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[35430] SWORD WORLD RPG CAMPAIGN 異郷への帰還
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:38
TRPGの新しいキャンペーン・シナリオ。
舞台は『ロードス島戦記』の始まる7年前、ロードス島北端の村ターバ。
物語のラスボスは“灰色の魔女”カーラ。
剣と魔法の世界へ転移したプレイヤーたちが、少しずつ成長しながら日本への帰還を目指す。

というようなSSになる予定です。

あらゆるデータは『SWORD WORLD RPG』完全版、ならびに『ロードス島ワールドガイド』から作成しましたが、一部、故意に公式設定を無視した表記もありますのでご了承ください。


なお、拙作はFC2ブログ『異郷への帰還』へも掲載しています。



[35430] PRE-PLAY
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:31
PRE-PLAY 東京 府中市

「ファイター10レベルか。よくぞまあ育ったもんだ」
「キャラを作ったのが高校生の時だろ。もうみんな30過ぎのオッサンだからな。これだけ使ってれば、そりゃ育つさ」
 各々がキャラクターシートを広げながら、いつものように雑談に花が咲く。
 テーブルの中央にはスナック菓子と午後の紅茶ミルクティ。たまの休日だから酒でもいいのだが、TRPGにはミルクティというのが高校時代からの不文律だった。
「今日はプレイヤー3人だけ?」
 古びたペンケースから鉛筆と消しゴムを取り出しているのは、警視庁機動隊に勤務する一彦。
「最近地震が多いでしょ? 匠くんは中継ヘリで待機を命じられて、休みは取り潰しだって」
 一彦の妻、喜子が、6面ダイスをテーブルに並べながら応じた。
「例の東海大地震の予兆ってやつね。マスコミは大変だ。今日はシーフ抜きか」
 システムエンジニアの伸之が、一彦を一瞥してにやりと笑った。
「こっちの警察官は暇そうなのに」
「この官舎は築40年だからな。震度7とかの地震がきたら崩れるって消防の人が言ってた。崩れたら、救助する人員が必要だろ?」
 堂々と一彦が応じる。
 ここは府中市にある、警視庁職員用の官舎。
 部屋の主である一彦はTRPGに耽溺するあまり大学受験を棒に振ったほどの剛の者で、その病気は就職しても、結婚しても直らなかった。
 妻に迎えた喜子も同じ病気に冒されていたため、彼らの新居は休みの度にTRPG会場に利用され、今日のような賑わいとなるのだ。
「もうドラゴン相手にガチで勝負できるレベルだし。ひとりくらい欠けても大丈夫でしょ」
 ゲームマスターを務めるのは、旅行代理店勤務の悠樹。この4人にヘリコプターパイロットの匠を加えた5人は、高校時代からのTRPG仲間だった。
 悠樹は、A5サイズのノートパソコンをのぞきながら、シナリオをチェックしていく。
「便利になったよな」
 パソコンが苦手な一彦がしみじみと言った。
 昔はシナリオといえば、授業中にノートの片隅に鉛筆で書いたものだった。シナリオに使うデータやダンジョンの地図を合わせれば、相当な枚数になったものだが。
「道具が便利になっても、考えるのは人間の仕事だよ」
 悠樹が言う。
 MMORPG全盛の時代に、TRPGはたしかに前時代的かもしれない。
 美麗なグラフィックも、派手なアクションもない。PCもNPCも、声も風景も、体験すべきシナリオさえも、すべては想像力の中にしかない。
 GMは言葉だけを使ってプレイヤーの想像力を刺激し、架空の世界を構築しなければいけない。
 プレイヤーは、その世界を他人と共有しながら、キャラクターを演じなければならない。
 与えられることに慣れたコンピュータ・ゲーマーには、いささか敷居の高い遊びだろう。
「じゃあ、そろそろ始めようか。舞台は前回と同じ、呪われた島ロードス。新王国歴503年、前回から1年後の話になる」
 シナリオのチェックを終えた悠樹が、改まった口調でセッションの開始を告げる。
「前回の成長申告から、どうぞ」
「シン・イスマイール。21歳。ファイター10、レンジャー8」
「ライオット。24歳。ファイター9、プリースト8、バード3」
「ルージュ・エッペンドルフ。23歳。ソーサラー9、セージ8」
 プレイヤーたちの申告を聞きながら、悠樹はエクセルのワークシートを更新していく。命中力や打撃力、残り生命力などを管理するワークシートは、伸之が10年前に作ったものだった。
「キャラクターもどんどん年をとっていくな。シンは最初なんか18歳だったのに」
「リアルに15年以上かけて育てたキャラだし。もう一人の自分みたいなもんだ。今ならロードス島に転生しても普通に生きていけるぜ」
「カズくん、それはさすがに言いすぎ」
 気の知れた仲間との、穏やかな休日。
 笑い声に満ちた部屋がひび割れたのは、その直後のことだった。
「……ん? 揺れてるか?」
 一彦が首をかしげて窓の外を見る。
「ああ、また地震だ。ほんと最近多いな」
 伸之が応じた、次の瞬間。
 轟音とともに床がうねった。
 世界が水平に動いたかと思うと、いきなり逆方向に揺り返す。強烈な加速度についていけず、部屋中の物体が取り残されて踊り回った。
 テーブルが壁と壁の間を行ったり来たりする。
 倒れた本棚はテレビを直撃。本の雪崩が液晶を押し潰した。
 非常識にたわむ建物に悲鳴を上げて、コンクリートの壁一面にひびが走り。
 窓ガラスが一斉に砕けて乾いた音が鳴った。
「こりゃ、俺も仕事だな」
 部屋の惨状を呆然と眺めながら、一彦がぽつりとつぶやく。
 ミルクティがこぼれる。
 伸之がふとそう思い、跳ね回るペットボトルからキャラクターシートを守ろうとしたところで。
 崩落した天井に視界を覆い尽くされ、意識は闇に落ちた。


「……、…………!」
 遠くで、誰かが呼んでいる声がした。
 息苦しい。重い何かが胸の上に乗っていて、押し潰されそうだった。
 どうやら地震で生き埋めになったようだ。
 混濁する思考の中で、とりあえず自分は生きているらしいと考える。
 今はまだ、という条件付きだが。
 東海大地震が発生したら、犠牲者の数は数十万と試算されていた。その大部分は、地震の二次災害である火災による犠牲者だ。
 このままだと、犠牲者の仲間入りは免れないだろう。
 身動きが取れないまま焼死というのは、あまり愉快な未来じゃないな、伸之は思った。
 そんなことを冷静に考えているあたり、まだ正気に戻っていない証拠なのだが。
「伸之! 生きてるか?!」
 また声が聞こえた。
 15年来の親友の声。これは一彦か。
「いちおう生きてる……と、思う」
 反射的に答えてから、ああ、声が出せるんだ、と意識した。
「それは何より。怪我はどうだ?」
「……確認してみる」
 話していると、意識がどんどん覚醒してくる。
 指先から手首、腕、肩と徐々に動かしてみると、思いのほか状態は良かった。
 激しい痛みはない。骨は無事のようだ。ただ、胴体を横切るように巨大な柱が倒れていて、身動きは取れそうにない。
「怪我はなさそうだけど、重くて動けない」
「了解。大丈夫だ。安心しろ。すぐ掘りおこしてやる」
 一彦の声は自信に溢れている。むしろ楽しそうな響きさえあった。
 この非常時にも動じることがないのは、警察官という職業柄か。一彦は機動隊のレスキュー班に所属し、災害警備や救難救助の仕事をしているのだ。
 ニュースになるような大地震の現場には何回も派遣されているらしく、このような非常事態には頼もしい限りだった。
「プロに保障されると安心するよ……ってか一彦、もう外に出てるのか?」
 うっすらと目を開けると、瓦礫の隙間に小さく青空が見えた。ちらちらと瞬く影は、おそらく一彦のものなのだろう。
 瓦礫を投げ捨てる音が、リズミカルに聞こえてくる。
「出てる。この建物は鉄筋の入ってない石材だから、思ったより簡単だった」
「よく分からんが、そりゃ簡単に崩れそうだな。手抜き工事にもほどがある」
「おかげで命が助かったんだ、そこは感謝しとけ。喜子、いたぞ。こっちの瓦礫の下だ!」
 しばらくすると、もうひとつ人影が現れて、伸之の方を覗きこんできた。
「リーダー、もうちょっと頑張って。すぐ出してあげる」
 女性の柔らかい声。
 リーダーというのは、チャットをするときの伸之のハンドルネームだ。その名前で伸之を呼ぶ女性は喜子しかいない。
「いつもいつも苦労をかけて済まないね」
「お父っつぁん、それは言わない約束でしょ」
 もはや古典すぎて若者には通じないお約束をこなすと、早速救助作業に取りかかる。
 2人がかりで瓦礫を取り除いていき、5分ほどの間に、針の穴ほどの青空はどんどん大きくなっていった。
 破砕された石材が粉になって伸之に降り注ぐ。思わず顔をしかめていると、人の顔がひょいとのぞいた。逆光でよく見えないが、おそらく一彦なのだろう。
「手、届くか?」
 外から手が差し込まれる。ちょっと肩をずらして右腕を伸ばすと、その手はしっかりと伸之を掴んだ。
「んじゃ引っ張るぞ」
「いやいや、だから柱の下敷きなんだって。その角度で引っ張られると腕が抜ける」
 人の話聞けよ、と伸之がため息をつくと、その人影は小さく笑った。
「大丈夫だ。柱はへし折る。痛いかもしれないけど、すぐ癒してやるから気にするな」
「あのさ、できれば横から穴を掘るとかしてもらえると嬉しいんだけど」
「めんどい」
 そのまま力を込められる。
「ちょ、待っ……」
 予想外の生命の危機を感じて、伸之が手を引き抜こうとした刹那。
「Falts!」
 一彦の気合とともに、真上から強烈な衝撃波が貫いた。
 瓦礫の中で砂塵が舞い散り、わずかに遅れて激痛が伸之を絞り上げる。
 巨大な何かで柱をひっぱたいたのか。尋常ではない重みに肋骨がきしみ、横隔膜が悲鳴を上げて呼吸が止まったが、それは一瞬のことだった。
 鈍い音をたてて柱が崩れ、直後、強引に右腕を引っ張られる。
 痛い、という言葉が思い浮かんだときには、すでに伸之の体は瓦礫の中から引きずり上げられていた。
「ゴホッ……お前な、いくらなんでも乱暴すぎるだろ」
 膝をついて咳きこみ、文句を言おうと顔を上げ。
 呆けた表情で、修之は固まった。
 見たこともない男が、そこにいた。
 ちょっと癖のある金髪。
 貴公子然とした端整な容貌。
 年のころは20代前半か。白銀の鎧をまとい、長剣を腰に佩いた姿は、まるでファンタジー映画に出てくる騎士のよう。
「あ……ええと、」
 それ、なんのコスプレ?
 あんた誰?
 一彦は?
 いくつかの言葉が脳裏で踊ったが、どれも口に出すことはできなかった。
 状況が理解できなかった。
 それを見てとったのか、金髪の騎士は伸之を見下ろしたまま言った。
「問おう。あなたが私のマスターか?」
「それ、ゲーム違う」
 即座にツッコミが入る。
 騎士に裏拳を入れたのは、銀色の髪を肩のあたりで切り揃えた女性だった。
 紫水晶の瞳が冷たく金髪の騎士を眺めている。
 薄桃色の唇は桜の花片のよう。
 切れ長の目元は涼しげで、眉は柳のようにすらりと伸びている。
 あらゆるパーツが完璧に調和し、非の打ち所のない美貌を構成していた。
 着ているのは黒く染めたオーガニックコットンのローブだ。胸元まで長くV字形の切れこみがあり、細い革紐で調整するようになっている。
 金髪の騎士といい、この美女といい、日本の被災地で目にするような服装ではない。
「私はセイバーのサーバント。召喚に応じ参―」
「ネタはいいからちょっと黙ってて」
 今度は、手に持っていた木の杖がまともに後頭部に入る。わりといい音がした。
 杖の先端には金属の意匠が施されており、ダメージもバカにならないだろう。
 金髪の騎士は涙目になってうずくまり、両手で後頭部を抑えている。
 その隙に、銀髪の美女は伸之に手を差し出し、立ち上がらせた。
「リーダー、この人はカズくんだよ。ちょっと事情があって金髪になっちゃったけど。それで私は喜子。声はそんなに変わってないから分かるよね?」
「お、おう」
 この夫婦漫才はいつもの一彦と喜子だ。どうやら間違いないらしい。
「それでここなんだけど」
「ちょっと待った」
 いじけていた一彦が、妻の言葉をさえぎった。
「違うだろ。名前を間違えてる。そうだよな?」
 言いながら立ち上がる。
 一彦はまっすぐに伸之を見つめると、一呼吸おいて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺はライオット。こっちは魔術師のルージュだ。ようこそロードス島へ、シン・イスマイール」




[35430] シナリオ1 『異郷への旅立ち』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:32
 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。
 大陸の住人の中には、ロードスを“呪われた島”と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスが呪いをまき散らした地だと伝承されるが故に。
 ほんの30年前には、もっとも深き迷宮から無数の魔神が解放され、ロードス全土を大混乱に陥れたが故に。
 そして今も、幾多の妖魔の跳梁し、人々を脅かしているが故に……。


SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
 第1回 異郷への旅立ち


 シーン1 アラニア王国 祝福の街道

 見たこともない自分の姿。
 黒ずくめの服装に、黒染めの革鎧。
 髪は日本人と同じ黒だが、ついでに肌も浅黒い。全身の筋肉は俊敏そうに引き締まり、まるでネコ科の猛獣のようだった。
 メタボ寸前だった伸之の腹とは、明らかに別人だ。
「つまり、今の俺はシン・イスマイールってことか」
 そう嘆息する声も、どこか幼い印象をぬぐえなかった。
 シンの設定年齢は21歳。中の人が30過ぎでは、違和感も仕方ない。
 背中には、日本刀のように反った刀身の、シャムシールと呼ばれる両手剣。
 この身がシンであれば、この剣の出自もまた明白だ。
 今年の正月休み、炎の精霊王の塔で手に入れたミスリル銀製の魔剣“ズー・アル・フィカール”。
 必要筋力16、クリティカル値-2、攻撃力+2、追加ダメージ+2、精霊に対してはさらに追加ダメージ+3という凶悪なスペックを誇るチート剣である。
 乾いた音と共に抜剣すると、純白の燐光をまとった刀身が姿を現した。
 初めて持ったはずなのに、まるで体の一部のように、剣はしっくりと手に馴染む。
「試してみるか?」
 金髪碧眼の戦士・ライオットが、傍らに置いてあった盾を持ち上げた。
 全長150センチはあるだろうか。縦に細長く、胸から下をすっぽりと覆ってしまうその大盾は、専門用語でカイトシールドと呼ばれている。
 本来は歩兵用ではなく、騎兵が馬上にあって自分の足を守るための盾だ。
 攻撃力重視のシンとは対照的に、ライオットは金属鎧で身を固め、文字通りパーティの盾としての役割を果たしてきた。
 ライオットが持つ盾は、“勇気ある者の盾”(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)の銘を持つ魔法の品だ。驚異的な強度と引き換えに、敵の攻撃を所有者に集中させるという、呪いにも似た効果を持っている。
 そうして引き受けた敵の攻撃を、城壁級の防御力を誇るミスリル銀製のプレートメイルで弾き返すというのが、ライオットの戦い方だった。
「そうだな。軽くやってみよう」
 シンがうなずくと、ライオットはわずかに腰を落とし、体を隠すように大盾を正面に構えた。
 その存在感は尋常でない。そこにいるのは1人の人間のはずなのに、まるで重戦車のようにどっしりした迫力があった。
「さすが9レベルファイター。ぶっちゃけ恐いぞ」
「10レベルのお前が言うな。こっちは檻の中でライオンと対峙してる気分だ」
 シンはだらりと下げていた魔剣を両手で構え、剣尖をまっすぐライオットの眉間に構える。
 剣術の心得などないが、戦い方はこの体が知っていた。
「ねえ、怪我しないように気をつけてよ?」
 銀髪の魔術師・ルージュが、心配そうに眉を寄せて言った。
「分かってるよ、ちょっと試してみるだけだ」
 ライオットが軽く手を挙げて応じる。
「んじゃ行くぞ。一彦の防御レーティングいくつだっけ?」
「上級戦闘ルール適用で、防御レーティング30、ダメージ減少10」
 クリティカルしない攻撃では、ほとんどダメージが通らない。
 つまりはそういう数字だ。
「難攻不落だな。本気でいくぞ?」
「いつでも来い。警視庁機動隊直伝、大盾操法の冴えを見せてやる」
 大盾の向こう側で、ライオットも抜剣する。こちらは魔力のこもっていない、ふつうの鋼の剣。陽光をはじいて白銀に輝く。
 それを合図にして、シンは不意を打つように魔剣を一閃した。
 日本にいた自分たちなら、見ることすらできなかっただろう神速の一撃。
 事実、ファイター技能のないルージュには、シンがいつ剣を振ったのかさえ分からなかった。
 だが、渾身の力を込めた斬撃は、易々と盾に受け止められた。強力な魔力同士が干渉して青白い火花が散る。
「……これを止めるかよ」
「防御専念で回避力+3だからな」
 全力で相手の得物を押し合いながら、互いににやりと笑う。
 シンは瞬時に間合いを取りなおすと、さらに速度を上げた斬撃を繰り出した。
 2回、3回と剣を振るたびに、だんだん勢いづいてくる。
 打ち、薙ぎ、払い、突く。考えつく限りの技をためし、ライオットの防御を崩そうとする。常人が見れば、剣筋を追うことさえできないだろう高レベルの応酬。
「2人とも、もういいんじゃない?」
 ルージュになだめられて剣を納めるころには、2人とも汗まみれになっていた。
「なるほど、ファイター10レベルは伊達じゃない」
「そうだな。これほど動けるとは思わなかった」
 すっかり息を上げて座り込んだ2人に、ルージュが水袋を差し出す。
 男どもがチャンバラに興じている間に、彼女は所持品をひっくり返して使えそうなものを見定めていたのだ。
「さんきゅ、喜子・・・いや、ルージュって呼んでいいか? その顔に向かって喜子とは言いずらいからさ」
 すっかり変わってしまった妻の顔を見上げながら、ライオットが水袋を受け取る。
 不思議な輝きを宿す紫水晶の瞳。
 風になびき、ゆったりと揺れる銀髪。
 象牙を彫り上げたような綺麗な肌。
 中身が自分の妻であり、15年来の同志だと分かっていなければ、ちょっと引いてしまうほどの美貌だ。
「私はどっちでもいいけど。じゃあ、これからはキャラクター名で呼び合うことにする?」
 そっちの方が雰囲気出るし、とルージュはうなずく。
「伸之もそれでいいか?」
「ああ。しかし、雰囲気作りねえ」
 同じく水袋を受け取りながら、黒髪の剣士シン・イスマイールは、苦笑して周囲を見渡した。
 雰囲気など作るまでもなく、ここはファンタジー世界以外の何物でもない。
 日本であれば見えるはずのものは、何もなかった。
 家も、電柱も、電線も、アスファルトの道路も。
 高層ビルに切り取られない空は果てしなく広く、遠くに浮かぶ雲は違和感を覚えるほど立体的に見えた。
 ここにあるのは、土を踏み固めただけの街道と、果てしなく広がる草原と、未開の森だけ。
 街道をゆく旅人のための、石造りの小さな休憩所。
 その休憩所が崩れて、3人は生き埋めになっていたようだ。
「やっぱり死んだのかな、私たち」
 ぽつりとルージュがつぶやく。
 瓦礫に腰かけて、魔法樹の杖を弄びながら、ルージュはつぶやいた。
 この杖は使用者の魔力に+2という効果だけでも特筆ものだが、マグナロイという魔法樹でできており、杖自体に20点分のマナを蓄積することができる。しかもこのマナはゲーム内時間1日ごとに1点ずつ回復するというおまけつきだ。
 はっきり言ってバランスブレイカーな装備だが、「ファイターは何回でも殴れるけど、魔法使いは精神力が尽きたらやることないんだよ!」という魂の叫びがGMに届いたのだった。
「少なくとも俺は死んだな。崩れたコンクリートの天井が、頭に当たったところまで覚えてる。あれで生きてたら人間じゃない」
 並んで座りながら、ライオットが応える。
「嬉しそうだね」
「おう」
 妻の皮肉っぽい視線に、ライオットは平然とうなずいた。
 現実で死んでファンタジーの世界に転生。
 今まで一度も妄想しなかったと言い切れるTRPGプレイヤーなど、この世にいないはずだ。
「俺は最高だと思うね。ここは剣と魔法の世界。冒険。幻想。浪漫。使うのは慣れ親しんだ超強力キャラ。このシチュエーションに何の不満がある?」
「ずいぶん順応してること」
 ルージュが感心して夫の横顔を眺める。
 ふつうは混乱してわめき散らす場面だと思うのだが。
「ソードワールドに転生しても普通に生きていけるって、死ぬ前にも言った」
 誇らしげに胸を張るライオット。
 日本で言ってもただの痛い子だが、ここまで徹底されると多少は尊敬できるかもしれない。
 さすが私の勇者様、とルージュは内心でつぶやく。
 自分でも、褒めてるのか貶してるのかよく分からなかったが。
「もう死んだの確定かよ。それと、ちょっとは悩もうぜ。これからどうやって生きていこうとか。議題はいくらでもあるだろ」
 黒い短髪をくしゃくしゃとかき回しながら、シンはため息をつく。
「それこそ悩むだけ無駄だって。お前はシン・イスマイールだぜ?」
 10レベルの戦士が何を言っている、とライオットが笑う。
 シンの技量をもってすれば、剣匠カシューだろうが自由騎士パーンだろうが、十分互角に戦うことができるだろう。
 今のシンは、ロードス最強レベルの戦士なのだ。
「時間はたっぷりあるし、金もたっぷりあったんだろ? 続きは宿をとって、晩飯でも食いながら相談しよう」
 ここで議論しても仕方がない。どんな未来が待つにせよ、人は腹が減るし眠くもなるのだ。
 目先の現実を見たライオットの提案に、シンとルージュはしぶしぶと腰を上げた。



[35430] シナリオ1 『異郷への旅立ち』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:33
シーン2 ターバの村

 アラニア王国の王都アランから、北の白竜山脈に向けて伸びる街道。
 北端には大地母神マーファの大神殿があり、結婚の祝福を受けるために旅する若者たちが多く往来することから、“祝福の街道”と呼ばれている。
 ターバの村は、その大神殿の門前町として栄える、アラニア王国北端の村だ。
 完全に雪に閉ざされる冬を除き、巡礼のために訪れる若い男女は後を絶たない。彼らを受け入れるために、ターバには数多くの宿屋が立ち並んでいた。
 その中の一軒、〈栄光のはじまり〉亭。
 1階は食堂、2階は宿泊施設という、TRPGでは定番の店である。
 3人がその店の扉をくぐったのは、日が落ちて2時間ほどたった頃だった。
 先客はざっと数えて20人くらい。ほとんどが新婚カップルのようだ。店内は酒臭く、いい感じに酔った男女が酒と料理を囲んで笑い、騒いでいる。
 日本の居酒屋と、さほど印象は変わらなかった。
「一番奥にしよう。俺たちちょっと場違いみたいだし」
 軽く店内を見渡したシンが、奥のテーブルを指さす。
 一般人しかいない店の中で、武装した3人は嫌でも目立つ。先客たちはちらちらと注意を向けてくるものの、目が合うと弾かれたように視線をそらした。
「まるでチンピラ扱いだな」
「冒険者なんてそんなイメージなのかもね」
 ライオットとルージュは顔を見合わせて苦笑した。
 さして広くもない店内、テーブルの間をすり抜けるようにして奥に向かう。
「はいはい、ごめんよ。通しとくれ」
 シンたちが奥のテーブルを占領すると、カウンターの奥から恰幅のいい中年女性が寄ってきた。
 この店の女将だろう。
 とりあえずビールとばかりに、まだ注文もしていないのに3杯のエール酒がテーブルに置かれる。
「あんたたち、巡礼の新婚夫婦って感じじゃなさそうだね。冒険者かい?」
 陽気で威勢のいい大声。
 店の喧騒の中でもその声はよく通り、先客たちが聞き耳を立てているのが分かる。
「そうだ」
 代表してシンがうなずいた。
 パーティーには新婚夫婦も含まれるが、説明が面倒なのでそこは省略する。
「物騒で済まないな。冒険者の店を探したんだが、土地勘がなくて分からなかった」
「気にしなさんな。ここも本当は冒険者の店だから」
 あっけらかんと女将は言う。
「今月は最高司祭のニースさまが自ら祝福を下さるから、巡礼が多くてね。この辺はマーファ大神殿の神官戦士団が巡回して妖魔を駆除しちまうもんで、冒険者の出番がなくなるんだよ」
 それで冒険者がよそへ出稼ぎに行ってしまい、一般客も受け入れているらしい。
「それにしてもあんた、かなりの腕利きみたいだね」
 シンの全身を、女将は遠慮なく眺めまわす。
 浅黒い肌に精悍な容貌。動きのひとつひとつに隙がない。しなやかに鍛えられた全身は、人と言うよりむしろ野生動物のよう。
「こっちのお兄さんは騎士さまみたいだし、お嬢さんも魔術師だろ」
 優秀な冒険者を抱える店は、大きな依頼が入り、儲けも大きくなる。
 冒険者にとって依頼を仲介する店が必要なように、店にとっても依頼をこなす冒険者は必要なのだ。
 自然と、優秀な冒険者を見抜く目は養われることになる。
 シンたちが他の連中と違う“本物”だということは、女将にも分かったようだ。
「歓迎するよ、〈栄光のはじまり〉亭へようこそ。ゆっくりしてっておくれ。食事にするかい? それとも酒にする?」
「1杯目は来たみたいだから、とりあえず食事を。それと、部屋があれば2~3日泊まりたいんだが」
 女将はすぐにうなずいた。
「1部屋でよければ、用意できてるよ。ベッドは4つあるから広さは十分だろうけど……2部屋必要なら、ちょっと時間をもらわないとね。どうする?」
 その場の全員から向けられた視線に、少し迷ったライオットは、
「そうだな、二部屋もらおうか。男部屋と女部屋で」
「じゃあ、2人部屋を2つでいいかい? 食事の間に用意しとくよ。1泊2食でひとり50ガメルだ」
 値段はルールブックに書いてある相場どおりだった。
 もっとも、冒険者相手にぼったくりをする冒険者の店など、あるはずないのだが。
「ではそれで。とりあえず3日頼む」
 シンが言うと、女将はうなずいてカウンターに帰っていった。
 奥で何やら指示を出すと、10代半ばと思われる女の子が、階段を上がって2階に消えていく。部屋の用意に行ったのだろう。
「あれだ、繁忙期のリゾートバイトって感じだよな」
 なんとなく女の子を視線で追っていたシンが、木製のジョッキに入ったエールを舐めながら言う。
「新婚夫婦ばっかりの宿じゃ、お子様にはちょっと刺激が強すぎるんじゃないか?」
 にやりと笑うライオットに、ルージュはため息をついた。
「みんな聞いてるよ。セクハラ発言自重」
「大丈夫だって。どうせみんなやることは一緒なんだから」
 勢いよくジョッキをあおり、すぐに顔をしかめてテーブルに戻す。
「悪い。俺、こっちの世界でも酒飲めないらしい」
 身体が変わったから大丈夫だと思ったんだが、と言い訳しながら、ライオットはジョッキをシンの前に滑らせた。
「あ、私もお酒パス」
 ルージュも夫を見習ってジョッキを押し出す。
「酒の美味さが分からないとは、かわいそうな奴らだな」
 あっという間に1杯目を空にしたシンは、遠慮なく受け取ってライオットのジョッキに口をつける。
「それで、これからどうする?」
 これから。
 避けては通れないその話題に、3人の顔がちょっと真面目になった。
「俺は一生ここで暮らしても構わないけど、まぁそうもいかないよな。向こうには親兄弟もいるし」
 アルバイトっぽい女の子Bを呼び、果物のジュースを注文しながら、ライオットが言う。
「いつかは日本に戻らなきゃいけないけど、その方法が問題だ」
「方法ならあるよ」
 難しい顔のライオットに、あっさりとルージュが答えた。
「10レベルの古代語魔法に《ディメンジョン・ゲート》っていうのがあるの。普通に使うなら“どこでもドア”だけど、術者がよく知っていれば異世界に繋ぐこともできるってルールブックには書いてあった。ただね・・・」
「経験値、か」
 渋い顔でシンがうなる。
 ターバへと向かう道すがら、ルージュは「総合火力演習」と称して、無人の草原で高レベルの魔法を使いまくった。
 稲妻や火球が乱れ飛び、あたり一面に毒の霧が立ちこめ、大岩は一瞬で塵にまで分解され。
 結果、ルージュのソーサラー9レベルは使用可能であるという結論に達していたのだが。
「ソーサラーを9から10に上げるのに、必要な経験点っていくらだっけ?」
「2万5000点。ちなみに未使用経験点が2500あるから、残り2万2500点。それと、もうひとつ問題があって。《ディメンジョン・ゲート》は遺失魔法なの」
 ただレベルを上げるだけでは駄目だということ。
 誰かその呪文を知っている人物に、教えを乞わなくてはならない。
「今のロードスで、《ディメンジョン・ゲート》を使えそうな奴って誰だろ?」
「“大賢者”ウォートなら、たぶん大丈夫じゃね? 何しろ大賢者だし」
「バグナードとか。できれば関わりたくないけどね」
「邪神戦争の終結まで待てば、スレインでもいいはずだぞ。あと24年後でよければ」
 原作知識と年表を総動員して、検討を加える。
 24年も待つのは論外。
 バグナードでは、おそらくまともな交渉にならないから却下。
 ウォートだってろくでもない要求をしてくるだろうが、この中で一番マシだろうか。
「あとは……“灰色の魔女”だな」
 2杯目のエールを空にしたシンが、ジョッキを勢いよくテーブルに置いた。
 ロードスの歴史を陰から操ってきた古代王国の魔女、カーラ。
 おそらく、この世界に現存する最強の魔術師。
「この時代、このターバからキャンペーンが始まったって事は、当然GMの構想にはカーラが入ってたんだろうけど」
 ライオットが思わずため息をつく。
 新王国歴503年。
 魔神戦争の終結から29年。この年、ロードス島では歴史の転換点となる大事件が起きる。
 名もなき魔法戦士として魔神戦争で活躍したカーラが、ターバのマーファ大神殿を襲撃。太守の秘宝のひとつ“真実の鏡”を強奪し、レイリアを連れ去るのだ。
 原作ではほとんど触れられていないが故に、TRPGの舞台にするにはうってつけだ。
 ゲームとして遊ぶ分には最高に面白かっただろう。
 しかし、現実に相手をするとなると、あまりにも嫌な相手だった。
「まぁ、遺失の件は後で考えようよ。とりあえずの問題は経験点かな。あと2万点以上必要だから、普通に考えてキャンペーン1本分」
 ウェイトレスBが運んできたオレンジジュースと大皿の料理を受け取りながら、ルージュが言った。
「経験点を貯めるとなると、やっぱ冒険をしなきゃいけないんだろうけど。匠くんが……キースが欠員だから、シーフがいないよね。シティアドベンチャーだと情報収集に問題がでるし、ダンジョンだと罠解除ができない」
 ヘリコプターパイロットの匠が演じるキースは、シーフ9レベル、シャーマン8レベルというスペックで、戦術の要だった。
 策を弄することが得意なプレイヤーのおかげで、このパーティーの軍師として活躍していたのだが、彼は今日に限って仕事で欠席している。
「俺たちのスキル構成だと、ほんと戦闘しかできないからな」
 大皿に盛られてきた謎の炒め物をフォークでつつきながら、ライオットが慨嘆する。
「ヘリ墜ちてキースもこっちに来ないもんかね?」
「縁起でもない発言、禁止」
 ため息をついて、ルージュが夫をたしなめる。
「んじゃ誰かシーフを誘うか。アラニアの地下牢を攻め落とせば、ウッドチャックが手に入るはずだけど」
「土壇場になって裏切るような奴なら、むしろいない方がいい」
 シンが3杯目のジョッキを空にしながら首を振ると、横でルージュも肯いた。
「それに、原作キャラには関わらない方がいいんじゃない?」
 原作からストーリーを変えると、知識が通用しなくなる分だけ不利になる。どこに誰がいて、どのような目的を持っているかという知識は、彼らにとって最大の武器なのだ。
「賛成。まかり間違えてレイリアとお友達になろうものなら、カーラとの戦闘フラグが立っちまうし」
「それは困るな。キース抜きであの謀略家に勝てる気がしない。やっぱりヘリ落ちて……」
「だからそれは禁止だってば」
 ウェイトレスBがピストン輸送した料理や飲み物を腹に収めながら、なおも作戦会議を続行した結果。
 とりあえずの方針を策定し、全員が同意した。

1 仕方がないので、当面は冒険者生活をする。
2 依頼はなるべく簡単なものから。ゴブリン退治とか歓迎。
3 シーフは早い段階でスカウトするが、信用できるかが一番大事なので、採用はあせらない。
4 原作キャラクターにはなるべく関わらない。
5 特にレイリアは接触厳禁。
6 ソーサラーが10レベルになったら、《ゲート》を開いて日本に帰る。

「基本方針はこんなところか」
「異議なし」
「異議なし」
 シンの総括に、ライオットとルージュがうなずく。
 方針が決まって安心したのか、どっと疲れが押し寄せてきた。
 空になった料理の大皿3枚。ジョッキの酒も、もう残り少ない。
 お代わりを頼もうか、今日はもう休もうか、3人が悩み始めたところで。
 決まったばかりの基本方針は、変更を余儀なくされることとなる。






[35430] シナリオ1 『異郷への旅立ち』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:34
シーン3 〈栄光のはじまり〉亭

「女将さん! 大変なんです!」
 血相を変えて店に飛び込んできたのは、長い黒髪の美少女だった。
 勢いよく開かれたドアで盛大にベルが鳴り、店中の客の視線が集中するが、少女は気にするそぶりも見せずにカウンターに駆け寄る。
 着ているのは、マーファ神殿の制服とでも言うべき白い神官衣。
 マーファの司祭にはお淑やかなイメージがあるが、この少女も例に漏れずお嬢様タイプだった。
 年齢は16~17くらい。艶やかな黒髪はよく手入れされ、少女の動きにあわせて優雅に波打っている。
 大きな声を出しても楚々とした印象を失わないのは、持って生まれたキャラクターと言うべきだろう。色白の肌、卵形の顔、切れ長の目元など、どこを見ても育ちの良さがにじみ出ている。
「いかにもシナリオの導入に出てきそうなヒロインだな。これで村長の娘じゃなきゃ嘘だね」
「村長には美人の孫娘が必須だからな」
 シンの言葉に、ライオットが同意する。
 古来、キャンペーンの1話目は村長の孫娘に妖魔退治を依頼されるものというのが、TRPGの様式美であり伝統だ。
 満足そうにうなずき合っていると、閉まりかかったドアが再び開き、今度はずんぐりした人影が店に入ってきた。
 身長140センチくらい。酒樽のような体格。豊かな口髭。年季の入ったプレートメイルを着て、背中には巨大な戦斧を背負っている。
 やれやれと言いたそうな表情だが、目つきは鋭い。誰の目にも、彼は歴戦の戦士に映るだろう。
「ドワーフだ。実物を見ると、結構強そうだな」
 果汁の入ったジョッキで表情を隠しながら、ライオットが視線を向ける。
 その視線に反応したのか。3人のいるテーブルを一瞥したドワーフと、視線が絡み合った。
 3人を値踏みするような深い眼差し。その迫力に気圧されて、目を外すこともできない。
 だが、緊張はほんの一瞬だった。
 ドワーフの戦士はすぐに視線をはずし、黒髪の娘に歩み寄る。
 シンはほっと吐息をもらした。
「勝てないな、あのオッサンには」
 純粋な戦闘で、ということではない。
 人としての年季が違いすぎるということだ。それは全員に共通した認識だった。
「おやまあ、大神殿のお嬢さんじゃないですか。どうしたんです、こんな時間に」
 カウンターから顔をのぞかせた女将が、エプロンで手を拭きながら出てくる。
 後ろにいるドワーフに気付き、にこりと会釈。どうやら、この2人は店の顔なじみらしい。
「大変なんです! 村はずれの炭焼き小屋で、オーガーを見たって!」
 黒髪の娘はよく通る声で叫んだ。
 本人に悪気はないのだろう。大声を出したつもりもないに違いない。ただ余裕がなくて、周りが見えないだけ。
 しかし、その一言で酒場は静まり返った。
 オーガーは食人鬼とも呼ばれる妖魔で、その名のとおり人肉を好んで食べる、凶暴な巨人だ。
 身長は2メートルを軽く超え、肉体は強靭そのもの。野生の灰色熊が相手でも、1分あれば素手で殴り殺してしまうような膂力を誇る。
 一般人はもちろん、冒険者たちでさえうかつに彼らの相手はできない。オーガーが1匹出ただけで、対応できずに村が丸ごと1つ滅ぼされた例もあるほどだ。
「早く何とかしないと犠牲者が出るわ! けど、神官戦士団は出払ってて帰ってくるのは3日後だし、私たちだけじゃ相手にできないし、それで冒険者を探しに来たんです!」
 少女のまくしたてる言葉に、巡礼の新婚夫婦たちが青ざめていく。
 新婚旅行で飛行機に乗ったら、「当機はハイジャックされました」とアナウンスされたようなものだ。
「これ、少し落ち着かんか。巡礼のみなさんが不安がっておる」
 ため息をつきながら、ドワーフが少女をたしなめる。
 少女はようやく周りを見渡して、自分たちに向けられる視線に気づいたようだ。
 一瞬で耳まで赤くなって咳払いし、とってつけたように言う。
「ええと、皆さんご安心ください。皆さんの安全はマーファ神殿が責任を持って保障しますから」
「いやいや、保障できないから冒険者を探してるんだろ」
 ぼそりとライオットがツッコミを入れる。
 だが、女将はにこやかに応じた。
「お嬢さん、あなたは運がいい。ちょうど凄腕の冒険者が逗留してましてね」
 当然のようにシンたちのテーブルを指さす。
 それにつられて、黒髪の美少女とドワーフ、それに客たち全員の視線が吸い寄せられた。
 その視線の先には、凄腕の冒険者たちがいる。
 ひとりは戦士。黒髪に浅黒い肌。180センチの長身はしなやかに鍛えられ、精悍な顔つきは実直で頼りになりそうな印象を受ける。
 ひとりは神官戦士。磨きあげられた白銀の鎧には、戦神マイリーの紋章が刻まれている。金髪碧眼の貴公子で、どこかの王国に仕える騎士だと言われても納得できそうだ。
 ひとりは女性の魔術師。肩まで伸びた銀髪に象牙色の肌。紫色の瞳は深い知性を感じさせるが、薄桃色の唇には不思議な笑みを浮かべており、動物に例えるなら猫のようなイメージの持ち主。
 3人ともまだ20代の若さだろう。
 しかし、彼らが漂わせる雰囲気は、ただならぬ迫力にあふれていた。
「オーガーだとさ。どうする?」
 黒髪の戦士が言う。
「モンスターレベル5だし、最初としては手頃なんじゃない?」
 銀髪の女性魔術師が応じる。
「義を見て為さざるは、勇無きなりって言うしな」
 金髪の神官戦士がうなずく。
 3人の冒険者は顔を見合わせると、代表して黒髪の戦士が言った。
「俺たちが何とかしよう。詳しい話を聞かせてもらおうか」
 それを聞いて、全員がどよめく。
 黒髪の娘はほっとしたように微笑んで、テーブルに駆け寄ってきた。
「本当ですか?! 助かりました、ニース最高司祭に代わってお礼を言います!」
 掛け値なしの感謝が、その笑顔をさらに際立たせる。
 清楚な美少女が胸の前で手を合わせ、きらきら輝く瞳で見つめると、男どもはあっさりと骨抜きになった。
 すっかりゆるんだ表情のライオットを見て、ルージュが不機嫌そうに頬を膨らませる。
 しかし。
「私はレイリア。こっちはドワーフのギム。依頼料は神殿に掛け合って、なるべく多く出してもらいます!」
 その自己紹介を聞いて、格好つけて立ち上がった3人は盛大に頬をひきつらせた。


「さっきは悪かったね。ああでも言わないと、巡礼さんたちがパニックになりそうだったからさ」
 女将が済まなそうに言って、罪滅ぼしとばかりに新しいジョッキを差し出した。
 3人の意思を確認しないで、レイリアに紹介したことを言っているのだろう。
 遠慮なくジョッキを受け取りながら、ルージュが首を振った。
「お気になさらず。でも、次は相談してからにして下さいね」
「済まなかったね。詫びと言ってはなんだが、今回の仲介料は無しにさせとくれ。お嬢さん、依頼料は全額彼らに頼みますよ」
 人数分の飲み物と、新しい大皿の料理をテーブルに並べ終えると、女将はまたカウンターの奥へ戻っていく。
 それを見送ると、黒髪の美少女レイリアは3人に向き直った。
「よろしくお願いします。ええと……」
「シン・イスマイール。シンと呼び捨てで構わないよ」
「ライオットだ」
「ルージュ・エッペンドルフ。魔術師です」
 苦笑混じりに名乗る3人。
 原作キャラ、しかもカーラフラグが確定しているレイリアの登場に、もはや為す術なしいう雰囲気だ。
「まさか、いきなり君が出てくるとは思わなかった」
 収まりの悪い黒髪をかき回しながら、シンが言った。
 あまり歓迎されていないようだと感じて、レイリアは不安に顔を曇らせる。
「あの、私のことをご存じなんですか?」
「有名人だからね。ニース最高司祭の令嬢にして、ご自身も7レベルのプリーストでいらっしゃる。おまけに……」
「シン。それくらいにしておけ」
 ライオットが首を振った。
 レイリアには設定が多すぎる。しかも、この時代に口に出してはいけない類のものばかり。それを知っているのだということは、可能な限り秘密にするべきだ。
 それに。
「きっと、もともとこういうシナリオだったんだから、仕方ないよ」
 私はもう諦めた、と言わんばかりに、ルージュが肩をすくめた。
 そもそも、ここにいるのはレイリアとカーラにまつわる物語を体験するためなのだ。その彼女たちと関わらないという選択自体、矛盾したものだったのかもしれない。
「……そうだよな。シナリオの導入は強引な方がやりやすいってGMに注文したのは、俺たちだもんな」
 シンの中の人は33歳。レイリアは17歳。
 自分の半分しか生きていない少女に皮肉を言うのは、あまり美しい行為ではない。
 シンは深呼吸をして気分を切り替えると、レイリアに向き直って頭を下げた。
「悪かった。ちょっとこっちの予定が狂っただけなんだ。君に他意はないから勘弁してくれ」
「いいえ、こちらこそ一方的ですみません。でも、どうしても力を貸していただきたいんです」
 本気で申し訳なさそうにレイリアも頭を下げる。
 お互いに頭を下げたまま、これでは話が始まらない、と気づいたのはどっちが先だっただろうか。
 顔を見合わせて頭を上げると、シンが言った。
「じゃあ、お互い様ということで、この件は終わりにしよう」
「はい」
 不安が解けるようにほころび、レイリアの美貌に安堵の微笑が浮かぶ。
 まるで春の残雪を溶かす陽光のよう。その破壊力たるや天使級だ。
 一撃で心臓を撃ち抜かれ、萌え殺されそうになったシンは、あわててジョッキをあおり表情を隠す。
 思わず見とれたライオットは、机の下でルージュに臑を蹴られて咳払いした。
「さて、仕事の話をしようか。相手はオーガーだって言ってたけど」
「はい。炭焼きのベック爺が、森の奥でオーガーを見つけて、神殿に通報してきたんです。見つけたのは今日の昼過ぎだそうです」
 レイリアはテーブルに地図を広げて発見場所を指さす。
 マーファ大神殿とターバの村をつなぐ祝福の街道から、西に外れて1時間ほど歩いたあたり。白竜山脈の尾根にはさまれた沢にいたらしい。
「ベック爺が言うには、大ぶりな鹿を仕留めていたそうなので。今夜のところはお腹いっぱいになって寝てると思うのですが……」
 明日になったら獲物を求めて街道にさまよい出てくるかも、とレイリアは続けた。
「それなら、これからすぐに急襲するか?」
 シンの言葉に、ライオットが首を振る。
「レンジャー技能があるのはシンだけだから、俺たちがついていったら奇襲にならないって。それとも1人で行くか?」
「いや、さすがにそれはちょっと」
 シンが決まり悪そうに視線をそらす。
 キャラクターは歴戦の猛者だし、スペック的にはシン1人で十分なのだが、中の人は初陣である。
 何があるか分からないし、ぶっちゃけ単独行動する勇気など無かった。
「オーガーの身長が2メートル50センチとして、この天井くらいでしょ? その巨人が丸太か何かを振りまわして、唸りながら襲ってくるんだよね?」
 ルージュにつられて、全員が食堂の天井を眺めた。
 目を細めて、そこに架空の巨人を想像する。
 赤茶色に焼けた、筋骨隆々とした肌。原始人のように獰猛な顔。血に濡れた犬歯がむき出しになり、自分を殴り殺そうとして襲いかかってくる……!
 軽く想像しただけでも、非常に怖かった。
 実物と現場で向き合った時、スペック通りの性能を発揮する自信などあろうはずもない。
 むしろ、恐怖で硬直して身体が動かなそうだ。
「まあ、普通に考えて魔法だよな」
 背筋の寒気を払うように、シンが咳払いして言った。
 接敵する前に、圧倒的な火力で殲滅するしかない。白兵戦はヤバい。
 冒険者としてのリアル経験値は貯まらないが、そういうのは次の機会に、所定方針どおりゴブリンか何かでやればいいことだ。
「となると、夜襲は却下だな。夜明けを待って沢に入ろう。レイリアとギムは……」
「もちろん、わしらも一緒に行かせてもらう。準備は万端じゃ」
 ライオットが視線を向けると、プレートメイルをじゃらりと鳴らして、今まで黙っていたドワーフの戦士がうなずく。
「だがその前に、一手、手合わせを願えんかな? お互いどの程度できるのかを知っておいて損はないと思うが」
 ギムのファイターレベルは5。オーガー相手ならちょうど噛み合うレベルだ。
 華奢な体格のレイリアも、設定上はファイターレベル5である。破壊力は期待できないが、自衛程度なら十分にこなせるだろう。
 ここにいる自称“凄腕冒険者”たちが、彼らと同程度に使えるなら、オーガーと戦っても勝算はある。逆に初心者レベルであれば、全滅の危険がある。
 技量に関心があるのは当然だった。
「分かった。ギムの相手は俺がしよう。ライオットはレイリアの相手を頼む」
 さっそく剣に手を伸ばして、シンが言う。
 自分たちがどこまで戦えるのか。
 興味があるのは、彼も同じだった。


「正直、おぬしらを見くびっておったよ。済まなかった」
〈栄光のはじまり〉亭の裏庭。
 激戦の末、シンに一方的に打ちのめされたギムは、全身を汗まみれにして、荒い息をつきながらシンに頭を下げた。
 戦士として最大級の賛辞に、シンはあわてて手を振る。
「いや、これは模擬戦だから。実戦なら違う結果が出たかもしれない」
「何を言うか。あの体さばき、剣技、どれをとってもわしとは比較にならん。よほどの修練を積んだのじゃろう? その修錬は、おぬしを裏切りはせぬ」
 実直なドワーフの言葉に、シンは小さく笑った。
「そううまくいけばいいけどな」
 キャラクター時間で3年間、リアル時間では15年以上にわたる冒険を繰り返し、強敵と戦い続けて身につけた実力ではある。それは事実だ。
 だが経験を積んだのはシン・イスマイールであって、中の人ではない。
 中の人は実戦経験のない、ただのシステムエンジニアにすぎないのだ。
 どれほどハードウェアのスペックが優れていても、ソフトウェアが伴わなければ宝の持ち腐れ。ソフトが持っている以上の性能は発揮できない。
 言ってみれば今のシンは、世界最高のスーパーコンピュータがウィンドウズ95で動いているようなものだ。
 SEとしての認識が、今の自分をそう評価していた。
 目の前では、ライオットとレイリアの模擬戦が繰り広げられている。
 レイリアは片手持ちの小剣で、思いのほか大胆に打ち込んでいた。上段、中段、下段と基本通りの型を披露したかと思えば、フェイントから鋭い突きを繰り出すなど、あらん限りの技を尽くしてライオットに攻めかかっていく。
 ライオットは盾を持たず、手にするのは長剣1本のみ。それを両手持ちにしてレイリアの果敢な攻めを受けているが、今のところは防戦一方だ。
 レベル差の割には、レイリアが健闘しているように見えた。
「随分と謙虚じゃの。おぬしほどの使い手なら、もっと自信を持ってもよいのではないか?」
 その様子を眺めながら、ギムがもの問いたげな視線を向けてくる。
 シンは肩をすくめた。
「いや、オーガーなんて相手にしたことないから。自分がどれほど戦えるのか正直不安だ」
「そうか」
 ギムは納得した様子でうなずいた。
「それを言われれば、わしらも同じじゃな。わしもオーガーと戦うのは初めてじゃし、レイリアに至っては妖魔退治自体が未経験じゃ。どれほど役に立つかなど、やってみなければ分からんぞ」
 やってみなければ分からない。
 シンは、その言葉がすとんと腑に落ちたのを感じた。
 要するにプログラムのバグ取りのようなものか。
 仕様書どおり完璧に仕上げたプログラムでも、バグは必ず発生するし、どこに出るかは走らせてみないと分からない。
 まさしく、今のシンは未検査の新作そのものなのだ。
 これからのミッションがバグ取りの作業であり、それを繰り返して“使える”プログラムに成長していけばいいこと。
「確かに、やってみなけりゃ分からないよな」
 そうつぶやいたシンの顔は、少しだけ晴れやかになっていた。    
 2人の会話が落ち着くのを待っていたかのように、レイリアとライオットの試合も終わりを告げた。
 攻勢に転じたライオットが、息もつかせぬ連続攻撃でレイリアを追いつめていく。
 レイリアが一瞬の隙をつき、反撃しようとした刹那。
 雷光のような一撃が手元を襲い、レイリアの手から小剣を弾きとばしていた。
 小剣は回転しながら高く舞い上がり、きらりと残光をひとつ残してから、湿った音をたてて地面に突き立つ。
 すでにレイリアの喉もとには長剣が突きつけられ、身動きひとつできなくなっていた。
「……参りました」
 レイリアが悔しそうに両手を上げる。
 戦士として鍛錬した自分に、かなりの自信があったのだろう。
 ライオットは長剣を鞘に納めると、地面に突き立っていた小剣を取り、レイリアに差し出した。
「強かったな。正直、ここまでやるとは思わなかった」
「とんでもない。遊ばれていただけです」
 剣を受け取りながら、レイリアが唇を噛む。
 曲がりなりにもファイター5レベル。圧倒的な実力差は嫌というほど認識できてしまう。
「これでも、ギムから2本に1本は取れるんですよ。もっと戦えるかと思ってました」
「なるほど」
 ライオットはうなずくと、まっすぐにレイリアを見つめた。
 漆黒の瞳が、悔しそうに揺らめいている。
 負けん気の強いお嬢さまだな、と内心で苦笑しながら、ライオットは言った。 
「相手に勝ちたいなら、自分から打ち込むのは下策だ。それでは手の内を晒すだけ。自分の間合いで相手の攻撃を誘い出して、その出端をくじくんだ。相手に『打たされる』と感じたら、間合いを切って離れるべき」
 ライオットの中の人は、日頃から剣道で六段七段の師範にしごかれている。
 リアルでは『理屈は分かるが身体がついていかない』という状況だったのが、ファイター9レベルというハイスペックな身体能力を手に入れて、知識と経験を存分に活かせるようになっていた。
「繰り返すが君は十分に強い。だが強いということと、勝負に勝てるということは、似ているようでも少し違うんだ。勝つためには、もっと違う種類の訓練もしないとな」
「…………」
 今まで考えもしなかったことを指摘されて、レイリアは黙り込んだ。
 同じように剣を持って向き合っていたのに、見ていたものが全然違うことに気づいたのだ。
 今になって思い返してみれば、一方的にレイリアが打ち込んでいた状況さえ、ライオットが望んだから作られていたのだと理解できた。
 ライオットは最初から、レイリアの剣を弾こうとしてタイミングを測っていたのだ。
 測るために必要だったから、あらゆる技の速度が見たかった。
 速度を覚えたから、自分の望むタイミングで攻撃させ、待ちかまえていて剣を弾いた。
 それだけのこと。最初から最後まで計算通りに戦いを運んだだけ。
 レイリアは肩から力が抜けるのを感じて、小さく笑った。
「凄腕の冒険者っていうのは、掛け値なしに本当でしたね、ギム」
「そのようじゃの」
 ギムがうなずく。
「明日は夜明けとともに出発じゃ。今夜は早めに休むとしよう。余計な手間をとらせてすまなかった」
 疲労を隠しようもない様子で立ち上がると、ギムはレイリアと連れだって宿の中に戻っていく。今夜はここに泊まるつもりらしい。
 彼らを見送ると、それまで黙って見ていたルージュが初めて口を開いた。
「で、どうだった?」
「模擬戦なら負けないよ。怖くないからな」
 シンが淡々とした口調で応じる。
 その言葉の意味を正確に察して、ルージュはため息をついた。
「オーガーか。実物を見たら、さぞかし怖いんだろうね」
「全力の咆哮でも聞いたら、俺、ちびるかも」
 まじめな表情で弱音をはくシンに、ライオットは思わず苦笑した。
「変な怪我をしてもつまらないし。今回は魔法攻撃メインで遠距離から倒すのがいいだろうな。ギムは戦士が主役だと思ってるみたいだが、今回は出番なし。ルージュ、頼むぞ」
「そんな。私も不安なんですけど」
「大丈夫だ。もし近づいてきたら俺が支えるから、後ろから《ライトニング・バインド》を1回かければいい。あの呪文なら移動を封じる上に効果が持続するから、3ラウンドも放っておけば勝手に死ぬだろ」
「まぁ、それくらいなら頑張るけど」
 ルージュが渋々とうなずく。
 どんなに凶悪なモンスターでも、しょせんは5レベル。魔法さえ使えれば何ほどのこともない。
 接敵するまでもなく片がつく。
 この時は全員がそう思っていた。
 その甘さを思い知らされるのは、もう少し先のことだった。





[35430] シナリオ1 『異郷への旅立ち』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:35
シーン4 白竜山脈 オーガーの沢

「この小川に沿って進めば、ベック爺の言っていた沢に出るみたいです」
 祝福の街道にかかった小さな橋で足を止めると、黒髪の美少女は地図から顔を上げ、目を細めて清流を見下ろした。
 早朝。
 川面から立ちのぼる朝靄のせいで、視界は白一色に染まり、遠くまで見通すことはできない。
「やっかいだな」
 レイリアと並んでいたシンが、小さく舌打ちした。
 人の手の入っていない自然の森は、木々が折り重なるようにして生い茂っており、魔法で一方的に叩けるほどの視程が確保できない。
 おまけに、足場も悪かった。
 渓流には大小の岩が転がり、まっすぐ歩くのも難儀しそう。とてもではないが、走ったり跳んだり、剣を振り回したりするような地形ではない。
 ろくに動けない中でオーガーが暴風のように暴れ回ることを想像すると、絶望的な気分になってきた。
「その辺から、ひょっこり街道に出てきてくれないもんかね?」
 シンが川面を示すと。
 それに応えるように、大きな影が朝靄の向こうから飛んできた。
 鹿の死体だ。しかも前半身だけの。
 突然の出来事に、誰も声すら上げらないまま、そう認識する。
 死体は放物線を描いて飛び、濡れた音をたてて街道に落下すると、赤黒いナニカをまき散らした。
 血と生肉のにおいが立ちこめる。
「あのさ……」
 ルージュが乾いた笑みを浮かべて、降ってきた死体を見た。
 前半身だけ。
 何者かに喰いちぎられたらしく、荒々しい断面を残して、後半身はなくなっている。
「気のせいかもしれないんだけど、鹿の生肉を食べた人に心当たりがあるんだよね」
「奇遇だな。俺もだ」
 ライオットも鹿を見つめたまま、平坦な声で同意する。
「こんな重いものを遠くまで投げる生き物も、そうそういませんよね」
 レイリアの声は、ちょっとうわずっているようだ。
 誰もが無惨な亡骸に注目していた。
 いや、現実から目をそらしていると言うべきか。視線を移せば何が見えるか分かりきっているのに、誰もがそれを先延ばしにしていた。
「呆けとる場合か、来るぞ! 早く剣を抜け!」
 ギムが両手で戦斧を構えて怒鳴る。
 シンとライオットはその怒声に脊椎反射で抜剣して身構えた。
 人間の倍はありそうな、毛むくじゃらの太い腕が木をつかみ、川岸から街道へと巨体を引き上げている。
 赤茶けた剛毛。
 血のこびりついた鋭い爪。
 頭頂部は三角形に尖り、爛々と光る目が街道を見渡す。
 充血した赤黒い瞳がシンたちを見つけるなり、犬歯をむき出しにした口がにやりと歪んだ。
「Wooooooooow!」
 血に飢えた巨人の咆吼が、早朝の大気を振るわせる。
 食人鬼の名に恥じない、凶悪きわまる登場だった。
「で、ででで出た出たぞどうする一彦!」
「ちょうど良かったじゃないか。探す手間が省けた。さっさと倒して帰ろう」
「ホントにいいのかあいつまだ吼えてるだけだぞこのままだと正当防衛成立しないんじゃ?!」
 自分でも何を口走っているのか理解できないが、とにかくシンはしゃべり続けた。
 実際、そうでもしないと恐怖で錯乱してしまいそうだった。
 身の丈3メートル近い巨人が、自分たちを襲う気満々で吼え猛っているのである。
 明確な殺意を向けられたことのない、善良な一般市民としては、回れ右をして逃げ出さないだけでいっぱいいっぱい。
 レベルがどうとか、魔法なら大丈夫とか、そういう問題ではなかった。
 もっと根元的な、自分を殺せる相手に対する、圧倒的な恐怖。
 こいつと同じ場所にいてはいけない。
 逃げるべきだ。少しでも早く、少しでも遠くへ。
 生物としての本能がそう絶叫している。
 それでもこの場に踏みとどまっている理由は、たった一つ。
 逃げ出す余裕がないだけ。
 精神的に腰が抜けてしまい、何か行動を起こすなど思いもよらなかった。
「そもそもあいつを倒しに来たんだろ……とは言うものの、いきなりは無理だよな」
 ライオットは仲間たちの様子を一瞥して、緊張にこわばる頬を無理やり笑みの形に歪めた。
 何とか行動できるだけの余裕があるのは、職業柄、荒事の経験を数多く踏んでいるライオットだけのようだ。
 怖いことは怖い。心臓は早鐘を打ち、背中は汗でびっしょり。できれば逃げたい。
 だが一般市民の目の前で、無様な姿は見せられない。
 そういう状況の中で、実際に犯罪者と戦ってきた警察官としての経験が、土壇場でものを言った。
 オーガーの正面ではギムが防衛線を張り、後衛をかばう態勢になりつつある。
 だがシンとルージュはダメだ。いちおう得物を構えてはいるものの、足に根が生えている。あのままでは戦闘の役には立たない。
 ちらりと視線を向ければ、レイリアも蒼白になって立ち尽くしていた。完全に無防備状態だ。
 それを見てちょっと安心した。原作キャラクターといえども、蝶よ花よと大切に育てられた箱入り娘。これが普通なのだ。
「使えそうなのは俺とギムだけか」
 魔法の輝きを宿す大盾を構えながら、ライオットはギムに並ぶようにオーガーの正面に進んでいく。
 ジュラルミンの盾1枚で、鉄パイプを持った極左過激派集団と乱闘した警備現場を思い出しながら、ライオットは緊張で乾いた唇をぺろりと舐めた。
「どうじゃ、後ろは?」
 腰を落とし、両手で戦斧を構えながら、ギムがちらりとライオットを見る。
「まだダメだ。混乱してて使えそうにない」
「魔術師の嬢ちゃんはともかく、あれほどの戦士がどうしたんじゃ? 昨日とまるで違うではないか」
「それを今言っても仕方ない。あいつの攻撃は俺が引き受けるから、ギムは回り込んでくれ」
「よし、分かった」
 小さくうなずいたギムが、じりじりと後退していく。
 魔法の盾を前面に構えたまま、ライオットは防御専念の体勢でオーガーをにらみ続けた。
 シンには及ばないものの、ライオットとて9レベルファイターである。正面から戦えば、オーガー程度なら相手にならないはずだ。
 それでもライオットは、オーガーに対して先制攻撃を仕掛けることはできなかった。
 日本人の甘いところ。
 相手が敵だと分かりきっていても、先に手を出すことをためらってしまう。どんなに罵詈雑言を浴びせられても、先に手を出した方が悪い。そういう慣習が染みついてしまっている。
「Gufuuuuuu」
 相手のおびえを敏感に察知して、オーガーがにやりと笑う。
 自分の方が強い。こいつらは餌にできる。そう感じたのだろう。
 オーガーは隙だらけの悠然とした動きで、鹿の死体をつかんで持ち上げた。
 どうするつもりかと身構えるライオットの目の前で、毛むくじゃらの豪腕が一閃。50キロ近くありそうな死体を、まるで小石のように軽々と投げつけた。
 死体は血と内蔵を飛散させながら一直線に飛び、真正面からルージュに命中。
 華奢な体はひとたまりもなく吹き飛び、死体と絡み合うようにして5メートルほども宙を舞った後、その下敷きになって動かなくなった。
 不自然な方向に曲がった右手から、魔法樹の杖が転がる。
 苦痛のうめき声が聞こえるから意識はあるのだろうが、とても大丈夫といえる状況ではない。
 ほんの一瞬の沈黙の後。
「ルージュさん!」
 硬直が解けたレイリアが、はじかれたように駆け寄る。
 レイリアはプリースト7レベル。ルージュの治療は任せておけば間違いないだろう。
 しかし。
 ルージュを攻撃されたという事実は、ライオットを沸騰させた。
「こいつ……!」
 オーガーへと視線を移すと、汗で塗れた剣を握り直す。
 先制攻撃がどうとか、相手を傷つけたくないとか、そういう躊躇は一瞬で霧散。
 妻を傷つけられた。
 言葉もろくに話せないような半獣人に。
 その怒りは理性を真っ赤に塗りつぶした。
 許さない。相応の報いをくれてやる。
 精神のスイッチが一斉に切り替わり、ライオットはオーガーを睨みつけた。
 ルージュを沈黙させたオーガーに、今度はギムが殴りかかっている。
 ドワーフ戦士の大斧は銀色の暴風となって荒れ狂っていたが、分厚い毛皮に阻まれて、致命傷を与えるには至らない。
「ギム! もういい、どけ!」
 もし精霊使いがいれば、ヒューリーの怒号に聞こえただろう。
 ライオットの放つ殺気に反応したのか、オーガーはギムを捨ておいて向き直った。
 即座に“勇気ある者の盾”の魔力が発動。オーガーの攻撃対象をライオットに固定する。
「おい。土下座して謝れば、俺にも慈悲はある。楽に逝かせてやるぞ」
 右手の長剣をまっすぐ眉間に突きつけ、ライオットが宣言する。
「Gyaaaaaaaaoooooooow!」
 その不遜な態度に怒りを覚えたのか。
 オーガーは天に向かって吼えると、思い切り振りかぶった右腕をライオットに叩きつけた。
 あまりの威力に大地が鳴動し、空気が震える。
 盾で正面から受けたライオットの鉄靴が、10センチ余りも地面を削る。
 だが。
 それだけだった。
「ダメージは、0だ」
 ライオットが酷薄に口許をゆがめる。
「この程度か。緊張して損した」
 そして反撃。
 ファイター9レベルという圧倒的な技量で打ち込んだ剣は、2桁に到達する追加ダメージの恩恵をいかんなく発揮し、オーガーの腕をあっさりと切断した。
 ソーセージでも切るような、軽い手応え。
 それだけで、剛毛に包まれた右腕が、血の尾を引いて地面に転がった。
「Gyuaaaaaaaaaaaaaaaa!」
 今度の絶叫は苦痛か。
 まごう事なき恐怖に顔を歪めながら、オーガーが今度は左腕を振りおろす。
「何度やっても同じ」
 正面から盾で受ける。
 衝撃。
 踏張る鉄靴が大地を削り。
「ダメージは、0だ」
 冷酷に告げる声とともに、ライオットの剣が一閃。
 あっさりとオーガーの首を斬り飛ばした。
 生き物を殺したという特別な感慨はなかった。
 感じたのは、腕に止まった蚊を潰したときと同レベルの、ちいさな爽快感だけ。
 勝った。その余韻にひたる間もなく。
 ライオットの首筋にチリチリした悪寒が走る。
 反射的に振り向いた先、シンとレイリアの後方には。
「シン、後ろだ! もう1匹いるぞ!」
「Guaaaaaaaaa!」
 今度は、根本から引き抜いた樺の木を軽々と振り回しながら、新手のオーガーが迫っていた。
 ルージュを治療中のレイリアを後ろにかばい、剣を構えなおすシン。
 背後からは、緊迫した様子でマーファに祈りを捧げるレイリアの声が聞こえる。
 やるしかない。今、ルージュとレイリアを守れるのは自分しかいないのだから。
 とはいえ。
 怖い。今度は武器付き。さっきよりも迫力は上。
 ここにいるのが怖い。
 戦うのが怖い。 
 傷つけるのも、傷つけられるのも怖い。
 剣を握る手には力が入りすぎ、すでに感覚が麻痺していた。
 全身の筋肉がこわばり、息が苦しい。 
 自分はライオットとは違う。戦う訓練などしたことないし、殴り合いの喧嘩だって小学生の頃が最後だ。
 逃げようか。
 戦うのはライオットに任せて、自分は逃げよう。1人くらいいなくても大丈夫。あいつがいれば何とでもなる。あいつプロだし。
 よし決定。逃げよう。
 シンがそんな結論に達するまで約1秒。スーパーコンピュータ並の演算速度でそこまで考えたとき。 
その歌は聞こえてきた。


     汝の運命は神の御手に
     神は汝を支えたまわん
     我、神の御名をば呼ぶ
     神は我が声を聞きとどけ
     汝を向かいくる敵から守り給う


 それは、二千年の時を経て伝えられてきた祈りの言葉。
 国を滅ぼされ、故郷を追われた民が、絶望の淵を旅しながら連綿と伝え続けてきた、神の降臨を願う祈りの言葉だ。
 そして千年が過ぎたころ、彼らの祈りには、いつしか旋律がつけられていた。
 祈りは歌になり、雨が大地にしみわたるように、世界に広がっていった。


     来たれ、聖霊よ
     天より御光の輝きを放ち給え
     貧しきものの御父
     天寵を授くる御方
     心の光に坐す御者よ

 
 歌っているのはライオットだ。
 主として男性聖職者が六音階で歌う単旋律・無伴奏の祈りは、後にグレゴリオ聖歌と呼ばれるようになる。
 文字を知らない人々にとって、歌とはすなわち祈りだった。
 古ヘブライ語で歌われた聖歌である。意味など分からなかっただろうことは想像に難くない。
 しかし、荘厳に響く歌に心を震わせ、目の前の試練に自らを奮い立たせるのに、言葉の意味などさしたる問題ではなかろう。   
 それより問題は。
 シンは突進してくるオーガーに視線を転じて、こわばった指をほぐすように、剣を握りなおす。
 シンの理性を縛り上げていた恐怖と緊張が、嘘のように消え去っていた。


     こよなき慰め手
     魂の甘美なる友
     心のなごやかなる楽しみ
     疲れたるときの憩い
     灼熱のうちの安らぎ
     憂うるときの慰めよ


 戦神マイリーの奇跡のひとつ《戦いの歌》。
 聞く者の勇気を呼び起こし、恐怖を駆逐し、戦いの加護を与えるという効果を持つ神聖魔法だ。
 バード技能込みで朗々と響くライオットの歌声は、その場にいる全員の心から、脅えや怯みをきれいに消し去っていく。
 後に残るのは爽快に晴れわたる理性と、勇気に満ちた高揚感だけ。


     おお、幸いなる清き光よ
     御身が信徒らの心の最奥をば満たしたまえ
     御身の助けなくして
     罪なきもの、誰も在らじ


 この中で唯一理系のルージュならば、魔法の影響でβエンドルフィンが過剰供給されていると分析しただろう。
 マイリーの加護によって大量生成された副腎皮質ホルモンが、中脳腹側被蓋野のμ受容体に作用してGABAニューロンを抑制。A10神経のドーパミン遊離が過剰反応を起こし、精神的なストレスを排除したのだ。


     願わくは
     穢れたるを禊ぎ
     乾けるを潤し
     傷つきたるを癒し
     固きを柔らげ
     凍えたるを暖め
     迷えるものを導きたまえ 


 なぜ、逃げようなどと思ったのか。
 そんな必要はなかったのに。
 シンは小さく笑いながら、ゆっくりと剣先をオーガーに向けた。
 なるほど中の人は一般人だが、大学卒業を棒に振ってまで演劇とTRPGに青春を捧げたプレイヤーだ。
 父に怒鳴られ、母に泣かれ、それでもやめなかった演じ手として。
 10レベルのファイターを演じる以上、敵に背を向けて逃げ出すようなみっともないロールプレイなど、誇りに賭けてできようはずがない。 


     御身の忠実なる信徒らに与えたまえ
     御身が七つの貴きものをば
     彼らに徳の誉れをば
     彼らに救いの扉をば
     彼らに永遠の喜びをば


 新手のオーガーの標的は、間違いなく自分だ。根本から引き抜いた樺の木を丸々1本振り回しながら、一直線に襲いかかってくる。
 背中には、すがるようなレイリアの視線を感じた。
 脅える美少女をかばって、凶悪な敵と対峙する戦士。そんな自分を客観的に認識できる。
 シナリオのクライマックスで、最高の見せ場だ。
 この期に及んで、戦わないという選択肢はなかった。
「来たな、プレッシャー」
 つぶやきながら、シンは冷静にオーガーの動きを分析する。
 勢いだけで大ざっぱな突進。
 一言で言えば隙だらけ。負ける要素など全くない。 
 確かにオーガーの怪力は脅威だ。
 だが、シンの尊敬するサングラスの大尉は言っている。当たらなければどうという事はない、と。
 だったら話はシンプル。
 殴られる前に殴る。それだけだ。
 オーガーが大枝を振りかぶったところを、シンは狙いすまして反撃に出た。
 シンの右足が力強く大地を蹴り、数メートルの間合いが一瞬で詰まる。
 刹那、オーガーの全身が、雷の網に絡め取られた。青白い稲妻が毛皮を焼き、肉の焦げる臭いが漂う。
 それを知覚しながら、シンは委細構わず全力で魔剣を振り抜いた。
「どおおおおおりゃああああああッ!」
 電撃で体を硬直させたオーガーに、白い燐光を放つ魔剣が食い込む。
 10レベルファイターの剛剣が巨人を腰断すると、血の尾がきれいな円形を描いた。
 下半身に別れを告げた上半身が、回転しながら鈍い音をたてて地面に落ちる。
 剣を振り抜いた姿勢のまま、肩で荒い息をつきながら、シンは上下に分断されたオーガーを油断なく見下ろした。
 うつ伏せに倒れた上半身は、何度か砂をかくような動作を見せた後、完全に動かなくなる。
 その死を見届けたか、全身を焼いていた雷の網も消滅した。
 敵は死んだ。間違いなく。
 それを確認して、ようやく肩から力を抜く。
「さすがじゃな。まさか一撃で倒すとは」
 ギムが、ぽんとシンの背中を叩く。
「魔術師の穣ちゃんも無事のようだし、何よりじゃ」
 その言葉に、ルージュの方を振り向く。
 言われてみれば、さっきオーガーの動きを止めたのは《ライトニング・バインド》の呪文。レイリアの回復魔法が間に合ったらしい。
「もう、一張羅が血まみれ。最低」
 レイリアの手を借りて自分の上から鹿をどかすと、ルージュはぶつぶつ文句を言いながら立ち上がっていた。
「悪い。油断してた。大丈夫か?」
 ライオットが妻に駆け寄って、腕の具合を確かめる。
「骨折なんて高校以来の激痛だよ? 本気で泣こうかと思った。なんかまだ痛い気がする」
 ルージュは、右腕をさすりながら肩をすくめた。
 落ちていた魔法樹の杖を拾いながら、レイリアが申し訳なさそうに言う。
「昼までに痛みは引くと思いますが、しばらく違和感は残ります。すみません、私の魔法では完全に癒すことはできないんです」
 怪我を癒すことはできても、何もかも元どおりとはいかないらしい。
 重傷ならば、すぐに歩いたりはできないそうだ。これは覚えておいた方がいいだろう。 
「さっきの《ライトニング・バインド》は杖なしでやったのか?」
「うん。達成値はちょっと下がるけど、正直腹立ったからね」
 ルージュは答えると、あらためてオーガーの死体を見下ろし、細く吐息をもらした。
 ライオットが、妻を気遣うように肩に手を置く。
 そんな夫婦を横目で見ながら、シンは言った。
「それにしてもさ。死体を見たら取り乱すと思ったけど、想像以上に無感動だな」
 小説なんかでは、見ただけで吐き戻す描写があったのだが。
 動き出したら怖いな、とは思うものの、ただそこに転がっているだけで気分が悪い、という感じはしない。
「まだ腐敗してない新鮮モノだし、蛆虫もわいてないからな」
 端切れの布で血糊をぬぐって剣を納め、ライオットが答える。
「俺も交番で初めて死体の通報をされたときは、肉なんか食えなくなるんじゃないかって心配したけどさ。ふつうに晩飯は牛丼食えたよ」
 以来ダース単位で遺体を扱ってきたが、気分が悪くなったことは一度もないという。
「そこにあるだけなら、人形と変わらないしね」
 ルージュも、中の人は臨床検査技師だ。大学の実習では人体解剖をやったし、肉片を細切れにして遺伝子検査をする仕事柄、人の筋肉組織や臓器など見慣れたもの。
「ま、実際そんなもんだよな。安心したら喉が渇いたし、腹も減ってきた」
 シンがうなずいた。
 さすがに今朝は緊張して、朝食は軽く済ませていたのだ。
「オーガーの首はわしらが預かって構わんか? マーファ神殿で報奨金の交渉をするのに役立つのでな」
「それは構わないけど、死体はどうする?」
 シンの問いに、ギムは髭をしごきながら考え込んだ。
 新婚夫婦が歩く祝福の街道に、巨人の死体が転がっているのはあまり宜しくない。
「脇の木立に寄せておくしかないのでは? 私たちだけでは移動させられないでしょう?」
 レイリアの提案に、ライオットは首を振った。
「野犬や狼が集まってきたら危険じゃないか? 俺たちはいいが、そこいらの新婚さんには十分な脅威だろう」
「それもそうですね」
 燃やす、埋めるなどの意見も検討されたが、今さら血まみれの死体なんか触りたくないので、できれば他人に押しつけたかった。
「では、神殿に戻って荷車と人手を呼んできましょうか?」
「なんか面倒だね。要は死体を処分すればいいんでしょ? オーガーは首だけ残ってればいいんですよね?」
「そうじゃな」
 ルージュの問いにギムがうなずく。
 大斧が重くうなって首を両断すると、ルージュは古代語の呪文を唱えながら魔法樹の杖を胴体に向けた。
 オーガーの死体に白い燐光が宿り、それは次第に明るくなっていく。
 呪文の詠唱に力が入ると、光は目も眩むような輝きとなり、そして弾けた。
「すごい……」
 レイリアが信じられないという表情でつぶやく。
 光が弾けた後、そこにあったオーガーの死体は、跡形もなく分解されていた。ただ地面に広がる血の染みだけが、戦闘の名残をとどめるのみ。
「死体相手に使うのも、魔力の無駄遣いだけどね」
「いや、助かったよ。お疲れさん」
 ライオットが肩をたたいて労う。
「本当にありがとうございました。おかげで助かりました。私たちも、巡礼の皆さんも」
 レイリアは改まった口調で言うと、深々と頭を下げる。
 艶やかな黒髪が、白い神官衣の背中をさらりと流れた。
「皆さんがいてくれたのも、マーファのお導きかもしれません」
「出会ったのはお導きかもしれないけど、冒険者を探そうって決めたのは、君の決断だろ」
 シンの言葉に、レイリアが顔を上げる。
「困ったことがあったら、またあの店に来てくれ。いつでも力になるよ」
「ありがとうございます、ぜひ」
 黒髪の美少女が輝くような笑顔を浮かべる。
 その頬がうっすらと染まっているのに気づいて、ライオットとルージュが、思わず顔を見合わせた。
「……吊り橋理論って言うんだっけか、こういうの」
「オーガーから身を挺して守った上に、今のリーダーはかなりイケメンだからね。きっと第一印象は相当いいよ」
 小声で論評しながら、黒髪の美少女と見つめ合っている親友を眺める。
 中身はヘタレでメタボ寸前のSEだが、外見は実直そうな砂漠の部族の戦士である。
 この2人が並ぶと非常に絵になるというのは、否めない事実だった。
「問題は、誰とフラグ立ててるのかあいつが理解してるかってことなんだけど」
「いいじゃない。お似合いだよ。リーダーもやっと春が来たんだから、頑張ってもらわないと」
「頑張れるかな。あいつ、彼女いない歴33年だぞ」
「お互い気になってるみたいだし、大丈夫じゃない?」
「“灰色の魔女”を蹴散らしてか?」
 そんな外野の心配など気にも留めずに、シンが晴れやかに宣言した。
「それじゃ、帰ろうか。とりあえず一杯飲んで、一休みして、それから服と装備の洗濯だ」
 ロードス島へ来て二日目の早朝、彼らの最初の冒険は、何とか成功に終わった。
 祝福の街道を覆っていた朝靄はゆっくりと晴れ、東の空から朝日が差し込んでくる。
 だが、世界はもう少し、まどろむべき時間の中にあった。


 シナリオ1『異郷への旅立ち』

 MISSION COMPLETE
 獲得経験点
  オーガー5レベル×500=2500点 





[35430] インターミッション1 ライオットの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:40
インターミッション ライオットの場合

 冒険者の店〈栄光の始まり〉亭。
 その裏庭の片隅に、店の女将とライオットがいた。
「こんな感じでいいのかい?」
 女将が、ライオットが描いた図面を不思議そうに眺めながら言った。
 そこは、新しい木の香りの漂う、居心地の良さそうな小さな小屋だった。
 透き間をあけて白木を敷きつめた室内には、直径1メートルほどの大きな樽が2つと、ちょっとした荷物が置けそうな棚が作られている。
 壁には出入り口のほかに窓はないが、屋根がかかっているのは小屋の広さの半分程度なので、採光に不自由はない。
 屋根を支える柱にはランプを吊してあるので、夜になればまた違った風情になるだろう。
「完璧な仕事だ。さすがドワーフの建築家だな」
 水の張られた樽を見ながら、ライオットがうれしそうに言う。
 ギムに紹介してもらったドワーフの建築家と相談を繰り返し、発注から1週間。
 わざと半分しかない屋根や、床全体を隙間だらけにして水を抜き、床下から樋で排水する構造など、ロードスの概念にはないものを、ドワーフは想像以上の完成度で実現してのけた。
 そう。
 風呂のない生活は耐えられないと、マーファ神殿からもらった報酬を投資して、裏庭に個室露天風呂を作ってもらったのだ。
 脱衣スペースに敷いてある簀の子や脱衣かごは、村中を探し回って似たような品を買ってきた。
 ほかにも椿の花油と塩を釜で炊いて精製した石鹸、麻の古布を裂いた垢すりタオルなど、必要最低限の備品も苦労して調達した。
「よく分からないねぇ。身を清めるなら、川で水浴びでもしたらどうだい?」
 女将が風呂場を見渡しながら、首をひねった。
「それじゃ駄目なんだよ。風呂は身を清める場所であると同時に、心を癒す場所なんだ。肩までお湯につかって夜空を見上げて、その日の出来事を反省したりしてさ」
 ライオットの言葉は心からの本音だったが、女将にはまるで理解できないようだった。
「ま、あんたの金で作ったんだから、好きにすればいいさ。どうせ他の客は使わないし、専用でいいよ」
 庭先に意味不明な施設を作ったことに関しては、文句を言う気はないらしい。
 この程度で腕利き冒険者を確保できるなら安いもの、と計算しているのだろう。
「それはありがたい」
 ライオットが律儀に頭を下げる。
「けど、お湯はどうやって沸かすんだい? ここにはまだ釜がないみたいだけど」
「こうする」
 女将の疑問に答えて、ライオットが携えていた剣を抜いた。
 必要筋力17のバスタードソード。よく手入れされてはいるが、もちろん湯を沸かす役には立たない。
 このままでは。
 ライオットは、魔法の指輪をはめた手を剣にかざすと、下位古代語のコマンドワードを口の中でつぶやいた。
『万能なるマナよ、炎の刃となって宿れ』
 詠唱の終了とともに、刀身を魔法の炎が取り巻いた。
 周囲の気温が一気に上がる。
 古代語魔法《ファイア・ウェポン》である。
 ルール的には打撃力+10で、両手持ちにすれば打撃力は32に到達。シンが持つ精霊殺しの魔剣”ズー・アル・フィカール”を軽く凌駕することになる。
「こりゃ、とんでもない魔法だね・・・その指輪ひとつで、村が丸ごと買えるんじゃないかい?」
 女将が目を丸くしている前で。
「んじゃいくぞ」
 ライオットは言うなり、その剣を樽の中に突き入れた。
 急激に沸騰した水が泡立つ音とともに、室内に白い湯気が広がっていく。
 そのまま剣で水をぐるぐるかき混ぜ、時々手を入れては温度を確かめる。
 そんな作業を3回ほど繰り返すと、そこには適温に沸いた風呂が完成していた。
「こっちの樽は湯船に使う。もうひとつはかけ湯。いずれは川から水を引いて、直接貯められるようにしたいな」
 得意そうに計画を語るライオット。
 女将はあきれ果ててため息をついた。
「あんたが金も魔力も無駄遣いをしてるってことは、よく分かったよ」
 そして女将が首を振りながら帰っていった後。
 一番風呂を心ゆくまで楽しんだライオットは、汚れの浮いた湯船を見て。
「こりゃ、どう考えても精霊使いが必要だな……」
 1レベル精霊魔法《ピュリフィケーション》のありがたみを、生まれて初めて実感していた。


シナリオ1『異郷への旅立ち』

 獲得経験点 2500点 
 
 今回の成長
  技能、能力値の成長はなし。
  冒険者の店〈栄光の始まり〉亭に、専用露天風呂を建設した。
  経験点残り 12500点。






[35430] インターミッション1 ルージュ・エッペンドルフの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:41
インターミッション ルージュ・エッペンドルフの場合

「……この呪文はソーサラーが自分の使い魔となるべき動物を召還し、支配する効果があります。使い魔となるべき動物は、ある程度限られています。たとえば蛙や鳥などです。また猫やフクロウなども有名な使い魔で、これらの動物が術者の召還に応じて姿を現し、術者に仕えます」
 オーガー騒ぎの翌日。
 魔術師ルージュ・エッペンドルフは、〈栄光のはじまり〉亭の自室で、難しい顔をして呪文書を読みふけっていた。
 革で装丁され、豪華な金文字で飾られた呪文書。そこには古代語で、アルトルージュの呪文の書、と記載されているらしい。
 もっとも、あまりにも達筆でルージュにも読めないため、真偽のほどは定かではないが。
「魔術師は使い魔を1匹しか持つことができません。すでに使い魔を持っている魔術師が2匹目を召還しようとしても、いかなる効果も発揮しません・・・そりゃそうだよね」
 ライオットは朝から、ギムに相談があると言って出かけている。
 シンも退屈を持て余したらしく、観光と称して散歩に行った。
 ひとりだけの静かな部屋。
 ルージュはぱたりと呪文書を閉じると、天井を見上げてため息をついた。
 使い魔。
 器用度敏捷度の低い魔術師に代わって、偵察からNPCの護衛まで何でもこなす万能選手。
 ソーサラーが3レベルになったら、まずは使い魔と契約というのがこの世界の真理だろう。
 実際、ルージュも3レベルで契約した使い魔がいる。
 それもただの動物ではない。
 アザーン諸島にしか生息しないという猫族の王、ツインテールキャットのオスで、名前はルーィエという。
 人間並の知能を持ち、複数の言語をペラペラ話す。古代語魔法と精霊魔法を5レベルで修得済み。精神的な魔法は無効。毒・病気に冒されない。おまけに暗視、闇視の特殊能力つき。
 はっきり言って、契約当時は主人よりもはるかに強かった。
 もっとも、ルージュの命令を無視して単独行動を繰り返すわ、口が悪くて問題ばかり起こすわ、従順な使い魔とはとても呼べない奴だったのだが。
 長くつきあっているうちにキャラも立っており、ルージュの相棒としてパーティーの一員に数えられていた。
 シャーマン・シーフのキースがいないのは仕方ないが、ルーィエまでいないのは少し寂しい。
 何とか呼び出せないものかと思い、ルージュは朝から試行錯誤を繰り返していた。
 ルール上、魔術師と使い魔との距離が1キロ以内であれば、テレパシーのようなもので思考を共有できるはずだ。
「それができないってことは、1キロ以上離れてるか、そもそも契約自体が無効になってるのか・・・」
 椅子から立ち上がり、窓の外の景色を見下ろす。
 ここターバの村は、マーファ大神殿の門前町だ。今月はニース最高司祭が祝福をくれるということで、訪れる巡礼者も数多い。
 村の大通りには土産物や食事の屋台が軒を連ね、かなりの賑わいを見せていた。
 その中から銀色の双尾猫を見つけようとしている自分に気づいて、ルージュは苦笑した。
「少し気分転換でもするか」
 流れような銀髪をかきあげると、新品のローブの裾をさばいて、階下の食堂に降りる。
 ちなみに昨日着ていたローブは捨てた。
 鹿の死体で血まみれ生肉まみれになった服では、衛生上の問題がありすぎる。
 臨床検査技師をしていたルージュは、血液の持っている危険性を十分すぎるほど認識していた。
 ルージュが階下に降りると、店の女将が手を挙げて呼びかけてきた。
「魔術師のお嬢さん。あんたに客が来てるよ」
「客?」
 朝食には遅く、昼食には早すぎるという時間帯。
 店内を見渡すが、自分の他に人の姿はない。
「誰もいないみたいですけど?」
 けげんそうに問い返すルージュに、女将がカウンターを示す。
「客は人間じゃない。さすが魔術師は交友関係が広いね」
 女将の視線の先。
 カウンターの隅には、テーブルに上ってスープ皿のミルクを舐める銀色の猫の姿があった。
 ご満悦らしく、2本の尻尾がパタパタと揺れている。
「よう、やっと起きたのか寝ぼすけ。人よりちょっと頭が回るだけが取り柄なんだから、さっさと回転させないとただの穀潰しだぜ」
 スープ皿から顔を上げて、双尾猫が言う。
「ルーィエ! どうしてここに」
 呆然として見つめるルージュに、双尾猫は器用に肩をすくめて見せた。
「一昨日の昼過ぎにいきなり精神感応が切れたから、何事かと思って来てやったんだ。まさか、ただ寝ぼけてたってオチじゃないだろうな?」
「切れた・・・やっぱり繋がってなかったんだ」
「今さら何を言ってるんだ。俺様の美声が聞こえない時点で少しはあわてろ。お前の人生でもっとも価値のある宝物を失うところだったんだぞ」
 ルーィエはぴんと尻尾を伸ばして、流れるような足運びでカウンターを歩き、ルージュのそばに寄ってきた。
 その動きは優美そのもの。およそこの世界の生き物の中で、猫ほど美しい動きをする動物はいない、とルージュは思う。
「いいか、使い魔契約が切れるなんてあり得ない。どっちかが死なない限りはな。それが切れた。何か普通じゃない要因がなきゃ、あり得ないんだ」
「それなら心当たりがあるな」
 難しい顔をしたルーィエが、視線だけで続きを促す。
 それを制すると、ルージュは興味津々で眺めている女将に向き直った。
「すいません、この子のミルク代は私にツケといて下さい」
「金はいらないよ。あたしからこの猫へのサービスだからさ。しかし世の中ってのは広いね。まさか、しゃべる猫がいるとはねぇ」
 女将はそう言って笑いながら、ごゆっくり、とカウンターの奥へと戻っていった。
「ええと、話は少し長くなるの。上の部屋に行こうか。どこまで理解してもらえるかは分からないけどね」
「舐めてんのか。この世界の事象で、俺様に理解できないことなんてないに決まってるだろ。誰に口利いてんだ」
「はいはい。とりあえず部屋に行ってからね」
「うっわ、その子供扱いムカつくんだけど! 猫族の王に対して礼を失してると思わないのか?!」
 初めて会う相棒と、いつも通りの会話。
 軽やかに階段を上るルーィエを見ながら、ルージュは頬が緩んでいくのを押さえられなかった。


「・・・各々然々、そういう事情なの」
「分かった。要するに、ただでさえダメダメな魔術師の精神が、さらにダメダメな異世界の同一人格と入れ替わったと理解すればいいわけだ」
 長い長いルージュの話を、ルーィエがわずか5秒に要約してみせた。
 入れ替わった。
 考えもしなかった仮説を提示されて、ルージュは思わず唸る。
「なるほど、そういう考え方もあるんだ。でもそれは難しいと思うよ。何しろ向こうの私は、コンクリートに潰されて死んでるはずだから」
「なら上書きでも何でもいい。それより問題は、俺とお前の関係だ」
 尻尾で窓枠をぴしりと叩いて、ルーィエが言った。
「お前がルージュと全くの別人なら、もう知らんって言うところだけどな。異世界で育ったヘタレにせよ、お前もルージュ・エッペンドルフであることは認めてやる。このまま見捨てるのは忍びないが、お前はどうなんだ?」
「どうするもこうするも、私がルーィエなしでやっていけるわけないじゃない。これからも助けてくれると嬉しいな」
 一も二もなく、ルーィエに飛びつく。
 このロードスという世界で生きていくに当たり、これほど心強い相棒は考えられなかった。
「実は、こっちに来てからずっとルーィエを探してたんだよ。なかなか見つからないし、精神感応は通じないし、本当に困ってたんだから」
「まぁ、そうだろうな。だが身の程を弁えているというのは、お前の数少ない美徳の一つだぞ。これからも俺様を見習って精進しろ」
 手放しで頼られて、ヒゲがぴくぴくと動いている。
 彼が自尊心をくすぐられているときの癖だった。口は悪いし唯我独尊なところはあるが、ルーィエは単純だし性格は素直である。
 付き合い方さえ間違えなければ、非常に頼りになる相棒なのだ。
「分かった。これからも頼むね。じゃあさっそくだけど、使い魔契約の儀式を進めていいかな?」
「気は進まないけど、仕方ないな。半人前の面倒を見るのも猫族の王としての責務だ。これからも指導してやる。ありがたく思え」
 ヒゲを盛大に震わせながら、ルーィエがもったいつけて応じる。
 この銀毛の双尾猫との契約こそ、ルージュ・エッペンドルフがロードス島につけた足跡の第一歩となり、これからの激闘の中で大きな支えとなっていくのだが。
 今のルージュは、ただ再会の喜びだけを噛みしめていた。
 



シナリオ1『異郷への旅立ち』

 獲得経験点 2500点 
 
 今回の成長
  技能、能力値の成長はなし。
  使い魔との契約を行った。
  経験点残り 5000点。





[35430] インターミッション1 シン・イスマイールの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:42
インターミッション シン・イスマイールの場合

 ロードス島に来て嵐のような1日が過ぎた後、生活は打って変わって穏やかなものになっていた。
 レイリアとギムがマーファ神殿から引き出した報酬は、半年程度なら遊んで暮らせる額であり、ライオットとルージュは分け前を握りしめて何やら動き回っている。
 彼らが忙しそうにしているため新しい依頼を受けるわけにもいかず、かといってシン自身には、特にやりたいこともない。
 というわけで、ただぶらぶらとターバの村を散歩するのが、ここ数日のシンの日課になっていた。
 街道に出没したオーガーを退治した冒険者たちの噂は村中に広まっており、村人たちはけっこう気さくに話しかけてくれる。
 見るものすべてが新鮮なファンタジー世界である。
 屋台で買い食いをしたり、巡礼者相手の土産物屋を見物したりして、シンはけっこう楽しく過ごしていた。 
 そんなある日の昼下がりのこと。
 腹ごなしの散歩でもと、市場のあたりを歩いていたシンは、雑踏の中に見覚えのある背中を発見した。
 背中に流れる艶やかな黒髪。
 すらりとした身体のラインを強調するような、マーファの白い神官衣。
 野菜がいっぱいに詰まった籠を重そうに抱え、よろめきながら歩いている少女は。
「レイリア!」
 シンが声をかけると、黒髪の少女は左右を見回し、声の主を見つけると嬉しそうに微笑んだ。
「こんにちは、シン。お散歩ですか?」
「まあね。レイリアは?」
「神殿で使う食材の買い出しです。こんなにたくさんあるのに、1日で無くなっちゃうんですよ?」
 苦笑しながら籠を抱え直す。
 中にはジャガイモやニンジン、タマネギなどの野菜がぎっしりと詰まっていた。軽く10キロはあるだろう。
「どれ、ちょっと貸して」
 ひょい、と籠を取り上げる。
「重いでしょう? 買い出し当番は本当は2人なんですけど、もうひとりの子が熱を出してしまって」
 今日は私ひとりなんです、とレイリアが肩をすくめた。
 シンにとっては大した重さではないが、女性が一人で抱えるには重労働だろう。
「神殿まで2時間はかかるよね。歩いて帰るの?」
「そうです。買い出し当番はいつも半日がかりですね」
 返してください、と両手を差し出しながら、レイリアがうなずく。
 シンは少し考え込んだ後、にこりと笑った。
「じゃあこのまま、神殿まで付き合うよ。どうせ暇だったし、散歩のついでだ」
 片道2時間なら、夕食までには宿に帰れるだろう。美少女と歩くなら楽しいし、重い荷物を持たせたまま見送るのは、ちょっと心苦しい。
「そんな。悪いです」
 荷物係なんてとんでもない、と黒髪の少女は首を振る。
「いいから。祝福の街道はオーガーが出たばかりだし、美人が独りじゃ危ないよ。護衛代わりだと思って」
「ですけど……」
「それなら、俺の散歩に付き合ってもらうって事でどうかな? どうしてもイヤなら、無理にとは言わないけど」
 今度はレイリアが困ってうつむいた。
 シンの申し出は正直嬉しかったし、彼とはもっと話をしてみたい。
 しかし、荷物持ちを頼むには、マーファ神殿はいささか遠すぎた。
 だからと言って同行を断ってしまえば、一緒にいるのがイヤだと誤解されてしまいそう。
 さんざん迷ったあげく、レイリアが出した結論は、
「じゃあ、荷物持ちは交代でお願いします。30分ずつくらいで」
 というものだった。
「オーケー。じゃあ行こうか。俺、ターバの大神殿って見たことないんだよ。当分結婚もしそうにないし、男が独りで見に行くには悲しい場所だろ?」
 シンの言葉に、レイリアはくすりと笑った。
「そうですね。新婚さんばっかりですから、私も時々うらやましくなります」
「やっぱり神官は女性ばっかりなのかな?」
「ええと、全員が女性じゃないですよ。最高司祭はお母さまですが、ほかの司祭には男性もいますし、神官戦士団はほとんどが男性ですから」
 でも高位のプリーストはほとんどが女性ですね、とレイリアはうなずいた。
 うららかな日差しのもと、祝福の街道を涼やかな風が吹き抜けていく。
 なびく髪をレイリアの白い指が押さえ、その仕草を純粋に綺麗だな、と思いながらシンが見つめ。
 ふと、ふたりの間に沈黙が降りた。
 不思議と気まずくはない。
 さくり、さくりとリズミカルに土を踏む音は、どこか心が落ち着くような響きで。
 アスファルトもビルもない自然そのままの風景は、どこか懐かしい匂いがして。
「こないだも同じ道を通ったのに、まるで違う感じがするな」
 思わず、シンはぽつりと呟いていた。
「前は緊張してましたからね」
 レイリアが、自分の失態を思い出して、ちょっと頬を赤くする。
 オーガーを見たとたんに恐怖で立ちすくみ、ルージュが倒れるまで何もできなかった。
 ルージュを治療した後もシンの背中に守られるばかりで、戦士として訓練した自分は何だったのかと、あれから数日は自己嫌悪に悩まされたものだ。
「あの時は、みっともないところを見せちゃったな」
 シンが天を仰ぎながら言う。
「とんでもない! 全然そんなことないです。私たちを守ってくれた上に、一撃でオーガーを倒したじゃないですか」
「あれはライオットの《戦いの歌》があったからだよ。あの魔法がなければ、俺はきっと逃げ出していた」
「そんなことありません」
 自嘲気味のシンの言葉を遮ると、レイリアは足を止めてシンの目を見上げた。
「神聖魔法っていうのは、無いものを付け足すことはできないんです。寿命が尽きる寸前の人に治癒の魔法をかけても効果がないみたいに。だからマイリーの加護で勇気が出たなら、それは最初からシンの胸に眠っていた勇気なんです。あの時のシンの背中がどれくらい頼もしかったか、あなたには分かってないから……」
 驚いて見返してくるシンの顔を見て、レイリアはふと我に返り、自分が口走った言葉を反芻すると耳まで赤くなった。
「ご、ごめんなさい。私、興奮すると止まらなくなっちゃって。生意気言ってすみません」
「そんなことないよ」
 歩こうか、と促して、シンは言った。
「ライオットっていただろう。金髪の」
「はい。マイリーの神官戦士の方ですよね」
 半歩おくれて続きながら、レイリアがうなずく。
「あいつとはもう20年くらいの付き合いなんだけどさ。何て言うのかな、いつも俺の1歩先を歩いてるような奴でね。恋人を見つけるのも、結婚するのも、俺より早かったからさ」
 ルージュと知り合ったのは俺が先だったんだけどな、とシンは笑う。
「ルージュさんは、ライオットさんの奥さんだったんですね」
「そうだよ。そう見えなかった?」
「仲良さそうだなとは思ってました」
 レイリアが納得したようにうなずく。
 ライオットに微笑みかけるたび、ルージュの視線が棘をはらんでいたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「あの時もね。あいつが動くまで俺は動けなかったし、あいつの魔法がなければ俺は役に立たなかったと思う。だからかな、自分では、自分の行為にそれほど価値を見出せなかったんだ」
 青い空をゆっくりと流れていく雲を見上げながら、シンは言葉を続けた。
「けどさ、あの後ライオットが言ったんだよ。あいつはルージュを守りきれなかったけど、俺は君を無傷のまま守りきったって。だからあの戦いに関して、あいつより俺の方が得点が高いってさ。得点って言い方はどうかと思うけど、今になってやっと意味が分かった」
 自分の言葉をかみしめるように語るシンの横顔を、レイリアは黙って見上げていた。
 収まりの悪い黒髪。浅黒く焼けた肌。
 レイリアでは持ち上げるのがやっとの籠を軽々と抱え、その歩みはゆっくりだが着実なもの。
「何者の力を借りようと、どんな無様な戦いだろうと、君が怪我をしないで済んだなら、それで十分な成果だったんだよな」
 満足そうにそう結ぶシン。
「シンは、強い人ですね」
 レイリアは目を伏せると、穏やかな声で言った。
「強い? 俺が?」
 予想外の言葉に、シンが苦笑する。
「弱いよ俺は。あいつと一緒にいるとよく分かる」
「本当に弱い人は、自分が弱いなんて言えませんよ。しかも会ったばかりの、私みたいな小娘を相手に」
 レイリアはそれ以上言わず、ただ黙って、嬉しそうに微笑んだ。
 なにがしかの答えを見つけたような、そんな様子に、シンもそれ以上の言葉を紡ごうとはしなかった。


 結局、マーファ大神殿までの道のりを、文句を言われながらもシンは野菜の籠を渡すことなく持ち続け。
 神殿ではレイリアからの夕食の誘いを謝絶して別れを告げ、その足で〈栄光のはじまり〉亭へとって返した。
「……お前アホか。なんでそこで帰ってきたんだ?」
 遅めの夕食のテーブルを囲みながら、処置なしと言った風情でライオットが首を振る。
「いや、早く帰らないとこっちの晩飯に間に合わないかと思ってさ」
「そんなのどうでもいいだろ。別にこっちで食わなきゃいけないわけじゃないんだし」
「それはそうだけど、人を待たせるのはよくない。実際、今日だって俺のこと待ってたじゃないか」
「そりゃまあ、そうだけど」
 やりこめられてライオットが黙る。
 すると、男同士のやりとりを黙って眺めていたルージュが、フォークを持つ手を休めて言った。
「リーダー、次はご馳走になっておいでよ。私たちは気にしないから」
「次があったらな」
 気のないふうを装って、食事に戻るシン。
「それでレイリアさん、次の買い出しはいつだって?」
「4日後だそうだ。当番は4日サイクルで回ってくるって言ってた」
 反射的に答えてから、イイ笑顔を浮かべる夫婦に気づき、シンは自分があっさりハメられたことを悟った。
「もう約束したんだろ?」
「じゃ、次は先にご飯食べてるからね」
 満足そうに視線を交わし、食事に戻るライオットとルージュを見て。
 やっぱりかなわないな、とシンはため息をもらした。




シナリオ1『異郷への旅立ち』

 獲得経験点 2500点 
 
 今回の成長
  技能、能力値の成長はなし。
  レイリアとちょっぴりいい雰囲気になった。
  経験点残り 9000点。






[35430] キャラクターシート(シナリオ1終了後)
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:43
キャラクターシート(シナリオ1終了後)


シン・イスマイール(人間、男、21歳)
 浅黒い肌に黒髪。炎の部族出身の戦士。

器用度 18(+3)
敏捷度 19(+3)
知 力 14(+2)
筋 力 16(+2)
生命力 18(+3)
精神力 12(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 レンジャー LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 9000点

装備
 両手 ズー・アル・フィカール 
     必要筋力16
     攻撃力+2
     クリティカル値-2
     追加ダメージ+2
     (精霊に対してはさらに+3)
 鎧  ハードレザー
     必要筋力13
     防御力13

戦闘力
 攻撃力 15
 打撃力 26
 追加ダメージ 14(17)
 回避力 13
 防御力 13
 ダメージ減少 10


ライオット(人間、男、24歳)
 金髪碧眼。マイリーの神官戦士。

器用度 14(+2)
敏捷度 18(+3)
知 力 13(+2)
筋 力 21(+3)
生命力 17(+2)
精神力 15(+2)

冒険者技能
 ファイター LV9
 プリースト LV8
 バード   LV3
冒険者レベル 9
 経験点残り 12500点

装備
 右手 バスタードソード
     必要筋力17
 左手 勇気ある者の盾(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)
     必要筋力13
     回避力+3
     攻撃力修正±0
     ブレス攻撃に対して抵抗力+2
     所有者に攻撃を集中させる
 鎧  ミスリルプレート
     必要筋力20
     防御力30
     回避力±0
     ダメージ減少1

戦闘力
 攻撃力 11
 打撃力 17
 追加ダメージ 12
 回避力 15
 防御力 30
 ダメージ減少 10
 神聖魔法8レベル 魔力10


ルージュ・エッペンドルフ(人間、女、23歳)
 銀髪紫眼。大陸出身の魔術師。

器用度 14(+2)
敏捷度 15(+2)
知 力 19(+3)
筋 力 11(+1)
生命力 14(+2)
精神力 21(+3)

冒険者技能
 ソーサラー LV9
 セージ   LV8
冒険者レベル 9
 経験点残り 5000点

装備    
 両手 魔法樹の杖
     必要筋力10
     魔力+2
     貯蔵精神点20
 鎧  ソフトレザー
     必要筋力 7

戦闘力   
 攻撃力 0
 打撃力 10
 追加ダメージ 0
 回避力 0
 防御力  7
 ダメージ減少 9
 古代語魔法9レベル 魔力14





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:44
マスターシーン ターバ郊外 マーファ大神殿

「怪我がなくて何よりだったわ。ありがとう、ギム。世話をかけました」
 私室に迎えた客から一部始終を聞き終えると、マーファの最高司祭ニースは深々と頭を下げた。
 ニースは齢47歳。
 かつてロードスを魔神から救った英雄も、今では目尻にしわが刻まれ、髪にも白いものが目立つようになっている。
「いや、わしはほとんど役に立っておらんよ。礼なら彼らに言うがよかろう」
 かぶりを振って、ギムはニースが手ずから煎れた紅茶に口をつけた。
 力を入れれば折れてしまいそうな陶器のカップに、香り高い琥珀色の液体が揺れている。
 ギムとしては木製のジョッキにエール酒のほうが好みだったが、郷に入っては郷に従えという。この部屋に来た以上、部屋の主の趣味に文句をつける気はなかった。
「しかし、奇妙な連中ではあったな」
 髭を湿らせる湯気に顔をしかめながら、ギムは思い出したようにつぶやいた。
「奇妙?」
 ニースが首を傾げる。
 そんな仕草には、年齢とは関係ない、まるで少女のような愛嬌を漂わせていた。
「うむ。剣の腕はわしとは比較にならんのに、戦うのを異常なほど怖がる。相手を傷つけることを恐れ、死体にさわるのを嫌う。まるで心と体のバランスがとれておらん」
「そう」
 ギムの言葉に、ニースは記憶を探るように遠い目をした。
 今から30年前、ロードスを魔神が跳梁し、人々が恐怖に震えていた時代のこと。
 ニース自身も、そのような人々と冒険を共にしたことがあったのだ。
 彼らはギムの言う冒険者たちと同じように、異常なほど臆病でありながら、異常なほど強かった。
 彼らの顔をひとつずつ思いだし……一瞬だけ生ぬるい表情を浮かべた後、ニースは懐かしそうに微笑んだ。
「その人たちは、時々意味の分からない言葉を使っていなかった?」
 ニースの問いに、ギムは髭をしごいて記憶を反芻する。
 彼らの言動には奇矯なところが多く、枚挙にいとまがないが、強いて挙げるなら初めて会ったときだろうか。
「そうじゃの、おぬしはナナレベルという言葉を知っておるか?」
「ナナレベル? いいえ」
 ニースが首を振る。
「あやつらがレイリアを評した言葉じゃ。レイリアはナナレベルの司祭だそうな。まるで意味が分からん」
 ギムが鼻を鳴らして紅茶をすする。
 ニースはしばらく目を閉じて考え込んでいたが、やがて静かに立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
 窓からは遠くターバの村が見える。
 初夏。一年でもっとも美しい季節。
 ロードス最北端の村は、短い夏の輝きをいっぱいに受けて、平穏な毎日を享受している。
 だが、その平穏が破られる日が近づいているのかもしれない。
 旧友からの手紙にあった、動乱の気配。
 その足音は、確実にこのターバに近づいているようだ。
「これも、マーファのお導きかもしれないわね。私も会ってみようかしら、その冒険者たちに」
 複雑な心境と重大な覚悟をその言葉に乗せると、ニースは彼方の空を見上げた。


 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
 大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、その骸が今も残されていると伝えられるが故に。
 つい30年前には、最も深き迷宮から異界の魔神が解放され、ロードス全土を大混乱に陥れたが故に。
 そして今、呪われた島の名にふさわしい災厄が、再びロードスを覆わんとしていた。



SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
 第2回 魂の檻


シーン1 〈栄光のはじまり〉亭

「ったく、高貴な俺様には全く信じられないね。おいルージュ、おまえ、つがいの相手を完全に間違えてるぞ。今からでも遅くはない、子供を作る相手はちゃんと選んだ方がいい」
 いつものように罵詈雑言を連射しながら、ルーィエは足取りも荒く食堂に入ってきた。
 ルーィエは猫である。
 が、ただの猫ではない。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶアザーン諸島から渡ってきた、誇り高き猫族の王、双尾猫だ。
 その名の通り2本の尻尾と、銀色の美しい体毛がチャームポイント。
 特技は古代語魔法と精霊魔法。
 表向きは魔術師ルージュ・エッペンドルフの使い魔ということになっているが、実際には頼りないルージュを指導してやっている立場である。
 猫族の王という身分に付随する、いわゆる“高貴な義務”(ノブレス・オブリージュ)というやつだ。
 食堂では、初日から指定席にしている一番奥のテーブルで、すでにシンとルージュが飲み物を片手にくつろいでいた。
 ルーィエは当然とばかりにルージュの膝に跳び乗り、不機嫌そうに毛づくろいを始める。
「今度は何を怒ってるの、ルーィエ?」
 なでごこち満点の柔らかい背中に手を乗せると、その毛皮は水で濡れていた。
 ルージュが思わず苦笑する。おおかたの予想はついていたのだが。
 夕食には少し早い時刻。
 食堂には他の客もちらほらといたが、しゃべる猫に関心を寄せる者はもういなかった。
 彼らがオーガーを退治した熟練冒険者であり、ルージュが高位の魔術師だということは、すでに村中に知れ渡っている。
 魔術師ならば、しゃべる猫の1匹くらい飼っていても不思議ではないだろう。
 純朴なロードスの人々は、その程度の認識で現実を受け入れてしまったらしい。
「知りたいか? ならば教えてやる。おまえのつがいのライオットが、俺様にいかなる不敬を働いたかをな」
「そう言うなよ陛下。せっかくの銀毛がホコリで薄汚れてたから、綺麗にして差し上げただけじゃないか」
 ルーィエに続いて食堂に入ってきたライオットが、心外だと肩をすくめる。
 白い麻のズポンにタンクトップのシャツという姿で、彼の金髪も濡れたまま。肩にはタオルをかけている。
 いかにも風呂上がりという風情だが、金髪碧眼の貴公子然とした容貌のおかげで、不思議とだらしない印象は受けなかった。
「だけだと? 貴様、よくぞそんな台詞が言えたもんだな! ちょっとばかり俺様よりすばしっこいからって、あんまりいい気になるなよ?!」
 2本の尻尾を逆立ててルーィエがライオットを威嚇する。
 ライオットが空いていた椅子に座ると、ルージュが横から麦茶のジョッキを滑らせた。
「それで、ルーィエに何をしたの?」
「いや、ただ風呂に入れただけだよ。こうやって……」
 ライオットは、ルージュの膝にいたルーィエの首根っこをひょい、とつまんだ。
 ルーィエはあわてて逃げようとしたが、彼の回避点では9レベルファイターの攻撃を避けることはできない。
 抵抗むなしく、ルーィエはライオットに持ち上げられてしまった。
 遙かな昔、母猫にくわえられて移動した子猫時代を思い出して、だらりと手足を下げる。
 そのまま、ライオットは腕を上下に動かしながら、ルーィエの腹や背中をこすって見せた。
「こんな感じで。もちろん石鹸はつけて洗った」
「湯船でそれをやったのか。なんかこう、猫しゃぶって感じだな」
 我関せずとエール酒をなめていたシンが、風呂場の光景を想像して、思わずつぶやく。
 その言葉で我に返ったルーィエが暴れ出し、再びルージュの膝に戻されると、今度はふてくされて丸くなってしまう。
「それはひどいよ、ライくん」
 ルーィエの背中を撫でながら、ルージュが頬を膨らませた。
「いや、結構熱い風呂だったからさ。長くつかってると陛下がのぼせちゃうんじゃないかと思って、これでも気を遣ったんだけど」
「猫はふつう、お風呂に入れないものだよ。洗面器でぬるま湯をかけて、優しく洗ってあげなきゃ」
 そして、ルージュの紫色の瞳が、すっと細くなってライオットを射抜く。
 深い知性を感じさせる不思議な輝きに、ライオットは思わず視線をさまよわせて頭をかいた。
 隠し事をしているとき特有の、夫の反応。顔や体が変わっても、仕草だけは変わらない。
 ルージュはそのまま視線の圧力をあげて、無言の追求を続ける。
 ルーィエと同じ銀色の髪に、象牙を彫り上げたような肌。なまじ整った美貌だけに、その迫力たるや尋常ではない。
 ライオットは速やかに白旗を揚げ、妻に服従した。
「風呂に入ると湯が汚れるので、陛下に《ピュリフィケーション》の魔法をかけてもらいました」
「それだけ?」
 さらなる追求に、今度はルーィエの背中がぴくりと震える。
 ルージュの口許が迫力満点の微笑を刻み、いったん双尾猫に視線を落とした後、再び夫に向けられる。
 もちろん、ライオットはすべて白状した。
「最初はイヤだと断られたので、お礼に砂糖菓子を献上すると約束しました。陛下は喜んで協力してくれました」
「ライオット、貴様それは黙ってる約束だろう!」
「悪いな陛下。今のルージュに逆らえるわけないだろう。恨むなら自分か神様にしてくれ」
 小声で言い合いをする夫と使い魔に、ルージュは深々とため息をついた。
「ルーィエ。甘いものは虫歯になるからダメだって、いつも言ってるよね?」
「いやほら、たまには王たる者も、庶民の楽しみというものを味わった方が……いや、何でもない。砂糖菓子は諦める」
 抗弁を試みたルーィエも、紫水晶の瞳に射すくめられて瞬時に断念。
 自分では勝てない相手を見極めるのは、冒険者として必須の能力だ。
「じゃあ罰として、ライくんにはお風呂の水くみ1週間。ルーィエは、全員のお風呂の後に《ピュリフィケーション》をかけること。いい?」
 けっこう重労働なんだけど、とふたりは目で愚痴をこぼしあったが、声に出す勇気はなかったため、判決は確定した。
「じゃあ早速、私もお風呂行ってくるね。ルーィエ、行こうか」
「ちょ、なんで俺様まで。風呂は入ったばっかりなんだけど」
「あれ、ライくんには協力できて、私にはできないって言うの?」
 他に精霊魔法を使える人がいないんだから、仕方ないじゃない。
 こともなげに言い放ったルージュに。
「分かった。ちょうど、もう一回入りたい気分だったんだ。仕方ないから付き合ってやる」
 力なく2本の尻尾を床に落として、ルーィエは再び食堂を後にした。


 全員が風呂をすませて指定席に集合したのは、それから1時間後のことだった。
 湯船を3回にわたって浄化させられたルーィエは、さすがに精神点を使い果たし、テーブルの上でぐったりと寝そべっている。
 共犯者として心を痛めたライオットが《トランスファー》で精神点を融通したものの、起き上がる様子はなかった。
「そういえばリーダー、今日はレイリアさんと買い物の日じゃなかったっけ? ずいぶん早く帰ってきたね」
 すでにテーブルには、全員分の夕食が並んでいる。
 ロードス島に来て1週間。
 嵐のような初日以外は特に事件もなく、ファンタジーな世界の生活にもようやくリズムを掴めてきた。
 ライオットの言葉ではないが、想像以上にふつうに生活できている。
 まるで変わってしまった仲間の顔も、普段どおりの会話をしているうちに心が受け入れてしまった。
 古来日本では、美人は3日で飽きる、不美人は3日で慣れるという。魂の形さえ変わらなければ、外見が変わったくらいで友情は揺るがない。
 ターバの村には城も衛兵もいないし、町中で剣を振り回す輩も、ルージュ以外の魔術師も、もちろんいない。
 テレビやPCといった文明の利器を諦めてしまえば、ヨーロッパの片田舎に旅行に来たと言っても納得できそうな雰囲気。
 ファンタジーな世界といえども、日常的に魔法が飛び交っているわけではないのである。
「ああ、今日は相方の娘と一緒だったから、送っていかなかった。それよりさ……」
 いつものようにエール酒のジョッキを空けながら、シンは少し言い淀んだ。
 黒髪に浅黒く焼けた肌。まるで黒豹のような印象の戦士は、どこから話したものかと悩んでいるようだ。
 C言語やJAVAならどんと来いなのだが、あいにくとプログラミング言語は物語をつむぐにはいささか不向きだ。
 いろいろと考えた末、きっと誤解されるんだろうな、と思いながらも、結局は結論から口にしてしまう。
「レイリアに言われた。ニース様が会いたいと言ってるそうだ」
 果たして。
「わぉ。早くもご挨拶?」
「やるな。いちおう手土産は持っていった方がいいぞ。手ぶらだと気まずいからな」
 予想どおり、目を輝かせて食いついてくる。
 夫婦で息もぴったり。
 本気でそう思っているわけではあるまいが、とりあえずからかうチャンスは逃さない。このふたりはそういう人間だ。
 シンはやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「俺だけじゃない。みんなで神殿に来いってさ。どうする?」
 ここから先は、マジメな話。
 真剣な議論になるだろうと思っていたのだが。
「そうか。いつにする?」
「明日とかでもいいのかな? レイリアさんは何か言ってた?」
 会話はあっさりと結論をすっ飛ばしていた。
 ふたりの中では、面会を断るという選択肢はないらしい。
「それでいいのか? 原作キャラクターには関わらない方針だっただろう」
 だが、いちおう述べたシンの反対意見は、一笑に付されてしまった。
「レイリアと会ってる時点で、その方針は瓦解してるだろ。今日だって楽しそうにしてたじゃないか」
 あわててルージュが夫の口をふさごうとするが、もう遅い。
「見てたのか?」
「わざとじゃないよ、リーダー。私たちもおやつの買い出しに行ったら、偶然ね」
「そこから後は偶然じゃないけどな」
 デートの様子を盗み見ていたことを、ライオットが堂々と認める。
 とはいえ、レイリアの相方の娘も一緒だったのだ。ただ会話をしながら買い物をして、シンおすすめの屋台で買い食いをして、村の入り口で別れただけ。
 どう贔屓目に見ても、気の合うお友だちという段階だ。
 手をつないで歩くのは当分先だな、というのがライオットの評価である。
「まあ冗談はさておき、ニース様の面会を断っても、百害あって一利なしだろ」
 むすっと黙り込んだシンに、ライオットが言う。
「相手は魔神戦争の英雄で、マーファ教団の最高司祭だ。彼女ににらまれたらターバにはいられなくなるよ。それに、もう決めただろ?」
 レイリア対カーラというキャンペーンシナリオに乗ることを。
 灰色の魔女が襲ってきたら、レイリアに付いて戦うということを。
「覚悟を決めるっていうほど大それた意識はないけどさ。俺の経験で言わせてもらえば、自分で決めたことなら、突然その場に放り出されても諦めがつくもんだよ」
 それに。
 彼女いない歴33年の親友が、レイリアのような最上級美少女と幸せになれるなら、原作ストーリーなど知ったことか、とライオットは思う。
 カーラだろうとスレインだろうと、レイリアを渡すわけにはいかない。
 相手が誰であれ、こいつのためなら全力で戦ってやる。
 ライオットにとって親友とはそういうもので、シンは一番の親友なのだ。
「……レイリアはいつでもいいって言ってた」
「じゃ、明日にでも行ってみる? どうせ宿にいてもすることないし」
 ルージュの提案に、ふたりはうなずいた。
 やると決めたからには、プレイヤーの方から動かないと、シナリオは進まない。
 TRPGとはそういうものだ。
「ま、あれだ。俺とルージュはニース様に結婚の祝福をしてもらうとして」
 にやりと笑って、ライオットが言った。
「とりあえずお前は手土産を買ってきた方がいいぞ。相手の親に初めて会うんだ。手ぶらだと気まずいからな」





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:45
シーン2 ターバ郊外 マーファ大神殿

 視線を上げれば、初夏だというのに白く色づいた白竜山脈の霊峰が見える。
 ここに棲むという氷竜ブラムドの魔力の故か。それとも、この山の主とされている氷の精霊王フェンリルの影響か。村人たちの話では、真夏でも山から雪が消えることはないという。
 針葉樹の林を抜けると、そこには白大理石で作られた巨大な神殿が見えてきた。
 数百年の歳月を閲し、全ロードスのマーファ教団の中心として活動してきた大神殿。
 ここが今日の目的地である。
「なんかこう、想像以上に豪勢だな」
 白亜の宮殿と見まごうばかりの壮麗な建築物に、ライオットが少々嫌みっぽく評する。
 彼は宗教法人が金儲けをするのが大嫌いなのだ。
 教団の運営に金がかかるのは理解できるが、宗教者は清貧であるべきという、一種原理主義的な思い込みもまた捨てられない。
「まるで、ダライ・ラマの宮殿みたいだよね」
 ルージュが言う。
 確かにチベット仏教の総本山は、規模といい外見といい、住民の信仰を集めすぎて中央政府に睨まれている点まで、ターバのマーファ大神殿にそっくりだ。
「ダライ・ラマの宮殿って、こんな感じなのか?」
 名前くらいしか聞いたことのないシンが、首を傾げて親友に尋ねた。
「あれだ、逆襲のシャアのオープニングで、フィフス・ルナが落ちて吹っとばされた建物のモデル」
「ああなるほど。確かに似てる」
 ライオットの説明に、シンが大きくうなずく。
「……どんな説明ですか。リーダーもそれで分かるの?」
 呆れたルージュがジト目で見やると、シンは大きく胸を張った。
「ガノタ舐めんな。今ので十分」
「ガノタっても、宇宙世紀限定だろ。それじゃ半分だぞ」
「コズミック・イラなんて飾りです。女・子供にはそれが分からんのですよ」
「はっきりと言う。気に入らんな」
 他人の台詞を盗用して喜んでいる2人に、先頭を歩いていた双尾猫がうんざりと声をかける。
「おいお前ら。人前でそういう会話をしてると、魔神認定されて誅殺されるぞ。ちょっとはその乏しい頭を働かせて、ここがどこだか思い出してみろ」
 魔神戦争は終わったとはいえ、ロードス中に張り巡らされた地下隧道には、生き残った魔神がちらほらと出没している。
 しかもこの大神殿は、魔神戦争の英雄ニースのお膝元。
 ルーィエの言うとおり、魔神認定されてはろくなことにならない。
 魔神も自分たちも、異界から来たという点では同一の存在なのだ。人目のあるところでネタは慎むべきだった。
「そうだな、陛下の言うとおりだ。悪かった。気をつけるよ」
 素直にライオットが謝る。
「ふん、分かればいい」
 満足そうに髭をふるわせると、ルーィエは尻尾をぴんと伸ばした。


 白亜の大門をくぐると、そこはちょっとした広場になっていた。
 縁結びの神様にふさわしく、参詣者の大部分は若いカップル。あとは豊饒の神に豊作祈願にきた農民がちらほらいるくらいか。
「神官たちの宿坊はあっちだ」
 唯一ここに来たことのあるシンが、人混みとは逆の方を指さして先導する。
 祈祷の受付所や護符の販売所を横目に見ながら歩いていると、ルージュがふと言った。
「ねぇ、戦乙女ってさ、精霊魔法のバルキリーのことだよね?」
「なにを今さら」
 ライオットが不思議そうに妻を見る。
 自他ともに認めるヘビーゲーマーの妻が、北欧神話をモチーフにした勇気の精霊を知らないはずはない。
「じゃあ、なんでマーファ神殿で戦乙女の護符なんて売ってるんだろ?」
 ほら、とルージュが販売所を指さす。
「本当だ。戦乙女の護符って書いてあるな」
 シンが首をひねった。
 戦う男の勇気を守護する精霊なのだから、どちらかというとマイリー神殿で売っていそうなものだが。
「あれだ、豊饒の女神だけに、夜の戦いでも男を守護しちゃうよ系の護符かね? 装備すると弾数+1とか」
「昼間からシモネタ禁止」
 ライオットの冗句に、ルージュが冷たく応じる。
「っていうかさ、ライくんってどんな時でもすぐそっちに繋げるよね。ある意味才能だよ」
「いや、それほどでも」
「恐縮しないで。私は皮肉を言っているの」
 マーファの聖域でわいのわいのと騒ぎながら歩いていくと、やがて3人と1匹は通りすがりの神官に見とがめられた。
 完全武装の冒険者が、誰の案内もなく関係者以外立ち入り禁止ゾーンに近づけば、職務質問されて当然だ。
「マーファ神殿にどのようなご用でしょう?」
 声をかけたのは30代半ばの男性神官だった。
 遠巻きにして数名の女性神官が様子をうかがっているから、おそらく代表して誰何に来たのだろう。
「ああ、俺たちは怪しいものじゃない。ニース最高司祭に会いに来たんだ」
 いつものように、シンが代表して答える。
「失礼ですが、お約束はおありですか?」
「約束はしてない」
「ニース様はご多忙です。代わりに別の者がご用件をうかがう形でよろしいですか?」
「それじゃ来た意味がない。ニース様に取り次いでくれないか?」
 私たちは不審者ですと言わんばかりの回答である。
 男性神官の視線が胡乱げなものになっていく。
 見かねてルージュが口を出そうとしたとき、聞き覚えのある声がした。
「シン、それに皆さん!」
 白い神官衣を着た黒髪の美少女が、嬉しそうに小走りで駆け寄ってくる。
 まるで主人を見つけた子犬みたいだな、とライオットは思った。尻尾がついていれば勢いよく振られていただろう。
「俺様をその他大勢扱いか? 何なんだ、この無礼な小娘は」
 ルーィエのつぶやきが、男性神官の耳に入らなかったのは幸運だった。もし聞き咎められていたら、いつものような大騒ぎになっていただろう。
「レイリア司祭。お知り合いですか?」
「彼らはニース様の客人です。先日のオーガー退治の功労者ですよ」
「なるほど、それで。これは失礼致しました」
 男性神官は納得した様子でシンたちに一礼すると、後はお願いします、とレイリアに応対を丸投げして歩み去っていった。
「皆さん、先日はお世話になりました。今日はわざわざご足労いただいて、ありがとうございます」
 黒髪の女性司祭は、礼儀正しく挨拶すると、深々と頭を下げた。
 ニースの躾の良さが如実に現れている。英雄の娘として、どこに出しても恥ずかしくないお嬢さまぶりだ。
「あら、こちらは?」
 視線が下がったことで、ルージュの足下にいた銀色の双尾猫に気付いたのだろう。レイリアは目を輝かせると、しゃがみ込んでルーィエの顔をのぞき込んだ。
「私の使い魔で、ルーィエといいます。双尾猫という幻獣で、猫族の王様なんですよ」
 ルーィエが変なことを口走るより早く、ルージュが口を挟む。
 レイリアはにっこりと笑って会釈した。
「そうですか。私はレイリアといいます。よろしくお願いしますね、ルーィエさん」
「ん、今後は見知りおいてやる。ゆめゆめ俺様に対する敬意は忘れずにな」
 努めて尊大そうに胸を張り、ルーィエが応じた。
 猫がしゃべったことにレイリアは驚いたようだが、シンが苦笑して肩をすくめるのを見て、だいたいの事情は察したらしい。
 気をつけます、と律儀に答えると、再び立ち上がってシンに向き直った。
「本来ならば母が直接うかがうべきなのですが、あいにくと多忙な身ですので、どうかご容赦ください」
「分かってる。それにニース様が冒険者の店なんかに来たら、村は大騒ぎになるよ」
「そう言ってもらえると助かります。ではどうぞ、こちらへ」
 レイリアに先導されて、3人と1匹は宿坊の中へと入っていった。
 長方形の細長い建物は、中央に長い廊下があり、その左右に部屋が並ぶという単純な構造だ。
 基本的には1階に厨房や食堂といった施設が集まり、2階に神官たちの私室がある。
 レイリアに案内されるままに進むと、2階の突き当たりに最高司祭ニースの部屋はあった。
「こちらです。お母さま、冒険者の皆さんがお見えになりました」
 重厚な樫の扉をノックしながら、レイリアが声をかける。返事はすぐにあった。
「どうぞ、お入りいただいて」
「はい」
 重々しく軋みながら、分厚いドアが開く。
 その向こうには、清潔感と暖かさを感じさせる、上品な居室が広がっていた。
 床にはベージュの絨毯が敷かれ、置いてある家具はすべて木目調。
 採光の良さそうな大きな窓を背にして、壮年の女性が立ち上がって来客を迎えている。
 最高司祭ニース。
 マーファの愛娘、竜を手懐けし者など、およそ最高級の雅称をいくつも背負っている伝説の英雄が、そこにいた。
 年齢は47歳。身長もさほど高くない。
 だが気品と神々しさに溢れた存在感は、まるでマーファそのものと対面しているかと錯覚しそうなほど。
「これが本当のカリスマってやつか」
 思わずライオットがつぶやく。
 好意とか愛とか、そういう暖かいもので世界を包もうとする人間は、それができると信じられるような何かを、周囲に発散するものらしい。
「私がニースです。話はこの子から聞いています。その節は面倒をおかけしましたね」
 ニースが微笑み、応接用のソファーに座るよう促す。
「あ、いえ。それほどでも」
 完全に気圧されているシンは、言われるままにソファーに腰掛けた。
 ニースの視線はどこまでも柔らかく暖かいが、心の奥底まで見透かされているような深さがある。
「シン・イスマイールです。初めまして」
 ようやく我に返ったシンが、何とか自己紹介らしきものを口にする。
 その様子をレイリアが心配そうに見つめているのに気付いて、ライオットは小さく笑みを浮かべた。
 つまり、これは面接試験というわけだ。
「あなたがシンね。レイリアから話は聞いています。たいそうな腕前だとか」
「あ、いえ。それほどでも」
 設定年齢21歳。まだまだ少年の面影を残すシンの浅黒い頬に、緊張のためか、うっすらと朱がさしているようだ。
 実直そうな青年が、緊張してこわばっている様子というのは、見ていて決して不愉快ではない。
 余裕がなくなって本性が露呈している状態だから、その人物を見極めるのも簡単だろう。
 こいつに悪いことはできそうもないな、とライオットですら思うほどだ。ニースにはもっと明瞭に把握されたに違いない。
「そう緊張せずに。これからも、レイリアと仲良くしてやって下さいね」
「あ、はい。それはぜひ」
 まるっきり脊椎反射の回答。
 たぶん自分でも、何を言ったか理解していないだろう。
 その様子にニースは頬を綻ばせて、ちらりとレイリアに視線を向ける。
 いい人ね、合格よ、という無言の承認に、レイリアがちょっと誇らしげに微笑んだ。
「あなたは、マイリーの司祭の方ですね?」
「ライオットと申します。お会いできて光栄です」
 ニースの問いに、ライオットは小さく会釈した。
 そして、どうぞ心の底までご覧下さいと言わんばかりに、正面からニースの瞳を見つめ返す。
 しばらく無言の時間が過ぎたが、やがてニースが感心したように言った。
「あなたは、他の方とは少し違うようですね」
 ニースの存在感を前にして、ずいぶん余裕があるということか。
 ライオットは少し考えた後、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「人は、他人を騙すことはできても、己の良心を騙すことはできません。この良心に従って行動し、何ら恥じる所がないのであれば。人は何者の面前にあろうとも、己の誇りを失うことはないと、私は信じます」
 要するに。
 魔神戦争の英雄、最高司祭ニースを前にして。
 あんたがどれほど偉かろうが、俺はビビらないもんね、と言い放ったのである。
 よく言えば剛胆だが、偉そうな人を見ると逆らいたくなるという、ライオットの悪い病気だった。
 しかしニースは、やんちゃな子供を見るような、微笑ましげな顔でうなずいた。
「人はそれぞれが小さな神である、と教える司祭もいます。どうかあなたの生が、あなたの誇りとともにあらんことを」
 背伸びをしよう、対等であろうとする思惑や、言葉に含まれる棘まで全部まとめて肯定し、祝福してしまうニース。
 その巨大な包容力の前では、ライオットなど井戸の中で粋がっているだけの蛙にすぎなかった。
 人としての器が違いすぎるのだ。
 ほんの一言でそれを思い知らされ、ライオットは大人しく頭を下げた。
「ありがとうございます。肝に銘じて」
 この人に生意気な口をきいても、自分の値打ちが下がるだけだ。素直に尊敬しよう。
 ライオットは即座に態度を翻し、慇懃に畏まったが、それが恥だとは思わなかった。
「すると、あなたがルージュさんね?」
 最後に銀髪の美女に顔を向けて、ニースは言った。
「はい。こっちは使い魔のルーィエです」
「お初にお目にかかる。天と地と精霊たちに祝福されし猫族の王のひとり、“銀月の王”ルーィエだ。あなたの武勲はこの島の猫たちから聞いている」
 その場の全員が驚いてルーィエを見た。
 ニースは猫がしゃべったことに。ほかの面々は、ルーィエが殊勝な態度をとれたことに。
「これはご丁寧に。私はニース。大地母神マーファに仕える司祭のひとりです」
 さすがと言うべきか。ニースは一瞬で驚愕を収めると、居住まいを正した。
「あなたの行いは、ロードス全土の猫族の知るところだ。故に、すべての猫族を代表して申し上げよう。あなたに心からの感謝を」
 ルーィエがぺこりと頭を下げる。
「そのお気持ちは嬉しく思いますが、私だけの功績ではありませんよ?」
「知っている。だが、功を為した者が多かったからと言って、評価まで等分されることはない。全員が相応に評価されるべきだ。違うか?」
「……違いませんね」
「であれば、我らの感謝を容れてもらいたい。我ら猫族には、人語を話せる者がほとんどいない。このような機会、二度はないだろうから」
 どうやら、猫だと思って甘く見ていたらしい。
 この双尾猫の気高い魂を見て、ニースは素直に謝罪した。
「失礼しました。猫族の気持ちは嬉しく承りました。これからも期待に添えるよう努力すると、皆さんにお伝え下さい」
「確かに伝えよう。口を挟んで済まなかった。この魔術師は半人前だが、見込みがないわけではない。納得いくまで見極めてくれ」
 それだけ言うと、ルーィエはソファの下に跳び降り、ルージュの足の下で丸くなった。
 もう口を出す気はない、という意思表示だろう。
「素晴らしい王様ね」
 感心したニースの言葉に、ルージュは呆然としたままうなずいた。
「私も知らなかったんですが。どうやら最高の相棒みたいです」
 今この瞬間まで、ただの生意気な猫だと思っていたのに。どうやら、自分たちの中で一番大人なのは、この双尾猫らしい。
「ところでルージュさん、あなたはとても綺麗な髪をしているけれど」
 ニースは話題を一変させると、どこか身構えるように目を細めた。
 その口調も、どこか探るよう。その様子に、ルージュも緊張して言葉の続きを待った。
「やっぱりお手入れには時間をかけているの?」
 この場面で、どうしてそんなことを聞くのだろう。
 ルージュには全く理解不能だったが、聞かれたからには答えないわけにはいかない。
「ええと、椿の花油のシャンプーで毎日洗うくらいですね。これは主人が作ってくれたんですけど、髪に潤いが出る感じで、とてもいいです」
「髪の手入れをしないのに、誰よりも美しい髪を持っている女性がいたら、どう思う?」
「ずるい、というか、許せないですね」
「そうよね、やっぱり」
 我が意を得たりとニースがうなずく。
「では、相手によってころころと偽名を使い分けるのは、どう思う?」
「ええと、その人は詐欺師ですか?」
「そういう一面がなくもないわ。けど、どちらかと言うと英雄なの」
 ニースが残念そうに答える。
 なかなかに具象化しずらい質問だが、他ならぬニースの質問とあって、ルージュは懸命に考えた。
「例えば、英雄ですごく有名な人であれば、身分を隠して町で過ごすために偽名を使う、というのは理解できますね」
「そうね。では、英雄と称えられる人物が、正々堂々と強敵を討ち果たして、最後に名前を聞かれたときに偽名を使ったら、どう思う?」
「さすがにそれはちょっと。いろいろと台無しにしちゃいますから」
 仮定の話とはいえ、相手が気の毒ですよね、とルージュは答えた。
 気をよくしたニースは、さらに言いつのる。
「これも仮定の話だけれど。その英雄が、もっとも深き迷宮の最奥部で、魔神王と対面したとき、また違う偽名を名乗ったとしたら、どうかしら?」
「その人はきっと、残念な子なんだと思います。むしろ名無しさんとでも名乗ればいいんじゃないかと」
 ルージュの答えに、ニースは満足そうにうなずいた。
 探るような警戒感が嘘のように消え去り、先ほどまでと同じような、暖かい雰囲気がルージュを包む。
「あなたとは気が合いそうだわ。ごめんなさいね、変な質問ばかりで。私ちょっと、綺麗な女の人にトラウマがあるらしくて」
 こほんと咳払いして、ソファーに座り直すニース。
「ニース様、それはもしかして、“名も無き魔法戦士”のことですか?」
 偽名ばかり、名乗らない、最も深き迷宮とキーワードが揃えば、どうしてもその存在が思い出される。
 そう尋ねたルージュに、ニースは首を振った。
「いいえ。その人には、きちんと別の名前があります。相手を見て真名を名乗る分別もあったわ」
 ニースは、とても微妙な笑みを浮かべたが、何も言わずに首を振った。
「その話はまたの機会に。今は、もう少し大切な用事があります」
 そして、迎えた客人たちの顔を順番に見つめる。
 全員が自分に注目しているのを確認して、ニースは言った。
「あなたたちに護衛を頼みたいの。報酬はそちらの言い値で構わない。私が個人的にお支払いするわ。期間は明日から3日間。受けていただけるかしら?」
 予想外の言葉に、3人は目を見合わせた。
 その表情には困惑を隠せない。ニースほどの人物なら、神官戦士団をはじめとして、護衛には事欠かないはずだ。
 なぜわざわざ、得体の知れない冒険者を使う必要があるのだろうか。
「ニース様、いくつか質問してもよろしいですか?」
 先ほどの生意気な態度はどこへやら。まるで恩師を前にしたように、ライオットが丁寧に尋ねる。
「どうぞ」
「護衛対象はニース様でよろしいのですか?」 
「そうです」
「護衛する場所はどちらでしょう?」
 その質問に、初めてニースの表情が揺らいだ。
 言って良いものか、悪いものか。どこまで話すべきか。その迷いが見て取れる。
 短い沈黙の後、ニースは苦笑を浮かべて答えた。
「今はまだ、とある人物の墓所に、としか言えません。受けていただければ場所まで案内しますが、仕事が終わっても他言無用に願います。そういう仕事です」
 ライオットはさらに追及しようとしたが、ニースは片手をあげて遮ると、申し訳なさそうに言った。
「不安でしょうが、これ以上は話せません。ごめんなさいね」
「分かりました。最後にひとつだけ。襲ってくるのは……」
 カーラですか?
 ライオットはそう聞きたかったのだが、その名前を今の段階で口に出すわけにはいかない。
 迷った末に、選んだ言葉は。
「襲ってくるのは、人間ですか?」
 だが、ニースは明確に否定した。
「いいえ。今までの例だと、墓所に吸い寄せられるアンデッド・モンスターがほとんどでしたね。時には、盗掘にきた墓荒らしもいましたけど」
 マーファ教団の最高司祭ともあろう者が、護衛を引き連れてまで赴かねばならない墓所とは。
 盗掘、という単語が出たということは、墓所には財宝が眠っていることになる。ならば王族のものか、大貴族か、それとも……?
 ライオットの脳裏にはいくつかの仮説が浮かんだが、断片的な情報だけでは確証が持てなかった。いずれにせよ、自分たちは行くしかないのだ。
 レイリアにまつわる戦いに身を投じる以上、ニースの信頼を得ることは絶対に必要なのだから。
「俺は断る理由はないと思うけど、どうかな?」
 シンの提案に、ライオットとルージュは異議なし、と応じた。
 シンが決断して、それに従う。いつものこのパーティーの流儀だ。
「というわけでニース様。依頼はお受けします。報酬は……そうですね、ひとり1000ガメルでお願いします」
 シンの提示した金額は、このレベルの冒険者にとって相場の10分の1以下だ。
 だが前回の件では、3人で5万ガメルもの報酬をもらったばかり。
 おまけに当初の所持金も膨大な額にのぼるため、正直金には困っていなかった。
「墓所の宝物は、持ち帰るわけにはいきませんよ?」
 あまりに低い金額を提示されて、ニースが困惑気味に念を押す。
「安心してください。今、俺たちは金に困ってないんです。これ以上もらっても、ターバでは使い道がありませんし」
 事も無げにシンが笑う。
 これをライオットがやっても、言葉どおりには信じてもらえないだろう。
 だが、シンにはできる。
 それは彼の誠実な人柄の賜物であり、外見や技能レベルとは関係のない、魂の持つ性能だ。
「分かりました。では3000ガメル、明日の朝までに揃えておきます。差し支えなければ、今夜はこちらに泊まっていただけるかしら。食事と部屋は用意しますから」
 突然の提案だったが、宿に置いてきた荷物は野営道具や保存食くらい。
 戦闘に必要な装備はすべて身につけているし、とりたてて不都合はない。
「はい、構いません」
 シンがうなずくと、ニースはにこりと笑って立ち上がった。
「レイリア、皆さんを部屋にご案内して」
「はい、お母さま」
 部屋の隅で控えていたレイリアが、再び樫の扉を開く。
 今日の面接は終わり、というわけだ。
 二次試験に進んだという事は、とりあえずは合格点をもらえたのだろうか。
 ライオットは内心で考えながら、ニースに軽く一礼し、立ち上がる。
 ふと目が合った。
 次も楽しみにしていますよ、と言わんばかりのいたずらっぽい瞳が、ライオットを見た。
 完全に見透かされている。
 ライオットは苦笑すると、もう一度深々と一礼して、最高司祭の部屋を辞した。





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:46
シーン3-1 マーファ神殿

 その女性は、遠目にも鮮やかな美人だった。
 年齢は20代の半ばくらい。
 糸杉のようにすらりとした長身。
 腰まで伸びた、絹糸のような黄金の髪。
 蒼氷色の瞳が、触れるものを切り裂くような怜悧な光を浮かべて、ゆっくりとシンたちを一巡する。
 美人といっても様々だ。ルージュを動物に例えれば猫、レイリアは子犬だが、この女性は明らかに鷹や鷲といった猛禽の類だった。
 使い込まれた暗色の革鎧をまとい、腰には2本の細剣。それだけを見ても、この女性が守られる側の人間ではないと理解できる。
「アウスレーゼと申します。国王カドモス7世陛下より、ニース様の護衛を命じられています」
 言葉だけは丁寧に、口調は冷たく、女性はシンたちに一礼した。
「彼女は国王陛下から遣わされた、私のお目付け役なの。マーファ教団がアラニア王国に対して不利益を働かないように」
 すっかり旅支度を調えたニースが、シンたちにアウスレーゼを紹介する。
「ニース様、決してそのような」
 怜悧な瞳を困惑の色に染める美女を、ニースは笑って制した。
「あら、本当のことでしょう? そして、彼女が私を護衛しているというのも本当。貴族の中には、私がいないほうが都合がいいと、そうお考えの方もいらしてね」
「愚かなことです。ニース様がいらっしゃらなければ、今日のアラニア王国は存在しえないというのに」
 アウスレーゼが侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てる。
 アラニアの宮廷にとって、名声の高すぎるニースが厄介な存在なのは間違いないが、ニースを暗殺したなどという風評が流れれば、もっと厄介なことになる。
 神殿でおとなしく、しかも壮健でいて欲しいというのが本音だろう。
 それを裏舞台から実現するのがアウスレーゼの役目というわけだ。
「故に」
 蒼氷色の視線が、刃となってシンたちを切り裂いた。
「あなた方がニース様に危害を加えようとすれば、容赦なく斬ります。心しておかれませ」
「この人たちは、そんなことしません!」
 ニースの脇で控えていたレイリアが、むっとした様子で口を挟む。
「レイリア様、あなたは甘い。人は人を騙せる生き物なのですよ」
「すべての人が悪意で生きているわけではありません!」
 むきになって食い下がるレイリアに、アウスレーゼは軽くため息をついた。
「よろしいですか。世の中には、善人と悪人がいるわけではないのです。すべての人には等しく善と悪が内包され、心の揺らめきによって善にも悪にもなりうるのです。それが人というものです」
「それは……そうかもしれませんが」
 レイリアの反論が力をなくすと、アウスレーゼはさらに追い打ちをかけた。
「私も、今日の彼らがニース様に害を為すとは思いません。ですが、不心得な貴族たちに大金を積まれたら? 親しい人を人質に取られたら? 彼らの心が動かないと、どうして断言できますか」
「もういいだろ。それくらいで勘弁してくれ」
 苦々しげな顔で、シンが割って入った。
「レイリアが言うとおり、俺たちにはニース様を傷つける気なんてない。もしそんな日が来たら、君に斬られても文句は言わないよ」
「ゆめゆめ、その言葉をお忘れになりませんよう」
 シンの返答に満足したのか、アウスレーゼは平然とした顔でニースの半歩後ろに退がった。
「華麗なまでのツンだな。デレ期が楽しみだ」
 黙ってその様子を見ていたライオットが、どこか楽しそうに妻にささやく。
「デレって、誰にデレるの?」
 返答によっては只ではおかない、とルージュが夫を睨んだ。
 レイリアといいアウスレーゼといい、この世界は若い美人が多すぎる。ルージュは心痛の種が増えた気分だ。
「そりゃシンに決まってるだろ。ああいう現実路線タイプは、夢を追い求める子供みたいな男に弱いのがお約束だ」
「あの女は、お前とは相性悪そうだしな」
 足下からルーィエが口を挟む。
「そうかな?」
「お前、あの女をからかったら楽しそうだと思ってるだろ。ああいう冗談の通じないタイプは反応が激しいからな。けど楽しいのはこっちだけで、好感度は絶対上がらないぞ」
「さすが陛下、分かっていらっしゃる」
 ライオットとルーィエが、顔を見合わせてニヤリと笑う。ふたりとも同じことを考えていたらしい。
 普段は喧嘩ばかりしているように見えて、なかなかどうして、このふたりは相性がいい。
 ルージュは軽く頭痛を感じてこめかみを押さえた。
 外見は立派な貴公子なのだから、もう少し上品に振る舞ってくれてもいいのに。悪戯っ子なところは、現実と何も変わらない。
 それに。
 本人は否定するだろうが、ルージュに言わせれば、ライオットだって夢を追い求める子供みたいな男だ。心配の種はまったく払拭されない。
 いささか棘のある視線をアウスレーゼに向けていると、ニースがぽんぽんと手を叩いて出発を告げた。
「さあさあ、そろそろ馬車に乗ってちょうだい。今日中にピート卿のお屋敷に着かないと、明日が大変になりますからね」
 総勢6名と1匹。
 冒険者レベルの合計58。
 現在のロードス島で最強であろうパーティは、神殿の裏庭に用意された馬車に乗り込んで、裏門からひっそりと出ていった。
 そしてこの旅立ちが、彼らの死力を尽くした戦いの第一歩となる。



シーン3-2 祝福の街道 ザクソン郊外

 ザクソンの村から少し離れたところにある騎士館の前で、馬車は半日ぶりに足を止めた。
 石造りの壁がぐるりと敷地を取り巻き、南側と西側に門が設えてある。日本の基準では十分に豪邸と呼べるものだったが、ニースに言わせれば、アラニア王国の騎士としては質素な部類に入るそうだ。
 太陽が西の地平に姿を消して、およそ半刻。あたりは薄闇に包まれており、ルージュの《ライト》の魔法がなければ足下すらもおぼつかない。
 慎重に御者台から降りたライオットは、こわばった腰を伸ばしてようやく一息ついた。
 ここまでの道程は、徒歩なら通常3日だ。それを1日で駆け抜ける強行軍。馬車を使ったとはいえ、さすがに疲労が重くのしかかっていた。
「あなたは何を遊んでいるのです? ニース様がお降りになります。早く手をお貸しなさい」
 道中ずっと御者をつとめていたアウスレーゼが、疲労など微塵も伺わせない冷たい視線で、ライオットを串刺しにする。
「……そりゃ失礼」
 首をすくめて大盾を小脇に抱えると、ライオットはニースに片手を差し出した。
「ニース様、お手をどうぞ」
「あら、ありがとう」
 にこりと微笑みを返し、ライオットの手を取ると、ニースはしっかりとした足取りで馬車から降りる。
 続けてレイリア、ルージュと降車していると、騎士館の門が開き、中から壮年の男性が姿を見せた。
「ニース様、お待ち申しておりました。道中つつがなく何よりです」
 白いものが目立つ髪を丁寧になでつけ、上品に口髭を整えた壮年の騎士は、恭しくも親しげな様子でニースを出迎える。
「ピート卿もお元気そうね。今年もお世話になります」
「このような田舎では、ニース様のご来訪が年に一度の楽しみですので。何でも遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう。そうさせてもらうわ。さあ、レイリアもご挨拶をなさい」
 慈愛に満ちた微笑を浮かべて、ニースが振り返る。
 レイリアは照れたような、緊張したような顔でぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、ピート卿」
 まるで孫娘でも眺めるように、ピートの目が細められた。
 聞く人を落ち着かせるような、低い穏やかな声でレイリアに話しかける。
「レイリア司祭も大きくなられて。ニース様の教えを守って、健やかにお過ごしのようですね」
「はい」
「普段は神殿のお勤めで大変でしょうが、今夜ばかりは我が家と思って、どうかお寛ぎ下さい」
「ありがとうございます」
 壮年の騎士は、それからしばらくレイリアの顔を見つめていたが、やがて小さく吐息を漏らすとニースに向き直った。
「粗食ではございますが、妻が夕餉の準備を済ませております。いったん部屋に落ち着かれましたら、いつでも食堂へお越し下さい」
「ありがとう。でもその前に、護衛の皆さんを紹介させていただくわ」
 馬車から荷物を下ろしたり、馬をはずして馬房へ収めたりしていた4人を呼ぶと、ニースは順にピートに紹介していく。
「なるほど。これはまた、心強い方々がご一緒ですな」
 異常なまでの冒険者レベルを迫力として感じ取ったのか、ピートが感心した様子でシンたちを見る。
「ですが、今回は楽をしていただけますよ。3日ほど前に王都から騎士が派遣されて、遺跡の『掃除』をしたばかりですからな」
「王都から?」
 ニースが驚いて問い返す。
 ピートは微笑を浮かべてうなずいた。
「騎士が3名に兵士が10名ほど。それに賢者の学院の導師様もいらっしゃいましたな。今回はニース様のお手を煩わせないようにとのことで」
 王都の貴族も心を入れ替えたのでしょうか、とピートは笑った。
「信じられません。何かの罠では?」
 アウスレーゼが硬質の美貌を曇らせる。
「いいえ。私もそれを疑って、昨日のうちに中を見て回りました。不死生物の類は完全に駆除されて、魔法の壁の修復も終わっておりました。危険は感じられませんでしたよ」
「ピート卿がおっしゃるのであれば、そうなのでしょうが……」
 この騎士は信じられるが、王都の貴族はそれ以上に信じられないということか。
 疑惑を拭いきれない様子のアウスレーゼに、ニースは事も無げに笑ってみせた。
「心配いらないわ。たとえ罠でも、今回の護衛は頼りになるから。それより早く鎧を脱いで、汗を拭かせていただきましょう。さすがに今日は皆、疲れたでしょう?」
「これはこれは、気がきかなくて申し訳ない」
 ピートは館の扉を開けると、一同を招き入れた。
「なにぶん田舎騎士ですので、何かと行き届かない点もありましょうが、どうかご容赦下さい」
 綺麗に清められた邸内には、ほのかに花の香りが漂っている。
 花瓶に敷かれたレース飾りは夫人の手作りだろうか。
 夫婦の人柄がしのばれるような、居心地のよい屋敷だった。
「ようこそいらっしゃいました、ニース様。ご壮健で何よりでございます」
 玄関ホールのすみに控えていた初老の女性が、穏やかな微笑を浮かべて一礼した。
「こんばんは、イメーラ夫人。お元気そうね。今年もお世話になります」
 旧友に会ったかのように、ニースが親しげに声をかける。
「こちらこそ、お迎えする準備から楽しませていただきました。どうかゆっくりとご逗留ください。護衛の皆様も、御用がおありでしたら、遠慮なく仰って下さいね」
 丁寧だがへりくだることのない、ごく自然な態度。
 ニースと並んでも遜色のないほど、品格のある女性だった。
 夫人はシンたちの顔を順番に見つめ、最後にレイリアに微笑みかけると、客人を奥へといざなった。
「長旅でお疲れでしょう。皆様もお部屋へご案内いたします。どうぞ2階の方へ」
 ゆっくりとした歩調で階段を登っていく。
 人はどのような人生を送れば、こんなにも美しく年を重ねられるのだろうか。
 ルージュは夫人の後に続きながら、羨望にも似た思いで白髪を見上げていた。


 ランプの光に照らされた食卓には、兎肉のシチュー、川魚のバター焼き、鴨肉のロースト、彩りのサラダ、赤白のワインなど、華美ではないが手の込んだ料理が所狭しと並べられていった。
「なにぶん田舎料理ですので、皆様のお口に合うかどうか」
 イメーラ夫人が自ら給仕を勤め、温かい料理の数々が運ばれてくる。
「これをすべて、奥様が作られたのですか」
 感心することしきりのライオットに、イメーラ夫人が上品に微笑んだ。
「あら、ライオットさんの奥様だって、このくらいの料理はお作りになれますよ?」
「そうでしょうか?」
 かなり疑わしげにルージュを見る。
 銀髪の佳人は、にっこり笑うと小首をかしげた。
「あら、何か?」
 ピート卿夫妻の上品さに当てられたのだろう、ルージュは盛大に猫をかぶっている。
 どこから突っ込むべきか。
 幾とおりかの台詞を思い浮かべたが、結局ライオットは首を振った。
「……いや、何でもない。君が俺の想像以上に料理を作れたのは事実だからな」
「ちょっとそこ。私がどんだけ料理できないと思ってたんですか」
 あっと言う間に猫を脱ぎ捨てたルージュが、頬を膨らませて抗議する。
「だって仕方ないだろう。結婚前に付き合ってるとき、手作りの弁当が食べたいっていったら、作ってきたのサンドイッチだったんだから」
「失礼な。マドレーヌも作りました」
「どっちも弁当じゃないだろ」
「そりゃまぁ、そうだけど」
 ルージュがやりこめられて黙ると、レイリアがシンに尋ねた。
「弁当って、バスケットのことですよね? サンドイッチじゃ駄目なんですか?」
 不思議そうな様子のレイリアに、シンは大きくうなずく。
「男っていう生き物は、料理の上手な女性を好む習性があるからね。ライオットは食事がしたかったわけじゃなく、ルージュの料理の腕を知りたかったんだと思うよ」
 サンドイッチだって手間のかかるメニューなのだが、作り手の技量によって味が変わるかと言われれば、よほどの失敗がなければ違いなど分かるまい。
「そんなわけで、結婚するにあたって、妻に『料理がうまい』っていう要素は全く期待してなかったんですよ。食べられる物を出してくれれば、それで十分かなと」
 そう言われたイメーラ夫人は、若い夫婦を微笑ましげに見つめながら応じた。
「ですけど、その期待は良い方に裏切られたのでしょう?」
「まぁ、そうです。時には奇妙な創作料理に失敗することもありますが、妻の技量には満足しています」
「私、ほめられてる? 何か釈然としないんですけど」
 複雑きわまる表情でルージュがつぶやくと、ニースがぽんと手を叩いた。
「楽しいお話だけれど、このままでは料理が冷めてしまうわ。せっかくだから温かいうちに頂きましょう。イメーラ夫人の料理は絶品よ」
 その言葉を合図として、いただきますの唱和とともに、一斉にナイフとフォークが動き出す。
 ニースの宣言どおり、イメーラ夫人の料理は胃袋だけでなく、心まで暖めてくれる出来だった。
 長旅の空腹もあり、それぞれ夢中で料理を腹に収めていく。
「いや、これは美味しいな。アラニアに来て一番の料理ですよ」
 見ている方が気持ちよくなるような食べっぷりで、シンが絶賛した。
「そうでしょう? この妻を射止めたのは、私の人生最大の成功だったと自負しておりますからな」
 満足そうにピート卿がうなずく。
「まったくですね。こんな食事を毎日食べられるなんて、ピート卿がうらやましい」
 その横で、ニースとイメーラ夫人がおかしそうに顔を見合わせた。射止められたのは果たしてどっちだろうか。
 男を射んとすればまず胃袋から。マーファの教えは確かに真理を言い当てているようだ。
「私も、少し勉強しようかな」
 難しい顔で鴨肉のローストをつつきながら、レイリアがつぶやく。
「あら。レイリア司祭は、お料理は苦手なのですか?」
 以外そうにイメーラ夫人が言った。
 黒髪の美少女は、少し恥ずかしそうにうなずく。
「神殿のお勤めと、剣術の訓練で忙しくて。なかなかそこまで手が回りません」
 レイリアとて、厨房の大鍋で大量の給食を作るくらいなら朝飯前だ。これは修行の一環として当番制で回ってくるため、ターバ神殿の神官なら誰でもできる。
 だがターバの女性神官全員に聞いても、その給食で男性の心を射止めようとする勇者はいないだろう。
「お料理の修行なんて簡単ですよ。作ったものを、親しい殿方に食べていただけばいいんです」
 相手に喜んでもらいたい、相手に褒めてほしいという想いが、料理にとっては何よりの調味料だとイメーラ夫人は言った。
「親しい殿方に、ですか」
 成長期の少年のような健啖ぶりを発揮しているシンをちらりと見る。
 偶然、目が合った。
「ん?」
「あ、いえその、何でもありません」
 あわてて手を振る。
 兎肉のシチューに夢中のシンは、特に追求もせずに食事に戻る。
 ほっと胸をなで下ろしたレイリアは、今度はイメーラ夫人が意味ありげに自分を見つめているのに気づいて、頬を染めた。
「食べていただきたい方に、心当たりがありそうですね」
「あの、特にそういうわけでは……ないのですが……」
 尻すぼみになっていくレイリアの声。
 食卓の明かりがランプで幸いだった。そうでなければ、耳まで真っ赤になったレイリアは、さぞかし目立ったことだろう。
「なあシン。このシチューどうだ?」
 今まで戦況を見計らっていたライオットが、ここで援護射撃を開始する。
「最高。なんかシチューってふつう甘いだろ? でもこれはちょっと香ばしくて、大人の味って感じがする。胡椒か何か効いてるのかな?」
 完全に同感だ。
 だが、ここは感想を言い合う場面ではない。
 ライオットはさらに言葉を続けて、親友とレイリアを追いつめていく。
「ターバに帰ってからも食べられるといいんだけどな」
「そしたら最高だけど、さすがに無理だろ。イメーラ夫人特製なんだから」
 シチューの皿を空にしたシンが、ごちそうさま、と手を合わせる。
「お気に召していただけて何よりでした。けれど、特別な材料は何も使っていませんよ。レシピも簡単だから、どなたかにお教えしましょうか?」
 イメーラ夫人の完璧な連携。
 ライオットは目だけで感謝を告げると、おまえ分かってるんだろうなと言わんばかりの視線を、今度はルージュに向ける。
 銀髪の魔術師は、当然のように夫の視線に反応してみせた。
「ああごめん、私ちょっと料理はパス」
「私も遠慮させていただきます」
 目を伏せてナプキンで口許をふきながら、アウスレーゼもあっさりと断る。
 これで外堀は埋まった。
 あとは誰かの決定的な一言があればよい。
 皆の期待を一身に背負って、ニースがおもむろに口を開いた。
「レイリア。あなた明日はお屋敷に残る予定だったんだし、イメーラ夫人に色々と教わったらどうかしら?」
 チェックメイト。
 退路をふさがれた後に王手を打たれて、レイリアにはもはや選択肢がない。
「……そうですね。イメーラ夫人、よろしくご教授ください」
「喜んで。これで、明日の夕食はレイリア司祭の手作りですね。皆さん、期待して大丈夫ですよ」
 楽しそうに手を打つイメーラ夫人の言葉に、シンがにっこりと笑った。
「そうか。これは明日の夜も楽しみだな」
 他意はないのだろう。
 シンは、ただ単純に明日も美味しい夕食が食べたいだけ。完全に色気より食い気。
 それが分かるだけに、レイリアは苦笑した。
 比べられる対象はイメーラ夫人の力作。素人と変わらないレイリアにとって、ハードルはかなり高い。
「あらあら。墓所の攻略と夕食の調理と、どっちが難しいか分からないわね」
 ニースの冷やかすような一言に、レイリアがまったくですと頷き、楽しげな笑い声がランプの明かりに染み込んでいく。
 ピート卿が地下室から秘蔵のワインを持ち出してくると、席はさらに暖まり、夜は賑やかに更けていった。


 翌朝。
 各々が準備を整えて屋敷の外に集合すると、地平線から顔を出したばかりの太陽が光の槍を突き立てた。
「冒険者の何がつらいって、早起きが多すぎるよな」
 ライオットがまぶしそうに手をかざし、眼を細めて空を仰ぐ。
 緩やかに連なる丘陵の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。
 青空といっても一色ではない。地平線の近くは薄い水色。上を向くにしたがってどんどん濃くなり、天頂は藍色に近い深みが残っている。
 夜明け直後、今しか見られない自然のグラディエーションだ。
「まあ、こんな空気が味わえるなら、早起きも悪くないけどさ」
 初夏とはいえ、まだ早朝。
 辺りは少し肌寒いが、澄んだ大気は清涼感にあふれ、頭に淀んでいる眠気を爽快に吹き払ってくれる。
「まだ5時頃でしょ? 私は眠い。あと3時間寝かせて欲しかった」
 昨日に続いての早起きに、ルージュはあくびを堪えきれない。
 紫水晶の瞳はとろんと濁り、細い指が桜色の唇を覆う。
 外見は幻想的なまでに整った佳人なのだが、緩みまくった言葉と表情がすべてを台無しにしていた。
「おい半人前。ちょっとはシャキッとしたらどうだ? あの怖そうな女を見てみろ。朝早いってのに準備万端、髪のセットから化粧まで完璧だぞ。寝ぼけた牛みたいなお前とは大違いだ」
 銀色の双尾猫が、あきれた様子でルージュを眺める。 
「私は1日8時間寝ないとダメなの。ルーィエだって知ってるでしょ?」
 ん~、と背伸びをして、ルージュが言う。
 目尻に浮かんだ涙を拭いていると、今度はアウスレーゼが冷たい声を突き立てた。
「そんなことは理由になりません。化粧云々は個人の自由ですが、ニース様の護衛を引き受けた以上、体調管理はあなたの仕事です」
「ごもっとも」
 正論すぎて返す言葉もない。
 憮然として黙り込んだが、またしてもあくびをかみ殺しているルージュに、アウスレーゼはため息をついた。
「それに、私などよりレイリア様の方がずっと早起きをしているのですよ」
 視線を転じれば、レイリアがシンと向き合い、何やらバスケットを渡しているようだ。
 長い黒髪をポニーテールにまとめ、エプロン姿で腕まくりをしたレイリア。
 向き合っているシンは、どことなく落ち着かない様子だ。
「あ、リーダー赤くなってるよ?」
「無理もない。あれは反則」
 ライオットが羨ましそうに言う。
 抜けるように白い首筋や、たおやかな曲線を描く二の腕など、普段は隠された肌を惜しげもなく見せているのだ。
 芍薬の花のような楚々とした立ち姿は、もはや芸術品の域に達していた。
「ちょっとライくん。食いつきすぎなんじゃない?」
「悪いな。実は俺、ポニーテール萌えなんだ」
 妻の冷たい視線をものともせず、ライオットは全力で鑑賞を続けた。 
 レイリアは黒い瞳に真摯な光を浮かべて、正面からシンを見つめている。
「シン、怪我しないように気を付けてくださいね」
「分かった」
「母のこと、お願いします」
「大丈夫。任せて」
「これ、お弁当を作ってみたんです。イメーラ夫人が保証してくれたので、味は大丈夫だと思うんですが」
「ありがとう。楽しみにさせてもらうよ」
 本人たちは大まじめに、聞いている方が痒くなるような会話を繰り広げていた。
 手を伸ばせば肩を抱ける距離まで、あと半歩。
 その絶妙な間隔を保ったまま、2人の視線は互いを見つめる。
 実直な浅黒い肌の戦士と、美しい黒髪の司祭。見上げる瞳と、見下ろす微笑。
 実に絵になる光景だ。
 そこには完全に2人だけの世界ができあがっており、興味津々に眺める周囲の視線など、全く気にも留めていなかった。
「シン、前に言いましたよね。俺は弱いって。覚えてますか?」
「ああ、もちろん」
 その時の会話を思い出して、ちょっと恥ずかしそうにシンが頷く。
 レイリアは穏やかな声で続けた。
「けど、本当はそうじゃない。私は知っているんです。だってあの時、あなたの背中を見たんですから」 
 確信に満ちた表情と迷いのない口調は、まさに聖女のよう。
 若い頃のニースもこうだったのだろうか、とシンは思った。
「信じてください。あなたは誰よりも強い。あなたの力と想いがあれば、守れないものなんてありません」
 その真摯な言葉は、自分でも驚くほど素直に、シンの心に染みわたっていった。
 正直なところ、戦士としての自分には、さほどの実感はない。
 シンが剣を抜いて戦ったのは、オーガー事件が最初で最後。その時だって無我夢中で、自分が何を感じたかなんて覚えていないのだ。
 この状況で、自分が最強の戦士だと信じられる方がどうかしている。
 それでも。
「信じるよ。君の言葉なら」
 たとえハードウェアに頼ったスペックだろうと、レイリアが望むシン・イスマイールでありたい。レイリアに訪れる危機から、彼女の人生と笑顔を守りたい。
 彼女の前で恥じない自分になりたいと、そう思ったのだ。
 シンの決意を感じたのか、レイリアが嬉しそうに頷いた。
 清楚な美貌に、好意を隠そうともせず暖かな笑顔を浮かべる。
 涼やかな風がレイリアの黒髪をふわりとなびかせると、シンはそれに吸い寄せられるように、すっと近づいた。
 手を伸ばせば、肩を抱ける距離。
 ライオットとルージュが目を輝かせて見守る中、緊張と期待にレイリアが肩を震わせたところで。
「はい、そこまで」
 ぽんぽんと手を叩いて、ニースがため息混じりに介入した。
「ああっ。ニース様、もうちょっとだったのに」
 思わずライオットが慨嘆する。
「お黙りなさい」
 めっ、とライオットを一瞥して黙らせると、あわてて距離をとったシンにも苦言を呈する。
「こんな朝も早くから、母親の目の前で娘を口説くものじゃありませんよ。キスを迫るなら、時と場所をわきまえなさい」
「キ、キスってそんなつもりは……」
 予想外の言葉にうろたえたシンが、顔を真っ赤にして手を振る。
「あら。この子にキスをするのは嫌だって言うの?」
「あ、いや、できればしたいですけど、今はまだ早いというか彼女の気持ちも考えないといけないしですね、その前にそもそも俺たちはまだニース様が心配するような関係ではありませんし……」
 脊椎反射でまくし立てたシンは、してやったりという笑顔を浮かべたニースと、頬を赤くして俯いたレイリアを見て我に返った。
 自分は今、何を口走った?
 それを反芻して、顔から火が出そうになる。
 楽しそうに笑っているライオットとルージュ。対照的に冷たい視線を投げかけるアウスレーゼ。誰も口を出そうとせず、ただシンの醜態を眺めるだけだ。
「おい、黒いの。こういう時はどうすればいいか、教えてやろうか?」
 我関せずと眺めていた双尾猫が、仕方ないと言わんばかりに助け船を出した。
「頼む。ぜひ」
 シンは一も二もなく飛び乗る。
 全員の注目を集めた猫族の王は、満足そうに髭を震わせると、厳かな口調で宣言した。
「あきらめろ」





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:46
シーン4 墓所

 レイリアとピート卿夫妻を館に残し、ニースたち5名は徒歩で墓所を目指した。
 丘を越え、林を抜け、歩くこと1時間。
 明らかに人の手が入ったと分かる鎮守の森の中。視界が突然開けると、そこに巨大な遺跡が姿を現した。
「ここが『墓所』よ」
 ニースが言う。
 遺跡と言っても構造は単純だ。直径50メートルほどの円形に土を盛り、その全周に堀が巡らせてあるだけ。
 円墳と呼ばれる形状の、貴人の地下墳墓である。
 出入り口はたったひとつ。東側に架けられた橋の先にある、石造りの扉だ。
「ここは、人々にはアラニア王家にゆかりの方の墓所だと思われているわ。それは間違いじゃない。けれど正確でもない」
 鎮守の森から降りそそぐ、静謐な沈黙の中。
 先頭に立って橋を渡りながら、ニースは説明を続けた。
「今から400年前、戦いがあったの。当時はカストゥール王国滅亡の混乱が収まらず、ロードス島の半分は邪神カーディスの教団の支配下にあったわ。その最高司祭として人々を支配していた女性が、“亡者の女王”ナニール」
 人々の命が、たった1枚の金貨よりも軽かった時代。
 血で血を洗う凄惨な戦乱の世に、ひとつの思想が広まっていった。
 曰く、この世は不完全な仮初めのものであり、すべてが滅びて後、新たなる世界が築かれる。その新しい世界でこそ、人々は幸福に暮らせるというものだ。
 カーディスを信仰する者のみが新世界に転生できるという布教もあり、カーディス教団は急速に勢力を広げていった。
「マーモで産声を上げたカーディス教団は、カノンの地を支配下に収めると、矛先をアラニア地方に向けたの。当時のアラニアは混迷の中にあって、絶好の獲物に見えたのでしょうね。けれど皮肉なことに、ナニールの侵略が始まると、アラニア地方に住んでいた住民は結束して邪教に立ち向かった。彼らの中心となった英雄の名が、カドモス」
 橋を渡って石造りの扉の前に来ると、ニースは銀髪の魔術師を差し招いた。
「ルージュさん。ここに彫ってある文字が読める?」
 高さ3メートルほどの巨大な石扉には、一面に精緻な文様が刻まれている。
 その中央部、目線の少し下に、碑文のようなものがあった。
 彫ってあるのは下位古代語だ。魔術師ならば、読むことなど造作もない。一般教養のレベル。
 唇に指を当てて文字をのぞき込んだルージュは、すぐにうなずいた。
「ええと、こうです」


  建国王カドモス1世 蛮族の女王を打ち破り
  五つの力を奪いて ここに封印せり
  第五の封印解けるとき
  呪われた力は蘇り
  亡者の女王は立ち上がらん


 ルージュは紫水晶の瞳をすっと細めた。
 視線を上げて円墳を見渡す。
「つまり、ここは王家の墓所なんかじゃなく、亡者の女王の封印施設というわけですか」
「そのとおり。英雄カドモスは、カーディスの最高司祭ナニールをこの墓所に封印した。ターバに本拠地を置いたマーファ教団にとっても、ここの封印を守ることは最優先事項と言っていいわ。これはもう、神話の時代からの宿命よね」
 ニースは口許だけで小さく笑った。
 かつて神話の時代、破壊の女神カーディスと大地母神マーファは、ロードスの地で最後の戦いを繰り広げたと伝えられている。
 カーディスはマーファに倒されて滅びを迎えたとき、大地に呪いをまき散らした。マーファはその呪いからロードスを守るために、カーディスの骸もろともマーモの地をロードスから切り離したのだという。
 ゆえにロードスは呪われた島、マーモは暗黒の島と呼ばれているのだ。
「アウスレーゼ。あなたもここに来るのは初めてよね。この扉を見て、何か気づくことはある?」
 ちょっと人の悪い笑みを浮かべて、ニースが金髪の密偵に試験を課す。
 最後尾で警戒に当たっていたアウスレーゼは、蒼氷色の瞳を扉に向けた。
「私には開けられないということは分かります。この扉は両開きのようですが、鍵穴も取手もない。財宝目当ての墓荒らしには、手も足も出ないでしょう」
「それでは50点ね。他には?」
 その言葉にアウスレーゼはしばし沈黙した後、小さく吐息をもらした。
「他に私が知っているのは、この魔法の扉は17年前の大地震で半壊し、賢者の学院が総力を挙げて修復したということくらいです。ピート卿は、この扉を開く鍵の守護者であるとか」
「そのとおり。さすがアウスレーゼ」
 ニースは頷くと、懐から掌大の細工物を取り出した。
 金銀の装飾が施された魔法の鍵。賢者の学院が秘術の限りを尽くして修復し、ピート卿の屋敷で厳重に保管されていた品である。
 ニースは鍵を墓所の石扉に押し当てながら、話を続ける。
「17年前、白竜山脈一帯で大きな地震があったの。村の建物の2軒に1軒は倒壊して、たいへんな被害が出たわ。アウスレーゼが言ったとおり、この石扉も半壊してね。墓所を狙っていた盗掘者に侵入されてしまった」
 鍵が淡い光を放つと、魔法の筆がすべるように、刻まれた文様に黄金色の輝きが走り出した。
 やがて文様のすべてが光に包まれると、石扉は重々しい音を立ててゆっくりと開いていく。
「王族の墳墓であれば、埋葬品は高価な品ですからね。それは無理もないこと。けれど、ここはただの墓所ではなく、埋葬品もただの宝物じゃない。彼が侵入を果たしたことで、事態は深刻なものになっていくの」
 見上げんばかりの扉が完全に開くと、そこには黒々とした闇へと続く通廊が姿を現した。
 ひんやりとした空気が流れ出し、初夏の陽気を吹き払っていく。
「では行きましょうか。ピート卿は危険はないと言っていたけど、くれぐれも油断しないように」
 ここから先は遊びではない。
 緊張の色を強めていくニースの声に、シンたちも意識のスイッチを切り替える。
「ルーィエ、また偵察を頼んでいい?」
 魔法樹の杖を握りなおしたルージュが、銀色の双尾猫に言った。
 圧倒的な敏捷性能に加えて、双尾猫には闇視・暗視・精霊視の特殊能力がある。明かりの一切ないダンジョンでも視界には不自由せず、発見した敵がアンデッドか否かの判定まで可能。
 さらに視界を共有するルージュのセージ判定によって、相手を識別して弱点を見抜き、会敵前に戦闘準備を整えることまでできるのだ。
 情報収集を重視する彼らにとって、このホットラインはパーティーの生命線とも呼べる存在だった。
「仕方ない、お前らじゃ話にならないからな。俺様が隠密行動の何たるか、手本を見せてやる」
 小さく鼻を鳴らすと、ルーィエはためらう様子もなく、暗闇に身をおどらせた。
 音ひとつたてずに銀色の猫王が墓所に消えると、今度はアウスレーゼが進み出た。
「先頭は私が行きましょう。どんな罠が仕掛けられているか分かりませんから」
 言いながら、腰までの金髪を後頭部でアップにまとめ、黒い組紐で結ぶ。
 懐から取り出した革手袋をはめ、腰の細剣の位置を調節すると、アウスレーゼは戦闘準備完了とばかりにライオットを見た。
 鎧の留金や盾のグリップを確認し終えたライオットが、それに答える。 
「通路の幅は3メートル。2列縦隊で進もう。先頭はアウスレーゼと俺。2列目にニース様とルージュ。最後尾はシン」
 軍師役のキースがいない場合、参謀役はライオットの任務だ。策略を巡らすのは苦手でも、段取りを踏んでの戦術展開なら得意分野。
「明かりはいつもどおり2種類用意。《ライト》はランタンにかけて、ルージュが持ってくれ。松明は2本、シンと俺。そんな感じでいいか?」
 ルージュとルーィエが組んで先行偵察と情報処理、ライオットが参謀なら、最終的な判断をする指揮官はシンということになる。
「それでいこう。だたし、入るのはルーィエの偵察が終わってから。ニース様もいいですか?」
「その辺りのことは、全部お任せするわ」
 シンの確認に、ニースもうなずく。
 この1週間ですっかり熟練した火打ち石と火口を取り出すと、シンは慣れた手つきで松明に火を灯した。 
「中の様子は? 陛下は何か言ってるか?」
 目を閉じてルーィエと視界を共有している妻に、ライオットが問いかける。
「ええとね、とりあえず通路は突きあたってT字路になってる。ルーィエは右に曲がって進んでるんだけど、通路の右側の壁に鉄の扉があるよ」
 すると、それを聞いていたニースが口を挟んだ。
「そこは左手の部屋ね。ルージュさん。猫王さまに、その扉には罠が仕掛けてあるから触らないようにって伝えてくれる?」
「はい、分かりました」
「中は四角い回廊になっているわ。扉は東西南北の外側にひとつずつ。回廊の内側に向かって、南側からひとつ。合計5つあります」
 回廊が胴体だとすると、回廊の外側に頭の部屋、右手の部屋、左手の部屋、足の部屋。内側に胴体の部屋があるというわけだ。
 ルージュが念話でそれを伝えると、了解の思念が返ってくる。
 ニースの情報もあって偵察は順調に進み、ルーィエは5分ほどで戻ってきた。
「中の構造は単純だな。分かれ道もない。中には誰もいなかったぞ。生きてる奴も、死んでる奴も」
 ピート卿が言ったとおり、王都から来た騎士たちが中のモンスターをすっかり駆除してしまったらしい。
 思わず安堵の空気が流れたが、アウスレーゼは冷たい口調でそれを一掃した。
「まだ分かりませんよ。部屋の中は未確認です」
 何が襲ってきても不思議ではない、と釘を刺す。
「そのとおりだな。油断は禁物。緊張していこう」
 シンのその言葉を合図にして、一行は暗い墓所へと足を踏み入れた。
 中は、爽やかな外とは隔絶した雰囲気だった。
 400年近くも解かれることのなかった封印のせいだろうか。
 空気が黒く、重い。
 妄執と怨念が渦巻く死者の世界に繋がっているような、そんな錯覚すら覚えた。
 松明の炎が揺れて5人の影が踊るたびに、ルージュの肩がびくりと震える。
 これはもう、敵がいる・いないの問題ではない。
 ここは幽霊もゾンビも実在する世界で、なおかつ自分たちが歩いているのは、ロードス史上最凶の怨霊が封じられた墓所なのだ。
 怖くないはずがなかった。
 わずかな物音にも弾かれるように反応しながら、ルージュが前を歩く夫に視線を向ける。
 手を繋ぎたかった。
 夫の体温を肌に感じていれば、きっとこの空気にも耐えられるから。
 しかしライオットの右手は松明を掲げ、左手は愛用の大盾を携えている。並んで歩くアウスレーゼと共に、その視線は油断なく前方を警戒中。
 とてもではないが、怖いから手を繋いでほしい、などと言い出せる状況ではない。
 石畳で砂を踏む足音が反響する中、ルージュが独りでじっと耐えていると。
「大丈夫よ、みんな一緒だから」
 ニースの暖かい手が、そっとルージュの繊手を包んだ。
 ためらいがちにその手を握りかえすと、ニースは包容力にあふれた微笑を浮かべ、静かにうなずく。
 たったそれだけのことで、ルージュは心が楽になっていくのを感じた。
 ニースは魔神戦争の英雄とはいえ、敵を倒すことに長けた戦士ではない。実働戦力としては、ファリスの神官戦士フラウスの方がずっと上だっただろう。
 だがもしも、英雄と呼ばれた戦士たちが、最も深き迷宮の最奥部で恐怖や不安に震えることがあったなら。
 彼らの心を癒し、支え続けたのは、きっと“マーファの愛娘”であったに違いない。
「ニース様、先ほどの『左手の部屋』です。扉を開けますか?」
 足を止めたアウスレーゼが、振り向いて確認する。
 ルージュと手を繋いだまま、ニースは首を振った。
「いいえ。物事には順序というものがありますからね。まずは『頭の部屋』に行きましょう。この先の角を曲がってすぐよ」
「了解しました」
 回廊は左手から肩を曲がり、首の位置へ。
 右手には先ほどと同じ鉄の扉がある。
 その上には金属のプレートが打ちつけられ、錆の中には下位古代語の文字が刻まれていた。
「これは……『小冠の間』?」
「そのとおり。全部の部屋には名前が付いているの。理由は中を見れば分かるわ。アウスレーゼ、扉を開けてくれる? 毒針が仕掛けてあるから気を付けて」
「分かりました。ルージュさん、明かりをお願いします」
 細かい作業を照らすには、ゆらゆらと動く松明は不向きだ。ルージュが青白い魔法の明かりを持って近寄ると、アウスレーゼは細い針金を取り出して、錠周りを丹念に調べ始めた。
「さて、昔話の続きをしましょうか」
 それぞれ松明を持ったライオットが前方を、シンが後方を警戒する中、ニースは再び語り始める。
「17年前。ここに盗掘者が侵入したとき、ピート卿がそれを発見したの。地震の影響で墓所が崩れていないか、確認に来たのね。盗掘者は5つの宝物のうち、4つまでも盗み出していた」
 かちり。
 小さな金属音は思いのほか大きく響き、ニースは言葉を切った。
 アウスレーゼが下がると、ライオットとシンが視線を交わし、扉の前に進み出る。
 ライオットは松明をそっと床に置くと、空いた右手で剣を抜き、腰を低くして身構えた。
 このような時、先頭に立って突入するのはライオットの仕事だ。
 体をすっぽりと覆うカイトシールドと、城壁級の防御力を誇るミスリルプレート。この2つにものを言わせて1ラウンド耐える間に、シンとルージュの攻撃で敵を粉砕する。
 それがいつもの戦術だった。
「いいか、開けるぞ」
「いつでも」
 呼吸を合わせて、シンが一気に扉を開き、中に松明を放りこんだ。
 同時にライオットが突入。2歩で部屋に入り、3歩目で立ち止まって周囲を確認。
 部屋は円形だった。
 中にある物はたったひとつ、部屋の中央に据えられた黒大理石の台座だけ。
 その上には女性の胸像が飾られており、床に落ちた松明に照らされて、オレンジ色の影を壁に伸ばしている。
 だが生者も死者も含めて、動くものは何もいなかった。
「……どうやら、大丈夫みたいだな」
 すぐに続いてきたシンが、精霊殺しの魔剣を振りかぶったまま、安堵の吐息を洩らす。
「そうらしい。けど以外だな」
 ライオットは、シンがすぐに突入してくるとは思っていなかったのだ。
 いくら実戦経験を積んだとはいえ、戦ったのはたったの1度。それも格下相手に1回剣を振っただけ。
 それで戦いに順応できるはずがない。
「そりゃ超怖いよ。けど俺さ、強くなりたいんだ」
 シンの答えに、ライオットはふっと笑った。
 なぜ? 誰のために?
 そんなこと、考えるまでもない。
「納得した。頼りにしてるぜ」
 用済みとなった剣を鞘に収めると、親友を励ますように肩を叩く。
 そしてライオットは床の松明を拾い上げると、部屋の中央にある胸像に歩み寄った。
「なんか、ずいぶん不気味な彫像だね」
 魔法の明かりを放つランタンを掲げながら、ルージュが夫に寄り添う。
 祈りを捧げるような姿勢で、頭を垂れた女性の胸像。その顔は、まるで苦悶するかのように歪んでいた。
「この台座にも碑文があるな。なんて書いてある?」
「ええと……『偉大なる建国王カドモス1世、アラニアを平定し国を興す』だって」
 ルージュの言葉に、シンは首を傾げる。
「なんかさっきから聞いてるとさ。アラニア王国ってのはまるで、ナニールを倒すために作られた国みたいだよな」
「そうね。もしナニールがいなかったら、今のアラニア王国は存在しなかったでしょうね」
 ニースはシンの言葉に頷くと、胸像の頭部にすっと手を伸ばした。
「そしてこれが、身封じの小冠。この部屋に祭られている宝物よ」
 ニースが手に取ったのは、4色の水晶が放射状に飾られたティアラだった。
 とはいえ金銀の装飾もないし、宝飾品としての価値はさほど高そうに見えない。
「ずいぶんシンプルなティアラですね」
 ライオットの評価に、ニースは苦笑した。
「外見だけはね。けれどこの品の魔力を知ったら、笑っていられないわよ? 言ったでしょう、これは身封じの小冠だと」
 そのまま、ティアラを自分の頭に乗せる。白いものの混じったニースの黒髪の中で、水晶がきらりと輝いた。
「ライオット。全力で抵抗してちょうだい」
 反射的にライオットが身構える。
 が、無駄なことだった。
 ニースの視線がライオットを射抜くと、金髪の貴公子は肩をびくりと震わせて、指一本動かせなくなってしまう。
「く……ッ!」
 ニースの瞳が、まるで突きつけられた銃口のように感じた。
 動けない。1歩でも動いたら殺される。
 そんな恐怖が全身を縛り上げ、呼吸すら苦しくなった。
 顔から血の気が引き、額にはびっしりと脂汗が浮かび。
 小刻みに震える手から、大盾が大きな音をたてて床に転がる。
「分かった? これが、身封じの小冠。ナニールが愛用した品のひとつよ」
 ニースがティアラを外すと、ライオットの膝が崩れ、ミスリルプレートががしゃりと鳴った。
 地面に両手をつき、肩を荒げて空気をむさぼる。
「ライくん、大丈夫?」
 ルージュが夫の肩に手を置いて、心配そうに顔をのぞきこんだ。
「いや、あんまり大丈夫じゃない。あれはヤバい」
 額の汗を拭いてくれる妻に感謝の視線を向けると、盾を拾って立ち上がった。
 そして、ニースが小冠を胸像に戻すのを待って、問いかける。
「ナニールが愛用した品、ですか」
「ええ。愛用した品のひとつ、と言ったわ。残りの品々もこの墓所にあるから、順番に見ていきましょう」
 そう言って、ニースが踵を返す。
「この部屋はもうおしまい。アウスレーゼ、出たらもう一度鍵をかけて、罠を直しておいてね」
「はい」
 金髪の密偵が頭を下げ、ほんの一瞬、胸像の小冠に視線を向ける。
「あとで持ち出そうなんて考えちゃダメよ?」
 この人には心を読む魔力でもあるのだろうか。
 背中越しに投げかけられた声に、アウスレーゼは苦笑を浮かべ、さらに深く頭を下げた。
「承知しました」

 回廊で警戒に当たっていたルーィエと合流すると、『首』から『右肩』を回り、今度は『右手の部屋』に入った。
 細長い長方形の部屋。
 奥には黒大理石の台座があり、やはり苦悶の表情を浮かべた女性の胸像が飾られている。
 像は右手を差し伸べるような格好で、その薬指には黄金の指輪が輝いていた。
「これは回復の指輪。これをはめた者は、強力な回復の魔法を使えるようになるんですって」
 自分の尾をくわえた蛇というデザインの指輪を手にして、ニースが説明する。
「腕を1本落としても、たちどころに癒してしまうそうよ。シン、試してみる?」
 ニースの悪戯っぽい瞳が向けられると、シンは即座に首を振った。
「遠慮しときます」
 さっきのライオットのように、実験台にされてはかなわない。
 シンが腰の引けた様子で退がっていくと、そこにルージュが進み出て黒大理石の台座を見た。
「ここにも碑文がありますね」


  邪なる神カーディスを信仰する蛮族ども
  カドモス王に刃を向けたり
  カドモス王 蛮族を何度も打ち破る
  されど蛮族の女王ナニール その度に転生す
  ゆえに亡者の女王と呼ばれん


「これが、亡者の女王の秘密」
 指輪を胸像に戻して、ニースが言う。
「カドモス王は邪神の教団を何度も打ち破り、ナニール自身、何度も討ち取られた。それでもナニールは滅びなかった。肉体が死を迎えるたびに、魂は新たな肉体に転生して戦い続けたの」
 リーンカーネーション。
 輪廻転生、と呼ばれる魔法である。
 ナニールがこの加護を受けている以上、戦うという行為自体が無意味なものになってしまう。
「倒しても殺しても、戦いは終わらない。ではどうすれば終わるの? その答えがこの墓所よ」
 次にニースがいざなった部屋は『胴体の部屋』。
 大理石の台座には、やはり苦しそうに顔を歪めた、両腕のない女性の上半身像。
「着ているのは『生け贄の鎖帷子』。ナニールが愛用した魔法のチェインメイルよ。持ち主に代わって血を流すことで、ナニールの傷を肩代わりした、と伝えられているわ」
 そしてルージュを差し招く。
 黒大理石の台座には、やはり400年前の碑文。


  カドモス王 亡者の女王を捕らえ
  身につけたる品々を奪い
  黒き壁の内にその肉体と魂を封印す
  女王の魂は呪縛され
  この墳墓を出ることあたわざるなり


「つまりこの墓所の構造自体が、ナニールの体を模しているのですね」
 肘を抱くようにして立っていたアウスレーゼが、感心してつぶやいた。
 胴体を示す回廊。
 頭の部屋には愛用の小冠を。
 右手の部屋には愛用の指輪を。
 胴体の部屋には愛用の鎧を。
 まだ見ていないが、足の部屋と左手の部屋にも、それぞれの部位に応じた愛用の品が飾られているのだろう。
 体の構造を模した墓所に、愛用の品を媒体として配置することで、魂を転生させずに封印したということか。
 次第に明らかになっていく墓所の秘密に、シンの表情も硬くなっていく。
 そんな親友に歩み寄ると、ライオットは耳元でささやいた。
「シン。『第五の封印』っていうシナリオ読んだことあるか? 戦記リプレイの巻末に小さく載ってたやつ」
「いや、ないな。俺、戦記は小説とアニメしか知らないからさ」
「そうか……」
 ニースが、ここに自分たちを連れてきた理由。
 見せたいもの。
 教えたいこと。
 それに気付いているライオットは、複雑な表情を浮かべた。
 亡者の女王ナニール。その魂を封印するのに、どれだけの血が流れ、どれほどの年月を要したことだろう。
 あまりの規模と墓所の厳粛さに、ライオットは畏れを感じずにはいられない。
 本当にこの魂に手を出してしまっていいのか。
 自分たちの能力で責任を取りきれるのか。
 身を引くなら、今しかないのではないか。
 ライオットがそんな逡巡に身を焦がしているうちに、ニースは『長靴の間』に一行を導いていく。
 南北に長い長方形の部屋。台座にはやはり、苦悶する女性の姿。
 だが今度は全身像だ。
 台座に横座りしているような姿で、すらりとした両足が台座の左側に伸びている。
 その足には、黒い皮膜のようなもので作られたブーツが履かされていた。
「浮遊の長靴、と呼ばれているわ。使用者は《レビテーション》の魔法を使えるようになるとか。これが何なのか、説明は要らないわよね」
 そしてライオットから受け取った松明で、黒大理石の台座を照らす。
 長い年月で錆の浮いたプレートを、ルージュの白い指先がぬぐった。


  黒き壁破れ
  五つの封印奪われしとき
  亡者の女王は蘇る


「ちょっと待った。さっきニース様、17年前の盗掘者が4つまで宝物を盗み出したって言いましたよね?」
 シンが声を上げる。
「言ったわね」
「8割方の封印が奪われて、その時は大丈夫だったんですか?」
「結論から言えば、大丈夫じゃなかったわ。それでもピート卿の機転と6人の冒険者たちの活躍で、最悪の事態だけは免れた」
 そして、まるで迷いを振り切るように大きく息を吐くと、ニースは真正面からシンの瞳を見つめた。
 逃げることも誤魔化すことも許さない、心の奥底まで貫くような深い瞳。
 初めて会ったときと同じ目だ。
「17年前に何があったのか、これからすべてを話します。すべてを知った上で、あなたには決めてもらいたいことがあるの。無理だと思ったら、そう言ってちょうだい。誰もあなたを責めたりはしないから」
 気圧されたシンが、それでも黙ってうなずくと、ニースは手に持っていた松明を掲げた。
「それでは行きましょうか。次は『剣の間』よ」
 先頭はアウスレーゼとライオット。
 2列目にニースとルージュ。
 4人の背中を見ながら、シンは胃に穴があきそうな緊張を味わっていた。
 自分にとって重大な何かが起ころうとしている。それはニースの態度を見れば明白だ。
 それも、亡者の女王関連のイベントで。
 逃げてもいい、と宣言されるほどの。
「けどさ、どうして俺なんだよ?」
 口の中でつぶやく。
 中の人はしがないシステムエンジニアなのだから、400年ものの怨霊とかを任されても困る。
 だいたい決めるって何だ?
 昨日今日ロードスに来たばかりの自分たちが、こんな原作の最終巻まで決着のつかない問題に口を出すべきじゃない。
 そういうのはパーンとかスパークとか、ふさわしい人物がこれから育ってくるから、そっちに頼む。
 そんなことを考えながら現実逃避していると、先頭の2人が足を止めた。 
 回廊を左に曲がり、入口へと続く通廊を通り過ぎた地点。最初に無視した扉の前だ。
 ルージュのランタンに照らされながら、アウスレーゼが慣れた手つきで開錠にとりかかる。
「17年前。ピート卿は封印のほとんどを解放してしまった盗掘者を見つけ、すぐに成敗した。それがここ。入口のすぐ近くで幸運だったわね」
 封印の解放とともに魔力を取り戻していったナニールは、盗掘者が最後の封印を破るのを今や遅しと待っていたのだ。
 それをピート卿に阻止されて、怒ったナニールは、召還したアンデッドモンスターを差し向けた。ピート卿は深手を負わされたが、死力を尽くして屋敷に戻ることができた。
「ニース様、開きました」
 アウスレーゼが立ち上がる。
「ご苦労様。では入りましょうか。大丈夫、何もいないわ」
 止める間もあらばこそ。
 ニースは無造作に扉を開くと、松明を掲げて部屋の中に入っていく。
 あわててそれに続いたライオットが見たものは、今までと同じ、黒大理石の台座と女性の胸像だった。
 今度の胸像は左手を前に差しだし、真っ赤な刀身の長剣を握っている。
「魔剣フィール。ナニールの愛用した剣として、アラニア建国譚にも謳われているわ。周囲にいる人々の感情を剣が読みとり、持ち主に教えてくれるそうよ」
 ニースは胸像の手から剣を引き抜くと、それをシンに差し出した。
「ものは試し。持ってごらんなさい」
 おそるおそるシンが長剣を受け取ると、周囲の仲間たちの感情が怒濤のように流れ込んできた。
 何を考えているのか、思考が読めるわけではない。だが仲間たちを支配している感情は、まるで色を見分けるように鮮明に理解できた。
 ライオットからは怯みと迷い。
 いつも余裕だらけに見える親友が、何をこれほど怖れているのだろうか。何か巨大な困難を前にして、進むか引くか、どうしても決めかねているという印象だ。
 ルージュは恐怖でいっぱいだ。
 いつになく大人しいと思ったら、墓所の中が恐くて、無駄口を叩いている余裕がないらしい。
 アウスレーゼは緊張と警戒心。鋭い視線がシンに向けられているから、変な呪いに支配されてシンがニースを襲うのではないか、と危惧しているのかもしれない。
 そして、ニース。
 このマーファの最高司祭を支配している感情は、なんと苦悩だった。
 彼女は出口の見えない迷宮の底から、ほんの一筋の光を目指してもがき苦しんでいた。思い出すだけで胃が焼けるような後悔と絶望をいくつも抱えながら、それでも希望を掴もうと、懸命に足掻いていたのだ。
 そんな内心など全く見せず、他人には慈愛の表情を向けるニースの顔を見て、シンはすぐに後悔した。
 人の心は、他人が覗いてはいけないもの。
 この剣は、人が手にしてはいけない代物なのだ。
 人を支配するには重宝するかもしれない。だが、それで何年も正気を保てるとは、シンにはとうてい考えられなかった。
「もう充分です、ニース様。2度と持ちたくありません」
 剣を返すと、ニースは優しくうなずいて、胸像に戻した。
「そう言ってくれて良かったわ。これが欲しいって言われたら、どうしようかと思った」
 そう言って笑うと、今度はルージュに視線を向ける。
「これが最後の碑文よ。頑張って、ルージュさん」
「はい。けどもう肝試しはこりごりです。早く帰ってお風呂に入りたい」
 ルージュの口調も冗談混じりだったが、それが掛け値なしの本音だと、今のシンには分かる。
 シンのいたわるような視線の先で、青白い光を放つランタンを持ったルージュが、台座を見下ろした。


  カドモス王
  いにしえの魔法の秘術と
  大地母神の加護を受け
  ついに亡者の女王を檻に封ず


「転生を繰り返す魂を封印するために、カドモス王が手に入れた古代語魔法の秘術とマーファの加護。それこそがこの墓所の心臓部なの。『黒き壁』の向こう、玄室の中に全てがあるわ。行きましょう」
 ニースが決然として顔を上げる。
「最高司祭。本当にこの黒いのでいいのか。やめるなら今のうちだ」
 一行が部屋から出てくると、回廊で待っていたルーィエが、最後通牒とばかりに声をかけた。
 ニースは足を止めると、静かに双尾猫を見下ろす。
「ありがとう、猫王さま。けれど、この役目を果たすために必要なものを、シンなら育ててくれると思うの。違うかしら?」
 銀色の尻尾で床を叩きながら、ルーィエがシンを見た。まるで出来の悪い弟子を眺める師匠のように。
 ややあって、ルーィエはため息をついた。
「この黒いのは見てくれは悪くないが、中身は欠点だらけだぞ。例えば勇気、経験、知性、品格、威厳、何もかも人並み以下だ。はっきり言って足りないものだらけ。未熟にも程がある」
 際限なく続くダメ出しに、シンがげんなりと肩をすくめる。
 ニースが苦笑して止めに入ろうとしたところで、双尾猫がすっと顔を上げ、ニースを見上げた。
「だけど、たったひとつだけ誇れるものがある。こいつの魂は、ひたすらに真摯で汚れてない。他人のために本気で泣き、笑い、怒り、喜べる。そういう奴だ」
 ニースがシンに求めていた最大の素質。
 それを明確に保証されて、ニースは安堵と感謝の視線を猫王に返した。
 シンは、ルーィエの口から出たとは到底信じられない賛辞に、きょとんとして双尾猫を見る。
 ルーィエは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「調子に乗るなよ、黒いの。お前はまだ何者でもないんだからな」
 言い捨てると、ニースの後を追って歩き出す。
 すると、シンの肩を、ライオットがぽんと叩いた。
 振り返ると、親友は自嘲気味に口許を歪めていた。
「いつも決断を丸投げでごめんな。俺、決められた目標を実現させるのは得意だけど、大事なことを決めるのは苦手なんだよ」
 ライオットが何かに悩んでいるのは、魔剣フィールの力で知っていた。
 それが何なのか、やっと分かった。
 ライオットは、これからシンが迫られる決断の中身を知っているのだ。
「その代わりと言っちゃなんだけど、お前がどんな決断をしようと、俺たちは必ずついていく。何ができるかじゃなくて、何をしたいかで決めてくれ」
 その言葉に嘘はない。ライオットは、やると言ったことは必ずやる男だ。
 学生時代。じゃんけんに負けて、降り積もった雪の中に全裸で飛び込んだあの勇姿(?)を、シンは忘れない。
「言ったな。頼りにさせてもらうぞ」
「おう。任せとけ」
 自分は独りじゃない。
 改めて認識したその事実が、信じられないほどシンの心を軽くしてくれる。
「おい、何をぼけっとしてるんだ。さっさと来い。ここがどこだか忘れてるんじゃないだろうな。緊張しろ、緊張」
 前を行くルーィエが、苛々と怒鳴る。
 それに手を上げて応えると、シンは小走りに追いかけた。
 決断の時が、迫っていた。





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン5
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:47
マスターシーン ピート卿の館

 館の中庭には、小さいながらも手入れの行き届いた菜園が作られていた。
「これは全部、イメーラ夫人が?」
 レイリアは驚いて夫人を見た。
 トマトやキュウリ、レタスなどが整然と並び、朝露に濡れて瑞々しく輝いている。
「そうよ。あの人は土いじりに興味などありませんからね。暇さえあれば剣の稽古をするか、川に魚釣りに行っているわ」
 鮎やイワナでも釣ってきてくれれば、夕食の材料になるのだけど、と夫人が笑う。
「そんなことより、今夜のメニューを決めましょう。レイリア司祭、彼はどんな料理がお好きなのかしら?」
「そうですね、一緒に食事するときは、串焼きとか蒸し饅頭とか、気軽に食べられるものが多いです」
「あらあら。いつもそんな調子なの?」
「私のお勤めが忙しいので、なかなか時間がとれなくて。本当はもっとお話をして、もっとよく知りたいんですが」
 レイリアが残念そうに言う。
「じゃあ、今知っている彼のこと、教えてくれる?」
「そうですね……」
 唇に指を当てて考え込むと、黒髪の女性司祭はぽつりと言った。
「私も彼のことをよく知っているわけじゃないんですが、彼自身、自分のことを分かってない気がします」
 イメーラ夫人が無言で先を促す。
 レイリアは言葉を選ぶようにして、ゆっくりと続けた。
「彼は強い。そして勇気もある。けれど、自分では自分に勇気がないと思って、小さく閉じこもっているんです。まるで種みたいに」
「じゃあ、芽が出て花が咲いたら、大輪になるかしら?」
「もちろんです」
 イメーラ夫人の言葉に、レイリアは誇らしげに言う。
「彼はきっと誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも誇り高く咲きます。私はそれを見てみたいんです」
「誰よりも近くで?」
「はい」
 さりげない、ごくさりげない問いに、レイリアは間髪入れずにうなずく。
 イメーラ夫人はにこりと微笑んだ。
 レイリアの中で育ち始めた想いに、名前をつけて枠に填
めてしまう気はなかった。
 若い今の2人にとって、それは道を誤らせる害悪でしかないから。
 ただひとつだけ言えることは、レイリアが男を見る目に間違いはなかったということ。
 あの黒い戦士と添い遂げようと、別の男性に恋して結ばれようと、この子なら自分を不幸にするような相手は選ばないだろう。
 それを確信して満足すると、イメーラ夫人は悪戯っぽく目を細めた。
「ところでレイリア司祭。『彼』っていうのは、誰のことか聞いていいかしら?」
 引っかけられた。
 それに気付いたレイリアが、耳まで赤くなる。
「夫人……」
 上目遣いににらむレイリアに、鈴が転がるような笑い声を返したとき。
 表の通りの方から、馬車が近づく音が聞こえてきた。
「あら、お客様かしら」
 手早く身だしなみを整えると、イメーラ夫人は建物を回りこんで玄関へと向かった。
 捲っていた袖を戻し、エプロンを外すと、レイリアもその後を追う。
 2人が玄関に着くと、ちょうどピート卿が門前に出てくるところだった。
「ここ数日は千客万来だな。誰だろう?」
 妻に言いながら、ピート卿が首を傾げる。
 3人が見守る中、やってきた馬車が屋敷の前に止まった。扉が開き、2人の男性が降りてくる。
 ひとりは白銀の鎧を着た騎士だった。胸にはアラニア銀蹄騎士団の紋章が刻まれ、高価そうな緋色のマントを羽織っている。
 年の頃は30前後か。その肌は抜けるように白く、唇は血のように赤い。
 非の打ち所のない美貌に妖艶な笑みを浮かべ、騎士はピート卿に恭しく声をかけた。
「何度も押しかけて申し訳ない。3日ぶりですかな」
「これはこれは、ラスカーズ卿ではありませんか。本日は何用でしょう?」
「実は、導師様がどうしてもニース様にお話があると仰いまして。無礼を承知でお訪ねした次第」
 聞く者を陶然とさせる声音。宮廷では女官たちを虜にしてやまない凄艶な微笑で、ラスカーズと呼ばれた騎士は一礼した。
 騎士に続いて降りてきたのは、黒いローブを着た壮年の魔術師。こちらもピート卿にとっては馴染みの深い人物だ。
 17年前には半壊した魔法の扉の修復に当たり、つい先日も墓所の掃除に来たばかり。きわめて優秀な魔術師で、賢者の学院きっての俊英だと聞いている。
 秀でた額、思慮深そうな瞳、魔術師とは思えない長身など、誰でも一度見たら忘れられないだろう。
「ようこそ、バグナード導師。しかし残念ながら、ニース様は墓所に行っておいでですぞ」
「左様ですか。では仕方がない、お戻りになるまで、馬車で待たせていただきましょう」
 こともなげに言って踵を返し、馬車に戻ろうとする。
「馬車などと仰らずに。妻に茶の準備をさせますから、どうぞ中へお入りください。昼過ぎにはニース様もお戻りになりましょう」
 ピート卿の言葉に、騎士と魔術師は顔を見合わせた。
 バグナードが小さくうなずくと、騎士ラスカーズはピート卿に向き直り、改めて頭を下げる。
「では、お言葉に甘えさせていただく。奥様も、お手数をおかけして申し訳ない……おや、こちらのお嬢さんは?」
 そこでラスカーズの闇色の瞳が、初めてレイリアに向けられた。
 動作の一つ一つが芝居がかっていて、これでは騎士というより男娼だ。内心でそう酷評しながら、レイリアは頭を下げた。
「レイリアと申します。ターバ神殿で司祭を勤めております」
「ほう、あなたが」
 深紅の唇が、濡れた笑みを浮かべた。
 これほどの美貌を持ちながら、欠片ほどの好感も与えないのは何故なのか。
 内心で眉をひそめるレイリアに、ラスカーズは言った。
「お美しい。貴族の令嬢たちの中にも、あなたのような美女はおりませんよ。まさに至高の座にふさわしいと言えましょう」
「お戯れを……」
 騎士の舐めるような視線に背すじを震わせながら、レイリアは再び頭を垂れて、その表情を隠した。


シーン5 墓所

 回廊の『首』。
 小冠の間へ続く扉の前で、ニースは足を止めた。
 扉に背を向け、壁に向かって松明を掲げる。
「ここの壁も17年前に崩れてしまってね。修復には苦労したと聞いているわ」
 言われてみれば、というレベルで、この一画だけ石材が新しいのが分かる。聞けば、修復した後でわざと汚し、判別できないように配慮したのだという。
「隠し扉ですね。これは見事な隠蔽です。私でも1人では見破れなかったでしょう」
 石材の継ぎ目を眺めたアウスレーゼが、感心してつぶやく。
「回廊の広さに比べて、胴体の部屋が小さいことには気がついた? この先にある玄室は文字通り墓所の『心臓』。厳重に秘匿され、ナニールを封印してから一度たりとも開かれることはなかったの。17年前の、あの夜までは」
 昔語りは、いよいよ墓所の核心に迫っていく。
 ニースの操作で石材が大きく動き、幅2メートルほどの隠し通路が姿を現した。
 その瞬間。
 緊張が電撃のように走り抜けた。
 アウスレーゼがニースを抱いて跳びすさり、盾を構えたライオットが立ちはだかる。
 一拍遅れてシンが松明を投げ捨てると、その炎に照らされて、黒金色の人影が見えた。
 全高2メートルほど。
 甲冑姿の衛兵をかたどった鋼鉄の像が2体、槍を交差させて隠し通路を塞いでいた。
「気をつけて! これアイアンゴーレムよ!」
 頬をひきつらせてルージュが叫ぶ。
 アイアンゴーレムはモンスターレベル9。
 動きは鈍いが、打撃力はシャレにならない。装甲の薄いシンやルージュが攻撃を受ければ、致命的なダメージとなってしまう。
「やっかいな場所でやっかいな奴が!」
 舌打ちしながらライオットが身構えた。
 武器攻撃はクリティカルしない。
 冷却系、電撃系、つぶて系、毒ガス系、かまいたち系の魔法は無効。
 精神的な攻撃は無効。
 炎系の魔法は有効だがクリティカルしない。
 数々の嫌らしい特殊能力が脳裏をよぎった。
 アイアンゴーレムの本領は、文字どおり鋼鉄の防御力と、無尽蔵とも言える生命点にある。
 クリティカルしないという条件を課されると、素の打撃力が低いシンとライオットでは、ゴーレムに対して有効なダメージを与えられないのだ。
「どうする?!」
 盾越しに鋼の衛兵を睨みながら、ライオットが自問自答する。
 戦うなら、鋼の剣で鋼の衛兵が壊れるまで殴り続けるという、気の遠くなるような消耗戦しかない。
 ふつうに考えれば、剣の方が先に折れそうなものだ。
 この通路の先にあるものは、それほどのリスクを犯してでも見なければならないのか?
 得るものが少ないなら、ここは撤退でもいいのではないか?
 焦燥に身を焼きながらちらりとニースを見ると。
 ニースはあっさりと言った。
「大丈夫よ。このゴーレムはまだ動かないわ」
 アウスレーゼの腕を腰から引き剥がすと、無造作にゴーレムに近づこうとする。
「ニース様、危険です!」
 肩をつかんで引き留めるアウスレーゼに、ニースはため息をついた。
「少し落ち着きなさい。私は、このゴーレムはまだ動かないと、そう言ったのよ?」
「う、動かない?」
 予想外の言葉に、普段冷静なアウスレーゼも声がうわずっている。
 言われてみれば、鋼鉄の衛兵たちは依然として、槍を交差させて立ったままだ。
 襲いかかる様子も、動く気配もなかった。
 慌てふためいて臨戦態勢をとった冒険者たちを、ただ無表情に見下ろすだけ。
「嘘だろ……この状況でそのオチか普通?」
 なけなしの勇気を振り絞って戦おうとしていたシンが、脱力してしゃがみこむ。
「だって、まだ玄室の中はからっぽですからね。守るものがないのに、守護者を起動させても仕方ないでしょう?」
 あっさりと言うニース。
「からっぽ?! 封印した“亡者の女王”はどうしたんです?!」
 ゆゆしき台詞を聞いて、ルージュが思わず大声を上げる。
「出て行っちゃったわ」
「行っちゃったわ……って」
 あまりのことに二の句が継げず、銀髪の魔術師はむなしく口を開閉させると、ぐったりして杖にもたれかかった。
 戦闘態勢を維持したままのライオットが、隠し通路に踏み込んで、剣で衛兵をつついてみる。
 反応はない。
 ニースの言うとおり、このゴーレムはまだ中立状態のようだ。
「どうやら、本当に大丈夫みたいだな」
 アウスレーゼと同様に貴族の罠を疑っていたライオットだが、やっと緊張を解いて盾を下ろした。
 ゴーレムは、一定の条件を満たせば起動するように設定できるが、個人識別をするほどのフレキシビリティはない。
 通路に入っても大丈夫なら、今襲われる心配はないと言うことだ。
「この衛兵たちは、17年前に墓所を修復したとき、賢者の学院から運び込んだのよ。いつか“亡者の女王”を再封印する日が来たら、その時は命令を与えて、この通路の守護者とするために」
 だから、今はまだ出番待ちというわけ。そう言うと、ニースは交差された槍をくぐって通路の先へ向かった。
 アウスレーゼ、ライオットとそれに続く。
 ランタンを掲げて後を追ったルージュは、黒金色に輝く衛兵を見上げると、ふと首をかしげた。
 足下の相棒に、小声でささやく。
「出番待ちだって。ルーィエ、本当にそう思う?」
 呼び止められた双尾猫は、意外そうにルージュを見上げた。
「墓所の雰囲気にビビって脳味噌まで固まってるかと思ったけど、案外鋭いじゃないか。その発想は、もしかしたら殊勲賞ものかもな」
「えへへ。もっと誉めていいよ」
「調子に乗るな」
 ルージュはランタンを双尾猫の横に置き、魔法樹の杖を構えると小声で呪文を唱えた。
『万能なるマナよ、与えられし命令を解除せよ』
 右の衛兵に杖を、左の衛兵に手のひらを当てながら魔法を発動させると、淡い光が衛兵たちを包み、そして消える。
 彼らは依然として動かず、《ディスペル・オーダー》の呪文が効いたのか、それとも命令など最初から無かったのか、それは分からない。
「ま、保険だからこれで充分だよね」
 自分を納得させるようにつぶやくと、ルージュはランタンを拾い上げ、衛兵の槍をくぐった。
 隠し通路の長さは5メートルほど。
 それで再び行き止まりになっている。ただし突き当たりの壁は石材ではなく、御影石を磨きあげた、まるで鏡のような黒い壁だった。
 全員がそろうのを待って、ニースが口を開く。
「足の部屋の碑文を覚えている? 『黒き壁破れ、五つの封印奪われしとき、亡者の女王は蘇る』。黒き壁というのがこれ。そして今までの例に洩れず、この壁も17年前の地震で崩れてしまったの」
 地震で破壊された黒き壁。
 盗掘者に奪われた4つの封印。
 17年前、ナニールはまさに復活寸前だったのだ。
「この壁が崩れたことで、ナニールの魔力は玄室から溢れだし、墓所全体に届くようになっていた。盗掘者から封印の品を取り返したピート卿に、召還した魔物を差し向けることができたのも、そのせい」
「ということは、この黒い壁は、魔力を遮断するための結界なんですね」
 ルージュの言葉に、ニースはうなずいた。
「この壁の内と外は、魔術的には別世界と言っていいわ。直接・間接を問わず、いかなる魔法もこの壁を越えることはできない。ナニールの《リーンカーネーション》を封じ込めるために創られたのだから、当然よね」
 そしてニースは魔法の鍵を取り出すと、黒き壁に押し当てた。
 墓所の入口と同じ黄金の輝きが走り、壁がスライドするように開いていく。
 墓所の心臓部、玄室。
 そこは、全面を漆黒の鏡で囲まれた、厳粛きわまる空間だった。
「17年前、ピート卿が屋敷にたどり着いた時、そこに旧知の冒険者たちが訪ねてきた。瀕死のピート卿は、彼らに宝物を託したわ。それで安心してしまったのでしょうね、墓所の秘密を語ることなく昏倒してしまった」
 塵ひとつなく清められた玄室に入ると、かつん、と硬い足音が響いた。
 松明が天井に、壁に、そして床にまで乱反射して、まるで宇宙に浮いているような幻想的な空間を作る。
「ピート卿の依頼を受けて、冒険者たちは墓所にやってくると、ナニールが召還した魔物を片端から倒していった。そして最後にナニール本人と対峙したの。最後の戦いが行われたのが、今私たちがいる、この場所」
 玄室の中央には、水晶を削りだして創った棺が安置されている。
 よく見れば、中は淡い燐光を発する緑色の液体で満たされているようだ。
 ニースは水晶の棺に片手を乗せると、くるりと振り向いて冒険者たちを見た。
「シン。あなたならどうする? 墓所の主、強大な魔法を行使する亡者の女王と対峙したら」
「倒します。全力で」
「それは殺すという意味でいいのかしら?」
 血なまぐさい言葉を返すニースに、ためらいながらもシンは肯く。
「ライオット。あなたなら?」
「殺します」
 他に手段がない、と顔をしかめるライオット。
 ニースはそれを責めるでもなく、ただ静かに言葉を続けた。
「そうね。17年前の冒険者たちも同じだったわ。手加減をする余裕などなかった。激闘の末、何人かの生命を代償として、彼らはナニールの胴を両断し、首をはねて殺すことができた。ナニールはきちんと死んだわ。その結果、何が起きたと思う?」
 ナニールの加護は《輪廻転生》。
 首をはねて済むなら、こんな大仰な墓所など必要ない。
「崩れた壁を抜けて、魂は外へ……」
 ルージュがうめく。
「誰が悪いわけでもない。当時の人々は皆、最善を尽くした。けれど結果として、ナニールの魂はこの墓所から解放されることとなった」
 そしてニースは、水晶の棺をそっと撫でた。
 言うべきか、言わざるべきか。
 決めたはずの自分に再度問いかけて、揺れる心を見つめ直す。
 天井を仰いできゅっと瞳を閉じたニースは、しばらく沈黙した後、目を開いてまっすぐにシンを見た。
「その夜。ザクソンの村の郊外で、ひとりの赤ん坊が生まれたの。父親の名はピート。母親の名はイメーラ」
 シンの表情に動揺が走った。
 ニースは何を言っている?
 何を聞かせようとしている?
「可愛い女の子だったわ。ただね、その赤ん坊の腹と首には、不思議な傷がついていたの。まるで胴を両断されたように。まるで首をはねられたように」
 まさか。
 そんなバカな。
 聞きたくない。その先は聞きたくない。
 訳も分からずそう思ったシンに、ニースは、とどめの言葉を突き刺した。
「赤ん坊の名は、レイリア」


マスターシーン ピート卿の館

 さぞかし居心地の悪いお茶会になるのだろうという予想は、良い方に裏切られた。
 ラスカーズという美貌の騎士は、如才のない会話でピート卿を立て、イメーラ夫人を褒め、レイリアには礼儀正しく接してくる。
 それはほとんど口をきかない魔術師の分を差し引いても、充分に評価できる態度だった。
 人数分のカップからアプリコットティーの香りが漂う中、人を外見で判断したのは間違いだったかしら、とレイリアが反省していると。
「なるほど、アウスレーゼ殿は、我々を疑っておいででしたか」
 雪白の頬に苦笑を浮かべて、ラスカーズは言った。
「無理もありませんな。王都の貴族の中には、ニース様を目の敵にする者も少なくありませんから」
「私は、墓所の中も確認したと申したのですがね」
 ピート卿がやれやれと首を振る。
 それまで黙っていた魔術師が口を開いたのは、その時だった。
「ラスカーズ殿。守護者が1体、無力化された。どうやら相当優秀な魔術師がついておるようだな」
「残りの1体は?」
「問題ない。支配している」
「ならば充分でしょう。魔法の援護なしで、衛兵に勝てる戦士などいるはずがない」
 寡黙な魔術師に言うと、ラスカーズは立ち上がって一同を見下ろした。
 その闇色の瞳には、今までとはまるで違う光が浮かんでいた。
「とはいえ、これ以上の茶番も時間の無駄というもの。そろそろ本題にはいるとしましょうか」
 虫けらでも見るような酷薄な視線。
「ラスカーズ卿?」
 さすがに異変を感じて、ピート卿が立ち上がる。
 それをせせら笑うように、美貌の騎士は鼻を鳴らした。
「実はピート卿。ニース様にお話があるというのは嘘なのですよ。用があるのはニース様でもあなたでもない。レイリア様だけなのです」
「私?」
 虚を突かれて、思わずレイリアが声を上げる。
 ラスカーズは恭しく肯いた。
「然り。我々は、あなたをお迎えに参上したのです、我が主君」
「主君? 私はただの司祭です。貴族じゃありません」
 爬虫類めいた視線におびえを隠しきれず、レイリアが後ずさる。
「今はそうでしょう。ですが400年前は違ったのです。あなたは誰よりも美しく、残忍で、魅力に満ちた女性だった」
 美貌の騎士は、ほとんど狂気に近い笑みを浮かべてレイリアに近づいた。
「あなた! レイリアを早く!」
 騎士の正体を悟ったイメーラ夫人が、レイリアを庇うようにラスカーズとの間に割って入る。
 瞬間。
 目にも留まらぬ抜き打ちで、ラスカーズが腰の剣を一閃させた。
 袈裟がけに斬られたイメーラ夫人から血煙が上がり、悲鳴を上げることすらできずに、その場に崩れ落ちる。
 呆然と立ち尽くすレイリアの頬を、噴出した熱い液体が濡らした。
 いったい何が起こっているのか。
 見開かれた目に映る光景が、理解できない。
「ゴミが。用があるのはレイリア様だけだと言ったはずだぞ」
 美貌の騎士は吐き捨てると、改めてレイリアに向き直り、恭しく一礼する。
「参りましょう、我らが至高の王よ。ロードス全土を血に染めて、黄昏の王国を献上いたしましょうほどに」
 ラスカーズのぬらりとした視線が、恐怖でレイリアを縛り上げ。
 震える頬から滴り落ちた返り血が、純白の神官衣に深紅の染みを広げていった。





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン6
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:48
シーン6 玄室

「……ライオット、お前知ってたのか?」
 重苦しい沈黙が降りた玄室に、シンの低い声が染みこんでいった。
 松明の弾ぜる音がして火の粉が舞い散り、漆黒の鏡に囲まれた玄室に、オレンジ色の雪を降らせる。
「まあな」
 揺れる炎の明かりの中で、表情のほとんどを影に隠したまま、ライオットが肯いた。
「どうして教えてくれなかった?」
 感情を感じさせない、平坦なシンの声。
 無感動なわけではない。噴火直前のマグマが内圧を高めるように、シンの中では激情が荒れ狂っている。
 ただ、それをどこに向ければいいか分からないだけだ。
 ライオットはそれを承知の上で、あえて冷たい言葉を返した。
「何て言えばよかったんだ? レイリアは亡者の女王の生まれ変わりだから、彼女には近づくなってか? そしたらお前、彼女を無視できたのか?」
「…………ッ!」
 膨れ上がった激情に突き動かされるまま、シンがライオットに掴みかかった。
 浅黒い筋肉が野獣のように躍動し、親友を壁際に押しつける。
 砂漠の部族が“黒獅子”と畏れる無双の戦士。持て余した激情に震える黒い瞳を、ライオットは至近距離から見据えた。
「後悔してるのか? やっぱりそんな重たい女は嫌か? そりゃそうだよな。400年モノの亡霊なんか面倒見きれないもんな」
「黙れ!」
 10レベルファイターの拳がうなりを上げ、ライオットがたまらず殴り飛ばされる。
「リーダー! やめて!」
「何をしているのです!」
 ルージュとアウスレーゼが、シンの両腕を抱えて引き離す。
 血の混じった唾を吐いて、ゆっくりとライオットが身を起こした。
「それとも、過酷な運命を背負った薄幸の美少女に、君はかわいそうな娘だから優しくしてあげるよって、そう言いたかったのか?」
「黙れと言っている!」
 両腕にすがりつく女性陣を簡単に振り払って、再びシンが殴りかかった。
 ライオットはよけようともしない。背中から床に倒れて、プレートメイルが騒々しい音を立てる。
 荒い息をついて黒い炎を燃やす親友を、ライオットはじっと見上げた。
 おもしろ半分にシンを煽って、レイリアとくっつけようと画策したのは自分自身だ。だから、今シンが荒れ狂うなら、全部とは言わないまでも七割は自分の責任。
 殴られるのは構わない。
 しかし、その激情に流されて、今の判断を誤ってほしくなかった。
「なあシン。もしお前が、少しでもそんなことを考えてたならさ」
 ライオットは右手を伸ばして、まっすぐに水晶の棺を指さす。
「悪いことは言わない。ナニールの転生体はあそこで封印して、レイリアのことなんか忘れちまえ。ロードス全体の平和を考えたら、本当はそれが一番いいんだ」
 その言葉のもたらした効果は、絶大だった。
 精神に冷水を浴びせられたシンは、身体と表情を凍り付かせる。
 震える瞳が水晶の棺に向けられると、それまで黙って見ていたニースが、ため息混じりに口を開く。
「ライオット。嫌な役目を押しつけてしまいましたね。その言葉は、私が言うべきだったのに」
「そうはいきませんよ。こういうのは親友の特権です」
 妻に助け起こされて、血のにじむ口元を拭いながら、ライオットが小さく笑った。
 10レベルファイターの全力攻撃を2発もくらったのだ。頭がぐらぐらする。
 しかし、今の自分に治癒の魔法を使う気にはなれなかった。
「さて、シン。話にはまだ続きがあるの。聞きたい?」
 これ以上は、嫌なら聞かなくてもいい。
 そんな響きを持った言葉に、シンはすぐには答えられなかった。
 沸騰した感情を一瞬で冷却されて、思考が混沌の海で凍りついてしまったよう。
 ただ怒りだけがぐるぐると渦を巻き、シン自身を巻き込んで海の底に沈めようとする。
 そんな親友に、ふらつきながらライオットが歩み寄ると、ぽんと肩を叩いた。
「少し落ち着け」
 ライオットの右手が淡く光っている。
 その光はシンの中に染み込むと、混乱の嵐を徐々に静めていく。
 手から光が消えたとき、シンの心の中は穏やかな凪で満たされていた。
「……便利な魔法だよな、ホント」
 シンがつぶやく。
 怒りを忘れたわけでも、悲しみをなくしたわけでもない。ただ、それらの感情はプラスチックの衣装箱に整理して積み重ねたように、他人事のように観察できた。
「シン。お前は何に対して怒ったんだ? それだけは間違えるな。そしてそいつが許せなければ、そいつだけを殴り飛ばしてやればいいんだ」
 ライオットのその言葉も、すとんと理性が受け止め、正しく理解してくれる。
 砂漠の黒獅子は大きく吐息をもらした。
 親友に感謝と謝罪を伝えるのは後のこととして、まずは。
「ニース様、続きをお願いします」
 すべてを知らなければならない。
 心の底で何かを決めたらしいシンの顔には、今までなかった意思のようなものが浮かんでいた。
 それを見て、ニースが深くうなずく。
 昔語りも、これで最終章だ。
「17年前。亡者の女王がレイリアに転生していたことを知った私は、ピート卿夫妻に事情を話して、レイリアを娘として引き取ることにした。マーファの聖地ターバで、いっぱいに愛を注いで育てれば、ナニールの魂を浄化できるかもしれないと自惚れていたから」
 ピート卿が墓所の守護者で、自分の娘に転生したのが何者なのか、正確に理解できたのは幸いだった。
 そうでなければ、まだ30歳になったばかりの若い司祭に、自分の愛娘を預けたりはしなかっただろう。
「私が言うのもなんだけど、レイリアは清く美しく、すばらしい娘に成長したわ。司祭としても充分に優秀だと言える。けれど、レイリアがどれほど敬虔なマーファ信徒であろうとも、それで転生体だという事実が消えるわけではない」
 ニースの声には苦渋がにじんでいる。
 ナニールの魂と戦って戦って、17年間勝ち続けた。それでも戦いは終わらないのだ。
 輪廻する魂は不滅。
 建国王カドモス1世がぶつかったのと同じ壁の前で、ニースもまた、もがき苦しんでいた。
「人の口に戸は立てられない。アラニア宮廷の中にも、ターバ神殿の上層部にも、レイリアがナニールの転生体であるという事実を知る人は多いわ」
 中には、レイリアを再び墓所に封印するべきだという声もある。
 全体の利益を考えれば、それがもっとも妥当な結論だろう。
 今なら犠牲者はレイリアひとりですむ。だがナニールが覚醒してしまっては、どれほどの被害が出るか想像もできない。そうなってからでは遅いのだ。
「最高司祭である以上、ナニールを封印することは私の義務なの。だからこの墓所の修復を進めたし、ここを維持するために年に一度の見回りもしている。ねえシン。この水晶の棺は、いったい何なのか分かる?」
 緑色の燐光で満たされた水晶の棺をなでながら、ニースが自嘲する。
「これはね、400年前の最高司祭が、自らの生命を犠牲に捧げてマーファに創っていただいた祭器なの。この棺に入れられた人は、年老いることも病に倒れることもなく、永遠に眠り続ける。肉体が滅びなければ、魂が転生することもない。そうやってナニールを封印してきたこの棺が、碑文に謳われた『大地母神の加護』の正体」
 魔剣フィールがシンに見せた、ニースの苦悩の正体。
 それが何なのか思い知らされて、シンは唇を噛みしめた。
「それじゃあ、その水晶の棺は……」
「そうよ、これは“魂の檻”。他の誰でもない、レイリアを閉じこめるためのね」
 マーファ教団の最高司祭としてニース自身が修復と維持に当たってきたこの玄室は、彼女が全身全霊で愛してきた娘を、その将来もろとも封印するための牢獄なのだ。
 あまりにも痛々しいニースの姿に、ルージュが耐えきれなくなって目を伏せる。
 ライオットは憮然と、シンは悄然と沈黙を守る中、言葉を継いだのはアウスレーゼだった。
「国王陛下を含めて、アラニアの宮廷はこう考えています」
 感情をどこかに置き忘れたような、冷然とした口調。
 だが今はそれが救いだ。
「ナニール封印は確定事項。しかしニース様がご存命の間は、ニース様のご意思を尊重する、と。ナニールの魂がどこにあるか分かっている以上、監視も容易ですから」
「ご存命の間は、って言ったな。その後はどうなる?」
 答えの分かりきっている問いを、ライオットが投げかける。
 アウスレーゼは澄ました顔で即答した。
「レイリア様には、この墓所においでいただくことになるでしょう。それが宮廷の意向です」
「そんな無茶苦茶な! レイリアさんの気持ちはどうなるの?」
 思わずルージュが声を荒げる。
 興奮で紅潮した魔術師を冷たく一瞥すると、アウスレーゼは言ってのけた。
「関係ありません。ニース様がいなくなれば、宮廷に対抗してレイリア様を保護できる人材など、今のアラニアには存在しません」
 つまり、問答無用で拉致して封印するということだ。
 あまりのことにルージュが言葉を失う。
 そんな非道が許されていいのか。
 来るかどうかも分からない危機のために、あれほど純粋で気だてのよい少女を、こんな薄暗い墓所に閉じこめるなどと。
 未来への希望も、将来の夢も、何もかも踏みにじって、ただナニールの転生体だというだけの理由で、ひとりの少女を生け贄にしようというのか。
 それは絶対に間違っている、とルージュは思う。
「私が生きている限り、レイリアを見殺しにはしない。ナニールからも、宮廷からも、必ずやあの娘を守り抜いてみせる」
 そう宣言したニースには、魔神戦争を戦い抜いた英雄としての、揺るぎない誇りと自負が溢れていた。
「けれど、どうしたって私は、レイリアより先にマーファの御下に召されるでしょう。レイリアに味方がいなくなれば、あの子は必ず周囲の人々を、こんな運命をもたらした世界を恨むようになる。その時に、世界を滅ぼそうとするナニールの魂に負けないくらい、この世界は美しいのだと、たくさんの幸福に満ちているのだと、レイリアに教えてくれる人が必要なのよ」
 そしてニースは、まっすぐにシンを見つめた。
「シン。レイリアの未来はね、亡者の女王の魂と、神殿や宮廷の封印主義者と、果てしなく戦い続ける茨の道よ。レイリアと共に歩むということは、その道を征くということ。それをあなたには知っておいて欲しかったの」
 長い長い昔語りも、ようやく終わりを迎え。
 今まで独りで背負ってきた荷物をぶちまけたニースの顔は、すっきりと晴れわたっていた。
 その顔を正面から見つめ返して。
「それじゃあ、今度は俺の言いたいことを言わせてもらいます」
 全員が見守る中、シンが静かに口を開いた。
「はっきり言いましょう。気にくわない。レイリアがナニールの生まれ変わりだって事実も、だから封印しなきゃいけないって主張も、宮廷の意向も何もかも、俺には気にくわないんですよ。彼女みたいな美少女が不幸な運命を背負っていれば、そりゃ物語は盛り上がるでしょうよ。だからって、これでもかと不幸を設定してあるっていう事実が、一番気にくわない」
 ニースが魔神戦争の英雄であれば。
 シン・イスマイールもまた、無数の冒険を繰り返してきた無双の戦士。
 怒りを封じ込めた黒い炎を燃やす瞳は、ニースですら背すじを震わすほどの迫力を漂わせていた。
「だから、全部ぶち壊してやりますよ。何が転生体だ、知ったことか。レイリアは誰がなんと言おうとレイリアです。彼女の人生は彼女だけのもの。亡者の女王だろうが宮廷だろうが、誰にも邪魔はさせません。俺は、彼女の自由を、必ず守り抜く」
 厳かに誓いをたてたシンは、次にライオットに視線を向けた。
「さっき言ったよな。何ができるかじゃなく、何をしたいかで決めろって」
「ああ、言った」
「どんな決断をしようと、必ずついてくるって言ったよな?」
「それも言った」
「キャンセルは受け付けないぞ」
「そんなもん、頼まれたってするか」
 ニヤリと笑って、互いの拳を打ち合わせる。
 それ以上の言葉は必要なかった。
 家族よりも長い時間を共に過ごしてきた親友同士。他の誰が裏切っても、こいつだけは絶対に信頼できる。
 迷惑をかけ合うのは自分たちだけの特権であり、そうやって育ててきた絆は、ある意味で夫婦よりも堅く、深い。
「というわけです、ニース様。あなたは独りでレイリアを守ってきたのかもしれませんが、俺は違います。盛大に仲間を巻き込んで、みんなで戦います。独りじゃ疲れるかもしれないけど、仲間がいれば、人は頑張れるんです」
 知ってましたか、とシンが笑う。
 正直なところ、想像以上。
 期待の遥か上をいく回答に、ニースは返す言葉もない。
「あなたもそれでいいのですか?」
 ニースの問いに、ライオットは珍しく、シンと同じ裏表のない笑顔を浮かべた。
「ターバ神殿にも、アラニアの宮廷にも、ロードス全体の平和を考える人はたくさんいるでしょう? だったらここに3人くらい、レイリアだけの味方がいたっていいじゃないですか」
「ルージュさん、あなたは?」
「私は、一生この人についていくって決めましたから。生意気で悪戯っ子で後先考えないところがありますけど、やると言ったことは必ずやる人なんです」
 そう言って、若い夫婦は互いを見つめ、微笑み合う。
 ニースが最も深き迷宮に挑んだときも、大勢の仲間がいた。
 彼らは同じ目的を持っていたけれど、互いの道が重なっていたわけではない。魔神王を倒すという目的を果たした後は、それぞれの道は再び別れてしまった。
 だが、シンたちは違う。
 一緒にいるということが大前提。利害も損得も関係なく、喜びも悲しみも共有して、同じ道を歩こうとしている。
 ニースは、そういう関係をさす言葉をひとつ、知っていた。
 仲間ではない。“家族”だ。
 もし、その輪にレイリアも加われたら、なんと素晴らしいことだろうか。
「みなさん。これからも、レイリアと仲良くしてやってください」
 初めて会ったときと同じ言葉。
 そこに万感の思いを込めて、ニースは深々と頭を下げた。
「最高司祭。この半人前どもの大言壮語には、必ず責任を取らせる。それは猫族の名誉と王の尊厳にかけて誓おう。だがな」
 それまで黙って見ていたルーィエが、鼻を鳴らしてニースを見上げた。
「これではまるで、明日にでも任務放棄しそうな流れだぞ。あなたにはまだまだ働いてもらわねば困る。後継者を見つけて楽隠居でもするつもりなら、心得ちがいも甚だしいと言わせてもらおう」
 英雄相手にも容赦のない指摘に、思わずニースが苦笑をもらした。
 まったくもって猫王様の言うとおり。独りで背負ってきた重荷を共有してくれる同志を見つけて、どうやら気持ちが昂ぶってしまったらしい。
「それに、俺たちがいくらその気になっても、レイリアが別の男を見つけてきたら、あっと言う間にお役御免だしな」
 冗談めかして、ライオットが肩をすくめると、シンが悲鳴を上げた。
「ちょっと待て。それって俺の立場なさすぎだろ」
「仕方ない。初恋は実らないものと昔から決まっている」
「それなら大丈夫だ。実らなかった初恋は経験済みだから」
「レイリアはどうか分からないじゃないか」
 意図してしんみりした空気を壊そうとする若者たちに、ニースも努めて明るく答えた。
「大丈夫。私からも猛プッシュしておきますから」
 マーファ流縁結び術の極意、見せて差し上げます、と胸を張ると、アウスレーゼがやれやれと首を振った。
「寄ってたかって洗脳ですか。ナニールよりタチが悪い」
 亡者の女王の怨念が染み込んだ玄室に、若々しい笑い声が響く。
 400年続く負の連鎖に勝てるのは、古代王国の秘術でもマーファの加護でもなく、この新しい風なのかもしれない、とニースは思った。
 古い常識や価値観、地位に縛られた自分ではなく、転生の事実を「知ったことか」の一言で切って捨てた彼らこそが、『レイリア』を本当の意味で守れる存在なのではないだろうか。
「本当に、今あなたたちがロードスにいるのは、マーファのお導きかもしれないわね」
 ニースが小さくつぶやく。
 ロードスは昔から、英雄を必要とした時代に英雄を生み出してきた。400年前のカドモス王も然り、30年前の英雄たちも然り。
「ニース様?」
 まだじゃれ合っているシンとライオットをよそに、ルージュが首を傾げてニースを見る。
 それに気づくと、ニースは晴れやかに宣言した。
「もうこの墓所に用はないわ。明るい世界に帰りましょうか。レイリアのお弁当もあることだし、外に出て太陽の下でいただきましょう」
「了解。楽しみだな、シン」
「言っとくけど、お前の分はないぞ。これは俺がもらったんだ」
「ちょ、そりゃないだろ」
 弁当を奪おうとするライオットの手から背負い袋をガードすると、シンはにやりと笑った。
「この私、シン・イスマイールが完食しようと言うのだ、ライオット!」
「エゴだよ、それは!」
 相も変わらず遊んでいる男性陣を、生ぬるい視線で眺める女性陣。
 玄室への隠し通路に差し掛かっても2人の漫才は続いていたが、それを油断だと認識できる者は、この場にはいなかった。
 あまりにも重い話題に落としどころを見つけて、誰もが安堵し、2人が作り出す雰囲気に救いを感じていた。
 それを誰が責められるだろうか。
 だが、その代償は。
 鋼鉄の槍となって、ライオットの左脚を貫いた。


 ミスリル銀のプレートメイルの隙間から、自分の左大腿部に突き刺さった鋼鉄の槍。
 ライオットは、それを他人事のように呆然と眺めた。
 何だこれは?
 なるほど、通路にいたゴーレムが、俺を攻撃してきたのか。
 理性が状況を理解すると、一瞬遅れて熱さが。
 さらに遅れて激痛が襲う。
 悲鳴を上げようとしたとき、もの凄い力で槍が引き抜かれ、痛みのあまり呼吸さえ止まった。
「が……ッ、く……ぅぅ!」
 気づいたときには御影石の床に転がり、両手で傷口を押さえて歯を食いしばっていた。
 熱い。
 痛い。
 心臓の鼓動にあわせて灼熱感と激痛が神経を走り抜け、頭の中を真っ赤に塗りつぶす。
 指の隙間からあふれ出す血が、染みとなり、池となり、ライオットの目の前でどんどん広がっていった。
 これはヤバい。このままだと死ぬかも。
 血が広がるスピードのあまりの速さに、理性の片隅でそう認識する。
 だが痛みのあまり、動くことはおろか、まともな呼吸すらできなかった。食いしばった歯の間から、噛み殺した呼気を絞り出すのが精一杯。
「ライくん!」
 ルージュが悲鳴を上げて駆け寄り、一緒に傷口を押さえて出血を止めようとする。
「誰か、誰かライくんを助けて!」
 熱い血で手が染まっていくのに気づいて、パニックになりながら左右を見回す。そこでルーィエが動いた。
『戦乙女よ! お前の槍で敵を討て!』
 毛を逆立てて鋼鉄の守護者を睨むと、白銀に輝く精霊が現れ、手に持った光の槍を投擲する。
 玄室を白く照らしながら迸った光の奔流。
 だがそれは、守護者の直前で弾けると、跡形もなく霧散してしまった。
「んな……ッ」
 言葉を失うルーィエに、ニースが鋭く叫ぶ。
「無駄よ! 玄室は魔術に対する絶対の結界。魔法は外には届かないわ」
「ライオットを下げろ! 早く!」
 精霊殺しの魔剣を構えて、シンが守護者に斬りかかった。
 怖いとか何とか、感じている余裕はなかった。
 とにかくライオットを下げて、治療する時間を稼がねばならない。
 その思いだけに突き動かされて、ほとんど脊椎反射で剣を振るっていた。
 それが功を奏したのか。
 シンの攻撃は芸術的な軌跡を描き、槍をすり抜けて大上段から頭頂部に直撃。これ以上ないという会心の一撃を加える。
 生き物なら確実に死んでいただろう。
 だが。
 鋼鉄の彫像は、わずかに凹みを作っただけで、再び動き始めた。
 頭部に脳はなく、胴体に臓器はない。“致命傷”(クリティカル・ヒット)という概念のない鋼鉄の人形は、あまりにも強靱だった。
「化け物か……」
 信じがたい剛力で振り回される槍を何とか受け流して、シンが舌打ちする。
 斜めに流したはずの打撃でも、両手が痺れて握力を削り取られた。まともに食らったらどれほどのダメージになるのか、考えたくもない。
 だがシンが稼いだ時間は無駄にされなかった。
 アウスレーゼがルージュを叱咤してライオットを引きずり、玄室の中央に後退させる。
 壁際に駆け寄ったニースが魔法の鍵を押し当てると、シンと守護者の間に黒い壁が展張。守護者を外に閉め出してしまう。
 音もなく壁が閉ざされると、玄室には再び静寂が降り、荒い息づかいだけが残された。
 ゲーム的に言えば、わずか1ラウンドの攻防。
 それだけで、シンたちは完全に体勢を崩されていた。ニースの機転がなければどうなっていたことか。
 この10秒で体力と精神力の大半を使い果たしたシンは、守護者が視界から消えると、力なくその場にしゃがみこんだ。
「大丈夫よ、ルージュさん。こう見えても私は、治癒魔法には自信があるから」
 依然としてライオットに縋ったままのルージュを宥めると、ニースは傷口に手を当てて、小さく祈りの言葉を唱える。
 暖かい光がニースとライオットを包み込み、それが傷口に向かって収束し。
 光が収まったころ、傷も出血も、そして痛みも、すべてが嘘のように消え失せていた。
「《リフレッシュ》ですか」
 床に寝転がったまま、それでも激痛から解放されて大きく息を吐いたライオットが、ニースに感謝の視線を向ける。
「そうよ。神殿で私に依頼すると、これ1回で8800ガメルも取られるんだから。墓所で良かったわね」
「そりゃどうも」
 自分で作った血の池を気持ち悪そうに眺めながら、ライオットは身体を起こした。
 左足を試すように、地面に踏み込んだり跳んだりしてみる。
 全く不具合はないようだ。《完全治癒》の名に偽りなしと言ったところか。
「いや、どうもお騒がせしました。おかげでひとつ分かったことがある。うちのパーティーにレイリアは必須だ」
 照れを隠すように、まじめくさってライオットが言う。
「どうした急に?」
 座り込んだまま、シンが顔だけを親友に向けた。
 ライオットは重々しく答える。
「怪我すると痛いんだよ。当たり前だけどな。んで、魔法で癒さなきゃいけない重傷だと、もの凄く痛いんだよ。あまりにも痛くて、俺にはとても精神集中できない。できないと魔法が使えない。魔法が使えないと死ぬ。いやはや、俺は思い知ったね。俺が回復係をするのは矛盾してる」
 ライオットが怪我をしなければ、そもそも回復魔法など必要ない。
 ライオットが重傷を負うと、回復魔法を使える者がいなくなる。
 TRPGで遊んでいるときは、ただ攻撃を1回休んで魔法を使えば済んだのだが、実際に痛いとなるとそうもいかないのだ。
「なんで私、プリーストにならなかったのかな……」
 悔しそうにルージュが言う。
 ソーサラーとしては超一流と呼べる域まで成長した彼女だが、自分にできるのは情報収集と破壊だけ。傷ついた夫が苦しんでいても、結局何もできなかった。
 それが情けない。
「お前がもしソーサラーじゃなかったら、こいつは今頃死んでたぞ。襲いかかった槍が2本だったはずだからな」
 ルーィエが指摘する。
 言われてみれば、動いていた守護者は1体だけ。
 2体目はいなかった。
「《ディスペル・オーダー》が効いてたんだ。調子に乗らせるのは癪だが、今回の殊勲賞をくれてやる」
「つまり、あのゴーレムには命令が下されていた。やはり罠だったという事ですね」
 アウスレーゼが渋い顔で言う。
「3日前に派遣されたという騎士と魔術師。他に考えられません。バグナードと言いましたか、あの魔術師は徹底的に調査しなくては」
 その言葉は、3人の精神に爆薬を放り込んだ。
「バグナード?!」
 見事に声がハモる。
 弾かれたように立ち上がったシンが、アウスレーゼに詰め寄った。
「それは本当か? あいつがいるのか?!」
「どうしてそれを早く言わない?」
 ライオットも舌打ちする。
 あの黒の導師が絡んでいると知っていたら、こんなみっともない油断はしなかったのに。
「あなたたちは、バグナード導師を知っているの?」
 たじろいだアウスレーゼに代わって、ニースが尋ねる。
「ニース様もあいつを知っているのですか?」
 驚いて、ルージュが問い返す。
 カーラの次くらいに策謀が得意で、しかも自分の目的のためにすべてを利用し尽くすような、外見から腹の中まで真っ黒ずくめの、危険きわまりない男。
 そのような人物とニースが面識を持っていたとは信じられない。
 そして、ニースがバグナードに一定の敬意を抱いている様子なのが、もっと信じられない。
「17年前に魔法の扉を修復したのも、この玄室を修復したのも、ラルカス最高導師とバグナード導師ですからね。彼がこの墓所に関わることは不思議でも何でもありませんよ」
「バグナードがここを修復?!」
 シンが唖然とする。
 カーディスを蘇らせることに傾注していたあの魔導師が、どうしてナニールの封印に力を貸すのだろうか。
「いや、順番が逆なのかもな」
 腕を組んでライオットが考え込む。
 バグナードとて、最初から暗黒魔法ラブだったわけではないだろう。その魔力にのめりこむ契機はあったはずだ。
 それが、このナニールの墓所だったという仮説はどうだろう。
 永遠の生命と魔術の探求を求めていたバグナードにとって、ナニールの有り様はひとつの理想解だったのではないか。
「つまりこの墓所が“黒の導師”を生み出したんだ。まったく迷惑な場所だぜ」
 ライオットが400年前の人々に文句を言っていると。
「では、彼らの狙いは何だと思いますか?」
 アウスレーゼが緊張した様子で切り出した。
「バグナードを知っているというなら、予想できるでしょう? 3日前にこの墓所に来たということは、彼らはまだ近くにいるのです。ゴーレムに命令を下して終わりではないはず。彼らの次の一手は、何だと思いますか?」
 その言葉に、シンとルージュが顔を見合わせた。
 名探偵じゃあるまいし、手がかりもなしに相手の思考が分かれば苦労はない。
「とりあえず状況を整理しよう。バグナード相手に行き当たりばったりはまずい。まず1点目。この墓所に来て、このゴーレムに命令を与えたのはバグナードと断定していいのか?」
 腕を組んで考えながら、ライオットが言う。
 いつもなら、キースが主導してやっていた状況整理だ。あえて言葉に出して確認することで、それまで気づかなかった状況が見えてきたりする。
「《コマンド・ゴーレム》の魔法は9レベルだよ。そんな高レベルの魔術師がぽんぽんいるとは思えないけど」
 しかも1体とはいえ、ルージュが無力化できたのだから、カーラ級の超高レベルでもないわけだ。
 目撃情報もあることだし、バグナードであるというのは極めて確度の高い推論だと言える。
「2点目。アウスレーゼの言う罠とは、宮廷の過激派がニース様を殺そうとすることだろう。では、バグナードがそこに手を貸すメリットはあるか?」
「何しろバグナードだからな。自分の利益になると思えば、何でもやるんじゃないか?」
 シンが苦笑する。
 そこには疑問の余地がない。
「じゃあ3点目。バグナードの利益って何だ?」
 これは、原作を読んでいればすぐ分かる。
 あの黒の導師が求めるものは、金でも権力でもない。
「永遠の生命だよね。それで魔術の探求を続けたいってことでしょ?」
 ルージュの答えに、アウスレーゼが首をひねる。
「永遠の生命だの、魔術の探求だの、宮廷の貴族とは縁のない言葉ですね。彼らが報酬として出せるのは、あなたが否定した金と権力だけです」
「知識ってのはどうかな。邪神カーディスが伝える暗黒魔法の秘技、みたいな」
 今の段階でバグナードが暗黒魔法ラブなら、そんなものにも興味を持ってるかもしれない、とシンが言う。
 アウスレーゼはそれにも否定的だ。
「権力闘争と女遊びしか芸のない貴族たちに聞くくらいなら、カーディス教団にでも入信した方がよほど効率的です…………まさか」
 自分の言葉に驚いて、アウスレーゼが絶句する。
 今まで、ニースを狙っているのは宮廷の貴族だけだと思っていたのだが。
「そうか、それも考えられるよな。じゃあ4点目だ。バグナードを雇ったのがカーディス教団だと仮定した場合、今回の流れに不自然な点はあるか?」
「あるよ。カーディス教団には、そもそも墓所に手を出す理由がない」
 ルージュが即答する。
 カーディス教団がこの墓所に手を出すとしたら、理由はひとつ。
 最高司祭ナニールの解放だろう。
 だが、亡者の女王がここに封印されていないという事実は、17年前にバグナードが知った以上、教団にも知られていると仮定できる。
 すると逆説的だが、バグナードがいるが故に、この墓所には手を出す必要がなくなるのだ。
「確かにカーディス教団が求める魂は、墓所にはないわ。けれど私がここで死んでくれれば、充分以上の成果だと思わない?」
 若者たちの議論を黙って聞いていたニースが、口を挟んだ。
「宮廷の過激派は、私が邪魔だと思っている。そこにカーディス教団が持ち込むの。ニースを殺して差し上げますよ。だから鍵が借りられるように取り計らってください、とね。この玄室の特性を利用すれば、こんなにも確実に私を殺せるのだから」
 ニースの指摘に、ライオットは頭をフル回転させた。
 その仮定が正しいとすると、どうなる?
 宮廷の過激派は、ニースがいなくなって万々歳。
 そしてカーディス教団にとっては、ニースは誰よりも邪魔な存在だ。彼女さえいなくなれば。
「……保護者のいなくなったレイリアが、無防備に晒されるという状況が生まれるわけだ。まずいな」
 パズルのピースがはまるように、今の状況が説明されていく。
 《テレポート》や《リターン・ホーム》など、遠く離れた場所へ転移する魔法がある限り、ニースがレイリアから物理的に離れることにはあまり意味がない。
 しかし今回、この玄室は魔法的に完全に隔離された空間だ。レイリアに危機が迫っていると知っても、駆けつける手段が封じられている。
 最悪、この場で殺せなかったとしても、玄室にしばらく閉じこめておけば、レイリアを強奪するだけの時間は稼げるというわけだ。
「策としては完璧ですね」
 アウスレーゼが表情を堅くする。
 ニースたちを玄室に入れるために、入るときは守護者は起動させない。出さないために、通路で起動させる。
 玄室に張られた結界のせいで、攻撃魔法による援護は不可能。幅2メートルという狭い通路では、2人並んで戦うことすらできない。
 つまり、1対1でアイアンゴーレムを粉砕できる戦士がいない限り、ニースたちはここから出ることができないのだ。
 しかも守護者は2体いた。保険までかけてある。
「俺たち、完全に罠にはまってるな。これじゃあ警戒してても逃れようがない。さすがバグナード」
「感心してる場合か! 早く帰らないとレイリアが危ない! 何とかならないのか?!」
 いきり立つシン。
 今の推論が正解なら、レイリアに危機が迫っているのだ。
「大丈夫。あいつの策には、もう穴があいてる。ルージュ、本当に殊勲賞だな。助かったよ」
 妻の銀髪をぽんぽんと撫でながら、心からの賛辞を送る。
 そしてライオットは、即席で組み上げた対応策を全員に説明した。
 危険は伴う。
 正直言って綱渡り。一歩間違えれば全滅しそうな策だ。
「それは、いくら何でも危険すぎない?」
 ニースでさえ顔をしかめる内容だが、ライオットは首を横に振った。
「他にどうしようもないんです。俺たちは出遅れた上に、完全に罠にはまってる。これを噛み破ってレイリアを助けようとするなら、無茶もしないと」
 そしてシンに、最後の確認をする。
「結局はおまえだけが頼みだ。やれるか?」
 ライオットの言葉に、シンは肯いた。
 自分自身が願ったことだ。
 強くなりたい。
 彼女に訪れる危機から、彼女の人生と笑顔を守りたい。彼女の前で恥じない自分になりたいと。
「やるしかないだろ。正直怖いけど、レイリアが言ったんだ。俺の力と想いがあれば、守れないものはないってさ」
 だからやるしかない。彼女の言葉を嘘にしないためにも。
 硬い顔をするシンの肩を、ライオットは強く叩いた。
 そして、剣を鞘に納めたまま、両手で“勇気ある者の盾”を構え。
 ひとつ深呼吸して宣言した。
「じゃあ始めようか……反撃開始だ」





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン7
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:49
シーン7ー1 玄室

 全員が配置につくと、ライオットの目配せでニースが隔壁を開いた。
 音もなくスライドする黒い壁。
 予想通り、幅2メートルの狭い通路には甲冑姿の衛兵が立ちはだかっている。
「通路には1歩も入れないという構え。しかし、自分から玄室に入ろうとはしないわけだ」
 衛兵から少し距離をおいて対峙したライオットが、推論の正しさを再確認する。
 鋼鉄の槍から滴る赤い液体が何なのか、あえて考えないようにして、ライオットは盾を握りなおした。
 《プロテクション》《シールド》《フル・ポテンシャル》など、ルージュがこれでもかと支援魔法をとばしてドーピングした戦闘力。今のライオットは器用度20、敏捷度24、筋力27という人間離れしたスペックを保持している。
 今できる準備は全てやった。
 あとは、それぞれが役目を果たすのみ。
「行くぞ!」
 鉄靴が鏡張りの床を削り、充分な助走をつけてライオットが突撃する。
 盾は正面、中段の構え。
 警視庁機動隊直伝、暴徒鎮圧に使用する大盾操法のひとつだ。
 深紅に濡れた槍が信じられないパワーで振るわれ、魔法の盾と激突して火花を散らした。両手で握っていなければ、盾ごと持っていかれたかもしれない。
 だが絶妙な角度で保持された盾は、まるで魔法のように打撃を殺し、槍を側方に受け流す。
 ライオットは両手で盾を構えたまま、勢いに任せて衛兵の懐に飛び込んだ。
 全高2メートルの鋼鉄の塊。重量は300キロを軽く超えるだろう。その巨体を渾身の力で吹き飛ばそうとする。
 持ち上げる必要はない。いかに重量があろうと、二足歩行する物体である限り、重心さえ崩してやれば必ずよろめく。
 充分な助走もあり、9レベル戦士のシールドアタックは抜群の威力を発揮した。
 派手な衝突音とともに衛兵の上体が仰け反り、勢いに圧されて足が下がっていく。
「どおおおおおりゃああああああっ!」
 腹の底から吼えた。
 右手、左手に加え、左肩と頭まで盾に押しつけるようにして、渾身の力で守護者を押し続ける。
 1歩。
 2歩。
 3歩。
 ここで限界。衛兵の両足が地面で並ぶ。
「まだまだあああ!」
 上体がのけぞったままの姿勢はまだ安定していない。ライオットは左足を出して衛兵の右かかとを引っかけると、さらに踏ん張って押し続けた。
 再びバランスを失って鋼の衛兵がよろめき、やがて耐えきれなくなって後方に倒れる。
 重い振動とともに衛兵が崩れ落ちると、ライオットはすかさず馬乗りになって、盾で衛兵の上半身を押さえつけた。
 ほんの3歩。
 2メートルにも満たないわずかな空間が、ライオットの後方に確保されている。
 だがその2メートルこそが、今は何よりも貴重な存在なのだ。
「行け!」
 暴れる衛兵と全力で戦いながら、ライオットが怒鳴る。
 どうあがいてもパワーでは衛兵が上。長くは保たない。
 親友が稼いだわずかな空間にシンが飛び込むと、すかさずルージュが続いた。シンの背中に手を当て、心の中で何度も練習した呪文を、必死に詠唱する。
『導け万能なるマナよ! 彼の双脚は時空を超える!』
 魔法が完成すると同時に、シンの姿がかき消えた。
 《テレポート》。この魔法を使うためだけに、この空間がどうしても必要だったのだ。
 理想を言えば、全員が同時に転移したかった。そのためには、全員が入れるだけのスペースを確保しなければならない。
 だが、衛兵がいる限りそれは不可能。1人跳ばすのが、今の彼らにできる精いっぱいだった。
「行ったか?!」
 暴れる衛兵を必死に押さえつけながら、ライオットが叫ぶ。
「行ったよ!」
 再び玄室に下がったルージュが答えた時。
 プレートメイルごとライオットが弾きとばされた。
 今までとは逆の体勢。背中から通路に落ちたライオットに、今度は衛兵が襲いかかる。
 反射的に傾けた顔のすぐ横に、鋼鉄の槍が突き立った。
 首筋をかすめた死の気配に、心臓を鷲掴みにされる。
 転がりながら槍をかわし、死にものぐるいで後ろに下がった。必死の形相を浮かべ、四つん這いで逃げてくる姿はお世辞にも格好いいとは言えない。
 だが玄室にまろび出てきたライオットは、衛兵がそれ以上追ってこないのを確認すると、荒い息をつきながら会心の笑みを浮かべた。
「ざまぁ見ろバグナードめ。台無しにしてやったぜ!」
 アイアンゴーレムが2体とも起動していれば、こんな無謀な力技は通用しなかっただろう。ルージュの機転があったからこそ、無理やり押し通ることができたのだ。
「ですが、問題はここからです」
 不安げなアウスレーゼ。
 パーティーの最大戦力であるシンを跳ばしたために、このアイアンゴーレムを倒せるのは、今やライオットだけになってしまったのだ。
 もう失敗は許されない。1対1で戦って勝たないと、ニースを含めて全員が帰れなくなる。
「ライくん、大丈夫?」
 一度は夫を殺しかけた相手との戦いに、ルージュも不安を隠せない。
「まったく、あなたには恐怖心ってものがないのかしら。その勇気には感心するわ」
 これが若さね、とニースが慨嘆する。
 わざわざ不利な立場に自分を追い込むなど、ニースに言わせれば蛮勇でしかない。
 1秒でも早くシンをレイリアのもとに送り届けたい、とライオットが強硬に主張したため、ニースが渋々折れた形だった。
「勇気ね……」
 すると、快歳を叫んでいたライオットが、苦笑してニースを見た。
「ニース様にとって、勇気とは恐怖心を消す特効薬ですか?」
 思いもかけない問いを返されて、ニースが言葉に詰まる。
 答えを期待したわけではないらしく、ライオットはすぐに言葉を続けた。
「俺は、ここに来る前も色々と怖い目にあってきましたからね。恐怖とか勇気とか、そういうものの正体を人よりはよく知ってると思うんですよ」
 立ち上がって盾を拾いなおすと、振り向いて女性陣の顔を順番に見ていく。
 まったく、奇しくもここにいるのは女性ばかり。
 全員が一芸に秀でた逸材だが、鋼鉄の衛兵を正面から撃破できる者はいない。
 それを助けたければ男の自分が頑張るしかないという、極めて分かりやすい状況が出来上がっていた。
「勇気ってのは極論すれば、自分より強い相手と戦おうとする心です。自分より弱い相手と戦うのに、勇気なんか要りませんからね。で、敵が自分より強いなら、怖いのが当たり前です。じゃあ勇気があれば、その恐怖はなくなると思いますか?」
 警察官として勤務する中で。
 交番勤務の時代は、刃物を振り回す麻薬中毒者を制圧したこともある。
 機動隊に来てからは、鉄パイプを持って暴れる極左過激派集団と戦ったこともある。
 そういった経験の全てが、ライオットにとっては恐怖との戦いだった。
「俺は、そうは思いません。自分より強い敵がそこにいる以上、恐怖は絶対に無くならない。じゃあ勇気って何だ?」
 再び女性陣に背を向け、鋼鉄の甲冑をまとった衛兵に向き直る。
 今現在の脅威。
 実際に戦ったからこそ分かる、圧倒的な破壊力。
 ライオットにとっては紛れもない恐怖の対象だ。
「勇気ってのは、俺に言わせれば虚勢とやせ我慢なんですよ。どんだけ怖くても『怖くないもんね』って顔をして、何とかその場に踏ん張ろうとする心。弱い人間が、弱さを隠して頑張ろうとする心。それこそが、俺にとっての勇気です」
 万人にとってそうなのかは、分からない。
 もしかしたら、勇者と呼ばれる人の中には、恐怖を忘れて戦う術を得た人がいるかもしれない。
 ベルドや、ファーンや、それにニースも。歴史に名を刻むような究極の英雄たちなら、もっと違う勇気を持っているのかもしれない。
 だがこれだけは断言できる。
 そんな奴らは例外だ。
「猛き戦神、マイリーよ……」
 自分自身を含めて、大多数の凡人にとって、戦いとは恐怖そのもの。
 怖くないはずがない。
 それでも。
 勇者でも何でもない普通の人々が、恐怖で足を震わせながらも、大切な何かを守るために戦うから。
 だからこそ勇気というのは尊いのだ。
 その想いを込めて、ライオットは初めて、マイリーに心から呼びかけた。
「このささやかな勇気を承認されるなら、我に光の加護を与えたまえ」
 高々と天に差し上げたライオットの右手を、光の粒子が取り巻いた。
 光は螺旋を描きながら寄り集まり、どんどんその輝きを増していく。


  『汝の勇気を承認しよう』


 脳裏に響いたその圧倒的な声を、どう形容すればいいのだろう。大地が、空が、全体として意思を持って押し包んでくるような、世界そのものに引きずり込まれるような錯覚に、ライオットは目眩を覚えた。
 ライオットは、この世界にマイリーが実在するということは「知っていた」。
 原作者が世界を創り、神を創り、この世界ではその神が人を創ったのだと定めた以上、今ここに戦神マイリーが存在することは自明の理だ。人が創ったものであるが故に、ライオットはマイリーの実在を疑ったことはない。
 だが、しかし。
 初めて実感した“神”は、筆舌に尽くしがたい存在感をもって、ライオットに語りかけてきた。
 今、自分はとてつもなく大きなものと同じステージで対話している。
 そう自覚すると、どうしようもない高揚感が抑えられなかった。
 あまりの興奮に魂が震え、全身に鳥肌が立つ。
「……マイリーよ、感謝します」
 光が凝縮したマイリーの加護は、直視するのも困難なほどの輝きを放ちながら、厳然としてライオットの頭上に浮かんでいた。
 その形は剣ではない。
 鋼の人形を粉砕するのであれば、もっと適した形がある。
「《ディバイン・ハンマー》!」
 気合いを込めて、右手をぎゅっと握りしめる。
 巨大な光の戦鎚は、ライオットの意思を感知して、その輝きをさらに強めた。
 マイリーの威光を示すかのように、溢れた光が雨のように降り注ぐ。
 黄金の驟雨は鏡張りの玄室に乱反射して、この世のものとも思えない、神々しい姿を浮かび上がらせていた。
 その光の中心で、ライオットの視線が、強烈な意思を込めて鋼鉄の衛兵を射抜く。
 なるほど、おまえは強い。
 だが強いだけだ。力だけで想いを持たぬただの彫像に、俺は負けない。
「ひ・か・り・に・なぁぁぁれぇぇぇぇぇぇッ!」
 戦神の加護を受けたライオットが、渾身の力を込めて聖なる戦鎚を振りおろす。
 それを受け止めた守護者の腕は。
 ただの一撃で、光の中に砕け散った。


シーン7ー2 ピート卿の館

 胸に深々と埋め込んだ細剣を引き抜くと、壮年の騎士は血溜まりの中に崩れ落ちた。
「残念でしたな、ピート卿。あなたの技量では私には勝てません」
 白銀の鎧に飛ぶ返り血を避けようともせず、美貌の騎士が冷笑を浮かべる。
「レイリア……逃げろ……」
 血の泡を吹きながら、ピート卿がうわごとのように繰り返す。
 血糊を飛ばすように剣を一閃すると、ラスカーズは瀕死でうずくまる騎士を蹴り飛ばし、満足そうに見下ろした。
 いつ、どんな時であろうと、剣に血を吸わせるのはたまらない快感だった。
 カーディスの信徒としての自我に目覚めて以来、上級騎士の身分を最大限利用し、有力貴族の邪魔者たちを闇から闇へと葬ってきた。
 それは自身の地位を固めることになり、宮廷に人脈を築くことにもなるゆえ、教団も推奨してきた行為。
 だがラスカーズにとっては、殺人それ自体が何物にも換えがたい快楽だったのだ。
 剣が肉を断ち斬る感触。
 裂かれた喉笛から、血が噴き出すときの音と臭い。
 無念そうにラスカーズに向けられる、犠牲者の眼差し。
 そのすべてがたまらない愉悦を生み、彼の心を桃源郷へと誘う。
 そして思うのだ。
 この世の全ての人間を血の海に沈めたなら、どれほどの悦楽が得られるのだろうか、と。
 ラスカーズはレイリアに向き直り、膝を折って恭しく頭を垂れた。
「改めて申し上げます、我が主君よ。私と共においでください。女神カーディスの名の下に、世界に最後の恩寵をもたらしましょう」
 そのためには、この女性を再び王として迎えねばならない。そして400年前と同じ、すべてを滅びへと向かわせる黄昏の王国を築くのだ。
「あなたは……!」
 イメーラ夫人に続き、ピート卿までが目の前で血泥に沈められ、レイリアは唇を噛んで美貌の悪魔を睨みつけた。
 あまりの怒りに、腹の底が冷たく凍っていくのを感じる。
 昨夜、この食堂は、あれほど暖かい光で満たされていたのに。
 ピート卿はあんなに楽しそうに笑っていたのに。
 イメーラ夫人からは、まだ料理を習っていないのに。
「あなたという人は……!」
 そのすべてを理不尽な暴力で奪い去っておいて。
 この食堂を土足で汚すのか。
「許しません!」
 ピート卿の傍らに跪き、握ったままの剣をもぎ取る。
 まだ息のあるピート卿は逃げろと繰り返していたが、そんな気はさらさらなかった。
 神官戦士団に混ざって鍛練を重ねた剣は、女の身でありながら三指に入る腕前だ。その天性のセンスは、神官戦士長をして、あと5年あればターバ随一の剣士になると言わしめたほど。
 ライオットという戦士には及ばなかったが、そこいらの騎士が相手なら後れを取るつもりはない。
 青眼に構えた長剣。
 剣先をまっすぐに向けられた美貌の騎士は、わがままな姫君をなだめる侍従のように苦笑した。
「そのようなものはお捨て下さい。我らが斬り合って何になりますか」
「私は、このような非道を絶対に許しません! どうしても私を同道させたければ、首をはねて死体を持って行きなさい!」
 イメーラ夫人の血に濡れた頬を引きむすび、ピート卿の剣を手にして立つレイリア。
 その凛とした姿は、むせかえる血臭の中にあってさえ、凄絶な美しさを誇っていた。
 ラスカーズが闇色の瞳に危険な光を浮かべて、わざとらしく嘆息する。
「レイリア様。あまり聞き分けのないことですと、少々痛い目を見ていただきますぞ?」
 主君とはいえ、この美しい少女が血にまみれて苦悶する姿は、さぞかし甘美なことだろう。
 そのさまを見たいという欲求もまた、ラスカーズの本能を強く刺激する。
 穢れなき少女を苦痛の中で矯正し、魂を陵辱してやるというのもまた一興。すぐに壊れてしまう肉体を犯すより、よほど官能的ではないか。
 膨れ上がる欲望を抑えきれず、口許をつり上げるラスカーズ。
 その表情に嫌悪感を隠そうともせず、レイリアは言い放った。
「痛い目を見るのはあなたの方です。もう謝っても許してあげません」
「まことに残念です。やむを得ませんな」
 言葉とは裏腹に、内心で舌なめずりしながらラスカーズが唇を歪める。
 理性を手放しているとしか思えない騎士の様子に、それまで静観していた魔術師が、ようやく口を開いた。
「ラスカーズ卿。舌でも噛まれたらどうなるか、分かっているのだろうな?」
「分かっておりますとも。ですが致し方ありますまい? レイリア様は同行が嫌だとおっしゃる。多少の説得は、司祭長も許して下さるでしょう」
 獲物を嬲り殺しにする獣のような、獰猛な笑顔。
 もはや他人の意見など聞く耳を持っていない。
 それを理解して、バグナードは助言を放棄した。
 どうせ他人事だ。娘が死んで魂が輪廻したところで、バグナード自身は何ら痛痒を感じない。
 あの司祭長とやらに恩を売ることさえできれば、亡者の女王がどうなろうと知ったことではないのだ。
「……好きにするがいい」
 魔法で眠らせてしまえば、簡単に終わるものを。これだから阿呆は御しがたい。
 騎士に内心で侮蔑の言葉をかけ、すぐに思い直す。
 魔法は確かに万能の力だが、忌々しい呪縛のせいで壮絶な苦痛をもたらす。手を煩わさずに終わるのならば、それはそれで可としようか。
「娘。せいぜい殺されぬうちに降伏することだな」
「それはこっちの台詞です!」
 冷然としたバグナードの声を合図として、レイリアの剣が動いた。
 清流にきらめく陽光の如く、目にもとまらぬ速さで剣尖がラスカーズの喉元を襲う。
 鋭さ、速さ、どこを見ても一流と呼べる剣捌き。相手が並の戦士であれば、一撃で喉を貫かれて死んでいただろう。
「……ほぅ」
 しかし、絡みつくようなラスカーズの細剣に巻き落とされ、レイリアの突きは大きく軌道を逸らされた。
 すぐに剣を引いて間合いを取り直したレイリアに、ラスカーズが感嘆の声を上げる。
「なるほど、ただの小娘ではなさそうですね。これは楽しめそうだ」
 一方のレイリアも、唇を噛んで相手をにらんだ。
 決して甘く見ていたわけではない。
 確かに相手は自分より強いが、勝負をひっくり返せないほど隔絶した差があるわけでもないのだ。
 だが。
 相手の油断につけ込んで繰り出したはずの切り札が、いとも簡単に防がれてしまった。
 その衝撃は迷いとなって、レイリアの心を揺らめかせる。
「次は私から参りましょうか。私も突きにはいささか自信がありましてね」
 ラスカーズの細剣は『斬る』ことではなく『突く』ことを主眼にした武器だ。
 とぐろを巻いた大蛇が獲物に跳びかかるように、その剣は毒牙となってレイリアを襲った。
 肩を狙うと見せて、脇腹を突き。
 顔を狙うと見せて、肩を突き。
 胸を狙うと見せて、腕を突き。
 正統派の剣術に加え、幾多の人命を糧にして鍛えられたラスカーズの剣技は、まさしく変幻自在。
 ほんの二呼吸ほどの間に10を超える刺突が殺到し、レイリアが防げたのはその半数にも満たなかった。
「く……ッ」
 わざと浅くつけられていく、無数の傷。
 耐え難いほどの痛みはない。
 だが、いいように切り刻まれた神官衣から白い肌がのぞき、その肌も鮮やかな紅に染められていく。
 戦いの最中にありながら、淫美で扇情的な光景。
 それを相手が楽しんでいるという羞恥と屈辱が、レイリアの心から余裕を削り取っていった。
「美しい! レイリア様、あなたはやはり最高だ! その顔をいつまでも拝見していたい気分ですよ!」
 心と体、双方の苦痛にゆがむレイリアの表情を見て、ラスカーズが哄笑する。
 宮廷の貴婦人を虜にしてやまないという美貌や気品は、もはや見る影もなかった。
 そこにいるのは、血に酔い痴れて欲望のままに剣を振り回す、闇色の危険な獣だ。
「このままでは……!」
 軽さを最大の武器にして繰り返される、嵐のような連続攻撃。
 見たこともない剣捌きに翻弄されながら、レイリアは歯噛みした。
 認めないわけにはいかない。
 このままでは一方的に嬲られるだけだ。ピート卿の無念を晴らせず、イメーラ夫人の仇も討てず、夫妻の犠牲は無駄になってしまう。
 レイリア自身も無事には済まないだろう。この状況で敵に捕らえられれば、若い女の身がどう処遇されるか、想像できないほど子供ではない。
 そんなおぞましい未来を受け入れるくらいなら。
 黒い瞳が、すっと細められた。
「あなたの思いどおりにされるくらいなら!」
 防御を放棄して長剣を上段に振りかぶり、血に飢えた獣を正面から見据える。
 どこでも好きなところを刺せばいい。それで死んだって構わない。
 その代わり、この一撃は必ず当てる!
「死んだ方がマシです!」
 薄笑いを浮かべて待ち受けるラスカーズに、渾身の一撃を叩きつける。
 突くことに特化した細剣では、これは受け止められない。下手に受けようとすれば、剣ごとへし折るだけのこと。それだけの威力はあるはずだ。
 だが。
「甘いですな」
 電光石火。
 ラスカーズの細剣はレイリアの頭上で長剣を弾きとばし、右掌を深々と貫き通していた。
 まるで磔刑に処された罪人のように、銀色の刃で右手を吊り上げられる。
「レイリア様、言われたことはありませんか? 確かにあなたは強い。ですが、あなたの剣は見え見えなんですよ。妖魔相手の田舎剣術では、剣技を修めた人間には勝てません」
 ぐい、と手首をひねってレイリアを引き寄せると、ラスカーズが顔を近づける。
 暴れた剣で右手をえぐられ、つま先立つほどに身体を吊り上げられて、レイリアが苦痛のうめきを漏らした。
 銀色の刃を伝って、新しい血が滴り落ちてくる。
「是非思い出していただきたい、あの400年前の無慈悲な剣捌きを。真紅の刃をさらに赤く染めた戦い方を。そしてあの御姿を、もう一度私に見せていただきたい」
 息がかかるほど近くに顔を寄せると、ラスカーズはレイリアの細い顎に手をかけ、持ち上げた。
 この状況でも絶望しようとしない少女の瞳。それに魂が震えるほどの歓喜を感じる。
 まったく、なんと汚し甲斐のある少女だろうか。
 これほど清楚で純粋な心を、魂が歪むほどの恥辱で汚し尽くしたら、どれほど美しい人形が出来上がることか。
 欲望の赴くまま、レイリアの頬についた血をぺろりと舐めとる。
 少女の顔が、汚辱感にゆがんだ。
「顔を……」
「何かおっしゃいましたか?」
 武器を奪い、自由を奪い、あとは獲物をいたぶるのみとなったラスカーズが、わざとらしく問い返す。
 返答は明快だった。
 燃えるような視線とともに、レイリアは唯一自由だった左手を、騎士の顔に押しつけた。
「顔を近づけないでと言ったのです、汚らわしい! Falts!」
 同時に。
 強烈な衝撃波が炸裂し、有無をいわせず騎士の身体を吹き飛ばした。
 優に3メートルは宙を舞っただろうか。
 テーブルの反対側まで飛ばされたラスカーズは、数脚の椅子を下敷きにして床に叩きつけられた。
 あまりのことに、傍観していたバグナードが失笑を漏らす。
「汚らわしい、か。確かに淑女に対して礼を欠いていたな、ラスカーズ卿」
 愉快そうに肩を揺らす黒の導師。
 だが、この期に及んでも行動を起こす様子はない。
 解放の衝撃でざっくりと切り裂かれた右手を押さえながら、レイリアはじりじりと後ずさった。
 もう右手で剣は握れない。
 左手で握ったところで、あの騎士を相手に戦えるはずもない。
 もはや万事休す。《リターン・ホーム》の魔法でターバに逃げ帰るしか策はないのか。
 目の前でピート卿とイメーラ夫人を斬られながら、手も足も出ず、彼らの傷を癒すことすらできず、尻尾を巻いて自分だけ逃げるのか。
 陶器の破片が散らばるダイニングテーブルに、昨夜の暖かい情景が幻視された。
 ニースは何も言わないが、もしかしたら自分の本当の両親かもしれない、と考えていた人たち。
 贅沢ではないが、心を尽くした幸せな食卓。
 今ここで逃げれば、それらは本当に、二度と手に入らないものになってしまう。
 それでいいのか。
 ほんの一瞬の逡巡。
 血の海の中で倒れ伏すピート卿。
 すでに虫の息のイメーラ夫人。
 その姿が視界に入り、ほんの一瞬だけ浪費した時間が、レイリアに残された最後のチャンスを奪い去った。
「Falts!」
 その声が聞こえたとき、お返しとばかりに殺到した衝撃波によって、レイリアは反対側の壁に叩きつけられていた。
 不可視の拳で殴られた腹部が猛烈に痛み、まともな呼吸すらできない。
 体力を根こそぎ奪い取られ、全身を苛む痛みに喘いでいると。
 涙でかすむ視界の向こう、魔術師の横で、ゆらりと立ち上がる騎士の姿が見えた。
「まったく、無駄なあがきは程々にしていただきたいものですな、レイリア様」
 鼻梁は砕け、頬骨は陥没し、数本の前歯を血とともに吐き捨てるラスカーズ。
 少なからぬダメージを受けたようだが、それを補って余りある殺気が、ほとんど物理力となってレイリアを圧倒した。
「私もさほどできた人間ではありませんのでね。顔を殴られれば、倍にして殴り返したくなる」
 悠然とした動きで細剣を拾い上げると、ラスカーズはゆっくりとレイリアに歩み寄った。
 自分に近づいてくる絶望の足音。
 もう立ち上がる余力もない。
 壁に上体を預けたまま、レイリアはじっとその姿を見上げていた。
「ご安心ください。殺したりはしませんよ。あなたは大切な私の主君だ。ただし、死んだ方がマシだったという思いは、存分に味わっていただきます」
 怖気をふるう宣言。
 その言葉とラスカーズの表情に、初めてレイリアの心に恐怖が浮かんだ。
 今まで怒りと使命感で鎧われていた心が、絶望によってひび割れ、年齢相応の少女が現れる。
 あまりにも邪々しい笑みを見て、少女は悲鳴を上げていた。
 怖い。
 こっちに来ないで。
 誰か。
 誰か助けて。
 シン……
 恐怖と絶望にすくむ少女が、心の中でその名前を呼んだとき。
 感情に火がついた。
「シン、助けて……」
 涙があふれ、弱々しい呟きがこぼれた。
 傷ついた我が身を抱きながら、もはや逃げることもかなわず、ただ首を振って助けを求める。
「無駄なことです。あなたのナイトは墓所の中。ニースとともに、永遠の闇の中で朽ち果てていく運命なのですから」
 泣きながら助けを求める少女の、なんと美しいことか。
 だが、本当のお楽しみはこれからだ。
 心を折られたレイリアを残酷に見下ろし、悦楽への期待に声が揺れた。
「よしんば鋼の衛兵を倒したところで、全ては遅い。墓所からここまで1時間はかかります。つまり、あなたのナイトに、あなたを助けることはできません」
「そうかな!」
 風が吹いた。
 完全な不意打ち。
 強烈きわまる拳がラスカーズの顔面をまともに捉え、再び魔術師の足下まで吹きとばす。
「ほぅ」
 ひとり、状況を正確に把握していたバグナードが、思わず感嘆の声を漏らした。
 《テレポート》の魔法を使ったのだろう。
 マナの乱れとともに突然中空に出現した人影が、着地するなりレイリアとラスカーズの間に割り込み、いともたやすく騎士を殴りとばしたのだ。
 ラスカーズは決して弱い男ではない。純粋な剣技ならアラニアでも屈指の腕前だろう。
 その剣士に一切の反応をさせず、重い金属鎧もろとも簡単に薙ぎ払うとは。
 この男、いったいどれほどの技量の持ち主なのか。
 バグナードは興味を覚えて、乱入してきた人影を見た。
 収まりの悪い、黒の短髪。
 浅黒い肌。
 全身の筋肉はしなやかに鍛えられ、まるで猫科の猛獣のような印象を受ける。
 年の頃は20歳前後か。端整な顔を痛ましげに歪めたその青年は、そっとレイリアに屈みこんだ。
「ごめん。遅くなった」
「シン……」
 シンはためらいがちに、涙と血で濡れた頬に手を伸ばす。
 いっぱいに目を見開いたレイリアの顔には、ただ真っ白な驚きだけが浮かんでいた。
 まるで、絶望の淵で神を見たように。
 その空白をシンの存在が埋めていくと、ようやくレイリアは手を動かし、頬の上でシンの手に重ねた。
「痛かっただろ? ごめん、もっと早く来なきゃいけなかった」
 その優しい声が、レイリアの傷ついた心を癒していく。
 これでもう大丈夫。
 暖かい、本当に暖かい手の感触に、今までとは違う涙がこぼれていった。
「シン、来てくれたんですね……」
「君を泣かせたのは、あいつか?」
 肩越しに振り返り、まだ尻をついたままの騎士を一瞥する。
「はい。あいつにピート卿も、イメーラ夫人も」
 悔しそうにレイリアがうなずく。
「分かった。あとは俺がやる。任せて」
 レイリアを背中にかばって立ち上がると、シンは食堂の中をゆっくりと見渡した。
「これをやったのは、お前でいいんだな?」
 清冽な気迫が周囲を圧倒する。
 ラスカーズのそれとはまるで違う。どこまでも澄み切った気迫は、シンの怒りを乗せて空気すら震わせた。
「お前に聞いてるんだ、そこの歯抜け。答えろ」
 精霊殺しの魔剣“ズー・アル・フィカール”が鞘走り、白い燐光を発する片刃の刀身が、まっすぐラスカーズに突きつけられる。
「いかにも。私が斬った」
 あまりの暴言に頬をひきつらせながら、ラスカーズは細剣を手にして立ち上がった。
「オーケー、それだけ分かれば充分だ。覚悟はいいな?」
 初めてオーガーと戦ったときに、ライオットが「相手を殺すことに躊躇はなかった」と言った理由が、今やっと分かった。
 昨夜はあれほど暖かかった食堂で、レイリアが血まみれになって泣いているのだ。
 その姿を見てしまったら、他の理由など、もう何もいらない。
 シン・イスマイールは本気で怒っていた。
「小僧、誰に向かって口を利いている! その無礼、貴様の首で償……ッ!」
 もはや言葉を交わす気もなかった。
 無造作に踏み込んで間合いを詰め、大上段から精霊殺しの魔剣を振りぬく。
 何の飾りもないシンプルな動き。
 だがそれは、小手先の剣術など通用するはずもない、10レベルファイターの剛剣だ。
 魔剣はラスカーズの右前腕に食らいつくと、驚異的な切れ味を発揮し、鋼鉄製の手甲ごとあっさり両断してのけた。
 剣を握ったままの腕が血の尾を引いて飛び、テーブルの上に転がる。
 わずか一挙動。
 ただそれだけで、この場で一番強いのは誰なのか、それを全員に思い知らせた。
 つい先刻まで場を支配していた血染めの騎士が、今や狩られる側の存在であるのだと、誰もが理解した。
 理解せざるを得なかった。
「これまでだな。今日は退くとしよう」
 真っ先にバグナードが動く。
 杖を握って防御の魔法を唱え、不可視の障壁を展開させる。呪文の詠唱とともに全身を激痛が駆け巡ったが、バグナードは脂汗を浮かべてそれに耐えた。
「しかし導師様!」
「ラスカーズ卿。腕を失い、剣を失い、それでもこの戦士に勝てるというなら止めはせぬ。ここに残るか?」
「ぐ……ッ、この屈辱、二度と忘れぬ!」
 血の噴き出す右腕を押さえて、ラスカーズが歯噛みしながら後退する。
「今日のところは貴様の勝ちだ。誰の入れ知恵か、聞いてもよいかな?」
 転移の魔術を用意しながら、バグナードが尋ねる。
 長身の魔術師に不敵な視線を向けると、シンは誇らしげに応じた。
「頼りになる親友がいてね。1ラウンドをケチって真っ先に跳ばしてくれたおかげで、どうにか間に合った。悪かったなバグナード。せっかくの策略を台無しにしてさ」
 その言葉に、黒の導師が軽く目を見開く。
「驚いたな。私を知っておるのか」
「こんな陰険な罠をはれる魔術師なんて、お前とカーラくらいしかいないだろ」
 シンの言葉を聞いて、バグナードは愉快そうに笑みを浮かべる。
「まさか、灰色の魔女の存在まで知っておるとはな。貴様の名は?」
 単純な好奇心。
 自分の名は知られているのだから、相手の名も知ってみようという、他愛もない質問だった。
 だが。
「シン・イスマイール」
 その名を聞いて、バグナードが押し黙った。
 聞いたことがある。
 脳裏でその名を検索し、やがて思い当たると、深く納得してうなずく。
「なるほど、貴様があの“砂漠の黒獅子”であったか。ニースも存外、優秀な手駒をそろえておるものよ」
 あの程度の罠が破られるのも道理、とつぶやいて、今度こそ《テレポート》の呪文を詠唱する。
 その背後で、屈辱に身を焦がす騎士が、血を吐くように呪いを紡いだ。
「覚えておけ、シン・イスマイール。貴様は必ず私が殺す。貴様の近しい人間をことごとく血の海に沈めた後、絶望の中で終末の門に送ってくれようぞ」
 闇色の瞳から人間離れした邪悪を漂わせ、怨嗟にみちた言葉を残して。
 ふたつの人影は、魔法の完成とともにかき消えた。
 逃がした、とは思わなかった。
 騎士だけならともかく、バグナードまでシン1人で相手をすることはできない。
 この場を引いてくれるというなら、それを邪魔するべきではなかった。
 今は、それより他にすべきことがある。
 大きな息と一緒に緊張を吐きだすと、シンはスイッチを入れ替えてレイリアに向き直った。
 どこか焦点の合わない微笑で、じっとシンを見つめる美少女。
 その肩に手をかけ、力を込めて揺する。
「目を覚ませレイリア。ピート卿とイメーラ夫人に癒しの魔法をかけるんだ。時間がない、早く!」
 その言葉がレイリアの中に染み込み、黒い瞳に輝きが戻るまで、まだしばらくの時間が必要だった。 





[35430] シナリオ2 『魂の檻』 シーン8
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:50
シーン8 ピート卿の館

 熾烈な殴り合いの末に鋼の衛兵をスクラップに変え、休む間もなくピート卿の館に《転移》してくると、ライオットはあまりの惨状に言葉を失った。
 館の食堂は荒れはて、壁や床には生々しい血痕が飛散している。
 全身血だらけで倒れているピート卿とイメーラ夫人。それを必死に介抱するレイリアの神官衣も、ズタズタに切り裂かれて赤黒く染まっていた。
「ひどい……」
 思わず漏れたルージュの呟き。
 ピート卿を看ていたシンが振り返ると、仲間たちに気づいて、力ない笑いを浮かべた。
「こっちはギリギリだった。もうちょっと遅かったら、レイリアもヤバかったよ」
「バグナードはいたのか?」
 惨劇の現場を見回しながら、ライオットが問う。
「《テレポート》で逃げた。もうひとりの騎士と一緒に。この有様の犯人は、全部その騎士だ」
 シンが視線だけでダイニングテーブルを示す。
 すると、卓上に腕ごと転がっている剣を見て、アウスレーゼが目を剥いた。
「これは“ピアシング・スレッド”ではありませんか! まさかラスカーズ卿が?!」
「そういえばバグナードが、そんな名前を呼んでたな。毒蛇みたいな印象の若い騎士だ。知ってるのか?」
 シンが目を向ける。
「ラスカーズ卿は銀蹄騎士団の上級騎士です。レイピアを使わせたらアラニア随一でしょう。この剣は、国王陛下が卿に下賜された王家伝来の宝剣なのですよ。まさか卿まで邪教に毒されていたとは」
 アウスレーゼがうめく。
 宮廷を蝕む毒があまりにも上まで広まっていた事実に、驚きを隠せない。
 宮廷の過激派とは、カーディス教団の隠れ蓑か?
 すぐにその疑問が浮上したが、とりあえずライオットはそれを封殺した。
 事件・事故の現場に行ったら、疑問の解消より先にやることがある。それは警察学校でたたき込まれる基本中の基本。
「とりあえず話は後だ。ニース様はピート卿を頼みます。俺はイメーラ夫人を」
「分かりました」
 硬い声でニースがうなずく。
 ライオットがイメーラ夫人に駆け寄ると、夫人はうっすらと目を開けて、傍らのレイリアに弱々しく話しかけていた。
「あなたは無事だったのね、よかった」
 袈裟掛けに切り裂かれた衣服の下に、もう傷はない。すでにレイリアの《キュアー・ウーンズ》で癒したようだ。
 だが彼女の魔法では、出血を止めることはできても、失われた血液まで取り戻すことはできない。
 青白い顔でレイリアを見つめるイメーラ夫人は、誰が見ても今際のきわにあった。
「イメーラ夫人! 諦めちゃだめです、頑張って!」
 どんどん冷たくなる手を握って、レイリアが涙まじりに呼びかける。
 夫人はうっすらと微笑んで、それに応えた。
「レイリア司祭、ごめんなさいね。お料理を教える約束だったのに」
「イメーラ夫人!」
「あなたには何もしてあげられなかった。無力な私たちを許してください。そしてどうか、ニース様の教えを守って、これからも健やかに、幸せに……」
 咳こみながらも、必死に最後の言葉を伝えようとするイメーラ夫人に。
 そして、その想いを泣きながら受け止めているレイリアに。
 ライオットは思わず舌打ちした。
 この期に及んでこの態度。
 許せなかった。
「ふたりとも何を言ってるんだ!」
 視線を交わし合うふたりに、低く抑えた、だが怒りに満ちた声を上げる。
「イメーラ夫人。何もしてやれなかったって? ふざけるな。レイリアに命を与えたのも、名前を与えたのも、みんなあんただろ。ほかの誰でもない、自分の腹を痛めた娘だろ」
 そしてレイリアも見据える。
「レイリア。お前もだ。その相手に呼びかける言葉が『イメーラ夫人』か? ニース様に今まで何を習ってきたんだ? 情けないにも程がある」
 ニースが娘として引き取ったから、ニースを母と呼ぶ。それはいい。
 だがレイリアは、もうピート卿とイメーラ夫人の娘ではなくなるのか?
 イメーラ夫人を母と呼んではいけないのか?
 レイリアを娘だと思ってはいけないのか?
 最後を看取ろうとするその瞬間まで他人行儀か?
 誰がそんなことを決めた?
 この状況を見過ごすなど、ライオットには絶対に我慢ならなかった。
「俺はな、そんなくだらない台詞を聞くために、怖い思いをして戦ったんじゃない。俺はハッピーエンド以外は認めない。最初からやり直せ」
 今さら隠し事をしても意味がないだろう、と語気も荒く命令するライオットに、イメーラ夫人が弱々しく笑った。
 この若い司祭の言うとおり。
 今となっては、真実を隠す意味など何もない。
「私たち夫婦には、それを口にする勇気がなかった。それがいちばんの弱さだったのかもしれません」
 そしてレイリアの手を、そっと力を込めて握る。
「この方の言うとおり。あなたは私の娘です。今まで言えなくてごめんなさい。けれどあなたの成長は、父も母も、嬉しく見守っていたのですよ?」
 レイリアの顔に驚きはなかった。
 まだ幼い頃、父親のことを質問してニースを困らせて以来、彼女が心の中で封印してきた疑問。
 それ以来、ニースがことある毎に引き合わせてきたピート卿夫妻。
 そこに何の因果関係も感じないほど、レイリアは鈍い娘ではない。
「…………お母さん」
 ぽろりと、レイリアの口からその呼び名がこぼれた。
 イメーラ夫人の目が幸せそうに細められ、透明な滴が頬を伝う。
「あなたが司祭の位をいただいて、初めてターバで説法をした日がありましたね。私と主人は、その聖堂の一番後ろから、ずっとあなたを見ていました。緊張したあなたが祈りをトチった時は、あの人はまるで冬眠からさめた熊のようにオロオロしていましたよ」
 イメーラ夫人の瞳が、レイリアの顔を通り越して過去を見つめている。
 次第に焦点を失いながらも、今まで告げられなかった娘への愛を伝えようと、必死に思い出を紡いでいく。
「そう、あなたが初めて神の声を聞いたときも、ニース様のお手紙を頂戴して、ささやかにお祝いしたのです。その年に造った記念のワインを神殿にお届けしたのだけど、あなたの口にも入ったかしら?」
「お母さん!」
 目に見えて力を失っていくイメーラ夫人を、レイリアは力を込めて抱きしめた。
「そうそう、こんなこともありました……」
 思い出は、語り尽くせぬほどに湧いてくる。
 娘の腕の中で、残された力はすべてこのために使うのだと、イメーラ夫人は懸命に語り続けた。
 一度たりとも娘と呼ばなかった母親でも。
 注いだ愛に偽りはなく、娘もまた、それを確かに受け取っていた。言葉は、単にそれを確認するための窓にすぎない。
 だが、その窓越しに見える情景の、なんと美しいことか。
 ライオットはレイリアの横にひざまずくと、そっと手を掲げてイメーラ夫人の額に近づけた。本当はいつまでも見ていたいが、もう時間がない。
 静かな声で、この初老の女性に語りかける。
「疲れたでしょう、イメーラ夫人。続きは明日にしましょう」
「……そうね、そうしましょうか。あなたには心からの感謝を。おかげで思い残すことは何もないわ」
 ささやくような声で言うと、イメーラ夫人の瞳がライオットに向けられた。
 何もかもを悟りきったような、達観した瞳。
 最期の時が近いのだと、自分が一番よく分かっているのだろう。
「それと、思い出話も結構ですが、レイリアに料理を教えるのもお忘れなく。楽しみにしている男がいますのでね」
「シンくんね。彼がいれば、レイリアも安心だわ」
 いつか娘とふたり、この家の古めかしい厨房で、新しい家族を迎えて料理を作る日が来たら。
 夫は娘が選んだ戦士と酒を酌み交わしながら、大きな満足とささやかな悔しさを味わう日が来たら。
 そんな未来が迎えられたら、どんなにか素晴らしかったことだろう。
 残念ながら、自分にも夫にも、それを見ることは叶わない。
 だが、娘を守り続けるだろう戦士の笑顔と人柄は、昨夜存分に見ることができた。
 今は、それで十分だと納得できる。
 娘の幸福な未来を確信したように、安らかな微笑を浮かべてうなずくと、夫人の瞳がすっと閉じられた。
 もう休んでもいいと思ったのだろう。
 普通ならその通りだ。
 だが今回に限っては、単なる思い違いだった。
「ところで夫人。最初に言いましたよね。俺はハッピーエンド以外は認めないって」
 目を閉じたイメーラ夫人に、ライオットが確信にあふれた声をかける。
「ファイター10じゃなくプリースト8を選んだ過去の自分に、心から感謝しますよ。おかげで今、俺にはできることがある」
 目を閉じて心をいっぱいに開き、祈りの言葉を唱えてマイリーの巨大な意思に接続する。
 奇跡の泉に直結した精神の回路から、神の力が奔流となって流れてくるのを感じると、ライオットはそれを惜しげもなくイメーラ夫人に注ぎ込んだ。
 《リフレッシュ》。
 レイリアでは届かない、最高位の治癒魔法。
 ライオットはそれを願うことができる。
 ニースに癒されたときと同じ、暖かい光がイメーラ夫人の全身を包んだ。
「あ……」
 レイリアが呆然としてその光を見つめる。
 徐々に夫人の肌に赤みが差し、レイリアが握ったままの手にも体温が戻ってきた。
 途切れそうなほど浅かった呼吸も、ゆっくりとした深いものに変わっていく。
「ほんと性格悪いなお前。癒せるんだったらさっさとやればいいだろう、もったいつけやがって。おかげで色々と台無しだ」
 母娘の会話を聞いて目を赤くしていた双尾猫が、不機嫌そうにそっぽを向く。
 ルージュもこっそりと涙を拭っていた。
 うかつにも失念していた。
 彼女の夫は、やると言ったことは必ずやる男だった。
 生意気で悪戯っ子で後先考えず、下ネタが大好きで話を台無しにするのが趣味でも、大事なところはきっちりと押さえてくる。
 ハッピーエンド以外は認めないと宣言した以上、強引にでもハッピーエンドに漕ぎつけてみせるのだ。
「だから好きになったんだよね」
 誰にも聞かれないように口の中でつぶやいて、にっこりと笑う。
 夫の望んだ結末には、涙よりも笑顔が似合うにちがいないから。
「完全に、美味しいところを持っていかれたわね」
 同じくピート卿を《リフレッシュ》で完全治癒させたニースは、苦笑して若者たちを眺めていた。
 全部ぶち壊してやる、と言い放った若者たちは、その言葉のとおり、手始めにレイリアの悲劇から壊しだしたようだ。
 この分だと、本当に何もかも壊して、残るのは幸せだけという状況になりかねない。
「ニース様、どうしてレイリアには両親のことを教えなかったんです?」
 ピート卿を介抱していたシンが、ふとニースに尋ねた。
 最初から教えておけば、ライオットに持っていかれることもなかったのに、と。
「怖かったからよ」
 ニースはあっさりと答える。
「教えるのは簡単だったわ。けれど教えれば、すぐに次の質問が来るでしょう? 『どうして私はニース様に預けられたの?』とね。私は、その質問に答えるのが怖かったの」
 レイリアは勘のいい娘だ。口先だけの嘘などすぐに見破ってしまう。
 では正直に、あなたは亡者の女王の生まれ変わりだから、私が保護する必要があった、と告げれば良かったのか?
「レイリアが真実を知って、それで亡者の女王が覚醒したらどうしよう。私はそう考えていた。あの子の強さを信じきれていなかったのね」
 亡者の女王の覚醒はすなわち、レイリアを墓所へ封印することを意味する。
 それを恐れたニースは、この17年間ずっと、問題を先送りにしてきたのだ。
「私にできなかったことを、あなたたちは簡単にやってしまう。人を見る目には自信があったけど、正直なところ、これほどとは想像もしていなかったわ」
 言ってニースは、シンの肩をぽんと叩いた。
「ピート卿は私が看るわ。あなたもレイリアのところへ行って、そして誉めてあげてちょうだい。よく頑張った、ってね」
 うなずいたシンが仲間たちの方へ歩み寄ると、ニースは眩しそうな視線を若者たちに向けた。
 彼らがレイリアを守るために見せた答え。
 彼らの強さの根源は、個人の武勇や魔力ではない。
 心から信頼できる仲間との、絆の強さなのだ。
 それはまさしく、これからレイリアがナニールと戦っていくために必要不可欠な要素。
「マーファよ、あなたのお導きに心から感謝いたします」
 この奇跡のような出会いに、祈りの言葉が、自然に口をついて出た。
 猫王様は、楽隠居は早すぎると言っていたけれど、それほど長く待つ必要もなさそうだ。
 血まみれの食堂に、強引にハッピーエンドを手繰り寄せた若者たちを見て、ニースは久しぶりに、心が晴れていくのを感じた。
 今、この場所から。
 ロードスに新しい風が吹き始めたのだから。


 シナリオ2『魂の檻』
 MISSION COMPLITE
 獲得経験点
  アイアンゴーレム9レベル×500=4500点






[35430] インターミッション2 ルーィエの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:51
インターミッション2 ルーィエの場合

 人間という生物は総じて愚かなものだ。
 ささやかな主張の違いをめぐって刃を振りかざし、同族同士で傷つけ合う。
 戦いの跡。
 家具や食器の残骸が散らばる食堂で、猫族の王たる銀毛の双尾猫は、窓から銀色の月を見上げていた。
「まったく、バカな奴ら」
 あたりには胸が悪くなるような血臭がたちこめ、壁といわず床といわず、赤黒い汚れでいっぱいだ。
 これほどの血が流れても、誰一人として望んだものを手に入れていない。全員が痛みを感じただけ。
 どんな愚かしい生物でも、この事実を知れば少しは反省する気になるだろう。
 それでも争いをやめず、ほとんど趣味としか思えないほど積極的に傷つけ合う人間という生物が、ルーィエには全く理解できなかった。
「とはいえ……」
 まったく救いがないわけではない。
 破壊を画策したのが人間なら、それを止めようとしたのもまた、人間だ。
 居心地のよい部屋と、温かい食事。
 それはルーィエにとっても十分な価値を持つものあり、彼の不肖の弟子たちはそれを守るために全力で戦った。
 満点とはいかないが、その努力には褒美をくれてやっても構わないだろう。
「相応の評価を与えるのも、王たる者の高貴な義務というものだからな」
 紫色に輝く瞳で部屋の中を見渡すと、ルーィエは精霊語で呼びかけた。
『いつも後始末だけというのは気に入るまいが、これもそなたたちの務めだ。人間どもの愚行で荒れ果てた住まいを、元の姿に戻すがよい。そなたたちの奮闘に期待する』
 決して華美ではないが、ピート卿夫妻が愛情を持って手入れしてきた館。
 そこは、見えざる精霊たちが住まいと定めるのに十分な資格を有している。
 呼びかけに応じて、屋敷の中で小さな者たちが動き始めるのを感じて、ルーィエはそっと食堂を出た。
 彼らは姿を見られることを嫌う。後のことは任せて、しばしの休憩をとっていれば、朝には仕事の成果が見られるだろう。
 眠りの小人が砂をまくのを感じると、ルーィエは睡魔に逆らわず、柔らかいソファを見つけて丸くなった。
 最後にちらりと見上げた銀色の月は、いつもよりも優しく輝いている気がした。


ルーィエ(ツインテールキャット、オス、6歳)
 尻尾が2本ある猫族の王。銀色の体毛。

 モンスターレベル 5→6
  敏捷度 18 移動速度 15
  生命力 12 生命抵抗力 6→7
  精神力 20 精神抵抗力 7→8
 技能
  古代語魔法 5レベル(魔力8)
  精霊魔法 5レベル→6レベル(魔力8→9)

 特殊能力
  精神的な魔法は無効
  毒、病気に冒されない
  暗視、闇視




[35430] インターミッション2 ルージュ・エッペンドルフの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:51
インターミッション2 ルージュ・エッペンドルフの場合

 翌朝。
 食欲をそそる匂いに刺激されて、ルージュはいつもより早く目を覚ました。
 階下からはリズミカルに包丁を使う音が、窓の外からは小鳥のさえずる声が聞こえる。
 気持ちのよい朝。
 夏休みに、夫と旅行で泊まった高原のペンションを思い出す。
「ん~~」
 客間のベッドで大きく背伸びをすると、ルージュはくるまっていたシーツの海から起き上がった。椅子にかけてあった魔術師のローブを羽織り、申し訳程度に髪に櫛を入れる。
 鏡の中にいる繊細な顔立ちの佳人が、眠そうな瞳でルージュを見つめていた。
 あの激闘の後。
 ニースとレイリアはピート卿夫妻の看護にかかりっきりだったし、シン、ライオット、アウスレーゼの3人は再襲撃を警戒して作戦会議をしていた。
 慣れない魔法を連発したルージュは、疲れ果ててソファに横になったのだが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
「ライくんが運んでくれたのかな?」
 であれば、もう危険はないということだ。
 普通に考えれば、あの状況で戦力を分散して個室に入れるはずがない。あえてそれをやったということは、やっても大丈夫だという確信があったことを意味する。
 血まみれのダイニングに一晩籠城するのもぞっとしないし、夫の判断には素直に感謝しよう。
 そんなことを考えながら、朝食の匂いに誘われるように階下に降りる。
 窓から朝の陽光が差し込み、館はまるでカントリー・ウェスタンの映画の中のようだ。朝特有のけぶるような空気が、居心地のよさに花を添えている。
 これで昨日の事件がなければ最高だったのに。
 そう思いながら食堂の扉をくぐって、ルージュは驚きのあまり目を見開いた。
 部屋中に飛び散ったはずの血痕は跡形もなく消え去り、壁も床も丁寧に磨き上げられて、まるで新築のような木の香りが漂っている。
 大きなダイニングテーブルには糊のきいた純白のクロス。
 卓上には人数分の食器が整然と並び、フォークやスプーンなどの銀器も準備万端だ。
 砕けたはずの花瓶には昨日と同じように花が生けられ、朝の食卓を飾っていた。
「うそ……」
 昨日の激闘の跡など、どこにも見当たらない。
 まるで時間を巻き戻したかのようなダイニングに、ルージュが言葉を失っていると。
「おはようございます、ルージュさん。今朝は早起きですね」
 清楚なエプロンドレス姿のレイリアが、厨房から顔を出して笑顔を見せた。
「すごいでしょう、この食堂。ルーィエさんが元通りに直して下さったんです。猫の王様はすてきな魔法使いだったんですね」
「ルーィエが……」
 ルージュが目を丸くしていると、窓のすぐ下、日溜まりの一等地でミルクを舐めていたルーィエが、つんと澄まして口を挟んだ。
「何度も言わせるな。直したのは俺様じゃない。イメーラ夫人がしつけた小人たちだ。礼ならイメーラ夫人に言え」
「なるほど、館の精霊たちに頼んでくれたのね。ありがとう、ルーィエ」
 ルージュは窓際に歩み寄ると、指先で双尾猫の首筋をくすぐって礼を言う。
 気持ちよさそうに目を細めた後、ルーィエはふと我に返って尻尾を振り回した。
「俺様は何もしてないと言ってるだろうが。仮にも魔術師の端くれなら、人の話は正しく理解しろ。それと俺様を子供扱いするな。猫族の王に対して不敬だぞ」
「立派なことをしたんだから、そんなに照れなくてもいいのに」
 ルージュが苦笑すると、銀色の双尾猫はムキになって喚いた。
「うるさい。無駄口たたいてる暇があるなら、この娘を手伝って朝食の準備でもしてこい。珍しく早起きしたんだから、たまには人様の役に立ってみせろ」
 ルーィエが不機嫌そうにそっぽを向く。
 ルージュは立ち上がると、レイリアに尋ねた。
「イメーラ夫人は、まだ寝てるの?」
「はい。さすがに瀕死の重傷でしたから。体力が回復するまでは休んでもらおうと思います」
 昨日は本当にありがとうございました、とレイリアは深々と頭を下げた。
「それなら、私も朝食の準備くらい手伝うよ」
 ローブの袖をまくりながら厨房へ向かう。
 すると、レイリアはあわてて手を振った。
「恩人に手伝わせるなんてとんでもない。ここは私が」
「大丈夫、これでも人妻だから。料理くらい任せて」
 もっとも、漂ってくる匂いからして、ほとんどの調理は終わっているのだろうが。
 そう思いながら厨房をのぞくと、予想通り、いくつもの鍋やフライパンで調理が同時進行していた。
「ほら、卵が焦げちゃう。それは火が半分くらい通ったら、軽く水を入れて蓋をするといいよ。きれいに膜がはるから」
「あ、はい」
「すごくいい匂いがする。パンも焼いてるの?」
「そうです。私が作ったので、味は期待しないで下さいね」
 水瓶から汲んだ水を慎重に注ぎながら、レイリアが背中越しに答える。
 厨房の隅にしつらえられた窯では、木の板に載せられたパンが順調に膨らんでいた。
「ベーコン入りの目玉焼きに、ソーセージに、サラダに、スープに、パンと紅茶か。ああそうだ、バターとジャムが要るよね」
 厨房に用意された食材を眺めながら、唇に指を当ててつぶやく。
 すると、レイリアは驚いてルージュを見た。
「バターなんて、何に使うんですか?」
 予想外の言葉に、ルージュも驚いて黒髪の少女を見返す。
「え? ふつうパンに塗って食べるよね」
「……ルージュさんって、貴族の出身なんですね。どうして冒険者なんかしてるんですか?」
 フライパンに蓋をすると、レイリアが意外そうな顔をする。
「ええとごめん、話がぜんぜん見えない。パンにバターを塗ると、貴族なの?」
「だって贅沢じゃないですか。バターって作るのも大変だし、日保ちしないし、朝食に間に合わせるには相当早起きしなきゃいけないですよ?」
 レイリアの言葉に、ルージュはなるほどと頷いた。
 スーパーで200円で買ってきて冷蔵庫に入れておけばいい日本とは、まるで物の価値が違うのだ。
 常温で溶けてしまうバターは、確かに使うたびに作らなくてはならない。
 たった100グラムのバターを作るのに必要な牛乳は、実に5リットルにも及ぶ。それを延々と振り続ける作業行程を考えれば、一般家庭の朝食にはとても使えないだろう。
「じゃあ、昨日出た川魚のバター焼きも、相当手間がかかってたんだね」
「革袋に入れたミルクを木の枝につるして、父が半日も木刀で叩き続けたそうです」
「うわ、そりゃ大変だ」
 その苦労を察して、ルージュが顔をしかめる。
 フライパンを火から下ろして皿に取り分けながら、レイリアは楽しそうに笑った。
「母が言うには、年に一度だけニース様と娘が帰ってくるのだから、その準備だと思えば苦労すら楽しい、と」
 父、母、と呼ぶレイリアの顔は幸せそうで、見ているだけで微笑みがこぼれてくる。
「じゃあご両親のために朝食を作るレイリアさんも、今は楽しくて仕方ないんだね」
「そうですね。両親だけじゃないですけど、誰かに喜んでもらおうと思って作る料理なんて、これが初めてですから」
 かいがいしく食事を準備する新妻のごとく、まるで歌でも歌い出しそうな様子のレイリアを見て、ルージュは少し考え込んだ。
 準備を手伝うのは構わない。だが、この朝食はレイリアがすべて用意したというところに、最大の価値があるのではないだろうか。
 であれば、自分が手を出すのはあまり宜しくない。
「……なるほど、贅沢品か」
 そのアイデアは、天恵としか言いようがない。
 ルージュはにこりと笑うと、レイリアに尋ねた。
「ミルクはまだ残ってる?」
「はい。毎朝、近所の方が届けてくれるそうなので。そこの瓶にたくさん入ってますよ」
「分かった。これ、私が使っても構わないかな? 朝食までにバターを作ろうと思うんだけど」
 今度は包丁を片手にトマトを切ろうとしていたレイリアが、軽く苦笑する。
「それはやめた方がいいのでは? 時間もないですし、朝から重労働ですよ?」
「大丈夫。力仕事担当を連れてくるから」
「使うこと自体は構いませんけど」
 寝起きでバター作りでは、ライオットさんがお気の毒です、と申し訳なさそうに言う。
 ルージュは笑って答えず、あとはよろしく、と言い残して厨房から出ていった。


 しばらくしてルージュが厨房に戻ってきたとき、手には魔法樹の杖を持ったままだった。
「やれやれ、我が妻ながら信じられないよ」
 あきれ顔のライオットが首を振りながら一緒に入ってくる。朝だというのに完全武装。ミスリル銀のプレートメイルを身につけ、手には剣まで持っている。
「はいライくん、この牛乳をこっちの容器に移してね。レイリアさん、塩はどこ?」
「ええと、右手の方に陶器の箱がありませんか?」
 挨拶代わりにレイリアと苦笑を交わしあうと、ライオットは妻に命じられた仕事に取りかかった。
 金属製の円筒型の容器。アルプスの少女が牛乳を売りに行きそうな大きなミルクボトルに、景気よく牛乳を注ぐ。
 ルージュはその上から塩を振ると、きっちりと蓋を閉めた。
「じゃあライくん、彼に持たせてあげて。そしたらみんなを起こしてきてね。朝食が冷めちゃうから」
「はいはい」
 夫を引き連れてダイニングに戻る。
 ライオットがミルクボトルを持たせるのを確認すると、ルージュは魔法樹の杖を構え、高らかに呪文を唱えた。
『万能なるマナの力により命ずる。鋼の衛兵よ、そのタンクを勢いよく振り続けなさい!』
 全高2メートル。
 昨日、彼らをさんざんに苦しめた甲冑姿のアイアンゴーレムは、命令に忠実に従ってミルクタンクを振り始める。
 ぞぶん、ぞぶんと盛大な音が響き、何事かと降りてきたシンやアウスレーゼが、その光景を見て絶句した。
「まあ、あれだ。この発想力だけは俺様にも真似できないね」
 微妙な沈黙が支配するダイニングで、ルーィエが呆れ半分、感心半分に論評する。
 そんな空気も何のその。
「これでよし。あと20分もすれば、おいしい自家製バターの出来上がり」
 満足そうに鋼の衛兵を眺めると、ルージュは満面の笑みを浮かべた。
 思い思いの表情で見つめる冒険者たちの前で、鋼の衛兵は、ただ無表情にミルクを振り続けた。



シナリオ2 『魂の檻』

 獲得経験点 4500点 
 
 今回の成長
  技能、能力値の成長はなし。
  アイアンゴーレム(ML9)を手に入れた。
  経験点残り 9500点。






[35430] インターミッション2 シン・イスマイールの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:52
インターミッション2 シン・イスマイールの場合

 精霊殺しの魔剣“ズー・アル・フィカール”。
 風と炎の砂漠の一角、炎の精霊王を封じた塔からシンが持ち出した、部族の秘宝とも言うべき宝剣である。
 そうなるに至った経緯を思い返せばキャンペーン1本分に相当するが、一言でまとめれば、名声を高めすぎたシンを炎の部族から放逐するため、族長が渡した手切れ金だと言えるだろう。
 風の部族との戦いで武勲を重ね、敵味方から“砂漠の黒獅子”と恐れられ、敬われた戦士。
 族長を越えるほどに集めてしまった人望が、皮肉にも、彼を砂漠から追い出すことになったのだ。
「……っていう設定の、最強の戦士のはずだよな、俺」
 疲労困憊したシンは、全身から汗を滴らせながら、大樹の根本に座りこんだ。
 精霊殺しの魔剣を地面に突き立て、あえぎながら空を仰ぐ。
 ここはピート卿の館から5分ほど歩いた、小さな丘の上だ。丘を覆うように枝葉を広げた大樹が1本、広い木陰を提供している。
 その木陰を即席の道場として、シンとライオットは剣術の訓練に励んでいたのだが。
「その通りだろうが。何が不満なんだ、砂漠の黒獅子?」
 愛用の大盾と長剣を草の上に放り出し、そのまま大の字に寝転がるライオット。
 ほんの3分。
 それだけの時間で、まるで脱水機にかけられたように汗も体力も絞り尽くされ、もう立つことすらできない有様だ。
「こう見えても俺は、10年以上稽古を積んでるんだぞ。それなのに、昨日今日になって剣を持ったばかりの奴に、ここまでしてやられるとは……」
 チートにも程がある、ふざけやがって、と不平たらたらのライオットに、シンは首をかしげた。
「そうか? フェイントには引っかかったし、カウンターは食らったし、お前の掌の上で踊ってたようにしか感じないけど」
「それを全部、反射神経と直感だけで粉砕しただろうが。お前は剣術家の天敵だ。修練に修練を重ねた技を、何となくで弾き返されちゃたまんないぜ」
 草の上で脱力したまま、これが10レベルファイターの実力か、とライオットが嘆息する。
 シンの戦い方は、ライオットの知っている剣道のセオリーからはかけ離れたものだった。
 ともかく先手必勝。駆け引きも何もない。
 技はシンプルで単純そのもの。振りかぶり、振り降ろす。ただそれだけだ。ライオットに言わせれば、小学生のチャンバラと同レベル。
 だがシンの場合、その速度と威力が尋常ではなかった。例えるなら、時速250キロの剛速球を投げるピッチングマシーンのようなものだ。
 ボールが来るタイミングは分かっている。
 コースも分かっている。
 バットを振って当てるだけでいい。
 だがその難易度が、そこらの戦士には対応不可能なレベルなのだ。ファイター9レベルのライオットだからこそ何とか防御できるが、これが5レベル6レベルだったら、剣筋を見ることすらできないだろう。
 幸い、技の出端やタイミングが分かりやすいので、罠にかけるのは難しくない。何度かは完璧なタイミングでカウンターを入れ、剣を叩き落とそうと試みた。
 しかしその全てを、人間離れした反応速度で打ち返された。フェイントには面白いくらい引っかかるのに、続く本命も完璧に防御された。
「ホントもう、ふざけんなとしか言いようがない。レイリアも言ってたけど、俺も保証してやるよ。お前はどんな奴が相手でも負けない。安心しろ」
 大の字に寝転がったまま、視線だけをシンに向けて忌々しそうに言う。
 オーガー騒ぎの時も、今回の事件でも、シンはそれぞれの相手に1回ずつしか剣を振っていない。
 本人が言うには、だから自信がつかないということらしいが、ライオットに言わせれば逆だ。
 どんな相手でも一撃で十分。二撃目は必要ない。
 それが“砂漠の黒獅子”の実力なのだ。
「正直嬉しいよ、お前に認めてもらえると」
 大樹の幹に寄りかかったまま、シンが屈託のない笑顔を見せる。
 その素直な感情の吐露に、やさぐれていたライオットはため息をついた。
 まったく、こういうのを人徳と言うのだろう。
 レイリアが惹かれるのも当然だ。今時、こんな擦れてない男は珍しい。
「あとは場数だな。戦いに恐怖心を持つなって言っても無理だから、それを克服できたっていう自信をつけるだけだ」
 そう言って体を起こしたライオットに、シンが苦笑する。
「それが一番難しそうだ」
「でも、強くなりたいんだろ?」
 親友の言葉に、シンは間髪入れずに頷いた。
「なりたい。そう決めたんだ」
「なら、なれるさ。大丈夫、お前にはできるよ」
 それからしばらく、大樹の蔭に沈黙が降りた。
 ちらちらと瞬く木漏れ日。
 地平まで続く青い空を、白い雲が悠然と漂っていく。
 どれくらいの時が流れたのか。
 ようやく疲労が落ち着いてくると、ふと思い出したように、シンが切り出した。
「ところでレイリアの件、どうする?」
「勧誘の件か? 俺は賛成だ。うちのパーティーには回復係がもうひとり欲しい」
 ウェーブのかかった金髪をくしゃりとかき混ぜて、ライオットが言う。
 アイアンゴーレムとの戦いで露呈した、パーティーの致命的な欠陥。戦闘中の回復要員不足を補うのに、レイリアはうってつけの人材だ。
 ならばこの際、彼女を正式にパーティーの一員として勧誘しよう。そんな話が持ち上がっていた。
「それに、彼女を守るなら一緒にいるのが一番だろ。彼女が受け入れるかどうか分からないけど、とりあえず誘うだけ誘ってみろよ……ほら、噂をすれば影、だ」
 その言葉にピート卿の館を見下ろせば、レイリアが丘の小道をゆっくりと登ってくるのが見えた。
 昨日まで着ていたマーファの神官衣はズタズタにされてしまったので、今日はイメーラ夫人から借りたエプロンドレスを着ている。
 ふわりとしたスカートが風になびき、おくれ毛を手で押さえる仕草は、まさに絵に描いたようなお嬢さま姿。
 その視線がシンをとらえると、にこりと笑って小さく手を振ってきた。
「……萌えるな。狙ってやってるんじゃないところが特にいい。これでポニーテールだったら最高なのに」
 羨ましそうに論評すると、ライオットは剣と盾を拾い、よっこらしょと立ち上がった。
「んじゃ、俺は帰るわ。あとは任せた。押し倒すなら館から見えないところで頼む」
「んなことするか!」
 思わず大声を上げるシン。
 親友に悪戯っぽい笑みを残すと、ライオットは小道を逆に下っていった。
 途中でレイリアと二言三言会話すると、そのまま館に帰っていく。
 今度は小走りになって坂を登ってくるレイリアを、シンは立ち上がって出迎えた。
「稽古はもうおしまいですか?」
「とりあえずはね。まだまだあいつの方が一枚上手だったよ」
 目の前の美少女に肩をすくめてみせる。
「そんなことありません! 確かにライオットさんは手強いけど、シンだって絶対負けてません!」
「確かに剣を持って戦ったら、互角の勝負はできると思う。けど俺は、自分の中にある恐怖心と戦うという点で、あいつに遠く及ばないんだ」
 落ちついた眼差しでライオットの後ろ姿を眺めるシン。
 レイリアは納得いかない様子だったが、シンの表情に気づくと、言いつのろうとした言葉を飲み込んだ。
 今のシンは、以前とはちがう。
 自分に足りないところを見据えながらも、前を向いて進もうという気概にあふれている。
 種子が殻を破って芽を出したのだ。それを知って、レイリアの顔に微笑みが浮かんできた。
「ん? 俺、何か変なこと言ったかな?」
「いいえ、ちっとも。今のシンはとっても格好よかったから」
 さらりと言って、レイリアはシンの瞳を見上げた。
「ところで、今ライオットさんが言ってたんです。シンがとってもいい話をしてくれるって。いったい何ですか?」
 レイリアの顔は期待でいっぱいだ。
 その彼女がどういう反応を示すか見当もつかなかったが、シンはいつものように、単刀直入に用件を切り出した。
「実は、俺たちの仲間になって欲しい」
「仲間?」
 その言葉は予想外だったのだろう。レイリアはきょとんとした表情で繰り返し、首をかしげた。
「私は、今でもそのつもりなんですが?」
「そうじゃない。俺たちと一緒に冒険者をやって欲しいんだ」
「冒険者……それは、私にターバ神殿を出ろということですか?」
 レイリアの顔から、潮が引くように笑みが消えていく。
 やっぱり無茶な話だったかな、と後悔しながら、シンは言葉を続けた。
「簡単に言えばそうなる。俺たちには君の力が必要なんだ。一緒に来て欲しい」
「それは……ちょっと、簡単にはお答えできません……」
 突然の話に困惑を隠しきれず、レイリアが目を伏せてしまう。
 当然だろう。物心ついたときから過ごしてきたマーファの聖地。そこには育ての母であるニースもいれば、兄弟同然に育ってきた神官たちも大勢いるはずだ。
 大地母神の司祭であるというのがレイリアの持つアイデンティティの根幹である以上、ターバ神殿に所属することは、自分が自分であるための大前提。
 神殿を出ていくなど、今まで考えたこともないに違いない。
 突然そこを出ろと要求されて、はい分かりましたと簡単に言えるはずがないのだ。
「そりゃそうだよな。じゃあとりあえず1回だけ、遠足だと思って一緒に出かけないか? 大丈夫、何かあっても君は俺が守るから」
 そんなシンの言葉が、レイリアの脳裏に昨日の光景を蘇らせた。
 もう助からないと思った絶望の淵に、まるで神の使徒のように現れたシンの姿。
 血と破壊をまき散らして君臨していた邪教の司祭を、ただの一撃で追い払った勇者の背中を思い出して、とくん、と胸が高鳴った。
 またあの背中が見られるかもしれない。
 ふと浮かんだ考えは、この上なく甘美にレイリアを誘惑する。
 1回だけなら。
 休日を利用すれば、神殿の勤めも疎かにはならないだろうし。
 修行と称して冒険者になった司祭だっている。
 最高司祭ニースにしても、最も深き迷宮での魔神王討伐という、歴史に残る偉業を成し遂げているではないか。
 あらゆる知識が、次々と自分に都合よく浮かび上がってくる。
 それに何より、冒険に出ている間は、シンと一緒にいられる。
 その事実の前に、もはや自分が抵抗できないことを、レイリアは悟ってしまった。
「とりあえず1回だけ、お母様のお許しがあれば。今はそれ以上お約束できません」
 緩んでしまう頬を隠すように、下を向いて髪で表情を隠す。
 すると、それをどう解釈したのか、シンが申し訳なさそうに言った。
「ごめん、無理強いをするつもりはなかったんだ。だけど、君が必要だっていうのは本当だ。できれば分かって欲しい」
 そしてシンの手が、ためらいがちにレイリアの肩に乗せられる。
 薄いエプロンドレス越しに暖かい体温を感じて、レイリアの顔が一瞬で紅潮する。
 シンの声が遠くで何か言っていたが、レイリアの耳に聞こえるのは、早鐘を打つ自分の鼓動だけだった。



シナリオ2『魂の檻』

 獲得経験点 4500点

 今回の成長
  技能、能力値の成長はなし。
  レイリアと結構いい雰囲気になった。
  経験点残り 13500点






[35430] インターミッション2 ライオットの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:53
インターミッション2 ライオットの場合

 出発の予定を一日延期した一行は、ルージュとレイリアが用意した夕食を楽しむと、団欒のひとときを終えて各自の部屋に下がっていた。
 ピート卿もイメーラ夫人も、起き上がって食事をとれる程度には回復した。明日の朝には再びターバを目指すことになるだろう。
 その夜。
 ライオットは仲間の同意を取り付けると、戦利品のレイピアを携えてニースの部屋を訪れた。
「このような夜更けに、何のご用ですか?」
 護衛として同じ部屋に泊まっているアウスレーゼが、非常識な訪問者に冷たい視線を向けてくる。
 まるで氷の刃だな、と思いながら、ライオットは言った。
「話がある。これからのことについて。君にもだ、アウスレーゼ」
 少なからず驚いたのか、蒼氷色の瞳がわずかに大きくなり、無言で部屋の奥を振り返る。
「お入りいただいたら? 私は構わないわよ?」
 穏やかなニースの声がすると、アウスレーゼはドアの前から体を引いた。入って良いという無言の許可なのだろう。
「失礼。ニース様も、夜分に申し訳ありません」
 会釈しながら部屋に入ると、椅子に腰掛けていたニースは、穏やかに微笑んで首を振った。
「いいえ。あなた方に閉ざす扉を、私は持っていないわ。いつでも歓迎しますよ」
「恐れ入ります」
 招き入れた客人が帯剣していることには少し驚いた様子だが、ちらりと視線を向けただけで何も言わない。それだけ信頼している、ということの意思表示なのだろう。
 背後に回ったアウスレーゼが緊張と警戒で気を尖らせているのを感じて、ライオットは苦笑した。
 初対面で言われたとおり、これではいつ斬られても文句を言えない状況だ。
「これはシンが昨日の騎士から分捕った戦利品です。アウスレーゼが言うにはけっこうな名剣だとか」
 鞘のない、抜き身のレイピアの刃を持つと、柄をアウスレーゼに差し出す。
 金髪の密偵は、すらりとした眉を軽く上げると、おとなしく剣を受け取って解説した。
「この剣の名はピアシング・スレッド。“貫く糸”という意味です。言うまでもなく蜘蛛は王国の紋章。その銘を持つ時点で、アラニア王家伝来の品だというのはお分かりいただけると思いますが」
 言いながら、受け取ったレイピアをニースに差し出す。
 だがニースは黄金造りの柄を一瞥しただけで、手を伸ばそうとはしなかった。
「そんな剣を、どうして邪教の司祭が持っていたのかしら?」
「昨日来襲したラスカーズ卿は、御前試合で三連覇した技量の持ち主です。国王陛下がその腕前を愛でられ、その場でこの剣を下賜されたと聞いております」
 アラニア王国には2つの騎士団がある。
 ひとつは鉄網騎士団。いわゆる騎士たちの集まりで、鋼の鎧をまとい、馬上槍を操って戦う正規の騎士団と言える。
 もうひとつは銀蹄騎士団。こちらは貴族の子弟の中から魔法の素養のある者だけを選抜し、彼らで編成したエリート集団だ。数こそ少ないが、魔法を併用した攻撃力はモスの竜騎士たちに匹敵すると言われている。
「ラスカーズ卿は、この銀蹄騎士団の中でも高い位階を持つ上級騎士です。彼の存在は、貴族が他の一般騎士より優れているという選民思想の象徴でした」
 努めて無表情を装い、再びライオットに剣を渡そうとするアウスレーゼ。
 きっと返したくないんだろうな、と内心苦笑したライオットは、手を振って言った。
「いや、いい。その剣は君が持っててくれ」
 杞憂でも何でも、不安材料は払拭するに限る。
 アウスレーゼは視線だけで感謝を告げると、剣を持ってニースの後ろに下がった。
「それで、お話というのは?」
 小さな丸テーブルをはさんで椅子を勧めると、ニースは水を向けた。
 どこから話したものか、と考えながら、ライオットは勧められるままに椅子に腰掛ける。
「ニース様は“砂漠の黒獅子”という名を聞いたことがありますか? まあぶっちゃけ、シンのことなんですが」
「な……ッ!」
 分かりやすく驚きを表したのはアウスレーゼ。
 ニースは首を傾げると、肩越しに振り向いて尋ねた。
「私は聞いたことないわね。あなたは知っているの?」
 少し悩んだ後、アウスレーゼは肯いた。
「昨年の話です。風と炎の砂漠で蛮族同士の争いが激化したという情報が入り、間隙に乗じてオアシスの街ヘヴンを支配下に収めようと、ノービス伯が策を巡らせたのです。その謀略を叩き潰した蛮族の英雄が、砂漠の黒獅子だと聞いています」
 ニースが知らなかったのも無理はない。
 千年王国アラニアに比べれば、風と炎の砂漠など野蛮人の住む不毛の地でしかない。そこでいくら名声を得ようとも、せいぜい猿山の大将程度の認識しか持たないだろう。
 裏の情報に精通したアウスレーゼですら、“砂漠の黒獅子”の本名を知らなかったのだから。
 ところが、とライオットが言った。
「困ったことに、バグナードは知っていたんです。そして、シンがニース様の近くにいるという事実も。それを知られた以上、情報は宮廷にも広まるでしょう」
「……なるほど、それは厄介ね」
 ライオットの言葉に、ニースは渋い表情を浮かべた。
 悪意に悪意を重ねてみれば、マーファ教団が炎の部族と組んで宮廷に対抗している、と邪推できなくもない。
 ただでさえ宮廷に目を付けられているニースのこと。貴族たちに揚げ足を取られるような事態は避けたいはずだ。
 難しい顔で考え込む最高司祭に、ライオットは追い打ちをかけた。
「そしてレイリアのこともあります。カーディス教団が宮廷に根を張っている以上、権力を利用してターバに圧力をかけてくることは必定です。今の状況では一方的に攻められっぱなしだ。何とかして敵の正体を掴んで、反撃しないと埒があきません」
 確かに自分たちがいれば、少人数での直接戦闘には負けない。
 だが権力機構にとっては、個人の武勇など蟷螂の斧のようなもの。考慮するほどの障害にはならないのだ。
 宮廷の反対派がその気になれば、自分たちなど簡単に踏み潰されてしまう。
 それは間違いない。
「あなたはいったい、何者なんです?」
 一介の冒険者とは思えない分析に、アウスレーゼの目が鋭くなる。
 政治的な視点から断片的な情報を分析し、見えない未来を予想するなど、一般民衆には到底不可能なことだ。
「昔、とある国で司法官憲をやっていた。けどまあ、今は関係ないだろ」
 ライオットはニースを見ると、正面から切り出した。
「ニース様が名声の故に、政治や権力からあえて身を遠ざけてきたのは分かります。ですが、これからはそれでは困る」
 厳しい顔で見返してくるニースに、おそらく耳に痛いはずの提案を続ける。
「権力に対抗できるのは権力だけです。宮廷内に親ニース派というべき派閥を作って、敵を制肘する必要があります。相応の利権さえ用意すれば、貴族を何人か取り込むくらいできるでしょう?」
 特にアラニア北部に領地を持つ貴族や上級騎士なら、民心の安定を餌にしてニース派に引き入れることも難しくなさそうだ。
「一定の勢力があれば、レイリアの保護にも繋がります。しかし勢力が大きくなりすぎると、王家の警戒心を刺激しますから、匙加減が難しい」
 こういう策謀めいたことはキースの担当だったのだが、彼が不在では仕方がない。
 シンはこういう活動には不向きだ。ルージュも中身が理系の技術者なので、権力の本当の恐ろしさは理解できないだろう。
 個々の『警察官』はたいして怖くない。
 だが『警察』ほど怖いものはない。
 それを嫌と言うほど知っているライオットが、宮廷の恐ろしさを誰よりも理解できるのだ。
「あなたの言うことは分かるわ。けど、それは簡単じゃないわよ」
 ため息混じりにニースが言う。
 確かにそのとおり。
 今のマーファ教団はアラニア北部に根を張る半独立国家であり、その影響力は王家のそれに匹敵する。
 だからこそニースは王国への恭順を示し、内戦の可能性を否定してきたのだ。
 貴族がマーファ教団に近寄る姿勢を示すことは、それだけで王家への反逆と捉えられても仕方がない。
「おっしゃるとおりです。だからこの計画には、核となる貴族が必要不可欠です。あの人がニース派なのだから、自分が参加してもいいだろう。あの人なら国王陛下に反逆したりしないだろう、そう思われるような派閥の領袖が」
 そしてライオットは、アウスレーゼに視線を向けた。
 いつになく真剣な表情で問いかける。
「だから教えてほしい。条件に合致する貴族はいないか?」
 国王に親しく、他の貴族の上に立てる身分で、ニースに反感を抱かない人物。
 無茶な要求だ。
「そんなことを言えるわけがないでしょう。私を何だと思っているのです?」
 アウスレーゼが即答する。
 彼女は国王直属の密偵だ。その彼女が、王国の混乱につながるような情報を軽々しく教えるはずはない。
 しかし。
「いない、とは言わないんだな」
 ライオットが口許に笑みをひらめかせる。
 不機嫌そうに黙り込んだアウスレーゼに、ライオットは切り札を切った。
「ただで教えろとは言わない。教えてくれたら、その剣を君に差し出す。好きに使ってくれて構わない」
 王家伝来の宝剣“ピアシング・スレッド”。
 魔法の剣でも何でもない、ただちょっと豪華な装飾が施されただけの、普通のレイピアだ。
 だがアウスレーゼには、その剣が持つ政治的価値の巨大さを認識できるはずだ。
 無言で手の中の宝剣に視線を落としたアウスレーゼに、ライオットは頭を下げた。
「頼む。俺たちはレイリアを助けたいだけなんだ。地位も名誉も興味なんかない。シンを見ていれば、それは分かるだろう?」
 なおも無言を貫くアウスレーゼ。
 その様子を見ていたニースは、細く吐息をもらすと、最初と同じ穏やかな微笑を浮かべた。
「私はあなたたちと出会えたことをマーファのお導きと感謝したけれど、もうひとつ感謝しなくてはならないわね」
 心の奥底まで見通すような、“マーファの愛娘”の視線をライオットに向ける。
「あなたがシンと一緒にいるという事実が、これほど頼もしく思ったことはないわ。シンはまっすぐで前向きだけれど、背中を襲う刃には無力な性格だから」
「シンにはそのままでいて欲しいんです。あいつの剣はレイリアを暴力から守るためだけにある。裏表のない素直な人柄こそ、あいつの強さの根元ですから」
 ならば、陰謀と策略からシンとレイリアを守るのは、自分の役目。
 そう言い切ったライオットに、ニースは満足そうにうなずいた。
「正直言って、あなたのことはちょっと警戒していたのよ。いったい何を考えているか、底の知れないところがあったから」
 けれど、とニースは続けた。
「あなたの持つ刃が彼らを守るためにあるのなら、これほど心強いことはないわ。ならば私も、持てる全てを使ってあなたたちを庇護しましょう」
 そしてニースは立ち上がると、アウスレーゼに向き直り、その瞳を見つめた。
「アウスレーゼ。私からもお願いするわ。そんな貴族に心当たりがあるなら、ぜひ教えてちょうだい」
 その人徳と威厳と、誠意。
 手の中にある宝剣の価値。
 その重さに耐えかねて、アウスレーゼは深々とため息をついた。
「……ラフィット・ロートシルト男爵夫人という方がいます。国王陛下の愛妾でいらっしゃいます」
 男爵夫人と言っても、誰かの妻というわけではない。
 愛妾という地位に付随して、本人が男爵の爵位を与えられたもの。れっきとした独身であり、女の身でありながら正式な貴族の一員だ。
 現在、国王カドモス7世は独身である。まだ王妃も王子もいない。
 ロートシルト男爵夫人が男児を出産すれば、正式に王妃に迎えられるだろうというのは、宮廷では暗黙の了解だった。
「女性であればマーファの教えに帰依するのも当然というもの。愛妾ならば国王陛下に逆らいはしないでしょう。そして時期王妃となれば、すり寄ってくる貴族にも不自由しません」
 まさにうってつけ。
 このためにいると言っていい人材だ。
「私にできるのはここまでです。念のために言っておきますが、私は男爵夫人とは面識がありません。紹介するのは不可能ですよ」
 やれやれと言いたげなアウスレーゼに、ライオットは深々と頭を下げた。
「ありがとう。助かる」
「それと、この剣は約束どおり私がいただきます」
「もちろんだ。そのために持ってきたんだから」
 安堵の笑顔を浮かべたライオットは、ニースに辞去の挨拶をすると、再び一礼して部屋を出た。
 期待以上の手応え。
 何とかして男爵夫人に取り入り、宮廷内のカーディス教団をあぶり出さなければならない。
「いつまでも防御一辺倒なんてごめんだからな」
 小さくつぶやくと、ライオットは廊下から窓の外を眺めた。
 東京で見るより少しだけ大きい月が、丘の上に顔を出していた。



シナリオ2『魂の檻』

 獲得経験点 4500点

 今回の成長
  ファイター9レベル→10レベル(15000点)
  セージ0レベル→1レベル(500点)
  経験点残り 1500点






[35430] キャラクターシート(シナリオ2終了後)
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:54
キャラクターシート(シナリオ2終了後)


シン・イスマイール(人間、男、21歳)
 浅黒い肌に黒髪。炎の部族出身の戦士。

器用度 18(+3)
敏捷度 19(+3)
知 力 14(+2)
筋 力 16(+2)
生命力 18(+3)
精神力 12(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 レンジャー LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 13500点

装備
 両手 ズー・アル・フィカール 
     必要筋力16
     攻撃力+2
     クリティカル値-2
     追加ダメージ+2
     (精霊に対してはさらに+3)
 鎧  ハードレザー
     必要筋力13
     防御力13

戦闘力
 攻撃力 15
 打撃力 26
 追加ダメージ 14(17)
 回避力 13
 防御力 13
 ダメージ減少 10


ライオット(人間、男、24歳)
 金髪碧眼。マイリーの神官戦士。

器用度 14(+2)
敏捷度 18(+3)
知 力 13(+2)
筋 力 21(+3)
生命力 17(+2)
精神力 15(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 プリースト LV 8
 バード   LV 3
 セージ   LV 1
冒険者レベル 10
 経験点残り 1500点

装備
 右手 バスタードソード
     必要筋力17
 左手 勇気ある者の盾(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)
     必要筋力13
     回避力+3
     攻撃力修正±0
     ブレス攻撃に対して抵抗力+2
     所有者に攻撃を集中させる
 鎧  ミスリルプレート
     必要筋力20
     防御力30
     回避力±0
     ダメージ減少1

戦闘力
 攻撃力 12
 打撃力 17
 追加ダメージ 13
 回避力 16
 防御力 30
 ダメージ減少 11
 神聖魔法8レベル 魔力10


ルージュ・エッペンドルフ(人間、女、23歳)
 銀髪紫眼。大陸出身の魔術師。

器用度 14(+2)
敏捷度 15(+2)
知 力 19(+3)
筋 力 11(+1)
生命力 14(+2)
精神力 21(+3)

冒険者技能
 ソーサラー LV9
 セージ   LV8
冒険者レベル 9
 経験点残り 9500点

装備    
 両手 魔法樹の杖
     必要筋力10
     魔力+2
     貯蔵精神点20
 鎧  ソフトレザー
     必要筋力 7

戦闘力   
 攻撃力 0
 打撃力 10
 追加ダメージ 0
 回避力 0
 防御力  7
 ダメージ減少 9
 古代語魔法9レベル 魔力14




[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:55
マスターシーン アラニア王宮“ストーンウェブ”
 
 少女は王宮のバルコニーから、夕暮れに沈んでいく王都の街並みを眺めていた。
 ドワーフ族の手により建設された都は、“千年王国”(ミレニアム)の雅称にふさわしい壮麗なものだ。
 王宮を中心にして放射状に伸びる街路は石畳で舗装され、その地下には上水道や下水道まで完備している。
 たくさんの窓にひとつ、またひとつと明かりが灯っていくと、アランの都はまるで光の海のようになった。
 あのオレンジ色の光の中では、男たちが酒杯を持って大騒ぎし、恋人たちが愛を語らい、家族が暖かい食卓を囲んでいるのだろう。
 それに比べて、自分は。
 少女はバルコニーから、自分の居室へ視線を転じた。
 大人が5人は並んで眠れそうな天蓋付きのベッド。
 金糸銀糸で建国英雄譚を描いた、豪奢なタペストリー。
 オークの巨木から削りだしたサイドテーブルには、水晶の水差しと硝子杯。
 どんな小さな物にも、無駄と思えるほどの手間と金をかけて整えられた部屋だった。
 つい先日も、櫛の歯を1本だけ欠けさせた女官が、その値段を知るなり蒼白になって平伏してきた。彼女の俸給では、弁償するのに20年ほどかかるのだという。
 少女は歯の欠けた櫛を受け取ると、自分で二つに折ってから言ったものだ。これで、櫛を壊したのは妾(わたくし)ですね。国王陛下のお叱りは、妾が受けることにいたしましょう、と。
 今は少女のほかに人の姿のない部屋。
 ここは鳥籠だ、と少女は思う。
 金網の代わりに金銀と権力で人を閉じこめ、一方的な愛玩を加えるための鳥籠。
 ただのラフィットだった少女に『ロートシルト男爵夫人』という名札をつけ、誰もがその名札しか見ない。
 国王陛下の愛妾という地位は、王国中の女性がうらやむ貴いものなのだという。
 確かにそうなのだろう。
 今ではラスター公爵様やノービス伯爵様など、雲上の貴人である王族までもが、自分のような小娘に丁寧に接してくれる。
 衣食住に困らず、大勢の女官にかしづかれ、何不自由のない生活が保障されているのだから。
 その代わり。
 自分に選択肢はなく、未来はなく、ただ時が流れるのを待つばかりの生活。
 14歳とは思えないほど諦観に充ちた表情で、少女~ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、バルコニーから藍色の空を見上げた。
「神様、もし願いが叶うなら……」
 国王が知ったら卒倒するような願い事を、心の中でつぶやく。
 そのとき、ノックの音がして、少女の部屋にひとりの男性が入ってきた。
「失礼いたします、男爵夫人」
 知的な雰囲気と落ち着いた声。
 黒い魔術師のローブを羽織り、桐の薬箱を携えた30歳くらいの男だ。
 名をリュイナールという。
 アラニア王国宮廷魔術師の地位にあり、ラフィットの侍医も勤める男性だ。
 清潔感のある端整な容貌の持ち主で、宮廷の女官たちには随分と人気があるらしい。銀蹄騎士団のラスカーズ卿と勢力を二分している、と聞いたことがある。
 だが彼の真価は外見ではなく、アラニア王宮で最高級の頭脳にこそあった。
「ようこそ、リュイナール様。お待ちしておりました」
 ラフィットは居室に戻ると、礼儀正しく笑顔を浮かべて、黒髪の魔術師を出迎えた。
「お憩ぎのところ申し訳ありません。今宵も国王陛下のお運びがあるとうかがいまして、薬をお持ちいたしました」
「いつもお心遣い、痛みいります」
 優雅に頭を下げて、ラフィットが礼を言う。
 宮廷魔術師はどこか申し訳なさそうな表情で、桐の薬箱から丸薬を取り出した。
 ラフィットが国王の寵愛を受ける夜は、欠かさずに飲んでいる薬。それには、一晩の間、女性の機能を完全に止めてしまうという効果がある。
「このお薬はとても助かりますが、次の日にお腹が痛くなるのは困りものですわね」
 冗談めかして笑うと、ラフィットは魔術師が差し出したワインのグラスを受け取り、その丸薬ごと飲み干した。
「男爵夫人、ご心痛はお察しいたします。しかしながら、今の状況でご懐妊なさるのは、いささか問題がございます」
「判っています、リュイナール様。大貴族の庇護のない妾が、王位継承権者を産むことは危険すぎる。そういうことですね」
「仰せのとおりです」
 一歩下がって片膝をつくと、宮廷魔術師は深々と頭を下げた。
 何かの魔法の品なのだろう、2つの紅玉と金で飾られたサークレットが、魔術師の額できらりと光る。
 まるで魔法の目みたいだわ、とラフィットは思った。
 魔術師は下を向いているが、サークレットの紅玉は彼女の心を監視するように視線をはずさない。
「ロートシルト男爵夫人は、次期の王位を望む者たちからすれば、邪魔者以外の何者でもありません。万が一にもご懐妊なされば、短慮を起こす者が出るのは必定かと」
 今のアラニア宮廷は、大きく2つの派閥が存在する。ラスター公爵派と、ノービス伯爵派だ。
 ラスター公爵は妾腹だが王の弟であり、次の王位に最も近いと目されている。
 対するノービス伯爵は王の従兄弟という立場だが、母親が隣国カノンの王族であり、貴い血を重視する貴族の中には彼を推す声も強い。
 どちらも一長一短。
 権勢にも決定的な優劣はない。
 現王カドモス7世に王子がいない以上、次の王冠を手にするのは2人のうちのどちらか、ということになるだろう。
 だが、ここでラフィットが男児を出産すれば話は変わる。
 王位継承権第一位の王子が誕生すれば、ラスター公爵やノービス伯爵の出番などなくなってしまうからだ。
 それをおもしろく思わない貴族など、宮廷には掃いて捨てるほどいる。彼ら自身もしかり、彼らの取り巻きもしかり。
 そんな貴族たちが邪魔者に対してどれほど冷酷に振る舞うか、ラフィットは嫌というほど知っていた。
「あと5年お待ちください。その間に力を蓄えるのです。男爵夫人の味方をそろえ、ラスター公やノービス伯に負けないほどの権勢を整えれば、晴れて王妃の座に就くことも叶いましょう」
 不肖、このリュイナールもお味方いたします。そう言ってさらに頭を低くする宮廷魔術師に、ラフィットは冷めた視線を投げかけた。
 人は好いが凡庸なカドモス7世に助言し、貴族たちの権力バランスを調整するのがリュイナールの役目だ。
 片方が強くなれば醜聞をあげつらって影響力をそぎ落とし、もう一方が弱まれば重職に登用して力を与える。
 どちらも強からず、どちらも弱からず。天秤のように揺らしながら、しかし決して崩壊はさせない宮廷運営能力は、芸術と言ってよいレベルまで洗練されている。
 そんなリュイナールにとっては、ラフィットすらもバランスを取るための駒でしかないのだろう。
 くだらない。
 自分は権力にも財産にも興味はない。
 この鳥籠から解放されることが、唯一の望みだというのに。
 だが、本音を口に出さないということもまた、この宮廷生活で身につけた知恵のひとつだった。
「あなただけが頼りです、リュイナール様。どうかこれからも、お見捨てなくご指導を賜りますよう」
 国王の愛妾にふさわしい気品と、14歳の少女に相応の弱々しさ。それを完璧な演技で漂わせながら、宮廷魔術師に声をかける。
「御意」
 頭を下げたリュイナールのサークレットを眺めながら、ラフィットは思った。
 本当にくだらない。
 自分はあと何年、この鳥籠にいればいいのだろう……。


 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
 大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
 邪神の骸が今でも、地下深くに眠っていると伝えられるが故に。
 そして今、終末の邪神を奉じる者どもが、ロードスの大地に跳梁を始めようとしていた。


SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
 第3回 鳥籠で見る夢


シーン1 王都アラン 賢者の学院

 小高い丘の上にあるその建物は、王都アランのどこからでも見ることができた。
 純白の王宮とは対照的に、すべてが黒大理石で作られ、威厳と風格にあふれた建物群。
 丘をひとつ占領し、全周を壁で囲んだ外観は、まるで砦か要塞のようだ。
 アラニアでもっとも美しいと評される丘の上の城。そこは、人々から賢者の学院と呼ばれていた。
 今から200年前、カストゥール王国時代の叡知を保存・復元し、その継承者たる魔術師を育成するために、当時の国王が建設させた施設である。
 学院はこれまでに幾多の偉大な魔術師を輩出し、失われた魔法を復活させてきた。内部は強大なマナの力で満たされ、古代王国の再来とまで言われている。
 人々の中には、この学院を“象牙の塔”と呼ぶ者もいた。
 魔術師を志すには膨大な学費が必要なことから、貴族の子弟や豪商の子息でもない限り、足を踏み入れることができないからだ。
 この学院で正魔術師の位を得た貴族の子弟は、騎士の叙勲を受ければ、王国の最精鋭である銀蹄騎士団に迎えられることとなる。
 ロードス島において、強大な力をふるう魔術師は恐れられ、嫌われる存在だ。
 だがここアラニアにおいては、魔術師は権力や財力の象徴であり、栄達への近道でもあるのだ。
 その象牙の塔の最上階。
 学院長として広大な部屋を専有する最高導師ラルカスは、来客を告げられて魔術書から視線を上げた。
 閲してきた年月にふさわしく、髪と顎髭は雪のように白く染まっている。顔には深い皺が刻まれているものの、その目に宿る峻烈な知性が見る者を圧倒した。
 その威厳といい、迫力といい、並の人間に対抗できるものではない。
「客? 私にか?」
 ラルカスの秘書役を務める魔術師見習いは、不機嫌そうな視線に震え上がりながら、首を上下させた。
「マーファ教団の最高司祭、ニース様の名代と名乗っておられます。他に護衛の冒険者が3名と、司法官パーシア公爵の使者の方もご一緒に」
 ラルカスはしばらく険しい目つきで見習いを睨んでいたが、やがて机上の水晶球に手をかざすと、小さく古代語の合言葉を唱えた。
 水晶球が淡く光り、中に応接室の様子が映し出される。
 豪華な革張りのソファに3名の女性が座り、武装した2名の男性が後方に立っている。
 若い。最年長らしい金属鎧の戦士も、年齢は30に届かないだろう。マーファの神官衣を着た黒髪の娘に至っては、まだ10代の半ばに見えた。
 このような青二才どもに、貴重な研究の時間を邪魔されようとは。
「この者たちは、本当にニース殿の使いなのか?」
 全員の顔を眺め回すと、不機嫌を隠そうともせずに、ラルカスは見習いに問いかけた。
 手の中のメモを見ながら、見習いが答える。
「黒髪の司祭は、ニース最高司祭の令嬢、レイリア様だそうです。金髪の女性がパーシア公爵の使者、アウスレーゼ殿。銀髪の女性魔術師と金属鎧の戦士、黒髪の戦士の3名が、レイリア様の護衛の冒険者だと」
 見習いの言葉に少なからず驚いた様子で、ラルカスは再び水晶球に視線を落とした。
 何事かを考え込むように眉を寄せた後、ややあってゆっくりと立ち上がる。
「まあよい。ニース殿の名代とあらば、追い返すわけにもいかんのだからな。すぐに参りますとお伝えしろ」
「はい」
 はじかれたように見習いが退出すると、儀礼用のローブを羽織って、低くつぶやいた。
「厄介なことになってきたものだ」
 ロードス最高の魔術師であり、賢者の学院を預かる身ともなれば、俗世と全く関わらないわけにはいかない。
 この面倒事をどうやってあの魔女に押しつけようか、と考えながら、ラルカスは望まぬ足を応接室に向けた。


「遠路はるばるようこそ、と言いたいところだが、できれば先触れくらいは欲しかったものだな。私がラルカスだ」
 さんざん待たされた挙げ句、この一言。
 入ってきた白髪の老人の態度に、ルージュは内心でため息をついた。
 後ろで夫が臨戦態勢に入るのが分かる。
 ライオットはこういうタイプの、自分が偉いと思っている人間を何よりも毛嫌いしているのだ。
 年寄りの魔術師というから、しょぼくれた枯れ木のような人物を予想していたのだが、今回はハズレだった。
 ラルカス最高導師は決して大柄ではないが、全身から発散する威圧感のせいで、実際よりもかなり大きく見える。どこかの国の政権与党で、幹事長くらいなら軽く務まりそうだ。
 ただし党代表は駄目だ。党のイメージキャラクターが悪役面では、選挙で票が集まるまい。
 それにしても、ルーィエを連れてこなくて正解だった。もしここにいれば、今の一言で確実に喧嘩を買っていただろう。
「お初にお目にかかります。ターバ神殿の司祭、レイリアと申します。お会いできて光栄です」
 ソファの中央から立ち上がって、レイリアがにこりと笑った。
 この中では最年少ながら、ターバで鍛えた接待技能は伊達ではない。初対面でシンとライオットを撃墜した交渉用の微笑は、この老人にも十分な効果を発揮した。
 ラルカスは高圧的だった態度を軟化させると、客たちに座るように促して、自分も対面のソファに腰を下ろした。
「アウスレーゼ殿には、1度だけ会ったことがあるな。こちらの魔術師殿は見覚えがないが、賢者の学院にはいつ頃おられた?」
「私は大陸の出身ですので」
 あなたの教え子ではありません、とやんわり告げる。
 ルージュ・エッペンドルフが誕生したのは西暦1990年5月、新王国歴498年のことだ。アレクラスト大陸中央部の軍事国家レイドの皇族出身で、見合いが嫌で実家を逃げ出した、なんていう厨二設定もあった。まあ、当時はリアル中学生だったのだから仕方ない。
 何をしでかすか分からないというプレイスタイルから“奇跡の紡ぎ手”(ファンタジスタ)などと呼ばれた恥ずかしい過去を思い出していると。
「それにしても、見事な品をお持ちだな。魔法樹マグナロイの杖とは」
 ソファに立てかけてあったルージュの杖を目敏く見つけて、ラルカスが感嘆した。
 マグナロイは、エルフの森にあるという黄金樹と同じく、世界樹の直系の子孫だと言われている。世界の源となった始源の巨人の力を色濃く残しているため、落とされた枝の1本でも強いマナを宿すことで有名だ。
 もはや物質界には存在しないと考えられており、魔術師たちにとっては伝説そのものとして知られる樹だった。
「金を積めば買えるという代物ではないだろう。これをどこで?」
 見た目は偉そうでも、魔術師は魔術師ということか。
 ラルカスは新しいおもちゃを見つけた子供のように、目を輝かせて身を乗り出す。
「うちの古い倉庫に眠っていたのを、勝手に拝借してきたものです。放っておいて盗まれるのも、もったいない話ですから」
 レイド帝国滅亡のどさくさに紛れて、皇宮の宝物殿から持ち出したというわけだ。
 ルージュの故国レイドは3年前に隣国ロマールに併合され、現在の地図には残っていない。思えば、ルージュが初めて経験したキャンペーンシナリオが、ロマールの軍師を相手に故郷を守るというものだったはずだ。
「ラルカス様。そろそろ宜しいでしょうか? 非礼を承知で突然押し掛けたのは、喫緊の用件があるからなのです」
 魔術師同士で世間話でも始めそうな様子に、それまで黙っていたアウスレーゼが口を挟んだ。
 いささか名残惜しそうに魔法樹の杖を見てから、ラルカスも居住まいを正して向き直る。
「ふむ。私も暇を持て余しているわけではない。本題に入るとしようか」
 用件を伺おう、と腕を組むラルカスに、アウスレーゼは簡潔に告げた。
「バグナード導師の居場所を教えていただきたい。彼は邪神カーディスの教団の一味です」
 蒼氷色の瞳で切りこむアウスレーゼを見返して、しばし沈黙した後、ラルカスは失笑をもらした。
「アウスレーゼ殿は、あのバグナードが邪神に帰依したとおっしゃるか。冗談としては面白いが、ありえん話だ。バグナードが信じるのは唯ひとつ、絶対にして万能の力たる魔術のみよ。あやつが求めるのは自身が魔術を極めることであって、神にせよ何にせよ、他人に救いを求める性格ではない」
 人の悪い表情を浮かべて、白髪の老魔術師はアウスレーゼの言葉を鼻で笑う。
 魔術は万能と言い放つその態度は、誇りと驕りに凝り固まり、控えめに表現しても腹立たしい限り。これでは魔術師が嫌われるのも当たり前だ、とルージュは肩をすくめた。
 あからさまな挑発に、アウスレーゼの声がさらに冷たくなる。
「あなたがどう考えようとあなたの自由です。しかし事実、バグナード導師は邪教の司祭とともにレイリア様を襲撃している。彼を放置することはできません」
 居場所を教えてください、と繰り返すアウスレーゼ。
 だが、ラルカスは首を振った。
「無理だな。私はあやつの居場所など知らぬ」
「なぜです? バグナード導師は、あなたの高弟でしょう?」
「数年前まではそうであった。だが今は違う。バグナードは私が《ギアス》の魔法で縛り、魔術の一切を封じて追放したからな」
 アウスレーゼの眉が跳ね上がる。
「何故それを、すぐに報告しなかったのです?」
「何故報告せねばならん? バグナードは王国の法に背いたわけではない。学院の規則に反しただけだ」
 正面から突っぱね、相手を怒らせて追い返す心算なのだろう。ラルカスはさらに高圧的に言い放った。
「そもそも、邪教の跳梁を抑え、王国の治安を守るのは宮廷の責務であろう。我らがそこに何の責を感じる必要がある? 邪教を殲滅し、バグナードを捕らえるのはそなたらの役儀ではないか」
 交渉決裂。ラルカスはそれを望んでいる。
 だが、この場でそれを求めたのは彼だけだった。
 シンとライオット、ルージュは互いに視線を交わし、頷き合う。
 今ここで必要なのは情報ではない。バグナードの居場所をラルカスが知っているはずはないからだ。
 必要なのは、現実を正しく認識させ、今後の対応について協力させること。
 海千山千の相手を揺さぶり、脅し、協力させるためにいくつものカードを用意したし、どの順番でどのカードを切るか、綿密に打ち合わせもしてある。
「では、バグナード導師はその《ギアス》を解呪したのですね。実際、私たちの目の前から《テレポート》で消え去ったのですから」
 まずは軽いジャブ。澄ました顔でルージュが言った。
 ラルカスは最高位の魔術師だ。シンやライオットではまともに相手をしてもらえないだろう。
 交渉するならルージュが適役。これも相談の結果だ。
「……どういう意味かな、魔術師殿?」
 見習いたちを震え上がらせる低い声音で、ラルカスが唸る。
 師匠がかけた魔法を弟子に打ち破られるなど、魔術師にとって屈辱でしかない。
 内心びびりながらも、肩に置かれた夫の掌を支えにして、ルージュは平静を装う。
「そのままの意味ですよ。あなたは禁断の呪法を求めた直弟子を、何の首輪もつけずに野放しにしてしまったということになる。違いますか?」
 シャギーのかかった肩までの銀髪。紫水晶の瞳。
 陶器の人形のような美貌にうっすらと浮かべた微笑は、どこか超然とした雰囲気を漂わせている。
 ライオットやルーィエを震え上がらせる、絶対零度の微笑だ。
 血が受け継ぐ能力というものがあるなら、この迫力はレイドの帝室に由来するものだろう。
「そういう言い方は失礼ですよ、ルージュさん。ラルカス様、申し訳ありません。私たちは喧嘩をしに来たのではないのです」
 剣呑な気配を察して、すぐにレイリアがフォローする。
 ルージュとアウスレーゼが恫喝担当なら、レイリアは誠意担当だ。鞭と飴を交互に繰り出して、相手の混乱を計る。ライオットが書いた筋書きを、女性陣は完璧に演じていた。
「いや、謝罪には及ばん。ただ私には信じられんのだ。バグナードの力量では、あの《ギアス》を解呪することなどできるはずがない」
「では、解呪はできなかったけれど、痛みに耐えることはできた、というところですね。バグナード導師は呪文を唱える間ずっと、とても苦しそうにしていましたから」
 さすがはラルカス様の高弟です、とレイリアは感心してみせる。
 間接的に持ち上げられて、白髪の老魔術師はまんざらでもない顔をした。自分の自尊心が傷つかない範囲内なら、現実を受け入れるつもりはあるようだ。
「しかし困りましたね。これではパーシア公爵の疑念を晴らすことができません」
 腕を組んだアウスレーゼが、わざとらしくため息をつく。
「私は公爵に言われてきたのですよ。賢者の学院が、太守の魔法書を解読するために、カーディス教団と手を組んだ可能性がある。そのためにバグナード導師が派遣されたのではないか、と」
「何だと!」
 効果覿面。
 ラルカスは立ち上がると、すさまじい形相でアウスレーゼをにらんだ。
 太守の魔法書とは、以前バグナードが手に入れてきた、ロードス最後の太守サルバーンの魔法書のことだ。
 サルバーンは優秀な死霊魔術師として知られており、その魔法書は古代王国の英知の結晶とも言える貴重なもの。賢者の学院でも選りすぐりの俊英を動員して、現在も研究が続けられている。
 だが死霊魔術という特性上、死と破壊を司る女神カーディスにつながる部分があるため、学院の外には漏れぬよう細心の注意を払ってきたはずだった。
 その情報が、パーシア公爵の耳にまで入っているとは。
 もらしたのは誰だ?
 太守の魔法書のことを、宮廷はどこまで知っている?
 脳裏にいくつもの疑念が浮かんだが、それを口にすることは、アウスレーゼの言う疑惑を認めることに繋がる。
 カーディス教団とのつながりなど事実無根とは言え、ラルカスの高弟だったバグナードが一緒にいるとなれば、ラルカス本人や学院の上層部が疑われるのはやむを得ないのだ。
 学院内の醜聞を広める必要もないと思い、バグナードの追放を王宮に報告しなかったのは失敗だったようだ。
 内心で舌打ちしながら自分の短慮を悔やんでいると、今度はレイリアが口を開いた。
「ニース最高司祭が“墓所”に入った際、賢者の学院からお借りした鋼の衛兵が、突然襲いかかってきたそうです。ゴーレムに命令を下せるのは高位の魔術師のみと聞いています。ニース最高司祭も、賢者の学院が無関係だとは考え難い、とおっしゃっておいででした」
 そして神官衣の懐から、ライオットが粉砕した衛兵の破片を取り出し、テーブルの上に載せる。
 一目見てそれが何なのか分かったのだろう。ラルカスは頬をひきつらせると、がくりと椅子に崩れ落ちた。
 学院長ラルカスの高弟が、レイリアを襲い。
 学院が用意した鋼の衛兵が、ニース最高司祭を襲った。
 この状況で賢者の学院が無実だと主張する者がいたら、ただの阿呆だと断定してよかろう。
 すべては濡れ衣。
 学院が邪教と手を結ぶことなどありえない。
 だがラルカスの明敏な知性は、それを証明できない今の状況を正しく理解していた。
 すべては数年前、自分自身が処理を誤ったバグナードの一件が原因で。
「信じていただきたい。すべてはバグナード個人の仕業であろう。我らはこの学院の中で、正しき魔術の研鑽に励むだけの学術の徒だ。邪神の教団に力を貸すなどありえぬ」
 言葉だけでは何の説得力もない。そう思いながら、ラルカスは主張せざるをえない。
 だが上位古代語と異なり、ロードス共通語のなんと力の無いことか。
 魔法を使えば、いとも簡単に嘘を聞き分けることができる。だが、嘘だ真実だと保証するのが魔術師では、まるで意味がないのだ。
「もちろん、私どもはラルカス様を疑ったりなどしておりません。ご安心下さい。ただ、バグナード導師の捜索に協力をお願いしたいだけなのです」
 レイリアが穏やかに話しかける。
 疑っていないのは本当だ。誠意にあふれた声は、ラルカスの顔に安堵の表情を引き出す。
 だが、わずかに戻ったラルカスの生気を、ルージュの切った手札はあっさりと粉砕してしまった。
「とはいえ、襲った相手が悪かったですね。『ふたつの鍵、ひとつの扉、かくしてカーディスは蘇らん』。太守の魔法書をお持ちなら、この言葉の意味はご存じでしょう?」
 あなたの弟子は、カーディス復活の儀式に必要不可欠な、ひとつの扉たる少女を襲ったのだと、ルージュが静かに指摘する。
 ただの司祭を襲うのと、ひとつの扉たる少女を襲うのでは、宮廷に与える衝撃はまるで違う。
 自分たちは真実を知っているのだ、そう告げる紫水晶の瞳に、ラルカスは初めて畏怖を覚えた。
 青二才と侮っていたが、実はとんでもない相手なのではないか。
 そういえば、無敵とも思える鋼の衛兵を倒したのは、この冒険者たちなのだろうか。あの狭い墓所の中では、大勢で取り囲むこともできない。1対1に近い状況で戦って、衛兵を文字どおり粉砕するなどと、常識では考えられないことだ。
「レイリア様は協力をお願いしたいとおっしゃいました。ですが、今の学院の立場は違いますよね? 自らの手でバグナード導師を捕らえ、宮廷に差し出して、自らの潔白を証明せねばならないはず」
 異議がありますか、と言わんばかりに、ルージュの双眸がラルカスの目を射抜く。
 立場の上下は歴然としていた。
 ラルカスは肩を落とすと、力無く答えた。
「私にできることがあれば、何でもしよう。どうすればいい?」
 他の答えを、彼は許されていなかった。






[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:56
 シーン2 王都アラン

 夕暮れ時。
 一日の勤めを終えた男たちが一杯の憩いを求めて街に繰り出してくると、辻は活気にあふれ、客を招く店主の声があちこちで響いた。
 王宮の尖塔は斜陽で黄金に輝き、石畳の街並みに長い影を落としている。
 あちこちで篝火が焚かれ始めると、その炎に照らされて、街路にオレンジ色の影が踊り出した。
 陽気にさわぐ人々の声。
 一気に涼しくなった風に乗って、屋台からは肉の焼ける香ばしい匂いが、辻からは吟遊詩人の奏でる陽気な音楽が広がっていく。
 見ているだけで心が踊り出しそうな、異国情緒あふれる雰囲気だ。
 そんな王都の一角、小さな露天が立ち並ぶ市場のあたりを、5人の冒険者たちはのんびりと歩いていた。
「あ~疲れた。肩こった。ライくん、宿に帰ったら肩揉んでよね」
 学院でかぶっていたよそ行き用の毛皮を脱ぎ捨てて、ルージュがぐりぐりと肩を回す。
 疲労を隠そうともせず、だらけきった様子で歩く彼女は、遊び疲れて寝場所を探す猫のようだ。先ほどの超然とした雰囲気が嘘のように消え去っている。
 至近距離であの迫力を味わったレイリアは、あまりの落差にくすりと笑った。
「さっきのルージュさんと今のルージュさんは、まるで別人ですね」
 本来ルージュは、レイリアでさえちょっと近寄り難く感じるほどの美貌の持ち主。
 普段は自由気ままな態度のせいでほとんど意識させないが、本人さえその気になれば、彼女は絶対零度の威圧感を振りまいて周囲を圧倒できるのだ。
「え、そう?」
「そうです。さっきのルージュさんは、まるで氷の女王でしたよ。隣にいた私も怖かったくらい」
「女は誰でも、ふたりの自分を持ってるんだよ。レイリアさんもすぐに使えるようになるって」
 そう言って笑い合う女性陣の後ろで、シンとライオットはげんなりとした視線を交わした。
「聞いたかシン。レイリアもすぐああなるらしいぞ」
「それはちょっと勘弁してほしい」
 苦々しい表情を浮かべたシンは、持たされている大量の荷物をかかえ直した。
 ラルカス最高導師との会談の後、一行は掌を返したように丁重な扱いを受け、辞去するにあたっては大量の土産物を押しつけられていた。
 ルージュには強力な防護の魔法のかかったローブ、シンにはミスリル銀の鎖帷子、ライオットには魔法の長剣。これだけでもかなりの財産になるはずだ。
 他にもいくつかの魔法の指輪と魔晶石、マーファ教団への寄進として財宝や金貨銀貨を山ほどもらい、彼らは遺跡で一山当てた冒険者のような姿だった。
「まるで押し込み強盗ですね。賢者の学院を相手にたいしたものです」
 アウスレーゼが、感心した様子でライオットを眺める。
 確かに、学院長に濡れ衣を着せて脅し、完全に屈服させたあげくに金銀財宝まで差し出させたのだから、強盗呼ばわりされても仕方がない。
「他人事みたいに言うなよ。君も恫喝に一役買ったばかりだろ」
 大盾を背負い、シンと同様両手に荷物を抱えたライオットが、憮然として言い返す。
 今後の対応について全面協力させるのは既定事項だったが、これほどの財宝は想定外だった。開き直ったラルカス学長が、徹底的に姿勢を示そうとしたらしい。
 もちろん、バグナードの件の口封じや、ニース母娘に対する謝罪の意味もあるのだろう。
 くれるというなら貰っておこう、と遠慮せずに受け取ったのだが、帰る際に実物を山と積み上げられると、さすがに良心が痛んでしまった。
「私はあなたを誉めているのですよ?」
「なら、明らかに誉め方を間違えてる。ちっとも嬉しくないからな」
「私の誠意が伝わらないとは、残念なことです」
 ため息をつくライオットに、アウスレーゼは冗談めかして首を振った。
「あなたが望むなら、今からポニーテールにしても良いと思うくらい、私はあなたを買っているのに」
 そして、わざとらしく後ろ髪をまとめ、白いうなじをちらりと見せる。
 ライオットは一瞬で態度を翻した。
「訂正する。君の誠意を感じた。是非ポニテで頼む」
「軽いな、おい」
 シンが呆れて親友を眺めると。 
 前方から冷気が漂ってきた。
「ライくん、楽しそうだね」
 疲れた猫が、氷の女王に戻ろうとしている。
 少々怯えながら、レイリアが咎めるように振り向いた。
「アウスレーゼさん?」
「すみません、冗談です」
 金髪の密偵は首をすくめた。
 あの場に同席したアウスレーゼも、ルージュの恐ろしさは身にしみている。怒りの矛先を向けられるのは御免こうむりたかった。
「では皆さん、私は王宮に戻って明日の話をつけてきます。今夜はゆっくり休んで下さい」
 残念そうなライオットの前で髪を下ろすと、アウスレーゼは小さな会釈を残して、雑踏の向こうに姿を消した。
 彼女にはまだ重要な役目が残っている。このまま宿に帰って一休みというわけにはいかないのだ。
 事の発端は、遡ること20日前。墓所に赴いたニースとレイリアが、邪神カーディスの司祭に襲われたことによる。
 邪教の司祭ラスカーズは“亡者の女王”ナニールを覚醒させるため、ニースを亡き者にし、レイリアを誘拐しようと企んだのだ。
 シンたちの機転と奮闘により、その場では撃退したものの、墓所の中にまで邪教の手が伸びたことは放置できない。
 ニースは国王に報告する必要があると判断し、レイリアに全権を委ねて王都へ派遣したのだった。
「私が行くと、貴族たちは警戒してしまうでしょう。レイリアが相手なら甘く見て、ある程度の本音を出すはず。あなたたちには、それを見極めてほしいの」
 そんな言葉とともに護衛を任され、ターバを出発したのが2週間前。長い旅だったが道中は襲撃を受けることもなく、王都に入ったのが今日の午前中だ。
 宿を取り、食事をすませて賢者の学院に向かったのが昼過ぎだから、かれこれ4時間は学院との交渉に当たったことになる。
 その苦労は報われて、とりあえず満足すべき結果を得ることができた。緊張の糸はゆるみ、初めて目にするファンタジックな都の姿に心が躍る。
 物珍しそうに辺りを見回しながら、シンたちはのんびりと宿への道を辿っていた。
「しかし、朱に交われば赤くなるって、こういう事なんですね」
 見えなくなるまでアウスレーゼの背中を見送ると、レイリアがしみじみと言った。
「シンたちに会う前は、笑ったり冗談を言ったりするような女性じゃなかったのに」
 まるで抜き身の刃のように、冷たく尖った印象しか受けなかったアウスレーゼの変化。それをもたらしたのは、間違いなくシンたちだろう。
 穏やかな微笑を浮かべるレイリアに、シンがやれやれと首を振った。
「朱に交われば、ってのは褒め言葉じゃないよ?」 
「知ってます。それが何か?」
 首を傾げて、横に並んだ戦士を見る。
 至極あっさりとした返答に、シンは言葉を失った。
 純粋培養のお嬢様だったはずのレイリアまで、変な方向に汚れていく。接し方を間違えただろうか。このままではまずい。
 どう答えればいいんだ、とシンが悩んでいると、その表情を楽しんでいたレイリアは堪えきれずに吹き出した。
「ごめんなさい、冗談です」
 そして申し訳なさそうに、気を悪くしないでくださいね、と上目遣いに見上げる。
 ふれ合えそうな距離から顔をのぞき込まれて、今度は真っ赤になってうろたえるシン。
 その様子を生温かく眺めながら、ライオットとルージュは視線を交わした。
「いいように弄ばれてるね」
「朱に交わったのは、アウスレーゼだけじゃないみたいだな」
 いかな名声を誇る砂漠の英雄とはいえ、彼女いない歴33年では、荷が重すぎる相手だろう。
 レイリアは完全に天然だ。ちょっとからかってみようと思ったのも本気なら、シンが怒るのではないかと心配したのも本気。
 その表情に、耐性のないシンが抵抗できるはずがない。
「怒ってませんか、シン?」
「怒ってない。怒ってないから少し離れて。近い。ちょっと近すぎるって!」
 至近距離にあるレイリアの瞳に、シンは浅黒い肌を真っ赤に染めて狼狽する。
 だが、そんな女慣れしていない様子が、レイリアには好ましく映るのだろう。シンの言葉を無視して身を寄せ、にっこり笑ったとき。
 その悲鳴は聞こえてきた。
「聞いたか?」
「ああ」
 一瞬で動揺を消したシンが、ライオットと緊迫した声を交わす。
 どこだろう、と探す必要はなかった。
 雑踏の向こうで騒ぎが起こり、通行人が必死の形相で逃げてきたからだ。
 シンとライオットは激流に聳える岩のごとく、ぶつかってくる人々からルージュとレイリアを庇い続ける。
 やがて人混みは消え去り、事件の当事者だけがその場に残った。
 事態はシンプルだった。
 黒ずくめの若い男が、女性2人組を刃物で襲っているのだ。
 ひとりは令嬢風の少女。まだ中学生くらいの年齢だろう。
 目立たない無地のマントを羽織っているが、裾からは煌びやかなドレスが見え隠れしている。豪奢な金髪はゆったりと波打ち、透きとおるような白い肌は最高級の紗々のようだ。
 貴族か豪商の令嬢が、身分を隠して出歩いているといった風情。
 少女を守って男と揉み合っているのは、メイド服姿の女性だった。年齢は30歳くらい。黒髪をショートボブに切りそろえ、いかにも活動的な印象を受ける。
「今のうちにお逃げください!」
 メイドは短剣を握る男の腕をおさえて叫ぶが、どんなに頑張っても女の細腕だ。強引に振り回される男の短剣が、メイド服を裂いて腕に浅く傷をつけた。
 今はまだかすり傷。だが男の凶刃がメイドを貫くのは、時間の問題だと思えた。
「お逃げください! 早く!」
 必死に声をあげる女性。
 しかし少女は首を振った。
「あなたを置いては行けません!」
 ドレスの裾をひるがえし、短剣を持った男の右手を掴もうとする。2人がかりで掴めば、何とかなると思ったのだろう。
 だが男も、そうはさせじと腕を引き、少女を右足で蹴りとばした。
 まともに腹を蹴られた少女が石畳に転がり、苦痛のうめき声をもらす。
「……野郎!」
 その光景に、先日の事件を思い出したのか。
 持っていた荷物を全部捨てて、シンが駆けだした。男まで約20メートル。シンなら1ラウンドで詰められる距離だ。
「驚いたな」
 置いていかれた格好のライオットが、意外そうにつぶやく。
 つい先日までただのSEだったシンが、凶器を持った相手に臆さず突っ込んでいくとは。
 おそらく脊椎反射で行動しただけ。自分が負うリスクについては何も考えていないのだろうが、それでも元一般人としては驚愕に値する行動だ。
 すると、誇らしげな顔をしたレイリアが、ライオットに言った。
「驚くことなんてありません。あれが本当のシンです。知らなかったんですか?」
 自分では勇気がないとか戦うのが怖いとか言うくせに、こと誰かを守るという場面に限定すれば、シンは無類の強さを発揮する。
 その光景を何度も見てきたレイリアにとって、シンの行動は自明の理だった。
 ほとんど信仰に近い信頼感を込めて、黒い瞳がシンを見つめる。
 はいはいごちそうさま、と言いたげな表情でルージュが微笑むと、ライオットは小さな吐息をもらした。
 もう20年以上も付き合ってきて、シンの弱い部分を知悉するが故に、この1ヶ月で強くなった部分が見えていないのかもしれない。
「俺は、あいつを見くびってるのかな」
 両手に抱えていた荷物を地面に下ろす。
 シンが突撃した以上、援護するのはライオットの役目だ。それは呼吸するように当然のこと。
 暴れている男を見ながら、ライオットは小さな布袋を握りしめた。
 ソフトボールほどの大きさだが、中には金貨がぎっしりと詰まっている。堅さといい重量感といい、もはや凶器と呼んで差し支えない代物だ。
 それを全力で投げつける。
 オーバースローで筋力21の剛腕がうなり、総額1万ガメルの剛速球が暴漢に襲いかかった。
 シンの横をかすめた布袋は、一直線に飛んで横顔に炸裂。破れた袋から金貨が飛び散り、篝火に煌めいて石畳に散乱する。
 相当な衝撃だったのだろう。男はたまらずによろめき、メイドから手を離した。
 それでシンには十分だった。
 疾風となって男とメイドの間に割り込んだシンは、左手で男の右手首を握ると、力を込めて捻りあげた。
「大の男が! 女を相手に!」
 怒りに燃えた双眸が、男を睨みつける。
 その迫力たるや尋常ではない。驚愕と恐怖にすくみ上がる男に、シンは拳を叩きつけた。
「暴力を振るうな!」
 ただの拳だが、そこには10レベルファイターの追加ダメージが載っている。素人に毛が生えた程度の相手を昏倒させるなど、何の造作もない。
 一撃で意識を刈り取られた男は、ぐったりと石畳に転がった。力を失った右手から短剣が滑り落ち、乾いた音を立てる。
「大丈夫ですか?」
 少女に駆け寄ったレイリアが、身体の様子を見ながらそっと抱き起こした。
 少女は苦しそうに顔をゆがめながら肯く。
「ありがとう、私は大丈夫です。それよりランシュは?」
 レイリアの腕の中からメイドを見上げる。
 ランシュと呼ばれたメイドは、シンに叩き伏された男と、少女の無事な様子を確かめると、安堵の表情を浮かべて膝から崩れた。
 あわててルージュが抱き止めようとするが、自分より大柄な女性を支えきない。頭を打たないように気をつけて、石畳に寝かせるだけで精一杯。
 黒髪に手を添えてそっと頭を下ろしたとき、ルージュの表情は硬くこわばっていた。
 ランシュは尋常でない量の汗をかき、呼吸も浅く早い。 そして紫色に腫れ上がった傷口。どう考えてもふつうの切り傷ではなかった。
 はっとして石畳に転がった短剣を一瞥すると、ルージュは夫に助けを求めた。
「ライくん! こっち、早く!」
 毒だ。治療は一刻を争う。
 両手に山と荷物を抱えてきたライオットも、妻の表情に異変を察し、無言でひざまづいて女性の容態を確認する。
「“ダークブレイド”か?」
「たぶんね」
 短く確認すると、ライオットは傷口に手をかざした。
 ダークブレイドは、暗殺者が好んで使う即効性の致死毒だ。その名のとおり刃に塗って使う黒い液体で、わずかな傷でもつけば体内に侵入し、ほんの数分で相手を死に至らしめるという。
 使い勝手の良さと分かり易さから、TRPGでは定番と言える毒薬だった。
 しかし、毒だと判っているなら、解毒すればよいだけのこと。
 ライオットの神聖語の祈りに応じて、かざした手が淡く輝き始めた。女性はこれで大丈夫だろう。
 ルージュは視線をシンに向けた。
「リーダー、怪我とかしてない?」
「ああ、大丈夫だ」
 麻縄で意識のない男を縛り上げながら、シンが肯く。
 ルージュは石畳に転がった短剣に手を伸ばすと、指先で柄をつまんで持ち上げた。
 粘性のある黒い液体でべったりと濡れた刃。
 柄には錆が浮いており、お世辞にも状態がいいとは言えない。だが、何やら紋章のようなものが彫られていて、由緒だけはありそうな雰囲気だ。
「なんか、すごく変だよね」
 口の中でつぶやく。
 ダークブレイドはそこいらの店で売っているような代物ではない。一般人なら手に入れるだけでも相当な苦労があるはずだ。
 それに、この由緒ありそうな短剣。ただ人を刺すだけなら、普通の品の方が切れ味は良さそうなのに、あえてこんな物を使った。
 そして極めつけに、実行犯が素人ときた。持っている装備はまるで暗殺者だが、襲撃場所にこんな人通りの多い所を選ぶなど愚の骨頂。おまけに、ただのメイドを相手に苦戦するようでは話にならない。
 下手をしたら、シーフ技能すら持っていないのではないか。
 ルージュはいくつもの疑問を想起しながら、心配そうに治療を見守っている少女を見た。
 まだ中学生くらい。17歳のレイリアよりさらに年少だろう。
 だがその身に漂わせる色香は、とても10代半ばとは思えなかった。
 緩やかなに波打つ金髪、胸から腰にかけての曲線、たおやかな手首の角度など、あらゆるパーツと挙措が男を惹きつけることに特化していた。
 同じ女性だからこそ、判る。
 この少女の性的な魅力は、計算と訓練の賜物だ。
 目的を持って創られた美しさは、ただ造形がいいだけの美少女とは根本的に異なる。レイリアが太陽の下で揺れる向日葵だとすれば、この少女は職人が精魂込めて磨き上げた、ガラス細工の百合だった。
 青い果実のような未成熟さと、妖しいまでの艶やかさを併せ持つ、アンバランスな透明感。まさしく魔性と呼べそうな少女だ。
 そんな視線に気づいたのだろうか、少女が小首を傾げてルージュを見返した。
 たったそれだけの動作で、匂いたつような色香を漂わせる。この少女に比べれば、レイリアの接待技能など児戯に等しい。
 こりゃ本物だな、と感心しながら、ルージュは少女に問いかけた。
「命を狙われるような心当たり、ありますか?」
「ありますわ。ありすぎて困るくらい」
 少女は自嘲気味に口許を歪め、あっさりと肯く。
 あまりに厭世的な表情が痛ましくて、ルージュは二の句を継げなかった。どんな環境で育ったら、この年でこんな顔ができるのだろう。
 すると、少女がすっと立ち上がった。
 どうやら内心が表情に出てしまったらしい。少女は一瞬で苦い表情を消すと、雅やかな雰囲気をまとい、正面からルージュに微笑みかける。 
「ご心配には及びません。対処法は心得ておりますから」
 武器を振り回すだけが戦いではない。自分にはもっと違った力とやり方があるのだと、碧玉の瞳が穏やかに主張していた。
「ごめんなさい、余計なお世話でしたね」
 ルージュは素直に謝罪した。
 相手の事情を斟酌せず、一方的に同情と憐憫を向けたのは、明らかに礼を欠いていた。
「とんでもありません。皆様がいなかったら、今頃どうなっていたことか。命の恩人に失礼を申し上げたのはこちらの方です」
 少女もスカートをつまんで膝を折り、軽く頭を下げる。そんな動作さえも優雅なこと極まりない。
 同性のルージュも思わず見とれていると、横からライオットが口を挟んだ。
「こっちのメイドさんはもう大丈夫だ。目が覚めたら元気になってるよ」
 メイド服の胸は規則正しく上下し、呼吸も落ち着いているようだ。顔色も戻り、毒の影響はもう残っていないらしい。
 すると、少女はほっとした様子で表情を緩めた。
「良かった。本当に助かりました。せめて何かお礼をさせてください」
「俺たちが勝手にやったことだから。気にしないで」
 ライオットは答えながら、意識のないメイドをお姫様抱っこで抱き上げた。
 ルージュは心中穏やかではないが、相手が怪我人では文句も言えない。
 頬を膨らませてそっぽを向いていると、遠巻きにしていた野次馬の壁の向こうから、大声を上げながら兵隊らしき一団が駆けつけてきた。
「この都で暴力沙汰は許さんぞ!」
 人数は5人ほど。そろいの制服を身につけ、槍を構えて整然と走ってくる。
 先頭に立っていた壮年の隊長が足を止めると、部下たちは半円の陣形をとって槍を構えた。
「我々はアラン衛視隊だ。武器を持って暴れている者がいると通報があった。改めさせてもらう」
 年齢は40歳くらいだろうか。上品に髭を整え、栗色の髪をオールバックに撫でつけた隊長は、思慮深そうな視線をゆっくりと巡らせた。
 とりあえず視線を向けたのは、最年少ながら主役級の存在感を放っている少女。
 次に古びた短剣をつまんでいるルージュ、メイドを抱いているライオットと続き、最後に黒ずくめの男をぐるぐる巻きにしているシンを眺める。
「たいしたもんだな。騒ぎが起こってから5分と経ってないぞ。警視庁もびっくりのレスポンスタイムだ」
 想像以上に早い治安部隊の到着に、ライオットが感心してつぶやいた。
 問答無用で実力行使に出ず、とりあえず状況把握に努めているのも高評価だ。
 アラニア王国は歴史と伝統しかない腐敗国家というイメージを持っていたのだが、末端の役人たちは十分に有能であるらしい。
 男の簀巻きを完成させたシンも、立ち上がって様子をうかがっている。
 最初に口を開いたのは、この場の主役たる少女だった。
「お勤めご苦労様です。妾はラフィット・ロートシルトと申します。こちらは使用人のランシュ」
 優雅に微笑んで、軽く会釈する。
「ロートシルト男爵夫人?!」
 予想外の名前を聞いて、隊長が裏返った声を上げた。
 ラフィットの名乗りに衛視たちはもとより、シンやライオットまで瞠目して少女を見る。
 ラフィット・ロートシルト男爵夫人の名は、都の住人なら誰もが知っている。一介の葡萄農園の娘が、鷹狩りに出た国王に見初められ、王宮に召されたというシンデレラ・ストーリーの主役である。
 そしてシンたちにとっては、誰よりもコネクションを作りたい相手だった。 
「役儀とはいえ失礼いたしました! 自分はアラン衛視隊のベデルと申します!」
 衛視隊長が直立不動で敬礼する。
 背後の衛視たちもあわてて槍を納め、隊長にならった。
 他人が名を語っているとは、誰も思わなかった。
 若干14歳にして、国王が抱くにふさわしいと納得させるだけの美貌と色気を手にしている。あと5年もすれば傾国と呼ばれる美女になるだろう。
「ベデル隊長。こちらの方々は、暗殺者に襲われた妾と使用人を助けて下さったのです。妾を襲った犯人は、あの黒ずくめの男です」
 ラフィットから見れば、衛視隊長など下級官吏に過ぎない。そんな相手にも、彼女は丁寧に事情を説明した。
「了解いたしました。して諸君は冒険者か?」
 ベデルは最年長とおぼしきライオットを交渉相手に決めたようだ。
 日本で同じ仕事をしていたライオットも、相手の聞きたいことはよく分かっている。
 自分たちは冒険者で、アランへは護衛任務で来たばかりであること、逗留している宿の場所と名前などを要領よく伝えると、ベデルは満足そうにうなずいた。
「分かった。諸君の名は?」
「私はライオット。それに仲間のシン、ルージュ。こちらがターバ神殿のレイリア司祭です」
「ライオット殿か。済まないが、これから詰め所で事情を聞かせてもらいたい。誰か1人でよいので同行してほしいのだが」
 ベデルの言葉は男爵夫人の手前、礼儀正しく依頼の形を取っていたが、実際には拒否を認める気などないだろう。警察官をしていたライオットにはよく分かる。
 わざわざ官憲に逆らっても良いことはないし、そんなことをする必要もない。大人しくライオットが頷くと、横から少女が口を挟んだ。
「ベデル隊長、それは困ります。この方々は、これから妾がお礼の晩餐に招待するのですから。そのようなお話は後日に願えませんか?」
「は、しかし……」
 国王の愛妾たる女性が襲われて、事情が分かりませんでは衛視隊の面目まる潰れだ。
 渋い顔で言葉を濁すものの、相手はロートシルト男爵夫人。衛視隊長ごときが正面切って反論できるはずもない。
 職務への精励と権力からの圧力で板挟みになり、ベデルが苦虫を噛み潰していると。
「あなたの忠勤はよく分かります。衛視隊の皆様は存分に働いていらしたと、妾から国王陛下へ直接ご報告申し上げましょう。ですからどうか、この場は妾に免じて譲って下さいませ」
 ラフィットが手を合わせてベデルを見上げた。
 礼儀正しい言葉遣いと可憐な仕草で誤魔化しているが、もはや完全な恫喝だった。
 同業者としては同情を禁じ得ないが、ライオットにとってもこれは千載一遇のチャンス。無駄にはできない。
 しばしの沈黙の後、ベデルはついに折れて、14歳の少女に頭を下げた。
「承知いたしました。後の処理はお任せ下さい」
「ありがとうございます、ベデル隊長」
「いえ。これが我らの勤めでございますから」
 長々と吐息をもらして気分を切り替えると、ベデルは矢継ぎ早に指示を出した。
 石畳に散らばった荷物と金貨を集めさせ、シンに渡して、代わりに簀巻きの男を受け取る。意識が戻ったら徹底的に尋問して、動機と背後関係を吐かせることになるだろう。
 また別の部下には、野次馬の中から目撃者を捜し、連れてくるように命じた。
「あとこれ、凶器です。毒が塗ってあるので刃には触らない方がいいですよ」
 ルージュが古びた短剣を差し出すと、ベデルは慎重に受け取り、興味深そうに眺めた。
「魔術師殿。この短剣には何やら紋章が刻まれていますが、誰のものか分かりますかな?」
「済みません、私も初めて見ましたので」
 申し訳なさそうにルージュが答える。
 横からのぞき込んだラフィットも、しばらく無言で紋章を眺めていたが、やがて首を振った。
「これは、王国に仕える貴族の紋章ではありませんね。王宮では見たことがありません」
「となると、調べるのは骨が折れそうですな」
 ベデルがやれやれと苦笑する。
 そして部下たちの仕事が一段落するのを待って、ラフィットに深々と一礼した。
「それではロートシルト男爵夫人、我らはこれにて失礼いたします。ライオット殿、今夜でも明日でも構わない、用件が済んだら詰め所までご足労願えるか?」
「今夜中には必ず伺いますよ。何時になるかは分かりませんが」
 その答えに満足したのか、ベデルは感謝の視線を残すと、部下たちを引き連れて人混みの向こうへと帰っていった。
 衛視隊と暗殺者がいなくなると、もう大丈夫だと思ったのだろう、通りに再び人の波が押し寄せてくる。
 その流れの中で、ラフィットがライオットを見上げた。
「では改めまして。妾の恩人の皆様を、当家の晩餐に招待いたします。受けて下さいますか?」
 4人が互いに視線を交わす。
 答えはとうに決まっていた。
「謹んでお受けいたします。ロートシルト男爵夫人」
 メイドを抱いたままのライオットが、代表して返答する。
 どうやら、実りの多い1日になりそうだった。





[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:57
シーン3 ロートシルト男爵夫人邸

 ラフィットの屋敷は、貴族の館が連なる王都の一等地にあった。
 以前は国王の離宮として使われていたものだという。
 植え込みや噴水が整然と配置された庭園に、数百人規模の晩餐会が開けそうな大きな館。
 維持するために数十人の使用人が働き、さらにラフィットの護衛として数十人の兵士が詰めている。
 維持する手間も費用も相当なものだろう。
 だが、国王の寵愛を受けているという事実を内外に示すシンボルとして、これ以上分かりやすいものはない。
「けれど、この離宮を使うのは、週に半分程度なのです。もったいない話ですよね」
 巨大な晩餐のテーブルを囲みながら、ラフィットは苦笑した。
 ここは離宮で一番小さい、私的な食堂なのだそうだ。それでも部屋の広さは20メートル四方に及ぶ。
 広大な食堂で、食事をするのはたったの5人。ふつうなら空虚で寒々しい空間になってもおかしくないだろう。
 だが、ここは寵姫ラフィットの離宮だ。
 天窓から吊されたタペストリーや彫刻、鉢植えの観葉植物などが効果的に視界を遮り、部屋の広さを感じさせないように配慮している。その向こう側には専属の歌手と楽団が控え、会話の邪魔をしない程度に静かな曲を奏でていた。
 揺りかごのような心地よさを演出する中、壁際には半ダースのメイドたちが控え、絶妙のタイミングで給仕を務めてくれる。次々と出される料理は、食事というよりむしろ美術品と呼べそうな出来映えだった。
「こんな立派な離宮を週に半分とは、本当にもったいないお話ですね。残りの半分はどちらにいらっしゃるのですか?」
 レイリアが不思議そうに尋ねる。
 答えは明快だった。
「もちろん王宮ですわ。国王陛下のご寵愛をいただく夜は、王宮に上がりますから」
 こともなげに答えるラフィットに、レイリアは顔を赤くしてしまう。
 そういえば、この少女は国王の愛妾なのだった。
 レイリアとて男女の関係について知識はあるし、すでに恋人と愛を交わし合ったという気の早い友人からは、刺激的な体験談も数多く聞いている。
 だが、未だ経験のない彼女にとって、その行為はどこまでも空想の産物でしかなかった。
 いずれは自分にも、愛する人と過ごす夜が来るのだろう。それはひどく甘美な時間に思えるが、同時にどこか恐怖も感じてしまう。
 もっとも、そんな未知ゆえのためらいに身を置いているうちは、マーファの司祭としてまだまだ半人前だろう。
 子を産み、育てるというのはマーファの教義でも根幹をなす営みだ。男女関係を怖れているようでは話にならない。
 レイリアが思索の海に沈んでフォークを止めていると、ラフィットが気遣わしげに問いかけた。
「レイリア様、このお料理はお気に召しませんか? お口に合わないようでしたら、違う品を用意させますが」
「とんでもありません。とても美味しいですよ」
 まさか、食事そっちのけで男女の営みについて考えていましたとは言えない。レイリアがあわてて料理に意識を戻す。
 すると、レイリアの隣に座っているシンに、ライオットが意地悪く声をかけた。
「シン。お前も食事が進んでないみたいだな。理由を当ててやろうか?」
 純情というか朴訥というか、このふたりは驚くほど耐性がないらしい。ラフィットの軽い一言で想像の翼がどこまで広がったか、表情と顔色で筒抜けだ。
「頼むからやめてくれ。口にするのはいろいろと失礼に当たるぞ」
 浅黒い肌を紅潮させたまま、シンが咳払いして答える。
 その拍子にレイリアと目が合うと、ふたりは制御不能と言えるレベルで狼狽した。弾かれたように視線をそらし、茹で上がった顔からは今にも火を噴きそうなほど。
「すみません、ロートシルト男爵夫人。このふたりは今、とってもデリケートな時期なんです」
 離宮の主をほったらかしでテンパっている2人に代わって、ルージュが謝罪した。
 いかに愛妾とはいえ、男性関係を露骨に想像されれば愉快ではないだろう。そう思って頭を下げたのだが、予想に反して、ラフィットは楽しそうに手を打った。
「まあ、素敵ですわ。シン様とレイリア様は想いを交わした仲でいらっしゃいますのね」
「そうだ、と言うと語弊がありますが、違う、と言うと残念な気持ちになる、そんな関係です」
 シンやレイリアが何か言う前に、したり顔でライオットが答えてしまう。
 その言葉を否定も肯定もできず、2人は盛大に視線をさまよわせた。互いの顔もラフィットの顔も見られないあたり、微妙な心情がよく現れている。
 その初々しい様子に納得したのだろう。ラフィットはにこりと笑うと、矛先をライオットに向けた。
「ライオット様とルージュ様も、そのようにお見受けするのですが?」
「ルージュは私の妻です。結婚してまだ半年というところですが」
 堂々と答えるライオットは、普段尻に敷かれている様子など微塵も感じさせない。
 ルージュも幸せそうに微笑んだ。
 夫が自分を「妻」と紹介するのを聞くと、照れくさいがちょっと誇らしさも感じる。
 雰囲気は対照的だが、それぞれが比翼の鳥のような男女の姿を見て、ラフィットは羨ましそうに目を細めた。
 彼女が国王に望めば、手に入らない物などほとんど無いだろう。ドレスでも宝石でも、あるいは爵位や領地でも、国王は無条件で与えてくれるに違いない。
 たったひとつの例外が、彼らのように、愛する人と共に生きるという人生だった。
 ラフィットがロートシルト男爵夫人である以上、国王以外の男性を望むことは決して許されない。
 絶対に手に入らない幻想だからこそ、少女の目には愛というものがよりいっそう輝いて見えた。
「皆様、お幸せなのですね。どうかこれからも、皆様にマーファの御加護がありますように」
 ラフィットは心の底で首をもたげた嫉妬と不満から目を逸らして、客人たちに祝福の言葉を贈り、訓練された微笑を浮かべる。
 宮廷で最も可憐な花と讃えられる微笑だ。彼女にとっては本音を隠すための仮面にすぎないが、こんな時には便利な道具だった。
「ところで、都へはどのようなご用件でいらっしゃいましたの? お礼と言っては何ですが、妾にできることがあれば、何なりとお力添えいたしますわ」
 ラフィットはナイフとフォークを揃えて置くと、視線を客人たちに向けて一巡させた。
 その隙に、すっと現れたメイドが皿を下げ、別のメイドが紅茶のカップをテーブルに上げる。
 息のぴったり合った連係プレイ。その行為をほとんど意識させないあたり、彼女たちの技量の高さがうかがい知れた。
「実はロートシルト男爵夫人。私たちは、国王陛下に御報告と、お願いがあって参上したのです」
 正使の立場にいるレイリアが、居住まいを正す。
 ラフィットは少し驚いた様子だ。
「まあ、陛下に?」
「はい。この国を蝕もうとする闇について、重大なお話が」
 レイリアも銀器を下ろし、背すじを伸ばして見つめ返した。
 凜とした黒い瞳に何かを感じたのか、ラフィットは小さく手を上げて合図を送る。
 部屋にいたメイドたちが素早く反応し、一斉に退出していった。それまで食堂を薄く満たしていた楽の音も止まり、潮が引くように人の気配が消えてく。
 あたりを静寂が押し包むと、少女は申し訳なさそうに切り出した。
「レイリア様。妾は男爵の爵位こそ頂戴しておりますが、これは陛下のお側にお仕えするための資格のようなもの。貴族を気取って政(まつりごと)に口を出すことは許されておりません」
 優雅な手つきでティーカップをつまみ、目を伏せてそっと口に運ぶ。
 桜色の唇を湿らせると、ラフィットは初めて会ったときと同じ、諦観に満ちた言葉をもらした。
「妾が泥にまみれた農民の出であることはご存じでしょう? そんな小娘が宮廷で生きていけるのは、妾が陛下の無聊をお慰めすることに徹しているからなのです。もし妾が身の程を忘れ、陛下に分不相応なお願いをするようになったら、先ほどの毒刃はメイドではなく妾を襲うでしょう」
 まるで他人事のように話すラフィットに、レイリアは返す言葉もない。
「舌の根も乾かぬうちに前言を翻すなど、恥知らずにも程がありますわね。臆病者とお嘲いになっても構いません。ですが、レイリア様のお話が政治向きのものであれば、妾ではお役に立てそうにありません」
 宮廷という毒蛇の巣に身一つで放り込まれ、国王の寵愛だけを唯一の頼りにして生きてきた14歳の少女。
 だが皮肉にも、その寵愛が貴族たちに危険視され、暗殺者を差し向けられるような毎日を送っているのだ。
「先ほどのようなことは、これまで何度も?」
 言葉を失ったレイリアに代わって、ライオットが尋ねる。
 ラフィットはあっさりと肯いた。
「もう3人ほど、私をかばって命を落としました。皆様がいて下さらなかったら、ランシュは4人目になっていたでしょう」
 それは想像をはるかに超える、壮絶な返答だった。
「彼女たちの死はおそらく、妾に対する警告なのです。妾が立場を忘れれば、黒い刃はいつでも妾に届くのだということの」
「そんな無茶苦茶な! 国王はそれを知ってるのか?!」
 あまりの理不尽に、シンが怒りの声を上げる。
 人の死を目の前で何度も見せつけられて、少女の心はどれほどの衝撃を受けたのだろうか。普通の人間ならPTSDになってもおかしくない。
 義憤に燃えるシンに、ラフィットは信じられないほど可憐に微笑んでみせた。
「もちろん、ご存じではありません」
「どうして言わないんだ。君が国王の恋人だというなら、国王には君を守る義務があるはずだろう!」
 自分の女は自分で守る。
 シンにとって当たり前の事実だが、その論法はラフィットには通用しなかった。微笑は崩さないものの、いささか強い調子でシンを窘める。
「妾は陛下の恋人ではありませんし、陛下にはいかなる義務もございません。シン様のおっしゃりようは不敬罪にあたりますよ。耳はどこにあるか分からないのです。お気をつけなされませ」
 専制君主国家において、国王には守るべき法など存在しない。
 国王の意思こそが絶対であり、それは神聖にして不可侵なものなのだ。
 カドモス7世を単なるNPCとしか認識していないシンの態度は、この世界の常識に照らせば確かに不敬というべきだった。
「シン様は誤解なさっているようですが、妾は陛下の正妃でも側妃でもありません。ただ夜をお慰めするだけの、いわば道具のようなものです」
 曲がりなりにも妃として迎えられれば、王国の歴史と伝統に則って、ラフィットにも一定の権限が与えられるだろう。
 だが、今のラフィットはそのような立場にはない。
 少女を支えるのはただ国王の寵愛があるのみであり、それは極論すれば、飽きたらそれまでという限定的な関係なのだ。
「そんな、道具って……」
 同じ女性としてルージュが不満を漏らすと、ラフィットは平然と続けた。
「では、家臣と言い換えても結構ですわ。陛下にはたくさんの家臣がおいでです。政治を担当する者、軍事を担当する者、式典を担当する者。妾は陛下の情欲を担当しております。陛下と妾の間にあるものは主従関係であって、間違えても愛などではございません」
 そしてラフィットは言葉を切ると、静かにシンに問いかけた。
「たとえば、妾が陛下に対して、今回の無法を訴えたといたしましょう。その結果、何が起こると思われますか?」
「何がって、黒幕を捜し出して処罰すれば、こんなことは起こらなくなるんじゃないか?」
 シンが不機嫌そうに応じる。
 確かに、これが一般人同士の犯罪ならそうなるだろう。
 だがここは宮廷だ。常識は通用しない。
「黒幕など調べるまでもありません。ラスター公爵様かノービス伯爵様、そのどちらかですわ。貴い血に連なる王族と、愛妾に仕える平民のメイドひとりを天秤に掛けて、王族を処断する国王など何処の世界におりましょうか?」
 碧玉の瞳はどこまでも冷静で、怒りも悲しみも感じさせない。ただ現実を正確に分析し、淡々と告げるだけ。
「陛下は、いかに妾を気に入っておられようと、宮廷の安定と引き替えになさるほど愚かではありません。どちらかを切り捨てる必要があるなら、宮廷を追われるのは妾の方です」
 他人事のような口調に、ルージュは悟らざるを得なかった。
 この少女は、度重なる悲劇から心を守るために、未来への希望を捨て去ってしまったのだ。
 守ろうと思っても、守りきれない。
 欲しいと思っても、手に入らない。
 その絶望に疲れ果て、何かを望むことを放棄して、ただ小舟のごとく波間に漂うだけ。
 まだ中学生くらいの年齢なのに。大人たちの欲望に晒されて心を歪めてしまった少女の姿に、ルージュは痛みすら感じた。
 それはレイリアも同様だったらしい。
「男爵夫人は、宮廷を出ようとは思わないのですか?」
 ここにいては、ラフィットは永遠に幸せになれない。そんな心情が透けて見えるレイリアの言葉に、少女は少し驚いた様子だったが、すぐに目を伏せて首を振った。
「妾の父は、葡萄作り以外には何もできない、ただの貧しい農民でした。ですが昨年、父が造って妾の名を付けた葡萄酒が、宮廷の品評会で特等を頂きましたの。おかげで信じられないような高値で取り引きされ、実家の両親と兄弟たちは豊かな生活ができるようになったと聞いています」
 数日の帰省であれば、家族は暖かく迎えてくれるだろう。
 だがラフィットが宮廷を追放されればどうなる?
 彼女の評判は地に落ち、そんな不名誉な葡萄酒は見向きもされなくなるに違いない。
 一度豊かさを味わってしまった家族たちは、昔のつつましい生活には戻れない。彼らから富を奪ったラフィットを、必ずや恨むようになる。
 富と権力にまつわる醜い現実を見てきた少女には、その未来が予見できてしまうのだ。
 宮廷にいては幸せになれない。それは事実かもしれない。
 だがラフィットには、この世のどこを探しても幸福を掴める場所などなかった。
 レイリアに言われるまでもなく、悩んで悩んで、悩み抜いた末の結論。
 それが、この世界を諦めてしまうことだった。
「少なくとも妾は、ここにいれば飢えも寒さも知らずに暮らすことができます。家族は豊かさを享受し、使用人たちにも少しだけ多めのお給金を渡すことができます。妾にはこれで十分です」
 すべての感情を可憐な美貌の下に封じ込めて、ラフィットは笑ってみせる。
 愚かな人間なら、この笑顔に安心して引き下がるだろう。
 賢い人間なら、これ以上の深入りを拒絶するラフィットの真意を見抜くだろう。
 この冒険者たちがどちらであったのかは分からない。
 だが彼らはそれ以上の追求をしなかったし、ラフィットにとってはそれで満足だった。
「それに、妾とて安穏として愛妾の椅子に座っているわけではありません。これでも努力はしているのですよ。今日だってお稽古に行ってきたのですから」
 14歳の少女にふさわしい、悪戯っぽい瞳がレイリアに向けられた。
「お稽古? 何を習っておいでなのですか?」
 興味を引かれた様子で、黒髪の司祭が問い返す。
 宮廷儀礼やダンスなら、離宮に教師を呼べば良さそうなものだが。わざわざお忍びで市井に出るような稽古事とは何だろうか。
「ご奉仕のお稽古ですわ。学ぶなら最高の教師につくのが上達への近道ですから、都でも最高の女性にご教授をお願いしています」
「ご奉仕?」
 まるで訳が分からないレイリアは、きょとんとしてラフィットを見返す。
 少女が言わんとしていることを理解すると、ライオットは咳払いして視線をそらした。暗くなってしまった雰囲気を変えるために、レイリアをからかって遊ぼうというのだろう。
 ルージュも同様らしく、困った顔で隣の夫を見上げる。
「レイリア様はご存じありませんの? 閨房で殿方に悦んでいただく技術のことを、専門用語でご奉仕と称するのだそうです」
 ようやく何を言われているのか理解して、レイリアは一瞬で真っ赤になった。
 最高の女性とはすなわち、歓楽街の高級娼婦のことか。確かにそんな用件なら、護衛の兵士を伴って出かけるわけにはいかない。
「多くの女性は何の気なしにやっているのでしょうが、専門の訓練を受けると、これが意外と奥深いのですわ。先生の指と舌の使い方など、もはや芸術と呼べる域に達しています」
 すっと持ち上げられたラフィットの白い指が、テーブルの上で架空のナニカを撫で上げた。
 手のひらを返して親指と中指で挟み込むと、愛おしそうに見つめながら唇を近づけ、先端にそっと口づける。
 決して下品ではない。むしろ優雅でたおやかな仕草なのだが、ちらりとレイリアを流し見た瞳は、淫美としか言いようのない色を浮かべていた。
 ラフィットが発散する艶然とした雰囲気は、媚薬となって部屋中を満たし、その場の全員を取り込んでしまう。
 シンとライオットはぞくりとするような色気に刺激されて、自身が昂ぶるのを抑えきれなかった。
 ここは食堂なのに、ロートシルト男爵夫人の情事を覗き見ているのだと、全員が納得していた。レイリアなど呼吸すら苦しくなった様子だが、それでも少女から目を離せない。
 ほんの一挙動の演技と視線だけでその場の全員を支配してしまったラフィットは、客たちを見渡すと満足そうに微笑んだ。
「とまあ、このようなお稽古ですわ。妾もなかなかのものでしょう? 殿方には目の毒だったかも知れませんが」
 すると淫猥な霧が一瞬で消え去り、元の空気が戻ってくる。
 期せずして、一斉にため息が洩れた。
 強制的に彼女の舞台に引きずり込まれ、よほど緊張していたのだろう。
「まるで魔法ですね」
 ライオットが感嘆する。
 嫌というほど思い知らされた。ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、ただの無力な少女などではない。超一流の女優だ。
 その能力の一端を垣間見ただけでこの有様。すべてを使って『ご奉仕』されたら、国王だろうが何だろうが、男なら骨抜きになるのは当然だろう。
 今はまだ、政治的には無力かも知れない。
 しかし。
「少しずつ宮廷に人脈を作って味方を増やしていけば、10年で皆が男爵夫人に頭を下げるようになりますよ」
 ライオットが言うと、ラフィットは鈴が転がるような声で笑った。
「ライオット様は、リュイナール様と同じようなことをおっしゃいますのね。もっとも、あの方は5年と言っておいででしたが」
「リュイナール?」
 原作では聞いたことのない名前だ。
「王国の宮廷魔術師様ですわ。まだお若くていらっしゃるのに、操る魔術はラルカス最高導師に匹敵すると言われています。妾も、宮廷での身の処し方などご教授を頂いておりますわ。今はまだ目立たぬように。しかしゆくゆくは、妾に王妃の座を、と」
 言葉だけを聞けば賞賛とも受け取れる内容だ。
 しかしラフィットの顔には、それだけでは済まない何かがにじみ出ていた。
 怪訝そうに見返すライオットに、ため息混じりに付け加える。
「けれど妾は、王妃の地位にも宮廷の権勢にも興味などないのです。こんな贅沢な暮らしをさせていただいて、その上何かを望むなど、神々の罰が当たりますわ」
 ほんのわずかに憂いを帯びた、まるで自分に言い聞かせるような口調だった。
 地雷を踏んだか、と内心ライオットが舌打ちした。
 宮廷に対して好意を持っていない相手に、宮廷での立身出世を話題に振っても逆効果だ。少女が変えたがっていた雰囲気も逆戻りしてしまい、自分の失策に天を仰ぎたい気分。
「男爵夫人、その……」
 レイリアも何かを言いかけて、ふさわしい言葉を見つけられず、もどかしそうに口を閉ざす。
 だが音にされなかったレイリアの想いは、きちんと相手に伝わったようだ。
 ラフィットは小さく頷くと、今までとはまるで違う、弱々しい笑みを浮かべた。
「それでも、こんな妾にも許されるのであれば、たったひとつだけ夢があるのです」
 そんなことを口にするのは、きっと初めてなのだろう。
 何度もためらい、迷いながら、レイリアを見つめ続ける。
 どれほどの沈黙が流れたのだろうか。
 促すような黒い瞳に背を押されて、ようやくラフィットは重い口を開いた。
「レイリア様。妾は友人が欲しいのですわ」
 それは、夢と呼ぶにはあまりにもささやかな願いだった。
 国王の寵愛を一身に受け、良くも悪くも注目の的となっている愛妾が、初めて見せた14歳の少女の顔。
 そんなものをさらけ出すのは初めてなのだろう。羞恥と緊張に上気した顔で、ラフィットは話し続けた。
「権力も金銀も関係なく、ただ互いの本音を語り合って、心から笑い合える、そんな対等の友人が欲しいのです。無論、理屈では分かっています。妾が国王陛下以外の方と必要以上に親しくなれば、相手にも迷惑がかかるのだと。妾の要求が無茶なものだということも。それは分かっているのですが、それでも妾は」
「男爵夫人」
 そっとラフィットの言葉を遮ったレイリアの声は、マーファの司祭にふさわしい、慈愛に満ちたものだった。
 裏表のない、掛け値なしに暖かい微笑を浮かべて、ラフィットに頷きかける。
「友人を欲しいという気持ちに、理屈など必要ありませんよ。それは人として自然な気持ちなのですから」
 そしてゆっくりと立ち上がり、ラフィットの席へと歩み寄る。
 黒い瞳に吸い寄せられるようにラフィットも席を立つと、レイリアはそのたおやかな手を取った。
「ロートシルト男爵婦人。私はマーファ教団の最高司祭、ニースの娘です。この身は信仰に捧げると決めましたので、生涯、宮廷とは無縁でしょう」
「……はい」
「ターバの片田舎で過ごすには、十分なお手当も頂いています。必要以上の金銀財宝は、一司祭には無用の長物です」
「はい」
 何もかも受け入れてしまうような、包容力に満ちたレイリアの微笑。
 それが意味するところを察したのだろう。碧玉の瞳を期待に輝かせて、ラフィットは頭半分だけ背の高いレイリアを見上げる。
 レイリアの言葉は、その期待を裏切らなかった。
「男爵夫人。あなたが私を認めてくださるなら、今日から私の友人になっていただけますか?」
「はい……はい、レイリア様。妾からもぜひお願いします」
 鉛色の雲に蔭っていた大地に、春の陽光が射し込むように。ラフィットの表情がぱっと明るくなり、握る手に力がこもる。
 レイリアも、その華奢な手を握り返した。
「では男爵夫人。あなたのことを、今日からラフィットと呼ぶことをお許し下さい。あなたが男爵夫人ではなくなっても、あなたの友人としてあるために」
 そんな言葉をかけられたのは初めてだったのだろう。ラフィットは喜びを通りこして驚きの表情を浮かべた。
 この都における彼女の存在意義は、ロートシルト男爵夫人であることが全てだ。それは国王が彼女につけた名札であり、貴族だろうと平民だろうと、その名を呼ぶことに疑問を感じる者はいない。
 今までも、ラフィットと親しく付き合おうとする者はいた。だがそれは、彼女がロートシルト男爵夫人であるからだ。もし彼女が国王の寵愛を失い、この離宮を追われたら、ただの小娘には見向きもしなくなるだろう。
 ロートシルト男爵夫人という名札には、それだけの価値があるのだから当然の話だ。それを嫌だとか悔しいとか思ったことはない。
 だがレイリアは、たった一言でその前提を飛び越えてしまった。今まで誰も見ていなかった、ただのラフィットだけを相手にしている。
「それは、本当ですか?」
 信じられない、といった様子でラフィットがレイリアを見上げる。
 慈愛の微笑を浮かべた司祭は、力強く肯いた。
「もちろんです。もしラフィットが国王陛下の御勘気をこうむったら、いつでもターバにおいで下さい。冬は長く寒いですが、暖かな暖炉が用意してあります。一緒に毛布にくるまって、お茶とお菓子を楽しみましょう」
 国王の愛妾としてではなく、ただの14歳の少女としてだ。
 むしろそっちの方が、ラフィットにとっては幸福なのではないか。レイリアは本気でそう思っていた。
「では妾も、レイリア様のことを、その、」
 おそるおそる、ラフィットが問いかける。
「お姉様、とお呼びしてもよろしいですか?」
 予想外の呼び名に少し驚いたが、レイリアはすぐに破顔した。
 年齢不相応に大人びた少女が不器用に甘える様子は、まるで相手を試す子猫のよう。この顔を見て、否と答えられるはずもない。
 今まで年長者に囲まれて背伸びしてきたレイリアにとっても、久しぶりに等身大で付き合える相手だった。
「もちろんです。私に妹はいませんから、私をそう呼ぶのはラフィットだけの特権ですね」
「お姉様……」
 握っていた手を離すと、ラフィットはためらいがちに、その手をレイリアの背に回した。
 白い麻の神官衣と、絹の豪奢なドレスが重なり、そっと抱きしめ合う。
 レイリアの甘い匂いに包まれながら、ラフィットは小さくつぶやいた。
「ずっとお待ち申し上げておりました、お姉様」
 少女の真珠色の頬を、涙がひとしずく、こぼれ落ちる。
 それには気づかない振りをして、レイリアは抱きしめる腕に力を込めた。
 今はただ、腕の中の少女を少しでも暖めたかった。





[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:57
シーン4 王宮ストーン・ウェブ

「よろしいですか。扉が開くと典礼官の呼び出しがありますので、中央の赤い絨毯に沿ってお進み下さい。正使のレイリア様は玉座の15歩手前まで。従者の皆様はレイリア様の2歩後方までです」
 謁見の間へと続く控え室で、担当の文官が慣れた口調で説明していく。
 レイリアは緊張した顔で、いちいち頷きながらその話に聞き入っていた。
 今日の主役、マーファ教団の正使であるレイリアは、いつもより装飾の多い礼装を着ている。昨日のうちに都のマーファ神殿から借りてきたものだ。
 うっすらと化粧を施し、銀の宝飾品を身につけた姿は、いつもよりずっと大人びた印象だった。繊細で清らかな、まるで白竜山脈の雪解け水のような清浄感。
 着飾ったレイリアを一目見た瞬間、シンはその姿に見入って呼吸すら忘れたほどだ。
 宮廷に咲く美姫たちを見慣れているはずの文官も、この清楚な乙女には賞賛の視線を向けてくる。
「目印に三角形の印がついておりますので、そこまで行ったら、片膝をついて頭をお下げ下さい。陛下からお言葉があるまでは、そのままの姿勢でお待ちいただきます」
「はい」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
 すっかり硬くなっているレイリアの肩を、ルージュの手がぽんと叩いた。
 賢者の学院でせしめた新しいローブは、黒の生地にミスリルメッシュを縫い込んだ魔法の品だ。遠目で見ても黒一色だが、光が当たると真銀の糸が虹色に煌めき、古代語のルーンが浮かび上がるという逸品である。
「ルージュさんは、もうちょっと緊張してもいいと思います」
 漆黒の瞳が、ちょっと恨めしげにルージュを見た。
 絹糸のような銀髪は丁寧に櫛を入れられ、毛先までさらりと流れている。首もとには魔法の品らしい紫水晶のネックレス。手に持っている魔法樹の杖も、昨夜のうちに磨いてきたようだ。
 単純に造形の美しさだけを比べたら、ルージュほどの容姿の持ち主は、世界中探しても五指に足りないだろう。彼女の美貌は傾国と評してよい。
 だが今のルージュには、緊張感や真剣さといった成分が決定的に欠けていた。
 柱に施された彫刻に目を輝かせ、足首まで埋まりそうな絨毯に喜んでいる様子は、どう見てもおのぼりさんの観光客。明らかに宮廷の雰囲気から浮いている。
 貴族出身のはずなのに、どうしてこうも軽く見えるんだろう、とレイリアは首をひねった。ルージュの自分を美人に『見せない』技術は、ほとんど魔法の域に達している。
「なんかこう、結婚式を思い出すな」
 重厚な両開きの扉を見上げながら、ライオットが妻に話しかけた。
 着ているのはいつものミスリルプレートだが、そこに青銀色のマントを羽織り、新しい魔剣を佩いた姿は、まるでどこかの国の上級騎士のような威厳を感じさせる。
 ルージュとは対照的に、堂々とした態度は宮廷にしっくりと馴染んでいた。
「そうだね。あの時も、式場の係員の人に、こんな感じで説明されたんだよね」
「リハーサルだと思って立ってただろ? 扉が開いたら招待客がずらっと並んでて、いきなり本番だったから驚いたのなんのって」
「いや、これ間違いなく本番だから。もうちょっと緊張しようぜ」
 顔を見合わせて笑う夫婦に、シンがため息混じりにつっこんだ。
 この4人の中で、一番化けたのはシンだろう。
 使い古した革鎧の代わりに、学院でもらったミスリル銀のチェインメイルを身につけ、その上には黒一色でコーディネートした膝下丈の長衣とズボン、それに革のブーツを履いている。
 ボタンのない長衣を銀の飾り帯で締め、切りっぱなしの短髪も丁寧に整えると、シンは“砂漠の黒獅子”の名に相応しい姿になっていた。
 アニメのキャラクターのように派手な衣装も、精悍に鍛えられた身体が見事に着こなし、何の違和感も感じさせない。この若者はきっと名のある戦士なのだと、一目見れば誰もが納得するだろう。
 レイリアは感嘆の視線を向けて「素敵です」と評したのが、今のシンを端的に表す一言だった。苦労して衣装を調達してきたアウスレーゼも、満足そうに頷いていた。
「なんだ、シンも緊張してるのか? 大丈夫だ、今回は俺たち台詞のないチョイ役だから。それに……」
 ライオットが周囲を気にして口には出さなかった言葉を、シンとルージュは正確に受け取った。
 シン・イスマイールはアラニア王国にとって敵性勢力の英雄だ。変に気の利いたことを言って目立っても、百害あって一利なしというもの。
 ただおとなしく、波風を立てないように、レイリアの引き立て役を務めるに如くはない。
 幸いなことに今日のレイリアは、美しさといい品格といい、高司祭という肩書きに恥じない聖女ぶりだ。彼女を通り越して後方の従者に注意を払うような男はいないだろう。
「それに、中にはアウスレーゼもいるそうだし。うまく話題を誘導してくれるだろ」
 壁際のソファに座って順番を待っている他の拝謁者たちは、額にびっしりを汗を浮かべて手を握りしめている。国王に謁見するというのは、彼らにとっては一生の大事なのだ。
「よろしいですか。間もなくとなります。今一度、身だしなみを整えて下さい」
 どうも緊迫感が足りない、と言いたげな声で、係員が告げる。
 素直にうなずいたレイリアは、自分の服装をチェックすると、隣のシンを見上げた。
「どうですか? どこか変なところはありますか?」
 両手を広げてレイリアがくるりと回る。肩から胸の礼章につながった細い鎖が、小さく揺れて煌めいた。
 額には三日月型のサークレット。これはマーファの聖印であり、豊饒の象徴でもある鎌を象ったものだ。
「大丈夫。いつもどおり綺麗だよ」
 答えるシンは大まじめ。だがこんな台詞を照れもせずにさらりと言ってしまうあたり、どうやら本格的にテンパっているらしい。
 始まる前からこれじゃあ先が思いやられる、とライオットはため息をついたが、レイリアは異なる感想を抱いたようだ。
 頬を染めてはにかみ、上目遣いにシンを見る。
「その、ありがとうございます。シンもいつもどおり格好いいですよ」
「ありがとう。君にそう言ってもらえると嬉しい」
「私もです、シン」
 そして見つめ合い、瞳に相手の姿だけを映す。
 緊張のあまり舞い上がって、完全に別の世界に行ってしまっていた。
 これが宿屋なら面白がって放置するところだが、今はそうもいかない。ライオットとルージュは、肩をすくめると2人の世界に割って入った。
「シン。おいシン。キャラ変わってるぞ。そろそろ戻ってこい」
「レイリアさん、もう出番だよ。最初のご挨拶は大丈夫?」
 呆れ顔で眺めていた係員は、もう知らんと思ったのだろう。小さく扉をノックして典礼官に合図を送ると、投げやりな態度で一礼した。
「それではどうぞ。ご入場下さい」
 その言葉に合わせて、縦5メートルはありそうな巨大な扉が開いていく。
 中は巨大な円柱が等間隔に並ぶ謁見の間だ。奥行きは50メートルほどか。数段高くなった玉座に向かって、レッドカーペットが1本の道をつくっている。
「ターバ神殿の御使者、高司祭レイリア様!」
 典礼官がよく通る声を張り上げると、鼓笛隊が短くファンファーレを奏でた。
 真紅の絨毯の両側に整列していた百名ほどの儀杖兵が、レイリアに向かって一斉に敬礼する。
 そういうものだと説明されていても、実際の迫力は想像以上だった。
 天井まで高さ20メートルはあるだろうか。白大理石をふんだんに使ったドワーフ建築は、華美にして壮麗。エンタシスの円柱はアーチ形状のドームを支え、見上げる天井には神代の物語が描かれている。
 壁には歴代国王の肖像画とともに、様々な意匠の旗が数百枚、誇らしげに掲げられていた。その1枚1枚が、広大な領地を持つ貴族や、武勲をあげた上級騎士の紋章旗だ。
 この謁見の間に家紋を掲げることは、王国の廷臣たちにとって最高の栄誉なのだという。それは同時に、その最上位に君臨する国王カドモス7世の威光を象徴するものでもあった。
 音楽、配置、雰囲気まで計算されつくした演出に圧倒されて、シンが思わず喉を鳴らす。
 アラニア王国は歴史と伝統しか残っていない、落ち目の大国だと認識していた。
 特筆すべき英雄はおらず、国王も凡庸。こんな国がどうして大国の位置にいられるのか不思議で仕方がなかった。
 だがその歴史と伝統の、なんと巨大なことだろうか。
 この謁見の間に来てやっと分かった。この国には英雄など必要ないのだ。
 積み重ねられた歴史は、どんな指導者よりも強固に王国をまとめ上げる。壁際に並んだ紋章旗がそれを証明している。
 連綿と伝えられる伝統は、人の心すら支配する力を持っていた。王権など歯牙にもかけていなかったシンでさえ、この場に立てば緊張で身が震えるほどに。
「……では、参りましょうか」
 相手があまりにも巨大すぎて、逆に腹が据わってしまったのだろう。レイリアは肩越しに3人を振り向くと、真紅の絨毯に足を踏み出した。
「ずっと考えてたんだよ。国王の御前に出るのに、どうして剣を持ったままでいいのか」
 レイリアに続いて絨毯の上を進みながら、ライオットが小さく笑った。
「まあ、この状況で逆らっても瞬殺されて終わりだよな」
 シンが肯く。
 右も左も、儀杖兵の掲げる白刃の林だ。剣を抜く素振りを見せただけで、四方から容赦なく槍を突き込まれること請け合いである。
「せめて盾があればな。少しは戦えたんだけど」
 帯剣を許すという通達は受けていたが、国王に謁見するのに完全武装は如何なものかと思い、愛用の大盾は宿に置いてきた。それがどうしても心細い。
 だがシンはそれを笑い飛ばした。
「無理無理。どうせ押し包まれたら動けないだろ。戦いは数だよ兄貴、と某中将閣下も言っている」
「ちょっとそこ。物騒な会話しないでよね」
 指が白くなるほど魔法樹の杖を握りしめて、ルージュが小声で窘める。
 敵対する意志など毛頭ないのだ。武器を持った兵士たちを挑発するのは勘弁してほしかった。
「すまんな。みんなの命をくれ」
「ライくん、やめてって言ってるでしょ。しかもそれ頑張りすぎの失敗フラグだよ」
「じゃあ、蒼き清浄なる世界のために」
「それは死亡フラグでしょ。もっと悪い」
「ルージュ、私を導いてくれ」
「それは負けフラグ。しかも私死んでるじゃない。縁起でもない」
 軽口の止まらないライオットにため息をつく。
 夫は夫なりに緊張しているのだろう。緊迫した場面でこそ、あえて普段通りに振る舞うのが彼の流儀だ。
 それは分かっているのだが、儀杖兵たちは、こんな不真面目な連中は初めてだと呆れているに違いない。
 自分たちが見下される分には構わないけど、レイリアさんの株が下がると困るな、とルージュが考えていると。
 ぴたりとレイリアの足が止まり、流れるような動作で右膝をついた。
 マーファ教団は王家の臣下ではない。本来ならば膝をつく義理はないのだが、「陛下への恭順を示すには一番分かりやすいし、しかもタダでしょう?」というニースの一言があったため、このような運びとなっていた。
 レイリアは視線を上げないように注意しながら、前方に並んでいる文武の高官たちをうかがった。
 向かって左側の男たちは、皆が鎧を着ている。きっと騎士団長とか将軍とか、そういう肩書きの持ち主なのだろう。
 向かって右側には、豪奢な衣装を着た文官たちが並んでいた。大臣とか行政官とか、そっち関係に違いない。そこに紛れ込んだアウスレーゼが心配そうに見ているのに気づいて、レイリアは少しだけ安心した。
 直接の会話はできなくても、知り合いがいると思うだけで心強い。
 背中でシンたちも膝を折るのを感じると、レイリアは教えられたとおり、深々と頭を下げた。
 それを合図として儀杖兵たちが一斉に直り、気をつけの姿勢に戻る。軍勢の動く音が高い天井に染み込むのを最後に、謁見の間は水を打ったように静まり返った。
 国王の言葉を待つための静寂だ。
 静けさと緊張で胃の底が痛くなってくる。
 そういえば、ターバ神殿で初めて説法した時もこんな感じだった。あの時は一番肝心なところで噛んでしまい、祈りの言葉をトチったのだ。
 マーファよ、どうか今回は失敗しませんように、とレイリアが救いを求めていると、10メートル前方の玉座からようやく声がかけられた。
「遠路はるばる、ようこそ参られた。歓迎しよう」
 聞こえてきた国王の玉声は、想像以上に若々しいものだった。カドモス7世は今年33歳。鷹狩りを趣味とする闊達な人柄で、民の間にも人気がある。
 今度はレイリアの番だ。大きく息を吸い込むと、努めて大きな声を出す。第一印象でナメられないように。それだけはニースに散々言われてきた。
「国王陛下には益々御健勝の由、まずはお慶び申し上げます。本来ならばニースが参上すべきところ、老年にて長旅には耐えぬとのこと、名代としてまかり越しました。ご無礼の段はお許し下さいませ」
 手は緊張で小さく震えているが、声は想像以上にきちんと出すことができた。
 挨拶の台詞も噛まないで言えたし、内心で安堵の吐息をもらす。
「レイリア司祭、マーファ教団は王国の臣下ではない。よって頭を下げる必要も、膝を付く必要もないぞ。せっかくの神官衣が汚れてしまう。顔を上げてお立ちなさい」
 この言葉は想定外だ。ここで膝をあげることを許されるのは退出の時、とそう教えられていたのだが。
 レイリアが困惑していると、玉座の向かって右側、国王の横に立っていた若い男が、穏やかな声をかけてきた。
「レイリア様。国王陛下のお言葉です。どうかお立ちください。官吏たちの説明などお気になさらず」
 視線を上げると、声の主は黒髪の若い男性だった。黒い魔術師のローブを着て、額には紅玉のサークレットをしている。
 ずいぶんと整った顔立ちをしているが、過日のラスカーズという騎士とは違い、健康的で清潔感のある印象だ。
 玉座の横に許された立ち位置といい、服装といい、おそらく彼が宮廷魔術師リュイナールだろう。
「それでは失礼して、お言葉に甘えさせていただきます」
 これはレイリア個人に向けられた好意ではなく、王国政府からマーファ教団全体への意思表示だ。ならば、これ以上の遠慮は逆に非礼に当たる。
 すっ、とレイリアは立ち上がり、顔を上げた。
 正面から国王と目が合った。値踏みするような視線に対抗するため、腹の底に力を入れたとき。
「待てシン、俺たちはダメだ」
「私たち従者なんだから、頭下げてないと」
 シンが釣られて立とうとしたのだろう、後ろから慌てて止める声が聞こえてくる。
 こんな場だというのに、本当にいつもどおり。レイリアはつい、くすりと笑ってしまった。
 第一印象の対決が台無しだ。国王も玉座で苦笑いしている。
「失礼いたしました。なにぶんターバの田舎者にて、宮廷の儀礼には疎いものですから」
 一度笑ってしまうと、嘘のように肩から力が抜けていった。どうやら変にネジを巻いて緊張していたらしい。
 17歳の小娘が、国王を相手に威圧感で勝負を挑んでも勝てるはずがない。そんなことは考えるまでもないのに、一瞬で相手の土俵に乗せられたのは、まだまだ自分が未熟ということなのだろう。
「シン殿はターバの出身ではあるまい? アラニアの儀礼に馴染みがないのは事実かもしれぬが」
 カドモス王の口調は穏やかなものだったが、いきなりの強烈なジャブ。
 シンの名前と素性を知っているぞという宣言だ。
 ということは、オアシスの街ヘヴンを巡るノービス伯との確執を知っているということ。あまりいい印象は与えないだろう。
 レイリアが困惑して答えられないでいると、カドモス王はしてやったりという表情で呵々と笑った。
「いや、驚かせたなら済まぬ。実はな、ロートシルト男爵夫人から聞かされたのだ。昨日、街で暴漢に襲われた折りに、通りかかったレイリア司祭と護衛の冒険者たちに助けてもらったとな。どうやら余は礼を言わねばならぬらしい」
 その事件は廷臣たちも初耳だったらしく、驚愕が波のように広がってどよめきを起こす。
「陛下、それは誠でございますか?」
 文官の列の最上位に立っていた若い貴族が、すわ一大事と声を上げた。
「ラスター公爵は、余の言葉をお疑いかな?」
「めっそうもない。しかしながら、かような大事が我らの耳に入らないことが信じられませぬ」
 なるほど、あの方がラスター公爵ですか、とレイリアは顔を脳裏に刻みつけた。
 年齢はカドモス王と同じくらい。だが体重は王の倍はあるだろう。明らかに節制の足りない食生活が、締まりのない顔と腹周りに如実に現れている。
 妾腹の王弟であり、次の玉座に一番近い人物。
 そして、ラフィットを襲わせた容疑者の1人でもある。
「ラスター公は冗談がお上手だ。公が知らないはずはありますまい」
 すると、文官の列の中程にいた年若い貴族が、これまた嫌みったらしい声を投げかけた。
 一見すると上品な美男子だが、よく言えば理知的な、悪く言えば狡猾そうな目が印象的だ。
「ノービス伯か。それはどういう意味かな?」
 鼻白んだ肥満体の王族が、胡乱げな視線を向ける。
「私の聞いた話では、それなる冒険者たちの活躍で、男爵夫人を襲った実行犯は生け捕りにされたそうですぞ。衛視隊が厳しい尋問をしておりますから、すぐに黒幕の名が判明するでしょう。困ったことにならねばよいのですが」
 ノービス伯爵は勝ち誇った表情で言いつのった。
 ノービス伯アモスン卿は、カドモス王の従弟にあたる人物のはずだ。母親は隣国カノンの王族出身で、血筋の貴さという点では宮廷でも随一の若者だという。
 古来アラニア第二の街ノービスは、もっとも王位継承権の高い王族が領有してきた。本来ならばラスター公爵が領主となってしかるべき街である。
 しかし妾腹という不名誉な出生と、王族の嫡出子であるアモスン卿の存在が、ラスター公からノービスの街を奪い去ってしまった。
 つまり、険悪になるべくしてなった2人である。常日頃からこんな感じなのだろう。文武の高官たちは、やれやれまたかという様子で事態を静観していた。
 要するに、狸と狐の化かし合いというわけですね、とレイリアが内心で評する。太ったラスター公が狸。つり目のノービス伯が狐。まさに言い得て妙だ。
「ラスター公。ノービス伯。国王陛下の御前ですぞ。お控え下さい」
 玉座の横から、宮廷魔術師リュイナールが苦々しげに口を挟む。
 ひとしきり嫌みを言って満足したのだろう、ノービス伯が謝辞とともに一礼して引き下がると、ラスター公も不承不承口を閉ざした。
 それを見て、黒髪の宮廷魔術師は国王に向き直る。
「陛下。ロートシルト男爵夫人が襲われたとなれば、事は簡単ではありません。どうか詮議は私にお任せ下さい」
 この場に居合わせた高官の中に、容疑者が誰だか分からない者などいない。まともに捜査して犯人を処罰したら、宮廷は大混乱に陥ってしまう。
 それでも異を唱える者がいないのは、この宮廷魔術師ならうまい落とし所を見つけるだろう、誰もがそう確信しているからだ。
 それは国王も例外ではなかった。
「よかろう。そなたに一任する」
「ありがとうございます。必ずや黒幕を調べ上げ、厳しく処断いたします」
 リュイナールは深々と頭を下げると、一歩退いて定位置に戻った。
「さて、レイリア司祭。事情は今話したとおりだ。ロートシルト男爵夫人は余にとって大切な女性なのだ。礼を言う」
「もったいないお言葉でございます」
 立ったまま、レイリアは深々と頭を下げる。
 政治向きの話には口を挟まないと言ったラフィット。だが彼女の一言は、これほど大きく国王を動かしてしまった。
 胸の中で少女へ感謝を告げていると、カドモス王はさらに言った。
「併せて、あなたの従者たちにも直接声をかけることを許してもらえるだろうか?」
「どうか御心のままに」
 レイリアが頷くと、国王は改まった口調で命じた。
「シン殿。ライオット殿。ルージュ殿。面を上げよ。そしてレイリア司祭に倣うがよい。そなたらの功績は大である。余はこれに篤く報いるであろう」
 朗々と響く、威厳のある声。
 眉を寄せたシンが、小声で親友に尋ねた。
「……つまり、今度こそ立っていいって事だよな?」
「正解」
 ライオットが肯くと、シンは迷うそぶりもなく立ち上がる。
 緊張はしているが、萎縮している訳ではないということか。その思い切りの良さに感心しながら、ライオットとルージュも立って前を向く。
 居並ぶ高官たち。
 高くなった玉座と、そこに座る年若い王。
 そして。
 玉座の隣に立つ男を見た瞬間、3人の動きが止まった。
 それまで主役だったはずの国王が視界の外に追いやられ、端然と立つ宮廷魔術師に、正確にはその額を飾るサークレットに視線が集中する。
「……ついに出たな、ラスボスが」
 ロードス島戦記を知る者にとって、あまりにも有名な紅玉のサークレットを見て、ライオットは身が総毛立つのを感じた。
 古代王国の魔女カーラが、自らの魂を封じ込めたサークレット。それは持ち主の意識を乗っ取り、肉体を自らのものとして無限に生き続けるという魔力を持っている。
 つまり、リュイナールという男はもういない。あの肉体の中身は灰色の魔女カーラというわけだ。
「いつかは出てくると思ってたけど、いざ出てくるとやっぱり怖いね」
 ロードス史上もっとも手強い相手の登場に、ルージュも怯みを隠しきれない。
 ラフィットは宮廷魔術師を、若いのに操る魔術はラルカス最高導師に匹敵する、と評した。
 あの時は聞き流したが、今なら分かる。それでは過小評価だ。
 魔術師としてカーラに匹敵する人間など、この世界には存在しない。メタな話をすれば、カーラのソーサラーレベルは10以上。その能力に上限が設定されていないほどである。
 本来ならば、絶対に敵に回してはいけない相手なのだ。
「それでも、レイリアは渡さない」
 シンは小さく、だがきっぱりと宣言した。
 たとえ相手が誰だろうと、レイリアを傷つけようとする者とは全力で戦う。彼女につけられた不幸な設定は、全部ぶち壊す。
 原作でレイリアがカーラに奪われた7年間は、17歳から24歳まで。人がもっとも輝く青春時代だ。
 その貴重な時間を灰色の策謀のために利用され、体も魂も汚し尽くされるなど、冗談ではなかった。何があろうと阻止してやる。
 それぞれの思いを込めて玉座を注視する中、カドモス王は3人を順に眺めた。
「よい面構えをしておるな。どうだシン殿、余に仕える気はないか? 相応の待遇で迎えるが」
 突然のスカウトに、レイリアの背中がぴくりと震える。
 だが、シンの答えには寸毫の迷いもなかった。
「せっかくのお誘いですが、俺にはやりたいことがありますので」
 国王の言葉をあっさりと一蹴するその態度に、文武の高官たちが色めきたつ。何人かは無礼を咎めようとしたが、カドモス王は軽く手を挙げて黙らせると、口許に小さく苦笑いを浮かべた。
「それは、故郷のために戦うという事かな?」
 顔は笑っているが、目は笑っていない。ノービス伯との確執は見逃してもよいが、これ以上の敵対行動は容認できないということだろう。
 しかし、シンの返答は王の予想を超えていた。
「違います。レイリア司祭のために戦うということです」
 シンは毅然と胸を張って答える。
 カドモス王が無言で先を促すと、シンはニースにしたのと同じように、明快な言葉で宣言した。
「俺はレイリア司祭を守ります。亡者の女王だろうと、邪神の教団だろうと、彼女は絶対に渡しません」
 それを聞いてレイリアがどんな顔をしたのか。カドモス王の表情を見れば一目瞭然だった。
 砂漠の英雄がなぜマーファの司祭と行動を共にしているのか。きわめて分かりやすい理由を、ふたりの目から読みとったのは明らかだ。
 しかも、単なる色恋で終わる話ではない。シンが亡者の女王の名を出した以上、レイリアの正体を承知していることになる。
 それでも『レイリアを』守ると宣言したことは、宮廷に対する警告と受け取っただろう。
 しばらく無言でシンの顔を見下ろしていた国王は、やがて表情を緩めた。
「ロートシルト男爵夫人が余に申したのだ。レイリア司祭が友人になってくれました、とな。あれは立場上ずっと独りであった。レイリア司祭、どうかこれからも仲良くしてやって欲しい」
 カドモス王の言葉はレイリアに向けられていたが、それはシンに対する意思表示だ。
 ラフィットの友人である以上、レイリアを墓所に封印するつもりはない、ということ。
「シン殿。今まではニース殿がレイリア司祭を保護してこられた。これからはシン殿の役目となろう。覚悟はあるのか?」
 墓所への封印は、お前に免じて凍結しよう。
 だがもし、レイリアが亡者の女王に覚醒したら、お前の手で封印することができるのか?
 そう問いかけるカドモス王のメッセージを、シンは正確に受け取り、胸を張って答えた。
「お約束します。俺の目の黒いうちは、アラニア王国が亡者の女王に悩まされることはないでしょう」
 事情を知らなければ、いささかピントのずれた会話に聞こえるだろう。たかが冒険者をニース最高司祭と同列に扱うなど、常識的に考えてありえない話だ。
 ライオットは高官たちの表情を見逃さないよう、慎重に見つめていた。
 ほとんどの者はシンを小馬鹿にしている様子だ。シンの正体もレイリアの正体も知らされていない、ただの貴族ならば当然の反応である。
 亡者の女王ナニールに関して、国王の裁定が取り消されたことを知った者たちは、一様に苦々しい顔でシンを眺めていた。
 狸のラスター公、狐のノービス伯、あと名前は知らないが騎士団長らしき人物、それに大臣A、Bといったところ。カドモス王と宮廷魔術師のカーラを含めても10名に満たない。
 彼らこそが宮廷の枢密に接する者であり、彼らの意志が王国を動かす。そう考えていいはずだ。
「シン殿の言葉は頼もしい限り。ニース殿もさぞや心強いことであろう。ニース殿からの親書にもそなたの名が書かれていたぞ。実直にして至誠の人であるとな。そして必ずや、アラニア王国に益をもたらすであろうと」
 カドモス王の視線が、心の底まで暴き出そうとするように、シンの目を射抜く。
 マーファ教団と砂漠の蛮族が手を組めば、政治的にも軍事的にも無視できない相手となる。国内にそのような相手を作ることだけは、絶対に容認できないのだ。
「俺の望みは、レイリア司祭が誰にも邪魔されずに、雪深いターバで静かに暮らせるようにすることです。政治のことはよく分かりませんが、それがアラニア王国の利益になりますか?」
 シンには腹芸などできないし、する気もない。
 いつでも直球勝負。口に出すのは常に本気の言葉だ。
 それはカドモス王にも伝わっただろう。本心など誰も口にしない宮廷の中にあって、シンの存在はあまりにも清冽だった。
 この青年はつまり、惚れた少女を守りたいだけなのだ。宮廷の権力やらマーファ教団の政治力やらには、まるで興味を持っていない。
 ということは、とカドモス王は考える。
 砂漠の蛮族で内紛があり、炎の部族の族長ダレスが“砂漠の黒獅子”を追放したという情報は、どうやら正しかったようだ。
 彼を失えば炎の部族の力は落ちる。風の部族との抗争も長引き、アラニアに手を伸ばす余力もなくなるだろう。
 それだけ判れば。
「十分な利益だな。シン殿、レイリア司祭を全力でお守りするがよい。さて、レイリア司祭」
 ハラハラしながらカドモス王とシンの会話を聞いていたレイリアは、王の追求が止まったことに安堵の息をもらした。
「レイリア司祭の用向きは、アウスレーゼから全て報告を受けておる。我が臣下にあのような者がいたことは、実に許しがたい。必ずや捜し出し、一網打尽にしてくれよう。これは余の名において誓約する。だがそれまでの間、その者たちの名は口外無用にしてもらえぬか?」
「承知いたしました」
 邪教殲滅に国王の助力を得ることは、今回の最大目標だった。今の一言を聞けただけで、レイリアの目的は達したも同然だ。
 レイリアが頭を下げると、カドモス王は小さく手を上げて侍従に合図をした。
「これで謝罪になるとは思えぬが、王国からマーファ教団への寄進を用意した。お納め願いたい。そしてこちらは、ロートシルト男爵夫人を救ってくれた事への、余からの個人的な礼だ」
 金貨銀貨や宝石の山に、絹や綿の反物、高価な香木などが次々に並べられていく。4人ではとても持ちきれない量だ。
 どうやってターバまで持って帰ろう、とレイリアが途方に暮れていると、国王がにやりと笑った。
「レイリア司祭は、王都まで徒歩でいらしたと聞いている。帰りは馬車と護衛を用意しよう。アウスレーゼをつけるゆえ、他に必要な物があれば何なりと申しつけられよ」
「お心遣い、感謝いたします」
 ほっとした様子のレイリアに、カドモス王は残念そうに続けた。
「本来であれば王宮の晩餐に招待するのだが、都を発つ前にレイリア司祭ともう一度お話しをしたい、と男爵夫人に泣きつかれておってな。もし迷惑でなければ、今夜もあれと会ってやって欲しい」
「分かりました。離宮に伺候いたします」
 ラフィットとは、もっとゆっくり話をしたかった。今夜はシンたち抜きで、2人きりで会ってみよう。
 レイリアがそんなことを考えていると、国王から書状を預かった宮廷魔術師が、ゆっくりと階段を下りてレイリアの前にやってきた。
「これは、国王陛下からニース様への親書です。どうか余人を介せず、レイリア様の手で直接お渡し下さい。墓所の件とピート卿の屋敷での件について、国王陛下のご意向が記されておりますので」
「はい、必ず」
 書状を受け取りながら、レイリアは宮廷魔術師を見た。
 ラフィットが、宮廷の女官に人気があると言ったのも頷ける。
 男性でありながら柔らかい物腰といい、穏やかな口調といい、初対面の相手でも安心して話せる雰囲気の持ち主だ。額に輝く紅玉のサークレットも、端整な顔立ちによく似合っていた。
「他に、国王陛下に申し上げておきたい事はありますか?」
 謁見はこれで終了と言うことだろう。
 どうにか及第点をもらえる内容だったのではないか。
 表情に安堵の色をにじませて、レイリアは宮廷魔術師に微笑み返した。
「いえ。陛下のご厚情には、感謝の言葉もございません」
「分かりました。遠路はるばる、ご苦労様でした」
 にこりと頷いた宮廷魔術師が合図をすると、大扉の前にいた典礼官が、再び声を張り上げる。
「ターバ神殿の御使者、高司祭レイリア様! 御退出!」
 鼓笛隊が先ほどとは違うファンファーレを奏で、儀杖兵が再び敬礼する。
 純白の神官衣をひるがえしたレイリアの美しさに、誰もが注目する中。
 宮廷魔術師を支配する紅玉のサークレットだけは、砂漠の英雄の黒い背中をじっと見つめていた。






[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン5
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:58
シーン5 王都アラン・冒険者の店〈黄金の太陽〉亭

 千年王国アラニアの都アランは、ロードスで最も繁栄している街と言えるだろう。
 10万人を超える人々が住むこの街には、冒険者の店も数多くある。その質は様々だが、この〈黄金の太陽〉亭は、中でも格式のある店として冒険者たちに認知されていた。
 チンピラに毛が生えた程度の駆け出しでは、敷居をまたくことすら許されない。一定の実力と評価を得たパーティーだけが逗留することから、入る依頼の難易度も、報酬の額も、そして利用する料金も、他の店とは一線を画している。
 ターバで〈栄光のはじまり〉亭の女将に紹介されてきたのだが、部屋を取るまでがまた大騒ぎだった。
 一見の客を追い払おうとした古株冒険者に因縁をふっかけられ、応対したルーィエの毒舌に相手が激昂し、店中を戦場にした大乱闘に発展した。
 もっとも、シンとライオットの2トップを相手にして、そこいらの冒険者で勝負になるわけがない。全員を床に沈めるまで1分とかからなかったのだが。
 その日の夜には賢者の学院でもらった宝物を山と持ち込み、翌日には王宮の使者が馬車いっぱいの宝物を運び入れるに至って、ついに〈黄金の太陽〉亭の関係者もシンたちがただ者ではないと理解したようだ。
 常連たちは畏怖に満ちた視線を向けてくるし、店の主人も最優先で対応してくれる。
 夕暮れ時。王宮から戻り、部屋で着替えてきたシンたちがテーブルを囲むと、店の主人が飛んできて人数分の飲み物を置いていった。どうやらサービスらしい。
 少しでも店の印象を良くして、また使ってもらえれば、ということだろう。その魂胆は見え透いているが、決して不愉快ではない。
「まったくお前ら、俺様を荷物番か何かと勘違いしてるんじゃないだろうな? 毎日毎日留守番ばっかりさせやがって。自由を尊ぶ猫族に対する挑戦か?」
 ぷりぷりと怒りながら2本の尻尾でテーブルを叩くルーィエの存在も、彼らがただ者ではないと証明する存在のひとつだ。
 人語どころか、精霊語に上位古代語まで解する猫族の王は、本来ならこのロードスには存在しない幻獣だ。彼の一応の主人である魔術師ルージュとともに、はるか北方の大陸アレクラストから船で渡ってきた身である。
「いや陛下、ホントに感謝してる。これはほんの気持ち。良かったら飲んで」
 カウンターでミルクに蜂蜜を垂らした特注品を作ってもらったライオットが、猫王の前に深皿を差し出す。
 甘いものはルージュに禁止されているため、彼女には内緒の一品だ。一口舐めて正体を察したルーィエは、ぴくぴくと髭を震わせて偉そうに論評した。
「まあ、今回だけは大目に見てやる。財宝を守って穴蔵で暮らすドラゴンの気分も分かったからな。手ぐすね引いて侵入者を待つのも、なかなか悪くない経験だった」
 彼らの留守に財宝を狙ってきた盗賊に《エネルギーボルト》を乱射して痛めつけた後、白銀に輝く戦乙女を見せつけて撃退したことを言っているのだろう。
 盗賊が不心得を起こした相手が誰なのかを知って、冒険者仲間たちはすぐに謝罪に飛んできた。
 その2時間後、男爵夫人邸の晩餐から帰ってきたシンたちは、猫を相手に正座して説教を聞いている中堅冒険者たちを見て唖然としたものだ。
 ルーィエが蜂蜜入りミルクに舌鼓を打っていると、レイリアは葡萄酒で唇を湿らせて、遠慮がちに切り出した。
「今夜のラフィットの件なのですが、私ひとりで行くというわけにはいきませんか?」
 自分が狙われているという自覚はあるのだろう。やっぱりダメですよね、と言わんばかりの上目遣い。あまり期待はできないけど、言うだけ言ってみようという感じだ。
「ひとりで、か……」
 シンは渋い表情で言葉を濁す。
 レイリアもラフィットも、やっかいな相手に目を付けられているのだ。そこであえて護衛なしというのは、さすがに無謀が過ぎるのではないか。
 腕を組んで考えていると、ライオットがあっさりと頷いてしまう。
「別にいいんじゃないか?」
 あまりにも気楽に答える親友に、むっとしてシンが噛みついた。
「簡単に言うなよ。もし何かあったらどうするんだ?」
 あの日、血塗れでうずくまっていたレイリアの姿を、シンは今でも鮮明に思い出すことができる。
 駆けつけるのがあと10秒遅かったら、彼女はあの騎士に殺されていたかもしれないのだ。
 同じ状況になって、また同じ幸運が拾えるとは思えない。そう思うと、レイリアを無防備に送り出すなど論外だった。
「確かに何かあったら困るけどさ。俺たちが一緒じゃできない話だってあるだろ。実は俺も、レイリアが一緒じゃできない相談がある」
 冗談めかした口調に本音を少しだけ混ぜて、ライオットがシンを見る。
 レイリアを排除してまで、急がねばならない相談。その議題はひとつしか思いつかない。
「あの宮廷魔術師の件か?」
「今日の謁見で分かっただろ? ラフィットはレイリアのために影響力を行使してしまったんだ。ラスター公とノービス伯は黙っちゃいないだろうし、そうなればあいつだって動くだろう」
 それまで灰色の監督者の下でバランスが取れていた振り子が、自分たちを重石に乗せたことで大きく揺れだしたのだ。それを看過してくれるほど甘い相手ではない。
 事態を察したシンが渋々黙り込むと、今度はルージュが口をはさんだ。
「だけどリーダーの言うとおり、護衛なしは危険すぎると思う」
 宮廷の狐と狸が直接動かなくても、その歓心を買おうとする取り巻きが暴発することは、容易に想像できる。
 もしかするとカドモス王は、そこまで考えて、護衛代わりにシンたちを利用するつもりだったのかもしれない。
「確かに。というわけで陛下、今回も頼めないかな?」
 ライオットの言葉に、深皿でハニーミルクを舐めていたルーィエが顔を上げた。
 目立ってはいけない場面で護衛をするのは、いつもルーィエの役目だった。ただの猫として振る舞っていれば誰にも警戒されないため、油断した相手から決定的な情報を入手したこともある。
 猫王の紫水晶の瞳がライオットを見上げ、残り少なくなったハニーミルクに落ち、再びライオットに戻った。やれやれと言いたげな表情だが、文句を言う気はないらしい。
「この貸しは高くつくぞ?」
 そんな言葉で了承を与えると、銀毛の双尾猫はレイリアを見た。
「運が良かったな、司祭。今夜は俺様が一緒に行ってやる。出発はいつだ?」
 ほっとした様子のレイリアは、律儀に頭を下げて言う。
「ありがとうございます、ルーィエさん。できれば今すぐにでも」
 あれほどの規模の離宮だ。急な来客のひとりくらい問題ないだろうが、ラフィットの夕食の前には着いておきたい。
「分かった」
 深皿に残ったミルクを空にすると、ルーィエはひらりとレイリアの膝に跳び降りた。柔らかい銀毛を受け止めたレイリアは、抱き心地満点の柔らかい感触に頬を緩める。
 細い指先が頭を撫でるのに目を細めながら、ルーィエは号令した。
「では出発だ。特別に今回は、俺様を抱いたまま移動することを許してやる。男爵夫人とやらに、俺様の食事を用意させるのを忘れるな?」
「分かりました。よろしくお願いしますね」
 銀毛の双尾猫を両手で抱き直すと、レイリアは立ち上がってテーブルを見渡した。
「それではちょっと行ってきます。今夜は先に休んでいてください」
「気をつけてね。何かあったらルーィエに言ってくれれば、すぐ迎えに行くから」
 使い魔と魔術師は、いつでも思考や感覚を共有できる。ルーィエの視覚を利用して《テレポート》で跳んでしまえば、どこであろうと1ラウンドで駆けつけることが可能なのだ。
「それは安心です」
 レイリアはにこりと笑い、小さく頭を下げると店を出ていった。
 白い神官衣の背中を、不機嫌そうにシンが見送る。
 一緒に行きたかったんだろうな、とライオットが分析していると、その視線にシンが反応した。
「何だよ?」
 レイリアたちの姿が扉の向こうに消えると、タダでもらったエール酒のジョッキを傾けながら、むっとした様子で親友をにらむ。
 明らかにご機嫌ななめ。下手なことを言うと火に油を注ぎそうだ。
 それでもライオットは、言わずにはいられなかった。
「シン。レイリアはお前の所有物じゃない。彼女の意志は彼女のもの。それを思い通りに操ろうとすると、あっという間に破局するぞ」
 相手には相手の意志がある。恋人だろうと夫婦だろうと、それを尊重できないようでは関係を維持できない。
 苦い経験に基づいたライオットの助言に、シンは舌打ちした。
「分かってるよ、そんなことは」
 レイリアにはレイリアの都合があるのだと、理屈では理解している。
 それでも納得はできないのだ。命の危険を冒してまで単独行動をする意味があるとは、シンにはとても思えなかった。
 そんな苛立ちを込めたシンの言葉に、ライオットはおとなしく引き下がる。
「ならいい。悪かった」
 ライオットにとって最も大事なことは、レイリアが一緒にいる間、彼女に息苦しさを感じさせないことだ。
 行動を共にすることで自由を束縛される、と彼女が感じてしまっては、仲間になんかなってくれない。
 もし襲撃があったら、すぐに飛んでいって守ればいいだけの話だ。今の自分たちならその程度の芸当はできるはずだし、彼女を守ればシンの好感度はさらにアップするだろう。
 レイリアの安全を真摯に考えるシンとは対照的に、最初から最後まで打算ずくめの思考。自分でもそれを自覚して、ライオットは自嘲気味に頬を歪めた。
 男たちが黙り込むと、ぎこちない空気がテーブルに流れる。
 どんな時でも明るく、ふざけたほど前向きな彼らには似つかわしくない沈黙。
 だがその重苦しい停滞は、長くは続かなかった。
 ルージュが困った顔でオレンジジュースに口をつけていると、横からかけられた声がそんな雰囲気を一瞬で吹き飛ばしてしまったのだ。
「おや、空気が良くありませんね。取り込み中ですか?」
 若い男性の、穏やかな声。
 初日の乱闘騒ぎ以来、この店には親しく声をかけてくる冒険者などいないはずだが、その声にはからかうような調子さえ感じられた。
 今は闖入者の相手をしている気分ではない。
「ああ、今ちょっと忙し……ッ!」
 一瞥をくれて追い払おうとしたライオットが、相手の顔を見て、驚愕に頬をひきつらせた。
 その様子に首を巡らせたシンとルージュも、男を見て凍りつく。
 昼間、謁見の間で見たばかりの赤いサークレットが、男の額に輝いていた。
「どうやら私の顔を覚えていてくれたようですね。良かった、お忘れだったらどうしようかと思いました」
 宮廷魔術師リュイナール、正しくは彼の肉体を支配する灰色の魔女カーラ。
 ロードス最強の魔術師が、人当たりの良い笑顔を浮かべてそこに立っていた。
「なんでこんな所に……」
 シンがうめく。
 少なくともここは、キャンペーンのラスボスが友好的な笑顔で話しかけてくる場面ではないはずだ。
 ついさっきまで口論していたのも忘れて、3人の視線が忙しく行き交った。カーラを相手にどのような対応をするか、それはこれから相談するところだったのだ。まだ何の方針も決まっていない。
 そしてこの魔女は、行き当たりばったりで対処するにはあまりにも危険な相手だった。
「何故と問われれば、あなたに用があったからですよ、シン・イスマイール殿」
 至極当然という口調であっさり答えると、宮廷魔術師はそこで初めて首をひねり、硬直したままの3人を順に見た。
「もしかして私、歓迎されていないのでしょうか?」
「というか、ふつう驚くだろ。こっちにも心の準備ってものが必要なんだ。来るなら来ると、前もって言ってもらわないと困る」
 何とか驚愕から立ち直ったライオットが、心から不服そうに訴える。
 そういえば、昨日ラルカス学長に同じ事を言われたばかりだった。突然の来客に爆弾を投げつけられた彼の気持ちが、やっと分かった。
 財宝を差し出してお帰り願えるなら、カーラ相手にもそうしたい気分だ。
「それは失礼しました。しかし、私は貴族でも何でもありません。ただの魔術師ですよ。あまり大仰に構える必要もないでしょう」
 リュイナール・カーラは言うと、レイリアが立ったばかりの椅子を引いて、遠慮なく腰を下ろした。
 すっと右手を挙げると、飛んできた店の主人に葡萄酒を注文し、テーブルの上で手を組んで顎をのせる。
 シンたちが何か言う前に、すでに長話をする状況ができあがっていた。
「さて、ちょっとお時間を頂いてよろしいでしょうか?」
「嫌だって言っても、引き下がる気なんてないんだろ」
 憮然として応じるライオットに、リュイナールは柔らかく微笑んだ。
「まさか。嫌だと言われれば素直に退去いたしますよ」
 礼儀正しく応じる黒髪の魔術師は、彼が灰色の魔女だという予備知識さえなければ、誰もが好感を覚えるだろう。
 年齢よりも多少幼く見える童顔は、どこまでも柔和な人柄を感じさせる。表情は軟らかく、声は穏やかで、これが本当にあの魔女かと信じられないほどだ。
「それで、話ってのは?」
 シンがやけになってエール酒を呷りながら、招かれざる来客に先を促す。
「ロートシルト男爵夫人に関してです」
 リュイナールは微笑を浮かべたまま、さらりと言った。
「単刀直入に申し上げましょう。事態は非常にまずい。あなたたちが男爵夫人襲撃の犯人を捕らえたことで、宮廷は大混乱。男爵夫人は危機に瀕しています」
「たかが市井の冒険者に、宮廷の話をされてもな」
 曖昧な表情で答えるライオットを、リュイナールは一言で切って捨てた。
「市井の冒険者? ご冗談を」
 穏和な微笑の中に鋭い視線をひらめかせ、3人を順番に見つめていく。
「“砂漠の黒獅子”とその仲間たちがどれほどの勲を打ち立ててきたか、今さら説明の必要はありますまい」
「いやほら、それはリーダーの武勲であって、私たちはその他大勢だったし」
 ひらひらと手を振って誤魔化そうとするルージュ。
 だがリュイナールには通用しなかった。
「そうですか。ところで、北の大陸のとある国に、希代の魔術師で“奇跡の紡ぎ手”とまで称された皇女がいらしたそうです。ルージュ殿は大陸から渡ってこられたとか。その方をご存じですか?」
「…………」
 いったいどこまで知っているのか。
 為すすべもなくルージュが黙り込むと、ライオットは降参とばかりに両手を上げた。
 ろくな材料もなしに灰色の魔女に対抗しようというのが、そもそも無茶なのだ。
「悪かった。もう邪魔しないから、話を最後まで頼む」
 3人が諦め顔で話を聞く態勢になると、リュイナールは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。結論から申し上げれば、皆様にはロートシルト男爵夫人を助けていただきたいのです」
「それは、ラフィットの護衛をしろって事か?」
 シンの問いに、リュイナールは首を振った。
「護衛と言うよりむしろ、後ろ盾になっていただきたいのですよ。男爵夫人は平民の出身で、庇護してくれる実力者が誰もいません。ですがマーファ教団と“砂漠の黒獅子”が支援するとなれば、貴族たちも簡単には手を出せなくなるでしょう。これはあなたにとっても悪い話ではないはずだ。違いますか、シン・イスマイール殿?」
 悪くないどころか、願ってもない話である。渡りに船とはまさにこのこと。
 シンたちの目指す宮廷構造が、灰色の魔女の目指すものと一致しているなら、もはや構築は成功したも同然だ。
 だからこそ、シンは疑わしげな視線を灰色の魔女に向けた。
「違わない。だけど話がうますぎる。俺たちを利用すると、あんたにどんな得があるんだ? そこを教えてくれ」
 お互いのカードを伏せたまま、ポーカーフェイスで着地点を探るような交渉など、シンには最初からやる気がない。
 身も蓋もない直球を投げ込まれて、リュイナールは思わず苦笑した。
「そうですね、あなたはそういう方でした」
 マーファ教団の最高司祭ニースをして、実直にして至誠、と言わしめたほどの人柄。シン・イスマイールを動かすために必要なのは、利益ではなく誠意なのだ。
 リュイナールは即座に軌道修正して居住まいを正すと、まっすぐにシンを見つめた。
「私の望みは、このアラニアに平和を維持することです」
 無言で先を促すシンに、リュイナールは言葉を続ける。
「考えてみてください。2本足の人間が足を1本失ったらどうなるか? かろうじて立つことはできましょうが、もう歩くことはできません。ですが4本足の獣なら、足を1本失っても何とか走ることができるでしょう?」
 リュイナールが語りだした、灰色の魔女が考える理想の世界については、3人ともよく知っている。
 強大な中央集権体制を嫌い、群雄割拠の状況を作ることで、カストゥール王国滅亡期のような大破壊を回避しようとしているのだ。
 それと同じ考え方をアラニアに向ければ、リュイナールの行動も理解できる気がした。
「今のアラニア王国には、国を支える足が3本しかありません。すなわち国王陛下、ラスター公爵、それにノービス伯爵です。陛下が健在なうちはいいでしょう。しかし陛下に万一のことがあれば、次の王権を狙うラスター公とノービス伯が内戦に突入するは必定。どちらが勝っても残る足は1本だけ。しかも長い内戦で国土は荒れ果て、民は疲弊します。そんな状態ではアラニアも滅亡を待つばかりです」
「そこで、ラフィットとマーファ教団の連合勢力が必要ってことか?」
 シンの問いに、リュイナールは首を振った。
「正確には、ラフィット王妃が産む王子が、です。国王陛下亡き後、陛下の地位を引き継いでラスター公とノービス伯を制肘できるのは、正当な王位継承権者をおいて他にありません」
「しかし、平民出身のラフィットが王妃の座に就くには、相応な後ろ盾が必要になる。そうじゃないと貴族連中が納得しないからな。確かにその点、マーファ教団なら文句なしって事か」
 腕組みするライオットに、リュイナールは我が意を得たりと肯く。
「古来、王妃の選定には、どうやって外戚の影響力を排除するかという難問がつきまとってきました。ですがロートシルト男爵夫人をマーファ教団が後援すれば、その点について何の心配もいりません。健全な宮廷運営を考えた場合、男爵夫人はまさに理想的な王妃候補なのですよ。だから私は、何としても男爵夫人をお守りしたい。そこで最初の話に戻ります」
 いったん言葉を切って、自分の話を理解してもらうための時間を作る。
 3人の顔を順に見つめ、十分に浸透したと判断してから、リュイナールは言った。
「今現在、問題は2つあります。1つは、皆様が男爵夫人襲撃の犯人を生け捕りにして、国王陛下がそれを知ってしまったという事。黒幕はおそらくラスター公爵でしょうが、真相を究明して公を糾弾すれば、宮廷の権力バランスが大きく崩れ、内戦に1歩近づいてしまいます」
 その仕組みは、シンにも理解できた。
 勢力が拮抗しているからこそ、今の宮廷は派閥抗争の中でも秩序が保たれているのだ。言ってみれば、アメリカとロシアが対立しながらも戦端を開けないようなもの。
 だがバランスが崩れ、明らかな力の差ができてしまったら? アメリカがイラクを、ロシアがグルジアを蹂躙したように、気に入らない相手を滅ぼすことに躊躇はしないだろう。
「もう1つは、男爵夫人が国政に口を出したという事実です。今の男爵夫人は、平民出の無力な少女にすぎません。その少女が陛下の寵愛を盾にして、ナニールの封印という建国以来の最優先事項をひっくり返してしまった。これは非常にまずい。宮廷全体を敵に回してしまいます」
「そうだよな。ラフィットの言葉が国王を動かすようになったら、貴族たちの既得権益を守る“宮廷のルール”が通用しなくなるからな」
「そう。本質はそこです」
 ライオットの言葉に、リュイナールが深く頷き、少し意外そうな視線を向けた。
 この中ではもっとも平民に近いはずのライオットが、宮廷貴族の行動原理を理解していることに驚いたのだろう。
「それで、リュイナールさんは私たちに何をさせたいの? 今の流れだと、私たちにできることなんて何もなさそうなんだけど」
 頬杖をついて話を聞いていたルージュが尋ねる。
 今のラフィットを取り巻く状況はわかった。それを打開するためには、どう考えてもマーファ神殿の介入が必要だ。
 だがそれはレイリアとニースの仕事であって、ぶっちゃけ自分たちでは何もできない。
 ルージュがそう問いかけると、リュイナールは穏やかに首を振った。
「とんでもない。国王陛下に命じられたとおり男爵夫人襲撃の黒幕を処断し、ラスター公爵に恩を売り、ノービス伯を牽制して実力行使を控えさせ、マーファ教団の庇護を示して男爵夫人の権勢を盤石にする。そういう一手を打つには、皆様の協力がどうしても必要なのです」
「そんな魔法みたいな策があるのか?」
 一石を投じて三鳥も四鳥も落とすようなもの。世の中そんなに都合よくは回らないのではないか。
 シンが疑わしげな視線を向けると、リュイナールは懐から黄色い油紙の包みを取り出し、テーブルに載せた。
 長さは20センチくらい。ごとりと重い音がしたので、何か固い物が入っているようだ。
「これは、皆様も見覚えがあると思いますが」
 そう言いながら、慎重な手つきで包みを開く。
 中からでてきたのは、黒い毒液で塗れた、古びた短剣だった。
 忘れもしない。ロートシルト男爵夫人を襲った、あの暗殺者が持っていた凶器だ。
「この短剣の柄には、ある紋章が刻まれています。ルージュ殿、これが何だかご存じですか?」
「知らない。不勉強ですいませんね」
 不機嫌そうにルージュが即答する。
 その様子にリュイナールは苦笑して謝罪した。
「申し訳ない。この紋章を普通の人間が知っているはずはないのです。何故なら、これは邪神カーディスの紋章だからです」
 その一言は、3人の意識に爆弾を放り込んだ。
 どこか他人事だったリュイナールの話が、一気に身近なものに降りてくる。
 一瞬で顔色を変えた3人を見ながら、リュイナールは話を続けた。
「皆様がとらえた暗殺者は、私が直々に尋問しました。色々と吐いてくれましたよ。あの男は銀蹄騎士団の上級騎士、スーヴェラン卿に仕える使用人でした。このスーヴェラン卿という人は、一言で言えばラスター公爵の腰巾着のひとりです」
「また銀蹄騎士団か……」
 シンが忌々しげに舌打ちする。
 その様子に、リュイナールは思い出したように付け加えた。
「そういえば、レイリア殿を襲ったラスカーズ卿も銀蹄騎士団でしたね。ラスカーズ卿は少し前まで、ノービス伯に仕える掃除屋として知られた男でした。スーヴェラン卿はラスター公爵の派閥。ふたりはライバル同士と目されていたのですが、まさかこんな共通点があろうとは。邪教の毒が広まるのは忌々しいことですが、今の私たちにとっては逆に都合がいい」
 リュイナールの穏和な顔に、ほんの一瞬だけ人の悪い笑みが閃く。
 ルージュはそれを見逃さなかった。
「男爵夫人を襲ったのが邪教の仕業であれば、ラスター公爵が国王陛下の問責を受けることはありません。ノービス伯も、配下のラスカーズ卿の一件がある以上、この件に関して強く口出しはできないはず」
 慎重に表情を消すと、ルージュは紫水晶の瞳をすっと細めて、宮廷の裏事情を語る魔女を見つめた。
 スーヴェラン卿に邪教の短剣を渡したのが、この灰色の魔女だというのは考えすぎだろうか。
 本来はラスター公の陰謀でも、邪教の仕業と決めつけてしまえば、宮廷のバランスは崩れず、ラスター公に貸しを作った状態で事件を解決できる。防げない陰謀ならコントロールしようというのは、この魔女に似合いの策ではないか。
「そこであなたの出番なのです、シン・イスマイール殿。あなたがレイリア殿の想い人であるというのは、今日の謁見で貴族たちの知るところとなりました。つまり、あなたがスーヴェラン卿を討って邪教の陰謀を解明すれば、その功績はレイリア殿に帰します」
 その結果、マーファ教団の代表者であるレイリアが、男爵夫人のために事件を解決したという形が出来上がるわけだ。
 まさしく状況を一気に好転させる妙手。
 灰色の魔女の鬼謀を目の当たりにして、ライオットは思わず唸った。
「なるほどな。確かにそうすれば、マーファ教団が男爵夫人を庇護しているように見える。ついでに邪教に責任を全部押しつけて、ラスター公に貸しも作れるってわけだ。シンはどう思う?」
 黙って話を聞いていたシンは、親友に水を向けられて、不機嫌そうに応じた。
「気に入らない」
 腕組みをしたまま、じろりとリュイナールをにらむ。
 そんな反応は予想外だったのだろう、黒髪の宮廷魔術師は、穏雅な微笑にかすかな困惑をにじませた。
「お気に召しませんか」
「ああ、気に入らないね。要するに、都合のいい事実だけを繋ぎあわせて嘘の話をでっち上げ、真相は闇から闇に葬り去ろうってことだろ? そうすれば一番うまくいくってことは俺にも分かる。だけど気に入らないんだよ、そういうの。どこかに落とし穴が待ってる気がしてさ」
 ルージュのように理詰めで考えるわけでも、ライオットのようにリスクとリターンを比較衡量するわけでもない。
 だがシンが物事の本質を嗅ぎ分ける嗅覚は、これまで何度もパーティーの危機を救ってきた。それゆえにパーティーのリーダーを務め、仲間たちはシンの最終決定を行動の条件と定めているのだ。
 渋い顔をしたまま、首を縦に振ろうとしないシンに困り果てて、リュイナールが助けを求めるようにライオットを見る。
 ライオットは苦笑いすると、肩をすくめてみせた。
「悪いけど、シンがこう言ってる以上、その提案には乗れないな。俺ひとりなら協力しても構わないけど、あんたの案には“砂漠の黒獅子”が必要不可欠なんだろ?」
「そのとおりです」
 理屈や利害関係が理由で拒否されたなら、まだ交渉の余地はある。だが「気に入らない」の一言で切って捨てられては取りつく島もない。
 リュイナールは下を向いて考え込んでいたが、やがて深々とため息をついた。
「本当にあなたは、敵に回したくない相手ですね。ノービス伯が手も足も出なかった理由が、よく分かりました」
 もはや万策つきたと言わんばかりに苦笑すると、どこか開き直った風情でシンを見る。
「もう隠し事はしません。私の窮状をすべてお話ししますから、どうか協力してください。もちろん冒険者に仕事を依頼するわけですから、報酬も用意します」
 黒髪の宮廷魔術師は、全面降伏の体で懇願した。シンが貫く無言を都合のいいように解釈して、リュイナールはまくしたてた。
「正直、男爵夫人の後援者がいなくて困っていたんですよ。利害に聡い貴族たちは、ラスター公やノービス伯の不興をこうむってまで、男爵夫人に通じようとはしません。ニース最高司祭ならば後ろ盾として十分な名声と影響力を持っていますが、彼女は宮廷権力には全く近付こうとしない。それが今回、邪教の襲撃という事態とともに、マーファ教団が宮廷に協力を要請してきた。私は千載一遇のチャンスだと思いました。邪教という共通の敵に立ち向かうため、私たちは手を取り合えるのですから」
「……もしかして、レイリアさんの封印を撤回させるために、あなたが国王陛下に何か言ったの?」
 ふと思いついて、ルージュが口を挟む。
 リュイナールは首を振った。
「いえ。これはロートシルト男爵夫人が国王陛下におねだりをした結果です。私は陛下からどう思うかと問われて、監視さえ怠らなければ問題ないでしょうとお答えしただけです。このおねだりが、致命的な危機を招くことは分かっていました。しかしそのときの私は、シン殿の協力があれば状況は打開できると考えてしまったのですよ。ここで断られると知っていれば、絶対に賛成しませんでした。いかなる手段を用いてでも撤回させたでしょう」
 まぁ、今さら言っても詮無きことですが、とリュイナールが肩をすくめる。
「そんなわけで、男爵夫人は分不相応なおねだりで貴族たちの反感を買い、しかも守ってくれる保護者が誰もいないという状況なのです。だからお願いです、今回だけでいいので、どうか協力してください。この状況を招いたのは私の失策です。私は何とか男爵夫人をお守りしたい。ラスター公とノービス伯の権力争いに巻き込まれて命を落とすには、あの方はまだ若すぎると思いませんか?」
 言ってリュイナールは、お願いします、と頭を下げた。
 恥も外聞もなく懇願するリュイナールの姿に、ライオットとルージュはもの言いたげな視線をシンに向ける。
 彼らとしても、男爵夫人と人脈を築くのはこの旅の目的の一つ。それで灰色の魔女に貸しが作れるのなら、この状況は願ってもないものだ。
 依頼を断って男爵夫人を窮地に落とし、灰色の魔女の恨みを買い、ついでにレイリアを不機嫌にさせたら、何のために王都まで来たのか分からなくなってしまう。
 そこのところを考えてくれ、という無言の圧力に耐えかねて、シンはついに折れた。
「……ふたつだけ確認したい。ひとつ目。そのスーヴェラン卿がラフィットを襲わせたというのは、間違いないんだな?」
「はい。間違いありません」
 飛びつくようにリュイナールが顔を上げる。
 シンはじっと相手の目を見て、次の質問を投げかけた。
「ふたつ目。スーヴェラン卿に邪教の短剣を渡したのは、あんたか?」
「違います」
 リュイナールは即答する。
「あまりにも都合が良すぎるので、そう勘ぐられるのも分かりますが。この短剣に関しては、私は一切何もしていません。ラスター公爵かスーヴェラン卿が、隠蔽工作のために用意したのでしょう」
 そしてしばしの沈黙が降りた。
 不機嫌そうなシンと、真剣な顔のリュイナール。
 やがて、その言葉に嘘はないと判断したのだろう。シンは大きく息を吐くと、リュイナールに頷いた。
「分かった。ラフィットを襲撃した犯人として、スーヴェラン卿を捕らえることに協力する」
「……ありがとうございます。本当に助かります」
 安堵の表情を隠そうともせず、リュイナールは微笑んだ。
 もっとも、胸をなで下ろしたのは灰色の魔女だけではない。ライオットとルージュも、ほっと息をついて視線を交わし合っていた。
「報酬は10万ガメルだ。前金はいらない。スーヴェラン卿を捕らえたら成功報酬の形で」
 めずらしくシンが金品を要求する。
 たぶん嫌がらせをしたいだけだろうな、とライオットが思っていると、リュイナールは迷うそぶりもなく頷いた。
「分かりました。明日までに用意します」
「それから、うちの魔術師に新しい魔法を教えてほしい。あんたなら秘蔵の呪文がたくさんあるだろう? いくつか頼む」
「私の知っている魔法でいいなら、喜んで」
 リュイナールはこの要求も受け入れた。
 教えてほしい魔法など、本当は1つしかない。だがおかげで遺失魔法の問題はクリアできそうだ。
 教わる相手が古代王国の魔女なら、さぞかし完全な形で教授されることだろう。
 あとはルージュのレベル次第だが、これはそのうち何とかなるに違いない。
「じゃ、交渉成立だ。これであんたは俺たちの雇い主。命令には従うよ。スーヴェラン卿の屋敷には、いつ行く?」
「善は急げです。これから衛視隊を動員して、卿の屋敷を包囲します。出発は2時間後でよろしいですか?」
「分かった。ライオットとルージュも、それでいいか?」
「了解、異議なし」
「私もそれでいいよ」
 ふたりも頷くのを見て、リュイナールは立ち上がった。
 飲み物代のつもりか、テーブルに数枚の銀貨を置くと、シンに言う。
「それでは、私は衛視隊に連絡をしてきます。2時間後、ここに迎えをよこします。私は別の任務がありますのでご一緒できませんが、よろしいですか?」
「もちろんだ。依頼を受けた以上、俺たちで何とかするよ」
 シンの返答に満足そうな顔をすると、リュイナールは一礼を残し、急ぎ足で店から出ていった。
 彼のこれからの2時間は多忙を極めるだろう。残務の処理を考えたら、今夜は眠れないに違いない。
「さて、俺たちも準備するか。レイリアを呼び戻す時間はないよな」
 剣を取ってシンが立ち上がる。
 もう決めた以上、難しいことを考えても仕方ない。政治とか陰謀とかは、そういうのが得意なライオットに任せておけばいいのだ。
 自分はただ、あの少女を襲った犯人を捕らえることに集中すればいい。それがいつものやり方なのだから。
 そう開き直ってしまうと、もやもやしたものが嘘のように晴れていった。
 仲間たちの視線の先で、まっすぐ前を向く“砂漠の黒獅子”の顔には、もう迷いはなかった。





[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン6
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 22:59
マスターシーン

 もう日が暮れるというのに、その薄暗い部屋にはランプのひとつもなく、ただ窓から差し込む残照だけが唯一の光源だった。
 窓の外には、夕日を浴びて黄金に輝く王宮が見える。
 この国の繁栄の象徴。
 そして薄暗い部屋に集ったモノたちにとっては、打倒すべき体制の象徴だ。
「宮廷魔術師殿が、ロートシルト男爵夫人襲撃事件の黒幕を突き止めたそうです」
 陰鬱な空気をふるわせて、司祭長が皮肉っぽく告げた。
「ほう。して、犯人は何者なのです? ラスター公にせよ、ノービス伯にせよ、我らにとっては都合がよい話になりますが」
 応じたのは隻腕の騎士だ。
 雪白の肌に妖艶な美貌。一見すれば美々しい武者ぶりだが、男の表情にはまるで毒華のような、危険な匂いが強く感じられる。
「実行犯はスーヴェラン卿の手の者。そして卿は邪神カーディスの教団に荷担しているとか」
 司祭長は言うと、見る者を凍りつかせるような冷笑を浮かべた。
「つまり、男爵夫人を襲わせたのは我らということになります」
 まったく。貴族同士で諍いをしている分には大歓迎だが、その責任をきっちり他人に押しつけるあたり、アラニアの宮廷には恐れ入る。
 カーディス教団よりよほど腹黒い人材が揃っているではないか。
「ふざけやがって! 宮廷の奴ら、一人残らず皆殺しにしてやる!」
 身の丈2メートルを超える巨漢が、野太い怒声をあげた。
 分厚い筋肉で盛り上がった赤銅色の肌。獣の皮で腰回りを覆った蛮族の戦士だ。両手持ちの巨大な戦斧を背負った姿は、かの“砂漠の黒獅子”さえ凌駕するほどの迫力を漂わせている。
「落ち着きなさい、アンティヤル。これは我らにとっても好機なのですよ」
 猛獣をなだめる飼い主のように、司祭長が目を細めて部下を制する。
「スーヴェラン卿が邪教の手先だというなら、そのようにして差し上げればよいのです。宮廷の貴族たちは驚くでしょう。まさか本当に、ここまで邪教の勢力が広まっていたとは、と」
 そうなれば、あの切れ者の宮廷魔術師も、事の真相を調べないわけにはいかない。ありもしない邪教との繋がりを求めて、無駄な労力と時間を費やすことになるだろう。
「なるほど。その分だけ我らへの詮議が疎かになる、というわけですな。さすがは司祭長様」
 空の右袖を揺らしながら、騎士ラスカーズが追従の笑みを浮かべる。
 唇をつり上げた隻腕の騎士に、司祭長は冷たい微笑を返した。
「スーヴェラン卿の屋敷には、今夜にも衛視隊が踏み込むでしょう。ラスカーズ、アンティヤル、そなたたちに命じます。“同志”スーヴェラン卿を助け、衛視隊を皆殺しになさい」
「はっ」
「おう、任せろ」
 美貌の騎士は優雅に頭を下げ、蛮族の戦士は傲然と胸を張る。
 その様子を静かに眺めると、司祭長は言葉を続けた。
「ラスカーズ。このアラニアの地には、転生者は未だ我ら3人のみ。それゆえ前回の失態は不問としました。ですが、我らの女王に剣を向けるような狂犬は、本来なら駆除の対象なのです。もう次はありませんよ?」
 穏やかな口調だが、部下に向ける視線には殺意さえ込められている。
 騎士はさらに低く頭を下げた。
「肝に銘じて」
 しばし無言でその姿を見下ろしていた司祭長は、その場にいた4人目の男に向き直った。
「導師様。今回も御協力をいただけますか?」
「乗りかかった船だ。助力は惜しまぬ」
 そう答えたのは、漆黒のローブを着た長身の魔術師。名をバグナードという。
 しばらく前にふらりと現れ、『墓所』の情報と引き替えに庇護を要求してきた。以来食客のような身分で司祭長の屋敷に匿われているのだが、どうやら司祭長らの持つ転生の魔力に興味があって近づいてきたらしい。
 別に探られて困ることでもなし、聞かれれば教えてやっても構わないのだが、今のところは黙って協力し、教団に貸しを作ることに腐心している様子だった。
 司祭長にとっては役に立つ手駒がひとつ増えたようなもの。おとなしくしている間は、せいぜい利用させてもらおう。
「御協力、感謝します」
 形ばかりは礼儀正しく頭を下げる。
 そして顔を上げたとき、司祭長は暗い期待に満ちた微笑を浮かべていた。
 この王国に待ち受ける動乱の時代への。
 宮廷の混迷への。
 そしてささやかとはいえ、その贄に供される数十の断末魔への。



シーン6 スーヴェラン卿の屋敷

「あ~、さすがに緊張するな」
 気配を殺して物陰に身を潜めながら、ライオットが小声でつぶやいた。
 細く長く吐いた息が、王都の闇の中にそっと溶けていく。
 遠く歓楽街から響いてくる喧噪。
 用水路で合唱する虫たちの声。
 降りそそいだ月光までもが音をたてそうな、そんな静かな夜だった。
 銀蹄騎士スーヴェラン卿の屋敷。その正門を覗き見ながら、シンたちは路地裏に身を潜めている。
 姿は見えないが、付近には衛視隊も配置についているはずだ。
 正門付近に30名、裏門と通用門に20名ずつ。それに突入部隊が30名。部隊の指揮を執るのは、先日の男爵夫人襲撃事件で世話になったベデル隊長である。
「やばい。俺、心臓が破裂しそう」
 何度も手を握ったり開いたりしていたシンが、親友の弱音に同調する。
 戦うのはこれが初めてではないが、こんなに緊張したのは初めてだった。
 今までは身構える間もなく実戦に放り込まれ、無我夢中で剣を振るってきたから、緊張とか恐怖をじっくりと味わう余裕などなかったのだ。
 誰かを守る戦いばかりだったから、心に迷いがなかったのもいい方向に作用していたのだろう。
 だが今回は違う。
 今回は不意打ちの先制攻撃であり、開戦のタイミングはベデル隊長の命令次第。それまでじっくりと緊張に身を焦がさねばならない。
 胃にヤスリをかけられるような時間が、もうどれくらい過ぎたのだろう。明らかに健康に悪い経験だ。
「そう言うわりには、ずいぶん余裕があるじゃないか」
「最初に比べればな。けどお前ほどじゃない」
 シンは小声で軽口を叩きながら、何とか緊張を解そうとしている。
 戦えるようになることを成長と呼んで良いのかどうか、ライオットには分からない。
 だがレイリアを守って戦うと決めた以上、恐怖に打ち勝つ胆力は絶対に必要なものだ。シンがそれを身につけていくという事実は、喜んでもいいだろう。
 ライオットが親友の変化に思いを馳せていると、後方を警戒していたルージュが、そっとささやいた。
「リーダー、ライくん。ベデル隊長が来たよ」
 振り向けば、3名の部下を引き連れた髭の隊長が、小走りに駆け寄ってくるところだった。
 衛視隊の指揮を執るベデルは、年齢40歳くらい。上品な口髭にオールバックの紳士然とした男だが、今夜は鎧兜に身を包んだ完全武装。先日とはずいぶん印象が違う。
 一緒に走ってくる衛視たちも同様だ。制服の上から鎧や盾を身につけ、手にした武器も小剣や戦槌など、屋敷内での戦闘に向いたものばかり。今夜は文字どおりの実戦装備だった。
 出で立ちからして、彼らの本気が伝わってくる。
「お待たせした。こちらの準備は完了だ。ルージュ殿、予定どおりいけるか?」
 ベデルは身を低くすると、押し殺した声をルージュに向けた。
「一撃でいけるかどうか、自信ありませんけど。全力を尽くします」
 いよいよ出番が近いらしい。
 魔法樹の杖を握り直したルージュが、硬い表情でうなずく。
 ベデルはうなずくと、シンたちに向き直った。
「最後にもう一度だけ手順を確認しよう。まずルージュ殿が正門を破壊する。続いて突入部隊のうち10名が先行する。シン殿とライオット殿がそれに続き、屋敷の前庭を制圧した後、後続の20名が屋敷内に突入する。後続部隊は5名ずつ4班に分けて屋敷内をそれぞれ探索、スーヴェラン卿を発見したら合図の警笛を鳴らし、シン殿たちはそこに急行していただく。よろしいか?」
「了解」
「分かった」
 シンとライオットが首肯する。
 どこから見つけてきたのか、衛視隊は屋敷の見取り図まで入手して、班ごとに探索する部屋の順序まで決めてあった。
 スーヴェラン卿が夕方に帰宅して以降、外に出ていないのは確認済みだ。発見までそう時間はかからないだろう。
「ではゆっくり50ほど数えたら、ルージュ殿の魔法をお願いする。門の破壊を確認したら、私は先行部隊とともに突入する予定だ。お前たちは外周部隊に伝令。爆発を合図に状況を開始せよ、と」
「はっ」
 ベデルが部下に命令すると、3名の衛視たちはそれぞれの部隊に走っていった。合図があったら、外周部隊は水も漏らさぬ包囲網を構築する手はずだ。
「それではルージュ殿、頼みましたぞ」
「は、はい」
 緊張にこわばった様子のルージュを見て、ベデルは返しかけた足を止め、小さく笑った。
「大丈夫だ、ルージュ殿。緊張するのは我らも同じ。かく言う私も足が震えている」
 今回の相手は、ストリートで刃物を振り回すだけのチンピラとは格が違う。王国貴族のエリート中のエリート、剣も魔法も使いこなす銀蹄騎士だ。特にスーヴェラン卿は導師級の魔術師として知られている。
 正面から戦えば犠牲は免れないだろう。
「それでも、我らは独りではない。仲間がいる。だから戦えるのだ。それだけは忘れるな」
 渋みがかった笑みをひとつ残すと、ベデルは突入部隊の指揮を執るため、路地の向こうに姿を消した。
 それを見送ったシンが、感心してつぶやく。
「仲間がいるから戦える、か。確かにそうだよな」
 ルージュに向けられた言葉は、シンの腑にもすとんと落ちて、不思議なくらい気が楽になった。
 今まで、自分の中の恐怖心を克服するには、自分が強くなるしかないと思っていた。
 だが、違うのだ。
 そんな時にこそ、仲間の存在が助けになってくれる。こいつと一緒なら大丈夫という想いこそが、恐怖心を切り裂く最強の剣なのだ。
「大丈夫だ、ルージュ。君は俺が守るよ。オーガー騒ぎの時は油断したけど、今度こそヘマはしない。約束する」
 不安と緊張に震える妻の肩に、ライオットが手を載せ、力強く宣言する。
 ルージュは少し驚いた様子で夫を見上げたが、やがて悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、ライくんは私が守ってあげる。教会で誓ったもんね。病めるときも、健やかなるときも、互いを支え助け合うって」
「そうだったな」
 そっと手を握り、互いを見つめて微笑み合うライオットとルージュ。
 人生を重ね、共に歩むと決めた夫婦の絆。
 その強さを羨ましそうに見て、シンは肩をすくめた。
「はいはい、ごちそうさま。少しは独り者にも気を遣えよ。目の毒だぞ」
 ひらひらと手を振る親友に、ライオットがにやりと笑った。
「羨ましいだろ? 今度はレイリアもいるときに見せびらかしてやる」
 その言葉に、思わず笑い声が弾け。
 3人を包んでいた焦燥感は、嘘のように消え去っていた。
 後に残ったのは、今ならいけるという高揚感。気負うでも焦るでもなく、不思議なほど抑制の効いた心理状態で、ルージュはすっと立ち上がった。
「じゃ、そろそろ始めようか」
 仲間たちが頷くのを見ると、魔法樹の杖を握り直し、呪文を詠唱を開始する。
 遠い神話の時代に、神々が世界を創造するために使ったという“力ある言葉”。
 古代王国の魔術師たちは不完全ながらもそれを模倣し、大地に満ちるマナに干渉する術を得た。その言葉を上位古代語と呼び、発生する事象を古代語魔法と呼ぶ。
 ルージュが操る魔術は、言うなれば小さな世界の創造なのだ。
『火竜の息吹、不死鳥の翼、始源の巨人の憎しみの心……』
 繊細な音律の呪文に導かれて、周囲のマナが寄り集まってくる。
 マナは魔法樹の杖によってさらに増幅され、ルージュのイメージした構成に乗って渦を巻いた。渦の中心で収束されたマナは紅い輝きを宿し、それは次第に強く、明るくなっていく。
 風が生まれた。
 強大な魔力が物理力を伴って世界に干渉し、ルージュのローブをはためかせる。初めは蝋燭ほどだった輝きが、もはや直視できないほどの光量を発していた。
 迫力満点の攻撃魔法の発動に、シンやライオットも息を飲む。
 ひとりの人間がこれほどの現象を引き起こせるなど、とても信じられなかった。
 魔術師が忌み嫌われるのも無理はない。この現象を見ただけで理解できる。
 彼らの力は、普通の人間が対等につき合うには、あまりにも強大すぎるのだ。
「準備はいい? いくよ!」
 今にも暴れ出しそうになるマナを意志の力で捻じ伏せ、さらに魔力を注いで圧縮しながら、ルージュが叫ぶ。
 シンとライオットは剣を抜いて身構えた。
 反対側の路地でも白刃がきらめく。顔を出したベデル隊長が親指を立て、準備完了の合図を送ってきた。
「よし、いつでもいいぞ」
 ライオットの言葉に視線だけで応えると、ルージュはトリガーとなる最後の一節を高らかに唱えた。
『万能なるマナよ! 破壊の炎となれ!』
 限界まで引き絞った弓を放つように、ルージュが杖をまっすぐ正門に向けた。
 紅の閃光が闇をつらぬき、屋敷の正門に吸い込まれる。
 ほんの一瞬の静寂。
 次の瞬間、爆炎が正門を押しつつみ、轟音と地響きが大地を揺るがした。粉々に吹き飛んだ正門が路上に散乱し、焼け焦げた木材がオレンジ色の尾を引いてシンの頭上にまで降ってくる。
「今だ! 行くぞ!」
 まだ爆発煙の収まらぬ正門に剣を向けて、ベデルが叫んだ。10名の衛視たちがベデルに続き、喊声を上げて屋敷に突入していく。
 あまりの迫力に呆然としていたライオットも、我に返って立ち上がった。
「シン、行けるか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろ」
 シンたちよりもはるかに弱い衛視たちが、危険を承知で突入したのだ。この土壇場まで来て、彼らを見捨てるわけにはいかない。
「ああくそ、やっぱりやめときゃよかったかな!」
 ほとんど破れかぶれになって、シンが屋敷へと駆け出す。
 肩を並べて走りながら、ライオットが応じた。
「男の格好良さってのは、虚勢とやせ我慢だ! 今のお前は、最高にカッコいいぞ!」
「男に褒められても嬉しくない!」
 大声で軽口を交わしながら、衛視たちに続いて正門に突入する。
 ルージュの魔法による破壊の爪痕は、優に直径5メートルを超えるだろう。木製の門は完全に吹き飛び、地面は真っ黒に焼けて小さなクレーターが出来上がっている。
 どうやら門衛はいなかったようだ。前庭にも敵の姿はなく、完全な奇襲攻撃となったらしい。
 広い前庭の向こうには、瀟洒な造りの洋館が見えた。
 2階建ての屋敷は所々で明かりが揺れ、騒がしく人が動く気配がするから、間もなく迎撃が始まるに違いない。
「今のところは予定どおり、順調だな」
 前庭の中央部で辺りを警戒しながら、遅れて走ってきたルージュと合流する。
 前衛にシンとライオット。後ろでルージュが援護するという、いつもの戦闘隊形。キースとレイリアがいないのは痛いが、今それを言っても仕方がない。
 四方に散った衛視隊が前庭を検索している間に、ルージュは《カウンターマジック》《シールド》《プロテクション》と支援魔法を矢継ぎ早にかけていく。《ファイアーボール》と合わせて、魔法樹の杖に貯蔵されていた魔力の7割を消費したが、まだ大丈夫。自前の精神点や魔晶石には余裕がある。
「前庭は制圧した! 突入隊、前へ!」
 シンたちが戦闘準備を整えたころ、ベデル隊長が大声で後続部隊20名を差し招き、号令した。
 両開きの大きな玄関に部隊が集合すると、目配せを交わして衛視たちが扉に手をかけ、一気に開く。その訓練された無駄のない動きは、まるでSATの特殊部隊のようだ。
 開け放たれた扉から、5名ずつ4組の突入部隊が飛び込もうとした、刹那。
『雷よ』
 轟ッ!
 鳥肌がたつような大気の震えとともに、純白の輝きが玄関から奔った。
 魔法の雷が嵐となって荒れ狂い、扉の前にいた衛視たちをまとめて薙ぎ払う。
 超高電圧の電撃に貫かれた衛視たちから、肉の焼ける臭いと絶叫が広がった。
 苦悶してのたうち回る衛視たち。ただの一撃で10人以上が無力化されていた。
 思わず立ちすくんだシンとライオットに、帯電した空気がまとわりつき、全身の毛が逆立つ。
 扉に密集した敵を貫通力のある《ライトニング》で一掃するというのは、中レベル以上の冒険者にとって戦いの常識だ。敵が魔術師だと知っていたのに、どうしてそれを見落としたのか。
 助言しなかったのは自分たちのミスだ。油断の代償と言うにはあまりにも大きな被害に、ライオットが奥歯を噛みしめる。
 そんな侵入者をあざ笑うように、屋敷の玄関から、ことさらゆっくりと人影が現れた。
 まるで獰猛な獣。それが第一印象だった。
 日に焼けた肌に褐色の髪。精悍な顔に猛々しい笑みを浮かべて、その男は傲然と言い放った。
「たかが下級官吏ふぜいが、誰の許しを得てこのスーヴェランの屋敷に入ってきたか?」
 着ているのは柔らかい皮鎧だが、鍛えられた長身のせいで弱々しさは感じない。
 剣の技量にも自信があるのだろう。抜き身で持っている長剣が、衛視隊の掲げる松明を反射してオレンジ色に輝いた。
「スーヴェラン卿。宮廷魔術師殿の命により、ロートシルト男爵夫人襲撃の罪で逮捕する。命が惜しければ、無駄な抵抗はなさらぬがよい」
 怒りで声を震わせながら、進み出たベデルが対峙する。
 預かった部下を無為に傷つけて、もっとも自分を責めているのは彼だろう。
 沸騰寸前の怒りを必死になだめているベデルに、スーヴェランは嘲弄で報いた。
「少しは使える男と聞いていたが、所詮は平民よな。貴顕に対する礼儀もわきまえぬと見える。貴様の目の前にいるのは、貴様ごときが立ったまま言葉を交わせる相手では……ッ!」
 その時、シンが動いた。
 黒い疾風となって一気に距離を詰め、屋敷の主に豪速の斬撃を見舞う。
 一切の無駄のない直線的な動き。スーヴェランが気づいたとき、すでにシンは間合いに入っていた。
 誰もがシンに目を向けたが、誰ひとり反応できない。完全に虚を突かれ、顔をひきつらせるスーヴェランに精霊殺しの魔剣が襲いかかる。
 だが。
 横から伸びてきた銀色の閃光が、まるで蛇のように絡みついて、シンの一撃を巻き落とした。
 軌道をそらされた剣は虚しく空を切る。
 驚いたシンが1歩跳びすさると、暗い愉悦に満ちた声が響いた。
「相変わらず人の話を聞かない男だな、貴様は!」
 中身のない右袖をひるがえし、左腕1本で細剣を操って、声の主はシンに襲いかかった。
 粘着質の殺気をまとい、急所を狙って続けざまに繰り出される剣尖。本気で自分を殺そうとする意志に圧倒されて、シンは後退を余儀なくされる。
「……ラスカーズ!」
 隻腕の男が誰なのか知って、シンが目を見張った。
「会いたかったぞ、シン・イスマイール! これでやっと貴様を殺すことができる!」
 雪白の肌に黒髪。
 病的なまでに妖しい美貌と、爬虫類めいた雰囲気の騎士。
 忘れもしない。ピート卿の屋敷を襲撃し、夫妻とレイリアをなぶって瀕死の重傷を負わせた邪教の司祭だ。
 だが何故、この男がここにいる?
 スーヴェラン卿が邪教に通じているというのは、カーラが捏造した表向きの話ではなかったのか?
 頭の中で疑念が渦巻き、困惑がシンの剣を鈍らせる。このままでは抗しきれない。変幻自在の剣捌きに圧倒され、そう悟ったシンは、大きく跳びのいて距離を取った。
「貴公、ラスカーズではないか。これはどういうことだ?」
 危機を救われたスーヴェランも、唐突に現れ、しかも自分に加勢した敵手に困惑を隠しきれない。
 詰問するような声を向けると、美貌の騎士はぬらりと濡れた笑みを浮かべた。
「何をおっしゃる。我らは終末の女神に仕える同志ではありませんか。互いの危機を救うのは当然のこと」
「……何だと? 貴公は何を言っている?」
「まあ、詳しい話は後ほど。まずはこの無礼な連中を皆殺しにして、カーディスへの贄に捧げるとしましょう」
 紅に濡れた唇をぺろりと舐め、殺戮への歓喜に震えるラスカーズに。
「そう簡単にいくかな!」
 今度はライオットが斬りかかった。
 ライオットの剣はシンと対極。徹底的な修練を積み重ねた技の結晶だ。
 後の先をもって奥義とする警察剣術を、シンの暴力的な剣風と稽古してさらに磨き上げ、その技はもはや完成の域に達している。
 何故ここにラスカーズが出たのか知らないが、ライオットにとってはむしろ好都合だ。ここで倒してしまえば、わざわざ探す手間が省けるというもの。真相の究明はその後でよい。
 一切の疑問を封殺して割り切り、ラスカーズの首に斬撃を打ち込もうとした刹那。
 首筋にチリチリと焼けるような感覚が走り、ライオットは反射的に盾をかざした。
 次の瞬間、鋼鉄の暴風が吹き荒れた。
 信じがたいほど重い打撃が防御魔法の力場を易々と貫き、“勇気ある者の盾”に炸裂する。
 強烈きわまる衝撃。わけも分からず身を固くすると、問答無用に弾き飛ばされ、胃が口から出てくるような浮遊感に襲われた。
 短い空中遊泳の後、為すすべもなく前庭に叩きつけられたライオットは、全身の痛みを堪えてすぐさま跳ね起きた。
 驚愕と屈辱にこわばった顔で、自分を一蹴した敵を睨みつける。
 赤銅色の肌に赤い髪。身長は2メートルほどだが、分厚く盛り上がった筋肉のせいでもっと巨大に見える。
 獣の皮で腰回りを覆っただけの、蛮族の戦士だ。
 両手持ちの巨大な戦斧を振り抜いたままの姿勢で、戦士は犬歯をむき出しにして獰猛な笑みを浮かべた。
「こいつを受けたか。小僧、少しは遊べそうだな」
 とっさに盾をかざしていなければ、今の一撃で腰断されていただろう。冷たい汗が全身から噴き出し、今さらのように心臓が早鐘を打つ。
 こいつは強い。少しでも手を抜けば殺される。
 腹の底に生まれた恐怖を抑え込んで、ライオットは慎重に盾を握りなおした。
「闇の森の蛮族……ベルドの同族か」
 戦士の特徴的な容姿は、暗黒の島マーモで闇の森にひっそりと根を張る蛮族“ナグ・アラ”のものだ。
 閉鎖的なため知名度は高くないが、原作では、この部族の男女は屈強な戦士だと設定されていた。
 ニースと並ぶ魔神戦争の英雄、ロードス最強の戦士である“赤髪の傭兵”ベルドも、この部族の出身だ。
「ほう、ベルドを知っているのか。ならば小僧、アンティヤルの名も覚えておけ。ナグ・アラの戦士にして、終末の女神の忠実なる従僕。そして貴様の命を刈り取る男の名だ!」
 赤髪の戦士は、そう吼えるなりライオットに襲いかかった。両手持ちの戦斧がうなり、大上段から打ち下ろされる。
「くッ!」
 正面からでは受けきれない。ライオットはとっさに半身をずらし、盾を斜めにして必死に打撃を受け流す。魔法の盾を削りながら滑った戦斧は、地響きをたてて大地に打ち込まれたが、勢いを殺しきれなかったライオットもたたらを踏んだ。
 両者の視線がぶつかり合い、互いに武器を振りかぶりながら、弓が引き絞られるように殺気が高まっていく。
 それが臨界に達する寸前、ルージュの魔法が完成した。
『万能なるマナよ! 雷の縛鎖となれ!』
 スーヴェランのものとはケタの違う、圧倒的な光量の電撃が網となってアンティヤルに絡みついた。
「がぁぁぁぁぁぁッ!」
 青白い雷が赤銅色の肌を焼き、絶叫と肉の焦げる臭いがはじける。
 妻の魔法で完全に身動きを封じられた赤髪の戦士を、ライオットは渾身の力で蹴り飛ばした。
 直視できないほどの眩光に縛られたまま、今度はアンティヤルが宙を舞い、そのまま大地を転がって玄関口に横たわる。
 その間もルージュの《ライトニング・バインド》は戦士を焼き続け、青白い閃光が前庭を昼間のように照らし出していた。この魔法の持続時間は18ラウンド。効果が切れる頃には、いかに強靱な戦士といえども命はないだろう。
 その結末を予想し、ライオットは一息つこうとしたが。
 雷の縛鎖は何の前触れもなく消滅し、戦場にはすぐに静寂と暗闇が戻ってきた。
 熟練の戦技と、高位の魔法の応酬。
 相手の虚を突こうとする奇襲の繰り返し。
 その最後に登場したのは、秀でた額が印象的な、壮年の魔術師だった。
「噂にたがわぬ強大な魔力だ。あと10年も研鑽すれば、大賢者ウォートに匹敵する魔術師になるかもしれんな」
 平然とした口調だが、顔には脂汗が浮かび、肩も荒々しく上下している。相当な苦痛を代償としてルージュの魔法を解呪したのだろう。
「黒の導師……バグナード」
 ルージュの唇がその名を紡ぎ出すと、魔術師はにやりと笑った。
「いかにも、“奇跡の紡ぎ手”アルトルージュ皇女殿下。お初にお目にかかる」
 激戦の中、ぽっかりと生じた静寂に、バグナードの声が波紋となって広がっていく。
 今この屋敷で、何が起こっているのか。
 この戦闘にどんな意味があるのか。
 誰もがそれを理解できぬまま、事態は新たな局面を迎えようとしていた。






[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン7
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:00
マスターシーン ロートシルト男爵夫人邸

 金で縁取られた高級陶器で蜂蜜入りのミルクを舐めていたルーィエが、ふと顔を上げた。
 応接室の大きな窓から、目を細めて西の空を見る。
 ほんの一瞬だけ赤い光が瞬き、夜空を照らすと、猫族の王は小さく呟いた。
「始まったか」
 低く伝わってきた振動が、窓ガラスを細かく震わせる。
「え? 何か言いましたか?」
 優雅な手つきでティーカップを傾けていたレイリアが、ルーィエに問いかけた。
「始まったんだ。捕り物がな。それより男爵夫人とやらは、いつまで待たせれば気が済む?」
 離宮についてから、もう2時間になろうとしている。
 応対した執事は平身低頭しながら、しばらくお待ちいただきたいと告げてこの応接室に案内したのだが。
「執事さんの話では、王宮からの使者ということでしたから、お話が長引いているのかもしれませんね」
 不機嫌そうなルーィエをなだめるように、レイリアが柔らかく微笑む。
 約束もなしに突然押しかけたのはレイリアの方だから、ラフィットに先約があったことに文句を言うのは筋違いだ。
 応接室には飲み物だけでなく、菓子や軽食なども運ばれていた。晩餐を共にする客人に食事を出すわけにはいかないが、空腹への対処は必要という心遣い。
 つまり、相当な時間をここで潰さなくてはならないらしい。
「ふん、使者か。案外使者じゃなくて、国王本人だったりしてな」
 ルーィエが鼻を鳴らす。
「国王陛下が、わざわざお運びになって何を……」
 言いかけたレイリアが、頬を赤らめて咳払いする。
 ラフィットは国王の寵姫だ。国王が彼女を求めれば、それに応じるのは義務と言ってよい。
 落ち着きのない様子で視線をさまよわせるレイリア。恥ずかしそうになったり、夢見る乙女のようにうっとりしたり、緊張に顔をこわばらせたり、その百面相はいつまで見ていても飽きそうにない。
 ルーィエはしばらく興味深そうに眺めていたが、やがて口を挟んだ。
「妄想の邪魔をしてすまないが、司祭。ちょっと耳に入れておきたいことがある」
「え? も、妄想なんてしてませんよ」
 真っ赤になって手を振るレイリアに、ルーィエはさりげなく問いかけた。
「そうか、ならばいい。それでどっちのことを考えていた? 国王か? それともあの黒いのか?」
「もちろんシンです」
 即答するレイリア。
 なるほど、だいたい分かったとうなずいて、銀毛の猫王が人の悪い笑みを浮かべた。
「脳内で事態がどこまで進展したか聞くのは、失礼に当たるんだろうな?」
 すっかり内心を読まれている。
 怒ってごまかそうと頬を膨らませたレイリアだが、ルーィエとはまるで役者が違う。
 力なく肩を落とすと、上目遣いで猫王を見た。
「あの、私が変なこと考えてたって事は、シンには内緒にしてくださいね」
「何故だ? あの黒いのなら、むしろ喜ぶと思うが」
「そういう問題じゃないんです。もしシンにバレたら、恥ずかしくて顔も見られなくなります。どうか内密に。是非お願いします」
 顔を真っ赤にして力説するレイリア。
 否とも応とも答えず、さらにからかおうとしたルーィエが、突然厳しい顔で黙り込んだ。
 視線を西の窓に向け、2本の尻尾が落ちつきなくテーブルを叩く。
 いつもと違う緊迫した雰囲気に、レイリアも我知らず息を飲んだ。
 一度、二度と西の空が青白く光る。
 何かが起きている。レイリアは変な胸騒ぎを感じて、そっと胸に手を当てた。
 どれくらいの沈黙が流れただろうか。
 ルーィエの紫水晶の瞳が、まっすぐにレイリアを見た。
「お前の黒いのが戦ってる。この屋敷の主人を襲った犯人を、捕らえるために」
「えっ……」
 予想外の言葉に驚くレイリアに、ルーィエはさらに続けた。
「そこに加勢が現れた。お前を襲った騎士と魔術師、それに蛮族の戦士も。犯人は邪教の一味だったらしい。強敵らしいな。こっちが不利みたいだ。あの半人前が混乱してる」
 半人前というのはルージュのことだろう。あの冷静な人が混乱するくらい、状況が良くないのか。
 じゃあシンは?
 彼は無事なのだろうか?
「大変! 私も早く行かなきゃ!」
 いても立ってもいられなくなり、レイリアが慌てて帰り支度を始める。
「やめておけ。お前が行っても足手まといだ」
「そんな! 私だって戦えます!」
 思わず声を荒げるレイリア。
 だがそんな彼女に、ルーィエは冷たく言い放った。
「それでまた、あの騎士の嬲りものにされるのか」
 あの時の絶望感を思い出し、レイリアの表情に怯えが浮かぶ。
 自分では乗り越えたつもりでも、心についた傷は癒えていなかった。気丈に振る舞っても女性は女性。身も心も蹂躙された相手には、拭えない恐怖が刻みつけられている。
「お前が今ここにいるのは、黒いのにとって幸いだ。お前の安全は保証されてて、全力で敵に当たれるんだからな。だから今まで、捕り物のことはお前に黙ってた。そうしろと黒いのが言ったからだ」
 静かな口調で言い聞かせるルーィエに、レイリアは返す言葉もない。
「それに、自分で決めてここに来たんだろうが。男爵夫人とやらを放置して帰っていいのか?」
 そうだ。忘れていた。
 ここにレイリアがいる理由は、権力の闇に怯える少女を慰めるためだった。
 シンにはライオットも、ルージュもついている。
 だがラフィットの友人は、レイリアしかいないのだ。
「事態は決して良くない。だからこそ考えろ。自分に何ができるのか。自分が何をするべきなのか」
 落ち着きなく尻尾でテーブルを打つルーィエからは、いつものような雑言も皮肉も出てこない。
 それだけ余裕がないということだ。本当なら、一番に彼らのもとへ駆けつけたいのは、この猫王なのだろう。
 それでも、今自分が為すべきなのはレイリアの護衛だと考えているから、この場に留まってくれるのだ。
「……分かりました。すみませんでした、ルーィエさん」
 素直に謝罪すると、浮かせた腰をソファに落ち着ける。
 レイリアはそっと瞳を閉じた。
 自分は司祭だ。ならば、どこにいてもできることがある。
 レイリアは静かに手を組んで、激戦の中にいる大切な人たちを思い浮かべた。
「マーファよ、どうかシンたちをお守りください」
 真摯なその祈りは、きっとシンにも届くだろう。
 祈りは決して無力ではない。
 そう信じて、レイリアは仲間たちの無事を願い続けた。



シーン7 スーヴェラン卿の屋敷

 何度目かの《ファイアボール》が炸裂し、前庭に炎と破壊をを巻き散らした。また数人の衛視たちが巻き込まれ、力なく倒れたまま動かなくなる。
 突入した衛視は30名。すでにその半数以上が、スーヴェランひとりの魔法で打ち倒されていた。
「くそっ! このままじゃジリ貧だ!」
 炎の余波を盾で防ぎ、前髪を焦がす熱風に顔をしかめながら、ライオットが舌打ちする。
「どうした小僧! もっと俺様を楽しませろ!」
 右から左から、縦横無尽に戦斧を打ち込みながら、赤髪の戦士が歯をむき出しにして哄笑した。
 そこらの男では、持ち上げることさえ難しいだろう巨大な戦斧。それを柳の小枝のように軽々と振り回すとは、いったいどれほどの膂力を持っているのか。
 技に特化したライオットとは対照的に、アンティヤルはパワーで勝負するタイプの戦士だ。計算された剣技を暴力的な一撃で打ち払う戦い方はシンとそっくり。相性が悪いとしか言いようがない。
「楽しみたいんだったら、少しは手を抜けっての!」
 それでも、一撃一撃に必殺の威力を込められた戦斧を、ライオットは1歩も引かずに止め続ける。
 後ろには妻がいるのだ。断じて、こんな猛獣を通すわけにはいかない。
 必死に攻撃を受け流しながら、ライオットは反撃の隙をうかがい続けた。
 その横では、シンがライオットとまったく逆の戦いを繰り広げている。
 最初の混乱が収まると、シンの剣は徐々に鋭さを取り戻していった。いきなり激戦が始まり、精神的な余裕を失ったのが良い方向に作用したのだろう。
 恐怖や緊張といった感情が根こそぎ削り取られ、攻撃に反応して打ち返すという至極単純な状況が、シンのスペックを強制的に引き出していく。
 ラスカーズを相手に、戦況は劣勢から優勢へと移行しつつあった。
「まったく! 厄介な男だな、貴様は!」
 ラスカーズが苛立たしげに細剣を繰り出す。
 幾多の人命を糧にして鍛えてきた、変幻自在の剣捌き。数十の刺突はことごとく急所を狙ってきたが、シンはそのすべてに反応し、1本残らず打ち払った。
「厄介なのはどっちだ!」
 腰を沈め、精霊殺しの魔剣を水平に一閃。
 跳びのいたラスカーズだが、ひるがえった右袖が捕まり、両断されて宙に舞う。
 袖の中身はもうない。何らダメージは受けなかったが、その光景はラスカーズの心に刻まれた古傷を見事にえぐり返していた。
 漆黒の瞳で殺意が沸騰する。激情に駆られて、銀色の剣光はさらに速度を上げた。
 正確さは欠いたものの、シンの反応速度を越えた攻撃が小さな傷を付けていく。腕に、脚に、服を裂いて赤い染みが次々と浮かんだ。
 血の色。血の匂い。
 それを感じて歪んだ精神が歓喜し、紅い唇が笑みの形に吊り上がる。
「変態か、お前は」
 嫌悪感を丸出しにシンが吐き捨てる。
「ふッ、何とでも言うがいい。我らが女王の築く黄昏の王国に、貴様のような愚民は不要。今日この場でカーディスへの贄に捧げてくれる」
 さながら、劇場で演じる俳優のような台詞回し。
 自分に酔っているとしか思えないラスカーズの言葉で、シンの両眼に炎が灯った。
「……女王、女王ってうるさいんだよ。お前がどこで何をしようが、どんな神を信仰しようが、俺には関係ないし興味なんて更々ないけど」
 全身につけられた無数の傷が痛みと熱さを訴えていたが、昴ぶった心がすべて押し流し、意識の外にはじき出してしまう。
「レイリアに手を出すことだけは、絶対に許さないからな!」
 砂漠の部族に獅子と畏れ称えられた戦士が、怒りの咆吼をあげる。
 だがラスカーズは、嘲弄でそれに応えた。
「世迷い言を。レイリア様は400年前より、我らの女王であられた。貴様ごときがいくら吠えたところで、この事実は変わらぬ」
 狂気に犯された漆黒の瞳が、すっと細くなる。
 獲物に飛びかかる毒蛇が身を縮めるように、ラスカーズは細剣を引いて身構えた。
「あの忌々しい墓所を破った、天恵の地震から17年。この私が17年待ったのだ! 我らが女王を、貴様のような野良犬に奪われてたまるか!」
「何が女王だ! 知ったことか!」
 限界まで高まった気がぶつかり合い、そして弾ける。
 互いの意地と信念を込めた渾身の一撃が、交錯した。


 唐突に始まった激戦は、どうやら負けに向かって転がっているようだった。
 シンがラスカーズを、ライオットがアンティヤルを何とか抑え込んでいるが、決して有利な状況にはない。
 屋敷の主人スーヴェラン卿の相手をしている衛視隊は、卿の唱える魔法で戦力がどんどん削られていく。このままでは長くは保ちそうにない。
 衛視隊が崩れたとき、敗北が決定的になるだろう。
「……つまり、私が戦局をひっくり返さないと、私たちは負ける」
 ルージュが乾いた唇を噛む。
 分かってはいるのだ。魔法で援護して、シンかライオットを自由にする必要がある。だが、最後に一人残った敵の存在が、ルージュの行動を縛りつけていた。
 “黒の導師”バグナード。
 彼がその気になれば、星界から隕石を召還して自分たちを一掃することもできる。空気を酸や致死毒に変えて、広範囲に死をもたらすこともできる。
 たった1つの魔法で戦局を左右できる戦術兵器。10レベルソーサラーとはそういう存在だ。
 ラルカス最高導師の《ギアス》で縛られたバグナードは、全身を苛む激痛のせいだろう、呪文の詠唱自体は決して速くない。今のルージュなら、バグナードが呪文を完成させるより早く介入し、妨害することだってできるはずだ。
 だがそのためには、バグナードの行動に神経を尖らせ、自分がいつでも対応できる体勢を維持しなければならない。
 もしルージュがラスカーズやアンティヤルを攻撃しようとすれば、バグナードに1ラウンドの自由を与えてしまう。その自由がどれほど致命的な状況を招くか、想像もできなかった。
 “黒の導師”にフリーハンドを与えるなど論外。それは分かっているのだ。
(だけどこうしている間にも、ライくんやリーダーが!)
 赤髪の戦士が振り回す戦斧がかすめて、ライオットの腕から血がしぶく。
 隻腕の騎士が操る細剣は、もうシンの血に塗れて真っ赤だ。
 硬質の美貌には涼しげな表情を張り付かせたまま、ルージュは自分への焦りと怒りで胸を焦がし、心で繋がった相棒に悲鳴を上げた。
(落ち着け。確かにあいつらは苦戦してる。だけどお前だってちゃんと戦ってるんだ。敵の魔術師が強敵なら、そいつを真っ先に無力化する方法を考えろ)
 ルーィエの指摘は事実だ。
 現にバグナードは、ルージュを警戒するあまり一切の魔術を使えていない。二手先、三手先を読み合うような熾烈な心理戦が展開されているのだ。
(得意の《ライトニング・バインド》はどうだ?)
(無理だよ! 他の3人はともかく、バグナードの抵抗を抜けるとは思えない)
(前3人に通用すれば十分。あとは黒いのとお前のつがいが何とかするだろ)
(そうだけど、今はそれをする余裕がなくて困ってるんでしょ!)
 完璧なポーカーフェイスを維持したまま、相棒と必死に打開策を練る。
 圧倒的に不利な戦況の中、冷静な助言をくれるルーィエの存在だけが、ルージュの持っている唯一のアドバンテージだった。
「ままならぬものよな。我らほどの魔術師がいながら、魔術を使うことができぬとは」
 戦士たちの激戦を眺めながら、バグナードが余裕の笑みを見せる。
「だが、この戦いは我らの勝ちだ。転移の魔術で逃げるなら邪魔はせぬぞ。レイリアという娘さえいなければ、貴様らに用はない」
「強がっちゃって。邪魔したくてもできないんじゃないの? ラルカス導師にかけられた《ギアス》、相当痛いらしいじゃない」
 バグナードがアクションを起こした。これは状況をひっくり返すための、千載一遇のチャンス。
 理屈によらず直感で悟ったルージュは、思いきり挑発的に鼻で笑った。
 安い挑発に乗ってくれる相手ではないが、ここはバグナード最大の泣き所だ。徹底的に攻撃し、全力で平静を崩しにかかる。
「《ディスペル》なんていう初級呪文で脂汗流してるんだもんね。ラルカス導師が知ったら小躍りして喜びそう」
「…………」
 バグナードにとって、魔術とは人生そのもの。魔術師としてのプライドを他人が貶すことは許さないはずだ。
 見た目には表情ひとつ変えない。
 だが急激に膨れ上がった威圧感が、秘められた怒りの大きさをうかがわせた。
 言葉の刃は確実に相手を傷つけている。それを確信して、ルージュはとっておきの一言を突き刺した。
「何なら私が解呪してあげようか? あんなヒヒ爺の魔法なんか、私なら一発だよ?」
「……小娘。調子に乗るのも程々にするがいい。私が挑発に乗って魔術を行使すれば、困るのは貴様の方だぞ」
(かかった!)
 心臓が破れそうなほど緊張しながら、顔には余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
 バグナードに喧嘩を売って本気で怒らせるなど、ふつうに考えれば死亡フラグだ。正気の沙汰ではない。
 正直、あまりの恐怖に足が震えそう。
 それでもルージュは、芝居がかった動作で髪をかき上げ、ふふんと笑ってみせた。
 この苦境から仲間たちを救うには、とにかくバグナードを揺さぶり、切り崩すしかないのだ。
「魔術合戦ならいくらでも付き合うわよ。私は魔法使っても全然痛くないから。羨ましいでしょ?」
 冷や汗でびっしょりの内心などおくびにも見せず、完璧に表情を作るルージュ。
 そしてついに、バグナードの顔に酷薄な笑みが浮かび、由緒ありそうな樫の木の杖がゆっくりと動いた。
「よろしい。ならば、我が最強の魔術でお相手しよう。私を挑発したことを地獄で後悔するがいい」
 強靱な精神を集中させ、“黒の導師”が呪文の詠唱を始める。
 天秤は揺れた。あとはこれをひっくり返すことが、ルージュの仕事だ。
 バグナードが選んだ魔法は《メテオストライク》。召還魔術の奥義にして、打撃力50という非常識な破壊力を持つ10レベル魔法だ。
 これが発動すれば、直径20メートルの効果範囲内はすべて灰燼に帰し、クレーター以外のものは残らないだろう。前庭の半分は消滅し、ルージュとて助かる見込みはない。
(発動すればね!)
 魔法樹の杖を振りかざし、ルージュは勝ち誇った表情でバグナードを見据えた。
「使える魔法の難易度が、能力の決定的な差でないことを教えてあげる。忘れてるんじゃないの? 私は“奇跡の紡ぎ手”。魔術の力押しでこの名を戴いたわけじゃない!」
 高位の魔法ほど長い詠唱を必要とする。ルージュの前でだらだらと詠唱を始めたのが、バグナードの敗因だ。
 ほんの一瞬だけ、バグナードの目に警戒が浮かぶ。
 だが、その姿はすぐに閉ざされた。
『万能なるマナよ! 光を閉ざす闇となれ!』
 ルージュが選んだ魔法は1レベル。難易度で言えば初歩中の初歩だ。詠唱は瞬時に終了した。
 あらゆる光を遮る魔法の闇が、スーヴェラン卿の屋敷ごとバグナードを覆い、戦場から切り離してしまう。
 どんな魔法でも、魔術師は発動させる地点を明確にイメージしなければならない。ルージュは魔法の闇を生み出し、《メテオストライク》の着弾地点をバグナードの視界から奪い去ったのだ。
 もちろん、見えないからといって発動できないわけではない。座標を特定して魔法を発動させることもできる。
 だったら、一言こう叫べばよい。
「みんな、隕石が降ってくるよ! 動いて!」
 本当に動く必要はない。バグナードにその可能性を認識させれば十分だ。
 バグナードは、命中する保証のない盲目撃ちで、無駄に魔法を使うタイプではない。しかも奥義といえる大魔法を使っておいて、空振りしましたではいい笑いものだ。
 そんな状況には絶対に耐えられまい。その点に関して、ルージュは相手のプライドの高さを確信している。
 彼の次の行動は、魔法の闇を解呪するか、闇の外に移動するかの二択。攻撃魔法は使えない。
 事実上、バグナードの魔法をひとつ無力化した瞬間だった。
 そうして手に入れた1ラウンドを、ルージュは無駄にしなかった。
『風の咆吼、光の疾走、始源の巨人の大いなる息吹……』
 唱えるのはもっとも使い勝手の良い、彼女の得意とする呪文だ。
 隻腕の騎士、赤髪の戦士、屋敷の主人と順番に視線を流し、目標を定める。
 唐突に、ルージュの生み出した闇が消えた。
 バグナードが解呪したのだろう。
(ほう、反応が早いな)
(さすがバグナードね。だけどもう、遅い)
 先手を封じられた段階で、バグナードの行動順はルージュの後。イニシアチブは彼女にある。
 天地に満ちるマナを操り、強大な魔法を準備する彼女を妨げるものは、何もなかった。


「降伏しろ。その傷じゃ、もう戦えないだろ」
 右肩から左わき腹に、袈裟掛けに負った重傷。
 大きく開いた傷口から血があふれ、足をつたって大地に黒々とした池を作っていく。
 答えようとして咳き込み、口からも吐血しながら、ラスカーズは嘲った。
「甘いことだな、シン・イスマイール。ためらわずに殺せばよいものを」
 大量の出血で、意識が朦朧としているのだろう。杖代わりの細剣に寄りかかり、揺れる視界に目を細めて、もはや立つこともおぼつかない様子。
 そんなラスカーズに、シンは苛立たしげに繰り返した。
「俺は人を殺すために戦ってるわけじゃない。降伏して誓え。もう二度とレイリアには手を出さないと」
「断る」
 ふらつく足で大地を踏みしめながら、隻腕の騎士は苦痛の中で嗤ってみせる。
「覚えておけ。貴様の、その甘さが命取りだとな」
 まだ何かするつもりか?
 シンはあまりにも邪悪な気配に身構えたが、相手は満足に立つことすらできない瀕死の重傷だ。何をしたところで、シンに通用するとは思えなかった。
「無駄な抵抗はやめろ。本当に死ぬぞ!」
「……実に愚かだな、シン・イスマイール」
 苦しそうに喘ぎながら、ラスカーズが天を仰いだ。
 その顔に浮かんでいるのは陶酔だ。死と破壊をまき散らしてきた美貌の騎士は、自分自身の痛みと流血にすら、快感を覚えているのだろうか。
 うわごとのように何かをつぶやき、そして再びシンを見たとき。
 その目には、殺戮への期待にあふれた、あの残忍な光が浮かんでいた。
「貴様の負けだ」
 何の前触れもなく、灼熱感がはじけた。
 シンの上体から熱い液体が吹き出し、漆黒の衣をさらに黒く染める。
 未だかつて味わったことのない感覚だった。自分の身体から生命がこぼれるように、魂が軽く、身体が重くなってゆく。
 思わず胸を押さえた手が、真っ赤に染まっていた。
 血だ。
 それを認識した瞬間、全身を激痛が駆け巡った。
「な……ッ!」
 右肩から左わき腹にかけて、ラスカーズと同じ位置に裂傷ができていた。失った血の分だけ意識が薄くなり、ふわふわと浮くように、あらゆる感覚が遠くなっていく。
 まずい。直感的にそう思ったとき、すでにシンは地面に両膝をついていた。
 うずくまって自分の身体を抱いたまま、何とか顔を上げる。
 そこで見た光景に、シンは目を疑った。
 ラスカーズが負っていた重傷が、みるみるうちに塞がっていくのだ。
「私の傷を、貴様に移させてもらった。気分はどうかな、シン・イスマイール?」
 完治とはいかないまでも、戦闘に支障がない程度には回復したのだろう。
 ラスカーズは地面に突き立っていた細剣を引き抜き、軽くひと振りする。刃に付いていた血が散って、シンの頬に紅い染みをつくった。
「最低、だ」
 気が遠くなるが、傷が痛すぎて気を失えない。
 だがその痛みさえもゆっくりと希薄になっていく。もどかしい感覚は拷問そのものだ。
「そうか。だが楽には殺さんぞ。たっぷり苦痛と絶望をくれてやる。せいぜい自分の甘さを呪うことだ」
 ラスカーズの言葉は、文字通りの死刑宣告。何とかしないと本当に殺される。
 手はまだ剣を持っているのか?
 まるで握力を感じない両手で、必死に剣を構えようとする。
 霞む視界の中でラスカーズが嘲った。
 何か言っている。何と言った? よく聞こえない。
 何度も目をしばたかせた時、シンの視界を青白い閃光がうめつくした。


『万能なるマナよ! 雷の縛鎖となれ!』
 その呪文を聞いたのは今日2度目。
 思わず身構えたライオットのすぐ横を、空気を震わせながら電撃が駆け抜ける。
 痛みの記憶がフラッシュバックしたのだろう。赤髪の戦士は顔をひきつらせたが、もちろん回避するすべなどない。
 殺到した青白い光はアンティヤルを飲み込み、電撃の網で全身を絡め取っていた。
「おのれぇぇぇッ!」
 沸きあがる憤怒の絶叫。
 赤褐色の筋肉が盛り上がるが、激しく明滅する雷の縛鎖は小揺るぎもしない。
 重量級の戦斧が、地響きをたてて大地に転がった。
 完全に無防備。
 千載一遇の好機だ。今なら何の造作もなく心臓を貫ける。
 別に1対1で試合をしているわけではない。敵は邪教の刺客。自分を殺すとまで宣言した敵だ。この機会を逃せば、死ぬのは自分の方かもしれない。
 理性は全力で主張した。
 ためらわずに殺せと。
 剣を水平に構え、切っ先をまっすぐ心臓に向ける。
 そのとき、視線が交錯した。
 アンティヤルの顔に浮かんでいたのは、力を出し切ることなく殺される現実への怒りと、避けられない死という運命への諦めだ。
 ライオットは眦をつりあげ、奥歯を噛みしめる。
 バカなことは考えるな。ここは平和な日本じゃない。安っぽい騎士道精神を発揮しても、しっぺ返しを食らうだけだ。
 自分に言い聞かせる。
 迷っている時間はない。またすぐバグナードに解呪される。そうなったらルージュの援護が台無しだ。
 名前をつけられない感情が膨れ上がり、胸の中で爆発する。
 ライオットは大きく息を吸い込み、叫んだ。
「くそッ! バカか俺は!」
 構えていた剣を引き、視線を横に転じる。
 ラスカーズが同じように雷に囚われ、その前ではシンが苦しそうにうずくまっていた。互角以上に戦っていたはずだが、目を離した隙に一太刀あびたようだ。
「マイリーよ、勇者の傷を癒したまえ!」
 祈りはすぐに効果を現し、シンの顔から苦痛が消える。
 すぐさま立ち上がったシンが、視線を前に向けたまま言った。
「悪い、助かった」
「おう」
 短く言葉を交わしたその時、アンティヤルとラスカーズを縛っていた雷も消滅する。
 ルージュが先手を取ったようだが、さすがはバグナード。好き放題にはやらせてくれない。
 逃した好機はいかに貴重だったか。ライオットは自分に蹴りを入れたい気分だった。
「おのれ、小娘めが……」
 全身を焼く激痛から解放されたラスカーズが、ルージュをにらみつけて低く呪いの言葉を漏らす。
 シンの一撃とルージュの雷は、決して小さくない傷を負わせたようだ。
 赤髪の戦士はさらに重傷だ。赤褐色の肌には、まだらになるほど広く火傷の跡が残り、鬱血してケロイド状の傷になっている。
 だが自分の傷に頓着する気配もなく、アンティヤルは唸った。
「小僧、なぜ殺さなかった?」
 地面に落ちた戦斧を拾おうともせず、ただまっすぐに目の前の戦士を見る。
「知るか。自分でもバカなことをしたと思ってるよ」
 ライオットは舌打ちしながら答えた。
 言い訳はいくらでもできる。だが一言で言えば、理由は簡単。
 ライオットは人を殺したくないのだ。
 ここは平和な日本ではない。自分の認識は甘い綺麗事で、この世界の現実にはそぐわないのだろう。
 ゲームとして遊んでいた今までのキャンペーンでは、数え切れないくらいの敵を殺してきたのも事実だ。
 策を巡らすのは嫌いじゃないし、その通りに状況が動いて成果が上がれば、正直嬉しいと思う。
 それでも、現実に自分の手で剣を振るい、自分の手で人の命を断つという行為は、ライオットの中で越えられない一線の向こう側に位置していた。
 シンが剣で殺すのはよくて、ルージュが魔法で殺すのはよくて、自分が直接殺すのは駄目なのか。
 それでは単なる卑怯者だ。仲間たちを都合よく利用しているだけではないか。
 その思いは、常にライオットの深層に根付いている。仲間の盾となって全ての攻撃から庇うという立ち位置を免罪符に、今までは何とか自分をごまかしてきた。
 だがアンティヤルの視線は、その嘘を暴きたててライオットに突きつける。
 内面の迷いをどこまで読みとったのか、アンティヤルは犬歯を剥き出して笑うと、ゆっくりとした動作で戦斧を拾った。
「なるほど、小僧。貴様には戦う理由がないのだな。ならば俺様が理由をくれてやる」
「……?」
 盾を構えて攻撃に備えながら、ライオットが怪訝そうに眉をひそめる。
 次の瞬間、アンティヤルは雄叫びをあげると、ルージュに向かって駆けだした。
 間にいるシンとライオットには目もくれない。振り上げた戦斧は銀髪の女性魔術師だけを狙っている。それを悟って、ライオットの心臓が跳ね上がった。
「どこを見ている、シン・イスマイール! 貴様の相手はこの私だ!」
 立ち塞がろうとしたシンに、ラスカーズの剣が嵐となって襲いかかる。完全に足を止められた親友を横目に、ライオットは全身が熱くなるのを感じていた。
 そうだ、忘れていた。自分が戦う理由など、最初からたったひとつ。
 それは敵を倒したいからでも、悪を成敗したいからでも、邪教を殲滅したいからでもない。
「そうかい! ありがとうよ、理由をくれて!」
 腹の底から声が出た。
 盾を構える左腕にも、剣を握る右腕にも、震えるほどの力が湧いてくる。
 今度こそヘマはしない。そう妻に誓った言葉を、もう一度噛みしめた。
 それを見たアンティヤルが獰猛に笑う。
 先ほどまで手足を縮めた亀のように、防御力抜群だが攻撃力ゼロだった小僧が、今は違う。
 間合いに入ったものは即座に両断しようという殺気が漂い、全く迷いがない。
 戦斧の一撃でライオットを倒せれば、自分の勝ち。
 それを受けられれば、続く反撃で自分の負け。
 単純で無慈悲な未来。
「いいぞ小僧! 俺様を楽しませろ! これこそ戦いだ!」
 歓喜の叫びを上げ、戦斧を握る両腕に渾身の力を込めて、真正面から叩きつけた。
 あまりの威力に空気が割れ、重い風切り音が鳴る。
「負けるか!」
 腹に力を込め、歯を食いしばって、ライオットは真正面からそれを受けた。
 白銀の盾が火花を散らし、耳障りな衝突音が響く。
 迫力といい質量といい、攻城兵器が城門を穿つような一撃だった。
 あまりの重圧に全身が軋む。鉄靴が地面に沈み、筋肉が悲鳴を上げる。
 それでもライオットは、アンティヤルの戦斧を受けきった。
 鋭い視線が赤髪の戦士を射抜き、即座に反撃に転じる。
『炎よ!』
 下位古代語のコマンドワード。
 純白の刀身に刻まれたルーンが輝き、秘められた魔力を解放した。魔剣“フレイムブリンガー”。一瞬で刀身が真紅に染まり、刃を魔法の炎が取り巻く。
 そのとき、光の奔流が再び前線を蹂躙した。ルージュの攻撃魔法だ。
 数え切れないほどの光の矢に打ち抜かれ、アンティヤルが苦痛のうめき声をあげる。
 ライオットにもう躊躇はなかった。
 動きを止められ、無防備になった脇腹を、容赦なく炎の魔剣で打ち抜く。
 肉を裂き、骨を断つ感触。
 威容を誇っていた赤髪の戦士の巨体が、バランスを失ってゆっくりと傾いていった。


 ラスカーズ、アンティヤル、スーヴェラン。
 前線の戦士たちに掛けた雷の縛鎖は、即座にバグナードが解呪してしまった。
 だが、これでいい。戦闘が始まってからというもの、脅威となる10レベルソーサラー相手に、ルージュは《ディスペルマジック》以外の魔法を使わせていない。
 あとは夫と親友を信じて、援護を繰り返すだけだ。
 持っている中で一番大きな魔晶石を握りしめ、杖を振りかざして次の魔法を唱える。
 唱える呪文はまたしても1レベル。詠唱はすぐに終了した。
『万能なるマナよ、光の矢となれ!』
 周囲のマナが1点に集中し、白い光が灯る。
 ルージュの強大な魔力で生成した《エネルギーボルト》は、1レベルソーサラーのものとは格の違う破壊力を内包している。命中すればただでは済まないだろう。
「とはいえ、所詮は初級の呪文よ。魔力を使い果たしたか?」
 雷の縛鎖を解呪して、バグナードが嘲った。
 もっとも、その表情に決して余裕はない。度重なる魔法の使用で、精神と肉体への苦痛は無視できないダメージとなっている。
 長期戦で不利なのはバグナードの方なのだ。杖を構えなおし、今度こそ致命的な一撃を見舞おうとする“黒の導師”。
 だがルージュの答えは、うっすらとした微笑だった。
「本気でそう思ってる?」
 次の瞬間、空間が歪むほどのマナが集中し、一斉に渦を巻いた。
 ルージュの頭上で続々と光の点が生まれていく。その数は5を超え、10を超え、20を超えてまだ増えていく。
「なんと……」
 非常識としか言いようがないルージュの行為に、バグナードが絶句した。
 初級の魔法であっても、高位の魔術師が相応な魔力を注ぎ込めば、その効果を拡大することができる。
 だが、初歩といえる最下級の攻撃魔法に、これほどの魔力を浪費するなど考えられない愚挙だった。
 そして驚くべきは、その魔力量だ。並の魔術師では10を超える矢を作ることなど不可能。今のバグナードでも、全力で20を超えるかどうかというレベルだ。
 それをこの女性魔術師は、30に届かんとする数の光を生み出して見せた。
 下級の魔法とはいえ、これほどの数を一斉に浴びせれば、急所を貫くものもあるだろう。雷の魔法で傷ついたラスカーズやアンティヤルが、それに耐えられる公算は低い。
「いくわよ、黒の導師。魔力の貯蔵は充分かしら?」
 光り輝く無数の矢を背にして、ルージュが冷たく問いかける。
 バグナードが思わず身構えると、口許にうっすらと笑みを浮かべたまま、ルージュは杖を振りおろした。
 光の奔流が前線を蹂躙し、戦士たちのうめき声が上がる。
 魔法による飽和攻撃。それは生命を削り取るには至らなかったものの、十分すぎる援護射撃となったようだ。
 アンティヤルは致命傷を受けて膝をつき、ラスカーズも満身創痍で荒い息をしている。
 前線の戦士が倒れた方が負け。それがこの戦いの核心。
 ルージュがもたらした惨状を苦々しげに眺めながら、自分たちが敗北の縁に立たされたことを、バグナードは認めざるを得なかった。
 司祭長が自ら介入すれば、ここからでも勝ちを拾い直すことはできる。だがここに“砂漠の黒獅子”がいる以上、司祭長が姿を見せることはないだろう。
 アラニアの宮廷を混乱させるという目的は達した。これ以上ここで戦うことは無意味だ。勝ったところで得るものはないし、退いたところで失うものもない。
「今夜はこれまでといたしましょう、導師様」
 どうやら、司祭長も同様の結論に達したらしい。
 何処からともなく流れてきた声は、彼らに撤退を促すものだった。
「ラスカーズ。アンティヤル。もう充分です。疾く導師様の元へ」
 その命令に、戦士たちは悔しそうな表情を浮かべるが、逆らうそぶりはない。傷を押さえながら足を引きずり、バグナードの所へと後退してくる。
 これ以上の深追いは危険だ。視線を交わしてシンとライオットは相手を見送ったが、それでは収まりのつかない者たちもいた。
「逃がすか! 奴らを捕らえよ!」
 この戦いで少なからず犠牲を出した衛視隊が、一団となってバグナードに襲いかかったのだ。
「待て、お前たち!」
 ルージュの援護を受けてスーヴェラン卿を打ち倒し、地面に押さえつけていたベデルが、慌てて声を上げる。
 だが、止める間もあらばこそ。
 衛視のひとりが掲げていた松明が、大きく不自然に揺らめいた。
 この場に精霊使いがいれば、炎の中で火蜥蜴が身じろぎしたのに気づいただろう。
 松明は一瞬で燃え上がり、花火のように弾けて庭中に広がった。地面に落ちた炎は、まるで生き物のように縦横無尽に走り抜け、驚いた衛視隊が足を止める。
 炎の舌は敵味方を隔てるように広がった。
 ほんの一瞬の静寂。
 後日の再戦と雪辱を誓って、3対の視線が睨み合う。
 言葉はない。
 次の瞬間、轟音とともに燃え上がった炎が、長大な壁となって屋敷を覆い隠した。
 高さ3メートル、長さ10メートルにわたる炎の壁。
 それが赤々と庭を照らすのを、衛視隊は腰を抜かして見上げるしかなかった。
 こうなってしまっては、もう追撃は不可能だ。
「《スピリットウォール》か。精霊使いまでいるのかよ」
 手をかざして熱を遮りながら、シンが舌打ちした。
 正直、訳が分からない。
 この屋敷の主人はラスター公爵の腰巾着で、公の歓心を買うためにラフィットを襲ったのではないのか。
 カーラはそれを知った上で、責任を邪教に押しつけたとばかり思っていた。
 ところが蓋を開けてみれば、シンたちが死力を尽くして戦った相手は、ラスカーズをはじめとするカーディス教団の司祭たちだ。
「まあ、詳しい話はスーヴェラン卿とやらを締め上げて、カーラが吐かせるだろうさ。俺たちの役目はここまでだ」
 炎の魔剣を鞘に納めて、ライオットがほっと一息つく。
 ろくな準備もなしに罠の中に飛び込んで、何とか生き残った。
 この戦いがもたらした結果とか、その後の展開とか、難しいことは明日考えよう。
 とりあえず今夜は、宿に戻って毛布にくるまり、ベッドで眠ることができる。
 今はそれで充分だった。
「んじゃ俺、衛視隊の人たちを治療してくるわ。助からない人もいるだろうけど、息がある人なら何とかなるし」
 言ってきびすを返したライオットに、ルージュが硬い声をかけた。
「待って、ライくん。まだ終わってないみたい」
 震える紫水晶の瞳が、驚愕と畏怖に見開かれて、屋敷の方向を見上げている。
 その視線を追って、シンが、ライオットが、ベデルや衛視隊が、恐怖に顔をひきつらせた。
 囂々と燃える炎の壁の中から、巨大な腕が伸びていた。
 サラマンダーが燃え上がらせた炎を門にして、精霊界への扉が開いたのだ。
 右腕に続いて左腕が、頭が、胴体が、炎の壁の上に顕現する。
 3階建ての屋敷より大きな炎の巨人。
 シンの部族が守護神とあがめる存在。
 破壊を司る炎の精霊王。
「イフリート……」
 シンがうめいた。
 見ただけで分かる。
 これは、人間とは格の違う存在だ。戦おうなどと考えるだけで不遜。相手がちょっとその気になっただけで、10レベルだろうと何だろうと一瞬で殺される。
 そういう存在だ。
 誰もが指一本すら動かせず、ただ見上げる中、イフリートはゆっくりと右腕を振り上げた。
 炎で構成された顔が大地を見下ろし、一点に視線を向ける。
 その先にいたのはベデルだった。
 スーヴェラン卿を地面に押さえつけたまま、ただ呆けたように、自分を見下ろす炎の巨人を見上げている。
「全員逃げろ! 門から外へ! 早く!」
 ライオットが叫んだ。
 その怒声は庭中に響きわたり、硬直した思考を張り飛ばす。
 思考停止に陥っていた全員が、具体的な指示を聞いて反射的に従った。腰を抜かしていた衛視たちがあわてて立ち上がり、持っている武器を投げ捨てて全力で駆け出す。
 シンやルージュも例外ではない。ライオットにせき立てられてイフリートに背を向け、ルージュが破壊した門から転がるように外に飛び出した。
「ベデルさんは?!」
「知らん!」
 ルージュの疑問に怒鳴り返しながら、ライオットは肩越しに振り返る。
 必死の形相で走ってくる髭の隊長。
 イフリートが追いかけてくる様子はない。炎の精霊王は先ほどと同じ場所を見下ろしたまま、振り上げた腕を地面に叩きつけた。
 灼熱の炎が嵐となって吹き荒れ、熱風が渦巻いて、辺りにある物を手当たり次第に飲み込んでいく。
 庭の木々が炎に包まれたかと思うと、一瞬で炭化して粉微塵に吹き飛んだ。動けない負傷者や逃げ遅れた衛視たちは、悲鳴すら上げられずに燃え上がる。彼らの生存は絶望的だろう。
 地面が真っ赤に焼け、煮えたぎっていた。
 エフリートは炎の嵐の中で、地面に潜るようにゆっくりと姿を消していく。
 何とか門の外に逃げきったベデルは、地面に両手をつき、肩で息をしながら、呆然とその光景を見つめていた。
 しばらく、誰も口をきけなかった。
 目にした光景のあまりの理不尽さに、口にする言葉が出てこなかった。
 それでも、どうやら自分が助かったらしいと理解すると、少しずつ理性が働き出したようだ。
 生き残った衛視隊は点呼を行い、損害の確認を始める。
 しばらくして生存者の数を取りまとめると、蒼い顔をした下級指揮官がベデルの元に報告に来た。
「隊長。突入部隊30名のうち、脱出できたのは9名のみです」
 このわずかな時間で20名以上の犠牲者が出たことになる。ついさっきまで言葉を交わしていた部下たちの死に、ベデルが表情を歪めた。
「……分かった。突入部隊は任務を解除、負傷者を後送せよ。包囲部隊は現任務続行だ。20名抽出して、炎が収まったら屋敷内を検索する。各部隊に連絡しろ」
「はっ」
 苦い顔で指示を与えたベデルは、怒りと無力感を同居させたやるせない様子で、傍らの冒険者に乾いた笑みを向けた。
「これが魔法か……恐ろしいものだな」
 為すすべもなく大勢の部下を失った男の言葉。
 あまりにも重い言葉に、シンたちは何も答えられなかった。
 今回は衛視隊が一緒だったから、邪教の司祭たちを撃退することができた。
 だが、敵がレイリアを狙っている以上、第二第三の襲撃は必ずある。
 そのとき、自分たちだけで、敵を追い払うことができるのか?
 圧倒的な破壊力をまざまざと見せつけられて、シンは心に不安が広がっていくのを抑えられなかった。






[35430] シナリオ3 『鳥籠で見る夢』 シーン8
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:01
シーン8 冒険者の店〈黄金の太陽〉亭

「ライくん、この金貨の袋は何だっけ?」
「それはラルカス学長からターバ神殿への寄進だろ」
「違うよ。学院からの宝物はあっち側。こっちにあるのは王宮からもらったやつ」
「そうか? 純金のマーファ像なんてあったかな?」
「あれ、おかしいな。レイリアさん、ちょっと目録貸してくれる?」
「少し待ってください。シン、その銀貨の小箱は教団への寄進じゃなく、陛下から皆さんへの報酬ですよ。右の山に移してください」
「マジか。20箱くらいあるんだけど」
「大変ですけど、混ざったらもっと面倒ですから」
 スーヴェラン邸での激闘の翌朝。
 山と積まれた金銀財宝を前にして、4人は悪戦苦闘していた。
 ルーィエがドラゴンの巣穴に例えた宿の部屋は、足の踏み場もないほどの宝物で埋め尽くされている。
 現金だけでおよそ30万ガメル。横には美術品や工芸品の類がずらりと並ぶ。他にも魔法のアイテムや魔晶石が大量にあり、分かっているだけでも時価総額50万ガメルは下らないだろう。
「けどさ、どれだけ高価な宝物でも、片付ける方にとっては重たいだけの荷物だよね」
 疲労を隠そうともせず、肩をほぐしながらルージュがため息をつく。他の冒険者たちに聞かれたら、嫉妬のあまり呪い殺されそうな台詞だ。
「あーもう、やめやめ。アウスレーゼが迎えに来たら、あいつにも手伝わせようぜ。とりあえず一休みだ。やってられるか」
 ライオットが心底うんざりした様子で仕事を放り出す。
 すると、銀貨の小箱を抱えたシンが、ため息混じりに窘めた。
「アウスレーゼが馬車で迎えに来る前に、分類だけでも済ませておこうって言ったのお前だろ。言い出しっぺが最初に逃げるなよ」
「そうだよライくん。やると言ったことは必ずやり遂げるっていうのが、唯一の取り柄でしょ? 諦めたらそこで取り柄終了ですよ」
「ルージュさん、さらっと酷いこと言いますね……」
 白い神官衣の袖にたすきをかけ、腰までの黒髪をポニーテールにまとめたレイリアが、思わず口を挟む。
 するとルージュは、あっさりと首を振った。
「あのねレイリアさん。男っていう生き物は甘やかすととことん付け上がるから、こういう時に優しい顔を見せちゃだめ」
「そうなんですか。参考になります」
 生真面目に頷くレイリア。
 それを見て微妙な顔をするシンに、ライオットが無言で視線を向けた。お前が余計なこと言うからだ、と言わんばかり。
 だがここでコメントを返す愚は百も承知だったので、男どもは黙って作業に戻った。
 女性陣に指示されるままに、銀貨の木箱の山を移動させ、彫刻に布を巻いて梱包し、マーファ神殿への寄進と自分たちへの報酬を丹念に仕分けしていく。
 どれくらい戦いが続いたのだろうか。
 ただ機械的に作業を続ける4人を現実に引き戻したのは、パニックになって階段を駆け上がってきた宿の主人だった。
「た、た、大変ですお客さん! とんでもない方々がお見えに!」
 額の汗をぬぐって振り向いたシンが、視線だけで続きを促す。
 王宮からもらった目録で宝物をチェックしていたルージュも、羊皮紙から顔を上げて主人を見た。
「宮廷魔術師のリュイナール様と、ロートシルト男爵夫人が、お揃いで訪ねておいでです!」
 主人は興奮のあまり口から泡を吹きそうだ。
「何をそう慌ててるんだ? リュイナールは昨日も来たばかりじゃないか」
 ライオットは不思議そうに言いながら、窓から表の通りを見下ろした。
 正式訪問だからだろう。通りは大勢の衛視が並んで完全に通行止め。馬車が4台ほど並び、護衛らしい兵士たちの姿もある。
「あの方がリュイナール様だと知っていれば、昨日だって慌てましたとも!」
 ライオットの言葉に主人が胸を張る。
 その様子に小さく吹き出すと、レイリアは袖をしばっていたたすきを外した。
「いずれにせよ、お待たせするわけにはいかないでしょう。この部屋にお招きするのは無理みたいですし、下に降りましょうか」
「そうだな」
 シンが肯いて、壁に立てかけてあった剣を取る。
 レイリアを先頭にぞろぞろと階段を下りていくと、1階の酒場は異様な雰囲気に包まれていた。
 壁沿いには10名ほどの護衛兵が列を作り、中央の丸テーブルにリュイナールとラフィットが腰掛けている。
 店内には5名ほどの常連冒険者たちがいたが、ラフィットの放つ存在感は、完全に彼らを圧倒していた。
 ラフィットの背後では、男性武官の制服を着たアウスレーゼが、蒼氷色の瞳で冒険者たちを撫で斬りにしている。おまけにそのテーブルの上には、《エネルギーボルト》と《バルキリージャベリン》で地獄を見せた銀毛の双尾猫までいるのだ。せいぜい4レベルの中堅冒険者では対抗できるはずもない。
 この店の常連は彼らなのに、悲しいかな、今は完全に場違いだった。彼らにできるのは、酒場の隅に集まって小さくなり、嵐が過ぎるのをひたすら待つことだけだ。
「遅いぞ、ノロマども。荷物の片づけごときに何時間かければ気が済むんだ? このまま日が暮れるかと思ったぞ」
 テーブルでラフィットたちの相手をしていたルーィエが、振り向いていつもの毒舌で迎える。
「済みません、ルーィエさん。でも、もう終わりましたから。すぐにでも積み込めますよ」
 今回の旅で毒舌にもすっかり慣れたレイリアが、苦笑して受け流す。
 ラフィットとリュイナールは、レイリア一行の姿を見ると立ち上がって迎えた。
「レイリア様、昨夜は楽しい時間をありがとうございました。本当はもっと御一緒したかったのですが、ターバにお戻りになるとうかがい、迷惑を承知でご挨拶に参りました」
 兵士や冒険者たちを気にしてだろう。昨夜のような親しみではなく、宮廷儀礼を全面に出した言葉遣い。
「それと、スーヴェラン卿の件を聞きました。妾のために皆様がたいそう危険な目に遭われたとか。お詫びの申しようもありません」
 そう言って眉を曇らせるラフィットに、レイリアは微笑んで首を振った。
「とんでもない。男爵夫人のお役に立てれば、私たちにとってこの上ない喜びです。それで、犯人はどうなったのですか?」
 ちらりとリュイナールを見る。
 紅玉のサークレットをはめた宮廷魔術師は、曖昧な微笑を浮かべると部屋の隅に視線を向けた。
 先客の冒険者たち。彼らに話を聞かれたくないということだろう。
 それを察して、ルージュが彼らに声をかける。
「ここは雰囲気がよくないでしょ? 少し外の空気でも吸ってきたら?」
 彼らも本当は逃げ出したかったのだろう。銀髪の魔女に水を向けられると、冒険者たちはこれ幸いと店を出ていった。
 シンが無言で店の主人を一瞥すると、彼も心得てカウンターの奥へと姿を消す。
 邪魔者がひとり残らず席を外すと、アウスレーゼも兵士たちを引き連れて店の外に出ていった。あっという間に人の気配がなくなり、店全体が貸し切りになってしまう。
「お姉様、こちらに来てお座りになってください。せっかくのご厚意ですから」
 部外者がいなくなると、ラフィットは態度を豹変させた。先ほどまで周囲を圧倒していた存在感が嘘のように消え去り、ただの中学生の少女にしか見えなくなる。
 ラフィットが隣の椅子をぽんぽん叩いて差し招くと、レイリアはにこりと笑ってそこに腰かけた。
 豪奢なラフィットと清楚なレイリアでは、美しさの種類が全く違う。それでも、並んで座るふたりは仲の良い姉妹のようだった。
 相手と一緒にいることが嬉しいのだと全力で主張するラフィットの瞳と、それを暖かく包むレイリアの笑顔。
 権力の中枢で陰謀と隣り合わせの生活を送っているラフィットにとって、このひとときは本当に貴重なものなのだろう。
 その様子を微笑ましく眺めると、リュイナールはシンたちにも座るように促した。
 全員が席につくと、一同を見回してから話し始める。
「さて、まずは私もお礼を申し上げます。衛視隊だけでは確実に全滅していただろうと、ベデルから報告がありました。20名ほどは犠牲になったそうですが、残る80名が助かったのは皆さんのおかげです」
 黒髪の宮廷魔術師が深々と頭を下げる。
 紅玉のサークレットが小さく揺れるのを見ながら、シンが問いかけた。
「それで結局、昨日の戦いは何だったんだ?」
 シンの質問には無駄が一切ない。まるで彼の剣技のようだ。
 それに対して、顔を上げたリュイナールは、少し考え込むような様子を見せた。
「答えは2つありますね。表面的、と言いますか、宮廷に提出する報告はこうです。昨夜、シン・イスマイール殿の助力を得て、衛視隊がスーヴェラン卿の屋敷に踏み込んだ。屋敷では邪教の司祭たちと熾烈な戦闘になったが、最終的には炎の部族の守護神《イフリート》が現れ、スーヴェラン卿を討ち果たした」
 事実は正確になぞっているが、途中経過を省略したため、イフリートの敵味方が逆になっている。
 思わず顔を見合わせたシンたちに、リュイナールはすました顔で続けた。
「スーヴェラン卿はイフリートの一撃を受けて、真っ黒焦げで発見されました。真相はどうあれ、ラスター公とノービス伯はこう受け取るでしょう。『砂漠の黒獅子を怒らせるとロクな事にならない』とね」
 カーラが画策した、この戦いの目的のひとつ。
 砂漠の黒獅子がスーヴェラン卿を討ったという形の成立は、この上なく完璧な形で演出されたわけだ。
 これでシンが、そしてその背後にいるレイリアが、ラフィット寄りの立場にいるという事が派手に喧伝された。
 事実の有無は関係ない。貴族たちがそう受け取れば、これからは敵対的な行動をとることに躊躇するだろう。
 誰だってイフリートなんかに襲われたくないのだから。
「何と申しますか、リュイナール様は状況を利用なさるのがお上手ですね」
 感心半分、皮肉半分といった様子でラフィットが宮廷魔術師を見る。
 王都の夜に屹立した炎の精霊王の姿は、卿の館から離れた王宮でも見ることができたという。おそらく大勢の人間に目撃されたことだろう。
 その現象をどう受け取ろうと見た者の自由だが、淡々と事実を示すことで思考を誘導するリュイナールの手際は見事と言うほかない。
「宮廷の貴族たちに対しては、これで十分なのですが。シン殿の問いに対するもうひとつの答えに関しては、正直なところ五里霧中です」
 もうひとつの答え。
 すなわち、昨夜の戦いにどんな意味があって、これから状況がどう転ぶか、という現実の話だ。
 肩をすくめたリュイナールは、申し訳なさそうにシンを見た。
「率直に申し上げますが、私はスーヴェラン卿が邪教と通じていたとは考えていなかったのですよ。あそこでイフリートさえ現れなければ、捕らえたスーヴェラン卿を締め上げて、洗いざらい真相を吐かせたのですが」
 敵に口を封じられてしまい、真相は闇の中。
 昨夜から屋敷を捜索しているが、おそらく証拠の類は残っていないだろう。
「総括すると、政治的な意味では当初の目的を達成した。しかし男爵夫人襲撃を含めて、事件の真相は全く分からない。そういうことか?」
 端的にまとめたライオットの言葉に、リュイナールは素直に肯いた。
「おっしゃるとおりです。ここまで邪教が肩入れしているとなると、男爵夫人を襲わせたのがラスター公爵であるという前提も、疑問視せざるを得ません」
 もしかしたら、本当に邪教が襲わせたのかもしれない、ということだ。
 自分も襲われたことのあるレイリアが、気遣わしげにラフィットを見た。
「何か、邪教に襲われるような心当たりはありますか?」
 すると、それまで年齢相応の少女だったラフィットが、急に大人びた表情を浮かべた。
 レイリアの問いに直接は答えず、いったん目を閉じて考え込む。
 やがて目を開くと、ゆっくりと一同を見渡した。
「妾を襲う人は大勢います。今回は邪教の司祭が現れたそうですが、他にもラスター公爵さまやノービス伯爵さま、あるいはその取り巻きたちもそうです」
 ラフィットは言葉を選んで、慎重に続けた。
「そんな方々、例えばAという陣営に属している人間は、Bという陣営とはまったく無関係なのでしょうか。妾は、そうは言い切れないと思うのです。お姉様に無礼を働いたラスカーズ卿がそうであったように」
 ラスター公、あるいはノービス伯の派閥に所属することと、邪教の手先であることは矛盾しない。
 極論してしまえば、ラスター公爵は、スーヴェラン卿が邪教の徒であることを承知の上で、万一の時には責任を押しつけることを考えて利用したのかもしれない。
 ラフィットはそう続けると、年齢不相応に厭世的な表情を浮かべた。
「宮廷は虚と実が入り乱れる毒蛇の巣です。誰もが笑顔で会話を交わしますが、本音を語る人などひとりもいません。何が本当で、何が嘘なのか。それを嗅ぎ分けながら権勢を築いたおふたりを、あまり甘く見ない方が宜しいかと存じます」
 14歳の少女とは思えないほど重々しい言葉に、リュイナールまでもが押し黙る。
 建国以来の宿敵であるカーディス教団さえも利用して、権力闘争に明け暮れる宮廷。
 その闇がどれほど深いのか。身を置いたラフィットだからこそ分かる感想に、誰もが言葉を返せなかった。
 だが、そんな空気も長続きはしなかった。
「けれどお姉様、邪教に関して心配はご無用です」
 がらりと雰囲気を変えたラフィットが、にこりと微笑む。それだけで場の空気は色を転じてしまった。
「妾は、邪教と対立する立場にはありません。邪教が妾を襲っても意味がありませんから」
 それどころか、レイリアの墓所封印を撤回させたラフィットは、邪教にとって好都合な存在とさえ言えるかもしれない。わざわざ襲って亡き者にしたところで、彼らには何ら利益をもたらさないだろう。
「ラフィット。油断は禁物です。そう都合良くいくかどうか」
 心配そうなレイリアに、ラフィットは首を振った。
「いいえ。むしろ危険なのはお姉様の方です。彼らが真っ先に狙うのはお姉様なのですから」
 今回は、たまたま離宮にいたから危険な目に遭わずに済んだ。
 だが、次も無事に済むとは限らない。
 何しろレイリアは“亡者の女王”の転生体。最高司祭ナニールの生まれ変わりなのだ。
「もし奴らが襲ってきたら、レイリアは俺が守るよ。何度でも」
 ラフィットの言葉に、シンが力強く答える。
 幾度目かの死線をくぐり抜けて、またひとつ自信を深めた様子だった。言葉にまったく迷いがない。
 それを聞いて、レイリアが嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 完全に無防備な表情は、彼女がどれほどシンを信頼しているか、その深さを如実に感じさせる。
 ずっとシンを見つめてきたレイリアには、成長ぶりが誰よりもよく分かるのだろう。
 少しずつ強くなる主人公と、それを見守るヒロイン。これがマンガなら、背景に花が咲き乱れそうな展開だ。
「シン……」
「俺さ、何となく分かった気がするんだ。戦うってどういう事なのか。何のためにこの剣があるのか」
 部外者を排除して、ふたりの周囲にバラ色の結界が形成される。
 これでしばらくは、外の声など耳に入らなくなるだろう。
 処置なしという風情でライオットとルージュが肩をすくめると、リュイナールが苦笑いを浮かべた。
「“砂漠の黒獅子”がレイリア殿を守ろうとする理由が、よく分かりましたよ」
「分かりやすくて助かるだろ?」
 ライオットがにやりと笑う。
 カーラの立場では、砂漠の黒獅子がマーファ教団と接触したことに、必ず政治的な目的があると考えていただろう。
 もちろんそんなものはない。このバカップルを見れば誰にでも分かる。
 結果として接触した意義は生まれるかもしれないが、シンにとってはどうでもいいこと。それもこの上なく明確に理解できたはずだ。
「ごめんなさいね、男爵夫人。すぐ済みますから」
「そうでしょうか?」
 ライオットの隣でルージュが頭を下げると、ラフィットは面白くなさそうに唇をとがらせた。
「お姉様は妾よりもシン様の方がお気に入りのご様子。どうせ妾など眼中にないのですわ」
 不機嫌を隠そうともしないラフィットに、あわててレイリアが向き直る。
「そんな事はありません。私にとってラフィットは一番の友人です」
「どうかお気遣いなく。妾はそのお言葉だけで十分です。お姉様は存分にシン様との逢瀬をお楽しみなされませ」
「逢瀬って、そんな……」
 年若い寵姫がひとしきり拗ねて見せ、レイリアが彼女を懸命になだめる。
 そのありふれたやりとりが、ラフィットにとってどれほど救いになることだろう。
 国王の愛妾として宮廷に絶大な影響力を持ち、男爵夫人として貴族の一員に列せられる彼女が、14歳の素顔を見せられる時間は今しかないのだ。
 砂時計にダイヤモンドを砕いて流すような時が流れる。
 誰もが黙って見守る中、ラフィットは不意に言った。
「お姉様。実は妾には、もうひとつ本当の名前があるのです」
「本当の名前?」
 レイリアが小首を傾げる。
「はい。ラフィットでもロートシルト男爵夫人でもない、妾の本当の名前です。お姉様だけにお教えします。誰にも、シン様にも内緒にして下さいますか?」
 ささやかでも、ふたりだけの秘密ということだろう。
 破顔したレイリアが肯くと、ラフィットは耳に唇を寄せた。
 吐息を感じてくすぐったそうにするレイリアに、ラフィットがひとつの名前をささやく。
 アドリー、と。
 その名前を心の中に書き留めると、レイリアは正面からラフィットを見つめ返した。
「お約束します。この名前は、私とラフィットだけの秘密です。シンにも教えません」
「ありがとうございます、お姉様」
 権力も財産も関係なく、互いの本音だけを語り合って心から笑い合える、世界で一番大切な人。
 宮廷という鳥籠の中で夢見てきた存在。
 その相手に、ラフィットはそっと抱きついた。
「お姉様。どうか、妾たちにとってよき未来が訪れますように。誰にも邪魔されずに、またお茶を楽しむ時間が持てますように。妾、毎日神様にお願いいたしますわ」
 祈るように、誓うように、ラフィットがささやく。
 少女の背に腕を回して抱き返しながら、レイリアはそっと瞳を閉じた。
「必ずまた会いに来ます。お約束します」
 神聖とさえ呼べるような情景の中、それぞれの想いを乗せて、静かに時間が過ぎていく。
 望むもの。
 求める未来。
 それが重なり合っていることを信じて、少女たちはただ、互いの暖かさに身を委ねていた。


 シナリオ3『鳥籠で見る夢』
 MISSION COMPLETE
  獲得経験点
   バグナード(ソーサラー10レベル)
   アンティヤル(ファイター10レベル)
   10×500=5000点




マスターシーン ロートシルト男爵夫人邸

 レイリアへの挨拶をすませてラフィットが離宮に戻ると、小さな主人をメイドたちが一斉に取り囲んだ。
 外出用の外套を受け取る者、飲み物を差し出す者、髪に櫛を入れる者。それぞれが与えられた役割を素早く果たし、一礼して引き下がっていく。
 最後に残った秘書役の侍女・ランシュが、小声でラフィットに耳打ちした。
「導師様がお目通りを願っておられます。如何なさいますか?」
「導師様が?」
 少しだけ驚いて、ラフィットがランシュを見返す。
 彼女は国王に与えられた使用人ではなく、以前からラフィットに仕えてきた部下だ。口の堅さは信用できるし、その忠誠も疑いない。
「面白い物を手に入れたのでお目にかけたい、と」
 彼が自ら行動を起こすなど、珍しいこともあったものだ。よほど昨夜の一件が腹に据えかねたと見える。
 今夜は王宮へ出かけて、また国王の伽を勤めねばならない。その前にどれくらい時間が取れるかと考えながら、ラフィットはランシュに頷いた。
「いいわ。着替えたらお部屋に伺いますとお伝えして」
「かしこまりました」
 ランシュは小さく頭を下げると、主人の言葉を伝えるため足早に去っていく。
 対照的にゆっくりとした足取りで自室に向かいながら、ラフィットは廊下の窓から外を眺めた。
 手入れの行き届いた庭の向こうには、遠くターバのマーファ神殿があるはずだ。
「お姉様……」
 抱き合った肌の暖かさを思い出し、そっと胸に手を当てる。
 大地母神の聖女に守られた、彼女が姉と慕う女性。
 再会の日は、そう遠くはないはずだ。
 何の希望も持てずにただ耐えた歳月に比べれば、蒔いた種が芽吹くのを待つ時間など、むしろ楽しみでさえある。
 次に会ったら何を話そう。また肌を重ねることを許してくれるだろうか。その時は愛情と技巧の限りを尽くして、法悦の極地へと導いて差し上げよう。
 下腹部に熾き火のような熱を感じながら、ラフィットは自室で着替えを済ませ、客人に提供している別館へと向かった。
 本館から離れた小さな別館。ここは使用人たちの立ち入りを厳しく禁じてある。出入りが許されているのは、ラフィットが信頼するごく少数の者だけだ。
「お待たせしました、導師様」
 別館の2階。
 王宮の尖塔を眺望できる上質な部屋に入ると、ラフィットはにこりと微笑んで会釈した。
 中には3人の男たちが待っていた。
「わざわざお呼びだてして申し訳ない」
 そう言って頭を下げたのは、秀でた額が印象的な長身の魔術師。名をバグナードという。
 “墓所”の情報と引き替えに、保護を求めてきた男である。
「お帰りなさいませ、アドリー司祭長」
 その横では、空の右袖を揺らしながら、美貌の騎士が臣下の礼を取った。
 アラニア銀蹄騎士団の上級騎士。レイピアの名手にして邪神カーディスの司祭、ラスカーズだ。
「ただいま戻りました。ラスカーズ、アンティヤル。傷の具合はどうです?」
 妖艶な美貌の騎士から、赤銅色の肌をさらした蛮族の戦士へと視線を流す。
 アンティヤルは2メートルを超える巨体で胸を張った。
「俺様はすぐにでも戦える。司祭長、いつでも命令してくれ。今度こそあの小僧を殺してやる」
「私も同様です。今度こそレイリア様をお迎えし、終末の女神の恩寵をこの忌々しい世界に」
 カーディスの加護で、傷はすっかり癒えたようだ。ラフィットは満足そうに頷くと、改めてバグナードに向き直った。
「導師様。妾にお話がおありとか?」
「左様。昨日の戦いで思い知りましてな。シン・イスマイールとライオット。正面から破るにはいささか骨の折れる相手だ。あのルージュという魔術師もなかなかの切れ者。そこで面白い物を用意した」
 バグナードがテーブルを示した。
 そこには、古代語で何やら刻まれた古びた壷が3つ、並んでいる。
「これは?」
 興味深そうにラフィットが尋ねる。
「“魔神封印の壷”。この中には、30年前の魔神戦争でアラニアを荒らし回った上位魔神が封じてある。いかな手練れの戦士といえども、正面から戦えば勝ち目はない」
「その魔神を、妾どもに貸していただけるのですか?」
「然り。ただし、できるのはこの中から魔神を解放することだけだ。命令することはできぬ。それと、これを提供するにはひとつ条件がある」
「条件?」
 ラフィットの声に楽しそうな色が滲んだ。
 今までおとなしく従ってきたバグナードが、いよいよ本性を現したらしい。
 好奇心を抑えきれずに黒の導師を見返すと、バグナードは無表情を保ったままで問いかけた。
「司祭長殿らは、前世の記憶を保ったままで転生を繰り返すと聞いた。これはカーディスの司祭に与えられた能力なのか?」
「その通りです。全員というわけではありませんが、高位の司祭の中には、転生の加護を受けた者が何人かおります」
 ラフィットが肯くと、バグナードはあごに手を当てて考え込んだ。
「ふむ……つまり、カーディスを信仰して高位の司祭にならねば、その加護は受けられぬと言うことか?」
「当然そうなりましょう」
 この魔術師が、転生の加護に興味を持っていることは知っていた。
 だが、バグナードがそれを手に入れることはできない。カーディスを信仰するという要素が決定的に欠けているからだ。
 そこまでは自明のこと。
 ラフィットが興味を持ったのはその先。それを知ったこの魔術師が、いったいどう反応するかという点だ。
 しばらく沈黙したバグナードは、やがて顔を上げると、ラフィットに問いかけた。
「では司祭長殿にお願いいたす。『ふたつの鍵、ひとつの扉。かくしてカーディスは甦らん』。この伝承の真実をご教授いただきたい。カーディスが甦るとはどういう事なのだ?」
 その言葉に、ラスカーズの眉が跳ね上がった。
 アンティヤルが音もなく戦斧を手繰り寄せる。
 カーディス教団の秘奥を突く質問に、生かしておくことは危険だと感じたのだろう。
 このふたりでかかれば、一瞬でバグナードの首を宙に飛ばすことができる。
 だがラフィットは、部下たちを制すると、口許に凄絶な微笑を刻んだ。
「いいでしょう」
 国王を籠絡し、シンたちすら飲み込んだ圧倒的な存在感が部屋に満ちる。
 完全に部屋を支配下におくと、ラフィットは正面からバグナードを見据えた。
「導師様にはいろいろとお世話になりました。お教えいたしましょう。ただし聞くからには、もうしばらくの間、妾たちにお付き合いいただきますよ?」
「承知した」
 バグナードは利己的だが、口先だけの嘘はつかない男だ。
 それを見極めると、ラフィットはゆっくりと語り始めた。
 最高司祭たちの生命を代償に、カーディスが創造した祭器の秘密を。
 そして、ひとつの鍵として生み出された少女の悲劇を。
 それは神話の時代から続く戦いの宿命。
 呪われた島の名にふさわしい、血で綴られた物語だ。
 その物語が、このロードスにどのような終幕をもたらすのか。
 今はまだ誰も知らない。






[35430] インターミッション3 ルージュ・エッペンドルフの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:02
インターミッション3 ルージュ・エッペンドルフの場合

 宮廷魔術師リュイナールこと、灰色の魔女カーラ。古代王国の秘術の継承者。数百年の年月を閲してきたロードス最強の魔術師。
 まさかその彼女に、直接魔法の講義を受ける日が来ようとは。世界中の魔術師が羨むに違いないシチュエーションだ。
 リュイナールと並んで馬車に揺られながら、ルージュはしみじみと自分の幸運に想いを馳せていた。 
「約束ですから、何でもお望みの呪文をお教えしますよ。この都にはちょうどいい場所がありますので、これから一緒に如何ですか?」
 ロートシルト男爵夫人とともに〈黄金の太陽〉亭を辞去するに当たり、リュイナールはそう言ってルージュを馬車に誘った。
 行き先は賢者の学院。新しい魔術の修得には、やはり遠慮なく魔法を使える空間が一番だという。
 前後を護衛の兵士に囲まれながら、馬車は学院へと続く坂道を登っていく。
 夫の愛車である国産スポーツカーも乗り心地が悪いが、この馬車はもっと酷かった。車輪は木製で、それを鉄で補強したもの。衝撃をいなすサスペンション機構など存在せず、あらゆる振動がダイレクトに客室に伝わってくる。
 日本の技術を懐かしく思い出しながら、その揺れに身を任せて窓の外を眺めていると、不意にリュイナールが口を開いた。
「ルージュ殿。ひとつだけ聞いてもよろしいですか?」
「どうぞ。答えるかどうかは保証しないけど」
 心中でいささか身構えながら、ルージュがリュイナールを見返す。
 黒髪に黒い瞳の、穏和な表情の男性。
 外見からはどこまでも優しいイメージしか受けないが、この相手は“灰色の魔女”なのだ。油断はできない。
 相手の警戒を気にした様子もなく、リュイナールは言葉を続けた。
「ルージュ殿はなぜ、このロードスに来たのですか?」
「…………」
 それまでちょっと気だるげだったルージュから、すっと表情が消えた。
 この魔女はどこまで知っているのだろう。
 カーラが知りたいのは、井上喜子がロードス島に来た理由なのか。それともルージュ・エッペンドルフが来た理由なのか。
 場合によっては重大な決断をしなければならない。
 ルージュは紫水晶の瞳を細めて、紅玉のサークレットを見た。
「これはニース殿の持論なのですが。ロードスは、英雄を必要とする時代に英雄を生む能力を持っているそうです。400年前のアラニア建国も然り、30年前の魔神戦争も然り。この島には幾多の英雄が産声を上げ、伝説級の武勲を打ち立ててきました」
 あなたもその英雄のひとりでしょ、とツッコミたかったが、ぐっと我慢。氷のような無表情を維持して内心を覆い隠す。
 ルージュが答えずに沈黙を守っていると、リュイナールは窓の外に視線を向けた。
「私の見たところ、あなたもそのひとりのようだ。失礼ですが調べさせていただきました。ライデンに上陸する前の経歴を調べるのは苦労しましたよ。“奇跡の紡ぎ手”アルトルージュ皇女殿下」
「……バグナードといいあなたといい、どこから調べてくるわけ?」
 ため息をつきながら、渋々と口を開く。
 内心の安堵と呆れ。
 どうやらこの世界には、ルージュとしての強固な過去が存在するらしい。それを飛び越えて真実にたどり着くのは、カーラといえども至難の業だろう。
「調べものは魔術師の基本ですから」
 答えになっていない答えを返してはぐらかすと、リュイナールは正面からルージュに向き直った。
「ルージュ殿。あえてルージュ殿と呼ばせていただきますが、あなたがお求めになった魔法に《ディメンジョン・ゲート》が入っていました。古代語魔法の奥義と言える魔法だ。失礼ながら、今のあなたに使えるとは思えません。それでも希望なさったのは何故です?」
 どこまでも穏和な口調だが、逃げることは許さないという意志も感じさせる。これに答えない限り、この魔法を教えてもらうことはできないだろう。
 嘘はつけない。カーラが相手ではすぐにバレる。
 直感的に悟ったルージュは、静かに目を閉じた。
 ふと故郷を思う。
 築40年のボロ官舎や、ローラー滑り台のある近所の公園。夫と自転車で買い出しに行ったスーパーマーケット。すぐ近くにあるまあまあのケーキ屋と、ちょっと遠くにある美味しいケーキ屋。
 特別でも何でもない、ごくありふれた日常の風景。
「もう一度故郷を見たいから、かな?」
 ぽろりとこぼれた言葉に、リュイナールの眉が動く。
 小さく息をもらすと、ルージュは目を開けた。
「ロードス島に来た理由はね、私にも分からない。来たくて来たわけじゃないから。私は臆病だから、戦うのも好きじゃない。だから思ったの。《ゲート》があれば、いつでも故郷に帰れるんじゃないかって」
 リュイナールは無言で聞き入っている様子。
 カーラ相手にこんな庶民的な感覚が通用するかどうか知らないが、ルージュは自分の想いを、できるだけ正確に綴ろうとした。
 夫にも話したことのない、本当の本音。
 たぶん、2度口にすることはないだろう。
「覚えたからって、本当に帰れるかどうかは分からないよ? 仮にゲートが開いてあっちと繋がっても、私はライくんと一緒じゃなきゃ嫌だし、ライくんはリーダーに付き合うつもりだから。結局、リーダーとレイリアさんの問題が片付くまではここにいなきゃいけないんだと思う。だけどさ」
 馬車が大きく揺れて停止した。学院の正門に着いたらしい。
 警備の兵士が門番に何事かを告げると、馬車は再び走り出した。先日訪れた本館ではなく、大きく回り込んで別の建物へと向かう。
「だけど、『帰れない』のと『帰らない』のは全然ちがうでしょ? ずっとじゃなくていい。1日だけでもいい。いつかまたライくんとふたりで、満開の桜並木を散歩できるならさ。頑張って魔法のひとつも覚えようって気になるじゃない?」
 そう言って故郷を懐かしむように微笑したルージュを見て、リュイナールはまぶしそうに目を細めた。
 古代王国の滅亡期。ロードスに栄えていた都が灰燼に帰するのを、貴族の令嬢だったカーラは悲痛な想いで見つめていたはずだ。
 故国を滅ぼされ、故郷を追われたアルトルージュ皇女と同じ立場。カーラの琴線に望郷という想いが共鳴したのかもしれない。
「なるほど。よく分かりました」
 リュイナールが納得した様子で頷く。
 それからしばらく、どちらも口を開かなかった。
 決して居心地の悪くない、穏やかな沈黙が続く。
 馬車が再び止まったのは、体育館のような巨大な建物の前だった。
 護衛の兵士を外で待たせ、ふたりだけで中に入る。
 そこは、柱のない巨大な空間だった。
 一面に古代語のルーンが刻まれ、明らかに魔法の防護がかかっている様子。
「ここは修練の間。壁にも屋根にも床にも、強力な《ルーン・シールド》の魔法が恒常化されています」
 つまり、どんな強力な攻撃魔法を使っても壊れないということだ。
 他には誰もいない空間に、ふたりの足音だけが響く。
 その中央で足を止めると、リュイナールはルージュにひとつの指輪を差し出した。
「これを差し上げます。指にはめて、これから私が作る魔術の構成を目に焼き付けてください。あなたの故郷へと帰る門の設計図です」
「分かった。ありがとう」
 七色に輝く小さな指輪。ルージュがそれを指にはめると、視界にマナが『見えた』。
 魔術師が“力ある言葉”で操る万物の根元を、一言でマナと呼ぶ。
 本来目に見えるものではない。おそらく人によって違うのだろうが、ルージュは心象風景として風に流れる蜘蛛の糸のようなものをイメージしていた。
 それが、光り輝く霧のように、うっすらと見えたのだ。
「これは……!」
「私が昔作ったものです。ルージュ殿、あなたの魔術は強力ですが、構成がまだまだ荒い。もっと緻密にイメージしてください。それができなければ《ゲート》は開けません」
 リュイナールがすっと手を挙げ、複雑な動きとともに呪文の詠唱を始めた。
 すると動作に応じて光の霧が寄り集まり、圧縮され、線となって再配置されていく。腕の振り、肘の角度、指1本の動きに至るまでマナは敏感に反応して、世界の設計図を書き換えていく。
 ルージュは呆然としてその魔術を見つめていた。
 光の文様は複雑に重なり合い、積層型魔法陣とでも呼べるオブジェを空間に現出させている。
 それはまだ下書きのようなもの。マナを活性化させて現実に干渉するまでは、誰の目にも見えないただの幻だ。
「すごい……」
 だが、それが信じられないほど緻密に構成されていることに気づいて、ルージュは思わずため息をもらした。
 レベル10以上と規定されたカーラの魔術師技能。
 その真価を垣間見て、心底思い知らされた。魔術師として、自分の能力は彼女に遠く及ばない、と。
『万能なるマナよ、彼方への門となってその姿を現せ!』
 呪文の最後の一説に呼応して、魔法が発動して現実に干渉し、世界を一気に書き換えていく。
 積層型魔法陣は回転しながら床に舞い降り、そこに銀色の円盤を現出させた。
 《ディメンジョン・ゲート》。時空を越え、遙か遠くへと世界を繋げる次元の門だ。
「ルージュ殿、これが《ゲート》です。あなたが故郷を見たければ、同じものをあなたが作らなくてはなりません」
 リュイナールが腕を下ろし、静かに振り向く。
 あまりの規模と緻密さに圧倒されて、ルージュは硬い表情で銀色の円盤を見つめていた。
「そりゃ遺失もするよね。こんな魔法、使える人間がぽんぽんいるはずない」
 誰かが使えても、それを継承する者が出てこなければ途絶えてしまう。
 どうやら、故郷への道のりはかなり遠そうだ。
 多難な前途を思ってため息をついていると、リュイナールが銀盤へとルージュを差し招いた。
「あなたに見ていただきたいものがあります。一緒に来てもらえませんか?」
 なるほど、これは《ディメンジョン・ゲート》。どこかへ繋がっているはずだ。
 リュイナールの見せたいものが何なのか、ルージュは興味を覚えて素直に従った。
 ふたりが並んで銀盤に立つと、足からゆっくり沈んでいく。
 軽く目眩を覚えて目を閉じ、軽く頭を振って再び開けたとき、付近の風景は一変していた。


 白く輝くような初夏の日差し。
 膝丈のやわらかな草原が広がり、小鳥のさえずる声や風の渡る音が聞こえてくる。
 そして、正面には蒼く大きな湖。
 どこまでも深く透き通った美しい湖面は、ゆっくりと流れる雲を映して、漣ひとつない。
 悠久。
 清浄。
 そんな言葉が似合いそうな風景だった。
 人の手が入った様子はなく、ただ汚れない世界がそこにある。
「綺麗なところだね。なんていう湖なの?」
 草の匂いのする風を胸一杯に吸い込んで、ルージュは大きく背伸びをした。
 本当に美しい景色だ。邪教だの亡者の女王だのに悩まされた心が癒されそう。きっとマイナスイオンがいっぱいに違いない。
 猫のように目を細めたルージュに、リュイナールは静かに答えた。
「ルノアナ湖。そう呼ばれています」
 その言葉を聞いて、ルージュの動きが止まる。
 そっと巡らせた視線の先で、リュイナールはとても穏やかな顔をしていた。
「今はもう何もありませんが、私にとってここは大切な場所なのです」
 ルノアナ。今から500年前まで、ロードス全土を治めていた太守の都があった場所だ。
 ということは、この湖の底には都が沈んでいることになる。他でもない、カーラ自身が生まれ育った都が。
「そんな所に、どうして私を連れてきたの?」
 湖ではなく過去を見つめる横顔から目をそらして、ルージュが尋ねる。
 帰ってきたのは苦笑だった。
「気を悪くされそうですが、あなたを選んだことに理由はありません。ただ、私以外の誰かに、この景色を見て欲しかっただけなのです」
 後ろ半分は本当だろう。
 だが、前半分は嘘だ。
 故郷を追われた女同士、懐旧に身を任せる時間を共有したかったのではないか。ルージュは理由もなくそう思ったが、それを口に出すのは無粋と言うべきだった。
「そう? なら、そういうことにしといてあげる」
 ん~、と背伸びの続きをしながら、再び視線を湖に向ける。
 リュイナールがもの言いたげな様子だったが、それは無視した。
 カーラにとって、これは墓参りのようなものなのだ。部外者と対話するより、過去と対話してもらった方がいいに決まっている。
 それがルージュなりの礼儀だった。
 リュイナールもことさらに口を開かず、穏やかな沈黙が降りる。
 どれくらいそうしていたのだろう。
「そろそろ帰りますか」
 閉じてしまった《ゲート》をもう一度開くために、リュイナールが呪文の準備を始める。
 また芸術品のような構成が刻まれていくのを眺めながら、ルージュはふと口を開いた。
「ねえ、リュイナールさん。ここがあなたの大切な場所だって言うなら、ここに家を建てて、この景色を守りながら生きていく気はないの?」
 宮廷の策謀も灰色の陰謀もすべて忘れて、この美しい土地で過ごした方が、ずっと幸せなのではないか。
 そんな願いを込めた言葉に、リュイナールは少なからず驚いたようだ。
 せっかく展開した構成が、風に流されて霧散してしまう。だがそれを気にした様子もなく、黒い瞳はルージュを見つめていた。
「ここに、家を?」
「そう。アラニアを牛耳って世界征服したいって言うなら止める気はないけど。そうじゃないなら、ここでのんびり過ごすのも悪くないと思うよ」
 ルージュの冗談めかした本音に、リュイナールはしばらく黙っていたが、やがて小さな笑みを浮かべた。
 今までのように表情をつくろった穏雅な微笑ではなく、呆れと驚きが奇妙に同居した、心が透けて見えるような苦笑だった。
「ルージュ殿。あなたの発想力には本当に驚かされますね」
 リュイナールはそう言うと、再び腕を振りあげて呪文の詠唱を始めた。
 ルージュも今度は口を挟まずに見守る。
 呪文が完成し、銀色の円盤が姿を現すと、リュイナールは言った。
「今の私には、為すべき事があります。それがひと段落したら、あなたの忠告に従う日が来るかもしれません」
「そしたらお茶くらい付き合うよ。レイリアさんと男爵夫人みたいに」
 故郷を追われた女同士、愚痴と思い出話に花を咲かせるのも悪くない。
 ほんの少しだけ灰色の魔女に親しみを感じながら、ルージュはにこりと頷いた。
 静寂の湖ルノアナに、新しい風が吹き始めていた。



シナリオ3『鳥籠で見る夢』

 獲得経験点 5000点

 獲得アイテム
  ミスリルローブ
   必要筋力 1(防御力 6)
   ダメージ減少 +2
   精神抵抗力 +2
  カーラの指輪
   魔術師が指にはめることで、常に
   《センス・マジック》
   《アナライズ・エンチャントメント》
   が働いている状態になる(魔法強度は使用者に依存する)

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし
  以下の古代語魔法の遺失限定が解除された
   6レベル《マインド・スピーチ》
   8レベル《スタン・クラウド》
  10レベル《ディメンジョン・ゲート》

  経験点残り 14500点





[35430] インターミッション3 ライオットの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:02
インターミッション3 ライオットの場合

 焚き火にくべられた薪が弾ぜると、オレンジ色の火の粉が夜空へと舞い上がった。
 何となく目で追うと、視界には信じられない光景が広がっている。
 空に向かって落ちていくような錯覚を覚えながら、ライオットは天を仰いだ。
 夜空が星だけで明るいのだ。
 赤、青、白、黄。黒い背景を圧倒し、全天にひしめき合う無数の星々は、互いに重なり合い、そこが奥行きを持った空間なのだということさえ感じさせる。
 星空は平面に描かれた絵ではない。
 その当たり前の事実は、何度見上げても飽きることがなかった。神秘的とさえ言える光景は、人間のささいな活動など悠久の時の中で飲み込んでしまいそうな深さを想起させる。
 王都アランを出発して10日。4台の馬車を連ね、12名の兵士たちに護衛された一行は、野営を繰り返しながら
北の大地を目指している。
 馬車のうち2台には莫大な財宝が満載されているため、宿場町で宿を取れば、どんな不心得者が現れるか分からない。
 護衛兵の隊長も交えて相談した結果、野営した方が安全だろうという結論に達し、今夜も祝福の街道から少し外れた河原に宿営地を設置したのだが。
「おい、聞いてるのか小僧! さっさと剣を捨てて両手を上げろ!」
 ひとり焚き火の番をしていたライオットを取り囲んで、10名ほどの男たちが武器を構えていた。
 くたびれた皮鎧に、伸び放題の無精ひげ。まともに風呂にも入っていないだろう、顔や腕はうす汚れており、風に乗って浮浪者のような臭いまで漂ってくる。
「大声出さなくても聞こえてるよ」
 現実逃避から帰ってきたライオットは、実に分かりやすい状況にため息をついた。
 4台の馬車を並べて停め、うち1台を兵士たちが、もう1台をシンたちが寝場所に使っている。馬車をはさんで反対側でも焚き火を起こし、兵士たちが交代で起番をしていたはずなのだが。
「兵士たちはどうした?」
 ライオットの質問に、盗賊の頭らしい男は胸を張った。
「こっちには魔術師の先生がいるんだ。先生の魔法で気持ちよく寝てやがるぜ。小僧、おまえも魔法の餌食になりたくなければ、おとなしく剣を捨てな」
 見れば、男たちの後方では、目つきの悪い痩せた男が杖を構えている。《スリープクラウド》で眠らせたというのは嘘ではないらしい。
 だが悲しいかな、バグナードやカーラを相手にしてきたライオットから見れば、雑魚と評するのもバカバカしいレベル。距離の取り方も中途半端だし、《フォース》一発で撃墜できそうだ。
 起き番の兵士たちを簡単に無力化して調子に乗っているのだろう。魔法魔法と連呼する頭に、ライオットはうんざりと視線を向けた。
「なあ、この馬車は国王陛下からマーファ教団への寄進を運んでいるんだ。襲えば王国とマーファ教団、両方を敵に回すぞ。今からでも遅くはない、アジトに帰って酒でも飲んで寝ろよ。兵士たちにはうまく言っておくからさ」
 心からの忠告だったのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。声に怒気をはらませて、頭は剣を振りかざした。
「やかましい! いいからさっさと武器を捨てやがれ! 小僧、自分の立場が分かってんのか!」
「分かった。悪かった。頼むから大声はもうやめてくれ。ルージュが起きる」
 この状況はまずい。起き番をしていながらボーッと星空を眺めていて、盗賊の襲撃に気づかなかった。
 兵士たちが無力化され、完全に包囲されて脅迫されたなどとルージュにバレたら、どれほど怒られるか想像もできない。
 おとなしく帰ってくれれば何もなかったことにして誤魔化せるのだが、頭にその気はないらしい。
 ルージュとの交代時間まであと30分。
 その間に、何としても事態を鎮静化させねばならなかった。
 大きな物音をたてるような戦闘は不可だ。戦闘中にルージュが起きるというのが最悪のシナリオである。
 同じ理由で、盗賊たちに大声を出されるのも困る。声を出す前に殺すことができても、現場に血が残るので結局はバレてしまう。
 八方塞がりの状況にライオットが頭を抱えていると、盗賊のひとりが頭に何やら耳打ちした。
 小さくうなずきながら聞いていた頭の顔が、いきなり好色そうに歪む。それだけで会話の内容が分かった。
「小僧、どうやら別嬪さんがふたりもいるらしいじゃねえか。俺様は気分がいい。今なら見逃してやるから、剣を捨ててさっさと消えろ」
 鼻の下をのばした下品な笑み。きっと酒池肉林の宴と、二次会に18禁のイベントを妄想しているのだろう。
 ライオットは胸の底から盛大なため息をついた。
 男がエロに情熱を向けた以上、それを思いとどまらせるのは不可能に近い。これで大人しく帰ってもらうという作戦もパー。事ここに至れば、もう諦めてやるしかない。
 ライオットは怒られる覚悟を決めて、足下の大盾を拾い上げ、新しい魔剣を抜いた。
「炎よ」
 ため息混じりに、下位古代語のコマンドワード。
 真紅に染まった刀身が魔法の炎に包まれ、驚いた盗賊たちの顔を照らし出す。
「何だてめえ、逆らいやがるのか?!」
 頭の怒声に、手下たちが一斉に色めきたった。
 刀槍が炎をはじいてオレンジ色に煌めき、宿営地に戦いの気配が満ちる。
「俺は忠告したぞ。帰って酒飲んで寝ろってな」
 うんざりと宣言した直後、ライオットの目が剣呑に光る。
 次の瞬間、魔剣の平が頭の側頭部を横薙ぎに打ち払っていた。
 重く、だが鋭く空気をかき分ける音。魔法の炎が肌を焦がし、溶けた髪が火の粉になって夜空に舞い散る。
 頭は立ったままで意識を刈り取られ、壊れた人形のように力を失った。
「さあ、次は誰だ?」
 その言葉の意味が分からなかったのだろう。盗賊たちはきょとんとした表情で聞いていたが、頭がゆっくりと傾いて顔面から転がるに及んで、ようやく事態を理解したらしい。
「お……お頭!」
「てめえ!」
「たたんじまえ!」
 怒りの喚声を上げ、山賊たちが四方から襲いかかってくる。
 突き込まれる槍。打ち下ろされる剣。髭面の男たちが殺到してくる様子は確かに迫力満点だったが、残念ながら、あるのは迫力だけだった。
 炎が一閃して音が鳴る度に、ひとり、またひとりと盗賊たちが昏倒していく。 
「どうする? 全滅するまでやるか?」
 ライオットが盗賊たちを睥睨した時、立っているのは半分ほどにまで減っていた。
 圧倒的な実力差。殺す必要すらない。鎧袖一触とはまさにこのこと。
 格の違いを思い知らされて盗賊たちが後込みしたとき、ささやかな戦場に、不機嫌そうな声が降りてきた。
「うるさい。眠れないでしょ」
 決して大きな声ではない。だがそれは一瞬で喧噪を制圧し、静寂を呼び込んだ。
 それだけの力を持つ声だった。
 盗賊たちの視線がライオットを通り越し、背後の馬車に向けられる。
 ライオットは……怖くて振り向けない。
 盗賊たちの顔が恐怖にひきつるのを見て、自分の想像が間違っていないことだけを確信する。
「ライくん」
 冷厳とした声が降ってきた。
「はい」
「この件に関しては、後で話があるから」
「分かりました」
 ライオットの背中を、冷たい汗が流れ落ちる。
 暗い未来に軽く目眩を感じたとき、ルージュの魔法が雨のように降り注ぎ、戦いは終わっていた。


「……とまぁ、これで終われば笑い話だけどさ」
 寝ていた全員を叩き起こし、護衛の兵士たちが盗賊をひとり残らず縛り上げると、全員の前でライオットが言った。
 ルージュが皮肉っぽく顔を向ける。
「言い訳でも始まるわけ?」
「結論としてはそうなる。けどさ、いくら俺が気を抜いてたからって、すぐ近くで魔法を使われても気づかないなんて変だ」
 兵士たちが念入りに縛り上げた自称魔術師の襟首をつかむと、ライオットは顔を近づけた。
「お前、兵士たちを魔法で眠らせたんだってな。じゃあどうして、俺には同じ魔法をかけなかったんだ? それに戦闘中もそうだ。どうして魔法で俺を攻撃しなかった?」
 寝起きで事情をうまく飲み込めず、シンとレイリアが顔を見合わせる。
 ライオットはさらに追及した。
「本当は魔法なんて使えないんだろ? その格好はただのはったりで、あの杖も単なる木の枝だ。違うか?」
 夫の言葉。その仮定が正しいとすれば、ちょっと洒落にならない事態だ。
 ルージュは表情を堅くして《センス・ライ》の呪文を唱えると、夫に並んで自称魔術師を見下ろした。
「この質問には、はいかイエスで答えてね。盗賊さん、あなたは魔術師なの?」
 痩せた盗賊の答え、そして真偽判定。
 想像どおりの結果にライオットは目を光らせ、今度は護衛の兵士に向き直った。
「次は全員に質問だ。ひとりずつ順番に答えてくれ。今夜盗賊どもが襲撃してくることを、知っていたか?」
「お待ちいただこう。ライオット殿、それでは我々が盗賊を手引きしたように聞こえる。ここまで護衛してきた我々に対し、その態度は無礼ではないか」
 隊長が心外だと声を荒げる。
 職務の遂行に誇りを持った男の言葉に、ライオットは素直に頭を下げた。
「申し訳ない。だけど、これは必要なことなんだ。理解してほしい。全員がそうだと言ってるわけじゃないが、たとえば君」
 起き番の責任者だった若い兵士を指さす。
 すると、兵士は目に見えてたじろいだ。視線が泳ぎ、顔中に汗をかき、手が小刻みに震えだす。
 どこまでも分かりやすい態度。ライオットでなくても不審に見える。
 隊長が厳しい表情で見つめると、兵士はじりじりと後ずさり始めた。
「君はさっき、魔法で眠らされて、盗賊の襲撃に気づかなかったと言ったな。だが聞いてのとおり、あの盗賊は魔術師なんかじゃない。じゃあ誰の魔法で眠らされたんだろうな?」
 一緒にいた他の兵士にも視線を向ける。
「君もだ。魔法で眠らされた。なるほど、ならば仕方ない。じゃあどうして、その眠気が魔法によるものだと分かったのか、説明してもらえるか?」
 ライオットと同じ時間に起き番をしていた兵士は3名。
 その全員が返答に窮していると、隊長が厳しい表情で詰め寄った。
「貴様ら! まさか本当に?!」
 襲撃事件の裏事情を飲み込んで、シンがさりげなく後ろに回り込む。レイリアとルーィエも逃げ道を塞ぎ、兵士たちを完全に包囲する形になった。
 周りを見回して逃げられないと知り、破れかぶれになったのか。
「ええい! こうなったらやっちまえ!」
 3名の兵士たちは唐突に剣を抜き、ルージュに襲いかかった。
 シンやライオットならともかく、ルージュはただの魔術師。うまく人質にすれば逃げられると踏んだのだろう。
 その判断は間違いではない。
 しかし。
「馬鹿者が!!!! いい加減にせんか!!!!」
 隊長の怒声とともに、兵士のひとりが剣を叩き落とされた。隊長はもうひとりを殴りとばし、残ったひとりを眼光だけで威圧して金縛りにする。
「この馬鹿どもを捕らえろ! 我が隊の面汚しだ!」
 鬼のような形相。
 隊長は盾を持って立ちふさがったライオットに何もさせず、他の部下たちに号令した。
 部下たちは弾かれたように行動し、残った縄で3名をぐるぐる巻きにしてしまう。
 盗賊たちと一緒に並べられ、がっくりとうなだれた元部下たちを睨みつけると、隊長はようやくライオットに頭を下げた。
「どうやら、謝るのはこちらのようだ。済まなかった。この者たちはいかようにも処罰しよう。首が必要なら差し出す」
 盾を下ろし、戦闘態勢を解いたライオットは首を振った。
「事はそう単純じゃない。とりあえず共犯者の洗い出しを。イヤだろうけど、全員さっきの質問に答えてくれ」
 そしてルージュに尋問を任せると、レイリアに小声で尋ねる。
「護衛の兵士をつけてくれたのはリュイナールだったかな?」
「そうですね。つけるように命令したのは国王陛下ですけど、人選したのはリュイナールさんだと思います」
「そうか」
 ルージュの尋問の様子を眺めながら、顎に手を当てて考え込む。
 国王の勅命で護衛につけられた兵士たちが、盗賊を手引きして教団の馬車を襲ったとなれば、これは政治問題だ。この場で収められる事件ではない。
「じゃあ帰ったらニース様とリュイナールに相談して、しかるべく手打ちをしないとな」
 これは大きな貸しだ。具体的に言えば、馬車がもう1台増えるくらいの金品に相当する。
 にやりと口許をゆがめたライオットに、レイリアは呆れて言った。
「ライオットさん、まだ財宝をむしり取る気ですか?」
「違う。リュイナールの心配事を取り除いてやろうってことさ。ニース様が声高にこの事件を糾弾したら、王国をゆるがす内戦になりかねないだろ? 金品で済むなら安いもんだよ」
 口ではそれらしい理屈をこねながら、ライオットの目は笑っている。
 シンとは違い、どこまでも利害重視の現実路線。宮廷や権力を相手にする時、政治や謀略を視点にできる彼の存在は頼もしいとさえ言えよう。
 予算不足で頭を悩ませている、財務担当のマッキオーレ司祭も喜ぶに違いない。
 けれど、どうして素直に褒める気になれないのだろう?
 悪戯を考える子供のようなライオットの表情を眺めながら、レイリアは首を傾げていた。




シナリオ3『鳥籠で見る夢』

 獲得経験点 5000点

 獲得アイテム
  フレイムブリンガー
   バスタードソード+1。
   コマンドワードで《ファイア・ウェポン》が発動する。
   必要筋力15
   打撃力 片手15(25) 両手20(30)
   攻撃力 +1
   追加ダメージ +1

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし

  経験点残り 6500点






[35430] インターミッション3 シン・イスマイールの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:03
インターミッション3 シン・イスマイールの場合

 馬車2台に満載された、文字どおりの宝の山。
 その荷台をのぞき込んで、ターバ神殿財務担当司祭・マッキオーレは、にやける口許を引き締めることができなかった。
 これだけあれば、当分は余裕のある神殿経営ができるだろう。
 王都からターバまでの道中、ルージュが鑑定して作った財宝リストと評価額一覧に、マッキオーレがふふふと笑みを漏らす。
「しかし、血は争えませんな。ニース様のお若い頃もそうでしたが、レイリア様もこれからのターバに必要不可欠なお方になるでしょう。信者獲得の上でも、収入確保の上でも」
 司祭と言うより商人のようだ。黒い思惑が透けて見える言葉に、レイリアの笑みが軽くひきつる。
 大地の女神、豊饒神という神格があるからだろう。マーファ教団は他の宗派に比べて自給自足の傾向が強い。神殿は農村に根付き、信徒たちからの寄進も農作物が大半を占めている。
 そこには何の問題もない。だがその反面、司祭たちが金銭を軽視するようになったのは問題だ、とマッキオーレは思う。
 最高司祭ニースが気前よく住民を支援するため、ターバ神殿は毎年多額の出費を強いられている。それを支えるのはニンジンでもジャガイモでもなく、彼らが軽視する金銀なのだ。
 護符の販売や司祭たちの魔法でいくらかの現金収入はあるが、決して十分ではない。ニースが氷竜ブラムドから譲り受けた宝物がなければ、とうの昔にターバ神殿は破産していただろう。
 毎年赤文字で収支報告書を作りながら、マッキオーレは何とかしようと日々頭を悩ませていたのだが、そんな心配もこれで一挙に解消された。
 見習い神官たちを総動員して財宝を宝物殿に運ぶよう指示すると、マッキオーレは若い2人に顔を向けた。
「レイリア様、シン殿、よくやってくれましたな。これでターバ神殿も一息つけるでしょう」
「いえ、全ては国王陛下とラルカス最高導師の御芳志です。私たちはただ、それを預かってきたに過ぎません」
 にこりと微笑んでレイリアが応じる。
「調子いいな。出かける前は、無駄遣いするな、贅沢するなって口を酸っぱくして言ってたくせに」
 すっかり態度の変わったマッキオーレに、シンがぼそりと呟いた。
 ニースから王都への護衛任務を引き受けるに当たって、シンたちへの依頼料はひとり1万ガメル、プラス必要経費という契約だった。高額の依頼料に渋面になったマッキオーレは、少しでも必要経費を削ろうと口うるさく注文をつけてきたのだ。
 だが蓋を開けてみれば、王都から持ち帰った財宝は少なく見積もってもその数十倍。シンたちに対するマッキオーレの評価は急上昇している。
「シン……」
 レイリアが窘めるようにシンを見たが、マッキオーレは気にした様子もない。
「ははは、これは手厳しい。お詫びと言ってはなんですが、必要経費は審査なしで全額認めますぞ。遠慮なく請求して下さい」
 愛想良く応じると、マッキオーレは辺りを見回した。
「そういえば、ライオット殿とルージュ殿はどちらへ?」
「あの2人ならニース様のところに行った。今度は宮廷魔術師を脅して金品をむしり取る算段をするらしい」
 国王の命令で護衛についていた兵士が盗賊に買収され、手引きをした件だ。
 調査の結果、宮廷の陰謀とは全く関係なく、兵士の目が欲に眩んだだけと判明した。だが真相が単純であるため、王国政府としては言い訳もできない。マーファ教団は大きな貸しを作ることになるはずだ。
 リュイナールが苦虫を噛み潰しながら《テレポート》で跳んでくると、ライオットとルージュは護衛兵隊長を伴ってニースの私室にこもっている。
 きっと今頃は、難しい話の真っ最中だろう。
「なるほど。すると、財宝はまだまだ増えそうですな」
 マッキオーレがにやりと笑う。
 彼の耳に聞こえているのは銀貨の鳴る音か、はたまたチャ・ザの声か。
 ライオットと馬が合いそうだな、と思ってシンが眺めていると、視線に気づいたマッキオーレが咳払いした。
「それはそうと、最近こんな話がありましてな」
 声を低くしてふたりを順に見る。
 話題を逸らそうとしているのはバレバレだが、いかにも重要な話をするかのような雰囲気に、シンとレイリアは思わず身を乗り出した。
「2ヶ月ほど前、街道に食人鬼(オーガー)が出没する事件がありました。退治なさったのはシン殿ですから、もちろんそれはご存じでしょうが、話には続きがあるのです」
 シンにとっては初陣にあたる事件。もちろん忘れるはずがない。
 あの時は醜態を晒したが、今の自分なら、ギムの横で恥ずかしくない戦いができるはずだ。
 機会があれば今の自分を見てもらいたい。
 ライオットはシンに言った。戦いに必要なのは虚勢とやせ我慢だと。
 こと実戦に関して、ライオットはシンより遥かに多くの経験を積んでいる。先達の言うことを否定する気はないが、シンがたどり着いた結論は、それとは違うものだった。
 戦うとはどういうことか。
 その問いに明確な答えを手に入れた今のシンは、2ヶ月前とは別人になっている。
 遠い目をしてうっすらと笑みを浮かべたシンを、レイリアが頼もしそうに見つめていた。
 魔神戦争の英雄ニースをして、実直にして至誠と言わしめたシンのまっすぐな人柄。それは邪教400年の怨念や宮廷の策謀に曝されても、いささかも曇っていない。
 力に驕ることなく、溺れることなく、流されることなく、まるで向日葵のように、まっすぐに太陽を向いている。
 レイリアは思うのだ。
 もし30年前にシンがいたら、魔神戦争の英雄として歴史に名を刻んだ戦士は“赤髪の傭兵”でも“白騎士”でもなく、この“砂漠の黒獅子”だったのではないか、と。
「先月巡回に当たっていた神官戦士団の報告によれば、あの騒ぎと前後して、白竜山脈の北部一帯からゴブリンやコボルトといった下級妖魔の群れがいなくなったそうです。戦士長は、オーガーの餌にされるのを嫌って南に逃げ出したのではないか、と申しておりました」
 ゴブリンに代表される下級妖魔は、訓練を受けた戦士からすれば弱いと言えるが、農民たちにとっては十分な脅威だ。
 そのため神官戦士団が定期的に駆除を行い、ターバ周辺の安全を守っているのだが、今年はそれが空振りに終わったらしい。
 レイリアがシンにそう補足すると、シンは首を傾げてマッキオーレに尋ねた。
「ということは、南の方で被害が出そうなもんだけど。そんな話はないのか?」
「そのような報告はございませんでした。つい先日までは」
 我が意を得たり、とマッキオーレの目が光る。
「〈栄光の始まり〉亭の女将が神殿に話を上げてきたのが3日前になります。ターバから2日ほど南にある小さな村……ザクソンというのですが、この村の郊外にゴブリンの群れが移動してきたらしい、と」
 どこからかオーガーが現れた。
 ゴブリンが南に逃げた。
 そこにはザクソンの村があった。
 ここまで分かっているなら、次に起きる事件は誰の目にも明らかだ。
「それで、神官戦士団が駆除に向かったわけだ」
「いいえ」
 シンの言葉を一刀両断にして、マッキオーレが首を振った。
「神官戦士団は動いておりません。動く予定もありません」
 シンの眉が跳ね上がる。
「なぜ?」
「これは宮廷の仕事だからです」
 あっさりとした答えに、シンの目つきが険しくなる。気のせいか空気まで刺々しくなったよう。
 威圧感さえ漂わせるシンを、マッキオーレは正面から見つめ返した。
「言っておきますが、仕事をサボろうとしているわけではありませんぞ。その点は誤解なきように。神官戦士団からは、行かせてくれと矢のような催促が来ております」
「だったらなぜ?」
「ターバ神殿が公的に手を伸ばせば、武力による侵略と言いがかりをつけられる恐れがあるからですよ」
 誰から?
 もちろん宮廷からだ。
 マーファ教団はアラニア王国の臣下ではない。ターバ周辺の自治を認められ、半ば独立国家のような存在である。
 それに対して、ザクソンは完全にアラニア領。村から税を取る権利も、村を庇護する責任も、全ては宮廷にある。
 距離こそ近いが、ターバとザクソンの間には国境線と呼べるほど明確な境界線があるのだ。
 シンにとって政治的駆け引きは専門外だが、その理屈は理解できた。不承不承矛を収める。
 だが理解できたからと言って、不満まで解消されるものではない。
「けど、宮廷の奴らがこんな辺境まで兵を送るか?」
「まあ、送らないでしょうな。住民もさほど期待していないでしょう。だから冒険者の店に依頼があったのですよ。ゴブリンの群れを退治してほしい、と」
 そこで〈栄光の始まり〉亭が出てくるわけだ。
 シンは店の常連たちの顔を思い出した。決して高レベルではないが、ゴブリン程度なら何とかしてくれるだろう。
 宮廷は動かない、神殿も動けないという状況では、冒険者というのが次善の策だ。腰が軽く対処も早い。
 この世界で冒険者という存在が認められる理由の一端を知って、シンは納得したように頷いた。
「なるほど。それなら安心だ」
「ところが安心ではないのです。それで済めば神殿に話など回ってきません」
 マッキオーレが首を振る。
 ザクソンの狩人たちが偵察した結果、ゴブリンの数はおよそ40と推測された。かなりの規模の群れだ。中には“王”(ロード)というべきボスもおり、単なる下級妖魔と侮ってかかれば返り討ちにされるだろう。
 となると初級の冒険者では対応できないが、ザクソンは寒村だ。中堅以上を雇えるほどの報酬を用意できなかったらしい。
 駆け出しの若者たちは依頼の難易度に後込みし、中堅たちはリスクにあわない報酬に見向きもしない。
「その結果、依頼はどこにも引き受け手がなく、困り果てた〈栄光の始まり〉亭の女将が相談に来たのですよ」
 冒険者たちを責めるのは酷だろう。彼らは趣味や慈善事業で妖魔退治をしているわけではない。生きる糧を得るための業として、命を賭けて戦うのだ。
 命に釣り合うだけの報酬を求めるのは当然と言える。
「だったら話は簡単だ」
 話を最後まで聞くと、シンは事もなげに言った。
「今から〈栄光の始まり〉亭に行って、俺が依頼を受ける。ライオットとルージュと3人で行ってくるよ」
 その言葉を聞いて、かかった、と言わんばかりにマッキオーレの目が光った。
「ザクソンが用意できた報酬は、全部で2500ガメルですぞ?」
 王都ミッションの10分の1以下。シンたちから見ればコーヒー代程度の感覚だ。常識的に考えれば、この端金で熟練冒険者が動くものではない。
 あくまでも表面上は勧めない風を装って、マッキオーレが止めに入る。
 すると、シンは想定したとおりの反応を示した。
「ザクソンに困ってる人たちがいて、俺たちが行けば助けられるんだろ? だったら行かない理由なんて何もないさ」
 青くさい理想論。
 だがシンには、それを実現させるだけの実力が備わっているのだ。気負う様子など微塵もなく、ちょっとそこまで散歩に、という程度で答えてしまう。
「シン……」
 期待するとおりの勇者像。
 胸の前で手を組んだレイリアが、きらきらした瞳でシンの横顔を見上げている。気のせいか頬が赤く染まっているようだ。
 目ざとくそれを見つけたマッキオーレが、しれっと口を挟んだ。
「そこまで言われては、私にどうこう言う権利はありませんな。レイリア様、我々はここで無事を祈るとしましょう」
 わざとらしく聖印を切ると、はっとしたレイリアが毅然と声を上げる。
「いいえ。私も行きます」
「レイリア様。無茶をおっしゃらないで下さい。神殿の司祭が出向くわけにはいかないと、いま説明申し上げたばかりですぞ」
 ため息混じりの声にも、レイリアは頑なに首を振る。
「神殿の司祭だからダメなのでしょう? だったら私も、冒険者として〈栄光の始まり〉亭で依頼を受けます」
 そしてレイリアはシンを見上げると、複雑な表情で見下ろす黒い瞳に懇願した。
「父の館で言いましたよね? 一度だけ冒険者として一緒に冒険するって。お母様の許可は私が取ります。シン、どうか私も一緒に連れて行って下さい」
「レイリア、妖魔の数は多い。何が起こるか分からないし、今回はやめておいた方が……」
 一緒に行ってくれるというのは正直嬉しいが、無用の危険に晒すのは本意ではない。シンがためらいがちに言うと、レイリアは勢いよく首を振った。
「足手まといにはなりません! こう見えても剣の腕には自信があります。邪教の司祭には敵いませんでしたが、相手がゴブリンなら絶対負けません!」
 確かに、レイリアはファイター5レベルという設定だ。その言葉に嘘はない。
 それを思い出してなおも逡巡していると、レイリアはシンの両手を取り、きゅっと握りしめた。
「シン。あの時言ってくれましたよね。俺には君が必要だって。あの言葉は嘘だったんですか? 私がいると邪魔ですか?」
 清純派美少女が、自分の両手を取って、半分涙目で懇願してくる。
 今この場面で言葉を間違えると、自分たちの関係に致命的な結果をもたらす。本能的にそれを察したシンは、表情を改めてレイリアを見つめ返した。
「嘘なんて言わない。俺には君が必要だ。邪魔なんてことあるはずないだろ。だけど俺は、君が必要だから一緒にいてほしい訳じゃない」
 予想外の言葉に驚いて、レイリアが目を見開く。
 しまった、口が滑った。ここまで言うつもりじゃなかったのに。
 自分の失言を後悔したシンだが、今さら黙ることなど許されるはずもない。
 無言で先を促すレイリアのプレッシャーに負け、ほとんど自棄になって言い放つ。
「理屈じゃないんだ。君と一緒にいたい。少しでも長く。いつも君の顔を見ていたい。それだけだ。以上」
 そして頭まで真っ赤になったシンは、耐えられなくなってそっぽを向いた。
 驚きで染まっていたレイリアの表情が、次第にほころび、色づいて花開くのを見なかったのは、シンにとって幸運だったのか、不幸だったのか。
「シン、ありがとうございます……私も同じです」
 レイリアの手が、そっとシンの背中に回される。
 白い頬は、真銀の鎖帷子に。
 黒獅子の腕は、司祭の肩に。
 不器用に距離をつめてきた若いふたりは、今、生まれて初めての感覚に心と体を震わせていた。
「計算どおりとは言え、これは効きますな」
 やれやれとつぶやきながら、マッキオーレが静かにその場を離れる。
 ターバの村に冒険者を送り込むため、ニースが命じた報酬への補助。当初12500ガメルを想定していた予算は、どうやら支出せずに済みそうだ。
 一気に黒字に転じた帳簿に思いを馳せて、マッキオーレが黒い笑みを浮かべる。
 だがその顔も、ふと2人を振り返ったとたん、まるで孫娘を見る祖父のようなものに変わってしまった。
 魔神戦争という動乱に青春を捧げ、女性として当たり前の幸せを失ってしまったニース。
 彼女の愛を一身に受けて育ち、清く美しく成長したレイリア。
 ふたりの生き様を見守ってきたマッキオーレは、長い長い吐息に乗せて、小声でつぶやいた。
「ニース様。レイリア様はどうやら、あなたが手に入れられなかったものを、しっかりと手にしたようですぞ」
 母娘2代にわたる過酷な運命。
 砂漠の黒獅子がそれを断ち切ってくれることを、マッキオーレは心から祈っていた。
 


シナリオ3『鳥籠で見る夢』

 獲得経験点 5000点

 獲得アイテム
  ミスリルチェイン
   必要筋力15(防御力25)
   回避力修正 ±0
   ダメージ減少 +1

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし
  レイリアと相当いい雰囲気になった。

 経験点残り 18500点



[35430] キャラクターシート(シナリオ3終了後)
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:04
キャラクターシート(シナリオ3終了後)


シン・イスマイール(人間、男、21歳)
 浅黒い肌に黒髪。炎の部族出身の戦士。

器用度 18(+3)
敏捷度 19(+3)
知 力 14(+2)
筋 力 16(+2)
生命力 18(+3)
精神力 12(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 レンジャー LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 18500点

装備
 両手 ズー・アル・フィカール(シャムシール+2) 
     必要筋力16
     攻撃力+2
     クリティカル値?2
     追加ダメージ+2
     (精霊に対してはさらに+3)
 鎧  ミスリルチェイン
     必要筋力15
     防御力25
     回避力±0
     ダメージ減少+1

戦闘力
 攻撃力 15
 打撃力 26
 追加ダメージ 14(17)
 回避力 13
 防御力 25
 ダメージ減少 11


ライオット(人間、男、24歳)
 金髪碧眼。マイリーの神官戦士。

器用度 14(+2)
敏捷度 18(+3)
知 力 13(+2)
筋 力 21(+3)
生命力 17(+2)
精神力 15(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 プリースト LV 8
 バード   LV 3
 セージ   LV 1
冒険者レベル 10
 経験点残り 6500点

装備
 右手 フレイムブリンガー(バスタードソード+1)
     必要筋力15
     打撃力15(25)/20(30)
     攻撃力+1
     追加ダメージ+1
     合言葉で《ファイア・ウェポン》が発動する。
 左手 勇気ある者の盾(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)
     必要筋力13
     回避力+3
     攻撃力修正±0
     ブレス攻撃に対して抵抗力+2
     所有者に攻撃を集中させる
 鎧  ミスリルプレート
     必要筋力20
     防御力30
     回避力±0
     ダメージ減少1

戦闘力
 攻撃力 13
 打撃力 15(25)/20(30)
 追加ダメージ 14
 回避力 16
 防御力 30
 ダメージ減少 11
 神聖魔法8レベル 魔力10


ルージュ・エッペンドルフ(人間、女、23歳)
 銀髪紫眼。大陸出身の魔術師。

器用度 14(+2)
敏捷度 15(+2)
知 力 19(+3)
筋 力 11(+1)
生命力 14(+2)
精神力 21(+3)

冒険者技能
 ソーサラー LV9
 セージ   LV8
冒険者レベル 9
 経験点残り 14500点

装備    
 両手 魔法樹の杖
     必要筋力10
     魔力+2
     貯蔵精神点20
 鎧  ミスリルローブ
     必要筋力1
     防御力6
     ダメージ減少+2
     精神抵抗力+2

戦闘力   
 攻撃力 0
 打撃力 10
 追加ダメージ 0
 回避力 0
 防御力  6
 ダメージ減少 11
 古代語魔法9レベル 魔力14



[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:05
マスターシーン ザクソン郊外 恵みの森

 ロードス島の北辺に位置するザクソンの夏は短い。
 眩しい太陽と自然の恩恵を享受できる貴重な季節、郊外にあるその森は、文字通り村を支える恵みの森だった。
 女たちは木の実や薬草を集め、男たちは狩りをして獲物を塩漬けにする。
 雪に閉ざされる長い冬を乗り切るため、夏の間に蓄えを用意しなければならないのだ。
 アランの都では冬でも銀貨で食料が買えると言うが、ザクソンの村には銀貨を呼び込むような産業はない。ターバへの巡礼客を迎える宿屋を除けば、鹿や兎の毛皮を都で金に換えるというのが、ほとんど唯一の現金収入だ。
 ザクソンの村にとって、森は生きていくために不可欠な存在だった。
 そんな恵みの森に、間もなく日没が訪れる。
 枝葉の天蓋から差し込む光の柱は大きく傾き、その色も濃いオレンジ色に変わっていた。
 次第に明るさを減じていく森の中に、今、2人の少年の姿がある。
「エト、薬草はまだか?」
 10歳ほどの少年が、大人用の剣を重そうに構えながら傍らの相棒に声をかけた。
 健康的に日に焼けた少年だった。
 意志の強そうな瞳に、鋭く引き締まった頬。落ち着きなく周囲を警戒する様子には、恐怖や緊張が隠しきれない。
「あったよ、パーン。リギド草だ。切り傷にはこれが一番いいんだって姉さんが言ってた」
 下生えにしゃがみ込んで薬草を探していたのは、色白でおっとりした印象の少年だ。
 柔らかい目鼻立ちにふっくらとした頬。パーンという少年とは対照的に、穏和で知的な雰囲気。
 剛と柔、剣と鞘、少年たちはそんな2人組だった。
「なら急いでくれ。もう日が暮れる。夜はあの忌々しい妖魔どもの時間帯だからな」
 緊迫したパーンの声。
「分かってる。すぐ終わるよ」
 背負い袋を開くと、エトはすぐに薬草を摘み始めた。
 15歳で成人と見なされるこの世界でさえ、まだまだ子供と呼べる2人。本来なら、この時間に村を出ることなど許されるはずもない。
 まして今は、妖魔の大群が村外れの遺跡に棲みついているのだ。大人でさえ村に籠って襲撃に備えているというのに、子供だけで森に入るなど無謀もいいところ。
 それでもパーンとエトには、その無謀に挑戦する理由があった。
「こないだの戦いで、姉さんの薬草が尽きたって言ってた。これを持って帰れば、まだ何人か助けられるんだ」
 村を襲撃した妖魔の群れに対して、村の大人たちが戦いを挑んだのが3日前。
 妖魔を村から追い払うことには成功したものの、代償は大きかった。片手に余る数の死者を出し、重傷者はその数倍。無傷の男はいないというほどの激しい戦いだったのだ。
 それ以来、村は完全に厳戒態勢だった。怪我をした男たちが武器を持って見張りに立ち、女たちは総出で炊き出しをしている。
 村でただ1人の薬師であるエトの姉、シノンなど、治療に奔走してろくに寝ていない様子だった。
「くそ、早く冒険者が来ればな!」
 パーンが悔しそうにつぶやく。
 フィルマー村長が村中の銀貨をかき集め、ターバの村に使いを送ってから10日あまり。片道2日の道程を考えても、先日の戦いには十分に間に合ったはずなのに。
「やっぱり村長が言ってたとおり、銀貨が足りなかったのかもね」
 忙しく手を動かしながら、エトが冷静に応じた。
 冒険者を雇うにも、相場というものがあるそうだ。村が用意できた銀貨では、妖魔の大群と戦えるほどの冒険者は雇えそうにない。村長がそう言っていたのを思い出す。
「金のない村は、助ける価値もないって言うのかよ!」
 冒険者は困った人たちを助けてくれる英雄だと思っていたのに、結局は金がすべてなのか。
 怒りを隠そうともしないパーンを、エトはそっと窘めた。
「助けてもらうのが当たり前だと思っちゃだめだよ、パーン。自分たちの村は自分たちで守る。それがザクソンの誇りなんだから」
 だから男たちは、命を賭けて戦った。
 女たちも戦っている。
「僕たちだって、村のために今できることをするんだ。子供だって無力じゃないって、大人たちに分かってもらおうよ」
 それは姉の口癖だった。何をしてもらうかじゃなく、何をしてあげられるかを考えなさい。村の皆に必要とされる男になりなさい、と。
「そうか、そうだよな。エトの言うとおりだ」
 納得してうなずいたパーンは、再び剣を握りなおして、周囲に目を配った。
 いちおう武器を持ってはいるものの、子供の自分たちには、これで妖魔と戦う力はない。
 だが、村に不足している薬草を集めることならできる。
 シノンが困っていると聞き、森に入ろうとエトに持ちかけたのはパーンの方だ。
 だからパーンは、次第に濃くなる闇に怯えながらも、歯を食いしばって親友の背中を守り続けた。



 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
 大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、大地に呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
 異界から召還された魔神が暴走し、島中に死と破壊をもたらしたが故に。
 そして今でも、幾多の妖魔が跳梁し、人々の生活を脅かしているが故に。


SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
 第4回 守るべきもの


 シーン1 ザクソン郊外 恵みの森

 遠くの枝から、極彩色の鳥が奇怪な鳴き声とともに飛び立った。
 清涼だった空気は日没とともに吹き払われ、森には湿った冷気が漂い始める。
 これがあの明るかった森だとは、とても信じられない。雰囲気はがらりと変わり、もう人間の時間は終わったのだと、これからは獣と妖魔の時間なのだと、世界が五感に訴えかけてくる。
 ターバを出て2日目。シンが何とか今日中にザクソンに入りたいと主張し、大きく湾曲した街道を外れて、森の中を直進するコースを選んだのだが。
「やっぱりショートカットは失敗だったかね?」
 柔らかい腐葉土を踏みながら、ライオットがため息混じりに唇を歪めた。
 中学校時代には、学校の裏山をかき分けて近道にしていたシンとライオット。当時と同じノリで街道から森へと足を踏み入れたのだが、どうやら本物の自然を舐めすぎていたらしい。
 歩いても歩いても景色は変わらず、出口は見えず、時間だけが過ぎていく。慣れない山歩きで疲労は蓄積し、女性陣の足取りも重くなる。
 仕方なくシンが休憩を宣言すると、ルージュとレイリアは崩れるように座り込んだ。
「すみません、シン。私のせいで」
 汗で頬に張りついた後れ髪をかき上げながら、レイリアが唇を噛む。
「大きいことを言って無理矢理ついてきたのに、もう足手まといになってますよね」
 レイリアの自責で暗くなりかかる雰囲気。だがそれを、ルージュがばっさりと切って捨てる。
「何言ってるの。レイリアさんは十分凄いって。10キロ以上もあるチェインメイル着て今まで歩いてたんだから。私なんかローブしか着てないのに、ライフはもうゼロですよ」
 あー疲れた、と両足を地面に投げ出すと、銀髪の魔術師はだらけきった様子で夫を見上げた。
「むしろ、文句言わずに今まで頑張った私たちを褒めてほしいよね。ライくん、ちょっと足揉んで。リーダーはレイリアさんの足揉んであげて」
 臆面もなく要求する妻に、ライオットが苦笑しながら屈み込んだ。
 ルージュがローブの裾を上げると、足はあちこちが擦り切れて血が滲んでおり、見るだけでも痛々しい。
 革製のサンダルで山歩きをした代償だろう。冗談めかしているが、これは本当につらかったに違いない。
「……お疲れさん」
 心からの一言で妻の苦労をねぎらうと、シンにバレないように《キュアー・ウーンズ》の魔法を使う。傷口が嘘のように消え去り、ルージュの表情がいくらか楽になったようだ。
「さ、レイリア。こっちも足を出して」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 私は大丈夫です! 今ちょっと都合が悪いというか、足が汚れてますから!」
「そんなの気にすることないよ。みんな同じなんだから」
「いえあの、ほんとに今はダメなんです!」
 レイリアが顔を真っ赤にして神官衣の裾を下ろし、目の前のシンから足を守っている。
 シンはまじめな表情だが、美少女の足ににじり寄る光景は、端から見れば痴漢そのもの。それを本気で恥ずかしがっているレイリアも激しく萌える。
 ライオットが目を細めて観賞していると、ルージュが小声で窘めた。
「ライくん」
 おそらく、レイリアの足も傷だらけなのだろう。それをシンに見せたくないのは、羞恥もあるだろうが、自分が障害になることを嫌っているせいだ。
 シンのことだから、レイリアが足の怪我を隠していたと知れば、盛大に謝罪して行軍速度を大きく落とすだろう。それでは、今日中にザクソンに入るという目的を達することができなくなる。
 シンが無茶を承知で強行軍を主張した以上、それはきっと必要なことなのだ。だったら自分たちは、そのために今できることをするべき。
 ライオットはレイリアに目配せすると、シンに声をかけて視線を引き剥がした。
「シン、ちょっといいか?」
 ん? とシンが振り向くと、レイリアは感謝の視線を返してきた。すぐに口の中でごにょごにょと呪文を唱え、足の怪我を治している様子。
 それを視界の隅にとらえながら、ライオットは重々しく告げた。
「レイリアも疲れてるはずだから、10分休憩にしよう。揉むのはふくらはぎを重点的にな」
「分かった」
 再びシンが向き直り、拒否は認めないと言わんばかりの真剣さで足を出すように促す。
 レイリアが今度は素直に神官衣の裾を引くと、驚くほど白い肌が現れた。
 芸術神ヴェーナーが絵筆を振るったかのような、絶妙なラインを描くふくらはぎ。旅塵で汚れているものの、その造形美は見ているだけで感嘆の吐息がもれそうなほど。
 さすがに頬を赤くしたシンが、ためらいがちに手を伸ばす。
 息を殺してそれを待つレイリア。
 肌と肌が触れあった瞬間、レイリアが小さく声を上げ、脚がぴくりと震えた。
「ん……」
「あ、その、やっぱり嫌だったかな?」
 シン・イスマイールの手は剣士の手だ。絶え間ない鍛錬で皮は堅くなり、レイリアの柔肌に比べたらタワシのようなもの。
 力を入れて揉んだら、傷つけてしまうのではないか?
 そんな恐れを感じてシンが手を引こうとすると、その上に華奢な手が重ねられた。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけなんです。男の人に触られるの、初めてだったので」
「そ、そうなんだ。ごめん、俺も女性に触るの初めてだから、力加減がよく分からない」
 そんな言葉を交わし合い、その意味を理解すると、ふたりは茹で蛸のように真っ赤になった。
「じゃあ、私たち初心者同士ですね」
「うん、そうなるかな」
「気を悪くされるかも知れませんが、ちょっと嬉しいです」
「俺も嬉しいよ」
 手と手を重ねたまま、はにかんだ笑顔を交わし合うふたり。
 体中が痒くなるような展開に、ルージュは叫び出したくなる自分を必死に堪え、生ぬるい表情で視線を逸らした。
 まったくこのふたりときたら、まるで砂糖を10杯は入れたミルクティのよう。自分でけしかけておいて何だが、余人にはとても耐えられそうにない。
 夫にも同調を求めて視線を投げると、驚いたことに、ライオットは厳しい表情で森の奥に目を向けていた。どうやら話を聞いていなかったらしい。
「どうしたの、ライくん?」
 また山賊でも出たのだろうか? 怪訝そうにルージュが首を傾げる。
「何か来る……と思う。たぶん」
 自信なさげにライオットが答えた。
 レンジャー技能もシーフ技能もないライオットには、音の正体が識別できないのだ。何かが茂みをかき分ける音だと思うが、大きなものではない。せいぜい犬か狼サイズの小動物だろう。
「一応警戒しておくか」
 さほど脅威は感じなかったが、先日の山賊騒ぎの教訓もあり、ライオットが地面から盾を拾い上げた瞬間。
 目の前の茂みが割れると、小さな人影が飛び出してきた。
 男の子だ。年齢は10歳くらい。
 ふっくらとした頬、きれいに整えられた黒髪、大きく膨らんだ背負い袋。反射的にそこまで認識したとき、ほんの一瞬、目と目が交錯した。
 必死に助けを求める意志。息を切らせて言葉も出ない少年が、転がるようにして足を止める。
「エト! 止まるな走れ!」
 茂みの向こうから、また別の子供の叫びが聞こえたとき、ライオットはすでに盾を構え、腰の剣に手をかけて臨戦態勢をとっていた。
 ふたり目の少年が茂みからまろび出てくると、シンが即座に誘導して子供たちを庇う。
「敵は?」
 語気鋭いライオットの問いに、ふたり目の少年が答えた。
「ゴブリンが3匹! すぐ来るよ!」
 ひとり目よりも覇気のありそうな少年だ。目つきは鋭く、肌は健康的に焼けて、手には大人用の剣まで持っている。
「お前たちは2人か?」
「そう!」
 シンが背中越しに言うと、即座に明確な答えを返す。頭の回転もなかなか良さそうだ。
 さらに少年は、けなげにも剣を構えて戦おうという気勢を示したが、さすがにそれは許容できない。ルージュに首根っこを捕まれ、強引に引きずられてしまう。
「放せよ! オレも戦う!」
「バカ言ってないで下がりなさい。あとは任せておけば大丈夫だから」
 全幅の信頼を寄せる妻の声に、ライオットが小さく笑う。
 3匹の妖魔が飛び出してきたのは、その直後だった。
 豚を擬悪化したような顔に、粗末なボロ切れを巻き付けた小柄な体躯。逃げてきた少年たちと身長はさほど変わらないだろう。
 だが錆びた小剣を振り回し、奇声を上げながら子供を追い回す姿には、理屈を超えた嫌悪感を覚えた。
「Gobugobugobu,Gobubububu!」
「Bukyyy!」
 目の前にいきなり完全武装の戦士が現れて、妖魔たちも驚いたのだろう。茂みを出たところで足を止め、武器を振り回しながら威嚇を始める。
 認定、見るからに邪悪っぽい。
 子供に対する傷害未遂、及び暴力行為等の処罰に関する法律違反の現行犯人と認め、ライオットは速やかに行動した。
 抜く手も見せずに剣が一閃。平で張り飛ばされた1匹が頭から茂みに突っ込んで動かなくなる。
 返す一撃で2匹目の小剣をたたき落とすと、左足を振り抜いて顎を蹴り上げた。骨が砕ける感触。強烈に脳を揺さぶられて、2匹目もあえなく撃沈する。
 あまりにも鮮やかな手際。モンスターレベル2のゴブリンでは、反応する暇すら与えられなかった。
 逃げてきた少年たちも、口を半開きにして見とれている。
 視界の隅にその様子をとらえると、ライオットは努めて偉そうに、最後の1匹に剣を突きつけた。
「俺たちは冒険者だ。武器を捨てて降伏すればよし、さもなくば実力で排除するぞ」
 傲然と宣言する。
 目の前の戦士は逆らってはいけない相手だと、ゴブリンなりに理解したのだろう。残された1匹はすっかり怯えた様子で小さくなっている。
 決まった、と内心で悦に入っていると、後ろからシンがためらいがちに告げた。
「あのさ、ゴブリンはロードス共通語分からないんじゃないか? やっぱゴブリン語じゃないと」
 短い沈黙が降りる。
 だが、シンの言うことには一理あるだろう。
 ライオットは重々しく言い直した。
「俺たちは冒険者ゴブ。武器を捨てて降伏すればよし、さもなくば実力で排除するゴブ」
「……あのねライくん。語尾にゴブをつければゴブリン語っていうのは、全国のGMが広めた迷信だから」
 こめかみを押さえながらルージュが首を振る。
 せっかくの見せ場だったのに、これでは台無しだ。
 しかも、ライオットはわざとやっているのだから始末に負えない。たまには最後まで格好よく決めてくれればいいのに、とルージュが1人ごちていると、
「いいんだよ。これがゴブリンの様式美ってもんだろ」
 おら行け、と剣を振り回して最後の1匹を追い払い、ライオットは満足そうに剣を納めた。
 わざわざ追撃する気はない。そうする必要もないのに、敵意のない妖魔を皆殺しにしても意味がないのだから。
「さて少年たち。ちょうどいい所に来たな」
 金髪碧眼、白銀のプレートメイルにカイトシールド。まるで絵物語の騎士のような出で立ちでライオットが水を向けると、子供たちは頬を上気させて駆け寄ってきた。
 余計な一言はともかく、ライオットの容姿と戦闘力は、子供たちが思い描く理想の騎士像そのものだった。
「本当に危ないところをありがとうございました。僕はエト。こっちは友達のパーンです」
 ひとり目の少年が礼儀正しく頭を下げる。
「エトに、パーンか……」
 超S級有名人の登場に、ライオットはしみじみと子供たちを見つめた。
 なるほど確かに、言われてみれば面影がある。エトは知的で上品そうな、パーンは元気の良さそうな顔立ち。シナリオの舞台がザクソンの村である以上、ふたりが登場することは必然と言えた。
 エトは神聖王国ヴァリスの国王(予定)。
 パーンは原作戦記から主役を張り、“ロードスの騎士”(ナイト・オブ・ロードス)の称号を受けて諸王円卓会議に席を与えられるほどの超英雄(予定)だ。
 脇役のレイリアなどとは比較にならない、原作の中枢に位置する少年たちだった。
「冒険者って言ってたけど、ザクソンを助けに来てくれたのか?」
 パーンの口調は乱暴だったが、目にはすがるような色が濃く浮かんでいる。
 直情的で裏表のない顔。真摯な願いの発露に、ライオットの表情がふっと緩んだ。
「そうだ。遅くなって悪かったな。俺はライオット。彼がリーダーのシン。それに司祭のレイリアと、魔術師のルージュだ」
 ぽん、とパーンの頭に手を乗せると、ライオットが仲間たちを紹介する。
 見ただけで強そうな冒険者たちに、パーンとエトは目を輝かせたが、村の状況を思い出すとすぐに顔を引き締めた。
「なら、すぐ来てくれよ! 村が大変なんだ!」
 ライオットが無言でシンを見る。
 シンは即座にうなずいた。
「すぐに出発しよう。パーン、エト、村まで案内できるか?」
「できるよ。急げば四半刻で着く」
「よし、じゃあ先導を頼む。レイリア、悪いけど休憩は省略したい。頑張れるかな?」
 気遣わしげな視線に、レイリアは力強くうなずいた。
「もちろんです。急ぎましょう」
 出発の準備を整えたルージュは、そっと夫に近づくと、耳元にささやいた。
「分かってると思うけど。迷子だったってことは、わざわざ言わなくていいからね」
 場を面白くするためだけに、子供の信頼を損なうことはない。
「やっぱりダメかな?」
「それでパーンが冒険者嫌いになったら、ライくん責任取れるの? あの子たちにとって、冒険者は英雄じゃなきゃいけないの。ちゃんと相手を考えてよ。ただの子供じゃないんだからね」
 痛烈に釘を刺す妻に、ライオットは返す言葉もなかった。
 悄然とルーィエの入った籠を持ち上げると、数少ない味方を求めて中をのぞき込む。
「陛下、さっきから大人しいな。TRPGだと台詞のない奴は不在認定されちゃうぞ」
 籠で微睡んでいた銀毛の猫王は、薄く目を開けると、不機嫌そうに従者をにらみ返した。
「……うるさい。夜の起き番がお前だけじゃ頼りないって言うから、日中は寝てていいっていう条件で付き合ってやったんだぞ。約束どおり寝かせろ。月が出るまでは俺様に話しかけるんじゃない。それとな、もっと揺らさないように運べないのか? お前の扱いだと寝心地が悪くてしょうがないぞ」
 ルーィエは言いたいことだけを言って、再び目を閉じてしまう。
「ライオット、行くぞ! 早くしろ!」
「……了解」
 シンの呼ぶ声に手を挙げて応えると、ライオットは少しだけ肩を落として仲間たちの後を追った。
 活躍した場面のはずなのに、扱いが良くない気がしてならなかった。





[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:06
シーン2 ザクソンの村

 村は急拵えの柵でぐるりと囲われ、いくつもの篝火が盛大に焚かれている。
 要所要所に男たちが見張りに立ち、また武器を持って巡回する様子は、さながら戦場にある砦のようだった。
 よく見れば、男たちの体には怪我が目立つ。中には腕を吊り、顔にまで包帯を巻いた満身創痍の者もいる。
 それでも、動ける彼らはまだ幸運な方なのだ。
 妖魔の大群に蹂躙された村は、実に7名もの死者を出した。重傷を負って意識の戻らぬ者はその倍に達する。
 犠牲者の血と家族の涙を吸った大地は無惨に踏み荒らされ、精魂込めて育てた家畜は奪い去られ、収穫前の小麦は妖魔の汚毒で全滅してしまった。
 これほどの犠牲を払ってなお、終わりは見えない。
 ザクソンは死力を尽くした戦いの渦中にあって、興奮と疲労と悲観が混在した奇妙な昴燥が、重苦しく村を支配していた。
 そんな村の片隅、恵みの森へと続く門の前で、ひとりの女性が男たちに必死に訴えていた。
「エトとパーンが帰ってこないの! きっと森へ行ったんだわ!」
 年は16歳。つい最近大人の仲間入りをしたばかりの、榛色の瞳が印象的な娘だ。ふっくらした頬と機敏そうな挙措は、どこかリスのような印象を受ける。
 目の覚めるような美人ではないが、人に好かれそうな愛嬌のある娘だった。
 名をシノンという。村にたったひとりの薬草師であり、多数の怪我人を抱える今のザクソンでは、誰よりも貴重な存在だ。
「森へ? どうしてこんな時に?」
 シノンを相手をしているのは、猟師のザムジーだ。今まで何匹もの妖魔を仕留めたことがあり、その経験を買われて村の男たちの指揮を任されている。
 3日前の戦いでも自慢の弓で数多くのゴブリンを倒し、ザクソン屈指の勇者として村人たちに認められる男だった。
「私のせいよ。あの子たちの前で、薬草が切れたなんて言ったから……!」
 シノンはうつむいて涙をこらえる。
 嗚咽で上ずりそうになる声を必死に抑えながら、ザムジーのたくましい腕にすがりついた。
「お願い! 森に行ってあの子たちを探したいの! 力を貸してちょうだい!」
「しかしな……」
 ザムジーは低く唸って渋面になる。
 子供は村の宝だ。言われるまでもなく、すぐにでも助けに行ってやりたい。
 これが平時ならば、の話だ。
 今この状況で森に捜索隊を出せば、十中八九、妖魔に襲われることになるだろう。それを撃退できるだけの人数を出せば、今度は村の守りが手薄になる。
 200名の村人と、2人の子供。
 天秤に掛けてどちらか片方しか取れないなら、シノンにとっては気の毒な結論しか出せない。
 ザムジーが言葉を継げないでいると、苦しそうな表情から内心を読みとったのだろう。シノンは決然と顔を上げ、涙をふいて言い放った。
「分かったわ。じゃあ私1人で行く」
「待て、落ち着け。今シノンがいなくなったら、村はどうなる?」
 言葉どおりに森に向かって歩きだしたシノンを、あわててザムジーが止める。
 優秀な薬草師だったパーンの母から、丁寧に教えを受けてきたシノン。去年の冬にパーンの母が亡くなってからは、村にただひとりの薬草師として、ザクソンになくてはならない存在なのだ。
 以来シノンは、身寄りのないパーンを引き取って、エトと兄弟同様に育ててきた。両親のない3人は、今ではどんな家族よりも強固な絆で結ばれている。
 シノンの中の天秤では、村人すべてより2人の子供たちの方がずっと重いにちがいない。
 家族が一番大切。それは誰もが同じなのだ。
 シノンの内心を察して、ザムジーも苦渋に顔をゆがめた。
 自業自得と決めつけたくはないが、何もこんな時に森に入らなくても。無謀な子供たちにやるせない怒りを感じて、ザムジーは森に視線を向けた。
 黒々とした闇に沈む森は、恵みをもたらす昼間とはまるで違う姿を見せている。
 仮に無事だったとして、あの中に助けに行けるのか? 行って、皆無事に帰って来れるのか?
 内心でそう問いかけたとき、ザムジーの心臓が跳ね上がった。
「ゴブリン?!」
 同じものを見つけて、シノンがはっと顔を硬くした。
 青白い鬼火のような明かりとともに、いくつかの人影が森から出てくるのが見えた。
「いや、違うな。ゴブリンどもはあんなに大きくない」
 興奮で立った鳥肌をさすり、努めて落ち着いた声を出しながら、ザムジーが目を細める。
「だけど、こんな時に森から無事に出てくるなんて……もしかして不死の怪物かも」
 世界には、非業の運命を諦めきれない魂に支配され、死してなお動き回る怪物がいるという。どこか冷たさを感じさせる青白い明かりは、そんな死者の魂が浮いているものではないのか?
「1、2、3、4。大きい人影が4つ。それに小さいのも2つ一緒だ。どっちにしろ警戒が必要だろう。おい! 誰か!」
 背負っていた弓を下ろし、矢筒から鷹羽の矢をつがえながら、ザムジーは見張り係に怒鳴った。
「ライオットの班を呼んできてくれ! 森から何か出てきた! 大至急だ!」
 木こりのライオットは村一番の力自慢だ。腕っ節に自信のある男たちを5人ばかり集めて、戦闘班の班長を務めている。
 この時間なら、村の中心にある〈良き再会〉亭で妖魔の襲撃に備えているはずだった。
「分かった!」
 ザムジーに応えて、見張りのひとりが大急ぎで走っていく。
「他の者は門を閉めろ! 手の空いている男は武器を持って北門に集合! 女子供は家から出ないように! 急いで触れ回れ!」
 やがて銅鑼が鳴り始めると、村中が騒がしくなってきた。ライオットに率いられて体格のいい男たちが到着すると、すぐにザムジーのところに駆け寄ってくる。
「妖魔か?」
 両手持ちの斧を肩に担いで、ライオットが胸を張った。
 何年も斧を振り続けてきた体には分厚く筋肉が盛り上がり、灰色熊もかくやという力強さを漂わせている。
「遠くてまだ判らん。だが森から人影が6つ出てきた」
「そうか」
 ライオットは短く答えて、そのままどっしりと腰を据える。彼がそうしているだけで、さながら大樹のような安心感があった。
 どんなに不安でも、俺たちだけは自信満々でいよう。そうしないと不安が村人たちに伝染して、誰も戦えなくなってしまう。
 ザムジーと交わしたその約束を、この無口な巨漢は忠実に守っているのだ。
 武器を持って集まってきた男たちは、全部で20名。村の方々で見張りに立っている者をのぞけば、戦える男は全員が集合したことになる。
 彼らが固唾を飲んで見守っていると、青白い鬼火とともに、6つの影はまっすぐ村に近づいてくる。遠目ながらシルエットが判別できるようになると、男たちは目を細めて正体を探ろうとした。
 敵か、味方か。
 強いのか、弱いのか。
 相手によっては女子供を村から逃がし、ターバに避難させることも考えなくてはならない。
 ザムジーがめまぐるしく考えを巡らせていると、じっと目を凝らしていたシノンが、突然歓声を上げた。
「エトだわ! あれ、エトとパーンよ!」
 喜色を満面に浮かべて門を開き、外に飛び出そうとする。村人のひとりがあわてて止め、ザムジーに目を向けてきた。
「シノン、落ち着け。間違いないのか?」
「私があの子たちを見間違えるはずないでしょう。早く出迎えてあげなきゃ。門を開けてちょうだい」
 急拵えとはいえ、妖魔の進入を防ぐための柵だ。女の細腕で開くほど軽い造りではない。
 シノンが助けを求めて見上げたが、ザムジーは首を振った。
「いや、まだだ。もしかしたら、ふたりは人質に取られているのかも知れない。一緒にいる奴らの正体が分かるまでは、門は開けられない」
 その慎重な態度に業を煮やして、シノンは大声で子供たちを呼んだ。
「エト! パーン!」
 叫びながら、篝火の下で大きく手を振る。
 返事はすぐに帰ってきた。
「姉さん!」
 小さい2つの人影は、手を振り返すと、大きい人影の手を引いて村へと駆け寄ってくる。
 やがて、人影が篝火の明かりに入ってくると、ザムジーは声を張り上げた。
「悪いが、一旦そこで止まれ! あんたたちは何者だ?!」
 先頭を歩いているのは、浅黒い肌に黒髪の戦士。仕立ての良さそうな黒の長衣に銀の飾り帯。背中には両手持ちの曲刀を背負っている。その動きはしなやかで隙がなく、まるで獲物を狙う肉食獣のよう。
 次は白銀の鎧を着て大きな盾を持った、まるで騎士のような風体の男。金髪碧眼の貴公子だが、その眼光の鋭いこと、最初の男に全く引けを取らない。
 残りの2人は女だった。
 ひとりは大地母神マーファの司祭。まだ若く、シノンと同年代だろう。白い神官衣に、腰までの黒髪。穏やかな微笑を浮かべているが、隠しきれない疲労が足取りを重くしているようだ。
 最後は魔術師。銀色の髪に紫色の瞳という珍しい組み合わせ。染みひとつない象牙色の肌。信じられないほど整った顔立ちは、魔術師でなければ女神の化身と言われても信じられそうなほど。
 戦士、騎士、司祭、魔術師。
 そんな取り合わせが意味するものはひとつしかなく、村人たちからは何かを期待するざわめきが起こっている。
「この人たちは冒険者だぞ! 村を助けに来てくれたんだ!」
 ザムジーたちの態度を糾弾するように、パーンが大声で答えた。
 エトはそれを保証するように肯いている。
 自分自身が歓声を上げそうになりながらも、ザムジーは男たちに念を押した。
「子供たちを連れてきてくれたのは感謝する。だが、あんたたちは本当に、村を助けに来た冒険者か?」
 村の全員が固唾を飲んで返答を待つ。
 仲間たちを振り向いて確認すると、先頭に立っていた黒髪の戦士が、大きく肯いた。
「そうだ。ザクソン防衛の依頼を受けてきた」
 村人たちの希望を明確に肯定する、戦士の言葉。
 周囲にどんどん膨れ上がる興奮は、軽くつついただけで爆発してしまいそうだ。
 妖魔の大群に襲われて以来、暗いニュースしかなかったザクソンの村。そんな彼らにとって、子供たちの生還と冒険者の到来は久々の明るい話題だった。
 ザムジーは村の男たちに向き直ると、腹の底から大声で叫んだ。
「みんな! パーンとエトが冒険者を連れてきたぞ! 門を開けろ!」
『うおおおおおお!』
 20人の男たちが一斉に腕を突き上げ、歓喜を爆発させた。
 掛け値なしに全力の大歓声が、ザクソン中に轟いた。
 閉塞感と絶望に支配されていた村人たちにとって、冒険者たちの到来は、雪解けの太陽にも等しい輝きを放っているのだ。
 皆が満面の笑顔を浮かべ、誰彼かまわず抱き合って喜びを分かちあう。
 気のきいた数人が門に飛びつき、引きずるようにして門を開くと、4人の冒険者と2人の子供はあっという間に取り囲まれた。
「よく来てくれたな! 歓迎するよ!」
「これで助かった!」
「ザクソンの救世主だ!」
 100%混じりっけなしの大歓迎に、冒険者たちはいささか戸惑っていた様子だったが、どうやらこの空気を察してくれたらしい。
「待たせたな。けど、俺たちは強いぜ?」
 金髪の騎士がにやりと笑うと、村人たちの興奮は最高潮に達した。
 親しげに肩を叩くもの、パーンとエトをねぎらう者、顔を赤くしてルージュとレイリアに見とれる者。彼らに共通するのは、長い暗黒の日々が終わったことに対する解放感と喜びだ。
 誰もが大騒ぎに全力を尽くしていると、ザムジーは大声で追加の指示を飛ばした。
「お前ら、大切な客人をいつまで立たせておくつもりだ! 早く〈良き再会〉亭に案内しろ! 大急ぎでフィルマー村長を呼んでこい!」
 それに応じて、男どもは冒険者たちを取り囲んだまま、背中を押すようにして村の中央へ案内していった。ちゃっかりした数人が司祭と魔術師の腰に手を回しているようだが、お祭り騒ぎのような空気に配慮してか、彼女たちは苦笑したのみで大目に見てくれるようだ。
 やり方はどうあれ、ザクソンの村が彼らを歓迎しているという状況は分かってもらえただろう。
 再び森に視線を向け、妖魔の姿はないことを確認すると、ザムジーは開いたままの門を閉めた。
 後に残ったのはザムジー、見張り番、シノン、それにパーンとエトの5人。
 歓喜に沸く村人たちを見送ってから、シノンはしゃがみこんで子供たちを抱き寄せた。
「無事で良かったわ。怪我はない?」
 順番に抱きしめてから、両手を体に這わせて負傷を確認する。
 森で小枝に引っかけたのだろう、小さな擦り傷は無数にあったが、舐めておけば一晩で治る程度のものばかり。治療を要するような大怪我はなかった。
「うん。危ないところを冒険者の人たちに助けてもらったから」
 パーンがうなずく。
「姉さん、これ、森で採ってきたんだ。リギド草。これだけあれば足りるかな?」
 大きく膨らんだ背負い袋を、エトが誇らしげに差し出した。
 中を見ると、尖った葉が特徴的なリギド草がびっしりと詰め込まれている。これだけあれば、村にあふれている怪我人をひとり残らず治療できるだろう。
「まあ、こんなに沢山……大変だったでしょうに」
 シノンが言うと、パーンは誇らしげに胸を張った。
「俺たちも、村のために何かしたかったんだ。子供だって役に立つんだってことをさ、分かっただろ?」
「ええ。薬草もそうだし、冒険者さんたちも連れてきてくれたし、きっと村の皆があなたたちに感謝するわ」
 シノンが微笑むと、子供たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
 妖魔に追いかけられた時は生きた心地もしなかったが、苦労の後にはいいことが待っている。シノンに誉められて、充分に報われた気分だった。
「エト、パーン、今度は私の話を聞いてくれる?」
 穏やかな声。
 何事かとふたりが向き直った瞬間、シノンの右手が閃いた。
 乾いた音がふたつ。
 平手で思い切り頬を張られて、子供たちはたまらずに尻餅をついた。
 驚いて見返すと、顔は微笑んだまま、シノンが涙を浮かべてふたりを見下ろしていた。
「エト。薬草は嬉しいわ。これだけあれば、沢山の人を助けることができる。ありがとう。だけどね、馬車にいっぱいの薬草より、私はあなたの方が大事なの」
 シノンは呆然と見上げる弟から、恩師の忘れ形見に視線を移す。
「パーン、冒険者を連れてきてくれたのは立派だわ。おかげで村は助かるでしょう。けどね、もし森で冒険者さんたちに会わなかったら、あなたがどうなっていたか分かる? 私が助けたいのは村人ぜんぶより、あなたひとりなのよ?」
 叫ぶでも怒鳴るでもなく、穏やかとさえ言えるような、ゆっくりとした口調。
 だが目を赤くしたシノンの心中を察すると、少年たちの顔は次第に暗く沈んでいった。
「あなたたちは村を救ったわ。それは本当のことだから、今回は皆に誇っていい。だけどこれだけは覚えておいて。あなたたちに万が一のことがあったら、悲しむ人がいるってことを。そして、もし死んだら、その人はもう誰の役にも立てないんだってことを」
 薬草師という仕事柄、誰よりも近く死というものを看取ってきたシノンの言葉は、ふたりの少年に深く染み込んでいった。
 10歳には小難しい理屈など分からないが、シノンの言いたいことが何なのか、子供たちにははっきりと分かっていた。
「……ごめん、シノン」
「ごめんなさい、姉さん」
 だから、子供たちは素直に頭を下げた。
 冒険者たちに出会った興奮の炎は、すっかり消し止められていた。
「そうだな。シノンの言ってることは正しい」
 少し離れて様子を見ていたザムジーが、彼女たちには聞こえないように、小声でつぶやく。
「けどな、危険を承知で無茶ができないようじゃ、村は守れないんだぜ?」
 妖魔の大群が襲ってきたとき、村の男たちは武器を持って戦った。無茶をするなとか安全第一とか考えていては、妖魔と斬り合いなどできようはずがない。
 村を、大切な人を、そして肩を並べて戦う隣人を守ろうという使命感。それを一番に考えるから男たちは戦えるし、互いを信頼し合える。
 そうやって信頼を勝ち取って、男はようやく一人前なのだ。
 女の理屈で育てられた子供たちが、次第に男になっていく過程。
 パーンとエトは、その真っ直中にいる。
「こいつら、でかくなるかもな」
 素直に涙を流して謝る子供たちを見て、ザムジーは頬を緩めた。
 ザクソンの村は貧しいが、将来有望な子供たちがいる限り、未来は明るいと思えた。


 知らせを受けたフィルマーが足腰にむち打って酒場に駆けつけると、そこには冒険者を一目見ようとする村人たちが詰めかけて、外まで人があふれていた。
 酒場〈良き再会〉亭は、ターバ神殿への巡礼者向けの、村にたった1軒だけの宿でもある。冒険者が来た際には宿舎として使用できるよう、必要なものは取りそろえてあったはずだ。
「しかし、本当に来たのか?」
 ザクソンが用意できた報酬は、たったの2500ガメル。
 村の若い衆に毛が生えた程度の駆け出し冒険者ならともかく、司祭や魔術師までそろえた熟練冒険者など、とても雇える金額ではない。
 首をひねりながらフィルマーが顔を出すと、待ちかねたように〈良き再会〉亭の主人、ジェット爺さんが出迎えた。
「待っとったぞ、村長。こちらがリーダーのシン・イスマイール殿。それから順に戦神マイリーの神官戦士ライオット殿。魔術師のルージュ殿に、大地母神マーファの司祭レイリア殿じゃ」
 中央のテーブルに腰掛けた若者たちを順に紹介する。
 礼を失しないよう気を払いながら、フィルマーは冒険者たちを観察した。
 いずれも若い。もっとも年長に見えるマイリーの神官戦士でさえ20代の前半だろう。マーファの司祭にいたっては、まだ成人を迎えたばかりに見える。
 だが同時に、彼らが漂わせる存在感は、まるで猛獣と同席しているような迫力に満ちていた。彼らがちょっとその気になれば、村の若者では手も足も出ぬままに制圧されてしまうだろう。
 この若者たちは本物の冒険者だ。
 そう理解して、フィルマーが頭を下げようとしたとき。
「おいジジイ。もう耄碌したのか? 一番大事な奴を紹介し忘れてるぞ。頭は使わないとすぐ退化するんだ。かわいい孫娘にシモの世話をされたくなければ、ちょっとはものを覚える訓練をするんだな」
 情け容赦のない雑言が、テーブルの上からジェット爺さんに浴びせられた。
 驚いたフィルマーが視線を向けると、見事な銀色の毛並みをした猫が、2本の尻尾をゆらゆらと揺らしながら堂々と胸を張っている。
「しゃべったのはお前さんかな?」
「誇り高き猫族の王、ルーィエだ。この半人前どもの保護者をしている」
 しゃべる猫を前にして、フィルマーが自分の目と耳を疑っていると、ルージュという女性魔術師が苦笑して口を挟んだ。
「ルーィエは、北の大陸から渡ってきた幻獣なんですよ。口は悪いですけど、猫の王様というのは本当です」
「左様ですか」
 呆然と答えながら魔術師を見返して、フィルマーはそのまま目を離せなくなった。
 ザクソンではついぞお目にかかったことのない佳人だった。薄く雲をかぶった朧月のような美貌は、まるでおとぎ話に登場する王侯貴族の姫君のよう。
 年甲斐もなく見とれてしまい、ジェット爺さんの咳払いで我に返ったフィルマーは、あわてて視線を逸らした。
 もうひとりマーファの司祭も美しい女性だ。村の若者たちが〈良き再会〉亭に押し掛けた理由の大部分は、どうやらこの女性たちにあるらしい。
 同じ男として気持ちは分かるが、今は彼らに失礼があってはならない。フィルマーは店の出入り口を振り向くと、しっしっと手を振った。
「皆の衆。これから村のために大切な話がある。その扉を閉めて、用のない者は家に帰りなさい。当番の者は、くれぐれも見張りを怠らぬようにな」
 穏やかだが有無を言わさぬ口調に、若者たちは渋々と去っていった。
 後には猟師のザムジー、木こりのライオット、それに腕っ節の強い5名ばかりが残るだけ。村の実状を語るにはこれで充分だ。
 野次馬がいなくなると酒場は静まり返り、雰囲気も張りつめたものに変わった。
 この冒険者たちが本当に妖魔の大群を退治してくれるのか。その正否によって、ザクソンの運命が決まるのだ。
「失礼した。私が村長のフィルマーです。この度は依頼を引き受けていただいて、感謝の言葉もない。しかしですな、その……」
 フィルマーが言い澱むと、金髪碧眼の戦士が言葉を継いだ。
「あの額の報酬で、本当に依頼を引き受けたのかとお尋ねですか?」
 白銀の甲冑に大きな盾。由緒ありそうな長剣を佩いた、マイリーの神官戦士。
 村一番の勇者ライオットと同名の彼は、碧い瞳に思慮深そうな光をたたえて、フィルマーの内心をずばりと言い当てた。
「左様、言いにくいことですが、この村は貧しい。用意できるのはあれで精一杯でした。しかし、あなた方のような冒険者が雇える額ではないということもまた、分かっておったのです」
 申し訳なさそうにうなずくと、ライオットという神官戦士は軽く微笑んだ。
「そのあたりにいる普通の冒険者なら、確かにそのとおりでしょうね。しかし、本当に優れた人物を動かすのに必要なのは、金銀ではないのですよ」
 穏やかだが断定的な口調。
 どのような経験を積んできたのか知らないが、20そこそこの若さとは釣り合わない深みのようなものを感じる。
「私たちのリーダー、シン・イスマイールは、金では動きません。その代わり、本当に困っている人、彼を必要とする人がいれば、金額の多寡など度外視で助けようとします。あなたが巡り会ったのは、そういう勇者なのですよ」
 まるでおとぎ話のように都合のいい話だ。
 いささか疑わしげにフィルマーが一同を見渡すと、黒髪の女性司祭は誇らしげに肯いた。
「ライオットさんの言うことは本当ですよ。シン・イスマイールは、ニース最高司祭が認めた勇者です。困っている人を見捨てたりはしません」
 信頼と言うより信仰に近い眼差しを受けて、黒髪の戦士が照れたようにそっぽを向く。
「そんな大したもんじゃないよ。目の前に困った人がいたら、誰だってできる範囲で助けようとするだろ。それと同じだ。勇者とか英雄とか、そんなんじゃない」
 聞きようによっては、上から目線の傲慢な台詞だ。
 だが、理由はどうあれザクソンは彼らの力を必要としている。必要なのは納得のいく説明ではなく、妖魔どもを打ち払う力なのだ。
 フィルマーは、どうやら本当に妖魔たちと戦ってくれるらしいと知ると、安堵の吐息を漏らした。
「分かりました。ザクソンの運命は皆さんにかかっております。どうか私たちの村を助けて下され」
 深々と頭を下げる。
「報酬をもらって引き受けた以上、依頼は必ずや完遂します。ご安心を」
 金髪の神官戦士は自信たっぷりに請け負う。
 彼が大丈夫と言う以上、もう心配はいらないだろう。そう信じられる力を持った態度だった。
「では、よろしくお願いします。詳しい話は猟師のザムジーと、木こりのライオットから聞いて下され。この2人が若い衆のリーダーをしておりましてな」
 村長が紹介すると、木こりのライオットは無愛想な顔に奇妙な表情を浮かべて金髪の冒険者を見た。
 自分と同名ながら、きらびやかな容姿と圧倒的な戦闘力を持ち、自信たっぷりに村長に対している若い男。生まれも育ちも違うのだから当たり前だが、寒村で薪だけを相手にしてきた自分と比べて、なんと華やかなことか。
 いささかコンプレックスに近い感情を覚えて無言を貫いていると、金髪のライオットが屈託のない笑みを向けてきた。
「奇遇だな。俺もライオットっていうんだ。パーンたちから聞いたよ。あんた、村を妖魔から守った勇者なんだってな」
「そんなんじゃない」
 一回り年下の若者に、むっつりと答える。
「運が良かっただけだ。このザムジーだって、雑貨屋のモートだって、みんな必死に戦った。死んだ奴らだって大勢いる。たまたま俺は生き残って、刈った首が一番多かったから、皆が持ち上げているだけだ」
 無愛想だが実直な言葉は、どこかシンに通じるものがある。金髪のライオットは居住まいを正すと、正面から朴訥な大男を見つめた。
「偉大なるマイリーは、刈った首の数で勇者を決めたりはしない」
 その意外なほど真面目な口調に、冒険者仲間たちも驚いた様子だ。
「戦うことは怖い。俺はそれを知ってる。それでも、大切なものを守るために恐怖をこらえて戦った人間を“勇者”って呼ぶんだ」
 金髪の司祭は、有無を言わさぬ視線をライオットに投げかけた。
「村のために戦って、村を守ったあんたは勇者だ。それは村の連中がそう呼ぶからじゃない。自分の価値は、他人には決められない。自分の行動だけが決められるんだ。だから自分を卑下するな。胸を張れ。自分のやったことに誇りを持て」
 そう主張する碧い瞳は、強烈な存在感でライオットを飲み込んでしまう。
 身構えていた相手が、誰よりも明確に自分を評価したという事実に、劣等感で鎧っていた心が毅然と頭をもたげるのが分かった。
 自分がこの冒険者より強いか弱いかは、さしたる問題ではないのだ。ただザクソンの村の代表者として、自分が成し遂げたことに誇りを持って対応すればいいだけ。
 村のために全力を尽くしたという事実は、誰よりもライオット自身が知っているのだから。
「なんだお前、たまには司祭っぽいこと言えるんじゃないか」
 冒険者たちのリーダーが金髪の司祭をからかうように言った。
 銀髪の女性魔術師もうんうんと頷き、マーファの司祭は困ったように曖昧な微笑を浮かべている。
「失礼な奴だな。もうちょっと頑張れば、マイリー教団にライオット派を作れるくらいの実力者らしいぞ、俺」
 金髪の司祭が憮然として言い返すと、横から魔術師が混ぜっ返した。
「ライくん、社交辞令って知ってる? そんなお世辞を真に受けちゃダメだよ」
「そうそう。適当なことばっかり言ってると、マイリーに怒られるぞ」
 右と左から叩かれて、金髪の司祭は何か言い返そうとしたが、すぐに諦めたらしい。
 気の毒そうに眺めるライオットと目が合うと、軽く肩をすくめてみせた。
「これが周囲の評価って奴さ……不本意だけどな」
 どんなに強くても、頭の上がらない相手はいるらしい。
 村人たちとは比較にならない戦闘力を持ち、妖魔を一蹴する実力があっても、この冒険者たちも自分たちと同じ。
 冗談を言い、笑い合い、時には愚痴を言ったりもするただの人間なのだ。
 相手が同じ人間なら、気圧されることもない。
 ザムジーと視線を交わすと、ライオットは胸を張って椅子に座りなおした。






[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:07
シーン3 妖魔の洞窟

 翌朝。
 遠回りでもいいから勾配のゆるい道を、という注文どおり、ザムジーが案内したのはサンダル履きのルージュやレイリアでも苦労なく歩ける道だった。
 遠くで小鳥が鳴き、茂みの向こうに鹿が姿を見せ、枝葉の天蓋からはマイナスイオンと陽光が降りそそいでくる。
 気分はまるでハイキングだ。妖魔の襲撃など嘘のように、平和でのどかな光景が広がっていた。
「ここは本当に豊かな森ですね」
 倒木に腰かけて休憩しながら、レイリアは羨ましそうに辺りを見回した。
 丁寧にそろえられた膝、白い神官衣に流れる黒髪。何気ない挙措の一つ一つに品の良さがうかがえる。
 絵に描いたような美少女を鑑賞しながら、ライオットが親友の幸運をしみじみと羨んでいると、並んで座っていたルージュが首を傾げた。
「ターバの方にも森はたくさんあったでしょ? そんなに違うかな?」
「白竜山脈の北部は氷の精霊力が強すぎて、ほとんどが針葉樹林なんです。エサも少ないですし、氷竜プラムドという主人もいるので、動物たちはあまり近寄らないんですよ」
「ふぅん、そうなんだ」
 レイリアの横で背伸びをし、2時間あまりのトレッキングで凝った肩をぐりぐり回すルージュ。
 容姿だけなら傾国級の美女だ。正直、中身がゲームヲタの妻だと知らなければ、ライオットでさえ身構えてしまうほどの。
 妻が美人なのは素直に嬉しい。だがこの外見補正に加えて、怒ると容赦のない性格にも磨きがかかり、今ではすっかり逆らえない相手になってしまった。
 今の状況を喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、ライオットにはよく分からない。
 ただ、魂は肉体に宿るという。
 ロードス島に来た自分たちは、少しずつこの新しい肉体に影響されて、以前と違ってきているのではないか。そんな違和感はここしばらく頭を離れなかった。
 その最たる例がシンである。
 彼女いない歴33年の半メタボSEが、今ではレイリアの心を捕らえて放さないほどの勇者ぶり。常識では到底考えられない変貌だ。
 ということは、自分と妻も、少しずつ「ライオット」と「ルージュ」になっていくのかな、などと物思いにふけっていると。
「ただいま。偵察してきたぞ」
 ザムジーに案内されてゴブリン洞窟の偵察に行っていたシンが、音もなく藪をかき分けて戻ってきた。
 レンジャー8レベルは伊達ではない。声をかけられなければ、姿を見せたことにも気づかなかっただろう。
「お疲れさまでした。様子はどうでした?」
 レイリアがにこりと微笑み、立ち上がって迎える。
「見張りは2匹。茂みから洞窟まで20メートルくらいだったから、魔法を使えば奇襲もできるんじゃないか?」
 背負っていた精霊殺しの魔剣を下ろすと、シンは鞘の先で地面に図を描きながら説明していく。
「ここが洞窟の入り口。盛り上がった丘にスパッと断層があって、ぽっかり穴が開いてた。廃坑とか古代の遺跡とか、そういう感じじゃないな。自然の洞窟っぽい雰囲気だった。見張りはこことここ。身を隠せそうな茂みはこの辺りまで」
 集まってきた仲間たちがシンを囲んで、地面の図に注目する。
「洞窟の前が開けてるなら、堂々と正面から攻撃でいいんじゃない? ルーィエが留守番してるから中の偵察はできないし、わざわざ狭くて暗い洞窟に入るメリットもないと思うけど」
 暗い場所の苦手なルージュが、そう提案した。
 明かりのないダンジョンは、先日の“墓所”でもう懲りごりだ。
 わざわざ怖い思いをして中に入らなくても、手持ちの魔法の中には、広範囲を面制圧する凶悪な攻撃魔法がいくつもある。相手がゴブリンなら一網打尽だ。
 するとライオットが首を振った。
「敵は大群だろ。計算どおりに行けばいいけど、広い場所で乱戦になって、後衛が囲まれると厄介だ。俺は中に突入して、前線を狭く限定した方が安全だと思う」
 レイリアなら自分を守るくらいの事はできるだろうが、魔法専門のルージュと案内役の猟師ザムジーには、白兵戦能力が全くない。相手がゴブリンとはいえ、囲まれてタコ殴りにされれば生命に関わる。
「だけどさ、中に入って分かれ道とかがあったら、倒しきれなかったゴブリンに逃げられちゃうんじゃないの? 私たちの仕事は村を守ることなんだから、逃げたゴブリンがまた村を襲うことは阻止しないと」
「今回の群れは“王”(ロード)がいるから統制が取れてるんだ。ゴブリンロードさえ倒せば散りじりになるさ。それに、出入口がもうひとつあってロードにまで逃げられたらどうする? 今回は殲滅戦よりも、確実に頭を潰すことを考えた方がいい」
 どちらの主張にも一理ある。
 議論を戦わせるライオットとルージュを横目に、困ったシンはザムジーに目を向けた。
「ザムジー、中の地図はあるのか?」
「いや。こんな場所の地図なんか作っても、使い道がないからな」
 案内役の猟師は無愛想に肩をすくめた。
 考えてみれば当然の話だ。洞窟の地図など、ただの村人たちには無用の長物だろう。
「じゃ、中に入ったことは?」
「一度だけ。中は壁も天井も床も、ヌルヌルした白い石でできてる。上からつららみたいにぶら下がってる奴と、下から牙みたいに生えてる奴。それがくっついて柱になってる奴もあった。起伏は大きいし地面は滑るし、走り回るには向かないな」
 ザムジーの言葉に、ライオットが舌打ちする。
「……鍾乳洞か」
「厄介だね。出入口はきっとここだけじゃないよ」
 石灰質の岩盤を雨水が溶かし、地盤の内部にできる空洞が鍾乳洞だ。下から上に溶けるという行程で作られた洞窟であり、その特徴は地底湖の生成と複雑な内部構造にある。
 地下の空洞は時間とともに拡大し、それが外界に接した場所が出入口となる。つまり、出入口が複数あることは理論上の必然なのだ。
「この丘の周りには、分かっているだけで3ヶ所の洞窟がある。調べたことはないが、あんたたちの言うとおり、中で繋がってるかもしれないな」
 感心した様子でザムジーが言うと、ライオットとルージュは渋い顔を見合わせた。
 突入組と待ち伏せ組を分けることも考えたが、出入口が3ヶ所となると、そのすべてを塞ぐことはできない。
 待ち伏せができないなら、採れる戦術はひとつ。
 不満そうなルージュが渋々うなずくと、作戦会議を傍観していたシンが言った。
「やっぱり突入か?」
「ああ。ザコの殲滅は無理でも、最低限ゴブリンロードだけは倒す」
「分かった」
 シンが頷く。
 リーダーの承認が下りれば、あとは行動するだけだ。
 見張りを片づける段取り、洞窟内での隊列、明かりの担当などを手早く打ち合わせる。
 全員が準備を済ませたのを確認すると、いつものようにシンが号令した。
「んじゃ、ちょっくら村を守りに行くか」
 気負うでもなく、侮るでもなく、自然体で前を向くシン。
 不意に、ぞくりとするような迫力を感じて、ライオットは一瞬息を飲んだ。
 ライオットの知っている半メタボの親友とはまるで違う。
 その精悍な横顔は、まぎれもない“砂漠の黒獅子”のものだった。


 最前列にシンとレイリアが並び、2列目にルージュとザムジー、最後尾をライオットが固める。
 数匹単位で襲いかかってくるゴブリンたちを一蹴しながら、5人は鍾乳洞を奥へ奥へと進んでいった。
「妖魔にはもったいない棲み家ですね」
 心臓を貫いた小剣から血糊を振り落としながら、レイリアが周囲を見渡す。
 辺りは松明の明かりに照らされて、オレンジ色の世界が広がっていた。
 陰鬱な不安感が先行したナニールの墓所とは異なり、内部はまるで美術館だ。純白の石柱が林立し、美しく波打つ鍾乳石はさながら瀑布のよう。
 自然の手による造形美は、ここが邪悪な妖魔の巣窟だと分かっていても、神秘的で清浄な空気すら感じさせた。
「レイリア、油断するなよ。こいつらの武器は錆びまくってるから、傷でもつけられたら健康に悪そうだ」
 レイリアが1匹倒す間に、シンは4匹のコブリンを片付けている。どれも急所を一撃。断末魔を上げる暇すら与えない、圧倒的な戦い方だ。
「はい」
 肩を並べるシンに、レイリアはくすりと笑った。
 剣で斬られたら、錆云々は関係なく健康に悪いだろうに。
 からかうような視線に、シンは少しだけ頬を上気させると、黙って足を進めた。
 レイリアは左手で松明を掲げると、誇らしげにその横に並ぶ。今までは背中で守られるばかりだったが、今回、レイリアに与えられた場所はシンの隣だった。
 シンの戦いを補佐し、彼が万が一にも負傷したときは、すぐに治癒の魔法をかけること。レイリアが最前列に起用された理由は、戦士としての能力と司祭としての能力、双方が評価された結果だ。
「シン、ありがとうございます。私を信頼してくれて」
 前方の薄闇を警戒したまま、レイリアが小声で言う。
 シンも前を向いたまま応じた。
「正当な評価だ。当然だろ」
 レイリアはファイター5レベル、プリースト7レベル。この世界では充分に一流と呼べるスペックだ。ただ守られるだけの無力な乙女ではない。
「それより、ホントに油断しないでくれよ。そろそろ本命が出てくる」
 松明の明かりの外周、オレンジ色の闇に目を凝らしながら、シンは繰り返し警告した。
 大群が動いている。
 松明の明かりの向こう側、闇の中で、妖魔どもが手ぐすねを引いている。
 肌をチリチリと炙るような殺気が、明確に感じられるのだ。
 洞窟に入って1時間あまり。最初は細く曲がりくねっていた洞窟も、次第に規模が大きくなってきた。この辺りは幅10メートル、天井の高さも同じくらいか。
 石筍や石柱が林立し、その先には薄く水をたたえた円形の池が、まるで棚田のように集まって階段状の地形を作っている。
 リムストーンプールと呼ばれる水たまりの階段だ。足を滑らせないよう慎重に越えて進むと、その先に広がっている光景に、シンは思わず息を飲んだ。
 眼下に、差しわたし数百メートルに及ぼうかという巨大な地底湖が姿を現したのだ。
 天井や壁には光ゴケが自生し、まるでプラネタリウムのように、ドーム全体が淡く輝いている。
 地底湖の中央には大きな島があり、その島から空洞全体を支えるように、巨大な柱が天井へと続いていた。
「……すごいね、これは」
 続いてきたルージュも、巨大な空洞を呆然と見下ろす。
 RPG風に表現すれば、水の地下神殿と言ったところか。何万年もの時間をかけて雨水が創り上げた自然の芸術だ。
「で、あいつが今回のボスってわけだ」
 最後尾から白い階段を上ってきたライオットが、地底湖の湖畔に目を凝らして言う。
 距離は50メートルくらいだろう。10匹あまりのゴブリンたちの群れがいる。その中央に、他より二回りは大きな妖魔が斧を構え、仁王立ちになってシンたちを待ち構えていた。
 今まで駆逐してきた雑魚とは存在感が違う。まさしく“王”と呼ぶにふさわしい上位種だ。
 ゴブリンと言うよりオーガーに近いな、そんな感想を持って眺めていると、目が合ったゴブリンロードが、黄色ずんだ犬歯を剥き出しにした。
『Gobugobu,Gobububububukkkyyyyy!』
 ゴブリン語の咆吼。
 意味を理解したのは素養のあるルージュだけだったが、
一斉に歓声を上げるゴブリンたちを見れば、何やら威勢のいいことを叫んだのは想像がついた。
 洞窟に反響する妖魔たちの奇声に眉をひそめている間にも、“王”の演説は続いている。
『Gobu! Gobu! Gobu!』
『Gobuffuuuuuu! Gobuffooooo!』
 ゴブリンたちは足を踏みならしたり、手にした武器を打ち合わせたりしながら、どんどん目を血走らせていく。
「で、奴ら何て言ってるんだ?」
 松明を足下に置き、代わりに腰の魔剣を抜きながら、ライオットが妻に尋ねる。
「通訳したくない。言葉が汚れる」
 嫌悪感を丸出しにして、ルージュが顔をしかめた。
「俺たちの悪口でも言ってるのか?」
「そうじゃなくて、下品な欲望を堂々と吐き出してるの。ああもう、我慢できない。とりあえず攻撃していい? 攻撃するね?」
 これ以上聞くに耐えないとばかりに、ルージュが魔法樹の杖を構える。
 ライオットが無言でシンに問いかけると、シンはあっさりと頷いた。
「別にいいんじゃないか? いつまでも演説に付き合う必要もないだろ」
 どうせ倒すのだ。魔法の炎で焼こうが、剣で両断しようが、結果は変わらない。
「じゃあ遠慮なく」
 桜色の唇が上位古代語の呪文を詠唱していく。
 何もない空間に世界の設計図を広げながら、ルージュは紫水晶の目を細めた。
『火竜の咆吼、不死鳥の翼、始源の巨人の憎しみの心……』
 ルージュの頭上に光の点が生まれる。
 空間が軋む音をたててマナが集中し、まるで星が誕生するように輝きを増していった。
 紫水晶の瞳が怜悧な光を宿し、眼下に集まっている妖魔の群れを射抜く。
 光が様相を反転させて炎となった。
 風が生まれる。
『Bukyyyyy!』
 すると、眼下の地底湖畔で、ゴブリンロードが何やら大声で叫んだ。
『Gobu! Gobu! Gobu!』
『Gobu! Gobu! Gobu!』
 突撃を命じたのだろう。10匹あまりのゴブリンたちが喊声を上げ、小剣や棍棒を振りかざして一斉に駆けだした。
 その時、どうして振り向こうなどと思ったのか。
 自分でも分からないままに視線を返したライオットは、次の瞬間、全身が総毛立つのを感じた。
 松明の明かりの届かぬ、闇の向こう。自分たちの後背に、緑色の瞳が点々と光っていたのだ。
 音もなく忍び寄っていたゴブリンの大群。その数20を遙かに超える。ライオットたちは完全に退路を断たれ、地底湖への斜面を背に半包囲されていた。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
 鋭いルージュの声。
 一拍遅れて洞窟に地響きが起こり、轟音と悲鳴と熱波が斜面を駆け登ってライオットの背を叩いた。だが、その魔法がどれだけの戦果を挙げたか確認している余裕はなかった。
「シン。後ろが面倒なことになってる。乱戦に持ち込まれると厄介だ。ここでくい止めるから皆で下に降りてくれ」
 ゴブリンの大群を前に盾を構え、威嚇するように大きく剣を振る。
 幸いなことに、このリムストーンプールは地底湖側へ降りる唯一の裂け目だ。ここを塞いでおけば追撃されることはない。
 ちらりと背後を振り向いたシンは、一瞬で状況を見て取ると、すぐに肯いた。
「任せた。レイリア、下のゴブリンは残り4匹だ。斜面の下まで降りたら、動かずにザムジーとルージュを守ってくれ。俺はあのデカいのを倒してくる」
 精霊殺しの魔剣を構え、シンが地底湖の湖畔を見下ろす。
「ザムジー、よく見ておいてくれよ。これがザクソンが雇った冒険者の実力だ」
 見届け役の猟師に不敵な笑みを残すと、シンは飛ぶような勢いで斜面を駆け下った。途中、駆け抜けざまに1匹斬り倒すと、一直線にゴブリンロードを目指す。
「レイリアさん、私たちも早く降りよう。ここにいるとライくんの邪魔になる」
 ローブの裾をつまんだルージュが、鍾乳石の斜面を慎重に降り始める。
「分かりました。ザムジーさんもルージュさんと一緒に来て下さいね」
 右手に小剣、左手に松明を持ったレイリアは、若鹿のようにしなやかな動きで斜面を駆け下る。
 シンは言った。ザムジーとルージュを守ってくれ、と。
 ならば、今はその信頼に応えることがレイリアの役目だ。襲ってくるゴブリンは残り3匹。その程度なら自分ひとりでも何とかなる。
「おい、ちょっと待てよ。ライオット独りに20匹以上相手させるつもりか?」
 迷うそぶりもなく先に進む女性陣に、ザムジーが戸惑って声を上げた。
 まったくもって常識的な反応だ。数の少ない方に戦力の大半を投入し、大群をひとりで食い止めるのは理に反している。
「大丈夫だ、こういうのは得意分野だから」
 コマンドワードを唱え、魔剣に炎を纏わせると、ちらりと振り向いて不敵な笑みを見せる。
「それよりあんたに怪我をされると困るんだ。ふたりと一緒に降りてくれ」
 じりじりと距離を詰めてくるゴブリンどもが、松明の明かりの中に入ってきた。
 ネバネバした涎で汚れた牙。血走った目。生臭い吐息が耳元で聞こえてきそう。
 改めて向き合うと、見ているだけで嫌悪感を覚える。邪悪という言葉でくくるのは好みではないが、少なくとも先方はこちらを殺す気満々だった。
 だったら、こちらもそれに応じるだけのこと。むしろ良心の呵責なしに戦えるのはありがたい。
 互いの距離が10メートルほどまで近づくと、不意に弓弦が鳴った。ライオットの耳元をかすめて矢が唸り、中央にいたゴブリンの腹部に突き刺さる。
『Bukyyyyy!』
『Kikki! Kikki!』
『Gobugobukkyyyyy!』
 とたんに憎悪が沸騰し、ゴブリンたちが一斉に足を踏み鳴らした。 
 だんだん、だんだん、と洞窟に威嚇音が響く。
 そのペースはどんどん速くなり、一触即発の緊張が高まっていった。
「俺も援護する」
「無用だ」
 2本目の矢をつがえたザムジーに、ライオットが即答する。
「それより下を頼む。シンが突撃したから女しかいない。女を見捨てて完全武装の戦士を守ろうとするのは、男としてどうかと思うぞ?」
「しかし……」
 なおもザムジーが躊躇っていると、白い繊手が猟師の襟首を掴んで引っ張った。
「ちょっとザムジーさん。一緒に来てって言ったでしょ。私たちの指示には従うことって最初に約束したよね?」
「いや、しかしだな」
「問答無用。危ないからライくんの邪魔しないで。それにレイリアさんの援護もしなきゃいけないんだから、よけいな手間かけさせないでちょうだい」
 ルージュはぴしゃりと言って、強引にザムジーを引きずっていく。
 情けない顔で引きずられていくザムジーを見送った時、ちょうどゴブリンたちの儀式も終わったらしい。
 だん、と一際大きく地面を蹴ると、20匹余りのゴブリンたちが一斉に襲いかかってきた。
 “勇気ある者の盾”の魔力に拘束されて、全員がライオットを目指している。下級妖魔とはいえ、これだけ数が集まれば迫力は満点だ。
 内心の緊張をごまかすように口許に笑みを刻むと、ライオットは大きく息を吸い込み、裂帛の気合いとともに聖句を吐き出した。
『Falts!』
 ライオットを中心として、不可視の衝撃波が全周囲に吹き荒れる。
 石筍をへし折り、石柱を砕き、ゴブリンの群れに殺到した衝撃波は、まるで木の葉のように妖魔たちを弾き散らした。
 ずん、と天井を打った衝撃波が洞窟全体を軋ませ、白い破片がパラパラと降ってくる。
 《フォース・イクスプロージョン》。打撃力30という極悪な破壊力を持った面制圧魔法だ。術者中心という制約はあるものの、破壊の範囲と威力という点ではルージュの《ファイアボール》を凌駕する。
 最前列でまともに食らったゴブリンは、全身の骨を粉々にされて息絶えただろう。後方にいた者も大なり小なり傷を負い、無傷で武器を構えているのはごく少数だ。
 ただの一撃で半数近くを仕留め、ライオットは折り重なるようにして転がるゴブリンたちを睥睨した。
「分かったか。貴様らでは人間には勝てないんだ。命が惜しければ森に帰って、二度と人里には近づくな」
『Kikki! Kikki!』
『Bukikikikikikiki!』
 いったい何がそうさせるのか。
 圧倒的な実力差を思い知ったはずのゴブリンたちだが、戦意は全く失っていなかった。
 緑色に光る目に狂気と呼べそうな何かを浮かべ、起き上がるなり一斉に足を踏み鳴らしてライオットを威嚇する。
「……ったく、厄介な奴らだな」
 ライオットは舌打ちしながら炎の魔剣を構えた。
 先ほどのように、足音のリズムがどんどん早くなっていく。それが限界に達したとき、第2波の突撃が始まるのだろう。
 もっとも、律儀にそれを待ってやる義理はない。
「やめる気がないなら、今度はこっちから行くぞ!」
 右足で白い地面を蹴る。
 鉄靴のスパイクが石灰岩を削り、ライオットは一瞬で5メートルの間合いを詰めた。
 袈裟掛けに一閃。正面にいたゴブリンをあっさりと斬り伏せる。続いて逆袈裟に剣を跳ね上げると、隣にいたゴブリンの首が宙に飛んだ。
 目を見開いたままの首を追って、紅の噴水が上がる。
 返り血を嫌ったライオットが胴体を蹴り倒すと、反対側にいたゴブリンが襲いかかってきた。錆びた小剣が腰のあたりに突き込まれる。
 上半身をひねって盾で受けると、青白い火花が散って、醜く歪んだ妖魔の顔が薄闇に照らし出された。
 その表情。
 存在そのものが邪悪と規定されるにふさわしい、憎悪と狂気に満ちた顔を見て、ライオットの胸中にふと哀れみが浮かんだ。
 光に対する闇、人間に対する敵として創られた存在。
 その中でも最下級であり、作りたて1レベルのキャラクターにすら及ばない妖魔。
 彼らはひたすらに悪であり続け、その顔に笑顔や愛を浮かべることは生涯ないのだろう。その存在意義は冒険者に倒され続けることだ。倒すことに罪悪感を覚えるようでは役目が果たせない。
 その存在の、なんと不自然で悲しいことか。
「……なんてな!」
 感傷に揺れる内心ごと斬って捨てるように、魔剣を一閃。
 刃を取り巻く炎がオレンジ色の軌跡を残し、ゴブリンの首を両断する。
 またひとつの生命を刈り取ると、ライオットは身を翻して後退した。リムストーンプールがガラ空きだ。自分の役目はゴブリン相手に無双をすることではなく、ゴブリンたちをここから進ませないこと。たとえ数匹でも通すと面倒なことになる。
「生命が要らない奴からかかってこい。せめてもの慈悲だ。苦しまないように逝かせてやる」
 自分自身に言い聞かせるように、そう宣言する。
 さながら城門のごとく、地底湖畔へと続く唯一の通廊を塞ぐと、ライオットはちらりと後ろを見下ろした。
 ルージュとザムジーを守って、レイリアは順調に戦っているようだ。そのはるか前方では、シンがゴブリンロードに接敵しつつある。
 戦いは、まもなく終わろうとしていた。



「主力部隊を隠しておいて、洞窟の最奥部で挟み撃ち。なかなかいい作戦だよね。普通の冒険者なら窮地に陥っただろうけど」
 3匹のゴブリンを相手取って、レイリアは危なげなく剣を交えている。その向こうでは、シンがゴブリンロードに肉迫していく。
 終始優勢に進んでいる戦況を見守りながら、ルージュは傍らのザムジーに話しかけた。
「三軍も帥を奪うべし、ってね」
 どれほどの大軍だろうと、きちんとした統率がとれていなければ、大将を討つなどたやすいことだ。そして、大将を失った軍は烏合の衆に成り下がる。
「それはいいが、少しはレイリア司祭を援護したらどうだ? 俺の弓だと司祭に当たってしまうかもしれない。魔法なら百発百中なんだろう?」
 若い娘ひとりに守られている状況が我慢できないらしい。ザムジーが苛立った様子で答えると、ルージュは首を振った。
「だめ。あの3匹はレイリアさんに倒してもらわないと。あんまり手を出しすぎると、あとでリーダーに怒られるもん」
 ただ倒すだけなら、レイリアが剣を交える必要などなかった。ルージュがもう一度呪文を唱えれば、それだけで残ったゴブリンをこの世から一掃できるのだから。
 だが、この戦いの目的の一つは、レイリアに経験と自信を積ませること。自分たちが彼女を信頼し、彼女がそれに応えたという実績が必要なのだ。
 適当な数まで敵を減らし、レイリアに「守ってくれ」と告げたシンの意図を考えれば、これ以上の手出しは控えるべきだった。
「しかしな……」
 渋い顔のザムジーに、ルージュが艶やかな一瞥をくれる。
「ザムジーさん、さっきから『しかし』ばっかりだね。それは私たちに対する侮辱だよ。レイリアさんがどう見えてるか知らないけど、彼女はザクソンの木こりライオットさんよりずっと強いんだから」
 冗談めかした口調だが、紫水晶の流し目に反論を許さない強い意志を感じて、ザムジーは口を閉ざした。
 ルージュの言葉を証明するように、レイリアは余裕を持ってゴブリンたちの攻撃を捌いている。
 3匹相手だけに思い切った攻撃には転じていなかったが、それでも隙を見て繰り出す反撃は大きなダメージを与えているようだ。ゴブリンたちに最初の勢いはもうない。
『Bukyyyyy!』
 その時、後方でゴブリンロードが吼えた。
 ルージュには分かる。それは怒りを込めた命令だ。
 殺せ、と。
 できればもうやってるよ、とルージュは皮肉っぽく笑ったが、ゴブリンたちは別のとらえ方をしたらしい。恐怖に蹴飛ばされるようにして、レイリアに破れかぶれの突撃を仕掛けてくる。
 その迂闊なアクションは、膠着した戦況を一気に動かした。
「私の勝ちです!」
 汗に濡れた髪をなびかせながら、レイリアが凛とした声で宣言する。
 相手が複数とはいえ、囲まれているわけではないのだ。
 ゴブリンが横一列に並んで襲いかかってくると、レイリアは素早く左に回り込んだ。それだけのことで、中央と右側にいたゴブリンは目標を失ってしまう。
 複数を同時に相手取る必要はないのだ。連携のとれていない相手なら、ちょっとした移動で1対1の局面を作ることができる。
 神官戦士団の対妖魔戦訓練で教え込まれる、基本中の基本だ。
 一番左にいたゴブリンとすれ違いざま、伸ばした小剣で首筋を薙ぐ。切り裂かれた頸動脈から深紅の噴水が迸り、ゴブリンは両手で傷口を押さえて仰け反った。
 レイリアはその身体を盾に回り込み、2匹目に左掌を突きつける。
『Falts!』
 不可視の気弾は顔面を直撃し、問答無用で相手を殴り飛ばした。不自然な方向に首を捻じ曲げたゴブリンは、緑色の目を白く濁らせている。もう2度と起き上がることはないだろう。
 これで残り1匹。
 呼吸と体勢を整えながら、レイリアが小剣を構え直した時。
 再びゴブリンロードが吼えた。
「聞ケイ、人間ノ戦士ヨ!」
 今度は、片言のロードス共通語で。
 どこかの木こり小屋から失敬してきたのだろう。ゴブリンロードは両手持ちの大斧を携えてシンを待ち構えている。
 身長はシンより少し大きい程度。他のゴブリンよりはましだが、今まで相手にしてきた邪教の司祭たちに比べればザコもいいところだ。
 シンの間合いまであと5歩。
「我ハ白竜山脈ノ王、ハビエラ! 我ガ王国ヲコノ地ニ築キシハ、人間トノ約定ニヨルモノナリ!」
 何やら伏線らしきことを口走っているようだ。
 思わずルージュが眉を寄せる。
 だがシンは気にした様子もなく肉迫すると、精霊殺しの魔剣を振りかぶった。
「直チニ剣ヲ引カネバ、誓約ノ証タル壷ヲ解放スルゾ!」
 歩幅を調整し、最後の1歩を大きく踏み込む。
 両手斧を掲げ、完全に防御の体勢を取っているゴブリンロードに、シンは一言だけ返した。
「勝手にほざいてろ」
 ライオットの鉄壁ぶりを相手に稽古を重ねているシンにとって、この程度の防御などザルもいいところだ。
「あ、ちょっ、待……リーダー!」
 約定、誓約の証、壷とキーワードに反応したルージュが、あわててシンを止めようとする。
 が、遅かった。
 精霊殺しの魔剣は両腕ごと斧を斬り飛ばし、返す刃が無防備になった首をはねる。
 口をはさむ間もない、鮮やかな連撃だ。
 これで、ゴブリンロードの魂もろとも、貴重っぽい情報も永遠に闇の中。
「あぁ……」
 あまりのことにルージュからため息がこぼれた。
 両腕と首を失った胴体が地面に転がると、シンは初めて後ろを振り向いた。
「ん? 何か言ったか?」
「ほんとさ、リーダーって相手の話を聞かないで倒しちゃうよね。もうちょっと情報収集しようとか思わないの?」
 レイリアが最後の1匹にとどめを刺すのを横目に、ルージュが首を振る。
「どうせ口から出まかせだろ? この期に及んで手加減なんかして、しなくていい苦戦を強いられたらバカみたいだ」
 ルージュの抗議など、シンは気にした様子もなかった。
 彼が言うのも一面の真理ではある。古来、ボスの能書きに最後まで付き合うのは、逃げられフラグである場合がほとんどだ。
「ザクソンを襲ったゴブリンの大群と、そのボスを倒したんだ。今回のミッションはこれで成功。あとは怪我なく帰るだけ。今は余計な伏線より、ライオットの無事でも気にした方がいいんじゃないか?」
 自分はしっかりとレイリアの無事を確認しながら、からかうように斜面の上を指さす。
「私のライくんは、ゴブリンなんかに負けないもん」
 そう言い返しながらも視線を向けると、ライオットが手を振りながら降りてくるところだった。
 負ける要素はないと分かっていても、やはり無事な顔を見ればほっとする。
 それぞれが互いに無事を確認し合っていると、ザムジーが慨嘆した。
「見せてもらったよ。これが冒険者の戦い方か……」
 妖魔の巣穴で挟み撃ちにされながら、前後同時に罠を噛み破ってしまうとは。しかも“王”を討ち取るところまで同時進行だ。
「色々と邪魔して済まなかった。これほど強いとは思わなくてな」
 一番弱そうなレイリアですら、木こりライオットよりずっと強い。ルージュの宣言どおりの結果に、ザムジーは素直に頭を下げた。
 これが村人だったら、屈強の男が100人集まってもこうはいかなかっただろう。これほどの冒険者を雇えたという幸運を、改めて神々に感謝したくなる。
「ザムジーも怪我がなくて何よりだった。村に帰ったら村長に報告してくれよ。とりあえずボスは倒しましたってな」
 シンが笑いながら応える。
 すると、下まで降りてきたライオットが口を挟んだ。
「シン、上にいたザコの群れだけど」
 すっきりしない、渋い表情。あまりいい知らせではないらしい。
 シンが無言で先を促す。
「半分ちょっと倒したら突然統制が乱れて、残ったザコが猛ダッシュで逃げ出したんだ。こう、散りじりにさ。追撃して何匹か倒そうかとも思ったんだが、結局そのまま見逃した。逃げたのは10匹くらいだと思う。すまん」
「そうか……ま、何とかなるだろ」
 群れのボスたるゴブリンロードを倒し、集団を構成していたゴブリンも30匹近く始末している。
 包囲したわけではないのだから、多少の逃亡が出るのは仕方ないだろう。
「ゴブリン10匹くらいなら、村の自警団でも十分対応できる。あんたたちは十分な戦果を挙げてくれたよ。多少のことは気にしないでくれ」
 ザムジーもシンに同意したが、ライオットは釈然としない表情だった。洞窟への突入前、妻に言われた言葉がずっと引っかかっているのだ。
 すなわち、逃げたゴブリンが村を襲ったら元も子もない、と。
「とりあえずさ、もう2~3日は村で様子を見てみようよ」
 ルージュはそう提案すると、リーダーが叩き潰した伏線の件もあるしね、と内心で続けた。
 シンとレイリアはふたりで過ごす時間が増えて嬉しいだろうし、ライオットは逃がしたゴブリンを警戒したいだろう。
 ルージュ自身、妙な胸騒ぎが収まらず、すぐに村を離れる気にはなれなかった。
「これからのことは、フィルマー村長も交えて相談だ。それより気を抜くなよ。村に帰るまでがミッションだ。ダンジョンの最奥部で気を抜くと思わぬ危機を招くって、こないだ墓所で学習したばかりだからな」
 シンが改めて気合いを入れ直す。
 あの時のピンチぶりを思い出して、場に再び緊張感が戻ってきた。
 洞窟に入ったときと同じ隊列。
 今まで同様の警戒態勢を保持して、シンたちは改めて地上を目指す。
「誓約の証たる壷、か。壷ってふつう『解放』するものじゃないよね」
 ふと地底湖を振り返って、ルージュがつぶやく。
 その声は誰の耳にも届かず、闇銀色の湖面に漣となって溶け込んでいった。






[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:07
シーン4 ザクソンの村

 冒険者たちが疲れた足を引きずって村に帰還すると、彼らが妖魔の王を倒し、ゴブリンの群れを征伐したという話は小一時間で村中に知れ渡った。
 見届け役として同行したザムジーが確認したところ、妖魔の骸は王のものを入れて32体。村を襲ったゴブリンのほとんどを討ち果たしたことになる。
「妖魔の脅威は去ったと考えてよかろう」
 フィルマー村長が宣言するや、ザクソンは村を挙げての大祝宴に突入。酒場の主人ジェット爺さんは残り少ない酒樽をすべて開け、広場には村人たちが料理を持ち寄って、飲めや歌えの大騒ぎが明け方まで繰り広げられた。
 村の英雄たる冒険者たちがそこから逃れられる道理もなく、4人は東の空が白むまで村人たちの大歓待を受け続け。
 彼らが翌日目を覚ましたとき、すでに太陽は中天を通り過ぎていた。
「まったく、飲めないならはっきり断ればいいのに」
 2階の個室でライオットの様子を見てきたルージュは、階下に降りるなりそう言って肩をすくめた。
「ライオットさんは駄目そうですか?」
 一足先に戻っていたレイリアが、コップに果物の果汁を絞りながら問いかける。
「もうダメダメ。口もきけないみたい。気持ち悪そうに喘ぎながら床の上に転がってたよ」
「床の上ですか? ベッドではなくて?」
「転がりすぎて落ちたんじゃないかな」
 放っておくしかないね、とため息をついて、ルージュはすとんと椅子に座った。
 テーブルの上には、ライ麦のパン、トマトとレタスのサラダ、ソーセージエッグ、デザートの果物などが並んでいる。昼過ぎまで寝ていた冒険者たちのために、ジェット爺さんが用意してくれた遅すぎる朝食だ。
「自業自得だな。それにしてもあの馬鹿、普段は飲まないくせに、どうして昨日に限って飲んだんだ?」
 食卓の隅を占領してミルクを舐めていた銀色の双尾猫が、いつもどおり辛辣にこき下ろした。
 アルコールは理性を破壊する。それに手を出さないことはライオットの数少ない長所のひとつだと思っていたのに、この有様では話にならない。
 ルーィエの容赦ない論評に、レイリアはとりなすように応えた。
「あれは儀式だったんですよ、ルーィエさん。ライオットさんは村の皆さんのために、その儀式に参加したんです」
「儀式? あの理性ゼロの乱痴気騒ぎが?」
 理解しがたいと言わんばかりに猫王の声がはね上がる。
「妖魔との戦いでは何人もの方が亡くなって、もっと大勢の方が怪我をしました。男性も女性も子供たちも、皆が村を守るために様々なものを犠牲にしてきました」
 レイリアは食卓に果汁のコップを配りながら、言葉を続けた。
「けれど、そんな戦いの日々も終わって、これからはいつも通りの日常が始まります。こんなふうにゆっくり食事ができる、何でもない毎日が。戦いで張りつめたものをほぐして、疲れた心の弦を張り替えるには、あの大騒ぎが必要だったのだと思いますよ」
 昨夜の大宴会で、大量の酒が村中の緊迫感を強制切断してしまった。今日一日は宴の後に特有の、ちょっと空虚な寂しさが漂うだろう。犠牲者たちの弔いもしなければならない。
 だが、明日からは掛け値なしにいつもどおりの日常が始まる。鍛冶屋は鎌を打ち、木こりは薪を割り、猟師は鹿を狩って生きていくのだ。
 そんな変化のきっかけとなる出来事が、村には必要だった。シンとライオットは、変化の象徴としてその儀式に参加したということか。
「ふん」
 愚かな行為だとは思うが、理解できないことはない。
 レイリアの言葉に納得すると、ルーィエはつまらなそうに鼻を鳴らして、再びミルクの皿へと戻っていった。
 もの言いたげな顔で聞いていたルージュは、結局口を挟まず、無言でデザートの皿に手を伸ばす。
 今のザクソンに必要な儀式は、酒宴だけではないだろう。
 昔から、戦いで荒ぶった男たちの狂燥を鎮めるのは女の役目、と相場が決まっている。日本にいた頃のライオットも、荒れた現場から帰ってくる度にルージュを求めたものだ。いわゆる“賢者タイム”というものが、心を落ち着かせるのに一役買うのかもしれない。
「ま、そういう話はまだちょっと早いかな」
 口の中でつぶやいて、ちらりとレイリアを見る。
 そう、今はまだ早い。
 だが1ヶ月後は? 半年後は?
 ふたりがいつまでもプラトニックな関係で満足するとは、ルージュにはとても思えなかった。
 シンとレイリアがどのような未来を選択するのか、それはルージュにとっても他人事ではない。身も心も結ばれた相手を残して、シンは日本に帰ることを承知するだろうか?
 そしてライオットは、シンを残して日本に帰れるだろうか?
 紫水晶の瞳に珍しく暗い光を浮かべて、自分の未来を握る少女を見つめる。
 甲斐甲斐しく朝食(?)の準備をするレイリアは、その視線に反応して小首を傾げた。
「何か?」
「ん、何でもない」
 ルージュは複雑きわまる内心を芸のない一言でごまかし、ぱたぱたと手を振って表情を一変させた。
「ところでリーダーは?」
「私が行ったときには、まだ寝ていました。寝顔がとても可愛かったので近寄って眺めていたら、すぐ目を覚ましちゃったんですけど」
「それは残念だったね」
「まったくです」
 ルージュは器用な手つきでオレンジを剥き、一粒口に入れる。酸味と甘味が絶妙にブレンドされた瑞々しい味。
 階段の方から弱々しい声が聞こえてきたのは、その時だった。
「まったくです、じゃない。未婚の女性が軽々しく男の部屋に入るのはどうかと思うぞ」
 まだ頭が痛むらしく、額に手を当てながら、おぼつかない足取りでシンが姿を見せた。調子に乗って村の猛者たちを相手に呑み比べをした報いだ。
 それでも自力で動けるあたり、さすがは黒獅子といったところか。早々にダウンして復活できないライオットとは雲泥の差である。
「おはよう、リーダー。ご飯食べられる?」
「……果物だけもらおうかな。あと水を頼む」
「はい。すぐにもらってきます」
 席を立ったレイリアが軽やかな足取りで厨房に消えると、ルージュは意味ありげな目つきでシンを眺めた。
「刺激的な目覚めだった?」
「そりゃな。目が覚めたら、目の前に彼女の顔があった。驚いたのなんのって」
 椅子を乱暴に引くと崩れるように腰を下ろし、顔を覆って深々と深呼吸する。
 シンから猛烈に酒臭い息が漂ってきて、ルージュは思わず苦笑をもらした。
「その調子じゃ、色っぽいことにはならなかったみたいだね」
「今は無理。もうちょっと復活してから頼む」
 完全に二日酔いの黒獅子は、見栄を張る余力もないらしい。
「ライオットは?」
「ダメみたい」
「だろうな」
 シンはそれだけ言うと、力なくテーブルに突っ伏してしまった。
 戻ってきたレイリアが水のコップを差し出しても、顔を上げる元気は無いようだ。
「何でしたら《キュア・ポイズン》でも掛けましょうか? すっきりしますよ?」
 レイリアが気遣わしげに顔をのぞき込む。
「俺は少し休めばよくなるから。解毒の魔法はむしろライオットの方に」
「だめ。調子に乗ってお酒飲むようになったら困るし」
 レイリアが提案した酔い覚ましの裏技は、ルージュが冷たく却下した。
 幸い、今日はこれといって予定もない。飲めない酒に手を出すとどうなるか、しばらく反省させるのが本人のためだ。
「それじゃ、これからの相談は後回しだな。俺も頭が半分くらいしか回ってない」
 テーブルに突っ伏したまま、シンが呻くように言う。
 異議は誰からも出なかった。二日酔いで男どもが全滅しているようでは、村側とも有効な話し合いはできないだろう。
「では朝食が済んだら、シノンさんの手伝いに行ってきてもいいですか? 戦いは終わりましたが、村には大勢の怪我人がいるんです」
 レイリアは昨夜の宴席で、村の薬草師シノンと長い間話し込んでいた。年齢が近いこともあるが、癒し手として戦いの裏側を支え続けたシノンに共感することが多かったのだろう。
「私は構わないと思うけど。どうするリーダー?」
 ルージュがオレンジジュースに口をつけながら、テーブルに突っ伏したままのシンに水を向ける。
「分かった。くれぐれも気をつけて。妖魔がどこに出るか分からないから、武装は解かないこと。森に入るときは俺かライオットを呼びに来てくれ」
 働かない頭で必死に指示を絞り出すシンに、レイリアが思わず苦笑を浮かべた。
「はい。気をつけます」
 怪我人よりむしろ、シンやライオットの看病が必要なのではないか。そんな気もしたが、とりあえずは素直に指示を受け入れる。
 それきり会話は途切れ、視線を交わし合った女性陣は、無言で食事を始めた。
 夏の昼下がり。
 開け放した窓から吹き抜ける風が、黒と銀の前髪を涼しげにかすめていく。
 けだるさの残る昼下がり。
 外から聞こえてくる蝉の声が薄暗い店内に染み込み、銀器と皿がふれ合う音がことさらに大きく聞こえた。
 冒険者たちの休息、ってとこかな。
 無言でサラダをつつきながら、内心そんなことを考える。
 王都ミッションに出て以来、休みなしにずっと働き詰めだったのだ。ライオットやシンも、たまには身体を休める時間が必要だろう。
 それに、どうせ村の首脳陣も二日酔い。ロードを失ったゴブリンたちがまとまるには時間がかかるし、もう2~3日は平和に過ごせるはずだ。
 ルージュは楽観的な予測を立てながらライ麦のパンに手を伸ばす。
 窓の外では夏の皓い日差しを浴びて、森が深緑に輝いていた。



マスターシーン 恵みの森

「姉さん、いったいどうしたのさ? 今日はちょっと変だよ?」
 姉に続いて森の下生えをかき分けながら、エトは何度目かの問いを投げかけた。
 危ないことをしてはいけない、自分を大切にしなさいと口を酸っぱくしていたシノンが、まだ安全も確認できない森に踏み入るなど正直信じられない。
「冒険者さんたちも言ってただろ。まだ10匹くらいの妖魔が逃げてるから、しばらくはひとりで森に入っちゃいけないって」
 手にした小剣で乱暴に茂みを切り払うと、シノンは少しだけ苛立ったように弟を振り向いた。
「私には薬草が必要なの。だから取りに来た。それだけよ」
「それは構わないけどさ。ザムジーとかライオットに一緒に来てもらえば良かったじゃないか。姉さんが頼めばみんな喜んで付いてくると思うけど」
「頼んだわよ。そしたら今日は二日酔いで動けないから、明日にしてくれって。まったく、肝心なときに頼りにならないんだから」
 それだけ言うと、再び前を向いて進み始めるシノン。
 いつになくツンとした口調の姉に、エトは首をかしげた。
 普段はにこにこと笑い、誰かの悪口を言うことなど決してなかったシノン。それが村のために戦った勇者を役立たず呼ばわりとは、まったくもって姉らしくない。
「……ほんとに、いったいどうしたのさ?」
 聞かれれば余計に機嫌が悪くなると察して、エトは口の中でつぶやいた。
 姉の様子がおかしくなったのは、昨夜の酒宴から帰ってきてからだ。
 シノンはずいぶん長いこと、黒髪の女性司祭と話をしていた。年も同じくらいだし、傍から見れば仲良さそうにしていたが、喧嘩でもしたのだろうか。
「姉さん、あの司祭様に何か言われたの?」
 何気ない一言。
 だが、その言葉が姉の急所を貫いたことを、エトはすぐに悟った。
 姉の体が電撃を浴びたかのように震え、足が止まる。
 シノンはしばらく立ち尽くしていたが、何度か深呼吸を繰り返すと、やがて弟を見下ろした。
「あなたに隠し事はできないわね」
 諦め半分、感心半分の複雑な表情。
 それがいつもどおりの姉の顔であることを見て取って、エトはようやく肩の力を抜いた。
「で? 何て言われたの?」
「シノンさんの手に負えない重傷の方がいたら、私が治療を手伝いますって言われたわ」
 シノンが自嘲としか形容しようのない笑みを浮かべる。
「ねえエト、あなたレイリア様のことどう思う?」
 漠然とした問いに困惑して、エトは姉を見返した。
「どうって言われても……すごい人だよね」
「そうね。あとは?」
「う~ん、きれいな人だってみんなが言ってたよ」
「そうね」
 無言で説明を求める弟の前で、シノンは指折り数えてレイリアのことを評した。
「村の誰よりも美人で、ライオットより強い剣の使い手で、私には手の施しようのない重傷の患者でも魔法ひとつで癒してしまう。おまけに最高司祭ニース様の御令嬢で、ご自身もターバ神殿の高司祭でいらっしゃる」
 どれかひとつでも誇るべきことなのに、それを全部身につけている黒髪の司祭。
 剣や魔法の技量はレイリア自身の研鑽によるものだから、結果だけを見て羨むのは小人の嫉妬と言うべきだ。
 それは十分に分かっている。
 しかし。
「レイリア様を見てると思うのよ。神様って、こんな田舎の寒村には何もくれないけど、一握りの英雄には何でもあげるんだなぁって」
 ザクソンは貧しいなりに、皆で力を合わせて頑張ってきた。
 妖魔の襲撃には一致団結して戦ったし、シノンは負傷者を懸命に治療してきた。
 それがどうだ。村の男たちが死力を尽くし、大勢の犠牲者を出してようやく追い返した妖魔の大群を、冒険者たちはほんの半日で片づけてしまったという。
 シノンが何日も寝ずに看病してきた重傷の患者でも、レイリアが一言聖句を唱えれば、次の瞬間には完治するだろう。
 自分たちだどんなに頑張っても、到底彼女たちには及ばない。
 すると否応なしに考えてしまうのだ。自分たちが頑張る意味とはいったい何なのか、と。
「そんな! 姉さんも村のみんなも頑張ったじゃないか! それはみんな知ってるよ!」
 エトやパーンにとって、今回の冒険者は村の救世主だが、今の自分と比べる対象ではない。
 彼らは大人。自分たちは子供。何年か過ぎて自分たちが大人になったとき、彼らのようになりたいとは思うが、今の自分たちが彼らに及ばないからと言って、そこに劣等感が生じることはない。
 だがシノンやザムジーやライオットは違うのだ。
 得意分野においては、自分が村で一番という自負がある。自分が村を背負ってきたという誇りもある。
「だからね、頑張っただけじゃ足りないの。あの人たちに負けたくないのよ。ザクソンの村人だって凄いんだって、あの人たちに認めさせたいの」
 今まで心の中で鬱屈としていたものを吐き出すと、シノンの表情がさっぱりと晴れやかになった。
 そうだ。認めよう。
 自分はレイリアに嫉妬している。
 自分より美しい容姿に。自分より貴い血統に。剣や魔法の圧倒的な技量に。
 悔しいが、シノンではレイリアに遠く及ばない。
 だが、だからこそ、怪我人や病人を治療するという点だけは絶対に負けたくないのだ。
 亡きパーンの母に学んだ薬草術の秘奥は、魔法の手助けなどなくても村人を救えるのだと、そう証明したいのだ。
「そのためなら、希少な薬草でも高価な材料でも、何でも使って治療するわ。だから足りない薬草を用意したかったの。レイリア様との約束の時間までに」
 何のことはない。大人の目を盗んで森に入ったエトやパーンと全く同じではないか。
 偉そうに説教しておいて、自分もまだまだ子供だったということ。シノンはいささか皮肉っぽく反省したが、エトは笑って頷いた。
「そうだったんだ。なら、妖魔が出る前に薬草を集めちゃおうよ」
 先日も活躍した背負い袋を担ぎ直して、エトは姉を促す。
 さあ早く、と歩きだした弟に、シノンはためらいがちに尋ねた。
「その、怒らないの?」
「どうしてさ? 姉さんは凄いんだってことを、レイリア様に分かってもらうためなんでしょ? 僕もできる限り協力するよ」
 それが不可能だとはこれっぽっちも考えていない。姉は十分に優れているのだと、全幅の信頼を寄せる笑顔。
 そんな弟を見た瞬間、シノンの肩からふっと力が抜けた。
 こんなにも自分は認められていたのだ。どうして忘れていたのだろう。
 エトやパーンは言うに及ばず、ザムジーやライオットや村の皆も、口を揃えてシノンのことを必要だと言ってくれる。それで十分ではないか。
 この上レイリアのような英雄に張り合って虚勢を張ったところで、シノンの実力が上がるわけではない。むしろ、自分を信じてくれる弟を無用の危険に晒しているだけではないか?
 ふとそう考えると、自分がとてつもなく愚かな真似をしていることに気が付いた。
 昨日の今日。まだ妖魔がうろついている森の中を、ろくな武器も持たずに、非力な女と子供だけでうろつくとは。復讐心に駆られた妖魔がいれば、襲って下さいと言わんばかりではないか。
「エト、ごめんなさい。やっぱり姉さんが間違ってたみたい。今日は村に帰りましょう」
「薬草はどうするのさ?」
 怪訝そうに問い返す弟に、ため息まじりに苦笑を返す。
「今回はレイリア様に魔法をお願いするわ。森から妖魔がいなくなったら、また改めて取りに来ましょう」
 自分の小さな自尊心を満足させるためだけに、これ以上エトを危険に晒したくなかった。
 弟の黒い瞳が、思慮深そうな光をたたえてシノンを見つめる。
 まだ10歳だが、エトはたぐいまれな洞察力を発揮する子だ。シノンの内心の揺らめきを、きっと正確に察したのだろう。
 そして、それを口に出さないだけの優しさも持った子供だった。
「分かった。じゃあ帰ろうか。あとでパーンと、冒険者さんたちのところに話を聞きに行こうって約束してるんだ。昼御飯を食べたら行ってきていい?」
「もちろんよ。その時はレイリア様によろしくね」
 姉弟は屈託のない笑顔を交わすと、もと来た道を引き返し始めた。
 来るときは鬱屈とした気分だったが、心の奥底でもやもやとしたものをすべて吐き出してしまい、今では足取りまで軽くなった気がする。
 それから10歩も進んだだろうか。
 手にした小剣で棘のある茂みを切り払い、ふと視線を上げたとき。
 シノンが最も見たくなかったものが、武器を手にしてふたりを待ちかまえていた。
 ゴブリン。
 昨日の生き残りだろう。目を血走らせた豚顔の妖魔が全部で3匹。手前の2匹は棍棒を構え、残りの1匹は後ろに下がって様子を見ている。後ろの1匹は、全身を鳥の羽根のようなもので派手に飾りたてていた。
 まるで他人事のようにそこまで観察してから、やっとシノンの頭に警報が鳴り響いた。
「ゴブリンよ! エト、逃げて!」
 慌てて手にした小剣を構え、威嚇するように大きく振り回す。
「姉さんも、早く!」
 エトが袖を引っ張ったが、シノンは弟を振り払った。
 自分はお世辞にも足が速いとは言えない。一緒に逃げては2人とも捕まってしまう。
「姉さん!」
「私は大丈夫だから! あなたは村に戻って、冒険者さんたちを呼んできて! 早く!」
 姉に厳しく命じられて、黒髪の少年が唇を噛む。
 そうだ。悔しいが、子供の自分には姉を助ける力がない。今その力を持っているのは、村にいる冒険者たちだけ。
 認めたくない事実だが、エトにはそれが分かってしまった。
 逡巡は一瞬だった。無駄にする時間はない。
「姉さん、すぐ連れてくるから! 絶対諦めないでよ!」
「当たり前でしょ!」
 ちらりと振り向いて笑顔を見せた姉。歯を噛みしめ、涙をこらえて、エトは全力で走り出した。
 心が悲鳴を上げ、全身が小刻みに震えたが、足を止めれば2人とも殺される。その明白すぎる未来を変えるためには、今ここで自分が走らなければならないのだ。
「ほら、あなたたちの相手はこっちよ!」
 姉が妖魔たちを挑発する声が聞こえた。
 これが最後の別れではないと信じて、エトは転がるように森を駆け抜けた。






[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン5
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:08
シーン5 恵みの森

「すぐに始めよう。現場班は俺、レイリア、エトで組む。ルージュとライオットは洞窟方面を頼む」
 森の中に忽然と姿を現すと、シンは即座に行動を始めた。
「了解。見つけたら念話で連絡するね」
「分かった。シノンが現場にいなければ、俺たちも洞窟に向かうから、そこで合流しよう」
 シンはルージュと手早く打ち合わせると、エトに案内させてすぐに緑の向こうへと消えていく。ぺこりと会釈を残してレイリアがその後を追うと、辺りには思い出したように静寂が戻ってきた。
 森を吹き抜ける涼やかな風。
 柔らかく揺れる木漏れ日。
 さえずりあう小鳥たちの声。
 こんな時でなければ居心地のよい場所なのだろう。だが生憎と、今のルージュには自然を楽んでいる余裕はなかった。
「ライくん、ルーィエ。何が何でもエトより先に見つけたいの。お願い、力を貸して」
 せっぱ詰まった様子のルージュに、ライオットは困ったように頭をかいた。
 レイリアの《キュア・ポイズン》で酒精は強制除去されたが、暴飲暴食と不完全な睡眠のせいで体調は最悪だ。状況説明もなしに連行されたため、森に来た理由すら把握していない。
 文字どおり着の身着のまま、平服に剣だけを携えた格好で、ライオットは口を開いた。
「まずは説明してくれ。いったい何があったんだ?」
「エトとシノンさんが森でゴブリンに襲われたの。シノンさんはエトを逃がすために、囮になって森に残ったって」
 ルージュが簡潔に説明する。
 事態をすぐに理解すると、ライオットの顔に渋面が浮かんだ。
 妖魔が逃げているから不用意に森に入るなと警告したはずだが、どうやら無駄に終わったらしい。シノンという娘には機転の利きそうな印象を持っていたのだが。
 危機意識の欠如が招いた事態。物事の表面だけを見れば、自業自得と言えなくもない。
 だが、しかし。
 妖魔征伐の依頼を受けながら、10匹ものゴブリンを取り逃がしたのはライオットの落ち度だ。無論ライオットにも言い分はあるが、とことん冷酷に振る舞えば、あの場でゴブリンを皆殺しにすることは可能だった。
 1匹でも逃がせば女子供には十分な脅威になる。知っていたのにそうしなかったのは、美学という名の怠慢だ。
「……俺の責任か」
 苦々しく舌打ちしながら認める。
「ライくん、そんなこと今はどうでもいいの。とにかくシノンさんを見つける方法を考えてよ」
 ライオットを叱咤するように、ルージュが前を向かせる。
「エトの話だと、襲われたのは30分くらい前。場所はここから少し村の方に降りたところだって。どうする?」
「どうって言われてもな」
 ライオットは腕組みをして考え込む。
 妖魔が人間の娘をどのように扱うか。昨日の憂さ晴らしに嬲り殺しにするか、奴隷として連行するか、あるいは食料にするということも考えられる。
 ゴブリンの生態など知らない以上、そんな予想もすべて憶測でしかない。いずれにせよ、襲撃が30分も前では全ては終わっているだろう。悲劇的な結末は避けられまい。
 そんなライオットの内心を見透かすと、ルージュはいつになく強い視線を夫に向けた。
「ねえライくん。シノンさんがどんな状況なのかは分からない。もしかしたら手遅れかもしれない。だけどね、どんな状況だろうと、絶対エトより先に見つけたいの。本人だってエトにだけは見られたくないはずだから」
 男には、こういう感覚が分からないのだろうか。
 自分の愛する人にだけは、ボロボロになった自分の姿を見せたくない。たとえ命がなかったとしても、せめて恥ずかしくない姿でエトのところに帰してやりたい。
 その真摯な想いを察してか、どこか煮えきらなかったライオットの態度と表情が引き締まった。
「分かった」
 自省と諦めをとりあえず脇に置き、考えるのは後回しにする。今すべきことはシノンの捜索。エトより先にシノンを見つけだすこと。
 そうすっぱり割り切ってしまうと、ライオットの雰囲気ががらりと変わる。
 ここは2日前、パーンとエトを助けた森の広場だ。村から歩いて30分ほどだったから、森全体で見れば辺縁に位置している。
「シノンの目的がエトを逃がすことだったら、村とは反対方向に逃げるだろう。その途中で捕まって格闘、ってのがありそうな流れだけど」
 そこでライオットが言葉を切った。
 エトがシンたちと一緒に行ってしまったので、襲われた正確な場所が分からない。これでは捜索の起点が設定できないのだ。
 シンは洞窟まで拉致された可能性が大きいと考えているようだから、先に洞窟内部を検索するというのもいいだろう。
 どうしたものかと顔を見合わせていると、やれやれと言いたげな声が足下から聞こえてきた。
「おい、ゴブリンに捕まった小娘ひとり探せないのか。その調子じゃ何もしないうちに日が暮れるぞ。無能にも程がある」
 いつもの調子で被保護者たちをこき下ろしながら、ルーィエは偉そうに胸を張った。
「え、なに? ルーィエは見つけられるの?」
 なにやら自信ありげな態度に、ルージュが驚いて見下ろす。
 銀毛の双尾猫は、ぴんと尻尾を伸ばしてルージュを見返した。
「当たり前だ。俺様を誰だと思っている? 天と地と精霊たちに祝福されし猫族の王だぞ? 俺様が直々に手本を見せてやるから、その情けない頭に焼き付けて参考にしろ」
 その言葉にふたりが期待に満ちた顔を向けると、ルーィエはまんざらでもなさそうに髭をふるわせ、目を閉じて森のささやきに耳を澄ませた。
 猫族の王は優秀な精霊使いでもある。森の精霊たちに妖魔の居場所を聞いているのだろう。
 枝葉の鳴る音や森を吹き抜ける風に耳を傾け、小さな声で言葉を交わすことしばし。ルーィエは紫水晶の瞳でふたりを見上げた。
「ここから北にすこし進んだ樫の大樹の下に、ニンゲンの女が横たわってるそうだ。お前たちが探している娘だろう」
「さすが陛下。それで、ゴブリンたちは?」
「いない。いるのは娘ひとりだ」
 まだ生きてるか、と聞きかけて、ライオットは口を閉ざした。不吉な言葉を紡ぐと、言霊が現実を招くのではないか。そんな怖れが湧き上がって。
 ルーィエは超然とした表情で人間たちを眺めている。内心の動揺などすっかりお見通しらしい。
 どの道、今の段階では選択肢などないのだ。一刻も早く急行して、まだ息があれば治療する。もし手遅れだったら……その時はその時だ。
「ここで考えていても仕方ない。行こう」
「そうだね。ルーィエ、お願い」
 魔法樹の杖を両手で抱いて、ルージュがうなずく。
 それ以上の言葉を交わすことなく、ライオットは猫王の後を追って歩きだした。
 今はプレートメイルやシールドを装備していないため、単純計算でいつもより30キロ近く体が軽い。ふわふわした肩は頼りなくて落ち着かないが、剣で道を斬り拓きながら山道を歩くには好都合かもしれない。
 先頭に立ったルーィエに続いて、茂みをかき分け、小川を跳び越えてひたすらに進む。
 銀毛の猫王の先導はザムジー以上に巧みだった。
 ルージュの足を気にしてか、ルーィエが選ぶのは落ち葉が柔らかく降り積もった道だ。起伏をうまく避けながら歩くこと10分。
 不意にルーィエが脚を止めた。
 ルージュが顔を上げると、そこには樹齢500年はありそうな樫の大樹が聳えている。
 その根本に見えたものに、ルージュは唇を噛みしめた。
 力なく横たわる、小さな人影。
 手足は不自然な方向に折れ曲がり、栗色の髪が泥まみれになって地面を這っている。
 何度も棍棒で殴られたのだろう。全身は青黒いアザと血にまみれ、白い肌などどこにも残っていなかった。
 残虐という言葉では表現しきれない、非道な暴力に晒されたことが一目瞭然だ。
 これが本当に、あのシノンなのか?
 愛嬌のある笑顔や榛色の瞳を求めて顔をのぞき込み、ルージュの表情がこわばった。
 骨は砕け、肉は裂け、腫れ上がった頭部は原型をとどめていない。顔から本人を識別するのはもはや不可能だ。
 若い女性が、こんなになるまで殴られるなんて。
 どんなに痛かったことだろう。
 どんなに怖かったことだろう。
 シノンの心境を想像するだけで、あまりの怒りに腹の底が冷たくなってくる。
 顔を上げて無惨きわまる光景を遮断すると、ルージュはライオットに視線を向けた。
「ライくん。私、ゴブリンが許せないよ」
 凍るような、だが灼熱の感情を秘めた声音。
 人は本気で怒ると、怒鳴ったり叫んだりはしないものらしい。抜き身の日本刀のような冷たさを漂わせて、ルージュは宣言する。
 自分では冷静なつもりだが、きっとこの状態を冷静とは呼ばないのだろう。頭の中で何かのスイッチが切り替わり、今はゴブリンを皆殺しにすることに何の躊躇も感じられない。
 ルージュの言葉を聞いたライオットは、小さく吐息を洩らした。
「そうだな」
 妖魔とは何で、邪悪とはどういうことか。
 今まで知識でしか知らなかったことを、目に見える現実として突きつけられて、ライオットの声も硬かった。
 ライオットが強者としてゴブリンの生殺与奪を裁定したように、ゴブリンたちも相対的強者として思うがままに振る舞った。
 その結果がこれ。
 弱肉強食の4文字ですべてが説明できる。
 だがこれは、肉食獣が生きるために獲物を狩るのとはわけが違う。ゴブリンたちはただ悲鳴と苦痛を楽しむためだけに、年若い少女を嬲り殺しにしたのだ。
 現代日本の常識とはおよそ相容れない。
 考えてみれば当然のことだ。罪刑法定主義が確立され、憲法で平和主義を謳うような法治国家の常識が、剣と魔法のファンタジー世界で通用するはずがない。
 それでもライオットは、現代日本の常識をこの世界にも期待していたらしい。そう簡単に人が殺されたりはしないという平和な日本の感覚が、このロードス島でも通用するのだと、心のどこかで決めつけていたのだ。
「俺は甘かったよ、ルージュ」
 ザクソン防衛の依頼を受けた以上、ライオットには村の安全を守る責任があった。
 だが自分には、村を守るという行為の意味が分かっていなかった。
 遅すぎる自覚。自分自身の甘さのツケを払わせた少女にひざまずくと、ライオットは懺悔をするように頭を垂れた。
「すまなかった。今さら言っても遅いけど、犠牲は君で最後にする。俺自身の良心に賭けて誓う」
 普段おちゃらけたライオットからは想像もできないような、重く沈んだ声を絞り出す。
「シノンさん、エトたちは私たちが必ず守るから。それだけは絶対に約束する」
 夫に並んでルージュも手を合わせ、瞳を閉じた。
 精一杯の哀悼を込めて祈りを捧げる。
 今はせめて、シノンの魂が迷わずに逝ってくれるように。
 すると、大人びた目でその様子を見ていたルーィエが、横から口を挟んだ。
「おい、半人前。俺様からも一言いいか」
 ふたりが無言でシノンの正面を空けると、ルーィエはシノンではなく、ライオットを見て言う。
「魔法はどうした?」
「…………は?」
 何を言われたのか理解できず、ライオットが間の抜けた顔で聞き返す。
 銀毛の猫王は、2本の尻尾で苛々と地面を打った。
「治癒の魔法だ。お前、この娘を助けに来たんじゃないのか? このまま放っておくと本当に死ぬぞ?」
 放っておくと、本当に死ぬ。
 唐突なその言葉が理性に染み込むには、いくらかの時間が必要だった。
 やがて理解に至ると、ルージュが跳びあがって夫の肩を叩く。
「ちょっとちょっと! まだ生きてるってことじゃない! ライくん早く!」
「分かってるって。とりあえず心の準備をだな。魔法はほら、集中しないと」
「あ~もう! 人の命がかかってるんだから早くしてよね!」
 アホかと言いたげなルーィエの前で、泡を食ったふたりが大騒ぎを始めた。
 いろいろと手順を飛ばした気もするが、ライオットの祈りはどうやらマイリーに通じたらしい。シノンに手をかざすと全身を暖かな光が包み、痣や傷が嘘のように消えていく。
 腫れ上がっていた頭部も愛らしい顔立ちを取り戻し、シノンは小さな呻きを上げて身じろぎした。
 まだ血や泥で汚れてはいるが、肌も赤みを取り戻している。
 どうやら間に合ったらしい。ライオットとルージュはほっと安堵の視線を交わした。
「これで一安心だな」
「まずはお風呂が必要だね。あと着替え。エトも呼んで安心させてあげないと」
 ルージュはシノンをそっと抱き起こすと、ライオットから没収した上着を肩に羽織らせた。
「シノンさん、シノンさん」
 優しく肩を揺する。
「ん……」
 耳元に呼びかけるルージュの声に反応して、薬草師の少女はうっすらと目を開けた。
「…………?」
 ルージュの顔を見て、シノンは惚けた表情を浮かべる。まだ現実を認識していないらしい。
「冒険者さん? どうしてここに?」
「もう大丈夫だよ。安心して」
「大丈夫? いったい何が……?」
 記憶を反芻するように遠くを見る。
 少しずつ思い出してきた。
「そうだ。私、薬草を採ろうとしてエトと森に……」
 靄のかかっていた理性が少しずつ晴れていくと、記憶も甦ってきた。
 順番に出来事をたどる。
 エトと森に来たこと。
 レイリアに嫉妬していたこと。
 想いを割り切って村に帰ろうとしたこと。
 そしてゴブリンに襲われたこと。
 醜悪な妖魔の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、シノンに恐怖と苦痛がフラッシュバックした。
 馬乗りになってくるゴブリンたち。
 容赦なく棍棒で殴られ、肩や腕の骨がおもちゃのように壊れていった。
 醜悪な顔と生臭い吐息。泣いても叫んでも許してくれない。
 恐怖。激痛。絶望。そんなものしか浮かばない悪夢に、シノンの心と体はそう長く耐えられなかった。
 抵抗する気力を無くしてぐったりと横たわると、ゴブリンたちは嘲いながら棍棒を振りかざし、シノンの顔面に振り下ろした。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 頭蓋の抱ける音がして、目が見えなくなった。
 側頭部を打たれると、音も聞こえなくなった。
 あまりの痛みに全身が熱い。だが、その感覚すらも徐々に薄くなっていく。ただ、どこかを殴られる度に体が揺れることだけは分かった。
 そして暗転。
「あ、あ……いやぁぁぁぁぁッ!」
 瞳孔がいっぱいに開かれ、口が悲鳴を紡ぎ出す。
 ルージュの腕から逃れようと、シノンは両腕両足を振り回して暴れ始めた。
「やめて! 放して! もう殴られるのはイヤ!」
「痛ッ」
 全力でルージュを振り解こうとするシノン。
 爪がルージュの頬を裂き、その拍子に手が弛むと、少女は魔術師を突き飛ばして腕の中から逃れた。
 2、3歩でよろめき、樫の根本に再び倒れると、自分の両肩を抱くようにしてうずくまる。
「お願い、もう許して……何でもするから殺さないで……」
 呻くような細い嗚咽。
 頬から流れる血にも気づかず、震える背中に手を差し伸べたまま、ルージュは立ち尽くした。
 この小さな少女の上に、どのような時間が流れたのか。あまりの痛ましさに、ルージュにはかける言葉もなかった。
「シノン、もう大丈夫だ。妖魔はどこにもいない」
 ライオットも努めて穏やかに声をかける。
 だが、足音にびくりと肩を揺らし、ライオットを振り向いたシノンは。
「いやっ! こっちに来ないで!」
 明らかにゴブリンの姿を重ねていた。
 現実を見る余裕などどこにもなく、ヒステリックに悲鳴を上げるばかり。顔は醜くひきつり、目には涙があふれ、全身はガタガタと震えている。
 この1時間の体験で、心が限界を超えてしまったのだ。
 ひったくりや暴力犯罪の被害者によく見られる症状。典型的なPTSDだ。
「……悪かった」
 シノンの歪んだ目を見たライオットは、壮絶な表情で奥歯を噛みしめ、足を止めた。
 シノンをこんな目に遭わせたゴブリンどもに、そしてその原因を作った張本人である自分自身に、憤怒以外の感情が湧いてこなかった。
 かなうことなら罵声を上げ、あたり構わず暴れまわりたい。だが、それではシノンを怯えさせるばかりだ。
 沸騰した苛立ちに胸を焼かれながら、ライオットが何もできずに歯ぎしりしていると。
『眠りを司る砂の小人よ、娘の瞳に砂をまけ。安らかな眠りにいざなうために』
 銀毛の猫王が、謡うような旋律で精霊に呼びかけた。
 精神を司る精霊たちは、双尾猫のもっとも近しい盟友だ。ルーィエの呼びかけはすぐに効果を現した。
 恐慌状態になっていたシノンは再び意識を失い、そのまま大地に崩れ落ちる。
 眠りの小人がもたらす眠りは永遠だ。誰かに魔法を解除されるまで、飢えも渇きも知らずに眠り続けることになる。
「おい、半人前ども」
 シノンの意識を安息の庭園へと送り出すと、ルーィエは呆れ果てた様子で首を振った。
「お前たちには想像力ってものが欠落してる。ここまで痛めつけられた娘が、にこにこ笑って礼を言うとでも思ったか?」
 痛烈な指摘に、ふたりは返す言葉もない。
 悄然と立ち尽くす不肖の弟子たち。
 それを一瞥すると、ルーィエはふんと鼻を鳴らした。
「お前たちが何を言おうが、この娘には薄っぺらい台詞じゃ何も届かないぞ。この娘を残酷な現実に引きずり戻す前に、お前たちには為すべきことがあるだろうが。少しは無い知恵を絞って行動してみせろ」
 言いたいことを言うと、手近な岩の上に登ってそっぽを向いてしまう。これ以上は説教も助言もしないという意思表示だ。
 それでようやく金縛りから解放されて、ふたりは素直に頭を下げた。
「そうだね。ありがとう、ルーィエ」
「陛下がいてくれて助かった。恩に着る」
 絶望と歓喜の間を行ったり来たりして、どうやら精神的に浮ついていたらしい。シノンとルーィエに冷水を浴びせられ、ようやく地に足をつけた気分だ。
 改めて顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑を浮かべる。自嘲としか形容できない表情だったが、ともかくも笑ったことで、体は動くようになった。
 とりあえずシノンをまっすぐに寝かせ、ライオットの上着を掛けると、ルージュは夫を見上げた。
「もうこうなったらさ、夢だったんじゃないかって思うくらい、徹底的に痕跡を消そうよ」
 血は洗い流す。
 破れた服は処分する。
 悲劇の現場になった森は視界に入れない。
「次に目を覚ますのは、自宅のベッドの上がいいと思う。エトとパーンにも一緒にいてもらって。あとおいしい料理も用意しよう」
 レイリアに、イメーラ夫人直伝のホワイトシチューを作ってもらうのもいいだろう。
 お腹いっぱい食べて、一晩ゆっくり眠れば、記憶は少しずつ過去へと流れていく。人はいつの時代もそうやって悲劇を乗り越えてきたのだ。
「分かった。とりあえず〈栄光のはじまり〉亭で風呂の準備がいるな。あっちに戻ればロートシルト男爵夫人の特級葡萄酒もあるし。使えるものは何でも使ってやる。もう出し惜しみは無しだ」
 そしてライオットは、懐から魔晶石の入った皮袋を取り出した。20点の最高級魔晶石を鷲掴みにして妻に握らせる。
「とりあえず《マインドスピーチ》でシンたちの居場所を確認して、《テレポート》で迎えに行こう。ターバまで往復すれば相当な消費だけど、それだけあれば足りるだろ?」
「ライくん、大赤字だね」
 遠慮なく魔晶石を受け取りながら、ルージュが小さく笑った。
 この魔晶石は1個4万ガメル。1個でも使えば、今回の依頼料の20倍だ。
「金で済むなら安いもんさ」
 事もなげに答えて、ライオットは肩をすくめた。
 自分のミスでシノンは死ぬところだったのだ。その事実に比べれば、魔晶石の重さなど無に等しい。
 視線を転じれば、どんな夢を見ているのか、シノンは平穏な表情で寝息をたてていた。
 ルーィエの言葉を借りれば、残酷な現実と向き合う前の、束の間の休息ということになる。
「ルージュ。俺は本気出すよ」
 自分自身の決意を固めるように、ライオットは低くつぶやいた。
 それはつまり、自分より圧倒的に弱い相手を、背を見せて逃げる相手を皆殺しにするということ。
 もちろん、シノンを襲った実行犯なら、この世から追放することに何ら躊躇はない。
 だが今回は、相手がまた同じ事をする「かもしれない」という理由で、ゴブリンを「群れごと」根絶やしにすることになる。
 ベトナムで枯葉剤を撒き、ゲリラ掃討と称して村を襲ったアメリカ軍と全く同じ戦術行動。
 人はこれを戦闘とは言わない。虐殺と呼ぶべきものだ。
 だが、こんな悲劇を繰り返さないために必要なら。ゴブリンと人間が共に天を戴けない関係なら。
 ライオットは、その汚れた血で手を染める覚悟を決めた。
 はたしてこの決意は、勇気と呼べる代物なのか。
 マイリーが聞いたら何と答えるだろう。
 少女の穏やかな寝顔を見下ろしながら、心の中で皮肉っぽく考えた瞬間。


    『見極めよ。勇気とは何か。戦いとは何か』


 魂を張り飛ばされるような衝撃と共に、重く低い声が脳裏に響いた。
 ライオットの意識を圧倒的な重圧が飲み込み、奇跡の泉に直結した精神の回路に、ただ強烈な意思が伝達されてくる。
 穏やかな森の中にもかかわらず、自分が暴風に吹き飛ばされそうな恐怖感を覚えて、ライオットは身を硬くして天を仰いだ。
 戦神マイリーの神託。
 聞くのはこれが2度目だ。だが今回は、前回のような暖かさが全く存在しない。
 怒りもなく、優しさもなく、ただ無感情に観察する眼差しだけを感じて、自分が萎縮していくのを自覚する。


    『汝が倒すべきものは、守るべきものは何か』


 ルージュが怪訝そうな顔で見ているが、その相手をする余裕はなかった。
 崩れそうになる膝を支えるので精一杯。
 轟雷のような意思と津波のような存在感に圧倒されて、五感が正常に機能しない。あまりにも巨大なマイリーの意思に曝されて、精神が完全にオーバーフローしていた。


    『汝自身の言葉で答えを出すがよい』


 最後にその言葉を残して、顕現していたマイリーの意識は、潮が引くように拡散していく。
 重圧が薄れるに従って、世界に色と音と匂いが戻ってきた。森は青く、木々は精霊たちと楽を奏で、風は深緑に薫る。
 枝葉がざぁっと鳴って前髪を揺らすと、ライオットは降り注いだ陽光に目を細めた。
 ここはザクソンに実りをもたらす、豊かな恵みの森だ。思い出したようにそれを認識する。
 絶望、憤怒、自棄など、様々な感情で荒れ狂っていた自分の心を、マイリーは一瞬でリセットしてしまった。
 あらゆるものが取り払われ、奇妙な空白だけが残されている。感情は空っぽ。理性は混乱して、今は何も考えられない。
 だがこれだけは分かった。
「つまり、状況に流されてるだけじゃ駄目ってことだ」
 勇気とは何か。戦いとは何か。
 そして、自分は何のために何と戦うのか。
 心の根っこになる部分を、自分自身でしっかりと見極めなければ、ここから先には進めないらしい。
「ライくん、どうしたの?」
 心配そうにのぞきこんでくる妻に、ため息と苦笑を返す。
「俺に足りないものを教えてもらった。依頼を受けたからゴブリンと戦う。それだけじゃ全然話にならないんだ」
 意味が分からず首を傾げるルージュをよそに、ライオットはシノンの体を抱き上げた。
 血と泥で汚れた少女。課された宿題はとりあえず置き、今はシノンを家に帰すことだけを考えよう。
 そして少女に暖かい食事と寝床を用意したら、頼りになる親友に相談してみよう。
 そう決めて、眩しい太陽を見上げる。
 出口が見えた。ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。





[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン6
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:09
シーン6 ザクソンの村

 厨房から流れてくる特製シチューの匂いが、寝室を暖かく包んでいた。
 開け放した窓辺から涼やかな風が吹き込み、レースのカーテンがふわりと波打つ。
 水鳥の羽根で作った布団はふかふかで、清潔なシーツも肌触り抜群だ。
 部屋を柔らかく照らすオレンジ色のランプでは、アランの都で買ってきた最高級の花油が燃えている。
 壁や床はパーンとエトが半日がかりで磨きあげ、積年の汚れをすっかり落としていた。
 居心地のよい部屋とは何か?
 シン、ライオット、ルージュ、レイリアの4人にパーンとエトも加えて、全員で相談した成果がここに凝縮されている。
 今回の依頼は最初から収支決算など度外視だ。フィルマー村長が聞けば卒倒しそうな額の金貨銀貨をばらまき、ライオットに言わせれば「金で買えるものは全部買って」シノンを迎える準備を整えた。
 清潔な寝台に横になっているシノンには、もう惨劇の痕跡は残っていない。森から直接ターバまで跳び、ルージュとレイリアの2人がかりで風呂に入れてきた。
 長い髪を乾かすのは骨が折れたが、うっすらと色づいた美しい肌艶を見れば、その甲斐は十分にあったと言えるだろう。
「もうやり残したことはないよな?」
 穏やかな寝顔を横目に、ライオットは寝室をぐるりと見渡した。
 もうすっかり日も沈み、窓の外には闇の帳が降りている。
 できることは全てやった。あとは静かに目を覚ましてもらうだけだ。
「本当にありがとうございます。こんなことまでしてもらって」
 10歳の子供には似つかわしくない、大人びた物言いでエトが頭を下げる。
 枕元でシノンの寝顔を見ていたパーンも、あわててエトに倣った。
「あんたたちは命の恩人だ。オレにできることがあれば何でもするから、いつでも言いつけてくれよ」
 乱暴だが裏表のない言葉に、思わずルージュの頬がほころんだ。
 原作戦記では、最初から最後まで直球勝負を繰り返した主人公パーン。どんな相手にも本音でぶつかっていくその姿勢は、これからのシノンにとって大きな支えになるだろう。
「気にしなくていい。俺たちがやりたくてやったことだ」
 シンは事も無げに言うと、エトの頭にぽんと手を置いた。
「エトも。さっきパーンと依頼料の相談をしてただろう。先に言っておくけど、俺たちはフィルマー村長から報酬をもらってある。これ以上は銀貨1枚だって受け取らないからな」
「けど、さすがにそれじゃ……」
 少年たちは困った顔を見合わせる。
 冒険者たちがどれだけ本気で取り組んだかを見ていたエトには、何も礼をしないという選択肢はないようだ。
 だが受け取らないと宣言した以上、シンは絶対に金品を受け取らないだろう。
 このままでは水掛け論になると見て、ライオットが苦笑しながら口を挟んだ。
「エト。パーン。世の中っていうのはそうやって巡り巡ってるんだ。今日のことを恩だと思うなら、返す相手は俺たちじゃない。お前たちが大きくなって、今より強くなったら、そのとき困っている人たちを助けてやれ。それこそが今日の恩返しになる」
 先輩から受けた恩は後輩に返す。
 警察学校を卒業して現場に出たライオットが、指導役の巡査長から最初に教えられた警察の伝統だ。
「金なんて使ったらそれまでだ。けど、気持ちは伝え続ける限り全員に残るんだぞ。どっちが価値のあるものか、お前たちには分かるだろう?」
 ライオットの言葉は完全に先輩の受け売り。オリジナルの要素などどこにもない。
 だが、その言葉には世界を超えて通用する何かが宿っていたらしい。
 エトとパーンは反論を封じられて黙り込み、ルージュがちょっと感心した顔で夫を見つめる。
「ライくんってさ、たまにすごくいいこと言うよね」
「まあな。隠してもにじみ出る品格ってやつさ」
「ちょっとは謙遜ってものを覚えると、もっといいんだけど」
 得意げに胸を張るライオットにルージュがため息を返すと、狭い寝室に笑い声がはじけた。
 どことなく重かった空気が嘘のようにかき消え、パーンやエトにも笑顔が戻る。
 わずかに軋む音をたてて寝室のドアが開いたのは、その時だった。
 食欲を刺激するシチューの匂いとともに、厨房に立っていたレイリアが顔をのぞかせる。
 ポニーテールに腕まくりしたエプロン姿。ライオットが採点すれば満点をもらえそうな格好で、レイリアはシンに顔を向けた。
「食事の準備ができましたよ。こちらの様子はどうですか?」
 開いたドアの向こう、小さな家の中央にあるリビングには、人数分の食器や花を飾ったグラスが準備万端整えられている。
 食事に供されるワインはラフィット・ロートシルトの502年。宮廷の品評会で特等を取り、酒を飲めないルージュをして「すごく美味しい」と言わしめた至高の逸品だ。
「こっちも準備完了だ。腹も減ったことだし、そろそろ起こそうか。パーンとエトはベッドの横に。レイリアも付き添ってくれないか?」
 シンが作戦開始を宣言すると、ルージュは魔法樹の杖を手に取った。
 できることは全てやった。それは自信を持って断言できる。
 次はシノン自身が戦う番だ。
「じゃ、解呪するよ?」
 ルージュはそう言って全員を見渡した。
 パーンとエトが左右からシノンの手を握る。
 レイリアはその傍らに控え、いつでも《サニティ》を唱えられるように待機している。
 ライオットは壁際に下がり、平然とした表情の下に緊張を隠しているようだ。
 ルーィエは……戻ってこないから、食堂で夕食の味見でもしているのだろう。
「頼む」
 シンがうなずくと、ルージュは呪文の詠唱を開始した。
 大きく杖を振って精神を集中させ、世界に新しい設計図を重ねる。
 イメージするのは光の水だ。シノンを縛る眠りの鎖に光を染み込ませ、内側から鎖を溶かすように。
 呪文の詠唱に応じてマナが寄り集まり、繊維に色が乗るようにシノンを包んでいく。
 そして魔法の完成。
 ルーィエの強力な《スリープ》を、ルージュの《ディスペル・マジック》は易々と打ち破った。もしここに精霊使いがいれば、眠りをもたらす精神の精霊が束縛から解き放たれ、存在を弱めたのを見ただろう。
「ん……」
 それまで穏やかに寝息をたてていたシノンが、軽く身じろぎして小さな声を漏らした。
「姉さん」
「シノン」
 パーンとエトが交互に呼びかける。
 手を強く握られて、シノンは細く長い吐息とともに、ゆっくりと目を開けた。
 半分夢の中にいるような瞳が天井をさまよう。
「ここは……どうして私、家に……?」
「冒険者さんたちが運んでくれたんだよ」
 耳元でエトがささやく。
 いぶかしげな表情でシノンが首を巡らすと、ふたりの少年は笑顔を作った。
「お帰り、シノン。無事でよかった」
「姉さん、遅くなってごめん。でも間に合ったよ」
 シノンの瞳が焦点をずらし、過去を見つめる。
 あのときと同じ。記憶をたどって反芻しているのだ。
 緊張に表情を強ばらせるライオットの前で、永劫とも思える数瞬がすぎる。
 やがてシノンは、寝台で上体を起こすと、細い腕を回して少年たちの頭を抱き寄せた。
「ただいま、パーン、エト。きっと心配させちゃったでしょうね。ごめんなさい」
 その優しい声音に、胸に顔を押しつけるようにしてエトが嗚咽を始める。
 シノンは彼らを強く抱いたまま、今度はしっかりした意志のある目を上げた。
 黒髪の女性司祭、銀髪の魔術師、そしてふたりの戦士。村を救った冒険者たちを順番に見て、頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございました。それと、すみませんでした。私、森に入るなっていう忠告を無視してしまって」
 少年たちに回された腕が小さく震えている。
 それをごまかすようにぎゅっと力を入れて、シノンはことさらに穏やかな声を装った。
 冒険者たちに見透かされるのは構わない。だが、エトやパーンの前で取り乱すのだけは避けたかった。
「それにさっきも。森で助けてもらったとき、私ひどいこと言いましたよね?」
「そんなことないよ。ただ少し混乱してただけでしょ」
 にこりと笑うルージュの頬に、昼間の傷は残っていない。
 その言葉に納得したわけではないだろうが、心遣いは正しく伝わったらしい。シノンはそれ以上の謝罪を繰り返さず、顔を巡らせてエプロン姿のレイリアを見上げた。
「とてもいい匂いがします。これはレイリア様が?」
「はい。勝手とは思いましたが、厨房をお借りしました」
 ごめんなさい、と生真面目に頭を下げると、黒髪が絹糸のようにさらりと流れる。
 少しだけ羨ましそうにその髪を見つめてから、シノンは悪戯っぽく微笑んだ。
「起きるなりこんなこと言うのも恥ずかしいんですけど、私、お腹ぺこぺこです。私の分もありますか?」
「もちろん。もう準備もできています。みんなで一緒に頂きましょう」
 レイリアが嬉しそうにうなずく。
 傷はすっかり癒えているから、食事をするのに不都合はない。シノンは少年たちの頭を軽く撫でて離れるように促すと、掛け布を捲ろうとして、今さらのように目を丸くした。
「このお布団も冒険者さんたちが? 軽くてふかふかで、まるで雲でも入ってるみたい」
「残念。中に入ってるのは雲じゃなく、水鳥の羽根だってさ」
 ルージュがさらりと答える。
 レイリアが料理をしている間にアランの都まで跳び、貴族御用達の店で買ってきた品のひとつだ。軽さも保温性も抜群。ザクソンの厳しい冬には、シノンたち3人をしっかりと暖めてくれることだろう。
「これ、きっと高いんですよね?」
「お金のことは気にしないで。今回は全部ライくんが出したから、誰の懐も痛んでないの。それより」
 ルージュは紫水晶の視線を男どもに投げかけると、しっしっと手を振った。
「これからレディの着替えだよ。少しは気を使ってさっさと出る」
 ふと気づけば、着ているのは薄い夜着1枚だけだ。シノンが頬を染めて胸元をかき合わせると、シンも戸惑ったように視線を背けて咳払いした。
「そうだな。ライオット、とりあえず食堂で待とう」
「了解」
 あとは任せた、と目で妻に告げると、ライオットは身を翻して寝室を後にした。シンとパーン、エトがそれに続く。
 できるだけ音をたてないように扉を閉めると、そこでようやくライオットの肩から力が抜けた。思わず安堵のため息が洩れる。
「ある意味、敵と戦うより緊張した」
 目に見えて脱力した様子の親友に、シンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたんだ? なんか今回はちょっと変だぞ?」
「そりゃ変にもなるさ。あのシノンを見たらな」
 苦々しい顔でライオットがうなずく。
「けど結局は無事だったんだから、それでいいじゃないか」
「それは結果論だ。俺の不手際が原因だったんだから、そこまで割り切っては考えられないよ」
「いや、そもそも俺が言いたいのは……」
 そこまで言ったとき、シンは不安そうに見守る少年たちに気付いた。
 今この状況で口論しても、得るものはない。続きはまた後にしよう。そう思い直して言葉を切る。
 テーブルには、酒場でジェット爺さんに焼いてもらったパン、イメーラ夫人直伝の特製シチュー、ザムジーがくれた雉肉の香草焼き、それに色とりどりの野菜が盛られたサラダや男爵夫人のワインなどが所狭しと並んでいる。
 決して華美ではないが、大勢の人の好意に支えられ、レイリアが腕を振るった暖かい食卓だ。きっとシノンの心の傷も癒してくれることだろう。
「ま、いいか。続きはまた今度にしよう。まずは食事だ」
 そしてシンは、パーンとエトを手招きして自慢するように笑った。
「旨いんだぜ、このシチュー。レイリアが作るって聞いてから、ずっと楽しみにしてたんだ」
 それは誤魔化しでも何でもない、シンの本心。
 食欲をそそる香ばしい匂いに、パーンの腹が鳴って空腹を主張した。今日は皆、昼食もとらずに働きづめだったのだから無理もない。
「まあ、おいしそう!」
 寝室から出てきたシノンも、テーブルを眺めて目を細める。
 皆が先を争うように席につくと、忙しく視線が交錯した。誰が「いただきます」の挨拶をするか、無言だが熾烈な押しつけ合いが展開される。
 勝負はすぐにつき、全員がレイリアに注目すると、レイリアは苦笑して姿勢を正した。
「それでは僭越ですが。日々の糧を恵んでくださるマーファの恩寵と光の神々の慈悲に感謝して。いただきます」
「いただきます」
 全員が唱和すると、とたんに活気が部屋にあふれた。
 シンとパーンは忙しくスプーンを動かし、見ている方が気持ちよくなるような食べっぷりを披露する。ライオットは努めて上品に振る舞っているつもりらしいが、口と皿を往復するスプーンは誰よりも速かった。
 他にもおっとりとマイペースに楽しむ者、一口ごとに首をひねって味付けを推測する者など、食べ方にはそれぞれの性格がよく現れている。
 そんな中、レイリアはひとり手を膝に置いたまま、食事の風景を見守っていた。シンが無言で問いかけると、心から嬉しそうに微笑み返す。
「母の言ったとおりだなと思って見ていたんです」
「イメーラ夫人の?」
 シンが首を傾げる。
「はい。おいしいお料理は食べる人を幸せにしてくれます。そして食べた人が喜んでくれれば、作った人はその何倍も幸せになれるんだそうです」
 皆が目を輝かせて舌鼓を打っている情景。
 自分がそれを提供したのだと思うと、イメーラ夫人の言ったとおり、見ているだけでレイリアの心を暖かくしてくれる。
「それはどうだろうな?」
 忙しくスプーンを往復させながら、ライオットがここぞとばかりに口を挟んだ。
「シン、お前はどう思う? 俺たちとレイリア、どっちが幸せかね?」
 シンはほんの一時だけ手を休めると、なにを分かりきったことを、と肩をすくめた。
「そんなの俺に決まってる。悪いけどレイリア、世界中探したって今の俺より満ち足りてる人間はいないぞ? 君の顔を見ながら最高の手料理を食べられるんだから、これ以上の贅沢なんて考えられない」
 照れもせず大まじめに答えるシン。
「そんな……大げさですよ」
「大げさなもんか。俺がお世辞を言ってるように見えるのか?」
「そういう訳じゃありませんけど、私だって負けないくらい幸せですから」
 レイリアは少しだけ照れながらも、堂々と主張する。
 その言葉どおり、幸せがこぼれおちるような笑顔は破壊力抜群だ。色気より食い気だったはずのシンが、完全に魅入って食事の手を止めてしまう。
 ふたりが言葉をなくして見つめ合うと、背景にバラが咲き乱れた。
 パーンやエトにはまだ少し早いだろうが、シノンにはふたりの関係がはっきりと把握できたらしい。英雄と女性司祭、絵に描いたようなふたりの姿に、羨望の眼差しを向けていた。
「いいねぇ。これが青春ってやつだ」
 計算どおりの結果にライオットは小さく笑い、意味ありげに妻を一瞥する。それを目敏く察知すると、ルージュは肩をすくめて夫に返した。
「はいはい、すいませんね。料理が得意じゃなくて」
「とんでもない。俺は幸せだよ。君みたいな妻を迎えられてさ」
「うっわ、白々しいにも程があるよね。ぜんぜん誠意が感じられないんだけど」
「白々しいもんか。俺がお世辞を言ってるように見えるのか?」
「むしろ皮肉にしか聞こえません」
 ルージュが不満そうに頬を膨らませると、テーブルに笑い声が弾けた。
 言いたいことを遠慮なく言い合い、それでも揺るがないライオットとルージュの絆。表面上の言葉とは裏腹に、相手への深い信頼を感じるから、彼らの応酬は簡単に笑い飛ばせるのだ。
「おい、小娘」
 それまでテーブルの隅でおとなしくシチューを舐めていたルーィエが、ふと顔を上げてシノンを見た。
「羨ましいか、あいつらが」
 わいわいと騒ぎ続ける冒険者たちを横目に、シノンは美しい銀色の毛並みを見下ろす。
「そうですね。正直、レイリア様には嫉妬してしまいます」
 美貌、才能、地位、評価に加えて理想的な恋人まで。およそ女性として、彼女以上に恵まれている人間がいるだろうか?
 少しだけ暗い瞳をした少女に、ルーィエは鼻を鳴らした。
「じゃあ聞くけどな、お前はあいつの何が羨ましいんだ? 顔を取り替えたいのか? 魔法が使いたいのか? 神殿で偉くなりたいのか?」
 予想外の質問を投げかけられて、シノンはすぐには答えられなかった。
 顔を取り替えたい?
 いや、そんなことはない。親からもらった顔だし、村の皆も愛嬌があって可愛らしいと言ってくれる。自分の容姿に不満はない。
 魔法が使いたい?
 もちろん使えれば便利だとは思うが、シノンにとって魔法は絶対ではない。薬草術の限りを尽くせば、大勢の人を助けられると信じて今まで頑張ってきたのだから。
 神殿で偉くなりたい?
 とんでもない。シノンはザクソンで唯一の薬草師だ。神殿に行ったら村人たちの手助けをできなくなってしまう。
 ひとつひとつ考えてみると、シノンがレイリア相手に嫉妬していた内容は、ひとつとして切実なものではなかった。あれば便利、という程度の認識でしかない。
 問題は、シノンがレイリアに勝っている点がひとつもないことなのだ。
「そうですね。レイリア様の何かが欲しい、という訳じゃありません。ただ、何か一つでもいい、レイリア様より私が優れていることを証明したかったんです。もしかなうなら、私の得意な薬草術の分野で」
 できれば見たくない、自分の醜い部分を可能な限り客観的に評価する。
 だが、シノンが苦労して絞り出した一言を、ルーィエは一笑に付してしまった。
「そんなもん、証明するまでもないね。ここに村人を全員連れてきて、ひとりひとりに聞いてみればいい。お前とレイリアと、村に独りだけ残せるとしたらどっちがいいかってな」
 紫水晶の瞳が強い輝きを発した。
 銀毛の尻尾をぴんと伸ばし、まっすぐにシノンを見る。
「そこでお前の名前が挙がる理由はな、お前が自分自身で築き上げてきた信頼だ。お前が森で行方不明になったと噂が広まったとたん、二日酔いの男どもが青い顔を並べて山狩りを始めようとしたんだぞ。思い止まらせるのに俺様がどれだけ苦労したと思っている? そのとき奴らが俺様に何て言ったと思う?」
 相手は猫で、自分よりずっと小さいのに。
 その時のルーィエは、まるで父親のように大きく見えた。
「シノンは村にとってかけがえのない人間だから、助けるためなら何でもする、どんな犠牲を払っても惜しくないと、そう言ったんだ」
 シノンをターバに連れていって世話をしている間、村人たちが暴発しないようにと留守番を命じられたルーィエ。
 その時の苦労を思い出したのか、荒々しい口調で説教を続ける。
「いいか小娘、これだけは覚えておけ。今のお前はな、もう替えのきかないたったひとりなんだ。しょうもない嫉妬で軽挙妄動する暇があったら、村人の信頼に応えられるように研鑽しろ。レイリアが来ようがニースが来ようが、村人が選ぶのはお前だけなんだぞ。そこんところを自覚して行動しろ」
 シノンの目にうっすらと浮かんだ涙を見れば、自分の言葉が相手に伝わったのは明らかだ。
 以上、と締めくくってルーィエは再び食事に戻る。
 まったく、半人前どもが甘やかすばかりだから、王たる者が苦労しなければならない。これも高貴な義務とはいえ、食事時に面倒なことだった。
「……ありがとうございます、ルーィエさん」
 涙声でシノンが頭を下げる。
 すると、それに気付いたルージュが弾劾の声を上げた。
「あ、ちょっとルーィエ。シノンさんを虐めたんじゃないでしょうね? 病み上がりなんだから大事にしないとダメだよ?」
「やかましい。半人前が偉そうに言うな。お前らの代わりに俺様が言ってやったんだろうが」
 被保護者を無視して食事を続けようとすると、ひょいと伸びた細い手が、ルーィエの首根っこをつまんだ。そのまま持ち上げられ、気付けば目の前にルージュの顔があった。
「あのね。精神がワイヤーロープでできてるルーィエと違って、女の子はとっても繊細なの。言葉ひとつで傷ついたりするんだよ。心の傷は魔法じゃ治らないんだから、ちゃんと気を遣ってよね」
 ルーィエが憮然として二の句を継げないでいると、シノンが横から取りなすように口を挟んだ。
「ルージュさん、違うんです。ルーィエさんは私のためを思って助言を」
「ありがとう、気を遣ってくれて。でもいいんだよ、言うべき時にはきちんと言うのが相手のためなんだから。ルーィエもちょっと反省しなきゃいけないの」
 まるで聞く耳を持っていない。
 ルーィエは助けを求めるようにテーブルを見渡したが、シンとレイリアは相変わらずピンク色の結界に立てこもったまま。ライオットは怖くてルージュに逆らえないため、見ないフリをしてパーンたちに雉の香草焼きを切り分けている。
 増援は期待できそうになかった。
「ちょっとルーィエ、聞いてるの?」
 四面楚歌。
 銀毛の双尾猫はあきらめて肩を落とすと、視線だけをシノンに向けた。
「いいか小娘。どんなに実力があっても、俺様みたいになったら哀れなもんだ。お前を助けようとする村人を大切にしろよ」
「……はい」
 目と目で分かり合ったふたりだが、すぐに銀の魔女によって引き裂かれてしまう。
 それからも冒険者たちの飾らない談笑は続き、砂漠の英雄と仲間たちの冒険譚に、パーンとエトは目を輝かせた。
 珠玉のワインの栓が抜かれると、子供たちより早くライオットの顔が真っ赤になり、ルージュに厳しく禁酒を命じられてしまい。
 砂時計に宝石を砕いて流すような時間が過ぎて、子供たちが眠りの園へと旅立つと、ふたりをベッドに運んで団欒は終わりを迎えた。
 宴の後。
 大鍋のシチューも雉肉もきれいになくなり、空の皿だけがテーブルに並んでいる。
 眠っている子供たちを起こさないよう、静かに洗い物をまとめると、ルージュは次の命令を下した。
「じゃあライくん、リーダー。お皿洗いに行こうか。外に小川があったからそこでやろう。この季節なら水も冷たくないでしょ」
 台所には洗い物用の水瓶もあったが、この大量の食器を洗ったら水がなくなってしまう。小川から水を運ぶ重労働を考えれば、食器を持っていった方が効率的というものだ。
「ルージュさん、とんでもない。あとは私がやります」
 あわてたシノンが止めようとするが、ルージュは笑って手を振った。
「いいのいいの。働かざる者、食うべからずってね。シノンさんはテーブルでも拭いておいて」
 じゃあ出発、と号令して、ルージュが外に出ていく。両手に洗い物を抱えたシンとライオットが召使いのように付き従うと、部屋は急に静かになった。 
 すっかり物のなくなったテーブルや、しんとした雰囲気。団欒の時は終わったのだと五感が納得するような静けさの中で。
「もういいですよ、シノンさん。よく頑張りましたね」
 台所から戻ってきたレイリアが、ねぎらうように微笑んだ。
「……え?」
「パーンとエトは寝ましたし、シンたちも当分帰ってきません。誰も見てませんから、もう我慢しなくていいんです」
 ふわりと包むように、レイリアの腕がシノンの背中に回される。
 誰かに抱きしめられるなど、パーンの母親が亡くなって以来の感覚だった。太陽の匂いがするマーファの神官衣に顔を埋めると、なぜだか、急に鼻の奥がつんと痛くなった。
 目が熱くなって、勝手に涙があふれてくる。
「あれ、おかしいな……私……」
 べつに泣きたかったわけではないのに。どうして私は泣いているのだろう。
 理性と身体の遊離に戸惑っていると、レイリアが優しい声でささやいた。
「自分でも気付いてなかったんですね。シノンさんは頑張り屋さんで、いつでも頑張ってきたから、それが当たり前になってたんですね」
 まだ16歳の若さで、ふたりの子供たちを育て、村人たちに尽くし続けて。
 大人でも弱音を吐くような重圧と責任の中で、シノンは走り続けてきたのだ。
 だから今日も、当然のように自分を犠牲にして笑顔を見せることができた。笑顔を浮かべることが不自然だとすら思わなかった。
「だけど、今だけは力を抜いていいんですよ。人は誰だって疲れるんです。泣いて泣いて、涙が出なくなるくらい泣いたら、明日はきっと今日よりいい日になりますよ」
 ぽんぽん、とレイリアが背中を叩く。
 それなら、ちょっと泣いてみようかな。
 シノンがそう思った瞬間、堰を切ったように感情の波があふれてきた。心の奥に閉じこめたはずの後悔や恐怖が、今さらのように首をもたげて理性を押し流していく。
 心と体が震え、涙がとめどなく頬を伝ってレイリアの肩を濡らした。
 声を圧し殺して泣きながら、それでも何かを言おうとしてしゃくりあげるシノンに、レイリアは柔らかく微笑んだ。
「言いたいことはたくさんあるでしょう。けどこういう時に言葉は要らないんです。ただ抱きしめ合えば全部伝わるんですよ」
 そして、心の傷も何もかも包み込むように、ふわりと少女を抱きしめる。
「ねえシノンさん。私はニース最高司祭の娘ということになっていますよね。でも、本当は違うんです。この身は邪悪な魂の寄代として呪いを受けたものだから、放置してはおけないという理由で、本当の親からニース様に預けられたんです。マーファ教団は今でも、私が邪悪な魂に負けないか監視しているんですよ」
 衝撃的な告白にシノンが思わず顔を上げると、レイリアは何でもないことのように微笑んだ。
「けれど私ね、最近思うんです。確かに私の生まれは呪われたもので、時には殺されかけたりもしましたけど、そのおかげでシンと出会えたのだから、もしかしたら邪教に感謝してもいいんじゃないかなって」
 邪教に呪われた運命さえも受け入れて莞爾と笑うレイリアを見て、シノンは思い知らされた。
 苦しさだけを見て自己憐憫に陥っても、辛さを押し殺して笑顔を浮かべても、未来を拓くことには繋がらない。
 大切なのは、逆境の中にこそ光を見失わないこと。
 それを知っているから、レイリアはこんなにも美しく見えるのだ、と。
「シノンさん、あなただって私と同じなんですよ。今日はとても辛い目に遭いましたけど、あなたにはエトや、パーンや、認めてくれる大勢の村人が付いています。みんながいれば、あなたの心を強くしてくれます。心強いって、そういうことでしょ?」
 そうか。
 みんなのために自分を犠牲にして頑張らなきゃいけないんじゃない。
 みんながいてくれるから、私は強くなれるんだ。
 だからきっと、本当に強い人っていうのは、ひとりで立ってる人のことじゃないんだ。
 心の風景はもうぐちゃぐちゃだ。でたらめにかき混ぜた絵の具のように、自分の感情が何色に染まっているのかも理解できない。
 レイリアに伝えたいことがあるのに、混乱を極めた頭では言葉が紡ぎ出せなかった。
 だからシノンは、ただ泣きながらしがみついた。そうすれば想いは伝わると、レイリアが言ったから。
「それでいいんですよ。今日はいろんなことがあって大変だったけど、涙がみんな洗い流してくれます。今はたくさん泣けば、それでいいんです」
 泣き続けるシノンの背中をそっと撫でながら、レイリアが静かに囁く。
 腕の中で震える少女の心に、どうか安らかな夜が訪れんことを祈って。



 小屋から漏れてくる嗚咽を背に歩きながら、ライオットは無言で天を仰いだ。
 いつかと同じ星空。
 日本人が見れば感動で言葉を失いそうな光景だが、今のライオットには何の慰めにもならなかった。
 ついにレイリアにまでフォローさせてしまった。小さな失敗は転がる雪玉のように膨れ上がり、もはや自分の力では収拾できない状況を招いている。
 事ここに至っては、もうため息しか出てこなかった。
 ライオットが陰気な顔で夜空を見上げていると、肩を並べていたシンがぽつりと言った。
「お前さ、いつか俺に言ったよな。何ができるかじゃなく、何がしたいかで決めろって」
「ああ、言った」
 口調は平静を装っていても、シンには分かる。
 今のライオットは、悩みを抱えすぎて沈没寸前の泥船だ。
 普段からあまり人に頼ることをしないライオットは、放っておくと際限なく重荷を引き受けてしまう。もう20年以上の付き合いで、シンはそれを知悉していた。
「じゃあ俺も聞くけどさ、お前はいったい何がしたいんだ?」
「何が……って」
 予想もしなかった言葉を投げかけられて、ライオットが言葉に詰まる。
「依頼を受けたから村を守る責任があった。俺に付き合うって約束したから、レイリアを一緒に守らなきゃならない。お前の行動原理はそればっかりだ。右も左も義務だらけ。じゃあさ、他のことは全部気にしないで好きなことしていいぞって言われたら、お前はどうしたいんだ?」
「…………」
 答えられない。
 今までそんなことは考えもしなかった。
 気が付いたらロードス島にいて、レイリアをめぐるキャンペーンシナリオの中にいた。いつかは日本に帰るために、必要な経験値と遺失魔法を集めている。
 降りかかる火の粉を払うために邪教と戦い、困った人を救うために妖魔と戦う。
 その生活に疑問が介入する余地はなかったし、ライオット自身もそれでいいのだと納得していた。
「最初にオーガーと戦った時さ、俺はヘタレもいいところだっただろ? お前の《戦いの歌》がなければ何もできずに殴り殺されてたかもしれない。だから、俺たちはお前にとって保護する対象になったんだと思う」
「保護って、そんなつもりは……」
 ライオットが反駁しようとすると、シンは首を振って遮った。
「いいんだ。それが事実だ。実際あのとき、スペックどおりに戦えたのはお前だけだった。警察官として犯人と戦ってきたお前は、ただのSEだった俺と違って肝が据わってたのさ。ともかく、最初にそういう形ができちまったから、お前は今でもそれを引きずってる」
 シンの眼光が、漆黒の槍となってライオットを貫いた。
「自分は警察官だから、民間人を守らなきゃいけないって、今でもそう思ってるだろ?」
 たとえどんなにファイター技能が成長しても。
 プリーストとして何度神の声を聞いたとしても。
 いみじくもライオット自身が言ったとおり、自分が何者かと決められるのは自分自身だけなのだ。自分はこうあるべきと決めてしまえば、その殻は決して破れない。
「俺はオーガーと戦ったとき、まだ桧山伸之だった。でも今はシン・イスマイールだ。“砂漠の黒獅子”とかいう厨二ネームが付いてるけど、それに恥じない自分でありたいと思ってる。レイリアを守るためにはどうしても力が必要だから、自分でそう望んだんだ。だけどお前は違う」
 逃げることを許さない、真正面からの直球を、シンは親友に投げつけた。
「お前は非道な暴力から民間人を守るためだけに、警視庁警察官のままで、今日まで戦い続けてきたんだ。ライオットって呼ばれながらも、お前の中身はライオットじゃない。まだ井上一彦巡査長のままなのさ」
 それを考えれば、山賊に襲われても相手を殺さなかったことや、背を向けて逃げ出すゴブリンを殺せなかったことも納得できる。日本の警察官は、逃げる犯人の背中に発砲することを厳しく禁じられているのだから。
 警察官の責務とは、犯人を殺すことでも裁くことでもない。生きたまま捕らえることなのだから当然だ。
 ろくに法整備もされていない中世レベルのファンタジー世界で、『警察官の本分』という金科玉条を奉じて戦うことの矛盾。
 現代日本人のメンタリティのまま、真剣を振り回して生命を奪うことの罪悪感。
 それを繰り返してきたライオットの心中を想像するだけで、シンは胸が痛くなった。
 しかも、それをやらせたのは弱かった自分なのだ。
「ナニールの墓所でさ、俺、お前に言ったよな。キャンセルは受け付けないって。あれ撤回するわ」
 その言葉を聞いて、ライオットの身体が電撃を浴びたように強ばる。
 だが、シンは心を鬼にして言いつのった。
 ここから先、バグナードや邪教の司祭どもを相手にしたら、戦いは先手必勝の殺し合いとなる。躊躇すればライオットが死ぬし、相手を殺せばライオットの心が壊れていく。
 そんな親友だけは見たくなかった。
「今はもう、俺もただの民間人じゃないからさ。お前に守ってもらわなくてもやっていける。レイリアも俺が守る。お前も義務感とか使命感とかに縛られないで、自分の望む道を探せよ」
「…………」
 決定的な言葉を叩きつけられて、ライオットが奥歯を噛みしめた。
 自分自身を縛り、逆に言えば支えてきたものを一撃で断ち切られた。例えようもない喪失感、そして無限に落下していくような錯覚。
 シンがどのような意図で挑発的なことを言っているのか、それを洞察できないほどライオットは凡庸ではない。
 それでも、今まで歩いてきた道を否定され、目の前にあった道標を破壊されれば、腹の底にどうしようもない灼熱感が沸きあがってくるのは我慢できなかった。
「なあシン。とりあえず、持ってるその皿を下に置こうぜ」
 自分も抱えていた洗い物を地面に下ろす。
 早く行かないと、小川でルージュが待ちくたびれているだろう。ふとそんな思考が脳裏をよぎったが、今はそんなことはどうでもよかった。
 シンが素直に皿を置くと、ライオットはいつになく獰猛な笑顔を浮かべた。
 シノンの小屋からは十分に離れている。ここなら、少しくらい騒いでも聞こえはしないだろう。
 今から自分がやろうとしているのは、きっと愚かなことだ。だが挑発したのはシンの方なのだから、責任をとってもらうのは当然のこと。
「今ごろそんなことを言われてもさ」
 右足を引き、じっくりと体重を乗せる。
 次の瞬間、ライオットが迅雷となってシンに襲いかかった。
「困るんだよ!」
 右拳が稲妻のごとく閃いてシンの顔面を捕らえた。
 ぐらりと傾いだ黒獅子に、左、右と追撃を仕掛けて地面に叩き伏せようとする。
「ああそうさ! 俺は警官根性が抜けてないよ! できれば殺したくないさ! だけどそれが俺なんだから仕方ないだろうが!」
 不意を打たれて先制を許したが、シンもすぐに体勢を立て直した。ライオットの拳をかいくぐり、非常識な反応速度で反撃を開始する。
「これからは仕方ないじゃ済まないんだ! 自分でも分かってるんだろう! バグナード相手に中途半端は通用しない!」
「だったらお前は人を殺せるのかよ!」
「レイリアのためなら、俺は何だってできる!」
 迷いのない瞳がライオットを射抜き、それに苛立ったライオットがさらに力を込める。
 ノーガードで殴り合いながら、ふたりは怒鳴り続けた。
「ああそうかい! 悪かったな! 余計なお世話だったよ!」
「他人のことより自分のことを考えろ!」
 互いの拳がうなり、不可視の気迫が衝撃波となって周囲にはじける。
 強烈な力のぶつかり合いに、草むらで鳴いていた虫たちが一斉に逃げ出した。
「ふざけるな! ここまで俺を連れてきたのはお前だろうが! いきなり放り出しといてその台詞はおかしいだろ!」
 古武術さながら。右足の踏み込みと同時に右肘がシンの水月を突く。急所を貫いた打撃に息が詰まったが、反射的に繰り出した拳は、同時にライオットの臓腑をえぐっていた。
 ほんの刹那、動きが止まり、闘志に燃える瞳が至近距離で睨み合い。
 悔しそうに表情をゆがめたライオットが崩れ落ちると、シンも咳込みながら地面に膝をついた。
 限界に達した身体を支えきれず、ふたりはそのまま大の字になって地面に転がる。しばらくは言葉もなく、ただ荒い息だけが静寂に響いた。
 やがて、満天の星空を見上げながら、ライオットがぽつりと呟いた。
「……俺はさ、自分だけ楽をしてるみたいで、申し訳なかったんだよ」
「はぁ?! 一番苦労したのがお前じゃないか。どうしてそうなる?」
 シンの声が跳ね上がった。
 こいつアホかと言わんばかりの視線を向けられて、ライオットは不機嫌そうにそっぽを向く。
「だってそうだろ。ライオットのプレイスタイルって、盾の後ろに隠れて全力防御ばっかりだ。相手を殺すっていう罪悪感のある作業は、お前とルージュに任せっきりじゃないか」
 言われてみれば、そういう見方ができなくもない。
 できなくもないが、先頭に立って一番最初に敵の攻撃を引き受けてきた人間が、ふつう「自分だけ楽をしている」などと言うだろうか?
 呆れて口を開けるシンから目を背けたまま、ライオットは内心を吐露し続けた。
「お前の言ったとおりだよ。俺はずっと状況に流されるままだったし、義務感と使命感に雁字搦めだった。けどな、それがおかしいとは思わなかったんだ。警察官ってそういう存在なんだから当然だろ」
 日本には様々な職業があるが、刃物を振りかざす相手から逃げることを許されないのは、ただ警察官と自衛官あるのみだ。
 シンやルージュにとって、戦いとは非日常の象徴と言えるものだった。だがライオットにとっては、日々の仕事の延長線上でしかなかったのだ。
 だから、順応するために変化を余儀なくされたシンやルージュとは違い、警察官としての自分をずっと固持してきた。それができてしまった。
「……ほんと、お前はすごい奴だよ」
 ロードス島に転生しても、普通に生きていけると。
 そう豪語していた親友に、シンはしみじみとため息をついた。
 普通どころではない。現代日本人の意識のまま、バグナードや邪教の司祭を敵に回して、ガチで殺し合いができるほどの胆力を持ち合わせていたとは。
「けどさ、レイリアも言ってただろ? 一緒に戦う仲間がいるから、心って強くなれる。今の俺ならお前の横に立てると思ってるんだけどな」
「分かってる。それもお前の言うとおりだ」
 全身の痛みをこらえて上体を起こすと、ライオットはあらためて親友を見つめた。
 顔中あざだらけ。頬は腫れ、目には隈ができ、絵に描いたような負傷者ぶりだ。
「ひどい顔だな」
 思わず頬をゆがめたライオットに、シンが笑い返す。
「お前もな」
 10レベルファイターが本気で殴り合ったのだ。お互い無傷で済むはずがない。
 それでも屈託のない笑みを浮かべ、握った拳を打ち交わすと、わだかまりは嘘のように消え去っていた。
「なあシン。相談があるんだ。宿に帰ったら付き合ってくれないか」
「お前がそう言うのを、ずっと待ってた」
 胸襟を開くというのは簡単ではない。
 誰だって自分の弱さは見せたくないし、自分自身でも見たくない。
 だが、それができる相手がいるというのは、人として最高の財産なのではないか。
 急にこぼれそうになった涙をこらえて、ライオットは再び上を向く。
 視界がぼやけて、星が見えなかった。






[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン7
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:10
シーン7 ゴブリンの洞窟

 松明が闇を焦がす音。
 オレンジ色の明かりの向こうで蝙蝠が飛び、どこかで水滴が床を打っている。
 しんと静まり返った暗闇には、真夏だというのに湿った冷気が漂っていた。
 この鍾乳洞を訪れるのは2日ぶりだ。前回は大規模なゴブリンの群れが住み着いていたが、今はその気配すらない。シン、ライオット、ルージュの3人は奥へ奥へと進みながら、未だに1匹の妖魔も見ることができずにいた。
「こいつは無駄足だったかな? ロードが倒された場所だし、もうここにはいないんじゃないか?」
 シンが隣を歩く親友にそうこぼした。
 曲がりくねった洞窟を進み、すでに一行は乱戦の舞台となったリムストーンプールに到達している。
 光ゴケに照らされた巨大な地底湖を見下ろしても、ゴブリンが潜んでいるような気配はない。今までの数百年がそうだったように、悠久の中で静謐を保ってきた空間が広がるのみだ。
「いや、それはない。ゴブリンたちは絶対ここに戻ってきてる」
 松明を掲げて地底湖を見下ろしながら、ライオットはあっさりと首を振った。
「どうしてそう言い切れるんだよ? 現に1匹もいないじゃないか」
「根拠ならあるぞ。お前が言うようにゴブリンたちが逃げ散ったなら、ここにはあるべきものがある。それが1つもないんだ」
 試すように謎かけをするライオット。シンは腕組みして考え込んだが、すぐに諦めて要求した。
「ヒント」
「そうだな。安西先生、バスケが……」
「したいです」
 脊椎反射で答え、それから自分の言葉を吟味する。
 その意味することに思い至ると、シンは納得してつぶやいた。
「なるほど。ゴブリンの死体か」
 言われてみれば、あったはずの死体が無くなっている。しかも1体残らず。
 1つ2つ減っているだけなら、野生動物が餌にしたと仮定してもいいだろう。だが、30を超える数がたったの二晩で消えるはずはない。誰かが片づけたのだ。
 誰が?
 村の人間が近寄っていない以上、ゴブリン以外には考えられなかった。
「死体ってのは生きてる体よりずっと重いんだ。それを全部片づけるのは大仕事だぜ?」
 ダース単位で遺体を扱ってきたライオットには、想像するだけで気の遠くなるような作業だ。少なくとも、ボスのいない2匹3匹程度の小集団ではやる気にならないのではないか。
 最初に聞いた40余という数字が本当なら、まだ10匹あまりの残存勢力が残っている計算になる。決して大きな群れではないが、ボスに統率されて村を襲えば、さすがに犠牲者なしというわけにはいかないだろう。
「何とか見つけて殲滅したいところだけど、留守じゃどうしようもない。せめて何か手がかりでも探すか」
 ライオットが言いながら周囲を見回す。
 とはいえ、ただの洞窟で何の手がかりを探すというのか。提案した本人も、さほどの意味を見出していないのは明らかだ。
「確かに。せっかくここまで来たんだ。何もしないで帰るのもバカみたいだよな」
 シンがうなずくと、3人は手分けして辺りの探索に乗り出した。
 暗闇の中、光源は頼りない松明が2本と魔法の明かりが1つのみ。求めるものが何であるかも不明なまま、おまけに〈探索〉に必要なシーフ技能の保持者もいない。
 きれいに片づけられ、傍目にはただの鍾乳洞にしか見えない薄闇の世界で、ライオットやルージュにできたのは戦闘の痕跡を見つけることくらいだった。
 2日前に〈フォース・イクスプロージョン〉でへし折った石筍。白磁色の鍾乳石に残されたわずかな血痕。自分のスパイクが削ったとおぼしき線条痕。
 こんなものを見つけたから何だというのだろう? ライオットが諦め顔で首を振っていると。
「ところでさ。ずいぶん寝不足みたいだけど大丈夫なの?」
 視線を地面に落としたまま、ルージュがさりげなく声をかけた。
 昨夜は隣の部屋から、シンとライオットの話す声がずっと聞こえていた。時には静かに、時には荒々しく、互いの本音をぶつけ合っていたらしい。
 いつの間にかルージュは寝入ってしまったのだが、明け方になってふと目を覚ましたとき、シンたちの会話はまだ続いていた。もしかしたら、ふたりは全く寝ていないのではないか?
「そうだな。寝不足は認める。だけど気分は上々だ。いろんなものが見えるようになったからさ」
 肩越しに妻を振り向いて、ライオットがにやりと笑った。
 昨日までとは雰囲気が違う。
 ここのところ、どこか斜に構えて内心を窺わせなかったが、そもそも思惑を隠して策を弄するのは彼の本領ではない。
 その性は果断。深慮遠謀よりも臨機応変を得意として、目的を果たすために柔剛あらゆる手段を駆使できる、突破力にあふれたキャラクターだったのだ。
 今のライオットは、そんな昔の彼に戻ったように見えた。
 まるで、溜まっていた澱が吹き払われたように。
「そりゃ、あれだけやり合えば、溜まってたものも発散されるだろうけど」
 顔中あざだらけで寝転がっていたふたりを目撃したルージュは、呆れた様子でため息をついた。
 わざわざ体を痛めつけるのはどうかと思うが、そういうことのできる絆は正直羨ましかった。
 殴り合ってから握手という展開は、男同士でしか成立しえない。ルージュでは決して手の届かない聖域なのだ。
「ああ、全部発散した。今日の俺は昨日とはひと味違うぜ? RX-78とRX-93くらい違う」
「つまり、普通の人には分からない程度の違いってことでいいのかな?」
「分かる人には、全然違うことが分かるのさ。まあ、それはともかく」
 冷たいツッコミを軽く受け流して、ライオットが話題をゴブリンに戻そうとしたとき。
「ん?」
 リムストーンプールの反対側でかがみ込んでいたシンが、小さな声を上げて何かを拾い上げた。
 わずかな明かりにも鮮やかな、極彩色の鳥の羽根。
 まかり間違っても自然に落ちているものではない。誰かが持ち込んだものだ。
 誰が?
 ゴブリンの巣穴、大規模な群れ、派手な鳥の羽根とくれば、熟練のTRPGプレイヤーには当然想起されるモンスターがいる。
「……ゴブリンシャーマンがいたみたいだな」
 プレイヤー知識で断定して、シンが仲間たちを呼ぶ。
 ゴブリンシャーマンはその名のとおり、精霊魔法を使いこなすゴブリンの稀少種だ。ゴブリン種の中でも共通語を解する知性を持つのはロードとシャーマンのみ。おそらく群れでも上位にいたことだろう。
「なるほど。40匹からの群れだ。ゴブリンシャーマンがいても不思議じゃないか」
 シンが拾った羽根を横からのぞきながら、ライオットは考え込んだ。
 前回の戦いでは見た記憶がないから、おそらく後方に引っ込んでいたのだろう。そしてロードを倒されたのを知って撤退を指令した。
 だから、異常なほど戦意にあふれていたゴブリンどもが、突然バラバラになって逃げ出したのだ。その後、洞窟の外で生き残りをまとめたに違いない。
 仮説としては十分な推論だ。
「だとすると、残り10匹ちょいか、そいつらは完全に統制がとれてるんだろうな」
 数匹単位で散りじりになられるよりは好都合だ。一箇所にまとまってくれれば、殲滅戦が一度ですむ。
「その群れが留守ってことは、まとまってどこかへ出かけたってことか?」
 ため息混じりにシンが言う。
 昼間なら巣穴に引き籠もっているだろうと考えてわざわざ遠征してきたのに、完全に空振り。延々と2時間も歩いてきたのがアホらしくなる。
「ごはんでも探しに行ったんじゃないの? まだここに住んでるなら、帰ってくるまで待ってればいいじゃない」
 ルージュの表現は庶民的だが、生き物の基本は喰うことと寝ることだ。至極まっとうな意見だと言える。
「ごもっとも。じゃあ、飯の調達はどこに行くと思う? ゴブリンが何を喰うかなんて知らないけどさ、少なくとも奴らは草食動物じゃなさそうだ。森の木の実じゃ満足しないだろ」
 何もないところから答えを導く必要はない。現に奴らは、ほんの数日前にも大規模な食料調達をしているのだから。
 ライオットが何を言いたいかを察して、シンが首をひねった。
「また村を襲うって言いたいのか? けど今はまだ昼間だぞ。ゴブリンは夜目がきくんだから夜襲した方が有利だろうに、わざわざ不利な昼間に仕掛けるかな?」
 それはライオット自身も感じた疑問だ。
 だが、シンの懐疑的な視線を受けて、天恵のような発想が閃いた。げにも会話というのは効果的だ。思考を言葉に出すだけで、必ず新しい発見がある。
「夜は、村に俺たちがいる」
 ゴブリンは2度、シンたちに負けている。1度目はパーンとエトを襲った遭遇戦で。2度目はこの洞窟の強襲戦で。
 ただのゴブリンには不可能かもしれないが、ゴブリンシャーマンの知能は“人間並み”だ。強い相手を避ける程度の知恵は回るだろう。
「けどさ、昼間だっているかもしれないじゃない。現に昨日はいたんだし」
 ルージュの反論に、ライオットは一言で答えた。
「じゃあ見てればいい」
 村外れ。森の中に潜んで、シンたちが村を離れるのを監視していればいい。
「思い出してくれ。昨日シノンが襲われたのは、恵みの森でもずっと村に近い場所だった。あそこにゴブリンどもがいたのは偶然か? 前日にロードを倒されたばかりなのに、冒険者がいる村に用もなく近づくか? 俺にはとてもそうは思えない。きっと何かをしてたんだ。村のすぐそばで」
 逆に言えば、この広い森にゴブリンはたったの10匹。
 村から外に出たのはシノンとエトだけ。
 この両者が昼間の森でたまたま出くわすなど、天文学的確率だ。偶然よりも必然を疑った方がいい。
 ライオットの鋭い視線を受けて、シンは表情を引き締めた。
「つまり、昨日からゴブリンは俺たちが村を離れるのを見張っていた。見張りがシノンを発見し、俺たちが外に出なかったからシノンを襲った」
 シンの言葉をルージュが継ぐ。
「それで、今日は私たちが村から離れたのを見て、全員で村を襲いに行ったってこと?」
 すべては、たった1枚の羽根から導いた推論にすぎない。
 実際には森で木の実を拾っているのかもしれない。
 だが、机上の空論と打ち捨てるにはあまりにも理路整然としすぎていた。
「レイリアとルーィエが残ってるから、10匹程度なら撃退できるだろうけど……」
 ライオットが意味ありげにシンを見る。
 レイリアが単独で前衛を務めるという危険。
 殲滅できずに撃退した場合、逃がしたゴブリンたちが所在不明になるという危惧。
 このままのんびりと鍾乳洞観光をしている場合ではあるまい。
「帰ろう。今すぐ」
 シンが即決する。
「杞憂なら、それに越したことはないけどな」
 ライオットがうなずくと、ルージュは無言で魔法樹の杖を掲げた。
 また戦いだと思うと気は重いが、村とレイリアを放置するのはもっと気が進まない。
 小さく吐息をもらして、ルージュは呪文の詠唱を開始した。




マスターシーン  シノンの小屋

 紐でまとめた薬草を幾束も壁に吊るし、時間をかけて丁寧に乾燥させてある。
 いくつもの種類が混ざりあい、だがどこか心落ち着くような匂いは、長い年月で部屋に染みついたもの。パーンにとっては母親の象徴とも言えるハーブの匂いだ。
 部屋の隅には薬研が据えられ、シノンが乾燥させたリギド草とゼトラの根を混ぜて粉末にしていた。
 石がこすれ合う低い音がリズミカルに響く。時折手を止めて具合を確かめ、軽く舐めてはまた作業に戻る。そんな作業がもう四半刻も続いていた。
 粉末が出来上がれば、あとは清水で練って膏薬にするだけ。切り傷をあっと言う間に治してしまうシノン特製薬の完成である。
「見事なものですね」
 エトが採ってきた薬草を仕分けながら、レイリアが感心してシノンの手さばきを見つめていた。
 レイリアの目から見ても、シノンの手さばきは熟練した職人のそれだ。
 道具を使った単調な作業の繰り返しの中にこそ、本当の技はある。知り合いの父親がそう言っていたのを思い出して、レイリアは今さらのように納得した。
「私なんてまだまだです。パーンのお母様に比べれば、子供のお遊びみたいなものですから」
 小さく苦笑しながらシノンが応じる。
 レイリアは仕分けの手を休めて少し考え込むと、やがて席を立ってシノンに歩み寄った。
「シノンさん、ちょっとだけ私にもやらせてもらえませんか?」
「レイリア様に? 別に構いませんけど……」
 シノンは少しだけ戸惑ったが、素直に立ち上がって場所を譲る。
「ありがとうございます」
 礼を言うと、レイリアは楽しそうに手を揉みながら薬研の正面に座った。
 作業自体は単純だ。V字型に切れ込んだフネの中で、車輪に軸を通した摺り具を前後に動かすだけ。ずっとシノンの作業を見ていたからリズムも分かる。
 木製の軸に手をかけると、レイリアはゆっくりと石の車輪を動かし始めた。
 ごり、ごり、と独特の手応えが伝わってくる。石がフネとこすれ合う感触しかしないが、石の重さで薬剤をすり下ろす仕組みだから問題あるまい。
 鼻歌でも歌いだしそうなレイリア。
 シノンは隣でそわそわしながら様子を見ていたが、やがて耐えきれなくなって口を挟んだ。
「あの、レイリア様。それだと粉末が同じ大きさにならないので、もう少し左右に揺らすような感じでお願いします」
「こうですか?」
 小首を傾げながら挽き方を変えるレイリア。
「あ、やりすぎ。強すぎです。あまり力を入れないで、石の邪魔をしないで下さい。石とフネが噛み合う場所がありますから、そこに入れて砕くように……」
 要求が厳しくなってきたところで、レイリアが手を止め、隣に立つシノンを見上げる。
 穏やかな微笑。だがシノンはあわてて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、つい」
「そうじゃないんです。これで分かったでしょう、シノンさん。あなたの技は子供の遊びなんかじゃないって」
 神官衣の裾をさばいて立ち上がると、レイリアは静かにシノンの両手を握った。
 榛色の瞳を見つめながら、穏やかに言う。
「あなたは誇りを持って薬草師を務めています。だから、素人の私にも真摯に助言をくれたんです。私は私なりに真面目にやりましたけど、あなたの目には遊んでいるようにしか見えなかったでしょう? つまり、私とあなたはそれくらい違うんですよ」
 確かにレイリアは魔法が使えるし、武器も使える。
 だが、薬草師としてはシノンの足下にも及ばないのだ。
 当たり前のその事実を目の当たりにして、シノンは心にこごっていた何かがいっぺんに溶けていくのを感じた。
 レイリアとは歩いてきた道が違うのだから、身につけた技術だって違う。相手にできて自分にできないことがあるのは当然のこと。
 だけどその逆だって、ちゃんとあるのだ。
「……ありがとうございます、レイリア様」
 握ったままの手に力を込めて、シノンは深々と頭を下げた。
 朝から押し掛けてきたレイリアの意図が読めず、ほんの少しだけ持て余していたが、すべてはこのためだったらしい。
 そう知ってシノンが心からの感謝を口にしたとき。
 窓の外から、けたたましく銅鑼を鳴らす音がした。
 遠くから女性の悲鳴と男たちの怒号が聞こえる。窓辺で午睡を楽しんでいたルーィエが顔を上げ、細めた目を外に向けた。
「まさか……」
 シノンが怯えた表情を見せたとたん、薬草庫の扉が蹴り開けられた。台所で昼食の準備をしていたパーンとエトが、必死の形相で転がり込んでくる。
「シノン! 司祭様! 大変だ!」
「妖魔の群れが村を!」
 子供たちの知らせに、シノンの肩が跳ね上がった。
 過去の出来事になったはずの亡霊が、再び現実に姿を現したのだ。呼び醒まされた記憶が苦痛や絶望を引きずり、負の連鎖となって心を縛り上げていく。
「大丈夫。分かっています」
 レイリアは少年たちに微笑を向けると、全身を硬くしたシノンを抱きしめ、聖句を唱える。
『マーファよ、この少女の心に安らぎを』
 少女からふっと力が抜けた。
 黒いパニックから瞬時に解放されて、シノンの瞳が泣き笑いに揺れる。
 何の前触れもなく襲ってくる恐怖もそうだし、魔法で唐突にもたらされる安堵感もそう。思い通りにならない自分の心に、どうしようもないもどかしさを感じて泣きたくなった。
 それでも、エトやパーンの前では弱音を吐きたくない。両極端に揺さぶられて折れそうになった心を、意地だけで支えて笑ってみせた。
「レイリア様、私は大丈夫です。だからどうか、村の皆を」
 鳴り響く銅鑼の音。
 遠い喧噪と悲鳴。
 それらが意味するものを充分以上に承知しながら、レイリアは気遣わしげに柳眉を寄せた。
「シノンさん……」
 少女の心が大丈夫ではないことなど、レイリアの目には瞭然だ。普通の人間なら泣きわめいてベッドに駆け込むような場面なのに、まだ16歳の少女が平気であるはずがない。
 ただ、シノンは自分よりも他人を優先することに慣れているから、自分を二の次にできてしまうだけなのだ。その健気な微笑が痛々しかった。
 言葉を継げないレイリアに、黙って様子を見ていたルーィエが鼻を鳴らした。
「こいつを甘やかすな、司祭」
 窓枠の上から、紫水晶の深い瞳がレイリアを見下ろす。
「自分で大丈夫と言ったんだ。村の連中が戦っているのに、こいつだけ特別扱いする必要はない」
「ルーィエさん!」
 あまりの言いように、思わずレイリアが非難の声を上げる。
 だが、それを完全に無視して、ルーィエはシノンに目を転じた。
「昨日言ったはずだな。お前は替えのきかないたったひとりだと。お前は自分の力で、村に自分だけの居場所を作ったんだ。その役目を果たせ。村の連中の信頼に応えてみせろ」
 ルーィエの言葉に蒙を撃ち抜かれて、シノンは目を見開いた。
 猫王様の言うとおりだ。突然の襲撃で、村人には負傷者が出ているはず。運が悪ければ重傷を負った者もいるかもしれない。
 そんな村人たちを救うのがシノンの役目であり、レイリアにだって譲れない居場所ではなかったか。
 村が困難にあるときこそ、村人たちを支えるのが自分の役目だと自分で決めたのだ。
 試練に耐えられずにうなだれると、足下にある苦痛しか目に入らない。そんな時こそ顔を上げて、未来にある自分の姿を追い求めるのだ。
 道に悩んだら、3日後でも10年後でもいい、未来の自分を想像しなさい。そのとき胸を張って生きていられる道を選びなさい、と。
 パーンの母が最後に残した言葉を思い出して、シノンの瞳に力がこもった。
「今は立ち止まるな。力を出し惜しみするな。最後までやり遂げろ。悩むのはその後でいい」
 ルーィエは最後にそう締めると、音もなく窓枠から跳び降りた。
「行くぞ、司祭」
「ルーィエさん……」
 昨日の今日であまりにも厳しい要求ではないか。
 そんな非難がましい視線を受けて、ルーィエは不機嫌そうにレイリアを振り向く。
「こいつを見くびるな。この娘には分かっているぞ。自分に何ができるのか。自分が今何をすべきなのかをな。司祭、お前にはそれが見えているのか?」
 いつになく冷たい口調に、レイリアが思わずたじろいだ。
 刺々しくなりかけた空気。
 それを治めるように、シノンが横から口を挟む。
「レイリア様」
 私はもう大丈夫です、と。
 だから村の皆をお願いします、と。
 心の傷にあえぐ少女の顔ではない。精一杯の役目を果たそうとする薬草師の顔で、レイリアに頷いてみせる。
「……分かりました」
 レイリアが表情を引き締めた。
 どのみち他に選択肢はないのだ。シンたちが洞窟に行ってしまった今、村を守るのはレイリアとルーィエの役目。それを疎かにするわけにはいかない。
「妖魔は私たちが何とかします。シノンさんもお気をつけて」
 レイリアも凛とした気迫を取り戻す。 
「ふん」
 目を覚ますのが遅すぎる、と言わんばかりの一瞥を残して、ルーィエが音もなく駆けだした。
 愛用の小剣を携えてレイリアがそれを追う。
 ふたりの姿が見えなくなると、部屋は急に静かになった。穏やかな微笑を振りまく女性司祭と、小さいのに巨大な存在感を漂わせる猫王様。彼女たちがいなくなっただけで、ぽっかりと大きな穴があいたような気がする。
「私たちはお父さんって知らないけど、もしいたら、ルーィエさんみたいな人だったのかもしれないわね」
 シノンが嘆息して言った。
 決して甘やかさず、厳として道を示すことで相手を育てようとする。レイリアに抱きしめられるのは心地良いけれど、為すべきことを教えてくれるのはルーィエの方。
「さて。あの人たちをがっかりさせないように、私たちもできることをしましょうか」
 ぽん、と手を打って雰囲気を切り替えると、シノンはパーンとエトを見た。
「この騒ぎだと怪我人がたくさんいるはずだから、きっと忙しくなる。悪いけど手伝ってもらうわよ。覚悟してちょうだい」
 戦いが怖い。
 暴力が怖い。
 ゴブリンに襲われたことを思い出すと、今でも体が震えてくる。
 それでも、とシノンは思った。
 村の皆が恐怖を堪えて戦っている今、村の一員として、シノンも自分にできる戦いをするのだ。
 最初に村が襲われたときと同じ。あの時はできた。だから今度だってきっとできる。
 できる自分の姿を追い続ければ、必ず追いつけるはずだ。
 パーンの母が言ったとおりに。
「分かった。任せてよ、姉さん」
「オレは何をすればいい?」
 子供たちが真剣な顔で応じる。
 村の危機に。村のために。
 突きつけられた現実を前に、悩む余地などどこにもない。
「パーンは包帯をたくさん用意してちょうだい。ありったけ持っていくわ。エトはお湯を沸かして。私は傷薬と毒消しを用意するわ」
 シノンが言うと、子供たちがきびきびと動き始める。
 断続的に聞こえてくる喧噪が、静かに彼らを駆り立てていた。
 言葉もなく作業を進めていると、窓の外、村の一角に大きな赤い炎が閃いた。一拍遅れて大地を揺るがす轟音が伝わり、窓枠が細かく震える。
「レイリア様と猫王様が戦ってるんだわ」
 薬草を詰め込んだ背負い袋をテーブルに置くと、シノンが窓の外を見てつぶやいた。
 台所では、エトが煮立てた湯で縫合用の針と糸を消毒し、清潔な布で包んでいる。
 パーンは1つ1つ丁寧に巻いた包帯を、別の背負い袋に詰めていた。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
「ザムジーの話だと、レイリア様の剣の腕は、ライオットよりずっと上らしいからな」
 ホッとした様子でエトとパーンが言葉を交わす。
 どれほどの妖魔が襲ってきたのか分からないが、先日の群れは全滅に近かったはず。残党程度ならすぐにやっつけてくれるだろう。
 戦いが終われば、次は治療の時間が来る。
 シノンたちの出番も近いということだ。
「エト、パーン、準備はいい?」
「ごめん姉さん、もうちょっと」
「こっちはいつでも行けるぜ」
 シノンは大急ぎで自分の荷物をまとめ、子供たちが用意した治療用具を点検する。
 ここ数日で何度も繰り返した作業だから、エトたちも手慣れたものだ。消毒用にドワーフ族の火酒があるのを確認して、シノンが立ち上がったとき。
 弱々しく玄関を叩く音がした。
「シノン、逃げろ。ゴブリンが襲って来やがった」
 苦しそうな声。
 パーンとエトが顔を見合わせる。
 シノンが駆け寄るよりも早く扉は開き、血まみれの村人が転がり込んできた。
「モートじゃない! ちょっと、しっかりして!」
 服が血で汚れるのも構わず、シノンが男を抱き起こす。目の上あたりから出血して顔の半分が朱に染まっているほか、右腕をだらりと下げて力が入らない様子。肩の骨を砕かれているようだ。
「俺はいいから、エトとパーンを連れて、早く!」
 何とか動く左手でシノンを押し退け、モートと呼ばれた男は苦しそうに顔を歪めた。
「そんなことできるわけないでしょ! モート、ちょっと触るわよ」
 他に怪我はないか。相手の顔を見ながら、シノンは無遠慮に全身に手を這わせる。
 頭部と右肩の他にも、わき腹、左下肢など負傷は全身に及んでいた。その悉くが何かに殴られたような挫傷。特に足のダメージは骨も痛めており、これではまともに歩くことすらできないだろう。
「けどまあ、命に関わる傷はないわね。痛いでしょうけど、しばらく我慢してちょうだい」
「治療なんかしてる場合か! 裏口から出れば間に合う、早く行け!」
「妖魔なら大丈夫よ。レイリア様と猫王様が退治に行ったから。エト、消毒用のお酒を取ってくれる? パーンは包帯を4本お願い」
 モートのうめきには耳を貸さず、シノンは手際よく治療を進めていった。
 目の前にいる負傷者の治療に専念していれば、余計なことを考えずにすむ。暴力への恐怖も昨日の絶望も、何もかも忘れて行動することができる。
 それは今のシノンにとって救いだった。
 清潔な布で血をぬぐい、傷薬を塗って包帯を巻く。何かに憑かれたようにシノンが手を動かしていると、モートの表情に諦めが浮かんだ。
「遅かったか……」
 悲壮感をにじませた呻きにシノンが顔を上げ、開いたままの戸口へと視線を向けた瞬間。
 あるべきではないモノの姿を見て、表情が凍りついた。
 赤褐色の肌に短い獣毛。粗末な毛皮の貫頭衣から節くれ立った手足を伸ばし、残忍そうにゆがんだ口元からは鋭い犬歯がのぞいている。
 赤黒く汚れた棍棒を持ち、殺戮に酔って目を血走らせた、醜悪な妖魔の姿がそこにあった。
「シノン、どいてくれ」
 モートが左手でシノンを押すと、今度は抵抗せずに手が離れる。
 恐怖に硬直したままの少女を見て、モートの傷だらけの顔に苦笑が浮かんだ。
 これでは自力では動けないだろう。だが、シノンは村に唯一の薬草師。絶対に失うわけにはいかない。
 テーブルにすがりつくようにして何とか立ち上がると、モートはシノンを庇うようにゴブリンと対峙した。
 ゴブリンは決して強力な妖魔ではない。しかもここにいるのは1匹だけ。体格もモートより頭ひとつ小さいし、普段なら簡単に負けはしないだろう。
 だが今は満身創痍で武器もない。時間を稼ぐのが精一杯だ。
「パーン、エト。シノンを連れてレイリア様のところへ行け」
「それならモートも一緒に逃げよう!」
 モートの言葉で硬直から解き放たれたエトが、テーブルの奥から叫ぶ。
 それを聞いて、モートの頬がゆがんだ。
「俺には無理だ……分かるだろ?」
 この足では逃げたところですぐ追いつかれる。
 だったら、どうせ助からない命なら、せめて誰かのために使ってやる。
 そんな思いを込めた言葉に、エトは絶句して立ち尽くした。
 パーンが双眸に怒りをたぎらせ、唇を噛みしめる。
 決して豊かではないが、平和だったザクソンの村。
 村の皆に慕われ、若い男たちの話題に上らぬ日はなかったシノン。
 わざと怪我をしてシノンに看てもらおうか、などと冗談を言う者までいた平和な日々は、すべて妖魔たちがぶち壊してしまった。
 そしてまた、今日も。
「オレにもっと力があれば、ゴブリンなんかにでかい面をさせないのに……!」
 血を噛むような低いつぶやきに、エトが隣でうなずく。
「そうだね。僕たちにもっと力があれば、みんなをこんな目に遭わせなくて済むんだ」
 少年たちは無力感に歯ぎしりしながら、竦んだままのシノンを助け起こす。
 すると、獲物を物色していたゴブリンが、生臭い息で奇声を上げながら棍棒を振りかぶった。誰ひとり逃がすつもりはないらしい。
「行け!」
 モートが叫んだ。
 もう迷う余地はなかった。雑貨屋などいなくても少しばかり不便になるだけだが、薬草師や子供たちは村の宝だ。命の天秤でいえば損な取引ではなかろう。
 左足は動かない。モートは1本だけ残った右足で踏み切ると、ゴブリンの前に身を踊らせた。
 つかみかかった左腕に棍棒が唸り、鈍い音を立ててまた骨が砕けた。
 右足だけでなんとか踏ん張り、さらにゴブリンに詰め寄る。だがもう動く腕がない。そうか、だったら喉笛を喰いちぎってやるまで。
「Bukyyyy!」
「やらせるかあああああッ!」
 牙を見せて威嚇するゴブリンに、モートは頭から飛び込んでいった。
 生きるとか死ぬとか、もうそんなことはどうでも良かった。自分に残されたものを全部叩きつけて、とにかく相手に傷をつけてやる。残されたのはそんな意地と気迫だけだ。
 そしてそれは、妖魔相手にあまりにも非力だった。
 予想外に素早く振るわれたゴブリンの左拳が、モートの頬を殴りとばす。
 折れた左足では、よろめいた体を支えられない。モートがもんどり打って倒れると、ゴブリンはその体に容赦なく棍棒を振り下ろした。
「Gobu! Gobu! Gobu! Gobukkyyy!」
 脚を。腹を。肩を。頭を。
 鈍く湿った音とともに肉が裂け、昨日磨きあげたばかりの床に、熱い深紅の飛沫が散る。
「早く……行け……」
 血泥の下から、モートの目が子供たちに、そして凍りついたままのシノンに向けられた。
 自分を諦めた者に特有の凪いだ瞳が、何よりも雄弁に語りかける。
 命を代償にした時間を無駄にするな、と。
「エト。オレの親父はさ、ヴァリスの聖騎士だったんだ。お袋とオレがこんな田舎に来たのは、親父が騎士団の命令に背いて不名誉な死に方をしたからだって、村のみんなに言われてきた」
 エトと挟むようにシノンの肩を抱いたまま、じりじりと後ずさりながらパーンが呟く。
「けどさ、お袋が死ぬ前に言ったんだ。親父は聖騎士として、村人を守って最後まで立派に戦ったんだって。オレは聖騎士テシウスの息子として、親父の名に恥じないように生きなきゃいけないんだって」
 まだ11歳のパーンにとって、それは何物にも代え難い神聖な誓いだった。父が遺した聖騎士の鎧は、まだ大きすぎて着られない。村人たちを守ったという剣は、重すぎて扱えない。
 だが、テシウスの息子として受け継いだ正義の心は、誰にも負けないくらい燦然と輝いているのだ。
「エト。ここでモートを見捨てるのは、テシウスの正義じゃない。オレはここで逃げたら、今を生き残っても、きっと一生後悔する」
「パーン! ちょっと待ってよ!」
 親友が何をするつもりなのか悟って、エトはあわてて窘めた。
「僕たちはまだ子供なんだよ! 妖魔相手に戦うなんて無茶だよ!」
「オレもそう思う。けどさ」
 パーンはそっとシノンの肩から腕を抜くと、イスの背に両手をかけた。
 ゴブリンはまだモートに夢中で、子供たちの動きには注意を払っていない。その隙を突こうと、慎重にタイミングを測る。
「けどさ、オレは男だ! 聖騎士テシウスの息子なんだ!」
 パーンはイスの背を腰だめに抱えると、脚をまっすぐゴブリンに向けて突進した。
 子供にしては体格に恵まれているとはいえ、妖魔と力比べをして勝てるはずがない。勢いだけが勝負だ。
 パーンに反応してゴブリンが身構える。突然入った邪魔に苛立ちを浮かべる緑色の瞳。
 怯みそうになる自分に喝を入れて、パーンは叫んだ。
「邪悪な妖魔め! 村から出ていけ!」
 ゴブリンが振り下ろした棍棒と、樫の木で作った頑丈なイスが激突する。
 パーンは重い衝撃にイスを弾かれそうになったが、どうやら神が手を差し伸べてくれたらしい。棍棒が乾いた音をたてて2つに折れ、回転しながら窓の下に転がっていった。
「よし!」
 パーンは快哉の声を上げると、そのままゴブリンを家の外に押し出そうとする。ゴブリンが握りだけになった棍棒を投げ捨て、イスの脚を掴んだが、押し合いになっても今なら勢いのついているパーンが有利だ。
 至近距離で睨み合い、腹の底から吼えながら渾身の力を振り絞る。
 次の瞬間、目に火花が散って視界が揺れた。
 鼻の奥が熱くなったかと思うと、あふれた血で口や喉が濡れてく。
 顔を殴られたんだ。それを理解したとたん、2発目の拳が顔面に炸裂し、パーンはたまらず床に転がっていた。
「くそっ!」
 かすむ目を細めながら上体を起こそうとすると、今度は腹を蹴られた。
 あまりの痛みに悲鳴すら出てこない。痙攣した胃から酸っぱいものがこみ上げ、床に黄色い液体をまき散らしながら苦悶して転げ回る。
「パーン!」
 為すすべもなく立ち尽くすエト。
 ゴブリンは、反応のなくなったモートからパーンに標的を変えたらしい。残忍な顔に愉悦の表情が浮かび、落ちていたイスを拾ってゆっくりと振りかぶった。
 楽しんでいる。
 わけもなくエトは悟った。
 この妖魔は、人が傷つき、苦しんでいるのを見て楽しんでいるのだ。モートや、パーンや、昨日のシノンや、他の村人たちも。皆が必死になって大切なものを守ろうとしているのに、ゴブリンどもは苦しんでいる皆を見て喜んでいるのだ!
 自分の無力さと現実の非情さにエトが立ち尽くしていると、それまで人形のように呆けていたシノンがエトの手を振り払った。
 弾かれたように駆けだし、床に転がるパーンに覆いかぶさって妖魔から守ろうとする。
「ちょ……姉さん!」
「エト! あなたは逃げなさい!」
 ゴブリンは耳元まで裂けた口を笑いの形にゆがめ、勢いよくイスを振り下ろした。
 頑丈な樫材が華奢な背中を打つ。
 シノンはくぐもった悲鳴を飲み込むと、エトに叫んだ。
「逃げて応援を呼んできて! 早く行きなさい!」
「そんな……そんなのってないよ……」
 昨日と同じ状況。
 昨日と同じ言葉。
 パーンを守って妖魔に襲われる姉。
 胃液と血の中で苦しんでいるパーン。
 ぐったりとして動かないモート。
 こんなことが許されていいのか?
 あまりの理不尽に頭の中が真っ赤になり、全身が震えた。
「エト! お願いだから逃げて!」
 何度も何度も打擲されながら、シノンが必死に訴える。
 姉の美しい顔に赤いものが流れた。
 殺戮に酔ったゴブリンが嘲いながら、ひときわ高くイスを振りかざす。
 あれが頭に当たったら助からない。今から応援を呼びに行っても、絶対に間に合わない。
 姉の死を目前に見て、エトは生まれて初めて渇望した。
 力が欲しい。
 ゴブリンを倒し、邪悪な妖魔から姉やパーンたちを助けられるだけの力が。
 許せない。
 自分が壊すものの価値すら知らず、ただ楽しみのためだけに人を殺す妖魔が。何もできず、ただ守られるだけの自分が。
 そして、こんな邪悪の存在を許す神々が。
「こんな世界、間違ってるッ!!!!」
 エトが絶叫し、眦をつり上げて妖魔を睨みつけた時だった。


    『然らず。世界は光に満ちている』


 声とともに、金色の風が世界を打ち据えた。
 逆巻く光が凝縮して大気を震わせ、囂々とうなる神気がエトを翻弄する。
 神の声だ。
 だが、唐突にかけられたその声の主が誰なのか、エトには興味すら湧かなかった。
 ただ分かったのは、荘厳きわまる声の主が、エトの悲憤を傲然とした視点から否定したという事実だけ。
「…………ッ!」
 あまりの怒りに返す言葉もない。
 こんな非道がまかり通る世界を、神が自ら許容するというのか!
 どこにどれだけ光があふれていようが、人々に届かなければ意味がない。貴族や金持ちや、一部の恵まれた人だけが安全に暮らせる世界など、絶対に間違っている。
 この世界が光に満ちているの言うのなら、ザクソンにも光の祝福があってしかるべきではないか!


    『然り。なれば、汝に光の加護を与えよう』


 魂が血を流すような怒りに応えて、超然とした声が一転、エトを肯定する。
 周囲に満ちていた力が相を反転させた。
 まばゆい黄金の光がエトの周囲で螺旋を巻き、もの凄い勢いで流れ込んでくる。まぶしさに耐えかねて目を閉じると、まるで自分の中に炉が作られたように、とめどなく力が湧きだして全身が熱くなった。


    『汝自身の力を以て、あまねく世界に光を示せ』

 
 輝きの奔流になぶられるままに身を任せ、どれほどの時が過ぎたのだろう?
 神の存在が薄れるのを感じてエトが目を開くと、世界は黄金色の嵐の中で、まるで時が止まったかのように微動だにしていなかった。
 変わらずパーンをかばう姉の姿があり、残忍な笑みを浮かべた妖魔が、高々とイスを振りかざし。
 何もかもが固まった世界で、エトはひとり、静かに両手を突きだした。
 神は言った。世界に光を示せと。
 そのための力を与えると。
 望むところだ。姉やパーンを守れるなら、何だってやってやる。
 エトが大きく息を吸い込むと、止まっていた世界が動き出した。
 視界から黄金が薄れて本来の色を取り戻し、ゆっくりと時間が流れ始める。
 シノンの頭部へと落ちかかる死の影。でも大丈夫。僕の方が速い。
 興奮した頭の片隅で冷静に計算しながら、腹の底で熱く渦巻く何かを、エトは根こそぎ振り絞って妖魔に叩きつけた。
『Falts!!!!』
 凛とした叫びとともに、空気が重くうなった。
 不可視の神罰が妖魔を木の葉のように弾きとばし、そのまま壁に叩きつける。
 家を丸ごと揺るがすような衝撃音。あまりの威力に壁板が砕けて散乱した。妖魔がボロ布のように床に転がると、その上に小さな木片が散る。
 不自然な方向に折れ曲がった首。
 一瞬で光を失った緑色の瞳。
 壁際に崩れ落ちた妖魔は、もう2度と起き上がることはないだろう。
 法術を最大威力で解放して精神力を使い果たしたエトは、消耗のあまりくらくらする頭で、何とかそれだけを見極めた。
「エト……あなた……」
 両手を突きだした姿勢のまま、肩で荒い息をするエトに、シノンが驚愕の視線を向ける。
 焦点の定まらない目で姉を見て、エトはつぶやいた。
「だってさ、おかしいよ、こんなの」
 視界がぐにゃりと歪み、黒く遠ざかっていく。
 姉が何か言っているのが聞こえたが、言葉までは聞き取れなかった。
 僕はみんなを守れたのかな?
 そう思ったのを最後に、エトの意識は水底へと沈んでいった。






[35430] シナリオ4 『守るべきもの』 シーン8
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:11
シーン8 ザクソンの村

 物見櫓でけたたましく銅鑼が鳴り、村人たちが悲鳴を上げて逃げまどっていた。
 ザクソンの北側、恵みの森から侵入した妖魔は全部で15匹。このうち3匹ほどが別れて村外れに向かったが、ボスに率いられた本隊は一塊になって順番に家を襲っている。
 押し入られた家は滅茶苦茶に荒らされ、家畜や食料は根こそぎ奪い取られた。逃げ遅れた者はゴブリンたちの棍棒の餌食になり、血まみれになってぐったりと倒れている。
「女、子供は村長の家に逃げろ! 戦える男は武器を持って広場に集まれ!」
 愛用の弓を持って村の広場に駆けつけたザムジーが、右往左往する村人たちに声を張り上げた。
 3日前ならこんな状況にはならなかっただろう。見張りがゴブリンを発見し、柵を破られる前に男たちが集まり、村に入れることなく撃退できたはずだ。
 だが冒険者たちが助けにきて以来、何か起きたら頼ればいいという甘えが村人たちに蔓延してしまった。今日は冒険者たちが不在になると知らせがあったのに、村人たちにまるで警戒心がなかったのが、この悲劇の原因だ。
「悪い、遅くなった!」
 ザムジーが舌打ちしていると、息急ききった声とともに、数名の若者たちが加勢に駆けつけた。
 後方には大斧を持った木こりのライオットが続いている。これで戦える味方は5人。だが、まだ足りない。
「状況は?」
 額に汗を浮かべて走ってきたライオットが、ぼそりと尋ねる。
「良くないな。集団がバラけないんだ。こっちもそれなりの人数を集めないと手が出せない」
 この5人で戦いを挑んでも、逆に囲まれて犠牲者が増えるだけだ。せめて妖魔と同じ人数がいないと勝ち目がない。
 それが、大勢の犠牲者を出してザクソンが学んだ教訓だった。
「で、ハグレの奴らはどうなった?」
「雑貨屋のモートが3人連れて退治に行った。向こうは何とかなる」
 両手持ちの大斧を地面に突き立て、ライオットが憎々しげにゴブリンの群れを睨みつける。
 唯一の救いは、妖魔どもが火を使わないことだ。これが人間の盗賊団だったら、今ごろ村は火の海だったことだろう。
 村人の避難が一段落して、すっかり人気のなくなった村の中央広場。
 ザムジーたちには為すすべもなく、ゴブリンどもが好き勝手に暴れ回るのを遠巻きにするしかなかった。
 群れの中心には、極彩色の鳥の羽根で全身を飾りたてたボスがいる。こいつの命令に従って、他のゴブリンたちは奇怪な声を上げながら村を蹂躙しているのだ。
 家の中からは皿の割れる音や物が壊れる音、楽しげな歓声などが聞こえ、しばらくすると食料や衣服をかかえて妖魔どもが出てくる。
 その繰り返しだ。
 広場の一角にはゴブリンどもが戦利品を集めた山が作られ、家が襲われるごとに山は大きくなっていく。
 決して豊かではないザクソンの村人たちが、長い冬を越えるために懸命に蓄えた財産。
 それを略奪されても手を出せない自分たちの無力さに、ザムジーは血が滲むほどに唇を噛みしめた。
「皆さん、危ないですから下がってください!」
 凛とした女性の声が聞こえたのはその時だった。
 マーファの白い神官衣。美しい黒髪。使い込まれた小剣を手に走ってくるのは、シノンの世話をしていた女性司祭だ。
「ルーィエさんが魔法を使います! 早く下がって!」
 魔法? あの美人の魔術師は、仲間たちと一緒に洞窟の調査に行ったのではなかったか?
 ザムジーの脳裏に疑問が浮かんだが、答えが見つかる前に、後方から飛んできた炎が目の前をかすめた。
「のろまども、伏せろ!」
 高く澄んだ声。
 深紅の火線はゴブリンたちの足下に突き刺さり、轟音とともに櫓より高く炎を噴き上げた。
 地震かと思うほど激しく大地が鳴動し、炎に巻き込まれたゴブリンが黒こげになって宙に舞う。村人たちにも容赦なく熱波が襲いかかり、ザムジーはあわてて顔をかばった。
「あなたたちの相手は、この私です!」
 レイリアは足を止めずに村人たちの横を駆け抜ける。
 ゴブリンたちはルーィエの《ファイアボール》で大混乱。この機を逃さず、今のうちに可能な限り数を減らすべきだ。
 愛用の小剣を肩口に構え、狙いすました一撃を放つ。銀光となって突き込まれた剣先は、容赦なくゴブリンの喉を貫いた。
 すぐさま身を翻して向き直り、今度は横薙ぎに一閃。慌てて受けようとしたゴブリンの棍棒を根本から斬り飛ばし、返す刀で首筋を狙う。
 ぞくりとした悪寒を感じたのはその時だった。
 視界の隅に黒々とした闇が映る。考えるより早く体が反応した。反対側に身を投げ出して、地面を二転三転し、距離をとってから跳ね起きる。
 夜空を切り取って浮かべたかのように、不自然な闇がたゆたっていた。触手を伸ばす魔法生物のごとく形を変えて広がりながら、闇はレイリアを押し包もうと迫ってくる。
「司祭、そいつは恐怖を司る闇の精霊だ。普通の武器は通用しないし、少しでも接触すると心が壊されるぞ。できれば触らない方がいい」
 音もなく追いついてきた銀毛の双尾猫が、レイリアに下がるように促した。
「何とかなりませんか?」
 その言葉に従ってじりじりと下がりながら、レイリアがルーィエに尋ねる。
「何とかするのは俺様の仕事だ。司祭はゴブリンどもを牽制して、こっちに近づかないようにしていればいい」
 紫水晶の双眸が闇を貫き、向こう側にいるゴブリンシャーマンを射抜く。
 ただの下等妖魔かと思ったが、なかなか考えてるじゃないか。そう楽しげに呟くと、ルーィエは謳うように呼びかけた。
『ウィル・オー・ウィスプ、輝ける光の精霊よ。汝の力により闇を打ち払え』
 精霊語の呼びかけに応じて、小さな太陽のような輝きが生まれた。
 光を押し包まんとする闇と、闇を貫こうとする光。相反する2つの精霊が、その力を領域を相殺しながら近づいていく。
 そして、光と闇が入り乱れた。生まれて初めて見る精霊たちの演舞。レイリアが慎重に身構える前で、2つの精霊は混ざり合い、やがて溶けるように消えていった。
 ルーィエの魔法とレイリアの剣で半数を失い、残るゴブリンは5匹のみ。
 その中央に守られたゴブリンシャーマンは、闇の精霊が消滅すると、憎々しげにレイリアを睨みつけた。
「人間ヨ。誓約ヲ破ッタノミナラズ、マタシテモ我ラノ邪魔ヲスルカ」
 配下のゴブリンたちは、手に小剣や棍棒を構えているが、襲ってくる様子はない。堅くボスを守ったままレイリアの出方を窺っているようだ。
「誓約だか何だか知りませんが、あなたたちが村を襲うというなら、私は村を守ります。当然のことです」
 小剣を構えたまま、毅然としてレイリアが応じる。
 濡れた犬歯の間から呪詛の呻きをもらすと、ゴブリンシャーマンは憤怒の声を上げた。
「貴様ラ人間ガ誓約シタコトデハナイカ! 我ラガ北ノ神殿カラ手ヲ引ク代ワリ、北ノ森ト、コノ村ヲ我ラニ捧ゲルト! ソノ誓約ノ証トシテ、コノ壷ヲ差シ出シタノデアロウ!」
 妖魔のその言葉に、レイリアは耳を疑った。
 北の神殿から手を引かせる代償として、この村を生け贄に差し出したと、そう言ったのか?
 それではまるで、ターバ神殿がザクソンを切り捨てて保身を計ったように聞こえるではないか。
「そんなの嘘です!」
「嘘デハナイ! ナラバ人間ヨ、コノ誓約ノ壷ヲドウ説明スルノダ!」
 赤、青、黄。派手な原色の羽根を震わせながら、ゴブリンシャーマンが両手で古びた壷を掲げる。
 精緻な装飾と厳重な封印が施された、明らかに人の手による壷。
 口から出任せを言っているようには聞こえない。この妖魔の怒りは本物だ。
 熾烈な糾弾にレイリアが返す言葉を失うと、武器を持った村人のひとりが、弱々しい声で問いかけた。
「レイリア司祭、まさかターバ神殿は本当に……? だから神官戦士団は助けに来てくれなかったのか?」
「馬鹿が、妖魔の口車に乗せられるな! そんなことあるはずないだろうが! 村を襲ったゴブリンの言うことを信じるのか!」
 ザムジーがすぐに若者を叱りつける。
 だが、その言葉がザムジー自身に向けられていたのは気のせいだろうか?
 村の必死の悲鳴にも、神官戦士団はまったく動かず、ターバの冒険者たちも応じようとしなかった。
 ニースがそのような取引を許すとは思えないが、物事の表面だけを見れば、ターバ神殿が保身を計ったように見えなくもない。
 ゴブリンたちの襲撃で家族や隣人を失い、財産を奪われたザクソンの村人たちがどう受け取るか。
 それを思うと、レイリアは村人たちの顔を見ることができなかった。
「マアヨイ。王ハビエラハ倒レ、王国ハ崩壊シタ。最後ノ部下ヲ率イテココニ来タノハ、貴様ラニ裏切リノ報イヲクレテヤル為ヨ。強キ者ドモハ洞窟ニアリ、貴様ラヲ守レル者ハオラヌ。己ガ罪ヲ思イ知ルガイイ」
 そしてゴブリンシャーマンは、壷に施された封印をむしり取ると、空に向かって放り投げた。
「古ノ魔神ヨ! 今ココニ解放セン! 天ニ呪イヲ! 地ニ破壊ヲ! 人間ドモニ等シク滅ビヲ!」
 甲高い音とともに壷が内側から破裂した。
 強烈な風が吹き、漆黒の煙が広がって辺りを覆い隠す。
 黴くさい臭い。
 煙が目に入ると、刺すような痛みとともに涙があふれた。
「のろまども、さっさと逃げろ! こいつはヤバいぞ!」
 ルーィエがめずらしく、せっぱ詰まった口調でザムジーたちを怒鳴りつける。
 剣を持っていない左手で涙をぬぐいながら、レイリアは細目を開けて前を見た。
 黒い煙が、大地をすべるように吹き払われていく。
 そこには見上げんばかりの巨大な怪物が姿を現していた。
 身の丈4メートルはあるだろうか。全身が赤黒い鱗で覆われ、コウモリのような巨大な翼が生えている。
 レイリアなど指1本でひねり潰せそうな強靱な手足。鱗に覆われた長大な尻尾は、ほんの一振りで城壁でも崩してしまいそう。
 腕には鋭い鉤爪が生え、大樹のような脚で直立して、力強く地面を踏みしめている。
 長く伸びた鼻、鋭い牙が並ぶ口など、顔は絵物語で見たドラゴンにそっくりだ。ひとつの胴体から凶悪な頭が2つ、横に並んで生えている。
 言うなれば、二本足で直立した双頭の竜神。
 その、どこまでも深く淀んだ赤黒い瞳が、じっと人間たちを見下ろしていた。
「そんな……魔神……!?」
 レイリアがあえぐ。
 魔神。
 今から30年前、封印から解き放たれてロードス全土を暴れまわり、世界を恐慌に陥れた異界の怪物だ。
「キヒャヒャヒャヒャ! 行ケ! 殺セ! 人間ドモニ裏切リノ報イヲクレテヤルノダ!」
 けたたましく笑いながら、ゴブリンシャーマンが躍り上がって命令する。
 耳障りな奇声にゴブリンたちが同調し、武器を打ちならして囃したてた。力強い味方を得て、形勢逆転だと完全に調子に乗っていた。
『黙れ』
 足下を一瞥した竜の魔神が、牙の間から下位古代語を紡ぎだす。
 鱗に包まれた脚がゆっくりと持ち上がり、次の瞬間、ゴブリンシャーマンの頭上に叩きつけられた。
 重い地響き。
 水袋が破れるような濡れた音。
 赤黒い液体が地面に飛び散り、脚の下からはみ出した腕が小さく痙攣する。
 人間もゴブリンも、その場の全員が息をのんで凍りついた。
 魔神の力に圧倒され、辺りを静寂が支配すると、ふたつの顔が地上を睥睨した。
『我を封印せし者はいずこか?』
 低いうなり声。
 下位古代語を解したのはルーィエだけだったが、普段は不遜な猫王も、今は強大な魔神と目が合っただけで竦みあがってしまった。
 本能が逃げろと悲鳴を上げている。
 この魔神は圧倒的すぎる。戦うなど無謀の極み。存在の大きさが違いすぎるのだ。
『いずこか!』
 もうひとつの頭が、天に向かって咆吼した。
 怒りの声が空気を震わせ、レイリアの全身に鳥肌が立った。
 同じ巨体でも、以前目にしたオーガーとは比べものにならない。
 あの時は、冷静に戦えば勝てない相手ではなかった。だがこの双頭の魔神は違う。レイリアがどんなに善戦しても、竜のごとき腕の一振りだけで、ゴブリンシャーマンと同じ運命をたどるだろう。
「これが、魔神……」
 体が小刻みに震えるのを抑えられない。
 避けられない死を予感して、諦めが胸に広がっていく。
 誰もが同じ思いなのだろう。
 30年前、魔神戦争でどれほどの人が死んでいったか。
 いくつの村が全滅させられたか。
 そして、ニースたちが比類なき英雄として世界中で賞賛され、尊敬と信頼を集めているのはなぜか。
 それを否応なしに理解させられた。
『我は耐えた。幽き牢獄で永き歳月を』
『我は誓った。我を封印せし者に、必ずや復讐を果たさんと』
 左と右の頭が交互に呪詛の言葉を紡ぎ出す。
『再度問う』
『我を封印せし者はいずこか!』
 魔神の怒りの咆吼とともに、強大な尻尾が大地を打ち据えた。下敷きになったゴブリンが2匹、悲鳴も上げられずに冥府の門をくぐる。
 その衝撃で金縛りが解けたのだろう。残った最後の2匹が、武器を捨てて逃げ出した。
 だが。
『汝か!』
『それとも汝か!』
 鋭い鉤爪が襲いかかり、1匹の胴体を引きちぎった。残る1匹には炎の魔法が襲いかかり、劫火の中に焼き尽くしてしまう。
 ほんの一呼吸の間で妖魔を皆殺しにした魔神は、ゆっくりと視線を人間たちに向けた。
「……司祭。逃げるぞ」
「駄目です、ザムジーさんたちを見捨てるわけには」
 低く囁いたルーィエに、レイリアは首を振った。
 武器を持って最後まで踏みとどまった男たちも、今は腰を抜かして魔神を見上げるばかり。このままでは確実に殺されてしまう。
「悪いけどな、ここで司祭に死なれると、あとで俺様が黒いのに殺される。ついでに言えば、黒いのは確実に宮廷に殺されるぞ」
 レイリアの死は、単なる一司祭の死では収まらない。輪廻する“亡者の女王”の解放を意味するのだ。
 それはアラニア王国とマーファ教団にとって、至上命題の失敗と同義。シンが大口を叩いて国王から護衛を請け負った以上、失敗の責任は必ず追求される。
「ですけど……!」
 全身を竦ませるほどの恐怖とそれを上回る義務感、それにシンへの想いの板挟みになって、レイリアは混乱を極め、涙を浮かべてルーィエを見た。
 自分でも分かってはいるのだ。ここで村人の盾になっても、一瞬で殺されてしまうだけだということは。
 自分が死ねば、様々な人たちの献身が無駄になり、取り返しのつかない事態を招くのだということも。
 それでもレイリアには、ここでザムジーたちを見捨てることはできなかった。
 少女が浮かべる苦渋の表情に、ルーィエは盛大に舌打ちした。
 こんな顔を見せられたら、黒いのでなくとも何とかしてやりたいと思ってしまうではないか。
「……要するに、あそこで腰を抜かしてるのろまどもと一緒なら、逃げるんだな?」
 魔神の怒りを目の当たりにして、恐怖のあまり失禁している村人たちを一瞥してから、ルーィエは自嘲気味に口をゆがめた。
「いいだろう。何とかしてやる」
 重い振動とともに竜神の脚が踏み出される。
 もう時間がない。あれがここに届いたときが自分たちの死ぬときだ。ルーィエは縮みあがりそうになる自分自身を叱咤し、ほとんど自棄になって叫んだ。
『戦乙女よ、お前の槍で敵を討て!』
 純白に輝く透き通った美女が、ルーィエの頭上に姿を現す。手に槍を携え、羽根飾りのついた兜と古風な甲冑をまとった勇気の精霊だ。
 戦乙女の底なしに冷たい目が双頭の魔神を射抜くと、光の槍が白銀の奔流となって襲いかかった。
 これは対個人用として最高威力の魔法だ。いかに魔神といえども、当たればただでは済まないはず。
 だが、ルーィエの視線の先で、双頭の魔神は薄笑いを浮かべた。
『これしきの魔法など』
『我には効かぬ』
 魔神が鱗に覆われた腕を無造作に振る。
 ただそれだけで、乾いた音がして光の槍がはじき散らされた。
「んな……ッ」
 首の1つ、腕の1本くらいもぎ取ってやる心算だったルーィエが、あまりのことに絶句してしまう。
 渾身の一撃をあっさりと無効化されて呆然とするルーィエに、魔神の竜頭がにやりと笑った。
『小さきものよ、汝を敵と認めたぞ』
『死ね』
 次の瞬間、ルーィエのいた場所に鉤爪が叩きつけられた。
 轟音とともに大地が陥没する。
 隣に立っていたレイリアの頬を魔神の鱗がかすめ、細い傷がついた。
 いつの間にここまで近づいたのか。
 魔神の強靱な腕が自分のすぐ横にあるというのに、レイリアは前を向いたまま、視線すら動かせなかった。
『逃げ足だけはそれなりよな』
『せいぜい足掻くがよい』
 レイリアの頭上で、魔神が愉快そうにつぶやく。
 首のひとつが視線を巡らし、俊敏な動きで回避したルーィエを追った。
「司祭! 今のうちだ、逃げろ!」
 全力でジグザグに疾走しながら、ルーィエが叫ぶ。
 反射的にレイリアが目を向けると、今度はそこを魔神の尻尾が薙ぎ払った。
 攻撃を捨てて防御に徹したルーィエは、紙一重で何とかかわしながら、広場の向こうへと逃げていく。
 事ここに至って、レイリアにもルーィエの意図が理解できた。魔神を自分に引きつけ、レイリアと村人たちが逃げ出す隙を作ろうとしているのだ。
 この時間を無駄にはできない。
 レイリアは神官衣をひるがえして村人たちに駆け寄った。
「立ってください! 早く!」
 だが村人たちは動けない。
 あまりにも次元の違う力を目の当たりにして、完全に心を折られていた。
 ゴブリン相手に勇戦したザムジーやライオットでさえ、魂が消し飛びそうな恐怖に腰を抜かしているのだ。地面に失禁の染みを広げた若者たちは、ただ呆然と座り込むことしかできない。
 初めてオーガーと対峙し、何もできずに立ち尽くしていたレイリアと同じだ。
 シンやライオットの目には、あの時の自分はこう見えていたのだろうか。
 そう思えば村人たちを一方的に責めることはできないが、今この瞬間はルーィエの危険を代償に流れている時間なのだ。
 レイリアは焦りと苛立ちを抑えきれず、ザムジーの頬を平手で張りとばした。
「目を覚ましてください! 今は呆けている時ではありません!」
 口を開けていたザムジーの顔に、意志の力が戻ってくる。
 何も映していなかった目に焦点が戻ったのを見ると、レイリアはザムジーに手を貸して立ち上がらせた。
「怖いのは分かります。でも、今は走らなきゃいけない時なんです。ライオットさん、あなたも。できますね?」
「……ああ、分かった」
「やるしかない」
 ザムジーとライオットがうなずく。
 そして、手分けして残る若者たちを叱咤していると、背後で再び炎が上がった。熱波と轟音が背中を叩き、レイリアが反射的に振り向く。
 右腕を突き出して直立した魔神が、黒く焼け焦げた地面を見下ろしていた。
 すばしこく逃げ回るルーィエに業を煮やして、炎の魔法を使ったのだ。
 ということは、魔神の視線の先、体毛から煙を上げて横たわる小さな影は。
「ルーィエさん!!」
 レイリアの悲痛な叫びに、その影は弱々しく震えながら顔を上げた。
「逃げろ……司祭……」
 口は悪いが常に他人を気遣い、甘やかすことなく進むべき道を示してきた銀毛の猫王。
 彼が今、窮地に追いつめられている。
 牙をむき出しにして嘲う魔神が、もう一度だけ腕を振るえば、そのときがルーィエの最期だ。
『我を幽き牢獄に封じ』
『我に永き絶望を与えた罪』
 ことさらにゆっくりと、魔神がルーィエに歩み寄る。
『汝の命を以て』
『償うがよい』
 このままでは殺される。
 あのルーィエがいなくなってしまう。
 そんなことは、絶対に許容できない!
 そう思ったとたん、恐怖と焦りで余裕のなかった心から、不意に漣が消えた。
 視線はまっすぐ魔神に向けたまま、傍らの村人たちに別れを告げる。
「私はもう手伝えません。何とかみんなで逃げてください」
 自分でも驚くほど平坦な声が出た。
「レイリア司祭、あんたも一緒に」
「できません」
 レイリアの脳裏に、ピート卿の屋敷での惨劇がよみがえる。
 父と母の献身で救われた命。
 邪教の司祭の思うがままに蹂躙され、ただ守られるだけだった自分。
 あんな思いをするのはもうまっぴらだった。
「今度は私が守る番です。今ここでルーィエさんを見捨てたら、私はきっと自分を嫌いになってしまいます」
 もしここで生き残っても、ルーィエを犠牲にして逃げた命では、シンの顔を見ることなどできはしない。
 彼の前で恥じない自分自身でありたい。シン・イスマイールの隣に立つにふさわしい女性でありたい。
 だったら、進むべき道はひとつしかないではないか。
 もしも人生に、勝てないと分かっていても戦うべき時があるなら、それは今をおいて他にない。
「みなさん、どうかご無事で」
 レイリアは小剣を握りしめると、神官衣の裾をさばいて駆けだした。
 一直線に。ルーィエのところへ。
 魔神の首のひとつが視線を巡らせ、レイリアを見下ろす。ただ見られただけなのに、重いプレッシャーを感じて冷たい汗が噴き出した。
「今度は私が相手です!」
 大声とともに内心の恐怖を無理やり吐き出して、レイリアはひたすらに走った。
 とにかく何とかして一撃をかわす。そしてルーィエに癒しの魔法をかけるのだ。今ならまだ間に合う。
 その後のことは、その後だ。
『弱き人間よ』
『邪魔だてするなら汝から殺すぞ』
 吐き捨てるような声。レイリアに下位古代語は解らないが、相手が気分を害したことだけは十分に理解できた。
 ルーィエに止めを刺そうとしていた双頭の魔神が、ゆっくりとレイリアに向き直る。
 不可視の重圧が激増した。
 空気が震えそうなほどの殺気を浴びて、自分の体が思い通りに動かなくなる。破滅に向かって進もうとするレイリアに、体と心が悲鳴を上げて抗っているのだ。
 ほんの一瞬だけ上を向けた視線が、自分を見下ろす魔神と交錯した。
 底なしの憎悪と闇を宿した目。
 肌がぞくりと粟立ち……反射的に身を投げ出したレイリアのすぐ脇に、長大な尻尾が打ち下ろされる。
 轟音と地響き。
 土煙が舞い上がり、一瞬前までレイリアがいた場所を赤黒い鱗が叩き潰していた。
『よくぞ避けたものよ』
『なれど、これで終わりだ』
 魔神の竜頭が牙を剥き出しにして嘲った。追いつめた獲物をいたぶる肉食獣のように。
 地面に転がったままでは、次の一撃は避けられまい。そんなことはレイリアにも分かっている。
 だがこれで十分だ。ここからルーィエまで10歩もない。
「マーファよ! 勇敢なる猫族の王に癒しを!」
 レイリアは神に祈りながら、右手をまっすぐルーィエに伸ばした。
 癒しの奇跡が大地を通じ、焼け焦げた銀色の毛皮を優しく包む。
 暖かな光を全身に浴びて、瞳に覇気をみなぎらせた猫王が跳ね起きた。
「無茶しやがって。命を粗末にするにも程がある」
「お互い様です。ルーィエさんに万一のことがあったら、ルージュさんが悲しみますよ」
 苦しまぎれの小細工に苛立ちを露わにする魔神の足下で、いつもどおりの微笑を浮かべる。
 これが最後でも後悔はしない。自分にできることをやり遂げたのだから。
 シンには申し訳ないことをしたが、きっと彼なら褒めてくれるだろう。
 竜頭の魔神が巨大な鉤爪を振りかざすのを、レイリアはまるで他人事のように見上げた。
「司祭! 諦めるな! 立て!」
 毛を逆立てたルーィエが、少しでも気を引こうと《ファイアボール》の呪文を唱える。魔法は魔神の頭部に命中し、上半身を紅蓮の炎で包んだが、魔神は煩わしげに首を振っただけだった。
『愚かな』
『汝ごときの力など通じぬ』
 銀毛の双尾猫など一顧だにせず、容赦なく鉤爪を打ち下ろす。
 うなりをあげて迫る死の影に、思わずレイリアが目をつむった瞬間。
「させるか!」
 唐突に叫び声が聞こえた。
 頭上で壮絶な金属音が響く。
 レイリアを引き裂くはずの衝撃は、いつまでたっても襲ってこなかった。
 おそるおそる目を開けると、目の前に白銀の甲冑が立ちふさがっていた。魔神の一撃を避けるそぶりもなく、凧型の大盾をかざして真正面から受け止めている。
「だああああッ!」
 全力で押し合いながら、戦士が吼えた。鉄靴がくるぶしまで大地にめり込む。
 相手は全高4メートルを超える巨体である。破壊力といい重さといい、本来なら人間に耐えられるような打撃ではないはずだ。戦士も全身の筋肉が一瞬で膨張し、限界を超えた腕から血がしぶいた。
 だがそれでも、戦士は歯を食いしばってレイリアを守りきった。守るということに特化した存在である以上、己の誇りと存在意義に賭けて、これだけは絶対に譲れない一線だった。
「ライオットさん!」
 レイリアが目を見開く。
「悪かったな、シンじゃなくて」
 背中で守った少女をちらりと見て、ライオットがにやりと笑う。まるで余裕のない苦しそうな声だったが、そこには役目を成し遂げた男の誇りがにじんでいた。
 まさか防がれるとは思っていなかったのだろう。双頭の魔神は鉤爪を振り下ろした姿勢のまま、驚愕のあまり固まっている。
 そのわずかな静寂に、玲瓏な声が割り込んだ。
『万能なるマナよ! 破壊の炎となれ!』
 次の瞬間、ジェットエンジンのような轟音とともに激しく明滅する何かが飛来し、竜頭のひとつに炸裂した。
 席巻する炎が純白の華を咲かせ、高熱のあまり景色が歪む。
 今まで聞いたこともない、空気が焦げる鋭い音。
 業火の向こうで魔神がのたうち、苦悶の絶叫が上がった。
「これはルーィエを可愛がってくれたお礼。人間が創る炎の味はどう? あなたのとはひと味違うでしょ?」
 余裕たっぷりに嘲弄するルージュの左手から、最高級の魔晶石が粉となって散っていく。
 カーラに教わったとおり、極限まで緻密に組み上げた構成の代償だ。ルール的に言えば拡大10倍消費、達成値+9という乾坤一擲の魔法である。
 炎は赤いものというフォーセリア世界の常識すら覆した構成。イメージしたのはアセチレンだ。金属溶接にも使われる酸素アセチレン炎の燃焼温度は3330℃。魔神がどれほど頑丈だか知らないが、これに耐えられる道理はない。
 レーティング表を一回転したルージュの《ファイアボール》は、ダメージ+14という非常識な魔力を乗せ、文字どおり会心の一撃となって魔神を焼き尽くした。
 純白の炎が消え去ると、魔神の首のひとつは跡形もなく消滅していた。かろうじて残ったもうひとつの頭も、鱗が融けてケロイド状に垂れ下がっている。
「ああ、ごめん。頭を消し飛ばしちゃったら、味なんか分かるわけないよね」
 肩までの銀髪と漆黒のローブを爆風になびかせ、紫水晶の瞳が冷酷に光る。
 相棒たるルーィエを傷つけられて、内心の怒りは沸点をはるかに超えていた。舌鋒にも魔術にも情け容赦がない。
 普段ライオットに見せる冷たい微笑など、ルージュにとっては遊びでしかないのだ。
『おのれ、おのれおのれおのれ! 人間ごときが!』
 2つに減った瞳に憤怒と憎悪を浮かべ、魔神が咆吼した。不遜なる人間どもを殲滅するべく、右腕を振り上げて鉤爪を光らせる。
 とりあえずの標的は、足下で盾を構えている男だ。この盾は実に目障り。上位魔神たる自分を次元の牢獄に幽閉した、500年前の魔術師どもと同じ臭いがする。真っ先に冥界へ送ってやらねば気が済まない。
 そのとき、追い打ちをかけるように声が響いた。
「残念、まだこっちのターンだ!」
 漆黒の影が戦場を疾駆する。魔神の死角、失われた頭部の側から肉薄し、音もなく跳躍。
 精霊殺しの魔剣が燐光を引き、三日月型の軌跡を描いて残された首に襲いかかった。
 魔神が驚愕の表情を浮かべたが、もう遅い。人の限界を極めた剛速の斬撃は、堅固な鱗をものともせずに切り裂き、最後の首を空高くはね飛ばしていた。
 黒ずくめの剣士が軽やかに舞い降り、魔神の首は地響きをたてて地面に落ちる。
 勝者と敗者の明白な差異。
 ただの一撃で完璧な勝利を演出した“砂漠の黒獅子”に、レイリアは言葉もなく見とれていた。
 あれほどの猛威をふるった魔神を、反撃も許さずに倒してしまうとは。いったいどれほどの才能を開花させたのだろうか。
 ザムジーたちもしわぶきひとつ立てずに注目する中。
「ごめん。また遅くなった」
 シンは横たわったままのレイリアに歩み寄ると、申し訳なさそうに手を差し出した。
「い、いえ。とんでもありません」
 我に返ってその手を取り、レイリアがあわてて立ち上がる。
 そのまま引き寄せられてシンの胸に手をつくと、レイリアは複雑な思いで黒い瞳を見上げた。
 シンがまた自分助けてくれたという事実は、レイリアにとって歓喜以外の何物でもない。
 だが、危険にさらしたものの大きさを思うと、無条件に喜んではいけないような気がした。緩みそうになる頬を意志の力で引き締め、努めて冷静に答える。
「私の方こそ、無茶をしてしまいました。シンが来てくれなければ今ごろ─」
 そのとき。
「シン!」
 ライオットの鋭い叱声が叩きつけられた。
 間髪入れずに大気が重くうなり、立ちふさがったライオットが大盾をかざす。
 首を両方とも失ったはずの魔神が、まるでダメージを感じさせない動きで鉤爪を打ち下ろしたのだ。
「そんな……」
 常識ではありえない事態に、レイリアが蒼白になってあえぐ。
 まるで破城槌のような一撃。
 ライオットが両足を踏ん張り、歯を食いしばってそれを受けた。魔法の盾すらも軋むような重い打撃に、殺しきれなかった呻きがもれる。
 先ほど傷ついた腕から再び血が噴き出し、袖を内側から赤く染めた。
 背後に庇った仲間や村人たちを守るため、攻撃を回避せずにわざと受けているのだ。
 相手はモンスターレベル11の上位魔神である。いかにライオットといえども、そう何度も耐えられるものではない。
「悪い。こいつを甘く見てた」
 シンが瞬時に黒獅子の顔に戻り、身を翻してライオットの横を駆け抜ける。
「気にするな。俺もだ」
 渾身の力で押し返しながら、ライオットが突撃するシンに苦笑を返した。
 背後からはルージュが新しい呪文を詠唱する声も聞こえる。2ターン目の攻防。先手こそ敵に許したが、今度はこちらの番だ。
 魔神は“勇気ある者の盾”の魔力に拘束され、シンやルージュの動きにはまったく反応を示さない。いや、目も耳も失った状況では、そもそも認識できないのか。
 いずれにせよ、この状況でそれは致命的だ。“砂漠の黒獅子”と“奇跡の紡ぎ手”を自由にさせて、ただで済むはずがない。
 それぞれが己の為すべきことを成しながら、完璧な連携を見せる仲間たち。趨勢は定まったも同然だ。
 精霊殺しの魔剣が一閃。肘から魔神の腕を斬りとばすと、ライオットの盾から圧力が消えた。
 もし首が健在だったら、さぞや盛大な悲鳴を上げたことだろう。
 そんなことを考えながら、ライオットは隙なく身構える。油断は一度で十分だった。
 考えてみれば、魔神の中には全身をバラバラに切断されてなお、寄り集まって復活するような者までいたのだ。胴体だけで動く程度の芸当は驚くに値しない。
 案の定、魔神は巨大な尻尾をしならせた。今度は辺りを横薙ぎにするつもりだ。
 上からの打撃なら地面で支えられるが、水平に来る衝撃には堪えきれない。単純な質量差が招く現実。
 このままだと盾ごと吹き飛ばされる。避けるか、流すか。ライオットが慌ただしく計算していると、背後でルージュの魔法が完成した。
『雷よ!』
 青白い竜が咆吼し、うねりながら魔神に襲いかかった。
 直視できないほどの閃光を発しながら、電撃の怒濤が問答無用で魔神を飲み込む。
 つんざくような雷鳴。
 稲妻が鱗にはじけて青い火花を散らし、蹂躙された筋肉組織が激しく痙攣する。
 ほんの一呼吸ほどで雷の魔法が駆け抜けると、後には全身を焼かれ、黒い煙をくすぶらせる魔神が無防備に立ち尽くしていた。
 追い打ちをかけるなら今だ。
 本能的に察したライオットに呼応するように、シンがたて続けに斬撃を打ち込んだ。
 脚を、腕を、尻尾を、当たるがさいわい徹底的に斬り裂いていく。
 膝から下を失って魔神の巨体が崩れた。
 とどめとばかりにルージュの魔法が降り注ぎ、爆炎が天高く噴き上がる。
 もはや魔神に反撃する手だてはない。あとは一方的な展開だった。
 死に対する絶対の耐性を与える禁呪《ワードパクト》を警戒して、シンたちの攻撃は徹底を極めた。
 四肢を失った魔神をさらに剣で切り刻み、炎で焼き、聖なる光の戦鎚で叩き潰す。情け容赦のない蹂躙戦。端から見れば、凄惨としか言いようのない光景だろう。
 だが、手を弛めることはできない。
 自分たちが手を抜けば、その代償は村人たちが払うことになる。血まみれになって横たわっていたシノンの姿を思い出せば、目の前の魔神を誅滅することにためらいなどなかった。
 複数の手段で死体を細切れにし、すり潰し、ルージュの《ディスインテグレート》で塵にまで分解して、戦いはようやく終わりを迎えた。 
「ま、こんなもんでいいだろ」
 精霊殺しの魔剣を一振りして鞘に収め、シンが仲間たちを振り返る。
 モンスターレベル11の上位魔神を、単独で完封してみせたライオット。
 強大な魔法を連発し、消耗して蒼ざめた顔のルージュ。
 命を賭して互いを守りきったレイリアとルーィエ。
 このロードスという世界で、誰よりも信頼に足る仲間たちだ。
「レイリアさん、本当にありがとう。ルーィエを守ってくれて」
 ルージュが深々と頭を下げた。
「そんな、とんでもありません。私の方こそ、ルーィエさんや皆さんに助けられたんです」
 恐縮したレイリアがあわてて手を振る。
 だが、顔を上げたルージュは首を振った。
「それは事実。だからレイリアさんもルーィエやライくんに感謝していいよ。だけどその代わり、私の感謝も受け入れてもらわないとね」 
 そしてにこりと笑い、レイリアの手を取る。
 ルージュのこんな顔は初めて見た。感謝と喜びにあふれた、まるで太陽のように暖かい表情だった。
「だって、それが仲間ってものでしょ」
 こっそりと魔法で自分の傷を癒したライオットが、違和感の残る腕を振りながらシンに言った。
「とりあえずさ、なんで魔神がいたのかとか、ゴブリンはどうなったとか、そういう事情聴取は後回しだ。お前もレイリアに言いたいことがあるんじゃないか?」
 にやりと意味ありげに笑うライオットに、シンが堂々とうなずく。
「当たり前だ」
 黒衣の獅子がレイリアに歩み寄ると、ルージュが気を遣って1歩下がった。
「レイリア」
「はい」
 頭ひとつ高いところにある黒い瞳を、レイリアが緊張気味に見上げる。
 亡者の女王を宿した身でありながら、自分の死を軽く考えすぎだと怒られるのか。それとも、シンの留守を守り抜いたことを褒めてくれるだろうか。
 そんな思いで表情をこわばらせるレイリアに、シンが手を差し出す。
「ごめん。また遅くなった」
「そこからかよ」
 思わずつっこんだライオットに、全員の笑い声がはじけた。
 戦闘や凄惨な処理で蓄積した緊張と疲労が、それだけで嘘のようにとけていく。
「何だ、文句あるのか?」
「それはもういいんだよ。ギャラリーはもっと色気のある展開を期待してるんだ。それこそ、体が痒くなって耐えられないような」
「お前の言ってることは訳が分からない」
 呆れてため息をつくシン。
 すると、にこりと笑ったレイリアが、ためらいもなくシンの胸に寄り添った。
「私は褒めてほしいです、シン。よく頑張ったって」
 真銀の鎖帷子に頬を埋め、ねだるようにささやくレイリアに、シンの顔が一瞬で紅潮する。
 華奢な肩を抱こうとして果たせず、シンの手はむなしく宙をつかむばかり。公衆の面前で抱きつかれて、完全に思考がフリーズしていた。
「ほらリーダー、しっかりしてよ」
 ルージュがその手を叩き、レイリアの肩に落とす。
「信じてました。シンならきっと来てくれるって」
「レイリア……」
 ようやく形になったふたりに満足すると、これ以上の精神攻撃はごめんだとばかり、ルージュとライオットが視線をそらす。
 最後まで残っていた村の男たちも、冒険者たちの様子を見て、危機は去ったと理解したのだろう。
 失禁で濡れたズボンを互いに冷やかしながら、興奮した様子で今見た戦いについて語り合っている。
 少し情けないような気もするが、彼らは大混乱に陥った村を救おうと武器を取った勇者なのだ。最後までこの場に踏みとどまり、一部始終を見届けたのだから、勝利の余韻を共有する資格くらいあるだろう。
 そんな思いで若者たちを眺めていたザムジーは、ふと、談笑を続ける冒険者たちを振り向いた。
 村の若者たちを勇者と認めるなら、彼らは勇者という言葉では足りない。村を救うという結果も残したのだから。
 だったら、ふさわしい称号は。
「なあライオット。ああいう奴らを、きっと“英雄”って呼ぶんだろうな」
 隣にいた相棒に小声でつぶやく。
 すると、大斧をかついだ無口な巨漢は、めずらしく熱のある口調で言った。
「30年前、ロードスに跳梁した魔神を退治した勇者たちは、“魔神殺し”(デーモン・スレイヤー)と呼ばれたそうだ。彼らもそう呼べばいい」
 どうやら、ザクソンのライオットも興奮しているらしい。
 それが少しだけおかしくて、ザムジーは小さく笑った。
「なるほど。そいつはぴったりの呼び名だ」
 そして、少しだけまぶしそうに冒険者たちを見つめる。
 ゴブリンは自滅し、魔神も倒れた。もう村を襲う妖魔は残っていない。
 今度こそ、これまでと同じ日常が帰ってくるだろう。
 長い戦いの日々に終止符を打った、4人と1匹の若き英雄たち。
 村人たちが見つめる中、英雄たちの笑声は平和の到来を告げる狼煙となって、ザクソンの空に響いていった。



 シナリオ4『守るべきもの』
 MISSION COMPLETE
  獲得経験点
   上位魔神ラグアドログ(モンスターレベル11)
   11×500=5500点




[35430] インターミッション4 ライオットの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:12
インターミッション4 ライオットの場合

「痛え。誰かが本気で殴るもんだから体中ガタガタだ」
「アホか。先に手を出したのはお前の方だろ」
 壮絶な殴り合いの果て。
 ルージュに容赦なくこき使われ、全部の皿を洗い終わって片付けまで済ませてから、ライオットとシンはようやく宿に戻ってきた。
 剣を棚に立てかけると、崩れるようにベッドに身を投げ出す。
 色々とありすぎて、精神的にも肉体的にも疲労困憊した1日だった。
 明日は鍾乳洞の再探索の予定だ。早く寝て体調を整えなくてはならない。十分すぎるほどに分かっているのだが、ふたりにとって今日のメインイベントはこれからだった。
 横になったまま、うす汚れた天井を見上げて、ライオットがぽつりと言った。
「マイリーの声を聞いたんだ」
 無言で続きをうながすシン。
「見極めて答えを出せと言われた。俺にとって勇気とは何か。戦いとは何か。倒すべきものは、守るべきものは何か。どうやら、俺にはそれが分かってないらしい」
 ロードスに来てすぐの頃、シンがライオットに教養された内容そのままだ。
 この期に及んで悩みの内容がそれとは。警察官として出した結論では、やはりこれ以上戦えないということか。
「で? 勇気ってのは虚勢とやせ我慢じゃダメなのか?」
 シンがいささか皮肉っぽく尋ねると、ライオットはため息をついた。
「自分より相手が強ければ、それで合ってると思うんだけどなぁ」
 ゴブリンに乱暴され、血まみれで倒れているシノンを見たときの想い。自分よりはるかに弱い相手を虐殺しようという決意を、何と呼べばいいのだろう。
 胸にもやもやとしたものが立ちこめてきて、ライオットは大きく嘆息した。
 まったく、ゴブリン退治とは世界で一番簡単な依頼だと思っていたが、とんでもない。これなら邪教の司祭と戦っている方がまだ気が楽だ。
 それからライオットは、脈絡もなく、思いつくままに内心を吐露していった。
 ぽつりぽつりと続く話に言いたいことは山ほどあったが、シンは黙ってそれを聞き続ける。
 どうやら問題は、勇気がどうとか戦いがどうとかいうマイリーの宿題ではないらしい。
 要するにライオットには、敵を殺戮する自分というものが許容できないのだ。
 話が一段落すると、シンはようやく口を挟んだ。
「やっぱりゴブリンは殺したくないか」
「まあな」
「だったら、どんな相手なら殺したい?」
 あっさりと尋ねるシン。
 思わず絶句したライオットに、シンは言葉を続けた。
「王都ミッションの時、ラスカーズが言ったんだ。俺があいつを殺せないのは甘いってさ。お前も俺が甘いと思うか?」
 レイリアを付け狙う邪教の司祭、ラスカーズ。
 ピート卿とイメーラ夫人を斬り、レイリアをなぶり、シンをも敗北の一歩手前まで追いつめた邪悪きわまる男。
「あの時は、深追いすればこっちもただじゃ済まなかっただろう。司祭長とやらも出てきたし、ラスカーズを見逃すのはやむを得ない結論だったと思う」
「ごまかすな」
 シンは上体を起こすと、まっすぐに親友を見た。
 漆黒の瞳に見下ろされて、ライオットが決まり悪そうに視線をそらす。
「分かってるんだろ? 現実から目をそらすな。俺はラスカーズに一太刀あびせて無力化していた。お前の相手をしてたでかいのも、ルージュの《ライトニング・バインド》に拘束されて身動きできなかった。俺たちは一撃で奴らを殺せたんだ。でも殺さなかった。それをどう思うかと聞いてるんだ」
 容赦のない舌鋒が、ライオットの古傷をえぐり出す。
 あのとき感じた矛盾と苛立ちを思い出して、ライオットは深々とため息をついた。
「そうだな……」
 自分でもよく分からないうちに問題をすり替えていたらしい。
 そうだ。アンティヤルは自分より強かった。だが、それでも自分は相手を殺すことを躊躇したのだ。
 認めなければならないらしい。
 自分は、相手が誰だろうと『殺す』という行為が嫌いなのだ。
「分かった、認める。甘い。甘かったよ俺は」
 ライオットは肩をすくめると、ベッドから身を起こして窓辺に歩み寄った。
 真夏の夜。窓が1つしかない部屋では風が吹き抜けることはないが、それでも、窓辺にはいくらか涼しい空気が流れ込んでくる。
「頭では分かってた。あいつはあの瞬間に殺すべきだった。ルージュの魔法はすぐにバグナードに解呪される。次のチャンスはないかもしれないってな。ゴブリンの時も同じだ。ここで逃がせば村人が襲われるかもしれないって分かってた。だけど殺せなかった。俺の甘さだ」
 胸の中のもやもやを言葉にして吐き出してしまうと、いくらか気が楽になった。代わりに外の空気を吸い込んで、不愉快な何かを少しでも薄めようとする。
 そんなライオットを見て、シンは小さく笑った。
「俺はそうは思わないな。お前は甘くなんてない。正しかった。何も間違えてなかった」
「…………」
 まさか自分を肯定されるとは思っていなかったライオットが、驚いてシンを見返す。
「もちろん俺もだ。俺は相手を殺すために戦ってるんじゃない。殺さなきゃ『甘い』呼ばわりされるなら、俺は甘くて結構だ。俺がどうするかは俺が決める。他人に口出しはさせない」
 戦うとはどういうことか。
 己の剣と力は何のためにあるのか。
 その答えに揺るぎなく立ったシンは、いささかの迷いもなく、まっすぐにライオットを見つめていた。
「今さら言うまでもないけど、俺はレイリアを守るために戦ってるんだ。見知らぬ他人なんてどうでもいい。正義とか平和とかを守ろうとも思わない。俺に守れるものは、この剣の届く範囲のものだけだからな」
 シンはそこまで言うと、棚に立てかけた精霊殺しの魔剣に手を伸ばした。
 魔剣は軽い音を立てて鞘走り、純白の燐光を発した刀身が姿を現す。
 磨きあげられた刃をランプの明かりにかざして、シンは言葉を続ける。
「だから、俺はレイリアを離さないよ。彼女が俺の隣にいる限り、敵が誰だろうと絶対に守りきってみせる。レイリアに剣を向ける奴がいたら、その時は、相手が誰だろうと俺はためらわない」
 刀身に映る自分自身に誓うように、シンは力強く断言した。
 ラスカーズのような殺人狂の変態でもない限り、相手の命を奪うというのは不愉快な行為だ。それでも相手の血に手を染めるのは、それ以上に価値のある何かを守るためでしかない。
 己の身を危険にさらし、様々なリスクに身を投じてでも守りたいものは何なのか。
 その答えが見えないうちは、戦いなど苦痛でしかない。
「あの日、スーヴェラン卿の屋敷で戦ったとき、俺はラスカーズを殺さなかった。ラスカーズが襲ったのは俺であってレイリアじゃなかったからだ」
 他人が聞けば、ラスカーズがレイリアを狙っているのは確実なのだから、シンの論理は詭弁だと言うかもしれない。 
 だがシンにとっては、レイリアを現に差し迫った脅威から守るという切迫性が、相手を殺すためには絶対必要な要素だった。
 守るのが自分だけであれば、ラスカーズごとき10回戦って10回勝つ自信がある。わざわざ殺すほどの相手ではないのだから。
「結論から言えば、相手を殺さなかったっていう俺とお前の行動は同じに見える。だけど理由は全然違うんだ。なぜなら、俺たちは戦う理由が全然違うからだ」
「戦う理由、か……」
 ライオットにとっては、漠然として言葉にできないもの。
 シンはそれを明確に認識して、自分と親友の差異さえも理解しているらしい。
「お前が戦う理由はさっき言ったとおり。警察官だから犯罪者を許しておけないのさ。だから見知らぬ他人のためにも戦える。シノンの怪我にも責任を感じてしまう。けど犯人と犯人じゃない奴を明確に区別するから、シノンを襲ってないゴブリンは傷つけたくない。洞窟で戦ったときは、襲ってきたのが向こうだから反撃はできたけど、相手が逃げ出したら追撃はできない。日本の警察官は、逃げる犯人の背中には発砲できないことになってるからな」
 シンは歯切れのよい言葉でライオットを評価していく。
 今までもやもやして形にならなかった内心が、シンの言葉ではっきりとした輪郭を与えられて、ライオットの中でどんどん整理されていった。
 オーガーの前では足に根を生やして硬直していた民間人のSEが、今では自分の前を歩いているのか。
 ふとそう思って、ライオットはようやく自分の増長を認識した。
 さっきシンが言ったとおりだ。心のどこかで、自分はシンやルージュを『守るべきもの』だと決めつけていたのではないか?
 この世界にもっとも適応できないのが自分なのに、何と烏滸がましいことだろう。
「つまり今の俺は、犯人を逮捕するために戦ってるってことか……」
 シンの言葉を咀嚼して、ライオットはそう結論づけた。
 相手を捕らえて官憲に突き出すという意味ではない。
 戦うに当たって自分で決めた交戦規定が、警察官職務執行法の範囲を1歩も出ていないということだ。
 よくよく思い出してみれば、ライオットが今まで殺した相手はオーガーとゴブリンのみ。その状況も、『自己もしくは他人の防護』という、正当防衛に当てはまる場面に限定されていた。
 これでは、東京での警察官としての活動と何ら変わらない。
「そうなるのかな。あともうひとつ俺が言いたいのは、お前が全部自分でやろうとしすぎるってことさ」
 シンは精霊殺しの魔剣を手に持ったまま、ベッドから一挙動で起き上がった。
 ライオットの前を通り過ぎ、壁に立てかけてあった魔法の大盾に歩み寄る。
「警察官だったら、盾になって民間人を守るのも、戦って犯人を逮捕するのも、全部自分でやらなきゃいけないんだろうけどさ。今ここにいる“ライオット”は、警察官として生まれたわけじゃないだろ?」
 シンはそう言って、ライオット愛用のカイトシールドに左手を伸ばした。
 革を巻いて握りやすくしたグリップには手垢が付き、黒ずむほどに使い込まれている。今まで幾多の強敵から仲間を守り抜いてきた歴戦の防具。
 これこそがライオットというキャラクターの象徴だ。
「思い出せよ。お前がライオットを創ったとき、目指したものは何だった?」
 キャラクターメイクで他のPCから借金をしてまで、プレートメイルとラージシールドにこだわったのは何故か。
 レイド帝国の滅亡を巡るキャンペーンで、聖堂騎士団のエースとして与えられた異名は何だったか。
 忘れるはずもない。
「……“不敗の盾”だ」
 ライオットが低く答える。
「俺たちパーティーを1人の人間だとすれば、剣を持つ右手じゃなく、盾を持つ左手になりたかった。どんな強敵が来ても仲間を守れる、不敗の盾に」
 だから重装甲で身を鎧った。
 シンが両手武器で打撃力を上げるのとは対照的に、回避力と防御力を上げることに専念した。
 GMに魔法の武器と魔法の盾どちらが欲しいかと聞かれ、迷わず盾を選択した。
 崩れざる壁となるために、回復魔法を求めてプリースト技能を上昇させた。
 すべては必然の上に乗った成長だったのだ。
「そうだよな。俺たちはずっとそうやって戦ってきたんだ。お前が敵の攻撃を遮断している間に、俺とルージュとキースの3人がかりで粉砕する。俺たちは4人でひとつだった」
 シンたちはライオットの防御力を信じて攻撃に専念し、ライオットはシンたちの打撃力を信じて防御に専念する。
 皆が互いを信頼し合っていたから、それぞれが全力で役目に集中できた。
「だけど今は違う。お前は俺たちを信じてない。“不敗の盾”としてシンやルージュを守るんじゃなく、“警察官”として桧山伸行や井上喜子を守ってる。未だに俺たちの保護者のつもりなんだ。だから何から何まで面倒を見ようとする」
 右手に精霊殺しの魔剣を。
 左手に魔法の大盾を。
 それぞれ構えて、シンはライオットに向き直った。
「お前がやろうとしてるのはな、この盾で攻撃を受けて、この盾で敵を倒すことだ。それでうまく敵が倒せなくて、盾の使い方が悪いんじゃないか、盾の覚悟ができてないんじゃないかって悩んでるんだ」
 右手の剣をだらりと下げたまま、シンは左手の盾を高く掲げた。
 斬撃を受け、敵を殴り、また受け、また殴る。
 左手一本で激しい演舞を繰り返しながら、シンはライオットに燃えるような視線を向けた。
「これが今の俺たちだ。どうだ、うまく戦ってるように見えるか? もしそうなら、右手の剣の立場はどうなる?」
 そして動きを止めると、シンはライオットに盾を放り投げた。
 相手が無言で盾を受け止めると、ことさら静かに問いかける。
「お前さ、役目を代わってくれって言ったらどうする? レイリアが一列目に出て、その盾でラスカーズやアンティヤルの攻撃を防ぐって主張したらどうする?」
「そんなことできるわけないだろ。危険すぎる」
 むっとしてライオットが答えた。
 守るべき対象を最前線に出すなど、議論にすら値しない。仮定の話としてもナンセンスだ。
 すると、シンは小さく口許を歪めた。
「そうだよな。普通はそう思う。けどな、それを、盾に隠れて全力防御ばかり、楽をしてて申し訳ないって言った奴がいるんだ! ふざけんな!」
 何の前触れもなく純白の刀身がひるがえり、ライオットに襲いかかった。10レベルファイターの完全な奇襲。速度といい重さといい、相手がラスカーズ程度なら首を取れる一撃だ。
 だがライオットは、脊椎反射でシンの一撃を受け止めていた。
 こと防御に関する限り、ライオットは難攻不落と評してよいだろう。シン・イスマイールの奇襲を完璧に防御できる人間など、ロードス全土を探しても3人といないはず。
 であればこそ、そこに価値を見出そうとしないライオットの言動が、無性にシンを苛立たせた。
「人殺しに向いてない? それがどうした? 俺たちは4人でひとつ。お前の仕事は盾になることだ。この先、どんな強敵が出てきても砕けない“不敗の盾”にな。その役割に誇りを持てよ。敵を倒すことじゃなく、攻撃を防ぐことに全てを賭けろ。古竜だろうが魔神王だろうが、現れた敵は全部完封しろ」
 魔法の剣と盾が干渉し、青白い火花が散る。
 至近距離で親友の目を睨んでから、シンはすっと剣を引いた。
「その代わり、俺たちが敵を倒す剣になる。どんな敵が立ちはだかっても、必ず打ち倒してみせる。言ったはずだぞ。俺たちはもう、お前に守られるだけの民間人じゃない。“砂漠の黒獅子”と“奇跡の紡ぎ手”なんだからな」
 手慣れた動作で剣を鞘に納める。
 シンの声から怒りや苛立ちが消え、一転して真摯に訴えかけるような口調になった。
「お前が戦う理由とか、勇気の意味とか、そんなもんは夜寝る時にでものんびり考えればいい。だけどこれだけは忘れないでくれ。守るべきものも、倒すべきものも、お前ひとりだけのものじゃない。俺たち4人が全員で共有すべきものなんだ」
 その言葉は、壮絶な衝撃となってライオットを殴りとばした。
 蒼氷色の瞳が大きく見開かれる。
 頭の中で混沌の霧となっていた思考が、いきなり吹き払われて地平が見えた。
 自分を保護者に任じてすべてを抱え込み、マイリーの信託を受けてから、ライオットは出口のない迷宮に閉じこめられていたのだ。シンの言葉は、その迷宮を壁ごとぶち抜いてライオットを外に連れ出した。
 そもそも、ロードスにいるのが自分だけだったら、倒すべき敵も守るべき味方もいるはずがないのだ。ライオット個人とロードスの住民の間には利害関係など存在せず、戦う理由も必要もないのだから。
 にも関わらず、自分だけの問題だと決めつけてしまったから、見えるはずのない答えを求めて悩むようなことになった。
「そうか……共有するものがあるから、戦うんだよな」
 自分ひとりのものではなく、4人で共有すべきもの。
 かつてニース最高司祭が評したのと同じ言葉だった。喜びも悲しみも、全てを分かちあって同じ道を歩もうとする者たち、と。
 互いを信頼する絆の強さこそが、シンたちの強さの根元だと。
 だが、シンの言ったとおり、ライオットは本当の意味ではシンやルージュを信頼していなかった。
 守らなければという義務感や、攻撃に参加しなければという罪悪感に邪魔されて、シンやルージュの力を信じられなかった。
 だからひとりだけ歯車が噛み合わず、物事がうまく進まなかった。ニースが評した強さに、ライオットは寄与しきれていなかったのだ。
 シンはレイリアを守りたい。
 だがその想いは一方通行ではない。レイリアだってシンを守りたいのだ。その循環こそが本当の強さに繋がる。
「やっと分かった。俺はどうやら、ひどいレベルで思い違いをしてたらしい」
 憑き物の落ちたような清々しい表情で、ライオットが肩をすくめた。
 互いが互いを思いやる、信頼の円環。
 ライオットは、自分がそこに参加していなかったという事実を、今さらのように認識していた。
 今日までは圧倒的なレベルにものを言わせて、力任せに敵を粉砕してきた。だが明日からは違う。
 ひとりだけずれていた歯車は、音を立てて正しい位置に組み込まれた。
「目が覚めたか」
「ああ、ようやく。待たせて悪かった」
 にやりと笑ったシンが拳を突き出すと、ライオットが苦笑を浮かべて拳を合わせる。
 倒すべきもの。守るべきもの。まだ、それを明確な言葉にすることはできない。
 だが、それは確かに、自分の中にある。
 シンに見せられた景色を胸に刻みつけると、ライオットは顔を上げた。
 窓の外。白み始めた東の空に、紫色の雲がたなびいていた。
 


シナリオ4『守るべきもの』

 獲得経験点 5500点

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし

  経験点残り 12000点




[35430] インターミッション4 シン・イスマイールの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:14
インターミッション4 シン・イスマイールの場合

 チェインメイルの上から黒の長衣を羽織り、銀の飾り帯を締める。精霊殺しの魔剣を鞘ごと背負って位置を調整すると、それで出発の準備は整った。
 ザクソンで5日間を過ごした〈良き再会〉亭。
 古びたベッドや傷だらけのテーブル。お世辞にも綺麗とは言えない部屋だったが、不思議と居心地のいい場所であったように思う。
 シンは少しだけ名残惜しそうに部屋を見渡すと、旅用のマントを肩にかけて踵を返した。戸口でドアを開けて待っていたライオットに出発を告げる。
「悪い、待たせた」
 腕を組んでドアにもたれていたライオットは、部屋を出ていくシンを目で追い、その背中に言葉を投げた。
「本当にいいのか、もう1日残らなくて?」
「ああ。ザクソンの戦いは終わった。これ以上は邪魔になるだけだ」
 振り返らずに答えると、背後でドアの閉まる音が聞こえた。ライオットの鉄靴が後に続いてくる。
「昨日がいい例だろ。良くも悪くも、俺たちがいると村人は頼りたくなる。本当なら、たかが10匹ちょいのゴブリンなんて、俺たち抜きで撃退できたはずなんだ」
「そして魔神に皆殺しにされるのか?」
「そいつは結果論だ。俺が言ってるのは心構えの話」
 階段を下りる足を止めると、シンは振り向いてライオットを見上げた。
「今回の戦いでさ、ザクソンがどれだけの犠牲を払ったか知ってるか?」
 シンの2段上で立ち止まったライオットは、かすかに眉をしかめて首を振る。
「正確なところは知らない」
「死者8名、重傷12名、軽傷はだいたい70名だ。ザクソンの村人たちは必死に戦った。でも勝てなかった。俺たちが村に来なければ、今ごろ村は壊滅してただろう」
 魔神を抜きにして考えても、40匹もの妖魔を撃退する力はなかった。
 自分たちが村に着いたときの、絶望と焦燥が入り交じった興奮。戦場としか呼びようのない刺々しい雰囲気を思い出して、ライオットは口をつぐむ。
「その強敵をさ、俺たちは簡単に倒しすぎたんだよ。道端の小石でも蹴飛ばすようにゴブリンロードを殺して、群れのほとんどを殲滅した。村人たちが死の恐怖に震えながら戦わなくても、わざわざ10人近い死者を出さなくても、冒険者がいれば簡単に終わるんだって。そう見せつけたんだ」
 だから昨日、ゴブリンシャーマンに率いられた残党が襲来したとき、戦おうとする村人はほとんどいなかった。
 自分たちが戦わなくても、冒険者が戻ってくれば何とかしてくれる。そう学習してしまったからだ。
「お前さ、昨日の戦いの後、レイリアやシノンと一緒に怪我人の治療に行っただろ? そこで癒しの魔法をほとんど使わなかったそうだな。レイリアにも使わせなかった。どうしてだ?」
 ライオットは頭をかきながら視線をそらす。都合が悪いことを指摘されたときの癖だった。
 親友が答えないと見ると、シンは小さく笑った。
「村人たちは、やっぱり司祭の魔法は金がないと受けられない、神は貧乏人は救わないんだって文句を言ってたそうだ。その分、手を抜かずに治療に当たったシノンの株が上がった。村人たちは、使ってもらえない魔法より、シノンの薬草術の方がずっと頼りになるって思ったはずだ。つまりお前、安易に魔法に頼ることを覚えさせたくなかったんだろ?」
「……上から目線の傲慢な考え方だけどな」
 夫が苦しむのを看病する妻にとっては、できるのにやらないライオットは憎悪の対象でしかないだろう。ライオットが癒しの魔法を行使したのは、死の淵に瀕していた数名の重傷患者のみ。それも、怪我が完治するような使い方はしなかった。
「でも、レイリアはそれが不満みたいだ」
「なんだ、もう1日残りたい理由はそれか?」
 シンはライオットの言葉を笑い飛ばした。
「レイリアには俺が言っておくよ。彼女だって理屈では分かってるはずなんだ」
 ザクソンに定住して、一生面倒を見るならいい。
 だが、レイリアにそれはできない。
 ならば、選択できない楽な道を見せることは、将来に向かって禍根を残すだけだ。魔法を使って一瞬で痛みを消された人間が、これから後、シノンの行う根気と時間のかかる治療に満足できるはずがないのだから。
 それで村人とシノンの間に溝でもできようものなら、レイリアが善意で使う回復魔法が、逆にザクソンの人間関係を破壊してしまうことになる。
「村の復興だってそれと同じだ。人は誰だって、便利に使える道具があれば使おうとするよ。ビルの10階まで上るのに、エレベーターがあればわざわざ階段を使わないようにな。けど今のザクソンに必要なのは、自分の力で階段を上ろうっていう気概と、その苦労を支え合う絆なんだ」
 そのためには、村にエレベーターがあってはならない。
 たった1人でも楽をしようとすれば、絆はボロボロに朽ち果てて空中分解してしまう。
 他に道はない、自分たちで頑張らないと村は復興できない、そういう環境を作るためには、シンたちの存在は便利で強力すぎるのだ。
「だから、俺は1日も早くいなくなるべきだと思う。俺たちは非日常の象徴。戦いの終焉とともに消えるべき存在だ」
 迷いのないシンの眼差しに、ライオットは深々と吐息をもらした。
「……神殿が奇跡の代償に大金を要求するのも、こうして考えれば意味のあることなのかもしれないな」
 そんな言葉でリーダーの決断を受け入れる。
 2人が階下に降りると、すでに旅立ちの準備を整えたルージュとレイリアが待っていた。
 冒険者たちを見送りに来たらしいフィルマー村長と猟師のザムジー、それにシノンと子供たちが周りを取り囲んで別れを惜しんでいる。
 ルージュはよそ行き用の微笑。レイリアはどこか申し訳なさそうな顔で対応しているが、これは負傷者の治療をしないのが心残りだからだろう。
 シンたちの足音に気づいて皆が振り向くと、フィルマー村長が深々と頭を下げた。
「シン殿、このたびは本当にお世話になりました。村を代表して心から礼を申します」
 もしこの冒険者たちがいなければ、今ごろ村はどうなっていたことか。フィルマーは想像するだけで背が震える思いだ。
「俺たちは、報酬を受け取って依頼を遂行しただけです。礼を言われるようなことじゃないですよ」
 当然のことだとシンが手を振る。
 浅黒い頬にかすかに朱が指しているから、ひょっとすると照れているのかもしれない。
 フィルマー村長の相手をシンに押しつけ、ライオットがさりげなく距離をとると、そこにザムジーが手を差し出した。
「もう帰るのか。2?3日ゆっくりしても罰は当たらないと思うが」
 金は無理だが、酒と料理なら村中からかき集めて用意する。
 ほとんど本気で提案するザムジーに苦笑を返すと、ライオットは差し出された右手を握った。
「酒ならたらふく飲んだよ。これ以上飲むとルージュに怒られる」
 レイリア、シノンと談笑しているルージュ。その柔らかい微笑みを見て、ザムジーが羨ましそうに慨嘆した。
「あんな美人の嫁さんになら、俺も怒られてみたいもんだ」
「ああ、ルージュを怒らせるのだけは、絶対やめておいた方がいい。それはもう確実に」
 恐れを知らないザムジーの言葉に、ライオットがしみじみと忠告する。
 しばし無言で視線を交わし、男同士で何かを分かり合った後、ふたりは小さく吹き出した。
 意味ありげな笑い声にルージュが一瞥をくれたが、どうやら見逃してくれるらしい。銀色の髪が揺れ、紫水晶の瞳が隠れると、ライオットはふと尋ねた。
「そういえば、ザクソンのライオットは元気にしてるか?」
「あいつは若い者を5人ばかり連れて森に行った。もう大丈夫だとは思うが、ハグレ妖魔が残ってると面倒だからな」
 恵みの森はザクソンの生命線だ。薪を集め、獲物を狩り、薬草や果実を採取する。その重要な場所に、妖魔がうろつき回っているようでは安心して生活できない。
「そうか……」
 ライオットは少しだけ意外そうに、だが満足そうに頷いた。
 ザクソンはもう歩きだしているのだ。冒険者たちに頼らず、自らの力で安全を確保するために。
 シンの言ったとおり。自分たちが居残ることは、どうやら村のためにならないらしい。
「まったく、いつだって正しいな、お前の言うことは」
 口の中でつぶやいて、20年来の親友を眺める。
 浅黒い肌に切りっぱなしの短髪。実直という言葉を絵に描いたような姿の戦士は、ちょうど村長と握手を交わして仲間たちに向き直ったところだった。
 シンの視線の先では、レイリアが出発の準備を整えながら、シノンに最後の言葉をかけている。
「シノンさん。さっきの話、考えておいてください。もし乗り気なら、母に頼んで紹介状を書いてもらいますから」
「ありがとうございます、レイリア様。あとでエトとじっくり相談します」
 姉とパーンの危機に、至高神ファリスの声を聞いたというエト。
 『あまねく世界に光を示せ』。
 そう啓示を受けたと知ったレイリアが、ファリス教団の総本山、神聖王国ヴァリスでの修行を奨めたのだ。
 今のヴァリス国王は、魔神戦争の英雄としてニースとともに戦った“白騎士”ファーンだ。宗派こそ違うが、ニースの紹介状があれば相当な便宜を図ってくれることだろう。
 姉とレイリアの会話を聞きながら、エトは視線を落として不安そうにしている。
 無理もないだろう。アラニアから遠く離れた異国で、たったひとり信仰に身を投じるのは簡単なことではない。
 すると、それまで黙っていたパーンが、エトの肩を力強く叩いた。
「行けよ、エト。こんな小さな村で満足してたらダメだ。オレたちはもっと広い世界を見て、もっと強くならなきゃいけないんだ。シンたちみたいに」
 小さな体に覇気をみなぎらせて、パーンがエトを見つめる。
「オレは大きくなったら、シンみたいな強い戦士になる。そして親父のあとを継いで、ヴァリスの聖騎士になるんだ。だからエト、お前はファリスの司祭になれ。そしてこんなことが二度と起きないように、正義の力で村を守ろう」
「パーン……」
「テシウスの正義と、至高神ファリスの正義。ふたつ合わされば、どんな邪悪からだってきっと村を守れるぜ」
 子供っぽい単純な考えだと、そう言い捨ててしまうこともできる。
 だが、村を守ろう、強くなろうとするパーンの決意は本物だ。
 混じりけのない純粋な願いは、いつの日か必ずや実現する。エトがそう信じられるだけの何かが、パーンの瞳や声には宿っていた。
 だから、エトは我知らずうなずいていた。
「分かった。僕はヴァリスで一人前の司祭になるよ。だからパーン、ふたりで村を守ろう」
 守られていた子供から、守る大人へ。
 望む自分になるために何をするべきか、それを見つけた子供たち。
 シンは微笑を浮かべると、右手をパーンの頭に、左手をエトの頭にぽんと乗せた。
「ふたりとも、今の約束を忘れるな。そうすれば、お前たちなら絶対にできる」
 憧れの英雄に保証されて、子供たちに満面の笑みが浮かんだ。
 そのままぐりぐりと髪をかき回しながら、シンが続ける。
「だけど、少しばかり目標が小さいな。せっかく正義が2人分あるんだ。もう少し大きいものを守ったらどうだ?」
 予想外の言葉を投げかけられて、パーンとエトが顔を見合わせる。
 だが、困惑は一瞬だった。
 パーンは挑戦的に目を輝かせると、シンを見上げて宣言する。
「だったら……だったらさ。オレたちは、ロードスの平和を守る!」
 その言葉に、村の大人たちが微笑ましげに頬をゆるめた。
 子供たちの大言壮語。夢は大きければ大きいほど輝かしく見える。それを追い求めて、少しでも大きく育ってほしい。その程度の認識なのだろう。
 意味ありげな表情で、冒険者たちは視線を交わし合った。
 子供たちの決意は、ほんの7年後、現実のものとなる。
 それを知っているのは、今はまだ、この3人だけだった。



シナリオ4『守るべきもの』

 獲得経験点 5500点

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし

  経験点残り 24000点



[35430] インターミッション4 ルージュ・エッペンドルフの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:14
インターミッション4 ルージュ・エッペンドルフの場合


 夏の夕暮れ。
 鉛色の雲の中を稲妻が駆け抜けると、一拍遅れて雷鳴が轟いた。
 雨の匂いのする湿った風が祝福の街道を吹き抜け、ほんの一瞬のうちに空気が冷たくなる。
「……これはものすごい景色だねぇ」
 顔を上げたルージュが、もう笑うしかない、と言わんばかりに唇を歪めた。
 この景色を何と表現すればいいのだろう? ひときわ黒々とした雲の下、嵐の壁が猛スピードで迫ってくる。
 ここから手前は晴れ、ここから向こうは豪雨、とはっきり引ける線があって、嵐の領域がこちらに迫ってくるのが見えるのだ。
 空気の色さえ違う。あの中に入ると悲惨なことになる。それは分かりきっているのに、人の身ではどうしようもない。
 ルージュが『自然の猛威』という言葉の意味をしみじみと噛みしめていると、横からレイリアが声をかけた。
「ルージュさん、今のうちに皮袋をきつく縛っておいた方がいいですよ。着替えが濡れると大変ですから」
 ふと見れば、レイリアは背負い袋を旅用マントの内側にしまい、フードを出して頭からかぶっている。
 なるほど。ほんの1分ほどでも、時間があれば準備はできるということか。
 ルージュがレイリアを見習って皮袋をしまい、フードを引っ張り出したところで、一行は豪雨の結界に取り込まれた。
 ザクソンを出て3日目の夕方。
 行程はターバの村まであと半刻というところだった。


 最後の最後でチャ・ザに見放された4人と1匹は、頭のてっぺんから靴の中までずぶ濡れになって〈栄光のはじまり〉亭の扉をくぐった。
 全身を覆うマントから盛大に水滴をしたたらせ、まるで幽鬼か亡霊のようにぞろぞろと入ってくる冒険者に、先客たちがいささか怯えた視線を向けてくる。
「相変わらず新婚さんばっかりだな」
 フードを取って濡れた髪をかき上げ、ライオットが店内を見渡した。貴公子然とした端整な容貌に、新妻たちの視線が集中する。
 一緒に食事をしていた男たちはむっとした様子だが、それもルージュが顔を見せるまでだった。不機嫌を隠そうともしないルージュだが、造形の美しさにごまかされて、男たちには『物憂げな表情の美女』にしか見えていないらしい。
 続いて店に入ってきたシンとレイリアも濡れたマントを脱ぐと、巡礼の新婚夫婦たちに諦めにも似た空気が流れた。
 いる所にはいるんだね、という声がちらほらと聞こえてくる。シンとレイリア、ライオットとルージュ。容姿・実力ともにそこいらの一般大衆とは隔絶している。4人あわせて36という冒険者レベルが、オーラとなって問答無用の存在感を漂わせるのだ。
「おやおやおや、早かったじゃないか。仕事は無事に終わったのかい? 怪我なんかしてないだろうね?」
 前掛けで手を拭きながら、厨房から女将が顔をのぞかせた。裏表のないねぎらいに、レイリアがにこりと会釈を返す。
「もちろんです。ゴブリンと一緒に上位魔神が出たんですけど、シンがあっという間に倒しちゃいました」
 さらりとしたレイリアの言葉に、店内が軽くどよめいた。
 魔神にロードス全土を蹂躙された悪夢のような戦争から、まだ30年と経っていない。その恐ろしさは未だ風化することなく、住民たちに語り継がれている。
「レイリア。その言い方だと、俺がひとりで倒したように聞こえる」
 シンがたしなめたが、女将はにこりと笑って口を挟んだ。
「でも倒したことは否定しないんだね。いやいや、あたしはあんたを一目見たときから分かってたよ。あんたには英雄になる素質があるってね」
「私もです。何しろ、シン・イスマイールはニース最高司祭も認めた勇者なんですから」
 我が事のように誇らしげな2人に、シンが困って視線をさまよわせた。
 すると客たちの視線の集中砲火を浴びていることに気づき、居心地悪そうに身じろぎする。
「あのさリーダー。もう“魔神殺し”の称号はリーダーのものでいいから、とりあえず着替えようよ」
 ずぶ濡れのマントを脱いだルージュが、疲れた視線をシンに向けた。
 黒地に真銀で刺繍を施したローブは、強力な防護の魔法で守られた逸品だ。だが古代王国の魔法も、大自然の前には何の役にも立たなかった。
 濡れて肌に張りつく感触は不愉快きわまりなく、一瞬ごとに体温を削り取られていく。早く乾いた服を着なければ風邪を引いてしまいそうだ。
「雨も上がりそうにないし、レイリアさんも今夜はここで泊まっていくでしょ? 私の部屋にベッドがひとつ余ってるから一緒に寝よう。ああ女将さん、私たちの部屋は残ってるよね?」
「もちろん。この先半年分の宿代はもらってるからね。いつでも使えるようにしてあるよ」
 女将がうなずくと、ルージュはライオットに右手を差し出した。
「じゃ、剣貸して」
「剣? 何に使うんだ?」
 護身用なら魔法樹の杖で充分だろうに。レイリアにでも使わせる気だろうか。
 ライオットが怪訝そうな顔で見返すと、ルージュは苛々と答えた。
「お風呂沸かすに決まってるでしょ。女の子に冷えは大敵なの。リーダー、ライくんと2人で湯船に水張っておいてね。レイリアさんが風邪引いたらかわいそうでしょ?」
 やっと休めると思ったのに、いきなり重労働か。
 シンとライオットは無言で視線を交わしたが、ルージュに逆らえる道理などない。ライオットが素直に腰の剣を手渡すと、ルージュはレイリアの手を引いて2階へと上がっていった。
 申し訳なさそうに目で謝るレイリアを見送ると、女将が気の毒そうにシンの肩を叩いた。
「女のワガママを聞いてやるのも、いい男の甲斐性ってもんだよ。頑張りな」
「ルージュは俺の女じゃない」
 シンが恨みがましい目をライオットに向ける。だが金髪碧眼の貴公子は、すでにマントをかぶり直していた。
「行くぞシン。遅くなると、機嫌がもっと悪くなる」
 きりりとした表情で情けない台詞を吐くライオット。
 深々と吐息をもらし、シンも濡れたマントに手をかける。
 男どもが重い足取りで裏庭に出ていくと、それまで事態を静観していたルーィエがカウンターに跳び乗った。
「女将、いつものミルクを頼む。蜂蜜をたっぷり垂らして」
「……あんたはゆっくりしてていいのかい?」
「俺様の仕事は、あいつらの風呂が終わってからだからな。肉体労働しか芸のない無学な輩と違って、教養のある高貴な王には、王にしかできない役目というものがある」
 女将の視線の先で、ルーィエは勝ち誇った様子で胸を張る。
 このしゃべる猫は、どうやら重労働のない自分が勝ち組だと思っているらしい。いいように使われていることに気づかないあたり、人がいいと言うべきか、使う方が巧いと言うべきか。
 注文どおりに蜂蜜入りミルクを用意すると、ルーィエはご機嫌そうに2本の尻尾を揺らしながら深皿に顔をうめる。
 女将はそんな猫から視線をそらすと、鎧戸の隙間から外の様子をうかがった。
 風上の雲が切れ、所々に星空が見える。遅からず雨はやむだろう。
 暗い裏庭で井戸から水をくみ始めた若者たちに、女将は心からのエールを送った。
 

 屋根を支える柱にはランプが吊され、淡いオレンジ色の光が露天風呂をうっすらと照らしている。
 雨が上がるとそこかしこで虫が鳴き始め、合唱は澄んだ空気をにぎやかに震わせた。
 半分だけの屋根と壁に切り取られた夜空には、色とりどりの星々が折り重なるように犇めいている。
「私のいた国にね、夏でいちばん風情があるのは夜だって言った人がいるの」
 ライオットの剣で湯船の温度を調節しながら、ルージュはレイリアに話しかけた。
「風情、ですか」
 脱いだ神官衣を丁寧にたたみ、長い髪をアップにまとめると、レイリアが興味深そうにルージュを見た。
「そう。『月の美しさは言うまでもないけど、月のない闇夜もいい。たくさんのホタルが乱舞する光景はとても素敵。ほんの1匹2匹がほのかに光って飛んでいるのも幻想的だわ。そんな夜は、雨が降ったりしても風情があるのよね』だってさ」
「おもしろいことを言う人ですね。女性ですか?」
「昔の宮廷で、皇妃に仕えた女官なの。当時は大貴族同士の権力争いの最中でね。文学的な素養のある女官を後宮に送り込んで、娘のサロンの品格を上げようとしたらしいよ」
 もう入れるよ、とレイリアを湯船に差し招く。
 レイリアは礼を言うと、おそるおそる湯船に足先をつけた。体温よりもずいぶん高いが、熱いと言うほどではない。
 こんなお湯に全身でつかったら、さぞや気持ちのいいことだろう。だが準備に手間も時間もかかる。よほどの貴族でない限り、日常的に使うという風習はないはずだ。
 後宮の逸話を知っている点といい、やはりルージュは名のある貴族の令嬢だったのだろう。
 どうして冒険者をしているのか不思議で仕方ないが、彼女はそれを話したがらない。レイリアから尋ねるのは礼を失していると言うべきだった。
「ん? ちょっと熱かった?」
 足先だけをつけたまま、もの言いたげな表情で見つめてくるレイリアに、ルージュが小首を傾げる。
 均整のとれた身体。象牙色の肌は最高級の天鵞絨のよう。以前からきれいな人だとは思っていたが、全裸になったルージュはまるで芸術品だ。ヴェーナーの恩寵をどれだけ独占すれば、こんな容姿ができあがるのだろうか?
「いえ、ちょうどいいです。ただちょっと、その、ルージュさんはいろいろ知ってるなぁと思って」
「あはは、そりゃ、これでも魔術師の端くれだからね」
 ふくらはぎから太股、腰、胸と湯船に沈んでいくレイリアを見ながら、ルージュが照れたように笑う。
「でもその宮廷では、『夏は夜が好き』っていうのがサロンの品格が上がるような文学だったんですか? 詩とかじゃなくて?」
「随筆っていうの。現代語訳しちゃうと雰囲気出ないかもね。何しろ元ネタは大昔の人だから」
 ルージュは少し考え、やがて咳払いをすると、表情を引き締め、芝居がかった動作で一礼した。
 それだけで雰囲気が一変する。親しみのある、飾らないルージュはどこかに消え去り、氷の女王だったときの近寄りがたいオーラが漂いだした。
 ランプと星明かり。
 淡い光の下、すらりとした肢体と硬質の美貌が冴えわたり、どこか現実感すら稀薄になる。
 レイリアが圧倒されて息をのむと、ルージュの澄んだ声が紡ぎ出された。
「夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなお」
 まるで呪文のように謳いながら、ルージュがライオットの剣を鞘から抜いた。
 魔剣の炎が揺らめき、しなやかな身体にオレンジ色の陰影をつける。
「螢のおおく飛びちがいたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうち光りていくもをかし」
 まるで剣舞のようにひと振りすると、深紅の刀身から火の粉が舞い散った。
 螢に見立てたオレンジ色の光は、瞬くように漂うと、ひとつ、またひとつと消えていく。
 片膝を落としたルージュが、捧げ持つようにして剣を鞘に収めると、あたりに薄闇が戻ってきた。
 濡れた屋根から水滴がこぼれ、湯船に落ちて静かな波紋を広げる。
「雨など降るも、をかし」
 ごく短い演舞と、幻想的な余韻。
 レイリアは呼吸すら忘れて見入っていた。
 何が起こったのか分からない。
 だが、今自分が見たのはとんでもないものだ。
「なんてね」
 ルージュは再び芝居がかった一礼をすると、照れたように笑った。
「す……」
 固まっていたレイリアの表情が、驚愕から絶賛へと変化していく。
「す?」
「凄いです! 凄いですルージュさん!」
「ちょっとは文学っぽかった?」
「そんな簡単なものじゃありません! 芸術です! ヴェーナー神が見たら啓示をくれそうです!」
 興奮して立ち上がったレイリアを、ルージュは苦笑してなだめた。
「そんな大層なものじゃないよ。少し落ち着いて。私も冷えちゃったから一緒に入れてくれる? ちょっと狭いけど大丈夫だよね」
 湯船に流用しているのは、本来は葡萄酒を作るための大樽だ。男ふたりは無理だろうが、小柄なルージュとレイリアなら何とかなる。
 肩を寄せ合ってお湯につかると、ルージュはほぅっと吐息をもらした。
「やっぱりお風呂は癒されるなぁ」
 樽の縁に頭を乗せて、切り取られた夜空に白い湯気が上っていくのを眺める。
 こうしていると、ロードス島に来たというのが嘘のようだ。どこか空気のいい高原のペンションで、貸切露天風呂につかっているのではないか?
 一晩寝て目が覚めたら、東京の古い官舎で朝を迎えられるのではないか?
 ほんの一瞬だけ、そんな期待を抱いてしまった。
 唐突に湧きあがった郷愁と、非情な現実。ちくりと胸を刺した痛みに蓋をするように、ルージュはそっと瞳を閉じた。
 左腕には、寄り添うようにして湯船につかっているレイリアの感触。張りのある若々しい肌はさわり心地満点だが、ここがロードスだという現実を何よりも痛烈に教えてくれる存在でもある。
「……どうかしたの?」
 何やら落ちつかなげに身じろぎするレイリアに、ルージュは瞑目したまま問いかけた。
「いえ。何だかルージュさん、ちょっと辛そうだったので。もしかして悩み事でも?」
 表情には出していないはずの内心をずばりと言い当てられ、ルージュは少なからず驚いたが、すぐに口元に笑みを刻んでレイリアを流し見た。
「悩みなんて別にないよ。毎日やりたいようにやってるし、私ってストレスとは縁遠い性格だから。そうは見えない?」
「もちろんそう見えますけど」
 そこは形だけでも否定してほしかった。軽く凹むルージュに、レイリアは言葉を続けた。
「私はルージュさんみたいに大人じゃないし、まだまだ未熟者ですが、大切な人が辛そうにしていても気づかないほど愚かではないつもりです。悩みはライオットさんのことですね?」
 きっぱりと断言。
「……はい?」
 きょとんとして問い返すルージュに、レイリアは迷いのない口調でたたみかけた。
「マーファは結婚の守護神です。ですが不幸なことに、結婚した男女が皆うまくやっていけるわけではありません。中にはマーファの御心が届かず、途中で別れてしまうご夫婦もいますし、私も実際にそういう人たちを見てきました。私は、ルージュさんとライオットさんにはそうなってほしくないんです」
 おかしい。
 ちょっと話がずれてる。
 自分の両手を取ってにじり寄ってくるレイリアに、ルージュはいささかひきつった声をかけた。
「あのさ、私とライくんは結構うまくいってるよ?」
「ルージュさん、私はこう見えても口は堅いんです。絶対に他言しませんから、どうか今だけは本当の気持ちを教えてください」
 真摯な表情、といえば聞こえはいいが、どうやらルージュの言い分に耳を貸すつもりはないらしい。
 そういえばこの娘は宗教関係者だった、と今さらのように思い出して、ルージュの顔に生ぬるい苦笑が浮かぶ。
「あのねレイリアさん。ライくんは浮気なんかしないし、よその女に色目を使ったりもしてないでしょ? 心配しなくても大丈夫だって」
 噛んで含めるように言い聞かせるルージュに、レイリアは首を振った。
「私たち、王都に出発したときから、1ヶ月以上も一緒に旅をしてきましたよね。確かにライオットさんが浮気をするそぶりはありませんでした。けれど、ルージュさんと寝室を共にしたことも、1度もないんです」
「それは……」
 痛いところを突かれて、思わずルージュが口ごもった。
 思いこみと誤解の森を突き抜けた結果だが、レイリアが到達したのはルージュの急所だ。
「旅の間は、私やシンに気を遣っているんだと思ってました。けど、この宿でも別々の部屋だなんておかしいです」
 ルージュがライオットと関係を持たない理由。
 それを一言で表現すれば、井上喜子は今のルージュの体を“借り物”だと思っているからだ。
 井上喜子と井上一彦は夫婦だし、互いを愛し、慈しみ合っている。
 だが、ゲーム内のルージュ・エッペンドルフとライオットは、夫婦でもなければ恋仲でもなかった。ルージュは亡国の皇族。ライオットはその国の騎士。設定上、ふたりの関係は単なる主従でしかない。
 いずれ日本に帰る日が来れば、この体は本来の持ち主に返すことになるだろう。その時、無用の傷がついていては申し訳ないではないか。男を知らない体なのは、何もレイリアだけではないのだから。
 複雑きわまる心境で黙り込んだルージュに、レイリアは真剣な表情で言う。
「マーファは、男女が愛を確かめ合う行為はとても貴いものだと教えています。恥ずかしがることも、私たちに気を遣うこともありません。私は別の部屋を用意してもらいますから、ライオットさんに本当の気持ちをぶつけてみてはいかがですか?」
 相手の誠実な気持ちが伝わるから、適当な受け答えはしたくない。
 ルージュはしばらく考え込んだが、やがてぽつりと言った。
「私にはね、覚悟がないの」
 無言で見つめるレイリアに、難しい内心をできる限り正直に吐露する。
「いつまでいるかも分からないこの国で、ライくんの子供を産んで育てる人生を、自分のものとして生きる覚悟がないの。だから、今はまだ、ライくんとそういう事はできない」
 後先考えずに愛情の所在だけを見ていたレイリアが、虚を突かれて口をつぐんだ。
 レイリアとルージュでは、愛を確かめ合うという行為に見ているものが全然違うのだ。
 もしシンが自分を求めてきたらどうしよう、と妄想することはあっても、レイリアにとってその関係は、自分とシンのふたりだけで完結していた。
 今という時間に愛を感じることが全てで、将来に対する明確なビジョンなど何もなかった。
 だがルージュは違う。見ている時間が現在ではなく未来で、おまけに新しい命の誕生が前提条件に入っている。
 これが夫婦の絆というものなのだろう。レイリアが求めて止まないものはあるのが当然。それをどう育てていくかというステージに立っているのだ。
「……すみません、余計なことを言いました」
 きっとルージュの目には、自分が賢しげな子供に見えたに違いない。それが急に気恥ずかしくなって、レイリアは肩を丸めて俯いた。
「ううん、そんなことないよ。ありがとう。私たちを心配してくれたのは凄く伝わってきた」
 にこりと微笑んで、ルージュがレイリアに手を伸ばす。
 そして背中から両肩を抱くように腕を回すと、悪戯たっぷりに耳元にささやいた。
「それにさ、男の人は定期的に抜いておかないと飢えた野獣になっちゃうらしいから。レイリアさんの心配も正鵠を射てるかも」
「抜っ…野獣……って」
 意味ありげな口調で生々しい単語を聴かされ、レイリアが一瞬で茹であがった。
 イメージ先行で経験のないレイリアには、現実を超えた破壊力で理性を揺さぶられてしまうのだ。
「リーダーだって例外じゃないんだよ。それなのにレイリアさんは、私の部屋を出て、誰の部屋に行く気だったのかな?」
「……ッ!」
 ルージュはささやかな仕返しを続けながら、朱に染まったうなじを見下ろす。
 暗くなった雰囲気を誤魔化すためとはいえ、少しやりすぎてしまっただろうか?
 硬直してふるふると震えるレイリアは、まるで肉食獣に供された獲物のようだ。細い肩を背中から抱いていると、その気のないルージュでさえ妙な気分になってくる。
「何なら、男を手玉に取る技術のひとつふたつ、実地で教えてあげようか?」
「い、いえ、結構です! そういうのは間に合ってますから!」
「ああそうか。ロートシルト男爵夫人はプロだもんね。彼女から習った技の方がリーダーも喜ぶかもしれないな」
「習ってません!」
 半分開いた屋根から、レイリアの悲鳴が星空に吸い込まれていく。
 遊び半分でレイリアをからかいながら、ルージュは内心でため息をついた。
 本当に魅力的な少女だ。清楚で純情。シンにぴったりの娘だと言える。
 もしこのふたりが結ばれて、子供が産まれるようなことになったら、シンは日本に帰ることを選択するだろうか?
 その時ライオットは?
 そして自分は?
 悲観的な答えしか出てこない想定だ。今までは故意に目を逸らせてきたが、シンとレイリアの気持ちが定まった以上、決断の日はそう遠くない。
「ライくんと一度話しておいた方がいいかな?」
 この世界で経験を積み、日本への《ゲート》が近づくにつれて、日本への道が遠のいていく。
 そして遠のくにつれて、ルージュの郷愁は強まるばかりだ。
 春は桜並木の下、舞い散る花びらを見上げ。
 夏は浴衣に下駄をひっかけ、湾岸の花火大会へ。
 秋は気のおけない友人たちと、河原でバーベキューを楽しみ。
 冬はコタツにお菓子を用意してTRPG三昧の日々を。
 そんな何でもない日常が、何者にも代え難い宝物だったのだと、今さらながらに痛感する。
 名前をつけようもない感情が湧きあがってきて、胸を暗く染めそうになり、ルージュはそれを誤魔化すようにレイリアの肌に手を伸ばした。

 
 

シナリオ4『守るべきもの』

 獲得経験点 5500点

 今回の成長
  技能・能力値の成長はなし

  経験点残り 20000点



[35430] キャラクターシート(シナリオ4終了後)
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2012/10/08 23:15
キャラクターシート(シナリオ4終了後)


シン・イスマイール(人間、男、21歳)
 浅黒い肌に黒髪。炎の部族出身の戦士。

器用度 18(+3)
敏捷度 19(+3)
知 力 14(+2)
筋 力 16(+2)
生命力 18(+3)
精神力 12(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 レンジャー LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 24000点

装備
 両手 ズー・アル・フィカール(シャムシール+2) 
     必要筋力16
     攻撃力+2
     クリティカル値?2
     追加ダメージ+2
     (精霊に対してはさらに+3)
 鎧  ミスリルチェイン
     必要筋力15
     防御力25
     回避力±0
     ダメージ減少+1

戦闘力
 攻撃力 15
 打撃力 26
 追加ダメージ 14(17)
 回避力 13
 防御力 25
 ダメージ減少 11


ライオット(人間、男、24歳)
 金髪碧眼。マイリーの神官戦士。

器用度 14(+2)
敏捷度 18(+3)
知 力 13(+2)
筋 力 21(+3)
生命力 17(+2)
精神力 15(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 プリースト LV 8
 バード   LV 3
 セージ   LV 1
冒険者レベル 10
 経験点残り 12000点

装備
 右手 フレイムブリンガー(バスタードソード+1)
     必要筋力15
     打撃力15(25)/20(30)
     攻撃力+1
     追加ダメージ+1
     合言葉で《ファイア・ウェポン》が発動する。
 左手 勇気ある者の盾(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)
     必要筋力13
     回避力+3
     攻撃力修正±0
     ブレス攻撃に対して抵抗力+2
     所有者に攻撃を集中させる
 鎧  ミスリルプレート
     必要筋力20
     防御力30
     回避力±0
     ダメージ減少1

戦闘力
 攻撃力 13
 打撃力 15(25)/20(30)
 追加ダメージ 14
 回避力 16
 防御力 30
 ダメージ減少 11
 神聖魔法8レベル 魔力10


ルージュ・エッペンドルフ(人間、女、23歳)
 銀髪紫眼。大陸出身の魔術師。

器用度 14(+2)
敏捷度 15(+2)
知 力 19(+3)
筋 力 11(+1)
生命力 14(+2)
精神力 21(+3)

冒険者技能
 ソーサラー LV9
 セージ   LV8
冒険者レベル 9
 経験点残り 20000点

装備    
 両手 魔法樹の杖
     必要筋力10
     魔力+2
     貯蔵精神点20
 鎧  ミスリルローブ
     必要筋力1
     防御力6
     ダメージ減少+2
     精神抵抗力+2

戦闘力   
 攻撃力 0
 打撃力 10
 追加ダメージ 0
 回避力 0
 防御力  6
 ダメージ減少 11
 古代語魔法9レベル 魔力14



[35430] シナリオ5 『決断』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/21 17:59
マスターシーン 王都アラン

 長い長い夜が過ぎ、アランの都に朝が訪れると、ラフィット・ロートシルト男爵夫人はようやく屋敷に戻ることを許された。
 王宮に喚ばれた翌朝はいつものことだが、機嫌はすこぶる悪い。
 好きでもない男に何度も精を注がれ。
 避妊薬の副作用で下腹部には鈍痛が続き。
 やっと閨(ねや)から解放されたと思ったら、ラスター侯とノービス伯の取り巻きが群がってきて有形無形の嫌がらせを繰り返す。
 もしこの世界に意志というものがあるなら、きっとラフィットのことが大嫌いに違いない。
「親愛なる陛下も、貴族の皆様も。そう遠くないうちに、必ずや絶望と悲憤の海に沈めて差し上げますわ。あの白亜の城を血と炎で染めたら、さぞや美しい終末が見られることでしょう」
 見る者が凍りつくような笑みの下で、呪詛の言葉を吐き捨てる。
 ひとしきり世界を罵倒して溜飲を下げたラフィットは、離宮の奥の間に集まった男たちを見渡した。
 隻腕の騎士ラスカーズと暗黒の島の蛮族アンティヤルは、ラフィットの前世からの配下であり、終末の女神カーディスの忠実なる使徒だ。
 手駒として癖はあるが、世界に対する憎悪や破滅への渇望はラフィットに劣るものではない。現に今も、ラフィットの呪詛を言祝ぐべきものと受け止めている。
 そして部屋にはもうひとり、客分の魔術師がいた。
 名をバグナードという。賢者の学院きっての俊英であり、隕石の召還すらやってのける魔力の持ち主だ。
 だが数年前、邪法に手を染めたことで学院長ラルカスの逆鱗に触れ、《ギアス》の呪文で魔法を封じられた上で賢者の学院から追放された。以来、どんな初歩の魔法だろうと使おうとするだけで全身に激痛が走るのだという。
 それでもバグナードは、必要とあれば平然と魔法を使ってみせる。魔法への執着と鋼の意志力は、とてもほかの人間には真似できまい。
 いつも冷静沈着で、ラフィットに提言をする時は不遜にすら見えるほどの自信を漂わせる。
 彼の頭脳と根性をラフィットは高く評価しているのだが、そんなバグナードも、今日はどこか居心地が悪そうに見えた。
 理由は簡単だ。
 ラフィットも、同じ理由でバグナードに話しかけたのだから。
「導師様。“魔神殺し”の英雄たちの勲(いさおし)、お聞きになりまして?」
 努めて穏やかに切り出す。
 昨夜、国王から寝物語に聞かされた辺境の村での出来事。
 妖魔に襲われた村を救うべく、ザクソンへ赴いた4人の英雄たちの物語だ。
 寝耳に水だったラフィットは息を飲んで聞き入ったが、冒険者不在の中でレイリアまでもが剣を振るって戦い、上位魔神を相手に絶体絶命の危機に陥ったくだりでは、思わずバグナードに対する殺意すら浮かんだ。
 シン・イスマイールやライオットを抹殺せんとする策謀は、すべてレイリアを手中に収めるためのもの。
 にも関わらず、低脳な下級妖魔に上位魔神を託してレイリアを危険に晒すなど、本末転倒にも程がある。
「然り」
 苦々しげにバグナードが首肯した。
「奴らを見誤っておった。私の失策だ」 
 バグナードにも言い分はある。
 まさかレイリアがザクソンに同行するとは思わなかったこと。
 魔神封印の壷を使う余裕すらなく、ゴブリンの王が倒されたこと。
 にもかかわらず、ゴブリンを殲滅せずに逃がしてしまったこと。
 その状況でレイリアを放置して、冒険者たちが村から離れたこと。
 そして、上位魔神をあっさりと倒してしまうほどの実力をもっていたこと。
 すべてが予想外だった。冒険者たちはバグナードの予想を裏切るほどに愚かで、かつ強かったのだ。
「導師様、妾たちの目的はレイリア様をお迎えすることなのです。どうかその点だけはお忘れなく」
 言葉も口調も丁寧だが、その裏にある激怒を見抜けないほど、バグナードは鈍感ではない。
「承知している。私の失策は私が取り戻す。もう一度機会をいただきたい」
 バグナードがいつになく熱心な口調で主張した。
 自分の目的を果たすためには、今ここでラフィットの失望を買うわけにはいかないのだ。 
「何かお考えが?」
「次は私が自ら出向く。ラスカーズ卿をお借りできるだろうか。必ずやシン・イスマイールらを葬ってご覧に入れる」
 可憐な少女の姿をかぶった邪教の司祭長は、碧玉の瞳に考え深げな光を浮かべてバグナードを見つめた。
 腹の底の知れない男だが、どうやら追いつめられて本気になったらしい。何をする気か知らないが、面白いことにはなりそうだ。
 ラフィットは隻腕の騎士に視線を向けると、すずやかな声で命じた。
「ラスカーズ。導師様をお助けして、シン・イスマイールを殺してきなさい」
「御意のままに」
 濡れた唇に爬虫類めいた笑みを浮かべて、隻腕の騎士が片膝をつく。
 人を殺すことに最高の悦楽を感じるという男だ。さぞや大勢の犠牲を出してくれるだろう。
「ただし。分かっているでしょうね? レイリア様に傷のひとつでもつけたら……」
「承知しております。その時は私の首でお詫びを」
 芝居がかった挙措で頭を垂れるラスカーズ。
 中身のない右袖が揺れ、ふわりと絨毯に落ちた。
 ラスカーズの言葉はまるで信用ならなかったが、この男を貸せと言ったのはバグナードだ。前回の轍を踏むようなことはするまい。
「それでは導師様に委細お任せします。期待しておりますよ」
「お任せあれ」
 恭しく頭を下げる黒の導師を眺めながら、ラフィットはふと思った。
 もし本当にうまくいけば、今度こそバグナードの求める知識を与えてやるのもよいだろう。
 ふたつの鍵、ひとつの扉。
 忌まわしい伝承の真実を知れば、この男はさらなる破壊を世界に振り撒くだろうから。



 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
 大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、大地に呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
 異界から召還された魔神が暴走し、島中に死と破壊をもたらしたが故に。
 そして、今なお邪神を奉じる者どもが暗躍し、終末を望んで策謀を巡らせるが故に。
 最後の戦乱から30年。
 かりそめの平和の陰で、破滅の足音は着実に近づいていた。



SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
 第5回 決断


シーン1 ターバ郊外 マーファ神殿

 祝福の街道の北端。
 涼しげな風に揺れる木々の向こうに、白亜の大神殿が見えてきた。
「やれやれ、着いたか」
 野菜や肉を詰め込んだ籠を片手で抱え直して、シンが凝った肩をぐりぐりと回す。
 昼食と買い出しを済ませ、ターバの村を出発しておよそ2時間。今日は快晴だ。もう少しすればきれいな夕焼けが見られるだろう。
「いつも本当にすみません。重かったですよね」
 隣に並んで歩いていたレイリアが、申し訳なさそうに声をかけた。
「重かったのは認めるけど、俺としては永遠に着かなくてもいいくらいだ。少なくとも、歩いてるうちは一緒にいられるしさ」
「その……ありがとうございます」
 恥ずかしげもなく堂々と笑うシンに、レイリアの方が頬を染めてしまう。
 ザクソンから戻って半月。
 誰の陰謀だろうか、4日に1度巡ってくるレイリアの買い出し当番のたびに、相方の神官が体調を崩したり、ニースに仕事を申しつけられたりして都合が悪くなる。
 おかげでレイリアの買い出しは毎回ひとり。それを知ったシンが、荷物持ちとして村から神殿までの道のりを付き合ってくれるのだ。
 神殿での勤めや神官戦士団の訓練で、レイリアには自由になる時間がほとんどない。買い出しに出てシンと一緒の時間を過ごすのは、レイリアにとって何よりの喜びなのだが。
「本当に、ただ一緒にいるだけなんですよね……」
 レイリアは目尻を下げると、シンに聞こえないよう、口の中でそっとため息をついた。
 自分たちは気持ちを確かめ合ったはずだ。この広い世界にたったひとりの特別な相手として、互いを誰よりも大切に思っている。
 世間一般に照らしてみれば、この関係は恋人同士といっても間違いではないと思うのだが。
 それなのに。
 未だにキスはおろか、手をつないで歩いたことすらない。
「荷物がありますから、手をつないで歩けないのは仕方ないです。いちおう口実は買い出しですから。だけどシンも私も子供じゃありませんし、そろそろこう、次のステップに進んでもいいんじゃないかと」
 年の近い友人たちに聞いた話では、恋人関係の進展具合には3つの段階があるのだそうだ。それによれば、自分たちはまだ最初歩にすら到達していない。
 まさかシンは本当に、一緒にいるだけで満足しているのだろうか? 自分が触れ合いを求めていると知ったら、ふしだらな女だと思われるだろうか?
 だがルージュが言うには、男は定期的に抜いておかないと飢えた野獣になるはず。その理論では、シンだって定期的に女性が欲しくなるはずなのに。
 そこまで考えて、レイリアの脳裏に不吉な考えが浮かんだ。
「まさか他に女性がいて、野獣はその女性で発散しているとか? だから私の前ではいつも自然体でいられるのでしょうか?」
 頭の中でめまぐるしく思考を巡らせるレイリア。
 シンはその様子をしばらく眺めていたが、やがて長々と吐息をもらした。
「ルーィエの言ったとおりだな」
「え?」
 思考の海に沈んでいたレイリアが、はっとしてシンを見上げる。
 シンは何とも表現しようのない、困った顔をレイリアに向けていた。
「あいつが言うには、レイリアは考えてることがすぐ顔に出るから、妄想が始まると顔を見てるだけで楽しいってさ。頭の回転が速いから、表情の移り変わりが百面相みたいだって」
「も……ッ、いえ、決してそんな!」
 頬を紅潮させたレイリアが、あわてて手を振る。
 ルーィエによると、妄想を口に出してぶつぶつ呟いてしまう時もあるらしい。まさか今のを聞かれていたのか? シンに筒抜けだとしたら、恥ずかしくて死んでしまいそう。
 忙しく表情を変えるレイリアに、シンがにこりと笑いかけた。
「けど安心してくれ。俺が好きなのはレイリアだけだ。他の女と付き合ったりなんかしないよ」
「…………ッ!」
 やっぱり聞かれていた!
 レイリアの顔から、今度は音をたてて血の気が引く。致命的な失敗だ。
 どうしよう。みだらな女だと思われたら嫌われてしまう。
 うまい言い訳が思いつかずに絶句していると、今度はシンがそっと顔を寄せてきた。
「それと、俺をあまり挑発しないように。野獣をなだめすかすのも大変なんだから」
 最初の一線を越えてしまったら、なし崩し的に我慢できなくなりそうだ。
 耳元にささやかれたのは、そんな響きを持ったシンの言葉。
 もしかして、シンも私のことを求めてくれている?
 予想外のことにかすかな期待が芽生えたが、それは胸の中に隠して、レイリアは上目遣いでシンを見上げた。
「本当ですか? シンは優しいから、私を傷つけまいとして言っているだけなのでしょう?」
 一縷の望みにすがるような、切実な表情。
 質問の形を取ってはいるが、シンに回答の自由などない。
 だがシンは、それがずるいとは思わなかった。
 むしろ逆だ。煩悩の発露とも言うべき言葉が、レイリアに好意的に受け止められたのだから。
 手探りで距離を詰めていくようなやりとり。
 観衆がいれば全身が痒くなるような言葉を、ふたりは大まじめに交わしていく。
「嘘なんか言わない。本当だよ」
「じゃあ、証拠を見せてください」
 レイリアが緊張と期待にわななく瞳でシンを見上げる。
「私のことを、ただの仲間でもただの司祭でもなく、ひとりの女として見てくれるなら、その証拠が欲しいです」
 彼女いない歴33年のシンといえども、レイリアが何を求めているか理解できないほど鈍感ではない。
 このシチュエーションは、シンが今までお世話になってきた参考文献では至極おなじみのものだった。女にここまで言わせたら、もはや男が退くことは許されない。
 シンは生唾を飲んでレイリアを見下ろした。
 この世界でもっとも可憐な花が、頬を染めてシンを見上げている。
 何という無防備で扇情的な表情だろう。胸の奥に正体不明の息苦しさが生じ、肌と魂がぞくりと震えた。
 これはもういくしかない。我慢の限界だ。やってやる。俺は男だ。
 シンは荷物を片手に抱えると、残った手をレイリアの頬に伸ばした。
 明確な覚悟を持った異性がここまで近づいたのは初めてなのだろう。華奢な肩がぴくりと揺れ、視線が落ち着かなげにさまよった。
 桜色の唇が小さく震えていた。
「レイリア……」
 シンの声も、緊張のあまりかすれてしまう。
 すると、レイリアの瞳が軽く見開かれ、震えが嘘のように止まった。
 緊張しているのはお互い様なのだ。この初めての時間を、同じ気持ちで共有できている。それは例えようもない喜びだった。
 緊張が解けるとともに、レイリアの表情が花開くようにほころんでいく。
「シン、好きです」
 黒い瞳で見つめ合ったまま、ふとそんな言葉がこぼれた。
「俺もだ」
 たったの一言で、気持ちが全部伝わる。
 それを共有できるということの、なんと幸福なことか。 心からの想いを添わせるように、そっと唇を寄せていく。
 ふたりの瞳が、ゆっくりと閉じられた。
 気持ちも体も全部、相手と重ね合わせたらどうなってしまうのか。あまりの高揚感に目が眩み、閉じたはずの視界が真っ白に染まった。
 その瞬間だった。
 ふたりが馬蹄の響きを聞いてしまったのは。
 余裕のある走りではない、文字どおりの全力疾走。急を告げる早馬は、神殿の方向から街道を爆走してくる。
 反射的に目を開け、その姿を見てしまったシン。
 神殿が早馬を出すなどただ事ではない。何か重大な事件が起こったらしい。
 瞬時に覚醒した戦士の感覚がそう告げたが、レイリアはまだ目を閉じたまま気付かないふりをしている。
 かすかに頬がひきつっているようだが、これは続けてもいいのだろうか?
 シンが躊躇していると、今度は声が聞こえた。
「レイリア! シン様!」
 うら若い女性の声。葦毛の駿馬に乗ってこちらに駆けてくるのは、どうやら神殿の司祭のようだ。レイリアと同じ純白の神官衣が風になびき、まるでペガサスの羽根のように見えた。
 名前まで呼ばれては仕方がない。
 渋々と目を開けたレイリアは、相手を見てため息混じりに肩を落とした。
「ソライア……」
「知り合い?」
 どうやらふたりきりの時間は終わりを迎えたらしい。
 諦めて姿勢を正したレイリアの隣で、シンは食材の籠を抱えなおし、走ってくる早馬に目を向ける。
「はい。私と同い年の司祭で、神殿ではいちばん仲のいい友人です。神官戦士団の鍛錬でも一緒なんですよ」
「そうか……ちょっと残念だったね」
「まったくです」
 苦笑していると、早馬は跳ぶように駆け寄ってきて、ふたりの前で脚を止めた。
 騎手の少女は褐色の髪をショートカットにし、大きな瞳が活発そうに輝いている。身長はレイリアより少しだけ低いが、きびきびとした動作はまるで若鹿のようだった。
「邪魔しちゃった?」
 鞍から跳び降りた少女は、まるで悪気なさそうにレイリアの肩をぽんと叩く。
 邪気のない笑顔に、レイリアが拗ねた表情で頬を膨らませた。
「分かってるなら、少しだけ待っててくれれば良かったんです」
「ごめん、それ無理」
「だいたいソライア、あなた熱が出て寝込んでるんじゃなかったんですか?」
「ごめん、それ嘘」
 あっさりとした口調で答えると、ショートカットの少女は、罪悪感など全く感じさせない様子でけろりと笑った。
「ニース様の命令でさ。あなたの買い出し当番は何が何でも1人で行かせろって。あ、これあなたには秘密って言われてるから、そこんとこヨロシク」
「お母様……」
 レイリアが顔を覆ってうなだれると、ショートカットの少女は興味津々にシンの顔を見上げた。
「あなたがシン・イスマイール様ですね? 私はターバ神殿の司祭でソライアと申します」
「ああ、よろしく」
 どういう態度をとればいいのか分からず、シンが曖昧にうなずく。
 ソライアの視線は、まるで婿を品定めする小姑のようだ。無遠慮に全身を眺め回され、シンが落ち着かなげに身じろぎすると、レイリアが険のある口調で割って入った。
「ソライア、シンに失礼ですよ。困ってるじゃないですか」
「あはは、想像以上にいい男だったから、つい」
 悪びれずに笑ってごまかすと、ソライアは態度を豹変させ、礼法の手本のような一礼を見せた。
「失礼いたしました。本日は、ニース最高司祭から伝言を言付かって参りました。必ずシン・イスマイール様御本人に、直接お伝えするようにと」
 もとの造形が整っているからだろう。こうして改まった態度もさまになっている。凛とした挙措のひとつひとつが小気味よく、見ていて壮快な気分にさせてくれる少女だ。
「ニース様は何と?」
「火急の依頼をお願いしたい、事態は一刻の猶予もない、と申しておりました。恐れ入りますが、今すぐライオット様とルージュ様を呼んでいただけますか? ニース最高司祭が神殿でお待ちです」
 想像以上に重たい内容に、シンとレイリアが顔を見合わせる。
「この馬をお使いください。馬はターバで乗り捨てていただいて結構です。申し訳ありませんが、帰りは《テレポート》で神殿までお願いします。食料も含め、必要な物はすべて神殿で用意いたしますので、武装を整えたら可能な限り早くのご到着をお待ちするとのことです」
 事情は分からないが、あのニースがここまで急かすとなると、よほどの事件が起きたのだろう。
 勢いに飲まれるようにしてシンが手綱を受け取ると、ソライアは親友に視線を転じた。
「レイリア、あなたも。神官戦士団に非常呼集がかかったわ。カザルフェロ戦士長と先遣隊はもう現地に向かったし、私たち本隊も今日中に出発するからそのつもりで」
 シンに馬を押しつけ、代わりにレイリアを引っ張る。
「ほら急いで。とっとと帰るわよ。戻ったらすぐに出征の支度」
「あ、ソライア、ちょっと待って」
「いいから来なさい。遊びの時間は終わり。ではシン様、私どもはこれで失礼いたします。後のことはよしなに」
 レイリアの抗議には耳も貸さず。
 嵐のような口上と形は完璧な一礼を残すと、ソライアはレイリアを引きずって街道の向こうへと去っていった。
 神殿ではいつもこんな感じなのだろう。ややおっとりしたレイリアを、問答無用で振り回すソライア。ふたりの神殿生活を垣間見た気分だ。
 シン自身も呆気にとられてふたりを見送っていたが、ふと、隣で待っている馬と目が合って我に返った。
「馬……乗ったことないんだけどな」
 シンの呟きは聞く者もなく、ただ祝福の街道にむなしく溶けていった。


 神殿は上を下への大騒ぎだった。
 境内には10台ほどの馬車が並べられ、大量に投入された人員によって、倉庫から次々と荷物が運び込まれている。
 用意されたのは槍、槌、弓といった武器から、食料、水、木材など多岐にわたる。派遣される神官戦士団が必要とする1週間分の物資をすべて、この10台の馬車で賄うのだ。
「なるほど、こりゃ大事件らしいな」
 ルージュの魔法で中庭に転移したライオットが、周囲を見渡して顔を引き締めた。
 大声で指示や確認がとびかう中、両手に荷物を抱えて右往左往していた見習い神官が、苛立った先輩神官に怒鳴られている。
 戦士団は数名ずつの分隊ごとに整列し、点呼を行っている最中だ。さすがに妖魔退治で実戦を繰り返している部隊であり、このあたりの手際は見事と言うべきだった。
 突発事案が発生したとき、緊急出動を命じられた部隊が行う慌ただしい準備。
 警視庁機動隊に身を置いていたライオットにとっては、身が引き締まるような懐かしい雰囲気だ。
「で、俺たちはどこに行けばいい?」
 ターバ神殿はお前の担当だろ、と隣のシンに目を向ける。
 ここ最近ターバ神殿に入りびたっているシンは、ニースの情報工作もあって、今ではすっかり“レイリア司祭の許嫁”として認知されている。
 初めて神殿を訪れたときは誰何されたものだが、今ではどこへ行くのも顔パスだ。通りすがりに会釈をしてくる神官は多いが、今さら話しかけてくる者はいない。
「とりあえずニース様の部屋に行ってみよう。あそこは私室って言うより執務室みたいなものだからさ」
 前回来たときはレイリアに案内された道を、今度はシンが先導していく。
 大勢の神官たちとすれ違ううちに報告が上がったのだろう。宿坊に差し掛かったあたりで、数名の部下を従えた顔なじみの司祭が出迎えた。
「皆様、お待ちしておりました。わざわざお呼び立てして申し訳ない」
 穏やかな顔立ちに抜け目なさそうな瞳。司祭というより老獪な商人のような印象の持ち主。
 最高司祭ニースの片腕にして、ターバ神殿の財布を一手に預かる財務担当司祭、マッキオーレだ。
「いいさ。今回は大変なんだろ?」
「正直なところ、我らの手には余りますな」
 挨拶代わりにシンと言葉を交わすと、マッキオーレは客人たちの前に立って歩きだした。
 足を進める間にも、入れ替わり報告する神官たちに指示をとばし、出征の下準備を整えていく。神官戦士団が正面戦力だとすれば、彼らを送り出し、維持するための後方支援がマッキオーレの戦いなのだ。
 下級妖魔相手の討伐戦とは規模が違う。後ろで聞いているだけでも、前代未聞の予算を執行しているのが伝わってきた。
 シンたちへの報酬として支出を指示した金額など、前回の王都ミッションの10倍だ。上司の理性と自分の耳を疑った部下たちが、顔を見合わせて絶句している。
「銀貨30万枚? 正気か?」
 ライオットが神官たちの心の叫びを代弁すると、さも心外といった様子でマッキオーレが振り向いた。
「この程度の金銭で戦士たちの命が買えるなら安いものでしょうに」
 締まり屋のマッキオーレがここまで言うとは。
 黙り込んだシンたちに、マッキオーレが淡々と続ける。
「残念ながら今回は、ターバの神官戦士団には荷が重すぎます。彼らだけで送り出しても、人命と費用の無駄遣いに終わりますからな。それを避けようとすれば、私には皆様の前に銀貨を積み上げることしかできません」
 銀貨の山の高さで誠意を示せるはずもないが、そこにはマッキオーレの願いが込められていた。
 彼の立場では、シンたちに「依頼を受けてくれ」とも「戦士たちを助けてくれ」とも言えない。
 許された職権の中で、最大限に気持ちを伝えるための記号。
 それが今回の依頼料なのだ。
「俺たちも偉くなったもんだ」
 複雑な心境でライオットがつぶやく。
 元はといえば、立場の違いこそあれ、ただの一般市民だったのに。
 降りかかる火の粉を払い、親友の恋を応援しているうちに、“砂漠の黒獅子”とその仲間たちは、ターバ神殿の切り札とでも言うべき存在になってしまった。
 最高司祭ニースに信頼を寄せられ、マッキオーレにここまで頼られて、誇らしくないと言えば嘘になる。
 だが、名声が先行して中身が伴っていないのではないか?
 いつか大きすぎる看板に押し潰される日が来るのではないか?
 ライオットは漠然とした不安を感じたが、シンはそれを一刀両断にしてしまう。
「偉いとか偉くないとか、関係ないだろ、そんなの」
 迷いのないまっすぐな瞳が、虚飾に惑う親友に向けられた。
「前に言ったよな? 何ができるかじゃなくて、何をしたいかで決めろって」
 他人が自分たちをどう見ようと。
 最高司祭という権威がどれほどの信頼を示そうと。
 神殿がどれほどの銀貨を積み上げようと。
 そんな飾りには、大切なことなど何もない。
「今回はレイリアも出征するんだ。だから俺も行って彼女を守る。俺だけだと不安だから一緒に来てくれ。どこまでも付いてくるって約束しただろ?」
 名声、評価、期待。
 大きくなりすぎてライオットには無視できなかったものだが、シンの眼中には全く入っていないらしい。
「……そうだった」
 あの日、墓所の奥深くで真実を知った日から、シンにあるのはレイリアを守るという目的だけ。
 単純至極。だからシンは決してぶれない。
 自分ではすぐに忘れてしまう大切なことを教えられて、ライオットは苦笑した。
 そう、何も悩むことはなかったのだ。
 何者が襲ってこようと、ライオットは盾となってシンとルージュを守り続ける。
 それこそが、自分でライオットに課した“役割(ロール)”ではないか。
 やがて廊下の突き当たり、ニースの部屋の前まで来ると、必要な指示伝達をすべて終えたのだろう。マッキオーレに従っていた神官たちが書類の束を抱えて持ち場に戻っていく。
「それで、銀貨30万枚に値する敵ってのは何者なんだ?」
 シンが尋ねる。
 目の前には重厚な樫の扉。それを軽くノックしながら、マッキオーレは首を振った。
「話は中で。私が話すより、直接お聞きになった方がよろしいでしょう」
 扉はすぐに中から開いた。
 戸口に立っていたのは冴え冴えとした美貌の女性だ。
 すらりとした長身。まっすぐに流れる金髪。細い眉や切れ長の目元が、まるで抜き身の刃のような印象を与える。
 彼女の名はアウスレーゼ。
 アラニア国王直属の密偵にして、今はニースの護衛と監視役を務める女性だ。
「ようこそ。ニース様がお待ちです。どうぞ中へ」
「久しぶり。今日はポニテじゃないのか。せっかく綺麗な髪なのにもったいない」
 結わずに流した長髪を、ライオットが残念そうに見下ろす。
「お久しぶりです。髪を褒めていただくのは光栄ですが、今はニース様がお待ちだと申し上げました」
 アウスレーゼはライオットの無駄口をばっさり切り捨てると、追い立てるように室内に送り込んだ。
 何度か入ったことのあるニースの私室。
 よほど待ちかねたと見え、応接用のソファからニースが立ち上がって出迎える。
「待っていたわ。ごめんなさいね、急に呼び出したりして」
「今回は大騒ぎみたいですね」
 シンが応じながら、招かれるままに部屋に入り、そして、中にいた人物に目を見開いた。
 部屋にはアウスレーゼの他に、ひとり先客がいた。
 ドワーフの戦士だ。年季の入ったプレートメイルは血と泥で汚れたまま。豊かな口髭も旅塵にまみれている。
 ソファに腰掛けた姿は一見落ち着いたそぶりだが、来客に向けられた目は軽く血走っていた。
 荒事にはあまり縁の無かったルージュにも分かる。これはつい半月前、ザクソンの村で感じたばかりの空気。
 戦場帰りの戦士の昴燥だ。
「ギム……」
 このロードスで最初の師ともいえるドワーフの戦士に、シンが驚きの声を上げた。
「待っておったぞ、シン・イスマイール」
 低くうなるような声で旧知の冒険者を迎えるギム。
 猛々しいものを押し殺した口調に、シンの頬が引き締まる。
 ギムほどの戦士がここまで興奮するとは、どうやら相当な修羅場が待っているらしい。
 シンたちが勧められるままに応接用のソファに腰を下ろすと、ニースが口調を改めて切り出した。
「シン、ライオット、ルージュさん、それに猫王様も。事態は一刻を争うの。無理強いはできないけど、今回だけはどうか助けてほしい。依頼の内容は神官戦士団への助勢。報酬は30万ガメル用意したわ」
「もちろん受けます」
 一も二もなくシンが即答する。
 部屋に入る前から決まっていたことだ。ライオットやルージュにも迷いがないことを見て取ると、ニースの目に少しだけ安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう。あなたたちに心からの感謝を。ではギム、さっそくだけど状況を説明してちょうだい」
 はやる心を抑えながらじっと待っていたドワーフの戦士は、ニースの言葉を受けて視線を上げた。
 鋭い目つきで3人の冒険者たちを見つめ、重々しく口を開く。
「“鉄の王国”が滅びの危機に瀕しておる」
 想像以上に厳しい言葉だった。
 いったいどんな敵が現れれば、彼らがそこまで追いつめられるというのか。
「何があったんだ?」
 眉をひそめるシンに、ギムは歯ぎしりしながら唸った。
「敵は恐ろしい魔法を使う上位魔神じゃ。もう100名以上の戦士たちが喜びの野に召された。わし程度の技量では近寄ることもできん」
 全身で無念を表しながら、ギムはシンを見た。
「あやつを地下の隧道から出せばえらいことになるぞ。どんな犠牲を払ってでも討ち果たさねばならん。お主らの手を貸してほしい」
「たった1体の上位魔神が、そこまで一方的に?」
「わしも認めたくはないが、それが事実だからの」
 ドワーフ族は力強さも頑健さも人間をはるかに上回る、屈強な戦士の種族だ。もし人間が“鉄の王国”を攻め落とそうとすれば、万を超える数の軍勢が必要だろう。
 そのドワーフ族が、たった1体の敵に手も足も出ないなどと。
「ありえないだろ」
 そう言ってライオットが首をひねる。
 相手が上位魔神程度であれば、どれほどの犠牲が必要かはさておき、決して倒せない敵ではないはず。
 だがギムは、滅亡の危機、という言葉を使った。
 苦戦という次元を越えている。
「本当に上位魔神で間違いないのか?」
 疑わしげなライオットに、ギムは憤然として答えた。
「奴めはギグリブーツと自分で名乗りおったからの。ニースが言うには上位魔神の中でも弱い部類らしいが、とんでもない。呼吸の代わりに破壊の魔法が飛んでくるのじゃぞ? 手の施しようがないわい」
 拳をソファの肘掛けに叩きつける。
 すると、今度はルージュが怪訝そうに口を挟んだ。
「呼吸の代わりに魔法って、それならすぐに精神力が尽きちゃうでしょうに。どんな魔法を使ったにしろ、ギグリブーツの精神点じゃ30回が限界だよ?」
 ルージュの脳裏に浮かんだデータによれば、ギグリブーツは魔法特化型の上位魔神だ。
 魔法強度は19。これはルージュに匹敵するほどの魔力だが、反面、白兵戦能力はかなり低い。命中点も回避点も、シンやライオットなら“致命的な失敗”がなければそれで上回ってしまう程度でしかない。
「残念だが魔術師の嬢ちゃん。30回では到底きかぬな。わしらは半日以上も戦い続けた。その間に奴が使った魔法は千に届こうよ」
「そんな……」
 ありえない。
 魔法とは無から有を創り出すものではない。発動と消費は等価交換であり、生み出す破壊は厳密な計算に基づいている。
 ここぞと言うときに必要十分な魔力を注ぐため、ルージュがどれだけ周到な精神点管理をしてきたことか。
 魔術師は、何度でも好きなだけ殴れる戦士とは違うのだ。
「いろいろと不可解なことは多いわ。だけどね、そういう魔神が“鉄の王国”に現れたことだけは事実なの。そして私たちは、なんとしてもその魔神を倒さなくてはならない」
 ニースが重々しく口を開いた。
 ニースとギムは、剣を振るって実際に魔神戦争を戦い抜いた世代だ。魔神がどれほど非常識な敵か、嫌というほど思い知らされている。
 理屈に合わない。
 ありえない。
 それは事実だから、議論は大いに結構。
 だが口先で相手を否定するのは時間の無駄だ。現実に彼らは存在するのだから。
 その存在を認めた上で魔神を倒す段取りを組むのが、今のニースの役目だった。
「すでに先遣隊として、カザルフェロ戦士長の率いる神官戦士30名と司祭10名を送ったわ。今日中に本隊も出発する。あなたたちには、本隊と一緒に“鉄の王国”に行ってもらいたいの」
 神官戦士も司祭も可能な限りの動員が行われ、ターバに残るのはごくわずかな留守役のみだ。
 もし今回の派遣で甚大な被害を被れば、ターバ神殿は維持すらままならずに瓦解するだろう。
「これは乾坤一擲の賭けになるでしょう。けれど、ドワーフ族とターバ神殿は一蓮托生。全力で事態に臨みます」
 有無を言わさぬニースの宣言。
 彼女にここまで言わせるほど、事態は切迫しているのだ。
「分かりました。俺たちも全力を尽くします」
 確かに、ここで言い合っていても状況は改善されない。
 ニースの厳しい口調に、シンも居住まいを正して頷いた。
 その隣で、ルージュが何気なくつぶやく。
「それにしても、また上位魔神か……」
 ふと思いついて、こぼれただけの言葉だ。根拠のある発言ではない。
 だが、ニースの思慮深そうな目で見つめられて。
“また”という言葉に意味があるのではないか?
 ルージュの胸に、ふとそんな考えが浮かんだ。





[35430] シナリオ5 『決断』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/21 20:32
シーン2 白竜山脈

 太陽は西の地平に近づき、空は鮮やかな茜色に染まっていた。
 白竜山脈の麓に広がる針葉樹の森にも、夕暮れの涼気とともに、オレンジ色の薄闇が広がってくる。
 完全に日が落ちてしまえば、月明かりの届かない深い森の底では、自分の足下すらもおぼつかなくなる。そろそろ野営の準備をするべきだろう。
 しかし、徐々に濃くなっていく闇の中。
 ターバの神官戦士団は休憩するそぶりもなく、ただ黙々と前に進み続けていた。
 マッキオーレが銀貨を湯水のように使って馬をかき集めたおかげで、戦士たちは全員が騎乗しており、自分の足で歩いている者はひとりもいない。
 本来なら背負っているはずの重い水や食料も、すべて随伴する馬車の中だ。
 かつてない潤沢な装備と補給体制。戦う者にとっては至れり尽くせりの環境が整っていたが、それを手放しに喜ぶ者もまた、ひとりとしていなかった。
「マッキオーレ司祭が金を惜しまないなんてな。この世の終わりが来たらしい」
「どうせ死ぬんだから、最後に餞別代わりってことだろ」
「いやいや、ただで死んだらきっと文句を言われるぜ。どうせなら給料分は働いてから逝けってさ」
 転々と灯された松明の明かりの中で、時折、戦士たちが自虐的な冗句を交わしている。
 これから自分たちがどこへ向かい、何と戦うのか。
 それを知らされてからというもの、戦士たちは皆こんな調子だった。
 無理もない。ターバの神官戦士たちはせいぜい3レベルだ。正面から魔神と戦って勝てる道理がない。
「敵は上位魔神、しかも無限に魔法を使ってくるのか。さすがに今度ばかりは生きて帰れないかも」
 レイリアと並んで馬を進めていたソライアも、もはや笑うしかないといった風情だった。
 魔神戦争の集結から、まだ30年。
 幾多の町や村を灰燼に帰せしめた魔神たちの恐ろしさは、人々の間では現実のものとして語り継がれている。
 まともにぶつかれば勝ち目はない。
 仮に勝ったとしても、必要な犠牲者の数は両手両足では収まらないだろう。その中に自分が入っていないという保証は、どこにもないのだ。
「あ~あ、こんなことなら一度くらいは結婚してみたかったなぁ」
 ため息まじりにソライアが天を仰いだ。
 ここまでの人生はまだ17年だ。やりたいことも心残りも山ほどある。
「大丈夫、私たちはきちんと帰れますよ」
 松明を掲げて愚痴を聞いていたレイリアは、闊達なソライアがめずらしく見せた弱音にくすりと笑った。
 皆が不安になるのは分かる。レイリア自身、ザクソンの村で上位魔神に睨まれたときは、指一本動かせずに死を覚悟したのだから。
 だが同時に、シンたちがいれば何も恐れる必要はないのだということも、また知っているのだ。
 いつもどおり自然体のレイリアに、ソライアは唇をとがらせた。
「ずいぶん余裕じゃない。レイリアは怖くないの?」
「魔神は怖いですよ。でもシンが一緒ですから」
 その答えには一片の迷いもない。
 レイリアはふわりと微笑むと、自分のすぐ前を進むシンの背中を見つめた。
「ここは世界で一番安心できる場所なんです。私は今まで何度も死にそうな目に遭ってきましたけど、シンは必ず私を助けてくれました。今度だってそうなります」
 そう言って愛しい男の背中を見つめるレイリアは、以前とは少しだけ違う表情を浮かべている。
 以前は、ただ守られるだけだった。
 でも今は違う。シンがレイリアを守るように、レイリアだってシンを守れるのだ。
 ゴブリンの洞窟では、シンは自分を信頼して隣を任せてくれた。癒しの魔法にかけては、今ここにいる司祭たちの誰にも負けない。
 その力はきっとシンの助けになるはずだ。
「はいはい、ごちそうさま」
 ソライアがため息をついて肩をすくめた。
 まだ出会って数ヶ月のはずなのに、レイリアとシンの絆の深さは何なのだろう?
 少し前までは甘いだけのバカップルでしかなかったが、ザクソンから戻ってからというもの、ふたりの間には恋愛感情ではない、強固な何かが構築されている。
「ま、男どもみたいに悲観的な愚痴を言い合うよりは、そっちの方がよっぽど健康的だけどね」
 率直に言えば、レイリアがうらやましい。
 ソライアが自分の感情をそう評価すると、唐突にレイリアが尋ねた。
「ところでソライア、恋しい男性がいたんですね」
 単刀直入な問いに、思わずソライアは口ごもった。
 ここが神殿だったら、きっと誤魔化していたにちがいない。
 けれど、これから死地に赴こうというときまで、親友に隠し事?
 悩んだ時間は一瞬だった。
「……まあね」
「どんな人ですか?」
 目を輝かせて食いついてきたレイリアに、ソライアは苦笑を返す。
「そうね、素直じゃないけど仲間思いで、責任感が強くて、誰よりも頼りになる人、かな」
 これではまるで、宿坊で寝る前に楽しむガールズトークだ。
 自分の恋愛事情に周囲の戦士たちが聞き耳を立てるのを感じるが、レイリアは気にも留めずに質問を重ねてくる。
「それで、想いは伝えたんですよね?」
「もちろん」
「相手の方は何と?」
「せめて一人前になってから出直せってさ」
 ソライアはあははと笑いながら暴露したが、一世一代の告白をした少女に返すには、あまりにも酷い台詞だ。
 レイリアの目がすっと細くなる。
「何ですか、それ?」
「当時私はまだ12歳だったし、その反応は責められないかな。ただね、年齢はただの口実だったの」
 腰に吊った長剣をもてあそびながら、ソライアは少しだけ遠い目で過去を見た。
「私も負けず嫌いだからさ。誰にも負けないくらい剣の腕を磨けば、あの人も認めてくれるって思った。だから本気で訓練したし、自分では結構強くなったつもり。ま、レイリアにはかなわないけどね」
 だがある日、その訓練の中で、気づいてしまったのだ。
 彼がいつも、1人の女性を見つめていることに。
 ほかの女性司祭たちを見るのとはまるで違う、狂おしい光がその目に燃えていることに。
「最初から私が入り込む隙間なんてなかった。彼の心はもう捕らわれていたから」
 どれほどの愛を捧げても、愛が返ってくることはない。
 誰を恨みようもない、しかし救いのない現実。
「ソライア、その……ごめんなさい」
 シンと順風満帆の恋をしているレイリアには、慰めの言葉が思いつかなかった。
 きっと何を言っても嫌みにしか聞こえない。
 そう思って申し訳なさそうに親友を見ると、ソライアは満面の笑顔を浮かべている。
 ……満面の、笑顔?
「なんて言うとさ、私も切ない恋に苦しむ乙女みたいだよね?」
 悪戯の成功を楽しむ子供のような表情だ。
 とても悲恋で苦しんでいるようには見えない親友に、レイリアは頬を膨らませた。
「またからかったんですか?」
「失礼ね。嘘はひとつも言ってないわよ。今言ったことは全部本当。ただね、最近ちょっといいことがあったの」
 ソライアはきらきらと輝く目でレイリアを見ると、馬を寄せ、声をひそめてささやく。
「その女がね、他の男とくっついたのよ」
「え?」
「ってことはさ、彼は失恋して心に傷を負ったわけでしょ? ここで優しくすれば、私の名前が彼の傷口に刷り込まれるってわけよ。分かる?」
 5年越しの純愛がついに報われるわ、と嬉しそうなソライア。
「私も昔と違ってイロイロと成長したし。顔にも体にも結構自信あるのよ? だから部屋で2人きりになれれば勝算はあると思う」
「ソライア。それ、微妙に純愛じゃありませんよね? どっちかというと色仕掛けじゃ?」
「正攻法でしょ?」
 ソライアはふふんと胸を反らすと、勝ち誇った顔でレイリアの胸元を見下ろした。
 何を言いたいかは分かる。
 レイリアだって形には自信があるが、純粋な物量ではソライアに敵すべくもない。男の人は大きい胸が好きらしいから“戦力”としては有効だろう。
 ソライアは純粋に美人だ。
 おまけに社交的だし、笑顔は明るいし、裏表のないまっすぐな性格は男性にも女性にも好かれている。
 さらに言えばソライアの父はアラニア王国の上級騎士で、地位も財産も申し分ない優良物件だ。
「私、今度の戦いから戻ったら、彼にもう一度伝えるつもり。私の気持ちは5年前から変わってませんって」
「くれぐれも、返事をもらう前に押し倒さないで下さいよ」
「当たり前じゃない。返事の代わりに押し倒してもらうもの」
 声をひそめて笑う少女たち。
 すぐ背中で繰り広げられる恋愛話に、ライオットとルージュは顔を見合わせた。
「いまの台詞はフラグだよな」
「思いっきり立てちゃったね」
 戦いに赴く前にプロポーズの花束を準備するなど論外。生きて帰る機会を自ら棒に振るようなもの、というのは多くのTRPGプレイヤーにとって常識だ。
 だが残念ながら、この世界ではそこまで周知されていないらしい。
「ソライアに好きな男がいると知って、折れたフラグも結構ありそうだけどな」
 聞き耳を立てていた男どもが無言で血涙を流しているのを察して、シンがにやりと笑う。
「ねえシン。私たち、無事に帰れますよね?」
 背中に投げかけられるレイリアの声。
 シンは振り向くと、大きくうなずいた。
「必ず帰れるよ。約束する」
「安心して、レイリアさん。私たちはそのために、今ここにいるんだから」
 フラグを折るのが大好きな人もいるしね、とルージュが目を向けると、ライオットがにやりと笑う。
「前も誰かに言ったけどさ、俺はハッピーエンド以外は認めないから。みんな一緒にターバに帰って、マッキオーレの奢りで祝杯といこうじゃないか」
 その言葉で、周囲の戦士たちに笑いがはじけた。
 マッキオーレなら皆の無事を喜びつつ、余計な支出に渋面になりながら、さぞ盛大な宴席を設けてくれるだろう。
 そして次の日から、またケチくさい神殿運営が始まるのだ。
 今までと同じ日常が、これからも続いていく。
 そんな未来への希望を思い出して、戦士たちの表情も明るくなったようだ。
「酒なんぞ飲めないくせによく言う。お前には扇動家か詐欺師の素質があるな」
 ルージュの鞍で器用に丸くなっていたルーィエが、細目を開けて口を開いた。
「いや、それほどでも」
「ライくん、謙遜しないで。そこ褒められてないから」
 思わずつっこんだルージュを、ライオットは何を言ってるんだと見返した。
「ちゃんと褒められてるよ。なあ陛下」
「ふん、調子に乗るなよ半人前が。結果が伴うまではただの妄言なんだからな」
 不機嫌そうにルーィエが鼻を鳴らす。
 どうやら本当に褒めていたらしい。
 ルーィエは素直とはとても言えない性格だが、ライオットも同じくらいひねくれているから波長が合うのだろう。憎まれ口を叩きながらも、この2人の呼吸はぴったりだ。
 かつてない危機を前にしながら、特に緊張した様子も見せない冒険者たち。 
 彼らが“魔神殺し”の称号を持つ凄腕であることを思い出して、周囲の戦士たちの雰囲気も明るくなる。
 隊列の前方が騒がしくなったのは、その時だった。
 先頭は相当混乱しているようだ。誰かの怒号が聞こえ、オレンジ色の薄闇に包まれた森の中、点々と灯る松明が大きく揺れている。
「何だと思う?」
 シンは目を細めて前方を見たが、間に数十騎の騎馬がいては見通すことなどできない。
 深い森に刻まれた交易路の幅も、せいぜい馬車1台を通すのがやっとだ。無理やり見に行けば隊列が崩れてしまうだろう。
「獣か妖魔でも出たんじゃないか?」
「こんなに大勢の人が、鉄の装備を持って集まってるところに?」
「けどさ、何かが出ないとあそこまで騒がないだろ」
 ライオットとルージュが首をひねっていると、前から停止を命じる号令が伝わってきた。
 訓練どおりの要領で復唱が後ろへ後ろへと伝達され、中段以降の戦士たちも馬を止める。
 皆が何事かと聞き耳を立てていると、隊列の向こうからかすかな地響きが鳴り、
『Vooooooooooooooooow!!』
 壮絶な咆吼が轟きわたった。
 森が沸騰した。
 ねぐらに戻っていた鳥たちが一斉に飛び立ち、まるで黒い滝が逆流するように空を覆う。
 馬たちも大パニックだ。逃げだそうとするもの、竿立ちになるもの、騎手を振り落とそうとするもの。
 混乱が混乱を呼び、戦士たちは自分の乗馬をなだめるだけで精一杯。
 そんな中。
「行くぞ! レイリア、馬は頼んだ!」
 シンは何の躊躇もなく跳び下りると、馬を捨てて駆けだした。
「そんな! 私も行きます!」
「悪いけどレイリアさん、こっちの馬もよろしく」
「すまないな」
 ルージュとライオットが続き、ルージュの鞍で丸くなっていたルーィエも軽やかに地面に降り立つ。
 冒険者たちにあてがわれたのは、専門の訓練を受けた高価な軍馬だ。騎手が下りたのを悟ると、その場で主人の帰りを待とうと脚を止める。
 取り残されたレイリアが文句を言うのを聞き流して、シンたちは疾風のように駆けた。
「シン。さっきの声、聞き覚えがあると思わないか?」
 大盾を抱えて走るライオットが、シンに並ぶと意味ありげに言う。
「聞き覚え?」
 怪訝そうに問い返すシン。
 だがその答えは、ライオットの言葉よりも早くシンの視界に入ってきた。
 隊列の先頭には、案内役を務めるギムと、増援部隊の指揮を執っていた古株の戦士が並んで武器を構えていた。
 他にも10人ばかり、前方にいた戦士たちが道いっぱいに広がって臨戦態勢をとっている。
 皆、すでに馬は捨てていた。
 この狭い森の中では馬の機動力は活かせないし、そもそも騎乗戦闘は専門外だ。判断としては順当だろう。
「なるほど。聞き覚え、あるはずだよな」
 戦士たちが並べた白刃の壁の上。
 松明に照らされた大きな影を見て、シンが小さく笑った。
 茶色い剛毛に覆われた、見上げんばかりの巨体。
 頭頂部は三角形に尖り、歪んだ口元には濡れた牙が光っている。
 武器こそ持っていないが、分厚い筋肉で膨れ上がった腕は、それ自体が十分な凶器だった。
 見忘れるはずもない。
 シン・イスマイールが、この世界における初陣で戦った敵。食人鬼の異名で知られる凶暴な巨人。
 オーガーだ。
「1、2、3……森の奥にもう1匹いるな。全部で4匹か」
 戦士たちの壁の後方で足を止めると、シンは薄闇の向こうを見透かすように視線を巡らせた。相手の巨体のおかげで、戦士たちの頭越しにでもよく見える。
 オーガーは道の中央に1匹、左右の茂みに1匹ずつ、交易路を塞ぐように立ち、低く唸りながら戦士たちを威嚇しているようだ。
 戦士たちが対峙しているのはこの3匹だけだが、右手の木立の奥にもう1匹、小柄なオーガーが身を隠していた。前回は物を投げるという遠距離攻撃もしてきたから、油断していると痛い目を見るだろう。
「しかし最近よく出るな。この辺に巣でもあるのかね」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。このまま襲われたら、あの人たち死んじゃうよ」
 この狭隘な地形では、戦士団の武器である『数』が殺されている。
 少数同士で正面からぶつかれば、互角に戦えそうなのはギムと指揮官の戦士だけだ。他の戦士たちではあっという間に蹴散らされてしまうだろう。
 それでも、戦士たちは一歩も引かずにオーガーと対峙していた。
 半分闇にのまれた森の中、炎に照らされるオーガーたちの姿は迫力満点だ。爛々と光る目や、剥き出しの牙が必要以上に目に入ってくる。
 緊張は杯に水を注ぐように張り詰めていき、もう間もなく限界に達するだろう。
 そのとき、犠牲を覚悟しての消耗戦が始まる。
 しかし。
「どうする? また《戦いの歌》がいるか?」
「アホか。暢気に歌ってないで前に出ろ。ひとり1匹ずつだ」
「ちょっと待て黒いの。俺様もこき使う気か?」
「あのねルーィエ。今日はあなた何も仕事してないんだから、少しくらい働いてよね」
 シンたちは軽口を叩きながら、身構えるでもなくオーガーの前に進み出た。
 最前線に冒険者たちが姿を見せると、ギムの顔に大きな安堵が浮かんだ。
「シン・イスマイールか。見てのとおりじゃ。4匹相手とはなかなか厳しいが、手を貸してくれ」
「待たれよギム殿。シン殿たちは魔神相手の切り札。このような場所で消耗させるわけにはいかぬ。ここは神官戦士団が引き受ける」
 ギムと並んでオーガーとにらみ合っていた指揮官が、悲壮な声で反対する。
「しかしの」
「いえ、ここは譲れませぬ」
 オーガーとにらみ合いながら2人が揉めていると、シンは軽く苦笑して指揮官の肩に手を置いた。
「気持ちは嬉しい。だけど、俺たちが受けた依頼は、神官戦士団への助勢だ」
 そのまま手に力を込めて、後方へ引き下げる。
 どのような技を使ったのか。指揮官は抵抗もできずにたたらを踏み、ふと気づけば前にはシンの背中があった。
 凶悪な顔で人間たちを見下ろすオーガーの前で、シンはようやく背中の剣を抜いた。
 白い燐光がゆるやかに軌跡を描き、ぴたりと青眼に構えられる。
「まあ、とりあえず見ててくれよ」
 自信たっぷりの落ち着いた表情。
 決して強い口調ではないが、逆らうことを許さない響きを持った声だった。
 戦斧を構えていたギムが軽く目を見張る。
 数ヶ月前、共にオーガーと戦ったときとはまるで違う。本当に同一人物かと思えるくらいの変わりようだった。
「俺たちも報酬分くらいは働かないとな」
 抜き放った魔剣に炎をまとわせ、ライオットも進み出る。ミスリル製のプレートメイルが松明の光をはじき、余裕の笑みを浮かべる横顔を照らした。
 左手に持った大盾が正面を向き、オーガーの1匹と視線が交錯する。
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaaaw!!』
 それまで低く唸るばかりだったオーガーが、再び盛大に吼え猛った。魔法の大盾が秘められた力を発動させ、緊張に最後の一滴を落としたのだ。
 正面のオーガーは丸太のような腕を振りかぶり、地響きをたてて襲いかかってくる。
「おいライオット。その盾があるとこっちに獲物が来ないぞ」
「諦めろ。そういう仕様だ」
 超重量級、体高3メートル近い巨人の突進に、周囲の戦士たちが息を飲んだ。
 頭では行かねばと思っていても、自分が死ぬと分かっていて身を投げ出すなど、そう簡単にできるものではない。
 緊張で身をこわばらせる戦士たちを守るように、ライオットは左腕1本で大盾を構え、腰を低くして攻撃に備えた。
 正面からでも、受けようと思えば受けられるだろう。
 だが以前と同じでは芸がない。
 オーガーの太い腕が、重量と勢いを乗せて叩きつけられる寸前、ライオットは盾から手を離して真横に身をさばいた。
 シンのように非常識な速さはないが、風を受け流す柳の細枝のごとく、しなやかで角のない動きだった。
 対するに、オーガーの攻撃は勢いまかせ、力まかせだ。狙った場所を粉砕する以外の自由度はない。
 壮絶な金属音が響いた。
 オーガーが腕を振り抜くと、殴りつけられた盾が地面に跳ね返り、回転しながら高く高く舞い上がった。
 体重を乗せすぎたため、ほぼ空振りになったオーガーの上体が泳ぐ。
 それが致命的な隙となった。無防備に伸ばされた首筋はライオットの目の前だ。
 巧くいった。ライオットは片頬をかすかに歪めると、剣を両手持ちにして、狙いすました一撃を放つ。
「じゃあな」
 “致命的な一撃”(クリティカル・ヒット)。
 炎の残光を引いて魔剣が一閃すると、宙に舞う盾を追うようにオーガーの首が飛び、直後に赤い噴水が上がった。
 首を失った胴体が、やがて傾いで地面に倒れるまで。
 起こった出来事をすぐには受け入れられず、ターバの戦士たちは静まり返ったまま眼前の光景を見つめていた。
「派手に決めてくれる」
 回転しながら落ちてきた大盾が魔法のようにライオットの手に収まると、シンは苦笑いしてつぶやいた。
 技巧を極めたライオットだから、あそこまで水際立った手並みが披露できるのだ。
 倒すだけでなく『魅せる』ことまで計算した動きは、たぶんシンにはできない。
 ライオットの剣を“技”だとすれば、シン・イスマイールの剣は“格”だ。駆け引きもフェイントもなく、ただ防御を許さない速度と威力を乗せるだけ。
 黒い長衣の裾をひるがえしてシンは地面を蹴った。
 間合いを測って跳躍すると、精霊殺しの魔剣を大上段に振りかぶり、真正面から振りおろす。
 清冽な気迫と、名工の手による大業物と、そしてそれを振るうシンの技量が最高レベルで調和したとき、いったい誰にその一撃を止められるというのか。
 精霊殺しの魔剣は白い燐光を引いてオーガーの眉間に食い込むと、のどを裂き、背骨に沿って胸部を両断し、そのまま股間まで一気に斬り下げられた。
 シンはとん、と軽く着地するや、返り血を避けて即座に跳び退く。
 赤黒い驟雨が大地をたたいた。
 誰よりも驚いた表情のまま、唐竹割りにされたオーガーはゆっくりと左右に分断され、濡れた音をたてて地面に崩れる。
 あの凶暴な巨人が、抵抗すらできずにただの一撃で。
 しかも、文字通りの一刀両断などと。
 ありえない。
 たてつづけに見せられた常識はずれの光景に、観衆が唖然とする中、今度はルーィエの魔法が発動した。
『戦乙女よ、おまえの槍で敵を討て!』
 銀毛の猫王が命じると、精霊語の呼びかけ応じて、白銀の甲冑をまとった精霊が姿を現す。
 底冷えのする瞳が交易路に残った最後のオーガーを刺し貫くと、暗い森に白銀の閃光がほとばしった。
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!』
 悲痛な絶叫。
 戦乙女が投擲した魔法の投槍はオーガーの右胸に突き刺さり、胸から肩にかけてを跡形もなく消し飛ばす。
 霧状になった血と肉片がしぶき、右腕がぼとりと地面に転がった。
 胴体に大穴を開けられたオーガーが、血走った目に憎悪を燃やしてルーィエを睨みつける。
 この期に及んでまだ戦意を失わないのはさすがだが、オーガーに許されたのはそこまでだった。
『魔狼の咆吼、雪娘の抱擁、始源の巨人の悲しみの心……』
 玲瓏な上位古代語の旋律とともに、真夏の森にうっすらとした冷気が生まれる。
 ルージュの強大な魔力に反応して、マナが目に見える形で世界への干渉を始めたのだ。
 今はまだ足下に白い霧が流れる程度だが、霧の領域は森の奥へ奥へと広がり、木立の向こうに隠れている最後のオーガーをも飲み込んでいく。
 半身を失ったオーガーが、残された左腕でルーィエに襲いかかるが、すでに遅かった。
『万能なるマナよ、氷雪の嵐となりて吹き荒れよ!』
 詠唱の最後の一節が撃鉄となってマナを打ち、ルージュが描いた構成が世界を一気に書き換えた。
 地面に漂う冷気が爆発するように膨れ上がり、視界を白一色に染める。
 極低温の嵐は容赦なくオーガーたちに襲いかかった。氷の刃が肉を切り裂き、噴き出す血を瞬時に凍りつかせていく。
 オーガーが悲鳴を上げようと息を吸えば、冷気は肺を凍らせて呼吸すらできなくなった。
 白い氷雪の爆発は、1度では収まらない。
 何度も何度も繰り返し荒れ狂い、そのたびにオーガーの強靱な生命力を容赦なく削り取っていく。
 見守る戦士たちに鳥肌が立ったのは、魔法の余波で下がった気温のためか、それとも恐怖のためか。
 冒険者たちの締めを飾るにふさわしい、圧倒的な力。
 理不尽な破壊をまき散らす古代語魔法の猛威に、ギムも、戦士たちも、もはや言葉もない。
 やがて霧が晴れるように視界が開けたとき、真夏だというのに森の木々や大地にはびっしりと霜がおり、オーガーの物言わぬ躯も立ったまま氷の彫像と化していた。
「容赦ないな」
 蹂躙と呼ぶにふさわしい妻の所行に、思わずライオットがこぼす。
「私、オーガーには個人的に恨みがあるからね」
 ルージュが硬質の美貌にうっすらと笑みを浮かべた。
「それに、ただ倒すだけじゃダメだったんでしょ?」
 ふつうに戦えば、さして苦労もせずに倒せただろう。
 だが、ふつうでは足りなかった。
 弱気になった神官戦士団の士気を取り戻すためにも、鎧袖一触で蹴散らし、オーガーなど敵ではないと知らしめる必要があったのだ。
 だからシンもライオットも『一撃』にこだわり、ルージュは無用と思えるほどの拡大魔法を使った。
「……シン・イスマイールよ」
 一歩も動けずに冒険者たちの戦いぶりを見ていたギムが、乾いた唇からかすれた声を出した。
 言いたいことは分かる。
 シンは振り向くと、少しだけ誇らしげに笑った。
「これが俺たちだ」
 ロードス島に来て2日目の早朝、ギムやレイリアの前でさらした醜態を、シンはやっと挽回することができたのだ。
「敵が上位魔神だろうとさ、俺たちは勝つよ」
 決して大きくはない声だったが、静まり返った森に、シンの自信に満ちた言葉が染みわたる。
 幾ばくかの余韻の後、戦士たちの大歓声が沸き起こった。
 “砂漠の黒獅子”を讃える歓呼は、絶望に閉ざされた未来を照らす光となって、深くなっていく闇に何度も何度も轟きわたった。





[35430] シナリオ5 『決断』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:01
シーン3 鉄の王国

 満天の星明かりの下、無数に焚かれた篝火に照らされて、ひとつの巨大な門が闇の中に屹立していた。
 高さも幅も常識はずれ。
 その規模たるや、門の前で警戒に当たっている百人規模の戦士団が豆粒にしか見えないほどだ。
 これだけ大きければ、神話に出てくる古竜や巨人であっても、楽に出入りができるだろう。
 いつの時代、誰が誰のために築いたものなのか、それは分からない。
「ひとつだけ確かなことは、今も昔も、そしてこれからも、ここを守ることがわしらの務めだという事じゃ」
 ターバからの道中、先頭に立って案内してきたギムが、傍らの冒険者たちに言う。
 星空の下、荘厳な門と完全武装の戦士たちが織りなす幻想的な光景を前に、ドワーフ戦士の声は少しだけ誇らしげだった。
 白竜山脈の地下に広がるドワーフ族の地底都市“鉄の王国”。
 ここがその正門である。
「やっと着いたか」
 慣れない乗馬でさすがに疲れを隠せず、シンがやれやれと吐息をもらす。
「さすがに尻が痛いな」
 鞍の上で身じろぎしながらライオットが顔をしかめたが、彼らはまだマシな部類だった。
 後方に続く戦士たちは疲労困憊し、とても戦闘に耐えられる状態ではない。レイリアやソライアは体力の限界に達して意識が半分飛んでいるし、ルージュに至っては随伴の馬車に寝床を作らせて夢の中だ。
 無理もない。 
 ターバを出発した神官戦士団は不眠不休で山道を抜け、徒歩なら2日かかる道程をわずか半日で踏破してきたのだから。
 ギムが救援を求めるために鉄の王国を出発したのが2日前の夕刻。
 ターバにたどり着いたのが今日の未明で、夕暮れには先遣隊が、真夜中には本隊まで到着するという、常識では考えられない強行軍を成し遂げている。
「無理をさせて済まんの。しかし助かった。援軍が予定より2日も早く着いたのじゃからな」
 しかもその援軍たるや質・量ともに申し分ない。
 ドワーフ側とすればどれだけ頭を下げても下げ足りないところだ。
 ギムに先導された本隊が門へ近づいていくと、中から数十人の戦士たちが出迎えにきた。
 そのほとんどがドワーフだが、中には数人だけ人間も混ざっている。おそらく先遣隊の戦士たちだろう。
 彼らの顔が見えるところまで近づくと、神官戦士団に大声で号令が下った。
「全軍下馬! ボイル陛下とカザルフェロ戦士長がお見えだ! 特別訓練に参加したくない奴は背筋を伸ばせ! 気合いを入れろ!」
 ドワーフ族の王と神官戦士団の長の登場だ。
 疲れ果て、目を開けているだけでやっとの戦士たちに緊張が走る。弛緩していた空気が瞬時に張りつめ、馬たちまでが首を上げた。
 馬を下りた神官戦士団は序列に従って整列し、出迎えの戦士たちを待つ。
 やがて、壮年の戦士が戦士団の正面に進み出た。
「皆、ご苦労だった。疲れているとは思うが、最後にもうひと踏ん張りしてもらうぞ」
 その戦士を見たライオットの第一印象は“野生の狼”だった。
 年の頃は40歳くらいか。
 隙のない眼光を放ち、無精ひげをはやした精悍な風貌。
 長身はしなやかに引き締まり、誰の目にも一流の戦士に見えるだろう。
「あれがカザルフェロ戦士長か?」
 ライオットが小声で耳打ちすると、シンは小さくうなずいた。
「そうだ。戦士として強いのはもちろん、何より人を動かすのがうまい。戦士長にはうってつけの人材だよ」
 微妙な表情で壮年の戦士長を賞賛するシン。
 どうやら苦手意識を感じているようだが、これ以上の私語をできる雰囲気ではなかったので、ライオットは大人しくカザルフェロに視線を向けた。
「お前たちはターバ神殿の誇る精鋭だ。“鉄の王国”のドワーフ族も、お前たちには並々ならぬ期待をしている。その期待に応えることが、今回のお前たちの任務だ」
 部下たちに訓示するカザルフェロは、要所を金属で補強した頑丈な革鎧をまとい、腰には長剣ともう1本、奇妙な小剣も用意しているようだ。
 実戦で揉まれた歴戦の傭兵のような軍装は、外見よりも実戦を優先したもの。
 少なくとも、お行儀の良いエリートとは一線を画する人物らしい。
「では静聴せよ。ボイル陛下よりお言葉がある」
 カザルフェロが脇に退くと、疲労など忘れたかのように整然と並ぶ戦士団の前に、今度は屈強なドワーフの戦士が進み出た。
 ドワーフ族の戦士たちはみな歴戦の風格を漂わせていたが、前に出たのはひときわ存在感にあふれた人物だった。
 長い年月を閲してきた顔には深いしわが刻まれ、眼差しはルノアナの湖よりも深く、藍い。
 “鉄の王国”最強の戦士にして、この地底都市の主。
 “石の王”ボイルだ。
「戦士諸君。この度の援軍、まことにかたじけない。礼を言う」
 身長は人間たちの肩にも届かないだろう。
 だがこのドワーフ王の発する威厳は、穏やかな声に乗って戦士団の隅々まで届いた。
「敵は上位魔神だ。わが戦士たちも数多く犠牲となった。かかる強敵を前にしてこれほどの助勢を得たことを、我らドワーフ族は末代まで忘れぬであろう」
 盛大に焚かれる篝火を背にして、ボイルの太い影が地面に揺れる。
 戦士たちはしわぶき一つたてず、ただ薪のはぜる音とボイルの言葉だけが、夜空に染み込んでいった。
「先に到着したカザルフェロ戦士長らの活躍により、魔神めは坑道のひとつに追い詰めることに成功した。決戦は明日だ。今宵はゆっくりとその身を休めてほしい。このような夜遅くまで、本当にご苦労であった」
 ボイルの言葉が終わり、戦士団が一斉に礼を施すと、カザルフェロが進み出て号令をかけた。
「部隊はここで解散する。今夜はドワーフ族が寝所を用意してくれた。小隊ごとにドワーフの戦士がついてくれるから、その指示に従え。くれぐれも明日に疲れを残すんじゃないぞ。中隊長以上はただちに集合。以上、解散」
 指示が終わると、とたんに戦士たちが騒がしくなった。
 先遣隊が上位魔神を追い詰めたという驚き。
 これでやっと休めるという安堵。
 私語を鎮めようと小隊長が躍起になって叫ぶ声。
「いやほんと、懐かしいな、この空気」
 ライオットがしみじみとつぶやく。
 よそ行きの外面と本音が号令ひとつで入れ替わる様は、まるっきり警視庁機動隊そのものだ。
 人が人として集まりながら、個を殺して組織で戦うというシステム。その機能のひとつである。
「私たちにも部屋はあるんでしょ? もう疲れたから早く寝に行こうよ」
 気の利いた司祭に起こされたのだろう。いつの間にか起き出してきたルージュが、あくびをかみ殺しながら提案した。
 突然背中にかけられた声に、少しだけ驚いてライオットが振り向く。
「おはよう。いつの間に?」
「静聴せよ、のあたりから。あのちょいワル戦士長の話はおおむね聞いてた」
 この上なく目立つ容姿なのに、神出鬼没ぶりを発揮するルージュには感心するしかない。
 銀色の細い髪は炎に照らされて黄金に輝き、影の落ちた紫水晶の瞳はまるで月のよう。疲れと眠さを前面に押し出してなお、鑑賞用としては最高級の素材だ。
「決戦が明日なら、今日はもう私たちの出番はないでしょ。本格的に寝たいんだけど」
 男が100人いたら、99人まではルージュの希望を叶えるために東奔西走することだろう。
 だがライオットは、あっさりと左右に首を振った。
「残念だけど、その考えは甘い」
 その視線を追って振り向いたルージュの視界に、ボイル王以下の上級幹部が歩み寄ってくる姿が映る。
「……私たちも集合?」
「だろうな」
 末端の戦士たちは明日まで休憩できるが、幹部はそうではない。
 今日までの戦況を共有し、それをふまえて明日への対策を話し合い、いかに効率よく戦うか、そのためには何が必要なのかを決める。
 その戦術会議でもっとも大きなウェイトを占めるのは、同行した冒険者たちに何をどこまで任せるか、だろう。
 ボイルとカザルフェロ以下、双方の戦士団幹部がいま最も関心を寄せているのは、ニースの肝いりで派遣された“砂漠の黒獅子”がどれだけ使えるかという点ではないだろうか。
 ライオットの予想を裏付けるように、ボイルの視線はシンたちから離れようとしなかった。
 巌のような風貌でじろりと睨まれ、ライオットは反射的に首をすくめたくなったが、どうにか我慢する。自分たちの役目を果たすためにも、ここは虚勢が肝心だ。
 横目で仲間たちを伺うと、シンはいつもどおり堂々と、ルージュは完全なポーカーフェイスで、小揺るぎもせずにボイルの視線を弾き返している。
 ボイルの値踏みするような眼差しは、しばらく3人を眺め回していたが、どうやらつけいる隙を見出せなかったらしい。
 重い視線がカザルフェロに向けられた。
「戦士長。この者たちが、ギムの言っておった冒険者かな?」
「はい、陛下」
 壮年の戦士長が、渋く響く声でうなずく。
「彼らこそが、過日ザクソンの村で上位魔神を倒した“魔神殺し”の勇者です。ニース最高司祭直々の依頼により、援軍として同行いただきました」
 必要以上に大きな声は、ボイルだけでなく、周囲の戦士たちにも聞かせるためだろう。
 道中オーガーを一蹴した場面を見た者は、神官戦士団の中でもひとにぎりだ。シンの実力を見たことがない大勢の戦士たちは、興味深そうに聞き耳を立てている。
「上位魔神をたった3人で? 信じられん。与太話ではないのか?」
 ボイルは胡乱げな表情を浮かべた。
 胡散臭い連中だ、と言わんばかりの眼光が、またしてもシンたちに突き立てられる。
 ボイルは30年前、自らハルバードを振るって魔神戦争を戦い抜いた戦士だ。カザルフェロは簡単に“魔神殺し”と口にするが、いかに腕が立とうが、上位魔神とは3人程度で倒せるほど生易しい相手ではない。それを嫌というほど経験しているのだから。
 現に“鉄の王国”の精鋭が100名以上の犠牲を払ってなお、手も足も出ないほどの強敵ではないか。
 すると、ボイルの視線を浴びていたシンが口を開いた。
「俺は戦士です。実力の証は言葉ではなく、剣で立てるものでしょう?」
 強い弱いなど、いくら口で主張しても意味のないこと。実際に剣を交えればすぐに分かる。
 シンが堂々と主張した体育会系の思考は、どうやらボイルのお気に召したらしい。王の顔が初めて愉快そうな笑みを浮かべた。
 いつの間にか私語は止み、周囲は静まり返っていた。
 これから何が始まろうとしているのか。
 周囲の戦士たちはそれを察すると、休憩に向かう足を止め、王たちを囲むようにしてやりとりを見つめた。
「なるほど、そなたの言うとおりだな」
 背後の部下を手招きして、愛用のハルバードを取り寄せる。
 独特の光沢をもつ銀色の戦戟は、どう見てもミスリル銀で鍛えたもの。鋼より軽いとは言え、相当な重量があるはずだ。
 そのハルバードを、ボイルは片腕で軽々と振り回してみせた。
 ひとしきり手に馴染ませると、石づきを地面に突き立て、ドワーフ王は改めてシンを見据える。
「まだ名乗っていなかったな。わしはボイル。この“鉄の王国”で王を勤めておる」
「シン・イスマイール。戦士です」
 軽やかな音をたてて精霊殺しの魔剣が鞘走った。
 白い燐光を宿す刀身を見て、ボイル王の楽しげな笑みが大きくなる。
「よい剣を持っておるな」
「剣だけじゃないつもりですが」
「ふん、言いおるわ」
 口髭の中で唇をつり上げ、ハルバードを構え直すと、ボイルの発する気迫が桁違いに膨れ上がった。
「大口を叩いたからには、今さら待ったは聞かぬぞ」
 王とはいえ、ボイルはドワーフだ。身長はシンの肩にも及ばない。だがその小さな体躯から発する闘気は、シンの肌を粟立たせるほどのもの。
 本気でやっても勝てるかどうか分からない。
 直感がそう告げたが、シンが感じたのは恐怖でも緊張でもなく、胸が躍るような高揚感だった。
 自分の剣がどこまで通用するか、全力で試してみたい。
 このドワーフ王と自分と、どちらが強いのか確かめたい。
 純粋に強さを求める戦士の本能が、無意識のうちにシンの頬に笑みを刻む。
「なるほど、わしと貴様は同類らしい」
 ボイルが得心したように鼻を鳴らすと、怒号が雷霆となってあたりを震わせた。
「参るぞ!! シン・イスマイール!!」
 即座に銀色の暴風がうなりを上げる。
 持っているのがハルバードだとは信じられないほどの速度。水平に振るわれた刃がシンの腰を両断しようと襲いかかる。
「応ッ!!」
 それを、シンは直上から叩き落とした。剣を振った勢いそのまま、軽やかに身をひねってハルバードの軌道を跳び越える。
 ほんの一挙動でボイルの懐に入り込むと、シンはお返しとばかりに逆袈裟に斬り上げた。
 狙うは完全無防備な胴。相手が並の戦士ならこれで勝負あっただろう。
 だが魔法のように伸びた長柄が剣を易々と受け止め、今度は反対側の石突きが弧を描いてシンの側頭部を襲った。
 ハルバードは長柄武器だ。右を払われれば左が、左を打たれれば右が相手を攻撃できる。
 シンは反射的に跳びのいて間合いを切ると、小さく息をついて剣を握りなおした。
「さすがですね」
「よもや、これで終わりではなかろうな?」
「まさか。本番はこれからです」
 一息ついて笑みを交わすと、ふたりは再び激しい戦いを始めた。
 相手の技量を見極めるという目的など、最早ふたりの眼中から消しとんでいた。
 残っているのは戦士としての闘争本能だけだ。
 眼前の好敵手を相手に、鍛えた技と力がどこまで通用するか試したい。己を極限まで追いつめ、最後の一滴までを絞り尽くすような戦いに身を投じたい。
 激流にそびえる巌のようなボイルと、清冽な風のようなシン。
 ぶつかり合う気迫は嵐のごとく吹き荒れ、刃は雷光となって閃く。
 重い金属音と青白い火花が断続的に舞い散る中、ふたりの戦いは演舞と呼べるほどに芸術的だった。
 成り行きを見守っていたドワーフの戦士たちも、ターバの神官戦士団も、息を飲んでただ食い入るように見つめている。
 カザルフェロやライオットでさえ、真剣な表情でふたりを注視し、微動だにしていなかった。
 仮にも剣の道を志した者たちなら、最高の戦士たちの戦いを見て、何も感じないはずがないのだ。
 誰もが無言で見守る中。
 時を忘れたかのような打ち合いにも、やがて終わりが訪れた。
 弾かれたように距離を取り、互いに呼吸を整える溜めが入る。
 次の一撃で最後にしよう。
 無言でそう申し合わせると、ふたりは己のすべてを込めた、必殺の一撃を見舞った。
 精霊殺しの魔剣は大上段から“石の王”の頭頂を。
 真銀の戦戟は横薙ぎに“砂漠の黒獅子”の脇腹を。
 ふたりの斬撃は無慈悲で美しい軌跡を描き、相手の息の根を止める直前で、ぴたりと停止していた。
「……よい魂をしているな、シン・イスマイール」
 最大級の賛辞を送り、ボイルがハルバードを引く。
 死力を尽くした戦いは、ボイルにとって万の言葉を費やすよりも確かな対話だ。
 この男は信用できる。
 シンの清冽な気を思う存分に感じた今、その事実を疑う余地などなかった。
「これほど痛快な手合わせは数十年ぶりであった」
「俺もです」
 タイミングを合わせて剣を引いたシンの瞳にも、まごうことなき賞賛が浮かんでいる。
 ボイルの強さは本物だ。戦闘力で言えばライオットに匹敵する。
 だが、技巧の粋を極め、緩急自在でまったく気を抜けないライオットの剣とは対照的に、ボイル王の攻撃はひたすらに心地良いのだ。
 戦意をぶつければ真っ直ぐに打ち返してくる。裏表のない純粋な戦い。互いに打ち合ううちに戦意は相乗的に膨れ上がり、相手の次の手すらも見えてしまうような、不思議な感覚に満たされる。
 それは知覚の限界を意識して踏み超えていくという、例えようもない爽快感だった。
「そなたの実力のほどはよく分かった。“魔神殺し”の称号に偽りなしだ。そなたの仲間も、さぞや強いのであろうな?」
 ボイルが重装甲に身を鎧っているライオットに視線を向ける。
 王の意図するところは一目瞭然だ。
 興奮して好戦的になっていたのか、シンは小さく頷いてすぐに答えた。
「ご覧に入れましょう」
 身体のウォームアップは十分だ。今なら最高のパフォーマンスを発揮する自信がある。
 シンは軽く剣をひと振りすると、何の前触れもなくライオットに襲いかかった。
 問答無用の完全な奇襲だ。その速度はボイルですら目で追うのがやっと。見守る観衆たちの力量では、いつシンが動いたのかすら分からなかっただろう。
 だが精霊殺しの魔剣は“勇気ある者の盾”にあっさりと弾き返され、間髪入れずにライオットの剣光が宙を薙いだ。
 お返しとばかりに繰り出された反撃は、シンのいた場所を正確に斬り上げたが、シンはすでに跳びすさっている。
 剣を高々と頭上に振り抜いたまま、ライオットは憮然として文句を言った。
「いきなり何しやがる。俺じゃなかったら死んでたぞ」
「そういう流れだったから」
 ひらりと地面に舞い降りたシンが、平然と応じる。
「やるならやるって先に言えよな。こっちにも心の準備ってものが必要なんだ。万一のことがあってからじゃ遅いんだぞ」
「その時はその時だ。自分の力が足りなかったと思って諦めてくれ」
「……ちょっとそこを動くな。その根性を修正してやる」
 半眼になったライオットがぼそりと言った。
 シンの背筋に冷たいものが走る。
 やばい、と思った次の瞬間、甲高い金属音と青白い火花が闇夜に散っていた。
 それまで言葉を失っていた大観衆がどよめいた。
 ライオットが披露したのは、基本どおりの上段からの振り下ろし。形だけを見れば単なる素振りと変わらない。
 しかし、ごまかしのきかない単調な動作であるがゆえに、技がどれほど研ぎ澄まされているか一目瞭然なのだ。
「危ないって。本気出しすぎだろ」
「残念。本気はこれからだ」
 冷や汗を垂らすシンに、ライオットが薄く笑う。
 ここまでは先ほどまでの演舞と同じだが、この先はまるで展開が違った。
 正面から受けたはずのライオットの剣が、なぜか下から逆袈裟に切り上げてきた。シンがあわてて後退すると、今度は喉元に向かって一直線に突き込まれる。
 なぜそこに剣がある?
 なぜそっちに動ける?
 フェイントを多用するライオットの剣は、まさしく変幻自在だ。軌跡もタイミングも、まるで予測できない。
 それを反射神経だけでどうにか捌きながら、苦心して反撃を繰り出しても、危なげなく盾に弾かれてしまう。
 ライオットの防御は鉄壁だ。城壁相手に剣を振っているような気分になり、シンは内心ため息をついた。
 流れはいつもの稽古と全く同じ。
 互いの防御をまったく崩せず、千日手の様相を呈していた。
「ったく、厄介な相手だな、お前は」
「どっちがだ! フェイントに掛かったんなら本命に反応するんじゃない。おとなしく切られろ。すぐに治してやるから」
「無茶言うなよ。そんなことしたら痛いだろ」
 シンとライオットの、いつもどおりのじゃれ合い。とても必殺の斬撃を交わしながらとは思えない。
 その頃になってようやく事態を理解すると、観衆は一気に騒然となった。
「……凄いわね、あの人たち。まさかこれほどとは思わなかったわ」
 神官戦士団の一角で、ソライアが感嘆のため息をもらした。
 戦士として厳しい訓練を積んでいるソライアには、シンとライオットの強さがどれほど規格外か理解できる。
 じゃれ合いながら片手間に繰り出す剣の一振りすら、自分ではとても受け止めきれないだろう。
 もっとも、ここまで隔絶した差があると、悔しさすら感じないが。
「でしょう? きっとシンは“白騎士”ファーンや“赤髪の傭兵”ベルドにも劣らぬ勇者ですよ」
 並んで戦いを見つめていたレイリアが、我が事のように誇らしげに微笑む。
「魔神だろうとドラゴンだろうと、シンがいれば心配いりません。絶対に勝てます」
 まるで神託を受けた聖女のように。
 ゆるぎない確信を込めて宣言するレイリアを眺めて、ソライアは苦笑を浮かべた。
 レイリアの視界には、残念ながらライオットは全く入っていないらしい。
 こういうのを『恋は盲目』というのだろう。
「もっともあの人は、その盲信も受け止めるくらい強いんでしょうけどね」
 ソライアが視線を転じれば、親友の剣からひらりひらりと逃げ回る“砂漠の黒獅子”が映った。
 清楚で美しく、上品で優しいレイリア。戦士としても司祭としても優秀で、背負った運命さえなければニースの後継者として申し分なかったはずの娘。
 いったいどんな男が現れればレイリアとつり合うのだろう、と皆が考えていたが、どうやらその答えがあの黒い戦士らしい。
 周りを見渡せば、同僚たちもシンの実力を好意的に評価しているようだ。
 強さで見れば互角かもしれないが、裏技や絡め手を多用するライオットとは対照的に、シンの剣は素直で嫌みがない。
 そこが見る者に素直な好感を抱かせるのだろう。
 シン・イスマイールは今の戦いで、ボイルだけではなくターバの神官戦士団にも自分を認めさせた形になる。
「カザルフェロ戦士長も、今ので少しは軟化してくれるといいんですが……」
「どうかな? 無理じゃない?」
 カザルフェロ戦士長はシン・イスマイールが気に入らないようだ。
 その事実は、神官戦士団内部ではもはや常識だ。一部ではレイリアの恋が成就するかの賭けも行われているらしい。
 レイリアの許嫁という存在に誰よりも反発している上司を思い浮かべて、ソライアはくすりと笑った。
 カザルフェロは、レイリアの背負った運命を知る数少ない重鎮のひとりである。
 真実を知ってからは誰よりもレイリアに目をかけ、自分の時間を割いて直接の指導に当たってきた。
 すべては、いざという時にレイリアが自分自身を守れるよう育てるために。
 レイリアが17歳の若さでこれほどの使い手になったのは、偶然でも才能でもない。指導者の熱意と本人の努力の結晶なのだ。
 それなのに、どこの馬の骨ともしれない冒険者が横からかっさらったのでは、好意的になれと言うのがそもそも無理な話だろう。
「どうしたらシンを評価してくれるんでしょうか」
 柳眉を下げ、レイリアが肩を落とす。
 師と慕う人物と恋人の仲が悪いのは、レイリアにとって目下最大の懸案事項だ。何とかできるならしたいのだが。
「分かってないわね。カザルフェロ戦士長は、あなたのカレシを評価してないから気に入らないんじゃないわ。その逆よ」
 相手が欠点だらけの男なら、公然と非難して縁談を潰すことができる。
 だがあいにくと、シン・イスマイールはニース最高司祭が認めるほどの勇者だ。それはたった今、神官戦士団の目の前でも証明されてしまった。
 だからこそ余計に腹が立つのだろう。
「もっとも、戦士長にとって本当の問題はそこじゃないんだけどね」
 ソライアが小さく本音をもらしたとき、当のカザルフェロが部下たちに再び解散の号令を発した。
 立ち止まって戦いを見ていた戦士たちが、興奮も冷めやらぬまま、ドワーフの案内に従って“門”の中へと移動を始める。
「ほらレイリア。私たちも行くわよ」
「はい……」
 口ではそう答えながらも、レイリアの視線はシンに釘付けだ。
 戦い(?)はいつの間にか終わりを告げ、シンはライオットと並んでルージュに怒られている。
 ソライアはひとつため息をつき、親友の腕を取って歩きだした。
「あ、ちょっとソライア」
「私もう眠いの。悪いけどカレシを眺めるのはまた明日にしてくれる?」
「あ、待ってください。いま大事なところなんです」
 横目で見れば、今度はカザルフェロがシンに何やら話しかけていた。
 このふたりは犬猿の仲だ。戦士長がシンに皮肉を言うのは日常茶飯事だから、また喧嘩にならないか心配なのだろう。
「あのねレイリア。明日戦う相手は上位魔神。あなたのカレシがいないと勝負にもならないわ。そんなことはカザルフェロ戦士長だって知ってるんだから、今この状況で喧嘩を売るわけないでしょ。そんなことより周りを見なさい」
 あきれた口調のソライアに言われて視線を巡らせると、部下に当たる女性神官たちがレイリアの様子を遠巻きに気にしていた。
 ターバ神殿の位階で言えば、レイリアは司祭の中でもかなりの高位にある。その上司を差し置いて休憩には行けない、というわけだ。
「あなたが休まないとあの娘たちも休めないの。分かった? 分かったらさっさと歩く」
 律動的な歩調で前をいくソライアと、半歩遅れて引きずられていくレイリア。
 いつもどおりの光景を、周囲の司祭や戦士たちが微笑ましげに見送る。
 シンも遠目にレイリアの後ろ姿を眺めていると、カザルフェロが意味ありげに笑った。
「気になるか?」
「当たり前だろ。そもそも俺はレイリアを守るためにここに来たんだから」
 今さら言うまでもない、と躊躇のかけらもない口調。
「それにしても驚いたよ。先遣隊だけで上位魔神を追い詰めたって?」
 シンの言葉は露骨な話題そらしだが、レイリアについて話していれば、いずれは喧嘩になってしまう。
 この非常時に、ボイル王の前で女をめぐって口論など願い下げだ。無言の提案はカザルフェロも同感だったらしく、いつもの皮肉は返ってこなかった。
「先遣隊の力というより、マッキオーレの功績だな。あいつが用意した氷竜ブラムドの宝物を使った」
「あれは壮観であったのう。おかげで隧道がひとつ崩れてしまったが」
 ボイルが愉快そうに腹を揺らした。
「ま、その話は長くなるのでな。シン・イスマイール。それに冒険者たちよ。わが王国へ招待させてもらえるか? カザルフェロ戦士長らの活躍はそこで披露するとしようぞ」
 すっかり白くなった顎髭をしごきながら、ボイル王がシンたちを差し招く。
 いっぱいに開いた巨大な門の向こう。
 大隧道の奥、“鉄の王国”の中枢部へ。


 



[35430] シナリオ5 『決断』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:02
シーン4 鉄の王国・大隧道

 大隧道に足を踏み入れると、涼しく乾いた空気が肌を包んだ。
 月明かりも星明かりも差し込まない世界だが、一定間隔で焚かれている篝火が白い岩盤に反射し、不思議と暗さは感じられない。
 内部はあたかも王城の通廊のごとく、居並ぶ柱や平らに磨かれた壁面には延々と装飾が施されていた。
 隧道という言葉からは想像もできない、まるで神殿のような静謐な空気だ。
 炎と影の織りなす淡彩色の世界に、神官戦士団の馬蹄と資材を積んだ馬車の車輪が、驚くほど大きな音を反響させる。
 天井までどれくらいあるのだろうか。
 松明の明かりが届かぬ上層部には闇がたゆたい、ここが地底だという圧迫感すら感じない。
「巨人の国に迷い込んだみたいだよね」
 広大な地下空間を支える円柱は、明らかに岩盤から削りだしたもの。ちょっとした高層ビルのような柱が林立する光景を見渡して、ルージュが感嘆の声をもらした。
 この大隧道は、幅といい高さといい、明らかに人の利用を前提としたサイズではない。
 おまけにギムの言葉によれば、大隧道はロードスの地下深くを縦貫して、遠くモスの地にある“石の王国”まで繋がっているのだという。
 どこをどう考えても、人間やドワーフが造ったとは信じがたい規模の巨大構造物だ。
「そうだな」
 ルージュの感想にライオットがうなずく。
 巨人の国。
 ルージュは大きさの比喩として使っただけだろうが、むしろ言い得て妙ではないか。
 このフォーセリア世界には、竜も巨人も、そして神々さえも実在するのである。
 地平線の遙か彼方まで続くこの巨大な通廊を、いったい誰が、何のために造ったのか。
 そこに巨人や神々の介在を考えても、それほど不自然ではないはず。
 超絶的な力が振るわれたであろう神代の光景を想像するだけで、ライオットの心は高揚してくる。きっとそれは建設と言うより創造と呼ぶべき行為だったにちがいない。
 そんな思索の海をたゆたっているうちに、最初は人気のなかった大隧道も、やがて多くのドワーフたちが暮らす居住区へと姿を変えていった。
 もう夜も遅い。すっかり寝静まった居住区では、完全武装の戦士たちが松明を持って巡回している。
 警戒を絶やさない様子ではあるが、ザクソンの村で感じたような悲壮感や、ターバでギムが見せた切迫感は見当たらなかった。
 戦士たちの表情も落ち着いたものだ。
「想像してたのとずいぶん違うな。やっぱり、魔神を追い詰めたっていうのが大きいのか」
 同じ事を感じたらしく、シンが居住区を見渡した。
 寝静まっている。
 ということはつまり、一般人には眠る余裕がある、という事だ。
「事情はそれだけではないがの。守るべきものを守る算段がついて、状況が一安心なのは間違いないようじゃな」
 慣れない馬にまたがったまま、ギムがシンの言葉を肯定する。
 滅亡の危機、とまで評した状況は、カザルフェロ戦士長率いる先遣隊によって大きく好転しているらしい。
「さて、今夜の宿はこのあたりに用意してある。戦士たちには休息を。隧道のひとつに寝藁を集めさせたゆえ、馬も我らが預かろう」
 ボイルが言うのを待っていたかのように、先頭を歩いていた部隊から足を止め、順次駐留の準備に取りかかっていった。
「ルージュ殿、馬をお預かりします」
 近くにいた神官戦士のひとりが、数名の同僚と連れだって声をかけてきた。シンたちの馬も面倒を見てくれるらしい。
 よけいな仕事を増やすようだが、自分で抱え込んでも仕方がない。ルージュは素直に好意に甘えることにした。
「ありがとう。どうしようか困っていたの。助かります」
 戦士の手を借りて馬から下りると、よそ行きの微笑を浮かべて手綱を渡す。
 口にしたのは完全な社交辞令だが、まだ若い戦士には十分な報酬だったようだ。
「お安い御用です。馬には慣れておりますから」
 紅潮した戦士は嬉しそうに答え、強行軍の疲れも見せずに軽い足取りで馬を連れていった。
 シンやライオットの馬も別の戦士たちが引いていく。
 何の気なしに見送ったが、その背中はすぐに、木材を抱えた別の戦士に遮られた。
 大勢の戦士たちが、それぞれの役目を果たそうと動き回っているのだ。
 ある者は随伴の馬車を大隧道の端に寄せ、ある者はドワーフ戦士の案内で馬を集めて隧道に入れ、また別の者は飼い葉と水を与えて寝藁を敷きつめる。
 工作担当の数名は、持参した木材で隧道の入口に急ごしらえの柵を作っていた。
 その間、後方支援要員は荷馬車の資材を整理し、弩弓や矢玉、予備の武具の点検を行う。
 作業は多岐にわたったが、たびたびの遠征で野営の準備など手慣れたものらしい。分担した任務をそれぞれが手際よく終わらせていく様子は、まるで神官戦士団それ自体が一個の生き物のように見えた。
 ルージュが初めて目にする“統制された集団の力”だった。
 率直に言って、神官戦士ひとりひとりの戦闘能力は、ルージュたちの敵ではない。
 しかし、彼らがカザルフェロ戦士長の下、連携をとって自分たちと戦ったなら?
 おそらく、最後に立っているのは自分たちではないだろう。
 事あるごとにライオットが言う「戦いは数だよ、兄貴」という言葉の意味は、きっと光景にあるのだ。
「すごいな」
 複雑な心境を単純きわまる言葉で表現すると、それを耳に挟んだカザルフェロが振り向いた。
「今夜は寝床の準備も水や薪の確保も必要ない。夜は見張り番すら出さずに朝まで寝かせてもらえる。このくらいはやってもらわんとな」
 頬に残る刀傷を撫でながら、努めて無愛想を装った口調で論評する。
 それでも、部下たちを誉められれば悪い気はしないらしい。目に浮かぶ光は明らかに誇らしげだ。
「満足そうですね、戦士長さん」
「不満があるとは言っていない。だが面と向かってあいつらを褒めないでくれよ。慢心して増長すると困るからな」
 どうやらカザルフェロは、部下を称揚すると良くないことが起こると信じているらしい。
 まるで、気むずかしい顔をしながら尻尾を振る大型犬のようだ。ルージュの脳裏に“ツンデレ戦士長”という単語が浮かんだ。
 ふと興味を覚えて、堂々とカザルフェロを眺めまわす。
 よく日に焼け、俊敏そうに引き締まった褐色の肌。
 身長はシンよりも高く、ライオットよりは低い。
 髪も顔も戦塵で汚れているが、野生味のある精悍な横顔は、汚れすらも魅力の一つにしてしまっている。
 頬に残る刀傷と無精ひげが、ただ真面目なだけでなく、ちょいワル親父な雰囲気を醸し出して、とても良い。
 声は心地よく響く低いバリトンで、深みのある人柄を感じさせる。
「第一印象はかなり高得点だよね」
 若いイケメンよりも渋い中年を好むルージュが、口の中でつぶやいてひっそりと微笑んだ。
 今まで出てきたNPCは、レイリアといいアウスレーゼといいロートシルト男爵夫人といい、若くて綺麗な女性ばかり。ライオットとシンが鼻の下を伸ばすのを、ただ不機嫌に眺めているしかなかったのだが。
 どうやら、ついにルージュの時代が来たらしい。
「俺の顔に何かついているか?」
「いいえ。いい男だなあと思って観賞していただけです」
 ルージュがにこりと微笑むと、カザルフェロは苦笑まじりに返した。
「そりゃどうも。だが観賞用なら、あんたの相棒の方が華やかでいいだろうに」
「あっちは見飽きましたから」
「それじゃ鏡でも眺めるんだな。相当なもんが見られるぜ。俺が保証してやる」
「……その秘密を知っているとは、ただ者じゃありませんね」
 一拍おいて返した声に、かすかな漣が揺れた。
 ルージュは自分の微笑の威力を知っている。
 鏡を眺めて客観的に判断するに、自分は傾国級の美人だ。
 例えるなら、おとぎ話の世界から抜け出してきた妖精の姫君とでも言おうか。
 生身の女としての「生々しさ」が希薄であるため、華やかにも儚げにも、自由自在に印象を操作することができる。きわめて便利なタイプの美人なのだ。
 そのルージュが作った微笑に対して、カザルフェロが返したのは徹頭徹尾完璧な他人行儀。お前に興味はないという意志がはっきりと伝わってきた。
 ここまできっぱり無視されたのは初めてだ。
「ほんと、ただ者じゃない」
 背中を向けて離れていったカザルフェロを目で追いながら、楽しそうにつぶやく。
「なんて言うか、懐の深そうなおっさんだよな」
 黙ってやりとりを聞いていたライオットが論評した。
 過剰労働を強いられている神官戦士団が不平のひとつも言わないところを見ると、きっと人望もあるのだろう。
「ライくんとどっちが強い?」
「剣を取って戦えば負けないさ。けどそれだけだ」
 年季や引き出しの数ではとてもかないそうにない。
 何を指して強いと言うかは、状況次第でいくらでも変わるのだ。
 容姿や人格、経済力といった要素まで漠然と全部ひっくるめた「男として」などという評価基準もあるが、ライオット自身、さすがに「男として」勝てるとまで自惚れる気にはなれなかった。
「なるほど。そういう意味では私も子供に見えたんだろうな。バカなことしちゃった」
 総じてカザルフェロを好意的に評価するふたりに、シンはため息をつく。
「俺は苦手だ」
 控えめな表現だったが、親友の意図するところを察して、ライオットが視線を向けた。
「そう言えば、さっきも何か言いたげだったな。あのおっさんの何が気に入らないんだ?」
「気に入らないのは俺じゃなくて向こう。カザルフェロ戦士長は、俺がレイリアに近づくのが面白くないらしい」
「でも、お前とレイリアの仲はニース様公認だぞ? 戦士長とはいえ、あのおっさん1人が反対したって始まらないだろうに」
「ところがそうでもない」
 いつになく疲れた口調。
 先をうながすライオットに、シンは言葉を継いだ。
「レイリアの友達に、ソライアっていう司祭がいるんだ。その娘が言ってた。ザクソンの事件からこっち、レイリアの買い出し当番は必ず1人で行かせるようにって、ニース様がこっそり命令してるらしい」
「リーダーがレイリアさんとデートできるようにってことでしょ? 結構なことじゃない」
「じゃあ聞くけど、ニース様はどうしてそんな命令を出さなきゃいけなかったと思う?」
 ただデートするだけなら、レイリアが休みの日で十分なのだ。ニースが職権を濫用してまで口出しする必要はないし、本来ニースはその類の行動を嫌うはず。
 では何故か?
 その問いに答えを用意できず、ルージュが考え込んでいると、シンはあっさりと言った。
「無いんだよ、休みが」
「1日もないの?」
「ああ、1日もない。ザクソンから戻って半月、レイリアの休みは全部潰されて、神官戦士団の訓練に参加してる」
「そんな……」
 あまりと言えばあまりな回答に、ルージュが絶句してしまう。
「もちろん、戦士長はきちんとレイリアの健康に配慮してるよ。訓練は午前に1回、午後に1回。それぞれごく短時間だ。休養の時間はたっぷりある」
 それでも、朝と夕に集合をかけてしまえば、ザクソンまで遊びに行く暇などなくなる。
 カザルフェロにとってはそれで十分なのだ。
「レイリアがザクソンで上位魔神に殺されかかったのは事実だからさ。短時間でいいから毎日訓練が必要だって理屈は通ってる。戦士長がそう決定すれば、ニース様が口を挟むのは無理なんだそうだ」
 確かに、男とデートさせたいから訓練を休ませろなどと、ニースには口が裂けても言えないだろう。
 ターバ神殿の宿願は“亡者の女王”の封印だ。
 レイリアが内に宿している魂を考えれば、身の安全の確保を最優先にするべき。男と遊び回るなど無駄でしかない。
「俺がレイリアを守りたい、一緒にいたいっていうのは、極論すれば俺のワガママだ。ターバ神殿の立ち位置と相容れないものなのは、あの日、墓所で決めたときから分かりきってたはずなのにな……」
 シンは疲れた様子でこぼしたが、やがて大きく嘆息すると、気分を切り替えるようにぽんと手を打って口調を変えた。
「ま、それを今考えても仕方がない。今は魔神を倒すことだけに集中しよう」
 ターバからの強行軍で疲弊した戦士たちも、ひととおりの作業が終えて、ようやく休息を勝ち取ったようだ。
 疲れた足を引きずって、だが解放感のある表情で談笑しながら、宿舎へと姿を消していく。
 そのどこかには、レイリアの姿もあるはずだ。
 無意識のうちに彼女の黒髪を探していると、そこに数名の護衛を連れたボイル王とカザルフェロが戻ってきた。
「待たせたな」
 ボイルの低い声が響く。
 今までの余裕が消え去った真剣な声音には、戦場で戦士団を率いる王にふさわしい迫力があった。 
「さて、ここから先は本音でいかせてもらうぞ。そなたらには事実を知ってもらわねばならぬ」
 援軍の手前、外面を繕うのはおしまいと言うことだろう。
 この場に残ったのは、ボイル王とカザルフェロ戦士長、両戦士団の上級幹部、それにシンたちを加えても10名に満たない。
 戦士たちはゆっくり休んで英気を養い、士気を高めればそれでよいが、ここにいる指揮官たちは違う。
 事実をありのままに知り、その上で魔神を倒す方策を練らねばならないのだ。
 全員が徒歩になり、居住区からさらに奥へと足を進めながら、ボイル王は重々しい口調で語りだした。 
「ターバの援軍に助けられて、我らは彼奴を隧道のひとつに閉じこめることができた。おかげで王国の崩壊はまぬがれ、我が戦士団の士気も高い。これは事実だ。まことターバ神殿には感謝の言葉もない。だがな、魔神を倒す糸口が見つかったわけでもないのだ」
 そう言って冒険者たちを振り返る。
「ギムから話は聞いていよう。あの魔神めは、無限に魔法をまき散らしおる。このハルバードが届けば首を落として見せようが、今は近寄ることさえ叶わぬ。まずは魔法を何とかせねば、討ち取るのは不可能であろうよ」
 甚大な犠牲を払ったにも関わらず、一太刀すら浴びせることができなかったボイル王の顔には、砂を噛むような無念さが滲んでいた。
「正面からは近づけませんか?」
「無理だな」
 シンの質問に答えたのはカザルフェロだ。
「俺も何度か魔法を使う相手と戦ったことはあるが、あいつは別格だ。届くはずのない遠距離から破壊の魔法が飛んでくるし、威力も大きい。神官戦士団は癒しの魔法のおかげで何とか持ちこたえたが、展開としては一方的な負けだ」
 薄闇の大隧道に吹き荒れた爆風と炎。
 部下やドワーフたちの怒号と悲鳴。
 耳を叩く熱い空気には血と肉の焦げる臭いが混ざり、魔神のあざ笑う声が追い討ちをかけてくる。
 灼熱の戦場を思い出し、カザルフェロはかすかに口許を歪めた。
 ターバ神殿を護る戦士長として、己の力量には自負も誇りもあった。
 シン・イスマイールの活躍が目立つのは機会に恵まれただけで、自分とて戦場に立てば負けぬと信じていた。
 だがどうだ。いざ上位魔神と相対してみれば、討伐するどころか剣を交えることすらできない。シン・イスマイールはほんの数名で首をはねて見せたというのに。
「でも、あんたが魔神を追い詰めたんだろ?」
 ライオットの言葉に、カザルフェロは首を振る。
「言ったはずだぞ。あれはマッキオーレの手柄だとな。炎晶石を使った」
 炎晶石とは、炎の魔力を秘めた古代王国期の宝物だ。投げつければ《ファイアボール》の魔法が発動し、周囲を焼き尽くすという。
 武器の間合いまで近づけなかった神官戦士団は、その炎晶石をスリングで集団投擲して対抗した。
「マッキオーレが言うには、あれ1つで銀貨3000枚するそうだ。預かった63個全部使った。もう1個も残っていない」
「それはそれは。魔神もさぞかしビビっただろうな」
 思わずライオットが苦笑いを浮かべた。
 大隧道いっぱいに炎の花が咲き乱れる光景と、戸惑って後退する魔神の表情が目に浮かぶ。
 相手の得意分野を火力で強引にねじ伏せるという、まさに銀貨で横面を張りとばすような戦術だ。マッキオーレがこの成果を知れば、きっと喜んでくれるに違いない。
「そなたらにも見せてやりたかったぞ。地獄の釜のような神官戦士団の猛攻をな。この巨大な大隧道が溶鉱炉のごとく灼け爛れ、魔神めは尻尾を巻いて退くしかなかったのだ。戦士長らは容赦なく追撃し、そのうちにひときわ大きな爆発が起こって隧道が崩れた。あれは壮観であったわ」
 ボイルが我が事のように誇らしげに言うが、カザルフェロは淡々と補足する。
「そもそもこいつは俺のアイデアじゃない。戦場にいたドワーフの冒険者が、苦しまぎれに炎晶石をひとつ投げたんだ。俺はそいつを模倣しただけだ」
「ふうん、冒険者もいたのか……」
 興味を引かれたルージュが、口の中でつぶやいた。
 森に引っ込みたがるエルフたちと違い、ドワーフは人間との交流も盛んだ。ギムも含めて、冒険者として活躍するドワーフは数多い。
 炎晶石を持っているくらいだから、少なくとも中堅以上の実力者だろう。
 もしかして原作キャラクターの誰かだろうか。脳裏に何人かの名前が浮かぶ。
「いずれにせよ、あれをもう一度やるのは不可能だ。今の俺たちに残されたカードは、もう最後の切り札だけって事になる」
 飄々とした口調。
 冗談めかして軽ささえ乗せた言葉には、しかし、抑えきれない自嘲が滲んでいる。
 武器を取って戦う戦士として、敵に手も足も出ない、他人に頼らざるを得ないという屈辱。
 その無念はボイル王にも通じるところがあったのか、ふたりの指揮官は無言で視線を交わすと、それきり口をつぐんだ。
 しばらく、無言の行軍が続いた。
 すっかり人気のなくなった大隧道に、松明の炎がオレンジ色の影を踊らせる。
 一行はひたすら奥へ奥へと進み、やがて採掘区画に入ると、周囲は絵に描いたような典型的なダンジョンに姿を変えていた。
 無数の分岐。
 縦横に巡らされた坑道。
 やがて、打ち捨てられた台車や折れたマトックが目に入るようになると、ボイル王の歯がぎりりと噛みしめられた。
「ここだ。魔神めが現れおったのはな」
 突き刺すような眼光が坑道のひとつに向けられる。
 壁や柱は黒く焼け焦げ、堅い岩盤にいくつもの傷跡が刻まれていた。
 大隧道いっぱいに残る激戦の痕。
 ということは、地面に残された黒い染みは。
「我が戦士たちは勇敢に戦った。ターバに援軍を求めてから、カザルフェロ戦士長らが到着するまで3日。その間魔神をこの場に留めておくために、ただ時間を購うためだけに、100名以上の戦士たちの命が必要だった」
 その淡々とした口調に、どれほどの激情が込められていたのか。
 犠牲になった戦士たちの無念を想うように、ボイルはしばし言葉を切って黙祷を捧げたが、すぐに顔を上げて大隧道の先を指さした。
「そしてカザルフェロ戦士長らの援軍を得て、あそこに魔神めを追いつめたのだ」
 50メートルほど奥に、横へ伸びる分岐が口を開けている。
「あの奥は“鎮魂の隧道”と呼ばれておる。本来、我らの祖霊が眠る神聖な場所だ」
「魔神は今も中に?」
 傍らで問うシンに、ボイル王はうなずく。
「隧道は1本道で、鎮魂の間で行き止まりになっておる。脱出は不可能だ。見れば分かる」
 ボイル王に続いて鎮魂の隧道に入ると、中では煌々と篝火が焚かれ、ドワーフの戦士団が駐屯していた。
 百人あまりの戦士たちは、武器を持って警戒する者ばかりではない。食事をとる者、仮眠する者など、どうやらローテーションを組んで昼夜を問わずに臨戦態勢を保持しているらしい。
 先遣隊と一緒に来たターバ神殿の司祭たちは、隧道の一角に救護所を設営して、負傷したドワーフたちの治療に当たっている。
 篝火の燃える臭いと、緊迫感で張りつめた空気。
 ここは今も戦場なのだ。
 血だらけの包帯で腕を吊った戦士を見て、シンたちは神妙な顔になって居住まいを正した。
「ご苦労」
 黙礼する戦士たちに手を上げて応えると、ボイルは隧道の奥を見上げた。
 隧道はしばらく入ったところで天井と壁を崩され、今は蟻の這い出る隙間もない。
「異常はないか?」
「ございませぬ」
 ボイルの短い問いに、ドワーフ戦士団の指揮官はさらに短く答える。
 その一言にどれだけの想いが詰まっているのか。
 指揮官は戦意をたぎらせた瞳を王に向けた。
「我らの準備はすでに整っております。ご命令があればいつでも」
「ターバ戦士団の本隊も到着した。犠牲となった戦士たちの無念を晴らすときは近い。心して待て」
「はっ!」
 ボイルは隧道の奥をひと睨みすると、護衛の戦士たちを引き連れて、再び大隧道に戻っていく。
 カザルフェロ戦士長は、先遣隊の司祭たちと合流して何やら話し合っているようだ。
 案内役としてギムだけが留まると、ライオットは天井まで完全に塞がれた隧道を見上げた。
 遮断は完璧。静かなものだ。
 教えられなければ、この向こうに上位魔神が閉じこめられているなどとは気づくまい。
「異常なし、か」
 どこか腑に落ちないといった表情のライオットに、ギムが問いかける。
「何やら言いたげじゃの」
「異常がないのが異常かな、と思ってさ」
 ギムに無言で先を促され、ライオットは癖のある金髪をかき上げた。
「取り越し苦労ならいいんだけど。相手が本当に上位魔神なら、どうして大人しく閉じこめられてるんだろうな? この隧道を塞いでるのは、魔法の扉でも何でもない、ただの岩と砂利だ。魔法でぶっ飛ばしたっていいし、鉤爪で砕いたっていい。外に出てくるのは簡単なはずだろ?」
 だが、ギムの意見は懐疑的だった。
「おぬしはそう言うがな。この隧道を塞ぐ瓦礫を見てみよ。あまりの高熱で溶けて、硝子状になっている部分さえある。わしは魔法のことは知らんが、これがどれほどの熱かはよく分かるぞ。賭けてもよい。この熱に晒されれば鉄でも溶ける。いかに魔神といえども無傷ではすむまい」
「それならいいんだけどな」
 ギムの言うとおり、上位魔神が本当に重傷を負っているなら、わざわざ戦場に立とうとはしないだろう。
 要素のひとつとしては妥当な指摘だが、相手は無限の魔力を持った異常個体だ。それだけで済むような生易しい敵だとは思えない。
「ルージュはどう思う?」
 ライオットに問われて、ルージュの脳裏に、ザクソンで戦った双頭の魔神の巨躯が甦った。
 鱗に覆われた強靱な手足。
 一撃でルーィエを行動不能に陥れた魔力。
 アイテムごときで無力化はされないというライオットの主張には説得力がある。
 しかし、一定限度を超えた熱を加えれば、首を消し飛ばすこともできるのだと、ルージュ自身の魔法が証明してもいるのだ。
 これはシュレディンガーの猫だ。人が観測するまで、瀕死の魔神も無傷の魔神も両方存在するということ。
「分からないんだから、見てみればいいと思うよ」
 ルージュはそう答えると魔法樹の杖をかざし、小声で呪文を唱えた。目に魔力を付与し、瓦礫の向こう側を見通せば、疑問はそれで氷解する。
 紫水晶の瞳が魔法の輝きを宿した。
 わずかに細められて瓦礫の向こうへと魔力の視界を延ばしていく。
 仲間たちが無言で見守っていると、しばらくして、ルージュは眉と肩を落とした。
「……ごめん、ダメだった。どこまでいっても真っ暗闇しか見えない。せめて向こう側に明かりがないと」
「見えないものは仕方ない。明日はぶっつけ本番だ。まあ、ちょっと厳しくなるかもな」
「けどさ、逆に言えば厳しいのは突入だけだろ?」
 あっさりした口調でシンが言う。
「無限の魔力があろうと、1度に使える魔法は1つだけなんだ。1ターン耐えて《テレポート》で距離を詰めれば、あとはどうにでもなるさ。油断は禁物だけど、悲観的になる必要もない」
 ボイル王やカザルフェロは苦戦したようだが、たかが数十メートルの距離など、ルージュの魔法があれば一瞬でゼロにできる。
 そして、剣の届く距離まで詰めれば、勝敗は決したも同然だ。残るのは時間の問題でしかない。
「それじゃ、あとはレイリアの件だけど」
 大まかな方針が決すると、ライオットが次の議題を提示する。
 今回、レイリアは神官戦士団の一員として“鉄の王国”へ来ている。
 今はカザルフェロの指揮下にあり、彼女がどう配置されようとも、本来自分たちが口を出せる筋合いではないのだが、あえてライオットは言った。
「彼女を守るのは俺たちの最優先課題だ。何もしないってわけにはいかないだろ?」
 横車なのは百も承知で、こちらの方針に沿うよう、カザルフェロに要求を突きつけることになるだろう。
 この戦いはシンたち抜きでは成立し得ない。相当不愉快にさせるだろうが、こちらが要求すればカザルフェロは従うしかない。
 完全な恫喝だ。
 さらなる人間関係の悪化を予見して、シンは渋面になったが、やがてぽつりと言った。
「レイリアは後方に残してもらおう。できれば前線から離れたところに」
 レイリアにどうしたいかと尋ねれば、きっとシンの隣で戦うことを望むだろう。
 彼女がそう望むことは、シンにとっても喜びだ。
 だがシンは、彼女には傷つくことも傷つけることもして欲しくなかった。
 ターバから来た司祭たちには女性が大勢いるし、神官戦士団の中にだって女性の姿はあちこちに見られる。レイリアと仲のよいソライアもそのひとりだ。
 そんな状況で、たったひとりレイリアだけを特別扱いするのは、シンのエゴなのだと自覚している。
 レイリア自身、神官戦士団の一員として、後方で守られているだけでは納得するまい。
 それでも彼女を戦場に出したくないというのが、シンの偽らざる本音だった。
 相手は望まないはずの想いを吐露すると、背中に低く渋い声がかけられた。
「おいおい、そいつは本気で言ってるのか、シン・イスマイール?」
 苦笑混じりの軽い口調。
 シンが振り返ると、形だけの笑みを頬に張り付けたカザルフェロが、シンを見下ろしていた。
「部下どもには、今回だけはお前さんの機嫌を損ねるなと言われてるんだがな。お前さん、本気でレイリアを守る気があるのか? 今のはいくら何でも無責任に過ぎるぞ」
「俺が無責任?」
 シンの眉が跳ね上がった。
 その反応を冷静に観察しながら、カザルフェロはさらに言いつのる。
「“砂漠の黒獅子”サマのご機嫌を損ねたのなら恐縮だが、レイリアがどれほど重大な存在か、お前さんには理解できてない気がしてな」
「あんたは俺が何をしに来たと思ってるんだ? 言っておくけど、俺は正義にも平和にも興味なんかないからな。俺が守りたいのはレイリアだけだ」
「笑えない冗談だな。お前さんがザクソンで守った正義と平和は“ついで”か?」
「俺は本気だ」
 シンの口調が剣呑に尖っていく。
 オーガー事件の時も、ピート卿の屋敷で邪教の司祭に襲われた時も、ザクソンで上位魔神と戦った時も、レイリアを守ったのはカザルフェロではない。
 シンだ。
 彼女を守ることに何ひとつ寄与していないカザルフェロに、そこまで罵倒されるいわれなどない。
「口ではそう言うが、お前さんは困った人間がいれば助けちまうんだろ?」
 シンの敵意を柳に風と受け流して、カザルフェロが飄々と続ける。
「王都では愛妾のお嬢ちゃんを助けた。ザクソンでは村を丸ごとひとつ助けた。そして今回は、ドワーフ族を王国ごとだ」
「それが俺たちの受けた依頼だからな」
 すべてはニースに受けた依頼を完遂しただけのこと。誰に対しても恥じることのないシンたちの実績だ。
 それを意味ありげに指摘するカザルフェロの真意が分からず、シンの顔に戸惑いが浮かぶ。
「そう。依頼。お前さんたちは冒険者だから、依頼をこなすのが本業だ。それが当たり前のこと」
 そこまで言って。
 初めて、カザルフェロの表情から笑みがすっと消えると、言葉が抜き身の刃となってシンに突き立てられた。
「で、その間、レイリアは誰に守られることもなく、ひとりで放置されるってわけさ」
「放置なんかしない。俺はレイリアを守る」
 反射的にシンが主張する。
 だが、脊椎反射で使った言葉では、カザルフェロには通用しなかった。
「笑わせるな。レイリアを前線から遠く下げろと、今自分で言ったばかりだろうが。最前線にいるお前さんが、どうやって守るんだ? それとも魔神の前には出ないつもりか?」
 シンが返答に窮すると、カザルフェロは容赦なく追い打ちをかける。
「貴様は、ザクソンでもレイリアをひとりにした」
 事実を指摘する重々しい一撃が、シンから完全に言葉を奪い去った。
「そこの猫1匹を助けるために、レイリアは上位魔神の前に身を投げ出したそうだな? あと一歩遅ければレイリアは死んでいた。助かったのはただの幸運だ。違うか?」
 カザルフェロの痛烈な言葉が、不可視の槍となってシンを抉る。
「王都でも、レイリアをひとりで愛妾の屋敷に送り出した。途中で貴族なり邪教なりの暗殺者に襲われたらどうするつもりだったんだ?」
 目に見えて怯んだシンを庇おうと、横からライオットが口を挟む。
「ちょっと待てよ。それは俺が勧めたんだ。それに陛下が一緒だったから、いつでも《テレポート》で助けに行けた。無策のままひとりにしたわけじゃない」
「俺なら、助けが来る前にその猫ごとレイリアを殺せるぜ」
 カザルフェロはライオットに一瞥をくれると、一言でばっさり切り捨てた。
「それくらい、貴様にだってできるだろう。シン・イスマイールにもできる。広い世界だ、もうひとりくらい腕の立つ奴がいて、そいつがレイリアを襲ったらどうするつもりだったんだ?」
 淡々と突きつけられる糾弾に、誰も反論ができなかった。
 彼女をひとりにしたのも事実、邪教の司祭が彼女を狙っているのも事実だ。あの時ラスカーズやアンティヤルが彼女を直接襲っていたら、シンたちは為すすべもなくレイリアを失っていただろう。
 冒険者たちが返す言葉もなく黙り込むと、カザルフェロはようやく、言葉と表情から力を抜いた。
「俺はな、お前さんたちに手を引けとまで言う気はない。けどな、本気でレイリアを守りたいなら、あいつに恨まれても憎まれても、安全な場所に閉じこめておくくらいの覚悟が必要なんじゃないのか?」
 カザルフェロの言葉は、口先だけではない。
 実際に彼は、レイリアに恨まれるのを承知の上で、休日を全部潰して神殿内に確保しているのだから。
「さっきの答えだがな。レイリアを後方に下げるのは却下だ。配置は中段とする。万一の時には神官戦士団全員を盾として使い捨ててでも、レイリアだけは無事に帰さなきゃならんからな。あいつはそういう存在なんだ」
 お前は本当に、そこを分かっているのか?
 カザルフェロは心の奥底を見通すような視線でシンを見つめ、今度は一転して、若者を教え諭すように言う。
「レイリアは佳い女だ。お前さんが惚れるのも無理はない。けどな、あいつは誰が何と言おうと“亡者の女王”の転生体なんだ。お前さんのやり方を続けたら、邪教だけじゃなく、いずれはマーファ教団とアラニア王国全部を敵に回さなきゃならん。ひとりの人間にはどだい無理な話だと思わんか?」
 シン・イスマイールほどの実力があれば、戦場に限定すれば、神官戦士団や王国騎士団ともある程度は戦えるだろう。
 だがそれだけだ。
 生きていくためには食事や寝床が必要で、それを遮断されてしまえば戦闘にすらならない。
 シン・イスマイールに物を売るな。宿に泊めるな。
 マーファ教団やアラニア王国が住民たちにそう命令するだけで、シンたちはあっと言う間に日干しになってしまうだろう。
「今はまだいい。ニース様が存命のうちはな。だがその先、お前さんたちだけじゃ必ず無理が出てくる」
 カザルフェロの理路整然とした言葉は、シンが今まで見ないようにしてきた事実を白日の下に照らし出した。
 今、レイリアに降り懸かる火の粉を払うのはいい。
 だがその先はどうする?
 何とかして邪教を殲滅できたとして、ニース亡き後、ターバ神殿やアラニアの宮廷とどう付き合っていくのか。
「あんたの言うとおり、俺たちだけで神殿や王国と戦うのは無理なんだろうな」
 そう認めてしまうと、シンの心がふっと楽になった。
 ひどく凪いだ心境で、目の前の戦士長を見上げる。
「でもさ。それでも俺は諦めたくないんだよ。レイリアには亡者の女王の寄代としてでなく、ピート卿とイメーラ夫人が慈しんだひとりの女の子として生きて欲しいんだ」
「シン・イスマイール。そのふたつは……」
 カザルフェロが言いかけた言葉を、シンは首を振ってさえぎった。
「分けられないって言うんだろ? 分かってるさ。あんたが正しいのは分かってる。けどそれじゃ俺が納得できないんだよ。いくら何でもレイリアが可哀想だ。あんたはそうは思わないのか?」
 カザルフェロの言葉は正しい。
 理屈としては完璧だ。
 だが、人は理屈だけで生きている動物ではない。
 時に感情が社会を左右するし、彼女の境遇に納得できないという感情は、きっとカザルフェロにだってあるはず。
「転生体だからって、それだけの理由で、レイリアを神殿に縛りつけて隠しておけって言うのか? それじゃあ彼女の気持ちはどうなる? あんたそれで満足なのか?」
 シンが守りたいレイリアは籠の鳥ではない。
 彼女が行きたいところに行ける自由。
 話したい相手と話せる自由。
 心の感じるままに喜び、怒り、哀しみ、楽しむ自由。
 それこそが真に価値のあるものであり、シン・イスマイールが守り抜くと誓ったものだ。
 レイリアの意志を無視して神殿に閉じこめたのでは、ナニールの墓所であの“棺”に封印するのと何も変わらないではないか。
「シン・イスマイール……」
 カザルフェロはうんざりした表情と口調を隠そうともせず、ため息混じりに言った。
「お前さんはいったい、レイリアにどんな生活をさせたいんだ? 『神殿に縛りつける』と言うがな。ターバ神殿はレイリアにとって牢獄でも何でもない。もう17年以上を過ごしてきた我が家なんだぞ?」
 カザルフェロは、シンの知らないレイリアの過去を知っている。
 ターバ神殿でマーファの加護とニースの慈愛を一身に受けて育てられた日々を。親友らと肩を並べて切磋琢磨してきた少女時代を。
 レイリアにとって、ターバ神殿は決して居心地の悪い場所ではないということを知っている。でなければどうして、あれほど素直でまっすぐな娘に育つものか。
 一方シンは、カザルフェロが知らないレイリアの未来を知っている。
 “灰色の魔女”カーラに肉体を乗っ取られた7年間を。ロードス全土に戦乱をもたらすため、自己の意志を殺され利用された暗黒の時代を。
 人が最も美しく輝く時代を他者に奪われたレイリアが、後にどれほどの苦痛に苛まれたかを知っている。たかが20代半ばの娘を、数百年かけて老成したかのような人格に換えてしまうほどの悲劇を、絶対に繰り返すわけにはいかない。
 現状維持を目指すカザルフェロと、現状打破を目指すシン。
 互いの主張が平行線をたどるのは自明の理だった。
「そろそろよいか、戦士長、それにシン・イスマイールよ。そなたらに見せたいものがある」
 不穏な火花を散らしていた戦士たちの背中に、ボイル王の重々しい声がかけられた。
 それに気づくと、カザルフェロは感情を隠すように仰々しく一礼した。
「これは陛下、失礼しました」
「すみません」
 シンも小さく頭を下げると、ボイルは冒険者たちを伴って、再び大隧道を奥へと進み始める。
 今度は護衛のドワーフ戦士も、神官戦士団の幹部も、同行を許されなかった。
 松明を手にしてボイル王の供を勤めるのはギムひとり。
 それにカザルフェロ戦士長とシンたち3人を加え、総勢6名まで減った一行は、さらに大隧道の地下深く、“鉄の王国”の中枢へと潜っていく。
「先ほどギムから話は聞いたが、あまりうまくいっておらぬようだな」
 頭を下げたまま、カザルフェロが弁解する。
「陛下、ご安心ください。我らは上位魔神を倒し、鉄の王国に平和を取り戻すためにここまで参ったのです。感情に流されて足を引っ張りあうことはないと断言いたします」
「そう願いたいものだ」
 齢140年を重ねたボイル王の目には、カザルフェロやシンなどまだ子供に見えるのだろう。
 意味ありげに唇を歪めたが、それ以上の追求はせず、ボイルはふと話題を変えた。
「人にはそれぞれ、戦う意味というものがあろう。戦士長はターバ神殿を守るため。シン・イスマイールは好いた女を守るため。そこな戦士と魔術師にもそれはあるはずだ」
 ギムが掲げる松明が、小さく踊って火の粉を舞い上がらせる。
 オレンジ色に揺れる王の横顔を見つめながら、人間たちは言葉の続きを待った。
「無論、それは我らドワーフ族にもあるのだ。我らが刃を交えてでも守らねばならぬもの。それをこれから見せよう」
「……これから?」
 ふとライオットが首をひねる。
 これから見せる。
 ということは、今まで見たものの中には答えがないということか。
 王国の居住区でも、溶鉱炉を中心とした工房区画でもない、ドワーフ族にとって真に価値のあるものとは一体何だろう?
 そんなことを考えながらボイル王についていくと、唐突に視界が開けた。
 大隧道もかなりの広さだが、ここは大広間と呼べるほどに巨大な空間だった。ひと抱えもある石柱がずらりと並んで天井を支え、測ったように真四角の空間が掘り抜かれている。
 まるでアラニア王宮にあった謁見の間のよう。
 だが、双方を見比べれば明瞭な相違があった。向こうは模造品でしかない。あくまでも人為的に演出された空間だ。
 しかし、ここは違う。
 人智を超えた何かにしか宿らない厳粛な雰囲気が、数百年、あるいはそれ以上の年月をかけてこの場に染み着いている。
 鏡のように平らに整えられた壁面といい、正門と同じく荘厳な装飾といい、ここが岩盤を掘り抜いた地底だとは到底信じられなかった。
 そして正面。
 磨き上げられた大理石の階の中段に、玉座とおぼしき豪奢な椅子が。
 その最上段に、御影石で造られた炉が据えられていた。
 内部に燃える物など何もない。薪がくべられているわけでも、油が引かれているわけでもない。
 それでも、御影石の炉の中では、青白い炎が勢いよく渦巻いていた。
 この広間を覆っているものを神気とするならば、その根元は間違いなくあの青い炎だ。
 訳もなく理解したシンたちが足を止めると、その様子を満足げに眺めてから、ボイル王は人間たちに向き直った。
「ここは我が王国の玉座の間。古から“ブラキの鉄床”と呼ばれきた部屋だ。ここに入った人間はそなたらが初めてだ。おそらく次はおるまい」
 鍛冶神ブラキが鋼を鍛える部屋。
 神話の時代から受け継いできたと言われても納得できそうな雰囲気に、全員が圧倒されて押し黙る。
「そして玉座の上にあるのが“永久(とこしえ)の炉”。石の王国亡き今、ロードスに唯一残されたブラキの炎よ」
 ボイルは言うと、炎に向かって恭しく礼を施した。
「陛下。ブラキの炎とは?」
 人間たちを代表して、カザルフェロが尋ねる。
 ボイルは顎髭をしごいて沈黙した後、言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「古から伝えられてきた神の炎だ。“鉄の王国”はあの炎を守るために作られたと伝承されておる。この国の王になるということは、すなわち、あの炎の守人になるということ」
 王たる身分をただの見張り番だと言いきったボイルに、ライオットが驚いて尋ねる。
「あの炎は、王の権威の象徴ではないのですか?」
「否。さように小さなものではない。あれはドワーフ族すべての誇り。言い方を変えれば“鉄の王国”そのものよ」
「それでは、ドワーフ族が戦う理由というのは……」
 カザルフェロが発した言葉を、ボイルはこともなげに認めた。
「そうだ。我らが守らねばならぬのは、王国の民でも鉱山でもない。この世界にただひとつ残された神の炎だ。王国の民ことごとくが死滅しようとも、我らドワーフ族は“永遠の炉”を守らねばならぬ」
「民の命より、あの火の方が大事だって言うんですか?」
 シンの眉が跳ね上がる。
 王たる者の責務は、まず第一に国を守ることではないのか。
 国の礎は人だ。上位魔神という災厄から民を守らずして、何が王か。
 口には出さなかったが、シンの目が雄弁にその想いを主張する。
 だが、シンの非難など意にも介せず、ボイル王はじろりとにらみ返した。
「30年前。そなたら人間が引き起こした魔神戦争で、南にあったドワーフの王国が滅びた。“石の王国”だ。フレーベ王を含め、王国の住民は最後の最後まで戦った。誰ひとりとして逃げ出さなかった。何故だか分かるか?」
 重々しい王の威厳は、どっしりと構えて小揺るぎもしない。
 即答できないシンに、ボイルは低く唸るように言葉を続けた。
「すべては神の炎を守るためだ。だが石の王国は滅び、南の“永遠の炉”は失われた。ここにあるのが最後のひとつ。もはや退くことは許されぬ」
 寸毫の迷いもなく断言するドワーフの王。
 厳しい視線が人間たちを一巡し、やがてシンのところに戻ってくると、ボイルはいくらか口調を和らげて問いかけた。
「シン・イスマイールよ。そなたは何のために生きている?」
 今度はシンも即答した。
「レイリアを守るためです」
「では問う。その娘が死んだら、次は何のために生きるのだ?」
 ボイルの質問は想像するだけでも不愉快な前提だ。
 思いきり顔をしかめたシンは、しばらく悩んだ後、不機嫌に言い放った。
「俺は、そうならないために戦ってるんです。レイリアに万一のことがあるようなら、とっくに俺も死んでます。だからその質問は無意味ですよ」
 王の諮問を正面から蹴飛ばしたシンに、カザルフェロが咎めるような視線を向ける。
 だがボイルは、我が意を得たりと満足そうにうなずいた。
「であろう。我らも同じよ。“永遠の炉”は我らドワーフ族の誇りなのだ。これを失うことになれば、もはや鉄の王国に存在意義はない。誇りを失った民では、何千人生き残ろうと四分五裂して瓦解するだけだ」
 魔神戦争の後、南にあった“石の王国”が再建されなかった理由もそこにあるのだろう。
 多くのドワーフたちが集まり、社会を形成してひとつにまとまれるのは“永遠の炉”という核があってこそ。
 それを失った石の王国には、再建するだけのメリットが残されていなかったのだ。
「だからギムは、王国が滅びの危機に瀕しているって表現したのか」
 ライオットがようやく得心したようにうなずく。
 王国の核である“炉”を守る戦士団が、初期の戦闘で消耗してしまった。魔神と居住区画の間には数百の戦士たちが残っていても、“炉”を守るべき戦士はいなかった。
 “炉”を失えば王国も失われる以上、ギムの言葉は大げさでも何でもなかったわけだ。
「そこが俺には理解できません。由緒正しい炎なのは分かりましたけど、どうしてただの炎が何千人ものドワーフ族を惹きつけるのか」
 なおも釈然としないシンに答えたのは、ボイル王ではなくルージュだった。
「あの“永遠の炉”はね、この世界でたったひとつ、ミスリル銀を精錬できる炉なんだよ。リーダーが持ってる剣もミスリル製だけど、それは無限の魔力の塔から莫大な魔力を供給して鍛えられた物なの。だから魔力の塔が失われた今、人間にはミスリル製品を作り出す能力が残ってない」
 それができるのは唯一、“鉄の王国”のドワーフのみということだ。
「なるほど……」
 ようやく納得してシンがうなずく。
 死んだらそれまでの生命とは違って、“永遠の炉”は次の世代にも、その次の世代にも世界でただひとつという価値を伝えていく。
 だが、本当に大事なのはその価値ではない。その価値が、千年先までドワーフたちの誇りであり続けることが重要なのだ。
 ボイル王やドワーフたちが“永遠の炉”を守ろうとするのは、まだ見ぬ子供や孫たちに生きるための誇りを伝えるため。
 それを思えば、非情に聞こえるボイル王の言葉も理解できる気がした。
「先ほども申したがな。戦う理由はそれぞれ違う。だからわしはそなたらにここを見せた。我らが守らねばならぬのはここなのだ。どうか頼む。そのつもりでそなたらの力を貸してもらいたい」
 そしてボイルは、初めて人間たちに頭を下げた。
 王たる者がただの冒険者に施すには、あまりにも過ぎた礼だ。護衛の戦士たちがいれば黙っていなかっただろう。
 だがボイルにとって、施す礼などささいなことだった。いま重要なのは自分のプライドではない。
「分かりました」
 ボイルが見せた本音に、シンも素直に答える。
 頭を下げていようとも、ボイルは決して卑屈ではない。
 己の為すべきことを見定めた王の姿は、シンにはどこまでも誇り高く見えた。
「魔神は絶対にここへは入れません。この剣と戦士の誇りに誓ってお約束します」
 ボイルに触発されて、シンの目の色も変わる。
 それを悟ったライオットとルージュが、無言で微笑を交わした。
 傲るでも気負うでもなく、ただ静かな決意をみなぎらせるシン。
 もしレイリアが今のシンを見たら、きっと『勇者』という言葉で評しただろう。
 その評価は万人が認めるはずだ。
 今のシンはただ強いだけでなく、周囲に勝利を確信させる不思議な力を持っているのだから。
 そんな“砂漠の黒獅子”の横顔を、カザルフェロはただ無言で見つめていた。



 



[35430] シナリオ5 『決断』 シーン5
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:03
シーン5 鎮魂の隧道

 鉄の王国の戦士団250。
 ターバの神官戦士団80。
 あわせて300を超える数の戦士たちが戦闘準備を終え、狭い隧道にひしめいていた。
 斧槍の白刃が篝火を写して輝き、揺れる炎が戦士たちの顔に緊張の影を落とす。
 彼らの強さは本物だ。いかに魔神が無限の魔力を振るうとはいえ、これだけの数で一斉にかかればひとたまりもなかろう。
 それでも魔神が生き残り、瓦礫の奥に閉じこめるに留まった理由は、ひとえにこの隧道の地形にあった。
「武器を振り回して戦うとなると、横に列べるのはいいとこ5~6人ってとこだろうな」
 腕組みしたライオットが隧道を見渡す。
 戦場となる鎮魂の隧道は、決して狭くはない。
 幅は10メートル以上あるだろう。天井も高く、数名のパーティで戦闘する分には何の問題もない。
 だが数百の軍勢を展開し、数の利を活かして戦うには不向きな地形だった。
「陛下、それでは手はずどおりに。数十名ずつの小集団に分け、疲労が蓄積しないよう短時間で交代。主攻は弩弓を使用。魔法の射程外から遠距離射撃で敵を疲弊させます」
「ふむ……」
 カザルフェロの確認に、ボイルが髭をしごいて頷く。
「負傷者は直ちに後送。司祭たちを中段に待機させ、癒しの魔法で救護に当たります。これで犠牲者の数は大きく減るでしょう」
 魔神が出れば味方は下がり、一定の距離を取り続けることが作戦の要諦だ。正面には常に万全の状態で壁を作り、疲労した者や怪我人はすぐに後方へ下げる。
 中距離の魔法戦では勝ち目がない以上、ほとんど唯一の選択肢だった。
 もしうまくいけば、被害も大きく軽減されるに違いない。
 ただし、とライオットは皮肉っぽく考えた。
 この戦術が機能するためには、非常に高度な部隊行動が必要だ。指揮官には迅速かつ正確な判断力が、部隊にはそれに従う練度が要求される。
 とはいえ、ボイル王とカザルフェロはそれを承知で受け入れたのだ。やり遂げる自信はあるのだろう。
「面倒なことよな。正面から突撃し、勢いに任せて粉砕したかったものよ」
 ボイルはミスリルのプレートメイルとフルヘルムに身を固め、長大なハルバードを携えるという戦支度。おそらく先頭に立って突入する気なのだろう。
 傍らのドワーフ戦士たちも、神官戦士団が提供した弩弓を構えて大きくうなずいている。
 ボイル王の主張は乱暴にも思えるが、そもそも大軍をそろえる意味とは、正面から勢いに任せて相手を粉砕することにある。
 この狭い地形では複雑な部隊活動もできないし、本来なら理にかなっているのだ。
 だが。
「おい、妖精族の王。まさかお前、自分も突入する気じゃないだろうな?」
 ルージュの足下で話を聞いていた銀毛の双尾猫が、ため息混じりに髭面のドワーフ王を見上げた。
「何だ、そなたは?」
 昨夜はライオットの籠で惰眠をむさぼっていたから、単なる飼い猫だと思われていたのだろう。
 突然流暢な共通語を口にしたルーィエを、ボイルは少しばかりの驚きを込めて見下ろした。
「天と地と精霊たちに祝福されし猫族の王、ルーィエだ。お前と同じ王として忠告してやる。突入なんて無謀なことはやめて、おとなしく後ろで指揮をしてろ。それがお前の仕事だろう」
 ルーィエにしては珍しく罵詈雑言の少ない素直な助言だったのだが、偉そうな態度と頭ごなしの言葉がボイルの反感を買ったらしい。
 ドワーフの王はふんと鼻を鳴らした。
「そなたが何者かは知らぬが、口出しは無用だ。我らには我らの戦い方がある。武器を持てぬ者は引っ込んでおれ」
 歯牙にもかけぬ態度で一蹴され、今度はルーィエの頭に血がのぼる。
「鉄ばかり食ってるうちに脳味噌まで鉄製になったのか? 王には果たすべき“高貴な義務”ってものがあるんだ。その無駄に硬い頭に頭突き以外の使い道があるなら、王たる者の責務についてちょっとは考えてみろ」
 さすがのボイルも、ここまで直截的な表現で罵倒されるのは初めてだったのだろう。
 明らさまに気分を害した様子で、ハルバードの石突きを床に打ち下ろした。
「我らドワーフ族は、強敵を恐れて戦おうとせぬ者を王とは認めぬ。何が高貴な義務か。口実を設けて味方の背に隠れよとは、いかにも臆病者の好みそうな言葉だ。そういう台詞は森に行ってエルフ族にでも説くがいい。臆病者同士、きっと気が合うであろうよ」
「それで負けてりゃ世話はない。鉄の王国も哀れなもんだ。無責任な王の暴走に振り回されたばかりに、死ななくていい戦士たちが死んでいったんだからな」
「何だと? もう一度言ってみよ」
「何度でも言ってやる。お前が無責任で無策だったから負けたんだ。文句あるか、この脳筋樽が」
 傷口を容赦なく抉るルーィエの指摘に、ボイルも引っ込みがつかなくなったのだろう。口調はどんどんヒートアップし、罵り合いに発展するまでそう時間はかからなかった。
「狩りをする狼だってもっとマシな戦い方をするぞ。お前も王なら、せめて四本足の獣と同レベルの戦術を駆使してみせろ」
「ふん、猫ふぜいが笑わせおる。長広舌で魔神が倒せれば苦労はないわ。そういうご立派な口上は、せめて一太刀あびせてから言うことだ」
 王たちの口論は、だんだんと子供じみてくる。
 護衛の戦士たちもカザルフェロも、呆気にとられて止めに入るタイミングを失っていた。
 本来なら不敬と呼べる大罪だが、何しろ相手は猫だ。大の大人がまじめくさって咎めだてするのも愚かしいというもの。
 周囲に生ぬるい困惑が漂う中、ふとルージュが言った。
「ねぇライくん。あれ、何に使うと思う?」
 ライオットが振り向くと、ルージュはドワーフたちが後方から運んできた50本あまりのツルハシを見て、軽く頬をひきつらせている。
「何ってそりゃ、あれは土を掘るのに使う道具……」
 そこまで答えて、ライオットも絶句してしまった。
 まさか、上位魔神を前にして、最前列で掘削作業をする気なのか?
 無防備にもほどがある。ほんのわずかでも穴があけば、そこから飛んでくる攻撃魔法で作業員が全滅してしまうではないか。
 ライオットは恐る恐る、次元の低い口論をしているボイルに問いかけた。
「確認したいのですが、陛下。まさかあのツルハシで瓦礫を掘るつもりですか?」
 嘘だと言ってくれ。
 そんな願いのこもった声に、興奮の冷めやらぬボイルは少々乱暴にうなずいた。
「そのとおりだ。魔法の合言葉を言えば瓦礫が消えてなくなるとでも思っておるのか? 危険は承知だが、瓦礫を掘らねば魔神めと戦うこともできぬ」
 迷いのない回答に、ライオットは軽くめまいを覚えた。
 そういえば、瓦礫の向こうに少人数で突入しようとは提案したが、どうやって突入するかは説明していなかった。
 今度ばかりはルーィエが正論だ。頭突きの他にも使い道がある頭なら、無駄な犠牲を出さずに済むよう、少しは策というものを考えたらどうなのだ?
 この指揮官たちは、穴を掘るだけで何十人の命が散っていくか、本当に分かっているのだろうか?
 ふとシンを見ると、にやりと笑ってライオットを眺めていた。作戦を考えるのはライオットの仕事、と割り切っているようだ。
 不機嫌そうに口を結んだルーィエも、後は任せたと言わんばかりにライオットを見上げている。
 仲間たちの視線を受けて、ライオットは深々と吐息をもらした。
 この戦は“鉄の王国”のもので、援軍の指揮官はカザルフェロだ。自分たちが必要以上にしゃしゃり出てもいいことはない。
 そう思って一歩引いていたが、さすがにこれは許容できない。
「……私に提案があります。聞いてください」
 ライオットは言うと、ボイルの返事を待たずに説明を始めた。
 魔神の能力と、予想される戦術について。
 攻撃魔法を使われた場合、被害を受けるであろう範囲について。
 瓦礫の突破方法と、その後の部隊展開について。
 最初は面倒なと言わんばかりだったボイルの顔も、ライオットの解説が進むにつれて真剣に引き締まっていった。
 ボイルにせよカザルフェロにせよ、軍をそろえた以上は軍で戦う、という発想がどうしても先に立ってしまう。
 多少の損害は覚悟し、数で押し潰すという戦い方だ。だがこのマイリーの神官戦士は、その損害すらも無駄であると断じ、まるで異なる発想で魔神を倒そうとしている。
「そなたのような男が我が王国にいれば、このような事態は避けられたのかも知れぬな」
 そんな言葉でライオットを称揚すると、ボイルは戦士団の指揮官たちを集めて、新たな指示を出し始めた。


 四半刻ほどで部隊の再編成は完了し、あわただしく突入の準備が進められていた。
 先陣を切るのはドワーフ族の戦士たちだ。ボイル王は周囲の説得に頑として首を振り続け、30名あまりの精鋭とともに突入する手筈となっている。
 その後方に待機しているのは、鎧甲を脱いで軽装になり、ツルハシを手にしたドワーフの戦士100名。先陣が突入した後、全力で瓦礫の除去に当たる部隊だ。
 作業は普通に行えば半日はかかるだろう。だが彼らは、それを3分の1に短縮することを期待されていた。
 ドワーフ戦士団の残りとターバの神官戦士団は、突入した部隊の交代要員として、順次前線に投入される予定だ。
 隧道には開戦直前の緊張感があふれ、点呼の声や部隊への号令が反響して喧しいほど。
 その最前列で、シンたちだけは普段どおりに平然と構えていた。
「シン、大丈夫だとは思いますが、もし怪我をしたらすぐに戻ってきてくださいね」
 戦士たちの間を縫って後方から出てきたレイリアが、気遣わしげに声をかける。
「分かってる。無理はしないよ。それに今回は、ドワーフの戦士たちの後ろに付いていくだけだから」
 屈伸をして身体を温めていたシンは、レイリアの姿を見ると、軽く笑みを浮かべて立ち上がった。
 本来ならば先頭に立って突入したかったのだが、部外者に一番槍を持たせるなどとんでもないと、ボイル王が強硬に主張したのだ。
 何とか第1陣にはねじ込んだものの、シンたちの突入序列はドワーフ戦士団の後。戦いの最前線というわけではない。
「本当なら私も一緒に行きたいんですが、今回は別の任務を命じられてしまって……」
「レイリアは神官戦士団の一員なんだから、カザルフェロ戦士長の命令に従うのが当たり前だろ。重要な任務だ。大変だろうけど頑張って」
 申し訳なさそうなレイリアの肩を叩いて、シンが励ます。
 レイリアは今回、カザルフェロ戦士長から救護班の指揮を命じられていた。
 敵は上位魔神だ。負傷者の数は膨大になり、先遣隊に同行したわずか10名の司祭では《癒し》に対応しきれないことも予想される。
 そのため癒し手を大増員することになり、神官戦士団の中から魔法を使える者を選抜して救護班に編入したのだ。
 “鉄の王国”に派遣された司祭たちの中では、レイリアが1番高い位階にある。救護班を放り出して前線に出るわけにはいかなかった。
「こんなことなら、シンが誘ってくれたとき、素直に冒険者になっていればよかったです。そうすればシンだけを危険に晒さないで、私も一緒に戦えたのに」
 少しだけ拗ねた様子でレイリアが言う。
 子供っぽい本音に、シンから思わず苦笑がもれた。
「それはどうだろう? レイリアが冒険者になってたら、俺たちはたぶんここには来てなかったと思う。レイリアが神官戦士団にいたからこそ、今ここで守れる命があるんだ。運命っていう言葉は好きじゃないけど、何が幸いするかなんて分からないものさ」
 人生万事、塞翁が馬。
 シンはそうレイリアに諭す。 
 気合いの入った周囲の戦士たちとは対照的に、その姿は落ち着いたものだ。緊迫感などまったく感じられない。
 戦闘開始直前とはとても信じられない雰囲気だった。
「ずいぶんと余裕じゃないか。スーヴェラン卿の屋敷に突入した時とはえらい違いだな」
 内心ではそれなりに緊張しているライオットが、親友の変わりように不満げな声をもらした。
 今回は自分の作戦案が採用されてしまったため、自分の任務だけでなく、作戦全体の成功にもある程度の責任を感じているのだ。
 相手の戦力も確かめずにぶっつけ本番で挑む戦いだけに、正直なところ不安でいっぱいだった。
 冗談めかして気分を紛らわせようとするライオットに、シンは穏やかにうなずいた。
「そうだな。今回は全然怖くない」
 増長しているわけでも、油断しているわけでもない。
 高揚する心と現実を見つめる理性がうまくバランスを取り、穏やかな平常心を保っているらしい。
 10レベルファイターになら、できて当然なのかも知れない。
 だが、元SEの民間人には絶対に不可能な所行だった。
「前にレイリアが言ってただろ? 信頼できる仲間がいるから、心って強くなれる。心強いってそういうことだって」
 今回、ライオットは意識して“魔神殺し”の英雄を演じてきた。
 だが、どうやらシンは違うらしい。レイリアという触媒を得て変化したシンは、10レベルという身体能力に心の強さがすっかり追いついている。
 もはや演じるまでもなく、正真正銘“砂漠の黒獅子”なのだ。
 それどころか、ただロールプレイで遊んでいただけの虚構の英雄よりも、本物の覚悟を決めた分だけ強くなっているかもしれない。
「俺にはレイリアがいて、ライオットがいて、ルージュがいる。俺は独りじゃない。だから何が出てきたって絶対負けないよ」
 シンはそう言って、レイリアににこりと微笑みかけた。
 ああ、この人なら大丈夫。
 レイリアはシンの顔を見て、それを確信できた。
 胸の奥にわだかまっていた不安が吹き飛ばされて、花開くように頬がほころぶ。
「はい。あなたを信じます」
 何の迷いもなく、全幅の信頼を込めて見つめ合う恋人たちに、ルージュは素直な羨望を覚えた。
 恋という階段を上って、少女から大人へと成長していく過程。今のレイリアはきっと、女性として誰よりも美しく輝いているに違いない。
 あの日、ザクソンで上位魔神と戦った日、無茶をたしなめたルーィエにレイリアは言ったのだ。
 シン・イスマイールにふさわしい女性でありたかった。彼の隣に立っても恥ずかしくない自分になりたかった、と。
 このふたりには、恋に狂って現実を疎かにするような気配など微塵もない。むしろ互いを刺激し、切磋琢磨して、人としての輝きは増す一方だ。
「……ねえライくん。私が《ゲート》を覚えても、きっとリーダーは日本には帰らないんだろうね」
「だろうな」
 ささやくようなルージュの言葉を、ライオットは素直に肯定した。
 シンは男が人生を賭けるにふさわしいものを見つけたのだ。自分がシンの立場なら悩む余地などない。
 人は何のために生きるのか。
 それを考えれば、今のシンがレイリア以上に優先するものなど、何ひとつ無いに決まっている。
 そして、ライオットもそれは同様なのだ。
 妻を振り返ると、紫水晶の瞳をまっすぐに見つめた。
 彫刻のような美貌は完全なポーカーフェイスを維持していたが、ルージュの心が不安に揺れていることなどお見通しだ。いったい何年、彼女だけを見つめて過ごしてきたと思っている?
「けど俺は違う。喜子が行きたいところなら、どこへでも一緒に行くよ。アレクラストだろうと、クリスタニアだろうと、日本だろうと」
 大切なのはどこで生きるかではない。
 誰と生きるかだ。
 “喜子”と結婚するとき、“一彦”は妻を世界中の誰よりも優先すると決めた。その想いは今でも変わっていない。
「だから心配いらない。俺はいつまでも君の隣にいる。宮ヶ瀬湖で約束しただろ。一緒に幸せになろう、って」
 誰はばかることもなく、堂々と宣言する。
 無防備だった心にライオットの不意打ちを受けて、ルージュのポーカーフェイスが崩れた。
 あの日、約束の言葉と共に贈られたダイヤモンドの指輪が、湖畔の陽光をはじいて輝いた光景が脳裏に浮かんだ。
 紫水晶の瞳に漣が揺れ、まるで恋する乙女のように頬が紅潮する。
「カズくん……今のはずるいよ……」
 ルージュはそうつぶやくと、真っ赤になった顔を隠すようにうつむき、右手でライオットの袖をつまんだ。
 シンのように薔薇色の結界を張るだけが愛ではない。
 普段はおちゃらけたライオットが、ごくたまに見せる真摯な本音は、そのたびにルージュの心を虜にしていくのだ。
「でも、これが聞きたかったんだろ?」
 無造作に抱き寄せられ、ミスリルプレートに頬を埋めたまま、ルージュは素直にうなずいた。
「うん。安心した」
 最近になって胸を締め付けていた最大の懸案事項が、ライオットの一言であっさりと片づいてしまった。
 もう何も心配はいらない。全力で頑張って、一日も早く《ディメンジョン・ゲート》を修得するだけだ。
 不安が消えて広くなった心に、高揚した意欲が広がっていく。
 まるで無限にマナが湧きだしてくるような感覚。
 今の自分なら、きっと何だってできる。理屈抜きでそう確信できた。
 夫の胸の中、夫の腕に抱かれて、ルージュの口許に自信に満ちた微笑みが浮かんでくる。
「ふん、久しぶりじゃないか、この感覚。悪くない」
 ルージュと精神感応でつながっているルーィエが、あまりの高揚感に全身をぶるりと震わせた。
 今までは美しいだけの抜け殻だった体から、太陽のような輝きがあふれる。
 かつて大陸で“奇跡の紡ぎ手”と畏れられた希代の魔女が、ようやく目を覚ましたのだ。
「それなら、俺様もちょっとだけ本気を出してやる。準備はいいか、半人前ども。そろそろ始めるぞ。脳筋樽に出遅れるなよ」
 2本の尻尾をぴんと伸ばし、ルーィエは優雅な足取りで瓦礫の前に進み出た。
 ボイルに率いられたドワーフたちは準備万端だ。弩弓や大盾をたずさえ、今や遅しと突入の時を待っている。
「いいか脳筋樽。お前らの役目は時間稼ぎだ。怪我くらいはしてもいいが、無茶して死なれると皆が迷惑する。そこのところを忘れるな」
「ふん、時間稼ぎ大いに結構。だが野良猫よ、べつに倒してしまっても構わんのだろう?」
 みなぎる戦意で爛々と目を輝かせ、ボイルがにやりと笑った。
 その自信は虚勢ではない。“石の王”ボイルは“砂漠の黒獅子”と互角に戦える技量の持ち主なのだから。
 王に続く戦士たちも皆、一級の腕前だ。ここにいるのは戦士団の中から選りすぐられた精鋭部隊。弱かろうはずがない。
「ドワーフ族は穴掘りが得意らしいが、せいぜい墓穴だけは掘らないようにな。怖くなったら道を譲れ。うちの半人前どもでも、上位魔神くらいなら何とかなる」
「そういう世迷い言は、我らの戦いぶりを見てから言うことだ。外の世界のおままごととは違う、本物の戦いを見せてくれよう。念のために言っておくが、腰を抜かして通路を塞がぬようにな」
 相変わらず罵倒のキャッチボールをしながら、それでもふたりの王は突入の準備を整えた。
 ボイル王とともに突撃する戦士たちは油断なく身構え、シンやライオットも装備を点検して出番を待つ。
 緊張が波紋となって広がっていった。
 戦いが始まる。
 それを知って、騒がしかった隧道が水を打ったように静かになる。
「では始めるぞ! 魔神めを誅滅し、同朋たちの仇を討つのだ!」
 ボイルの大号令が朗々と響き、割れんばかりの歓声がそれに応えた。
 戦士たちの手で白刃が突き上げられ、篝火に乱反射して光の海が広がる。
 肌を震わせるほどの熱狂。今まで溜め込んできた屈辱や苛立ちを晴らさんと、戦士たちが腹の底から吼える中。
『火竜の息吹、不死鳥の翼、始源の巨人の憎しみの心……』
 ひとり興奮を冷たい理性の氷に閉じこめて、ルージュは魔法樹の杖を掲げていた。
 杖の先には激しく明滅する純白の炎。ただし以前とは違い、周囲に風が吹き荒れることはない。
 ルージュの編み出した構成が、暴走して外界に干渉しようとするマナを完璧に捕らえ、封じ込めているのだ。
 カーラの指輪を通して映る世界には、炎を幾重にも取り巻く光の封環がはっきりと見える。この世界でただひとり、ルージュだけが使いこなす特別な炎だ。
 惜しげもなく魔晶石の魔力を注ぎ込みながら、ルージュは足下のルーィエに目配せした。
(ルーィエ、いいよ)
(よし、それじゃいくぞ。タイミングを間違えるなよ)
 鎮魂の隧道を塞ぐ瓦礫の壁。
 戦士たちと魔神とを隔てる障壁を一気に突破し、向こう側に奇襲をかけること。
 それがルージュとルーィエに課せられた役割だった。
『大地の精霊よ! 我が命に従い道を開け!』
 銀毛の双尾猫が精霊語で呼びかけると、何の前触れもなく、瓦礫の壁に直径2メートルあまりの穴が穿たれた。
 瓦礫は円形に消失し、空洞は奥へ奥へとどんどん延びていく。
 完全な闇に沈む穴がどこまで続いているのか、人間には見ることができない。ルージュは目を閉じ、闇視の能力を持つルーィエの視覚を借りて観察しながら、その時が来るのを待った。
 やがて。
(届いたぞ!)
(分かってる)
 トンネルが貫通し、反対側に巨大な空間が開けると、ルージュは目を見開いて最後の一説を唱えた。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
 堅固な封環から解放された純白の炎が、空気の焦げる音とともに闇を貫いた。
 明滅する閃光が壁を照らしながら、豪速で細い穴を駆け抜ける。
 ほんの半呼吸で反対側に到達すると、純白の炎は盛大にはじけ、内包する破壊を容赦なくまき散らした。
 灼熱の波が隧道をなぎ払い、あらゆるものを消し炭に変えながら広がっていく。
 隧道全体を揺るがすような地響き。
 席巻する炎が闇を光で染め、溶鉱炉もかくやという熱波がこちら側にまで噴き出してくる。
 問答無用の奇襲だ。
 いかに上位魔神といえども、これを食らえばただでは済まないだろう。何らかの罠が張られていれば、罠ごと焼き尽くしたに違いない。
 予定どおりの第1次攻撃が終了したと見るや、ボイル王は再び声を張り上げた。
「征くぞ! わしに続け!」
 王みずからが先頭に立って穴へと駆け込んでいく。
 それに続くドワーフ戦士たちは、さながら鋼鉄の奔流だった。金属鎧がやかましく鳴る音とともに、喚声を上げて突撃していく。
 ボイルが言ったとおり、その迫力は尋常ではない。この白刃の津波を以てすれば、上位魔神といえどもあっさり倒してしまうのではないか。
 そう信じられるような勢いに乗っていた。
「さて、俺たちも行くか」
 精霊殺しの魔剣を抜き、シンが仲間たちに言った。
 口調は穏やかだが、顔は興奮で紅潮している。ドワーフたちの戦意に当てられたのだろう。
「そうだな。陛下、予定どおりこっち側で連絡係を頼む。もし苦戦するようなら、また《トンネル》を開けて連中を助けてやってくれ」
 今回、戦場は瓦礫によって分断されている。
 こちら側にいる部隊には、前線で何が起こっているのか全く見えないのだ。それでは増援部隊を送り込むタイミングがつかめないため、ルージュとルーィエの精神感応を使って逐一状況を伝えることになっていた。
「ふん、当然だ。俺様はあの脳筋樽とは違って、高貴な義務というものを心得ているからな。突撃すれば勝てると思っている馬鹿どもに、戦の何たるかを教育してやる」
 ルーィエが髭をふるわせながらぴんと胸を張る。
 その後方では、ドワーフ戦士団の突入部隊第2陣が配置についた。
 彼らに指示を出すのは、ボイルから指揮権を委譲されたカザルフェロ戦士長だ。ルーィエはカザルフェロの傍らで情報の伝達と助言に当たる。
「じゃ、戦士長さん。あとはよろしく」
「任せてもらおう」
 ルージュがひらひらと手を振ると、戦士長は渋みがかった笑みを浮かべてうなずいた。
 ここまでのところ、何も異常はない。すべてが予定どおりに進めば、次は掘削作業班を投入する番だ。
 ルーィエの《トンネル》を使って部隊を交代させながら、並行して瓦礫の除去を進める。仮に第1陣とシンたちが全滅しても、半日後には人海戦術で魔神を圧倒できるだろう。
 そのための煩雑な指揮を一手に引き受けたカザルフェロは、面白くもなさそうな様子で続ける。
「任務は果たしてみせるさ。もっとも、俺の出番なんぞ来ないのが一番楽でいいんだがな」
 飄々とした口調のせいで、シンたちはしばらく、彼に激励されたことに気づかなかった。
 ライオットが立てた作戦は、自分たちを抜きにしても敵を倒せるよう、周到に保険を重ねたもの。負け戦か、それに近い状況を想定している。
 逆に言えば、カザルフェロの出番が来ないということは、突入する第1陣、つまりシンたちがあっさり魔神を倒してしまうということだ。
「つまり……俺たち応援されたってことでいいのか?」
「ただ単に楽がしたいだけじゃないか?」
 かけられた言葉の意図が理解できず、シンとライオットが顔を見合わせる。
 すると、不器用な会話を聞いていたレイリアがくすりと笑った。
「応援されたってことでいいんですよ」
「レイリア、勝手なことを言うな。俺は応援なんぞしちゃいない。自分の希望を言っただけだ。それよりお前も持ち場に戻れ。救護所の天幕は準備できてるんだろうな?」
 ふてくされたようにカザルフェロが鼻を鳴らす。
 その印象はルーィエとそっくりだ。
 決して甘やかさず、ある程度は突き放しつつも、きちんと見守ってくれる人。
 レイリアにとって“父”のような存在。
「準備はできてますし、私もすぐに戻ります。それより戦士長、もっとちゃんとシンに……」
 恩師と想い人の間に立って、少しでもふたりの橋渡しになろうとしたとき。
「何じゃこれは!!」
 ルーィエの開けた《トンネル》の向こうから、憤怒と憎悪に彩られた怒号が聞こえてきた。
 ボイル王の声だ。
 シンたちが作っていた穏やかな空気は、冷水を浴びて瞬時に緊迫感へと変化した。
 想定外の出来事。それも、ボイル王が本気で怒るような何かがあったらしい。
「行くぞ」
 短く言ってシンが身をひるがえす。
 体重を感じさせない軽やかな動きで《トンネル》に消えると、ライオットも無言でそれに続いた。
「向こうを確認したら、すぐに状況を送るから」
「当たり前だ。くれぐれも冷静にな。他の奴らが頭に血を上らせても、お前だけは冷静に判断しろ。他人より少しばかり頭が回るのが唯一の長所なんだ。それを捨てたら、お前はただの足手まといだからな」
「分かってる」
 口許に軽く笑みを閃かせて、ルージュも闇の中へと身を躍らせた。
 ドワーフたちが一定間隔ごとに落としていった松明のおかげで、狭いトンネル内は十分な明るさがある。
 半分ほどまで進むと、戦士たちの怒号が聞こえてきた。
 この声は怒りと言うより悲しみだろうか?
 遠くなっていくライオットの背中を追いかけながら考えていると、すぐに出口が見えた。
 瓦礫の向こう側と同じく、幅10メートルの隧道。
 壁の篝火は消えているが、ドワーフ戦士団が持ち込んだ大量の松明で明かりには不自由しない。
 正面では予定どおり、ドワーフ戦士団が横一線に並んで敵を待ちかまえていた。これから瓦礫の除去が終了するまで、敵を封じ込めるのが彼らの役割だ。
 そしてその向こう。ドワーフたちが怒りの表情で刃を向ける敵は。
「最低だな……」
 珍しく嫌悪に顔をゆがめて、ライオットが吐き捨てる。
 腐乱した筋肉。
 朽ちて垂れ下がる眼球。
 衣服の残骸を身にまとい、緩慢な動作で攻め寄せてくるのは、どう見ても死体の群れ。
 安らかに送られ、永久の眠りについていたドワーフたちの亡骸が、鎮魂の隧道を埋め尽くしていた。






[35430] シナリオ5 『決断』 シーン6
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:03
シーン6 鎮魂の隧道

「死してなお魔神になぶられるか。さぞ悔しかろう。そなたらの無念、決して忘れぬ」
 ボイル王が眦をつり上げ、食いしばった歯の間から地鳴りのようなうめき声を絞り出す。
 次の瞬間、銀色の暴風が屍兵を袈裟掛けに両断し、魔神に操られてさまよい出てきたドワーフの亡骸は隧道に崩れ落ちた。
 緩慢な動作。
 単調な攻撃。
 朽ち果てた亡骸には、もう武器を使いこなすような知性も、痛みを感じるような意識も残っていない。
 肉体をバラバラにされるまで動き続けるしぶとさが唯一の取り柄だが、それとてドワーフたちの戦斧の前では問題にならなかった。
 最前線に列ぶ戦士たちは弩弓を戦斧に持ち換えると、まるで竜巻が麦畑を蹂躙するように、容赦なく屍兵を刈り倒していく。
 負ける要素などどこにもない、一方的な展開だ。
 だが、変わり果てた姿の同族を血泥に沈めていくその戦いは、確実に戦士たちの正気を磨耗させていった。
 彼らにとって、この屍兵は単なるモンスターではない。
 祖父や祖母かもしれない。友人かもしれない。丁寧な葬儀で喜びの野へと送り出し、心安らかに眠ってもらうべき同朋なのだ。
「死者を冒涜するにもほどがある……!」
 ライオットが吐き捨てる。
 前線で戦っている戦士たちの胸中を思うと、言葉にできない怒りで臓腑が焼けるようだった。
「ボイル王、ここは俺たちが前に……」
 シンも同じことを感じたらしい。
 自分たちにとっては見知らぬ他人の亡骸だ。ドワーフたちが相手にするよりは心も痛まない。そう言って配置の交換を申し出ると、ボイルはシンに血を吐くような怒声を叩きつけた。
「引っ込んでおれ! 我らが同朋の亡骸を1体とて貴様らの手に掛けてみよ、絶対に許さぬぞ!」
 血走った目でシンをにらみ、その動きを止めると、ボイルは再び正面の屍兵に向き直る。
 明確な拒絶。これは意地であるとともに、第二の弔いなのだ。シンたちが手を出したのでは、単なるアンデッドモンスターの退治で終わってしまう。
 彼らが怪物だなどと、断じて認めるわけにはいかなかった。彼らが誰で、どういう存在だったのか、それを知る自分たちの手で葬ってやらねば意味がない。
 同族の亡骸は、自分たちの手で再び眠りにつかせる。その強い意志を込めて、戦士たちは戦斧を暴風のように振り回し、当たるを幸い薙ぎ倒していった。
 腕を切り落とし、首を跳ね、胴を両断して動きを止める。凄惨極まる戦いは一方的に進み、ドワーフ戦士団はみるみる戦線を押し上げていく。
「ひどすぎる。このまま戦ったって誰も幸せになれないよ。《ファイアボール》か何かで荼毘に付してあげたら駄目かな?」
 ルージュは冗談めかそうとして失敗し、声に悲痛な本音が滲んだ。
 水袋が割れるような、にぶく湿った音。
 飛び散る腐汁、胸の悪くなる腐敗臭。
 オレンジ色の薄闇に照らされるのは、腐乱したまま動きまわる亡骸の群れ。
 もはやリアル肝試しを超越し、リアルバイオハザードと呼ぶべき状況だ。
 ドワーフたちの内心もさることながら、暗いところと怖いものが大嫌いなルージュにとっても、この世の地獄と表現すべき様相を呈している。
 もし自分が最前線に立っていたら、なりふり構わず魔法をまき散らしただろう。それだけは自信がある。
「気持ちは分かるけど、ボイル王に斬られたくなければやめておいた方がいい」
 妻の内心をほぼ正確に洞察しながら、ライオットが自分にも言い聞かせるように肩を叩いた。
 せめて暗い方だけでも何とかしようと、ルージュがそこら中に《ライト》の魔法を飛ばしていく。
 薄闇を魔法の明かりが駆逐すると、陰惨な光景も敵の陣容も、彼らの目に明らかになってきた。
 屍兵の数は少なく見積もっても100は下るまい。
 隧道の奥、“鎮魂の間”と呼ばれる広間まで点々と屍兵が連なり、不気味なうめき声を上げながら、鈍重な足取りでこちらに向かってくる。
 敵は大群だが、逆に言えばそれだけ屍兵に依存しているということだ。
 ライオットに言わせれば好都合だった。屍兵を無駄にすりつぶしたくはないだろうから、無差別攻撃型の範囲魔法は、しばらく心配しなくて済む。
「それはどうかな? ドワーフたちの実力だと、壁を削りきるのにそれほど時間は必要ないぞ」
 シンが疑義を呈する。
 相手をしているのが数名単位の冒険者ならば、100のゾンビで相当な時間が稼げるかもしれない。
 だがここにいるのは“鉄の王国”の最精鋭だ。実力でも数でも敵を圧倒している。
「この状況は長くは続かない。あと10分はかからないはずだ。壁がなくなる前に、敵だって勝負をかけてくるんじゃないか?」
 シンの言葉どおり、ボイル王に率いられたドワーフ戦士たちは、鎧袖一触とばかりに屍兵を殲滅しながら進んでいく。
 嫌な戦いなのは間違いないだろう。だがその怒りを力に変えて、彼らは常識はずれの突破力を発揮していた。
「ボイル王の話だと、この先は“鎮魂の間”で行き止まりだ。そこに入るときが勝負だな。でかいのが一発来るはずだから、それを無力化して乱戦に持ち込めばこっちの勝ちだ」
「リーダー、無力化って簡単に言うけどさ……」
 ルージュが小さくため息をつく。
 今のルージュには、発動した魔法を無効化する手段はない。
 となれば、発動前に介入して敵を黙らせるしかないのだが、この状況で最前線に出ていけば、ボイル王に何をされるか知れたものではなかった。
(あの脳筋樽、完全に頭に血が上ってるからな。今のあいつは野獣と同じだ。本能に駆られてるだけで、理性的な判断は期待できないぞ)
 精神感応でつながったルーィエが、やれやれと言わんばかりに鼻を鳴らした。
(この際、いい薬だ。最初の一発はあいつらに受けてもらって、頭が冷えたところでお前らが出て行ったらどうだ? 敵は調子に乗ってるだろうし、脳筋樽どもは混乱中。ちょうどいい奇襲になるんじゃないか?)
 ルージュがその提案を通訳する。
 ドワーフたちの犠牲を度外視すれば、純粋に戦術として有効なのは間違いなかった。
 そもそも、瓦礫突破後に敵の先制攻撃を受けることを想定して、第1陣は編成されているのだ。その役目を果たしてもらうと考えれば、想定どおりの展開でもある。
 ライオットはその誘惑に内心よろめいたが、寸前で踏みとどまって首を振った。
 もしこれで5人死ねば5人分の、10人死ねば10人分の命。助けられるのに助けないのでは、ライオット自身が殺すのと変わらないではないか。
「それは駄目だ。後で思い出したとき後悔が残るようなやり方は、何よりもまず自分のためにならない。今できることは全部やるべきだ。心安らかに過ごせる自分自身の未来のために」
 人は誰だって、思い出すだけで叫び回りたくなるような黒歴史を抱えているだろう。
 もう一度その場面に戻ったら、絶対に同じ選択はしないと心に誓えるような後悔。人は失敗にしか学べない生き物だが、一度後悔して学んだのなら、わざわざそんな黒歴史を増やす必要はない。
「俺の尊敬する人が言っていた。道に迷ったら、3日後でも1年後でもいい、未来の自分を想像しなさい。その時に胸を張って生きている方の道を選びなさい、ってさ」
 めずらしく真面目な台詞を吐くライオットに、ルージュが目を瞬かせて黙り込む。
 するとシンも、憑き物の落ちたような顔でうなずいた。
「そうだな、行こう。この際一時的に恨まれたって構うもんか。進むか止まるか悩んだら、とりあえず進めって俺は習った」
 自分たちは何のためにここにいるのだ?
 無駄な犠牲者をひとりでも減らす為に、策を考え、行動してきたのではなかったか?
 シンたちがいればうまくいくと、瓦礫の向こうでレイリアは信じている。
 できることは全てやると、絶対に手を抜かないと、ボイル王やギムに約束したではないか。
 だったら何も迷うことはない。
 前線に出て自分たちのスペースを確保し、魔神に介入する。そう方針を決めたとき、ルーィエから再び念話が届いた。
(いいか、もうすぐ《トンネル》が閉じる。番犬が言うには、その前に交代部隊30人を送り込むそうだ。脳筋樽の説得はそっちでやっておけ)
 ルージュの通訳に、ライオットが即断する。
「ちょうどいい。その第2陣と一緒に前線に出よう。ボイル王には一度引っ込んでもらって、第3陣の指揮を依頼する。嫌だって言うなら戦士団に力ずくで連行させればいい」
 短時間で交代というのは、今回の作戦の要として全部隊に徹底してある。戦士団も今さら拒否はするまい。
 第2陣で屍兵を完全に排除し、魔神の一撃を阻止して“鎮魂の間”への突破口を開く。
 そこで再度交代し、第3陣で広間へ突入すれば、ボイル王の顔も潰さなくて済むだろう。
 積み木を重ねるように戦術を構築していくライオットに、シンは無条件でうなずいた。
「それでいこう」
 ルージュが念話でルーィエに対応を伝えている間に、ライオットはボイルに駆け寄って交代を告げる。
 最前列でハルバードを振るっていたボイルは、ライオットの言葉にあからさまな舌打ちで応じた。
「引っ込んでおれと申したぞ。わしらはまだまだ戦える。重傷を負った者もおらぬし、口出しは無用だ」
 先日の魔神相手の激戦に比べれば、この程度は前座にもならない。
 そう言って交代を拒否したボイルに、ライオットは粘り強く声をかけた。
「この程度で苦戦はしないでしょうが、全員が無傷というわけでもありません。変な腐毒が回っても困るし、傷は小さいうちに癒しておくべきです」
 怪我をした部下の面倒を見るのは指揮官の勤めだ。敵を倒すことは重要だが、犠牲を減らすことだって同じくらい大切なはず。
 そもそも“鉄の王国”は、戦士たちの犠牲を減らすためにターバに増援を求めたのではないか。
 そう進言すると、ボイルは渋々とうなずいた。
「やむをえん。そなたの策を受け入れたのは我らだからな。第1陣は下げるとしよう」
「言っておきますが陛下、自分だけ残るっていうのは駄目ですからね。いったん向こう側に戻って、次は第3陣の指揮を執ってもらいます。第3陣の任務は魔神への突入です。彼らの弔いは第2陣に任せてください」
「……よかろう」
 食えない男だと言わんばかりの一瞥をくれると、ボイルは配下の戦士に前線を任せ、ようやく後列に退いた。
 退くのは気が進まないが、次こそは魔神と直接刃を交えられる。そう思えば我慢できないことはない、といった心境なのだろう。
 ちょうど、後方では《トンネル》から続々と増援の戦士たちが出てくるところだった。
 第1陣が一方的に押しまくったおかげで“鎮魂の間”まではもう指呼の距離だ。
 背後の《トンネル》出口側には広大なスペースが確保できている。屍兵たちの圧力もほとんどないし、交代はスムーズに進むだろう。
 そんなことを考えながら、ボイル王と並んで交代の指揮を執っていると。
 不意に、ライオットの持つ“勇気ある者の盾”で緑柱石が輝いた。
 今まで見たこともない魔法の光。
 怪訝そうなボイル王が何かを言いかけたとき、理屈を超越した悪寒がライオットの背筋を駆け上がった。
「来るぞ!!」
 とっさに怒鳴る。
 スーヴェラン卿の屋敷で、炎の精霊王を見上げたときと同じ感覚だ。緊迫感にあふれたライオットの叫びが隧道を震わせ、それを聞いた戦士たちが身構える。
 刹那。
 隧道の中央部に、闇の奔流がなだれ込んだ。
 魔法の明かりを塗りつぶすように、黒々とした闇が殺到する。それが何なのかと考えるいとまもなく飲み込まれ、ぐらりと視界が揺れた。
 強烈な目眩と浮遊感。
 立ちくらみに似た症状だが、その強さは桁違いだ。闇はライオットの魂を容赦なく削り取り、意識を深淵へと引きずり込もうとする。
 目を開けているはずなのに視界は真っ黒だった。三半規管が上下左右にゆさぶられ、ともすれば精神が肉体から振り落とされそうだ。
 だめだ、ここで意識を手放したら死ぬ。
 間違えようのない事実にぞっとするような恐怖感を覚えて、ライオットは必死で細い糸にしがみついた。
 永劫にも思える時が過ぎ、やがて、黒一色だった視界に光が戻ってくる。
 莫大な労力を費やしてうっすらと目を開けると、自分が盾に取りすがっているのが分かった。
 いつの間にやら膝をついていたらしい。
 遠くから戦士たちの怒号が聞こえてくるが、何を言っているのか分からない。
 顔をしかめて辺りを見回す。
 隧道に展開していた戦士たちのうち、中央部を担当していた10人あまりが地面にうずくまっている。中には意識を失って倒れた者もいた。体を起こしているライオットはまだマシな部類らしい。
「魔神めが、不可思議な術を使いおって……」
 隣でボイル王がうめく。
 ハルバードを杖のように突いて何とか立っているが、額には脂汗が浮かび、声にも覇気がない。
 ライオットが震える膝を叱咤して立ち上がった時、頭上をルージュの魔法が駆け抜けた。
 純白の閃光。空気を焦がす鋭い音。上位魔神の首すら消し飛ばす必殺の《ファイアボール》だ。
 魔法は屍兵たちの頭上も素通りして“鎮魂の間”に到達。そこに炸裂して炎と破壊をまき散らした。
 鈍い振動が隧道全体を揺るがし、白い炎が周囲を焼き払う。
 熱波に巻き込まれた何体かの屍兵が、黒焦げになって宙に舞い、壁に叩きつけられて動きを止めた。
「手を出すなって言われてたけど、もうそんな状況じゃないからね」
 ルージュは魔法樹の杖を掲げたまま、冷厳とした口調で介入を宣言する。
 だがライオットもボイルも、視線は隧道の奥に釘付けになっていた。
 ルージュの炎が照らし出した“鎮魂の間”。
 一瞬だけそこに浮かんだシルエットは、圧倒的な存在感で己を誇示しているように見えた。
 全高20メートルに近い巨体。
 ずんぐりした胴体と細長い首。
 まるで鰐のように牙の並んだ顎。
 胴体から生える、大きな1対の翼。
 世界最強の生物種としてあまりにも有名な存在が、確かに“鎮魂の間”に君臨していたのだ。
「ドラゴン……?!」
 まともに回らない理性が、呆然とその名前を紡ぎ出す。
 できれば信じたくない光景だった。
 あまりのことにライオットは立ち尽くしたが、状況は余計な時間など与えてくれない。
 再び闇に隠れた“鎮魂の間”から、岩と岩とをこすり合わせるような重い咆吼が響いてくると、再びライオットの盾で緑柱石が輝きを放った。
 何が起こるか考えるまでもなかった。
 神経を走り抜けた緊迫感が、重く体を覆う疲労や目眩を吹き飛ばす。
「もう1回くるぞ! 気合いを入れろ! 気を抜くと死ぬぞ!」
 “勇気ある者の盾”を真正面にかざし、ライオットが両足を踏ん張って怒鳴った。
「闇の攻撃は通路の端には届かないから! みんなは壁際によけて!」
 ルージュが後ろから叫ぶ。
 その具体的な言葉は、混乱した部隊に示された唯一の指示だった。
 戦士たちは本能に従って、ルージュの言葉どおり隧道の左右に待避していく。中央に残ったのはライオットとボイル、それに倒れて動けない戦士たちだけだ。
「ボイル王!」
 それは誰の叫びだったのか。
 続く言葉をかき消すように、再び漆黒の激流が隧道を蹂躙した。
 かろうじて間に合ったルージュの防御魔法がふたりの体を包むと、ライオットとボイル王は正面を睨みつけたまま、闇の中へと飲み込まれていった。
 ライオットの持つ魔法の盾には、敵の攻撃を集中させるという特殊効果がある。闇の奔流からドワーフの戦士たちを待避させるため、ライオットはあえて動かずに攻撃範囲を固定しているのだ。
 おそらくこの闇は、精神点攻撃の一種なのだろう。何の外傷も破壊ももたらさないまま、戦士が行動不能になって倒れたのだから他には考えられない。
「いったん引こう」
 ルージュが唇を引き結んでライオットのいた場所を見つめていると、シンがその背中に声をかけた。
 本来なら、ライオットが攻撃を引き受けている間に、シンとルージュで敵を撃破しなければならないのだ。それは充分すぎるほど分かっている。
 だが現状、シンたちには打つ手がなかった。精霊殺しの魔剣は言うに及ばず、ルージュの魔法でさえ敵が有効射程に入っていないためだ。
 敵に接近するためには屍兵の布陣を突破しなければならないが、ドワーフ戦士団は闇攻撃で大混乱。
 その反面、精神攻撃無効の屍兵には何の影響もないため、構築した戦線は中央から崩されて完全に崩壊していた。
 少なくない数の戦士たちが無力化され、その数はこの2撃目でさらに増えるだろう。
 何の対策もなく突入するなど愚の骨頂だ。頭突きの他にも使い道があると自負する頭なら、死ななくていい命を無駄に使い捨てるなど許容すべきではない。
「今はとにかく時間が必要だ。負傷者を治療して、体勢を立て直して、頭を冷やす。勝負はそれからだ」
 隧道の中央部を薙ぎ払った闇の奔流は、拡散するように薄れると次第に消えていく。
 少しは《カウンター・マジック》の効果があったのか、ライオットとボイルは微動だにせず姿を現したが、他の戦士たちはほとんどが地面に倒れていた。
「やれやれ、いいようにやられたな」
 視界と意識を覆ってた闇が吹き流されると、ライオットは大きく息をついて肩を鳴らした。
 隧道の両翼は戦士たちが保持しているが、中央部はもはや壊滅状態だ。屍兵が不気味な声を上げながら浸透してきて、ライオットとボイルはすでに半包囲されている。
「して、どうするのだ? 何か策はあるか?」
 杖のように突いていたハルバードを構え直し、ボイルが前を見据えたまま問いかける。
「ないって言ったらどうします?」
「知れたことよ。突撃して魔神の首をはねる」
「あれを2発も食らったのに、ずいぶん元気ですね」
「戯言を言っている場合ではない」
「ごもっとも」
 そこまで言うと、ライオットは右手の剣を一閃した。正面から襲いかかってきた屍兵の腕が両断され、どろりとした腐汁を引いて飛んでいく。
 横ではボイルのハルバードが大きな円弧を描き、3体の屍兵をまとめて腰断した。下半身に引きずられるようにして上体がぐるりと回転し、濡れた音をたてて地面に落ちる。
 ふたりとも、精神力を闇に削り取られて相当に疲弊しているはずだが、その様子など微塵も感じさせない動きだった。
「とりあえず突撃は却下で。それよりあの影は何だったんです? ドラゴンにしか見えませんでしたけど」
 片手では打撃力不足と判断したのか。ライオットは愛用の盾を背後に放り捨て、魔剣に炎を纏わせると、両手持ちにして振り回した。
 これで打撃力30。早さと鋭さに重さを加えた斬撃は、圧倒的な破壊力を発揮して屍兵を打ち倒していく。
「おそらくドラゴンで間違いあるまいよ。正体に見当はつく。話すと長くなるぞ」
「ともかく、一度撤退を。どうせ今の俺たちでは満足に戦うこともできません。ちょっと休憩する間に、その話は全部聞かせてください」
「……よかろう」
 屍兵相手ならいくらでも戦って見せよう。
 だが、今の状態で魔神と刃を交えるなど無謀だ。それはボイルが一番よく分かっている。
 ボイルが退却を決断したとき、後方で戦士たちの喚声が上がった。
「おのれ、魔神めが!」
「進め! わしらの手で首を上げてくれようぞ!」
 ルーィエの《トンネル》から出てきた第2陣の戦士たちが、あまりの惨状に憤激して、武器を手に戦闘を始めたのだ。
 中央部から浸透してきた屍兵を蹴散らし、地面に沈めながら戦線を押し戻していく。
 闇攻撃さえなければ、ただの屍兵などドワーフ戦士たちの敵ではない。崩壊した戦線は瞬く間に修復され、戦士たちは孤立していたボイル王とライオットを自陣に取り込んでしまった。
「王よ、ご無事で何より」
「うむ」
 第2陣を指揮していた戦士頭が様子を見に来ると、ボイル王はうなずきながら矢継ぎ早に指示をとばしていく。
 戦線の構築と負傷者の搬送。それに撤退の準備だ。
 やるべきことは多いが、一刻の猶予もない。いつまた闇攻撃が飛んでくるか分からないのだから。
 その様子を横目で見ながら、シンとルージュがライオットに駆け寄った。
「ライくん、大丈夫?」
「最初のは効いたよ。2回目はどうってことなかったけどな」
 全身を蝕む疲弊を隠して、心配そうな妻ににやりと笑ってみせる。
「あの闇は精神点攻撃だな。抵抗に成功すればほぼノーダメージだから、たぶん威力半減じゃなく0レーティングまで落ちてると思う」
「とりあえず引くぞ。落ち着いて作戦を考えないと、ここの突破は無理だ」
 シンが言う。
「分かってる。ボイル王もそのつもりだよ。俺たちが殿軍に残れば、撤退はスムーズにいくだろ」
 第1陣の戦士たちは、負傷者に肩を貸しながら順次撤退を始めている。闇攻撃に晒されて意識のない者も、数名がかりで担いで後送していた。
 ルーィエの《トンネル》が切れれば、ここは敵地に孤立してしまう。取り残される者が出ないよう、撤退は慎重を期さなければならない。
「こっちの心配はもういいから。殿軍は俺に任せて、お前はもう引っ込め。その盾を持って前に出ると、またあの闇攻撃が飛んでくる気がする」
 シンが地面に落ちた“勇気ある者の盾”をちらりと見る。
「む……」
 引っ込めと言われても納得できないが、シンの言葉に反論できる材料がない。
 ライオットは言葉に詰まった。
 敵の攻撃を牽引する、という効果を持つ魔法の盾。
 使いようによっては便利な道具だが、この狭い隧道の中、範囲攻撃を誘発させるとあっては迷惑きわまりない。
 そんなもの無い方がいい、という考え方には同意せざるを得なかった。
「向こうに戻ったらレイリアに《トランスファー》してもらって、精神点を補充しとけ。どうせ次は最前線だ。ちゃんとフル満タンにするんだぞ」
 シンはそう言って戻るように促したが、ライオットは困惑顔で立ち尽くしていた。
 自慢ではないが、こと防御力に関してはこの場の誰よりも上であるという自負がある。撤退戦をやるなら、壁になるのは当然ライオットであるべきなのだ。
 それなのにボイル王や戦士たちを残して、自分だけ真っ先に後退などと。
 性に合わないこと甚だしかった。
「だったらさ、盾は持たないで残ればいいだろ?」
 苦しまぎれに絞り出した言葉は、呆れた様子のシンに一蹴された。
「他の奴にその盾を持たせる気か? 危ないからやめろ。何かあったらどうするんだ?」
 並レベルの戦士が盾の魔力で集中攻撃を受けたら、どんな事故が起こるか想像に難くない。
 この魔法の盾は、鉄壁の防御力を誇るライオットが持つからこそ意味があるのだ。
「もういいから、さっさと行け。こっちは大丈夫だ。ゾンビ相手に苦戦するほど俺たちは弱くない」
 無駄な議論を打ち切るように、シンがぴしゃりと断言する。
 これ以上は時間の無駄。今はそんなことをしている場合ではない。
 ボイル王と戦士頭の指揮で、ドワーフたちは少しずつ前線を下げている。ここに残っていても邪魔になるだけだ。
 無言で結論を突きつけるシンの眼差しに、ライオットは大きく吐息をもらした。
「……分かった。後は任せた」
 落ちていた盾を拾い上げると、迷いを振り切るように身をひるがえす。
 ライオットが撤退する戦士たちに混ざり、ルーィエの《トンネル》へと姿を消すと、ようやくルージュの顔に安堵が浮かんだ。
 まったく、精神点攻撃というのは厄介だ。目に見える傷がないため、どの程度弱っているのか他人には判断できない。
「ライくんって弱音を吐きたがらない人だから」
「めったに愚痴も言わないしな、あいつは」
 あの闇攻撃を受けて、種族特性で精神点20を超えるはずのドワーフたちが、為すすべもなくバタバタと倒れていったのだ。
 それを真正面から2度も浴びたライオット。表面上は平静を装っても、中身まで平気なはずがなかった。
「レイリアさんには、最優先で《トランスファー》してもらわないと」
「どうせ自分では言い出せないだろうから、俺たちから頼んでおこう」
 そんなことを言いながら、戦士たちに合わせて後退していく。
 撤退戦は順調だ。
 あれ以降は闇攻撃も来ないため、戦士たちは余裕を持って屍兵をあしらいながら戦線を下げていく。
 後ろを見れば、もう負傷者も残っていないようだ。ここにいるのは第2陣の戦士が20名程度、それとボイル王、シン、ルージュだけ。
 あとは仕上げを残すのみだった。
「じゃ、最後に一発かまして、逃げ出すとしようか」
 戦士たちを一気に下げ、その間隙に魔法を叩き込んで屍兵を一掃する。その間に全員で《トンネル》を抜けるのだ。
「了解。リーダー、タイミングはよろしく」
 ルージュは《トンネル》の脇まで下がると、魔法樹の杖を構えて呪文の詠唱を開始した。
 今度は魔晶石を使い潰すような拡大はしない。どうせ相手は屍兵のみ。素の発動で十分だ。
 上位古代語の旋律が隧道に響き、それに気づいたボイル王がシンと視線を交わしながら撤退の機を計る。
 ルージュの魔力が高まるにつれ、隧道に風が巻きだした。
 マナを封殺する構成を放棄したため、強大な魔力に圧縮されたマナが溢れ、目に見える形で干渉を始めたのだ。
 真紅の輝点がひとつ、またひとつとルージュの頭上に現れる。
「ボイル王! 今です!」
 ルージュの視線を受けて、シンが合図を出す。
 ボイルは大声で最後の号令を下した。
「退却だ! 全速力で走れ!」
 目の前の屍兵に最後の一撃を打ち込むと、次が来る前に戦士たちはきびすを返した。
 今までのような秩序を保った後退ではない。我先にと逃げ出すような勢い。事情を知らない者が見たら総崩れと評しただろう。
 だが、今はそのスピードが必要なのだ。
 屍兵の鈍重な足取りでは戦士たちに追いつけず、敵味方の間に広い空間が生じる。
 戦士たちが駆け抜けていくのを横目に、ルージュは生み出した火球をさらに圧縮していった。
 前線を支えていたドワーフの姿がなくなると、不気味なうめき声を上げながら迫る屍兵が視界いっぱいに広がる。
 恐怖感と嫌悪感に心臓を握りつぶされそうになりながら、ルージュは高らかに呪文を完成させた。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
 その言葉は撃鉄となってマナを打ち、ルージュの準備した火球が一斉に撃ち出された。
 計算された着弾点によって、破壊範囲は隧道全体をくまなく覆っている。狭い空間に爆発の轟音が幾度も反響し、隧道に咲き乱れた炎の華は、前後左右から容赦なく屍兵に襲いかかった。
 腐乱した肉体を瞬時に焼き尽くされた屍たちが、揺らめく炎の向こう側で力つき、次々に倒れていく。
 それは納棺された遺体が荼毘に付される光景と同じだ。
 炎の魔法を選んだのは、ルージュなりの弔いだった。
「圧倒的だの……」
 理不尽な破壊をまき散らす古代語魔法の猛威に、ボイルは苦い表情で沈黙した。
 神官戦士団が魔神を撃退した、炎晶石による飽和攻撃。
 それと変わらぬ破壊を、この娘はただのひとりでやってのけた。
 かくも魔術師というのは恐ろしい。この炎の嵐の中に入れば、ボイルとて生き残るのは厳しかろう。
「よし、じゃあ逃げようか。あと10も数えれば《トンネル》が塞がるってルーィエが言ってる」
 魔法樹の杖を下ろし、ルージュがシンたちを振り返る。
 2回戦目もこちらの負けだ。
 行き当たりばったりで突入して、敵の逆撃を食らい撤退。屍兵には少なからぬ打撃を与えたが、魔神にはダメージどころか姿を見ることすらかなわなかった。
 でも敵の手の内を知ることはできた。きっとライオットがいい作戦を立案してくれるだろう。次は負けない。
 ルージュがそんなことを考えていると、ボイルが悔しげに怒鳴った。
「魔神めが、わしはすぐに戻ってくるぞ! 首を洗って待っておれ!」
 ドワーフ王の叫びは、闇を裂いて隧道の空気を震わせる。
 それに応えるかの如く“鎮魂の間”から響いてきた地鳴りを聞きながら。
 最後まで踏みとどまっていた3人も、魔神に背を向けて《トンネル》の奥へと引き返していった。






[35430] シナリオ5 『決断』 シーン7
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:04
マスターシーン 大隧道

 鎮魂の隧道の入口近く。
 大隧道の壁際に、ターバ神殿から持参した野営用の天幕が並んでいる。
 内部は小さな部屋で区切られ、折りたたみ式の木製寝台が1つと椅子が2つ、それぞれの部屋に用意されていた。
 前線で戦う戦士を支えるため、後方支援要員が整えた仮設の救護所だ。
 ルージュの先制攻撃で戦いが始まって10分あまり。最初の部隊が戻ってきたらしく、救護所には少なからぬ数の戦士たちが訪れるようになった。
 魔法で癒さねばならないような重傷の患者はいないが、それでも天幕の外には怪我人が列を作っている。
 瓦礫の向こう側ではどんな戦いが行われているのか。
 最前線にいるシンは無事なのか。
 胸中に浮かんでくる不安を穏やかな表情で覆い隠して、レイリアは目の前の老ドワーフに意識を集中した。
「痛んだら遠慮なく言って下さいね」
 油脂の燃えるランプの下、できるだけ丁寧に傷口を洗っていく。
 老ドワーフの戦士が腕につけられた擦過傷は、舐めておけば2~3日で治る程度の軽傷だ。
 だが、それをつけたのが屍兵だと聞いて、レイリアは救護に当たる司祭たちに消毒の徹底を指示していた。傷口から腐毒が回り、破傷風にでもなっては一大事だ。
「む……」
 傷口にドワーフ特製の火酒をかけられて、老ドワーフが顔をしかめた。
 強力な酒精の匂いが狭い天幕に充満する。
 相当染みたのだろう。レイリアはできるだけ手早く消毒を済ませると、薬草を塗った布を傷口に当て、親友に目配せした。
「一人前の戦士が、そんな情けない声出さないの。そんなに痛かった?」
 助手を務めるソライアが、老ドワーフの腕を手際よく包帯で固定していく。
「痛くなどないわ。馬鹿にするでない」
 老ドワーフが憮然と応じたとき、ソライアはもう包帯を巻き終わっていた。
 端末を小さく結ぶと、包帯の上からぽん、と腕を叩き、満足そうに笑う。
「これでよし。ちょっとくらい激しく動いても、緩んだり取れたりしないわよ。保証する」
 応急処置はターバ神殿の必修技能だが、ソライアのそれは十分以上に水際立っている。
 生傷の絶えない神官戦士団の訓練。その毎日の中で必要に迫られて身につけた技能だ。効果は自分自身の体で確認済みである。
 解放された腕を曲げたり伸ばしたりして、老ドワーフは包帯の感触を確かめた。
 なるほど、確かに動きを阻害しないし、緩んだりする様子もない。包帯を巻くという単純な作業だが、ここにはどうやら職人の技が発揮されているらしい。
 自身も別の道では一家言ある玄人として、この少女の技には相応の敬意を表さねばなるまい。
「世話になった。これでまた戦える」
 老ドワーフが律儀に頭を下げると、ソライアはにこりと笑い、レイリアは穏やかにうなずいた。
「もう怪我などなさらないよう、どうか気をつけて下さい」
「そうだな、火酒は飲むものだ。地面に吸わせるものではない。無駄に使わせぬよう肝に銘じるとしよう」
「問題はそこなの?」
 即座につっこむソライアに、軽妙な笑声が広がる。
 髭を震わせる老ドワーフが会釈を残して天幕を出ていくと、ソライアはてきぱきと治療に使った道具を片づけていった。
 ここではレイリアが治療担当、ソライアは補助だ。同い年の親友同士とはいえ、ふたりの位階には厳然たる上下がある。
 騎士階級の令嬢であるソライアはそこを履き違えず、親しさと礼儀を絶妙に線引きできる娘だった。
「ありがとう、ソライア。あなたがいてくれて助かります」
 あっという間に次の患者を迎える準備を整えてしまったソライアに、レイリアはしみじみと頭を下げた。
 彼女の動きを見ていると、常に二手先、三手先を考えているのがよく分かった。ただ機敏なだけでなく、動作が効率的で無駄がないのだ。
 機転が利くとか、頭の回転が速いとか、そういう表現はきっとソライアのためにあるのだろう。
「まあ、レイリアはおっとりしてるって言えば聞こえはいいけど、ちょっと鈍くさいからね。適材適所ってことで」
「鈍くさい……」
 少なからずショックを受けた表情で、レイリアが鸚鵡返しにつぶやく。
 親友のそんな様子には頓着するそぶりもなく、ソライアはからりと笑った。
「ごめん、言い過ぎた。ちょっとトロい、くらいでいいかな?」
「それ何も変わってませんよね?」
「普段のあなたを見てるとさ、稽古で全然勝てないのが理解できないんだよね。お父様に散々鍛えられた私が、どうしてこんなトロい娘から一本取れないのか……ホント信じられない」
「ひどいです、ソライア」
 拗ねたレイリアが頬を膨らませると、天幕の入口が開いて長身の人影が姿を見せた。
 鍛えられた身を鎧うのは年季の入ったスタデッド・レザー。腰に大小2本の剣を吊り、切りっぱなしの髪と無精ひげが印象的な壮年の男。
「ソライアより機敏に動ける奴なんぞ、ターバ神殿にはほとんどいないさ。俺も含めてな」
 にやりと野生的な笑みを浮かべて入ってきたのは、神官戦士団の長たるカザルフェロ戦士長だった。
 あわてて礼をするレイリアの横で、ソライアは不満そうに頬を膨らませる。
「だったらどうして勝てないんですか? 納得いかないんですけど」
「お前の方が弱いからだろ」
 一言でばっさり斬って捨てられ、さすがのソライアも二の句が継げない。
 カザルフェロは至極あっさりした口調で続けた。
「ついでに言えば、お前がレイリアより弱い理由はたったひとつ。稽古が足りないからだ」
「私だって結構鍛えてるつもりなんですが」
「全然足りない。だから勝てない。どうしても勝ちたいなら、お前も俺が直々に鍛えてやろうか?」
 冗談めかしてはいるが、この戦士長は限りなく本気に近い。それを察してソライアの頬がひきつった。
 カザルフェロ直々の稽古。
 神官戦士団の戦士たちに地獄として口伝されるイベントだ。ソライアが一度だけ目撃した光景は、稽古というより虐待と呼ぶべきシロモノだった。
「いえ、その、戦士長もお忙しいでしょうから」
「ま、その気になったらいつでも言え。できれば俺が生きてるうちにな」
 すっかり腰の引けたソライアの返答に、カザルフェロは皮肉っぽい一瞥で応じる。
 気まずそうにソライアがうつむくと、今度は視線がレイリアに向けられた。
「厄介なことになった。一緒に来てくれ」
 それだけ言ってきびすを返し、さっさと天幕を出ていってしまう。
 相変わらずの言動に、残されたふたりはやれやれと苦笑を交わした。
 無駄口は多いくせに、肝心なことはあまり話したがらないカザルフェロ。いつも口にするのは結論だけで、状況の説明が欠落しているのだ。
 男は背中で語るもの、黙って俺について来い、というわけだ。
 面倒見が悪いわけではないし、終わってみれば対処はいつも正しいのだが、カザルフェロには他人に事情を理解してもらおうという意欲が決定的に欠けていた。
「ちゃんと説明すればいいのに。こんなんだからレイリアのカレシと喧嘩になるのよね」
「否定はできませんね」
 裾をさばいて立ち上がったレイリアが、困惑顔でうなずく。
 何とかしたいが、自分の立場は微妙だ。変な口出しをすると余計に仲がこじれてしまいそう。
 憂鬱な内心をため息に乗せて吐き出すと、レイリアは気分を入れ替えて天幕を出た。
 大隧道には煌々と篝火が焚かれ、洞窟の中なのにまるで真昼のように明るく照らされている。
 カザルフェロはいちばん外側に設置された、ひときわ大きな天幕へ向かっているようだ。治療の順番を待つ戦士たちに目礼して、レイリアとソライアは小走りにその後を追った。
「ソライア、あの天幕って」
 表情を曇らせるレイリアに、ソライアがうなずく。
「そう。戦死者を安置する予定の天幕」
 ちらりと振り向いたカザルフェロは、ふたりを確認すると中に入っていく。
「やっぱり付いてこいってことよね。どうしてあなたを呼んだのかな?」
 中に広がっているはずの光景を想像して、ソライアが首をひねった。
 そこにいるのが負傷者ならばできることは山ほどあるが、亡くなった相手には祈りを捧げることしかできない。
 負傷者が大勢いる今、治療の手を減らしてまで急ぐことではないと思うのだが。
「ひょっとして……」
 誰か知り合いがいるのかしら、と続けようとして、ソライアはあわてて言葉を切った。
 ターバの神官戦士団はまだ前線に出ていない。中にいる知り合いと言えば、相当な高確率でレイリアのお相手だ。
「急ぎましょう」
 レイリアは固い声で言うと、歩調を早めた。



 シーン7 鎮魂の隧道

 先陣が為すすべもなく撃退され、ボイル王までが撤退してくると、戦士団の駐屯地は騒然となった。
 ドワーフたちは口々に報復と再戦を叫び、よけい旺盛になった戦意は制御不能なほど。負け戦に意気消沈する様子など全くない。
 ボイルは掘削作業の中断と厳重な見張りを命じると、戦士たちに混ざって出迎えたライオットをじろりと見上げた。
「それで、あのドラゴンの件であったな」
 喧噪を避け、壁際に移動してどかりと胡座をかく。
 集まってきたドワーフ戦士団の上級指揮官や、神妙な面もちの冒険者たちが王を囲むように腰を下ろすと、ボイルは不審そうに周囲を見回した。
「ところで、カザルフェロ戦士長は如何いたした? 姿が見えぬようだが」
 これから行われるのは軍議だ。増援部隊の指揮官がいないのでは話が始まらない。
「あの番犬なら何人か司祭を連れて、さっき倒れた戦士たちの様子を見に行ってるぞ。すぐに戻ると言っていたが、呼び戻すか?」
 銀毛の猫王が紫水晶の瞳で見上げる。
 ボイルはすぐにかぶりを振った。
「ならばよい。戦士長の邪魔をしてはならぬ」
 あの精神攻撃で倒れた戦士たちを癒せるとすれば、それはターバの司祭たちをおいて他にない。今は治療が先決というカザルフェロ戦士長の判断は正しかろう。
 ボイルは改めて集まった戦士たちを見回し、重々しく口を開いた。
「魔神めをこの隧道に追い込んだのは失敗であったな。よもや眠っていた亡骸を邪法で操ろうとは。痛恨の過ちだ」
 鎮魂の隧道は一本道で、しかも鎮魂の間で行き止まりになっている。
 閉じこめるという一点では最良の選択だったが、結果だけを見れば裏目に出てしまった。
「確かにこれなら、表の大隧道で魔神だけを相手にしておった方が楽でしたな」
 両手に余る数の屍兵を鎮めてきた戦士頭が、苦々しげに同意した。
 今や魔神の前には同族の亡骸が壁をなし、謎の闇攻撃は防ぐ手だてすらなく、奥にはドラゴンまで待ち構えている。
 下手を打てば、魔神にたどり着くまでに戦士団が全滅しかねない状況だった。
 ドワーフたちが難しい顔をならべて唸っていると、それまで黙っていたライオットが口を挟んだ。
「陛下、そろそろ教えてもらえますか? あのドラゴンはいったい何だったんです?」
 いささか余裕のない口調。
 ほんのわずかな棘を感じてボイルが視線を向けると、先ほどまで軽口を叩いていた神官戦士は顔が青白く、血色も悪い様子だ。
 疲労と言うより過労の領域で体を支えているらしい。
「そういえばそなたも、あの闇攻撃を2度浴びたのであったな」
 自分自身も倦怠感に耐えられず、地面に腰を下ろしていたボイルが、口髭の下でにやりと頬をゆがめた。
「よかろう。そなたの治療の前に、まずはその話をしよう。一言で言えばな、あれは亡霊だ」
 その言葉が浸透するのを待って、ボイルは話し始めた。
 今から120年あまり前。
 ボイルがまだ若い戦士であった頃、鉄の王国で拡張していた坑道のひとつが、巨大な空洞を掘り当てた。
 不思議なことにその空洞には続く道がなく、それまでの幾星霜を外界と途絶した状況で過ごしてきたらしい。
 では、神代から残されてきた遺物が眠っているのではないか?
 喜び勇んだドワーフたちは大量の明かりを持ち込み、そして息を飲んだ。
 空洞の壁面に、見上げんばかりに巨大なドラゴンが、雄々しく翼を広げていたのだ。
 最初は壁画かと思った。
 だが壁画にしては妙だ。外観を描くのではなく、レリーフのように骨格を浮き彫りにしている。
 その姿は精緻を極め、今にも動き出しそうなほど現実感に満ちていた。
 無数の松明に照らされて揺れるドラゴンの姿。勇気のある者が手を触れ、調査をしていくうちに、ドワーフたちはひとつの結論に至った。
 これは壁画でも浮き彫りでもなく、ドラゴンの亡骸だ、と。
 骨は気の遠くなるような歳月を経て石のようになり、鱗はかすかな模様として痕跡を残すのみだが、確かにここにはドラゴンが翼を広げていたのだ、と。
 次に問題となったのは、竜の眠るこの空洞をどう扱うかという点だ。
 このまま坑道として掘り抜くのは論外。
 だが単に倉庫とするには忍びない。
 さりとて、居住区画から遠く離れた鉱山区では、他の用途など思いつかぬ。
 喧々囂々たる議論の末、とある老ドワーフの一言が全てを決した。
「ならば墓所とすればよい。わしらの眠りを妨げる者がないよう、このドラゴンが護ってくれるであろう」
 老ドワーフの言葉は、実体のない観念論でしかない。
 喜びの野に旅立った後、抜け殻となった体がどれほど重要なのかと考えた者もいる。
 だが愛する家族に先立たれた者たちにとっては、この雄々しいドラゴンの姿は、墓所の守護者としてこの上なく相応しいものだと思えたのだ。
「かくして、ここは“鎮魂の隧道”と呼ばれるようになったのだ。我らが父祖の、そして壁に刻まれたドラゴンの魂が安らかならんことを願ってな」
 ドワーフ族の中にも、その経緯はあまり知られていなかったらしい。戦士団の幹部も神妙に聞き入る中、ライオットがぽつりと呟く。
「化石竜、ってとこか……」
「ふん、なかなかうまい名を付ける」
 ボイルが小さく笑う。
「まあ呼び方などどうでもよいが。あの魔神めは邪法で亡骸を操った。亡骸を操る邪法があるならば、それがドラゴンのものであっても操れるのではないか? そういうことだ」
 まさしく邪法だ。同族同士で殺し合いを余儀なくされた、あの凄惨で救いのない光景を思い出して、ライオットは顔をしかめた。
 勝つために、生き残るために魔神なりに必死なのかもしれない。ある意味では魔神も被害者と言える。
 だが、人々を殺すためだけに存在する魔神との共存は不可能だ。そうでなくとも、かつて“石の王国”を滅ぼし、今も幾多の戦士たちを殺してきた魔神を許すつもりなどないだろうが。
 撃退されてきた先陣の戦士たちから話が伝わり、今やドワーフ戦士団の戦意は沸騰状態だ。あちこちで怒りの叫びが上がり、武器を打ち鳴らして悲憤を露わにしている。
 熱く刺々しい雰囲気の中、シンは傍らのルージュに問いかけた。
「ドラゴンの化石をゾンビ化って、そんなことできるのか?」
 ルージュは首を横に振る。
「ふつうに考えれば無理だよ。《クリエイト・アンデッド》をドラゴンの死体に適用しようとしたら、体積だけで拡大1000倍だよ? そんなコスト誰にも支払えっこない」
 だけど、とルージュは続けた。
 現にドラゴンはいるのだ。
 隧道を封鎖してからのわずか数日の間に、どこかの野良ドラゴンが《テレポート》で出現し、たまたま魔神と仲良くなって助太刀を買って出たという偶然を信じないのであれば。
「何とかズルをして呪文を通したって考えるのが自然じゃないかな?」
「消費精神点のことを考えたら、無限の魔法とか言ってる時点ですでにおかしいからな。敵はGMだ。魔晶石なり何なり、とりあえず消費は気にしなくていいだけの設定は組んであるんだろ」
「かくして竜は甦った、ってわけか」
 シンが諦めたように苦笑する。
 隣で壁にもたれて座るライオットが、厄介なことだ、と嘆息した。
「それと厄介ついでにもうひとつ。俺のこの盾だけどさ、例の闇攻撃が来る直前に、不思議な光り方をしたんだ。ボイル陛下も見ましたよね?」
「しかと見た」
 いかに松明を焚いたとはいえ、隧道は薄闇の中だ。“勇気ある者の盾”が発した緑色の輝きは、多くの戦士たちが目にしていた。
「今までも魔力を発揮して攻撃を集中させたことはあったけど、あんな光り方は初めてだ。それで思い出した。この盾には、もうひとつ特殊効果がある」
 ロードス島に来てからの数ヶ月間を連れ添ってきた愛用の盾を眺めながら、ライオットは意味ありげに言った。
「敵のブレス攻撃を100%集中させるんだ。必ずこの盾の使用者を標的にする、と明記されてる。例外はない」
 ブレス攻撃、と聞いて、シンとルージュが顔を見合わせる。
 あの闇攻撃が何であったのか、今の段階で断定する材料はない。だが仮に、あれがドラゴンゾンビのブレス攻撃であったなら。
 盾が何らかの魔力を発動した理由も、2度ともライオットを狙った理由も、そしてライオットが退がった途端に攻撃が止んだ理由も、すべて説明できてしまう。
「なるほど。ドラゴンどもが吐く炎のブレスは、身体に宿した火の精霊力の象徴だからな。あのドラゴンがゾンビだというなら、負の精霊力を持ったブレスを吐いても不思議じゃない」
 ルーィエが尻尾を揺らしながら肯定すると、シンは心底面倒そうに顔をしかめた。
「つまりあれか、何とか魔神に肉薄して討ち果たしても、あの闇攻撃はなくならない可能性が高いってことか」
 今後の展開として、一点突破からの強襲を考えていたのだろう。
 だが魔神と戦っている最中に、背中から闇ブレスを吐かれたのではたまったものではない。
「やれやれ、まるでイゼルローン要塞を攻めあぐねる同盟軍だな」
 シンが隧道の天井を仰ぎながら慨嘆する。
 大軍を展開できない狭隘な回廊。
 圧倒的な長射程と破壊力を誇る要塞主砲。
 味方の要塞攻略を阻害する敵艦隊。
 まさしく数百万の屍を積み上げてきた同盟軍と同じ状況だと言えよう。
 すると、ライオットが何かを思いついたように呟いた。
「……そうか、敵はイゼルローンか」
 シンの言葉がもたらした閃きは、バラバラだったピースを組み上げるように、脳裏に勝利への地図を描き出していく。
 現段階で最大の問題点は、闇攻撃を打開する方法がないことだ。
 逆に言えば、闇攻撃さえ何とかできれば、問題の大半は片づいたも同然。あとはボイル王の希望どおり力押しに押し込んで、魔神の首を跳ねれば済む話なのだ。
「何か思いついたようだな」
 ボイルが顎髭をしごきながらライオットに言う。
 この神官戦士の考える策は決してドワーフ好みではないが、有効なのは間違いない。このまま正面から突撃するよりは、はるかにマシな結果をもたらすだろう。
「ええ。イゼルローンは、魔術師がいれば陥とせることになってるんです。偉大なる先人に学びましょう」
 ライオットは悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべた。
 要諦は2つだ。すなわち要塞主砲の無力化と、要塞と艦隊の分断。
 しかる後にまず要塞を落としてしまえば、艦隊戦力の撃滅など何の造作もない。
 戦士たちの注目を浴びながらライオットは即興の策を披露していった。
 和製スペースオペラの金字塔、その中で最も有名な作戦の丸パクリだ。解説が進むにつれて、次第にルージュの表情が険しくなっていく。
「私は反対。危険すぎるよ。それだと、もしライくんに万一のことがあっても、フォローできる人が誰もいないじゃない」
「背中を支えるだけがフォローじゃないよ。俺は“砂漠の黒獅子”と“奇跡の紡ぎ手”を信じる。だから俺を信じろ。意地でも終わるまで耐えきってみせるから」
 そうやって俺たちは戦ってきたんだろ、とライオットが微笑むと、ルージュは反論を封じられて黙り込んだ。
 表面上は一か八かの賭けにも思える。
 だが、それぞれが得意分野できっちりと役目を果たせば、光の見えない状況をひっくり返す起死回生の一撃となるのは間違いない。
「わしは賛成だ。そなたらに異存がなければ、さっそく戦士の選抜を始めるが?」
 どうやら好みの作戦だったらしく、ボイルはにやりと唇をゆがめて歯を見せた。
 周囲の戦士たちも同様だ。緒戦はわけの分からない闇攻撃に翻弄されるままだったが、次はまともな戦いになると察して、旺盛な士気を込めた目で冒険者たちに注目している。
「勝算は?」
 沸き立つ周囲に流されることなく、シンは冷静に問いかける。
「8割ってとこか。10ラウンドまでは保証する。あとはそっちの殲滅スピード次第だな」
 ライオットは即答した。
 8割。
 成功率としてはかなり高く見積もっているようだ。
 だが、10回戦えば2回は死ぬという確率を、許容するか否か。
 明確に反対を表明したルージュの視線を浴びながら、シンがじっと考え込んでいると。
「ボイル王! 一大事です! 戦士たちが司祭を襲っておりますぞ!」
 あわてふためいた老ドワーフが、耳を疑うような報告を持って転がり込んできた。
「……は?」
 にわかには内容を理解できず、ライオットが眉を寄せて問い返す。
 老ドワーフは腕に包帯を巻いているから、後方の大隧道で治療を受けていた戦士なのだろう。
 だが何と言った?
 ドワーフの戦士が、ターバの司祭を襲っていると言ったのか?
「ありえないだろ……」
 シンが思わず苦笑をもらした。
 鉄の王国とターバ神殿は完全な友好関係にある。しかも今は上位魔神を相手に共同戦線の真っ最中だ。
 今ここで仲間割れをする阿呆がどこにいるというのか?
 老ドワーフの報告は非常識を通り越して荒唐無稽と言うべきだ。むしろ本人の錯乱を疑った方がいい。
「おい、治療用の火酒で酔っぱらってるんじゃないだろうな? 本番はこれからなんだ。とりあえず顔を洗って出直してこい」
 ルーィエも呆れ果てた声でばっさり切り捨てる。
 今回ばかりはボイル王も同感だったらしく、巌のような顔にしかめつらしい表情を浮かべて、老ドワーフに詰問するような声を向けた。
「わしには理解しがたい状況だな。もう一度言ってみよ」
 どうやら信用してもらえないらしいと悟って、老ドワーフはしゃかりきになって声を荒げた。
「王よ、私の言葉が信じられなくとも、ご自分の目なら信じられましょう! ともかく一緒に来てくだされ! 闇に飲まれて倒れたはずの戦士たちが、突然動き出して司祭たちを襲っておるのです! あれではまるで……!」
 それを聞いて、シンの脳裏に雷光が走った。
 どうして実直なドワーフ族が嘘をつくなどと思ったのか。無駄にした数秒を後悔しながら、弾かれたように立ち上がって仲間たちに号令する。
「行くぞ!」
 緊迫した様子に驚いて見上げるドワーフたち。
 だがライオットとルージュは事態を察知し、シンにほとんど遅れずに武器を取っていた。
 これはもう知識と経験の差だ。アンデッド・モンスターの中には、精神攻撃で殺した相手をアンデッド化させてしまう能力の持ち主がいる。
 あの闇攻撃も、おそらくそれに近い状況を生み出したのだろう。
 だとすれば、戦士たちの生存は絶望的なだけでなく、懐に敵を入れてしまったことになる。
「ライオット、倒れた戦士は全部で何人だった?」
「12人」
 第1陣のドワーフ戦士たちは精鋭中の精鋭だ。ターバの神官戦士団では荷が重かろう。
 それ以上の言葉は不要だった。シンたちは老ドワーフを置き去りにしたまま、全速力で大隧道へと駆け出した。
「まさかレイリアも一緒にいないだろうな!」
「そう祈れ!」
「ルーィエ! あなたも来て!」
「当たり前だ。半人前だけに任せておけるか」
 大声で言葉を交わしながら走り去っていく冒険者たち。
 その後ろ姿を見送りながら、ボイルは改めて老ドワーフに問いかけた。
「それで? まるで何のようだったのだ?」
 あの過敏な反応を見れば、おおよその見当はつく。あくまでも確認のつもりだった質問には、予想どおりの答えが返ってきた。
「まるで、魔神に操られた亡骸のようでございました」
「……そうか。ならば、迷わぬように送ってやらねばならぬな」
 ボイルは目を伏せ、またしても増えた犠牲に哀悼の意を表する。
 そして再び顔を上げたとき、その瞳には爛々と怒りが燃えていた。真銀のハルバードを握り、力強く大地に打ちつけると、周囲の戦士たちに下命する。
「ひとりとてターバの司祭たちに犠牲を出してはならぬ。参るぞ」
「はっ!」
 ボイルが周囲の戦士たちを引き連れて大隧道に戻ろうとした、そのとき。
 今度は壮絶な地響きが隧道全体を揺るがした。
 軋んだ天井から砂埃が降りそそぎ、地面が震えて土煙が舞う。
 突然の出来事に右往左往する戦士たちを、ボイルの怒声が張り飛ばした。
「うろたえるな! 今度は何事だ?! 持ち場を確認して報告せよ!」
 混乱は広がる前に収拾され、戦士たちは緩んだ緊張の糸を張りなおして周囲に目を配る。
 ほどなくして2度目の地響きが隧道を襲うと、最前線で異変が起きた。
「ボイル王! 瓦礫の壁が!」
 戦士たちから悲鳴のような報告が上がる。
 貴重な炎晶石を湯水のように使って岩盤を砕き、天井を落として作った封鎖線。
 その瓦礫の城壁が、向こう側から激甚な打撃を受けて崩されているのだ。
 まるで破城鎚のように、繰り返し襲いかかる衝撃は隧道全体を揺らし、瓦礫の壁とドワーフたちの平静を着実に削ぎ落としていく。
 もう長くは保たない。
 誰の目にも明らかな事実を認識して、ボイルは皮肉っぽく嘲った。
「そうよな。我らが手を出すまで大人しく待っている道理もなかったか」
 魔神にしてみれば、ドワーフ戦士団が混乱しているうちに追撃を仕掛けるのは当然のこと。のんびり休憩している場合ではなかったのだ。
「まあよい。魔神めが出てくるのであれば、奥まで突撃する手間が省けたというもの。あとはここで首を跳ねるだけの話よ」
 そんな言葉で自分を慰め、瓦解した作戦を諦める。
 そしてボイルは、またしても浮き足だった戦士たちを叱咤するべく、腹一杯に息を吸い込んだ。






[35430] シナリオ5 『決断』 シーン8
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2013/12/22 22:04
マスターシーン

 最初は、倒れた戦士たちが目を覚ましたのかと思った。
 虚ろな顔なのは、まだ朦朧としているだけなのだと。
 ひとりひとり死亡を確認するという陰鬱な作業の中、生き残りがいたという喜びに胸を暖かくしながら、レイリアは穏やかに声をかけた。
「大丈夫ですか? どこか痛みませんか?」
 だが、差し出した腕を掴んだ、その手の冷たさ。
 よだれを垂らした口元から薄気味の悪いうめき声がもれるに至って、さすがのレイリアも悟らざるを得なかった。
 もうこのドワーフには、知性と呼ばれるものは残っていないのだ、と。
 反射的に腕を引き抜く。
 掴まれていた亜麻布の神官衣が肩口から裂けた。
 天幕に響いた甲高い音に、別の犠牲者を看ていたカザルフェロやソライア、立会人として同行していたドワーフ戦士たちの視線が集中する。
「何をしておるか!」
 無礼を叱責しようとドワーフ戦士のひとりが詰め寄ると、それが合図となって、横たわっていた骸が一斉に動き始めた。
 決して狭くはない安置用の天幕に、この世ならぬ者どもの怨嗟が反響する。横たわっていた死体が緩慢に起き上がろうとする光景は、まるでこの世の終わりのようだった。
 その数、全部で12体。
「……ッ!」
 足首に感じた冷たい感触に、ソライアはおそるおそる足下を見下ろす。
 確かに死んでいたはずの骸が、半身をひねって自分の足首を掴んでいた。赤く光る目が邪悪に笑ったように見えたのは気のせいか?
 理屈を超えた恐怖で全身の肌が粟立ち、ソライアは声にならない悲鳴を飲み込んで立ちすくんだ。
 ゴブリンやコボルトならばダース単位で成敗してきたが、こんなおぞましい感覚は初めてだ。
 どうしていいか分からない。自分に何ができるのか分からない。
 どうしよう?
 どうしよう?
 どう……
「ソライア! しっかりしろ!」
 鋭い叱声が耳を打つ。
 カザルフェロが鉄を仕込んだブーツでドワーフの手首を踏みつけた。骨の砕ける音がして拘束が解ける。
「戦士長……」
「そんな情けない声を出すな! とにかく天幕から出るぞ、お前はレイリアを守れ!」
 ソライアを背中にかばいながら、カザルフェロはじりじりと壁際に後退していった。
 すかさずドワーフ戦士たちが前面に壁を作る。
 だが護衛の戦士は相手の半数にも満たないばかりか、激しく動揺して戦闘どころではない様子だ。
 虚ろな目、半開きの口、緩慢な動作など、見れば屍兵であることは明らか。
 しかし同時に、彼らはついさっきまで肩を並べて戦っていた仲間でもある。
 鎧にも体にも傷ひとつついていない。死を連想させるような出血も皆無。冗談だ、と言って笑えば、すぐにでも今までどおりの日常が戻ってくるような姿なのだ。
 そんな仲間に問答無用で戦斧を叩きつければ、取り返しのつかないことになるのではないか?
 戦士たちの葛藤がもたらした、ほんの数秒の停滞。いったい誰がそれを責められるだろう。
 だが、彼らの逡巡が貴重な時間を浪費したこともまた、非情な現実だった。
 さながら砂浜に押し寄せる波のごとく。
 距離をゼロに縮めた屍兵たちが、そのままドワーフ戦士たちを混戦の渦中に飲み込んだ。
「こら、やめぬか!」
「目を覚ませ! 魔神ごときに操られるでない!」
 必死に呼びかける声は何の役にも立たなかった。
 屍兵は身体ごとぶつかるようにして掴みかかり、涎を引く口で喉笛を食いちぎろうとする。
 渾身の力で相手を押さえ込む戦士に、横から別の屍兵が腕を振り下ろすと、鉄兜が弾け飛んで額から血が流れた。
 天幕に怒号と呻きが交錯する。
 生彩を欠く戦士たちが苦戦する様子を見て、耐えられなくなったレイリアが言った。 
「戦士長! 《ターン・アンデッド》します!」
 胸の前で片手を握って前に出ようとするレイリアを、カザルフェロは即座に止める。
「やめろ。全部調伏できればいいが、恐慌状態になって暴れられると厄介だ。よけいな手出しはせずにドワーフ戦士団に任せる」
「ですが……」
「やめろと言ったぞ」
 あえて厳しい口調を叩きつけると、レイリアはようやく引き下がった。
 少し前までは素直な性格だったが、最近は芯の強さを前面に出しつつある。
 理由は考えるまでもない。カザルフェロはレイリアが変わった原因である、黒髪の冒険者を思い浮かべて舌打ちした。
 確かに、この場を切り抜けるだけでいいなら《ターン・アンデッド》は十分に有効だろう。
 だが、問題はその先だ。
 魔法で恐慌状態に陥った屍兵が部下たちを襲えば、カザルフェロは剣を抜いて相手せざるを得ない。
 そして、ターバの戦士が剣で斬り倒した死体がひとつでも残れば、取り返しのつかない結果を招くだろう。
 外では大勢のドワーフが仲間の無事と治療の成功を祈っているのだ。
 中で戦う護衛の戦士たちも、相手を傷つけずに無力化しようと必死の努力を続けている。
 そこでカザルフェロが血まみれの剣をぶら下げたら、ドワーフたちはどう感じるのか?
 いま一番有効な策が、最良の未来を招くとは限らない。
 レイリアにはそれを理解してもらいたかったが、残念ながら説明している余裕はなかった。
 カザルフェロは腰の長剣を抜くと、ためらわずに天幕の壁に振り下ろした。耐水性の強靱な布が斬り裂かれ、大きな出入り口が出現する。
「こっちだ! とりあえず外に出ろ!」
 乱戦を繰り広げる護衛のドワーフ戦士たちを、大声で差し招く。
 無傷で制圧したいなら、最も簡単なのは数で圧倒することだ。外に出れば味方はいくらでもいるのだから、何も不利な状況で戦い続けることはない。
「レイリア、お前は先に出て応援を集めろ。ソライアはレイリアから離れるなよ」
「わかりました」
「はいッ!」
 レイリアが、裾をひるがえして天幕の裂け目から飛び出した。
 まず目に入ったのは、驚愕もあらわに見つめてくる2人のドワーフだ。
 レイリアは知る由もないが、この2人こそ、昨夜の強襲戦でめざましい活躍を見せたドワーフ族冒険者だった。
「なんと……!」
 冒険者のひとりが、片袖のちぎれたレイリアを見て絶句する。
 また年若いのだろう。ドワーフ族のアイデンティティである髭は薄く、腹周りもスリムに引き締まっている。
 とはいえ、彼は上位魔神と戦って生き残った技量の持ち主だ。鉄鎧と両手斧で武装した姿には、実力にふさわしい風格が漂っていた。
 もうひとりは戦神マイリーの司祭らしい。
 ドワーフにはあまり見られない黒髪。鎧ではなく神官衣をまとい、手には複雑な意匠の錫杖を携えている。
 あくまでも肉体が資本と考えるドワーフ族にしては珍しく、頭脳労働専門の魔術師のような印象だ。
「これはこれは」
 司祭は落ち着いた口調だったが、黒い瞳が鋭く光り、相方の戦士に意味ありげな目配せをする。
 戦士はうなずくと、レイリアに言った。
「ともかくこちらへ。我らがお守りいたします」
 穏やかで礼儀正しい態度。
 真摯な表情。
 彼は味方だ。どこにも不審な点はない。
 そのはずなのに、なぜだろう?
 両手を広げた戦士を前にして、レイリアの足は動こうとしなかった。


シーン8 大隧道

 大隧道全体を揺るがすような振動が断続的に襲い、きしんだ天井から土埃が降ってくる。
 突然の変事に右往左往するドワーフたち。
 事態は明白だ。隧道に閉じこめられた魔神が、あるいは化石竜でもよいが、ともかく敵が瓦礫の破壊を始めたということ。
「どうする?」
 混乱する戦士たちの中を駆け抜けながら、ライオットが短く問う。
 シンの返答は明快だった。
「まずはレイリアと合流だ。後ろで屍兵が暴れ出したなら、安全な場所なんてどこにもない。全部片づくまで一緒に行動する」
「けど巧くいかないね」
 真銀を編み込んだローブをなびかせて走るルージュが、やれやれと小さく笑う。
「お前らが未熟なだけだろうが。敵にも知性があって、独自の行動をとるっていう認識がすっぽり欠けてるんだ。敵がちょっと動いたくらいで瓦解する策なんぞ、穴だらけで使えたもんじゃない。これで分かっただろう」
 ルージュと並んで音もなく駆けるルーィエが、面白くもなさそうに論評した。
 成功率8割、ルージュの反対を押し切って決行されそうになった第二次突入作戦は、この段階ですでに破綻している。
 この作戦は、単独で敵の後方に《転移》したライオットが化石竜の闇ブレスを引き受け、その隙にシンたち強襲部隊で魔神を撃破。屍兵はドワーフ戦士団に丸投げするというものだった。
 鎮魂の隧道に屍兵がおり、最奥部の鎮魂の間に魔神と化石竜が待ちかまえているという配置が前提条件だ。
 しかし、化石竜が前線に出てきてしまうと、ライオットがどこにいても味方が闇ブレスの射程に入ってしまう。これでは単独行動する意味がない。
「そりゃ他人のアイデアの丸パクリだからさ。考えてみれば、イゼルローン要塞は動かないもんな」
 ライオットがそう嘯いたとき、またひとつ、激甚な振動が隧道を揺らした。
 最前線ではドワーフたちの怒鳴り声が交錯している。
 その中でもひときわ大きいのがボイル王の声だったが、王の指示も切羽詰まったものだ。
「本格的に時間がないみたいだな」
 シンはそう言って、鎮魂の隧道から大隧道に勢いよく飛び出し。
 そして、そこに広がっている光景を目にするなり、ぴたりと足を止めてしまった。
「……何をどうやったらこうなる?」
 隣で立ち止まったライオットも眉をひそめる。
 大隧道の状況は混迷を極めていた。
 まずは赤い瞳を光らせ、緩慢な動きで、だが生前からは考えれない怪力で暴れる、闇ブレスの犠牲者たち。
 数はだいたい10体前後。認めたくはないが、認めざるを得ない。彼らはもう屍兵と呼ばれる存在だ。
 それに対応しているのは、付近にいた数十人のドワーフ戦士たち。
 動き出した屍兵は精神攻撃によるダメージで絶命したため、一切の外傷がない。そのせいで思い切った攻撃をできず、鎮圧に手間取っているらしい。
 ここまではいい。
「貴様、ソライアから手を離せ」
 鼻にしわを寄せて唸る狼のように、カザルフェロが敵意剥き出しで身構える相手は、どう見ても正常なドワーフ戦士だった。
 戦士はターバの女性司祭の腕をひねり上げ、喉元に短剣を突きつけている。
 その意図は誤解しようもない。明白な敵意を持って人質にしているのだ。
 カザルフェロの隣にはレイリアが、戦士の隣には黒髪の司祭風ドワーフが並んでにらみ合い、周囲をターバの神官戦士団とドワーフ戦士団が取り囲んでいた。
「戦士長どの、立場をわきまえていただきたい。私が怒りのあまり手を滑らせたら、あなたの可愛い部下がどうなるか。想像できないなら実演して差し上げましょうか?」
 ドワーフ戦士がこともなげに力を入れると、刃は女性司祭の喉を容赦なく切り裂いた。
 ぶつり、と何かが千切れる音とともに、深紅の霧が勢いよく噴き出す。
「貴様! やめろ!」
「ソライア!」
 悲痛な声を上げたレイリアが即座に癒しの魔法を使い、戦士に拘束されたままの親友の傷をふさぐ。
 出血こそ止まったが、ソライアの顔は恐怖で歪んだままだ。レイリアの機転がなければ、今ので致命傷になったのは自分でも分かる。
 指一本動かせず、悲鳴すら上げられずに、初めて経験する修羅場に身も心も竦み上がっていた。
「……野郎ッ!」
 瞬時に沸騰したシンが、思わず飛び出す。
 だがとっさにその腕を掴み、ライオットが力ずくで引き戻した。
「何で止める?!」
 シンは怒りも露わに、ライオットの腕を振り払おうとする。
 だがライオットは、シンを眼光だけで抑えつけた。
「落ち着け。人質を取られたら、解放するには方法はふたつしかない。ひとつは相手の要求を完全に飲むこと。もうひとつは完璧な奇襲だ」
 ひとつ目の条件は論外。
 魔神相手に一致協力しなければならない大事なときに、こんな騒ぎを起こす輩の要求など飲めるはずがない。
「奴らはまだ俺たちに気付いてない。中途半端な行動はチャンスを潰すだけだ。今はまだ目立つな」
 理不尽な暴力を誰よりも嫌うライオットが、感情を圧し殺した目でシンを見る。 
「敵はあのふたりだけなのか? 周りのドワーフたちはどうだ? ターバの戦士団に呼応しそうな連中はいるか? 突入するのは見極めてからじゃないと意味がないぞ」
 憤怒のオーラが立ち上りそうなライオットの声に、シンは腕から力を抜いた。
 言われてみれば、シンはドワーフ戦士を叩きのめすことしか考えていなかった。
 これが組織的な行動なら、現場にいるレイリアにも危険が及ぶのだ。軽挙はできない。
「で、あれは誰なの? これはどういう状況?」
 ルージュが、遠巻きに眺めているドワーフを捕まえて尋ねた。
 そうこうしている間にも、瓦礫による封鎖線を破壊しようとする魔神の攻撃は続いている。
 後方の混乱と前線の動揺。
 落ち着かなげに視線をさまよわせていたドワーフは、ルージュの問いに首を振った。
「わしにも分からんのじゃ。連中は昨日、魔神めと直接戦った冒険者じゃ。なぜ突然、ターバの司祭殿に危害を加えようとするのか。皆目見当もつかん」
 魔神と戦った冒険者。
 最初に炎晶石を投げつけ、戦況をひっくり返すきっかけになった功労者たち。
 言うなれば鉄の王国を守った英雄だ。
 そんな好意的な評価とは正反対の行動に、遠巻きに見守る者たちの心で疑念の種が芽吹く。
 おかしいのは、本当にあの冒険者たちなのか?
 冒険者たちは昨日、実際に命を賭けて魔神と戦った。その彼らが敵対しているということは、もしかして、ターバ神殿からの増援に裏切り者がいたのではないか?
 最初の戦闘の犠牲者が、この司祭たちと接触した直後、屍兵となって暴れ始めたのは偶然なのか?
 疑う心は、存在しない敵の姿を際限なく見せ続ける。
 鉄の王国の戦士たちは、生じた暗鬼に踊らされてターバからの増援部隊を警戒し、この混乱を収拾できずにいるのだ。
「なるほど。だいたい分かった。ありがとう」
 ルージュはドワーフを解放すると、目を細めて混沌の巷を見つめた。
 カーラからもらった指輪が宿した魔力を発動させ、ルージュの視界に“万物の根元たる”力の存在を見せる。
 本来、ドワーフ族に魔術師はいない。
 鉄の王国に存在するマナは自然界と同じくあるべきなのに。
「あるべきところにマナはなく、人為的に集めている者がいる、か」
 口の中でつぶやく。
 ドワーフ戦士はなおもソライアを人質にしたまま、カザルフェロ戦士長と対峙している。年端もいかない少女を殺しかけたのに、まるで気にするそぶりもない。
 その様子を遠く見ながら、シンたちは我知らず、身と声を小さくして囁き合った。
「普通じゃないだろ。いくら人質とはいえ、あそこまで自然に喉をかき切れるか? あいつ、これっぽっちも躊躇しなかったぞ」
 ライオットがドワーフ戦士の人格を評すると、シンが応じた。
「喉を裂いた後に笑ってたからな。完全に狂ってる。殺人狂の変態だ」
 サディストという言葉ではとても足りない。
 命の価値や相手の人生、自分の行為がもたらす悲劇というものに対して、まったく興味がないのだ。
 存在するのは、ただ流血と殺人の悦楽を求める衝動のみ。
「俺さ、あの目を見たことあるよ。他人の苦痛と血を見るのが楽しくて仕方ない男の目を」
「レイリアさんを襲った、ラスカーズとかいう騎士でしょ?」
 ルージュが意味ありげに声をかぶせる。
 シンとライオットが無言で視線を向けると、ルージュは冷たい笑みを浮かべた。
「あのふたり、たぶんあの姿は嘘だよ。全身から強いマナの力を感じる。マナで覆い隠された嘘を《ディスペル》したら、どんな真実が見えるんだろうね?」
 その言葉の意味がふたりの脳裏に染み渡ると、ひとつの仮説が鮮烈な光となって閃く。
「あれがラスカーズ本人だって言うのか?」
 ルージュが言外に指摘した事実に、シンが小さく驚きの声を上げた。
 だが、納得はできる。
 あんな変態が世界に何人もいてはたまらないし、何よりもシン・イスマイールは剣士だ。相手を“気配”のようなイメージで識別するのは本能に近い能力である。
 例えばボイル王はそびえ立つ巌。ライオットは逆巻く風。レイリアは早春の雪解け水。
 そしてドワーフ戦士の、粘りつく闇ような陰湿なイメージは、邪教の司祭ラスカーズとまったく同質のものだった。
「女の勘だけどね」
「その勘が当たってれば、黒髪のドワーフ司祭はバグナードなんだろうな」
 ライオットが小さくため息をつく。
 魔神と化石竜だけでいっぱいいっぱいなのに、この上邪教の相手までしなければならないとは。
「優先順位を決める。第1にレイリアの安全確保。第2にソライアの奪還。第3にあいつらの殲滅。これでいいか? もう時間がない、すぐに始めよう」
 シンの言葉に呼応するように、一際大きな衝撃とともに瓦礫の崩れる音が聞こえ、それきり振動が止んだ。
 岩を擦り合わせるような化石竜の咆吼が響き、ボイル王が何やら叫び、ドワーフ戦士団の喚声が応える。
 おそらく、向こうも始まったのだ。
「それでいい。レイリアは俺に任せろ。シンはソライアを助けて“戦士”を倒せ。ルージュは《ディスペル》したら“司祭”を牽制。陛下、確か音を遠くに移す精霊魔法があったよな?」
 ライオットが矢継ぎ早に指示を出す。
 作戦会議はすぐに終わり、必要な準備を終えると、シンたちは四方に散った。


「あなたは……!」
 被虐の愉悦に酔うドワーフ戦士に、レイリアは声を震わせた。
 涙を浮かべて、だが声ひとつ出せずに震えているソライア。傷は癒したとはいえ、恐怖まで無くなるわけではない。
 剛力のドワーフ戦士に拘束され、たおやかな首に刃を突きつけられたまま、ソライアは依然として生命の危機にある。
 すぐに助けなければならない。
 自身も小剣の柄を握りしめる。だがレイリアの意志に反して、体は硬直して動こうとしなかった。
 怖いのだ。
 異常なドワーフ戦士の目が怖い。
 毒華のような笑みが怖い。
 レイリアの深層につけられた古傷が痛み、魂が血を流して抗がっている。
 それを悟ったドワーフ戦士が、粘りつくような視線をレイリアに向けた。
「ほう。どうやら私を覚えておいでのようですね。嬉しいかぎりですよ、レイリア様」
「私はあなたなど知りません」
 毅然とした声で否定する。
 だが、それが口先だけの嘘なのは、発したレイリア自身が誰よりもよく分かってしまった。
 知っている。
 自分はこの目を知っている。
 為すすべもなく蹂躙され、心を完全に折られた陵辱の記憶を、忘れられるはずもなかった。
「いいですね、レイリア様。怯えながらも懸命に虚勢を張るウサギのようだ。さあ、一緒に来ていただきましょう。あなたと同じ思いを、この少女にも経験させたくはありますまい?」
 喉の奥で嘲いながら、ドワーフ戦士はソライアを捻る腕に力を込めた。
 少女の口からくぐもった悲鳴が洩れる。
「やめて!」
「やめますとも。私はこんな小娘に用などないのです。傷ひとつ付けずに解放して差し上げますよ。レイリア様さえ来てくださればね」
 問答無用で喉を裂き、一旦は殺しかけた自分自身の行為など無かったかのような言動。
 ソライアの瞳からは涙があふれ、すがるようにカザルフェロに向けられている。
 だが。
「論外だな。レイリアは渡さん」
 カザルフェロは即答した。
 悩む余地などないと言わんばかりの態度。
 内心はどうあれ、それがターバの神官戦士長として求められる対応だった。
「そうですか」
 ドワーフ戦士はつまらなそうに答え、あっさりと右手を動かす。
 再びソライアの喉が切り裂かれた。
 噴出する鮮血。
 レイリアの悲鳴と魔法。
 少女の血で熱く塗れた袖を煩わしげに振ると、ドワーフ戦士は口の端に嘲笑を浮かべてカザルフェロを見た。
「あなたは冷酷な方ですね、戦士長どの。守るべき部下が泣いているというのに、まるで助けようともしないとは」
 ドワーフ戦士は芝居がかった口調で、大仰に嘆いてみせる。
「確かにレイリア様に比べれば、この少女の命などゴミのようなものです。レイリア様さえ助かれば、ゴミが生きようが死のうが関係ないと、その判断は間違いではないのでしょう。しかしこの少女は実に不憫だ」
 悪意を持って並べられる言葉に、カザルフェロは反論できない。
 自分自身も含めて、今この場にいる誰よりも、レイリアの命は重いのだ。何があろうとも失うわけにはいかない。 唇を噛みしめて憤怒を押さえつけながら、カザルフェロはドワーフ戦士の隙を待ち続ける。
 だが、一切抗弁しないカザルフェロの姿は、ソライアに残されたわずかな希望の灯を吹き消してしまった。
 今の自分では、決してカザルフェロに助けてもらえないのだと、ソライアの心が理解してしまったから。
 それまで抵抗していた少女の体から力が抜けたのを知ると、ドワーフ戦士はこれ幸いと、少女の耳に毒を注ぎ込んだ。
「かわいそうに。あなたの戦士長どのは、あなたよりレイリア様の方が大切だそうですよ。あなたはね、見捨てられたんです。あの男に」
 いたわるように甘く囁かれた毒の強さは、全員の想像をはるかに超えていた。
 ソライアの目が見開かれると、大粒の涙をこぼしたのを最後に、顔から一切の表情が消えた。
 絶望に濁った瞳は、もはや何も映していない。
 決して折れてはならぬものを折られたのだと悟り、カザルフェロが奥歯を噛みしめる。
 あまりにも無力だった。
 ターバ神殿の盾を気取ったところで、自分を慕う少女のひとりも守れない程度のものなのだ。戦士長などという地位は。
 だが自分は、シン・イスマイールに豪語したばかりだ。神官戦士団全員を使い捨ててでもレイリアを守ると。
 その覚悟はとうの昔に決めてあったはず。
 だから自分は正しい。間違えてはいない。
 そう言い聞かせる。
 後悔と自虐でねじ切れそうになりながら、カザルフェロは責任という名の杖にすがって立ち続けた。
「……お前の仇はかならず俺が取る、ソライア」
 低く唸る声で宣言する。
 それが、少女に報いてやれる唯一の道だから。
 だが、返ってきたのはドワーフ戦士の哄笑だった。
「おやおや、戦士長どの! 本当に見捨ててしまわれたのですね! この少女はまだ生きているというのに!」
 そして瞬時に笑いをおさめ、今度はレイリアを見据える。
「あなたはどうなのです、レイリア様? あなたも御同僚を見捨ててしまわれるのですか?」
「私は見捨てません!」
 決然としてレイリアは叫んだ。
 怒りが恐怖をねじ伏せると、腰の小剣が乾いた音をたてて鞘走る。
「あなたを倒してソライアを助けます。絶対です」
「ですからそれは無理だと、あの日にご理解いただけたのではないのですか?」
 ドワーフ戦士は苦笑しながら肩をすくめた。
「あなたの剣では私には勝てません。何度やっても同じことです。それとも、もう一度あの日のような目に遭いたいのですか?」
 ぬらり、と紅い舌が唇を舐める。
 フラッシュバックした絶望の記憶に、レイリアの顔から血の気が引いた。
 その時だった。
「同じ目に遭うのは貴様の方だ、ラスカーズ! このド変態が!」
 背後から誤解しようのない罵声が叩きつけられた。
 この薄汚い地底世界で、誰にも知られていないはずの名呼ぶのは、ラスカーズが一生忘れようもない声。
 レイリアを一瞬で意識の外にはじき出し、ドワーフ戦士は声の方を振り返った。
「シン・イスマイール!!」
 歓喜と憎悪で醜くゆがんだ顔は、だが、すぐに怪訝そうな表情に変わる。
 そこにいたのは鉄の王国のドワーフばかりだった。期待した相手が見つからず、眉をひそめて視線をさまよわせる。
 その戦場に次なる変化を呼び込んだのは、銀の鈴を転がすような上位古代語の響き。
『万能なるマナよ、交わりを解き、在るべき姿に戻れ!』
 間髪入れずにルージュが放ったのは、あらゆる魔法の効果を除去する対抗魔法《ディスペル・マジック》だ。
 想定した魔法強度はバグナード級。最高級の魔晶石を惜しげもなく使い潰し、充分すぎる威力を練り込んだ魔法の網は、ドワーフ戦士に絡みつくと、至極あっさりと偽りの姿を消し去った。
 一瞬の閃光の後、そこに立っていたのは、銀色の金属鎧をまとった隻腕の騎士だ。
 名をラスカーズという。
 アラニア王国銀蹄騎士団の上級騎士にして、ノービス伯爵に仕える暗殺屋。
 そして、邪神カーディスに仕える暗黒司祭でもある。
 周囲でなりゆきを見守っていたドワーフたちが、思わずどよめいた。
 ソライアに突きつけられていた短剣が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
 魔力で創られていた仮初めの肉体が霧散したことで、短剣を握っていた右腕も消失したのだ。
 中身のない右袖が対抗魔法の余韻にたなびく。
 隻腕の騎士は雪白の美貌に驚きの表情が浮かべ、事態の急変に対処できない様子。
 シン・イスマイールは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
 黒い影が風となって襲いかかる。
 今度ばかりは一切の迷いなく、精霊殺しの魔剣が振りかぶられた。
 体ばかりか心までも残虐になぶるラスカーズの暴挙は、とうの昔にシンの許容限界を超えていた。
 ただ己の快楽のためだけに、罪もない人々を、何の躊躇いもなく傷つけるなどと。
 この男の存在は、世の中にとって害悪にしかならない。
「ラスカーズ! 消えて無くなれ! この世界から!」
「シン・イスマイール!」
 声とは反対方向からの奇襲に、かろうじて反応できたのは誉めてやるべきなのだろう。
 ラスカーズは回避できないと見るや、シンに向かってソライアを突き飛ばし、自分は反対側に跳びすさった。
 抵抗せずによろめいた少女を抱き止め、シンも足を止める。
「気をつけろ! こいつは邪神カーディスの司祭だ! 剣も魔法も使ってくるぞ!」
 ライオットがドワーフたちに警告を発すると、ほとんど間をおかずに白刃の輪が周囲を取り巻いた。
 誰が裏切り者で、誰が味方なのか。
 先ほどからの惨劇を見せつけられた戦士たちには、もはや疑う余地などない。
「貴様……」
 ラスカーズが憎々しげに睨みつけたとき、ライオットはすでにレイリアを背中に庇い、剣と盾を構えて臨戦態勢をとっている。
 護衛対象を確保。
 人質を奪還。
 敵を完全包囲。
 ほんの二呼吸ほどの間に、状況はライオットの描いた絵図面のとおり、完全にひっくり返っていた。
「バグナード。あなたの方は解呪してあげない。そのみっともない姿が嫌なら、痛い思いをして自分で《ディスペル》してよね」
 魔法樹の杖を携え、とことん冷酷に嘲うルージュの視線を受けて、黒髪のドワーフ司祭は愉快そうに頬を歪めた。
「まことに侮れぬ敵よな。されど魔術に関する研鑽がまるで足りぬ」
 ドワーフ司祭はそう言って腕を振る。
 一瞬の後、彼の姿は長身の魔術師に変わった。
 切り揃えられた髪、秀でた額、底なしの知性を宿す漆黒の瞳。
 おそらく、ロードス全土でも五指に入る大魔術師のひとり。
 灰色の魔女カーラに勝るとも劣らない陰謀家。
「《ポリモルフ》の呪文は、術者ならばいつでも任意に解除できる。《ディスペル》など無用だ。もう一度呪文書を読み直すがよい」
 “黒の導師”バグナード。
 原作で主人公をさんざんに苦しめた黒幕のひとりが、敵として立ちはだかっていた。
「……不勉強ですいませんね。ホント嫌なやつ」
「嫌なやつはお互い様であろう。美しいバラには刺があると言うが、そなたの場合は刃でバラを造ったようにしか見えぬ」
「そんなに誉めても、手加減なんかしてあげないよ?」
「誉めたように聞こえたなら、感性も手直しすべきだな」
 軽口の応酬。
 だが魔術師にとって、呪文を詠唱させないのも立派な戦闘だ。
 言葉の剣戟でルージュがバグナードを牽制している間に、シンは腕の中の少女をカザルフェロに押しつけた。
「……すまん」
「あとは任せた」
 ソライアはかろうじて立っているものの、ぼんやりと中空を見つめるばかり。あれほど闊達だった瞳からは表情がすっぽりと抜け落ち、自我というものすら感じられない。
 邪教と魔神、そして化石竜。
 これから始まる激戦を考えれば、自分で動けない者が生き残れる確率はゼロに近いだろう。
 だがそれでも、シンはあえて言った。
「もう見捨てるなんて言うなよ。あんた戦士長だろ? あんたが部下を守らないで誰が守るんだ?」
 部下を盾に使い捨ててでも、などと、そんな台詞が軽々しく出てくること自体、シンに言わせれば逃げでしかない。
 全員を助ける方法はないのか。
 皆が幸せになる道はないのか。
 それを模索し続け、決して諦めないことが指揮官にとって最低限の義務のはず。
 力の限りに戦い、知恵を絞り、最後の最後まであがいて、それでも手が届かなかったとき。初めて犠牲者を悼むことが許されるのだ。
 命にはそれだけの価値があり、その命を預かるのが指揮官の役目なのだから。
「言いたいことは沢山あるけど、話は後だ。今は時間がない」
 シンはちらりと鎮魂の隧道を振り向いた。
 戦いの喧噪が近づいてくる。化石竜の進撃を止められず、ドワーフ戦士団が後退してくるらしい。
 怒号や叱咤が交錯する中、大隧道でも屍兵やラスカーズたちが大暴れして支援体制がとれない。
 化石竜の攻撃と、闇ブレスに倒れた犠牲者たちの覚醒、それに邪教による破壊工作。
 3つの敵が最悪のタイミングで行動を開始したため、味方はほぼ総崩れだった。
 事態を打開するには、どこから片付ければいい?
 最も脅威レベルが高いのは化石竜だろうが、一番弱そうな魔神でもシンたち抜きでは戦線が成り立たない。
「シン」
 必死に打開策を練っていると、親友の声が聞こえた。
 横目で見れば、ラスカーズと対峙したままのライオットが、片頬でにやりと笑う。
 かつて“墓所”からシンを送り出したときと同じ表情。
 無茶を承知で博打に出るときの顔だった。
「もうすぐ化石竜が来るんだろ? こいつらと化石竜は俺に任せろ。シンとルージュは魔神を倒せ」
「ちょっとライくん!」
「いくらなんでもそれは……」
 口々に反対する仲間たちに、ライオットは言った。
「お前ら、ザクソンで俺に説教したばかりじゃないか。もっと仲間を信じろってさ。俺はお前らを信じる。俺が倒れる前に帰ってくるって信じるよ。だから俺を信じろ。自分たちが帰ってくるまで、俺が立ってるって信じろ」
 そして視線を戻し、ラスカーズとバグナードを正面から見据える。
「古竜だろうが魔神王だろうが完封してやるさ。俺は自分で望んでそう在るんだからな」
 碧い双眸に気迫をみなぎらせ、ライオットは宣言する。
 “不敗の盾”。
 帝都レイド攻防戦で伝説になった聖堂騎士が、今、白銀に輝く城壁となって立ちはだかっていた。






[35430] シナリオ5 『決断』 シーン9
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2014/01/02 23:12
シーン9 鎮魂の隧道

 岩を擦りあわせるような咆吼が隧道を震わせ、巨大な前脚があたりを薙ぎ払った。
 鉤爪は1本1本が死神の鎌のように大きく鋭く、重量級のドワーフ戦士を路傍の小石のごとく斬り裂き、弾き飛ばしていく。
 魔神によって負の生命を与えられ、数百年の眠りから覚めた化石竜。
 隧道を悠然と進む巨体に、精強なドワーフ戦士団は為すすべもなく蹂躙され、後退に次ぐ後退を重ねていた。
「おのれ、魔神めが……!」
 真銀の戦戟を構えたまま、ボイルが憎々しげに吐き捨てる。
 化石竜の後方には屍兵の大群が続き、倒すべき魔神は姿すら見えない。
 戦いの切り札たる“砂漠の黒獅子”は戻らず、後方では戦いに倒れた戦士たちも屍兵として操られ、戦線は魔神の登場すら待たずに崩壊の一歩手前という惨状だった。
「王よ、こうなれば敵わぬまでも突撃し、せめて一矢報いましょうぞ」
 焦れた戦士頭が進言する。
 化石竜は魔法を使ってこない。得意の戦斧の距離まで詰めれば、思いきり刃を振り下ろすことができるのだ。
 だがボイルは考慮だにしなかった。
「たわけ。無駄に戦士を失って何とする。あの野良猫に死に様まで罵られたくなくば、死ぬ方法ではなく倒す方法を考えよ」
 全軍で突撃して、戦士の大部分を犠牲にして、仮に化石竜を倒せたとする。
 だが、その後の魔神はどうするのか?
 この化け物は前座なのだ。後方に控える魔神を倒せなければ、そもそもこの戦いに意味がない。
 言葉を失った戦士頭に一瞥をくれたとき、化石竜が真っ赤な双眸を不吉に光らせた。
 天を仰いで牙の並んだ口を開き、ひときわ大きな咆吼を上げる。
 その口腔内に漆黒の炎が燃えるのを見て、ボイルは総毛立った。
「竜が闇を吐くぞ! 退避!」
 まるで魂を削られるような闇を思い出して、背に悪寒が走る。
 あれ一度で、いったい何十人の戦士が犠牲になるのだろう。
 しかも、ただ死ぬだけではない。
 救いのないことに、犠牲者は屍兵となって蘇るのだ。味方は減り、敵は増え、またしても友に戦斧を振り下ろさねばならぬ。
「冗談ではないわ!」
 ボイルは歯を食いしばって仁王立ち、正面から竜を睨みつけた。
 深紅の目と視線が交錯した。
 来る。
 ボイルは腹を決めて身構えたが、竜はついと視線を外し、遠く大隧道へと目を細めた。
 見えない何かを見通すかのように。
 見えない何かに引き付けられるかのように。
 そして目当てのものを見定めると、竜は大きく口を開き、闇の奔流を吐き出した。
 大気を震わせる無音の衝撃。
 死のブレスはドワーフたちのはるか頭上を通り抜け、大隧道の入り口を直撃する。
 振り向けば、戦士団はほとんどが退避に成功したようだ。巻き込まれた不運な数名を除けば、大きな被害は出ていない様子。
 そして、頼もしい者たちが視界に入った。
「ボイル王! 突撃します!」
 白く輝く曲刀を下げたまま、シン・イスマイールが駆け寄ってきた。
「後方の混乱と化石竜はライオットが引き付けます。俺たちは突撃して魔神の首を」
「よいのか?」
 思わず問い返す。
 たった独りにあの化石竜の相手をさせるなど、見殺しにするも同然ではないか。
 すると、黒獅子に続いてきた、銀髪の魔術師が苛立たしげにボイルを睨んだ。
「良いも悪いもないの! さっさと魔神を倒して、一刻も早くライくんを助けに行くの! 時間との勝負なんだから、手抜きしたら許さないからね!」
 先ほどまで猛威を振るっていた化石竜は、もはやドワーフたちに見向きもしない。ライオットという戦士が持っていた、魔法の盾に吸い寄せられているのだろう。
 隧道いっぱいを埋めるような巨体だが、足下を駆け抜けることは可能だろうと思われた。
「陛下、失礼します」
 黒獅子に従ってきたターバの女性司祭が、そっとボイルの肩に手を触れた。
 その手を通して流れ込んできた暖かな力は、ささくれ立っていた精神を癒し、焦燥をきれいに消し去っていく。
 視界のどこかを赤く染めていた疲労が無くなると、驚くほどに余裕ができた。
 今まで見えなかった部下たちの顔色が見える。
 心境が手に取るように分かる。
 そして、今ボイルが為すべきことも。
「おい脳筋樽。お前らの堅い頭を使うときが来たんだ。頭突きでも斧でも、好きなものを使って敵をこじ開けろ。出し惜しみはなしだ。何も考えないで前進するだけなら得意分野だろ」
 ルーィエの台詞は、暴言と言うべきか、発破と言うべきか。
 ボイルはこの自称猫王の非礼に、獰猛な笑顔で応えた。
「よかろう。本当の戦いが始まるというわけだ。我らドワーフ族の真価を見るがよい」
 状況は最悪。前後から挟撃され、ドワーフ戦士団は背水の陣と言える。
 だが、それでいい。無駄なことは考えず、よけいな色気は出さず、ただひたすらに魔神の首を目指すだけのこと。
 ボイルは傲然と顔を上げると、配下の戦士たちに進むべき道を指し示した。
「者ども! ついに同胞の仇を討つときが来た! 我らはこれより魔神へ突撃する!」
 ボイルの声は竜の咆吼を圧倒して轟きわたり、それに倍する歓声が隧道にこだました。
「犠牲となった英霊たちの無念を晴らすは今ぞ! 王国の興廃はこの一戦にあり! 我らの底力を見せてやれ!」
 ルーィエの見るところ、それは自暴自棄と紙一重の精神状態だ。
 それでも我慢に我慢を重ねてきた戦士団は、旺盛な士気で前を向いていた。
「今はそれでいい。今の脳筋樽どもに必要なのは、冷静よりも熱狂だからな。行くぞ半人前。俺たちは露払いだ」
 ルーィエの紫水晶の瞳が薄く輝き、周囲のマナが凝縮していく。
 猫の王族たるツインテールキャットは、人間に例えれば導師級の古代語魔法を使いこなす。ルージュには及ばないものの、それでも強力な破壊を内包した炎が現れた。
「分かった」
 時間に追い立てられる焦りを押し殺して、ルージュも破壊の炎を練っていく。
 杖の先に浮かぶ《ファイアボール》は、いつもの達成値上昇型とはまるでちがう。屍兵の布陣を一気に焼き払うことを狙って、範囲拡大型のアレンジが加えてあった。
「ボイル王、魔神が見えたら屍兵は戦士団に任せて、俺たちだけ即座に《テレポート》します。いいですね?」
「望むところよ」
 ボイルは鼻息も荒く応じる。
 弓弦が引き絞られるように、ドワーフ戦士団の戦意は臨界に達していた。
 あとは敵を目指して放つだけだ。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
 魔術師たちの声がきれいに重なり、二条の炎が絡み合うように飛翔した。
 ルーィエの《ファイアボール》は化石竜を無視して横をすり抜け、隧道の中央に着弾。熱波とともに紅蓮の大輪を咲かせる。
 薄闇に開いた灼熱の華は、抵抗すら許さずに屍兵の集団を焼き払った。黒焦げになった屍兵たちが宙に舞い、四肢がちぎれて飛び散る。
 散乱した腐肉が燃えたまま落ちてくる様は、さながら炎の雨のよう。
 この世の終わりのような光景にボイルが喉を鳴らしたが、これはまだ前座でしかなかった。
 ルーィエに一瞬遅れて炸裂したルージュの魔法は、災厄そのものとなって隧道全体を蹂躙した。
 上方に向かう爆圧を強制的に遮断し、水平方向にだけ解放された破壊の炎は、同心円状に広がる津波となって屍兵に襲いかかる。
 問答無用で屍兵を飲み込んでそのまま壁に到達すると、跳ね返って互いにぶつかり合い、隧道のあちこちに灼熱の渦が発生した。
 熱量も速度もケタ違い。存在するもの全てを食らい尽くす炎の顎から、いったい誰が逃れられよう?
 バグナードが見れば理性を疑うほどの広範囲に拡大されたルージュの魔術は、文字どおり灼熱の海となって屍兵を焼き払った。
 今、化石竜の後方には、ぽっかりと戦力の空白地帯が生じている。
 その間隙を、ボイルは無駄にしなかった。
「征くぞ! わしに続け! 敵は“鎮魂の間”にあり!」
 王が吼えるや、ドワーフたちが鋼鉄の怒濤となって突撃していく。
 隧道を揺るがすほどの地響きの中、化石竜の闇ブレスが、再びルージュたちの頭上を駆け抜けた。
 都合4度目。ターバの司祭たちの《トランスファー》やルージュの《カウンターマジック》で強化したとはいえ、ライオットの精神点は15。冒険者としては並でしかないのだ。
「行こう。今はあいつを信じて」
 揺れる瞳で闇の精霊の乱舞を見送ったルージュに、シンが力強く言う。
 場違いなほど穏やかなシンの目に、ルージュは唇を噛んでうなずいた。
 そうだ。今は前に進むしかない。
 ライオットの生命を勝ち取る鍵は、魔神を倒さねば手に入らないのだから。



 敵味方が入り乱れて混迷を極める大隧道を、純白の光が鮮烈に切り裂く。
 それはターバの司祭たちが使う《ホーリーライト》の輝き。
 カザルフェロの指揮で統制を取り戻した神官戦士団が、後方の混乱収拾に乗り出した証左だった。
「剣は使うな。素手で取り押さえて魔法で無力化しろ。こいつはドワーフたちの弔いなんだ。そこんところを忘れるなよ」
 カザルフェロの厳しい命令にも、神官戦士団は素直に従う。
 同胞の亡骸に傷を付けたくないというドワーフ族の心情は、ターバの戦士や司祭たちにも共感できるものだったから。
 多少効率は落ちるが、聖なる光はさほど難易度の高い魔法ではない。一人前の司祭ならば当たり前に使える程度。
 随伴の司祭だけでも10名あまりの使い手がいるから、カザルフェロの命令は厳しくはあっても、無茶なものではない。
「マーファよ、自然ならざる生命に慈悲の光を!」
 司祭たちから繰り返し放たれる純白の輝きは、闇ブレスの犠牲となったドワーフ戦士たちを次々に浄化していった。
 彼らの赤く濁った瞳から色が抜けると、戦士たちは力を失い、穏やかな顔で永遠の眠りに戻っていく。
 邪な生から解放されたことに。
 もうこれ以上、同朋を傷つけずに済むことに。
 彼らが感謝して逝ったことは、誰の目にも明らかだった。
 カザルフェロの指揮で、大隧道の戦いは収束に向かっている。
 魔神はシンとルージュに任せておけば問題ない。
 ボイル王とドワーフ戦士団は、化石竜相手に押されっぱなし。
 ライオットが戦況をそう評価していると、ラスカーズが嘲弄とともに唇をつり上げた。 
「よそ見をするほどの余裕が、あなたにあるとは思えないのですがね。まさか本気で、私たち2人を倒せると考えているのではないでしょうね?」
「別に倒す必要はないだろ。俺は負けなきゃそれでいいんだから」
 気負う様子もなく、ライオットはさらりと答える。
 そう、別にふたりを倒す必要はない。
 シンたちが戻ってくるまで立っていれば、ライオットの勝ち。
 シンたちが戻ってくる前に倒れれば、ライオットの負け。
 これはそういう戦いなのだ。
「詭弁ですね。戦いは生きるか死ぬか、勝つか負けるかの二者択一です。言葉遊びをするのも結構ですが、我らを甘く見た代償は、あなたの生命で購っていただきますよ」
 爬虫類めいた笑みを浮かべ、美貌の騎士がこれ見よがしにレイピアを抜剣する。
「いつ死んだかも分からないほどあっさりと殺して差し上げましょう。シン・イスマイールを誅殺し、レイリア様をお連れすることが私の使命。あなたごときと遊んでいる暇などないのですから」
「ごとき、ね」
 シン以外は眼中にないということか。
 ふたりの感情的な対立を考慮すれば、理解できない態度ではない。
 だが、笑わせてくれるではないか。根拠もないのに自信だけが過剰な性格は、某半島の住民にそっくりだ。
 ライオットはもちろん遠慮せず、こみ上げた笑いを思いきり挑発的に叩きつけた。
「そもそもお前、俺と戦って勝てるつもりでいるのか? 登場するときはいつもいつもバグナードに守ってもらってる分際で、どんだけ偉そうなんだよ」
 ルージュの目がないのをいいことに、ルーィエも顔負けの罵詈雑言をまき散らす。
 盾の魔力を信じるなら、彼らがライオットを放置してシンを追うことはないのだろう。
 だが、念には念を入れて。ついでにストレスの発散を兼ねて。
 ライオットは思いきりヘイトを稼いだ。
「そういえばシンに聞いたぞ。ピート卿の屋敷でレイリアに前歯を折られた時は、相当愉快な顔だったらしいな。今のそれは真珠を砕いて練り固めたとかいう義歯か? 興味あるからちょっと外して見せてくれよ」
 この台詞はかなり癪に障ったのだろう。
 ラスカーズは軽く頬をひきつらせると、抜く手も見せずにライオットに突きかかった。研ぎ澄まされたレイピアが毒蛇の牙となって喉元に襲いかかる。
 だが。
 無造作に掲げた盾でレイピアを弾くと、ライオットはわざとらしく肩をすくめた。
「お前さ、俺の装備が見えてるのか? プレートメイルにカイトシールドで武装した戦士相手に、そんなしょぼいレイピアでダメージが通るわけないだろ。脳味噌ついてるなら少しは考えろよ」
「下郎が……殺してやるぞ!」
 あまりの屈辱に秀麗な眉目を醜く歪め、髪を振り乱したラスカーズが、怒濤のごとく襲いかかった。
 アラニア宮廷で負け知らずという技量は伊達ではない。正統派の剣術と、殺人を繰り返して磨いた実戦剣法は極めて高いレベルで融合している。
 相手の視覚の限界をかすめ、急所を正確に狙ってくる剣技は、並の騎士では手も足も出ないだろう。決して弱くはないレイリアが、この騎士に一方的にいたぶられたという話も納得できる。
「だけどさ。相性悪すぎるだろ、俺とは」
 雷光のように襲いかかる刺突を盾で受け、剣で流し、鎧で弾きながら、ライオットの頬に冷笑が浮かぶ。
 ラスカーズの剣は“技”に特化しすぎているのだ。
 速度と正確さ、そこに変幻自在なフェイントをからめた駆け引き。
 シンは苦手とする分野だから、同じ土俵に乗せればある程度は互角に戦えたのだろう。それがこの男の奇妙な自信に繋がった。
 だが“技”はライオットの独壇場だ。
 わざと隙を見せ、自分が望む場所を相手に打たせ、待ちかまえて弾く。ラスカーズの剣筋は正確なこと極まりないから、予測も対応も楽なもの。
 おまけに武器はレイピアときた。城壁級の防御力を誇るミスリルプレートの前に、こんな華奢な刃では全く脅威にならない。
「おのれ! おのれおのれおのれ!」
 怒りにまかせ、際限なく上がっていく速度には脱帽するしかないが、いつまでも手間取ってはいられない。
 この男の背後にはバグナードが、そしてライオットの背後には化石竜が迫っているのだ。
 ラスカーズの呼吸が限界に達した瞬間を狙いすまして、ライオットは炎の魔剣を振り抜いた。
 レイピアには不可能な重量を乗せた斬撃が、地面と水平な弧を描いて隻腕の騎士に襲いかかる。
「く……ッ!」
 受ければ折れる。巻き落とすのは不可能。
 一瞬で不利を悟ったラスカーズは、反射的に間合いの外まで跳びのいていた。
 肩を上下させて荒い息をつきながら、望まぬ後退を強制されたという現実を認識して、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 自分が繰り出した数十の刺突は、ひとつ残らず捌かれたのに。
 この男の斬撃は、ただの一度で自分を追い払ったのか。
 あまりの屈辱で目もくらむ思いだが、ラスカーズは認めざるを得なかった。
 シン・イスマイールの付属物としか考えていなかったこの男に、自分の剣技がまるで通用しないという事実を。
「さて。では次は、私の魔術でお相手を勤めるとしよう」
 戦士たちが言葉もなく睨み合っていると、それまで黙って剣撃を眺めていたバグナードが割って入った。
「そもそもラスカーズ卿は、私が司祭長殿に頼んで借り受けた助勢だ。であれば、本来は私自身が相手をするのが筋であろう?」
「いいのか、魔法なんか使って?」
 幾分腰を落としながら応じるライオットの声に、慎重な響きが混ざる。
 ラスカーズは片手で相手をしても釣りが来る程度の小者だが、バグナードは違う。
 対応を誤れば、即座に負けが確定する強敵なのだ。
「懸念には及ばぬ。行使する魔術は1度で済むゆえ、私でも痛みには耐えられよう」
「違う、そうじゃない」
 ライオットは頭上に高々と“勇気ある者の盾”を掲げた。
 隻腕の騎士のレイピアに備えるのとは、まるで異なる構え。
 バグナードが怪訝そうに目を細めるのを見ると、腹の底に気合いを溜めながら続ける。 
「魔法なんか使って精神力を減らす余裕があるのかって聞いてるんだ」
 その構えを隙と見たのか。
「死ね!」
 ラスカーズが再び踏み込み、神速の突きを入れた。
 人格は最悪でも、磨き上げられた戦いのセンスは本物だ。ほんの一瞬の好機を捉え、剣尖は正確に鎧の継ぎ目を狙っている。
 場所は右肩か。
 盾を頭上に掲げたまま、ライオットは冷めた思考でダメージを測った。
 このまま肩を貫かれれば、右腕で剣を振るのに甚大な支障をきたすだろう。
 だが、生死に関わるダメージにはならない。
 ならば無視だ。
 そう結論したとき、盾の秘められた魔力が発動し、緑柱石が強く輝くのが視界の隅に入った。
 ライオットは物理防御を放棄し、改めて抵抗専念の体勢をとる。
 刃が肉に食い込む感触を味わうのは、ロードス島に来て2度目だった。
 最初に感じるのは肩を突き飛ばされるような衝撃。続いて燃えるような熱さ。
 痛みが来るまで二呼吸の間がある。
 至近距離にあるラスカーズの顔が愉悦にゆがみ、勝ち誇った言葉を紡ごうと、濡れた唇が開いていたとき。
 漆黒の波濤が戦場に殺到した。
 かすれた闇が視界を塗りつぶし、魂にヤスリを掛けられるような感覚がライオットを揺さぶる。
 化石竜のブレスだ。
 負の精霊力を宿した虚無の奔流は、音もなく、色もなく、ただ静寂の暴風となって生者の精神を浸食する。
 ルージュの残した対抗魔法が闇を防いでくれるのを実感しながら、ライオットはじっと耐え続けた。
 皮肉なことに、翻弄される精神を現実に縫い止めてくれたのは、右肩を貫くレイピアの痛みだった。
 自分の心臓に合わせて脈動する熱く鋭い痛みが、まるで闇夜を照らす灯台のように、体はここにあるのだと、自分は確かに生きているのだと教えてくれる。
 やがて、細い刃がずるりと抜け落ちた。ラスカーズが崩れたらしい。
「おいおい、気合が足りないんじゃないか?」
 傷口をえぐる痛みに顔をしかめながら、自身を鼓舞するようにつぶやく。
 すると、その言葉が合図となったかのように、視界を覆っていた闇が晴れていった。
 大隧道の薄明かりがゆっくりと目に入ってくる。
 化石竜のブレスがライオットを狙うことは、周囲の戦士たちにも伝えてあった。
 魔法の盾が緑色に光ったら、可能な限りライオットから離れること。
 それが唯一とれる対策だったのだが、屍兵と戦いながらでは即応できなかったのだろう。闇ブレスを避けきれなかった十数人の戦士たちが、大隧道に力なくうずくまっている。
 そしてライオットの正面では、青白い顔をしたバグナードが、由緒ありそうな魔法の杖にすがって体を支えていた。
「今のを浴びて立ってられるのか。さすが“黒の導師”だな。そこの自意識過剰は耐えられなかったみたいだけど」
 そう感心してみせるライオットには、さほどのダメージはない。
 ルージュの防御魔法や抵抗専念によるボーナスなどで、今のライオットは基本値18、期待値25という鉄壁の精神抵抗力を誇る。
 これは“老竜”や“古竜”のブレスでさえ耐えられるほどの数値だ。劣化再生版でしかない化石竜のブレスなど通るはずもない。
「貴様はなぜ立っていられる……?」
 顔をしかめ、地面に膝をついたまま、ラスカーズがうめく。
 剣で及ばず、精神力で及ばず、挙げ句の果てにこのざまだ。何一つライオットに勝てないのでは、プライドも傷だらけになろうというもの。
 ちらりと隻腕の騎士を見下ろしたライオットは、容赦なくその傷口に塩を塗った。
「そんなこと言われてもな。来るって分かってれば耐えられるだろ、この程度。お前には根性が足りないんだよ」
 力なく膝をつくラスカーズは、完全にライオットの間合いの中にいる。右肩の負傷を勘案してもなお、瞬時に斬り伏せることができる距離だ。
 それを察し、ふらつきながら後退する騎士を、ライオットは黙って見逃した。
 バグナードが《テレポート》で撤退するにせよ、《カウンターマジック》で戦いに備えるにせよ、ラスカーズがいれば魔法を拡大せざるを得ない。
 つまり、この男は生きているだけでバグナードの負担になってくれるのだ。強敵の行動を縛る重石を、わざわざ軽くしてやることない。
「あれは何かと尋ねたら、教えてもらえるのかな?」
 平静を装ったバグナードの問い。
 もちろんライオットは素直に教えてやった。
「ドラゴンゾンビのブレスだよ。負の精霊力の塊だから、こいつで精神力を削られて死ぬと、屍兵となって蘇るぞ。その辺で暴れてたドワーフみたいにな」
 これは、ライオットがバグナード相手に切れる唯一のカードなのだ。
 あらかじめ準備のできたライオットと、闇ブレスの存在すら知らなかったバグナードでは、受けたダメージにも差があるだろう。
 多少なりと精神点にダメージを受けていれば。
 そして、これからも同様の攻撃があるのだと認識してくれれば。
 無駄に魔法を使って精神点を減らすような真似はできまい。
「最初に言っただろ? シンたちが帰ってくるまで立っていれば、俺の勝ち。帰ってくる前に倒れれば、俺の負け。これはそういう種類の戦いだって」
 盾を掲げ直して、ライオットはにやりと笑った。
「さあ、続けようぜ。とりあえずもう一度だ」
 “勇気ある者の盾”の中央で、緑柱石が魔法の輝きを放つ。
 厳しい表情で黙り込んだバグナードを、再び闇の嵐が覆い隠した。


 
 あらゆる枷から解き放たれたドワーフ戦士団は、鋼鉄の奔流となって鎮魂の隧道になだれ込んだ。
 残っていた屍兵を鎧袖一触に蹴散らしながら、彼らの勢いはとどまるところを知らない。
「足を止めるな! 我らの狙いは魔神の首ひとつ! 生ける屍と戯れている暇はないぞ!」
 立ちはだかる屍兵を数体まとめて薙ぎ払いつつ、ボイルはひたすらに奥を目指した。
 ボイルが転がした屍兵には、後続の戦士が駆け抜けざまに戦斧を振り下ろし、さらに続く戦士たちが鉄靴で踏みにじっていく。
 数十人の戦士たちが通り過ぎた後には、もはや原形をとどめた屍兵など存在しない。血と肉に彩られた汚泥が腐臭を放つのみだ。
「……絶対あとで荼毘に付してあげるから、今だけは我慢して」
 ドワーフたちに続いて走りながら、ルージュは祖霊たちに祈った。
 死者への弔いに失礼があってはならない。だが、それは生者が今を生き抜く道を確保した後の話だ。
 ライオットを助けるため、ボイルをけしかけて魔神を討つと決めた今、為すべきことは鎮魂の儀式ではない。
「見えたぞ! 魔神めがおる!」
 戦闘を走るボイルが、歓喜に震える叫びをあげた。
 姿を見ることすら叶わなかった仇敵を認めて、ドワーフたちの戦意も最高潮に達する。
 残った屍兵は両手で数えきれる程度。もはや障害は何もない。
『ウィル・オー・ウィスプ、あいつの姿を照らし出せ』
 音もなく疾駆する銀毛の猫王が語りかけると、現れた光の精霊が魔神に吸い寄せられるように漂っていった。暖色の輝きの下、上位魔神ギグリブーツがついに姿を現す。
 身の丈はオーガーと同じくらいか。ザクソンで戦った双頭の竜神ラグアドログに比べれば、ずっと小柄で人間に近い体格をしている。
 遠目にも鮮やかなのは、まるで蝙蝠の皮膜のような2対4枚の翼だ。光の精霊の輝きに邪々しく反射する翼は、悪魔の象徴としてこの上ない存在感があった。
 右手には長大な魔剣。強力な魔法が付与されているのだろう。カーラの指輪を通した世界では、剣それ自体が強い光を放っている。
 だが、そんなものは問題ではなかった。
 魔神が左手に握っている小さな小枝は、世界そのものをかすませてしまうほどの代物だ。
 なんと表現すればいいのだろう。真夏、天頂から照りつける太陽のように、直視することすら難しい圧倒的な輝き。
 ただそこに“在る”だけなのに。
 この場の主役は魔神でもドワーフたちでもない。あの小さな枝なのだ。
「黄金樹の枝だ……」
 ルージュが呟く。
 かつてフォーセリア世界と神々を創造したという、始源の巨人。 
 その巨人から直接産み出されたのが世界樹。世界樹の直系の若木が黄金樹だ。
 その本質は樹木ではない。精霊力、あるいはマナといった“存在するための力”である。
 故に、実体で“在る”ためだけに力を消費し続ける物質界では、黄金樹の存在そのものが矛盾する。世界樹の子孫たちがこの物質界に存在しないのはこのためだ。
 黄金樹とて、精霊界への扉であるエルフ族の隠れ里に、わずかな末裔が生き残っているだけのはずなのに。
 今、自分はフォーセリアの神話を目撃している。
 存在の本質を直視させるカーラの指輪の力に、ルージュが震えながら黄金樹の枝を見つめていると、隣にいたシンが小さく笑った。
「なるほど、あれが無限の魔力の正体ってわけか」
 百を優に越える数の屍兵を作り出し、拡大千倍消費などという狂った魔法を使ってドラゴンの亡骸に命を吹き込んだ手妻の正体。
 この世界の人間にとっては神話級の存在なのかもしれないが、シンに言わせればそんな物、しょせん無限魔晶石でしかない。
 そしてどんなに強力だろうと、アイテムである以上は使わせなければいいだけのこと。
「ボイル王!」
「者ども、ここまでだ!」
 シンの叫びに呼応するように、ボイルが足を止めた。
 魔神までの距離、約40メートル。通常の攻撃魔法の射程の4倍あまり。
 これが、ドワーフ戦士団が幾多の犠牲を払って見極めたぎりぎりの間合いだった。これ以上距離を詰めれば、また魔法の雨が降ってくる。
 ドワーフたちの進軍停止を怯えと解釈したのか。有翼の上位魔神は怜悧な瞳を光らせ、勝ち誇った声を上げた。
「それ以上一歩でも進めば、強酸の雲で臓腑を焼き尽くしてやったのだがな」
 余裕の笑みを浮かべる魔神。
 調子に乗っているのは業腹だが、理解できなくはない。今までのドワーフ戦士団には、ここからの距離を詰める術が何もなかったのだから。
 だが今は違う。
「ふん、増上漫もそこまでだ。貴様ごときが喜びの野に行けるとは思わぬが、もし冥界で我が戦士たちに会ったら言うがよい。魔法だけではドワーフ族には勝てませんでした、とな!」
 雷霆のごとく轟いたボイルの声からは、もはや勝利以外の未来が感じられない。
 まさに指揮官とはかくあるべきだろう。魔神の姿を見て昨日の苦境を思い出した戦士たちから、ただの一言で不安を拭い去ってしまった。
「威勢がいいのは結構だが、ドワーフ族の王よ。その場でいくら吠えたところで、汝の刃は我には届かぬぞ」
「ほざけ。貴様が数で頼む屍兵も、苦労して作った化石竜も、もはやここにはおらぬ。我が刃から、いったい誰が貴様を守るというのだ? 虚勢を張る前に現実を見るのだな」
 4枚の翼をばさりと広げ、魔神の双眸が深紅に光る。
「よかろう。虚勢かどうか、我が炎を味わってから再度申すがよい」
 舌戦ではボイルに勝ちを譲った魔神が、実力行使を決めたらしい。
 魔神の周囲で音を立ててマナが凝縮し、風が渦巻くと、頭上にいくつかの光点が現れた。
 それはシンにも見慣れた魔法、《ファイアボール》の発動だ。
「おいおい、《アシッドクラウド》宣言じゃなかったのかよ」
 思わず苦笑したシンに、ルーィエがつまらなそうに応じた。
「クラウド系の魔法は見た目が地味だからな。威嚇するなら炎が一番都合がいい。術者への負担も少ないから拡大も容易だ。とはいえ」
 背後で強力な魔法が準備されているのを感じながら、銀毛の猫王は鼻を鳴らす。
「この期に及んで示威行動という時点で、まるで戦況が読めていない。おまえの負けだ、バカ魔神」
『導け万能なるマナよ! 彼の双脚は時空を越える!』
 ルージュの高らかな詠唱とともに、シンの姿がかき消えた。
 同時に現れた場所は魔神の真横。低く身構えた戦士の姿を皆が目に留めるより早く、精霊殺しの魔剣が鋭く振り抜かれる。
 黄金樹を握っていた魔神の左腕に線が走り、赤黒い血液が滲むと、シンはすかさずその腕を蹴りとばした。血と強力な魔力の尾を引いて、魔神の腕は戦場のド真ん中に落ちる。
 有翼の魔神が準備していた炎の魔術が、必要なマナの供給を絶たれ、小さな破裂音だけを残して霧散した。
「な……?」
 整った顔に驚愕の表情を浮かべ、魔神がシンを見下ろす。おそらくまだ、何が起こったのか理解していないのだろう。
「いいのかよ、よそ見なんかしてて?」
 唇の端で笑い、シンは魔神を見上げた。
 こいつは弱い。ザクソンで戦った双頭の竜神とは格が違う。
 自分たちが苦戦したのは、魔神の用意した土俵に乗って、魔神の望む戦いをしたからだ。こちらがイニシアチブを握ってしまえば、この程度の相手など敵ではない。
「汝は―」
 魔神が何かを言いかけたとき。
「申したぞ! 我が刃を遮るものなどないとな!」
 ボイルの快哉の叫びが魔神の横面を打ち据えた。“永久の炉”で鍛えたドワーフ族の至宝、ミスリル・ハルバードが真正面から魔神に襲いかかる。
 魔法特化型のギグリブーツとボイルでは、戦士としての技量に天地ほどの差があった。
 犠牲になった戦士たちの無念と。
 父祖の遺体を弄ばれた憎悪と。
 王国を滅亡寸前まで追い込まれた屈辱を込めて、ボイルは渾身の一撃を見舞う。
 反射的に振り向いた魔神には、右腕に握った魔剣を構える余裕すらなく。
 ただ自分の胸に食い込んでいく刃を見つめることしかできなかった。
「行け、脳筋樽ども! 魔神をギッタギタにするチャンスだぞ!」
 ルーィエがよく通る声で使嗾すると、足を止めていたドワーフ戦士たちが魔神に殺到した。
 シンに左腕を切断され、ボイルに半身を両断された魔神に、もはや満足な抵抗ができようはずもない。
 先頭の戦士が足を斬りつけ、魔神がバランスを失って地面に倒れると、周囲を完全に囲んだ戦士たちは雨あられと戦斧を打ち下ろした。
 苦悶の呻きとともに、オーガーに伍するほどの巨体が切り刻まれ、細切れにされていく。生命が最後の一滴まで尽き果てるのも時間の問題だろう。
「さて、本番はここからだ」
 復讐の宴に酔うドワーフたちに背中を向け、シンは後方に視線を戻した。
 再び転移の魔術を準備するルージュの隣で、レイリアが手を振ってシンを呼んでいる。
 うなずいて駆け寄りながら、シンは勝利で浮かれた心を引き締めた。
 まだ大仕事が残っている。
 ラスカーズと、バグナードと、化石竜と。
 自分たちを送り出すため、強敵をたったひとりで引き受けた親友の信頼に、応えるのだ。





[35430] シナリオ5 『決断』 シーン10
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2014/01/19 18:01
シーン10 大隧道

 ドラゴンのブレス攻撃は、精神抵抗判定に成功してもダメージが消失するわけではない。
 打撃力が10下がり、クリティカルしなくなるとはいえ、依然としてレーティングに固定値を加えてのダメージロールが行われる。
 そのダメージ値を削れるのは冒険者レベルによる減点のみ。ライオットが着ている鎧の防御力は30に達するが、ブレス攻撃に対する防御の役には立たない。
「だからさ! 毎ラウンド気軽に吐いてもらっちゃ困るんだよ!」
 シンが渾身の力を込めた斬撃が、岩でできた竜の首筋に食い込んだ。まるで回避を考えず、ただ相手の防御を貫くことだけに集中した渾身の一撃だ。
 白い燐光を発する刃は、硬い岩石の体を易々と断ち切り、化石竜の首に深い傷を穿つ。
 生身の竜なら激痛で暴れ回ったことだろう。
 だがライオットの盾に拘束された化石竜は、シンの存在などまるで意に介した様子がなかった。
 シンは竜の背中に乗ったまま、内心の焦りを隠そうともせず、ひたすらに剣を振り続ける。
 早く。
 一秒でも早く。
 今はとにかくこの竜を沈黙させることが、シンの果たすべき役目なのだから。
 精霊殺しの魔剣は、鱗を砕き、筋肉らしきものを裂き、露出した延髄を両断する。
 竜の足下ではボイル王以下のドワーフ戦士たちが助勢し、確実に胴体を削っている。
 ルージュの《エネルギーボルト》とレイリアの《ホーリーライト》、それにルーィエの《バルキリージャベリン》までもが間断なく降りそそぎ、偽りの生命力を弱らせていく。
 これだけのレベルの冒険者が集中攻撃しているのだ。効いていないはずはない。
 だが化石竜はあまりにも巨大だった。
 全長20メートルを超える巨体から、大人ひとかかえほどの岩が失われたからといって、何ほどのことがあろう?
 生きた竜ならば、心臓を貫けば殺すことができる。
 しかしストーンゴーレムと変わらぬこの頑丈な体の、どこをどう砕けば止めることができるのか?
 いい加減にシンの焦りが臨界に達しようとしたとき、化石竜が何度目かの咆吼を上げた。
 牙の並んだ口の中で、闇色の炎が燃える。何が起こるか考えるまでもない。
 シンの中で何かが弾けた。
 ライオットの信頼に応えられない自分への苛立ち。
 攻撃がまるで効かないことへの焦燥。
 そして、ひたすらライオットだけを狙い続ける化石竜への怒り。
 様々なものが綯い交ぜになってシンの理性を蹴飛ばし、考えるよりも早く身体が動いていた。
「だから! ブレスは!」
 化石竜の首筋を駆け上がり、頭頂部を蹴って高々と跳躍。魔剣を逆手持ちにして振りかぶる。
「やめろって言ってるだろ!」
 全体重と渾身の力を込めて、シンは化石竜の上顎に剣を突き刺した。
 精霊殺しの魔剣は上顎を貫通し、今まさに開かれんとしていた下顎まで一直線に縫い止めてしまう。
 剣と足場を失い、ひらりと地面に舞い降りたシンを、ルージュの凄絶な微笑が迎えた。
「お帰りリーダー。次は全力でやるからもう近づかないでね」
 今まではシンを巻き込むことを恐れて高位の呪文を使えなかったが、もう遠慮はいらない。
 ルージュが見上げる視線の先で、牙の間から黒い炎が洩れだし、化石竜の双眸が戸惑うようにさまよっていた。
 シンの魔剣で口を縫い止めたことで、多少の時間は稼げたらしい。
 だがもう猶予はない。
「ライくんの精神点を考えたら、あれに10回も耐えるのは無理だよ。せめて5回。ぎりぎりうまくいっても7回が限度だと思う」
 化石竜との戦闘を始めてから、ライオットが全部で何度のブレスにさらされたのか。
 そして、もし手遅れになったら何が起こるのか。
 ルージュは考えたくもなかった。
「だから、何が何でもこれで決める」
 紫水晶の瞳に不退転の決意を浮かべて、ルージュは呪文を詠唱していく。
 最後の勝負に選んだ魔法は、使い慣れた炎だ。それを光の封緘で取り巻く。
 ザクソンで竜神の頭を消し飛ばしたとき、封緘は一重だった。それをさらに2つ追加。全部で三重になった封緘の中には、単純に言ってあの時の3倍のマナを注ぎ込める。
 過剰なまでに達成値を上昇させた構成。これならたとえ“火竜山の魔竜”が相手でも、易々と防御を貫けるだろう。
 だがルージュは満足しなかった。目的はダメージを通すことではない。一撃で相手を沈めることなのだから。
 同じ構成をコピー。右に再配置。左に再配置。上に再配置。下に再配置。
 まだだ。これでは全然足りない。
 さらに、さらに再配置。全弾を確実に叩きつけるため、射角を調整し、軌道を調整し、射出タイミングを調整する。
 隧道いっぱいに広がっていく設計図。幾何級的に増大する情報量に、脳の神経が焼き切れそうになる。
 だが、この魔法にかかっているのはライオットの命。マージンを残した妥協などできないし、するつもりもなかった。
 鬼気迫る表情で呪文に集中するルージュの姿は、この世界で初めて見せた、掛け値なしの本気だ。
 とんでもないことが起ころうとしている。そう察したシンがボイルに警告を発しようとしたとき、すべての準備は整った。
 達成値上昇プラス30、ダメージ確実化50倍、消費精神点4500点。この空前絶後の巨大魔術を、ルージュは恐るべき演算能力で構成し、世界に描ききった。
 あとはマナを流し込み、絵図面を現実のものとするだけ。
「絶対にこれで終わらせるんだから! 黄金樹、お願い力を貸して!」
 愛する人を救うために。
 きゅっと目を閉じて願ったルージュの周囲に、激しく明滅する閃光が続々と生まれていく。
 この中のたったひとつですら、人間の持つ魔力では到底手の届かない、神代の炎だ。
 それが全部で50。
 黄金樹の小枝は輝きを失い、その葉を散らしながらも、必要な力をルージュに提供しきった。
 今、神話の力を手にしたルージュは、無数の輝きとともにあり。
 世界は“力ある言葉”の到来を待つばかり。
「撃て! 半人前!」
 ルーィエの鋭い叱咤。
 紫水晶の瞳が見開かれ、化石竜の目を真正面に捉える。
 桜色の唇から、叫ぶような詠唱が流れた。
『万物の根源たる“力”よ! 浄化の炎となれ!』
 その言葉とともに、閃光が一斉に撃ち出された。
 ひとつひとつがまばゆい輝きを放ちながら、まるで光の滝が逆流するように、破壊の波濤が殺到する。
 隧道をうめつくす勢いで続々と華開いていく、直径6メートルの太陽たち。
 空気の焦げる音が連鎖し、化石竜の咆吼をかき消した。
「者ども、巻き込まれるぞ! 引け、引け!」
 空間が悲鳴を上げる音に頭上を仰ぎ、とんでもない魔法が発動したことを察して、ボイルが声を涸らして叫んだ。
 度肝を抜かれたドワーフたちが転がりながら後退する
 炸裂した炎には色すらない。ただ化石竜の身体を空間ごと削り取り、瞬時に蒸発、消滅させていく。
 勢い余ったいくつかが竜を逸れて壁や天井をえぐり、隧道全体を震撼させた。頭上を覆う岩盤が不気味に鳴動し、シンの脳裏を崩落の二文字がよぎる。
 この常識はずれな光景の正体は、ルージュの構成した封緘のひとつにあった。炸裂後に発動した第三の封緘が、まるで卵の殻のように破壊の力を内に封じ込め、乗数的に内圧を上昇させているのだ。
 だが、連鎖爆発する究極の炎が同一空間に重なった瞬間、殻のひとつが乾いた音をたてて砕け散った。
 解放された“力”の余波が、灼熱の暴風となって鎮魂の隧道を荒れ狂う。
 砕けた封緘は、50のうちのたった1つ。
 しかもルージュが立っている場所は呪文の効果範囲から遠く離れているにも関わらず、炎の魔法の直撃を受けたかのような熱風が襲いかかった。
 炙られた白磁の肌は火傷を負い、銀色の前髪が先端から焦げて縮れていく。
 喉を焼かれる痛みにあえぎ、苦しそうに目を細めながらも、ルージュは化石竜から目を離さなかった。
 もしこれで駄目なら、すぐにもう一度だ。疲弊した精神は思考すらあやしくなっていたが、今、無茶を承知で踏ん張らなければ絶対に後悔する。
「マーファよ、護りの法円を!」
 ルージュが悲壮な覚悟で黄金樹の小枝を握りしめていると、背後からレイリアの声が聞こえ、急に呼吸が楽になった。
 淡く輝く巨大な障壁が現れて、暴力的な熱を遮断したのだ。光の護りはルージュやシン、それにドワーフの戦士たちまでもすっぽりと覆っている。
 レイリアは法円を維持しながら、ルージュに微笑みかけた。
「もう大丈夫ですよ、ルージュさん」
「ありがと。ちょっと発動の後のダメージ封鎖が不十分だったみたい。威力を甘く見てた。けど今度は失敗しないから安心して」
 形だけの笑みを返し、すぐに表情を消す銀髪の魔女に、レイリアはそっと首を振った。
「もう次はいりません。竜は永き眠りに戻りました」
 少女の穏やかな声に、ルーィエが同調する。
「司祭の言うとおりだ。あの岩の化け物から、もう負の精霊力は感じられない」
 隧道を荒れ狂う熱波が収まると、レイリアの張った守護の法円も溶けるように消えていく。
 破壊の余韻が波紋となって薄闇の彼方に染みこみ、鎮魂の隧道は、ようやくその名にふさわしい静寂を取り戻した。
 漣ほどの喧噪もない。
 誰もが咳ひとつ漏らすことなく、ただ目の前のいびつな巨像を見上げていた。
 ドワーフ戦士団を相手に猛威を振るった竜の亡霊は、首の付け根から上すべてと片翼を完全に失い、再び物言わぬ骸となって佇んでいる。
 王国を滅亡寸前まで追い込んだ魔神はすでに亡く、魔神に操られた屍兵も、ターバの司祭たちによって1体残らず浄化された。
 もはや、戦士たちが戦斧を向けるべき敵はどこにもいない。
 勝ったのか?
 戦いは本当に終わったのか?
 現実をにわかには信じられず、誰もが武器を持ったまま立ち尽くし、動けずにいた、その中で。
 たったひとりルージュだけが、ローブの裾をさばいて駆けだした。
 その目に入るものはひとつだけ。
「ライくん!」
 化石竜に向かって魔法の盾を構え、微動だにせず立ち塞がっている戦士に、一直線に飛び込んでいく。
 あわてたライオットが剣と盾から手を離すと、ルージュは躊躇なくその胸に身体を投げ出した。 
「ライくん、生きてるよね?」
 震える声で問いかけながら、両手を夫の背中に回し、存在を確かめように力を込める。
「ちゃんと生きてるよね? あんなブレスに負けたりしてないよね?」
「当たり前だろ」
 疲労の色こそ隠せないものの、笑みを含んだ穏やかな声が降ってきた。
「いつも言ってるじゃないか。俺はハッピーエンド以外認めないって」
 無骨な手甲でよろった腕に抱き寄せられ、ライオットの暖かい指がルージュの頬を撫でる。
「君こそ、顔に火傷までして。髪なんか縮れてアフロになりかけだぞ。せっかくの美人が台無しだ」
 ライオットが短く聖句を唱えると、暖かな光がルージュを包んだ。
 熱を持った頬が白磁の色を取り戻し、光の粉がまとわりついて絹糸のような髪を修復していく。
 ああ、この人は生きてるんだ。
 ルージュの胸に安堵が広がる。
 だがそれは、なぜかすぐに怒りへと変わった。
 私がこんなに心配したのに、どうしてこの人は平然としてるの?
 そんな理不尽な思いとともに、たぶん今は必要のない言葉ばかりが、口をついて出ていく。
「精神点ほとんど残ってないんでしょ。魔法なんか使わなくていいの! それより心配したんだからね。だいたい10ラウンドは保証するっていう計算が甘いよ。ドラゴンブレスの固定値は冒険者レベルだけで相殺できるほどー」
 どうして。こんなこと言いたいわけじゃないのに。
 暴走する感情を制御しきれず振り回されているルージュに、ライオットは一言。
「もう大丈夫だから」
 そして、ライオットの指がルージュの細い顎にかかり、強引に上を向かされた。
 文句を言おうと口を開きかけたとき、驚くほど近くにライオットの顔があった。
 ロードスに来て初めて、ふたりの唇が重なりあう。
 たったそれだけで、ルージュはあらゆる言葉を奪われてしまった。
 魔法のように全身から力が抜け、そっと瞳が閉じていく。
 力強い熱に抱かれながら、ルージュはようやく悟った。
 そうか、私はこんなにも怖かったのか。
 ライくんがいなくなってしまうことが、自分を見失うほどに不安だった。
 だけどもう大丈夫。ライくんはここにいる。
 私たちは間に合ったんだ。
 全身から伝わってくる体温が、心を縛っていた不安をほどいていくのを感じる。
 やがてゆっくりと唇が離れると、ルージュは静かに目を開けて夫を見上げ、莞爾と笑った。
「ライくん、無事でよかった」
 妻が見せたその表情を、どう形容すればいいのだろう。
 無垢で無防備で、心の全てを自分に委ねた笑顔。
 紫水晶の瞳に浮かぶ涙に、ライオットの魂がふるえた。
 今自分は、この腕で奇跡を抱いている。
 自分が望む人と、同じ時を生き、同じ想いを重ねて同じ道を歩ける。
 これが奇跡でなくて何なのか。
 たとえ百回生まれ変わったとしても、今この瞬間を越える価値には、きっと巡り会えないだろう。
 胸に湧き上がってきたものに目眩すら感じて、ライオットは視線を上げて明後日の方を向き、ぽつりと言った。
「心配させて悪かったな」
「ばか」
 抱き合ったまま離れようとしないふたりに、シンが悪戯まじりの声をかける。
「せっかくの時間をじゃまして悪いんだけど、いくつか質問してもいいかな?」
「バグナードたちならいないぜ。2回目のブレスが消えた時にはもういなかった。《テレポート》で逃げたんだろ」
 話がそれだけならあっちに行け、と言わんばかりにライオットが手を振る。
 すると、シンの横にいたレイリアが微笑んだ。
「ルージュさん。ターバであの夜私が言ったことは、本当に見当違いだったんですね」
 涙に濡れた目のまま、いささか気恥ずかしそうにルージュが顔を上げる。
「あの夜って、王都から帰った日のこと?」
 ルージュがライオットと関係を持たないから、夫婦関係が破綻寸前だと指摘された日のことか。
「はい。こんなに嬉しいことはありません。どうかおふたりの未来に、マーファのご加護がありますように」
 レイリアは心からの祝福を込めて印を結んだ。
 そしていつか、自分とシンも。
 そんな願いを込めてこっそり隣を見上げると、自分を見下ろす黒い瞳と目が合った。
 何か言われるより先に、シンの腕をとって胸に抱く。
 ライオットとルージュは正面から抱き合える関係だが、自分たちの気持ちはまだまだ未熟だ。手を取り合い、一緒に前を向いて進んでいくのがふさわしいのだと思う。
「レイリア?」
 いつもと少し違う様子に、シンが怪訝そうに首をかしげる。
「ねえシン。私、思うんです。目に見える形だけを求めて、少し急ぎすぎてたんじゃないかなって」
 大切なのは口づけを交わすという形ではない。
 口づけとともに交わされる想いを育てることが、大切なのだ。
 ライオットとルージュの絆に比べれば、自分たちの恋などおままごとのようなもの。
 だから今は、これで十分。
 言葉には出さなかった気持ちを、きっとシンは汲み取ってくれたのだろう。
「そうか」
 シンはひどく優しい目でうなずき、そしてすぐに表情を引き締めた。
「お見事、と言わせてもらおうか。シン・イスマイール」
 シンの天敵、カザルフェロ戦士長が、ひとりの女性司祭の肩を抱いて歩み寄ってくる。
「ここに来る前から分かってたことだがな。お前さんがいなければ全滅していた。礼を言う」
「あんたの指揮もさすがだったよ」
 シンも素直に認めた。
 大隧道の混乱を収拾したのは、ほとんど全てがカザルフェロの手柄だ。
 シンやルージュが魔神討伐に向かったとき、大隧道は敵と味方、疑心暗鬼になったドワーフ戦士団と邪教の司祭までが入り乱れ、まるで収拾がつかない状況だった。
 だが化石竜に集中攻撃を加える段では、ブレスの先にはライオットしか見えなかったのだ。
 それはつまり、シンやボイルたちが犠牲度外視で「敵を倒す」ことに注力している間に、カザルフェロは戦闘の処理と混乱の収拾ばかりか、闇ブレスの巻き添えで倒れた戦士たちの手当までやってのけたことを意味する。
「で、その子はどうだ?」
 カザルフェロに抱かれているのは、ソライア。
 邪教の司祭ラスカーズに心を砕かれ、意思を失ってしまった少女だ。
 大丈夫ではないことは見れば分かる。
 ぼんやりと遠くを眺める瞳は、まるでガラス玉を填めたよう。
 顔に表情はなく、腕はだらりと下がり、本当にただ立っているだけ。あれほど闊達だったソライアが見る影もない。
 確かに死んではいないが、これではとても生きているとは呼べなかった。
「ソライア……」
 レイリアが両手を取って握っても、親友の指には少しも力が入らない。
 レイリアの脳裏に、あの日の記憶が蘇った。
 最後の最後まで力の限り抵抗し、それでも力及ばず、ラスカーズの思うがままになぶられた屈辱と恐怖。
 ソライアはラスカーズに2度殺され、しかも信頼するカザルフェロに見捨てられたのだ。心が受けた傷はレイリアの比ではないだろう。
 それもこれも、亡者の女王の魂などという罪を背負った自分のせいで。
 レイリアが自責の念に押しつぶされそうになっていると、その空気を粉々に砕くように、カザルフェロが呵々と笑った。  
「おいおいレイリア。こいつを甘く見るなよ? ソライアはちゃんと自分の足で立てる。手を引けば歩けるし、目も耳も心も生きてる。大丈夫だ」
 カザルフェロの手が力強く背中を叩くと、ほんの一瞬、ソライアが迷惑そうに目を細める。
「ちょっとばかり拗ねて殻の中に閉じこもっちまったがな。ま、そいつは俺の責任だ。俺が何とかするさ」
 飄々とした口調で重大な決意を隠し、カザルフェロはにやりと笑ってみせる。
 シン・イスマイールに言われるまでもない。
 ソライアを守るのは自分の役目だ。もう二度と、ソライアを諦めるつもりはなかった。
「あんたがそう言うんなら、そうなんだろうな」
 口で言うほど簡単ではない。それは本人にも分かっているのだろう。だがカザルフェロは、やると言ったことは必ずやる男だ。
 シンが納得してうなずいたとき、《テレポート》特有の振動音とともに、予想もしなかった声が聞こえた。
「一度ならず二度までも見捨てておいて、そんな台詞が吐けるとは恥知らずにもほどがありますね、戦士長どの」
 毒の雨が大地に染み込むように、心を容赦なく傷つける言葉。
 シンが身構え、ライオットが反射的にルージュを突き飛ばしたとき、敵はすでに至近だった。
 黒の導師と隻腕の騎士。
 逃げ去ったと思われた邪教カーディスの使徒たち。
「ラスカーズ!」
 シンの右手が背中の鞘に伸びる。
 が、あざけるようなラスカーズの視線の先で、シンは凍りついた。
 剣がない。
 精霊殺しの魔剣は、化石竜の口を串刺しにした後、ルージュの魔法に巻き込まれて行方知れず。
 むなしく空を切った右手をどうすることもできず、シンの混乱がごくわずかな空白を生む。
 その一瞬が命取りだった。
『万能なるマナよ、雷の縛鎖となれ!』
 飛来した青白い網がシンに絡みつき、全身を電撃で縛り上げた。
「ぐぅぅッ!」
 後方に弾かれ地面に倒れると、噛みしめた奥歯の間から、殺しきれなかった悲鳴が漏れた。
 雷に焼かれる肌から血がにじみ、血と肉の焦げる臭いが広がる。
「シン!」
 レイリアが即座に駆け寄って癒しの魔法を唱え始めた。
 だが、足りない。
 バグナードの強力な魔力で与えられるダメージは、レイリアの魔法による治癒速度をはるかに上回っている。このままでは時間の問題だ。
「ルージュ! 解呪だ!」
 せめて剣だけでも拾おうと、右手を伸ばしながらライオットが叫ぶ。
 敵を前にして身を屈めるなど自殺行為だが、ラスカーズもまだ剣を抜いていない。
 今はリスクを犯しても、とにかく時間を稼がなくては。
 そう判断したライオットが炎の魔剣に手をかけたとき、誰かが白銀の刀身を踏みつけた。
「あなたが言ったのですよ? 私は邪教の司祭だから、剣も魔法も使うと」
 反射的に顔を上げると、手袋に包まれた指が額に突きつけられる。
「Zalts」
 薄く嘲ったラスカーズの唇が、聞いたこともない音節の神聖語を紡ぎ出した。
 指を通して伝わった波動が脳を揺らす。
 闇ブレスとまったく同種の衝撃に、疲弊しきったライオットの精神は耐えられなかった。
 細い木が洪水に押し流されるように、意識が奔流の中に飲み込まれていく。
「くそ……」
 勝ち誇ったラスカーズの笑みが、幽くなっていく視界の中に霞んだ。
 立たなければ。
 解呪する時間を稼がないと。
 その思考を最後に、ライオットの意識は闇に落ちた。
 全身から力が抜け、ゆっくりと傾いて地面に崩れる。
「ライくん!」
 ルージュが悲痛な声を上げたが、完全に意識を失ったライオットは、もはやぴくりとも動かなかった。
「おやおや、ずいぶんとお疲れのご様子ですね。戦闘中だというのに寝てしまわれるとは。あの化け物との遊びが過ぎたのではありませんか?」
 シン・イスマイールを倒し、ライオットを倒し。あふれる笑みを抑えることができずに、ラスカーズが喉の奥を鳴らした。
「遊びが過ぎるのはそなたの方だ、ラスカーズ卿。無駄口を叩かずに早く残りを殺せ」
 高位の魔術を連発し、全身を駆け巡る激痛に顔をしかめながら、バグナードが低い声で促す。
 顔色から察するに、アルトルージュ皇女と使い魔のツインテールキャットは、化石竜との戦いで疲弊して気力を使い果たした様子。
 無理をすれば雷の縛鎖を解呪する程度はできようが、破壊の魔術を使う余裕はないはず。ここまでは計算どおりと言える。
「承知」
 獲物を狙う毒蛇が鎌首をもたげるように、ラスカーズがゆらりとレイピアを抜き。
 電光石火。
 剣尖が、もっとも手近にいたソライアに襲いかかった。
 柔らかい女の肉を貫く感触を想像して、ラスカーズの顔に狂った笑みが浮かぶ。
 ルージュとレイリアは一歩も動けず、ただ凄惨な未来を予見して言葉を失うばかり。
 だが響いたのは、少女の悲鳴ではなく、鋼同士が打ち合う重い響きだった。
「残念だったな。だがこれ以上はやらせん」
 寸前でレイピアを打ち払ったカザルフェロが、犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。
 その顔は野生動物そのもの。我が子を襲われ、決死の覚悟で天敵に牙を剥く親の姿だ。
 右手には長剣を。
 左手には、峰に凹凸のついた小剣を逆手に持ち、カザルフェロはソライアの前に立ちふさがる。
「ゴミが……邪魔だてするな!」
 まるで眼中になかった格下に邪魔され、ラスカーズの顔が怒りに染まった。
 瞬時に剣を引き、今度は目の前の男に向かって迅烈な刺突を打ち込む。
 シン・イスマイールをも傷つけた必殺の一撃だ。この程度の田舎剣士では、剣筋を見ることすら叶うまい。
 ラスカーズの剣はカザルフェロの二刀を苦もなくかいくぐると、容赦なく左胸を貫いた。
 傷つけられた肺から大量の血が逆流し、咳こんだカザルフェロの口から溢れる。
「貴様ごときが私の前に立とうなどと」
 不遜極まる。
 ラスカーズが冷笑とともにレイピアを引き抜こうとしたとき、カザルフェロが血まみれの口で笑った。
「おいおい、ちょっと待てよ」
 右手の長剣と左手の小剣で、自らの胸を貫く細い刃をはさみ、抜かせまいと押さえつける。
「ほう?」
 単に即死しなかっただけで、間違いなく致命傷のはず。
 それでも動けるのは称賛に値するが、最後の力を振り絞るにしては、あまりにも意味のない行動ではないか。
 ラスカーズがわずかに眉を上げたが、カザルフェロはそれ以上の時間を与えなかった。
 小剣の峰に刻まれた凹凸でレイピアを咥えると、残された力を込めて思いきり捻る。
 もとよりレイピアは突くことに特化した細剣だ。“刃を折るための剣”が相手では勝負にもならない。
 鈍くこもった音をたてて、ラスカーズの刃は根本からへし折れた。
 刃のほとんどをカザルフェロの胸に埋めたまま、握りこぶし2つ分を残して折れたレイピアを、美貌の騎士が無表情に眺める。
 最後の力を使い果たしたカザルフェロが、霞む目で会心の笑みを浮かべた。
 これほどの実力差があるとは想定外だったが、それでも敵の唯一の武器を奪ったのだ。悪い取引ではないはず。
 どんどん狭くなっていく視界。世界から色と音が遠ざかり、自分の意識が軽くなっていく。
 視界の隅でルージュが雷の縛鎖を解呪したのを見て、カザルフェロは呼びかけた。
「ふん……シン・イスマイール、あとは任ー」
「その名をほざくな!」
 とたんに悪鬼の形相を浮かべたラスカーズが、折れた剣を一閃、カザルフェロの喉を切り裂いた。
 末期の言葉は生命の灯とともにかき消され、力を失った手から2本の剣がすべり落ちる。
 高くあがった血の間欠泉も、心臓の停止とともにすぐに止んだ。
 あまりにも一方的で凄惨な最後に、誰もが言葉を失う中。
「……何それ?」
 目の焦点を失ったままの少女が、ぽつり、とつぶやいた。
 胸を貫く刃。
 半ば断ち切られた頚部。
 そして、非業の死にも関わらず満足そうな表情。
 あらゆる活動を停止したカザルフェロの肉体が、力なく大隧道に横たわっていた。
「勝手に見捨てて。勝手に助けて。挙げ句の果てに、勝手に死んじゃうの?」
 能面のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。
「殺しても死なないような男だったくせに、こんなにあっさり死なないでよ。私よりレイリアが大切だから、私を見捨ててでも守るんじゃなかったの? 邪教の司祭がまだここにいるのに、見捨てたはずの私をかばってどうするのよ?」
 悪い夢を見ているようだった。
 邪教の司祭に2度も喉を裂かれ、上司に見捨てられ、そして何故か、自分を見捨てたはずの上司に手を引かれて大隧道を走り回った。
 屍兵を浄化し、闇のブレスから逃げ遅れた戦士たちを避難させて治療し、その光景をソライアはどこか遠くから他人事のように眺めていた。
「冗談じゃないわよ。私、まだあなたに理由聞いてない。まだあなたに文句言ってない。まだあなたに仕返ししてない」
 自分の“死”に割り込んだカザルフェロの背中から、細い刃が生えてくる光景が脳裏から離れない。
 白銀の刃を伝った深紅の滴が、点々と地面に落ちる音が耳から離れない。
「まだあなたにありがとうって言ってない。まだあなたに恩返ししてない。やりたいことだって、話したいことだってたくさん残ってる」
 カザルフェロの名が呼び起こす思い出は、どれも苦しい記憶ばかり。
 だが、それでもよかった。
 ソライアの声に振り向いて顔を見てくれるなら。あの低い声で自分の名を呼んでくれるなら。
 それだけで十分だった。
 なのに今はもう、どんな言葉も、どんな想いも届かない。
「私、まだあなたに愛してるって言ってないのに!」
 ソライアの悲痛な叫びは、現実と心を隔てていた分厚いガラスを、粉々に叩き割った。
 まるで麻酔から覚めるように、身体の隅々まで意識が行き渡る。
 カザルフェロ戦士長が死んだ。
 それも自分の目の前で。
 その単純な事実が、ようやく現実のものとしてソライアに落ちてきた。
「絶対に許さない」
 ソライアは燃える瞳で、目の前に立っている邪教の司祭を睨みつけた。
「許さなければどうします?」
「死んでもらうわ。カザルフェロ戦士長が死んだのに、あなただけ生きてるなんて納得できないもの」
 ソライアの言葉を聞いて、ラスカーズの笑みが大きくなる。
「それがあなたにできると?」
「悪いけど、そのきれいな顔はぐちゃぐちゃに潰させてもらうわよ」
 そう言ってソライアが取り出したのは、予備に持っていた近接戦闘用の戦鎚だ。 
 剣のように急所を一撃とはいかないが、重量に任せて相手に叩きつけるだけという扱いの平易さは、技量の差をいくらか補ってくれるだろう。
「安心して。私だけ生き残ろうなんて虫のいいことは言わないから。マーファの御元に行かなきゃカザルフェロ戦士長に会えないんだったら、もう未練なんて何もないし」
 長い眠りから醒め、過酷な現実を突きつけられたソライアは、さっぱりとした表情で戦鎚を構えた。
「ラスカーズ、お前の相手は俺だ」
 癒しの魔法でかろうじて持ち直したシンが、ふらつく足取りで前に出た。
 ルージュの解呪まで時間がかかり、雷に受けたダメージは計り知れない。
 電撃で痺れ、違和感の残る手足。
 それをごまかしながら素手で身構えるシンに、すっとレイリアが寄り添った。
「私もお相手します」
 この中で気力体力に最も余裕があるのはレイリアだろう。
 凛とした気迫は清冽で、端然と小剣を構える姿も以前とは違う。
 シンに対する信頼と、自分に対する自信。
 この人と共にあれば大丈夫という揺るぎない確信が、今のレイリアに力を与えている。
 自分の前に立った3人の男女を等分に眺めながら、ラスカーズは肩をすくめた。
「導師様?」
「魔術の援護は1度きりと言ったはずだがな。卿が遊んでいるからこうなる」
 背中に返ってきたバグナードの返答はにべもない。
 バグナード自身、2度も化石竜のブレスを浴びて気力には余裕がないのだ。
「それは失敬」
 剣を折られた騎士と、魔法の使えない魔術師。普通に考えれば撤退以外の道はない。
 だが今、状況は敵も同じなのだ。
 シン・イスマイールは雷の縛鎖で焼かれて満身創痍の上、剣を失って徒手空拳。
 焼かれた傷は魔法で癒したようだが、電撃で麻痺した筋肉は痙攣を繰り返す。しばらくは繊細な動きなどできないだろう。
 それは、あの魔法を実際に味わったラスカーズが一番よく知っていた。
 レイリアともうひとりの少女は、そもそも対等の敵として考慮に値しない。
 そして後方に下がった敵の魔術師は、蒼白な顔で立っているだけだ。あれだけ疲弊すれば魔法など使える状態ではないはず。
 正面から戦っても、今なら問題なく勝てるだろう。
 剣さえあれば。
 ラスカーズが珍しく悩みを見せた。
 剣なしでも勝てぬとは思わないが、時間はかかる。だがここは敵地だ。時間をかければ当然。
 ちらりと横を見ると、予想どおりのものが目に入り、ラスカーズは軽く一歩跳びのいた。
「我が王国で、これ以上の狼藉は許さぬ!」
 ボイルの鋭い声と、鈍く空気をかき分ける音。
 一瞬前までラスカーズが立っていた場所に巨大なハルバードが飛来し、重々しい地響きをたてて突き立つ。
 その刃が完全に地面に埋まっているのを見て、ラスカーズの秀麗な頬が苦々しげに歪んだ。
 どれだけの膂力があれば、持ち上げるのがやっとというハルバードを、これほどの威力で投擲できるというのか。
 力任せの武芸は決して美しくなかったが、脅威であることには違いない。
「邪教の司祭だそうだな。おおかた、この魔神騒ぎも貴様らの仕業であろう。その首をはね飛ばして、戦士たちの墓前に手向けてくれる」
 ボイルが率いてきた戦士たちが、ラスカーズとバグナードを包囲する。
 どうやらここまでらしい。自分たちを取り巻いた戦斧の壁を眺めながら、バグナードは苦々しく認めた。
 形勢が逆転したことは明らかだ。ここは敵地。正体が露呈した時点で分が悪すぎる。
 どこから計画の歯車が狂ったのだろう?
 魔神の持つ黄金樹の枝に驚いて、ドワーフ側に手を貸しすぎた時か。それとも、化石竜の出現を予想できず、無防備に打撃を受けたときか。
「導師様」
 珍しく冷静なラスカーズに、バグナードはうなずいた。
「潮時であろうな」
 バグナードでは対抗する術すら思いつかなかった上位魔神を、シン・イスマイールは苦もなく捻り潰した。
 化石竜には多少苦労したようだが、その化石竜もライオットひとりに拘束され、最後まで防御を貫くことができなかった。
 どうやら、上位魔神がいれば彼らを倒せると思った前提自体、間違っていたらしい。
「では?」
「戻るとしよう」
 転移の魔術を準備しながら、ちらりと敵の姿を見る。
 今回も負けだ。
 だが、得るものがなかったわけではない。
 倒れたままのライオットを一瞥すると、バグナードは魔術師の杖を掲げた。
 全身を万力で締め上げられるような激痛に耐えながら、呪文を詠唱していく。
 無言で見逃すドワーフ族の王。
 よろめきながら立つ砂漠の黒獅子と、それを支える転生体の少女。
 安堵の表情を隠そうともしないアルトルージュ皇女と、険のある目つきでにらむツインテールキャットの使い魔。
「ちょっと待ちなさいよ! 逃げる気?!」
 その中でたったひとり、ラスカーズに殺されかかった名も知らぬ少女がいきり立つのを横目に、バグナードは最後の一節を唱えた。
 黒の導師と隻腕の騎士の姿が、今度こそ隧道から消え去る。
「どうして逃げるのよ!」
 敵の残滓を求めるように、ソライアが戦鎚を振り回した。
「私と戦いなさいよ! カザルフェロ戦士長だってかなわなかったんだから、私を殺すのなんて簡単なはずでしょう!」
 ドワーフ戦士団がつくった包囲網の中で、ソライアは激情を発散するように叫び、暴れ、やがて力なく膝をついた。
「どうして? カザルフェロ戦士長が犠牲になったのに、どうして私なんかが生き残ってるの?」
「己を卑下することは許さぬ」
 黙って少女の傷心を見守っていたボイルが、そこは許容できぬと口を開いた。
「カザルフェロ戦士長は戦士として強敵と戦い、力及ばず討ち死にしたのだ。見事な最後であった」
 威厳と敬意にあふれた声に、ソライアが顔を上げる。
 ボイルは厳しい表情で少女を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「分かるか? カザルフェロ戦士長はそなたを守るために戦った。そなたには、戦士長が犠牲になるほどの価値があるのだ。それを自ら卑下してどうする? 戦士が命を懸けて守ったものを貶すことは、戦士の死に様を貶すことと同じだ。他の誰が許そうとも、わしは断じて許さぬ」
「だけど私は……」
 何もできなかった。
 ただ見ていただけ。ただ怒っただけ。
 戦士長を手伝うことも、癒すことも、仇を討つこともできなかった。
 カザルフェロと引き替えにできるほどの価値なんてないのに。
「ならば、磨け」
 言葉にならない言葉を聞いて、ボイルの声が柔らかくなる。
「戦士長の魂に恥じぬよう、己を磨いて価値を高めよ。いずれそなたが神の御元に召され、戦士長と再会したときに胸を張れるような生き様を見せよ。それが戦士長への礼儀であろう」
 140年の齢を重ねてきたボイルの言葉は、膝をつき、うなだれたソライアの心に染み込んでいく。
 この日、カザルフェロの血とソライアの涙を最後の犠牲として、戦いは終わった。
 ドワーフ族の戦死者144名。
 ターバ神殿の戦死者1名。
 勝利と呼ぶにはあまりにも後味の悪い余韻が、鉄の王国に広がっていた。




 シナリオ5『決断』
 MISSION COMPLETE
  獲得経験点
   化石竜/ドラゴンゾンビ(モンスターレベル10)
   10×500=5000点





[35430] インターミッション5 ライオットの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2014/02/19 22:19
インターミッション5 ライオットの場合

 ふと気づいたとき、ライオットは緩やかに波打つ闇の中をたゆたっていた。
 何となく上下の感覚があり、肌は心地よい暖かさに包まれている。
 耳元で流れる落ち着いた音色は、死んだ戦士の魂を導くという戦乙女たちの話し声か。
 だとすれば、彼方に見える小さな光は“喜びの野”とやらの入口に違いない。
 自分は生きているのか、それとも死んでいるのか。
 それすらも判然としない世界の中で、ライオットはぼんやりと、思索の海に身を任せた。
 死そのものに対する恐怖はない。
 ただ、このまま死ぬのは嫌だった。
 ルージュに、あるいはシンやレイリアに、やり残したことが多すぎたから。
 ラスカーズたちを相手にした戦闘もそうだし、もっと大きな、未来とか将来とかいう視野で考えるべきものだってたくさんある。
 それに何より、自分が死んだらルージュが悲しむ。
 その事実はライオットにとって、自らの死それ自体よりも、はるかに重大なことだった。
 自分のいない薄暗い部屋で、たったひとり、ルージュが膝を抱えて泣いている様子を想像すると、それだけで魂がざわつくような痛みを感じる。
「帰りたいな……」
 ただただ皆に申し訳ないという陰鬱な気分で漂っていると、何か大きなものが近づいてくるのを感じた。
 以前も2度、感じたことのある感覚。
 ふつうなら緊張して萎縮するような圧倒的な存在だが、今はそんな気力は湧いてこない。
 不肖の信徒が戦いに敗れたから、迎えにでも来たのか?
 そんな投げやりな心境で、ライオットはため息まじりに言った。
「負けましたよ」
 答えは闇を震わす意志の波動となって、すぐに返ってきた。

    『敗北は忌避すべきことではない』

 それだけの言葉に、様々な意味が付与されてライオットの中に流れ込んでくる。
 真に忌避すべきは、戦いに背を向けて逃げること。
 為すべきことを為さずに諦めること。
 勝利を目指さず、ただ自暴自棄になること。
 力を尽くした結果の敗北は、むしろ誇りと共にある。
 それらのイメージを受け止めて、ライオットは弱々しく笑った。
 名誉ある敗北も結構だが、その結果残されるのが家族の涙では、死んでも死にきれない。
 不名誉でも逃げた方が幸せにできるのなら、逃げたっていいのではないか?
 マイリーの司祭として教義を全否定するようなことを考えながら、ライオットは聞いてみた。
「やっぱり、私は死んだんですか?」
 答えはすぐにあった。

    『汝が望むならば、このまま“喜びの野”へと導こう』

 ほぼ質問を肯定する言葉。
 ただし前提条件、ライオットが『望むならば』だ。
 マイリーの存在に、試すような、面白がるような雰囲気を感じて、ライオットの目の色が変わった。
 要望が入る余地のある以上、生死はまだ未確定なのだ。
 もう諦めかけていたルージュの笑顔が脳裏に浮かぶ。
 失ったと思った未来に、今ならまだ手が届くかもしれない。
 そう直感した瞬間、悩むより先に即答していた。
「じゃあ帰ります。帰してください。俺の戦いはまだ終わってないんです」
 まだ終わっていない。
 これからできることがある。
 たゆたう闇に希望という名の灯がともると、疲弊しきった心に震えるような活力が湧いてきた。
 もう一度あそこに立つことが許される。ならば今度こそ、いつ死んでも後悔のない生き方をしよう。
 故人が“一期一会”という言葉で表現した心境。
 そこへ至ったライオットが感じたのは、もう一度存在することが許されたことへの感謝だった。
 結局、人はどこにいても同じなのだ。
 どんな状況でどんな場所にいようとも、未来を決めるのは他人ではなく、自分自身の選択。
 選択肢とは他人が並べてくれるものではなく、自分自身の目で探し出すもの。

    『汝の戦いとは何か?』
 
 マイリーの声が降ってくる。
 いつかも聞かれた問い。あの時はシンと殴り合って一晩考えても、結局答えは出なかったのだが。
 今、すべてを失う場に立ってみれば、答えなど考えるまでもなかった。
 ライオットの望みは、ルージュを守ること。
 彼女の願いを叶え、彼女の笑顔を見ること。
 シンを助けること。
 レイリアが安心して生きていける世界を手に入れ、親友とレイリアが幸せに暮らす姿を見ること。
 もし自分とルージュに、あるいはシンとレイリアに子供が産まれたら、その子供たちだって守りたい。
 そしてそれは、戦場で誰かを倒せば終わるような、そんな簡単なものではないのだ。
 生きている限り、様々な困難や逆境は無限に発生し、戦いはずっと続く。
 つまり、一言で表現すれば。
「生きることが、戦いです」
 迷いなく断言したライオットに、マイリーは再び問いを投げかけた。

    『汝の勇気とは何か?』

 ライオットの脳裏に、鮮やかな光景が浮かぶ。
 宮ヶ瀬湖のほとりで、初春の太陽をうつしたダイヤモンドの指輪の輝き。
 そして、炭素の結晶などよりもっと眩しかった、ルージュの笑顔。
 ライオットの生きる意味そのもの。
「勇気とは、戦うための力をくれるもの。誰かを大切だと思い、その大切な誰かを守りたいと願う心です」
 その自信と確信に満ちた答えに、マイリーの気配が満足そうに身じろぎした。
 最後の諮問が向けられる。

    『汝が倒すべきものは何か?』

 倒すべきもの。
 ライオットが生き抜く上で、最大の障害となるもの。
 それはつい先ほどの、道を踏み外しかけていた自分自身に他ならない。
「マイリーよ。さっき私は、負けたって言いましたよね。訂正します。今はちょっと不利だけど、まだ負けてない。諦めて白旗を揚げるまでは、戦いは終わってないんですから」
 諦めたらそこで試合終了ですよ、と教える白髭の教師が、ホッホッホと笑った気がした。
 人は剣を握ってしまうと、視野が狭くなるのだ。
 目の前の敵を排除すれば勝ち。自分が戦闘不能になれば負け。そんな近視眼的なものしか見えなくなる。
 だが、戦いとはそんな小さなものではない。
 どうしてその敵と剣を交えているのか。どうなれば自分の望みを叶えることができるのか。
 そこから目を離したら、ほんの一時の有利不利に目がくらんで、永遠に勝ちには手が届かなくなる。
「倒すべき敵は、隙あらば諦めよう、絶望しようとする己の心です。つまりさっきまでの俺自身です」
 怠けようとしてもいい。
 楽をしようとしてもいい。
 だが、諦めることだけは許さない。
 回り道でも休みながらでも、目指す目的地から目を離さないこと。それこそが戦いなのだ。
「とりあえず今、私は敵を倒しました。だから元の世界に帰してください。まだ“喜びの野”へは行けません」
 
    『汝を意思を承認しよう』

 マイリーの声は暖かく、大きく、波紋となって闇の中へ広がっていった。
 周囲の空気が一変し“喜びの野”の光が消えていく。
 同時に、まるで夜明けのように、頭上の“空”が黒から藍へ、そして青へと変じていった。
 ルージュたちのところへ帰れるのだ。
 勝ちも負けも関係なく、ただ帰れるという事実に無上の感謝と喜びを感じながら、浮遊感のもたらすままにひたすら上を目指す。
 そんなライオットの背中に、マイリーが最後の言葉を投げかけた。

    『汝は、我が祭祀を司る者である』

 何を言われたのか心が理解するよりも早く、まるで水底から浮かび上がっていくように、意識の覚醒が始まった。
 徐々に重くなっていく身体。
 周囲の空気が粘り気を強め、瞼が引っ張られて開かない。
 頭の芯がしびれるような感覚と共に、誰かが呼ぶ声が次第に大きくなってきた。
「……、…………、…………!」
 体は動かずまだ眠っているが、五感が覚醒し、音の認識を始めたのだ。
 耳に心地よい、聞き慣れた声。
 ろくに動かない理性がルージュという名前と一致させたとき、ゆっくりとライオットの瞼が開いた。
 目に入ったのは、耐水布でできた天幕の天井と、涙を浮かべて自分を見下ろす銀髪の佳人。
 天幕自体はそう広くない。
 視線を動かせば、ルージュの後ろにはシンも気遣わしげな顔を並べているのが見えた。
 ライオットは右手を持ち上げ、拳を握ったり開いたりしてみる。
 特に異常はない。身体はいつも通り、自分の思うがままに動いて痛みも支障もない。
「当たり前か。怪我で死にかけたわけじゃないもんな」
 正確には右肩をラスカーズに貫かれたが、そこは誰かが治療してくれたらしい。
 上体を起こすと、何かを言いかけたルージュを制し、ライオットはまずシンに問いかけた。
「バグナードたちはどうなった?」
「撃退した。いや、してもらったって言った方が正確だな」
 めずらしく自嘲したシンに、ライオットが続きを促す。
 シンは表情を改めて親友を見た。
「カザルフェロ戦士長が死んだ」
 言葉は簡潔だった。
 小さく息を飲んだライオットに、シンは淡々と告げる。
「お前が倒れた後、戦士長がラスカーズの相手をしたんだ。戦士長は我が身を犠牲にして時間を稼いだ。そこにボイル王とドワーフ戦士団が来て、バグナードたちは《転移》で逃げた。俺たちは何もできなかったよ」
 あの奇襲に対応できなかったことを失策と呼びたくはないが、それでも、為すすべなく一蹴されたのは事実だし、そのツケをカザルフェロに払わせたのも事実。
 人望といい能力といい、カザルフェロはターバ神殿にとってかけがえのない人材だったと言えるだろう。
 その彼を、自分たちの無力のせいで死なせたのか。
 どうしようもない罪悪感から苦労して目をそらすと、ライオットは質問を変えた。
「レイリアは?」
「司祭たちの取りまとめをしてる。今の神官戦士団には指揮官がいないからな」
 ターバから来た増援部隊には、指揮系統がふたつ存在する。
 ひとつは神官戦士団。もうひとつは随行してきた神殿の司祭たちだ。
 今まではカザルフェロ戦士長が統括していたが、神殿の位階で言えば、残された戦士団の幹部よりも司祭たちの方が上になってしまう。
 そこで戦士団の指揮は古株の戦士頭が、司祭たちの指揮は最上位の司祭であるレイリアが、それぞれ担当して合議することになったのだ。
「……ライくん。カザルフェロ戦士長はね、ソライアさんを守ったんだよ」
 重苦しい空気に、ルージュがそっと口を挟んだ。
「人質にされたソライアさんを守れなかったから。もう二度と見捨てないって私たちにも約束したから。ソライアさんの心を閉ざしたのは自分だって責めてたから」
 玲瓏な声にルージュの心が乗り、悲しい響きを奏でる。
「きっとカザルフェロ戦士長は知ってたんだよ。ソライアさんが、自分のことをずっと想い続けていたことを」
 それを承知の上で、一度はレイリアを守るために見捨てざるを得なかった。
 自分の行動がソライアの心にどれほどの傷を付けるか、カザルフェロは知っていたのに、彼には他の選択肢がなかったのだ。
 ターバ神殿の戦士長として、邪教の司祭に“亡者の女王”の寄り代を渡すわけにはいかない。そんな当たり前の行動が、どれほど救いのない結末をもたらしたことか。
「ソライアさん泣いてた。まだ愛してるって言ってないのにって」
 ルージュはやるせない吐息をもらした。
「……そうか。やっぱりフラグ発動しちゃったか。戦いの前に恋の告白を画策してたもんな」
 ライオットは冗談めかして言ったが、これはさすがに不謹慎だろう。
 厳しい表情を浮かべて、シンがライオットを睨む。
「言い過ぎだぞ」
 しかしライオットは答えず、穏やかな微笑を浮かべてふたりを見上げた。
「俺さ、信じてたことがあるんだ。命の価値ってやつ。人は死んだら絶対に蘇らない。命はひとりにたったひとつしかない。だからこそ至上の価値のあるものなんだって」
 自分の思いを、言葉は正確に表現できているか。
 ライオットはそれを確かめるように、丹念に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから俺さ、『人は死んだら蘇らない』っていう常識を、ゲームといえども捨てたくなかった。それが命の価値を守ることだと信じてたから。だから《リザレクション》とかいうふざけた魔法は許せなかったし、俺自身、プリーストを9レベルには上げたくなかった」
 命はひとつ。決して蘇らない。
 それはプレイヤー時代のライオットが、ゲームは所詮ゲームだと“思わない”ために、自分で自分に課したルールだ。
「でも俺、今回死にかけてやっと気がついたよ。そういう手加減は、ゲームだから許されるんだ。現実に“できるけどやらない”をひとつでも作れば、死ぬときに後悔でねじ切れそうになる」
 事ここに至れば、ライオットが何を意図しているかは明らかだった。
 シンとルージュの顔に希望の光が灯るのを見ながら、ライオットは力強く断言した。
「俺がカザルフェロ戦士長を《蘇生》させる。儀式が必要だ。レイリアとボイル王に言って、儀式に参加できる司祭をありったけ集めてくれ」
 それは覚悟。
 ライオットが、日本とは違う法則の支配する世界で“現実”を生きると決めた、覚悟の表明だった。


 冒険者の司祭が、カザルフェロ戦士長の《蘇生》の儀式を行うそうだ。
 その情報はまたたく間に鉄の王国に広まった。
 知られている限り、このロードス島で《リザレクション》の奇跡を起こすことができるのはたったのふたり。ターバ神殿の最高司祭ニースと、ヴァリス神殿の最高司祭ジェナートだけだ。
 もしこの冒険者が3人目であったなら、彼は六英雄に肩を並べるほどの実力者という事になる。
「かかる儀式をこの神殿で執り行えようとは。我が神殿始まって以来の晴れ舞台ですな」
 魔神との決戦の翌日。
 ボイル王に儀式の準備を命じられたドワーフの老司祭は、わずか1日でやりとげた仕事を前に、しみじみと述懐した。
 聖堂内陣には臨時の祭壇が築かれ、カザルフェロの遺体が眠っている。
 内陣から左右に広がる翼廊に居並ぶのは、儀式に参加する司祭たちだ。
 鉄の王国のマイリー神殿から、老司祭を筆頭に15名。
 ターバ神殿から来たマーファの随行司祭も、レイリア以下15名。
 合わせて30名の司祭たちが、真剣な面もちでそれぞれの座についている。
 聖堂には大勢の戦士たちが詰めかけていた。
 信者たちが祈りの場とする身廊では入りきれず、左右の側廊にまであふれ、ひしめき合うようにして儀式を見守っている。
 宗派も種族もバラバラだが、誰もが儀式の成功とカザルフェロの復活を願っている。もし人々の祈りが力になるなら、これほど力強い助けはない。
「うまくいくと思うか?」
 身廊の最前列で、ボイルがシンに問いかけた。
「もちろんです」
 シンの答えには寸毫の迷いすらない。
 あのライオットが、やると宣言したのだ。
 発言の中身がどうあろうと、言ったことは必ず成し遂げる。それだけは間違いない。
 ざわめいていた地下の聖堂が静まり返ったのは、その時だった。
 聖堂の大扉から、真新しい礼装に身を包んだライオットが姿を見せたのだ。
 純白の長衣には金糸で縁取りが施され、腰には橙色の直垂が、肩には緑のマントが、ライオットの歩みに合わせてひるがえる。
 ドワーフの職人が一晩で縫いあげた最高司祭の礼装は、ライオットの毅然とした歩みに、風格という名の装飾を見事に調和させていた。
「あれ、ホントにあいつか?」
「ライくんっていい服を着ると、ほんと見栄えするよね」
 普段のミスリルプレートとはあまりにも違う印象に、シンとルージュが小声で感想を交わす。
 そこにいたのは、悪戯とフラグ折りが大好きで、話を面白くするためなら自虐すら厭わない冒険者の戦士ではない。
 ニース、ジェナートという伝説級の人物にさえ比肩しうる第三の導き手として、マイリー教団を背負って立てるほどの聖職者の姿だった。
 ここまで盛大に準備し、ここまで注目を集めたからには、やっぱり失敗しましたでは済まされない。ライオットも人間である以上、想像を絶するプレッシャーに苛まれているはずだ。
 それでもライオットは、万人の視線を受けながら臆することなく堂々と進んだ。
「あなたのような勇者が行う儀式へ参加できることは、我が信仰の中でも特筆に値すべき栄誉でしょうな」
 神殿長をつとめる老ドワーフが、深いしわの刻まれた相好をくずし、満面の好意でライオットを出迎えた。
 上位魔神を倒し、竜を滅ぼした勇者たちの勲は、たった一晩で鉄の王国全土に広まっている。
 そのような勇者に力を貸せることも、そしてマイリー教団からついに《リザレクション》の使い手が輩出されたことも、老司祭にとっては素直に喜ばしい出来事だ。
「あなたの助力に感謝します。当神殿の協力なしでは、ここに立つことすら叶わなかったでしょう」
 祭主という立場上、ライオットに謙遜は許されない。
 あくまでも上からの目線を堅持したまま、それでも精一杯の感謝を込めた言葉を、どうやら老司祭は正確に受け取ってくれたようだった。
「すべてはマイリーのお導きですかな」
 穏やかな微笑で応え、上座へとライオットをうながす。
 祭主を補佐する侍祭の位置にいたのは、黒髪をまっすぐに下ろしたレイリアだった。
 戦場でのことゆえ、どうやら礼装の準備は間に合わなかったらしい。清潔だが装飾のない純白の神官衣をまとい、ターバの代表としてライオットに一礼する。
「カザルフェロ戦士長のためのご尽力、感謝の言葉もありません。私ども一同、微力を尽くしてお手伝い申し上げます」
「戦士長のような勇気ある戦士に尽くすのは、マイリーの司祭としてこの上ない喜びです」
 公の発言には公の返答を返す。
 そしてライオットは、他人に見られないように背中を向けると、レイリアにひっそりと笑いかけた。
「大変だけど頼むよ。君の魔法がうまくいけば《リザレクション》の成功率は跳ね上がる。ダメだったら俺が何とかするけど、巧くいってくれるとありがたい」
「全力を尽くします」
 レイリアは硬い表情でうなずいた。
 ライオットを除いた司祭たちの中で、最上位は7レベルのレイリアだ。
 ここがマイリー神殿であるにも関わらず、儀式の補助者にレイリアを指名したのは、純粋な技量を頼んでのこと。神殿の主である老司祭の顔は潰してしまったが、儀式の成功にはかえられない。
 ライオットはふたりを従えると、法衣をさばいて祭主の座に立った。
 聖堂に集まった数十人の司祭と、数百人の戦士たち。
 その全員を前にして、朗々たる声で宣言する。
「私はマイリーの啓示を受けました。『汝は、我が祭祀を司る者である』と」
 神殿において祭祀を司る者を、司祭と呼ぶ。
 高位のプリーストは教団から司祭たるを命じられて、初めて神殿ひとつを取り仕切る権限を得る。
 つまり司祭とは、神殿の長を示す単語でもあるのだ。
 では、マイリーから直接司祭たるを命じられたなら、それは何を意味するのか?
 ロードス全土の祭祀を取り仕切る権限を与えられたに等しいのではないか?
 ライオットの言葉が浸透するにつれ、主にマイリーの信者たちのざわめきが大きくなってきた。
 長年にわたって空位だった教団最高司祭の座。そこに就くべき人物が、マイリーに見出されたということではないか。
 壇上に立つライオットが最高司祭の礼装をまとっていることも、信者たちの興奮に拍車をかける。
 ロードスにおいてファリス教団やマーファ教団に比べて勢力の劣るマイリー教団が、ついに求心力の核となる英雄を輩出した。
 しかもその英雄は、ドワーフ戦士団の目の前で“竜殺し”という偉業を成し遂げた最高の戦士なのだ。
 うねるような熱気が沸き上がり、聖堂を支配しかけたとき、ライオットは右手を挙げてそれを制した。
 熱は波が引くように静まり、続く言葉を待つ沈黙が降りる。
「私は最初の祭祀として、カザルフェロ戦士長の《蘇生》を望みます。皆さん、共に祈ってください。猛き戦神マイリーに、そして慈愛の女神マーファに。誇り高く戦い、そして散ったカザルフェロ戦士長の魂に、今一度の生をもたらすために」
 ライオットの言葉で、聖堂に集まったすべての人々が祈り始めた。
 祈る作法も願う言葉も様々だが、その想いはひとつだ。
 人々の祈りは聖堂を包み、静謐と呼ぶにはあまりにも熱い空気が充満する。
 ライオットの目配せを受けて、レイリアが大きく両手を広げると、祈りの“場”が形成された。
 誰よりも強く《蘇生》を願うソライアの、そして大勢の司祭たちの祈りが集まり、大きな力となって“場”にそそぎ込む。
 集まった想いは“力”そのものだ。
 ひとりで支えきるには余りにも熱く、大きく、レイリアの制御を崩そうと激しく波打っては溢れ出そうとする。
「まだ全然足りないぞ。レイリア、もっと広げろ。司祭だけじゃなく、今ここにいる戦士たちの分も残さず拾い上げるんだ」
 額にびっしりと汗を浮かべて法術を制御するレイリアに、ライオットが無理難題をふっかけた。
「無茶を言わないでください! これ以上は無理です!」
 小声でレイリアが悲鳴を上げる。
 ともすればこぼれ落ちそうになる力を引き戻し、壁を高く上げ、強く引き締めて、何とか制御するので手一杯なのだ。
 現状維持すらおぼつかないというのに、これ以上の力をまとめられるわけがない。
「情けないこと言うなよ。カザルフェロ戦士長を助けたいんだろ? そのための想いの力がこれほど溢れてるのに、自分が制御できないからって、そんなみっともない理由でみんなの祈りを無駄にするのか?」
 みっともなくてすみませんね!
 でも無理なものは無理なんです!
 私は、あなたやシンやルージュさんみたいな英雄とは違うんです!
 レイリアは内心で悪態をつきながら、歯を食いしばって制御を強めようとする。
 今まで、一番厳しいのはルーィエだと思っていたが、訂正だ。ルーィエの教育的指導など、ライオットのスパルタに比べれば春のそよ風の如しだ。
 全身からふき出す汗が麻の神官衣を重く濡らす。
 額から滴った雫が目にしみたが、それを拭う余裕すらなかった。
「ライオットさん、やっぱり私にはー」
 負荷に耐えかねて意識が遠くなり、レイリアの口から最後の言葉が漏れそうになったとき。
 ライオットが言った。
「レイリア。想いは力になるかもしれないが、力は決して想いにはなれない。今自分が託されたものが何だか理解しているか?」
 託されたもの。
 それはソライアの、ターバの司祭たちの、そして手伝ってくれるマイリー神殿の司祭たちの祈りの力。
 レイリアが維持する“場”には大勢の司祭の祈りが集まり、濁流となって暴れ回っている。
 それが何だというのか。
 あまりにも激しい力に飲み込まれ、うすれていく五感。
 レイリアの視界から色が消えかかったとき、その声は聞こえた。

『戦士長、どうしても聞いてほしい言葉があるんです! だから絶対戻ってきてください!』

 悲痛なまでに鋭いソライアの声。
 レイリアが弾かれたように親友を見ると、親友はひざまずいたまま、顔を伏せて一心に祈っていた。

『カザルフェロ。わしは鉄の王国を、おぬしはターバを守ると約したのではないか。仕事を放り出すにはまだ早すぎるぞ。ひとりだけ楽をしておらんでさっさと目を覚ませ』

 秋の夕暮れのように落ち着いた声で呼びかけていたのは、ドワーフの老司祭だ。
 魔神戦争が現実のものだった時代、肩を並べて魔神と戦ったふたり。共有した若き日の熱情までもが、祈りを通してレイリアに伝わってくる。

『戦士長、このままじゃソライアが可哀想すぎますよ。正直あなたには渡したくないけど、ソライアが望むんじゃ仕方ない。戻ってきてください。彼女を幸せにするために』

『はるばるターバから増援を招いておいて、我らの手落ちで指揮官に死なれたとあっては鉄の王国の名折れ。なんとしても蘇っていただきますぞ』

 司祭たちの想いは様々で、ひとつとして同じものはない。それぞれの願いはそれぞれの強さで“場”の中を飛び回り、互いをかすめ、ぶつかり合っている。
 祈りの“場”に取り込まれたレイリアの意識は、やっとそれに触れることができた。

『想いは様々。理由もバラバラ。だけど皆、カザルフェロ戦士長に戻ってきてほしいと願っているんですよね』

 レイリアがふと考えると、それまで無秩序だった祈りの奔流に方向性が生まれた。
 故人を現世に呼び戻したい。そう願うレイリアの意識に同意するかのように、祈りがレイリアに沿って流れ、渦を巻き始める。
 レイリアは祈りの渦の中央で、ひとりひとりの祈りに耳を傾けた。
 カザルフェロを好きだった者。
 嫉妬していた者。
 戦士長という看板しか見ていない者。
 儀式の成功だって、ソライアのように我が身と交換でもと強く願う者もいるし、ダメでもともとという冷めた視点の持ち主もいる。
 レイリアが全員の祈りに触れ、全員の願いを知ったとき、“場”に満ちる力は整然として、レイリアとともにあった。
「皆の祈りは、誰かがねじ曲げたり、押さえつけたりすべきものではなかったんですね」
 大きく吐息を漏らして、レイリアは祭主の座を仰いだ。
 驚きを隠しきれないライオットに、少しだけ誇らしげな微笑を向ける。
「司祭としてどうあればいいか、分かった気がします。私たちの役目は人々に祈りを教えることじゃない。人々の祈りに耳を傾けることなんですね」
「もう大丈夫みたいだな」
「はい。けれど、聖堂にはまだまだたくさんの人がいます。私は皆さんの祈りを聞いてみたいです」
 レイリアが広げていた手を胸の前で組むと、祈りの“場”が急激に広がり、流れ込む力が激増した。
 最前列で見守るボイル王やシン、ルージュの気持ちが伝わってくる。
 後列で指揮官の帰りを待つ戦士たちの願いが、我先にと中に入ってくる。
 だが、レイリアはもう揺るがない。
 そのすべてに耳を傾け、受け入れて“場”の流れへと導いた。
 聖堂に集まった人々すべての祈りの力は、今、聖堂内陣に螺旋を描いて保持されている。
 力ずくで押さえつける必要などなかったのだ。
 レイリアはただ、皆の言葉を聞き、祈りを捧げる先を案内するだけでいい。
「偉大なるマイリーよ……」
 そして最後に、ライオットの言葉とともに、大いなる力に最後の一滴が加わる。
 ライオットが祈り捧げた本音に、レイリアはくすりと笑った。
 聖堂にいるすべての人々の中で、もっとも打算に満ちたライオットの思い。
 だが同時に、それは唯一、カザルフェロが蘇った後の世界を向いた願いでもあった。
「勇気ある戦士の御霊を今、ここに喚び戻し給え」
 レイリアが《パワーリンク》で集めた精神点の総量は、おそらく2000点を超える。
 それを惜しげもなく天上に返しながら、ライオットは思った。
 神が人々の信仰を力にできるという話は事実なのだろう。こんなにも分かりやすく数字で証明できるのだから。
 ならば、神が人々の祈りに応えられることもまた、自明の理。
 聖堂に集まったすべての人々の願いが、希望が、ライオットのつけた道筋を通って神の御下へと駆け昇っていく。
 尊くも力強い祈りたちがマイリーに届くと、神の奇跡はすぐに地上に舞い降りた。
 聖堂に神気が満ち、世界の色さえ変わった。
 しわぶきひとつなく、誰もが無言で見守る中、黄金の輝きが粒となってカザルフェロ戦士長の亡骸に吸い込まれていく。
 どくん、と、聞こえるはずのない鼓動が皆の耳に届いた。
 血の気を失った肌に赤みが差し、カザルフェロの胸がゆっくりと上下を始める。
 聖なる祈りの場であった聖堂に、歓喜と興奮がじわりと浸食してきた。
「奇跡じゃ……」
 老司祭が震える声でつぶやいた。
 そう。これは奇跡なのだ。
 断じて魔法などではない。
 奇跡を呼び起こしたのは聖堂に集った司祭や戦士たちの祈りであって、ライオットは単に祈りを案内したにすぎない。
 その“事実”を誰よりも正しく知るが故に、ライオットは、蘇生の儀式の成功を意外なほど穏やかな気持ちで受け入れていた。
 少し前の自分を罵倒したい気分だった。
 生命の軽視などと、思い上がりも甚だしい。自分ひとりで何ができたものか。これほど大勢の人々の祈りがあったからこそ、神は応えてくれたのではないか。
「偉大なるマイリーは、皆さんの祈りをお聞き届けになりました」
 蘇生の儀式を成功させた功労者たちに、ライオットは心からの賛辞を送った。
「誇ってください。聖堂に集まった皆さんの力が、カザルフェロ戦士長を喚び戻したのです」
 聖堂に歓喜が爆発した。
 歓声が何度も轟き、誰もが隣人と抱き合い、笑顔を交わす。
 喧噪と興奮が支配する中、ソライアがカザルフェロに駆け寄った。
 温かい手。無精ひげの浮いた頬。騒がしい周囲に迷惑げな眉。
 生きている。
「戦士長! 起きてください! 戦士長!」
 だが、その目が開くまで。
 その口が自分の名を呼んでくれるまで、安心できない。
 ソライアは両手でカザルフェロの手を握りしめると、何度も繰り返し呼びかけた。
「絶対聞こえてるよ」
 少女に場所を譲り、傍らで見守りながら、ライオットは微笑んだ。
 小さく首を傾げたレイリアに、自信たっぷりに断言する。
「だって、俺も聞こえたからさ。俺を呼ぶルージュの声が」
 やがてソライアの声に揺り起こされ、カザルフェロの目が開く。
 周囲を見渡し、お祭り騒ぎの中心に自分がいることを認識すると、カザルフェロはゆっくりと上体を起こした。
「……何なんだ、この辱めは?」
 涙を浮かべて手を握るソライアからあえて目を逸らし、カザルフェロはライオットを見上げた。
「人は、大勢の人々に支えられて生きてるってことさ。それに、辱めはこれからだ」
 ライオットの人のわるい笑みを遮るように、ソライアがカザルフェロの手を引いた。
 様々な事情から罪悪感がわいてくるが、とりあえず謝罪しないことには話が始まらないだろう。
 カザルフェロは腹を決めると、正面からソライアの顔を見た。
 美しい少女だ。ただ造形が整っているだけではなく、まるで太陽のように生命を発散させる表情が、目を惹きつけてやまない。
「ソライア、あのときはー」
「愛してます」
 ためらいがちに発したカザルフェロの謝罪を、ソライアの真剣な告白がかき消した。
 迷いのあるカザルフェロと、全身全霊で必死に想いを伝えるソライアでは、言魂の持つ力がまるでちがう。
 単刀直入に突きつけられた想いに圧倒されて、カザルフェロが返答に窮すると、ソライアはたたみかけた。
「愛してます、戦士長。5年前からずっと。私の気持ちは変わってません」
 一息に想いを伝える。
 そしてカザルフェロの目を見つめ、自分の言葉が相手に届いたのを知ると、ソライアは大粒の涙を浮かべて微笑んだ。
「言えた……」
 最初の一雫がこぼれると、涙が止まらなくなった。
「戦士長、私、言えました。ずっと伝えたかったんです。でも見捨てられちゃうし、戦士長勝手に死んじゃうし、死んじゃったらもう何も言えないじゃないですか!」
 ふてぶてしさが持ち味のカザルフェロも、さすがに少女の涙には勝てないらしい。
 困惑し、自分の腕をソライアの背中に回すべきか悩んでいる様子を、ライオットは満足そうに眺めた。
「ずるいです。自分だけ勝手に私を守って、私は戦士長の仇も取れなかった。でもいいです、文句だけは言えましたから。そうだ、私、まだ仕返ししてない。戦士長、仕返ししていいですか?」
「ソライア、あなた告白したいんじゃないの?」
 支離滅裂なソライアにレイリアが小声で助言する。
 ソライアの声はよく通るから、この告白劇は大観衆の注目の的だ。せめて恥ずかしくない対応をと思ったのだが、残念ながら、ソライアの耳には届かなかったらしい。
「仕返しか。いいだろう。お前にはその権利がある」
 平手打ちか何かが飛んでくるのだろう。
 その程度なら安いものだ。カザルフェロがうなずくと、予想通り、ソライアの右手がひるがえった。
 だが、想定した衝撃が来ない。
 けげんそうに見上げるカザルフェロの頬に、ソライアの手が優しく添えられた。少女は祭壇に身を乗り出し、そっと顔を近づける。
「ちょ、ま、ソラ……」
「仕返しです」
 瑞々しい唇が戦士長の口をふさぐと、聖堂の興奮は最高潮に達した。
 8割の歓声と2割の悲鳴が交錯し、雰囲気が純粋な祝福から奇妙な混沌へと姿を変える。
 潤んだ瞳で親友を見つめているレイリアに、ライオットは悪戯っぽく言った。
「羨ましいなら、シンにそう言えばいい。何なら俺から伝えてやろうか?」
「ライオットさん!」
 レイリアが頬を染めて文句を言う。
 だがすぐに、それがライオット流の照れ隠しであることに気がついた。
 自分が導いた奇跡と、その結果伝えることができた想いの価値に、自分で感動してしまっているのだ。
 ならば、仕返しにはいい方法がある。
 レイリアは声と表情を改めると、深々と頭を下げた。
「ライオットさん、本当にありがとうございました。ターバ神殿と神官戦士団を代表して、心からお礼を申し上げます。ライオットさんがいなければ、今ごろ鉄の王国は魔神と化石竜に蹂躙されていたでしょうし、私は邪教の司祭に連れ去られ、カザルフェロ戦士長は亡くなったまま、ソライアも失意の涙にくれていたに違いありません。それもこれもすべてライオットさんのー」
「ごめん、俺が悪かった。それくらいで勘弁してくれ」
 賛辞の連呼にたちまち根を上げ、ライオットが全面降伏の体で両手をあげる。
「しかしレイリアも言うようになったよな。初めて会った日は、箱入りのお嬢様の見本みたいだったのに」 
「ひどい。私をこんな風にしたのは、シンとライオットさんじゃないですか」
 ふたりは顔を見合わせると、やがて声を上げて笑った。
 いくつもの失敗を乗り越えて、最後に笑うことができた。
 今がどれほど貴重な時間なのか。ライオットが噛みしめるように味わっていると、レイリアが小声でぽつりと言った。
「でも、私が感謝してるのは本当なんですよ?」
「分かってる。ありがとう。君とシンがいるこの世界だから、俺は戻ってこれたんだ」
 真剣な本音には、本音で返す。
 それがライオットなりの礼儀だから、返した答えだったのに。
 レイリアが浮かべた慈愛に満ちた笑顔は、今までに倍する威力でライオットの涙腺を刺激した。
 心にじわりと熱いものが広がるのを感じて、ライオットはあわてて咳払いする。
 ここはしんみりとする場面ではない。大団円は楽しい笑顔でなければならないのだ。
「まあ、あれだ。男は有言実行。ハッピーエンド以外は認めないって、常々言ってるしさ」
「ほんとフラグブレイカーの面目躍如だよね」
 身廊の最前列から祭壇に上ってきたルージュが、ちらりとレイリアに視線を向ける。
「それとレイリアさん。ライくんにそういう笑顔向けないで。今度やったら意地悪するからね」
 氷の魔女の一瞥にレイリアが震え上がると、周囲の司祭たちから笑いの声がはじけた。
 英雄たちの交わす何でもない雑談が、白竜山脈の地下にとけていく。
 この日、聖堂に満ちる笑顔とさざめきを最後に、ひとつの戦いが終幕を迎えた。



 シナリオ6『決断』

  獲得経験点 5000点

  今回の成長

   ライオット プリースト 8→9(12000点)

         経験点残り 5000点

   レイリア  プリースト 7→8




[35430] インターミッション5 シン・イスマイールの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2014/02/19 22:13
インターミッション5 シン・イスマイールの場合

 シンが掲げる松明の光の輪に、いびつな巨像が照らし出されていた。
 化石となった骨に岩盤で肉付けし、負の生命力を与えられて蘇った太古の竜。
 その亡骸だ。
 脚や胴体に残る戦斧の痕を見るだけで、ドワーフ戦士団の猛攻の凄まじさが伺える。
 そして、そのまま視線を上げると、竜の体は滑らかな断面を見せて消失していた。
 竜の象徴たる長い首や牙の並んだ頭部が、左の翼もろとも抉り取られて消え失せているのだ。
「どういう威力の魔法なんだよ?」
 この場にはいない魔女を責めるように呟くと、シンは肩をすくめて周囲を見回した。
 激戦の跡。
 とはいうものの、瓦礫が散乱する荒れ果てた場所ではない。むしろ逆だ。
 ルージュの巨大魔術は化石竜の上半身を、塵ひとつ残さずに蒸発させてしまった。
 犠牲者の遺体や前線に集積されていた物資はとうに片付けられ、あたりは空虚なまでに殺風景な眺めが広がっている。
 もはやここには何もない。
 それが一目瞭然なのだ。
「竜の頭は、やはり残っておらんようじゃの」
 シンが渋い顔で戦場を見渡していると、傍らで同じように松明を掲げるギムが、いささか残念そうに言った。
「あれはいい剣であったがな。人の手で鍛えたものである以上、剣は不滅ではない。お嬢ちゃんの魔法に巻き込まれて消滅したのではないか?」
 “精霊殺しの魔剣”ズー・アル・フィカール。
 化石竜との戦いで行方不明になったシンの愛剣を探すために、シンとギムのふたりは戦場を訪れていたのだが。
「……そう、なのかもな」
 明らかに気落ちした様子のシン。
 失言であったか。
 ギムは顎髭を撫でながら唸ったが、やがて言い訳をするように言った。
「剣士が剣を失ったのだ。気持ちは分かる。だがの、ボイル王がおぬしに渡した剣とてドワーフ族の秘宝じゃ。おぬしの新しい愛剣にふさわしかろうと思うぞ」
 いま、シンの背には真新しい剣が収まっている。
 剣の銘は“孤高なる銀嶺”アロンダイト。
 最高純度のミスリル銀を“永久の炉”で精錬し、ドワーフ族最高の刀匠が“ブラキの鉄床”で鍛え上げた、伝説級の大業物だ。
 両手持ち、両刃の大剣で、分類としてはグレートソードに入るだろう。鋭い刃で切り裂くことよりも、重量と勢いで叩き斬ることに主眼をおいた造り。
 それ自体が武器になりそうな頑丈な鞘は黒く塗られ、同じくミスリルで精緻な装飾が施されている。黒地に銀という色使いながら、地味ではなく繊麗に見えるあたり、きっと名のある鞘職人が手がけた傑作なのだろう。
 シンはライオットと違って剣道を習ったわけではないから、剣や戦い方が変わること自体には抵抗がない。
 軽く振ってみただけで、この剣が凄いことは分かる。特に打撃力は、ついでに言えば値段も、精霊殺しの魔剣よりずっと上なのだろう。
 だが今の、そしてこれからのシンが必要とするのは、剣単体のスペックではないのだ。
「アロンダイトが凄い剣だってのは分かる。だけど俺には、精霊殺しの魔剣がどうしても必要なんだ。あれがあるのとないのじゃ、これから先の苦労が全然違う」
 思い詰めたようなシンの言葉に、ギムは首を傾げた。
「よく分からん話だの。邪教の司祭どもはおぬしが苦労するほどの相手には見えんし、仮に苦労したとしても、優れた剣の方が戦いやすいのではないか?」
「俺の敵はあいつらじゃない。世界そのものなんだよ」
 まるで謎かけのような答えだが、シンはそれ以上説明する気がないようだった。
 ギムはじっとシンを見つめたが、やがて、小さく吐息をもらした。
「そうか」
 ギムが初めてシンと剣を合わせたとき、シンの剣はまるで嵐のように激しく、ギムを翻弄した。
 ギムが初めてシンと肩を並べて戦ったとき、シンの心はまるで子供のように怯え、ギムを驚かせた。
 奇妙なことだとは思っていたが、少なくともあの頃は、自分とシンは同じものを見ていたはずだ。
 だが、あれから季節が巡り、ロードス北辺を短い夏が駆け足で過ぎ去った今。シンが見ているものが、ギムには見えない。
 認めよう。
 心のどこかで弟子のように感じていた青年は、すでにギムの手の届かない大空へと羽ばたいたのだ。
 世界が敵だから、失われた剣が必要だ、と。
 鉄の王国を救ってくれた英雄が断言するなら、受けた恩義を返す方法は1つしかない。
「ならば探すとしようか。なに、半日も探せば見つかるじゃろうて」
 口髭の下で笑みを作ると、ギムは化石竜の足下を掘り始めた。もしかしたら踏んでいるのでは、と思ったのだ。
「すまない、助かる」
 シンは素直に礼を言うと、自分も剣を探そうと視線を地面に落としたが、すぐに顔を上げた。
「そうだギム、迷惑ついでにもうひとつ頼みがある。上等の酒を調達して欲しいんだ。今夜までに」
「剣を探すよりは、そっちの方が得意分野じゃの。任せておけ。夕食までにとっておきを用意しよう」
 ギムは目を細め、自信たっぷりに請け負う。
 大隧道の天井に突き刺さった剣が発見されたのは、その1刻後。
 街に戻って採掘工たちに助力を求め、足場を組んで何とか剣を引き抜いたのは、さらに2刻後のことだった。


 その晩の宴は盛大なものだった。
 明日の朝、神官戦士団はターバに帰還すると決まったからだ。
 昨日の激戦、そして今日はカザルフェロ戦士長の蘇生の儀式が行われたばかり。もう少し休んで疲れを癒してはどうかとボイルは打診したのだが、ターバ神殿の現状がそれを許さなかった。
 神官戦士団のほぼ全軍のみならず、手の空いている司祭たちもほとんど根こそぎ派遣となり、今のターバにはわずかな留守番が残るのみ。
 今度は神殿の方が悲鳴を上げ、落ち着いたら速やかに帰還するようにと、ニースの名前で指示が届いたのだ。
 それならばと鉄の王国からは大量の振る舞い酒が提供され、酔い潰して帰還を阻止しようと言わんばかり。もう夜も遅いというのに、宴席の方からは人間とドワーフが肩を組んで笑う声が聞こえてくる。
「あいつら、明日ちゃんと動けるんだろうな? 二日酔いの阿呆がいたら叩き直してやる」
 体の自由が利かず、早々に宴席から下がったカザルフェロが、宿舎の寝台で忌々しげに舌打ちした。
「大丈夫ですよ。みんな限界は心得てるはずです」
 不機嫌を隠そうともしないカザルフェロの傍らで、ソライアは楽しそうに応じた。
「それに戦士長、まだ杯も満足に持てないんでしょう? 叩き直すって言ったって、今の戦士長じゃ返り討ちにされるだけですよ」
 蘇生したばかりで、まだ魂と肉体がきちんと結びついていないのだ。今のカザルフェロは、寝台に上体を起こして軽い物を持つのが精一杯。
 とてもではないが、立ったり歩いたりできる状態ではない。
「それとも、ただ単にみんなが飲んでるのが羨ましいんですか?」
「……ソライア。俺を苛めるのは楽しいか?」
 寝台のそばで果物を切りながら、悪戯っぽい笑顔を向けてくるソライアに、カザルフェロは恨みがましい視線を返した。
「楽しいですよ。決まってるじゃないですか」
 以前ならば誤魔化したであろう問いかけに、ソライアはにこりと頷く。
 カザルフェロが生きて、自分の顔を見て、自分の名を呼んでくれる。これがどれほど幸せなことか、きっとカザルフェロには分かるまい。
 おまけに今この時間、カザルフェロを独占しているのはソライアなのだ。
 恋しい男性とふたりきりの時間を過ごしていて、喜ばない女がどこの世界にいるものか。
「戦士長、林檎がむけましたよ。どうぞ」
 きれいに切った瑞々しい果物を、指先でつまんでカザルフェロの口に持っていく。
 突きつけられた果物に冷や汗を流している上司に、ソライアは満面の笑みで追い打ちをかけた。
「はい、あ~ん」
「いやソライア、ちょっと待て……」
 カザルフェロは周囲を見回すが、この部屋にいるのはふたりきり。助けはない。
「なに恥ずかしがってるんですか。せっかく親切でむいてあげたんですから、無駄にしたら林檎と私に失礼ですよ?」
「だがな、それとこれとは話が」
「往生際が悪いです」
 頬を膨らませて抗議するソライアに、カザルフェロの目が泳ぐ。
 本音と建て前を使い分けて生きてきたカザルフェロにとって、裏表のないこの少女は眩しすぎるのだ。持ち前の闊達さに加えて、蘇生の一件以来、好意を隠そうともせずにぶつけてくる。
 大観衆の面前で唇を重ねたから、周囲もそういう目でふたりを見ているし、これでは戦場の方がよほど気が楽というものだ。
「俺は武骨者なんだがな」
 カザルフェロがあきらめて口を開きかけたとき、木製のドアがノックされた。
 客人を招いた覚えはないが、この羞恥の時間を終わらせてくれるなら誰でもいい。
 急に生気を甦らせたカザルフェロに、ソライアは再び頬を膨らませた。
「もう」
 持っていた林檎の切片をカザルフェロの口に押し込み、渋々と立ち上がってドアを開ける。林檎をくわえたままの姿を披露することが、せめてもの報復だった。
 ふたりきりの時間を邪魔する来客を、どうやって追い返してやろうか。
 ソライアは考えながらドアを開け、そこに立っていた人物を見ると、表情を一変させた。
 穏やかに微笑むレイリアと、平服に着替えたライオット、それにシンとルージュまで一緒だ。
 どうやって抜け出してきたのか知らないが、今宵の宴の主役が勢ぞろいではないか。
 言葉を失っているソライアに、レイリアは申し訳なさそうに言った。
「せっかくの時間なのに、邪魔してごめんなさい。シンから戦士長にお話があるそうなんです」
 魔神殺し、竜殺しの英雄たちとカザルフェロ戦士長の会談なら、邪魔者はむしろ自分の方だ。ソライアが寝台を振り返ると、カザルフェロと目が合った。
「構わないから入ってもらえ。それとソライア、シン・イスマイールに異論がなければお前も同席しろ」
 くわえていた林檎をサイドボードの皿に戻して、カザルフェロは姿勢を正した。寝台に寝たきりの身ではあるが、部下たちの命を救ってくれた恩人には払うべき礼儀というものがある。
 ソライアが開けたドアからシンたちが入ってくると、カザルフェロは素直に頭を下げた。
「お前さんたちのおかげで、部下には一人の犠牲も出なかった。礼を言う」
 その言葉にライオットが応じる。
「じゃあ俺からも礼を言わせてくれ。あんたのおかげでルージュは傷ひとつ負わないで済んだ。本当に助かったよ。ありがとう」
 死者の蘇生という究極の奇跡を成し遂げた司祭が、同じように頭を下げる。
「やめてくれ。マイリー教団の最高司祭が、俺みたいな半端者に礼なんか言うもんじゃない」
 本気で嫌がるカザルフェロに、ライオットが顔を上げた。
「どこから突っ込めばいいんだか分からない台詞だな。俺は最高司祭じゃないし、あんたも半端者じゃない」
「堅っ苦しい話はそこまでだ」
 謝礼合戦にソライアやレイリアまで参戦しそうな気配を察して、シンがばっさりと切り捨てる。
「俺たちはそんな話をするために来たんじゃない。本題はこれだよ、これ」
 シンが掲げてみせるのは、ギムに頼んで入手した火酒のボトルだ。つまみは食堂に頼んで干し肉をもらってきた。
「宴もすぐに下がってきたみたいだし、どうせ飲み足りないんだろ? ちょっと付き合ってくれよ」
 シンは遠慮なく寝台に腰掛けると、魔法のようにグラスを取り出してカザルフェロに握らせる。
 半分だけ注がれた火酒から燃えるような芳香が広がった。
 鉄の王国の誇る最高級の蒸留酒だ。一口含めば、その名のとおり喉が焼けるような感覚を味わえるだろう。
「こいつは上等だな。金を出せば買えるって類の品じゃないぞ」
 無愛想なカザルフェロの顔が、思わず嬉しそうに崩れた。
 グラスに入った火酒は筋力の限界に達するほど重かったが、これほどの逸品にはそうそうお目にかかれるものではない。
 さしたる時間もかけずに一杯目を空にすると、シンはすかさず二杯目を注いだ。
「いける口みたいだな」
「剣では敵わんがな。こっちでは負けんよ」
 シンとカザルフェロが差しでグラスを空けている間に、レイリアはナイフを取り出して干し肉を薄切りにしていく。
 ライオットが窓際にあったテーブルを寝台のそばに運ぶと、ルージュの皮袋から照焼き肉と野菜のサンドイッチが大量に出現し、テーブルに並べられた。
 どうやら酒を飲めないふたりは、これから夕食にするらしい。
 炭火で焼いた香ばしい肉の匂いが部屋に充満し、皆の胃袋を刺激する。
「ソライアはどうする? 麦酒と葡萄酒もあるけど?」
 食堂でもらってきたオレンジの絞り汁を用意しながら、ライオットが尋ねた。
 ライオットとルージュは果汁、レイリアは葡萄酒。完全にやりたい放題だ。
 ふたりきりの愛の時間を、あっと言う間に飲み会に変えてしまった英雄たちに、ソライアは深々とため息をついた。
「どれだけ飲む気なんですか。夜通しとか言い出さないでくださいよ? ちなみに私は葡萄酒がいいです」
 言った途端にグラスが出現し、ルージュが楽しそうに微笑みながら葡萄酒を注ぐ。
 ソライアは様々な不満ごとグラスをあおり、すぐに目を丸くした。
 鮮やかな色合い、グラスから立ち上る芳醇な香り、甘口で酸味の少ない味わい。どれをとっても尋常ではない。葡萄酒が舌にふれた瞬間に違いが分かる。
「これは……」
「おいしいでしょ? ラフィット・ロートシルトの499年だよ」
「“宮廷の貴婦人”じゃないですか!」
 宮廷の品評会で特等を取り、辛口の批評家として知られるパーカー卿が絶賛したという至高のラベル。
 最高級葡萄酒の代名詞として、辺境の村ターバにまで音に聞こえる品だ。間違っても、ストレス発散のためにがぶ飲みしていい代物ではない。
「あっちの男ふたりは火酒らしいから、レイリアさんとふたりで空けちゃってね」
 同量の金貨に等しい葡萄酒を気軽に渡され、ソライアの手が震えた。
 もし落としたら、とてもではないがソライアの財産では弁償できない。
「足りなかったら、おかわりもあるから」
 軽いルージュの一言に、ぐらりとソライアの視界が揺れた。
 ラフィット・ロートシルトをもう1本。
 自分やカザルフェロ戦士長の生活では、こんな機会は2度と来ないだろう。それだけは断言できる。
 心の中で優先順位の針がカザルフェロから“宮廷の貴婦人”に振れると、ソライアは小さく咳払いしてレイリアの隣に腰を据えた。
「いただきます」
 そこから先は、場は和んでいく一方だった。
 臨死体験経験者であるライオットとカザルフェロが“向こう側”の景色について議論を戦わせる一方、ルージュがシンの彼女いない歴について披露すれば、ソライアはレイリアの修行時代の失敗談を暴露する。
 王国をひとつ救った英雄たちは、手酌と持ち込みの軽食、それに他愛ない話題だけで、心から楽しそうに笑い合った。
 ライオットがシンとの賭けに負け、全裸で雪原に飛び込んだ話では、あのカザルフェロまでもが声を上げて笑ったのだ。
 酒はそれぞれの心に巡らされていた城壁を崩し、城門の閂を開いていく。
 背負っている責任も、抱えている重荷もすべて投げ出し、ただの人として過ごせる時間。
 持ち込んだ酒の半分を消費する頃には、すでに心の壁は取り払われていた。
 ふとした拍子に沈黙が部屋に降りても、気まずくなる気配などない。
 ただ黙って酒を味わえばいいだけのこと。
 静かになった部屋の中、カザルフェロが空けたグラスに何度目かの火酒を注ぎながら、シンはしんみりと言った。
「あんたさ、言っただろ? 俺のやり方を続けてたら、いずれはマーファ教団とアラニア王国ぜんぶを敵に回さなきゃならないって」
 恨むでも、文句を言うでもなく、ただ淡々と語っていく。
 シンが答えを求めていないことは瞭然だったので、カザルフェロは黙って注がれた火酒を見つめた。
 話が本題に入ったのを悟って、レイリアとソライアも黙って耳を傾ける。
「レイリアにどんな生活をさせたいんだって聞かれた時、正直さ、頭を殴られた気がしたよ。俺はまだまだガキだから、そんなことも考えてなかった。ただ宮廷や邪教の刺客を追い払って、レイリアに手出しをさせないようにしようって、そんな目先のことしか見えてなかったんだ」
 普段あまり自分のことを語りたがらないシンが、珍しく吐露する心情。
 男としてのプライドを酒で眠らせ、ただ穏やかな口調で語る“砂漠の黒獅子”に、カザルフェロは渋い笑みを返した。
「俺にはその“目先のこと”すらできなかったんだがな。俺が手も足も出なかったあの変態野郎から、お前さんは何度もレイリアを守ってきた。俺が近づくことすらできなかった魔神を、お前さんは一刀で片づけたそうじゃないか」
 認めたくなかった事実を、本人を前にしてさらりと認めてしまう。
 さしたる抵抗感もなくそれができてしまったということは、おそらく自分は相当酔っているのだろう。
 だがカザルフェロは、それが恥ずかしいとは思わなかった。
 男の人生とは、重い荷物を背負って、果てしなく続く遠い道を歩くようなもの。たまには酒の力を借りて休憩したっていいではないか。
 それが旨い酒なら尚更だ。
 カザルフェロが自分の負けを心地よく認めていると、今度はシンが首を振った。
「邪教とか魔神とか、剣が通じる相手なら負けないよ。だけど今の俺じゃ、剣が通じない相手には勝てない。宮廷もそうだし、ターバ神殿だってそうだ。今の俺じゃ勝てない。今のままじゃレイリアを守れない。あんたの言うとおりなんだ」
 シンが並べる言葉だけを聞けば、自嘲と取れなくもない。
 だが強くなっていくシンの口調と、双眸に浮かぶ峻烈な意志の光は、全員にまるでちがう印象を与えた。
 シンが言いたいのは、こんな弱音ではない。
 重大な決意を秘めている。
 全員がシンに注目し、決定的な言葉を待つ。
 それを感じ取ったか、シンは顔を上げ、きっぱりと断言した。
「だから決めた。俺は王になる」
 あまりにも突拍子のない結論。
 カザルフェロやソライアが絶句し、場にそれまでとは違う沈黙が降りたが、シンは気にせずたたみかけた。
「俺は国を作る。アラニア王国にもターバ神殿にも屈しない、強い国を」
「作るってその、シン、どうやって?」
 酔いを消し飛ばした様子のレイリアが、おそるおそる問いかける。
 アラニア王国は末端まで支配の行き届いた強固な王国だ。ターバ周辺こそ神殿の自治が認められているが、こんな辺境の村が独立したところで、宮廷に対抗できるほどの力はない。
「“風と炎の砂漠”を統一する」
 ライオットとルージュも、シンがそこまで決断したことに驚きを隠せなかった。
 シンの決断は唐突だが、合理的で正しい。
 剣に対抗するなら剣が、国に対抗するなら国が必要。まったくもって疑問の余地もない正答だ。
 正しいのだが、それは現代日本の常識で言えば世迷い言に属する。一歩間違えば厨二病である。
 民主主義の常識と教育で育った男が、王になるなどと本気で発言するには、どれほどの葛藤を克服する必要があったのか。
 皆の驚愕の視線の先で、シンは持ってきた剣を掲げてみせた。
「俺が炎の部族の出身なのは知ってるだろ? この剣は炎の部族の英雄の証。俺はこれを使って“風と炎の砂漠”を平定する」
 暗黒神ファラリスの教団と繋がりの深い族長ダレスを追放し、炎の部族を支配下においたら、風の部族を従えるのだ。
 傭兵王カシューが単なる傭兵からのスタートだったのに比べ、シンは部族の英雄からのスタート。砂漠の統一はずっと容易に終わるはず。
「砂漠を支配下においたら自由都市ライデンを吸収し、“火竜山の魔竜”シューティングスターを討って“火竜の狩猟場”を解放する。それでロードス随一の交易都市と広大な沃野が手に入る。どんな国にも負けない、ロードス最強の王国の誕生だ」
 すべてはターバ神殿とアラニア王国の干渉を排除し、レイリアの自由を守るために。
 大まじめに語るシンに、カザルフェロやソライア、それにレイリアまでもが、奇妙な表情を浮かべて沈黙していた。
 おそらく、何と言って諫めるべきか考えているのだろう。
 国を作るなどと、常識で考えれば荒唐無稽な話だ。現実的ではない。
 だがそんな空気を、ライオットは遠慮なく叩き割った。
「シンにはできないと思うか?」
 不遜なまでに自信たっぷりの表情で、ライオットはカザルフェロに問いかけた。
「シンは単なる戦士じゃない。炎の部族の次期族長に一番近い男なんだ。それに今回、ボイル王に大きな貸しを作ったから、一度や二度の援軍は期待できるだろう」
 そして従う仲間は“不敗の盾”ライオットと“奇跡の紡ぎ手”ルージュ。
 すでに“竜殺し”たちの名声は鉄の王国にくまなく轟いている。神官戦士団やターバへの巡礼者を介して、ロードス全土に広まるまでさほど時間は要しないだろう。
 第三の導き手たるライオットが従う勇者となれば、シンの旗の下にはロードス全土のマイリー教徒たちが集まってきても不思議ではない。
 シンの王国がマイリー教団を、マイリー教団がシンの王国を、互いに支援するような仕組みができれば、相乗効果で両者の勢力はさらに強化されていく。
 もはやシンたちは、単なる個人ではないのだ。
 今度こそ絶句したカザルフェロを、シンはまっすぐに見つめた。
「今夜はこれを言いに来た。俺がレイリアに、どんな生活をさせたいのか。これが俺なりの答えだ。あんたにはきちんと言うのが礼儀だと思った」
 そして今度は、真剣な表情でレイリアに向き直る。
 自分が人生の岐路に立っていることを自覚し、心なしかおびえた様子のレイリアに、シンはきっぱりと告げた。
「レイリア。俺は君に、王になるまで待っててくれなんて言う気はない。一緒に来て欲しい。ターバ神殿を出て、俺と一緒に戦って欲しい。俺たちの未来を、俺と一緒に切り開いて欲しい」
「シン……」
「もちろん、今日明日にでも出ていくって訳じゃない。まだ俺自身決めたばかりだし、砂漠に行くにも準備だって必要だろう。だけど、俺は本気だから」
 愛する男性が、自分のためだけに見せた決意。
 ピート卿の屋敷で誘われたときとは比べものにならないほどの強固な意思を示されて、レイリアは自分の血が熱くなるのを感じた。
「分かりました」
 考えるよりも早く、心が答えていた。
 “戦士”という殻は完全に割られ、シンは大きく花開こうとしている。
 シンの道の行き着く先がどこなのか、レイリアには想像もできない。
 けれどこれだけは分かる。
 この純粋な魂と共にあるために、自分は生まれてきたのだ。
「あなたに付いていきます。どこまでも」
 未来にどんな苦難が待っていても、シンと一緒なら乗り越えられる。喜びも悲しみも、ぜんぶ分かち合って同じ道を歩こう。
 そう決断できた自分が、レイリアは誇らしかった。
「……やっぱり敵わねえな、お前さんには」
 寝台の上でカザルフェロが小さく笑った。
「王になる、か。ターバの戦士長で満足してた俺には、とても思いつかない台詞だ。だが、それが言えない男じゃレイリアは守れないんだろうな」
 グラスに残った火酒を一息に呷り、喉を焼かれる感触に顔をしかめる。
 胸に残った様々な思いを熱い吐息に乗せて吐き出すと、カザルフェロは正面からシンを見つめた。
「お前さんの決断に敬意を表する。レイリアは任せた。もう余計な口出しはしない」
 背負っていた荷物の半分を目の前の若者に預けると、カザルフェロは改めてシンを見た。
 ニースがシンを買っていた理由がよく分かる。
 自分が限界だと思って引いた線を、この若者は何の躊躇もなく、軽々と跳び越えてしまうのだ。
 すると期待してしまう。自分にできなかった何かを、この若者は成し遂げてしまうのではないか、と。
「後は頼んだぞ、シン・イスマイール」
 ターバを守ることしか思いつかなかった自分の出番は、ここまでだ。
 カザルフェロは空になったグラスを突きだし、再び注がれた火酒を喉に流し込んだ。
 目頭が熱くなったのは、強い酒のせいだ。
 そう信じようとして、カザルフェロは火酒を呷り続けた。



 シナリオ6『決断』

  獲得経験点 5000点

  獲得アイテム
  “孤高なる銀嶺”アロンダイト
   ミスリル銀製、伝説級品質のグレートソード。
   必要筋力が6低く作られている。
    必要筋力16(打撃力基準筋力22)
    打撃力32
    攻撃力+3
    クリティカル値±0
    追加ダメージ+3

  今回の成長
   技能・能力値の成長はなし

  経験点残り 29000点      



[35430] インターミッション5 ルージュの場合
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2014/04/26 00:49
インターミッション5 ルージュの場合

 ほのかに脈動する淡い光が、ルージュにあてがわれた宿舎の室内を照らしていた。
 暖かな輝きを放つ小さな木の枝。
 創世神話に登場するその存在は、この世界の住人たちに“黄金樹”と呼ばれている。
 上位魔神が持っていた頃はいっぱいに葉が茂っていたが、度重なる巨大魔術に使用されて、今や残っている葉は半分ほどか。
「それでも7000点分は残ってるよね……」
 左手の中指からカーラの指輪を抜き取ると、ルージュは疲れた目を閉じて揉みほぐした。
 カーラの指輪がもたらす魔術的な視界の中で、黄金樹の枝はまさに太陽だった。強烈なマナを持続的に放射し、あまりの眩しさに実体すら霞むほど。
 これは危険だ。少なくとも、一個人がアイテム代わりに所持していい代物ではない。
 ルージュは外した指輪を弄びながら、背もたれに身を預けて天井を見上げた。
 肉眼に映る黄金樹は、さながら電飾の施されたクリスマスツリーだ。葉脈が暖かな黄金色に脈動する光景は、誰が見ても綺麗だと感じるだろう。
 同時に、シンが評した“無限魔晶石”という言葉も本質を言い当てている。
 黄金樹本体はどうだか知らないが、少なくともここにある小さな枝には、意識や精神も存在しない。神話級の魔力を内包したこの枝は、手に取るだけで誰にでも利用できる、単なる力の結晶なのだ。
 この甘い餌の存在を人々が知れば、どれほどの厄介事が群がり寄ってくることか。
「ざっと思いつくだけでもバグナード、カーディス教団、ラルカス学長と賢者の学院だって黙ってないだろうし、アラニア宮廷も見逃してくれないよね」
 そして忘れてはならないのが、帰らずの森のハイエルフたち。
 世界樹の子孫を自称するエルフにとって、黄金樹は祖霊のような存在に当たる。
 ただでさえ森だの樹木だのが絡むと攻撃的になる種族だ。彼らがゴミ屑扱いする人間の手に黄金樹があると知れば、どんな攻撃をしてくるか知れたものではない。
「で、どうするんだ半人前?」
「捨てる。こんな物、手元に持ってるの嫌だもん」
 間髪入れない答え。
 ベッドの上で丸くなっていたルーィエは、呆れた口調で尋ねた。
「捨てるってどこに捨てるんだ? その辺の森に埋めるのか? 海に沈めるのか? まさか脳筋樽どもの溶鉱炉にでも放り込む気じゃないだろうな?」
「それをいま悩んでるんでしょ。文句ばっかり言ってないで、ルーィエも一緒に考えてよ」
 明朝には鉄の王国を出発し、ターバへの帰還の途につく。できれば外の世界に出る前に、こんな危険物は処分してしまいたかった。
 右手に持ったカーラの指輪を唇に当てながら、ルージュは難しい顔で壁をにらむ。
 存在を隠すだけなら、6レベルの古代語魔法に《シール・エンチャントメント》という呪文がある。物体に付与された魔法効果を完全に隠蔽するという便利な呪文だ。
 だが残念ながら、これは遺失魔法。ルージュの呪文書には掲載されていない。
「隠すだけでいいなら、ナニールの墓所で“玄室”に入れちゃうのが楽なんだけどな」
 特殊な魔法で完璧に防護されたあの玄室は、外界から完全に隔離されている。いかなる魔法であろうとも外から中に干渉することはできないし、その逆も然り。
 純粋に機能だけで考えたなら、この世界に玄室以上の場所は存在しないだろう。
 だがもし、あの部屋が“使用”される日が来たら。
 それを考えると、ルージュの口調は否定的にならざるを得ない。
「何かの間違いで黄金樹と亡者の女王が結合したら、ちょっと面倒なことになるんじゃないか? 劇薬を同じ場所で保管するのはいい考えとは思えないぞ」
 銀毛の猫王はえらそうに論評すると、黄金色に輝く木の枝を眺めて考えこんだ。
 理想論を言えば、妖精界に戻すのが一番なのだろう。
 だが、妖精界への扉を開くことができるのは、ハイエルフと呼ばれる古代種だけだと聞く。
 ではそのハイエルフとやらに、どうやったら会うことができるだろう。そもそも実在するかどうかも疑わしいではないか。
 だからといって海に捨てれば、やがて海流に乗って岸に打ち上げられるかも知れない。森に隠しても、狩人や妖魔に見つけられてしまうかも知れない。
 空には空の、海には海の、森には森の獣がいる。誰にも行くことができない場所というのは、この世界にはほとんど存在しないのだ。
「仕方ない。深い穴でも掘って埋めるか……」
 理想的と評するにはほど遠いが、少なくとも持ち歩くよりは安全だろう。
 誰が、どこに、どうやってという問題は残るが、それは単に技術的なものだ。解決できないことはない。
 具体的な検討に入ろうとしてルージュを見る。すると銀髪の魔女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、魔法樹の杖をとって立ち上がった。
「いい場所に心当たりがあった。ちょっと行ってみようか」
 言うなり、それ以上の説明をしようとせずに転移の呪文を唱え始める。
 ルーィエは小さく肩をすくめると、不肖の弟子の肩に跳び乗った。

 
 鈍色の雲が夜空にたなびき、まるで天の川にかかった橋のように見えた。
 足下に影が伸びるほどの明るい星明かり。
 頭上にひしめく星々と三日月を観衆にして、茂みでは過ぎゆく夏を惜しむ虫たちが鳴き、大地を渡る風が木々を揺らして優しい伴奏をそえる。
 そして、眼前には煌々と輝く大きな湖面が広がっていた。
「ここは?」
 短くルーィエが尋ねる。
 この居心地のよい空気は、水と風と木の精霊たちが穏やかに過ごしていることの証だ。
 少なくとも数百年間、人や妖魔の手で荒らされることはなかったはず。
「ルノアナ湖。そう呼ばれてるんだってさ」
 そう答えるルージュの声は、ひどく懐かしげに響いた。
 かつて“灰色の魔女”カーラと、ほんのひとときの郷愁を共有した場所。
 あの日カーラと交わした言葉や過ごした時間が、昨日のことのように思い出される。
 もう一度故郷を見たい。
 ずっとじゃなくていい。1日だけでもいい。もう一度故郷の風景を見るために。
 シンの決意やライオットの覚悟に比べれば、どうしようもなく庶民的な願いなのだろう。
 だがカーラはそれに応えて、最高位の遺失魔法を伝授してくれたのだ。
 かけがえのない思い出を胸に、遠い目で穏やかな微笑みを浮かべるルージュ。
 その傍らでは、ルーィエが風の精霊のささやきに耳を傾けていた。
「この近くには人間の集落もないし、妖魔や魔獣が争うこともないそうだ。この湖に目を付けたのは、半人前にしては悪くない選択じゃないか」
 きょとんとして相棒の言葉を聞いたルージュは、ふっと破顔すると小さく笑った。
「ああ、ごめん。まだ説明してなかったっけね。違うの。黄金樹はここには沈めないよ。別の場所に持っていく」
「だったら何しに来たんだ?」
 とたんに不機嫌になったルーィエが尻尾を振り回し、棘のある口調で問いつめる。
「縁起をかつぎに」
「縁起?」
 意味が分からないと語尾を跳ね上げたルーィエに、ルージュは素直にうなずいた。
「そう。毎晩練習してたけど、今まで一度も成功しなかったから。だけど、ここでなら巧くいきそうな気がして」
 かつてカーラが描いて見せた、異界への門の設計図。
 常軌を逸したケタ違いの難易度に、あの日のルージュは到底不可能だと諦めてしまったが、今は違う。
 確かに自分の実力では、カーラほどの緻密さは望めない。
 だったら全天を覆うほど巨大に描こう。
 必要なのは小さくまとめることではない。正確に構成すれば、魔術はきちんと発動するのだ。それは黄金樹の力を借りて化石竜を消しとばしたとき、ルージュ自身が実演したばかりではないか。
 ならば故郷への想いを絵筆として、この地に宿るマナを絵の具として、世界というキャンバスに異界への門の姿を描ききってみせよう。
 奇跡が起きなければ帰れないというなら、この手で奇跡を紡ぐまで。
 今の自分には、きっとできる。
 ルージュは目を閉じると、右手に魔法樹の杖を、左手に黄金樹の小枝を持ち、心からの郷愁を込めて呪文を唱え始めた。
 春には並木道から降りそそぐ桜吹雪が。
 夏には夜空に咲く大輪の花火が。
 秋には店先に並ぶ魅力的なスイーツが。
 冬には色とりどりの電飾で街や家を飾る人々の笑顔が。
 様々な思い出が脳裏に浮かび、ルージュはそれを余すところなく絵筆に込めた。
 世界そのものが輝くのではなく、世界を美しくしようとする人々の想いで輝く故郷が、たまらなく愛おしかった。
 やがてルージュの詠唱が止まったとき、ルノアナの湖上には、マナで描かれた巨大な塔が屹立していた。
 カーラが見せたものとは全く違う姿。
 だがルージュはその構成を見上げて、満足そうに微笑んだ。
 姿が違うのは道理だ。そもそも行き先が違うのだから、同じ姿になるはずがない。
『万能なるマナよ……』
 ひどく穏やかな最後の一節に応えて、ルージュが描いた塔が輝き、回転しながら湖面に沈んでいく。
 やがて塔のすべてが姿を消したとき、魔女たちの郷愁を受け止めた湖面には、銀色の魔術文字で描かれた複雑な魔法陣が輝いていた。
 直径10メートル。カーラのものよりもずいぶんと大きいが、精密さではまったく引けを取っていない。
 呪文が成功したことは明らかだった。
 フォーセリア世界で前代未聞の、異世界へとつながる次元門。
 ルージュが求め続けてきた故郷への扉が、今、ルノアナの湖面に開いている。
 ただのゲーム好きの一般市民だったルージュが、ファンタジー小説を1冊書けるくらいの波瀾万丈の末、自分自身の力を磨いて勝ち取った成果。今まで紡いできた奇跡の中でも、極めつけの逸品だった。
 この門をくぐれば、もとの平穏な世界に帰れる。
 無数の思い出で彩られた故郷へ。
 しばらく無言で銀色の魔法陣を見つめたルージュは、やがて静かな声を相棒に向けた。
「ルーィエ、一緒に来てくれる? あなたにも見てほしいの。私の生まれ育った世界を」
 その声に含まれた、ほんのわずかな怯みに気づいたのか。
 ルーィエは髭をふるわせると、ことさらに胸を張ってルージュを見上げた。
「ふん、当たり前だ。半人前だけで放り出せるか。俺様が引率してやる。そっちこそ迷子になるなよ」
 湖畔に立ったまま動かないルージュの足下をすり抜け、さっさと魔法陣の上に跳び乗る。
 星空を映して輝く湖面。
 銀色の魔法陣。
 そして、湖面に降り立つ銀毛の双尾猫。
 その光景を目の当たりにしたとき、唐突にルージュの中で何かが身じろぎした。
 日本に帰れば、この光景ともお別れなのだ。
 向こうでは魔法陣など何の意味もないし、湖の上に立つことなど不可能だし、そもそも猫はしゃべらない。
 どれかひとつでも非常識で非現実的。世界の常識が全力でルーィエの存在を否定する以上、ルーィエは向こうの世界では生きられない。
「そっか。考えもしなかった」
 向こうへ帰るということは、ルーィエと別れるということなのか。
 ロードスで過ごした一夏。
 もしルーィエが隣にいなければ、ルージュは今ここに立っていなかっただろう。
 意識や五感を共有し、魂を分けあったとさえ言える相棒との別離。
 心をちくりと刺した痛みに、ルージュは足を動かすことができなくなった。
 故郷に帰りたい。それは間違いないこと。
 だが自分はルーィエに、この世界のすべてに別れを告げられるのだろうか。
 本当に行っていいのか。
 向こうの世界に戻ってしまったら、何かが壊れてしまうのではないか。
 だが、そんな心の迷いを、湖面に立つ双尾猫は軽く一蹴した。
「さっさと来いノロマ。その黄金樹を捨てに行くんじゃないのか? おうちが恋しいだけの子供じゃないなら、今の自分が何を為すべきか、常に頭に置いておけ。そんなんだからいつまでたっても半人前なんだ」
 容赦なく尻を蹴飛ばす言葉に、ルージュの顔に苦笑が浮かぶ。
 ルーィエの言うとおりだ。今はとりあえず、この黄金樹を始末すること。
 それに、自分でカーラに言ったのではないか。“帰れない”のと“帰らない”のは違うのだ、と。
 今はただ、選択肢を手に入れたことを喜べばいい。これからは、いつでも望んだときに《門》は開くのだから。
「そうだね、行こう」
 ルージュもサンダルに包まれた足を踏み出し、湖の上に立つ。
 ひとりと一匹を支えた魔法陣は、淡く輝くと、ゆっくりと来客を飲みこんでいった。
 足首からふくらはぎへ、そして腰へと沈みながら、ルージュは祈るように目を閉じる。
 前回も感じた軽い目眩。
 今目を開ければ、もう景色は一変しているはずだ。
 電線と高層ビルで切り取られた空に。
 アスファルトとコンクリートで覆われた大地に。
 だが、本当に?
 もし違ったらどうしよう?
 ファンタジー小説の世界から現実に帰ることなど、本当にできるのか?


 訳もなく不安に襲われ、きゅっと強く目をつむったルージュの顔を、甘い排気ガスの臭いのする風が、かすめていった。


 鉛色の夜空に街の明かりが反射し、うっすらと白く輝いていた。
 雲がかかっている訳でもないのに、ほとんど星が見えない。
 折り重なるようにして聳える高層ビル群では赤色の衝突防止灯が規則的に明滅し、街中に張り巡らされた道路に自動車のヘッドライトが連なる。
 眼前に広がる世界は、さながら煌々と輝く光の海だった。
「この世界では、星を捕まえて明かりにしてるのか?」
 唖然としてルーィエが尋ねる。
 マナの力も、精霊の気配も感じられない虚無の世界。
 それなのに、この不自然なまでの光の洪水は何としたことか。
「詩人だね」
 甘い毒を含んだ風に髪をなぶられながら、ルージュはうっすらと微笑んだ。
 喜び、懐かしさ、そして不安。
 様々な感情がごちゃ混ぜになった不思議な気分で、排気ガスの臭いのする空気を胸いっぱいに吸い込む。
 うれしいはずなのに、どこか漠然とした虚無感が胸にこびりついて離れない。
 自分が何を感じているのか理解できないままに、けれど、たったひとつだけ間違いのない事実がある。
 ルージュは、帰ってきたのだ。



 シナリオ6『決断』

  獲得経験点 5000点

  今回の成長

   ソーサラー 9→10(25000点)

         経験点残り 0点







[35430] キャラクターシート(シナリオ5終了後)
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2015/02/02 23:46
キャラクターシート(シナリオ5終了後)


シン・イスマイール(人間、男、21歳)
 浅黒い肌に黒髪。炎の部族出身の戦士。

器用度 18(+3)
敏捷度 19(+3)
知 力 14(+2)
筋 力 16(+2)
生命力 18(+3)
精神力 12(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 レンジャー LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 29000点

装備
 両手 アロンダイト(グレートソード+3)
     伝説級品質、必要筋力-6
     必要筋力16
     攻撃力+3
     追加ダメージ+3
    ズー・アル・フィカール(シャムシール+2) 
     必要筋力15
     攻撃力+2
     クリティカル値-2
     追加ダメージ+2
     (精霊に対してはさらに+3)
 鎧  ミスリルチェイン
     必要筋力15
     防御力25
     回避力±0
     ダメージ減少+1

戦闘力
 攻撃力 16/15
 打撃力 32/26
 追加ダメージ 15/14(17)
 回避力 13
 防御力 25
 ダメージ減少 11


ライオット(人間、男、24歳)
 金髪碧眼。マイリーの神官戦士。

器用度 14(+2)
敏捷度 18(+3)
知 力 13(+2)
筋 力 21(+3)
生命力 17(+2)
精神力 15(+2)

冒険者技能
 ファイター LV10
 プリースト LV 9
 バード   LV 3
 セージ   LV 1
冒険者レベル 10
 経験点残り 5000点

装備
 右手 フレイムブリンガー(バスタードソード+1)
     必要筋力15
     打撃力15(25)/20(30)
     攻撃力+1
     追加ダメージ+1
     合言葉で《ファイア・ウェポン》が発動する。
 左手 勇気ある者の盾(シールド・オブ・ザ・ブレイブ)
     必要筋力13
     回避力+3
     攻撃力修正±0
     ブレス攻撃に対して抵抗力+2
     所有者に攻撃を集中させる
 鎧  ミスリルプレート
     必要筋力20
     防御力30
     回避力±0
     ダメージ減少1

戦闘力
 攻撃力 13
 打撃力 15(25)/20(30)
 追加ダメージ 14
 回避力 16
 防御力 30
 ダメージ減少 11
 神聖魔法9レベル 魔力11


ルージュ・エッペンドルフ(人間、女、23歳)
 銀髪紫眼。大陸出身の魔術師。

器用度 14(+2)
敏捷度 15(+2)
知 力 19(+3)
筋 力 11(+1)
生命力 14(+2)
精神力 21(+3)

冒険者技能
 ソーサラー LV10
 セージ   LV 8
冒険者レベル 10
 経験点残り 0点

装備    
 両手 魔法樹の杖
     必要筋力10
     魔力+2
     貯蔵精神点20
 鎧  ミスリルローブ
     必要筋力1
     防御力6
     ダメージ減少+2
     精神抵抗力+2

戦闘力   
 攻撃力 0
 打撃力 10
 追加ダメージ 0
 回避力 0
 防御力  6
 ダメージ減少 12
 古代語魔法10レベル 魔力15







[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン1
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/07/08 00:02
マスターシーン アラニア王宮〈ストーンウェブ〉

 王宮の一角に、その小さな部屋はあった。
 四方は厚い石壁で囲われて窓ひとつない。人の耳によっても、魔法の力を借りても盗聴のできない密談用の小部屋だ。
 一日の政務を終え、ノービス伯アモスン卿がその部屋を訪れると、木製の肘掛け椅子にどかりと腰を下ろした先客が、不機嫌を隠そうともせずに頬杖をついていた。
 日頃の暴飲暴食の成果で、アモスン卿の3倍もありそうな腹回り。
 アラニア王家直系の端整な容貌を受け継ぎ、絶世の美姫の腹から生まれたはずなのに、顎や頬に贅肉をたるませていては、もはや醜いブタにしか見えない。
 そんな内心の冷笑は目に浮かべるにとどめ、爵位上は自分の上位にいる相手に、アモスン卿は芝居がかった一礼をした。
「これはこれはラスター公爵閣下、お待たせしたようで申し訳ありません」
 心にもない社交辞令である、と完璧に表現した口調だ。
 ラスター公爵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「くだらん茶番はよせ。この部屋にいるのは我ら2人だけ。剣を持たず、護衛すら伴わずと正気を疑う条件で呼び出したのだ。さぞかし重大な要件なのだろうな?」
 ラスター公爵とノービス伯爵は、それぞれが王宮を二分する貴族派閥の長であり、次代の国王位を争う政敵同士だ。
 従兄弟という血縁など、玉座の重みに比べれば葦のようなもの。自分の手を汚さずに相手が死んでくれるなら、どんな策謀でも躊躇しない間柄である。
 そのふたりが護衛もなしに密室に閉じこもるなど、前代未聞の出来事と言えるだろう。
 話を聞いた側近たちは口をそろえて反対したし、部屋の外では双方が伴った護衛が眼光を飛ばし合っている。
 それでも、ふたりには会わねばならない事情があったのだ。
「要件などお分かりでしょうに。ターバ神殿の件ですよ」
 ノービス伯アモスン卿が、わざとらしく肩をすくめた。
「我が栄光あるアラニア王国は、憎むべき邪教の徒からロードスを守るために建国されたというのに。ターバ神殿とニースどのは、レイリアとかいう亡者の女王の転生体を、まるで我が子のように守っております。そればかりか、あの土臭い小娘にたぶらかされた国王陛下まで、転生体を保護しようとする始末」
 国王の愛妾、ラフィット・ロートシルト男爵夫人がレイリアの保護を願い出て、国王がそれを認めたというのは貴族たちの記憶にも新しい。
 農民出身で貴族の後ろ盾がなかったラフィットを、宮廷魔術師リュイナールが補佐し、レイリアを使うことでターバ神殿の庇護下に据えたのだ。
 これまでは、万一ラフィットが懐妊したとしても、王妃はもちろん側妃にもなれなかっただろう。
 愛妾には寵愛さえあればそれでよいが、妃とは政治的、経済的な後ろ盾がなければ機能しない立場だからだ。
 だから今までは、国王の道楽のひとつとして、農民出身の少女を閨に引き込むことが黙認されてきた。
 飽きたら幾ばくかの金貨や荘園を与えて、宮廷から追い出せばそれで済むだろう、そう考えられていたから。
 しかし、これからは違う。
 ラフィットが王子を産むようなことになれば、ターバ神殿と最高司祭ニースが後ろ盾となり、ラスター公爵やノービス伯爵の派閥に属さない中小貴族たちがこぞって旗の下に集まる。 ラフィットは王妃として宮廷に君臨し、産んだ王子は王太子となり、周囲の側近が次世代のアラニアの中枢を形成する。 
 その次代に、ラスター公爵やノービス伯爵の派閥貴族たちが権勢を維持できるはずがない。 これが、アラニア宮廷に籍を置くすべての貴族にとって、疑問の余地すら生じない現在の政局だった。
「それでも最高司祭ニースは“六英雄”のひとりだ。手を出せばただでは済まぬ。それとも卿がニースを葬ってくれるとでも?」
 左手で頬杖をついたまま、ラスター公爵が胡乱げな視線を向ける。
 政治とはバランスだ。
 ターバ神殿と最高司祭ニースの名声はロードス全土に知れ渡っており、その重みは絶対に無視できない。
 何を今さら、と言わんばかりのラスター公爵に、アモスン卿は唇をつり上げた。
「ところで公爵、北にあるドワーフどもの根城で、上位魔神が暴れ回ったという話はご存じですかな? 強大な魔法を使う魔神を相手に、ドワーフどもの戦士団は100を超える死者を出し、援軍に向かったターバの神官戦士長も討ち死にしたとか」
「ほう、それは気の毒なことよの」
 口ではそう言うものの、ラスター公爵は内心の悦びを隠そうともしない。
 ドワーフ族の“鉄の王国”もターバ神殿も、アラニア宮廷にとっては潜在的な敵だ。弱体化は朗報でしかない。
 敵が上位魔神となれば、騎士団ひとつが壊滅してもおかしくない強敵だ。相当な痛手を被ったことだろう。
「それでノービス伯。その魔神はどうなったのだ?」
「幸い、ドワーフどもの根城から出てくる前に討たれたそうです。魔神はドラゴンを召喚して応戦したそうですが、シンとかいう蛮族の戦士と、その仲間たちにすべて倒されたとか。それと公爵、もうひとつ良い知らせがありましてね」
 意地の悪い笑みを浮かべ、アモスン卿が言葉を続ける。
「討ち死にしたターバの戦士長が、《リザレクション》の奇跡で甦生したのですよ。しかもその奇跡を起こしたのはニースではなく、シンの仲間の冒険者であったと。ライオットというその司祭は、今や“第三の導き手”と持てはやされて、マイリー教団の最高司祭の礼装をまとったそうですぞ」
「何だと?!」
 思わず腰を浮かせたラスター公爵に、アモスン卿は喉の奥で嗤った。
「まこと羨ましい限りですな。ターバ神殿は実に人材豊かだ。砂漠の蛮族の勇者に、マイリー教団の最高司祭に、大陸出身の大魔術師。しかも彼らは“魔神殺し”“竜殺し”の英雄で、ドワーフどもに大きな貸しを作り、一言要求すれば“石の王”ボイルはいくらでも援軍を出すでしょう。ドワーフ族は皆が精強な戦士だ。その武力は万の軍勢に匹敵します」
 アモスン卿はそこで、落ち着いた口調を急変させた。
 声を荒げ、両腕を広げて、全身で怒りを表現する。
「どうしてこれを座視できましょうか! 今やターバ神殿が持つのはニースの名声だけではありませんぞ! ドワーフ族の戦士団と最強の冒険者が集まり、これがよってたかって土臭い小娘を王妃に祭り上げようとしている! 辺境の田舎者どもが、我ら王族を凌駕するほどの政治力と軍事力を持っているのです! ラスター公爵! これをどうして許せましょうか! 我らは青い血に連なる王族として、アラニアを守らねばならないのです!」
 興奮したアモスン卿の叫びが残響となって石壁に染みこむと、狭い部屋には沈黙が降りた。 難しい顔で正面をにらみつけるラスター公爵。
 目の前にいるアモスン卿は確かに政敵だが、“宮廷”という同じルールの中で生きる同志でもある。
 反対にターバ神殿とその一党は、宮廷をルールごとひっくり返しかねない、共通の外敵なのだ。
 彼らがロートシルト男爵夫人と、そして彼女が産む王子と結びつけば、宮廷の存続に関わる強大な敵対勢力になることは必定。
 座視できない、というアモスン卿の言葉には同意せざるを得ない。 
 だが……。
 内心もあらわに思い悩むラスター公爵に、アモスン卿は静かに語りかけた。
「公爵。あの土臭い小娘は、またしても国王陛下のベッドでおねだりをしたそうです。ターバ神殿へ懐妊祈願に行きたい、と」
 もし、万が一にも大地母神の加護が降り、ラフィットが懐妊したら。
 そんな取り返しのつかない未来が、現実に近づいているのだと示してみせる。
「陛下のお許しもあり、準備は順調です。王都からターバまで馬車で20日。道中は精鋭の近衛騎士10名と兵士50名に加え、宮廷魔術師殿も護衛につくとか」
「忌々しいことだな。それだけの戦力を外から食い破るとなると、手元の小勢では無理だ」
 ラスター公爵が苦々しげに唸る。
 兵士だけならまだしも、宮廷魔術師リュイナールは強敵。力に訴えるのは無謀だ。
 では護衛を買収して毒害するか。
 考え込むラスター公爵に、二の矢が放たれる。
「しかし、宮廷魔術師殿はそれでも不安だったようで。あの小娘を《転移》の魔術でターバに送り届け、自分は騎士たちと共に空の馬車を護衛して身代わりになるそうです」 
 アモスン卿が投げかけた言葉の意味を理解すると、ラスター公爵は目を開いて視線を跳ね上げた。
 つまり、あの小娘は宮廷魔術師からも護衛の騎士からも離れて、単独でターバ神殿に送られるということか。
 正面からその視線を受け止めたアモスン卿は、杯に毒を垂らすように、静かに言葉を続ける。
「この時期、北の大地は乾燥します。神殿で不審火があり、部屋がひとつ燃えたところで、さしたる騒ぎにはなりますまい。しかもロートシルト男爵夫人は、宮廷魔術師殿の護衛をつけて馬車で移動中。不審火で死んだ少女は“別の誰か”でしかないのですから」
 千載一遇の機会だが、猶予は短い。
 あの小娘がロートシルト男爵夫人でなくなる期間は、馬車が移動する20日間のみ。
 それまでに手札をそろえて、北の大地まで差し向けなければならないのだ。
「“ボーカイユ”を使いましょう、公爵。私と貴方がともに動けば可能です」
 耳元で、小声でささやかれたアモスン卿の提案に、ラスター公爵の顔が強ばる。
 それは王族のみが知るアラニア王国の闇。
 数百年にわたって裏から王国を支えてきた影だ。
 その価値はあるのか?
 他に手段はないのか?
 ラスター公爵が繰り返し自問しながら見返せば、アモスン卿の端正な顔にも、緊張の汗が浮いている。
 この決断を共有するために、政敵同士、暗殺の危険を冒してまで2人きりで会わねばならなかったのだ。
「……よかろう」
 深々とした吐息とともに、ラスター公爵がうなずく。
 時に猶予はなく、敵はターバ神殿と“竜殺し”の冒険者たち。
 事ここに至れば、他に手段はなかった。 
  


 ロードスという名の島がある。
 アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
 大陸の住民の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
 かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、大地に呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
 異界から召還された魔神が暴走し、島中に死と破壊をもたらしたが故に。
 そして今なお、表向きの平和を隠れ蓑に、陰謀と闘争が島を支配しているが故に。
 千年王国と称されるロードス最大の王国に、今、内乱の足音が響き始めていた。


SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
第6回 魔女の天秤


シーン1 ターバ神殿

「そう。王に、ね……」
 若者たちの長い告白を聞き終えた最高司祭ニースは、ソファから立ち上がると若者たちに背を向けた。
 白髪交じりの背中にシンとレイリアの視線を感じながら、窓の外に広がるターバ神殿の夕暮れを眺める。
 遅い礼拝を終え、家路へと向かう農夫たち。
 談笑しながら聖堂から宿坊へと帰ってくる神官たち。
 夜番の神官戦士たちが整列しているのは、カザルフェロ戦士長が訓示をしているのだろうか。
 ここから見下ろす人々は小さく見えるが、それぞれが自分だけの人生を生きており、様々な思いを抱えて夜を迎えようとしている。
 橙色の薄闇に沈む部屋の中、即答するにはあまりにも重大すぎる決意を示されて、ニースには自分が返すべき言葉も、浮かべるべき表情さえも思いつかない。
「ニース様は俺に、あの墓所で言いましたよね。レイリアとともに歩む道は、宮廷や神殿の封印主義者たちと、果てしなく戦い続ける茨の道だ、と。カザルフェロ戦士長からも同じことを言われました」
 レイリアと並んでソファに座ったシンが、その背中に言葉を続ける。
「それでも、と俺は言いたい。諦めたくないんです。この広い世界のどこにもレイリアが安心して暮らせる場所がないなら、俺は持てる力のすべてを使って、その場所を作りたい。国も権力も欲しくなんてないけど、それがないと作れないというなら、手に入れるために全力を尽くします」
 シンの声音は穏やかだが、決してぶれない決意を感じさせた。
 喜びも悲しみも、すべてを分かち合って歩む家族という道。
 どうやらその道が、自分とレイリアとで別れるときが来たらしい。
「私はきっと、その言葉が聞きたくてあなたにレイリアを任せたはずなのにね」
 ため息まじりの言葉が持つ否定的な響きに、若者たちが小さく動揺するのを感じる。
 窓の外に広がる、平穏な一日の終わりの風景。
 それとはあまりにも対照的な内心に、ニースはなんとか2度目のため息を飲み込んだ。
 マーファ教団の最高司祭として、亡者の女王の転生体を手放していいのか。
 ロートシルト男爵夫人とあの宮廷魔術師は、レイリアのターバ離脱を認めるだろうか。
 戦いのさなか、もしレイリアに万一のことがあったらどうするのか。
 全てがうまくいったとして、王になったシンと友誼のあるターバ神殿を、アラニアの宮廷が見逃すだろうか。
 どれかひとつをとっても、ターバの存亡に関わる重大事だ。
 本来なら穏やかに祈りを捧げるだけの場であったターバ神殿は、ニースの存在とシンの活躍で、あまりにも強くなりすぎた。
 “亡者の女王”であるレイリアをひとりの女として見るのは、今ではシンだけだろう。
 そして困ったことに、そのシン自身が、ひとりの男であることを拒否したのだ。
 これから世界は動く。
 いや、若い力によって否応なしに動かされていく。
 かつてニース自身が、仲間たちとともにそうしたように。
 そこまで考えたとき、ニースは苦笑して小さく首を振った。
「ちがう、そうじゃないわね」
 全部言い訳だ。
 すべては最高司祭という地位に付随する悩みであって、シンの言葉を借りれば『大切なことなんて何もない』ではないか。
 認めなければならない。
 ニースはゆっくりと振り返ると、ソファに座るシンとレイリアに、穏やかな微笑みを向けた。
「告白していいかしら。シン、貴方の話を聞いてね、私は嫌だって感じたの」
 思いもよらない返答に、若いふたりの表情が強ばる。
 今まであらゆる無茶を応援してくれたニースが、この土壇場で反対に回るとは想像もしていなかったのだ。
「ニース様、俺は……」
「だってそうでしょう。17年間も愛を注いで育てた娘が、風と炎の砂漠に出征するなんて聞いて、諸手を挙げて賛成なんかできないわ」
 口を開きかけたシンに、ニースは言葉をかぶせて黙らせる。
「今までは、私の持てる全てでレイリアを守ることができた。猫王様も言っていたでしょう、私は隠居するにはまだ早いって。今までも、そしてこれからも、命のある限りそうするつもりだった。けれど、砂漠の大地には、私の力は届かない」
 その代わり、砂漠ではシンの力がずっと強くなって、レイリアを守れるのだろう。
 これからはニースの役割をシンが引き継いで、そして……。
 そう考えたとき、ニースは再びかぶりを振った。
 ちがう。
 また誤魔化そうとしている。
 シンは、ニースの役割を引き継ぐわけではない。
 あまりの往生際の悪さに、自分でも自分を認めたくないが、この期に及んで目を反らし続けても仕方がない。
「つまりこれが、娘を嫁に出したくない、親の心境なのね」
 娘が選んだ男性は、実直にして至誠。世界中を探してもこれ以上の人は見つからないだろう。
 最高司祭の令嬢という身分でもなく、ニースから受け継ぐだろう財産でもなく、まあ美しい容姿は少なからず意味があるだろうが、とにかくひとりの女性としてレイリアを愛してくれる最高の男性。
 それでも、レイリアを連れ去ってほしくない、と感じてしまうのだ。
「嫁って、ニース様、その……」
 直裁的な単語を聞いて、シンの頬が一瞬で茹で上がる。
 言われるまで気づかなかったが、先ほどの宣誓は「娘さんをください」という義母への挨拶そのものではないか。
 同じように頬を染めたレイリアが、そっとシンの袖を握る。
 その様子をいささか妬ましく眺めながら、ニースは言った。
「ありがとう、シン。貴方には感謝するわ。私がこう感じるということは、私はきちんと親だったということでしょう? 最高司祭として亡者の女王を育てたわけではなく、レイリアの母として娘を育てたのだと。それがはっきり分かったから」
 正しい、正しくないではなく、娘を連れ去る男は母親にとって不愉快な存在なのだ。
 その思いを共有できたことを、ニースは誇らしく思った。
 レイリアはピート卿とイメーラ夫人の娘で、ニースが腹を痛めて産んだ子ではない。
 それでもレイリアは、ニースにとって本当の娘だったのだと、自分自身で信じることができたから。
「レイリア。私は恋しい男性と一緒になったことがないし、その人の子供を産んであげることもできなかった。私は貴女が心から羨ましい。これからどんな苦難があろうとも、それを愛する人と分かち合って生きることは、私が手に入れられなかった幸福だから。常に感謝なさい。シンと、シンを育んでくれたこの世界に」
「はい、お母様」
 生まれて初めて、ひとりの女としてニースに向き合ったレイリアは、万感の思いを込めて肯いた。
 この身に宿した運命は過酷だけれど、もし自分に亡者の女王の魂が宿っていなければ、ニースに引き取られることも、ターバ神殿に身を寄せることも、シンと出会うこともなかったのだ。
 これからシンとふたりで、未来を切り開くという生き方。
 守られた揺り籃から、何も描かれていない真っ白な世界へ。
 シンの隣にいれば、何も怖くなかった。
「シン。あなたの覚悟は分かりました。お征きなさい。ただし、レイリアを泣かせたら承知しませんよ」
「ありがとうございます、ニース様」
 自然にシンの頭が下がった。
 ニースには、言いたいことがいくらでもあるのだろう。
 口を開きかけては閉じ、目には様々な表情が繰り返し浮かぶ。
 不自然な、だが決して居心地の悪くない沈黙。
 シンとレイリアは肩を寄せ、互いを労るように指を絡めて母の言葉を待つ。
 どれくらいそうしていただろうか。
「近いうちに、イメーラ夫人と一杯やりたいわね」
 ニースはやがてそう言って、複雑きわまる思いを吐き出した。
 もしかすると、酒を飲みたいなどと思ったのは人生初めてかもしれない。
 そしてもう一度ため息をついて切り替えると、最高司祭の仮面をかぶりなおす。
「シン。今回の依頼が、あなたと過ごす最後の時間になりそうね。遺漏なくお願いするわ。レイリア、あなたも後悔を残さないように。きちんとお話ししておきなさい」
 素直に頷く若いふたりを見ながら、ニースは思う。
 おそらくアラニア宮廷は、シンとレイリアの希望を認めないだろう。
 ふたりの親として、彼らの背中を守る戦いは、避けられそうになかった。


「素晴らしい! 素晴らしいですぞルージュどの!」
 頬張ったパンを一口に飲み込み、ターバ神殿の金庫番、財務担当司祭マッキオーレは満面の笑みを浮かべて絶賛した。
 パンに挟まれているのはレタス、トマト、軽く炙った厚切りの塩漬け肉。たったのそれだけなのに、ルージュが持ち出した白い調味料を加えただけで、未だ経験したことのない絶品の味へと様変わりしたのだ。
「塩漬け肉のパサつく口触りを、野菜の水分で誤魔化すことなく補い、しょっぱさと甘さの絶妙にブレンドされたこの味! 飽きのこない深みとまろやかさ! これは絶対に売れますぞ!」
 つばを飛ばして力説するマッキオーレの後ろには、白い神官衣にたすきを掛けた数人の女性神官たち。
 まだ十代半ばの彼女らも、黄色い歓声を上げながらレシピの確認に余念がない。
「卵黄、ビネガー、レモンの絞り汁、塩を少々。これにオリーブオイルを入れるだけでこんな風になるなんて」
「まよねーずと言いましたか。本当にルージュ様は博識でいらっしゃいますわ」
「バターよりも簡単に作れて、しかも美味しいんだもん。言うことないよね!」
 神殿の厨房の一角を占拠し、臨時の調理教室を開いていたルージュも、楽しそうに指導する。
「大変だけど、よく混ぜながら、オリーブオイルは少しずつ入れてね。混ぜ足りないと分離して失敗だから。ここだけは手を抜いちゃだめ」
 厨房の食料庫に山と積まれた野菜の山。
 農民たちからの寄進を無駄にするわけにもいかず、さりとて神官たちだけでは消費するのにも一苦労。
 なんとかうまい方法はないものかと相談されて、ルージュが自家製サンドイッチのレシピを提供したのだ。
「問題は卵ですな。これはかなり大量に必要となりそうだ。料金はいかほどに設定するべきか……パンの大きさにもよりますが、銀貨3枚を超えると手が出ないでしょうし……」
 マッキオーレがぶつぶつ呟きながら、神速で脳裏のそろばんを弾く。
 同じメニューだけだと飽きてしまうし、客の好き嫌いもあるだろうから、挟む中身を変えていくつかのバリエーションを作るべきだろう。
 値段は張るが高級品のチーズなども合うかもしれない。
 南方の港町ビルニから入荷した魚の塩漬けとも相性が良さそうだ。
 軽い飲み物を抱き合わせで販売し、いくらか割り引けば、全体としては売り上げを伸ばすことも可能だろう。
「そういえばルージュどの、取り分はいかほどをご希望ですかな? 当方としては、できれば利益の3割程度でお願いしたいのですが」
 思い出したようにマッキオーレが問いかけると、麻のエプロンを着たルージュは笑って手を振った。
「そういうのはいいよ。お金には困ってないし、今までお世話になった分のお礼だと思ってくれれば」
「いやしかし、そういうわけには……」
「鉄の王国の一件で、銀貨30万枚ももらったばかりじゃない。これ以上お金もらっても使い道がない」
 それが掛け値なしの本音だと伝わったのだろう。
 マッキオーレはまるで女神を見るような顔でルージュを見つめ、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。それではそういうことで。この品は『ルージュサンド』と名付け、神殿続く限り末永くルージュどのの功績を讃えることといたしましょう」
「それだけは絶対やめてよね」
 半眼になって拒否する銀髪の魔術師に、心外とばかりにマッキオーレは言いつのる。
「そうおっしゃらずに。いくつか試作しようと思うのですよ。『ステーキルージュ』『サーモンルージュ』『BLTルージュ』など。名前からして旨そうではありませんか」
「神殿ごと焼き払ってほしいなら、はっきりそう言ってもいいんだよ?」
 食堂の片隅に腰掛けたライオットは、厨房で楽しそうにじゃれ合うふたりを遠目に眺めていた。
 卓上では、蜂蜜入りミルクを堪能するルーィエの尻尾が機嫌良さそうに揺れている。
 夕食を摂りに食堂を訪れる司祭や神官たちは、ライオットの姿を見ると口々に感謝の言葉をかけてきた。
 半月前、鉄の王国に向かうときには絶望的だった、平和な日常。
 カザルフェロ戦士長を失い、失意にくれていた神官戦士団。
 そういった絶望感をまとめてひっくり返したライオットは、欠くべからざるターバ神殿の一員として、すっかり受け入れられている。
 なし崩し的に居室まで提供されたため、鉄の王国から戻って以来、ライオットたちは一度もターバの村に帰っていなかった。
「穏やかな日常、か」
 おそらくルージュなら、永遠に続いてほしいと望むのだろう。
 まるでぬるま湯につかっているような、刺激のない、穏やかな日々。
 ライオットとて、それが嫌なわけではない。
 ただ、慣れたくないな、と思っているだけだ。
 シンが決断した以上、この日々は長くは続かない。これから待っているのは、風と炎の砂漠を舞台とした戦乱の物語だ。
 わずかな気の緩みが命取りになるだろう戦場を前にして、自分の覚悟を錆び付かせたくなかった。
 ぼんやりとして形のない、焦りのようなもの。
 あるいは、見えないところでボタンを掛け違えているような、小さな不快感。
 この日々は何かが違う、そんな思いが拭いきれないでいた。
 すると。
「おい半人前。下手の考え休むに似たり、と言ってな。どうせ愚にもつかないことを延々と思い煩ってるんだろうが、はっきり言ってやる、無駄だ」
 スープ皿から顔を上げた銀毛の双尾猫が、ばっさりと斬って捨てた。
「陛下、そう見える?」
「自分で気づいてないのか? 寝不足のハリネズミみたいな殺気が出てるぞ。今すぐ引っ込めろ。食事の邪魔だ」
 優美な尻尾でテーブルをたたきながら、ルーィエは不機嫌そうに注文する。
 何を恐れているのか知らないが、このターバ神殿の食堂にあって、ライオットはひとりだけ戦場にいるような緊張感を振りまいているのだ。
 もちろん、実戦のようにあからさまではない。猫族と違って鈍感極まりない人間どもには感じ取れない程度のもの。
 それでも、ルーィエの至福を邪魔するには十分すぎた。
「悪い。どうも切り替えるのが苦手でさ」
「だったらあの半人前を抱いて発散してこい。あれじゃだめだって言うなら、こないだ言い寄ってきた別のメスでもいいだろう。いつでも部屋で待ってると……」
「だああ、陛下、ストップ! それ以上はだめ!」
 堂々と口を滑らせたルーィエを、ライオットが慌てて止める。
 名前も知らないあの女性司祭は、凱旋した英雄に本気になったわけではない。アイドルを追いかける女子高生と同程度の認識なのだ。
 だが、ライオットに粉をかけたという事実が露見すれば、間違いなくターバ神殿に隕石の雨が降ることになる。
 全力でルーィエの口を塞ぎ、厨房の様子を窺う。
 すると、いかなる超能力によるものか、目を細めてこちらを見るルージュと視線が衝突した。
 やばい。
 それだけははっきりと分かった。
 心臓が早鐘を打ち、背中を冷汗がびっしょりと濡らした。
 あきれた様子で念話を送るルーィエにも、それを受けて肩をすくめるルージュにも気づかず、ライオットがひたすら神に救いを求めていると、どうやらマイリーはその願いを聞き届けてくれたらしい。
 ニースの私室から戻ってきたシンとレイリアが、晴れ晴れとした顔で食堂に入ってきた。
「ずいぶん待たせたな。でも無事に終わったよ」
 背負っていたミスリルの大剣をテーブルに立てかけ、シンがライオットの向かいに座る。
 待ち人が帰ってきたのを見て、ルージュもエプロンを外しながら厨房から出てくると、レイリアは小さく会釈した。
「ルージュさんもお疲れ様でした。ご迷惑でなかったといいんですが」
「大丈夫だよ、レイリアさん。久しぶりの料理で楽しかったから。マッキオーレ司祭も喜んでくれたし。それでリーダー、そっちはどうだった?」
 ごく自然にライオットの隣に腰を下ろすと、ルージュはルーィエの背中を撫でながら問いかけた。
「砂漠に行くことは、ニース様に認めてもらった。それと、俺とレイリアの未来についても」
 ほんのわずかに頬を上気させながら、堂々と告げるシン。
 レイリアのはにかんだ笑顔を見れば、万事うまくいったことは間違いないだろう。
 具体的にどんなやりとりがあったのかは、また後日改めて聞けばいい。
「じゃあ、砂漠へはいつ出発するの?」
 穏やかな日常に決別を告げるルージュの言葉に、しかし、シンはかぶりを振った。
「悪い。まだ駄目なんだ。最後の一仕事、ニース様から依頼があった。出発はこれが終わってからになる」
「仕事?」
 予想外の回答に、ライオットがシンを見る。
「ああ。アランの都から、ロートシルト男爵夫人が遊びに来るらしい。その護衛をしてほしいそうだ。正確にはニース様からじゃなくて、宮廷魔術師のリュイナールからの依頼だそうだけど」
「リュイナール、か」
 その名を聞いて、ライオットとルージュの表情が引き締まった。
 シンが王になると決めたその事実は、かの“灰色の魔女”の天秤を大きく揺らしてしまうだろう。
 今のところ、レイリアとロートシルト男爵夫人の友誼を軸にして、リュイナールとの関係は悪くない。
 だが、シンが王国をひとつ築くという行動を、あの魔女はどう評価するだろうか。
「どうなるにせよ、できるだけ貸しを作っておきたいよね」
 依頼をニースが仲介している以上、断るという選択肢はない。
 であれば、可能な限り完璧に依頼を達成し、今後の交渉に役立てるべきだ。
「男爵夫人は、リュイナールが《転移》の魔法でここまで連れてくるそうだ。たぶんあと1週間くらい後になると思う。宮廷には馬車で移動すると公表するから、ここではただの神官として過ごすように、だとさ」
「なるほどね。移動中は馬車の方に敵の目を引きつけて、安全はここで確保するって作戦か。ほんとにあいつは人の裏をかくのが得意だよな」
 ターバ神殿には、カザルフェロ戦士長を筆頭に100名の神官戦士と、ニース以下50名あまりの司祭がいる。他にも見習いの神官、下働きなど、全部合わせれば200を超える数の人間が住んでいるのだ。
 これはちょっとした村があるのと同じで、しかも大地母神マーファの性質上、司祭には若い女性が数多くいる。
 木を隠すなら森の中だ。ここなら、14歳の少女がひとり増えたところで目立つことはない。
「ラフィットがこちらに滞在するのは、長くても2週間程度だそうです。期間中は私の部屋で過ごしてもらう予定です。ライオットさん、ルージュさん、大変ですがよろしくお願いします」
「ニース様が言ってた。おそらく、これがニース様と過ごす最後の時間になるだろうって。政治的な話は俺の専門外だから、頼むよ。気づいたことは何でも言ってくれ。今回は絶対に失敗したくないんだ」
 そう話すレイリアとシンの様子に、思わずライオットとルージュは顔を見合わせた。
 以前の、事ある毎にピンク色の結界を張っていた頃とはまるで違う。
 ごく自然に肩を並べ、現実に足をつけて、できること、できないことを見定め、お互いを支え合っている姿は。
「比翼の鳥って、こういうのを言うんだろうね」
「また男爵夫人が嫉妬しそうだな」
 もう誰が何をしたところで、決して離すことなどできはしない。
 ふたりでひとつの道を歩く“家族”だった。



[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン2
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/07/11 22:05
 シーン2 ターバ神殿

 中天に達した太陽が、最後の夏よ届けとばかりに燦々と輝き、ターバ神殿の壮麗な建造物群を皓く照らしている。
 神殿の一角に造られた東屋で影に入ると、シンはようやく一息ついた。
「こうして歩くと、けっこう広いんだな」
 あと20日も早ければ、流れる汗が止まらないところだっただろう。
 だが白竜山脈の峻嶺は雪をかぶり、そこから吹き降ろすのはもう秋の風だ。汗ばんだ肌を撫でるようにして熱気を冷まし、代わりに透明感のある爽やかさを残していく。
「ここには大勢の司祭や神官が暮らしていますし、同じくらいの巡礼者も訪れます。神殿の中だけで、ちょっとした町ですからね」
 丸太を輪切りにしただけの椅子を用意しながら、レイリアが少しだけ誇らしげに応じる。
 大地母神マーファは結婚の守護神でもあるから、この季節、神殿で将来を誓い合う若い男女の巡礼は途切れることがない。
 ターバ神殿へ続く一本道が〈祝福の街道〉と呼ばれているのはそのためだ。
「ひととおり見て回りましたけど、どうですか、リュイナールさん?」
「想像より守りが堅くて安心しましたよ」
 振り向いたレイリアに、ローブ姿の宮廷魔術師は温和な微笑みを返した。
「外壁はよく手入れされていますし、神官戦士団も規律正しい。王国の正規兵よりずっと強力でしょう。彼らを正面から打ち破ろうと思ったら、騎士団が必要になりますね」
 ロートシルト男爵夫人の滞在に備えて、わざわざ抜き打ちで警備状況の視察に来たのだ。
 重要人物が前触れもなしに《転移》してきたため、ニースやシンたちは仰天したが、来たものを追い返すわけにもいかない。
 できる限り要望に添うように、とニースに頼まれ、シンたちは朝からリュイナールの護衛兼案内役を務めていた。
 外壁の補修状況に始まり、物資を蓄えている倉庫内から、枯れて使われなくなった古井戸の底まで、その点検はありとあらゆる場所に及び、時刻はもうすぐ昼。
 さすがの宮廷魔術師も、歩き続けるのは堪えたらしい。
 額に飾られた紅玉のサークレットは汗に濡れ、東屋に入ってくる足取りにも重さが感じられた。
「こちらへどうぞ。すぐに飲み物も用意しますので」
「ありがとうございます、レイリア司祭」
 リュイナールは勧められた椅子に遠慮なく腰を下ろした。
 懐から取り出した手巾で額を拭い、体内の熱と疲労を吐き出すように吐息をもらす。
 日陰に吹く涼やかな風が、うっすらと隈の浮かんだ頬を撫でた。
「疲れてるみたいだな。ちゃんと休まないと保たないぞ」
 宮廷魔術師に続いてきたのは、金属鎧に大盾で完全武装のライオットだ。
 装備の重量だけで相当なものだろうに、疲労などまったく感じさせない底なしの体力。
 リュイナールは上目遣いにライオットを見上げ、羨ましそうに苦笑した。
「分かってはいるのですがね。誰か他の者に警備情報をもらせば、その日のうちにラスター公やノービス伯に筒抜けになってしまいます。こればかりは他人に任せるわけにはいかないのですよ」
 ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、リュイナールの宮廷運営にとって欠くべからざる重要な要素なのだ。無駄なリスクはできる限り減らしておきたい。
「今回の件を知っているのは、男爵夫人ご本人と私、それにニース殿だけです。移動の詳細は国王陛下にすら内密で計画しておりますので、皆様もどうか保秘にはご注意ください」
 レイリアが木製のカップに冷茶を注いで手渡すと、リュイナールは律儀に頭を下げて受け取った。
 柑橘の香りがする茶は、渇いた身体に一息で染みこんでいった。
 あっという間に空になったカップに、レイリアが2杯目を注ぐ。
「あー疲れた。レイリアさん、私にもお茶ちょうだい」
 少し遅れてついてきたルージュの遠慮のない要求。
 くすりと笑ったレイリアからカップを受け取ったルージュは、ふと、怪訝そうに自分を見上げるリュイナールに気がついた。
「……なに? 女子力が低いとか思ってるの?」
「とんでもない。ただ、ルージュ殿は汗をかいていないなと思いまして」
 レイリアでさえ後れ毛が汗に濡れて肌に張り付いているのに、ルージュの肌はさらりと乾き、前髪は涼やかな風を受けて優雅に揺れている。
 ドレスに着替えれば、今すぐにでも宮廷の茶会に出席できそうな余裕の表情だ。
「そんなこと? 私暑いの嫌いだから、ローブの下で弱冷気の魔法をかけてただけだよ」
 こともなげに答えてカップを傾けるルージュに、リュイナールは今度こそ眉をひそめた。
「そんな魔法、ありましたか?」
「自分で編み出した」
 あっさりした言葉にリュイナールが絶句するのを見て、ルージュは悪戯を成功させた子供のように笑った。
「なんてね。《ブリザード》の魔法を準備すると冷気が漂うでしょ? そこまで準備して発動をキャンセルしただけ。発動範囲を縮小すれば、ローブの中だけで全部おさまるよ。どうしても暑いときは、威力も極限まで抑えて発動させちゃうこともあるけど、これはローブの中でやると寒くて死にそうになるからおすすめしない。部屋を冷やすにはちょうどいいんだけどね」
 リュイナールの顔がさらに厳しくなる。
 それが本当だとすれば、ルージュは上位古代語の意味を理解して、呪文を改良していることになる。
 古代魔法王国がルノアナの都とともに滅んで以降、魔術師たちは魔法書の呪文をただ暗唱し、あるがままに再現することしかできなくなった。
 自分たちが唱えている上位古代語の意味もろくに解さず、だたそういうものだと割り切って詠唱することしか知らないはずなのだ。
 だがルージュの領域は、そこを遙かに飛び越えている。
「なんだかルージュの部屋だけ涼しいと思ったら、自分だけ冷房かけてたのか」
 炎天下の金属鎧に散々苦労してきたライオットが、恨みがましい半眼を向ける。
「仕方ないでしょ。暑い寒いは個人差があるんだから、他人の感覚までうまく調整できないもん」
「偉そうに言うな半人前。それから魔法の疲労をぜんぶ俺様に肩代わりさせるのもやめろ。今日だけで何回使ったと思ってるんだ」
「いいじゃない、自分だって涼しい思いをしてるんだから」
 抗議はそう一蹴したものの、ライオットの恨みがましい視線を受けて、ルージュは渋々と妥協案を提示した。
「分かった。じゃあ次から、ライくんの鎧にも《ブリザード》をかけてあげる。冷えピタみたいに冷たくなって涼しいかもしれないし。それでいいでしょ?」
「頼むから手加減は間違えないでくれよ。真夏に凍傷は勘弁だから」
「おいちょっと待て。それじゃ何の解決にもなってない。俺様の疲労が増える未来しか見えないぞ」
「と言いますか、本当にそんなことで魔法を使っているのですか?」
 思わず横から口を挟んだリュイナールを、ルージュが一刀両断する。
「気にしないで。ライくんなんか炎の魔剣でお風呂沸かしてるし」
 古代の秘宝も台無しである。
 冒険者たちの自由気ままな発言を聞いていると、何もかもを政治力に変換して比べている自分に徒労感を感じる。
 ルージュの魔法改変は、リュイナールの認識では、古代語魔法の秘伝にも匹敵する高等技術のはずだ。適切に使えば賢者の学院で最高導師の首をすげ替えることさえ可能だろうに。
 それが、ここでは夏に涼をとる程度の価値しかないのだ。羽扇であおいでくれるメイドと何も変わらないレベル。
 自分がルージュに感じた脅威がまったくの空振りだったことを悟り、リュイナールは遠い目で2杯目の冷茶をすすった。
 国王カドモス7世に突然呼び出され、ロートシルト男爵夫人をターバへ懐妊祈願に行かせると聞かされてから1週間。
 本当に怒濤のような日々だった。
 日々を暗殺の危険に怯えて過ごす男爵夫人に、たまには安らかな休暇を与えてやりたいという国王の希望。それは分からないでもない。
 国王の隣で可憐に微笑む男爵夫人も、まだ懐妊など望んでいないだろう。ただ単にレイリアのところへ遊びに行きたいだけ。
 しかし、愛妾の懐妊祈願という名目が、どれほど宮廷の貴族たちを刺激することか。
 権勢と銀貨と色欲にしか興味のない、頭が空っぽの貴族たちを激発させるには充分というものだ。
 暗殺者か、毒か、それとも正面から兵士を差し向けるか。
 いかなる手段であれ、男爵夫人は必ずや命を狙われるだろう。
 それに備えて男爵夫人を安全な場所で守り、襲撃者を誘い出して罠にはめ、後腐れのないよう徹底的に殲滅する必要がある。
 それができるか、と問われれば、自分にはその全てができると断言できた。
 自信もある。
 ただ、それを準備するのに、これほどの激務を伴うとは思っていなかっただけで。
 そういえば、最後に寝台で眠ったのはいつだっただろうか。
「それで、これからどうする? 特に予定がないならひとつ相談があるんだけど」
 執務室の惨状を思い出して無言になったリュイナールに、シンがさりげなく声をかける。
「視察の方はもう充分です。今できることはやりましたので、シン殿にお話があるならどうぞ。私にできることがあれば何なりと協力しましょう」
「それはありがたい。実は俺さ、王になりたいんだ」
 夕食にはシチューが食べたい、と言うのと全く同じ軽い口調。
 リュイナールはゆっくりと木のカップを下ろし、口元に諦念の笑みを浮かべると、“砂漠の黒獅子”に生ぬるい視線を返した。
「もう勘弁してください」


 巡礼者や神官戦士団が踏み固めた〈祝福の街道〉。
 ロードス北辺に最後の夏を届ける太陽は西に傾き、針葉樹林に刻まれたまっすぐな道を残照がオレンジ色に染める。
 さくり、さくりと足音は優しく、ヒグラシや鈴虫の鳴く声が遠く聞こえる。
 この道を、今まで何度歩いただろうか。
 そして、これからあと何度、歩けるのだろうか。
 シンと肩を並べたレイリアの中を、ふと、そんな想いが横切った。
 初めてシンとここを通ったのは、オーガー退治の依頼をした時だ。
 あの時は神官戦士団が出払っていたが、ドワーフのギムが偶然ニースを訪問していたから、ターバまでの道中で不安を感じることはなかった。
 生まれて初めてオーガーと対決した時、レイリアの足はすくんで剣を抜くことさえできなかったけれど、シンは一刀で妖魔を斬り伏せてレイリアを助けてくれた。
 それから何度も、シンとふたりでこの道を歩いた。
 大切なこと、くらだないこと、たくさんの話をしてお互いを知り合い、少しずつ心の距離を詰めた。
 シンに追いつけなくて、守られるばかりだった頃も。
 想いが通じ合って、舞い上がっていた頃も。
 そして今も。
 この道を歩きながら交わす会話は、ふたりにとって原点で、きっといちばん大切な時間。
 本当に名前のとおり、ここは〈祝福の街道〉なのだ。
 すっかり涼しくなった風に、黒髪がふわりと揺れた。
「少しだけ、複雑な気持ちです」
 何の前振りもなく、ぽつり、と口にする。
 それでも、レイリアが何を思ったのか、シンには正しく伝わった。
「リュイナールの話か」
「はい。私は“亡者の女王”の生まれ変わりで、だからピート卿……お父さんやお母さんから離れなくてはならなくて、大勢の人が運命を狂わされて今があるのに」
 ターバ神殿はレイリアを監視し、ニースは最高司祭として封印の墓所を守り続けている。
 ドワーフの王国では、カザルフェロ戦士長は断腸の思いでソライアを切り捨てる決断を迫られ、レイリア自身、目の前で親友の心が砕け散る光景を見た。
 レイリアが転生体であるという現実は変わらず、誰もが逆らうことができずに耐えるしかなかった。
 ニースは口にこそ出さないが、きっと自分さえいなければ、最高司祭の地位を誰かに譲って、自分は心に決めた男性と添い遂げることだってできたはず。
 それがいいとか悪いとか、そういうことではなく。
 レイリアとターバ神殿にとって、現実はそれくらい重いものだったのだ。
「それなのにリュイナールさんは言いました。シンたちと一緒にターバ神殿を離れるなら、反対はしない。好きにすればいいって」
 宮廷にとって“亡者の女王”とはそんなに軽い存在なのか。
 それでは、今まで耐えてきた皆の苦しみは、一体何だったのか。
 そう思ってしまう。
「俺はさ、宮廷の都合とか、政治の事情とか、そういうことには興味がない。細かいことはライオットに聞いてくれ。今日はあいつが満足してたから、そっち方面ではいい話だったんだろ」
 シンは、3歩前を行くライオットとルージュを見る。
 会話は聞こえているだろうに、反応は全くない。
 悪戯と茶化すのが大好きなのに、大事なところは空気を読んでくれるふたりだった。
「ただ俺は、運命っていうのは他人に狂わされるものじゃないと思う。“亡者の女王”っていう重たい荷物があるのは分かるよ。だけど、その荷物にどう対処するかは、関わった人たちが自分で選んで決めたことだ。たとえ選択肢が減らされてたとしても、それでも、選んだのは自分なんだ。レイリアが責任を感じるなんておかしいし、本人たちに言ったらきっと怒られる。いや、悲しむかな。俺なら悲しいから」
 流されたように見えようと、強制されたように感じようと、人生を決めるのはいつだって自分自身の決断で、その結果として今があるのだ。
 その時はどれだけ苦しかったとしても、数年後には飲み会で鉄板ネタの笑い話になっていたりする。
 不幸なんて、本人の受け取り方ひとつで、あっという間に違うものに変えられる。
 他人の人生を哀れむのは、その人に対する最大の侮辱だ。
「俺はさ、自分の人生を振り返って、ああすれば良かったなって後悔することはあるけど、過去に戻ってやり直したいって感じたことは一度も無いよ。成功も失敗も、全部が集まって俺を作ってる。俺は自分で決めて、今レイリアの隣に立ってる。これが俺の運命だって言うなら最高だよ。“亡者の女王”さまさまだ。絶対誰にも譲らない」
 シンが足を止めると、当たり前のようにレイリアも立ち止まり、ふたりは正面から見つめ合った。
 前を歩いていたライオットとルージュは、微笑ましげに視線を交わした後、そのままゆっくりと歩みを進めた。
 ここは少し離れてやるのが礼儀というものだろう。
 この道で少しずつ距離を縮めてきたシンとレイリアが、最後の一歩を詰めようとしているのだ。
「レイリアは今まで、ターバで過ごすことを強制されてきた。ニース様の娘だから、マーファに仕える司祭だから、そして転生体だから」
 シンには、レイリアが感じている混乱の正体が分かる。
 かつて自分も通ってきた道だ。
 一歩間違えれば転落人生まっしぐらだし、事実シンもそうなりかけた。
「だから、ニース様やリュイナールに『ターバから出ても良い』って言われて、戸惑ってるんだろ? 今まで当たり前だったものが、自分の大部分を占めていたものがいきなり無くなって、まるでぽっかり穴が開いたようで。自分が大きな何かから切り離されたみたいで頼りなく感じてるんじゃないかな」
 だけど、間違えてはいけない。
 レイリアは、自分で選んだのだと、自分自身で知らなければならないのだ。
「その空虚な不安のことを『自由』っていうんだ」
 原作で、レイリアが奪われたもの。
 カザルフェロ戦士長が、レイリアに与えたくなかったもの。
 シンが、レイリアにどうしても与えたかったもの。
 自分で道を選び、決め、進む権利。
「レイリアに開いた穴を何で埋めるのか、決めるのは君自身だ。その代わり、決めた結果何が起こっても、たとえ邪教の司祭に殺されても、世界に絶望して“亡者の女王”が甦ったとしても、他の誰でもない君自身の責任だ」
 ひたすらに真摯な声が、レイリアの心に染みこんでいく。
 うまく言葉にならないシンの真意を、レイリアは余すところなく受け取っていた。
 今まではニースが、カザルフェロ戦士長が、ソライアたちターバ神殿の皆が背負ってくれた重い荷物を、これからはレイリアが自分で背負わなければならないのだ。
 確かに、レイリアの抱えている荷物は、他の人に比べれば少しだけ重いのかもしれない。だが荷物は誰もが当たり前に持っていて、休んだり走ったりしながら未来へと進んでいく。
 その荷物を、人は『責任』と呼ぶ。
「つまり、私は『特別』だったのに、『ふつう』を手に入れたのですね」
 レイリアの脳裏に、ソライアの晴れやかな笑顔が浮かんだ。
 ラスカーズに心を折られ、目の前でカザルフェロ戦士長を殺された時も。
 ライオットの奇跡で、カザルフェロ戦士長に言葉を伝えるチャンスをもらった時も。
 ソライアは自分で決断し、行動し、結果を手に入れた。
 それはレイリアのせいでもレイリアのおかげでもない。ソライア自身の決断がもたらした成果。
 自分の責任で選び、行動して、手に入れる。それが『ふつう』なのだ。
「シン。私も選びましたよ。私はあなたの隣にいたい。この場所を他の誰にも譲りたくないです。私の荷物は重いですけど、代わりに、私もシンの荷物を半分持ちますから。王様になろうっていう人の荷物です、シンのだって同じくらい重いから、いいですよね?」
 ふたりの間にあった最後の一歩を、レイリアが詰める。
 ごく自然に、シンの腕がレイリアをふわりと包んだ。
「ありがとうレイリア、俺を選んでくれて。絶対に後悔させないって誓うよ。たとえ世界中を敵に回しても、俺は君を守りぬいてみせる」
「お言葉ですけどシン。たとえ道半ばで倒れたって、私は後悔なんかしません」
 だって、あなたと並んで同じ道を歩くことが、私の幸福ですから。
 完爾として微笑んだレイリアは、肩に回されたシンの手に力がこもるのを感じて、そっと目を閉じた。
 そういえばソライアは、返事の代わりに押し倒してもらったのだろうか?
 ふとそんなことを思ったが、唇に感じた熱の奔流はレイリアの思考をあっという間に押し流してしまう。
 レイリアは生まれて初めての感覚に翻弄されるばかりで、あとはただ溺れないように、シンの身体にしがみつくことしかできなかった。

「ついにくっついちゃったね」
 ルージュは茜色に染まった空を見上げ、感傷的につぶやいた。
 足を止めた後ろのふたりが、少しずつ離れていく。
 きっと今この瞬間に、シンの道とルージュの道は決定的な別れを迎えたのだ。
 ロードスに来た時、自分たちは右も左も分からない子供のようで、ただライオットに守られるばかりだったのに。
 最初はただ、面白がって黒髪のヒロインへけしかけただけなのに。
 シンは次々に襲いかかる強敵を打ち払い、弱い自分の殻を破って成長し、このファンタジー世界にふさわしい英雄となって自分の進む道を決めた。
「でかくなったよな。女ひとりのために国ひとつ征服するとか。ほんと凄い」
 ライオットもしみじみと頷く。
 剣を取っての戦いなら、シンに負けるつもりはない。
 仮にどちらかが倒れるまで戦い続ければ、最後に立っているのはきっと自分だと思う。
 しかし、その「仮に」という条件を満たして戦う理由を持っているのは、きっとシンだけなのだ。
「俺は結局、小市民だからさ。現状に満足しちゃうんだよな。ターバの村の冒険者のままでも良かったし、ニース様の切り札として神殿に居候しても良かった」
 だから現状を変えよう、世界を相手に戦おうなどと、考えたことすらなかった。
 ルージュに付き合って日本に帰ったっていい。
 ライオット自身には、確固とした希望がないのだ。
 別にどこでもいい。どこへ行こうとも、ある程度うまくやって成功する自信はあった。
「でも、最後まで付き合うつもりなんでしょ?」
「約束したからな」
 亡者の女王を封印する墓所で、ライオットはシンに言った。
 何ができるかではなく、何をしたいかで決めろ。どんな決断をしても必ずついて行く。そう約束した。
 シンが世界を変えると決め、道を選んだなら、次はライオットが責任を果たす番だ。
「やってやるさ。ふっかけられた無理難題をクリアするのは俺の得意分野だ」
「……まあ、仕方ないね」
 ライくんはそう言う人だから。
 ルージュは何とか口元を笑みの形に整えると、小さく肩をすくめた。
 話を面白くするためなら悪戯も自虐もためらわず、フラグを折るのが大好きで、でもやると言ったことは必ず成し遂げる人。
 時折見せる真剣な目には、まるで吸い込まれそうな深さがあって、ルージュはそれに心を囚われてしまったのだ。
 ここだけの話、ドワーフの王国でカザルフェロを甦生させた時のライオットには、かなり惚れ直してしまった。
 だからライオットに息を飲ませたレイリアの笑顔に、本気で嫉妬したのも事実。
 今度やったら意地悪する、という宣言は、掛け値なしの本気だ。
「それはそれとして、ライくんもシンも、大事なことを忘れてるんじゃない?」
「リュイナールと宮廷のことか? 大丈夫だよ、あいつがシンの邪魔をすることはない。宮廷にとって、ターバ神殿とシンのコンビが強力すぎるってのは事実だからさ、あいつの視点で見れば、出てってもらった方がありがたいだろう」
「そうじゃなくて。まあ、それと完全に無関係なわけじゃないけど、もっと根源的な話。ここはどこで、私たちは誰なのかってこと」
 シンもライオットも、ここがロードス島で、自分たちは冒険者だという生活にすっかり染まっている。
 今はそれがどうやら現実だから、染まること自体は構わない。人は環境に適応しなければ生きていけないのだから。
 シンに至っては、それで人生をかけるにふさわしい伴侶を手に入れた。本当に喜ばしいことだと思う。
 だが、だからこそ忘れてはならない。
「私も政治の話は得意じゃないけどさ、リュイナールさんがシンの邪魔をすることはない、そういう状況なのは分かる。分かるけどねライくん、ここはどこ?」
「どこって、ロードス島だろ。アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ」
 まだ真意が飲み込めない様子のライオットに、ルージュはため息をついた。
 ほんの少しだけ口調に棘が混ざる。
「本当に染まっちゃってるね。そうだよ、ロードス島。だけど原作そのままのロードスじゃない。ここは“あの”悠樹くんが創ったロードスでしょ?!」
 シンやライオットやルージュや、そしてここにはいないキースが生きる世界を創造したのは、それぞれのプレイヤーたちと、ゲームマスターの悠樹。
「だいたい“灰色の魔女”がイケメンの宮廷魔術師をやってるところからおかしいじゃない。綿密なシナリオと大ドンデン返しの大好きな“あの”悠樹くんが、“灰色の魔女”は実は味方でしたなんて、そんなシナリオ用意すると本気で思ってるの?」
 愛らしいヒロインと、強大な敵と、登場する魅力的なNPCたち。
 彼らとともに日常を過ごすうちに、少しずつキャラクターと同化していった自分たち。
 ルージュ自身だって魔術師としてここに存在しており、現実に古代語魔法を行使できるのだから、そうなることは必然の流れだ。
 それでもルージュは日本に帰りたいし、この肉体を自分のものとして生きるつもりもなかった。
 数年前に滅びたレイド帝国の皇女、“奇跡の紡ぎ手”アルトルージュの肉体は、あくまで借り物であって、自分自身ではないのだ。
 その意識は、この世界をいつも冷めた目で、斜め上から見下ろしている。
 ライオットは二の句を継げずに黙り込んだ。
 状況を読むことには自信があったが、ルージュの視点はそのずっと上。
 この世界を創造する“神”(GM)の意図の指摘だったから。
「レイリアさんは本当にいい子で、シンとふたりで幸せにしてあげたい。だからふたりが生きられる国を創るのに、私たちも協力したい。それは本当の気持ちだよ。だったらライくん、油断しちゃ駄目」
 紫水晶の瞳に本気の光を浮かべて、ルージュは夫の顔を見上げた。
「敵はカーディス教団で、あのラスカーズとバグナードと、アンティヤルとかいう闇の蛮族の戦士を倒したら、このキャンペーンは終わる? もしこんな転生なんかしないで、東京の家でダイスを転がしてたとしたら、ラスボスはあの3人だったと思う? そんなはずないよね」
 いつでも陽気に自由気ままで、傍若無人な魔術師ルージュではなく。
 怜悧な分析と緻密な計算を得意とするTRPGプレイヤーとして、ルージュは断言する。
「きっと必要になるよ。カーラがレイリアさんの身体を狙った時、あのサークレットを何とかする方法が」
 邪教や宮廷貴族の派閥を敵に回して、ターバ神殿とリュイナールは味方陣営だ。ライオットの見たところ、今の状況で、リュイナールがレイリアを襲う理由は何もない。
 この世界が悠樹の創ったロードスだというならなおさらだ。悠樹は絶対に、状況に矛盾するシナリオ展開をしない。
 それでも。
「分かった。みんなで考えないとな。ここがロードス島である以上、その命題とは無縁じゃいられないか」
 それがいつになるのかは分からない。
 これからの戦いで必要になるかもしれないし、シンの王国ができた後の話かもしれない。
 それでも、いつか必ずその日は来ると、ライオットには信じられた。





[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン3
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/07/16 00:38
シーン3 ターバの村

 シンたちがターバの村へたどり着いた時、太陽はすでに白竜山脈の稜線に沈み、空の色は橙から紫へと色を濃くしていた。
 村のあちこちから炊煙がたなびき、肉の焼ける匂いや賑やかな笑い声がうっすらと漂ってくる。
 酒場の軒先にはランプや篝火が焚かれ、食事と酒を求める冒険者や、神殿への旅をしてきた巡礼者たちを誘っていた。
 ロードスの北辺に位置するターバの夏は短い。
 1年で最も過ごしやすい今は、ターバの村が最も活気にあふれる季節だった。
 昼間は肉や野菜、土産物などを売っている市場も、夜になると屋台が中心だ。
 店主が威勢よく客を呼ぶ声、鉄板の上で肉汁のはじける音、あたりに漂う香ばしい匂い。
 夕暮れの空の下、大樽に板を渡しただけの簡素なテーブルには、山盛りの串焼きや腸詰め、蒸かしたジャガイモなどが所狭しと並び。
 立ち飲みを楽しむ男たちが陽気に乾杯すると、木製のジョッキからエールの泡が舞って料理に降り注いだ。
「焼き鳥でエールか。最強の組み合わせだな」
 空腹の身にこれは、ほとんど暴力だ。
 シンは心の底から羨ましそうに屋台を見る。
 立ち飲み屋の店主と、そこにいる客のほとんどは顔なじみだ。ひとりだったら迷わず突撃して仲間に入れてもらったのだが、あいにくとレイリアは葡萄酒派で、ライオットとルージュは下戸。今夜は参加できそうにない。
 店主はシンを見ると笑顔で手を上げたが、レイリアが一緒にいるのを見て、誘ってはこなかった。おそらく気を遣ったつもりなのだろう。
 代わりに「頑張れよ」と言わんばかりに親指を立ててくる。
 それを目にしたレイリアが控えめに愛想笑いを返すと、今度は酔った客たちが歓声を上げ、美人を釣り上げたシンの戦果を讃えての乾杯が始まった。
 ランタンの明かりがノスタルジックに照らす中、露天の宴は絶好調だった。
「知り合いなら挨拶に行きますか?」
 そっとシンの左袖を引いてレイリアが声をかけると、シンはすぐに首を振った。
「いいから放っておこう。あいつらは酒を飲んで騒げれば何でもいいんだよ」
 お世辞にも品がいいとは言えない連中が、もう完全にできあがっているのだ。あそこにレイリアを放り込んだら最後、絶対に収拾がつかなくなる。
「リーダーはほんと、村に知り合いが多いよね」
「こういうのを人徳って言うんだろうな。俺には無理だ」
 最初は、ライオットもルージュも酒には付き合えないから、ひとりで飲んでもつまらない、という事情があったのだろう。
 依頼を受けずに村にいる間、シンの趣味はもっぱら屋台巡りだった。
 仕事と仕事の合間だから、村にいる時間はさほど長くなかったはず。
 それなのにふと気がつけば、鍛冶屋に行っても、パン屋に行っても、店主はシンの名前を覚えていて、気軽に声をかけてくるのだ。
 どこで知り合ったのかと尋ねると、決まって答えは「飲み友達」だった。
「やっぱり性格だろうね。ライくんとちがってリーダーは素直だからね」
「そういう反論できない皮肉はやめてくれ」
 苦笑しながら歩みを進める。
 誰にでも胸襟を開けるシンとは違い、ライオットは『親しい仲間』と『それ以外』を明確に区別してしまう。
 初対面の相手でも社交辞令の範囲では友好的に交流するが、本音の部分まで立ち入らせようとはしないから、どうしても親しい友人はできずらい。
 それがいいか悪いかと問われれば、別に悪くはないが損なのは認める、というのがライオットの自己分析だった。
 歩きなれた道を進み、市場を通り抜けると、そこは酒場や宿屋が連なる一角だ。
 〈栄光の始まり〉亭は、冒険者を相手にする酒場の中ではいくらか上品な部類に入るだろうか。
 店主は威勢のいい女将だが、女性は女性だ。
 冒険者ではない、一般の巡礼者たちが宿を求めても嫌な顔をしないし、質より量という冒険者向けの料理だけでなく、新婚夫婦向けのメニューもあるにはある。
 いつものようにシンを先頭に店に入ると、扉につけられた大きな鈴がガランと鳴った。
 先客である冒険者たちの値踏みするような視線を浴びたが、これはもう冒険者の習性という他ない。彼らには、ぶしつけな視線が失礼などという繊細な感性は存在しないのだ。
 その代わり、自分よりも上位と認めた相手には逆らおうとしないから、実力さえ認めさせれば付き合いやすい相手ではあった。
「前よりも冒険者が増えてるな」
 ざっと店内を見渡して、シンがライオットに言う。
 以前は冒険者2、巡礼者8くらいの割合だったが、今夜は概ね半々といったところだろうか。
 シンとライオットに続いてルージュとレイリアが店に入ると、たぐいまれな“上玉”の登場に店内の冒険者どもがざわりと色めき立った。
 中には口笛を吹いて堂々と冷やかすパーティーもいたが、おそらくシンたちの話を知らない新参者だろう。
 こういう反応も慣れたとはいえ、決して愉快ではない。
「レイリアさん、もしお尻を撫でられたら、遠慮しないで蹴っ飛ばしていいからね。あとはリーダーが何とかしてくれるし」
「大丈夫です。ここの皆さんに後れを取る心配はなさそうですから」
 レイリアは少しだけ不敵に微笑んだ。
 シンに勧められてライオットに師事し、強くなるためではなく“勝つための”剣術を習い始めたレイリアには、冒険者たちの長所と短所が何となく分かるのだ。
 確かに、戦士たちの腕は丸太のように太く、その剛力にはとてもかないそうにない。
 筋肉が見事に鍛えられているのも、その破壊力が大きいのも分かる。
 だが彼らでは、いくら愚直に剣や拳を振り回しても、たぶん命中する相手は妖魔か野盗だけだろう。
「おやまぁ! シンたちじゃないか! よく帰ってきたね!」
 その時、よく通る女将の声が、酒場の微妙なざわめきを圧倒して響き渡った。
 エプロンで手を拭きながらホールに出てくると、テーブルの海をかき分けてシンたちに歩み寄ってくる。
「聞いてるよ、ドワーフの王国でもまた上位魔神を討伐したそうじゃないか! しかも今度は竜まで! まさかこの店から“竜殺し”の英雄が出るなんてねぇ! あたしも鼻が高いよ!」
 女将が威勢よく捲し立てた。
 “魔神殺し”“竜殺し”の武勲譚は、ここ数日ターバの村で最大の話題だ。その英雄が店に凱旋したと知って、今度こそ、遠慮のない視線の集中砲火がシンたちに突き刺さる。
 ロードス島全土を魔神が暴れ回った恐怖の時代から、まだ30年しかたっていない。壮年以上の大人たちなら誰でも、魔神がどれほど怖ろしい存在か、現実のものとして経験してきたのだ。
 それを、しかも上位魔神を、彼らは倒してきたというのか。
「それであんた、《リザレクション》でターバ神殿の戦士長を甦らせたってのも本当なのかい? さすがにそれはニース様のお仕事だと思うんだけどねえ」
 首をかしげる女将に、ライオットが苦笑を返した。
 無理もない。上位魔神なら腕の立つ冒険者が頑張れば何とかなるかもしれないが、死者を蘇生できるのは、本当に神に愛された一握りの英雄のみ。
 そんな人間が、どうしてこんな辺境で冒険者などしているのか。
「本当ですよ。ライオットさんは、私の目の前でカザルフェロ戦士長を甦らせました。儀式に参加した私が言うのだから、絶対間違いありません」
 何も言わない本人に業を煮やして、レイリアが強い口調で主張した。
 彼女が最高司祭ニースの令嬢で、ターバ神殿の司祭だと言うことは、女将も常連客たちも知っている。
 レイリアが言うなら間違いないのだろうが、しかし。
「それなら、あたしがこんな口をきける相手じゃないってことなのかねえ。ニース様と同じくらい偉いってことだろ?」
「気にしなくていいよ。今の俺は冒険者で、あんたは冒険者の店の女将だ。それ以上でも以下でもない。人は自分の目で見たことだけを信じればいいのさ」
 ライオットがひらひらと手を振る。
 村に広がった噂を聞いただけの女将が、こんな荒唐無稽な奇跡を信じられたら、そっちの方がおかしいのだ。
「そんなことより風呂にしよう。その後で食事だ。女将、俺の露天風呂はまだ使えるんだろう?」
「もちろんさ。ちゃんと掃除もしてあるよ。水は張ってないけどね」
 充分以上の返事に満足したシンたちは、テーブルの海をかき分けて階段へ向かう。
 宿代は半年分ほど前払いしてあるから、部屋はまだ残っているはずだ。
「突き当たりの方の部屋は掃除してないよ! あんたたち、魔法で鍵をかけちまったから!」
 背中に投げられた声に、無言で手を上げて応える。
 ルージュやレイリアの尻に手を出す勇者は、ひとりも現れなかった。

 2階の突き当たりがルージュの部屋で、その隣がシンとライオットの部屋だ。
 王都アランから戻った後、賢者の学院や王宮からもらった謝礼の山は、ろくな整理もしないままでルージュの部屋に放り込んである。
 ドアはごくふつうの木製だが、ルージュの魔力で《ロック》の魔法をかけたのだ。これを無理矢理こじ開けるくらいなら、横の壁をぶち破る方がずっと簡単だろう。
 ルージュはドアに魔法樹の杖で触れると、玲瓏な声音でコマンドワードを唱えた。
「開け、ゴマ」
 誤解しようもない呪文でドアが開くと、そこはドラゴンの巣穴もかくや、というような宝物庫だ。
 黄金の彫像、銀貨がいっぱいに詰まった木箱、それぞれ魔法の効果が秘められた宝石の山などが、無造作に放置されている。
「なんとベタな」
「ロシアンティーを一杯、とかやるよりはマシだろ」
 あきれるシンに構わず、ライオットは魔法の道具が集められた一角に行くと、無造作な手つきで発掘を始めた。
 何に使うかよく分からない鏡、魔法はかかっているものの中身がないブロードソードの鞘などを脇にどけていき、ようやく目的の物を発見する。
 瀟洒な銀のチェーンで飾られた、大きな青い宝石のペンダント。
 宝石の中は青色の濃淡がゆらゆらと揺らめき、まるで湖の底を覗き込んでいるようだ。
「あった。これこれ」
 ライオットは満足そうに笑い、チェーンを指に引っかけると、宝石を振り回しながら立ち上がる。
「ライオットさん、それは?」
「“水妖精の祝福”って呼ばれてる。精神力を込めて祈ると、清浄な水が滾々と湧き出してくる魔法の宝石だよ。これからの俺たちに不可欠な宝物だ」
 もちろん水量は無尽蔵ではない。
 何らかの人工の容器がいっぱいになるまで、という制限がついているから、例えば地面に置いて河を創るような真似はできないのだが。
「確かに、砂漠に行くことを考えれば、それがあれば大助かりですね」
 これがひとつあれば、風と炎の砂漠を渡るのに水樽を用意する必要も、水樽を運ぶためのラクダを用意する必要もなくなる。
 砂漠では水は命だ。隊商が知れば、銀貨を何万枚払ってでも買い求めるだろう。
 それどころか、汗を流すためだけに好きなだけ水を使えるのだ。これさえあれば、シンの隣で清潔な身体を保てる。
 目を輝かせるレイリアに、ライオットは素直に感心した。
「なるほど、砂漠でも使えるよな」
「砂漠でも?」
 これからの冒険に役立つアイテムを整理しよう、そう言って〈栄光の始まり〉亭へ戻ってきたのではないか?
 もの言いたげなレイリアに、笑って応える。
「いやね、そんな先の話はさておき、とりあえず風呂に水を汲もうかと思って。井戸から何往復もするのは結構大変なんだよ。ラルカス学長がこれをくれた時は、ほんと天恵かと思った」
「そいつは神の道具だな、確かに」
 女性陣の微妙な表情を無視して、シンが心の底から同意した。
 ザクソンの村から帰ってきた夜、この宝石の存在を思い出していれば、大雨の中で水汲みをする必要もなかったのに。
 あの時のライオットはいろいろあった直後で、精神的に余裕がなかったのだろう。
「じゃあシン、俺は風呂の用意をしてくるから、こっちは適当に見繕っておいてくれ」
 言い残してライオットが裏庭に向かう。
 レイリアが何も言えずにルージュを見ると、彼女はどうやら諦めているらしい。
 さっそく魔法の品物の整理に取りかかっていた。
「リーダー、“飛空のマント”だって。使う?」
「それは空を飛ぶやつだろ? 剣ってのは腕だけで振るもんじゃない。体重を乗せて足を踏み込まないと威力も正確性もガタ落ちなんだ。俺もライオットも要らないよ。使うならルージュだけじゃないか? 高空から爆撃するのに便利だろ?」
「私は高いところ苦手だから要らない。レイリアさん使ってみる? 中途半端な高さだと、下からパンツ見えちゃうから気をつけてね」
「いえ、それはちょっと……」
 レイリアが頬を引きつらせると、ルージュはそう、と事もなげに頷いて、高価なマントを無造作に放り投げた。
 黄金の彫像や銀貨の木箱が積まれた、実戦には使えない物の山がまた少し高くなった。
「この、さっきライオットさんが捨ててた鞘は何ですか?」
「ああそれはね、“鍛えの鞘”っていって、中に納めたふつうの剣に《エンチャント・ウェポン》をかけてくれる魔法の鞘だよ。だけど1時間以上納刀してないと効果がないし、魔法の剣が欲しいならあっちに何本かあるから、リーダーに選んでもらって」
「はぁ」
 ルージュが示した壁際を見ると、使われていないベッドと壁の間に長短さまざまな魔法の武器が転がっていた。
 短剣、戦鎚、片手剣、両手剣に槍までひととおりある。王都の武器屋でさえ魔法の武器ばかりこんなに持っていないだろうに。
 本当にこの人たちは、ふつうじゃない。
「レイリアにはこれなんかいいんじゃないかな。今の武器がショートソードだから、あんまり長さが変わると使いにくいだろう」
 武器の山の中からシンが選んだのは、レイリアが使っている物よりすらりとした印象の小剣だった。
 革を金属で補強した鞘から引き抜くと、純白の刀身は淡い燐光を発し、側面には細かく上位古代語が刻印されている。
 刃体の長さは1メートル弱くらいか。レイリアが愛用しているショートソードとちょうど同じくらいだ。
「刀身はミスリルだから、ずいぶん薄く鍛えてあるだろ? それでも強度と切れ味は鋼鉄よりずっと上だ。両手剣と正面から打ち合っても折れないし、相手が粗鉄なら逆に切断できるくらいだよ」
「本当にこれ、今の剣よりずっと軽いです」
 軽く一振りしてみれば分かる。
 今までと同じ素振りでも、軽いというだけでコントロールの正確性が段違いだ。この剣を使うだけで、発揮する戦闘力が一段も二段も上がるに違いない。
「冒険者の皆さんが、魔法の剣を欲しがる理由がよく分かります」
 戦士にとって武器は、自己顕示欲を満たすための道具ではない。自分の生命を預ける相棒であり、全財産を費やしてでも手に入れる価値がある分身だ。
 誰にどんな陰口を叩かれようと、充分に優れた武器は、絶望的な強敵からだって身を守ってくれるのだから。
「その剣の銘は“シーリングエア”。魔力付与者は“漂泊の者”ユランディア。それはただ軽いだけじゃなくて、もうひとつ隠された魔力があるから、後で教えるね」
 ルージュが教えてくれた銘を聞いて、レイリアの笑顔が凍り付いた。
 聞き覚えがある。王都からの帰り道、ルージュの鑑定を聞きながら目録を書いたのはレイリア自身だから。
 魔剣シーリングエア。評価額は銀貨9万5000枚だ。
 レイリアが今の生活でそれだけの銀貨を貯めるには、たぶん10年くらいかかるだろう。
「ええと、これちょっと高価すぎるのではないかと」
「この程度でなに腰を引いてるの。まだまだこれからだよ? 次は魔法の防具。その後は装身具ね。リーダー、私は魔晶石を探し出して補充しなきゃいけないから、レイリアさんのことはよろしく」
「任された。さあレイリア、こっちへ」
 ニースとカザルフェロ戦士長から、シンはレイリアを預かったのだ。これからは、シンたちのやり方でレイリアを守っていく番。
 冒険者には冒険者の流儀というものがある。
 銀貨の山で敵の思惑を粉砕していくのは、バブリーズ以来の伝統だ。
 シンには、これっぽっちも自重する気がなかった。


「お金っていうのは、凄いんですね……」
 ライオット監修の露天風呂。
 ワイン醸造用の大樽を流用した湯船に身を沈めて、レイリアは複雑きわまる吐息をもらした。
 知ってはいたのだ。賢者の学院でせしめた贈り物や、ロートシルト男爵夫人関係で国王から下賜された金品、それに宮廷魔術師リュイナールからむしりとった依頼料や謝礼を合わせれば、ちょっと常識外れな金額になるということは。
 だがレイリアは、その金銭がどれくらいの威力を持つかということを、知識でしか知らなかった。
 魔法の剣、魔法の鎧、魔法のアミュレットなど、レイリアを強化するために選び抜かれた装備品は、合計金額で銀貨32万4000枚ほど。
 その結果、今のレイリアなら、相手があのラスカーズであっても互角に渡り合えるようになっていた。
「お金は人の可能性だからね」
 麻の布で石けんを泡立て、全身を泡だらけにしながら、ルージュが肯く。
「だけど、あれはレイリアさんが優れた剣士だから使いこなせる装備なんだよ。お金があれば誰でも強くできるわけじゃない。申し訳ないけどターバ神殿の神官戦士の人じゃ、魔法の剣なんか渡したところで、たかが知れてる」
 倒せる敵が、ゴブリンからホブゴブリンに変わるだけだ。どのみちゴブリンロードには太刀打ちできない。
 その程度の戦士がラスカーズの前に立ったところで、何の障害にもならないだろう。
「そう言われれば、そうなのかも知れませんが」
 レイリアは湯船の縁に頭を乗せて、半分だけの屋根の向こうの夜空を見上げた。
 湯船から立ち昇る湯気が、ランプに照らされてオレンジ色の霧のように踊っている。
 すっかり暗くなった空には雲ひとつなく、湯気の向こうでは色とりどりの星々が瞬いていた。
 自分は“亡者の女王”の転生体で、邪教に狙われる身だというのに、こうして首までお湯につかって、身体の疲れをのんびりと癒やしている。
 ルージュ謹製の椿の石鹸はレイリアの黒髪を艶やかに洗い清め、馥郁とした花の香りまで漂わせている。 
 新しい装備も、この至福の時間も、すべて他人の金銭で与えられたもの。
「どうしても釈然としないんです。私はルージュさんたちから多くのものを与えられましたけど、何だかそれは、皆とちがうズルをしてるような気がして」
 するとルージュは、身体を洗う手を休め、レイリアを振り返った。
 洗い終わった髪をタオルでアップに巻いてあるから、上気したうなじが色づいているのがよく見える。
 物憂げな瞳で夜空を見上げる横顔からは、レイリアが本心から悩んでいるのが伝わってきた。
 本当に、外見も内心も清らかな乙女だ。
「リーダーはホントに佳い女をつかまえたよね」
「え?」
 きょとんとして聞き返すレイリアに、優しい笑みを返す。
「別にズルでもいいじゃない。大切なのは、その力を何に使うかでしょ? 真面目にコツコツやって他人に迷惑をかけるくらいなら、ズルして百人を幸せにする方がずっといい」
 ルージュたちは他人よりもずっと大きな力を持っている。
 それは大きな視野で言えば名声や人脈であり、個人的には武力や魔力、あるいは財力といったもの。シンが国を作ると決断した時、それを下支えできる程度には大きな力を。
「リーダーはレイリアさんを色々な敵から守るために国を作る。けど、レイリアさん以外の人のことは、あんまり考えてないと思う。だからね、リーダーには必要なの。隣で国民のことを考えてくれる人が」
 国を支える何万という民の生活を。
 彼らの前にどんな未来を描き、どんな希望を示すのか。
 もっと簡単に言えば、どんな国を創りたいのかという理想を、だ。
「レイリアさんには言っておくけど、私はね、いつまでもリーダーと一緒にいる気はない。こっちがある程度落ち着いたら、故郷に帰りたいから。そうなった時、シンを支えるのはレイリアさんの役目だよ」
 ルージュはかけ湯で泡を洗い流しながら、真剣な声音で言葉を続ける。
「だから、これだけは忘れないで。力っていうのは驕っても、溺れても、恐れても駄目。過大評価も過小評価もしないで、必要な分だけためらわずに使うの。リーダーが暴走しそうになったら、何としてでも止めるの。それが王妃様の責任だからね」
 この言葉を胸の奥で受け止めて、レイリアは痛感した。
 自分はこの期に及んでも、与えられたものしか見ていなかった。
 シンの重荷を半分背負うとはどういうことか、分かっていなかったのだ。
「とまあ、それはさておき」
 見るからに落ち込んだレイリアを見て、ルージュが再び雰囲気を豹変させた。
「今夜はライくんをこき使って、私の部屋を整理しないといけないから。悪いんだけど、レイリアさんはリーダーの部屋で休んでくれる?」
 明るい口調で言いながら、湯船の中に滑り込んでくる。
 触れあう肌と肌。
 レイリアが少し小さくなると、ルージュはくすりと笑って顔を寄せてきた。
 そして、耳元で意味ありげにささやく。
「さっき街道で野獣に火をつけたみたいだから、責任取らないとね」
「……ッ!」
 これはルージュなりのフォローなのだ。落ち込んだ自分の気分を、少しでも紛らわせようという心遣い。
 それは分かっている。しかし。
「うん、髪も肌もいい匂い。これなら大丈夫。ちゃんと静められるよ」
「全然大丈夫じゃありませんから!」
 どうせなら、もうちょっと別の話題を選んでほしい。
 茹で上がった頭の片隅で、レイリアは切に思った。



[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン4
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/07/19 15:29
マスターシーン 〈栄光の始まり〉亭

「女将、戻ったぜ! とりあえず酒だ!」
 旅塵で汚れたマントを脱ぎながら、数名の冒険者たちが入ってきた。
 年季は入っているが、よく手入れされた装備の数々。
 陽気だが鋭い眼光。
 彼らが漂わせる雰囲気には、他の冒険者たちとは一線を画す存在感があった。
 厨房から顔を出した女将は、春先以来姿を見なかったベテラン冒険者に目を丸くした。
「あんたたちか。ずいぶんと遠出をしたみたいだけど、どこ行ってたんだい?」
「ちょっと王都までな。それより聞いたぜ。“砂漠の黒獅子”だったか? 二つ名持ちとは、どうやら一流どころを掴まえたみたいじゃねえか」
 リーダー格の戦士が、にやりと笑って話しかける。
 革鎧を着た戦士に、初老の戦神マイリーの司祭。額に赤いバンダナを巻いた盗賊。まだ10代半ばの、顔に幼さを残した女性魔術師。
 彼らは〈栄光の始まり〉亭で何年も経験を積み、エース格に成長したパーティーだ。
 戦士に続いてカウンター近くの丸テーブルを占拠すると、どさりと背負い袋をテーブルに投げ出した。
 中で銀貨がくずれる鈍い音が響く。
 給仕の女の子が人数分のジョッキを運んでくると、盗賊は悪びれた様子もなく腰に手を伸ばした。
「新しい娘を入れたんだな。どうだ、今夜オレに付き合わねえか? 金ならあるぜ?」
「もう、昼間からそういうのはやめて下さいって言ってるじゃないですか」
 女魔術師が頬を膨らませて文句を言う。
 盗賊はひらひらと手を振っておどけてみせた。
「仕方ねえだろ。道中は野営と田舎村の宿屋ばっかりで、娼婦のひとりもいやしねえ。お前みてえなお子ちゃまと違ってな、オトナの男は溜まるもんが溜まるんだよ」
「私はもう子供じゃありません!」
「へーへー、そうかい。じゃあ何か、お前がオレの相手をしてくれんのか? お前じゃ金は出せねえぞ」
「ふざけないで下さい!」
「こちとら大真面目なんだがね」
 いつものようにじゃれ合いを始めたふたりを、マイリーの司祭が窘めた。
「今はそれくらいでよかろう。リーダーが待っておる。ぬるくなってしまってはエールに失礼というものだぞ」
 女魔術師が盗賊に淡い好意を持っているのは、司祭も気づいている。
 だが世の中の酸いも甘いも知り尽くした盗賊には、それを受け入れる気がないらしい。
 無理もないだろう。女魔術師は盗賊の半分ほどしか生きていないのだ。放っておけば病気のような初恋は冷め、いずれ自分に見合った相手を見つけ出すに違いない。
 ふたりがおとなしくなると、戦士は気にしたそぶりも無く、高らかにジョッキを掲げた。
「それじゃあ乾杯だ。俺たちの冒険の大成功を祝って!」
 無精ひげの生えた頬に満面の笑みが浮かぶ。
 当然だ。手に入れた銀貨の山は、豪遊に豪遊を重ねても当分はなくなるまい。
「乾杯!」
 そこから先は、思い出話に花が咲いた。
 王都アランでは、炎の精霊王イフリートに怯える貴族から、かつてない好待遇で屋敷の警備を請け負った。
 王都からの帰り道では、途中の村で保存食が手に入らず、戦士が狩りで食料を仕留めるという、まるで駆け出しの頃のような生活をした。
 ザクソンではゴブリンの群れと上位魔神が暴れ回ったとかで、恵みの森のはぐれ妖魔退治に付き合い、報酬代わりにタダで宿と酒にありつくことができた。
「そういや、あの薬草師の嬢ちゃんもなかなかだったな。あと3年ありゃ、ちょっとした美人になる。その頃もう一回行ってみようぜ」
「バカですか? あの人あなたに怯えてたじゃないですか。相手してほしかったら、とりあえず顔と性格を取り替えた方がいいですよ」
「やれやれ、小娘の嫉妬は見苦しいねぇ。だからお前には男ができねえんだよ」
「……ッ!」
 言葉の勝負では、盗賊の方に分がありそうだった。
 魔術師が二の句を継げずに顔を真っ赤にすると、空気を読まない戦士がとどめを刺す。
「気にするな。お前だってあと3年あれば、きっと美人になるよ」
「今は? ねえ今は?」
 笑いの輪がはじけて、戦士が愉快そうにジョッキをあおる。
 すると、そこに声をかける若者があった。
「あの、すみません。僕たちにも今の話を聞かせてもらえませんか?」
「ああ?」
 盗賊が振り向くと、そこにはふたりの少年がいた。
 年は女魔術師とそう変わらないだろう。
 真新しい革鎧に、どこか幼さや甘さを感じさせる、そばかすの浮いた顔。
 一目で理解できる。
 まだ一度も修羅場をくぐったことのない、駆け出しの冒険者たちだ。
「何だおめえたちは? 見世物じゃねえぞ」
「だから毎回毎回、初対面の相手に凄むのやめて下さいよ。しつけのなってない駄犬みたいで、こっちが恥ずかしいです」
「お前はいちいち口うるさいんだよ。嫁いびりが趣味の意地悪ババアかっての」
「何ですって!」
 じゃれ合うふたりに肩をすくめて、戦士が声をかけた。
「それで? 何の用だ?」
「本当に邪魔して済みません。僕たち“砂漠の黒獅子”のパーティーから依頼を受けたんです。王都方面から旅人が来たら、道中の話を聞いて、どんなことでもいいから教えてくれって」
 戦士と司祭が顔を見合わせる。
「噂の英雄サマは、よく分からんことをするんだな」
「駆け出しの救済でしょうか?」
 成功した冒険者が、日々の生活にも事欠く後輩たちのために、どうでもいい依頼を出して支援する話は聞いたことがある。
「それにしたって、もう少し意味のあることをすればいいと思うが」
 首をひねっている間も、駆け出しのふたりは緊張に体を硬くして、直立不動で返事を待っている。
 それに気づいて、戦士は苦笑した。
「まあいいだろ、減るもんじゃないし。ただしお前らも冒険者だ。情報には代価を払わなきゃいけねえ。おい、俺たちの情報いくらで売る?」
 戦士に水を向けられた盗賊は、駆け出したちを頭から足下までじろりと眺めて、財布の中身を予測する。
 この後輩たちの生活が破綻しない程度にふっかけてもいいのだが。
「オレたちにエールをもう1杯ずつ、ってとこでいいんじゃねえの?」
 3年前の自分たちを思い出せば、このあたりが妥当だろう。
 戦士は満足そうに肯くと、駆け出したちに笑いかけた。
「そういうことだ。払えるなら、その辺から椅子を持ってきてここに座れ。一緒に一杯やろうぜ」
 安堵で肩の力が抜けたか、駆け出したちがようやく表情を緩める。
 給仕が新しいジョッキを運んでくると、戦士はまた高らかに掲げた。
「じゃあもう一回乾杯だ。今度は、この出会いを祝って!」
 道中の苦労話もそうだが、他にも野営の心構えや怪しい依頼の見分け方など、この未熟な若者たちには教えたいことが山ほどある。
 たまにはいいだろう、と戦士は思った。
 今回の成功で、銀貨にはかなりの余裕がある。この駆け出したちに一晩おごる程度の無駄遣いは、女魔術師も許してくれるだろうから。


シーン4 ターバ神殿

「狭いという点を除けば、それなりの部屋でございますね」
 案内された客間を見渡して、ランシュは無表情に論評した。
 十歩四方ほどの部屋には、応接用のテーブルとソファ。間仕切り代わりのクローゼットや観葉植物を挟んで、向こう側に寝台が2つ並んでいる。
 置いてある家具はドワーフ職人独特の繊細な装飾が施された逸品で、床には青草を干して編んだらしい涼しげな敷物。
 開け放たれた窓からは涼やかな風が吹き込み、窓辺で手編みらしきレースのカーテンが揺れている。
 決して華美ではないが、ふんだんに金のかかった、居心地のよい部屋だった。
 黒のロングワンピースにフリルのついたエプロン、髪にはホワイトブリムという由緒正しい宮廷メイド装束のランシュは、両手で運んできた大きな旅行鞄を床に下ろすと、不機嫌を隠そうともしない主人に一礼する。
「それではラフィット様、お召し替えを」
「ねえランシュ、今からでも遅くはないわ。あなた離宮に帰りなさい。予定外の来客が増えて、ニース様たちも大混乱だったじゃないの」
 ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、宮廷魔術師リュイナールの魔術で《転移》してきた時のことを思い出し、わざとらしくため息をついた。
 事前の打ち合わせでは、ラフィットがひとりで神殿に来るはずだったのだ。
 ごく普通の神官として偽装生活を送る、という約束だったので、滞在中はずっとレイリアの私室に同居できる手はずになっていた。
 なっていたのに。
「無茶をおっしゃらないで下さい。どうしてこのような僻地で、ラフィット様をおひとりにできましょうか」
 この侍女は転移当日になって宮廷魔術師にねじ込み、「ロートシルト男爵夫人たるお方が、侍女の1人もつけないで2週間も過ごせるとお考えですか」と正論を振りかざして、強引に同行を承諾させてしまったのだ。
 ラフィットの典雅な挨拶にニースがそつなく応対している間、護衛に当たる神官戦士長と冒険者たちの表情は引きつっていたし、レイリアは経緯が飲み込めずに曖昧な微笑を浮かべるばかりだった。
 おかげで、2週間も楽しめるはずだったレイリアと一緒の夜も、感動の再会にかこつけて抱きつく計画も、すべてがお流れ。
 何の準備もしていなかったと丸わかりの簡素な客間に通され、一緒にいるのはこの侍女だけだ。
「妾をバカにしているの? 着替えもお化粧もひとりで大丈夫よ。あなたがいなくても問題なくやっていけるわ」
「左様でございますか。安心いたしました。ではご自分でお召し替えを」
 主人の勘気をさらりと受け流し、ランシュは完璧な所作で頭を下げる。
 差し出すのはマーファ教団の神官衣だ。白い亜麻布の貫頭衣と、同じ生地で作られたケープ。着替えに手間取るようなものではない。
「ひとりで着替えたら帰ってくれる?」
「お断りいたします」
「……そう。じゃあ脱がせて」
「かしこまりました」
 空色の薄絹を何枚も重ねた夏用のドレス。ラフィットの所有物の中では上品でおとなしく、露出も控えめな品だが、あくまでもこれは国王が脱がせることを想定した衣装だ。着用者が自分ひとりで脱げるような代物ではない。
 華奢な首のうしろで結ばれた紐をほどくと、黒髪のメイドは慣れた手つきでドレスの背中を開いていった。
 徐々に白い肌が露わになっていく光景は、もし男性が見たら昂ぶりを押さえられないだろう。
 睫を伏せてうつむく表情、ほんのわずかに肩を丸めるしぐさなど、ラフィットは無意識でも凄絶な色香を発散してしまう。
 薄絹のドレスは、ラフィットの体からするりと解けると、まるで花が開くように床に広がった。
 国王が脱がせた後、無粋な布の山として残るようではムードが台無しだ。ラフィットが着用するドレスはすべて、脱いだ後も寝室を飾る装飾として機能するように作られている。
 身にまとう衣装を失い、純白の下着姿になったラフィットは、マーファの神官衣を手に取って動きを止めた。
 これはラフィットが奉じる終末の女神カーディスの宿敵、大地母神マーファの神官衣。着ているレイリアに抱きつくのに抵抗はないが、自分が身につけるとなると話は違う。
 カーディスを滅ぼし、彼女が姉と慕う女王ナニールを封印した憎むべき敵の象徴。
 それがこの神官衣ではないか。
 終末の女神がこの光景を見たら、何と言うか。
「心中お察しいたします。ですが、神罰は不肖ランシュがお引き受けいたします」
 ランシュはラフィットの前に跪くと、恭しく、主人の手の中にある神官衣に口づけた。
 ラフィットと同じくカーディスの使徒である彼女にとって、敵に体を開くのと同じ屈辱であるはずなのに。
「ランシュ……」
「ラフィット様。こんな物は、ただの布きれでございます。お召し替えを」
 常と変わらぬ無表情でうながす侍女の、その握られた拳が細かく震えているのに気づいて、ラフィットは薄く笑った。
「あなたの忠義、受け取りました」
 言って、神官衣に身を通す。
 肌触りは粗く、質感は普段着ているドレスとは比べものにならない。
 それでも鏡の前には、清楚で可憐なマーファの女性神官が立っていた。
 緩やかに波打つ黄金の髪、六分丈の袖から伸びるたおやかな腕。表情さえ取り繕ってしまえば、完璧な神官としてターバのどこでも歩けるだろう。
「どう?」
 くるりと回れば、純白のケープと神官衣の裾がふわりと揺れる。
 意識して小娘のように微笑むと、メイドの仮面をかぶり直したランシュは難しい表情で顎に手を当てた。
「失礼ながらラフィット様、首元が開いております」
「仕方ないでしょ。そういう服なんだから」
「いえ。そのお姿で外を歩けば、不心得を起こす殿方が続出するでしょう」
 マーファの神官衣は決して扇情的な衣装ではないが、だからこそ、控えめに開いた首元にラフィットの色香が集中してしまう。
 ランシュは旅行鞄から裁縫道具を取り出すと、着替えとして提供された2着目の神官衣からケープだけを抜き取り、糸をほどいて作業を始めた。
 とたんに手持ち無沙汰になり、ラフィットはちょこんとベッドに腰掛け、侍女の針運びを眺める。
「ラフィット様。そちらのケープもお借りしてよろしいですか?」
「いいわよ。縫ってくっつけるの?」
「詰め襟に仕立てる時間はありませんので、肩で留めるマントのように仕立てようかと考えております。ブローチを持ってきて正解でございました」
 話しながらもランシュの手は止まらなかった。
 持参した主人の宝石箱から金で縁取られた青玉のブローチを選び出すと、1着目のケープの肩に縫い止めていく。
 その針捌きは熟達した職人も顔負けで、ほんのわずかな着替えの時間だけで、ちょっとした上着が一着できあがろうとしていた。
「ランシュは美人だし、料理も上手だし、掃除も洗濯も裁縫も得意なのに、どうして男どもは放っておくのかしらね?」
「間もなく30歳になろうかという女に、殿方の話題は禁物でございますよ」
 最後の一針を入れて糸を切る。
 ぱん、と音を立てて亜麻布を引っ張り、縫い目のしわを広げると、ランシュは目を細めて隅々まで検分した。
 これを着るのはロートシルト男爵夫人なのだ。急ごしらえとは言え、無様を晒すようなことは許されない。
 やがてランシュは、小さく頷くと主人に向き直った。
「お待たせいたしました。こちらをどうぞ」
 少女の華奢な肩に、仕上げたばかりのケープを羽織らせる。
 ほどいて縫い足した部分はマフラーのように首元を一周し、ラフィットの喉元をふわりと覆い隠していた。
「何だかちょっと暑いわ」
「我ながら会心の出来でございます。無理を言って付いてきた甲斐がありました」
 うっすらとした微笑を浮かべ、ランシュが満足そうに頷く。
 客間の扉がノックされたのはその時だった。
 主従は瞬時に雰囲気を作り直し、気の置けない仲間同士から、国王の愛妾とその侍女へと変身する。
「分かっていますね? 嘘は厳禁です。必ず見破られると思いなさい」
「かしこまりました」
「皆様には本心からの敬意と感謝を捧げなさい。それができないなら、ここに残ることは許しません」
「心得ております」
 ここはマーファ教団の総本山、敵地のど真ん中だ。
 くだらないプライドや好悪の情に囚われて、正体が露見する愚を犯してはならない。
 ましてや、ランシュが失敗すれば、その累が主人に及ぶのだから。
 完璧に感情を制御してロートシルト男爵夫人の侍女になりきると、ランシュは侍女にふさわしい控えめな微笑を張り付かせた。
「お待たせいたしました」
 そう言って扉を開き、姿勢正しく礼を施し、視線を床に落としたまま客人を部屋へ招き入れる。
 そこに立っていたのは、“亡者の女王”の転生体レイリア、冒険者の魔術師ルージュ、それに使い魔の猫一匹。
 高貴な女性の部屋へは男を向けないという配慮らしい。
「レイリア様、ルージュ様、このたびは突然のご迷惑、申し訳ございません」
 数ある仮面の中から『愛妾にされた少女の、私的でややくだけた態度』を選んだラフィットが、申し訳なさそうに目尻を下げる。
「こちらこそ、至らなくてごめんなさい。色々と用意はしたんですけど、この部屋には置いてないんです。これから少しずつ運び込みますから。ランシュさんも、必要な物があれば遠慮なくおっしゃって下さいね」
「お心遣い痛み入ります、レイリア様」
 本来ならば、ここでは気配を消して茶の用意をするのが侍女の役目なのだが。
 もてなすこともできず棒立ちになったまま、逆に主人の客に気遣われるという屈辱に、ランシュは目もくらむ思いだった。
「それより、よく似合っていますね、ラフィット」
 どことなくぎこちない空気を追い払おうと、レイリアはにこりと笑って名を呼ぶ。
「ケープはすこし飾り付けられているようですけど。これはランシュさんが?」
「はい、レイリアお姉様。私は最初のままでいいと言ったのですが、ランシュが駄目だって言うんです」
 ラフィットは少しすねた口調で甘えてみせる。
 レイリアは曖昧な微笑に困惑を浮かべてランシュを見た。
 目立たないように、普通の神官に偽装するというのが趣旨なのだから、神官衣を改造するとはどういうことか。考えているのはそんな所だろう。
 しかし、こればかりは譲れない。
「ご覧になれば、お分かりいただけるかと愚考いたします。ラフィット様、失礼いたします」
 ランシュは主人の肩を留めるブローチのピンを外し、喉元を隠していた襟巻きを取り去ってみせる。
 たったそれだけのことで、部屋の空気が一変した。
 ほっそりしたうなじと、喉元にかけての肌。
 そこから匂い立つような何かが発散されて目が離せなくなる。
 レイリアは顔を赤らめて立ち尽くし、ルージュは口に手を当てて息を飲んだ。
「いや……レイリアさん、これはダメだよ」
「私のと同じ服なのに、どうしてこんなに違うのでしょうか?」
 純白の、清楚な神官衣。
 それをきっちりと着ているだけで、衣装はどこも乱れていないのに、わずかにのぞくラフィットの肌が、どうしてこんなに劣情をかき立てるのか。
 この格好で外を歩かせるなどとんでもない。目立たないどころか注目の的だ。
「お姉様?」
 無邪気な表情で、ラフィットが首をかしげる。
 たったそれだけの仕草で、表現しようのない息苦しさが倍増した。
 レイリアはもう限界だった。
 これは隠さなくてはならない。絶対にシンには見せられない。
「ごめんなさい、もういいです」
「かしこまりました」
 忠実な侍女が主人の肌をふわりと隠すと、レイリアとルージュはようやく一息つくことができた。
 以前、王都の離宮で味わったのと同じ魔法。国王でさえ虜にしてしまうラフィットの性的魅力は、凶暴としか言いようがなかった。
「ランシュさん。あなたの仕事ぶりは完璧です。あなたがいなければ大変なことになっていました。ありがとうございます」
 レイリアの賛辞は本心からのものだ。
 傷ついていた侍女としてのプライドを大きく満足させられ、ランシュは上品に微笑んで頭を下げた。
「もったいないお言葉、恐縮でございます」
 そして、これ幸いとルージュに話しかける。
「ルージュ様、当家の執事からルーィエ様に言付かっておりますので、お話を許可いただけましょうか?」
「もちろんです。ルーィエ、ご挨拶して」
 それまで黙って茶番を見学していた銀毛の猫王は、侍女が自分の名前を知っていたことに驚いた様子だが、様付けで呼ばれて自尊心を満足させたらしい。
 ひらりとテーブルに跳び乗ると、胸を張って侍女を見上げた。
「お前は見覚えがあるぞ。王都の道端で暗殺者に襲われた時、そこの小娘をかばって戦った忠義者だな。天と地と精霊に祝福されし銀月の王、ルーィエだ。以後見知りおけ」
「ランシュと申します。その節は命を助けていただき、誠にありがとうございました。当家の執事からも、ラフィット様の大恩あるお方ゆえ、くれぐれも失礼のないようにと申しつけられております」
 猫を相手に深々と頭を垂れ、丁寧な礼を施す。
 そして頭を上げると、ランシュは旅行鞄の中から茶色の小瓶を取り出した。
「こちらはルーィエ様に、当家からのお礼でございます。ホニングブリュー農園の最高級蜂蜜を用意いたしました。ミルクとの相性は絶品と、料理長の保証付きでございます」
 まるでちょっとした絵画のような、ホニングブリューのラベル。
 シャトー・ロートシルトの葡萄酒には及ばないが、これも王室御用達の超高級品だ。1瓶で銀貨100枚は下らない。
「ミルク割りの秘伝レシピも学んで参りました。ルーィエ様、どうか無聊の慰めにお運び下さい。精一杯おもてなしさせていただきます」
 かつて、ルーィエを王としてこれほど適切に処遇した人物がいただろうか。
 ルーィエは満足を隠そうともせずに髭をふるわせた。
「さすがは男爵夫人の侍女だ。お前は道理も礼儀もよくわきまえている。男爵夫人がこの部屋にいる間は、俺様が直接護衛する手はずになるから、朝夕の食事にそれを饗することを許してやろう」
 さりげなくラフィットが“小娘”から“男爵夫人”に格上げされているあたり、相当嬉しかったらしい。
『物に釣られるって、どれだけ単純なのよ』
『やかましい。悔しかったらお前らも俺様をもてなしてみせろ』
 念話を交わしながら、ルージュも男爵夫人に話しかける。
「うるさいのが一緒だと気も休まらないと思うんですが、護衛なしはさすがにまずいということになりました。申し訳ないんですが、部屋の隅っこにルーィエを置いていただけませんか?」
 本当ならレイリアが同室で護衛する予定だったのだが、そこにはあえて触れない。
 その気遣いはラフィットも正確に受け取って、花開くような明るい笑顔を浮かべると、両手を胸の前で合わせた。
「ルージュ様、願ってもないことですわ。ルーィエ様は毛並みもお美しくて、猫族の王として品格もおありになって、そんな方と御一緒できるなんて素晴らしいことですもの。ルーィエ様、今宵は妾にお体を撫でる栄誉をお与え下さいましね?」
「ラフィット様、国王陛下が嫉妬なさるような言い方はお慎み下さい」
 冷静に指摘するランシュの言葉に笑いがはじけた。
 どうやら猫の護衛を受け入れてもらえそうだと知って、レイリアの顔にも安堵が広がる。
「ラフィット、一休みしたら神殿の中を案内します。また後で来ますね」
「はい、お姉様」
 レイリアとルージュに続いて背を向けたルーィエは、ふと足を止めると、扉口からランシュを見上げた。
「おい侍女。すぐに茶器と湯、それにミルクを運ばせる。他に必要なものはあるか?」
「ありがとうございます、ルーィエ様。差し支えなければ水盆と手拭いをお願いいたします」
「分かった。それから、この神殿には侍女を伴うような貴人はいないことになってる。間違えてもその格好で扉の外に出るなよ。出たいならお前も神官衣を着ろ」
 紫水晶の瞳が侍女を射貫く。
 ランシュは反射的に頭を下げ、表情を隠した。
「かしこまりました」
 ルーィエが音もなく去り、扉が閉まっても、しばらく室内には沈黙が残る。
 ランシュは耳を澄ませ、2人分の足音が遠ざかっていくのを確認したが、さすがに猫の足音までは聞き取れない。
 やっかいな相手が護衛についたものだ。
「ランシュ。ルーィエ様はよく見てるわね」
「はい。ラフィット様、4日間下さいませ。準備いたします」
 どこに耳があるか分からない。
 具体的な指示は一言も言葉に載せず、それだけのやりとりで問題を共有する。
「お願いね」
 対策を信頼する侍女に任せると、ラフィットは部屋の窓から外を眺めた。
 そこに広がっているのは、白竜山脈の霊峰と、どこまでも続く針葉樹の森。
 巡礼者や司祭たちが大勢いる聖堂とは反対側の景色だ。どうやら、徹底して彼らの目から隠蔽するつもりらしい。
「もっとも、妾たちにとっても好都合ですけれど」
 敵の本拠地に乗り込んで行う、乾坤一擲の賭け。
 ターバ神殿が血と炎で染まる未来を幻視して、ラフィットの唇が冷たい笑みを浮かべた。



[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン5
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/07/24 21:07
シーン5 ターバ神殿

 ターバ神殿は今から400年前、ロードス全土に邪神カーディスの勢力が台頭していた時代、アラニア北部の民が抵抗の拠点として砦を築いたのがその始まりである。
 神殿が建っているのは白竜山脈の尾根に寄り添う高台で、参道と言える〈祝福の街道〉から見上げる威容はまさに難攻不落だ。
 門は正面にひとつ、裏側にひとつ。
 街道から見上げる正門はマーファ教団の総本山にふさわしい荘厳なものだが、そこへと続く52段の石段は登るだけで一苦労だろう。
 裏門へはなだらかな坂道で楽に上れるものの、その通路は馬車1台を何とか通せる程度の狭い道で、軍勢が攻めかかるには不向きなもの。
 城壁内部にはマーファ教団の総本山たる大聖堂、巡礼に訪れる信者たちを迎える礼拝所、司祭たちの住む宿坊などが建ち並び、数百人の人々が生活している。
 さらには信者たちに護符などを提供する販売所、財務担当司祭マッキオーレの肝煎りで新築された食事処など、さながら一個の街のようだ。
 城壁2階のバルコニーにテーブルと椅子を用意して2人の客を迎えたライオットは、立ったままバルコニーの手すりに背中を預け、横目で賑やかな神殿の中庭を見下ろしていた。
「まさかこの席に呼ばれるとは思いませんでした」
 最初に口火を切ったのは、すらりとした長身にストレートロングの金髪、切れ長の目をした美女だ。
 背筋を伸ばして椅子に座る姿は、その美しさといい冷たさといい、まるで名工の手がけた美術品のよう。
 彼女の名はアウスレーゼという。国王カドモス7世に派遣され、最高司祭ニースの護衛という名目でターバ神殿の監視役を務める密偵である。
「よくもまあ、私を相手に隠し通したものですね。先ほどロートシルト男爵夫人を見た時は目を疑いました」
 彼女の正面に座り、険のある視線で串刺しにされているのは、王宮で宮廷魔術師の席を占める若き俊英、リュイナールだ。
 端整な容貌と温雅な雰囲気の持ち主で、宮廷の女官たちから不動の人気を得ている。
 美女の冷たい視線に晒されても穏やかに微笑んで受け流せる余裕が、彼の人気の秘密なのかもしれない。
「仕方がありませんよ。アウスレーゼ殿に話そうものなら、すぐにパーシア公爵に報告されてしまいます。パーシア公爵が知ってしまったら、翌日にはラスター公やノービス伯の耳に入るでしょう? 何もかも台無しではありませんか」
「ターバ神殿の内情をご報告申し上げるのが私の任務です。その情報をどう扱うかは陛下と重臣方がご判断なさること。臣下たる我らが報告を怠るなど不忠ではないですか」
「男爵夫人の情報を他人に洩らすことが忠義だというなら、あなたの忠義は本末転倒と言わざるを得ませんね。陛下のご意向と正反対を向いておられる」
 ふたりはお互い、一歩も引かずに言い合いを続ける。
 それだけ自分の仕事に信念を持っているのだろう。口調にはだんだんと棘が鋭くなり、目つきも危険な色を帯び始める。
 そんな様子を他人事のように眺めながら、ライオットは思った。
 灰色の魔女に喧嘩を売るアウスレーゼも、この冷徹な密偵を正面から叩き潰そうとするリュイナールも、どちらも命知らずの勇者と言えるだろう。
 もし自分なら、どっちもごめんだ。
「ライオット殿、そういえばあなたも秘密主義でしたね。シン殿と何やら企てているそうではありませんか。あの日王宮でシン殿が述べたことは偽りですか? しかもこの宮廷魔術師まで、それを承認したとか」
 業を煮やしたアウスレーゼが、怒りの矛先をライオットにも向けてくる。
「情報が早いな」
「それが仕事ですから」
「だけどリュイナールの言ったとおり、知っただけじゃ意味がない。報告するのは構わないけど、『何故』っていう裏付けがなければ情報の信頼性は半減すると思わないか?」
 アウスレーゼが単なる物見兵のように、見たものを見たまま報告する権限しかないなら、それでもいい。
 しかしこの密偵は、ターバという僻地で最高司祭ニースの監視を任されているのだ。かなり自由な判断をする裁量があるはず。
「情報は大切だ。その意見には全面的に同意する。だけど物事を判断するなら、できるだけ多方面の情報を統合するべきだ。たったひとつに頼ると、それが間違えていた時、取り返しのつかないことになる」
 その意見に筋が通っていることを認め、アウスレーゼが渋々黙り込むと、ライオットはふたりに畳みかけた。
「今日ふたりに来てもらったのは他でもない。俺から提案があるんだ。ここにいる3人は、それぞれが大事な情報を握っている。俺たちは、互いにそれを知りたい。今、王都で何が起こっているのか。これからターバで何が起こるのか。全部ぶっちゃけて、誤解無しに正しく共有しようじゃないか。お互い嘘は無しだ」
 そしてライオットは、懐から銀色の指輪を取り出すとテーブルに置いた。
 細かく古代語が刻まれた指輪は、どう見ても魔法の品。
「《センス・ライ》のコモンルーンだ。俺とアウスレーゼが使う。リュイナールは自分で魔法をかけてくれ。これで嘘のない、本当の情報が手に入る。異論のある者はいるか?」
 想像以上にリスクの高い提案に、アウスレーゼもリュイナールも言葉を失った。
 彼らが接しているのは国政の重要機密とも言える情報だ。おいそれと口に出せるものばかりではない。
「異論といいますか、さすがに何でも答えるという訳にはいきませんよ?」
 困った顔でリュイナールが告げる。
 おそらく、これで警戒心は跳ね上がったことだろう。だがライオットにとって、それは無視できるリスクだった。
「もちろん構わないさ。それならルールを追加しよう。答えられないと回答されたら、それ以上は追及しないこと」
「分かりました。私はそれで構いません」
 そして2人の視線がアウスレーゼに向かう。
 金髪の密偵は無表情に黙り込んでいたが、やがて深いため息をひとつつき、ライオットを見上げた。
「いいでしょう。ただし条件があります。最初に、さっきの質問に答えて下さい。シン殿が王宮で言ったことは嘘だったのか。そして、あなた方はこれから何をしようとしているのか」
「よし、これで決まりだな。先に指輪を使おう。コマンドワードは『真実を我に』だ」
 コモンルーンを使うのに必要な精神点は15点。並の人間なら1回で気絶できる。
 ふたりが大粒の魔晶石を粉にしつつ《嘘感知》の魔法を発動させると、ライオットは心から楽しそうに開会を告げた。
「本気でわくわくするな。この会議はきっと後世の歴史書に残るぜ。そこに当事者として参加して、俺たちはこれからロードスの歴史を動かすんだ。信じられないよ」
 その言葉に、嘘はなかった。


 神殿の中庭に設けられた休憩所のひとつで、カザルフェロ戦士長とシンが仲良くお茶をしているらしい。
 そんな噂が広まり、手の空いた神官戦士たちによって事実が確認されると、その情報は驚愕の嵐となって神殿中を吹き荒れた。
 ふたりの犬猿の仲は有名だ。“鉄の王国”の出来事によって敵対行動は収まったとはいえ、まさか一緒に茶を飲む仲になろうとは。
 今も通りかかった女性司祭がシンに会釈し、一緒にいるのがカザルフェロだと知ると目を見開いて二度見し、何か見てはいけない物でも見たかのように足早に去って行く。きっと同僚のところに行ったら、今見たものを面白おかしく吹聴するのだろう。
 休憩所には大きな円卓と椅子が8脚ほど備えられているが、シンたち2人の他には誰も寄りつこうとしなかった。
「どれだけ仲が悪いと思われてるんだろうな、俺たちは」
 頬杖をつき、大聖堂の方向を眺めながら、シンはぽつりと言った。
 視線の先には黒、金、銀の艶やかな髪が揺れ、楽しそうに語らいながら歩いている。
 彼女たちの今日の予定は神殿内部の見学だけだ。護衛としては楽なもの。
「女は感情で生きてるからな。好き嫌いってのは永遠のもんだ。未来永劫ぶつかり合うと思われてたんだろう」
 腕組みをして背もたれに身を預けたカザルフェロが、皮肉っぽく応じる。
「それにしてもお前さんの相棒、あれはいったい何者だ? 剣の腕はお前さんにタメを張る超一流、司祭としてはニース様に並ぶ《リザレクション》の使い手、政治と謀略を語らせれば宮廷魔術師と正面から渡り合えて、しかも要人警護の経験まであるのか。どういう生き方をしたらそんな人間ができあがるんだ?」
 ロートシルト男爵夫人を迎えるに当たって、ターバ神殿で一番頭を抱えていたのはカザルフェロだろう。
 ニースは「警備はよろしくね」の一言で丸投げしたが、そもそも神官戦士団とは妖魔相手の討伐部隊であって、重要人物を護衛した経験など一度もない。
 神殿の警備というのも門番2人ずつ、あとは適当に2人一組で巡回、これだけだ。
 重要人物の警備というのはどうやればいい?
 腕の立つ護衛を、寝室から便所まで張り付かせればいいのか?
 普通に考えても鬱陶しいその護衛を、重要人物様は受け入れてくれるのか?
 酒を飲みながらそうシンに愚痴っていたのを小耳に挟んだライオットは、後日カザルフェロを訪ねて、3人一組の巡回とエリア警戒という概念を持ち込んだのだ。
 巡回は常に3人一組。異常を発見したら、2人で対処。1人は現場から全速力で離脱し、応援を呼びに行く。
 護衛は対象個人を守るのではなく、対象が動き回る区域を包括的に警戒する。出入者をひとり残らずチェックし、不審人物は対象に接近する前、エリアに入った段階で排除するというものだ。
 ライオットが提案した警戒方法を、神官戦士団は実際に試してみた。
 カザルフェロ自身が侵入者役となって、ある時は物陰に身を隠し、ある時は手加減無しで部下たちをなぎ倒しつつ、宿坊の客間を目指して突進したのだ。
 そして、10回試したその全てで、カザルフェロは宿坊に入ることすらできず警戒部隊にに包囲されることになった。
「あいつの経歴は、北の大陸の聖堂騎士出身だ。その前は街の衛視みたいなこともやってた。そんなに特別な助言をしたのか?」
「3人一組ってのが厄介だったな。応援を呼びに行かれるのは本当につらい」
 回数を重ねるごとに警戒側も練度を上げていき、楽に勝つためにはどうすればいいかというのを実戦で学んでいった。中級指揮官たちも知恵を絞り、戦士たちに警笛を持たせたり、場所ごとに細かく呼び名を決めたりと、対応は訓練ごとに洗練されていった。
 最後になると、対処班は捕縛に挑戦すらせず笛を吹き続け、応援が来るまで時間稼ぎに徹していたほどだ。
「で、極めつけはこの休憩所だ」
 正門から大聖堂に至る通路の脇に新設された、木造の小さな東屋。
 四方に柱を立てて簡素な屋根をかけ、円卓を1つと椅子を数脚置いただけ。壁はせいぜい腰の高さまでしかないから、椅子に座ったとしても丸見えで、視線を遮るものは何もない。
 これを神殿中に配置し、巡礼者のみならず、神官戦士団も休憩場所として活用するように提案したのもライオットだ。
 正門から大聖堂へと続く人の流れを眺めながら、カザルフェロは素直に賞賛した。
「立ちっぱなし、歩きっぱなしは疲れるからな。公然と休憩をとれるだけで部下どもの稼働時間がえらく伸びた。おまけにここでなら、休んでいても変なやつが来れば一発で分かる。こいつは偉い奴が机上で考えたもんじゃない。最前線の部隊の知恵だぞ」
 カザルフェロの視線の先では、男爵夫人が礼拝に来た農夫と何やら話している。
 両手で葡萄がいっぱいに入った籠を抱えている農夫は、週に一度は必ず礼拝に来る熱心な信徒だ。
 付近にいるのは丸腰の巡礼者と神殿の司祭だけで、不審な人影は見当たらない。
 そんな状況も、こうして離れていると全体がよく見えるのだ。
「ずいぶんライオットのことを買ってるんだな。俺は人を指揮したことがないから、あんたたちのやってる事がよく分からない」
 シンはめずらしく突き放した口調で答え、冷茶の入ったカップを傾ける。
 その様子に苦笑して、カザルフェロはシンに顔を向けた。
「どうしたんだ、さっきからえらく元気がないな」
「俺にできるのは、剣を振ることだけだからさ」
 テーブルに立てかけた2本の長剣を見つめて、シンはため息をついた。
「大口を叩いてあんたからレイリアを預かったのに、何の役にも立ってないのが、ちょっとな」
 その姿は、まるでいじけた少年のようだ。
 “鉄の王国”での英断や無双のイメージが強すぎて、カザルフェロには見えていなかった実物大の英雄の姿。
 自分の半分も生きていないこの青年は、何のことはない、自分やあのライオットという相棒に嫉妬しているのだ。
「気にするな。お前さんの出番はすぐに来るさ。できれば来て欲しくないが、どうせすぐに来るんだ」
 まさか自分が“砂漠の黒獅子”を慰める日が来るとは。
 感慨深くシンの横顔を見ながら、カザルフェロは思った。
 それを嬉しく感じるということは、自分自身もまだまだガキなのだろう。


 ラフィットたちの部屋が落ち着いた頃を見計らって、レイリアとルージュは再び客間を訪れた。
 宮廷の匂いのする上品な礼儀で迎えてくれた侍女は相変わらずメイド服姿だったが、客間には様々な備品が持ち込まれて、空っぽだった先ほどとは大違いだ。
 部屋の一角は家具類の配置まで模様替えされており、ドアから巧みに視線を遮られた先にはランシュの作業スペースが設けられたらしい。離宮で愛用していた紅茶から若干の茶菓子まで、来客の応対に必要なものはひととおり準備できるという。
 部屋の奥にはドレスの薄絹を流用した几帳が置かれて、ラフィットの私的スペースはさりげなく覆い隠されている。
 主人と使用人という立場を明瞭にしつつ、居心地の良さと明るさを両立させた見事な空間使いだ。
「すごい。まるで貴族のお屋敷みたいに華やかになりましたね。とても神殿の中とは思えません」
「これはセンスだね。私たちみたいな庶民には逆立ちしたって無理だ」
 分かりやすい賛辞に、ランシュは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、ほとんどはルーィエ様のご助力の賜物でございます」
「俺様は品を手配しただけだ。全部お前の手柄だろう。お前を教育した主人の名誉のためにも、誇るべきは誇るのが侍女のあり方だぞ」
 偉そうに論評したルーィエは、ソファに浅く座ったラフィットの膝の上で報酬を満喫している。
 厨房から必要な品を運ばせた後も次々に出てくる不足品に対処し続け、結局最後まで客間の整備につきっきりだったのだ。
 その報酬として侍女に膝の上での昼寝を要求したところ、暇を持て余していたラフィットが提供を申し出たことから、ルーィエは王国で最も美しい膝枕を手にしていた。
 首や背中を男爵夫人の繊手が撫でるたび、目は心地よさそうに細められ、2本の尻尾は満足そうにゆらゆらと揺れている。このまま放っておけば間違いなく寝るだろう。
「お姉様、お待たせして申し訳ありません。ですがこの感触、癖になってしまいます」
 柔らかな手触りを堪能しているラフィットが、悩ましげな顔をレイリアに向けた。
「本当に毛が艶やかで、暖かくて、ルーィエ様が息をするたびにお腹が動くのですわ」
「気持ちは分かりますがラフィット。ルーィエさんはルージュさんの使い魔です。それに昼食の時間もありますから、そろそろ行かないと」
 ラフィットの幸せそうな時間を止めるのは気が咎めたが、今日は訪問初日だ。
 案内するべき場所も、やるべき事も多い。
「ルーィエ、降りなさい。これから大聖堂の方に見学に行くんだから」
 ルージュがきっぱりと命じると、銀毛の猫王はやれやれと言いたげな様子で立ち上がり、ひらりと床へ跳び降りた。
 膝の上から暖かな重みが失われ、ラフィットは悲しそうな顔でルージュを見上げる。
「ルージュ様、ルーィエ様の寝床は部屋の隅っこと仰せでしたが、今宵は妾の寝台で御一緒してもよろしいでしょう?」
「それはちょっと問題があると思いますよ。ああ見えてもルーィエはオスですから」
「まあ、それでしたら、なおさら問題ありませんわ。妾、殿方を喜ばせる技術には自信がございますもの」
 ぱっと表情を明るくし、両手を握ってアピールするラフィット。
 とっさに反応できずにルージュが絶句していると、ラフィットは元気よく立ち上がり、レイリアの左腕に絡みついた。
「では参りましょうお姉様。ランシュ、後はよろしくね」
「行ってらっしゃいませ」
 レイリアを引っ張るようにして客間を出て行く黄金の髪の少女を、ルージュは感心して見送った。
 なるほど、貴族はこうやって既成事実を重ねていくのか。
 ルージュが反対しなかったという事実を作り、あっという間に話題を変えて、もうそこには触れさせない。
 相手を煙に巻いて自分のペースに巻き込んでしまえば勝ちというわけだ。
「ルージュ様、主人が失礼をいたしました。申し訳ございません」
「別にいいですよ。ルーィエが寝る場所は、ルーィエが自分で決めるでしょうから」
 故意に謝罪を曲解して、無視されたことは気にしていないと伝える。
『じゃあ私は行ってくるから。ないとは思うけど、お茶とかに毒を入れられないように気をつけて見ててよ?』
『ふん、誰に言っている? お前こそ男爵夫人に振り回されて警戒を疎かにするなよ』
 いつものように皮肉を言いながらも、ルーィエは上機嫌を隠せていなかった。
 美人の主従にちやほやされ、膝を堪能したのもあるだろうが、それ以上に高級品の蜂蜜が効果を発揮したらしい。
 文字どおりのハニートラップだ。
 ルージュは内心でため息をつくと、黒髪の侍女に手を上げて別れを告げ、レイリアたちを追った。
 さすがにラフィットは女優だ。他の司祭や神官たちの目のある廊下では、レイリアに指導を受ける見習い神官になりきり、半歩後ろを控えめに歩いている。
 階段を降り、食堂や厨房をのぞいてから外に出るまで、すれ違う女性司祭たちの注意を引くこともなく、「今度の見習いは可愛いらしい娘ね」という程度の感想しか持たせていないようだ。
「どうでしょう、お姉様。なかなか神官っぽいと自負しているのですが?」
 宿坊から外に出ると気が緩んだのだろう、ラフィットが澄ました顔のまま、レイリアに小声で問いかけた。
 神殿に入ったばかりの14歳の少女が、神官衣に袖を通した嬉しさをこらえ、背伸びをして大人っぽく振る舞っています、という役作り。
 客間にいた時の妖艶さは消え去り、子供っぽさ、微笑ましさを漂わせる雰囲気は満点だ。
「いいと思いますよ。ものすごい美人なのに、残念な雰囲気でオーラを消してしまうルージュさんみたいです」
「ちょっとレイリアさん。それ褒めてないよね?」
「ルージュさんはそれでいいんです。その顔でオンナっぽい雰囲気なんて出されたら大変なことになりますから」
 レイリアは答えながら、媚態を作って男性を誘惑するルージュを想像しようとして、すぐに諦めた。
 ダメだ。違和感しかない。
「妾は、ルージュ様には寵姫より女王の方が似合うと思いますわ」
 礼を失しない程度にルージュの顔を見ながら、ラフィットは言う。
「ルージュ様は本当に、ルーィエ様と似ていらっしゃいます。誰かに従属するのではなく、誇り高く、自らの意志によってのみ立つ、孤高の月のようで」
 国王の愛妾として宮廷に閉じ込められ、人生を選ぶ自由すら奪われた自分とは、まるで対照的に。
 ほんの一瞬だけそんな羨望をほのめかした後、ラフィットは悪戯っぽく続ける。
「アラニア宮廷に入ったら、そんな方は一日で干されてしまいますけれど」
「謙遜しようとしたら、こっちも褒めてなかったよ。しかも上げてから落とすとか無慈悲すぎる」
 肩をすくめるルージュに、神官衣のふたりは顔を見合わせて笑った。
 他愛のない話題で笑い合うという、ふつうの14歳の少女ならごく当たり前の日常。
 それがラフィットにとっては、普通でも当たり前でもないのだ。
 貴重な時間を惜しむように会話を続ける少女たち。
 楽しそうな黒と金の後ろ姿を眺めながら、ルージュは少し距離を取ってゆっくりと歩みを進めた。
 正門から大聖堂へと続く参道に合流すると、道沿いの小さな休憩所でシンとカザルフェロ戦士長が警戒に当たっていたが、どうやら少女たちの目には入らなかったらしい。
 ルージュがひらひらと手を振って挨拶すると、シンは肩をすくめ、カザルフェロはカップを掲げて挨拶を返してきた。
「お姉様、あそこで売っているのは護符ですよね?」
「ええ、そうですよ」
 ふと目にとまった販売所を指さして、ラフィットが尋ねる。
「戦乙女の護符、というのは何ですの? 戦神マイリーの神殿でもありませんのに」
「あれは魔神戦争でニース最高司祭とともに戦った英雄たちを讃えて、ということになっています。詳しいことはニース様とマッキオーレ司祭しか知らないのですが、あまり詳しく教えてくれないので、実は私もよく分かりません」
 そのことを尋ねると、ニースもマッキオーレも微妙に生ぬるい笑みを浮かべたので、それ以上聞けなかったのだ。
「“百の勇者”のどなたかでしょうか」
「おそらくは。それも、ニース様とマッキオーレ司祭がここまでするのですから、きっと大切な誰かなのでしょう。絆を無くしたくなかったのだと思いますよ」
 戦乙女が“百の勇者”なのであれば、存命している確率は低いのだろう。
 それでも、今は会えなくても、いつか再会できるかも知れない。
 あなたのことを決して忘れない、その意思表示なのではないだろうか。
「もし会えるなら、是非お会いしてみたいです。だって、希望さえ捨てなければ再会できる、それを私たちは知っているのですから」
 少しだけ遠い目で微笑むレイリアに、ラフィットは顔をほころばせた。
 どうやらその言葉は、女優が役作りを忘れてしまうほど彼女の琴線に触れたらしい。年齢不相応な大人びた雰囲気で、しみじみと頷く。
「いいお言葉ですね。希望さえ捨てなければ再会できる、ですか……。妾も願掛けに1枚買っていこうかしら」
「いいですね。1枚で銀貨30枚です。ラフィットに買ってもらえれば、マッキオーレ司祭が喜びますよ。宣伝に使っちゃうかも知れません」
「ごめんなさいお姉様。お財布を置いてきてしまったわ」
 少女たちがおかしそうに笑った時、横から穏やかな声がかけられた。
「レイリア司祭、ご無沙汰しております」
「カントナックさん。いつも礼拝に来て下さってありがとうございます」
 そこに立っていたのは、葡萄がいっぱいに積まれた籠を両手に抱えた、初老の男性だった。 ターバ近郊の農園主で、毎年のように大量の葡萄酒を寄進してくれる。神殿で飲まれているワインは大部分がカントナック農園の品だ。
 信仰の熱心さもさることながら、経済面でもターバ神殿を支える重要な信徒のひとりである。
「なんの。今年もマーファのお恵みで葡萄が大豊作でしてな。無事に今年初めての収穫ができましたので、神に感謝を捧げに参った次第です」
 豊かな実りを素直に感謝する農園主。
 すると、それまで控えていたラフィットが眉を曇らせた。
「横から口をはさむ失礼をお許し下さい。カントナック様、それはピノ・ノワール種ですよね?」
「さようです、お若い神官様。葡萄にはお詳しいようですな」
「私の父も王都の近くで葡萄を作っておりまして。実家にいた頃は、よく作業を手伝ったものですから」
「ほう、ご同業ですか」
 目の前の美しい少女も葡萄農園の出身と聞いて、親近感がわいたらしい。
 カントナックは楽しそうに目を細めて、ラフィットに向き直った。
「して神官様、あなたの目から見て、私の葡萄はいかがですかな?」
「一粒いただいても?」
「どうぞ、構いませんよ」
 差し出された籠から、細い指が葡萄を一粒つまみ上げる。
 ラフィットは粒を太陽に透かし、匂いを確かめ、半分だけ噛みちぎって断面を見つめ、そして目を閉じると存分に味を感じ取った。
 その表情は決して明るいとは言えない。
 懐から取り出した手巾で指と唇を拭うと、ラフィットはレイリアを見上げた。
「レイリア様、この方に失礼を申し上げても許されましょうか?」
 どう見ても、年若い少女が葡萄の味見を楽しんだ顔ではない。
 超一流葡萄酒を生産するシャトー・ロートシルトの娘として、不出来な葡萄に酷評を下す目をしていた。
「それは……」
「いえ、レイリア司祭。是非聞かせていただきたい。我々にとって同業者からの批評は千金の助言です」
 思わず止めようとしたレイリアを、今度はカントナックが制する。
 礼拝に来た好々爺の顔は消え失せ、葡萄に全力で向き合う農園主の表情になっていた。
 自然との戦いは遊びではないし、葡萄は放っておけば勝手に実るものでもない。
 相手はそれを身をもって知っていると、お互いに理解できたからこそ、年齢差も性別差も超えて率直な批評を欲したのだ。
 ラフィットは居住まいを正して、老農園主の顔を見上げた。
「きっとこの葡萄は、栄養豊かな土で、ふんだんに水を与えられて大事に育てられたのだと思います。カントナック様は先ほど、大豊作だったとおっしゃいました。1本の葡萄の木に、鈴なりに房が実っている光景が見えるようです」
「神官様のおっしゃるとおりですな」
 一般的に、食用にする穀物ならばそれでよい。
 だが、葡萄酒はそれではダメなのだ。
「いただいた葡萄は渋みが控えめで、ほんのりとラズベリーの香りがしました。皮は薄くて食用にも耐えうるかと。ですがカントナック様は、食用のためにピノ・ノワールを選ばれたのではないでしょう?」
「もちろんです。私の農園は葡萄酒を作る場所ですからな」
「であれば……すみません、失礼をお許し下さい。これで葡萄酒を作っても、味わいが少々薄いのではないでしょうか?」
 想像以上に厳しい指摘に、カントナックの顔が強ばった。
 口に出してしまった以上は、もう戻れない。ラフィットは言葉を続ける。
「父が言っておりました。葡萄は人と同じだと。水はけの悪い粘土質の土、冷涼な気候、少ない降雨。過酷な環境が生命力を育て、それが実るから葡萄は甘いのだと。苦労を知らずに育った人間が幼いのと同様に、苦労を知らない葡萄も味が薄いと」
 ラフィットが宮廷に召し出されるその日まで、家族は全員で泥にまみれて葡萄の世話をしてきた。
 嵐が来れば葡萄の房の1つ1つに藁を編んだ笠をかぶせ、日照りが続けば土が割れないよう河から水を運び、爪の間には泥が詰まって指の色さえ変わってしまうような、そんな生活だった。
「父の農園では、結実した葡萄の房を、まだ青いうちにほとんど落としてしまうのです。枝1本に残す房は多くても2つ。樹1本に残す房は多くても10。他は全部落とします」
「何と……それでは半分も残りますまい」
「そうですね。葡萄畑が落とした房でいっぱいになってしまいます。それでも、残った葡萄が成長すれば、皮は厚く固く、味の凝縮した実となります。きっと樹が、残った実を確実に育てようと力を尽くすのでしょう」
 皮の厚い葡萄は渋みも強く、食用には耐えられない。
 その代わり、しっかりした皮が発酵することで葡萄酒は美しい赤色となり、味わいに深みをもたらしてくれるのだ。
「カントナック様。土や水や風、様々なものが葡萄を育ててくれるのですから、気候も風土も違うターバの畑で、王都の畑と同じことが通用するとは思いません。ですが来年は、醸造樽1つ分だけでも、水を少し控えめにして“青の収穫”を試してみてはいかがでしょうか?」
 ついに難しい顔で黙り込んだ老農園主に、ラフィットは最後の止めを押す。
「“宮廷の貴婦人”という葡萄酒も、そうやって造られているそうですよ」
 その名を聞いて、カントナックの顔が跳ね上がった。
 この少女が口にしたのは、葡萄農園主たちの羨望の的であり、秘中の秘とされた最上級葡萄酒の製法のヒントなのだ。
 純粋な驚きだけが胸を満たす。
「神官様。どうしてそこまでご存じで……いや、それはどうでもよろしい。どうして私などにそれを教えて下さるのですか?」
「ここにあったのが葡萄で、カントナック様が会えなくなった父とそっくりだったから、で答えになりましょうか?」
 ほんのりと郷愁を滲ませる少女。
 この神官の少女が心から父親を敬愛していることも、そんな父親と一緒に暮らすことはもうできないのだという寂しさも、カントナックにはまっすぐに伝わってきた。
 そのような少女に父親と重ねてもらえるとは、何と光栄なことだろうか。
 老農園主は深々と頭を下げた。
 自分の葡萄を貶された苛立ちも、この少女を子供と侮る気持ちも、もうどこにも残っていなかった。
「ありがとうございます、神官様。たとえ“青の収穫”とやらが上手くいかなくても、この出会いを心から感謝いたします」
 そして頭を上げると、神殿の支援者たる好々爺の笑みを浮かべ、レイリアに向き直る。
「レイリア司祭、今日は誠によい礼拝になりました。また参ります」
 自慢の葡萄を抱えて立ち去る老農園主の背中を、ラフィットは少しだけ切なそうな表情で見送る。
 レイリアはかつてラフィットに言われた言葉を思い出した。
 一度豊かさを味わった家族たちは、もう昔の慎ましい生活には戻れない。ラフィットが宮廷を出て家族の元に帰れば、財を奪った彼女を必ずや恨むようになる、と。
 カントナックは彼女にとって、幸せだった家族との時間を想起させる存在だったのかも知れない。
「少し話しすぎましたね」
 ラフィットは小さく息を吐いて表情を切り替えると、また子供っぽく笑ってレイリアを見上げた。
「お姉様、いかがでしたか? 今度こそ神官っぽかったでしょう?」
「農園の方の悩みを手助けできない私より、よほど役に立っていると思いますよ」
 少しばかり悔しそうなレイリアに、ラフィットはふふんと胸を張る。
「葡萄のことと閨房のことなら、お姉様には負けない自信がありますもの」
 そしてふたりは顔を見合わせ、可笑しそうに吹き出した。
 姉を慕う妹と、妹を慈しむ姉。まるで本当の姉妹のようなふたりの軽やかな笑声は、ターバ神殿の素朴な風景の中へ染みこんでいった。




[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン6
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/08/12 00:00
マスターシーン ザクソン郊外

 ターバの村から南へ徒歩で3日。さらにザクソン近郊から祝福の街道を外れ、西へ向かうこと半日。
 アラニア王国の騎士爵であるピート卿の屋敷は、鬱蒼とした鎮守の森にほど近い、小高い丘のふもとに建っている。
 妖魔や獣に備えて外周をぐるりと石壁で取り囲み、門扉は樫材を鋼鉄で補強した頑丈なもの。飾り気は少ないが剛健でどっしりとした門構えは、屋敷の主人の人柄を如実に表していた。
 そんなピート卿の屋敷にターバ神殿からの便りが届けられたのは、夏の終わりの夕暮れのことだった。
 イメーラ夫人が腕を振るう厨房は、夕食の準備もすっかり佳境だ。
 夫が釣り上げてきた2匹の鮎を塩焼きにして、スープは夏野菜と豚肉の腸詰めを煮込んだポトフを。自家製ワインは井戸水につけて冷やしてあるし、デザートには木イチゴと林檎のパイが用意してある。
 火にかけられた鉄鍋から食欲をそそる匂いが漂う中、パンの付け合わせは何にしようかと厨房を見渡していたイメーラ夫人は、常になく上機嫌な夫が食堂に入ってくるのに気がついた。
「イメーラ、ニース様から便りが届いたぞ」
 平服姿のピート卿が丸められた羊皮紙を掲げてみせる。
「シン殿がついにレイリアを神殿から連れ出して、所帯を持つことにしたそうだ」
「まあ、それはおめでたいこと」
 イメーラ夫人が目を細める。
「ニース様はやっと17年前のイメーラの気持ちが分かった、と書いてある。シン殿は自分以上にレイリアを守り抜いてくれるだろう、とも」
 その意見には、全面的に同意だった。
 シンの誠実な人柄も、圧倒的な強さも、夫妻は身をもって知っている。何しろ彼がいなければ、ふたりともあの邪教の騎士に殺されていたのだから。
「それにしても、よく神殿からお許しが出ましたこと。ニース様のご尽力があってさえ、至難の業だったのではありませんか?」
 夫妻にとっては最愛の我が子であっても、レイリアが“亡者の女王”ナニールの魂を受け継いだ転生体であることに変わりはない。
 400年前のアラニアに戦乱と破滅をまき散らし、邪神カーディスの依り代となるべく調整された“ひとつの扉”たる魂。
 その存在を封印する墓所の守り手として、ピート卿もニース最高司祭も、望まぬ苦労をずっと続けてきた。アラニア宮廷やターバ神殿は、レイリアを野放しにすることを決して望まないはずなのだ。
「そのあたりについて話があるから、ターバまで来て欲しいとある。誰が見るかも分からない便りに書けるはずもないからな」
 羊皮紙をぽんとテーブルに置いて、ピート卿は戸棚から皿を取り出して並べていく。
 もう20年間も連れ添った夫婦だ。そのあたりは以心伝心というもの。
「それなら旅の用意をしなければなりませんね。ターバまでは3日ほどでしたか? ザクソンの村で道中の保存食を買ってきてくださいな。村に銀貨を落とすのも仕事のうち、と仰っていたでしょう?」
「それなのだがな」
 ピート卿は眉を曇らせた。
「便りを届けてくれた雑貨屋のモートに聞いたのだが、ザクソンでは保存食が売り切れらしい。旅人がいつになく多くて、大量に買われていったそうだ」
 狩人が狩った獲物と、女子供が集めた森の恵みで作られる保存食は、村にとって貴重な銀貨収入の手段になる。
 ザクソンは妖魔の襲撃があったばかりで、今は復興のために何かと物入りだ。販売が好調なのは喜ばしいことなのだが。
「うちにある物で日保ちするのは、黒パンと干し肉、それに果物くらいかしら。お酒はどうしますか?」
「道中では控えた方がいいだろう。ターバまでの道中で賊が出るとは思えないが、妖魔には警戒しなければならん」
「分かりました」
 イメーラ夫人は頷くと、厚手のミトンでポトフの鉄鍋を食卓へと運んだ。
「それではたんとお召し上がり下さい。ターバへ行くのなら、お料理を残すともったいないですからね」
 ニース一行を迎えた時には比べるべくもないが、夫婦ふたりで囲む食卓には、過ごしてきた時間にふさわしい穏やかな雰囲気がある。
 健啖ぶりを発揮する夫にシンの姿を重ねて、イメーラ夫人は考えた。
 できればもう1つ2つ、レイリアに秘伝のレシピを伝授したいのだが、その時間はあるだろうか。
 これから若いふたりにどんな困難が降りかかるにせよ、食事がその慰めになってくれることだけは、絶対に間違いないのだから。


シーン6 ターバ神殿

 ロートシルト男爵夫人の滞在3日目。
 神官戦士団に合流しての朝稽古を終えたシンとライオットは、カザルフェロ戦士長と連れだって食堂を訪れた。
 普段よりも控えめだった訓練のせいか、食堂に集まった神官戦士たちは元気がよい。朝食担当の神官からシチューをよそってもらう喧噪も賑やかなもの。
 昼間は女の園というイメージのあるターバ神殿だが、今ばかりは汗臭い男たちでいっぱいだった。
「もう少ししごいた方が良かったか?」
 余裕たっぷりな部下たちの様子に、カザルフェロが舌打ちする。
 男爵夫人の滞在中は、訓練中といえども防衛を疎かにできない。できることと言えば、宿坊前の広場で駆け足と軽い打込み程度が関の山。
 普段は神殿の外まで連れ出され、体力の限界に挑戦している彼らにとっては遊びに毛が生えた程度だ。甘やかしていると言ってもいい。
「いや、元気の原因はそれだけじゃないみたいだぜ」
 配膳の列に並んで先頭を見たライオットが、上機嫌に前を指さす。
 腹をすかせ、色気より食い気を地で行く神官戦士たちが、にこやかに礼を言って朝食を受け取っている相手は、たいそう愛らしい金髪の少女だった。
 ゆるく波打つ髪を後頭部で束ね、神官衣の袖にたすきを掛けた少女は、アラニア王国で最高品質の愛嬌を大盤振る舞いしてシチューをよそっている。
 誰だ、新人の神官見習いか、そんな会話が今朝のトレンドであるらしい。
「こんなところで美少女のポニーテールを拝めるなんてな。朝からツイてる」
「どんだけポニテが好きなんだよ」
 嬉しそうなライオットと、呆れて首を振るシン。
「自分だってレイリアのポニテに見とれてたじゃないか」
「レイリアは髪型で魅力が変わったりしない」
 下らない会話をしながら列に並んでいると、やがて厨房の様子が見えてきた。
 ラフィットは回ってくる戦士たちひとりひとりに声をかけ、礼の言葉には笑顔を返し、異性としての誘いは冗談交じりに受け流す。
 まちがっても爵位持ちの貴族がやる仕事ではないが、男爵夫人はそれなりに楽しんでいるらしい。
「しかし本当にいいのか?」
 カザルフェロは腕を組み、配膳に当たる男爵夫人の様子を眺める。
「警護云々はさておいても、あのバカどもの食事を用意させるなんぞ正気の沙汰じゃない」
「いいんじゃないか、本人がやりたがったんだから。掃除も炊事も洗濯も、見習い神官がやる仕事は全部やってみたいってさ」
 ライオットが軽く応じた。
 この男には、貴族に雑用をやらせることに関して何の抵抗もないらしい。
 その様子にカザルフェロがため息をつく。
「お前さんはやったことがないからそう言えるんだ。200人分だぞ? 家庭の食事を料理するのとは訳が違う」
 数名の下働きがいるとは言え、厨房は多忙を極める。
 洗いや皮むきなどの仕込みが始まるのは、夜明け前、外がまだ暗いうちだ。
 タマネギ100個、ジャガイモ50個、ニンジン50本、あらかじめ首を落として血抜きしておいた鶏5羽。当番皆で1時間かけ、涙を流しながら材料を一口大に刻み終わると、そろそろ窓の外が明るくなってくる。
 そして気づくのだ。これだけ時間をかけても、全く調理が始まっていないことに。
 夜が明ければ神官戦士団の朝稽古の声が聞こえてくる。早くしないと腹を空かせた男どもがおしよせてくると焦りながら、大鍋を火にかけて油を投入し、熱が回ったら、初めてそこで材料を入れられる。
「大鍋1つで50人分だ。鍛えた神官戦士でも、でかいヘラで大量の材料を混ぜるのはきつい。タマネギだけのうちはまだいいが、ジャガイモだのニンジンだのを投入すると途端に重くなる。あっという間に腕がパンパンだぞ。おまけに、大鍋用のかまどは火勢も強烈だ。夏は意識がもうろうとしてくる」
 自分自身も散々やらされた食事当番を思い出し、カザルフェロは遠い目で悟りきったような表情を浮かべた。
「大鍋の後ろでは、パン焼き用のかまどで白パンが焼かれてる。朝食用だけで600個。1回で50個程度しか焼けないから12回転だな。シチューの甘ったるい匂いと、パンの焼ける匂い、ついでに自分の汗の臭いに包まれながら、3時間立ちっぱなしで全身を動かし続けてみろ。昨夜から何も食ってないはずなのに、臭いだけで胃がもたれて気持ち悪くなる」
 無口なカザルフェロが、常になく饒舌に語った食事当番の激務ぶりは、鮮明なイメージとなってシンとライオットの脳裏に描かれた。
 料理をほとんどしないふたりは、どうやら食事の準備というものを舐めていたらしい。
 現実は、おしゃれにオリーブオイルを垂らしながらフライパンを振って終わるような、そんな甘いものではない。
 ターバ神殿の厨房は、正しく戦場と呼ぶべき場所なのだ。
「だから食事当番には敬意を示すべきだ。連中は朝食の配膳が終わったら200人分の食器を洗い、それが終わったらすぐに昼食の準備が始まる。昼食の後は夕食。夕食の後は朝食用のパン生地と肉の仕込みだ。俺に言わせればな、あそこで笑顔を浮かべる余裕があるのは奇跡的だぞ。俺やお前さんたちには絶対無理だと断言できる」
 今日の当番にラフィットが入ったため、護衛としてレイリアとソライアも臨時当番に編入されている。
 シンが厨房に目を向けると、神官衣にたすきを掛け、髪を後ろで束ねたレイリアの姿が見えた。
 どうやら彼女は、シチューの大鍋を3つ同時進行で担当しているらしい。
 汗に濡れて額に張り付く前髪や、真剣に煮え具合を確認する瞳。
 いつもの穏やかな笑顔とはまるで違う。戦いに望む戦士のような横顔に、シンは吸い込まれるようにただ見入っていた。
「レイリア、後ろ入るからね」
「はい」
 先が平たく広がった長いヘラを持ち、厨房の奥から出てきたのはソライアだ。
 声をかけてレイリアの背中に寄ると、ソライアはヘラをくるりとしごいて構え、パン焼き竈の中へ差し入れた。
 吹き出す熱気に目を細めて耐えながら、ヘラに金属の板を乗せて引っ張り出す。
 そこにはきれいに並んだ白パンが50個、ふっくらと焼き上がっていた。
 職人の目でパンを検分し、合格点を出したのだろう。ソライアは満足そうに頷いてパンを大きなバスケットに流し込む。
 これでおよそ17人分。焼きたてパンのできあがりだ。
 ソライアはヘラを竈に立てかけ、持ち手のついたバスケットを両手で持ち上げて配膳台に運ぼうとした時、初めてカザルフェロの姿に気づいた。
「カザルフェロ戦士長! おはようございます!」
 雲間から陽光が差したように、表情が一瞬で輝いた。
 屈託のない笑顔でまっすぐな好意をぶつける。
 自分の言葉が相手に届く、たったそれだけのことが無上の喜びなのだと、見ている誰もが感じられるような笑顔だった。
「パンはいつもどおり3個でいいですか? 今なら私の愛で10個まで増やして差し上げますが?」
 このキツい労働の最中、自分にはこんな笑顔を浮かべさせる力があるのか。
 そんなソライアを見れば、さすがのカザルフェロにも感じるものはある。
「……要らん。3つでいい」
「ちょっと冷めてますけど、戦士長に特製のパンを焼いたので、これにしますね」
 周囲の戦士たちが無言で見守る中、栗色の髪の少女は調理台の隅に置いてあった小さなバスケットを取ると、有無を言わさずカザルフェロの盆に載せた。
 中にはハート形に膨らんだパンが3つ、白いナプキンの上に盛り付けられている。
 冷めていると口では言うが、まだ湯気を立てるパンはどう見ても焼きたて。カザルフェロが食堂を訪れる時間に合わせて焼き上げたことは明らかだ。
 気持ちは嬉しい。
 嬉しいが、よりにもよって部下たちの面前でハートとは。ここで素直に礼を言っては、戦士長の沽券に関わるではないか。
 カザルフェロは脳裏でいくつもの対応を吟味したが、ひとつに絞り込むより早く、わき上がったブーイングに飲み込まれた。
「ハートのパンってどういうことですか戦士長!」
「ずるい自分だけ特別扱いですか!」
「俺にも1個下さいよ!」
「やかましい」
 内心の困惑をごまかすように仏頂面を浮かべ、カザルフェロは部下たちを一蹴する。
「どうも体力が有り余っているようだな。午後の訓練は覚悟しておけよ」
「ひどい!」
「横暴だ!」
「そんなのいいから1個下さいよ!」
 以前なら威圧感と緊張感で口答えなど思いもよらなかった部下たちだが、ソライアが大観衆の面前で想いを伝えて以降、カザルフェロに嫉妬混じりの親近感を抱くようになったらしい。
 ならばこちらも、遠慮なく素顔を曝け出してやろうではないか。愛をささやく少女の相手は専門外だが、生意気な部下たちへの教育は得意分野だ。
「口答えとはいい度胸だな、貴様ら。ずいぶんと偉くなったと見える。その自信に見合うだけの実力があるかどうか、確認してみるか?」
 オオカミが牙をむき出しにするような獰猛な笑顔で、カザルフェロは部下たちをじっくりと眺め回した。
 引き際を誤ったことを悟り、戦士たちが口を閉じて脂汗を流す。
 だが、処刑宣告を待つ重い雰囲気は、レイリアの声によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
「ねえソライア、そのハートのパンは10個焼いたんですよね? 残りの7個はどうしたんですか?」
 戦士たちの呼吸が止まった。
 公然の人気を誇ったソライアはカザルフェロ戦士長にかっさらわれてしまったが、だからこそ、彼女の手作り愛情パンは垂涎のレアアイテムだ。
 入手できれば、少なくとも3日は同僚に自慢できる。
「戦士長が食べるかと思って取っておいたけど、もう要らないみたいだし。順番が来たら普通に配る……」
 ソライアが言い終える前に、食堂に大歓声が上がった。
 戦士たちは一切の躊躇なくカザルフェロに背を向けて置き去りにし、配膳口に殺到した。
 上官も部下もない。完全に早い者勝ちの流れだった。
 必死に手を上げる者、ソライア好みのワインを提示する者、どさくさに紛れて恋を告白する者など、配膳口は汗臭い男どもが押し合う混沌としたありさま。
 ソライアは引きつった笑顔で突き出されたトレイを見渡し、ラフィットは楽しそうに笑っている。
 憮然と立ち尽くすカザルフェロの肩を、ライオットがぽんと叩いた。
「ソライアは大人気だな。ちゃんと応えてやらないと、横から取られちまうぞ?」
「うるさい」
 返ってきたのはひどく力のない言葉だ。
 どうやら色々と思うところはあったらしい。
「あんなに喜んでもらえるなら、私も作ろうかな」
 戦士たちが大騒ぎで繰り広げる争奪戦を横目で眺めながら、レイリアがぽつりと呟く。
 別に人気者になりたいわけではないが、単なる流れ作業でしかない食事当番の気分転換にはなるし、皆が喜ぶなら今までのお礼にもなるだろう。
 ただ丸めるだけのパン生地を、細長く伸ばして折りたたむだけの簡単な工程だ。たいした手間ではない。
「お姉様が作るなら、妾も作りますわ」
 ラフィットが悪戯っぽく応じる。
「生地を折る時、中に蜂蜜を入れたらきっと甘くなりますし、林檎や苺をクリームにして入れるのも面白そうです。今度お茶会でお出ししてみようかしら」
 ソライアのハート形だけでも目から鱗が落ちる思いだったのに、ラフィットの女子力はさらに突き抜けている。
 パン作りとは1食あたり600個、1日1800個をひたすら忍耐強く丸めていくだけの作業、と認識していたレイリアでは、どう頑張っても出てこない発想だ。
「ラフィット、それは美味しそうですけど、いくらあなたでも何百個も作るのは大変ではありませんか?」
 大鍋を混ぜる手は休めず、視線だけを向けると、金髪の少女は首を振った。
「お姉様、そんなに作っては意味がありませんわ。ほんの少ししかないから特別なのです。もし600個全部がハート形だったら、誰もあんな風に喜んでなどくれませんし、感想の言葉ももらえないはずです」
 ハートの形に価値があるのではなく、カザルフェロのためだけに掛けた特別な手間に価値があるのだ。
 ソライアとラフィットの間では言葉もなく共有されていた乙女心を、レイリアはようやく理解した。
「戦士長様、ライオット様、お皿をどうぞ。今朝は妾も一鍋だけシチューを任せていただいたのです。どうかご賞味下さいませ」
 順番が回ってくると、ラフィットはにこりと微笑んでシチューをよそう。
「あなたが作ったんですか?」
 ライオットが驚いて思わず口に出すと、ラフィットは心外とばかりに頬を膨らませた。
「妾だって、以前は家族に食事を作っておりましたのよ。お料理くらいできますわ」
 生まれた時から貴族だったわけではない。王宮に召し出される前は、ラフィットひとりで一家8人分の食卓を支えていたのだ。
 実家は決して裕福とは言えない農園で、子供といえども遊ばせておく余裕はなかった。
 成長して畑作業を手伝えるようになるまで、家の中の仕事はラフィットがほとんど全部引き受けていたくらいだ。
「失礼しました。ありがたく頂きます」
「お口に合うか分かりませんが、率直な感想をいただければ幸いですわ。次に作る時の参考にいたしますから」
「まだやる気ですか……」
「今の妾は神官見習いですもの。当番はきちんと務めたいのですが、いけませんか?」
 ラフィットは可愛らしく微笑み、ねだるように相手を見上げた。
 男の庇護欲を刺激する控えめな口調と可憐な仕草。だが挑戦的に輝く瞳は、それが全部演技であることを隠そうともしない。
 何と言われてもまたやります、ラフィットはそう宣言しているのだ。
「ライオットさん、止めても無駄ですよ。それにラフィットなら心配要りません」
 すっかり諦めた様子のレイリアが、どこか虚ろな苦笑を浮かべて言う。
「この3日間で私は思い知りました。ラフィットは掃除も洗濯も完璧にこなしますし、裁縫や料理では私など足下にも及びません。むしろ私が教えを請いたいくらいです」
 神官見習いとして扱うようにとは言われているが、実際にはラフィットは遊びに来ているだけだ。神官衣を着せて、少しばかり見習いの体験をさせれば充分だろう。
 レイリアも最初はその程度の認識だった。
 だが掃除をさせれば雑巾をしぼる手つきが、洗濯をさせれば洗い物の力加減が、どう見てもやり慣れているのだ。
 今朝の食事準備でも玄人跣の包丁さばきを披露し、あげくの果てには「お姉様、まだなら手伝いましょうか?」とまで言われてしまった。
 自分より年下の少女に、しかも普段から侍女に傅かれ、自分では着替えすらしないような宮廷貴族に、レイリアはジャガイモの皮むきで負けてしまった。
 もちろん、最初から勝てない部分はたくさんある。
 ガラス細工のように繊麗な容姿、見る者を惹きつける雰囲気、可憐な挙措、美しく着飾る技術、男爵夫人という貴族身分などだ。
 それに加えてラフィットは、調理の腕は一流料理人のようで、葡萄酒の製法にも造詣が深い。家に入れば裁縫も洗濯もそつなくこなし、閨では国王陛下さえ虜にするほどの魅力があるという。
 これでは、レイリアに分があるのは剣を取っての戦闘くらいだろう。
 国王の愛妾に剣技で勝ったところで、女性としての値打ちが上がるはずもないが。
「こういうのを立つ瀬がないって言うんでしょうね……」
 仕事に夢中で忘れていた劣等感を思い出し、レイリアにはめずらしい陰鬱なため息がもれる。
 どうせならこの際だ。ラフィットに師事して“殿方を喜ばせる技術”のひとつふたつ伝授してもらおうか。
 思考が見当外れな方向へ転がり落ちていくレイリアに、横からためらいがちな声がかかった。
「お姉様、お鍋が焦げます」
 本当に立つ瀬がなかった。



 見習いの仕事と称して神殿中を遊び回っている女主人の留守を守り、ランシュは今日も与えられた客間で過ごしていた。
 黒のロングワンピースに白のエプロンドレスとホワイトブリム。古式ゆかしいメイド装束を頑ななまでに着続け、よく言えば素朴な、悪く言えば田舎くさいターバ神殿にあって、この客間だけは優雅な貴族文化を堅守している。
「それにしても、お前の主人が下働きのまねごとをしててもいいのか? お前なら絶対に止めると思っていた」
 2本の尻尾をゆらりと振りながら、銀毛の猫王がランシュを見た。
 もう3日間も共に過ごした間柄だ。ルーィエの見るところこの侍女の忠誠は本物で、主人の不利益を座視する性格とも思えないのだが。
 するとランシュは、茶器を用意する手を休めて苦笑を浮かべた。
「私はラフィット様にお仕えする者です。私の役目はラフィット様の望みを叶えることであって、何が正しいか、何をすべきか、私ごときが判断するなど僭越でございましょう」
 あの愛らしい女主人が姉と慕う女性との逢瀬を楽しみたいというなら、ランシュは全力で主人を美しく磨くだけだ。
 そして主人が貴重な時間を楽しんでいる間、ランシュには別に為すべきことがある。
 白磁のソーサーを6つ並べ、少しずつ注いだミルク。
 中にはホニングブリューの最高級蜂蜜と、皿ごとに異なる隠し味を効かせてある。
 ソーサーをテーブルに並べ終えると、黒髪の侍女は控えめな微笑にほんの少しだけ楽しそうな色を加えて、ルーィエに一礼した。
「用意が整いました。ご賞味をお願いします」
 ルーィエが満足そうに髭をふるわせてテーブルに跳び乗る。
「いつも済まないな」
「いいえ。こちらこそお付き合いいただいてありがとうございます。誰もいない部屋でひとり過ごすのは、さすがに退屈でございますから」
 ラフィットが外で遊んでいる間、ルーィエはこうして饗応されるのが定例になっていた。
 毎日毎日同じメニューでは侍女の沽券に関わる、と思ったのだろう。2日目からは少しずつ味に変化がつくようになり、3日目の今日はついに6皿だ。
 中に入れる隠し味も果物、甘味と来て、今日はハーブ系らしい。甘いミルクに清涼感のある匂いが漂っている。
「本日はリンデンフラワー、ジェニパーベリー、オレガノ、バーベインなどをご用意いたしました。甘みの強いものが中心ですが、本来はお茶にして飲むものですから、ルーィエ様のお好みには合わないかもしれません。最後にはお口直しもございますので、まずは感想をいただければ幸いです」
「ふむ」
 ルーィエはワインを味わうソムリエのような態度で、匂いをかぎ、一口舐めては偉そうに論評していく。
 ランシュは丁寧に頷きながらメモを取り、やがて6皿目の感想を書き終えると、満足そうに頷いた。
「ルーィエ様のお好みが、おおむね把握できたように思います。今までの中で一番高評価だったのは、ラズベリーのジャムを加えたものではございませんか?」
「そうだな、あれは美味かった」
「逆に、今日のハーブはやはりお口に合わなかったご様子。また、ジャムは同じでもオレンジピールの苦みはあまりお好みではないのですね?」
「ああ。せっかく蜂蜜を入れているのに、苦くしては味が喧嘩するだろう。若干の酸味なら味を引き立てもするが、苦いのと臭いのはダメだ」
「仰るとおりでございます」
 ランシュの見るところ、ルーィエの味覚は幼児と同じだ。
 今日ルーィエに提供したハーブは、大人の女性が好む清涼感のあるものが中心。つまり、6皿にわたって不味いものを飲まされ、ルーィエの精神状態は不満が強まっているはず。
 ここで逆方向に振ってやれば、高評価に補正が加わるだろう。
 黒髪の侍女は背すじがぞくりとするような緊張感を味わいながら、最後の一皿を用意にかかった。
 この猫王の高い知性と鋭い洞察力、明敏な注意力はさすがという他ない。レイリアやルージュはまるで子供のように扱っているが、ルーィエはまぎれもない強敵だ。
 アザーン諸島の幻獣ツインテールキャットには、一切の毒物が通用しないという。
 ならば、毒物によらない手段でルーィエを無力化しなければならない。
 その役目を果たすために、ランシュが知恵と知識と経験を振り絞って考案したのが、この一皿だった。 
「ラフィット様は特殊なお薬を服用なさいますので、王宮の薬草園からポーションベリーを少しだけ分けて頂いております。これにとある花の蜜を加えてジャムにしてみました。こちらは自信作でございますよ。何度もお出しできる物ではありませんが、お口直しにお召し上がり下さい」
 ミルクには粗い生クリームを溶かし込んでムースに似た食感を出し、蜂蜜とジャムが折り重なるように層を見せる。
 見た目にも味にも、香りにもこだわり抜いた品だった。
 一口舐めたルーィエはぴんと尻尾を伸ばし、驚いた様子でランシュを見上げる。
「こいつは凄いな。今までのとは比べものにならない絶品だ。ざらりとしたミルクの食感もいいし、蜂蜜とジャムが溶けきってないから、染みこむような甘さと少しだけ尖った甘酸っぱさが交互に楽しめる。お前は本当に優秀な侍女だ」
「お褒めにあずかり恐縮でございます」
 ランシュは内心の焦燥を儀礼的な微笑の下に押し込めて、優雅に一礼してみせた。
 味と食感には自信があったが、問題はそこではない。
「おかわりはあるのか?」
「申し訳ありません、本日のところはそれだけです。滞在中にはもう一度お出しできるように努めますので、どうかご容赦下さい」
「そうか……」
 ルーィエは残念そうに応えると、舌を動かす速度を少しだけ緩めた。
 子供っぽく楽しみの時間を延ばそうとしたのだろう。
 だが注意深く観察するランシュの目には、それだけではないように見えた。
「ルーィエ様、昨夜はラフィット様の護衛であまり眠っていらっしゃらないご様子。慣れない環境でお疲れもありましょう。よろしければ私の膝をお使い下さい。ラフィット様のお戻りまでまだ時間がございます」
「うむ……そうだな。では言葉に甘えて借りるとしよう。お前は本当に気がきく侍女だ」
 特製ミルクには未練がある様子だが、睡魔の誘惑には勝てなかったらしい。
 ランシュがソファに深く腰掛け、エプロンドレスを広げて寝床を用意すると、ルーィエはすぐに膝に跳び乗ってきた。
 柔らかい銀毛の背中を、ランシュの細い指がそっと撫でる。
 わずかに身じろぎをしたあと、ルーィエの柔らかい腹がゆっくりとした呼吸に変わった。
 ゆっくり50ほど数えてから、小声で呼びかける。
「ルーィエ様、お皿は片付けてもよろしゅうございますか?」
 猫王の耳はぴくりとも動かなかった。
 眠りをもたらす砂の精霊に屈服したルーィエは、軽く揺するランシュの手にも反応を示さない。
 湧き上がる歓喜を抑えきれず、ランシュの唇に笑みが刻まれた。
「では失礼して、残りは私が頂いてしまいますね」
 ランシュは手を伸ばして皿を取ると、ルーィエが残したミルクを口に含む。
 薬効を極限まで高めるポーションベリーに、強力な睡眠薬として知られるラザリアの花の蜜。
 その効果は絶大で、ランシュはやがて立ちくらみのような目眩を感じた。
 この即効性はまるで魔法薬だ。ツインテールキャットを相手にしても、期待どおりの効果を発揮したのは間違いない。
 薄れていく意識の中、なんとか皿の中身を飲み干す。こんな物を残しておいて、万が一にも分析されては大事に障る。
 中身が空になったのを確認したところで、ランシュの意識は限界を迎えた。
 腕はソファに崩れ落ち、皿は床に転がって小さな飛沫を飛ばす。
 後にはただ、猫を抱いたまま眠る見目麗しい侍女の姿が残るのみ。
 部屋に戻ってきたラフィットとレイリアにからかわれ、赤面して恐縮するランシュの姿が見られるまで、まだしばらくの時間が必要だった。



 



[35430] シナリオ6 『魔女の天秤』 シーン7
Name: すいか◆1bcafb2e ID:e6cbffdd
Date: 2019/08/24 23:54
シーン7 ターバ神殿

 王都方面からの旅人から話を聞いてくれたら、誰にでも、どんな情報にも銀貨100枚を支払う。
 ライオットが最初に〈栄光の始まり〉亭で依頼を出した時は、得られる情報にはさほど期待していなかったように思う。
 どちらかというと、新米冒険者たちへの経済的支援や、それを通して“砂漠の黒獅子”一行の名前を広めようという思惑が強かった。
 しかも、それすら計算ずくで始めたわけではない。
 夕食時、所持金と相談しながら料理を削っている新米冒険者たちの苦境を見て、コーヒー代くらいおごってやるか、と思いついただけだ。
 それでも警備のために神殿を出られないライオットにとって、情報の方から神殿に来てくれるというのは大きなメリットになった。
 最初の1日は、その場で宿代を手に入れた1組だけ。
 次の1日は、彼らから話を聞いたルーキーが4組ほど。
 3日目には10組以上の冒険者たちがターバ神殿を訪れ、警備につく神官戦士団に「冒険者が来たらライオット殿を呼べ」と指示が回った。
 その後も情報の提供はどんどん増え、依頼をしてから1週間、男爵夫人の到着から3日目の今日までに、ライオットは情報料として銀貨7000枚以上を支払っている。
 最初の情報は、王都から帰ってきたベテラン冒険者たちの苦労話だった。曰く、道中の村で保存食が買えなかったから、戦士が狩りで食料を調達した。ザクソンの村では森の妖魔狩りに同行して、タダで宿と酒にありついた。
 それだけなら笑い話として酒の肴にぴったりだ。
 だが、似たような情報が何十件も集まれば意味が変わってくる。
「つまり、それなりに大きな人数が、野営をしながらターバに向かってるんじゃないか、ってことです」
 窓から神殿の様子を見下ろすニース。
 ニースの背中を守るように立つアウスレーゼ。
 ソファに腰掛けるルージュとカザルフェロ。
 ニースの執務室に集まった一同を見渡して、ライオットは言う。
「保存食ってのは、旅を始める時に買う物です。夏の間ターバ神殿への巡礼者は増えると分かりきってるんですから、売る側だってそれなりの在庫を確保するでしょう。なのに南のいくつかの村で在庫切れになり、しまいにはザクソンでさえ買えなくなった」
「お前さんの言うことは分からなくもないんだがな」
 カザルフェロが渋い顔で首をひねる。
「要するに、ターバを攻撃するかも知れない軍勢が来てるってことだろ? だがな、それなら姿が見えないはずはないぞ。軍ってのは兵だけいればいいもんじゃない。仮に100人いたら、10日分として3000食の食料。予備の武器や矢玉。寝床を用意するなら毛布だけで馬車1台分だ。俺たちが神官戦士団を動員したとき、片道3日の“鉄の王国”に行くのに資材だけで馬車10台が必要だったんだぞ?」
 それに加えて完全武装の戦士100人と騎馬100頭だ。
 どれだけ頭のゆるい人間が見ても、物見遊山や交易には見えなかっただろう。
「それに、宮廷魔術師と3人で話したばかりではありませんか。現状、ターバ神殿を武力で正面攻撃できる勢力はありません。宮廷貴族はニース様やターバ神殿をうとましく思っていますが、それゆえに実害を加えることはできない、と」
 アウスレーゼが切れ長の目でライオットを見る。
「仮に数百の軍勢を投入して神殿を落とし、ニース様を亡きものにしても、国内に広がる大混乱と反感はデメリットが大きすぎる。損得勘定のプロである宮廷貴族が、損を選ぶことなど考えられません。我々が警戒すべきは少数の隠密による破壊工作であって、正面攻撃ではない、と合意したはずですが」
 神官戦士長として正面戦力の長を務めるカザルフェロも、国王直属の密偵として貴族社会の闇を知り尽くしたアウスレーゼも、ライオットの杞憂であると考えているようだ。
 窓辺で背を向けたニースが無言を貫いていることもあり、場の雰囲気が易きに流れようとした時、ルージュが珍しく真剣な声を上げた。
「カザルフェロさんもアウスレーゼさんも、考え方が甘いんじゃないかな?」
 普段のわがままな姿は影を潜め、紫水晶の瞳が怜悧とさえ言えそうな光を浮かべて楽観論のふたりをなで切りにする。
「宮廷貴族が軍勢でターバを攻める恐れはないから、南に謎の集団がいても構わないの? 逆でしょそれ。南で得体の知れない集団が食料を買い集めてるのは何故か、軍勢じゃないなら誰だ、って考えるべきじゃないの?」
 それに反論しようとしたアウスレーゼを手で制して、ライオットが口をはさんだ。
「まあ、まだそれが“集団”だと決まったわけじゃない。戦士長が言ったとおり、集団が動くのは目立つはずなのに、そういう話はひとつもなかったからな。だから推論とか憶測はさておき、単純に事実だけを共有しよう」
 その事実も伝聞をはさんでいる以上は不確実なのだが、あえてそこは黙っておく。
「ひとつめ。大量の保存食が売り切れて買えなくなった。どれくらい売れたのかは不明だ。ふたつめ。それだけ多くの人数が動いてるはずなのに、宿屋が満員になったという話や、酒場で食事がとれなかったという話はない。ひとつもない」
 警視庁機動隊時代、ライオットは大人数の部隊を動かす時に必要な物を目の当たりにしてきた。
 武器や防具といった装備は個人管理でも何とかなるが、どうしても必要で、個人ではどうにもならないものが3つある。
 食事と、寝床と、便所だ。
 この3つは人数分だけ絶対に使うし、使うためには前もって準備しておかねばならない。
 王都からターバへ至る道は大部分が原野だから、便所はまあ、その辺で用をたすとしてもいいが、残る2つは平等に使用するはずなのだ。
「俺たちも王都に行った時、野営しなかったとは言わないよ。それでも途中にいくつかある宿場町や村では、食料を調達して宿屋に泊まった。村で食料を買うなら、同じ人数分だけベッドが必要になるのが普通だと思う。でも今回はそうじゃない」
 必要とされた物資のバランスがちぐはぐなのだ。
「そうね。神殿への巡礼者が増える時は、ターバの宿屋も大盛況だものね」
 窓の外から視線を外し、ニースが振り向く。
 旧知の魔術師からの急な依頼と、ロートシルト男爵夫人の突然の来訪。
 良くも悪くも、今のターバ神殿には宮廷の権力バランスを崩す重要人物が集まりすぎている。
 何事もなく終わってくれればいいと思っていたが、裏を返せば、それは何事もなく終わるはずがないという予感だったのだろうか。
「いいでしょうライオット。ルージュさんとふたり、今日の夕食までなら神殿から出ても構わないわ。それでどこまで行くつもり?」
「とりあえずザクソンとトアールは見てみるつもりです。余裕があればビルニまで」
 考えていることはお見通しか、と思いつつ、ライオットは答えた。
 売れた保存食の数さえ分かれば、相手の規模を推し量る助けにはなる。あとは買っていった相手の風体、売れた時期などから移動速度も読めるだろう。
 わずかな可能性ではあるが、もし投機目的の買い占めだとすれば、買った商人がどんな人物なのか判明するかも知れない。
「結構。くれぐれも気をつけて」
 ニースが最終的な許可を与えると、アウスレーゼが険のある声で異を唱えた。
「恐れながらニース様。私は反対です。今この時期に神殿を手薄にするなど。敵の思うつぼではありませんか」
「その敵って誰? 思うつぼって、敵の思惑は何なの? それが分からないから調べようとしてるんでしょ」
 ルージュが冷たく切り捨てる。
 アウスレーゼは国王からニースの護衛と監視を命じられているだけの密偵だ。
 ニースさえ守れれば、ロートシルト男爵夫人の生命はどうでもいいと考えているかも知れない。彼女にとっては、ニースを守る壁は厚ければ厚いほどいいし、その壁の外でいかなる被害が出ても関係ないのだ。
 だが、その程度の認識で防衛方針に口をはさまれるのは迷惑千万というもの。
「これは用兵の話だけどさ。もしアウスレーゼさんがニース様を害そうとしていて、手元に100人の兵がいるとするじゃない」
 ルージュはローブの裾を捌いて立ち上がり、アウスレーゼに正面から対峙した。
 全員の視線が集中するのを感じながら、芝居がかった動作で魔法樹の杖を床に突く。
「ターバ神殿には100名の神官戦士団と優秀な冒険者たちがいて、彼らにいなくなってもらわないとニース様には手が出せない。そんな時アウスレーゼさんなら、手元の兵士を素直に神官戦士団にぶつける?」
 目障りな冒険者も神官戦士団も、別に死んでもらう必要はない。一時的にどこか遠くへ行ってくれれば、それで事足りるのに。
 ルージュは桜色の唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私ならそうはしない。例えばターバの村が野盗の集団に襲われて火の海になったらさ、ニース様がどう反応するかなんて考えるまでもないんじゃないの?」
 情け容赦ない指摘に、ニースとカザルフェロの顔が強ばり、アウスレーゼも苦々しくその言い分を認めた様子。
 村を焼いて終わりではない。ニースの命令で戦力を分散させる神殿側に対して、襲撃側は好きなところに戦力を集中できるのだ。
 あとは欲しい首ひとつに狙いを絞って突撃するだけでいい。
「……相手が本気なら、神殿に籠城するのは下策ということね。ライオット、ルージュさん、そうなる前に止められる?」
 ニースの言葉に、ライオットは肩をすくめた。
「できるできないの前に、何を止めればいいのか、そもそも止めるべき何かはあるのかすら、今の我々は知らないんですよ」
 孫子曰く、戦いに勝つには5つの条件があるそうだ。
 戦うべき時と戦うべきでない時をわきまえる者は勝つ。
 自軍と敵軍の戦力差に応じた戦術をとれば勝つ。
 君主から兵卒まで、目的を同じくしていれば勝つ。
 自軍の準備を整えて、準備の整わない敵軍に当たれば勝つ。
 戦いを有能な指揮官に任せて、君主が口出ししなければ勝つ。
 ライオットには、ターバ神殿が満たしている条件はひとつもないように思えた。



マスターシーン “鉄の王国”鎮魂の間

 上位魔神が暴れ回り、150名近い戦士の命が奪われた悪夢のような出来事から、間もなく1ヶ月が過ぎようとしている。
 彼らは戦士であると同時に、強靱な採掘工であり、優秀な細工師であり、他の誰にも代わることのできない父や夫でもあった。
 人口が数千しかないドワーフ族の王国にとって、150という数は決して小さくない。
 若い働き盛りの男たちであれば尚更だ。
 それを一斉に失い、王国を回す社会基盤はあちこちで綻びを生じさせた。残された者たちは涙を流す余裕もなく手当てに追われ、この1ヶ月は日常と呼べる時間を取り戻すための戦いだった。
「しかし王よ、これでようやく一段落ですな」
 マイリー神殿の長を務める老司祭が、秋の斜陽のように落ち着いた声音を向けた。
 激戦の舞台となった鎮魂の間は丁寧に清められ、物言わぬ骸となった化石竜の前には祭壇が設けられている。
 老司祭以下、マイリー神殿の司祭15名による祈りの儀式を終え、今は犠牲者の家族や友人たちが祭壇に供物を捧げているところだ。
 酒を好んだ戦友には、火酒のボトルを。
 夫を失った細工師の妻は、生涯を刻み込んだ銀細工の最高傑作を。
 小さな子供たちは、外の草原で摘んできた白い花束を。
 それぞれが想いを込めて、最後の別れを告げるべく祭壇に向き合っている。
「そなたにも皆にも、苦労をかけた」
 祭壇の脇に立つ“石の王”ボイルは、粛然と列を作るドワーフたちの横顔を神妙な面持ちで見つめていた。
「鎮魂の間をここまで清めるのは大変だったであろう。水を運ぶだけでも気が遠くなるような作業だ。ましてや落とすべき穢れが祖霊の遺体ではな」
 魔神の邪法に操られた数百もの遺体は、戦斧で打ち払われ、軍靴で踏みにじられて、隧道は腐肉の海のようなありさまだった。
 岩盤にこびりついた腐肉を油で焼き、灰を水で洗い流し、香を焚いて腐臭を消して、ようやく儀式を行えるまでになったのはつい先日のこと。作業に当たった司祭たちは、きっと心身共に消耗を極めたことだろう。
「それでも、我らは生きておりますからの」
 穏やかに微笑む老司祭。
 永久の炉を守るために散っていった戦士たちには、それすら許されなかったのだから。
 怒りも悲しみも、感じることができるのは生者の特権だ。
 だからこそ、今はそれを与えてくれた戦士たちに心からの感謝と供養を手向けるのが、生き残った者たちの義務だった。
 14人の司祭たちが唱う鎮魂の歌は、荘厳な調べとなって薄暗い闇に染みこんでいく。
 祭壇から連なる篝火の向こう、鎮魂の隧道の入り口にいる2人のドワーフの耳にも、その祈りの歌は聞こえていた。
「戦力になりそうなのはボイル王以下、戦士20名、司祭15名といったところですかな。あとは有象無象の民衆と言っていいでしょう」
 ひとりはまだ年若い戦士のようだ。
 鎖帷子に包まれた腹回りは痩せていて、一人前の男なら当たり前の口髭も生えそろっていない。
 端整な顔立ちをしているのに、どこか粘着質な印象を持つ男だった。
「願ってもない。かような千載一遇の好機に逢うとは、卿の神の恩寵に感謝すべきであろうな」
 隣で応じるのは、黒髪に黒い瞳の神官風ドワーフ。
 手には複雑な意匠の杖を持ち、思慮深そうな目が鋭く細められる。
「とはいえ、長居は無用だ。さっさと火をつけて帰るとしよう」
「承知」
 若いドワーフは左手に抱えていた布袋の中から、薄汚れた壺を取り出した。
 蓋には厳重な封が施され、日に焼けて黄色くなった封印には上位古代語の呪文が書き込まれている。
 近くにいたドワーフ戦士が怪訝そうに様子を見ていたが、彼は意に介せず、無造作に封印を引きちぎると、壺を祭壇へと放り投げた。
 内側から破裂するように壺から蓋がはじけ飛び、数百年分の妄執と怨念が凝縮した黒い霧が爆発的に拡散する。
 目を刺すような刺激臭。
 黒霧が祭壇付近のドワーフたちを飲み込むと、怒号と悲鳴が鎮魂の間に充満した。
 ボイル王の避難を命じる大声が響き、王を守ろうと戦士たちが壁を作る。
 鎮魂の間は大混乱に陥り、逃げ惑う群衆に篝火が蹴り倒されて焦げ臭い煙が上がった。
「ここまでは前回と同じですが、さてさて、今度は何が出るやら」
「何が出ようと構わぬ。今度こそ放置するだけよ」
 2人のドワーフは鎮魂の間の毒煙と混乱から逃れるように、足早に隧道へと引き返していく。
 ちらりと背後を振り返れば、黒い霧の中に屹立する上位魔神の姿が見えた。
 雄牛のものを逆さにしたような巨大な角、ちょっとした剣ほどもある鋭い牙。両手持ちの大鎌を手にしてドワーフどもを睥睨する姿には、前回のギグリブーツなどとは比較にならぬ威圧感があった。
「上位魔神レグラムだな。“賢者の学院”の導師程度では太刀打ちできない魔力を持つ上、戦士としても卿よりずっと強靱であろうよ」
「でしょうね。さすがの私もあれと戦おうとは思いません」
「倒すには“砂漠の黒獅子”が必要だな」
「此度もうまく呼び出してくれると良いのですが」
 皮肉っぽく言葉を交わす2人は、“鎮魂の隧道”の中ほどで足を止めた。
 瓦礫こそきれいに片付けられているが、ここは前回の騒動で岩盤を崩した場所だ。天井は木材で補強されているが、周囲よりもかなり脆くなっているはず。
「警戒は任せる」
「お任せあれ」
 黒髪のドワーフは魔法の杖を振りかざし、古代語魔法の詠唱を始めた。
 ドワーフ族にはマナを操る能力はなく、したがって魔術師もいないはず。
 だが“鎮魂の間”から広がる大混乱は、そんなささいな不審点など容易に流し去ってしまう。
「急げ! ボイル王をお守り参らせよ!」
 大隧道で警備に当たっていた戦士たちが、2人には目もくれずに“鎮魂の間”へと突入していく。
「羽虫どもが。自ら進んで罠にかかりに行くとは愚かな」
 冷めた目で見送りながら嘲弄する。
 だが、視界の隅にひとりのドワーフ戦士を認めて、若いドワーフはわずかに眉を上げた。
 先ほど魔神封印の壺を解放する時、自分たちを注視していた戦士だ。どうやら何かを察して追いかけてきたと見える。
「貴様らには見覚えがあるぞ。その杖、その目。カザルフェロ戦士長に剣を折られて逃げ出した邪教の使徒じゃな?」
 戦士は戦斧を両手で構えると、狼が唸るように睨みつけてくる。
「違う、と言ったら信じるのですか?」
 自身も戦斧を構えながら、若いドワーフが鼻で笑う。
 無駄な戦闘は避け、隠密行動を優先するようにとの命令ではあるが、導師が呪文を詠唱する時間は稼がなければならない。
 他に手段がないならば、白銀の戦斧に血を吸わせるのもやむを得ないではないか。
 流血と殺戮への期待に歪んだ笑みが浮かぶ。
「どうやら前回の魔神騒ぎも貴様らの策略と見える。戦士たちの仇、今ここで討たせてもらう」
 それ以上の時間を与えまいと、ドワーフ戦士が一歩踏み出したその時、隧道の薄闇を切り裂いて、深紅の光が天井へと突き刺さった。
 一拍遅れて、強大な魔力で練り上げられた破壊魔法が、熱波と爆風の華を咲かせる。
 天井を補強する木材が粉々になって炎上し、火の雨となって隧道いっぱいに降り注いだ。
 隧道全体が震え、重い岩盤が軋む不気味な音が鳴った。
 一度は崩落し、もとより弱体化していた天井だ。ほんの一カ所に穴が開けば、それを支えられる強度などない。
「いかん! 崩れるぞ!」
 叫んだ声は誰のものか。
 大量の岩塊が一斉に崩落し、地響きと土煙が“鎮魂の隧道”を埋め尽くす。
 篝火の光を遮られ、闇に沈んだ世界で、岩盤の崩落はどれほど続いたのだろう。
 根源的な不安をかきたてる音と振動が静まり、舞い上がった土煙が落ち着くと、そこには完全に閉塞された隧道があった。
「残念ながら戦士殿、お仲間の仇を討つ機会には恵まれなかったようですな」
 喉を鳴らして嗤う若いドワーフの前では、崩落に巻き込まれ、半身を土砂に押し潰されたドワーフ戦士が苦悶の呻きを飲み込んでいる。
「おのれ、邪教めが……」
「おお怖い怖い。視線で人が殺せるなら、私など十回は死んでいるでしょうな。ですがあなたの手に戦斧はなく、土に埋まって立つことすらできず、私が振り下ろす斧を防ぐこともできますまい」
 埃まみれになった体を不愉快そうに払いながら、若いドワーフが戦士の眼前に立つ。
 すると、杖を持ったドワーフがつまらなそうに口をはさんだ。
「殺すなよ。その者には、我らのことを余さず報告してもらわねばならぬ」
「もちろん承知しておりますとも、導師様」
 にたりと濡れた笑みを浮かべ、若いドワーフは戦士を見下ろした。
「命拾いしましたね。あなたは運がいい。お名前をうかがっても?」
 胸から下を土砂に埋もれたまま、ドワーフ戦士は歯ぎしりしながら邪教の使徒を睨みつけた。
「……ギムじゃ。貴様の名は?」
「あなたごとき雑兵に聞かせる名などありませんよ。あなたはね、ただ報告すればいいのです。侵入者が上位魔神を“鎮魂の間”に放ってボイル王を襲った。隧道は崩落し、王の生死は不明、とね。雑兵には雑兵なりの役割というものがある。簡単でしょう?」
 背後で黒髪のドワーフが《転移》の呪文を詠唱するのを聞きながら、思い出したように付け加える。
「いいですかギム殿。必ずシン・イスマイールを呼ぶのですよ? 敵は上位魔神だと伝えるのをお忘れなく」
 次の瞬間、ふたりのドワーフの姿はかき消えた。
 魔法で転移したのだ、と悟ると、それまで敵愾心と憎悪で保たれていたギムの意識が、急速に遠くなっていく。
 この自分が希薄になっていくような感覚は、血の流しすぎだ。どうやら土砂の下で大量に出血しているらしい。
「おのれ邪教めが……シンよ……」
 ギムは力なく呟き、そして意識は闇に落ちた。
 “鎮魂の間”からは激しい剣撃の喧噪が漏れ聞こえ、“大隧道”側からも異変を察知したドワーフたちが駆け寄ってくる。
 しかし、ドワーフたちが侵入者の情報を得るのは、ずっと後のこととなった。



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