<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[35117] ヴァルキリーがホームステイに来たんだけど(魔術バトルもの)
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/21 05:10
こんなタイトルですが一応魔術バトルものです。


第一章

何よりも平穏と平凡を愛する少年の月館高貴が家に帰ってきたら、ヴァルキリーがベットの上に仁王立ちしてました。
わけがわからないかと思いますがマジです。そしてその少女に高貴は頼まれごとをされるのですが……

第二章
ヴァルキリーの友達が、後一週間でデスペナルティになってしまうそうです。それを回避するために、高貴とエイルは今日も微妙に頑張ります。

第三章
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「俺の家にヴァルキリーがホームステイしていた と思ったらいつの間にか俺がヴァルキリーの家にホームステイしていた」
な… 何を言ってるのか わからねーと思うが おれも 何が起きてるのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 魔術だとか《神器》だとか そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…

第四章
全てわかった。ベットが悪かったんだ。俺がやっかいごとに巻き込まれた全ての原因は、このベットだったんだ。



また、実在する人名や地名が出てきたりしますが、その実際の人物や地名とは無関係ですのでご了承ください。



1/5 第一章をまとめました。
1/9 第二章をまとめました。
1/10 第三章を開始しました。
1/26 小説家になろう様にも投稿を開始しました。
1/28 チラシの裏に移動させてもらいました。
3/21 第四章を開始、およびオリジナル版に移動させてもらいました。



[35117] 第一章 ヴァルキリー? がやって来た
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/05 23:44
 拝啓、お父さんお母さん元気ですか? 俺は元気です。
 その光景を見たときに、月館高貴つきだてこうきの頭に何故かそんなわけのわからない言葉が浮かんできた。
 高貴はたった今住んでいる学生寮に帰ってきたところだ。取り立てて珍しいことではない。いつも通り学校に行って、帰宅部の彼は特に残っている用事もなく、加えてバイトの時間も少し先だった為すぐに帰ってきただけだ。
 喉が渇いたので途中の自動販売機で缶ジュースを買い、それを飲みながら学生寮についた。
 高貴の部屋は2階にある。この寮にはエレベーターがないため、階段を登り上に上がる。
 とりあえずゲームの続きでもするか、もしくはこの前発売した本の新刊でも買いに行くか。
 そんなことを考えながら鍵を開けて中へと入る。もちろん一人なので、ただいまなどとは言わない。
 学園の学生寮を高貴はなかなか気に入っている。玄関から入れば右手にはキッチン、左手側には浴室とトイレ。その奥に7畳の分の広さの部屋がある。
 学生が一人で住む部屋というのは、もっと質素だと思っていた高貴にとっては十分すぎる部屋だ。特に風呂とトイレが一緒じゃないのが嬉しい。
 とりあえず着替えようと思い、高貴は居間への扉に手をかけた。
 ここまでが今までの月館高貴の日常。変わらない毎日。変わらないサイクル。平穏で、退屈で、代わり映えしなくて、それでも最高に楽しいと思える毎日。
 高貴は居間に入った瞬間に目を疑った。
 高貴がいつも眠っているベットの上、そこに見知らぬ誰かが立っていたからだ。
 その見知らぬ誰か、おそらくは女性だろう。その人物は、まるでそこにいるのが当たり前とでもいうように、高貴に背を向けてベットの上に仁王立ちで立っている。
 本来ならば大声を上げる場面なのかもしれないが、高貴は驚きのあまりそれすらも忘れて、飲んでいた缶ジュースに口をつけたまま固まってしまった。
 高貴が部屋に入ってきたことには気づいておらず、左手を左耳に当てて、何かを聞いているようにも見える。

「ああ、問題ない。転移は成功した。もしかしたら腕の一本くらいはなくしてしまうかとも思ったが、そんなことはなかったみたいだ」

 突然その人物が言葉を発した。 
 それは明らかに高貴に向かって話しかけられた言葉ではなく、いったい誰に言った言葉なのか高貴にはわからなかった。
 もしかしたら左手の中に携帯でも持っているのかもしれない。
 いや待て、おかしいだろう?
 確か今朝高貴がここを出た時には、ベットの上に乗っていたのはやっていた携帯ゲームだったはずだ。
 よく見ると確かにそれはベットの上にあった。そして見知らぬ誰かも立っていた。
 自慢ではないが、高貴には恋人はいない。生まれてこの方出来たこともない。ならばこの人物はいったい誰なのだろう?

「わかっている。私のやるべきことはしっかりとな。そしてこの任務が極秘だということもわかっているつもりだ。本来ならば私はこの世界ではありえない存在。それがどれだけの影響を与えてしまうかも理解している」

 声の感じからするとやはり女性、いや、少女と言った感じの声だ。ちょうど高貴と同年代くらいだろうか?
 だんだんと落ち着いてきた高貴は、明らかに妙なことに気がついた。いや、帰ってきたらベットの上に少女が仁王立ちで立っていただけで妙なのだが、それ以上に気になることがあったのだ。
 まずその少女の長い髪、腰の辺りまであるであろう長いその髪は、とても美しい銀色をしていた。
 髪を染めたとしたらおそらくここまで綺麗にはならないだろう。ということはこの人物は外国人なのかもしれない。
 もう一つは少女の格好。
 気のせいかもしれないが、この少女はまるで鎧のようなものを身に纏っている。
 後姿、しかも背中の大部分は髪で隠れてしまっているが、まるでゲームにでてくる青い鎧のような服。
 本物だろうか?
 コスプレだろうか?
 どちらにせよ普通ではない。
 さらには右手に白くて長い棒のようなものも持っている。これもまたゲームや漫画で見たことがあるような形をしている。
 すっぽんぽんでベットで寝ている少女というシチュエーションなら、漫画やドラマなどで見たことがあるが、鎧姿の少女がベットで仁王立ちとはいかがなものだろう。
 ベットの上なだけましか? 下じゃなかっただけましか?
 いやいや、やはりおかしいに決まっている。

「了解した。ではエイル・エルルーン。ただいまより任務を開始す―――」

 おそらくは会話が終わって、ベットから降りようとしたのだろう。少女が振り返ろうとした。というよりも振り返った。
 振り返ってそこにいる少年の存在にようやく気がついたのか、少女の言葉が途切れる。
 少年と少女、二人の目と目が合う。視線と視線が交差する。
 振り返ったその少女はあまりにも美しく、一瞬で高貴は目を奪われた。
 流れるような銀の長髪。服装はやはり鎧姿。頭にはティアラのような髪飾り。ところどころ見える肌は雪のように白く、その瞳は空のように青い。
 どこか神秘的な、幻想的な雰囲気をかもし出すその少女は数秒停止し、ふむ、と息をついた。

「君は……誰だ?」

 自分自身が一番言いたかった言葉、その言葉を高貴は先に言われてしまう。まるで自分のほうが場違いにも思えてくる。

「ああ、もしかするとこの部屋に住んでいるのか?」
「そ、そうだけど……あんたいったい―――」
「すまない、少し待っていてくれ。私にとっても予想外の事態に陥ってしまった。よって状況を整理したい。1分ほどでいいから時間をくれないか?」

 ようやく高貴が言葉を発するも、それを遮って少女はなにやら目を閉じて考え始める。同時に高貴も考え始める。一体自分はどうすればいいのかを。
 この少女は何者なのか?
 やはり最初に思いつくのは泥棒だ。自分のいない間に勝手に入ってきたのだから。しかし玄関の鍵はしまっていたし、なにより泥棒ならばすぐさま逃げるだろう。
 次に思いついたのは―――思いつかなかった。
 だいたい帰ってきたら鎧姿の少女がベットの上に立っていたなど普通はありえない。ベットの上で美少女が裸で寝ているのと同じくらいまずいだろう。 
 とりあえずに警察に電話するということを思いついた高貴は、急いでスマホを取り出すと、110をダイヤル―――

「待たせたな、考えがまとまったぞ」

 する前に少女が高貴に声をかけてきた。待てといわれてからまだ30秒ほどしかたっていない。

「まず君の名前を聞かせてはもらえないだろうか?」

 そう少女は言う。
 本来ならば名乗る理由などない。にもかかわらず、高貴は自然と自分の名前を口にしていた。

「……高貴……月館高貴」
「そうか、いい名前だ。では高貴、君に少々頼みたいことがある」

 瞬間―――少女が左手を振るった。
 指を伸ばし、手刀の要領で横一閃。高貴の目の前をその左手が高速で通り過ぎる。

「わぁっ!?」

 いきなり攻撃されたというその事実に、高貴は思わず叫び尻餅をついてしまう。手に持っていたジュースも放してしまい、床に敷いてあるカーペットに中身がこぼれた。
 白と黒のチェック模様のカーペットに、楕円形のシミが広がっていく。
 続けて少女の右手が動く。次の瞬間には、その右手に持っていた棒が高貴の喉もとに突きつけられていた。
 最初は巨大な針かと思ったそれは、よく見ると西洋の槍のような形状をしている。
 というよりまさにそのもの。高貴が好きな狩りのゲームに出てくる武器、ランスだ。

「なに簡単だ。ベリーイージーだ。まさかこの槍を持って戦ってくれなどとは言わない。危険な目にあわせるつもりも毛頭ない。だから―――口封じの為に死んでくれ。安心しろ、せめて天国に送ってやる」

 ニコリと、まるでこんな状況でなければ、見た者を恋に落としてしまうかのような笑顔で少女は言った。
 追伸、お父さん、お母さん。俺はたった今死刑判決を受けました。
 わけのわからない状態で高貴の頭に浮かんだのは、やはりわけのわからない言葉だった。


 槍の切っ先は高貴の喉元に突きつけられたまま離れることはない。
 距離にして約数ミリ。目の前にいる少女があと数ミリ右手を前に動かせば、高貴の喉もとからは血が流れ出し、今度はジュースではなくその血でカーペットが染まるに違いない。
 その恐怖に高貴はまったく動くことが出来ない。首を前に動かせば間違いなく刺さるだろうし、後ろに動かした瞬間に少女が右手を動かしそうで怖い。
 結局高貴は身を震わせることしか出来ないのだ。全身から汗が吹き出してくる。学生服の中にきているYシャツが張り付いてきて気持ち悪い。そしてやはり何よりも怖いのだ。

「高貴、聞いているのか?」

 少女が口を開いた。彼女は手ではなく口のほうを動かしたのだ。
 その声に反応した高貴が視線を上げて少女を見ると、少女はキョトンとした顔で首をかしげていた。

「おかしいな、まさか君は耳が聞こえていないのか? いや、しかし先ほど確かに会話をしたはずだ。ということは言葉が通じていないというわけでもないか。ほかに思い当たる可能性は……ふむ、何も思い浮かばない。なぜ君は何も言ってくれないのだ? やれやれ、人間というのはやはり難しい生き物なのだな」

 この少女は高貴が何も言わないことを心底疑問に思っていたらしい。この少女にとって、高貴が恐怖のあまりに声も出せずに固まっているのだという考えはないようだ。

「お、お、お、……お前は……何なんだよ? 俺の部屋で何してるんだ?」
 
 絞り出すように高貴が声を出す。槍を突きつけられているこんな状態で、よく声を出せたものだと彼は自分で自分を褒める。そうでもしないと恐怖に飲み込まれそうだったから。

「やっと喋ってくれたな。このまま何も喋ってくれなかったらどうしようかと思ったぞ」
「し、質問に答えろよ! 何なんだよお前! そんな変な格好して、変なもんもって! け、警察呼ぶぞ!」
「警察? ……ははっ、そうか警察か。まさかわたしがその言葉を使われるとは思っていなかったよ。私もこの世界でいう警察と少々似たようなものだからな」
「ふ、ふざけんな! お前みたいな変な格好してる警察なんているわけないだろ!」
「変な格好とは失礼な。これは―――おっと、いけないいけない、これは言ってはいけないことだった」

 少女が慌てて口をつぐんだ。

「それより高貴、私が言ったことを覚えているか? 君に頼みがあるといっただろう。もしよければ口封じの為に死んでくれないだろうか? じつは私は極秘任務の最中でな、姿を見られるわけにはいかないんだ。にもかかわらず君に姿を見られてしまった。なのでここは死んでもらうしかないだろう?」
「ご、極秘任務? なんだよそれ」
「それを言えないからこそ極秘というんだよ。覚えておくといい。極秘というのは言わないのではなく言えない事を指す。まぁ死んでくれるのなら喋っても何の問題もないがな」

 殺されてくれるか?
 先ほどと同じようにニコリと笑いながら少女はそう言った。本当にこのような状況ではなかったならば、間違いなく見とれてしまうであろう笑顔。しかし高貴は金輪際この少女の笑顔に見とれることはないだろうと確信する。
 とにかく、とにかくだ。自分は今とてつもなく危険な状況にいるということを高貴はうまく働かない頭に無理矢理自覚させる。
 どうすればこの状況を切り抜けられるのか?
 その答えを必死に導き出そうとするも、情報が不足している今の状態ではそんな答えは導き出せそうにもない。
 この少女は自分に死んでくれと言った。しかしその割には槍を喉に突きつけてはいるが、それ以上は何もしてこない。本当に殺す気などあるのだろうか?
 しかし目の前の槍はおそらく本物だろうと自分の直感が告げている。

「さて、いい加減に答えてくれないか? 私は君に頼みがある。大人しく殺されてくれないかと聞いているのだ」

 銀髪の少女は三度問いかける。それに対して高貴は―――

「そ、そんなの嫌に決まってんだろ! こんなわけのわかんないまま―――わけがわかったとしても殺されるなんて冗談じゃない!」
「そうか、なら止めよう」

 あっさりと、彼女は高貴の喉もとから槍を引いた。
 そのことに高貴は拍子抜けしてしまう。命の危機が去ったというのに、ポカンと口を開けたままだ。槍が離れたのは喜ばしいことだが、どうしてそんなにもあっさりと槍を引いたのかがわからないからだろう。

「……え? ど、どうして」
「なんで驚いているんだ? 君は私に殺されるのが嫌なのだろう? 自分で今そう言ったじゃないか。だから引いただけだよ。それとも私の聞き間違いだったのか?」
「い、いや違う! 間違ってない!」

 もう一度自分に槍を向けようとしている少女を高貴は慌てて止める。

「それにしても困ったな。ダメもとで頼んでは見たもののやはりダメだった。こうなると記憶を奪うくらいしかないのだが、生憎私はアンサズのルーンは得意ではないしな。人格が破壊される恐れがある……よし、高貴。殺されるのが無理なら、せめて私のことを黙っていてくれないか? 何も見なかったということにしてほしいんだ」

 しばらくブツブツと言った後に、少女は高貴にそう言ってきた。先ほどの条件と比べればまさに破格の条件といえるだろう。
 しかし高貴はすぐには首を縦に振らなかった。結局の所この少女が何者なのかはわかっていないからだ。
 もしも先ほど考えたように泥棒ならば、警察に突き出す必要がある。

「話すも黙るも分けのわからないことだらけだ。さっきも聞いたけど、お前はいったいなんなんだ? 変な格好してるけどやっぱり泥棒か? もしもそうなら俺はお前を警察に突き出す」
「ふむ、警察は困る。色々と動きにくくなりそうだからな。そうだな、もしも黙っててくれるというのなら、私のことについて話しても構わないが……どうする?」

 先ほどこの少女は極秘だのなんだの言っていたが、どうやら高貴の対応次第では話してくれるようだ。
 ならば高貴の答えは決まっている。

「……わかった。話せ」

 高貴が取引に応じた。
 このようなわけのわからない状況で、わけのわからない人物が目の前にいるのだから、とにかく今は情報がほしかったのだろう。
 話を聞いてもしも危険だと判断した場合は、警察に通報するなり逃げるなりすればいいのだから。

「ではまず自己紹介から始めよう。私の名前はエイル・エルルーンだ。この世界で言うと、エイルが名前―――いや、ファーストネームと言ったほうが良いか。エルルーンがファミリーネームというものに値するだろう。ミドルネームはない。よろしく頼む」

 なんだかずいぶんとえとるが多い名前だな。
 高貴の第一印象はそんな感じだった。

「……外人なのか?」
「外人か……正しくもあるが間違っているとも言える。私は人間ではない。別の世界からこの世界にやって来た戦乙女ヴァルキリーだ」
「……はぁ? 人間じゃない?」
「ああ、私はヴァルキリーだよ」

 少女の―――エイルの言葉を聞いて、高貴は10秒ほど止まっていた。あまりに突拍子な言葉に思考が追いついてこなかったからだ。
 10秒立っても理解できなかった。
 今目の前の少女はいったいなんと言っただろう。自分は人間ではない?
 そうは見えない。確かに変わった格好はしているが、明らかに人間にしか見えない。
 しかも日本人には見えなかったが日本語がペラペラ。
 人間の少女に違いない。

「お前な、ふざけんなよ。人間じゃない? どっからどう見ても人間だろうがよ。それになんなんだよそのばるきりーってさ」
「ばるきりーではない、ヴァルキリーだ。この世界の発音だと”は”に濁音をつけた”ば”ではなく、”う”に濁音をつけて、小さな”あ”を付け加え、さらにそれをカタカナ表記にした”ヴァ”と書いてヴァルキリーだ」
「そこはどうでもいーよ! そのヴァルキリーとか別の世界とかどういうことだって聞いてんだよ!」
「ふむ、ヴァルキリーとは君の世界での警察のようなものだよ。治安を守ったり、市民を守ったりするのが警察なんだろう? ならば似たようなものだ。ただヴァルキリーには世界のバランスを保つという仕事もあってね、ちょっとしたようでこの世界に転移してきたんだよ」
「…………」

 ポカンとして何の言葉も発することが出来ない高貴に向かって、エイルはさらに言葉を続ける。

「私は元々《ヴァルハラ》という国の住人だ。確かこの世界では北欧神話などという名前で伝わっているらしいが知らないか?」
「……知らない」
「そうか、まぁ知らなくても問題はないだろう。ともかくそういうわけで私はこの世界に転移してきたんだよ。そして転移先が君の部屋だったというわけだ。勝手に入ってしまったことは謝ろう。おかげで土足でベットを踏んでしまった」
「……とりあえず降りろ」

 高貴がそう言うとエイルは素直にベットからカーペットの上に降りた。とは言っても靴を履いたままなので、今度はカーペットが汚れるだけだが。
 先ほどまでは少し見上げるように見なければいけなかったが、同じ床に立ってみると、エイルの身長は高貴より少し低い。
 とりあえず情報を整理してみよう。そう考えた高貴はエイルに少し待つように言った。
 つまりエイルは人間ではないらしい。
 他の世界から来たらしい。
 ヴァルキリーらしい。
 以上。

「ってありえねーだろ! なめてんのかテメーは!」
「なめてなどいない! 私は正真正銘のヴァルキリーだ! ちゃんと戦乙女学校も卒業したんだぞ!」
「だったら証拠見せろ証拠! 他の世界から来たとか言ってたけどどうやってきたんだよ! 魔法でも使ったか? もしそうなら魔法の一つでも使ってみろよ!」

 一気に強気になる高貴、それとは逆にエイルは痛いところを突かれたとでも言うような表情になる。

「それは―――この世界の人間の前ではなるべく魔術を使ってはいけないのだ。この世界には魔力は存在するようだが、魔術の類は存在しないらしいからな」

 しばらく悩んだ末に、彼女はそう言った。その言葉で高貴の中でエイルがどのような人物なのか決定されることとなる。
 つまり、エイルは重度の中二病であると高貴は判断したのだ。
 大方そういう設定で遊んでいるか何かだろう。いや、もしかすると頭に何かしらの障害を抱えているのかもしれない。
 だとしたら大変だ。家出少女などより大幅にたちが悪い。そんなやっかいな人間に関るなどゴメンだ。よって、高貴が思うことはただ一つ。
 こいつ、さっさと追い出そう。
 そもそも男子寮に女性がいるだけで大問題なのだから、泥棒でないのならさっさと帰って欲しいのだ。
 月館高貴が何よりも求めるのは平穏な日常。ただでさえそれが今壊されかけているのに、これ以上この少女に関ったらさらに平穏が壊れてしまう。
 辺りを見てみると、幸い何もあらされた形跡はない。つまり泥棒ではないということだ。だとしたらエイルの言っていた通りに、ここで見た物を全て忘れて、さっさと縁を切ったほうがいいに決まっている。

「高貴、どうした? 急に黙ったりして、もしかしてどこか具合でも悪いのか?」

 急に目の前に整った顔立ちの少女が現れる。それは当然のごとくエイルの顔。彼女は高貴を心配そうに見ている。

「ああ、なんでもないよ。ちょっと考えをまとめていただけ。わかったよ、なんだか大変そうだしエイルの事は黙っておく。誰にも言ったりしないよ」
「そうか、それなら良かった。私はてっきりどこか具合でも悪いのではないかと思ってしまったよ。もしくは病気なんじゃないかとな」
「はぁ……病気なのは―――」

 お前のほうだろ。
 その言葉をエイルに言おうとして、高貴の頭に嫌な考えがよぎる。先ほどふと思ったとおり、この少女はもしかすると本当に病気ではないのかという考えに。
 例えば中二病というレベルでもなく。妄想癖があったり、先ほど考えたように精神の障害を持っていて実は病院に入院している患者とかではないだろうか?
 それが何かの拍子で病院を抜け出して、フラフラと出歩きここに来てしまったのだとしたら―――本当にただの中二病よりもたちが悪い。
 かなり低い可能性ではあるが、目の前の少女を見るとその可能性も否定できない。
 もしもそうならすぐにでも警察か病院にでも連れて行かないとまずいだろう。家族なども心配しているはずだ。

「なぁ、エイル……だったよな。お前ってスマホとか携帯電話とか持ってないか?」
「すまほ? よくわからないが持っていない。携帯電話なら知っているが持ってはいないな。通信ならエオーを使えば問題はないからな。ああ、とは言っても魔術なので君の前で使うわけにはいかないが」

 それは問題ない。魔術になど始めから期待していない。
 しかしスマホや携帯がないのは痛い。もしもそれがあれば身元がわかるし、彼女の親とも連絡が取れたかもしれないが、持ってないのでは仕方がない。

「じゃあなにか身元を証明できるものとか持ってないか?」
「ふむ、身元の証明……ああ、身分証というやつか。残念ながら何も持っていない。戦乙女学校の卒業証書は持ち歩くには不便すぎる」

 ダメだ。話がかみ合っているのかすらもわからなくなってきた。これはもはや警察に連れて行って調べてもらうしかないだろう。
 幸いエイルには特徴が多い。青い鎧(本物かはわからないが)の格好に長い銀髪。きっと家族もすぐに見つかるだろう。
 とはいえ先ほど警察はまずいとエイルが言っていたので、警察に連れて行くといっても素直についてくるとは思えない。
 どうするかと高貴が考えていると、エイルのほうから高貴に話しかけてきた。

「そうだ高貴、一応聞いておきたいのだが、私以外のヴァルキリーを見なかったか? 赤い鎧を着ていて、赤い髪をした、私より少し幼い少女だ」
「ヴァルキリーって……お前みたいなのがもう一人いるのか?」
「ああ、私はそいつを追いかけてこの世界にやってきたんだよ。もし見かけていたら教えてほしいのだが」

 赤い鎧に赤い髪。
 もしもそんな人物を見かけたら必ず印象に残るはずだが、生憎高貴の記憶にそんな人物はいない。ここは正直に知らないと答えようとしたが、その言葉を口にする前に、とあるアイデアが高貴の頭に浮かんだ。
 もしもここで知っていると嘘をつけば、エイルはきっとついてきてくれるだろう。そうなればあとは警察の元に案内するのもたやすいことだ。

「えっと……知ってる……かもしれない」
「本当か!」

 高貴の言葉にエイルが強く反応し顔を高貴に近づけてきた。

「ちょっ、近い近い近い! 何となく見たかもしれないってだけだよ! お前みたいな変な―――変わった格好した奴がいたような気がするってだけだ!」
「十分だ。それでどのあたりで見かけたんだ? できれば場所を教えてもらえると助かる」
「あー……その……口じゃあ説明しづらいし……あ、お前って確かこの世界に来たばっかでここら辺ぜんぜん知らないだろ? だったら俺がそこまで連れて行ってやるよ」
「いいのか? 君は優しい人なのだな。私のことを黙っていてくれるだけではなく、そんなに親切にしてくれるとは」

 高貴の言葉を完全に信じ込んでおり、純粋に感謝しているエイルを見て、高貴の心にほんのわずかな罪悪感が生まれるが、このままにしておくのもまずいだろうという判断を優先させた。
 これで後はエイルを警察にでもつれていけば、あとは向こうでなんとかしてもらえるだろう。 
 幸いまだバイトまでは時間がある。エイルを警察に連れて行ったとしても時間的に問題ない。
 しかし、高貴の頭に新たな問題がよぎった。

「なぁ、お前着替えとか持ってんの?」

 ◇

 扉についている覗き窓から外を見ると、扉の向こうには誰の姿も見えなかった。
 とはいっても覗き窓の視界などたかが知れているので、高貴は耳を澄まして誰もいないことを確認するとゆっくりと扉を開けた。
 響いたのは小さな音のみで、やはり足音などは聞こえてない。

「ふむ、何をコソコソしているんだ高貴。ひょっとして君は何か悪いことでもしているのか?」

 高貴の背後から能天気な声が聞こえてくる。声の主は当然のごとく、高貴がコソコソしなければいけない原因でもある少女だった。

「バカ、静かにしろ。だいたいここは男子寮なんだ。女がいるってだけでも問題になるんだからコソコソするのなんて当然だろ。せっかくなら隣の女子寮に入ってくれればよかったのにさ」

 道路を挟んで向かい側にある学園の女子寮のほうを見ながら高貴が愚痴る。

「ほう、高貴の家は学生寮だったのだな。どうりで高貴以外は誰もいないと思ったよ」

 高貴はもう一度ドアから顔を出し誰もいないことを確認すると、エイルとともにすばやく外に出た。しっかりと鍵をすることも忘れず、急いで階段を下りて寮を出る。
 さて、ここからが勝負どころだ。
 今は午後6時。学生寮から警察署までは歩いて約10分弱。そこにエイルを預けたとして、警察署からバイト先の喫茶店までこれまた10分弱。
 バイトまではあと30分なので十分に間に合う計算だ。
 本来なら自転車で行くのだが、正直エイルと二人乗りはしたくない。
 お金に余裕があるときは、街を走っているバスに乗ってもいいのだが、生憎今は手持ちが心もとないので歩いていくしかない。
 エイルは目立つだろうが、幸い暗くなってきたので、明るいときよりはいささかましだろう。

「それで高貴、右と左のどちらに行くんだ?」
「ああ、左だよ。だいたい10分くらい歩く」

 当然のごとく警察署のあるほう、左側を指差して、二人は並んで歩き始めた。

「それにしても高貴、この格好は必要なのか? 正直言ってかなり暑いんだが」

 エイルがいかにも不満そうに自らの格好を嘆く。今のエイルはロングコートを着ているのだ。
 高貴が冬頃に買った、少し値段が高めの黒いロングコート。小遣いを溜めて買っただけはあって、なかなかに気に入っているそのコートを、今は高貴ではなくエイルが着ている。
 先ほど高貴がエイルに着替えを持っているのかと聞くと、当然のごとくエイルは持ってきていないと答えた。
 いくらなんでも鎧姿のまま連れ歩くのは目立ちすぎてしまうので、仕方なく高貴は自分のお気に入りのコートを引っ張り出しエイルに着せているのだ。
 まぁそのコートからでている足まではさすがに隠せなかったが。
 今の季節は4月。ロングコートを着ていても目立つが、鎧姿よりはましのはず。
 今日は特別暑いわけではないので、多分ギリギリ大丈夫だろうと無理矢理自分を納得させた高貴だが、やはりエイルにとっては暑いらしい。

「我慢しろって。あんな格好で歩いたら目立つだろ。お前がヴァルキリーだってばれたらまずいんじゃないのか? 極秘任務なんだろ?」

 エイルを納得させる為にとは言え、まったく心にもないことを言う。

「それはそうなのだがな。しかしこの国にはコスプレというものがあるのだろう? だったらヴァルキリーのコスプレをしていると言い張れば問題ないようにも思えるぞ。そもそもどんな格好でいようとその者の自由なのだから。裸はまずいだろうがな、たしか公序良俗違反になってしまう」
「一緒に歩いてる俺が嫌なんだよ! 目立つだろ!」

 というよりも公序良俗違反などという言葉を知っているほうが驚きだ。
 あんな格好だったのだから、コスプレという言葉は知っているとしても、簡単なこととは言え法律も知っているとは、中二病にも法律はあるらしい。
 その割には不法侵入などをしていたのだが。

「ふむ、君は目立つのが嫌なのか?」
「ああ、嫌だよ。俺はなるべく平穏に生きたい。普通が一番だ。あ、それと頭につけてるそれもとっとけよ。その位の大きさならコートの中にでも隠せそうだ」

 高貴がエイルの頭についているティアラのようなものを指差す。

「これは一応防具なんだがな。まあいい、君には助けられているし、そのくらいの提案なら呑もうじゃないか」

 そう言うとエイルは右手でそれをはずすと、コートの中にそれを隠す。ついでにコートのフードもかぶせてエイルの頭も隠しておいた。
 エイルの姿もそうだが、その容姿も人目を引くには十分すぎる。長い銀髪に青い瞳の先ほどあんな目に合わされた自分から見ても美しい少女。
 そんな彼女と一緒に歩くというのは、もしもこんな状況でもなかったら恋人のいない高貴にとってはなかなかに嬉しいシチュエーションなのだが、彼女の格好と性格を考えればとても喜べない。
 そこで高貴はおかしなことに気がついた。
 先ほどまでエイルが持っていた槍がなくなっている。あの長さはコートの中に隠すのは不可能なはずだが、今のエイルは何も持っていない手ぶらの状態だ。

「エイル、お前あの槍はどうしたんだ?」
「槍か? あれは異空間に収納できるんだ。ヴァルキリーとして契約した武器だからな。さすがにあれを持って歩いていたらまずいだろう。銃刀法違反になってしまう」

 なんだかずいぶんと現実的な中二病だな。そういいかけた高貴は慌てて口をつぐむ。
 大方部屋にでも置いてきたんだろう。そういえばコートを用意引っ張り出す為に目を離し、次に見たときにはもうもっていなかった気がする。
 自分の部屋は彼女にとって異空間になってしまったらしい。

「どうした高貴、今何かを言いかけなかったか?」
「あ、いや……なんだかずいぶんと法律に詳しいんだなって思ってさ。公序良俗違反とか、銃刀法違反とか。すごいんだなヴァルキリーって」
「それは簡単だよ。この世界に来る前にアンサズのルーンでこの国について学んだんだ。私が日本語を話せるのもその為だ。本来ならばそのアンサズのルーンで君の記憶を奪うのが妥当だったのだが、私はそれは苦手でね。失敗すると全ての記憶の消去してしまうかもしれないから止めたんだ」

 ゾクリと、高貴の背中に寒気が走る。記憶を奪うと言う言葉に対して高貴の頭に浮かんだ光景は、あの槍で頭を思い切り叩かれるという光景。そのあとに頭から血を流して横たわる自分。
 記憶どころか命まで失ってしまうのは間違いないだろう。本当に不得手でよかった。
 あんさずとは危険な魔法のようだ。
 会話が途切れる。幸い人通りは多いほうではないが、やはりコートを着ているのはなかなかに目立つらしく、時々すれ違う人たちはこちらを見ている。
 いや、もしかするとエイルが履いている靴、というよりも具足というものだろうか? それがエイルが歩くたびにガチャガチャと音を立てているからかもしれない。
 目立たないようにとコートを着せているが、どちらにせよあまり効果はなかったようだ。

「それで、君が見たという場所にはあとどのくらいでつくんだ?」
「ああ、あと少しでつく。そいつって知り合いなのか?」
「確かに知り合いだよ。私はそのヴァルキリーを捕まえる為にこちらの世界にやって来た。あ、これも内緒にしておいてくれ。極秘任務なんだ」
「そんな心配しなくても、別に誰にも言ったりしないよ」

 所詮は妄想癖のある中二病のたわごと。だから極秘とか言ってもペラペラと喋ってるんだろう。
 エイルのことをそう認識している高貴にとって、彼女の言葉はその程度のものでしかない。そのもう一人の知り合いとそういう設定で遊んでいるのだろうと位にしか考えない。
 そのまましばらく歩き続けると、ようやく警察署が見えてきた。
 普段はあまり、いや、まったく用事がない場所なだけあって、いつもはただそこにある建物としか認識していなかった高貴だが、そこをゴールとして目指してみると、なかなかの距離を歩いた気がする。
 歩くのがいつもより遅かったのか、10分でつくつもりが15分もかかってしまった。

「高貴、あれはもしかして警察署か?」
「え? あ、本当だ。確かにあれは警察署だ」
 
 エイルが警察署の存在に気づきギクリとしてしまったが、高貴は表情には出さないよう必死でこらえて歩みも止めない。

「本来ならば警察署にはあまり近づきたくはないのだがな……とはいえたとえ相手が国家権力でも私が怯むことなどはありえない。28万8451人の桜の代紋を背負った者達が相手でも、目的の為なら死力を尽くして戦おう」

 お願いだからやめてほしい。
 というよりこいつ他の世界からやってきたとか絶対嘘だ。
 いきなりあばれだしたらどうしよう。
 様々な不安が高貴の頭をよぎるが、今は凶器となりそうな槍も持っていない為大丈夫だろうと判断した。たとえ暴れたとしても一人の少女に警察官が後れを取るとは思えない。
 そのまま歩みを進め、警察署の中にさりげなくエイルを誘導しようと高貴は考え一度足を止めるが、何故かエイルは歩みを止めることなく歩き続けた。

「おい、どこに行くんだよ」

 高貴が呼びかけてもエイルの足は止まらない。仕方なく高貴は小走りでエイルに追いつきその肩を掴んだ。

「おい、待てってばそっちじゃな―――」
「強い魔力を感じたんだ。明らかにこの世界のものではない魔力を」
「はぁ?」

 そういうエイルの表情は先ほどよりも険しいものとなっていた。エイルは少し歩くペースを上げながら口を動かす。

「この世界に魔術は存在しないと私が言ったのを覚えているか? 故にこの世界の全ての人間は自分に魔力があるという認識がない。だからよほど集中しないと魔力を感じることなど出来ない。にもかかわらずはっきりと魔力を感じた。魔術師のいない世界でだ。つまり可能性があるとしたらそれは非現実、この世界に存在しない存在。私が探しているヴァルキリーだよ」
「……あのさ、わけわかんない事言ってないで―――」 

 ピタリと、エイルの足が止まる。慌てて高貴もその歩みを止める。
 エイルが足を止めた先にあったのは広い公園だった。しかし人はおらず、なんだか寂れているような印象を受ける。

「高貴、もしかしてこの公園にはあまり人が寄り付かないんじゃないか?」
「え? まあ確かに。最近都心のほうに新しく公園が出来てさ、そっちのほうか大きいし広いからこっちはもう誰も来ないんじゃないかな」
「そうか……なるほどな」

 エイルがコートのフードを脱いだ。
 そして中にしまっていたティアラを取り出し、先ほどまでと同じように頭につけるとその公園の中に入っていく。
 高貴もそれに続いて公園の中に入っていった。
 公園の中には様々な遊ぶものがある。鉄棒、滑り台、ジャングルジム、砂場。周りには木も生えている。
 滑り台の横を通り公園の中心の位置に二人は歩いていく。

「おい、待てよ。ここにその探してる奴がいるのか? なんでわかるんだよ」
「言っただろう、魔力を感じたんだ。本来ならば魔力で感知されないようにペオースのルーンを使うのが妥当だが、あいつは確かペオースをうまく使えないんだ。だからせめて人目につかないような場所に移動し潜伏しているんだろうな」
「……よくわかんないけど、そいつが見つかったらお前はちゃんと家に帰るのか?」
「ああ、この世界からヴァルハラに帰るよ。元々私はこの世界にいていい存在ではない」
「はぁ、わかったよ。好きにしてくれ」

 どうやら警察に届けるつもりが、本当に探し人のところに連れてきてしまったらしい。しかしそれで大人しく帰るというのなら文句はない。
 それにそのもう一人のほうの中二病の子もほっとくと何かをしでかすような気がしたので、大人しく高貴はエイルに従うことにしたのだ。

(ったく、面倒なことになっちまったなぁ。やっぱりほっとけばよかった)

 高貴が内心そんなことを考えていると、エイルは今更ながらとんでもない一言をさらりと口にしたのだ。

「もっとも、捕まえる前に殺し合いになると思うがな。そろそろ君は逃げたほうがいいぞ」
「え?」

 エイルの言葉を理解する前に、高貴の視界が急に動いた。最初に映ったのは空、次に映ったのはあわてているようなエイルの顔。それと同時に体中に衝撃と痛みが走る。
 その理由は単純だ。高貴はエイルに押し倒されたのだ。

「お、お前! いきなり何を―――」

 その言葉が最後まで発せられる前に、高貴の言葉は目の前をよぎった何かに遮られた。
 もしもエイルが自分を押し倒していなければ、今も自分とエイルがいたであろう場所を、高速で赤い何かが通り過ぎていったのだ。
 高貴にそれが見えたのは一瞬、感じたのはわずかな風とわずかな熱気。暗闇を照らす赤。
 その正体は赤い火の玉。
 まるで爆弾でも爆発したかのような音が響き渡る
 その火の玉は公園の周りに生えている木に直撃し、木に大きな傷跡を残した。
 それだけでは終わらない。その気がだんだんと傾き始める。空へとまっすぐに伸びていたその木は、突如飛来した火の玉により轟音を上げて地面に横たわった。

「高貴! 怪我はないか!?」

 余りの出来事に呆然としている高貴にエイルが声をかけ、彼を立ち上がらせる。しかし高貴はまだ混乱している。状況がまったく整理できていない。
 自分が今見たものが理解できない。

「な、なんだよ今の? 手品か何かか?」
「《ケン》のルーンだ。炎の魔術だよ。まさかいきなり攻撃されるとは思っていなかったよ。すまないな、こうなる前に帰らせるべきだった」
「ま、魔術? まさかお前本当に?」
「《ケン》!」 

 どこかから誰かの声が響いてくる。エイルの声でも高貴の声でもない別の誰かの声。
 寂れた公園に響き渡る少女のような声があたりに響いてくる。

「灰燼と化せ!」

 先ほどと同じ方向から、先ほどよりも大きな炎が高貴に向かって飛んできた。 
 高貴はまだ動けない。思考が現実に追いついてきていない。
 その巨大な炎はなすすべもない高貴を飲み込む―――はずだった。

「高貴っ!」

 エイルの声が響く。先ほどと同じようにエイルは体当たりで高貴の体を弾き飛ばした。
 再び高貴の視界がぶれる。その中で見たものは、巨大な炎がエイルの体を包み込むその瞬間だった。
 響いたのは轟音。
 現れたのは爆炎。
 そして―――不気味なほど真っ黒な黒煙。
 エイルが立っていたその地点は、その黒煙に覆われてしまい何も見えない。
 高貴はしりもちをついたままぼんやりとそこを見ている。そこでようやく高貴の思考が現実に追いついた。

「あ、ああ……なんだよこれ? なんなんだよこれはぁーーーーっ!?」

 思考が現実においていてさえ高貴は状況が理解できない。
 理解できる事実は、自分はエイルに救われたこと。
 そしてエイルはあの炎に飲み込まれたこと。
 その二つだけだ。
 
「うるさいわね、少し黙ってなさいよ」

 突如エイルではない声が聞こえてきて、高貴は反射的にそちらを向いた。
 炎が飛んできたその方向から、一人の少女が歩いてきている。
 エイルと同じような鎧姿。ただし色は赤く、その鎧と同じような赤い色の長髪。
 外見はエイルよりも少し幼い感じがすることから、間違いなくエイルが探していた人物と見て間違いないだろう。

「ねぇあんた、どうしてエイルと一緒にいるわけ? あの生真面目がこの世界で自分から人間に関るわけないし……もしかしてあいつを妄想癖のある中二病とでも勘違いして、警察や病院にでも連れて行こうとしたとか?」
「か、勘違いって……じゃあ、やっぱりあの話って本当に?」

 今まで高貴が信じていなかったこと。
 エイルは別の世界から来たヴァルキリーだということが本当だとしたらこの状況に説明がつく。
 あの木をなぎ倒した炎も、エイルを襲った炎も、他の世界の魔法だというのなら、この滅茶苦茶な状況も納得できる。
 まさにこれが―――非現実だ。

「まぁ死ななくて良かったじゃない。エイルに感謝しときなさい」
「はっ! そうだ、あいつ! あんなもん食らったんじゃ―――」
「はぁ、納得したくないけど、あの程度じゃくたばんないでしょあいつは」
「《ハガル》―――!」

 透き通った声が、黒煙の中から響いてきた。
 同時に、あたりに急に風が渦巻く。
 黒煙の中心から外側に向けて風は勢いよく吹き、その黒煙を勢いよく吹き飛ばした。
 風圧で目を閉じた高貴が再び目を開けたとき、黒煙は完全に晴れ、そこに立っていたのは一人の少女
 もはや疑いようがない、先ほど彼女が言ったことは全て真実。
 目の前にいる彼女は中二病などではなく、精神に障害を持つものでもない。
 まさしくフィクションの世界にしか存在しないであろう異世界の住人。青い鎧をその身に纏った美しきヴァルキリー。

「いい加減に鬱陶しかったから吹き飛ばさせてもらったよ。久しぶりだなヒルド」

 エイル・エルルーンがそこには立っていた。


 薄暗い公園の中にいる人物は三人。
 一人は立ち上がることも出来ずにいる少年。
 一人は真紅の鎧を身に纏いし少女。
 最後の一人は青い鎧をその身に纏いし少女。
 先ほどまでは赤い鎧の少女が場の空気を支配していたが、黒煙の中から青い鎧の少女が現れたことにより、さらに空気が変わった。
 しばらく沈黙が続いていた中で一番最初に口を開いたのは、青い鎧の少女―――エイル・エルルーン。

「こちらの世界に転移してきてからまだ一日とたってはいないが、もうお前を見つけられたことを幸運に思うよヒルド」

 クスリと笑いながら外見上は友好的に話しかけるエイル。しかしその瞳の奥の本心はあっさりと読み取れた。
 絶対にお前を逃がさない。
 エイルの瞳はそう語っている。それを見た赤い少女は不適に笑う。

「あたしは最悪ね。せっかくこの世界に来てのびのびしようと思っていた矢先に、突然見飽きた顔がやってきたんだもの。気分的には合コンでいい男が沢山いたのに一人だけさえない知り合いが混じってたって時くらいへこんだわ。あたしのわくわくを返しなさいよ」
 
 軽口を叩いているような二人だが、そこには明らかな敵対の意志がある。
 エイルが一度視線を高貴に戻した。

「高貴、動けるか? 今から戦いになるのだが、君がいるととても危ない。死んでしまうかもしれないぞ?」
「いや……つーかお前大丈夫なのか? あいつが探してた奴なのか? さっきの火はいったい―――」
「落ち着け高貴。混乱するのはわかるが、そうも一度に質問に答えられない」

 エイルにたしなめられ、何とか気を落ち着けようと高貴は深呼吸を繰り返した。

「一つずつ質問に答えようか。まず私は大丈夫だ、あの程度の魔術でやられるほどやわではない。次に彼女が私の探していたヴァルキリーのヒルドだ」
「ちょっと、勝手に人の名前教えてるんじゃないわよ。プライバシーの侵害で訴えるわよ」

 どこまで本気かわからないその言葉を無視して、エイルは言葉を続ける。

「最後にあの炎はさっきも言ったがルーン魔術だよ。ヴァルハラでもっとも普及している魔術型式だ。さて、質問は以上だったな」

 ゆったりとした動作でエイルが右手を開いて前に出す。

「わくわくを返せと言ったなヒルド。安心しろ、私がお前を連れて帰ればすぐに罰が下るだろう。その内容をわくわくしながら考えればいい。だから大人しくつかまってくれ―――来い、契約の槍!」

 エイルの右手に白い光が集い始める。その光をエイルが握り締めると、そこには先ほどエイルが持っていたランスが握られていた。
 何も知らない高貴にさえ理解できる。体勢をわずかに低くし、ランスを構えたその姿こそが、エイルの戦闘態勢であることを。
 それを見たヒルドもすぐさま右手を前に伸ばした。

「言っとくけど、あたしは大人しく帰る気なんてないわよ。せいぜい自由を謳歌させてもらうわ―――来なさい、契約の剣!」

 ヒルドの右手にも白い光が集い、それを握った瞬間、その手には両刃の片手剣が握られていた。
 それを携え、ヒルドも戦闘の態勢をとる。
 あたりに静寂がやってくる。言葉などもうかわす必要はない。あとは互いに力と力でぶつかるのみ。
 一瞬だけ―――本当に一瞬だけエイルの視線がヒルドから高貴に移る。
 その視線が再びヒルドに戻った瞬間、エイルの足が地面を勢いよく蹴った。
 エイルとヒルドの距離は約20メートル。ランスを携え一直線にヒルドに突っ込んでいく。
 速い。
 エイルの動きは今まで高貴が見たことのあるどんな人間よりも速かった。
 陸上部のクラウチングスタートのダッシュなど比ではない。エイルがたった数歩進んだだけで高貴はそれを理解できた。
 疾風の如くエイルはヒルドとの距離を詰めてく。
 エイルがヒルドに突っ込んでいった理由は二つある。
 一つは戦えない高貴から少しでも離れる為。
 まだ動くことが出来ない高貴の近くで戦うよりも、少しでも離れた所で戦ったほうがいいと判断した。
 もう一つは、エイルは待つよりも自分から行くほうが性に合うためだ。
 一気にトップスピードに乗り、ランスを正面のヒルドに向けてエイルは突っ込んだ。
 いくら鎧を着ているとはいえ、少女の体などやすやすと貫通しそうなその一撃。
 ランスがヒルドに当たる瞬間に、ヒルドは体をわずかに右にずらしてそれを回避する。
 二人の体がすれ違う。交差する視線と視線。
 攻撃がはずれ、エイルはヒルドに背中を向けたような状態になってしまった。

「背中ががら空き!」

 その隙を今度はヒルドが逃がさない。
 その無防備な背中に近づき背後から斬りかかる。
 しかしそんなことはエイルにとっては想定内だ。ヒルドの姿を確認もせず、思い切りランスで背後を薙ぎ払う。
 ヒルドの前進は止まりランスは空を斬ったが、エイルはすかさず自ら間合いを詰めてヒルドに斬りかかった。
 それをヒルドは剣で受け止め、すぐさま反撃を返す。
 鳴り響く鋭い金属音。武器と武器がぶつかる度に火花が散る。
 連続して振るわれるその斬撃を、エイルは手に持つランスで全て防いでいた。
 ヒルドの振るう剣の速度はもはや常人の目に映るものではない。しかしエイルはその高速の剣を全て完璧に見切っている。
 はたから見ればエイルの防戦一方で追い込まれているが事実は逆なのだ。

「このっ! 相変わらず防ぐのだけはうまいわね!」
「お前が私に剣技で勝てたことがあったか? それに―――武器だけに気を取られるのも悪い癖だ!」

 エイルがヒルドの剣を受け止めた瞬間、エイルの右足が動いた。
 動きが止まった一瞬に繰り出されたその右の回し蹴りは、ヒルドの脇腹に入り彼女を吹き飛ばす。
 僅かに声を漏らして吹き飛んだヒルドだが、すぐさま体勢を立て直すと肩膝をついたまま左手を眼前に掲げる。
 人差し指と中指を伸ばすと、その指には赤い光がかすかに灯った。

「このっ、《ケン》!」

 ヒルドの左手が高速で動き、空中に赤い軌跡が走る。空中刻まれたのは《ケン》のルーン。
 するとまるでライターの火でもつけたかのように、自然にヒルドの左手に炎が集いだす。
 炎の創造。 
 それこそが炎を象徴するルーンである《ケン》の力なのだ。
 エイルは慌てることはない。ゆったりとした動作で左手を眼前に構え指を伸ばす。
 するとその指に青い光が灯りだした。

「バカの一つ覚えだな。《ソーン》」

 空中に走る青い軌跡。エイルによって描かれる《ソーン》のルーン。
 ばちっ、とエイルの左手に紫電が走る。ほとばしる魔力は雷光となって世界に具現した。
 雷の戦神トールの意味を持つソーンのルーンで、エイルは雷を創り出したのだ。
 かたや雷、かたや炎。
 種も仕掛けも何一つない、異世界の住人にしか使えないであろう奇跡の業。
 辺りを照らす二つの奇跡。互いに狙うは眼前のヴァルキリー。
 その二人のヴァルキリーの左腕が同時に動いた。

「翔けろ雷刃!」
「爆ぜろ豪炎!」

 声が発せられたのはまったく同時。そして雷刃と豪炎が、雷の刃と炎の弾が放たれたのもまったく同じタイミング。
 放たれたそれは、二人の左手に纏われていたときよりもかなり大きい。まるで枷をはずされた獣のように互いの目標に向かって襲い掛かる。
 エイルとヒルドの中心地点でその二つは激しくぶつかり合った。せめぎ合う雷と炎の衝撃が三人まで届く。

「う、うわああああ!」

 そのあまりの衝撃の余波に高貴が悲鳴を上げるが、その叫び声は魔術がせめぎ合う音にかき消された。
 ヒルドの放ったそれは、はじめの奇襲よりも遥かに強力な炎だったが、エイルの雷も決してそれに負けていない。
 拮抗しあう二つの力はほぼ互角。互いに徐々にその勢いを失っていく。
 しかし、二人のヴァルキリーはすでに次の行動を起こし始めていた。力を失っていく魔術を見るや否や、すぐさま左手を眼前に掲げる。

「《ソーン》、《テュール》!」
「《ケン》、《テュール》!」

 エイルとヒルドの左手が再び動いた。先ほどと同じように中空に舞う赤と青の軌跡。
 しかし決定的に違うのは、二人ともルーンを二つ描いたということだ。
 先ほど自身が描いた雷と炎のルーン以外に、テュールのルーンを同時に描いた。
 それは勝利を意味するルーンであり、自身の魔術を強化する働きがあるルーン。
 故に、先ほどの雷と炎よりもさらに強力な魔術となることは必然である。

「バインドルーン・デュオ!」
「バインドルーン・デュオ!」

 その言葉が鍵となったのか、二つの文字が一つに重なり、一つに溶け合う。
 先ほど放った魔術が相殺し弾け飛んだその瞬間に、エイルとヒルドの互いの左腕で魔力が弾けた。
 世界に具現化する雷と炎。交差する視線と視線。互いに向かって伸ばされる左腕。
 はたから見ている高貴にも、あれはやばいとはっきり感じ取れる。
 もしかするとこの二人のせいで世界そのものが壊れてしまうのではないか。そんな非現実的なことさえ頭に浮かんだ。
 そんな高貴の考えなど気にもせずに、二人のヴァルキリーは同時に動いた。

「響き渡れ《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》!」
「その身を焦がせ《焔の鉄槌フレイムハンマー》!」

 エイルは雷を、ヒルドは炎を、再び互いの奇跡が具現化した。
 雷鳴を轟かせながら進む雷。
 熱気を振り撒きながら進む炎。
 雷と炎は先ほどと同じ場所で先ほどと同じように、そして先ほど以上の衝撃で衝突した。
 耳を劈くような轟音。それはまるで空間自体の悲鳴のよう。
 そして肌を焼き尽くすかのような、あらゆる全てを吹き飛ばすような衝撃の余波。
 それにより今度こそ高貴は叫び声を上げる暇もなく吹き飛ばされる。
 十メートルほど吹き飛ばされて何とか顔を上げると、視線の先にはせめぎ合う二つの魔術。

「はあああああああ!!」
「やあああああああ!!」

 互いの魔術の勢いは相殺して弱まっていくどころか、二人の叫びに応じるかのごとくますます勢いを増していく。
 弾ける。
 高貴がそう思った直後に、雷と炎は大きく弾けた。
 轟音が消え去り、あたりに静寂が帰ってくる。
 魔術がぶつかり合った場所の地面には、大きな焦げ跡と傷跡が出来ており、先ほどの魔術の凄まじさを物語っていた。
 しかし、まだ何も終わっていない。
 エイルとヒルドが同時に地面を蹴り、魔術で出来た傷跡の上で衝突、そのまま斬り結び始める。
 静寂が訪れたのは本当に一瞬のみ、鋭い金属音があたりに何度も木霊する。

「いい加減に投降しろ! このまま続けたとしてもお前では私に勝つことは出来ない。それに私たちは本来この世界にいるべきではない存在なんだぞ!」
「冗談じゃないわ! あたしがどうしようと勝手でしょ! あたしの生き方や実力を貴女なんかに決められる筋合いはありません! 羽目をはずして自由を謳歌するくらいいいでしょうが!」
「自由がほしいと思うのは確かにお前の自由だ。しかし―――《神器》を持ち歩くのはやりすぎだ。あれは個人が所有するには大きすぎる力を持っている!」

 エイルが連続で突きを繰り出す。ヒルドは初撃を剣でいなし、バックステップで距離をとった。

「お前にもわかっているはずだ! 《神器》の力の強大さを。そして魔術の存在しないこの世界での《神器》の危険性を。世界のバランスが大きく崩れてしまうかもしれないんだぞ!」
「そんなの……あたしが知るかーーーー!!」

 ヒルドの左手が動いた。《ケン》のルーンが赤い軌跡で刻まれる。

「無駄だヒルド。お前のルーンでは―――」

 エイルの言葉が途中で途切れた。その理由は至極単純だ。
 ヒルドは炎を纏った左腕をエイルにではなく高貴に向かって伸ばしている。
 エイルやヒルドとは違い、高貴は完全な一般人。
 そんな存在がヴァルキリーのルーンをその身に受けてしまえばどうなるかはたやすく想像できる。
 行き着く先は死あるのみだ。

「ちょ、ま、まさか―――」
「爆ぜろ豪炎!」

 赤き焔、その奇跡の業が、無力な少年に向かって放たれた。


 高貴の言葉を遮ってヒルドがルーンを放った。
 かわそうにもかわす事など出来るはずはない。
 月館高貴はただの平凡な少年。魔術に対抗するすべなどもっているはずがないのだから。
 ただその炎を見ていることしか高貴にはできない。
 ここで自分は死んでしまうのか?
 こんなわけのわからないことに巻き込めれて死んでしまうのか?
 嫌だ……そんなのは嫌だ。
 今目の前に起きている現実を否定するように高貴は目を閉じた。
 今ここで、無力な少年の命が炎に飲みこまれる。

「《エイワズ》!」

 ―――はずだった。
 高貴は助かる方法は持っていなくとも、高貴を助けようとするものは存在する。
 せまりくる炎から高貴の前に立ちはだかった人物―――エイルがルーンを刻んだ。
 ヒルドが高貴に狙いをつけた瞬間から、エイルは高貴に向かって走っていたのだ。
 自分が巻き込んでしまった少年。
 本来ならばこのような危険とは無縁だったはずの少年。
 死の問いかけに対して否定の意思を示した少年。
 そんな高貴を死なせるわけにはいかない。

「我が身を守れ!」

 エイルが左手を前に伸ばすと、そこには青い光の壁のようなものが現れる。
 その光の壁が炎のルーンを正面から受け止めた。

「はああああああ!」

 青き壁は壊れない。
 防御のルーン《エイワズ》によって作られたそれは、簡単に言ってしまえば攻撃から身を守るバリアだ。
 エイルを、そして高貴を守るその壁は、炎をその身に受けてもものともしないほどの強度を持っていた。
 やがて炎が力尽き、その存在を完全に消滅させる。それを確認したエイルも《エイワズ》の壁を消し去った。
 再び訪れる静寂。
 それは今度は一瞬では終わることはなく、戦いが終わったことを意味していた。
 高貴が恐る恐る目を開けると、そこには自分に背を向けて立っているエイルの後姿。
 先ほどと同じようにエイルに助けてもらったということはすぐに理解できた。
 エイルは手に持っていた槍を消し去ると、振り向き高貴に話しかける。

「高貴、怪我はないか? 一応魔術は防いだんだが、さっき吹き飛ばされていただろう。どこか打ったとかは大丈夫か?」
 そう言うとエイルは、しゃがんで高貴の体をぺたぺたとさわり始めた。
 それが恥ずかしく思えたのか、高貴は慌ててその手を払う。

「だ、大丈夫だよ! どこも怪我してない。それよりさっきの奴はどうしたんだ?」
「ふむ、逃げられてしまったようだ」

 エイルが先ほどまでヒルドがいた場所に視線を移す。そこにはもう誰も残っておらずエイルの言ったようにヒルドが撤退したことを意味していた。

「ヒルドも本気で君を殺すつもりはなかったんだろうな。私が君を守れるタイミングと威力で炎を放ったように思えるよ。最初から逃げる為に君を利用したんだろう。とはいえ本当にすまなかった。ヒルドと会うということは戦闘になるのはわかりきっていたはずなのだから、君は早く帰らせるべきだったよ。重ね重ねになるが本当にすまなかった」

 そう言うなりエイルは頭を下げる。

「ま、待てよ! 別にいいって! むしろお前は命の恩人なんだからさ。あの炎から守ってくれなかったら俺は死んでたわけだし」

 それに高貴がエイルの言葉を信じてさえいればここまで危険な目にはあわなかっただろう。
 エイルの言うことをありえないと全否定してしまった自分にも少なからず非があるのは確かなのだから。
 なのにそこまで謝られると居心地が悪い。

「それともう一つ、君に謝らなければいけないことがある」

 そういうなりエイルは立ち上がり歩き出した。
 高貴が覚えている限りでは、確か最初に炎を受けた場所までエイルは歩き、何かを拾って再び歩いてくる。
 エイルがだんだんと近づいてくるたびに、彼女が手に持っているそれがなんなのかはっきりと理解できてきた。
 戻ってきたエイルの手にあったのは、ボロボロの無残な姿になった高貴のコート。
 ところどころ穴が開き、黒い色の上からでもわかるくらいにはっきりと焦げ跡がいくつもついている。
 さらに下半分ほどはなくなっており、もはやロングコートとは呼べない代物へと変貌していた。

「その……防御はしたんだがな。少し間に合わなかったというかだな。……せっかく貸してもらったのにすまない」

 エイルはかなり申し訳なさそうな表情だ。
 小遣いの大半を吹き飛ばして購入したコートなだけにさすがにショックは大きいが、エイルには命を助けてもらったのだから文句は言えない。
 高貴はそう自分に言い聞かせて無理矢理納得させることにした。

「あはは……ま、まぁ気にすんなよ。エイルが無事でよかったし……うん」

 そう言ってコートを受け取る高貴、しかしやはり残念な気分は消えることはなかった。

「しかし困ったことになってしまったな。ヒルドがどこに行ったのか皆目見当もつかない。このままでは逃げられてしまう可能性もあるし、なにより放っておくと危険だ」
「危険って……もしかしてあいつそこらの人を襲ったりするのか?」

 高貴が頭にすぐ浮かんだ最悪の可能性を言葉にした。
 あのような危険な少女に襲われたのであれば、普通の人間にはどうしようもない。

「ふむ、それはないだろうな。ヒルドがこちらの世界の人間を襲う理由が見つからない。彼女は元々殺しを楽しむような性格ではないし、君に向かって炎を放ったのも自分が逃げる為であって命を奪う為ではなかった。危険というのは他の世界に逃げられてしまうかもしれないということさ。今はまだ出来はしないだろうが、しばらくすればその可能性がある」
「今は出来ないってなんでなんだ?」
「ふむ、それはだな―――」

 エイルの言葉はそれ以上続くことはなかった。
 突如エイルの目の前に現れた光によって、エイルの言葉は遮られたからだ。
 その光は先ほどエイルとヒルドが宙に刻んでいた文字のようで、エイルの書いていた文字よりも深い青色で《ᛖ》の形をしていた。
 アルファベットのMにそっくりだが、やはりどこか違うように見えるその文字。
 また危ない魔術かもしれないと判断した高貴はとっさに一歩後ろに下がる。
 エイルがその文字に右手で軽く触れると、その文字は光の雫となって弾けて消える。

「聞こえるエイル? それとそこの人間君」

 それと同時に、どこかから女性の声が聞こえてきた。

「え? な、何だよこれ?」

 その言葉は耳から入ってきている感じはなく、まるで頭の中に直接響いてきているかのようにも思える。
 混乱している高貴をエイルは慌ててたしなめた。

「落ち着け高貴、これは《エオー》のルーンだ。君達のもつ携帯電話と同じようなものだと思えばいい。私が君の部屋で使っていたものと同じだよ」

 そういえばエイルを初めて見たときに誰かと会話をしていたことを高貴は思い出した。どうやらそれを自分は体験しているらしい。

「とりあえずヒルドには逃げられちゃったみたいね。けどまぁその内また見つかるだろうからそれはいいわ。それにしても人間君、君は災難だったわね。いきなりこんなことに巻き込まれちゃったんだもの。エイル、あなたの責任よ」
「本当にすまなかった。どんな非礼でも受けよう」

 再び頭を下げてくるエイルを高貴は慌ててせいした。

「さて、こうなってしまったからには色々と準備が必要ね。エイルはこれから私が指定する場所に向かって。そこで今後の指示をまた伝えるから。次に人間君だけど……まぁいいわ、今日のことは綺麗さっぱり忘れなさいな。君だってもうこんなことに巻き込まれたくないし関りたくないでしょ?」
「忘れるって……」

 そんなことはもちろんできるはずがない。
 月館高貴という少年にとって間違いなく今日という日は人生で一番衝撃的だった日だ。
 そんなことを忘れろといわれて忘れられるはずがない。
 しかし、もう巻き込まれたくないと思っているのもまた事実。
 勘違いしていたとはいえ、半ば自分から首を突っ込んでしまったようなものであり、エイルに命を助けてもらっておいて言うのもなんだが、できることならばこんなことはもう避けたい
 忘れることは不可能だとしても、関るなというのならばそれに越したことはない。

「……わかりました。なんとか忘れられるように努力します」
「うん、いい子いい子。お姉さんは嬉しいわ。今日のことは誰にも言わないでね。別に言ってもいいけど貴方が痛い人を見るときの目で見られるだろうからお勧めしないわ。これ以上あなたに関るようなことは多分ないと思うから安心して。じゃあエイル、早速だけどあなたは即行動よ。とりあえず今来た道を戻って」
「了解した」

 エイルはそう返事を返すと高貴に向き直った。

「ではな高貴、本当に世話になった。本来誰とも接してはいけない任務だったにもかかわらずこんなことを言うのは間違っているが、君に会えて本当によかったよ」

 最初に自分に向かって死んでくれと言ったときと同じような笑顔でエイルが言った。
 あの時とは状況が違う今、そうはっきりといわれると高貴としてもさすがに照れくさい。

「いや……そんな……」

 もじもじとそう返すのが高貴の精一杯だった。

「さよならだ高貴。アルバイト頑張ってくれ」

 そう言い残すとエイルは入ってきた公園の入り口へ小走りに向かって行った。
 その入り口から出て右に曲がった所で、もうエイルの姿は見えなくなってしまった。
 取り残されたのは高貴一人のみ。先ほどまではあれだけ騒がしかった公園も、今は完全に静寂に満ちている。

「はぁ……なんつーか……夢じゃないんだよな今の。地面は焦げてるし、コートはボロボロだし」

 現実の痕跡は高貴の周りに確かに残っている。どれだけ信じられないことだろうと、今起きたことは現実以外にありえない。
 なんだか台風のような少女だった。
 突然現れてあっさりと去っていったあたりはまさにそのものだ。
 それに振り回された今の自分はいつもの何倍も疲れている。さっさと帰って風呂にでも入って寝よう。
 そう思って歩き出したときに、高貴はエイルが最後に言った言葉を思い出した。
 そしてすぐさまスマホを取り出して今の時刻を確認する。

―――午後6時25分

 高貴のバイトが始まる5分前。
 バイト先までは歩いて10分。

「……やば! 完全に遅刻じゃねーか!」

 高貴は重い足を無理矢理動かして走り出した。

 ◇

 7分。
 それが公園からバイト先まで高貴がかかった時間だった。
 つまりは6時30分からのバイトのはずが2分遅刻してしまったのだ。
 急いでいるときに限って、この辺りで一番長い信号につかまり、さらにはやはり信じられないことを目の前にしたせいか足が重かったりで、かなり時間がかかってしまっていた。
 本来ならばすぐに入りたかった高貴だが、全力で走って疲れていたため、ドアの前でしばらく呼吸を整える。
 同時に高貴はバイトをしている喫茶店、《マイペース》になんといって入ろうかと悩んでいた。
 と言うのも、今まで高貴は遅刻というものをしたことがない。どんなに遅くとも、バイトが始まる5分前にはマイペースについている。
 故に、店に入ったときの第一声をどうするのかを悩んでいた。
 何事もなかったように店に入り、何事もなかったようにバイトをするか。しかしこれは色々と間違っているような気がする。
 このまま適当に理由をつけてサボるか。ここまで来てそれはないだろうし、なによりマスターに迷惑はかけたくはない。
 とするとやはり、ここは素直に遅れてしまったことを謝るしかないだろう。そうするのが人として一番正しいあり方のような気がする。
 元々マスターは温厚な人だ。誠意を持って謝れば軽い注意くらいで許してもらえるかもしれない。
 そう決心した高貴はマイペースのドアを開けた。
 カランカランとドアについているベルが鳴るのを耳に、高貴はマイペースの中へと入った。

「4分遅刻。罰として今月の給料は無し」

  世界が凍りついた。
 まるでさっきの二人が氷の魔法でも使ったのではないかと思うくらい、そのたった一言で高貴の世界が凍りついた。
 ドアの前には(お客もここから入ってくるのに)一人の少女が立っていて、高貴が店に入ってきた瞬間に先ほどの氷の一言を浴びせかけたのだ。
 エイルと同じくらいの身長、髪はショートカットで活発そうな印象を受けるが……それ以上に今の彼女は、その鋭い眼光で凶暴そうな印象を人に与えることが出来るはずだ。
 まぁ、実際その通りなのだが。
 冷徹な一言とは違い、その少女の表情は怒りに染まっており、高貴は先ほどと同等以上の恐怖に駆られる。
 4分と言うことは、ドアの前で2分ほど迷っていたということだろう。

「いや……その……すいませんでした。でもさ真澄、さすがに給料無しってのはどうかとおもうんだけど」

 高貴がそう言っても目の前の少女、弓塚真澄ゆみづかますみは表情を崩さなかった。
 真澄は高貴と同じくマイペースでバイトをしている少女だ。と言うよりも、通っている学校もずっと同じで、いわゆる幼馴染と言う間柄となる。
 故に高貴は一度怒ってしまった真澄はなかなか機嫌が直らないということを知っているのだ。
 この前機嫌を損ねてしまったときは、ケーキをおごることでなんとかなったが、体重が増えてしまったとか文句を言われて結局また機嫌が悪くなっていた。
 もしまた食料を要求された場合は、低カロリーな物を与えなくては。
 とはいえ今回は主に謝る相手は真澄ではなくマスターだ。真澄に高貴の給料をどうこうする権限はないのだから。

「なに言ってんのこのバカ。遅刻するような奴に払うお金なんてないよ。そうですよね詩織さん」

 真澄はやはり不機嫌そうな表情のまま振り向き、カウンターに立っている女性に声をかけた。
 長い髪を首の後ろで結い、清楚な感じを漂わせたその女性は、大人のお姉さんと言う表現がとてもしっくり来る人物。
 そんな人物こそが、マイペースの店主である加賀美詩織かがみしおりだ。
 詩織はコーヒーを淹れていた手を一度止め、少しばかり苦笑した。

「真澄ちゃん、確かに高貴君が遅刻だなんて珍しいことだけど、いくらなんでも給料無しは言いすぎよ」
「甘いですよ詩織さん。そんなこと言ってると、こいつその内堂々とサボりだすに決まってます。もっと厳しく行かないと。と言うわけで今月分の高貴の給料はわたしがもらいます」
「ふざけんなっつーの! 確かに遅刻したのは悪かったけど、お前に給料全部取られてたまるかよ!」
「だったらちゃんと働け! ……ってあんた、なんでそんなボロボロの布持ってんの?」

 真澄の視線が高貴の持っている(変わり果てた)コートに向いた。反射的にそれを隠してしまう高貴。
 先ほどエイルとヒルドの戦いでボロボロになってしまったコートだが、何となく捨てることが出来ずに持ってきてしまったのだ。
 お気に入りのコートだっただけに、ボロ布呼ばわりされるのは少々辛い。

「いや……まぁ気にすんなって」
「なによ、そんな言い方されたら気になるじゃない。さっさと言いなさい」
「なんでもないって。あんまりしつこいと皺が増えるぞ」
「うるっさいこのバカ!!」

 怒声とともに真澄が高貴の顔目掛けて何かを投げつけてきた。至近距離だったので高貴はかわす事も出来ずにそれを顔で受け止める。
 投げつけられたのは、高貴がバイト中にいつも身につけているマイペースのエプロンだった。
 マイペースには仕事服というものは存在せず、このエプロンをつけて仕事をする。
 つまり私服だろうと学制服だろうと、その上にエプロンさえつければ問題ない。
 それをぶつけて真澄は高貴から離れていったので、高貴は文句を言うことも出来ずにそれを身に着ける。
 店内には客が少なく、ボックス席に2組、カウンターには客はいない。
 あまり忙しいとは言えない状況ではあるが、遅れたことを謝罪する為に高貴は詩織の元へと向かった。

「あの……詩織さん、バイトに送れてしまってすいませんでした」

 頭を下げる高貴だが、それを詩織は軽く制した。

「気にしないでいいわよ。今はそんなに忙しくないし、遅れたといってもほんの数分だもの。それに高貴君が遅刻だなんて確か始めてのことだから、珍しいものが見れて少し得した気分よ」 
「あはは……とりあえずもう遅刻しないように気をつけます」

 バイト仲間とは違い、マスターはすぐに許してくれたようだ。
 真澄に視線を向けると一度目があったが、すぐにそらされてしまった。

「なんか真澄の奴は相当機嫌悪かったみたいですけど……さっきまでは忙しかったんですか?」
「違うわよ。真澄ちゃんは高貴君を心配してたの。高貴君が遅刻だなんて今までなかったから、もしかしたら事故にでもあったんじゃないかってさっきまでオロオロして―――」
「し、詩織さん! 何言ってるんですか!」

 客の注文を受けて戻ってきた真澄が、詩織の言葉を遮るように勢いよくカウンターにオーダーを置いた。

「あら、ごめんなさいね。カフェオレ一つ、今準備するわ」

 クスリとからかうように笑って、オーダーを見た詩織がコーヒーを淹れ始める。
 取り残されたの若者二人のうち、顔を少し赤くした一人がなにやら慌てて叫んだ。

「か、勘違いしないでよね! わたしは別に心配なんかしてないんだから! ただいつも来る時間に来ないから、どこで油売ってるのかなって気になっただけ! わかった!?」
「わ、わかったよ。だから落ち着けって」

 なぜかいささか興奮している真澄をどうにかなだめる高貴。
 付き合いの長い高貴には何となくわかる。真澄はきっと本当に自分のことを心配してくれたのだろう。
 しかしここで礼を言ってしまうとまたすねてしまうかもしれないので、高貴はそれを言うことはない。
 しばらくして詩織がコーヒーを淹れ終わったので、高貴がそれを客の所まで持っていった。
 お待たせしました、と言ってちゃんと失礼のないように差し出したのだが、帰ってきたのは一つの舌打ち。
 あとはあからさまに残念そうな表情。
 おそらくは真澄に持ってきてもらえることを期待したのだろう。その証拠に視線がコーヒーではなく真澄のほうを向いている。
 マイペースには詩織や真澄目当てで来る客も多いので、高貴にとっては初めての経験ではないのだが、ここまではっきりとした態度で示されるとさすがにへこむ。
 しかもその客は男ではなく女だったのだからよけいに怖い。
 ごゆっくりどうぞ、と言う言葉を残して、早々に高貴はそこから立ち去った。

「詩織さん、今のでオーダーアップです」
「そうみたいね、じゃあ私達もコーヒーでも飲みましょうか」

 そう言うと詩織は、鼻歌交じりで高貴と真澄のコーヒーを淹れはじめた。
 マイペースは基本的に客でいっぱいになるということはない。都心からわずかに離れているし、その都心にいくつも喫茶店があるからだ。
 元々は詩織の両親が会社を退職したあとに、セカンドライフとして始めたのが喫茶店マイペースであり、詩織の両親からしてみれば道楽のようなものだったと言う。それを詩織が受け継いで続けている。
 というよりも、詩織は元々パティシエになりたかったらしく、両親から受け継いだあとのマイペースは、ほとんどケーキ屋といっても差し支えはない。
 ケーキのみのお持ち帰りの客がほとんどで、なおかつ昼間時が客のピークなので、この時間帯はほとんど人がいないのだ。

「あの、詩織さん。俺いつも思うんですけど、バイトするときって俺か真澄のどちらか片方だけでもよくないですか? こう言っちゃなんですけど、マイペースはあまり客が来ないし、元々詩織さん一人でも十分回せると思うんです」
「なにあんた、もしかして働くのが嫌になったわけ? ならさっさとやめたら?」
「違うよ、雇ってもらってる詩織さんには感謝してるけど、詩織さんはバイト代とかきつくないのかなって思ったんだ。それに俺たち対して役にも立ってないのにバイト代もらうってのもなんかさぁ」

 高貴の言葉に真澄の言葉が止まった。おそらくは真澄も気にしてたことがあるからだろう。気まずそうな顔をしている二人に、詩織がクスリと笑いながらコーヒーを差し出す。

「まぁ、確かにお店は私一人でも大丈夫ね。実際に二人が学校に行っている時は私一人でやっているわけだし、お客さんでいっぱいになるっていうこともあまりないから」
「じゃあどうしてわたしたちの事雇ってくれてるんですか」
「そんなの決まってるじゃない。私一人なんて寂しいもの。二人がいてくれないと耐えられないわ」

 この人って友達いないんだろうか?
 そんなことを考えた高貴だったが、さすがに失礼と思いその言葉を飲み込んだ。
 まぁ確かに、高貴と真澄の主な仕事内容といえば、詩織の話し相手になることかもしれない。詩織は二人の学校であったことなどの話を聞くのが好きなようだから。

「そういえば高貴君、今日の遅刻の理由はなんなの? 今まで遅刻なんてしてなかった高貴君が、何の理由も無しに遅刻するなんて思えないんだけど」
「そういえば聞いてなかったですね。いったいどこほっつき歩いてたの?」

 二人の言葉に、高貴のコーヒーを飲む手がピタリと止まった。
 そういえば遅刻の理由をどう説明するかまでは考えていなかったのだ。
 まさか正直に言うわけにはいかない。
 家に帰ったら見知らぬヴァルキリーがベットに仁王立ちしてて、中二病か精神障害者かと思って警察に連れて行こうとしたら、そのヴァルキリーが探しているっていうもう一人のヴァルキリーにいきなり攻撃された挙句、その二人の戦いに巻き込まれて遅刻した。
 などとは口が避けてもいえるわけがない。間違いなく痛い人という太鼓判を押され、下手をすれば病院行き。
 あの状況を体験した高貴ですら夢だと思いたい事実(主に二人のヴァルキリーとか)を目にしていない二人が信じられるはずがないだろう。

「あー……別にたいした事なかったんですよ。たまには歩いてこようかと思ったんですが、ゆっくり歩きすぎて遅れてしまっただけです」
「ふーん、じゃああんたがさっきもってきたこれはどう説明するわけ?」

 真澄がいつの間にか手にしていたのは、高貴が持ってきていたボロ布―――もとい、元ロングコート。
 元々黒かったコートだが、焦げのせいでますます黒く見えるそれを、真澄がヒラヒラさせながら高貴を問い詰める。

「あら?、それってなんなの? なんだか焦げ臭いような……というよりも焦げてるわよ」
「これは高貴の冬用のロングコートです。確か去年に小遣いを溜めて買ったとか言って着てましたでも最後に着てたのは三月くらいで、四月にはもう着てなかったよね?」
「お前よくそれがロングコートだってわかったな。それに何でそんなに詳しいんだよ?」
「そ、そんなことはどうでもいいでしょ! 今問題なのは、どうして今このコートがこんなになってるのかってことだよ! あんた最近これ着てなかったでしょ!」

 それを着たヴァルキリーが火の魔法を食らったから、なんて言えるわけねー。
 じゃあなんて言うんだよ。
 そもそも汚れたとかならともかく燃えたとか焦げてるってなんて言えばいーんだよ。
 ダメだ、何も思い浮かばねー。
 これも全部エイルのせいだ。つーかあの火をぶっ放してきた女のせいだ。
 高貴が何とかごまかすいいわけを考えようと、一人で脳内会話をしている間に、真澄と詩織の視線がだんだんとあやしげなものに変わっていく。

「普通はこんなコゲコゲでボロボロになりませんよねぇ、汚れるとかならまだしも」
「そうね、というよりこれって事故で燃えたって言うよりも、燃やしたとか燃やされたって言ったほうがしっくり来るわね。こんなにボロボロだと」
「う……たまたま着たくなって……その……つまり……」
「燃やしちゃったわけ?」
「まさか高貴君……自分で燃やしたんじゃなくて、誰かに燃やされちゃったとか、もしかしていじめられてるの? そういえば格好もどことなく汚れてるような気がするわね」
「ち、違いますよ! いじめられてません!」

 詩織の問いかけに高貴は慌てて否定したが、それはむしろ逆効果だったのかもしれない。自分で燃やさないようなものならば、誰かに燃やされたと考えるのが自然であるからだ。
 実際その通りなわけでもある。
 それに服の汚れについては完全に気が回らなかった。おそらくはエイルに押し倒されたときと、魔法の衝撃で吹き飛ばされたときに汚れたのだろう。

「あんたもしかして本当にいじめられてるの? でも学校ではそんな感じなかったし、そもそもあんた誰かにいじめてもらえるような人間じゃないし」
「今の発言はいじめじゃないのか? とにかく俺はいじめなんて受けてない」
「高貴君、いじめを受けている人は皆同じことを言うのよ。さぁ、お姉さんに話してごらんなさい。何か力になれることがあるかもしれないわ。十人くらいまでならなんとかしてあげるわよ。それ以上だと被害が―――いえ、なんでもないわ」
「何をなんとかしてもらえるんですか? 被害ってなんですか? つまりですね……その……」

 もう本当にダメだ。言い訳なんて思いつくわけがない。でも何か言わないと、いじめを受けていると思われる。
 高貴の頭が真っ白になっていき、口から出て来た言葉は―――

「み、見知らぬ女から火の魔法をくらってコートが燃えちまったんだ!」

 最悪の一言だった。
 よりにもよって事実を言ってしまったのだ。
 それと同時に本日二度目の世界が凍りつく音。自分を冷ややかな視線で見ている二人に気づく。

「ひ、ひのまほう?」
「あ、ああ! なんか指で文字を書いたら火が出てきてさ! もう死ぬかと思ったよ!」

 真澄は軽く引いている。

「み、見知らぬ女って?」
「なんか自分のことを違う世界から来たヴァルキリーって言ってました! 用事があってこの世界に来たとかなんとか!」

 詩織も軽く引いている。

(って何言ってんだ俺! これを言わないようにする為に言い訳を考えてたんだろうが!)

 後悔しようがもはや後の祭り、二人は完全に引いている。
 その視線はかわいそうなものを見るような、はたまたそうではないような視線。

「ち、違うって! 今のはちょっとした冗談だって! つまり―――」
 
 ポン―――と、高貴の右肩を詩織が優しい笑顔で叩いた。

「今日はもういいから、帰って休みなさい」

 ◇

「今日は……散々だった」

 自宅まで強制送還された高貴は、玄関のドアを開けてそんなことをつぶやいた。
 結局自分の誤解は解けず、解こうにしても本当のことを(もう言ってしまったのだが)言うわけにはいかず、とにかく帰りなさいとバイトを切り上げさせられた。
 非現実的なことに巻き込まれて疲れていたので、ありがたいと言えばありがたいのだが、今後のことを考えると素直に喜ぶことも出来ない。
 はぁ、もう今日のことは全部夢だったらいいのに。そうすればこんな悩みとはおさらばなのだから。
 しかし実際はそんなわけにはいかないことをちゃんと高貴は理解している。それに手に持っているボロボロのコートや、カーペットのジュースのシミがキチンと現実だったことを証明している。

「コートは……捨てるしかないよな。ジュースのシミの掃除は……また今度でいいか。とにかく疲れた」

 高貴はコートを床に放り捨て、カーペットのシミを避けて、着替えることもせずにベットの上に寝転んだ。
 風呂は明日入ろう。とにかく今日は疲れたもう眠りたい。
 目を閉じれば今日不法侵入して来たヴァルキリーの姿が見えた。

「どうせならコーヒーの一杯でも飲ませてやるんだったかな。……いや、やっぱあんなのと関わるのはパスだ」

 そんなことを思いながら高貴は目を閉じて、だんだんとその意識は眠りに溶けていった。



  目覚めは極めて平凡だった。
 目覚まし時計代わりのスマホに設定してあるアラーム音の音でいつもどおり高貴は目を覚ました。
 時刻を確認すると、液晶画面には7時10分と表示されており、間違いなくいつも起きる時間。
 ただいつもと違うのは、いつもと違っていた昨日のことを真っ先に思い出したということだ。

「あー……とりあえず風呂入んねーと」

 昨日は帰ってきてそのまま寝てしまったからさすがにシャワーを浴びたい。それから今日は燃えるゴミの日だから、コートの残骸も捨てちまおう。
 そんなことを考えながらベットを降りた瞬間に、彼は妙なことに気がついた。
 昨日カーペットにジュースをこぼしたときに出来たシミが、綺麗さっぱりなくなっている。
 一瞬見間違いかと思い目を疑ったが、何度見てもカーペットは汚れていない。白と黒の模様のどこにもシミなどない。

「あれ? ……だって昨日……もしかして夢?」

 さらに昨日床に置いておいたコートの残骸も綺麗さっぱりなくなっている。もしやと思い、服などをしまっておくクローゼットの中を見てみると、コートは普通にそこにあった。
 高貴はそれを取り出し隅から隅までよく観察したが、こげあとや破れている所は見当たらない。
 それは元に戻っているというよりは、むしろ元以上といってもよく、まるで買ったばかりの新品のようになっている。

「まさか本当に夢オチか? ……だとしたら俺ってなんつー夢を見たんだよ。できるだけ平穏に生きたいだけなのにさ。そもそもあんな非現実的なことあるわけが―――」

 いや、待て。やはり何かがおかしい。
 夢というにはあれはあまりにリアルだったし、何より着ている服は少し汚れている。
 それに昨日の非現実的なことが本当だとしたら、魔法などを使ってコートを直したのかもしれない。
 しかし常識的に考えるのなら、やはり夢と考えるほうが自然だ。
 結局のところ、自分ひとりでは判断しかねる状況であるが、今日学校に行けば嫌でもわかってしまうことだろう。
 学校では真澄と同じクラスで席も近いため、もしも昨日のことが本当だったら、マイペースでの高貴の言い訳に対して嫌味の一つでも言ってくるはずだ。
 夢じゃなかったら正直気は進まないけど、とりあえず風呂入ろう。
 高貴は着替えを持って風呂場へと向かって行った。

 ◇

 学校に着いたのは8時25分。海原高校のホームルームが始まる5分前の時間帯。
 教室のドアを開けると、真澄はすでに登校しており、席に着いてスマホをいじっていた。 
 高貴の席は窓際から数えて2列目で1番後ろの席。黒板は少々見にくいが、教師の真ん前などの席よりはだいぶましだ。真澄の席は高貴の一つ前にある。
 どういう風にして声をかけようかと迷いながら、高貴は席へと向かって行った。取り合えず第一声はいつも通りの一言。
「おはよう真澄」
 いつも通りの挨拶で高貴に気づいた(まぁ教室に入ってきたときに目があったのだが)真澄は、スマホから目を離し視線を上げた。

「……おはよ」

 返ってきたのはそっけない挨拶。別にいつもはそうでないかと言うと、そんなことはなくいつもそっけないのだが、高貴にはいつも以上にそっけなく感じる。
 挨拶を返すと、真澄は再び視線を高貴からスマホに戻した。どうやらゲームで遊んでいるらしい。
 やっぱり昨日のあれは夢じゃなかったのかもしれない。そんなことを考えながら高貴は席に着いた。
 さて、どうするか。ここはやはり昨日の事について話してみるべきか否か。
 聞くこと自体は簡単なのだが、もしも現実だった場合、真澄からどんな罵詈雑言を浴びせられるかわかったものではない。
 しかしやはり聞いてみないことには始まらない。夢だったか現実だったか、はっきりしないと気持ちが悪い。
 それに出来れば夢であってほしい。

「な、なぁ真澄。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……なに?」

 高貴が話しかけると、真澄は少し渋ったように振り返った。左手にスマホを持ち、右手を椅子の背もたれにおいて、冷ややかな(心なしかいつも以上に)視線を高貴に向ける。
 おれ昨日変な事言ってなかったか?
 そんな感じで真澄に聞こうかと思った高貴だが、その視線を前にして言葉が喉のあたりで止まってしまった。
 やばい、とにかく何かを言わなくては。だんだんと真澄の視線が怖くなってきている。やっぱり現実だったのかもしれない。
 グルグルと沢山の言葉が高貴の頭をめぐり始める。

「ふ、深田君って今日はまだ来てないのか?」
「……はぁ?」

 廻り廻って出て来た言葉は、まったく関係のないものだった。
 ポカンとした表情になって、いきなり何言ってんのこいつ? といった表情になっている。

(やべぇやっちまった間違えちまったぜんぜん関係ねーこと聞いちまった!)

 自爆、時すでに遅し、後の祭り。言ってしまった言葉は取り消すことなど出来はしない。
 ちなみに深田君とは、高貴の右隣に座っている男子生徒のことだ。

「えっと……今日はまだ見てないけど」

 真澄が深田君の席に視線を向け、少し戸惑いながらそう言った。

「そ、そっか。いつもはとっくにいる時間だから、少しおかしいなって思ったんだ。ほら、10分前くらいにはいつも登校してきてるだろ」
「そういえばだね。昨日はちゃんと登校してきてたし、それに具合が悪そうでもなかったし、何かあったのかもね。……それがどうかしたの?」
「いや、珍しいから何となく気になって。俊樹はまぁいつも通りだけどさ」

 高貴と深田君は、特別仲がいいというわけではないが、席が隣ということもあって話をしたりもする。
 いつもならば居る時間に居ないともなれば、少しは心配にだって当然なる。しかし今は深田君よりも真澄に昨日のことを確認しなくてはならない。 
 今度こそ聞こうと思ったその時、高貴はなんだか妙なものを見つけた。
 その妙なものとは、自分の左隣に存在している机のことだ。
 一見普通の机、二回見ても普通の机、何回見ても普通の机なのだが、問題はどうしてそこに机があるのかということだ。
 高貴の所属している2年3組は全員で39名。それが教室では8列に5人ずつ並んで座っている。
 つまりこの教室には、際に座っている生徒は4人しかおらず、窓際の1番後ろの席は存在しないのだ。
 実際昨日までは存在しておらず、高貴の右隣には机しかなかった。にもかかわらず今は存在しており誰も座っていない。

「……なぁ真澄、俺の左隣に席が増えてるんだけど、これっていったいどういうことだと思う?」
「あ、それなら知ってるよ。なんでも今日から転校生が来るみたい。先生が言い忘れてたんだって。ほら、あの人って見た目どおりどこか抜けてるから」

 テンコウセイガクル?

「て、転校生ね……お、男だよな?」
「女子生徒らしいよ。すごい美少女って話だけど……ふぅん、興味あるんだ」
「きょ、興味なんてねーよ!」

 思わず声を上げて否定してしまった。
 美人の転校生。どうしよう、興味どころか心当たりがありすぎる。もしかしたら昨日出会ったヴァルキリーかもしれない。
 そんなのはゴメンだ。あんな滅茶苦茶な女と関わるなんてもう冗談じゃない。一日―――というよりも数時間で限界だ。
 いや待て、やはりありえないだろう。昨日のことがもしも夢ではなかったのなら、確かあの少女は極秘任務と言っていた。それにもかかわらず学校などくるはずがない。
 確かに美人ではあったが、世の中には美人なんて結構沢山いる。
 そうだ、例えば真澄だってちょっと性格がトゲトゲしているが、ルックスはいいほうだろう。整った顔立ち、さらさらの髪、スタイルは……これからに期待ということで。

「ちょ、ちょっと。なにそんなにじろじろ見てるの? なんだか気持ち悪いんだけど」
「あ、ゴメン」

 どうやら知らぬ間に真澄のことを凝視してしまったらしい。

「なんだか今失礼なこと考えなかった?」
「いや、考えてない。スタイルが貧相だとか―――」

 真澄の右ストレートが高貴の顔に炸裂した。ためらいのなく、まさにお手本のようなその一撃に高貴が顔を抑えて悲鳴を上げる。
 思わず素で反応してしまったことを、高貴はうめき声を上げながら悔いた。

「お、お前なぁ、普通グーで殴るか? 女がグーで殴るかよ!?」
「……もう一発殴られたいの?」
「う……ごめんなさい」

 まるで人を殺せそうな視線を受け、とにかく謝らなければという防衛本能と、何より本人が気にしていることを言ってしまったことから、取り合えず素直に謝る。
 しかしそれで許してもらえるかどうかはまた別問題なのだ。こういうときの真澄はたいてい何かを要求してくる。

「そうね……マイペースのチーズケーキで許してあげる。それで女の傷ついた心が治るんだから安いもんでしょ?」

 マイペースのチーズケーキ。
 つまりは詩織の作ったケーキという事だ。詩織は頼めば高貴と真澄にはいくらでもただで食べさせてくれるのだが、どうやら今回はキチンと払わせるつもりらしい。
 しかし確かに480円で許してくれるのならば安いものだろう。一番高値のいちごどっさりショートよりは200円も財布に優しい。
 その後の体重までは責任を取れないが。

「わかったよ今度おごるから」
「よし、じゃあ許してあげる」

 そう真澄が言ったときに、教室のドアが勢いよく開いた。同時に教室に一人の男子生徒が入ってくる。

「よっしゃ、ギリギリセーフ! あ、高貴、真澄、おはよう!」

 そういうなりその少年は教室に入ってきて、真澄の右隣の席に座った。

「おはよう俊樹、今日もギリギリだったな」
「おう、朝ってどうも苦手なんだよ。あれ、深田君もまだ来てないんだな。いつもならとっくに来てる時間なのによ」
「さっき珍しいねって話してたとこ。あなたも深田君見習ってもう少し速くくればいいのに」
「だから無理だって」

 この少年は植松俊樹うえまつとしき。高貴と真澄のもう一人の幼馴染。この三人は小学校の頃からの幼馴染で、今でも仲の良い友達同士だ。
 三人の中では一番のムードメーカーでもある。

「なぁなぁ聞いたか? 今日転校生が来るらしいぜ! 担任が言い忘れてたとか何とかでさ、スゲー可愛いんだって!」
「なんであんたが知ってんの……って聞くのも愚問か、この女好き」
「別にいいだろ、高貴だって嬉しいよな?」
「あー……微妙」

 ヴァルキリーじゃなかったら嬉しいんだけど。
 などとはもちろんいえない。
 今度は教室の前の扉が開き、担任の教師が教室に入ってきた。相変わらずどこか抜けてそうな顔だ。

「ホームルーム始めるぞー。皆席につけー」

 席を立っていた生徒がその声を聞いて自分の席に戻っていく。

「あ、結局深田君来なかったね」
「そうみたいだ、休みかもな」
「転校生はどこだよ?」

 その会話を最後に俊樹は前を向き、真澄も前を向いてスマホをしまった。
 結局昨日のことについて話すことは出来なかったが、それは後で聞くとしよう。それにもしかしたらもうすぐわかるかもしれない。
 もしも転校生の女生徒というのが、高貴の知るあの人物だったとすれば、昨日のことは間違いなく現実なのだから。

「えー、挨拶の前に少し時間をとる。皆には言うのを忘れていたが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わることになった」

 とたんにクラスがざわつき始めた。漫画などでお決まりの、「先生、美人ですか?」のような言葉も沢山飛び交い始める。というか俊樹が言っている。
 その人って人間ですか?
 そう聞きたかったが、確実におかしな目で見られるのでやめておいた。
 しばらくして担任がっ生徒達をたしなめ終わり、ようやく教室が静かになり、約一名以外の全員が転校生の受け入れモードへと移行する。

「それでは入ってきなさい」

 そして、運命の時間がやって来る。
 教室に入ってきたその少女は、一目で美少女と判断できる人物だった。


 教室の前の扉がゆっくりと開き、クラスの全ての視線がそこに集まっていく。
 クラスの期待が高まる中で高貴はひたすらに祈っていた。
 あいつだけは勘弁してください本当にお願いしますつーか夢であってください夢に決まってますよねへんな夢見てごめんなさいだから俺の平穏を壊さないでください。
 開いたドアから一人の女生徒が入ってくる。
 静まり返った教室の中に響くのは、その少女の足音のみ。背筋をピンと伸ばし、綺麗な歩き方という表現がよく似合うその少女は、教壇の前で立ち止まりこちらのほうに向き直った。
 先ほど真澄が言っていたように、その少女はかなりの美少女だ。
 背中まである長い黒髪、フレームレスのめがねをかけ、どことなく素朴で儚げな雰囲気をかもし出している。

「さ、挨拶をしてくれ」
「初めまして、本日転校してきました音無静音おとなししずねです」

 ペコリと、音無静音は頭を下げた。
 とたんにざわざわと教室が(主に男子の声で)騒がしくなる。どうやら(主に男子が)思っていた以上に美人だったからだろう。
 そんななか高貴は声を出すこともなく呆然としていた。
 あれは誰だ? 間違いなく俺は知らない人だ。ということはあいつじゃない。転校生は本当にただの転校生だった。
 だって俺おとなししずねなんて人しらねーし、なんだか妙にえとるが多い感じの名前でもないし。
 つまり、つまりだ。

(よっしゃああああああああーーーーー!! つーことはやっぱりあれは夢だったんだ! きっと間違いない!)

 祝、夢オチ。
 声に出さない変わりに心の中で高貴が叫ぶ。
 はたから見ればボーっとしている状態だが、頭の中はフィーバーモードの高貴を、振り返った真澄が不思議そうに見ていたが、本人がそれを知ることはない。

「音無、何か皆に言っておきたいことはあるか?」
「いいえ、特にありません」

 担任の言葉をやんわりと静音が断った。

「そうか、なら皆のほうから音無に聞いておきたいことはあるか?」

 担任はクラスを見て、生徒のほうが静香に色々と質問したがっていることを見抜き、時間も大丈夫だろうと判断して質問の場を与えた。
 とたんに何人かの男子生徒が勢いよく手を上げる。

「はーい! 音無さんって趣味とかありますか!?」
「彼氏居ますか!?」
「好きな男の人のタイプはどんな人ですか!?」
「付き合ってください!」

 手を上げて勝手に質問をする男子に、担任は失敗したとでも言うような表情になり、慌ててクラスをたしなめ始めた。
 もっとも女子のほうもやはり聞きたいことは多いようなので、手を上げている生徒も少なからずいる。

「あの、先生。言いたいことができましたのでいいでしょうか? やっぱり軽く自己紹介がしたいです」

 その軽い騒乱を収めたのは静音の一言だった。転校生が喋るということで、ようやくクラスが静かに戻る。
 静音は改めてクラス全員に向き直り、大きくはないがよく響く声で話し始めた。

「音無静音です。嫌いな人はうるさい人。嫌いなものはうるさいもの。嫌いな場所はうるさい場所。嫌いなことは人との会話です」

 世界が凍りついた。
 真澄の冷ややかな視線などお遊びと思えるほどの絶対零度の視線。
 まるで機械のように感情のこもっていない淡々とした口調。
 クラス中にケンカを売っているかのように、自分の嫌いなものをひたすらに告げると、最後にもう一度頭をペコリと下げた。
 最初から最後までよろしくとは言うこともなくだ。
 さっきまでお祭りムードだった教室は、まさしく一転してお通夜ムード。誰一人何も喋れない空気が広がっていた。

「先生、私の席はどこですか?」

 そんな空気を作った張本人は、平然とした様子で担任に尋ねた。ある意味では自分のせいでこの空気を作ってしまい、担任は声をかけられても気が気ではない様子だ。

「あ、あぁ。音無の席は月館の隣―――あ、それじゃわからんか、窓際の一番後ろの席だ」
「はい」

 静まり返った教室の中をものともせずに静音は席に向かって行った。もはや生徒全員絶望のどん底へと叩き落されてしまったとでも言うような表情になっている。
 そんな中、妙に幸せそうな顔をしている生徒が約一名。

「なぁ真澄。なんで高貴はあんなに幸せそうな表情してんだろ? 今は全員お通夜ムードなのにさ。もしかしてドMなのかな?」
「そ、そんなことわたしに聞かないでよ。おかしくなったとかじゃないの?」

 そう、月館高貴ただ一人はこの状況を喜んでいた。
 転校生が(普通ではないといえ)人間だったのだから。
 きついもの言い? それがどうした。他の世界から来たとか言わないだけましに決まっている。
 これできっと昨日のことは悪い夢だったと証明されたわけだ。
 普段から平穏を求めているから、きっとたまには非常識な夢を見たかったんだろう。きっとそうに違いない。
 やがて静音が窓際の一番後ろ、高貴の左隣の席に腰を下ろした。すると高貴のほうを向くと、

「用がない限り話しかけないでね」

 絶対零度の口調でピシリと言い放った。
 これが聞こえていた周囲の生徒はますます凍りついたが、やはりただ一人違う男がいた。

「ああ、任せてくれ!」

 高貴が満面の笑みで返事を返す。これには静音も軽く引いてしまっていた。

「おい、本格的にやばいぞあいつ。一回保健室にでも連れて行ったほうがいいんじゃねーか?」
「そ、そうだね。取り合えず次の休み時間にでも」

 真澄と俊樹の会話は高貴の耳にはもちろん届かない。
 なんて無駄な心配をしてしまったんだろう。そもそもこの現代社会にヴァルキリーなんているわけがない。
 さ、今日も一日楽しく過ごそう。一時限目の現代文はあまり好きじゃないけど、今日は少し前向きに受けられそうだ。
 高貴の頭は、昨日のあれが夢だったという安心感で満ち溢れていた。まるで幸せな夢の中にいるかのよう。
 しかし、いつまでも夢の中になどいられるはずはない。目を背けてなどいられるはずがない。
 そうとでも言うように、唐突に、突然に、現実それは何の前触れもなくやってきたのだ。
 静まり返っていた教室に、ガラリと勢いよく開くドアの音が響き渡った。

「失礼する。四之宮高校の2年3組とはこの教室で間違いないだろうか?」

 ドアが開いたと同時に、教室に少女の声が響く。そこには学生服に身を包んだ少女が立っていた。
 あまりにも突然のことだったので、教室内全員の視線が前方にあるドアへと釘付けになる。
 HRを始めようと思っていた担任も。
 鞄の中身を机に移していた静音も。
 そして、教室内でただ一人頭の中がフィーバー状態だった高貴も。

「え、えーと……君は誰かな? 今はホームルームの時間だから、はやく教室に……いや、うちの学校の生徒なのかな?」

 担任がドアを開けた少女に確認する。すると少女は、その者がこのクラスの担任であることを理解したのか、扉を閉め、ゆっくりと彼に近づいていった。
 39名の生徒はこう思った。誰なんだあんた?
 1名の生徒はこう思った。どうしてお前が?
 少女は担任の前で歩みを止める。

「担任の先生はあなたか? 聞いてはいないと思うが、私は界外留学生だ。今日からこのクラスで学ぶことになっている」
「は? 海外留学生? そんな話は聞いていないぞ」
「嘘だと思うなら校長にでも確認してみるといいだろう。ちなみにこれが書類一式、確認してみてくれ」

 そう言うと少女は、鞄から書類のようなものを取り出し担任に手渡した。すぐさま担任がそれを確認する。
 担任がそれを確認している間、生徒の視線は少女に釘付けになっていた。
 突然入ってきたということもあるのだが、何よりもその少女の容姿に驚いたのだろう。
 腰の辺りまで伸びた長い髪は、同姓でも美しいと思えるような銀色で明らかに日本人のものではない。
 瞳は青く、顔立ちは整っており、先ほど入ってきた静音に負けず劣らずの美少女だ。

「た、確かに正式な書類のようだ。何も問題があるようには思えないな。まぁ念のためあとで他の先生方にも確認してみるが……えーと、取り合えず自己紹介をするか?」
「ふむ、自己紹介か。確かにそれはありがたい。ありがたく挨拶させてもらおう」

 そう言うと少女は、クラス全員に向き直り、背筋をピンと伸ばし、堂々と胸を張って、見るものを恋に落としてしまいかねない笑顔で言った。

「界外留学生として来た、エイル・エルルーンという者だ。エイルが名前―――いや、ファーストネームと言ったほうが良いか。エルルーンがファミリーネームというものに値するだろう。ミドルネームはない。みなと仲良く勉学に励んでいけたらよいと思っている。どうかよろしく頼む」

 その一言で、お通夜ムードだった教室の中が再びお祭りムード(静音以外だが)へと変わる。
 かわりにフィーバー状態だった高貴が一転してお通夜ムードになる。

(な、なんでだあああああああああああーーーーーーーー!!!)

 そんな高貴とは裏腹に、再びやって来た美少女(しかも今回は友好的)により、男子が再び騒ぎ出し、俊樹にいたっては「先生、質問タイム質問タイム!」などと言っている。

「すまない、もうすぐ授業が始まってしまう時間なので、質問などがある場合はあとで受け付けよう。みなと交流できるのは嬉しいことだしな」

 先ほどの対応に比べてなんと人間らしい対応だろう。しかし高貴のみはそう思っていなかった。
 いや、おかしいって。なんであいつがくるんだよ?
 さっきの奴よりまともってそんなわけねーだろ。だって冷静に考えてみろよ。
 あいつは他の世界から来たヴァルキリーとか言ってんだぞ。
 ただの中二病かと思ったら、マジでそうかもしれねーんだぞ。
 空中に変な文字書いて電気ビリビリさせるような女なんだぞ。
 外人どころか人外なんだぞ。
 いや、確かに命は助けてもらったけど、最初は殺されかけたし。
 絶対まともなわけねーって。
 高貴の苦悩は誰にも伝わることはなかった。

「しかしそうなると、新しく席を持ってこないといけないな。クラス委員は、空き教室から席を持ってきて―――」
「ふむ、先生。机を持ってくる必要はない」
「え? しかしそれでは机が足りないぞ?」
「問題ない。出席番号29番の深田君が昨日急遽転校したはず、これがその証拠だ。机の中もしっかりと空っぽになっている。故にそこの机を私が使わせてもらおう」

 エイルは再び書類を担任に渡した。  
 おい、ちょっと待て。今日来たお前が昨日深田君が転校したなんて知ってんだよ。俺たちも知らなかったぞ。それに昨日は深田君普通にいたぞ。つーか深田君になにをした?
 高貴の魂の叫びは誰にも届かなかった。

「えー、非常に残念ながら、ご両親の都合で深田君は昨日転校してしまったらしい。ではエルルーン君は深田の席に座ってくれ。場所は……」
「大丈夫だ、自分でわかっている。窓際から三列目の一番後ろだ」

 だからなんで知ってるんだよ。
 エイルは迷うことなくその席に向かって歩き出した。
 近づいてくる。だんだんと彼女が近づいてくる。
 いや、待て。百歩ゆずって昨日のあれが現実だったとしてもだ。確かもう俺とは関わらないとか言っていたような気がする。
 じゃあ安心だ。きっと向こうも知らない振りしてくれるはずだ。ここは美人を直視できないシャイな男を演じて目をそらそう。彼女いない暦=年齢をなめるな。
 そう思って、高貴は視線をエイルからはずす。
 やがてエイルが深田の席、高貴の右隣の席までたどり着き席に着いた。

「やぁ高貴、また会ったな。昨日はいろいろと迷惑をかけてしまってすまなかった。学園というのは不慣れなもので、これからもいろいろと迷惑をかけてしまうと思うがよろしく頼む」
「ってやっぱ普通に話しかけてくんのかよ!」

 エイルは関わる気満々だった。むしろ世話をかける気も満々だった。
 思わず叫んでしまった高貴にクラスの視線が集まり、なんだか気まずくなってしまう。

「なぁ真澄。やっぱり保健室には連れて行こうな」
「そうだね、絶対にね」

 今の高貴には、すぐ目の前で行われている二人の会話さえ耳に入らない。

「さて、一時限目は現代文、その次は世界史だったな。高貴、すまないが教科書を見せてくれないか? 急なことだったもので、教科書類はまだそろっていないんだ」
「……なんで時間割知ってんだよ」

 にもかかわらず何故かエイルの声はよく耳に届く。
 そうだ、俺も深田君と同じように転校しよう。ヴァルキリーのいない世界に逃げよう。
 教科書を取り出しながら高貴はそんなことを考えていた。そんなことは無理だということも同時に悟りながら。
 こうしてエイル・エルルーンは、四之宮高校2年3組に界外留学生としてやってきたのだった。


 一時間目―――現代文

「えー、それでは次からの文を音無さん、読んでみてください」
「はい」

 教師に当てられた静音は、教科書を持って立ち上がった。

「今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻に自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。 (※中島 敦 李陵・山月記 (新潮文庫)より引用させていただきました)」
 
 教科書に書かれた文章を、静音は途中で間違うことなくスラスラと読んでいく。
 先ほどの挨拶と同じように、感情がこもっている声とは言いがたいが、転校初日の初授業で当てられたにしては、緊張も硬さもまったくなく見事なものだ。
 もっとも、それは静音だけではないが。

「高貴、次のページに進んだぞ。早くめくってくれないと続きがわからないじゃないか」

 ひそひそとした声で話すエイルの声を聞き、高貴は教科書のページをめくった。すぐさまエイルの視線が教科書へと戻る。
 本当ならばこのヴァルキリーに聞きたいことが山ほどあったのだが、生憎すぐに授業が始まってしまったため何も聞けずじまい。
 教科書のないエイルにこうして教科書を見せる為に、机をくっつけて授業を受ける羽目になっている。
 しかもエイルは普通に、いや、普通以上に真面目に授業を受けているのだから、コソコソと話すのもなんだか気が引ける。
 しかしいったいエイルはなにを考えているのだろう? まぁ、昨日あんなことがあって、その翌日に隣の席に転入してきたということを考えると、あまり良い事を考えているとは思えない。
 やはり話してみようと決心した高貴は、ノートの一部分を破くとシャープペンシルを走らせた。
 授業中でもノートを使った筆談ならば、静かに会話をすることが出来る。それが隣同士ならなおさらのことだ。
 何のつもりだ? 
 たった一言だけかくと、それを教科書を見ているエイルの前に置いた。

「ん?」

 エイルがそれに気がついた。
 しばらくノートの文字を見ていたが、やがて切れ端になにやらペンを走らせ始める。
 書き終わってエイルが紙を戻してくると、高貴はすぐさま文面を見た。
 授業は真面目に受けるべきだ。内心点に響いてしまう。将来就職する時や進学する時、どちらにせよ成績がいい事に越した事はない。

(よけいなお世話だ!)

 思わず叫んでしまいそうになったのを必死でこらえ、代わりに心の中で高貴は叫んだ。
 どうしてヴァルキリーに将来のことを心配されないといけないんだよ。なんで普通に日本語書けるんだよ。つーかなんで俺より字上手いんだよ。
 思い切り不満と疑問をぶつけたかったが、エイルは本当に授業に集中しており、まったく取り付く島もない。
 そういう態度ならこっちにも考えがある。もう話しかけたりしないし一切無視だ。せいぜい教科書を見せてやるくらいだよこの野郎。つーか右隣の奴に見せてもらえ。
 本来なら高貴は、位置的に窓際の一番後ろの静音に教科書を見せる立場なのだが、どうやら静音は教科書をすでに準備していたらしく必要ないらしい。
 エイルよりはましかと思って授業前に確認したところ冷たい口調で告げられた。ちなみにそのときはフィーバー状態ではなかったので、高貴も少しダメージを負った。

「はい、そこまでで結構ですよ音無さん」

 教師に言われて静音が席に座った。

「では隣の月館君、続きを読んでみてください」
「え、は、はい!」

 次に教師に指名された高貴は、教科書を持って慌てて立ち上がる。
 しかし静音がどこまで読んでいたのかを聞いていなかったため、自分がどこから読んでいいのかわからなかった。

「え、えーっと……」

 だんだんと教師の目が疑わしいものへと変わっていく。前の席の真澄が、どこから読めばいいのかを伝えようとしたが、それよりも早くエイルが声をかけた。

「高貴、147ページの三行目からだ。ほら、ここの部分だよ」

 エイルが軽く立ち上がり、高貴の持つ教科書の読み始めの行を指差す。
 昨日は気がつかなかったけど、何だか細くて綺麗な手だな。こんな手で槍とか振り回してたなんて信じらんねー。
 そんな雑念が一瞬頭をよぎったがすぐさまそれを振り払った。

「月館君、授業はしっかり聞いていないと駄目ですよ。隣の席の音無さんと……えーと、エルルーンさんを見習いなさい」

 クラス中から失笑が起きた。俊樹にいたっては「美人二人に挟まれて緊張してんじゃねーの?」などと茶化している。むしろそんな理由だったらどんなに楽だっただろう。

「駄目じゃないか高貴、授業は真面目に受けないと」

 席に着いたエイルに、「お前のせいだ!」と怒鳴るのをこらえた自分を褒め、高貴は教科書の続きを読み始めた。



 二時間目―――日本史。

「では、このページに乗っている歴史上の人物から一人を選んで、その人物が行ったことや特徴などを配ったプリントに書き込んでください。簡単なことでかまいませんから」

 教科書の数ページにわたって歴史上の人物が写真つきで載っている。
 高貴は特に迷うこともなく、日本の初代内閣総理大臣についてでも書こうとプリントにシャーペンを走らせた。

「ふむ……誰を選んだらいいのか迷うな。高貴は誰について書くつもりだ?」
「この人だよ、有名な初代内閣総理大臣の。たぶん後でもっと詳しく調べることになるんだろうけど」
「そうか、ならかぶらないように私は別の人物を選んだ方がいいか。しかし困ったな。私は誰がなにをしたのかなど全くわからない。写真を見せられても知ってる顔など一つも見あたらないな……」

 教科書を見ているエイルの表情がだんだんと沈んでいく。
 エイルはこちらの世界にきたばかり故に、歴史上の人物など誰も知らないのだろう。日本語を読み書きできるだけでもたいしたものといえる。
 仕方がなく自分と同じ人物を書くように言おうとした高貴だが、突然エイルが何かを見つけたような顔になった。

「ん? この男性は見たことがあるな。こっちの女性も……この男性もだ。ふむ、一番沢山見たこの男性にしよう」

 エイルがプリントにシャーペンを走らせ始めた。いったいどんな人物を書いたのか少し気になった高貴は、こっそりとエイルのプリントを覗き見る。

 歴史上の偉人 諭吉先生
 史実 詳しくは知らない
 特徴 人の心を動かせる。買い物ができる。人を金の亡者にする。

「おい、なに書いてんだお前?」

 あまりに予想外のことが書いてあったため、高貴は思わず声に出してツッコミを入れる。

「なにって諭吉先生についてだよ。昨日見た一万円札に描かれていたのをしっかりと覚えている。しかしこの教科書は間違っているな。本名が福沢諭吉と書かれてあるぞ」
「間違ってんのはお前の頭の中だ! 福沢諭吉先生に謝れ!」

 叫んだあとにハッとして辺りを見回すと、再び教室中の冷たい視線を高貴は浴びてしまっていた。

「月舘君、どうかしましたか?」
「あ、いえ……何でもありません」

 再びクラス中から巻き起こる失笑。前の席の真澄も冷めた視線でこちらを見ている

「ふむ、授業中は静かにしなくてはだめじゃないか高貴。教えてくれている先生に失礼だぞ」

 怒りゲージが再び上がってきて叫びたくなったが、やはりそれをこらえた自分を褒め、高貴はプリントにシャープペンを走らせた。



 三時間目―――科学

「それでは各班、アルコールランプに火をつけて水を沸騰させろー」

 担任の声を合図に生徒達はアルコールランプの準備を始めた。科学は移動教室の為、席は自由に座ることになっており、実験の際は自由に班を組んで行う。
 高貴たちの班は、高貴、真澄、俊樹といういつもの三人と、エイルと静音の二人を加えた5名。
 ちなみに静音は他の生徒が誘うのをためらっている所を、エイルが無理矢理誘いこんだ。

「ふむ、やり方がわからない。すまないが私は見学させてもらおう」
「ああ、なにもすんな。そのほうが安全だ」

 俊樹が三脚と金網を用意し、真澄がアルコールランプのふたを開けてそこにセットする。

「よーし、高貴、火つけてくれよ」

 俊樹の言葉に、高貴はすぐには頷けなかった。
 理由は簡単だ。昨日何回か火のせいで死に掛けた為、マッチとはいえ火をつけることにためらいがあるからだ。

「どうしたの? さっさとやってよ」

 真澄も高貴をせかし始める。それでもなかなか高貴の手は伸びなかったが、代わりに他の手が伸びてきた。

「私がやるわ」

 いままでずっと黙っていた静音がマッチ箱を取り、中から一本マッチを取り出した。
 ちっ、っとマッチがこすれる音が響き、マッチの先端に火が灯る。
 それを三脚にぶつからないようにアルコールランプの先端に当て火をつけたあと、手首を振ってマッチの火を消した。

「これでいいわよね?」
「あ、ありがとう音無さん」
「なんでやんなかったんだよ高貴?」
「わ、悪い。音無もごめん」

 静音は「いいわよ別に」というと、水の入ったビーカーを金網の上に乗せた。
 それきりあとは再び黙り始める。どうやら会話は嫌いだが、授業の為の協力なら問題ないようだ。

「ふむ、マッチというのはなかなか便利なものなのだな。箱の側面をこするだけで先端に火がつくのか。火力はさすがに期待できないが、火種としてなら十分だ」

 エイルが呟いた言葉に、思わず高貴が反応した。

「え? お前マッチ見たのって初めてなのか?」
「ああ、今まで見たことも使ったこともない。書物でこういうものがあるということは知っていたがな。しかし百聞は一見にしかずというが、実際見てみると見事なものだ」

 どうやらエイルは軽く感動しているようだ。マッチ一本でここまで感動する人間は見たことがない。
 実際人外らしいが。

「……なーんかさぁ、高貴とエルルーンさんって妙に仲良くないか?」
「……確かに」

 俊樹と真澄の会話が聞こえてくる。

「え? べ、別にそんなことねーって! 普通だよ普通!」
「さっきエルルーンさんのことお前呼ばわりしてたのは高貴じゃない。それにエルルーンさんも嫌がってなかったし」
「それに前の授業のときも二人でコソコソなんか話してなかったか? あとホームルームの時にエイルさんがまた会ったなって言ってた気がするけど」
「ききき気のせいだって! なぁエイル!」
「「もう呼び捨て!?」」

 しまった。ついエイルのことを呼び捨てにしてしまった。これはいろいろと追求されるに違いない。
 根掘り葉掘りと質問されて、芋ずる式に昨日のことまで話さなければいけないだろう。
 しかし、救いの手は意外な所から現れた。

「名前の件は私が高貴に頼んだんだよ」

 エイルが少し慌てたように二人に声をかけた。

「私は界外留学生だから、クラスになじめるか不安だったんだ。だから変に遠慮をしてほしくなかったから、名前を呼び捨てにしてくれないかとさっき高貴に頼んだんだよ。皆も気軽にそう呼んで貰えるとうれしい」
「そうそう! さっき頼まれたんだよ、呼び捨てにしてくれってさ!」

 高貴もエイルの話しに合わせ始める。それによってようやく俊樹は納得したらしく、疑いの眼差しが弱くなっていくが、真澄のほうはまだ疑っている。

「ふぅん……でもいきなり呼び捨ては難しいかも、エイルさんでいい?」
「じゃあ俺はエイルちゃんで」
「ありがとう、真澄、俊樹。それにしてもなかなか沸騰しないものだな」

 アルコールランプは勢いよく燃えてはいるが、びーかーの水はまだ沸騰するにはいたっていない。

「これの火力なんてそんなもんだよ。もっと火が強ければ早く沸騰するだろうけどさ」
「ふむ、もっと強い火力か。なるほどな……」

 ゆっくりと、そして自然な動作で、エイルが右手をアルコールランプの方に近づけた。その右手の人差し指と中指が、心なしか伸びている。
 それを見た高貴はふと昨日のエイルとヒルドの闘いが頭に浮かんだ。
 そういえば昨日、エイルとあの女は魔法を使う時に空中に指で文字を書いてたっけ。もしかして―――
 もしもエイルがヒルドと同じように火の魔法が使えるとしたら。
 もしもエイルがこの場で火の魔法を使って火力を上げようとしているのなら。

「ってバカかお前は!」

 その考えに行き着いた瞬間、高貴はエイルの右手を握って自分のほうに引き寄せた。
 突然のことにエイルにも驚きの表情が浮かぶ。

「い、いきなりどうしたんだ高貴? 私は今何かしてしまったのか?」
「当たり前だろ! こんな所でなにしようとしてんだよお前は! 時と場所を考えろ!」
「それはあんたのことでしょうがああぁぁーーー!!」

 真澄のグーパンチが見事に高貴の顔面にヒットした。うめき声を上げて高貴が椅子から転げ落ち、背中から地面に倒れる。

「なに急にセクハラしてんのよ! 時と場所以前に常識を考えろっての! 大丈夫エイルさん!?」
「あ、ああ。しかしいったいどうしたのだろうな、私はマッチをとろうとしただけなのだが。それにしても見事な正拳だったよ真澄」

 マッチ取ろうとしたのかよ。
 三度クラス中の失笑を受ける高貴は、地面に横たわりながら勘違いした自分を呪った。

「高貴、火が近くにある場合は大人しくするべきだよ。火は危ないからな」
「……ああ、本当にその通りだ。昨日よく思い知ってる」



四時間目―――体育

「それでは少し早いが本日の授業はこれまでにしておく。後片付けは係りのものがやっておくように」

 四時間目の体育の授業が終わり、男子生徒が体育館から次々と出て行く。無論高貴と俊樹もその中の一人だ。
 今日の男子の体育は体育館でのバスケットボール、女子はグラウンドで100メートルのタイムを計るらしい。

「はぁ、昼飯前の体育はきついよな。俊樹、ジュース買い行こう」
「ああいいよ、俺ものど渇いたし」

 二人は自動販売機のある玄関に向かって歩き出した。

「それにしても残念だったなぁ、女子と体育の場所が別々なんてさ。どうせなら一緒だったら良かったのに」
「え、なんでだよ? どうせ別々にやるんだからかわりねーだろ」
「バカかお前? 体操服だぞ体操服、半そで短パンの体操服。今日は転校生二人、しかもどっちも美人が入ってきたんだから、体操服を拝んでおきたかったんだよ」
「ああ、そういうことか」

 とは言っても片方は人当たり最悪の女、片方は界外留学生の人外だけどな。とは言わない。

「しかしなんだか対照的な二人が来たもんだよな。エイルちゃんは人当たりがよくて友好的、静音ちゃんは人当たり最悪。まぁ授業に関係することとかならギリギリ普通になるみたいだけどな」
「ああ、さっきの科学の時間の時みたいにか。自分からやってくれたもんな」

 静音がアルコールランプに火をつけてくれたことを高貴は思い出した。

「エイルちゃんの方には休み時間のとき席に人が集まってたけど、静音ちゃんのほうは壁を作ってる。共通点は二人とも美人だってことぐらいか。肌とか絶対綺麗だぜ! 生足、太もも、二の腕、その他もろもろ見たかったんだよ! お前は見たくなかったのかよ!?」
「……微妙。だって見た目は確かにいいけど、あの二人じゃな」
「ふっ、そんなこと言ってられるのは今のうちだ。俺がこれから言うことを聞いてまだそんなことが言ってられるかな?」

 何故か勝ち誇ったような表情になる俊樹。それが少し気になったのか、高貴が「なんだよ?」と聞き返した。

「いいか、聞いて驚け。俺の個人的な見立てでは、エイルさんの戦闘力はDランクだ」
「!! D……だと? 」

 高貴の顔に衝撃が走る。

「お前は隣にいて気がつかなかったのか? あの素晴らしき戦闘力Dに? これはうちのクラスではトップクラスだぜ」
「そ、そういえば……」

 エイルのもっとも目に付く特徴といえば、やはり腰まである長い銀の髪だろうが、よくよく考えてみればエイルのスタイルはかなりいいほうだ。

「さらにだ……なんとあの静音ちゃんの戦闘力は…………Fだ!!」
「エ、Fだと!? Eを通り越してFだって言うのか?」
「ああ、ただしこれは推定だからな、静音ちゃんに至ってはもう1、2ランク上っていう可能性もありえるぜ」
「マ、マジかよ!? ってことはG!? もしかしてH!?」

 ちなみにもうわかっていると思うが、このバカ二人は胸について話している。
 DだのFだのはエイルと静音のバストサイズ(俊樹の見立て)のことだ。

「そんな巨乳の二人が100メートル走なんかしたら……もうたゆんたゆんだろ!!」
「……やばい、俺二人のことまともに見れねーかも」

 たとえそれが人当たりが最悪の女だろうと。
 たとえそれが人外のヴァルキリーだろうと。
 男はおっぱいには勝てない。 By月館高貴。

「わかったかよ俺の悔しさが」
「ああ、よくわかったよ。ってあれ? あそこの自販機にいるのって真澄じゃねーか?」

 高貴たちが向かっていた自動販売機には、すでに真澄が着替え終えた状態でジュースを買っている。
 真澄のほうも高貴たちに気がつき近くに寄ってきた。

「ちなみに、真澄の戦闘力はギリギリBな」
「本人に言うなよ。気にしてるみたいだから殺される」
「二人ともなに話してたの?」
「「なんでもないなんでもない」」

 見事にハモッてごまかし完了。
 見事にハモッてごまかし完了。
 高貴を見ても機嫌が悪くない所を見ると、科学の授業でのことはもう気にしてないのだろう。
 もっとも、高貴の命がけの言い訳の賜物なのだが。

「真澄もう着替えたのか、女子は俺たちより早く終わったのか?」
「うん、なんだかストップウォッチの調子が悪かったみたいでかなり早く終わったわ」
「え、なにそれ?」
「なんだかエイルさんが走った時に、100メートルのタイムが8.55秒だったのよ。そんなのさすがにありえないでしょ?」
「はぁ? それじゃ世界新だろ。ありえねーって。な、高貴」
「あ、あぁ……そうだな」

 あのバカやらかしやがった。なに平凡な高校の体育の授業で、世界記録作ってんだよ。
 世界の壁を越えてきたのはいいけど、この世界の壁も越えてどうすんだよ。
 エイルの正体を知る高貴は、それはおそらく本当だろうと簡単に理解できたのだ。

「でもエイルさん走るのすごく速かったなぁ」
「そりゃそうだろ、だってあいつは―――っと、なんでもない」
「高貴、ここにいたのか」

 廊下の向こうから着替え終わったエイルが歩いてくる。俊樹が隣であからさまに残念そうな顔をしているのが見えた。

「見つかってよかった、君を捜していたんだ。クラスメイトから一緒に昼食でもと誘われたのだが、もっと重要な用事があったからな」
「重要な用事? 何だよそれ」
「昼休みにちょっと付き合ってほしいんだ。すごく大切な話だから、人目につかないところで二人だけでじっくり話がしたい。昨日のことも関係していることだ。昼休みが始まったら屋上のほうに来てくれ」

 そんな爆弾発言を投下して、エイルは踵を返して去っていった。
 口をあんぐりと開けてポカンとしていた三人だったが、急に真澄がプルプルと震え始める。

「え、えーっと……どうした真澄? 汗が冷えて寒いのか?」
「……昨日のことって……なに? もしかして昨日バイトに遅れた事と関係してるの?」

 ああ、昨日バイト休めばよかった。

「お、俺呼ばれたみたいだからもう行くわ! じゃあ!」

 そう言うなり高貴は二人に背を向けて走り出す。
 後ろから、「こら! ちゃんと説明しろ!」という真澄の声を受けて、高貴は屋上へと向かって行った。

 ◇

 無機質な白い階段を高貴は上っていく。
 あれから高貴は急いで学生服に着替えると、自分を探している真澄に見つからないようにコソコソと、そして迅速に移動した。
 エイルが指定した場所は学校の屋上。しかしそれを伝えられたときには、真澄と俊樹も一緒だったため、もしかすると先回りしているかもしれない。
 もしそうなったらお終いだろうが、そのときはそのときだ。とりあえず今はエイルのところに急ごう。
 階段を上りきると屋上へと続くドアが見える。本来屋上は立ち入り禁止で、いつもこのドアには鍵がかかっているのだが、高貴がドアノブに手をかけるとそれはあっさりと回った。
 扉を開けると風と日光が高貴を包み込む。
 屋上には特になにかがあるわけではない。落下防止のための金網のフェンスが周りを覆っている為、遠くまでは見えるが眺めるときに邪魔になってしまう。
 エイルはその金網の手前に立って、町の風景を見ていた。かすかな風が吹きその長い銀の髪が揺れる。
 しばらくそれに見とれてしまっていた高貴だが、エイルが高貴に気づいたことにより慌てて我に返る。

「来たのか高貴、悪いが鍵をかけてくれ。ここは本来立ち入り禁止だが、もしも誰かが入ってきたらまずい」

 屋上のドアノブには鍵がついていた。どうやら外側から閉められるタイプらしい。
 がちゃり、と鍵を閉めると、高貴はエイルの隣まで歩いていく。その間再びエイルは景色を眺めていた。

「それにしても……ヴァルハラとはずいぶん景色が違うのだな。こうして遠くまで見ていると、ここが別の世界だということを強く理解できるよ」
「……お前の住んでた世界はヴァルハラだっけか?」
「ふむ、世界という言葉を使っていいのかは戸惑うな。まぁそれもおいおい話していこう。しかし屋上には椅子がなかったか、立ったままで疲れないか?」
「ああ、大丈夫だよ。話ってなんだ?」

 エイルは高貴のほうに向き直り、一度ふむ、と息をついた。

「重要な話とたいしたことのない話があるが、君はどちらから聞きたい?」
「重要なほうで頼む」

 高貴は迷うことなく即答する。

「……では逆に君に尋ねよう。君は何が知りたいんだ? 私は君の質問に答えられる限りで答えよう」

 答えられる限りは答える。それは言えない事もあるということだろう。
 それがなんなのかは正直まったく想像出来ないが、とにかく今は、自分の疑問を片っ端からぶつけてみたほうがいい。

「じゃあ……昨日も聞いたけど、お前はそのヴァルハラとか言う世界から来たヴァルキリーって奴なんだよな?」
「その通りだ。しかしヴァルハラという世界から来たというのは少し違うな」
「どういうことだよ? 他の世界から来たんだろ?」
「ふむ、例えば高貴、君たちが住んでいる世界はなんと言う名前かな?」
「え? 日本」

 自分が質問していたにもかかわらず、急に自分が質問されたことに戸惑った高貴だがすぐさま答える。
 しかしエイルは高貴の答えに満足いかなかったような表情になり、首を横に振った。

「それは違うだろう。日本というのは国の名前のはずだ。確かに私達は今日本という国にいるが、それは世界の名前ではない」
「えっと……じゃあ地球? あ、宇宙か?」
「地球というのはこの星の名前、宇宙とは確かに世界かもしれないが、私のいた世界にも宇宙はあるから却下だ」

 宇宙が駄目だって言うんなら……もう何も思い浮かばない。
 高貴は潔く降参の合図を出した。

「降参だ、わからない」
「強いて言うならば私の答えもそれと同じだよ。私がいた世界では、世界に名前などつけてはいなかった。ヴァルハラというのは私が住んでいた国の名前のことさ。この世界では北欧神話という名で残っている。ああ、これは昨日言ったかな。だからなんという世界から来たのかと言われれば、他の世界としか言いようがない。もしくはヴァルハラという国から来たとはいうことが出来るがね。しかしわかりづらいのも確か故、ヴァルハラを世界として説明したほうがいいかもしれないな」

 この世界には国の名前があっても世界の名前がないように、エイルの世界も同じらしい。

「そういえばさ、この世界に伝わってる神話って、お前の世界の出来事が伝わったものなのか?」
「もしかしたらそうかもしれないな。さっきも言ったが、北欧神話という伝承には、ヴァルハラのことが伝わっていたはずだ。しかし確実に私がいた世界の出来事とはいえない」
「なんでだよ?」
「パラレルワールドというのは聞いた事がないか? 世界というものは無数に、そして無限に存在するんだ。例えば君達のいるこの世界と極めて似ている世界というのも存在する。この世界と同じ国があり、この世界と同じ歴史を持ち、しかしながら別の次元にある世界。要するにそれと同じように、私のいた世界と限りなく近い世界があるかもしれないということだよ。もしかしたらその世界の歴史が神話として伝わったのかもしれない」

 平行世界というものだろうか?
 今自分が住んでいる世界に極めて近いが、まったく別の世界。それがエイルのいた世界にもあるかもしれないということだ。

「この世界の北欧神話というものを調べてみたが、どうやらラグナロクという戦争が起きて、オーディン様が死んでしまったりしたらしいじゃないか。しかし私のいたヴァルハラではそんな戦争など起きてはいないし、オーディン様も健在だ。このことから、私達の世界と極めて近いパラレルワールドの歴史が伝わったんだろうと私は考えている」
「じゃあさ、なんで伝わったんだよ? 別の世界の出来事なんてさ?」
「ふむ、すまないがそこのところはわからない。あんがい物好きな誰かが世界を超えて、世間話にでも話したのかもしれないな。魔術の才能があるものが歴史の表舞台に必ず立つとは限らないように、異世界へわたれる吟遊詩人でもいたのかもしれないな」

 そんな理由で他の世界のことが伝わるなんて嫌だよ。
 心の中で高貴がそうつっこんだ。

「ま、わかんないなら仕方ないか……じゃあ二つ目、ヴァルキリーってなんなんだ? 普通の人間にしか見えないけど、ぜんぜん普通の人間じゃなかった」
「ヴァルキリーの特徴はいくつかある。一つ目は元々女性であること。二つ目は人間よりも高い身体能力を持っていること。そして三つ目は―――」

 エイルが右手を前に出した。中指と人差し指、その二本の指を伸ばすと、指先が青く光りだす。それをすばやく動かし、《ケン》の文字を空中に刻む。
 エイルが掌を高貴に見せると、そこには小さな火の玉が現れた。

「このように魔術が使えるということさ。ヴァルハラのヴァルキリーは、ルーン文字を用いたルーン魔術を使う。ちなみにこれは炎を操る事の出来る《ケン》というルーンだ……ってどうしたんだ高貴?」

 エイルが炎を出した瞬間、高貴は勢いよく後ろに向かってダッシュし、20メートルほど離れていた。
 さらにはビクビクしながら肩を震わせている。

「いや……昨日のあれのせいで、ちょっとそれは怖いって言うか。ほら、あの女に思いっきり狙われたし」
「そうか、すまない。見せるにはこれが一番わかりやすいかと思ったんだ。すぐに消すから安心してくれ」

 そういうなりエイルは手を握る。すると握りつぶされたようにその炎はあっさりと消え去った。
 それを見てようやく高貴の肩の震えが止まる。

「ま、魔術って本当にあったんだな。てっきり漫画とかゲームとか、そういうフィクションの中だけかと思ったよ」
「少なくともこの世界にとってはフィクションさ、この世界には魔術師がいないから、本来なら異世界の住人でもない限り魔術は起こりえない。ああ、正確にはこの星には魔術師はいないか」
「ふぅん……魔術ってなんなんだ? やっぱMPとかを消費して使うのか?」
「ははっ、国民的ロールプレイングゲームじゃあるまいし、そんな名前じゃないよ。捻りも何もない《魔力》というエネルギーを使って魔術は使うものだ」

 知ってんのかよ。どれだけこの国について詳しいんだよこのヴァルキリー。
 炎を消したエイルが高貴に近づいてきた。歩くたびにコツコツと足音が響く。

「私たちが使うルーン魔術というものは、ルーン文字に込められている意味を魔力を使って世界に具現化させるものだ。《ソーン》なら雷、《ケン》なら炎といったようにね。魔力は体力と似た様なものだと考えればいい。人は体力を消費して体を動かす。魔術師は魔力を消費して魔術を起こすんだよ」

 なるほど、ってことは使いすぎると使えなくなるわけか。
 体力がなくなると体が動かなくなってしまうのと同じように、魔力がなくなってしまうと魔術は使えなくなってしまうのだろう。

「なぁ、その魔術ってどうやったら使えるようになるんだ? 例えば俺は使えるのか?」
「そうだな、君は魔力を持っているようだし、練習すれば出来るかもしれないな。しかし君は自分に魔力がある事を自覚していないから、まずは魔力があるということを自覚しなければいけないだろうな」
「え? 俺って魔力ってのを持ってるのか? でも魔術なんて使ったことねーぞ」

 冗談半分で言ったことだったが、まさか自分にその魔力というものがあるなどと言われ、さすがに高貴は驚いた。

「実際はほとんどの人間が魔力を持っているんだよ。魔力を持っていない人間などほとんどいない。実際私がこの世界に来て見た人物やクラスの生徒は全員持っていた。しかし自分が魔力を持っているという事実に気がついていないんだ。この世界に住んでいる人々は皆そうさ。魔力があることに気がつかないから、魔力の使い方を知らず、魔術師になることは出来ない」
「その魔力ってのはどうやったら自覚できるんだ?」

 エイルが高貴の目の前にたどり着いた。

「逆に聞きたい。なぜ君は魔力を持っていることを自覚できないんだ?」
「え?」

 そんなことを言われても困る。
 そもそも魔術なんて昨日まではまったく信じていなかったのだ。いきなり自分に魔力があるなんていわれてもわかるはずがない。

「私には、自分には魔力があるとはっきりとわかるよ。これが魔力なのだとはっきりと感じ取れる。いや、感じるというよりも知っているんだ。これが魔力だとな。それは私が魔術のある世界で生まれたからなのかもしれない。幼い頃から魔術を見てきたせいかもしれない。だから、どうやったら自覚できるのかと聞かれても、自覚できるものは自覚できるとしか答えられないんだよ」
「いや……そんなあいまいな表現されてもさ、俺にはさっぱりだ」
「悪く思わないでくれ、本当に説明できないんだ。知っているのに説明できないことなんて沢山あるだろう? 例えばそれは指の動かし方だ。指を動かすという行為は誰でも知っていることで、誰でも出来ることだが、やり方を説明しろといわれても説明などうまくは出来ない。あとは呼吸の仕方などもあてはまるな。生まれたばかりの赤子ですら知っていて、当たり前のように繰り返す行為だが、そのやり方の説明など出来るはずはない」

 ああ、と高貴は納得した。
 確かにそれらのことは高貴には知ってはいても説明は出来ない行為に違いない。
 と言う事は、魔力を自覚できるものにとって、魔力は当たり前すぎる為、どうすれば自覚できるか説明できないということだろう。

「もっとも簡単に自覚できるようにする方法はいくつか存在するがな」
「ってあるのかよ!!」

 思わず高貴は大声で叫んだ。
 エイルのたった一言で全てが片付いてしまったのだから。今までの長くて難しい話はいったいなんだったのか? 

「しかしまぁ、やめておいたほうがいい。君が君のままでいたいのならね」

 心なしかエイルの表情が厳しくなる。それは警告や忠告というよりも、心底高貴の為を思っているかのように取れる。

「心配しなくても聞いてみただけ、俺は魔術を使えるようになんてなんなくていいよ。平凡な人生からは程遠くなりそうだ」
「ふむ、こうしてヴァルキリーである私とこんな話をしている時点で、もう平凡ではないと思うぞ」
「お前が呼んだんだろ!」
「ははっ、そうだったな」

 クスクスと笑うエイルに高貴は少し呆れていた。
 だいたい昨日の今ぐらいまでは、高貴の日常は平凡そのものだったはずだ。それが昨日いきなりベットに立っていたエイルのせいで、隣の席に界外留学生がやって来るという事態に陥ってしまっている。
 それとも警察に連れて行こうとなど思わずに、さっさと部屋から追い出せばよかったかもしれないが、今更言っても後の祭りでしかない。

「じゃあ次は……お前は昨日のあの女を追ってこの世界に来たって言ってたよな? あの女は何者なんだ? 何が目的でこの世界に来たんだよ?」

 エイルの表情がまた少しだけ険しくなった。
 しばらく沈黙が続いたが、やがてエイルが高貴の顔をまっすぐと見て語り始める。

「それを話すには、ヴァルハラで起きた事を話す必要があるな」
「え? お前の世界で起きたこと?」
「ああ……全ての始まりは《神器》というものがなくなってしまったことだったんだ。ヒルドがこの世界に来たのも、そして私がこの世界に来ることになったのもな」


 《神器》。
 エイルが言葉にしたその言葉を、高貴はどこかで聞いたことがあるような気がした。
 しばらく考えて、昨日エイルとヒルドが戦っていたときに、エイルがヒルドに向かって言っていた言葉だということを思い出す。

「《神器》って確か、昨日お前があの女に言ってた言葉だよな? 危険すぎるとか何とか」

 高貴の言葉にエイルは「ああ」と頷いた。

「《神器》というものを簡単に説明すると、とてつもない力を持った武器のことだよ。いわゆる伝説の武器と言ったところかな。巨大な力を持っているが故に、ヴァルハラでは厳重に管理されているものだ。しかしある日突然その《神器》がどこかに消えてしまったんだ」
「は? 消えたって……盗まれたってことか?」
「それは完全に不明だ。わかっていることは、何の前触れもなく《神器》が突然ヴァルハラから別の世界に飛び散ってしまったということだけさ。《神器》には別の世界への扉を開く力が備わっているから、別世界への転移は可能なのだが、なぜいきなり転移したのかはまったく持って不明だ。我々はもちろんそれを探した。そして《神器》の足取りを追った結果、《神器》が転移した世界というのが―――」
「この世界……だったわけか」

 まったく冗談ではない。どうせなら他の世界とやらにいけばよかったものを、よりによって魔術なんてないこんな世界に来るとは、《神器》とは空気を読めないものらしい。

「いや、正確にはこの町だ。日本という国の、四之宮と呼ばれるこの町に《神器》は転移したんだ」
「……なーんでよりによってこの町に来るかな。つーことは隣町にその《神器》が現れてたら、俺って今でも平穏で平凡な毎日だったのか」

 本当に空気の読めない伝説の武器である。

「しかしだな、驚いたことに飛び去った《神器》はヴァルハラのものだけではなかったんだ。他の世界であるケルトとギリシャの《神器》もいくつか消えたらしい。調べたところその全てがこの世界のこの町に現れたようだ」
「おーい、なにそれ? 《神器》っててっきり一つだけだと思ってた。マジで勘弁してくれよ」

 ついでに世界っていくつあるんだろうと少し気になった高貴だった。

「それでだ、三つの世界の神々による話し合いに結果、すぐに《神器》を取り戻すべきだという意見にまとまった。そしてその役目を引き受けたのがヴァルハラだ。それが決まるとすぐに《神器》を回収するべく一人のヴァルキリーをこの世界に派遣した。それが昨日会ったあのヴァルキリー、ヒルド・スケグルだよ」
「って昨日のやつ? お前じゃなかったのか」
「ああ、ヒルドは《神器》を回収する為にこの世界にやって来たんだ。そして《神器》の回収に見事に成功した。そう報告を受けたから間違いない」
「へぇ、やるじゃんか」

 滅茶苦茶そうに見えたのだが、案外仕事は出来るタイプなのかもしれない。

「したのだが……何故かそのまま帰ってこなかったんだ。回収した《神器》は転移を行ったばかりでまだ別世界に行くことは出来ないだろうが、彼女は帰ってくる時のために《神器》をもう一つ持たされている。にもかかわらず帰ってこない」
「はぁ? なんだよそれ? ひょっとしてその《神器》ってのをどっかに落としたんじゃねーの?」
「確かにヒルドは少々バカだが、そこまでバカではないだろう。理由はまったくわからないよ。昨日は自由を謳歌などと言っていたが、それが本当ならば許すことは出来ないな。《神器》は一個人が持っていていいようなものではないのだから」

 少しはバカなのか。
 まぁ確かに一般人に向かって火の玉を打ってくるような女がまともとは言いがたいが。
 エイルはなかなか容赦がない性格のようだ。

「それでそのヒルドってのを連れ戻す為にお前がこの世界に来たってことでいいのか?」 
「ああ、その通りだよ。私はヒルドを捕らえてヴァルハラに連れ帰る為にこの世界にやって来た。故にヒルドを捕まえたらこの世界から去るよ。その為の《神器》もケルトから借り受けている」
「けると? さっきも出て来た言葉だな」
「ああ、他の世界……いや、この世界で言うところの外国のようなものだよ。正式な名称を言う事はできないから、この世界の神話の名で呼ばせてもらう。ヒルドのときはギリシャが貸してくれたのだが、今度は貸してはくれなかったんだよ」
「ギリシャってこの世界にも普通にあったような気がするけど」
「まぁそのあたりは別に知らなくても問題ないさ。とにかくこれが私がこの世界に来た理由だよ。《神器》を回収したにも関わらず帰ってこないヒルドを捕まえる為だ」

 どうやらエイルたちにとって、《神器》というものはよほど大事なものらしい。

「なぁ、《神器》は危険とかって言ってたけど、それってどういう意味なんだ?」
「……《神器》を手にした人間がその《神器》に気に入られれば、その人間は魔術が使えるようになる。さっき言っていた簡単に魔力を自覚できるようになる方法のひとつというのは、《神器》に選ばれることなんだ」
「ふぅん、そうなんだ。でもそれのどこが―――」

 危険なんだ?
 そう言おうとした高貴だが、すぐにその理由がわかった。昨日のエイルとヒルドの戦闘、魔術の力の凄まじさを自分はとっくに知っている。

「……なぁ、その選ばれる確立とかってあんのか?」
「《神器》にもよるが、魔力さえもっていれば基本的には誰でも使うことが出来る。つまりこの町の人間のほとんどは使える資格を持っているよ。あとはその《神器》に気に入られるかどうか、適合率の問題だな。もしも《神器》を手にしたのが邪な考えを持つ人間だった場合、魔術を悪用する可能性も十分に考えられる」
「おいおい、それってやばいんじゃねーの? お前学校なんか来てる暇はあんのかよ」
「そうは言っても探す手段がないんだ。この世界に来た後《神器》の反応は消えている。唯一あった《神器》をヒルドが回収したからな。とは言っても策はあるから安心してもいい。それにそこまで君を巻き込むつもりはないよ」

 とてもじゃないが安心など出来ない。しかし巻き込まれずに済むのは嬉しいことだ。
 ここまでの聞いた話を高貴は頭の中で簡単にまとめ始める。
 まず、昨日起きたことはやはり夢ではなく現実のことであるということ。
 エイルは中二病などではなく、正真正銘のヴァルキリーであること。
 魔術のことはまぁ別にどうでもいいとして、そもそものことの発端は、《神器》とか言うものがこの世界のこの町に転移してきたから。
 それを回収する為に昨日の赤い髪の少女、ヒルドがこの世界にやってきたが、回収したにもかかわらず帰ってこない。
 よってそれを連れ戻す為にエイルがこちらの世界にやって来た。
 簡単にまとめるとこんな所だろう。
 だいたいは理解できた気がするが、むしろこれから聞くことこそが高貴にとっては本題だ。

「じゃあ次だけど……お前何しにこの学校に来た?」

 エイルの表情がほんの一瞬だけ固まった。固まったその表情は戻ることなく、エイルは高貴から視線をそらすと気まずい雰囲気を醸し出して口を開いた。

「なにってそれは……界外留学生として勉学に励むため―――」
「んなわけねーだろ! わざわざ俺のいるクラスの俺の隣にきておいて、俺が無関係とは思えねーよ! つーか深田君はどうした!?」
「それなら心配はいらない。深田君は本当にご両親の都合で夜逃げしただけだ。近々逃げる予定だったらしいから、それが多少早まったにすぎないよ」
「深田くーーーん!! そういえば最近なんか思い詰めた表情してた気がするうぅーーー!!」
「ちなみに私達が最大限にバックアップをしたから、深田家の皆さんは無事に夜逃げを成功させたよ。ただしどこに逃げたのかは教えることができない。それを言ってしまったら夜逃げの意味がなくなってしまう」

 まさかそんなことになっていたとは。しかし無理矢理転校させられたなどの理由ではなく、エイルが危害を加えたという事でもなかっただけましかもしれない。
 グッバイ深田君。

「それで、なんで俺の隣の席に来たんだよ?」
「……ふむ、隠していても仕方がないか。それは―――ああ、ちょうど来たようだから彼女が話すだろう」

 そう言うなりエイルは空を見上げる。それにつられて高貴も上を見上げ―――

「わっ!?」

 見上げた瞬間に高貴の顔面に何かが落ちてきた。軟らかい物のような気がするし、何だか一部分だけ堅かったような気がするそれは、高貴の視界を一瞬だけふさいで地面に落ちた。

「な、な、何だよ今の!?」

 混乱する高貴に対し「落ち着け」と声をかけると、エイルは落ちてきたそれを拾い上げる。
 よく見てみるとそれは、というよりもよく見なくてもそれは愛らしい熊のぬいぐるみだった。大きさはだいたい40センチ。全身が明るい茶色で黒い目と鼻。おそらくは鼻が高貴に当たったのだろう。
 普通のぬいぐるみにしか見えないが、空から降ってきた時点で明らかに普通ではない。

「……なにこれ?」
「見てわかるだろう? クマだ。モフモフすると気持ちいいし、何より可愛いだろう」
「可愛いっつーか……ここは屋上なのに、空から降ってきた時点で不気味なんだけど」
「うわ、人間君ひどーい。私みたいな美人に向かって不気味だなんて。お姉さん傷ついちゃった」
「…………は?」

 何だ今の声は?
 明らかにエイルの声ではなかったし、口調も違っていた。と、言うよりもエイルが持つクマから声が聞こえてきたような気がする。
 思わずじーっとクマに顔を近づけて凝視する。

「いやん、今度は熱い眼差し浴びせられちゃった。若さ故の暴走を、お姉さん受け止められるか不安だわ」

 クマが普通にしゃべりだした。
 というよりも動いている。両手で顔をかくし(手が短くて届かないようなので、頭も下げている)モジモジと恥ずかしそうにしている。
 動く度にエイルが「くすぐったいから動くな」と言っても、クマは全く聞く耳を持たない。
 つーかぬいぐるみが話してる。
 ツーカ、ヌイグルミガ、コトバヲハナシテ、ウゴイテイル?

「ぎゃああああああ!!」

 高貴はものすごいスピードと形相でエイルからクマをひったくると、腕を大きく振りかぶり、すべての力を込めて、落下防止用のフェンスに向かって投げつけた。

「ぎゃあ!!」

 クマがフェンスに激突し、フェンスがギシリと嫌な音をたてて軋む。
 クマは重力に従って地面に落ちそうになったが、その前にエイルがクマを慌ててキャッチした。

「だ、大丈夫か!? なにをするんだ高貴!」
「だだだだってぬいぐるみがしゃべったんだぞ! なんでお前は冷静なんだよ!?」
「今更そのくらいで驚くこともないだろう。君は昨日から様々な非現実的なことを目の当たりにしているのだから」
「驚くっつーの!!」
「さ、流石のお姉さんでも、これは予想外だったわ」

 クマが再び動き出し、エイルの腕から飛び降りる。スタスタと高貴の目の前まで歩いてきたかと思うと、ビシッと右手で高貴を指差した。

「こら! 人間君だめじゃない! 女性はもっと優しく扱いなさい。ときには激しいアプローチも必要だけど、乱暴だけは絶対しちゃ駄目なのよ!」

 どうして俺はクマのぬいぐるみから説教されてるんだろう? つーかなんでクマが……魔術とかいうやつに決まってるか。
 そう結論付けた高貴だが、今クマが自分のことをどう呼んだかということに気がついた。

「も、もしかしてあんた……昨日公園で話した人……ですか?」

 自分のことを人間君と呼ぶような人物(人かはわからないが)を高貴は一人だけ知っている。昨日公園で話した謎の声のことだ。

「だーいせーいかーい! あとでなでなでしてあげる。こうして話すのは二回目ね人間君。私のことは気兼ねなく美人なお姉さまって呼んでね」
「いや……美人って言うかぬいぐるみじゃないですか。」

 愛らしいぬいぐるみには見えても、美人のお姉さまには到底見えない。

「えー、ケチだなぁ人間君は。じゃあクマでいいわよ。ついでにお姉さんだと思ってもいいわ」
「なんでそんなに適当!?」

 極端すぎる人物だ。口調や声色からして女性。自分のことをお姉さんと言っているあたりおそらくは年上に間違いはないが、どこか精神的に幼さを感じる。
 どうやらこのクマは本名を教えるつもりは無いようなので、どちらにせよクマと呼ぶしかないだろう。
 それにお姉さんのような存在ならバイト先にいるから別にいらない。

「まったくもう、いくらお姉さんでも金網に叩きつけられたのは初めてよ」
「す、すいません。ついビックリしちゃって」
「そーれーにー、唇も奪われちゃった。お姉さんファーストキスだったのになー。強引なんだからぁ。でもこれでお姉さんの初めて二つとも人間君に奪われちゃったんだね……キャッ!」
「何わけわかんねー事言ってんですかあんた! つーかぬいぐるみじゃねーか!」
 
 高貴をからかうように話すクマだったが、満足したのかエイルのほうに向き直った。
「それでエイル。いったいどこまで話したの?」
「ふむ、これからヴァルハラの意思を高貴に伝えようとしていた所だ」
「そうなの。じゃあここからはお姉さんが説明するわね。それでは人間君、君の命運を発表します」

 ゴクリと、高貴がつばを飲み込んだ。

「いろいろと知りすぎちゃったみたいだから、できれば君死んでくれない?」

 ……うそん。
 昨日はエイルから死刑宣告を受け、今日はクマのぬいぐるみから死んでくれと頼まれた。俺もしかして大人しく死んどいたほうが幸せかもしんない。
 いや、やっぱ無理。でも逆らえるわけない。俺の人生ゲームオーバー?

「こら、ウソはよくないぞクマ」

 絶望のどん底に落ちていた高貴をよそに、エイルがしかるような口調でクマいった。

「って嘘なのかよ! マジでビビったっつーの!」
「なによぉ、ちょっと場を和ませようと思って粋なジョークを言っただけじゃない」

 笑えねーよ。
 まぁ槍を突きつけられなかっただけましかもしれないが。というよりもエイルもクマの事をクマと呼んでいるようだ。
 確かにクマだが。

「はいはい、じゃあ真面目にやりますってば。……さて、それでは人間君」

 先ほどと同じようにクマは高貴に向き直る。ただ一つ違うのは、クマのまとっている空気が心なしか真面目なものになっているということだ。

「ヴァルハラの上層部はあなたを監視しろとの命令をエイル・エルルーンに下しました。あなたは昨日魔術の存在を知ってしまったため、その存在を漏らすのではないかとヴァルハラは恐れています。よってあなたの監視役として、ヴァルキリーであるエイル・エルルーンを、四之宮高校2年3組へと転入させました」

 まるで先ほどとは別人のような、淡々とした口調でクマがそう言った。
 つーか概ね予想通りの回答ありがとうございます。
 高貴があらかじめ考えていた理由の中で二番目に嫌だった理由でエイルは来たらしい。
 と言う事はこれからは学校ではエイルと会わなければいけないわけなので、とてもではないが平穏に過ごせる気がしない。
 なんとかして追い払えないだろうか? 

「いや……ほら……俺は別に、そんな事誰にも言いませんって」
「私もそう思っているんだがな。高貴は会ったばかりの私の話を信じてくれたし、ヒルドのところにも案内しようとしてくれた。そんな優しい君なら心配はいらないといったんだが、上層部はそうは思わなかったようでね」

 心が痛い。
 実際はエイルをただの中二病だと思っていたし、ヒルドを見たというのも嘘で、警察に連れて行こうとしただけだ。
 ぶっちゃけエイルの方が勘違いしている。
 しかもわざとではないし、信じてももらえなかったが、昨日真澄と詩織に話してしまってすらいるのだから。

「だが私も頑張ったんだ。最初はさっきクマの言っていたように、問答無用で殺してしまおうという結論がでたのだが、それは何とか止めることができたよ」
「……それは想像してた中で最悪のパターンだよ。つくづくお前って俺の命の恩人なんだな。危険の元でもあるけどさ。でもどうやって転校なんてしたんだ?」
「それは簡単です。エイル・エルルーンを四之宮高校に通わせてほしいと四之宮高校の理事長にお願いしました」

 クマがそうは言うものの、さすがに高貴は信じられなかった。いきなりそんなことを言われて許可する理事長がいるはずがないからだ。

「お前さ、なんか変な事しなかったか? たとえば言うこと聞かないと殺すとか」
「む、ひどいな高貴。私にそんなイメージを抱いていたのか。さすがに少し傷ついたぞ」

 あからさまにエイルは不機嫌になる。
 だって初対面で槍突きつけられたんだから仕方ねーだろ。

「いいか高貴。人に頼みごとをするときは、誠意を見せる必要があるんだ。自分の真剣さを相手に正確に伝える必要がある。その気持ちがしっかりと伝われば、きっと相手はいい返事をくれる。だから理事長も私を界外留学生として受け入れてくれた」
「う……そ、そうかよ。変なこと言って悪かったよ」

 エイルが「まったくだ」とでも言うように得意げな表情になる。

「人と人との繋がりとはそういうものなのです。隠し事をせず、誠実に、真摯に、真剣になってキチンと話し、しっかりと頭を下げてお願いをして、諭吉を渡せば思いは伝わります」
「おい、今なんつったバカグマ?」

 気のせいだろうか?
 今クマが語った人と人との繋がりをすべて否定するような言葉が聞こえたのは。

「あー、人間君ひどい。バカって言ったほうがバカなんですよーだ!」

 シリアスモードが解けたクマが怒った様にわめきだしたが、高貴はそれを完全に無視した。

「そんなことどうでもいいんだよ。おいエイル、お前いったい理事長先生になんて言って頼んだんだ?」
「ふむ、クマから渡されたトランクケースを差し出して、明日から四之宮高校に通わせてほしいと言ったんだ。理事長はケースを開けるとすぐに良いと言ってくれた」
「ちなみに中身は諭吉が5千人ほどよ」
「何が誠意だ! 完全に金で解決しただけじゃねーか!」 
「諭吉こそ誠意よ! それに入学金は必要でしょ?」
「それは裏口入学金って言うんだよ!」
「ふむ、私は正面の玄関から入ったぞ。それにしてもあの中身は諭吉先生だったのか」

 つまりはまぁ、金を払ってエイルのことを認めさせたらしい。そのために5千万を用意するなど、クマとは恐ろしい人物なのかもしれない。

「いい人間君、よく覚えておきなさい。世の中のほとんどの問題は諭吉が解決してくれるのよ」
「ふむ、諭吉先生に頼るしかないということか。悲しいものだな」
「テメーら福沢諭吉先生に謝れこの野郎! それからせめて金と言え金と! これ以上諭吉先生を穢すな!」

 福沢諭吉先生のことを、高貴は特別尊敬しているわけではないが、さすがに諭吉先生に対して失礼だと感じ二人に怒鳴る。

「あー、はいはい。わかったわかったわよ。ちょっと静かにしなさい人間君。次で大事な話は最後だから」

 クマが高貴をたしなめる。次で最後ということを聞き、ようやく高貴は静かになり、クマに耳を傾ける。

「エイル・エルルーンがこの世界、正確にはこの四之宮で《神器》を全て集めるまでの間、この四之宮を特殊監視区域とすることが決定したわ」
「とくしゅかんり……なにそれ?」
「あれ? お姉さんに対して敬語じゃなくなってる? まぁいいわ。簡単に言うとね、災害保険みたいなもんよ。本日より四之宮で魔術による戦闘行為を確認された場合、報告をしてもらえればその損害を元通りに直すって事。例えばエイルが学校を粉々に壊しても、ヴァルハラが責任を持って治すって事よ」
「おお、なんだかずいぶんと親切なんだな。やっぱ魔法で直したりすんの?」
「ああ、その通りだよ。私は壊れたものの修理は得意ではないが、ヴァルハラには《ベオーク》のルーンの達人が山ほどいるからな」
「それと同時に四之宮に一種の結界を張ったわ。これにより四之宮に存在する《神器》は、ヴァルハラの許可なしでは他の世界に移動できなくなったの。だってそうしないと逃げられちゃうもんねー。そのおかげで四之宮では《神器》の持ち主同士のバトルロワイヤルが開催されたりするかも」
「……え?」

 今クマは何と言っただろう? 
 《神器》の持ち主同士のバトルロワイヤル?
 それではその危険な《神器》を持った得体の知れない者たちが、四之宮をうろつくということだろうか?

「ちょ、ちょっと待てよ! それじゃ四之宮がスゲー危険になるじゃねーか!」
「確かにそうなるわね、でもこっちだって対抗策は考えてあるわ。エイルに囮になってもらっているから」
「おとり?」
「ああ、私はヴァルキリーだ。《神器》を持つものならば、私の魔力を感じ取ることが出来る。つまり私が普通ではないと知って私を襲ってくるはずだ。危険な《神器》の使い手や、力におぼれた《神器》の使い手は私が《神器》を持っていると思ってそれを奪いに来るだろう。更なる力を求める為にな」
「あ、なるほど……」
「狙ってこない《神器》の使い手は、正直ほっといても無害なのよね。魔術が使えるようになって便利になったくらいにしか考えないでしょうし。ゆっくりと探しても問題ないわ」

 確かにそれなら不安材料は減る。しかしエイルは《神器》を持つものに狙われて常に危険な目にあうということだ。

「お前はいいのかよ? そんな危険な役引き受けてさ」

 高貴の問いに、エイルはクスリと笑う。まるで心配いらないとでも言うように。

「元々私たちの世界の不祥事で四之宮の人々を巻き込んでしまったのだから、これくらいはしないと駄目だ」

 その迷いのまったくない瞳に、高貴は何もいえなくなった。
 いや、何を言おうとしたのだろう?
 自分はいったいエイルに何と言おうとしたのだろう?
 それが彼にはもうわからない。

「さてと、話はこんなところじゃない? というわけで人間君、これからエイルが《神器》を全部回収するまでいろいろと迷惑かけるかもしれないけどよろしくね」
「はぁ、わかったよ……拒否権はねーんだろ」

 今のクマの言葉に少し違和感を感じた高貴だったが、気にしても仕方がないだろうと思い考えるのをやめた。

「学校は戦乙女学校にしか通ったことがないんだ。いろいろとわからないこともあるから、教えてもらえると助かる」

 自分に拒否権はない。
 だったらもう諦めるしかない。抵抗した所で得体の知れない連中に逆らえるはずないのだから。学校での平穏は諦めて、バイトとプライベートの平穏を楽しもうと決意した。
 忘れろ。それが無理なら気にするな。自分には一切関係のない話だ。
 学校でエイルと多少話す位なら別にどうと言う事はないはずだ。
 自己暗示の如くそう強く思い込む。
 自分には一切関係ないと。 

「そういえば高貴、私はさっきまでの授業中で何かおかしなことをしてしまわなかっただろうか?」
「……え? そ、そうだな……まずは先生には敬語を使っとけ。いくら界外留学生っつっても、目を付けられたらめんどいだろ。あと100メートルはもっとゆっくり走れ。今のところはそれくらいだ」
「ふむ、敬語か。そういえば使ってはいなかったな。これからは教員の人たちには使うように心がけよう」

 その時、昼休み終了の鐘が構内に響いた。後10分で次の授業が始まってしまう時間だ。

「ちょうど話も終わったしそろそろ戻ろうか。昼休みはあと少ししかない」

 エイルが屋上の入り口に向かって歩き出したので、高貴も並んで歩き始めた。クマは「歩くのダルイー」などと言ってエイルの肩にしがみつく。

「あ、昼飯食い損ねた。あと10分しかないし無理かもな」
「そういえばそうだな。出来れば学食や購買という場所にも言ってみたかったのだが―――」

 ピタリと、エイルの足が止まった。
 どうかしたのかと思い高貴も立ち止まると、エイルはなにやらけわしい表情になっており、心なしかクマの様子もおかしい。

「エイル、この気配ってもしかして」
「ああ、間違いない。《ベルセルク》だ。しかしどうしてこんな時間にベルセルクの気配が?」
「おい、どうしたんだよ? なんだよそのべるなんとかって」 

 その言葉に返事を返すことなく、エイルとクマは何かを探すように屋上を見渡している。
 いったい何があるのだろうと思い高貴もあたりを見渡すが、そもそも屋上には何も置かれていない。
 ほかに人がいるようにも思えないし、そもそもいたらエイルがそれに気がつくだろう。
 そう思っていたときに、高貴はそれを見つけた。
 屋上の地面のところどころに、黒い影のようなものが出来ている。
 丸く、深い黒い色をした影。しかし屋上には影ができるようなものなど何一つ存在しない。

「な、なぁ。あの黒いのってなんだろう?」
「……クマ、高貴を頼む」
「オッケー任せて。あっちはよろしく。あ、鎧は着ちゃ駄目よ」
「別にかまわないが何故だ?」
「なんでもよ」

 クマがエイルの肩から高貴の肩に飛び移った。エイルが一歩一歩黒い影に近づいていく。 距離にして約5メートルほどまで近づいたとき、影から何かが飛び出してきた。
 出て来たそれは人間の形をしていた。大きさも人間と同じくらいだ。しかし明らかに人間ではないことがわかる。
 全身が黒で覆われ、黒い煙のようなものが体のところどころから漏れている。
 まるで鎧でも着ているかのような、もしくは岩を人の形にでも削ったかのようなそれは圧倒的に異質な存在だった。

「人間君こっちよ! 速く屋上の隅のほうに移動して!」

 クマが先導して高貴を誘導する。高貴はなんとか足を動かして屋上の隅まで移動した。

「な、なんだよあれ!?」
「落ち着いて人間君、あれはベルセルクよ。力を求めた亡者達の成れの果て、《神器》の魔力に当てられてこの世界でも出現したみたいね。ここはエイルに任せましょう」
「だ、大丈夫なのかよ!? なんだか沢山いるし、エイルが危ないんじゃねーのか!?」

 慌てる高貴とは対照的に、クマはクスリと笑った。

「やっぱり君は優しいのね。関わりたくないとか平穏に生きたいとか言っても、君の平穏を壊した原因でもあるエイルを心配してくれるなんて。でも大丈夫よ、エイルの強さは君も知ってるでしょう」

 影からはどんどんベルセルクがあふれてくる。にもかかわらずエイルは全く動揺しているようには見えない。

「悪いが……次の授業まで時間がないんだ。さっさと終わりにさせてもらおう。初日から遅刻というのはしたくないのでね―――来い、契約の槍!」

 エイルの右手にランスが現れ、闘いの姿勢をとる。それが合図になったのか、ベルセルクが一斉にエイルに襲いかかっていった。
 ベルセルクたちがエイルに向かって一歩踏み出した瞬間に、それを迎え撃つようにエイルが走る。
 今のエイルが着ているのは四之宮高校の学生服、履いている靴は普通のローファーにもかかわらず、昨日の戦いと同じように速く走っている。
 このベルセルクたちの動きは遅い。昨日のヒルドに比べたらそれこそ止まって見える。
 勢いを緩めずに突進、そのままランスで正面のベルセルクの右肩を貫いた。
 ばしゅっ、と妙な音が響き、ベルセルクの腕が肩からちぎれ落ちる。その腕は地面に落ちると黒い煙になって完全に消え去った。

「グオオオオオオ……!!」

 ベルセルクが咆える。
 まるで腕を失った苦痛の叫びの様なそれは、どんな生き物の咆哮とも似つかない不気味な叫び。
 恐怖、不安、絶望。そんなものを世界に振り撒いているかのような咆哮だ。
 片腕を失っても、ベルセルクは止まらない。エイルに向かって残った左腕を振り上げた。
 左腕の先端部分が一瞬で変形していく。大きく、そして指先は鋭い爪のように、鋭利な刃物のように。ベルセルクの左腕はもはや人のものというよりは獣のそれとなってしまっている。
 その凶器となった左腕を、ベルセルクはエイルに向かって容赦なく振り下ろす。
 エイルは後ろに飛んでそれをよけた。風圧がエイルの頬を打つものの、爪自体はエイルには届いていない。
 着地したエイルはすぐさま反撃を―――出来なかった。
 ベルセルクは一体ではない。いつの間にかエイルの後ろにまできていた別のベルセルクがエイルに襲いかかる。
 それをかわしてもまた別のベルセルクがいる。気がつけばエイルは6体のベルセルクに囲まれていた。

「ふむ、囲まれたか」

 逃げ場がまったくない。そんな圧倒的不利な状況にもかかわらず、エイルに顔に焦りは見えない。
 ジリジリとベルセルクたちが距離を詰めてくる。そしてタイミングを合わせて腕を振り上げ、一斉にエイルに襲い掛かった。

「エイルっ!!」

 思わず高貴が叫ぶ。それと同時にエイルが勢いよく地面を蹴った。
 ベルセルクが向かってくる六方向のうち、一つの方向に向かって彼女は走る。
 狙うは自分が先ほど右腕を吹き飛ばしたベルセルク。

「ガアアアアア!!」

 隻腕のベルセルクが振り上げていた左腕を振り下ろす。しかしエイルの動きのほうが一瞬早い。

「はあっ!!」

 左腕がエイルにぶつかる前に、エイルのランスがベルセルクの腹部を貫いた。そのまま押し切り六方向からの包囲網を突破する。
 ばしゅっ、と先ほど腕を貫いたときよりも鋭い音が響き、ベルセルクは煙のようにあっけなく消滅した。
 エイルはまだ止まらない。
 包囲網を抜けた彼女は好機とばかりに方向を変え、一番近いベルセルクに向かって水平にランスを振るう。
 自分の身の丈以上もあるランスを思い切り振り回し、遠心力の力を加えたその一撃は、ベルセルクの背中に直撃した。
 がきぃ、とまるで岩を叩いたかのような音が離れて見ている高貴まで届く。あれが人間ならば、背骨が粉々にでもなりかねないその一撃。

「ガアアアアアア……!!」

 しかし―――ベルセルクは人間ではない。
 その一撃はまったくきいていなかった。ベルセルクは何事もなかったかのように振り返り、右腕を振り下ろして反撃をする。
 エイルはランスを盾に、その一撃を受け止めた。

「お、おいクマ! なんで今のきいてないんだよ! さっきは簡単にやっつけただろ!?」

 高貴がクマに向かって問いかける。

「エイルの武器を見てみなさい。答えは自ずと見えてくるわ」

 エイルの武器?
 彼女が使っているのは、身の丈以上もある白のランス。太陽の光を反射し煌めくそれは、特に問題があるようにも思えない。
 実際エイルは、一体のベルセルクをそのランスで見事に貫いて見せた。その切れ味に問題があるとはどう考えても考えづらい。
 いや待て。切れ味だと?
 高貴はようやく気がついた。エイルの持つランスには、切れ味などないということに。
 ランスとは元々突くことを主体に作られた武器であり、先端の突起部分は鋭く鋭利ではあるが、側面の部分には刃などついていない。
 故に、刺突に用いるのなら殺傷能力は高いだろうが、剣のように振るっても斬撃にはならないのだ。せいぜい棍棒などと同じ打撃、もしくはそれ以下の攻撃しか出来ない。
 倒したときの一撃は本来の使い方である刺突。
 倒せなかったときの一撃は本来の使い方ではない打撃。
 それは気がついてしまえば実にシンプルで当たり前の答えだ。

「気がついた? エイルの武器はランス。この世界でも確か存在している武器だけど、主に馬に乗った騎兵とかが使うものなの。そして有効な攻撃方法は刺突だけ、つまりはぶっ刺さないと無理ってことね。だから斬りつけてもベルセルクにはあまり意味ないわよ。だって刃がついてないもの」
「だ、だったらあいつはなんでそんな武器使ってんだよ? 昨日の赤いやつみたく剣を使えばいーじゃねーか!」
「彼女はちゃんと剣も使えるわ。いいからお姉さんを信じて安心して見てなさいな」

 クマに言われてもまったく安心などできるはずがない。エイルは先ほどから攻撃をすることはなく、ベルセルクの攻撃をかわすのみになってしまっている。

「エイル! 人間君が心配してるからそろそろ片付けなさい! それに授業が始まるまであと7分よ!」

 クマの声にエイルの表情が変わった。バックステップでベルセルク達からいったん距離をとった。
 しかし後ろはもうフェンスがあり、これ以上下がることは出来ない。

「やれやれ、出来ればもう少し様子を見てみたかったのだが……授業が始まるのならば仕方がないか」

 エイルが右手を眼前に掲げた。ピンと伸びた中指と人指し指に青い光が灯りだす。

「一気に決めさせてもらおう。《ソーン》、《ベオーク》、バインドルーン・デュオ!」

 中空に走る青い軌跡。描かれたのは《ソーン》ルーンと《ベオーク》のルーン。

「集え、青き雷光―――《雷光の槍ブリッツランス》!」

 一つに溶け合う二つのルーンあお、エイルが左手に持っているランスが青い光を纏った。
 同時に青い雷でも宿っているかのごとく、ばちばちっ、と電気が走っている。
 白から青へと姿を変えたランスをエイルは構え、一体のベルセルクに向かって疾走した。ランスの光によって作り出される青い軌跡を作りながら、エイルは一気に距離を詰める。
 ベルセルクが腕を振り上げる。振り下ろされる先は当然エイルがいる。
 しかし攻撃にしろ回避にしろ、スピードはエイルのほうが上。勢いに乗って突っ込めば、先ほどのようにベルセルクの胴体を串刺しに出来るだろう。
 にもかかわらず、エイルはベルセルクの前で足を止めた。
 これでは自分から攻撃をくらいにいくようなものだが、当然エイルはそんなことを考えてはいない。
 振り下ろされる異形の腕、その腕目掛けてエイルは、ランスを思い切り振り上げた。
 それは明らかに本来の使い方ではない。遠心力や腰の回転も利用した、まるでランスではなく大剣でも使っているかのような振り上げ方。
 振り下ろされる左腕と振り上げられる槍。
 激しく衝突する異形の腕くろランスあお
 瞬間―――異形の腕くろが粉々に砕け散った。

「グウウウウウ……!!」

 片腕をなくしたベルセルクが苦痛の唸りを漏らす。その隙にエイルは次の攻撃の動作に入っていた。
 斜めに振り上げたランスの遠心力を利用して回転、そのままランスをベルセルクの腹目掛けて叩き付けた。
 いや、叩き斬った。
 ばしゅっ、と音を上げ、ベルセルクの体が二つに裂ける。今度は完全に一閃に斬り裂いたのだ。
 真っ二つに斬られたベルセルクは、今度うめき声を上げるまもなく消滅した。

「ガアアアア!!」

 他のベルセルクも腕を振り上げ襲い掛かってくる。
 しかし、もはやエイルには通じない。エイルはせまりくるベルセルクたちの攻撃を全てかわしながら、的確な攻撃で次々とベルセルクを薙ぎ払っていった。
 ポカンとしながらその光景を見ている高貴。本当に自分の心配がただの杞憂だったということを思い知らされた。

「解説がほしい人間君?」
「……あの青い光でパワーアップしたのか?」
「ごめーとー。詳しい説明はめんどくさいから省くけど、ルーンで槍を強化したのよ。よくゲームで合成とかして武器に属性をつけたりするでしょ? あれの雷版。色が青いのは個人個人で違うときがあるから気にしないで。もっとも、ベルセルクは真っ二つになってるけど、本来は人に使っても死なない安全仕様よ」
「でもなんであんな戦い方なんだ? あの槍って突き刺すものなんだろ?」

 なぜランスを使っているにもかかわらず剣術で戦っているのか。そのことが高貴にはどうしてもわからないのだ。
 剣術を使うのなら、昨日のヒルドのように剣を使ったほうが良いに決まっている。

「エイルはね、戦乙女学校で剣術を学んでいたにもかかわらず、武器にはランスを使っているの。ランスを使って剣術の戦い方をすれば殺傷能力は格段に下がる。でもその分命を奪わなくて済むってね。でもランスって突きの威力はすごいけど、それ以外は本当に応用がきかないでしょ? それでベルセルク用と強いやつ用にあれを編み出したってわけよ」

 ひときわ大きな音が響いてきた。エイルがベルセルクの最後の一体を斬り捨てた音だ。
 縦に一刀両断されたベルセルクが煙のように消えると、屋上の上に静寂が戻ってくる。
 しかし、エイルはまだ警戒を解いていない。その視線の先にはベルセルクが出て来た黒い影。あれが消えない限りはまだ次のベルセルクがでてくる可能性があるということだろう。
 そして、その警戒が正解であったことはすぐに証明された。黒い影の中からまるで腕のようなものが生えてきたからだ。
 出て来たそれは、まるで穴の中から這い上がっているかのように地面を掴む。
 次に現れたのは顔、そしてもう片方の腕。
 そこまで現れた次の瞬間、ベルセルクは一気に飛び出して屋上へと降り立った。
 まず、今までのベルセルクとは圧倒的に違うのはその大きさ。先ほどまでのベルセルクは2メートルほどしかなかったが、今回のそれはその約2倍の4メートル近くもある。
 力強く禍々しいその姿はまさしく黒の巨人。

「キシャアアアアア……!!」

 黒の巨人が空に向かって咆哮する。
 それだけでビリビリと肌を焼くような衝撃が走り、大気が振るえ、心の底から恐怖が溢れてくる。
 しかし、エイルは違った。
 先手必勝といわんばかりに地面を蹴り、咆哮をあげているベルセルクの腹をランスで思い切り斬り付けた。
 まるで岩を砕いたかのような轟音が響いたが、やはり大きいだけあって先ほどのベルセルクよりもさらに硬い。ベルセルクは数メートル後ろに下がっただけで、ダメージはまったく負っていない。
 攻守が変わる。黒の巨人が動き出した。
 振り上げられるその豪腕。振り下ろされる黒の鉄槌。
 禍々しき爪による一撃を、エイルは横に飛んで回避した。
 しかし、ベルセルクの腕はそのまま屋上に叩きつけられ、地面のコンクリートがその衝撃に耐え切れずに砕け散った。
 轟音が響き、コンクリートの破片が辺りに飛び散る。地面には大きな傷跡ができている。

「回避は……しないほうがいいかもしれないな」

 これ以上回避すれば、最悪ベルセルクによって屋上が破壊されてしまうかもしれない。そう考えたエイルは足を止めてベルセルクに向き直った。
 回避ではなく疾走。
 ランスを剣の如く持ち、ベルセルク目掛けて斬りかかる。
 それを右手で受け止める黒の巨人。すぐさま返しの左腕を振るう。エイルは青のランスで、ベルセルクは黒の双椀で斬り結び始めた。
 金属と金属がぶつかり合うような鋭い音が何度も響き、槍と腕がぶつかり合うたびに青い残光が弾ける。
 エイルが何度ランス打ち付けても、ベルセルクの腕はまったく壊れることはない。ベルセルクの攻撃はエイルに当たる事はなかったが、このままでは埒が明かない。

「エイル! 後4分で授業が始まるわ!」

 そんな状況にもかかわらずクマがエイルに向かって叫んだ。するとそこで初めてエイルの顔に焦りが浮かぶ。
 その焦りは恐怖ではない。彼女はベルセルクに対して恐怖などしていない。
 彼女が恐れているのは、このまま手間取ってしまい授業に遅刻してしまうことだ。
 故に、この戦いを迅速に終わらせる。そのためにエイルは高貴に視線を向けた。

「高貴! そこから見てグラウンドに人はいるか!?」
「え、グラウンド?」
「そうだ! そこからなら確認できるだろう!?」

 高貴のいる位置は屋上の隅。フェンス越しにグラウンドを見ることは確かにできるが、なぜ今そんなことを聞くのかがわからない。それでもエイルに伝えようと、高貴はすぐにグラウンドを見下ろした。
 幸いなのかはわからないが、グラウンドには誰もいなかった。次の授業が体育のクラスがなかったのか、はたまた体育館でやっているのかはわからないが、人一人見当たらない。

「エイル! グラウンドには誰もいない!」

 高貴がエイルのほうに振り返り叫ぶ。その言葉を聞いたエイルは確かに頷いた。
 しかし、ほんの一瞬。視線がベルセルクから高貴に向いたその瞬間に、ほんの一瞬だけエイルに隙ができる。その隙をベルセルクは見逃さなかった。
 腕を振りおろすのではなく、ラリアットのような動作でエイルに右腕を叩きつける。ぶつかる直前にランスを盾にしてそれを防御するものの、勢いは殺しきることが出来ずにエイルは後ろに吹き飛ばされた。

「エ、エイル!」

 エイルはまっすぐに吹き飛ばされ、このままでは屋上の入り口のドアに叩きつけられる。いや、その少し横の、もっと硬いコンクリートの部分に頭から衝突するだろう。
 俺のせいだ。
 俺があんなタイミングでエイルに声をかけたから。
 高貴は自責の念に押しつぶされそうになり目を閉じたが、ふとエイルの声が聞こえたような気がした。
 ありがとう―――と。

「え?」

 高貴が顔を上げる。
 エイルは吹き飛ばされながら体を捻り、屋上の入り口のドア、その横のコンクリート部分に着地した。

「助かったよ高貴、これで終わりにできる。《ラグズ》―――!」

 重力がエイルの体を地面へと導くよりも一瞬速く、彼女の左手が《ラグズ》のルーンを刻む。
 ピシリと、エイルが足をつけているコンクリートにヒビが走る。次の瞬間―――エイルがベルセルクに向かって跳んだ。
 地面に着地することなく、まるで弓から放たれた矢の如く、ベルセルクに向かって一直線に突進した。
 青の矢と化したエイルはランスを正面に構えてベルセルクを貫くつもりだ。
 ベルセルクは両腕を交差して、それに備えるたえめに防御の体制をとった。
 青と黒が再び衝突、鈍い音があたりに響く。
 しかし、その渾身の一撃でさえ、ベルセルクを貫くには至らない。

「はああああああ!!」

 だが、先ほどエイルが吹き飛ばされたときと同じだ。ベルセルクは勢いを殺しきることが出来ずに、エイルに押されて後方に吹き飛んだ。
 ランスの先端を止めてはいるものの、エイルの突進をかわす事が出来ず勢いよく屋上のフェンスに叩きつけられる。
 がしゃあん! と大きくフェンスが軋む、その勢いと衝撃に耐え切ることが出来ずに、フェンスの一部が勢いよく吹き飛ぶ。
 止まったのはフェンスにぶつかった一瞬のみ、そのフェンスという支えを失い、エイルとベルセルクは空中に放り捨てられた。
 重力に引かれてエイルとベルセルクがグラウンドに吸い込まれていく。
 それでも、エイルのランスはベルセルクを捉えて逃がさない。元々ここまでがエイルの狙いだったのだ。
 重力の力と地面へと落ちる衝撃を利用してこのベルセルクにとどめを刺すということが。

「貫けええええええーーーーー!!」

 落下の勢いは当然ながら弱まることはない。ますます加速したその勢いに乗ったまま、 どおおおん! とまるで岩でも降ってきたかのような轟音を上げて、ベルセルクは地面に叩きつけられる。
 瞬間―――エイルのランスが、ベルセルクをその両腕ごと完全に貫いた。
 ベルセルクの体を貫通したランスの先端は地面にまで達しており、黒の巨人の動きは完全に封じられる。

「グウウウウ……」

 地面に貼り付けにされたベルセルクが唸り声を上げる。
 それが最後の力だったのだろう。ベルセルクは動かなくなり、サラサラと黒い砂のようになって消え去った。
 ベルセルクが完全に消滅した事を確認すると、エイルが地面からランスを引き抜く。

「ふむ、案外時間が掛かってしまったな。フェンスを壊してしまったが……まぁクマに任せるとしよう」

 エイルのランスから青い光が消えると、ランスは光の粒子となって消え去った。
 その光景を屋上から呆然と高貴は眺めていた。

「さすがエイル、思ったよりも早く片付いたわね。いやぁ、お姉さんは鼻が高いわ」
「……なんだよこれ?」

 高貴の漏らした声にクマが反応する。

「なんなんだよこれ? こんなのが当たり前になるってのかよ? この四之宮ではこれから毎日こんなことが起きるっていうのかよ? なぁ、どうなんだよクマ?」
「……さっきも言ったけど、君は別に戦う必要なんてないわよ。戦うのはエイルだけ。だから危害が及ぶことはないと思っていいわ」

 危害が及ばない?
 どうしてそんな言葉を信じられる。大体危害がないとしても、こんな物騒なことが起きる町で暮らしたくなんかない。
 戦うのはエイル一人。じゃあエイルやられちまったら……

「高貴、大丈夫か?」

 声がしたほうをみると、いつの間にかエイルが屋上に戻って来ていた。これだけ早く戻ってきたということは、おそらくは魔術を使ってきたのだろう。

「エイル、あなたこそ大丈夫? 屋上からドスンといっちゃったけど」
「問題ない、私はヴァルキリーだ」

 本当に平気そうにエイルはそう言った後、もう一度心配そうな表情で高貴を見る。

「ふむ、顔色が悪いぞ高貴。どこか怪我したのか?」
「怪我は……してない。でもさ、昨日といい今日といい、やっぱあんなもん間近で見たから……」
「そうか、ならば君は次の授業は休んだほうがいい」
「え?」
「今言ったように顔色が悪い。それにあんな非現実的なものを見せられたんだ。少し心の整理の時間も必要だろう。保健室は―――場所がわからないな。しかし屋上でも休むことくらいはできるだろう。ここには人が来ない。クマ、後は任せても構わないか?」
「ええ、お姉さんに任せておきなさい」

 クマが短い右腕でポンと自分の胸を叩いた。

「では私は行くよ。授業が始まってしまうからね」

 そういい残して、エイルは屋上から出て行った。高貴は何も言うことができず、その背中を見送ることしか出来ずにいた。

 ◇

 空が青い。
 屋上で仰向けに寝転がりながら、高貴はそんなことを考えながらボーっとしていた。
 5時間目の授業が始まりの合図を告げる鐘は、3分ほど前にもうとっくに鳴り終えた。高貴はというと、エイルに言われたとおりに授業を休んで空を見ている。
 正確にはサボったわけだが。
 先ほどのエイルとベルセルクの戦闘は、やはり平穏を望む高貴には刺激が強すぎたようだ。自分は何もしておらず、隅でただ見ていただけなのだが、いまだに思い出すと震えが止まらない。
 自分とエイルとでは完全に住む世界が違うということを今更ながら認識する。

「ねーねー、ちょっと人間君ってばぁ。そんな所で暇してるくらいならお姉さんの事手伝ってよぉ」

 頭の上のほうからクマの声がしてくる。視線をずらすとそこには確かにクマがいた。
 いたのだが……

「人間君ってば聞いてるの? これ重いから手伝って言ってるんだけどー。お姉さんみたいなか弱い乙女に、一人でこんな力仕事させる気? 直すのも楽じゃないのよ」

 何がか弱い乙女だよ。その頭の上に持ってるものはなんなんだっつーの。
 クマはその短い両手を上に上げ、頭上にあるものを持っていた。エイルが先ほどの戦闘で壊したフェンスだ。屋上から落ちた故にところどころフレームが曲がっており、大きさは3メートルはありそうな落下防止用のフェンスをクマは両手で持っていた。
 いや、明らかにおかしい。普通はフェンスの重さに耐え切れなくて、クマの体が潰れてしまうだろう。しかしよく見てみるとクマは両手で持っているわけではなく、まるで超能力でも使っているかのごとく、手から数センチほど浮かせて持っていた。
 まぁ超能力ではなく魔術だろうが。
 もしもクマが自分のほうにフェンスを倒せば、ハエたたきで潰されたハエのようになってしまうだろう。しかしどこからどう見ても辛そうには見えないため、高貴は「頑張れよ」と一言声をかけただけでまたゴロンと空を見上げた。
 だがどうやってフェンスを直すのかが気になり、すぐに視線をクマに戻す。クマはフェンスを外れた場所までもっていきいったん横に置いた。壊れたフェンスと外れた箇所を、腕を組みながら交互に見ている。

「ふむふむ……幸いかなり折れ曲がってるけど、大きな破損はなしっと。螺子とかがなくなってるけど探すのがめんどくさいし、少し鉄を削って代用するとして、まずはフレームを真っ直ぐにして、次に固定と取り付けって事でいいわね。《ベオーク》」

 クマの右腕が動き、空中に茶色でルーンが刻まれた。
 するとフェンスがきしむ音を立てて真っ直ぐになり、ふわりと空中に浮いた。と思ったらもうフェンスは外れた場所に収まっていた。そこには壊れた形跡などまったくなく、むしろ壊れていたはずの一部分だけ新品のようになっている。

「……マジ?」

 つくづく魔術の非常識さには驚かされる。どんな魔術を何回見ても驚かないなんて事はありえない。クマが一仕事終えたと言った感じで高貴の元に歩いてくる。

「見て見て人間君! お姉さんすごくない? ほら、完璧じゃない?」
「……ああ、すげーなクマ」
「はぁ、人間君さぁなんでそんなにブルーになってるの? さっきの戦いでは別に人間君は危険な目にあってないでしょ? ベルセルクは普通の人間は襲わないから問題ないってば」
「ベルセルクって言うのかあれ? いったいなんなんだ?」

 明らかに人にも動物にも、むしろ生物にさえ見えなかった黒い存在。あえて言うとしたらあれは……

「幽霊や亡霊……みたいなものよ」

 当たりかよ。

「ベルセルクは《神器》をもった存在とヴァルキリーを襲ってくるの。人間君でも聞いた事があるような表現を使えば、その地に眠る怨霊とかが身体という器を手に入れた存在ね。でもさっき言ったように普通の人間を襲う心配はないわ。だってベルセルクの目的は強い魔力を持った存在と戦うことだもの。普通の人間なんて相手にしない、いえ、相手にしてもらえないわよ」 
「そういえば、あいつら俺のほうは見向きもしなかったな。エイルだけを集中して狙ってた。でもそうなると《神器》を手に入れた人間は襲われちまうんじゃ……」
「《神器》を持ってる人間はベルセルクなんかに負けたりしないわよ。ベルセルクは勝ち目がなくても戦う。戦うことしか考えられない狂戦士。しかしこの世界にも出てくるなんて驚きね。早速《神器》がこの世界に影響を及ぼしているのかしらね。まぁ妙なのはそれだけじゃないけど」
「どういうことだよ?」
「ベルセルクは本来なら昼間の時間帯には出てこないのよ。でてくるとしたら太陽が沈んだ夜の時間帯だけ。それに標的以外の人間、例えば今回の場合は人間君ね。それがいるときもでてきにくい。だから私達はベルセルクの危険性ははずしてたんだけど……まぁ遭遇しても逃げてさえくれれば問題ないんだけどね。それどころかケンカ売って殴りかかったとしても無視されるのが関の山。意外とベルセルクって紳士なのかも」

 紳士が女を襲ったり、屋上壊したりしねーだろーよ。それにもっと優しい表情してるんじゃね?

「あ、そういえば、エイルが屋上から飛び降りたときに、教室とかから誰かが見てたりしなかったのか?」

 エイルの最後の一撃の時、グラウンドには人がいなかったものの、飛び降りているときは教室から丸見えだったはず。どこかのクラスの生徒が外を見ている可能性は十分にありえる。

「安心なさい、さっき私がこの学校の全ての人間にルーンをかけたわ。エイルがここから飛び降りてから、ここに戻ってくるまでのわずかな時間の記憶を消しておいたから。軽いど忘れみたいになってると思うけど、数分だから問題はないはずよ。お姉さんにぬかりはないわ」

 いったいいつの間にそんなことをしたのだろうか? そういえばいつの間にか屋上の地面の傷なども綺麗さっぱりなくなっている。
 屋上が元に戻った事を理解した高貴は、今度こそゆっくりしようとゴロンと横になった。

「ふぅ、お姉さんも休憩しよっと」

 その横にコロンとクマも横になる。この年になってぬいぐるみと一緒に並んで寝ているなど、誰かに見られたら恥ずかしさで死んでしまいたいくらいだが、ここには人が来ないので問題ないだろう。
 空は本当に青い。
 屋上は心地よい風が吹いており、こうして寝転がっているだけで落ち着いてくる。このままボーっとしていればだいぶ落ち着いてくることだろう。

「ねーねー人間君、暇だから何か話そーよー。お姉さんたーいーくーつー」

 ……クマさえいなければ。
 無視しようにも腕で顔をモフモフと何度もつつかれては、うっとおしくてさすがにそうもいかないので、高貴は仕方なく体を起こした。

「はぁ、わかったよ。つっても何の話をするんだ? 俺はもう聞きたい事なんて何もねーぞ」
「そうねぇ、じゃあ今回の件について、いち一般市民としての人間君の意見を聞かせてくれない? 思った事なら何でもいいわよ」

 ふむ、と高貴はしばし考えた。

「……正直な所、どんなに詳しく説明を聞いてもあんまり理解できない。つーかわかりたくもないし関わりたくもない。《神器》とかヴァルキリーとかどうでもいいから、さっさと帰ってくれないかなっていうのが俺の正直な気持ちだよ」
「あらら、ずいぶんと手厳しいのね。あとは?」
「それだけだよ」
「え? 本当にそれだけなの?」
「それだけだよ。だって本音を言えって言ったのはクマだろ。本音なんて二つもありゃしないって。だからこれだけ」
「でもさっきはいいもの見れたでしょ?」
「いいものってなんだよ?」
「エイルのパンツ」
「ぱ、パンツ!?」

 あまりにも予想外の事を言われたので、高貴は度肝を抜かれてしまった。

「お姉さんの目はごまかせないわよ。さっきエイルがフェンスを壊したときに、人間君はエイルのパンツを見たはずよ。さぁ、何色だったか言いなさい!」

 白でした。
 しかしまて、あれは不可抗力だ。エイルの事を視線で追っていったら、屋上から落ちるときに見えてしまっただけでわざとじゃない。

「み、見てねーよ! とにかく本音はさっきいったとおりだ!」
「ふーん……さっき言ったとおりねェ……」

 どこか含みのある雰囲気でクマが高貴を見ている。それがなんだか気に入らなかった高貴は、さらに言葉を続けた。

「だいたいさ、エイルと会ってまだ一日、つーか24時間もたってないのに、昨日といい今日といい信じらんねーものばっか見てるんだよ。こんなのが日常的な事になっちまうのは嫌だ。俺はもっと平穏に生きたいんだ。特別な事なんてしなくてもいいし、特別なものなんかに関わらなくてもいいから、何事もなく普通に生きたい」
「でも人間君、それって楽しいの? 特別がないって事はいつも同じ毎日の繰り返しでしょ? そんな日々を平凡にすごして、そんな人生を楽しいなんて言えるの?」
「言えるよ」

 間髪入れずに高貴がそういった。あまりにもはっきりとした物言いに、クマのほうが少し驚いている。

「朝起きてさ、学校に行く準備をして登校する。教室に入って、前の席の真澄におはようって言う。ホームルームが始まるほんの少し前に俊樹が教室に入ってきて急いで席に着くのを見て朝のホームルーム。嫌な授業を眠いのやだるいのを我慢して受けて、好きな授業は楽しみながら受ける。友達と一緒に昼飯食って、前の日に見たテレビとか、ゲームや漫画の話、他にもいろんな話をして残り二つの授業を受ける。バイトのある日はマイペースにいって、ない日は家でゴロゴロして、後は夕飯食って風呂は行って寝る。で、また朝起きる。これが今の俺の日常で変わらない毎日だよ。何回同じ事を繰り返しても、何も変わる事がなかったとしても、特別な事なんて何もなかったとしても、俺はそんな平穏で平凡な日々がすっげー楽しいんだ」

 本当に。
 他人には退屈だと思われるような日々でも、高貴にとっては最高に楽しい日々なのだ。

「変わらない日々ね……」
「もちろんずっと変わらないままでなんていられないのはわかってる。高校を卒業して、大学行くなり就職するなりで進路は別れるだろうし、そうなると今みたいに毎日顔を合わせる事も出来なくなる。だからこそ変わらない内は、その平凡や当たり前を大切にしたいっつーかさ……つまり……えーと」
「わかったわよ人間君。あなたがどういう人間なのかはお姉さんにはだいたい理解できました」

 だんだんとうまく説明する事が出来なくなっていた高貴の言葉をクマが打ち切った。

「ま、危険に巻き込むつもりはないけど、自分から危険に首を突っ込む分には止めないから気をつけてね」
「自分から危険にって……そんなのありえないって」

 そう、ありえない。自分から危険に関わろうとするなど自分にはありえないはずだ。高貴は強く自分に言い聞かせる。
 すると緊張が解けてきたのか、意識がだんだんと眠りに吸い込まれてきた。

「はぁ、それにしてもめんどくさい考えを持った子供ね。自分の事なのに自分の事を半分しか理解してないじゃない。思春期だからかしら?」

 クマが何かを呟いた気がするが、その言葉が高貴には届く事はなく、高貴はゆっくりと目を閉じた。



 やってしまった。というよりも眠ってしまった。
 屋上で見事に爆睡をしてしまった高貴が目を覚ますと、時刻はもう最後のホームルームの終わる5分前の時間だった。
 今から行ってもどうにもならないだろうと判断した高貴は、仕方なくホームルームもサボろうと思い、屋上で少しだけ時間を潰して、今教室に戻っているところだ。

「はぁ、先生まだいたらどう言い訳すっかな……それ以上にサボったなんて知られたら真澄になんて罵倒されるかわかったもんじゃねーし。だいたいクマはどこいったんだよ。あいつが起こしてくれればよかったのにさ」

 高貴が目を覚ましたときには、クマはどこかに行ってしまったらしく屋上から消えていた。
 どこに行ったのかなど見当もつかないが、来たときも空から降ってきたので、案外屋上からでも飛び降りたのかもしれない。
 まぁ、ぬいぐるみなので死にはしないだろうが。むしろぬいぐるみが壊れても死ぬのかもあやしいが。
 教室の扉の前に立つ。少し入りづらいが、もうホームルームも終わっていることだしさっさと帰ろう。
 それから今日はバイトがないので家でゆっくりしよう。そんなことを考えながら高貴はドアを開けた。
 教室ではほとんどの生徒が帰る準備をしていたが、エイルのいる机周辺には人が多く集まっていた。休み時間も集まっていたし、かなり時間の取れる昼休みは屋上だったので、まだ沢山エイルに聞きたい事などがあるのだろう。もしくは美人の界外留学生と仲良くしたいだけなのかもしれない。
 高貴の席はエイルの隣、あそこに近づくのはなかなか厳しそうだが、鞄がおいてあるため取りに行かねばならない。
 エイルはまだ気づいていないようなので、その視界に入らないようにとこっそり……

「あ、高貴。あんた今までどこ行ってたの?」

 行こうとしたのだが、真澄にあっさりと見つかってしまう。真澄は心なしか、少し心配そうな表情で高貴の所に近づいてきた。
 が、距離が近くなるたびにその表情は不機嫌そうなものへと変わっていき、高貴の元に来る頃には完全に不機嫌になっていた。

「授業二つもサボってどこ行ってたの? 保健室に行ってもいなかったみたいだし、エイルさんは気分が悪いと言っていたとは言ってたけど」
「あー……悪りぃ。ちょっとボーっとしてた」
「なにそれ? わけわかんないんですけど。授業サボるいいわけくらい考えとけっての」

 そんなのは考える暇もなかった。というよりも眠ってしまっていたわけだが。まさかエイルとベルセルクの戦いを見て、びびったから落ち着きたかったなどとは口が裂けてもいえない。
 ぶっちゃけ言って楽になりたい気もするが。
 しかしもっと激しく罵倒されるかと思っていた高貴にとっては、この程度の小言で済んだのは嬉しい誤算だ。

「それで帰らないの?」
「いや、帰ろうと思って鞄取りに来たんだけど、なんか近づきにくかったからさ。少し人が減るのを待とうかと思ってたんだ」

 高貴がエイルの席を指差すと、そこにはまだ人が溢れている。それを見た真澄は「なるほどね」と納得した様子で頷いた。

「まったく、スゲー人気だなあいつは。明日生徒会長にでも立候補すれば当選するんじゃねーか?」
「それは仕方ないって。エイルさんすごい美人だし、それになんかかっこいいし。それに話してみたらすごくいい人だったよ。クラスにももうなじんできてるみたい」
「それはなにより……なんだろうな。ところでもう一人の転校生のほうは……」

 その時、ちょうど帰り支度を終えたらしい静音が、高貴と真澄の横を通って帰ろうとしていた。エイルとは違い、静音に声をかけようとするものは誰一人いない。転校初日から思い切り壁を作っているのが原因だろう。

「あ、音無さん、さよなら」

 真澄が声をかけるものの、一瞬視線を移し「さよなら」と聞き取れるか聞き取れないかわからないほどの小さな声で返事をし、さっさと教室から出て行ってしまった。

「本当に正反対だな」
「う、うーん。授業中はちゃんと手伝ってくれたから、仲良くなれるかと思ったんだけど……」
「見た感じでは無理っぽいんじゃね? まぁそういう人もいるだろうし、無理強いはよくないって」
「そっか……と、ところで高貴。今日って確かバイト休みだったよね?」
「ああ、そうだけど」
「だ、だったらちょっと―――」
「高貴、戻ってきていたのか」

 クラスメイトと話し終わってたのか、エイルが高貴に気がつき声をかけてきた。それによって真澄の言葉が遮られてしまう。高貴の元に近づいてくるエイルは、何故か高貴のかばんも持って来ている。

「ああ、すまない真澄。高貴と何か話していたのか?」
「は、話してない話してない! こんなやつと口聞いた事すらないよっ!」

 ガキの頃から数えきれないほど口きいてるよ。一応幼馴染なんだからさ。

「そうか、ならばよかった。高貴はもう気分のほうは大丈夫なのか? 気持ち悪いとかそういうのはないのか?」
「あ、ああ。もう大丈夫だよ。むしろ―――」

 お前のほうが大丈夫なのか?
 そう聞こうとした高貴だが、エイルはどこからどう見てもなんともなさそうだったので、それを聞くのをやめた。

「そうか、ならばよかった。君は確か部活をしていなかったし、鞄もここにあったから待っていたんだよ。じゃあ帰ろうか」

 ポン、とエイルが高貴に鞄を手渡した。

「……いや、帰ろうかって……確かに俺は帰るけど、お前ん家ってどこ?」

 できれば一人で帰りたいという本音を隠しつつエイルに質問した。

「ん? 言ってなかったか? 今日から私は君の家にホームステイする事になっているのだが……そういえば言い忘れていたな」

 教室中の空気が完全に凍りついた。
 エイルがサラリと吐いた爆弾発言は、四之宮高校2年3組の教室の時間を10秒ほど停止させた。

「……はい?」

 いま、このヴァルキリーは、なんと、いったんだろうか?
 今日カラ、私ハ、君ノ家ニ、ホームステイ?
 ホームステイッテナンダッケ?

「いや、先ほど屋上で重要な話をしただろう? そのおかげでたいした事のないほうの話をするのを忘れてしまっていたよ。今日から私は君の家でやっかいになる事になった。よろしく頼む」

 いま、このヴァルキリーは、なんと、いったんだろうか?
 キョウ、カラ、シバラク、キミ、ノ、イエデ、ヤッカイニ、ナル?
 ……マジデ?

「……初耳なんだけど」
「ふむ、だから今言ったじゃないか」
「……俺の家っつーか、学生寮なんだけど」
「大丈夫だ、理事長の許可は取った」
「……男子寮なんだけど」
「問題ない。私はヴァ―――ではなく、理事長の許可は取った。まぁ本人以外には内緒にしておいてほしいとは言われたがな」
「ココ、キョウシツ、ナンデス、ケド」
「……あ」

 しまったと言った表情でエイルが辺りを見回す。しかし教室に居たもの全員が、今の二人の会話を聞いていたようだ。

「あ、あ、あ、あのねエイルさん。それって駄目なんじゃないかな? ほら、同棲って言うんじゃないかな?」
 真澄が汗を大量にかきながら絞り出すように声を出した。

「ふむ、同棲ではない、ホームステイだ。しかも最初から言葉が通じるのだから安心だろう?」

 不安しか感じねーよ。
 そう言い返してやりたいのだが、何故か声を出すことが出来ない。エイルはエイルで「失敗した」と言った表情になっている。

「あー……では帰ろうか高貴」

 場の空気に耐えられなくなり、エイルは高貴の襟首を掴むとすぐさま教室を飛び出した。

「ちょ、ちょっと待てコラ! 戻って言い訳をさせろ! せめてもう一回教室に戻ってうそだって言って来い!」
「いや、きっともう無理だろう。ここはあきらめて帰ろうじゃないか。人生諦めが肝心と言うのだろう?」
「ふざけんな! つーか俺は聞いてねーぞ!」
「そうは言っても、君を監視するのも私の任務だしな。それに断るというのならヴァルハラは君の命を奪うかもしれないぞ。これが最大限の譲歩だったんだよ」
「あーーー! もう嫌だ! ヴァルキリーの居ない世界に行きてーーーー!!」
「コラ! そんなことをこんな場所で、しかも大声で言うな!」
「テメーに言われたくねーんだよおおお!」

 エイルに引かれて歩きながら高貴は思った。
 自分の平穏は完全に壊れてしまったと。

 ◇

 ズルズルとエイルに引っ張られ、高貴は結局なんの抵抗もできぬままに学生寮に着いてしまった。
 エイルがあまりにも強引に引っ張るので、下校途中の生徒に奇妙な目で見られてしまったが、そんなことは全く高貴は気にしていない。
 そもそも抵抗とて出来なかったのではなく、正確にはしなかっただけ(出来たとも思えないが)だ。
 こいつ、どうやって追い出そう。
 考えていたのはそれだけ。その目的を達成する為だけに、高貴は下校中に頭をフル回転させてきた。

「どうしたんだ高貴? 早く鍵を開けてくれないと部屋の中に入れないじゃないか」

 エイルに言われて高貴は鍵を取り出した。しかしそれをドアに差し込む前にいったんエイルのほうに振り返る。

「なぁ、ちょっと部屋の掃除してきていいか? 散らかってるから少し整理しておきたいんだよ」

 作戦その一、部屋に入れない。
 このまま自分ひとりだけ部屋に入ってエイルを放置しておけば、きっとそのうち諦めて帰るだろう。少々心が痛むが、自分の平穏には変えられない。

「ふむ、昨日見たときには、男性の一人暮らしの割には整理整頓がしっかりされていると思ったのだが……まぁ君がそういうなら構わないよ。私はしばらくここで待たせてもらおう」

 よし、作戦の第一段階は成功だ。高貴は鍵を開けて扉を開けると、外にエイルを残してすばやく部屋の中へと入った。そして作戦の第二段階である鍵を閉める行動に移る。
 ドアについている鍵をゆっくりと回していく。ゆっくりと、ひたすらにゆっくりと。
 外のエイルに鍵を閉めたということを気づかれないように。鍵の回る音がしないようにゆっくりと鍵を回していく。
 およそ1分の時間をかけて、ようやく高貴は鍵を閉め終えた。最初から最後まで完全に音のしなかった施錠。これからの人生でこんなに静かな施錠は二度とできないであろうと言ってもいいほどの改心の施錠だった。
 ようやく肩の荷が下りた高貴は、靴を脱ぐと部屋の中に入っていった。
 とりあえずジュースでも飲みながらゆっくりしよう。それとこの前俊樹から借りた漫画まだ読んでなかったからそれも読もう。高貴はそんなことを考えながらリビングのドアを開いた。

「あ、お帰り人間君。思ったよりも早く帰ってきたわね」

 クマがいた。
 正確にはクマのぬいぐるみが漫画を読みながらベットに寝転んでいた。
 いや待て、おかしいだろう?
 昨日もまったく同じ事を思った気がするが、それでもやっぱりおかしい。
 なんでこのクマがここにいる? 部屋の鍵はかけて出て行ったし、帰ってきたときも鍵はちゃんとかかっていた。昨日は鎧を来たヴァルキリーがベットに仁王立ちしていたが、今日は喋るクマのぬいぐるみがベットを占領している。
 どっちもタチ悪りー。

「……何でここにいんの? つーか鍵かかってたのにどうやって入ってきたんだ?」
「お姉さんを甘く見ちゃ駄目よ。人間君の部屋の合鍵なんて、鍵穴を見れば作れちゃうんだから。まぁ入ってきたときはドアを壊して元通りに直したんだけどね」
「せめて合鍵作れよ!」
「そんなことより人間君、この漫画の続きないの? 今結構盛り上がってるんだけど、主人公のお兄さんが死んじゃった所で次の巻に続くってなっちゃってるの。お姉さんもう気になって気になって仕方がないのよ」

 そう言いつつクマが高貴に見せてきた本は、ちょうどこれから読もうと思っていた俊樹から借りた本。結構楽しみにしていたそれを、何の前触れもなく思い切りネタバレされてしまったのだ。
 高貴は無言でクマの顔を右手で掴むと、そのまま握りつぶしそうなほどの(まぁぬいぐるみなので無理だが)力を込める。手の中で「人間君なにするのー?」などとクマがわめいているが、それをも完全に無視して窓を大きく開けた。

「出てけバカグマァァーーーー!!」

 そう思い切り叫びながら、高貴はクマを窓の外へと放り投げた。

「きゃああああ!! たーすーけーてーーー……」

 クマの悲鳴が空へと響き、その姿は完全に見えなくなる……わけはなく、窓から見える道路の真ん中辺りにクマは落下した。
 いっそのこと車に轢かれればいい。
 まったくもって最悪だ。おかげで楽しみにしていた漫画も読む気がうせた。

「仕方ねーな。とりあえず着替えてテレビでも見るか」
「だったらお姉さんが昼間に録画した昼ドラ見ましょ。ドロッドロの人間関係をエイルに見せてあげるのもいい事だと思うのよねー」
「ふむ、昼ドラというものは見たことがないな。もしよければ私も見てみたい」

 声がしたので振り返ると、そこにはヴァルキリーとクマがいた。エイルは多少遠慮がちだが、クマは先ほど投げ捨てられた事などなかったかのように、平然とDVDをセットしている。

「……おい、なんで入って来てるんだ?」
「だってお姉さん合鍵持ってるもの。余分に作ったからエイルにも渡しておいたわよ」
「もう掃除は済んだのか? クマが入っていいと言ったので入って来てしまったのだが……ふむ、綺麗に片付いているじゃないか。やはり君は綺麗好きなのだな」

 エイルがそう言うなり鞄を置くと、クマの後ろにしゃがんで、DVDプレイヤーを珍しそうに見ている。マッチを見たときと同じような目で見ているので、おそらく初めて見たものなのだろう。
 というよりも二人は完全にくつろぎモードに入っており、追い出すことなど出来そうにない。
 いやいや諦めるな。元から作戦は一個だけじゃない。まだまだ俺の挑戦は終わらない。

「人間くーん、お姉さんのど渇いちゃったからジュースかなんかちょーだーい。できればりんごジュースがいいなー。エイルは?」
「私は居候の身だ。特に気を使ってもらう必要はないよ。と言うよりもクマは飲めないだろう?」

 無視しようとも思ったが、ここは飲み物の一つでも出したほうが話しやすくなるだろう。次の作戦では話しやすいほうがうまくいく可能性が高い。

「わかったよ、ちょっと待ってろ」

 ◇

 コトン、とジュース入りのコップを、折りたたみ式のテーブルの上に置くと、クマが勢いよくそれに飛びついてきた。

「わーい! お姉さんが一番にもーらった。あ、しかも本当にりんごジュースだ。気がきくわね人間君」
「こらクマ、お前が飲んでしまったらぬいぐるみにジュースが染み付くだけだ。給水できない分は床を汚してしまうだろうからやめておけ」

 エイルがクマの首根っこを掴んでヒョイと持ち上げた。同時に高貴もテーブルに置いたコップを下げる。
 それによって諦めたのか、ようやくクマは大人しくなり、高貴は今度こそ自分の分とエイルの分のコップを置いて、エイルの正面に座った。

「ほら、遠慮しないで飲んでいいから」

 これで話し合える形になれた。作戦の第二段階に移る事が出来る。
 作戦その二、常識を説く。
 そもそも一つ屋根の下に若い男女が一緒に暮らすというのはあまりにも非常識すぎる。その事をしっかりと話せば、真面目そうなエイルは諦めてくれるはずだ。
 つーか諦めろ。

「あのさ、エイル。本当にここに住むつもりか?」
「ああ、心配せずとも迷惑はかけないよ」
「でもさ、よく考えてみてくれよ。ここは男子寮で、女子の寝泊りは禁止されてるんだ。それ以前に若い男女が同じ屋根の下っていうのはやっぱまずいだろ。そこらへんを考慮してもう一度考えてみてほしいんだよ」

 エイルはジュースを一口飲むと、「ふむ」といったん考えるような仕草を取る。

「やーねぇ人間君。同じ屋根の下じゃなくて同じ床の上の間違いよ」

 クマがうるさかったので、高貴は顔を掴んで床に押し付けた。わめきながら、それでも声がはっきりと聞こえてくるところを見ると、クマの声は口から出ていると言うわけではなさそうだ。
 やがて考え終わったとでもいうようにエイルが高貴のほうを向く。

「問題ない。私はヴァルキリーだ」

 いや、それもっと勘弁してほしい。

「で、でもさ。いくらエイルがヴァルキリーって言っても、見た目は人間の女と変わりないんだからさ。そこのところも考えると―――」
「そりゃそうよ、エイルも元々は人間だもの」
「……は?」

 顔を床に押し付けられながらも、クマは言葉を続けた。

「ヴァルハラでは、ヴァルキリーの資格を持っている人間をもう人間とは呼ばないだけで、エイルは人間の女の子よ。体の構造とかも人間とまったく一緒」

 ……つまり、ヴァルキリーは人間だと言うことだろうか?
 目の前にいるのは人外ではなく正真正銘の人間でしかも女の子。

「ふむ、言ってなかったか?」
「聞いてねーよ! 昨日思いっきり私は人間ではないとか言ってたじゃねーか! え、つーことはなに? お前って人外とかじゃなくて普通の人間?」
「生物学上では人間の女性になる。ただしさっきもクマが言ったように、戦乙女学校を卒業してヴァルキリーの資格を取ったものを、人間とは呼ばなくなるんだよ。まぁ女性とは呼ぶがね」
「だったらなおさら問題だろ! お前少しは身の危険とか考えねーのか!? 俺は男でお前は女! 一つ屋根の下なんて間違いが起こるかも知れねーだろ!」

 高貴のストレートな物言いに、エイルはしばらくポカンとした表情になっていたが、突然声を上げて笑い出した。

「ははっ! 間違い? なにを言ってるんだ高貴。私のようなヴァルキリー、いや、君の言うとおり女だとしようか。私のような女を抱きたいと思う人間などいるわけがないよ。君は面白い冗談を言うのだな」

 心底そう思っているように見えるエイルに対し、今度は高貴がポカンと口を開けたまま何も言えなくなってしまった。そんな高貴の耳元に、いつの間にかクマが上って来て耳元でささやく。

「あのね人間君。わかったと思うけど、エイルって自分の容姿について自覚がないの。自覚があったらあったでムカつく性格の女が多いから別に良いんだけどね。この前似たような事を話したときも、私が美人だと言うのなら恋人が出来ているはずだよとか言ってたもん」
「……バカだなこいつ」
「エイルを襲うとか夜這いを仕掛けるならお姉さん止めないけど、殺されないように気をつけてね」
「襲わねーよ!」
「ほら、やっぱりそんな気はないんじゃないか。私をからかおうとしても無駄だよ高貴」

 そう言いつつジュースを飲むエイル。本当に心の底からそういうことの危険性を考えていないようだ。
 しかし、まだ終わっていない。高貴はまだ諦めてはいない。

「まて、この部屋にベットは一つしかないし、ほかに布団なんて持ってない。やっぱり無理だ」
「なにを言っているんだ。一緒に寝ればいいじゃないか」
「駄目に決まってんだろうがあああぁぁーーーー!!」

 渾身の切り札を、たった一言の非常識な言葉で覆されてしまった。いったいこのヴァルキリー、いや、この女はどこまで無防備なのか?
 そもそもエイルと一緒のベットになど入って眠れる自信があるはずがない。ついでに理性も持たないだろう。

「ふむ、そこまで嫌なら仕方がない。私は床で寝るから―――」
「待ちなさい!」

 二人を挟むテーブルの上にクマが飛び乗る。

「エイル、あなたは忘れたの? 昨日この世界に転移してきたときに、あなたは人間君のベットを土足で踏みつけたのよ。その責任を果たしてベットはあなたが使いなさい」

 ビシッとエイルを指差し、クマがそういった。と言うよりもそんな責任の取り方は聞いた事がない。

「ふむ、ならばあれか? 男は床下か天井裏で寝ろ、と言うやつか?」
「いやいやいやいや無理だから! 床下も天井裏もすでに使用中だから!」
「仕方ないわね、こんな事もあろうかとお姉さんはちゃんと準備してるのよ」

 ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。

「あ、きたみたい。はーい、今行きまーす」

 それを聞いたクマが一目散に玄関のほうに向かって走っていく。

「っておい! テメーは出るんじゃねえ! こらクマ!」

 高貴もすぐさま玄関へと向かった。



「では、このあたりにおいてよろしいですか?」
「いえ、できればすぐに持ち帰ってほしいんですけど」

 きっぱりと言う高貴に対して、業者の二人は困惑していた。
 簡潔に言うと、ドアを開けると、そこには宅配業者の成年二人がいた。どうやら注文の品を持ってきたらしいが、当然ながら高貴は何も頼んだ覚えはない。
 業者が持ってきたのは二人がけのソファ。それを狭いドアからなんとか部屋の中に入り、リビングの開いたスペースに置いた。
 テレビの正面の位置で、いつもなら高貴が寝転がって漫画を読んだりテレビを見たりする位置にそのソファがおかれる。

「それでは、判子はすでに押されていますので、私達はこれで失礼します」
「いえ、ですから持ち帰ってほしいんですけど」
「え? ですがすでに代金のほうはいただいておりますので」

 そう言って業者の二人はさっさと出て行ってしまった。ポカンとしている高貴をよそに、今まで動かなかったクマが急に動き出すと、テーブルから飛んでソファにダイブした。

「きゃー! 見て見てエイル! これふかふかよ! ほら、人間君も!」
「……テメーの仕業か?」

 クマを両手で掴み、首を思い切り絞めながら高貴はそう聞いた。

「ま、待って人間君。これはお姉さんからのプレゼントよ。これって背もたれを倒すとベットになるタイプなの。だからこれで人間君が寝ればオールオッケーでしょ?」
「テメーらがこれもって出てけばオールオーケーだ」
「ふむ、しかしこれはなかなか寝心地がよさそうだぞ」

 エイルがマニュアルを確認しながら、ソファの背もたれを倒してベットに変形させた。座るように進めてくるので、高貴はクマを絞めたままソファに腰を下ろす。

「む、確かにいいソファだなこれ」
「当たり前よ。高かったんだから。正直人間君が今使ってるベットよりも寝心地がいいわよ」

 悔しいがその通りだろう。それほどまでにこのベットがいいものだと高貴にもわかる。そもそも学園の理事長に五千万も払うような連中なので、相当いい物を買ったのだろう。
 というよりも完全にまずい。なんだか流れに流されるままに、エイル(とクマ)がここに住む流れになってしまっている。防ごうにも作戦は使い尽くした為もう何も出来ない。
 いっその事力づくで追い出すか? いや、自殺行為に違いない。ヴァルキリー相手に喧嘩を売るなど無駄な事だ。

「ねぇねぇ人間君、そんなにお姉さんとエイルがここに住むのは嫌? お姉さん達すっっっっっごく困ってるんだけど」

 クマがソファではねながら高貴に向かってそう言った。

「困ってるってなにをだよ? 金には困ってなさそうだから、その気になればいくらでも住むとこなんて用意できるだろ。なのになんでわざわざ俺の部屋に転がり込んでくる意味がわかんねー」
「だから言ったじゃない。監視する為だってば」

 それもどこまで本当かわからない。そもそも監視などしなくても、記憶を奪う魔術を使えば、昨日と今日の事を完全に忘れさせることが出来るはずだ。
 昨日出会ったばかりのエイルが、記憶を奪うとかなんとか言っていた。
 あの時はまだ、エイルを中二病だと勘違いして信じていなかったが、今思えばあの言葉は本当だったということがわかる。実際に今日クマが、学園の人間の記憶を消したと言っていた。
 なにより今日クマがそれを使っていた。ならばなぜ自分の記憶を消さないのだろう?
 そうすれば監視など必要なくなり、《神器》とやらを探すのに集中する事が出来るはずだ。それなのにこの二人はそれをしない。
 もしかすると屋上で言った冗談が本当で、自分の事を殺すつもりだろうか?
 いや、それはおそらくない。もしもそう考えたのなら自分はもうとっくに殺されているはずだ。
 相手は他の世界から来たヴァルキリーでこちらはただの一般人。殺すのに1秒もかからないだろう。だとしたら本当にこの二人はどうしてここにいるのか。

「ねぇ人間君。じゃあこうしましょうよ。これから一週間だけお姉さんとエイルをここに住ませて。それでもしも人間君が出てけって言うのなら、そのときはここを出て行くから」 
「一週間?」
「そ、いわゆるお試し期間ってやつ。それに一週間位ここにいて、人間君が魔術とかの情報をばらしたりしなかったら、上にも問題ないって報告できるわ。そうしたら人間君の監視も解かれて、エイルがここにいる意味もなくなる。どうかしら? 悪い話じゃないと思うけど」

 確かに悪い話ではない。今から一週間だけ我慢すればこの二人はいなくなり、加えて自分は放置していても問題ないと判断してもらえる。むしろここで逆らえば、ますます目を付けられてしまう可能性が出てきたわけだ。
 もしそうなのなら、今クマが言ったように一週間だけ我慢したほうがましなのかもしれない。しょうがない、このままずっと居座られるよりは、ここはその提案に乗るのが最善か。

「わかったよ。だったら一週間だけだ。それで俺の平穏が帰ってくるなら我慢する」
「本当か? それはよかった。これで上に君を放っておいても問題はないと報告できるよ。そうすればここを出て行くから安心してくれ」

 むしろ絶対に誰にも話さないから、すぐにでも出て行ってほしい。

「はぁ、俺ちょっとトイレ。DVD見るんなら好きにしろよ」

 高貴はため息をつきながら立ち上がる。

「わーい! エイル、昼ドラ見ましょ昼ドラ!」
「ふむ、それは構わないが……」

 これから一週間もこの二人と一緒ということを考えると、胃が痛くなってくる思いになりながら高貴はリビングを後にした。

「……いい、エイル。一週間よ。その期間でなんとかしなさい」
「ああ、わかっている。それだけの時間があれば十分だよ。絶対に彼を殺―――」

 エイルとクマのその会話は、リビングを出て行く高貴の耳には届く事はなかった。

 ◇

「というわけで、覗きに行くわよ人間君!」
「死ね」

 高貴は何のためらいもなくクマを踏み潰した。しかし残念な事にぬいぐるみの為、潰れる事はあっても壊れる事はなく、クマは変わらずわめいている。

「ちょっと! 普通に考えなさいよ! お風呂に入っている女の子がいるのなら、壁を乗り越えて覗きに行くのが礼儀でしょうが!」
「犯罪だ。死ね」
「ちょ、人間君、ギブギブ! これ以上はお姉さん綿が出ちゃうから! 腸が飛び出ちゃうから!」
「そうか、なら死ね」

 高貴は踏みつける力をいっそう強くした。しかしながらやはりクマは潰れる事はあっても壊れる事はない。どうにかしてこのクマを黙らせる方法がないものかと思考を働かせるも、残念ながら何も思い浮かばない。やがて足が疲れてきたので、いやいやながらクマを開放する。

「なーんーでなーのよー。人間君ってひょっとして男の子のほうが好きなの? ガリガリ派? ショタ派? それともマッチョ―――じょ、冗談だから人間君! そんな怖い表情ではさみを持ちながら近づくのはやめて! お姉さんバラバラのスプラッタとか苦手なの!」

 どうやらクマは、バラバラにされるのは嫌らしい。今度からクマを黙らせる用に、ハサミを持ち歩くことを彼は固く決心した。
 結論から言ってしまえば、エイルとクマは案外静かだった。あれからすぐに二人は昼ドラを見始めて、面白かったのか珍しかったのか、それをまじめに見続けていた。
 その間の二人は静かなもので、部屋の中にはテレビの音しか響いておらず、高貴が想像していたよりもかなり楽だった。
 おかげで高貴もベットに寝ころんでゆっくり漫画を読むことができたし、多少気まずかったものの、我慢できないと言うほどではなく、夕食をクマがどこかから買ってきたらしい弁当ですましたところまでは順調だったのだ。
 しかし、これまたクマがいつの間にか準備していた風呂に、エイルに入るように言った後、しばらくしてクマはこう言った。
 のぞきに行こうと。
 そして現在に至る。クマをようやく静かにさせたところで、高貴はソファに座って一息ついていた。心の内では、エイルが入った後の風呂はなんか入りづらいと思いながら。

「はぁ、一週間なんて言ったけど、やっぱやめとけばよかった」
「そんな事言わないでよ人間君。ほら、想像して御覧なさい。今聞こえるシャワーの音は、エイルがシャワーを浴びてる音なのよ。いつも人間君が使ってるシャワーを今はエイルが使ってるのよ。エイルが入ったお風呂に人間君がはいるのよ」
「想像させんじゃねーよ! だから俺が先に入るつもりだったんだよ! なのにテメーがいつの間にかエイルを風呂に入れてたんだろ!」
「またまたぁ、嬉しいくせに」

 実際は嬉しいというよりもひたすらに戸惑っている。高貴は生まれてこの方彼女も出来た事がないので、こんなシチュエーションは経験した事がない。シャワーを浴びてくるヴァルキリーをどんな顔で待てばいいのかなどわかるはずがないのだ。実際誰も知らないだろうが。
 そんなことを考えていると、ふとシャワーの音が止まった、少しして浴室の扉が開く音聞こえてきた。エイルがシャワーを浴び終わり、おそらくは着替えているのだろう。

「あ、エイルあがったみたいね。次は人間君入っちゃう?」
「……そうする、さっさと入って今日はもう寝る」

 高貴は立ち上がると着替えの準備をし始めた。いろいろと考えるのはやめにして、とにかくもうさっさと寝よう。明日以降の風呂は自分が先に入るか、俊樹のとこでも貸してもらおう。そう思っていたその時。

「高貴、少しいいか? 相談したい事がある」

 エイルの声が背後から聞こえてきた。着替えるのが早いな、などと思いながら相談ごととはなんだろうと振り返る。振り返った瞬間その目を疑った。
 そこには体にバスタオルを巻いただけのエイルが立っていたからだ。

「…………」

 思わず言葉を失ってしまった。白のバスタオルを巻いただけの姿。俊樹の言っていたようにエイルはスタイルがよく、戦闘力Dや体のラインが綺麗に出ている。風呂上りのためか、見える腕や足などはほんのりと桜色に染まっており、長い銀髪はしっとりと濡れて、一言で言ってしまえばかなり扇情的な光景だ。

「な、な、な、なんつー格好ででてくんだよこのバカ!」

 たっぷり十秒ほど視線を釘付けにされ、ようやく我に返った高貴が慌てて後ろを向いた。

「なぜ後ろを向くんだ?」
「そんなの決まってるじゃない、恥ずかしくなったのよ。人間君はエイルの胸に釘付けだったもんね。その立派なおっぱいに」

 立派なおっぱい。自分の胸を指差されてそういわれたエイルは困ったような表情になってしまう。

「そんなことを言われても、私のおっぱいに罪があるわけではないだろう? むしろこれは罰だよ。こんな脂肪の塊は大きくても邪魔になるだけだ」
「バカ野郎! 巨乳は最高だろうが!! ……はっ! そうじゃなくてなんでそんな格好してんだよ!!」

 一瞬本音が漏れた。
 そんな高貴を不思議に思いながらもエイルは言葉を続ける。

「今気づいたのだが着替えがない」
「……は?」

 キガエガナイダッテ?

「考えてみれば、私は鎧か制服以外の服を持っていない。裸ではさすがに怒られるのではないかと思い、今はバスタオルを巻いている。制服は明日も着るから着て眠るわけにはいかないので、何か服を貸してはもらえないだろうか?」
「バスタオルだけでも駄目だっつーの! つーか入る前に気がつけよ! おいクマ、なんとかしやがれ!」
「えー、いいじゃないバスタオルでも。そんな女の子と同じ床の上で眠れるなんて、男みょうりに尽きるってやつじゃわかったから人間君すぐに用意するから速攻でなんとかするからだからはさみでお姉さんをスプラッタにしようとか考えないで!」

 今にも自分の腕を切り落としかねない表情の高貴を見て、クマはふざけるのをやめてエイルのほうに近寄っていく。

「とりあえず着替えを用意するから、人間君はお風呂入ってきたら? 上ってくる頃にはもう大丈夫だから」
「そ、そうか。じゃあ俺は風呂に―――」
「まて、高貴」

 なるべくエイルの体を見ないように視線をさげながら這い這いで進む高貴に、二本の足が立ちはだかった。どこからどう見てもエイルの足である。

「風呂場にはタオルが一枚しかなかった。私が使って濡れてしまったが、これがないと君は体をふけないだろう? 風邪をひかれても困るし、このタオルを今返すから―――」

 そういいながらエイルはバスタオルをほど―――

「うわああああああ!! いいからさっさと着替えやがれええぇーーーーーー!!」

 ほどけるよりも早く、高貴はリビングを飛び出して風呂場へと向かって行った。



 大丈夫だ。俺はなにも見ていない。白い足なんて見てない。膝から上はまったく見てないからセーフのはずだ。まるで呪文のようにそう繰り返し、風呂から上った高貴はリビングの扉の前に立った。

「おい、入っても大丈夫か?」

 もう同じ轍を踏むつもりはない。中に入る前にしっかりと中にいる二人に声をかける。

「だいじょーぶよー。入ってきなさい人間くーん」
「エイル、お前ちゃんと服着てるのか?」
「ああ、クマにパジャマを用意してもらったよ。これなら君が怒る事もないだろう」

 クマの言うことを信じられなかった高貴は、一応エイルにもしっかりと確認する。ここはエイルの言葉を信じて、高貴はリビングへと入っていった。
 エイルは確かに服を着ている。別になんの問題も見当たらない青色の普通のパジャマだ。彼女はベットの上に座って髪を拭いており、クマのその膝の上に座っている。エイルの髪は長いのでいろいろと大変そうだ。

「タオルがなくて大丈夫だったのか高貴?」
「もう一つしまってあったから。にしても大変そうだなその髪」

 ソファに座りながら高貴がたずねた。

「ああ、この髪か。確かにその通りだな。正直言って長くて邪魔になるときもあるし、私としてはバッサリと切ってしまってもかまわないんだよ。しかしそう言うともったいないとか言われるんだ」
「そりゃそうだろ。そんなに長くて綺麗な髪なんだから、バッサリ切るのはもったいないって」

 もっともエイルならば、きっと短くても似合うだろうとは思ったが、高貴は口にしなかった。

「ふむ、私の髪は綺麗なのか。自分ではあまりわからないが……そういわれて悪い気はしないよ。ありがとう高貴」

 やがて拭き終わったエイルが、自分の髪をひとなでする。するとその銀髪は、まるでテレビのコマーシャルのようにサラサラな状態になっていた。

「さて、今日はもう寝よう。明日も学校だからな」
「いや、それはいいんだけどさ、本当にお前が俺のベットで寝るのか? お前がこのソファ使ったほうがいいんじゃねーの?」
「それは駄目だよ高貴。私は土足で踏みつけてしまったこのベットに対して責任を取らなければいけない」

 そんなことはしなくていい。なんか恥ずかしいんだよ。

「はい、人間君。これ布団ね」

 いつの間にかエイルの膝の上から消えていたクマが、これまたいつの間にかどこかからか持って来た布団をソファの横に置いた。もはや何もいうまいと悟った高貴は、ソファをベットの形に変形させ、その上に布団をかける。
 エイルもベットに横になり、布団を体にかける。するとクマが、「電気消していーい?」と二人に確認を取ったので、高貴とエイルはそれに頷いた。

「じゃあ消すわね、ポチっとな」

 クマがジャンプして、壁についてあるスイッチを押した。とたんに部屋の中は暗闇に包み込まれる。

「ふむ、便利なものだな」
「なぁ、眠れなかったらいつでも交換するからな」
「あー人間君のエッチ。エイルの残り香をクンカクンカする気ね」
「ふむ、私の匂いなどしないと思うぞ。高貴のにおいならばするが」
「嗅ぐな! テメーらさっさと寝ろ!」
「はいはい、お休み二人とも。明日が超楽しみね」
「ああ、お休み、高貴、クマ」
「……お休み」

 それ以降は会話はなかった。エイルと同じ部屋で眠る事が出来るのかどうか不安だった高貴だが、今日も疲れていたのか、眠気はすぐにやって来て、彼を夢の中へと誘い始めた。



 目覚めは極めて平凡だった。目覚まし時計代わりのスマホに設定してあるアラーム音の音でいつもどおり高貴は目を覚ました。
 ただいつもと少し違うのは、自分が寝ているのがベットの上ではなくソファの上だということ。それと自分が昨日まで寝ていたベットの上には、ヴァルキリーが寝ているということだ。
 エイルはアラームが鳴っても起きる気配はなく、スヤスヤと寝息を立てている。あまり見るのも悪いかと思った高貴は、取り合えずテーブルの上に横たわっているクマを手に取った。

「おい、クマ。起きてるなら返事しろ。てゆーかお前って寝るのか?」
「はぁ、人間君さぁ、起きてすぐにベットの美少女じゃなくてクマに話しかけるって変じゃない? ひょっとしてクマフェチ? クマのぬいぐるみお姉さんじゃなきゃ駄目だとか?」

 とりあえず思い切り床に叩きつけ、その後に思い切り足で踏んでおいた。ぬいぐるみはいくらやっても壊れないからいい。もしかしたら癖になってしまうかもしれない。

「ま、待って人間君。大切な話があるの。エイルについて大切な話があるの。だからお姉さんの話を聞いて」
「はぁ、なんだよその大切な話って」
「……ん―――んぅ……」

 そのとき、ちょうどエイルが目を覚ました。目をこすりながら起き上がり、あくびをしながら軽く伸びをすると、ボーっとしたままベットの上で動かなくなってしまった。
 パジャマが少し着崩れており、高貴は慌てて立ち上がり後ろを向く。

「お、おはようエイル。取り合えず俺は風呂場のとこで着替えるから、エイルはここで制服に―――」

 ふにょん。
 なにやら柔らかいものが高貴の背中に当たった。そして青いパジャマを着た腕が二本、首に回される。なんだろうこの背中に当たっているスポンジのようなものは? スポンジよりももっと柔らかくて、なんだがフニフニしていてすごく気持ちがいい。
 ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。

「えっとちょっとまってくださいよこれってまさかあれですかおれみたいなかのじょのいないれきいこーるねんれいのやろうにはまったくえんもゆかりもそんざいするはずのないじょせいのにくたいのいちぶぶんにそんざいしているぼせいのしょうちょうともいうべきあのやわらかいものですか?」
「エイルのおっぱいだよー」

 背後から能天気な声が聞こえてくる。もはや間違いない。エイルの持つ戦闘力Dが高貴の背中に押し付けられているのだ。というよりも背後からエイルに抱きつかれているらしい。

「なにしてるんですかエイルさーーーん!?」

 感触で我を忘れていた高貴が慌ててエイルを振り払おうと暴れだす。しかしエイルはまったく離れない。

「おいこら! お前そんなことするキャラだったのかよ!? どっちかっていうとこういうことすると破廉恥な! とか言う真面目キャラだと思ってたんだけど!」
「キャハハハ、こーきおーはーよー! きょーもげんきにがんばろー! キャハハハ!!」
「……は?」 

 誰こいつ? 本当に誰こいつ?
 背後から抱きついていた人物は、どこからどう見てもエイルだったが、どこからどう見てもエイルではなかった。

「んー? どーしたのかなこーき。エイルがおはよーっていったんだがら、こーきもおはよーでしょ。はい、おはよーございまーす」
「お、おはよう……じゃなくて! おいエイル! お前寝ぼけてんのか!?」
「ねぼけてないもーん。エイルおきてるもーん。ねーくまちゃーん。ってくまちゃんなんかつぶれてるー。キャハハ、おかしいんだー!」
「おいクマ! これってどういうことだ! つーか誰だこいつ!」

 エイルのせいで動くこと出来ない高貴に踏み潰されたままのクマに問いただす。

「だから大切な話があるってお姉さん言ったじゃない。エイルはすごく朝が弱いのよ。どのくらい弱いかっていうのは見ての通りよ」
「いやこれ弱いとかそういう次元じゃないから! 完全に別人だから! 幼児化してるから!」

 高貴がクマに抗議しているうちに、「てやー!」とエイルが体重をかけ、高貴をソファの上に押し倒した。そのせいで完全に身動きが取れなくなり、エイルの胸もさらに強く高貴の背中に押し付けられ、エイルの髪からはいい香りがしてくる。

「こーき! きょうのあさごはんはなににするの! エイルにする? えいるにする? それともE・I・RU?」
「全部同じじゃなーか! ちょっ、どけバカ野郎! 背中に当たってるって! 戦闘力はDでも破壊力はSなんだっつーの! クマ、なんとかしろ!」
「えー? でも人間君幸せそ―――」
「バラバラにするぞこの野郎!」

 ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。
 柔らかい感触に理性がどんどん削れていく。何故か時々硬い部分が当たっている。そんな中プツンと、高貴は自分の中で何かが切れる音がした。

「さっさと顔でも洗ってきやがれこのバカヴァルキリーがああああーーーー!!」

 無理矢理エイルを引き剥がすと、「はいはい、エイルちゃん、お顔洗いに行きましょうねー」とクマがエイルを洗面所に連れて行った。

「うん、エイルおかおごしごしするー。くまちゃんもいっしょにー」
「エ、エイルちゃーん。お姉さんでお顔フキフキはやめてね?」

 ◇

 そして、あわただしく朝は過ぎていった。

「さぁ、今日も学校に行こう。学生は勉学に励むべきだ」

 完全に元通りになったエイル。もはや朝の面影はどこにもなく、制服を着て鞄の準備も完璧である。。

「それにしても私はいつ起きたのだろう? 気がついたときには洗面所で顔を洗っていて、なぜかクマで顔を拭いてしまっていたし……よく覚えていないな。すまないな高貴、私は朝が弱いんだ」
「……いや、まぁ、うん、別にいいよ」
「気がついたと思うけど、エイルは何も覚えてないから。まぁ今回はいい思い出来たって事で許してあげて人間君」

 確かに忘れられない感触だった。しかし高貴は、これから一週間もこの生活が続くのかと思うと、全てを捨ててでも逃げたしたいとまで考え始めていた。



 繰り返しになってしまうが、月館高貴は何よりも平穏と平凡を求めている。
 そんな彼にとってやはりヴァルキリー、いや、彼女でもないブッ飛んだ少女(とクマ)との同棲など耐えられるはずもなく、わずか1日限界に達した。幸い昨日のエイルが教室で言ったホームステイ宣言は、クマが記憶を消してくれたことが唯一の救いだろう。
 とはいえ昨夜と今朝の事もあり、何となくエイルといるのが気まずくなった高貴は、学校が終わるとクラスメイトに囲まれているエイルをおいてすぐさま下校した。なんとかエイルにばれずに抜け出すことに成功し、取り合えず何となく都心のほうへと向かって行った。
 特に意味はない。強いてあげるとすれば、家から遠くに離れたかったからかもしれない。エイルとはなるべく関わりたくない。
 にもかかわらず、今日の夕飯は二人分だけどどうしようなどと考えてしまっている自分もいる。もしかしたら夕飯を買いに都心に来てしまったのだろうか?
 とはいえ高貴は料理などはしないし、いつも通りコンビニの弁当でいいだろう。エイルの分は買わなくてもいいかもしれない。金には困ってなさそうだ。
 ひとまずこれからどうするかを考える。今の時刻は午後5時。夕飯にはまだ早いので、もう少し時間を潰してから帰ったほうがいいだろう。

「とりあえず……喫茶店でも入って時間を潰すか」

 都心には喫茶店がいくつかあるので、そこでゆっくりして時間を潰そう。そう考えた高貴が、ちょうど目の前にある喫茶店に入ろうとしたときだった。

「いいわね喫茶店、やっぱり落ち着いて話をするときはコーヒーでも飲みながらってのが相場よね」

 背後から、おそらくは自分に向けられたであろう女の声が聞こえてきた。振り返ってみると、そこには中学生くらいの少女が立っている。
 その少女は明らか高貴を見ているのだが、高貴はその少女にはまったく見覚えがない。

「……なっ!?」

 いや、あった。思い切りその少女を見たことが高貴にはあった。その少女の赤い髪を見た瞬間に、高貴は何の予備動作もなくその少女に背を向けて走りさ―――

「待ちなさいって。せっかく見つけたのに」

 ―――れなかった。少女は高貴の襟首を掴んで逃がそうとはしてくれない。

「は、離せよ! な、な、なんでお前がこんな場所にいるんだよ!?」
「ああ、もう! 少しは落ち着きなさい! いい? 今からあたしが言う事をしっかり聞くのよ? この前は悪かったわよ。お詫びになんか奢ってあげるわ」

 背後の少女―――ヒルドは高貴に向かってそう言い放った。

 ◇

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

 ウェイトレスが注文したアイスコーヒーとカフェオレを置いて去っていった。ヒルドはすぐに自分のアイスコーヒーに手を伸ばす。

「ほら、あんたも飲みなさい。せっかくあたしがおごってあげるって言ってるんだから」
「…………」

 どうしてこうなった。いくら考えても明確な答えを高貴は導き出すことが出来なかった。ただ流されるままにヒルドと喫茶店に入ってしまった。まぁ喫茶店に入った理由はたった一言で説明がつくのだろう。
 相手がヴァルキリーでは自分に拒否権はない。
 そんなことを考えていると、「冷めるわよ?」とヒルドが言ってきたので、高貴はカフェオレを一口飲んだ。客が多く入っている喫茶店の割には、詩織の淹れたコーヒーのほうが美味い。

「それで……何の用だよ?」

 ヒルドはストローから口を離すとコップを置いた。カラン、と中の氷が音を上げる。

「別に、この町をぶらぶらしてたら、ただ単に見かけたから声をかけただけよ。今日はずっと店とか見て回ってたの。ここら辺は店が多いからいろいろと買い物が出来ていいわね」
「はぁ? 声をかけただけって……」
「この前はあたしも悪かったから。ほら、思い切り炎飛ばしちゃったでしょ。だから謝ろうと思ったのよ。で、そのお詫びに奢ってあげようと思ったわけ。それでの件はチャラ、なんか文句ある?」
「い、いや……特にはないけど」

 カフェオレ一杯でチャラというのはどうかとも思ったが口には出さなかった。
 しかし意外だ。まさかそんなことを思って自分に声をかけてきたとは。しかも自分が謝罪を受けるとは思ってもいなかったので、思わず高貴はポカンとしてしまった。

「あれ? そういえばその服って買ったのか?」
「ええ、いくらなんでもこの世界で鎧姿で歩くほど非常識じゃないわ。結構似合うでしょ?」

 ヒルドの格好は、前を開けたパーカーにショートパンツといったシンプルな格好だが、確かによく似合っていた。靴もブーツになっているので、おそらくはそれも買ったのだろう。

「ああ、よく似合ってるよ。でも金なんて持ってたのか?」
「覚えておきなさい。世の中にはググっても出てこない諭吉の稼ぎ方なんていくらでもあるのよ」

 間違いなく高貴には一生出来ない稼ぎ方だろう。というよりもエイルといいヒルドといいこちらの世界の事をよく知りすぎではないだろうか?
 あとせめて金の稼ぎ方と言え。
 しかし敵意がないのなら高貴としてもいい機会かもしれない。ヒルドには聞きたい事は山ほどある。

「あのさ、お前がなに考えてんのかわかんねーけどさ、大人しく帰ったほうがいいんじゃねーの? この前だってエイルにやられかけてたし」
「やられてないわよ!」

 急に大声を出してヒルドが否定した。店の中の視線が一気に集まるが、ヒルドは気にした様子はない。というよりも気づいていない。

「あたしがあいつにいつ負けたって言うのよ! ちょっと相手にするのがめんどくさくなったから逃げ―――見逃してあげただけ! 次に見つけたらボッコボコにしてやるわ!」
「わ、わかったから落ち着け! ここは店の中だ!」

 高貴にたしなめられ、ようやく周りに気がついたヒルドは不機嫌そうにストロー摘み、氷をからからと回し始める。

「ったく。だいたいどこにいるのよあのド天然は」
「いや、俺のとこにいるけど」
「……はぁ?」
「いや、だから俺の部屋にいるって。なんだかしばらくホームステイするとか言って無理矢理居座り始めたんだよ。あと学校にも転校してきた。俺が魔術の事をばらすんじゃないかって思ってるんだとさ……てっきり知ってて声をかけてきたんだと思ってたけど」
「ホームステイ? そんなことあたしが知ってるわけないじゃない。えっと、じゃあなに? あんたのとこにエイルがいるって事?」

 高貴がコクリと頷いた。

「何それ? そんなの《アンサズ》で記憶を奪えばいいだけじゃない。ヴァルキリーや魔術師相手ならともかく、ただの人間なら簡単に出来る。そうすれば監視なんてする必要はないわ。なのにそれをしないって事は……」

 ヒルドが何かを考えるように目を閉じる。今ヒルドが言った事は、高貴が考えていた事と同じなので、だんだんと高貴に不安が襲ってくる。やがてヒルドが目を開いた。

「ねぇ、あんたもしかして殺されるかもよ」
「……は?」

 思わず口を開けてポカンとして表情になってしまう。

「あ……いや、確かに何回かそう言われたよ。でも俺を監視するって事で落ち着いたって―――」
「だから、監視なんかしなくても記憶を消せばいいだけだって言ってるでしょ。学校にまで行くなんて手間かけるよりよほど効率がいいわ。なら考えられる可能性は―――あ、もしかしてこうなる事を予想したのかもしれないわ」
「こうなること?」
「《神器》を持つあたしがあんたに接触するかもしれないって事よ。あんたもしかして囮代わりに使われてるんじゃないの? 現にこうしてたまたまとはいえあたしはあんたに接触した。そのときを狙ってあたしを捕らえようとしたのかも。あ、そうなると殺さなくてもその後記憶を奪うだけでもいいか。エイルは今どこ?」
「学校か……もしくは俺の住んでる寮かな」

 高貴の言葉に、ヒルドは少し呆れ顔になった。

「そう、もし本当だとしたら、これって掌の上で踊らされているようでムカつくわね。だったらこっちから仕掛けてやるわ。ねぇあんた、今日の夜エイルをあんたの高校に来るように言いなさい」
「え? な、なんで?」
「あたしって逃げるのは好きじゃないの。この前は遅れをと―――見逃してあげたけど、今日はそうは行かないわ。向こうだってあたしを探してるんだろうしきっと乗ってくるはずよ。あんたの高校ならエイルでも場所がわかるだろうし安心ね。よし、決定よ!」
「ちょ、ちょっと待てよ! そんなこと勝手にきめんなって!」
「あのね、よく考えなさい。エイルは間違いなくあんたに何かを隠しているわ。そんなやつをあんたは信用するの? それにあたしやエイルなんかと関りたくないんじゃない? あんたはこの世界の一般人。あたしが言うのもなんだけど、公園のときみたいな危険はもう嫌でしょ? だったらさっさと縁を切ったほうがいいじゃない。あたしの居場所を教えたら、もしかして記憶を消してもらえて元の生活に戻れるかもしれないわよ。殺す必要がなくて記憶を奪うだけで済むなら、極力殺さないと思うし」

 それは、高貴にとっては願ってもない言葉だった。元の平穏な生活に、エイルに会うまでの当たり前の生活に戻れる。それ以上の甘い誘惑を今の高貴は知らない。
 何より話してみれば、ヒルドは自分に敵意があるようには思えない。なぜ《神器》をもって逃げたかなど、正直高貴にとってはどうでもいい。むしろエイルの言葉よりもヒルドの言葉のほうが納得が出来る。

「……わかった。帰ってエイルに伝えておく。四之宮高校でいいんだな?」
「そう、念のため聞いておくけど、宿直の教師とかはいないわよね?」

 コクリと頷き、高貴はヒルドに四之宮高校の場所と住所を伝え会計に向かった。料金は本当にヒルドがおごってくれるらしく、ここはヒルドの好意に甘えて二人は喫茶店を出た。

「さて、じゃあさっさと帰ってエイルに伝えなさい。あ、忘れる所だったわ。時間は夜の9時くらいにしましょう。そのくらいならもう人は残ってないと思うから。それと当たり前の事だけどあんたは来るんじゃないわよ。間違いなくヴァルキリー同士のマジバトルが始まるから、巻き込まれてしまうかもしれないわ」
「大丈夫だよ、俺は平穏に生きたいんだ。わざわざそんな危険に首を突っ込みたくない」
「あっそ、まぁ身の程をわきまえてる奴は嫌いじゃないわ。じゃあちゃんと伝えなさいよね」

 そう言うとそのまま振り返り、ヒルドは去っていった。おそらくは四之宮高校に向かったのだろう。

「はぁ、なんだか思ったよりも早く平穏が帰ってきそうだ。さっさと帰ろう」

 心なしか気持ちが軽い。都心に来るときは曇っていた心がいささか晴れたからだろう。
 これでいい。これで元に戻れる。もしも俺を囮として使っていたのならば、あいつの場所を教えればエイルはきっと出て行く。だからこれでいい。
 高貴は自分にそう言い聞かせながら岐路に着いた。

 ◇

 喫茶店でヒルドと別れた高貴は、コンビニで今日の夕飯代わりの弁当を買って、その後は寄り道することなく帰宅した。
 ヒルドからエイルに学校に来るように言えと言われたが、エイルとは学校で別れており、連絡する手段もないため、エイルが戻ってきている事に期待しているのだ。
 ドアノブに手をかけると、がちゃりと音を立てて回り、鍵がかかっていないこと意味している。中にエイルかクマがいる事を理解した高貴は、すぐさま中に入った。

「高貴!」 

 入った瞬間に、玄関で声をかけられた。正確には玄関には、心配そうな表情のエイルがクマを抱いて立っていた。

「大丈夫か! 帰ろうかと思って探したらどこにもいないのでビックリしたぞ。携帯電話の番号もわからないし、君は《エオー》も使えないから連絡も取れないし、仕方がないので先に帰っていたんだよ」
「そーよまったくもう。お姉さん達に心配かけていったいどこに行ってたのよ?」

 いったいなにをそんなに心配しているのだろう? しかしどこに行っていたかという質問にならば簡単に答えることができる。きっとこの二人も知りたがっていることだろうから。

「この前あったあの女、ヒルドだったよな? あいつに会ってた」
「なっ……ヒルドだと!! それは本当か!?」

 絶句するという言葉がもっとも適切な表現だろう。高貴の言葉を聞いたエイルの表情はまさにそれだった。それとは反対に、心なしかクマの雰囲気が冷たいものに変わっていく気がする。

「だ、大丈夫だったのか! 痛い事やひどい事をされたとかはないのか!? ヒルドはそんなことはしないとは思うのだが、何か怖い思いをしなかったか!?」
「してないよ、喫茶店でコーヒー奢って貰っただけだ」
「……奢ってもらった?」
「人間君、ちょっとお姉さん達に詳しく聞かせてくれない?」
「都心のほうに行ったらあいつから声をかけられたんだよ。今日は町を見て回ってたらしくて、たまたま俺を見かけたから声かけたんだってさ。で、この前の侘びって事でコーヒー奢ってもらった。それと伝言、今日の夜9時くらいに四之宮高校に来いってさ。なんだか戦う気満々だったみたいだよ」

 無表情で淡々と高貴は話し続ける。その違和感をエイルは見逃さなかった。

「高貴、君が無事なのは嬉しい。ヒルドの事を教えてくれたのも助かった。しかしどうしたんだ? なんだか様子がおかしいような気がするのだが……」
「そんなことねーよ。いいからさっさと行って来れば? ああ、つってもまだ早いか」
「ねぇ、人間君。喫茶店に入ったって言ってたわよね? そこでヒルドとどんな話をしたの? なんかへんな事でも言われた?」

 ああ、確かに言われたよ。別に隠すことじゃないか、あいつが見つかればこいつらにとって俺は用済みだから。

「疑問に思ってたんだよ。なんで記憶を消せる魔法が使えるのに、俺の記憶を消さないのかってさ。お前らが俺の事を監視する事になった事をあいつに言ったら、俺はもしかして囮に使われてるんじゃないかってあの女は言ってたよ。そうでもなけりゃ、さっさと記憶を消すなり殺すなりしたほうが手っ取り早いに決まってるからな。で、俺にあいつが接触してエイルに居場所を教えれば俺は用済みになるんじゃないかって話になった」
「……お、囮? 私たちが、君をか?」
「ああ、用済みになった俺は殺されるか記憶を消されるかはわかんねーけど、多分平穏な生活に戻れるかもしれないってさ。ほら、あいつは学校だよ。場所はわかるだろ? だったらさっさと俺の記憶を消してどこかに行ってくれると助かる」
「あらら、そこまで嫌われてたなんてね」
「……高貴、ヒルドは高校にいるんだな?」
「ああ、信じる信じないはかってにどーぞ」
「信じるさ、君の言葉だからね」

 そうはっきりと断言するエイルに対し、高貴は何故かその目を見る事ができずに視線をそらしてしまった。

「もう囮も必要ねーだろ? 《神器》だかヴァルキリーだかなんだかしらねーけどさ、俺には関係ないんだからよそでやってくれ」
「ちょ、ちょっと待ってよ人間君。君は誤解してるわ。エイルは―――」
「いいんだよクマ」

 クマの言葉をエイルが遮る。

「ヒルドの居場所がわかったんだ。それにこうして高貴がヒルドに会って戻ってきたという事は、きっともうなんの問題もないことなんだと私は思うよ。だったらもういいじゃないか」
「そ、それはたしかにそうだけど―――」
「だからいいんだ。高貴、君にはいろいろと迷惑をかけたり嫌な思いをさせたりしてしまったな。本当にすまなかった。では私はもう行くよ。ああ、それからこれも返しておこうか」

 エイルが制服のポケットから鍵を取り出した。おそらくはクマが作ったものであろうその鍵を、エイルは高貴に手渡す。

「さよなら高貴。本当にありがとう」 

 ニコリと笑いながらエイルはそう言った。笑っているにもかかわらず、その表情はとても悲しそうに見えた。
 しかし、エイルはそれ以上何も言うことはなく、クマと一緒に外へと出て行った。
 それを見送った高貴は靴を脱いで部屋へと入る。買ってきた弁当をテーブルの上において、ベットにゴロンと寝転んだ。
 これでもうエイルが自分に関わる事はない。おそらく学校からも消えるだろう。その事実について、心の底から喜んでいる自分が確かに存在している。にもかかわらず、無性にイライラしている自分も確かに存在している。

「なんだっけかな……あいつに何か言い忘れてる気がするけど……まぁ、いいか。どうせもう会う事もないだろうし」

 平穏は思ったよりも早く帰ってきたという喜びと、自分でもよくわからない苛立ち、そしてベットから伝わってくる安心感を感じながら高貴は目を閉じた。



 どうやら眠ってしまっていたらしい。最近は眠るつもりがなくても寝る事が多いようだ。時刻を見ると、午後8時40分。あたりはすっかり暗くなっている。
 それに腹が減っていることに気がついた高貴は、帰って来る途中に買ったコンビニ弁当がある事を思い出しす。起き上がって部屋の明かりをつけると、テーブルの上においてあった弁当を取り出した。

「あ……」

 袋の中には弁当が二つ入っていた。どうたら自分でも無意識のうちに、エイルの分を買ってしまったらしい。無駄にするのもなんだから明日の朝に食おう。

「わー、おいしそうなお弁当。お姉さんにくれるの?」

 突然テーブルのしたから声が聞こえてくる。高貴が下を覗きこむよりも早く、そこからクマが姿を現した。

「や、人間君久しぶり。コンビニ弁当って侮れないわよね、値段とボリュームがなかなかのバランスになってて」
「……なんだよ、もう俺には用はないだろ」
「まぁ、そういわないで。あ、ちなみにエイルは学校よ。もうすぐヴァルキリー同士のマジバトルが始まるだろうからお姉さん一人で来たの。それとお姉さん真面目な用件で来たのよ。人間君の望みどおり、君のエイルに関する記憶を綺麗さっぱり消してあげるわ」
「え?」 
「本当は殺したほうが確実なんだけど、エイルの希望でここ数日の記憶の一部分を消すことにしたの。これで君の中でエイルに関する記憶はまったくなくなる。《神器》や魔術に関してもね。と、言うわけで《アンサズ》」

 クマの右手が動き、《アンサズ》のルーンを刻んだ。空中に書かれたその文字は、消えることなくそこに浮いている。

「その光に触れなさい。無理矢理消すよりも、君自身が協力してくれたほうがうまくいくのよ。あ、だけどその前にお姉さんのお話に付き合ってくれない?」
「話ってなんだよ? どうせ俺の記憶を消すんだろ。だったらそんなの意味ねーだろ」
「そう言わないで。どうして私たちが君の記憶を消さなかったのか教えてあげるわ」

 その言葉に高貴は強く反応した。ヒルドとの会話で、てっきり囮としてでも使われているのだろうと思っていたが、明確な理由は聞いていない。しかしどうせ理由を聞いてもすぐに忘れてしまうだろう。
 けれどそれでもいい、どうせちょっとした気まぐれだ。それでクマが満足するなら、話を聞く位はかまわない。

「わかったよ、さっさと話せ」
「じゃ、いきなり理由を言っちゃうけどね、君の記憶を奪わなかったのは、君の安全を守る為よ」
「……はぁ?」

 今クマはなんといっただろう。自分の安全を守る為?

「順番に説明しましょう。エイル・エルルーンとヒルド・スケグルが公園で戦い、あなたと別れた後に、私は一つの可能性が頭に浮かびました。もしもヒルド・スケグルがあなたを殺しにくるという可能性にです」
「……ちょ、ちょっと待てよ。あの女が俺を殺す? お前たちじゃなくて?」
「はい、自分の姿を見られたヒルド・スケグルが、あなたを殺しに来る可能性です。異世界において、自分の正体を知るものは少ないにこした事はありません。加えてヒルド・スケグルは《アンサズ》が得意ではない為、あなたを殺すのが手っ取り早く済むと私は考えました」
「で、でもさ、さっきもあいつにあったけど、俺を殺そうだなんて思ってなかったぞ」
「そのようです。つまりは私の判断ミスということになります。そして私はヒルド・スケグルが、あなたを殺しに来るかもしれないという仮説を、エイル・エルルーンに話しました。彼女はヒルド・スケグルがそんなことをするようには思えないといっていましたが、万が一の事を考えてあなたを護衛すると言い出したのです」
「護衛……」
「はい、学校に転校したのも、自宅にホームステイしに来たのもなるべく近くであなたを守る為です。記憶を奪わなかったのは、ヒルド・スケグルの記憶を奪ってしまえば、彼女の顔がわからなくなり、なんの抵抗も出来ぬまま殺されてしまうかもしれないと考えたからです。顔を覚えていれば、逃げようと思うぐらいは出来たでしょうから」

 ちょっと待て。じゃあ本当に俺を守る為だったのか。確かにあいつに会ったときに最初は逃げようとしたけど……

「……なんでだよ? 俺なんてほっとけばよかったろ。むしろ俺を囮にしてあの女を捕まえたほうが良いに決まってるじゃねーか」
「私もそう提案しました。《神器》は世界を揺るがすレベルの存在です。それを持つヒルド・スケグルを人間一人の命で捕らえられるなら安いものですから」
「だったら何で―――」
「エイル・エルルーンがそれを拒否しました。あなたは彼女の「死んでくれないか?」という問いかけを拒否したようですね。「死にたいと思っている人間ならともかく、死にたくないと思っている人間を死なせたくない」そう彼女は言いました。故に彼女はあなたに近づいたのです」

 目の前が真っ暗になっていく。あんな一言を言っただけで。あんな当たり前の一言を言っただけで、エイルは自分を守ろうとしてくれた。

「なんでだよ……俺はあいつの事をやっかいなやつとか、鬱陶しいやつとかしか思ってなかったのに……最初に会ったときも、話ぜんぜん信じてなくて、ただの中二病だと思ってさ」
「それは私も彼女に伝えました。あなたはヒルド・スケグルの場所など知らず、エイル・エルルーンを精神的な障害者だと勘違いしてを警察につれて行こうとしただけなのだと。その事について彼女はあなたにお礼を言ってましたよ」
「お礼?」
「はい、普通ならばそんな人間を見たら関わろうとせずに追い出して終わりです。しかしあなたはエイル・エルルーンの身を案じて、身元を調べさせる為に警察に連れて行こうとしました。そんなあなたを優しいと彼女は言っていましたよ。きっと嬉しかったのでしょうね」
「そ、そんな……だってあいつはヴァルキリーなんだろ? 世界のバランスを守るとか、ベルセルクとかいうのを倒すとか……そういう普通じゃなくて、非現実的で、特別なやつで―――」
「確かにその通りです。エイル・エルルーンはヴァルキリーです。世界のバランスを守るため今は《神器》の回収が最優先、あなたなどにかまうなどもってのほかです。ですが―――」

 クマの言葉がいったん途切れた。

「エイルだってね、人間の心を持った普通の女の子なのよ」

 その言葉は、高貴にとって本当に予想していなかった言葉。いや、きっと目を背けていた言葉だ。

「君に気を使ってもらって、単純にエイルは嬉しかったのよ。だからそんな君を死なせたくなかった、《神器》よりも君を優先した。そんな優しい女の子がエイルなの。君だってわかってたはずよ。じゃなきゃ殺されるかもなんていわれたのにエイルの前に顔を出せるわけがないもの。エイルは自分を殺したりしないって君は無意識のうちに信じてたのよ」

 ああ、その通りだ。自分でもよくわからないけど、初対面であんな事をされたにもかかわらず、エイルが俺を殺すだなんて信じられなかった。じゃあ本当にあいつは、全部俺のためにやってくれてたのかよ。万が一に備えて俺の身を守る為に。

「さて、話はこれでお終い。ヒルドが君に害をなさないってわかったから、君の記憶を消しても大丈夫と判断できるわ。当然今の話も忘れるけど、お姉さん的にはどうしても言っておきたかったの。じゃあ記憶を消すからこの文字に―――」

 その言葉が終わる前に、高貴は立ち上がって走り出した。《アンサズ》の文字には目もくれずに、一目散に部屋から飛び出して行く。

「え? ちょ、ちょっと人間君!」

 取り残されたクマはポカンとした雰囲気でその背中を見送る。しばらくしてため息を一つつくと、右手を振って《アンサズ》の文字を消した。

「はぁ、お姉さんどうなっても知らないからね。それにしても本当にめんどくさい子ね。あの性格じゃ平穏に生きるなんてやっぱ絶対無理だわ」



 自転車を出し、それにまたがった高貴はすぐさまペダルをこぎ始めた。行き先は当然四之宮高校だ。今の時間は8時50分。急いでも9時には間に合いそうにないが、それでも高貴は立ちこぎでペダルをこぎ続けた。

「ったく……一体何やってんだろうな俺は!」

 本当にわけがわからない。クマに記憶を消してもらえば、明日からは平穏な毎日だったというのに。
 それもこれも全部エイルのせいだ。だいたいヴァルキリーなら大人しく世界でも守ってろ。俺みたいな人間なんてほっとけよ。正義の味方でも犠牲が出るのは仕方ないだろ。
 本当にさ。部屋に転がり込んできたり、学校の隣の席に来たり、本当に滅茶苦茶なやつなのにさ。何故か俺はあいつの事を心から嫌いになれない。その理由がようやくわかった。
 教科書読んで授業受けたり。諭吉先生の事を間違って覚えてたり。マッチ見て軽く感動したり。100メートル走で記録破ったりして滅茶苦茶なやつだけど。
 俺にはあいつが普通の人間に見えてたんだ。
 ヴァルキリーだろうと、魔法が使えようと、怪物と戦ってようと、人外なんかじゃなくて、やっぱり心を持った人間だと俺は思ってたんだ。
 しかもとびっきり良い奴だった。すごく優しいやつだった。
 何となくわかる。あいつのとこにいけば俺は絶対後悔する。嫌な予感が止まらない。
 それでも駆け出せ、ごちゃごちゃ考えて手遅れになる前に。
 どうせ後悔するっていうんなら、とことん思い切り後悔するつもりでいけ。

「そうだ、俺は言わなきゃいけない言葉があるんだ!」

 今はまだ記憶を消されるわけにはいかない。その言葉を伝えたらいくらでも記憶消して良いから。この言葉だけは直接伝えなきゃいけないんだ。
 だから―――駆け出せ。

 ◇

 辺りがすっかり暗くなった夜に、四之宮高校の屋上に一人の少女が足を踏み入れた。その少女、ヒルドはキョロキョロとあたりを見回しながら屋上を歩き続ける。

「呼び出しておいて自分のほうが遅く来るというのはおかしくはないかヒルド?」

 屋上のフェンスのほうから声が聞こえてくる。視線を向ければそこには鎧姿のエイルが立っていた。

「悪かったわね、学校を見て回ってたのよ。なんか面白いものでもあるかと思ったけどぜんぜん期待はずれ、なんだかつまんなさそうな学校ね」
「私はそうは思わないがな。戦乙女学校とはまったく違っていて、とても新鮮で楽しかったよ」
「ああ、そういえば学校に潜入したんだったわね。あの男を囮にでもするつもりだったの? ―――来なさい、契約の鎧」

 エイルに近づきながら、ヒルドはその身に鎧をまとった。エイルも警戒を高めていく。

「いや、お前が高貴を襲うかもしれないとクマが言っていたからな。しかしいらない心配だったようだ」
「なによそれ、失礼なこと考えるわね。あんな一般市民をむやみやたらに殺すほど腐ってないわよ」

 エイルから約20メートルほどの距離を開けてヒルドが立ち止まる。

「ならばヒルド、お前はどうして《神器》を持ち去ったまま帰ってこない。力に溺れた訳ではなく正気を保っているのなら、戻らない理由が見つからないんだ。まさか本当に自由を謳歌したかったなどとは言わないだろうな?」

 エイルの問いかけにヒルドはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「頭の固い連中に、《神器》の管理なんて不可能よ。だからもう少しだけあたしが預かろうと思っただけ」
「何だと?」
「話は終わりよ。あたしは話に来たんじゃない。この前やられた借りを返しに来ただけ。だから―――」

 ヒルドがゆっくりと右手を前に伸ばす。瞬間、周囲の空気がはっきりと変わった。

「初っ端から全力でいかせてもらうわ!」

 ヒルドの右手に炎が灯った。それは空気中の見えない導火線に火を付けたかのごとく急速に周囲に迸る。《ケン》のルーンを刻んだわけではない。にもかかわらず、ルーン魔術以上の火力を持った炎の出現に、当然ながらエイルは困惑する。

「……そうか、こらえ性のない奴だ。以前のように使う前にかたを付けるという作戦は失敗のようだな」

 炎が出現した理由を知り、落ち着きを取り戻したエイルだが、理由がはっきりした分警戒を今まで以上に高める。迸る炎が一箇所に集まっていく。ヒルドの右手に集っていくそれはだんだんと何かの形を成していった。
 迸る魔力が、激しく燃え盛る炎が、一本の剣にへとその姿を変えていく。ヒルドがその剣を掴んだ瞬間に、周囲に燃え盛っていた炎が弾けた。
 あれほど激しく燃えていた炎は全て消え去り、代わりにヒルドの右手には今までなかった剣が握られている。まるで燃え盛る炎にそのまま形を与えたかのような姿。赤く、荒々しき形状のその片刃の剣がエイルに向けられた。

「この町に飛び散った《神器》の内の一つ《炎剣レーヴァテイン》。この前は使えなかったけど、今日はなんの遠慮もなしにこの力を使わせてもらうわ」

 ヒルドの纏っている空気、魔力、威圧感、その一つ一つがエイルに見えない重圧をかける。
 公園ではヒルドは撤退したが、エイルとヒルドの実力は元々ほぼ互角に近い。しかし今回のヒルドの武器は、ただの剣ではなく《神器》であるレーヴァテイン。そのただ一つの事実で、エイルは圧倒的に不利な状況にいる事となる。そんな状況でエイルは。

「来い、契約の槍!」

 様子見などする事もなく、自分からヒルドに向かって駆け出した。右手にランスを召喚し、20メートルの間合いを一気に詰める。エイルはヒルドの実力、そしてレーヴァテインの能力もわずかだが知っている。戦いにおいて相手の情報というものはかなりの武器になるが、その情報を元にエイルは最善の行動を取った。
 レーヴァテインは炎剣の名の如く炎を操る剣。その炎を使わせずに剣技のみで勝負をつけるというのがエイルの狙いだ。至近距離で炎を使えば、ヒルドは自分の身をも焦がしてしまうので《神器》の力も半減される。

「真紅の焔!」

 だが―――遅い。エイルが自分の攻撃の間合いに入る前に、ヒルドがレーヴァテインを振り上げた。ルーン魔術とは違って《神器》の力の発動は、空中にルーンを刻む必要がなく、発動までのタイムラグが極端に短い。ヒルドがレーヴァテインで炎を出すのを防ぐには、20メートルという距離はあまりにも遠すぎた。
 レーヴァテインの刀身が焔に包まれる。それを振り下ろすと、焔は火球となってエイルに襲い掛かった。あたる直前に、エイルは右にステップしてそれを回避する。目標を失った火球は屋上のフェンスに直撃し、轟音を上げてそれを破壊した。当然一発で終わるはずがなく、ヒルドはエイルに向けて連続して焔を放つ。それをエイルが避けるたびに屋上が破壊されていく。

「これでは近づけないな―――《ソーン》」

 襲いくる炎の回避を繰り返しながらエイルがルーンを刻んだ。ランスを持っていない左手に雷が迸り、炎を回避した瞬間にそれをヒルド目掛けて放つ。雷刃は無数の炎を掻い潜りヒルドの元へとたどり着く。それをヒルドはレーヴァテインを振るってかき消した。
 その瞬間、炎の嵐が一瞬だけ止んだその瞬間に、エイルが再び距離を詰めた。間髪入れずにランスでヒルドに向かって斬りかかり、それをヒルドがやすやすと防ぐ。

「この距離なら私の剣技のほうが上だ」
「その上から目線がムカつくのよ。とはいえ、あなたにあわせてあげる義理もないわ」

 ヒルドが距離をとろうとするが、エイルはそれを許さなかった。ピタリとヒルドに張り付いて連続でヒルドに斬りかかる。純粋な剣技ならばやはりエイルに分があるのか、ヒルドの表情がだんだんと曇っていく。

「そこだ!」

 わずかに体制が崩れたところにエイルの渾身の一閃。何とかそれを受け止めるも、ヒルドは派手に後ろに吹き飛ばされた。
 エイルにチャンスが訪れた。ヒルドが体勢を立て直すよりも早く、とどめの一撃を食らわせればエイルの勝ちだ。勝負を一気に決めるべく、エイルがヒルドに向かって一歩を踏み出す。
 そしてエイルは見た。レーヴァテインの刀身が今まで以上に激しく燃え盛っているのを。そして吹き飛ばされ体勢が崩れながらも、はっきりと自分を見ているヒルドの姿を。ヒルドはただ吹き飛ばされたわけではなく、エイルの攻撃を利用して自ら吹き飛ばされたのだ。

「燃えろっ!」

 先ほどよりも大きな火球がエイルに向かって放たれた。
 もしも先ほどの一歩を踏み出しておらず、最初から回避行動を取っていればそれをかわす事は出来たであろう。しかしエイルが取っていたのは攻撃の為の行動であって、必然的に炎を回避するのは不可能と言うことになる。
 それでもなんとかダメージを減らすべくエイルは、ランスを大きく振り上げ火球に向かって叩き付けた。轟音を上げて火球が破裂する。視界が塞がれ、破裂した炎と熱気が全身に襲い掛かってくるが、エイルはなんとか体を動かしてその場を離れようとした。

「なっ!?」

 しかし、ヒルドのほうが速い。エイルが動き出すよりも一瞬早くヒルドが接近し、レーヴァテインを振るう。なんとかランスで防御したが、勢いを受けきることができずに今度はエイルが後方に向かって吹き飛ばされた。
 まずい。このまま吹き飛べば屋上から落ちてしまう。体勢を崩したまま落ちるのはさすがにヴァルキリーといえど無傷というわけにはいかないからだ。なんとか体勢を立て直そうとしたが、それは出来なかった。
 ヒルドがエイルに向けて追撃の炎を放ってきたからだ。
 エイルの戦闘経験、炎の破壊力、そしてなにより本能が「防御しろ」と告げている。あれを今受けたら確実にまずいと。このまま体勢を崩しながら落下するよりも、せまりくる炎への対処を優先させたエイルはすぐさまルーンを刻んだ。

「《エイワズ》、我が身を守れ!」

 炎がぶつかる瞬間、青の障壁がエイルの前に現れる。やはり以前受け止めたヒルドのルーンと比べてその炎は圧倒的で、エイルには重く感じた。
 せめぎあった二つの魔力は相殺され、なんとかエイルはヒルドの攻撃を防いだ。しかし爆風によって吹き飛ばされ、屋上から空に向かって飛ばされてしまう。ベルセルクを突き落としたときとは違い、今度は落とされてしまったため、エイルはなんとか体勢を立て直す。

「甘い!」

 そう、甘かった。屋上から落とされた故に、エイルはヒルドの追撃が終わったと判断してしまったのだ。しかし現実は違っており、ヒルドはエイル目掛けて自ら屋上から飛び降りたのだ。レーヴァテインを振り上げ、刀身を炎で包み、エイルに直接炎を叩き付けるつもりだろう。

「《エイワズ》、《テュール》、バインドルーン・デュオ!」

 考えるよりも早くエイルの右手が動いた。刻まれた。二つのルーンあおが一つに溶け合い、エイルの眼前に強化された《エイワズ》の障壁が展開される。

「そんなので―――ふせげるかああーーー!!」
「防いで―――みせる!」

 空中で再び炎と障壁が邂逅する。レーヴァテインの刀身が《エイワズ》の障壁に叩きつけられた。
 瞬間―――炎が爆ぜた。
 爆弾でも爆発したかのような爆発と爆風により、近くにあった校舎の窓が音を上げて割れていく。その様はまるで校舎が悲鳴を上げているかのようだ。火の粉とわずかなガラスの舞うグラウンドに、ヒルドは優雅に着地した。それに一瞬遅れてエイルもなんとか両足で着地する。
 着地した瞬間にエイルが前のめりに崩れ落ちた。エイルの障壁ではレーヴァテインを防ぐ事は出来ず障壁が破られてしまい、かなりのダメージを負ってしまったからだ。

「この世界の言葉ではヴァルキリーは詭道なり、だったかしらね。別に近くだろうとレーヴァテインの炎は普通に使えるわよ。さっきは使えない振りしてただけ」
「……すでにわかりきったことをペラペラと……ずいぶんと余裕なのだな」
「余裕にもなるでしょこの状況じゃ。あたしの勝ちね。悪いけどレーヴァテインは諦めてもらうわ。とは言っても―――」
「ふざ―――けるな」

 ゆっくりとエイルが起き上がった。ダメージによっていう事を聞かない自らの体を無理矢理奮い立たせ、ランスを杖代わりにしてなんとか肩膝をつく。弱々しいその姿とは裏腹に、まだ諦めていない瞳でヒルドを見る。

「まだ終わっていない。何度もいうが、本来《神器》のような強力なものは個人が所有していいものではない。必ず返してもらう」
「人の話を最後まで聞きなさいよ。それにこれ以上なにをするって言うの? 見た感じ打つ手無しって感じよ。もしかしたらヴァルハラに帰る時のために《神器》を預かって来てるかもしれないけど、ここまで追い込まれて使わないってことは、その《神器》との適合率低くて使えないって事でしょ?」
「く―――」
「《神器》を使ったヴァルキリーと《神器》を使えないヴァルキリーじゃ話にならないわよ。まぁ知り合いのよしみで殺したりはしないけど、しばらくの間動けなくなるくらいのケガでもしてもらうわ。心配しなくても《神器》は悪いようにはしないから」

 レーヴァテインが再び炎に包まれる。エイルはまだ動くことが出来ない。ルーンを刻んだとしてもレーヴァテインの炎を防ぐことは不可能。まさしく絶体絶命の状況まで追い込まれてしまっている。

「じゃ、そういうことで。しばらくの間さよならエイル」

 決定的な敗北。それを悟ったエイルは視線を伏せた。今回は負けてしまったが、次こそは必ずヒルドを捉えるという誓いを胸に、少しでもダメージを軽くしておこうと《エイワズ》のルーンを刻む準備を始める。ダメージを軽くしたということをなるべくヒルドに悟られないように、炎がぶつかる直前に発動させるつもりなのだ。
 しかし妙だ。いつもで立ってもヒルドは炎を放ってこない。不思議に思っているエイルの耳になにやら奇妙な音が聞こえてくる。明らかにヒルドが炎を放った音ではないが、不審に思ったエイルはさげていた視線を上げた。

 そこには―――彼がいた。

 ここには来る筈のない彼が、いるはずのない彼が、自転車と呼ばれる二輪車にまたがってそこにいた。

「高貴?」

 エイルが彼の名前を呼ぶ。
 彼は―――月館高貴はエイルのほうに視線を向け、

「やべぇ、もう来るんじゃなかったって後悔してるよ俺」

 心の底から思っているような情け無い表情で銀髪のヴァルキリーにそう言い放った。
 突然現れた高貴という存在により、場の空気は完全に高貴に支配される。
 はずはなく。自転車にまたがったまま青い顔をしている高貴に向かって、レーヴァテインを下ろした呆れ顔のヒルドが口を開く。

「あんた何しに来たの? せっかくあたしが親切で来るなって言っておいてあげたのに」
「えーと……あれ、俺何しに来たんだっけ? なんか大事なことだった気がするけど、ここに来るまでに忘れちまった」

 そういうなり高貴は自転車から降りてエイルに駆け寄った。しかし駆け寄った高貴がエイルに声をかけるよりも早く、エイルのほうが口を開く。

「高貴、君は本当になにをしに来たんだ? クマが君の記憶を消しに行ったのではないのか? ああ、そんなことはもうどうでもいい。それよりも早く逃げろ。ここは今世界でもトップクラスに危険な場所だ」

 そんなことはわかっている。エイルはボロボロにやられているのが一目でわかるし、対照的にヒルドは無傷。しかもそいつの手に持っている剣みたいなのはメラメラと燃えていて、危険だなんてわかりきっている。本来ならばこんな所からは一刻も早く逃げ出したいとも思っている。
 にもかかわらず体は逃げ出そうとしない。視線はエイルの傷の具合の確認をするばかり。本当に自分はどうしてしまったのだろう。そんなはっきりしない高貴に対して、痺れを切らした人物が一人。
 ヒルド・スケグルだ。

「あのさぁ、巻き込まないであげようってあたしの優しさを無視した挙句、自分でもなんで来たのかわかんないって顔してるけど、あたしそういうのが一番嫌いなの。身の程をわきまえてる男は嫌いじゃないけど、はっきりしない男は大っ嫌いなのよ。なんなら―――死んでみる?」

 レーヴァテインの炎が強くなった。人間一人など簡単に焼き尽くしてしまいそうなその炎。しかしおかしい、そんな危険な炎よりも、やはりエイルの容態の方に意識がいってしまう。

「お、おい、大丈夫か? この前は勝ってたから、こんなにやられてるだなんて想像してなかったんだけど」
「情けない限りだよ。ヒルドが《神器》を使っているとはいえこの様だ。それよりも君は早く逃げ―――」
「無理だ」

 エイルの言葉は、最後まで言われる事はなく遮られた。

「足がさ、動かないんだよ。お前に駆け寄る事は出来たのに、逃げようと思うとまったく動かないんだ。自分でも本当にわけがわかんねー。こんなとこには居たくなくて、とっとと記憶を消してもらって平穏な毎日に帰りたいって思ってるのにさ。どうやっても足を動かせないんだ」
「……君は―――」

 ふと、エイルはヒルドがレーヴァテインを振りかぶっているのが目に入った。
「あたしを無視して、なに話してんのよ! いい加減にしろっての!」

 火球が飛ばされる。一直線にエイルに向かってそれは飛来してきた。完全な直撃コースの炎に、とっさにエイルは《エイワズ》を刻む。

「エイル!」

 しかし、魔力の壁が出現するよりも早く、エイルの前に何かが現れた。月館高貴がエイルをかばうように彼女の目の前に立ちはだかった。
 おそらく一番驚いたのは高貴自身だろう。あれほど動かなかった両足があっさりと動いて、エイルを守るように両手を広げ壁代わりになっているのだから。

「《エイワズ》!」

 その高貴の目の前に青い障壁が現れた。ヒルドが威力を抑えていたのか、火球は障壁にぶつかるとあっけなく消え去った。

「《ラグズ》」

 ヒルドが次の行動に移るよりも早く、エイルが次の行動に移る。刻まれたのは《ラグズ》のルーン。移動を表すそのルーンが青い軌跡で描かれる。

「跳ぶぞ高貴!」
「は?」

 エイルは高貴の右手を掴むと、そのまま校舎に目掛けて跳んだ。普通ではありえない数十メートルクラスの垂直跳びで、先ほどヒルドの一撃で割れた校舎の窓から、夜の校舎へと一時撤退したのだ。

「逃がすか!」

 エイルと高貴が逃げ込んだ窓目掛けて、一瞬送れてヒルドが炎を飛ばす。轟音が響き、大きく校舎がえぐれたが、エイルの姿が確認できない。おそらく逃げられた事を理解したヒルドは、取り立て急ごうともせずにゆっくりと歩いて校舎に入っていった。



 暗い校舎の中を、エイルの手を引いて高貴は走っていた。窓から入った瞬間にいきなり炎が飛んできた時はさすがに驚いたが、エイルに引っ張られていたおかげでなんとか無傷ですんでいる。

「こ、高貴、いい加減にしろ。ここは危険だから早く逃げろと言っているだろう」
「だから今逃げてるんだよ! 少し黙ってろ! それよりお前は知って大丈夫なのか?」
「それは問題ない、私はヴァルキリーだ。この程度の傷では―――ではなくてだな、一人で逃げろといってるんだ。私といる限りヒルドは私の魔力を追ってくるぞ。校舎に中に入ったとしても逃げられない」
「それでも少しは時間稼ぎぐらいにはなるだろ! だいたいそんなボロボロなんだから少しは自分が逃げることくらい考えろよ!」
「いや、それはこちらの台詞―――ああ、もう、《ペオース》!」

 走りながらエイルが左手でルーンを刻む。いったいなにをしたのかはわからないが、特に何も起きないので気にしないことにした。
 叫びながら走っていると体力の消費が大きいので、まだ何か言っているエイルの言葉を無視して高貴はひたすら走り続ける。とにかく今は逃げる事だけを考える。頭の片隅で「こんな奴ほっといて逃げろ」ともう一人の自分が言っているが、その言葉を振り払ってエイルの手を離さないでひたすら走る。
 走り続けて、やがて2年3組の教室、つまり高貴たちのクラスの教室の前までたどり着いた。無意識のうちなのか、日ごろの習慣によるものなのかは不明だが、高貴は教室の中へと入っていった。当然ながらそこには誰もおらず、ヒルドも姿を現さないため、ここなら一息つけるだろう。

「おい! 本当に君はなにをやっているんだ! 下手をすれば君までヒルドに目を付けられるぞ」

 少しでも体力を回復させようとした矢先に、エイルが高貴に向かって声を荒げてきた。その表情は明らかに怒りに染まっており、今にも胸ぐらを掴まれそうな勢いだ。

「だから言っただろ。自分でもよくわかんねーよ。クマの話を聞いて、気がついたら自転車に乗って学校に向かってた」
「なぜそのまま記憶を消してもらわなかった? そうすれば君は今までどおりの平穏でなんのトラブルもない日常に戻る事が出来たんだぞ。君は平穏をなにより望んでいると私に言ったな。私にはそれが嘘とは思えなかった。心の底からそう思っているように思えた。しかし今の君の行動はその本心と明らかに矛盾している。平穏がほしいというあの言葉は嘘だったのか?」
「嘘じゃないよ。今でも心底そう思ってる。頭の中でお前なんかほっといて逃げろって今も響いてる。なのに逃げようとすると体が動かないんだ。だけど―――だけどお前が心配だって思うと体が動く。お前を助けたいって思うと体が動くんだ。本当に自分でもわけがわかんねーよ」

 その言葉にエイルが驚いたような表情になった。そしてしばらく止まっていたが、なにやら諦めたようにため息をつく。 

「とにかく、もう逃げようなどと思っても手遅れかもしれない。ヒルドも君に対して怒っていたからな。だったらなんとかしてヒルドを倒すしかないか。……正直な所、君を守りぬく自信などないのだが、せめて私から離れていれば少しは安全かもしれないぞ」
「言っただろ。そう考えると体が動かないんだよ」

 こんな状況にもかかわらず、軽く苦笑しながら高貴はそう言った。それにつられてエイルも笑う。高貴はすぐさま頭を切り替えた。
 考えろ。この状況をどうやったら打開できるかを。エイルはボロボロ、自分は戦うこと等出来ない。力の差は歴然。この圧倒的不利な状況で何か逆転の一手はないだろうか。いや、あるはずだ。必ず何かしらはある。

「なぁ、さっき《神器》を遣ってるって言ってたよな。だったらその《神器》をなんとかして使えなく出来ないのか?」
「ふむ、単純に使用者の魔力が切れると使えなくなるだろうが、ヒルドもそこはわかっているだろう。戦いの最中に魔力切れを起こすということは考えないほうがいい」
「そうか、武器さえ押さえればこの前はエイルが勝ってたから、いい線いくと思ったけど……あれ? そういえばお前も《神器》ってのを持ってるんじゃなかったっけ?」

 屋上でエイルは言っていた。ケルトから《神器》を借り受けていると。ケルトというのがなんなのかは知った事ではないが、持っているのならそれを使えばいい。しかしエイルはなにやら気まずそうな表情になるばかりだ。

「すまない、確かに《神器》は持っているが、私はその《神器》を扱うことが出来ないんだ。それに気に入ってもらうことが出来なくてね。そもそもこちらからヴァルハラに帰るときに使うだけの予定のものだったからな」
「マジかよ、絶体絶命だな……」

 頭の中の逃げろという声が大きくなった。その言葉を無視して高貴はさらに思考を働かせる。そして、特に思考を働かせるまでもなく、ごく当たり前の疑問に高貴は行き着いた。しかしその言葉を言ってしまっていいのか? それは平穏と平凡という自分の生き方の全てを否定してしまうかもしれない一言だからだ。
 本当に聞くのか? やはりやめるのか? おそらくはエイルもその可能性には気づいている。しかし高貴を必要以上に巻き込まない為にあえて何も言わないのだ。ああ、本当に彼女は優しい。そんな彼女だから、きっと自分はここに来たんだろう。

「なぁ、その《神器》って俺にも使えるのか?」

 だから、高貴はエイルにそう聞いた。
 エイルの表情が一瞬固まった。それは聞いてほしくない事を聞かれたという表情だ。

「エイルは言ってたよな、俺にも魔力があるってさ。だったらお前の持ってるその《神器》を俺が使えるかもしれない。そうすればあいつの武器にも少しは対抗できるんじゃないのか?」

 エイルは顔を下げたまま何も言わない。しかしその沈黙はおそらく肯定だということを高貴は理解している。やがてエイルが顔を上げて口を開く。

「君は今なにを言ったのかわかっているのか? 《神器》を使うということは魔術師になるということだ。つまり戦いに巻き込まれるということだぞ。下手をすれば死んでしまうかもしれない戦いにだ。一時の気の迷いで判断していいような事じゃないんだ。平穏な日々も壊れてしまうぞ。後できっと後悔する、だからやめておいた方がいい」
「後悔は……うん、きっとするだろうさ。だってさ、さっきも学校に来た瞬間にはもう後悔してたんだから。だから明日の朝にはきっと後悔してると思う。だけどさ、自分でもよくわからないけど―――いや、ちがう」
「ちがう? なにがだ?」
「俺はお前を助けたいんだ。平穏を望むとか、平凡に生きるとか、巻き込まれたくないっていう本心と同じくらい、エイルを助けてやりたい、エイルの力になってやりたいっていう気持ちが確かにあるんだよ。だからきっと俺はここに来たんだ。だからさ、お前の仕事の《神器》を集めるっていうやつ、俺にも手伝わせてくれ」

 そう言う高貴の瞳にはなんの迷いもない。その言葉は月館高貴のはっきりとした本心だ。

「……君が確実に《神器》を扱えるという保証はない。扱えたとしてもきっと辛い日々になるぞ。死んで天国にでも行ったほうがましだと思えるくらいの地獄の日々になるかも知れない」
「死んで天国に行くくらいなら、地獄で生きたほうが千倍ましだろ」

 間髪いれずに高貴は言う。エイルにももうわかってるはずだ。この少年の決意は揺るがないと。

「……高貴、私は君に聞いていないことがあったよ」
「なんだよ?」
「君は平穏に生きたいと言っていたな。しかし今までの君の人生は平穏だったのか?」

 エイルのその言葉に、高貴は少し苦笑しながら口を開いた。

「……ここだけの話な、自分でもよくわからないけど、何かとトラブルに巻き込まれるんだよ。無意識のうちに首を突っ込んでるってのも結構あるみたいだ。もっともヴァルキリーとのトラブルはさすがに初めてだけどさ」
「……そうか、ならばもう何も言うまい《ジュラ》、《マンナズ》、バインドルーン・デュオ」

 エイルが右手でルーンを刻んだ。二つの文字が一つに溶けあい、空中に青い光が生まれる。

「これは契約の印エインフェリアルとよばれる魔術だ。《神器》を持っただけではヒルドには対抗できないから契約を行う。この光に触れる事で君は私の《エインフェリア》となる」
「エインフェリア?」
「ああ、簡単に言えば魔術師になるということさ。《神器》以外で簡単に魔術師になる方法の一つがこれだ。この契約により、私の戦いに関する知識も僅かながら知識として植えつけられるはずだ。君は残念ながら私の持つ《神器》に選ばれたわけではない。もしもそうなら、とっくに私の手から離れて君の元に現れているはずだからな。だから《神器》に選ばれて魔術師になるのではなく、魔術師になって《神器》と対話してくるんだ。そして《神器》に選ばれれば、君は《神器》を扱えるようになる」
「その《神器》と話してくるって事か。ってことは……エイルは対話して失敗したわけか?」
「その通りだ。どんな事を話したかは覚えていないが、《神器》が私の力になってくれていないことがその証拠だ。だから私は持ってはいても扱う事は出来ない。契約と同時に《神器》を君に明け渡す。それで対話が出来るはずだ」
「これに触れればその《神器》ってのと話せるのか」
「ああ、つまりは―――この光が地獄行きの片道切符だ。もちろん途中下車は受け付けていない」

 地獄行きの片道切符。つまりはこの光に触れてしまえばもう逃げる事は出来ない。今までの日常は砕け散り、信じられないような非現実で生きていかなければいけない。彼はそんな毎日を、当然受け入れられるはずがない。にもかかわらず右手がその光に向かって伸びていく。
 ああ、多分どっちも本心なんだ。関わりたくないって言うのも、エイルの力になりたいって言うのも。後悔だってまたすぐにするだろう。でもいいや、まだ若いんだからいくらでも後悔していいはずだ。
 後悔は後で後悔するほどするとして、今は後悔しないうちにエイルの力になろう。
 高貴の右手がゆっくりと光に触れた。その手を正面にいるエイルの左手が掴む。恋人たちがするような貝殻繋ぎだ。本当に戦いとは無縁とも思える小さなエイルの手に、青い光は吸い込まれるように消える。
 特に何も起こらない。そう思っていた高貴に、少しだけ頬を染めながらエイルが言った。

「私も初めてだ、許せ」

 どういうことだと聞き返す暇もなく、エイルが高貴を引き寄せる、視界がエイルの顔で多い尽くされる。
 次の瞬間には、高貴の唇がエイルの唇でふさがれていた。
 柔らかい、という感触を意識した後、ようやく彼はエイルにキスされたのだと気がついた。
 そして、自分の体に何かが入ってくる感覚を感じながら、高貴の意識は真っ白になっていった。

 ◇

 白、限りない白。
 気がつくと高貴は果てしなく広がる白い空間に立っていた。いや、立っているという表現はおかしい。足は地面についているような感覚ではなく、まるで宙に浮いているような感覚。体験した事はないが、これが無重力というものかもしれない。
 いったいここはどこだろう。確かエイルにキスされて、それから視界が真っ白に染まったはずだ。エイルとキスした事を思い出して、少々取り乱したが、《神器》と対話すると言う事を思い出した高貴は頭を切り替える。

「にしても……《神器》ってどこにいるんだ? ここにいんのか?」

 周りを見渡しても、ただただ白い空間が広がっているだけで何もない。

「おーい! 《神器》とかいう奴! 出て来いよ! ちょっと用があるんだけど!」

 とりあえず思い切り叫ぶ。声が反響しない所を見ると、ここは果てしなく広いのか、それともそういう場所なのか。そして、その呼びかけに答えたかのごとく高貴の目の前に何かが現れた。
 何もない白い空間から、そこに存在しえなかった手が生えてくる。手、腕、胴体、足、そして顔。目の前には学生服を着た少年が突然現れた。驚いた。突然出てきた事もそうだが、その少年は高貴とまったく同じ姿をしている。今朝鏡で見た顔もこんな感じだったから間違いないだろう。

「まったくいちいち騒ぐな。別に呼ばれなくても出てきてやる」

 少年が口を開く。自分の声と違う感じがするのは、自分自身の声は他人には違う声に聞こえるというやつだろうか?

「お、お前は―――」
「誰だ。などというう無駄な質問は省かせてもらう。我があの青いヴァルキリーの持っている《神器》だ。貴様が話しやすいようにこの姿を使ってやったのだ。ありがたく思え」

 話しづらい。それでもこの真っ白な空間に話しかけるよりはましなのかもしれない いや、今はそんなことはどうでもいい。今はそんなことよりも優先することがある。

「なぁ、お前はスゲー力を持ってるんだろ。あのヒルドってのが持ってた剣みたいにさ。だったらお前の力を俺に貸してくれ。エイルを助けるのに必要なんだ」
「断る」

 たった二文字。それほどまでに短い言葉で《神器》は断った。

「な、なんで?」
「そもそも貴様を気に入ったのなら、我のほうから貴様に呼びかけている。契約の印エインフェリアルで魔術師になり、わざわざ我に会いに来ても無駄なことだ。レーヴァテインは赤いヴァルキリーに力を貸しているようだが、我には貴様に力を貸す理由がない。貴様にもわかるような言葉を使うとしたら、メリットがないといえばわかるか?」
「メリット?」
「そうだ。元々我は青いヴァルキリーの帰り道を開くという役割のみをこなす為に、ケルトよりヴァルハラへと貸し与えられたのだ。青いヴァルキリーや貴様に力を貸せなどとは言われておらんし、頼まれようが断らせてもらう」

 武器がメリット求めんなよ。つーか取り付く島もない。しかし諦めるわけにはいかない。なんとかしてこの《神器》を説得しなくては。

「じゃあさ、お前にメリットがあればいいんだろ? 俺に出来る範囲でなら何かするよ」
「我の望みをかなえるというのか?」
「ああ、試しに言って見てくれ」
「では言わせてもらおう。我の望みは、人間が苦しみ、もがき、後悔し、絶望し、足掻いていく、醜い、そして無様な姿を見て、それを嘲笑うことだ」
「…………」

 もうやだこいつー。
 この《神器》はとことん性格が悪い。人格が破綻していると言っていいだろう。《神器》とはこんな存在ばかりなのだろうか?
 エイルもどうせ借り受けるなら、もっと性格のいい《神器》を借りてくればよかったろうに、これでは選ばれなかったというのも納得できる。むしろエイルのほうから断りそうだ。

「……貴様は我の人格が破綻していると思ったろう?」
「お、思ってない!」
「しかし我からしてみれば、貴様のほうがよほど人格が破綻している」
「え、どういうことだよ」
「青いヴァルキリーと共にあった我は、今までの貴様の言動をいくつか聞いている。その中で貴様は心から平穏を望んでいるといったな。それは間違いなく本心だった。しかし青いヴァルキリーの助けになりたいといったこともまた本心だ。おかしいとは思わないか? 本心というものが複数存在している。しかも互いに矛盾しあっている本心がだ」

 《神器》の言葉に高貴は何も言えなくなる。それは自分でも不思議に思っていたからだ。エイルに関わりたくないという気持ちと、エイルの助けになりたいという本心が自分の中に同時に存在している。

「その理由がわかるか?」
「……お前はわかるのか」
「無論だ。答えは至極単純。貴様は平穏を確かに望んでいる。しかし関わった存在や、気にかかった存在とは、納得するまで付き合いたいという自我も存在しているのだ」
「気になった存在?」
「そうだ、一種の二律背反といってもいいかもしれないな。簡単な自己矛盾だ。関わった存在が例えばなんの問題もない人物ならば平穏に過ごせるだろう。しかし問題を抱えた存在と関わってしまったらどうなる? 貴様は関わりたくないと思いつつも、同時に関わりたいと思い―――」
「やっかいごとに巻き込まれる。ちょうどこんな感じにか」
「その通りだ。もっとわかりやすく言えば、困っているものを放っておけない。お人よし過ぎると言ってもいいだろう。そうでなければ、青いヴァルキリーと初めて出会った時に、警察とやらにつれていこうなどとは思わない。普通ならば追い出して終わりだ」
「…………」
「貴様は平穏に過ごすには優しすぎる。平穏とは優しさだけでは手に入らない。故に、貴様は平穏には過ごせない」

 まったく、返す言葉もない。優しいなどと言われて、はいそうですかと受け入れるほうもどうかと思うが、なにを言っても言い返されそうだから無駄だろう。
 けど、おかげで希望が見えた。散々好き勝手言いやがって、今度はこっちが言い返してやる。

「そうか、お前の言うとおりかもな。つーか話がそれすぎてる。だったらやっぱりお前は俺に力を貸せ、そうすればお前の望みは叶う」
「なにをバカな、先ほども言ったが我の望みは―――」
「俺は必ず平穏な生活を手に入れる」

 《神器》の言葉は、高貴の言葉に遮られた。そのあまりにもはっきりとした物言いに、思わず《神器》は黙ってしまう。

「エイルの手伝いをして、《神器》を全て集めて、全部終わらせて俺は平穏を必ず手に入れる。お前はさっき、俺は平穏は手に入らないって言ってたな? だったら意地でも平穏で平凡な毎日を手に入れてやるよ。俺と一緒にいれば、無理な事に無謀にも挑んでるバカの姿がいつでも見れるぞ」
「……苦しむ姿」
「どうせこっちはあの非常識なヴァルキリーに振り回されてるんだ。苦しむ姿だってきっとさらす」
「もがく姿」
「日々平穏を目指してもがくだろ」
「後悔」
「お前が力を貸すって言った瞬間にきっとする。しなかったら明日の朝あたりかな」
「絶望」
「平穏が手に入らないっていつもするかもな」
「そこまでわかっていて―――貴様は足掻くのか?」
「ああ、もっともお前が力を貸してくれればだけどな。きっと力を貸してくれなかったら今度こそエイルを見捨てて逃げるかも」
「醜い、そして無様だな」
「ほら、早速一個叶った。だからさ、俺に力を貸せ。俺の《神器》になれ。エイルの力になる為にはお前の力が必要なんだよ」
「…………」

 まぁエイルを見捨てて逃げるというのはありえないだろうが、高貴はあえて黙っていた。《神器》が黙りこむ。言える事は全て言った。これで駄目だったら―――また他の手を考えるしかない。今回は決して諦めるわけにはいかないのだから。
 やがて《神器》がため息を一つついた。

「いいだろう、貴様に少しだけ興味がわいた。我の力を少しだけ貴様に貸してやろう」
「ほ、本当か!? って少しだけ?」
「ただし、見限る事はいつでも出来るという事は忘れるな。貴様の醜態を見飽きたら、我は力を貸すのをやめる」
「……おい、それって俺に常に恥をかき続けろって事か?」
「やれやれ、帰り道を開くだけのはずが、とんだ見当違いだ。せいぜい我を退屈させないように心がけるのだな」

 《神器》がそういい終わると、《神器》から溢れんばかりの光が発せられた。その余りの眩しさに、高貴は《神器》を直視できずに目を手で覆い隠す。

「お、おい! 待てよこの野郎! まだ話は終わってねーぞ!」

 その言葉に《神器》はもう答えなかった。しかし、確かに「力を貸す」という言葉を高貴は聞いた。

「まぁ、生き地獄でせいぜい苦しみ続けろ」

 ああ、やっぱりもう後悔してる。これでもしも駄目だったら、もしかしたらまだ引き返せたかもしれないのに、これでもう本当に戻る事は出来ない。しかし、確かな喜びもあった。これでエイルの力になれる。少しでも助けてあげられる。
 そこでやっと気がついた。俺は気に入らなかったんだ。《神器》の回収とか、世界のバランスを保つとか大層な事を、たった一人の女の子だけに押し付けるのは。
 だから―――だからこそ、俺はエイルの力になりたかったんだ。



 目を開けば白い世界は消えうせ、あたりは薄暗い教室の中、目の前にはエイルの顔が見えた。彼女は心配そうな表情で高貴を見ていたが高貴が目を開けるとすぐさま声をかけてくる。

「高貴! 大丈夫か!?」
「……えっと、俺寝てたのか?」
「時間的には数秒だ。それでどうだった? 《神器》自体は君の中に送り込んだが、うまく対話は出来たのか?」
「……あれ、何も覚えてない。でもスゲー嫌な気分だ。それにとんでもねー事言っちまった気がする」
「それは……もしかすると失敗かもしれないな。私も対話を終えた後に、何故か腹ただしい気分になっていたんだよ」
「いや、多分―――」

 どおおん!! と突然轟音が響き、教室のドアが爆炎によって吹き飛んだ。とっさに高貴をかばうようにエイルが前に出る。爆炎による煙が晴れると、そこには不機嫌そうなヒルドの姿があった。

「見つけた!」
「くっ、教室では戦えないか。高貴、廊下に出るぞ!」
 ヒルドのいる黒板の近くの入り口ではなく、後ろのほうの入り口から二人は廊下に出た。出た瞬間にヒルドも廊下に出て炎を撃ってきたが、すかさずエイルが《エイワズ》で防御する。その爆炎と爆風により、窓がどんどん砕けちる。
「こんのド天然! 《ペオース》なんてめんどくさいもん使って魔力を隠してんじゃないわよ! おかげで探すのに手間取ったじゃない!」
「誰が天然だ! そもそも身を隠すときは《ペオース》で魔力を隠すのが基本だ。お前が戦乙女学校で真面目に授業を受けていなかったのが悪い」
「なんですってええ!? もうあったまきた! そこの男ごとぶっ飛ばしてあげるわ! やるわよレーヴァテイン!」

 ヒルドがレーヴァテインを掲げると、凄まじいまでの炎が迸る。

「高貴、失敗したというのなら下がっていろ。いくらエインフェリアになったとはいえ、ヒルド相手に素手では―――」
「は? エインフェリアですって?」 

 ヒルドがポカンとした表情になる。そんな中ゆっくりと、高貴がエイルの前に出た。そう、今の自分にははっきりとわかる。自分の中に存在する魔力という力の存在をはっきりと感じ取る事が出来る。
 別にそれは目に見えるわけではない。本当にエイルの言っていたとおりだ。高貴からも魔力を感じると言った。これが元々自分が持っていた魔力だというのなら、どうして今まで気づかずにいることが出来たんだろう? それほどまでにはっきりと魔力があるのがわかる。
 そしてもう一つ。自分の持つ魔力とは違うもう一つの何か。自分自身の持つ魔力など、足元にも及ばないであろう力を持っていそうなその何か。これがきっと《神器》だ。
 ふと、頭の中に声が響いた気がする。よくわからない言葉の羅列。しかし、おそらくそれは自分の中にある《神器》の名前。

「出て来いよ」

 高貴が右腕を前に伸ばした。その動作に二人のヴァルキリーが反応する。高貴の右手に凄まじい魔力が集まっているからだ。

「君は、認められたのか?」
「ちょっと、まさかあんた」

 そうだ、出て来い。今はただエイルの力になってやりたいんだ。だから、力を貸してくれ。

「出て来い、《クラウ・ソラス》!!」

 少年が、自らの《神器》の名を呼んだ。その右手に白い光が迸る。薄暗い廊下が、まるで昼にでもなったのかのごとく光で照らされていく。
 熱い。右腕が燃えているかのように熱かった。そして何も握っていなかったはずの自分の右手に、何かが触れている事に高貴は気がつく。
 それを、彼はしっかりと掴んだ。
 瞬間、光が全て弾け飛ぶ。彼の手には、剣が握らていた。
 まるで雪のように白く曇りのない刀身の両刃の剣。柄には水晶のような透明で小さな宝石がちりばめられたその剣。《クラウ・ソラス》が高貴の手に握られていた。

「まさか本当に《神器》を渡したっていうの!? なんて信じられないことするのよあんた! しかもそれもしかしてヴァルハラの《神器》じゃなくてよそからの借り物じゃないの!?」
「仕方がないだろう! 非常事態だ! 《神器》を持ったまま逃げたお前には言われる筋合いはない!」

 騒ぎ出す二人のヴァルキリーをよそに、高貴はクラウ・ソラスをじっくりと見ていた。魔力を感じ取れるようになった今ならばはっきりとわかる。この剣はヒルドの持つレーヴァテインに負けないくらいの凄まじい力を持っていると。

「エイル、俺はなにをすればいい? 戦いなんてやったことないから指示を出してくれ。二人であいつをぶっ倒そう」

 高貴の言葉にようやくエイルは状況を思い出した。

「あ、ああ。戦い方はわかっているな? エインフェリアとなったときに、私の剣技の一部も知識として君に流れたはずだ」

 言われて気がついた。確かに今の自分は、剣の使い方を知っている。剣道や剣術などはまったくやった事のない高貴だが、確かにその知識を持ち合わせている。

「しかし一人で戦おうだなどとは思うな。二対一という状況を最大限に利用しろ」
「了解だ」

 そして、二人は構えた。

「……ったくもう、《神器》どころかエインフェリアにまでしちゃうなんてなに考えてんのよ。こうなったら―――この前の借りを返すついでに二人まとめてぶっ飛ばしてあげるわよ!」

 ヒルドもレーヴァテインを構える。それが戦いの再開の合図となった。
 高貴がヒルドに向かって距離を詰める。クラウ・ソラスの影響なのか、体が信じられないほど軽い。今ならばきっと100メートルの世界記録を出せるだろう。

「おおおお!!」

 知識として植えつけられた剣の使い方。剣を振り上げ、振り下ろす。その単純な一連の動作を、素人とは思えないほどの速さ、そして正確さで高貴は実行し、クラウ・ソラスでヒルドに斬りかかった。
 ヒルドがレーヴァテインでそれを防ぐ。クラウ・ソラスの曇りのない白い刀身が、レーヴァテインの荒々しく赤い刀身に叩きつけられた。
 響き渡る鋭い金属音。そして―――時間が止まった。

「……マジ?」
「……なに?」
「……はい?」

 実際に時間が止まったわけではない。しかし、高貴、エイル、そしてヒルドの時間が止まってしまったのだ。その理由は、戦いの最中にもかかわらず、思わず呆然としてしまうような事が、三人にとっては信じられないことが起きたからだ。
 響き渡った鋭い金属音。というよりも嫌な金属音。それはまるで最後の断末魔。
 レーヴァテインにぶつかったクラウ・ソラスが、あっさりと砕け散ってしまったのだ。


 パラパラと音を立てて、クラウ・ソラスの粉々に砕けた破片が廊下に落ちた。その場にいた三人はその事実に唖然とし、いまだに動けないでいる。
 武器が砕け、カウンターを受けそうな高貴も。高貴の初撃に続いて、追撃を行おうとルーンを刻んでいたエイルも。武器を失った相手が目の前にいて、本来ならば圧倒的チャンスであるヒルドも。
 クラウ・ソラスという《神器》が砕けたという事実に対して、その思考が完全に停止しているのだ。
 いや、ちょっと待て。いくらなんでもおかしいだろう伝説の武器。普通はここから反撃開始って流れだろう。なのにどうしてこんな簡単に壊れてんだよ。

「ちょ、ちょっとあんた……なに壊してんのよ!」

 状況を把握したヒルドが高貴に向かって叫ぶ。間近での大声だった為、その声は高貴の耳の奥まで響いてきた。

「いや、その……」
「わかってんの!? これって国際問題よ! あんたは今、この世界で言う所の世界遺産を壊しちゃったようなもんよ!」
「そ、そんなこと言われても―――」

 刀身が完全に砕け、持ち手だけになってしまったクラウ・ソラスを見ながら慌て始める高貴。そんな中、二人をよそに行動を開始していたエイルの声が響いた。

「バインドルーン・デュオ! 集え、青き雷光!」

 エイルが刻んだ《ソーン》と《ベオーク》のルーンが一つに溶けあい、エイルのランスに青い光が宿った。ベルセルクをも一閃する威力を誇る雷光の槍ブリッツランス。それを携えヒルドに斬りかかる。
 それをヒルドはバックステップでやすやすと回避した。

「下がれ高貴!」

 エイルはそのままランスを振り回す。天井に向けて虚空を薙ぎ払うようにランスを振るうと、ランスから青い光が放たれ天井を破壊し、それは瓦礫の雨となって眼前に降り注いだ。

「逃げるぞ高貴!」
「あ、わ、わかった!」

 その隙にまたもや二人は撤退を開始する。

「ちょ、待ちなさいよ! さっきから逃げてばかりでいいかげんにしなさいっての!」

 ヒルドのそんな声を当然無視し、高貴とエイルは走り出す。廊下を走り抜け、階段を上ってまた廊下を走る。どこかから時々爆発音のようなものが聞こえてくるが、そんなことも気にしている余裕もなかった。

「お、おい! なんかこれ壊れたんだけどなんでだよ! 《神器》ってスゲー力持ってるんじゃねーのか!?」

 走りながら高貴はエイルにたずねた。

「私に聞かれても困る! そもそもそのクラウ・ソラスはケルトの《神器》で、私は名前は以外は詳しく知らないんだ! クマなら知っているかもしれないが……そうだ、クラウ・ソラスと対話は出来ないのか!?」

 そう言われてもやり方などわからなかったが、とりあえず刀身のなくなったクラウ・ソラスに高貴は意識を集中させてみた。がしかし、当然のごとく何も反応は返ってこない。

「無理だ! もしかして死んだんじゃねーのか!」
「《神器》だぞ! 甘く見るな!」
「あっさり壊れたんだけど!」
「それは―――」
「つーか生きてて返事しないんだとしたら、こいつどんだけ性格悪いんだよ! これもう捨ててもいいか!?」
「性格の悪い《神器》などあるものか! ひとまず戦いやすい屋上にいこう。君はまだルーン魔術までは使えないだろうから、邪魔にならないように下がっていてくれ。さっきも言ったが、今のヒルド相手に君を守りきれる自信はない」

 おいおい、これじゃあまるっきり足手まといだ。
 せっかく平穏を捨ててまでエイルの手伝いをすると決めて、《神器》まで手にしたというのに、これではなんのために決断したのかわかったものじゃない。エイルの力になるなど笑い話もいいところだ。
 
 ―――無様な姿だ。

 ふと、頭の中でそんな声が聞こえた気がした。エイルを見捨てて逃げろという声がせっかく止んだというのに、今度はそれ以上に不愉快な声が聞こえてくるのに加えてこの絶望的状況。いったいどうすればヒルドを倒せるというのだろう。
 階段を駆け上がりひたすら屋上を目指し、二人はなんとかヒルドよりも先に屋上にたどり着いた。この学校の屋上はここまでボロボロだったのかと疑問に思うほど変わり果てていたが、間違いなくヴァルキリーが原因だろうと高貴はすぐさま理解する。

「はぁ……はぁ……ど、どうすんだよ。この剣がこんなに役立たないとは思ってなかったから、このままじゃ俺って本当に役立たずだよな」
「ふむ、一応常人以上の身体能力は備えているはずだ。たとえば屋上から飛び降りても死ぬ事はないだろう。しかしルーン魔術は理解しやすいものでも、実践で使うには三日はかかる。それに加えて《神器》がそれでは―――」
「なんのお役にも立てないってか。ったく、本当になんなんだよこのガラクタ」
「と、とにかくだ、君はクラウ・ソラスに呼びかけてみてくれ。その間は私がなんとか戦おう」
「いや、呼びかけるったって―――」

 その言葉が最後まで発せられる前に、屋上の地面が轟音を上げて吹き飛んだ。あまりに突然の事により、高貴とエイルはとっさに爆発点から距離をとる。二人の立っていた数メートル先に大穴が開き、その穴の中からヒルドが屋上に入ってきた。

「見つけた! 結局ここに戻ってきちゃうんじゃないの。もう諦めてあたしにぶっ倒されろっての!」
「どこまでメチャクチャなんだよこいつは! どんだけ学校壊す気だよ!」
「うるっさいわね! この町はどうせもう災害保険に入ってんでしょうから明日には元通りよ! 《神器》は保険きかないんだからあんたよりはまし! 真紅の焔!」

 ヒルドが火球を飛ばしてくる。高貴に向けて放たれたが、エイルが高貴をかばうように前出でると、雷光の槍ブリッツランスを振るいそれをかき消した。

「高貴、もしも無理なようなら私に構わず逃げろ!」

 エイルがヒルドに向かって走り出すと、それを迎え撃つようにヒルドも前に出た。二人のヴァルキリーが互いの武器で舞でも踊るかのように斬り結ぶ。互いの武器がぶつかり合う度に、青い光と赤い火の粉が周囲に弾け飛んだ。
 純粋な剣技ならばエイルが上に違いないが、蓄積されたダメージにより、エイルの動きはいささか鈍いものになっていた。ヒルドの攻撃に押されて、エイルが少しずつだが屋上の縁に追い詰められていく。そして、猛攻を防いでいたエイルにとうとう隙が出来た。ヒルドの斬り上げにより体勢が崩れ、腹部ががら空きの状態になってしまったのだ。

「爆ぜろおぉ!」

 ヒルドの渾身の横一閃、そして爆炎が弾けた。エイルがそれをもろに受け吹き飛び、ランスを手放して力なく屋上にうつ伏せに倒れる。エイルは倒れたまま動く事はなかった。

「エイル!」

 瞬間、高貴がヒルド目掛けて駆け出す。武器もなく、魔術も使えないにもかかわらず、エイルの逃げろという言葉を無視して。いや、考えるよりも早く体が動いていた。右拳を振り上げ、ヒルドの顔面目掛けて思い切りその拳を振り切った。
 しかし無常にもその拳は、何事もなかったかのようにヒルドの左手に阻まれた。いくら力を込めてもヒルドは平然と高貴の拳を受け止めている。自分より体格も小さい細腕のヴァルキリーはつまらなさそうに右足を振り上げた。

「がはっ!」

 回し蹴りが腹部に直撃し高貴が吹き飛ぶ。手に持っていたクラウ・ソラスも乾いた音を立てて手から零れ落ちた。

「ま、所詮はその程度よね。エインフェリアって言ってもなりたてで、《神器》持っててもすぐ壊しちゃうような男じゃ。やっぱあんたなんて殺す価値もぶっ飛ばす価値もないわ。見逃してあげるから感謝しなさい」

 そういい捨てるとヒルドはエイルの元に歩き出す。エイルはうつ伏せに倒れたまままだ動く事は出来ない。手元から離れたランスに向かって必死に手を伸ばしている。
 一歩一歩ヒルドはゆっくりと近づいていく、それはまるで敗北までのカウントダウンのようだ。高貴はそれを見ていることしかできない。これで終わりなのかもしれない。《神器》なんてたいそうなものを手にしても結局自分には何も出来なかった。
 これで終わり。自分は見逃してもらえるからそこは安心か。そもそもこんな非常識な事は最初から無理だったんだ。だからもう大人しくしていよう。このまま倒れたままで、

「いいわけ―――ねーだろ!」

 おいコラ、いい加減にしろよこの平穏主義者。お前に言ってんだよお前に。テメーは自分から平穏をあっさりと捨てて、自分から生き地獄に飛び込んだんだろうが。それが女の蹴り一発食らっただけでもう諦めてんのかよ。エイルを見ろ。あいつは俺よりボロボロなのにまだ諦めてない。必死に武器に手を伸ばしてる。
 なら俺が諦められるわけねーだろ。どんなに後から後悔する事になっても、一度決めた事が最後までやれよ。エイルを助けたいんだろ、力になりたいんだろ。どうすればいいのかとかぜんぜんわかんねーけど。
 それでも立てよ、ごちゃごちゃ考えて手遅れになる前に。
 高貴がクラウ・ソラスに右手を伸ばし、それをしっかりと掴んだ。刀身が完全に砕け散っており、もはやなんの意味も成さないその剣を持ち、ゆっくりと彼が立ち上がる。それに気がついたヒルドが、いったん足を止めると高貴に向かって振りかえる。

「はぁ、やっぱりただ蹴っただけじゃダウンしないか。でもどうする気? 壊れた《神器》じゃあたしには勝てないわよ。あなたには何も出来る事なんてないわ」
「そんなこと知ってるよ。それでも簡単に諦めるわけにはいかねーだろ。自分から首を突っ込んで、一度やるって決めたんだから」
「……気に入らないわね」

 ヒルドがレーヴァテインを掲げた。その刀身が焔に包まれる。

「まずい……高貴、もういい逃げろ……!」

 エイルが必死に高貴に向かって叫ぶも、彼にはもう逃げるという選択肢はどこにもない。

「つーか、お前は自分の心配してろっつーの。そんなボロボロなんだからさ……」

 守ってくれるものはおらず、守るべき術もない絶望的な状況で、高貴はひたすらにクラウ・ソラスに語りかけた。

「クラウ・ソラス。エイルを助けたいだなんて思ってて、こんな他人任せなのは情けないけどさ。もしも壊れてないのなら俺に力を貸してくれ。俺はもうお前に頼るしかないんだよ。だから―――力を貸してくれ!」

 その祈りが通じたのか、それともただの気まぐれなのか。クラウ・ソラスから声が聞こえた気がした。

 ―――口だけは達者で自分はなんの力も持たないとは本当に無様な奴だ。まぁ、この状況で口が出るだけましか。少しだけヒントをやろう。これが我の、《光剣クラウ・ソラス》の力の一部だ。

 そして、右手に何かが集まりだした。いや、エインフェリアとなった今ならばはっきりとわかる。自分自身の魔力が、右手に集まってきている。そしてその魔力がクラウ・ソラスに流れ、白い光に包まれていく。

「これで寝てろ!」

 ヒルドの持つ炎剣が振り下ろされ、火球が放たれた。エイルの目が大きく見開かれる。おそらくまともに食らえば致命傷は避けられないだろう。しかし、高貴の視線は炎ではなく自らの手にある剣に向けられていた。
 魔力が集い、光が形を成していく。クラウ・ソラスから光の線が真っ直ぐに伸びる。
 これは―――剣?
 クラウ・ソラスの砕けた刀身の変わりに、白い光で新たに刀身が作られた。白、限りない白。どこかで見たことがあるように果てしなく白い光の刃。

「おおおおお!!」

 反射的に高貴の体が動いた。自らにせまりくる火球目掛けてクラウ・ソラスを振るう。手ごたえなどない、何かに当たった感触などまったくなかったにもかかわらず、白の光刃は赤い火球を簡単に斬り裂いた。二つに裂かれた炎が力なく爆ぜる。

「は? なによ今の……」

 レーヴァテインの放つ炎をあっさり真っ二つにされたことにより、ヒルドの表情がわずかに変わった。エイルも信じられないという表情になっている、しかしそれ以上に驚いているのは、炎を斬り裂いた高貴自身だ。クラウ・ソラスを見ると、光の刀身はすでに消えており、またただのガラクタ同然の代物になっている。

「い、今……なにしたんだ俺? なんか光の剣みたいなのが……」

 確かに今クラウ・ソラスから光が伸びて、炎を斬り裂いた。

「クラウ・ソラス……《光剣クラウ・ソラス》……光の剣? じゃあもしかして今のがこいつの本当の力なのか?」

 もしもそうだとしたら、刀身が砕けたことなどなんの問題にもならない。むしろ邪魔な部分がなくなったようなものだからだ。もしも今の力がクラウ・ソラスの力で、もう一度今の刃を出せたのなら、この状況をひっくり返せるかもしれない。しかしいったいどうすれば―――

「イメージしろ!」

 試行錯誤している高貴の耳にエイルの声が届いた。

「先ほどの光の形をイメージするんだ! 魔力をクラウ・ソラスに流し込み、それを自分のイメージで形にしろ! その剣はきっと、君しだいでどんな形にもなるはずだ!」
「イメージ……」

 知識として植えつけられた魔力の扱い方、それに従って高貴は魔力をクラウ・ソラスへと流し込む。頭に思い浮かべるのは光の刃。限りない白、穢れのない純粋な白い光。
 イメージしろ。今まで見てきた漫画や昔見たアニメとかで、似たようなものを見たことがあるはずだ。現実の常識ではなく、非現実の非常識で考える。その非現実を、今この現実に具現化させるイメージ。すると白い光が段々と集い、再び光の刀身が構築されていく。

「で、できた!」
「っ! このぉ!」

 魔力の高まりを感じたヒルドがすかさず炎を放った。しかし、もはやそれは高貴には通じない。先ほどと同じく、炎は刃によって斬り裂かれる。今度は光の刀身は消えることなく、その輝きを保ったままだ。

「よし、これなら!」

 高貴がヒルドに向けて一歩踏み出した。クラウ・ソラスを携えて、間合いを一気に詰めていく。今のこの剣ならば、いくら炎を飛ばされようとも恐れる事はない。廊下での最初の一撃と同じく、剣を振り上げて振り下ろす単純な動作。輝きを増したその刀身が、レーヴァテインに叩きつけられた。
 鋭い金属音のようなものが響く。今度はその刀身は砕ける事はなかった。

「こんどこそ反撃開始だ! 今までの借り全部返してやる!」
「このっ、調子に乗ってんじゃないわよ!」

 そして、少年とヴァルキリーの剣舞が始まった。



 夜の校舎、その屋上。そこは今、学生の学び舎としては相応しくないほどにボロボロになってしまっている。落下防止用のフェンスはへこみ、吹き飛び、地面は焦げ跡や大穴がいくつも開いている。そしてその場で行われているさらに非常識な光景。光の剣を持つ少年と炎の剣を持つ少女がそこで剣戟を交わしていた。

「こいつッ! なんでここまで……」
「うおお―――ッ!」

 高貴の叫びにヒルドがわずかながら気圧される。つい数分前まではただの少年だった高貴が、今自分と互角に剣を結んでいるのが信じられないのだ。その動揺が無意識のうちに彼女の動きを鈍くしている。

「エインフェリア……あのド天然、なにやってくれちゃってんのよ!」

 月館高貴はエイルのエインフェリアとなった事で、エイルの剣技をわずかながら引き継いでいる。しかしそれは達人になったというわけではなく、扱うことが出来るといったレベルであり、ヒルドに及ぶようなレベルではない。
 高貴自身もその事に気がついているからこそ、攻撃の手を休めるわけにはいかない。ヒルドが動揺しているうちに、勢いに乗って一気に勝負を決めるしか彼には勝機がないからだ。攻める、ひたすらに攻め続ける。それ以外に高貴に出来る事など何もないのだから。
 しかし、ヒルドの戦闘経験は高貴とは比較にならない。落ち着きを取り戻しつつある彼女はまずは防御に徹し、高貴の剣戟を全て防いでいる。そして彼の攻撃方法がそれのみだということを確信した時点で、ヒルドは完全に落ち着きを取り戻した。

「剣振り回すしか能がない男が、いつまでも調子乗ってんじゃないわよ!」

 クラウ・ソラスを受け止め、高貴の動きが止まった一瞬の隙をついて、ヒルドが高貴の足を払った。足元には意識を回していなかった高貴は、あっけなく尻餅をつく。間髪いれずにレーヴァテインの燃え盛る刃が振り下ろされた。

「うわっ!」

 反射的にその場から離れ、レーヴァテインをなんとか回避する。しかしその一撃により爆炎が起こり、風圧で高貴は吹き飛ばされた。体中に襲い来る衝撃と肌を焼くような熱気。数メートルほど吹き飛ばされた彼は、すぐさま視線をヒルドに向けた。しかし、ヒルドはすでにレーヴァテインを振り上げていた。
 レーヴァテインが燃えている。そしてその上で、まるで小さな太陽のような火球が勢いよく燃えている。戦闘経験が皆無な高貴にすら、直感であれはやばいと理解できた。

「《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》!!」

 ―――よけれない!
 その思考とクラウ・ソラスを振り上げたのは同時だった。せまりくる火球を無我夢中で斬りつける。しかし、斬り裂けない。力が拮抗している。ヒルドがより多くの魔力を込めたのか、その炎は先ほどまでのそれとはまるで違う。炎に質量などないにもかかわらず、このまま押しつぶされてしまいそうなほど、その炎は強力なものだった。

「う……わあ――――――ッ!!」

 力を込め、魔力を込め、そして―――太陽が弾けた。その爆発でクラウ・ソラスの光刃が砕け、光の粒子となって空気中に溶ける。直撃こそしなかったものの、その爆発は高貴の体に確実にダメージを残していた。さらに爆発のときに生じた爆煙で、高貴の視界が塞がれており、ヒルドの姿も確認できない。

「くそっ、どこだよあいつ!」

 その時、爆煙を突き破って、ヒルドが一気に間合いを詰めてきた。反射的に刃を再び展開させたものの、間髪いれずにレーヴァテインが振るわれ、先ほどとは逆に高貴が防戦一方となる。ゾクリと、間近に炎の剣があるにも関わらず背筋に寒気が走った。
 怖い、心の底から怖い。この炎が、この剣が、そして目の前にいるこのヴァルキリーが。高貴の心が恐怖で塗りつぶされていく。心の中に迷いが生まれる。それを表したかのように、クラウ・ソラスの光の刀身が、心なしか弱々しいものになった。
 その弱くなった光の刃に、ヒルドは当然のごとくなんの遠慮もなしにレーヴァテインを叩きつける。

「ほらほら、どうしたの。ビビッて力が下がってるわよ。所詮は素人って所かしらね」

 ギリギリとクラウ・ソラスとレーヴァテインがせめぎ合う。燃え盛る炎に包まれた力強い刃に比べて、白の光刃は段々とその勢いを失っていく。それはまるで高貴の心情をそのまま表しているかのようだ。
 しかし、もしもこのまま光が消えたら、この熱そうでスゲー痛そうな剣が俺にもろに当たる。そんなの―――

「冗談じゃ―――ねぇよッ!」

 その身に感じる恐怖すらも、高貴は力へと変える。クラウ・ソラスの光刃が再び輝きと力強さを増した。そのまま力任せにクラウ・ソラスを振り切ってヒルドを弾き飛ばす。ヒルドは体勢を立て直しても、突っ込んでくる事はなく様子を見ているので、高貴も自ら向かっていく事はなかった。
 代わりにエイルに向かって走る。エイルはランスを手に取り、それを杖代わりにしてようやく立ち上がっていた。

「エイル、大丈夫か?」
「……この程度なら大丈夫だ。君に頼りきりで申し訳がないよ」
「そんなの気にすんな。それよりどうするよあいつ」

 このままでは埒が明かない。というよりも段々と追い詰められている。ただ攻めることしか出来ないと思っていたが、どうやらただ攻めているだけではヒルドを倒せそうにない。
 明らかに自分は決め手に欠けている。例えるならば技を持っていない。なにかしらの特別な攻撃方法でもない限り、自分一人ではヒルドには届かないだろうが、高貴には技など何も知らない。

「だったら……一か八かだな。出来なかったらゴメンなエイル」
「なに?」

 イメージしろ。クラウ・ソラスの光の刀身。エイルの言葉を信じるならばきっとできるはずだ。

「何をするのか知らないけど、もうそろそろお終いよ。レーヴァテイン、全力でいくわよ。二人まとめてぶっ飛ばす!」

 そのヒルドの叫びに答えるかのごとく、レーヴァテインが今まで以上に激しく激しく燃え盛る。おそらくは次の攻撃で勝負を決めるつもりだろう。単純な強い力で、魔力で、二人が防げないであろう攻撃をヒルドは行うつもりだ。

「うわぁ……あれ食らったら終わりだな」
「ならば話は簡単じゃないか。食らわないようにすればいいだけだ。《ソーン》、《テュール》、バインドルーン・デュオ」

 エイルが二つのルーンを刻んだ。公園の時に見せた迅雷の咆哮。その右手に雷が弾ける。

「高貴、私の雷ではレーヴァテインの炎を防ぐことなど到底出来ない。せいぜい数秒勢いを弱める程度だらう。だからその間になんとかしてくれ」
「なんとかって言っても……」
「できるさ、君はクラウ・ソラスに選ばれたのだからな」

 簡単に言ってくれる。この《神器》はあまり自分に対して協力的とは思えないというのに。しかし、そこまではっきりと言われてしまったからには、その期待に応えたくなってしまう。

「わかったよ、なんとかしてやる」
「出鼻をくじく、後の事は任せた」

 エイルが、雷を纏った右手をヒルドに向けた。

「響け、《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》!!」

 ヒルド目掛けて、一直線に雷が放たれた。正真正銘エイルの全力の魔術。まるで落雷のようにヒルド目掛けて突き進む。

「全力の……《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》!!」

 それに対して、ヒルドも紅玉を解き放つ。高貴に放ったそれよりも、いっそう強力で巨大なヒルドの全力の炎が屋上を削りながら向かってくる。夜に響く迅雷の咆哮と、全てを焼き尽くすかのごとく紅玉が激突した。
 しかし、無常にも迅雷の咆哮は炎の勢いを僅かに弱くしただけで、簡単に飲み込まれてしまった。雷をかき消した炎はなおも突き進む。その先にはヴァルキリーの少女とそのエインフェリアの少年。
 絶体絶命だ。クラウ・ソラスで斬り裂こうにも、光刃の長さも力も確実に足りない。それでも、高貴はクラウ・ソラスを振り上げる。剣道でいう所の上段火の構え。もちろんそんなことばを高貴が知っているはずはないが、この構えが一番いいと判断した。
 大丈夫だ。きっとできる。エイルの言葉を信じろ。この剣は、クラウ・ソラスはきっと―――
 俺の望むままに姿を変える。

「うおお――――ッ!!!」

 夜に少年の咆哮が木霊する。そして、クラウ・ソラスの刀身が勢いよく伸びた。普通の剣と同等の長さしかなかった光の刃が、まるで天に突き刺さる柱の如く5メートル近くにまで伸び、力強さも増している。
 それを、高貴は縦に真っ直ぐと思い切り振り下ろした。伸びた光の刃が紅玉を受け止める。ギリギリと拮抗しあう光と炎。受け止める事は出来たものの、斬り裂くにはまだ力が足りない。あと少し。本当にあと少しの力さえあれば―――。
 段々と炎が光の刃を押してきている。このままでは押し切られてしまう。ここまでかと高貴があきらめかけたその時、自分の中に何かが流れてきた。
 自分の魔力でもクラウ・ソラスの魔力でもないその何か。それはとても力強く、そして暖かな力。知っている、この魔力はエイルの魔力だ。ふとエイルのほうを向くと、クラウ・ソラスを持つ手に彼女の手が重ねられる。

「私も力を貸そう。魔力を一気に開放しろ!」

 自らに流れてくるエイルの魔力をクラウ・ソラスに全て送り込む。

「「いっ……け――――ッ!」」

 高貴とエイルの声が重なった。光の刃が燃える紅玉をどんどん押し返していき、紅玉が一閃の元に斬り裂かれた。

「な……」

 斬り裂かれた炎の向こうに、驚愕の表情をしているヒルドが見える。チャンスは今しかない、たたみかけるなら今しかない。もっと強い刃。もっと強い光。イメージ、全てを切り裂くイメージ!

「エイル、伏せろ!」

 高貴が叫んだ。その理由を聞き返すよりも早く、反射的にエイルが足を曲げてしゃがむ。高貴の手からエイルの手が離れた。それでも繋がっている。手ではなく、言葉では表現できない何かがエイルと繋がっているおかげで、エイルの魔力はまだ流れてきている。

「伸びろ―――ッ!」

 クラウ・ソラスの刀身がさらに延びる。10メートル、20メートル……40メートルほどまで一気に伸びた。それを水平に構える。もはやその刀身は屋上には収まりきらない。そんな巨大な刃を―――

「《光刃円舞ライト・サークル》!!」

 頭に浮かんだその言葉を叫びながら、横一閃で全てを薙ぎ払った。刃がエイルの頭上を通り過ぎる。屋上のまだ無事だったフェンスも、屋上に入るための入り口も、高貴を中心に360度、全て水平に斬り裂かれた。全てを斬り裂いた刃は、役目を終えたかのように弾けて消える。いや、斬られていない例外があった。ヒルドだけは刃がぶつかる直前に身をかがめ、その一閃をかわしていた。
 ヒルドの額に冷たい汗が流れる。もしも高貴がエイルに伏せろといっていなかったら。もしも今の一撃を食らっていたら。ゾッとする考えを振り切って、今度こそとどめを刺すためにヒルドが間合いを詰めた。しかし―――高貴の攻撃はまだ終わっていなかった。一瞬で光の刃が再び現れる。

「もういっちょおおおお――――ッ!」

 イメージ、全てを斬り裂くイメージ!
 今度は横ではなく縦に。上からではなく、ゴルフスイングのように。そして、自分の下にある校舎ごと斬り裂いて、ヒルド目掛けて斬りつける。巨大な校舎を、クラウ・ソラスの刃はやすやすと斬り裂いていく。先ほどよりも長くなっているのか、おそらくは地面にまで達しているだろうその刃を力任せに振り切る。

「こいつ……信じらんない!」

 刃があたる直前、ヒルドは左に飛んでそれをかわした。しかし、かわして着地した瞬間に世界が傾いた。単純な話だ。高貴が校舎を斬り裂いた事によって校舎が傾き、校舎が崩れ始めたからだ。校舎がものすごい勢いで崩れていく。おそらくはヒルドが校舎内で暴れたことも原因のひとつだろう。轟音を上げ、瓦礫と化しながら崩れていく。ヒルドも足場が崩れて空中に放り捨てられた。
 自分に降り注ぐ瓦礫をレーヴァテインで破壊しながらヒルドは地面に落ちていく。そんな中、ひときわ大きな瓦礫がヒルド目掛けて落ちてきた。ヒルドよりも遥かに大きく、簡単に潰されてしまいそうなほど勢いよくされは振ってくる。

「レーヴァテイン!」

 しかし、所詮は瓦礫に過ぎない。難なくそれをレーヴァテインで破壊する。だが、その破壊した瓦礫の裏に、光る刀身の剣を持った少年が身を隠していた。

「なッ!」
「これで……最後だ!」

 瓦礫を破壊した事により、ヒルドには一瞬だけ隙が出来ている。その一瞬を逃さない為に、高貴は自ら瓦礫の降り注ぐここに来た。
 イメージ、あいつをぶっ飛ばすイメージ! これで完全に全て終わらせる!
 その時、また頭の中に言葉とイメージが流れてくる。クラウ・ソラスの刀身がまたもや変化した。それは剣というよりも、扇のような、球体のような形。溢れる光が、弾ける魔力が吹き出ている。

「終わりだ! 《白光烈破フォトン・ストライク》!!」

 その光をヒルド目掛けて叩き付けた。

「このっ、なめるなぁ!」

 ヒルドが、レーヴァテインでその一撃を受け止めた。
 瞬間―――光と炎が弾けた。高貴とヒルドが光と炎に飲み込まれていく。そして、瓦礫の雨と崩れ逝く校舎の中へと消え去り―――
 もう一度、弾けた。

 ◇

 四之宮高校は完全にその原形を失っていた。
 まるで工事現場の取り壊しが済んだかのような光景が高貴の目の前に一面に広がっており、これを自分がやってしまったのかと思うといろいろと怖くなってくる。

「これ本当に大丈夫なのかな。昨日のフェンスとかとは規模が違いすぎるし……つーかばれたらどうしよう」

 まぁやってしまったものは仕方がない。どちらにせよ腹をくくるしかないだろう。そう思いながら自分の横に倒れている少女を見下ろした。ヒルドは気絶して地面に横たわっている。最後の一撃によるものなのか、身に着けている鎧はところどころが砕けており、レーヴァテインも手放していた。かなりボロボロの状態だが、胸が上下していることからなんとか生きている事がわかる。
 ようやく終わった。それを意識した途端に体中の力が抜けて、ぺたんと地面に尻餅をついた。クラウ・ソラスを地面に置き、両手を後ろについて空を見上げる。曇っているのか星はまったく見えない。それでも自分の心は多少晴れ渡っているような気がする。
 多少は、だが。

「高貴!」

 背後から少女の声が聞こえてきた。声のした方向を向くと、瓦礫だらけの足場の悪い中、こちらに向かってくるエイルの姿が見える。彼女は心配そうな表情で高貴に駆け寄った。

「大丈夫か高貴! 痛いところはないか? どこかケガでもしていないか? 気分が悪かったりしないか?」

 そう言いながらエイルが体をペタペタとさわってくる。以前もこんな事があった気がするので、もしかしたらこれはエイルの癖なのかもしれない。心配してくれるのは悪い気がしないが、いろいろと恥ずかしいので高貴は慌ててそれを振り払った。

「だ、大丈夫だよ。少し制服が少しボロボロになった位で大きな怪我とかはないよ」

 本当は体中あちこちが痛かったのだがそれは黙っておいた。それを言ってしまえば下手をすれば服を剥がれるかもしれないからだ。

「本当に君は……滅茶苦茶だな。言っている事は滅茶苦茶で、行動も滅茶苦茶で、この光景も滅茶苦茶だ。あげくに《神器》を持ったヒルドに勝ってしまうのだからさらに滅茶苦茶だよ」 
「いや、それはむしろエイルのおかげだろ。この剣あまり協力的じゃなかったし、なんでかわかんないけどムカつくんだよな」
「ああ、エインフェリアの契約をしたからね。私たちはお互いの魔力をお互いに渡すことが出来るんだ」
「へー、すごいんだなエインフェリアって……」

 そこまで言って高貴はふと先ほどの事を思い出した。エインフェリアとなった時にエイルとキスしてしまったことだ。あの時はあまり意識していなかったが、こうして落ち着いてくるととんでもない事をしてしまったような気分なり、顔が段々と赤くなってきていることに気がついた。

「ふむ、どうかしたのか高貴。なにやら顔が赤くなってきているようだが」
「な、なんでもねーよ! そ、そうだこれ!」

 話をそらす為に、高貴が慌ててそばに落ちてあるものを手に取った。それは気絶しているヒルドの手から離れたレーヴァテイン。

「ほら、まずは一つ目だ。あと何個あるか知らないけど、この調子なら案外早く全部集まるかもな」
「あ、ああ。ありがとう」

 エイルがレーヴァテインを受け取る。

「本当にありがとう。私一人では間違いなくこれを取り戻す事はできなかったよ」

 そう言ってエイルは笑った。その笑顔は自宅の玄関で見た悲しそうな表情ではなく、心からの笑顔だと
簡単に理解できた。それに照れてしまい、高貴は思わず視線をはずす。

「とにかく……やっと終わった……」

 座ったまま高貴はもう一度空を見た。やはり曇っていて星など見えなかったが、やはり心のほうはいささか晴れ渡っているようだ。

「でさ、どうするんだこいつ?」

 横たわって気絶しているヒルドを指差しながら高貴がエイルにたずねた。

「ふむ、なぜ《神器》をもって逃げたのかの理由を詳しく聞く必要があるな。その後はヴァルハラに強制送還されてたっぷりお仕置きだろう」
「お仕置きって……」

 卑猥な想像をしてしまう自分が情けない。しかしどうして《神器》を持ち帰らなかったのかは興味がある。それに話を聞けば戦っているときの違和感の正体もわかるかもしれない。そんなことを考えていると、眠っていたヒルドが目を覚ました。

「う……ん……あれ? あたしは……」
「気がついたかヒルド」

 ヒルドはまだボーっとしていたが、エイルと高貴の顔を見るやすぐさま状況を理解した。そしてエイルの手にあるレーヴァテインを見るなり勢いよく起き上がった。

「このド天然泥棒ヴァルキリー! レーヴァテイン返しなさいよ!」
「誰がド天然泥棒ヴァルキリーだ! 良いからもう少し寝てろ!」

 エイルがヒルドの体を倒す。ダメージが大きいのか、ヒルドはあっさりと地面に横たわった。

「まったく、高貴に感謝するのだな。普通は死んでいてもおかしくない攻撃だったんだ。彼が無意識のうちにお前を殺したくないと思ったからこそいきているようなものだ」

 そういえば最後は斬るというよりもぶっ飛ばすというイメージだった気がする。クラウ・ソラスの刀身も剣じゃなくなっていた。

「どうだか。思春期の童貞の妄想が爆発して、鎧をひん剥いてあたしのワガママボディを見たかったんじゃないの?」
「何だとこの野郎!! ってワガママボディ?」

 高貴がヒルドを見る。たしかに鎧がところどころ砕けているが……

「あー、うん……なんつーか……元気出せよ」
「哀れみの目であたしを見んなーッ!!」
「気にするなヒルド、幼児体系の方が喜ぶ人間はいるらしい。確かロリコンとかいう―――」 
「ブッ殺す! エイルブッ殺す!! てゆーか幼児体型ってほど小さくないわよ!」

 なんというか、緊張の糸が一気に切れていく。こいつってこんな性格だったのか。いまだに騒いでいる
ヒルドを無視して、エイルが強引に話を進めた。

「さて、早速だが話を聞こうか。お前はどうして《神器》を持ったまま帰ってこなかった? 頭の固い連中に《神器》の管理は不可能とはどういうことだ?」

 エイルがそう問いかけるも、ヒルドはそっぽを向いたまま何も話そうとしない。少々幼さが残るその外見のせいで、まるで子供が意地になっているかのようだ。

「はぁ、話す気はないか。どの道ヴァルハラに連れて行かれれば嫌でも話すしかないというのに。しかし他の世界に高飛びするよりも早く捕まえる事が出来て本当によかった」
「そのことなんだけどさエイル、こいつって本当に他の世界に行くつもりだったのかな?」

 高貴の言葉にエイルはキョトンとした表情になった。

「ふむ、私はてっきりそうだとばかり思っていたのだが……」
「だってさ、もしも本当に違う世界に高飛びするつもりなら、《神器》を手に入れた瞬間にどこかに行けばよかったわけだろ。それこそこの町に結界なんかが張られる前にさ。それにこいつはさっき戦ってるときに、結界の事なんて一言も言ってなかった。あと俺と喫茶店で話したときも」
「……そういえば私も聞かれていないな」
「だからさ、こいつは他の世界に高飛びする気なんかなかったって思うんだよ」
「ならばどうしてわざわざ私を呼び出したんだ? てっきり結界の解除法を聞き出そうと考えていると思っていたのだが」

 それを言われて高貴も首を捻った。確かに結界の解除法を聞き出す以外で、ヒルドがエイルに接触してくるとは考えにくい。ヒルドの持つレーヴァテインをエイルは狙っているのだから。

「もしかして……公園でエイルに追い詰められて逃げたのが悔しくて、その仕返しをするためだったとか? 次ぎ会ったらボコボコにするって言ってたしさ」
「それはいくらなんでもありえないよ高貴。そんな子供じみた理由で自分を追っている者の前に姿を表すものなどいるわけがない」
「うーん、それもそう……か……?」

 語尾が頼りなくなってしまった。その理由は、地面に横たわっているヒルドの表情が余裕のないものに変わっていたからだ。まるで自分の考えをピンポイントで当てられて、なおかつその考えがあまりにも子供じみていてバカらしい理由だと言われてどんな顔をしていいのかわからない意地っ張りな子供のような顔になっている。
 エイルもヒルドの変化に気がついた。高貴とエイルはお互いの顔を見てアイコンタクトを取る。

「いやー、さすがにそんなわけないよな。俺がバカだったよ」
「まったくだよ高貴、もっともその理由が本当ならもっとバカがいるということになるがね」
「いやいやそんなのいないって、どんだけバカなんだよ」
「ふむ、それで返り討ちにあってしまえば本当にバカだな」
「バカバカしいっつーかなんつーかなぁ」
「バカのバカさ加減はバカバカしくて―――」
「だ――ッ!! 悪かったわね! どーせあたしはバカよ!」

 我慢できなくなってとうとうヒルドが叫んだ。よほど悔しかったのか、その目にはうっすらと涙が浮かんでおり、さすがに悪乗りが過ぎたのかもしれないと高貴は反省した。エイルも同じような表情をしている。

「しかしヒルド、《神器》を持ち出した理由は結局なんだったんだ? 別に教えてくれてもいいだろう」

 涙目のままムスッとした表情のヒルドだったが、やがて諦めたようにため息をひとつつく。もしくは意地を張るのがバカらしくなったのかもしれない。

「《神器》に意志が宿ってるのは知ってるわよね」
「ああ、もちろんだ」

 言われてみて、戦いの最中にクラウ・ソラスから声が聞こえてきた事を思い出した。よく覚えてはいないが、あれがおそらくはクラウ・ソラスの意思なのだろう。

「《神器》にはね、それぞれの意志があると同時に、それぞれの願いがあるのよ。そこの男だってその剣から願いを聞いたでしょ?」
「そうなのか高貴?」
「……ごめん、何にも覚えてない」

 僅かに覚えているのはとても白い場所にいたような気がするということだけだ。

「こんな奴にあたしが負けたなんて……本当にムカつくわね。この世界に来てレーヴァテインを見つけて手にしたとき、あたしはレーヴァテインと対話したの。レーヴァテインの願いは自由がほしいって言ってたわ」
「自由……?」
「ヴァルハラに限らず、ケルトもギリシャも、《神器》を管理してるとか言ってるけど、それは同時に《神器》を束縛するって事と同意義なのよ。《神器》を牢獄に閉じ込めてるようなものなの。他の《神器》はどう思ってるのか知らないけど、レーヴァテインはそれを苦痛と感じてるみたい。あたしがレーヴァテインを持ち帰ったら、こんな事が二度とないように封印でもされるかもしれない。そんなのってあんまりじゃない。だからあたしは少しでもレーヴァテインに自由をあげたかったのよ。それに今つれて帰ったら暴れるとか言いだしてたし」

 淡々とヒルドが語る。ようするに、レーヴァテインの自由になりたいという願いを少しでもかなえるために、ヒルドはヴァルハラを敵に回してまで逃げていたということだ。

「なんつーか……こいつって良い奴じゃねーのか? むしろ俺たちのほうが悪者に聞こえてくるんだけど」
「その……なんだ……わ、私もそんな理由だとは思っていなかったから……そういえばヒルドは昔から優しかったな」
「う、うるさい! そんなんじゃないわよ!」

 今度は照れ隠しをするようにヒルドがそっぽを向いた。真相は意外だったが、高貴はどこか納得できてしまった。ヒルドが喫茶店で謝罪と詫びをしてきた時に、彼女は悪い人間ではないとなんとなくは思っていたのだから。ヴァルキリーというのは、お人よしの集まりなのかもしれない。

「あたしだってずっと逃げてるつもりじゃなかったわよ。レーヴァテインと話をして、しばらくの間この町を見て回るくらいで話をつけたわ。だから今日だって町中歩いて見物してたら見たことある顔を見つけちゃうし……はぁ、災難ね」
「待てヒルド、そこまで考えていながらどうして私に何も言わなかった? その話を聞けば私とてヴァルハラにそう伝えていたぞ。そうすればお前は追われる事などなかったはずだ」
「確かに」
「……かったから」
「ん? よく聞こえないよ」
「なんか言いづらかったから。バカみたいな事してるって思われるかもしれないし……」
「……それだけか?」
「うん」

 ヒルドの答えにエイルが呆然とした表情になった。ということはつまり、たったそれだけの理由でこの二人は戦う羽目になってしまったという事だ。さらに言えばそんな理由で高貴は巻き込まれたという事になる。

「……くだらねー」
「……そう言えば昔からヒルドはバカだったな」
「にゃ――ッ! ブッ殺す! あんた達ブッ殺す!」

 暴れだすヒルドをエイルが再び取り抑える。

「はぁ、とにかくいったんヴァルハラに帰れヒルド。ちゃんと事情を説明すれば罰も軽くなるだろう」
「……えっと、その……」
「どうしたんだよ。まだなんかあるのか」

 高貴の言葉にヒルドはうなづいた。

「だったらはやく言っちまえよ。どうせこれ以上驚く事なんてないだろうしさ」
「そうだな、何か心残りがあるのか?」
「心残りっていうか、《神器》を失くしちゃったのよ。ほら、帰り道を開く時用にギリシャから借りたやつ」

 エイルが固まった。高貴はその言葉の意味が理解できなかったが、すぐに屋上でのエイルの言葉を思い出した。ヒルドは帰ってくる時のために《神器》をひとつ預かっているという言葉を。

「な、失くした?」
「ええ。レーヴァテインを手に入れたときには気がついたらもうなかったの。多分この町の誰かから適合者を見つけて、そいつのところに行ったんだと思うわ。もしくはどこかに落としたとか」

 軽い調子でヒルドは答える。そのすぐそばでエイルがプルプルと震えていた。

「バカかお前は!? あれはよその国からの借り物だぞ! それを失くすなど言語道断だ!」
「うるっさいわね! あんたなんて自分からこの男にあげちゃったじゃないの! しかもエインフェリアにまでしてるし、なに考えてんのよこのド天然!」
「そ、それは……所在がわかっているだけましだ!」
「あたしだって必死で探したわよ! だから怪しいやつ探してて、公園で魔力を感じる怪しい奴を見つけたと思ったらあんただったのよ! なんで今の時期に真っ黒のロングコートなんて着てたのよこのバカヴァルキリー!」
「ちょっと待て」

 ヒルドの言葉を高貴が遮った。今なかなか聞き捨てならない言葉が聞こえたからだ。

「い、今さ、コート着てたから攻撃したって言ったか?」
「当たり前よ。この時期にロングコートなんてあやしいでしょ? しかも強い魔力まで感じたんだから。もしもエイルだってわかってたら逃げて―――見逃してあげたわよ」

 そういえば、あの時はあたりが薄暗くて、顔を出していたとはいえ遠目ではエイルの顔までは確認できなかっただろう。長い銀髪を外に出していればまだ判別できたかもしれないが。つまりはあの時エイルがコートを着ていなければ、あの時の戦いは避けられていたものであり、ある意味での原因はコートを着せた高貴にあるということになる。

「……嘘だろおい。じゃあエイルにコート着せなかったら俺は今でも平穏に過ごせてたってことか?」
「だいたいなんであんたエイルにコートなんて着せたのよ? ヴァルキリーのコスプレしてますって言い張れば別に問題なかったでしょうに」
「ふむ、私の言ったとおりじゃないか高貴」
「俺が悪いのかよ!? 俺は常識的に考えて行動したつもりだったんだけど!」

 自己嫌悪に教われる高貴を見て、ヒルドがため息を一つついた。

「あのね、私達は非常識な存在なのに、常識でものを考えてどうするのよ」
「そうだぞ高貴、私はヴァルキリーだ」
「悪かったな信じてなくてよ! ただの中二病だと思ってたんだよ!」

 めまいと頭痛が同時に高貴を襲う。あきらめるしかないだろう。きっと運が悪かったんだ。ベットの上にヴァルキリーが立っていた時点で、きっと避けられない呪いみたいなものだっんだ。

「はぁ、それにしてもどうしたものかな。ギリシャの《神器》が無くなったとなれば、最優先でそれを探さなければいけない。となると―――」
「はいはいストップ。三人ともお疲れ様」

 エイルの言葉が能天気な声に遮られる。声のした方向を向くと、そこにはいつの間にかクマが立っていた。

「話は聞かせてもらったわ。ここはお姉さんにまかせなさい」
「お前いつ来たんだよ。それに任せろったって何を任せるんだ?」
「壊れた学校を直す事とか。このままでも良いけど人間君が困るでしょ?」
「よろしくお願いします」

 一瞬の迷いもなく高貴が頭を下げた。

「とにかく、ヒルドはいったんヴァルハラに帰りなさい。エイルと人間君はヒルドのなくした《神器》の捜索を最優先にして。見つからなかったらへたすれば死刑よ死刑。主にヒルドが。というわけでハイ解散。お姉さんは後始末とかするから、エイルと人間君は帰って良いわよ」
「ちょっと、誰よあんた? ヴァルハラにいるヴァルキリー? だいたいなんであたしがぬいぐるみの言う事なんて―――って死刑!?」
「当たり前じゃない。だってこれ国際問題だもん。とりあえず詳しい罰はヴァルハラで課せられると思うから、さっさとヴァルハラに帰りましょ。見た感じレーヴァテインはとっくに転移出来るみたいだし。あー……その前にお姉さんがちょっと個人的にお仕置きしちゃおっかなー。エイル、レーヴァテイン置いてってね」
「あ、ああ」

 エイルがレーヴァテインをクマの横に置いた。もしかしてヒルドに奪われてしまうのではないかとも高貴は考えたが、真っ青な顔になっている彼女を見る限り問題はないだろう。

「はぁ、滅茶苦茶疲れた。あとよろしくなクマ。そういや飯も食ってなかったから腹も減ったしとっとと帰ろう」

 座っていた高貴が立ち上がる。しかしエイルはしゃがんだまま立ち上がる事はない。

「どうしたエイル?」
「そ、その……私は……」

 高貴がハッとする。エイルは高貴と共に来ていいのか迷っているのだ。玄関で高貴に言われた事をいまだに気にしている。だが、今のエイルには高貴の部屋以外に帰る所などないということは明らか。だから彼女は立ち上がれない。
 ならば話は簡単だ、こちらから手を差し伸べてやればいい。

「……ほら、帰るぞ」

 高貴がエイルにそういいながら右手を差し出した。エイルはその手を取ることなくただ見つめている。

「し、しかし……私は……君の邪魔になるから……」
「……コンビニ弁当」
「え?」
「夕飯のコンビニ弁当! 間違って二つ買っちまったんだよ! 賞味期限が過ぎるから、お前が来ないと無駄になる。そんなの勿体無いだろ……」

 何故か声が大きくなり、最後のほうは小さくなった。しばらくエイルは黙ったままだったが、やがてクスリと笑う。

「それは確かに勿体無いな。ではお言葉に甘えよう」

 高貴の手をしっかりと握り、エイルが立ち上がった。

「ではクマ、後を頼むよ。ヒルドも元気でな」
「お姉さん任されましたー」
「フンッ! 次に会ったら今度こそブッ飛ばすから」

 気楽な返事と憎まれ口をその背に受けて、二人は廃墟となった足場の悪い地面を歩き出す。家に帰ったら弁当のラベルをすぐにはずして捨てなきゃな、なんてことを高貴は考えていた。

 ◇

 拝啓、お父さんお母さん元気ですか? 今日二つの奇跡が起きました。

 高貴はそんなこと似合わない事を考えながら岐路についていた。
 今日起こった奇跡は二つ。一つはヒルドとの戦いで生き残れたこと。そしてもう一つの奇跡は、校舎が取り壊し現場の如く悲惨な状態だったにもかかわらず、高貴の乗ってきた自転車が無事だった事。
 本当に奇跡としか言いようがない。自転車はどこも壊れておらず、ただ横に倒れていただけですんでいたのだから。もっともあと2メートルほど校舎に近づけてとめていれば、粉々になっていただろうが。戦いで疲れていたにもかかわらず、帰り道が歩きというのは高貴的にはきつかったのだ。
 そんなわけで高貴は自転車に乗って岐路につくことにした。しかし高貴が自転車にもかかわらず、エイルを歩いて帰らせるわけにもいかず、

「ふむ……自転車に乗ったのは初めてだが……なかなか楽しいものだな」
「楽しいって……ただ乗ってるだけだろ」
「なら私が前に座ろうか?」
「それは駄目だ」

 後ろにはエイルが乗っている。正確な呼び方は覚えていないが、荷物など載せるアレにエイルが座り、高貴の腰に腕を回している。服装は鎧姿から四之宮高校の制服に戻っており、二人乗りをしていても変に思われる事はないだろう。
 ただ問題があるとすれば、エイルが必要以上にくっついてきている気がするということだ。わざとなのか無意識なのか、背中にいろいろとまずいところも当たっている。

「高貴……なんだか黙ってしまったがどうしかしたのか?」 
「え? ああ……自転車の後ろについてるあれ、エイルが今座ってるやつの正確な名前なんだったかなと思ってさ」

 いきなり話しかけられたので、とっさに話題をそらした。

「確か……そう……リアキャリア……だった気がするよ」
「なんでお前が知ってんの?」
「当然だ……私はヴァルキリーだ」
「理由になってねーぞ……」

 エイルの胸がますます背中に押し付けられてきた。それだけでなく、体重を預けられているようにも思える。さすがにこれ以上はバランスが悪く危ない。

「エイル、体重かけすぎだよ。これじゃ運転しにくい」
「ああ……すまないな……なんだか眠ってしまいそうなんだ」

 命の危機だった。

「おい! あぶねーって!」
「そうは言っても、自転車に揺られるというのはなかなか心地がよくてね。疲れてしまったし、このまま―――」
「起きろ!! 寝たら怪我するぞ!!」
「私はヴァルキリーだ」
「それは万能の言葉じゃねーよ!! とにかく寝るな!!」
「じゃあ何か話をしてくれ。そうすれば目がさえてくるかもしれないからね」
「話っつっても……じゃあとりあえず、二人とも無事でよかったよな」
「まったくだ。しかし、本当に驚きだよ。まさか君が自分から手伝わせてくれなんていってくるとはね。最初からそのつもりでここに来たのか?」
「それなんだけどさ、なんか違うような気がしたんだよな。ここに来るまでは手伝う気なんかなかった気がする。来て見たらエイルがボロボロだったから驚いたけど……俺なんで来たんだっけか?」
「ふむ、私に聞かれても困る」

 少しは目が覚めたのか、エイルの重みが少なくなり、声もはっきりとしてきている。それを少し残念に思っている自分がいた。
 だが本当に来た理由はなんだったろうか。手伝いに来たわけでないのは確かで、なんだかあまりたいした理由ではなかったような気さえしてくる。

「あ、思い出した。俺さ、エイルに言いたいことがあったんだよ」
「言いたい事? ……あ、もしかして文句が言い足りなかったのか? だとしたら今からいくらでも―――」
「違う違う、そんなこと言うつもりはないって」

 エイルの声色が一瞬だが暗くなった為、高貴が慌ててその言葉を遮った。

「あのさエイル」
「ふむ、なんだ?」
「……ありがとう」
「……なに?」
「だからありがとうって言ったんだよ。クマから聞いたよお前は俺の安全のために学校に来たりホームステイしたりしてくれたんだろ。なのにちゃんとお礼を言ってなかったと思ってさ。だから俺はエイルにありがとうって言いにここに来たんだよ」
「……そ、それだけか?」
「うん。つーかお前この前は楽勝みたいな感じだったろ。なのにあんなボロボロにやられてるなんて予想外だったんだよ。だから手伝えたらいいなって思って」
「つまり君は、私にありがとうと言う為だけに来たわけか? 私とヒルドが戦っているこの危険な場所に」
「ああ」

 そう答えると、エイルはそれきり黙ってしまった。もしや本当に眠ってしまったのかと思い、高貴はいったんブレーキを握って自転車を止めた。

「おい、エイル」

 慌てて振り返ると、そこにはポカンとした顔のエイルがいた。すぐ後ろに座っているのだから当然の事だが、あまりに顔が近いためなんだか恥ずかしくなってくる。

「どうした高貴、いきなり自転車を止めたりして」
「あ……いや、急にエイルが黙ったから寝たのかと思ってさ」
「寝ていたのではないよ、ただ……」
「ただ?」

 エイルはいったん言葉を切った後、笑いながら口を開いた。

「ようやくわかったよ、君はバカなんだな。でもありがとう」

 お前に言われたくはないと言い返してやりたかったが、高貴は何も言わなかった。目の前のエイルの笑顔を直視する事ができなかったからだ。初めて会った時にエイルの笑顔に見とれる事などないだろうと思っていたが、どうやらそんなことはないらしい。
 再び高貴がペダルをこぎ始める。学生寮まではもうすぐだ。

「あと少しでつくから、絶対に寝るなよ」
「ああ、努力するよ。しかしそもそもの原因は君にもあるんだがな。さっきの戦いで、君は私の魔力を大分使ったじゃないか。だから私は眠いんだよ。魔力を大量に消費すると眠くなるからね」

 言われて高貴は、校舎を斬った時のクラウ・ソラスの力を思い出した。あの時確かに自分の中にエイルの魔力が流れ込んできていた。そのせいでエイルが眠くなったということは、間違いなく自分のせいだろう。

「えっと、悪かったよ」
「まったくだ。あれだけ激しくしたにもかかわらず眠らせてくれないとは、君はあれか、ドSなのか?」
「へんな言い方するんじゃねーよ! お前ってそんなこと言うキャラだったのかよ!」

 眠くなっているからなのか、もしくはこれが素のエイルなのだろうか? そんなことを考えていると、ようやく学生寮についた。

「ほら、ついたぞエイル」
「ああ、わかったよ」

 自転車置き場に自転車を止めると、エイルが先に降り、そのあと他の自転車と同じように自転車を並べた。

「はぁ、さっさと飯食って寝よう。なんか最近そればっかり言ってる気がする」
「ね、寝るのか!?」

 高貴の何気ない一言に、どうしてかエイルが焦り始める。

「いや、だって疲れたし。なんでそんなに焦ってんだ?」
「それはねー、ふかーい理由があるのよ」

 自転車の鍵をかけ終えた高貴がエイルにそう聞き返すと、何故か自転車の籠のほうから声が帰ってきた。気がつけば、いつの間にかそこには見慣れたテディベアの姿がある。

「あ、クマ。後始末は終わったのか?」
「もちろんよ人間君。ヒルドとレーヴァテインはヴァルハラに送ったし、学校の改造―――じゃなくて修理も終わったわよ」
「おい、今変なワードが入ってなかったか? まぁいいか、それより深いわけってなんだよ?」
「ふっふっふ、エイルと人間君はエインフェリアの契約をしたでしょ。あれってね、ヴァルハラでは結婚と同意義なのよ」
「……は?」

 イマ、コイツ、ナンテイッタ?

「け、け、け、けっこんんーーーー!?」
「……あ、そういえば言ってなかったな」
「言えよ! そういうのはきちんと言えよ! 何でお前はそういう大事な事を言わないんだよ!」
「それでね、夫婦で寝るっていえば……わかるでしょ?」

 もちろん知っている。知らないわけがない。その意味を頭に浮かべると、自分の体温がかなり上昇していくような感覚に襲われた。

「もうキスは済ませちゃったし、問題ないわよね」
「いや、でもさ。あの時はそうするしかなかった訳であって、いきなりそんなこと言われても困るって。エイルだってそうだろ?」

 そうに違いない。エイルなら、「仕方ないだろう、非常事態だったんだ」とか済ました顔で言ってくれそうだ。そう思いながら高貴はエイルに向けた視線を向けたが、その期待は粉々に砕かれてしまう。
 エイルは顔を赤らめ、長い髪を弄りながら、少し照れているような表情になっていた。

「そ、その……あ、あまり気にしてくれなくていい……うん……非常事態だったからな」

 台詞と表情があっていない。確実に彼女は意識してしまっている。

「さ、さぁ! とにかく君の部屋に入ろう。へ、変な意味ではないぞ! 今日は早く休んだほうがいいと思うからだ。さ、行こう!」

 そう言うなりエイルは高貴の手を引いて学生寮に入っていく。照れながら手を引くエイルと、呆然としながら手を曳かれる高貴の後ろをクマがトコトコとついていった。

「そういえば高貴、君は今日帰って来たとき、私とクマに言うことがあったんじゃないか?」
「あ、そう言えばそうね。お姉さんショック」

 階段を上る。ドアの前まであと約5メートルの距離。

「え? なんかあったっけ?」
「わかっていないのか、じゃあやり直しだ。クマ、鍵を貸してくれ」
「はいはい、スペアキーならいくらでもあるわよ」

 ドアの前にたどり着き、エイルがクマから鍵を受け取った。てゆーかまだ持ってたらしい。エイルが鍵を開けて「高貴は少し待っていろ」と言い残したまま、クマと一緒に入って行ったので、今はただ待つしかないだろう。

 追伸、お父さん、お母さん。俺にヴァルキリーのお嫁さん(仮)が出来ました。
 けど正直な話、責任を取る気なんてサラサラありません。てゆーか出来ません。俺はまだ高校生で、一人では生きていけないにもかかわらず、責任を取るなんて事は言える筈がないからです。責任が取れるようになるまで待っててほしいなんて言葉は、男として最悪の言葉だとも思ってるんで言えません。
 だからエイルにも、犬にかまれたと思って忘れて、いつか良い男でも捜してほしいというのが本心です。……うん。

「高貴、入ってきていいぞ」

 ドアの向こうからエイルの声が聞こえてきた。それを聞いた高貴がドアを開ける。部屋の中は明かりがついており、エイルは靴を脱いで玄関に立っていた。その腕にはクマも抱かれている。その姿は、まるで家族を出迎えるような、夫を出迎える妻のようにも思える。そこで高貴は、エイルが何を言っていたのかにようやく気がついた。
 エイルは何も言う気配はない。これはきっとそちらから言えという合図なのだろう。何を言えばいいのかはわかっているが、少し困らせてみたい気もする。しかしエイルの表情が不安に染まっているのを見て、高貴はすぐさま口を開いた。

「ただいま、エイル」

 そして、言い忘れていたその言葉をエイルに告げた。
 その言葉を聞いた銀髪のヴァルキリーは、眩しいくらいの笑顔になり、言えなかったその言葉を口にした。

「おかえり、高貴」





  第一章終了



[35117] 第二章 死刑宣告を受けたヴァルキリーの友達
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/17 16:50
「やっぱりさ、このままじゃ駄目なんじゃないかと思うんだよ」

 ソファーに座りながらくつろいでテレビを見ている学生服の少女に向かって、真面目な口調で高貴が話しかける。しかし少女は視線をテレビから離す事はない。録画していたのであろう昼ドラに夢中になっているのだ。
 それでも無視するつもりはないらしく、その少女―――エイルは、一瞬だけ高貴のほうに視線を送り、もう一度テレビのほうを向いたまま返事をした。

「何が駄目だというんだ? このドラマはなかなか面白いぞ」
「いや、ドラマの事じゃなくてさ」

 どうやらこのヴァルキリーは、昼ドラがお好みらしい。いや、昼ドラに関わらず、月曜9時、土曜のワイド、その他ドラマなど、とにかくフィクションの創作物が好きらしい。それがエイルと暮らし始めて一週間で、高貴がエイルについて知った事のひとつだ。

「少し静かにしていてくれ、今すごくいいところなんだ」
「そーよ人間君。今奥さんが旦那を取るか浮気相手を取るかの瀬戸際なんだから」

 女二人に、正確にはヴァルキリーとクマのぬいぐるみから非難を受けた。ぬいぐるみが喋っているという状況にもすっかりと慣れてしまっている自分に少し驚く。クマはエイルに抱かれて一緒にテレビを見ている。エイル曰く、モフモフしていて抱いていると気持ちが良いらしい。
 高貴は専ら踏みつける事や叩き付ける事にしか使っていない為あまり意識した事はない。おそらくはこれからもモフモフする事はないだろう。とりあえず今見ている昼ドラが終わらない限りは、話を聞いてもらえそうにないので、高貴は大人しくベットの上に腰を落とした。
 ここ最近はエイルが使っているこのベット。今はエイルがソファに座っているので、高貴の座る場所はここくらいしかない。ソファに座るのがテレビを見るベストポジションなので仕方がないのだが、普段女の子が使っているベットに腰掛けるというのはなかなかに恥ずかしい。少し前まで自分が使っていたとしてもだ。
こうしてエイルを見てみると、どこから見ても普通の人間にしか見えないが、事実は違う。この少女は世界でもトップクラスに異端の存在であり、異世界からやって来たヴァルキリーだ。
 一週間前に、高貴はその事実を嫌というほど理解することになった。ヴァルキリーとの戦い、エイルとのエインフェリアの契約、そして《神器》であるクラウ・ソラスに選ばれたこと。その日から高貴の日常は平凡な生活から、戦いの日々へと移った。
 なんてことはなく。実際はあれから戦いなど起きてはいない。まるであの日の戦いなど夢だったかのようだ。しかし、だからと言って何事もないかといえばそれもまた別問題である。そもそも命の危険だけが問題なのではない。
 この一週間、頭からエイルのことがまったく離れない。寝ても覚めてもエイルのことばかり考えている。そう、まさにそれ以外のことが考えられない状態に、高貴は陥ってしまったのだ。考えているのはたった一つだけ。自分の中で明確な目標として、そして野望として固まりつつある事。
 この二人、さっさと追い出そう。

「いけー! 押し倒せー! レッツ不倫関係! ビバ浮気!」
「ダメだ、耐えるんだ! 一時の感情に身をゆだねてはいけない! 貴女にはすばらしい夫が―――あ」
「よっし、堕ちた! ウェルカムトゥ大人の世界!」
「ああ……若妻が……新婚二ヶ月が……」

 いまや完全にこの部屋の主となっている一人と一匹。ほんの一週間前までの安息の日々は完全に消えている。自分で選んだ事なのだから文句を言うのも筋違いなのだが、さすがに一緒に住むというのはいろいろと問題が多い。
 エイルがここに住んでいることは、学校の友人にももちろん内密にしており、俊樹や真澄にも話してはいない。入ってくるところを見られないかどうか細心の注意を払う必要がある。というよりも何回か見られたらしく、クマがその人物の記憶を消したらしい。
 今まで一人暮らしだった高貴にとって、常に誰かと一緒に過ごすということは、思っていた以上に神経を使うことだったようである。さらにともに暮らしている相手は非常識なヴァルキリーとぬいぐるみ一匹というさらに神経が擦り減る様な相手だ。
 しかしこれはエイルのことを思っての判断である。エイルに協力するというのは構わない。だが、一緒に暮らすということまでは了承した覚えはまったくないため、これからの為にもこの二人に出て行ってもらったほうがいいと高貴は考えたのだ。
 決して自分の理性がもちそうもないからというわけではない。

「あー、面白かった。次回が楽しみね」

 昼ドラが終わったらしく、テレビ画面にはスタッフロールが流れている。

「ふむ、私としては奥さんにきっぱり断ってほしかったのだが、これが昼ドラの魔力というやつか」
「仕方ないわよ。結婚っていうのは不倫を楽しむ為にするものなんだから」
「テメーは全ての夫婦に土下座しろバカやろう」
「む、なによ人間くーん。お姉さんはこう見えておとなの恋愛だってたしか経験済みなのよ」
「クマじゃねーか」
「ふむ、まぁクマもヴァルハラではきっと人間だと思うよ。そういえば高貴、君はさっき私たちに何か言いかけなかったか?」

 一応は覚えていてくれたらしい。真面目な話になるので、高貴はチャンネルでテレビの電源を切った。テレビの音が消えた事で部屋の中からほとんどの音が消え去る。

「あのさ、エイル達がここに住むようになってから、大体一週間だろ。それで思ったんだけど、やっぱり一緒に住むっていうのは色々と問題があると思うんだ」
「ふむ、なぜだ?」

 全く理由に心当たりがなさそうにエイルは首を傾げた。

「エイルに協力するっていうのは文句ないんだよ。巻き込まれたとは言っても最後には自分で決めた事だから。だけど若い男女が一緒に住むのはまずい。ここは男子寮だから、見られないように気を使う必要もあるからさ」
「心配ない、私はヴァルキリーだ」
「いや、会話が繋がってねーよ」
「大丈夫よ人間君、お姉さんがちゃんとフォローしてるから何も問題ないわ」
「ふむ、しかしむやみやたらに魔術を使うというのは確かによくないかもしれないな。そもそもこの世界には魔術がないのだから。それに記憶というのは大切なものだし、軽々しく消していいものでもない」

 一番ありえないところからフォローが来たことに戸惑いつつも、せっかくなので高貴はそれに便乗して攻める事にした。

「エイルの言うとおりだよ、つまりは―――」
「つまり、隠すのをやめて私がここに住んでいることを皆にも教えればいいということだな」
「なんでそうなる!?」

 ヴァルキリーの発言によりノックアウトされた高貴がベットに仰向けに倒れこんだ。カウントが始まる前にすぐさま起き上がる。

「なにお前バカなの? なんで俺とお前が同居してるって周りの人に言いふらさなきゃいけないの?」
「ちがう、ホームステイだ。もともと隠す事ではないと私は思っていたんだよ」
「違うわよ二人とも、同居でもホームステイでもなく同棲よ」
「よけい悪いわ! つーかホームステイってのは保護者のいる家とかにするものだろ!」
「保護者ならいるじゃないか」

 エイルが得意げな表情でクマを高貴に突きつける。

「どこの世界にクマのぬいぐるみが保護者の家庭がありますか!?」
「「ここに」」
「ねーよ!!」
「少しは落ち着きなさいよ人間君、近所迷惑になるわよ。最近この寮に住んでる202号室の奴が夜にピーピーうるさいって噂になってたわよ」
「テメーらのせいだ!!」

 叫びすぎて喉が痛くなってきたので、高貴はテーブルの上においてあったジュースを一口飲んで喉を潤す。夜中に近所迷惑になってしまうのは自分としても不本意なので、高貴は少し落ち着く事にした。

「そもそもさ、引越しなんて簡単だろ。なんでここに住んでるんだよ?」
「ふむ、ともに行動していたほうが何かと好都合だろう。それに―――」
「それに、なんだよ」
「その……君と一緒に居たほうが寂しくなくて良いからだよ。私は寂しいのは苦手なんだ」

 本人も言うのが恥ずかしかったらしく、少し小さい声になりながらエイルはそう言った。それにつられて高貴の顔も少し赤くなってしまう。赤くなるのなら言わなければ良いだろうとも思ったが、それを言ってしまうのがエイルだという事なのだろう。

「あらまぁ、若いわね」

 お互いにもじもじとして気まずくなっていた空間に、心なしかニヤニヤしているクマの声が響く。

「そ、その、クマだって高貴の所に居たいだろう?」
「いえ別に。ただ引越しめんどい。主に手続きとか。それならもうここで我慢しようかなって思ってるの。ほら、お姉さん寛大だから」
「よしわかった、クマはでてけ」

 クマをエイルの手から引ったくり、窓を大きく開け、外に放り出す体勢を作ったところで、クマが高貴の手で暴れだす。

「ま、待って人間君! 本当はただの資金不足なの! 理事長に諭吉を五千人ワイロにした事がばれて、経費削減されてるの! だからたぶん引っ越す余裕なんてないのよ!」
「たぶん?」
「間違えました絶対です!」

 クマの必死の講義を聞き、なんとか高貴は我を抑えて腕の力を抜いた。開けた窓を閉めてクマから手を離すと、一目散とばかりにエイルに駆け寄って避難する。
 クマが理事長に五千万円もの大金を払ったのは、界外留学生としてエイルを編入させる為であり、エイルが編入してきたのは高貴の警護をするためなので、その事に対して高貴は文句を言う事ができなくなってしまった。

「……わかったよ。じゃあもうしばらくここにいてもいいよ。そういう理由だったらまぁ仕方ないし」
「ふむ、それはよかった。身包みはがれて追い出されるかと思ったよ」
「なんでだよ!?」
「あ、そういえばお風呂の準備ができていたな。先に入るか高貴?」
「なんで会話が繋がんないんだろうな……後でいいよ」
「ではお言葉に甘えよう」

 そう言ってエイルが立ち上がると、リビングを出て浴室のほうに向かって行った。するとクマが高貴の隣までやってくる。

「ねぇ人間君、そんなにお姉さん達と暮らすの嫌?」
「嫌っつーか、何回も言うけど問題だらけだろ。だいたいエイルは風呂上りにバスタオル姿でうろつくし」
「眼福じゃないの?」
「朝は朝で着崩れたパジャマで突進してくるし」
「役得じゃないの?」
「洗濯する時は気を遣う必要があるし、かといって向こうは気にしてないし。この前は自分の下着を俺の下着と一緒に窓を空けて干してたし」
「オカズにしないの?」
「……」
「しかも優しいお姉さんつきよ。彼女いない暦イコール年齢の人間君にとっては最高の環境だと思うけど」
「踏み心地のいいクマがいるのはストレス発散になるけど、そのクマがストレスの原因だしなぁ」
「に、人間君。踏まないで……」

 足元で抗議の声が聞こえるも、それは完全に無視する事にした。今となっては高貴の数少ないストレス発散法がこれだからだ。

「だいたいさ、ここに来て一週間の間、《神器》を探すとかそういうのをしてないけど、何もしなくて大丈夫なのか?」

 そう、これも高貴の疑問の一つだ。この一週間エイルは普通の生活をしているだけであり、《神器》を探す事をまったくしていない。この世界に来た目的が《神器》を探すという事だが、こんなに何もしなくてもいいのだろうかというのが高貴の疑問だ。

「そうは言っても探す手段がなかなかないのよ。でも今のところは《神器》を悪用されてる心配はほぼないから大丈夫よ」
「なんでそう言い切れるんだ?」
「この町に結界を張ったってのは前に言ったわよね。それのおかげで、四之宮で大きな魔力を使ったり《神器》の力を使ったりするとその場所を特定できるのよ。でも今のところ大きな魔力反応はこの前の戦いのときに、四之宮高校でしか探知されていないの。つまりは《神器》が誰かの手に渡ったかもしれないけど、その力を強く行使してはいないってことね」
「ちょっと待った、だったらそれで《神器》の場所を探れないのか?」
「それは無理ね。この前の人間君みたいに、使い手が《神器》を具現化すれば反応は現れるけど、今の人間君みたいに具現化していない状態なら反応は出てこないわ」
「なんだよそれ。もっと強い結界とかないのか? 完全に探せるみたいな感じのさ」
「あることにはあるけど……もしかしたら天変地異が起きるかもしれないわよ」
「てっ、天変地異!?」

 クマのさらりとした爆弾発言に、思わず高貴は目を丸くする。

「この世界には魔術がない。なのに完全に空間を監視する魔術なんて使ったら、その一部の空間がおかしくなるかもしれないわ。他の世界にいけなくする結界だって、かなり無理して作ったのに、これ以上この町の空間に負担をかけるとなると……」
「わ、わかったよ! もう言わないから言わないでいい!」

 さすがにこの町が天変地異に襲われるところなど見たくはない。残念だがこれは諦めるしかないだろう。しかしそうなってくると探す方法はかなり限られてくるはずだ。誰かが《神器》を使うのを待ってその反応をたどるか、以前屋上で聞いたようにエイルを囮にして戦うか、どちらにせよ後手に回ってしまう事になる。
 それにエイルを囮にするというのはなるべく避けたい。すぐに無茶をしてしまうのが目に見えているからだ。もしも囮になるときは、せめて自分も一緒に居ようと高貴は決めている。そういう意味では一緒に暮らしたほうが何かといいのかもしれないが、やはりそこは複雑である。
 美人な少女とともに暮らすというこの状況を素直に楽しめる性格だったらよかったのだが、生憎と高貴はそのような正確ではないからだ。
 しばらく他愛のない話をしていると、風呂上りのエイルがリビングに入ってきた。今日はしっかりとパジャマを着ているが、肌がほんのりと染まっていて、やはり直視するのはなかなか恥ずかしい。タオルで髪を拭いていない所を見ると、髪はドライヤーで乾かしてきたようだ。

「ふぅ、気持ちよかった。お風呂があいたぞ高貴」

 ベットには高貴が座っているので、ソファ座ったエイルがそう言った。

「さ、エイルの残り香があるうちに入ってきなさいよ」
「……もう少したったら入る」
「もう、照れ屋なんだから。……あ、そういえばお姉さん二人に言い忘れてた事があったわ」
「言い忘れたこと?」
「ふむ、なんだ?」

 クマが高貴の足元から脱出しベットの上に上ると、コホンと一つ咳払いをついた。

「あのね、ヒルドいるでしょ。この前戦ったヒルド・スケグル」
「……ああ、あの赤い女か」

 ヒルドはエイルと同じくヴァルハラからやって来たヴァルキリーであり、《神器》である《炎剣レーヴァテイン》を持ち去った人物でもある。ある意味では高貴がエイルの手伝いをするきっかけを作った人物だ。一週間前の戦いで二人に敗北し、ヴァルハラに帰ってからの行方は聞いていない。

「ヒルドがどうかしたのか?」

 エイルが首を傾げながらクマにそう聞いた。

「彼女の処分が決まったわ。2週間後に死刑だって」




 ヴァルハラという組織、もしくは国は、殺す事が趣味なのか?
 高貴がクマの言葉を聞いて一番最初に思った事がそれだった。初めてエイルに会ったときといい今回といいそうとしか思えない。

「死刑って……死刑か?」
「そうよ。支系も紙型でも詩形でも市警でも四系でもなくて死刑よ。デースペナルティ」
「その……なんつーか……いや、なんて言ったらいいか……どう思うエイル」

 反応に困った高貴がエイルのほうを向いた。そして固まった。
 絶句。
 今のエイルの表情にこれ以上似合う言葉は無いと間違いなくいえるほどにエイルは絶句している。その瞳は呆然と虚空を見据え、高貴が目の前で手を左右に振ってもまったく反応が無い。クマがベットに座っている高貴の膝に乗る。

「あらあら、止まっちゃったわね」
「おい、エイルどうしたんだよ。確かに死刑ってのはとんでもないけど、なんの反応もなくなるほど止まるってなに?」
「うーん、それはきっと……」

 その言葉を遮って、エイルが突然動き出した。ソファから高貴の膝にいるクマ目掛けて突進し、クマを両手で掴んで首を絞める。と、同時にそれは、高貴にとってはとてつもなく危険な状況になってしまった。エイルの顔や手が高貴の股間にかなり近づいており、柔らかな胸は膝に押し付けられ、なおかつエイルは風呂上りのパジャマ姿。
 その状況に今度は高貴が固まってしまったが、そんなことは気にも留めずにエイルはクマを睨み付けた。

「どういうことだ! どうしてヒルドが死刑になる!? レーヴァテインを持ち去ったのは確かに違反かもしれないが、それはむしろ《神器》を思っての行動だろう!」
「エ、エイル……お姉さん中身出る……もしくは千切れる……」
「え、えい、えい、エイルさん? 少し落ち着いてくれないか? てゆーか離れてくれ」
「それどころではない! 君はわかっているのか!? 死刑だぞ死刑! デスペナルティだぞ! 幾らなんでも酷すぎだろう!」

 部屋にやって来た家主に対して、死んでくれないかと言ってきた人物の台詞とは思えなかったが。今はそんなことを言うよりも優先すべき事があったので、高貴は何もいわなかった。

「お、落ち着いてってばエイル! ちゃんと理由を説明するから」
「言ってみるといい! どんな理由があっても私は納得しない!」
「ギ、ギリシャの《神器》……ヒルドが借りてたギリシャの《神器》をこの世界でなくしちゃったでしょ……だ、だからその責任を……お、お姉さん新しい世界に……目覚めそ……う」
「そ、それは……」

 ヒルドがギリシャから借り受けた《神器》は、ヒルドが四之宮でレーヴァテインを探している最中に、その姿を消したらしい。それ以来行方がわかっておらず、その責任を取らされるということなのだろう。

「だったらその《神器》を探し出せばヒルドを助けられるという事なんだな?」
「ま、まぁ刑を軽くは出来ると思うわよ」
「よし! 聞いたか高貴!」
「柔らかくない。柔らかくない。いい匂いなんてしない。いい匂いなんてしない。無心無心無心無心……」
「聞け!」
「なら離れろ……俺は今無心になってないと大変な事を起こしてしまう自信がある」

 高貴は心をひたすらに無にして理性を保っていたため、二人の会話をまったく聞いていなかった。にもかかわらずエイルが顔を近づけてくる。

「いいか高貴! 今から2週間以内にヒルドの無くしたギリシャの《神器》を見つけるぞ!」
「み、見つけるってどうやってだよ!」
「気合で探す! 私はヴァルキリーだ!」
「お前スゲー男前なのな……まぁ手伝うって言ったのは俺だし、ちゃんと手伝うけどさ」
「どうして君はそんなに平然としていられるんだ? ヒルドが死んでしまうかもしれないんだぞ。悲しくはならないのか?」

 少々落ち着きを取り戻してきたのか、エイルが高貴から離れた事により、高貴にも考える余裕が生まれた。
 ヒルドは高貴がエイルと出会うきっかけを作ったヴァルキリーであるとも言える。少々口が悪かったが、悪かった事をキチンと謝罪するなど、謙虚な心も持ち合わせている。
 しかし、逆に言えば高貴を非現実な日常に引きずり込んだ大元と言えるかもしれないし、コーヒーを奢ってもらったとはいえ、殺されかけた恐怖はしっかりと覚えている。彼女のせいで炎は軽くトラウマになってしまっている事も含めれば、気の毒だとは思えど、悲しいとは強くは思えない。
 そもそもヒルドとはたいして交流すらなかったのだから。

「……えっと、正直俺あいつの事よく知らないし、気の毒だとは思うけど……」
「そんな事言わないで頑張ってくれ! ヒルドは私の大切な友人なんだ!」
「……え?」

 今、こいつ、なんて言った?

「エイルとあいつって友達なのか?」
「戦乙女学校の同期だ! クラスも一緒だったし席も隣だったし修学旅行も一緒の班だったんだ! 幼い頃からの付き合いなんだよ!」
「……そういうことは先に言えよ! この前は普通に戦ってたから、友達だなんて思いもしなかったよ!」
「それが私の仕事なんだから仕方ないじゃないか! とにかくあと2週間以内にギリシャの《神器》を見つけて―――」
「違うわよエイル、一週間以内よ」
「「え?」」

 突然のクマの言葉に高貴とエイルはポカンとした表情になる。どうしていきなり2週間ではなく半分の1週間になってしまったのだろう?

「死刑判決を受けたのはヒルドがヴァルハラに帰ってすぐの1週間前。それから1週間たったから、死刑まであと1週間しか―――」

 エイルが再びクマの首を絞めた。まるでそのまま引き千切ってしまうかのような勢いだ。

「どうしてそういう大切な事を早く言わないんだ!」
「お前が言うなよ。つーことはあれか? あと一週間以内にその無くなった《神器》を探さなくちゃいけないわけかよ」

 この一週間何もしていなかったとはいえ、まったく音沙汰の無かった《神器》を1週間で見つけるというのはかなり厳しい。出来る事といえば、《神器》の持ち主が《神器》を使うのを待って、その魔力の反応をたどる事ぐらいなのだから。

「ちなみにヒルドからの伝言よ。『べ、別に助けてほしいだなんて思ってないんだからねッ! でも助けてくれなかったら許さないわよ高貴!』ですって」
「それ本当にあいつが言ったのか? 俺あいつに名前呼ばれた記憶ねーぞ」
「高貴、ヒルドも君に助けを求めているぞ!」
「お前やっぱバカだろ。普通は俺じゃなくてお前に助けを求めるって。まぁエイルの友達だって言うんなら、助けてやりたいとも思うけど、実際どうやって《神器》を探すんだよ」
「気合で探す! 私はヴァルキリーだ!」
「黙ってろ、どうするんだよクマ」

 エイルの手の中で、もはや今にも真っ二つに裂けそうなクマに向かって高貴が問いかける。助ける気は高貴にはさらさら無いようだ。クマがその短い腕でエイルの手をタップし、何とかその魔の手から逃れたクマがテーブルに降り立った。

「ふぅ……新しい快感に目覚めちゃった。まぁ《神器》がこの町の人たちの手に渡ったら、おのずと魔力の反応は出てくると思うわよ。たとえ使いたくなくても《神器》を使う必要が出てくると思うから」
「どういうことだよ?」
「……まさかベルセルクのことか?」
「あ、そうか」
「正解よ。ベルセルクは《神器》を持つものやヴァルキリーを襲う存在。《神器》を持っていれば、ベルセルクに襲われる可能性は高くなるし、それを撃退する為に《神器》を使う必要がある。その時に魔力反応を感知できるわ。もっとも撃退して《神器》を消せば反応は消えるけど、それでも手がかりくらいはつかめると思うし。あとは欲深い奴がエイルや人間君に襲い掛かってくるのを期待するしかないわね。人間君は《神器》持ってるし、エイルはヴァルキリーで魔力が強いから、それを隠してなければ囮には最適。人間君、魔力を隠したりはしてないわよね?」

 クマの言葉に高貴が頷いた。エイルと契約をしてエインフェリアとなってから、高貴には魔力の扱い方がその記憶に刻み込まれた。それにより、普通の人間とエイルなどのヴァルキリーの魔力の違いを感じられるようになったのだ。
 《神器》の持ち主になったものならば、その違いを感じ取れるらしく、高貴やエイルをねらってくる可能性が高い。
 本来ならば、こちらもその方法で探せればよいのだが、魔力を扱えるものはその魔力を小さくすることができるため、一般人に紛れ込むことも当然できる。携帯電話の電源を切り替えるようにお手軽にできるため、魔力を小さくされてしまえばこちらからは探せず、せいぜい囮になって向こうに気がついてもらうしかない。

「結局は後手に回るしかないってことかよ。こっちからは探しようがねーんだな。でもベルセルクって本当に普通の人を襲ったりしねーのか?」
「ヴァルハラではそうだったよ。魔力の低いものがベルセルクに剣で斬りかかったのだが、見向きもされなかったという記録が残っている。しかし―――以前屋上に出てきたベルセルクが気になるな。本来は夜にしか活動しないベルセルクが、どうして昼間に出てきたのかがわからない」

 約一週間前、ヒルドと戦う前日に、高貴とエイルはベルセルクに遭遇した。幸いエイルが難なく撃退したものの、エイルが今言ったように昼間に出現する事は前例が無いという。

「クマ、四之宮でベルセルクによる被害は何かあるか?」
「何にも無いわよ。夜にお化けが出るとか、怪物が出たとかの噂もないし、あれ以降出現してないのかもね」
「本当に絶望的だなこりゃ。一週間でその目当ての《神器》を見つけるなんて無理じゃ―――」
「無理ではない! きっとできるはずだ! なんだったら今から草の根をかき分けてでも探し出してみせる」
「それは無理よ、《神器》が道に落ちてるわけないじゃない。親切な誰かが交番に届けてくれてたら楽だけど」
「おい、世界を揺るがすとか何とかが、急に安っぽくなるからやめろ。なんだよその落とした財布と同レベルみたいな例えは」
「まぁ気楽にいきましょうよ。ヒルドが死刑なんてのは嘘なんだから」
「「え?」」

 クマの能天気な声に、再び高貴とエイルの声が重なった。

「い、今……嘘だと言ったのか?」
「ええ、最初は死刑って話も出たけど、お仕置きだけでなんとかなりそうよ。ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、驚かせちゃったみたいね」

 クマの言葉を聞いたエイルはしばらく呆然としていた。そして強張っていた体の力が見る見る抜けていき、次第に安心したような表情になっていった。

「……クマ、言って良い事と悪い事があるよ。本当に私はビックリしたんだぞ」
「確かに、友達の死刑報告なんて聞きたくないわな。どう考えてもクマが悪い」
「ご、ごめんなさい。お姉さんも悪かったと思ってるわよ」
「いや、許さない。高貴、ハサミを貸してくれないか?」
「本当にすみませんでした! これからは嘘のない人生、いえ、クマ生を心がけて生きていきますのでバラバラだけはお許しを! せめて思いっきり踏みつけるとかで許してください!」

 身の危険を感じたのか、クマがエイルに向かって土下座しながら謝罪する。それを見てようやく落ち着いてきたのか、エイルがため息を一つついた。

「まったく……まぁ、《神器》を失くしてしまったにもかかわらず、お仕置きだけで済むのだからよしとするか。今日はもう遅いから、高貴もそろそろお風呂に入ってきたらどうだ?」
「……ああ、そうするよ。その前にちょっと外行ってジュース買ってくる。エイルもなんか飲むか?」
「いや、私はいい」
「お姉さんもついてく」

 高貴とクマが立ち上がり、リビングにエイルを残したまま二人一緒に部屋を出る。玄関の扉を開けて外に出て、寮のすぐそばにある自動販売機に向かって歩き出した。

「さてと、一応聞いておくけど、そのヒルドって奴本当はどうなるんだ?」

 クマは少しの間黙っていたが、やがて気まずそうに口を開いた。

「1週間後に死刑よ。罪状はギリシャの《神器》の紛失」
「ああ、やっぱりか。エイルには黙ってたほうが良いな。さっきは完全に取り乱してたから」
「助かるわ。あそこまで取り乱すなんてお姉さんも予想外だったのよ。しゃべっちゃったのはお姉さんのミスね」

 ヒルドの死刑の話を聞き、エイルは完全に我を失っていた。このままでは《神器》を探す事など不可能だと判断したクマは、とっさに嘘だという事にしたということだ。

「とにかく、その《神器》を持ってる奴が俺達を襲ってくるか、ベルセルクとの戦いの魔力をたどるかしかないんだから、神様にでも祈るしかねーだろ。エイルの友達だって言うんなら助けてやりたいし、できる限りの事はやってみるよ。エイルにばれないようにだけど」
「そうね、あと一週間以内に見つかる事を祈りましょう。お姉さんも何かわかったらすぐに知らせるわ」

 自動販売機についた高貴は、缶ジュースを購入する。炭酸入りのオレンジジュースだ。思えばエイルに初めて会った時にもこれを飲んでいた気がする。
 とにかく、この一週間はエイルにならって、気合で《神器》を探すしかないようだ。

「そういやお前ってジュース飲めるんだっけ?」
「大丈夫よ。お姉さんの本体的なものはきっと今頃お酒飲んでるから」

                                                                           ―――――ヒルド・スケグルの処刑まであと七日



[35117] 悩みは多くて問題も多い
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/09 07:11
 寮を出る時、高貴とエイルは別々に出るようにしている。
 最初に誰も見ていない事を確認したエイルが登校し、その10分後に高貴が登校をする。これはもちろんエイルが高貴の部屋に住んでいることを悟られないようにするためであり、一緒に登校するという事はまずない様にしている。

「おはよう高貴」
「……おはよう」

 しかし、エイルはいつも校舎の昇降口で、高貴のことを待っているのだ。先に教室に行けばいいものの、決まって高貴を待っている。しかも昇降口でだ。登校時間の昇降口は、学園の中でもトップクラスに生徒の視線が集まる所であり、多くの生徒にその光景を目撃されている。
 故に、一週間前に転校してきた美少女を、たった一日で口説いてものにした男がいるなどという噂が、四之宮高校には広がっているのだ。当然高貴の事である。今までは何の変哲もない生徒だった高貴だが、エイルによっていちやく有名人になってしまった。

「……あのさ、別に校門のとこで待ってなくても良いんだけど。教室で席が隣なんだし」

 靴を下駄箱にしまいながら高貴が言う。

「どうしてだ? 校門で待ってるくらい別にいいじゃないか。一緒に登校してはいけないという言いつけは守っているぞ」

 内履きを下において、それに足を入れながらエイルがそう答えた。つま先で床をトントンと叩いて靴を履き、二人で教室へと歩き始める。

「そもそも私は君のところに住んでいるという事を隠す必要はないと思うんだよ。昨日も話した事だが、ホームステイしていると言えばいいだけじゃないか」
「昨日話したとおりだよ。絶対に変な目で見られる。下手すれば俺の人生が終わる」
「ふむ、君とはなかなか意見が合わないようだ。悲しい限りだよ。でもどうして校門で待っててはいけないんだ?」
「校門の前で待ってるなんて、誤解でもされたらどうするんだよ」

 実際はもうされているが。こうして廊下を歩いているだけで、時折ひそひそと話し声が聞こえてくる。

「誤解……ああ、そういうことか。そこまでは気がまわらなかったよ。その……なんだ。君はやはり、私とそういう風に勘違いされるのは迷惑なのか?」
「……え?」

 なんてことを質問してくるんだこのヴァルキリーは。しかもどうして普段は滅茶苦茶なのに、こういうときだけ普通の女の子みたいな表情になるんだこの女の子は。
 不安そうな顔で自分を見ているエイルにたいして、高貴はここでお約束の反応を返さなければいけないかどうか本気で悩んだ。しかし、そう言ってしまえば、エイルはこれからも校門で自分を待ち続けるだろう。そのうち一緒に登校するなどと言い出すかもしれない。そうなってしまえばお互いが困るだけだ。
 故に、ここは心を鬼にしてでも、多少冷たい言葉を返しておいたほうが良いだろう。それがきっとお互いの為になる。よって高貴は、

「……別に、嫌ってわけじゃないけどさ」

 お約束の言葉をエイルに返した。
 エイルの悲しそうな顔を見ると、どうやら自分は心を鬼になど出来ないという事を理解できた瞬間だった。

「そ、そうか。……まぁ、その、……私も同じだが……」
「ん、なんか言ったか?」
「い、いや、なんでもない! 今日も一日頑張ろうと思っていたところだよ!」

 何故か顔を真っ赤にしたエイルがわたわたと両手を振りながら言った。よくわからないが、きっと気にしてもしょうがない事だろうと思い、高貴はその話を打ち切った。

「それより高貴、そろそろ《神器》を本格的に探したほうがいいと思うんだ」
「おい、こんなとこでそんなこと言って良いのかよ?」
「別にかまわないさ。誰かに聞かれてもゲームの事について話しているといえばごまかせるだろうし、もしかすると生徒の中に《神器》を持つものがいるかもしれないから、反応が見れるかもしれない。昨日のヒルドの事は冗談だったとしても、私もこの世界になれてきたところだし、行動を開始してもいいと思うんだ」

 本当は冗談ではなく、本当に死刑されてしまうのだが、口が裂けてもそんなことは言えなかった。大いに取り乱してしまうエイルがやすやすと想像できるからだ。

「まぁそれは俺も賛成だよ。ところで今まで聞いてなかったけど、《神器》って全部でいくつあるんだ?」
「ふむ、わからない」
「は?」
「ヴァルハラで確認されている無くなった《神器》は3つと知らされてはいるが、それ以上の数がこの世界に来たと考えてもいいだろう。ケルトとギリシャの《神器》はいくつ飛び散ったのかは完全に不明だ」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんでそれを教えられてないんだよ? それかなり重要な事だろ」
「ふむ、《神器》というのは、それぞれの国の国家機密のようなものなのだよ。だから本来は私たちヴァルキリーに対しても名前すら知らされていないんだ。せいぜい巨大な魔力を持った武器ぐらいにしか教えてもらえない。レーヴァテインすらヒルドが回収したと聞いて、初めて名前と能力を知ったくらいだからね。もしも私が《神器》を集め終わって、ヴァルハラに戻ったら、《神器》に関する記憶は全て消されてしまうだろうな」
「……じゃあさ、この町にある《神器》の名前とか、特徴とか、そういうのは……」
「ふむ、まったくわからない」

 目の前が真っ暗になっていくのを感じた。そんな行き当たりばったりかつとても少ない情報で、この町にはあるがどこにあるかもわからないという物を探さなければいけないとは。いくらなんでも無理だろう。これはヒルドの事は諦めるしかないのかもしれないなどとも考えてしまう。

「《神器》の詳細を知るとなると、《戦女神ヴァルキュリア》クラスの権限がないと無理だろうな」
「ヴァルキュリア? ヴァルキリーと名前が似てるけど、なんなんだそれ」
「私達ヴァルキリーの上司のようなものだよ。しかしわけあってこの世界に来る事は出来ないし、《エオー》で聞いても教えてもらえないだろうから期待しないでくれ」
「ふーん、来ると天変地異が起きるとか?」

 昨日クマに、すごい結界を張ると天変地異が起きると言われた事を思い出して、何となく高貴はそう言った。しかし、そんな軽い気持ちで言った一言に対し、エイルはなぜか遠い目をしている。それはまるで何かを思い出すような、何かを懐かしむような、完全に目の前ではなく違うどこかを見ていた。

「ふむ……天変地異で、済めばいいな」
「いやそれ以上のことってなんだよ!?」
「……聞きたいのか?」
「言わなくていいですごめんなさいもう聞きません!」

 気にしないことにしよう。そして何が何でもそんな危ない奴らが来ないように頑張ろう。そう固く誓った瞬間だった。なんにせよ困難は多く、悩みもそれに負けないくらい多くなりそうだ。



 教室のドアを高貴が開くと、すでに真澄が登校して来ていた。いつも通りスマホを弄って遊んでいる。俊樹はまだ登校してきておらず、隣の席の静音もまだ来ていないようだ。

「おはよう真澄」
「あ、おはようエイルさん」

 席に着くと、高貴よりも先にエイルが真澄に声をかけた。真澄はスマホから視線を離し、エイルのほうを向くと挨拶を返す。

「おはよう」
「……おはよ」

 高貴も同じように挨拶をしたが、何故か返って来たのはムスッとした空返事。そっけない挨拶は前からだったが最近はますます酷い。なぜだかはわからないが、真澄の機嫌がここ最近悪いような気がするのだ。とりわけ心当たりがあるというわけでもないのだが、かといって自分のせいではないと言い切る自信もない。

「……なんだか最近……てゆーかエイルさんが転校してきてから、二人はほとんど一緒だよね。今だって一緒に教室に入ってきたし」
「ああ、それは―――」
「せ、席が隣だからいろいろと面倒見てやれって言われたんだよ! あと登校時間が重なって、たまたま一緒になるだけだって!」

 エイルの言葉を遮って慌てて高貴が話す。エイルに話させるとなにを言うかわからないからだろう。

「ふーん、……それにしても仲いいよねー」
「ふむ、高貴は大切な友人だよ」
「……へー、大切な……友人ね」

 真澄に思い切りにらまれる。なぜ睨まれるのかはまったく理解できないが、自分は多分悪い事はしていないはずだ。

「そういえば二人とも、今日は委員会を決めるって先生が言ってたけど、入りたい委員会は決めてきた?」
「え、そんなこと言ってたっけ?」

 真澄が頷く。最近はエイルに気を取られて、担任の話など聞き流していたツケがまわってきたようだ。

「言ってたよ。エイルさんは決めてきた?」
「ふむ、そもそもどんな委員会があるのか私は知らないからな……高貴はどんな委員会に入るんだ?」
「俺か? 前は図書委員だったから、今回もそれで良いかな」
「図書委員……君は本が好きなのか?」

 エイルが意外そうな表情でそう聞き返してきた。高貴の部屋には漫画はあれど、小説の類がまったくなかったため疑問に思ったようだ。

「いや、好きじゃないよ。でも図書委員って楽なんだよ。図書当番のときは宿題とか課題とかやって時間潰せるし、それに急な仕事が入る事も少ないからバイトのシフトも組みやすい。何よりやっぱり楽だ」
「なるほど……納得だよ。真澄は何に入るんだ?」
「わたしも前と同じで保健委員かな。やる事もあまりないし」

 高貴が覚えている限り、真澄は中学生の頃から保健委員だったはずだ。保健の教師がいなくとも、応急処置くらいなら出来るレベルになっている。

「保健委員があるのか。それなら私もやった事があるから一応出来ると思う」
「へぇ、エイルさんって前の学校で保健委員だったんだ」
「ああ、よく友人がルーンを失敗してケガをしたとき―――い、いや、なんでもない。とにかく私にも出来るだろう」
「るーん? 何それ?」
「ききき気にすんなって! きっとあれだよ、外国の遊びとかだよ!」

 高貴が二人の会話を慌てて止めた。エイルが視線だけで「助かったよ」とアイコンタクトを送ってくる。通じるのかはわからないが、「気をつけろよ」とだけ高貴もアイコンタクトを送る。その様子を真澄がなにやら詰まらなさそうに見ていた。

「なんかあったのか真澄?」
「べっつにー……じゃあエイルさん、一緒に保健委員やろっか。人数三人だからあと一人誰か入ると思うけど」
「ああ、よろしく頼むよ」

 笑いながらそう言うエイルに対しても、やはり真澄はどことなく暗い雰囲気だった。もしかすると、エイルと一緒に保健委員をするのが嫌なのかもしれないとも一瞬だけ高貴は考えたが、それは何となく違うようにも思える。結局真澄が不機嫌な理由はわからないままだ。
 もう一度真澄に理由を聞いてみようと思った矢先に、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響き、教室のドアが開いた。それも前と後ろの両方が同時にだ。前の扉からは担任が、後ろの扉からは俊樹がそれぞれ入ってくる。担任が教卓につくよりも一瞬早く俊樹が席についた。

「よう俊樹、今日はかなりギリギリだったな」
「あ、ああ。……やっぱり早起きを心がけたほうがいいのかもしんない」
「ふむ、私も朝が苦手だからその気持ちはわかるよ」

 確かに、エイルの寝起きの悪さは高貴の最大の悩みの一つだ。今日も朝起きたことを思い出すと顔がにやけて、もとい、頭が痛くなってくる。

「それじゃあ日直、号令」
「きりーつ、礼」
「おはようございます」

 日直の生徒が挨拶の号令をかける。そういえば今日はまだ静音の姿を見ていない。もしかしたら遅刻でもしたのか、はたまた欠席なのか。そんなことを思いながら、ふと隣を見ると、そこには普通に静音が立っていた。いつの間に来たのかと思わず高貴は唖然としてしまう。それはエイルも同じのようで、静音のほうを見たままポカンとした表情になっている。

「着席」

 静音が二人の視線に気がついたき、その眼鏡の奥の目と高貴の目が合ったが、一度視線を交わしただけで静音は何も言うことなく席に座った。

「な、なぁエイル、音無っていつ来たっけ?」
「い、いや、私にもわからない。まさに名前の如く音も無く登校してきたようだ」

 音無静音はエイルと同じ日に転校して来てから、人をまったく寄せ付けず常に一人で過ごしている。イヤホンを付けて音楽を聴いたり、カバーのついた本を読んだりしてだ。交わす言葉は必要事項の最小限のもののみで、その強固な壁っぷりにより、たった一週間で《峡谷の音無》というあだ名や《音無バリアー》という言葉が生まれてしまっているほどだ。それでも見た目は知的な美人なので、エイルとは違う方面で人気もあるようだ。
 まぁ深田君のようにいきなり消えて、隣にヴァルキリーが転校してくるよりはましか。
 そんなことを思いながら高貴は一時限目の授業の準備を始めた。



「じゃあ希望する委員会に手を上げてくれ。各委員会は基本的に二人ずつ、それ以上の人数だった場合はあとでジャンケンなり話し合いなりで決める。それではまず生徒会から」

 今日は金曜日であり、その曜日の最後の時間割はロングホームルームとなっている。この日が終わると休みを2日間挟むため、連絡事項や、行事が近ければその事についての説明があったりするのだが、今日は朝真澄が言っていたように委員会を決めるようだ。
 黒板には全ての委員会の名前が書かれており、希望者の名前をそこに書いていくという決め方だ。しかし生徒会は誰もやりたくないのか、誰一人として手を上げなかった。幸先悪いスタートをごまかすように、担任がそれを飛ばして美化委員会に移る。

「で、結局エイルは真澄と二人で保健委員なんだっけか?」

 あまり大きな声を出せはしないものの、ひそひそとエイルに話しかける。

「ああ……そう……だな……うん。黒板を見たところ、私がやった事のある委員会は保健委員会だけみたいだ」

 黒板に書いてある委員会を確認しながらエイルが答えた。

「ふーん、てゆーか前の学校にも委員会ってあったんだな」
「それはもちろんあるさ。それにもっと沢山種類があったぞ。武器管理委員会や魔術管理委員会。ネコ耳委員会にウサ耳委員会というのもあったな」
「うん、取り合えずお前らがバカだってのはよくわかった」
「こら、バカとはなんだ。彼女たちも本気だったんだぞ。ヴァルキリーの鎧の髪飾りをネコ耳やウサ耳にしようと毎日講義していたんだ。その甲斐あって、ネコ耳とウサ耳どころかイヌ耳まで許可されたんだ。あれには本当に驚かされたよ。もっとも私は恥ずかしかったので、そうはしなかったけどね」
「それは委員会じゃねーよ、バカの集まりだよ」

 前々から思っていたことだが、ヴァルキリーとはバカの集まりなのかもしれない。エイルが鎧姿のとき、頭に付けていたティアラのような髪飾りは、確か翼のような装飾がついていた。つまりはあれが猫や兎の耳になるという事だろう。
 ネコ耳ヴァルキリー。うん、笑えない。それならよく聞くネコ耳メイド等のほうがまだ自然に思える。

「……」
「高貴、なにやらボーっとしているような気がするがどうかしたのか?」
「い、いや、なんでもない」

 思わずネコ耳でメイド服を着ているエイルの姿を想像してしまった事は本人には黙っておいた。

「じゃ、次は保健委員会」

 担任がそう言いながらチョークで保健委員会の文字を指す。エイルが右手をすぐに上げ、高貴の前に座っている真澄も右手を上げた。それだけではなく、真澄の隣の俊樹も高く手を上げている。ほかの生徒は誰も手を上げておらず、これで保健委員会は決定という事となる。担任が三人の名前を書き込んでいった。

「俊樹、お前も保健委員やりたかったのか?」

 手をおろした俊樹に高貴が話しかける。俊樹は振り向くと、なにやら嬉しそう顔になっていた。

「ああ、保健委員って良いよな! 男のロマンだよな!」
「ふむ、すまないが意味がわからない。どういうことだ俊樹?」
「去年思ったんだよ。保健委員って具合が悪い生徒をおぶって運ぶだろ。つまりは合法的に女子を―――」
「エイルさん、二人で頑張ろうね」
「ふむ、私はこう見えても力には自身がある。おぶることも容易いだろう」
「そんなバカな!?」

 ここで言わなきゃ良かったのに。そう思ったが口には出さないでおいた。

「よし、次は図書委員会」

 担任がそう言ったのを聞いて、慌てて高貴は右手を上げた。クラスでほかに手を上げている人物は……一人だけいた。高貴の隣に座っている音無静音が左手を上げていた。

「月館と……音無っと……よし、後はいないか? いないなら決定だ」

 その言葉を聞いた二人が手を下ろす。
 静音はよく本を読んでいるので、もしかしたら本がすきなのかもしれない。それならば図書委員会を希望するのも納得がいく。高貴とは正反対の理由なわけだが。

「よかったじゃないか高貴、これをきっかけに静音と仲良くなれるかもしれない」
「うーん……」

 ひそひそと話しかけてくるエイルにたいして、高貴は煮え切らない返事を返した。正直な所、高貴自身はあまり静音と親しくなりたいとは思っていないからだ。本人から歩み寄ってくるのならばともかく、明らかに静音は他人とのかかわりを避けている。しかし、高貴はそれを悪い事だとは思っていない。世の中にはいろんな人と仲良くなりたいと思っているエイルのような人がいれば、一人でいたいと思う人間だって当然いるだろうというのが高貴の考えだからだ。
だが、静音は人当たりの悪さを除けばかなり真面目な生徒であり、必要最小限とはいえ委員会の仕事の内容ならば会話も出来るという事は、かなり頼りになる存在かもしれない。取り合えず挨拶でもしておこうと、高貴は静音のほうに向き直る。

「あー、よろしくな音無」
「…………」

 静音は高貴のほうに軽く視線を向けただけで何も言わなかった。机の中から本を取り出すとそれを読み始める。カバーがかけてありなんの本かはわからない。この委員会決めが終われば後は自由時間なので決まった彼女にとってはもう授業はどうでもいいのだろう。
 「前途多難だな」というエイルの声が聞こえた気がした。



「ふーん、じゃあ真澄ちゃんと俊樹君は保健委員で、高貴君が図書委員になったわけなのね。三人ともしっかり青春してるようでなによりよ」

 ブラックコーヒーを飲みながらしみじみと詩織が言った。学校が終わり、今日はバイトだった為、高貴は一度帰宅することなくマイペースに向かった。今日は真澄と一緒のシフト、というよりも高貴がバイトのときはいつも真澄と一緒だ。それと詩織に会いにきた俊樹も一緒にいる。今マイペースにいる客は俊樹一人だけなので、若者三人がカウンターに座っている。

「青春って……ただ単に委員会決めただけですよ。それに詩織さんだってまだまだ青春出来ると思いますけど」
「そうですよ、詩織さん。いやー今日も美人だしスタイルもいいし、彼氏の一人や二人いないんですか?」
「ふふ、俊樹君上手ね。でも私は恋人なんていないわよ」
「はぁ、世の中の男って見る目ないですよね。わたしが男ならすぐに惚れちゃうと思います。料理も出来てケーキも作れて家事も完璧で美人で胸も大きくて」
「真澄小さいからな戦闘力B……」

 俊樹のみぞおちに真澄の容赦ない一撃が叩き込まれた。うめき声すら上げることも出来ずに彼はうずくま―――れなかった。真澄がすかさず首根っこを掴んで俊樹をにらみつける。

「おい、今なんつった」
「は、破壊力はSクラス……」

 真澄は高貴と俊樹の間に座っており、高貴から真澄の顔を見る事ができなかったが、俊樹の表情から見るにこの世のものとは思えない顔になっているのだろうとたやすく理解できる。ゆがんでいるのそ表情は痛みによるものか、恐怖によるものか、もしくは両方か。
 平和だ。まったくもって平穏で平穏だ。
 そう感じる一番の理由はやはりエイルがそばにいないからだろう。別に彼女の事を嫌っているわけではないが、やはりこういう普通の日常も大切にしたいと思うのは高貴の本心である。エイルは今ごろ家で大人しくテレビでも見ている頃だろう。きっと録画した昼ドラをクマあたりと。
 エイルとクマにはマイペースには決して来ないように釘を刺してある。つまりはここが高貴にとっての最終防衛ライン。最後の安息の地。犯されることない平穏。

「高貴君、どうかしたの? なんだかボーっとしてるみたいだけど」
「あ、いえ、なんでもありません」

 そう返事を返してコーヒーを飲もうとしたとき、カップの中が空になっていることに気がついた。すると詩織が「おかわりはいる?」と聞いてきたのでお言葉に甘えてカップを差し出す。詩織はカップを持つと、後ろで結われてある髪を揺らしながらカウンターの奥へと向かっていく。
 やっぱり詩織さんは癒し系のお姉さんだな。どっかの自称お姉さんのぬいぐるみとは大違いだ。
 そんなことを考えていると、いつの間にか真澄に見られていたらしく、なにやら不機嫌な様子になっている。その後ろでは俊樹が死んでいるが、見なかった事にしよう。

「な、なんでしょうか?」
「べっつにー……詩織さんの事いやらしー目で見てるなって思っただけ」
「い、いやらしい目でなんて見てねーよ。癒されてはいたけどさ」
「どうだか、どうせエイルさんや音無さんと同じで詩織さんは胸が大きいから見てたんじゃないの。詩織さんはFらしいけど、前に俊樹が言ってた」
「えふ……」
「こら、二人とも。お姉さんの体のことを気安く話題にしちゃだめよ」

 高貴のおかわりのコーヒーを持ち笑いながら二人に話しかける。視線が差し出されたコーヒーではなくF……もとい胸に言ってしまうのは男の悲しいサガか。

「ところで今話に出てきた人って、三人の友達? なんだか外国の人みたいな名前だったけど」
「エイルさんは友達ですけど、音無さんはそうは思ってくれてないと思います。二人とも同じ日に同じクラスに転校してきたんです。エイルさんのほうは海外留学生なんですよ」
「へぇ、四之宮高校って海外留学生の受け入れなんてしてるのね」

 正確には界外留学生だ。

「そーなんすよ。しかも二人ともスゲー美人で、エイルさんのほうは最近妙に高貴と仲がいいんすよね。クラスで高貴だけエイルさんの名前呼び捨てだし。高貴、やっぱり付き合ってんのか?」

 詩織の声で復活したらしい俊樹が唐突に会話に入ってきた。そのまま死ねばよかったのに。

「付き合ってないって。エイルとは席が隣だから仲良く見えるだけだよ。名前の呼び捨てだって二人も頼まれたろ?」
「うーん、でもエイルさんってすごく良い人で、同性のわたしから見てもかっこよくて憧れちゃうんだよね。だから呼び捨てはなんかしにくいってゆうか」

 本気で言ってるんだろうか? 少なくとも良い人だということは認めるにしても、かっこいいだの憧れるという要素はどこにも存在していないと思うのだが。人によって見る目が違うのは仕方がないとはいえ、ここまではっきりと違うとは驚きだ。

「そうなんだ、今度よかったらここにつれてきて。なんだか私も話してみたくなっちゃったから」
「いえ、それだけは勘弁してください」

 思わず反射的に、しかも間髪要れずに詩織の言葉に小声で反応してしまった。この最後のオアシスだけは侵略されるわけにはいかない。
 その時、マイペースの入り口についているドアが開き、カランカランとベルの音が響いた。珍しく、もといようやくお客が来たらしい。高貴が反射的に立ち上がると、席に案内する為、もしくはケーキの注文をとるために入り口へと歩き出す。
 そして、その足が止まった。その客は長い銀の髪を持ち、四之宮高校の学生服を着た少女だった。というよりもどこから見ても高貴のよく知るヴァルキリー。
 平穏クラッシャーにしてデンジャラスメイカーのエイルだった。
 エイルはなにやらしょんぼりとした表情で、いささかオドオドとしながら店に入ってくる。

「なんで……ここにいるんですか?」

 なんとか思考を働かせてエイルに話しかける。敬語になってしまったのは、自分は今バイト中だからか、もしくはあまりの出来事に敬語になってしまったのか。高貴の姿を見つけたエイルは一気に表情が晴れ渡り、早足で高貴の元に近づいてくる。

「高貴……会いたかったよ……君を探していた」

 そしていきなり爆弾発言を投下した。マイペースの中の空気が一気に凍りつく。高貴はすぐさまエイルの手を引いて入り口に戻り、エイルをしゃがませて自分もしゃがむ。いわゆるヒソヒソ話だ。

「おい! 何でお前ここに来てんだよ! 家で昼ドラ見てるんじゃねーのかよ!」
「もう見終わったよ。結局旦那さんにばれて二人は離婚、新婚二ヶ月にもかかわらずね。しかし奥さんのおなかにはその旦那さんの子供が―――」
「別にそこまで言わなくていい! 何でここに来たんだよ!?」
「一人で寂しかったんだ。私は寂しいのが苦手だと行ったじゃないか。気がついたらクマもいないし、昼ドラも見終わってしまい、まだ九時じゃないから次のドラマも始まらない。だから高貴の所に行こうと思って歩いてきたんだよ」
「来るなって言ったろ! 俺ここでバイトしてるってお前に言ってねーけど!?」
「前にクマにお店の名前だけは聞いた。それに私と君は深く繋がっている。魔力をオンにしていれば君のそばに来る事は出来る。本当に寂しくて寂しくて、もう誰でもいいから会いたかったんだよ……」

 再びしょんぼりとした表情でそう言われてしまっては、なんだかこっちが悪い事をしているような気にさえなってくる。一人でいると寂しいから留守番すら出来ないのかこのヴァルキリーは。音無静音とは正反対の存在である。
 と言うよりも、前からずっと思っていた事だが。この《神器》を探すと言う任務にエイルを選んだのは、確実にヴァルハラの人選ミスにも思えた。これなら天変地異以上のことが起きても《戦女神ヴァルキュリア》とか言う人たちを連れてきでもしないと、絶対に見つからないのではないかとさえ思えてくる。

「わ、わかったよ。来ちまったもんはしょうがないから、取り合えず―――」
「取り合えず……なに?」

 殺気、そして圧倒的なまでの怒気。背後を見上げればそこには鬼の形相をした幼馴染が立っている。

「ま、真澄さん? 何をそんなに怒ってるんですか?」
「……エイルさんが来てくれたのは別にいいの。お客さんとしてきてくれるのなら大歓迎だから。でもなんでいきなりあんたに向かって会いたかったなんて言ったの?」
「そ、それは……」

 何も言い訳が思いつかない。絶体絶命の状況の中、なんと高貴よりも先にエイルのほうが動いた。真澄がいる事に今まで気がつかなかったのだろうエイルは、真澄の姿を見るやすぐさま立ちあがりその手を取った。

「真澄……君もいてくれたのか……本当に会いたかったよ」
「え? ど、どうして?」
「家に一人きりですごく寂しかったんだ。だから誰でもいいから友人に会いたかったよ」
「あ、そうなんだ……」
「そ、そうそう! それで俺に対してもややこしい事言っちゃったんだってさ。それを注意してたんだよ!」

 エイルの言葉に乗って高貴も真澄に話しかける。それでようやく真澄も納得したらしく、その顔から怒りが段々と消えていった。

「エイルさーん、寂しいなら一緒にコーヒーでも飲もうぜ。今んとこ客は俺だけだから、二人も暇だろうし。」

 俊樹もエイルの元に近づいてくる。その表情には下心が丸見えだ。あわよくばエイルに手を握ってもらおうなどと考えているのだろう。

「俊樹……君もいたのか……もう寂しくはなくなったから、特に会いたいとは思っていなかったよ」

 俊樹がその場に崩れ落ちた。



「ああ……一人じゃないと言うのは素晴らしいな。やはりヴァ……人は一人では生きていくことなどできないんだ。大切な友を作り、共に支えあって生きていく事こそもっとも幸せな人生と言えるのかもしれない」
「悟ったような事言ってるけど、結局お前寂しかっただけなんだろ。ガキじゃないんだから一人で留守番くらいしとけっての」
「む、高貴。君は今この喫茶店の店員ではないのか? そして私はお客だ。にもかかわらずそのような態度をとるのはどうかと思うのだが」

 この野郎……すっかり調子を取り戻してやがる。むしろ調子に乗ってやがる。
 エイルは右隣に高貴を、左隣に真澄を座らせご満悦の表情だ。ちなみに入り口付近で俊樹が撃沈していたが、入ってくる客の邪魔だったため、テーブル席に高貴が捨てておいた。

「あはは、とにかくエイルさんが来てくれてうれしいよ。これメニューだけど何か注文する?」
「ふむ、ではそうさせて貰うよ。ありがとう真澄」

 真澄からメニュー表を受け取ると、エイルはそれに目を走らせる。その様子を微笑ましそうに詩織が見ていた。

「ちょうどあなたのことを話してたのよエイルちゃん。私は加賀美詩織よ。この喫茶店マイペースの店長をしてるの」
「挨拶が遅れて申し訳ない。私はエイル・エルルーンというものだ。よろしく頼む」
「ええ、よろしくね。海外留学生なんですってね、どこの国から来たの?」
「ふむ、それは秘密だ。ヴァル、女は秘密が多いほうが良いらしいから、どこから来たのかは内緒にしておいたほうがいいとクマに言われた」
「くま?」

 どうしてヴァルキリーと言うのは途中でやめることが出来たにもかかわらず、クマのことを言ってしまったのだろう? やはり彼女は隠し事が苦手のようだ。

「あ、ああ。故郷の友人だよ。あだ名なんだ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあエイルさんは今どこに住んでるの?」
「とある家にホームステイしている。私としては場所を教えても構わないのだが、家主の希望で詳細は伏せさせてもらうよ」
「じゃあ聞かないほうが良いな。さ、エイル注文はなんだ?」

 会話を打ち切って強引に高貴が注文をとる。これ以上エイルに喋らせてしまえば、何を口走るかわかったものではないからだ。しかしエイルはいつまでたっても注文をする気配はない。メニュー表を見てなにやら唸るばかりだ。何を食べたいのか迷っているのかとも思ったが、むしろ戸惑っているようにも思える。
 そこで高貴は気がついた。もしかするとエイルはメニューの中身がわからないのではないかと言う事に。マイペースのメニューはコーヒーとケーキのみで軽食すら出していない。高貴がエイルと暮らした期間中に、エイルがその二つのものを口にしたことを高貴は見た事がない。ヴァルハラにケーキやコーヒーがないとするなら、どんなものなのかわからないと言う可能性も十分にある。

「悩むようならさ、無難にショートケーキでいいんじゃないか?」
「君はなにを言っているんだ? ケーキを選ぶのにたいして無難に選ぶなどと言う選択肢が存在するわけがないじゃないか。シンプルながらも奥が深いイチゴのショートケーキ。黒という大人びた色の中で、優しい甘さのチョコレートケーキ。どんな季節でも秋の香りと味を思う存分に味わう事のできるモンブラン。どれもおいしそうでなかなか選べないよ。君は少し、いや、かなりケーキというものをなめているようだね。ヴァ……女にとってケーキとはそれほどまでに特別なものだと言う事を覚えておくといい」

 本当にただ悩んでいただけだった。しかも妙に食い意地が張っている。へたをすれば「全部持ってきてくれ」などとでも言い出しそうな感じでもある。そもそもエイルは金を持ってきているのだろうか?

「それわたしもわかるよエイルさん。ケーキってどれにするかすっごく悩むよね。沢山食べたいけどそれじゃ太っちゃうし、かといってどれか一つだけじゃ満足できないし」
「さすが真澄はわかっているな。とはいっても頼まない事には始まらないから、ここはショートケーキにしよう」
「結局俺がすすめたやつじゃねーかよ」
「残りはまた今度食べるよ」

 こいつまた来る気だ。しかも入り浸る気だ。
 詩織が注文のケーキの用意を始める。こうして高貴の最後の安息の地も完全に消え去る事となった。しかし、ここでは真澄や詩織が相手をしてくれる分、いささか落ち着いてすごせるようだ。

「そういえばエイルさん、一度家に帰ったんだよね? 制服から着替えなかったの?」

 エイルは四之宮高校の学生服を着たままだ。高貴と真澄は学校から真っ直ぐ来たためまだ制服を着ているが、一度帰ったエイルがまだ制服を着ていることを真澄は疑問に思ったのだろう。

「ああ、私は制服以外の服を持っていないんだ」
「「……え?」」
「しかし心配しないでいい。制服は余分に持っているから毎日洗濯しているし、下着なども代えがあるからちゃんと洗っている。当然の事だがね」
「いやいやいやいやちょっと待って! 制服以外の服がないって事自体が当然じゃないから! ほ、本当に持ってないの!?」
「ああ、持っていない。あ、パジャマは持っているよ」

 高貴と真澄は思わず絶句してしまった。
 というよりも、今まで一緒に暮らしていて気がつかなかった自分をバカに思った。そういえばエイルの洗濯物は、学生服、下着、パジャマの三つのみで、私服の類はなかった。そもそもエイルが学生服かパジャマ、そして鎧以外の服を着ているところを高貴は見た事がない。
 バスタオルは服には含まないからだ。

「で、でもそれじゃ出かけるときとか困らないの?」
「困る事はない。私はヴァるきり……私は服は着られればいいと思っているからね。学生服があれば何も問題ないよ」
「そんな、もったいないよ。せっかくエイルさん美人なのに。何なら一緒に買いに行く? ほら、明日は土曜日で学校休みだし、都心のほうなら店とか沢山あるから」
「それは……」

 なんとかヴァルキリーだとは言わないようにしたらしい。真澄の誘いにエイルは困ったような表情になった。そしてちらりと高貴のほうを見る。視線がどうしたらいいのかと聞いているようだ。
 高貴からしてみれば、この誘いを断る必要はないと思っている。エイルはおそらく土日を使って《神器》を探すつもりだっただろうが、高貴はまだエイルを都心のほうへ連れて行った事はない。《神器》を探す事において高貴たちが出来る事は少なく、せいぜい他の《神器》の持ち主に気がついてもらうくらいしか出来ない為、行った事のない場所にエイルを連れて行くということは決して悪い事ではない。とにかく四之宮を歩き回る事が探す事にもつながるからだ。
 何より、真澄の親切心を無駄したくはないし、エイルの服を買うというのも助かる話だ。彼女は好奇心旺盛な性格なので、ヒルドのことでも言わない限りは、高貴がすすめればエイルが断る事はないだろう。

「せっかくだから行ってきたらどうだ? 服を買っておいたほうがいいとも思うし」
「そうか……では頼めるかな真澄」
「うん、もちろんだよ」
「よかったなエイル。まぁ楽しんで来いよ」
「何を言っているんだ高貴、もちろん君も来るんだろう?」
「は?」
「こ、高貴も!?」

 どうして自分まで行くことになるのだろう。自慢ではないが、彼は女性と一緒に服を買いに行ったことなどないし、どんな服がいいかなどのアドバイスも出来そうにない。真澄がついていってくれるのなら十分のはずだ。
 いや、待て。もしも本当にエイルが《神器》の持ち主に見つかったらどうなる。最悪の場合はその場で闘いが起きてしまうかも知れない。その場合はエイル一人で戦うということになってしまい、正直言ってかなり危険だ。日中ならば大丈夫かもしれないが、以前は昼間にも出てきたので確実とはいえないからだ。
 そしてさらに悪いケースは、真澄と一緒に襲われてしまうというケースだ。正直な所、真澄は《神器》の件には係わらせたくないし、相手が《神器》を持っていたら、エイル一人で真澄をかばいながら戦うというのも限界があるだろう。エイルが迷っていた本当の理由はこの事かもしれない。

「……わかったよ、俺も行く。まぁ荷物持ちくらいは出来るだろうしな」

 手伝うと決めたにもかかわらず、もしものときに力になれないというのは、高貴にとって納得できる事ではなく、結局首を縦に振るしかなかった。

「別に荷物持ちなどさせるつもりはない。どうせなら一緒のほうが楽しいと思っただけだよ。真澄だってそうだろう?」
「わ、わたしは別に……どうしても来たいって言うのなら来てもいいけど」
「なんでそんなにえらそうなんだよ……」
「ふむ、せっかくなら俊樹も誘おうか」

 そう言うなりエイルはテーブル席にいる俊樹に視線を向けた。しかし、俊樹は相変わらず動くことなく撃沈している。

「あいつはいいよエイルさん、来たらうるさそうだし」
「そうか、なら三人で行こう」

 エイルと真澄が明日のことについていろいろと話し始める。それを高貴は黙って聞いていた。高貴はヒルドの死刑宣告が本当のことだと知っており、エイルはそれを知らない。知らせてしまえばエイルは再び取り乱してしまうだろうから言う事はないが、高貴もヒルドを見捨てるつもりなどなく、真澄が買い物に誘わなければ、高貴のほうからまだエイルの言った事のない都心方面などに連れて行こうと思っていたところだった。
 誘う手間が省けて真澄には感謝だが、万が一の際には決して傷つかないようにしなければいけない。幼馴染を危険な事に巻き込みたくはないからだ。
 明日は特に注意してすごす事にしようと高貴は固く心に誓う。

「あ、そういえばお金を持ってくるのを忘れてしまった。どうしよう高貴」
「おーい」
 
 再び困った顔に戻ったエイルにそう言われて、高貴はケーキを持ってきた詩織にたいして「俺のおごりです」と伝え、明日は自分が払う必要のないことを祈ることにした。



「つーわけで、明日エイルの服を買いに都心のほうに行く事になったから」

 ソファーに座ってテレビを見ながら、ベットの上にうつ伏せに倒れてピクリとも動かないクマに向かって高貴は声をかけた。
 バイトが終わって、高貴とエイルは寄り道することなく帰宅した。しかし、真澄は男子寮の向かいにある女子寮に住んでいるため、エイルをバイトが終わる少しだけ早く一人で帰らせたため、少し文句を言われたがそれはしょうがないことだろう。
 エイルは今お風呂に入っている。一緒に暮らすようになって初めてわかった事だが、シャワーの水音などは結構聞こえてくるらしく、いまだに高貴はエイルの入浴中でも緊張してしまう。しかし、エイルのいない今は、クマとヒルドのことについてなどを話すチャンスでもある。が、クマは先ほどからピクリとも動かない。今日はまだ踏んではいないが、壊れてしまったのだろうか?

「おい、聞いてんのかよクマ」
「……きいてるわよ~……お姉さんちゃ~んと聞いてるわよ~」

 なんだか今にも死にそうな声色で返事が返ってきた。

「ど、どうかしたのか? なんか死にそうな感じだけど」
「疲れてるのよ~。それに引き換え人間君もエイルもずいぶん楽しそうね。エイルは詩織さんのケーキがおいしかったなんて言ってたし」
「い、いや……でも服は必要だろ?」
「お姉さんも服買いに行きたいわよ。お姉さんこう見えて忙しいの。それにヒルドのことを上に掛け合ってるから、いろいろと愚痴も聞かされるしストレスも溜まるし。さっきもヒルドの死刑を取り消すように申請してたんだから」
「え、マジで!? じゃああいつ助かるのか?」
「正直、期限を延ばすだけで精一杯ね。とっととヒルドの紛失した《神器》……最悪他のギリシャの《神器》でもいいから回収しないとまずいわ。それと、お姉さん明日からしばらくいなくなるから。ヒルドのことと、今後の《神器》の回収のプランの再検討とかあるの。だから魔術を見られないように気をつけてね」
「そうか……気をつけるよ。にしてもお前も頑張ってんだな」

 クマが起き上がって「当たり前よ」と胸を張った。クマがいないということは、魔術を見られても記憶を消す事ができないというわけだ。特にエイルには注意するように言って置いた方がいいだろう。普段は何もしていないように見えるが、ひょっとすると一番働いているのはこのクマかもしれない。だからこそ、高貴はクマにかけるべき言葉をかけた。

「じゃあさ、しっかりとエイルに金もたせといてくれよな」
「いやそこはねぎらう言葉じゃないの!?」


                                                        ――――――ヒルド・スケグルの処刑まであと六日



[35117] 買い物のが終わったら……
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/17 16:57
 四之宮という町は、大きく分けて三つの区域に分けられている。
 まず一つ目は、高貴の住んでいる学生寮や、通っている四之宮高校。昔からやっている店や、一軒家などが集まっている区域。ここは主に住宅街と呼ばれており、四之宮の中で高貴が最も多く過ごす場所だ。バイト先のマイペースも住宅街に存在している。
 二つ目は港区。といっても四之宮では漁業はまったくやっておらず、ただ海があるだけである。夏になればその海で泳ぐ事も可能であり、よその町から泳ぎに来る人々も多い。
 三つ目は、ここ十年ほどで一気に発展を遂げた場所。企業のビルや大型デパート、そして高級マンションなどが存在する区域。こちらは主に都心と呼ばれており、住宅街の店よりも品揃えがよい店が多いため、若者は買い物に行くときは都心に行くものが多い。
 都心は元々あまり住宅街と変わらないところだったのだが、十数年ほど前、四之宮に大きな企業の本社が移ってきたことをきっかけにして、どんどんと開発が進んでいったらしい。まぁ、しかし高貴のような今の若者にはそんなことはたいして興味のあることでもなく、せいぜい「便利になったんだな」くらいに捕らえている。
 そして今日、高貴たちはその都心に買い物に来ているわけだ。昨日真澄に言われたとおり、エイルの服を買う為である。都心と住宅街の境目辺りにある、都心を走ってまわるバスのバス停。去年できたばかりの四之宮中央公園のすぐ近くにあるため、四之宮中央公園前と書かれた看板の下で高貴とエイルは真澄を待っていた。現在の時刻は13時50分。真澄との待ち合わせ時間まであと10分はある。
 公園では沢山の子供たちが遊んでいる。すべり台やジャングルジム、シーソーなどで活発そうな子供達や、ベンチにたむろして携帯ゲームで遊んでいる子供たちなど様々だ。しかし、どうしてわざわざ外に出てゲームをするのかが高貴にはわからなかった。家にでもいってやればいいのに、外でする理由が見当たらない。晴れ渡った青空の下でやるのは特に健康的にも思えず、むしろ日光で画面が見にくいのではないかとすら考えている。
 まぁ、結局はする人の自由だという考えで毎回落ち着くのだが。

「公園か……そういえばさっきの公園には、そこにはこんなに人がいなかったような気がするがどうしてなんだ?」

 エイルの言うさっきの公園とは、高貴がヒルドと始めてであった公園のことだ。今日はそこの公園の前のバス停から、ここのバス停までバスに乗って二人はここに来た。

「こっちのほうが立派だからだろ。今日は学校も休みだから人も多いだろうよ。まぁ向こうの公園はこの公園が出来てからいっつもあんな感じだけどな。俺が小学生くらいのときはこの公園がまだなかったから、あっちの公園で遊んでたりもしたけど」
「ふむ、なるほど。どんどん町は変わっていくということか。あの公園はいつか違う何かに変わっているかもしれないな……」

 しみじみとエイルがそういった。もしかしたらエイルの住んでいたヴァルハラでは、昔遊んでいた公園が取り壊しになったりしたのかもしれない。異世界の公園とはどういうものだろうか。魔術の力で、すべり台の途中で上に戻されたり、ジャングルジムに上ると一瞬でバラバラになったりとかするんだろうか?
 もしそうならあまり遊びたくはない。確実に怪我をしてしまうことが想像できる。

「それにしても悪かったなエイル。服の事ぜんぜん気がついてやれなくてさ。普通は一緒に暮らしてれば気がつくのに」
「構わないよ。昨日も言ったが、本来は制服と寝巻き、あとは下着さえあれば私は他の服などなくてもいいのだから。制服の替えは沢山あるし、洗濯も毎日しているからなんの不便もない」

 本当に何も気にしていなかったようだ。個人的には、もう少し洗濯物を干すときなどに気をつけてほしいというのが本音だが。

「それよりも高貴、なるべく夜遅くにはならないようにはするが、もしもベルセルクに襲われた場合は真澄の安全は私が守ろう。心配してくれなくていい」
「二人で、だろうが。夜に出るっていうルールはこっちの世界じゃ通じないかもしれないんだから、一応常に気を張ってるよ。あやしい魔力を感じたらすぐにエイルに知らせる」
「本来ならば《神器》を一刻も早く探さなければいけないのだが、都心の方面には来たことがなかったからな。《神器》の持ち主が私たちの魔力に気がついて襲ってきてくれればいいんだが……」
「いや、よくねーよ。とにかく、お前の服は確かに必要だし、真澄には感謝してるよ。……でもお前金持ってんのか?」
「ああ、昨日クマからちゃんと貰って……ん、バスが来たようだ」

 エイルの向いている方向に視線を向けると、住宅街のほうからバスが走って来ていた。バスは四之宮中央公園前でしっかりと止まり、中から何人もの人が降りてきており、その中には真澄の姿もあった。真澄は高貴とエイルを見つけると小走りで近づいてくる。

「ご、ゴメン……遅れちゃったかな?」
「いや、まだ7分の余裕がある。私達が早く着きすぎてしまっただけだよ」

 それはそうだろう。待ち合わせは午後2時だったにもかかわらず、このヴァルキリーは1時間前にはつくように家を出ようとしていたのだから。なんとか高貴の説得が通じて30分前に変更となったが、それを言ってしまうと真澄が気にするであろうから黙っておくことにした。しかし、真澄はなにやら不思議そうな顔をしている。

「えっと……私達って事は、二人は一緒に来たの?」
「ふむ、それは―――」
「エイルが一番に来てたんだよ! 俺は少し前についたばかりだ!」

 真澄は四之宮高校の女子寮に住んでいるため、本来ならば待ち合わせなどをせずに一緒に来てもよかったのだが、エイルの事もあったので、待ち合わせという形を取った。

「あ、そうだったんだ。どっちにしろわたしが言いだしっぺなのに一番遅かったみたいだね。それじゃいこっか」

 歩き出す真澄の隣にエイルが並び、その隣に高貴が並んで三人そろって歩き出した。どこで服を買うかなどはまだ聞いていないが、きっと真澄に任せておけば問題ないだろう。歩いている途中で、エイルがちらちらと真澄に視線を送っている。

「エイルさん、どうかした?」

 それに気がついた真澄がエイルに声をかけた。

「いや、服を買うといっても、私は服の事は詳しくないんだよ。だからどういうものを買えばいいのかと悩んでしまって、真澄の服を参考にしようかと思ったんだよ」

 真澄の今日の服装は、ピンクのシャツに白いパーカー。いや、真っ白ではなくこちらもどことなくピンクに見える色。それに赤のデニムスカートだ。以前ヒルドに奢ってもらったとき、彼女も似たような格好をしていた気がする。いや、彼女はショートパンツだったかもしれない。しかし色がまったく違う為か、与える印象はだ
いぶ違う。

「それなら心配しなくていいよ。今から行く店の店長さんに相談すれば、勝手にコーディネートしてくれると思うから。っていうかエイルさん美人だから着せ替え人形にされちゃうかも」
「そんなことはないと思うが……しかし私は着る事さえできれば何でも構わないし、その店長に選んでもらえるのは助かる」
「でもせっかくだから自分でも選んでみるといいと思うよ。とにかく行ってみよ、すぐに着くから」

 二人はそのまま雑談をしながら歩き始めたので、高貴もそれに続いた。真澄は自分とエイルが仲良くなったといっているが、こうして見ると真澄とエイルもたった一週間でかなり仲良くなっている。女の子同士のほうがやはり仲良くなりやすいのかもしれない。しかし、今日はまだ見せてはいないが、時々真澄の見せる不満そうな態度がどうしてなのか、高貴にはわからなかった。
 まぁ、きっと自分にはどうしようもない事だろうし、きっとそのうちなくなるだろう。そんなことを考えながら高貴は歩いていたが、何故か嫌な予感が頭から離れなかった。



「……あの、真澄さん。ここっすか?」
「そうだけど。さ、入ろうエイルさん」

 自動ドアが開き、三人そろって中に入る。若干一名の足取りが妙に重い。
 嫌な予感は見事に的中した。
 当たり前の事だが、弓塚真澄は女の子である。エイル・エルルーンもヴァルキリーだが女の子である。つまり、服を買うということは女物の服を買うということであり、男物の服を買う必要などまったくないということになる。ようするに、真澄のやってきた店は、女性の服しか売っていない店であった。
 つまり、男の客が極端に少ない。というよりも今はいない。ぶっちゃけ居心地が悪い。右を見ても左を見ても女物の服ばかり。下着売り場のほうへは意識して無理矢理視線をはずしつつ、二人の後ろを着いて行く。他の女性客がちらちらと高貴のほうを見ているが幸い真澄達と一緒なので問題はないだろう。
 真澄は服を見ようともせずに、真っ直ぐにレジのほうへと向かって行った。そこに立っていた女性が真澄の姿を見つけると手を振ってくる。というよりも高貴も見覚えのある人物だった。年齢は恐らく20代前半。ショートカットで大きめの瞳が活発そうな印象を与えてくる。

「こんにちは美月さん」
「こんにちは真澄ちゃん。それからそっちの男の子は高貴君だったっけ? そっちの女の子は……初めましてね」
「どうも」
「ふむ、こんにちは」

 高貴とエイルが軽く頭を下げる。近くで見た高貴ははっきりと確信した。この女性はマイペースに時々来る客で、詩織の友人だったはずだ。いつも詩織と真澄の三人で話しているため、高貴が会話に入る事はなかったがよく覚えている。

「高貴は知ってるでしょ、白峰美月さん。マイペースで顔見てるよね」
「へー、高貴君。今日は女の子二人も連れてデート? やるじゃない両手に花なんて」
「で、デートじゃないです! エイルさんの服を買いに来たんです!」

 真澄が顔を赤くして否定する。まぁ実際その通りだし、女性を片手で扱える自身など高貴にはサラサラない。

「エイルさんってそこの美人? うわ、おっぱいでけー。髪の毛キレーでしかもサラサラ。肌もツヤツヤ、さすが女子高生。何これマジでこの娘好きにしちゃっていいの!?」

 エイルの体をぺたぺたとさわりながら美月は目をキラキラさせている。というよりも、エイルは学生服を着てはいるものの、正確な年齢は高貴も知らないので、一概に女子高生とは言えない。

「おい、大丈夫なのかこの人?」
「うん、性格には問題はあるけど、実害はないから」
「い、いや……私としては、服を選んでもらえればいいのだが……」
「大丈夫、痛くしないから。天上のシミでも数えてればすぐに終わるわ。心配しなくてもあたしが新しい世界を開いてあげる。じゃあ真澄ちゃん、この娘かりてくから、真澄ちゃんもゆっくり見てってね」
「いや、天井にシミなど見あたらな……ちょ、高貴!」
「いいの選んでもらってこいよ~」

 美月がエイルを引きずって、店のどこかに消えていった。よってぽつんと二人が取り残される。

「つーかさ、真澄も一緒に選ばなくていいのか?」
「本当はわたしもエイルさんに付き合いたいけど、私が行ったら高貴は一人で残される事になるじゃない。だから仕方なくよ仕方なく」
「あー……それは助かる」

 この店で一人取り残されるなんて想像もしたくない。

「それに、どうせ今は金欠だし服は変えないよ。貧乏人は安い小物でも見てますよーだ」

 真澄が移動し始めたので、高貴も慌ててそれに着いて行った。真澄の向かった先には、本人が言った様に小物などが売ってあるところだった。ヘアピンやネックレス、ピアスなども並んでいる。当然ながらどれも女物で、男性用のものはない。黙っているのも暇なので、高貴は何か話題を振る事にした。

「そういえばさ、真澄はあの……白峰さん? あの人と仲良かったのか?」

 ヘアピンを見ていた真澄が顔を上げる。

「うん、詩織さんと一緒に話してるうちに仲良くなったんだ。その縁もあって、服はここで買ってるの。いろいろとアドバイスももらえるし」
「店長なんだっけ? 詩織さんと同じくらいの年で、都心に店構えるなんてスゲーんだな」

 ふと、小物の中にストラップが売っているのが目に入った。もしかするとスマホにつけられるものでもあるかもしれないと思い、高貴はそこを中心に見はじめる。

「なんでも家業を継ぐのが嫌で実家を飛び出したらしいよ。あ、と言っても実家は四之宮らしいけど」
「家業? ちなみに何なんだそれ」
「メイドだって」
「……は?」

 思わず真澄のほうを向いてしまう。真澄は高貴のほうを向くことなく、ヘアピンを手に取っている。

「だからメイドだって言ってた。お帰りなさいませご主人様とか言うあれ。それが嫌だから実家を飛び出したとかなんとか。あと犯罪者にはなりたくなかったとか言ってたような」
「いや、メイドって犯罪者じゃなくね?」

 というよりもメイドの家系なんて存在するのか。しかも四之宮に。てっきり外国とかじゃないとそういう家系はないと思ってた高貴にとってはなかなかに衝撃的だった。ストラップもなかなかほしいものはない。花びら……可愛いのはほしくない。三日月……綺麗だが絶対自分には似合わない。クマ……見たくもない。

「まぁメイド云々はよくわかんねーけど、やっぱ店持つのはスゲーよ。都心は物価も高いだろうし」
「確かにそうだよね。あ、メイドは妹さんが継いだから問題ないらしいよ」
「継いだのかよ」

 様々な小物を見ながら真澄と高貴は会話を続けていた。ほしいヘアピンがなかったのか、真澄もストラップのほうへとやってくる。

「ねぇ、なんか可愛いストラップない? ヘアピンはそもそもつけないからいらないし」
「じゃあなんで見てたんだよ……可愛いのなんて沢山あるけどな」
「ここのストラップって、美月さんの手作りなのもあるんだって。ビーズとかを組み合わせたとかなんとか……あ」

 ふと、真澄が一つのストラップを手に取った。先ほど高貴が手に取っていた、三日月の形をしたの携帯ストラップだ。銀色の三日月は、シンプルなデザインながらも目を引く存在感がある。まぁ、男には似合いそうになかったので、高貴は買おうなどとは思わなかったが。

「それ、気に入ったのか?」
「うん……そう……かも。でも値段が……」

 高貴がそのストラップの値札を確認する。そこに書かれていた金額は……

「……これ380円だけど。お前どんだけ金欠なんだよ?」
「し、仕方ないじゃん。この前新しい服買ったばっかなんだから。今日はエイルさんの服だけ買って、あとは高貴に何か奢ってもらおうと思ってた」
「おい! どんだけずうずうしいんだよ!」
「じょ、冗談だってば。ほら、そろそろエイルさんと美月さんでも探しに行こうよ」

 そう言いつつもやはり真澄は残念そうな表情だ。仕方がない、エイルの服のことを気づいてくれたお礼は確かに必要か。高貴は無言でストラップを真澄からひったくった。

「あ、なにすんのよ!」
「ほしいんだろ、買ってやるよ」
「え?」

 キョトンとしている真澄を置いて、高貴はレジへと向かっていく。慌てて真澄も高貴を追いかけた。

「ちょ、ちょっと待って! わたしそんなつもりで言ったんじゃないってば!」
「遠慮しなくていいよ。ものほしそうにしてたじゃねーか。それに380円くらいなら俺の財布にはあまり響かない」

 先ほどちらりとみた服の値段に比べれば何と言う事はない。レジにいる店員の前に、三日月のストラップをポンと置く。

「380円になります」

 自分の財布を取り出して、400百円を店員に渡した。20円のお釣りとストラップを受け取って真澄のところに戻る。

「ほら」

 ストラップを真澄に差し出すと、真澄は戸惑ったように両手でそれを受け取る。

「……あ、ありがと。……せ、せっかくだから今付けちゃおっかな」

 真澄がスマホを取り出した。今は何もストラップをつけていないらしい。それに手早くストラップを付けていく。銀の三日月は、店内の光を反射してキラキラと光っていた。

「真澄ちゃん、高貴くん。ちょっときてもらえる?」

 いつの間にか背後に美月が立っていた。その視線が真澄の持っているスマホに向かう。

「あ、それ真澄ちゃんが買ってくれたんだ。お買い上げどーも。それあたしの手作りだから、もし壊れたら無料で修理するから」
「へー、これも手作りだったんですか。それで、どうかしたんですか?」
「あ、うん。エイルちゃんの改造が終わったから呼びにきたの。ほら、ついてきて」

 今この人なんのためらいも躊躇もなく改造って言った。本当にエイルは大丈夫なんだろうか?
 不安に思いながらも高貴と真澄は美月についていった。少し離れた所の試着室の前に着くと、中から声が聞こえてくる。

「美月さん。ここは狭いから早く外に出たいのだが」
「エイルちゃんダメ、今からお披露目なんだから。じゃあ二人とも用意はいい?」
「オッケーです」
「大丈夫っす」

 服が決まったならさっさと終わらせて帰りたい。それかクマに《神器》の反応があったかどうか聞くなりしないといけない。

「じゃあ、お披露目~~!」

 美月が試着室のカーテンに手をかけた。しゃらりと音が響きカーテンが開かれる。そして、高貴はそこに立っていた少女に完全に目を奪われた。
 エイルは白いブラウスを羽織り、中には黒のキャミソールを着ており、下は学生服のスカートから、薄い水色のスカートに変えていた。ブラウスは七部程度の長さで、そこから覗く肌と合わさって、全体的に調和がよく取れている。

「どうよどうよどうよ? キャミだから首元が出てていい感じでしょ? エイルちゃんは肌が綺麗だからそれを生かさなくちゃ。下はデニムパンツにしようかと思ったけど、せっかくだから真澄ちゃんと同じスカートにしてみたわ。それにしてもさっすがあたし!」
「いや……これは……恥ずかしくないか?」
「そんなことないよエイルさん! 絶対に制服よりもこっちのほうがいいよ!」

 真澄も目を輝かせている。しかし高貴はいまだに呆然としていた。今までエイルの私服というものは見た事がなかったが、学生服や鎧とは本当に印象が違う。これではどこからどう見ても普通の女の子にしか見えない。いや、普通以上に美人な女の子だ。

「ほら、高貴も何かいってあげなよ」
「……え?」

 真澄に声をかけられて、ようやく高貴は正気に戻った。だが、何を言っていいのかがまったくわからない。エイルは高貴の感想を待っているらしく、髪を弄りながら落ち着かない表情をしている。

「その……に、似合ってるよ」

 早く何かを言わなくては、という一心からか、口から出てきたのはそんな使い古された言葉だったが、その言葉にエイルは満足したように笑顔になった。しかし、真澄と美月には不評だったようで、なにやらぐちぐちと言われている。

「エイルさん、それ買うならそのまま着てったらどうかな?」
「あ、それでもいいよ。制服入れる袋はもちろん用意したげるから」
「ふむ、ではそうしよう。では支払いを―――」

 そう言うと、エイルは突然キャミソールの胸元を軽く下に引いた。大きく開いている襟元がさらに開き白い肌が露出する。そしてあろう事かエイルは、なんのためらいもなく自分の胸元に手を突っ込んだ。突然の行動に、高貴も、真澄も、美月も唖然とした表情になる。彼女が胸元から取り出したのは、一枚のカードだった。おそらくはクレジットカードの類だろう。

「高貴、このカードは使えるだろうか?」

 エイルが高貴にカードを手渡してくる。うまく働かない頭でそれを受け取る。心なしか妙に暖かい。

「つーかなにやってんだよテメーは!?」
「何って、カードを取り出したんだよ。カードというものはこうしておっぱいの谷間に挟むのが常識だとクマが言っていた」

 あのバカグマ! 心の中で高貴がそう叫ぶと、クマが薄ら笑いを浮かべている光景も同時に浮かび上がってきた。そして問題はもう一つある。これはおそらくクレジットカードだろう。しかし、そのカードはなんと黒い色をしていたのだ。ようするにブラックカード。限度額が無制限のカードを、エイルはポンと取り出したのだ。

「エ、エ、エイルさん? このカードってどうしたの?」
「ああ、クマにもらったんだ。これしかないから自由に使えとな」
「ブラックカードを人にあげちゃうような人なのその人!?」

 正確にはクマのぬいぐるみだ。と言うよりもあのクマ、資金不足だなんて完全に嘘だったらしい。

「ちょっとかして高貴君。……うわ、本物は初めて見た。こんなの持ってるならもっと沢山買っちゃえば? なんならまたあたしが見繕うけど」
「いや、私はそんな……」
「エイルさん、せっかくだからもっと買おうよ。ほら、こっちの服とかも似合うんじゃない?」
「いや、だから……こ、高貴!」
「思う存分買って来いよ~」

 違う服売り場へ二人に引きずられていくエイルを、高貴は片手を振りながら見送った。そして気がつく。真澄もいなくなった為、完全に一人になってしまった事に。居心地が悪くなった高貴は、真澄に時間を潰してるとメールを送り、早足で店を後にした。



 辺りはもうすっかりと暗くなってしまっている。女の子の買い物は例外なく時間が掛かるという事実、それを高貴は嫌というほど思い知った。真澄と美月がエイルを引きずって行ってから、高貴に買い物が終わったというメールがきたのは4時間以上。その間エイルはひたすら着せ替え人形にされていたらしい。それにもかかわらず買った服はたったの3着。たったそれだけの服を買うのに、どうして4時間以上もかかってしまったのかは、男にとっては永久に理解できないだろう。
 最初は都心に《神器》の使い手がいないかといろいろと歩いていた高貴だが、いなかったのか、または魔力を隠しているのか、何も見つける事は出来なかった。歩き疲れて店に戻るも、まだ買い物は終わっておらず、幸い近くに大型の古本屋があったため、高貴はそこで立ち読みをして時間を潰していた。ようやく店から出てきたかと思えば、満足げな表情の真澄と、疲れてぐったりとしているエイルの姿。
 その時に時刻がだいたい6時40分。遅い時間だったため、高貴と真澄は帰りにもバスを使うことにした。都心ほど頻繁ではないが、住宅街にもバスは通っており、バスが来る調度いい時間だったからだ。しかし、エイルは一緒に乗るわけには行かないので、バス停でいったん別れてきたが。次のバスが来るのは1時間後の最後のバスだが、大人しく待っている事を祈るばかりだ。

「ん~~、今日は楽しかった。やっぱりエイルさんの服買いに行って正解だったよ」
「つーか時間かけすぎ。、エイルはスゲー大変だったって言ってたし」

 隣に座る真澄が満足そうに伸びをする。今日はエイルの服しか買っておらず、真澄は見ていただけだったらしいが、本当に満足そうな表情だ。本来ならば、服を買った後に遊びに行く予定だったらしいが、予想以上に時間がかかってしまったことで無しになったが特に残念そうではない。
 会話がとぎれる。二人はなにを話すでもなく、ただバスの揺れに身をゆだねていた。しかし、高貴にとってそれは苦ではない。
 隣に座っているのがエイルならば、無言のままだと多少は気まずくなるだろうが、高貴にとって真澄は幼馴染の為、会話がなくても居心地が悪くなったりはしない。もっとも、エイルがずっと黙っているなど寝ているときぐらいしかないだろうが。
 今日はずっと立っていたためか、高貴自身も思っていたよりも疲れていたため、気を抜いてしまえば眠ってしまいそうだ。それは真澄も同じのようで、心なしか目がウトウトしている。
「次は四之宮公園前。四之宮公園前。お降りの方はボタンを押してください」

 バスの中にアナウンスが鳴り響く。それを聞いた高貴の頭がすぐさま覚醒した。都心のバスとは違い、住宅街方面のバスは人が少ない為、止めてほしいときにボタンを押すタイプのバスになっている。実際今バスに乗っているのは、高貴と真澄以外に数人しかいない。いずれは住宅街にバスが来なくなるかもしれないなんて噂も町には流れている。

「おい、降りるぞ真澄。寝るなら寮に帰ってから寝ろよ」
「わかってるよ。そこまで子供じゃないもん」

 高貴がボタンを押すよりも早く真澄がボタンを押した。バスの速度がゆっくりと下がっていき、四之宮公園の前でゆっくりと停止した。バスの扉が開く、このバス停で降りるのは高貴と真澄の二人だけのようだ。出口に向かって歩いて、料金を支払い、出口の階段を高貴は下りた。
 明日はもう一度都心に行ってみるのもいいかもしれない。とにかく《神器》を探そう。それとクマの《神器》を探すプランとか言うのにも期待しておこう。そんなことを考えながらバスを降りた。
 降りた瞬間に、背筋に寒気が走った。
 バスに乗っているときは気がつかなかったが、地面に足をつけてみると、辺りにドス黒い魔力が漂っている事が瞬時に理解できる。それは以前にも一度出会ったことがある存在。その時は何も感じることができなかったが、《神器》の持ち主となった今ならばはっきりと感じ取れる周囲の違和感。ベルセルクの気配が周囲に満ちている。
 まずい。よりにもよって最悪のタイミングだ。今は真澄が一緒にいるし、何よりもエイルがそばにいない。あげくにクマが他の世界に行っている為、真澄に魔術を見られても記憶を消してやる事ができない。悪条件があまりにも重なりすぎている。

「高貴、なにしてるの? 早く降りてよ」
「……あ、ああ。悪い」

 片足を地面につけたまま少し固まってしまっていたらしい。真澄の声で我に返った高貴は、すぐさまバスを降りた。それに続いて真澄もバスを降りると、ドアがゆっくりと閉まっていく。バスは数秒止まったままだったが、低いエンジン音を鳴らして走り去っていった。残ったのは高貴と真澄のみ、頭上に立てられている街頭が二人を照らしている。

「さ、あと少し歩こう。てゆーかどうせなら寮の前にもバス停あればいいのにね」

 まったく持ってその通りだ。そうすれば真澄を安全に寮に送り届ける事ができたのに。
 どうする? もう時間がない。嫌な感じはどんどん強くなってきている。エイルやクマの話ではベルセルクは一般人を相手にしない。つまりは真澄には危害を加えないのかもしれないが、そのルールがこの世界でも完全に通用するのかはまだわからない。というよりも、今真澄を一人にして万が一ベルセルクにでも襲われたら、自分を許す事が出来そうにない。しかし今自分の側に真澄を置けば、戦いに巻き込まれるかもしれない。

「高貴、ボーっとしてないで早く帰―――」

 帰ろう、というその言葉が途中で途切れた。真澄は何かを見つけたように首をかしげている。まさかと思い、真澄の視線の先を高貴は追いかける。すっかり暗くなった夜にもかかわらず、はっきりと見える黒。屋上で初めて見たときと同じように、地面に黒い影が一つ出来ていた。]

「なんだろあれ? 水溜りにしては黒すぎるし」

 疑問に思った真澄が黒い影に近づこうと一歩踏み出す。その瞬間―――高貴の体が動いた。

「近づくな!」

 真澄の右手を取り無理矢理自分の下へと引き寄せる。勢いがつきすぎて真澄が思わず尻餅をついた。突然の高貴の行動に真澄は当然のごとく彼に文句を言おうとした。言おうとした筈だったがそれはできなかった。自分の近づこうとしていた黒い影の中から、見た事もない何かが現れたからだ。

「……え?」

 突如現れた黒い存在それにより、真澄の思考は完全に停止した。彼女にはいったい何が起きているのかがわからない。なぜ地面から見た事もないようなものが現れたのか? 地面のどこに潜んでいたのか? そして何よりもこれはなんなのか? それが何一つとして真澄には理解できない。
 ただ一つだけ理解できるとしたら―――

「ガアアアアアアアッ!!」

 圧倒的な恐怖のみだ。黒い存在―――ベルセルクが空に向かってほえる。大気の震えが真澄に更なる恐怖を浴びせかけた。

「真澄、走るぞ!」

 真澄の止まっていた思考が、高貴の声によって回復した。高貴が真澄の手を握って公園に向かって走り出すと、自分が意識しだすよりも早く脳が体に走れと命令を下す。
 走りながら高貴は必死に思考をめぐらせていた。先ほどのバス停の周りには人がいなかった為、おそらくベルセルクの出現を見られてはいない。この公園に住んでいたホームレスは、都心の公園や路地裏に引っ越したと前に俊樹が言っていた為、大勢の人に見られる心配はない。一人か二人はいるかもしれないが、それはもうどうしようもない。さっさと逃げるように促すか、とっとと逃げてもらうしかないだろう。

「こ、高貴! さ、さっきのって……な、なに!?」

 会話ができる程度には自分を取り戻したのか、真澄が大きな声で叫ぶ

「ベルセルクだよ!」
「べ、べる……え!? てゆーか高貴あれの事知ってるの!?」

 しまった。聞かれたから思わず答えてしまった。俺も余裕がないみたいだ。
 しかし、どうせベルセルクを見られて、クマがいない今は気にしてもしょうがない。やはり真澄は一人で逃がしたほうがいいだろう。高貴は公園の中心の地点で立ち止まった。公園には幸い人がまったくいなかった。子供が遊ぶにしても、もう家に帰ってしまったのだろう。公園の中にある数少ない街頭が辺りを照らしている。その真下にあるベンチには当然のごとく誰も座っておらず、やはり誰もいない公園だ。
 だが、招かれざる客は必ず来る。それも人外の存在が。

「こ、高貴! そのべるなんとかって何なの!?」

 肩で息をしながら真澄が再び高貴に尋ねてきた。こうなればもう隠しても意味がない。そう腹をくくって高貴は口を開いた。

「ただの化け物だよ。簡単に言うと俺を狙ってるんだ。だけど真澄には手を出さないから安心していい」
「……は? ば、化け物? それで高貴を狙ってるって……ちょ、ちょっと待って。これってもしかして夢? わたしバスの中で寝ちゃったの? だってこんなの……ありえないでしょ」

 まったく持って同感だ。高貴もつい最近までそう思っていた。しかしこれは正真正銘の現実。いや―――

「確かに……今ここは間違いなく非現実だよ」

 非現実が―――現実となる。
 高貴と真澄を取り囲むようにいくつもの黒い影が地面に出現し、そこからベルセルクが何体も出現し始めた。真澄が小さな悲鳴を漏らす。その体はカタカタと震えていた。

「真澄、お前は逃げろ」
「……え?」
「あいつらが狙ってるのは俺だけなんだよ。だから真澄に手を出す事はない。俺があいつらをひきつけるから、真澄は―――」
「嫌!!」

 高貴の言葉が、真澄の叫びに遮られた。

「まだ最後まで言ってな―――」
「に、逃げられるわけないでしょ! 高貴を置いて逃げるなんてできない! そんなの当たり前じゃない!」
「…………」

 まったく、こいつもとんだバカだ。俺だったら、こんな状況じゃ確実に逃げているだろうに。

―――それはないだろうな。貴様もお人よしだ。

 なにやら変な声が頭の中に響いてきたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。真澄は考えを変えるつもりはきっとない。だったら話は簡単だ。自分がこの状況をなんとかすればいい。

「わかったよ真澄。じゃあ一つだけ約束してくれ。これから俺がすることは絶対に秘密な」
「え? な、何する気?」
「たいした事じゃない。ちょっと銃刀法違反をするだけだ」

 高貴がゆっくりと右手を前に伸ばす。
 意識を右手に集中させる。エイルとの契約によりエインフェリアとなって魔力の扱い方をものにした高貴は、スイッチによって魔力のオンとオフを切り替えることが出来る。それにはボタンや動作などは必要ない。ただ意識するだけでそれは簡単に切り替わる。そしてもう一つのスイッチ。そのスイッチを入れることによって、彼は完全に戦える状態になる。魔力の行使に加えて、常人以上の力を手にする事が可能となる。
 そのスイッチにもボタンはない。
 必要なのは音声。
 鍵となるのは言葉。
 その象徴は白き光。
 今、自分の成すべきことをなすために、月館高貴はその名を叫んだ。

「出て来い、クラウ・ソラス!!」

 白い光が集う。果てしなく、穢れのない白が高貴の右手に集っていく。夜が昼にでもなったかのような光、直視できずに思わず目を閉じてしまいそうなその光が―――弾ける。
 光が消え、高貴の右手には《光剣クラウ・ソラス》がしっかりと握られていた。手にするのはこれで二回目。約一週間ぶりに取り出したそれは、今度は最初から刀身が外れていた。初見でこれを剣だと思える人物はそうはいないだろう。しかし、そんなことは真澄には関係ない。高貴が、いきなり何かをして何かを取り出したという事実だけで、言葉を失う理由としては十分すぎる。

「真澄、俺から離れてろ。そうだな……あの街頭の下にでも走ってくれ。俺は今からこいつらを倒す」
「で、でも……てゆーかそれ……」
「説明してる時間がねーんだ! 走れ!!」
「う、うん!!」

 真澄が地面を蹴った。ベルセルクは高貴と真澄をほぼ囲んでいるが、街頭の方向だけはベルセルクがいない。加えて明かりもあればベンチも置かれているので、進行方向の目標としては最善だ。その真澄の動きによりベルセルク達の視線が真澄に奪われる。しかしその時間はほんの一瞬、本当に一瞬だけだった。クラウ・ソラスの光刃を展開した高貴に全てのベルセルクの視線は奪われたからだ。
 完全な姿を現した《神器》を理解したのか、いや、おそらくはただの本能か。ベルセルク達が高貴に向かって襲い掛かってきた。真澄にはもう目もくれておらず、目標は完全に高貴一人に絞られている。

「オオオオオオッ!!」

 ベルセルクが吼える。恐怖はもちろんある。そもそもエイルがいない状況で戦う事など初めてのことだからだ。エイルは今ここにはいないために助けは期待できない。頼れるのは自分自身とクラウ・ソラスのみ、やるべき事は真澄の安全の確保……はおそらく問題はないため、ベルセルクの撃破。
 理由は簡単。こいつらを倒さないと真澄が怯えたままだからだ!
 高貴が一体のベルセルクとの距離を詰める。スピードは明らかにこちらが上だ。ベルセルクが間合いを詰めてくるスピードよりも高貴が間合いを詰める速さのほうが上だ。しかし、攻撃に移ったのはベルセルクのほうが速かった。振り上げられる黒の豪腕が、高貴に襲い掛かってくる。
 防御しろと本能が叫ぶ。クラウ・ソラスの刀身でその腕を受け止める。ずしりとした衝撃が高貴の全身に襲い掛かってきた。だが防御した。失敗があったとすれば、剣の側面の部分で受けてしまった事だろう。刃の部分をぶつければ、もしかしたら腕を破壊できたかもしれない。
 反撃―――するよりも早くベルセルクが次の攻撃を繰り出してきた。狂ったように両腕を連続で振り回し、その鋭い爪先が高貴に襲い掛かってくる。それは高貴に反撃の隙をあたえようとすまいとしているのか、もしくはただただ狂っているのか凄まじい攻撃だ。
 だが、高貴には全て見えていた。
 以下に自分よりも大きな巨体だろうと、当たらなければ意味がない。ベルセルクのがむしゃらな攻撃など、《神器》を持ったヒルドの攻撃に比べれば、ただ赤子が暴れているかのようなものだ。
 パターンもわかってきている。というよりもただ腕を交互に振り回しているだけだ。今の自分ならば―――反撃が出来る。
 ベルセルクが右腕を振り上げた瞬間、高貴がすばやく左に動いた。ベルセルクの右腕が高貴のすれすれに空を切り、右頬に風圧を感じながらも高貴は前に出る。

「こ……のぉっ!!」

 右腕に持っていたクラウ・ソラスで、ベルセルクの右足を根元から叩き斬った。腕に強い衝撃が来たが、以前校舎を斬ったときよりは弱い。片足を失ったベルセルクがバランスを崩す。
 まだだ! もう一撃―――はいる!
 ベルセルクが体勢を整える前に、右の斬り上げで一閃。腹部から左肩まで真っ二つにされたベルセルクが、断末魔をあげて消滅した。
 倒せた。自分一人でもベルセルクを倒す事ができた。その事実に高貴は―――

「グオオオオオッ!!」

 反射的に背後を斬りつけた。その行動は正しかったようで、背後にいたベルセルクの左腕がクラウ・ソラスにより吹き飛ばされる。
 安心する暇などまったくない。敵はまだまだ存在するのだから。今の背後からに攻撃も防いだというよりはただ単に運がよかっただけだ。次に背後から攻撃されたら防ぐ自身などまったくない。
 高貴は周りを見回した。一体のベルセルクを倒している隙に、自分が完全に囲まれている事に気がつく。一体に集中しすぎていて、完全に周りが見えなくなっていた証拠だ。ひとまず以前エイルがやったように、どれか一体を倒して離脱―――できない。

「オオオオオッ!!」

 ベルセルクたちは、常に最低二体で向かってくる。一体の攻撃をかわして反撃しようとしても、すぐに別の一体が攻撃してくる。しかも他のベルセルクも迫ってくるので、どこから防いで良いのかわからない。
 前か? 後ろか?右か左か? 方向感覚がおかしくなり、前ってどっちだったかなどとも考えてしまう。それは無理がない事だ。高貴の実戦経験はヒルドとの戦いの一度のみ。これは二度目の実戦であり、しかも一対多の戦闘は完全に初めての経験だ。一対一ならば問題なく勝てる相手でも、質よりも量でこられれば素人の高貴には十二分な脅威となりえる。
 この状況を打開するにはどうすればいい? ベルセルクを一気に倒すにはどうすればいい?
 方法自体は存在する。以前の戦いでヒルドに使った技の一つである光刃円舞ライト・サークルだ。自分の周囲を三百六十度完全に攻撃でき、間合いにしてみてしても威力にしてみてもベルセルクを一気に倒すには申し分ない。
 だが、あれは使えない。そもそもあれは危険すぎる。この場で使ったら公園の遊具の大半が真っ二つになってしまうだろうし、それを直してくれるクマも今はいない。
 何よりもへたをすれば真澄が死ぬ。絶対に使えない。

「オオオオオッ!!」

 右からベルセルクが突っ込んでくる。高貴は攻撃に備えて―――おかしなことに気がついた。ベルセルクが攻撃の間合いに入っても腕を振り上げない。勢いに乗ったまま―――

「やばい!!」

 気がついた時にはもう遅かった。ベルセルクは腕を交差させて、体ごと高貴に突っ込んでいった。今までは腕を振り回すしかしていなかった為、今度もそうだと思っていた高貴はそれを防ぐ事が出来ずまともに右肩に衝突、大きく跳ね飛ばされた。
 視界が反転し、数メートルほど吹き飛ばされて背中からまともに地面に叩きつけられた。それどころかクラウ・ソラスを手放してしまった。1メートルほど前に光の刀身が消えたクラウ・ソラスが転がっている。激痛と吐き気が襲ってくる中、高貴はすぐさま体勢を立て直た。
 しかし―――遅い。
 すでに眼前には他のベルセルクが迫っていた。それは先ほど高貴が腕を吹き飛ばした隻腕のベルセルク。その恨みを晴らすかのごとく高貴に右腕を振り上げる。

「高貴ーーーっ!!」

 真澄の叫びが聞こえた。これはまずい。防御が間に合わない。というよりも手段がない。回避も間に合わない。
 その圧倒的に絶望的な状況で、勝利を確信したかのようにベルセルクはその右腕を―――

「《ソーン》―――!」

 絶望が満ちる公園に、凛とした声が響き渡る。
 暗闇を斬り裂くように、一筋の雷が走る。
 その雷は、今まさに高貴にとどめを刺そうとしていたベルセルクに直撃した。ベルセルクを破壊するまでにはいかなかったが、そのあまりにも突然の出来事に動きが止まる。高貴も、真澄も、他のベルセルクたちも、まるで時間をとめる魔法でも使われたように完全に動きが止まってしまった。
 実際に止まっていた時間はほんの二秒ほど、その止まった時間の中で一番速く高貴が動いた。手元から離れていたクラウ・ソラスを拾い、一瞬で光刃を展開させる。同時にベルセルクの時間も動いた。しかし、高貴の方が速い。
 ベルセルクの腕が振り下ろされるよりも速く、高貴がベルセルクの腹部を突き刺した。ピタリと再び動きを止めて、力尽きたようにベルセルクが黒い煙のように消滅する。
 高貴はその消滅した向こう側、声の聞こえてきた方向に視線を向けた。そこには長い銀髪の少女が、今の高貴にとって世界でもっとも頼りになる少女が買い物の紙袋を左手に持って立っていた。

「やれやれ、よりにもよって私がいないときに君の所にベルセルクが現れるとはな。まぁ間に合ってよかったよ」

 銀髪の少女―――エイルがほっとしたような声を出した。

「エ、エイルさん? 何でここに―――」
「高貴! 真澄のところに行け!」

 高貴に向かってエイルが指示を出す。その指示に反射的に従った高貴は、ベルセルクたちを振り切って真澄の下へと走った。エイルも同じように真澄も元へと向かい、街灯のそばに三人が集まる。

「助かったエイル、でもお前何でここにいるんだよ?」

 高貴がベルセルクのほうを向いているエイルに言葉をかける

「そういうのはあとだ。まずはベルセルクを片付ける。まだ戦えるか?」
「よゆーだ」
「ま、まって二人とも! いったいどうなっているのか説明してよ! さっきからわけがわかんない!」

 真澄はいまだに状況が理解出来ていない。当然だ。普通の人間がこんな滅茶苦茶な状況が理解できるはずがないのだから。

「すまない真澄、もう少しだけ我慢してくれ。ベルセルクを全て倒したら、君にも全てを反す事を約束しよう」
「た、倒すって……あの変なのを!? 危ないよエイルさん、だ、だって……あんな怖そうなの―――」
「オオオオオオッ!!」
「きゃああああああっ!!」

 ベルセルクの咆哮が夜に響いた。真澄が思わず高貴にしがみついて悲鳴を漏らす。その目には涙も浮かんでいた。そんな真澄を励ますように、恐怖を少しでもなくすように、エイルは真澄のほうに向き直る。

「大丈夫だ。何にも心配する事はない」
「そうだよ真澄、俺達がなんとかするから」
「で、でも……あんなの……」

 エイルが真澄に笑いかける。そしてやはりその少女は、いや、ヴァルキリーは凛とした声を響かせた。

「心配するな。私はヴァルキリーだ」



 私はヴァルキリーだ。
 銀髪のヴァルキリーは真澄に対して初めてその言葉を口にした。今まで散々言いかけて言えなかったその一言を言えたためか、心なしかエイルの表情は満足そうなものとなっている。

「おい、それよりもどうするんだよ。二人で戦うか、それとも片方は真澄を守ったほうがいいのか?」
「そうだな……真澄のそばに一人いたほうがいいかもしれないな」

 高貴にしがみついたままいまだに涙目で震えている真澄を見ながらエイルが言った。真澄が襲われる可能性が限りなく低いとしても、今の真澄には誰かがそばにいたほうが言いと判断したのだろう。

「ふむ、ならば私がベルセルクを―――」
「いや、俺があいつらを片付けるよ。エイルは援護を頼む。エイルだったらさっきみたいに離れた所からでも魔術で攻撃できるだろうし、それが適任だろ。それに真澄を守るにしてもエイルのほうがどうすればいいのかわかってるだろうし」
「しかし君、さっき……いや、わかった。君に任せて私はサポートに回ろう。真澄。私の後ろに来るといい」
「う、うん……」

 真澄が高貴から離れてエイルの後ろに移動する。その真澄をかばうようにエイルは立つ。そして持っていた紙袋を「すまないが持っていてくれ」と真澄に手渡した。

「よし、ではいこうか―――来い、契約の武装!」

 エイルの体が光に包まれる。一瞬で青い鎧を身にまとい、凛々しきヴァルキリーがその姿を現す。
 同時に高貴が走る。ベルセルクの群れに向かって疾走した。ベルセルク達は標的を高貴に定めたのか、高貴に向かって襲い掛かっていくが、スピードを緩めずに高貴は一気に突っ込む。
 もう難しく考えるのはやめにしよう。何も思いつかないし、思いついてもきっと出来るわけがない。思いついた事は至極簡単な事。作戦と呼ぶにはあまりにも幼稚なたった二つの事だけだ。
 作戦その一。まずは―――思いっきり突っ込む!
 後先を考えずにとにかく突っ込む。危なくなったらきっとエイルが援護してくれるだろうという確信もあってか、勢いは先ほど以上だ。クラウ・ソラスを振り上げ、そのまま一体のベルセルクに斬りつけた。

「オオオオオオッ!!」

 ベルセルクも左拳を振り上げ、あろう事かクラウ・ソラスを拳で受け止めてしまった。

「げっ!?」

 これは高貴にとっては予想外だ。高貴の予定では腕ごとベルセルクを真っ二つにする予定だったにもかかわらず、ギリギリと二つの力が拮抗して動きが止まってしまっている。これでは作戦その二に移ることができない。それどころかベルセルクの巨体に押しつぶされてしまいそうになってしまっている。
 さらに追い討ちをかけるかのごとく、高貴の右側から別のベルセルクも迫ってくる。動きを止められてしまっている高貴には回避も防御も出来るはずがない。真澄のそばにいるエイルがすかさずルーンを刻もうと腕を動かす。しかし、それよりも速く状況は一変した。

「こ……の……野郎っ!」

 止められてしまったのならば、もっと強い力で打ち破ればいい。その単純な答えならば高貴は知っているし、実行する手段もある。クラウ・ソラスに魔力を一気に流し込む。光の刀身が勢いと輝きを増していき、ベルセルクの拳に小さな亀裂が走った。
 光の刀身が拳に食い込む。拳から手首へ。手首から腕へ。腕から肩へ。そして―――左肩からクラウ・ソラスを斬り下ろし、肩口からベルセルクを真っ二つに斬り裂いた。
 黒い煙となって消滅するベルセルク。そして右から向かってくるベルセルク。それ以外のベルセルク。まだ敵が沢山いる状況で高貴は―――

「よし、一時撤退!」

 逃げた。
 襲い掛かってくるベルセルクなどには目もくれず、思いっきり背中を見せてひたすらに距離をとる。
 作戦その二。とにかく逃げる。
 囲まれて一度に複数の相手をするからいけないのであって、一対一ならば自分でも問題なく倒せる。その事実に気がついた高貴は、ヒット&アウェイの要領でベルセルクたちから離れた。それにしても見事な逃げっぷりだ。
 いったん距離をとった高貴は、なるべく孤立しているベルセルク目掛けて再び一気に走る。そのベルセルクを一刀の元に斬り捨てると再び距離をとった。これで残っているベルセルクは四体。この方法をあと数回繰り返せばこの戦いは終わる。そう考えて再び距離を詰めようとした。
 詰めようとしたが、一歩踏み出しただけでその足が止まる。前方のベルセルク二体が、高貴に向かって両腕を伸ばしたまま止まっている。いや、止まっているというよりは、何かの準備をしているようにも思える。そしてさらに、その両手の前になにやら黒い球体のようなものが浮かび上がる。
 おいおい、まさか―――

「グオオオオオッ!!」

 そう思考したのと、ベルセルクが吼えたのはまったくの同時だった。まるでマシンガンの発射音のような音と同時に、マシンガンの弾丸のように、黒い銃弾のようなものが連続で飛んでくる。
 かわせ―――!
 本能が叫ぶ。前方にではなく真右に向かって高貴は跳んだ。いや、転がったという表現のほうが正しい。一瞬遅れて自分がいた場所に黒い弾丸が雨のように突き刺さり、遥か後方にあった公園の木にもそれは命中した。めきめきと音を上げて弾丸を受けた木が横たわる。
 それだけでは終わらない。ベルセルクは弾丸を撃ち続けている。高貴はベルセルクを支点にひたすらに横に動いてそれを回避していた。もしも前に踏み込んだりしたものなら、きっと自分は蜂の巣になってしまうだろう。このままでは近づく手段がない。かわしながらそう考えていると―――ピタリと弾丸が止んだ。
 突然の事に高貴は驚きを隠せない。いったい何事かとベルセルクのほうを見ると、その理由はすぐに理解できた。二体のベルセルクが、その黒い両腕を今度はエイルと真澄のほうに向けている。
 ベルセルクの標的となる存在は一つは《神器》の持ち主。もう一つは魔術を使う存在、そしてヴァルキリー。真澄は狙われる事はないにしても、エイルはベルセルクに狙われる対象となってしまう。エイルならば簡単にかわせるかも知れないが、真澄がそばにいる状態であの弾丸を放たれるのはまずいかもしれない。

「エイル、真澄!」
「ガアアアアアアッ!!」

 高貴の叫びは、ベルセルクの無常な咆哮と放たれた弾丸の音によって完全にかき消された。無数の弾丸がエイルと真澄に襲い掛かっていく。
 しかし、高貴は一つ勘違いをしている。今真澄の目の前に立っているのが誰なのかを忘れている。エイル・エルルーン。銀髪のヴァルキリーは、自分よりも闘いなれているという事を彼は心配と不安のあまりに忘れていたのだ。

「《エイワズ》―――!」

 エイルの右手が動いた。青い軌跡で空中に刻まれた《エイワズ》のルーン。エイルが自分の正面に右手をかざすと、そこに青い障壁が一瞬で姿を現す。
 その障壁に、黒の弾丸が突き刺さった。

「きゃあああああああ!!」

 真澄が思わずうずくまって悲鳴を上げる。それは当然だろう。マシンガンで撃たれているようなものなのだから。しかも相手は得体の知れない理解不能の化け物。恐れがないわけがない。だが、青の障壁は決して破れる事はない。黒の弾丸ではけして破れず、けして汚される事のないその障壁は、いくつの弾丸を受けてもその輝きを保っている。
 自分の身が無事な事に気がついた真澄が顔をあげる。目の前には自分の身を守ってくれているヴァルキリーの姿がある。

「え、エイルさん……これって……」
「ああ、ルーン魔術だよ。だがこの事は内緒にしておいてくれ、一応は極秘任務なんだ」

 エイルの言葉に真澄はぽかんとしてしまう。るーんまじゅつだとか極秘任務だとかなにもかもがまったく理解できない。理解できるのは、自分が今エイルに守られているという事実だけ。

「って、エイルさん、あれ!!」
「……ふむ、そうきたか」

 真澄の目に映ったのは、弾丸を放ち続けているベルセルクではない残った二体がこちらに向かってきていることだった。
 エイルの作り出す障壁は壁であり、あくまでも平面状のものでしかない。故に一方向からの攻撃しか防御する事ができず、側面にでも回り込まれれば今の状態では防ぎようがないのだ。
「まぁ、問題ないさ」

 にもかかわらず、エイルには焦りがまったくない。その理由は極めて簡単だ。ベルセルクが一体ではないように、エイルもまた一人で戦っているわけではないのだから。

「なるほど……確かに一人でほっとかれると寂しいかもな」

 いつの間にか、ベルセルクの背後に高貴が立っていた。エイルたちが攻撃を受けているその隙に、フリーになった高貴は一気に弾丸を放つベルセルクの背後まで接近したのだ。背後にいる高貴の存在に気がついたベルセルクが振り返ろうとするが―――遅い。高貴はすでに攻撃の体制に入っている。
 イメージ、この二体を一気に斬り裂くイメージ!

「伸びろーーーっ!!」

 魔力を一気にクラウ・ソラスに流し込む。光の刀身が勢いよく伸びた。魔力による調整がうまくいったのか、もしくはイメージによる調整がうまくいったのか、光の刃の長さは約5メートルほどまでに抑えられている。そして自分の半径5メートル以内に存在するのは目の前のベルセルクのみ、これならば二体まとめて斬り裂ける。

「お……りゃぁっ!!」

 なんの遠慮もなしに、高貴はクラウ・ソラスを横に振るった。刃が当たったベルセルクの上半身と下半身が真っ二つに裂ける。目の前の二体のベルセルクはあっけなく消滅した。
 残りは二体。

「エイル!」

 高貴がエイルに向かって視線を送る。弾丸が止んだ事で《エイワズ》の障壁を解除したエイルと一瞬だけ視線がぶつかった。高貴は残りの二体に向けて走ろうとしたが、エイルの視線が「あとは任せろ」と言っている。右手を眼前に掲げると、中指と人差し指を真っ直ぐに伸ばす。その二本の指に青い光が静かに灯った。

「さて、終わらせようか。《ソーン》、《テュール》、バインドルーン・デュオ」

 すばやく描かれる二つのルーン。《ソーン》と《テュール》のルーンが一つに溶けあう。
 ばちっとエイルの右手に紫電が走る。魔力が迸り凄まじい雷光がその右手に集っていく。
 心なしか、高貴の魔力がエイルに吸い取られているような気がした。エイルとのエインフェリアの契約により、高貴はエイルの魔力を受け取る事が出来る。ならば当然のごとく逆にエイルも高貴の魔力を使うことができるということだ。もしも自分の魔力も使っているのだとしたら、その破壊力は今まで見たエイルの魔術で一番大きいに違いない。
 つまり―――

「響け、《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》!!」

 二体のベルセルクとて、まとめて葬りさる威力があるということだ。
 ヴァルキリーの右手に集っていた雷は、一筋の帯となって夜を斬り裂きながら突き進む。そして、エイルたちに突進して来ていた二体のベルセルクに突き刺さった。まるで落雷だ。横からなのでそうは見えないが、もしも真上から落とされるような事があれば間違いなく落雷に見える事だろう。
 そんな強力な雷に抗う事もできずに、ベルセルクは黒い塵となって消滅した。
 残ったのは地面に出来た焦げ痕のみ、全てのベルセルクが消えた事によって、人気のなかった公園に静寂が帰ってくる。

「ふぅ……終わった……」

 高貴の体の緊張が一気に解けた。自分でも自覚していなかったが、結構緊張してしまっていたようだ。ヒルドとの戦いのときのように、勢い任せで戦っていたせいで自覚できなかったのだろう。

安心と、そしてこれからの不安を胸に抱きながら、高貴はエイルと真澄の元へと歩く。

「ふむ、ちゃんと戦えたじゃないか高貴。クラウ・ソラスの刀身の長さも調節できていたみたいだしな」
「いや……まぁ……来てくれて助かったよ。それより―――」

 二人は真澄のほうを振り向く。やはり相変わらず真澄は呆然とした表情のままだ。

「……どうする?」
「ふむ……そうだな、クマもいないことだし、こうなってしまったら全て話したほうがいいかもしれないな。もっとも本人が本当に知りたいのならの話だが」
「やっぱ……そうだよなぁ……あのさ、真澄……」
「聞く」

 高貴が真澄に確認を取るよりも速く、真澄が高貴に対してそう言った。

「本当に、今わたし全然……メチャクチャ……てゆーか……とにかく、わけがわかんない。さっきの黒いのはなに? 高貴のもってるそれはなに? エイルさんのその格好とか、あの雷みたいなのはなに? ヴぁるきりーってなに? 知ってる事全部ちゃんと教えて」
「……真澄、私たちは君の疑問に対する答えを知っている。そしてそれを君に教える事ができる。しかし本当に聞く覚悟があるのか? 私達の知る事実はかなり非現実的な話だ。普通では到底信じられないような内容も含まれている。それに知らないほうがいい事かもしれない。それでも君は真実を求めるのか?」

 まるで真澄を威圧するようにエイルがそう言った。そのあまりにも思いつめた表情に、思わず真澄はたじろいでしまう。それは、エイルの真澄に対する警告、いや、真澄を思っての忠告だ。ここが、現実と非現実の境界線。エイルは無理をしてその向こう側へと踏み込ませようとはさせず、真澄に対して選ぶ権利をあたえた。高貴としては、正直聞いてほしくはない。というよりも巻き込むような事はしたくないというのが本音だ。真澄と俊樹、そして詩織には危険な領域こちらがわ
来てほしくなかったからだ。

「……非現実な事とか……信じられないような事なんて、もうとっくに起きたから。だから……わたしは知りたい!」

 真澄は……うつむきながらも、最後にはしっかりと顔を上げて、エイルと高貴をしっかりと見て声を出した。

「わかったよ。じゃあここじゃなんだから俺の家に行こう。コーヒーでも飲みながら教えるよ。それでいいよなエイル」
「……ああ、かまわないが……」

 エイルがなにやら歯切れが悪そうに辺りを見回した。

「どうしたのエイルさん?」
「いや、気のせいかもしれないが、誰かに見られているような気がしたんだ。しかし周囲に魔力も人の気配も感じないからおかしいと思ってね」
「見られてる?」

 言われてみて高貴も同じように周囲を見渡した。しかし、やはり公園の中には自分達以外の人影はなく、ベルセルクも見当たらない。遊具の周囲にも、そびえ立つ木の影にも。当然ながら自分達のいる街灯に照らされたベンチにも誰も座っておらず、他のベンチにも人はいない。

「やっぱ気のせいだろ。どう見ても俺たち以外いないって」
「……そうだな、私の気のせいだった。去れ、契約の武装」

 エイルの体が光に包まれる。その光が消えると、青い鎧が消え去り、エイルの服装は今日買ったばかりの服装に戻っていた。それを見た真澄が再び驚いたような表情へと変わる。

「それ……どうやったの?」
「ちょっとした魔術だよ。それよりも家に戻ろう。君の望みどおり真実を話すためにね」

 そう言うなりエイルは真澄に預けていた紙袋を受け取り、公園の出口に向かって歩き出した。クラウ・ソラスを消した高貴も、覚悟を決めたような表情の真澄も、慌てて追いかけるようにその後に続いて歩き出した。



「取り合えず、コーヒーでもどうぞ」

 高貴が真澄の前にコーヒーを差し出した。真澄は「ありがとう」と礼を述べたものの、それに口をつけずに緊張した様子だ。公園での戦いのあと、高貴たちは寄り道をすることなく学生寮の高貴の部屋に戻ってきた。それが約5分前、真澄の気持ちを落ち着かせるためにコーヒーでも淹れようと思った高貴は、人数分のコーヒーを用意すると、それぞれの前に置いて自分も座った。
 客人ということでエイルは真澄にソファーを勧めたが、一人だけそれは気まずいということで、部屋の真ん中辺りに置かれている折りたたみ式のテーブルを囲むように全員が床に座っていた。せっかくコーヒーを淹れたのだが、真澄どころかエイルも口をつけようとしない。真澄はおちつかなそうに周囲をキョロキョロと見回し、エイルはなにやらもの珍しそうにコーヒーを見ている。

「そう言えば、私はコーヒーというものは初めて飲むな。随分と真っ黒なものだな。それに湯気が出ていて熱そうだ。どうして君は今までコーヒーを淹れてくれなかったんだ?」
「いつもクマがどこかから買ってきたジュース飲んでるからだろ。最近自分の部屋にポットがあるって事を忘れてたよ」

 高貴の思っていた通り、やはりエイルはコーヒーを飲んだことがなかったようだ。ここ最近はどこかのぬいぐるみのせいで、いやおかげで、冷蔵庫の中身が(お菓子やジュースのみだが)充実しているため、コーヒーを淹れることはなかった。もっと美味いコーヒーもマイペースで飲めるからだ。
 それにしてもヴァルハラにはコーヒーがないのだろうか。以前喫茶店でヒルドがアイスコーヒーを飲んでいた気がするのだが。エイルがカップを手にし、「いただきます」と一言いうとコーヒーを口にした。

「にちゅいっ!?」

 にちゅい?
 飲んだ瞬間に、意味不明な声を漏らしてエイルが顔をゆがませる。口を押さえて勢いよくカップをテーブルに戻した。

「だ、大丈夫エイルさん!? てゆーかどうしたの?」
「……に……苦くて……あつい……私には飲めそうにない」
「ああ、だからにちゅいか」

 それにしてもまさかにちゅいなんて言うとは高貴にとっては予想外だった。最近エイルの第一印象がかなり壊れてきている。まぁ、今にはじまった事ではないのだが。

「それにしても真澄、君はさっきからおちつかなそうにそわそわとしていないか? 今からちゃんと話すから心配しなくてもいいぞ」
「そ、そんなんじゃないよエイルさん。ただ高貴の部屋って初めて入ったから……」
「ふむ、君たち二人は確か幼馴染だったろう。一緒に遊んだりはしなかったのか?」
「してたよ。でも寮の部屋に入ってからはお互いの部屋に行った事はなかったかな。男子寮は女子禁制。女子寮は男子禁制だったから。遊ぶにしても俊樹の家に行くとか、どっかに出かけるとかならあったけどさ」
「うん、そうだね。こっちの高貴の部屋に入ったのは初めてだね」
「こっちの?」

 しまったというように真澄が口をつぐんだ。慌てて高貴を見るものの、高貴はとくになにも気にしていないようすだ。いや、一瞬真澄に対して「気にしすぎだ」という視線を送った。エイルは真澄の反応を一瞬疑問に思ったが、特に深く気にすることはなかったようだ。

「別に緊張する事はないさ。君と高貴の付き合いは長いのだから、自分の部屋だと思って気楽にすごすといい」
「お前はリラックスしすぎなんだよ。居候の癖にさ」

 ピクリと、真澄の耳が動いた。それはもうわかりやすいくらいに、今高貴の言った言葉に真澄が反応する。

「待って、まずわたしから確認させてもらってもいいかな?」
「ふむ、なんだろうか?」
「さっきから疑問に思ってたんだけど……もしかしてエイルさんってここに住んでるの?」
「ああ、その通りだが」

 真澄が固まった。まるで石化でもしたかのように、ピシリと音でも聞こえたかのように動かなくなる。二秒ほど固まって、再び活動を始めた真澄が一番最初に行った行動は、ギロリと人を殺せそうな視線で高貴をにらめつけた事だった。本能的に高貴が視線をそらす。先ほど戦ったベルセルクよりも、今目の前にいる真澄のほうが遥かに恐ろしい。
 ここにつれてきた以上はエイルのことも話さなくてはいけないため、必然的にエイルがここに住んでいる事を話す必要があり、腹をくくっていた高貴だが、やはり冷たい視線を浴びせられるのはきつい。

「ふーん……へぇー……ここに……住んでるんだ」
「ま、真澄、どうかしたのか? 顔が怖い事になっているぞ」
「そんなことないよ、エイルさん」

 地獄の悪魔も殺せそうな眩しく恐ろしい笑顔に、思わずエイルも怯んでしまっていた。

「全部、最初から、最後まで、途中も含めて、じっっっっっっくりと聞かせてもらうからね。大丈夫、夜は長いから」

 笑っているにもかかわらず笑っておらず、さらには笑えない表情に真澄を見て、高貴とエイルは恐怖を身に感じながら口を開いた。
 そこから説明したのは主にエイルだ。まず、自分がこの世界ではない他の世界、ヴァルハラから来たヴァルキリーであること。
 この世界に来たのは、四之宮に散らばった《神器》を全て集めるのが理由であること。
 この世界に来たときに高貴の部屋に転移してしまい、ヒルドとの戦いに巻き込んでしまったこと。
 高貴の身の安全を考えて四之宮高校に界外留学生として来たこと。
 先ほどの異形の存在はベルセルクだということ。
 そして、高貴が《神器》に選ばれ、エイルと一緒に《神器》を集めることになったことなどを出来るだけ丁寧に真澄に説明した。
 最も学校でのヒルドとの戦いのことについては主に高貴が説明し、契約の印エインフェリアルをおこなってエイルとエインフェリアとなった事だけは、真澄にも話さなかった。てっきりエイルが突っ込んでくるかとも思ったが、さすがにエイルも恥ずかしいのか何も口出しする事はなく、説明できる事はすべて説明し終える。
 真澄はその間ずっと黙って二人の話を聞いていた。その表情は真剣そのものでなおかつ終始不機嫌、一字一句聞き逃すまいといった様子だった。二人の説明が終わると、大分冷めてしまったコーヒーを真澄が飲みほす。しばらくの間沈黙が続き、少し気まずい空気になってしまった。

「なるほど……うん……よくわかった」
「そ、そうか。てっきり現実味のない話だから、信じてもらえるのか不安だったんだよ」
「つまり―――二人は今同棲してるって事で間違いないんだよね」

 説明した中で一番突っ込んでほしくないところを真澄はピンポイントでついてきた。

「そこかよ!? もっと驚く事あっただろうが! 魔術とか異世界とか《神器》とか! お前ちゃんと話し聞いてたのか!?」
「聞いてたよ、最初から最後まで。つまりはエイルさんが高貴のベットに立ってて、一緒に暮らす事になったんでしょ」
「いやそこ最初と最後だけ!」
「ベットの上のエイルさんに襲い掛かって、天国につれてって貰ったんでしょこのヘンタイ! 本当に男ってサイッテー!!」

 ドンッとテーブルに思い切り拳を打ち付けて真澄は怒声を放った。

「お前本当に話ちゃんと聞いてたのか!? 襲われたの俺だから。槍突きつけられて死んでくれないかだから。もっと非現実的な話があったろ!」
「女子高生にとっては魔法とか異世界とか何とかよりも、若い男女が同棲してるって事のほうが非常識なの!!」
「確かに非常識だけどそこ以外を気にしないお前はもっと非常識だよ!」
「お、落ち着け二人とも。ほら、コーヒーでも飲んだらどうだ。とても熱かったコーヒーがいい具合に冷めて、これなら私も飲め―――苦い……」

 コーヒーを飲んだエイルが顔を歪める。エイルはブラックコーヒーを飲む事ができないようだ。なんだか不憫なので次からは砂糖かガムシロップを入れてやることにしようと高貴は固く誓った。しかし、エイルのそれによって熱くなっていた真澄の頭がいささか冷えたのか、エイルの言ったように手元のコーヒーに手を伸ばす。しかし先ほど飲み干したのでからになっていることに気がつき、その手を途中で止めた。

「……正直現実味がなさ過ぎるし、漫画とかの話としか思えないし、そうでもなければ妄想壁か中二病だとしか思えないんだけど、全部が本当のことなんだよね。エイルさんが他の世界から来たこととか」
「ああ、私はヴァルキリーだ」
「それで高貴がその《神器》っていうのを集めるのを手伝ってるんだよね。いつの間にか四之宮でそんな危険な事が起きてるなんて……あ、あの黒いのとかに襲われたりしたら……」
「その心配はないって。ベルセルクは普通の人は襲わないからさ。さっきの公園の時だって、真澄には全然手を出さなかっただろ」
「それは……確かに。一瞬だけ見られたような気がするけど、すぐに高貴のほうに行っちゃったし、後はエイルさんの後ろに隠れててよくわかんなかったけど。……で、でもその理屈だと高貴は狙われるってことでしょ」
「まぁ……な。俺も《神器》を持ってるからそうなる」

 クラウ・ソラスを持っている限りベルセルクに襲われてしまうし、魔力を隠していなければ他の《神器》の持ち主に狙われる可能性があることを意味している。当然の事だが、高貴とエイルはそんな危険の中に身を置いて生活しなければいけないということだ。

「そんな危ない事なんで引き受けたの? だってさっきみたいな事がこれから何回も起きるって事なんでしょ」
「それは……なんというか流れで? よく覚えてないというかなんというか」

―――当然だ。あの時の会話の記憶は我が奪った。

 なにやら変な声が聞こえた気がするが、そんなことを気にする余裕はなかった。高貴のあいまいな理由に明らかに真澄は怒っているからだ。

「あんたバッカじゃないの! 下手すれば死んじゃうかもしれないってのに流れで決めたってどういうこと! そんなんじゃ絶対に後悔するよ!」
「いや、後悔はもうとっくにしてる。少なく見積もっても10回以上は確実に」
「ずいぶんと……君……後悔してるな……」

 さすがにエイルがショックを受けたようでわかりやすくへこんでいる。もっと正確に言えば朝起きてエイルが幼児化した際に高貴は毎回後悔をしているという事になる。

「だったらどうして―――」
「それでもさ、手伝いをやめる気はない。後悔しながらでもちゃんと最後までやるよ」
「……わかってない。高貴は全然わかってないよ。私達は普通の人間なんだよ。エイルさんみたいな特別な存在じゃない。それなのにいきなり戦うとかできる訳ないじゃん」
「そうだな、全て真澄の言うとおりだ」

 意外な事に、真澄の言葉にエイルが全面的に同意した。これには二人とも驚いたらしく、驚きの視線をエイルに向ける。

「本来ならば、《神器》を集める事は私一人でおこなうはずだった事だ。この世界の全ての人間に内密にしてね。にもかかわらず高貴を巻き込んでしまったのは完全に私のミスだよ。たとえどんな言い訳をしても許されるものではないし、また許してもらえるとも思っていない。だから高貴、この場で改めて君に言わせてもらおう。私は君に《神器》を探す事を強制する事はできない。ヒルドの一件で君には十二分に助けてもらったしね。もしも君が《神器》を探すのをやめて日常に戻りたいというのなら、私はそれを受け入れよう。すぐにでも君の前から立ち去るよ」

 淡々と、まるで自分を押し殺すようにしてエイルはそう言った。その一言で真澄にも完全に理解できた。エイルは高貴を巻き込んでしまった事を心の底から悔いている事を。

「いや、今はまだやめるつもりはないよ。正直言うとさ、ここでやめてクマにでも記憶を消してもらったほうが後々後悔しないと思う。それは本心からそう思ってる」
「だったらどうして?」
「今以上の後悔が待ってるってわかっててもさ、やりたい事っていうのはどうしてもあるんだよ。俺はどれだけ後悔する事になってもやりたい事をやれる人間になりたいんだ」
「それはやめない理由じゃん。エイルさんをどうして手伝うのかって事」
「そうだな……」

 エイルを手伝う理由。何か明確な理由があったような気がするのだが、何故かまったく思い出せないその理由。だが、それと同じかどうかは自分でもわからないが、小さな事かもしれないが、高貴はその理由をもっている。

「強いて言うなら、こいつ一人だと危なっかしくてなんだかほっとけないんだよ。それに、この町がやばい事になるかもしれないのに、エイル一人だけってのも不安だから」
「ずいぶんと……君……はっきり言うな……」
「……」

 真澄が口をつぐんだ。高貴と付き合いの長い真澄には、今の高貴の言葉が本気だという事がはっきりとわかる。だからこそ、自分ではもう高貴を止める事は出来ないという事もはっきりと理解できてしまう。もう何も言えなくなった真澄がため息をついた。

「あんたっていっつもそう。平穏に過ごしたい。平凡な人生がいい。トラブルなんて関わりたくないなんて言いながら、自分からトラブルに突っ込んでくんだから。しかも今回は間違いなく今までで一番のトラブルだし。高貴マゾなの?」
「マゾじゃねーよ!!」
「止められるわけないじゃん。わたしは高貴やエイルさんと違って、魔法なんて使えないし、すごい武器も持ってないんだから。たとえどんなに危険な目に合うってわかってても」
「……すまない。だが高貴の安全は私が必ず守ろう。この命に代えても高貴のことは私が守って見せる。再び平穏に過ごす事のできる日まで……必ずだ」

 自分の胸に手を当てながら、迷いのない瞳でエイルが真澄に言った。エイルは本気だ。高貴の身を守る為ならば、彼女は間違いなく自分の命を投げ出すだろう。それほどまでにエイルは高貴に対して責任を感じているのだ。そんな彼女を、誰かの為に自分の命すらかけようとしている少女を、これ以上真澄は攻める事ができなかった。

「うん、わかった。もう何も言わない。本当は言いたいけど」
「悪い、助かるよ」
「待て、それからもう一つ真澄に言っておかなければいけないこととがある。君の記憶についてだ」
「え、記憶?」
「ああ、この世界には魔術は存在しない。故にわれわれのせいで魔術を知ってしまったものにはいくつかの対処を施さねばならない。一つ目は命を奪う。高貴に最初にしようとしたのがこれだ。二つ目は黙ってくれるようにお願いする。次に高貴にやったのがこれだ。三つ目は記憶を消す。ヴァルハラのルーン魔術で、魔術や《神器》に関する記憶を全て消させてもらう。最後に高貴にやろうとしたのがこれだ。個人的には真澄を絶対に殺したくはないので、二つ目か三つ目を選んでくれると私は嬉しい」

 いきなりなんてことを言うんだこのヴァルキリーは。突然槍を突きつけなかっただけましかもしれないが、やはりもう少し言い方というものがあってもいいだろうに。

「……とりあえず殺す以外でお願い。てゆーか黙ってろって言われれば誰にも言わないよわたし。あんなに確実な証拠を見たのならともかく、証拠もなしに話しても信じてもらえなさそうだし」
「どの道今は君が今日のことを忘れたいと思っても、記憶を消してあげる事は出来ないから、そうしてもらえるとありがたい」
「あー、確かにな。逆に言っちまえばあいつがいなかったら真澄に知らせる事もなくすんだって事なんだよな。無駄に心配かけることになって悪い」

 とは言うものの、クマがヴァルハラに戻ったのは、ヒルドの死刑判決を遅らせる為と《神器》を探す対策をとるためなので、強く攻め立てる事はできない。しかも昨日の疲労具合を見ればなおさらだ。

「ところでその《神器》っていうのはいくつあるの? 全部集めるのにどのくらいかかりそう?」
「それがさ、いくつあるのかまったくわからないんだと。それどころかどんなものでどんな名前なのかとかもさっぱりらしい。まぁ、ありえないくらい非現実的なものっていう共通点はあるだろうけど」
「え、名前すら?」
「ふむ、私達の世界では《神器》の名称すらトップシークレットの機密事項だったからね。クラウ・ソラスやレーヴァテインの名前も少し前まで知らなかった。まずはどんなものがあるのか調べたい所なのだが、正直言って調べようがまったくないんだよ」
「レーヴァテイン……調べようがない……ふぅん」

 《神器》の詳細を知るのは戦女神ヴァルキュリアと呼ばれるものたちのようなえらい存在だけらしいが、聞いても無駄なうえに本人たちが来たら天変地異以上のことが起きる為あてには出来ない。無駄に厳しい縛りプレイだ。

「……ねぇ、思ったんだけど、もしかしたらその《神器》ってどういうものがあるのかとか調べられるかもしれないよ」
「マジ?」
「なに?」

 真澄の声に強く二人が反応した。異世界の住人でもあるエイルでも知らないというのに、魔術とは縁もない真澄がどのようにして調べられるというのだろう?

「ほ、本当か? しかし一体どうやって調べるというんだ。禁書クラスの書物がどこかにあるとでも言うのか? それともまさかヴァルハラに殴り込みをして無理矢理聞きだすつもりか? そんな危険なまねをさせるわけには―――」
「お、落ち着けってエイル!」
「か、確実とはいえないけど……」

 興奮状態に陥っているエイルを高貴が嗜める。それに気圧された真澄は、いささか自信がないように声を響かせた。

「ググって見たらいいんじゃない?」
                                             ――――――ヒルド・スケグルの処刑まであと五日




[35117] 情報収集と魔術の特訓は計画的に
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/17 17:03
 四之宮高校には休日にも学生がいることが多い。部活動の練習にやってくる学生や、委員会や生徒会の仕事の為に足を運ぶ生徒。高貴はまだ経験はないが、補習などで呼ばれてしまう学生もいる。
 その学生達と同じように、今日は日曜日にもかかわらず高貴たちは四之宮高校にやって来ていた。しかし、やって来た理由は部活でもなければ委員会でもなく、ましてや補習でもない。《神器》についてインターネットでググってみるために、図書室にあるパソコンを使用しに来たのだ。図書室はたとえ休日でも勉強に来る学生のために開放されており、許可を取れば備え付けられているパソコンも使うことができる。高貴や真澄はパソコンを持っていないため、金のかからないように、彼らは学校の図書室で調べる事にした。
 学生が来ているとはいえ、平日に比べると圧倒的に人通りの少ない廊下を、高貴たち三人がゆっくりと歩いている。学校に来るということで、今日は三人とも学生服だ。

「それにしてもさ、ググッたくらいで調べられんのかな? エイルのいる世界ではトップシークレットの情報なんだろ?」
「ああ、その存在自体は誰でも知っているようなものだが、名前や能力となってくれば、知っているのはかなり限られている」
「でも北欧神話って名前だけならわたしも聞いたことあるよ。そこを調べればいろいろとわかるんじゃないかな? それにわたし達にググる以上の有効な調べ方ってないじゃん」
「あー……確かにな。まぁ調べるだけ調べてみるか。とりあえずベルセルクが出なきゃいいけど」
「ふむ、出たとしても私と君がいれば問題なく対処できるだろう」
「そういう意味じゃなくて、ここでは戦いなんてしたくないって言ってんだよ。」

 高貴がそう思っている最大の理由は、今はクマがいないことだ。以前ヒルドと戦ったときは、自分でも信じられない事だが校舎を完全に破壊してしまい、クマに直してもらうしかなくなってしまった。クマがいない今、もしもここで戦いになって校舎が破壊でもされてしまったら、高貴たちにそれを直す手段はまったくない。

「そういえば君、この前校舎を真っ二つに斬って壊していたな。そのおかげで校舎が崩れてしまった」
「いやあれ絶対俺だけのせいじゃねーって。あの女が暴れたのも原因の一つだって。それにエイルだって屋上のフェンス一つ壊したろ。」
「君はクラウ・ソラスの刃を伸ばして全て壊したじゃないか。それに比べれば―――」
「ちょ、ちょっと待って!」

 高貴とエイルの会話を真澄が遮った。

「それわたし聞いてないよ? 学校壊れたってなに? だって普通に学校あるじゃん」
「ヒルドって奴と戦ったって昨日話しただろ、その時にやっちまったんだよ。本当にあの時はどうするかと思った。完全に原形とどめてなかったしな。でもクマがそれを直してくれたんだ。エイルが転校してきた次の日だから、だいたい一週間と少し前かな」
「……つくづく非常識なんだ」
「いや、非現実だよ。現実ではあったがね」

 どっちでも似たようなものだろうと思ったが、高貴は口に出す事はなかった。
 そんな話をしているうちに図書室の入り口へとたどり着く。横に開くドアを開け、三人は図書室の中へと入っていった。
 本来ならば図書委員か司書の教員が座るべきカウンターには、今日は誰も座っていない。正直言ってかなり無用心だ。高貴は図書委員になったとはいえ今日は休日で当番ではない。よって教室の椅子よりもいささか座り心地がいい椅子には座る必要はなく、用があるのはパソコンの椅子だ。

「ん、静音がいるな」

 エイルの視線の方向を見ると、音無静音が座って本を読んでいた。やはりハードカバーで何を読んでいるのかはわからず、耳にはイヤホンをしている。そのコードの先に音楽プレーヤーがあることから、何か音楽でも聴いているのだろう。

「なんか絵になるよね」
「ああ、邪魔しちゃ悪いな。」

 静音は黙っていれば(元々ほとんど喋らないが)美人なので、真澄の言ったように座って本を読んでいるというだけでもかなり絵になる光景が生まれる。これも一種の他人を寄せ付けない音無バリアーの一つだ。この近寄りがたい雰囲気、話しかけてはいけないような雰囲気をかもし出している彼女に、一体誰が話しかけようとするのだろうか?

「こんにちは静音、日曜日だというのに図書室で会うとは奇遇だな」

 それはヴァルキリーだ。
 全ての空気をぶち壊して、いつの間にか静音のそばに移動したエイルがなんのためらいもなく話しかけた。

「ふむ、イヤホンで聞こえていないのか。いきなりとるというのはマナー違反だろうしな。くすぐってみれば反応があるかもしれない」

 思わず背後からその頭を思いっきり殴ってやりたい衝動に駆られたが、その気持ちをなんとか高貴は押さえつけた。
 エイルは気がついていないと思っているようだが、静音はエイルに気がついている。先ほど横目でエイルのほうを見たのがその証拠だ。しかしあえて静音はエイルのことを無視し続けているのだ。他人と関わるのを避けている静音にとって、それは当然の行動と呼べるし、その行動の結果、彼女は確かに一人で過ごす事に成功している。
 ただ一人、エイルの存在を除けば。峡谷の音無や音無バリアーなどと呼ばれようと、峡谷などたやすく上るだろうし、バリアなどあっさり壊してしまうのがエイルなのだから。
 これ以上騒がれるのが面倒になったのか、静音はしぶしぶと言った感じで耳につけているイヤホンをはずしてエイルのほうに視線を向けた。

「……こんにちは、エルルーンさん」
「ふむ、ようやく気がついてくれたな。こんなに話しかけても気がついてくれないということは、もしかして無視されてるんじゃないかと不安に思ってたんだよ」
「無視してたのよ」
「高貴、真澄、静音がいるぞ」

 聞こえなかったのか、それとも聞かなかったことにしたのかはわからないが、会話が繋がることなくエイルが二人を呼んだ。高貴と真澄を見つけた静音の表情が暗くなる。まさしく頭が痛いといった様子だ。しかし、呼ばれてしまったので行かないわけにもいかずに、高貴と真澄も静音の元へと向かった。

「あー……ごめんな音無」
「ごめん音無さん」
「……もうあきらめる事にしたわ」
「待て君たち、どうして開口一番に挨拶ではなく謝罪なんだ? それに静音は何を諦めたんだ? 私には会話のつながりがまったくわからない」

 エイルが一人だけわけがわからないといった様子になっているが、特に問題はないためほっとくことにした。

「そういえば静音、君はどうして休日なのにここにいるんだ?」
「本を読んでいたのよ」
「何を読んでいたんだ?」
「教えたくないわ」
「そうか、なら聞くのはやめよう」
「じゃあ帰ってほしいのだけど」
「そういえばこれは……音楽プレイヤーか」
「見ればわかるでしょ。私は本を読みたいから―――」
「こういうものは初めて見るな。CDプレイヤーというものならば見た事はあるのだが―――」
「エ、エイル! 本当にごめんな音無!」

 見るに耐えかねて高貴がエイルを下がらせる。静音の表情が段々と怒りに染まっていたからだ。

「あ、音無さんがもってるのって、SILENTサイレントの新しいやつだね」
「さいれんと?」

 真澄の言った言葉に、エイルがキョトンとした表情になった。

「うん、音楽のプレーヤーとかそういう製品を作ってる会社。わたしその会社のイヤホン使ってるんだ。音漏れしないし、音質とかもいいんだよ」
「ああ、そういや俺も―――さてそろそろここに来た目的を果たそうかじゃあな音無!」

 そろそろ本気で怒りだしそうな静音を見て、高貴が無理矢理エイルの手を引く。真澄も静音の表情に気がついたのか、エイルの背中を押し始める。背後からは「二度と近づいてくるな」というオーラをヒシヒシと感じ、とてもではないが振り返る事はできなかった。

「ではな静音、よかったらまたあとで話でもしよう」

 しかしヴァルキリーは普通に振り返っている。こいつ、ある意味スゲーと高貴は少し感心したのだった。しかしそんなエイルを避けるように静音は黙って立ち上がると、図書室から出て行った。
 パソコンは図書室の奥のほうに5台並んでおかれている。今は誰も使ってはいないようだ。そもそも図書室にいるのは高貴たちを除けば静音しかいなかったので、当然といえば当然なのだが。
 高貴は椅子に座ると、パソコンの電源を入れた。機械の起動音が鳴り画面に文字が映りだす。

「お前さ、少しは空気読めよ。音無は話しかけんなって空気出してたろ」
「ふむ、友人に会ったのだから、挨拶するのは当然だろう。そういえば高貴と真澄は音楽を聴かないのか?」

 パソコンの画面をマジマジと見ながらエイルが二人に聞いた。

「わたしは聞くよ。でも音楽プレイヤーはもってなくて、スマホで聞いてるんだ。CD買うよりも安くてすむし」

 真澄がポケットの中からスマホを取り出してエイルに見せた。そのスマホには、昨日高貴が買って渡したストラップも着いている。

「それは音楽も聴けるのか。ん、そのストラップは綺麗だな。銀色の三日月か」
「え、あ……うん、ありがと」

 そそくさと真澄がスマホをしまった。するとエイルの興味は再びパソコンに戻る。

「しかし、この画面は真っ黒だな。昨日のコーヒーのように黒いが……おお! 突然青になったぞ! ようこそと書かれてある」
「落ち着けってーの。取り合えずネットにつないでググって見るか」
「ふむ……おお……すごいな……」

 完全に立ち上がったパソコンを操作し、高貴がインターネットのアイコンをクリックした。その動作一つ一つにエイルが反応する。そんなエイルとは反対に、真澄がパソコンから視線をはずして立ち上がった。

「パソコンのほうは高貴がいれば問題ないだろうし、わたしは本でも探してみるね」
「ああ、頼む。さて、でも調べるっていっても検索のワードはどうするよ。北欧神話にしてみるか?」
「……その検索のワードというものはなんでもいいのか?」
「ああ」

 エイルはしばらく目を閉じて考え込んだ。

「ふむ、だったらレーヴァテインについて調べてみるのはどうだろう?」
「え、なんで今更? だってレーヴァテインはもう取り戻したろ」
「取り戻したからこそだよ。私達はレーヴァテインの能力や情報を知っている。もしもその情報と、ググってみて出てきた情報が一致したのなら、他のそれらしい情報も信頼できるという事になる。だからこそレーヴァテインでどうかと思ったんだ」
「あ、なるほど。だったらそれでやってみるか。レーヴァ……テイン…と。検索開始」

 文字を入力して検索のボタンを押すと、約254000件がヒットした。画像もいくつか表示されているが、何故か表示されたのは剣ではなくロボットだったので無関係だろう。

「ずいぶん多いな……」
「お、ウィキにのってるみたいだからこれにするか」

 途方もない数字を、まさか一つ一つ調べるわけにもいかないので、高貴は一番上に表示されているサイトをクリックした。それは高貴も調べ物の時によく利用している情報サイトで、世界的にも有名な為かなり信用できる。
 そこに表示された文章を高貴は読み上げた。

「レーヴァテイン。……架空の兵器じゃなくて……レーヴァテインとは北欧神話に登場する武器の事である……ってこれいきなりビンゴじゃねーか!?」
「なに? 続きはどうなっている! 北欧神話の原典資料において、世界樹の頂に座している雄鶏ヴィゾーヴニルを殺すことが可能な剣……おい、ヴィゾーヴニルは天然記念生物だぞ。殺すなどしてしまったらとてつもない大罪だ」
「何それ、アホウドリとかイリオモテヤマネコみたいなもんか? ……あ、でもさ。ファンタジー作品において、スルトルが振るった剣、もしくは炎として用いられる事が多いってさ。そういえばゲームとかでレーヴァテインっていう剣があった気がする。しかも炎属性の」
「……これはかなり信頼できるかもしれないな。高貴、他には見れないか? 出来ればこの北欧神話に乗っている武器などが見たい」
「えっと……これかな」

 レーヴァテインのページを最後までスクロールし、一番下にあるカテゴリを見てみると、北欧神話の道具というカテゴリを見つけたので、高貴はそこをクリックした。すると再びページが飛び、20件以上の北欧神話に関係するものがうつし出された。しかも五十音に整理されていて見やすい常態でだ。

「こんなにあるのか? 素晴らしい! 高貴、早く見てみよう!」
「わ、わかったよ。じゃあこのエッケザックスっていうのから。……あ、これも北欧神話に出てくる剣だってさ」
「私にも見せてくれ!」

 隣に座っていたエイルが身を乗り出して画面にを見る。顔と顔が近づき、エイルのシャンプーの香りが高貴の鼻をくすぐる。

「おい、近いって少し落ち着け! つーか操作の邪魔だから少し離れろ!」

 椅子をいったん引いてエイルを自分から無理矢理引き剥がした。エイルは「君はイジワルだな」と不満そうにしているが、自分では操作が出来ないので黙ってそれに従う。エイルを自分の後ろに追いやったあとに、高貴は改めてマウスを操作しようとしたが、彼女は諦めの悪いヴァルキリー。高貴の背後から顔を乗り出して、画面を食い入るように見ている。

「……おい、近いんだけど」
「ずいぶんと……君……注文が多いな。これなら操作の邪魔になることは無いじゃないか。たとえ近くても問題ないだろう」

 確かに操作事態はまったく問題ない。しかし顔と顔の距離は先ほどとほぼ変わっておらず、相変わらずエイルの香りが鼻をくすぐっている。さらには背中に当たっている柔らかな二つのものは一体なんなのだろうか? それは考えない事にした。かわりに数回深呼吸して自分を少しだけ落ち着かせる。

「このページをプリントするか? そうすればうちに帰っても確認できるだろうし」
「いや、その必要はないよ。私がメモ帳を持ってきているから、ここに書かれていることを私がメモしていこう」

 背中からエイルの体温が離れたと思ったら、エイルがいつの間にか手にもっているメモ帳を見せてくる。そのあと再び背中にエイルの体温が帰ってきた。

「どこにそんなの持ってたんだよ。いや、やっぱり言わなくていい」
「おっぱいの谷間に―――」
「言うなっつーの!!」

 ◇

「だいたいこんなもんかな?」
「ふむ、そうだな。めぼしい名前は一応全て記入した」

 その後エイルと高貴は、神話に出てくる武器のようなものをどんどんピックアップしていった。高貴がめぼしい所をクリックし、そこに書いてある記述をエイルがメモを取る。それらを繰り返して約30分。北欧神話道具のあとはケルト神話について調べ、最後にギリシャ神話の武器を調べ終わり、ようやくひと段落が着いてきた所だ。

「なぁ、これまでどんなのをメモったかちょっと見せてくれよ」
「ふむ、構わないよ」

 エイルがメモ帳を高貴に手渡す。こちらに来て日が浅いにもかかわらず、すでにエイルは高貴よりも字がうまく、綺麗に見やすくまとめられていた。

 北欧神話

 エッケザックス  剣 能力不明

 グラム 剣 岩や鉄を斬り裂く、ノートゥングのモデル?

 グレイプニル 紐、足枷 フェンリルを捕縛。

 グングニル 槍 投げると当たって戻ってくる。

 ダーインスレイヴ 剣 魔剣の代表格、生き血を吸う。

 ティルヴィング 剣 望みを三度叶えるが破滅をもたらす。

 ブルートガング 剣 折れた。

 フルンティング 剣 血をすするたび強固になるが、力を失った。

 フロッティ 剣? 突き刺すもの。

 ホヴズ 剣 詳細不明

 ミョルニル 鎚 壊れることなく、投げても的を外さず再び手に戻る。

 リジル 剣? 詳細不明

 ケルト神話

 カラドボルグ 剣 エクスカリバーの原型?

 ゲイ・ボルグ 槍、銃? 投げると命中する。ほか他説あり。

 ブリューナク 槍、投石器 5人を同時に倒す。必ず勝利をもたらす。

 ギリシャ神話

 アイギス 盾、防具 身を守るもの

 ケリュケイオン 杖 詳細不明

 トリアイナ 三叉槍? 漁具

 こうして眺めてみると、圧倒的に北欧神話の武器が多い。ケルト神話とギリシャ神話の武器の数を足したとしても、北欧神話の武器の数には及ばないことから明らかだ。もっともこのサイトに専用のページがないだけで、本当はもっとあるという可能性ももちろんある。

「なんかさ、名前は大分わかった気がするけど、この中のいくつが四之宮にあるのかはわからないんだよな。そもそも本当にあるのかもわからない」
「ふむ、しかしこういうものがあるのかも知れないとわかっただけでも良しといえるだろう」
「圧倒的に北欧神話って言うのの武器が多いな。しかも剣が圧倒的に多い。この中でエイルが知ってそうなのってあるのか?」

 エイルはしばらくメモを見てから口を開いた。

「そうだな……このグングニルとミョルニルという武器は、それぞれオーディン様とトール様の使っていた武器と記されているようだ。ヴァルハラの記録では、このお二人が昔武器を使っていたという記録は残っているが、その名前までは伝わっていなかった。このサイトの情報が正しければ、オーディン様とトール様の武器は《神器》だったということになる。そのお二人の武器の特徴から、グングニルとミョルニルはおそらく能力はあっていると思うよ」
「ちなみにどういう風に伝わってたんだ?」
「ふむ、こういうものだ。主神オーディン、その槍を掲げれば、その戦は決して敗北する事あらず。その槍、ひとたび放たれれば、消して外れることなく相手を射抜き、再び主神の手に戻る。雷神トール、その手に持つ鎚は、決して砕けぬものなし。その雷は戦場を蹂躙し、完全な勝利をもたらす。戦乙女学校の歴史で習ったのだが、それぞれの武器は《オーディンの槍》、《トールの鉄槌》と教えられておりそれが歴史での正式な名称だ。それがまさか《神器》だったとはな……」
「じゃあこの二つは名前と能力はほぼ確実か。あ、でもこのミョルニルってのが雷を操るなんて書かれてないけど」

 ミュルニルのページをF3キーの機能で、"雷"で検索してみても、一致はありませんでしたと表示されている。

「それはおそらくトール様自身の魔術を現しているんじゃないかと思う。あの方は雷神の二つ名の通りに、雷を操る魔術において右に出るものはいないからね」
「なるほど。で、今俺達がもっとも探してるのは、ギリシャの《神器》だから、この三つの中にあいつのなくした《神器》があるかもしれないってわけか。」
「そうなるな。アイギス、ケリュケイオン、トリアイナ。恐らくはこの中のどれかがヒルドのなくした《神器》だろう。ビルドのお仕置きを軽くするには必要不可欠だ」

 お仕置きというよりもガチでデスペナルティなんだけど。
 当然エイルにそんなことは言えるわけがなく、高貴は苦笑いを返したのだった。

「それにしても本当にすごいな。これは間違いなく禁書レベルの情報だ。それをこうもたやすく調べることができるとは、インターネットの力とは私の想像を遙かに超えていたよ」
「俺はなんか拍子抜けたよ。機密事項がググッたくらいで調べられるなんて思ってなかった。でも意外な盲点だったから真澄に感謝だな」
「確かに、そういえば真澄もそろそろ戻って―――」
「高貴、エイルさん、調べ物終わった?」

 ちょうど本を探し終わったのか、真澄が両手に本を抱えて戻ってきた。中には厚い本もありなかなか重そうだ。

「今調べ終えてところだよ。おかげで《神器》かもしれない武器を沢山見つけることができた。ありがとう真澄」
「本当にありがとうな」
「そ、そんな、いいよ別に。あ、それよりもわたしも本探してみたよ。北欧神話とか、海外のいろんな神話の本。少しは参考になるかもって」

 顔を赤くして照れくさそうにした真澄が二人に本を差し出す。その本を高貴が受け取った。真澄が持ってきてくれた本は、今本人が言ったように北欧神話の本や、ケルト神話、ギリシャ神話などの本がある。読むのは大変そうだが、その分情報量も多そうだ。

「ふむ、これだけあれば十分かもしれないな。高貴、すまないが本を借りる手続きをしてくれないだろうか。これは借りていこうと思う」
「いいけどさ、もう帰るのか?」
「いや、もう一つの目的を果たそう」
「もうひとつの目的?」

 高貴と真澄が首を傾げる。今日図書室に来たのは《神器》について調べる為であり、ほかに何をするのかはまったく予定を立てていない。まさか勉強するわけでもないだろうし、一体何をするのか予想もできなかった。
 キョトンとしている二人を前に、不適に笑ったエイルが右手の人差し指と中指を伸ばし、青い光を灯らせた。

「君に魔術の特訓をおこなう」



「ここだけの話……いや、別にここだけの話にしなくてもいいんだけど、実は俺屋上嫌いなんだよ」

 そこに足を踏み入れた瞬間の高貴の第一声はそれだった。図書室で本を借りたあと、高貴たちはエイルにせかされるまま屋上に移動した。ちなみに静音はいつの間にか消えていたので、エイルに声をかけられる前に帰ったと思われる。エイルは残念そうにしていたが、高貴と真澄はホッと胸を撫で下ろしていた。
 不満そうな声を出した高貴に、先に屋上に入ったエイルがクルリと振り返る。

「どうしてだ? 今日はいい天気で太陽も風もすごく気持ちがいいじゃないか。こんなにも晴れ渡った空の下にいれば、自然と自分の心も晴れ渡ってくるだろう?」
「ここで何回か死にかけたからだよ。ベルセルクとかレーヴァテインとか」
「高貴、そんな目にあってたんだ」

 何故かムスッとした顔になる真澄。それを見ないようにして高貴が目をそらした。真澄も同じように目をそらす。

「エイルさん、魔法の特訓をするんだよね。どうしてここでするの?」
「ふむ、なるべく人目につかない場所のほうがいいと思ってね。それにある程度の広さも必要だ。それらを考慮した結果、この屋上にたどり着いたわけだよ。ここならば本来は立ち入り禁止で人は来ないし、広さも申し分ない」
「そもそもどうして立ち入り禁止の屋上に入れるの?」
「当然じゃないか、私はヴァルキリーだ」

 理由になっていない理由を堂々と言い張るエイルに、真澄は少し頭が痛くなった。

「深く気にすんな。それよりエイル、魔術の特訓っても何するんだ? 俺今まで何にも教わってないけど」
「よし、まずは―――ん?」

 エイルの言葉が途中で止まった。
 説明を始めようとしていたエイルの目の前に、突然光の文字が浮かび上がってきたからだ。それはエイルと初めてあった日に、公園での戦いの後に見たものとまったく同じで、エイルの書く文字よりも深い青色の《ᛖ》の文字。
 あのときと同じように、エイルがその文字に右手で軽く触れると、その文字は光の雫となって弾けて消える。

「……疲れた……お姉さんもう限界」

 すると頭の中に直接声が響いてきた。最近ではよく聞きなれてきたクマの声だ。

「え? な、何これ? 今の声ってどこから聞こえてきたの?」
「ふむ、落ち着け真澄。今のは《エオー》のルーンだ。遠く離れた所に声を送る事ができる魔術だよ」

 初めてのことに戸惑っていた真澄をエイルがたしなめる。

「あー……ちょっと休憩。少し話し相手にでもなって……昨日から忙しすぎてお姉さん死にそう……」
「ふむ、今から高貴の魔術の特訓をしようと思っていたんだ。よかったら聞いていても構わないが」
「うー……とにかく仕事をサボれればいいわ……あとそこにいる女の子、えっと、人間ちゃん?」
「わ、わたしですか!?」

 高貴のことは人間君で、真澄のことは人間ちゃんらしい。これ以上こちら側で知り合いができたらどうするつもりなのだろう?

「あなたの処遇については、今はエイルに任せるわ。お姉さんとしては記憶を消して元の日常に戻ってもらったほうがありがたいけど、お姉さん今そっちにいけないから記憶を消せないの。だからわたしがそっちにいったら記憶を消す事になると思うけど許してね」
「あの……消されちゃうんですか?」
「心配しないで。消すのは魔術や異世界に関する記憶だけよ。人間君のこともエイルのこともちゃんと覚えていられるわ」
「えっと……は、はい……」

 ますみの表情はいささか暗い。記憶を消される事を怖く思っているのかもしれない。しかし、高貴からしてみれば、なるべく早く真澄の記憶を消してもらって、平穏な日常に返してやりたいと願うばかりだ。

「じゃあお姉さんは定期連絡の振りしてサボるから、人間君の魔術特訓いって見ましょ」
「ふむ、でははじめよう。君は魔力の扱い方を覚えてもう一週間以上たつ。もしも自分の相性のいいルーンがあれば、すぐにでも使えるようになるかもしれないな。まずは理解しやすい基本的なルーンから……いや、まずはルーン魔術とはどういうものかというものを話しておこうか。高貴には以前少しだけ説明したが、ルーン魔術とはその文字に込められている意味を魔力によって具現化する魔術の事だ」
「文字に意味があるの?」
「その通りよ。これを他の世界では術式と呼んだりする場合もあるわ。ルーン魔術に限らず、ありとあらゆる世界では、魔術を発動させるのに術式を通して発動させる事がほとんどなの。そういう意味では《神器》も武器の形をした術式と呼んでもいいかもね。そしてヴァルハラでもっとも普及している術式がルーン文字で、もっとも普及している魔術がルーン魔術って事」

 ようするに、魔術には術式が必要であり、ルーン文字もその数ある術式の一つという事だろう。

「ふーん、その術式がないと魔術は使えないのか?」
「いや、極まれに使えるものもいる。しかしそんな希少な存在はヴァルハラにはなかなかいない。少なくとも魔術の存在していなかったこの世界には一人もいないだろう。もしもいたとしたならば、その人物が魔術を普及していただろうからね。ヴァルハラではオーディン様やトール様などがそれに値する存在だよ。話がそれたな。ルーン文字は全部で24種類ある。つまりルーン文字を全て極めれば、24種類の魔術を使用できるという事になる」

 24種類。今はまだ一つもつかえない高貴にとって、そんな数は正直想像もできない世界だ。

「しかし、単純に使えるようになるわけではない。魔術を使うことにおいて、必要なものは三つある。一つ目は魔力。二つ目はイメージ力。三つ目が理解力だ」
「……魔力とイメージ力は何となくわかるけど、最後の理解力ってなんだ?」

 高貴は戦いの最中に、クラウ・ソラスの刀身の長さをイメージして調節した事があるため、イメージ力というものは簡単に理解できていた。

「最初の二つは簡単だ。魔力は魔術師ならば操れるし、イメージ力も心の中でイメージすればいいのだから問題ないだろう。問題は君も今言った理解力だ。ここで質問だが、君は雷はどういうものだと思っている?」
「え……ビリビリする?」
「他には?」
「えっと……光る」
「他には?」
「その……真澄任せた!」

 もう何も思い浮かばなかったのか、高貴が真澄にバトンタッチする。真澄は一度慌てた後急いで答えを考え始めた。

「雷……雷……空から落ちる?」
「他には?」
「ゴロゴロッと鳴る!」
「他には?」
「怖い!」
「他には?」
「光ったあとにピシャーンって鳴る!!」
「他に―――」
「エイル! そろそろ勘弁してやれ!」

 エイルの質問攻めに真澄はすでに目を回していた。ここで高貴が止めなければ、真澄はおかしくなっていたかもしれない。

「すまないな、少々イジワルになってしまった。しかし今のが理解力だよ。雷の魔術を使うとしたら、雷について理解してなければいけない。つまりは雷のルーンである《ソーン》を使いたかったら、雷について理解しなければいけないんだ。光る、痺れる、音が鳴るといった様々な事を理解し、その本質の一部を理解する事ができれば、ルーンはそれに答えてくれる」
「本質……」

 それは単純にイメージするという事ではないのだろう。イメージするだけならば簡単だ。実際に見たことがある雷を思い浮かべればいいだけだし、画像などを見てこういうものだとイメージすればいい。しかし、本質を理解するというのは難しい。そもそも雷とは生き物ではなく、コミュニケーションがまったく取れないものだ。
 先ほど高貴と真澄の言った雷とはどういうものかというのも、人間の視点から見た感想であって、雷の本質とは限らない。あくまでも表面上のことでしかないのだ。

「そう難しく考えることはないわ。雷のような目に見えるもの。そして引き起こす現象の結果がわかりやすいものは比較的に理解しやすいから。理解するのが難しいルーンは、後々覚えていけばいいのよ」
「ちなみにエイルはよく雷出してるけど、雷の本質を知ってるのか?」
「いや、正直に言うとぜんぜんわからない」

 盛大に2人がずっこけた。今までの長い説明が全て台無しになってしまうような一言がヴァルキリーの口から出てきたからだ。

「テメー今までの説明はいったい何だったんだよ!!」
「えっと、理解しないと使えないんじゃないの?」
「いや、きっと無意識のうちには理解できているのだとは思う。しかしそれを説明することができないんだよ。これも以前高貴には言ったが、指の動かし方や力の入れ方を、知ってはいても説明できないのと一緒だ。私はせいぜい雷は痺れるくらいの認識でしかないが、それでも《ソーン》のルーンを使うことはできる。逆にヒルドは雷についてかなり調べて理解しようとしたようだが、結局は使うことができなかった。かわりに炎のルーンである《ケン》を使えるようになったがね。本質を知ろうとしても、望んだ本質を知る事ができるとは限らないのかもしれないな。自分にあったルーンを探すしかない」
「いやそんな自分にあった参考書を探せみたいに言われても……まぁとにかくやってみるよ。お前みたいに空中に文字を書けばいいのか?」
「エイル、基本的な七つのルーンからためさせたら?」
「ふむ、そうだな。少し待ってくれ」

 そう言うなりエイルはなんのためらいもなく胸元に手を突っ込んだ。白い肌が高貴の目に入ってくる前に、凄まじい速さで真澄が高貴の目を両手で塞ぐ。注意を促す真澄をよそに、エイルは先ほどのメモ帳とボールペンを胸元から取り出した。そのメモ帳の上にスラスラとボールペンを走らせていく。
 それが書き終わったのか、メモ帳を高貴と真澄のほうに見せた。メモ帳には、いくつかのルーンと、その読み方。そしてそのルーンの意味が書かれてある。

「戦乙女学校では、《エイワズ》が、必修ルーンとなっている。その他に炎のルーンである《ケン》、雷のルーンである《ソーン》、風のルーンである《ハガル》、氷のルーンである《イス》、水のルーンである《ラグズ》、大地のルーンである《オセル》の六つのうち、どれか一つでも使いこなせる事が卒業の最低条件だ。《エイワズ》が身を守るルーン。他の六つが攻撃に使えるルーン。これで最低限戦えるというわけだ。まずはこの七つのルーンを試してみるとしよう」
「それはいいけど、一体どうやって書くんだ?」
「まず、どちらの手でもいいから、中指と人差し指を立てる」

 エイルが右手の中指と人差し指を立てた。それにならって高貴も右手の指を立てる。

「次に、指先に魔力を集中させるんだ。このとき光をイメージすると成功しやすい」

 エイルの右手に青い光が灯る。今まで何回も見てきたエイルの光を参考に、高貴も光をイメージする。
 光。明るい光。優しい光。たとえ真っ暗な闇の中でも道を示してくれるかのような光。太陽の光にも負けない光。そんな光を、イメージする!

「わぁ……」

 真澄が思わず声を漏らした。高貴の指に白い光が灯ったからだ。魔力が集まっている為か、指先がかすかに熱い。エイルの光とは色が違うものの、これでルーンを描く事ができる。

「ねーねー、お姉さん今声しか聞こえないんだけど、人間君の魔力の色って何色?」
「ふむ、君の魔力の色は白らしいなクラウ・ソラスと同じ……いや、もしかすると君の魔力の色が白だからクラウ・ソラスの刀身も白いのかもしれない」
「魔力の色? それってなんか意味あんのか?」
「いや、特にない。魔力の色というのは、その人物の好きな色や印象に残っている色などになることが多い。人によっては自由に色を変えることもできる」
「ふーん、高貴って白が好きなんだっけ?」
「いや、特には。白い色で印象に残った事なんてあったっけかな……」
「人間君が印象に残っている白なら、お姉さんに心当たりあるわよ」
「え、マジで?」

 高貴にはあまり心当たりがない。取り立て白が好きなわけでもないし、どちらかといえば青や緑色のほうが好きな色といえる。赤は最近苦手になった。

「ふむ、それは何なんだクマ?」
「決まってるじゃない、エイルのパンツよ」

 屋上の時間が止まった。いったいあのバカグマはいったい本当にいったい何を言っているんだろう?

「ほら、エイルが転校してきた日にベルセルクが出たでしょ。その時人間君はエイルのパンツを見たじゃない。あれって白かったでしょ?」
「……あ」

 そういえば白かった。確かに白かったが……真澄がゴミを見るようなまなざしで高貴を見ているのに加え、エイルが呆れたような表情で高貴を見ている。

「いや違うって! そんなわけないって! ありえないって!」
「……本当に?」
「当たり前だ!」
「なら確かめてみればいいじゃない。エイル、今履いてるパンツ何色?」
「ん? ああ、黒だよ、ほら」

 クマの質問になんのためらいもなくエイルが答える。いや、答えるだけならまだいい。なにを考えているのかこのヴァルキリーは、右手でスカートの端を持って高貴と真澄にパンツを見せ付けたのだ。

「く……くろ!?」
「見んな! このバカーーーーッ!!」

 パンツの黒と、それに反比例するかの如くの白い太ももに目を奪われていた高貴に、真澄がなんのためらいもなく目潰しを食らわせた。

「ぎゃああああああああっ!!」

 遅い来る激痛。失明したかのような黒。思え浮かぶはパンツの黒。

「エイルさん! なにやってんの? マジでなにやってんの? 恥ずかしくないの!?」
「ふむ、自分から見せる分には平気だ。見せる気もないのに見られてしまったときは恥ずかしいがね」
「見せないで! お願いだから自分をもっと大切にして! エイルさんも女の子なんだから!」
「私はヴァルキリーだ」
「ドヤ顔でそんなこと言ってもだめ! 今度やったら怒るからね!」

 真澄の迫力に押され、エイルも首を縦に振るしかなかった。

「よ、よし。とにかくルーンを書いてみよう。高貴、光が消えているぞ。もう一度魔力を集中させろ」
「……了解です」

 目のダメージが抜けた高貴が、先ほどと同じように指を伸ばす。目を閉じて集中。光。白い光。エイルのパン―――暖かな光。集中。集中。
 集中!
 高貴の指に再び光が灯り、三人の視線がそこに集まる。しかし、先ほどのように驚きと関心のまなざしはどこにもなく、あったのは軽蔑と呆れの視線だけだった。
 先ほどは白い光だったのが、今度は真っ黒な光が灯っていたからだ。

「……い、いや……これは違うって!」
「……君……私のパンツが好きなのか?」
「違う! これは何かの間違いだ! 落ち着いて話し合おう!」
「え、まさか本当に黒くなったの? きゃははははは!! お、お姉さんお腹痛い!」

 頭の中にクマの笑い声と、心なしかもう一つ別の高笑いが聞こえてくる。真澄だけは何も言わず、ただただ高貴に対して軽蔑の視線を送っていた。

「……念のため私と真澄は少し離れていよう。さぁ真澄、こっちへ」
「うん、近づかないほうがいいね」
「ちょっと待って! マジで待って!」
「勘違いしなくていい。魔術が暴発する危険性を考えての事だ。君はそれ以上こちらには来るな」

 心なしか先ほどよりも態度が冷たくなったエイルの言葉を、高貴はただ信じるしかなかった

「まずはどのルーンを書いてみるか決めるといい」
「あ、ああ」

 目をそむけるように頭を切り替える。メモ帳に書いてあるルーンは7つ。一番最初に書かれているのは、炎のルーンである《ケン》だが、これだけは絶対にやりたくない。炎はいまだ高貴のトラウマなので、自分が炎の魔術を使うなど考えたくもない。というわけで炎はあっさりと却下。
 次に書いてあるのは《ソーン》だが、これはエイルの得意とするルーンだ。もう何回も見ているので、せっかくだから違うルーンをいろいろと試してみたい。というわけで雷も却下。
 三つ目に書かれていたのは、風のルーンである《ハガル》。これはたしか見たことがないはずだ。公園でエイルが使ったような気もするが、よく見ていなかったのでこれにしてみよう。

「この風のルーンにするよ。《ハガル》っていうの」
「よし、では《ハガル》文字を頭にイメージするんだ。英語のHと形が似ているから気をつけろ。そのイメージどおりに指を動かせばおのずとそのルーンの形になる。書くときにルーンの名前を言うのも効果的だ。慣れればいう必要はないが、言葉にしたほうがイメージしやすいからな」

 エイルのアドバイスに高貴がうなづいた。とにかく、魔術にはイメージが大切だという事だ。頭の中で自分がこれから描くルーンの形をイメージする。イメージ、ひたすらにイメージ。アルファベットではなく、自分が今から描くのは魔法の文字。その文字の名は―――

「……《ハガル》―――!」

 高貴の右手が動き、黒い光が軌跡を走らせる。まるで見えないキャンバスに色を塗ったかのように、何もない空間に《ハガル》のルーンが刻み込まれた。

「で、できた!」
「喜ぶのはまだ早い。文字を刻むだけなら誰でもできる。問題はここからだ。《ハガル》は風のルーン、風を巻き起こすイメージを起こせ。とにかくなんでもいいから、集中して風について考えてみろ」

 集中、目の前に浮かぶ黒い文字を見ながら、高貴はひたすらに集中する。
 風、世界を自由に駆け巡るもの。どこから来てどこへ行くのかもわからず、ただ気がつけば感じることのできるもの。時として人に害をなし、時として人の支えになるもの。
 真澄が心配そうに、エイルはただ静かに高貴を見ている。風はまだ吹かない。
 イメージ、そして念じる。自分の魔力が、世界に風を巻き起こすようにと。
 風……巻き起これ!
 自分の魔力が、《ハガル》のルーンに流れていく。そして、ルーンが黒い粒子となって弾けて世界に溶けた。ルーンが、高貴の魔力が世界に溶ける。ルーンの存在した空間から、一陣の風が屋上に広がっていった。高貴から離れて、正面に立っていたエイルと真澄も風を身に浴びた。

「やった!」
「ふむ、成功だ。なんだか優しい風だな」

―――つまらん、貴様はもっと恥をかけ

 ふと、頭の中になにやら不吉な声が聞こえてきた。高貴が不思議に思っていたその時……悲劇が起きた。突然屋上をかける風が強いものへと変わったのだ。ささやかな微風も同然だったその風が、急に突風といっても差し支えないほどの強さに変わる。

「あqwせdrftgyふじこ!?」
「…………あ」

 それは神のいたずらだったのか。それとも《神器》の嫌がらせだったのか。もしくは高貴の願望だったのかはわからない。高貴の約10メートルほど前にいたエイルと真澄、その二人のスカートが、突風によって3秒ほどその役目を失った。同時に屋上から風が止まり、二人のスカートも正しい役目に戻る。

「……いや……その……」

 真澄が顔を赤くしてスカートを抑えている。先ほどはスカートをめくって見せたエイルまでも顔を赤くしている。顔を赤くしたままゆっくりと、心なしか笑いながら真澄が高貴に近づいていき、目の前で足を止めた。

「…………見た?」
「……見てない」

 黒とピンクなんて俺は見てない。

「嘘つくなこのド変態!! これじゃ優しい風じゃなくてやらしい風!!」
「ぎゃあああああっ!!」

 真澄の拳が高貴の顔面に突き刺さった。パーではなくグーで、見事なまでの右ストレート。その一撃は高貴を地面に倒すには十分すぎる一撃だった

「わたし帰るから!!」

 そういい捨てて真澄が屋上から早足で去っていく。屋上に転がる高貴の元に、今度はエイルが近づいていき、高貴のそばで足を止める。へたをすればまたパンツが見えてしまいそうな位置だ。

「ずいぶんと……君……パンツが好きなんだな。練習の続きをするか?」
「……もう二度と、魔術なんてしない。帰ってふて寝する」

 呆れ顔のヴァルキリーにたいして、いまだに起き上がる事の出来ない高貴は、そう返すのが精一杯だった。

                                             ――――――ヒルド・スケグルの処刑まであと四日




 目覚めは極めて最悪だった。昨日の屋上での魔術の練習の時に起きた悲劇で、真澄からは変態の烙印をおされ、クマにはさんざんからかわれる羽目になってしまった。エイルは恥ずかしそうに顔を赤くしただけだったが、彼女の恥ずかしさの基準は本当に謎だ。
 ショックに陥った高貴は、まだ日が高い内からソファーでふて寝し、テレビが一番見やすい場所を占領していることをエイルに文句を言われながら、それを無視し続けて次の日の朝まで眠っていた。 アラームがなる前に目覚めたにもかかわらず、眠りすぎたおかげで調子が悪い。夕食も食べていないので腹の虫も鳴いていた。エイルはまだベットの上で寝息をたてている。目を覚まして幼児モードになる前に、まずはシャワーでも浴びるのが最善だろう。
 ソファーから音をたてないように高貴は起きあがる。しかし、寝起きでふらついていたためか、テーブルの足に自分の足の小指を勢いよくぶつけてしまった。

「いっ! ……つ~~……」

 思わず声を上げてうずくまる。そして、

「う……ん……」

 ヴァルキリーが、ゆっくりと体を起こした。パジャマは相変わらずいい具合に、ではなく、みてはいけない感じに着崩れている。そのぼやけた視線が左右に動き、うずくまっている高貴をみたときに視線の動きが止まった。

「ん~……こーきだぁ~」

 心なしか、エイルの目がギラリと光る。それはまるで獲物をねらう肉食動物の如き眼差し。

「エ、エイル……お、おは―――」
「こーき! おはよ~!!」

 瞬間―――エイルが高貴に飛びかかってきた。もはや毎朝の日課となりつつあるエイルの抱きつき。しかしそれは高貴の理性を破壊する、戦闘力Dかつ破壊力Sの物理的魔術。
 まずい、今日はイラついてるから、下手したら我慢できねー。いや、間違いなく理性が完全に崩壊する。だから一緒に住むなんて反対なんだ。せめて壁か仕切りがあれば―――壁?

「《エイワズ》!」

 壁という言葉が頭に浮かんだ瞬間に高貴の右腕はすでに動いていた。白い光が軌跡を描き、《エイワズ》のルーンが刻まれる。一瞬でルーンが弾け、高貴とエイルの間に白い障壁が現れる。

「ぷにゃっ!」

 突然現れた障壁にエイルは顔から思い切りぶつかってしまう。そのままずるずると崩れ落ちた。現れた壁は、ソファーやテーブルなどは貫通して傷つけてはいないところを見ると、無意識のうちにエイルだけを通さない壁を作ったようだ。

「はぁ……はぁ……で、できた!」
「む~……なにするのこーき! いきなりこんなことして!」
「こっちの台詞だバカ! 毎朝毎朝いい加減にしろ!」
「けちんぼなんだから。こーきはあったかくてだきつくときもちーのに」

 お前はあったかくて柔らかくていい匂いがして気持ちよすぎるから問題なんだよ。
 これからはこのルーンでエイルの突進を防ぐ事ができる。そう思っていた高貴に向かって、幼児化したヴァルキリーは障壁をコンコンと叩きながらこう言った。

「あ、きょーはしろいんだね。やっぱりこーきのまりょくのいろはエイルのパンツとおなじいろなんだね。おそろいおそろい!」



「昨日の事を気にしているのかどうかは知らないが、高貴が今日は朝からずっと元気がないんだよ」
「……知らないよあんな奴。別にどうでもいいし」

 四之宮高校の屋上で、エイルと真澄は昼食を取っていた。エイルはいつもならば、高貴と一緒に食べるか、学食ですませるかのどちらかなのだが、きょうは真澄のほうから誘いがあったので真澄と食べている。ちなみに高貴は誘われていないのできていない。教室で俊樹と一緒に昼食を食べているだろう。
 エイルはコンビニで買ったサンドイッチ、真澄は購買で買ったパンが今日のメニューだ。

「真澄、まだ昨日の事を怒っているのか? 高貴も男性なのだから仕方ないじゃないか」
「エイルさんは心広すぎだよ。一発くらいぶん殴っちゃえばいいのに」
「ふむ、では次に見られたときに考えておこう。それで、私に何か用でもあるのか? 屋上に来るということは、なるべく人に聞かれたくない話だと思っているのだが」

 真澄のパンを食べる手がピタリと止まった。ムスッとしていた表情が消え去り、いささか緊張した表情になる。

「うん……あのね、わたしもエイルさんみたいに魔法を使うことってできるのかな?」
「不可能だ」

 一秒の躊躇もなく、バッサリとエイルが真澄の質問に回答する。余りの速さに固まってしまった真澄をよそに、エイルはサンドイッチを一口食べた。

「君は魔術師でもなければ《神器》に選ばれたわけでもない。だから魔術を使う事はできないよ」
「も、もしかして、聞かれるって予想できてた?」
「ああ、何となくだけどね。もしも本当に聞かれたら、希望を持たせようとしないで、はっきり無理だと言おうと決めていた」
「……そっか……やっぱり無理だよね」

 真澄が顔を伏せる。本人もきっと想像できていた答えだったのだろう。それでも微かな希望にかけて、真澄はヴァルキリーに聞いてみたのだ。

「やっぱりさ……わたし二人の事すごく心配なんだ。だから何か出来ることはないかって昨日考えたの。それで魔法が使えたらあの怪物とも戦えるようになるんじゃないかって思って」
「……もう少しすれば、記憶を消せる者が来る。そうすればその心配だという気持ちも消えるさ」
「やっぱり、消してもらわなくちゃいけないんだね」
「すまない、だがこれ以上巻き込むわけにはいかないんだ。私は高貴を巻き込んでしまった。非常事態だったとはいえ、彼の人生を狂わせてしまったも同然なんだよ。だからこそ、なんの力も持たない君を巻き込むわけにはいかない。高貴に対して、私はいつか巻き込んでしまった罪を償わなければいけないだろうな」
「罪……でもさ、最近高貴ってすごく楽しそうなんだよね」
「楽しそう?」
「うん、別に極端に暗かったってわけじゃないよ。でもエイルさんが来る前の高貴は、今とはどこか違った。人生がつまらないってわけでもなかったと思うし、後悔も沢山してるとか言ってるけど、わたしには前よりも高貴が楽しそうに見えるんだ。それはきっとエイルさんのおかげだと思う。ほんの少しだけど高貴は変わったよ」

 真澄はそれを確信しているようだが、エイルにはそれがわからない。エイルは高貴と出会ってまだ日が浅く、過去の彼のことなど何も知らない。故に、昔からの付き合いのある、幼馴染の真澄にしかわからない事なのだろう。

「君は……高貴のことをよく知っているんだな」
「そ、そんなことないよ。ただ付き合いが長いからだよ」

 真澄が照れたように赤くなり、その表情を隠すかのようにうつむいてパンを食べる。

「ひょっとしたら高貴は、ほんの少しくらい非常識な事に関わってたほうがいいのかもね。平穏と平凡にこだわりすぎなんだもん」
「ああ、それは私も思ったよ。彼は異常なくらいに平穏を好むようだな。にもかかわらず私の力になってくれているが」
「うん、本当にそうだよね。高貴は平穏な日々を心から望んでる」

 悲しいくらいに―――と、真澄は言葉を続けた。
 しかしその言葉はエイルの耳に入ることなく屋上に散っていく。

「その平穏を取り戻すために、高貴は私の手伝いをしてくれているのだろうな。一日も早く彼を元の日常に返せるように私も努力するよ。それと昨日も言ったが、彼は私が必ず守る。この命に代えても」
「……うん」

 力強いエイルの言葉に、何故か真澄は不安そうな顔になった。その表情は晴れる事はなく、二人は黙ったまま昼食の続きを食べ始めた。



 昼休みにエイルと話して、魔術が使えないとはっきりと言われてしまった真澄は、何となく高貴とエイルには顔を合わせづらくなり、昼休み以降は会話をすることなかった。下校するときも挨拶もなしに足早に教室を出た真澄は、暗い気分を打ち払う為にしばらくブラブラした後ある場所に向かった。
 バイト先のマイペースである。
 今日はバイトのシフトではないが、詩織のケーキを食べる為に、客として真澄はマイペースに行くこともあるからだ。

「……真澄ちゃん、きょうはなんか元気がないけど何かあったの?」

 しかし、ケーキを注文しても気分が晴れる事はなかったようだ。モンブランを注文したものの、フォークを持ったまま手をつけようとしない真澄を心配し、思わず詩織が声をかける。

「……え? い、いえ……別に……」
「嘘は駄目。真澄ちゃんのことならわかるもの。その顔は何か悩みがあるって顔ね。私でよかったら相談に乗るけど」

 詩織が真澄に笑顔を向ける。それを見た真澄は、モンブランの栗をフォークで突き刺しながら口を開いた。

「……詩織さんは、友達が危ないことしてたら心配になりますか?」
「ええ、もちろんよ。危ない事はやめてほしいって思うわ」
「でもそれがやめられないことだったらどうしますか? 例えばその人にとって必ずやらないといけない事だとか、大勢の人に関係していてやめられないとか」
「うーん……そうねぇ。少し考えていい?」

 はい、と真澄が詩織に返した。詩織は自分の分のコーヒーを一口飲んで、首を捻って考え始める。その間に真澄は栗を一口で口の中に入れた。優しい甘さを味わいながら次の一口のためにモンブランにフォークを差し込もうとしたが、詩織の声でその動きが止まった。

「うん、考えたわ。ねぇ真澄ちゃん。危ないけどやめられないって事は、その人にとって大切な事って事よね?」
「はい、そうだと思います」
「だったら私に出来ることは三つね。心配してあげる事。応援してあげる事。そして手伝ってあげる事。多分止めるって選択肢は私にはないわね」
「そうですか……」

 真澄は高貴に対して、最初は止めるという選択肢を選び、それを実行した。しかし高貴をとめることはできなかった。それは自分でもわかっていた事。高貴とはそういう人間である事を真澄は知っているから。
 そうなると残りは、今詩織の言っていた三つの選択肢。だが、その中の一つも真澄は実行する事ができない。記憶を消されてしまえば心配も、応援も、手伝いも出来はしない。最後の一つにいたっては、記憶を消されていなくても不可能だろう。
 高貴とエイルは優しい人間(片方はヴァルキリー)だ。真澄のことを巻き込みたくないという気持ちは痛いほどに理解できる。心配をかけたくないと思っている事も簡単に理解できる。だからこそ記憶を消す事を進めているのだろう。

「じゃあ……心配してあげる事も、応援してあげる事も、手伝ってあげる事もできない場合はどうしますか?」

 うつむきながら真澄が詩織に尋ねた。

「うーん……ん? そんな状況ってあるのかしら?」
「えっと……あ、自分の知らないところでやってたみたいな感じです」
「あら、そんなの思いっきり引っ叩いてやればいいじゃない」
「……え?」

 あまりに予想外の答えに、思わず真澄はポカンとしてしまう。

「な、何でですか?」
「友達なんだから心配ぐらいさせてよって事。だって自分の知らないところで友達が危ない事してるなんて気分悪いじゃない。だから手伝えなくても、心配や応援くらいさせてって言って引っ叩いてやればいいのよ」

 思いっきりね、と右手を振りながら詩織は言う。

「……なるほど、それもいいかもしれませんね」

 クスリと笑って真澄はモンブランを食べ始めた。実際は叩く事などできないかもしれないが、詩織との話で少しは元気が戻ってきたようだ。この人は人を元気付けるプロなのかもしれない。
 そのあと真澄は詩織と雑談をして過ごした。時間はあっという間に過ぎ去りもう閉店の時間だ。

「ご馳走様でした。そろそろ帰ります」
「はい、お粗末様でした。今日は私が奢ってあげるわ。暗くなってきたから気をつけて帰るのよ」
「えっと……今の時間は―――」

 真澄が鞄の中を覗き込んでスマホを探し始める。時計は持ち歩いていない為、真澄は時間を見るときはスマホを見て確認している。

「ってあれ? スマホがない」

 いくら探しても鞄の中にスマホが見当たらない。いつの間にか取り出したのかもしれないと辺りを見るも、やはりどこにも存在しなかった。

「もしかして学校に忘れてきたんじゃない?」
「……あ、そういえば机の中に入れっぱなしだったかも」
「だったら明日でもいいんじゃないかしら?」
「でもわたしスマホのアラームと目覚まし時計のコンボじゃないと、朝は起きれないんです。それに電話とかメールとか来るかもしれないですし……まぁ学校によって取ってきます。あそこ忍び込むの簡単ですから」

 高校一年の時に、クラスメイトの何人かで肝試しをした際に、四之宮高校のセキュリティの低さを真澄は知っているのだ。
 今は午後8時。マイペースからだと、だいたい歩きで15分ほどで着くし、帰り道の途中なので問題ない。学校による分少し帰りが遅くなるだけだ。

「じゃあ詩織さん、今日はありがとうございました」
「いえいえ、明日はバイトよろしくね」

 詩織の声を背中に受けて真澄はマイペースを後にした。
 このとき真澄はわかっていなかった。帰りが遅くなる時間が、わずかではないという事に。





 時間というものは、あっという間に過ぎていくものだと、ここ数日で高貴は実感している。昨日は《神器》のことについて調べることができたが、肝心の《神器》は見つかる気配が全くなく、今日という日もまた過ぎ去ろうとしているからだ。
 このままでは本格的にまずい。ヒルドの死刑決行がだんだんと近づいてくるにつれて、高貴は焦りを隠せなくなっていた。そんな中、エイルと高貴がこれからどうすればいいのか話し合っていたその時だった。
 ヴァルハラに行っているクマから、大事な話があると通信が飛んできたのだ。

「それで、大事な話ってなんだんだよクマ。」

 ソファーに座りながら高貴が誰もいないテーブルに向かって話しかける。しかし、通信といっても頭の中に直接声が響いてきており、電話とかでもなく、いささか話しづらかったため、今は動かないクマのぬいぐるみをテーブルの上に置いた。これで少しは話しやすくなるだろう。

「大事な話は大事な話よ、パンツフェチの人間君」
「パンツフェチじゃねーよ!!」
「落ち着け高貴、今はとにかくクマの話を聞こうじゃないか」

 ベットに腰掛けているエイルが高貴をたしなめた。しかしエイルの表情にも心なしか余裕が無い。もしもクマの話がくだらない話だった場合は、本気で怒り出しそうだ。

「まったくもう、お姉さんってそんなに信用ないのかしら。本当に大事な話なのに。じゃあ―――ふざけるのはこれぐらいにして、重大な報告のほうに移らせてもらいます」

 クマの声色が変わった。明らかにおふざけではない緊張感がピリピリと伝わってくる。

「今から二日前。時刻にして18時28分から19時12分までの間に、四之宮の三つの地点に《神器》の魔力反応、およびベルセルクの出現が確認されました」
「え?」
「それは本当か?」
「はい。そのうちの一つは《光剣クラウ・ソラス》のものです。三つの内の場所のひとつは、四之宮公園によって確認された事から間違いありません」
「あ、そうか。真澄を守りながら戦ったあのときか。」

 二日前の公園での戦いのとき、高貴は迷うことなくクラウ・ソラスを使用した。そのときの魔力反応をヴァルハラは確認したという事だろう。しかし、クマは三つの地点でと言った。

「クマ、残りの二つはどこで反応があったんだ?」
「片方は四之宮中学校の地点と思われます。この地点では、18時28分にベルセルクの反応が確認され、その一分後の18時29分に《神器》の魔力が確認された事から、ベルセルクを《神器》で撃退したと考えられます。その後18時35分にベルセルク反応、《神器》の反応がともに消失。それ以降では現在まで四之宮中学校内での魔力反応は一切ありません。」
「中学校か……ってそこ俺も通ってた」

 四之宮高校は、中学から高校までエスカレーター式になっている為、四之宮中学校にはほとんどの生徒が通う事になる学校だ。もちろん高貴、真澄、俊樹の三人は四之宮高校に入る前は四之宮中学校に通っていた。特に目立ったところはない普通の学校なので、そんな所で非現実的な事が起きたとなるとなんだか嫌な気分になってくる。
 まぁ、今更なのだが。

「ふむ、と言う事はその四之宮中学校の生徒、もしくは教師が《神器》を持っている可能性が高いというわけか」
「6時半なら生徒は下校……いや、部活とかで残ってる奴がいるだろうな。つーかそいつベルセルクと戦ってるところ見られなかったのかな?」
「四之宮中学校では今のところ特に騒ぎは起きていません。たとえベルセルクが襲ってこないとしても、見ただけで大騒ぎになるのは確実ですから。最も、ベルセルクはターゲットが大勢の一般人といるときは出現しにくいという傾向があるので、きっとそのせいでしょう」
「なるほど……つーかさ、その《神器》持ってる奴らって魔力を隠してるのかな?」
「ああ、恐らくはそうだと思うが」
「じゃあなんでベルセルクはそいつが《神器》持ってるってわかるんだ?」
「ベルセルクとはそういう存在だから、としかいえないな」

 まったくもってやっかいな化け物だ。《神器》を探すのにそれに頼るしかない自分を高貴は腹立たしく思う。

「それでクマ、三つ目は?」
「はい、もう片方は、都心のビルです。そこでベルセルク反応および《神器》反応が確認されました」
「……マジ?」
「それは……まずいんじゃないか?」

 都心は住宅街と比べて格段に人が多い。それに加えて、ビルの中などという密閉された空間にベルセルクが出現して戦闘を行ったとなると、被害はかなり大きいだろう。

「こちらは18時50分に《神器》反応が出現し、19時10分にベルセルク反応が現れました。そして19時12分にベルセルク反応が消え、その約十秒後に《神器》反応も消え去りました。それ以降今現在にいたるまで、そのビルで魔力反応はありません」
「待て、そっちのほうは《神器》の反応が最初に現れて、ベルセルクの反応があとから現れたと言ったな。と言う事は、その《神器》の持ち主は、《神器》を使って何かをしていたということか?」
「恐らくはそうなります。さすがに何をしていたかまでは確認できませんが、魔術を使用していた可能性は高いでしょう。もしくは《神器》の力を試していたか、魔術の練習をしていたのかもしれません。《神器》が持ち主にルーン魔術の存在を教えたという可能性もあります」
「《神器》が持ち主にルーンを教える……か」
「昨日も言ったが、ヴァルハラ、ケルト、ギリシャ、この三つの世界で、ルーン魔術はかなりの知名度だ。ルーンの発祥の地はヴァルハラだが、ケルトやギリシャの《神器》も、過去にルーンを使うものと戦った可能性もあることを考えるとありえなくはない」
「はい、実際に過去にギリシャの《神器》が、持ち主にヴァルハラのルーンを教えたという記録があることがわかりました。もしかすると《神器》が持ち主を鍛えようとしているのかもしれません」
「……俺、クラウ・ソラスに何にも教わって無い気がする」

 教わるどころか、こちらから話しかけようとして、対話が成功したことは一度もない。頭の中で時々声がするような気がするが、記憶によく残らない声で、何を言ったのかはすぐに忘れてしまう。

「もしかして君、クラウ・ソラスに嫌われてるんじゃないか?」
「いや、だったら俺はこいつを使えないだろ。結構シャイな奴なのかな?」

―――気にするな、ただの嫌がらせだ。

 ん? また声が聞こえてきたような……いや、気のせいか。そもそも嫌われるような事なんてした覚えがない。まさか人間ならば問答無用でみんな嫌いなんてわけでもないだろう。
 ……おそらく。

「クマ、そのビルというのは、いったいどういうビルなんだ?」
「普通のビル、としか言えません。ただ都心のなかでも大きい部類に入るビルのようです。それだけ多くの人が出入りするという事ですので、《神器》の持ち主を見つけることは難しいかと思われます」
「ふむ……こうなったら一人一人に槍を突きつけて―――」
「やめろ! 銃刀法違反で大騒ぎになって《神器》を探すどころじゃなくなる!!」

 とはいえエイルならばやりかねない。これからはエイルの行動に目を光らせる必要がありそうだ。

「ヴァルハラでも《神器》の持ち主の特定には全力を注いでいます。その結果をお待ちください。またはベルセルクがもう一度出現するまで待ちましょう」
「それしかないか……」

 ゴロンと高貴がソファに寝転がった。それを見たエイルも肩の力を抜いて、いささかリラックスした感じになる。

「けどさ、今まで反応がなかったのに、最低でも《神器》をもってるのが二人いるってわかっただけでも前進だよな」
「そう……だな……うん、その通りだ。私も君のように前向きに考えるとしよう……そういえばクマ、こちらに戻ってこれるのはいつになる? 真澄の記憶の件があるからな」
「どんなに早く戻れたとしても明日になりそうです。《神器》の捜索以外にもやる事がありますので」
「ん? それはなんだ?」
「……いえ、たいしたことではないのでお気になさらず」

 ああ、多分死刑判決の件だ。せめて刑期を伸ばしてほしい。

「今日も真澄と話したんだが、真澄は魔術を使いたいと言ってきたんだよ。君が心配だと言ってな」
「けどそれは無理だろ。真澄は魔術師じゃないし、《神器》に選ばれたりもしてない。それに何より……巻き込みたくない」
「ああ、私もそれが一番の本音だよ」

 高貴と真澄は幼馴染で付き合いはかなり長い。エイルは真澄と出会ってまだ一月もたっていないが、高貴を除けば真澄が最も親しい友人と言って間違いない。そんな彼女の記憶を消し去るというのは、二人にとってかなり心が痛むものだ。
 しかし、それ以上に巻き込みたくはないという思いのほうが遥かに大きいのだ。
真実を話した時の真澄の心配そうな表情、そして悲しそうな表情は二度とみたくはない。

「あいつは優しいから、俺とエイルが危ないことしてるなんて知ってたら気が気じゃないだろうし、この前みたいに危ないことに巻き込みたくないし、だいたい頼まれたからって普通の人間を巻き込むのもどうかと……おい、エイルを攻めてるわけじゃないんだから、そんな顔すんなよ」

 自分が喋るたびに、エイルの顔が申し訳なさそうになっていることに高貴は気がついた。わかりきっている事だが、エイルは高貴を巻き込んだ事をどこまでも申し訳なく思っているようだ。

「いや……しかしだな」
「あの時はああしなかったらどっちも大怪我してたか、最悪殺されてただろ。それを考えるとエイルを攻める気になんてならないよ」
「しかし、君は後悔をしているんだろう? それを聞いてしまうとやはり責任を感じられずにはいられない」
「はぁ……あのさエイル。エイルは誰かと出会って後悔した事ってあるか?」
「え? ……そうだな。まぁあるといえばあるな」

 突然の質問にエイルは戸惑いながらも、キチンと考えた上で答える。

「俺は今まで出会った人のほとんどの人にたいして、出会ったことに後悔してるよ。真澄も、俊樹も、もちろんエイルにも」
「……なに? しかし君にとって真澄や俊樹は友人だろう。彼女達の事を君は嫌いなのか?」
「そんなことない。みんな大切な人たちだ。でも真澄は時々不機嫌になって、お詫びにケーキおごったら体重増えたとかいってまた怒ってくるし、俊樹は時々普通にウザイし、さらにからんできてなおかつウザイ。そんなことがあると、俺なんでこいつらと友達やってんだろって後悔する。でも友達をやめない」
「それは、どうしてだ?」
「後悔しても嫌いになれないのが友達だからだよ。俺は後悔したくらいで終わるような人付き合いはしたくない。俺が人付き合いをやめるとしたら、その人のことを嫌いになったときだけだ。エイルのことは好きだから、俺は手伝いをやめない」
「す、すすす、好き!?」

 真剣に高貴の話を聞いていたエイルの顔が、まるでぷしゅー、と音がしたかのごとく一気に赤くなった。だけではなく、体を硬直させアタフタと視線を泳がせる。
 そこでようやく高貴は自分の間違いに気がついた。自分のいった意味とエイルの認識した意味が食い違っているという事に。

「いや、その、いきなりそんなことを言われてもだな!! そもそも私はヴァルキリーで! 確かに私達は契約の印エインフェリアルを済ませてはいるが……」
「違う! そういう意味じゃねーって! 友達としてって事!! 嫌いじゃないから手伝いをやめないって事だよ!!」
「え? ……そ、そうか。そういうことか。まぁ私には当然わかっていたよ……う、うん」

 真っ赤になっていたエイルの顔が段々と元の色に戻っていく。それでもやはりもじもじとしていて、長い髪の先を指で弄っている。そのまま気まずい沈黙が流れ始めた。
 あんな言い方をした自分が悪かったのか、それともエイルがバカだったのか。とりあえず高貴はどっちも悪かったという事に結論付けた。

「あのー……そろそろお姉さんも喋っていい? まったく、青春ならラブホでやってよね」

 少し気まずい雰囲気になっていた二人の沈黙を破ったのは、シリアスモードが解けて今まで黙っていたクマの声。

「へ、へんな事言うなよ!!」
「そ、そうだぞクマ! へんなことを言うな」

 あ、エイルってラブホのこと知ってんのな。もしかして異世界にもラブホテルはあるのかもしれない。

「だいたいエイルは気にしすぎよ。人間君は手伝ってくれるって言ってるんだから、気にすることなんてないのに」
「……おい、そもそもクマが、俺の命が危ないかもしれないなんてエイルに言ったからこうなってんじゃねーのか? それさえなかったら俺の記憶を消しただけですんだんじゃ……」
「そういえばそうだな。私はクマに、ヒルドは人を殺したりはしないと言ったぞ」
「そ、そうだったかしら? お姉さん過去に捕われない女だから―――」

 クマの言葉が途中で途切れた。

「おい、なんかあったのか?」
「二人とも大変よ! ベルセルクの反応が出たわ!」
「なに!?」

 エイルが思わず立ち上がった。ベルセルクの反応があるということは、その近くに《神器》が存在する可能性が高いからだ。

「高貴、今すぐに向かうぞ!」
「わ、わかった。クマ、場所は?」

 エイルと同じように立ち上がり、玄関へと急ぐ二人。その頭の中にクマの声が響いてきた。

「またまた四之宮高校よ」



[35117] 戦う理由はシンプルに
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/14 16:21
「やっぱりちょっと怖いかな……」

 夜の学校というのはただそれだけで十分不気味なものだ。加えて明かりはまったくついておらず、誰一人いなくなってしまった状態でならなおさらの事である。
 真澄が教室に忘れたと思われるスマホを取りに学校に入ったのが約二分前。一階の鍵が壊れている廊下から進入し、二年四組の教室を今は目指している。月明かりはあるものの、やはりあたりは見づらく、歩くたびに自分の足音が響くことに少し恐怖を感じながら、足早に教室を目指した。

「それにしても、高貴とエイルさんが学校壊したって言ってたけど、全然そんな風に見えないんだよね。さすがに冗談だったのかな」

 実際は冗談ではなく、ヒルドのレーヴァテインに穴だらけにされたあげく高貴のクラウ・ソラスによって止めを刺されたのだが、やはり実際見ていない真澄にはイメージしにくいようだ。
 しばらく歩いて教室にたどり着く。当然のごとく誰もいない教室に入り、真っ直ぐに自分の机へと向かった。

「スマホ……スマホ……あった!」

 スマホは机の中を覗き込むとあっさり見つかった。真澄の思っていた通りに、ホームルームが始まる前に机に入れて、そのまま取り出さずに帰ってしまったようだ。
 時刻を確認すると、今は8時19分。電話の着信もメールも来てはいない。しかしやはりこれがないと朝は起きれないし、何よりもスマホは常に持っておきたい。その最大の理由は高貴に買ってもらったストラップだ。
 銀の三日月は窓から入ってくる月明かりで微かに光っており、どことなく神秘的な雰囲気をかもし出している。つけてまだ日は浅いが、これは完全に真澄のお気に入りとなっていた。

「たまには役に立つんだよねあいつも。美月さんにも感謝だけど。さて、さっさと帰ろっと」

 今からゆっくり歩いたとしても、9時から始まるドラマには間に合いそうだ。スマホを軽く弄りながら扉を開いて教室を出る。そして、扉を閉じて歩き出そうとした時に、妙な事に気がついた。
 足音が、どこからか響いてきている。
 自分はまだ歩き出していない。なのにどこからか足音が響いてきているのだ。四之宮高校には宿直というものはなく、教師は見回りが終わると全員帰宅する。故に学校に明かりがついていない時は誰もいないということになる。いるとしたら真澄のように忍び込んだりした者だけだ。
 どこの誰かもわからないし、顔を合わせるのは気まずい。そう思って足音をなるべく立てずに歩き出そうとした。したにもかかわらず、その足はまったく動かない。
 足をつったわけでも、骨折したわけでもなく、まるで下半身の神経が金縛りにもあったかのように真澄の足は動かない。
 ゾクリと、真澄の背中に寒気が走った。これに似た感覚を真澄はつい最近経験したばかりだ。四之宮公園でベルセルクを初めて見たときの感覚。しかし、僅かに違う感覚。
 あの時のベルセルクは、真澄のことを見向きもしないで高貴とエイルに向かって行ったが、今回のこれはまるで、真っ直ぐに自分が見られている。
 かろうじで動く首から上を必死に動かし、真澄は自分を見ている何かを必死に探す。

「ひ……」

 月明かりしかなく、闇に包まれている廊下の向こう。その先に。
 二つの、紅い光が―――



 4分。
 それが高貴とエイルが四之宮高校に着くまで掛かった時間だ。いつもならば歩いて15分はかかるのに対して、かなりの速さでつくことができたのは、ヴァルキリーとエインフェリアの身体能力の賜物だろう。
 校門をくぐった高貴とエイルは、グラウンドを駆け抜けて校舎内を目指した。

「高貴、はじめに言っておく事がある。今日はクマがいないから、校舎を壊してしまえば治すことができない。なるべく校舎内で戦わないようにするか、もしくは壊さないようにしろ。来い、契約の武装」

 走りながらヴァルキリーが唱える。エイルが鎧を身にまとい、ランスを右手に持つ。

「わかってるよ。つーか心配なのはお前のほうだ。鍵が壊れてるところから校舎に入るから着いて来いよ。出て来い、クラウ・ソラス」

 高貴も同じようにクラウ・ソラスを召還した。
 高貴が先を走り、鍵が壊れている廊下の窓を目指す。無用心だとは思うが、今日はありがたく思うばかりだ。土足厳禁の校舎内に、外靴のままなのを少し申し訳なく思いながら高貴とエイルは中に入った。
 入って、妙な事に気がついた。

「……なぁ、グラウンドには何も感じなかったから校舎に入ってきたけど、ベルセルクは校舎にいるのか?」
「ふむ、おかしいな。正直魔力を感じないな。それに独特の嫌悪感も感じない。ん、今何か聞こえなかったか?」

 エイルに言われて高貴は耳を澄ましてみた。校舎は闇と静寂に満ちていると思っていたが、それは勘違いだった。
 どこからか足音が響いてくる。それもおそらくは走っている音がこちらに近づいてくる。つまり、この校舎の中に誰かがいるということだ。

「《神器》の持ち主か、もしくは一般人か。どうするエイル?」
「……君一人で接触してみてくれ。私はいったん外に隠れていよう。もしも《神器》の持ち主ならば私もすぐに入ってくるし、一般人ならば忘れ物を取りに来たと言えばいいだろう」
「確かに、それが一番だな。わかったよ」

 高貴がクラウ・ソラスを後ろのほうに隠し、、エイルはいったん廊下から外へと戻った。最悪一般人にクラウ・ソラスを見られても、壊れた懐中電灯だといえばごまかせる。
 足音がどんどん近づいてくる。高貴は警戒を高めてその方向を見据えている。緊張が走る中、闇の中から現れた人影は―――

「え……真澄?」

 弓塚真澄だった。
 夜も遅いというのに制服姿の真澄が、高貴に向かって一目散に走ってくる。その目は前を見ていない。ひたすら後ろにいる何かに怯えているような、何かから逃げているような空気をかもし出している。

「ッ! こ、高貴?」

 距離にして約10メートル。ようやく真澄が高貴の存在に気がついた。だが、走るスピードをまったく緩める事はなく、そのまま高貴に向かって思い切りぶつかって抱きついた。

「ま、真澄!?」

 あまりのことに高貴が混乱する。真澄に思い切り抱きつかれるなど初めてのことだったからだ。しかしすぐに真澄の異変に気がつく。高貴に抱きついていた真澄の体は小さく震えていた。制服姿だが鞄はもっておらず、手にはスマホを握り締めている。

「真澄だと?」

 外に隠れていたエイルが高貴の声を聞いて中を覗き込む。そして真澄を見て、その様子がおかしい事に気がつくと、すぐさま廊下に入って真澄と高貴に駆け寄った。

「どうした真澄? まさかベルセルクにでも会ったのか?」
「そうなのか真澄?」

 高貴とエイルが話しかけるものの、真澄は高貴の胸に顔をうめて嗚咽を漏らすばかりだ。

「よほど怖かったようだな。とにかく外に……いや、ベルセルクも見当たらないし、今日は真澄を送って帰ろう。真澄が心配だ」
「そうだな。ほら、歩けるか真澄?」

 小さくうなづいた真澄を支えながら、三人で廊下から外に出る。そのままゆっくりと昇降口に向かって歩き出す。
 歩いている間も真澄は顔を下に下げてずっと嗚咽を漏らしていた。話しかけても返事をする事もなく、困ったまま高貴とエイルは歩く。そして、グラウンドのほぼ中心地点まで歩いた所で、背後に何かを感じた。
 違和感を感じた二人が振り返る。するとグラウンドに黒い影ができており、その影から一体のベルセルクが飛び出す。公園で見た時と同じような人型のベルセルクだ。

「ベルセルク!」
「真澄が怖がっているのはこのベルセルクが原因か。すぐに倒す、君は真澄のそばにいろ」

 エイルがベルセルクに向かって一歩踏み出す。ランスを構え、ベルセルクに攻撃をしようとした瞬間―――

「ち、ちがうよ……」

 弱々しい声が、エイルの耳に聞こえてきた。
 それは高貴にしがみついて泣いていた真澄の声だ。顔を僅かに上げて、ベルセルクを見ながら搾り出すように真澄は声を出した。

「ちがうよ高貴、エイルさん。わたしが怖がってたのは、わたしが逃げてたのは、あの化け物じゃないよ……」
「……え?」
「どういうことだ真澄?」
「オオオオオオオオ!!」

 真澄の声にエイルが振り向いた時、ベルセルクの咆哮が響いた。反射的にエイルがベルセルクに視線を戻し、高貴も真澄を抱き寄せて警戒を高める。
 そして、ゾクリと―――凄まじいい殺気が二人に襲い掛かる。
 まるで全身にナイフを突き立てられたかのような、体を炎であぶられているようなビリビリとした殺気が、ベルセルクから放たれた。その余りの殺気の強さに、高貴が、そしてエイルまでもが思わず一歩下がる。
 刹那―――ベルセルクの胸から、何かが飛び出てきた。同時にベルセルクの咆哮が止み、その動きがピタリと止まる。あまりに予想外の出来事に、高貴とエイルの動きも止まった。グラウンドに一瞬の静寂が訪れる。

「……な、なんだ? エイルなんかしたのか?」
「……いや、私は何もしていない」

 高貴とエイルが困惑する。しかし、ベルセルクが止まった理由をエイルはすぐに思いついた。胸から突き出ている何か。紅くて鋭い何か。よく見るとあれは剣の刀身だ。つまり、あのベルセルクが止まった理由はいたってシンプルな理由。
 誰かが、あのベルセルクを後ろから突き刺したのだ。
 そう、誰かが。
 ベルセルクの体がゆっくりと消えていく。そして、そのベルセルクの向こう、すぐ後ろに誰かが立っていた。
 恐らくは人間だ。その人物は真っ黒な、本当に夜の闇と一体化しているとも思えるほど真っ黒なコートを身にまとい、フードをかぶっている為表情はまったく見えず性別も判別できない。男物のロングコートを着ていることからおそらくは男性かもしれない。靴も黒。僅かに見えるズボンも黒。よく見ると黒の手袋もしている。そんな中で唯一違う色があるとすれば、その手に持っている剣だろう。
 その剣の刀身は紅い色をしていた。レーヴァテインとは違う赤。鮮やかな赤とは違い、どことなく黒に近い紅。形状もシンプルな形で、刀に近い形をしている。
 そして―――正体不明の不気味さを感じるその剣。それは間違いなくこの世のものではなく、間違いなく異世界の物。つまりは《神器》だ。
 《神器》の持ち主が、信じられないほどの殺気を放って高貴たちの前に立っていた。
 先ほどベルセルクから放たれたと思っていた殺気は、この黒コートの人物が発した物だったのだ。黒コートの人物がゆっくりと剣をさげる。その動作で動きが止まっていた高貴たちも再び動き出した。

「エイル……あれって……」
「ああ、間違いなく《神器》だ。どうやらようやく私達は出会えたらしいな」

 できれば出会いたくなかった。という言葉を高貴は飲み込んだ。

「あ、あいつが……」

 黒コートの人物を見た真澄が、震えながら声を出す。

「あいつが……やっつけた。学校に出てきたあの化け物を、あいつが全部やっつけたの。で、でも……わたしのほうを見て……手に持ってるのを突きつけてきて……こ、怖くて……」
「逃げてきたってわけか。無理もねーって」

 クマの言っていたベルセルクは、どうやらあの人物が片付けたらしい。どうして四之宮高校にいるのかはまったくわからないが、恐らくは真澄を助けたわけではないのだろう。そのような人物が、こんなにも殺気を放つとは考えにくい。
 止まったまま動かない黒コートに、あくまでも警戒を緩めずエイルがゆっくりと近づく。

「あなたは《神器》の使い手だろう。私はエイル・エルルーン、異世界ヴァルハラのヴァルキリーだ。単刀直入に聞くが、その《神器》を渡してもらえないだろうか?」

 黒コートの人物は、何も言わない。

「それは個人が持つには危険すぎる代物だ。本来魔術の存在しないこの世界には、《神器》は存在してはならない。だから私はヴァルハラから《神器》の回収の命を受けている。どうか聞き入れてほしい」

 黒コートの人物は、何も言わない。

「……君は何者だ? どうしてこんな時間に高校にいる? 一体なにをしにきた? どうしてコートを着ている? 暑くないのか?」

 黒コートの人物は、何も言わない。

「……無理だよエイル。そいつにはなにを言っても無理だ」

 これ以上の会話を不毛と感じた高貴が口を開いた。

「だってさ、お前にだってわかりきってるだろ? 俺にだってわかるんだから。そいつはいわゆる―――」

 一度言葉を切って、

る気満々ってやつだよ」

 言い放った。クラウ・ソラスに魔力を流し込む。見えない魔力は白い刀身となって具現化された。それは夜の闇を照らす白い光。

「……そうだな、わかりきっていた事だ。もっとも、私は最初から戦うつもりだったよ。たとえ《神器》を大人しく渡していたとしてもね」
「気が合うな、俺もだよ。真澄は下がってろ」

 やる気満々の高貴が、やる気満々のエイルに並ぶ。

「ま、待ってよ! そいつなんだかやばいってば! 一回逃げようよ!」
「「却下だ」」

 真澄の意見を二人が同時に取り下げた。

「悪いが譲る事はできない。私達にはあの男と戦う理由がある。はっきりとした明確な理由がね」
「男なのかなあいつ。だったらなんの遠慮もなしに戦えるんだけど」
「落ち着いてよ! 《神器》って言うのが大事なのはわかるけど―――」
「そうじゃねーよ。今はもっと優先する事がある」

 真澄の言葉を高貴が遮る。そう、今は目の前の男が持っている《神器》を回収するよりも大事な用があるのだ。ヴァルキリーとエインフェリアではなく、エイル・エルルーンと月館高貴。この二人だからこそ目の前の男と戦う理由が。
 ヴァルハラの《神器》を集めるという任務において人選ミスともいえる二人。その戦う理由。

「な、何なのそれ?」
「簡単な理由だよ。なぁ高貴」
「ああ、本当に簡単な理由だ。あいつは―――」

 エイルと高貴が、同時に武器を構えた。放たれる殺気になどもはや気に留めることも泣く、眼前の黒コートの男……いや、明確な敵をにらみつける。

「「真澄を泣かせたッ!!」」

 二人が勢いよく地面を蹴った。
 そう、それこそが高貴とエイルが今戦う最大の理由。真澄を、大切な友人が泣く事になって、黙っていられるような人間ではないのだから。

「一発ぶん殴った後、タコ殴りにしてやる!」
「コートを剥ぎ取って真澄に土下座させる!」

 距離にして30メートルの間合いが一気に縮まる。コートの男はその場から動かない、だたゆっくりとした動作で右手に持つ《神器》を構えた。高貴とエイルは、剣を、ランスを思い切り振り上げ―――振り下ろした。白い刃と鋼のランスがコートの男を襲う。
 ―――だが。
 その攻撃が当たる瞬間、ようやく黒コートが動いた。膝をわずかに曲げて後ろにバックステップ、ロングコートをなびかせながら、しかしフードをなびかせることなく後ろに跳び、約5メートルほどの距離を稼ぐ。その5メートルという距離は、高貴とエイルの武器の間合いにでは届かずに、クラウ・ソラスは空を切り、ランスが地面を叩く。

「俺は突っ込む!」

 高貴はさらに前進する。もう一度間合いを詰めて、クラウ・ソラスを振り下ろす。その一撃は黒コートが右手に持つ剣によって防がれた。
 がきぃ!! と鋭い音が響き、二つの刃がせめぎ合う。高貴は両手で、黒コートは片手で剣を扱っているにもかかわらず、黒コートはびくともしないで攻撃を受け止めた。
 だったら―――連続で!
 いったん刃を離し、もう一撃。二撃、三撃、連続で剣を振るう。クラウ・ソラスを黒コートは片手に持つ《神器》で全て防いでいた。その攻防は切り結ぶといったものではない。黒コートは必要最小限の動きで、その手に持つ《神器》だけを動かして攻撃を全て防いでいるのだから。
 それこそまったく一歩も動くことなく、両足は棒立ちのまま。最小限すら動いていないといってもいいかもしれない。戦いなれていない高貴にすら、はっきりとわかるその力量の差。何度打ち込んでも届く事のない攻撃に、高貴は次第に苛立ちを感じさせた。

「―――ダインスレイヴ」

 初めて、微かな声で黒コートから声が発せられた。男性か女性かは確実に判別できないが、どちらかと言えば男性に近い声。しかし高貴が気になったのは声色のことではなく、黒コートが言った言葉のほうだった。
 聞いたことがない言葉のはずなのに、どこか聞き覚えのあるその言葉の意味を理解する前に、今度は初めて黒コートのほうから攻撃してきた。左下から切り上げるような一閃を、高貴は剣を縦にしてなんとか防ぐ。
 防いだものの、その一撃が凄まじく重い。本当に片手で振るっているのか、どれほどの怪力なのだろうかとも思えるその一撃を防ぎきる事ができず、高貴は後方に大きく吹き飛ばされた。その高貴に追撃を行おうとしたのか、黒コートが一歩踏み出したが、その足はそれ以上は動くことなく止まった。
 ばちばちっと、大気を伝わって何かが迸るような音が聞こえてきたからだ。その方向に視線を向けると、銀髪のヴァルキリーが左手に雷を迸らせながら黒コートを見ていた。
 ランスが地面につき、勢いを失ったエイルは、高貴に続くことなく逆に距離をとり《ソーン》のルーンを刻んだ。
 相手の《神器》の能力は完全に未知数。しかし刀の形をしているので、おそらく得意な距離は近接戦闘。それを見据えての遠距離攻撃ルーン。《テュール》で強化しているわけでもない単体の《ソーン》のルーンだが、心なしか普段よりも雷の勢いが激しい。大切な友人に涙を流させてしまった無力感。そしてその原因たる存在に怒りを込めて―――

「翔けろ―――電刃!!」

 その雷を、解き放つ!
 夜を斬り裂きながら雷は進む。タイミングから見て回避は完全に不可能。
 当たる―――!
 その様子を見ていた高貴も直撃を確信していた―――しかし。

「――――――」

 黒コートが、無造作に剣を振るう。まるで近くを飛んでいる虫でも追い払うかのようにその手に持つ剣を振るい、あっさりと雷をかき消した。《神器》ならばルーン魔術を打ち消す事もたやすいのだ。それほどの力を持っていて当然の武器なのだから。
 ならば、威力を上げればいい。エイルはすぐに次の攻撃の準備に移る。二つのルーンを使用した《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》ならば通じるかもしれない。通じなくとも高貴の切り込むタイミングを作れる。その左手の二本の指に青い光が灯る。

「《ソーン》―――」

 青い光が軌跡を描いたのと、、黒コートが行動を起こしたのは同時だった。黒コートが紅の剣をエイルのほうへと向ける。その切っ先がヴァルキリーに突きつけられる。
 瞬間―――その刀身が伸びた。
 クラウ・ソラスのように真っ直ぐに伸びるのではなく、グニャグニャと曲がりながら、まるで蛇のように、しかしエイルに向かって高速でその刀身が伸びる。

「なっ!?」

 まだ《テュール》ルーンを書き終えていないエイルは、その行動を中断して右手のランスで伸びてきた刃を叩き落す。ルーンを防ぐ事が目的だったのか、黒コートはその刃をいったん引いた。だが刀身は伸びたままだ。それは刀や剣というよりは、鞭や蛇腹剣と言ったものに近くなっている。
 あの《神器》は遠距離でも戦えることをエイルは理解した。クラウ・ソラスと同じように伸びる刀身をもっているようだが、自由自在に曲がるという事はあの剣のほうが応用が利き、遠距離は不利になるかもしれない。
 目の前には先ほど描いた《ソーン》のルーンがまだ浮いている。しかしこれを放っても意味はなく、落ち着いて考えれば強化しても無意味かもしれない。以前レーヴァテインの炎に、エイルの雷は力負けをしているからだ。
 ならば―――接近するしかない。

「《ベオーク》、バインドルーン・デュオ! 集え、青き雷光!」

 エイルがルーンを刻んだ。《テュール》ではなく《ベオーク》と目の前の《ソーン》と組み合わせ、自らのランスに青い光を宿らせる。
雷光の槍ブリッツランス》。
 エイルの魔力の色と同じ光が、雷がその鋼のランスに宿る。
 エイルが地面を蹴り、一瞬遅れて高貴が地面を蹴った。白と青の軌跡を描きながら、黒コートに一気に近づく。
 バシッと、黒コートが鞭状となっている剣で地面を叩いた。それはまるで「遊んでやる」とでも言っているかのような動作だった。
 二対一と言う状況を最大限に利用し、黒コートに連続で攻撃を仕掛ける。しかし、その攻撃でさえ黒コートの体に触れることはない。
 さながら鞭をもった猛獣使いが猛獣を手玉に取るかの如く、二対一という不利な状況を全く感じさせず、むしろ余裕すら感じさせる。
 黒コートの《神器》は鞭のようになっていても、強度自体は全く変わっていない。エイルが正面で動きを止めて、高貴が背後に回り込んで斬りかかっても、剣の先端が伸びてクラウ・ソラスを防ぐ。武器がぶつかり合う度に、赤、青、そして白い光が周囲に弾ける。

「このっ! 何なんだよこいつ! 全然当たんねー!」
「口ではなく手を動かせ! 思い切り殴りたいならな!」
「わかってる! ってわあっ!」

 黒コートが勢いよくその場で回転する。独楽のように回って剣を振り回し、高貴とエイルを引き離した。
 まだまだ、もう一回突っ込む!
 しかし、高貴の動きが止まった。手に持ったクラウ・ソラスに、なにやら紅い線のようなものがついている。黒コートの男の《神器》が、蛇のようにクラウ・ソラスに巻き付いていた。

「やば―――」

 気がついたときにはもう遅かった。黒コートは剣を振り回し、高貴の体は地面から離れて宙に浮かび上がる。メリーゴーランドのように振り回した高貴をなんども振り回した。

「このっ! 離しやが……れ?」

 離した。
 黒コートは勢いよくエイルめがけて、高貴を放り投げた。攻撃するわけにもよけるわけにもいかずに、エイルは飛んでくる高貴を受け止める。

「くっ―――!」
「わ、悪りぃエイル、大丈―――」

 大丈夫か、と言ってくる高貴の背後から、黒コートの《神器》が伸びてくるのをエイルは見た。エイルからは正面だが、高貴からは背後なので、彼はまだ気がついていない。《エイワズ》を刻んでも間に合うタイミングではなく、仕方なくエイルは高貴を左に突き飛ばした。
 高貴が状況を理解できないままこちらを見ているが、これで高貴は大丈夫だ。しかし剣はエイルの顔目掛けて勢いよく伸びてくる。それが当たる直前、エイルはわずかに顔を右にずらす。
 瞬間―――高貴とエイルの間を剣が突き抜けた。そして、赤い鮮血が僅かに飛び散る。

「エイルっ!!」

 高貴がクラウ・ソラスを振り上げる。鋭い音を上げて伸びてきた刃を弾き飛ばした。はじかれた刃が元の長さへと縮んでいく。

「おいっ! 大丈夫か!?」

 高貴が慌ててエイルに駆け寄るも、エイルはすでに立ち上がっていた。左の頬がわずかに切れており、その血が飛び散ったのだろう。

「問題ない、かすり傷だよ。唾でもつければ治る。なんなら君が舐めてくれ」
「舐めるか!!」
「冗談だ。いったん下がろう」

 エイルの指示に従って黒コートから距離をとる。すると真澄が二人に駆け寄ってきた。

「ふ、二人とも大丈夫!? エイルさん、血が出てる!!」
「落ち着け真澄、それにしても予想外の強さだ。このままでは土下座どころか、殴ってやる事も出来そうにない」
「とろあえず―――どうすっかな。真澄は下がってろよ」

 黒コートの動きに警戒しながら高貴が言う。黒コートは何故か動かない。ジッとしたまま立ち尽くしている。いや―――そのフードの奥の目は、おそらく真っ直ぐにエイルを見ていた。
 今までは高貴とエイルにはなんの興味もなさそうだった存在がエイルを見ている。そのフードの奥に、ギラリと二つの紅い眼光が光る。その光に呼応したかのごとく、手に持っていた《神器》が紅く、そして不気味に輝きだした。

「―――出て来い」

 ボソリと黒コートが何かを呟き、剣を逆手に持った。それを振り上げ、地面に勢いよく突き刺す。
 同時に、地面に紅い亀裂が駆け抜けた。まるで地割れでも起きたかのようにグラウンドに紅い光が走る。

「なんだよこれ!?」
「わからない、警戒を怠るな!」

 紅い光が、少しずつ黒に変わっていく。いや、赤と黒が混ざり合った不気味な色へと変貌していく。地面を走る光は段々とその形を変えて、赤黒い影のようなものがいくつも浮かび上がっている。

「ま、まさか……」

 高貴とエイルは、それとよく似た物を知っている。頭の中に一つの可能性が浮かび上がる。そして、その可能性は現実のものとなった。
 赤黒い影の中から何かが這い上がってくる。高貴たちのよく知る漆黒の肉体に、紅い亀裂のようなものが走っている存在。
 それは―――ベルセルクだった。


 最初の一体が出てきたかと思えば、すぐに次のベルセルクが現れる。気がつけばあっという間に高貴たちはベルセルクに囲まれていた。

「……おいおい、なんか嫌な奴らがいやなタイミングで出てきたんだけど。ここは一時休戦して共闘でもするべきか?」
「ふむ、心なしか―――いや、確実にあのベルセルク達は私達だけを見ているよ」
「わかってるけどな、少し現実逃避したかっただけで。それにあいつと共闘なんてしたくない。じゃあ改めて―――どうする?」

 高貴たちを囲んだベルセルクは、動くことなく立ち尽くしている。いつもならばすぐさま襲い掛かってくるだけに、それはかなり不気味な行動だ。
 不気味な理由はそれだけではない。このベルセルク達は、今まで見たベルセルクとは少し違っている。ベルセルクは全身が黒、まさしく夜の闇のように真っ黒にもかかわらず、このベルセルク達はところどころに紅い亀裂のようなものができている。そんなものがある心当たりは、高貴たちには一つしかない。
 目の前の黒コートの男が持つ《神器》。その色は紅。何よりもこのベルセルク達は、黒コートが《神器》を地面に突き刺した事によって現れたということを考えると、答えは一つしか考えられない。

「おそらくあの《神器》は、ベルセルクを操る事ができるのだろう」
「あ、そうだ。さっきあいつがボソッと呟いてた気がするんだ。ダインスレイヴって」
「ダインスレイヴ……まさか昨日調べたダーインスレイヴか? 一度鞘から抜かれれば、血を吸うまでは止まらないという魔剣。そういえばあの剣は紅いし、血を連想させるものがあるな」
「じゃあ間違いないだろ。鞘はないけどあの《神器》はダインスレイヴだ」

 高貴とエイルが黒コートの持つ《神器》である剣、ダインスレイヴを見る。血の色をした禍々しきその剣は、今は鞭の形から刀の形に戻っていた。黒コートはまだ動かないが、そのフードの奥には紅い双眼が妖しく光っている。

「……このままでは真澄が危ない。ひとまずなんとかして真澄を逃がそう」
「逃がすったって……周りは完全に囲まれてるけど。なんで動かないのかはわかんないけど、動けないってわけじゃなさそうだし」

 高貴とエイルが思考をめぐらせている間、真澄はひたすら自分の無力を嘆いていた。公園での戦いを見る限りは、自分さえいなければ高貴とエイルはベルセルクを簡単に倒せる。しかし自分がここにいるから二人の足枷になってしまっている。そんな自分を真澄は許せない。しかし、何もできない。

「考えてても埒が明ねーな。向こうから仕掛けてくる前にこっちから仕掛けるしかない。エイル―――」
「……わかった。タイミングはそちらに合わせる」

 高貴が黒コートに聞こえないようにエイルに策を伝えた。
 周囲に再び緊張が走る。誰も動かず、言葉も発さず、聞こえるのは微かな夜風の音のみ。その静寂を破ったのは―――

「よし! 第2ラウンド開始だ!」

 月館高貴だ。
 クラウ・ソラスを水平に構え魔力を走らせると、その刀身が一気に伸びた。その直線状にいたベルセルクの腹部を光の刃が貫通する。それが合図となったかのように、全てのベルセルクが高貴たちに向かって襲ってくる。

「《ラグズ》! 真澄、掴まれ!」

 ベルセルク達が接近するよりも早く、エイルが《ラグズ》のルーンを刻む。身を縮めていた真澄も、反射的にエイルの声に従ってエイル腕を掴んだ。
 そして、跳んだ。
 真上に向かって垂直跳び。《ラグズ》の力を利用しているので、30メートルは一気に飛んでいる。真澄が叫び声をあげなかったのは、あまりに突然の事にわけがわからなかったからだろう。
 これで、真澄とエイルに危険はなくなった。高貴がクラウ・ソラスに力を込める。刃の長さはもはや40メートルほどまでに達していた。その長さは、全てのベルセルクを倒せる間合い。高貴が攻撃に移ろうとした刹那、黒コートが動いた。今までの動きとは段違いなスピードで、高貴に向かって走ってくる。
 構うな、振りぬけ!
 イメージ。周りにいるベルセルクたちを、黒コート事一気に全て斬り裂くイメージ。
 全て―――斬り裂く!

「《光刃円舞ライト・サークル》―――――――――ッ!!」

 思い切り、力任せに、振りぬいた。最初に刃が突き刺さっていたベルセルクが真っ二つに切り裂かれ、円を描くように振るわれる刃の進行上にいるベルセルクがどんどん真っ二つになっていく。そして、約百八十度のベルセルクを一掃し、正面の黒コートにクラウ・ソラスが―――

「――――――!」

 当たらない。
 ばちぃっ! と何かが弾ける音が鳴り響く。クラウ・ソラスの伸びた刀身を、黒コートはダインスレイヴで正面からまともに受け止めたのだ。
 クラウ・ソラスはそれ以上動かない。今高貴が繰り出した攻撃、《光刃円舞ライト・サークル》は、校舎すらたやすく真っ二つに斬り裂く巨大な光の光刃。それをたった一本の剣で、黒コートは真正面から受け止めてそれを止めた。

「こ……の――――――ッ!!」

 クラウ・ソラスに高貴がさらに力を込める。それにより黒コートがさすがに力負けしてきたのか、地面についている二本の足が少しずつ押されて横にずれていく。だが、そこまでだった。

「高貴!!」

 上空からエイルの声が耳に響いてきた。エイルと真澄が高貴のすぐ横に落下して来ている。いかに《ラグズ》のルーンで高く跳んだとしても、それは跳躍であり空を飛んでいるわけではない。重力に逆らうことができずに、二人は当然のごとく落下しているのだ。

「くそっ! 半分だけかよ!」

 このまま力任せに振り切ったとしても、エイルと真澄を斬ってしまうかもしれない。そう判断した高貴は、クラウ・ソラスの刃をいったん消し去った。それに一瞬遅れてエイルと真澄が地面に着地する。

「――――――」

 黒コートが突進してきた。高貴と真澄には目もくれずに真っ直ぐにエイルに向かって襲い掛かる。その動きを止めようとしたエイルが、《雷光の槍ブリッツランス》を振るい青い衝撃波を飛ばしたものの、ダインスレイヴでたやすくかき消されてしまいまったく効果がない。

「私があの男の相手をする。君はなんとか真澄を守りながらベルセルクの相手を!」
「わかった、気をつけろ!」

 エイルも自ら黒コートに向かって走る。高貴と真澄から15メートルほど離れた所で両者が激突し、そのまま切り結び始めた。
 その間ベルセルク達は高貴に襲いかかっていった。一対一ならば問題ないだろうが、なにぶん数が多く、しかも後ろには真澄がいるため、ヒットアンドアウェイもできない。その結果、高貴は攻撃を防ぐだけで精一杯になってしまっていた。

「こ、高貴……」

 真澄の弱々しい声が高貴の耳に届いた。とにかく真澄を逃がさなくてはならない。なんとかしてこの包囲網に穴を作る事が必要だ。周りをよく観察、まずは一体ターゲットを決める。当たり所さえよければ一撃で倒せる事はさっき証明されているのだ。連続してくる攻撃の僅かな隙、そこを―――見つけた。

「そこだ!」

 右斜め前のベルセルク、腕を振り下ろそうとしていた。そのベルセルクが攻撃するよりも早く、高貴が懐に入り込んだ。振り下ろされる腕を掻い潜って、横一閃でベルセルクを斬り裂く。包囲網に、穴が開いた。

「真澄、こっちだ!」
「う、うん!」

 穴が開いたところから真澄が包囲網を突破した。これで戦いに真澄を巻き込む事はなくなる。
 なくなるはずだった。しかし、完全に予想外の事が起きる。
 包囲網をから抜けた真澄を、ベルセルク達が視線で追っている。そして、明らかに目標を真澄に定めている。

「なっ!?」

 ベルセルクは普通の人間を襲わない。それがエイルから教わったベルセルクのルール。しかしこのベルセルクは黒コートがダインスレイヴを使って何かしらの方法で呼び出したものだ。ならば、その常識が通用しないかもしれないという事を、高貴は考え付かなかったのだ。

「真澄ッ!」

 それに気がついた高貴が真澄に向かって走った。名前を呼ばれた真澄が振り返り、真後ろにいるベルセルクの存在に気がつく。
 近づいても間に合わない。助けられる手段は一つしかない。しかしそれは大変危険を伴う方法だ。
 それでも―――やるしかない。
 いいからさっさと剣を振れ、グダグダ迷って手遅れになる前に!

「伸びろ―――ッ!」

 クラウ・ソラスを一気に伸ばした。真澄の距離まで10メートルほど、ベルセルクまでの距離も10メートルほど。そのギリギリの距離で、ベルセルクだけを斬り裂くしかない。下手をすれば自分が真澄を斬ってしまうかも知れないと言う恐怖を伴いながら、それでも方法はこれしかないと自分に言い聞かせ、高貴は思い切り剣を振るった。
 ベルセルクが腕を振り上げる、真澄が身を屈めて悲鳴を上げる。その悲鳴ごと、クラウ・ソラスの光刃がベルセルクを斬り裂いた。
 真澄は自分の約10センチほど前、顔に当たるスレスレの目の前の距離で、光刃が通り過ぎたのをはっきりと見ていた。
 ペタンと地面に尻餅をつく真澄に、慌てて高貴が近づく。今の高貴には真澄の安否しか頭になく、今の攻撃で何体かのベルセルクを巻き込んで倒せた事にも気がつかないほどだった。

「大丈夫か!? つーかごめん、ケガ無い!?」
「……し、死ぬかと思った……二つの意味で」

 真澄の無事を確認できた高貴がほっと一息をつく、ついてしまった。それは高貴の性格上仕方のないことといえる。本当に彼は真澄しか見えていなかったのだから。だからこそ、背後から別のベルセルクが迫っている事に気がつくのが遅れてしまったのだ。
 それに気がついた時にはもう遅い。ベルセルクは腕を大きく振り上げている。迎撃が不可能ととっさに判断した高貴は、とっさに真澄を抱えて横に飛んだ。飛んだというよりは転がったという表現に近い。地面を転がりながらも真澄が傷つかないようにきつく抱きしめる。
 一瞬遅れてベルセルクの豪腕が地面に叩きつけられた。まるで大木が倒れたかのような轟音が響き、グラウンドに大きな傷跡が刻まれる。

「高貴ッ、真澄ッ! 貴様、そこをどけ!」

 エイルが二人を助けに行こうとしても、黒コートを振り払うことができない。エイルを逃がすつもりなどまったくないとでも言うように、切り結ぶ手を休めなかった。
 3メートルほど転がって、高貴と真澄は起き上がる。高貴の体には無数の擦り傷ができており、服もところどころ破れている。真澄は高貴にかばわれたおかげでどこも怪我をしていなかった。

「こ、高貴、大丈夫!?」
「な、何とか……真澄は大丈夫だよな」
「う、うん。わたしは大丈夫―――あれ? スマホがない」

 真澄がお守りのように強く握り締めていたスマホが、いつの間にかその手から消えていた。今転がった時にどこかに落として転がっていったのだろう。そしてそれは思いのほかすぐに見つかった。高貴たちから大分離れた所、そしてベルセルクの足元に真澄のスマホは転がっていた。

「見つけた!」

 真澄がすぐさまそれに駆け寄ろうとするが、高貴が慌てて真澄を止めた。

「おい、バカかお前は! ベルセルクがいるんだぞ!」
「でも! あれは大切なの! あれにはあのストラップも―――」

 言葉が、途切れた。
 ベルセルクが一歩前に踏み出そうとしている。右足を上げて、その右足を下ろそうとしている。その先には、真澄の大切なストラップがついたスマホがおちていた。

「ダメええええぇぇ―――ッ!!」

 真澄が手を伸ばして叫んだ。前に進もうとするその体は、高貴によって抱きとめられて前に進む事はない。ベルセルクが、その足を、踏み出した。
 そして―――二人の耳に入ってきたのは、バキッ、という何かが壊れる音だった。
 どうなったかは見えないが、恐らくはスマホもストラップも粉々に砕けてしまっただろう。

「あ―――」

 真澄の伸ばされていた右手がだらりと落ちる。前に行こうとしていた体が止まる。

「おい、真澄! ボサッとすんな! おい!」

 高貴が話しかけるものの、真澄は下を向いたままなんの反応も示さない。ベルセルクが再び一歩踏み出した。まるで自分が今何かをふんだ事すら気がついてないようだ。しかし、そのベルセルクが、青い軌跡の元に背後から一閃に斬り捨てられた。
 黒コートを振り払ったエイルが、ベルセルクを背後から《雷光の槍ブリッツランス》で斬り裂いたのだ。なにが起こったかわからないと言った様子でベルセルクが消え去る。

「二人とも大丈夫か!?」
「いや、真澄が―――」

 ハッと高貴が顔を上げる。残っているベルセルクは3体。そのベルセルク達が、高貴たちに向けて両手を伸ばしているのが見えたからだ。

「やばい! エイル、防御!」
「くっ、《エイワズ》!」

 エイルと高貴がすかさずルーンを刻んだ。高貴は自分自身を、エイルは自分と真澄を守るように防御壁を作り出す。

「ガアアアアア!!」

 ベルセルク達が吼えながら、両手から赤黒い弾丸を放ってきた。その凄まじい弾幕に、高貴たちは身動きがまったく取れなくなってしまう。

「これじゃ動けねーよ! なんとかして真澄だけでも守らねーと!」
「今はひたすら耐えるしかない。下手に動けば弾に当たってしまう。真澄、動けるか? 怖いのはわかるが、隙を見て離れて―――」
「……ざけ……」

 ボソリと、下を向いたまま真澄が声を漏らした。

「え? 今なんか言ったか?」

 真澄がゆっくりと顔を上げて、

「ふざっっっっっっけんなああぁ――――ッ!!」

 思い切り、大声を上げて、空に向かって叫んだ。
 すぐ隣にいる高貴とエイルの鼓膜を破るかのような怒声。怯えていたと思っていた少女が突然叫びだした事で、こんな状況にもかかわらず、高貴とエイルはポカンとった表情になってしまった。
 そう、怒声だ。今真澄の目に浮かんでいるのは、恐怖ではなく怒りだ。圧倒的なまでの怒りで満ち溢れている。

「ま……真澄さん? 突然どうされたんですか?」

 自分に降り注ぐ黒い弾丸よりも遥かに恐怖を感じながら、高貴がおそるおそる声を絞り出した。帰ってきたのは人を殺せそうな視線だ。

「どうしたもこうしたもない、わたしは怒ってんの! 何なのあの化け物! さっきから襲ってくるわ人のスマホ壊すわいったい何様!? あの趣味の悪い黒コート野郎も、エイルさんの顔に傷つけるし、女の顔に傷つけるなんてありえない!」

 今までたまっていた鬱憤をすべて吐き出すように真澄は叫んだ。

「お、落ち着け真澄。確かに君の言うとおりだが、今は―――」
「だいたい! わたしは二人にも怒ってるんだからね!」
「いや……その……」
「エイルさんは命を懸けて高貴を守るなんて言ってるけど、わたしはエイルさんの事だって心配だよ!! 高貴を守ってエイルさんがけがしたらわたしは嫌! もっと自分を大切にして! 高貴は巻き込みたくないし心配させたくないからから記憶を消せなんて言ってるけど、友達なんだから心配くらいさせてよ!」

 真澄の目からは先ほどまであった恐怖も悲しみもすべてが消えていた。力強く目を見開き、腹の底から声を出している。

「で、でもさ真澄。現に今だって危ない目にあってるだろ」
「高貴は嫌じゃないの? 友達が知らないところで危ない事してて、自分は心配すら出来ないなんて嫌じゃないの?」
「ふむ……嫌だな」
「おい、エイルまで」
「ずっと……言いたかった。二人がやらなくちゃいけないことなのはわかるけど、無茶だけはしないでって。話を聞いたときからずっと言いたかった。だけどわたしは魔法なんてつかえないから、なんの力も持ってないただの足手まといだから、なにも言えなかった。実際に今もわたしは二人の邪魔になってるから、迷惑だって思われるのもわかってるけど、何もできないわたしにこんなこと言われてもムカつくだけだろうけど、心配くらいさせてよ。もっと自分のことも大切にしてよ。わたしは、なんの力にもなれないけど、せめて二人の心配くらいはしたいよ」

 真澄のその言葉は、最後のほうが再び声がかすれてしまっていた。
 今までの真澄は、高貴とエイルの力になれない無力さを、心配すらできない理不尽さに嘆いていた。そして今、嘆くのをやめて理不尽さに怒った。大切な友人を傷つける存在に、そして自分を心配して大切に思ってくれてはいるが、自分自身をまったく大切にはしていない友人達に。
 怒りを、ぶつけた。
 今、足手まといになっているにもかかわらず、迷惑をかけているにもかかわらず、それでも真澄はそれを言葉にした。
 不意に弾丸の雨が止まった。このまま続けても意味がないと判断したのか、ベルセルクが高貴たちに近づいてくる。

「……わかった。君の気持ちはよくわかったよ。わかりきっていた事だが私達は君に対して、とても残酷な事をしようとしていたことを改めて理解できたよ」
「心配かけたくなかったんだけど、真澄は心配かけてほしかったのか。とりあえず―――」

 高貴とエイルが《エイワズ》の壁を消し去り、ベルセルクに向かって走る。

「少しはタイミングを考えろ! なんであんな状況でそんなこと言うんだよ!」

 ベルセルクが右腕を突き出してくる。高貴はそれを剣で受け止めて弾き、肩口から腕を斬り落とした。そのまま今度は下から切り上げて、ベルセルクを真っ二つにする。

「しかし、まさかそこまで心配してくれるとは思っていなかったよ。純粋に嬉しく思う。しかし君は一つ勘違いをしている」

 エイルは勢いを緩めずに突進、ベルセルクの顔面を青い槍で貫いた。
 残り一体。高貴とエイルが同時に残ったベルセルクへと向かう。走る白い軌跡と青い軌跡。その先には異形の怪物。
 そして―――白と青の軌跡が十字を作った。高貴とエイルに同時に斬られたベルセルクが、4つに割れて消えていく。
 ベルセルクを全て倒し終えて、二人が真澄に振り返る。

「いいか真澄、俺もエイルもお前の事を迷惑だとか、足手まといだとか思った事ねーよ。むしろ昨日の事とかエイルの服のこととかかなり助かってる」
「それと、心配はかけたくないと思っているが、心配してもらえれば嬉しいと思うよ。これからもずっと覚えていてほしいとさえ思えてくる。そんな優しい君だから私達は守りたいと思っているのだが、どうやらそれだけでは駄目なようだな。いいか高貴、真澄だけではなく自分自身もしっかりと守れ、自己犠牲など考えるな」
「同じ言葉をそっくりそのままお前に返してやる。つーか魔術の守秘義務はいいのか?」
「何とかごまかす、私はヴァルキリーだ」
「気が合うな、俺もそう思ってた。なにはともあれこれでベルセルクは片付いたから―――」

 高貴とエイルが、それぞれ白と青に光る武器を持ち上げ、黒コートに向けた。

「次はテメーだ。真澄を泣かせた借りはまだ返してねーからな」
「不思議と、力がみなぎるようだよ。今の私達は先ほどの倍は強いぞ」

 黒コートに向けて言い放ち、再び同時に地面を蹴った。それに応えるかのように、ダインスレイヴを鞭状に変形させた黒コートも地面を蹴る。
 互いの武器をぶつけ合う三人を、真澄は手を合わせて祈るように見つめている。どうか無事ですんでほしい。もしくは《神器》も仕返しもどうでもいいからもう逃げてほしい。そんな気持ちを胸に抱きながら。

「お願い神様……二人を……守って!」

 その時、何かが繋がった。自分と何かが繋がった感覚に真澄は陥った。

 ―――神様なんて誰も守ってくれないわ。誰かを守りたかったら自分で守るしかないもの。

 真澄の頭の中に、女性らしき声が響いてくる。明らかに耳から入ってきた音ではなく、屋上でクマと話した時と同じような感覚。一体なにが起こったのかという真澄の疑問は、次に起きた現象によって打ち消された。
 突然、何の前触れもなく、何もなかった地点のグラウンドに、一つの光の柱が生まれたからだ。

「光?」
「こんどはなんだよ!?」

 黒コートと切り結んでいる高貴とエイルもそれに気がついた。しかし黒コートのほうは気にもしていないようで、攻撃の手を休めない。
 光の柱は白い、いや、どちらかと言えば銀色をしている。その光の柱の中に、なにやら小さいものが浮いていた。それは真澄にとって見覚えのある形、そして先ほど失ったと思っていたばかりの形。

「あれって……わたしのストラップ?」

 それを見て真澄は気がついた、光の柱が上っていた地点は、先ほど真澄のスマホがベルセルクによって踏み潰された場所だったことに。一体なぜ壊れていないのか。その疑問の答えを出す前に、三日月形のストラップが、真澄目掛けて凄まじい速さで飛んでいき―――

「え?」

 真澄の体を、貫いた。

「真澄ィ――――ッ!」

 高貴の叫びは真澄に届くことなく、三日月に貫かれた真澄の意識は遠のいていった。




 次に真澄が意識を取り戻した時、彼女は夜のグラウンドとは違う場所にいた。そこは真澄のよく見知った場所、ついさっきまでいたはずの場所。

「ここって……マイペース?」

 そう、マイペースの店内に真澄はいた。店内のボックス席に、いつの間にか座っている。

「えーっと……あれ? 何これ? マジで何これ? わたしさっきまでグラウンドにいたはずなのに……」

 いくら思考をめぐらせても、自分が今ここにいる理由がまったくわからない。それにおかしなことはまだある。ここがマイペースだとしても、本来ならばいるはずの詩織の姿も見当たらない。

「……あれ、ちょっと待って。冷静に、冷静にならなきゃ」

 目を閉じて真澄が考え始める。まずマイペースを出てから、学校にスマホを取りにいった。そこで黒いコートの男を見て、一目散に逃げ出した。そのあと高貴とエイルにあって、闘いがはじまった。そして―――

「こんにちは、相席いいかしら?」

 思考が中断される。突然誰かに話しかけられたからだ。誰かと思って目を開いて顔を上げると―――なんとそこには自分自身が立っていた。

「え?」
「相席、いい?」
「は、はい……ええっ!?」

 思わず頷いてしまったあと、事の異常さに気がつき真澄は思わず立ち上がって叫びだす。そんな真澄を気にも留めないで、もう一人の真澄はクスリと笑いながら正面の椅子に座った。

「ちょ、わ、わたし!? そっくりさん!?」
「あはは、面白いわねあなた。ほら、とりあえず落ち着いてコーヒーでも飲みましょ。ブラックとミルク入りどっちが好き? それとも紅茶かしら? いろいろあるわよ。緑茶はないけど」
「てゆーかあなた誰!? もう一人のわたし!?」
「落ち着いて、今からちゃんと説明してあげるわ。ブレンドコーヒーにミルクとガムが一つずつで良かったわよね」

 いつの間にか目の前のテーブルに二人分のコーヒーが置かれている。いつも真澄に詩織が用意してくれるコーヒーと同じ色だ。もはやがわからなくなった真澄は、とりあえず座る事にした。

「あの、もしかしてわたし死んじゃったとかですか?」
「違うわよ。ここはあなたの心象風景。あなたの心の世界ってところね」
「わたしの心の世界? それがどうしてマイペースなんですか?」
「それはこの場所があなたにとって大切だと思える場所だからじゃないかしら。このコーヒーもあなたの記憶の再現。心象風景っていうのは、大切なもの、衝撃的なもの、それからトラウマなんてのも反映されるから。あ、それとこの姿は話しやすいようにあなたの姿を借りただけ」
「……じゃあ、あなたは誰?」
「《神器》よ」

 目の前の自分―――《神器》が放った何気ない一言は真澄を唖然とさせるのには十分だった。言葉を失っていると「飲まないの?」と《神器》がコーヒーを勧めてくる。しかしコーヒーを飲むような気分ではない。

「あなたに興味がわいたの。ついこの間までは違う人にくっついてたんだけど、なんだか好みじゃなかったのよ。その点あなたならなんだか楽しそうだなって思って。どう? 私の持ち主になってみない?」

 コーヒーを片手に、まるで遊びに行こうとでも言っているかのような調子で《神器》はそう言った。

「……一つだけ聞かせて」
「なに?」
「あなたの持ち主になれば、高貴の力になれるの?」
「もちろんよ」

 その短い言葉は、真澄の心を決心させるのには十分な言葉だった。

「じゃあ、わたしに力を貸して」
「早いわね、もう少し考えるかと思ったんだけど。てゆーか本当にいいの? 私を持ち歩くって事は、ベルセルクに襲われる危険性が常にあるって事なのよ。さらに言えば、他の《神器》の使い手とも戦いになるかもしれない。今の趣味の悪い黒コート来てる奴とかね。あなたは本当にそんな非現実に足を踏み入れる覚悟があるの?」
「もちろん」

 一瞬も迷わずに、真澄は即答した。

「危ない合うのはもちろん嫌、だけどもうすでに危ない目にあってる人が目の前にいるのに、黙って見てるだけなんてもっと嫌だから。だから―――力を貸して」
「……なるほど、友達は大切……か。いいわ真澄ちゃん、じゃあ乾杯しましょうか。ルービじゃないけど」
「ルービって……まぁいいけど。」

 目の前に座る《神器》がコーヒーの入ったカップを目の高さまで上げる。それにならって、真澄も苦笑しながら目の前にあるコーヒーを視線の高さまで上げた。

「私の名前はもう知ってるわよね。その名前を呼ぶのが私流の契約なの。さぁ、契約が済んだら夢の時間はお終いよ。夜の闇と身の危険、さらには未知なる恐怖のフルコースが待ってるわ」
「でも、あなたも力を貸してくれるんでしょ」
「もちろんよ」

 カップとカップが近づいていく。目の前にいる《神器》の名前を呼べば契約は完了。それはいつの間にか知っていた名前、ついさっきまで知らなかったにもかかわらず、生まれた時から一緒に居るかとも思えるような不思議な感じがする響き。

「それにしても、弓塚真澄ちゃん、それにあの男の子は月館高貴君か。これも不思議な縁なのね。これからは楽しく過ごせそうだわ。よろしくね真澄ちゃん」
「うん、よろしくね―――《星弓アルテミス》」

 二つのカップが重なり―――キン、という音が鳴り響いた。



「《星弓アルテミス》―――!!」

 銀の光に貫かれた真澄が、突然その言葉を叫んだ。目の前で浮いている三日月のストラップが銀色の光を放つ。
 真澄の意識が夢から現実に帰って来る。現実時間ではほんの一瞬で数秒もたっていない。はたからそれを見ていた高貴たちには、真澄の身にいったい何が起こっているのかわからなかった。いや、瞬間的に、直感的に理解した。

「ま、まさか―――」
「《神器》か?」

 ―――熱い!
 真澄の体の中で何かが燃えている。まるで全身に炎が走っているように熱い。今まで感じなかった何かを全身に感じる。そして、はっきりと夢の中で契約した《神器》の存在を感じることができる。
 目を見開き、夜を照らす銀の三日月を、真澄は左手で掴んだ。
 三日月がその姿を変えていく。掌に収まるほど小さかったその三日月が、段々と大きくなって、真澄の手では覆えなくなる。そして、ひときわ強く光ったかと思えば、次の瞬間には真澄の左手には弓が握られていた。
 それはまさしく夜空に浮かぶ三日月のような神々しい姿。星のような宝石をその身にちりばめた《神器》。
 《星弓アルテミス》が世界に具現化した。
 突然の《神器》の出現。しかも真澄の手にそれがあるということに、高貴とエイルは驚きを隠せない。そんな中で黒コートだけはすばやい動きで、いったん二人から距離を取った。それを好機と見て、高貴とエイルも真澄の元に近づいていく。

「真澄、それって―――」
「……コーヒー、飲み損ねた」
「は?」
「あ、なんでもないよ。こっちの話だから。それよりこれ《神器》なんだって。《星弓アルテミス》っていうの。わたしこの《神器》に選ばれちゃったみたい」
「え、選ばれたって……マジで?」
「本当……らしいな」

 つい1分ほど前までは、なんの力を持っていなかった少女が、今は戦う力を持っているということに、さすがエイルは驚きを隠せない。それは自分もそうだったであろう高貴も同じようだ。

「しかし真澄、いきなり《神器》を扱えるのか?」
「えっと……うん、大丈夫っぽい。なんか自分でもよくわかんないけど、弓矢の使い方知ってるから」
「なにそれ、《神器》が教えたってことか?」
「うん、アルテミスのおかげかもね」

 高貴はエイルと契約の印エインフェリアルをおこない、その剣技の一部を記憶に叩き込まれたが、真澄の場合は《神器》であるアルテミスそのものが真澄に対して戦う術を教えたようだ。

「でもそんな《神器》いったいどこに―――」
「ほら、そんな話は後。あの黒コートの奴またとんでもない事してる」

 真澄に言われて、高貴とエイルが黒コートのほうを向く。黒コートは再びダインスレイヴを地面に突き刺し、多数のベルセルクを呼び出していた。黒い闇の中でもなお目立つ赤黒い巨体が、グラウンドにどんどん生まれてくる。

「ふむ、これではきりがないな」
「ああ、なんとかしてあの黒コートを―――」

 その高貴の言葉を遮って、一陣の風と光が駆け抜けた。高貴とエイルの間を縫うように銀色の光が走り、前方のベルセルクの内の一体、その顔面に突き刺さる。よく見るとそれは銀色の矢だ。その存在を視認で来た瞬間―――銀の矢が、そしてベルセルクの頭が弾け飛んだ。頭を失ったベルセルクは、そのまま動くことなく黒い煙となって消滅した。
 あまりに突然の出来事に、ぽかんとした表情のまま高貴とエイルが振り返る。そこには真澄が左手にアルテミスを持ち、弓道で言う所の残心の形、つまりは撃ち終わりの形で止まっていた。そのたたずまいは明らかに素人のそれではなく、むしろ熟練の粋にある雰囲気を思わせている。
 ポカンとしている二人を見て、真澄はふと肩の力を抜くと、クスリと笑った。

「うん、結構簡単みたい。ほらほら、二人もボサッとしてないで。わたしも―――わたしも一緒に戦うから!」

 そう言うなり真澄は再び弓を構える。それを見た高貴とエイルも笑いあって、ベルセルクの群れに向き直った。

「さーて、こりゃ負けてらんないよなエイル」
「ああ、真澄にまかせっきりになってしまわないように―――行くぞ!」

 二人が、地面を蹴った。ついさっきまで恐怖に身を震わせていた真澄が、その日本の足でしっかりと立ち、その二つの瞳で現実を見て戦っているのだ。それなのに、自分たちが何もしないわけにはいかない。二人は先ほど以上に身を奮い立たせた。
 突っ込んでいく二人をよそに、真澄はゆっくりと右手に左手を重ねる。するとただの三日月だったその《神器》に、光の弦が形成された。知らなかったはずなのに今は知っている魔力の扱い方、それにならって右手に魔力を込め、光の弓をイメージ。そのまま右手を手前のほうに引くと、今度は光の弓が形成される。矢尻から羽まで全てが銀の光で形成されているその矢は、まったく重さを感じない。
 光の弦に光の矢を当てて強く引き、弦の弾力を右手で押さえ込む。左手をピストルの形にしてベルセルクに狙いをつけた。小さいころはジャンケンでピストルの形を出し、高貴と俊樹に無理矢理勝っていた事を思い出した真澄は、こんな状況にもかかわらずクスリと笑ってしまった。
 しかし、今は遊びではない。ピストルの弾ではないが、アルテミスの力によって矢を放つことができる。弓を限界まで引き、弦の軋む音をその耳に感じながら、

「せー……のッ!」

 右手を離した。銀の矢が一直線に突き進んでいく。放たれたそれは、勢いを失いことなく高貴が戦っていたベルセルクの右足に突き刺さった。刺さった瞬間、矢が弾けてベルセルクの足を破壊する。バランスを崩したベルセルクは、目の前にいた高貴のクラウ・ソラスによって一刀のもとに斬り捨てられた。
 高貴が一瞬真澄のほうに振り返る。交差する視線と視線。それだけで言いたいことが伝わったのか、二人は何も言わずに別々の敵に狙いを定めた。

「ガアアアアアア!!」

 一体のベルセルクが真澄に狙いを定めて突っ込んで来た。その事に真澄だけではなく高貴とエイルの二人も気がつく。しかし、高貴とエイルは真澄を助けに行こうともせずに、それぞれ別のベルセルクに向かって行った。それを、真澄は何よりも嬉しく思う。
 二人は真澄を見捨てたわけでもほっといたわけでもない。真澄を信じているのだ。ついさっきまでは守られているだけだった自分が、今はこうして信頼してもらえているという事実に真澄は喜びの感情を隠せない。
 距離は約8メートル。普通に狙いを定める時間などまったくない。それでも真澄は大丈夫だと確信している。
 弓道八節という言葉がある。スポーツにおける弓道において、弓の撃ち終わりまでの、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心の八つの動作の事だ。
 これにおいては弓を放てる形にいたるまで、会までの六つの手順をふまなければいけない。そして七節目の離れでようやく矢を放つことができるのだ。しかしこれはスポーツではなく、命がけの戦い。真澄は五節までの全ての動作を省略し、一気に弓を放てる体勢を作った。
 狙いをよくさだめる必要などまったくない。どうせ向こうのほうから近づいてきてくれているのだから、当たる確率は先ほどよりも高い。今必要なのは威力だ。接近されているという事は、一撃で倒さない限り反撃を食らう可能性がある。

「アルテミス、さっきよりも強くするよ」

 4メートル。右手に掴んでいる矢に魔力をさらに込める。銀の矢がその光をどんどん増していく。
 3メートル。ベルセルクが腕を振り上げた。真澄はその腕にはまったく見向きもしない。
 2メートル。ベルセルクの腕が振り下ろされる直前―――真澄が矢を放った。最初に撃破したベルセルク同様に、顔に突き刺さった矢が弾ける。真澄に傷をつける事もできずにベルセルクが消え去った。

「うん、バッチリ! わたしすごいかも。あとは……」

 真澄が周りを見渡した。高貴とエイルはそれぞれベルセルクを順調に倒している。元々高貴は《神器》をもっているし、エイルは異世界のヴァルキリーなのだ。真澄が戦えるようになった今、ただのベルセルクに負けるような心配は無い。
 だがベルセルクの数は一向に減る様子がなかった。その原因はもちろんそれを呼び出している黒コートだ。黒コートは高貴とエイルから少し離れた所で、ダインスレイヴを地面に突き刺したままベルセルクを呼び続けている。もはや自分が戦うつもりはないのか、一向に動く気配はない。

「あいつを、倒せば!!」

 真澄が狙いを変えて黒コート目掛けて矢を放つ。しかしベルセルクを貫く銀の矢も、同じ《神器》には通用しないのか、ダインスレイヴによって打ち消された。真澄がもう一度矢を放とうとしたその時、黒コートが行動を起こした。なにを考えているのか、自分のすぐ近くにいたベルセルクを、ダインスレイブで貫いたのだ。

「なにやってんだあいつ? あいつにとっては味方じゃねーのか?」
「確かに―――高貴、よく見てみろ!」

 エイルに言われて高貴はダインスレイヴに視線を送る。そして気がついた。ダインスレイブからベルセルクに向かって、何かが流れている事に。ダインスレイヴの刀身が、まるでポンプのように動きベルセルクに何かを送っている。それを受け取るたびにベルセルクはどんどんと巨大化し、その体にある紅い亀裂が大きくなる。

「キシャアアアアアアア!!」

 大きさは五メートル強。黒の巨人を呼ぶのに相応しい禍々しき姿のベルセルクへと変貌した。

「あれは……以前屋上で戦ったベルセルクと同じタイプか?」
「え、じゃあ屋上のベルセルクってもしかしてあいつが送り込んできたのか? 昼間には出ないはずのベルセルクが昼間に出てきたのもそれが理由か?」
「かもしれないな……あの時よりもやっかいそうな相手だ」
「シャアアアアアアア!!」

 ベルセルクが地面を蹴った。他の固体とは明らかに桁違いのスピードで高貴とエイルへの距離を一気に詰める。二人も一瞬遅れてそれに反応したが、やはりベルセルクのほうが速い。その赤黒い豪腕がまずは高貴を襲う。何とかクラウ・ソラスで受け止めるものの、あまりの巨体に受け止めたまま動く事ができなくなってしまった。
 さらには防御力もなかなか高いようで、この腕にはクラウ・ソラスの刃もまったく通らない。

「はぁっ!!」

 エイルがベルセルクの隙だらけの側面から斬り付ける。がきぃ!! と鈍い音が響いたが、ベルセルクをその一撃をものともしないで立っている。屋上で戦ったベルセルクよりも、かなりレベルの高いタイプだとエイルは判断した。

「こ……のぉっ!!」

 高貴がベルセルクと斬り結び始める。スピード自体は高貴が上だ。クラウ・ソラスはベルセルクの体に何度も当たっている。しかしダメージを与えることがまったくできない。たとえ光刃円舞ライト・サークルを当てたとしても斬り裂ける自信が高貴にはなかった。
 さらには他のベルセルクも高貴とエイルの周囲に集まってくる。いくら簡単に倒せるといっても、巨大なベルセルクだけでも手一杯なのだから相手を出来る余裕はない。幸い黒コートは動くことなくベルセルクを呼び出しているだけだが、いつ動き出すかもわからない。
 側面から高貴に近づいていた2体のベルセルクが、真澄の矢によって撃ち抜かれた。

「高貴、エイルさん、ちょっとこっち来て!」

 真澄の指示に従って高貴とエイルはベルセルク達を牽制しながらいったん下がる。

「冗談じゃねーよ。黒コートだけでも手一杯なのに、でかいベルセルクとかまで出てくるし……白光烈波フォトンストライクなら何とか倒せるかな。エイルはどう思う」
「ふむ、ベルセルクのほうなら確実に倒せる切り札がある。しかし少し時間が掛かるぞ」
「マジで!? やっぱお前スゲーや」
「当然だ、私はヴァルキリーだ。とはいえ今言ったように時間が―――」
「その点なら心配しなくていいよ」

 エイルの言葉を、自信満々の表情で真澄が遮った。

「二人が時間を稼いでくれたおかげで、わたしの切り札の準備は整ってるから」
「……スゲー頼もしい」
「ふむ、では時間稼ぎは真澄に任せよう……しかし、また囲まれたか」

 高貴たちの周りをまたもやベルセルク達が取り囲んでいた。正面には強化されたベルセルクも存在しており、隙や抜け道はまったく存在しない。

「ちっ、とりあえず俺がまたまとめて斬っとくか」
「待って高貴、やめた方がいいよ。黒コートがさっきみたいに止めると思うから。それに言ったでしょ、わたしの切り札の準備は出来てるって」
「ふむ、では頼んだぞ真澄」
「任せて。二人とも、絶対に動かないでね。やるよアルテミス!」

 真澄の声に応えるように、アルテミスが銀色に輝く。まさに夜に浮かぶ三日月のようなその弓を、真澄は天に向かって構えた。当然のごとく空には敵などいない。なのに真澄はどうして弓矢を空へと向けるのか? その答えを、高貴は直感的に理解できた。

「《月光の陣形ムーンスタイル》―――展開セット

 真澄が光の弦を引く、すると五本の矢が扇状に広がって具現化された。ギリギリと弦を引く手に力がこもる。アルテミスに魔力が迸っている。その魔力に引き寄せられるかのように、ベルセルク達が襲いかかってくる。がむしゃらに突っ込んでくるわけではなく、陣形を少しずつ狭めるように、決して高貴たちを逃がさないように迫ってくる。
 高貴の目に僅かに焦りが浮かぶが、真澄はやはり空を見ていた。彼女の視線の先には何もない。あるのは空。雲が浮かんでいる空。そして、夜に光り、世界を優しく照らす月。その月目掛けて彼女は―――

「《降り注ぐ月の涙ムーンライトティアーズ》!!」

 矢を、解き放った!
 まるで打ち上げ花火のように五本の矢は天高く上る。銀の光が段々と空に溶けていき、そして―――

「弾けろ――――――ッ!!」

 夜空に五つの花火が弾ける。銀の花火は重力にしたがってその全てが地面に向かって落ちてくる。その一本一本がアルテミスの作り出した矢だ。
 空から矢が降ってくるという光景に、高貴とエイルは焦りを覚えたが、真澄の言った動くなという言葉を信じてその場からまったく動く事はなかった。そして、降り注ぐ矢はなんの遠慮もなしに高貴たちの周りを取り囲むベルセルク達に突き刺さった。
 一本一本はたいした威力ではないとはいえ、雨のように降り注ぐ矢をかわすすべを持たないベルセルクは、体に無数の矢を浴びてどんどん消滅していく。矢は決して高貴とエイルには当たる事はない。そこまで計算されて放たれていたのだ。
 しかし、黒コートと強化されたベルセルクだけは例外だった。黒コートはダインスレイブで襲い来る全ての矢を払い落とし、ベルセルクは防御力が高い為、アルテミスの矢もまったく通らない。動きを止めるだけで精一杯だ。だが、時間は十分に稼げた。

「さて、次は私の番だな」

 銀の雨が降り注ぐ中、銀髪のヴァルキリーが左手を眼前に掲げた。

「高貴、真澄。魔術の授業の続きだ。ルーン魔術は複数の文字を同時に書くことができ、これをバインドルーンと呼ぶ。私が最もよく使っているのは、この《雷光の槍ブリッツランス》か《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》のどちらかだろうな」
「え? いや、そんなこと今はいいから、さっさとその切り札を―――」
「そしてこれが―――私の切り札だ!」

 ヴァルキリーの左手に青い光が灯った。

「《ソーン》―――!」

 一つ目のルーン。エイルの最も得意とする雷を操るルーンである《ソーン》。

「《ラグズ》―――!」

 二つ目のルーン。移動や跳躍力などを高めるルーンである《ラグズ》。

「《テュール》―――!」

 そして、三つ目のルーン。他のルーン魔術の能力を高める事ができるルーンである《テュール》。
 エイルの目の前に三つのルーンが青い軌跡で描かれた。高貴と真澄は驚きを隠せない。今までエイルは二つのルーンを同時に使うことはあっても、三つのルーンを同時に書いたのは初めてのことだ。そして、ヴァルキリーは鍵となるその言葉を、凛とした声で響かせた。

「バインドルーン・トライ!!」

 瞬間―――エイルの目の前に浮かぶ三つのルーンが光り輝く。それぞれの文字が青い光で結ばれていき、《ソーン》の文字を頂点に、《ラグズ》を右に、《テュール》を左にして、三角形の形が作られた。空に浮かぶ星を結んだかのように作られたそれは、エイルの眼前に広がってさらに輝きをましていく。
 変化はそれだけではなかった。大三角形トライアングルの光が増していくにつれて、段々とエイルの体も青い光に包まれていく。まるで全身に《雷光の槍ブリッツランス》の輝きが宿ったかのようなその姿。夜の闇を優しく、しかし激しく照らすそのたたずまいは、神々しさを感じさせるものだった。
 形こそ違えど、まるで火の輪潜りのようにエイルの目の前に展開された大三角形トライアングル。その向こうには強化されたベルセルクが覗いて見える。エイルが体勢を低くした。槍を正面の大三角形トライアングルに、そしてその先にいるベルセルクに向ける。
 しかし―――その視界が遮られる。時間をかけ過ぎたのか、強化されているベルセルクを守るかのように、エイルとの射線上に別のベルセルクが数体割り込んできたのだ。これではエイルの言う切り札も、ターゲットに届くことなく終わってしまう。
 終わってしまうはずだった。しかしエイルは何も気にした様子はない。ベルセルクが割り込んできた。それがどうしたとでも言わんばかりに彼女は、青い光を纏ったヴァルキリーは―――

「全てを―――貫く!! 《道を突き進む者フィン・ペネレイト》!!」

 地面を、蹴った!
 眼前の大三角形トライアングルを潜り抜けた瞬間―――エイルの姿が消えた。
 エイルの姿が消えたのと、エイルの正面にいたベルセルクが砕け散ったタイミングはほぼ同時だった。その後ろにいたベルセルクも、さらにその後ろのベルセルクも、一瞬のうちに消滅する。そのあまりのスピードに、高貴と真澄は一瞬なにが起こったのかわからなかった。
 エイルがした事自体は簡単だ。三つのルーンを組み合わせて使用しただけである。《ソーン》のルーンで攻撃力をあげ、《ラグズ》のルーンで跳躍力、つまりは速度を上げて、《テュール》のルーンでその二つのルーンの効果を高めただけだ。言ってしまえば《道を突き進む者フィン・ペネレイト》とは、雷をまとっての高速突撃である。
 しかし、そのスピードが尋常ではない。スピード=パワーという事、さらにはエイルの持つランスの本来の使用方法である刺突と一致したこの攻撃は、シンプルゆえに強力な攻撃となっているのだ。故に、かわすのは困難であり、それは強化されたベルセルクであろうと同じ事だった。
 エイルは射線上に存在していた4体のベルセルクを一瞬で貫き、その後ろに存在していたベルセルクの胸部にそのランスを突き刺した。
 しかし―――

「キシャアアアアアアア!!」

 ベルセルクはなんとその一撃を正面から受け止めたのだ。エイルの渾身の一撃であっても、このベルセルクを倒すまでにはいかない。

「止められるものなら……止めてみせろ!!」

 ―――はずがない。
 今のエイルをとめられる存在はいない。エイルの勢いが弱まったのはほんの一瞬のみ、ベルセルクがエイルの突進の勢いに負け、その両足が地面から離れた瞬間。もはや勝負は決していた。

「はあああああああ!!」

 エイルはベルセルクにランスを突き刺したまま、起動をほんの少し上に変えてなおも突き進む。ベルセルクにはもはやなすすべはない。突き進み、突き進み、背後に高く聳え立つ校舎に、ベルセルクの肉体をたたきつけた。ランスと校舎の壁により、サンドイッチのような状態になってしまったベルセルクになおもランスは深く突き刺さっていくが、それでもエイルの勢いはまだまだ止まらない。
 ベルセルクの体よりも校舎の壁のほうが早く限界が来てしまい、そのまま校舎の壁をどんどん突き破っていった。校舎の壁を破壊するたびにその衝撃でベルセルクに深くランスが突き刺さっていく。
 止まるな、決して止まるな。自分の目の前にある壁は―――全て貫け!
 そして―――最後の校舎の壁が破壊された。校舎から飛び出してきたのはヴァルキリーとベルセルク。残る壁はたった一つ。その障害をエイルは、

「貫けええええええ――――――ッ!!」

 一気に―――貫いた!
 ベルセルクの巨体、その胸部に大穴が開けられた。完全にそれを貫いた事によって、ようやくエイルの勢いが弱まっていった。体から青い光が消え去り、重力に引かれて地面に落下していく。

「キシャアア……アアアアア……!」

 ベルセルクが空中で最後の断末魔をあげる。エイルが地面に着地した瞬間、空中にいたベルセルクが赤黒い光となって爆散した。
 エイルが背後を振り返る。そしてベルセルクを完全に撃破したことを確認すると、ため息を一つついた。

「ふぅ、かなりやっかいなベルセルクだったな。これで残るはあの男のみだが……」

 エイルが視線を上に上げるその視線の先には自分が出てきた場所、つまり今の攻撃で開けてしまった校舎の大穴が存在していた。今はクマがいないこの状況でエイルは、

「……後で考えることにするか」

 取り合えず後回しにする事にした。



 エイルがベルセルクと共に校舎に消え去るのを、高貴と真澄はぽかんとした表情で見ていた。今はクマがいないにもかかわらず、こんな大穴を開けてしまうなんてなに考えてるんだあのヴァルキリーは。こんなのさすがにごまかしきれるわけがない。

「……後で考えよう」

 とりあえず後回しにして、高貴は無理矢理頭を切り替えた。まだ戦いは終わってはいないからだ。銀の雨は止み、ベルセルクは全て消えたが、まだ黒コートの男はグラウンドに残っている。先ほどはエイルに目標を定めていた黒コートは、やはりエイルが気になるのか、エイルとベルセルクが突撃した校舎のほうに視線を向けている。
 こちらを見ていない今が好機。
 黒コートとの距離を一気に詰めて斬りかかる。それに気がついた黒コートは高貴に向き直って応戦した。高貴の瞳と、フードの中の紅い双眼が交差し、両者は正面から切り結ぶ。
 高貴が振るうクラウ・ソラスを、黒コートは全て的確に防いでいた。それだけではなく、時には正面から防ぎ、時にはのれんのようにいなし、僅かにできる隙を逃さずに高貴を攻撃している。その紅い刀身が、高貴の体に少しずつだが触れていき、エイルと同じように頬に僅かに傷がついた。
 やはり純粋な剣技では向こうのほうが上手だ。しかしそれがどうした。そんな状況は初めてクラウ・ソラスを手にした時に経験しているし、そもそも自分より剣を扱えない敵となど戦った事がない。それでも何とかなったのだから、このの状況も何とかなるはずだ。
 ちらりと一瞬真澄のほうに視線を向けると、真澄はアルテミスを構えたまま歯がゆそうにこちらを見ていた。アルテミスは弓の《神器》であり、遠距離からの攻撃をおこなうものだ。しかし高貴は近距離で切り結んでいるので、下手をすれば高貴にも当たる危険性があり、真澄は黒コートに矢を放つことができないのだ。

「――――カーディナルか」
「は?」

 ボソリと小さな声がフードの中から聞こえてきた。一体何を言ったのかはまったくわからなかったが、ダインスレイヴの刀身が赤く輝き、黒コートの攻撃が段々と激しいものへと変わっていく。

「高貴ッ!」

 真澄が慌ててアルテミスの矢を放つ。しかしその矢は見当違いの方向に飛んでいくばかりで、黒コートに当たる事はなく、何度放っても見当違いの方向に飛んでいくばかりで意味を持たない。
 高貴はじわじわと追い詰められていく。エイルはまだ戻ってきてはくれない。そもそもエイルと二人がかりでも傷一つ付けられなかったのだから、自分ひとりで傷を付けることなどできないのかもしれない。それでも必死であがこうとする高貴の耳に一瞬妙な声が聞こえてきた。
 それは笑い声、小さな笑い声だ。一体誰が笑っているのだろう。自分はこんなピンチで笑えるほどマゾではないし、真澄も笑っている様子はない。となると残る可能性は一つ、目の前の黒コートの男だ。
 顔の見えないフードの奥から、小さな笑い声が聞こえてくる。それは、まるで絶対的な力の差を楽しんでいるかのような、もしくは目の前で自分に手も足も出ない少年をあざ笑っているかのような声。本当に、愉快そうな声だ。
 ダインスレイヴとクラウ・ソラスが激しくぶつかり合い、高貴が後方に吹き飛ばされた。受身を取ることもできずに背中から地面に叩きつけられ、クラウ・ソラスの光も消え去ってしまう。言う事を聞かない体を無理矢理動かして、何とか肩膝をついて高貴は体勢を立て直したものの、黒コートは一直線に突進してきている。一気に止めを刺すつもりだ。

「……いつまでも」

 光を失ったクラウ・ソラスに魔力を流し込んだ。これまでの戦いの影響か、自分に残っている魔力が少ないのか、体の力が一気に抜けていく感覚が高貴を襲う。それでも、構わずにその剣にありったけの力を込めた。

「調子のってんじゃねーよ!!」

 叫んだ。そして光が溢れ出る。今までとは比べ物にならないくらいに強く、荒々しいその光を目の前にして、心なしか黒コートの男が動揺している。その証拠なのか、高貴に突進していたその足を止めた。それとは逆に今度は高貴が前に出た。
 剣技では勝てる見込みはない。だったら―――

「《白光烈波フォトンストライク》!!」

 ありったけのパワーをぶつけるのみ。
 溢れ出る光は、もはや刃と呼べる形をしておらず、荒々しい光が吹き出ているといった感じだ。目の前の気にらないムカつくコートやろう目掛けて、高貴は思い切りクラウ・ソラスを叩きつける。

「―――ふっ」

 しかし、黒コートは不適に笑う。あざ笑うかのように小さく笑う。
 攻撃が当たる直前に黒コートがダインスレイヴを地面に突き刺した。すると地面から赤い壁のようなものが出現し、高貴と黒コートの間に聳え立った。約二メートルあまりのその壁は、高貴の視界を塞ぎ、黒コートをその身の向こう側に消してしまう。
 それがどうした。エイルだって壁どころか学校を壊したんだ。俺だって学校を斬った事がある。そんな小さな壁で―――防げるかよ!
 思い切り、光のエネルギーをたたきつけた。
 耳を劈く轟音。ドリルで金属に穴を開けているかのような音が夜に木霊していく。目の前に存在する壁のせいで黒コートの姿は見えないが、この向こう側にあいつは必ずいる。この腹立たしい魔力の感じは二度と忘れられそうにはないからはっきりとわかるのだ。
 段々とクラウ・ソラスの光が弱くなっていく、しかし同時に紅い壁も削れていく。その証拠に白い光に混じって紅い欠片のようなものが周囲に散っているからだ。
 もう少し、本当にもう少しだ。削れ。もっともっと削れ。削って削って削りまくって―――このまま一気にぶち壊せ!

「う……おお――――っ!!」

 がしゃあん!! と、ガラスの砕けるような音があたりに響き渡った。紅の障壁は白き光によって粉々に砕け散り、その向こうに黒コートの男が立っている。
 それは破壊というよりは、相殺という表現が正しい。赤い壁が砕け散るのと同時に、クラウ・ソラスの光も消え去ってしまったからだ。高貴の体からさらに力が抜けていく。全ての力を、そして魔力を使い果たしてしまったかのような感覚だ。あと一撃。あと一撃あれば目の前の男に攻撃が届くのに。
 表情はわからないが、はっきりと確信できている。黒コートは今驚いていると。きっと自分の出した壁が壊されるなんて少しも思っていなかったのだ。
 ざまぁみろ、一泡吹かせてやった。でもせめてもう一撃。まだ真澄を泣かせた分をやり返していない。けどもう力が残っていない。もうここまでか。

「え……?」

 そう思った時、体の内から力が溢れてきた。ほんの僅かだが、魔力が体の内から沸いてくる。いや、流れてきている。この感覚を高貴は知っていた。以前も絶体絶命のピンチに陥ってしまった時に、こうして力を貸してくれた存在がいる。
 そうだ、俺にはヴァルキリーがついている。

「もういっちょおおおお――――ッ!」

 クラウ・ソラスに再び光が宿り、白い光が溢れ出す。《白光烈波フォトンストライク》。先ほどよりは威力が弱まっているが、剣を振りおろしていたその体制から、今度は一気に切り上げる。
 その一撃を、黒コートはダインスレイヴで受け止め―――

「―――!」

 受け止めきれない。衝撃をまったく殺す事ができず、黒コートは後ろに吹き飛んだ。ロングコートの裾の部分が僅かに吹き飛び、膝を地面につきながらなんとか着地する。

「くそっ! これだけやっても無傷かよ」

 高貴もその場に肩膝をついた。クラウ・ソラスの光も完全に消えている。高貴の全身全霊を尽くしても、目の前にいる男に肩膝をつかせるのが限界だった。
 そう、それが限界だったのだ。高貴一人の力では。

「《土星の陣形サタンスタイル》―――展開セット

 声が、周囲に響いた。
 それは今までの激しい戦いとはまったく無縁の、場違いとも思える優しい声。しかし明確な意思を持った力強い声が高貴の後ろから響いてくる。
 それと同時に黒コートの男を取り囲むように、無数の銀色の矢が次から次へと出現していく。それはまさに土星の輪のような形に広がり、あっという間に黒コートを包囲して逃げ場を塞いだ。
 ああ、そうだった。俺にはヴァルキリーと……スゲー頼りになる幼馴染がついてるんだ。
 高貴の後方で弓塚真澄がアルテミスを構えていた。ギリギリと矢を引き、すでに発射の態勢に入っている。

「おあいにく様、矢の雨は地面に落ちても消えたりしない。こういう使い道が残ってるんだから。てゆーか……わたしは自分の受けた借りは自分で返すタイプなの!!」

 黒コートは周囲を見回すも、どこにも逃げ道は存在していない。《降り注ぐ月の涙ムーンライトティアーズ》とは違って、全ての矢が、それも全方位から黒コートに向けられているので回避は不可能。

「言い忘れてたけど、真澄は怒らせるとスゲー怖いんだよ。テメー運がなかったな」

 安全圏まで退避した高貴が黒コートに向かって言い放つ。そして―――

「《崩落する土星の輪サタンディスチャージ》!!」

 真澄が、黒コート目掛けて矢を放った。それが引き金となったのか、周囲に浮いている銀色の矢が雨霰の如く黒コートに向かって降り注ぎ―――銀の光が弾けた。
 光と衝撃の余波を手で遮りながら、そのあまりの光景に高貴は思わずポカンとしてしまう。

「こいつ絶対に俺より強い」

 その銀の光の中に、微かに黒い影が蠢いている。しかしそれが見えたのは一瞬のみで、すぐに光に溶けてしまった。やがて銀の光が消え去って、グラウンドに静寂が戻ってくる。光のあった場所には何も残っておらず、黒コートの姿はどこにもない。

「……あれ? コート野郎はどこ行ったのかな?」

 真澄が高貴のそばに近づいてくる。

「多分……逃げられた。一瞬黒い影みたいなのが見えたんだ。きっとベルセルクだと思う。きっとベルセルクを呼び出して自分の身代わりにしたんだ」
「マジで? せっかくボコボコにしてやろうと思ったのに」
「まったくだ。まだ一発も殴れてなかったのに……あ、エイルだ」

 校舎のほうを見てみると、エイルが高貴たちのほうに向かって歩いてきていた。黒コートがいないという状況をすでにわかっているらしく、急いで歩いている様子はない。高貴と真澄もエイルに向かって歩きはじめた。

「エイル、あのベルセルクは?」
「……ああ、倒したよ」
「エ、エイルさん。何かすっごく疲れてるように見えるけど……」
「あ、もしかして俺のせいか?」

 黒コートに対する最後の一撃のとき、高貴は確かにエイルの魔力が流れてくるのを感じた。ヒルドの時もそのせいでエイルが眠そうにしていたことを高貴は思い出した。そしてそれは正しかったようで、エイルが高貴に非難のまなざしを向けている。

「君、いくらなんでもがっつきすぎだ。こんなに激しいのは私も初めてで壊れてしまうかと思ったよ」
「変な言い方すんなよ!! だいたいお前だって俺の魔力使ってるだろ」
「私は君のように考えなしに求めたりはしない」
「だからへんな言い方すんなって! しないでくださいお願いします! 真澄もその冷めた目はやめてくれ!」
「……二人とも、仲いいんだね」

 二人のやり取りを呆れながら見ていた真澄がため息を一つついた。

「あ、そうだ。黒コートには逃げられた。まだ一回も殴ってないし、土下座もさせてねーのに」
「ふむ、やはりそうか。しかしあれだけの相手を前にして、全員が無事だった事を考えると私は良かったと思うよ」
「けどやっぱムカつくよなあの黒コート。決めた、家にあるあの黒いコート捨てる。エイルのときといい今のことといい嫌な事しか思い出せない」

 高貴の言う黒いコートとは、エイルと初めて会った時に鎧姿を隠す時に着せたコートだ。結構値段も高かったのでお気に入りだったものの、あのコートのせいで高貴はエイルとヒルドの争いに巻き込まれてしまった。さらに今の戦いのコンボで、もうあんなものは見たくもない。

「うーん、でもやっぱり残念だよね。あいつ《神器》持ってたし。二人は《神器》を集めてるから、あいつのもってる《神器》も当然必要だったんでしょ」
「「……あ」」

 真澄の言葉に高貴とエイルが数秒考え込み、同時に何かに気がついたような声を発した。

「え、どうしたの?」
「……いや……そういえばあいつ、当たり前だけど《神器》持ってたんだよな」
「ふむ……そう……だな……そうだった」
「なに当たり前のこと言ってんの二人とも?」
「いや、ぶっちゃけるとさ……《神器》の事忘れてた。あいつを殴る事しか考えてなかった」
「……は?」
「私もだ。とにかく真澄に土下座をさせることで頭がいっぱいで、《神器》を取り返すことなどすっかり頭になかった」

 高貴とエイルの言葉に真澄が呆然としてしまう。そもそもこの二人の役割は、この町に散らばった《神器》を全て回収する事だ。その《神器》が目の前にあり、にもかかわらずその存在を忘れて真澄のためにこの二人は戦ったという事だ。
 嬉しいような、呆れて言葉も出ないような、複雑な気持ちの真澄は、とりあえず深くため息をつくことにした。

「……ま、まぁ過ぎてしまった事は仕方がない。それよりも私達には大きな問題が残っている」
「ああ、確かに」
「そうだよね」

 戦いが終わり、全員が無事に済んだにもかかわらず、まだ残っている大きな問題。それは当然あれしかない。三人は一斉に校舎のほうに視線を送る。そこには見事な大穴が開けられていた。呆然とする三人の中で、とりあえずヴァルキリーはこう切り出した。

「これをどうやってごまかすか考えよう」



「あのさぁ、こう見えてお姉さんすっごく忙しいのよ。マジなのよ。不眠不休なのよ。そこんとこ二人ともわかってる? なのになんで学校壊したりしちゃうわけ?」
「……ご、ごめんなさい」

 ヴァルキリーが正座でクマのぬいぐるみに説教されているというシュールな光景が、四之宮高校のグラウンドでおこなわれていた。結局のところ、エイルが直せない以上学校の破損をごまかす事などできるはずがなく、できることといえばクマに直してもらう事ぐらいだった。しかしクマは今ヴァルハラに帰っており、こちらに来るには《神器》の力を使うしかない。しかしそれはむやみにやっていい事ではないらしく、予定では明日帰って来るはずが、一日早まっただけなのだが、それでも大目玉を食らってしまったらしい。

「だいたいどうしてよりによってエイルが壊すわけ? この学校はぶっ壊れる宿命にでもなってるの? どうなの死ぬの? なんでお姉さんがいちいちレーヴァテインのご機嫌取りしなくちゃいけなかったの?」
「……ごめんなさい」

 うわぁ、エイルが敬語で謝ってる。つーかクマ怖い。背後に本物のクマのオーラが見える。

「挙句の果てに、《神器》をとり返すのを忘れてたって、一体なんのために戦ったわけ?」
「ふむ、それはあの男が真澄を泣かせたから、土下座させようと思ったんだよ……思いました」
「あの……クマさん? そのことについては、あまりエイルさんを攻めないであげてください。元はといえば二人はわたしのせいで目的を忘れてしまったんですから」

 さすがにエイルが不憫になってきたのか、真澄がエイルのフォローに入った。

「気にしないでいいのよ人間ちゃん。あなたはこの件に関しては完全に被害者……ってわけでもなくなっちゃったのよね」
「あ、そうですね。これがありますから」

 真澄が右手に持っているものをクマに見せる。それは真澄のスマホについていた三日月のストラップ、《星弓アルテミス》だ。先ほどまで弓の形になっていたものだが、戦いが終わって今はストラップの形に戻っている。

「てゆーかそれが《神器》だったのかよ。いくらなんでも予想外すぎだろ」
「うーん、今は特別な魔力どころか、魔力自体を感じないわ。冬眠状態とか、仮死状態みたいなものかもしれないわね。ちなみにそれはどこで手に入れたの?」
「えっと、知人のお店で買ったんです」
「……は?」
「いえ、ですから。お店で買ったんです。380円で」

 唖然。それ以外のどんな言葉で今のクマの気持ちを表現できるというのだろう?

「ちょ、ちょっと待って。店で買った? なにそんなゲームの鉄の剣みたいな感じで買えるわけ? しかも380円? ヴァルハラでは《神器》に値段なんて付けられないのに……そ、そもそもどうしてそのお店の売り物になってたの?」

 クマの質問に「少し待ってて下さい」と言って真澄が目を閉じた。おそらく心の中で《神器》と対話をしているのだろう。しかしそんなに簡単にできるのだろうかと高貴は疑問に思っていた。自分はいつ試してみても、クラウ・ソラスは何も応えてはくれないのだから。

「えっとですね。美月さんのお店に売り物になったのは偶然だそうです。前の持ち主の所から逃げ出してきて、適当にさまよってたら美月さんの小物入れの中に入っちゃったみたいで、それを美月さんがストラップにして売り物にしたみたいですね。と言っても紐をつけただけみたいですけど」

 案外あっさり対話できたらしい。

「もしかして美月さんって《神器》の持ち主なのか」
「いや、それはあまり考えられないな。わざわざ手に入れた《神器》を売り物などにして手放すとは考えにくい。しかも380円でね。待てよ、もしくは《神器》だということに気がつかなかったという可能性もあるか」
「ちょっと待ってね……美月さんは多分《神器》の存在なんて知らない一般人だってアルテミスが言ってる。《神器》の中にはアルテミスみたいに、休眠状態のときに別のものに変化するものもあるみたいです。使用者の呼びかけに応えて戦闘状態に移行するらしいよ」
「アルテミス? それって確か実在する女神の名前ね。もしかしてその弓ってアルテミスの弓なのかしら?」
「……そうみたいです。自分の名前は女神アルテミスが自分の名前とってつけたと言ってます」
「ふーん、その女神ってどんな女神なんだ?」
「ふむ、ギリシャに実在する月の女神だよ。ギリシャの法律に一妻多夫制を付け加えた事で有名だな」
「その法律を自分自身で体現する為に、男を囲って暮らしてるって話よ。しかも子沢山ですって」

 ただのビッチじゃねーのか?

「って待てよ、じゃあそれってギリシャの《神器》なのか? だったらもしかして……」

 高貴が何を考え付いたのかエイルとクマも理解したらしく、二人そろって真澄の顔を見上げる。

「真澄、アルテミスを以前持っていたという人物が誰だか聞いてみてくれないか。それはもしかして私達の探していた《神器》かもしれない」
「え、いいけど。……その……身長とおっぱいの小さいヴァルキリーらしいけど……」
「あいつだ」
「ヒルドだ」
「ヒルドね」

 コンマ一秒のずれもなく三人だ同時に口を開いた。特徴としては十分すぎる証言だ。と言う事は、ヒルドがなくしてしまったギリシャの《神器》というのは、今真澄の手にある《星弓アルテミス》で間違いないということだろう。エイルが笑顔を浮かべて、正座をしながら喜びだした。

「クマ、早速連絡しよう。ヒルドの失くした《神器》が見つかったから、ヒルドのお仕置きを軽くしてほしいとな」
「いーけど、なんか思ってたよりもあっさり見つかったわね。こういうのは残り一日になってギリギリで見つかるってのが定番じゃないの? 空気読んでよ人間君」
「テメーは最悪だな」

 人の命を何だと思ってるんだこのクマは。つーかエイルはその事を知らないんだからむやみやたらに言ってんじゃねーよ。

「さて、とりあえず人間ちゃん、今はまだアルテミスを持っててもいいけど、多分ギリシャから申請が来ると思うから、その時は悪いけどアルテミスを返してもらう事になると思うわ」
「あの……その事なんですけど、私もエイルさんと高貴を手伝っちゃ駄目ですか?」

 真澄の言葉に一瞬だけクマの身にまとう空気が変わった。高貴とエイルの表情もいささか険しいものとなる。

「ねぇ人間ちゃん、それ本気で言ってるの? これからも危険に巻き込まれるって言う事なのよ。その覚悟があるの?」
「はい、あります。アルテミスにも同じような事を言われました。でも友達が危険な目にあってるのに、何もできないなんて嫌なんです。友達とは同じ所に立っていたいじゃないですか。それに―――」
「それに?」
「……こう言ったらなんですけど、この二人に任せとくのが不安になってきたんです。いつまでたっても四之宮が危険なままになるんじゃないかなって」
「おい、なに言ってんだ真澄!」
「わ、私はヴァルキリーだぞ!」
「実はお姉さんも同じ事思ってたのよ。ギリシャの許可が下りたら、アルテミスはそのまま使ってもらって構わないと思うわ」
「クマ! テメーもか!」
「私はヴァルキリーだぞ!」

 高貴とエイルがどんな反論をしても、真澄とクマの意見はまったく変わらないらしい。そもそも《神器》の持ち主が目の前に現れたにもかかわらず、回収する気がなくて戦っていた等と言ってしまっては仕方がないだろう。しかしそこが高貴とエイルのいいところであることもちゃんと真澄は理解している。

「今聞いた趣味の悪い黒コートの男については、こっちでもいろいろと調べてみるわ。といっても反応はすぐに消えたし簡単にはいかないだろうけど。ダインスレイヴのことも一応調べられるだけ調べてみないといけないし……あ、その前に学校修理しないといけないわね。はぁ、お姉さんマジで忙しい。少しはお姉さんを癒してよ人間君」
「悪いけど俺ぬいぐるみの癒し方とか知らないから」
「思いっきり踏んでくれるだけでいいわ!」

 しばらくクマに触るのはやめておこうと高貴は固く誓った。

「まぁ、あれだよな。そんなに忙しいにもかかわらず、学校直すためにすぐに来てくれたことにたいしては感謝してるよ」
「ぶっちゃけちゃうとめんどくさかったんだけどね。でも極力この世界を優先するようにって言うのが上の判断なのよ。そうでもなかったらこの町全部焼け野原にしてでもさっさと《神器》を集めたほうがいいに決まってるわ。それでもいいのなら上のほうにそう提案するけど」
「「やめてください!!」」

 高貴と真澄の必死の言葉に「そうでしょ」とすました顔? でクマが答える。しかし今いった事を実行すれば、《神器》は簡単に回収できるにもかかわらず、それを実行しないということは、ヴァルハラは四之宮の事を確かに優先的に考えてくれているようだ。
 ふと真澄のほうを見てみると、彼女はなにやら考え込んでいるような表情を見せている。

「真澄、どうかしたのか?」
「え? あ、別になんでもないよ。ただアルテミスって月の女神なんだなって思って」
「ああ、そうらしいな」
「うん、月の女神……月の女神かぁ……なんだか悪くないね」

 なぜだか知らないが、真澄はどことなくうれしそうな表情になっている。別に自分が女神になったわけでもないのに、どうして喜んでいるのかが高貴にはわからなかった。そもそも真澄は月の女神だなんて呼ばれても喜ぶとは思えないのだが。そんなことを考えていると、何故か真澄とは対照的に不機嫌そうな表情でエイルが高貴を見あげている。

「どうかしたのかエイル? 正座が辛くて不機嫌ならそろそろ立ってもいいと思うけど」
「……なんでもない」
「いや、そうは見えないけど」
「なんでもないと言っているだろう。月館高貴君」
「なんでフルネーム?」

 相変わらず正座のまま不機嫌そうにしているエイル。そんなに辛いならさっさと立てばいいのに。そんな二人のやり取りを、なぜだか楽しそうにクマが見ていることに高貴は気がつかなかった。

「よし、じゃあ帰るか。あ、夕飯の弁当も買ってかないと……財布もって来てねーや」
「任せろ高貴、私のおっぱいの谷間には常にブラックカードがはさんである」
「コンビニでそんなもん使うな! つーかそんなところにしまうな!! バカかお前は!?」
「バカではない、私はヴァルキリーだ」
「……エイルさん、それ好きだね。てゆーか見たいドラマがあったのにもう始まってるかも。こんな事なら録画しておけばよかった」

 真澄がため息を一つついた。ついさっきまで生きるか死ぬかのレベルの戦いをしていたにもかかわらず、そんな日常的なことを気にする事ができるとは、真澄は案外大物なのかもしれない。

「真澄、9時からのドラマなら私が録画をしている。何ならこれから家に来て一緒に見るか?」
「え、いいの? 行く行く」
「おい、俺んちだからな」
「細かい事気にしないの、お姉さんも学校直し終わったら家帰るから、お菓子の準備でもして待っててね」
「だから俺んちだからな!」

 もはや完全に高貴の部屋を自分の部屋だと思い込んでいるヴァルキリーとクマに、高貴の声はまったく届く事はなかった。もはや半分諦めムードで、せめてもの仕返しに高い弁当でも買ってもらおうなどと考えながら高貴は校門に向かって歩き出す。真澄もその後ろに続いたが、エイルは正座したまま一向に立ち上がる気配はない。

「エイルさん、どうしたの?」

 真澄が声をかけると、エイルは少し照れるように苦笑した後、弱々しく口を開いた。

「……足が痺れてしまったらしい」
                                             ――――――ヒルド・スケグルの処刑まであと三日(まだ報告していない為)



[35117] チョロイ男
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/14 16:14
 黒コートとの戦いから一日たった。
 真澄がアルテミスを手に入れて、高貴たちに協力する事になったとは言っても、劇的に変わった毎日の他にもいつもと変わらない毎日も存在しているので、高貴も真澄も、当然エイルも普段どおりに学校に登校し授業を受けた。
 真澄は特に変わった様子はなく、本当にいつも通りと言った感じだ。強いて言うのなら、元々中のよかったエイルとさらに仲がよくなったように見えるくらいのことだろう。その証拠に、いつもならば高貴と一緒に帰ろうとするエイルが、今日は真澄と二人だけで帰っていった。さらに何か二人ですることがあるといっていた。
 とてもいい傾向だ。
 本当にとてもいい傾向だ。
 エイルのいない下校とはこんなに静かで心安らぐものだったという事を、高貴はしみじみと感じながら下校した。多少静か過ぎる気がしたが気のせいだろう、寂しいなんて思っていない。そもそも同年代ので同じ女の子の真澄と仲良くなるのは、エイルのことを考えてもとてもいい事だろう。正確には年齢不詳だが。
 そんなこんなであっという間に寮についた。今日はこの後マイペースでバイトだが、少しゆっくりしてから行こうと思いドアに手をかけると、ドアの鍵が開いていることに気がつく。もしかしたらエイルが帰ってきているのかもしれないし、昨日のように真澄が遊びに来たのかもしれない。
 昨日は結局真澄も高貴の部屋に来て、録画したビデオを見ながらの遅い夕食を全員で食べた。戦いによる疲れのものなのか、ソファーに座っていた二人が途中で眠ってしまい、さすがに真澄をとめるのはまずいと判断した高貴は、少し罪悪感を感じながら二人を起こして、真澄だけは帰らせたのだった。おかげでドラマは途中までしか見ていないため、部屋でそれを見ているのかもしれない。
 玄関に入ると、やはり真澄の靴も存在している。やっぱり二人でドラマの続きを見ているのかもしれない。だったら邪魔をしないように静かに入ったほうがいいだろう。そんなことを考えながら高貴は居間の扉を開けた。
 開けた瞬間、高貴は自分の目を疑った。

「ねえエイル、ほとんどの本が巨乳のジャンルになってるよ。やっぱり高貴がロリコンだって線は捨てたほうがいいかも。逆に年上のお姉さんとかが好きなんじゃないかな?」
「ふむ……こっちの本には様々な衣装を着た人たちが載っているぞ。これはいわゆるコスプレというやつではないのか? ほら、神に仕えるはずなのにいけないことばかり考えている私をお仕置きしてください、と言っている」
「うわぁ……シスターさんが……巫女さんが……うわぁ」
「こっちのほうには漫画があるぞ……ふむ、おっぱいとはこのようにして使うのか。しかし現実的に考えて、こんなにしっかりと挟めるのだろうか? 私のおっぱいでは……いや、相手にもよるのか? ふむ、……これは……」
「え、どれどれ? ……う、うーん漫画だからセーフ、いやアウト? エイルはどう思う?」
「ふむ、無理やりはよくないと思うよ」

 唖然そして呆然。鳩が豆鉄砲を食ったような顔に高貴の顔が変形した。一体この二人はなにをしているのだろう?
 いや、何をしているのかはわかっている。わかりきっている。わかりきっているからこそ一体この二人はなにをしているのかを理解したくないのだ。簡潔に言ってしまえば、ベットの上でヴァルキリーと幼馴染が本を読んでいる。
 ただの本ではない、エロ本をだ。しかも高貴のエロ本をだ。
 それはもう興味津々と言った様子で、より取り見取りに広げている。よほど集中しているのか、高貴が入ってきた事にもまったく気がついていない。なんだか少し前にも似たような事があったような気がしてきた。
 ああ、むしろ豆鉄砲ではなくマシンガンでも食らった顔になれば、この光景を見ずに済んだのだろうか? いや、しかしそんな現実逃避をしても仕方がない。とりあえず高貴は二人に声を欠けることにした。

「おい、なにしてんだ?」

 ビクッとベットの上の真澄の体が震えた。そのまま恐る恐る高貴のほうに視線を移す。いっぽうエイルは特に戸惑った様子もなく高貴のほうに視線を向けた。二人とも視線は本から離れたが、その手は本からまったく離れない。黙った高貴の代わりに口を開いたのはエイルだった。

「おかえり高貴、何をしているのかと聞かれれば、本を読んでいると答えるよ。見てわかるだろう?」
「……なんでその本……」
「あ、わたしが見つけたの。エッチな本の隠し場所がベットの下って定番過ぎるかなって思ったんだけど、本当にあったからビックリしちゃった」
「探してんじゃねーよ! なんで人の部屋のエロ本あさり勝手にしてんだよ!!」
「と言うより、君もこういう本を持っていたんだな。まったく気がつかなかった。てっきり女性には興味がなくて男性が好きなのかと思っていたよ」
「んなわけねーだろ!! テメーやクマに見つかると面倒だから今まで隠してたんだよ!!」

 そう、高貴は今までベットの下にある本のことをひたすらに隠していたのだ。その手の話題を決して出さず、そういうものをもっているとまったく思わせず、最大の注意を払ってエイルと生活してきた。

「だったらさっさと燃やせばよかったじゃん」
「常に部屋にエイルかクマがいたから暇がなかったんだよ! つーか本当になんで人のエロ本見てんだよ!?」

 声を荒げる高貴に対して、あくまで通常運転で二人は答え始める。

「まず、わたしも高貴とエイルの手伝いする事になったでしょ」
「ああ、つーかいつの間に呼び捨てにするようになったんだ?」

 昨日まで真澄はエイルを呼び捨てにしていなかったにもかかわらず、今は普通に呼び捨てにしている。確か以前に、呼び捨てにしにくいとか言っていた気がするが、エイルの本質を知ってその考えがなくなったのかもしれない。

「ついさっきから。てゆーかそんなの気にしなくていいじゃん。ね、エイル」
「ああ、そうだな。話を戻すが、私達はこれから互いに助け合っていく仲間だと言う事だ」
「確かに」
「だから、高貴の性癖を知っておこうと思って」
「はい待ておかしいだろ!? どこをどうしたらそういう結論が出てくるんだよ!?」
「ふむ、真澄がベットの下を覗いたらこういう結論に……」
「やっぱテメーかこの野郎!!」
「その……えっと……つまり……あ、あんたが悪いのよ!!」

 なんで逆ギレ? 何で俺が怒られてんの?

「だ、だいたいこんなにいやらしい本を持ってるなんて、ほんっとに男ってサイテー! しかもエイルがいつも寝てるベットの下に隠すなんてありえないっつーのこのド変態!」
「エイルが来てそうそうベットを占拠したんだよ!」
「ま、まぁ落ち着け二人とも。真澄、高貴も年頃の男性なのだから、こういう本を持っていても仕方がないし、むしろ正常な事じゃないか」

 言い争う高貴と真澄をエイルが落ち着いて諭し始めた。その目は軽蔑でも羞恥でもなく、ひたすらに平常運転のエイルの目だ。
 やめて。その「私はわかっているよ」見たいな目はマジでやめて。なんでそんな家族にエロ本見つかった見たいな感じになってんの? なんでそんな姉貴にエロ本見つかったみたいな感じになってんの? 俺一人っ子だからわかんねーけど。

「しかし高貴、私のおっぱいには常にブラックカードが挟まれているから、この本に載っているようなことは出来ないと思うのだが、その場合はどうすればいいのだろう?」
「黙っとけド天然!!」
「エイルは喋るの禁止!」

 こいつわかってねー! わかったような目をして何一つわかってねー! 家族や姉貴は絶対にそんなこと言うはずがねーっつーかそんなこと聞くな!
 エイルは二人に怒鳴られてふてくされたようにすねてしまう。ああ、本当に頭が痛い。真澄は本当に何をしにきたのだろう?

「つーか真澄さ、もしかしてエロ本あさりに来たのか?」
「そ、そんなわけないじゃん。最初はエイルと一緒にドラマを見ようと思ってたんだけど、クマさんからわたしがアルテミスを使う許可が取れたって連絡が来たの」

 真澄がスマホを取り出して高貴に見せる。そこにはストラップの形に戻っているアルテミスが付けられていた。昨日の戦いのあと、真澄のスマホはクマが治してくれたようで、本人としてもかなり喜んでいる。

「それで何となくベットの下を漁ってたらこの本を見つけたわけ」
「だからそこにいたるまでの過程はどうなってんだよ。つーかなんとなくで人のベットの下を漁んないでくれ……」
「うるさい! こんなにエッチな本を……しかも巨乳ばっかり、そんなに巨乳が好きなの!?」

 大好きです。とはもちろん声には出せなかった。

「だいたい高貴はいつもいつも俊樹と一緒に巨乳巨乳ってうるさいし、詩織さんの胸には見とれるし、エイルの胸にだって見とれてるし、《神器》のこととか隠してたし、エイルと同棲してるし、わたしのスタイルが貧乳だとか言って来るし……」

 まずい、非常にまずい。何がスイッチになったのかはわからないが、真澄の機嫌が非常に悪くなっている。このままでは一週間ぐらいは毎日グチグチと言われ続ける日々を過ごさなくてはいけないかもしれない。そんな平穏じゃない日々はごめんだ、ここは手を売っておこう。

「わ、悪かったよ! お詫びにケーキでもおごるからさ」
「……わたし、ケーキで買収されるほど安い女じゃないの。そんなことで傷ついた乙女心は治んない。まぁせっかくだから奢ってもらうけど」

 乙女心安っ。つーか普通に買収されてるし。

「……マイペースのいちごどっさりショートケーキを三個で許してあげる」
「さ、三個ですか?」

 安いと思っていた女心の修理代は、思っていたよりも高かった。イチゴどっさりショートケーキとは、マイペースで一番高いケーキの事だ。名前の通りイチゴを沢山使ったケーキで、680円と高額だが人気は高い。今回は680円を三つで2040円。野口先生が二人もいなくなってしまうが、ここで真澄の機嫌は損ねたくはない。
 なにより、真澄の嫌味は結構心に突き刺さるので、どうせ話すなら普通の会話を楽しみたいのだ。

「わかったよ、今度奢る」
「今日これからバイトでしょ、その時奢って貰うから。じゃあわたし制服から着替えたいしいったん帰るね」

 そう言って真澄がベットから立ち上がる。ついさっきまでは不機嫌そうな表情だったにもかかわらず、真澄の表情はすでにやわらかいものとなっている。それほどまでにケーキが嬉しかったのだろうか。

「真澄」

 部屋から出て行こうとする真澄の背中に声をかける。真澄はすぐに「なに?」と振り向いた。

「今更だけど、《神器》のこと本当によかったのか?」
「またその話? 今日休み時間も含めて何回も確認したでしょ。もう決めた事だから。わたしは高貴と違って自分で選んだんだから後悔なんて絶対にしないし。それにこれでやっと二人の隣に立てるんだから」

 本当に、真澄の目にはまったく迷いがない。自分とは大違いだ。この幼馴染は自分で考えていた以上に精神的に強い人間だったらしい。それにやっと隣に立てるなどと言われたら、これ以上高貴は何も言う事ができない。

「わかったよ、これからよろしく」
「……ねぇ高貴、わたしを巻き込みたくなかったのは、わたしのこと心配してくれたから?」
「え? ……まぁ、そうだけど」

 面と向かって聞かれるとさすがに恥ずかしくなってしまい、思わず顔をそらして高貴はそう言った。これはまたグチグチといわれるパターンだ。よけいなお世話だの、自分の身は自分で守れるだのいろいろと言われるに違いない。
 しかし意外な事に、真澄は高貴に対して何も言ってこない。ただ少し顔を赤くして「ふ、ふーん」とおちつかなそうにしている。熱でもあるのかもしれないと心配した高貴が声をかけるよりもはやく、その幼馴染は、

「……ありがとうね」

 そう言って、高貴に笑顔を見せた。
 その時の真澄の顔は本当に嬉しそうで、そんな表情を真っ直ぐに向けられた高貴は、再び真澄から視線をそらしてしまう。

「お、おう」
「じゃあまた後で、バイト遅れないでよ」

 最後にそう言って今度こそ真澄は部屋から出て行った。一体何があったのだろう? あんなに嬉しそうな真澄を見るのは久しぶりな気が……むしろ真澄にあそこまで真っ直ぐに感謝された事自体が久しぶりだ。自分も嬉しくなって思わず顔がにやけてしまう。

「ずいぶんと……君……嬉しそうじゃないか」
「うわあぁっ!!」

 真澄の声とは違って、とてつもなく不機嫌そうな声が高貴の耳に入ってくる。忘れていた。この部屋にはもう一人いるということを高貴は完全に忘れていた。いまだにベットに座っていたエイルが不機嫌そうに高貴を見ている。

「喋るなというから黙っていたら、二人で私を無視してずいぶんと楽しそうだったな。というよりも君、真澄にはなんだかとても優しくないか?」
「べ、別にそんなことねーだろ」

 高貴は立ったままだったのでソファーに座った。そんな高貴をエイルがいまだにジト目で見ている。

「そういえばクマから伝言を預かっている。ヒルドの事はもう心配ないそうだよ。きっとアルテミスが見つかってお仕置きも終わったんだろう」

 デスペナルティ回避完了。本当に真澄様様だ。これで残る問題は一つだけ。

「エイル、真澄が協力してくれる事になったんだから、俺の部屋じゃなくて真澄の部屋に泊まったらどうだ? 真澄のとこなら引越しの手続きとかもいらないだろ」
「君、またそんなことを言っているのか」
「それに真澄とならエイルも寂しくないだろうし、やっぱりいろいろと問題はあるだろ?」
「ふむ、そうだな。君も人並みに興味のある人物だという事は理解したからね」

 片手でエロ本を持ちヒラヒラとさせながら、エイルが高貴にそう言った。すぐさまその本を高貴はエイルの手からひったくる。やはり何度考えてもエイルと一緒というのは常識的に考えればいろいろとよくない。
 エイルはベットの上でしばらく考えるような仕草をしていたが、やがてベットから降りると高貴の目の前にたった。と思ったら、ソファーに、つまりは高貴の隣に腰掛けた。このソファーは二人用なので、二人座っても大丈夫だが、高貴はエイルと一緒にこのソファーに座った事はない。自分の左隣にエイルがいる。肩と肩、膝や太ももなども触れ合っており、エイルの女の子特有の香りが鼻をくすぐる。
 いきなりの事に高貴は石像のように硬くなってしまったが、それとは裏腹に柔らかい動きでエイルは高貴に顔を近づけた。

「高貴」
「は、はい!」
「私は……君と一緒がいいんだ。ダメか?」

 それはまるで、子供が親に甘えるような、いや、恋人が甘えてくるような表情だった。上目使いで、何かを期待するような弱々しい顔。ヴァルキリーとしてではなく、一人の女の子としてのエイルが目の前にいる。これは反則だ。こんな顔をされてしまったら、

「……ダメじゃ……ない」

 そうとしか言える訳がない。

「ありがとう。やはり君は優しいな」

 あー、スゲーかわいい笑顔。俺ってこんなにチョロかったのか。

「ふむ、状況は違ったが、おねだりとはこうするのか。あの本の知識は役に立つな」
「え、なんか言った?」
「いや、なんでもない。それにしても君、そんなに私を追い出したかったのか? こうも何度も言われるとさすがにショックだよ」
「あー……怒ってる?」
「もちろんだ、私は怒っているぞ。やはり君は真澄には優しいが私にはあまり優しくないような気がするな。なんだか気分が悪い。君はもっとヴァルキリー心をよく学んだほうがいい」
「いやそんな心の存在しらねーし。まぁ悪かったよ。そうだ、エイルにもケーキおごるからさ」
「……私はケーキで買収されるほど安いヴァルキリーではない。しかしせっかくだから君の好意は受け取っておこう」

 ヴァルキリー心安っ。つーか真澄といいエイルといいどんだけケーキ好きなんだよ。

「そうだな……確かモンブランとチーズケーキがあったな、あれを一つずつ」
「二つか……わかったよ」

 モンブランは一個450円。チーズケーキは480円なので、あわせて930円の計算だ。乙女心の修理費よりはたいぶ安い。しかしそんな希望を打ち壊すように、ヴァルキリーは言葉を続けた。

「それを一週間分だ」

 高貴の血の気がサッと引いた。一週間分と言う事は、930円の7日分という事で、6510円の計算になる。乙女心の修理費の約三倍。野口先生がらいちょう先生に花を渡して、世界遺産にデートに行ってしまうレベルだ。
 しかし、奢ると言ってしまった以上はもはや後戻りはできない。何より期待に満ちたエイルの顔を見ると、絶対にダメだなんていえるはずもない。故に「わかったよ」と苦い表情で高貴は言うしかなかった。
 財布がだいぶ寂しくなってしまうが仕方がない。どうやらヴァルキリー心とは、乙女心よりも高くつくらしい。
 
                                             ――――――ヒルド・スケグルの処刑中止(お仕置きは続行中の模様)

 第二章終了



[35117] 第三章 帰ってきたヴァルキリー
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/18 08:48
 見慣れた風景の中に、一つだけ見慣れない存在があった場合、いったい人間はどんな顔をすればいいのだろうか?
 この場合見慣れた風景とは自分の部屋のことを指す。つまりは四之宮高校二年四組に通う、月館高貴の部屋だ。高貴はここ最近自分の部屋で信じられないような光景を二回も目の当たりにしている。それは例えばベットの上で仁王立ちしているヴァルキリーであり、ベットの上にエロ本を広げて熟読している幼馴染の事だ。
 二度あることは三度あるというが、学校から帰宅した高貴の目の前ではまたもや信じられないような光景が広がっているのだ。それは何回経験しても慣れるはずがなく、むしろ慣れたいとも思わない。と言うよりも二度と起こらないでほしい。平穏がほしい。一体何が悪かったのだろう? このベットは呪われていて、災いを呼び寄せる魔術でもかけられているのかもしれないとすら高貴は思ってしまう。
 今回の信じられない光景は、またもやベットが関係していた。しかしベットの上には誰もおらず、ヴァルキリーが仁王立ちしているなどということもない。今回問題があるのは上ではなく下の方なのだ。
 ベットの下から、人間らしき下半身が生えている。
 ……うん、いやマジでなんで?
 間違いなくそれは人間の下半身だ。それ以外の言葉では表現できない。しかし高貴はベットの下で人間の下半身を栽培するような趣味はない。
 待て、落ち着こう。冷静に判断しよう。高貴は心の中で自分に言い聞かせた。とりあえず目の前にあるのは間違いなく下半身だ、上半身はまったく見えない。と言う事は、この光景の正体は、誰かがベットの下に潜り込んでいると言う事なのだろう。だからこそ上半身は見えないのだ。謎は解けた。しかしその謎は新たな謎を呼ぶ。こいつは誰だろうと言う謎だ。
 観察開始。見た感じその足はどことなく女性的なラインだ。いや、女性というよりは女の子だろうか? 掃いているソックスといい、ショートパンツといい、この人物の性別はおそらく女。

「ちょっとクマ。どこにもエロ本なんてないじゃない。あるのは埃ばっかよ」
「おかしいわね、この前人間ちゃんがエイルと一緒に読んだって聞いたんだけど」

 ベットのしたから声が聞こえてきた。片方は聞き覚えのある声、もう片方はここ最近毎日聞いている声。と言うよりも今の会話で謎はすべて解けた。
 こいつ、エロ本漁ってやがる。
 その女は両足をパタパタと動かして、どこか楽しそうに他人のベットの下を漁っているのだ。そして高貴は思い出した。いや、思い出してしまったのだ。どこか聞き覚えのあるその声の主の正体を。なんでこんな事をしているのかと呆れつつ、いつまでも勝手にさせるわけにもいかなかったので、高貴は嫌々ながらも声を絞り出す。

「……おい、何してんだよ?」

 ビクッと、女の下半身が跳ね上がった。

「え!? だ、誰!?」

 ベットの下から声が聞こえた瞬間に、ごんっ!! と鈍い音が響いてベットがわずかに揺れた。おそらくは慌てて出てこようとして、ベットに頭をぶつけたのだろう。ご機嫌そうに動いていた足の動きもピタリと止まった。「う~~……」などという恨めしそうなうめき声がを出しながら、ベットの下の女がだんだんとその姿を現してくる。
 出てきた人物は、高貴が予想していた通りの少女だった。自分よりも少し年下に見えるが年齢不詳。肩まである鮮やかな赤い髪。ベットの下のに頭をぶつけたせいで、その目は多少涙目になっている。その涙目で、少女は座ったままキッと高貴をにらめつけた。
 間違いない、彼女はエイルと初めてあった日に会ったもう一人のヴァルキリー。高貴が《神器》であるクラウ・ソラスを使って初めて戦ったレーヴァテインの持ち主。
 その名は―――

「……えっと、名前なんだっけ?」

 忘れた。その存在は覚えているのだが、どんな名前なのか高貴は忘れてしまっていた。そんな高貴の言葉に、目の前に座る少女は大きなショックを受けているようだが、勢いよく立ち上がると高貴を指差しながら答えた。

「ヒルドよヒルド! ヒルド・スケグルよ! なんであたしに殺されかけたくせにあたしの名前忘れてんのよ!?」
「ああ、そんな名前だったっけ。なんかあんたのイメージって、レーヴァテインとか危険人物とかってイメージが強いからさ。それに最近エイルも名前出してなかったから忘れてたんだよ。つーか自分で言うか?」

 そもそも高貴にとってトラウマとして強く残っているのは火であり、ヒルドのことはたいして怖いとは思えなくなってしまっているようだ。涙目の今の姿を見てしまえばそれはなおさらだ。せいぜい中学生が泣いてるくらいにしか思えない。

「あ、人間君だ。おかえりなさ~い」

 ベットの下から熊のぬいぐるみが姿を現した。自称おとなのお姉さんであり、どう見ても子供のおもちゃでしかないクマだ。ベットの下のほこりがついたのか、犬のように体を震わせて埃を落としている。というよりもやめてほしい。後で掃除をしなければいけないのだから。

「人間君、エイルは一緒じゃないの?」
「ああ、なんか真澄のとこによって来るってさ。つーかお前ら二人何してんだよ? なんでこいつがここにいるんだよ?」
「こいつって言うな!!」
「落ち着いてヒルド。まずはキチンと説明しないといけないわ。と言うことで―――いきなりですが真面目な話に入りましょう。とりあえず座ったほうがよろしいかと思われます」

 クマの口調が真面目モードに切り替わる。クマの言うとおり立ったまま話を聞くのもどうかと思い、高貴はソファーにこし掛け、ヒルドはベットの上に座る。何と言うかエイルといいヒルドといい、あまり面識のない男のベットにこうも軽々しく座れるものなのだろうか? そんなことを思ってヒルドのほうに視線を向けると、思い切り睨み返されてしまった。

「まず、一ヶ月ほど前になりますが、ヒルド・スケグルがギリシャの《神器》を紛失した事により、彼女は死刑判決を言い渡されました。しかし、この世界の四之宮高校二年四組出席番号37番の弓塚真澄がその《神器》である《星弓アルテミス》を発見しました。彼女がアルテミスの持ち主となり、ギリシャに《神器》が戻る事はなくなりましたが、ギリシャの失われた《神器》を探す為にと使用の許可を得て、死刑判決も撤回。その結果、ヒルド・スケグルの処罰はお仕置きのみと言うことになりました」
「うん、それは聞いた」

 確かに一ヶ月ほど前、六月のはじめくらいの時の事だ。黒コートと戦った時に真澄のがアルテミスの持ち主となって力を貸してくれることとなった。今思えばあの黒コートは、アルテミスを手に入れるつもりだったのかもしれない。ベルセルクを自在に操れるなら、ストラップ状態のアルテミスでも《神器》だとわかったかもしれないからだ。

「そして先日そのお仕置きが終了し、ヒルド・スケグルをもともとの任務に戻す事が決定しました。つまりは今現在エイル・エルルーンが行っている、四之宮に散らばった《神器》の回収です。どうして彼女がここにいるのかという質問の回答は、あなた方の助っ人として送られてきたということになります」
「……マジで?」
「マジです」
「残念ながらマジなのよね」

 マジらしい。
 大きくため息をつきながらヒルドは、両手を後ろについて脚をパタパタと動かし始める。ヒルドの実力はエイルと大体同じくらいだろう。それに加えてレーヴァテインを使えるとなると、戦力的にはかなり頼もしい存在だ。しかし、それは戦力的に考えた話であり、実際は気まずい事この上ない。

「え、えっと……」
「なによ?」
「いや……これからよろしく」
「……ふーん、それだけ? あー痛かったわぁあの時の攻撃。それに校舎から落ちた時とかぁ。てゆーか校舎を斬ったあれって、あたしがかわさなかったら死んでたわよねー。あたしはさぁ、ちゃ~んと死なないように手加減してあげたんだけどなぁ~。なのにこーんなか弱い乙女に対して二人係りでタコ殴りなんて、人間としてどうかと思うんだけどー」
「う……」

 どこがか弱いんだよ、とは心の中でしか言えなかった。まさかヴァルキリーに人間としてなどといわれるとは思っていなかったが、今ヒルドが言った事はおおむね正しい。
 確かに高貴はヒルドと戦って、下手をすれば殺されかけた。それは紛れもない事実だ。しかしそれは逆に、高貴もヒルドを殺しかけてしまったと言うことになる。今ヒルドが言ったように、校舎を斬った時の光刃円舞ライトサークルなどは当たっていたら、いや、かわしてもらわなかったらヒルドは死んでいただろう。
 初めての戦闘で加減などまったくできなかった状態だったとはいえ、さすがに殺してしまうなど絶対にごめんだ。だからこそ白光烈波フォトンストライクのような技が使えたのかもしれない。気まずい沈黙を破ったのは、真面目モードが解けたクマの言葉だった。

「気にしないでいいわよ人間君。こんな事言ってるけど、ヒルドは人間君にもちゃんと感謝してるから」
「感謝?」
「そうよ。だって人間君たちがアルテミスを見つけてくれなかったら、ヒルドは今頃デスペナルティだったもん。こっちに来る前はぶつくさ言いながらもお礼言わなくちゃとか言ってたし」
「よ、よけいな事言うんじゃないわよ!」

 顔を真っ赤にしながら「このっこのっ!」とヒルドがクマを踏みつける。しかしMに目覚めてしまっているクマにとって、それはご褒美でしかないようで、とても嬉しそうに足蹴にされている。ヒルドが感謝してくれているとは高貴にとって意外なことだった。しかし改めて思い出してみれば、ヒルドはそこまで性格が破綻しているような人ではなかったかもしれない。
 さっき言ったように(本当かはわからないが)手加減して戦ってくれたり、謝罪のためにコーヒーを奢ってくれたりと、どちらかといえば優しい性格にも思える。少なくともエイルよりはだいぶ常識的なヴァルキリーなのかもしれない。

「じゃあなんでベットの下にもぐってたんだ?」
「エロ本探してたのよ」
「なんでだよ!!」

 前言撤回。やはりヴァルキリーにまともな人間などいない。

「なんでどいつもこいつも男の部屋に入るとエロ本探すの? 今四之宮でエロ本探しが流行ってんの? 」
「そんなわけないじゃない。これからあたしが住む部屋だから、エロ本なんてあったら嫌じゃない。だから見つけたら全部燃やしておこうと思って」
「もうないよ! 結構前にどこかのヴァルキリーと幼馴染に没収されたよ! ってちょっと待て、今なんつった?」
「燃やしておこうと思って」
「その前」
「エロ本なんてあったら嫌じゃない」
「もう少し前」
「童貞小僧」
「うるせー!! そうじゃなくてここに住むってどういうことだよ!」
「そのままの意味よ。今日からここはあたしの部屋になるわけ。まぁあたしは優しいから、エイルとあんたもちゃんと住ませてあげるわ。感謝しなさい」

 ……こいつはさっきから何を言ってるんだろう?
 つーかそんなの冗談じゃねーぞ。ただでさえ最近どこぞの非常識なヴァルキリーがホームステイとか言ってここを占領してんのに、これ以上騒がしくなんてなったらたまったもんじゃねー。ようやくそれにも少しずつ慣れて来て、このままもう少ししたら戦い以外は平穏に過ごせるんじゃないかとすら思ってたのに。
 ヴァルキリーは一家に一人で十分だ。

「帰れ。ここは俺の部屋だ。それにこの部屋のサイズ的に、これ以上同居人が増えるなんて無理だろーが。お前だってそんなの嫌だろ」
「あっそ、そんなこと言うのね。よくもこのあたしに対してそんなにえらそうな口きけたものね」

 何故かヒルドが勝ち誇ったような顔になった。その不敵な笑顔に、高貴は思わず恐怖を覚えてしまう。

「な、なんだよその顔……」
「ふん、このあたしがなんの準備もなしにくると思ってんの? 教えてあげるわ、《神器》に選ばれたとか言っても、あんたは所詮はただの高校生に過ぎないってことをね。クマ、例のものを出しなさい」

 パチンとヒルドが指を鳴らした。するとすぐにクマが「ははぁ」なんていってベットの下に潜っていく。つーかこいつ指鳴らせるんだ。俺はできないのに。
 ベットの下に潜ったクマは、数秒で姿を現した。例のものなんてどんな非常識なものが出てくるのかと高貴は警戒していたが、クマが持ってきたのは一枚の紙切れだ。それをベットに座っているヒルドに差し出すと、ヒルドはそれを高貴に向かって見せ付ける。

「これを見なさい」
「はぁ、なんだよ」

 仕方なく高貴はその紙に目を通した。どうやら何かしら文字が書かれてあるらしく、面倒ではあるがそれを心の中でそれを読んでいく。読み進めるうちに、いや、読み始めた瞬間に高貴の顔色がどんどんと青くなっていった。それはまるで信じられないものを見ているといった表情だ。実際彼は今信じられないものを目の当たりにしているのだろう。
 ヒルドが高貴に対して見せつけてきたものは―――

「け、権利書?」
「そうよ、権利書よ」

 それは極めて現実的なものだった。ヒルドが出したのは権利書。正確にはこの四之宮高校の学生寮と、その土地の権利書だ。権利書など見るのは高貴にとって初めてだったが、大きくそう書かれているので間違いないだろう。それにキチンと判子なども押されているので、やはり偽物とは考えにくい。しかし一番信じられないのは、その権利書によると、建物と土地の持ち主がヒルドと言うことになっている事だ。
 信じられないが、本当に信じられないが間違いない。カタカナであるが、ヒルド・スケグルと大きく書かれてある。つまり、この権利書が意味することはたった一つ。

「ようするに、この学生寮はあたしの物って事よ」
「……嘘だろ?」
「マジよ人間君」
「いや……どうやって?」
「そんなの諭吉の力に決まってるじゃない。この世にはググっても出てこない諭吉の増やし方なんていくらでもあるんだから。てゆーかあんたも幼稚園卒業したら気がつきなさいよ。この世の中は諭吉が全てだってことにね」
「幼稚園児は諭吉なんていわねーよ! つーか福沢諭吉先生は子供にそんなことのぞまねーよ!」
「とにかく、この寮はこのあたしが極めて非合法的な手段で合法的に手に入れたわ。つまりあたしが出て行けといえば、あんたは出て行かないといけないのよ」

 完全に勝ち誇ったドヤ顔でヒルドが高貴に向かってそう言った。目の前が段々と暗くなっていく。自分の安らぎの空間(最近は騒がしいが)をこんな不合理なことで失ってしまうかもしれないという恐怖が高貴を襲う。

「それだけじゃないわ。あんたがうだうだ言うなら、ここに住んでる生徒を全部追い出して、あたしの為の一軒家を建てるっていうのもありね」
「て、テメー……第二第三の深田君を生み出すつもりかよ」
「誰よそれ?」
「ちょっと人間君、深田君は本人達も了承の上の夜逃げだったわよ!」
「とにかく、ここにこのまま住みたかったら……いえ、住まわせてほしかったら、どうかこの憐れな童貞に住む場所をお恵みくださいヒルド様って言って土下座しなさい」

 ……この野郎。完全に調子こいてやがる。
 傲慢なヒルドの態度に、さすがに高貴は堪忍袋の緒が切れかけていた。そもそもここは元々自分の部屋だったにもかかわらず、なんでそんなことをしなければいけないのか。むしろヒルドのほうから頼んでくるのが筋というものだ。
 そもそも高貴にもプライドというものがある。そんなに簡単に土下座などできるわけがない。こうなったら一高校生の意地を見せ付けてやるしかないのではないか。そうだ、一度はこいつに勝っているんだから何も恐れることはない。きっとクラウ・ソラスも力を貸してくれる。目の前で権利書をヒラヒラとさせてドヤ顔で勝ち誇っているヴァルキリーに向かって高貴は―――

「どうかこの憐れな童貞に住む場所をお恵みくださいヒルド様」

 土下座した。どこからどう見ても土下座。
 仕方がないのだ。どんなに頑張ったとしても目の前の権利書げんじつには勝てるはずがないのだから。



[35117] あ、ありのまま……
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/18 17:47
「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! 「俺の家にヴァルキリーがホームステイしていたと思ったらいつの間にか俺がヴァルキリーの家にホームステイしていた」 な…何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった…頭がどうにかなりそうだった…魔術だとか《神器》だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえもっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…」
「……なにそのポルポル現象?」

 残念ながら幼馴染は冷たかった。ネタが通じただけでもよかったのかもしれないが。ヒルドに権利書げんじつを突きつけられて土下座した後高貴が取った行動は、スマホを取り出し幼馴染に電話をすることだった。とにかく誰でもいいのでこのふざけた状況を報告したかったのだ。といってもほうこくできそうなのは真澄しかいないのだが。そんな高貴のことを、ヒルドはベットに座り、権利書げんじつをヒラヒラとさせながら見ている。

「ヴァルキリーの家にホームステイって、高貴エイルさんの世界にいるの?」
「いや、違う。いつの間にか俺んちがヴァルキリーのものになってたんだ。やつは今も俺に現実を突きつけて薄ら笑いを浮かべている」
「……なにそれ、ほんとにわけわかんないんですけど。てゆーかなんかウザイ」
「だからポルポル現象なんだよ。取り合えずエイルに代わってくれ」
「残念、ちょうど今帰ったよ。目の前だからすぐ着くでしょ」

 エイルは携帯やスマホを持っていないため、高貴は真澄に電話をした。本来ならば《エオー》を使えば問題ないのだが、高貴はまだ使うことが出来ないので、エイルからの受信はともかく高貴からの送信はできないのだ。とはいえ今真澄が言ったように、四之宮高校の男子寮と女子寮は目と鼻の先なので、数分と待たないうちに帰って来るだろう。

「わかった、あんがとな」
「うん、よくわかんないけどこれからバイトなんだし遅刻しないでよ。てゆーか、制服から着替えて少ししたらわたしもそっち行くから。エイルと一緒に行く約束してるし」

 気のせいかもしれないが、スマホから布のこすれる音が微かに聞こえてきている。もしかしたら今まさに着替えている最中なのかもしれない。しかしそんなことを当然真澄に言えるはずはなかった。

「……なんだかお前ら、最近仲いいな。つーかあいつ今日もバイトについてくるのな」
「当たり前じゃん、じゃあね」

 その会話を最後に通話が切れる。ヒルドはまだ高貴のほうを見ていた。それはまるで電話の内容を言えといっているかのような目だ。

「あー、エイルすぐに帰って来るってさ」
「聞いてないわよ」
「そうっすか……」
「けどあんた、プライドってものがないの? あんなにあっさり土下座するなんてさすがに思ってなかったんだけど。本気の土下座なんて正直ドン引きだったわ」
「だって俺子供だし。住むとこなくなったら生きていけねーし。プライドなんていくらでも捨てられるけど、命は捨てられねーだろ」
「ふぅん、身の程ってのをわかってるのね。でもあたしならプライド捨てて生き恥をさらすなんて耐えられないけど」
「プライドなんて気にしてたら平穏に生きれない」
「何が平穏よ。てゆーかここ学生寮なんだから、実家に帰ればいいじゃない。地元はどこよ?」
「結構前に親は死んだよ。だから地元は四之宮だけど、実家なんてない。まぁ四之宮じゃないとこに親戚とかならいるけど、あんまり頼りたくねーし」

 高貴の言葉に僅かながらヒルドの表情が変わった。「ふぅん」などと特に気にしてなさそうな振りをしてはいるものの、自分の質問で高貴が気を悪くしてしまったのではないかと明らかに悪びれている様子だ。高貴からしてみれば、両親の事は完全に割り切れているのでまったく気にしていない。だからこそ今のようにすんなりと話せることなのだが、なんだか逆にこちらが悪い事をした気分にもなってくる。何か別の話題を振ったほうがよさそうだ。

「つーかさ、そんなに金あるんならほかの部屋に住めばいいだろ。どうしてわざわざここなんだよ」
「そ、それは……なんとなくよなんとなく。ばらけてるより固まってたほうが何かと都合がいいでしょうし」

 あ、目をそらした。なんだかあからさまにあやしい。しかし理由は本当に気になっていた。この部屋は二人(とぬいぐるみ一匹)で住むならともかく、三人(とぬいぐるみ一匹)で住むには明らかにスペースが狭い。にもかかわらず彼女がここに住みたがる理由というのは―――高貴にはさっぱりわからなかった。もしかしたらクマならば何か知っているかと思ったが、いつの間にかクマは部屋から消えている。高貴が電話をしているうちにどこかに消えてしまったらしい。
 そして、

「ただいま!!」

 玄関のほうから大きな少女の声が聞こえてきた。勢いよく玄関のドアを開けたのか、そのドアの開く音も聞こえてくる。バタバタとした足音が響き、リビングのドアが勢いよく開かれた。入ってきたのは腰まである長い銀の髪をもち、空のように青い瞳を持つ少女。四之宮高校の制服を着て、よほど急いできたのか息は切らせている。今年の春ごろから高貴の部屋にホームステイしているエイルだ。
 エイルは部屋の中を見回し、すぐさまベットの上に座っているヒルドの姿を見つけ、直後。

「ヒルドっ!!」

 鞄をその場に捨て、勢いよくヒルド目掛けて飛びついた。あまりにも突然の事に、ヒルドもかわすことができずに、ベットの上に押し倒されてしまう。

「こ、こらっ! いきなりなにすんのよ!? さっさと離れなさい!」
「良かった……お仕置きがきついものではないかとずっと心配していたぞ!」
「いいから離れろっての! 暑苦しいのよこのド天然!」
「ああ、今日はそう呼ばれても我慢しよう。本当によかった」

 美少女二人がベットの上でむつみあっている光景を、なんともいえない表情で高貴はだた見ていた。しかしエイルがこんな行動に出るとは予想外だ。死刑判決の件は冗談ということにしておいたのだが、それでもよほどヒルドのことが心配だったに違いない。ヒルドのほうも、口では嫌がっているように聞こえるが、そのエイルを引き離さない所を見ると、特別に嫌がっているというわけでもなさそうだ。
 しかしヒルドは高貴のその視線に気づくや否や「い、いい加減にしなさい!」とすぐさまエイルを引き剥がしてしまった。仕方がなくエイルがヒルドの隣に座る。

「まったく、いちいち大げさなのよあんたは。っていうかなんであたしが来たこと知っているわけ? こいつが誰かに電話した時には、あんたもういなかったんでしょ?」
「女子寮の入り口でクマが教えてくれたんだ。それで思わず走ってきてしまったよ」
「クマが? ふーん、そうだったのね。いつの間にか消えてると思ったら―――って今もいないじゃない、一緒に来なかったの?」
「ふむ、玄関あたりでは居たような気がするのだが……まぁきっとおやつでも買っているのではないか?」
「んなわけないでしょ」

 もしも本当だったらゾッとする話だ。クマのぬいぐるみが買い物など明らかに異常すぎる。

「それはそうとヒルド、お前は《神器》を集める任務に戻るのだろう? ヒルドが一緒だと心強いから助かる、これからよろしく頼むよ」
「べ、別に……あんたの為じゃないし」
「あ、そういえばエイル。こいつ―――」
「こいつって言うな!」
「……ヒルドがここに一緒に住むって言ってるんだけどお前はどう思う?」
「別に問題ないだろう」

 ですよねー。
 エイルは高貴に対して「なぜわざわざそんなことを聞くんだ?」などとでも言っているような視線を送っている。

「なぜわざわざそんなことを聞くんだ?」

 というよりも実際に聞いてきた。

「あのさ、ここ、俺の部屋。三人も住むの無理。狭い」
「私は気にしない」
「俺が気にするんだよ!」
「さっきから決まった事をいつまでもグダグダとうるさいわね。セクハラで訴えるわよ」
「上等だこの野郎! 不法侵入で訴えるぞ!」
「これが目に入らないのかしら?」
「…………もういいです。諦めました」
「仕方ないじゃない、ほかにこの寮の空き部屋はないんだから。あたしだって狭い所で我慢してあげるんだからあんたもそうしなさいよ」

 だから、ほかに住む場所なんていくらでも用意できるだろうに、どうしてここなのだろう?

「それよりも高貴、この後マイペースでアルバイトだろう。いつまでも制服でいないで着替えたらどうだ?」
「ん? ああ、そうだな。まだ時間はあるけど……着替えるか」
「そういえば、さっきの電話でも言ってたみたいだけどあなたってバイトしてるのね。なんのバイト?」
「喫茶店の手伝い。といってもほとんど雑談してるだけだけど。」
「うわぁ、ちゃんと働きなさいよヒモニート。どうせここ最近の生活費全般はエイルに頼りきりなんじゃないの?」
「……そ、そんなわけねーだろ。それに俺本業は学生だし」

 たしか7:3くらいの割合だったはずだ。どちらが7なのかは……いや、やめておこう。ただこの前の詩織からの給料は、ほとんど貯金に回すことができたとだけ。

「こちらでの生活費はヴァルハラからの経費で済ませることができるし、何より私はここにホームステイさせてもらっている身だ。生活費は私が全額負担しても一向に構わないぞ」
「いいよ、さすがにそれは悪い。じゃあ俺着替えてくるから」
「こんにちはー、エイルいる?」

 玄関のほうから声が聞こえてくる。この声は真澄の声だ。先ほど電話をした時に言っていた様に、着替え終わったので来たのだろう。エイルが「真澄が来たようだ」とベットから立ち上がってリビングから出て行った。

「真澄って誰なの?」
「俺の幼馴染だよ。ほら、ヒルドのなくしたアルテミスの持ち主になった奴」
「ふぅん、彼女?」
「お・さ・な・な・じ・み!」
「なんだ、つまんないの。でもそういうことならお礼言っといたほうがいいわね。おかげであたしはこうして生きてるわけだもの」

 エイルが再びリビングに入ってきた。その後ろには真澄も一緒についてきている。当然だが学生服から私服に着替えた状態でだ。真澄のベットの上に座っているヒルドに視線が行ったが、すぐさまエイルのほうに視線が戻った。

「真澄、彼女が今話した私の友人のヒルドだ。今後私達に協力してくれることとなる」
「えっと……ヒルド……ちゃん? 初めまして」
「言っとくけど、あたしはあなたよりも年上よ」
「「え?」」

 高貴と真澄の声が重なった。恐らくは真澄もヒルドのことを見て、中学生くらいの年齢だと思っていたのだろう。そうではないと高貴は知っていたものの、まさか年上とまでは思っていなかった為、思わず声が漏れてしまった。

「つーかお前らって年いくつ?」
「ふむ、私は―――」
「ヴァルキリーに対して年齢を聞くんじゃないわよこの童貞ボーヤ。そんなんだからいつまでたっても彼女できないのよ」
「そこまで言わなくてもいいだろ!」
「エイルも言うんじゃないわよ。あなたが言ったらあたしの年もばれるわ」
「ふむ、わかったよ」

 と言う事はエイルも年上になるのだろう。
 ヒルドは真澄のほうに一度向かい直ると優しい口調で声をかけた。

「そんなに警戒しないでいいわ。あと敬語とかも使わなくていいし、名前も呼び捨てで構わないから仲良くしましょう」
「は、はい。じゃなかった、うん。よろしくね……ヒルド」
「うん、素直な子は好きよ。それとお礼を言わせてちょうだい。あなたが《神器》を見つけてくれたおかげで助かったもの」
「それは偶然だよ。お店で売ってたのをたまたま見つけただけだし」
「それ、本当に非常識よね。アルテミスに言っておいてもらえるかしら。あんたのせいで大変な目にあったわこのやろうって」
「あはは……聞こえてると思うよ」

 真澄とヒルドはすでに完全に打ち解けているようだ。女の子同士というのはやはり仲良くなるのが早いものなのかもしれない。真澄の隣でエイルが少し寂しそうにしているが、すぐに三人で話すようになるだろう。

「てゆーかあなた達、バイトに行くんじゃなかったの。早く行ったほうがいいんじゃない?」
「そうだな……まだ少し時間があるけど、別に早く行ってもいいか。じゃあ今度こそ着替えてくる」

 高貴がソファーから立ち上がってクローゼットを開いた。高貴は着替える時には、基本的に浴室の脱衣所で着替えることにしている。同じ屋根の下で暮らす以上当然の配慮だろう。

「そうだ、どうせならばヒルドも来ないか? ここで一人で待っているのは退屈だろう?」
「いやよめんどくさい。あ、それとあたし学校にも行かないから。制服着て授業なんて本当に勘弁してほしいわ」
「ふむ、それはざんねんだな……しかしマイペースは制服を着る必要はない」
「まぁ制服なんてマイペースにないもんね。一緒にいこうよヒルド。きっと留守番なんて退屈だよ」
「め・ん・ど・い。テレビでも見てるわ」
「二人とも、別に無理に誘うことねーだろ」

 正直ついてきてほしくない。詩織に何を言われるのかわかったものではないからだ。しかしエイルはあきらめてはいないようで、少し考えた後名案を思いついたようにヒルドにこう言った。

「マイペースのケーキは美味しいぞ」
「さっさと行くわよ」

 あっさりとヒルドが立ち上がる。ヴァルキリーとはケーキに弱いものらしい。



[35117] テストへの意気込み
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/26 21:23
「ねぇ真澄、あなたのオススメのケーキってあるの?」
「うーん、わたしはチーズケーキかいちごどっさりケーキかなぁ。でも詩織さんの作るケーキは基本なんでもおいしいよ。ね、エイル」
「ふむ、確かにそう思う。私もこの前チーズケーキとモンブランを食べたがどちらもおいしかった。というよりもマイペースのケーキは全て食べたがどれもおいしかったよ」
「ふーん、そうなのね。じゃあ取り合えずメニューを見て考えることにするわ」

 住宅街を歩いて、高貴たちはマイペースに向かっていた。女の子三人が並んで前を歩き、高貴が後ろを歩いている。バイトの時間には少し早くつくことになりそうだが別に問題はない。
 問題はケーキを餌にマイペースについてくることになったヒルドのほうだ。エイルよりは常識があるように思えるが、やはりヴァルキリーなので油断はできない。それに詩織になんといわれるかもわからない。とはいえ今更帰れともいえないので、もはや腹をくくるしかないだろう。7月の夏の日差しを浴びながら高貴たちは歩く。もう少しで6時になろうとしているが、夏なのでまだ暗くなる気配はまったくなかった。

「ついたよヒルド。あれがマイペース」
「歩きつかれたわ、さっさと入りましょう」

 初めて入る店にもかかわらず、まるで通いなれた店にでも入るかのように、ヒルドがドアを開ける。カランカランとドアについているベルの音が響き―――

「だから! 君はどうしてそんなことばかり言うんだ!!」

 その涼やかな鐘の音を、一つの怒声が打ち消した。ヒルドがドアを開けた瞬間に、マイペースの店内から男性の大声が聞こえてきたのだ。いったい何事かと思い、高貴たちはすぐさま店内を覗き込む。
 店内に客らしき人物は一人しかおらず、その人物はカウンターに座っている。カウンターの内側、いつも通りの場所に詩織が座っており、二人はなにやら話をしているようにも思える。残念ながら入り口からではその人物の顔は見ることができないが、服装や体型からして男性である事は間違いない。二人は高貴たちが入ってきたことにも気がついていないようだ。

「何度来てもらっても無駄よ。あなたの返事に頷く事は決してないわ」
「だからどうして! 君は自分がなにを言っているのかわかっているのか!」
「わかっているつもりよ。だから―――何度来ても無駄」
「無駄だと? 僕は君のためを思って言ってるんだぞ!」

 バンッ! と男性が勢いよくカウンターに拳をたたきつけた。注文していたであろうコーヒーのカップが揺れて音をあげる。そばにいた真澄も怯えるように小さく悲鳴を上げた。
 それが我慢の限界だった。高貴は真っ直ぐに男性に向かって走り出す。一瞬遅れてエイルもそれに続いて走る。

「なにやってるんですか!!」

 本当ならば思い切り殴ってやりたかったが、仮にも自分はマイペースのバイトであることを思い出し、何とか敬語を使って男性に向かって話しかける。声をかけられて高貴の存在に気がついたのか、男性が高貴とエイルのほうに振り返る。
 近づいてみてわかるが、目の前の男は結構な長身で190センチはありそうだ。がっしりとした体型でスーツをしっかりと着こなした、できる大人の男性と言った感じの男だが、その表情はだいぶイラだっており、余裕がないようにも見える。

「こ、高貴君。エイルちゃん……」
「なんだ君達は? 今大事な話をしているから―――」
「この店のバイトです」
「私はヴァル―――ただの客だ。ただの客だが、怒鳴り声の聞こえる喫茶店でコーヒーなど飲みたくはないと思ってね。静かにしてくれないだろうか」
「子供は引っ込んでいてくれ。これは大人の問題だ」

 ギロリと男が高貴とエイルをにらめつけてくる。確かにこの男は大人だ。子供の目ではないし、むしろこの目は子供に言い聞かせる為の、子供に恐怖を与える大人の目だ。当然のごとく子供の高貴には恐怖すら覚える。しかし、だからと言って引くわけには行かない。

「あ、赤倉さん。この子たちは関係ないわ」
「関係ありますよ。店で騒がれるのなんて迷惑です。コーヒーも飲み終わってるみたいですし帰ってください。さっきの様子を見た限り、嫌がる詩織さんに無理矢理せまっているようにしか見えませんでした。とても大人の男性が取るような行動とは思います。この店の店員とケーキ食いに来た客、そしてコーヒーを飲み終わったのに追加の注文もせずに店に迷惑をかけている客。さて、この店から引っ込むのは誰でしょうね?」
「ぐ……」

 赤倉と呼ばれた男が言葉を詰まらせた。高貴の言い分が正しいと認めているからだろう。
 ぐ、じゃねーよさっさと消えろバカ!
 内心で高貴が赤倉に毒づく。あくまでマイペースの店員として高貴そういった。店員としてではなかったらとっくに殴りかかっていたか、下手をすればクラウ・ソラスで斬りかかっていたかもしれない。しばらく赤倉は険しい顔をしていたが、やがて落ち着くようにため息を一つついた。

「もういい、今日は帰るよ。しかし僕は諦めたわけではないからね」
「だから、なんどきても考えは変わらないって言ってるじゃない」

 赤倉がポケットから財布を取り出し、カウンターの上に千円札を置いて立ち上がる。最後に高貴とエイルをにらめつけると、そのまま出口に向かって歩き出した。出口で見ていたヒルドと真澄に対してもギロリと睨みをきかせて、そのままマイペースから出て行った。
 そのまましばらく沈黙が―――

「なによあの男、公共の場で騒ぐなっての。見た目は良くても中身は全然駄目な男ね」

 続かなかった。
 今まで一言も口を開かなかったヒルドがそういいながらカウンターに座る。それどころか「メニューはないの?」と高貴に向かって言ってくる始末だ。今おきたことなどまったく気にしていないようで、ただ面倒なので口を開かなかっただけなのだろう。なんというか、マイペースなヴァルキリーだ。

「……これメニュー。真澄、大丈夫か?」
「う、うん……でも少し怖かったかな」

 真澄もようやく動き出し、カウンターの中に入っていった。しまってあるエプロンを身につけ、高貴の分も彼に手渡す。

「えっと、この女の子はみんなのお友達かしら?」

 詩織がヒルドのほうを見てそういった。しかしヒルドはメニューから眼を話そうとしないので、ヒルドの隣に座ったエイルがヒルドの代わりに答える。

「彼女は私の友人でヒルドというものだ。少し用事があって、しばらく四之宮に住む事になったんだよ」
「ヒルド・スケグルよ。ヒルドでいいわ」
「そう、エイルちゃんの知り合いだったの。私は加々美詩織よ。よろしくねヒルドちゃん」

 ヒルドちゃんと呼ばれて一瞬ヒルドが反応したが、すぐに何事もなかったかのように、メニューに視線を落とした。ちゃん付けは嫌だと真澄には言っていたが、詩織から言われる分には構わないということなのだろう。

「なんだかごめんね、みっともない所見せちゃったわね」
「ったく、あいつ誰なんですか詩織さん。今の口ぶりからすると、何回も来てるようでしたけど」
「ふむ、私も気になるな。あまりいい客とは思えない」
「えっと、私の学生時代のクラスメートで、赤倉優あかくらすぐる君っていう人なの。今は四之宮中央病院に勤めているわ」
「ってことは医者? イケメンで医者なんて超勝ち組じゃない。でもあの性格じゃあ結婚なんてしたくない相手ね。まぁ月館よりはましだけど」
「……まぁ、認めるよ」
「そ、そんなことはないぞ。君には君のいいところが沢山あるじゃないか」
「将来性がなさそうなのよねこいつー。トラブルに巻き込まれていつの間にか人生終わってるって感じだわ」

 返す言葉もない。ぐぅの音も出ない。全面的にヒルドの言葉が正しい事を高貴は完全に理解しているからだ。実際今もトラブルに巻き込まれている真っ只中なのだから。

「しかしまた来るといっていたが、本当に大丈夫なのか?」
「別に気にしなくても大丈夫よ。今日はあんなふうになっちゃったけど、いつもは普通にコーヒーを飲んでいくだけだもの」
「いつも来てるんですか? その割にはわたし見かけたことなかったですけど」
「いつもはもう少し早い時間に、真澄ちゃんたちがバイトに来るよりも早く来るのよ。だからあまり見かけないのね」
「決めた、あたしチョコケーキとブラックコーヒーにするわ。エイルは?」
「ふむ、では私はイチゴのショートケーキとコーヒーを頼もう」
「オッケーよ。エイルちゃんはコーヒーに砂糖たっぷりね」

 エイルにそう言って詩織はケーキの準備を始めた。マイペースに何度も来ているので、エイルは苦いものが苦手だということは、もはや詩織も承知の上なのだ。

「そういえばヒルド、お前は本当に学校には通わないのか? なかなかに楽しいところだぞ」
「パスだって言ってるじゃない。通うにしてもあなた一人で十分でしょ。大体学校なんて登校はめんどくさいし、授業はめんどくさいし、テストはやってられないしいい事なんてないじゃない」
「あ……そ、そういえばもうすぐ夏休み前のテストだね……わたし自信ないかも」

 真澄の表情が曇り始めた。四之宮高校では夏休み前になると毎回テストを行っている。それでもし赤点を取ってしまうと、夏休み中に何回か補習に出なくてはいけなくなり、せっかくの夏休みが損した気分になってしまうのだ。

「テストなんて面倒だけど、どこら辺が出るかとか事前に教師が教えてくれるでしょ。だったらそこを重点的にやれば最低限赤点なんて取らずにすむんじゃないの?」
「なんでそんなに詳しいんだ?」
「前に通ってた学校でもテストくらいはあったからよ。てゆーかあなたはずいぶん余裕そうに見えるけど」
「一応テストでは毎回平均点以上は取ってるから、今回も大丈夫かなって」
「高貴って意外にも成績いいんだよね。本当に意外にも」
「ふぅん、確かにそうは見えないわね」
「進学にしろ就職にしろ、成績は悪いよりはいい方が有利だろ。俺は成績が悪くてプーになるとかはしたくない。もっと平穏に平凡に生きる……つーかこいつはどうしたんだよ?」

 高貴の視線の先には、まるで石像のように固まってしまったエイルの姿があった。目が開いてはいるが何も見ておらず、口を半開きにしたままピクリとも動かない。

「理由ならわかるでしょ。あなた達二人はエイルと一緒に授業を受けてたんだから」
「……まぁ、な」
「……まぁ、ね」
「エイルは勉強とかまるっきり駄目なのよね。はっきり言ってバカ」

 ぐさり。
 ヒルドの言葉がエイルの胸に突き刺さる。むしろ貫通しそうな―――きっと貫通しているのだろう。今ヒルドが言ったように、エイルは勉強(体育以外)が得意ではない。授業はまじめに受けており、それはそれは毎日生き生きとした表情で授業を受けているものの、教師に当てられて答えられたときはほとんどなく、小テストなどの結果もさんざんなものだったのだ。

「……勉強はとても楽しいし好きなのだが、テストはどうも苦手だ」
「珍しいタイプだよなおまえって、勉強は好きなのに頭悪いなんてさ。つーかなんであんなに綺麗にノート取れるくせに頭悪いんだよ?」

 高貴の見立てだが、エイルの書く字はとても綺麗だ。小学生の頃から日本語でノートを書いている高貴よりも、エイルの書くノートは見やすいもので、恐らくは十人中九人はエイルのノートのほうが見やすいと答えるだろう。なのにエイルはそのノートの内容を理解出来ていないのだ。

「そんなことを言われても困る……私だって好きで理解できないわけではない」
「だ、大丈夫だよエイル。まだ少しあるんだから頑張って勉強すればいいじゃん。ほら、わたしと一緒に勉強しよ」
「真澄……君は本当に優しいな……ぜひよろしく頼むよ」
「……あ、あたしも暇な時は少しくらい見てあげてもいいわよ」
「え? 本当かヒルド?」
「暇な時だけよ! だいたいあんまりあなたがバカだと、あたしまで一緒にバカだと思われちゃうじゃない」
「ヒルドって頭いいのか?」
「ふむ、かなりいい。私はテストでヒルドに勝ったことは無い」

 いや、お前を基準にされても困る。エイルよりも頭が悪い奴なんてそうはいないだろうし。

「ただし月館、あんたは駄目よ。理由はなんか嫌だから」
「……理不尽極まりない理由だなおい」
「ふむ、君も少しは苦労したほうがいい」
「そうだよ。たまには赤点でもとっちゃえばいいんだよ」

 ……あれ? なんで俺こんなにアウェーなの?
 やはり一人だけ自信があるような発言をしたのがいけなかったのだろうか? いつの間にか女三人が結託している。

「お待たせしました。エイルちゃんとヒルドちゃんのご注文です。あと真澄ちゃんの分のコーヒーも」

 ケーキとコーヒーを用意し終えた詩織が、エイルとヒルドの前にそれぞれの注文したケーキをおいた。

「エイル、真澄。一人だけテストに自信がある羨ましいやつなんてほっといてむこうで食べましょ」
「ふむ、私は構わない」
「うん、わたしも」

 そういうなり女三人は、カウンターから席を立ってボックス席のほうに移動してしまった。なんだか完全に取り残されてしまい、さすがに高貴は寂しさを感じる。というよりも真澄は仕事中にもかかわらずいいのだろうか? おそらくいいのだろう。それがこの店、マイペースなのだから。

「高貴君も座ったら? はいこれコーヒー」
「あ、はい。ありがとうございます」

 詩織は高貴の分のコーヒーと自分の分のコーヒーも淹れたらしい。客もほかには居なかったので、詩織に進められたとおりにカウンターに座ってコーヒーを飲んだ。

「それにしても、エイルちゃんといいヒルドちゃんといい、最近かわいい女の子がここに来るようになって嬉しいわ。これも高貴君と真澄ちゃんのおかげね」
「たまたま知り合いになっただけですよ(なりたかったかどうかは微妙だけど)」
「でも本当に可愛いわよね。私もあんな感じの妹とかほしかったわぁ。家にお持ち帰りしたいくらい」

 よろしければどちらか一人どうですか? クーリングオフはなし、ノークレームノーリターンでお願いします。今ならもう片方もついてきますよ。

「そう言えば今日は俊樹が来るとか言ってた気がするんですけど、あいつまだ来てないですね」

 植松俊樹は高貴と同じく2年4組のクラスメイトで、真澄と同じく幼馴染の関係だ。俊樹はマイペースでバイトはしていないが、詩織に会いたいがためによくコーヒーを飲みに来ている常連客の一人だ。学校で話した時に来るといっていたので、てっきり高貴は先に来ていると思っていたのだがまだ姿を見せない。


「ああ、俊樹君なら帰ったわよ。なんでもテスト勉強をするとか何とか言ってたけど」
「……はぁ?」

 今、詩織さんなんて言った? テスト勉強するから俊樹が帰った? いや、ありえねーって。
 俊樹は勉強が好きな人間ではない。成績は並と言ったタイプでかろうじで平均点に達するくらいのものだ。間違っても進んでテスト勉強をするような人間ではない。そもそも詩織と会話の時間よりも、テスト勉強を優先させるなど断じてありえない。
 ……まぁ、別にいいか。来なくても困らないし。

「四之宮高校ではもうすぐテストなのよね。俊樹君から聞いたわ。高貴君はテスト勉強とかしないの?」
「前日にちょっとやるくらいですね。授業を真面目に受けてしっかりノート取ってればテストは何とかなります。いつも平均以上は取ってますから、今回もそのくらいでいいかなぁと」
「あら、だめよそんなの。もっと向上心を持たないと。狙うなら学年一位とか、全教科95点以上とか」
「全教科70点くらい取れればまぁ十分ですよ。補習は回避できるし特別悪い点数でもないですし」
「まったくもう、少しは俊樹君を見習ったらどう? 男には、命をかけてでもやらなければいけないときがあるって言って勉強しに帰ってったわよ。あの目は本気そのものだったわ」
「それ信じられないんですけど。俊樹って勉強が好きなタイプじゃないし、むしろ嫌いなタイプですよ。いったい何があったんですかね?」
「うーん、全教科95点以上取れたら、私のおっぱい触っていいって言ったからかしらね」

 フリーズ。
 思考停止。
 約十秒後、思考を取り戻した高貴の脳内には、フリーズする直前の詩織の言葉がリピートされていた。

 全教科95点以上取れたら、私のおっぱい触っていい。

「そ、そんなこといったんですか?」
「ええ、言ったわよ。俊樹君がテストなんてやる気でないし最悪だって言ってたから、全教科95点以上取れたら、私のおっぱい触っていいって言えばやる気が出るかどうか聞いたのよ。そしたら出るって言ったから、じゃあいいわよって。高貴君と俊樹君よく私の胸見てるから、触りたいのかなって思って」
「……ま、マジっすか? し、詩織さんの……」

 高貴の視線が詩織の胸元に移動する。黒いエプロンを盛り上げてその存在を主張している戦闘力Fの胸。エイルの胸も大きいが、おそらくはそれ以上の大きさであろうそれから高貴は目をはなせなくなってしまう。

「なんなら高貴君も頑張ってみる? 全教科95点以上」

 男には……やらなければいけないときがある。その言葉に、少年の目に熱い決意の炎が激しく燃え出した。

「やります!!」



[35117] ヒルドの意外な一面
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/22 12:09
「ただいま」

 エイルの声が部屋の中に響く。高貴と真澄のバイトが終了したのが8時。それから高貴たちは寄り道をすることなく真っ直ぐに帰宅した。

「おかえりなさ~い」

 リビングではクマがソファーに座って漫画を読んでいる。いつの間にかどこかに行ったと思っていたが、いつの間にか帰ってきたようだ。

「さて、少し遅いけど夕飯にしましょう」
「あ、そういや夕飯の弁当買ってきてない」
「ふむ、そういえばそうだったな。仕方がない、もう一度外に行くとしよう」
「なによ、あなた達って食事はいつも弁当とか買って済ませてたわけ?」
「ああ、俺もエイルも料理できないから。エイルがここに来てから俺の夕飯はだいぶ豪華な弁当になったのは正直かなり嬉しい」

 実際今の今まで、高貴とエイルはほとんどコンビニの弁当で食事を済ませてきていた。たまに外食することもあったが、誰かに見られることを高貴が嫌がるため、やはりほとんどが弁当だ。エイルが食費を負担してくれているおかげで、毎日好きな弁当が食べられるのは、エイルが来て心から良かったと思える数少ないことだった。しかし、ヒルドが何故か嫌そうな顔になっている。

「どうした?」
「あたしコンビニ弁当嫌いなんだけど」
「食った事あるのか?」
「あなたね、ヴァルハラにだってコンビニくらいあるわ。異世界なめんじゃないわよ。弁当は買わなかったけど、お菓子や飲み物はよく買っていたわ」
「ふむ、確かに。私もよく利用していたよ」

 異世界って……
 どうりでコンビニで弁当を選ぶエイルが生き生きとしていると思ったが、それはきっと慣れているからだったのだろう。だが、コンビニ弁当が嫌いだなどと言われても、ここにはろくな調理器具もなければ食材もない。何より料理をする人がいない。

「しょうがないわね……」

 はぁ、とヒルドがため息を一つつく。残る道は外食しかないが、今やっている店となると都心方面まで行くしかなく、住宅街で今やっている飲食店はなかなか行きづらい店ばかりだ。どうしようかと悩む高貴をよそに、本当に仕方がないといった様子でヒルドはこう言った。

「あたしが作ってあげるわよ」

 そう言って、颯爽とヒルドがリビングを出てキッチンに向かっていく。と言ってもさほど距離も離れておらず、リビングのドアを開けるとキッチンは丸見えなのだが。

「……え? ヒルドって料理できんのか? ヴァルキリーは料理が一切できないってエイルに聞いてるんだけど」
「エイル、嘘教えてるんじゃないわよ。材料や調理器具はここに来る前に買っておいたしなんの問題もないわ」
「待てって! 食材を無駄にする気じゃねーだろうな?」
「あのねぇ、常識的に考えなさい。食材を使ってるんだから、食べられないものが出来るわけないじゃない。あなた頭おかしいんじゃないの?」

 そう言って自信満々でフライパンやらまな板などの準備を始めるヒルド。しょうがないなどと言いつつもその表情はかなり楽しそうで生き生きしている。中学生ほどの容姿も合わさって、まるで作った事のない何かを作る子供のようだ。

「それにしてもやっぱり狭いわね。ガスコンロなんて一つしかないしだいぶ古い型じゃない。初めて使うタイプばかりね」
「待て! 本当に大丈夫なのか!?」
「うるさいわねぇ。エイル、月館を押し倒してなさい」
「お、押し倒す!? そ、そんなことは……しかしヒルドの頼みだしな……別にそういうことをするわけでもなく、ただ押し倒すだけならば……」

 エイルの顔が段々と赤く染まっていく。しばらく考えていたがやがて、

「よし、任せてくれ」
「いや任されんなよ! 押し倒すって行動自体が問題だから!」

 高貴がリビングから出よう(逃げよう)とした瞬間に、エイルに右手を掴まれて後ろに勢いよく引き寄せられた。そのままバランスを崩した高貴はソファーに倒れこむ。すでに座っていたクマを押しつぶしてしまったようで、尻の下あたりから「むぎゅ!」という悲鳴が聞こえてきた。
 視線を上げると、そこには両手を広げて満面の笑みで立っているエイルの姿が見える。

「さぁ高貴、私が押し倒してやろう」
「ストップストップ! そもそも女が押し倒すとか言うな!」
「私はヴァルキリーだ!」
「同じだろ! ちょっと待て! わかったから! 大人しく待つから! だから近づいて倒れてくる―――」



 どうしてこうなった。本当にどうしてこうなっている。ヒルドが料理を始めてから約30分後。高貴の目の前には―――

「ほら、できたわよ。初めて作ったにしてはなかなかいい感じにできたわ」

 それは、とてもおいしそうな野菜炒めだった。
 どこからどう見ても野菜炒め。リビングの折りたたみ式テーブルの上に乗せられたそれは、やはりどこからどう見てもおいしそうな野菜炒めだ。漫画などでよく見る焼け焦げた謎の物質に変貌しているわけでもなく、紫色だったりもしない。むしろいい匂いすらしてくる立派な野菜炒め。
 それに味噌汁、焼き魚、ご飯が三人分運ばれてきて、あっという間にまるで家族で囲む食卓のような光景が作り出された。コンロは一つしかなかったにもかかわらず、火を使って調理するものがほとんど。30分でこんなに作れる物なのだろうか? いや、そんなことよりも、

「……普通にうまそう」

 高貴の口から自然とそんな言葉が漏れ出した。

「普通以上においしいと思うぞ。ヒルドは戦乙女学校で家庭科の成績は常に最高だったからな」
「マジで? 意外に家庭的なんだな」
「こっちの世界の料理を作ったのなんて初めてだけど、案外うまくいくものね。我ながら自分の才能が怖くなるわ。ほら、冷めないうちに食べなさい」
「あ、ああ。いただきます」
「いただきます」

 両手を合わせてキチンといただきますをする。いつもならばこんなにちゃんとはしないが、目の前にある食事を前にすると、自然とこんな行動もできてしまう。とりあえず高貴とエイルは大皿に盛られた野菜炒めを一口食べると、

「……普通にうまい」
「ふむ、おいしいな」

 同じ感想を口にした。見た目だけでなく味付けもしっかりしていて、これは完璧な料理といえるだろう。しかもこのメニューは初めて作ったものらしい。つまり目の前にいる赤い髪のヴァルキリーは、正真正銘の料理上手ということだ。

「どうよ、さっきはよくも失礼なこと言ってくれたわね」
「いや……ごめん。エイルができないって言ってたからてっきりヴァルキリーはみんな料理できないのかなって思ってた」
「あのねぇ、あんたがヴァルキリーのことをどう思ってるのかは知らないけど、エイルを見て判断するのはやめて。もしくはヴァルキリーを一括りにしないで。エイルはヴァルキリーの中でも本当に非常識でバカな部類に入るんだから」
「そ、そんなことはない。私は普通のヴァルキリーだ。しかしヴァルキリーにも得意不得意というものがある。それに決して常識がないわけではない」
「出会いがしらに俺に向かって槍突きつけてきたのって誰だっけ?」
「……この焼き魚おいしいな、さすがヒルドだ」

 エイルが視線と共に会話をそらした。今更ながら非常識な行動だったと自覚できているようだ。

「そういえば高貴、今日マイペースに来ていたあの男性なのだが、もしかしてまた詩織さんに迷惑をかけにくるのだろうか?」
「え? ああ、赤倉さんとか言ったっけ」
「あいつ医者だって言ってたけど、詩織さんってどこか体の具合悪いの?」
「そんな話は聞いたことねーよ」
「そうなの、となると……男ね」

 焼き魚の骨を器用にとりながらヒルドが言った。味噌汁を一口飲んだエイルがヒルドに向かって聞き返す。

「男? 確かに男性だったが、それがどうかしたのか?」
「そういう意味じゃないわよ。男と女の関係ってこと。昔の彼氏……いえ、あの男の様子からすると一方的にせまられてるって感じだったわね」
「ふむ、そういうことか。確かに詩織さんは美人で優しいから恋人の一人や二人はいるかもしれないな」
「でもルックスはイケメンで、医者っていう圧倒的な勝ち組なのにどこが不満なのかしらね。詩織さんって理想が高いのかしら」
「それはどうだろう。容姿がよくて経済的に豊かでも好意を持っていない相手とは付き合えないのではないか?」
「綺麗ごと言ってんじゃないわよエイル」

 ヒルドは右手に持った箸をビシッとエイルに突きつけた

「男に必要なのは一に年収二にお金、三四が身長、五に学歴よ。イケメンなのはそれ以前の必須条件」
「ふ、ふむ、お金が大切なのか……」

 あまりにもヒルドがはっきりと言い切るので、思わずエイルはたじろいでしまった。
 一方高貴は会話に入ることができずにモクモクと箸を動かしていた。これも一種のガールズトークとでも言うのだろうか。正直男の前でそんな話はやめてほしい。
 つーか少しは内面見ようよ。

「まぁ、あの男はあたしもパスだけどね。性格悪そうだし」
「確かにあまりいい印象を受けなかったな。そういえば高貴、大の大人に睨まれたというのに、君はよく怯むことなく言い返したな」
「いや、怯まないわけねーって。内心スゲー怖かったよ」
「……君、正直なんだな。そこは怖くなかったと嘘をついてもいいと思うのだが」

 そんなことをしてもなんの得にもならない。大体怖かったのは本当なのだから。

「そういえば、マイペースでも言ってたけど、あなた達の学校ではもうすぐテストなのよね。ちゃんと勉強しときなさいよ」

 母親かよこいつ。

「ふむ……補習は嫌だな。《神器》を探すのにも影響が出るかもしれない。夏休みはなるべく出歩いて《神器》を探したいと思っているんだ」
「だったらしっかりと勉強しないとな。俺も頑張って高得点めざさねーと」
「……ずいぶんと……君……やる気に満ちているな。さっきはそんなにやる気を感じられなかったのに、何かあったのか?」
「あのな、テストでいい点取ろうって意気込むのは当然だろ。いいかエイル、テストっていうのは戦争なんだ。自分の持てる力を全て出し切って命がけで一問でも多く問題を解けるように勉強しなくちゃいけないんだよ。大切なおっぱいもくてきの為にな」
「……なんだか目的の部分が変に聞こえたのだが……」
「気のせいだろ」

 すべてはおっぱいの為に! 目指せ、テストの点数オール95以上!

「私は大丈夫だろうか……」
「情けない顔してんじゃないわよ。さっきも言ったけどテストなんて容量よ。範囲をしっかりと覚えれば赤点なんて取る分けないじゃない」
「それは常識的な考え方だ。私は勉強しても覚えられないのだから」
「「いばるな」」
「はい……」

 とりあえずエイルはひたすらに勉強させるしかないだろう。いざとなったら詰め込みでもさせるしかない。

「つーかさぁ、お前らの魔術でパッとテスト範囲とか覚えられないのかよ?」
「できることはできるけど」
「マジで!?」
「ふむ、《アンサズ》のルーンを使えばいい。このルーンは記憶を操るルーンで、知識を操るルーンでもあるからね。勉強が得意な者が使えば、そのの知識を誰かの記憶に埋め込むことができる。そうすればテスト勉強など必要ないだろう」
「だったら―――」
「しかし、私もヒルドも《アンサズ》を使うことはできない。クマならば使えるが……」

 三人の視線がソファーに寝転んでいまだに漫画を読んでいるクマに視線が集まった。その視線に気がついたクマは、

「お姉さん勉強キライなの」

 そう言って再び漫画の続きを読み始める。

「……いや、私はヴァルキリーだ! そんな卑怯なまねをしなくてもきっといい点数を取ってみせる!」
「まぁせいぜい頑張りなさいあなたはあたしと違って戦乙女学校の筆記試験の成績は最悪だったものね。特に数学と物理が」
「数学と物理って異世界でもあるのかよ。てっきり魔術とか戦い方ばっかり習ってると思ってた。つーかヒルドは成績良かったのか?」
「まぁ当然よ。それとあなたもしかしてヴァルキリーの事を何か勘違いしてない? 皆が皆エイルみたいに戦うしか脳がないような奴ばっかりじゃないわよ。そりゃあベルセルクと戦ったりもするけど、デスクワークをするヴァルキリーだっているんだから」

 ……想像できねー。
 ヴァルキリーがいったいどのようにしてデスクワークをするのだろう。だいたい知っているヴァルキリー二人が仕事をしているといえば、戦っている姿しか思い浮かばない。鎧姿でパソコンいじってる姿なんて想像しただけでシュールすぎる。

「ちなみにエイルから聞いてるかもしれないけど、あたし達がこの国の文化について詳しいのも《アンサズ》で知識を刻まれたからよ」
「あ、気になってたんだけどそれってさ、ヴァルハラから誰かが四之宮に来て、いろいろと文化を学んだってことなのか?」
「いや、そうではない。今回私とヒルドに刻まれた知識は、この世界のものではなくこの世界に限りなく近い世界のものだよ。その世界では地球という星があり、日本という国があり、文化もこの世界とほとんど同じ世界なんだ。違う所といえば、数は少ないが魔術を知る者がいるということぐらいだろうな」
「極めて同じ……か」
「そ、だからその世界の魔術師に協力を頼んで日本という国の知識を貰ったのよ。その貰った知識をあたし達にコピーしたの。《神器》が散ったのはこの日本の四之宮という町だったから、日本語くらいは理解できたほうがいいから」
「なるほど……よくわかんねー」
「ちなみにねー人間君。エイルが胸の事をおっぱいって言うのは、そう言うものだって刻まれてるからよ。」
「……なるほど、よくわかった」

 小さな疑問が解けた。エイルは自分の胸の事をおっぱいといい、胸の谷間といわずにおっぱいの谷間と言っている。なぜわざわざそんな直接的な表現をするのか疑問だったのだが、そういう風に言うものだと知識が刻まれているからということなのだろう。
 その後は他愛ない雑談をしながら夕食を食べ、しばらくして全員が食べ終えた。

「ご馳走様でした。おいしかったよヒルド」
「ご馳走様。確かにうまかった、ありがとな」
「これぐらい普通よ。てゆーか今までどんな食生活してたのよあなた達」

 そっけない態度をとってはいるものの、ヒルドの顔はどことなく赤く染まっている。

「あ、そういえばさ、ヒルドってどこで寝るんだ?」

 高貴がヒルドに問いかける。ベットはエイルが使っており、ソファーは高貴が使っている。ヒルドの眠れそうな場所はリビングには存在しない。

「あたしがベットを使うから、あなた達二人でソファーで寝なさいよ」
「できるか!!」
「そ、それは……さすがに心の準備が……その……」

 冗談にしてもたちが悪い。エイルも顔を赤くして、髪の毛をくるくるといじってもじもじとしている。
 ん? 何かがおかしい。
 確かエイルは以前同じ質問をしたときに、一緒に寝ればいいとドヤ顔で即答した。にもかかわらず今回はどこか恥ずかしそうな表情で、はっきりとしない態度を取っている。これはいったいどういうことなのだろう。何か心変わりでもしたのだろうか?
 ……まぁ、いいか。常識を覚えるのはとてもいい事だ。

「冗談よ。あたしはベットの上にハンモックかけるからそこで寝るわ」
「ハンモックって……あの網みないなやつか? 木と木の間につるすやつ?」
「あたしは布派よ。壁に杭を埋め込んでつるすけど、クマの《ベオーク》でやってもらうから心配ないわ。穴もすぐに塞げるもの」
「ふーん、じゃあいいか」
「そこで一緒の部屋に寝ることについてツッこまなかったってことは、あなたも少しずつエイルに毒されて来てるのかしらね」
「……」
「私は毒してなどいない」
「エイルは後片付け手伝いなさい。月館はお風呂の用意、ほらさっさと動く」
「「は、はい」」

 テキパキとかたづけをしながら指示を出すヒルドは、本当に母親のようだ。最もそんなことを言えば怒られるだろうし、見た目は中学生なので、どちらかと言えば働き者の妹を兄と姉が手伝っているという光景のほうがしっくり来る。
 取り合えず、これから先はコンビニに頼る機会が今よりも減りそうだ。



[35117] 目標に向けて
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/25 20:36
 目覚めは極めて平凡だった。
 目覚まし時計代わりとしてスマホに設定してあるアラーム音の音で、いつもどおり高貴は目を覚ました。時刻を確認すると、液晶画面には7時10分と表示されており、間違いなくいつも起きる時間だ。
 ただ一つ違うところがあるとすれば、エイルの寝ているベットの上にハンモックが取り付けられており、そこにヒルドが寝て―――

「……あれ?」

 いない。ハンモック自体はかけられている。昨日クマが取り付けたものだ。正直紐が切れないか心配で、高貴にはとてもではないが使用できそうにない。しかしきっと大丈夫なのだろう。昨日はそこにヒルドが眠っていたにもかかわらず、今は姿がどこにも見えない。体にかけていたであろうタオルケットが乗っているだけだ。
 ふと、台所のほうでなにやら物音がしていることに気がついた。もしやと思いリビングのドアを開けると、ヒルドはすでに起きておそらくは朝食の準備をしている。高貴に気がついたヒルドと視線があう。

「目覚まし見たいな音が鳴ったと思ったらやっと起きたのね。朝ごはんもうすぐできるから、あなたも運ぶの手伝いなさい」
「……おはよう。つーか何時に起きたんだ?」
「6時半よ。ついでに冷めないうちにエイルも起こして―――ああ、そういえばエイルは寝起き悪いのよね」
「あいつの寝起きの悪さ知ってんだな。俺できれば近寄りたくないんだけど。最近は《エイワズ》で防いでるんだけど、この前なんて槍出して突き破ろうとしてきたんだよ。」
「……あたしだって被害を何回も受けたわ。こんなか弱いヴァルキリーに寝起きの猛獣の相手をしろっていうの?」

 猛獣扱いかよ。間違ってないけど。
 しかし確かにヒルドのいうことも一理ある。以前は抱きついてくるだけの役得、もとい迷惑な行動だけだったが、最近は《エイワズ》の壁を破ってでも抱きついてこようとする場合も多い。ヒルドがか弱いとは思えないが、朝食を作ってもらったにもかかわらず、エイルを起こす役まで任せるのは気が引ける。起きるまで待とうにも、朝食が冷めてしまうかもしれない。

「……ここは間を取って二人で行こう」
「いやよめんどくさい。あなたが行きなさい。別にエイルと二人で朝からサカってもあたしは気にしないわ」
「いや、そんなことしないから」
「……もしかしてあなたって不能なの?」
「ちげーよ!!」
「はぁ、いいわよもうあたしが起こすから。だいたい抱きつかれるくらいで喜んだりするほど子供じゃないし」
「俺だと性別的な問題があるだろーが。まぁ任せた」

 ブツブツと文句を言いながらヒルドがコンロの火を落とした。一度手を洗い、かけてあるふきんで手を拭いてからエイルの寝ているベットに向かう。

「だいたいアラームなったのになんで起きないのよこいつ。普通はあれだけ大きな音が鳴ったら起きるでしょうに。エイル、起きなさい。てゆーか起きろ。朝ごはんが冷めるでしょ」

 エイルの体を揺すりながらヒルドが何度も呼びかける。

「こいつ、頭に水でもぶっ掛けてやろうかしらね」
「いや、部屋が水浸しになるから―――」

 やめてくれ、と高貴がヒルドに言おうとした瞬間に、突然エイルが飛び起きた。あまりにも一瞬の事で、ヒルドはかわすこともできずにエイルに思い切り抱きつかれてしまう。

「こ、こらあっ、もう!!」
「ヒルドおはよーっ! きょーもあいかわらずちっちゃいねー。きゃはははは」
「ブッ殺すわよ! てゆーかあんた寝た振りしてたわね!」
「ちがうもーん、いまおきたんだもーん。こーきもおはよー」
「ぱ、パジャマ! ちゃんと着ろ! 肌が! 谷間が!」

 エイルの着ているパジャマはやはりいつも通り着崩れており、高貴はエイルを直視できない。

「いいから離れろっつーのこのねぼすけ! あとさっさと顔洗ってきなさい、ご飯が冷めるわ」
「ごはん? うん、エイルおかおあらってごはんたべる。こーきてつだって」
「顔ぐらい一人で洗え!」
「ちがうもん。おきがえ」
「一人でやれ!」
「じゃあと―――」
「一人でやれ!」

 最後の一つはなにを言おうとしたのかは気かないほうがいいだろう。何だか大切なものを失ってしまう気がするからだ。ヒルドが力づくでエイルを引き剥がすと、エイルは「みんなけなんだからぁ」などと言いながらしぶしぶ顔を洗いに洗面所へと向かって行った。その途端に今までまったく動かなかったクマのぬいぐるみが動き始める。

「ふぅ、助かったわ。お姉さん今日はエイルのタオルにならなくてすみそう」
「クマ……テメー見てみぬ振りしやがって」
「人間君はしっかり見てたわよね、いろいろと」
「う……」
「やっかいごとは片付いたし、ご飯運ぶわよ。クマはハンモック折りたたんどいて」

 クマが「はいはーい」と返事をしてハンモックを片付け始めた。エイルの事を見てみぬふりをした手前、今はヒルドには逆らえないようだ。

「よくあんな不安定そうなので眠れるよな。俺だったら怖くて眠れない」
「慣れれば平気よ。むしろあたしは慣れすぎてベットのほうが落ち着かないくらい」
「ふーん……」
「わすれものーー!」

 突然エイルが叫びながらリビングに戻ってきた。幼児化が解けていないところを見ると、おそらくまだ顔を洗っていないのだろう。なので相変わらずパジャマは着崩れており、慌てて高貴は視線をそらした。

「どうしたのよ? 早く顔洗ってきなさい」
「エイルわすれものしたの。たおるもってくのわすれたの」

 タオルは洗面所にかけられているのだが、エイルは見つけられなかったのだろうか。その疑問はすぐに解けた。エイルはベットの上のハンモックをはずしているクマに背後から近づいていき、その首根っこを右手で掴んで捕獲した。

「くまちゃんたおる! エイルね、いつもこのたおるでおかおふきふきしてるの」
「え、エイルちゃ~ん、お姉さんはタオルじゃな―――」
「じゃあしゅっぱ~つ」

 クマを捕獲したエイルは、満足げな表情でもう一度洗面所に向かって行った。哀れクマ、きっとこれからもエイルのタオルになる運命なのだろう。まぁ、別に気にするほどの事でもないので、高貴はとやかく言うつもりはない。

「なぁ、純粋な好奇心で聞くんだけどさ、ハンモックって夏場はタオルケットでも大丈夫だろうけど、冬とか寒い時期になったら毛布と布団をかけて寝るのか?」
「基本的に冬場にハンモックは使わないわね。体が冷えやすくなるから。使うにしても普通の毛布や布団だと寝にくいから、そこのところは工夫が必要よ。でもあなたが冬の心配なんてする必要はないわ」
「なんでだよ?」

 そう聞き返す高貴に対して、朝食を運びながら済ました顔でヒルドは声を響かせた。

「冬になるころには、きっとあたしもエイルもこっちの世界にはいないからよ」



 授業が全て終わり、ホームルームの挨拶もたった今終わった。今日はマイペースでのアルバイトはなく、エイルと真澄はすぐに下校した。ヒルドは学校には通うことはないと言っており、エイルが学校に行っている間は家でドラマを見ているか、今まで《神器》や魔力の反応があったところを回っているらしい。今も外を出歩いているようなので、二人はヒルドに合流すると言っていた。
 アルバイトはないと言っても、高貴は今日は図書委員の仕事がある為にすぐに帰る事はできない。教室でエイル達と別れて、高貴は俊樹と一緒に職員室へと向かって行った。俊樹は図書委員ではないが、図書室で勉強をするらしい。その前に各科目の教師に、どこを重点的に勉強すればいいのかなどをダメもとで聞いてみるそうだ。

「にしても珍しいな、俊樹が図書室行って勉強なんてさ。別に家に帰ってでもできるだろうに」

 職員室に向かう道中、高貴が横を歩く俊樹に話しかける。俊樹は時間が惜しいのか教科書を手に持ち、それに視線を落としたまま応えた。

「家に帰ると誘惑が多いんだよ。漫画とかゲームとか部屋の掃除とか。だから学校でやっておこうかと思ったんだ」
「ふぅん、そうなんだ。まぁ確かにその気持ちはわかるかな。テスト前って部屋の掃除がはかどるし」
「高貴はそれでいつも点数がいいよな。俺にも少し分けてくれよ。今回のテストは絶対に全部95点以上とらなくちゃあいけねーんだ」
「……詩織さんとのアレか?」

 ハッとしたように俊樹が教科書から視線を上げて高貴を見る。

「ま、まさか……高貴もか?」
「ああ、俺もだ。男には命を懸けてでもやらなくちゃいけないことがある……お互いがんばろうな」
「……OK、揉む時は一緒だぜブラザー」
「いや、俺は一人でじっくりがいい」
「確かにな」

 そう言いながら俊樹は再び教科書に視線を落とす。そこまで一生懸命になってでもその頂きをつかみたいという気持ちは高貴にも理解できた。しばらく歩いて、二人は職員室の前にたどり着いた。

「じゃあちょっと行って来るから待っててくれ」
「ああ」

 俊樹が元気良く「失礼しまーっす!」と声を出して職員室に入っていった。高貴は壁にもたれかかって俊樹を待ち始める。テスト範囲は公開されているが、その中でもさらに少しでも絞り込めるなら自分も教えてもらいたいくらいだ。
成績は平均よりも上とは言っても、全ての教科で95点以上というのはかなり厳しい。さらに帰ったら、誘惑というよりもヴァルキリーが二人とぬいぐるみもいるので、勉強できる自信などまったくない。そうなると俊樹と同じように、図書室で勉強するしかないだろう。図書当番をしながらでも勉強はできる。
 しかしそうなると《神器》探しのほうがおろそかになってしまう。今日は図書当番があるとはいえ、エイルたちに全て任せきりになってしまっているのだから。ヴァルハラから急かされているわけでもないが、早く集め終わったほうがいいのは確かだろう。平穏がその分早く帰って来る。相変わらず悩みは多いが、取り合えず目の前のことからやっていくしかないだろう。まずは図書当番だ。

「失礼しました」

 職員室の扉が開いて誰かが出てきた。しかし俊樹にしては速すぎるし、何よりも声は女のこのものだ。誰かと思って視線を向けると、そこには沢山の本を両手で抱えて……抱えすぎていて顔が見えない誰かが出てきた。その人物を見たことのある女性の教師が心配そうに見ている。図書室の司書をしている山本先生だ。

「だ、大丈夫音無さん? やっぱり手伝うわよ」
「いえ、平気です。扉だけ閉めてください」
「そ、そう。じゃあお願いね」

 そう言って山本先生は職員室の扉を閉める。出てきた少女は、どこかフラフラした頼りない足取りのまま、しかもおそらく前も見えないままゆっくりと歩き出す。その様子を高貴はポカンとした表情で見ていた。というよりも、今の声には聞き覚えがある。

「今の……音無か?」

 高貴と同じクラスで、さらには隣の席で、さらには委員会も同じ図書委員の音無静音。今でてきた少女はおそらく、いや、間違いなく彼女だ。いつもは機械のように正確に歩く彼女だが、今の足取りは転んでしまいそうなくらい危ない。そもそも前が見えていないだろうから、まともに歩けるわけがない。いくらなんでも本を高く積みすぎなのだ。足だけではなく腕も僅かに震えている。
 体がゆらゆらと揺れ、長い黒髪がゆらゆらと舞い、手に持つ本はグラグラと崩れてしまいそうだ。

「ったく、あれじゃあぶねーだろ」

 高貴はもたれかかってた壁から離れると、少し足早に静音に近づいていった。

「音無」

 名前を呼ばれたためか、静音の足が止まった。その隙に正面に回りこみ、静音の持つ本の山を上から8割ほど有無を言わさずに奪い取る。本の向こう側で少し驚いたような表情の静音と目があったが、そのフレームレス眼鏡の奥の目はすぐにいつもの無表情なものへと変わった。

「手伝う」
「結構よ、本を返して」
「あのさ、一人であれだけ本を持つのって危ないから。前見えてなかっただろ?」
「平気よ」
「本落として破けたらどうするんだよ」
「……今日はやけに押しが強いわね」
「山本先生に頼まれたんだろ? 忘れてるかもしれないけど、俺も図書委員だからな。仕事はしっかりしねーと」
「……」

 静音がいったん言葉を切った。高貴と静音は特別に仲が良いわけではない。むしろ隣の席にもかかわらず、図書委員の仕事に関する会話意外話すこと自体ほとんどない。それは静音があまり他者と関わらないように生活していることを高貴が理解しているからで、無理矢理仲良くなろうとは高貴は思わないからだ。そんなものはラブコメの主人公にでも任せておけばいい。
 しかし委員会の仕事となると話は別だ。図書委員である静音がやっていることなのだから、自分にもやる責任はある。というのが半分の理由で、単純に女の子一人で運ぶには大変そうだったからという理由は言わないほうがいいだろう。静音は他人と関わらないタイプだが、他人に迷惑をかけるタイプではなく、クラスの仕事や委員会の仕事はキチンとこなしているため、委員会の仕事だから手伝うといったほうがいいだろう。

「……はぁ、わかったわ。図書室までよ」
「オッケー、行こう」

 ようやく折れたのか、静音がため息を一つついて歩き出した。その隣を高貴が歩き始める。

「ところで、かっこよく本を沢山とったのはいいけれど腕が震えているわよ。少し持ちましょうか?」
「……よ、よゆー」

 この本重っ!!
 静音は今高貴がもっている量よりも少し多めに持っていたはずだが、ひょっとするとかなり力持ちなのかもしれない。しかし、一度持ってしまった以上静音に返すのは男としての沽券に関わる。だが図書室まで運べないかもしれない。故に高貴は少しズルをすることにした。
 集中。意識のスイッチで魔力を切り替える。
 魔力を開放することで、今の高貴の身体能力は比較的に跳ね上がっている。それは当然腕力も上がっており、重かった本も今では片手で持てるだろう。もっともちゃんと両手を使って抱えてもってはいるが、腕の震えは止まった。魔術を見せたわけではないし、これくらいなら使っても構わないだろう。

「意外に力持ちなのね」
「まぁ男だから」
「そう、素敵ね」

 そんな無表情で言われても怖いだけだよ。そのまましばらく黙って二人は歩く。高貴は沈黙が苦手ではない。静音と一緒に図書当番をしているときなどは、教室と同じように隣に座っているにもかかわらず、会話はまったくと言っていいほどないが、特に気にならない。しかし静音とこんなに話したこと自体が初めてで、どうせならもう少し話してみたいという事もあって、あえて高貴は話題を振った。

「そういえばこの本ってどうしたんだ?」

 静音は高貴のほうを向かずに前を向いたままだ。五秒ほどの間隔をあけて静音が口を開く。

「授業で使っていたのを返し忘れたらしいわ。それで図書委員で戻しておいてくれだそうよ」
「山本先生は?」
「ほかにも資料の整理があるそうよ」
「ふーん……あのさ、委員会の仕事だったらちゃんと手伝うから言ってくれよ」
「わかったわ」

 こいつわかってねーな。

「それにしても、これで月館君にまた借りが増えたわね」
「え? 俺音無に何かしたっけ?」
「前に図書室でエルルーンさんを追い払ってくれたでしょう」
「……ああ、あの時か」

 確か《神器》の事を調べに休みの日に図書室に行った時の事だ。あの時の静音はイヤホンをして音楽を聞きながら本を読んでおり、いかにも話しかけるなというオーラを出していた。しかしそんな音無バリアーをたやすく壊す存在が空気を読まないヴァルキリー。静音に平然と話しかけ、無視し続ける彼女に対して脇をくすぐろうとまでしていた。その後何とか高貴がエイルを連れ去ったのだった。

「あれって借りっていえるのか?」
「私にとっては大きな借りよ」

 そこまでして静音は一人で居たいようだ。

「借りが二つになったからそろそろ返さないといけないわね」
「え、いいよそんなの」

 ―――胸でも揉ませてもらったらどうだ? この娘の乳房はよく実っているではないか。

 ん? 何か聞こえた気が……気のせいか。

「私の気がすまないのよ。さっさと借りを返させなさい」
「それある意味脅迫だぞ」

 仕方なく高貴は何か考え始める。しかし静音にしてほしいことなど特には思いつかない。そもそも借りの貸し借りを気にするほど親しくもないのだし、やはり気にしないでもらいたいのだが、それは静音が納得しないだろう。もうジュースでも奢ってもらって終わりでも……いや、待て。一つだけあった。

「じゃあさ……」
「なに?」
「……その……勉強教えてくんない? 時間あるときでいいから」

 覚悟を決めて言い放つ。静音は知的な見た目に比例して頭がいい。それはこれまでの授業や小テストで判明している明らかな事実だ。そんな静音に教われば、もしかするとテストで目標点にいくかも知れない。
 しかし、いくら借りを返してもらうと言っても、そんなに親しくもないただのクラスメイトの勉強など進んでみたいなどとは思わないだろう。だから言葉にするのがためらわれたのだ。静音は前を向いたままずっと黙っている。これはもう無理かと思い、やっぱりいいと言おうとしたその時、

「私は厳しいわよ」
「……え?」
「図書当番なんてやることほとんどないし、今日からでもみてあげられるわ」
「……マ、マジで? ありがとう!」
「廊下は静かにして」
「は、はい」

 自分でも予想外だったが、静音の協力はかなり心強い。図書室に着いたらさっそく勉強を見てもらおう。
 遠い平穏まぼろしよりも目に見えるおっぱいゆめをつかむために、必ず目標点を取ろうと高貴は硬く決意した。



「失礼しました!」

 職員室から勢い良く俊樹が飛び出してきた。そのあまりのハイテンションぶりに、廊下にいる何人かの生徒は軽く引いている。
 テストの重点的なところはいくつか教えてもらえた。普段は勉強をしようとしない俊樹があまりにも必死に頼み込む為、その態度が何人かの教師の心を打ったようだ。

「高貴! 教えてもら―――あれ?」

 周りを見渡す。待っててくれるといった友人の姿はどこにも存在しない。

「……あれ?」

 嬉しいことがあったにも関わらず、どことなく切ない気持ちになってしまった俊樹だった。



[35117] その頃ヒルドとクマは?
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/27 05:44
 高貴が学校で静音と図書当番をしているのとほぼ同時刻に、昨日再びこの世界にやってきたばかりのヴァルキリーであるヒルドも学校に来ていた。しかし学校は学校でも高貴たちの通う四之宮高校ではない。住宅街にある唯一の中学校である四之宮中学校にヒルドはクマと共にやって来ていた。
 体育館裏の人気のないところに移動した二人は、辺りに誰も人がいないことを確認して《エオー》でエイルに連絡を取った。

「じゃあエイルと人間ちゃんも今からここに来てくれるの?」
「ああ、学校は終わったからね。高貴は図書当番で遅くなるらしいが、真澄は用事がないので付き合ってくれるそうだ」
「手伝うって言いましたし、このぐらいはしようかなって。あとわたしそこの卒業生ですから、一緒にいれば見つかっても少しは怪しまれないかも」
「助かるわ。じゃあ待ってるから」
「わかった、もう少しでつくよ」

 エイルのその言葉を最後に通信が切れた。

「エイル今から来るって、よかったわね」
「……別に」

 ムスッとした表情でヒルドがそう返事を返した。

「ヒルドってばなんでそんなに機嫌悪いのよぉ。お姉さんには理解できないわ」
「へぇ、そうなの。あなたのせいであたしの機嫌は悪くなっているって言うのに、ぜんぜん理解できないなんていうのはどの口かしらね」

 ヒルドのこめかみがピクピクと動いている。しかしクマはまったく理由がわかっていないようで首を捻るばかりだ。

「まぁ別に機嫌が良くても悪くてもやること自体はかわらないわ。この学校の生徒か教師に《神器》の持ち主がいるかもしれないんだからしっかり探さないとね」
「はぁ、わかってるわよ。仕事って割り切れないほど子供じゃないわ」
「よし、ファイトよヒルド! あ、その制服にあってるわよ。超可愛いわ」
「それが機嫌の悪い原因よ!」

 ヒルドが足下にいるクマに向かって思い切り怒鳴った。しかしクマはまったく怯むことなく「またまた照れちゃってぇ」などと(ぬいぐるみなのでいまいちわかりにくいが)ニヤニヤ笑っている。
 ヒルドの怒っている理由は至極単純だ。彼女の今の服装は、私服でなければ鎧姿でもない。四之宮中学校の制服のセーラー服だった。上も下も紺色のその制服は、四之宮高校の制服と比べるとどこか子供っぽいものとなっている。しかしヒルドの容姿と合わさって、初見ではなんとか中学生だとごまかせるだろう。しかし、本人はそれが気に入らないらしい。

「だいたいこれどこから持って来たのよ?」
「この学校って今日は身体測定と健康診断があったらしいの。だから女の子の脱ぎたてホヤホヤの制服を参考にして作ってみたの。ぶっつけ本番にしてはよくできたわ」

 危ない言葉を含みながらクマはそう言った。しかしヒルドが気になったのは脱ぎたてホヤホヤという言葉ではない。クマが制服を作ったといったことだ。
 《ベオーク》。それは創造のルーン。ルーン魔術の一つで、何かを作るときは主にこのルーンを使う。このルーンにより、材料さえあれば、それを使って何かを作ることが可能だ。
 例えば鉄から剣を作る。布から服を作る。壊れてしまったものを作り直すというふうに使用する。
 エイルは《ソーン》と組み合わせてランスに雷を纏わせる《雷光の槍ブリッツランス》なども使っている。しかしこのルーンは元々かなり高度なルーン魔術であり、バインドルーンで武器にルーンを追加するという使い方よりも、単体で何かを作る使い方をするほうが遥かに難しい。それをクマは軽々とやってのけている。その事実にヒルドは衝撃を受けていた。
 いったいこのぬいぐるみは何者なのか。エイルは知っているようだが、ヒルドはクマについてたいして詳しくはないのだ。

「……なんであたしがこんな格好しなくちゃいけないのよ。これならまだエイルの着てる制服のほうがまだましじゃない」
「だって私服じゃまずいし鎧もまずいじゃない。だったら残ってる選択肢はこの学校の制服しかなかったのよ」

 至極全うな意見にヒルドは何も言えなくなってしまった。確かにクマの言っていることはとてつもなく正論だ。しかし納得できないというのもまた事実。だが仕事ならば仕方がないと割り切ることの出来るのがヒルドなので、最後にため息を一つつくのと一緒に不満も全て吐き出した。

「もういいわ。それより《神器》の反応があった場所はここで最後なのよね?」
「そうよ、都心とか住宅街とか海の近くとかいろいろ回ったけどここで最後」
「町中歩き回ってなんだか嫌になってくるわね。それに現場に行っても何一つ手がかりがつかめないのも腹立つわ」

 ヒルドとクマは今日は朝から四之宮を歩き、《神器》の反応があった場所などを回っていたものの、手がかりらしきものは何一つ手に入れることができていない。それどころか都心のビルにいたっては、人の目が多すぎてろくに調べることもできなかった。

「でもここは期待していいかも。だって今までで一番《神器》の反応が現れてるんだから。まぁ駆けつけてみると時すでに遅しなんだけど。ヒルドは魔力を隠してないから、向こうがヒルドを見れば何かしら反応すると思うし」
「だったらもう学校の中を歩くわよ。エイルとの連絡はすんだからコソコソ隠れる必要もないわ。まだ生徒は部活で沢山残ってるだろうし、片っ端から見て回るしかないわね」
「エイルと人間ちゃんが来るのを待ったほうがいいわよ。人間ちゃんなら中も詳しいだろうから」
「あー退屈ね。こんなことならどこかでもう少し時間を潰すべきだったかしら。いっその事ベルセルクでも出てきてくれればいいのに、そうすればこの学校にいる《神器》の持ち主が気がついてやってくるかもしれないわ」
「ちょっとぉ、不吉な事言わないでよ。それにベルセルクは昼間は出てこないわよ」

 ふと、ヒルドの表情が険しいものとなる。そして、今日何度目かもわからないため息を一つつく。

「そうね、あれって夜にならないと出てこないんだったわ。ヴァルハラなら子供でも知ってる常識。でもあなただって知ってるでしょ?」
「え?」
「ここはあたしたちにとっては異世界で、常識なんて簡単に壊れるのよ」

 ヒルドのその言葉により、ハッとしたクマは背後を振り向いた。そこには、いつのまにか、地面には黒い影が水溜りのようにいくつもできていた。

「げ」

 慌ててクマが後ろに下がり、ヒルドの背後に移動する。それとは反対にヒルドは黒い影に向かって数歩ほど歩みを進めた。

「見るのは初めてだけど、きっとこれが例の《神器》に操られたタイプのベルセルクよね」
「はい、エイル・エルルーンの報告によると、おそらくは《神器》の一つであるダインスレイヴによって操られていると思われます。このベルセルクが出現したということは、四之宮中学校に度々出現している《神器》の反応はダインスレイヴである可能性も高くなりました」

 足元のクマが真面目な口調へと変貌する。そこにいるのはつい先ほどまで軽口を叩いていた存在ではなかった。冷静に今の状況を分析でき、危険な空気にも慣れきっている存在だ。

「それよりこんなとこで戦ったら、いくら体育館裏とかでもばれるんじゃない?」
「その点はお任せください。私の得意分野は証拠隠滅と隠蔽工作です」

 クマの右手に青い光が灯りだす。エイルの青よりも深い青。その光を纏った右手が動いた。

「《オセル》、《ハガル》、《ペオース》、バインドルーン・トライ」

 光の筆跡で刻まれた三つのルーン。それ事実に再びヒルドは驚いた。このぬいぐるみというふざけた存在は、いったいなんなのだろうと。

「《おぼろげな世界ディムスペース》」

 その言葉が鍵となったのか、三つのルーンが弾けた。《オセル》は地面に溶け、《ハガル》と《ペオース》は空中に溶ける。

「この一帯にルーンをかけました。この体育館裏は一般人は来ようとすら思えず、また認識することもできない死角の場所です。大きな音が上がっても隠しきれるでしょう。しかしそれにも限度があります。例えばこの体育館を壊したりでもしたら、さすがに人が押し寄せるので注意してください。」
「十分よ」

 黒い影の中に所々赤い色が混ざりだす。そして赤と黒の闇があふれ出た。闇が形を成していき、そこには2メートルあまりの赤と黒の巨人―――ベルセルクが出現した。

「――――――」

 ベルセルクがヒルドを見下ろす。ヒルドが小柄なせいもあってその分巨大な存在から感じる威圧感も相当なものに違いない。

「いいところに来てくれたわね」

 いや、違っていた。彼女は、ヒルドはまったく怯んでなどいない。彼女もまたエイルと同じくヴァルキリーなのだから。

「ちょうど暇してたのよ。それに戦っていれば《神器》の持ち主も出てくるかもしれないしね。だから―――」

 ヒルドが右手を伸ばす。その右手に僅かに火花が散った。

「相手してあげるわ!」

 ヒルドの右手に炎がはじけた。それと同時に地面を蹴ってベルセルクに向かって走り出す。激しく燃える炎は一瞬で消えたが、その代わりにヒルドの右手には炎の剣レーヴァテインが握られている。以前エイルと戦った時には呼び出すのに多少時間が掛かったものの、今は一瞬で呼び出せるようになっていた。
 突然動き出したヒルドに、ベルセルクは一瞬反応が遅れてしまった。荒々しい形をした刃に激しい炎に包まれる。ベルセルクが反応するももはや遅い、ヒルドはがら空きの腹部に向かってレーヴァテインで斬り付ける。爆炎が巻き起こり、轟音が響き、ベルセルクはあっけなく砕け散った。しかしまだ終わっていない。いつの間にか黒い影はいくつも生まれており、ベルセルクも止め処なく溢れてくる。

「―――上等よ」

 再びヒルドが地面を蹴った。今度はベルセルクも虚をつかれてはいない。その腕を振り上げヒルドに向かって叩きつける。当然のごとくヒルドはそれを防御する。その腕と対角線上に、正面からぶつかるようにレーヴァテインを振り上げてそれを受け止め―――
 いや、受け止めたのではない。それは防御ではなく攻撃だった。炎の剣と黒の腕がぶつかった瞬間に、ベルセルクの腕は爆炎によって吹き飛ばされた。勢いよく腕を振るったため、バランスを崩したベルセルクにたいして、ヒルドはとどめとばかりにそのベルセルクの頭を破壊する。

「化け物って本当に楽ね。手加減する必要ないもの」

 ヒルドは元々エイルと互角に戦える力を持ったヴァルキリーだ。当然ベルセルクとも戦いなれており、今まで何体も倒してきた。しかもそれは《神器》を持っていないときの話であり、今のヒルドは《神器》であるレーヴァテインをもっている。加えてエイルや高貴と戦った時とも違い、殺してしまわないように手加減をする必要もない。
 つまり、全力で戦える今のヒルドにとって、ただのベルセルクなど敵ではないのだ。
 ヒルドは出現するベルセルクを片っ端から倒していく。ベルセルクがどんなに攻撃をしようとヒルドにはかすりもせず、レーヴァテインによって跡形もなく焼き尽くされてしまう。体育館裏はたいして広くはない場所なので炎を飛ばしてしまえば周囲を破壊しかねない。故にヒルドは直接斬りつけてベルセルクを倒している。
 それは戦いというには圧倒的過ぎた。炎を撒き散らしながら踊っているという表現のほうがこの光景には相応しい。

「これで、最後!」

 ヒルドが残った最後の一体のベルセルクにレーヴァテインで斬り付ける。今まで繰り返されたのとまったく同じように、ベルセルクは炎に包まれて消え去る。それが本当に最後だったようで、それ以上ベルセルクが出現する事はなく、赤黒い影も消え去った。
 周りに敵がいないことを確認したヒルドは、邪魔にならないとこ路に移動していたクマの元まで歩いていく。

「ふぅ、あっけないわね。まぁあたしにかかればこんなものかしら」
「……」
「どうしたの?」

 ベルセルクがいなくなたというのに、どこかクマは難しい顔をしているようにヒルドには思えた。

「いえ、気になることがありまして……」
「気になること?」
「はい、あっけないといいますか……いくらなんでもあっけなさ過ぎるとは思いませんか? 今のベルセルクの特徴から、以前エイル・エルルーンの交戦したタイプのベルセルクに間違いはありません。つまり私達はダインスレイヴの持ち主に襲撃されたと考えるのが自然でしょう」
「まぁ……そうね」
「にもかかわらず、ダインスレイヴの持ち主は出てきません。それにベルセルクを強化できるという情報もありますが、それがおこなわれているようでもありませんでした。さらに今回のベルセルクは雄たけびを上げることもなかったことも気になります。まるで静かにただ倒される為だけに、本当にただ倒される為に私達の前に姿を現したとも考えられます」

 クマの言ったその言葉に、思わずヒルドはムッとしてしまった。今の圧倒的な戦いが、まるで茶番だとバカにされたような気分になったからだ。すこしすねたようにヒルドは後ろを向いてクマのいるほうとは反対方向に歩き出す。

「ふぅん、つまりあなたはどういうふうに考えるの?」
「はい、今の戦いはヒルド・スケグルの実力とレーヴァテインの能力を確かめる為に―――」

 どすっ。

 クマの言葉が途切れた。それと同時に背後から奇妙な音が聞こえてくる。
 不審に思ったヒルドがクマの方に振り返る。

「……え?」

 ヒルドの目に入ってきたのは、赤黒いなにかによって、脳天から串刺しにされているクマのぬいぐるみの姿だった。クマはピクリとも動かない。先ほどまで動いていた魔法のぬいぐるみは、ただの壊れたぬいぐるみになっていた。
 一体クマを貫いているこれはなんなのか? そしてクマは無事なのか? それらを確認する為に慌ててヒルドはクマに近づこうとしたが、その足が動く事はなかった。
 ゾクリと、ヒルドは体中に殺気を感じたからだ。まるで全身にナイフでも突き立てられたかのような殺気を感じた瞬間に、クマを貫いていた何かが動き出した。それでヒルドは理解した。この赤黒い何かは剣だ。以前高貴と戦った時にみたクラウ・ソラスと同じように、刀身が延びているのだ。
 それを理解したと同時に、クマの体が縦に真っ二つに斬り裂かれ、赤黒い剣も消え去る。

「クマッ!」

 今度こそヒルドがクマに駆け寄る。しかし再びその足は途中で止まってしまった。
 自分の頭上から、とてつもない殺気がぶつけられる。その殺気に反射的に反応したヒルドは、クマの横たわっている地面ではなく、何もないはずの頭上を見上げた。
 そこには何かがいた。季節は夏にもかかわらず、真っ黒なロングコートを身に纏った人物が空からヒルド目掛けて落ちてくる。
 そのコートのフード奥に光る、二つの紅い双眼がヒルドの視線と交差した。



[35117] 《神器》の持ち主大集合?
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/01/28 06:04
 ヒルドは頭上から自分目掛けて落ちてくるそれに気がついた瞬間に、あれが先ほど放たれた殺気の正体であり、クマを真っ二つにしたものだと理解した。
 そしてそれを視認した瞬間にヒルドはすでに攻撃を開始していた。正確には反射的に体が攻撃を行っていたのだ。今までの戦闘経験から、確実にあれは敵だということがわかる。さらに行動を起こさなければ、次の瞬間には自分は殺されるという事もヒルドは理解したのだ。
 それを視認してから、それに対して初撃のレーヴァテインの炎を飛ばしたまでの時間は僅か1秒ほど。上に対しての攻撃とはいえ、下手をすれば校舎に当たってしまうかもしれないその攻撃は、ヒルドに本当に余裕というものがなかったことを意味している。
 それに対して黒コートは余裕の様子で飛ばされた炎を手に持つ剣で斬り裂いた。割れた炎は力をなくしてすぐに消え去る。黒コートは落下中という不安定な体制にもかかわらず、もう一度剣を振りかぶる。彼の初撃は重力と落下のスピードを利用しての斬り下ろしだった。ヒルドは自分目掛けて降りおろされる刃目掛けて、思い切りレーヴァテインを振り上げた。
 がきぃ!! という耳を劈く轟音と、体全体に凄まじい衝撃がヒルドに襲い掛かる。まるで体ごと押しつぶされるかのような衝撃だった。

「こ……のおおっ!!」

 しかし空中にいる黒コートよりも、地に足をつけているヒルドのほうが力を出せる。武器と武器のぶつかり合いによって一瞬だけ両者の動きは止まったが、ヒルドが何とか押し切って黒コートを吹き飛ばした。吹き飛ばされた黒コートは、空中で体を捻って地面に着地し、ヒルドに向かってゆっくりと向き直った。
 ヒルドにとって、高貴を除けば初めてといえる、戦うべき《神器》の持ち主との邂逅。クマから聞いているダインスレイヴの持ち主である謎の存在。それが今目の前にいる黒いコートを着た男性。
 黒コートがヒルドの前に姿を現してからまだ一分も立っていない。それにも関わらず、ヒルドはすでに何十分も戦ったかのような精神的疲労を感じていた。流れは完全に黒コートに握られている。すぐに戦いを再開させるよりも、まずはなんとかして主導権を握る必要があると考えたヒルドは、警戒を保ったまま口を開いた。

「初めまして。あたしはヴァルハラのヴァルキリーのヒルド・スケグルよ。その手に持っている《神器》をこちらに渡しなさい。そうすれば危害を加えるつもりはないわ」
「…………」
「聞いてるの? 返事くらいはしてほしいんだけど」

 黒コートは何も言わない。言わない代わりに黒コートがゆっくりと歩き出す。ヒルドは警戒を高めたが、その歩みの方向が自分とはまったく違う事に気がつく。彼が歩く方向にあるのはヒルドではない、先ほどダインスレイヴで真っ二つにされたクマのぬいぐるみだ。
 クマからは魔力をまったく感じない。完全にただのぬいぐるみになっており、今この状況でそれに近づいていく意味がヒルドには理解できなかったが、やはり黒コートの目的はクマの残骸だったようで、その目の前で歩みを止めた。
 そして、なんの躊躇もなしに、無造作に、ダインスレイブをクマに突き刺した。
 当然のごとく刃はぬいぐるみを貫通し地面にまで達している。黒コートがヒルドに視線を向ける。フードの中で光る双眼が、何故か笑っているようにも見える。そこでようやくヒルドは理解した。自分は挑発されているのだと。誘われているのだと。
 クマの亡骸をあざ笑いながらゴミのように扱う事で、ヒルドが逆上して向かってくるのを黒コートは待っているのだ。

「ふん、バカじゃないの? そんなことぐらいで怒るほど子供じゃないわ」

 ダインスレイブがぬいぐるみから引き抜かれる。間髪いれずにもう一度突き刺した。

「だいたいそいつとは付き合いも長くないし、情なんて移るわけないじゃない」

 もう一度ダインスレイブが引き抜かれる。今度は突き刺すのではなく斬りつけて横に切断した。

「そんなので挑発してるつもりなら……あなたってとんだバカね」

 破片を足で踏み潰した。タバコの火を消すように地面にぐりぐりと押し付けながら、ダインスレイブで突き刺す行為を繰り返す。

「本当に……見当違いよ……本当に……本当に……」

 ダインスレイヴが引き抜かれ、突き刺され、引き抜かれ、突き刺され―――

「いつまでも……調子のってんじゃないわよ!!」

 ヒルドが地面を勢いよく蹴って黒コートに突進していく。自分を押し殺すのはもう限界だったのだ。あそこまでやられて頭にこないものなどいるはずがない。怒りに任せて、ただ力任せに、ヒルドは黒コートに斬り付ける。その一撃をやはりあざ笑うように、黒コートがやすやすと受け止めた。

「誘いに乗ってやるわ。けど、高くつくわよ!!」
「…………」

 怒声にこめられた怒りと無言でも伝わる殺気。互いが互いの刃に明確な意思をこめて、その剣戟は開始された。
 レーヴァテインとダインスレイヴがぶつかり、激しい金属音が響き、火花が辺りに舞う。二度、三度、一瞬だけ間を挟んで四度。五度目に互いの武器がぶつかった時、ヒルドがレーヴァテインで黒コートのダインスレイヴを弾いた。
 がら空きになった胴体目掛けて一撃を入れようとするものの、グニャリとダインスレイヴの刀身が曲がる。まるで意思を持った蛇のように、ダインスレイヴの切っ先がヒルドの顔に向かって伸びていった。
 ヒルドは僅かに顔を右にずらしてそれをかわすが、回避することに気を取られてしまい攻撃は中断されてしまう。仕方なくヒルドはバックステップで黒コートからいったん距離をとった。だが距離をとろうとするその行動は、黒コートにとってはまったく意味を持たない行動だった。
 ダインスレイヴの刀身は伸縮自在なのだ。それもただ伸びるだけではなく、鞭のようにしなり曲線的な動きも可能となっている。ヒルドが三メートルほどの距離をとったが、そこはまだ余裕でダインスレイヴの間合いの中だ。黒コートがダインスレイヴを振るい、息をつく暇もないような連撃がヒルドに襲い掛かった。

「くっ―――」

 そのスピードにヒルドは攻撃を防ぐだけで精一杯になってしまっていた。炎を放とうにもその隙を貰えず、かといって近づこうにも攻撃が激しすぎて近づけない。直接攻撃も遠距離攻撃もヒルドは封じられてしまったのだ。剣術はヒルドよりも黒コートのほうが上なのか、ヒルドは防戦一方になってしまっている。
 その事実をヒルドは信じることができなかった。自分は魔術が一般的にある世界で、ヴァルキリーとして戦いの経験をつんできているが、目の前にいる黒コートは、戦闘の経験は間違いなくヒルドよりも浅いはずだ。《神器》が四之宮に散ったのは約2ヶ月前、と言う事は黒コートの男は長くても2ヶ月ほどでヒルドを上回る剣技を習得したという事となる。《神器》をもっているとはいえ、そんなに短い期間で自分は超えられてしまったなど、ヒルドは認めることができない。
 しかし認めたくはない現実でも、目の前にあるのだから認めるしかない。《神器》ダインスレイヴ。その持ち主の黒コートの男。こいつは自分よりも強いという事実を。

「この……おいつけ……ない……!」

 ダインスレイヴの刃がいったん縮み元の長さに戻る。しかし次の瞬間、黒コートはフェンシングように片手で突きを放ち、切っ先を伸ばしてきた。狙われているのはヒルドの心臓だ。かわそうにも軌道を変えられてどこかに当たる可能性もあるため、ヒルドはとっさにレーヴァテインを盾にして正面からそれを受け止めた。
 きぃぃん!! とかんだかい音がヒルドを射抜き、衝撃を殺しきれずに僅かに体勢を崩してしまう。
 まずい、この隙は確実に命取りだ。目の前の男はきっとどんな小さな隙でも見逃すような相手ではない。その考えを証明するかのように黒コートがもう一度ダインスレイヴを伸ばす。反撃、防御、回避、その全てが間に合うタイミングではない。
 殺される―――!
 ヒルドはせまりくる切っ先を見て一瞬で敗北を覚悟した。
 しかし―――ダインスレイヴの刃がヒルドに到達する前に、ヒルドの背後から銀色の光が飛んでくる。その光はヒルドの右頬ギリギリを通り過ぎて、凄まじい速さで黒コートに向かっていく。その光は銀色に発光した矢だ。
 それが当たる瞬間、黒コートは体をずらして矢をかわすが、同時にヒルドに向かって延びていたダインスレイヴの軌道もずれてしまい、その切っ先はヒルドに触れることはなかった。なにが起こったのかヒルドには理解できなかったが、一瞬で我に返って体勢を立て直す。

「ヒルドっ、大丈夫!?」

 背後から少女の声が聞こえてくる。声のほうに視線を向けると、そこには銀に煌く弓を持った真澄が立っていた。そしてその隣には、

「来い、契約の槍!」

 銀色の長い髪を靡かせながらヴァルキリーが走ってくる。エイルがヒルドの隣に立ってランスを構えた。

「すまない、遅くなった。まさかこの男と戦っているとは、危ない所だったな」
「べ、別に危なくなんてないわよ! あたし一人でも余裕だったわ」

 エイルとヒルドが黒コートに向かって武器を構える。背後から真澄も追いついてきた。黒コートは敵が増えた事で、距離を保ったまま様子を見ているようだ。

「一体なんなのよこの趣味の悪いコート野郎は? 真夏にコートなんてバカじゃないの?」
「ふむ、油断はしないほうがいい。以前私と高貴と真澄の三人がかりでも互角だった相手だ。戦闘力は私たちよりも上だと考えて間違いない」
「こっちには《神器》の持ち主が二人もいるのよ。状況はあたし達が圧倒的に有利のはずだわ」
「でも今って学校に人沢山残ってるよね。だったら本気で戦ったら校舎壊したらまずいんじゃない? 体育館裏って狭いからアルテミスは戦いづらいし、たしかヒルドの剣も炎を出しにくいんじゃないかな」
「う……」

 真澄の意見は実に正しい。狭い場所でレーヴァテインを使う場合は、むやみやたらに炎を飛ばせば周囲を破壊してしまう。しかも今はクマがいないため、修理自体が出来ないのだ。レベル低いベルセルク相手ならともかく、目の前の黒コート相手に周囲を気にしながら戦うのはかなり厳しい。たいして向こうは、周囲の事を気にしているとは思えない。なんの気兼ねもなく本気で戦えるだろう。ヒルドと真澄の表情に僅かに不安が映る。

「何を言ってるんだ、これはちょうどいい機会じゃないか」

 だが、そんな不安を吹き飛ばすように、エイルが二人に向かって力強く言った。

「あの男には個人的に土下座させたいことがあってね。以前あったときは真澄に謝らせることができなかったから、今度こそコートを剥ぎ取って土下座させてやろうじゃないか。今は高貴がいないが、きっとなんとかなるだろう」

 エイルの表情には不安などまったくない。戦闘力は自分よりも上だと認めている相手に対してどうしてそこまで強気になれるのか。それは簡単だ。彼女はヒルドと真澄の二人を信じているからだ。この三人ならばきっと大丈夫だという確信がエイルにはあるから、どんな相手でもエイルは恐れない。
 そんなエイルを見て、真澄とヒルドはポカンとしたが、やがてクスリと笑う。

「……そういえば、あいつのせいでスマホが一回壊れたんだよね。それでごめんなさいもなしってのはひどいかな」
「あんたたち、《神器》の回収が第一だって事を忘れるんじゃないわよ」
「わかっているさ(忘れていた……)。では、行くぞ!」

 二人のヴァルキリーが地面を蹴り、真澄はその場でアルテミスを構える。
 黒コート一瞬遅れて地面を蹴る。向かってくる数は二人だというのに、まったく怯んだ様子はない。それは二人相手に切り結んでも勝てるという自信の表れなのだろう。ダインスレイヴを鞭のようにグニャリとまげて、黒コートはエイルに向かって切りかかった。

「はぁっ!!」

 エイルがランスをふるってそれを受け止める。その隙にヒルドがレーヴァテインで斬りかかるも、黒コートは後ろに下がってそれを避けた。しかし、避けた所に真澄が銀の矢を放ってくる。黒コートはそれすらもダインスレイヴで弾き落としたが、間髪いれずにエイルとヒルドが連携で切りかかって来た。
 三つの武器がぶつかる度に激しい金属音が辺りに木霊する。黒コートの剣技はやはりエイルやヒルドよりも高く、2体1という状況にもかかわらず互角以上に切り結んでいる。それは以前高貴とエイルの二人をいなした時と同じだ。しかし、今は真澄がいる。真澄が二人を援護して矢を放っているため、黒コートには段々と余裕がなくなってきているのだ。
 いける―――!
 エイルはランスを振るいながらそう確信していた。このまま攻防が続けばいかに黒コートといえど隙ができる。以前は逃がしてしまったが、今回は逃がすことはないはず。
 そう思っていた瞬間、黒コートのフードの奥に見える、紅い双眼がギラリと光った。

「な……」
「く……」
「きゃ……」

 同時に黒コートから放たれる殺気がさらに強くなる。エイルが、ヒルドが、離れている真澄にさえそれははっきりと感じることができた。理屈ではない。今は有利な状態だとか、三大一だとかそんなことは頭から吹き飛び、殺されるという恐怖で三人の頭が塗りつぶされる。それは一瞬のみの事だったが、反射的にエイルとヒルドは攻撃をやめて後ろに下がってしまった。
 黒コートが笑っている。フードで隠れて顔や表情はまったく見えないが、確実に彼は笑っている。この状況を楽しむように笑いながら、黒コートはダインスレイヴを地面に突き刺した。

「紅氷柱―――」

 ダインスレイヴが妖しく光り、突き刺された地面から紅い影のようなものが伸びてくる。それはまるで地を這う蛇のように、不気味な軌跡を描きながら地面を走り、凄まじい速さでエイルに向かって行った。身の危険を感じたエイルがとっさにその影から離れようとした時、それは起こった。
 赤い影から、鋭い棘のようなものが勢いよく飛び出してきたのだ。

「くっ、なんだこれは!?」

 自分目掛けて生えてくる棘を、エイルはギリギリで回避してその場から離れるが、攻撃はそれだけではなかった。影はエイルを追いかけるように伸びていき、何度もエイル目掛けて棘を放ってくるのだ。棘はすぐに消えるものの、影はいつまでたっても追ってくるために、エイルはそれをかわすことで精一杯になってしまう。

「こいつ、あたしにも……」

 代わりにヒルドが黒コートに近づこうとしたが、今度はヒルドに対しても影を走らせ棘を生やしてきたので、前衛の二人は無力化されてしまった。

「だったらわたしが!」

 真澄が黒コートにアルテミスを構えた。ダインスレイヴは地面につきたてられており、今の黒コートはまったくの無防備だ。矢を弾き落とそうとダインスレイヴを抜けば、二人を襲っている棘は止まるはず。
 しかし、黒コートはそれに対しても備えていた。自分の盾代わりに、地面からベルセルクを呼び出したのだ。

「ああ、もう。邪魔!」

 真澄がベルセルクに向かって矢を放つ。しかし普通のベルセルクよりも固く作られているのか、一撃では倒す事ができない。大技を使おうにも、ここでは狭くて周りを壊してしまう恐れがあり使う事ができない。

「く……このままではまずいな」
「どうにかしなさいよエイル! あんたヴァルキリーでしょ!」
「お前こそ《神器》をもっているだろう!」
「二人とも! こんな時にもめないで!」

 先ほどとはうって変わって、エイルたちは黒コートに追い詰められていた。エイルとヒルドもそろそろ棘を回避するのも限界が近づいてきている。三人の心に焦りが浮かび始める。そして、赤い棘がエイルの制服をかすめたその時―――

「待てえええぇぇーーーーーッ!!」

 少年らしき声が、叫びが、上空から聞こえてきた。エイル、ヒルド、真澄、そして黒コートすらも、その声の方向に一瞬目を奪われる。上空、すなわち空。地面よりも高く空よりも低い位置にある体育館の屋根に、一つの人影が立っていた。

「高貴? ……いや、違う。誰だあれは?」

 男の声ということで、エイルは一瞬高貴かもしれないと思ったが、よく見てみると別人だ。屋根に立つ少年は黒の制服に身を包んでいる。そしてその手には長い杖のようなものが握られていた。

「そこの黒いコートを着た男! お前からは邪悪なる魔力を感じる。よってこの僕が正義の名の元にお前を断罪させてもらう。覚悟しろ!」

 少年はそう言うと、なんの躊躇もなし「とうっ!」と叫び屋根から飛び降りた。

「ちょ、ええっ!?」

 真澄が思わず声を漏らした。ゆうに40メートルはあるだろう高さから飛び降りたら、普通はケガではすまないからだ。少年は空中で体を捻って、手に持つ棒のようなものを構えた。いや、あれは棒ではない。それは槍だ。黒い槍を少年は持っているのだ。

「あいつ、まさか……」
「《神器》の持ち主か?」

「うおおぉぉっ!! ジャ――――スティ―――ス!」

 最初に黒コートがヒルドに攻撃した時と同じように、落下のスピードと重力を利用して、少年は手に持つ槍で黒コートの目の前にいたベルセルクを脳天から串刺しにした。瞬間、黒コートはダインスレイヴを地面から抜いて、少年から離れるように距離をとる。ベルセルクが煙となって消滅し、少年はゆったりとした動作で地面に着地した。
 ダインスレイヴが地面より抜かれた事で、エイルとヒルドに対する攻撃は止まり、二人は黒コート、そして落ちてきた少年を警戒しながら真澄のいる位置まで下がった。
 おちてきた少年は、遠目からでもわかっていたが四之宮中学の制服を着ていた。身長はあまり高くはなく小柄、ヒルドよりも少しだけ大きいと言った感じだ。そこまでは普通なのだが、圧倒的に普通ではないのはやはり手に持つ黒い槍。エイルのランスとは違い、2メートルほどの長さの柄の先端に刃がついている。

「やはり感じる……邪悪な魔力だ。僕の漆黒の瞳はごまかす事はできないぞ。《災厄を招く影ナイトメア》とも何か関係があるようだな。おまえが《正義の武具ジャスティスウェポン》を持つななんて間違っている。それを僕に明け渡せ!」
「…………」

 手に持つ黒い槍を黒コートに突きつけながら、少年は声高らかに言い放った。それは聞いたエイルたちは思わずポカンとしてしまう。
 一体この少年はなにを言っているのだろう?
 そんなエイルたちを気にも止めないで、少年は体勢を僅かに低くし、さらに言葉を続けた。

「お前を倒す前に名乗っておこう。僕の名前は《正義の武具ジャスティスウェポン》に選ばれた《正義の守護者ガーディアン》の逆神正義。この世に存在する全ての悪を断罪する漆黒の戦士だ!」



[35117] ジャスティス、ジャスティス、ジャスティス!
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/17 06:54
 声高らかに名乗りを上げた少年は、頭上で手に持つ槍を振り回し、それを黒コートの男に向ける形で静止した。そのまま数秒ほど場の空気が固まったが、そんな中でいち早く思考を再開させたのは、ヴァルキリーのエイルだった。

「おい、そこの少年。君が手に持っているのは《神器》だろう? それについて話がある」

 エイルが逆神正義と名乗った少年に近づいていく。それに気がついた少年は、槍を黒コートに向けたまま視線をエイルのほうに向けた。

「しんき? それはなんですか? 僕の手に持つこの漆黒の槍は《正義の武具ジャスティスウェポン》の一つ、この世界にあまねく悪を貫く漆黒の槍です」
「じゃす……なんだそれは? どう考えてもその魔力は《神器》のものだろう」
「違います。もう一度言いますがこれは《正義の武具ジャスティスウェポン》。この世界に存在する《災厄を招く影ナイトメア》を倒す事のできる武器の一つ、漆黒の魔力を帯びた正義の槍です。見たところあなたの武器からは正義の魔力を感じません。あの《災厄を招く影ナイトメア》を操っている黒いコートを着た人物……妖しく光る真紅レッドアイは僕に任せてください」
「……すまないが日本語でお願いできるだろうか? 私は日本語以外の言葉は、簡単なものしか理解できないんだ」
「なるほど、あなたは力に目覚めても、まだ《正義の守護者ガーディアン》としての自覚はないみたいですね。ならば完全な《正義の守護者ガーディアン》として覚醒している僕の言葉を理解できないのは仕方がありません。詳しい話は後にしましょう。大丈夫です、あなた達からは邪悪な魔力を感じないので、敵ではないという事は理解できます。僕が妖しく光る真紅レッドアイをひきつけますから、もしも妖しく光る真紅レッドアイが《災厄を招く影ナイトメア》を召喚したらそっちを頼みます」
「ふむ……つまりどういうことだ?」
「僕は正義に基づき、邪悪な存在を断罪する漆黒の守護者、逆神正義!」
「ふむ……真澄、ヒルド、すまないが彼はなにを言っているのか通訳してくれないか?」

 エイルが真澄たちの方に顔を向けた。少し離れたとことでエイルと少年のやり取りを見ていた二人だが、二人ともわけがわからないという表情でぽかんと口を開いている。少年は日本語を喋っているにもかかわらず、真澄は少年が何を言っているのか理解できず、非現実的な話をしているにもかかわらず、ヒルドは少年が何を言っているのかまったく理解する事ができないできない。
 ただ一つ三人が理解できた事があるといえば、今屋根から振ってきたこの少年は、逆神正義さかがみせいぎと名乗ったという事だけだった。その圧倒的に情報が足りない中で、ヒルドは今何をすべきかという答えを搾り出す。

「……真澄、あの子供は敵意を感じないから後回しで、とにかく今は黒コートを優先させるわ。もう一度援護よろしく頼むわよ」
「う、うん。それはもちろん良いんだけど、あの男の子は大丈夫かな?」
「今言ったように敵意は感じないわ。うまくいけば黒コートと4対1で戦える。黒コートを倒してからゆっくりとあの男の話を聞きましょう」
「理解……できる?」
「……じゃあ頼んだわ」

 真澄にそういい残してヒルドはエイルの元へと近づいていった。真澄はヒルドの言った様に、今はこの状況をなんとかするほうが先と判断して、アルテミスを構えた。それ以上に、少年のことを考えないようにしたいという気持ちが大きかったが。

「ちょっとあなた、よくわかんないけどあの黒コートぶっ飛ばすのに協力してくれるってことでいいのよね?」
「ああ。君の持っているその剣は《正義の武具ジャスティスウェポン》みたいだね。正義の名の元にともに協力して妖しく光る真紅レッドアイを断罪しよう」
「……年上には敬語を使いなさい坊や。エイル、とにかく黒コートとベルセルクを片付けるわよ」
「ふむ、了解した」

 三人そろって視線を黒コートに向ける。黒コートは少年が現れてから、まるで観察でもするかのように何もしないでジッとしている。もしくは少年の奇行に呆れているのかもしれない。殺気はすっかり消えていたが、フードの奥のには相変わらず紅い目が光っていた。

「ちなみにお二人の名前は?」
「私はエイル・エルルーンというものだ。エイルが名前―――いや、ファーストネームと言ったほうが―――」
「ヒルドよ。弓を持っているのは弓塚真澄」
「僕はたとえ神に逆らう事となっても己の―――」
「逆神だったわね。じゃあ行くわよ!」

 エイルと逆神の自己紹介をヒルドが切り、黒コート目掛けて地面を蹴った。それに一瞬送れてエイルと逆神の二人も地面を蹴る。黒コートはその場に突き立てているダインスレイヴから影を生み出し、3体のベルセルクを出現させた。先ほど逆神が倒したものよりも一回り大きく、ベルセルク達は黒コートの壁になるように横に並び、エイルたち目掛けて突進していく。

「一人一体だ。私は右をやる」
「あたしは真ん中、あんたは左よ」
「ジャスティス!」

 三人がそれぞれベルセルクに向かって行った。着火、ヒルドのレーヴァテインに炎が宿る。ベルセルクにスピードを緩めることなく接近し、正面のベルセルクに思い切り斬り付けた。がぎぃ!! と鈍い音が響く。ベルセルクはレーヴァテインの刃を右腕で受け止めたのだ。腕は破壊されることなく、そのまま力と力が拮抗する。
 明らかに最初に倒したベルセルクよりも硬い。クマの予測していたように、自分は試されていたのかもしれない。ヒルドとベルセルクはそのまま剣と腕で斬り結び始める。それはエイルも同じのようで、黒コートに近づくことはできないでいた。
 しかし、

「ジャスティス!!」

 逆神だけは違った。彼はベルセルクの頭部に槍を突き刺すと、ベルセルクには目もくれずに黒コートに向かっていく。

妖しく光る真紅レッドアイ! お前の手に持つ《正義の武具ジャスティスウェポン》を渡してもらうぞ!」

 しかし、黒コートは逆神のほうを見向きもしない。彼が見ているのはエイルのみだ。ベルセルクを一撃で倒した逆神ではなく、ベルセルクに攻めあぐねているエイルの事ばかり黒コートは気にしている。故に隙だらけだ。逆神は黒コート目がけて槍で突きを繰り出した。風を切る音が聞こえそうなくらいのすさまじいその突きを、黒コートは僅かに首を捻っただけで回避、反撃にダインスレイブを振るう。
 それを逆神が槍で受け止めると僅かに間合いが開いた。その隙に再び黒コートはダインスレイヴでベルセルクを四体出現させる。

「やはりお前が《災厄を招く影ナイトメア》を生み出す原因か。罪無き人々を襲って一体何が狙いなんだ? 答えろ妖しく光る真紅レッドアイ!」

 逆神の問いに黒コートは何も言わなかった。何も言わずに逆神にくるりと背を向けると、そのまま反対方向に歩き出す。

「待て、妖しく光る真紅レッドアイ!」

 逆神が黒コートを追いかけようとするも、眼前の四体のベルセルクに行く手を阻まれてしまい、黒コートを追いかけることができない。

「くっ、真澄!」

 それに気がついたエイルが真澄に向かって叫ぶ。しかし真澄はアルテミスを構えたまま、歯がゆそうな表情で矢を放つことなく止まっていた。

「駄目! ベルセルクが邪魔で狙えない!」
「ああ、もう! こいつらうっとうしいのよ!」

 《神器》をもっているヒルドでさえ攻めあぐねていた。目の前のベルセルクを倒すほどの火力をレーヴァテインで使うとなると、その衝撃の余波で周囲に被害が及んでしまう場合がある。まだ校舎には生徒がたくさん残っているのは間違いないので、それは避けなければならない。エイルも同じ理由で下手にルーン魔術を使うことができなかった。昼間の戦闘というのはなかなかに厳しいものなのだ。

「あ、あの子が!」

 真澄が逆神のほうを見ると、逆神は先ほど黒コートの呼び出した四体のベルセルクに同時に襲われていた。助けなければと思いアルテミスの狙いをそちらに向ける。しかし、アルテミスから矢が放たれようとしたその時、今まで回避しかしていなかった逆神が動いた。

「《災厄を招く影ナイトメア》……僕の力を見せてやる!」

 逆神がベルセルク達から一気に距離をとった。約10メートルほど離れ、そこは完全に手に持つ槍の間合いの外だ。さらに逆神は予想外の行動にでる。槍の持ち方を変えたのだ。本来槍とは刃のついていいるほうを先端とし、そちらを相手に向けるように構えるが、逆神はその逆、石突の方をベルセルクに向けて構えている。石突で突くという攻撃も確かに存在するが、刃で貫くほうが効果的であることは想像にたやすい。
 それを見ていた真澄は、どうして逆神がそうしているのか理解できていなかった。その疑問を解消するかのように、逆神は声高らかに叫んだ。

「我が正義の魔力をその身に宿せ。飛べ、《漆黒の弾丸ノワールビット》!」

 どん!! 銃声のような轟音が連続で響く。瞬間、槍から黒い銃弾のようなものが放たれた。逆神の持つ槍の石突、その底は空洞になっていたのだ。その空洞になっている部分から、黒い銃弾がベルセルクに向かって放たれた。アルテミスの矢と比べると、スピードはそれほどでもない、しかしベルセルクはそれをかわそうとしないため、完全に直撃コースだ。
 その黒い銃弾が、ベルセルクに直撃した―――しかし、直撃しただけだった。黒の銃弾は鈍い音を立てて、ベルセルクにダメージを与えることなく弾かれてしまったのだ。

「コラ! やるならさっきみたいに一撃で倒しなさいよ!」
「安心してください、《漆黒の弾丸ノワールビット》の真の力はここからです」

 ベルセルクに当たった四つの弾丸が、逆神の持つ槍の底に吸い込まれるように戻っていく。ベルセルクは動かない。いや、何か様子がおかしい。本当にベルセルクは動かないのだ。まるで金縛りにでもあっているかのように、《漆黒の弾丸ノワールビット》が当たったベルセルクは立ったまま動くことはなかったのだ。

「我が呼びかけに応えてその力を示せ。遥かなる地の底より来たれる漆黒の呪縛よ。かの者達の時を止めよ! 《漆黒の足枷ノワールバインド》」

 逆神が頭上で槍を振り回しながら叫んだ。ベルセルクの体に異変が訪れる。《漆黒の弾丸ノワールビット》の当たった場所。そこには今までなかった文字のようなものが浮かび上がっていた。ようやく目の前のベルセルクを、周りに被害のないように倒したエイルとヒルドもその文字の存在に気がつく。

「あれは……《ナウシズ》のルーンか?」
「《ナウシズ》ね、どうりで動けないはずだわ」
「ふ、二人とも。あの文字って何なの? なんだかルーン文字に見えるけど」
「あれは《ナウシズ》といって、束縛のルーンだよ。つまりは動きを止めるルーンだ。ようするに先ほどの攻撃は、ベルセルクを倒す為ではなく、ベルセルクの動きを止める為の攻撃だったわけか」
「その通りです。《漆黒の弾丸ノワールビット》には一つ一つに《漆黒の足枷ノワールバインド》が刻まれています。つまりあたったものは漆黒の呪縛に捕われ、《災厄を招く影ナイトメア》なら一分ほどは動きを止められます。後は僕に任せてください」

 逆神が右手の指を二本立てた。その指に黒い光が灯る。

「我が呼びかけに応えてその力を示せ。ムスペルヘイムの炎さえも焼き尽くす漆黒の焔よ、今こそ時空の狭間を越えてこの場に具現せよ! 《漆黒の焔ノワールフレイム》!」

 逆神の指が動き、《ケン》のルーンが黒い軌跡で描かれた。文字は一瞬で弾け飛び、逆神の右手に黒い炎が出現する。その黒い炎を、逆神は槍の先端に叩きつける。

「うおおおっ! 燃えろ漆黒! 宿れジャスティス! 《漆黒の焔を纏う正義の槍ノワールフレイムジャスティススピア》!」

 槍の先端に黒い炎が激しく燃え、全体が黒い光に包まれた。昼にもかかわらず、逆神の持つ槍は夜だと見間違うかのように黒に染まっている。

「終わりだ―――ッ!」

 逆神がベルセルク目掛けて地面を蹴った。《ナウシズ》のルーンで動けないベルセルクには何もすることができず、ただその時を待つことしかできない。
 そこからはもはや圧倒的、数秒のうちに全ての決着がついた。

「ジャスティス!! ジャスティス、ジャスティス!!」

 逆神が声を上げながらベルセルク達を一撃で倒していく。ベルセルクは傷口から黒い炎を上げながら、砂のようになり消滅していった。

「ジャスティ――――ス!!」

 そして、最後のベルセルクの腹部を、漆黒の槍が貫いた。同時に刻まれていた《ナウシズ》のルーンが消え、ベルセルクは体を震わせながら赤と黒の煙となって消滅した。
 全てのベルセルクが消滅し、四之宮中学校の体育館裏に静寂が帰って来る。逆神はベルセルクに止めを刺した姿勢で止まっていたが、やがて槍を頭上で勢いよく振り回した後、槍を空高く掲げ、

漆黒の正義による断罪完了ジャスティスコンプリィィィィ――――トッ!!」

 大声で、なんの恥ずかしげもなくそう叫ぶと、もう一度その体勢で固まった。
 そんな少年をポカンとした顔で見ている少女達が三人。もちろんエイルたちのことだ。逆神の実力はエイルたちの想像以上だったということもあって、途中からは完全に逆神一人の独壇場になってしまっていた。しかしそれは強さに圧倒されたというよりも、逆神の奇行に圧倒されていたといったほうがこの場合は正しい。
 その証拠にヒルドはポカンとした表情などしていない。逆神がどんな人物なのか見当がついた彼女は極端に引いている。
 ドン引きしている。
 本来ならば戦いが終われば、逆神と話し合ってみるつもりだったのだが、心が逆神と会話する事を拒否している。それは真澄も同じのようで、どうすればいいのか迷っている顔だ。しかし、

「君、逆神正義と言ったな」

 エイルがなんのためらいもなく逆神に近づいていった。ぶっちゃけてしまえば、逆神はベルセルクを倒した後に決めポーズをとって自分に酔いしれていたのだ。そんな状態の彼にエイルはなんのためらいもなく声をかけた。「頼もしい」とヒルドと真澄が同時に思い、その後に続くようにヒルドと真澄も逆神に近づいていく。
 逆神が不機嫌そうにエイルに振り返る。自分に酔っていた所を邪魔されたからなのだろう。

「協力に感謝します。おかげで《災厄を招く影ナイトメア》を倒す事ができました。妖しく光る真紅レッドアイには逃げられましたが、誰もけが人が出ませんでしたし、周囲にも被害が出ませんでしたしよしとしましょう」
「ふむ、一つ聞きたいのだが、君は先ほどの黒いコートを着た男の知り合いなのか?」
「いえ、会うのは初めてです。しかし彼はおそらく、元々は《正義の守護者ガーディアン》だったにもかかわらず、闇に堕ちてしまった者、つまり《影の道を歩む者ダークウォーカー》ですね。もしも再び正義の道を歩めるのなら、僕のように漆黒の正義を手に入れられるのですが、彼の場合は望みが薄そうです。我々《正義の守護者ガーディアン》が断罪するのが唯一の救いでしょう」
「……すまない、君の言っていることは私には理解できないようだ」
「あなた達はきっと力に目覚めたばかりなんですね。ならば記憶のほうはまだ戻っていなくても仕方がありません。《神への反逆》、《聖戦》、《勝者も敗者も無き終幕》そして《二度目の転生》。これらの言葉に聞き覚えはありませんか?」
「ふむ、ないな」
「ないわよ」
「ないかな」

 即答。
 一瞬の間もおかずにエイルたちは即答した。逆神の顔が僅かにゆがむ。

「ま、まぁそのうち思い出すでしょう」
「ふむ、しかし何かが引っかかるような……心当たりがあるような……」
「本当ですか!?」
「エ、エイル! あなたは少し黙ってなさい! 逆神だったわよね、できればあなたの持つ《神器》について話がしたいんだけど、今から時間は取れるかしら?」
「しんきなんて変な名前じゃありません。これは《正義の武具ジャスティスウェポン》です。あなたの持つ剣や、そちらの人の弓だってそうじゃないですか」

 心底不思議そうに逆神がヒルドにそういった。今度はヒルドの顔が僅かに歪むが、真澄がそれをたしなめる。

「と、とにかく。逆神君、わたし達と一緒に来てもらえるかな?」
「はい、大丈夫です」
「……真澄、月館に連絡よろしく」
「あ、うん。メールしとくね」

 真澄がアルテミスを消し去った。銀の三日月は真澄の取り出したスマホのストラップへと姿を変える。そのままスマホを操作して高貴に送るメールを作りはじめようとしたその時だった。

「ふむ、わかった。思い出したぞ」

 エイルが唐突にそう言った。

「思い出した? もしかして―――」
「ああ、思い出したよ。おかげでモヤモヤしていたものがすっきりした」
「そうですか! それであなたもはれて《正義の守護者ガーディアン》です!」

 エイルはなにを言ってるんだろう?
 真澄とヒルドは心の中で同時に言葉を発した。なぜわざわざそんなことを言うのだろう? そんな二人をよそに、逆神は大はしゃぎしている。

「それでエイルさん、何を思い出したんですか!?」

 満面の笑顔でたずねる逆神に向かって、エイルは笑いながら声を響かせた。

「君はいわゆる中二病なのだな」



[35117] 設定がメチャクチャな中二病
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/20 17:43
 四之宮高校の図書室は、テスト前には沢山の人で溢れかえっている。その理由はもちろんテスト勉強をしていくためだ。家に帰ると誘惑が多いのはどの学生にとっても同じ事だし、教師にすぐに質問にいけるという利点もあるからだ。
 高貴は図書室の図書当番をしながら、静音の借りを返させるという名目で勉強を見てもらっていた。今の時期に本を借りる生徒は多くなく、実質カウンターに座っているだけなので、テスト勉強はかなりはかどっている。
 元々高貴は勉強が特別好きという訳ではないが、テスト前はしっかりと勉強するタイプだ。静音せんせいの教え方はわかりやすく、どんどん必要な事が頭の中に入っていくのを感じる。

「そこ、間違えてるわよ。その英文は客観的な意味だから、mustじゃなくてhove toよ」
「あ、ありがとう」

 気のせいだった。
 いや、気のせいではない。数学の公式などは、本当にわかりやすかったのだが、英語はどちらかと言えば苦手なほうなので、先ほどから何度もミスを指摘されている。

「スペルミスも目立っていたし、月館君の課題は英語かしらね。でも思って頼りは出来るみたいね。これなら今のままでも平均点以上は取れるんじゃないの?」

 紙パックのジュースをストローで飲みながら、静音が高貴にそういった。

「そうかもな。でも目標点数は全教科95点以上だから」
「ふぅん、どうしてそんなに高い目標なのかしら?」
「それは……ほら、どうしてもやらなくちゃいけないときってあるだろ。だから本気になってみようかなと思ったんだ」
「そう、素敵ね」

 詩織のおっぱいに触るためだとは言う事ができず、取り合えず適当にごまかして、再びノートに視線を落とす。それにしても本当に勉強がはかどる。家に帰ってしまえばヴァルキリーもいるだろうし、きっとこうはいかない。そういえば俊樹もいないが、いたらうるさいだろうから別に構わない。
 そんな調子で集中していた時、不意に高貴のスマホが鳴りだした。今まで静かだった図書室に突然音が鳴ったため、近くにいる生徒の視線が高貴に集まる。

「月館君、図書室はマナーモードよ」
「ご、ごめん。」

 スマホを取り出して確認すると、真澄からメールが来ているようだった。何かと思いそのメールを開く。

 中二病発見。
 すごく大変。
 帰ってきて。

 ……何これ?
 メールの本文はたった3行。絵文字も顔文字も使われていない。しかも内容が意味不明。
 もしかして勉強の邪魔をしているのだろうか? 《神器》が見つかったとかならともかく、中二病なんてほっとけばいいのに。

「彼女からのメール?」
「いや、いたずらメール」

 画面をタッチして返信のメールを作成。「勉強中だ」と一言だけ送信すると、高貴はスマホの電源を切って再びノートに視線を落とした。
 忙しいのにイタズラなんてかまってらんねーし。



「つまり、僕は前世では神々に不当に支配されていた人々を救い出す為に、その力を振るっていた漆黒の守護者です。神との《神への反逆》は《聖戦》と呼ばれ、数百年にわたって繰り広げられましたが、僕は一度神に敗北してしまい命を落としました。しかし僕の圧倒的な力に目を付けた神々は、僕に新たな肉体をあたえて転生させたのです。そして僕は一度闇に落ちて《影の道を歩む者ダークウォーカー》となったのです。神々は僕を使って人を滅ぼそうとしていましたが、予期せぬ事態が起こります。人々の声が僕の心の闇を打ち払って、僕は再び人の守護神となっただけではなく、漆黒の正義も手に入れることができました。漆黒の正義をその胸に、僕は相打ちという形ではありましたが、全ての神々を打ち倒す事に成功しました。それは神々や僕にとって《勝者も敗者も無き終幕》となりましたが、それでも人を救えたのだから僕は満足でした。ちなみに人々の救世主となり世界を救った僕の存在は歴史から抹消され、どの神話にも残っていません。僕の役目は終わったはずでした。しかし声が聞こえたんです。《災厄を招く影ナイトメア》のせいで傷つく人たちの声が、涙を流す人たちの声が。その救いを求める声に応えて、僕はこの世界のこの時代に《二度目の転生》をはたしました。そして今は《正義の武具ジャスティスウェポン》の導きによって、《災厄を招く影ナイトメア》から世界を守る為に戦っています。それがこの僕、たとえ神に逆らうことになろうとも、己の信じる漆黒の正義の貫く者。すなわち逆神正義です!」
「……わ、わー、そーなんだぁ。すごいね逆神君」
「何を言ってるんですか真澄さん! あなただって元々は僕と一緒に戦った《正義の守護者ガーディアン》の一員だったはずです。銀の弓である《正義の弓ジャスティスアロー》を手に、神々と戦ったことをまだ思い出せませんか?」
「ふむ、そうなのか真澄?」
「そ、そんなの知らないよぉ……」

 ……は? 何コレ?
 俺帰って来る部屋間違えたっけ? いやでもなんか見覚えのある部屋だし、見覚えのある奴らもいるし、見覚えのない奴が一人いるけど……誰こいつ?
 リビングの扉を開けた瞬間に高貴の目に入ってきた光景は、興奮したように熱弁をふるっている見知らぬ少年と、それを困惑しながら聞いている幼馴染。その隣にヴァルキリーが一人と、ベットの上に寝転がって漫画を読んでいるヴァルキリーがもう一人。

「あ、高貴お帰り……(助けて!)」
「ただいま……(なにこいつ?)」
「あ、この子はね、逆神君って言うんだよ(中二病!)」
「はぁ……よろしく(捨てて来い)」

 ほんとに中二病見つけたのかよ。つーかなんでつれてきた。知らない人はつれてきたらいけないって教わんなかったのか?
 高貴と真澄は表面上では普通に会話しながら、アイコンタクトで本当の会話をしていた。まったく幼馴染様々である。

「それで、その逆神君がなんのようなんだ?」
「ふむ、それはだな、彼も《神器》の持ち主なんだよ」
「……え?」

 《神器》の持ち主。エイルは確かにそう言った。途端に高貴は緊張で硬くなってしまう。今までの《神器》の持ち主は、真澄以外は初対面で戦いになってきていた。
 目の前にいる少年は、四之宮中学の制服を着ているため、間違いなく自分よりも年下で、見た感じは危険そうには見えない。しかしそんなことは関係無しに、危険人物かもしれない。

「待って下さい! 僕は戦いに来たんじゃありません。ただあなた方に思い出してほしかっただけなんです」
「思い出すって、一体何をだよ?」
「それはもちろん―――《正義の守護者ガーディアン》としての使命です!」

 この少年は一体何を言っているのだろう? がーでぃあんとはなんだ? ヴァルキリーの親戚か?

「あなた達は前世ではこの僕、漆黒の守護者とともに戦った《正義の守護者ガーディアン》の一員です。だからこそ《正義の武具ジャスティスウェポン》を使うことができるんです。見た感じではあなたも魔力を感じますから《正義の武具ジャスティスウェポン》を持っていますよね? それこそが僕達が前世で仲間であった証拠です。僕達はどんなに離れていても、正義の名の元に集まって悪を断罪する仲間なんです。すなわちジャスティス!」
「……ふーん」

 間違いない。もはや疑う必要など微塵も存在しない。
 こいつは間違いなく中二病ほんもの
 ヒルドはきっと逆神の相手をするのが嫌だから、ベットの上で本を読んでいるんだろう。それで仕方なく真澄が話を聞いていたということだ。
 なんとやっかいな。初めてエイルにあった時以上のやっかいごとのにおい。以前自分をヴァルキリーだと言っているエイルに対して、高貴は中二病扱いしてしまったが、本物はそれとは比べ物にならないほどに本格的らしい。
 目の前の少年のように。
 とりあえず高貴も腰を下ろした。ヒルドはベット、ほか三人は床に座っていたため、ソファーに座るのはなんだか気がひけてしまい、テレビの前に腰を下ろした。

「それで、逆神君も《神器》を集めるのに協力してくれるのか?」
「ですからそんな名前じゃありません。ジャスティスです」
「……あのさエイル、お前が異世界から来たとか、《神器》も異世界から来たとか、そういうことは話したのか?」
「いや、まだ話していない。というよりも今までは正義の中二病の設定を延々と聞かされていただけなんだ」
「だから僕は中二病じゃありません! 中二病なんて自分にとって都合のいいありえない妄想を現実だと思い込んで、自分を特別だと思っている幼稚な人たちの事です!」
「逆神君って何歳?」
「中学二年生の14歳です」

 まさにお前の事じゃねーか。
 エイルのように声には出さなかったものの、高貴は心の中でそう逆神にツッコミを入れた。
 しかし、これはたちが悪い。ただの中二病とはちがい、逆神は特別な力を持っているのだ。異世界からこの世界に来た《神器》という極めて特別なものを。

「とにかく、そっちの話は聞いたんだから、今度はこっちの話も聞いてくれ。エイル、ヴァルハラとか《神器》のことについて話してやってくれよ。俺は全員分のコーヒーでも淹れてくる」
「ああ、それは構わない。それでは正義、今度は私の話に付き合ってくれるか?」
「……わかりました。あなた達の持つ記憶の欠片と僕の記憶を照らし合わせることで、なにかわかるかもしれませんから」

 ……頭が痛い。
 もしも彼が味方になるのだとしたら、付き合っていくのはかなり大変だろうななどと考えながら、高貴はコーヒーの準備を始めた。
 それからしばらく、エイルの声だけが部屋の中に響いていた。エイルがこちらの世界にやってきてから、高貴に出会い、ヒルドと戦い、真澄に出会い、黒コートと戦った時のことなど、約2ヶ月あまりのことをなるべく詳しくエイルは話した。

「というわけで、私達は《神器》を回収する為に行動しているんだ。この世界には元々存在していなかったものを、この世界に残しておくわけにはいかないんだ。できれば君も協力してほしい」
「……なるほど、《正義の武具ジャスティスウェポン》にはそんな秘密があったんですか……確かに《正義の武具ジャスティスウェポン》は使い方しだいでは人を簡単に傷つけます。それはあの妖しく光る真紅レッドアイを見ているとわかります。彼は《災厄を招く影ナイトメア》を使って、きっと世界制服でもたくらんでいるに違いありません」
「それはわからないが……君にもう少し聞いておきたいことがあるのだがいいだろうか?」
「はい、なんでも聞いてください」
「まず、君がその《神器》を手にしたのはだいたいいつごろだろうか?」

 エイルの質問に、逆神はしばらく首を捻ってから答える。

「あれは確か……《始まりの日》の事でした。今年の4月2日ですね。その日に僕は初めてこの槍を手にしました」
「手にしたってどういうことだ?」
「なんといいいますか、いつの間にか僕の中に入っていた感じです。気がついたら自然に取り出せるようになっていたんです」

 高貴がエイルに視線を向ける。おそらく逆神は、真澄のように《神器》に選ばれたという事なのだろう。それも対話などは必要なかったようだ。

「僕がこの槍、《正義の槍ジャスティスジャベリン》手に入れてから、時々《災厄を招く影ナイトメア》に狙われるようになったんです。幸い僕が一人でいる時にくることが多くて、まだ一般人には見られていません」
「……ちなみにさぁ、その逆神君のもってる槍って、ほかに名前ねーのか? ジャスティスじゃなくてさ。ちなみに俺の持ってる《神器》は《光剣クラウ・ソラス》」
「わたしがもってるのは《星弓アルテミス》だよ。ヒルドのは《炎剣レーヴァテイン》だったよね」
「……そうよ」

 ベットに寝転がったままヒルドが嫌そうに返事をした。

「私は《神器》をもってはいない。あの黒コートの男がもっていた《神器》は、おそらくダインスレイヴという名前だと思うよ」
「……ある事にはあります。しかしその名前は、真の力を発揮する鍵ともなるので、普段は封印しているんです」
「そ、そうなのか」

 まためんどくさい設定があるようだ。これは簡単に教えてもらえそうにはない。

「ですが皆さんになら教えても大丈夫でしょう。僕の《正義の槍ジャスティスジャベリン》の真の名前は《銃槍ゲイ・ボルグ》といいます」

 と思ったら案外あっさりと教えてくれた。封印しなくていいのかと心の中で全員がツッコミをいれる。
 しかしちゃんとした名前があったようだ。ジャスティス何たらよりも呼びやすい。

「僕の前世は、実はあの英雄であるクー・フーリンだったんです。だからこそゲイ・ボルグは僕の前に姿を現してくれたんだと思います」
「くー……エイル、知ってる?」
「ふむ、ケルトの神と人間のハーフだな。確かに槍を使っていたという記録は残っているが、それが正義の持つゲイ・ボルグだったという事か」
「前世だったのに、その人生きてるのか?」
「普通に生きてるわよ。ちなみにこの前不倫が発覚してさされた挙句、裁判に負けて慰謝料たんまり払ったらしいわ」

 ベットの上のヒルドが会話に入ってきた。

「フーリン……不倫か?」
「不倫する英雄かぁ……やだなぁ」
「ふむ、正義はその生まれ変わりなのか?」

 じろっと高貴たち三人に視線が逆神に集まった。逆神はばつが悪そうに視線をそらすと、話をそらすように「と、とにかく!」と叫ぶ。

「僕達は正義の名の元に《災厄を招く影ナイトメア》を倒すべきなんです! 人々の涙をこれ以上増やさない為に!」
「ふむ、先ほども言ったが、ベルセルクは魔力の低い人間に興味を示さない。つまり放っておいても一般人は傷つく事はないぞ」
「し、しかし! 妖しく光る真紅レッドアイはなにを考えているのかわかりません! この町に出現する全ての《災厄を招く影ナイトメア》は、彼が生み出しているのかもしれないからです!」
「う~ん……まぁあの黒コートは危険だよね。正直あんなのが四之宮にいるなんて安心できないかな」
「はい! だからこそ僕達は手を取り合うべきなんです!」
「いや、だからさっきからそう言ってんだろ。俺達は逆神に協力してほしいって言ってるんだけど」
「…………」

 沈黙。
 しばらく沈黙が続いた。そんな気まずい沈黙を打ち破ったのは―――

「あのさー、そんなにめんどくさい事考えなくてもいいでしょ」

 不意に、リビングの入り口の扉が開いた。部屋にいる全員の視線がそちらにいく。そこにいたのは―――

「ね、猫?」
「猫だな」
「猫だよな」
「猫ですね」
「猫ね」

 一匹の茶色い猫。猫はとことこと歩いてきて、テーブルの上にぴょんと飛び乗る。
 完全に見た事もない猫だ。というよりも今、この猫は喋ったのだろうか?  

「はぁい、みんな元気だったかしら? みんなの大好きお姉さんよ」

 聞き覚えのある声。最近ほぼ毎日聞いていたその声。姿かたちはまったく違うものの、身にまとっている空気などはまさにそっくり。高貴が恐る恐る口を開いた。

「も、もしかして……クマ?」
「違うわ人間君、今のお姉さんはネコよ」

 ポカンとする5人をよそに、クマは―――いやネコは二本足で立ち上がって、得意げに胸を張った

「お姉さん、クマからネコにジョブチェンジしちゃったわ」



[35117] 中二病の本名
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/26 06:44
「な……なんでネコになってんだ?」

 突然現れてクマのぬいぐるみから本物のネコにクラスチェンジしているネコに対して、高貴はまず当然の疑問をぶつけた。それはクマを知っている他3人の気持ちをも代弁したものだ。

「それがね、さっきの四之宮中学校での戦いで、お姉さんいきなりあの黒コートに木っ端微塵にされちゃったのよ」
「ま、待て! なんだそれは? 聞いていないぞ」
「本当よ、ねーヒルド」

 エイルたちの視線がベットに座っているヒルドに集まる。

「あー……そういえばそうだったわね。黒コートの《神器》で細切れにされてたわ」
「ちょ、ちょっと! それって大丈夫なのクマさん!?」
「今はネコよ真澄ちゃん。それにあのぬいぐるみはあくまでただのぬいぐるみだから大丈夫、お姉さんピンピンしてるわ」
「そりゃよかったけどさ。ちゃんとそういうことは言えよなヒルド」
「いわないであげて人間君。ヒルドはお姉さんが細切れになれたときに思いっきり怒ってくれたのよ。本当は素直になれないだけで優しい子なの」
「うるさい!」

 ヒルドが叫ぶと、ビクッとネコは体を震わせエイルの陰に隠れる。

「と、とにかく。直そうかと思ったんだけど、せっかくだからクラスチェンジしてみたの。これからお姉さんの事は気兼ねなくネコと呼んでね」
「あいかわらずそのまんまだな……ってどうした逆神?」

 逆神は猫が現れてから、ポカンとした表情のまま固まっていた。口は半開きになっていてボーゼンとしている。

「ふむ、もしかしてネコが喋っているから驚いたのか? 彼女は私達の仲間だから怖がる必要はないぞ」
「まぁ不気味だけどな」
「むむ、失礼しちゃうわね人間君。とにかくよろしくねー」

 そう言ってネコが逆神の隣に移動した。移動した瞬間に、逆神がネコの体をガシっとつかんで持ち上げる。

「あ、あなたは! 漆黒の守護者と契約する伝説の獣ですか!?」
「「「「「は?」」」」」
「大丈夫です! 僕には全てわかっています! 漆黒の守護者は人の言葉を発する獣と契約する事によって世界を救う勇者となるのです! さぁ僕と契約しましょう!」
「ちょ……なに言ってるのこの子!? ちょっと待って……」

 猫が苦しんではいるが、それを誰も助けようとはしなかった。中二病モードに入ってしまった逆神に誰も関わりたくはなかったのだ。
 もっとも、ただ一人は別のようだが。

「おい、正義。そんなに首を絞めないでやってくれ。ぬいぐるみならともかく、本物のネコになってしまったにもかかわらずバラバラになるなど、冗談ではすまない」
「げ、確かに。部屋が汚れるからやめてくれ!」

 血まみれのスプラッタと、その後片付けのめんどくささを恐れて高貴も逆神を止める。二人に止められた逆神は、しぶしぶと言った感じでネコから手を離した。

「どうして止めるんですか? 僕が契約を行わないと世界を救うことができません」
「ふむ、そういう設定は気にすることはない」
「設定ではありません! 事実です!」
「あー、もう。とにかくみんな、少しお姉さんの話を聞いてよ」

 首を絞められたダメージが抜けたのか、もう一度ネコがテーブルの上に座った。

「今は中二病だとかジャスティスだとかいうよりも、《神器》を集めたり黒コートをボコるほうが先決よ。そのために協力し合うってことでいいんじゃないの? どうかしら鈴木君」
「鈴木君?」

 高貴の呟きに反応したのは、テーブルをバシッと叩いた逆神だった。

「その名前で呼ばないでください! 僕の名前は逆神正義! 神に逆らう事になっても自分の正義を貫く漆黒の守護者です!」
「えー? でも本名は鈴木君でしょ? 鈴木太郎君」

 鈴木太郎。どうやらそれが逆神の本当の名前らしい。

「すずき……」
「たろう……」
「ふむ、極めて普通の名前だな」
「逆神なんたらよりは百倍いい名前だと思うわね」
「その名前で僕を呼ぶなぁぁぁ!!」

 逆神が叫びながら立ち上がった。その表情は完全に怒りに染まっており、今にも暴れだしそうでもある。

「わ、わかったから! お前の名前は逆神だな! 逆神正義! 超かっこいいよ!」
「そ、そうだよね! 神に逆らうとことかかっこいいよね!」
「ふむ、そう―――」
「あんたは黙ってなさい。めんどくさくなるから」

 高貴と真澄の二人係りで機嫌を取り、エイルをヒルドが抑えて、ようやく逆神の顔に余裕が戻ってくる。しかし逆神はもう一度座ろうとはせずに、そのまま部屋から出て行こうとする。

「ま、待って逆神君!」

 慌てて真澄が呼び止めると、逆神はピタリと足を止めた。しかし振り返る事はなく、そのまま言葉を発する。

「あなた達が悪に染まっていないということは理解できます。しかし僕と一緒に戦うには記憶の欠落が激しすぎるようです」
「ま、待ってくれよ! 俺達は―――」
「安心してください。《正義の武具ジャスティスウェポン》を発見したら、もちろんあなた達にも知らせます。それに《災厄を招く影ナイトメア》ももちろん倒しておきますし、妖しく光る真紅レッドアイに関しても同様です。僕の連絡先は真澄さんに教えていますから、連絡ならいつでもとってください。僕の漆黒の守護者としての力が必要ならば、喜んで力を貸しましょう」
「ふむ、つまり、少なくとも敵対する気はないととってもいいのか?」
「もちろんです。それでは僕は失礼します。人々の助けを求める声が読んでいますから。……できれば、皆さんが一刻も早く《正義の守護者ガーディアン》としての使命に目覚めてくれる事を祈っています」

 最後にそういい残して、逆神正義は部屋から出て行った。玄関のドアが開いて、閉じる音が聞こえてくる。
 残された4人と一匹は、しばらくの間ポカンとしていたが―――

「めんどくせー……おい、なんなんだよあの中二病は? なんでよりにもよってあんなのが《神器》の持ち主になってんだよ」

 高貴がゴロンと床に寝転がる。それで緊張が解けたのか、真澄も大きくため息をついた。

「本当に……いるんだね、ああいう子って。正直苦手かなぁ」
「なぁクマ、じゃなくてネコ。あいつから《神器》だけ取り返したほうがいいんじゃねーのか? 俺あんなめんどくさそうなやつと付き合ってく自信ねーぞ」
「珍しく月館と意見が一致したわね。どうなのネコ?」
「そうねぇ、一応敵意はないし、鈴木君の戦闘力自体は役に立つものだったから、うまく首に縄つければ使えるんじゃない?」
「あんなの首輪付けえても使える自信ねーよ」
「月館に賛成ね」
「こら、二人とも。そんな風にいうものではない。彼は中二病なのだから、めんどくさい性格なのは仕方がないだろう。そういうのにも付き合ってやる大人の対応というものも大切だぞ」
「お前が一番ひどいよ」

 本人に向かって真正面から中二病を指摘する事は、少なくとも大人の対応ではないだろう。

「とにかく、《神器》が一つ見つかった事を喜びましょう。もしも鈴木君が敵対してきたらその時は戦えばいいわよ」

 のんきそうに言うネコだったが、やはり高貴の胸から不安は消えなかった。しかし本人は正義がどうのこうのと言っていたので、少なくとも無関係の人を巻き込んだりはしないだろう。

「それにしてもあたしが来た瞬間に《神器》が見つかるなんて、我ながら自分の有能さに怖くなってくるわ」
「ふむ、黒コートにやられかけたのではなかったのか?」
「負けてないわよ! いいからあんたはさっさと勉強でもしなさい! ほら、数学でもやれ!」

 テストのことを思い出したのか、とたんにエイルの表情が険しいものとなる。

「ふむ……数学か……嫌だな」
「あれ、エイルって勉強自体は好きなんじゃねーのか?」
「君はなにを言ってるんだ? 数学とは学問ではない。拷問だ」
「テメーは何言ってんだ。いいからさっさとやれ。俺も勉強しねーと。真澄もやってくか?」
「あ、うん。じゃあせっかくだから」

 そう言って三人はテーブルに勉強道具を広げ始めた。エイルと真澄は数学、高貴は英語だ。

「せっかくなら、君も一緒に数学をやったらどうだ?」 
「いや、遠慮しとく。音無にも言われたんだけど、帰ったら英語の復習を―――」
「待て」
「待って」

 高貴の言葉がエイルと真澄に遮られる。

「今の言葉はどういうことだ?」
「あ? どういうことってなんだよ?」
「なんで音無さんの名前が出てきたの?」
「俺今日は図書当番だったから、音無と一緒に勉強してたんだよ。つきっきりで見てもらってた」

 ピシ……

 なにやらどこかにひびが入ったような音が高貴の耳に入ってきた。同時にエイルと真澄の表情が険しいものとなり、ヒルドが大きくため息をつく。

「ほぅ……そうか。君は、静音に勉強を見てもらっていたのか」
「わたし達が、危ない目にあってるときに」
「あ、悪かったよ。でもきょう図書当番で―――」
「静音と、二人で、二人で、勉強をしていたわけか。二人で、楽しく!」
「わたし達が、戦ってたり、中二病の相手をしてる間も、高貴は、音無さんと、楽しく!」
「え? え? なんでお前ら怒ってんの?」
「静音との勉強は」
「楽しかったの?」
「ま、まぁ……あいつって教えるのうまいし、どちらかと言えば……楽しかった」

 プチ。

「どういうことか説明してもらおうか!」
「どういうことか説明してよ!」

 エイルと真澄が同時バンッとテーブルを叩いた。先ほどの逆神以上の迫力に、思わず高貴は身を縮めてしまう。

「な、なにを?」
「どうして静音と勉強する事になったかをだ!」
「そ、そんなこと別に―――」
「早く言えこのバカ!」
「は、はいっ!」

 正座。
 何も言われていないが、自然と正座の姿勢になった高貴は、目の前のプレッシャーに押しつぶされながら口を開く。
 一人の少年が、二人の少女に問い詰められている。そんな状況を楽しむようにネコがその光景をながめ、その状況に対する感想をベットに座っていたヴァルキリーが口にした。

「いいからさっさと勉強しなさいよ、このバカ共」



[35117] そして、一週間
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/26 06:46
 鈴木太郎。もとい逆神正義との出会いから早一週間。高貴たちはその間ベルセルクに襲われる事も、黒コートの襲撃にあう事もなかった。逆神とは一応連絡を取り合っており、彼は何度かベルセルクに遭遇したらしいが、無事に撃退しているらしい。
 四之宮高校のテストまであと三日。高貴はと言うと、相変わらず静音に勉強を見てもらっていた。
 基本的に図書室で見てもらう事が多く、今日も静音と図書室に来ている。

「……よし、ここの公式は大丈夫だよな」
「そうね、さっきの問題の応用だから、その解き方で大丈夫よ」

 数学の練習問題を静音に採点してもらいながら解いていく。ここ数日で公式などはかなり頭にいれることができ、計算問題はケアレスミスがなければ大丈夫なレベルになっている。
 もともと後期は勉強は苦手ではない事に加えて、静音の教え方もいいのだろう。

「にしても本当に助かったよ。音無のおかげでまともに勉強できるし、教え方もうまいから覚えやすいし」
「それはどうも。これは借りを返すために必用な事だから気にしないで。私はもう一つ月館君に借りがあるから、そっちのほうも何か考えておいて」

 静音がそう言って教科書に視線を落とす。もう一つの借りといっても、このテスト勉強のみで十分助かっているので、特に高貴には何も思い浮かばなかった。むしろこちらが借りを返す必要があるかもしれない。

「ところで、今日はエルルーンさんは来ないのね。静かで良いわ」
「本当にな……この前は悪かった」

 最初に静音と勉強してから、エイルは何かと図書室にやってきて一緒に勉強したがっている。しかし静音にとって借りがあるのは高貴のみということに加えて、エイルは静かにしているのが苦手なため、静音の表情はあからさまに嫌な顔になってしまっていたのだ。
 それを高貴が家に帰って指摘した結果、大人しくヒルドに教わるということになった。本人は何が不満なのか、終始つまらなそうな顔をしていたが、勉強を最優先にしなければいけない。それがエイル本人の為でもある。

「……月館君、そろそろ図書室が閉まるわ。今日はここまでにして帰りましょう」

 静音が教科書を閉じて鞄にしまう。時計を見ると、もう六時になりかかっている。

「っと、もうそんな時間か。わかった、また明日よろしくな」
「帰ったら一応復習もしておいて。明日はその続きからよ」
「りょーかい」

 高貴も鞄の中に教科書などをしまう。さて、家ではヴァルキリーがちゃんと勉強しているのだろうか?



「だーかーらー! そこは因数分解するって言ってるでしょうが! 何回言ったらわかるのよこのバカ!」
「……いんらんぶんかい?」
「い・ん・す・う・ぶ・ん・か・い!!」

 うわぁ、ヒルド大変そうだな。
 寮に戻ってみると、そこには正座してノートを広げているヴァルキリーが、ベットの上に仁王立ちしているヴァルキリーに怒鳴られていた。
 ヒルドのこめかみはピクピクと震えており、エイルの顔は青くなっている。ソファの上ではネコが気持ちよさそうに後ろ足で頭をかいていた。

「あ、人間君お帰り~」
「ふむ……お帰り高貴……」
「ジュース買ってきなさい、今すぐに!」
「……ただいま」

 とりあえず鞄を置いて、高貴はソファに座る。その膝の上にネコが乗ってきた。

「それで、エイルの調子はどうよ?」
「問題外! そもそもエイルは、戦乙女学校も実技試験だけで卒業したようなものよ。勉強なんて無理」
「ヒルド、それは違う。前にも言ったが、数学は学問ではなく拷問だ。私は勉強は嫌いではないよ。他の教科を教えてくれ。古文や科学などは楽しくて好きだ」
「あんたメチャクチャ楽しそうにやってるけどまったく覚えないでしょ!」

 ヒルドの怒鳴り声が再び響く。それにしても、これほどまでに勉強が好きで勉強ができないとなると、エイルとはとても残念なヴァルキリーのようだ。

「まぁ落ち着けって、気分転換に他の教科でもやったらどうだ?」
「はぁ……むしろあんたが教えてやりなさいよ。あたしその間に《神器》でも探してくるから」
「ふむ、では気分転換に《神器》でも探しに――」
「「勉強しろ!」」
「……はい」

 高貴とヒルドの二人に言われて、しゅんとしたエイルが再びノートとにらめっこを開始する。
 ため息混じりにそれを見ながら、高貴は猫を両手でつかんで持ち上げた。

「でもさネコ、俺前から気になってたんだけど、エイルって学校に通う必要なくないか? そんな暇あったら《神器》を探したほうが良いと思うけど」
「ああ、それはね人間君。そもそも私達の世界では、《神器》を探す事を急いでないのよ」
「どうして? 大事なものなんだろ?」
「確かに大事よ。でもそれ以上に魔術の機密が大切なの。《神器》のある場所が、この四之宮という町に限られているのなら、この世界全体に魔術の存在が広まる事はない。もしもこの町から外に《神器》が出てしまったら、強硬手段をとるしかないけど。とにかく急いでないから大丈夫って事。ヴァルハラではだいたい3年以内に全て集まれば上々ってことになってるわ」

 《神器》は大切なものだが、集めるのは急いでいない。なんとも妙な話だが、この世界に魔術が広がらないようにするには、きっと急がないほうがいいのだろう。よく理解できないが、偉い人が決めたのだろうから。
 しかし3年というのは長すぎる。できればあと一ヶ月くらいで全て終わらせて、さっさともとの平穏な生活に戻りたいと高貴は思った。

「なんか新しい情報入ってないのか?」
「えーとねー、四之宮中学校でいじめが流行ってるんだって」
「いや関係なくね?」
「そもそもいじめなんて珍しくないじゃない。存在しない学校なんて存在しないわ」
「それにどうせどっかのジャスティスがとめるんじゃないのか。その内なくなるかもな」
「あはは、人間君いうじゃない」

 四之宮中学校には逆神が通っている。《神器》の使い手となった彼ならば、単純な身体能力も比較的に上がっているはずなので、虐め現場に出くわせばジャスティスするに違いないだろう。
 結局、有力な情報は無しというのが現状であり、《神器》を急いで見つけようにもそれは不可能なのだろう。
 猫を降ろしてため息をつく高貴の耳に、エイルのうめき声が聞こえてくる。

「高貴……ヒルド……せめて、せめて数学以外にしてくれ……」
「はぁ、仕方ないわね。じゃあ物理でもやってなさい」
「物理か? 物理は大好きだ」
「じゃあ少しは覚えなさいよ……」

 呆れ顔のヒルドが時計を見る。時刻は7時になろうとしていた。

「月館、夕飯の材料買いに行くから付き合いなさい」
「え? なんで俺まで?」
「今日はスーパーで卵を買っておきたいのよ。でもお一人様1パック限りだからあんたも来なさい」
「お前……そんなのチェックしてんのかよ」

 ヒルドはずいぶんと家庭的なヴァルキリーのようだ。本当は高貴も勉強をしたいのだが、夕飯の準備をしてもらうのだから買い物くらいは付き合うのが筋だろう。

「わかったよ。じゃあすぐに行こう。制服――着替えなくても良いか」
「良いわよそんなの。じゃあ行って来るわ。エイルはしっかりと勉強しておくのよ」
「いってらっしゃ~い、お姉さん寝てるから」
「任せろ、私はヴァルキリーだ」

 物理の勉強ができるという事で、それはもう眩しいくらいに笑顔とやる気を見せたエイルが、高貴とヒルドを見送った。
 しかし、きっと覚えられないのだろうが。



「おい、これって買いすぎじゃないか?」

 すっかり暗くなってきた道を高貴とヒルドは歩いていた。高貴の手には両手あわせて4つのビニール袋がぶら下げられている。しかも中身は野菜なども入っており、正直言ってかなり重い。それに比べてヒルドは何も持っていないため身軽そうに歩いている。

「安い時に買いだめするのは常識よ。そんなことでよく今まで独り暮らし出来てたわね」
「悪かったな、今まではコンビニ弁当ばっかりだったんだよ」
「信じらんないわね。もっとお金は計画的に大切に使いなさいよ。節約よ節約」

 ヒルドがそれを言う必要性を高貴は理解できなかった。そもそもヒルドは学生寮を買い取れるほどの金を持っているにもかかわらず、節約などとは程遠い存在に思えるのだ。

「つーか、お前金持ちだろ? なんで節約なんかしてんだよ?」
「趣味よ」
「……そうですか」

 人それぞれ、もしくはヴァルキリーそれぞれと言ったところか。
 それにしても本当にこの荷物は重い。都心のスーパーまで歩いていって、そこからさらに大荷物を持って歩いているので流石に疲れが溜まってくる。今日の夕飯はおいしくいただけそうだ。最もヒルドの料理はなんでもおいしいのだが。

「おや、高貴さんとヒルドさんじゃないですか?」

 不意に、背後から声をかけられる。
 誰かと思って振り向いた二人の目には、二人が共通して苦手だと感じる人物が立っていた。
 一週間前に出会った中二病、逆神正義である。

「よぉ、こんな時間に何やってんだ?」

 二人は猛烈に無視したい衝動に駆られたが、そうもいかないので高貴が取り合えず声をかけた。

「いえ、少し町に不穏な漆黒の風が吹いていたもので。もしかして《災厄を招く影ナイトメア》が出現したのかと思い歩いていました」
「……ふーん」

 無視すれば良いのか、それとも無視してはいけないのか高貴には判断できない。漆黒云々はまったく持ってどうでもいい事だが、ベルセルクとなると放っては置けないからだ。それはヒルドも同じのようで、いやいやながらも口を開く。

「で、漆黒云々は見つかったの?」
「いえ、これから風の元に行って見るつもりです。そこでは前にも断罪を行ったので、もしかしたらまたいるかもしれません」
「ちなみにそこってどこなんだ?」
「ここからすぐですよ。四之宮公園です」

 四之宮公園。
 四之宮の住宅街にある寂れた公園の事だ。そこで高貴はヒルドと出会い、ベルセルクとも戦った事がある。これはいよいよ無視できなくなってきていた。
 無視したかったが。

「ヒルド、俺達が初めて会ったあそこだよ。前にもベルセルクが出てるから、もしかしたら本当に本当かもしれない」
「本当でしょうね? 漆黒なんてどうでも良いけど」
「可能性はゼロではありません。僕には今も聞こえるんです。漆黒の守護者の救いを願う人々の声が」

 ならさっさと助けに行けよ。

「はぁ、わかったわよ。一応あたし達もついて行ってあげるわ。本当にベルセルクが出たら手伝うわよ」
「そうだな、何もなかったらすぐに帰ろう。そく帰ろう」
「手伝ってくれるんですか? ありがとうございます! 皆さんもようやく漆黒の守護者とともに戦った《正義の守護者ガーディアン》としての――」
「口じゃなくて足を動かせ!」

 ヒルドの怒鳴り声に怯んだ逆神は、しばらくの間黙って歩き続けた。



[35117] 本音をぶちまけろ
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/26 06:49
「さーてと、というわけで公園に着いたわけだけど……」
「特に何も感じないわね」

 しばらく歩いて公園にたどり着いた三人は、目的地の四之宮公園にたどり着いた。相変わらず寂れた所で、電灯がベンチを照らしている。取り合えず高貴はベンチの上に買い物袋を置く。
 周囲を見渡してみても、何も魔力の気配は感じない。正確にはヒルドと逆神の魔力しか感じる事はできなかった。

「どうだヒルド?」
「……ベルセルクと《神器》の反応は無しね。中二病は?」

 逆神は二人から少し離れた所に立っていた。

「おーい、逆神。魔力なんて感じるかぁ」
「静かに!」

 声をかける高貴の声を、力のこもった逆神の声が遮る。

「聞こえます……助けを求める人の声です。僕を呼んでいる!」
「……帰るか?」
「そうね」
「こっちです!」

 急に逆神が走り出す。本来なら放っておいてもいいのだが、どうせここまで来たのだからと二人もその後に続いていく。
 逆神が走っていった先、大きな木の下に彼は身を隠すように立っていた。追いついてきた高貴とヒルドに、向こうを見るようにと手で合図をする。
 逆神の示す方向には――

「だからぁ、俺たち超金に困ってんだよね。だから山本君金貸してくれないかなぁ」
「いいだろ別に? 今までも何回も金貸してくれたじゃねーかよ。だから今回も頼むよ」

 二人、いや三人の人影が存在していた。

「なんだあれ?」
「人間……ね」

 暗くてよく見えにくいが、人影は全員少年だ。しかも服装は逆神とおなじく四之宮中学校のもの。二人の少年がひとりの少年に詰め寄っているように見える。

「で……でも、この前も、その前も、返してもらってないし……」 

 詰め寄られている少年が弱々しい声を出す。しかし、二人の少年はさらに詰め寄る。

「だからー、金が入ったら返すって言ってんだろ? いいからさっさと出せよ!」
「うだうだ言ってねーでさっさと出すもんだせや!」
「ひっ!」

 詰め寄られている少年の体がビクッと震えた。

「これって……かつあげか?」
「そうみたいね。こんな人気のないところに連れ込んでよくやるわ」
「ネコが中学校でいじめが流行ってるって言ってたけど、本当だったんだな」

 最近の中学生は怖いものらしい。もしかしたら自分が中学生の頃も、こういうことがあったのかと思うと、なんだか嫌な気分になってくる。

「助けたほうがいいか」
「するなら勝手にして。あたしには関係ないわ」
「俺もやっかいごとはごめんなんだけど……仕方ないか」
「……助けてあげましょう」

 高貴とヒルドの会話に逆神が入ってくる。

「理由なんて要りません。困っている人や恐怖している人は助けるべきです。力なき人間を守るのは漆黒の守護者の務めですから。僕は助けてきます」

 そう言って逆神が少年達に歩いていく。

「はぁ、仕方ないか」

 高貴もそれに続いていく。ヒルドは来ないようだが、こっちは身体能力が人並み以上が二人。不良程度ならなんとかなるだろう。
 それにしても、逆神はただの中二病かと思っていたが、正義感は本物らしい。彼がただの中二病ではないことを高貴は嬉しく思った。

「おい、お前ら」

 高貴が少年達に声をかけた。三人の少年達の視線が一斉に高貴に向かう。他に人がいるなど思ってもいなかったのだろう彼らの顔は驚きに染まっていた。
 しかし――すぐに不良の二人は表情を戻す。

「誰だよテメーら? 今大事な話してるからすっこんでてくんない?」
「はいはい。おい、そこの奴、とっとと逃げろ」
「え?」

 詰め寄られていた少年は、高貴の思いがけない一言に混乱しているようだ。視線を上げたりさげたりと挙動不審に陥っている。

「おいコラ! なに言ってんだよ!」
「金取られたくないだろ。さっさと走れ」
「で、でも……」
「いいから走れ!」
「ひっ!」

 威圧をこめた声でそう言うと、少年は怯えながらも出口に向かって走り出した。

「おい、待ちやがれ!」
「テメーコラァ!」

 せっかくの獲物に逃げられてしまったためか、不良の二人は怒りの形相になって高貴と逆神をにらめつけた。

「なにやってくれてんだコラ!」
「ヒーロー気取りのザコが。かわりにテメーが金払ってくれんのか? ああ!?」
「高校生は金持ちだよなぁ!?」

 うわぁ、全然怖くない。
 中学生二人は先ほどからきゃんきゃん怒鳴っているが、それを高貴はまったく怖いと思えなかった。それはおそらく自分のほうが圧倒的に強いのが原因だろう。

「おい、聞いてんのか!?」
「そっちのガキも何か言えよ!」

 先ほどまではやる気が満々だった逆神は、今は俯いて震えている。流石に中学生なので怖くなったのかもしれない。こうなったら自分ひとりで軽く相手でもしてやるしかないだろう。その内捨て台詞を吐いて帰ってくれるはずだ。
 そして、高貴が一歩前に出たそのとき――

「全ての悪は漆黒の正義の名の元に断罪する」
「え?」

 逆神がなにやらブツブツとつぶやいている。しかし何を言っているのか高貴には聞き取る事ができなかった。

「人々を苦しめる悪に生きる資格はない。よって貴様らは漆黒の守護者、逆神正義が裁く。ゲイ・ボルグ!」

 今、こいつはなんと言った?
 逆神が、その目を目の前にいる不良にはっきりと向ける。そして右手に黒い光が集い始める。夜の闇よりも深いその光は、一瞬で《銃槍ゲイ・ボルグ》に姿を変えた。

「ジャスティス」

 それを、なんのためらいもなく振りかぶり、なんのためらいもなく、逆神は振り下ろす。
 不良はなにが起きているのかすら把握しておらず、だたポカンとしながらただ自分にせまりくるそれを見ていた。《神器》。異世界の武器。そのようなものをなんの力も持たない人間にたいして使用すれば――死あるのみ。

「クラウ・ソラス!!」

 高貴の叫びが、夜の公園に木霊する。その右手に白い光が集い始め、一瞬でクラウ・ソラスが具現化された。逆神の言葉を理解するよりも早く、行動を理解するよりも早く、魔術や《神器》の守秘義務も気にせず、高貴はクラウ・ソラスの光の刀身を展開、思い切り振り上げる。
 ギイィィン!! という耳を劈く轟音とともに、白い光が周囲に弾けた。クラウ・ソラスは不良学生の顔面ギリギリを通過し、まさに不良学生にぶつかろうとしていたゲイ・ボルグを受け止め、そして弾いた。

「高貴さん?」
「バカかテメーは!? いきなり何してやがる!」

 高貴が不良をかばうように逆神の正面に立って、クラウ・ソラスを構えた。
 構えたものの、状況はよく理解出来ていない。いきなり逆神がゲイ・ボルグで不良に斬りかかった。いったいなぜそんなことをしたのかがまったく理解できない。
 理解できるはずがない。

「ちょっと、何してんのよあんた達!」

 様子を見ていたヒルドもこちらにやって来た。その表情は高貴と同じで信じられないといった様子が伺える。

「ヒルドさん、高貴さんがおかしいんです。僕のジャスティスの邪魔をしたんです」
「おかしいのはあんたでしょ! なにいきなり不良どもに《神器》向けてるのよ!?」
「何を言ってるんですか? 悪を断罪するのは当然のことのはずです。ヒルドさんまでおかしくなってしまったんですか?」
「テメー、こいつらの事殺す気か?」

 高貴が、逆神を威圧しながらたずねた。逆神は少しも怯んだ様子もなく、むしろ笑いながら言葉を発する。

「当たり前じゃないですか。これは漆黒の正義による断罪です。悪を殺す。それすなわちジャスティス。至極当然の事ですよ」

 本当に、至極当然に逆神はそう言った。
 すなわち、逆神にしてみれば、おかしいのは高貴たちなのだ。自分の正義の邪魔をする二人を、逆神は心底疑問視している。

「……おい、お前ら。さっさと逃げろ」

 高貴は自分の背後で震えている不良言う。先ほどまでの強気な態度はどこにもなく、今はなにが起こっているのかわからずに、何も言えずに震えている。

「な……なんなんだよ! お前ら――」
「さっさと消えろ! 殺されたいのか!」

 クラウ・ソラスを地面に向かって一閃。そこには光の刀身によって鋭い傷跡が刻まれる。それを見た不良がさらに震え上がった。

「ひ、ひいぃっ!!」
「た、助けてくれーーっ!!」

 ようやく不良が逃げるという選択をした。しかし当然のごとく逆神はそれを許さない。

「逃がすか!」
「逃がすんだよ!」

 高貴が逆神の前に立ちはだかり、それと同時に斬りかかった。逆神はゲイ・ボルグでそれを受け止め、両者の武器がギリギリと拮抗し合う。

「なぜ邪魔をするんですか! あなたも悪に落ちるつもりですか!?」
「一般人を殺すわけにはいかねーだろ! テメーは豚箱に入る気かよ!」
「バカなことを言うな! 僕は漆黒の正義に基づいて断罪するだけだ! どうして罪に問われる必要がある!!」
「こいつ……頭おかしいだろ!」
「そんなの、わかりきってた事よ! レーヴァテイン!!」

 ヒルドがレーヴァテインを召喚し、逆神の真横から斬りかかった。しかし逆神はそれを回避し、クラウ・ソラスとのつばぜり合いからも逃れる。
 逆神はそのまま後退して、高貴とヒルドから離れた。

「追うわよ!」
「わかってる!」

 高貴とヒルドもすかさず後を追う。逆神は先ほどまでいた場所。公園の中央付近まで移動した。中央付近は近くに遊具などはなく、比較的戦いやすいからだろう。
 つまり、彼は高貴とヒルドと戦うつもりなのだ。

「僕のジャスティスの邪魔をするのなら……あなた達は、いや、お前達は悪だ! 漆黒の正義の名の元に僕が断罪する!」

 逆神がゲイ・ボルグを構えた。それに応えるように、高貴とヒルドも……いや、二人は構えない。ただ呆れた顔で逆神を見ていた。

「はぁ、だからさっさと《神器》奪っとけば良かったんだよ。こういうガキは本当にめんどくせーんだからよ」
「まったくね。中二病に危ないおもちゃを持たせると危険だってよくわかるわ。もっともあれはもう中二病とか以前に、頭がイッちゃってるのよ。」
「わかるわかる。もしかしたら一緒に戦っていくかもしれないから気を遣って言わなかったけど、あいつバカじゃねーのか? 実際バカだし、笑いこらえるのに必死だったよ。もっとも呆れのほうが強くなってきたけど」
「ジャスティス? 漆黒? 守護者ぁ? よくそんな子供じみた設定思いつくわね。お笑い芸人にならなれるんじゃないかしら」
「やめとけ、一発屋にもなれそうに無い」
「それもそうね」

 言いたい放題の二人。高貴とヒルドの会話を聞いている逆神は、段々と顔が真っ赤になっていく。頭に血が上り、怒りが溢れていく。
 そして――

「き……きいいイイイイイイイイイイイイイイイイイイさアアアアアアアアアaaaaアアアアアアアアアまあアアアアアアアアアああああああああああああああらaaaaああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!」

 叫んだ。叫んで、もう一度彼は叫ぶ。

「貴様らああっ! きさま等! キサマラ! キサマら! きさまラ! きさまらああああああああああああああああああああああ!! 僕が誰だかわかってるのかああああっ!! 僕は!! この僕は!! この僕こおおおおそがああああっ!! この世界のありとあらゆる人々の希望!! この世界の全ての悪をジャスティスする守護者!! 《正義の守護者ガーディアン》のちょおおおおおおてんに立ちぃ! 《災厄を招く影ナイトメア》のもたらす破滅を止めえええっ!! 《正義の武具ジャスティスウェポン》の一つであるジャスティスジャアアアアアアベリンに選ばれたあああああああっ!! こおおおおのせかいいいいいいを救うために二度目の転生えええええええを果たしたああっ!! 漆黒のおおおおお守護者っ!! 漆黒のおおおおお守護神っ!! 漆黒のおおおおおっ!! キュウウウウうぅぅぅぅせイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイっしゅっ!! それがああああああああああああこの僕!! さあぁぁぁかあぁぁぁぁがあぁぁぁぁぁみいいぃぃぃぃぃぃぃぃいい!! セエエエエエエェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエーーーーーーーーーーーーーーギッ!!」
「うるせーんだよ中二病」
「うるっさいわね中二病」
「プヒ?」

 その叫びは、高貴とヒルドの重なり合った一言によってバッサリと斬り捨てられた。逆神がキョトンとした顔になり、意味不明の言葉が零れ落ちる。
 ここにはエイルはいない。中二病の設定だと知りつつも、その設定を聞いてくれるエイルはいない。
 ここには真澄はいない。中二病相手にも気を使ってくれる心優しい真澄はいない。
 ここにいるのは、中二病に、いや、逆神正義と名乗っている少年にたいして、嫌悪感と呆れの感情しか持っていない高貴とヒルドのみだ。

「ごめん、もう無理。こいつマジでキモイ。さっさと《神器》奪って帰ろう」
「そうね。あたしとしても、こいつと同じ空気を吸いたくないわ。来なさい、契約の鎧」

 ヒルドの体が光に包まれる。その体は一瞬にして鎧に包まれ、赤いヴァルキリーが姿を現す。
 高貴と真澄が、ここでようやく武器を構えた。二対一を卑怯だなどとはまったく思っていない。むしろ高貴とヒルドの心は、今までにないほどに一つになっている。
 逆神の実力はヒルドから聞いており、一対一ならば勝てるかは危うい。だからこそ二対一。だからこそ、挑発するのだ。
 高貴あくまでは余裕を見せながら笑い、戦いを開始する一言を口にした。

「さぁ、遊んでやるよ鈴木太郎」



[35117] VS漆黒
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/26 17:06
「さぁ、遊んでやるよ鈴木太郎」

 高貴の言い放ったその一言により、逆神の理性は完全に切れてしまう。その結果――

「キッサマアアアあああああああああっ!!」

 逆神が逆上して叫ぶ。一気に間合いを詰めてくるのかとも思ったが、逆神はその場に留まったままゲイ・ボルグの切っ先を下げ、石突の部分を高貴にむけた。高貴にはその行動が理解できなかったが、ヒルドはすぐにその意味に気がつく。

「銃弾が飛んでくるわよ!」
「了解」
「我が正義の魔力をその身に宿せ。飛べ、《漆黒の弾丸ノワールビット》!」

 ドンッ!! 連続した轟音が5回響き、ゲイ・ボルグの石突から5つの漆黒の銃弾が放たれた。それらは吸い込まれるように全て高貴目掛けて飛んでいく。
 しかし高貴は慌てる事はなかった。もともと《漆黒の弾丸ノワールビット》の弾速はそれほど速いものではない。ベルセルクの飛ばす銃弾のほうがまだスピードがある。故に――

「随分とゆっくりだな」

 すべて――叩き落せる!
 クラウ・ソラスの光刃が光の軌跡を描く。連続して振るわれた刃は、漆黒の銃弾を全て叩き落とす。切断するまでにはいかなかったものの、銃弾は力をなくしたように周囲に落ちた。

「これが当たると動けなくなるってやつか。でもこのくらいの速さなら当たらないだろ」
「そうね。じゃあとっととあの中二病にお仕置きを――」

 言葉が途切れる。ヒルドの視線の先で、逆神が笑っていたからだ。攻撃が通じなかったというこの状況で、一体どうして彼が笑っているのかヒルドには理解できなかった。
 しかし、その意味をヒルドはすぐに知る事となる。
 地面に落ちた漆黒の弾丸。それが微かに動いているからだ。そして――それが勢いよく動き出した。
 ふたたに動き出した弾丸が向かう先には――

「っ! 月館っ! どきなさい!」
「は?」

 ヒルドが高貴目掛けて飛ぶ弾丸を叩き落す。それによってようやく高貴は、逆神の攻撃がまだ終わっていない事を理解した。

「まだ来るわよ!」

 ヒルドの言葉と、地面に落ちた5つの弾丸が浮き上がるのはほぼ同時だった。ふわりと浮き上がった5つの弾丸は、今度は高貴ではなくヒルド目掛けて飛んでいく。
 固まっていてはまとめて動けなく去れる危険性を考慮して、ヒルドが高貴からはなれる。せまりくる弾丸を回避しながら高貴から10メートルほどはなれたが、周囲を弾丸に囲まれてしまう。

「ヒルドっ!」
「こっちに来るなっ!」

 ヒルドに詰め寄ろうとした高貴だったが、ヒルドの声によってその足は止まった。かわりに逆神を敵意を前面に出してにらめつける。

「おやおや、先ほどまでの余裕はどこに行ったんだ? そんなに僕の漆黒の守護者としての力が恐ろしいか?」
「いや別に」
「そんなに知りたければ教えてやる。僕の《漆黒の弾丸ノワールビット》の秘密を!」

 逆神が頭上でゲイ・ボルグを振り回す。

「僕の漆黒の力が宿った《漆黒の弾丸ノワールビット》は、《漆黒の足枷ノワールバインド》によって動きを止めるだけではない。僕の意志に従い自由に空を翔けることが出来るのだ! そしてターゲットに当たるまで、決して動きを止めることはない!」
「……自由に動くってことか?」
「月館! 《フェオ》のルーンよ! この弾丸《ナウシズ》のルーンだけじゃなくて、《フェオ》のルーンも刻まれているわ!」

 弾丸をかわしながら、ヒルドが高貴に向かって叫んだ。その言葉は高貴の耳にはっきりと届く。
 《フェオ》のルーン。それは以前エイルから聞いたことのあるルーン魔術の一つで、物体を自在に操作するルーン魔術。超能力のサイコキネシスや、念力に近い魔術であり、自らの意志で物体を操る事ができる。
 そのルーンが、黒の弾丸に刻まれているのだ。

「このっ、鬱陶しいのよ!」

 5つの弾丸に囲まれたヒルドは、レーヴァテインでそれを叩き落し、身を翻して回避しているものの、その場から動けずに釘付けにされてしまっている。助けにいこうにも、高貴はあの弾丸をかわし続ける自信がなかった。

「月館! さっさとそいつ倒しなさい!」
「お前大丈夫なのかよ!」

 心配する高貴の声を、ヒルドはクスリと笑ってレーヴァテインを振るい両断した。

「あたしを誰だと思ってんのよ。なんだったら炎を飛ばして援護してあげるわ」

 その言葉に嘘は見当たらない。ヒルドは自分は絶対に大丈夫だと確信を持っている。ならば自分に出来る事はただ一つしかない。

「待ってろ、すぐに片付ける!」

 そう言って、高貴は改めて逆神に向き直る。

「ま、タイマンになっちまったけど、お前ぐらいなら俺でも大丈夫だろ」
「随分と余裕だな。あの女を助けに行かなくてもいいのか? 僕の《漆黒の弾丸ノワールビット》は一度食らえばあとは終わりだというのに」
「あのヴァルキリーをあんまりなめんな。俺やお前みたいなポッと出の《神器》の持ち主と違って、戦う事にも慣れてるヴァルキリーだ」

 逆神の表情が変わった。高貴の言葉に気に入らないとでも言うような表情になる。

「またそれか。《神器》だのルーン魔術だの異世界のヴァルキリーだのわけのわからない事ばかり。貴様達は――中二病かああああああああああぁっ!!」

 逆神が、地面を蹴った。

「テメーが言うんじゃねーよ!」

 高貴も地面を蹴る。光の剣と漆黒の槍が正面から切り結ばれた。ギイィィン!! と金属音が鳴り響き、両者の動きが一瞬だけ止まる。競り勝ったのは逆神だ。ゲイ・ボルグでクラウ・ソラスを弾き、自分を中心に円を描くように連続して槍を振り回す。
 それを高貴はクラウ・ソラスで防御する。受け止めるたびに体に凄まじい衝撃が走るのは、槍という長い物質による遠心力の効果だろう。
 重い――!
 レーヴァテインやダインスレイヴのような剣とは何回か切り結んだ事があるが、槍と切り結ぶのは初めてのため、この重さが槍特有のものなのか、もしくは逆神の力によるものなのか、高貴には判断できなかった。
 まるでクラウ・ソラスの光の刀身を削られるかのような感覚だ。それは比喩表現ではなく、実際に切り結ぶたびに光の粒子がいつも以上に散っている。

「どうしたどうしたぁ! 僕の漆黒の魔力を帯びたゲイ・ボルグの力でキサマの偽りの光を消し去ってやる!」

 相変わらずよくさえずる口だ。鬱陶しい事この上ない。
 確かにパワーはたいしたものだ。だが、見切れないスピードではない。光の刀身が、漆黒の槍を受け止めた瞬間――

「遅いんだよ、お前は!」

 魔力を流し込んで光の刀身の威力を上げ、今度は高貴がゲイ・ボルグを弾く。

「なにっ!?」

 逆神の顔が驚きに染まった瞬間に、高貴が一歩前に踏み出した。右から左へ横一閃にクラウ・ソラスを振るう。逆神はゲイ・ボルグを盾にして受け止めるものの、勢いを殺す事ができずに僅かに後ろに飛ぶ。
 それをさらに高貴は追いかける。斬り終わりの体勢から、今度は居合い切りのように一閃。逆神がそれをバックステップでかわすと、それをさらに追いかけて切り結ぶ。
 再び切り結ばれる剣と槍。しかし先ほどまでと違うのは、防戦一方だった高貴も互角に反撃を返しているということだ。

「き、キサマ! どうして僕のスピードについてこられる!」
「どうしても何も、テメーよりも速いやつと戦った事があるからだよ。どこぞの狂った悪趣味コートのほうがよっぽど強かった。もっとも、テメーのほうが狂ってるけどな!」
「クッ! 調子に……のるなぁっ!」

 逆神が、初めて突きを繰り出した。エイルのランスのように、槍の有効的な攻撃方法の一つ。それも一度や二度では止まることなく、まるで正面から雨でも降っているかのように連続して高貴に突きを繰り出す。
 なんとかクラウ・ソラスで防ぎかわしているものの、それは槍を振り回されるよりもゾッとする攻撃だった。これで体を貫かれでもしたら、自分はきっとひとたまりも無いだろう。突きをかわしながら、体全体でギリギリの風圧を感じながら、高貴の脳裏をよぎったのは――

「やっぱ――エイルのほうが速い!」

 自分の顔に向かってくるゲイ・ボルグを見ながら、はっきりと見ながら、高貴はそれを確信した。ランスを使っているエイルの突きのスピード。それに比べれば、逆神の突きのスピードは遅い。繰り出される突きに、高貴は自ら向かって行く。
 ゲイ・ボルグ。その切っ先が怪しく光る。その命を貫く切っ先が当たる瞬間、高貴は僅かに顔をずらした。
 聞こえたのはゲイ・ボルグが風を貫く音。そして鋭い風圧を頬に感じた。しかし、完全に回避したのだ 回避、そして前進。それは逆神の懐に入り込んだということを意味している。

「おらあぁぁっ!!」

 キイィィン!! とクラウ・ソラス唸る。光の刀身が輝きを、力強さを増していく。その刃を高貴は、なんの遠慮もなく逆神に叩き付けた。

「ぐわあああっ!!」

 耳を劈くような轟音が響き、クラウ・ソラスの一撃を腹部に受けた逆神は、20メートルほど後方に吹き飛ばされた。
 輝く剣をゆっくりと下ろし、高貴は悠然と立ち尽くす。

「ちっ、槍落とせば終わりだったんだけどな。もしくは気絶してくれれば……してねーか」

 高貴が落胆のため息をつく。視線の先では逆神がゲイ・ボルグを杖代わりにして立ち上がっていた。

「ちょっと月館! さっさと終わらせなさいよ! 結構疲れるんだから!」

 弾丸をかわし続けているヒルドが高貴に向かって叫ぶ。

「わかってる。もう少し頑張ってくれ」

 流石に早く終わらせたほうがいいだろう。
 立ち上がった逆神は、自分の体の異変に気がつく。

「斬れて……いない?」

 そう、逆神の体はどこも斬れてなどいなかった。クラウ・ソラス。光の剣。それを腹部に受けたにもかかわらず、まったく切れていない。せいぜい制服が焼け焦げてボロボロになっている程度だ。
 しかし、それでもダメージは残っている。今の一撃は、まるで鈍器で思いきり殴打されたかのような感覚に近かったのだ。
 なぜ自分は斬られていないのか。その疑問の答えを、逆神は導き出した。

「そ、そうか。これは僕の秘められた力が覚醒したんだ。漆黒の魔力によって我が身を守る。それであの剣で斬られても無事だったということか。名づけて……《漆黒の鎧ノワールメイル》!!」
「んなわけねーだろ中二病」

 しかし、その逆神の導き出した答えは、呆れた高貴の声によって一瞬で否定される。

「お前が無事なのは俺がそうしたからだ。クラウ・ソラスの刀身は俺の意志である程度変えられる。長さも、性質もな。エイルに言われたんだ。クラウ・ソラスの切れ味を操作すれば、相手を極力傷つけることなくダメージだけを与えられるのではないかってな。だから試してみたら出来た。威力を抑えた《白光烈波フォトンストライク》みたいなもんだよ。本当に、便利な《神器》だよこいつは」

――貴様、口の利き方に気をつけろ。

 なにやら変な声が聞こえた気がしたが、高貴は気にしないことにした。

「ち、違う! 今のは僕の漆黒の魔力が――」
「いい加減にしろ中二病。漆黒漆黒うるせえんだよ」
「だ、黙れエエエエエエエエっ!!」

 逆神が左手の指を立てる。その指に黒い光が灯った。

「我が呼びかけに応えてその力を示せ。ムスペルヘイムの炎さえも――」
「伸びろっ!」

 クラウ・ソラスを逆神に向け、その刀身を一気に伸ばした。光の刀身は伸び続けて逆神に襲い掛かる。

「焼き尽くす漆黒のほのうわあっ!!」

 その光の刃を逆神は体を捻って回避、刃がすぐに弾けて消えた事を確認した逆神は、再び指を眼前に掲げる。

「我が呼びかけに応えて――」 
「いっけえぇっ!!」

 再びクラウ・ソラスを伸ばし、今度は横一閃。

「その力を示せムスぐうぅっ!!」

 ゲイ・ボルグで防御。再び刃は弾けて消える。

「我が呼びかけに応えてその力を示せムスペルヘイムの炎さえも焼き尽くす漆黒の焔よ今――」
「まだまだぁっ!」

 高貴の横一閃。

「こそ時空の狭間を越えてえぐううぅぅっ!!」

 防御、刃が消える。

「わ、わがよびかけにこたえてそのちからをしめせむちゅぺるへいむのほのおしゃえもやきちゅくしゅしっこくのほむりゃよいまこしょじくうのはざまをこえて――」
「もういっちょおおおお――――ッ!」

 渾身の、横一閃。光の刀身が白い軌跡を描いて逆神に襲い掛かる。

「このびゃにぐげんしぇよノワあああっ!!」

 防御――しきれない。
 衝撃に負け、逆神が10メートルほど吹き飛ばされた。地面を転がり、怒りに染まった顔で高貴を睨み付ける。

「き、きさまああああ!! 詠唱中にじゃまをするなあああ!!」
「知るかばーか。そもそもルーンを書くだけなら無駄口叩く前に手を動かせば良いだろ」
「そんなかっこ悪いことできるかああああ!!」

 ったく、本当に困ったガキだ。それで吹き飛ばされるほうがかっこ悪いに決まってるだろ。それに今噛んでたろお前。
 高貴が一歩前に出る。逆神の体がびくっと震えた。

「おい、もうやめないか? 弱いものいじめしてるみたいで気分が悪い」
「よ、弱いものだと?」
「そうだよ。そもそもその《神器》って、動きを止める弾丸を撃てるとかかなり強そうだけど、なんでお前俺より弱いんだよ。クラウ・ソラスなんて伸び縮みするだけだぞ」

――貴様、それは我に対する侮辱か?

 なにやら変な声が聞こえた気がしたが、高貴は気にしないことにした。

「それはお前みたいなやつには過ぎたおもちゃだ。そもそもこの世界のものじゃないんだから、さっさとエイルに持ち帰ってもらわないと――」
「うるさああああああああああああいっ!!」

 逆神が発狂する。そう、発狂だ。ゲイ・ボルグをメチャクチャに振り回し、錯乱したように叫び続ける。

「僕は選ばれた人間だ! 僕は特別な存在だ! そうだ、ぼくはこのジャスティスジャベリンを手にして変わったんだ! このジャスティスは僕のものだ! 誰にも渡すかあああああああああっ!!」
「……仕方ないか。じゃあやっぱり力づくだ」

 高貴がクラウ・ソラスを構える。逆神もそれに応えるように――いや、構えなかった。高貴に向かってではなく、逆神はヒルドに向かって構えている。ゲイ・ボルグの石突をヒルドに向けている。

「テメーまさか――」
「わあああああああがせいぎのまりょくをそのみにやどせとべノワールビットオオオオオオオオ!!」

 ゲイ・ボルグの石突から、漆黒の魔弾がヒルドに向かって放たれた。



[35117] 中二病というよりは……
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/02/28 06:34
 放たれた黒い弾丸。その数は5つ。放たれた目標は、すでに自分に襲い掛かってくる5つの弾丸を回避していたヒルドだ。
 ヒルドは回避と防御で手一杯になっているため、自分に向けられて弾丸を放たれた事に気がついていない。

「ヒルド、避けろっ!!」

 高貴が思わず叫ぶ。その叫びがヒルドに届き、ようやくヒルドは逆神の撃った弾丸に気がついた。しかし――もう遅い。

「きゃあっ!!」

 ヒルドの体に、黒い弾丸が連続して降り注ぐ。元々5つの弾丸だけで手一杯だったヒルドには、さらに増える弾丸をかわすすべはなかったのだ。
 弾丸自体はそれほど殺傷能力はない。しかも当たったと言っても鎧の上からだ。だが――

「わがよびかけにこたえてそのちからをしめせはるかなるちのそこよりきたれるしっこくのじゅばくよかのものたちのときをやめよのわあるばいんどおお!!」

 その弾丸の真価は、動きを止めることにある。ヒルドの右肩、腹部、背中、様々な箇所に《ナウシズ》のルーンが刻まれる。

「くっ……ううううう!!」

 ヒルドの足がゆっくりと曲がっていき、立っている事ができずに彼女は肩膝をついてしまう。
 動けない。まるで自分のいる位置だけ重力が何倍にもなっているような、前身を拘束されているかのようにヒルドはまったく動けなかった。
 高貴がヒルドに近づくよりも早く逆神が動いた。元々戦いの過程で、逆神は高貴よりもヒルドに近い位置にいたこともあって、、逆神がいち早くヒルドの元にたどり着く。

「動くなっ!!」

 そして、ヒルドの喉元にゲイ・ボルグを突きつけた。ヒルド表情が微かに曇っている。

「あ、あんたねぇっ!! このっ! 動けっ!」
「無駄だ。僕の《漆黒の足枷ノワールバインド》を抜け出す事はできない。鎧の上、しかも君は魔力が高いようだから、せいぜい止められる時間は30重秒と言った所だろうけど……」

 逆神の周りに、漆黒の弾丸が浮遊する。それはヒルドを取り囲むように周囲に浮き始めた。

「効果が切れたと同時に《漆黒の弾丸ノワールビット》を再び君に叩き込む。これで君はもう動けない」

 逆神が視線をヒルドから高貴に移した。高貴の目には明らかな焦りが浮かんでいる。

「ふっ、僕を甘く見たようだな。僕はこの世界でただ一人漆黒の正義に目覚めた漆黒の守護者だぞ。高速詠唱ぐらい出来て当たり前だ。お前達とは核が違うんだよ!」
「この野郎……女人質にとって上から目線かよ」
「僕はっ! 漆黒の守護者だ! お前らみたいなわけのわからない事ばかり言っている中二病とは違って、世界を救う責任がある。来るべき神々との戦いの前に負けるわけには行かない。だからこそ。だあああからこそっ! 勝たなければいけないのだああっ!!」
「テメー――」

 高貴が思わず一歩踏み出す。しかし逆神は焦る事はなく、ヒルドにゲイ・ボルグをヒルドに突きつけたまま笑うだけだった。

「動くなと言っている!」
「……くそっ!」

 一歩動いただけで、高貴の足は再び止まった。それをみた逆神はさらに満足そうに笑う。そして上機嫌に言葉を綴った。

「学のなさそうな貴様らにいい事を教えてやろう。僕が手にしている選ばれし勇者しか使う事のできない《正義の槍ジャスティスジャベリン》。ゲイ・ボルグとは、元々僕の前世、クー・フーリンが使っていた漆黒の槍だ。この槍は投げれば必ず当たるという言い伝えがあるが、それはどうしてかわかるか?」
「興味ねーよ」
「興味ないわ」
「それはなぁ! 相手の動きが止まっているからだ! 相手が動けないからかわせないんだよ!!」

 苛立ち、焦り、様々なものが高貴に襲い掛かった。逆神はゲイ・ボルグをヒルドの喉に突き刺すだけで、いつでもヒルドを殺す事ができる。高貴にはそれを防ぐ方法がわからない。というよりも出来るはずがない。
 距離は10メートル以上は離れており、たとえクラウ・ソラスを伸ばしたとしても回避されるか防がれる。何よりヒルドは動けないのだから、自分の攻撃で巻き込んでしまう恐れもある。もっとシンプルに、高貴が攻撃しようとした瞬間に、逆神がヒルドを刺すかもしれない。

「さて、この女の命が惜しかったら、僕の言う事にしたがってもらおうか。まずはその剣を捨てろ」
「月館! あたしのことはいいからこいつを倒しなさい!」

 無駄だとわかっていても、ヒルドはそう叫ばずにはいられなかった。しかし高貴は、友人を見捨てられるような人間ではない。故に、逆神に対する返答は最初から決まっている。

「……わかったよ」

 高貴が体の力を抜いた。そしてクラウ・ソラスの光の刀身も弾けて消える。
 そして、右手に持っていたクラウ・ソラスを地面に放り捨てた。からから、と乾いた音を立ててクラウ・ソラスが地面に転がる。

「くくく……友達想いじゃないか」

 逆神がゆっくりとヒルドからゲイ・ボルグを離す。しかし相変わらず《ナウシズ》の呪縛をヒルドの動きを封じており、解けた瞬間にまたもや呪縛をかけられるので、ヒルドは数条秒ごとに数センチしか動く事が出来ない。
 狙いを高貴に変えた逆神は、ゆっくりと歩きながら高貴に近づいていった。

「安心しろ。せめて――苦しませて断罪してやる!!」

 逆神が勢いよく地面を蹴った。
 ゲイ・ボルグを反対にもち、石突で高貴の腹部を勢いよく突き刺す。

「があぁっ……!!」

 鏃で突かれたわけではないので、体は貫通していない。しかし、凄まじい衝撃である事は間違いないのだ。胃の中のものが逆流すると言う言葉の意味を、高貴は身をもって理解した。

「ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティーーーース!」

 間髪いれずに逆神がゲイ・ボルグを高貴に叩きつける。決して刃で攻撃しようとはしないで、鈍器のように扱ってひたすらに高貴を打ち続ける。

「がっ……はっ……!!」

 ゲイ・ボルグで叩かれるたびに、高貴の体の感覚が急速に失われていく。頭から流れる血が、目に入って鬱陶しい。
 やばい、これはマジでやばい。
 クラウ・ソラスが手元にはなく、そもそも拾う暇も余裕もない。反撃したらヒルドが殺される。防御しようにも素手では不可能。戦おうにも、ルーン魔術は《エイワズ》しか使うことができず、攻撃のルーンはまだ使えない。《エイワズ》で防御しても《神器》では突破されるだろうし、何よりやっぱりヒルドが危ない。
 つまり、完全に打つ手がなくなってしまった。ただこの攻撃に身を任せて、意識を必死につなぎとめるしか出来ない。

「どうだ! これが! 僕の! 力だ! 漆黒の! 漆黒の! 漆黒の! 守護者の! 真の! 力だあぁっ!!」

 もはや高貴の体は、殴られていないところがないと言っていいほど滅多打ちにされている。それでもまだ立っている自分は、もしかしたらすごい奴なのかもしれない。

「我が呼びかけに応えてその力を示せ。ムスペルヘイムの炎さえも焼き尽くす漆黒の焔よ、今こそ時空の狭間を越えてこの場に具現せよ! 《|漆黒の焔(ノワールフレイム)》!」

 逆神が満足そうに叫びながら、空中に《ケン》のルーンを黒い軌跡で描いた。右手に黒い炎が燃え始める。

「燃えろ漆黒! 轟けジャスティス! 《漆黒の焔を纏う正義の鉄拳ノワールフレイムジャスティスパンチ》!!」

 逆神の燃える右拳が、高貴の腹部に突き刺さる。熱さと痛みを感じながら、高貴の体が後方に吹き飛んだ。受身も取れずに背中から地面に叩きつけられ、ゴロゴロと地面を転がった。

「月館えぇっ!!」

 地面に横たわり意識が切れそうになった高貴だったが、聞こえてきたヒルドの叫びによってなんとか意識をつなぎとめる。なんとか立ち上がろうとしたが、体はまだそこまでいう事を聞いてくれそうにない。
 随分と近くから声がすると思ったら、ヒルドのところまで吹き飛ばされたようだ。すぐそばにいるヒルドが、心配そうに高貴を見ている。

「ははっ! 無様だなぁ悪党。僕の漆黒の正義に従っていればよかったのに、僕に逆らうからこうなるんだ」
「うる……せーんだよ。この中二病」
「僕は中二病ではない。漆黒の守護者だ。そうさ、僕は選ばれた存在だったんだ。もう前の僕とは違う。僕は変わった。試練に打ち勝った。僕は選ばれた。悪を許すな。僕は弱くない。僕は強い。僕は強い。僕は……」

 ブツブツと逆神が何かを呟いている。その目は何もみておらず、どこか虚ろな目をしている。
 一体こいつはどうしたんだ? さっさと俺にとどめをさせるのに、なぜそれをしない。まだ痛めつけたりないのか、それともなにか理由があるのか。それとも何かに気を取られているのか。
 それにさっきから何を言っている? 変わったとはどういうことだ? 変わる前のこいつはどうだったんだ?
 考えろ。とにかく何かを考えろ。どうせ体は働いてくれないんだから、思考を変わりに働かせるしかない。
 こいつはどういう存在だ? 鈴木太郎。本名はありきたりな苗字にシンプルな名前。性格は中二病、友達は出来そうにない。正義感が強い。ように見えるだけで、かつあげしてた奴らを殺そうとした。中学生、身長が小柄、体重は知らない、家族構成も不明、あとは……

「……あ」

 まて、今までのこいつの特徴を集めてまとめると、ある一つの仮説が成り立つ。根拠はなく可能性の話だ。しかも言っても意味などなく、真実ならさらに逆上させてしまうかもしれない。しかし、それでも……

「おい、中二病」

 それでも高貴は口を開いた。
 どうせ何も出来ないなら、せめて一泡吹かせて、ついでに吠え面もかかせてやる!

「お前、もしかしてイジメられてるのか?」

 瞬間――逆神の表情が一変した。虚ろになっていた目が見開かれる。そして――うろたえ始めた。

「な、なな、なにを言って」
「ああ、やっぱりそうか」

 遮る。
 逆神には口を開かせずに、高貴は言葉を続ける。

「少し考えればわかりそうな事だろ。お前みたいな狂った思考の奴が、目を付けられないはずがない。鈴木太郎って言うシンプルで逆に珍しい名前、それにお前って身長が低いからイジメのターゲットにはもってこいだ。」
「ば、バカな事を――」
「変わったとか言うのは、《神器》の力でイジメられなくなったってことか。確かに負けないだろうよ。ああ、そうかわかった。試練っていうのはイジメのことだったんだな。テメーは中二病だから、イジメを試練なんて言葉にして現実逃避してたってわけか」
「ち、ちがああああああああうっ!!」

 錯乱。発狂。言葉は続けられる。

「あれは試練だ! 僕はイジメられていたんじゃない! 自ら過酷な状況に身を置いて漆黒の守護者としての覚醒を待ったんだ! そして試練に打ち勝ったからこそこの《正義の槍ジャスティスジャベリン》を手にすることが出来たんだ! そして僕は正義になった! 逆神正義に!」
「なるほど、テメーが正義正義ウザイのは、イジメが原因か」
「黙れえええええええええええええええっ!!」

 逆神の蹴りが、高貴の腹部に刺さる。

「がふっ! ……本当の事指摘されたくらいで、うろたえてんじゃねーよガキが。ほら、漆黒はどうした? ジャスティスは?」
「こ……の……!」

 逆神の蹴りが、横たわっている高貴の腹部に突き刺さる。高貴の口から僅かに胃液が飛び出てきた。

「このっ! あんたいい加減にしなさいよ!」
「吼えろ吼えろ、ジャスティス無き者はそれくらいしか出来ない」

 逆神は心底おかしそうにヒルドをみていた。ヒルドがどれほど睨んでも、どれほど敵意を向けても、逆神はもはや勝利を確信しているのだ。

「冥土の土産だ。いい事を聞かせてやろう」

 逆神が高貴の体を踏みつけた。足でグリグリと高貴の体を踏みにじる。

「僕は素晴らしい計画を思いついたんだよ。この国は腐っている。生きている人々にジャスティスが存在していない。だからこそ、僕がジャスティスを広める事にした! そう、僕はこの国の王になる!」
「「……は?」」

 絶体絶命にもかかわらず、高貴とヒルドがポカンとした顔になる。

「まず、全てのありとあらゆる政治は僕が行い、あるとあらゆる法律は僕が作る。今現在その仕事についているものは当然クビ。美人は僕の秘書として残しておく。そして手始めにこの国の名前を《鈴木王国スズキキングダム》に変更。国家の作詞作曲は国民的シンガーソングライターに依頼。当然僕と漆黒の正義をリスペクトさせる。そして国旗は僕の写真を貼って完成。これ以上に完璧な国旗はない。罪人は投獄などしないで全て僕が断罪する。そうすれば二酸化炭素の量も減って地球温暖化も防ぐことが出来て、さらに食料問題の解決も見えてくる。そしてこの国のかかえる借金、そんなものは僕の自伝とプロマイドを全世界に売りさばけば、余裕で解決できるし、むしろ国家予算は今の百倍になるだろう。自伝は10冊限定で僕の直筆のサイン入り、これは一冊1000兆円はくだらない値段がつくはずだ。そしてプロマイドを見て僕に一目惚れした全世界の美少女と美女がそろって僕に結婚を申し出てくる。《鈴木王国スズキキングダム》では一夫多妻制。僕はその中で中古以外の女どもを妻として子を作り、僕の超有能な遺伝子と漆黒の正義を併せ持つ《太郎の子供達タロウチルドレン》を生ませ、全世界に漆黒の正義を広めさせる! 完璧だ! 完璧すぎる計画だ! ヒャヒャヒャヒャヒャアーーーーッ!!」

 狂ったように逆神は笑う。いや、すでに彼は狂っているのだろう。
 声高らかに、まるで演説でもしているかのような彼は、完全に現実を見ていない。常に妄想ゆめに浸っているのだ。
 今の逆神の言葉を聞いて、高貴は完全に理解した。こいつは中二病なのかもしれないが、それ以前に、単純に、根本的に――
 ただ、狂っている。

「ちっ……こんな奴に……」
「情けなすぎて……涙も出ないわ」
「さて、そろそろ断罪のジャスティスタイムだ」

 逆神がゲイ・ボルグを振り上げた。その先端を高貴にしっかりと向ける。

「や、やめなさい! やめて!」

 ヒルドの叫びは逆神には届かない。動く力のない高貴にはそれをかわす事ができない。
 あーあ、ここまでか。こんな奴に殺されるなんてな。もう少しやりたい事もあったし、もっと平穏に過ごしたかったなぁ。
 やっぱりあの時エイルの事なんて助けるんじゃなかった。そうすればこんな事にはなっていないのに。本当に何回後悔したかわからない。
 でもまぁ、仕方ないか。後悔できない人生なんてつまらない。ははっ、こんな事考えてるから、俺は平穏な人生を遅れなかったのかもな。
 ヒルドの奴は大丈夫かな。こいつが俺の事こんなに心配してくれるなんて意外だったけど、どうやら助けてやれそうにない。
 最後に謝っとこうかな。
 えっと、真澄、俊樹、詩織さん、あとは美月さんとついでにネコ。
 俺死にます。ごめんなさい。お供え物はカステラが良いです。
 それにエイル……あとよろしく、頑張れよ。部屋は使って良いから。
 これで……俺も……

「月館! 動きなさい! 動いてぇ!」

 振り上げられた槍が――

「漆黒の正義の名の元に貴様を断罪する……ジャーーーーーーースティーーーーーーース!!」

 降ろされた。
 高貴目に入ったのは、自分にせまりくる漆黒の槍――

「さっきからうるさいのだけど――」

 ではなく、はっきりと耳に入ってきた声だった。

「っ!?」

 高貴の喉にゲイ・ボルグが刺さる直前に、逆神は振り下ろすのをピタリと止めた。

「なんだ今の声は?」

 どうやら逆神にも聞こえたらしい。だとすると高貴の空耳ではなさそうだ。
 聞こえた感じでは少女らしき声だった。この場にいる少女はヒルドのみだが、ヒルドが発した声ではない。その証拠にヒルドもその声の主を探している。

「誰だ! 僕の漆黒の正義の邪魔をするのは!?」

 逆神が周囲を見回して叫んだ。しかし帰って来るのは静寂のみ、声はどこからも聞こえてこない。

「今……確かに声がしたよな?」
「あ、あんたも聞こえたの? でも、魔力をどこにも感じないわ」

 そう、魔力どころか人影すら見当たらない。周囲を見ても誰もいない。だとすれば、一体誰が声を出したのか?

「……空耳か。仕方ない。僕は漆黒の守護者。人々の助けを求める声が聞こえてくるのだから、こういうことがあってもおかしくない」
「本当に都合のいい耳ね。それとも頭かしら?」

 再び、声が聞こえてきた。
 魔力も気配も感じない。しかし、声は聞こえる。そして声のした方向も割り出す事ができる。高貴、ヒルド、逆神は一斉に声の方向に視線を向ける。
 しかしそこには、20メートルほど離れた場所にベンチがあるだけだった。最初に高貴が買い物袋を置いた3人掛けのベンチ。ポツンと立っている電灯に照らされているそのベンチには、当然のごとく誰も座っていない。

「……やはり――」
「だから、空耳じゃないわ」

 逆神の言葉が三度聞こえてきた声に遮られた瞬間――それは起こった。
 ベンチのある場所が、まるで蜃気楼のように揺れている。空間が歪んだかのようになってしまっている。

「な、なんだあれは!?」
「お、おい?」
「あ、あたしも知らないわよ!」

 ヒルドも混乱している。しかし今目の前で起きている現象から目を離そうとはしなかった。
 やがて空間の揺れが収まり始め、微かに人影が現れる。
 声から判断できたように、その人物は少女だ。ベンチに座っており、高貴の置いたビニール袋の隣に座っている。そして――

「……はぁ?」

 高貴がポカンとして思わず声を漏らした。その人影に見覚えがあったからだ。見覚えがあるが故に、どうして彼女がそこにいるのかがわからない。
 長い黒髪、ハードカバーのついた本を広げ、四之宮高校の制服を着ている少女。本に視線を落としていたが、かけているフレームレスの眼鏡の奥の瞳が逆神に向けられる。

「さっきからうるさいわよ。ケンカならよそでやって」

 少女が逆神を真っ直ぐに見て言った。しかし逆神は呆然としたまま動かない。急に現れた少女にたいして、どうすれば良いのか判断できずにうろたえている。
 少女の視線が今度は高貴に向けられた。

「帰ってテスト勉強でもしているのかと思ったら、こんな所でチャンバラだなんて、随分と余裕ね月館君」

 少女が――音無静音が高貴に語りかける。

「お、お前……どうして? は? なんで?」

 高貴も理解できない。なぜここに静音がいるのか。なぜいきなり現れたのかが理解できない。そんな高貴を気にも留めずに、静音は――

「そういえば、月館君にはもう一つ借りがあったわね。せっかくだから――」

 パタンと、読んでいたであろう本を閉じて――

「借りを、返しておくことにするわ」 

 静音が、立ち上がった。



[35117] 理不尽な現実
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/04 00:38
 理解が出来ない。
 どうして彼女がこの場にいるのかが理解できない。
 どうして彼女が、音無静音がこの場にいて、この状況で、こちらを見ているのかが、高貴には理解できなかった。
 救援として期待できるとしたのなら、ヴァルキリーであるエイル。もしくはアルテミスを持つ真澄くらいだ。しかし、この場にいるのは音無静音。クラスメイトで隣の席に座っている女の子。今は借りを返してもらうという事で、勉強を見てもらっている女の子。
 そんな彼女が、はっきりと借りを、返しておくと口にして立ち上がった。

「おと……なし?」
「知ってるの月館? あの女誰よ?」

 ヒルドは四之宮高校に通っていない為、静音を見たことがない。なので誰なのかわからなかったのだろう。

「高校のクラスメイトだよ。クラスメイトだけど……クラスメイトだ」
「そのクラスメイトがどうしてここに……まさかあいつも《神器》の持ち主?」
「……かもしれないな。だって……魔力を感じる」

 静音の体からは、いつの間にか魔力が溢れていた。《神器》の持ち主は魔力を隠す事ができる。高貴は自分が《神器》を持っていると、他の《神器》の持ち主に気づかせる囮役をしているため、隠す事はしていないが、静音は《神器》を持っていて、魔力を隠して板と言う事は十分にありえる。

「ま、まさか……あなたは……そうか! そういうことか!」

 沈黙を打ち破ったのは逆神の叫びだった。

「さっそく僕の魅力が伴侶となる存在をひきつけたということか! 漆黒の守護者としての自分の魅力も罪なものだ! ハッハッハッハッハ!!」

 狂ったように逆神は笑う。一体どういう頭の構造をしていれば、こんなにも自分に都合よく物事を考えられるのだろうと、心底高貴は疑問に思った。そんな逆神を見て、静音は――

「……はぁ…………」

 ため息を一つついただけ。
 まるで今の狂言などどうでも良いとでも言うように、目の前の少年の事など眼中にないかのように。
 ため息を一つついただけだった。

「月館君を助けるという事は、必然的にあなたの相手もしなくてはいけないのよね。めんどうだわ」
「さぁ! 僕にその身を捧げ《太郎の子供達タロウチルドレン》を生み出し世界に漆黒の正義を――」
「特別授業を――してあげるわ」

 逆神の言葉を、静音が断ち切る。

「その制服、四之宮中学校の制服よね。特別に勉強を教えてあげるから、受験の足しにでもしておきなさい」
「なに? ……さっきから魔力を感じると思ったが、僕と戦うつもりか? そもそも僕に何を教えるというんだ。漆黒の正義というこの世の真理を習得しているこの僕に!」
「授業内容は……そうね、理不尽な現実かしらね。それをあなたに教えてあげるわ」

 あくまで無表情で、しかしどこか余裕があるように言葉を放つ静音を、高貴はポカンとしながら見ていたが、ようやく我に返って静音に叫ぶ。

「おい音無! こいつはマジでやばい! 逃げてエイルをつれて来てくれ!」
「いやよ、めんどくさいわ」
「ちょ、ちょっとあんた! そいつは本当に危険なのよ! その槍を見なさい! 丸腰で敵うわけがないから、こいつの言ったように逃げなさい!」
「動けないなら黙ってて」

 ゆっくりと、静音が逆神に向かって歩み始めた。ゆっくりと、しかしその足取りは力強い。

「ははっ! 僕と戦うつもりか? この最強の武器である《正義の槍ジャスティスジャベリン》を持つこの僕と! 僕の漆黒の正義の前にはここに転がっている無様な二人のように、敗北しか待っていないというのに! 僕の力にかかれば、こいつらのように身動き一つ取れずに吼える事しかできないのだ!」
「そう、素敵ね」

 一蹴。
 たった一言で、表情も足取りも崩さずに、静音が逆神を一蹴する。その態度、行動、言動。全てが逆神の神経を逆なでさせるのには十分だった。

「調子にのるなあっ!! 行けっ、《漆黒の弾丸ノワールビット》!!」

 ヒルドの周りを浮遊している10の弾丸。その動きが一瞬ピタリと止まり、一直線に静音に向かって飛んでいく。

「音無、逃げろ!」

 静音は歩調を崩さない。自分に向かってくる黒の弾丸に対して、微塵も恐怖を感じていないとでも言うように歩調を崩さない。しかし、歩いたまま右腕を前に伸ばした。そして――

「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《平面ウォール》」

 その右手に、緑の光が灯りだす。右手に集った光が広がっていき、静音の眼前に光の壁が一瞬で出現した。
 バシィィッ!! と凄まじい音が響き、緑の壁は漆黒の弾丸を全て受け止めた。

「エ、《エイワズ》か?」
「ルーン書いてないわよ!?」

 ヒルドの言うとおり、静音はルーンを書いてはいない。ルーン魔術はルーンを書かなければ決して発動しないのだ。
 にもかかわらず、静音の眼前には《エイワズ》のような障壁が出来ている。

「そんなへんちくりんな壁で僕の漆黒の正義を止められると思っているのかこのスカタンがあああっ!!」

 まだ攻撃は終わっていない。《漆黒の弾丸ノワールビット》は逆神の意志に従って自由に動き、目標に衝突するまでその動きを止める事はない。障壁にぶつかっていた弾丸が、いったん障壁から離れた。そして静音を取り囲むように包囲する。
 それはヒルドのときと同じだ。すなわち逃げ場を完全になくした状態での一斉射撃。

「漆黒の包囲完了!! 僕の正義にひれ伏せえええ!!」
「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《球体スフィア》」

 静音の右手が再び光り、眼前の障壁がその姿を消した。消したと同時に右手の光が再び広がり、今度は静音を中心に球体を作るように障壁が形成される。
 それに向かって黒い弾丸が雨霰のように降り注いでいく。しかし弾丸は障壁を破壊する事ができずに、その攻撃は静音にはまったく届かない。
 攻撃が防がれる。その事実に逆神が驚愕の表情を浮かべる。

「ば、バカな……僕の《漆黒の弾丸ノワールビット》を……き、貴様まさか……漆黒の――」
「そこ、どいてくれないかしら? 邪魔なのだけど」

 静音は相変わらずゆっくりと歩いている。自分の周りに障壁を展開し、その障壁に黒い弾丸が何度も当たっていると言うのに、そんなことはお構い無しとでも言うように真っ直ぐに、高貴とヒルドの元に向かって歩く。

「し、漆黒の守護者をなめるなあああっ!!」

 錯乱したように逆神が静音に向かっていく。一直線に突進して、ゲイ・ボルグを障壁に突きつけた。
 耳を劈く音とともに光がはじけるが、障壁の勢いはまったく弱くならない。

「ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス!」

 叩く、斬る、突く、刺す。ゲイ・ボルグを使ってありとあらゆる攻撃を静音にぶつけるものの、そのどれもが障壁によって阻まれてしまう。公園に響くのは、逆神の無常な叫びとゲイ・ボルグを障壁に叩きつける音のみ。
 そんな中でも、静音は相変わらず歩みを止めなかった。何度攻撃されようと、一歩一歩歩みを進めている。静音の動きが止まらないので、攻撃している逆神のほうが後ろに下がっていく。

「ジャスティス! ジャスティス! ジャスティス! ジャ、ジャスティス! この……このおおおおおっ!!」

 逆神が右手を伸ばし指を立てると、そこに黒い光が灯る。

「我が呼びかけに応えてその力を示せ。ムスペルヘイムの炎さえも焼き尽くす漆黒の焔よ、今こそ時空の狭間を越えてこの場に具現せよ! 《漆黒の焔ノワールフレイム》!」

 描かれる《ケン》のルーン。逆神の右手に黒い炎が燃える。その炎は今までより心なしか激しく燃えていた。

「はあああああっ!! 燃えろ漆黒! 轟けジャスティス! 《漆黒の焔を纏う正義の槍ノワールフレイムジャスティススピア》!」

 ゲイ・ボルグの先端に炎が灯る。逆神が上にとび、上空から静音に襲い掛かる。

「これが全ての悪をジャスティスする黒炎の槍だあああっ!! ジャスティス!!」

 真上からの攻撃。符筒はそれに対処する時は、自分も上を向いて防御や回避、または迎撃を行う。しかし、静音は逆神に見向きもしなかった。いや、歩き始めたときから、静音は逆神のことなど見ていない。彼女が見ているのは高貴とヒルドのみだ。
 なぜ攻撃されているにもかかわらず逆神を見ないのか、それは……逆神の攻撃では、この障壁を破れないという核心があるからだ。
 バシィィッ!! と嫌な音があたりに響く。黒い炎と緑の光が周囲にはじけた。逆神は真上から静音に襲い掛かっているので、障壁を突破されてしまえば静音は脳天から串刺しににされてしまうに違いない。
 それでも、相変わらず静音は逆神を見向きもしない。障壁をはったままゆっくりと高貴とヒルドの元に向かう。

「こ、この……おおおっ…………うわあぁっ!!」

 逆神が障壁に弾かれる。吹き飛ばされた逆神は数メートルほど吹き飛び、数メートルほど転がっていった。
 その隙に静音は障壁を消し去り、高貴とヒルドの元にたどり着く。

「大丈夫月館君? それとそちらの人も」
「「…………」」
「どうかしたの? なんだかポカンとしているみたいだけど」

 それはポカンともするだろう。
 いきなり現れた静音が、《神器》の持ち主相手に丸腰のまま互角以上に戦っているのだから。いや、正確には相手にしなくとも互角以上に戦えているのだ。

「お、音無? お前……《神器》持ってるのか?」
「その答えはYESね。今も使ったじゃない」
「何でここにいるのよ!? てゆーかいつからあそこにいたのよ!?」
「あなた達がここに来る前からあそこのベンチに座っていたわ」

 と言う事は高貴がビニール袋をベンチに置いた時には、静音はあそこにいたということとなる。しかし姿が見えなかったし、気配も魔力も感じなかった。

「ところでそちらのあなた。そろそろルーンの効果が切れるんじゃないかしら?」
「え?」

 静音がそう言ったのと、ヒルドの体から《ナウシズ》のルーンが消え去り、体の自由が戻ってきた。先ほどまでは効果が切れた瞬間に、逆神が再び弾丸をぶつけて《ナウシズ》をかけていたのだが、今逆神は地面に転がっており、弾丸も地面に落ちている。

「よくわかんないけど……助かったよ」
「気にしないで、借りを返しただけよ」

 借りを返してもらったというよりも、むしろ命の恩人になってもらったのだが。高貴は体を起こしながらそんなことを考えていた。

「ふっざけるなあああああああああああっ!!」

 逆神が叫びながら立ち上がる。その表情は今日見た中でも一番に錯乱しており、怒りの感情をあらわにしているのがわかる。

「貴様いきなり現れて僕の邪魔をするとはどういうことだ! なぜ僕の漆黒の正義の邪魔をする! 僕は漆黒の守護者だぞ! 偉いんだぞ! すごいんだぞ! わかっているのかああっ!!」
「そう、素敵ね」
「ぐ……がああああああああああああああああっ!!」

 逆神がゲイ・ボルグを空に掲げる。しかし先端の部分ではなく、石突の方を空に向けている。

「《漆黒の弾丸ノワールビット》!!」

 逆神が叫ぶと、石突から《漆黒の弾丸ノワールビット》が連続して空に放たれた。しかしその数が尋常ではない。

「ちょ、多すぎだろ!」
「20……いえ、最初の10発も含めれば30?」

 ヒルドの推測は正しかった。地面に転がっていた10発の弾丸も浮き上がり、逆神の周りに30の《漆黒の弾丸ノワールビット》が展開される。
 さらに今までのものとは違い、一つ一つが強く禍々しい漆黒の光を放っている。

「これがっ!! 全ての力を解放した《漆黒の弾丸ノワールビット》だ! その数30! さらに僕の漆黒の魔力を上乗せし威力もアップ! これらの弾丸が全て貴様らに襲い掛かるのだ! ヒャーッヒャッヒャッヒャ!!」
「お、おい……やばくないか?」
「かわすのは無理ね……」

 高貴とヒルドはその脅威を見た瞬間に理解した。10発でもかわす事が出来なかったにもかかわらず、30などとてもではないが回避は出来ない。
 しかし、そんな状況にもかかわらず。音無静音は、彼女だけは違った。
 まるでそんなことなどどうでも良いかのように、脅威などどこにもないとでも言うように、相手をするのが面倒だとでも言うように、彼女はため息を一つつき――

「そう、素敵ね」

 あいもかわらず、言い放った。
 プルプルと逆神の体が震え、顔が真っ赤に染まり、怒りが溢れ――

「地獄で後悔しろおおっ!! 《全漆黒開放オールガンブレイジング》!!」

 叫んだ。同時に全ての弾丸が高貴たちに向かっていく。
 そんな絶望的な状況で高貴が見たのは、自分に降り注いでくる黒い弾丸。

「……え?」

 ではなく、音無静音の右手だった。
 静音が近くに来て初めて気がついたが、静音の右手、その中指に指輪がはめられている。それは今日一緒に勉強した時にははめられていなかったもので、金色で、小さな緑の宝石が埋め込まれている指輪だった。
 その指輪から、とてつもない魔力を感じる。

「まさか――」

 静音が右手を前に伸ばす。そして、指輪に緑の光が走る。
 光が――溢れる!

「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《球体スフィア》」

 静音がその言葉を世界に放つと同時に、再び緑の障壁が、球形に具現化される。それは静音だけではなく、高貴とヒルドをも包み込む大きさだった。
 展開、そして炸裂。
 黒い弾丸、その全てが静音の障壁に襲い掛かる。一発一発が着弾するたびに、まるで爆発したかのような轟音が響き、黒い光が勢いよく弾ける。ぶつかっては離れて、またぶつかる。その単純な動作を30の弾丸はひたすらに繰り返していた。
 緑の結界。その光が黒い光とともにどんどん弾けていく。

「ははっ! これはもうあの結界を打ち破るのも時間の問題だな。奴らを動けなくしたらゆっくりととどめを刺してやろう。この漆黒の守護者に逆らった事を後悔させながら、許しを請うまでひたすらに痛めつけてやる。ヒャーヒャッヒャッヒャアッ!!」

 逆神の笑い声が、着弾の炸裂音とともに公園に響く。しかし―― 

「これ……すげーな」

 ふと、声が聞こえた。
 それは目の前に存在する結界の中から聞こえてきた声だ。ハッと逆神が結界を見る。

「全然壊れねえんだなこれ。《エイワズ》よりも硬いのか?」
「比べ物にならないわね。強化したとしてもここまでになるかどうか……ちょっとあんた、これって《神器》の力なの?」

 ヒルドの声に、面倒そうに静音が応える。

「そうよ。私の《神器》はこの指輪。名前は《天輪アイギス》よ。能力は見てのとおり、身を守る結界を作り出すわ」
「……音無バリアーって実在したんだな」

 アイギス。その言葉に高貴は聞き覚えがあった。以前エイルと真澄の三人で《神器》について調べた時に出てきた言葉だ。たしか盾や防具、身を守るものだったような気がするが、この障壁を作るのがアイギスなら、自分を守る結界を作り出すのがアイギスだというのなら、指輪でも納得できる。

「音無、お前一体どこでそれを――」
「後にしましょう。あっちが優先よ」

 ふと、結界に弾丸が突き刺さる音が止んだ。逆神が攻撃をやめたのだ。これ以上続けても無駄だという事を、逆神は認めてしまったのだ。

「な……なぜだ……なぜだあぁっ!? 僕は漆黒の守護者だ! 漆黒だ! ジャスティスだ! 最強の武器も持っているんだぞ! これを見ろ! 《正義の槍ジャスティスジャベリン》だ! この最強の力を持っているのに、なんでお前は倒れないんだ! そもそもなんでいきなりお前みたいなのがくるんだ! おかしいだろ! 理不尽だろ! おかしいいいいいいだろおおおおおおおっ!!」

 錯乱しながら、ひたすらに逆神が叫ぶ。そして思い切り静音を睨み付ける。それにたいして静音は……

「勉強になったでしょう? これが、理不尽な現実よ」

 やはり、つまらなさそうに、仕方なくといった様子で呟いた。

「どういうことだ!?」
「いきなり現れた私に、まるで相手にされない扱いを受ける。最強の武器を持っているにもかかわらず、いきなり現れた相手に手も足も出ない。さっきまで圧倒的優位に立っていたにもかかわらず、いきなり現れた私のせいで余裕をなくしている。これが現実よ。都合のいい夢ではなく理不尽な現実。テストや受験には出ないけれど、人生には沢山出るから覚えておいたほうが良いわ」

 淡々と言葉を離す静音に、逆神はショックを受けた顔になる。
 静音は戦っていたのではない。逆神に教えていたのだ。いや、見せ付けていたのだ。都合のいい夢ではなく、理不尽な今の現実を。

「音無……お前、本当に教えるのうまいな」
「あたしより、頭いいかもしれないわね」

 脱帽と言った様子の二人の言葉に、静音が振り向いて言葉を紡いだ。

「まだ勉強は終わってないわよ。せっかくだから夢から覚まさせてあげましょう」



[35117]
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/08 05:26
「う……うあ……ああ……」

 逆神は呆然としたまま動けない。
 静音に教えられた、否、突きつけられた理不尽な現実。今までずっと都合のいい妄想に浸っていた少年は、理不尽な現実を前にして一歩も動けず、何をすることも出来ない
 しかしそれは高貴たちも同じだ。
 静音の張った結界の周りには、いまだに魔力の通った弾丸が包囲しており、結界を解除したならばすぐにでも襲ってくるだろう。30もの弾丸の回避は不可能の為、結界を張ったまま高貴たちも動けなかった。

「なぁ、どうやって攻める?」
「そうね……ねぇあなた、さっきこの結界を纏ったまま歩いたわよね? だったらあいつに近づいて、結界を解除して攻撃っていうのはどうかしら」

 ヒルドの質問に、静音は一瞬だけヒルドのほうを向いて、またもや視線を前に戻して答える。

「無理ね。このまま移動は出来るけど、解除した瞬間に弾丸が襲ってくるわ。どちらが速いか試す価値はあるかもしれないけど、たぶんむこうのほうが速いわね」
「あー……たしかにそうかもなぁ。でもそれじゃあ攻めようがなくないか?」

 結界の中はほぼ安全とはいえ、このままでは逆神に攻撃する事ができない。《神器》を奪う事もできない。どうすればいいのか考えている高貴とヒルドの耳に――

「クク……クックック……」

 聞こえてきたのは、不気味な笑い声。

「ヒャーッヒャッヒャッヒャアッ!! わかったぞ! これは試練だ! 最後の試練だ!!」

 声の主は、もちろん逆神正義。狂ったように笑う彼の表情からは、さっきまでの戸惑いの気配はなく、笑い声の示すように笑っていた。
 本当に、狂ったように彼は笑う。

「ここでお前たちを倒して、僕は本当の漆黒の正義を手に入れるのだ! 僕が漆黒の守護者として新たな段階に進むための試練! ならば僕が負けるわけがない! なぜならば僕の名前は逆神正義! 神に逆らう事となっても漆黒の正義を貫くものだ! だから――」

 逆神がゲイ・ボルグを頭上で振り回す。静音の結界を取り囲むように飛んでいた黒の弾丸が、一斉に逆神の周りに集いだした。

「ここからチョ~~~~~~~漆黒技でキサマラをかっこよく倒せば良いだけなのだあああああああっ!!」

 ゲイ・ボルグに漆黒の光が灯る。その切っ先に黒い弾丸が全て集まっていく。

「お、おい。なんか知らないけどやばいんじゃないかあれ?」
「大丈夫よ。この結界すごそうだし、あんな攻撃――」
「無理ね」
「「え?」」

 ヒルドの言葉を静音が遮る。ポカンとした顔になった高貴とヒルドにたいして、静音は表情を変えずに淡々と語りだす。

「私の今の結界では、あの攻撃を受け止める事はできないわ」
「……マジかよ!? 音無バリアーはエイル以外に壊せないんじゃないのかよ!?」
「知らないわよそんな設定」

 なに言ってるのあなた? とでも続けて言われそうな感じだ。

「回避も無理ねこの結界が解除された瞬間に、あの中二病はきっと弾丸を飛ばしてくるわ」
「いや……打つ手無くね?」
「打つ手ならあるじゃない。すごく簡単な打つ手が」

 再び高貴とヒルドの視線が静音に集まる。

「簡単な事よ。こちらもそれ相応の攻撃で、あの攻撃を受け止めればいいのよ」
「……あ、確かに。でも俺クラウ・ソラス持ってないんだけど」

 高貴のクラウ・ソラスは、先ほど逆神に言われて捨てたきりだ。結界の外にあるため取りにもいけない。

「ちなみに、私は攻撃は苦手よ」
「となると……」

 高貴と静音の視線がヒルドに向かう。

「……わかったわよ。やればいいんでしょやれば」

 口調は嫌そうだったが、ヒルドの表情はどことなくうれしそうだ。一度レーヴァテインで素振りをすると、静音の隣に並ぶ。

「さっきは避けたり防いだりばかりで全然戦えなかったから、こっちはストレス溜まってるのよ。個人的にあいつはムカつくし、思う存分憂さ晴らしさせて貰うわ」
「……そういやお前、今回役に立ってねーな」
「うるっさいわね! とにかくやるわよレーヴァテイン!!」

 そのヒルドの声に応えるかのように、レーヴァテインに炎が灯る。
 高まっていく二つの魔力。炎の剣《炎剣レーヴァテイン》と、漆黒の槍《銃槍ゲイ・ボルグ》。

「ははははははっ!! 貴様のそのようなちんけな炎で僕の漆黒を打ち破るつもりか! 僕の漆黒は正義の漆黒! 漆黒は負けない! 漆黒漆黒!」
「うるっさいわねこの中二病。あんたのお遊びに付き合ってあげるから、さっさとしなさいよ」
「ほざいていろ! そして見ろ! これが漆黒の守護者の最大最強の漆黒技だ!!」

 逆神がゲイ・ボルグを天に掲げる。黒い弾丸が先端に集まっていき、徐々にその形を変えていった。

「我が漆黒の双眼が見据える深遠アビスの彼方より来たれ。今こそ永遠の混沌カオスに捕われし哀れなる存在を葬り去る為に、その全てのフォースを我が手に集めよ。気高く美しきその至高の槍ジャベリンは、漆黒の! 漆黒の! 漆黒の! すうぃいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃっっっくぉぉぉおおおおおおおくぬぅぅぅおおおおおおおおおお!! ジャァアアアアアアアアアアアアストゥィィィィィィィィイイイイイイスッ!!」

 漆黒の弾丸が集い、形を変え、ゲイ・ボルグの先端に巨大な漆黒の鏃を作り出した。30の弾丸を全て一つにしたそれは、先ほどまでの攻撃とは比べ物にならない威力を秘めていると想像するのは難しくない。

「……おい、ヒルド。あんなのに負けたら恥ずかしすぎて生きていけないんじゃねーか?」
「……わかってるわよ。てゆーか安心してなさい。単純な真っ向勝負の力比べで、あたしがあんなのに負けるわけ無いわ」
「そっか……まぁ、それもそうだな」

 クスリとヒルドに笑いかける高貴につられてヒルドも笑う。ヒルドがレーヴァテインを振りかぶった。その視線が真っ直ぐに逆神と交差する。

「結界を消して」

 静音のほうを見ずにそう一言。静音はそれにしたがってアイギスの結界を消し去った。

「さぁ、妄想から覚める時間よ中二病ぼうや。現実の厳しさを教えてあげるわ!」
「ほざけえええええっ!! 僕は漆黒の守護者だあああああああああああっ!!」

 逆神が右手に持ったゲイ・ボルグを振りかぶる。そして――

「くらええええええええっ!! これが僕の漆黒のおおっ!!ファイナルジャスティスエターナルインフィニティアビスオブカオスシッコクジャスティスフォースシャイニングクルセイドイリュージョンジャジャジャジャーーーーーーーーーーーーーーーーースティーーーーーーーーーーーーーーーーーーースッ!!!!」

 ゲイ・ボルグを投げた。
 それは一筋の黒い閃光のように、放たれた矢のように、一直線にヒルドに向かっていく。先端には漆黒の光が迸り、地面をえぐり、傷跡を残しながら進んでいく。

「《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》!!」

 それに対するは真紅の太陽。レーヴァテインから放たれた太陽は、ゲイ・ボルグと同じように地面をえぐり、焦げ痕を残しながら進んでいく。かつて高貴とヒルドに放ったそれよりもはるかに強力な太陽が、漆黒の槍と衝突した。
 バギャアアアッ!! と耳を劈く轟音が響き。漆黒の槍と真紅の太陽は互いの身を削りあう。黒い粒子が、真紅の炎が、互いにせめぎあって周囲に弾けていく。
 力は完全に互角――ではない。本の僅かではあるが、逆神のゲイ・ボルグが押している。真紅の太陽が押されている。
 黒い魔力以上に、炎の弾ける量のほうが圧倒的に多い。真紅の太陽はその姿を、原型をどんどん失っていく。

「うおおおおおおおおおおおおおおっ!! 燃え上がれ僕のしっこくうううううううううううっ!! ジュウウウウアアアアアアアアアアアストゥウウウウイイイイイイイイイイッッッッッス!!!」

 逆神の叫びが終わるのと、漆黒の槍が真紅の太陽を貫くのはまったく同時のタイミングだった。自らをはばむものを消し去った漆黒の槍が、再びヒルド目掛けて飛んでいく。
 勝った。逆神は自分の勝利を確信した。
 やはり自分は漆黒の守護者なのだ。これは乗り越えるべき試練で、自分ならば乗り越えられて当然の事なのだ。悪いのはあいつらで正しいのは自分。漆黒の正義の名の元に自分は弾愛を行ったに過ぎない。
 やはり僕は選ばれた存在だ!
 そう勝利を確信した逆神の目に入ってきたのは、勝負に終焉を告げる漆黒の槍。
 その先、ゲイ・ボルグが目標としているターゲットのヴァルキリー。ヒルド・スケグルの口元。この絶望的な状況の中で、口元を笑顔にしている少女の姿。そして――

「もう、十分に楽しめたわよね?」

 ヒルドのそんな一言が、逆神の耳を、胸を、そして心を撃ち貫く。
 レーヴァテインの燃え盛る刃、それがゲイ・ボルグに当たった瞬間――真紅の炎は漆黒の槍を勢いを全て消し去った。あっけなく、本当にあっけなく力を失ったゲイ・ボルグは、地面に乾いた音を立てて転がる。

「………………ふひ?」

 逆神の口から意味不明の言葉が漏れる。ポカンとした表情でその目の前の光景を――現実を見ている。

「な、なにをした? い、今確かに僕は、最大の漆黒技を放ったはずだ。なのにどうしてそんな……お、お前の必殺技を打ち破ったのに、どうして剣でたたいただけで、僕の漆黒技が……」
「見てわからないの? 単純に、本当に単純に、あたしの力があんたの力を上回っていただけよ。《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》は手加減をして放ったわ。これでわかったでしょ?」
「な、なにをだ!?」

 ヒルドは悠然と歩きながら、おちているゲイ・ボルグの元に向かいながら言葉を続けた。

「つまり、あんたの最大の技なんてものは、あたしにとって技でもなんでもない、ただ魔力と炎を高めただけの一撃に負ける程度のものだったって事よ」
「そ、そんな……」

 ヒルドが地面に落ちているゲイ・ボルグを拾い上げた。

「これで《銃槍ゲイ・ボルグ》の回収は完了ね。はぁ、無駄に苦労したわ」
「か、返せ! それは僕の漆黒の――」
「まだわからないの? もう、あんたは負けてるのよ」

 その言葉に、逆神の中で何かが壊れた。
 負けた? 漆黒の守護者であるこの自分が? そんなことはありえるはずがない。ありえるはずがないのに――

「ようやく、妄想から覚めたかよ」

 逆神の背後から声が聞こえてくる。ハッとして振り返ると、そこにはいつの間にか高貴がたっていた。その手にはクラウ・ソラスも握られている。逆神がヒルドに気を取られている間に、高貴はクラウ・ソラスを拾って逆神の背後まで移動したのだ。

「し、しまっ――」
「おらあぁっ!!」

 逆神が動くよりも早く、高貴の右手が動いた。逆神の顔面目掛けて拳を繰り出し、鈍い音を立てて左頬に突き刺さる。殴られた逆神は数メートルほど転がってしまう。
 地面に座りながらなんとか視線を上げた逆神の前に、高貴がクラウ・ソラスの光刃を展開させて立ちふさがっていた。

「おはよう鈴木太郎。つごうのいい妄想から目覚めた気分はどうだ? 随分とぐっすり寝てたみたいだけど」

 逆神正義は……鈴木太郎は、何も答える事はできない。

「寝起きなんて最高に決まってるじゃない。何せこのあたしがじきじきに起こしてあげたんだから。彼女もいない童貞には過ぎた幸せよ」

 鈴木の背後からヒルドが歩いてくる。右手にはレーヴァテイン、左手には鈴木の持っていたゲイ・ボルグを持ちながら。
 そして、高貴に並んで鈴木の正面に立つ。

「お、お、お、お前達は……な、なにをしたのか……わかってるのか?」

 心のどこかで敗北を理解したのか、怯えるように鈴木が声を出す

「ぼ、僕に何かあったら、ほら、あれだ。この世界に危機が迫った時に、すごく困るぞ。何せ僕は漆黒の守護者だ。わかったら早くそれを返せ」
「はぁ、まだ夢見てるらしいな」
「ゲイ・ボルグは回収したし、どうでもいいわよ」
「そうかもな、さっさと《神器》を全部集めて、下の平穏な生活にもどりたいよ俺は」
「きっ、貴様はバカか!?」

 突然鈴木が叫ぶ。

「お前はわかっているのか? 僕たちは選ばれた存在なんだぞ! この世界の全ての人間を超える力を手に入れた存在なんだ! なのに貴様はその力をなくすために戦っている! わかっているだろう! お前はどうしてこの素晴らしい力に執着心がないんだ!? この力があれば、生きていく上で不便な事など何もない、常に優位な状況に立てるというのに、貴様はバカか!」

 高貴を真っ直ぐににらめつけながら、鈴木が狂ったように叫ぶ。いや、自分の本心をぶつけた。
 確かに高貴のしている《神器》探しは、最終的に全ての《神器》を見つけた場合、その全てをヴァルハラに返すことになり、いつかは《神器》を失ってしまう事を意味している。
 鈴木の言った様に、《神器》の力は持っていて損はない。人よりも優れた身体能力で、スポーツでは花形になれるだろうし、犯罪に使用したとしてもかなりの力になる。
 にもかかわらず、この力をなくすために戦っている高貴を、鈴木は理解できないのだ。
 疑問を投げつけられた高貴は、「はぁ……」とため息を一つついた。

「あのさぁ、俺はお前と違って、しっかりと現実を見て生きてるんだよ」
「な、なに?」
「つまり俺は、偶然手に入れた力なんかを当てにして、人生設計するほど夢見がちじゃないって事だ。お前みたいに常に妄想に浸ってられねーんだ。だって俺は現実でしか生きられないからな。つーか、まだ寝ぼけてるんなら――さっさと妄想から目を覚ませ」
「まぁ、今からあたしがもう一度夢から覚まさせてあげるから安心しなさい」

 着火。ヒルドのレーヴァテインに炎が灯った。

「ま、俺も協力してやるよ」

 発光。クラウ・ソラスから光があふれ出す。光の剣と炎の剣。その二つの剣を、高貴とヒルドは振りかぶる。

「ま、待て! 僕はもう戦えないんだぞ! なのにそんな敗者に鞭打つようなまねをするのか! それがお前達の正義か!?」
「まだ寝ぼけてんのか? 理不尽な現実って言ったろ」
「アニメや漫画みたいにかっこよく負けられると思わないことね」

 炎が、光が、いっそう勢いを増していく。

「さっきはよくも好き勝手殴ってくれたなこの野郎」
「目覚まし時計にしてはちょっと激しいけど、あんたにはこれくらいが調度いいわね」
「そういえば俺さぁ、一回中二病に言ってみたかったことがあったんだよな」
「奇遇ね、あたしもよ」
「ま、待て待て待て待て! わかった! 今日から君達が漆黒の守護者を名乗り、この世界に平和を――」

 もはや聞く耳は持っていない。高貴とヒルドは同時に剣を振り下ろし、そして言葉を重ねて、このふざけた戦いに幕を下ろした。

「「中二病乙!!」」



[35117] 特別でいたい
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/12 16:57
「一体なにを考えているんだ! 君達はバカなのか!」
「どうしてわたしとエイルにすぐに連絡しなかったの!」

 死闘と呼べる戦いが終わった四之宮公園。そこに響いている音は、剣戟でも魔術の音でもなく、二人の少女の怒鳴り声だった。
 ヒルドはすぐにエイルに《エオー》で連絡をいれ、真澄と一緒に公園に来てもらったのだが、公園の様子、そして鈴木に殴られてボロボロになってしまった高貴のさまを見て、呆然とした表情を浮かべたのだ。
 そして、我に返った二人は、すぐさま高貴とヒルドの二人を正座させ説教を開始した。

「いえ……その……お、俺達だけで、大丈夫かなぁと思いました」
「大丈夫ではないだろう! そんなにボロボロになっているではないか! そもそもヒルド! お前はどうしてもっと早く連絡をよこさなかった!」
「めんどかったからよ」
「それで危険な目にあったらダメでしょ!」

 二人の怒りはまったく収まる気配はない。いい加減に嫌になってきたのか、ヒルドがため息を一つ漏らす。

「もういいじゃない。《神器》も無事に回収できたし、あたしもストレス発散できたし」
「そういう問題ではない! そもそも――」
「え、エイル! こう言ったらなんだけど、俺たちかなり疲れてるんだよ! だから説教はまた今度にしてくれ」

 というよりも勘弁してほしい。かなり疲れているのは本当だが、望んで説教などされたくはない。

「も、もしかして君はどこかケガをしたのか? ど、どこをケガしたんだ? ここか? ここか? それともここか?」
「怪我してない! そんなとこケガしてないから、そんなにペタペタ体に触ってこないでくれ!」
「エイル! そそそ、そんなことしたらダメだよ! こういうときはわたしが触って確かめるから――」
「どういう理屈だ!」
「はぁ……元気でいいわね、あなた達」

 騒いでいる高貴たちを見て、もう一度ヒルドがため息をついた。自分が見られていないことを理解したヒルドは、正座を解いて足を崩す。

「まぁ……言いたい事は沢山あるが、今日はこのくらいにしておいてやろう。君達も本当に疲れているようだしな」
「ふぅ、助かった」
「それにしても鈴木君がいきなり暴れだすなんてね。流石に対処の仕様がないよ」

 真澄が視線をさげる。高貴が正座しているすぐ隣には、高貴とヒルドの目覚まし時計攻撃を受けた鈴木が伸びており、仰向けに倒れていた。
 人格的に問題がある上に、普通に戦ってもかなり手ごわい相手だった。正直な所、静音がいなければ負けていただろう。まったくもって、本当にやっかいな相手だった。

「俺決めた。これから先中二病には絶対に関わらない。出会った瞬間に逃げる」
「同感ね。でもこいつは、中二病というよりも、人として狂ってたようにも思えるわ」
「ふむ、君達の話によると、太郎はいじめにあっており、その現実逃避の為に中二病になったという事か?」
「いや……もしかして元々こういう奴なんじゃねーのか? 中二病だから目を付けられていじめられたんだと思う。気の毒だと思うけど、俺にはいつまでも妄想ゆめに浸ってる奴なんて理解できない。……妄想ゆめなんて、いつかは絶対覚めるんだからさ」

 そう言う高貴の表情が、いささか暗いものになったのをエイルは見逃さなかった。一体どうしたのかと聞いてみようとしたその時、

「……でも、わたしは少しわかる気がする。鈴木君みたいな人の気持ち」

 真澄が独り言のようにそう言った。それは誰かに言った言葉なのか、それとも無意識に零れ落ちた言葉なのかはわからないが、反応したのは高貴だ。

「真澄は中二病じゃないだろ?」
「そうだけど。中二病って言うか……そう、”特別”でいたいって言う気持ちかな。初めて話した後、ちょっと考えてみたんだ」
「ふむ、その意見を聞いてみたいな」

 エイルの興味もそちらに移る。

「うん。世界には沢山の人がいるよね。四之宮でも都心に行けば人ごみを見かけるし、もっと都会に行けばさらに沢山の人がいる。その人たちは自分にとって他人で、自分の人生にとってその他大勢の人でしかないでしょ。でもさ、ときどき自分も同じなんだなって思うの」
「同じ?」
「自分だって誰かにとってはその他大勢の内の一人で、世界に沢山いる平凡な人間の一人でしかないでしょ。その他大勢、見てすらもらえない人間だって思い込んじゃうんじゃないかなって思ったんだ」

 見てすらもらえない人間。そこにいるはずなのに、存在を認識してもらえない人間。
 それはドラマに出てくる名も無い役割であり。
 学園漫画に出てくる主人公と同じクラスの生徒であり。
 そして、人ごみの中を歩く通行人でもある。

「だから、自分は特別なんだって、その他大勢じゃなくてちゃんとした名前のある意思を持った人間なんだって、そう思って特別な人間だなんて思い込んじゃうんじゃないかな」
「ふむ、そう思い込んで……太郎のようになるというわけか」
「わたしの予想だからわかんないよ。単純にアニメや漫画に憧れたり、イジメの現実逃避かもしれないし。でももしかしたら、もしかしたらだよ? この子も心の中で叫んでたのかも。自分はその他大勢じゃない。自分はちゃんと――ここにいるんだよって。特別だって思っていないと、その他大勢の他人の中に、自分が溶けていっちゃいそうで怖かったんじゃないかなって。そう考えたの」

 三人は黙って真澄の話を聞いていた。もしも真澄の言ったとおりならば、鈴木は誰かに自分を見てほしかったのかもしれない。それは人として当然の考えなのかもしれない。

「そうなのかもしれないな。そして彼は《神器》を手に入れた。ずっと夢に思っていたことが現実となってしまったのか」
「だからって夢に浸っててもどうにもならないだろ。夢なんていつか必ず覚める。どんなに嫌でも、所詮人間は現実でしか生きられないんだよ」

 だけどそれでも――それでも高貴は、鈴木の考えを理解できなかった。それは高貴が現実でしか生きられないという考えを持ってるからかもしれないし、平穏や平凡を強く望む高貴は、その他大勢に溶けても良いと心のどこかで思っているのかもしれない。

「そうだな……現実と向き合わなければな」
「鈴木君はどうなるの?」
「とりあえずゲイ・ボルグと一緒にヴァルハラに強制送還ね。その後《神器》や魔術に関する記憶を完全に消去して、今までどおりの人生を送ってもらうわ。まぁそこの所はネコがうまくやるだろうし、あいつが帰って来るまで見張ってるわよ」

 ネコはエイルたちと一緒に来たのだが、公園から逃げ出していった二人の不良生徒の記憶を消す為に、あの二人を探しに行っている。どうやって探す蚊などはわからないが、すぐに戻ると言っていたのですぐだろう。

「ふむ、では太郎についてはもういいだろう。次の問題に移ろうか」

 4人の視線が公園のベンチに向かう。そこには周囲の状況等何も気にしていないかのように、静音がベンチに座って本を読んでいた。
 高貴とヒルドが待っていてほしいと頼んだら、それを了承してくれたのだが、自分はまったく関係ないとでも言うように、見えない音無バリアーを張っている。

「静音、まさか君まで《神器》の持ち主だったとは驚いたよ。高貴とヒルドを助けてくれてありがとう」

 そんなことを関係無しに話しかけるのは、やはりエイルしかいない。

「あ、わたしからも。ありがとう音無さん」

 真澄もエイルに続いてお礼を言った。そこでようやく静音は本から目を離し、座ったまま高貴たちに視線を向ける。

「別に、私は月館君に借りを返しただけよ。言っておくけどこれで貸しは帳消しね」
「あー、本当にありがとな音無。おかげで命拾いしたよ」

 思ってみれば、貸しが二つだったから静音に助けてもらえたわけであり、もしも《神器》を調べに図書室に行った時、エイルが静音に話しかけなかった場合は、貸しは一つしかなかったという事となる。
 ……ゾッとする話だ。

「もっとも……よけいな事をしたのかもしれないけれど」
「…………」

 静音の言ったその一言は、高貴以外の誰にも聞こえる事はなかった。
 そして、高貴も聞こえない事にした。

「ところで静音、君の持つ《神器》のことなのだが……」
「話すことは何もないわ」

 そう言うなり、鈴音は立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待って音無さん!」
「私達は《神器》を集めているんだ! 君の持つその《神器》も回収しなければならない。元々それは――」
「他の世界からの産物でしょう。アイギスから聞いたわ」
「そこまでわかってるなら話が早いわね。それはこの世界にはあってはいけないものよ。だからあたしとエイルが、元の世界に持ち帰らなければいけない。もしも拒否するなら――力づくでいくわよ」

 ヒルドがレーヴァテインを静音に向けた。しかし静音は表情一つ変えることは無い。変わりに焦ったような表情になったエイルと真澄が、慌ててヒルドをたしなめる。

「ま、待てヒルド。いきなり静音に襲い掛かるな」
「そうだよヒルド」
「アイギスは渡せないわ。もしも奪うというのなら、私も戦わざるをえないわね」

 静音の指にはめられているアイギスが光を放つ。二人は一触即発と言った様子だ。このままではまずいと高貴も判断し、ヒルドに話しかける。

「待てよヒルド、今日はもうやめにしよう」
「何言ってんのよ月館。《神器》が目の前にあるって言うのに――」
「俺達はもう疲れてる。それに音無に助けてもらったのは事実だ。だから今日はやめにしとこう」
「う……それは……」

 ヒルドの顔に迷いが映る。もう一押しだ。

「音無は俺達のクラスメイトだ。いつでも会えるし、別に急ぐ事でもないだろ。エイルと真澄もいいよな?」
「ふむ……そう……だな。話が出来ない相手でもあるまい」
「異議なし」
「……はぁ、わかったわよ。今日助けてもらったのは事実だし、見逃してあげるわ」

 ようやくヒルドがレーヴァテインをさげ、そして消し去った。ホッと一息をつく高貴をよそに、静音はベンチにおいてあった学生鞄を手に、背を向ける。

「……一つだけ、聞いてもいいかしらね」

 しかし、途中で振り返ると、言葉を投げかけてくる。

「エルルーンさんと、そちらのあなた。その二人はアイギスから聞いた、《神器》を集めている異世界の存在だという事はなんとなくわかるわ。でも月館君と弓塚さんは、そうは見えない。実際私が始めてエルルーンさんを見たときは、強い魔力を感じたけど、そっちの二人からはまったく魔力を感じなかったもの。一体どうして二人はエルルーンさんを手伝っているの?」

 静音が高貴と真澄を初めて見たとき。それは静音が転校して来たあの日だ。高貴はエイルと出会っていたが、まだ《神器》を持ち主ではなかった為、魔力を感じないのは当然だ。それは真澄もあてはまる。しかしそれに気がついたということは、静音は転校して来たあの日には、すでに《神器》の持ち主だったという事だろう。

「わたしは……まぁ、高貴もエイルも友達だから手伝いたかったの。そしたらアルテミスがわたしに力を貸してくれたんだ」
「俺は……まぁなんとなく流れでかなぁ。夜の学校に行って、ヒルドに襲われて、クラウ・ソラスを使えるようになるために契約の印エインフェリアルをして――」
「なんですって?」

 初めて、今日初めて静音の顔に驚きの色が浮かんだ。それは微かなものだったが、めったに表情を変えない静音のことを考えると、相当な事だ。

「……あなた、それを受け入れたの?」
「え? ああ、うん。だって俺はクラウ・ソラスに選ばれたわけじゃなかったから、契約の印エインフェリアルで魔術師になって対話する必要があったんだ」
「……そう、わかったわ……それじゃ、今度こそさよなら」

 もう一度静音が高貴たちに背を向ける。

「さよなら静音、また明日学校で会おう」

 エイルがその背中に声をかけるものの、静音は今度は振り返ることなく歩いていき、夜の闇で見えなくなった。

「……はぁ、それにしても体じゅういてーな。やっぱもう少し殴っとこうかな」
「や、やめてあげなよ。でも大丈夫?」
「ネコが戻ってきたら、《ウル》のルーンをかけてもらうといい。回復力を高める治療のルーンだ。少しは楽になるだろう」

 それは助かる。このままだとテスト勉強もままならない。

「ネコが帰ってきたら俺達もさっさと帰ろう。いい加減に腹減ったよ」
「ふむ、そういえば夕飯をまだ食べていなかったな。買い物は終わったのか?」
「終わってるわ。真澄、もしも夕飯がまだなら一緒に食べる? 《神器》が見つかったお祝いに、あたしがご馳走作ってあげるわ」
「本当? じゃあ……お言葉に甘えちゃおうかな」

 なにが食べたいかなどを話し始めるエイルたちを、高貴はベンチに腰掛けて見ていた。鈴木に殴られた体はまだ結構痛い。それに今までで一番疲れる戦いだった。
 今日はもうゆっくりと休もう。今は静音が《神器》の持ち主だという事も、そして聞こえなかった事にしたあの言葉の意味も全て忘れたい。

 ――なるほど、やはり貴様はあらゆる意味で破綻しているようだな。やはり平穏に生きるなどはできるはずが無いだろう。

 頭の中に聞こえてきた気がするそんな声も、今は聞かなかった事にして、高貴はただ夜空を眺めていた。



[35117] テスト結果。そしておっぱいの行方
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/16 05:21
「どうして私の想いは空回りばかりするんだろうな……」

 四之宮高校に登校して、朝のホームルーム前。エイルは憂鬱そうな表情でポツリと呟いた。見ようによってはそれは、まるで恋わずらいにでも陥っている少女のようにも見えるが、当然エイルの悩みは恋ではない。

「高貴、どうして私のこの気持ちは実らないのだろう?」
「バカだからだろ」

 即答する高貴に、エイルが机に突っ伏す。
 鈴木との戦いから三日がたった。つまり今日は、四之宮高校の夏休み前の実力テストの日だ。今日と明日で全てのテストが終わり、土日をはさんで月曜日に答案が返される。
 高貴は幸い大きなケガなどはなく、ネコの《ウル》のルーンで一日ほどで完治した為、テスト勉強にはそれほど影響が無かった。
 何より静音があの日の戦いの事など無かったかのように普通に振舞っており、高貴のテスト勉強もこれまでどおり見てくれていたのだ。借りを返すためなのか、はたまた別の理由があっての事なのかは判断できなかったが、高貴にとってはありがたい話だ。
 今も隣で教科書を開いている。

「エイル……まだ始まってないんだから、そんなに気を落とさないでよ」
「……私はこう思う。若者達の夢を無残に踏みにじろうとする悪意が、数学というものにはこめられているんだ。この拷問のせいで、一体どれほどの未来ある若者が夢をあきらめる事となったのだろう。私は数学を許せそうに無い」
「お前がバカなだけだっての。その数学のおかげで点数稼げる奴も世の中にはいるんだからさ」

 そうエイルに返すと、エイルは恨めしそうな顔で高貴をにらめつける。

「ずいぶんと……君……冷たいじゃないか。君はいいだろうさ、静音に手取り足取り教えてもらえて楽しかっただろうさ」
「お前うるさいから帰れって言われてたろ」
「ま、まぁ頑張ろうよ。ほら、俊樹も――」

 真澄が隣に座っている俊樹を見ると、彼は凄まじい形相で教科書やテスト範囲のプリントを見ていた。まさに鬼気迫るといった様子であり、真澄の声が届いたのかも定かではない。

「俊樹はやる気に満ち溢れているな」
「珍しいね。いつもは平均点行けば満足って言って、ちょこっとやるくらいなのに」
「……そうだな」

 まさか詩織の胸を揉む為にがんばっているなど、エイルと真澄に言える訳がない。それは高貴も同じこと。今回のテストで全て95点以上取れば、詩織の胸を触ることが出来ると思うと、自然とやる気が満ちてくる。
 というよりもそのために静音のお願いしてまで頑張ってきたのだから。

「はぁ……私はなんてダメなヴァル……女なんだ……これでは夏休みに一人だけ補習を受けなければいけない」

 にもかかわらず、隣のゾンビのようなヴァルキリーを見ると、そのやる気がどんどんと下がっていく。気持ちはわからないでもないが、いいかげんにしてほしい。

「エイル、いい加減に腹くくれよ。勉強はしたけど、出来なかったんなら仕方ないだろ」
「そうは言っても、夏休みに私一人だけ補習だぞ? みんなが楽しく遊んでいる時に、私だけ拷問を受けなければいけないとは悲しすぎる」

 《神器》はどうした《神器》は? こいつ絶対に人選ミスだろ。

「ふふ、笑うと良いさ。この憐れなヴァルキリーを。どうせ私は勉強が好きなのにテストでは万年赤点のヴァルキリーだよ」
「訂正する元気も無いみたい……」
「そんなに補習が嫌かよ? まぁ、俺も嫌だけどさ。お前勉強自体は好きなんだろ?」
「ふむ、確かに好きだが、数学の補習もあるからな。それに一人で補習だなんて寂しいじゃないか。せめて誰かと一緒なら――」

 その言葉が最後まで言われる前に、教室の前のドアがガラガラと音を立てて開いた。

「よーし、席に着け。これから実力テストを始めるぞ」

 担任が中に入ってきて、生徒達が急いで席に着く。

「エイル、頑張ってね」
「はは……補習……補習か……」
「…………はぁ」

 思わずため息がこぼれた。まったくなんて情けない顔をしたヴァルキリーだ。しかし気にしている余裕は無い。全教科95点以上取らなければいけないのだから。
 にもかかわらず、エイルの沈んだ表情が頭から離れない。もはや彼女は補習から逃げられないのだから気にしても仕方がないというのに。

「はい、高貴」
「……あ、うん」

 前の席の真澄からテスト用紙が渡される。一時間目は現代文だ。
 集中……集中……集中……出来そうにない。やはりエイルの事が気にかかる。
 ……ったく、しょうがねーな。本当にお前は俺の疫病神だよ。

「それでは、始め」

 担任の声が教室に響き、実力テストが始まった。



 テストが終わって月曜日。
 四之宮高校のテストが終わり、そして答案用紙が返された。その結果はというと……

「真澄、君はどうだった?」
「聞いてよエイル! わたしこんなにいい点数取れたの初めて。全部平均点以上! これもヒルドのおかげだよ!」

 真澄の結果は中々のようだ。二人の視線が隣にいる俊樹に向かう。

「俊樹は何点?」
「ふむ、俊樹はだいぶ頑張っていたから、私も気になるな」
「……これ」

 俊樹が二人に答案を見せてくる。それを見た瞬間に、二人が唖然とした表情になった。

「こ、これ! すごいじゃん!」
「……確かに、自慢してもいいな」

 俊樹の答案はほとんどが満点に近いものだった。98点や97点など、あと少しで満点だったものなども沢山ある。間違いなく学年全体でも一桁台の順位に入る点数だろう。

「……で、なんでそんなに残念そうなの? マジですごいけど」
「……数学……94点。全教科95点以上じゃないと、詩織さんのおっぱい触れない」
「……なに?」
「だから、全教科95点以上で、詩織さんが胸揉ませてくれるって言ったんだ。だから頑張ってたのに……ちっくしょおおおお!! 数学のせいだ! なんで数学はいつもいつも若者の夢を奪い去っていくんだよおおおおっ!!」

 無念そうに涙を流して悔しがる俊樹をよそに、エイルと真澄は彼に冷たい視線を送っていた。

「で、エイルは――」
「聞かないでくれ真澄……」
「……ご、ごめんね」

 その一言と、エイルの表情だけで、真澄は全てを理解した。
 一方高貴はと言うと、先ほどからテストの答案を一人で眺めている。エイルたちとの会話にも参加することなく、全てのテスト用紙を確認していた。
 ふと視線を感じると、静音がこちらを見ている。

「テストの結果、聞いてもいい?」

 静音のほうから高貴に話しかけてくるなど初めてのことだった。おそらく家庭教師をした手前、高貴のテスト結果が気になるのだろう。
 世話になった手前、キチンと話しておくのが義務か。
 そう判断した高貴は、クスリと笑いながら、テスト用紙を静音見せる。

「…………え?」
「高貴、君は何点だったんだ?」

 静音が驚いたのと、エイルが声をかけてきたのは同時だった。高貴はまだ驚きの表情を隠せない静音のほうに向けていたテスト用紙を、エイルのほうに向けた。



「さて、今日はバイトもないし、ゆっくりすっかな」

 下校。
 高貴はエイルと真澄と一緒に寮に下校した。今日はマイペースのバイトも無く、この前《神器》を見つけてひと段落着いたところなので、部屋でゆっくりしようと思って、とりあえず彼はソファーに座る。ヒルドは買い物でも行ってるだろうし、ネコはブラブラしているのだろう。
 一緒に帰ってきたエイルは、いつものようにベットに座ることなく、ジッと高貴を見下ろしていた。

「どうしたエイル?」

 言葉を投げかけると、エイルは不服そうに言葉を返す。

「……それはこちらの台詞だ。君、あのテストの結果は一体どうしたんだ?」
「どうしたって、見たまんまだろ」
「だから信じられないんだ。君のテストは全て赤点だったじゃないか」

 そう、高貴のテストの結果は散々なものだった。普段ならば全教科平均点以上。今回の目標は全教科95点以上。しかし結果は、全教科平均点以下。それどころか補習の対象となる赤点だったのだ。

「真澄も俊樹も驚いていた。それに静音もだ。君も俊樹と同じくやる気に満ちていたじゃないか。なのに一体どうしたんだ?」
「ほら……あれだよ。勉強しすぎて、一周して成績悪くなったんだよ。今度からは程々にしておく」
「……もしかして、私のせいか?」

 高貴の表情が僅かに変わったのを、エイルは見逃さなかった。

「テスト前に私は、ひとりで補習を受けたくないと言ってしまった。まさか君はそれを気にして、わざと全ての教科を赤点にしたのか?」
「……そんなわけねーだろ。どんだけお人よしなんだよ俺は。今回はたまたま悪すぎただけ。次のテストで挽回するよ」

 苦し紛れの言い訳だ。もちろんこんな言い訳がエイルに通じない事はわかっている。しかし正直に言うのもなんだか照れくさい。
 本当は95点以上を目指したかったのだが、テスト中もエイルの沈んだ顔と、一人で補習と言う言葉がリフレインされては、こうするしかないだろう。
 が、当然エイルは納得しない。

「私のせいで君の成績が下がってしまったとしたら、私は君に何かお詫びをしなければいけない」
「お詫び? いいよんなもん。つーか偶然だって」
「しかし、それでは私の気がすまない! なにか――」

 エイルがソファーに座る高貴の正面に行こうと歩き出した。しかし、気が動転していたのか、足元がおろそかになってしまい、テーブルの足に指を思い切りぶつけてしまう。

「いつっ!」
「お、おい!」

 そのままバランスをくずし、ソファーに座る高貴目掛けて、エイルは勢いよく傾く。
 高貴はなんとか受け止めようとしたが、あまりにも突然の事で反応できず、とっさに手を前に出すだけで精一杯だ。そのまま――

「わああっ!!」
「うわっ!!」

 エイルが高貴に向かって倒れた。思わず目を閉じてしまい、体に衝撃が走る。
 ふにょん。
 ……ん? なんだこれ? 右手に、なんか柔らかいものが当たってるんだけど。
 ふにょん。ふにょん。
 あれ? 左手にも当たってる。なんかもっと触ってたい気分だ。つーかそろそろエイルどいてくれねーかな? 視界が遮られて何も見えないんだけど。
 それに男女がこうして重なり合うのはいろいろと問題があるだろう。こうして何もしないでいるだけでも、高貴の理性は着々と溶かされているのだから。

「ちょ、エイル。どいてくれよ。この体勢はまずいだろ」
「あぅ……あうぅ……」

 声をかけてもエイルから帰って来るのは、わけのわからない呟きのみだ。いつまでたっても彼女は高貴から離れようとはしない。

「エイル、どけって」
「その……な、なんだ。つまりだな。き、君は……」
「はぁ、いいよ。自分でどかす」

 ふにょん。 

「ひゃあっ!!」

 力をこめた瞬間に、エイルがなにやら悲鳴を漏らす。両手に当たっている柔らかい何かが少し潰れた気がしたが、高貴はそのままエイルの体を押した。

「…………あ」

 押して、理解した。そしてやめればよかったと後悔した。
 高貴の右手と左手にあった感触は、それぞれエイルの左の胸と右の胸。そして高貴はそれを押してエイルの体をどかした。
 つまり、エイルの胸に手を当てたまま、彼女の体を押したという事となる。
 そのあまりの事実に、高貴の体が硬直してしまう。もちろんエイルの胸を触ったままで。エイルは膝立ちになって、顔をこれでもかというほど真っ赤に染めてアワアワと口をパクパクと動かしていた。高貴はソファーに座ったまま、相変わらずエイルの胸に手を当てていた。

「…………」
「…………」

 無言の沈黙が続く。そんな中思考が停止していた高貴の脳が、ようやく稼動し始める。そして――
 ふにょん。
 誘惑に耐え切れずに、両手の指をもう一度動かしてしまった。
 あ、俺死んだ。

「きゃあああああっ!」

 それでエイルもようやく我に返ったのか、慌てて高貴から離れると、両手胸の前で交差する。

「あ、いや、その、これはつまり……」

 あ、無理だ。確実に俺はここで殺される。だってあのエイルがきゃあああっ!! なんて極めて女らしい悲鳴まで上げたんだから、相当恥ずかしかったに違いない。
 だって制服の上からとはいえ、胸触っちまったんだから仕方ないか。制服の上からだって言うのにスゲー柔らかかったな。硬かったのは下着か? それとも……いや考えんな。
 この前音無のおかげで命拾いしたけど、やっぱり俺は殺される運命にあったらしい。きっと槍で前進を串刺しにされて、そのあと雷で黒焦げにされるんだ。
 グッバイ俺の人生。せめて彼女ぐらい作って、童貞卒業したかった。

「………………」

 しかし、エイルは動かない。顔を伏せて、胸を隠し、その場にジッとしているだけだった。

「え、エイル……その……ご、ごめ――」

 最後まで謝る前に、その言葉は止まってしまう。エイルが下げていたその顔を上げたからだ。
 エイルの表情は怒りに染まってなどいない。ただひたすら、ひたすら恥ずかしそうに、顔を赤くしていただけだった。
 そして――

「ずいぶんと……君……エッチだな……」

 かすれた声でそう言うと勢いよく立ち上がる。

「あ、頭を冷やしてくる」

 そういい残すと、エイルは風のように走って部屋から出て行ってしまった。ポツンと高貴は一人取り残される。
 ……おい、どうすれば良いんだこの状況? 思いっきりぶん殴られたほうがまだましだった。
 なんであんな表情……あんな、すごく可愛い顔してくるんだよ。反則だろ。
 自分の顔も真っ赤になっているのを感じる。両手にはエイルの胸の感触がまだはっきりと残っている。
 とりあえず、自分も頭を切り替えようと思い、高貴は補習に備えて勉強道具を机の上に広げた。エイルにお詫びをしてもらう必要などない。偶然の事故とはいえ、とんでもないものを貰ってしまったのだから。



「ただいま戻りました」

 どこかの建物、どこかの一室。おそらくは四之宮のどこかだろう。その部屋に入ってきた人物は、四之宮高校の制服を着た音無静音だからだ。彼女は今、町全体に張られている結界により、四之宮からでることはできない。
 部屋にある窓から、外はもう暗くなっている事がわかる。見晴らしがいいところを見るに、ここはかなり高い位置にあるのだろう。まるでドラマなどに出てくる社長室のような場所だ。

「来たか」

 いかにも高級そうなデスクに座っていた人物が、部屋に入ってきた静音に気が付く。その男性は高級そうなスーツに身を包んだ40代半ばほどの男性だ。
 静音がその男性のデスクの前まで歩いていき、その足を止めた。数秒ほど沈黙が流れたが、それを打ち破ったのは、男性の一言だ。

「上着を脱げ」
「はい」

 一言。たった一言言われただけで、なんのためらいも無く静音は制服のリボンを解いた。そしてブレザーを脱ぎ、Yシャツも脱ぎ捨て、上半身は下着一枚になってしまう。
 年相応以上に育ったその肉体があらわになるも、男性はそんなものは興味がないとでも言うような表情だ。静音にも羞恥心はまったく見受けられない。
 男性がゆっくりと右手を伸ばし、静音の胸元を指差した。すると静音の白い肌、その胸元に、今までは見受けられなかった、灰色の文字のようなものが浮かび上がる。
 はっきりと、静音の胸元に《ナウシズ》のルーンが浮かび上がっている。

「わかっていると思うが……何度でも言う。お前は私には逆らえない。それを肝に銘じておけ」
「……はい」

 静音が返事を返す。しかしその返事には、心なしか悲しみがこめられている。
 頭に浮かぶのは、今日知らされた自分のテスト結果ではなく、他人のテストの結果。月館高貴のテスト結果だ。
 どうして彼はあんなにもひどい点数を取ったのだろう? 確実に平均点以上は取れたはずなのに、まったく持って謎だ。
 そして……もうひとつ。彼の持つ謎。エインフェリアル。
 彼はいったいどんな気持ちであの印を受け入れたのだろう?
 そもそもどうして受け入れたのだろう?
 彼は知っているのだろうか?
 ちゃんとわかっているのだろうか?
 あの呪われた契約の意味を。

 第三章終了



 お知らせ
 オリジナル版で投稿させてもらおうと思っていた小説が黒歴史になったので、投稿するのをやめにしました。
 なのでたぶんですが、第四章からオリジナル板のほうに移動させていただきます。



[35117] 世界観および用語集(ネタバレ少し有りに付き、回覧注意)
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/17 05:51
 今更ですが、この物語の舞台である四之宮についての設定と用語の設定を書いておきたいと思います。読まなくても問題はありません。
 なお、第三章までのネタバレを含んでいますので、回覧の際は注意して下さい。


 四之宮
 この物語、というよりも四之宮町シリーズ全般の舞台となる、住宅街、都心、港区の三つの区域に分けられている町。町と書いていますが、人口は6万4千人で、本当は四之宮市が正式名称。
 どうして四之宮町と呼ばれているかというと、十数年ほど前までは都心が存在せずに、人口の条件などを満たしておらず、正真正銘四之宮町だった。しかし、とある大企業が四之宮町に本社を構え、住宅街の一部を急速に近代化させていき、都心と呼ばれる区域が出来上がる。その都心にマンションなども増えて人口が増し、他の企業も続々と都心にビルなどを構えた為、若者の就職口も増えて、四之宮に留まる若者も多くなった。逆に四之宮の企業に就職に来る人たちも増えて、さらに人口が増し、市の条件を満たすことが出来たため、四之宮市になった。
 しかし、元々住んでいた人は、町のほうに慣れているため、主に四之宮町と呼んでいて、若者達は町も市もつけないで四之宮と呼ぶことが多い。

 住宅街
 四之宮に昔からある二つの区域の一つ。一軒家や、昔ながらの老舗。商店街なども立ち並んでいる。高貴のバイト先のマイペースもここにある。
 しかし、近年では都心が発達して、品揃えなどで圧倒的に負けている。それでも昔ながらのリピーターはいる模様。四之宮小学校、四之宮中学校、四之宮高校と学校はそろっているが、年々生徒数は減ってきている模様。

 都心
 四之宮が発展した最大の理由。十数年ほど前に、とある大企業が何故か四之宮に本社を構え、それを中心に一気に様々なものができ始めた。大型ビルなどが立ち並び、都心のほうにも四之宮中央小学校、四之宮中央中学校、四之宮中央高校と学校も出来ている。こちらはほぼエスカレーター式だが、就職率、進学率、学校の設備など、様々な面で住宅街のほうを上回っている為、住宅街のほうから、都心の学校に転校してくるというケースも多い。なお、大学は都心にしかない。
 学校だけではなく、公園や病院など、住宅街にある公共施設のほとんどは都心にも作られて、見分けをつけるために名前に「中央」を入れられている。四之宮公園、四之宮中央公園など。役場すら二つある。
 住宅街になくて都心に在るものはとんでもなく多いが、都心になくて住宅街にあるものは二つしかない。

 港区
 港とは名ばかりで、実際はただ海に面しているだけ。夏は普通に泳げる。


 用語

 異世界
 エイルの住んでいた世界をさす言葉。エイルによると、異世界の似たような伝承が北欧神話、ケルト神話、ギリシャ神話という名前で高貴たちの世界に伝わっている。
 ちなみにコンビニやラブホも普通にあるらしい。

 戦乙女学校
 その名の通り戦乙女を育成する学校。いわゆる選択授業式で、武器ならば剣、槍、弓などを学べる。ルーンも学びたいものだけ学べるが、エイワズと攻撃に使用するものは必修ルーンらしい。

 ヴァルキリー
 エイル曰くこちらの世界の警察と似たようなものらしい。民衆の取り締まりだけでなく、世界のバランスを保つことも仕事のうち。その中でもさらに優れた存在を《戦女神ヴァルキュリア》と呼ぶ。なお、ヒルド曰くデスクワークもあるとか。


 ベルセルク
 戦う事しか考えられない狂戦士。夜になると神器を持つものを襲う。低い魔力しかもたない普通の人間には興味がないため襲わない。四之宮に神器が来た影響で出現するようになった。なお、黒コートはこれを操る事ができ、その際は体に赤い亀裂のようなものが入る。


 ルーン
 ヴァルハラなどで主流の魔術型式。これ以外にも魔術はあるらしいが、きっと作中では登場しない。

 神器
 四之宮に散らばった強力な魔力を秘めた武器。これを集めるのがエイルたちの目的。なお、どうして四之宮に現れたのかは不明。



 登場人物の紹介は、もしも要望がありましたらやります。



[35117] 第四章 夏休みの始まり
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/21 05:11
 月館高貴は理解した。全ての原因はベットにあったのだと。
 自分の部屋において愛用しているベット。自分の人生がおかしくなったのは、全てこのベットせいだったということを、高貴は深く理解した。
 このベットの上に、ヴァルキリーであるエイルが異世界から転移してきた。
 このベットの上で、幼馴染とヴァルキリーがエロ本を広げていた。
 このベットの下で、ヴァルキリーがエロ本をあさっていた。
 そして今、高貴のベットの上にまたもや信じられない光景が広がっているのだ。信じたくない光景が広がっているのだ。
 ベットの上に、縄で縛られている少女が捨てられている。
 …………はい?

「……ちょ……え? …………はぁ?」

 わけがわからない。本当に本当にわけがわからない。どれだけ考えてみてもわけがわからない。
 ベットの上の少女は、高貴と反対方向を向いており、顔を見ることはできない。しかし体をもぞもぞと動かしている所を見ると、どうやら起きているようだ。
 冷静に思い直してみようと思い、高貴は一度くるりと反対方向を向いて今日一日を振り返ってみる事にした。
 まず、今日は一学期最後の登校日だ。学校は午前中で終わって、エイルと真澄は保健委員会の集まりだったので、高貴は一人で帰ってきた。
 明日からは夏休み。正確には今はもう夏休みであり、バイトも無いので、初日くらいはダラダラしようと思って、高貴は寄り道することなく真っ直ぐに帰宅した。
 そして、家に帰って来ると、ベットの上で少女が縛られていた。
 ……ダメだ、わけわかんねー。
 だいたい誰だよこいつ? いつから俺の部屋は見知らぬ女が出入りしやすくなったんだ? 多分どこかのヴァルキリーが来てからだろうけど。
 しかもなんだかこの女、見覚えのあるような服着てたような気がするし。毎日見ているような、そう、四之宮高校の制服的なものを装備していた。
 さらに縛り方が、なんかエロ本に載ってるような縛り方だったぞ。なんのプレイだ? いつから俺の部屋はラブホになった? 流石に心当たりはない。
 あげくにこの女、どっかで見たことがあるような……ほぼ毎日見ているような……
 おそるおそると、高貴はベットのほうに振り返ると……二つの目がこちらを見ていた。

「わああっ!」

 思わず後ろに飛びのいてしまい、背中が壁に激突する。
 高貴が声を上げた理由は二つ。一つはその少女の視線があまりにも冷たいものだったという事。視線だけで人を殺せそうなものだったという事。
 もう一つの理由。こちらが大半なのだが、その少女は高貴のよく知る人物だったと言う事だ。背中まである長い黒髪、制服の上からでもわかる大きな胸。かけられているフレームレスのめがね。
 その少女はどこからどう見ても、高貴のクラスメイトで隣に座っている少女、音無静音に間違いなかった。
 静音はベットに寝転がったまま、冷たい視線で高貴を見ている。体は縄で縛られ、口には猿轡をされているので喋れないようだ。

「……なに……してんの?」
「……………………」

 とりあえず一番気になっていることを聞いてみると、それはこっちの台詞だとでも言うような視線が帰ってきた。
 高貴はうまく働かない頭を必死で動かして、ひとまずこの状況はあまりにもまずいということにようやく気が付く。

「ま、待ってろ! とにかく今解いてやるから!」

 静音に近づいて、ひとまず一番解きやすそうな口元の猿轡を解こうと背後に回る。静音は意図を読んでくれたのか、高貴の反対方向を向いた。かなり固く縛られていたが、なんとかそれをはずす。

「大丈夫か音無!? つーかなんでこんな事になってんだ?」
「……ありがとう……というべきなのかしらね。どうして月館君がここにいるの?」
「どうしてって、ここ俺の部屋だから。四之宮高校の学生寮だよ」

 高貴の答えに、静音はなにやら考え始める。

「あなたが私をここに連れてきたの?」
「違うよ! つーか本当に何で音無はこんな事になってんだよ!? 一瞬俺部屋間違えたのかと思ったよ!」
「知らないわ。気が付いたらここにいたのよ。確か……ホームルームが終わって、ジュースを買って、帰ろうとしたら……ダメ、記憶があいまいね。というよりも、やっぱりあなたが私を拉致したんじゃないの? 私の持つアイギスを奪う為に」

 アイギス。
 それは四之宮に散らばった《神器》の一つであり、高貴たちの探しているものでもある。一週間ほど前に、別の《神器》の持ち主である鈴木太郎と戦った時、高貴、そしてヒルドは静音に助けられた。
 そのとき初めて静音が《神器》の持ち主だと知ったのだが、その日は《神器》を静音から回収しようとせずに、高貴たちと静音は別れたのだ。
 そして今の今まで、あの日のことなどなかったかのように静音はすごしており、《神器》のことを切り出そうにも切り出しづらい雰囲気だった。そのままズルズルと今まで何もなかったのだが、今日静音はこのような状況に陥っている。
 当然高貴にはなんの覚えもない。が、こんな事をする奴ならかなり心当たりがある。

「だから俺じゃないって。そもそも恩人相手にこんなことしない。《神器》のことだって、もっと穏便に済ませたいって思ってたんだ」
「……そう、わかったわ。そもそも月館君が私をここに連れてきたのなら、私を解くはずが無いものね。となると……エルルーンさんか、もう片方の赤い人?」
「……多分な。真澄はこんなことしないだろうし、エイルかヒルドだろ。もしくは――」
「あー! 何やってるのよ人間君!」

 背後から聞こえてきた声に思わず振り返る。そこにはいつの間に入ってきたのか、一匹の茶色いネコが立っていた。
 ネコに立っていたという表現はおかしいのだが、実際そのネコは二本足で立っているのだから非常識極まりない。最もそれ以上に、日本語を喋っている事自体が非常識だが。

「せっかくお姉さん達が縛り上げたっていうのに! そこまで完璧な亀甲縛りにするの大変だったんだからね!」
「ネコが……喋ってる?」
「ああ、こいつも異世界から来たネコ……いや、なんか変な奴。この前はクマのぬいぐるみだったし。つーかやっぱりテメーの仕業か」

 静音のロープを解こうと粉骨砕身している高貴に向けて、ネコは当然とでも言うように胸を張った。

「当たり前じゃない。《神器》の持ち主を亀甲縛りにするなんて、お姉さんぐらいにしか出来ないわ。もっとも縛ったのはヒルドだけどねー」
「そもそもこんな事してんじゃねーよ! 下手すりゃ俺まで犯罪者だ!」
「言っておくけど、月館君も同罪よ」
「勘弁してくれ! 俺は平穏と平凡に過ごすために、犯罪だけは絶対にしないんだ! ここ数年信号無視すらしたことねーんだぞ! とにかく今すぐに解くから!」

 犯罪者のレッテルを貼られてしまえば、それだけで平穏に過ごすことなど出来ない。故に高貴は人一倍犯罪に敏感なのだ。
 しかし縄を解こうとはしたものの、亀甲縛りの解き方などさっぱりの為、どこをどうして良いのかまったく分からない。

「じゃあ、これがあんたの初犯罪ね」
「え?」

 カシャッ! っとなにやら聞き覚えのある音が聞こえてくる。音の方向を見てみると、そこには赤い髪をした中学生くらいの少女が、カメラを片手にニヤニヤと笑いながら高貴と静音を見ていた。
 ヴァルキリーのヒルド・スケグルである。

「……おい、今何した?」
「何って決まってるじゃない。写真を撮ったのよ。拉致監禁に性的暴行。これであんたも立派な犯罪者よ」
「信じられないですー。こんなことする人だなんて思ってなかったんですけどねー。本当にもうビックリですー」
「ふざけんな! 俺は縄を解こうとしてただけだ!」

 高貴の叫びには一切反応せずに、ヒルドはカメラを片手にベットに腰掛ける。縛られたまま膝立ちになっている静音と視線が交差した。

「音無静音だったわよね? この恥ずかしい写真をばら蒔かれたくなかったら、大人しく《神器》を渡しなさい」

 うわー、こいつ最悪。
 しかし静音は一歩も引かない。

「それには月館君も写っているはずよ。彼の人生も一緒に壊れてしまうけどいいの?」
「いいに決まってるじゃない。子供一人の人生と《神器》。天秤にかければどっちが大切かなんてすぐにわかるわ」
「テメーこら! 人の人生を何だと思ってやがる!」
「うるっさいわね。あんたはあたしに逆らえる立場じゃないのよ。この写真しかり、この学生寮しかりね」

 ギロリとヒルドににらめ付けられてしまい、高貴は何も言えなくなってしまった。今ヒルドの言ったように、写真には自分も写っているし、何より今住んでいるこの学生寮はヒルドのものだ。もしかしたら追い出されるかもしれない。
 静音が信じられないと言った表情になって高貴を見ている。「友達は選んだほうが良いわ」と視線が言っている。

「待て待て! やっぱりこんなのダメだって! そもそもヒルド、お前この前音無に助けてもらったろ。それなのにこんなことして、良心が痛まないのかよ?」
「ガマンできるわ。そのほうが楽だもの」
「そ、そもそも。どうやって音無をここに連れて来たんだよ?」
「それに関しては私が説明させていただきます」

 高貴の質問に答えたのは、口調が真面目モードになったネコだ。

「《神器》である《天輪アイギス》の持ち主である音無静音は、学校帰りに自動販売機でジュースを買って帰るということが判明しました。よって、そのジュースに睡眠薬を仕込み、眠らせてからこの部屋に運び込む計画を立てました」
「睡眠薬って……どうやって、それにいつ仕込んだんだよ?」
「まず、音無静音がいつも飲んでいるのは、紙パックの桃天です。よって、四之宮高校の自動販売機で売られている全ての桃天に睡眠薬を仕込みました。自動販売機の業者の方に諭吉を渡して目をつむってもらっています。そして、音無静音がジュースを買った後に自動販売機を故障という名目で使用を禁止させ、睡眠薬入りの桃天を処分して証拠を隠滅しました。音無静音は音無静音は図書室でジュースを飲むので、彼女がジュースを飲んで眠った隙にヒルド・スケグルがこの部屋に運び込みました。ちなみに他の被害者は出ませんでした。そこのところにぬかりはありません。以上です」
「なにプロフェッショナル口調でとんでもねーこと語ってんだクソネコ!」

 いつもなら口調が真面目になると真面目な話をするネコだが、今回は口調が真面目でも中身はふざけた話だった。

「とにかく、あんたの人生はあたし達の気分しだいなのよ。ほらほら、《神器》を渡すの? 渡さないの?」
「お前、今真っ黒だぞ……最低の下衆だぞ……」
「……アイギスは渡せないわ。その写真をばらまきたいのなら好きにすれば良いわよ」

 しかし、この圧倒的に不利な状況でも、静音はアイギスを渡そうとはしなかった。

「へぇ、本当にいいの?」
「どうぞお好きに」
「いや待て! 俺が困る!」

 高貴を無視してヒルドと静音が互いににらみ合う。部屋に気まずい沈黙が流れていくが――

「……はぁ、わかったわよ」

 先に言葉を発したのはヒルドだった。

「少し待ってなさい。今縄を切ってあげるわ」
「……どういうつもり?」
「そのままの意味よ。それとも一生そのままで居たいわけ? 嫌だったら大人しくしてなさい。ネコ、はさみ」

 ヒルドがネコにそう言うと、ネコは「ははぁ」と言ってどこからかはさみを取り出してヒルドに渡した。なにを考えているのかヒルドは、そのはさみを使って本当に静音の縄を切っていく。
 縄を切る音が数回響き、静音の体の自由を奪っていた縄は完全に千切れ、ようやく静音は自由に体を動かせるようになった。すると今度は、先ほど写真を撮ったカメラを静音に手渡す。

「データ、自分の手で消したほうが安心でしょ」
「………………」

 流石の静音もかなり困惑している。警戒しながらヒルドからカメラを受け取ると、自分の手で先ほどの写真のデータを消し、カメラをヒルドに返した。

「本当に、なんのつもりなの? この一連の行動に意味がわからないわ。それとも何か意図があるの?」
「あんたが《神器》に執着してるってことがわかった。それが今回の収穫よ。言っておくけど《神器》を諦めたわけじゃないわ。そのうちしっかりと回収するから覚悟しておきなさい」
「……そう、素敵ね」

 よくわからないやり取りをしたあと、静音が立ち上がってベットから降りる。

「あ、まっておっぱいちゃん。これ学生かばん」
「……私のこと?」
「お姉さんの目はごまかせないわ。その推定Gカップの巨乳を!」

 G!?

「…………」

 静音は苦い表情になったが、なんとか平常心を保ってネコからかばんを受け取ると、

「おじゃましました」

 最後にそういい残して部屋から出て行った。残された二人と一匹は、

「……おい、なんでこんな事したんだ? 本当に意味がわかんねーんだけど」
「戦わないで済むならそれが一番だと思ったのよ。でもあいつって絶対に人の話を聞かなさそうなタイプでしょ? だから無理矢理つれてきたの」
「写真を撮ったのは?」
「追い詰めれば《神器》を渡すかと思ったけど、見当違いだったみたいね。それに、あそこまで追い詰めても《神器》を手放せない理由っていうのもあるかもしれないわ。そういうのを知るのが今回あいつを拉致った本当の目的。《神器》の持ち主の事は詳しく知る必要があったのよ。この前の中二病みたいに暴れられたら面倒だもの」

 だからと言って拉致監禁はやりすぎだろう。それとも、そこまでしないと静音から情報を引き出せないと彼女は判断したのだろうか?

「しかしまぁ、本当にびびったよ。部屋に入ったらあんなになってたし」
「別にいいじゃないSMくらい」
「知ってんのかよ! やっぱりあの縛り方ってお前の趣味か」
「お姉さんの趣味よ人間君」

 威張らないでほしい。猫として最低のことをしたという自覚があるのだろうか?

「つーか、なんでSMなんて知ってんだよ?」
「あのね、異世界なめんじゃないわよ。SMぐらいあるわ。こっちみたいに縄で縛ったり、縄の代わりに《ナウシズ》で動けなくしたりとか」

 異世界って……

「ま、あんた今日から夏休みでしょ? 拉致監禁のSMプレイから始まる夏休みなんてめったに経験できないわ。あたしたちに感謝しなさい」
「経験したくねーよ!」

 そんなこんなで、高貴にとって高校二年生の夏休みは、拉致監禁のSMプレイで始まりを告げた。きっと今年の夏休みは、一生忘れられないものとなるであろうことを高貴はすでに確信していた。
 もっとも、悪い意味でだが。



[35117] 補習が終わって
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/24 06:39
 音無静音のSMプレイから始まった夏休み。
 あれから三日、高貴はそのとき波乱を覚悟したのだが、実際は思っていたよりもおだやかな毎日を過ごしていた。
 静音とはあの日以来あってはおらず、エイル達がいうにはしばらく様子を見るとのことで話が固まっている。高貴としては静音とは戦いたいとは思わないので、なんとか穏便に済ませたいと願うばかりだった。
 そして、今日は夏休みだというのにもかかわらず、高貴は四之宮高校に来ている。その理由はもちろん――
「よーし、じゃあ今日はこれまで」

 補習である。
 担当の教師の声が響き、教室にいた生徒全員が解放されたかのように大きく伸びをした。

「おい、終わったぞエイル」
「数学は……拷問だ」

 約一名を除いてだが。
 エイルだけは補習が終わった瞬間に、伸びではなく机に突っ伏していた。
 今日の補習は物理、化学、そして数学の三つ。物理と科学はそれはそれは楽しそうに受けていたエイルであったが、数学になった瞬間にその表情から笑顔が消えたのだ。

「ほら、帰るぞ。帰ったら借りてきたドラマの続きを見るんだろ?」
「ずいぶんと……君……元気が良いな。私はもう全ての体力と魔力を使い果たしたと言っても過言ではないよ。どうしてよりによって数学なんだろうな?」
「逆に考えろって。今日数学が終わったから、明日からは嫌な教科はないってことだろ?」
「ふむ……そうだな、そういう考え方もあるか。それに君も一緒だから寂しくもないしな」

 そういう恥ずかしい事を真正面から言わないでほしい。反応に困ってしまう。
 しかし元気を取り戻したのか、エイルは「さて、帰ろうか」と言ってかばんを持って立ち上がった。高貴もそれにならって立ち上がり、ついでに首をコキコキと鳴らす。
 高貴は今までの成績は優秀なほうで、補習を受けたのは初めてなので、肩がこったようだ。全教科赤点というのはさすがにまずかったのか、教師から呼び出されたくらいだ。
 教室から出て、二人並んで廊下を歩く。

「そういえばさ、鈴木って結局どうなったんだ?」

 公園で戦って以来それっきりだったので少し気になったのか、高貴がエイルに向かってたずねる。

「ふむ、もう自宅に帰っているだろう。ヴァルハラに行って、《神器》や魔術の記憶を消し去り、後は今までどおりの生活に戻れるはずだからな。しかしそうなると、また彼はいじめられてしまうかもしれないな……」
「そんなこと気にしなくて良いだろ。イジメなんて結局当人同士の問題だ。冷たいかもしれないけど、何とかしたいなら自分で何とかするしかない」
「ふむ、そうかもしれないな。後は静音の事なのだが……」

 エイルが口をつぐむ。エイルと真澄には、三日前のSM騒動は話していない。話すとめんどくさそうだからというヒルドの提案によるものだ。実際話したら何を言われるかわかったものではないので、高貴はそれに承諾した。

「ああ、あの日以来なんの音沙汰もないな。あいつの持っている……アイギスだっけか? なんとか穏便に譲ってくれればいいんだけど」

 実際は穏便になど行くはずがない。静音は三日前のような状況に陥っても、まったく《神器》を渡そうとはしていなかったのだから。譲ってくれるのが無理ならば、戦って奪うしかないだろう。もしくは真澄のように協力者になってもらうしかないが、その望みは薄そうだ。

「高貴、静音は公園でアイギスは渡せないと言っていたな。その言葉から察するに、彼女は《神器》に執着しているのだろうか? もしもそうだとしたら、その理由はいったいなんなのだろう?」
「うーん……わかんね。もしかして鈴木みたいに、持ってるだけで人生に有利って考えてるのかも……いや、やっぱ今のなし。完全に予想でしかないけど、俺にはあいつが《神器》を元に人生設計するようには思えない」
「ふむ、それに関しては同感だ。となると……ふむ、本当にどういう理由なんだろうな」
「ただ珍しいからって理由にも思えないし……あ、ベルセルクから身を守る為とかはどうだ? ほら、今までベルセルクに遭遇してて《神器》の力で倒してたけど、ベルセルクは一般人を襲わないっていうことを知らないとしたら、《神器》をなくしたら対抗手段がないと思ってるとか」

 高貴の意見に、エイルはしばらく考えるように顎に手を当てる。

「……いや、おそらくそれはないな。ベルセルクに遭遇していたとしたら、きっと《神器》がベルセルクについて詳しく教えてくれるだろうからな」
「……《神器》ってそんなに便利なのか? 俺クラウ・ソラスから何も教えてもらった記憶無いんだけど」
「君、やはり《神器》に嫌われているんじゃないのか?」
「いや……それはないと思うよ。力は貸してくれるし」

 そうは返したものの、不安になってきた高貴は、とりあえず心の中でクラウ・ソラスに呼びかけてみた。

 ――当然の事をわざわざ聞くな。そもそも好かれる要素がどこにある? もっとも、こんなことを言っても貴様の記憶に我の言葉は残らないがな。

 なにやらぼんやりと声が聞こえた気がするが、うまく聞き取れない。しかし返事を返してくれたということは、きっと嫌ってはいないのだろう。
 おそらく……だが。 

「実際にあって話してみるしかないかもしれないな。なんだったら今から静音のところに行って見るか? 静音の住所は学校に乗ってあるから、ネコが調べてくれたようだしな」
「マジで? ちなみに音無ってどこに住んでんの?」
「ふむ、四之宮高校に登録されてある住所は、都心にあるフェザープレイスというマンションだよ」
「ふーん……って、都心?」

 エイルの言葉が意外だったのか、高貴の表情に疑問が浮かんだ。しかし、その理由がエイルには理解できない。

「ふむ、何かおかしいのか?」
「いや……四之宮にはさ、二つの高校があるって前話したよな。俺達の通う四之宮高校と、都心のほうにある四之宮中央高校」
「四之宮中央高校……ああ、あの娘達が通っている高校か」
「ああ、中央高校のほうは、確か十年位前に出来た歴史の浅いとこだけど、四之宮高校よりもいろいろと設備とかが充実してて、大学の進学率や就職率が高いんだ。ぶっちゃけむこうの方がいい高校だし、住宅街から中央高校に通うことはあっても、都心からわざわざ四之宮高校に通うメリットはないと思うんだよなぁ……」

 都心に住んでいるのならば、金銭的な問題とも考えにくいし、そもそも静音ほどの学力(学年一位)があれば、推薦も取れるだろう。

「そういえば……静音は転校生だったな。もしや君の《神器》を手に入れようとしたのか?」
「それもないと思う。音無が転校して来たのは、お前と一緒の日だ。しかもエイルはその前日に四之宮に来た。エイルが四之宮高校に通うなんて音無には知りようがないし、たとえ知る事ができたとしても一日で転校なんてしてこれないだろ」
「ふむ、言われてみればそうか……と言う事は静音が転校してきた日と、私が転向して来た日が重なったのは、あくまで偶然という事か」

 そもそも静音が以前どこにいたのかも高貴たちは知らない。転校してきたとは聞いたが、《神器》が散らばっているのはこの世界で四之宮のみ。よその町から四之宮に来た瞬間に《神器》に選ばれたのか、もしくは元々四之宮に住んでいたのか。それすらもわからない。
 そんなことを話していながら歩くと、あっという間に下駄箱までたどりついた。

「そういえば高貴、君はどうしてその中央高校のほうに行かなかったんだ? 君ほどの学力ならば問題なく入学できるだろうし、平穏に過ごしたいのなら、進学率や就職率の高いほうへ行くような気がするのだが。やはり真澄と俊樹がいるからか?」

 下駄箱を開けて、靴を取り出しながらエイルが高貴にたずねる。

「ああ、もちろんそれもあるけどさ。一番の理由は――」

 ふと、高貴の言葉がそこで止まった。
 下駄箱を開けた瞬間に、中から何か紙のようなものが落ちてきたからだ。高貴の足に当たったそれは、乾いた音を上げて地面に落ちる。

「ん? なんだこれ?」

 気になった高貴がそれを拾い上げた。それはピンク色の可愛らしい封筒であり、可愛らしい文字で月館高貴君へと書かれている。
 ……え?

「これって……」 
「……ラブレターではないのか?」

 ラブレター!?
 この今まで女っ気なんかまったくなくて、彼女すら出来た事もない俺にラブレター!? マジで!?
 いやマジだ!
 いきなりの事に高貴は混乱してしまうが、それでも喜びのほうが勝っているのか、顔が自然と緩んでしまう。

「ずいぶんと……君……にやけているな」
「うわっ!!」

 それとは正反対に、果てしなく不機嫌そうな声が耳に響く。隣に立っているエイルが、声色と同じく不機嫌な顔で手紙を見ていた。

「え? なんでお前怒ってんの?」
「怒ってなどいない! 私はヴァルキリーだ!」
「いや、ヴァルキリー関係ないって。それにお前怒った時あるだろ」
「君の気のせいだ。ほら、さっさと中身を確認したらどうなんだ? 私の事は気にしないで確認するといい。ああ、すれば良いじゃないか」

 ますます不機嫌になるエイル。高貴はわけもわからずに言われたとおり手紙を開いて中身を確認した。そうしないとエイルがますます怒り出しそうだったからだ。
 ピンクの封筒に入っていたのはピンクの紙だった。二つに折られたその紙には――

「屋上で待っています……これだけ?」
「ふむ、それだけのようだな」
「お前も見るのかよ……」

 高貴の後ろから覗きこむ様にエイルが手紙を見ている。
 書かれているのがこの言葉のみで、他にはなんの用件も書かれていない。ラブレターというにはあまりにも寂しい代物だ。

「……ふむ、君は行くのか?」
「そうだな……行ってみるか。用件はなんだかわからないけど、来いって書かれてるし」
「君、やっかいごとに関わりたくはないというわりに、なかなか好奇心旺盛なのだな」
「いや、だって本当にラブレターだったら……ほら、考えるし……ヒッ!」

 ゾクッと、背筋が凍る。エイルから冷たい殺気のようなものが零距離で放たれる。
 エイルはニコニコと笑ったまま、それはそれは素晴らしいほど眩しい笑顔で、いつぞやの黒コートレベルの殺気を高貴に放っていた。

「そうか……では、私にはなんの遠慮もなしに行ってくるといい。ああ、私の事は気にしなくて良い。一人で帰れる」
「あ、あのさ……なんで怒ってんの?」
「怒ってなどいない! 私はヴァルキリーだ!」
「いや、どうみても――」
「怒ってなどいない!」

 ムキになって否定し続けるエイルに、高貴はもはや何も言えなくなってしまう。

「では私は帰る。帰るからな!」

 エイルは最後まで不機嫌なまま、さっさと靴を履き替えると凄まじい勢いで帰っていった。ポツンと残された高貴は、

「行くしか、ないか」

 取り合えず靴を履き替えることなく、屋上に向かって歩き出した。

 ◇

 屋上の入り口まで来て置いて今更なのだが、屋上とは本来立ち入り禁止の場所である。
 エイルは何故か鍵を持っていて、立ち入る事ができるようだが、本来は常に鍵がかかっているため、普通の生徒は入ることが出来ない。にもかかわらず屋上に呼び出すということは、もしかして普通じゃない人なのかもしれない。
 もしも本当に告白されたらどうしよう。多分断るだろうけど、まぁ会って見てから判断しよう。
 高貴はそんなことを考えつつ、屋上の扉に手をかけた。キィと軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
 本来ならば誰もいないはずの屋上に、一つの人影が見える。おそらくはあの人物が高貴を呼び出したのだろう。

「来ましたか」

 そこに立っていた女性が高貴に気が付いた。その女性を見た瞬間に、高貴はここに来た事を後悔した。
 その女性はどう見ても年上だ。しかも来ているのは四之宮高校の制服ではなく、何故かメイド服だったのだ。白と黒の二色で、ロングスカートのメイド服。コスプレの写真を前に俊樹に見せてもらった事もあるが、それよりも上品な感じがする。頭にはしっかりとカチューシャもしている。
 女性にしては長身で、髪はショートカットでそろえられている。スレンダーな感じのするお姉さんと言った感じだ。そのお姉さんが極めて有効的な笑顔で高貴を見ている。なのにどうして高貴は後悔したのか。それは極めて簡単で、自分勝手な理由だ。
 目の前の女の人からは、確実にやっかいごとのにおいがする。ここ最近高貴はやっかいごとのにおいにビンカンなのですぐにわかるのだ。が、結構な美人なので、やはり期待も3割ほどは混じっている。
 メイド服の女性は、ゆっくりと高貴に近づいてくる。

「お初にお目にかかります。白峰菜月と申します」
「は、はぁ……月館高貴です」

 あったことはないと思っていたが、やはり初対面だったらしい。なのにどうして呼び出されたのだろうか?

「あの……それで、なんか用ですか?」
「その前に確認させていただきたいのですが……本当にあなたは、月館高貴さんですよね?」
「はい、そうですけど。この学校には、他に月館高貴って名前の生徒はいなかったと思います」
「そうですか、あなたが……」

 確認が取れたことを喜び、菜月の表情が笑顔になる。高貴の期待ゲージが4割ほどに上がった。

「実は……少し前から、あなたにお会いしたかったのです」
「何でですか?」

 そう言いつつも、期待ゲージは7割ほどまで上昇し、

「あなたは……三日前、拉致したお方を覚えておいでですか?」

 一気にゼロになった。
 それだけではない。三日前にあの見知らぬ罪を押し付けられそうになったことを思い出し、顔が青くなってしまう。

「な、なんのことで」
「覚えている……ようですね……」

 菜月の体がプルプルと震えている。下を向いているため表情がよくわからない。
 何なんだこの人? 音無の知り合いか? でもなんでメイド服なんて着てるんだ? 音無の家って金持ちなのか?
 様々な事をめぐっている高貴の頭に――

「おい、お嬢様にあんなことしておいて、生きて帰れると思ってねーよなぁ?」

 ……は?
 何、今の声?
 それは先ほどまでの声とは違って、ドスのきいた恐怖心を覚える声だった。発している人物はもちろん菜月だ。
 その菜月の表情からは、完全に笑顔が消えており、もはや親の仇を前にしたような顔つきになっている。

「あ、いえ、ち、違うんですよ! あれは俺がやったんじゃなくて――」
「言い訳してんじゃねーぞクソガキがぁ!」
「ひぃっ!!」

 怖っ! このお姉さん超怖っ!

「お嬢様を辱めたクソガキに、このあたし、白峰菜月が判決を言い渡す。当然……死刑だこの野郎!」

 菜月がスカートの中に右手を入れる。そしてその右手に握られていたのは、なんと一振りの日本刀だった。
 それだけではない。菜月の体から何かを感じる。普通ならありえない何か。それは非現実に生きるものたちの証。

「ま、魔力!?」

 そう、菜月の体から、強い魔力を感じる。と言う事は――

「あ、あの刀って《神器》か? つーかお姉さんって《神器》の持ち主?」
「グダグダ言ってんじゃねー! 良いから黙って刀の錆になりやがれ!」

 菜月は高貴の質問に答えることなく、その場で刀をブンッと振るうと、

「行くぞコラアアアアッ!!」

 高貴に向かって、地面を蹴った。



[35117] 危険なメイド
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/03/30 23:34
「クラウ・ソラス!」

 突進してくる菜月を前に、反射的に高貴はクラウ・ソラスを取り出した。目の前の相手の正体はまったくわからないが、このままでは確実に殺されてしまうという事を理解したからだ。
 右手に光が集まり、一瞬でクラウ・ソラスの柄が現れる。それに魔力を流し込み、光の刃を展開させた。

「おらあっ!!」

 極めて男らしい叫びとともに、菜月の右手に握られている刀が高貴を襲う。刀を光の刃で防御すると、鈍い金属音のようなものがあたりに響いた。

「このっ! いったいなんなんだよテメーは! 俺の《神器》がほしいのか!」

 ギリギリとせめぎあいながら高貴が菜月に言葉を投げかける。

「テメーの《神器》なんざいるか! あたしがほしいのはテメーのタマだけだっつーの!」
「《神器》を知ってんのか? 音無から聞いたのかよ?」
「気安くお嬢様の名前を呼んでんじゃねーよこの性犯罪者がぁ!」

 刀に力がこめられた。押し――返せない。そのまま押し切られて、高貴はバックステップで距離をとる。

「はあああっ!!」

 菜月の勢いは止まらない。刀は連続で高貴を襲ってくる。
 ふと、妙な違和感が高貴を襲った。目の前のメイドが振るっている刀。この刀からは魔力をほとんど感じない。これは本当に《神器》なのかと疑問に思うほどだ。
 もしもこの刀がただの刀ならば、

「ブッ壊しても、問題ねーな!」

 クラウ・ソラスがその輝きを増していく。光の刀身は力強さをまして、高貴が初めて攻撃に転じた。
 菜月の体ではなく刀だけをねらって横一閃。その一撃を菜月は高貴の目論見どおり刀で受け止めた。
 しかし、受け止めきれない。ばきぃ! と鈍い音が響いて、菜月の持っていた刀が真っ二つに折れる。その事実に初めて菜月の顔に驚きが浮ぶ。

「ちっ、腐っても《神器》ってことかよ。だがなぁ」

 半分に折れた刀を、菜月はなんのためらいもなく地面に投げ捨てた。そして再びスカートに手をつっこむと、なんと新しい刀を取り出したのだ。それを構えて、菜月は再び高貴に襲い掛かる。

「テメ、なんつーところになんつー物隠し持ってんだよ!」
「乙女のスカートにはなぁ、|凶器《ひみつ》がいっぱい詰まってんだよ!」
「誰が乙女だ! ヤンキーそのものじゃねーか!」
「んだとテメェ! 清楚なメイド服に身を包んだ純情可憐なこのあたしの、どこがヤンキーに見えるってんだよ! 言って見ろやこのシャバ蔵がぁ!」

 全部だよ!
 その言葉は口にせずに、高貴は再び防御に専念した。目の前のヤンキーメイドは、どういう考えかは知らないが《神器》を使っていない。ならばむやみに攻め込むのは危険だと判断したからだ。ここは反撃の機会を待つのが得策。
 しかし、菜月は当然攻める手を休めない。刀を持っていないほうの指に、緑の光が灯りだす。

「《ハガル》、《ベオーク》、バインドルーン・デュオ!」

 菜月の左手がすばやく動き、空中に二つのルーンが描かれる。

「バ、バインドルーン!?」

 思わず高貴は唖然としてしまった。今まで《神器》の持ち主には何人か会ってきたが、誰一人としてバインドルーンを使っていなかったからだ。使っていたのはヴァルキリーであるエイルとヒルドのみ、つまり目の前のヤンキーメイドは、あの二人と同じくらいルーンを使いこなせるのかもしれない。
 二つの文字が一つに溶け合い、菜月の持つ刀に集まっていく。しかし、一瞬だけ刀が緑色の光に包まれたかと思えば、その光はすぐに弾けて消えてしまった。
 まさか失敗したのか?

「行くぜコラァ! 《|武血斬りぶっちぎり》!!」

 そんな高貴の考えを、一閃の元に斬り裂くかのごとく、菜月が刀を振る。水平に振るわれたその刃から、風の真空波が放たれた。
 《ハガル》は風のルーン。エイルの《雷光の槍ブリッツランス》と同じように、自分の武器に風を与えたに違いない。
 回避を不可能と瞬時に判断した高貴は、クラウ・ソラスで真空波をかき消した。しかし、かき消したそばから菜月がまたもや接近してくる。
 もう一度刀を折る!
 クラウ・ソラスで刀を受け止める。しかし、今度は刀は折れることはなく、最初と同じように互角に切り結んでいる。

「オラオラオラァ! お嬢様に死んでわびろやああああっ」
「だから、あんたは音無の知り合いなのかよ!? 後あれをやったのは俺じゃねーっつーの!」
「いいからとっととくたばれえっ!!」

 話は完全に通じない。二つだけわかっていることは、菜月は静音の知り合いだと言うことと、このままでは間違いなく殺されると言う事だ。

「このっ! 仕方ねーな!」

 こうなったら多少は痛い目を見てもらうしかない。クラウ・ソラスの刀身にさらに魔力をこめる。
 幸いクラウ・ソラスは、相手を殺すことなくダメージのみを与えることができるのだ。刀をもう一度折った後、一撃を叩き込んで動けなくするしかない。
 相手へは女性で、多少心が痛むが――

「死ねやこの性犯罪者ぁ!!」

 訂正、こいつをぶっ飛ばすのに心なんて痛まねー。

「上等だこのヤンキー!」

 クラウ・ソラスと刀が激しく衝突した。そのまま二つの刃がギリギリと拮抗しあう。
 いかにルーンで強化されているとはいえ、やはり《神器》であるクラウ・ソラスのほうが威力が高いのか、菜月の持つ刀に徐々にヒビが入っていく。
 いける。このまま刀を折って、そのままもう一撃――

「《ラグズ》!」

 しかし、再び菜月がルーンを刻んだ。刀を持っていない左手で描かれた《ラグズ》。それと同時に、菜月の右手にあった刀が砕け散った。
 その事実に驚愕したのは、菜月ではなく高貴だった。武器を失った菜月は下がって距離をとろうとせずに、なんとそのまま前進してきたのだ。
 そして、左手で高貴の顔をつかむ。視界が遮られ、

「特攻だぁっ!!」

 その叫びとともに、高貴の足が地面から離れた。《ラグズ》は跳躍力を高めるルーン。かつてエイルが使ったように、菜月はそれを使って高貴をつかんで跳んだのだ。
 ただし上にではなく横に跳んだ。さながら車にでも乗っているかのような高速移動。視界が遮られているのでよく見えないが、背中に凄まじい風圧を感じる。
 がしゃあああっ!! と轟音が耳に入り、同時にとんでもない衝撃が高貴の体を襲う。菜月が真っ直ぐ横に飛んだため、屋上のフェンスに叩きつけられたのだ。

「がっ!!」

 あまりの痛みにうめき声がもれる。ふさがれている視界。菜月の指と指の間から、僅かに光が見えてくる。その光のむこうで、菜月が右手にナイフを持ち、自分に向かって振り上げているのがはっきりと見えた。

「死ね!」

 やばい!
 高貴は反射的に距離をとろうとして、膝を菜月の腹部に入れた。それでも菜月が離れる事はなかったが、自分を押さえつけている左手が僅かに緩む。その一瞬の隙に、高貴は菜月の左手をはずして、顔を横にずらした。
 0コンマ1秒ほど遅れたタイミングで、菜月が高貴の顔のあった位置にナイフを振り下ろす。いやな金属音が高貴の耳に入ってきたが、無傷ですんで何よりと考える事にした。
 菜月はもう一度ナイフを振り落ろそうとしたが、フェンスに引っかかってナイフを抜くのが遅れてしまう。その隙も見逃さずに、高貴は今度こそ菜月を振り払ってフェンスのそばから脱出した。

「はぁ……はぁ……あ、あぶねー」

 何よりも驚いたのは、なんの躊躇もなく菜月がナイフを振り下ろした事だ。このヤンキーは、自分を殺す事に本当にためらいはないらしい。

「この……しぶてー野郎だな!」

 菜月が再びスカートの中に手を入れる。取り出したのは刀ではなく、高貴を刺そうとした様なナイフだ。しかも一本ではなく、指と指の間に挟むように持ち、両手合わせて八本のナイフを取り出した。

「げっ……」
「穴だらけになりやがれっ!」

 菜月が高貴目掛けてナイフを投げてくる。まるで時代劇にでてくる忍者が、手裏剣やクナイを放つかのようだった。

「《エイワズ》!」

 今度は高貴がルーンを刻んだ。白い軌跡で描かれた文字が、高貴の眼前に光の障壁を作り出す。ただのナイフが魔術で作られた障壁を破れるはずもなく、八本のナイフは全て乾いた音を立てて地面に落ちた。

「テメー! 何お嬢様のパクリみてーなことしてんだ!」
「知るかよ。つーか音無のあれは俺のとは比べ物にならねーっての」
「完全に切れたぜ! コマギレにして魚の餌にしてやらぁっ!」

 菜月が刀を二本取り出し両手に構える。高貴に向けて地面を蹴ろうとした瞬間――

「来い、契約の槍!」

 凛とした声が響き、フェンスを飛び越えて屋上に人影が入ってきた。銀の長い髪をたなびかせ、身の丈以上の槍を持った少女。エイルが突然乱入してきたのだ。
 菜月もエイルの存在に気が付く。エイルが自分に向かってランスを振り下ろそうとしている事を把握すると、菜月は即座にその場から退いた。エイルのランスは空を切り、菜月を警戒しながら高貴に近づいていく。

「エイル、来てくれたのか」
「ふむ、告白がどうなったのかが気にな……ま、魔力を感じたから戻ってきたんだ」
「いやそれは助かったけど、フェンス飛び越えてくるなよ。ここ屋上だぞ。」

 部活動で残っている生徒はまだ沢山いるだろうから、誰にも見られていなければいいのだが。

「あいつが俺を呼び出したんだ。多分《神器》を持ってる」
「……それで、告白はされたのか?」

 なぜ、《神器》を気にしないのか?

「いや、告白って言うか、殺人予告っていうか。殺すって言われた」
「そ、そうか。殺人予告か。それは良かったよ」
「よくねーだろ!」
「い、いや違う。君に死んでほしいとかではなくてだな……」
「あたしの目の前でいちゃついてんじゃねー!」

 いきなり現れたくせに自分を無視し続けるエイルに苛立ったのか、菜月が声を荒げる。

「誰だテメーは? いきなり現れてあたしの邪魔するんじゃねーよ」
「ふむ、お前はどうして高貴の命をねらう?」
「決まってんだろうが……愛のためだ!」

 エイルの問いに、菜月は迷うことなく、そして迷いのない目ではっきりと答えた。思わず高貴とエイルはポカンとしてしまう。

「ふむ、ヤンデレというやつか?」
「……違うと思う」

 おそらくだが、静音を拉致した高貴を許すことができず、そのけじめをとらせるために殺すと言った所だろう。しかし、静音を拉致したのは高貴ではないのだが、言ってもわかってもらえそうにない。
 というよりも、もはや説明もできない。エイルは三日前の出来事を知らない。弁明をすれば、間違いなくエイルに三日前のことがばれてしまい、下手をすればエイルが敵になる。

「静音お嬢様の恨み、しっかりと晴らしてやらぁっ!」
「静音の? どういう意味だ?」

 あ、やばい。

「しらばっくれんな! そこの男は三日前にお嬢様を拉致監禁して、お嬢様を無理矢理犯そうとしやがったんだぞ!」
「…………なに?」

 うわー、俺死んだ
 エイルの耳にそんなこと入れちまったら、マジギレするにきまってんだろ。ヤンキーだけでもしんどかったのに、さらに相手が増えるんじゃもう無理だ。 覚悟を決めた高貴が、おそるおそるエイルを見ると――

「それは何かの間違いだ」

 迷いのない瞳で菜月にそう言うエイルの姿があった。
 それがあまりにも予想外だったもので思わず高貴はポカンとしてしまう。

「そもそも高貴は平穏で平凡な人生を過ごしたがっている人間だ。そんな彼が拉致監禁などという犯罪を犯すわけがない。」
「ふ、ふざけんな! 実際お嬢様は拉致されたんだよ!」
「ふむ……ならそれはきっとヒルドかネコがやったのだろう。とにかく、彼はそんなことをする人間ではない。そうだな高貴?」
「……あ、うん。ヒルドとネコが睡眠薬で音無を拉致って、俺は縛られてたあいつをほどこうとしたんだ」
「だそうだ。この通り高貴は無実で、むしろ静音を助けようとしていたらしい。にもかかわらず彼を恨むのはどうかと思うが?」

 自信満々で語るエイルに対して、一番驚いていたのは高貴だ。まさかここまで信頼されているとは思っていなかったからだ。二対一でどうやって生き残ろうかなどと考えていた自分が恥ずかしい。

「ぐ、ぐぬぬぬ……」

 菜月はやはり納得がいかなさそうに歯痒い表情をしている。彼女にとって静音はかなり大切な存在である事ははっきりしている為、エイルのいうことを信じることが出来ず、また信じられたとしても怒りが収まらないのだろう。
 静音が拉致されたということは変わりない事実なのだから。

「だあああああああっ!! やっぱりテメーらはぶっ飛ばす! そのほうがわかりやすい!」

 吹っ切れたように菜月がその場で刀を振り回す。それはまるで子供がダダをこねているようでもあり、思わず高貴とエイルは肩の力が抜けてしまった。
 しかしすぐに明確な敵意を飛ばしてきたので、慌てて気持ちを切り替える。

「とりあえず動きを止めよう。いろいろと聞くこともあるしな」
「わかった。二対一ならば問題ないだろう。ただし気を抜くな」
「死んでお嬢様にわびやがれええっ!!」

 菜月が地面を蹴る。しかし、高貴とエイルの意識は、菜月の背後に向けられた。先ほどのエイルと同じように、フェンスの影から少女が飛び出してきたからだ。
 その少女はフェンスを越えると、凄まじいスピードで高貴たちの元に突進していく。しかしそれは攻撃ではなく、むしろ高貴とエイルを守るように、菜月を正面に見据えて立ちふさがった。

「なっ!」

 その人物に気が付いた菜月が度肝を抜かれた表情になって慌てて立ち止ろうとする。しかし勢いに乗っていたため、止まる事などできず、そのまま衝突――

「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《平面ウォール》」

 しなかった。
 少女が右手を伸ばした瞬間に、目の前に緑の障壁が出現する。菜月は少女の替わりにその障壁に顔面から勢いよく激突してしまった。

「ぎゃん!!」

 うめき声を上げて、まるでコメディ漫画のように衝突した菜月は、そのまま地面に倒れてしまう。しかしすぐに起き上がると、目の前の少女、音無静音の正面に立った。

「お、おおお、お嬢様! どうしてここに!?」
「……それはこっちの台詞よ。いったい白峰さんはなにをしてるの?」
「いえ、それは、その……なんといいますかぁ……えっと……」

 菜月はおどおどしている。高貴と戦っていたヤンキーのような態度ではなく、最初に見た時のような態度だ。しかも声まで違っている。

「お、お嬢様に無礼を働いた方に、少し話があったものでして、少しお話をしておりました」
「……そう、人と話すのに刀は必要かしら?」
「こ、これはぁ……ファッションといいますか、おしゃれみたいなものです。これで斬りかかったりなんてしてません」
「………………」
「本当ですってば。少しお話しただけなんです。えと……その……あの……すいませんでした!」

 いきなり菜月が土下座した。それはもうすがすがしいまでの完璧な土下座だ。先ほどまでの態度はどこに行ったのかと思うくらいの低姿勢で、額をぐりぐりと擦り付けている。

「音無……すげーな」
「ふむ、この人は静音のメイドさんなのか?」

 エイルの問いに、静音は少し嫌な顔になって口を開いた。

「一応ね。白峰菜月さんよ。ご迷惑をかけたみたいだから謝るわ」
「いや、そんな……助けてくれてありがとう。でもお前もエイルも何でフェンスを飛び越えてくるんだよ」
「近かったからよ」

 そうっすか……
 まぁ、静音が現れなかったら、間違いなく闘いは続いていた。菜月を止めてくれただけでもかなり感謝するべき所だろう。
 しかし、静音がいったい何をしにここにきたのかはわからない。菜月を止める為なのか、もしくは他に理由があるのか。
 どうするべきかと高貴が悩んでいると、エイルが静音に向かって話しかけた。

「静音、君の持つ《神器》について話があるのだが、今から時間をもらえるだろうか?」

 あくまで友好的に話しかけるエイルに対し、静音はエイルに冷たい視線を送ってきた。それはまるで、エイルを軽蔑するかのような視線だ。静音がこんなに直接的に感情を表現するのは珍しいため、思わず高貴とエイルはたじろいでしまう。

「……わかったわ。ちょうど私もあなたたちに話があったところだもの」
「話ってなんの?」

 高貴の問いに静音が答える前に、ポケットの中から着信音が鳴り響く。自分のスマホに誰かから電話がかかってきたようだ。

「ふむ、でたほうがいいのではないか?」
「ああ、ちょっとごめん」

 高貴は後ろを向くと、ポケットからスマホを取り出す。誰からだろうと思い画面を見てみると、画面には非通知と表示されていて、誰から掛かって来たのかわからない。
 いたずらかと思ったが、もしかするとネコかヒルドあたりが携帯を買ったのかもしれないと考え、高貴は画面をタッチした。

「もしもし」
「ああ、よかった。出てくれた。まぁ出てくれなくても大丈夫だったんだがね」

 スマホから聞こえてきた声は男性のものだ。おそらく年齢はかなり年上だろう。穏やかで、安心感を与えてくるような声だ。

「月館高貴君……で、間違いないかな?」

 しかし、自分の名前を言い当てられた瞬間に、一気に警戒のレベルが最大になる。

「……あんた誰ですか?」

 思わず低い声になってしまったが、それは仕方のないことだろう。電話の主は先ほどとまったく変わらない調子で、あくまで穏やかに言葉を発した。

「《神器》について知っている者だよ」 
「…………はぁ?」

 今、この男性はなんと言っただろう? 自分の耳に異常がなければ、《神器》を知っていると言ってきた。
 ……え、マジで?
 あまりにも予想外の事に言葉を失っている高貴に対して、やはり男性は穏やかな声でさらに言葉を続ける。

「今から会って話がしたい」

 どうやら今日は驚きの連続らしい。



[35117] ご招待
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/04/04 01:32
「ふむ、この車はとても座り心地が良いな。以前乗ったバスとは大違いだ。どうしてバスもこの車のようなシートにしないのだろう?」

 隣ではしゃいでいるエイルをよそに、高貴は緊張で身を固めていた。いったいこのヴァルキリーはどうしてこんなにも能天気なのだろうと本気で疑問に思ったほどだ。
 高貴にかかってきた電話。その主がいったい誰なのかは不明だが、それは静音の知り合いだったようだ。電話はすぐに切れたが、高貴とエイルは静音に誘われるがままに、電話の主に会いに向かっている。
 《神器》のことを知っているという人物に会うために緊張してる高貴だが、そのほかにも緊張している事がいくつもある。
 まず、この車には、自分とエイル以外にも、静音と菜月が乗っているという事。しかもこの車。後部座席が新幹線のようになっており、向かい合わせで座る事となっているのだ。
 特に先ほどから菜月の視線がかなり気になる。気を抜いた隙に殺されてしまいそうなほどだ。
 そしてもう一つ。今乗っているこの車。高貴は車の事など詳しくはなく、せいぜい速く走るものという認識くらいだが、そんな彼でもわかることが一つだけある。
 この車は間違いなく高級自動車と呼ばれる類のものだ。リムジンだかベンツだかは知らないが、お抱えの運転手がいて、座席がこんな風になってるのだから間違いない。
 車は住宅街を抜けて、今は都心を走っている。いったい自分はどこに連れて行かれるのだろうという不安で、高貴は気の休まる暇がなかったのだ。

「高貴、どうしてバスのシートは、この車のように座り心地がよくないのだろう?」

 にもかかわらず、あいもかわらずヴァルキリーは能天気だ。もっとも、この場合はその能天気さのおかげで助かっているのかもしれないが。

「……あのな、これ高級自動車だから。もしもこのシートをバスに使ったら、とんでもなく金がかかるだろ」
「なるほど、しかし車というのは便利だな。ヒルドに頼んで同じ物を一台買ってもらおうか」
「やめとけ! 高級自動車が止まってる学生寮なんて異常すぎる! そもそも止める場所がねーし、免許持ってねーだろ!」
「ふむ、問題ないだろう。私はヴァルキリーだ」
「よけい心配だよ!」

 自動車免許試験は、ヴァルキリーは受けてはいけないという法律をなんとか作れないだろうか?
 いや、そもそもそんな法律は作る必要もないだろう。

「……仲、いいのね」

 そんな二人を見ていた静音がポツリと呟く。
 意外だ。必用なこと以外はまったく口に出さない静音が、高貴とエイルにそんなことを言ってくるというのは、かなり意外な事だ。

「あ、わりぃ。うるさかったか?」
「当たり前です。そのうるさくさえずる舌を切り取ってあげましょうか?」
「……勘弁して下さい」

 本当にやられかねない。スカートの中に手を入れている菜月を見て、高貴はいつでもクラウ・ソラスを取り出せるように準備していた。

「ところで静音、この車はいったいどこに向かっているんだ?」
「……すぐにわかるわ」

 静音はそっけなくそう言うと、エイルから視線をはずす。
 おかしい。静音がエイルを無視することなどいつもの事なのだが、いつもは感じない明確な敵意のようなものを感じる。エイルもそれを理解しているのか、それ以上は問い詰めることなく窓の外を眺めた。
 そのまましばらく沈黙が続き、やがて車が止まった。

「着いたわよ」

 静音がそう言うと、運転していた運転手が車の扉を開いた。扉側座っていた高貴が最初に降りる。目の前に広がっていた光景は……

「…………ビル?」
「……ふむ、大きなビルのようだな」

 後から出てきたエイルが言ったようにビルだった。どこからどう見てもビル。大きくて立派なビルだ。
 しかし、どこかで見たことがある。というよりも来たことがあるような……

「……お、音無! もしかしてここって、SILENTサイレントの本社ビルか!?」

 一番最後に車を降りた静音に向かって、思わず高貴が大声で叫ぶ。

「その通りよ。というよりもうるさいわ」
「ふむ、その|SILENT(サイレント)とはいったいなんなんだ?」
「四之宮にある三つの大手企業の一つだよ。音楽機器を開発してるSILENTサイレント社。電子機器を開発してる鳥羽山エレクトロニクス。小説とかを発行してる文月出版。四之宮にある企業の中でも就職はかなり難しいけど、就職できれば安定した収入は約束されるっていう企業だ。つーか俺が就職したいって思ってるとこ」
「……ずいぶんと……君……詳しいじゃないか」
「当たり前だ。俺は高校一年のときからいろんな就職先を調べてる。下調べに場所とかにも直接行った。平穏に過ごすには、安定した収入は必須条件だからな。ちなみに鳥羽山エレクトロニクスはあそこのビル」

 高貴が指差した先には、SILENTサイレント社と同じくらい高いビルが建っていた。
 とはいえ、いったいどうしてこんな大手企業につれてこられたのだろう。もしかして就職先でも紹介してもらえるのだろうか? それはかなりありがたい。

「まだお気づきにならないのですか? ずいぶんとおめでたい頭をしているようですね。一度分解してみましょうか」
「やめて下さい……つーかどういう意味ですか?」
「はぁ……お嬢様のフルネームはご存知ですか?」
「フルネーム……音無静音」

 菜月の体がすばやく動いた。一瞬でスカートの中からナイフを取り出して、一瞬の躊躇もなしに高貴に向かって斬り付ける。

「うおっ!!」

 警戒心を解いていなかった為、かろうじで高貴はその一閃を回避する。回避事態はしたものの、冷や汗が飛び出してきて止まらない。

「このシャバ蔵……馴れ馴れしく呼び捨てにしてんじゃねーよ……殺すぞ」
「わ、悪かったって! 音無さんです音無さん!」

 呼び捨てにしただけでこれとは……それにしても名前がどうしたというのだろう?
 彼女の名前は音無静音だ。転校初日に名乗ったので間違いない。間違いなく音無……
 音無?

「おとなし……音が無い……え? も、もしかして」
「やっときがついたかこのタコ。静音お嬢様は、SILENTサイレント社の社長の一人娘だよ」
「…………マジで?」

 社長令嬢。菜月がお嬢様と呼んではいたが、まさか本当だったとは。いや待て、となると自分に電話をかけてきたのは……

「ふむ、では先ほど高貴に電話をかけてきたのは、静音の父親か?」
「……その通りよ。早く行きましょう、待ってると思うわ」

 ……マジで?



 高貴とエイルは、静音と菜月に案内されるまま、立派な入り口をくぐり、大きなエレベーターに乗って、あっという間にビルの最上階近くにたどりついた。窓からは四之宮が一望できそうな景色が広がっている。
 戸惑いながらも廊下を歩き、やはりあっという間に大きな扉の前にたどりつく。そこは社長室と書かれている部屋だ。
 つまり、この扉の向こうに静音の父親がいるという事だろう。

「入るわよ。白峰さんはここで待ってて」
「……え? お、お嬢様、それは……」
「いいのよ……もう、いいの」

 これから静音の父と話をするうえで、血の気の多い菜月は邪魔になってしまうかもしれない。それを思って静音は菜月にここで待つようにと言ったのかもしれないが、それだけの理由にしては二人の様子がおかしい。
 菜月の顔には不安が、そして静音の顔には諦めにも似た感情が浮かんでいる。しかし、その理由を聞く前に、静音は社長室の扉をゆっくりと開いた。
 その部屋はまるで、ドラマなどに出てくる社長室のような場所だ。ドラマのセットというものは、やはり実在しているものを参考に作られているのかもしれないと高貴は思った。

「やぁ、待っていたよ」

 いかにも高級そうなデスクに座っていた男性が、高貴たちの存在に気がつく。
 なんだかずいぶんとしっかりしてそうは人だな。それが高貴の第一印象だった。
 恐らくはブランド物であろうスーツをしっかりと着こなし、派手すぎず地味すぎずバランスがしっかりと取れている。40代半ばに見えるが、髪に白髪などは見られず、若々しい印象も受けた。以前マイペースで見かけた、赤倉という男性が成長すれば、きっとこのような感じになるのだろう。

「初めまして。私は静音の父の音無巌おとなしいわおだ。娘がいつも世話になっているようだね」

 巌が高貴とエイルに向かって友好的に笑いかける。

「あ、いえ……こっちこそ、お世話になっています。月館高貴です」
「私はエイル・エルルーンだ」
「取り合えず座ってもらおうか。静音、お茶の用意を」
「はい」

 巌がソファーを勧めてきたので、二人はいわれるがままに腰を下ろす。先ほどの高級車のシートよりもさらに座り心地が良いものだ。巌も向かい側に座り、その間に静音は、備え付けられているポットでお茶を用意して、自分の分も含めて4人分をテーブルに置いた。最後に静音も巌の隣に座る。
 話を切り出し始めたのはエイルだった。

「ふむ、巌さんだったな。単刀直入に聞くが、あなたは《神器》を持っているのか?」
「いや、私は持ってはいないよ。持っているのは知っての通り、娘の静音だ」

 エイルの問いに巌が即答する。確かに目の前の巌から感じる魔力は、一般人と同程度のものだ。しかし、それは魔力を抑えているという可能性も捨てきれない。

「だったら……どうして《神器》のことを知ってるんですか?」
「静音から聞いたんだよ。なぁ、静音」
「……はい」

 巌の問いかけに、静音が静かにうなづく。

「最近静音の様子がおかしくてね。妙だと思って問いただしてみたんだ。そうしたら、いきなり魔法が使えるようになっただの、異世界から魔法の道具が来ただの、わけのわからないことを言い出してね」
「……まぁ、わけがわからないですよね」

 それは高貴にも同じ事だ。実際高貴は、エイルと初めて会った時に、彼女の言うことを一つも理解できず、それゆえに何も信じていなかった。
 しかしそれは不自然な事ではなく、むしろ自然な事だ。この世界には魔術というものはまったく存在しないのだから。

「しかし……私は信じることにしたんだ」
「ふむ、それはどうしてだ?」
「親が娘を信じるのに、理由なんて要らないだろう。それに実際に魔法とやらも見せてもらったしね」
「……なるほど、それなら信じられますね」
「そして、君達はその異世界の産物である《神器》を集めているそうじゃないか。それは間違いないかい?」
「ああ、間違いない。私はそのために異世界から来たヴァルキリーだ」

 もはや隠す必要などないと判断したのか、あっさりとエイルが素性を話す。その問いかけに満足そうにうなづいた巌は、心なしか緊張した様子で言葉を続けた。

「それでは……君たちに頼みがある。静音の《神器》を回収してくれないか?」



[35117] わけのわからない行動
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/04/05 23:33
「……はい?」

 今この男はなんと言っただろうか? 静音の《神器》を回収しろ?

「私はこう考えるんだ。この世界に元々あったものではないのなら、一刻も早くもとの世界に返すべきだとね。それに魔法なんて危ない力は、子供が持つには危険すぎる。いや、大人だって危険だ。このままでは静音は、間違った方向に行ってしまうのではないかと不安なんだよ」
「……確かにあなたの言うとおりだ。この世界には魔術は存在しなかった。だからこそ、《神器》はあってはならない」
「しかし私にはどうしようも出来ないんだ。私は魔法が使えないからね。それに静音も、やはり魔法というものがものめずらしいのか、その《神器》を手放そうとしないんだよ」
「ふむ、なるほど……そういうことだったのか」
「……ずいぶんと、娘さん思いなんですね」

 高貴の言葉に、巌は当然と言わんばかりに胸を張る。

「自分の子供が道を踏み外しそうになった時、親はそれを正してやるものだろう? 今がまさにそのときだと思っているんだ。子供を大切に思わない親なんていないからね」
「親の……役目……」

 高貴の様子が、その一言で明らかに変わった。エイルもそれに気がついたが今は《神器》を優先させる為に頭を切り替える。

「静音、巌さんの言うとおりだ。《神器》などに頼っていたらいけない。それを渡してくれ」
「…………嫌だといったら?」
「少々手荒な事になる。しかしそれは巌さんも望んでいる事ではないだろう?」

 エイルの問いかけに、巌の表情が険しくなる。腕を組んで、しばらく考えをめぐらせた後に、

「それはもちろんだが……私はどうしても《神器》が静音のためになるとは思えないんだ。それしか方法がないというのなら……いや、もちろん怪我はさせないでほしいが……」
「努力しよう。私はヴァルキリーだ。静音、戦いになる前に、そして巌さんにこれ以上心配をかけさせないためにも、《神器》を渡してくれないだろうか?」
「…………」

 静音は何も答えない。
 高貴も黙って静音を見ていた。静音の様子がどことなくおかしく見えたからだ。それはまるで、何かに怯えているような……

「静音」

 巌が、静かに静音の名前を呼ぶ。静音が顔を上げて、二人の目と目が真っ直ぐにあう。

「聞き分けなさい」

 そのたった一言で、静音は……

「……はい」

 とうとう、《神器》を渡す事を了承した。
 エイルがホッと一息を着く。戦わずにすんだ事がなにより嬉しく思えたからだ。

「そうか、それは助かる」
「本当によかった。これで娘の道を正す事ができるよ……ところで話は変わるが、静音は今四之宮から出られないというのは本当だろうか?」

 巌がエイルに問いかける。その時、目の色が少しだけ変わったことを高貴は見逃さなかった。

「ふむ、今この四之宮には、《神器》の持ち主が外に出られないように結界を張っている。《神器》の持ち主だったら気がつくものだが、一般人は気がつかないので、わからなくても無理は無い。しかし《神器》を手放せば問題なく出られるようになる」
「そうか、それは良かった。いくらなんでもこれから先四之宮から出られないようでは不便だろうからね。その結界というものは、私たちのようなただの人間には害がないというのなら安心だ」

 巌がホッとしたように息をついた。すると今度は高貴が口を開く。

「……そういえば、あのメイドのお姉さんは《神器》を持ってるんですか? 魔術を使ってたみたいですけど」
「ふむ、そういえばそうだったな。どうなのだろう?」
「いや……彼女は《神器》を持っていない。それでも魔法が使える理由は……君たちなら心当たりがあるのではないかな?」
「心当たり……」

 高貴が首を傾げる。《神器》以外で魔術を使えるようになる方法など心当たりはない。
 いや、あった。むしろ自分は知っているはずだ。

「ふむ、契約の印エインフェリアルか」

 高貴がその言葉を口にするよりも速く、エイルの口からその言葉が出てくる。巌は正解だとでも言うかのように頷いた。

「私も聞いた話なのだが、静音がやってしまったらしいんだよ。つい出来心だったらしいがね。今は反省もしているようだ」
「あー……ほら、俺も勢いでやられちゃいましたし。まぁあの時はああするしか無かったですけど」
「……そのことはすまないと思っているよ。しかし都合のいいときもあるだろう」
「いやまぁ、そうだけどさ……」

 戦いの時に便利だったりするときも確かにある。しかし意外だ。静音は出来心でそんなことをするような人物とは思えない。

「さぁ、とにかく静音の《神器》を回収してくれ。静音、渡しなさい」
「……アイギス」

 静音が《神器》の名前を呼ぶと、その右手に黄金の指輪がはめられた。それは間違いなく《天輪アイギス》であり、四之宮に散らばった《神器》の一つだ。
 静音がアイギスをゆっくりと指からはずすと、アイギスをテーブルの上に置いた。

「さぁ、持って行ってくれ。本来あるべき世界にね」
「感謝する。おかげで穏便に事を運ぶ事ができた」

 巌が笑顔でエイルに向かってそう言うと、エイルは快くそれを了承して、アイギスに手を伸ばした。
 しかし、その伸ばした手は、アイギスに触れることなく空中で止まった。

「……高貴?」

 エイルの伸ばした右手を、高貴の右手がつかんで止めたからだ。その右手には結構な力がこめられており、エイルは手を動かす事ができない。
 エイルが、巌が、そして静音までもが、高貴のこの行動の意味を理解できずに、ただただ呆然としている。

「高貴、いったい何をしている?」
「……いや、その……なんていうか……」

 高貴の態度もはっきりしない。自分でもどうしてこんなことをしたのかはっきりしていない様子だ。

「その……い、今は……まだいいだろ」
「……なに?」
「だから! 《神器》は返してくれるって言ってるんだから、何も今すぐに返してもらわなくてもいいだろって事だよ。ほら、もう少し音無に持っててもらってもいいだろ」
「君は何を言っている? なぜ後回しにする必要がある?」
「確かに、後回しにする必要などないよ」

 エイルの意見に賛成したのは、少し難しい表情になった巌だ。

「私としては心変わりをしないうちに、回収してほしいと思っている。下手に後回しにすると、未練が残って戦いになるかもしれない。そうなれば危ないのは静音だけではなく、君達も同じだろう」
「ふむ、その通りだ。高貴、私も巌さんと同じで、今回収させてもらったほうがいいと思うよ」

 ああ、そうだろうさ。今アイギスを貰っておかないと、俺は絶対に後悔する。その確信ははっきりとある。だけど、自分でもよくわからないけど、今音無から《神器》を貰ったらダメだ。
 こいつの、さっきの眼を信じられない。音無に聞き分けろといったあの目は……あの目は、大人が子供に恐怖を与える時の目だ。

「月館君……どうして?」
「……と、とにかくそういうことだから」

 そして不審な点がもう一つ。静音が《神器》を手放さなかった理由だ。完全に高貴の勘にすぎないが、静音が《神器》を持っている理由は、ものめずらしいからという理由では決してない。もっと他になにか理由がある
 だからこそ、彼女はアイギスを手放したくないのだ。

「高貴! わけのわからないことをいうな!」
「……だあああっ! とにかく今日のところは帰ります! お茶ご馳走様でした! 帰るぞエイル!」
「ちょ、こ、高貴!」
「……エルルーンさんに、逆らった?」

 高貴がエイルの手を握って立ち上がる、すぐさま走りだそうとしたその時――

「おじょーーーさまあぁぁーーーーっ!」

 突然両手に刀をもった菜月が、社長室の扉を開いて中に入ってきた。その目は血走っており、完全に頭に血が上っているのがわかる。

「お嬢様はあたしが守る! お嬢様の《神器》は絶対にわたさねーぞ! 持っていきたいならあたしを倒してみろやあっ!!」
「いや、別にいらない。もう帰るからどいてくれ」
「…………へ?」

 が、しかし。高貴の一言であっさりと動きが止まり、

「それじゃあ失礼しました!」
「ま、待て高貴! 引っ張るな!」

 颯爽と走り出す高貴とエイルを、三人はぽかんとした表情で見送ったのだった。

 ◇

「高貴! いったいどういうつもりだ!」

 高貴に手を引っ張られながらも、エイルの抗議の声を休めない。ビルの廊下にエイルの怒鳴り声が響く。
 エレベーターのボタンは押したのだが、ここは高い階のためか、なかなかやってこなかった。

「だ、だからさぁ……くれるって言ってるんだから、別に急がなくてもいいだろうって事だよ」
「そんな理由が納得できるか! 早く戻って静音からアイギスを受け取るべきだ!」

 ごもっとも。エイルの言っていることは全てが正しい。しかし、高貴はその答えに納得できない。

「少し落ち着けよ。だいたいさっきの音無の態度なんか変だったろ? それに、なんつーかあのおっさんも変な感じしたっていうか……」
「どこがだ? 静音のことを大切に思っているいい父親だったじゃあないか。とにかく戻って――」

 そのエイルの言葉が途中で遮られた。エイルの目の前に、赤い文字で《エオー》のルーンが浮かび上がってきたからだ。苛立っていたのかエイルは、周囲の確認もせずにその文字に触れる。文字は雫となって空中に溶けると、

「ちょっとエイル! 今どこにいるのよあんた!」

 高貴とエイルの頭の中に、ヒルドの声が聞こえてきた。なにやら怒っているような、焦っているような声だ。

「今忙しいんだ。切るぞ」
「ま、待ちなさい! ヴァルハラから連絡が来たのよ! 《|ᛖ(エオー)》が飛んで来たの!」
「別に通信などお前やネコがいれば問題ないだろう。それよりも今私たちは――」
「ロスヴァイセ様から連絡が来たのよ!」

 ピタリと、エイルの体がわかりやすいほど止まった。

「な、何だと?」
「だからロスヴァイセ様から連絡が来たって言ったの! あたし達全員と話がしたいそうよ。さっさと帰ってきなさい!」

 ヒルドは本当に慌てているようだ。いったいろすヴぁいセとは誰なのだろうと考えている高貴をよそに、

「す、すぐに戻る! 今すぐに戻る!」

 エイルもとたんに慌て始めた。それと同時にエレベーターがやってくる。
 ヒルドは「早く来なさいよ!」という声を最後に、頭の中に声が聞こえなくなったので、通信を切ったのだろう。

「急げ高貴! もたもたしている暇はない!」
「え? 《神器》は良いのか?」
「そんなものはどうでもいい! 早くしろ!」

 ……いいのかよおい、俺としては助けるけど。
 それにしても、今日は本当に忙しい一日になるようだ。



[35117] 戦女神様からのお言葉
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/04/13 06:27
「でさぁ……さっき言ってた人って結局誰なんだよ?」

 音無親子と会ってから約20分後。自宅に戻った高貴は取り合えずエイルにそうたずねる。
 ちなみに|SILENT(サイレント)社のビルからここまでは、車を使っても20分。高貴は車など持っておらず、送ってもらったわけではない。にもかかわらず車と同じ時間でどうして帰れたのか。
 その答えはヴァルキリーにある。
 何を考えているのかエイルは、高貴の腕を引き、時には全力で走り、住宅街に入ってからは屋根から屋根に飛び移り、かなりのショートカットを行ったからだ。
 守秘義務など知ったことではないとでも言わんばかりに、エイルはひたすら走った。間違いなく途中で誰かに見られただろうが、高貴は気のせいだと思ってくれるように願うばかりだ。
 そんな心配をよそに、そのヴァルキリーは――

「ヒルド、まずはなにが必要だろう? やはりお茶か? それともコーヒーか?」
「おお落ち着きなさいよエイル。ロスヴァイセ様は確かケーキが好きだって聞いた事があるから、とりあえずケーキ買ってきなさい。あたしはお茶入れとくわ」
「流石だなヒルド。私は買いに行ってくる。今日のマイペースのオススメはなんだろう?」
「知らないわよ。もう全部買ってきなさい。むしろ店ごと買ってきなさい。これカード」
「落ち着けバカども! つーか俺のバイト先潰す気か!」

 耐えきれずに思わず高貴が叫んだ。ビクッと体を震わせて二人のヴァルキリーが大人しくなる。

「ま、まぁ高貴の言うとおりだよ。少しは落ち着いて二人とも」

 高貴の隣に座っていた真澄も苦笑しながら二人をなだめた。しかし、

「だ、だって君達、ロスヴァイセ様だぞ!」
「失礼なことしたらどうなると思ってんのよ! ヴァルキリークビになって仕事失って路頭に迷う人生なんてゴメンよ!」

 ……うすうす感づいてはいたけど、ヴァルキリーってやっぱり職業だったのか。
 しかしヒルドまでここまで取り乱すとは珍しい。

「それで、誰なんだよその人」

 改めて高貴がエイルに問いかける。

「君には前に言ったが、《戦女神ヴァルキュリア》という存在がいると教えた事があっただろう? その内の一人がロスヴァイセ様だ」

 《戦女神ヴァルキュリア》。確かエイルたちヴァルキリーの、上司のような存在だと前にエイルは言っていた。

「偉い人ってこと?」
「偉くてすごい人よ。ヴァルハラに存在するヴァルキリーの中でも、もっとも優秀な九人の事をそう呼ぶの。最前線で現場の処理とかをするのがあたし達《戦乙女ヴァルキリー》。その上に存在する九人の《戦女神ヴァルキュリア》。その上に立つのが最高の権限を持つフレイヤ様よ。わかりやすく言えば、社長、上司、社員ってとこね」
「ふーん……あれ? そのフレイヤ様が一番偉いってこと? 二人の住んでたヴァルハラって、確か北欧神話に近いんだよね? 一番偉い人ってオーディン様って神様じゃなかったっけ?」
「ふむ、確かにヴァルハラの主神はオーディン様だよ。わかりやすく言えば、そうだな……この世界に当てはめると、フレイヤ様は警察で一番偉いお方で、オーディン様は国で一番偉いお方と言ったところだ」

 なるほど、オーディンという神は、組織の上に立っているらしい。
 しかしそう考えると、そのロスヴァイセという人物がそれほど偉いとは思えない。だが二人の様子を見るからに、かなり緊張しているのが伺える。
 まぁなるようにしかならないだろうと高貴が考えていると、部屋のどこにもネコがいないことに気がついた。

「ヒルド、ネコはどこ行ったんだ?」
「知らないわよ。てゆーかあんなのいなくても良いわ。ロスヴァイセ様にふざけた態度でもとったらあたしの首が飛ぶもの」

 いいのかよおい。
 だがヒルドの言う事にも一理ある。ネコは四六時中ふざけているからだ。
 初めて話す人物、そしてえらい人ということもあり、高貴も二人につられて緊張している。それは真澄も同じのようで、正座したまま不安そうにしている。

「いいか二人とも。とにかく失礼の無いようにだぞ」
「やっぱりエイルもクビは怖いの?」
「当然だ! 私はヴァルキリーだ!」

 その言葉も言えなくなるわけか。

「それに――ん?」

 エイルの言葉が遮られる。部屋のテーブルの上に、オレンジの光が突然現れたからだ。そして、エイルとヒルドも真澄と同じように正座の姿勢をとる。
オレンジの光が段々と形を成していき、《エオー》の文字に姿を変える。それにエイルはおそるおそると言った様子で触ると、文字が弾けて消えた。
 そして……

「皆、そろっていますか?」

 頭の中に直接声が響いてくる。穏やかな女性の声だ。先ほどの静音の父よりも、さらに安心感を与えてくるかのような声。しかしエイルとヒルドはやはり緊張した様子でいる。

「は、はいロスヴァイセ様。あたしたちヴァルキリー二人に、四之宮での協力者が二名そろっています」
「そうですか」

 ヒルドの言葉に、満足そうな声で答える。

「協力者の方々は初めましてですね。私はロスヴァイセ。ヴァルハラの《戦女神ヴァルキュリア》の一人です」
「は、初めまして。月館高貴です」
「えと……弓塚真澄です」

 偉い人物と聞いていたが、想像以上に丁寧な話し方をする女性のようだ。

「話は聞いています。弓塚真澄さん、あなたは《星弓アルテミス》を見つけてくれたようですね。大義でした」
「いえ、そんな……」

 実際は見つけたといっても店に売られていたもので、さらにはお金を払ったのは高貴なので、真澄は複雑そうな顔をしている。

「そして月舘高貴さん。あなたは《光剣クラウ・ソラス》に目を付けられた被害――ではなく、選ばれただけでなく、《銃槍ゲイ・ボルグ》の回収にも貢献したそうですね。大義でした」
「あの……途中なんて言い掛けたのか聞いてもいいですか?」

 かなり聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。しかしそんな高貴の言葉を無視して、ロスヴァイセはさらに言葉を続ける。

「今回は私個人が皆さんにお礼を言いたいが為に、皆さんの時間をとらせてしまいました。そのことについては申し訳ございません」
「おやめくださいロスヴァイセ様!」
「そ、そうですよ! ロスヴァイセ様からお言葉をいただけるなんて、すごく光栄です!」
「そう言っていただけると助かります。ところでエイルさん、あなたは少々遅れたようですが、いったいなにをしていたのですか?」

 ビクッとエイルの体がふるえる。心なしか、口調も声色も変わっていないにも関わらず、ロスヴァイセから威圧感のような物が放たれているように高貴は感じた。

「いえ、その……《神器》の持ち主とあっていました。それで《神器》をヴァルハラに回収してほしいと頼まれました」
「エイル、もしかして音無さん?」

 真澄の言葉に、エイルがこくりと頷く。

「それではまた《神器》を回収出来たのですね。それは大義でした」
「いえ、その……」

 エイルが困ったようにちらりと高貴に視線を向ける。ここは自分が話すべきだと考えた高貴は、エイルのかわりに口を開いた。

「あの……回収はまだしてないんです」
「……いま、なんと?」
「で、ですから……まだ返してもらってません。しばらく預かってもらおうと――」

 瞬間、すさまじいプレッシャーが高貴たちを襲った。それは次元を超えてまで伝わってくる、ロスヴァイセのから放たれたものに違いない。
 高貴と真澄だけでなく、エイルとヒルドまでが震え上がる。

「……《神器》を回収してこなかったというのはどういうことでしょう? 百歩ゆずって、戦いの末に逃げられたなどならまだ許せますが――」

 怖っ! この人超怖っ!
 何で今日はこんなに怖い人に出会うんだよ!

「そ、そのっ! なんだか様子がおかしかったんです! アイギスを渡すのを拒んでたのに、急に渡すって言ってましたし! それから……あー……すいませんでした!」

 土下座。
 見えない相手に向かって高貴は思い切り頭を下げた。
 しばらく沈黙が続く。その場にいる全員がロスヴァイセの次も言葉を待っていると……

「《天輪アイギス》……わかりました。ですが回収できるように努めて下さい」
「は、はい! もちろんです!」

 顔を上げて何度も高貴がうなずく。

「では私はこれで失礼します。皆さんどうか、ご無事で事を済ませられることを祈っていますよ」

 その言葉を最後に、その場を支配していた圧倒的な威圧感が消え去る。それでもしばらくの間誰も動けないでいたが……

「……はぁ……無事に済んだみたいね」

 ヒルドが大きなため息をついて姿勢を崩すそれを合図にしたかのように、全員が姿勢を楽にした。

「なんだか……すごい人だったね。二人があんなになってた理由もわかるよ」
「ふむ……わかってもらえて嬉しいよ」
「てゆーか月館! さっき言ってたのってどういう意味よ! さっさと《神器》返してもらえばいいじゃない!」
「いや……そうなんだけどさぁ……」

 返す言葉もない。エイルも非難するように高貴を見ている。

「なんか理由あったの?」
「ああ、なんつーか……音無の父親にあったんだけどさ。なんかこう怪しかったっつーかなんというか」
「はっきりしないわね。どうだったのよエイル」
「ふむ、私の見た感想は、娘思いのいい父親に見えたがな。《神器》の力に頼るのは、静音の為にならないから、私達に回収を頼んだらしい」

 そのあとエイルは、静音の父と話したことをなるべく詳しく話した。

「ふぅん、なかなか話のわかる親じゃない。月館、どこが怪しいのよ?」
「いや……はっきりとはしないんだけど……」
「ま、まって! 高貴が言うんなら本当かも知れないよ。高貴って、そういうのわかる人だから」
「真澄、ずいぶんと高貴の肩を持つな。いつもなら非難の言葉を浴びせるだろうに」
「うん……親の態度とか、高貴は敏感だから。高貴の両親の事もあるし……」

 真澄がそう言うと、エイルはキョトンとして首を傾げる。

「ふむ、高貴のご両親はどうかしたのか?」
「え? あんた聞いてないの? 月館の親って、結構前に亡くなったらしいじゃない」
「……初耳なのだが」

 そういえばエイルには言っていなかったと高貴は今更ながら思った。しかし別に伝えておかなくともいい事ではあるので、特に問題は―― 

「どうして教えてくれなったんだ!」

 ……あったらしい。エイルは明らかに怒っている。

「いや……別に言わなくてもいい事だろ?」
「よくなどない! それともうひとつ、真澄が知っているのは理解できる。君たちは幼馴染だろうしな。しかしどうしてヒルドが知っている?」
「あたし? 初めてここに来た日に聞いたわよ」
「は、初めて来た日……」

 なぜかはよくわからないが、エイルはかなりショックを受けているようだ。
 まぁ、放っておけば直るだろう。

「そんなわけで、音無にはもう少し《神器》を持っててもらうことにしたんだ。また今度連絡とって見るよ」
「はぁ……わかったわよ。ここはあんたの言うとおりにしてあげるわ。じゃあ話は終わりね。あたし今日は疲れたから早く寝るわ。もう夕飯作るわね」

 そう言ってヒルドは立ち上がる。今の時刻は午後4時半。いくらなんでも早すぎる気もするが、それだけロスヴァイセとの会話が疲れたということだろう。

「じゃあわたしも帰るね。なんかあったら呼んで」
「ああ、わざわざありがとな」

 真澄も立ち上がると「それじゃね」と言い残して部屋から出て行った。
 残されたのは高貴と、いまだに放心状態のエイルだ。

「おいエイル。俺は今から宿題するけど一緒にやるか? わかんないだろどうせ?」
「………………」

 返事は返ってこない。
 もうしばらく放っておこうと結論付けた高貴は、かばんの中から勉強道具を取り出す。
 静音の件をどう片付けるかなどまったくわからないので、それも考えなくてはいけない。そんなことも頭の片隅に浮かべながら、高貴は問題を解き始めた。



[35117] 人の気持ち
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/04/26 00:21
 怒涛の連続だった日の翌日の午後2時。補習を終えた高貴は、マイペースでアルバイトに勤しんでいた。
 いつもならばエイルやヒルドも一緒に来るのだが、二人は《神器》を探すために町を歩いている。昨日ロスヴァイセからの連絡を受けてやる気になったのか、はたまた恐れているのかは不明だ。
 故にマイペースにいるのは高貴と真澄、そして詩織のみ。
 もっともそれは働いている人物(ヴァルキリーたちはそもそも客だが)という意味であり、今日のマイペースにはちゃんとした客も来ていた。
 来ていたのだが……その客は高貴にとって、あまり歓迎したくはない客なのだ。

「……今日はもう帰るよ」

 その客……赤倉優がカウンターの席から立ち上がる。
 1時間ほど前に赤倉はマイペースにやってきて、コーヒーを頼んだきり今日は大人しくしていた。前のように怒鳴ることはなかったので高貴達も何もいわなかったが、やはり高貴も真澄も彼を好きにはなれないらしい。

「今日みたいにコーヒーを飲みに来てくれるならいつでも歓迎するわ」

 ニコリと詩織が笑いかけて赤倉を見送った。その優の背中に高貴と真澄は「二度と来るな!」と怨念を送ったのは言うまでもない。

「……はぁ、やっと帰った。あいつがいると店の雰囲気が悪くなる」
「同感。前みたいに怒鳴るんじゃないかってかなりビクビクしちゃうよ」
「二人とも心配しすぎよ。赤倉君は元々温厚な人なんだから」

 赤倉のカップを片付けながら詩織が苦笑する。

「確かに今日は大人しかったですけど……詩織さん、あの人わたし達がいないときに来て怒鳴ってたりしませんか? もしそうならわたしたちでやっつけます」
「たしか赤倉君ケンカ強いわよ?」
「大丈夫ですよ。な、真澄」

 高貴の問いかけに真澄がうなづく。《神器》持ち主となって身体能力が上がっている二人ならば、確かにケンカが強いという赤倉にも勝てるだろう。
 そんなことを考えていると、カランカランとドアのベルの音が響いた。客が入ってきたようだ。
 すぐさま高貴が接客に向かう。

「いらっしゃいませ……あ」

 入ってきた人物を見て、高貴は思わず接客の対応を忘れそうになってしまう。入ってきたのは高貴のよく知る人物だったからだ。
 入ってきたのは、高貴よりもかなり年上の男性だ。昨日あった静音の父よりももう少し年上で、初老と言っても差支えがないかもしれない。スーツを着こなして、眼鏡をかけた落ち着いた風貌の人物だ。

「こんにちは高貴君、久しぶりだね。元気そうでなによりだ」
「はい、里中先生もお元気そうですね」

 里中と呼ばれた人物は、高貴に笑顔を返すと中に入ってくる。通いなれたようにカウンターに腰を下ろした。

「やぁ、詩織ちゃんに真澄ちゃん。久しぶりだね。なかなか顔を出せなくて申し訳ない」
「前に来たのって……春ごろでしたっけ?」
「てっきり忘れられたのかと思ってました」
「はは、そんなことはないんだがね。カフェオレをもらえるかな」

 詩織がカフェオレの準備を始める。
 里中。本名は里中修一。四之宮の住宅街にある四之宮病院に勤めている医者だ。住宅街にある病院は都心にある病院よりも、四之宮に住んでいる人にとっては身近であり、里中自身長く努めているということも会って、住宅街に住む人は里中を知っているものが多い。
 高貴達もその一人であり、病院では世話になっている人物だ。

「二人とも、今は学校は夏休みだろう。なのにアルバイトなんて精が出るね」
「まぁ、俺は特にやる事もないんで」
「わたしはここが好きですし」
「そうか、私もマイペースは好きなのだが、なかなか時間が取れなくてね」
「仕方ないですよ。里中先生はお医者さんですし。本当にさっきの医者とは大違い……」
「ん? 誰か医者が居たのかな?」

 真澄の小さな声に里中が食いつく。

「赤倉とかいうやつが来てたんですよ。でもなんかあの人苦手っていうか……」
「ほう、優君か。彼は将来優秀な医者になると思うがね」
「知ってるんですか?」
「ああ、彼は元々四之宮病院に勤めて居たんだよ。けど中央病院に移動したんだ。というのも私が推薦したんだけどね。彼はまだ若い。それに向上心もあったから、いろいろと設備の整った中央病院のほうが彼のためになると思ったんだ」

 どうやら里中は赤倉の事をかなり評価しているようだ。高貴と真澄は赤倉はともかく里中の事を嫌いではないので、そう言われると複雑な気持ちになってしまう。

「中央病院に行った当初は、こまめに近況の報告をくれたんだが、最近はめっきりでね。彼もやはり忙しいんだろう」
「はぁ? 世話になった里中先生にたいしてどういう態度とってるんですかあいつ」
「やっぱダメですよ。あの人嫌いです」
「い、いや……なにも義務付けているわけではないし、別に構わないんだよ。ただ何かあったんじゃないかと心配でね。中央病院の知り合いとも話したんだが、彼はあまり評判がよくないそうなんだ。真面目だからそんなことはないと思うんだがね……」
「いやー妥当な判断ですよ。あいつ性格悪そうだし。つーか先生に心配かけてる時点でダメっすよね」

 高貴の言葉にやはり里中は苦笑いになる。

「エイルとヒルドも居ればよかったんですけどね。先生に紹介したかったですし」
「ん? 聞かない名前だね。それに日本人とも思えないし……外国人かハーフの人かな?」
「外国人ですよ。もし機会があったら紹介します」

 今はどこぞをほっつき歩いているだろうから無理だろう。《神器》の手がかりが見つかる事を高貴はとりあえず祈っておいた。



「ネコ、私は思いちがいをしていたのかもしれない」

 エイルは四之宮公園のベンチに座ったままため息をこぼした。その膝の上にはネコが座っており、エイルの手は優しくネコを撫でている。

「なーにがぁ? よくわかんないけどお姉さん的には気にしなくていいと思うわよ」

 ネコはあくび交じりに返事をする。撫でられているのが気持ちがいいのか、心なしかうれしそうな表情だ。

「私は高貴とすごして、彼のことを少しは理解できたつもりでいたんだが……それは間違いだったのかもしれない。彼のご両親が亡くなっていたということを、私は昨日初めて知ったんだ。ヒルドですら知っていたようなことにもかかわらずだぞ。どうして付き合いの短いヒルドは知っていて私は知らなかったのだろう?」
「会話の流れとかで言っちゃったんじゃないの? そんなの気にしなくていいじゃない。《神器》探すのに身が入らないのもそれが理由?」

 エイルのネコを撫でる手がピタリと止まる。その動きはすぐに再開されたが、ネコの指摘が正しい事を意味していた。

「ふむ……私はヴァルキリーなのに、こんな事ではダメなんだがな。しかし高貴のことといい、そして昨日の静音のことといい、私はもう少し他人を理解したほうがいいのかもしれない。昨日高貴は巌さんの話を聞いて不審に思ったらしいが、私は何も思わなかった。そして静音の気持ちも考えずにアイギスを回収しようとしてしまったからな」
「ヴァルキリーとしては正しいんだけどねそれ。《神器》が最優先。まぁ四之宮の市民の安全と魔術の隠蔽も優先事項だけど。《神器》探しに身が入らないのもそれが原因なの?」
「ふむ……確かにそうだ。しかしこれではサボっているのと同じようなものだな。ヒルドに申し訳がない」
「ヒルドだったら都心で買いものしてると思うわよ。ほしいものあるって言ってたし」
「……今日は攻められないな」

 もう一度ため息をついてエイルは空を見上げる。空は雲ひとつない晴天だ。真夏の太陽の日差しがかなりきつく、うっすらと汗もかいてきている。

「はぁ……静音はどうして《神器》を手放したくないのだろうな……」
「猫に向かって話しかけるなんて、はたから見たら不審者以外の何者でもないわよ」
「「…………え?」」

 重なる疑問符。その声は唐突に聞こえてきた。エイルの声でもなく、ヒルドの声でもない声が、すぐ近くから聞こえてきたのだ。
 そして、変化も唐突に訪れた。自分の座っているベンチ、そのすぐ横が蜃気楼のように揺れているのだ。

「な、なんだ!?」
「魔力!?」

 エイルとネコが慌ててその場から離れる。蜃気楼がゆっくりと収まっていき、今までそこには居なかったはずの人物が、ゆっくりとその姿を現した。

「……し、静音?」

 そう、音無静音だ。制服姿の彼女は、ベンチに座ったまま本を読んでいる。

「い……いつから……」
「最初からよ。私がここに座って本を読んでいたらあなた達が来たの」
「魔力……感じなかったけど」
「アイギスの結界よ。動けないけど魔力を完全に隠して、なおかつ自分の姿を隠せる。もっとも使ってる間は動けないけど」

 エイルとネコの疑問に淡々と静音が答える。静音の指にはアイギスがはめられており、魔術を使っていたと言うのは本当のようだ。

「ここはあまり人が来ないから私のお気に入りなのよ。でも最近はよく人が来るわ。今日のあなた達、この前の月館君たち……それに弓塚さんを守ってベルセルクと戦ってたりもしたわね」
「真澄を……もしかして真澄に魔術の存在がばれてしまった時か? ではあの時私が感じた見られているような感じは君だったのか」
「それに……ベルセルクはよくここに出没してたみたいだけど、もしかしたらおっぱいちゃんが居たからかもね」
「どうかしらね」

 そうはいうものの、静音は肯定しているようなものだ。しかしまだ謎は残っている。

「静音……どうして私たちの前に姿を現した? 無視することも出来たはずだ」
「……時間がないからよ」

 パタンと、静音が本を閉じる。

「本当は昨日で最後だと思っていたわ。アイギスをあなたたちに回収されてね。でも昨日の月館君のおかげでもう少しだけ時間ができたみたいね」
「時間とはどういう意味だ?」
「……あなたならわかるでしょう? 同じことをしたのだから」
「ふむ、すまないがわからな――」

 瞬間――静音のアイギスに光が灯る。それだけではなく、静音の魔力が高まっていく。
 身の危険を感じたエイルは、とっさに一歩後ろに下がった。

「エイル!」
「わかっている。来い、契約の槍!」

 反射的にエイルが槍を手にする。同時にネコも動いた。長い茶色の尻尾、その先に茶色の光が灯る。

「《オセル》、《ハガル》、《ペオース》、バインドルーン・トライ――《おぼろげな世界ディムスペース》」

 描かれた三つのルーンが、地面と空中に溶けていく。四之宮中学校の時と同じように、この公園一帯に人払いの結界を張ったのだ。

「――戦うつもりか?」

 エイルが静かに静音に言い放つ。

「ええ――そのつもりよ」

 静音も静かにそれに答える。

「ふむ、理由がわからない。私としては君とは戦いたくはない。それに戦う理由自体――」
「私にはあるわ」

 言葉は遮られた。静音の顔には一切の迷いがない。そして、明確な敵意がエイルに向けられている。普段は表情を崩さず、感情を表に出さない静音が、明確な敵意を、はっきりとした怒りをエイルに向けている。

「私は君に恨まれるような事を何かしてしまったのだろうか?」
「……いいえ、特には。ただ――」

 静音がゆっくりと、右手を前に伸ばした。

「あなたのした事が――気に入らないのよ!」



[35117] 彼女の秘密
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1
Date: 2013/05/04 05:30
「あなたのした事が――気に入らないのよ!」

 その一言は、エイルが知る限り初めて聞く、静音の叫びだった。
 静音の右手にはめられているアイギスに光が灯る。

「くっ――」

 身の危険を感じたエイルは後ろに下がる。ネコはすでに二人の戦いに巻き込まれないように走り始めていた。

「《ソーン》――!」

 エイルの右手がすばやく動き、空中にルーンが描かれた。バチッと、彼女の右手に雷光が弾け、それを静音目掛けて解き放つ。
 元々隣同士に座っていただけあって、二人の距離は5メートルあまりしかない。その短い距離を一瞬で雷は詰めていく

「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《平面ウォール》」

 その至近距離の電撃は、静音の作り出した緑の障壁によって防がれた。
 雷の弾ける音はまるで無力を嘆く叫びのよう。雷が消え去っても、障壁にはなんの乱れもない。

「高貴たちの言っていたバリアか……」

 エイルは高貴とヒルドから、《天輪アイギス》の能力を聞いている。鈴木太郎の持つ《銃槍ゲイ・ボルグ》の攻撃をやすやすと防いだという障壁。実際に目の当たりにしてみると、その強度がよく理解できる。
 《エイワズ》のルーンとは比べ物にならないほどの障壁だ。

「ふむ、遠慮は必用ないな!」

 エイルが地面を蹴った。
 静音の《神器》は指輪の形をしているため、第三者から見れば武器など持っているようには見えない。そんな彼女に斬りかかるのはいささか抵抗があり、故にルーンを放ったのだが、そんな余裕を見せていられる相手ではなさそうだ。
 静かに、そして力強くそこにある緑の障壁に、エイルは全力でランスを振り下ろす。バシイィィィッ!! と轟音が響き、ランスと障壁の接触している面から緑の光が飛び散る。
 しかし破る事はできない。一度武器を引き、二度、三度と叩きつけてもそれは変わることは無かった。
 ならばと勢いをつけて刺突を放つ。それでも障壁は破れない。見た限りでは数ミリしかない厚さの障壁。それがまるで分厚い鋼鉄の壁であるかのような錯覚がエイルを襲う。

「無駄よ。あなたじゃ壊せないわ」
「くっ……ならば!」

 エイルがランスから左手を離し、再び《ソーン》のルーンを刻んだ。

「それはさっき無駄だったはずよ」

 静音の言うとおり、初撃の《ソーン》はあっけなく防がれてしまっている。にもかかわらず再び同じルーンを刻む理由が静音には理解できなかった。
 しかし――

「なっ――」

 視界から不意にエイルが消える。エイルが静音の右側に回りこんだのだ。
 静音の作り出した障壁は、自分の前方のみを守るもの。ならば側面から攻撃してやればいい。それを思いついたエイルは、すかさずそれを実行した。
 エイルが右手をを静音に向ける。そこには遮る物など何一つ無い。鉄壁の障壁はもはや意味を失っている。

「いけぇっ!」

 迸る雷を解き放――

「《二重ダブル》」

 解き放ったのと、静音が言葉を発したのはまったく同じタイミングだった。静音の声と同時に、再びエイルと静音を隔てる障壁が一瞬で出現する。
 至近距離で放たれた雷は、初撃の雷と同じようにあっけなく防がれて消滅した。

「せっかくの名案だったのに残念ね」
「……ふむ、想定内だ。特に問題はない」

 そうは言うものの、エイルの表情はとても悔しそうだ。

「それにまだまだ隙はある。そこをついていけば――」
「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《球体スフィア》」

 二枚の障壁が消えて、今度は静音を包み込むよう、に球形の障壁が現れた。エイルは思わずぽかんとしてしまう。

「隙はなくしたわ。というよりも月館君にアイギスの能力を聞いてなかったの?」
「……き、聞いていたさ。もちろん想定内だ」

 実際は聞いていない。高貴とヒルドがエイルに話したアイギスの能力は「なんかすっげーバリアみたいな感じ」というものであり、エイルも詳しく追求はしなかったのだ。こんな事ならばもう少し詳しく聞いておくべきだったと後悔しても後の祭り。
 これで障壁の隙をつくという手段は使えなくなったということになる。

「試していくしかないか……《ソーン》、《ベオーク》、バインドルーン・デュオ!」

 短い攻防で打つ手がほとんどなくなってしまったエイルは、静音と再び距離をとってルーンを刻む。
 青い軌跡で描かれた二つのルーン。《ソーン》と《ベオーク》が一つの光となっていく。

「集え、青き雷光―――《雷光の槍ブリッツランス》!」

 エイルのランスが青い光に包まれる。雷を纏ったランス、その切っ先をエイルは静音に向ける。

「白峰さんのと同じようなものね……でもそれじゃあ《天輪の守護障壁アンブレイカブル》は破る事はできないわ」
「ずいぶんな自信だな。しかしやってみなければわからない!」

 エイルがもう一度静音に向かう。青い軌跡を描きながら繰り出される攻撃。しかし静音の言ったように、何度ぶつけても《天輪の守護障壁アンブレイカブル》を壊す事はできない。
 エイルの表情には焦りが、静音の表情には余裕が――浮かんでいなかった。静音の表情も余裕が無いものとなっている。
 明らかにおかしい。エイルの攻撃を全て防いでいる彼女に、いったいどんな焦る要素があるというのだろう? その疑問の答えはエイルにはわからなかったが、エイルの口は無意識の内に違う答えを求めて言葉を放った。

「君は、私のした事が気に入らないと言ったな? 私がいったい君に何をした?」
「……心当たりがないというの?」
「……もしかして以前図書室で高貴と君の勉強を邪魔してしまった事か? それとも昼休みの昼食を何回も誘ってしまったことだろうか? もしくは――」
「違うわよ! そんなくだらない事じゃないわ!」

 二度目の大きな声。
 エイルの攻撃の手を休めない。《天輪の守護障壁アンブレイカブル》にむけてランスを勢いよく突き刺す。青と緑の光が飛び散り、耳に響く音が辺りに広がる。

「自覚がないって本当に腹が立つわね。あなたが月館君にしたことよ」
「私が高貴に……すまないが心当たりが多すぎるぞ。私は彼にどれだけ迷惑をかけてきたのか自分でもわかっていない。無意識の内に迷惑をかけたことも当然あるだろう」
「この……彼にエインフェリアルを植えつけたでしょう! 本人が言っていたし、あなたも認めていたじゃない!」
契約の印エインフェリアル……」

 確かに静音の言うとおりだ。エイルは高貴に契約の印エインフェリアルを行い、クラウ・ソラスと対話させた。その行動は確かに褒められたものではなく、高貴に最も迷惑をかけてしまった行動ととられてもおかしくはない。
 しかし、どうしてそれを静音は気に入らないのかが理解できない。そもそも静音も白峰菜月にたいして契約の印エインフェリアルを行ったはずだ。
 だが、エイルは一つの可能性を思いついた。自分と高貴が契約の印エインフェリアルを行って、静音が気に入らないと思う理由を。

「ま、まさか……君は……」

 エイルが静音から距離をとった。そして驚いたような表情になり……

「自分のしたことがどれだけひどい事かという事がわかったみたいね。でも――」
「もしかして君……高貴と結婚したかったのか?」
「……は?」

 沈黙。
 エイルの一言は静音の思考をピタリと止めた。それでも《天輪の守護障壁アンブレイカブル》を解除しなかったのはさすがと言える。
 契約の印エインフェリアルはヴァルハラでは結婚を意味する魔術でもある。故にエイルは、静音が高貴と結婚したいと考えており、しかし自分が契約してしまったので怒っていると考えたのだ。
 ぽかんとしたまま固まっている静音にたいして、エイルはさらに言葉を続けた。

「そ、そうか。そういうことなら話が繋がるな。契約の印エインフェリアルはそういう意味でもあるだろうし。し、しかしだ。私と高貴は別にそういう関係ではないぞ。あ、いや、高貴とそういう関係になるのが嫌というわけではなくてだな。あの時はああするしかなかったからであって……ま、まぁ彼は悪い人間ではないから、結婚したいと考えるのも理解できるが――」
「ふ……ふざけないで!」

 しかし、静音から帰ってきたのは明確な否定だ。言葉と同時に動いた右手に、緑色の光が集う。

「《ラグズ》――!」

 空中に刻まれる《ラグズ》、そして――

「やあああっ!!」

 静音の足が地面を蹴った。
 しかし《ラグズ》のルーンで強化されたその跳躍は、エイルとの距離を一気に詰める。結界と合わさって、まるで自動車でもつっこんできているかのような勢いだ。
 その予想外の攻撃に、エイルはなんとか反応するものの、ランスを盾にして受け止めるのが精一杯だった。
 バシィィィッ!! と轟音が響き渡る。

「何で私が彼と結婚したいだなんて思うのよ! あなたおかしいんじゃないの!」
「くっ……しかし、それ以外にいったいなにがある?」
「この……どこまでしらをきるのよ!」

 静音の突進の勢いに押されて、とうとうエイルの足が地面を離れた。そのままエイルは後方に勢いよく吹き飛ばされる。

「くうううぅぅぅ!」

 地面をゴロゴロと転がって、エイルはすぐに静音に視線を戻した。静音は30メートルほど前方に佇んでいる。おそらくもう一度突進してくるつもりだろう。
 静音の言っていることは、エイルにはまったく理解できない。しかし負けるわけにもいかず、こうなったら自分の最高の技をぶつけるしかない。
 故に、彼女は――

「仕方ないか……《ソーン》、《ラグズ》、《テュール》――バインドルーン・トライ!」

 その三つのルーンを、青い軌跡で空中に刻んだ。
 描かれた三つのルーンは、エイルの正面にトライアングルを作り出す。その輝きを増していくのと同調するように、エイルの全身が青い光に包まれていく。

「三つのルーン……この魔力……」

 それを見ていた静音は、ルーンを刻もうとしていた手を止めた。エイルから感じる魔力を前にして、突っ込むのは危険と判断したからだ。
 《神器》も持たないエイルに破られるような障壁ではないと思っていたが、今から繰り出すであろうエイルの攻撃はかなり危険だとわかる。
 以前見たレーヴァテインほどではないにせよ、鈴木太郎の最後の攻撃よりも上回っている事は確実だろう。それは異世界で戦っていた者の底力なのか、はたまた別の理由があるのかは静音にはわからなかったが、今の障壁では防ぐ事はできないだろう。
 ならば、やるべき事はひとつだ。

「もっと強い障壁を……」

 静音が右手を振ると、彼女を包み込んでいた緑の結界が一瞬で消滅した。
 しかしアイギスの輝きはよりいっそう激しくなり、そして――

「《天輪の守護障壁アンブレイカブル》――《平面ウォール》……《四重フォース》!」

 右手を正面にかざす。静音の眼前には、僅かな間隔を空けた四つの障壁が出現した。
 エイルの目が大きく見開かれる。一枚ですら破る事のできなかった《神器》の障壁が4枚もあるのだから当然だ。
 常識的に考えて、エイルにはもう打つ手などない。鉄壁の守護の前に無力感を噛み締めるのみ。
 しかし、ここにいるヴァルキリーにそんな常識は存在しない。
 むしろ彼女はこう考えるのだ。
 上等だ! ――と。

「破れるものなら破ってみなさい!」

 その言葉に、了承するように、

「全てを―――貫く!! 《道を突き進む者フィン・ペネレイト》!!」

 ヴァルキリーは地面を蹴る。
 トライアングルを潜り抜け、その姿が消えると――
 バシイィィィィッ!!
 一瞬で緑の障壁と激突した。そのあまりのスピードに、待ち受けていたはずの静音も驚愕する。
 しかし、驚愕した理由はそれだけではない。
 ランスの先端部分と《天輪の守護障壁アンブレイカブル》の接触面。そこに段々と亀裂が走っていく。
 ガシャァァンとガラスが砕け散るかのように、障壁の一枚が砕け散った。

「一枚……!」
「くっ……」

 二枚目にぶつかってもエイルは止まらない。その二枚目にも段々と亀裂が走る。一枚目と同じような音を立てて、二枚目の障壁も砕けた。

「二枚目!」

 続いて三枚目。しかしさすがに勢いが弱まってきたのか、ひびが広がるスピードが遅くなってきている。削れているのはアイギスの障壁か、それともランスの先端か。

「三枚目だ!」

 先に限界をむかえたのは三枚目の障壁だ。とうとうエイルのランスは最後の障壁にたどりつく。
 もはや後がない静音は、右手を伸ばして更なる魔力を最後の壁にこめる。エイルも最後の力を振り絞る。

「貫けええええええ――――――ッ!!」
「やあああああああああっ!!」

 二人の少女の叫びが響く。
 魔力と魔力の弾ける音が響く。
 青と緑の光は周囲に弾ける。
 障壁には亀裂が走り、ランスからは光が散っていく。
 そして――エイルの動きが止まった。

「な……」

 《道を突き進む者フィン・ペネレイト》。エイルの最大の攻撃であるそれは、静音の作り出した四枚の障壁によって完全に防がれた。
 障壁には亀裂が入って入るものの、まだその役目を果たしている。しかしエイルのランスからはもはや光は消えており、突進力もないに等しい。
 エイルの力では、静音に攻撃を届かせる事は不可能だったのだ。
 静音は勝利を確信していた。大技の後でエイルには隙がある。もう一度突進して吹き飛ばせば自分の勝利。
 彼女はすばやくルーンを刻む。エイルもようやくそれに気がつくがもう遅い。静音の右手が空中に軌跡を描き――

「……え?」

 その声は、きっと意図して発せられたものではない。思わず口からこぼれてしまったものだろう。静音の漏らした声、その理由は極めて単純だ。
 唐突に、突然に、エイルと静音を隔てていた《天輪の守護障壁アンブレイカブル》……その最後の一枚が消滅したのだ。
 あまりに突然の事に、思わずエイルも思考が停止する。
 いったいなぜ? 私は最後の一枚を砕けなかったはずだ。静音が消したとも思えない。魔力が尽きたとすれば、ルーンを描こうとしている説明がつかないし、何よりも私より静音のほうが驚いている。
 様々な事が頭の中に一瞬の内に浮かび、そして最初に動いたのはエイルだった。
 まだ動きの止まっている静音目掛けて、勢いよくランスが弧を描く。

「しまっ――」
「遅い!」

 静音がとっさに後ろに向かって飛ぶ。しかしエイルのランスの先端が、静音の制服の胸元の部分を大きく斬り裂いた。《ラグズ》のルーンを刻んでいたおかげで、一気に20メートルほど二人の距離は開く。

「よくわからないが……このまま一気に――」

 静音にさらに追い討ちをかけようとした足が不意に止まる。エイルの視界に妙なものが入ってきたからだ。
 エイルの前方にいる静音。彼女は服が破けて、胸元が露出してしまっている。異性ならば釘付けになるかもしれないが、エイルは同性。しかし問題はそこではない。
 静音の胸元に、なにやら灰色の光が浮かび上がっているのだ。さらにその光は、ルーン文字の《ナウシズ》の形をしているようにも見える。
 それを見たときにエイルの中であらゆることがつながった。
 静音が自分を気に入らないというわけ。
 自分が高貴にしてしまったこと。
 そして――エインフェリアル。

「そ、それは――まさか君は」

 静音が胸元に気がついてとっさに腕でそれを隠す。

「……そう、もう時間切れね。残念だけどこれでお終いみたい」
「ま、待て! その胸のルーンは……」
「見られてしまったわね。でもあなたならわかるでしょう? 同じことを月館君にしたのだから」
「ち、違う! 君は誤解している! 私がしたのは――」
「別にいいわよ。もう関係のないことだもの」

 そう言って彼女はエイルに背を向ける。話は終わりだと、そして戦いも終わりだとその背中が語っていた。

「待て静音! まだ話は終わっていない」
「……さよなら」

 そういうなり静音は、勢いよく公園の外に向かって跳躍した。それを何度か繰り返して、静音は完全に見えなくなった。
 エイルはただ立ち尽くしていた。追いかけることも出来たかもしれないが、今は状況を整理する事が大切だと判断した為だ。
 そんな彼女の足元に、今まで隠れていたネコが歩いてくる。

「エイル……さっきのあれって」
「ああ、間違いない。この目ではっきりと見たよ。彼女は――」

 エイルはそこで一度言葉を切って、辛い表情で言葉を続けた。

「彼女はエインフェリアだ」


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.24688601493835