凶器を扱う者は、狂気に陥る。
殺すということを意識する道具は、それだけで人の中に眠る魔性を引き出すのだ。
冷たい殺意をその鈍い輝きを放つ鉄に込めて、凶器は子どもにすら殺人を選択肢に与える。
まさに、狂気的だ。
だからこそ、凶器を、武器を扱う者は道を外してはならない。
邪道を正道に。
狂気を侠気に。
一歩、一歩。恐れながらその扱いを研鑽していかなければならない。
「……」
男はそれをわかっていた。わかっていたのに、踏み外した。
その行いは悪である。男は、邪道に走った。
冷たい刃の輝きに魅せられた。
狂気になれと囁く甘美に身を任せた。
研鑽を積み。
知られることなく狂気を育てていった。
「……」
その全てを、今暴かれた。
婚約をすることになり、引退するといった姉。全盛期を維持できるのはこれが最後だと思ったから、だから無理矢理呼び止めて、真剣を用いた殺し合いに近い決闘を持ちかけた。
そして、全てを見抜かれたのだ。
正しくは、見せ付けるように、見抜かせた。
決闘の場所となった空き地は、あらゆる場所にミサイルでも着弾したようなクレーターが出来ている。だが対峙する二人の体には、埃による汚れ以外は見られなかった。
この惨状を作り上げたと言うのに。そんな破壊を持ってしても、まるで無傷だった。
「……」
男は静かに刀を正眼に構えた。
いや、本来なら男というには、些か精悍さに欠ける幼い顔立ちだ。それは無理もなく、彼は十を僅かに過ぎたばかりの少年に過ぎない。
だが、感情を表さない冷たい表情と、何よりも無感動な瞳が、彼から少年らしさを剥ぎ取っていた。
対峙する女性もまた、普段の柔らかな笑みを浮かべることもなく刀を持つ。
その内心に浮かんでいるのは──後悔だ。
この数年、本気で試合をしたことがなかった弟。無言で、無表情のまま、ひたすら自己の内側で研鑽を続けていたその狂気を、肉親でありながら知ることが出来なかった。
なんて、無様なことか。
僅かに歪みそうになる顔を無理矢理とどめて、女性は天まで届くようだった気をさらに充実させた。嵐のように激烈な気の奔流を前に、男は無表情のまま、静かに内部で気を練り上げる。
秘境の奥にある静寂の水面を思わせるような静けさだった。女性とはまるで逆。ひたすら己の内部に没頭するそのあり方が、終ぞその内側に眠る狂気を感づかれることをさせなかった所以か。
人を殺すこと。妖を滅ぼすこと。
そこに快楽を求めているわけではない。
そんなわかりやすい狂気ではなく。
誰よりも、圧倒的に、強くなる。
たったそれだけの単純な狂気を、見逃してしまった。
「……」
なら、その狂気を鎮める方法は一つだけ。
ここで、敗北させる。
強くなり続けるという願望を。そのために殺すことすら躊躇わない本質を。敗北という鎖で押さえ込む。
でなければ、この青年は最強になってしまう。最強などというもののために、人を守るという本質はおろか、自分自身という、絶対に守らないといけない人間すら守れなくなってしまう。
──最も、人を守るという役割を放棄しようとしている自分が言えた義理はないのかもしれないが。
小さな微笑。いや、苦笑。
そこに、男は隙を見出した。
男の体が消えたと同時、女性の目の前に突如として現れた。
瞬動と呼ばれる高度な歩法だ。そして、男や相手の女性レベルの戦闘力を保有していれば、基本として修めている技術でもある。
だから、別段驚きもしないし、そもそもこの破壊を撒き散らしている間にそんなのは何度も見た。
「シッ!」
男の持つ刀が振るわれる。上から下への振り下ろし、単純なその軌跡は、単純ゆえに激烈。風すら斬られたことに後で気付くほどの神速は、女性の眼をもってしても見切ることは不可能だ。
瞬動よりも速い斬撃。冗談のような神速を、事前に軌跡を予知することで回避する。
冷たい殺気は女性の長く美しい黒髪を切り裂くに終わり、空を裂く。だがこんなことは先程から何度も繰り返したことでしかない。
続いて女性が動く。右斜めに飛んで、振りぬかれた死を避けきり、男の背後を奪った。最短距離を詰めるのに瞬動は要らない。男の体を通り抜けたように無駄なく回り込み、その肩の付け根を狙って刃を振り下ろす。
しかしこれも避けられる。巧みに体を逸らした男は、光の宿らぬ瞳で振り向いた。
あぁ、その冷たさに嘆く。どうしてこの冷たさに気付かなかったのか。常に無表情。常に無言。沈黙の塊ゆえに注視しなかった。
こんな化け物になるまで気付かぬ。気付かせぬ。
姉さん。あなたは悪くない。男はその内心で優しく語りかけた。
姉さん。あなたを斬ります。男はその内心で優しく語りかけた。
同じように、語りかけた。
「ッ!」
無言の気迫とともに、振り向きざまの加速を合わせて、男が刃を解き放った。上半身と下半身を泣き別れにする一撃は、咄嗟に後ろに飛んだ女性の体を──服を浅く切り裂く。
着地と同時に、女性の顔に焦りの色が浮かんだ。服を切り裂かれただけで、体には傷一つすらない。
しかし、これまで互いに無傷だった状態が、服一枚とはいえ拮抗が崩れた。
やはり強くなっている。この一瞬の間にも着々と、好敵手に対応するために、己の内部に沈んでいき、より速く、より強く、その速度を増していく。
末恐ろしい。今ですら恐ろしいのに、これ以上何処に行こうというのか。奥義を撃つ溜めすら作れなくなった現状、振るう刃はどれもが一撃必殺で、ひたすらに回避、回避、回避。
絶技の応酬だった。まず間違いなく、世界中の全てを含めて、近距離戦では右に出る者がいない二人の激突は熾烈を極める。
危険を冒さずには、この敵手は打倒できない。その思考に至った二人の刃は、次第にその身を危険に晒すことを躊躇わなくなっていく。
これまで傷一つつかなかった二人の体に、ゆっくりと、だが確実に裂傷が刻まれ始めた。余裕が失われていく。思考は余分なことを失っていき、凍りつくように冷たくなっていく。
闘争の行き着く果てなど、殺し合いの帰結など、結局はこの場所だ。
冷たい、無感動。
こんな場所にしか、最強は存在しない。人としてのあり方を見失った場所に、戦いの極みは存在する。
そんな場所に、弟を行かせたくはなかった。冷たく鋭利な思考はそのままに、人としての心が女性の内側から炎となり、冷たい思考を熱くさせていく。
人を守るために振るう刀は、最強である必要は何処にもない。
守るための意思は、時として最強すら超えるのだから。
だから、ここで倒す。
冷たい刃と、熱き刃が激突した。刃毀れを嫌い、受けをしてこなかった両者の得物が拮抗する。名刀と呼ばれる互いの刃が、持ち主の気と敵手の気に板ばさみとなって悲鳴をあげた。
こんな鍔迫り合いを後数秒でも行えば、半生を共にした刀が砕け散る。
それを嫌って女性は飛び退き。
そんなことは関係ないと男は飛び込んだ。
「ッ!」
「くぅ!?」
己を厭わぬ特攻が来る。死して勝利を拾う。その光を宿さぬ瞳の奥の感情を読み取った女性は、苦悶の声をあげながらも、真っ向から向かえ撃った。
互いに瞬動。音だけが響き渡り、虚空で火花が飛び散った。
虚空瞬動を含めた空中戦は、防御を捨てた男の猛攻に女性が気おされる形となっている。
殺しに来い。そう誘っているような無防備に、女性は躊躇った。
殺せるわけがない。苦渋に満ちた女性の顔を見て、男は。
「斬ります」
ただ静かに、涙を流した。
その数年後、少年は神鳴流を破門となる。
─
前世の人格を宿した子どもというのは、異常そのものだ。
幼少の、おそらく三歳の半ばほどの頃、俺はかつての人格を手にした。
そのときの記憶はない。
ただ、例えば読み書きや、色んなスポーツ、料理等の雑学から、学校で習うような学業の内容について等の記憶は残っていた。前世の記憶は失っているが、体験した数々の知識は残っているといったなんとも都合のいい感じのものと解釈していただければいい。
だから、この世界が前世の俺の常識とはまるで違うものだと理解したときの感動は凄かった。
俺が新たな生を受けた青山と呼ばれるさる名家は、神鳴流と呼ばれる、簡単に言うと退魔を生業とする流派の宗家だった。当時は退魔などというオカルトは眉唾ものであったが、それはすぐ、己の体に流れている『青山の血』を知ったことで消し飛んだ。
ともかく、青山という才能は恐ろしかった。幼少の頃から稽古を始めた俺は、ひたすらに没頭して、前世ではファンタジーとも言えるほどの恐るべき身体能力、気、技を身につけることが出来た。
その途中で感情を表に出すことが難しくなったが、まぁそれはどうでもいい。
結果として俺は強くなった。まるでゲームのRPGでもやっているかのように、稽古を重ね、実戦を積み、死線を潜り続けた。
そして今、俺がこの世に人格を覚醒させ、常にその背中を追っていた女性の一人が、目の前にいる。
戦いは、彼女のほうから仕掛けてきた。
長女を降した俺に、彼女は仕合を申しこんでくれた。
まるで、追い求めてもらえたようで嬉しかった。
そして戦い、愛し合うように戦った。少なくとも俺は、愛し合っていたと思う。
だけど、そんな気持ちは俺の独りよがりで。やっぱし俺は皆と違うんだなぁと、見せ付けられたような気がした。
「強く、なったなぁ」
その一言に喜びの感情は見られなかった。それも仕方ないな、と心の隅で思う。
俺は強さに魅せられた。青山という体の持つ、とてつもない才覚を開放する楽しさに歓喜し続けた。
それは、人を守るという神鳴流のあり方とは決定的にずれていた。
俺は気付けば修羅になっていたのだ。これがもしも、前世の人格に目覚めていなかったのならば、あるいは正統な青山の後継者として、神鳴流を受け継いでいたかもしれない。
だが最早それは叶わない。俺は俺で、青山という玩具を得た童だ。
殺人の技術を研鑽することに歓喜する化け物だ。
そんな化け物が強くなった。そのことを女性は、青山として追い続けた幾人のうちの一人の背中、俺の二人目の姉、青山素子が嘆いていた。
「姉上を降し、そして、私も降し……誰もお前を、止められなかった。最も、当時の姉上にすら勝ったお前を、私が止められるわけもない、か」
自嘲するような物言いに、俺は首を振っていた。
そんなことはなかった。姉はとても強く、当時の、全盛期の鶴子すら凌駕する力で応えてくれた。
強くて、強くて。
だから、斬った。
姉が手に持っている野太刀は半ばから絶たれ、斬り飛ばされた刀身が大地に虚しく突き立っている。とはいえ未だその戦闘力は失われたわけではない。
対して俺はといえば、持っていた刀は完全に砕け散り、残骸が周り一面に散らばって徒手空拳。神鳴流であればそれでも戦えるが、半ばから折れているとはいえ、業物を持っている姉と俺では、戦力の差は決定的である。
互いに傷は幾つも刻まれていた。しかしそれは決して戦闘を阻害できるほど深い傷ではなく、このまま対峙し続ければ、充実する気による活性化ですぐに塞がれるだろう。
絶対的に不利な状況だ。今、姉に襲われれば、俺は敗北をする。
だが、勝ったのは俺だった。
「斬ったのか……」
姉は悲しげに手に持った野太刀を掲げた。
「斬れるのか?」
「……はい」
「そんな様で、斬れるのか」
「……はい」
そう。
斬れる。
斬れるのだ。
俺は斬れる。
だから斬った。
俺は、斬った。
姉が放った渾身の太刀を、断ち切った。絶ち斬れた。
その代償として、必殺すら斬り飛ばした十代目の相棒は砕け散ったが。
まぁいい。
そんなことは。
どうでもいい。
「斬れるのです。素子姉さん」
斬るのだ。刀があれば、斬れるのだ。
ありとあらゆる全てを斬る。
斬って。
「この様だから、斬るのです」
だって、斬れたんだ。
「果てに、何を求める?」
姉の問いに、俺は答えを持っていない。
斬れるから、斬った。
それだけだ。
強くなれるから、強くなった。
それだけだ。
それだけだったのだ。
「理由などない、か」
「最早、果てに至った、ゆえに。理由もなき、刀です……ですが、かつて、願いは、ありました」
苦笑する姉に対して、俺は久しぶりに長く使ったことで疲れてしまった舌をもつれさせないように、一言一言、慎重に言葉を重ねた。
「強く、なりたかったのです」
青山が。俺の体になった青山が。
この青山の血は、何処まで行くのか。
「知りたかったのです。俺は」
もっと先に。
もっと高く。
強くなっていく、この肉体が向かう先を。
俺は見たかったのだ。
「この体が、何処に、行くのか」
そのために、殺すことも、かまわない。
最早俺の刀は、人を守る刀ではない
そんな狂気の果てが、この戦いで見せた俺の到達点─斬撃─だった。
斬るということの、一つの極点だった。
「修羅に生きるか」
「……」
「……負けた私には、お前を止めることは出来ない。いや、お前はもう、進み終わったのか。だから、斬れたのか」
「……はい」
人の道に終わりはない。誰かが言っていそうな言葉は、俺には通じない。
俺は、到達している。
斬るという道の最後に、至ってしまった。
だから姉を斬れたのだ。
そうして俺は斬ったから。そうして姉は斬られたから。剣士として認めざるを得ないほど、俺は、姉の刀を斬ったから。
だから、俺は勝者で。
姉は、素子姉さんは、敗者だ。
「……一手、ありがとうございました」
頭を下げて、踵を返す。強き者と戦えた、そして降せたという充実感を胸に宿して。
そしてもう、二度と会えないことへの悲しみを僅かに感じながら、静かに、帰路につく。
空が、煤けているな。
─
「……」
その背中を、素子は静かに見届けた。
「時代の、落ち子か」
ある日、姉が呟いた弟への評価を口にしていた。
弟は、時代がずれた。と。
青山という骨と神鳴流という肉が作り上げてしまった、神鳴流の塊にして、神鳴流の闇。
青山という化生。
強さを求める修羅。
だが、こことは違う場所で行われた、英雄が闊歩する戦いには間に合わなかった。
もし、あと少しだけ時代がずれていたのならば、そうすれば彼は英雄になっただろう。
しかしもうそれは叶わない。世界を揺るがした闘争は終わり、時代に取り残された修羅は、孤独となった。
「姉上。私達は、遅すぎた……もう、たどり着いていたのです。道半ばではなく、到達していました。私では、道半ばの私では、あの領域には届かない……だから」
ならば、その極点に至った技は、何処に向かうというのだろう。
時代は過ぎた。
闘争の時代は終わった。
だからこのまま。
「平和に眠るといい──。いや……青山よ」
弟の名前を言い直し、その名称を呟く。最早、素子の弟であった青山──は死んだ。
あそこに居たのは、青山と呼ばれる修羅だ。
そうして、いつからか弟を指して呟かれるようになったその言葉を最後に。
素子は静かに弟とは逆の方向に向かって歩いていった。
空では、今にも泣き出しそうな灰色の雲だけが漂っている。
眠れる修羅は、時代の落とし子。
行き場を失ったその狂気は、何処へ行く。