――冷たく激しい雨に打たれながらも、張任は城壁から鋭い視線を送っていた。
全身から滴り落ちる大きな雨粒が、足元に貯まっていく。
もう何刻そうしていたのだろうか、口を開くことなく、唯決意に満ちた表情だけを張り付かせ、その尋常ならざる眼差しをある一点にと注ぐ。その視線の先にあるのは城を覆い尽くさんがごとく囲んだ劉備軍の軍勢だった。
西暦211年、益州の牧の劉璋は五斗米道の張魯の脅威から益州を救うべく荊州牧の地位にあった劉備に援軍を要請する。だがこれは重臣の中にいた野心家の張松・法正・孟達らが、劉備の軍師諸葛亮・龐統などと謀り益州を劉備に売り渡そうと画策したことだった。
これに気づいた時、王累・黄権・劉巴らが反対したが、劉璋は取り合わなかったという。
劉備は自ら数万人の兵を率いて、蜀へ赴くと内密に劉璋の治世に不満を持つ部下達を懐柔し、その配下にと取り込んでいく。さらに劉備は張魯に対すべく前線に赴任はするが、その地で張魯を討伐するよりも民達を自身に心服させることに勤める。
そして蜀占領に向けて準備を整えた劉備はその本性を現し、劉璋に牙を向く。
西暦212年、劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺した劉備は、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。劉備は仁道を御旗とし、益州の民達を味方にと付けさらに黄忠・厳顔・魏延などの猛将が劉璋を見限り劉備へと寝返ったことにより、劉璋は次第に追い込まれていく。
そして劉備本軍が涪城を占拠し綿竹の勇者である李厳を降伏させ、荊州から進軍してきた諸葛亮や張飛らも加わりさらに李恢の働きにより馬超を味方に引き入れると成都は完全に包囲された。
暗愚の劉璋にこの事態を収めることは出来ず、劉璋はただちに降伏した。
こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成したように見えたが、ただひとつまだ劉備に従わない者がいた。
雒城に立てこもる張任である。
雒城に残った兵力は五千、対する劉備は即動かせる戦力だけでも十万を超えていた。
劉備は張任を高く評価しており、何としても配下に収めたかったので再三使者を送り降伏を促したが、張任はこれを断固拒否。兵力差もあり降伏してくるだろうと思っていた劉備は落胆したが、後顧の憂いを無くすべきだとの諸葛亮らの進言を受け自ら五万の兵を率い出陣した。
それはすでに意味のない戦いであったろう。
すでに国は奪われ主である劉璋は劉備にと降った。
民達は仁君と評判の高い新たなる主を歓呼の声を持って受け入れている。
すでに降った元の同僚達も心服しているというし、恐らく今ここで降れば劉備は張任を厚く遇するであろう。
だが、それでも張任は降ることを良しとは出来なかったのである。
己が降将との謗りを受けるのが怖かったわけではない。
先に降った他の将たちを責めるのでもない。
ただ劉備という人物を張任は受け入れることが出来なかったのである。
同族である劉璋を騙し欺き蜀を乗っ取る性根。ただそれだけなら戦国の世の習いとして受け入れていたかも知れない。だが張任が何より受け入れることの出来なかったのは、世に仁義を謳う劉備という人物がそれをおこなったことである。「この大陸すべての人物が幸せに笑うことが出来る世の中を作る為」そんな謳い文句を背に戦ってた人物が庇護をすべき同族を率先して裏切り、自らの私欲を満たしたと見たのである。
もちろん劉備にも事情と言う物があったのであろう。劉璋が国を治めるに足る人物か問われる資質だったのも否めない。だがそれを考慮しても劉備という人物に仕えるべき【義】というものを見出せなかった。