白銀昇星
「クヒッ」
産声が上がった。
大鳥家邸宅に駐屯し、現在警備任務に就いていた六波羅兵卒ら。
其の一人、筧という名の青年が、突如嘶いたのだ。其の声は波紋のように、周囲の兵士に波及する。
「ウゥゥゥ……ガァァァ!」
「ギィ……ガハァ!」
唄と共に、産声が上がる。其れは歓喜の声であった。本能の体現を悦ぶ畜生の鳴声である。
彼らの顔は知性を投げ捨て、幽鬼へと成り果てた造りへと変貌していく。
涎を垂れ流し、舌を出しながら荒い息を吐く様に、ヒトの名残は見られない。目は焦点が合っていないどころか真っ赤に染まっている。
兵卒らは揃うように、両の手で抱えていた九十九式小銃を構えた。
其の銃は、本来であれば平和のために使われて然るべき物であった。
だが、此処数年を振り返ってみれば、其の銃は数多の民を鉛に沈めていた。
治安維持。反乱鎮圧。そういった札を免罪符に、其の銃は数多の民に理不尽という鉄槌を喰らわした。
其の忌忌しい過去を持った、独裁政権六波羅を顕している小銃が今。
向ける銃口の先は――。
彼らに命を奪われた、民の怨念が憑り付いたかの如しであった。
――会津の空に、銃声が轟く。
ボルトアクション特有の乾いた単発音が、一斉に鳴り響き、木霊する。
7,7mmの銃弾が群れを成して彼らの顔、腹、足へ無造作にめり込み、滴る鮮血が六波羅軍服を更に紅く染め上げる。
絶命したのは、僅か数名。他の者は不幸にも致命傷には至らず、再び銃を構え直した。
目が陥没しようが、耳が吹き飛ぼうが、彼らは苦悶の声一つ上げていない。
其の代りに、彼らの口から一斉に湧き上がる猛りがあった。其れは、愉悦の色を帯びている。
愉しくて仕方がない、其の様な貌で、兵卒らは嗤いながら引き金を引いていった。
かつての上官、かつての部下、かつての同僚に向かって、一切容赦せず、銃弾で顔が抉れようが、絶命するまで引き金を引き続ける。
暴力を貪り食う其の様は、第三圏に落とされる貪食者に似つかわしい。
やがて、最後の銃声が鳴り止んだ。
たった数分前、新人らの私語と、上官の叱咤が飛んでいた場所の面影は一切ない。
其処には、血沼のみがあった。
続いて、二幕。
轟音。爆音。炸裂音。
大鳥の威光を示さんと、広大な敷地内に列挙する建造物から、瞬く間に火の手が上がった。
軒下には、十年式擲弾筒を嬉々として窓へ投げ付ける兵士と、獣の身でありながら、身体に沁みついた経験をいかんなく発揮し、野砲を操る兵士の姿。
一度、建物の中を覗けば。火柱が上がり崩壊しつつある中で、逃げるどころか、互いを殺戮し合っている餓鬼の群れがあった。
人が死に、人が死ぬ。辺りは死に魅入られてしまったのだ。
敷地を雅に彩っていた森林に火の粉が飛び、辺り一面は一層激しく燃え上がる。
建物より出でたる硝煙と火災の黒煙はバベルの塔もかくやと天へ昇り、燦々と輝く太陽の陽射しを覆う。
銃声と猛り声のみが支配する其処は、さながら阿鼻叫喚のそれであった。
地獄の窯より出でたる餓鬼の叢り。百鬼夜行、魑魅魍魎の宴である。
名家の歴史が、忽ち紅蓮に包まれていく。栄枯盛衰、其の後者には無縁であった大鳥が、崩壊してゆく様であった。
凄惨極まる会津、其の上空を疾駆する鉄の群れがあった。
数多の数打を連れ、先頭を往く武者――其の風貌は、鴉を想起させる。
眼下の炎すらも呑み込むような漆黒の鋼を持ち、頭巾を被り、両腕を翼のように広げ、大気を裂きながら空を疾走する劔冑。
銘を―都合上呼称するのであれば―銘伏という。其の銘に違わず、影に身を落とし、汚れた義を全うする者が纏う劔冑である。
其の仕手、大鳥獅子吼は、眼前で繰り広げられている煉獄を睨み付け、歯を噛み締めた。
<<滅茶苦茶だ……殺し合って、喰い合って……>>
<<この唄はなんなんだ!? こいつのせいなのかよ!?>>
<<此れは……夢だな……其れも飛び切り最悪な……>>
<<……あ、有り得ねえだろうが! 何でこんな――>>
<<閣下ァ! こ、これは如何なる――>>
<<――狼狽えるな! 篠川軍竜騎兵隊ともあろうものが、此れしきの事で取り乱して何とする!>>
<<今俺達が成すべき事は、一刻も早く此の馬鹿げた騒乱を治め、雄飛様を無事此処から生き延びさせる事だ! 何があろうと!>>
<<…………>>
<<貴様らも誉れ高き会津武士ならば、見事此の境地を脱して見せろ!!>>
<<――り、了解!>>
部下の悲鳴にも似た困惑声を一喝した獅子吼。
而して、実の処彼をしても、此の惨状は俄かには受け入れがたいものであった。
地上は狂瀾も怒濤も共に荒れ狂っていた。言い表すなら、混沌の一言に尽きる。
暴徒と化した兵士らの嗤い声と剣林弾雨が飛び交い、次々と血達磨が積み上がっていく。然しながら其の光景も、此処大鳥邸宅においては地獄の一遍に過ぎない。
あろうことか目を少し横にやれば――、一目で高い地位だとわかる服装を纏った老人や、下働きに従士していたであろう女、男が、皆一様にして“共食い”という狂乱に耽っているのだ。
肩肉を剥ぎ取られながら、相手の細腕に犬歯を突き刺す者は般若の如し。目玉を喰ろうて、喉を喰らわれる者は山姥の如し。
番になって互いを貪り食う様は、八大地獄ですら生温いと断定して差支えの無い光景であった。
会津に大鳥ありと云わしめた釈天御由緒家、当麻真人大鳥の邸宅が、瞬時に奈落へと引きずり込まれたのだ。
たった一己の劔冑によって。
(化物めが……!)
獅子吼はこめかみに血管を浮かび上がらせ、憎々しげに吐き捨てた。
数分前。周辺を巡回中であった竜騎兵から報があった。
――帝釈山上空に、熱源反応有。
其れだけならば、単なる些事と聞き捨てる事も出来たのであったが。而して其の熱源は――異常極まる速度で会津へと接近中との事であった。
帝釈山から大鳥邸宅まで、凡そ二十五里。(100km)其の距離を、僅か数分で横断できる程の速度と云えば、どれほど荒唐無稽で規格外か想像できるだろうか。
獅子吼は其の報を耳に入れると、直ぐ様熱源の正体を看破した。
思い当たる節があったのだ。むしろ逆説的に言えば、其れほどまでに異常な物体なぞ、“其れ”以外に考えられなかった、というべきか。
周辺を巡回中であった竜騎兵隊へ、急遽七ヶ岳で防衛網を張らせるべく伝令したものの、“其れ”の正体が獅子吼の読み通りであるならば、中隊なぞ時間稼ぎにすらならない。
最悪な事に――目下繰り広げられている事象は、其の読みは正鵠を射ていたと主張して已まないのだった。
(銀星号ォ……!)
極東の地、大和。其の地を統べる六波羅を悩ませる事象は、忌忌しい英国の手先―GHQや、隙あらば六波羅へ噛み付こうとする朝廷、六波羅内における権力抗争に加えて、無視できぬ存在があった。
其れは災厄。
大和各地に突如出現し、忽ち村々を灰燼に帰す化物。
―――空から魔王が降りてくる。
銀色の星が墜ちてきて、誰も彼をも殺してしまう。
誰もがそう噂し恐れた、得体のしれぬ怪物。其れが銀星号と呼称される災厄であった。
二年前、町人が一人残らず死に絶えた怪奇現象――後に銀星号事件と呼称された――を皮切りに、其の化物は何の規則性もなしに各地に出没した。
現在に至るまで、其の回数は両の手では足りぬ程である。
関東に眉唾付で広まっている、武者の一個中隊が銀星号なる者に全滅させられた、という噂がある。
だが、其れが真実であるどころか、実は一個“大隊”であると聞かされれば、果たして人はどの様な反応を示すであろうか。見物ではあるが――少なくとも誰も本気にはすまい。
五十騎からなる武者をたった一騎で塵殺する羅刹、其の存在が夢物語などではないと正しく理解している者は、六波羅でも数少ない。
そして、獅子吼は其のひとりであった。何を隠そう、其の大隊は、鎮圧に臨んでいた篠川軍に属する部隊であったのだ。
現世に出でたる魔王。無論其の様な妖魔を、何もせずに捨て置く六波羅ではない。
だが、調査を進めてみても一向に情報が出てこなかった。而して、其れも已む無しと云える。
詰る所、銀星号は文字通り各地を“全滅”させるのだ。銀の前には、老若男女、六波羅、GHQ、皆等しく死に絶える。
当然確たる目撃情報は掴めず、精々周囲の村人が銀の流星を見た、という益体の無い報告のみ。
死人に口なし。唯一の判断材料は、積み上がった骸ばかりであった。
(目撃情報無し。町民は文字通り全滅、か。成程、漸く得心がいった。確かに此の方法なら、一人残らず死に絶えるであろうよ)
如何なる手段を用いてか―十中八九陰義であろうが―、周囲の人間を等しく狂わせ喰い合わせるのならば、生き残りなぞ居る筈がない。
(……手を打っておくべきだった。如何なる労力を厭うても、早急に始末すべきだったのだ……!)
先日――と云っても彼是数週間程前である――獅子吼は鎌倉に足を運び、四公方として足利護氏を長とした審議に出向いた。
そして、最早話題に挙がるのが定例となった銀星号事件に関して、獅子吼は此れまでと同様に、直ちに本腰を入れた対処を成すべし、と護氏に再度上告した。
具体的には、四公方の一人を責任者とした、捜査班の拡大である。
だが、其処に竹槍を突いたのが、和尚――遊佐童心であった。
曰く、六波羅という圧倒的強者が愚にも付かぬ狼藉者一人に多大な労力を割く事は、畏敬を失いかねないと。
其の儀は時期尚早であり、本格的な対処は横浜に巣食う“敵”を排除し、大和に確固たる地位を築いてからでも遅くはないと。
更には、もしも六波羅が銀星号の対処によって疲弊したのならば、其の隙を進駐軍や岡部残党を代表格とした反幕府勢力が突かぬ道理もなし。ならば、現状においては黙殺すべき。
幸か不幸か、銀星号の被害は何も六波羅のみが蒙っているわけではないのだから――といった言であった。
確かに理は遊佐同心に在った。為ればこそ、其の時は獅子吼も身を引いたのである。
だが――だが! やはり其の判断は誤りであった!
放置するには、余りにも厄介な化物であったのだ! 現にこうして、煮え湯を食わされているではないか!
(まだだ)
獅子吼は歪めた頬を平常のそれへと戻し、煮え滾り苛立つ心を静める。
(俺は諦めん。……まだ、終わったわけではない)
過ぎたるを何時までも悔やむのは、愚か者のする事である。
現実から目を離し、嗚呼神よと天を仰ぐのは、虚け者のする事である。
では己は? 決まっている。自分が取れる最良の手を、最速で成すのみだ。何もせず手遅れになるまで呆けるなぞ、愚者の極みである。
熱源報告から現在まで、僅か数百秒。だが、迅速なる対応も虚しく、地獄の窯は開いてしまった。
噴水盆に返らず。破鏡重ねて照らさず、落花枝に上り難し。
然し。然しだ。まだ終わりではない。
邸宅が燃え、崩壊している。だからどうした。建物なぞ、また建てれば良い。
兵士や従者が次々に死んでいる。だからどうした。代わりなぞ、腐るほど居る。
大鳥に連なる者達が死んでいる。だからどうした。寧ろ好都合、掃除が済んだだけの事。此れで反対勢力は消滅した。
斯様な態は、全く持って些事に過ぎない。
篠川軍は一枚板ではない。当然此処大鳥家邸宅に駐屯しているのは、軍全体の一部のみ。
更に、配下の竜騎兵らは狂っていない。報を聞き、瞬時に第壱種戦闘態勢――直ちに武者は装甲すべし――を発令した事は、此の地獄において何よりも得難い行幸であった、と獅子吼は思う。
如何やら、狂うのは生身の人間のみのようである。
為ればこそ、希望はある。
軍において、武者一騎は百兵以上の価値があるのだ。そして、竜騎兵隊はなおも健在。つまり現状において――“篠川軍”にとっては脛を噛まれた程度の損失でしかない。
そして何より、雄飛が劔冑を保有していた事。其れはさながら地獄に垂れた蜘蛛の糸であった。唯一無二の救いである。
篠川軍と、正統なる血脈を持った雄飛さえ無事であれば、一時片翼が捥がれようと、大鳥は決して地に落ちぬ。
<<分隊甲、速やかに“鎮圧”しろ>>
<<――――ッ>>
命令を下された数騎は息を呑み、一瞬巡回する。其の意味するところは、如何に彼ら六波羅精鋭の軍人をしても、躊躇わずにはいられぬものであった。
而して、他に打つ手はない。是非もなしと、彼らは腹を決め降下していった。
武者らは地上に降り立つと、次々にかつての同僚を一刀に撥ねていく。
最優先は、火器を用いた殺戮に魅入られている亡者の首である。
成程、速やかに状況を把握した中将閣下は最善の手を打った。
狂ったのなら、殺せばよいのだ。同胞の悲劇を嘆き、手を拱いていれば、事態は悪化する一方である。
当然ながら敷地内の全棟が瓦解している訳ではない。狂乱の開始は僅か数分前なのだ。此処で止めれば、再建の目途も付くだろう。
更に、狂人共を長時間放置した結果、騒ぎが漏れ、進駐軍及び反幕府勢力に気取られる事なぞあれば、其れこそ国家の大事である。
為ればこそ、非情に“対処”して然るべし。
<<…………>>
獅子吼は僅かに目線を下げると、憎々しげに眼下の光景を睨み付けた。
地上にて、同胞の竜騎兵に殺戮されていく狂った兵士ら――最早面影は皆無であるが――は、かつては大なり小なり国を憂い決起した、身命を国家に捧げた兵達である。
そんな彼らが無残な死を遂げていく。撚りにもよって、こんな馬鹿げた顛末で終えるなぞ、無情にも程がある。
呪うのなら、忌忌しい銀魔と、此の俺を呪え。
大願果たした折には、必ずや腹を切り、地獄で詫びよう。
獅子吼は苦虫を噛み潰した表情で面を上げ、此の地獄における糸を求めて我武者羅に空を駆けた。
最優先事項である雄飛の所在は、一向に掴めぬままである。
熱源反応の報を聞き、急遽装甲せよと雄飛に信号を送ったものの、認識信号を振ってある篠川軍の武者でもない限り、此の燃え盛る敷地内において、熱源探知で地点を特定する事は不可能。
為ればこそ、肉眼で視認するため、斯うして空から探しているのだ。獅子吼の胸を焦りが支配する。
獅子吼は駆けた。
先日、亡き主君へと独りでに告げた誓いを守るために。
◇
人間は得てして、理解不能かつ現実から極度に逸脱している事象を目にした際、思考を放棄するものである。
もし、百戦錬磨の兵だったのであれば、即座に我に返り、対応する事が出来るやもしれぬ。
幾度も修羅場を経験した老獪であれば、同じく理性を保ったまま最良の行動を取る事も出来るだろう。
だが、雄飛は違った。
雄飛は何もできず、怯え、慄くのみであった。
己の伴侶となった女が狂い、死に絶えた間――数十秒を。
雄飛は何もできず、唯見ているだけであった。
あの日と同じように。
現実感がない。身体が尽く喪失したかのように、己という存在を認識できない。
足元が覚束ず、自分が何処にいるのか、自分の眼が“何”を見ているのか理解できない。
……本当に?
違う。解っているのだ。此の左腕に“粘り付いている肉片”の本質を、否応にも理解しているのだ。
実際、鉄籠越しの身体は正常に機能している。現に斯うして、眼球を埋め尽くしている色が、朱だと判別できているではないか。
認めたくないだけだ。現実から目を逸らしたいだけだ。此の現実を拒否したくて、深淵に捕らわれた愚者の真似事をしているだけだ。
……何故?
何故……、そんな真似をするのか。
凄惨極まる地獄から、目を背けたいから?
優しく、己を嘘偽りなく愛すると言ってくれた女が、変わり果ててしまったから?
否。
認めたくないのは。何より許せぬのは――
……其れを理解したと同時に、糸が切れたような感覚がした。
<<ああぁああァああアああァァァァッッ!!!!>>
――絶叫。
其れは、激怒の咆哮。逃避の顕れ。愚者の嘆き。
空になった肺から限界まで空気を絞り出し、声帯を通じて喉を震わす。
哮り狂う少年は、怒を体現した阿形像の如く。喉が潰れようが一切構わず、憤怒の相貌で猛り狂う。
全身に纏わりついていた恐怖を殺意が塗り潰す。氷が解けたように、雄飛の身体に血が流れ、熱が戻る。
肉片から――上空へ顔を向ける。腕を組み、己を見下ろしている銀魔を、明確な敵意、害意、殺意の基、血眼にて見据える。
雄飛は瞬時に左腰の太刀を抜いた。
骨が粉砕するほどの握力にて、両手で柄を握りしめると、剣先を銀へ向ける。
正眼、刺突の構え。
其の侭、背面の翼筒を稼働させる。
目的は飛翔ではなく――突撃。仕手は無意識のまま、“全熱量の十割”を合当理に充てた。
其れは、怒りの顕れ。理性を失った獣の顕れであった。
合当理が大量の空気を取り込み、酸化、燃焼。武者は圧倒的推力を求め、臨界点まで鉄翼を稼働させる。
――爆音。
熱量変換型双発火箭推進の穿孔から、膨大な噴出気体が放出された。
其の反作用によって生じた爆発的な推力は、距離百寸なぞ瞬時に零と化す。
<<銀星号ォォォ!!!>>
衝動に任せ亜音速にて突撃する紫鎧。其の様は、闘牛を思わせる。
……そう、獣なのだ。武人ではない。何故なら――武者は熱量を的確に配分する事が求められるからである。
劔冑にとって、熱量は生命線であり、動力源であり、構成物質である。一時的とはいえ、合当理に十割充てるとなれば、其の皺寄せは当然他へ行く。
熱量が十あるとすれば、合当理と筋力増強に五ずつ分配するのが常。
武者が太刀打に臨む際は、間合に入る寸前までは合当理に熱量を費やし、間合に入れば即座、身体強化に熱を注ぐ。斬り合う前は合当理に充て、斬り合う時は筋力増加に充てる。
これが武者の鉄則である。
では、今まさに刺突せんとしている紫鎧は武者と云えるだろうか。
文字通り一瞬の内に全熱量を身体強化へと瞬時に充てる技量を、経験を、此の仕手は持っているのであろうか。
または、可能か不可能かは兎も角、其れを成そうという理性に基づいた意識を、此の仕手は持っているのであろうか。
否。奇しくも、否である。為ればこそ獣と云えよう。
強引極まる推力確保の代償は、余りにも大き過ぎた。此の武者は現在、其の風貌に反して、甲鉄の脆弱化という致命的欠点を抱えたまま自爆しようとしているのだ。
本来この状況ならば、熱量は合当理と甲鉄均等に充て、己が御せる速度で攻撃に臨むが是。熱量変更が出来ない速度――つまりは扱いきれぬ速度で猪突猛進するなぞ、愚の極みと云える。
もし此の一連の動作を的確に把握し評価できる者がいるのならば、即座に素人と看破したであろう。其れほどまでの、酷い有体であった。
<<ふむ、最低限向う気骨はあるのか。……だが、其れだけではな>>
両者激突する瞬刻前。其の刻に至っても、銀魔は彫像のように動かず、何の反応も見せない。
雄飛の行動は、確かに無謀な特攻である。だが幾ら甲鉄が脆弱化していようが、刺突、然る後激突する際に生じる衝撃は、一笑に付すには大きすぎるというもの。
速度即ち威力。鬼丸は自爆するであろうが、銀星号も無傷であろう筈がない。
では何故――魔王は避けないのか。答えは単純かつ明瞭であった。
人の動体視力では到底捕えきれぬ速度で、紫の剣閃が銀の喉へ疾走る。
而して、其の刃が魔を穿つ事は叶わなかった。
――止まったのだ。
物理法則を無視するかのように。万物の流れを嘲笑うかのように。
圧倒的推力を持った紫の巨躯が、瞬時に停止させられたのだ。
……魔王が翳した、たった二本の指で。
<<非の打ちどころがない、見事な太刀だ。刃が零れ滴る様は、水面に映る月夜の如し。この光、驚嘆の意を禁じ得ないぞ>>
銀星号が人差し指と中指で挟んだ太刀を眺めながら、事もなしにそう言った。
未だ呆然と立ち尽くしていた鳥羽は、上空の様を見て、呻き声にも似た悲鳴を零す。
加速の乗った武者の斬撃を止めた事は、百歩譲って陰義によるものであると納得もできよう。
真打劔冑のみが保有する異能の力を以てすれば、此の馬鹿げた仕儀――片手で武者を静止させる事――も有り得るやもしれぬ。
……然し、然しだ。
如何に陰義とて、斯様な絶技、妙技、神技を成す事が出来ようものか。真剣白刃取りなどとは訳が違うのだ。
“刺突”を“片手の指二本”で捕えるなぞ――確実に人間の範疇ではない。
「ぐ、ぎ、ぎ……!」
雄飛は再度合体理に火を入れつつ、漸くにして身体強化に熱量を充てた。
そうして、武者が齎す金剛力の基、全身全霊を以て太刀の柄に力を込める。
然しながら、どれ程足掻こうが懸命虚しく、一寸も刃は奥へと進まない。まるで、鋼鉄の大山に剣を突き刺しているかのような感触が、雄飛の指先から齎される。
<<一見、絢爛とした装飾に目を奪われるが、斯うして直に触れれば、煌く刀身は飽く迄凶器であると主張している事が判る。大業物の銘に相応しい名刀、名甲だ……>>
尚も刃を押し込もうとしている紫武者なぞ何処吹く風か。銀の劔冑は其の存在を一顧だにせず、繁々と摘まんだままの刀剣を眺め続ける。
やがて、銀星号は感嘆めいた吐息を吐き出し、天下五甲が一つ、鬼丸国綱の検分を終えた。
――瞬間、一遍して銀の双眸は鋭さを増す。
<<実に素晴らしい拵えであった。――だからこそ。度し難い……!>>
突如、空気が凍った。
空間が抜き取られたような錯覚が雄飛を襲う。
燎原の火のように燃え立つ地上と剥離し、氷点下の如く冷気が猖獗を極める。
生物の存在を許さぬ絶対零度。其れは、銀から齎されていた。
銀星号が指先を弾く。驚くべき事に――むしろ先の異常を鑑みれば当然の帰結と云えるのか――銀魔が指二本で摘まんでいた刃が、たった其れだけの所作で跳ね上がった。
どころか、其の衝撃は其れだけでは止まらず、鬼丸の巨躯諸共舞い上げるに至り、雄飛はくの字の態で、遥か宙へと弾き飛ばされる。
<<――御館様ァ!! お逃げ下さい!!>>
突如金打声が響き渡る。
恐怖で藁人形の如しであった鳥羽が、事此処に至り、遅まきながらも上官に命じられた職務を全うすべく動いていたのだ。
精神力全てを動員し、怖気を奮い立たせた鳥羽――九○式竜騎兵は刀を右上段で構え、斜め上空の魔神へと疾駆する。
<<ふむ、其の意気や良し>>
狂気の声が鳥羽の耳に流れ込む。肌が一斉に栗立つ感触を、彼は知覚した。
鳥羽は勇敢であった。無論雄飛と同じく、銀魔の圧倒的畏怖と、嘗て主と仰いでいた女の樽俎に凍り付き、身動ぎ一つ取れなかった様は軍人として恥ずべき行状であった。
だが其れを差し引いても――やはり鳥羽は勇敢であったと云えよう。
<<――ふッ!>>
何故なら。鳥羽は、己が辿る末路を既に嫌というほど理解していたからである。
二十余年培ってきた兵士としての経験と生物的本能で、色濃く映し出された映像。其れに抗う偉業は、誰にでも出来る物ではない。
捨身の行動。兵卒としての正しい在り方。而して、其れは余りにも呆気なく。魔王の前には、何の意味もない。
一瞬、銀の陽炎が空に映った。
銀星が軌跡すら残さず駆け――遅れてやってくるのは、死の匂い際立つ爆発のみ。
遥か上空へと弾き飛ばされ、衝撃の余波に悪戦苦闘していた雄飛の眼に、一陣の煌きが映った。
また一つ。彼岸の花が咲いたのだ。少年の貌は更に憎悪に染まる。
雄飛は無限に続くかと身粉う程の推力を合当理の反動で強引に押し止めると、低度に位置する銀を見定め、颯の如く突貫する。
<<てめえが!! てめえがやったのか!! あの人を――壊したのか!!>>
雄飛は太刀を振りかぶり、降下の勢いに任せ袈裟懸けに振るう。
<<壊した? 其れは違う。おれはただ、枷を外しただけだ>>
而して、銀星号は動じる事なく上体を数寸ずらした。
殺意の乗った剣閃は銀を掠める事すら叶わず、虚しく空を切る。
<<――枷!?>>
一条の紫は最短の弧を描き、再び銀へ向かう。
<<現世に生きる人間は、皆一様にして倫理という軛を填めている>>
上昇からの切り上げ――又しても手ごたえ無し。銀は靄のように揺らめくのみ。
<<――欺瞞だ。本能の命ずるままに闘争を遂行する。其れこそが、ヒトという種の正しい在り方であろう>>
銀星号は組んだままであった両腕を解き、右手の人差し指で地上を差す。
其処には、恐悦に染まった人間達が互いに殺戮を繰り広げている地獄絵図があった。
<<天下布武。おれは武の法を曳く。武者、兵士、老人、女、子供、皆が枷を外し、戦うのだ。其れが世の本質であり、そして――おれの目的にも繋がる>>
<<――目的、だと!?>>
水平からの逆袈裟で銀を両断せんと接近しながら、雄飛は問い返す。
目的。花枝を狂わせ、大和の民を滅殺する行為に何の目的があるというのか。
<<世に存在する全ての武と競い、尽く打破する事だ。おれを恐れ、戦わずして逃げる者は、武とはいえん>>
<<――――――>>
雄飛の問いに、銀魔は懇切丁寧に、嘲笑無しの本音で報いる。
果たして返ってきた答は、余りにも大逆無道な――狂人の発想であった。
理解できぬ馬鹿げた思想。其れは、雄飛を更に、烈火の如く激昂させるに至る。
<<……ふ、ざけるなァァ!!!>>
<<ふざけてなどおらぬ! 其れこそが唯一の方法! 神座へ至るには! 宿願を果たすには! おれ以外の存在をすべからず消滅させ、人の法を破壊しなければならぬ!>>
威風堂々たる語調。己の所業を全く恥じない芯の入った威声は、強烈な意志を孕んでいた。
其れは偽悪でもなければ、狂気の沙汰でもない。殺戮魔の妄言と切り捨てるには、余りにも覇気の籠った声であった。
其れが却って、雄飛の逆鱗に触れる。
……何の権利があって、己の意志を通すのだ。
神になる――其の烏滸がましい目的を果たすため、人類を全滅させるのか!
花枝のように、忠保も叔父も叔母も殺すのか! ふざけるのも大概にしろ!
雄飛はそう吼え、駆けた。
唐竹。袈裟切り。逆袈裟。薙ぎ。左薙ぎ。左切り上げ。右切り上げ。逆風。刺突。
紫の弧は幾度も銀と重なる。而して、銀は健在であった。
さながら空の闘牛場。悪を討つと決めた雄飛の刃は、魔王に擦傷一つ負わせる事が出来ぬまま空を切り続ける。
「くそォォ!!」
嗚呼、何故。何故! 何故!! 何故己は此れほどまでに矮小なのだ!!
悲痛な声を上げながら、雄飛は半ば破れかぶれに太刀を振るった。
……相して、何度目の邂逅であったか。
円形闘技場の演目は、往々にして終わりを迎えた。
銀星号は小虫を払うような所作で、眼前に迫っていた鬼丸の刃を“平手で弾く”と、空中でくるりと回転する。
瞬く間に周回を終えた銀の右足は、獰猛極まる速力を以て、紫武者の頭部に襲い掛かる。
――踵落とし。
爆発的な蹴りによって、瞬く間に地表目掛け吹き飛ばされる紫の鉄塊。
何が起こったのか、其れすら理解できぬまま、雄飛は訓練場の地面に激突した。
まるで隕石が落下したかのように、亜音速の物質が引き起こす衝撃によって、轟音と共に膨大な土砂が舞い上がり、大地が揺れる。
文字通り鬼丸を一蹴した銀星号は、一瞬の内に形成された地上の衝突地形を睨めつけ、声高々に吼えた。
<<――体捌き母衣捌き剣捌き、全てにおいてなっていない! 劔冑の力を殺しきっている!>>
◇
銘伏の探知機能が、轟音を拾った。
続いて、視覚に捕えたのは、邸宅の建築物を遥かに超える長大なる土砂の激流。
狂乱に満ち満ちた此の場所ですら、明らかに異常な光景であった。
獅子吼は台風の目と云える異常地点に向かうべく、母衣を操る。
異常の中心には、恐らく此の会津を地獄に誘った張本人が居るであろう。為らば、其処に向かわぬ道理はない。
獅子吼は駆けた。
――果たして、彼らの目に飛び込んできたのは、白銀の劔冑であった。
<<――――>>
破壊と殺戮の化身。一騎当千の阿修羅。
此の地獄において、其の白銀は狂気的な程美しかった。
此の地獄において、其の白銀は猟奇的な程凶暴であった。
「……銀星号、か。ふん……」
獅子吼は肌を突き刺す強烈な威圧を物ともせず、此方に向き直った銀魔を睨み付け、刀を抜く。
<<――凶徒がァ! 生きて此処から帰れると思うな!! 各騎、奴を撃墜しろ!>>
獅子吼の怒号により、竜騎兵隊が一斉に銀へ向かい飛翔する。
数十騎の武者隊が散開し、或る者は軍刀を構え、或る者は機銃を構える。一見すると散漫な隊列は、其の実非常に合理的かつ統制のとれた布陣であった。
<< 凶徒? むう、如何にも誤解されているようだな。おれは政治的主張など持ち合わせていないぞ。唯武を競いたいだけだ>>
<<御堂、相手にはさして変わらぬであろうよ>>
「いやいや村正。こういう些細な擦れ違いは、何れ両者の間に多大な亀裂を生む要因と成り得るのだぞ――と」
「ふっ、おれは強引な男は嫌いではない。主菜は出涸らし以下であったが、さて、前菜はどうか」
機銃を持った数打らは先行し、瞬く間に射程距離まで接近する。銀を囲むようにして灰の鉄騎が駆け、熱量圧縮型単発プロップ推進の排煙が空に円を描いていく。其の後方に、刀を持った数打らが陣取る。
九○式竜騎兵らは揃う様に両腕で担いでいる機関砲の照準を銀へ合わせた。機関砲――真打が織りなす戦場の剣戟舞踏に数打が対抗すべく開発された兵器である。
そも数打とは、有体に言えば量産式の劔冑である。其の歴史は短く、一世紀にも満たない。
近代、現代の区分は諸説あるが、其のひとつが新型劔冑――数打の誕生をもって現代の始まりとするものである。
元来、劔冑とは、鍛冶師の身魂を以て生み出される兵器である。心金を通す――己の命を劔冑に宿すという理からは、如何に有能な鍛冶師も逃れられない。
故に劔冑鍛冶は生涯一打。当然希少価値が非常に高く、近代以前はごく一握りの士族以外には保有する者はいなかった程である。
此の伝統に則った製法で打たれた劔冑を、真打と呼ぶ。最も、其の呼称も新型が世に台頭してから付けられた物であるが。
言うまでもないが、其れほどまでに希少な劔冑は非常に高価であり、当時の幕府は一領揃えるだけで軍事費用を圧迫する程であった。
だが、劔冑は大枚をはたく価値が十二分にある兵器であったのだ。
徹頭徹尾、劔冑は最強の兵器である。何故ならば、劔冑は着用する人間――仕手に、神通力にも似た圧倒的武力を授けるからである。
自在に空を駆ける翼と、人類の能力を大幅に逸脱させる身体能力を以てすれば、百兵も一振りで薙ぎ払えると云うもの。
現代においても、戦車、飛行艦すら劔冑の前には平伏する。劔冑を打倒できる兵器は無く、劔冑に打倒されない兵器も無いのだ。
斯様な最強兵器が唯一保有する致命的弱点は、偏に其の希少性であった。而して其の常識を終ぞ覆したのが――二重帝国の兵器メーカー、ゼクラー社である。
国記2544年。大英連邦のフォレット教授による多重複写方を用いた整体複製技術開発が頓挫し、研究成果をゼクラー社に売却した事が新型開発の契機となった。
国記2549年。ゼブラー社のアルブリヒト博士は、フォレット教授の複製人体技術を劔冑の製造工程に転用するという偉業を成し遂げたのである。
複製人体と機械式演算装置、命令系で劔冑特有の統御機能を代用するという画期的技術により、世界初、鍛冶屋の生命を消費しない劔冑が完成したのであった。
量産可能な劔冑の誕生――其れは世界国家に革命を齎した。
最も、性能面でいえば真打には遠く及ばず、陰義も使用できないが、現実的な価格で大量に量産出来る数打は重宝され、即座に各国に配備され、後に改良されていく運びとなる。
話を戻そう。
其の数打劔冑――九○式竜騎兵らが抱えている機関砲。其れは数打の凡庸性を更に高める武器である。
主に指揮官騎以外の数打が装備する場合が多く、武者の頭部と機銃を送熱管で連結させ、劔冑の動力を以て巨大な機関砲の発射を補うのだ。
此の機銃は、飽く迄牽制として使用されるのが常である。機銃の牽制によって機先を制し、体勢を崩した敵機を腰に差している軍刀にて両断する――此れが数打の兵法。
現在国内で目下開発中である発振砲や、次世代対武者射撃兵器として最も有望視されている高速徹甲弾なら兎も角、歩兵銃を少しばかり巨大化させた程度の機関砲では、武者の鋼鉄を貫く事は到底不可能なのだから。
だが。
其の常識も、此の状況では覆る。
圧倒的な、多対一。
数十騎からなる機関砲の集中運用――十字砲火の前には、如何に堅牢な武者鋼鉄とて無事では済まぬ。
竜騎兵らは相互支援原則に従った位置関係から、獰猛なる銃口を銀へ向けた。
――射撃。
銀星号に、銃弾の雨嵐が全方向から一斉に襲い掛かる。
劔冑の熱量により稼働した機関砲は、自動で銃身元部の薬室へ弾丸を装填し、発射、排莢を繰り返す。
唸るような駆動音と射撃音が大気を震わし、着弾した弾丸の火薬が爆ぜ、灰煙が銀を覆っていく。
やがて、弾丸を全て使い果たした竜騎兵隊は、最早視認できぬ程立ち込めた煙を祈るような眼差しで注視した。
<<――や、やったか!?>>
<<……ふん、好き放題やってくれた報いには、ちと物足りんがな>>
<<念には念を。各騎油断するな>>
後方で控えていた竜騎兵隊が合流する。彼らは歴戦の兵に違わぬ振る舞いで軍刀を構え直した。
銀魔は墜落していない。為らば、些か信じがたいが、未だ敵は健在である事は自明であった。故に彼らは油断せず、傷ついた獅子を狩る心構えで煙を睨み付ける。
次第に煙が晴れていく。幾人分もの心臓が揃う様に早鐘を打ち鳴らす。ごくりと、喉を鳴らした彼らに緊張が疾走る。
<<――――>>
そして――彼らは不可解な物を見た。
「……は?」
余りの衝撃に脳が揺さぶられる。自分達の眼が捕えている光景を認識できない。
銀魔は健在であった。だが、其れは予想済み。
銀魔は無傷であった。口惜しいが、此れも予想の範疇を多少逸脱した程度。
何より信じがたいのは――
銀星号の両掌の上に在るモノ。
其処には、無数の弾丸が山のように堆く積み上がっていた。
そう、富士の山のように、高く、高くである。其れは過度に不合理で、物理法則を完全に無視していた。
瞭然たる異常。球状の弾丸は一つも零れず、米粒のように接合し、巨大な縦状の塊を形成している。其れは余りにも非現実的で有り得ない事象であった。
<<乙女を口説くには、些か度胸が足りぬな。其れでは何時まで経っても、箸にも棒にもかからぬであろうよ!>>
銀星号の声をきっかけに、魔神が持っていた弾丸の山が途端に崩れ始めた。
焼き付いた鉄の鉛は次々と落下していく。其れはさながら、彼ら竜騎兵隊の末路のよう。
<<ひッ!?>>
背筋がぶるりと凍える。竜騎兵隊は皆一様にして恐慌状態に陥ってしまった。
彼らが幾度戦場に身を投じていようが、其れは飽く迄人間との戦いであったのだ。この様な御伽噺にすら出てこないであろう化物との対峙なぞ、彼らの辞書には載っていない。
<<――ふッ!>>
銀星号が丹田から吐き出す息が、始まりの合図であった。
銀は踊るように舞い、歪な軌跡を空に残す。鼠花火のように、至る所で次々と爆発が起こる。
死。死。死。銀の道程は数打の爆焼で派手に彩られていく。
<<――ば、化物めェ! 刀の錆にしてくれようぞ!>>
<<逃げても無駄だ! 一斉にかかれ!!>>
勇敢に立ち向かう竜騎兵隊。而して、彼らは銀魔に一矢報いる事すら叶わぬまま、一瞬の内に蒸発していく。
銀は踊る。有りっ丈の死を振り撒きながらくるくると踊り、彼らを殺戮する。
(無敵の化物、か。笑えんな)
次々と竜騎兵隊が鉄塊、肉塊と化していく。
部下が嬲られる様を視界に入れながら、竜騎兵隊の後方に位置していた獅子吼は毒づいた。
(十七連隊は出せん。機銃も効かん。斬る前に一瞬でやられる。ふん、其れが如何したというのだ)
獅子吼は聞き取れぬほど小さな声で、何事か呟く。
すると、彼が纏う漆黒の劔冑が、一瞬脈動したかと思うと、地上の火災で彩られた茜空に同調していく。
――隠身の陰義。
甲鉄の色を空間に溶け込ませ、相手の視覚情報を欺く陰義である。
劔冑の信号探知と熱源探知には捕らわれる陰義だが、此の状況ならば、使い用はあると云うもの。
混戦では、如何に魔王とて、逐一位置情報を確認する余裕はないであろう。
獅子吼は透明のまま合当理を巧みに操り、銀星号の遥か高度へ上昇した。
そして、真下に銀魔を捕えると、背面の翼筒を停止させ、音を消す。
重力に身を任せ、銀へと落下。ややあって、遂に目前へと迫ると、瞬時に合当理を再稼働させる。
――完全なる不意打ち。
神速の一刀は、無防備な銀の脳天へ稲妻のように疾走る。
(殺った!! 貴様の首級を、同胞の手向けにしてくれる!!)
<<――ほう、珍しい陰義だな>>
而して、銀魔は目に頼らずとも、天賦の才を以て暗殺者の気配を捕えていた。後方の軸へと僅かに“ぶれる”事で、獅子吼の斬撃を回避したのだ。
<<――な!?>>
銀星号の居た位置を、亜音速で銘伏が通り過ぎる――が、銀魔は其れを是とせず、獅子吼の片足を掴んだ。
<<だが無粋! 男子たる者正々堂々とあるべし! 出直すが良い!>>
銀星号は受けの足を肩に担ぎ、投げた。空中での一本背負いである。
地上の衝突地形――其の横に、もう一つ同様の地形が形成された。
◇
暗闇。
万物全て呑み込むような暗黒の世界が一面に広がっている。
辺りは水を打ったように静寂に包まれている。
地面に脚を付けている感覚がない。浮遊感のみが身体を支配する。
(…………)
己は何者なのか。そも、己は何処にいるのか。
其れすらもよく判らぬ。
(――――!)
瞬間、爆発的な轟音が真横から鳴り響き、其の音によって夜の帳が挙がった。思考が鮮明になり、紅く点滅している鉄籠の表示が眼に映し出される。
右方向から聞こえた轟音と共に、圧倒的衝撃が地中に埋まったままであった己の身体を揺さぶり、雄飛は覚醒に至る。
(――――ぐ、うゥゥゥ!?!?)
――突如、刺すような激痛が身体を駆け巡り、痛覚という痛覚が悲鳴を上げる!
何だ! 此の激痛は一体どういう事だ!
五臓六腑に焼鏝を当てられたかのような此の衝撃的で驚異的で鮮烈な苦痛苦辛重苦倒懸は何なのだァァ!!
千切れた神経を無造作に縫い合わせたような激痛! 溶けた内臓を掻き集め捏ね繰り回したような激痛!
<<御堂。耐えてみせよ>>
耐えろ!? 耐えろだと!? 馬鹿も休み休み言え! 此れは気力云々でどうこう成る痛みではない!
(い、ギ、あァァ!!!)
思い出した! 己が気絶する前の事を!
成程、確かに己は銀星号の蹴りによって大地に激突した! だが此れは其の様な常識的で善良な要因で引き起こされた代物では断じてない!
己は此の痛みに似たモノを知っている! だが――だが! 此の痛みは更に異質! あの地獄のような経験すら霞んでしまう!
(あ――――)
痛みに脳が狂う――其の直前。ふっと、身体を締め付けていた鎖が解かれたような解放感に満たされた。
(う……あ……?)
ぼんやりと、身体の感触が戻ってくる。其れは不思議な感覚であった。
雄飛は違和感を覚え、息を呑む。恐ろしい程完璧に――己を蝕んでいた痛みが雲散霧消しているのだ。
更にあの蹴りによる損傷も完全に回復している。其の証拠に、鉄籠の表示は通常の状態へ戻っていた。
<<持ち直したか。――見よ御堂、あの悪鬼を>>
土砂に埋もれている鉄の巨躯を身動ぎすると、土が崩れ、其処から木漏れ日のように光が差した。
相して得た僅かな視界から覗く、銀の魔鋼。其れを見た途端、雄飛は怒髪天を衝く。
(……銀、星、号ォ)
<<討つのだ。吾ら正道を往く者は、如何に強大であろうと其れが“悪”なのであれば、討たねばならぬ>>
討つ。そうだ、己の成すべき事は、跳梁跋扈する悪を打ち砕く事である。
(…………ッ)
だからこそ。如何しても許せぬのだ。
雄飛の目に灼熱が三度灯る。
其の怒りの矛先は、眼前に佇む魔王へ。
――そして、もう一つ。
少年は憎悪し嫌悪する。恐怖に蝕まれ、唯呆然と震えていた己を。
何も、何も変わっていない。
あの日から、何一つ。
守れなかった。だからこそ、もう二度と。そう決意したのではなかったのか!!
許せぬ。
不甲斐無い己を。悪を討つどころか、怯え震えるだけであった己を。
己が脆弱だから、自分が愛した小夏は死んだ!
己が怯弱だから、自分を愛した花枝は死んだのだ!
反吐が出る。虫唾が疾走る。何故お前は今も尚、斯うして息を吸っている? お前のせいで彼女達は無残に死んだというのに! 恥を知れ!
(討つ……)
理不尽を万民に強いる存在、銀星号。
断じて生かしておけぬ。
己の刃で討たねばならぬ。
勝てるかどうかなぞ関係ないのだ。だが、せめて行動しなければならぬ。泥を啜ろうが足掻いて足掻き遂せなければならぬ!
そうしなければ、己という存在が消滅してしまう。そうしなければ、己の決意が揺らぎ、心が腐り果てて狂ってしまうのだ!
魂を支える館骨。此れが崩壊すれば、自分という存在はいとも簡単に崩れ落ちてしまうだろう。
悪を討つのだ。万民のため、もうこれ以上理不尽に虐げられる人間を生み出さぬため――悪を討つ事が、己の宿命であり生きる方法であり宿願なのだ!!
<<おれは討つ。不義を討つ。理不尽を討つ>>
凶呪のように、雄飛は呟く。
己に言い聞かせるように。己の意志を口に出して再確認するように。
<<おれは、悪を殺す>>
――音が、消えた。
百折不撓。不撓不屈。狂気じみた確固たる意志が、邪魔なモノを消失させる。怒り。怨み。恐怖。葛藤。後悔。全て不要。
雄飛は知覚し自覚した。此の瞬間に限り、己が悪を討つのみに特化した存在と昇華した事を。
然らば、大鳥雄飛という一己の存在が成すべき事も、唯一つ。
<<だから――お前の力をおれに貸せ!! 鬼丸ッ!!>>
<<――応!!>>
◇
<<……なに? 生きていただと? おれの渾身の蹴りを喰らって?>>
突如、会津に爆音の如き噴射音が鳴り響いた。土砂を跳ね上げ、一心不乱に空へ飛翔する紫。
銀は驚愕の態で其れを視界に入れる。紫武者は太刀を持っていなかった。
銀へ突撃せんと合当理を吹かす紫。其処に空戦技術の気配はない。
だが、其の動きには剣戟舞踏を圧倒するかのような、瞭然たる迫力があった。
つい先ほどの、愚直な突貫ではない。明確かつ合理的な理由に基づいた突撃。
<<御堂! 当方の最大武力を以て、外道を滅するのだ!!>>
雄飛は鬼丸の助言を聞き入れ、丹田に力を込める。
最大武力――即ち陰義。其れは一握りの真打劔冑が保有する怪力乱神の力。
武具という枠組みに囚われぬ其の力は、最早神が齎す奇跡の類と云える。
心鉄に刻まれた、鍛冶師の意志を体現する力である。
生前、鬼丸国綱が成さんとした想いが、今此処に顕現する。
<<色即是空、空即是色。諸法無我を此処に顕す!>>
呪句の詠唱。
鬼丸から眩い輝きが発せられた。
燦然たる力の濁流が蒼天を駆け巡り、やがて一点に集中する。
全熱量が片腕へ送熱され、闘氣が爆発的に凝縮していく。
――右拳に黄金の焔が宿る。
拳から轟轟と立ち昇る金色の波濤は、龍が荒れ狂うような獰猛さを秘めている。
<<――――来るか!!>>
銀星号は己に飛翔してくる黄金を驚愕の眼差しで睨み付けると、此の幕において初めて構えた。其の所作に余裕の色は一切見られない。
両騎の相関距離が即座に縮まる。
雄飛は波動を放つ右拳を固く握りしめ、天へ突き刺す。
<<原子掌握――孔!! >>
銀と紫の流星が、空に軌跡を残し、激突する。
膨大な質量を持った閃光が、鬼丸の拳から爆散した。
慈悲の無い、大自在天 の鉄槌が牙を剝いて魔王に襲い掛かる。
黄金の拳は、一切衆生を破壊する。
<<良いのか、御堂>>
「……面白い」
「ふふっ。実に、実に面白い!」
「彼には随分と無礼な事を言ってしまったな! ふっ、反省せざるを得まい。おれの目は真、節穴であった!!」
「欠片を頼りに遠路遥々赴いたかいがあったと云うものだ! そうであろう村正!」
<<…………>>
「なに、まだ摘み取るのは早い。元々、今日は顔見世に留めておくつもりだったし――果実は十二分に熟してから食す主義だぞ、おれは」
「一瞬の逢瀬であったが、良い一刻であった……。晴れやかな気分だ。滾ってくる」
「……そうだな、久方ぶりに、我が愛すべき景明に会いに行くか――」
銀の魔王は流星の如き速度で、会津を去った。
尽く死に絶えた大鳥の地。其処には、雄飛の絶叫だけが、何時までも木霊していた。