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[3597] アゼリアの溜息 (H×H)
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/07/24 23:16
 どうにも自分はヨークシンという町と相性が悪いようだ。エイジアン大陸有数のマフィア『上帝会』のNO2、王星光(ワン・シンクヮン)は心の中で溜息をついた。五十路を過ぎても尚鋭さを保つその容貌にもいくらかの疲れが見える。
 ボスの代理としてヨークシンドリームオークションへの参加を任されていたのだが、この二週間は不幸と気疲れの連続だったと言っていい。
 ヨルビアン大陸への移動において使用したファミリーの所有する飛行船は、原因不明の機体トラブルにあい着陸予定地から遠く離れた荒野に不時着せざるを得なくなり、その後大破した。移動に余計な時間を食わされるのは王が最も嫌うことの一つだ。おまけにその時に右足を骨折したとあっては不機嫌にもなろうというものだった。
 苦労してヨークシンシティまでつくと今度は、他のファミリーとのコネクションを作るために奔走しなければならない。ヨルビアン大陸系の巨大ファミリーのボスたちとの会食。バルサ諸島方面で近年流通しているという新たなドラッグの輸入ルートの構築。それとボスが気にしていた近年勢力を伸ばしているマフィアで、的中率100%の占いを行うファミリーとのコネクションの作成など、やることは数多い。面倒な限りだ。
 そうこうしているうちに地下競売の開始。ここでの出資の一部はコミュニティーへの上納金となり、そのファミリーへの評価も上がる。しかし逆にいえばそれは力あるファミリーは多くの出資を期待されているということでもある。マフィアはメンツを何よりも重んじる。エイジアン大陸のビックネームである上帝会の出資は少なくない。しかしファミリーの受ける利益とリスクを見誤るべきではない。その見極めもまた酷く神経を使うものだった。
 だがそれも今日までだ、と胸をなでおろす。直に郊外の発着所へ帰りの飛行船が到着する。来年からは自分もヨークシン行きは遠慮して、ボスに行ってもらうことにしようと考えた。もっともボスは去年のヨークシンで腹を壊してずっと寝込んでいたという苦い思い出があるので―――そのせいで今回は自分が行かされたのだが―――すぐに首を縦には振ってくれないと思うが。

「王様、迎えの飛行船が到着したとの報告が入りました。発着所へ出発してかまいませんか?」
「ああ、構わん。出せ」

部下の報告に応える声もやや疲れ気味だ。だがそれは仕方がないだろう、と王は考える。何はともあれこれでヨークシンとはおさらばだ。早く冷えたビールでも飲むとしよう。
そんなことをつらつら考え、リムジンのシートに体を預け眠気に身を委ねようとした時だった。
ふとした違和感。姿勢を直そうとするが、体がしびれたように動かない。
自分も年かな、などと暢気な考えがよぎったのは一瞬だった。まるで体中を万力で締め付けられるような圧迫感に襲われたのだから。

「……ッ!? ……!!」

声が、出ない。いくら声を張り上げようとしても音として鼓膜をふるわせることがない。
さらには息が出来ない。金魚のように口をパクパクと開くが、大気が肺を満たすことはない。まさしく彼は陸地で溺れていた。
体は簀巻きにされたように動かすことができない。運転席からは死角となっているこの位置では、運転手が彼の異変に気づくこともない。

運転手が異変に気づくのは、この二十分後。
飛行船の発着所についたとき、そこには顔を紫色に変色させた王の死体が残されていた。





双眼鏡越しには発着所で上帝会の黒服たちが慌てふためく様子が見て取れた。念能力を使えば音も拾えるのでより正確に状況を把握できるが、相手側の念能力者に感づかれる可能性もある。それにその必要もないだろう。二十分間の呼吸停止の後も生きている人間なんて、すくなくとも私は知らない。標的は死んだと結論付け、スーツ姿の女性は双眼鏡をしまった。
携帯電話を取り出し、登録されている数少ない番号の一つを選択。単調なコール音。このわずかな時間が彼女は何よりも嫌いだ。顔も合わせたくない上司に誰が好き好んで電話をするかと思う。

「何か用ですか、アゼリア。私の貴重な時間を奪うということは、それ相応に重要な用があるのでしょうね」
「上帝会の王星光を始末しました。任務完了です」
「ああ、彼がヨークシンに来る際に、飛行船を墜落させたはいいが仕留めそこなったというお粗末さでしたね。無能なあなたでもこれだけ時間を使えば任務は遂行出来るのですか。その不手際のおかげで、結局麻薬のパイプを作られてしまったわけですが、そこで動く金が一体いくらになるのか判りますか? まあ、無能は無能なりに頑張ったということで評価してあげましょう。で、ほかに何かありますか?」
「いえ、報告は以上です」
「ではさっさと帰って次の指示が来るまで待機していなさい。まったく、無駄な時間を過ごしてしまいました」

通話の終了を告げる無機質な機械音が流れた。携帯電話がミシミシと音をたてて、慌てて力を緩める。
こちらとしても無駄な時間を過ごしたものだ、と怒鳴りつけてやりたかった。そもそも時間を無駄にしたくないから簡潔な報告にとどめているというのに、あの糞上司はねちねちと厭味に時間をかける。他に類をみないほどに性格最悪のあの男が上司だということは、信じてもいない神に対して文句を言ってやりたかった。
だがそれも慣れたものだ。なんせあの厭味に付き合わされるのはもうかれこれ十年にもなるのだから。頭の中で上司を殺す方法を十三通り考え付いたところで、怒りはある程度収まっていた。
立ち入り禁止の高層ビルの屋上は鍵がかかっており出ることは出来ない。しかし彼女は特にうろたえることもなく、入ってきたとき同様屋上のヘリから身を乗り出すと、人通りのない狭い路地に向けて飛び降りた。
音を立てることもなく、羽のように軽やかに着地する。通りに出れば多くの人々が歩いているが、不審な視線を向けてくる者もいない。彼らにとっては雑踏の中の一人にすぎず、記憶に残るものなどいないだろう。それはとてもいいことだ。仕事で重要なことは問題を残さないことなのだから。
偶然通りかかったタクシーを捕まえて、行先を告げる。
外を見ると、道路交通法を無視した速度で走っていく黒塗りの車がたくさん見えた。





リパ駅から徒歩十分ほどのところに、アゼリアの暮らすロフトはある。
アゼリアのいるファミリーが保有する物件で、何の変哲もない安っぽいロフトだ。殺し屋の待機場所としては最適といえる。
アゼリアは今年で十八歳になる。七歳の時にファミリーに引き取られ、殺し屋としての訓練を受けた。八歳の時に初めて手を汚して以来、ずっとこの仕事を続けさせられている。
好きでこの仕事を続けているわけではない。しかし彼女には辞めることができない理由があった。自己嫌悪に苛まれながらも死ぬわけにはいかない理由があった。
だからこのロフトに帰るときは、ドアを開ける前に必ず「円」で部屋の中を警戒するようにしている。盗むものなど何もないこの部屋に誰かがいるときは、自分の命を取りにきたと考えるのが自然なのだから。
そして……いた。
リビングのソファの陰に寝そべるように、一人の人間がいる。
身長は150㎝ほどだろうか。円から読み取れる情報によると髪が長いので、少女だと考えられる。その割には胸の凹凸がまるでないので、少年なのかとも思われたが。
子供の念能力者で戦闘向きの者などほとんどいない。しかし相手の能力が判らない以上油断は禁物と考えるべきだ。さらに円での警戒は相手の奇襲を防ぐが、同時に自分の帰宅を相手に知らせることになる。部屋に入った瞬間に攻撃を受けると思われた。
静かに、音を殺してドアを開ける。
一見する限り玄関に目立った変化はない。とはいえ敵の潜むリビングはドア一枚隔てたすぐそこだ。ここからが問題だった。
「絶」でできる限り気配を消してドアに近づく。音で拾える情報からは敵が行動しているとは思えない。息をひそめて隙を狙っているのだろうか。それとも特殊な能力の持ち主なのだろうか。
どちらにしてもここで立ち止まっていて良いことはない。覚悟を決めるべきだった。

動くな(フリーズ)!!」

 ドアを蹴破ると同時に「堅」、やや「凝」で目にオーラを集中させ、相手の能力に対応できるよう準備する。
 しかし予想された奇襲も、特殊な能力の発動も無かった。
 壁に背をつけたまま、ソファーの陰を睨みつける。
 相手の動きはない。オーラの揺らぎも、気配の変化もない。いや、というかあのオーラ、漏れてないか? 「纏」も出来てないように見えるのは気のせいだろうか。
 決して警戒は緩めることなく、しかし本当に敵なのか……それどころか念能力者なのかも疑問に思いながら、アゼリアはそっとソファーを回り込んだ。
 そして、思わず息を呑んだ。

 そこにいたのは、予想に違わず少女だった。
 年のころは十四、五くらいだろうか。しっとりと黒い髪が卵型の顔を縁取り、肩甲骨のあたりまで伸びている。閉じられた瞳の色は判らないが、かわいらしい顔立ちの少女だった。
 だがアゼリアを驚かせたのはそんなことではない。
 そこにいたのは、今も目を覚まさない最愛の……!!

「な、なんで……?」

 ありえない、と理性が言う。
 彼女は今も病院のベッドの上で、おとぎ話の御姫様のように眠っているはずだ。
 こんなところにいるはずがない。
 しかし心はそれが幻などではないと訴える。そう信じたいと叫ぶ。
 理性と感情が激しく渦巻く中、アゼリアは身動きすることもできず、もしもこれが敵の攻撃だったならば為すすべなく死んでいただろうというほど無防備だった。

「ん、ん~……」

 そして、少女の瞳がゆっくりと開かれた。
 眠たげに眦を擦る姿すら愛らしい。アゼリアにとってその姿はどんな宗教画よりも神秘的な光景に見えた。
 何よりも待ち望んだ、誰よりも、自分よりも大切な人が目を覚ます、夢にまで見た一瞬。アゼリアは感動のあまり涙を流しそうになった。
 ……だからこそ、そのあとの一言に凍りついた。

「……あんた誰?」

 その時のアゼリアの気持ちを言い表すことはできない。
 何よりも待ち望んだその瞬間が訪れたと思ったら、それは幻想だった。
 最高の気分と最悪の気分を同時に味わうこの感情は筆舌に尽くしがたい。
 それでも残されたわずかな希望にすがりたいと考えるアゼリアを責めることは誰にも出来ないだろう。

「ヴィ、ヴィオレッタ? わ、私だ。アゼリアだよ。お姉ちゃんだよ?」
「誰よ、ヴィオレッタって。私はそんな白人みたいな名前じゃないわ。私は綾瀬遥。あんたなんか知らないわ」

 世界がぐるぐると回っているようだった。
 ぐらぐらと落ち着かないのは自分の方だということにも気づけないほど、アゼリアの受けたショックは大きかった。
 ペタリと腰が抜けたように座り込み俯くアゼリアに、遥は怪訝な視線を向ける。

「ふ、ふふふふふ……これが、お前の能力ということか? 随分と悪趣味じゃあないか……」

 床に座り込んだかと思うと、少し危険そうな笑いを洩らしながら一人言を呟くアゼリアに、遥は少し引いた。
 それが遥の命を救ったと言えるだろう。彼女の首が今あった位置を「何か」が通り抜けたかと思うと、リビングの壁に巨大な切れ目が生まれたのだから。

「……え? ひ、ひぃっ!!」

 ゆらり、と立ち上がったアゼリアの、狂気が見え隠れする笑いが貼りついたその顔に、遥は思わず腰が抜けそうになった。
 立ち上がることもできず、手足をばたつかせて必死で後ろに下がる。しかしそんなものは逃げているうちに入らない。アゼリアの姿が一瞬ぶれたかと思うと、遥は首を掴まれて壁に叩きつけられていた。

「答えろ! 誰に雇われた? ヴィオレッタのことをどこで知った?」
「し、知らない知らない知らない!! ヴィオレッタなんて名前聞いたこともない! ここどこ!? 私こんなところ知らない!」
「貴様……!! しらばっくれるつもりか!?」

 アゼリアの怒気が高まったと思うと、再び「何か」が遥の顔のすぐそばを通った。
 ズドン、と大きな音がして、恐る恐る目だけでそちらを向くと、銃弾を撃ち込まれたように壁からは白い煙が立っている。
 視線を前に戻すと、狂気を纏った死神の眼がそこにはあった。

「次は当てる。最後のチャンスだ。質問に答えろ」
「し、しらないんだってばぁ……き、気がついたらここにいたの、ほんとうになにもしらないの……」

 遥はついに泣き出していた。
 目もとを潤ませ、鼻をぐずぐずとさせ、しゃくりあげている。
 それを見たアゼリアは、心の中のマグマのような怒りがすっと冷えていくのを感じた。
 妹ではないとはいえ、それによく似た姿を傷つける気にはもはやならなかった。
それにこの少女は本当に何も知らないのだろう。ただアゼリアがそう思いたいだけなのかもしれないが、少女の怯えた様子は演技には見えなかった。
 よくよく見てみれば、少女の瞳はダークブラウンの色彩だ。ヴィオレッタのアメジストのような紫色とは違う。だからヴィオレッタの姿をコピーした、というわけでもないのだろう。
 気がついたらアゼリアの手は遥の首から離れ、ハンカチを差し出していた。

「悪かった」

 泣きやむ様子のない遥の様子を見ていると、どうにも罪悪感が湧いてくる。
 嗚咽の音が部屋を満たす居づらい空気の中、少女が泣きやむのを待つのはある意味拷問のようなものだった。



 それから十分ほどたって、ようやく少女は泣きやんだ。
 まだ鼻をぐずぐずさせているし、目元は真赤にはれ上がっているが、ひとまず会話ができる程度には落ち着いたようだ。

「悪かった。おまえが私を殺しにきた殺し屋だと思ってな。つい対応を誤った」
「う、う~……」

 アゼリアに敵意がもうないことが判っても、遥は猫のように警戒したままだった。まぁそれも無理はないかと思い、アゼリアは話を進めることにする。

「ところでいくつか質問したい。ああ、もう危害を加える気はないから大丈夫だ。まず最初に、どうやってこの家に入った?」
「し、知らないわよぉ。家で寝ていたはずなのに、気がついたらここにいたのよ。ここどこ?」
「ああ、ここはヨークシンシティのリパ駅の近くだ。しかし、どうやって来たかは判らないのか?」
「だから、わからないってばぁ」

 ここまでで得た情報から、アゼリアは思考を展開する。
 彼女は家で寝ていて、気がついたらここにいるという。先ほどの様子から、嘘をついているとは思えない。そしてドアのカギには何も細工された様子はなかった。この少女は見る限りごく普通の、中流階級の少女のようだから、ピッキングなどの技術を持っているとも考えにくい。ロフトはボロイ安物件だが、鍵だけは立派なものをつけている。
 だとすると、考えられる理由は一つ。

「念というものを知っているか?」
「ね、念?それってハンター×ハンターの?」

 遥のいうことはよくわからなかった。
 確かにハンターは念能力を使えるだろう。そしてハンターには様々な種類がある。幻獣ハンター、美食ハンター、賞金首ハンターなどなどだ。それらはあくまで呼称にすぎず、明確な区分けがされているわけではないのでそこまでしっかりとした分類ではない。しかしハンターハンターなどというものは聞いたことがない。

「これが見えるか?」
「な、なにも見えないわよぉ」

 指先に念で描いた文字は、「正直に答えなければ殺す」というもの。やはり嘘をついているとも思えなかった。ならば彼女は念の使い手ではないのだろうか。

「君の近くの人で、何か魔法のような不思議な力を持っているひとはいなかったか?」
「へ、へんな力を持ってるのなんて、あんたが始めてよ!」

……ほぼ決まりだろう。
彼女は念のことなど何も知らない。念で描いた文字も見えなかったということは、無意識に能力を発現させたというタイプでもないのだろう。そうなると、彼女は見知らぬ念能力者の攻撃、または流れ弾に当たるような形でここに送られてきたまったくの一般人、つまりは被害者ということになる。

「……ほんとうにすまない。どうやら完全にこちらの早とちりだったようだ。お詫びと言ってはなんだが、君を無事に家に帰すと誓おう。何かわからないことがあったら、なんでも聞いてくれ」
「じゃあ、ちょっと聞きたいんだけど……ここ、どこ? もう一回言って」
「ああ、ここはヨークシンシティだ。中央からは少し外れたところだが、リパ駅からは歩いて五分というところだな」
「ヨークシン……? それって、あの、ドリームオークションとかやってるところ?」
「ああ、世界最大のオークションだ。そういえば、君の家はどこにあるんだ?」
「日本よ」

 日本……? 聞いたことがない国だった。
 昔どこかで、ジパングのことをそう呼ぶ人もいると聞いたことがあるが……それだろうか。

「ね、ねぇ、ところであんた、ハンターなの?」
「いや、私はハンターではないよ」
「ハンターっていう人たちはいるのね?」
「よくわからないが……ハンターという職業があるか、という質問なら、答えはイエスだ」
「……ちょっと、なんか読むものある? 新聞とかでいいわ」

 少女から矢継ぎ早に繰り出される質問は、なんというか関連性が判らない。
 しかし、アゼリアとしては先ほどの行動に負い目があるのも確かなので、何も言わずに今日の新聞を渡してやった。
 少女は、それこそ一心不乱に新聞を眺めている。かと思うと、急に肩を震わせて笑いだした。

「ふ、うふ、うふふふふふふふふ……や、やったぁーーーー!!!」

 やばい、おかしくなったか、とアゼリアが心配したのも無理はない。先ほどまで泣きわめいて、警戒心丸出しだった少女は、そんなこと遠い昔の出来事であるかのように飛び回って喜んでいる。

「やったー! うふふふ、やったわ!! こんなことが本当に起こるなんて! 神様ありがとう! でもなんで、旅団のアジトとか、ゾルディック家の庭とかに下ろしてくれなかったの!? ああ、でもいいわ。待っててね、クロロ! ヒソカ! イルミ! クラピカ! ああ、キルア君やゴン君もすぐに会いに行くわ!」

 さいっこうにハイ!ってやつだー!!
 そんな単語が思わずアゼリアの脳内に浮かぶくらい、少女の様子の変化とその喜びかたは異常だった。
 ……というかちょっと気持ち悪かった。
 思わず鼻歌を歌いだしそうなくらい、テンションが天井知らずに上がっていく少女に声をかけるのは割とためらわれた。

「あ、あの……?」
「なーに? ああ、さっきのことならもう怒ってないわ! 私いまとっても気分がいいの! ああ、あなたアゼリアだっけ? しばらくの間お世話になっていい?」
「あ、ああ。それは構わない。君が無事に家に帰れるまでの間、生活と身の安全は私が保証しよう」
「ちーがーうーのー!! 私は、別に家になんか帰れなくてもいいわ! それどころかこのことに感謝したいくらいよ!」
「なっ!? 何を言っているんだ? 君には帰りを待つ家族もいるだろう!」
「そんなのどうでもいいのよ!! まず大事なのは、私を待っているクロロたちに会うことなの!」
「誰だクロロって!! というかどうでもいいわけあるか! って、人の話を聞けー!!」
「クロロタンは私の嫁よー!」

 結局、その日はネジがまとめてぶっ飛んだ少女と話をすることは出来ず、寝て覚めて少女と話をしたのが翌日のこと。
 異世界から来たとか、この世界はハンター×ハンターというとか、ヒソカの怪しげな魅力が素敵とか、幻影旅団に会いたいとか、イルミ萌え~とか、そんな滅茶苦茶なことを話し続ける少女を見て、アゼリアが思ったことは二つ。
 
 あの時穏便に対処していれば、ということ。
 この少女は病院に入れた方がいいんじゃないか、ということだった。



 ああ、でももう面倒見るって言っちゃったしなぁ……
 アゼリアは頭を抱えて、重い溜息を吐くしかなかった。










〈あとがき〉

初めまして、ELと申します。
富樫大先生そろそろ連載再開してくれないかなー、と考えながらこの作品を書いてみました。SSとかを書くのは初めてなので至らないところばかりだと思いますが、少しずつでもうまくなっていければと思います。
読んでくださった方は本当にありがとうございます。よろしければこれからも拙作にお付き合いください。

H×Hって、いわゆる夢小説といった作品が大部分ですよね。
夢小説を悪く言うつもりは全くありませんし、夢小説を読むことも私自身あるのですが、この作品はいわゆる夢小説的な展開に対するカウンターパンチャー的なストーリーになっていくと思います。ですので、もしかすると不快に思われる方がいるかもしれません。
割と常識人な殺し屋と腐女子なトリッパーの物語を楽しんでいただければ光栄です。

凄まじく遅筆な作者ですが、完結目指して頑張っていきたいと思います。
ではまた、次の更新の時にでも。



[3597] アゼリアの頭痛
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/07/30 15:23
 平気なように振舞っていたが、見知らぬ場所というのはやはり疲れがたまるものなのだろう。
 異世界から来たと自称する少女、ハルカは今私のベッドで寝ている。まだ午後八時。寝るには随分と早い時間だ。
 もっとも私自身環境の変化に戸惑っている部分があり、少し疲れている。早く寝てしまいたいところだが、今日一日の話し合いで得た情報から現状を把握することの方が先だと思った。細かな情報まで書き込んでいたら十枚以上に及んだメモをパラパラとめくる。

 ハルカ・アヤセ。十五歳独身。日本の東京都渋谷区在住。自宅の自分の部屋で寝ていて、気がついたらこの部屋にいた。自分は異世界からこの世界にやってきた。この世界は自分の世界でハンター×ハンターというコミックで描かれており、念能力のことはそこで知っている。一番好きなキャラはクロロで、幻影旅団の団長をしている。その次に好きなのはイルミやヒソカ。イルミはゾルディック家の長男で、ヒソカは幻影旅団の団員。多分帰るためにはグリード・アイランドの中で手に入る「離脱(リーブ)」のカードが必要だと思うが、自分はこの世界で生きていくから必要ない。キルア萌え、etc……

 はっきり言って、妄言の類だ。信じるに足る根拠など何一つないし、そもそも私が実際に生きているこの世界を実はコミックの世界です、などと言われて納得できるわけがない。それに日本という国も東京都渋谷区なんて地名も、電脳ネットでめくってみたが出てこなかった。

 しかし戯言と切り捨てることができない理由もまたあった。その理由の一つが彼女の念能力に対する造詣の深さだ。
 「纏」「絶」「練」「発」の四大行から、「陰」「円」「周」「堅」「硬」「流」といった応用技まで、彼女は言いよどむことなく説明してみせた。しかし、断言していいが彼女は念能力者ではない。質問の最中、幾度となく本当は念能力を使えるのではないかと疑い、念弾を飛ばしては寸止めするを繰り返してみたが、彼女は一つとして反応することなかった。精孔が開いていてオーラを見ることが出来るのならば、如何に取り繕おうとも生物として微妙な反射が出るはずだから、彼女は念能力者ではないという結論になる。周囲に念の使い手がいて、知識だけを彼女に与えたという可能性もあるが、念能力は基本的に秘匿されるものである以上、弟子に取っているわけでもない一般人の少女に知識だけを教えるなどとは考えづらい。ならば彼女はどこで念の知識を手に入れたというのだろうか。

 二つ目の理由は、彼女が裏の事情にあまりにも詳しいということだった。
 ヒソカとクロロという人物については知らないが、ゾルディック家の長男の名は私も知っていた。伝説の暗殺一家の名に偽りはないが、彼らは隠れ住んでいるわけではない。裏社会に所属していれば耳に入る名前ではある。しかし、それも裏に関わっていればこそ、だ。今私のベッドで寝ている少女はどう考えても裏に関わりのある人物とは思えない。肉体的に鍛えられている様子はないし、そもそも警戒心が皆無だ。危害は加えないと誓ったとはいえ、一度自分を殺しかけた相手である私の前で、ああも無防備な姿を晒すだろうか。答えは否、だ。少なくとも裏に住む人間ならば考えられない。これが器の大きさからくるものなのか、ただの馬鹿なのかと聞かれたら、私は馬鹿の方だと即答してしまうだろう。どこかのマフィアのメンバーの息女という可能性もなくはないが、彼女の語ったイルミ・ゾルディックに関する情報は私の知る限り誤りはなく、そしてまた聞き程度で知ることのできる情報でもなかった。

 結論から言うと、本日の話し合いで判ったことは少ない。
 彼女の語る言葉が嘘か真か。普通に考えればまず間違いなく嘘、あるいは彼女が現実と妄想を混合させていると考えるべきだが、安易に決めつけることも出来ない。
 そしてそれを確定する手段が現状私にはない。
 しばらくは様子見だな、とため息をついて、リビングのソファーに体を投げ出した。
 もしも嘘をついているならば、観察しているうちにボロを出すかもしれない。場合によっては病院での精神鑑定の必要も考えておくべきだろう。

 ああ、だがしかし、と電気を消しながら思う。
 もし万が一、彼女の言葉が真実だったならば、私はどうすればいいのだろう……





 私の朝は早い。
 何時に寝ようと、朝の五時には目が覚める。これは決して眠くないのではなく、眠くても活動に支障が出ないように訓練したということだ。いつも十全なコンディションで仕事ができるとは限らない。むしろそうでない場合の方が多いくらいだ。ならばその状況下で如何に結果を残せるかが、プロに求められる資質である。
 だが休める状況ならばできる限り体を休めておくこともプロには必要だ。なのになぜ、今日に限って普段より一時間も早く起きたのかというと、単純に寒かったからだ。
 昨日は気にならなかったが、ハルカが現れた日に私が暴れたせいでリビングはかなり荒れている。
 蹴り壊されたドア、大きな裂け目の入った壁、大口径の拳銃で撃ちぬいたような穴もいくつかある。
 秋も暮れ始めたこの季節。隙間風が入り込むこの部屋はなかなかに寒く、まだ空が白んでもいない時間に私は起きる羽目になった。
 とりあえず壁やドアは後で業者を呼ぶとして、今はガムテープで穴を塞いでおく。

「ふむ、ひとまずはこれでいいか」

 五分で終わってしまった。
 普段の起床までまだまだ時間がある。
 そういえば昨日は疲れて寝てしまったから修行していないな、と思い出した。

 「……修行でもするか」



 体中の血液が溢れていくイメージ。
 血管を突き破り、体を埋め尽くしていく命の水。その一滴一滴を絞り出すようにして、オーラを集めていく。
 そのオーラを全身から噴出させ、留める。
 「堅」―――戦闘において基本となる状態だ。
 私の「堅」は潜在オーラ量、顕在オーラ量ともに一流と自負できるレベルにあると思う。
 私の能力は顕在オーラ量が能力の強力さに大きく影響するので、この部分に関しては相当の修行を積んできた。
 しかし私は「流」があまり得意ではない。
 修行は積んでいるものの、一流の業に比べるとどうにもオーラの攻防力移動にぎこちなさが出る。
 それはたとえオーラの総量で勝っているとしても、経験の豊富な念能力者に付け込まれる隙があるということだ。
 だから最近は「流」の訓練を中心に行っている。

 「堅」の状態を維持したまま、逆立ちをする。
そのまま腕の力で体を跳ね上げ、両足が天井に届く。その瞬間、両足の先の攻防力を100にする。
高密度のオーラで覆われた両足が天井に届くと、オーラ自体の力が重力に加算され、体は勢いよく落ちる。
そして着地の瞬間再び両手にオーラを集め、体を跳ね上げる。この繰り返しだ。
戦闘における攻防力の移動は、ニュートラルの状態から手足への移動が主となる。さらに「堅」の状態を保ったまま肉体にも負荷をかけるこの訓練は、極めて実戦に近いオーラの運用ができる。
そのためオーラの消費も激しい。それは短時間で密度の濃い訓練ができるということだ。
三十分もしないうちに私は汗だくになり、訓練を終了した。
……だからまぁ、この失態は疲れていたせいだろう。

「……いつ起きたんだ?」
「ん~、十分くらい前かな。ドシンドシンなんの音だろうって思ったら、アゼリアが変な動きしているし。面白かったから見ていたの。今のは何? 何かの儀式?」
「変な動きとは失礼な。これは念の訓練だ」

 素人の少女の気配に気づかないとは、我ながら抜けすぎだろう。あまりの無様さに、先ほどプロの資質とか何とか考えていたことが恥ずかしくなる。恥ずかしさを誤魔化すようにガシガシとタオルで乱暴に汗をぬぐうと、声だけは平静を繕って呼びかけた。

「昨日は大分疲れているようだったが、もう大丈夫なのか?」
「もっちろん! クロロやイルミに会うために、一分一秒たりとも無駄には出来ないわ!」
「……ハルカ、君は幻影旅団がどういう連中か判って言っているのか?」
「あら、当然でしょ! 本人しか知らないようなディープな情報だって知ってるわ」

 ……頭痛がしてきた。
 ならば何故、あの人災としか言えないような連中に会いたいなどと考えるのだろうか。まったく理解できない。
 私は幼子に諭すように、一言一言はっきりと、聞き間違えることのないように言った。

「いいか、幻影旅団というのは、人を殺すことをなんとも思っていないような皆殺し集団だ。奴らの引き起こした事件は数知れず、その多くが甚大な被害を及ぼしている。近年で最も有名なのは、四年前のクルタ族の皆殺しだな。古くから独自の伝統を受け継いできた部族が、奴らの私欲のためだけに滅ぼされた。近づけば、まず生きては帰れない。一流の賞金首ハンターでさえ手を出すのを躊躇うような相手だ。何故わざわざそんな連中に会いたいなんて思うんだ?」
「……ああ!! そうだ、クラピカくんは今どうしてるの? クルタ族滅亡が四年前!? 原作まであと一年しかないじゃない! こうしてる場合じゃないわ! 早く準備をしないと! アゼリア、朝ごはんまだ?」
「……」

 人の話を聞いてください、お願いします―――そう口にする気力すら残っていなかった。
 なんていうか、会話が全く成り立たない。真面目に頭痛薬の購入を検討するべきかもしれない。ストレス性の脱毛症になったら、仮にも女のはしくれとして私もショックだ。
 だが、今は我慢だ。彼女の言葉の真偽を判断しなければならないのだから、と自分に言い聞かせて、キッチンから朝食を取り出してハルカに投げ渡した。

「……なにこれ?」
「何って……朝食だが? あ、ああ、もしかしてほかの味の方が良かったか?」
「そうじゃなくて、どうして朝食がカロ○ーメイトなのかって聞いてるのよ!」
「な……? い、一体なにが不満なんだ? 手軽で安価、栄養価も十分。食事として完璧じゃないか!」
「あ、あんたねぇ、本気で言ってるの!? これはね、非常食っていうのよ、非常食! 判る!? 普段から食べるものじゃないのよ! 何か他のもの頂戴、他のもの!」
「ほ、他のものって言っても……あとはカップラーメンくらいしかないぞ? さすがに朝からラーメンはもたれると思うんだが……」
「一体どういう食生活してるのよアンタは!!! 頭おかしいんじゃないの!?」

 ―――どの口でそのセリフを言うんだ、という言葉を飲み込むのは、本当に精神力が必要だったと言っておこう。





 結局、食事はまともなものを取らなければダメだ、お肌に悪い、というハルカの強硬な主張に負けて、ハルカの朝食だけは喫茶店で食べることになった。
 万年金欠な私としては、現在ハルカが突っついているストロベリーパフェが恨めしくてしょうがないのだが、人の話を聞く様子もなくさっさと注文されてしまったので、後から取り消すなんて恥ずかしくて出来やしない。
 この喫茶店でのハルカの食事は、フレンチトーストセット700ジェニー、オレンジジュース250ジェニー、ストロベリーパフェ550ジェニーの計1500ジェニー。ちなみに私の頼んだものはお冷だけ。0ジェニー。頼むから遠慮というものを知ってほしい。

「はぁ~、甘くっておいし~!」

 ……だがしかし、そこまで止める気にもならない自分がいることに気がつかずにはいられなかった。
 目の前にある、妹と瓜二つの顔。それが笑い、怒り、感情を露わにし、蕩ける様な表情を浮かべているのを見ると、つい頬が緩んでしまう。ハルカは妹とは別人だということは、もういやというほど判っているのに、それでも夢にまで見た日々の偽物が私を捕えて離さない。
 私は彼女を、妹の代わりとして見ているのだろうか……
そんなことは、許されない。私自身が許せない。それはハルカに対する、そして何よりも最愛の妹に対する侮辱でしかない。そう理性が訴える。
やはり一言言っておくべきかと考えて、意を決して口を開いた。

「ハルカ、ちょっと……」
「なに? アゼリアも食べたくなったの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「ああ、別に遠慮しなくていいわ。はい」
「んぐっ!」

スプーンを口に突っ込まれた。
苺ソースの甘酸っぱい味がクリームと混じり合い、あまり経験のない甘い味が広がっていく。

「ほら、甘くておいしいでしょ? カロリーメイトなんて不健康なものじゃなくて、もっとちゃんとしたもの食べた方がいいのよ! あ、ところでさっきなんか言った?」
「……いや、食事が終わったら服を買いに行こう。しばらくの着替えが必要だろう?」
「え、本当!? やった、それじゃあ早く食べちゃうわね」

 ―――何をやっているんだろうな、私は





 ハルカの生活用品、衣服、カ○リーメイトとカップラーメン以外の食材、それと結局押し切られる形で化粧品まで買い込んで帰ってきてみると、もう夜だった。
 他人の買い物に付き合うのがこんなにも疲れるものだったとは……服の店で実に三時間も悩んだハルカは、結局フリルなどがたくさんついた……ゴスロリ、というのか? そういう服を買っていた。
 結局今日の買い物だけで私の一月分の生活費が飛んだことになる。ああ、頭が痛い……帳簿を付ける手も遅遅として進まない。ちなみに昼の間に業者に依頼して、壁の穴や切れ目、扉の立付けは直してある。これもまた結構な出費だ。昼の買い物でこっそりと買っておいた頭痛薬を何錠か飲みほしておく。
 このままでは様子を見ている間にうちの家計が崩壊するのではないだろうか、と真剣に危惧していると、その元凶がやってきた。

「ねぇ、アゼリア、ちょっといい? お願いがあるんだけど」
「ふぅ……なんだ?」

 また何か頭痛の種が増えそうな気がする。

「私に念を教えて!」
「却下だ」

 こいつに念を教えるなんて、馬鹿にマシンガンを与えるようなものだ。
 ばっさりと切り捨てられるとは思ってなかったのか、ハルカは目に見えてフリーズしていた。

「な、なんでよ! いいじゃない、教えてくれるくらい!」
「じゃあ聞くが、どうして念を覚えたいって思うんだ?」
「ハンター試験を受けたいからよ!」
「……ハンター試験? その体でか?」

 どう見ても、ハルカの体は試験に耐えられるものではない。
 贅肉が付いているわけではないが、筋肉もまたほとんどない。武術の心得があるとも思えない。あんな触れば折れてしまいそうな体では、試験を受けることからして無謀だろう。
念は使いこなせれば便利な力だが、万能の力ではない。元の体力が皆無では、念を覚えたところで意味がない。

「そんな貧相な体では無理だ、諦めろ」
「なっ!! だ、誰が貧乳よ! 少しばかり胸が大きいからっていい気にならないでよね!」
「胸の話じゃない!!」

 大体、ハルカに念なんて教えたら、相変わらずわけの判らない理論で旅団のアジトとかゾルディック家とかを探しに行ってしまいそうな気がする。むざむざ自殺志願を手伝ってやるつもりはない。

「それに私は無理やり起こす方のやり方しか知らん。失敗したら死ぬような方法を取る気にはならない」
「別にそれでいいわよ! 私が失敗するなんてありえないんだから!」
「……その自信はどこからくるんだ? ま、とにかくダメなものはダメだ」

 話はこれで終わりだ、と視線を外して帳簿に向き合う。

「なによ、ケチケチケチケチケチ!!」

 後ろで喧しく騒いでいるハルカは諦めるまで無視することにする。
 人の話を聞かない子を地でいく彼女は、説得しようとしても無駄なんじゃないかと考えだした今日この頃である。
 それよりも問題は今日の出費をどうするかだ。銀行には一応十万ジェニーほどの貯えはあるが、それを引き下ろしたらもう金がない。真剣に金策を考えなければならない。
 あの糞上司に金の工面を頼むというのだけは却下だ。となるとやはりアルバイトだろうか……と、考えたところでハルカが静かになっているのに気がついた。
 思ったより早く諦めたなと意外に思っていると、正面にハルカがやってきた。
 神妙そうな顔で、両手を祈るように組み、子犬のような眼で私を見つめる。
 作戦を変えてきたのか? だが、そんなものに引っかかる私ではない。

「ねぇ、お願い……おねえちゃん」
「よし、任せろ」

 ……自分の言葉の意味を理解したのは、言い終わってからだった。

「ありがとう、アゼリア! 持つべきものは理解のある友達ね!」

 してやったり、と言った風の顔をしているハルカに、先日の怒りがふつふつと滾ってくる。
 妹を、引き合いに出すとは、どういうつもりだ……?

「……言っていい冗談と、悪い冗談がある。そんなことも習わなかったのか?」
「あら、私は冗談のつもりはないわよ? アゼリアのことは本当に姉のように思ってるわ」
「ほぅ……それはそれは、光栄だなぁ……」

 頭に血が上っているのが自分でもわかる。
 冷静に、クールにならねばと考えるが、駄目だ、抑えられそうにない……

「いいだろう……上着を脱いでこっちに来い。だけど、死んでも知らないぞ?」
「ふっふーん、そんなことあるわけないよーだ。「纏」なんてすぐにマスターしてみせるんだからね」

 シャツ一枚になったハルカの背中に、念を込めた手を翳す。
 少しくらい痛い目に逢えばいいんだ……!

「行くぞ」

 ドン、という音が部屋の中に響いた。

「お、おおおおおおお! す、すごい、これがオーラね?」
「「纏」のやり方は知っているな? 血液が全身を循環するイメージでオーラを留めるんだ」
「わ、判ってるわ……!!」

 ハルカは自然体を取り、目を閉じて集中しようとしているが、残念ながら無駄な力が入りすぎている。
 「纏」は自転車に乗るようなものだ。一度覚えてしまえば次からは楽だが、最初に使えるようになるまでが大変だ。

「あ、あれ……?」

 ハルカのオーラはその勢いを時折弱めてはいるものの、風船に吹き込んだ息が漏れていくように噴出していった。
 「纏」ができそうな様子はない。

「あ、ちょ、これ、きつ……」

 そのまま三分ほど経っただろうか。
 立っているのも精一杯といった様子で、もはや集中などまるで出来ていないハルカはバタンと床に倒れ伏した。

「だから言ったんだ、危険だって……」

 自業自得だと言い聞かせてその場を去ろうとした。
 明日の朝までには結果が出ているだろう。ハルカが「纏」を覚えるか、疲労で倒れるかは判らないが。
 人の忠告をまるで聞かないばかりか、妹のことまで引き合いに出したんだ。これで病院に連れ込まれたところで知ったことではないし、精神鑑定をついでに受けさせてしまえるから都合がいいかもしれない。

 だが……最悪、死ぬかもしれない。
 そう考えると、さっきまでの怒りは潮が引くように消えていき、急に不安で胸が満たされた。

「……」

 私にハルカを助けなければならない理由は、ない。ないはずだ。そう言っておいたんだから。
 だけど、本当にそれでいいのだろうか……
 ハルカを見る。
 妹によく似た、かわいらしい顔が、苦悶の表情を浮かべて細かい呼吸を刻んでいる……

「……ああ、もう、倒れてるんじゃないよ! あれだけ大口叩いたんだから、心配かけるな、このバカ!」

 まったく、本当に面倒ばかり掛けてくれる!!
 私はタオルと氷水を用意しに急いでバスルームに駆け込むのだった。










〈あとがき〉

アゼリアはシスコン。妹そっくりのハルカに抱く感情は複雑です。妹のことになると冷静な判断ができなくなります。
妹が今どうなっているのかについては直に触れられると思います。

冷静に考えて、無理やり起こす方法ですぐに「纏」を覚えられる人なんてそうそういないと思うんですよね。
天性の才能、十万人に一人の才能とまで言われるズシでさえ、ゆっくり起こす方法で三か月もかかってるんだから、念の習得はとんでもなく険しい道だと思います。
ましてや才能や主人公補正もない素人の小娘なんて、とてもとても……
天空闘技場で二百階まで登れるような格闘の達人たちですら、念を覚えることなく死んでいく人がいるんですから。

この作品のコンセプトは「人生そんなうまくいくか」なので、ハルカのお気楽思考はどんどん悪い結果を引き寄せると思います。それに伴いアゼリアの苦労も増えていくでしょう。
そんな二人にニヤニヤしていただけたら幸いです。
ではまた次の機会に。



[3597] アゼリアの寝不足
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/07/27 20:00
 結局、ハルカの容体が安定したのは空が白むころになってからだった。
 もうオーラが残っていない空っぽに近い状態だが、それでもなんとかハルカは「纏」を憶えた。だけどあのまま放置していたら間違いなく死んでいただろうなと確信できる。
 
 「纏」が出来ない相手をサポートする手段として「周」がある。
 オーラとは密度の高い方から低い方へ流れるのが自然な法則だ。ならば相手の体を覆うオーラの密度を、体内のオーラ密度よりも高くしてやればそれ以上のオーラは漏れ出ないことになる。
 私は一晩中、自分のオーラでハルカの体を包み続けた。ハルカのただ漏れてるだけのオーラでは私のオーラの膜を破ることはできない。そして私のオーラの膜の中に充満していくハルカから漏れたオーラが、残存オーラの密度よりも高くなった状態を維持し続けて、ハルカの体に「纏」の感覚を覚えこませたのだ。とても時間がかかったが。
 流石の私も疲労困憊だ。高等技術の一つである「周」を、人間大の、しかもオーラを放つ対象に広げ続け、それを六時間以上維持し続けなければならなかったのだから。あと一時間この状態を維持できたかと問われると自信はない。
 普段ならとっくに起きて活動を開始している時間だが、流石に今起きていることはできない。
 ひとまず休んでおくか、と考え寝室を出た。
 すっかり私の定位置となった硬いソファーが、今日ばかりはとても心地よかった。





 ぷるるるるっ、と飾り気のない呼び出し音が耳元で鳴った。
 流石に疲れがまだ残っており、寝起きの頭がすっきりとしない。体を起こすのも億劫で、手探りで携帯を掴んで電話に出る。

「ふぁい、こちらアゼリアです」

 このとき、あくび混じりの寝ぼけた声で返事をしてしまったのは失態だったと言わざるを得ない。
 私の携帯に電話してくる人物なんて限られているというのに、何故相手の名前を見なかったのか。

「いつまでも寝ているとは、いい身分ですねアゼリア。上司である私が既に働いているんですよ。無能なら無能らしく、空いた時間でも私の役に立とうと尻尾を振ったらどうなんですか」

 声を聞いた瞬間、顔をしかめた。朝からあの上司の声を聞かなきゃいけないなんて、なんて最悪な一日なんだろう。

「……申し訳ありません、カーティスさん。何か御用でしょうか」
「用事がなければ誰があなたのところに連絡を入れると思いますか。そのくらい察しなさい。まぁ、いいでしょう。仕事ですよ、アゼリア。昨晩組の金を持ち逃げした馬鹿がいます。まったく、余計な手間を増やしてくれるものですよ。こういう馬鹿は何故こうもゴキブリみたいに次から次へと湧いてくるのでしょうね。ボスは大層お怒りです。というわけで、あなたの仕事は害虫駆除ですよ。クズの死体と持ち逃げした金を回収して来なさい」

 ……マズイ、今日仕事が入るのはマズイ。
 昨晩の疲労がまだ全然抜けていない。仮眠をとって若干の回復を見たとはいえ、残っているオーラは全力時の二割と言ったところだろうか。これほどの不調で戦闘に臨んだ経験は流石にない。たとえ格下が相手だとしても、今この状況で戦うのは危険だ。
 ほとんどダメ元で、一縷の望みをかけて言う。

「……カーティスさん、お願いです。今日だけは勘弁していただけないでしょうか。いえ、ほんの少し、三時間程度でいいんです、時間を戴けませんか?」
「論外ですね。何故われわれがあなたの都合を聞かねばならないのですか。持ち出した金は、あなたの命よりも重いんですよ。それに逃げ出した馬鹿は、移送屋のコーラルに依頼をしたという情報が入っています。これだけ言えば状況は判るでしょう?」
「う……」

 移送屋コーラルというのは、「移動」に関する何らかの念能力者だ。
 能力の詳細は判らないが、おそらくは瞬間移動に類するものと考えられている。
 その能力を用いた運送業は、裏の業界でも重宝されている。いかなる貴重な商品であっても安全かつ確実に目的地に届けられるのだから。
 そんな能力者が依頼を受けたならば、コーラルが到着する前に持ち逃げした者たちを捕えなければ回収は難しいということだ。

「それともあなたは、組に逆らう気ですか……? それはよくないですね……妹さんが心配しますよ? 思わず寝込んで、もう二度と起きれなくなるくらいに……」
「な! そ、それだけは……!!」
「そう思うのなら、さっさと仕事に行きなさい。迎えの車をそちらへ向かわせました。詳細はそこで聞いてください」
「は、はい……」

 ギリッ、と奥歯が軋む。悔しさのあまり、握りしめた掌からは血が滴っていた。

「ああ、それだけでは不満でしたら、そうですね、褒美をあげましょう。今日の正午までに任務を完了できたなら、病院に行ってもいいですよ。特別に許可してあげましょう」
「……ありがとうございます。きっと、期待に応えてみせましょう……」
「それでは、せいぜい頑張りなさい」

 ブチっと電話が切られた。

「くそっ……!!」

 憎悪に近いほど嫌っている相手に逆らうことが出来ない。
 いかなる理不尽な命令でも聞かなければならない。
 自分の命など省みずに組織に仕えなければならない。
 それが私に与えられた束縛だった。
 私には、逆らうことの出来ない首輪が嵌められているのだから。

 胸の中のムカつきを飲み干すように、水差しに入れられた水を一口飲んでから準備を始める。
 残された水は、真っ黒に変色していた。





 いつものパンツタイプのスーツに身を包み準備を整えると、程よく迎えの車が現れた。
 後部座席に乗り込み、運転してきた黒服の男から渡された詳細を纏めた資料に目を通す。

 今日の朝四時ころ、組の金庫を荒らしていた武闘派構成員ルーク・バンクス(32)は物音に気付いてやってきた構成員一名を殺害し、現金三千万ジェニーと二億五千万ジェニー相当の宝石類を奪い逃亡した。
 ルーク・バンクスは逃亡に際し三名の念能力者を護衛として雇い、また移送屋コーラルに逃亡の依頼をした。彼自身もまた念能力者であり、オーラを高熱に変える変化系能力を持つ。
 現在は郊外の倉庫内に潜伏しており、掃除人(スイーパー)到着と同時に攻撃を開始するべく包囲網を広げている。
 尚コーラルの到着時間が判らない以上、可及的速やかな対処が求められる。

 書かれていたのはおよそこんな内容だ。
 念能力者が合計四人、時間制限付き、さらにこちらは疲労している。状況は悪いと言わざるを得ない。
 となれば、取るべき選択肢は一つしかない。奇襲をかけての短期決着だ。
 どのみち私には長期戦に臨めるほどのオーラは残されていないのだから。

 そう考えているうちに車は目的地である郊外の倉庫についていた。
 倉庫は、なかなかに広い。見るからに分厚いコンクリートで作られており、見渡す限り正面の扉以外に入れそうな隙間はない。相手はどうやら、コーラルが到着するまで完全な籠城作戦に出たようだ。

「状況は?」
「あ、お疲れ様ですクエンティさん。敵は間違いなくこの倉庫の中にいます。立て篭もって出てくる様子はありません。ここを中心に狙撃班を三組配置しましたので、もしも顔を出すようならその場でハチの巣です。それと周囲に包囲網を敷いておきました。もしもコーラルのやつが近付いてきたらそこで足止めします」
「どちらも無駄だ。すぐに撤退させろ。奴らはコーラルが到着するまで籠城を決め込むつもりらしいから、まず出てこない。コーラルにしたって、やつは移動系の念能力者だ。包囲網なんかなんの意味もない」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」

 先行していた部隊のリーダーは念能力者ではなかったため、こうした思考をしてしまったのだろう。
 念能力は万能の力ではない。しかし一方で、念能力者以外には対処が難しい力でもあるから、仕方がない。

「この倉庫の入り口はあの扉だけか?」
「はい。あの他には窓ひとつありません」
「そうか……」

 これは正面から馬鹿正直に入ったら、放出系能力者のいい的だな。
 せめて相手に一瞬でも隙を作らせる何かが欲しいところだ。
 しかし、気になるところが一つある。

「これでは倉庫の中からこちらを見ることも出来ないな」
「え、ええ。それに関してはしっかりと調べました。こちらを覗けそうな穴もありませんし、近くに監視カメラの類がないことも確認済みです。あちらからも我々の状況は見えていません」

 そんな筈はない。籠城という作戦を取る上で、相手側の動向が判らないというのは凄まじいストレスになるはずだ。
 どこかにきっとこちらの動向を知る手段があるハズだ。機械でないのなら、きっと念能力で……

「あのカラス……」

 ふと、遥か頭上で旋回しているカラスが目に入った。パッと見にはごく普通のカラスにしか見えない。
 ゆっくりと、一定の速度でカラスは巡回している。コースを一度たりとも変えることなく、何周も何周も。

「先ほどの狙撃班はまだいるか? どこからでもいい、あのカラスを撃ち落としてみろ」
「は……あのカラスですか?」
「そうだ。早くしろ」

 不可解そうな顔をしているが、説明する必要はない。
 あのカラスは動きがあまりに不自然すぎる。私の予想だとまず間違いなくあれは念獣だ。
 おそらく視覚の共有が可能なタイプ。あの眼を通じてこちらの動向をうかがっているのだろう。
 果たして、それは証明された。
 銃弾は確実にカラスの右翼を貫いたが、カラスは痛みを感じた様子もなく同じ動きを続けている。

「ちっ……こちらの動向は丸見えというわけか」

 あのカラスはきっと偵察用の念獣で、戦闘力がない代わりに消滅させることも難しいタイプだろう。
 ただでさえオーラが少ない状況で、そんな相手にオーラを消費するわけにはいかない。

 まぁ、やることはどうせ変わらないんだ。
 短期決戦。基本は何も変わらない。ただ不意打ちが利かなくなったというだけのこと。
 正午まではもうあまり時間がない。さて、早いところ片付けるかと意気込んで、扉の前に立った。





 くそったれ、と俺は心の中で毒づいた。
 年下のくせに厭味な上司に我慢して我慢して、この組で働き始めてもう十五年にもなる。命がけの仕事だというのに、俺の給料は大して良くならないし、ちょっとのミスで愚痴愚痴と文句を言われなければならない。俺の有能さを理解してない低能な上司め。あのカーティスとかいう奴は絶対いつか殺す。
 で、いい加減むかついて、こんな仕事やってられるか! と組の金を退職金代わりにもらって逃げ出したら、こんなときだけは仕事の早い雑魚どもがもう追いすがってきてやがる。
 本当にムカつく連中だ。大体こんな金、組織全体から見たら二束三文みたいなもんだろうが。今までの俺の組への貢献を考えれば、もっと貰ってもいいくらいだ。
 だがまぁ、それもすぐに終わる話だ。移送屋のコーラルがここに来れば、あとは遠い国に送ってもらって、ほとぼりが冷めるまでおとなしくしていればいい。そうだな、東にあるジパングとかにでも行こうか。

「おい、ルーク。今念能力者が着いたみたいだぜ」
「ああ、マジかニコル。どんな奴だ?」

 メガネをかけた痩せぎすの男、ニコルが声をあげた。
 今回の逃亡に際して雇った念能力者三人は前からの知り合いの奴らで、今回の儲けの半分をおれが、残り半分を三人で分けることになっている。
 外にいるカラスの念獣と視覚を共有しているニコルは俺たちの生命線だ。外の状況が判らなかったら行動の取りようがない。

「若い女だ。まだ二十歳にもなってないんじゃないか、こいつ。セミロングの黒髪を首のところで軽くしばってる。化粧気はないが、かなりの美人だな」
「……アゼリアかよ」
「お、知ってんのか、ルーク?」

 金髪を刈り上げている男、カールは興味津々といった様子で聞いてきた。美人な女と聞くとすぐ反応しやがる。

「能力は知らないけどよ、そいつはアゼリア・クエンティ。確かまだ十七歳くらいだったかな? とにかく若い小娘だ。そのくせ俺様を差し置いて、組織最高の殺し屋(トップスナイパー)の称号なんか貰ってやがるムカつく奴さ。はっ、大した経験もねぇくせに、どうせボスの寝室にでも潜り込んでその称号をもらったんだろうよ」
「ほうほう、そいつぁ楽しみだな。そいつが強いのが戦場だろうとベッドの上だろうと、どっちみち楽しめるだろ?」
「ちっ、状況見てから言いやがれ、バズゥ」

 筋骨隆々の大柄な男、バズゥは傷だらけの顔を嬉しそうに歪めた。戦闘好きで女好きか。野蛮人一歩手前だな。
 だがまぁ、こんな奴らでも俺の命が懸かってるんだ。存分に働いてもらうぜ。

「……やべーな、その嬢ちゃん、俺の念獣に気付いてやがるよ、ぜってー」
「別に気にすんなって。どっちみち入ってくるにはそのドアからしか道はないんだ。そしたら入ってきた途端俺の的さ」

 カールは自信満々の表情で愛用の二丁拳銃を構えた。

「おいおい、お楽しみは取っておいてくれよ。せめて夜の楽しみくらいは」
「おー、そいつはもちろんだ。金も女も一度に手に入るなんて、最高だなこりゃ」
「違いねぇ」

 野太い声で笑い合う二人の声に、俺は苛立ちを隠せなかった。命がかかってるってのに、こいつらは……

「おい、来る―――」

来るぞ、と最後まで言われることはなかった。
ダンプカーでも突っ込んできたようなとんでもない音がすると、金属製の巨大な扉がひしゃげながら一直線にこっちに向かって飛んできた!

「ちぃっ!!!」

 自分の能力に対する自信に恥じない、見事な早撃ち(クイックドロウ)。カールは二丁拳銃をすばやく構えると、計十六発の念弾を一息に打ち切って扉を迎撃する。

「くそぉっ!! 止まらねえ!!」

 だが、暴力的なエネルギーを蓄えた鉄塊はその速度を緩めようとはしない。カールの能力は八発の念弾を打ち切ると再装填(リロード)が必要となる。結局三十二発もの念弾を撃ち込んで、ようやく鉄の扉は粉々になった。

「おい! 気をつけろ、てめーら! どっかその辺にあいつが……」

 いる、という必要はなかった。
 粉砕された扉の陰、飛び散る破片を縫うようにして、絹糸のような黒髪が靡く。
 こいつ、扉の陰に隠れて、一気に間合いを詰めてきやがった……!!
 長い足が鞭のようにしなる。俺は不意を打たれて何も反応出来てない。やべぇ!!

「ふんっ!!」

 ナイスだっ! そんな喝采が心の中で巻き起こった。脳内会議はスタンディングオベーションだ。
 横から飛び込んできたバズゥは馬鹿でかい鋼鉄のハンマーを振り回して、空中で蹴りを放とうとしていたアゼリアをぶん殴った。殺ったか……!?

「浅いか!」

 攻撃を紙一重で避けたのか、アゼリアは空中で容易く体勢を立て直し、滑るようにして着地する。
 今のでおとなしく死んでおけばいいものを……!!

「行け! 奈落の獣(ブラックペット)!!」

 ニコルの両脇に二体の念獣が出現する。
 3m近い巨大な黒毛の猩々と、鋭い牙の隙間から舌を垂らした黒い野犬だ。
 猩々はまるでダンプカーのように正面から、黒犬は俊敏な動きで回りこみ、背後からアゼリアを襲う。そしてその攻撃の隙間を縫うようにカールの念弾が飛び交った。
 前後左右から、死角を突き、逃げ道をふさぎ、一瞬の間隙すらないコンビネーションが炸裂する。
 しかし―――当たらない。
 怒涛の攻撃を受けてもアゼリアは崩れない。二人の攻撃を紙一重で見切りながら、冷徹な紫の瞳で俺のことを観察してきやがる……!
 くそっ、使えない奴らめ!!

「何やってやがんだ!! どいてろ、てめーら!」

 オーラを右拳に集める。
 「硬」により一か所に集中したオーラは、とてつもない熱量を放つ球体と化す。

小さな太陽(メガフレアァァァァ)!!」

 文字通り太陽のような熱を振りまきながら、オーラの塊はアゼリアに向かって飛ぶ。
 灼熱の大気はその進路にあるものを焼き尽くしていく!

「くっ!」

 突然変化した攻撃のリズムに対応できなかったのか、アゼリアは俺の攻撃を避けはしたものの、体勢を崩した。
 そこに振り下ろされる、巨人のような猩々の両拳。アゼリアには先ほどまでのように紙一重で見切る余裕などなく、大きく飛び退くしかない。
 それが悪手だ……!

「なっ!」

 大きく飛び退いた先で、アゼリアの目が驚愕に見開かれた。
 着地先の地面が、ない。
 否、それは正確ではない。そう、確かにコンクリートだったはずの地面が、いつの間にかドロドロに溶けた沼のようになっている……!!

「ふふん。かかりおったな。溶解鉄槌(メルトインパクト)……このハンマーでぶん殴った、生物以外のものは、みな溶ける」

 バズゥは得意げに嘯きながら、巨大な鉄槌を肩で遊ばせている。
 見れば倉庫内の他の場所にも、同じような液体化したコンクリートの部分がいくつもあった。
 カールとニコルが戦っている間に、バズゥはそこら中に罠を張っていた。

「そして……」

 バズゥがハンマーを振り上げる。
 両足を捕えられているアゼリアに避わす術はない。

「終わりだぁ!!」

 今度こそ、殺った! そう確信した。
 全力であのハンマーを打ち下ろされて生きているなんて不可能だ。これで、組最強といわれた奴を殺した……! この俺が……!

「なんだよ、バズゥのやつ結局殺っちまったのかよ。お楽しみが無いじゃねーか」

 戦闘よりもこの後のことを楽しみにしていたらしいカールは、つまらなげに言って拳銃をしまった。
 何はともあれ、これでしばらくは大丈夫というわけだ。ふつふつと喜びが湧いてくる。

「よーし、よくやったぞ! ……バズゥ?」

 俺が密かな喜びを噛みしめながら、功労者であるバズゥを労おうとしたその時。
 ゴトン、と音をたてて、バズゥ自慢のバトルハンマーが落ちた。鋭利な刃物で分解されたように粉々になって。
 そしてズズズッ、と奇妙な音がしたと思うと……ずれていた。
 バズゥの、上半身と、下半身が、斜めにずれていった。
 重い音をたてて地面に落ちる上半身。立ったままの姿の下半身が、どこか滑稽だった。

「ふぅ……ギリギリ間に合ったか」

 アゼリアは、使い手が死んだことで能力が解除され、再びコンクリートとなった床から、埋もれていた右足を引っこ抜いた。
 まるで埃が払われていくように、足を固めていたコンクリートはボロボロとはがれていく。
 その体には、巨大なハンマーで打ちすえられたような跡は何一つない。
 一体、こいつは、何をしやがった……?

「つ、捕まえろ、奈落の獣(ブラックペット)!」

 いち早く意識を取り戻したニコルが念獣に命じる。
 立ちはだかる猩猩は、アゼリアと比べるとまるで大人と子供くらいの大きさの違いがある。
 その山のような巨体が、体でアゼリアを抑え込もうとして、その瞬間アゼリアの姿が消えた。

「うわぁあああっ!!」

 まるで台風を直接ぶつけたような衝撃が迸ったかと思うと、猩々の巨体が吹き飛んだ。
 ニコルを護るように控えていた野犬も、その後ろにいたニコルも巻き込んで、巨体は壁に叩きつけられて消滅した。
 今の一瞬で猩々の懐に入り込んで、たったの一発で吹き飛ばしたっていうのか……?

「な、何しやがったてめえ!」

 カールは半ば恐慌状態に陥っていた。両手に構えた二丁拳銃を、後先考えずにアゼリアに向けて乱射する。
 だが、当たらない。
 まるでアゼリアの周りにバリアでも張られているかのように、念弾は着弾の直前に左右に逸れていく。

「ち、畜生畜生畜生!!」

 再装填(リロード)し、それしか知らないかのように発砲を続ける。
 しかし結果は変わらない。撃ち手の意思に反して、念弾がその敵を貫くことはない。

「ちっく……しょ……う……」

 そして、カールも倒れた。
 唇が紫色に変色している。これは、チアノーゼ……?

「手こずらせてくれたな……」

 アゼリアの声が響く。
 凛として、力強い声だ。しかしそこには隠しようのない疲労が含まれている。
 よくよく見てみると、アゼリアのオーラは力強さがかなり失われている。これは、チャンスか!?

「おとなしく盗んだ金の在処を言え。そうすれば楽に殺してやる」
「へ、へへっ! てめぇだってずいぶんとお疲れのようじゃねーか。そんなんで、この俺様に勝てるとでも思ってんのかコラァァァァ!!」

 再びオーラを込める。先ほどの攻撃をさらに超えるオーラが拳に集中した。

「燃え尽きやがれぇ!!」

 熱風を纏う熱の塊を叩きつける。砲丸ほどの大きさの塊は、アゼリアにぶつかった瞬間に熱風と炎をまき散らし、爆風が埃を舞い上げて視界が曇る。
 ……だが、それも一瞬。
 中心から風が吹き広がり、埃を吹き散らしていく。中心からはやけど一つないアゼリアが姿を現した。

「てめぇの能力……風か!」
「そういうことだ。この空間の大気は今、私の支配下にある。おまえの攻撃が私の体まで届くことはない。もう一度だけ聞こう。盗んだ金はどこだ?」
「こ、この糞アマ……!!」

 アゼリアは俺のことを、つまらないものでも見るかのような眼で見てくる。路傍の石を眺めるような、そんな無感情な視線を向けてくる。
 舐めやがって……! 俺のことを見下しやがって……! 許せねえ、殺す! 殺す!! 殺す!!!

「舐めんじゃねぇぇぇぇぇ!!直接触れば関係ねーだろ!!」

 こいつは、跡形も残さず灰にしてやる……!!
 俺はアゼリアに向かって、全身のオーラを熱に変えて突っ込んでいった。

「そうか……残念だ」

 それを、アゼリアは、降りかかる火の粉を振り払うように、片手を薙いだ。
 一瞬で目の前に現れる、巨大な竜巻。
 全力で突進する俺は、千の刃に突っ込もうとする体を止めることが出来ない。
 裁断機に掛けられる使い古した用紙のように、俺の体が根元から刻まれていく……!!

「ぎゃああああああああああああああああ!!!!」

 断末魔の声さえ、暴風の中でかき消されて、俺の意識は霧散した。

「任務完了」





「盗まれた金が見つかりました!」
「おー、よくやった! 早くボスに連絡しろ!」
「了解です!!」

 盗まれた金の探索は黒服たちに任せて、私は倉庫の外で体を休めていた。
 安っぽい缶コーヒーが今ばかりは美味しく感じる。これが命の味だろうか。

 実際、今回の戦闘は紙一重だった。
 相手の念能力との相性と、運。今回私が生き残れた理由はその二つだろう。
 何度となく危うい場面もあった。特にあのデカイ男の、物体を溶かす能力に捕まった時は完全に敗北を覚悟した。得意げに能力の説明をしている僅かな時間がなければ、死んでいたのは私の方だっただろう。
 私の能力、『大気の精霊(スカイハイ)』は放出系に属する能力で、オーラを溶け込ませた大気を自在に操ることができる。この能力の優れている点は相手に極めて気付かれにくいということ、それと応用が利くということだ。オーラは大気中に溶け込んでいるので、「陰」を使わなくとも「凝」をしなければ微細なオーラを認知するのは難しい。そのため相手の思慮の外から奇襲することが出来る。また、応用が利く能力なので戦闘の幅が広い。
 だが一方で弱点もある。その一つが発動までの若干のタイムラグだ。この能力は大気にオーラが溶け込まなければならない。そのためにはほんの数秒とはいえ、能力発動までに時間を要する。一度発動してしまえばその後のタイムラグはなく、また事前にオーラを大気に浸透させておけば何の問題もない弱点だが、それでも咄嗟の場面で数秒間という負担はあまりに重い。もう一つは発動中は肉体を守るオーラが減るということだ。この能力は顕在オーラ量、すなわち体外にとどめておけるオーラ量が能力の強さを決める。だがそれは能力を発動している間は、自分のまわりに「堅」でとどめておけるオーラの総量が減らすことに他ならない。そのため接近戦と同時に能力を使用するには、オーラ量の見極めが重要となる。
 今回は残されたオーラが少なかったので、できれば肉弾戦で倒したかったが、相手は能力を使わずに倒せるほど甘い相手ではなかった。危険を負ってでも『大気の精霊(スカイハイ)』を使わなければならなかったのだ。

「お疲れ様です、クエンティさん! カーティスさんもきっと喜んでると思いますよ」
「ふん、あの男を喜ばせたくてやってるわけじゃないがな……それに、あの男がこんなことで喜ぶはずがない。いつもみたいに厭味の一つでもよこすだろうよ」
「いやー、今回ばかりは感謝してると思いますよ。なんせ今回の主犯のルークって、カーティスさんの部下でしたからね。ボスの怒りがカーティスさんにも向くんじゃないかって冷や冷やしながら、慌てて事後処理に走ったって専らの噂ですよ。おっと、今のはオフレコでお願いしますね」
「いや、口が軽すぎだろ……」

 先行していた黒服たちのリーダー―――確かスミスとかいったか―――は長身、オールバックにサングラスと、いかにもな格好をしていながらも、やたらと気さくで口が軽い奴だった。なんていうか外見とのギャップがある。
 しかしそういうことか。あの男が自分から部下に褒美の話を持ち出すなんて、ずいぶん珍しいことがあるものだと思ったが、自分の尻に火が付きそうで形振り構わなかったということか。

「まぁ、そういうことなら、あのルークとかいう奴には感謝しなきゃならないな」
「え、なんでです?」
「いや、こっちの話さ。ところで誰か一人運転できる奴を寄こしてくれないか。帰りの足が必要なんだ」
「ああ、それでしたら自分がお送りしますよ。どちらまでです?」
「そうか? それじゃあエル病院まで頼む……ああ、途中で花屋にも寄ってくれるか」
「了解です! ささ、どうぞ乗ってください」

 病院に行くのは一月ぶりくらいだろうか。
 変わりないだろう彼女の顔を思い浮かべながら、ぼんやりと窓越しに空を眺めた。
 うっすらと雲のかかった、中途半端な天気だった。





「あら、クエンティさん、こんにちは。お見舞いかしら?」
「こんにちは、エルマ先生。あの子はその後、どうですか……?」
「……現状維持、と言ったところね。もっと大きな病院に行って最新の設備を使えば話は違ってくるんだけど……残念ながら、かかる費用が三ケタは違ってしまうわね」
「そうですか……いえ、先生方のお力には感謝しています。これからもどうか、あの子をお願いします」
「そう言ってもらえると助かるわ……」

 小太りで人の好さそうなおばさんのエルマ先生にお礼を言って別れ、私は通いなれた道を進んだ。
 通り過ぎる看護師たちや、休憩中の先生たちもほとんどが顔見知りだ。なんせもう十年にも渡りお世話になっているのだから。
 エル病院の七階、日差しの良い個室。そこには一人分の表札だけが掲げられている。

――- ‘Violette Quenty’

 この病室を訪れる人は少ない。
 病院の関係者の他には私くらいのものだろう。その私も、カーティスの許可が下りなければここに来ることは出来ないので、よくて一月に一度といったところだろうか。
 いつ来ても、変わることがない閉じた世界。変化があるとしたら、私が来るたびに入れ替える花束と、部屋の主のわずかな成長くらいのもの。
 広い窓から差し込む光。窓辺に置かれた花瓶と、萎びてきている花束。ベッド脇の机に置かれた古いクマのぬいぐるみがこの部屋の年月を物語る。
 私はその変化のなさに胸が痛くなりながら、花束を入れ替えた。

「久しぶりだね……今日は、特別に許可が下りたんだ。どう、何か変わったことはあった……?」

 返事はない。
 この静寂が、何よりの答えだった。

 左腕に刺さった点滴の針。口から鼻にかけて覆う呼吸補助器具が痛ましい。
 部屋の端には心電図や脳波を測定するための機械、その他にも様々な医療器具が置かれている。
 十年前から眠り続ける少女。
 その体は三年前から大病に患わされていた。

 彼女が目を覚ますことを何よりも願っている。
 彼女がもう一度笑いかけてくれるならば、どんなことにでも耐えてみせる。
 私に残された最後の家族。
 たった一人の、大切な妹。
 けれど、その眼が開かれることはない。

「ヴィオレッタ……」

 ベッドの上に長い黒髪を靡かせて、最愛の妹は今日も変わらずそこにいた。










〈後書き〉

戦闘シーンって難しい……息をのむような臨場感あるバトルシーンを書ける方をリスペクトする毎日です。
アゼリアは最強には程遠いですが、結構強い設定です。これで弱かったら、遥の運んでくる心労に耐えられなくなるので……
才能で言ったらズシよりも下くらいのつもりですが……そこのところを表現していけたらと思います。

次回はアゼリアとヴィオレッタの話。遥が影薄いです。
それでは次の更新の時に……



[3597] アゼリアの回想
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/07/30 18:52
 私の家は、それなりに裕福だったと思う。何故「思う」かというと、私はその時まだ幼くて家計の実態をよく知らなかったからだ。
 お父さんはヨークシンであまり大きいとは言えないが会社を経営していた。部下の人からは社長と呼ばれて親しまれていたし、月に一回は外で美味しいものを食べに私とヴィオレッタを連れていってくれた。
 お母さんはとてもきれいで優しくて、でも悪いことをしたときは厳しくなる人だった。私とヴィオレッタが喧嘩をしたときも、ちゃんと二人の言い分を聞いて仲直りをさせようとしていた。お姉ちゃんなんだから我慢しなさい、なんて言われたことは一度もない。
 私とヴィオレッタはお父さんとお母さんが大好きだった。お母さんは私たちの理想だったし、将来はお父さんのお嫁さんになると言って喧嘩をしたこともある。だからきっと、私の家族は幸せだったのだろう。

 ある日のことだった。私が七歳になってすぐのことだったと思う。
 私は学校の友達に誘われて遊園地に行くことになった。その前日は楽しみで眠れなかったし、数日前からずっとパンフレットを見て回るコースを考えていた。
 それを見たヴィオレッタが、お姉ちゃんズルイ、と言ったのが始まりだった。
 しばらく言い争いの喧嘩になって、お母さんが、それじゃあヴィオレッタはお父さんとお母さんと美味しいもの食べにいこうか、って言ったんだった。
 私はそれを聞くとヴィオレッタの方がうらやましくなってしまったんだけど、遊園地も楽しそうだったし、それに私はお姉ちゃんだったから、我慢しようと思った。
 それで、その日がやってきた。
 私は友達と一緒に遊園地へ、ヴィオレッタはお父さんとお母さんと食事へ。

 ―――このとき、もしも私が遊園地に行かなかったなら、運命は違ったんじゃないかと何度も思った。

 楽しい一日だった。天気は良かったし、ソフトクリームは冷たくて美味しいし、ジェットコースターはとても速くて気持ちよかった。お化け屋敷で怖くて泣きだしたのは、友達よりも私の方が先だったらしいが。
 それで遊園地から帰るとき、ヴィオレッタのお土産に、貯めておいたお小遣いでぬいぐるみを買ったんだ。その遊園地のマスコットキャラのクマのぬいぐるみだった。
 遊び疲れて、帰りの車の中では友達と一緒に寝てしまった。私の家の前に着いた時には、もう夜になっていたと思う。
 家の中に入ろうとしたら、知らないおじさんに声をかけられた。

 ―――アゼリア・クエンティちゃんだね? お父さんとお母さんが事故に逢って、病院にいるんだ。急いでおじさんと一緒に来てくれるかな?

 それからのことはよく覚えていない。
 病院について、お父さんとお母さんの顔の上に白い布が掛けられているのを見たとき、力が全部抜けてしまったような気がする。
 後で聞いた話だが、二人は即死だったらしい。
 交差点を曲がろうとしたとき、正面から居眠り運転のトラックが突っ込んできた。
 それで病院に着く前にもう息を引き取っていたという。

 ヴィオレッタに私が会ったのはその翌日だった。
 パッと見たとき、ヴィオレッタに怪我があるようには見えなかった。細い手足も、可愛らしい顔も、家を出る時に見たままで、ただ眠っているように見えた。
 だが、違った。
 医者が言うには―――その時の私には全然理解できなかったのだが―――脳に大きなダメージを負ってしまったらしい。
 難しい単語ばかりが並べられてよく判らなかったのだが、一つだけ、はっきりと告げられたことがあった。

 ―――ヴィオレッタは、もう目を覚まさないかもしれない。

 目の前が、真っ暗になったようだった。





 それからしばらくの間、私はヴィオレッタの病室で何もせずに蹲っていた。
 他に親類はいなかったし、何もする気が起きなかったからだ。あのクマのぬいぐるみだけを、ただギュッと抱きしめていたと思う。
 だが悪いことは続くもので、数日後、お父さんの会社が倒産したという報せが入った。
 お父さんはなかなかにやり手だったそうで、企業経営者としての手腕は勿論、様々な方面へのコネクションを有していて、それが会社を支えていたといっても過言ではなかったらしい。
 そんなお父さんの、事故死。ショッキングな事件だっただけにマスコミは大々的に取り上げ、そんな中で部下の一人の不祥事が明るみに出てしまった。
 話題の相乗効果でマスコミに大きく取り上げられたこの事実はかつてのコネクションを頼みにしても消すことはできないほどの大火事になったそうで、進行中だったプロジェクトはご破算、契約も白紙に戻り、膨大な借金を残して会社は倒産した。
 何が最悪だったかって、お父さんはその会社の無限責任社員というものだったのだ。
 無限責任社員とは、その社員の出資額を超えて会社の負債に対する返済義務を負うというもの……要するに、会社の借金がそのまま個人の借金になるようなものだ。
 企業の借金など、一個人でどうにかできる額ではない。お父さんとかつて親交の厚かった政財界の人々は様々な方面に掛け合って金を工面してくれ、また借金の減額に尽力してくれたが、どうしても一億五千万ジェニーほどの借金が残ってしまった。
 身寄りもなく、両親もいない子供にとって、その金額は絶望するに十分なものだった。



 借金を返す手段のない私の前に、彼が現れたのはそんなときだった。

「ふむ、君がアゼリアですか?」

 いきなり病室に入ってきたまだ二十歳くらいの男は、無遠慮に私を眺めた。

「少々痩せすぎな気もしますが、まぁあの方の好みには当てはまるでしょうね。これならばそれなりに高値で売れそうです」
「……おじさん、だれ?」
「ああ、しかし口のきき方を知らない馬鹿で礼儀知らずの糞餓鬼だったようですね。こんな小娘をあの方にお売りして、組のイメージが下がりやしないかと心配ですが、まぁそれは調教次第でどうにかなるでしょう。いいですか、私はまだ十九歳。おじさんなどと呼ばれる年ではありません。呼ぶならお兄さん、です。次に間違えたらその指の爪を剥がしますよ?」
「あ……お、おにいさん……」

 本能的に、この人は怖い人だと判った。

「よろしい。私はカーティス、ボルフィード(ファミリー)の未来の幹部です。今日はあなた方のお父さん、アルフォンス・クエンティさんの残した借金について相談……というか回収に来たんですよ」
「かいしゅう……?」
「そうです。私たちはあなた方のお父さんの残した資産……すなわち銀行預金、土地と家の権利書、生命保険などは既に回収させていただきましたが、未だ一億五千万ジェニーほどの借金が残されています。そこで、今日は残された最後の資産を回収しに来たわけです」

 カーティスと名乗った男は、にんまりと笑った。
 頬が裂けてしまいそうな、不吉で不気味な笑みだった。

「すなわち、彼の娘であるあなたたちです。幸い私たちにはあなた方を金にするちょうどいい宛てがありましてね。幼児性愛……おっと、高尚な趣味をお持ちの富豪の方とのコネがありまして、ちょうどあなたくらいの年の少女を召使にほしいと仰っているのですよ。ああ、別に心配しなくていいですよ。仕事といえば料理、洗濯などの家事一般、それとこちらの方がメインかもしれませんが、夜のご奉仕だけですから……まだ意味が判らないですかね、くくくくく……」

 背中がぞわぞわと、総毛だった。
 この人、怖い……

「しかしこちらの妹さんは……残念ながらあの方には売れないですね。彼は動きのある活きのいい子どもが好きですから。まぁ、それでも構いません。子供用の臓器は少ないので高く売れますからね。それに、取れるものを取ったら剥製にしてしまえば、買い取る人がいるかもしれません。なんでしたら今度のオークションにでも出してみますかね……とりあえず、そんな感じで、概算では借金返済にギリギリ届くと言ったところでしょうか。まぁ少し足りなくなるかもしれませんが、ボスも多少は仕方がないと仰っています。寛大なボスでよかったですねぇ、お嬢さん?」

 けれどその話を聞いた時、怖いという感情すら、吹き飛んでしまった。

「ま、待って……!! そんなことしたら、ヴィオレッタ、死んじゃう……!!」
「あたりまえでしょう? 残されたものがその命しかないのなら、命を金に換える。それが世の常識です。大体彼女は回復の見込みはないのでしょう? でしたら、生かしておいても無駄じゃないですか。入院代がかさむだけですよ」
「そんなことない……! そんなことないよ!! ヴィオレッタは、きっといつか起きてくれる!!」
「まあ、そういう可能性もあるかもしれませんがね。重要なのは、私たちに彼女が起きるいつかを待たねばならない義理はないということです。大丈夫、あなたは死ぬわけじゃないのですから。生きていれば、いいこともありますよ、くくくくく……」

 頭を巨大なハンマーで殴られたようだった。
 ヴィオレッタが、死ぬ? 殺される? いなくなる? 私の、最後の家族が……私に最後に残された、宝物が……

「そんなわけで、あなたは私と来てください。あの方にお会いして、お眼鏡に叶うかどうか見ていただかねばなりませんからね」

 その時、その言葉が出たのは天啓だったのだろうか。悪魔の奸智だったのだろうか。
 私は咄嗟に思いついた言葉を、迷うことなく口にしていた。

「私が稼ぐ!!」
「……はい? なんですって?」
「私が、ヴィオレッタの分まで、お金を稼ぐ! だから、殺さないで!! ヴィオレッタを殺さないで!!」

 カーティスは呆気にとられた顔をしていたが、すぐに皮肉気で、陰湿で、不吉な笑みを浮かべた。

「くっくっく……何も持たず、何もできない、ただの小娘のあなたに何ができるというのですか?」
「わ、判らないけど……頑張るから! なんでもやるから!!」
「はっ……馬鹿な小娘のたわごとでしかないですね。あなたが考えているよりも、金を稼ぐというのはずっとずっと難しいのですよ。何気なく食べているパンを一斤買うこともできない人々がどれほどいるか、あなたに判りますか?」

 その言葉は、一言一言が毒のように私の胸に染みわたっていく。
 胸が締め付けられるように痛くって、鼻の先が熱くなるようで、目から涙が零れそうだったけど、必死に目の前の男を睨みつけた。そうすることしか出来なかった。
 カーティスは嘲りの表情を崩さずに私を眺めていたが、決して目を逸らそうとしない私を、いつしか面白い物を見る目で見ていた。

「……ですが、そのあなたの意志は買いましょう。ちょうど、私が上を目指すのに駒は必要だったのですよ。いいでしょう、ボスには私から言ってみましょう。ですが、ルールがありますよ……」

 組織に逆らうな。
 私の命令に逆らうな。
 命に代えても仕事を成し遂げろ。
 
 ―――さもなければ、お前は売り飛ばして、妹は死ぬぞ。

 否という気はなかった。

 そうして私はボルフィード(ファミリー)に引き取られた。殺し屋となるために。
 引き取られたその日に、念を無理やり覚えさせられた。
 「纏」が出来ず、倒れ、半日の間生死を彷徨って、ようやく覚えた。
 いろいろな訓練をさせられた。ナイフの使い方、銃器の使い方、毒物への耐性、自分を弱く見せる方法。尾行術、格闘術、拷問術。罠の作り方、見分け方。
 そして、八歳の誕生日。
 私は初めて人を殺し、ただの少女に戻ることは出来なくなった……



 任務に失敗すれば、ヴィオレッタが死ぬ。
 けど、私が死んでも、ヴィオレッタを守ってくれる人はいない。
 死ねないという恐怖はあまりに大きく、私は死に物狂いで修行を続け、生き延びてきた。
 権力に固執したカーティスは手柄を上げるために難しい任務をいくつも引き受けてきて、私はそれに耐えられるだけの強さが必要だった。
 そうして、いつしか私は(ファミリー)の武闘派のトップと讃えられるようになっていた。

「だけど、それだけならまだ何とかなったんだよね……」

 そう、それだけならばどうにかなった。私が金を返済し終われば、(ファミリー)に従わなければならない理由はない。
 簡単に足抜け出来るとも思わないが、飼い主に吠えることも出来ない飼い犬ではなくなっていたはずだ。

 しかし、そうはいかなかった。
 私が十五歳のある日―――もうすぐ借金を返しきる、そんな時に、ヴィオレッタが病気にかかった。死に至る重い病気だった。
 決して治らない病気ではない。
 ただ、問題はその法外な治療費だった。
 最新の設備と優れた医者を集めて手術を行えば完治の見込みがあるが、そこにかかる金は目が回るような大金だ。私にはそんな金を出す術はなかった。
 ある程度の病院でもそれなりの設備と投薬治療で病気の進行を抑えることは出来る。
 手術代に比べれば安価だが、それもまた大金がかかる。
 そこへ、どこからその話を聞きつけたのかカーティスが話を持ちかけてきた。
 妹の投薬治療の資金をファミリーが貸してやるから、組に一層の忠誠を誓え。
 要するに、もうすぐ借金を返し終える私が、さらに金が必要となったことを知って、また逆らうことの出来ないように首輪を嵌めにきたということだろう。

 私に提示された条件は、三つ。
 ヴィオレッタはボルフィード組の管理下に入る。無許可での面会も禁じる。
 組への一層の貢献が求められる。いかなる理不尽な命令でも従うこと。
 これらの条件を破ったならば、組はヴィオレッタの治療費負担を止め、さらに今までの治療費をいかなる手段を使っても即時返済してもらう。

 それが意味するところは明白だったが、私に選択肢はなかった。
 出口のない檻の中で、私は飼い殺されるしかないのだ。

 私はきっと、いずれ死ぬだろう。
 こんな仕事だ。人の恨みなんて掃いて捨てるほど買っているし、仕事自体が命がけだ。
 その時が明日か、十年後かは判らない。判っているのは、それが必ず来るということ。
 妹の命が失われるのがいやで、代わりに数えきれないほどの人の命を奪ってきた私が、今さら死にたくないと考えるのは傲慢というものだろう。
 だけど、ヴィオレッタには幸せになってほしい。
 私がいなくなっても生きていけるように。眠っていた時間を埋められるくらい、楽しい人生を送ってほしい。そして出来るならば、もう一度だけでいいから私に微笑んでほしい。「お姉ちゃん」って、呼んでほしい。
 それだけが、私の望みなんだから。それが叶うなら神の奇跡でも悪魔の契約でもなんでもかまわないから。
 だから―――

「ねえ……目を覚ましてよ、ヴィオレッタ……」





 面会禁止の時間まで、私はずっと病室でヴィオレッタの髪を梳いたり体を拭いたりして過ごしていた。
 看護師さんたちも私のことは知っているので多少は融通を利かせてくれるのだが、私がヴィオレッタに出来ることは悲しくなるほど少ない。
 また来るからね、と言って部屋を出るしかなかった。

「ん? おや、アゼリアちゃん、今帰りかね?」
「あ……こんにちは、パスカル先生」

 パスカル先生はヴィオレッタの主治医だ。
 口ひげが特徴的な年配の先生で、各地の病院にいろいろな知り合いがいるらしい。

「おお、ちょうどよかった。話したいことがあってね。いい知らせだよ」
「え、何でしょうか?」
「うん、こないだ話した梵林医大の李くんのこと、憶えているかな? 彼に掛け合って、ヴィオレッタちゃんの手術を打診してみたんだけどね。医大側は、手術費用の半額を出せれば、残りは後払いで構わないって言ってくれたよ」
「ほ、本当ですか!?」
「うん、うん。アゼリアちゃんはちっちゃいときからずーっと頑張ってきたからね。先生も何とか応援したいんだ。どうかな、お金は貯まってきた?」
「いえ……まだ二千万ジェニーくらいしか……」

 私がボルフィード(ファミリー)から貰っているお金は月に六十万ジェニー。
 そこから三十万ジェニーは借金の返済に引かれて、二十五万ジェニーを手術費用のための貯金に充てている。残りの五万ジェニーが生活費だ。
 ボーナスも臨時収入も全部貯金して、三年間でなんとか二千万ジェニーまで来た。
 手術費用は……八千万ジェニー。半額までも、まだ遠い。

「そっか……うん、それじゃあもう一回知り合いに頼んでみるよ。早くヴィオレッタちゃんが手術を受けられるようにね。大丈夫、先生の友達には結構偉くなってる人がたくさんいるから! だから先生に任せておきなさい」
「ありがとうございます……パスカル先生……」

 彼の優しさに、涙が出そうだった。
 この病院の人たちは、みんな優しい。
 思わず、どこまでも甘えてしまいたくなる。私が死んでも、この人たちならヴィオレッタを助けてくれるんじゃないかと思ってしまう。
 けれど、それはよくない。その甘えは私を弱くする。私の心が、弱くなってしまう。
 だから涙を流すことだけは堪えて、お辞儀をして背を向けた。

「また来なさいね」





 まだまだ陽が暮れるのが早い季節で、病院を出てロフトに着いたときはもうあたりは暗かった。
 いつものように「円」で警戒したあと、部屋に入る。以前と違うのは、そこに人が一人いて当然になったということだ。

「あ、おかえりー」

 ハルカは起きていた。その身を纏うオーラは、不安定ながらも何とか「纏」が出来ている。
 だが、もしかしたらまだ目覚めていないかもという心配があっただけに、ソファーで横になりながらポッキーを頬張っている姿は、ホッとする反面むかついた、なんとなく。
 とりあえず、ハルカを叩いておく。丸めた新聞紙で。

「このバカ」
「い、いったーい!! な、殴ったね!? 親父にも殴られたことないのに!!」
「うるさい! 人に散々心配させておいてそれか! なんていうか、私の心配を返せ!」
「だからって頭叩くなんて! この野蛮人!! この新世界の神レベルの天才頭脳が馬鹿になったらどうしてくれるのよ!!」
「これ以上馬鹿になられてたまるか!! だが、今回のことで少しは懲りただろう?」

 多少の自覚というか気まずさはあったのか、ハルカはそっぽを向いてぼそぼそと喋りだした。

「べ、べつに……今回はちょっと失敗しただけで、私が悪いっていうよりは運が悪かったっていうべきだし……」

 こ、こいつ、全然懲りてない……!!

「……正座っ!!!」
「は、はいっ!!!」

 流石のハルカも私の声に怒気が含まれているのを察したのか、機敏に反応した。

「いいか、今回君はあのままだとまず死んでいたんだぞ!? 念能力は、君が思ってるほど簡単なものじゃないし、危険なものだ! 気軽にやってみようなんて考えるんじゃない!! ハンター試験にしてもそうだ。星の数ほどいる受験生の中で、受かるのはほんの一握り。それがハンター試験だぞ! 落ちるだけならまだいい。だが君みたいな一般人が受けたら、下手をすれば死ぬんだ! 判ったら、もう念能力だのハンター試験だのに関わろうと考えるな!」
「う……で、でも……」
「まだ判らないか!? それじゃあ、なんでハンター試験を受けたいんだ!」
「え、だってその、やっぱ見てみたいし……そ、それに! そうよ、必要なのよ!! 私が元の世界に帰るためには、ハンターにならなきゃならないの!!」
「……なに? ちょっと、詳しく話してみろ」

 その後のハルカの要領を得ない説明を纏めると、つまりこういうことらしい。
 グリード・アイランドという念能力者の作ったゲームがあり、そのゲームの中で手に入るアイテムに「離脱(リーブ)」というものがある。
 そのアイテムを使うことで元の世界に帰ることが出来ると思うのだが、このゲームはハンター専用ゲームで、プレイするためには大富豪のバッテラ氏の審査に通らなければならない。
 その時にはハンターであった方が有利な筈だし、念能力の実力も必要になるから、ここで鍛えておく必要があるとのこと。

「……別に、たかがゲームだろう? その審査とやらなんて受けなくても、その辺で買ってくればいいじゃないか。いくらだ? 確かサロマデパートはまだ開いてたはずだが……」
「無理よ。一本五十八億ジェニー、販売数百本。とっくに完売」

 一生かけても払える気がしなかった。

「……それは、私がクリアするってことじゃダメなのか? 一週間くらいなら、頑張れば時間を取れると思うんだが……」
「まず無理。発売されたのは十三年前だけど、未だにクリアした人は一人もいないわ」

 なんだその滅茶苦茶なゲームは……
 あまりの条件の厳しさに頭が痛くなってきた。

「ね? だから、私が念を覚えて、ハンター試験に通って、ゲームをクリアしないといけないのよ。私が帰るのに協力してくれるんでしょ? だから、ね。念を教えて!」
「いや、だが、しかし……」
「それとも、あの言葉は嘘だったの? ひどい!! 私との関係は遊びだったのね!!」
「……ああ、もう、判ったよ」

 まぁ、もう「纏」は教えてしまったし。
 知識だけは持ってるハルカのことだから、勝手に修行して下手な自信をつけて危険に飛び込んでいきそうな気がする。
 生兵法は大怪我の元とも言うし、と自分を納得させた。
 帰るため、と言われるとどうにも弱い。

「やったー!! さっすがアゼリア!」
「ただし、条件がある! ひとつ、私の指示にはちゃんと従うこと。ふたつ、お金は無駄遣いしないこと!」
「そのくらい全然オッケーよ! ああ、これで私の夢にまた一歩近づくのね……!!」

 本当に判ってくれたのかな……と不安にならざるを得なかった。
 返事だけはいつもいいハルカは、右から左に言葉が抜けていくことがしょっちゅうなのだから……










〈後書き〉

オリキャラの過去を掘り下げて書くのって、チラシの裏っぽくなっちゃわないかなー、とビクビクしながら書きました。ELです。
でも書かないことにはアゼリアの行動理由が判らないので、やっぱり入れてしまいました。ああ、早く本編まで辿り着きたい……

パスカル先生は11巻に出てきた、ネオンを診たお医者さん。名前は勝手につけてしまいました。初の原作キャラがこんな端にも程があるキャラでごめんなさい(笑)
ちなみにエル病院もネオンが運ばれていった病院です。あまり重要でない設定。

p.s.
二話で季節を「もうすぐ春」としていましたが、オークションの後だからまだ秋だったということに気づき修正しました。
オークションは秋に行われるということだけ決まっており、毎回若干開催時期が異なるというオリ設定、としておきます。まぁ、コミュニティーや開催者側にも出店の調整とかいろいろとあると思うので、お目こぼしください。



[3597] アゼリアの激怒
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/07/31 18:47
 ヨークシンシティは世界に名だたる大都市だが、郊外に行くと驚くほど開発が進んでいない地域に出る。
 この地域はもともと土地の痩せた岩石地帯であったので、町から出れば今も舗装された道路がある以外はその姿を保っている。
 私は変わり映えのない景色から視線を戻し、隣でそわそわと落ち着かない様子のハルカを見て苦笑した。

「今日は朝からすまなかったな、スミス。頼めそうなのが君しかいなくてね」
「いやー、自分なんかで良ければいつでも呼び出してくれて構わないっすよ、クエンティさん。ちょうど今日は仕事もなかったですしね。そちらのお嬢さんはお友達っすか?」
「ああ、まぁそんなところだ」

 今私たちは組の構成員であるスミスの運転する車に乗って移動中だ。
 ハルカはいかにもといった強面のスミスを最初怖がっていたが、口を開けばやたらと気さくなスミスにもう慣れたようだった。最初に小声で「マトリックスのスミスだわ……」と言っていたが、マトリックスとは何だろう。
 ちなみに私は運転が出来ない。金がなくて教習所に行ったこともないからだ。

「そういえばこないだの持ち逃げ事件のその後の話、もう聞いたっすか? なんかボスは機嫌がやたら悪かったらしくて……ほら、あの、最近勢力を伸ばしてきた、ノストラード(ファミリー)ってあるじゃないすか。あそこのボスととにかく仲が悪くって、オークションのあとずっと怒鳴ってたらしいっす。そんなところにあの事件だから、なんとか金を取り戻せたけど、カーティスさんも凄い怒られたみたいで、結局今謹慎させられているらしいっすよ」
「いつもいつも、ずいぶんと耳が良いな。感心するよ」
「いやー、そうでもないっすよ~」

 スミスは照れたような声を出した。
 彼は念能力者以外の武闘派構成員の中では上に位置するが、それでも組の上層部の情報をいつも仕入れてこれるような立場ではない。どういうコネを持っているのだろうか。実は結構な人脈を持っているのかもしれない。
 だが部外者も一緒にいる時にそんな話をペラペラするか、普通……口の軽さも一級品らしかった。
 それにしても、あの男が謹慎させられているか。いい気味だ。それにその分ならしばらくは仕事が回ってくることもないかもしれない。ありがたい限りだった。

「ま、ちょっとした休暇だとでも思うかな」
「休暇ですか? いいっすね、自分もどこか旅行でも行きたいっす……と、ところでクエンティさんっ! もしよろしければ、今度食事でもいかがっすか!?」
「ん、そうだな。奢りなら考えておこう」
「ほ、本当っすか!? そ、それじゃあ、おいしいイタリアンが新しくオープンするっていう話なんで、そこへ―――」
「――-ああ、着いたようだな。すまない、スミス。ちょっと待っててくれ。その話はまた後で」

 話を中断されたからか、スミスは妙にガッカリしていた。
 しばらく車で待っていてくれるように告げて、ハルカと共に降りる。
 降り際に何故かハルカが呆れたような、非難するような視線を向けてきた。何故だろう。





 ロームタウンというこの町は、さして大きくもなく、しかし寂れているわけでもない、どこにでもあるような町だった。
 スミスには車で待っていてもらって、私とハルカは町のほうへ歩き出す。郊外があまり開発されていないのはどこも変わらず、岩石地帯との境目も少し曖昧なくらいだ。
 町の入口と思われる、タイル敷きの道路が始まったあたりで立ち止まった。

「さて、ハルカ。君に修行をつけてやるということだったな」
「待ってましたー!! 何からやるの、アゼリア!? 「練」? 「絶」? それとも「凝」かしら!?」
「いや、どれでもない」

 私は持ってきた小さな袋をハルカに手渡した。
 ハルカは中を見て、顔中にはてなマークを浮かべている。まぁ、そういう訓練を期待してきたなら無理もないだろう。
 中に入れておいたのは、カロリーメイト二食分と、スポーツ飲料の入ったペットボトルが二本だけだ。

「……? これ、どうしろっていうの、アゼリア?」
「なに、単純な話だ。ここからヨークシンシティまでは大体五十キロくらいだな。だから頑張って走って帰って来い。それは食事と飲み物」
「は……」

 その時のハルカの表情は、ちょっと面白かった。
 タイトルを付けるなら、唖然茫然と言ったところだろうか。それ以外に表現しようのない表情で固まっていたハルカは、次第に状況が飲み込めてきたのか、ふつふつとその顔に怒りの色を混ぜていった。
 ……まぁ、ハルカの期待していた修行とは違うだろうからな。

「だ、騙したわね、アゼリア!! 何よ、これのどこが修行よ!!」
「言っただろう、ハルカ。私の指示には従ってもらう、と。はっきり言って、今の君に念の修行なんか必要ない。まずは体力をつけろ。話はそれからだ」

 もともとの体力がないのでは、念の修行なんていくらやったところでタカが知れている。というよりも非効率だ。
 ハンター試験に受かりたいというのなら―――与えた課題を全部こなしても一発で受かるとは全く思っていないのだが―――五十キロくらいはあっさりと走ってもらわなければお話しにならない。

「まぁ、どんなゆっくり来ても半日あればヨークシンまで着くだろう。目標タイムはとりあえず五時間だ。じゃあ頑張れ。待ってても迎えにはいかないからな。ああ、それと「纏」はなるべく解かないように」
「アゼリアの馬鹿―! 鬼教官!! こんな死の行進(デスマーチ)をどうやってうら若き乙女にやれっていうのよ!! 変態!! シスコン!!」

 ハルカの子供のような罵詈雑言を背に受けながら、私は車に乗り込んだ。
 車の中では何故かスミスが人差し指を突き合わせていじけていた。キモい。

「おい、スミス」
「いいんすいいんす、自分なんか……ってあれ、クエンティさん? もう終わったんすか? さっきのお友達は?」
「いや、用事はとりあえず終わった。ヨークシンに戻ってくれるか?」
「あ、了解っす。シートベルトしてくださいね、クエンティさん」
「……スミス、そのクエンティさんというのは止めないか? 私の方がずっと年下なんだし。私のことはアゼリアで構わないぞ」
「ほ、本当っすか!? ア、アゼ、アゼリアさんっ!!」
「……まあ、それでかまわないか」

 本当はさん付けも止めてほしいんだが、とりあえず今はこれでいいかと思う。
 しかしさっきまでいじけていたのに、何故か今は凄い嬉しそうだ。鼻歌でも歌いださんばかりの陽気さだ。躁病の気でもひょっとしてあるのだろうか。それとも単純に疲れているのか?
 心の中でそんな心配をしているうちに、車は発進した。
 バックミラーには、今も怒鳴り続けているハルカの姿が映っていた。





「おーい、てめえら、さっさと運んじまうぞ! 昼前にここを片付けちまうからな!」
『うっす!!』
「野郎ども、そこの姉ちゃんを見習えよ! さっきから一番手際いいじゃねーか! こんな細っこい体で、女ながらすげー奴だ!」
『姐さん、学ばせていただきやす!!』
「……好きにしてくれ」

 なんていうか、労働現場っていうのはこんな感じなのだろうか? ずいぶん前に知り合いに見せられた、ジパングのマフィアの『極道』を描いた映画がこんな感じだった気がする。
 マフィアのボディーガードでもやっていそうな、顔が傷だらけで筋骨隆々の作業監督の下、男たちが作業を始める。私もそれに倣い労働を開始した。土嚢を担いで移動させていく。労働の汗が心地いい。殺し屋なんかやってると心の底からそう感じた。今、私は、間違いなく健全な市民の生活をしている!!
 何故私がこんなことをしているのかというと、アルバイトだ。エンゲル係数とか雑費が跳ね上がりそうな家計の現状を鑑みて、急遽アルバイトを入れてもらったのである。
 私はいつ本業の方が入るかわからないので、定期的なバイトを入れるわけにはいかない。しかもお金はすぐに必要になるので、日雇いのバイトを探すしかない。そうなると必然的に力仕事というか、作業現場のようなところでのバイトを取るしかなくなってしまうのだった。ちなみに日給は安い。まぁ、体を鍛えることも出来て一石二鳥なので不満はないが。
 実際の力はどうあれ、見た目がまだ小娘の私を飛び入りで雇ってくれる作業現場などあまりなく、仕事を見つけるのも一苦労だ。ちなみに今日はヨークシン郊外のビル建設現場である。

 以前はウェイトレスなどのバイトをしたこともあり、その時はすんなりと仕事に就くことが出来たのだが、すぐにクビになってしまった。
 カプチーノだのフラペチーノだのエスプレッソだの、種類が多すぎて判らなくなった。そもそもどんな違いがあるのだろう。
 注文を受けたときに何を頼まれたか覚えきれず、とりあえずコーラを持って行ったら客に怒鳴られたことがあった。「俺が頼んだのはダージリンだ!」と言われたので、「飲めればなんでも構わないだろう」とつい漏らしてしまい、その日のうちにクビになった。失態だ。

 まぁ、正直周りに気を使わないでいいこういう仕事のほうが私としてはやりやすい。作業に打ち込めばいいのだから煩わしい人間関係もないし、一度打ち解けてしまえばみんないい人たちばかりだ。
 平和だなぁ、とか考えながら土嚢を黙々と運び続けた。

「うおおお、姐さん、土嚢を一気に十袋も運んでやがる!」
「すげえ、あの細い体になんつーパワーだ!!」
「ゴリラに育てられたんじゃねーのか!?」
「俺、感動しちまった! あの人に一生ついて行くよ」
「てめえ、抜け駆けするんじゃねーぞ!!」
「……」

 ……まぁ、念能力者ですから。





「よーし、休憩だてめーら!」
『押忍!! お疲れ様でしたー!!』

 時刻は午後の三時過ぎ。作業に一区切りがついた私たちは遅めの昼ごはんとなった。
 アルバイトのいいところは、まかないが出ることだ。ご飯付き。食費が浮く。ああ、なんて素晴らしい響きだろうか。
 作業を始めるときは、なんでこんな小娘が、といった視線を向けてきた男性方も、今ではすっかり好意的だ。あちらこちらから食事を一緒にしようというお誘いを受けて、適当なグループに混ぜてもらいまかないの弁当を突っついた。

 そういえばハルカは今どうしているだろうか。話に適当に相槌を打ちながら、意識をそちらに傾けた。
 今回の修行に当たってハルカに渡した袋の中には、少しだけオーラを通した空気を入れておいた。「大気の精霊(スカイハイ)」で操作できる大気は「円」の効果も持つ。だからハルカのいる位置は手に取るように判った。どうしても帰ってこれないようなら迎えに行くつもりである。
 ……なんだ、まだ二十キロも進んでないのか。舗装された道路沿いにまっすぐ進んでくるだけだから、迷う筈はないのだが。

「……このままじゃ夜になってもつかないぞ?」
「ん? なんか言ったかねーちゃん」
「あー、いえ、なんでもないです監督」

 二メートル近い大男の監督は本当にムキムキで威圧感のある人だった。もともとはどこかのマフィアにいたのかもしれない。冗談じゃなく。まぁどうでもいい話だが。

 私が今回ハルカにランニングをさせている目的は二つある。
 一つは単純に体力・筋力をつけること。生命エネルギーであるオーラはその者の肉体的な強さに大きく影響される。いくらオーラの扱いに習熟したところで、根本的にオーラの量の成長が遅いのでは非効率な訓練にしかならない。さらには元々の肉体が脆弱では、いくらオーラで強化したところで大したレベルにはならないのだ。
 二つ目は「纏」に慣れさせること。ハルカの「纏」は決してうまいとは言えず、ところどころ揺らぐような不安定さがある。ちょっと気を抜けば「纏」が解けてしまうこともあるだろう。それでは念の使い手としてお話にならない。まずは意識せずとも「纏」を維持出来るようになること。「纏」こそが念能力の全ての基礎となっていくのだから。ランニングで体力が削られた状態でも「纏」が出来るようになれば、ひとまずは第一段階突破といえるだろう。
 まぁ、それはあくまで最低条件だ。そこまで辿り着くのにハルカはどれくらいの時間がかかるのか判らないが、ハンター試験合格を目指すのならば、その後もやるべきことは数多い。
 そもそもまだハルカの言うことが嘘や妄想ではないと証明されたわけではないのだが、少なくともハンター試験という目標があればそれまでの間は馬鹿なことは言わないだろう。旅団とかゾルディックとか。そういう意味でも安心だ。

「おーし、てめーら、作業を再開するぞー!!」

 監督の野太い声で意識が戻された。
 バイト終了まであと二時間。さて、もうひと頑張りしますか。





「それじゃあ、お先に失礼します」
「おお、また来いよ!! ねーちゃんならいつでも雇ってやるぜ!! うちの野郎どももいつもより働きやがったしな!!」
『姐さん、お疲れさまでした!! 一同で見送らせていただきやす!!』
「あ、ああ、ありがとう」

 最後まで変わった作業現場だった。ひょっとすると監督だけじゃなく作業員たちまでマフィア崩れなのかもしれない。まぁいい人たちだから一向に構わないが。
 懐にしまった七千ジェニーが暖かい。朝の十時から午後六時まで、一時間の休憩を挟んでまかない付きでこの給料は悪くない。飛び入りのバイトにしては結構当たりだった。監督が色をつけてくれたということもあるが。
 これで何とかハルカが使った分は埋められそうだ。頑張って節約すれば貯金にも少しは回せるかもしれない。あの現場は次からも雇ってくれそうだし、今日はいい一日で終わりそうだった。
 ちなみに家までは歩きである。さすがにこんなことにまでスミスを呼び出すのは悪いし、タクシーなんて論外だ。倹約万歳。

「そういえば、ハルカはどの辺まで来たかな?」

 ハルカを置いてきてからもう九時間くらい経つ。
 たとえずっと歩いてきてもそろそろヨークシンの近くくらいまでは来ていておかしく無い筈だが、ハルカのことだからどこかで疲れて座り込んでいるかもしれない。
 別れた時はああ言ったが、流石に本当に放置するのはかわいそうだし、あんまり遅いようだったら迎えに行こうと思っている。
 さて、どのくらい頑張ったかなと意識を「円」の方に傾けた。

「……なんだ、これは?」

 ハルカはもうヨークシンシティに入っていた。
 私の家までも残り三キロくらいしかない。
 だが、おかしい。
 ハルカが走っているにしては、移動が速すぎる。

「……まさか、あいつ……!!」

 ロフトまでは残り五キロほど。
 本気を出して走れば間に合うかもしれない。
 私は周りに人影があまりないことを確認すると、足にオーラを込めて飛び上がった。





「はい、それじゃあ七千ジェニーだよ、お譲ちゃん」
「あ、ちょっと待ってくれますか? 今お金持ってきますから」

 車から降りて、私はロフトの中に入っていった。
 ロフトの鍵は複製をアゼリアから貰っている。部屋の電気が消されたままなことを確認して、アゼリアはまだ帰ってきてないと知りほっとした。

 今日一日、本当にひどい目にあった。
 アゼリアは修行をつけてくれると言っていたのに、遠く離れたところで食事―――しかもカロリーメイト!!――-と飲み物だけ渡してさっさと帰ってしまった。岩石地帯に行くから、てっきりゴンやキルアがやったような穴掘りとか石割りとか、そういう修行をやらせてくれるのかとも思って期待していたのに……!! こんな女の子にいきなり五十キロ走って帰ってこいだなんて頭がおかしいんじゃないだろうか。アゼリアの前世はきっと鬼の軍曹とかで、新兵に向かって「口を開く前と後にSirと言え!」とか命令して恐れられていたに違いない。そういえば化粧もしなけりゃ食事も適当だし、髪も適当に縛ってるだけだし、アゼリアが女っぽいところなんて全然見ない。あのやたらと立派な胸がなければ女だって判らないんじゃないだろうか……少し話がずれた。
 ともかく私はそんな苛めかと思うような試練を健気にもこなそうとしたが、やはりいきなりそんなこと出来るわけがないのだ。無理だ無理。そもそもこんな訓練をやっても効率悪いに決まっている。「練」の修行でもした方が絶対に強くなれる筈だ。早く「堅」を三時間くらい軽くできるようになりたいものだ。
 そんな訳で、冷静な判断と的確な思考でこの修行の無意味さを悟った私は、歩き始めて六時間くらい経った頃考えた。もう足は棒のようだ。持たされたスポーツドリンクはもうとっくに空っぽだし、結局お昼にカロリーメイトを食べたけど、あんな食事でお腹がいっぱいになるわけがない。お腹減った。ああ、この間のストロベリーパフェを食べたい!! しかしこのままでは陽が暮れて野宿することになってしまう。それは嫌だ。最近は結構冷え込むみたいだし、そもそも不潔だ。汗もたっぷりかいているから、シャワーを浴びてさっぱりしたい。けれどアゼリアは迎えには来ないなんてとんでもないことを言い残していったから、このままでは路上生活者の仲間入りすることは請け合いだ。
 そんなとき、神はやはり私を見捨てていなかった。
 街道の向こうから走ってくる一つの影。それは文明が生み出した鉄の馬。金次第で仕事をこなす仕事人。そう、タクシー!!
 もう迷わずに手を挙げてタクシーを止めたね。
 アゼリアは朝来るとき、あのエージェントスミスそっくりの男と食事に行く約束をしていたみたいだから、今日は帰るのが遅いだろう。私がこんなに辛いのにイタリアンで優雅にお食事だなんて、タクシー代を持ってもらうくらいは許されるはずだ。アゼリアは殺し屋らしいからお金を結構持ってるだろうし。

 そんな訳でロフトまで何とか帰ってこれた私は部屋の中でお金を探しているというわけだ。
 アゼリアはとにかく無頓着な性格みたいなので、部屋の中には驚くほど物が少ない。探すところは少ないのだからすぐに見つかるだろう。
 タンスの中―――アゼリアは服も全然持ってない。パンツタイプのスーツが一着、着替えのワイシャツが三着と、色気もなにもない下着がいくつか。
 本棚―――本も全然ない。仕事関係だろうか? ファイルに纏められた書類が置かれているだけで、探すほどのスペースすらなかった。
 厨房―――あるものといえば、買いこまれたカロリーメイトとカップラーメン。先日私の諫言で少しだけまともな食材を買ったようだが、他には何もない。

「……あるぇ~?」

 おかしいな、見つからないぞ?
 他にも寝室やバスルームも見てみたが、お金を見つけることは出来なかった。
 それに比例して私の焦りも募っていった。
 ま、まずい……! アゼリアはまだしばらく帰ってこないと思うけど、いつまでもロフトの前にタクシーがいるのはマズイ。それにこれ以上待たせて、運転手さんに文句を言われても困る。
 ひとまずちょっと言いくるめて待って貰うべきだと思い、ロフトを出てタクシーに駆け寄った。

「あ、あの、すいません……今帰ってみたら部屋の中が荒らされていて、泥棒が入ったみたいでお金がなくなっていたんです……後日きっと払いに行きますので、今日のところは待っていただけないでしょうか……」
「……ほう、泥棒が、ねえ。私もその話を詳しく聞きたいな……」

 さーっと、血の気が引いていくようだった。
 静かな通りに凛と力強いその声はよく響く。
 思わず振り返ると、風を纏いながら空を駆けたアゼリアが軽やかに着地するところだった。

「で、これはどういうことだ、ハルカ」

 アゼリアの視線は、始めてみるほど冷たいものだった……





 私は今、リビングの地面に正坐させられている。
 部屋の内装なんか無頓着なアゼリアが上等なカーペットなど敷いているはずがなく、薄くて硬いカーペットが申し訳程度に敷かれているだけだ。疲れ切った足にはとても辛い。ていうか早くシャワー浴びたいな……
 しかし、空気の読める女な私は今この状況でシャワー室に行こうだなんて思えなかった。なんせ目の前にはアゼリアがいるのだから。
 ソファーがまるで玉座であるかのように悠然と座っている。その姿に気圧されてしまうのはこちらに負い目があるからだろうか。
 アゼリアは何も言わない。ただコップの水を傾けながら、こちらを眺めている。その視線は冷たくて、無表情に近い。何も言わないからこそ余計に彼女が怒っていると判る。精孔が開かれて見えるようになったアゼリアのオーラは歪に揺らいで、私怒っていますと主張しているようだった。ああ、コップの水がどんどん黒く変色していく。アゼリアって放出系だったんだ……大雑把な所は確かに放出系っぽいけど。

「……で」

 居たたまれない空気が作られて既に何分経っただろうか。個人的にはもう一時間くらい経ったような気がしたけど、本当はまだ数分しか経っていないのかもしれない。

「私は、走って帰って来いと指示した筈だな? だというのに、何故君はタクシーなんか使っているんだ?」

 ちなみにタクシーの金はアゼリアが払ってくれた。

「ぅ……だ、だって、五十キロよ、五十キロ! 女の子がマラソンする距離じゃないでしょ!! 帰ってくるのに何日もかかっちゃうわよ!」
「五十キロくらい走れないでハンター試験に受かると思ったのか?」
「ぅ……」

 それを言われると辛い。原作のハンター試験の一次試験はマラソンで、八十キロの段階でようやく脱落者一名というレベルの高さだったのだ。

「それに私は言ったな? お金を無駄使いするなと。タクシーを使ってくるなんてどういうつもりだ?」
「な、なによ、アゼリアって殺し屋なんだからお金たくさん貰ってるはずでしょ! 七千ジェニーくらい、どうってことないじゃない!!」
「……なんだと?」

 ぴくっとアゼリアの眉が釣り上った。オーラは先ほどよりもさらに猛り、そのくせ無表情なのが怖い。怖すぎる。
 がたっと音を立てて立ち上がったアゼリアにびくっと竦んでしまったが、アゼリアは本棚の先ほど見たファイルを掴むと、中から封筒を持ってきた。

「これが、いまうちにある全財産だ!」

 開かれた封筒。机の上にばら撒かれる中身。合計四百二十ジェニー。
 むしろ私の方が唖然としてしまった。

「ぇ……なに、冗談?」
「冗談でもなければ金を隠している訳でもない! うちは今、本当に金がないんだ!! だから今日私はアルバイトに行っていたというのに、その給料も君がタクシーなんか使ったせいでパーだ!! いいか、金を稼ぐっていうのは君が考えているほど簡単なことじゃないんだぞ!! 金っていうのは人の命くらい重いんだ!!それを、考えなしに君は……!!」
「な、なによ! アゼリア何にそんなお金を使っているっていうのよ!! 食事は適当、服は持ってない、家具も何も無い!」
「私には私の事情がある!! それに今私にお金があるかどうかはとりあえずいい! 問題は、何故君は私の言ったことを一つも守らず、修行も途中でさぼっているのかということだ!! 本当にやる気があるのか!? ハンターになろうなんて口先だけだろう!! そんな程度の覚悟なら時間の無駄だっ! 今すぐ止めてしまえ、半端者め!!」

 流石に、言われっぱなしでちょっとカチンと来た。
 確かにお金を勝手に使っちゃったのは悪かったかもしれないが、なんでこんなことを言われなきゃいけないんだろう。
 そもそも私がハンター試験を受けるかどうかなんて、アゼリアには本来関係ないことだろうに、偉そうに……!!

「なんであんたにそんなこと言われなきゃならないのよ!! 私がハンター試験を受けようと受けまいと私の勝手でしょ!! あんたに許可貰う必要なんかないわ!!」
「大いに関係ある!! 私は君をちゃんと家に帰すって誓ったんだ! そんなむざむざ死にに行かせるわけにはいかない!!」
「死なないわよ! ハンター試験、私が受けるときはきっと受かるって判っているのよ!!」

 なんせ試験の内容から参加者の情報までほとんど知っているのだ。
 ちゃんと対策を練れば落ちる筈がない。

「いい加減目を覚ませ!! 君は自分の言っていることがどれほど滑稽なのか判っているのか! 根拠のない自信はただの妄想だ! そんなもの捨ててしまえ!!」

 だというのに、もの判りの悪いアゼリアはこんなことを言ってくる。
 なんだっていうのか! 偉そうに、人の保護者面して……!! 私のことを妹の代わりとでも見ているくせに……!!

「うるさいっ!! どうせあんたたちなんてマンガの中のキャラクターなんでしょ!! 偉そうなこと言うなっ!!!」





 世界が、凍りついたようだった。
 物音一つしない。通りの方から僅かに届く音がなければ、時間が止まったのだと錯覚するほどの静寂。
 アゼリアは動かない。俯いたまま言葉一つ発しない。表情も見えない。あれほど猛っていたオーラが、今はまるで風一つない湖面のように静かだった。

 言ってからしまったと思った。売り言葉に買い言葉とはいえ、流石に言いすぎたかもしれない。
 一秒でも早く逃げ出したくなるこの空気を壊そうと、私はなんとか笑い顔を作ろうとした。

「な、なーんてね、あは、あはははは……」

 笑い声は空しく虚空に消えていった。

 部屋は再び静寂に包まれる。
 だからこそ、小さなその一言ははっきりと私の耳まで届いた。

「ふざけるな……」

 地獄の底から響くような、暗い怒りに包まれた声を聞いて、私はひゅっと短く息を呑んだ。
 怒鳴られているわけでもないのに、今まで聞いたどんな声よりも、怖い。

「ふざけるなぁっ!!! お前は私のことを、私たちのことを、そんな風に考えていたわけかっ!! この世界はマンガの世界だから何をしても許されると!? 私たちはマンガのキャラクターだから、迷惑をかけても構わないと!? 冗談じゃない!! 私たちはこの世界で、必死に生きているんだ!! それを、お前はっ……!!」
「あ、あの、べ、別に私はそんなわけじゃなくて……!!」

 アゼリアは本気で怒っていた。
 最初に出会った日、あのときは我を忘れて怒っているという感じだったが、今は理性で、心の底から怒っていると判った。

「きゃっ!!」

 突然、アゼリアは「何か」をこちらに向けて投げつけた。
 咄嗟に身を竦めてしまうが、体に当たったそれは驚くほど軽い。
 床に落ちたそれを恐る恐る見てみると、通帳だった。

「もういいっ!! お前の妄言なんてもう聞き飽きた!! それは手切れ金だっ! 五万ジェニーある!! それを持って出て行け!! 勝手に一人で、旅団でもゾルディック家でも好きな所へ行くがいい!!」

 アゼリアがそう言い捨てると、部屋の中だというのに急に突風が吹きだした。
 立っていることはおろか、その場に留まることすらできないような暴風。
 そのまま吹き飛ばされるような感じで、ロフトのドアを破って飛び出した。

「い、いったぁ……」

 コンクリートの地面が痛い。
 派手に尻もちついた私の上に、先日買ってもらった服が追い打ちをかけるように降ってくる。
 そして大きな音を立てて、乱暴にドアは閉じられた。

「う……」

 がちゃっと、乱暴な音を立てて鍵が下される。
 窓もカーテンが閉められて部屋の中をうかがうことは出来ない。
 こうして、通りは再び静けさを取り戻した。
 
「……なによ」

 服と通帳を乱暴に引っ掴んで立ち上がる。
 意匠の凝った黒のゴシックロリータがなんとなく惨めだった。

「なによ!! こっちこそあんたのことなんかもううんざりよ!! 私はクロロ君たちに会いに行くわ!! 二度とこんなところに来るもんか!!」

 言いすぎたかもしれない、なんていう後悔はもうなかった。
 冷え込んできた秋風も、怒りに火照った体にはちょうどいい。
 私は一度も振り返ることなく、夜の街へと消えていった。










〈後書き〉

……ハルカはダメな子にするつもりはあっても、ここまで嫌な奴にするつもりはなかったのに……不思議だなぁ。
でもアゼリアがブチ切れる回は絶対に入れようと考えていたので、書いてて楽しかったです。
空想と現実を混ぜてしまうことの危険性。まぁハルカは基本その場の感情で動く面があるので、いつもアゼリアのことを「マンガのキャラだし」なんて考えていたわけではありません。どっちかっていうと売り言葉に買い言葉。その場で勢いに任せて言った言葉です。言っていいことと悪いことの区別がついてないっていう点でダメなことは変わりませんが。
それではまた次の更新の時に。



[3597] ハルカの放浪
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/01 18:04
 よくよく考えてみれば、幻影旅団のアジトがどこにあるか判らなかった。
 旅団は流星街の出身とのことだが、キメラアント編で流星街に行ったとき久し振りと言っていたからには流星街にはいないだろうし、そもそも活動が無い時の団員がどうしているか判らない。仕事が終わると居場所すら掴めなくなるとヒソカも言っていた。多分ヒソカは天空闘技場にいると思うが。

「ああ、それだったらやっぱりゾルディック家に行った方がいいかな?」

 ゾルディック家は場所も知っている。パドキア共和国デントラ地区にあるククルーマウンテン、そこが彼らの住処だ。
 行き方も判っている。一般人でも試しの門までは行けるし、そこで正面から試しの門を開けて入ればミケが襲ってくることはない。
 問題は執事たちだが、カナリアはキルアのことを大切に思っているようだからなんとかなるだろう。そこさえ突破出来ればあとは楽勝だ。キルアの初めてのお友達のポジションをゲットして、そこからお兄ちゃん大好きなカルトとゆっくりと仲良くなっていき、ブタくんと最近のマンガやゲームについて熱く語り合い、家族と仲が良くなっている私にいつしかイルミが興味を持って、そこからゆくゆくは付き合っちゃったり! それにナイスミドルのシルバさんや、生涯現役お爺ちゃんことゼノさんとも知り合いになりたい。あの二人は結構話が判る人のようだから大丈夫だろう。あとあと、未だに姿を見せてないアルカ君にも期待大だ!

「うふふ……もうよだれが止まらないわ……」

 ちなみに今私は駅前のネットカフェで過ごしている。ナイトコース六時間千ジェニー。ドリンク飲み放題、ネット使いたい放題、漫画読みたい放題、シャワールーム完備。奇跡のような環境だ。乾いた都会に残されたオアシスとはここのことだろう。友人とハンター文字で文通したこともある私には文字の違いなどなんの問題にもならない。電脳ネットは基本的な構造がインターネットとあまり変わらないし、キーボードの配置も元の世界と変わらず、ただ五十音がハンター文字に対応しているだけなので、簡単に使用出来た。
 とりあえずヨークシンシティ発、パドキア共和国行きの飛行船を予約する。出発時刻は明日の午後八時。ほとんど丸一日余裕があった。
 もう時刻は午前二時。草木も眠る丑三つ時間近だが、せっかくの機会なので情報をいろいろ仕入れないともったいない。なんせハルカの家での情報源と言えば新聞くらいしかなかったのだ。
 まずはハンター協会のページにアクセスする。世界に名だたる組織だけあって検索ページの一番上にあっさり出てきた。会長からの挨拶というページを見るとネテロ会長の飄々とした顔が出てくる。この顔がキメラアントとの勝負ではあんな威圧感バリバリになるのだから面白いものだ。
 過去のハンターの実績、ハンター試験募集要項、プロハンターの特典と権利などのページを見ていき、ようやくお目当てのページにたどり着いた。

「あった!」

 去年のハンター試験、第285期の合格者、三名。
 過去の試験合格者についてのページを見ると、一番上にそう書いてあった。
 つまり、今年の年始に行われたのが285期。今は秋の暮だから、年が明けて行われるハンター試験が286期。ゴンたちが受けたのが287期だから、次の試験にはヒソカが出てくるのだろう。
 ヒソカを早く見たいという気もするが、どうせだったらルーキーとしてゴンたちと一緒に受けたい。それに次の試験は内容を知らないから対策を立てられないだろう。そう考えると次の試験は見送って、287期試験を受けるのがベストだ。
 そう結論づけて、ハンター協会のページを閉じた。次のお目当てのサイトには、適当にいくつかサイトをめぐっているとたどり着けた。「新人(ルーキー)の墓場」、あのトンパのサイトだ。
 トンパのような人間は自分のしたことを他人に見せたがるという予想は間違っていなかった。今までで三十四回に渡るトンパの新人潰しが、いつ撮ったのか写真付きで詳しく解説されている。なかなかに悪趣味だが、軽快で読みやすい文章と衝撃的な写真で見る者を惹きつけるサイトだった。実際カウンターの数がすごいことになっている。広告料とかで結構稼いでそうだ。
 一番新しいページには、やはりヒソカのことは書かれていなかった。二十人以上を再起不能にしたというヒソカのことが書かれないわけがないので、やはり私の記憶に間違いはないだろう。ヒソカが出てくるのは次の試験からだ。
 さらにページをめくってみる。お目当ては今から十八回前の試験の時のこと。第267期ハンター試験。合格者一名。そう、ジン=フリークスの受けた試験だ。
 ゴンに会ったとき、何か話せる話題があるといいなと思いそのページにアクセスしてみた。
 そしてそのページを一目見て、私はジンのとんでもなさを実感させられた。

「あー、なるほど。極秘指定人物、か」

 どのページも見やすいレイアウトで作られていたトンパのページが、そのページだけはアクセスを拒否された。何度やってもだ。
 そしてその理由に当然私は思いつくものがあった。極秘指定人物。電脳ページ上でのあらゆる情報交換を禁じられた、加入するためには一国の大統領クラスの権力と莫大な金が必要な会員。ある意味当然だが、こんな個人の運営する趣味のサイトまであっさりと規制してくるとは……
 この分だとネット上からジンに関する情報を得るのは無理そうだった。

「仕方ない、ジンについてはとりあえず諦めよう」

 そのあと私はヨークシンのオークションのページ、天空闘技場のページ、心源流のページなどにアクセスしてみた。心源流の弟子たちの声のページで、カチコチに緊張したズシが出ていた時は笑ってしまったが。
 面白そうなサイトを一通り見てしまうと、もう四時近かった。

「……寝ようか」

 すでにシャワーも浴びてさっぱりとしているが、それでも一日歩かされた辛さは消えていない。
 アゼリアのことを思い出すと今でも胸がムカムカするし、一方でちょっと悪かったかなーと思わないでもない不思議な気持ちだったが、そんなことを深く考える余裕もなく、私はすぐに眠りに落ちた。





 で、翌朝。
 一度は五時ころ店員さんに起こされた私だが、疲れが抜けてないのでもう少し眠ることにした。ネットカフェなんて基本的にそんな高くない。別にかまわないだろうと思い、二度寝開始。起きたのは十時過ぎだった。
 料金は二千八百ジェニー。昨晩引き落とした一万ジェニーを使い支払を済ませる。ついでに近くにあった喫茶店で遅めの朝食を済ませると、手持ちの残金はぴったり六千ジェニーだった。
 時刻は十一時。朝が遅かったから昼食は抜いて構わないし、飛行船の出る八時までかなり時間がある。さて、どうしようか。

「まぁ、散歩でもするのがいいわね」

 この世界に来てから落ち着いて街を回ったことがまだないのだ、もったいない。
 まだこちらの世界に来てから五日しか経っていない。初日は嬉しさで舞い上がって何もできなかったし―――アゼリアはあのときは怖かった―――二日目はアゼリアの質問にずっと答えていたから家を出てないし、三日目は買い物に行ったけど、自由に好きなものを見たわけではないし、四日目は「纏」が出来ずに倒れて、そのあともだるかったから一歩も外に出ていないし、五日目の昨日は修行なんて呼べない苦行をさせられた挙句喧嘩をしたんだった。
 ……考えてみれば、たった五日の間に結構いろいろなことが起きた。
 そのほとんどがアゼリアと関係ある気がする。
 そう思うと、昨日のような別れ方は若干気まずいものを感じたが、すぐにその考えを打ち消す。
 自分はそんな悪いことをしたとは思えない―――筈だ。
 アゼリアがあんな軽口に怒るのがいけない。
 そもそも自分はもとから原作キャラに知り合いになるためにいずれはあのロフトを出ていく予定だったんだから、結局はこれで悪くなかったのかもしれない。

「ふ、ふんっ! あんな奴、別になんとも思ってないわよ」

 その言葉に込められた意思はどのようなものだったのか、本人さえも判断できなかった。



 とりあえずファン心理で近場の原作スポットに行ってみることにした。
 一番近いのは、ベーチタクルホテル。クラピカが受付嬢に化けて団長を攫ったところだ。結構大きなホテルなので、リパ駅前の地図を見ればすぐに判った。
 作中でもあまり出てこなかった建物を見上げると、なんというかこみ上げてくるものがある。他の読者に対する優越感とか、そういったものだろうか。
 せっかくだからロビーのソファーに座って、「ベイロークじゃねーよ、ベーチタクルホテルだよ!」とか叫んでみようか。一人レオリオごっこ。楽しそうだ。
 よーし、テンション上がってきたー! とホテルの中に入ろうとしたときだった。
 ホテルから出てくる人に気づかず、正面からぶつかってしまった。

「いたた……あ、ごめんなさい! 他所見しちゃってて……」
「うん♠ 気をつけようね❤ ちゃんと前見て歩かないと危ないよ♣」

 そう言って、男は気にした様子もなく出て行った。私も入れ違いでホテルの中に入る。
 変わった格好の人だったな。結構な長身。幅のあるがっしりとした肩。揺らめく炎のような髪に、道化のようなフェイスペイント。奇抜な服装。怪しげな笑顔―――

「……い、今のって!?」

 慌てて振り返ると、ちょうど高齢の団体さんがホテルに入ってくるところだった。
 全員が背中の丸まったおじいさんおばあさんで、歩みは遅々として進まず、まさか押しのけて通るわけにもいかない。
 焦りに焦る気持ちを必死で堪えて、流れが途切れた隙に慌てて出ていくと、ちょうど駅の方へ向かう目当ての人影が見つかった。
 人ごみの中でも尚目立つあの姿。遠目からでも見間違えるわけがない……!!

「キャアーー!! ヒソカキターー!!」

 足がまだ筋肉痛なことなんて一瞬で頭から消え去ってしまった。
 レオリオごっこなんてもう止めだ、止め!
 今はこの運命の出会いを追いかけなければならない!!

「ちょ、通してよ! ああ、もう、人多すぎ!! どーいーてー!!」

 だが駅前に向かうにつれて人が増えていき、なかなか進むことが出来ない。
 かろうじてヒソカのあの特徴的な頭が見えているので見失わないが、追いつけそうにない。
 これはヒソカと会うために神様が与えた試練なのだろうか! 障害は多い方が恋は燃えるというけれども、邪魔なものは邪魔!
 と、いい加減イライラしていた時だった。
 人ごみの隙間を縫って駆け出そうとした私は、またも誰かとぶつかっていた。勢いが強かった分思いきりおしりを打ちつけてしまう。

「いったー……もう! 邪魔よ、あんた!! どこ見て歩いてんのよ!!」
「あぁ……? ずいぶんと威勢がいいじゃねーか、ねーちゃんよ」
「あ……」

 相手の顔も見ないで言ってしまったが、見上げてから後悔した。
 相手はあからさまにガラの悪そうなチンピラたち三人組。スキンヘッド、刈り上げ、ツンツンヘアーをそれぞれ金だの赤だのにカラフルに彩って、サングラスや鼻ピアス、刺青、トゲトゲの腕輪や軍用ブーツのようなごつい靴など、正直趣味が良いとは言えない着飾り方をしていた。でも怖かった。

「俺にはねーちゃんの方がぶつかってきたように見えたんだけどな……おい、どう思うよロック」
「あー、俺にもそう見えたぜ。ねーちゃん前も見ないで走っていたよなぁ、こりゃどうするよ、アゼルの奴が怪我してたらどうしてくれんだ? ああ?」
「い、いえいえ!! わ、私のほうが悪かったです、はい! そ、それでは急いでいるのでこれで失礼します!!」
「まぁ、そう急ぐなよ」
「き、きゃあ!! い、痛い痛い!!」

 逃げるが勝ち、と背を向けて逃げ出そうとした私だったが、後ろを向いた瞬間に髪を乱暴につかまれていた。髪は女の命だっていうのに、なんてことを!!

「とりあえず、ねーちゃんの方が悪かったってことでいいんだな? んじゃ、ちょっと場所変えて慰謝料の話でもしようじゃねーか」
「や、止めてください!! お、大声あげますよ!!」
「んー、いや、無駄だろそんなの。みんな見て見ぬふりしてんの判ってんだろ? つーか、余計な手間とらせるんじゃねーよ。そうだな、声上げたら腹に一発入れるか」
「ひっ!!」

 確かに、人通りの多い通りのはずなのに誰も男たちを注意しようとはしなかった。出来るだけ視線を合わせないように、足早に通りすぎていく。なんて人たちだろう!!
 ああ、でもこんなとき、きっと救いの手が入るはず……! そうだ、ヒソカがすぐそこにいるんだから、すぐに飛んできてこのチンピラABCをあっさりと倒してくれる!
 そう思って、路地裏に無理やり連れて行かれそうになりながらも、必死でヒソカのいた方に視線をやった。
 見えたのは、人ごみの向こうに消えていくヒソカの頭だけだった。

「え……」

 おかしい。
そんなはずはない。
だって、展開的にはここでヒソカが颯爽と私を救いだして、そのまま旅団員と顔合わせとか、そういう風になるはずでしょ?
なのにどうして、こんなことになってるの……?

「おい、人数集めようぜ。胸とかねーけど、結構かわいいからさ、こういうの好きなやついるだろ」
「そうだな、一通り楽しんだらそいつらに回してやるか。ちょっとした小遣いにはなるだろ。それかほら、こないだ回ってきたヤクの捌けてない分とかあるだろ? あれこいつに打って、飼っちまうか」
「いいね、さんせー」

 くつくつと下卑た笑いを浮かべる三人組を見て、血の気が引いていくのを感じた。
 やばい、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……!!
 携帯を取り出して仲間を呼び出したツンツンヘアーを見て、どうにかしないと、という考えだけが空回りした。

「ま、慰謝料ってことで、しばらく俺らに付き合ってくれればいいからさ。たのしもーぜ」

 そう言って顔を近づけてくるスキンヘッド。
 生暖かい息が首筋にかかって気持ち悪い……!!
 調子に―――

「乗るなーーー!!!」
「ひでぶっ!!」

 「纏」をした状態で、思いっきりスキンヘッドの顔を殴ってやった。
 いくら私がか弱い女の子でも、これなら―――

「お、おおおおおおお!! い、いてええええええ!! はなが、鼻が折れてやがる!!」

 ―――効いていたようだった。
 スキンヘッドはその顔を鼻血で真赤に染めて、鬼のような形相でこっちを見てくる。
 やたらとゴツイその肉体でその形相は、まさしくギャングとかそういった感じだ。でも、「纏」をしたパンチなら、倒せる!!

「いいから、潰れてろ!!」

 二発、三発とその体にパンチを入れていく。
 狭い路地ではそう避ける場所もなく、スキンヘッドは数発で沈んだ。

「てめえ、よくもフェルナンデスを!!」

 こいつそんなかっこいい名前だったのかよ!! そんな突っ込みを入れたくなりながらも、のこる刈り上げとツンツンヘアーをなんとか殴りつけた。
 「纏」をしたことで防御力が上がったのか、相手のパンチはそんなに痛くない。一方こちらの攻撃はかすっただけでも結構効いているようで、直に二人の男は逃げ腰になり、ついには思い切り殴りつけることができて、沈んだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 路地裏は血や唾液が飛び散った、かなり凄惨な状態だった。
 男たちは鼻や口から血を流して倒れている。
 これを、私がやったのか……こんな結構大きい男たちを、三人も、たった一人で……

「ふ、うふふふ……」

 ほーら、やっぱり念を覚えたことで、私は強くなっていた。
 そこらの一般人なんか相手にならないし、体格や筋力の差もあっさりと覆せた。
 アゼリアにやらされたようなトレーニングなんか、大して意味はなかったんだ! これなら、念能力者なんてほとんど出ないハンター試験にも私はきっと合格できる!!

「あ……」

 そうして、ひとしきりくつくつと笑ったところで、急にいやな気分になった。
 手には男たちを殴ったときの感触が残っている。
 決して、気持ちいいものなんかじゃない。自分の手の先で骨が折れる感触が、なんとも非現実的で、気持ち悪かった。
 そして、男たちが仲間を呼んでいたことを思い出して、少し怖くなった。
 男たちはただ骨が折れているだけだ。命に別状はないだろう、たぶん。
 私はそっと後ずさると、わき目も振らずに逃げ出した。





 適当に、ここがどこかも判らないまま走り続けて、息が切れてもう走れなくなったので、ようやく立ち止まった。
 男たちやその仲間が追ってくる様子はない。ひとまず逃げられたとみるべきだろう。

「あー、だけどヒソカも見失ったー……」

 結局運命の出会いを逃がしてしまうし、気分は悪くなったし、最悪だ。
 乱れた息を整えながら肩を落とした。とりあえずボサボサになった髪を整えておく。

「いたっ……」

 ずきん、と手が傷んだので髪を整えるのを止めて見てみると、右手の甲から肘にかけて結構ひどいすりむき方をしていた。
 先ほど男たちに路地裏に連れ込まれた時に何かの拍子で擦り剥いたに違いない。
 一度意識してしまうと早いもので、ずきんずきんという痛みはだんだん強くなっていく。

「うー……どこかで消毒しないと……」

 コンビニか何かでもないか、と回りを探すと、病院が目に入った。

「よし、あそこでちょっと手当してもらおう……」





 病院に入った瞬間、目があった受付のお姉さんがすごい驚いた顔でこちらを見てきた。
 かと思うと、カルテの束を持って歩いて行く看護師さんたちは驚きに目を見張ってカルテを床にばらまいているし、医療器具を運んでいた看護師たちは正面衝突していた。
 よくわからない反応に思わず身が竦む。

「な、な、なに?」
「ヴィ、ヴィオレッタちゃん!!?」

 病院では静かに! なんて注意する人すらいなかった。
 年配の、メガネをかけた白衣の医師が、信じられないものを見たという眼でこちらを見ている。
 その場の視線がすべて私に集中した。

「ど、どうして!? いつ起きたんだい!!? 信じられない!! 奇跡だ、こんなことが起こるなんて……!! ああ、まずはしっかりと検査をしないと!!」
「ちょ、ちょっと……!!」

 医師は慌ててこちらに駆け寄ると、手を掴んで私を診察室に連れて行った。
 その場にいた看護師や医師たちも、診察室に押し掛けて入口は寿司詰め状態だ。
 にしても、そうか! 私は、ヴィオレッタと間違えられているのか!!

「と、とりあえず脈と呼吸を取ろうか! ああ、そのあとはCTスキャンと脳波の精密検査だ! 君、ちょっと準備しておいて!!」
「はいっ!!」
「あとは、心臓外科のエルマ先生に誰か連絡を! 早く!!」
「ちょ、ちょっと待って!!」
「ああ、ヴィオレッタちゃんは落ち着いて……! 大丈夫、起きたばかりで不安だと思うけど、私たちがちゃんと説明するから! ああ、お姉さんも喜ぶよ……」
「いえ、ですから! 私は、ヴィオレッタじゃありません!!」
「……は?」

 大きくなっていく事態に居た堪れなくなって叫ぶと、目の前の医師はぽかんと口をあけてしまった。
 押し掛けていた看護師たちも唖然として固まる。一瞬で喧騒の起こった病院は、唐突に本来の静けさを取り戻した。なんとなく、私が悪い気にさせられた。
 その場にいる全員に聞こえるように、はっきりと言う。

「私はハルカ=アヤセ。ヴィオレッタという名前ではありません。人違いです」

 ちょうどその時、部屋に備え付けてあった内線に着信があった。
 医師はみんなに聞こえるように音量を上げて受話器を取った。

『パスカル先生! ヴィオレッタちゃんは病室にいます!』

 静まり返ったその場には、受話器越しのその声もよく響いた。
 その場は凍りついたように誰も動こうとしない。うう、居心地悪い……

「……みんな、仕事にもどりなさい。ここは私がどうにかしておくから」

 パスカルと呼ばれた医師のその言葉で、ようやく看護師たちは動き始めた。
 一人、また一人とその場を離れていき、そのあとでパスカル先生は診察室のドアを閉めた。

「いや、すまなかった……うちに入院している子で、君にそっくりな子がいてね……つい、その子が治ったのかと思って取り乱してしまった」
「い、いえ……私は、別に……」
「ああ、右手を怪我しているのかな? ちょっと待っておくれ、今消毒するから」

 パスカル先生は消毒液とガーゼ、包帯を持ってくると、右手の治療をしてくれた。
 消毒液がツンと染みる。

「……これでよし、と。いや、本当に驚かせてすまなかった」
「べ、別にそんな気にしてません……」

 本当に申し訳そうな―――いや、あれはがっかりしているのだろうか―――パスカル先生の顔を見ると、先ほどのことを責めようという気にはならなかった。
 しかし、ヴィオレッタというのはやはりあのヴィオレッタだろうか……?

「あ、あの、ヴィオレッタって、アゼリアってお姉さんがいますか?」
「アゼリアちゃんの友達かい!?」
「ええ、まぁ……」

 驚いた様子のパスカル先生に、曖昧な返事を返すしかなかった。
 果たして今アゼリアの友達と言っていいのか判らなかったからだ。

「そうか……うん、ヴィオレッタちゃんはアゼリアちゃんの妹さんだよ。本当に、あんなにいい子に、どうしてこんな辛いことばかり起るんだろうね……アゼリアちゃんは君に会ったとき驚いてたろう?」
「ええ、それはもう……」

 殺されかけるくらいに、とは流石に言わなかった。

「あの、ヴィオレッタちゃんって、どんな病気なんですか?」
「……アゼリアちゃんからは、何も聞いてないのかい?」
「病院にずっと入院している、としか聞いてません」
「そうか……」

 パスカル先生はふう、と虚空に向けて溜息を吐いた。
 重い荷物をずっと背負ってきた旅人のような顔だった。

「そうだね……どこから話そうか……」

 重い溜息とともに、疲れの滲む声で、ポツリポツリとパスカル先生は話し始めた。
 それは一人の少女の物語だった。





 病院に運ばれてきたその家族の救命治療は間に合わなかった。
 ひどい有様だった。体中が血だらけで、無事な骨を探すのも難しい状況。肋骨が肺に突き刺さり、内蔵の損傷が激しい。病院に運び込まれた時点でもう心臓は停止していた。
 必死の蘇生治療が行われたが、さして間をおかずに脳波も完全に停止。その場の治療に携わった者の一人として、医者の限界を思い知らされた夜だった。
 その娘さんは、後部座席に座っていてしっかりとシートベルトをしていたために、外面的な怪我はほとんど見受けられなかった。細かい切り傷や打撲はあったが、私たちは一つの尊い命が残されたことに感謝した。
 しかし、現実はもっと辛いものだった。この事件は居眠り運転の車と被害者家族の車が衝突したことが原因だったのだが、少女はその衝突の際に頭を強く打ってしまったようだった。大脳の機能の損傷。彼女はかろうじて呼吸をしているものの、意識を取り戻すかは判らない……一生目を覚まさないかもしれない、植物状態となった。
 市の警察に連れられて残された一人の家族であるアゼリアちゃんがやってきたのは、家族が運び込まれてからしばらく経ってだった。両親の遺体を見た瞬間、クマのぬいぐるみを必死で握りしめ、声に成らない悲鳴を上げて崩れ落ちた様子は昨日のことのように覚えている。
 その翌日、一命を取り留めた―――今となっては、医者としてあるまじき発言だが、アゼリアちゃんにとってはそれが幸せだったのかは判らないが―――ヴィオレッタちゃんに会ってから、彼女は笑わなくなった。人形のように、妹の病室でうずくまっているようになった。
 ショッキングな事件であったためにマスコミは大きく取り上げ、残された家族であるアゼリアちゃんのところにも幾度となく取材にやってきた。私たちはアゼリアちゃんの現状を思うととてもそんなことは許可出来ず、一切の取材を拒否した。そんなことくらいしか、彼女のために出来ることが思いつかなかったからだ。
 また、彼女の父親の会社で雇われていた顧問弁護士という男もやってきた。企業に対する彼女の権利についての相談や、父親からの遺産相続、国からの生活保護などについての説明をしたいとのことだった。だが、私はこれも拒否した。彼女は父親の死に正面からぶつかるにはまだ早いと、そう思ってしまったのだ。
 そのことを、私はその後ずっと後悔することになる。

 事故から二週間ほどが経ったある日、私は宿直室で流されたニュースに目を見張った。彼女の父親の会社が内部の不祥事で倒産したと報じられていたからだ。
 そうして、彼女に残されたのは莫大な借金。
 あの日私が心を鬼にしても、あの弁護士と彼女を会わせていれば、この事態は避けられたに違いない。企業法について私は詳しくないが、権利説明とそれに伴う負担をしっかりと理解できれば、適切な処置を取るべく弁護士の男が尽力してくれただろうに……!
 日に日に生気をなくしていく彼女を見て、私は一人の少女の心が崩れていく音を聞いた。

 病院側では彼女の治療費を無期限で据え置きにしようという話が出た。院長は―――これはきっとマスコミに対するアピールを狙ってのものに違いなかったのだが―――いっそ無償にしても構わないとも言った。
 しかし借金の返済など私たちにはどうしようもない。病院内で医師たちに基金を募ってみたが、医師たちにも家族が、生活がある。集まった金は返済には程遠いものだった。

 そんな彼女に変化が訪れたのは、事故からひと月ほど後のことだ。
 度重なるカウンセリングも効果なく表情を失った彼女は、その日突然、強い意志の宿った瞳で言ったのだ。

 ―――私は、働く。私が、ヴィオレッタを守る。絶対に、絶対に守りぬいてみせる……!

 その彼女の強い心に私は感動すると同時に、強い不安を覚えないではいられなかった。
 日に日にヴィオレッタちゃんの病室に訪れることが少なくなっていくアゼリアちゃん。その顔はどう見ても疲労が色濃くにじみ出ていた。
 何の仕事をしているのかと聞いても、彼女が答えてくれたことは一度もない。そのことも私の不安を加速させていった。
 幾度となく栄養失調で病院に運ばれたことがある。借金を返すために極端に生活費を削っている彼女に、食事と睡眠はしっかりととってくれと何度願ったか判らない。
 大けがをして運び込まれたこともあった。その怪我を見て彼女が危険な仕事をしているのではないかと疑わずにはいられなかった。けれど何度そう問い詰めても、彼女が首を縦に振ったことは一度もない。先生は気にしないで、私は大丈夫だから。そう言われる度に自分の無力を思い知らされた。

 二度目の転機は事故から七年程経った頃だろうか。
 十五歳になったアゼリアちゃんは、本来なら学校で友人とたわいもない話題に華を咲かせているだろうその顔にいつものように疲労を浮かべて、しかしどこか嬉しそうに借金がもうすぐ返済し終わると言った。
 この病院に勤める者で、彼女たちのことを知らない者はいない。誰もが心から応援し、その努力を誉めたたえた。彼女の一生を台無しにした原因の一つは自分にもあるのではないかと、罪を告白することもできずにいた私は、安堵とともに一際彼女のことを祝福した。
 だからこそ、これが運命だというのなら神様を恨まずにはいられない。
 彼女がそう嬉しそうに報告したほんの一月後、ヴィオレッタちゃんは病気にかかった。
 重い病気だった。放っておけば命に関わる重病で、しかも治療にかかる金は大金だった。
 もうすぐ、楽になる。彼女が過労と栄養失調で倒れるような日々はもうなくなる。そう思っていただけに、落胆はあまりに大きい。
 彼女はそんなときにも諦めようとはしなかった。
 今度は必死で膨大な治療費を稼ごうと頑張りだした。
 私もまた居てもたってもいられなくなった。
 幸い医大時代に多くの将来有望な医者たちとの交友を築けた。私は未だに平の医者にすぎないが、友人たちには要職についている者も多い。その友人たちに片っ端から掛け合ってみた。
 実際は、かなりの無理を言っていたと思う。治療法はある程度解明されていたものの、そこに必要な医療設備、人材、資金はあまりに重い。そんな病気の手術を、少しでも安く、少しでも早く行えるように、形振り構わずに頼み込んでいるのだから。実際、連絡のつかなくなってしまった友人もいる。だが、それでも彼女のために何かをしてあげられているという実感が欲しかった。
 彼女はようやく二千万ジェニーまで貯められたと先日言っていた。ヴィオレッタの病気が治るのはまだ先で、病気が完治したとしても彼女が目を覚ますには奇跡でも待つしかない状況だ。
 そんなことは承知の上で、彼女は尚もあきらめないだろう。生活を削り、身を削り、ヴィオレッタちゃんのために頑張るのだろう。
 だから―――

「だから、君がアゼリアちゃんの友達だっていうんなら、お願いだ。あの子を支えてあげて欲しい……」

 絞り出すような声で、パスカルという医師は深々と頭を下げた。
 私はそれに返す言葉を、何一つ持っていなかった……





 ハルカという少女が診察室を出ていってから、私は後悔した。
 医者としての守秘義務も何も忘れ、患者の個人情報をペラペラと恥ずかしげもなく話してしまったのだ。医者としてあるまじきことだ。
 ああ、だが、私はどこかで安堵していた。長年一人で抱え込んできた苦悩を誰かに曝け出したことで、少し楽になったようだった。彼女にしてみればいい迷惑だろうが。
 あの少女は本当にヴィオレッタちゃんに似ている。だからこそ、私は彼女に罪の告白じみたことを長々と聞かせてしまったのだろう。本当に、情けない限りだ。
 ハルカという少女がアゼリアちゃんを支えてくれれば、と心の底から思う。アゼリアちゃんは一人で妹のために頑張っているが、私は時にそれでいいのかと思ってしまうのだ。
 ヴィオレッタちゃんに助かってほしいという気持ちに偽りはない。せめて目を覚ましてくれれば、それだけでもアゼリアちゃんは救われるだろう。
 だがそれは奇跡を望むくらい絶望的なことだ。アゼリアちゃんは下手をすれば一生、妹のことを思い、妹のために働き、そして報われない可能性がある。
 それは、あまりにも悲しい。
 アゼリアちゃんの想いを無視するつもりなんかない。彼女は本当に心の底から妹のことを思っている。
 だけど、そろそろ自分自身のことを大切にしてもいいのではないか。自分自身の幸せを追い求めてもいいのではないか。
 私がそう考えるのは医者として罪なことだろうか。
 ハルカという少女は、傍にいてあげるだけでもアゼリアちゃんの支えになってくれるだろう。歩けども歩けども先が無い砂漠で見つけたオアシスのように。
 でもアゼリアちゃんがそんなことを心の底から望むことはないだろう。きっとハルカちゃんにしてもいい迷惑だと思う。
 これは私のエゴ。
 ただ私の独善的な願いで、彼女に荷物を押しつけていた。

「……ヴィオレッタちゃん、君はなんで、病気になんて……」

 いや、判っている。ヴィオレッタちゃんに罪なんてない。大切な少女時代を何一つ経験せず、さらにこれから先、意識を取り戻す保証はない。
 仮に目が覚めたとしても、彼女には様々な障碍が残る。リハビリだけでも長い年月が必要だろう。五歳の段階で成長が止まっている彼女が社会に適合するにはどれほどの時間が必要だろうか。
 そう、辛いのは彼女も同じだ。悪いのは彼女を治すことのできない我々医者の方だ。
 それでもなんで、と思わずにはいられない。

 ―――ああ、本当になんで、彼女がこんな病気にかかってしまったんだろう。
 ―――そんなこと(・・・・・)考えられないのに(・・・・・・・・)……





 パスカルという医者に、よければヴィオレッタを見舞ってやってくれと頼まれた。
 病院の七階、日当たりのいい個室、そこに彼女はいた。
 部屋の中は静まり返っている。物音一つしない。それはきっと部屋の住人が話すことがないからだろう。
 腕に通された点滴のチューブが、口と鼻を覆う呼吸の補助器具が、様々な医療器具が痛ましい。
 それでも、そこから見える少女の顔を見て、私は皆と同じように、驚かずにはいられなかった。
 本当に、私に似ている。まるで鏡を見ているようだ。
 この子がアゼリアの妹……彼女が必死に守ろうとしている少女……

 ベッド脇の机に目をやると、まずクマのぬいぐるみが目に入った。
 ずいぶんと古い物なのか、ところどころ傷んでいる。その服には、どこかの遊園地なのか‘Fairy Land’の文字が入っていた。
 そのクマが両手で抱えるように置かれている写真。ところどころ色褪せたその写真に自然と目が行った。

「本当に、仲のいい家族だったんだ……」

 幼い、とても小さな二人の少女が、両親と思われる男女に抱かれて笑っていた。溢れんばかりの笑顔だった。
 母親と思われる女性は、アゼリアをもう少し大人にしたような顔だった。間違いなく彼女たちの親なのだろう。
 幸せそうだった。
 そんな家族が、突如訪れた不幸で、引き裂かれた。
 そのことを思うと、胸が締め付けられるような気持ちになった。

 そして恥ずかしくなった。アゼリアにあんな酷いことを言った自分が信じられなかった。
 アゼリアは、文字通り命を懸けて彼女を守ろうとしている。大けがをしても、過労で倒れても、碌な食事もとらずに。
 私が使ったお金は、あんな考えなしに浪費したお金は、そんな血のにじむ思いで集められたお金だったのだ。

 ならば、自分はどうだろうか。私は何かを命を懸けても守りたいと思ったことなどない。ただ漫然と、その時の気分で行動してきたように思える。そんな自分が、これほど頑張っているアゼリアに散々わがままを言って、迷惑をかけて、生活を切りつめてまで掻き集めているお金を無駄に使った。それでいて自分は何食わぬ顔をして、それが当然であるかのようにアゼリアに悪態をついていた。
恥ずかしくて死にそうだ。
私はこの子(ヴィオレッタ)に似ていると言われたが、そんなことは、ない。決してない。私には、アゼリアに命を懸けてもらえるほどの価値なんて全くないのだから。

「ごめんね……あなたのお姉さんに、辛い思いをさせて……」

 どうすればいいのかは、もう判っていた。
 どうしなければならないかも、判っていた。
 そして自分がどうしたいのかも、判っていた。
 ならば迷うことはもうなかった。

「また、きっと来るから。その時は、もう少し立派な私になって……」

 彼女の髪をすっと梳いて、部屋を出ようとした。
 そのとき―――

「……え?」

 一瞬、何か(・・)が見えた。

「な、何……?」

 ヴィオレッタの、胸のところに、何か……
 髑髏のような、ものが……

「……気のせい、なの?」

 しかし、振り向いてみればそんなものは見えなかった。
 目をこすり、何度見ても、そんなものは出てこない。
 嫌な汗がじっとりと滲むが、それでも少女にはもはやなんの変化もなく、停止した世界が残されただけだった。

「気のせい……よね」

 嫌なしこりのようなものを残しながら、私はそう自分を納得させて、病室を出た。





 久しぶりに、ベッドの上に身を投げ出した。
 固いソファーよりもやはりこちらの方が体が休まる。
 ところどころ傷んだ天井を見上げながら、私は深く重い溜息をついた。
 昨日の作業現場で今日も働かせてもらったのだが、今日は散々だった。
 仕事中は常に意識がどこかへ行ってしまうし、簡単な指示を間違えるし、食欲がなくてまかないの弁当も遠慮した。
 監督をはじめ現場の人たちを心配させてしまい、結局言われるままに早退することになったのだ。

 原因は判っている。ほんの昨日まで、このベッドを占領していた奇妙な同居人だ。
 私に非があったとは思わない。あのままでは遅かれ早かれ、私と彼女は決定的な訣別をしたことだろう。
 だが、もう少しまともな別れ方があっても良かったのではないかと思う。少なくともあんな喧嘩別れじゃなくて。
 今日何度目か判らない溜息が重い。あんな暴言を受けても尚私は彼女のことを憎み切れずにいたのだった。

 結局、私は彼女のことを妹の代わりとして見ていたのだろう。

 彼女と過ごした数日は、楽しかった。
 面倒なこともたくさんあった。怒りたいこともたくさんあった。けど、それらすべてが私は嬉しかった。
 妹が家にいるみたいで、そんな彼女のために何かが出来ているようで、心が満たされていくのを感じていたのだ。
 それは私の甘えだったのだろう。彼女を妹に重ね合わせて、守られる存在でいてくれることを心のどこかで望んでいた。頼られていることが私は嬉しかった。
 だからこそ、彼女を無事に家に帰すという名目のもと、彼女を縛りつけようとした。私に守られる存在として、手元に置きたがっていたのだ。
 それが彼女には気に食わなかったのだろう。彼女にしてみれば私は所詮赤の他人で、彼女の意思にとやかく言うような資格を持つ人間ではなかったのだから。

 改めて思い返すと判る、そんな自分の醜い感情。
 それを思うと、私には彼女に怒る権利などあったのかと思う。彼女という個人を蔑ろにして、私の願望で役割を押しつけていたのだから。
 きっと、もう彼女と会うことはないだろう。
 だけど、もしもう一度会えるのなら、私は彼女を、綾瀬遥という一人の人間として見てあげたい。そう思った。

「……ん」

 寝室までかすかに届いた音。
 こんこん、と乾いた音を立てるドアノッカー。
 こんな憂鬱な気分の時に誰だろう。
 私は重い体をなんとか起こして、ドアの方へ向かっていった。「円」を使って来客を確認する気力もない、半ば棄てばちな気分だった。
 だからこそ、ドアを開けたときに驚いてしまった。

「誰、だ……っ!?」

 そこに立っていたのは、二度と会うことはないだろうと考えていたハルカだった。
 先ほどはあんなことを考えていたが、やはり感情では昨日の暴言を許せていない。
 それに彼女の口からどんな言葉が出るのかとも思った。少し、怖かった。私は知らずにこわばった顔をしていた。

「……何の、用だ? 二度と来ないんじゃ、なかったのか……?」

 声が震えそうになるのを必死で抑えた。だから、かなり不機嫌そうな声になっていたと思う。

「あ、あの、これ……」

 ハルカは、気を抜くと逸らしそうになる視線を必死でこちらに向けているようだった。
 そしてスカートのポケットから、それを取り出して渡してきた。

 通帳と、現金六千ジェニー。

「あ、あの、つ、使っちゃった分は、きっと返すから。私も働いて、絶対に、もう迷惑はかけないから……」

 途切れ途切れに、精一杯の力で繰り出される言葉。
 私はそれに何を言うことも出来ず、ただ見ていることしかできない。

「だ、だから……ごめんなさいっ!!」

 ハルカは深く深く、頭を下げた。
 予想外の展開に、私は大きく目を見張った。

「迷惑かけてごめん! お金を無駄にしてごめん! 馬鹿なこと言ってごめん! 言うこと聞かないでごめん! 勝手なことばかりしてごめん! だ、だから、もう絶対に、迷惑なんて掛けないように頑張るから! だから、だから……」

 ハルカは、顔を上げようとはしない。
 頭を深く下げたまま、じっと下を見ている。
 それが今は幸いだった。

 嬉しかった。彼女とあんな別れにならなくて済んだことが。
 嬉しかった。彼女にぶつけられる言葉が非難の言葉でなくて。
 嬉しかった。私の中の彼女への怒りが、ゆっくりと消えていくことが。

 そして、彼女の手に巻かれた包帯を見て、なんとなく悟ってしまった。
 ああ、彼女は、妹のことを知ってしまったのだな、と。

「……手」
「え?」
「怪我、したのか……?」
「え、あ、ううん、これは別に……」
「……早く中に入れ。包帯を取り替えてやる」

 そう言い残して、私は家の中に入っていった。

「……うんっ!!」

 後ろでは、ハルカが私の言葉の意味を噛みしめて、力強く頷いたのが判った。
 私はハルカから逃げるように、早足で部屋の奥へと進んでいった。
 今は、前には来てほしくなかった。
 涙を流している顔を見られるなんて、私のキャラじゃないのだから……










〈後書き〉

そもそもパスポートもビザもないからハルカは出国の段階で弾かれるだろうと思います。どうも、ELです。
今回はハルカが反省して、少しだけ成長する回でした。それに伴い、アゼリアのハルカへの態度も少しだけ変わっていくと思います。互いに依存しあっていた関係も変化していきます。
ただ飛ばされてきてミーハー精神しかないトリッパーには、辛い修行に耐えることも、強い意志をもつことも出来ないと思います。そしてそれは自分で気づくしかない。自分で自分を省みて、そこで意志を築いていくしかない。ですから今回はこのようなストーリーになりました。
ストーリーの根幹には「ハルカの成長」もありますので、これからもハルカは少しだけ変わっていくと思います。ですから、ハルカはそこまで嫌いになってあげないでくれると嬉しいです(笑)
それでは、次の更新の時に。



[3597] 閑話 思い出のガーネット
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/03 19:35
 樫で作られたアンティーク調の椅子に腰掛け、ジャズの音楽を流し、三十年もののワインを傾ける。
 それは自分の幼き日の夢だったはずなのに、心地良く酔うことが出来ない。
 まだ太陽が出ている時刻だからだろうか。ワインは日が暮れてから静かに傾けるものだと自ら定めたはずなのに、そのルールを破っているのだから仕方がないのかもしれない。
 だが飲まずにはいられなかった。邸宅を出ることも許されず、仕事をすることも出来ない、そんな無様な身の上とあっては、酒でもなければやってられないというのだ。

 上を向きすぎたのがいけなかったのだろうか。
 ここに至るまで夢中で走りぬけてきた。
 権力を、地位を、金を、力を得るために、様々なものを切り捨ててここまで来た。
 そしてまだまだこんなところで止まる心算はない。たかだか一組織の幹部で収まってたまるか。
 上へ、どこまでも上へ。相談役に、首領に、最後には十老頭にまで上り詰めてやる。その思いを変えることはない。

 しかしそのせいで下の管理がおろそかになっていたとは、我ながら無様なことだ。
 ルークとかいうあの能力者は、中堅程度の実力しかないくせに傲慢でプライドだけは高く、また時々指示に逆らうような真似をすることさえあった屑だった。
 ある意味では無能を切るいい機会ではあったが、そのためにボスの不況を買っては元も子もない。もっともボスは最近不機嫌だったので、間が悪かったとしか言えないのだが。
 だが手持ちの最強札まで切ってこれでは、割に合わないにも程がある。

「くそっ……」

 ああ、苛立ちが抑えきれない。
 自分が今すべきは復帰後の根回しとポイントを挽回するための策を練ることだというのに、心の中で悪態を吐くことにばかり頭が使われてしまう。
 怒りにまかせてグラスを叩きつけようとして、ちょうどそこへドアをノックする音が入り込んだ。

「ちっ……なんですか?」
「旦那さま、アレッサンドロ様がいらっしゃっております。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「アレッサンドロ様が? ええ、今すぐお通ししなさい」

 思わぬ来客に内心焦ってしまった。
 居住まいを正し、服装を整え、グラスをもうひとつ用意したところへ、その人は来た。

「いつ来ても優雅な邸宅だな。羨ましい限りだよ、カーティス君」
「これはこれは、アレッサンドロ顧問……謹慎中のこの身をお訪ねくださるとは、光栄の至りです」

 190cm近い長身に、落ち着きある佇まい。既に五十近い年齢の筈だが、堂々たるその体躯には些かの衰えも見受けられず、上質のスーツの上からでも判る鋼のような肉体をしている。それでいてメガネ越しに光るその眼光には深い知性が宿っている。
 ボルフィード組の相談役、実質的な組織のNO2、アレッサンドロ=カヴァルロがそこにいた。

「ふむ、謹慎か……正直そこのところがよく判らなくてね。伝え聞いた報告では金を持ち逃げした部下がいたそうだが、それはきちんと始末して金も取り戻せたのだろう? 一体何故、謹慎なんぞ言いつかったのだ?」
「いえ、僭越ながら私如きではボスの御心は判りません……ですが、あくまで噂として聞いた話によると、オークションの際にどこぞの田舎の成り上がりに喧嘩を売られたとか……」

 迂遠な言い回しでも事態を察してくれたのか、アレッサンドロは軽く肩を竦めた。

「まったく、サンジのやつは……昔から、怒ると周りに当たり散らす癖は治らない……」

 アレッサンドロはボスと昔からの友人らしい。
 だからこそこうして、地位に違いがあっても気さくな呼び方をするし、二人で組織を纏め上げようと協力している。

「……まぁ、気にしないことだ。部下の腐敗は如何に管理しようと避けられん。どんな清潔な厨房にもゴキブリが入り込むようにな。サンジには私から一言言っておこう。優秀な部下をいつまでも謹慎させておくには勿体ない」
「ありがたいお言葉……感謝の言葉もありません」
「なに、どちらもただの事実だ。君が有能であることも、部下の腐敗は免れないこともな。そう、たとえこの私であっても……」
「……アレッサンドロ顧問?」

 皮肉な笑みを浮かべて、アレッサンドロは注がれたワインを舌で転がした。

「謹慎明けの挽回のチャンスをやるぞ、カーティス。最近、巷で流れている麻薬の数量と組へのアガリが釣り合わない。その原因がどこにあるか突き止めろ。もしも腐ったリンゴがあるのならば、周りを腐らせる前に処分しろ。お前の腕を信用して、手段は一任する」
「ほう、それはそれは……」

 確かに、それは名誉挽回には絶好の仕事だ。内部の膿を洗い出す仕事か、面白い。
 麻薬の販路の管理を任されているのは……ギュンターのやつか。いつもいつも目障りな奴だった。ここで消しておくのも悪くない……

 ボルフィード組は、大きく二つの派閥に分かれている。
 一つは副首領を旗頭とした派閥。副首領は正直、ボスの名を血縁で継ごうとしているだけの、大した器も持たない二代目だ。しかし順当にいけば彼が次の首領の座に就くことは間違いないので、彼を押す勢力は強い。
 もう一つはこの相談役、アレッサンドロを旗頭とした勢力だ。アレッサンドロ顧問は副首領など比べるにも値しないほどに有能な傑物だ。本人に組織を乗っ取ろうなどという意図はほとんどないものの、その実力に惹かれて支持している者は少なくない。私もその一人だ。
 ギュンターの奴は……副首領派。
 ここで奴を消しておくことは、自分の将来的な出世にもつながる。

「お任せ下さい、アレッサンドロ顧問。必ずやご期待に応えてみせましょう」
「期待しているぞ、カーティス」

 満足げに頷いたアレッサンドロは、僅かにワインの残されたグラスを静かに傾けた。
 私もまた悪くない気分だった。いい風が吹いてきた。不興を取り戻す機会が向こうの方からやってきたのだから。
 静かに置かれた空のグラスに、ゆっくりとワインを注いだ。

「……ああ、懐かしいな、その指輪」

 アレッサンドロはカーティスの指に輝く一つの指輪に目を向けた。
 そこから遠い過去へと思いを馳せる目だった。

「君がこの組に入ったときのことを思い出すよ。あのときはまだ十二歳くらいだったか」
「その通りです、顧問」

 室内にあっても尚自らの紅を主張するガーネットの指輪。
 血のような紅の色彩は幼き日々を呼び起こすようだった。

「ふっ……昔を懐かしむとは、私ももはや年かな……」
「……御冗談を。顧問は我々のような若輩などより、ずっとお元気でいらっしゃる」
「ふん、まぁそう言ってもらえるならば、そう言うことにしておこう。まだまだくたばる気はないしな。それでは、これ以上老いる前にやるべきことをなすとしよう。思い出は仕事のなくなった老後にでもすればいい」

 そしてアレッサンドロは立ち上がった。
 優雅な長躯はまだまだ若々しさを保っていた。

「……ああ、そうそう。先日リパ駅近くの路地裏で喧嘩があったらしくてな。ファミリーからヤクを回したチンピラどもだったらしいので、一応様子を見に行ったんだが……面白いことに、一人は念能力を身につけていたぞ」
「それは……興味深いですね」
「残りの二人は意識不明の重体だがな。「纏」が出来ないから回復が遅いのだろう。まぁ、使いものになるかは判らんが、部下が一人減ったのなら、補充してみるのもいいかもしれん」
「お気づかい、感謝します」

 そうしてアレッサンドロは部屋から出ていった。
 見送りは必要ないと言われたので、私は部屋を出ることなく、ワインをしまった。

 そしてなんともなしにぼんやりと指輪を見る。
 仕事のない老人が過去を振り返るというのなら、今の私に出来ることもその程度だろうか。
 悪い酔い方をしているのかもしれない。今までの私なら、立ち止まって過去を振り返る暇すら惜しんでいただろう。だが今はそれでも構わない気がした。

 私がこの世の仕組みを学んだあの日。あの日から、私の人生は動きだしたのかもしれない。





 僕の父は、碌でなしの糞ったれだった。
 毎日毎日昼間から酒を浴び、働くこともなく、酒代と飯代を私に稼ぎに行かせ、気まぐれに僕を殴った。
 母は顔も知らない。死んだのか、こんな父親に愛想を尽かして出ていったのかも知らない。大した興味すら持てない相手だった。
 貧民街の薄汚れた子供に出来る仕事なんて碌なものじゃない。奴隷だってもう少しマシだろうと思うような仕事ができればそれだけでいい方だ。最悪なのは仕事にありつけない時で、手ぶらで帰ったら父親に殴られた。だから必死でその辺の金になりそうなものを掻き集めて売った。どれだけ頑張っても、通りを歩く子供たちが何の気なしに食べているパンすら買えない時もあった。
 ものを盗もうとしたこともあった。だが、手足の長さも足りない幼い日々の僕には難しく、たとえパンを盗めても逃げきることが出来ない。大人たちの大きな体はすぐに僕に追いつき、その大きな手で殴り、品物を奪い返していった。こんなことなら家で父親に殴られても変わらないと思った時もあるが、そんなのはゴメンだった。体では負けても、心では負けない。それだけは譲れない一線だった。毎日の食事にも困らないようなあんな奴らに負けてたまるかと強く思い、いつか絶対に奴らをこき使ってやる、いつかこんな生活からは抜け出してやると誓った。暗い感情が僕の力になった。
 僕には一つだけ、不思議な力があった。憎い相手を強く念じると、その相手は急に苦しみだすのだ。僕だけの能力(ちから)。これを使ってのし上がってやろうとも思った。
 だが、その能力(ちから)は相手を死に至らせるほどの強さはなかった。それどころか気を失わせることすらできなかった。その程度のもので変えられるほど現実は甘くない。僕は成り上がるための方法どころか、どうすればこの生活から抜け出せるのかすら判らないまま、日々を過ごしていった。

 十二歳のころ、僕ももう手足も伸び、器用さを身につけ、体力も大人顔負けにあった。
 そのころにはもうまともに金を稼いでこようだなんて思わなかった。町ですれ違った間抜けどもの懐から財布を掏り、街角の店から盗み取る日々だった。昔のように失敗して見つかるようなヘマはしなくなっていた。清貧なんて糞喰らえだ。汚れても金がある方がいいに決まっている。
そうして稼いだ金は、父親を満足させられるだけの金を残して、後はこっそりと隠しておいた。いつかのし上がるときに必要になると思ったからだ。

 その日も僕は金を稼ぎに街中へと出かけていった。
 金を持っていそうな、それでいて隙のあるカモをこっそりと物色する。危険は少なければ少ない方がいい。
 そうして、見つけた。ステッキを突き、ゆっくりと歩く老紳士。その身に纏う衣服は見るからに上等で、金の匂いがした。
 獲物をそいつに定めた僕は、後をつけながら相手を探った。財布はどこに締まってあるかを見分けようとしたというべきか。勝負は抜き去る時の一瞬。だからこそ、見極めは大切だ。
 数十メートルも歩かないうちに、在処は判った。コートの右ポケット。お誂えむきの場所だ。
 後ろからゆっくりと距離を詰めていく。曲がり角に差し掛かったタイミングがいい。自然に、すっと抜き取れば絶対に気づかれない。
 そしてついにやった。手の中には心地よい重み。中身を確かめる前から、今日の戦果は上々であろうことを予期した。
 その一瞬の気の緩みが良くなかったのだろう。突如僕は強く肩を掴まれると、強引に振り返らされると同時に、強い衝撃が僕の頬を襲った。見上げると、僕を殴ったのは黒服の男だった。

「この、ガキが……肥溜の中に突っ込んだような薄汚ねぇその手で、キャンベル議員の財布をギろうたぁ、てめぇ死ぬ覚悟はできてんだろうなぁああああ!?」

 再び、強い衝撃。胸を蹴りあげられたのだと判った。激しく咽ぶ。
 くそっ、ボディーガード……一人だと思ったのに……
 何発も何発も続けざまに僕を襲う衝撃。だけど、大丈夫。こいつ一人だけなら、能力(ちから)を使って一瞬でも隙を作れば余裕で逃げ出せる。そう思った。
 後ろから、新たな手に髪を掴まれるまでは。

「おら、立てこらぁ!」
「寝てる暇はねぇぞ!!」
「死んで詫びいれろやぁ!!」

 いち、にい、さん……四人!!
 そんなにボディーガードがいたなんて、完全に想定外。僕はこの能力(ちから)を二人よりも多くの人間に使ったことなんてない。出来るかどうかもわからない。
 そんな状況では抗っても無駄だった。
 僕はただ男たちに殴られる時間が過ぎるのを待とうとした。心だけは折られないように、憎悪の気持を膨らませながら。

「……みなさん、そこまでにしておきなさい」

 それを止めたのは、先ほどの老紳士の一言だった。
 その一言が聞こえた瞬間、男たちはぴたりと殴るのを止める。
 老紳士はゆっくりと近づいてくると、僕の顔を覗き込んだ。

「スリでもしなければ生きていけないだなんて……かわいそうにねぇ、坊や……私はそんな人々に援助をするのも仕事の一つでね。そうだな……この指輪をあげよう」

 そう言って、老紳士は指から一つの指輪を引き抜いた。
 血のように紅い宝石のついた、綺麗な指輪だった。見るからに高価な品だった。

 でも僕には判っていた。
 かわいそうだなんてこの老紳士はこれっぽっちも思っていないことが。その眼には嘲りと、軽蔑と、自らの優越に浸る気持ちが映し出されていることが。
だって、お前は、僕が殴られている間、笑っていたじゃないか! 羽をもがれた虫が悶える様子を眺める子供のように嗤っていたじゃないか!!
 こいつは人を憐れむことで悦に入る、最低な趣味の持ち主に違いなかった。

 その手をはねのけたかったが、手は動かなかった。
 その首に噛みつきたかったが、体は動かなかった。
 その身に苦しみを与えてやりたかったが、能力(ちから)は出せなかった。
 老紳士のカエルのような顔が、愉悦に歪みながら僕の指に指輪を通していくのを、見ていることしかできなかった。

 悔しかった。僕が一生懸かっても手に入れられないような宝物を、あっさりと手放してしまえる人がいることが。そんな不公平が。そしてそれをはねのける力もない自分自身が。
 僕は涙だけは流すまいとこらえながら、重い体を動かそうと必死に頑張っていた。絶対に、心まで屈してなんかやるもんか……!! これを今たたき落とす力が無いというなら、いつか、絶対に、それ以上の力を、金を、暴力を手に入れて、これをその鼻づらに叩きつけてやる……!!

「おや、アレッサンドロさん、こんにちは」

 立ち上がった老紳士は、僕の後ろに視線を向けた。
 暗い怒りが満ちていた僕も、吸いつけられるように視線が後ろに向く。そこにいたのは長身の、まだ若い男性だった。

「ああ……キャンベル議員、こないだの当選記念パーティ以来ですね。どうですか、その後は?」
「……あなた方の組織には感謝していますよ……あの資金援助がなければ、今回ばかりは厳しかったかもしれませんからね。もちろん、私に出来ることがあればなんなりと仰って下さい」
「ええ、ボスにも伝えておきましょう」

 その様子を見て僕は驚いた。
 さっき僕にあんな宝物をほいっと渡した、あの老紳士が、まだ三十を超えた程度の、きっと彼よりもずっと年下の男に、媚びるように頭を下げているのだ……!
 大きな衝撃が僕を襲った。
 一体、この男は何なんだろう……?

「……ところで、そこの少年はなんです?」
「ええ、コレはですね、先ほど私の財布を摺ろうとした少年でして……あまりに哀れなんで、指輪でも恵んでいたところですよ。んっふっふ……」
「なるほど、スリですか……まあそういうことでしたら、私がついでに警察まで連れて行きましょう。これからどうせ警察に行く用事がありましたのでね」
「おや、そうですか? でしらたお願いしますよ」
「ええ、それでは」

 そういって、男と老紳士は別れた。
 老紳士はボディーガードを従えて道を下って行き、男は私の傍に立つと、荷物を運ぶのと変わらない感じで僕を肩に担ぎ歩き始めた。

「ちっ……悪趣味が……」

 男がそんな呟きを洩らしたことは、はっきりと聞こえた。





 襤褸雑巾のように痛めつけられた僕を連れた男は警察に行くと、下にも置かないVIP待遇で連れて行かれた。なんせ署長自らのお出迎えだ。
 僕はというと、男の事情説明を受けた警官たちによって拘置所に連れて行かれた。同じく犯罪を犯したと思われる顔つきの悪い男たちが数人、それと顔に白い布を被せられた―――おそらく死体―――が一人分あった。

「ほらっ、てめぇはここに入ってろ盗人野郎」

 どんなに殴ってやりたくても、痛めつけられた体では難しい。もしも体が動くなら、一対一の勝負なら絶対に負けないのに……!!
 あからさまな侮蔑の視線を向けてくる警官たちに僕が出来ることは、睨みつけるくらいだった。

「はっ、なんだよ、ガキ。犯罪者の分際で、警官様にその反抗的な目つきはなんだ?」
「もしてめぇが拘置所の中で死んだところで、こんなスラムのガキ一人くらいどうとでももみ消せるんだぜ?」

 見張りの警官二人は高らかに笑った。
 僕の命なんて虫と大して変わらないのだと、そう嘲っていた。

「ふほほ、まぁ、確かにどうにでもなるが、それでも面倒なことには変わりないんだよ。勝手な真似はするんじゃないぞ、二人とも」
「あ……し、所長!?」
「こ、こんなところに? それに、アレッサンドロさん!?」

 入口から入ってきたのは、先ほどのアレッサンドロという男と、目の前の警官たちより明らかに上質の服を着て勲章のようなものを着けた、小太りの中年だった。
 この警察署長もまたアレッサンドロという男と親しげに、ともすれば媚びるように接している。

「いや、なーに、アレッサンドロさんが今日のあの事件の確認をしたいというんでな。こっちでいくらでも処理できるといったんだが、念のためと仰るので来て戴いたんだ。おい、あのホトケは?」
「あ、はい。そこにあるのがそうです」

 警官の一人が指さしたのは、先ほどから拘置所の片隅に放置されていた死体だった。

「顔を見ても?」
「ええ、どうぞ」

 アレッサンドロはそっと白い布を取った。
僕の位置からは死体の顔がはっきりと見えて、思わず叫びそうになっていた。

 ―――父……さん!!?

 それは顔の真ん中を撃ち抜かれて血濡れになった、しかし見間違いようのない父の顔だった。

「今日の昼過ぎ、酒場で酔っていたこの男とうちの組員の一人が喧嘩になり、こいつを撃ち殺した……聞いている話で間違いはないな?」
「まあ、そういう話もあったかもしれません……ですが、そんな事実(・・)はどこにもありませんね。この男は不運にも酔った足を滑らせ、階段から落ちただけです。つまりは事故ですな」
「そういうことになる。話が速くて助かるな」
「なに、この町の治安を守るものとして、当然の判断をしたまでですよ……ふほほほほ」

 僕はその話を聞いて、父の死を悲しむよりも先に憧憬した。もともと父なんていつか捨てるつもりだった相手だ。それが死んだかどうかなんて大した問題じゃない。
 だけど、その男の持つ力!! 人を殺しても罪に問われることなく真実を闇に葬り、金持ちの議員すら頭を下げ、地位のある警察署長すら媚び諂う、その力に僕は憧れた。

 そして悟った。
 僕は今まで勘違いしていた。僕が今まで、世界を支配するものだと思っていた金や武力なんていうのは、所詮ただの手段に過ぎなかった。ただの道具に過ぎなかったんだ!
 それらを統べるのが、権力!! 権力のあるところに金が、武力が集まり、金や武力を得た人間はさらにその権力を増す。

 あの老紳士は屈強なボディーガードを連れていた。あの男たちはその気になれば紳士をすぐに殺せるだけの武力を持っている筈だ。けれど、そんなことをしようとは思わない。何故か? 彼は金を、権力を持っているからだ。
 そんな老紳士も目の前のこの男には媚びた。何故か? この男が、それを上回る力を、権力を持っているからだろう。人を殺しても構わないほどの、圧倒的な力を……!!
 あの力が、欲しい……!!

「んー? おい、餓鬼、てめー何物欲しそうな顔でアレッサンドロさんのこと見てやがんだよ」
「それとも、知った顔でもあったか? お、もしかしてこのホトケてめーの知り合いか?」
「はっ、もしそうなら残念だったなぁ。こんな碌でなしの貧民なんか、死んだところで誰も気にしねえよ。迷惑かからねえように消されるのさ」
「お前もいつかそうなるかもなぁ。くかかかかかか……」

 しかし、今の僕はこんなカスどもにも見下されてしまう。
 そのことが堪らなく腹立たしい。耳障りなその声が、目の前の現実を見ろと言ってくるようで苦しくなる。
 そんな思いをねじ伏せるように、僕は強く意志を保とうと憎悪で心を満たしていった。

 五月蠅い、このカスどもめ……!!
 僕は絶対、将来偉くなって、お前らのことなんか見下してやるんだ……!!
 この指に嵌められた宝石を、何のためらいもなく叩き壊せるくらいに……!!

 どこから力が湧いてくるのか、それまでまるで動かなかった腕に握力がこもった。
 血がにじむほど強く手を握る。
 零れた血は指を伝い、紅いガーネットをさらに艶やかに彩った。

 そうして、強く念じた。
 お前らなんか、死ね!!

「う、ご、ぐ、あああああああああああああああああ!!!」
「い、いで、あ、ぐぎ、うぐぅぁああああああああああああああああああ!!!!」
「……ほぅ」
「な、何だ!? お前ら、急にどうした!?」

 今までの能力(ちから)からは考えられないほどの凄まじい反応!
 二人の警官は、突如胸を押さえて床を転げ回り絶叫した。
 こ、これは―――能力(ちから)が、強くなってる……!?

「む、胸がぁあああああああ!! つ、潰されるぁあああああああああああああああ!!!」
「ひ、ひぎゃああああああああ!! い、医者を……!! 早く……!!」
「あ、ああ、判った!! 待ってろ、すぐに―――」
「いや、その必要はありませんよ、署長」

 一歩踏み出したのはアレッサンドロだった。
 常人には理解できないはずの力を持つ僕を恐れもせずに、まっすぐにこちらに進んでくる。
 だが僕には自信があった。今の強くなった能力(ちから)なら、きっと上へ登ることもできると思った。
 だから手始めに、目の前の強い男を消してやろうと思った。

 馬鹿め、邪魔をするなら、お前から死ね―――!!

 意識の中心をその男に移し、再び強く念じた。
 それで、お終い。どんなに強い権力を持つこの男も、床で無様に転げまわるはずだった。
 しかし―――

「ふん」

 男は軽く右手を振るうと、何事もなかったかのように歩みを再開した。
 な、なぜ!!?
 想定すらしなかった事態に、僕の思考は慌てふためく。再びその能力(ちから)を男目がけて放った。
 だが何度やっても、男が軽く手を振るだけで僕の力は発揮されない。男の歩みを止めることすらできない。男は無人の荒野を行くように、悠々と近づいてくる。
 そうして僕の傍まで辿り着いた男は、僕の襟を掴んで思いきり頬を張った。
 今までのどんな暴力よりも痛いそれに、僕は必死で意識をつなぎとめるしかなかった。
 ぐらぐらと揺れる視界の中、男の面白そうな声だけが聞こえてきた。

「無自覚に能力を発現したのか……面白いな。だがまだまだ使いこなせてはいない。まあ仕方がないが……」

 男は懐から何かを取り出して、こちらに放ってきた。
 回復したらしい警官たちが驚きの声を上げる。焦点が定まらない僕にはそれがなんだかわからない。
 けれど必死でそれを睨みつけて、驚いた。それは信じられないほどの一万ジェニー札の束だったのだから。

「お前にその能力(ちから)の使い方を教えてやる。生きる理由と、生きる場所、そして金と力を与えてやる。だから、俺についてこい」

 敗北の苦みに目の奥が焼けつきそうだったが、その言葉は天啓のように心に響いた。
 力が、手に入る。のし上がるための機会が目の前にぶら下がっている……!
 否という心算はなかった。
 僕は躊躇いなく頷いていた。





「ハッ……本当に、何の意味もない感傷だ」

 思い出したところで、何が変わるわけでもない下らない過去。
 あの日の自分はもういない。今の私ならば人の死くらいいくらでももみ消せるだけの権力がある。

 あの日嵌められた指輪は、今も私の指に輝いている。
 それを見るためにあの日の悔しさが蘇り、どこからか力が湧いてくるのだ。

 私はまだまだ上に行く。そのためには何でもする。
 そしていつか頂点に立った時、この指輪は捨てよう。
 あの日に決別するために。あの日見た夢に浸るために。

 ああ、そのためにはやらなければならないことは多い。
 まずは、顧問に言いつかったゴミ掃除の準備をしようか。

 私はソファーに体を沈めて、思考を纏めていった。

 もう酔いは残っていなかった。










〈後書き〉

注意、この作品はフィクションです。実在の人物・団体・警察の皆さんとは何の関係もありませんのでご注意ください。
……いや、実際の警察の皆さんはいい人ですよ?
さて、番外編を上げてみました。正直一番難産だった……カーティスの過去編。権力欲に取りつかれた貧民の少年の話です。
今の自分での精一杯で書いてみましたが、正直満足のいく出来にはならなかったかもしれない。いずれ機会があれば書き直すかもしれません。
ひとまず、今後の展開へのつなぎとして入れておきます。
それでは、また次の機会に。



[3597] アゼリアと重要任務
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/04 23:12
 グラス一杯に注がれた水。その上に、そっと一枚の葉を乗せた。
 水面が揺らぐことのないように、静かに下がる。後ろで緊張した面持ちでこちらを見ているハルカに準備が整ったことを伝えて、場所を譲った。

「いいか、リキむんじゃないぞ。力は入れて、しかし無駄のないように、だ」
「わ、判ってるわ……」

 全然判ってないよなぁ、と苦笑してしまうが、何も言わずに見守ることにした。
 壊れやすいガラス細工に触るように、そっと彼女は手を翳す。

 ―――「練」!!

 コップから、ちょろちょろと水が溢れた。

「おお、やったなハルカ! どうやら君は強化系のようだ!!」

 強化系は六つの系統の中で最も攻守のバランスがいい。
 戦闘に携わる者としては強化系の技は必ず必要になる。羨ましい限りだ。
 だが、ハルカは何故か浮かない顔だった。

「どうした、ハルカ……? な、何かあったのか?」
「……なんで?」
「へ? な、なんでって……何が?」

 俯いたまま、ハルカは震えている。
 これは何か、重大な問題でもあったのか? 私が見ていた限りでは、そんな風には全く見えなかったのだが……
 ハルカが顔を上げる。
 その顔は悲壮で、信じていたものに裏切られた子羊のようだった。

「なんで特質系じゃないのよーーーーーーっ!!!」
「アホかぁぁぁぁああっ!!」

 スパーン、と新聞紙で作ったハリセンで頭を引っ叩いた。
 最近お馴染みになってきた光景だった。





「うー……いたーい……」
「お前が悪い」

 ハルカは今ソファーに横になってうんうん唸っている。
 最近では「練」なども様になってきたので、私がひっぱたく時は「練」でガードするようにと言ってある。当然私のハリセンには「周」が施された状態だ。
 だがまだ「練」を即座に実行できるほどの能力はなかったらしく、私がハリセンを一閃するたびにこの様というわけだ。とりあえず何事も練習だ。

「そもそも、お前は勘違いしている。特質系というのは、ただ他の五系統に属さない性質をもっているというだけで、言うならばその他系統だ。修行法は個人差があるため確立されていないし、そのオーラの性質によっては応用の利かない不便な能力を強いられることもある。はっきり言って損な系統だ。君が知っている特質系能力者がどんな能力なのかは知らないが、特質系は万能なんかには程遠い。そこのところを間違えるな」
「う、うう……」
「大体強化系の何が不満だ? 強化系はある意味では最も理想的な系統と言えるんだぞ?」
「だ、だって……単純一途って、誉められてる気がしなくって……」
「単純一途? なんの話だ?」

 時々ハルカはよくわからないことを言うが、それももう慣れたものだ。なにしろハルカがこの家に住みだしてもう四か月近くの時が経ったのだから。
 今は三月、季節は春。そよ風が心地よくなった季節である。

「いいからほら、寝ている暇はないぞ。早く起きろ起きろ。残りの修行をこなしてしまえ」
「うー、アゼリア厳しいなぁ……」

 不満を言いながらもハルカは大人しく立ち上がった。ここに来た頃は考えられなかったことだ。何しろランニングがいやで逃げ出したことがあったのだから。

 秋の暮、あの喧嘩別れして、その後ハルカが謝った日。私もまた彼女に対する態度を改めることにした。
 彼女を自分に守られる存在に押し込めようとするのではなく、彼女の意思を尊重するべきだったのだ。
 大切なのは、自らの意思で選択し、そこに向けて努力すること。ならば私が彼女にしてあげることは、その目標に到達できるよう手助けをすることに他ならない。
 旅団に会いたい。ゾルディック家に会いたい。私にはまったく理解できない望みだが、彼女がそれを選ぶのなら構わないではないか。そこで私の予測する最悪の事態が起きないように、できる限りの修行をつけてあげることにした。
 ハルカもあの時はかなり反省したらしく、修行に文句を言うことはあっても、サボったり手を抜いたりすることはなくなった。今も私を背中に乗せて腕立て伏せをしている。「練」をした状態とはいえ、筋力も結構ついてきた証だろう。まだまだ彼女の「練」にはタメの速度も力強さも安定性も足りないが、それでも確実に力はつけてきている。

「九十九、ひゃーく! アゼリア、終わったよ、どいてどいてー」
「ん、ああ、すまない。じゃあ次行くぞ」
「はーい」

 右手を翳す。そして「陰」をしたまま次々とオーラで文字を形作っていった。

「3、7、A、2、Q、X、4、1……」

 意外だったのは、ハルカは「凝」が殊の外得意だったということだ。
 目を凝らすのと同じくらい自然に「凝」をする。それは戦闘において必須の技術であるが、始めから出来る者はほとんどいない。それを彼女はあっさりとクリアした。十分すぎるほど合格点だ。
 「凝」が得意ということは「流」も得意ということ。彼女はまだまだオーラの総量が足りなすぎるので「流」の訓練はさせていないが、この分だと「流」に関しては私もあっさりと抜かれてしまうかもしれない。
 「流」の戦闘における重要さは計り知れない。確かに潜在オーラ量、顕在オーラ量は戦闘において重要なファクターだ。単純にぶつかりあえばこの二つが勝っている念能力者が勝つだろう。
 しかし、戦闘で本当に重要なのは体全体を覆うオーラの量ではない。相手の攻撃箇所、または防御箇所とぶつかりあう自分のオーラが、相手のオーラよりも勝っていればいいのだ。
 すなわち「流」でオーラを必要な箇所に的確に集めることさえできれば、オーラの総量のハンデを覆せる。格上の念能力者にも勝ちうるのだ。
 まぁ、そうは言っても「硬」で集めたオーラですら相手の「堅」を破れないようでは意味がない。総オーラ量が未だ少ないハルカでは、戦闘などまだまだ先の話だが……

「よーし、とりあえず終わりだ。残りは帰ってから。ほら、早く行くぞ! 今日は二十分だ」
「あー、待って待って! 今準備してるから!」

 慌てているハルカをおいて先にロフトの外に出る。
 ハルカが出てきたのはその数分後で、手には恒例となった大きな包みを持っていた。

「今日は郊外のトンネル工事だったな。急ぐぞ」
「おー!!」

 春の風を割く感覚が心地いい。
 人の少ないこの通りは全力で走っても何も問題が無い。
 目的地まではおよそ六キロ。目標時間にはたどり着けそうだった。





 最近は体力もついてきたハルカはランニングにも音をあげなくなった。
 六キロ程度なら二十分ほどで完走できるようになったし、休日にやらせている五十キロマラソンも六時間を切るようになってきた。

「こんにちは」
「おっはよー、みんなー!」
「おお、今日も来たかねーちゃん、嬢ちゃん」
『姐さん、お嬢、おはようございます!!』

 そう、あの監督のもとで今日もアルバイトをさせてもらっているわけだ。
 体力がつくし、修行もしながらお金が稼げる。これ以上の環境はない。
 ハルカがお金を自分で稼ぐといった言葉に偽りはなく、しっかりと休むことなくこのバイトを続けていた。

「あ、監督さん、これ今日の分です」
「おお、いつもいつも御苦労さん」

 ちなみにハルカが持ってきた包みは全員分の弁当だ。
 あの一日以来、我が家の厨房はハルカに任せきりになっている。ハルカ曰く「アゼリアが栄養失調にならないよう見張ってるのよ!」とのことだ。私としてはありがたいので任せている。意外と彼女の料理はうまいのだ。しかも食費はハルカ持ち。正直頭が上がらない。
 で、そんなハルカは監督さんと交渉して、現場のみんなのぶんの弁当を用意してこようと言いだした。妹か娘が弁当を作ってくれるようで悪い気分じゃない現場の皆さんは大賛成し、ついにハルカによる現場作業員への餌付けが始まった。ハルカがお嬢と呼ばれているのはそのためである。ちなみに対価として食費分を給料に上乗せすることになったらしい。割増請求していることを知っている私としては若干心が痛む。
 まぁ、みんな喜んでいるみたいだし、いっか。

「よーし、そんじゃあ今日も気張っていくぞてめーら!!」
『押忍!!』

 さて、今日もお仕事の始まりだ。





「……ん? アゼリア、あれってスミスさんじゃない?」
「ああ……確かに、スミスだな」

 作業を開始してから二時間ほど経過したとき、現場の近くに黒塗りの車が停車して、見知った顔が降りてきた。
 きょろきょろとあたりを見渡して、こちらの姿を認めると大きく手を振っている。何だろう……?

「何か起きたのかな……? ちょっと行ってくる」
「ん、行ってらっしゃい」

 作業途中だが、ひとまずそれは中断してスミスのところへ駆け寄った。

「何かあったのか、スミス?」
「あ、アゼリアさん、おはようございます! えっとですね、カーティスさんがアゼリアさんを(ファミリー)の屋敷にすぐに連れて来いって言ってまして、お迎えに来たんす。乗ってくれますか?」
「何……? (ファミリー)の方に? ……ちょっと待ってくれ、監督に断ってくる」

 監督とハルカに仕事を早退しなければならない旨を伝え、私は車に乗り込んだ。
 私の表情から何かを察したのか、二人とも何も言わずに送り出してくれた。
 バックミラーに映った私の顔は強張っている。自分でもそれなりに緊張しているのが判る。
 なんせ(ファミリー)の屋敷に呼び出されるなんて随分と久しぶりだ。
 一体何が出てくるのか……
 鬼も蛇も出て欲しくないものだ。





 ボルフィードファミリーの本拠地と言える屋敷は、ヨークシンシティから若干離れた場所にある。
 ヨークシンシティは言わずと知れたドリームオークションの開催地であり、それと同時期に行われるマフィアン・コミュニティー主催の地下競売アンダーグラウンド・オークションはマフィアの一大イベントとも言えるものだ。そのため一年に一度だけはヨークシンシティはコミュニティーの管理下に入る。ボルフィードファミリーはこの近隣一帯をシマとしている巨大なマフィアだが、ヨークシンに関してはあくまでオークション期間以外の平時の管理を委任されただけに過ぎないのだ。
 スミスの運転する車に揺られること数十分。見えてきた屋敷は流石に豪勢かつ立派なものだった。

「それじゃ、カーティスさんたちはボスの部屋にいると思うっす。自分はここで待ってますんで、行ってきてくださいっす」
「ああ、判った」

 重厚な樫の扉を開ける。見かけこそアンティークな代物だが、実際は最新の警備システムが働いている。指紋認証、パスワード入力、そして屋敷の警備担当者の許可がなければ、屋敷に足を踏み入れることすら出来ない。
 無論私が入ることに問題はなく、一連の手順で入室許可を得ると私はふかふかの絨毯の上を歩き、ボスの部屋へと向かった。館の三階の一番奥にある部屋だ。

 ドアをノックすると、低い声で入室の許可が返ってきた。

「失礼します」

 扉を開けた先は、いつ見ても溜息が出そうなくらい立派な部屋だった。その辺に無造作に置かれた置物一つとっても、私が死ぬ気で貯めたお金を悠に凌ぐのではないかと考えてしまう。
 だがそれ以上の驚きに私は体を強張らせた。何故ならその場にいた人々が私の想像よりも上で、私がここに呼ばれた事態の重さを示しているかのようだったからだ。
 スキンヘッドにサングラスをかけた小柄な男は、サンジ=ボルフィード。このボルフィードファミリー首領ボスだ。
 その横に控えた長身の男はアレッサンドロ=カヴァルロ。ファミリーの相談役を勤める切れ者で、彼自身も優れた念能力者だと聞く。
 そしてその二人よりも一歩引く形でこちらを見ているのが、直接顔を合わせるのは久しぶりの、出来れば一生会いたくない男。どこか蛇じみた顔つきのそいつが、私の上司のカーティス=オルホフだ。

「おう、来たな。こっちもちょうど話が纏まったところだ。おい、カーティス。説明しろ」
「はい、判りましたボス。で、アゼリア、これはあくまで任務を伝えるだけなので、硬くなる必要はないですよ。その馬鹿な頭で指示を聞き逃されたらたまりませんからね」

 確かに私は随分と緊張していたようだった。
 任務以外の―――たとえば、ヴィオレッタについてとか―――話でもあるのかとさえ思っていたため、任務の話と聞いて幾分肩の荷が下りる。だが普段は電話で済ませている任務説明が今回は呼び出しとは、一体どんな任務なのだろう。

「順を追って説明しましょう。まず、半年ほど前から麻薬の消費量とファミリーへのアガリが釣り合わないということが判りまして、それについての調査を私は行っていました。といってもこのときはまだ、一部をどこかの馬鹿がちょろまかしている程度の話だろうと考え、締め上げておこうという程度の話だったのですが、最近新たな情報が入りましてね。麻薬販路の管理責任者、ギュンターのことですが、彼は実際に売上の一部を誤魔化して私腹を肥やそうとしただけでは飽き足らず、ファミリーには無断で麻薬を他のマフィアに横流ししようとしているらしいのですよ。その情報の裏付けはまだ取れていないのですが、本当だとすれば早急に手を打つ必要があります。時間はありません。なにしろ三日後に最初の取引が行われるという情報を掴みましたからね。そこで、あなたはこの取引を潰し、首謀者であるギュンターを捕えてきなさい」

 これは、確かに電話では聞かせられないような重大な仕事のようだった。
 その話が本当ならば、ギュンターの行為は(ファミリー)への重大な背信行為だ。組織の内部問題などできる限り表に出すべきではない。
 ボスは怒りに身を震わせて、声を荒げた。

「あのボケが、何が最悪かって、取引の相手があのインチキ野郎のノストラードなんだよ!! 占い女にケツ振らせてるだけでも我慢ならねぇってのに、ヤクにまで手を出そうなんざ許せるか!! それをうちのもんが手引きするだとぉ……!? ぜってぇに捕まえて来い! 生まれてきたことを後悔させてやる!!」

 気炎を吐くボスを、アレッサンドロはなんとか宥めた。

「だが、情報の真偽は出来る限り正確に確かめておきたい。無実の奴を消したとなったら、ファミリー全体の統制に影響するからな。なので、お前にはギュンターが本当に裏切っているのか、出来る限りの情報を集めて欲しい。まあ、これについてはそこまで期待しておらん。後々問題が起こらないように、予め万全を期しておきたいというだけのことだ。大切なのはこの取引を潰すこと。ギュンターがシロと証明できる情報でも出てこない限り、殺れ」

 アレッサンドロの声は淡々として、冷たい。
 何の感情も浮かばせずに死を命じるその口調は、思わず背筋が寒くなる。

「はい、了解しました。情報の裏付けを可能な限りとり、取引を不可能にすればよろしいのですね」
「ついでだ、ノストラードの命も殺れそうなら殺ってこい!!」

 そんなことをしたら組織間の問題につながるのではないかと思ったが、それは上が考えることだろう。私が気にすることではない。
 どうせ、どんな命令にも逆らうことは出来ないんだ。ならば私は全力で指示を全うするだけだ。

「それではアゼリア、任務に関するより詳しい情報を与えます。着いてきなさい」
「はい。それでは失礼します」

 残されたボスと相談役に一礼して、その場を去った。





 ボスの部屋を出てから、詳しい情報を説明する場所を捜し出したカーティスを見て、私は何か不自然さを感じた。
 まるで隠れるように、人気のない場所を探していく。
 確かにこの任務は内部の問題だ。尻尾をつかむ前にギュンターに逃げられては元も子もない。人気のない場所を探す必要があるのは判る。だがそれならばボスたちに場所を用意してもらえばいいのだ。何故わざわざ部屋を探しているのかと、小骨がのどに詰まった程度の違和感を感じた。

「ああ、ここでいいですね。ここにしましょう」

 結局選んだ部屋は、普段は倉庫として使われていそうな埃っぽい部屋だった。
 乱雑に置かれた資材を掻き分けて、入口からも目につかない奥へと入っていく。
 やはり、何かおかしい―――
 この任務はボスの了解を得ている。ここまでこそこそとする必要はない。だというのに、なぜカーティスはこのような場所を選んだのだろう……?

「さて、任務の説明をする前に、一つだけ言っておくことがあります」

 カーティスは適当な資材の上に腰掛けると、唐突にそう切り出した。

「ボスはああ言っていましたが……この任務で、絶対に、ノストラード組の親子―――特に娘の方を傷つけることは許しません」

 その強い物言いに少し驚いた。ボスの命令を無視しろということだろうか?

「……それは、ボスの意思に反しても、ということですか?」
「ボスはあのようなこと本気で言ったのではありません。彼女の占いには十老頭たちですら心酔している方もいます。それを傷つけたとあっては、我々はお終いです。そんなことも判らないのですか?」

 確かに、それは理解できる。私自身疑問に思った点だ。
 だが私にとって重要なのは妹に被害が及ばないよう気を付けること。組織の命令に逆らうな、ということが条件なのだから、この場合はどうすればいいのだろうか……

「……私は、組織の命令に従うだけです。ボスがおっしゃったならば、それは―――」
「―――うるさいですね。貴方は了解しましたとだけ言っていればいいのですよ。それともなんですか、まさか妹さんがどうでもよくなったと?」
「……」

 違和感は先ほどとは比べ物にならないほど大きくなっていた。
 焦り、だろうか。カーティスの言うことは尤もらしいが、その裏に隠された感情があるように思えた。カーティスが私に妹のことを直接的に仄めかすのは、彼にとってその物事の重要性が極めて高い時だ。
 ノストラード組の娘と何かあるのだろうか? だが違和感をいくら感じても、私の取るべき態度は一つしかなかった。その言葉を出されては選択の余地などないのだ。

「……ええ、了解しました。私は決して、ノストラード親子を傷つけはしません」
「ふん、初めからそう言っていればいいのですよ、愚図が。では、説明に移りますよ」

 もやもやとした思いを抱えながらも、私は説明を聞いていた。
 カーティスの弱みを握ることができれば、そしてそれが致命的なものであるならば、私にとっては非常に大きなメリットとなる。
 その後のヴィオレッタの処遇にすら関わる重大なものとなりうるからだ。
 だが、下手な詮索は身を滅ぼす。それがバレた時に被るリスクを考えると、ここでの追及など出来る筈もなかった。その時この男の毒牙に襲われるのは、きっとヴィオレッタなのだから。

 新たに伝えられた情報を纏めると次のようなことらしい。
 ギュンターは今年の頭、仲介人を通じてライト=ノストラードと面識を持った。
 ネオン=ノストラードの占いで勢力を伸ばしてきたノストラード組は、占い以外の業務にも手を伸ばしより広範な活動をしたいと考えた。しかし急激に勢力を伸ばしてきたために、裏世界の多くを牛耳る古株のマフィアたちからはいい顔はされない。例えばうちのボスのように。そのため未だ十分なコネクションを持たないノストラード組にとって、安定的に麻薬などを供給してくれるパイプは喉から手が出るほどにほしかった。
 それは私腹を肥やしたいと考えているギュンターにとっても渡りに船だった。ノストラードファミリーに麻薬を横流しする代わりに、万金の価値ある権利をギュンターは求めた。すなわち、未来の情報。ネオン=ノストラードの占い顧客に、無料で加えてもらえることになったというのだ。
 そしてノストラードファミリーはその条件を呑んだ。そしてその後も秘密裏に交渉をすすめ、ついに三日後、最初の取引が行われるらしい。その内容は一億ジェニー分のコカインの取引。そして取引の場でネオン=ノストラードによる占いが行われるというものだった。互いの信用を作るための取引ということだろう。
 場所はロームタウン。ボルフィードファミリーのシマの端にあたる場所だ。ハルカにランニングをさせている場所でもある。その郊外にある廃工場で取引が行われる。
 取引に万全を期そうとしているのか、ノストラード組は本日ノームタウンに入ったらしい。そのためこんな急に私に任務が知らされたのだが。ギュンターの周辺を探るのはカーティスやアレッサンドロ氏が行うので、私が情報を得るならば彼らからがベストだ。
 最優先目標、取引を潰すこと、及びギュンターの捕獲。
 その他にも、ギュンターの部下にいる念能力者や、ノストラードファミリー側の能力者の情報がある程度まで調べられていた。
 それらに一通り目を通し頭の中に叩きこんで、与えられた資料を返却した。

「それでは、これで与えられる情報は全てです。後はあなたがその眼で確かめなさい。ああ、それと会わせたい人物がいるので着いてきなさい」
「会わせたい人、ですか……?」
「ええ、新しく私の部下に一人加わりましてね。しばらくの間あなたとチームを組んでもらいます。言うならば研修期間のようなものですね。あなたが無能だとすれば、彼はまだ念能力も覚えたての輪をかけた無能ですが……まぁ、馬鹿と鋏はなんとやらです。愚図同士が集まったところで何ができるとも思いませんが、せいぜい有効に活用してください」

 正直、遠慮したかった。
 使えない相棒なんていても足手まといでしかない。そいつが下手を打てばこちらの身も危険にさらされる。冗談じゃない。
 しかし命令であれば仕方がなかった。溜息だけは隠すことなく吐いて、無言でカーティスについて行った。

「ああ、いましたね。あの無駄にでかい図体をした男がそうです」

 屋敷の広間でソファーに座り寛いでいる男は、なるほど、カーティスが無駄にでかいというのも頷ける男だった。
 アレッサンドロのように無駄のない長身というわけではない。横にも広く、ある意味では筋骨隆々と称することもできるのだろうが、シャツがはちきれんばかりに広がったその肉体は見栄えがいいとは思えなかった。
 顔は……以前戦った能力者の、猩々の念獣を思い出す、どこか獣めいた顔。頭はスキンヘッド。浅黒い肌。いたるところにつけたピアスやトゲトゲの腕輪が、どこかチンピラめいた印象を与える。そして喧嘩でもしたのか、鼻が歪に歪められていてどこか滑稽な顔になっていた。
 「纏」は出来ている。オーラの力強さはそれほどでもないが、まるっきりの覚えたてというわけでもないらしい。そのことは私を少しだけ安堵させた。

 こちらに気づいた男はソファーから立ちあがるとニヤリと笑った。
 自分の力に自信を持つ、不敵な笑みだった。

「フェルナンデスです。こき使ってあげなさい」










〈後書き〉

みんな特質系って大好きですよね。まぁ、原作でのクラピカの絶対時間(エンペラータイム)やクロロの盗賊の極意(スキルハンター)、ネオンの天使の自動筆記(ラブリーゴーストライター)、パクノダの記憶読む能力やネフェルピトーみたいなとんでも能力たちを見ていたら特質系に憧れるのも判りますし、カリスマ性ありとか言われたいですよね。判ります。
でも強化系や放出系も、もっとスポットを当ててあげましょうよ……そんな訳で、ハルカの能力は強化系です。性格的にも単純なので。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 閑話 ハルカの念能力考案
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/05 15:25
 屋敷への呼び出しから帰ってくると、もう夜だった。
 すっかり運転手役となってきたスミスにお礼を言ってロフトに入る。
 リビングのテーブルの上では、ハルカが難しい顔をして紙とにらめっこしていた。

「精が出るな。勉強か?」
「あ、お帰りアゼリア。結局なんで呼びだされたの? 仕事?」
「ああ、そうだ。これから三日くらいは帰ってこれないと思う。明日監督にもそう伝えてくれるか?」
「えー、出張なの? うーん……判った。監督には伝えておくね。いい、ちゃんとご飯は食べるのよ。それと夜はしっかり眠ること。それから―――」
「ああ、判った判った。気を付ける。無茶はしないよ」

 最近のハルカは、食事と睡眠について口うるさく注意してくるようになった。何かの使命感にでも燃えているのだろうか。まるで母親のように振舞おうとする彼女は何となく微笑ましい。普段が子供っぽいというか、聞きわけが無いというか、要するにどこかおバカな分、背伸びしている子供を見守る微笑ましさというか……そんなものがある。もっとも、そういった家族のような相手は私には久しいものなので、助かっているし嬉しくもあるのだが。
 そんなハルカだが、今日は珍しく机にかじりついたまま動かない。頭を抱えて唸っている。

「で、それは何をしているんだ?」
「んー、「発」を考えているの」
「「発」か……確かにそれは考えておいて損はないが、念能力というのはフィーリングが重要だ。頭で考えるのもいいが、ふとした時に自分に合ったものがひらめく時もある。あまり悩んでも仕方がないぞ?」
「いやー、私に合うってことは判ってるのよね。問題は、どれにしようかってことで……あ、ちなみにアゼリアは自分の能力どうやって決めたの?」

 自分の念能力を決めた理由、か……はて、なんだったかな。
 私が念能力を覚えたとき、そのころに思いを馳せると、ゆっくりと当時のことが浮かび上がってきた。

「確かな、私が念を覚えたのは七歳の時で、そのころ私は別に武術の心得も何もない小娘だった。しかし私には闘って生き残れるだけの能力が必要で、そのためにはそもそも相手と戦闘にならないことが必要だったんだ。正面からぶつかりでもしたら一瞬で殺されるからな」
「う……なんか、いきなりヘビィね」
「まぁ、それは仕方ない。で、続きだが、相手と戦闘にならずに殺すための方法は暗殺か奇襲だ。そしてそのために必要なのは、相手の攻撃の届かない遠距離から、相手に気づかれずに致命傷を与えられる能力だった。幸い私は放出系だったので、遠距離から攻撃するための条件はあらかじめ満たしていたから、ならば相手に気づかれない攻撃というのはどうしようかと考えたんだ。ただ気づかれない攻撃というだけだったら、多少制約をつけて「陰」を併用すれば何とかなるんだが、オーラの総量が少ない当時の私でも致命傷を与えられる能力となるとそうそうなくてな。どうしようかといろいろと悩んだ」

 だんだんと思いだしてくるあの当時の記憶。一日中訓練をさせられボロボロになりながらも、必死で生き残るための策を考えていた幼い日。あの頃に比べれば、身体も出来てオーラの総量も上がった今は大分楽になったと言えるかもしれない。

「たとえば、見えない念弾を作り、超長距離からの狙撃をしようかとも思ったんだが、確実に仕留めるためには相当の精度が必要になるし、見えないだけなら対処は可能だ。しかし気配もないような念弾を作ろうとすると、相当厳しい制約を付けるか、威力を犠牲にするしかない。それはどちらも望ましくはなかった。あるいは念人形を作りそいつらに戦わせようかとも思ったんだが、操作系でない私ではそこまで精密な攻撃命令を与えられない。ある程度の能力者なら何の問題もなく対処できてしまう。結局そうした能力では、基礎能力を大きく向上させないことには条件が満たせないということになった」

 そしてじっくりと鍛えるだけの時間は私にはなかった。明日にも死が迫ってくるかもしれないのだから。しかし重い制約は諸刃の剣。死ぬわけにはいかない私は、制約による能力の底上げは出来る限り避けたかった。

「そこで考え方を変えてみることにしてな。相手を殺せるだけのパワーを得るんではなく、どうすれば相手を効率的に殺せるかを考えた。はっきり言って人を殺すのにミサイルのような威力は必要ない。頸動脈を掻き斬れば、剃刀でも人は殺せるわけだからな。そうして考え付いたのは、呼吸ができなければ人は死ぬ、ということだった。これは生物である以上覆せないことだ。だから大気を操る能力を作ったわけだ。これならば大気をただ操作するだけだから、オーラの量が少ない当時の私にも使うことができたし、手段もいろいろあった。呼吸を出来なくする他にも、さっきも言ったように頸動脈を掻き斬ってやってもいいし、対象が念能力者でないならば肺をズタズタにしてもいい。そして何よりもこれが重要だったんだが、大気を操作するのに大したオーラは必要ない。オーラというのは「硬」などに見られるように密度が高ければ高いほど戦闘では有利なんだが、私の能力は逆に拡散させることで気づかれないということに重点をおいたんだ。こうしてこの能力が作られた」

 今では修行の甲斐あって、直接戦闘にも対応できるだけの威力を持たせられている。だが当時は酷かったものだ……相手が窒息して回復が不可能になるまでずっと見つからないように物陰で震えていたし、頸動脈を掻き斬ろうとして、威力が弱くて薄皮一枚切るに留まったこともあったし……いま思い出すとよく生きていられたな、と思うようなことばかりだ。

「まぁ、私がこの能力を作ったのはそんな経緯だな。さっきの話とまったく逆ですまないんだが、私の場合はやらなければならないことがあって、その条件を満たす能力が必要だったから、頭で考えていくしかなかったんだ。本当はこのやり方はあまりおすすめできない」
「ふーん……正直、私じゃ参考にできなそうな話だったわ……」

 それはそうだろう。
 むしろ彼女に私を参考にするような生き方をしてほしくない。

「それで、ハルカはどんな能力にしたいと考えているんだ?」
「えーっとね、どんな能力にしようか、じゃなくてどの能力にしようかで悩んでるんだけど……うん、やっぱここら辺かなー」
「ん? もうそんなに考え付いたのか? どれ、ちょっと見せてくれ」

 ハルカの考えた能力がどういうものか、私としてもちょっと興味がある。
 ハルカがいろいろ書きこんでいた紙を手に取った。



 『世界(ザ・ワールド)
 圧倒的な攻撃力と動きの精密さを併せ持つ念人形を作り出す。本体から十メートルほどしか離れることは出来ない。時間を約九秒停止させ、自分だけはその世界で自由に活動することが出来る。制約として、念人形へのダメージは自分にも跳ね返る。

 『天照(アマテラス)
 視認した対象を燃やしつくすまで決して消えない、漆黒の炎を呼び出す。

 『氷輪丸(ひょうりんまる)
 具現化した刀が氷の龍を呼び出す。四方に絶対零度の冷気をまき散らす、氷雪系最強の能力。

 『王の命令(ギアス)
 対象と直接視線を合わせることで、いかなる命令をも聞かせることのできる絶対遵守の力。一人に一度しか使うことが出来ない。

 『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)
 念空間に繋がる鍵。念空間から様々な特性を持った宝具を高速で射出し攻撃する。射出される武器は様々な特性を持ち、その威力もまた武器の特性に左右される。



 その他にも、色々。
 とりあえず、ハリセンで叩いておいた。

「いったー……何よ、アゼリア! いきなり人のこと叩いて!!」
「何よ、じゃない!! なんだこの滅茶苦茶な能力は! しかも五つも!! こんな能力を作れるか!! そもそも君は強化系だろう! この王の命令(ギアス)というのなんて操作系の能力だし、氷輪丸(ひょうりんまる)というやつなんて具現化とはっきり書いてあるじゃないか!! 根本的に系統が違いすぎる!!考えるなら考えるで、自分の系統にあった、もっと現実的に作れそうな能力を、精々三つくらいにしておけ!!」
「うう……どれもこれも、ちゃんと原作があるのに……それにクラピカくんは五つ能力作れてるし……」

 相変わらずよく判らないことを言っているハルカだが、私は久々に頭痛がしてきた。
 明らかに無茶のある能力だろう、これは。どれほど重い制約が必要になるのか想像もつかない。
 念能力は結局のところ人間のなす業だ。修行と制約によってある程度の能力は作ることができるが、人間の限界を超えた能力を作ることは出来ない。例えばこの天照(アマテラス)とかいうのはなんだ? 決して消えない炎? そんなありえないものが作れるか。
 とりあえず、ハルカに念能力のことを一任させていては駄目だということが判った。

「ったく、「発」なんてしばらくは考えなくていい!! 今は基礎能力をじっくり上げろ!! 強化系は「練」と「纏」を極めていけば十分強力なんだから!! さぁ、立て! まずは「練」を維持したまま腕立て二百回!!」
「いやー!!! そんなにー!!?」

 夜の街に、ハルカの悲鳴が響いた。










〈後書き〉

夢小説とかで、明らかに強力すぎるとんでも能力が、ほとんど制約もなく何個も出てくるのを見て思ったこと。
うん、それ無理。
そんな欲張るなよ……って思うことが多々あります。
パワーバランスを明らかに崩壊させるような最強主人公はよくないと思う今日この頃。



[3597] 憧憬
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/24 22:05
『あー、このワンピかわいい~!! あ、でも色こっちの方がいいかな? どう思う、エリザ?』
『どっちもお似合いだと思いますよ、お嬢様。でも、どちらかと言えばピンクの方がお似合いです』
『うーん、悩むな~……いいや、両方買っちゃお!!』

 聞こえてくる会話は、終始そんな暢気な少女のものだった。
 あまりに平和なものだから、こんなストーカーまがいの行動をしているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。春の陽気がぽかぽかと暖かい。いっそこのまま昼寝でもしてしまいたいが、任務中とあってはそんな訳にいかなかった。時刻はもう午後三時。朝からずっとこの調子で私は少女の後を尾けている。百メートル先の服屋で彼女が次々と侍女に服を渡していくのを見て、よく飽きないものだと感心してしまった。
 ちなみに私は今、普段よりも上等な仕立てのスーツとメガネ、それにウィッグをつけて化粧を施し、キャリアウーマン風に変装している。そして対象である少女から離れた喫茶店で新聞を読みながら、彼女たちの会話に耳を傾けていた。「大気の精霊(スカイハイ)」を彼女たちの周りの大気に施し、その大気の振動に私の耳元の大気を同調させることで、あたかもそこに自分がいるかのように音声を拾えるのだ。私の能力は本来はこうした諜報や、姿を見せない暗殺、奇襲に向いている。これだけの距離があれば、少女に付き従う護衛たちにばれることもまずない。本領発揮である。もっとも拾える会話の内容がこの程度ではさしたる意味もないが。それでも会話のどこかに重要な情報が隠されていないかと神経を傾けなければならない。努力の割に報われない仕事だと思う。
 ちなみに、不本意ながらチームを組まされることになったフェルナンデスにはノストラード組の宿泊しているホテルの監視をさせている。流石に部屋の内部の様子を探れるとは思っていないが、ノストラード組の関係者がホテルから外出したら電話で報せるよう言っておいた。もっとも、未だに電話は来ないが。

「……はぁ」

 しかし、はっきり言ってこのままでは何の成果も得られない気がする。
 少女―――ネオン=ノストラードは今回の取引の中心人物の一人の筈なのだが、彼女はまるで普通の少女のように買い物を楽しんでいる。
 凄腕の占い師にして、闇社会の要人。ノストラード組のボス、ライト=ノストラードの一人娘。カーティスに見せられた資料にはそう書かれていた筈だが、彼女は今回の取引には噛んでいないのか? いや、そんな筈はない。取引には彼女の占いが含まれていたはずだ。だが、それならば組の今後を左右しかねないほどの取引に何らかの気負いとか、そう言った反応を見せるのではないだろうか。あれではただの観光だ。

 もっとも、組の指示には従っているから文句を言われることもないし、現状では命の危険があるわけでもない。私としてはこのままでも一向にかまわないので、それ以上の考察は止めた。私が考えても詮無きことだ。
 読むふりを続けていた新聞をテーブルに投げ出して、冷めてしまったダージリンを一口飲んだ。

 鍛えられた視力には少女の幸せそうな笑顔がはっきりと映っている。
 侍女たちに服の相談をし、侍女たちは軽く意見を述べる。そんななんでもないやりとりが実に楽しそうだった。任務が現状あまりに平和だから気が緩んでいたのだろうか。私はその様子を羨ましいと、そう思っていた。
 私だって、そんなものとは全然縁がなかったが、一応まだ十八歳の女の子だ。
 街で通り過ぎる少女たちの可愛らしい服装を見ると、時々羨望を覚えてしまう。そして自分の安物のスーツを見て、どうにも惨めな気分になるのだ。スーツを選んだのは、これならばどの場に出る時も使えるので服代が削れるというだけの理由なのだから。
 彼女たちを見て、ちくりと胸が痛む……

「っ! 馬鹿か、私は……」

 そんな下らない考えを、頭を振って否定した。
 優先順位を間違えるな。何をすべきかを考えろ。そう自分に言い聞かせる。私が今何よりも優先すべきは、ヴィオレッタの治療費を稼ぐこと。先はまだまだ長く、無駄に過ごす時間も無駄に浪費する金もない。だというのに、そんな服だなんて、下らないことに―――

 けれど、どんなに否定しようとしても頭の中にふと浮かぶ一つの情景があった。
 スーツでなく、普通の女の子のようにスカートをひらめかせた私が、二人の少女と買い物をしている。
 私が右手を繋いだ少女は、清楚な白のワンピースを着て微笑んでいる。儚げに微笑むその姿は幼い天使のように見える。
 私の左手を握りしめた少女は、黒のゴシックロリータな服装だ。もう一人の少女と双子のようにそっくりだが、瞳の色だけは異なる。彼女は表情をころころと変えて、子犬のように私たちのまわりを回っている。
 楽しそうだった。嬉しそうに笑っていた。少女たちだけでなく、私も。
普通の女の子のように買い物し、着飾り、人を殺すことなんてなく、映画の話題などに花を咲かせている。
 それはなんて幸せな夢だろう……

 けれど、所詮夢は夢。私はそこまで考えて、いつものように現実に帰ってくるのだ。
 幸せな空想に浸る時間すら私には許されない。実現しない夢に価値はない。今できることを全力でやらなければ、現実すら儚い泡のように壊れてしまうのだから。遠い夢を追うなんて、あらゆる努力の先に初めて許されることだ。
 私は両手で頬を強く叩くと、仕事に戻った。





 部屋に帰ったのは夜の九時近くだった。
 丸々半日ストーキング行為に精を出していたことになる。正直疲れた。
 組の所有する物件の一つであるこのホテルの内装は、うちのロフトよりもはるかにいい。スプリングの効いたベッドに身を投げ出し、大きく溜息をついた。

「おう、あんたも帰ってきたのか」
「大した成果はなかったがな」

 一足先に帰っていたフェルナンデスは、コンビニで大量に買い込んできたらしいビールの山を開けていた。酒の匂いが部屋中に充満している。
 ひどく濃いその匂いに私は顔をしかめた。

「仕事中に酒を飲むな。任務に支障をきたす」
「ああ? お固いこと言うなよ。こんなの水みたいなもんだろ。どうよ、あんたもひとつ」
「結構だ」

 買いこまれたビールの数は、明らかにただの水で済むような量でもなかったのだが、酔っ払いの相手をする気力はない。むしろ明日二日酔いになって使い物にならなければ、足手まといがいなくなって楽になるくらいだ。そう思い直し放っておくことにした。
 私はベッドから体を起こし、部屋を出て携帯を取り出した。
 今日の報告をしなければならない。あのあとも状況に大きな変化はなく、ホテルから外出したのもほんの数人だけだったので、大した成果にはならないが。
 短いコール音。特に待つこともなく相手は電話に出た。

『アゼリア、何か有益な情報でもつかめましたか?』
「いえ、現状ではあの情報を裏付けるような証拠は出てきていません。ノストラード組の宿泊したホテルの監視と、ネオン=ノストラードの監視を行いましたが、ネオン=ノストラードはまるでただの観光客ですし、ホテルから出てきたのは末端の構成員と思われる数人だけです。そのほとんどはコンビニなどに買い出しに行っただけでした。ですが―――」
『ですが、何です?』
「一人だけは車で街中を走らせ、何をするでもなく帰って行きました。町の様子や経路を確認したものと思われます。なお、フェルナンデスの報告によると、その男は念能力者だったそうです」

 おそらく今日調べた中で唯一有益であろう情報がこれだった。
 ノストラード組にとっては隠れて取引を行うわけだから、目立つ行動を避けるのは判る。そのため、この分ではただ監視をしていても碌な情報を得ることが出来ないだろう。

『ふん、その程度の情報では何も判っていないも同然だというのです。ノストラード組がボルフィード組のシマに入っていることは確かですが、私用とか観光とか言われてしまったら我々に手を出すことはできません。もっと決定的な証拠が欲しいのですよ』
「……申し訳ありません」
『まぁ、いいでしょう。こちら側としても大した情報は掴めていませんからね。ですが、このままでは状況が進展しません。そこであなた方はもっと直接かつ大胆に調査をしなさい。そうですね、ネオン=ノストラードあたりに接触して、探りを入れるといいでしょう。ただの監視なんて普通の構成員に任せておきなさい。あまり多くを動員して尻尾を掴み損ねるわけにはいかないですが、ノームタウンには組の念能力者以外の構成員も十人ほど送り込んでいますから、その者たちに指示を出しておきます』
「了解しました」
『対象に接触する際に不自然でないような服と、多少の資金をホテル側に用意させておきます。明日はそれを使って、せいぜい成果を上げてください。それでは―――』

 電話が切られたことを確認して携帯をしまった。
 対象と直接接触か。確かにこちらから探りを入れることができれば、監視を続けるよりもずっと多くの情報が手に入るだろう。だがそれは相手に気取られないように注意を払わなければならない。
 自分の牙を隠し、一般人のように振舞う訓練は昔やらされた。得意分野とは言えないが、できないことはない。
 接触するならば、私の年齢や相手の警戒心などを考えると、確かにネオン=ノストラードの方が適当だろう。
 さて、ならばどうやって接触のきっかけを掴むか……考えられるパターンを頭の中で列挙していき、最も警戒されそうにないものを選んでいった。

「なあ、アゼリアって言ったか?」
「なんだ? 私は今忙しいんだがな」
「まぁそういうなよ。同僚との交流は大切だぜ」
「……はぁ」

 そんなものは必要ない世界なのだが、煩わしかったのでさっさと話を切り上げようと思って振り向いた。フェルナンデスの前には空になった缶が大量に積みあがっており、彼の顔は酔ったのか真赤になっている。本当に使えなさそうな相棒だった。

「ま、ちょっとした質問だけどよ。あんたはなんでこの仕事始めたんだ?」
「……この世界の先輩として忠告しておいてやる。余計な詮索は身を滅ぼすぞ」

 その質問をしてほしい人間はこの世界にはいない。
 私もまたその一人だ。

「ああ? いいじゃねーかよ、話して減るもんじゃねーしよ」
「……ならばお前は何故この世界に入ったんだ? まだ念を覚えて日が浅いのは見ればわかる」
「おっ、俺のこと興味あるのか? いいね、そんじゃ話してやるよ。実はさ、こないだすげーうざいことがあってよ―――」

 正直この男のことなど興味はなかったが、頭を休ませるついでに軽く聞いておくことにした。

「―――で、糞生意気な女に喧嘩売られて、こっちは全然悪くねーのに殴られたんだよ。ちっこい女のくせに、何かパンチが強くてな。俺のこのナイスな鼻へし折ってくれたし、最悪だったぜ。けどまぁ、それが原因だったのか、気付いたらこの能力を手に入れていたんだよ。い、いや! もちろん、その女は後でひぃひぃ言わせてやったんだがよ!! そこんとこ間違えんなよ!! で、カーティスってあの野郎がその力の使い方を教えてやるから部下になれって言ってきやがってよ。面白そうだったし、金になるし、文句はなかったから始めてみたんだ」
「ふん……興味本位でやってるだけか」
「いいじゃねーか、人生を楽しむのは重要だぜ。で、俺が話したんだ。あんたも教えてくれよ」
「そんな約束はしてないし、話す義理もない。いいから酒は止めてもう寝ろ」

 信念も何もない薄い理由だった。誘われたからやってみて、面白そうだから続けてみた、そんな感じ。念という力を手に入れたことで増長している部分もあるのだろう。フェルナンデスは見る限り大した使い手でないにも関わらず、自分の力に自信を抱いている風であった。そんな遊び半分の舐めた態度だから、仕事中であるのに酒を浴びるように飲むなんてプロにあるまじき行動をとっているのだろう。
 そんな奴に私の事情を話すつもりはない。これ以上話していても時間の無駄だと思った。

 明日、ネオン=ノストラードと接触するパターンはもうある程度絞り込んでいる。これ以上はその場の状況によるので考えても仕方がない。ならば体を休めるべきだ。
 私は堅苦しいスーツを脱ぎ棄てると、ワイシャツ一枚になってベッドに潜り込んだ。

「おいおい、あんた、同じ部屋で寝るつもりかよ! しかもその格好……!!」
「部屋を変えたいならばお前が移れ。私はもう寝る。それと服なんて持ってきてないから仕方がない」

 フェルナンデスはうろたえた声を出しているが、私の方は別に気にしないので問題ない。
 彼が気にして部屋を移りたいならば止めようとは思わないが、一応チームを組んでいる以上理由もなく待機場所を分けるべきではない。いつ緊急の情報が入ってくるかは判らないのだから。

「あ、ああ!? おまっ、襲われてーのか!?」
「ふむ、私など襲っても楽しいとは思えないが……」

 だが、襲われたいとも思わない。
 私は部屋に男の方に向き直ると、軽く「練」をして脅しをかけた。
 先ほどよりもはるかに力強さを増したオーラにフェルナンデスは酔いが覚めたようで、驚きに目を見張っている。

「体が輪切りになってもいいなら挑戦してみろ」

 フェルナンデスはコクコクと、声も出せない様子で頷いた。
 それ以上は彼に気を懸けることもなく、さっさと眠りについた。





 翌朝目が覚めたとき、空はうっすらと白んでいた。
 時刻は朝五時。いつもどおりの時間だ。
 フェルナンデスは結局部屋を移ることもせず、しかし私に襲いかかることもなかったのか、五体満足なままソファーで眠っていた。賢明な判断だと思う。
 あのあとも酒を飲み続けたのか、机の上にはビールの空缶の山が出来ていた。非常に酒臭い。とりあえず風を使って自分の周りに新鮮な朝の空気を運んでくる。

 軽く身支度を整えてホテルのフロントへ向かう。
 このホテルはボルフィード組の経営するホテルの一つなので、支配人もまた組の息のかかった人間だ。昨夜カーティスの命令で、私が一般人としてふるまうための服などを用意してくれているはずだった。
 流石にホテルの人間たちの朝は早い。私がホールに出ていくと、すでに業務を開始していたホテルマンたちが頭を下げてきた。そのうちの一人を捉まえて尋ねる。

「支配人はいるか? ボルフィードの関係者が、預かりものをもらいに来たと伝えてくれ」

 テキパキと一礼し去っていくホテルマンを見送って、私は窓際に座り黎明の空に視線を向けた。
 今日は見たところ快晴となるだろう。昨日一日ネオン=ノストラードを観察した限り、彼女はとても元気のいい少女だから、こんな天気の日に部屋の中に引き篭もっているとは思えない。昨日も相当買い物をしていたようだが、今日もきっと街中へ出て行って観光に精を出すだろう。ならば同年代の少女として接触するのがもっとも警戒されないはずだ。
 そう思考を纏めていたところに、まだ四十代半ばといった男性がやってきた。

「遅れて申し訳ありません。このホテルの支配人のアーノルド=ビーンズと申します。アゼリア=クエンティ様でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「カーティス様からお話は伺っております。どうぞこちらへ」

 アーノルドの先導に従って歩いて行くとオーナー室に着いた。
 彼が部屋の片隅のクローゼットを開けると、そこにはものすごい多岐にわたる女性ものの服が用意されていた。中には婦警の制服や、ナース服、教会のカソックなどもある。
 こんなにたくさん、男性が持ってどうするのか……ひょっとして、自分で着ているのだろうか?
 アーノルドはそれを誇らしげに見せて尋ねてきた―――私は若干このオーナーの趣味にひいていたが。

「着替えの服と小物が入用と伺っています。どのようなお召物が必要でしょうか」
「年齢相応の、一般人の少女に見えるような服を適当に見繕ってくれ。小物もそれに合わせる感じで頼む。私はどういうのがいいのか判らないんでな」
「かしこまりました。それでは、こちらはいかがでしょうか」
「ああ、それでいい」

 どうせどれがいいのかなんて私にはよく判らないのだから、選ばれたものを着ることにする。
 アーノルドが選んだのは、ブラウンの膝丈ほどまでのプリーツスカートに白のブラウス、それとスカートに合わせたのかブラウンの編上げブーツと黒のニーソックスだった。
 アーノルドが部屋を出ていった間にそれらを着ていく。スカートなんて穿くのはいつ以来だろう。どうにもすーすーして落ち着かない気がする。
 だが、任務のための変装とはいえ、普通の少女のような服装をするのはすこしドキドキした。ブラウスの一番上のボタンを留めて鏡の前に行くと、見慣れない姿の自分が映っている。
 なんとなく気恥ずかしくて、今すぐ脱いでしまいたい衝動に襲われるが、それでも少し嬉しかった。
 ちょっと、回ってみたりして―――

「終わりましたかな?」
「っ!!!!!!???」

 全速力で振り向いた。
 部屋のドアは閉じられたままだ。それはそうだ。私がまだ着替えているかもしれないのだから、入ってくるはずがない。そんなことも気づかなかったのか私は。
 だがとりあえずホッとした。知らずのうちに「堅」をしていたことに気づき、「堅」を解く。
 何度か深呼吸して、どくどくと激しく脈打つ心臓が落ち着くのを待って、入室を促した。

「……終わりました。どうぞ」
「それでは失礼します。おお、よくお似合いですよ」

 表面上は落ち着いた、この服を着ていることに何の感慨もない態度を取り繕いながら、私はアーノルドの持ってきた物に目を向けた。
 小さなバックや財布、髪留め、手鏡、腕時計、他アクセサリー類などが揃っている。

「小物なども取りそろえて参りました。財布には、一般人の少女として振舞うとのことでしたので、一応二十万ジェニーほど入れてあります」
「ああ、ありがとう」

 ……その金をそっくり貰ってしまってもいいんじゃないか、と思ったのは秘密だ。
 まぁ全部は無理でも、任務の後で残った金はこっそりいくらか抜いておこう。どうせ組の負担だし。

「それと、化粧台はそちらです。あるものはご自由に使っていただいて構いません」

 ……男の部屋に常設の化粧台というのはどうなんだろう。
 置かれている化粧品もやたら多い気がする。
 やっぱり、自分で使っていたりするのだろうか……? うーん、犯罪の匂いがする。

 と、支配人の趣味について一考したところで、重大なことに気がついた。

「……アーノルド支配人」
「なんですかな?」
「どなたか女性職員を呼んでいただきたい。私は化粧の仕方が判らないんだ」
「ああ、それでしたら僭越ながら私が―――」
「女性職員で、お願いする」
「…………畏まりました」

 こころなしが残念そうな声色だったのは、気のせいだと思うことにしておいた。





 結局そのあと、ホテルのレストランのウェイトレス、ココさん(22歳)に化粧や髪のセットをしてもらった。実に準備だけで一時間くらいかかった気がする。世の中の女の子はこんなことによくこれほどの時間を掛けられるものだと尊敬してしまった。
 普段しない化粧をしたせいで何か違和感があるというか、動きづらいような気がするが、今日はあくまで諜報だ。戦闘になってはいけない仕事なのだから、このくらいで丁度いいだろう。
 周りから時折感じる視線になんとなく委縮してしまうが、どこもおかしいところはないと思う、多分……ココさんもどこも変な所はないと言ってくれたし。アーノルドがサムズアップしてきたのは記憶から消すことにする。
 レストランでベーグルサンドとコーヒーを頼んで軽く朝食を済ませると、もう朝の七時近かった。一般の客たちもちらほらと起きている。
 だが、未だにフェルナンデスの奴は起きてこない。

「……使えない」

 能力が足りないだけならまだ使いようはあるが、仕事態度に真剣さがないのは致命的、というか本当に邪魔だ。
 今日の私の作戦だとあいつもしっかりと働いてもらう予定なのだから、こうまで無能だと困る。
 スミスあたりでも居てくれればよかったのだが……

「まぁ、いない者をねだっても仕方がない……」

 本当に嫌になるが、とりあえず馬鹿を起こしてくるか。



 で、部屋に戻ってみるとその大馬鹿者は大いびきをかいて、しかも腹を出して寝ていた。
 もう何も言う気はない。優しく起こしてやる気などもともとなかったが、遠慮なく蹴りをぶち込んでやることにする。尻に。

「たわばっ!!!」

 妙な悲鳴を上げてベッドの上で悶絶するフェルナンデス。
 いい気味だ。

「いつまで寝ているつもりだ、このバカ。もう仕事の時間だ」
「ああ!? だからって、蹴って起こすか、このバ……カ、やろう?」
「どうした、変な顔をして」

 まるで街中でライオンにでもあったような変な顔だ。
 まだ寝ぼけているのだろうかと思い、もう一発蹴りを入れようと足を振り上げた。

「あ、いや、待て待て! べ、別に大したことじゃねえよ!! アンタも一応女だったんだなー、って思っただけで」
「当然だ。見て判らないのか? それともまだ寝ぼけているのか?」
「お、オーケー、オーケー! 目はばっちり覚めた! だからその足を降ろしてくれ! ていうか下着見えるぞ!」
「ん? ああ、そうか、今はスカートだったな」

 一応気をつけよう。

「まぁ、起きたなら別にいい。さっさと用意しろ。もう仕事に行くぞ」
「ああ!? ってか、まだ七時じゃねーかよ!! もっと寝かせろ!!」
「ふざけるな。標的が動いてからじゃ遅い。三分だけ待ってやるから支度を済ませろ。出来るだけ一般人に見えるようにな」
「飯食う暇もねえのかよ!!」
「寝坊したお前が悪い」

 これ以上こいつの言い分に耳を傾けるつもりもなかった私は、椅子に座って新聞の一面に目を通し始める。
 後ろではフェルナンデスが悪態を吐きながらしぶしぶ起き上った。

 で、三分後。
 なんとか準備が終わったフェルナンデスは、一応人前に出せる状態にはなっていた。

「ったく、人使いが荒すぎるぜ……」
「文句があるなら、仕事中に飲酒などしないことだ」
「けっ、酒は百薬の長っていうんだぜ! 誰が止めるかよ!!」

 ……本当に聞き分けのない男だ。いくら新入りとはいえ、こんな奴とチームを組まされるなんてついてないにも程がある。
 馬鹿と鋏は使いようらしいが、大馬鹿ではそれすら出来ない。
 まぁとりあえずは仕方ない。私は帰ったらカーティスにこいつとのチームを解消してもらえるよう頼んでみることを決めて、今日の仕事の内容を説明していった。



「―――まぁ、やることは判ったがよ、結局俺はどういう役回りをすればいいんだ?」
「ふむ、そうだな……」

 時間が無いので、簡潔に一言で言ってやることにする。

「恋人役で、荷物持ちだ」










〈後書き〉

アゼリアさん、普通の女の子にちょっと憧れるの回。服を着せるとき、ちょっとTSモノを書いている気分になったのは気のせいと思うことに。
そしてフェルナンデス使えない。こいつにはあとあと役目があるのですが、今はこんな奴です。
原作入りまであと四話くらいの予定。早く入りたいなあ。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 揺らぎ
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/27 13:07
「見て見て、フェル! これどう?」
「あ、ああ……い、いいんじゃ、ないか? う、うん、似合ってる、ぞ……」
「ホント? 嬉しい! あ、それじゃあこっちと合わせた方がいいかな?」
「あ、あー……そ、それは……」
「大変よくお似合いですよ、お客様」
「それじゃあこれとこれ、あとこれも買います」
「はい、ありがとうございます」

 買ったばかりの服の入った紙袋を手渡して、もう片方の手に当然のように抱きつく少女を、フェルナンデスは恐ろしいものをみる目つきで見やった。
 例えるならば、羊の皮を被った狼というのが最も適当だろうか。
 美しい笑顔を張り付けた少女は、その実、いつでも自分の喉笛を食いちぎれるほど恐ろしい相手なのだから、堪ったものではない。

「……なんて眼で見ている」
「あ、だ、だってよう……」

 表面上は何も変わらず、見る者を幸せにする笑顔を張り付けたまま、子猫のように右腕に抱きつく少女が、周囲には聞こえないほど小さな、しかし自分にははっきりと聞こえる平坦な声で言ってきた。
 見た目だけは麗しいこの少女は、しかし、この距離で見るとはっきりわかる。眼だけは欠片も笑っていない。ゾッとするほど静かな、機械のような瞳でこちらを見ている。それがとても怖くて、フェルナンデスは今すぐ腕を振りほどきたくて仕方が無かった。

「もっと自然に対応しろ。こんな具合では素人だって誤魔化せはしない。さっきの店員だって訝しがっていたぞ」
「ぐ……だ、だが……」
「今日の仕事は説明したな。ネオン=ノストラードに一般人として接近し、それとなく話を聞き出すことが任務だ。その際にはカップルの方が警戒されにくい。だからこそお前を連れてきたというのに……この様では子供にも通じない。演技力が無さすぎる。対象が動くまで練習のつもりだったのに、こうまで酷いとは思わなかったぞ」
「……仕方ねえだろ。なんだよ、さっきの喋り方。気持ち悪いったらねえ。ゾッとするぜ」

 少女―――アゼリアはふぅ、とため息を吐いた。

「……私とてそんなことは判っている。正直、自分でも慣れないしな。だが、それとこれとは話が別だ。お前が仕事をしっかりとこなすかどうかとは、な」
「くっ……そ、そんなこというなら、別の作戦にしやがれ」
「……そうだな、お前のこの様子だと、別のパターンを考えた方が無難かもしれない」

 アゼリアが一考しだしたのを見て、フェルナンデスは隠そうともせず溜息を吐いた。
 今日の仕事として説明されたのは、ネオン=ノストラードから情報を引き出すため、一般人を装うこと。そのために恋人役なんてものを押しつけられたわけだが―――無茶言うな。
 普段なら喜んでもいいが、昨晩この女の怖いところは見せつけられたばかりだ。落ち着かない……

「よし、それじゃあ、こうしよう―――」

 アゼリアが作戦の変更を説明しだすと、フェルナンデスは何とか安堵出来た。
 そのくらいなら、何とかなる、と思う。

「―――というわけだ。出来るな?」
「ああ……やってやるよ……」





「あー! このネックレスいい!! こっちの指輪もかわいいー!! イヤリングは今度これに変えよっかなー」

 今日でこの町に来て三日目になる。
 パパに仕事があるからって言われてきたんだけど、この町は結構遊ぶところが多くて飽きない。
 まだショッピングモールは半分くらいしか見れてないけど、今日中に全部のお店を制覇しよう。かわいい服や綺麗なアクセサリーとかが揃ってるから、来てよかったと思えた。
 ボディーガードのアマデオとトチーノの持つかごに品物を次々と入れていく。このお店は大体見終わった。会計はトチーノに任せることにして次の店へ向かう。

 ここは最近人気が上がってきたブランドのお店だ。ハイティーンから二十代前半の女性をターゲットにした、大人っぽいけどかわいいがコンセプトのブランドで、広告で見て絶対に手に入れたい服もあった。地元にはまだお店が出てないから、ここで絶対に買おうと決めている。
 そしてその服を見つけた。あと一着だけ! 流石このブランド内の人気NO1!! ああ、でも残っていてくれてよかったー!!
 そう安心して、急いで駆け寄ってその服を取ろうとした時だった。
 横から女の子の手が伸びてきて、その服を取ったのは!!

「あーーーーーーっ!!!」

 思わず叫んでしまった。
 最後の、最後の一着だったのにーーーー!!!
 私の服を取った子を睨む。その子は私の叫び声にびっくりしたのか、驚いた顔でこっちを見ていた。うう、なんでなんでなんでー!!
 視界がうっすらと滲んできて、慌ててエリザがハンカチを出してきたけど、私はその子から目を離さなかった。

「……あ、もしかしてこの服欲しかった?」

 その女の子は睨まれている理由に察しがついたのか、私に向けてそんなことを言ってきた。
 まったくもってその通りなので力いっぱい頷いてやる。

「うーん……どうしよっか……私、これそこまで欲しいわけじゃないし……」

 それならちょうだい!! と視線で強く訴える。
 黒髪のその少女は困った顔をしながらこっちに近づいてきて、驚いた顔をして立ち止まった。

「あーーーっ!! これ、このネックレス、ずっと欲しかったやつ!! え、これどこで売ってたの!? この辺じゃ全然なかったのよ!!」
「え、こ、これ? えっと、どこだっけなー……」
「お願い、思い出して!! あ、そうだ、教えてくれたらこの服譲るわ!!」
「ほんとうっ!?」
「もっちろん!!」

 これは絶対思い出さないと!! 私の頭がぎゅんぎゅん動き出す。

「えっと、ちょっと待って、今思い出すわ……これ、確か……」
「お嬢様、確か西館の一階で昨日買ったんですよ」
「そう! そうだったわ、エリザ!! 西館の一階よ!!」
「ありがとー!! 嬉しい!!」

 そう言って彼女は私のことをギュッと抱きしめてきた。
 彼女の方がちょっとだけ身長が高くて、私の顔はたわわな胸に受け止められた。うう、負けた……
 でもそのあとでちゃんとその服を渡してくれたから、私も嬉しくなってギュッと抱きしめ返す。

「あ、でも西館の一階って言ってもかなり広いわね……うーん、こないだ来た時見つけられなかったから、見落としてたのかしら……」
「それだったら後で一緒に行ってあげるよ!」
「本当に!? いいの!? それじゃあ一緒に回ろっか!」
「うんっ!!」

 もしかしたら断られるかも、って思っていたので、その言葉に嬉しくなって大きく頷いた。
 買い物は楽しいけど、趣味の合う友達と一緒だともっと楽しい。
 エリザとかは服の相談をすると乗ってくれるし優しいけど、やっぱりどこか一歩引いて付き合う感じがあって友達とはちょっと違う。
 だからこの子と回ったらきっと楽しいだろうなって思った。

 女の子を見る。多分年齢は私より少し上くらいだった。
 濡れたようにしっとりとした綺麗な黒髪をリボンで軽く纏めている。どちらかと言えば美人系の顔立ち。白のブラウスとブラウンのプリッツスカートの組み合わせがよく似合っていて、服の趣味も合いそうだった。
 そして何より、その眼。アメジストのように綺麗な紫の眼を見たとき、一目で欲しいと思ってしまった。本当は取り出して保存したいけれど、まだ生きている人のだからそれはちょっと難しいかもしれない。でもこのまま別れるなんて嫌だった。貰えないにしても、傍でもっとよく見ていたかった。

「あ、ワタシはネオン。ネオン=ノストラード。あなたの名前は?」

 少女はにっこりと笑った。花が咲くような笑顔だった。

「アゼリア=クエンティよ。よろしくね、ネオン!」





 目の前では少女たちが楽しそうに服を選んでいる。
 どちらも美しい少女だ。その二人が零れるほどの笑顔を浮かべている様子は本来なら眼福というべきものなのだが、その笑い声が響くごとに俺のフラストレーションはどんどん高まっていく。女の買い物に付き合わされるなんて、こっちとしては本当にいい迷惑だ。もう全部でいくらになるか判らないほどの荷物がずっしりと手に食い込む。護衛の仕事よりもある意味ずっとハードだった。

「……あんたも大変だな、女の買い物に付き合うってのは……あの子の彼氏か?」

 こちらもまた疲れの滲んだ声をかけてきたのは、今ネオンお嬢様と一緒に服を選んでいるアゼリアと名乗った少女の恋人らしかった。
 どこかゴリラじみた顔に、野性味溢れる巨体。鼻は何があったのか折れて歪んでいるし、パンクファッション風のその服装も横に広がりすぎて似合っているとは思えない。先ほどの少女と並べると、美女と野獣という言葉しか思い浮かばなかった。
 だがそんなことを考えているとは態度に出さずに言葉を返す。やっぱり俺の声も疲れていた。

「んなわけねーだろ……俺はただの荷物持ちだよ」
「へえ、荷物持ちねえ。なんだ、あの子はどっかのお嬢様だったりするのか?」
「まぁ、そんなとこだ」

 似たような境遇の男として、こいつには若干の親近感を覚えないでもない。
 それはこの二人は警戒の必要が無いと判っていることも起因している。何しろこの二人は念能力者でないのだから。
 この男も女も「纏」が出来てない。男の方は一般人よりは体から出ているオーラの量が多いようだが、垂れ流しにされているだけのオーラを見れば念を使えないことは一目瞭然で判る。それでは警戒する必要などない。

 ちなみにトチーノの奴は……柱の陰からこっそりとこっちを窺っている。
 この二人が来たとき、トチーノの奴は前の店の支払を済ませていたところだった。そしてあいつは先ほど電話してきたのだ。
 曰く「ボスからは目立つなと言われているから、俺は陰から見守ることにする。俺は放出系だから、この距離ならばすぐに対応できるしな」
 そんな感じのことを延々と言っていたが……要するに、逃げやがった。買い物の付き添いから。
 確かに、店の外にはスクワラの犬が何匹も残っていて、念能力者が近付いてきたらこっちに知らせるようになっている。それにボスは今回情報が漏れることにすごく気を遣っていたから、目立たないようにする必要があることも確かだ。山のような荷物を持ったトチーノは確かに近くにいない方がいいだろう。
 けどまぁ、俺が一人でこの苦行を強いられているのはあいつのせいなわけで。
 同じ苦しみを抱えている目の前の男と愚痴を言い合うしかないのだ。

「……まぁ、終わったら呑みにでも行くか?」
「……ああ、そいつは最高だな」

 二人の溜息が同時に漏れた。





「ねえねえ、ネオンちゃんってこの辺の子じゃないよね? 発音がちょっと違うし! どこに住んでるの?」
「えっとね、私が住んでるのはヨルビアン大陸の東の方の―――」
「ああ、そこ知ってる! 海が綺麗なとこでしょ!?」
「うん! うちの館から見える海ね、夕方になるとすっごいきれいなの!」
「へえ~! いいなあ、私も今度いきたいなー」
「あ、その時はうちに泊まっていきなよ!! 歓迎するよー!」
「本当!? ありがとー!!」

 今はもう昼過ぎ。モールの中のカフェで昼食を買って、オープンテラスに移動しネオンと食事を食べる。そして、そんな他愛もない会話を繰り返し、ネオンとの距離を少しずつ縮めていった。
 対象に接近することは、対人諜報の基本だ。相手の警戒心や、話してもいいと考えるラインを下げていくことは、情報を聞き出す上で非常に重要なこととなる。さらに昨日一日観察したことから、ネオンは一度友人と見た相手には心理的な垣根がほとんどなくなるだろうと考えられた。好悪がはっきりしている人間はこういう時にやりやすい。
 その甲斐あって護衛の男はこちらへの警戒をしていないようだった。作戦の第一段階はまずまずの成功といったところだろうか。理想は探られていることにすら相手は気づかないこと。そのためにはこちらを警戒させてはいけない。そしてその条件はほぼクリアされただろう。ネオンや彼女の護衛たちは私のことを気さくな一般人の少女程度に認識している筈だ。
 「纏」を解き、オーラの流れを素人と同じように微弱に、かつスムーズさをなくしただけなのに、単純なことだ。
 意外とありがちなことだが、念能力者は念能力を持たない者を脅威とは捉えなくなる傾向がある。確かに念を使えるか使えないかでは、戦闘力に絶対的な開きが出来る。だがそれは念を使えない者が念能力者を殺せないというわけではない。ライフルなどを使えば、下手な念を込めたパンチよりも大きな威力を出すことは普通に出来るのだから。
 もしも私たちが刺客で、この場で武器を抜いたらどうするつもりだろう。大口径の拳銃をこの距離で乱射すれば、如何に念能力が使えても生半可な実力では防ぎきれない。そんなことも気づかないとは……護衛の質が低いのだろうか。護衛の警戒を解くための策もいくつか用意してきたというのに……まぁ仕事が楽で結構なことだが。
 とりあえず、これでひとまず仕事の下地は整った。先ほどから離れた席からこちらを窺っている念能力者もいるが、特に問題はないだろう。少しずつ、ネオンから情報を聞き出すことにする。
 しかし……我ながらこの喋り方は気持ち悪いな。寒気がする。

「こっちには何しに来たの? 旅行?」
「うーん、一応お仕事かな」
「あれ? 学生だと思ったけど違ったんだ? ネオンって何してるの?」
「あ、一応学生よ。学校はあんまり行ってないけど。パパがうるさいの。本業は占い師をやってるわ。結構得意なのよ」
「え、占い師って、タロットカードとか、水晶玉覗いたりとか、そういうの?」
「ちょっと違うかなー。私はね、詩の形で運命を占えるの。あ、そうだ、アゼリアもやってあげよっか?」
「本当!? うわー、面白そー! やってやって!」
「じゃあこの紙に名前、生年月日、血液型書いてくれる?」

 渡された紙に名前を書きながら、軽く思考を纏める。ひとまず彼女はこの町に占いの仕事で来たということは判った。
 何か話の流れが妙な方向に来ているな、と一瞬危惧したが、不審に思われないためにも自然な会話、自然な反応を繋げていくべきだと考えなおす。それに裏社会でも多くの要人を顧客に持つ彼女の占いを受けることが出来るのだから、得をしたと考えるべきだろう。
 書き終えた紙を彼女に返すと、彼女はペンをくるりと回した。
 そして―――

「それじゃ、やってみるね」

 ―――天使の自動筆記(ラブリーゴーストライター)





「はいっ終わったよ!」

 書きあがった紙をアゼリアに渡す。もちろん自分に占いの内容が見えることはないように。占い師はあくまで予言をするだけで、その運命に自らが介入するべきではないと思うのだ。
 占いを受け取ったアゼリアは感激したような声を出し、喜色に顔が彩られる。この瞬間を見るのが一番好きだ。パパの知り合いの、顔も知らない人たちの占いなんかしているよりも、友達の占いをしている時の方がずっと。

「へぇー! ロマンチック―!!」
「私の占いって四つか五つの四行詩から成り立ってて、それがその月の週ごとの出来事を予言しているらしいから……もう最初の二つは終わっちゃってるかな?」
「面白いね。これ、どれくらいの確率で当たるの?」
「百発百中らしいよ!」
「うっわー、すごーい! あれ? でも、らしいって、ネオンが占ってるんでしょ?」
「あ、私はそこに何て書いてあるか判らないの! 自動書記って言って、勝手に書いちゃうから」
「おお! なんか霊でも降りてきているのかな?」

 私の占いは確かに霊とか天使とか、そういうものなのかもしれない。
 パパやダルツォルネさんは、この力を念というものだと説明したけど、私は天使がやってきて私に教えてくれているという方がよっぽど素敵に思えた。
 だけどそれをどう説明したらいいのか判らなかったので曖昧に笑ったが、アゼリアは特に気にすることもなく予言に目を移していた。

 そして―――その笑顔が凍りついた。

「ね、ネオン……こ、この四つ目の詩……」
「あ、だ、ダメ! 私自分の詩は見ないことにしているの! も、もしかして、悪い予言が書かれていた?」

 アゼリアはさっきまでの溌剌とした表情が嘘のように青い顔をしている。
 まるで病気になったように震えるその様子が何よりも明確な答えだった。

「ど、どうしよう……」
「……ネオン、それじゃあ一つだけ聞いていい? この詩には警告が書かれているんだけど、その警告を守ればこの予言は回避されるのかな……?」
「あ、それなら大丈夫!! その警告さえ守れば、その予言は絶対に成就しないって聞いてるから!」
「よ、よかったー……」

 アゼリアは心底ほっとした様子で椅子に深く座りなおした。
 その様子を見て私もほっとする。自分の予言で友達が悲しそうな顔をするのはいやだった。

「ありがとう、ネオン……とても、大事なことが書かれていた」
「う、ううん!! 気にしないで!!」
「いや、何かお礼をさせてくれ。私の感謝の気持ちとして」
「え、ほ、本当に……?」

 そう言われると、ダメ元でお願いしてみたくなる。
 アゼリアの眼は恐怖に濡れていた時もとても綺麗で、私は彼女を心配すると同時に見惚れていた。

「そ、それじゃあ、アゼリアの眼を売ってくれない?」

 アゼリアは一瞬ぽかんとした表情をした後、苦笑交じりに答えた。

「いくらなんでも、眼はあげられないな」
「え~……ダメ? 二つあるんだし、一つくらい。そうね、一億ジェニーくらいで!」
「い、一億ジェニー!?」

 驚いた様子のアゼリアに強く頷く。一億ジェニーくらいなら、パパに頼めば出してくれるだろう。
 冗談でもなんでもないことをアゼリアも判ったのか、考えこんでぶつぶつ言いだした。

「一億……それなら、手術代を払ってもお釣りが……それなら、ちょっと……」

 なんて言っているかはよく聞こえなかったが、結構揺れているみたいだ。なんだったらもっと、二億くらい出しても……

「う、うーん……い、いや! やっぱり駄目だ!! 眼はダメ、眼は! 何かもっと、軽いものでお願い!!」

 けどそれを切りだす前に断られてしまった。
 がっくりと肩を落とすのを隠せない。ああ、欲しかったのに……

「うー、それじゃあ、メアド交換して」
「ま、まぁ、それくらいなら」

 家に置いておけないのは残念だけど、しょうがないか。
 無理言って友達なくしちゃったらつまらないし。
 それなら生きたままで近くで見せてもらったほうがいい。
 携帯を取り出しながら、でも欲しかったな~、と考えてこっそり嘆息した。





 携帯を取り出しながら、私はようやく思い出した。占い師ネオン=ノストラードのもう一つの顔、それは人体収集家であった。
 何の気まぐれか私の眼は彼女のお気に召してしまったらしい。
 一億ジェニーならヴィオレッタの手術代を全部払ってお釣りがくる値段だから、それなら、ちょっと、いいかも……? なんて考えて真剣に検討してしまったが、やっぱり駄目だ。もしこの先、万が一ヴィオレッタがまた病気にでもなったら、その時またお金を稼がなければならないんだ。片目を失っていたりしたら致命的だ。だから眼を売るというのは取っておこう。最後の手段に。
 ちょっと剝れているネオンを見ると、悪いことしたかなと一瞬思うが、すぐに頭を振ってその考えを否定する。ていうか、一般人の友達に向かってないだろう、それは。
 メールアドレスの交換を済ませた後、もしも眼がいらなくなったら売ることを約束させられて、もはや引き攣った笑顔しかでなかった。もしかしてネオンは普通の友達にもこんなことを言ったりしているのだろうか。

真剣にネオンの交友関係を危惧しながら再び歓談を始め、ネオンからそれとなく情報を聞き出していった。
 とはいえ、あまり踏み込んだ質問をして警戒されては元も子もない。細心の注意を払いながら、少しずつ根幹となる情報に近づいていく。

 ネオンのお父さん、ライト=ノストラードはホテルの部屋に籠っている。とても緊張した様子で、いろいろと指示を出していた。
 ネオンは父親から、今回の旅行の目的が占いの仕事とは聞かされているが、どこのどういう人が相手なのかは知らない。明日直接会うことになっている。
 明日の午後の飛行船で地元に帰る。帰ってからもメールはするから、いつか本当に自分の家に遊びに来てほしい。

 そんなことがネオンからは聞き出せた。
 生憎ギュンターの名を聞き出すことは出来なかったが、彼女がここに来たのが間違いなくノストラード組の関係、さらには占いの仕事を明日やるということが判った。それだけでも状況証拠としてはかなり固められたと言えるだろう。
 それに彼女はきっと、占いの相手の名を本当に知らないのだろう。だからネオンからはこれ以上多くを聞き出せないだろうなと思った。

 そのまま適当に話を続けながら、視線をこっそり隣の席に座っているフェルナンデスの方に向けた。
 フェルナンデスには今日、私の買い物に付き合わされている恋人役として疲れた様子を作り、同じく疲れている護衛たちに接触して情報をそれとなく聞き出せと言ってある。人は愚痴などを言い合うと相手に対し親近感を抱き、心を開く傾向がある。そしてそうなるとつい口が軽くなる。そこを利用しようと考えたのだ。本当はもっと恋人役として積極的にネオンと話させる予定だったのだが、練習の時の様子だと絶対ボロを出しそうだから仕方がない。私と切り離して諜報をさせた方がまだまともにふるまえるだろう。護衛との接触は上手い手とも言えないが、やって損する手でもない。
 まぁ、あの馬鹿のことだし、そこまで成果をあげられるとは期待していない。だが、下手は打ってないだろうな、と考えた時だった。フェルナンデスと話していた護衛の男が、携帯を取り出しながら席を立ったのは。
 意識を背後に傾けると、少し離れた席からずっとこちらに注意を向けてきていた男もまた、どこかに席を外していた。





 昼飯に買ったチキンを頬張りながら、フェルナンデスと名乗った目の前の男と愚痴を言い合っていた時だった。携帯がマナーモードのまま着信を告げたのは。
 決してお嬢様たちの周りから注意を逸らしていた訳ではないが、胸元で振動した携帯を取り出して、少し話に熱が入りすぎていたことに気づく。
 相手の名を見ると、少し離れたところにいる筈のトチーノからだったので、席を少し外すことを伝えて、会話が男たちに聞こえないところに来てから電話に出た。

「なんだ? 何かあったのかよ、トチーノ?」
『何かあったも何も、お前は何も疑問に思わなかったのか、アマデオ』
「何の話だよ」
『だから、あのカップル、どう見ても不自然だと思わなかったのかって言ってるんだ』
「……まぁ、確かにあの二人じゃ釣りあわねーとは思ったがよ」
『そういうことじゃない! お前たちの会話を聞いていたが、あの男の方、さっきから組のことを探るような質問を時々していたぞ』
「……マジか?」

 言われて、先ほどまでの会話を思い出す。
 ……確かに、前後の脈絡のない唐突な質問があったりした。何をしにこの町に来たのか、あの女の子はどういう人なのか、などの質問をされたとき、どうして自分は不自然に思わなかったのだろうか。
 ついつい会話に熱が入って、警戒心が薄れてしまっていたことは認めざるを得なかった。

「……だが、こいつらは念能力者じゃねえ。いざとなったら簡単に抑えられるだろ」
『それだってどうだか判らない。今確かなのは、こいつらは「纏」をしていないということだけなんだからな。念能力者が「纏」を解除しているだけという可能性もある』
「……お前はこいつらが刺客かスパイだと言っているのか?」
『確定は出来ない。だが否定も出来ない。だからこそ、お前みたいに警戒をしないのは論外だし、早急にはっきりさせる必要がある』
「ちっ……確かに、ちょっと無警戒だったよ。そんで、どうやって確かめるつもりだ? 俺は何をすればいい?」
『いや、調べるのは俺がやる。お前は何も気づかないふりをしていればいい。だが、もしもそいつらが念能力者だと判ったら、すぐに捕えろ』
「わかった。それじゃあ一端席に戻るぞ」





 席を外した男が戻ってきたのを横目で確認したとき、視界の端に映ったものに思わず舌打ちしたくなった。
 人間代のオーラの塊が複数、私たちを包囲するように現れている。
 ネオンの護衛の男たちが何もそれに対して反応していなかったところを見ると、あれは二人の男のどちらかの能力なのだろう。第三者の念能力ならば彼らは護衛として動くはずだし、彼らの味方の能力ならば何事かと訝るはずだ。
そして、なぜ今能力を発動したのか。それは先ほど護衛の男が電話をしていたことと合わせて考えれば自ずと判る。内容を聞き取ることこそ出来なかったが、席を離れたタイミングを考えて護衛の二人が連絡を取っていたことは間違いない。その内容も、念能力の発動から自然と推察される。
すなわち、私たちは疑われているということだ。

 私たちは今念能力を使えない一般人として振舞っている。当然オーラの塊を感知することなど出来ない。気付かれてはいけない。私は素知らぬ顔でネオンとおしゃべりを続けながら、そうと悟られぬよう自然に視界にオーラの塊の一体を入れた。
 思考を分割。半分をネオンとの会話に割り当てつつ、もう半分で相手の念能力とその狙いを分析する。
 大きさは人間大。手足と思われる箇所があるので、精巧さこそないが一応人型なのだろう。視認したわけでも「円」を使った訳でもないので正確ではないが、気配から考えて全部で十……いや、十一体か。
 どんな能力がそこに隠されているのかは判らないが、おそらくは放出系か操作系の能力者。セオリーとしてはあの人型たちを操作して戦闘させるといったところだろう。
 相手はしかし、すぐに攻撃をしかけてくる様子はない。じっくりと包囲をして、徐々にその輪を狭めてくる。
 ならば私たちは刺客やスパイと完全に見切られたわけではない。もしも見切られていたら、すぐさま攻撃してくるのが護衛として当然の筈だ。あくまで違和感を感じられたというだけか。そうだとすると術者はどこかから私たちの反応を見ているのだろう。私たちが念能力者なのか、そうではないのか。それを確かめようとしているらしい。
 逆にいえば、ここでその違和感を払拭できればその後がやりやすくなる。私たちが念能力者でないと相手が確信すればいいのだ。
 必要なのは相手の念能力に一切反応しないこと。わずかな反応を返すこともないように細心の注意を払わなければならない。
 出来ることならばフェルナンデスに指示を出しておきたいところだが、ネオンと話している最中にそんな行動を取っても、相手に勘繰られるかもしれない。ここはフェルナンデスが敵の狙いに気づいていてくれるよう信じるしかない。念能力を使えない一般人として振舞えとは口を酸っぱくして言ってあるんだ。まさか愚かな行動は取らないだろう。多少の違和感程度ならばこちらでフォロー出来る筈だ。

「うおぁっ!! なんだこいつら!!」

 そう、多少の違和感程度なら……

「……」

 ギギギ、と油の切れた人形のようにフェルナンデスの方を向くと、彼は「纏」を行い、完全に戦闘態勢で人型たちを睨み据えていた。
 そして、そんな彼を睨みつけ臨戦態勢に移る護衛二人。
 ……あの、糞馬鹿がっ!!!!!

「アマデオっ!! そいつ、やっぱり能力者だ! 捕まえろ!!」
「任された、トチーノ!!」

 席に残っていた男の方は立ち上がり、拳銃を取り出してフェルナンデスに飛びかかっていくのを見て、私は一瞬だけ能力を発動した。
 フェルナンデスの耳元の大気と、私の口の近くの大気の動きを同調させる。そして同時にその大気の塊の周囲を一時的に真空状態にして、音の伝動を遮断。簡易的な無線機を一瞬だけ作り出す!

『このマヌケ!! 私が能力者と判るような振る舞いはするな!! 早く撤退しろ!!』

 その直後、アマデオの拳銃が火を噴いた。





「任された、トチーノ!!」

 アマデオは彼の得物である大口径の拳銃を取り出すと、フェルナンデスと言った大男に飛びかかっていった。
 彼の指が引き金を引き、大きな破裂音が三度響く。空を切るその音はモールの中によく響いた。

「いやああああっ!!」

 アゼリアという少女が怯え竦み、悲鳴を上げる。周囲にいた客たちもようやく何が起こったのか判ったようで、その悲鳴を合図に一斉に逃げだした。
 標的となったフェルナンデスは運良く弾丸を避けたようだった。モールの出口に向かってジグザグに走る彼の背に照準を合わせて、アマデオはその後ろ姿を追っていた。
 俺はこの場に残り、ネオン(ボス)たちを護衛しなければならない。追跡はアマデオに任せ、『縁の下の十一人(イレブンブラックチルドレン)』を発動しなおす。先ほどは念能力者かどうかを確かめるために風船にオーラを纏わせるという形を取らなかったが、今度は能力の本来の形を取らせた。これで先ほどの不完全な状態よりもより精密な操作が可能となる。風船黒子の六体を周囲の警戒に回し、残る五体でアゼリアを包囲した。この少女もまた、先ほどの男の仲間である可能性が非常に高い。念能力者である素振りは全くないが、身柄を確保するべきだ。
 五体の風船黒子がそれぞれの得物をアゼリアに向けて構えると、彼女はひどく怯えて恐怖に顔を引き攣らせた。

「ち、ちょっと、トチーノ!!」
「お嬢様、お下がりください。先ほどの男は念能力者です。一緒にいたこの女もまた敵である可能性が高い」
「そんなことないわよ! アゼリアは私の友達よ! 失礼なことしたら許さないんだから!!」
「しかし、我々の仕事はお嬢様の護衛です。少しでも危険があるならば排除しなければなりません。少なくとも、彼女は父君のところまで連れて―――」
「ダメ―っ!! ダメったらダメ駄目駄目だめーーーーっ!!」

 ボスは泣いて暴れだした。
 昼食のバスケットやゴミを投げつけて、大声で喚いている。
 俺はそのゴミをよけながら、頭を抱えたくなった。このお嬢が暴れだしたら俺ではどうしようもない。お手上げだ。仕事なのだからアゼリアという少女は拘束するべきなのだが、このお嬢がそれを聞き入れてくれそうな様子はない。だが、一応こんなお子様でも俺の雇用主側なので、その意向を完全に無視するわけにはいかない。
 どうすれば最善なのか判らない。そんな困った状況だが、時間が経つごとに状況は悪くなっていく。先ほどの発砲と合わせて、お嬢が泣き叫んでいるために周りの客の注目がこちらに集中している。目立つ行動は避けろと言われているのだから、こうして注目を浴びるのは良くない。一刻も早くこの場を抜け出すべきだった。

「いや、ですからボス、別に我々は彼女をすぐにどうこうしようというわけではなく……」
「いいから、ダメ!!」

 しかし、理性的にお嬢に状況を説明しようとしても、感情の赴くままに叫ぶこのお子様は聞く耳を持とうとしない。
 こんな性格と、人体収集家なんていう趣味、そして闇社会の要人であるという立場から普通の友達がほとんどいない彼女だから、友人のことになるとやたらと頑固になるのは以前にもあった。
 この場でお嬢と分の悪い押し問答を続けてこの女の身柄を拘束するのと、目立つことを避けるために早くこの場を離れることのどちらがより取るべき選択かと考えたが、俺の一存では答えは出なかった。
 アゼリアという少女は―――先ほどからの一連の反応を見る限り、普通の一般人の少女と思われる。念能力が使えるようにも見えない。あくまで俺が見た限りだが、俺とてそれなりに死線はくぐってきている。あの様子は演技ではないと思った。ならばここで一端離れても、大した問題とはならないのではないか―――そう考えるが、むざむざ危険の芽を摘まないというのも護衛として取るべき選択肢ではない。どうすればいいのか、この場では手詰まりだった。
 というか、俺がそんな判断をする必要はない。そんなのはリーダーにでも任せるべきだ。面倒なことになったなと頭を振りながら、投げやりに言った。

「あーっ! 判った、判りましたよお嬢様(ボス)! ちょっと待っててください!!」

 風船黒子たちに周囲の警戒とアゼリアの監視をさせたまま、少し距離を取って携帯を取り出した。掛けなれた番号を選択し、数秒待つ。

『なんだ?』
「ダルツォルネさん、トチーノです。さっき接近してきた男がいまして、様子がちょっとおかしかったので確かめたところ念能力者だったので、今アマデオが追跡しています。それで、その男の彼女っていう女が一緒にいまして、そいつは念能力者かどうかよく判らないし、こっちのことを探ってるような様子があるわけでもないんですが、どうしますか? とりあえず押さえますか?」
『当然だ。近づく者はすべて敵と思えといつも言っているだろう』
「それなんですが……そいつ、ボスと仲が良くて、身柄を拘束しようとしたらボスが怒って暴れだしちゃいまして……正直、俺じゃお手上げです。今モールの中で凄い目立ってます。どうしましょうか?」
『ボスが……ちっ、参ったな。ちょっと待て、今ノストラードさんに伺いを立てる』

 ダルツォルネ(リーダー)は電話を通話状態のまま、少し席を外したようだった。彼も怒って暴れたお嬢様(ボス)が手に負えないことはよく知っている。まさか俺にそれを説得しろとは言わないだろう。こんな面倒な事態の責任を負うなんてやってられるか。

『―――よし、トチーノ、そこはいったん退け。お嬢様の安全を最優先すべきだし、ノストラードさんは今目立ってボルフィード組の奴らに嗅ぎつけられる方が問題だと考えている。こっちからスクワラに連絡してその女の後を犬たちに尾けさせるから、騒ぎが大きくならないうちに撤収しろ』

 まぁ、その指示ならそんな無茶を言われているわけでもない。
 俺は了解の意を告げると、電話を切ってボスたちの方へ向かった。
 そのとき、そよ風が軽く耳元をくすぐったのが少し不快だった。





 着替えるのも面倒で、そのままの服装でベッドの上に体を投げ出して、たった一日で疲れ切った体を休めた。精神的な疲れは体にも同様に負担となる。対象と直接接触する諜報行為は言動に細心の注意を払わなければいけないので、とにかく疲れた。普通の少女のような振る舞いは自分にとって鬼門なのかと考えると、それはそれでちょっと悲しくなるが。
 あのあと、トチーノという護衛はネオンに言い聞かせて、彼女をホテルへと連れ帰った。ネオンは渋々とだが、絶対また連絡すると言い残して帰っていった。だがそれは私への疑いが晴れたわけではもちろんなく、今も二匹の犬がホテルの外から監視している。リーダーがそのように指示したことを、能力を使い盗み聞きした私は知っていた。
 しかし多少の疑念は持たれたものの、疑念が確信に変わるほどの失態は私は犯していないし、それなりの情報も手に入った。今日の仕事は概ね成功といえるだろうか。ちなみに、今日一番の失態をしてくれた馬鹿な後輩は裏口から先ほど帰ってきて、今はホテルのレストランで酒を浴びているようだ。捕まってこちらの情報をゲロするよりははるかにましだが、今朝の失敗を活かせない馬鹿にはどういう薬をつければいいんだろう。もう止める気にもならない。
 とりあえずフェルナンデス(バカ)のことは頭から追い出して、今日一日で仕入れた情報を整理する。
 ノストラード組は、何らかの取引―――少なくとも観光などではない事情―――でこの町に来ており、情報の流出、特にボルフィード組にバレることをとても恐れている。その取引というのは明日終了し、ネオンの占いもその一環に含まれる。
 状況証拠としては十分な情報だ。物的証拠こそ残されていないが、ノストラード組がこちらにばれたくない何かを画策しているのは間違いない。あくまで念のため情報を仕入れろと言われているだけなのだから、成果としては上々だろう。
 疲れた体で上司に電話するなんて考えるだけでも気が滅入るが、嫌なことは早めに済ませるに限る。幾度となく呼び出した番号を選択した。

『今日こそはまともな情報があるのでしょうね』

 開口一番がこれか、とこめかみのあたりがピクピク震えるのを抑えながら、今日一日の出来事を出来るだけ詳細に伝えた。

『―――ふむ。まあ、これだけ判っていれば、ギュンターを潰したところでいくらでも言いようはあります。組の中でも問題とはならない……いいでしょう、物的証拠はこちらで捏造します。ボスたちもそれで構わないと仰ってますしね。あとはあの馬鹿を捕えなさい』
「了解です。明日の取引を潰し、首謀者を捕えます。」

 仕事の指示が出たならば、私はそれに則るだけでいい。
 これは特に難しい仕事でもない。ただの捕縛任務だ。
 珍しく厭味を言われることのなかった電話を切ると、ちょうどそこにフェルナンデスが酒で顔を赤くして帰ってきた。
 ……こいつとのチームを解消してくれるように言うのを忘れてた。

「……お前の頭は猿並みなのか? 一度の失敗から何も学ばないのか?」
「ちっ、こっちは一日中面倒な仕事をさせられた挙句、敵に追われて何とか撒いてきたんだぜ。これで飲まなきゃやってられねーよ」
「仕事はやらなければならないことだし、敵に追われたのはお前の無能が原因だ。お前が自殺行為に走るのは勝手だがな、それに私も巻き込むな。プロとしての自覚を持て」

 間違いなく、今日の疲れの原因のほとんどはフェルナンデスバカにある。
 フェルナンデスが念能力者とバレた後も一般人の少女を装ったのは、すぐに私を消そうとはしないだろうという確信があったからだが、仕事の状況としては非常に悪くなったのは間違いない。運良くあの場で解放されたが、もしも敵のど真ん中に連れて行かれた場合の対応を考えるので頭の中は必死だった。ネオンが騒いでくれたお陰でそれは免れたが。
 こいつの軽率で考えなしの行動がそれを招いたのだ。足手まとい以外の何物でもないその男を睨むと、彼はやれやれと頭を振った。

「はっ、てめえこそ、プロだなんだって偉そうに言ってるが、今日はずいぶんと楽しそうだったじゃねーかよ。あの小娘との買い物はそんなに楽しかったのか?」
「なに? ……楽しそう、だった?」
「どっからどう見てもな。仕事なんか放っておいて、遊び気分だったのはお前の方だろ」

 そんなことは、ない。
 遊び気分で仕事に臨んだりはしない。それだけは確信をもって言える。今日一日の仕事も、私は真剣にやった。手抜きも気の緩みもない。
 だが、フェルナンデスの言葉に、何故か強く言い返せない自分がいた。
 手を抜いてなんか、いない。
 だけど……私は、仕事中、幾度となく考えなかったか?
 楽しい、と。

「……馬鹿な」

 そんなことを考える余裕など私にはない。
 生き残るため、僅かなミスも許されないのだから。一瞬たりとも気を弛めたりなんかしない。していい筈がない。感情なんて邪魔なものは、殺した。
 だが、私の声は自分でも驚くほど力が無かった。

「……下らないことを言うな。私は、仕事に私情を持ち込んだりなんか、しない。するわけが……ない」
「口だけならなんとでも言えるわな」

 馬鹿にしたように吐き捨てるフェルナンデスを睨みつけるが、その眼には彼を怯ませる程度の力すらなかった。

「……不愉快だ、寝る」

 それ以上言い争うつもりもなく、私はベッドに潜り込んだ。
 いや、それ以上言われることから逃げたのかもしれない。
心の中のドロドロした思いは、目を閉じても消えなかった。

 感情なんて、いらない。
 私が人に戻るのは、妹の前だけでいい。あの病室の中でだけ、私は人でいられる。そう決めた。
 機械のように冷徹に、何も感じずに、命令を実行するための人形であるために。
 初めて人を殺した日、私は覚悟した筈だ。人並みの幸せを手に入れられると思うなと。拳銃の重みと血のぬめりを感じたあの日、吐き気と震えで眠ることも出来ず泣き続けた夜に、冷たく暗い海に自分を堕とす覚悟を。
 大切なものはただ一つだった。そのためにはその他の全てを犠牲にしていいと思った。だからこそ、私は生き延びてこれた。
 その覚悟がなければ、私は……
 ワタシはコワれてしまうのだから(・・・・・・・・・・・・・・・)

 だから、仕事中に感情を持ち込むなんて、あり得ざる異常。
 私という機械に表れたエラー。
 それは一体何故起こったのか……
 その原因を考えだして、すぐに脳裡を過ぎる、一つの笑顔。
 妹によく似た、奇妙な同居人。
 それを思い出すと、胸がざわめく。

「なんなんだ……」

 彼女との触れ合いで、彼女と暮らした四か月で、私は変わってしまったのか?
 凍らせたはずの心が、とけてしまったのか?

「なんなんだ、一体……」

 彼女と過ごした、慌ただしくも楽しい日々。思い返すと、奇跡のような幸福がそこにあったことを知る。
 認めざるを得ない……私は、その日々を楽しいと、失いたくないと、そう考えてしまっていることを。

「なんで、こんなに、苦しい……」

 だが、それは私を壊す毒。
 冷徹に、非情にあること。それがこの世界で求められることなのだから。
 私は、このままでは、弱くなってしまう……

「くそっ……」

 ああ、けれど。
 失いたくない。あの幸せな日々を。あの太陽のような少女を。

 大切なモノが、増えてしまった……

 私はそれを、捨てられない……





 ホテルの一室で、一人の男が頭を垂れていた。
 その男を囲むように立つ数人の男たち。正面に立つ大柄な男の一人が、脇に立った男の言葉に一通り耳を傾けると、静かに頷いた。

「……ようするに、アマデオ。てめえは俺の教えを破って、こう考えたわけか? こんな奴らが敵なわけがねえ、と」
「い、いえ……そんなことは……」

 ひれ伏した男は追及の手に縮み上がって、ますます低く頭を下げた。正面に立つ男の威圧感は膨れ上がり、アマデオにはまるで巨人のように見えていた。

「それで、トチーノがいてくれたから何とかなったが、お前は全く警戒していなかったわけか?」

 男は脇に立つ短髪の男を顎でしゃくった。トチーノは自分の言うべきことは終わったとばかりに沈黙を保っている。

「い、いえ、警戒をしてなかったなんてことはないです……も、もし奴らが何かしようとしたらすぐに動けるようにしていました……! で、ですから、ダルツォルネさん……」
「俺は、いつも言ってるよな? 敵の姿を想像するな、近づく者すべてが敵だ、と」

 弁明の声にも、男―――ダルツォルネは耳を傾ける素振りもない。
 身を乗り出し、息がかかるほどの距離で眼光鋭くアマデオを睨みつける。蛇に睨まれた蛙のように、アマデオは固まった。

「てめえがそんなだったから、ボスの身が危険に曝されたって判ってんのか? 今回の取引も危うく潰れるところだった。おまけに、その男を取り逃がしただと……?」
「は……はは……」

 アマデオは乾いた笑いを洩らすしかない。この後自分に降りかかるであろう絶望的な未来は、占いがなくとも予想できた。

「てめえはこれで二度目だ……一度は許しても、二度目はねえ……てめえは処分だ」

 そうして、アマデオは周囲を囲んでいた男たちに連れて行かれた。
 抵抗する意思すら折られて、乾いた笑みに頬を歪めたまま。

 ネオン=ノストラードが屋敷に戻り、見慣れた護衛の一人が絵画のように額縁に入れられ、苦悶の叫びを顔に張り付けて壁に埋められているのを見るのは、また後日の話である。





 苦しみながら悩み続け、それでも疲れは溜まっていたのか、じきに意識は眠りに落ちていく。
私はそれを他人のように感じていた。
 眠りに落ちるその間際、昼の出来事を思い出した。
 ネオンに占ってもらった、その時のこと。未来を綴る四行詩、その四番目の詩のことを。



『箱庭に眠る愛しい天使を林檎の毒が襲い
 天使は永遠(とわ)に目覚めぬ眠りについてしまう
 迷い子の天使を伴いなさい
 真実への鍵が見つかるかもしれないから』











〈後書き〉

アマデオは八巻で壁に埋められて飾られていた男。また原作端キャラに勝手に名前を付けてしまった……どうも、ELです。
うーん……スパイ行為って書くの難しい。今までで一番悩んだ場面なのに、それでも満足のいく出来には至らない……いずれ改訂するかもしれません。
そして自分の詩を作る能力の無さに絶望する。クロロを占った詩が一番好きです。富樫先生は本当にすごいなぁ。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 壊れだした人形
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/08/28 12:04
 何かを為すには力が必要だ。
 そして自分の力を超えたものを求めるならば、犠牲が、代償が必要となる。
 それは例えば金だったり、時間だったり、部下だったり。切り捨てるものと手に入れるものの割が合うのならば、人々はそうしたカードを切っていく。
 けれど私には何も無かった。力を得る為に私が支払える代償は、自分自身しかなかった。
 だから削り落していった。自分自身を。必要最低限の機能(・・)だけを残して。

 食事を削った。
 睡眠を削った。
 ヒトとの触れ合いを削った。
 喜びを削った。
 怒りを削った。
 悲しみを削った。
 楽しみを削った。
 優しさを削った。
 愛情を削った。
 善意を削った。
 悪意も削った。
 罪悪感を削った。
 悲鳴をあげる良心を削った。
 迷いは……消した。

 これらは全部、妹の前でだけ持っていれば、それでいい。

 そうして、自分を鋭くしていった。
 鉛筆を削り取っていくように、細く、鋭く。

 妹のいる病室でだけは、私は人間に戻っていい。
 それ以外は、ただの道具であればいい。そう自分に言い聞かせてきた。

 いつからだろう。そんな自分が変わってしまったのは。
 私が道具から人間に戻ってしまったのは。
 その答えは……考えるまでも、無かった。
 彼女と出会ったあの日。
 抑えつけていたモノが溢れるように、歯車が狂っていったのだから。





 目覚めは不快だった。
 昨日着替えることなく寝た服は汗をたっぷりと吸い、クリーニングに出さなければならないだろう。
 決して機能的とは言えないその服を脱ぎ、部屋に備え付けのシャワーを軽く浴びる。そしていつものスーツに身を包むだけで、不快感は大分薄れた。

「うん……やはり、私はこっちの方があってる」

 自分に言い聞かせるように、はっきりと口に出した。迷いを断ち切るように。
 決して脱ぎ捨てた服に振りむこうとはせず、私は部屋を出た。

「さて……標的は今どうしているのやら」

 携帯にメールは来ていない。
 標的がロームタウンに向かったならば、カーティスが連絡を寄越すことになっている。
 それが未だにないということは、標的が現れるとしたら取引の直前ということか。無論、情報に誤りがなければだが。

「まぁ、準備は整えておくか」

 ロビーでは昨日と同様に数人のホテルマンが既に働いていた。
 その一人を捕まえて支配人のアーノルドへの取次を頼むと、ほどなく彼は現れた。

「これはミス・クエンティ、おはようございます」
「ああ、おはよう。昨日は服をありがとう」
「いえいえ、お礼など無用でございます。服も部屋に置いていただければ、当方で片付けておきますのでお気遣いなく」
「助かる。それで、昨日のうちに届いているものがあるだろう」
「ええ、そう仰ると思い、こちらに用意しております」

 そう言ってアーノルドが取りだしたのは、一つのファイルとサブバックだった。
 ファイルを軽くめくり、そこに記された内容から目的のもので違いないことを確認する。バックはホテルの真ん中で開けるわけにはいかないものが詰まっている筈なので、確かめるのは部屋に戻ってからだ。ずっしりとした重みが手に食い込む。
 礼を言い、頭を下げるアーノルドを背に部屋に戻った。

「ちっ……相変わらずよく寝る」

 大いびきをかいて寝ているフェルナンデスを蹴とばしたくなるが、起きてもそれはそれで面倒なので放っておくことにして机の上でサブバックを開いた。
 中身は……手榴弾が十個ほど、ミゼット社製短機関銃が三丁、サイミン蛾の鱗紛、無骨な軍用ナイフ、投擲用ナイフが五本、強力な麻酔薬、などなど。
 今日の戦闘に必要と想定されるものを送ってもらった。
 それぞれの動作確認や状態に問題が無いかを一通りチェックして、バッグに詰めなおした。

 その次は、送られてきたファイル。
 そこには今日の取引現場と考えられている廃工場の周辺の詳細な見取り図、そして対象であるギュンターと、その部下の念能力者たちの判るかぎりの情報が記されている。
 眼を瞑り、イメージする。現場の状況、そして相手の能力、自分の立ち位置。幾通りにも枝分かれしていく状況を可能な限りシミュレートし、不測の事態が起こることのないようにあらゆる状況の対処策を考えていく。
 私の戦いは、基本的には一撃離脱(ヒット・アンド・アウェイ)だ。
 万難を排し好機を探り、初撃にして必殺を期す。もしもそれを逃したならば身を隠し、再びさらなる好機を待つ。自らのリスクを最小限に、陰から陰へ。戦闘をしないことこそが私の戦闘。
 だが、今回はそうはいかない。再び機会を待つだけの時間がない。その場一回のチャンスで敵を討たなければならない。
 だからこそ、あらゆる事態に備える。
 いかなる理不尽が起ころうとも、それに対応し、打倒できるように。
 それはカーティスからの電話が来るまで続けられた。





 ロームタウンは山間部近くの町で、町の南の郊外に出れば小山がすぐそこにある。
 さして高くもないその山の上に設備の老朽化と利便性の悪さから使われなくなった廃工場が残されており、組の取引の場の一つとして今はその用途を変えている。
 組から隠れて行う取引にそこを使うとは、図太いというべきか、愚かというべきか……
 私とフェルナンデスは、廃工場と山へ入る道を監視できるポイントを選んでその草陰に隠れていた。

「……おい」
「なんだ?」
「なんでもっと手っ取り早くしねーんだよ。わざわざこんなとこで待たなくても、来る途中を狙えばいいじゃねーか」

 隠れ始めて既に二時間以上が経つ。いい加減痺れを切らしたらしいフェルナンデスが愚痴を言い始めた。
 私としてはこいつを置いてきたくて仕方が無かったんだが、この廃工場まで来る足がなかったことと―――私は運転が出来ない―――今日に限ってこいつがしっかりと起きてきたために、置いていくことが出来なかった。まぁ、もともとこんな奴は戦力とは数えていないが。
 私は双眼鏡から眼を離すことなく投げやりに答えた。

「まず走行中の車を攻撃するのは面倒だ。不可能ではないが、スピードと車体の硬度が人体よりも上である以上いらない手間を増やすことは間違いない」

 なんと言っても今回はチャンスは一度なのだから。出来る限りリスクを抑え、成功率を上げなければならない。
 以前やったように呼吸を不可能にしてやってもいいが、護衛の能力者たちに対処できる者がいた場合機会を逃すことになる。よってこれも却下される。

「さらに街中では相手も警戒している。反撃された場合周囲にも被害が及ぶ可能性があり、あまり上手い手ではない」

 相手の能力者についてはある程度の情報を得ているが、得られた情報が正しいとも全てだとも限らない。当然私は必殺を期すが、それが失敗した場合の次の手、さらにその次の手を考えなければならない。

「そうなると、周囲に人がいなくて、対象が車から降りる場で狙うのがベストということだ。よって現場を狙うことにした」

 事前に情報を色々と集めさせられたが、こちらとしては現場を押さえてしまえばそれでいいのでは、と思う。
 まぁ、以前スミスから聞いた話だと組の上の方はなかなかにドロドロとした関係らしいので、そういった事情が絡んでいるのだろう。私たちが気にすることじゃない。

「判ったら大人しくしていろ。この仕事で一番重要なのは待つことだ。それを覚えておけ」
「くっそ、退屈だな……で、俺は敵が来たら何をすればいいんだ?」
「何もするな。邪魔だ」
「あ、ああ!? なんだとコラ!!」
「私はお前を戦力とは数えていない。うろちょろするな。巻き込まれても知らんぞ。どのみちお前の出番などなく終わるさ」
「こ、の……舐めやがって……!!」
「しっ! 黙れ!!」

 手で制し、無言で「絶」をする。
 フェルナンデスは何か言いたげだったが、こちらの雰囲気の変化を悟ったのか大人しく「絶」をする。完全な「絶」とは言えないが、森の中で、工場からはそれなりに距離がある。バレることもないだろう。
 視線の先には、黒塗りの車が五台、隊列を組んで工場に向かっていた。



 廃工場の前で停車した車から降りてきたのは、ギュンターではなかった。
 事前に渡された資料にあったうちの一人。ネオンの父親、ライト=ノストラード。
 小さく舌打ちする。この場に先にギュンターの方がついたのであれば、何も気にすることなく車を降りた瞬間攻撃できたのだが……
 ノストラード組の人間には手を出すなときつく言われている。だがノストラード組が先に着いていたのでは、ギュンターを攻撃する際にノストラード組に被害が及ばないよう注意を払わなくてはならない。面倒だな。
 そんなことを考えているうちに、ノストラード組の護衛と思われる男たちが数人ぞろぞろと出てきて、周囲を無言で警戒し始めた。その中には昨日ネオンを護衛していた男もいた。

「ネオンは先に工場の中に入っていなさい。イワンコレフ、リンセン、トチーノ。中でネオンの警護を」
「うー……パパ、こんなのもう最後だからね。汚いし、古くさいし、面白いものなんか何もなさそうだし……」
「う、む……わ、判った。パパは約束を破らないよ」
「いつもそう言うんだから……」

 静かな森の中なので、距離があっても彼らの話声は聞き取ることができた。
 そして車から降りて工場の入口に向かった少女を見て、私は昨日の一日を思い出し、胸がざわめくのを感じた。

「……スクワラ、昨日トチーノの報告にあったカップルというのはどうなっている?」
「犬からの連絡はありません。もし犬が攻撃されたならば俺に伝わるので、今のところホテルから出ていないでしょう」
「よし……それならばいい。今回の取引は、今後につながる重要なものだ。問題を残してはならない……」

 ライト=ノストラードはそのままそこに残るようだった。
 スクワラと呼ばれた男と、厳めしい顔をした顎がやたらとしゃくれている男がその周囲を守る。
 それなりに鍛えられているようだが、脅威となるほどではない。

「だが、ダルツォルネ。予期せぬ事態が起きたときは、ネオンの安全を最優先に行動しろ。麻薬なんぞはいずれ他にも伝手ができるだろうが、ネオンの代わりはないからな」
「心得てます」

 その言葉を最後に、彼らの間では会話は無くなった。
 ライト=ノストラードはしきりと時計を気にしながら落ち着きなく動き、護衛の二人は木のように動かない。
 私たちもまた、森の中に溶け込むように押し黙っていた。

 そのまま待つこと十数分、木々のざわめきと鳥の声、あとは工場の中から響くネオンの声くらいしか聞こえなかったところへ、新たな車の走行音が聞こえてきた。

「来たな」

 ライト=ノストラードの言葉は、そのまま私たちの思いでもあった。
 三台分の車の音は次第に大きくなり、工場の前で停まった。

「おや、お早いな、ノストラードさん」
「なに、先ほど着いたばかりだ。気にしないでくれ」

 事前に写真で見せられていた、ギュンターがそこにいた。
 そして前後の車からは数人の念能力者、及び組の人間と思われる黒服たちが現れた。

「事前の約束通り、工場の中に入るのは私とあなた、双方から能力者の護衛を二人ずつ、及びネオン嬢ということでかまわないな」
「ああ、無論だ。他の兵は外で待機させ、警戒に充てる」
「結構。それでは中に入ろうか」

 そうして、ギュンターは二人の護衛とともに、ライト=ノストラードはスクワラとダルツォルネと呼ばれた二人の護衛とともに中へ入っていき、入れ替わるようにネオンとともに中へ入っていった能力者たちが出てきた。

「……よし、フェルナンデス。お待ちかねの仕事の時間だ」
「お、おい、どうするつもりだよ。あの警備の数見えないのか?」
「無論、承知の上さ」

 周囲の警戒をしているのは、双方合わせて念能力者五人、一般兵二十人と言ったところか。
 サブバックの中を探りながら、ゆっくりと『大気の精霊(スカイハイ)』を発動させた。

「元からあんな連中、相手にするつもりはない」

 およそ一分ほど、そのまま待った。隣のフェルナンデスはしきりにどうするつもりかと問いただそうとしているが、黙るようジェスチャーで示す。
 護衛たちが次々と崩れ落ちたのは、フェルナンデスがついに我慢できずに口を開いた瞬間だった。

「お……い……!?」

 糸を切られた人形のように、彼ら全員が力なく崩れ落ちたのを見て、私は身を隠すこともなくそちらに進み始める。
 フェルナンデスは目をパチクリさせて、口を茫然と開けて彼らを見ていた。

「な、何をしやがった? や、殺ったのか!?」
「殺してはいない。サイミン蛾の鱗紛とトリカブトの粉末を散布し、彼らに吸引させた。半日は起きないし、体を満足に動かすこともできないがな」

 こんな護衛たちに関わっている暇はない。彼らを殺す必要はないのだから、無力化に最も効率のよい手段を取っただけだ。
 この方法ならば、護衛たちの異常を中の人間たちが知ることもなく、相手に警戒されることもない。
 ちなみに朝ホテルを出るとき、監視をしていた犬たちの眼を誤魔化したのもこの方法だ。今頃犬たちは路上で鼾をかいていることだろう。

「さて、やるか……」

 自分に言い聞かせるように呟いて、扉の前に立つ。
 見ると手が小刻みに震えていた。
 きっと武者震いだろう。私は強く手を握り、震えを止めた。





 廃工場の中で、男たちは二十メートルほどの距離を置いて向かい合っていた。
 双方の脇にはベルトコンベアが一本ずつ通されており、薄暗い工場の中でそれだけが動いている。そして両者の間には、うっすらと、しかし確かに、強力な防弾ガラスが張られ、両者の間を隔てていた。ただコンベアだけを除いて。

「ここは我々の組が取引に使う場所の一つでね。互いに取引するものをこのコンベアに乗せれば、相手の元へ届く。そしてコンベアの脇に着いているボタンが見えるかな? それを両者が押すことで、始めてこの倉庫から出るための鍵が開く。攻撃も、取引の誤魔化しも出来ない。何か不満はあるか?」
「……いや、大丈夫だ。早速取引に入ろう」
「素晴らしい。時間は大切だ。早急に用事は済ませてしまいたいな」

 ギュンターはそこで、後ろに控えていた護衛の一人に手で合図を送った。
 護衛の一人は、手に持ったアタッシュケースを掲げ、開いた。中には袋に詰められた錠剤がぎっしりと詰まっている。

「飲む麻薬、D2(ディーディー)だ。今月の流通レートできっかり一億分ある。そっちは?」
「これだ」

 ライト=ノストラードが合図をすると、後ろに控えていたダルツォルネもまた、手にしたケースを掲げ、相手に見えるよう開いた。
 隙間なく敷き詰められた札束がそこにはあった。

「現金一億ジェニーだ。札のナンバーはバラバラにしてある。それでは早速……」

 ダルツォルネはケースを閉じ、コンベアの上にそのケースを置こうとする。
 しかし、ギュンターたちは動かない。
 そのことを不審に思ったノストラードは、ダルツォルネに待てと合図した。

「どうした?」
「ミスター・ノストラード、大切なものを忘れているのではないか? このままでは俺は取引出来ない」

 ギュンターは不満げに顔をしかめると、手持無沙汰にしていたネオンを顎でしゃくった。

「名高いネオン=ノストラードの占いを受けられるというから、俺はこの取引を受けたんだ。俺は今回、かなりヤバい橋を渡っている。だがその占いがあればその橋が崩れる前に逃げ出すことができる。そういう話だったがな?」
「あ、ああ、すまない。失念していたよ」
「俺は今後もあなた方とは良い関係を築いていきたいと考えている」
「……私としても、それは同じ思いだ」
「ならば、今後の信頼のために、先にネオン嬢の占いを送ってもらおうか。それで今のミスは水に流そうじゃないか」

 ライト=ノストラードは苦虫を噛み潰したような顔をした。
 大局に影響はないが、仮にも一つの組の長である自分が、たかだか一組織の幹部程度に主導権を握られる。そのことが屈辱だった。
 マフィアという信用ならない者たちの社会では、皮肉なことに信用が何よりも必要となる。取引の内容を失念していたということは、それが故意でないとはいえ重大なミスだ。見ようによっては、取引を誤魔化そうとしていたと取られても仕方がないのだから。
 今回の取引は今後の取引につなげるための顔合わせ、そして今後の信用の構築と言った意味合いが大きい。ゆえに取引の額もあまり高額とはせず、一億に留めることになった。だがマフィアにおける信用とは、その裏に主導権の奪い合いを含んでいる。下らないミスで今後の取引に不利に働くような状況を作ってしまったことは、あまりにも痛い。
 しかし、その申し出はむしろノストラード組に有利に働いた。
 相手はこちらのミスを、ただネオンの占いを先に送るだけで水に流すと言ってきたのだ。それはギュンターがいかにネオンの占いを重視しているかを表している。
 というよりも、不安で仕方がないのだろう。現在の彼の組の中での立場を考えればそれは判る。いつその身に危険が訪れるか判らないのだから。ネオンの占いがあれば、それを回避できる。だからこそ一刻も早く占いを手にしたい。一見平然と構えているこの男の内心の焦りが透けて見えるようだった。
 つまり、その不安に付け込めば今後の主導権を握ることが出来る。ライト=ノストラードは内心ではほくそ笑んだ。
 だが、まずは失態を帳消しにしてからだ。相手が水に流すと言っている以上、気が変わらないうちに立場をイーブンに持っていく必要がある。
 如何にも仕方なし、といった様子を作り、ライト=ノストラードはネオンに視線を向けた。

「ネオン、頼むよ」
「はーい、パパ」

 事前に受け取っていた、ギュンターの名前、生年月日、血液型の書かれた紙をネオンに渡す。ここに本人がいるため、顔写真は必要ない。
 ネオンがペンをくるくると回すと、それが発動した。

―――『天使の自動書記(ラブリーゴーストライター)

 瞬く間に記されていく未来の情報。数多の可能性の中から、一本の未来を紡いでいく。
 それを見るたびに、ライト=ノストラードは陶然とした心地になる。
 これこそが俺の切り札……
 これさえあれば、俺はどこまでも上へ行ける……
 娘に向ける彼の視線は、愛情と欲望で酷く濁っていた。

 そして、詩が書きあがった。

「要望通り、これは先に渡そう」
「話が速くて助かるな」

 後ろに控えていたスクワラにその紙を渡すと、スクワラはそれをコンベアに流した。
 数秒の後、それはギュンターの手に渡る。

「紙には四行詩がいくつか記されている筈だ。それぞれがその月の各週の出来事を予言していて、悪い予言は警告を守れば回避される」
「ん? それはおかしいな。俺の紙には三つしか詩が書かれてないぞ?」
「それは……」

 ―――三週目に死ぬということだ

 しかし、その説明がなされることはなかった。
 工場の窓からいくつも投げ入れられた、テニスボールよりも少し大きい程度の黒い塊。それが何だか、ライト=ノストラードには一瞬判断が出来ず、つい頭が真っ白になった。
 あれは、手榴だ……っ!!!

 誰かに押し倒されるのを感じた瞬間。
 閃光と爆音が、炸裂した。





 ガラスを隔てても平衡感覚を失うほどの轟音。凄まじい破壊の力に廃工場全体が震えた。
 上下の感覚がなくなった世界で、ライト=ノストラードはスクワラに押し倒されて何とか難を逃れていたことを知った。慌ててネオンの姿を探せば、同じようにダルツォルネによって地面に伏せられている姿が見える。
 敵襲。疑うまでも無かった。外に残してきた連中は何をしているんだと毒吐きたくなるが、そんな暇はない。両者を隔てていた防弾ガラスは熱に溶け、ところどころ罅が入っている。下手人の狙いがギュンターたちだとしても、このままでは被害がこちらに及ぶ危険が高かった。

「ボス! 早く脱出してください!!」
「わ、わかった!!」

 歩くことすらまともに出来ない状況で、スクワラに支えられながら必死で出口を目指す。先ほどの爆発の衝撃でイカれたのか、ボタンを二つ押さなければ開かないはずのドアはあっさりと開いた。
 廃工場の外に出ると、外で警護している筈の連中は皆倒れていた。
 殺されているわけではない。それは判る。だが、一体どうやって―――

 しかし、そんなことを考えている暇はなかった。廃工場の中からは再び新たな爆発が起こり、状況の危うさを明確に示していたのだから。
 ネオンとともにダルツォルネの運んできた車に転がるように乗る。外を見ると、スクワラが犬たちに命じて倒れた護衛たちを車の中に無理やり押し込んでいた。この分ならば連中のことはスクワラに任せておけばいいだろう。

「出せ、ダルツォルネ!!」
「はい!!」

 そして猛スピードで発進する車。見る見るうちに廃工場は小さくなっていく。

「クソが……」

 中止になった取引と、危うく命を落とすところだった自分たちのことを思い、ライト=ノストラードはそう吐き捨てるしかなかった。





 突如上から降ってきたそれが何だか、一瞬判らなかった。
 黒く、小さな塊。
 コロコロと地面に転がるそれが五個を超えた時、護衛の一人が発した声で我に返った。

「ボス! お逃げくださ―――」

 その、直後。
 轟音。閃光。爆風。衝撃。
 壁に叩きつけられ、世界の上下も判らなくなり、耳はイカれて、ただキーンと耳鳴りがするだけになった。
 痛い、というよりも熱い。体の中心にマグマを流しこまれたように、体の節々が熱を持っている。
 だが、自分がそれだけで済んだのは、目の前で片腕を失いながら必死の形相で何かを叫んでいる護衛がいたからだろう。
 くそ! なんだっていうんだ一体!!

 さらに窓から投げ入れられる手榴弾の雨。
 こんな耳では爆音はもはや聞こえないが、新たな衝撃に叩きつけられながらも、護衛の一人が全身をバラバラにして絶命したのが判った。
 俺の右手が炎に包まれて、ただの燃えカスになっていく。
 姿を見せない襲撃者に罵声を浴びせてやりたいが、ひゅーっとか細く息が喉を震わせるだけで、その声が音となることはなかった。

 その次に投げ入れられたのは、手榴弾とは少し違った。
 大きめの缶。それが数本。
 地面に落ちた瞬間、それは中から煙をまき散らし、周囲はあっという間に視界が利かなくなった。
 その煙を吸った瞬間、眼と鼻と喉に鋭い痛みが走り、涙と咳が止まらなくなる。

 眼を開けていることも、満足に呼吸をすることもままならない。
 少しずつ回復してきた耳だけが、唯一周囲の状況を知らせてくれる。
 そして、聞こえた。
 パララララ、という乾いた音。聞きなれた、サブマシンガンの掃射音。
 太ももに鋭い痛みを感じるのと、目の前に両腕を失った護衛が倒れてくるのはどちらが先だっただろう。
 熱に浮かされたように火照る体では満足に思考することも出来ず、恐怖を感じることもないまま、俺は意識を失った……





 ノストラード組の人間が廃工場から逃げ出すのを、工場の屋根の上から見て、アゼリアは攻撃を再開した。
 詰みチェスのように、一手一手を想定通りに進めていく。
 手榴弾による先制攻撃、クリア。
 追撃の手榴弾。捕縛を命じられているギュンターは死なないように、『大気の精霊(スカイハイ)』で爆風をいくらか和らげ、調節する。クリア。
 催涙ガスの噴霧による敵の無力化、クリア。私には目で見えなくとも、能力により敵の位置が判っている。
 サブマシンガンの水平掃射。残された護衛もまた、これで死亡。
 任務は恙無く終了したことを確信すると、風で催涙ガスを全て霧散させ、アゼリアは廃工場の中に入っていった。

「お、終わったのか?」
「ああ。任務終了だ」

 衝撃で歪んだドアをこじ開けて、後ろから着いてきたフェルナンデスを背に応える。こちらの被害はゼロ。オーラの消費すら最小限に抑え、敵勢力は無力化した。首尾は上々だろう。
 ドアを開けた瞬間、屋内から行き場を求めるように噴き出す熱風。それとともにやってきた臭いに、フェルナンデスは酷く顔をしかめた。

「うげっ、なんだよこの臭い……」

 酷い悪臭だった。
 下水の臭いと肥溜の臭いをブレンドしても、ここまで嫌悪感を催す臭いとはならないだろう。
 錆びた鉄のような血の臭いと、人の肉の燃える臭い。
 フェルナンデスは手で鼻を覆わなくては息をすることも出来なかった。

 戦争の跡という他に、その場を表す言葉はないだろう。
 工場内を二分していた防弾ガラスは熱でドロドロに溶け、泡立っている。
 取引に使われるはずのコンベアは吹き飛び、ただのガラクタと化していた。
 コンクリートの壁は所々焦げ、罅が入っている。
 そして、何よりも血の海。

 根本から千切れた右腕が転がっていた。
 蜂の巣になった左足が、皮一枚残してつながっていた。
 右足は真っ黒に焦げて炭化している。
 左腕はもはや再現不可能な無数のパズルピースと化していた。
 そして、血と脳漿をまき散らして護衛の一人は絶命していた。

 もう一人の護衛は、今も尚、炎に包まれ燃えていた。
 根源的に人間の嫌悪感を呼び起こす凄まじい悪臭はそこから立ち込めている。
 熱により沸騰した血液が気化していく様子は、地獄の底を見るようだ。

「おえっ、マジかよ。グロ……」

 フェルナンデスの言葉には耳を傾けず、アゼリアは歩みを進める。
 血の海と死体の傍を避け、壁に叩きつけられた、唯一生き残った男の元へ。

 ギュンターもまた酷い負傷だった。
 他の二人のような致命傷こそないが、全身は熱風により焼けただれている。
 特に火傷の酷い左腕は真っ黒に焦げ、ケシズミと化していた。
 両足の大腿部は一直線に銃傷が並び、ドクドクと血を垂れ流している。
 叩きつけられた拍子に頭を割ったのか、こめかみの辺りからも血が出ていた。
 それでも、彼は確かに生きていた。
 仮面のような無表情で彼の呼吸と脈拍を測り、生存を確認したアゼリアはギュンターに背を向けて足早にその場を去った。

「フェルナンデス、カーティスの番号は知っているな。彼に連絡を取り、任務の終了を報告しろ。直にこの現場を処理し、ギュンターを確保するチームがやってくるはずだ。それまでここで待機しろ」
「あ、ああ、判った。あんたはどこ行くつもりだ?」
「やることがある。すぐに戻るからついてくるな」

 平坦な声で、無感情にそう言い残し森の中へ去っていくアゼリアを見送り、フェルナンデスは唾を吐き捨てた。
 酷い惨状だった。廃工場の中は凄惨で、容赦なく、苛烈な殺戮の跡地だ。
 初めて「殺し」の現場を見た。チンピラの友人たちが戯れに言う「殺す」とはまるで次元の違う「死」。
 そんなものを作っておいて、そんなものを見ておいて、アゼリアは表情一つ変えずに、淡々としていた。
 胸糞悪い。

「人形かよ、あいつは……」

 感情も無く、表情も変えず、作業をこなすかのように人を殺す機械。
 そんなものは、人間と呼べない。ただの化け物じゃないか。

 フェルナンデスは行き場のない気分の悪さを携帯にぶつけるかのように、乱暴にボタンを押し始めた。





「お、おえぇぇぇぇぇ!!!」

 吐いた。

「げ、お、おえぇぇぇ、うぇ、あ、ぐ……」

 吐いて吐いて吐いて、吐瀉物の匂いが立ちこめて、胃の中に吐き出すものが残らなくなっても、尚吐いた。胃液のツンとした臭いすら気にならないほど気分は最悪で、そのことが何より私を愕然とさせた。
 胃液に汚れた手を見て、愕然とする。
 なんだ、これは。
 これが……こんなものが、今の私か?

 何も感じないはずだった。
 人を殺しても、傷を負っても、仕事を終えても。罪悪感も、嫌悪も、安堵もなく、遠い他人の出来事であるかのように、何も感じずに眺める私がいるだけだった。それはさながら映画の中の、虚構の物語を眺めるかのような無感情で。そうあろうと努力してきた。
 こうなることが、怖かったから。
 眼を瞑り、必死に見ないようにしてきた。人の死を。血に汚れた私の手を。
 耳を塞ぎ、聞こえないふりをしてきた。断末魔の叫びを。救いを求める声を。
 そうしなければ、コワレてしまうから……
 人の死を背負って歩くなんて、私には出来ない……
 感じないようにしなければ、押しつぶされてしまう。

 けど、それが出来なかった。
 あの死体を見たとき、氷柱を背骨に差し込まれたような悪寒が走った。
 無表情の仮面も、限界だった。あれ以上一秒でもあの場に居たくなかった。逃げるように森の中へ進み、廃工場から離れた木陰で、私は不快感も共に吐き出されてくれればいいのにと思いながら吐いた。

 吐く気力も失せて、どっと疲れが襲ってくる。服が汚れちゃうな、とぼんやり考えて、少し離れた木の幹に背中を合わせてずるずると座りこんだ。
 汚れた手がべたべたと気持ち悪い。
 汚いなぁ、と。ハンカチを取り出して手を拭おうとして―――

 ―――血で真っ赤に染まった手が、そこに……

「う、わああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 ち、違う!
 違う違う違う違う違う!!!
 こんなの、私の手じゃない!!!
 誰かの手が、知らない手が私の腕にくっついている!!
 知らない! こんなの、知らない! 気持ち悪い!
 外さなきゃ……外して、私の手を探さなきゃ……!
 でも、どうやって……!!
 どうやったら、この手は外れてくれるの!?

「あ……痛っ……」

 じくりとした痛みを感じた瞬間、世界はもとの色を取り戻した……
 ここは他に誰もいない森の中だし、私の手は、私の手のままだ。
 怖いものを追い払うように振り回した手が、木の枝に引っかかって切り傷が出来ていた。

「げん、か、く……」

 見慣れた、手。
 血なんて付いてない……

「ふ、ははははははは……」

 自然と笑いが漏れた。
 止まらなかった。
 自分の惨めさが、いっそ滑稽だった。

「なんて、無様……」

 なんて弱くなったのか、私は。
 いつものように人を殺しただけ。いつものように仕事をこなしただけ。それだけで、この様か?
 こんなの、まるで幼い日の私じゃないか。
 私は、十年前から、何一つ成長していない……

「……いや、それも当然か」

 成長しているはずが、ないか。
 私は逃げてきた。
 見ないように、眼を逸らしてきた。
 人の死と向き合うことから……
 傷を負わないで済むように。罪悪感に潰されないように。
 そんな私が、変わっているはずがない……

 強くなったつもりだった
  ―――本当は逃げていただけだった
 心なんて殺したはずだった
  ―――それを取り戻してしまった
 逃げだしたかった
  ―――逃げ場なんて元からなかった

「……嫌だ」

 そしてひとしきり嗤った後、残されたのは虚しさと、恐怖だった。

「もういや……こんなの……」

 震える。
 体中が熱病にでもかかったかのようにガタガタと震える。
 両手で体を抱きしめた。力強く、爪が肌に食い込むほどに。
 少しでもこの体が小さくなるように。誰にも見つからないように。
 私が殺した人たちに見つからないように……
 そして誰にも聞こえないことを祈りながら、小さく嗚咽を噛み殺した。

 耐えろ。そう自分に言い聞かせる。
 心を空っぽにして、何も考えずに。寒気と怖気が通り過ぎるのをじっと待つ。
 そうすれば、いつしか何も考えなくなる。
 何も心を動かすことが無い、人形になれる。
 また何も考えずにヒトが殺せるようになる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 ―――それは、なんて恐ろしい……

 苦しかった。
 胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
 そしていつしか、頬を暖かい雫が伝っていた……

「助けて……たすけてよ、ヴィオレッタ……」

 たすけてよ、ハルカ……





 任務終了の連絡がフェルナンデスから送られてきた二時間後。
 医療スタッフが一通りの治療を済ませ、拘束衣で身動きを取れなくしたギュンターが、ボルフィード組の屋敷に送られてきた。
 部下に命じて、地下牢に放り込ませる。これがかつての自分の同僚の姿と思うと、暗い嗜虐の念が湧いてきた。
 腹に一発、強く蹴りを入れる。
 ギュンターは悶絶し、苦しげに息を吐きながら目を覚ました。

「気分はいかがかな、ギュンター」
「……カーティスっ!!」

 重症といって差し支えない怪我を負っていながら、こちらの姿を認めた途端敵意を露わにするのは流石の胆力と言えるだろう。
 絶対的優位者の立場から、そんな賞賛の想いを抱きながら、カーティスは皮肉気に嗤った。

「小遣い稼ぎは上手くいきましたか? なに、失敗した? それは残念……」
「やっぱり、てめえの差し金か……!!」
「人聞きの悪い。組を裏切ったのは貴方の方でしょう。確かに調べたのは私ですが、ボスもアレッサンドロさんも既に知っていました。貴方の下らない企みなど、初めから成功するはずがなかったのですよ」
「この、蛇野郎が……!!」

 その瞬間、ギュンターの顔に靴裏がめり込んだ。
 だが鼻がへし折れ、熱を帯びるのを感じ、鼻血が溢れて呼吸も苦しくなりながらも、ギュンターはカーティスを睨みつけることを止めようとはしなかった。
 カーティスの口が、さらに暗く歪む。

「さて、ボスたちは今後このようなことが起きないよう、あなたから出来るだけ情報を引き出そうとお考えです。僭越ながら、私がその役目を引き受けました。知っていることは何でもいいから話しなさい。ノストラード組のこと、どういった経緯で麻薬取引を持ちかけられたのか、仲介人は誰か、全てです」
「……誰が、てめえなんかに……」
「ほう、そうですか……あなたはどうせ、見せしめに惨たらしく殺されることになりますが、苦痛は少ない方がいいでしょう? どうです? 私の靴を舐めて、大人しくすべてを話すのならば、拷問などしなくていいのですが……友人(・・)として言ってあげているのですよ、ククククク……」

 カーティスはつま先をギュンターの口元に運んだ。
 ギュンターは汚物でも見るような眼でそれを睨むと、唾を吐きかけた。

「地獄に堕ちろ、屑め」
「……その強気がいつまで続くか、楽しみですよ」

 カーティスは再び腹に蹴りを入れ、吐きかけられた唾を拭うと、ナイフを取り出した。
 覚悟を決めてぐっと歯を食いしばるギュンターに、嘲笑うかのような視線を向ける。
 そして、自分の右手を切った。

「……なんのつもりだ?」
「いえいえ、すぐに判りますとも。さて、それではお愉しみの時間ですよ……せいぜい粘って下さいね」

 ポツリ、ポツリと滴る血。
 暗がりの中でも輝くガーネットが、血に濡れて艶やかに輝く。
 それが何よりも美しくて……怖気がするほど不吉だった。

 赤い霧が辺りを包む。
 いつしかそれは濃くなっていき、血煙はゆっくりと一つの姿を形作っていった。
 真っ赤な、髑髏の姿を。

 それを見た瞬間、ギュンターはあまりに不吉な予感に、抵抗の気力など吹き飛んでしまった。
 カーティスを睨みつけるのも忘れて、必死で後ずさろうとする。
 しかし、拘束されたその進みは、悲しくなるほどに遅い。
 芋虫が進むかのように、地を這う。
 そしてついに、牢屋の壁を背負い、逃げ場がなくなる。
 ギュンターはそれ以上、恐怖を抑えつけておくことができなかった。

 髑髏が、迫る。
 死神の鎌をその手に携えて……

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」





 ハルカは夕食の準備をしていた。
 今日はアゼリアが帰ってくる予定の日だ。どうせ眼を離せば碌な食事を取らないに決まっているんだから、帰ってきたら腕によりを懸けて美味しいものを食べさせてあげようと思う。
 本当はクロロとかに作ってあげたいんだけどなー、とぼやくが、別に現状に不満があるわけではない。ただ未来の恋人に作ってあげるために練習してきた料理をふるまう相手が女一人というのは、ちょっと引っかかるものがあるが。
 まぁいいか、と考えなおして、火加減を調節した。料理はなんだかんだ言って楽しいし、これはこれで幸せだ。
 その時だった。
 表の通りに車が停車する音が聞こえて、ロフトのドアが開かれた。
 リビングに入ってきた慣れ親しんだ気配に、ハルカは笑顔で振り向く。

「おかえり、アゼリ……ア?」

 ハルカの声が戸惑いの色を帯びたのも無理はない。
 いつも凛として強くあったアゼリアの顔が真っ青だった。
 まるで長い間土砂降りの雨の中を傘もささずに歩いてきたかのように、酷く弱っていた。

「ど、どうしたの、アゼリア!? 大丈夫?」

 慌てて包丁を置いて駆け寄る。
 アゼリアの表情は俯いていてよく見えない。あまりに普通でない様子に、下から顔を覗き込もうとして―――

「ひゃっ!」

 抱きしめられた。
 ギュッと、力強く。万力のような力で、決して逃がすまいとするかのように。

「あ、アゼリア! 痛い痛い!! ていうか、私はそういう趣味はなくて―――」
「寒い……」

 ポツリ、と。ほとんど聞き取れないほど小さな声でアゼリアが何かを言ったことを知り、ハルカは騒ぐのを止めた。
 全身で感じるアゼリアの体は冷え切っていて、ガタガタと震えていた。

「寒いんだ、ハルカ……どうすればいいのか、判らない……」
「あ、アゼリア……?」
「両手が真っ赤で、べっとりしてて、何回洗っても落ちなくて……!! あいつらが、私が殺した人たちが、周りで嗤って、罵倒して、責め立ててくるんだ……」

 アゼリアは項垂れて、今にも消えてしまいそうだった。
 ハルカはかけるべき言葉も見つからず、ただ何かを伝えたくて、両腕をアゼリアの体に回してギュッと抱きしめた。
 震えが、少し収まった気がした。

「ごめんなさいって、言ってるのに……! 許してって、言ってるのに……!! 消えない! 消えてくれない……!! 今までは気にならなかったのに! 見ないでいられたのに!! 今は、今は……!!」

 そこにいるのは、常に強くあった姉のような人ではなかった。
 怯え、泣き叫び、悲鳴を上げる、幼い少女の心がそこにあった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 怯えながら、涙すら滲ませた声で謝り続けるアゼリアを、ハルカはずっと抱きしめていた。



 アゼリアは疲れていたのか、ハルカの腕の中でそのまま眠りについてしまった。
 自分より背の高いアゼリアをベッドまで運ぶのは大変だったが、何とかベッドまで連れて行き、服を脱がす。
 毛布を取ってきて、アゼリアの上にかける。
 夕飯、無駄になっちゃったな……

 アゼリアの秀麗な横顔を、涙が伝う。
 なんで彼女があんなに弱っていたのかは判らない。
 けれど、せめて夢の中では幸せでいてほしい……
 ハンカチで涙を拭い、そんな思いを込めて、毛布を首元まで引き上げた。

「お疲れ様、アゼリア……」










〈後書き〉

奇襲と一撃離脱こそが暗殺者の真骨頂だろうと考えてます。でもその描写も難しい……相手が格上じゃないとジェノサイドゲームになってしまいます。
そしてアゼリアも変わっていきます。おもに悪い方向に。精神崩壊若干進行中。
そろそろハルカに頑張ってもらわないと……
それでは、また次の更新の時に。



[3597] 『敵意』
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/09/12 22:08
 逃げた。
 暗闇の中、何も見えないまま、闇雲に逃げ惑った。

 振り向いてはいけない。
 後ろから迫る何かに追いつかれてはいけない。
 そんな暇があるならば、逃げろ。
 逃げて逃げて逃げて、どこまでも走り続けろ。
 けど、その暗闇には出口なんかなくて。
 私は行き場もないまま、泣きじゃくりながら足を進めるしかないのだ。

 ごめんなさい。

 誰に謝っているのかも判らない。

 許して下さい。

 何を許してほしいのかも判らない。

 そんな大切なことが、思い出せない。

 きっと、後ろにいるナニカに謝っているんだろう。
 でも、私は、何を謝っているんだろうか。
 後ろのナニカは、私がそれを思い出さないから、ずっと怒っているのかな?
 それを思い出して、しっかりと謝れば、許してもらえるのかな……

 振り向くのは、怖かったけど。
 その思いつきはとても魅力的で。
 私は、勇気を出して振り向いたんだ。

 そして、見た。

 虚ろな眼窩。
 腐敗した足。
 千切れた腕。
 まき散らされた脳漿。
 止まらない血飛沫。

 死者の、大軍……
 私が、殺してきた……

 男がいた。
 女がいた。
 青年がいた。老人もいた。子供もいた。
 元の姿が判らなくなった者もいた。

 その口は呪詛をまき散らし、光のない瞳は確かに私のことを映している。
 伸ばされた腕は何かを求めるように……何かを捕え、引きずり込むかのように、伸ばされている。

「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」

 悲鳴を上げた。
 力の限り、喉が張り裂けるくらい、叫んだ。
 そして、逃げだした。
 棒のような足を、ひたすら動かして。
 縺れるように、無様に。倒れそうになりながらも、必死で。

 思い出して、しまった。
 見ないようにしてきたものを、知ってしまった。
 もう一度眼を逸らすことなんて、出来なかった。

 私の罪の具現。罪悪の痕。
 許してなんて、言えない。言えるわけがない。
 出来ることなんて、眼を閉じて、耳を塞いで、走り続けるしかないのだ。

 でも、疲れきった体はいつまでも走ることなんて出来ない。
 まき散らされた血の池に足を滑らせて、私は受け身を取ることも出来ず、地面に倒れこんだ。

 そこに追いすがる、死者たちの手。
 頭を抑え、腕を取り、髪を掴み、首を絞める。死者たちの手が、手が、手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が!!!!

 耳をふさぐ手を解かれた。
 死者たちの怨嗟の声が耳に入り込む。

 瞼を無理やり開かれた。
 回りを囲む死者たちの群れは、皆虚ろな瞳でこちらを睨みつけてくる。

 私はただ、泣きじゃくって許しを請うことしかできない。
 それがどれほど愚かで、意味のないことだと判っていても。許されるはずがないと判っていても。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――」

 けど、応えは当然、許しの言葉なんかではなくて。
 返ってくるのは、私を恨み、呪い、蔑み、否定する悪意。

―――お前が、俺達を殺した
―――許されるなんて思っているのか
―――地獄に堕ちろ
―――ア
―――私たちの未来を返して
―――同じ苦しみを味わえ
―――この人殺しめ
―――リア
―――お前がいなければ……
―――死ね、死ね、死ね、死ね、死ね
―――ゼリア……

「アゼリアっ!!!!!!!」





 ドクドクと、心臓が胸を突き破りそうになるほど激しく脈動しているのを感じながら、アゼリアは目を覚ました。
 目の前には心配そうに彼女を覗き込むハルカの姿がある。
 ワイシャツは冷たい汗でびっしょりと濡れ、体に張り付いて気持ち悪かった。

「大丈夫、アゼリア……? また魘されていたけど」
「あ、ああ……だ、大丈夫だ……」
「そう言って、もう一週間よ……やっぱり、何か―――」
「いや、本当に大丈夫だ、ハルカ。もう落ち着いた」

 本当は落ち着いてなんかない。
 夢の中の出来事は、現実と勘違いするほどの生々しい重み(リアリティ)を伴って、目が覚めても尚憶えていた。
 あの日、ギュンター捕縛の任務を終えてから一週間。
 私は毎晩、その夢に魘されていた。

 しかし、どうすることも出来ない。
 原因は判っていても、それを取り除くことなど出来ないのだから。
 心配そうに顔を歪めるハルカに申し訳なく思いながらも、私はベッドから起き上がった。

「……シャワーを浴びてくる。このままじゃ風邪をひいてしまうからな。ハルカも、もう少し寝た方がいい。まだ三時だ。起こしてすまなかったな」
「うん、わかった……けどアゼリア、私でも相談に乗るくらいは出来るからね。何でも一人で抱え込んだりしないでね」
「判ってるよ……」

 そうして、ベッドに戻るハルカを残して寝室を出る。若干の申し訳なさを感じながら。
 私がハルカに相談をすることはないだろう。
 ハルカを信用してないわけではない。ただ、この問題はあくまで私の心の問題。誰に相談してもどうなるということでもない。
 私自身が克服するしかないのだから……

 雑巾のように絞れそうなワイシャツを洗濯籠に放り込み、シャワーを回した。
 暖かいお湯が流れ出し、冷えた体を温めていく。ほっと人心地つく瞬間。
 しかし、少しでも気を緩めると、幻視してしまう。
 自分の手が真っ赤に塗れている様子を。
 シャワーから流れる水が、赤く染まる様子を。
 物陰から這い出る、腐った手を。

「……っ!!」

 今も、見てしまった。自分の手が赤く紅くアカく染まっているのを。
 私は両手をシャワールームの壁に叩きつけて、力いっぱい目を閉じた。

「くそっ……私は、一体いつまで……」

 何時になったら、こんなものから解放されるのか……
 だが、それが一生背負わなければならない十字架だと判っているから、私は嗚咽を噛み殺すしかなかった。





 通いなれた道を進むと、そこにはすっかり馴染みになった花屋がある。
 店主は流石に慣れたもので、言わなくとも既に花束を一束作ってくれていた。

「ほいよ、ねーちゃん。今日は春の新品ばかり入れといたぜ。四千ジェニーな」
「ああ、ありがとう」

 もうお決まりになったやり取り。いつもと違う点があるとすれば、財布を開いた私が凍りついたことだろうか。

「―――どしたの?」

 隣のハルカが怪訝な視線を向けてくる。
 とりあえず、もう一度財布の中身を数えてみた。
 千ジェニー札が、いち、にぃ……三枚。
 小銭も合わせて、計3215ジェニー也。

「……不覚」

 金が足りないとは……情けないというか、恥ずかしいというか……

 横から財布を覗き込んだハルカと目が合った。
 なんていうか、呆れたような視線を向けられる。

「……ま、ここは私に任せて」

 ハルカは私にだけ聞こえるように小声で言うと、店主の方に向き直った。

「ぬし様」

 ハルカの一風変わった呼びかけに、店主は何事かとそちらを見る。
 ハルカはコホンと咳払いをし、精一杯威厳を取り繕うかのように胸を張ったのだった。



 ―――で、数分後。



「……意外だ」
「ん? 何が?」
「君が交渉術なんか持っていたことだ。そんな風には見えなかったがな」

 結局ハルカが値切り、ところどころに脅迫っぽいカマカケだの交渉術だのを織り交ぜていった結果、二割引でのお買い上げとなった。ぎりぎり手持ちで足りる値段だ。
 ハルカは意外と強かなところがあることは知っていたが、どこでそんな経験を積んだのだろうか。交渉術なんて学校では習わない。
 そのことを尋ねてみると、ハルカは肩を竦めて答えた。

「そういう小説もあるのよ。後はイメトレね」
「……ある意味凄い才能だな、それは」

 イメージトレーニングと創作だけでそんな技術が持てるなんて……
 理不尽な努力の放棄に肩を落とした。
 まったく……そういった技術を身に付けるのに私がどれほど苦労したと思っているのだろうか……
 なんとなく恨めしい気持ちになってしまったので、軽く頭を振って話題を変えた。

「それと、さっきの妙な喋り方はなんだ? どこの方言だ?」

 ハルカは交渉の最中普段とは全然違う口調だった。値切りを渋った店長の首を縦に振らせた言葉は、「わっちの可愛さに免じて、もう少しまけてくりゃれ?」だった。
 そう聞くと、ハルカはニヤリと不敵に笑った。

「あれは北の国の神様の喋り方よ。商人を口説くならあの口調で間違いないわ」
「……なんだそりゃ」

 相変わらず言ってることはよく判らない。だが自信に満ちたハルカの様子に、彼女の頭に狼の耳がはえているような気がした。なんとなく。
 まぁ、金が浮いて助かったことは確かなんだ。それ以上追及しようとも思わない。
 軽く肩を竦めて話の終わりを告げると、私はその花束を大切に抱いて、ハルカとともにエル病院の方へ向かった。

 カーティスから病院に行く許可が下りたのは昨日の晩。ネオンに占ってもらった一週間後のことだった。
 任務を終えた日から毎晩のように悪夢にうなされていた私だが、頭の中はその占いのことでいっぱいだった。
 何度見なおしても、それが意味するところはただ一つなのだから。



『箱庭に眠る愛しい天使を林檎の毒が襲い
 天使は永遠(とわ)に目覚めぬ眠りについてしまう
 迷い子の天使を伴いなさい
 真実への鍵が見つかるかもしれないから』




 箱庭に眠る愛しい天使―――言うまでもなくヴィオレッタのことだろう。
 林檎の毒というのが何かはわからないが、何かが襲いかかり、ヴィオレッタが死ぬという予言。
 これを見てから、私は気が気でなかった。
 四週目のいつこの予言が起こるのかは判らないが、もしその日が今日ならば? 明日ならば? そう考えると焦りばかりが募り、幾度となくカーティスに許可を求めた。

 だが―――となりを歩くハルカを見る。
 それも今日で一息つける。
 あの予言は警告さえ守れば、悪い占いは回避されるらしい。

 迷い子の天使。これはきっと、ハルカのことだ。
 彼女を伴って病院に行けば、最悪の事態だけは回避される。それがどういう過程なのかは判らないが。
 ハルカを連れて病院に行くのは初めてだ。
 どのようにハルカが影響するのかは判らない。だが、助けてほしい。心の底からそう思う。
 縋るように彼女を見ていると、目があった。

「なに? アゼリア」
「……いや、なんでもないよ」
「そう? また調子が悪くなったとかじゃ……」
「ありがとう。だが本当に大丈夫だ。考え事をしていただけだから」

 ちょっと疑わしそうな顔で、ハルカはそのまま引き下がった。
 どんどん保護者っぽくなっていくハルカに苦笑する。だが今は本当に考え事をしていただけなので、嘘はついていなかった。
 ハルカには予言のことを知らせていない。
 予言を知らせることでハルカに余計な負担をかけたくないし、心配しすぎかもしれないが、そのことでさらに未来が変わってしまうのではないかと不安だったのだ。

 そして、考え事といえば、気になることが一つ……
 占いの四行目―――真実への鍵。
 「真実」とは、一体……?





 病室はいつも通り。何も変わることなくそこにあった。
 窓から射し込む光も、机の上の写真と人形も、無骨に存在感を示す医療器具も、何も変わらない。
 部屋の住人もまた、いつも通りの姿でそこにいた。
 あんな予言の後では、ただそれだけでもホッと安堵する。

「懐かしいな……四か月ぶりかな」

 花瓶の花を取り替えていると、後ろでハルカがそう呟くのが聞こえた。
 古い花束を取り出して、先ほど買ってきた花束を花瓶に挿す。華やかな香りが部屋を満たしていく。
 胸いっぱいにその香りを吸いこむと、心の中まで澄んでいく気がした。

「ハルカはここに来たことがあったのか?」
「うん……ほら、アゼリアと会ったころ、私が酷いこと言ってロフトを飛び出したことあったじゃない。あのときに」
「ああ……あったな、そんなことも」

 あの頃はハルカの言動にいちいち悩まされたものだ。
 今でもそういうことはあるのだが、それでもハルカは以前よりも大分成長したのではないだろうか。少なくとも、お金のことで私が頭を悩ませる必要がなくなった。
 食事も作ってくれるし、家賃も払ってくれるし、割と助かっている。

「ああ、髪がサラサラ。気持ちいい~。これはもう萌えね。特A級の萌えね」
「萌え?」

 ハルカがよく口にする言葉だが、「萌え」ってなんだろう。
 萌え……ハルカが萌えと言っていた時のことを思い出す。

 ―――クロロ萌え~、イルミ萌え~、ヒソカ萌え~

 ……共通点、危険人物?

「謎だ……」

 ヴィオレッタにその要素は欠片もなかった。
 それとは違う共通点があるのか?
 腕組みをして考えるが、さっぱり判らないので、ひとまずそのことは置いておくことにした。

「ハルカ、ヴィオレッタの体を拭くから手伝ってくれ」
「あいあい」

 ヴィオレッタの入院服を脱がし、濡らしたタオルでその体を拭いていく。
 肌を傷つけることが無いように、宝石を磨くような慎重さで。同時に関節が固まることのないように、体を動かして関節を解していく。これらはみんな看護師さんたちが毎日やってくれていることだ。本当に頭が上がらない。
 そして体を冷やさないように、乾いたタオルで濡れた体を拭きとった。

「ハァハァ……ひ、貧乳っ子……これはもう、国宝指定かしら……」

 ……ちょっとハルカは黙らせた方がいいかもしれない。
 何かぶち壊しだった
 とりあえず、軽く引っ叩いておく。ハルカから隠すように、手早くヴィオレッタの服を戻した。

「アホなことを言うな。私は医者(せんせい)のところに行ってくるから、しばらくここに居てくれ」
「はーい」

 やれやれ、と肩を竦めながら、私は部屋を出た。

 ちなみに全くの余談だが。
 ハルカは体格もまたヴィオレッタにそっくりで、胸の平坦さもいい勝負なのだった。





 午前中の回診を終わり、デスクでコーヒーを飲んでいた。
 最近は夜間の急患が多く、仮眠は取っているものの寝不足だ。同僚の顔にも疲れの色が濃い。
 けど患者の前ではそんな様子を見せるわけにはいかない。思いきり濃いコーヒーをミルクも砂糖もなしで飲みほして、あまりの苦さに顔をしかめるのだった。お陰で目は覚めたが。
 そんなことを考えていると、デスクに置かれた電話が鳴った。

「はい、こちら脳外科」
『あ、パスカル先生ですか? こちら受付です。アゼリアちゃんが来てるんですけど、今お時間よろしいですか?』
「アゼリアちゃんですか。ええ、今は大丈夫です。取り次いで下さい」
『はい。それでは第一応接室にお通ししますので、よろしくお願いします』

 ああ、もう一月が経つのか。
 アゼリアちゃんが見舞いに来るのはおよそ月に一度なので、彼女の来院の度に時間の流れを知らされるのだった。
私はもう一杯コーヒーを一気に飲み、軽く身だしなみを整えると応接室に向かった。

「やあ、アゼリアちゃん。元気……じゃ、なさそうだね」

 応接室に座っていた彼女の顔は、明らかに不調だった。
 寝不足と疲労、栄養失調。それは肌の様子などからも判る。
 だが、どこか思いつめた感のある彼女の様子からは、原因は別にあるのではと考えられた。

「いえ……最近、ちょっと寝つけないだけですよ。先生の方こそ、お忙しいようで。お邪魔でなかったですか?」
「邪魔だなんてことはないよ。君ならいつでも相談に乗る」

 やんわりと追及してほしくないと態度で示されて、私はそれ以上問うことが出来なかった。

「それでは、先生……伺ってもよろしいですか?」
「うん、なんだい?」

 彼女は一瞬躊躇うように口を噤み、意を決したように口を開いた。

「あの、妹の……最近の様子はどうでしょうか。特に今週のことで、何か変わったことはありませんでした?」
「ん……依然、変化は無しだね。脳波、脈、呼吸、血圧、その他もろもろのデータを見ても、以前から変わりはない。恥ずかしい限りだが、回復の兆しも今のところは……」

 自らの無力を思い知るのはこうした時だ。
 医者は、医学は万能などではない。日進月歩の発展を遂げ、不断の努力を繰り返してはいるが、それでも尚、救えない命がある。取り戻せない笑顔がある。それを思い知るとき。
 それが嫌で、つい弁明めいたことを言っていた。

「でも、このまま治療を続ければ病状が悪化するってことはないから、そこは安心してくれていいよ。この病気は―――」
「いえ、そういうことではなくて……気を悪くしないで戴きたいのですが、何か、毒……のようなものは……」

 毒……?
 一体どういうことだろう。そんな心配をするなんて……
 だが彼女の顔を見れば、冗談でそんなことを聞いているわけではないと判る。
 私は慎重に言葉を選んで、彼女の不安を取り除こうとした。

「……ない、と思う。無い筈だ。ヴィオレッタちゃんのお見舞いに来る人は少ないし、彼女に勝手に食物が与えられるなんてこともない。この病院はセキュリティが万全とまでは言わないが、それでも不審者に対応できるように警備されている。可能性があるとすれば投薬のミスだが、彼女の投薬をしているのは十年以上の経験ある者だけだし、使われた薬はきちんと確認して記録されている。その可能性は低い。それにもし毒が体内に入り込んだりすれば、毎日の検診で見つかっている筈だ」
「そう、ですか……」
「何か、思い当たる節でもあるのかい?」
「いえ……」

 アゼリアはそれっきり口を噤んでしまった。
 そのことが無力感を加速させる。
 全てを話してほしいとまでは願わない。全てを受け止められると思うほど自惚れてもいない。
 けど、少しでもその重荷を背負わせて欲しい……力になりたい、そう思うのに、彼女は全てを自分で解決しようとしているように見えてしまうのだ。

「……ああ、ところで、この前ヴェルンハイム大学の外科部長と話をしてきたんだけどね―――」

 これは欺瞞なのだろうか。
 ただ自分が彼女の助けになっていると思うことで、罪の意識から逃れようとしているだけではないのか。
 そんな考えが頭の片隅に引っかかりながらも、私は友人の伝手を頼り、奔走し続けるのだった。





 病室に戻ってみると、ハルカはいなかった。どこかに出かけているのだろうか。
 だが、ある意味では好都合だ。今は一人で情報を整理したかった。私はベッド脇の椅子に腰かけると、考えを纏め出した。

 パスカル先生に聞いてみたが、毒と思われるものがヴィオレッタに与えられたとは思えない。
 事実彼女の現状には変化が無いのだ。
 ならばヴィオレッタが毒を受けるのはこれからということか。

 ヴィオレッタが襲われる理由なんて、考えるまでもない。
 私は死ぬほど恨みを買っているからな。
 仕事で証拠を残したつもりはないが、それを絶対と言い切るほど自惚れたつもりはない。
 私とヴィオレッタの関係は組の方がある程度の情報操作をしているらしいため、繋がりが簡単に判るとも思わないが、実際私はこうして見舞いにも来ているのだし、どこからか情報が漏れないとも限らないのだから。

「……結局、私が撒いた種ということか」

 手を見る。
 ところどころに傷が残り、ナイフの握りすぎでマメが潰れて硬くなっている。
 人殺しの、手。
 それは少しでも気を緩めると、赤い血がべっとりと付いているように見えてしまう。
 ヴィオレッタに触れるのを躊躇ってしまうくらい、汚れている。

 そう、悪いのは私だ。
 私は悪人。それは論ずる余地すらなく、確かなことだ。
 いずれ私を打ち倒す「正義」が現れる。そして私はきっとそこで朽ち果てるのだろう。

 ―――だが
 軽く頭を振ってその考えをかき消す。

 だが、ヴィオレッタに手を出させはしない。
 如何なる聖人が私を責め立てたとしても、他の全ての人間を敵に回したとしても、護る。護ってみせる。
 だから―――

「必ず、捕まえてやる……」
「あ? 誰をだよ」
「っ……!」

 不覚……! 接近されるまで気付かないなんて……!!
 ベルトの後ろに仕込んだナイフに手を掛け、戦闘状態に思考を切り替えて振り向く。
 危険度、距離、ともに許容範囲内―――排除? 否、ここは病室、場所の移動を―――
 どこまでも冷たく冷えていく思考で十七通りの対処法を導き出す。それと同時に敵の観察。
 縦にも横にもでかい肉体。無骨な筋肉にその体は覆われている。そしてその顔はまるでゴリラのようで―――

「って……フェルナンデスか?」
「お、おう。な、なんだよ、いきなり殺気立ちやがって……」

 そこにいたのはコンビニの袋を片手に持ったフェルナンデスだった。
 安堵か、失意か。条件反射で戦闘態勢を取りかけた体は同じくらい簡単に力が抜け、ナイフから手を離す。
 こいつが犯人なわけがないか。
 気が抜けて椅子に座りこみ、私は小さく溜息をついた。

「……入室を許可した覚えはないがな。大体、何故お前がここにいる」
「ノックは何度もしたぜ? いや、俺はちょっと友人(ダチ)の見舞いに来てたんだがよ、あんたの姿が見えたからちょっと追ってきたんだ。妹の見舞いか?」
「何故妹と知っている?」
「あ? 部屋の前に張ってあるじゃねーか。ヴィオレッタ=クエンティって。ファミリーネームが一緒だ」
「……そうだったな」

 どうやら本調子には程遠いらしい。やはり連日の寝不足で鈍っているのだろうか。聞くまでもないことだっただろう。それにノックの音にも気づかなかった。

「ならば、見ての通り見舞い中だ。早急に出ていってもらおうか」
「ま、そう言うなよ。なんだ、妹さんってあんたに似てるの―――」

 フェルナンデスは近づいてきて……ヴィオレッタの顔を見て、絶句した。
 その顔に浮かぶのは、驚愕だろうか。
 いや、それだけではない……
 歓喜。それがわずかに読み取れるような気がした。

「……なぁ、あんたもう一人妹いるのか?」
「何故そんなことを聞く?」
「い、いや、こないだ町でこの子にそっくりな子を見かけてよ。それで吃驚したわけさ」

 ああ、ハルカのことか。
 そういうことならば、フェルナンデスの驚きにも納得がいった。
 どう答えたものか一瞬悩む。だが、すぐに答えは出た。

「ああ、そうだな……その子は私の妹だ」

 こう答えても構わないだろう。
 ハルカのことを、私は妹のように大切に思っているのだから。

「そうか、そうか……」
「……どうした?」
「いや、なんでもねえよ。俺は失礼するぜ」
「ああ、そうだったな。さっさと出て行け」
「わかったよ、邪魔したな。あ、これ食うか?」

 フェルナンデスがコンビニの袋から取り出したのは林檎だった。

「いらん」
「ま、そう言うなよ。買ったはいいけど、別に誰も食わないから困ってたんだ。ほらよ」
「いらんと言っておるに……」

 しかし林檎はすでに投げ渡されており、私はそれをはじき返すでもなく受け取るのだった。
 物に罪はないからな。
 そしてフェルナンデスはすぐさま部屋を出ていった。

「……林檎、か」

 今はあまり見たくない果物だ。
 占いの詩の一行目を思い出す。

 『林檎の毒』

 これは一体、何を暗示しているのだろうか……

「……まさかこの林檎じゃないよな」

 あまりに馬鹿馬鹿しい考えだったので、すぐにそれを打ち消す。
 だが、一応ヴィオレッタに触れることが無いよう、遠い場所に置いておいた。

 悩みばかりが増えていく。
 答えが出たときには物事は取り返しがつかない。起こりうる全ての解に対策を打っておかねばならない。

「たっだいまー!」

 そんな重苦しい悩みを、溌剌とした声で吹き飛ばしたのはハルカだった。

「お帰り、ハルカ。どこに出かけていたんだ?」
「んー、ちょっと昼ごはん買いに。コンビニパンだけど、アゼリアも食べる?」
「ああ、貰おうか」

 ハルカが取りだしたのはチョコが中に詰まったパン、チョココロネだ。
 受け取り、食べだす。
 ふと視線を感じると、ハルカがじっとこっちを見ていた。

「ねえアゼリア、チョココロネってどこから食べる?」
「……どっちからでもいいのでは?」

 別に気にしたこともない。

「……バカ! それじゃあチョココロネの頭がどっちかの議論まで行かないじゃない!」
「な、何を怒っているんだ?」

 なんていうか、ハルカがいるとどうにも真剣さというか、シリアスさというか、そういうものが欠けていくなぁ。
 ある意味ではその明るさに助けられている部分もあるのだが。
 私は苦笑いをしながら、こなたとつかさがー、と語っているハルカに耳を傾けるのだった。





 走り出したいのを堪えた。
 いまだに歪んだままの鼻が熱を持って疼く。不快な筈のその感覚に、今だけは口元が釣り上ってしまう。

 ―――見つけた

 すれ違う人々が怪訝な視線を向けてくるが、今はそれすらも気にならない。
 怒りと暗い歓喜が混ざり合うと、こんな不思議な気分になるのか。
 悪くない気分だ。

 ―――見つけた

 気がつくと目的の場所まで着いていた。
 ノックもなく入る。どうせこの病室は知り合いしかいない。そんなことを気にする奴らでもないだろう。

 ―――見つけた!!

「おう、フェルナンデス……って、どうしたんだ、お前?」

 ベッドの上でグラビア雑誌を広げて暢気な出迎えの挨拶をしたロックも、俺の表情を見て何かを察したのか。
 俺は歓喜に声が震えるのを抑えきれず、声を抑えて告げた。

「見つけたんだよ、ロック、アゼル……俺のナイスな鼻をこんなにしてくれて、お前らを寝たきりにしてくれたあの小娘をよ……」
「……っ!!」

 部屋の空気が変わる。
 ベッドの上から未だに起き上がることのできないロックとアゼルはその瞳に昏い炎を灯し、声をひそめた。

「……いたのか?」
「いや、まだ姿は確かめてねえ……だが、そいつの手がかりは掴んだ」
「クソッ……あいつが……!」

 アゼルは悔しげにベッドを叩いた。
 薄れてきていた恨みが、再び鎌首を持ち上げたのだろう。
 だがそれも無理はない。その女のせいでアゼルとロックは退屈な病院生活を強いられているのだから。

 四か月前、俺たちが町で遊んでいるとき、走ってきた女にぶつかられた。
 生意気なことを言うので、慰謝料としてちょっと付き合わせようとしたが、その女はあろうことか俺達を殴って昏倒させて逃げだした。
 後で判ったのは、俺たちが負けたのはその女が念能力者だったからなのだが。
 その女に殴られたせいで俺の鼻は複雑骨折。アゼルとロックも重傷を負い、こいつらは念能力を身に付けることが出来なかったためダメージが大きく、入院せざるを得なかったのだ。

「あの女……絶対に、この借りは返してやるぜ……」
「だが、一つ問題があってな。そいつ、俺の組の化け物みたいな殺し屋の妹なんだよ。下手に動けば俺たちの方が消される……」
「あ? びびってんのかよ、フェルナンデス」

 小馬鹿にしたようにアゼルは鼻で嗤った。
 あいつの化け物っぷりを見てないから言えるんだ、と毒づく。

「なーに、どんな化け物でも四六時中張り付いているわけじゃねーだろ。それに、方法はいくらでもあるさ。例えば―――人質、とかな」

 その言葉で、すぐさま一人頭に思い浮かんだ。
 なんとも丁度いい人質が一人、さっきいたじゃないか……

「そいつは、ナイスなアイデアかもな、アゼル」
「だろう?」
「だが、やるのはあくまで慎重にだぜ。俺はあいつに殺されたくないからな」
「判った判った。そんな怖い奴だっていうなら、俺たちもしばらくは待つよ。殺されたくないのは俺たちも一緒だ。ロックもそれでいいよな」
「ああ」

 ロックは深く深く頷いた。

「この恨みを晴らせるなら、な」

 それは、その場にいた全員の気持ちを代弁していた。





 病室に西日が射しこみ、空が茜色に染まる時間になったが、結局ヴィオレッタの体調に変化はなかった。
 これが占いの警告を護ったから未来が変わった結果なのか……それとも、「毒」が襲いかかるのは今日ではないのか。
 「警告を守れば、予言は100%回避される」ネオンはそう言っていた。ならば、ハルカを連れてきたことがどういう影響を及ぼしたのか判らないが、前者であると考えるのが自然だ。
 だがもし万が一、後者であったならば最悪だ。次の面会許可が下りるのが何時になるか判ったものではない。その時、何もすることが出来ないだなんて……考えただけでもゾッとする。
 しかし時間の流れは止まってくれず、静かなノックの音とともに看護師さんが入ってきた。

「アゼリアちゃん、もうすぐ面会終了の時間なんだけど……」
「ええ、判りました……」

 ヴィオレッタの顔を見る。
 いつまでも変わらない、いつもどおりの寝顔。
 そこに苦しげな様子はない。

「……仕方ないか。行こう、ハルカ」
「うん。それじゃあ、またね、ヴィオレッタ……」

 ヴィオレッタの頬をそっと撫で、そこに触れるだけのキスをする。
 ありったけの親愛の情を籠めて別れを告げ、私は病室を出た。

 面会終了のこの時間、見舞客たちが揃って帰っていくので、病院の入口はちょっとした混雑になる。
 人が多いからと理由を付けて、私はハルカとともに待合室のベンチで少しの間待つことにした。こうしている間にもヴィオレッタの身に何かが起きるのでは、と不安に思いながら。

「あら、アゼリアちゃん。来てたの?」
「あ、エルマ先生。こんばんは」

 その私たちを目聡く見つけて声をかけてきたのは、小太りで人のよさそうなおばさんのエルマ先生だった。
 心臓外科に所属するエルマ先生はヴィオレッタの病気の担当医だ。長い間お世話になっている。
 私が立ちあがり一礼すると、エルマ先生は笑ってお辞儀を返して、ハルカのことをじっと見つめた。

「あなたがハルカちゃん? パスカルに話は聞いていたわ。こうして見ると、本当にヴィオレッタちゃんにそっくりね。初めまして、ヴィオレッタちゃんの担当医のエルマです」
「ど、どうも。ハルカ=アヤセです」
「いやー、あなたが来た時は病院中騒ぎだったらしいわね。私はその日宿直明けで寝てたから気づかなかったんだけど、受付の子たちが凄い噂してたわ。私もその時に会いたかったなー。宿直なんて医者からするといいことないわ。寝不足でお肌に良くないし、厄介なケースが多いし、時間の感覚ずれるし。でも患者さんは待ってくれないから仕方ないのよね。そういえばアゼリアちゃんも最近寝不足なんですって? パスカルが心配してたわよ。しっかり寝てくれって。あなたも年頃の女の子なんだから、そういうところにはちゃんと気を遣わないと。なんだったら私がメイクの仕方とかから教えてあげましょうか? アゼリアちゃんたらいつも化粧っけないんだもの。いつもどこかから見られてるってつもりで構えていないと。あなた元がいいんだから、少し綺麗にすれば見違えるわよ。ああ、それと―――」

 止まらないマシンガントーク。私たちは口を挟む暇もない。
 エルマ先生はとてもいい人なのだが、一度口を開くと止まらないのが唯一の難点だった。

「……なんていうか、大阪のおばちゃんみたいな人ね」
「大阪というのは知らないが……エルマ先生はいい人だぞ」

 こっそりと耳うちしてくるハルカに、私もまた小声で返す。
 エルマ先生はそんなことは気にも留めず、私の「無防備さ」について指摘していた。
 ていうか、大きなお世話です、エルマ先生……

「―――それにね、アゼリアちゃんは少しは服も選んだほうがいいと思うの。あなたいつもそのスーツでしょ? 別にスーツが悪いって言ってるわけじゃないし、キャリアウーマン見たいでかっこいいからそれはそれでいいんだけど、もう少し女の子っぽい服装をしてもいいっていうか……スカートくらい持ってるでしょう? そうすれば町の視線を独り占めよ? ああ、でもあんまり露出が多いのはやめたほうがいいかもしれないわ。アゼリアちゃんたら無防備にも程があるんだから。もう少しね、あなたは恥じらいってものを―――」

 耳の痛い話ばかりで、そろそろ簡便してほしかった。
 ちなみにスカートなんて持ってません……

 そんな私の想いが通じたのか、院内放送を告げるアナウンスが流れた。

『パスカル先生、エルマ先生、至急713号室にお越しください。パスカル先生、エルマ先生―――』

 そしてその放送を聞いた瞬間、私の顔が強張った。エルマ先生もまた、同様に顔を強張らせていた。
 だって、713号室……そこは、ヴィオレッタの……!!

「先生!」
「……いいわ、アゼリアちゃんたちも着いてきなさい」

 それだけ言い残すと、エルマ先生は素早く身を翻してエレベーターに向かった。
 病院内で走ってはいけない。私は全力で駆け出したいのを必死で堪えながら、出来る限りの早足でエルマ先生の後に付いていく。
 エレベーターに乗り込み、七階を押す。エレベーターの進みは亀のように鈍重に感じられ、一分に満たないその時間が一日のように感じられた。
 そしてようやくドアが開く。エレベーターから降りれば、ヴィオレッタの病室はすぐそこだ。

「何があったの!」
「え、エルマ先生! ヴィオレッタちゃんの様子が急変しました!! 脈拍が乱れています。呼吸も不安定です!!」
「原因は!? 投薬のミスはないのね!?」
「原因は今調べています! ですが今日の分の薬は問題ありませんでした!」
「一体何故……!!」

 医者たちが原因を究明しようと慌ただしく動く。
 私はその様子を震えながら見ているしかなかった。
 恐れていたことが、現実に……

 苦しげに歪んだヴィオレッタの顔。
 十年間、見てきた。笑うことも、泣くこともなく、常に変化のなかったその表情。その初めての変化が、苦しみだなんて……!!

 私は何も出来ない。
 殺すことしかできないこの手では、ヴィオレッタを救えない。

 私は、無力だ……

 祈る。
 神に? 悪魔に? そんなことは知ったことではない。彼女の苦しみを取り除いてくれるなら、どちらでも構わない。
 私には祈ることしか出来ないのだから。相手なんて選んでいられない。

「……まさか」

 すぐ傍から聞こえたその声で、彼女の存在を思い出す。
 詩に書かれていた警告。迷い子の天使。彼女なら、救ってくれるのではないか……?
 藁にも縋るような気持ちでハルカを見ると、ハルカは「凝」をしていた。





 ヴィオレッタの体調が急変した。
 苦しげに歪む顔。心電図は不安定な波を描き、素人眼にもその状況が良くないことが判る。
 医者たちが集まりヴィオレッタに必死の治療を試みているが、原因すら判らずに困惑しているようだ。

 苛立つ。
 胸のざわめきを抑えきれず、心の中で罵声を浴びせる。
 原因も判らないなんて、悪い冗談でしょう?
 あなたたちは医者なんだから、そのくらい判りなさいよ……!!
 病気以外の原因でもあるっていうの―――

「あ……」

 その時、私は以前この病室に来た時のことをふと思い出した。
 ヴィオレッタの胸に浮かんだ、赤い髑髏。
 すぐに見えなくなり、気のせいだと考えたあの不吉。
 それが気のせいではなかったなら……
 もし、あれが原因だったならば……?
 その予感は力強く私の胸に降り立った。

 もしもそうなら、医者たちには何も出来ない。

「……まさか」

 「凝」で目にオーラを集中。何も見落とさないように、細心の注意を払ってヴィオレッタを「視る」
 予感はどんどん強くなり、確信に近いものになっている。
 根拠などない。
 ただあの日、私の心をざわめかせた不吉な悪寒。あの時は気のせいだと自分に言い聞かせたが、そんなはずがない。
 あれほど嫌な感じが、気のせいなわけないじゃないか……!!
 だというのに―――

「なんで……!?」

 見えない。診えない。視えない……!!
 彼女の胸にそんなものは無い(・・・・・・・・・・・・)……!!
 異常などなく、ただ白い肌が露わになっている。

 それは本来なら安堵すべきこと。
 あんなものが彼女の胸にあるなんてゾッとする。
 だというのに、私の不安は増していく。
 直観が、予感が、それこそが正解なのだと警鐘を鳴らす。
 見えないことが、逆に不安を煽るのだ。

「どうして……どうしよう……」

 焦りばかりが増していく。
 不安が暗い雨雲のように胸に立ち込めていく。

 私はヴィオレッタのことをあまり知らない。
 けれど、アゼリアが彼女のことをどれほど大切に思っているかはよく知っている。
 彼女に不幸があったらアゼリアが悲しむ。
 だから私も彼女を守りたい。助けたい。
 なのに―――私に何が出来るのか……

 助けを求めるように、辺りを見渡す。
 誰でもいい。彼女を救ってくれるなら……
 救いの主がどこからか現れることを期待しているのか。存在しない誰かを探して、私は視線を左右に走らせた。

 その時ふとアゼリアと目が合った。

 普段の凛とした様子からはかけ離れた、怯え、不安気な様子。
 青ざめた顔は病人のようで、救いを求める子羊のような眼を向けてくる。

 その眼を見て私は急に落ち着いた。

 そうだ。
今一番不安なのはアゼリアなんだ。
 彼女は今にも泣き出しそうなほどに怯えている。
 強くあらねばならなかったこの少女を支えてあげたいと、そう思ったんじゃなかったのか?

 ならば、うろたえている場合じゃない。私は私に出来ることをしないと。
 どうせ私に出来ることなんて限られている。
 医学の知識なんてない。
 病気のことなんて知らない。
 それでも、思い当たることがあるんだから。

 集中する。集中する。集中する。
 万に一つ、億に一つの見落としもないように、「凝」視する。
 オーラを、体中のオーラを目に集める。足りない。まだ足りない。
 もしも原因が念能力だとしたら、医者たちには何もできない。
 だから、よく視ろ! もっと深く、もっと鋭く、もっともっともっと……!!

「―――視えたっ!!」

 それは、髑髏ではない。
 アカい、糸。
 それがヴィオレッタの左胸―――まさに心臓のある場所に絡み付き、触手のように揺らめきながら、手に、足にゆっくりとその先端を伸ばし、オカしていく。
 そこに感じる不吉の匂いはあの髑髏と一緒。
 冷水をかけられたように悪寒が走り、否応なしに確信させられた。
 あれこそが原因……!!

「ちょ、ちょっと君……!」
「ハルカ、何を!?」

 医者やアゼリアが慌てた声をあげるが、応えている暇はない。
 あれさえ消せれば! あの糸を断ち切れれば、きっと!!

「君、待ちたまえ、一体何を……!!」
「おい、そっちを押さえろ!!」

 うるさい……!! 集中してるんだ。こっちは必死なんだよ!! 邪魔しないでよ!!

「ハルカ、待て! どうするつもり―――」

 ごめん、アゼリア。
 後で説明するから。だからちょっと静かにしてて。

 意識からすべての物音を閉めだす。
 世界に私とヴィオレッタの二人だけになる。

 そして、私は。
 振り上げた右手に念を籠めて、それを振った。
 ヴィオレッタの胸に向けて。





「うー……眼が痛いわ……『眼が、眼がぁーーーーっ!』って感じね」

 夕日が射すこの時間。だがハルカの眼が痛むのはそれが原因ではないだろう。
 よほど眼が痛むのか、ハルカはしきりに眼を擦っている。
 しかし私にはそれを気遣うだけの余裕がなかった。

「……一体、何をした?」

 私は病院前の花壇に腰掛けて、腕を組みながらそう尋ねた。
 今私の胸を満たすのは、純粋な疑問と、安堵。
 ハルカが何故あんな行動をとったのか、何故あれでヴィオレッタが救われたのか、私には判らなかったのだ。

 あのあと、私たちは病室を叩きだされた。
 病人の胸を殴る―――そうとしか見えなかった―――などという暴挙を犯したハルカは退室を命じられ、たっぷりと医者の説教を受けたのだが、その間にヴィオレッタの体調が急に回復したことが病室内から聞こえてきた。

「何か、視えたのか? 「凝」をしてヴィオレッタを見ていただろう? だが私も「凝」で見てみたが、異常など一つも見つけられなかった……一体、何を見つけた?」

 尋ねると、ハルカは眼のまわりをマッサージしながら、なんとか口を開いた。

「赤かったのよ」
「……赤?」

 ハルカの説明は要領を得ない。
 聞き返すと、ハルカはようやく痛みが落ち着いたのか、眼を擦るのを止めた。

「まず、私が四か月前に私がヴィオレッタのところに行ったとき、帰り際、視えたのよ。髑髏が……」
「髑髏、だと?」

 なんだ、それは。
 私は長い間ヴィオレッタを見てきたが、髑髏なんて見たことは一度もない。

「言わなくてごめん。ただ、すぐに見えなくなっちゃったから、私も気のせいだと思ったのよ。で、その時はそこまで気にしなかったんだけど、赤い髑髏が一瞬だけ視えて、嫌な感じがしたの」
「……それで?」
「ヴィオレッタの状態が悪化したのは、それが原因じゃないかって思って……それで「凝」で見てみたの。けど、最初は何も見えなかった」
「……」
「それでも、その髑髏が原因じゃないかって思えてしょうがなかった。だから、もっともっと注意して見てみたの。絶対に見落としたりなんてしないように……そしたら、視えた。心臓に絡み付く赤い糸が」
「なにっ……!!?」

 頭の中でガンガンと鐘が鳴る。
 動悸が激しく、破裂しそうになる。
 導き出された考えに視界が明滅する。
 だって……だって、心臓(そこ)は、ヴィオレッタの病気の患部だ……!!

「つまり……ヴィオレッタは、誰かの念能力の攻撃を受けていた?」

 そう告げると、ハルカは深く頷いた。

「そうだと思う……だから私は、そのオーラを吹き飛ばした。出来るのか判らなかったけど、オーラをぶつけてその糸を切った。それがさっき私がしたことよ。結果は、見ての通り……」

 ハルカは自分の話せることは全て話したとばかりに口を噤んだ。
 聞こえるのは夕焼け空を横切る鴉たちの声だけ。それすらも思考に埋没していくにつれて消えていく。

「くそっ……」

 何故気付かなかった。
 何故判らなかった。
 病気の原因が念能力だと……!!

 私も「凝」でヴィオレッタのことを見たことが何度となくある。
 けれどハルカの言う髑髏なんて見えたためしがない。
 何故、何故何故何故何故何故!!

「―――リア! ちょ、ちょっと、手!! アゼリア!!」

 グイッと勢いよく手を引かれて思考が遮られ、世界に音が戻ってきた。
 脇に抱え込むように私の手を取ったハルカの慌てように驚き手を見ると、骨が透けて白く見えるほどに握りしめられた右手からは血がぼたぼたと零れていた。
 けれどそんな痛みなど気にもならない。
 それ以上の強い思いで胸がいっぱいだったからだ。

 不思議な力が湧いてくる。
 なんだろう、この気持ちは。
 先の見えない闇の中で、行くべき道筋を示されたような想い。
 なんて呼べばいいのか判らない。
 しかしその思いの源泉ははっきりと判った。

 愛しい妹(ヴィオレッタ)を苦しめた敵の存在を知れたこと。
 きっとこれこそが「真実への鍵」
 「真実」が何かは判らない。けれど必ず尻尾を掴み、引きずり出してやる……!!

 ああそうか、思い出した。
 この感情の名を。
 久しく抱いたことのない、忘れかけていたこの想いを何と呼べばいいのか。

 ―――敵意、だ。

 そしてこの気持ちが形になったとき、私は一つの決意をしていた。

「……ハルカ、私はその能力者を捜し出す」

 そう、絶対に……
 私の妹を苦しめた償いはしてもらう。

 けれどそこには一つの不安が残る。
 そのために、一つの決意を。

「だが、それには私一人の力では足りない」

 今回、私は何も出来なかった。
 異常に気づくことも出来ず、ただ震えているだけだった。
 だから―――

「力を貸してほしい」

 ハルカを巻き込む覚悟を。
 それに彼女は―――

「あったり前よ!!」

 ハルカの声は力強かった。
 迷い無く応えてくれたその一言。
 それがどれほど私の支えになっているか……

 私はさっさと帰路につこうとするハルカの背に黙って頭を下げた。
 ちらりと見えたその横顔が赤く見えたのは、きっと夕日のせいだろう。
 そう思うことにして、私もそのあとを追った。
 長く伸びた影が二つ、寄り添うように進んでいった。










〈後書き〉

少しハルカが活躍。
そろそろシリアス分はお腹いっぱい。なので次からはもう少しゆるくなると思います。
表現力という分厚い壁に苦しむ日々。骨組みは出来て、デザインも出来ている。なのにいざ作り出すとイメージとずれてしまう。難しいものです。
もう少し精進したいと思います。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 飼い犬
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/09/20 14:59
 街から離れた人気のない岩石地帯にある工場は、風雨にさらされて錆びた臭いで満ちている。
 破棄されて久しいここは、しかし尚その形を保ち、今では全く別の用途で使われていた。
 武器庫と、訓練所だ。

 周囲一キロを見渡しても民家一つないこの場所なら、拳銃を撃ち続けたところで問題になることはない。
 交通の便が悪いために使われなくなった工場だが、そこに目をつけたマフィアがタダ同然の値段で買い取り、有効に活用している。
 皮肉なものだと考えて、アゼリアはゆっくりと工場内を歩いた。

 ここには自分にとってもいろんな思い出が詰まっている。
 眼を瞑っても細部まで思い起こせるほどに、汗を、涙を流した。
 組に拾われたばかりのころ、私もまたここで訓練を受けた。
 いや、あれは調教と言った方が正しいか。ただの少女を、非情な猟犬に変える。それはもはや訓練とは呼べないものだ。
 毎日毎日。血反吐を吐くまで訓練をした。筋力トレーニング、平衡感覚の強化、銃器の取扱い、ナイフの取扱い、近接戦闘の訓練、念能力の基礎訓練―――
 体が悲鳴を上げて、何も考えられなくなるまでそれを続け、泥のように眠る。
 寝ている間もまた訓練だ。最も無防備になるその時に脅威に対応できるよう、常に頭の一部を緊張させておかなければならない。休む暇もないとはこのことだった。
 そんな訓練を一年ほど続けて、知らぬうちにやってきた八歳の誕生日、私に渡された誕生日プレゼントは、初仕事だった。

 実に簡単な仕事だ。
 護衛もいない弁護士を一人、殺す。
 この体では警戒されることもない。笑顔を作り近づいていき、引き金を引く。パン、パン、パン。乾いた音が三回。それで終わる。
 そう。かんたんな……とっても、かんたんな……

 渡された拳銃は、小さかった。でも重かった。思わず落してしまいそうなくらい。持っていられないくらい重くて、倒れそうだった。
 ボロボロの訓練着ではなくて、女の子らしい服を着せられた。一年前は着なれていたはずのそれが、とても落ち着かなかった。
 喫茶店でコーヒーを飲んでいたその人に近づいて行った。
 うまく笑えていたか判らなかった。泣きそうな表情だったかもしれない。頬を伝っていたのは多分汗だったと思う。
 ポーチからそっと銃を取り出した。
 その人がこっちを向いて、驚きに目を見張った。

「……ごめんなさい」

 ―――パァン





 撃たれたのは彼だったのか、私の心だったのか。
 多分両方だったのだろう。気がつくと私はここに居て、泣きじゃくって、震えて、吐いて、握り続けていた拳銃をこめかみに押しつけて、それでも引き金を引けなくて。
 長すぎる夜が明けたとき、もう涙は流れなかった。

 それ以降、私は街中に住まいを移した。
 基礎訓練がひとまず終了したからだ。
 訓練は次のステップに移る。
 牙を隠し、羊の振りをする訓練。毒薬の使用とその耐性を付ける訓練。狙撃ポイントの見分け方。尾行術。諜報術。駆け引き。無論基礎訓練も続けられる。
 だけど辛いとは思わなくなっていた。そう感じることに疲れていたから。だから私は何も言わず、命じられるままに日々を過ごしていた。
 結局あの日以来、私がここに来ることはなかったのだ。

「今なら、何か別の想いを抱くかと思ったが……」

 別に何もない。
 ただ少しだけ、かつての日々に思いを馳せるだけ。

 言うならば、ここは私がただの少女でいられた最後の場所だ。
 あの日なくした何かがここにあるかと思ったのだが、何の感慨もなかった。
 それはもう届かないものだからかもしれない。

「どのみち、私は進み続けるしかないんだ」

 立ち止まることは許されない。
 逃げることは私が許さない。
 ならば進め。どこまでも。奈落の底までも。

 手を見る。
 ふとした時に幻視する、血濡れの手。
 初めのうちは嫌悪に震えていた。恐怖に苛まれた。
 けど人はいつしか慣れてしまう。
 そんな幻視をしても、少し気を強く持てば恐れることはなくなってしまった。
 それはいい変化なのか、悪い変化なのか。一概には答えられない。

「……ま、変わらないこともあるからな」

 たとえ私がどのように感じても、変わらないことはいくらでもある。
 それは例えば私が人を殺したという事実であったり、妹のために立ち止まることはできないという決意であったり。
 だからどれだけ悩んでも、出る答えはいつも一緒なのだ。

 そんなことをつらつらと考えながら、トラクターに背中を預けた。
 ふぅ、とため息をつき、こめかみのあたりを手で押さえる。

 そこで、ぴたりと手が止まった。

 ―――来た

 相手のオーラを感じ取ったわけではない。「絶」は十分合格点に達している。
 ならば何故そう考えたかと問われれば、勘としか答えようがない。
 だがそれは十年の死線で培われた勘だ。決して侮っていいものではない。
 私は上げかけた手を降ろすと、静かに息を整えた。

 『大気の精霊(スカイハイ)』は使わない。少なくとも今はまだ。
 だらりと体を弛緩させ、相手の攻撃がどこから来ても素早く反応出来るように意識を広げた。

 考えてみれば、私が受け身に回るなんて久しぶりだ。
 能力を発動すれば、私はほぼ全ての奇襲を見破ることが出来る。オーラの分散に重きを置いた能力の特性上、「円」の効果範囲に関しては折り紙つきだ。これに関しては、超一流と称される能力者たちと比べても尚抜きんでるほどの自信がある。
 さらに私の戦闘は一撃必殺の奇襲戦。すなわち敵の反撃をゼロにすることが至上命題だ。反撃は当然想定したうえで策を練るが、実際に反撃を受け、なおかつ受け身に回らされることはほとんどない。
 あまり経験のない戦況に少しだけ体が強張り、胸が跳ねる。

 そのまま数秒が経過して―――

 カツン

 右側で鳴った音に振り向く。
 コンテナの一つに投げ当てられた石が地面に落ちるのと、背後で気配が膨れ上がるのを感じたのは同時だった。

「たあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 相手は物陰から飛び出し、強化された脚力で一気に間合いを侵食してくる。
 少しは考えたな。そう感嘆しながら私は素早く体を回転させると、突き出された拳を片手で掴み、回転を緩めることなく相手の腕を引き、足を払った。
 逆向きのエネルギーが体の上下に加えられたことで、腰の辺りを中心に縦方向に回転する動きが生まれる。
 すなわち、相手は強制的に前方向へ宙返りをさせられ―――当然着地は出来ず、背中から叩きつけられた。

「っ~~~~~~~~~~~~!!」

 だがその程度は予想していたのか、かろうじて受け身を取ったことで素早く体をはね起こし、再びこちらに突進してくる。
 若干がっかりする。考えていたのは初手だけか。

「それじゃあいつもと同じ結果だろう」

 突き出された拳を右手で絡め取るようにいなし、隙だらけの体に左手の手刀を―――

「どうかしら」

 ―――入れる直前、いなしたはずの拳が開かれ、こちらの眼に向かって砂を叩きつけた。

「なにっ!!」

 予想外。ここで目潰し攻撃とは。
 反射的に眼を瞑り顔を背けるが、僅かに眼に砂が入り涙で視界が滲む。こればかりは鍛えていても仕方がない。
 視界の回復を待つ暇はない。止む無く『大気の精霊(スカイハイ)』を発動する。
 その範囲はこの工場全てを悠に覆い尽くす。「円」の効果も持つ大気の中、手に取るように相手の動きは判った。

「それを待ってたわ!! 『邪気眼イービルアイ』発・動!!」

 勝ち誇ったその言葉を聞いたとき、相手が三度こちらに突進してくるのを「円」で感じ取っていた。
 繰り出される突き。その以前との違いは、狙いが私の体から遠く離れていること―――

「しまった!」

 狙いに気付く。だが少しだけ遅い。
 相手の攻撃はすでに繰り出されている。

 私のおよそ二メートル手前。
 そこにあるものは、「大気」だ。
 そこを貫く手刀―――

「くっ……!!」

 その瞬間、私の支配下にあった大気が制御を失い、荒れ狂う暴風と化した。
 操作が利かない。抑えきれない。自分の能力の強力さの分だけ負担は大きく、台風の中に投げ込まれたような風が叩きつけられる。
 その中で聞こえる声。

「俺のこの手が光って唸る! お前を倒せと輝き叫ぶ!」

 膨れ上がるオーラの気配。
 間違いなく「硬」での攻撃が来る……!

「必殺! シャァァァァイニング・フィンガァァァー!!」

 視界が利かず、能力が制御を離れた状態では相手の攻撃目標を見極められない。
 仕方なく「堅」で体全体を守ろうとし―――

「あぐっ」

―――腹部に、割と重めのパンチが入った。

 堪えられない程ではなく、しかし無傷で済む程度の攻撃でもなく―――数メートル後ずさり、ジンジンと傷む腹を擦って、私はその場に座り込んだのだった。

「……や、やったぁーーー!! アゼリア、合格? ねえ、合格!?」
「……約束は、約束だからな」

 私はむっつりとそう返すしかなかった。





 一撃でも入れられたらハンター試験出願を認める。
 それが私がハルカに出した条件だった。
 ハンター試験を受けるならば、基礎的な身体能力はもとより、戦闘のセンスも必要になってくる。
 よってそれが出来ないのならば試験出願は認めない。そう言っていたのだが―――

「まさか成功するとは」
「む……なによ、アゼリアは成功しないと思ってたの?」
「まぁ、正直な」

 かなり手加減をしていたとは言え、まったくの素人だったハルカが私に一撃入れるなんてあと二年は必要だろうと思っていた。
 いろいろと策を練った結果ということか。
 私としては今回は見送って、次回以降の試験にチャレンジにしてくれた方が安心なのだが……何しろまだハルカは基礎能力のレベルで非常に不安がある。
 ちなみに今日で大体三十回目位のトライになった。
 もう十二月の末日。試験申し込みの締切まではあとほんの少しだったのに……惜しい。

「とはいえ、何にしろ成功は成功だ。ほら、受験申込書」
「ふふふ……ついに、ついにこのときが来たのね!!」

 ハルカは賞状か何かのようにそれを受け取り、もう合格したかのように喜んでいる。
 まだ出願が認められただけで合格したわけではないのに……暢気なことだ。

「さて、一応今回の評価だが―――」
「はい、アゼリア先生」
「―――まず、「絶」は問題ない。あれなら合格点だ。そうそうバレることはないだろう。その次に石を投げて相手の注意を別の場所に向けたのもいい。だが、そのあとで声を上げて突進したのはいただけないな。あれでは折角隙を作っても意味が半減してしまうじゃないか。ああ言う場合の理想としては、姿を出さないまま背後から銃器で制圧するべきだな」
「……銃なんて持ってないわよ」

 不貞腐れたようにハルカが言う。
 言われてみればその通りだ。後で武器庫から一丁渡しておこう。

「で、その次だが―――目潰しはなかなかいい選択だったぞ。意表を突けば地味だが効果的だ。そしてそのあと。ようやく能力を発動しながら戦闘が出来るようになってきたな」

 今までは能力を発動したらそれ以外にオーラを回せなかったのだから、大きな進歩と言える。
 毎日「堅」の修行をさせた甲斐があったというものだ。

 ハルカの能力は、言うならばより強力な「凝」だ。
 普通の「凝」よりもさらに多くのオーラを目に集めることで、ハルカは「凝」でも見ることのできないものすら見通すようになった。
 それは残留するオーラの残り滓や、相手の精孔、さらには相手の能力の構成など。それらを視覚化して捉える事が出来る。
 先ほど私の『大気の精霊(スカイハイ)』を無理やり解除したのもこの能力を使用して行ったことだ。相手の能力の構成を見通すハルカは、その能力を破壊する弱点を見出すことが出来る。
 彼女に言わせると、能力とは糸が紡がれて出来る布のようなものらしい。オーラという糸が絡み合い、結ばれ、そうして織られる布が「発」だ。
 だからその結び目を壊してしまえば、その能力は分解される。「発」はそれぞれ基点があり、それは弱点ともなる。ハルカはその点を見きれるため、能力を壊す―――いわゆる除念に近い能力が可能となった。

 しかしこの能力はオーラの消費が通常の「凝」よりも激しい。そのためハルカのオーラ量では能力を発動させながら戦闘を行うのは難しかった。
 最近になってようやく「堅」が二十分を超えだしたので、なんとか戦闘中の使用が可能になったのだ。

 なお、この能力の難しい点はオーラの消費量だけではなく、目への負担も大きいらしい。最近では慣れてきたのか痛がる素振りは見せなくなったが、最初の頃は目を押さえて苦しんでいた。
「ッ……ハッ……また暴れだした……し、鎮まれぇ……!!」と右目を抑えながら震えていた時は本当に心配した。

 ちなみに能力名は『邪気眼(イービルアイ)』というそうだ。
 邪気を見通す眼、か。なかなかいい名だ。

「まぁ、全体としてはまだまだ修行が足りないし、絶対的に基礎能力が足りない。けれどこの分なら一応及第と言えるだろう……とても不安だが」
「む、いちいち引っかかるわね。そんなに心配ならアゼリアも来ればいいじゃない」
「……許可が下りれば、それもいいんだが」

 実際は難しいだろう。
 私がロフトを一日以上離れる時は、必ずカーティスに報告を入れ許可を受けなければならない。
 そしてあの男がそう簡単に私に許可をくれるだろうか……答えは否だ。

 だが、確かに私も受けられれば心配はかなり少なくなる。
 今まで私はハンター証など使いようが無いと思っていたので、そもそも許可を求めたこともない。
 聞いてみるだけならタダだ。
 ……ダメ元で聞いてみようか?





『別にいいですよ』

 ―――で、聞いてみたらあっさりと許可が下りてしまった。
 絶対に許可は下りないだろうと考えていたので、ある種拍子ぬけしてしまう。

『プロハンターが増えることは組にとっても私にとってもプラスですからね。ただし、合格後はハンター証もまた私の管理下に入ってもらいます。それでいいならば、その間は暇を出してあげましょう』

 だが付け加えられた言葉を聞いて、思わず舌打ちを洩らしそうになった。
 この蛇のような男は流石に抜け目がない。そんな言葉がなかったら、ハンター証を売って借金と手術代を全額埋められるというのに……何しろハンター証の裏でのレートは、ナンバーによって差があるものの平均して二十億ジェニー近いという話だからな。
 けれどもハルカが心配なことに変わりはない。私にとっては大してプラスが無い話だが、マイナスとなる要素もない。
 結局、私はその条件で首を縦に振ったのだった。

 電話を切り部屋に戻ると、ハルカが「堅」を続けていた。
 今までの最高記録が二十一分。せめて三十分は出来るようになってほしいものだが……まぁ、試験までにそれを成すのは無理だろう。

「どうだった、アゼリア?」
「ああ、あっさりと許可が下りたよ」
「ホント!? やったぁ!! ていうか……なんでアゼリア今まで試験受けなかったの? ハンター証取っておけばお金なんて簡単に稼げるじゃない。売っちゃってもいいし」
「それは無理だ。私がハンター証を取っても、それは組の管理下に入るからな。勝手に売ったり使用したりすることは出来ない」

 それを拒めば、相手は妹の命をカードとして切ってくるだけだ。
 忌々しい限りだが……私にはそれに対抗できるカードがない。

「じ、じゃあ、天空闘技場とかは!? 知ってるでしょ。あそこは上の階になれば一試合で二億ジェニーとか稼げるのよ。アゼリアならすぐに―――」
「いや、実は、そこは行ったことがあるんだ……」

 そう言うと、ハルカはきょとんとした顔をした。
 苦笑して、話を続ける。

「確か十歳くらいのことだったかな……天空闘技場のことを知った私はちょうどいいと考えて―――何しろ修行も出来て金も稼げるからな―――そこに行ったんだ。組には無断でな。そしたら百八十階くらいまでは行けたんだが、そこで組にバレてな。強制的に連れ戻された。ひどく怒られたよ。勝手な行動を取るな、とね。稼いだ金も大部分は没収されて、ほんの一部だけ借金返済に回してもらった。今後このような行動を取ったら、妹がどうなるか覚悟しておけと釘を刺されてな」

 あの時稼いだ金は借金を完済するに十分な金だったのだが……
 立場の弱さは、理不尽を覆せない。

「……なら、私が闘技場でお金を稼いで渡すっていうのは―――」
「それも無理だ。私の銀行口座はすべて組が管理しているし、入金については毎月明細を報告させられている。そこで不明な金でもあれば、即座に呼び出しだ。それを友人からもらったなどと言えば……同じことだ。『組に無断で勝手な行動を取った』として、こちらの立場を悪くする。金も没収されるだろうな」
「……なにそれ」

 ハルカの声には怒気が滲んでいた。
 私はもう怒ることも諦めてしまったことだが……誰かが自分のために怒ってくれるというのは、嬉しい。

「なにそれ。全部全部、組の都合のいいようにされてるだけじゃない! こんな、こんなの―――」
「そう。私を飼い殺そうとしているだけだ」

 怒りに声が震えるハルカの言葉を引き継ぎ、淡々と告げる。
 十年の月日は諦観をもたらした。
 私は、自分の行く末についてはもう諦めている……

「こう見えても、私は組の武闘派の中では上位に立つ。だから組としては私を手放したくないのだろうな……」

 全く以てありがたくないことだ。
 さらに問題は、あの上司にある……

「おまけに、私の上司は臆病なんだよ。自分の手に握れる限りの手綱を集めておかないと気が済まない人間なんだ。飼い犬が逃げ出さないかと心配して、檻を開けることも出来ない」

 どちらにしても私は切れない首輪(ヴィオレッタ)がある限り逃げ出すことなど出来ないのだがな。

「……なんで」
「え?」
「なんで、そんなに落ち着いていられるのよ……!! そんな諦めたような顔しないで!! 妹を救えれば満足みたいな顔しちゃって、アゼリアも幸せにならなかったら意味がないでしょ!! もっと足掻いてよ!! 鎖に繋がれてるなら引き千切って、首輪があるなら首輪ごと走り出しなさいよ!! 檻を開けてもらえないなら、自分で破ってしまえばいいでしょ!!」
「……」

 無茶を言ってくれる……
 人がどんな気持ちで自分に言い聞かせてきたかも知らないで。
 諦めないことで世界が変わるなら、私ももう少し強くあれた。
 だが―――

 理想で現実は変えられない。
 夢はいつまでも夢のままだ。
 現実を変えるのはいつだって、純然たる力だけなのだ。

 そのことを嫌というほど学ばされた私は、ハルカの言葉にうなずくことは出来なかった。










〈後書き〉

ハルカの能力をようやく出せました。どうも、ELです。
ハルカは「凝」に特化した能力者と考えてください。
さて、次回あたりからようやく原作入り。もしかするとその前に閑話を一話挟むかもですが。
結局原作の流れにある程度入ってもらうことになりました。うまく書けるかな……
それでは、次回更新の時に。



[3597] 陽の世界の人々
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/10/07 23:42
 船舶というのは物資の輸送には非常に適した移送手段だ。
 浮力を利用したその仕組みは他では到底真似できないほどの積載量を可能にする。古来より海洋国家が交易を行いその国力を増してきたことは歴史が証明している。
 しかし、それはあくまで物資の輸送の場合。人の交通手段として見た場合、船舶はそこまで有用と言えるだろうか。
 速度においては飛行船に劣る。潮流に大きく影響を受けるため安定性が高いとも言えない。海域によっては沈没する危険も高い。
 だから船舶は輸送手段として考えるべきなのだ。私はそう思う。

「だというのに、なんで船で行くんだ……? 会場のザバン市は近くの空港からバスも出ているというのに。ほら、この薬を飲め」
「あう……ううう……ち、ちょっと楽になってきたかも」

 ゾンビと化しているハルカに膝を貸し、煽いで風を当ててやる。大した揺れもないというのに、なんてことだ……
 だが、薬もあげたし、もうしばらくすれば元気になるだろう。多分。

 ハンター試験に参加することに決めた私は、試験会場がザバン市ということを知り、会場へ向かうルートを調べだしたのだが―――ハルカが船で行くルートを強行に主張した。
 それもわざわざ遠回りするルートだ。くじら島経由、ドーレ港行きの便。ヨークシンからザバン市に向かうのならば飛行船で向かう方が明らかに早いのだから、何故と思わずにはいられない。
 理由を尋ねると、ハルカは「そこに出会いがあるからよ!」と力強く言っていた。よく判らないが、そういうことらしい。
 私としてはそのルートを拒否しなければならない理由も特になかったので、結局海路を取ることになったのだった。
 だが、言いだした本人が真っ先にダウンしてどうするというのか……
 私はハルカに聞こえないように溜息を吐きながら、周囲の乗客を見渡した。

 乗客の中には、ただの旅行客と見られる人々が数名。そして残る十数人は明らかにカタギでないと思われるゴロツキばかりだ。きっと彼らもハンター試験の受験生なのだろう。
 だが受験生という割には鍛え方が足りない。肉体的な鍛錬はもちろんのこと、精神的にも。
 見せびらかすように威圧的な気配を放つ者。周囲を威嚇するかのように鋭い視線を送り続ける者。これ見よがしにナイフの手入れを続ける者。
 馬鹿な連中だと思う。自分の底を晒しているようなものじゃないか。子供同士が強さを比べているかのような滑稽さを感じる。
 こいつら相手ならば、念なしのハルカでもそこそこいい勝負になるのではないだろうか……
 見る限り、客の中で良い(オーラ)を出しているのは二人くらいか。
 ハンモックで寝ている、男性だか女性だか判らない―――多分男性だろう―――美少年と、妙に鼻の下を伸ばして本を読んでいる青年だ。
 他の有象無象はどうでもいいかと思い、その二人は覚えておくことにして窓の外を見た。
 天気は快晴。カモメたちが騒いでいる。陸が近いのか、船の速度が落ちているようだった。

『間もなくこの船はくじら島に到着致します。お降りの方は下船の準備をお願いします。尚、くじら島出港後はドーレ港に向かいますが、大変危険な航路を取りますので、ハンター試験受験者以外の方のご利用はおやめ下さい』

 アナウンスが流れる。
 危険な航路、か。おそらくこれもハンター試験のふるいの一環なのだろう。他のルートで会場に向かっても、同様の障害が用意されていたと考えるべきか。
 何はともあれ、この状態のハルカを危険な航路に連れて行ったら大変なことになりそうだった。くじら島にいる間に体調を回復させないといけない。

 窓から見える景色に他の船が移り、緑豊かな島の様子が見え、船が停止する。
 観光客と思われた人々が下船し、受験生と思われた連中が予想通り一人も降りない中、私はハルカを連れて船のデッキに出た。ひとまず風に当たらせよう。
 乗員から椅子を借りて座らせてやり、背中を擦った。

「ほら、しっかりしろ。そろそろ薬が効いてきただろう」
「う、ん……だいぶ楽になった」
「ここからは危険な航路ということだが……大丈夫なのか?」
「や、やばいかも……」

 まだ顔が青いハルカを見て、やれやれだ、と肩を竦める。
 仕方がない。私がサポートするとしよう。もともとそのためについて来たのだし。

 そんなことを考えながら、出発まであとどのくらいかなと思い、港の方をぼんやりと眺めた。
 小さな港だが、そこには多くの人々がいる。荷物を積む人、下ろす人。そして一際目立つ(オーラ)を放つ一人の少年。

「ほう……」

 思わず感嘆のため息が漏れる。
 その少年の(オーラ)は力強く、明るい輝きを放っている。
 素晴らしい才能だ。どの世界にも天才というものは存在するが、彼はまさしくその類の人種だ。
 その少年は多くの島民から激励の言葉や選別を貰っていた。まだ十代前半のように見えるが、彼もハンター試験を受けるのだろうか。
 まあ、年齢は大きな問題ではないだろう。少年は見る限りよく鍛えられているようだし、この船に乗っている大多数の者たちよりもはるかにハンターの資質がありそうだ。

 少年と話をしていた島民の一人が、少年の背後を指さす。そこには一人の女性がいた。
 少年の母親、あるいは姉だろうか。駆け寄った少年と女性は僅かな間別れを告げると、固く抱擁を交わして別れた。

「元気でねー!! 絶対立派なハンターになって戻ってくるからー!!」

 デッキから身を乗り出すほどの勢いで大きく手を振り、女性に別れを告げる少年。
 船が出発し、くじら島が指先ほどの大きさになっても、彼は港の方をじっと見つめていた。

「くっくっくっ、立派なハンターか……なめられたもんだな」

 その別れに水を差すかのような、嘲りの混じった笑いが入る。
 気にも留めてなかったので気付かなかったが、いつの間にか他の受験生たちが数人デッキに出てきて少年を睨んでいた。

「この船だけで十数人のハンター志望者がいる。毎年全国からその数十万倍の腕利きがテストに挑んで、選ばれるのはほんの一握り」

 顎が割れた男が得意げに語る。それに合わせて他の受験生たちも嫌な笑みを浮かべた。

「狙う獲物によっては仲間同士の殺し合いも珍しくねェ職業だ。滅多なことを口にするもんじゃねーぜ……ボウズ」
「……」

 馬鹿にされていることに気付いたのか、流石に少年の眼が多少険しくなる。
 だが彼は言い返すでもなく、怒りを露わにするでもなく、黙って船室に入って行った。

「……ふん、下らない」

 格付けは済んだな。
 よく吠える奴は弱い。そのことは結局どの世界でも大して変わらない。
 そもそも彼我の差を理解できずに少年に吠えるとは、三流以下と言わざるを得ない。
 だが、嫌な雰囲気がその場に流れていた。
 「荒れるな……」という船長の一人言が妙に耳に残った。





 荒れた。
 これ以上ないってほど荒れた。人ではなく海が。
 吹きすさぶ暴風。荒れ狂う海。雷鳴轟く暗い空。
 これはもはや航海可能なレベルではないと思う。船が空中で回転するものだなんて初めて知った。
 この嵐に突っ込むまでは余裕ぶっていた受験生たちも、今ではゾンビの群れと化している。床はもう吐瀉物の海だ。酸っぱい臭いが充満して我慢ならない。周囲の風を遮断し、私とハルカのまわりに新鮮な大気を確保した。

「予想はしてたけど、凄い嵐ねー……船って飛ぶものだったんだ……」

 呆れたのか感心したのか判らない声で隣のハルカが呟く。私たちは今入口の階段に腰掛け、ゾンビたちの汁がかからないように退避している。
 ちなみに何故ハルカがこのゾンビたちの仲間入りをしていないのかというと、私が能力を使っているからだ。
 「大気の精霊(スカイハイ)」を使い、船とハルカの間に一センチほどの厚さの空気の膜を作る。船から伝わる振動を読み取り、それを打ち消すように大気の振動を制御。大気のクッションが揺れを防ぐ。そうすることでハルカにかかる負担を極力減らした。その効果は絶大だ。ハルカはくじら島に着くまでの醜態が嘘のように平然としている。

 一方でゾンビたちは嵐を抜けても気分の悪さは抜けないらしく、動く気力もないかのようにグロッキー状態だ。
 この船に乗っていた受験生はほとんど全滅だ。残ったのは私たちの他に、くじら島の少年、中世的な美少年、スーツ姿の青年の三人か。
 手持無沙汰になった私は、くじら島から乗ってきたツンツン黒髪の少年をなんとなく眺めた。

「ほい、水だよ。この草噛むと楽になるよ」

 少年はゾンビの群れの中を甲斐甲斐しくも動きまわり、水と薬草を配っている。船に乗った直後、真っ先に少年を馬鹿にした男にも介護をしてあげていた。
 それは少年の持つ性質なのだろう。真直ぐで、素直で、過去のことを引き摺らない。心がホッとするような清涼さが一目で見てとれる。
 無償の優しさというものを久しく見ていない私には、その姿はどこか眩しく、心が温まるものだった。

「……優しい子だな」
「当然よ!」

 何故かハルカが我がことのように胸を張っていた。
 何で君が威張るんだ、と突っ込みを入れる。その時には少年は汚れたタオルなどを籠に抱えて甲板の方へ走って行くところだった。





『これからさっきの倍近い嵐の中を航行する。命が惜しい奴は今すぐ救命ボートで近くの島まで引き返すこった』

 船室のそこかしこから悲鳴が上がった。
 立ち上がることも億劫そうなゾンビたちが、沈没する船から逃げ出す鼠のような勢いで出口に殺到する。
 全力でお近づきになりたくない私たちはゾンビの進路から離れるように移動した。
 「二度と来るか―!!」と捨て台詞を残して、ゾンビたちは波の向こうに消えていった。

「結局客で残ったのはこの五人か。名を聞こう」
「オレはレオリオという者だ」
「オレはゴン!」
「私の名はクラピカ」
「アゼリアだ」
「はっ、初めまして! ハルカです!」

 結局予想通り、船に残ったのは良い(オーラ)を出していた三人と私たちだけだった。
 まさに海の男といった風に筋骨隆々とした、しかしやや小柄な船長は、船室の壁に手をついて問いかける。

「お前ら、何故ハンターになりたいんだ?」
「……? おい、えらそーに聞くもんじゃねーぜ、面接官でもあるまいし」
「いいから答えろ」
「何だと?」

 ずいぶんと居丈高な物言いに噛みついたのはレオリオと名乗ったサングラスの男だ。
 船長の高圧的な物言いに対し、声に不機嫌な響きが混じる。
 しかし、元気のいい少年がその声を遮るように手を上げて答えた。

「オレは親父が魅せられた仕事がどんなものかやってみたくなったんだ」
「おい待てガキ!! 勝手に答えるもんじゃねーぜ、協調性のねー奴だな」
「いいじゃん、理由を話すくらい」
「いーや、ダメだね。オレは嫌なことは決闘してもやらねェ」
「私もレオリオに同感だな」

 レオリオの声に同意を示したのはクラピカと名乗った美少年だ。
 偽証は最も恥ずべき行為であり、しかし初対面の人間に正直に話せる志望理由ではない。よってこの場で質問に答えることはできない、と。
 彼がそう述べている間、レオリオは呼び捨てにされたことにひどく反発し、「レオリオさん」と訂正するよう騒いでいた。
 その返答を聞いた船長は、すっと眼を細めて、告げた。

「ほーお、そうかい……それじゃお前らも今すぐこの船から降りな」
「何だと?」
「まだ判らねーのか? すでにハンター試験は始まっているんだよ」

 それからの船長の説明は、私の予想を裏付けるものだった。
 ハンター資格を取りたい人間全員を審査出来るほどの余裕は試験管に人的余裕も時間もない。だから試験に至るまでに志望者をふるいにかける。既に船を下りた人間たちは脱落者として報告されているというのだ。

「―――お前らが本試験を受けれるかどうかはオレ様の気分次第ってことだ。細心の注意を払ってオレの質問に答えな」

 船室の空気が一気に重くなった。
 波に揺れる船がギシギシと軋む音まではっきりと聞き取れる。
 ここでの返答だけで、今年のハンター試験が決まってしまうのだ。下手な答えは出来ない。
 しばらくの沈黙。それを破ったのはクラピカだった。
 彼の語る志望動機は、私でさえ驚かされるものだった。

「私はクルタ族の生き残りだ。四年前、私の同胞を皆殺しにした盗賊グループ、幻影旅団を捕まえるためハンターを志望している」

 クルタ族……幻影旅団による歴史的な傷痕の一つ。失われた民族。
 幻影旅団に会いたいと、そう繰り返し述べていたハルカに私自身何度も言ったことだ。幻影旅団の危険性を。
 その被害者が、目の前にいる。
 ハルカはそれを見てどう思っているのだろうか……そのことがふと気にかかった。

賞金首狩り(ブラックリストハント)志望か! 幻影旅団はA級首だぜ。熟練のハンターでもうかつに手を出せねェ。ムダ死にすることになるぜ」
「死は全く怖くない。一番恐れるのはこの怒りがやがて風化してしまわないかということだ」

 その眼に映る光は、彼の言葉が虚勢でも何でもなく、全くの本心であることを示していた。
 死を恐れない強さ。捨て身の覚悟。それは何としても死ぬことの出来ない私とは異なる質の強さだ。
 仇討ちなどハンターにわざわざならなくても出来るだろうと言うレオリオに対して、ハンターでなければ出来ないことが数えきれないほどあるということを言っていたクラピカ。そんな彼を見ていると、言いようのない感情が湧いてくる。
 きっとそれは焦燥だ。彼は、私の将来の姿かもしれないのだから。
 ヴィオレッタを失ったならば、私だって復讐する。この命が失われようとも。
 考えるだに恐ろしい空想。しかし、それは決してあり得ないことではない。私の心の冷静な部分が無情にもそう告げる。
 半年前、ヴィオレッタの病気が念能力と判ってから、自由に病院に出入りできるハルカに頼んで調査を調べてもらったのに……状況に進展がないのだから。

「―――おい、お前は? レオリオ」
「オレか? あんたの顔色をうかがって答えるなんてまっぴらだから正直に言うぜ! 金さ!! 金さえありゃ何でも手に入るからな! でかい家!! いい車!! うまい酒!!」

 その言葉にそっと滑り込むように、静かな軽蔑の念が込められた一言がクラピカの口から漏れた。

「品性は金で買えないよ、レオリオ」

 空気が、変わった。
 クラピカの言葉がレオリオの逆鱗に触れたことがはっきりと判る。
 怒りに燃える眼でクラピカを睨みつけ、レオリオが言う。

「……三度目だぜ。表へ出な、クラピカ。うす汚ねェクルタ族とかの血を絶やしてやるぜ」

 互いの胸元に刃を突きつけているかのような、鋭い視線の交錯。
 この言葉もまたクラピカの逆鱗に触れた。

「取り消せレオリオ……」
「レオリオさん、だ」

 退く気は無し、と態度で示し甲板へ向かう二人。
 船長は自分の試験を受けない気かと慌てて止めに入るが、その船長を止めたのはゴンの一言だった。
 彼らが怒っている理由は、きっと彼らにとってとても大切なことだ。だから止めない方がいいと。

 だが、二人の怒りにも喧嘩の顛末にもさしたる興味の無かった私は一歩引いたところにいた。
 今は試験がどうなるかを気にするべきだろう。

「なぁ、試験はどうする―――」
「船長!! 予想以上に風が巻いています!!」
「ちっ……悪いな嬢ちゃん。試験はまた後でだ」

 船長は船員を追って甲板に飛び出していき、ゴンもまた船室から出ていく。船室には私とハルカだけが残された。

「ふ……くふふ。いよいよね……」
「……ハルカ?」

 押し殺すような笑い声。振り向くと、ハルカは堪え切れないと言った風に顔で喜びを表していた。

「ようやく動き出すわ、物語が! ほら、アゼリア、私たちも行きましょう」
「……私は別に彼らの決闘の顛末に興味はないのだが」
「いいから! どうせここに居てもやることはないでしょ? いいシーンが見れるわ。それに……あなたにとっても、素敵な出会いになると思うわ」

 私の手を掴んで甲板へぐいぐい引っ張っていくハルカ。
 まぁいいか。確かにここにいてもやることなんてないのだから。

 甲板に出ると、レオリオとクラピカは互いににらみ合い、戦闘を開始する直前だった。
 その周りでは、船を引っ繰り返しそうな勢いで吹き荒れる風に対処するべく船員たちが動きまわっている。

「今すぐ訂正すれば許してやるぞ、レオリオ」
「てめえの方が先だ、クラピカ。オレからゆずる気は全くねェ」

 それは互いの最後通牒だった。
 レオリオはナイフを、クラピカは鎖に繋がれた双剣を取り出す。

「行くぞ!!」
「来やがれ」

 その瞬間だった。
 船のマストの一つがあまりの暴風に耐えきれずへし折れ、船員の一人が船の外へ吹き飛ばされる。
 下は凄まじい激流。飲まれればまず生きてられない……!

「ちっ……!!」

 ―――大気の精霊(スカイハイ)……!!

 甲板に放置されていた荒縄を引っ掴み、船員に向けて放つ。
 風を纏うロープは自在に動き、今にも海に落ちようとする船員の体に巻きついていく。

 その時、振り向きざまに見た光景に私は眼を疑った。
 決闘中であったはずのレオリオとクラピカが、いつの間にか勝負を投げ出してその船員を救おうと手を伸ばしていたのだ。
 決闘の最中に相手から目を逸らすなんて、致命的な隙だ。自分が攻撃される危険性を無視して、見知らぬ他人を助けに入る? 考えられない判断!
 だが、何よりも驚いたのは、私の投げ放ったロープが船員の体に巻き付くと同時に、その足を掴んだ者がいたこと。
 ゴンだ。
 完全に体を船から投げ出して、海流に飲み込まれそうなダイブ。
 如何に彼の身体能力が優れていようとも、荒れ狂うこの海流に飲まれてはなんの意味もない。
 レオリオとクラピカは、船員に届かなかった手を慌ててゴンの足に伸ばし、ゴンと船員、二人を救った。
 示し合わせていたわけでも、助かる保証があったわけでもない。もしも二人がゴンの足を掴むのに失敗していたらどうするつもりだったんだろうか。いや、そもそも彼らがゴンたちを救おうとしなかったら……? そんな分の悪い賭けに自分の命を賭ける? ありえない……!

「よくやったボウズ!」
「ボウズ!! 礼を言うぞ!」

 仲間を救われた船員たちにゴンが賞賛されるなか、ゴンのあまりの無謀さにレオリオもクラピカも声を大にして叱りつけていた。
 だがそれも、「掴んでくれたじゃん」というゴンの何気ない一言でなんとも言えない空気が流れてしまう。
 レオリオもクラピカもしばしの間見つめ合った後、和解した。

「くっくっくっ、ははははは! お前ら、気に入ったぜ! 今日のオレ様はすごく気分がいい!! お前らみんな、オレ様が責任もって審査会場最寄りの港まで連れて行ってやらぁ!!」

ゴンは船長についていき、舵取りの方法を教えてもらうらしい。
 その場には甲板に座り込んだまま友好的な雰囲気を流すレオリオとクラピカ。二人に駆け寄り、タオルを差し出して自己紹介をしているハルカ。そして信じられない思いで呆然と彼らを眺める私がいた。

「あれ、どうしたのアゼリア? そんなナマケモノみたいな顔して」
「おお、そういえばアンタも助かったぜ、さっきのロープ! 危うくゴンたちを落としちまうところだったからな」
「私からも礼を言う。キミのフォローが無ければ危なかったかもしれない」

 そう、それだ。私の胸の中で渦巻く、苛立ちにも似たこの感情の元は。
 危険はあった。それはゴンたちに対する危険だけでなく、レオリオとクラピカにも降りかかる可能性が。
 なのに、何故? どうしてその危険を犯すことが出来る? さっき会ったばかりの見知らぬ人間だろう? 自分の命と比べるべくもないじゃないか。死を恐れないから? そんなものはただの馬鹿だ。勇敢と蛮勇をはき違えているだけだ。理解できない。理解できない。
 気がついたら、その疑問を口に出していた。

「……何故、彼らを助けた? 決闘の最中に敵に背を向けるなど、殺してくれというようなものだ……いや、そうでなくても、君たちが海に落ちる危険だって十分すぎるほどにあったのに……何故?」

 きょとんとした顔をするレオリオとクラピカ。その顔はそんなことを聞かれるとは思ってなかった、と雄弁に語っていた。
 二人はしばらく見つめ合った後、レオリオは指で頬を掻きながら答えた。

「あー、なんでって言われてもな……つい体が動いただけだ。人を助けるのに一々理由なんていらねェだろ?」
「レオリオの言う通りだ。人を助けるのに理由はいらない。もっとも……恥ずかしながら、私はレオリオが飛び出していくまで決闘を投げ出すつもりはなかったのだがな」
「そんな昔のことはもう忘れちまったよ。結果良かったんだから、気にするな!」

 笑い声をあげながらバンバンと平手でクラピカの背を叩くレオリオをクラピカが小突く。
 だが、そんな二人のやりとりを眺めている私の胸中は複雑だ。

 見知らぬ他人に対する、無償の善意。打算も何もない、衝動的な行動。
そんなものは本当はないのだと、そう考えていた。私の生きてきた世界にそんなものはなかったのだから。
 少し、羨ましくなる。

 金の亡者のように振舞っても、復讐のために全てを捨てる覚悟をしていても、彼らの本質は善人だ。
 私とは違う。妹を助けたいという自分の想いのために、言われるままに人を殺し続けている私とは。
 彼らを見ていると、眩しすぎて眼を逸らしたくなる。
 居たたまれなくなって、逃げるように踵を返そうとした。
 そのとき―――

『なにやってるの、早く来なさいよ』

 ―――ふと、そんな声が聞こえた気がした。

 驚いて足を止め、視線を巡らせると、じっとこちらを見つめているハルカと目が合った。
その眼は何かを訴えるように、無言で語りかけてくる。

 君が見せたいものとはこれだったのか?
私も幸せにならなきゃ嘘だと、君はそう言った。
 だから、彼らに引き合わせようとしたのか?

 ゴンも、クラピカも、レオリオも、きっといい人だ。
 彼らと会っていれば、私の人生も変わっていただろうか?

 今からでも、変えられるだろうか……?

 自分で踏み出す一歩というのがこんなに重いだなんて、知らなかった。
 それでも私は近づいてみたくなっていた。光のあたる世界に。
 それが火に群がる虫のように自分の身を焦がすものだと薄々気付いていても……

 緊張で喉がカラカラになりそうで、心臓がどきどきと破裂しそうで。
 ごくり、と唾を呑みこむ。
 何とか声が震えないようにして、握手を求めた。

「名乗り遅れた。アゼリア=クエンティだ。道中よろしく頼む」

 それでいいのだと、ハルカが頷くのが見えた。
 たったそれだけのことが、私にはとても心強かった。





 蝋燭の炎が淡く室内を照らしだす。窓から差し込む月光は儚く、窓辺の僅かを明るくするだけだ。
 アンティーク調のインテリアで飾られた室内で、男―――カーティスは安楽椅子に腰掛けワインを傾けていた。
 ぼんやりと虚空を眺める彼の眼に映るのは、壁に掛けられた年代物の時計などではない。今後の計画。それを頭の中で冷徹に計算していた。

 組織内部の勢力図はかなり塗り替えられたと言っていい。
 大概の幹部たちは、叩けばいくらでも埃が出てくる。それも組に対して言い訳出来ないほどの大きな埃が。
 その証拠を掴み、失脚させる。あるいは武力にモノを言わせて粛清する。
 この一年間、そうして副首領派の人間を多く潰してきた。それに伴いアレッサンドロ顧問を筆頭とした派閥の力は必然的に増し、当然カーティスの発言権も増していった。
 以前は圧倒的に多くの支持を得ていた副首領派も、今では相談役派と拮抗する状況にまで来た。ここまでは全てが順調に進んでいる。

 ことの起こりは、去年の春に行ったギュンターの捕獲だ。その際にギュンターから聞きだした情報と、自分で独自に得た情報。それらを組み合わせることで、カーティスは幹部たちの金の流れや不正を見極めていった。
 ギュンターから聞きだした情報はその大部分を自分の手元で止めた。自分が手柄を立てるためだ。そしてその試みは大成功と言っていい。カーティスは今、副首領や相談役などの大幹部を除けば、他の幹部たちよりも一歩以上抜きんでた地位にいる。この成果についてはカーティスは十分満足していた。

 だが、重要なのはここからだ。
 派閥の勢力が拮抗したことで、今までは守勢に回っていた副首領派も尻に火がつく筈だ。
 こちらとしても、ギュンターの情報をもとに暴ける幹部たちの不正はそろそろ打ち止めである。
 つまり、これからはより激しい派閥間の争いが起こる。そしてこれまでのように事前の情報から有利な状況を確保できるとは考えない方がいい。

 出る杭は打たれるという言葉もある。
 敵は自分たちの衰退の原因となった、当面目ざわりな相手であるカーティスを潰しにかかるだろう。
 直接的な手段に訴えてくるか、間接的な手段で失脚させてくるかは判らない。だがいずれの場合であっても、自分の身を守り、かつ正当な理由をもって功績をあげられるような策が必要だ。
 そのためには何手必要だ? 傍らの机に置かれたチェスの駒を弄びながら、カーティスは計算する。

「……まずは駒が足りないですね」

 導き出された結論は、手駒の不足だった。
 ボルフィード組の中でのカーティスの役割は、戦闘向け念能力者の統制と管理である。
 そのため自分が動員できる戦力は、一体一体が他の幹部連中よりも強大だ。
 だが、単純に手数が足りない。

 状況はイーブン。
 ゲームはスタートしたばかりだ。
 だが、手にする駒が違う。自分の手駒はその多くがナイトやルーク。しかし一方で相手は駒の数が多い。
 ならば、勝利を手繰り寄せるためには?

 何気なく指に触れた黒のクイーンを、盤の中央に据える。
 せめて、あともう一つ……










〈後書き〉

邪気眼への反響が凄い。ふはははは、計算通り……!!
とまぁ、冗談は置いておき、間が空きましたが原作入りの話を投稿してみました。
原作の雰囲気を壊さず、しかし原作にはない流れを作りたい。そうじゃないとオリキャラがいる意味がない。そう思っているのですが、出会い編からぶった切ってしまうにはストーリーを考える力量が足らなかったため、ここはあまり変化なしです。二次創作の難しさを知る。
それでは、次の更新の時に。



〈蛇足的な文章〉

前回の感想コメでハルカの念能力についての考察とか質問とかをいろいろ戴いたのですが、ハルカの能力を軽く解説。

『邪気眼』はこんな厨二病な名前の技ですが、要するにただの「凝」です。普通の「凝」よりも強力ですが。
キルアがレオリオに「凝」を「簡単に言うとものすごーく注意して見ること」と説明していましたが、『邪気眼』は「それよりももっと注意してみること」程度の違いです。
普通の「凝」が目にオーラを70程度振り分けるのだとすれば、ハルカのそれは目に90近くのオーラを割り振っている。その結果普通の「凝」では見通せないものも見えるようになった、ということです。これはハルカが「凝」が得意で、相性が良かったということもありますが、オーラの量が膨大な人物ならば再現が十分可能な能力となっています(あくまでこのSS内の話。「凝」で普通よりも多くのオーラを込めれば作中であげたようなものが見える、というのはこの作品の独自設定ですので)

ハルカが堅が二十分続かないと戦闘で使えなかったというのは、これを発動すると必然的に他の体の部分の守りが少なくなるので、ほとんど「硬」をやるくらいのつもりでないと能力を発動できないようなレベルでは、まだ戦闘中の使用は出来ないということです。ズシが最初に「凝」を使った時、彼は「凝」が使えていましたが、それを戦闘で使えるかというとオーラが足りなくて無理です。そういうこととお考えください。

また除念に近い能力である、というのもあくまでこの能力の範疇内の話であり、特質系的な要素ではありません。言うならばハルカは「相手の能力の設計図」も見えるようになったのです。そしてその設計図に基づいて、相手の能力を壊すためにはその能力のどこを攻撃すればいいのかを見きり、結果として除念と同じ効果を得ています。もっとも全てを見通せるわけではないので、相手の能力を見ただけで完全に把握できるわけではないのですが。

そしてこの能力は強化系の能力で問題はないと作者は考えています。何故なら、まず能力自体はただの「凝」の進化系みたいなものですし、結果として起きていることも眼の強化です。絶対的な聴覚を持つセンリツも系統は放出系ですしね。ただセンリツの場合は闇のソナタを聞いたために得た能力であり、それもあってか常時発動出来ていますが、ハルカはそうした制約がないので(あるとしても使用後に目が痛くなる程度)、発動のためには結構なオーラが必要になります。そうした違いがあります。

とまぁ、筆者はこのように考えています。異論・反論はいろいろあると思いますが、この作中ではこうした解釈で成り立っているとお考えください。



[3597] 絡み合う蛇たち
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/10/20 23:41
 豪奢で巨大なドアを潜ると、吹きぬけのホール中を統一性のない、しかし見るからに高価なインテリアが飾り付け、天井のシャンデリアの光を反射し、これでもかというほどに成金趣味を主張していた。
 金ぴか。
 そんな言葉が浮かぶほどの豪華さと、それに伴うセンスの無さに辟易しながら、カーティスは扉を開けたメイドの先導で目的の部屋に向かう。
 早々に帰りたいと考えていたカーティスだが、これからのことを思うと一歩進む度に緊張が否応なく増していった。
 一歩間違えれば命を失いかねない、しかし退くことの出来ない勝負。
 開戦の狼煙は今にも上がろうとしているのだから。

「こちらでございます」

 一歩後ろに下がったメイドが指し示すその扉は、先ほどの扉よりもさらに重厚で豪奢。
 だが、その扉が猛獣の檻の入口のように見える。カーティスは握りしめた拳に力を込めると、覚悟を決めてドアを開いた。

「遅かったじゃないか、カーティス君。さあさあ、席に着きたまえ」

 成金趣味もここまでくるとある種の芸術だな。
 宝石が埋め込まれた樫の円卓と、彼の手に燦然ときらめく無数の指輪を見て、カーティスは内心そう嘲笑った。

 舞台俳優であるかのように大仰に手を広げ、歓迎の意を示すのはボルフィード組の副首領、ヴァレリー=ボルフィード。
 母親に似たのか、矮躯のサンジと違い、彼の手足はすらりと長い。
 だが、目に力がない。こいつには凄みが無い。町中の若造と何も変わらない。マフィアの首領として手腕を振るうサンジのような眼力も、彼は受け継がなかった。
 七光め。口には出さず吐き捨てて、カーティスはただ一つ空いた席に着く。
 それを見届けて、ヴァレリーはいちいち気障な仕草で頷いた後、室内を見渡して言った。

「さて、ここに集まってもらったのは、我が組を背負って立つ幹部たちばかり。諸君もまた、この組を思う気持ちは私と同じであろう」

 その場にいたカーティス以外の者たちが一斉に同意の声を上げた。

 今日の会議が、列席者の平等を象徴する円卓で行われているのはどんな皮肉だ、とカーティスは思う。
 この場にいるほとんどの者は、副首領ヴァレリーに追従する者ばかり。というよりも、カーティスを除く全員が副首領派の人間だ。
 会合という名の弾劾裁判。副首領派閥の衰退の原因となったカーティスに対し、激しい敵意を込めた視線を向けてくる者もいる。
 それを出来る限り意識から締め出し、カーティスは前を向いた。こちらを小馬鹿にするように見やるヴァレリーを正面から見返す。

「本日諸君の意見を聞きたいのは、昨今ボルフィード組にいらぬ波風を立てる者についてだ。この半年ほどの間に、優秀な人材が在らぬ疑い(・・・・・)を掛けられてその身を追われたことは、諸君も知っての通り。このようなこともあって、組には不穏な空気が流れている……」

 白々しい。早く本題に入ればいいものを……
 自己陶酔に浸り現状を訴えるヴァレリーにカーティスはうんざりする。劇場趣味は噂に聞いていたが、視るに堪えない。
 だがそんなカーティスの内心などどこ吹く風。ヴァレリーはこの茶番を続けたいらしかった。

「これは組全体にとって著しい不利益ではないか。そこで我らはこの者について如何なる処置を施すべきか意見を求めたい。どうだね……カーティス君、何か意見はないかな?」
「……私などでは答えを持ち得ませんな。副首領、あなたのご意見を伺っても?」
「私としては、その者が我々と手を取り、ともにこの組を発展させていくつもりがあるのならば、これまでのことは水に流しても構わないと考えている」

 何を言い出すかと思えば……
 カーティスは今回の会合の狙いを悟り、改めてヴァレリーの意志の弱さを嗤った。

 普通の政治ならばそれでいいのかもしれない。
 不要に敵を作らない。それは戦略的視点から考えて正解だ。
 だが、そんな小賢しいだけの考えはマフィアでは通用しない。
 メンツを何よりも大事にするマフィアの世界で、傷が浅いうちに停戦を申し入れるなどそもそも選択肢としてあり得ない。
 その証拠に、彼がそのように言う間も、円卓を囲む他の幹部たちは憎悪に濡れた瞳でこちらを睨みつけてくる。
 よくもまぁこんな発言をする気になったものだ。他の幹部たちも納得しないだろう。
 所詮は俗物ということだろうか?

「さて……その申し出に、果たしてその者が応じますかな」
「ほう、君は(・・)そう思うのかね?」
「ええ、私は(・・)そう思いますねぇ」

 舐めるようなカーティスの口調にヴァレリーの笑顔が引き攣る。
 その様子を見ていると、カーティスはこの茶番にそれ以上嗤いを堪えていることが出来なかった。

「くっくっくっ……茶番はもう止めましょう、副首領。回りくどい言い方は止めたらどうです? そこまで腑抜ているわけではないでしょう?」

 明確な挑発。
 にわかに殺気立つ幹部たちを片手で制して、ヴァレリーはカーティスを睨みつけた。

「……無粋だな」
「無駄な時間を過ごすのが嫌いなのですよ。貴方と違い、私はやるべきことが多いのでね」
「ふん……いいだろう。ならば単刀直入に言う。こちらにつけ、カーティス。貴様のためのポストは用意してやる。それで無用な争いは避けられる。違うか?」
「断れば?」
「引退してもらう」

 その言葉が合図だったのか。
 部屋の扉が音を立てて開き、黒服たちがなだれ込んできた。
 その数十五人。彼らはカーティスの退路を断つように彼を囲み、手にした拳銃をいつでも撃てるように構える。

「貴様にとって何が得で何が損か、よく考えてみることだな。アレッサンドロは確かに傑物だが、彼が組を継ぐことはあるまい。あちらについても君の得はないぞ?」
「さて……それはどうでしょうね。まず第一に、勝ち目のある勝負を投げる理由がありません。確かに、彼に組を継ぐ資格はありません。ですが……そんなことは瑣末な問題でしょう? あなたが一番よく判っているのではないですか?」
「……なんのことだ?」

 カーティスは用意してあったカードの一枚を切る。
 その札を切ることで戦況は全く異なるだろう。
 数瞬後のヴァレリーの顔を思い浮かべ、口元が緩むことを抑えきれなかった。

「アレッサンドロ氏には養子が一人いるそうですね」

 カーティスの言わんとすることに思い当たるものがあったのか。
 ヴァレリーの顔は一瞬で色をなくした。

「その少年、お母上に似たあなたとはあまり似ていませんね。まあ、片親が違うのですから当然かもしれませんが。けれど、流れる血の半分は同じなのでないですか?」

 顔を蒼白にして、ぶるぶると震えるほど手を握りしめるヴァレリーに心の底で哄笑する。
 それは組の上部の人間もあまり知らないこと。
 ボスの愛人の子の存在は、ボスの信頼の厚いアレッサンドロという傘の下に置くことで隠されてきた。

 組織というものはその大きさが増すにつれて一枚岩ではなくなっていく。
 その際に争いの火種となるものを残すことをボスは望まなかった。
 ボルフィード組は十老頭直系のビッグネームだ。その組のトップともなれば持てる力は大きい。旗印さえあれば誰もがそれを欲しがる。
 そして権力争いが内乱に転じれば、それが大火事となることは明らかだったからだ。

「……どこから知った? アレッサンドロが話したのか?」
「まさか。アレッサンドロ氏はそのようなことを吹聴する人間ではありません。ただ私の耳はなかなかに広いと、そういうことですよ」

 といっても、この情報を掴んだのは最近になっての話だ。
 勢力図を塗り替えたはいいが、それでは弱い。組に及ぼす相談役の力が強くなったとしても、ボスがそれを聞き入れようとしなければ意味が無い。
 次のボスとなるヴァレリーをこちらに取りこむか、そうでなければいっそ消してしまうべきか……
 傀儡となる首領が欲しいと考えていたところにもたらされたその情報は福音といえた。

「約束された椅子が掠め取られるのではないかと怖いのですか?。だからといって、その少年を殺すわけにはいかないですからねぇ。ボスとアレッサンドロ氏を纏めて敵に回しては、流石に揉み消すことも出来ないでしょう。だからあなたとしても彼の存在が隠されているのは好都合だった。しかし―――」
「―――殺せ……っ!!」

 カーティスの言葉をかき消し、ヴァレリーの唸るような怒号が飛ぶ。
 それを合図に黒服たちは一斉に引き金を引き、室内には銃声と硝煙の臭いが立ち込めた。

 カーティスが円卓に倒れ伏し、ぴくりと僅かな痙攣をするのみになったのを確認して、ヴァレリーはようやく一息つく。
 円卓に座るメンバーを睥睨し、反論を許さない声で告げた。

「……全員、先ほど奴が言った戯言は忘れろ。この数分はなかったことにするんだ」

 その場にいた全員がその言葉に頷き、黒服たちは黙したままカーティスの死体を処理しようとする。
 緊張を残しつつも、問題が片付いたことに安堵する空気が一瞬流れた。

「……ん?」

 黒服の一人がそんな声を上げた。
 疑念を含んだ声は妙に部屋に響き、他の者たちの視線を集める。

 そして他の黒服たち、さらに一瞬遅れて幹部たちも気づいた。
 何故、血が流れていない……?
 その意識の空白に滑り込むように、あり得ないはずの声が聞こえた。

「くふふふふふふふふふ、いやはや、手荒いですね。有無を言わさず銃殺とは」

 倒れ伏したままの体勢から、ソレは首だけを回転させヴァレリーの姿を見据えた。
 哄笑を洩らしながら、明らかに人ではあり得ない動きで立ちあがる。手を、膝を、間接を無視した向きに捻じ曲げ、重力を感じさせない様子で振り向く。
 悪夢のように不気味な光景に、それを見たものたちは皆背筋が寒くなるのを感じた。

 カーティスの姿をしたナニカ(・・・)は頬まで裂けそうなほど深く笑みを刻み、そのまま一歩を踏み出そうとして、首が百八十度回転した自らの状況に違和感を感じたようで足を止めた。

「んん……失敗。どうにも感覚が違っていけない」

 その場で立ち止まり、ソレは体の方を回転させて正面に向き直る。
 だが、もはや部下に任せておくつもりもなかったのか、ヴァレリーは懐から拳銃を抜くと、有無を言わさずソレに向けて発砲した。
 狂いなく眉間を撃ちぬいた弾丸。しかし……ソレは僅かによろめいただけであった。
 その眉間には、弾丸が貫いた穴が開いており、向こうの風景が覗き見えている。

「そんなものをいくら撃ったところで無駄です。しかし、その反応を見て確信しましたよ。先ほどの、ボスの隠し子がいるという情報はどうやら真実らしいですね。まだ裏付けが取れていなかったのでこのような手段に出たのですが……挑発にやすやすと乗っていただけて感謝します」
「……っ! き、貴様ぁ……っ!!」
「それでは、これにて私は失礼します。次の機会があれば、異なる立場でお話したいものですね」
「次など……あるものかっ!!」

 ヴァレリーが手元の呼び鈴を鳴らすと、部屋の入口には手に武器(エモノ)を持った黒服たちがぞくぞくと集結する。

「そいつを取り押さえろ! 絶対に生かして帰すな!!」

 唾を飛ばしながら指示をだすヴァレリー。
 しかしそれを歯牙にもかけず、無人の野を進むかのようにソレは歩む。

「どきなさい」
「……」
「だんまりですか。無駄な口を叩かないというのは素晴らしいですが、そのような態度を取るのならば……押し通らせていただきますよ」

 答えるつもりはないのか。それともその余裕もないのか。
 緊張と恐怖に顔を強張らせて、黒服たちは撃鉄を上げる。
 それが答えだった。

 カーティスの片腕が上がる。
 肩の高さまで持ち上げられた腕は、周囲を牽制するかのようにゆらゆらと揺れている。
 そしてその顔には、嗜虐を楽しむかのような笑みが貼りついていた。

 上げられた右腕を、真横に振りぬく。
 首を切り取るように、その身をひるがえして、言った。

「―――悲鳴楽団(オーケストラ)





 人、人人人人人……!
 ヨークシンでも、オークション期間中しかいないほどの凄い人だった。
 そのほとんどが強面なのだから、現在のドーレ港はとにかく治安が悪い。おそらくこの場にいるほとんどの人間がハンター試験の受験生たちなのだろう。みんな気がたっているのか、周囲からは時折怒号と喧嘩の音が聞こえてくる。

「すげぇ人だな」
「この中でほんの一握りの人間しかなれないというのだから……ハンターというのは本当に選ばれし者たちということか」
「へっ……それだけ成ったときの見返りはでけぇってことさ! さーて、ザバン市に向かう乗り物は、と……」

 船の中で随分と打ち解けた私たちは、軽口を叩きながら港を出た。
 友人と呼べる人間が片手で数えるほどしかいない私は、結局のところ人間的なふれあいを求めていたのか……自分でも驚くことに、心の底から彼らとのやりとりを楽しんでいた。

 ちなみに船内でハルカはクラピカ相手に恐ろしいほどの猫かぶりで話していた。
 なんていうか、見ていて寒気がする……

「あ、船長!」

 ゴンが指さした方を向くと、酒を買いに行くといい船を降りていた船長が港の出口の壁に寄り掛かっていた。
 子犬を思わせる素直さで、ゴンは元気よくそちらに駆け寄っていく。

「船長、いろいろありがとう! 元気で!!」
「うむ、達者でな。最後にわしからアドバイスだ」

 船長は港を向いて右手の山を指さした。
 山頂の一本杉が特徴的な、それほど高くない山だ。

「あの山の一本杉を目指せ。それが試験会場にたどり着く近道だ」
「なに……?」

 疑問符を浮かべてしまう。
 会場のザバン市はその山とは反対方向だ。バスも電車も通っている。何故わざわざ反対の山へ?

 だが、船の中の惨状を思い出してすぐに納得した。
 そうだ、これはハンター試験なんだ。まっとうな手段で行けるなんて思わない方がいい。
 きっと何か理由があるのだろう。

「わかった、ありがとう!」

 ゴンがそこまで考えていたとは思えないが、彼は元気よく返事をし、船長に別れを告げていた。

「……どうする?」

 レオリオは疑わしそうな声を上げた。
 港を出た広場にある地図を指して異を唱える。

「見ろよ、会場があるザバン地区は地図にもちゃんと載っているでかい都市だぜ。わざわざ反対方向に行かなくてもザバン市直行便のバスが出てるぜ。近道どころか、下手すりゃ無駄足だ」
「彼の勘違いではないのか?」

 クラピカもまたレオリオと同じく完全に信じ切ってはいないようだ。
 だがゴンは疑いを知らぬ声で言った。

「とりあえずオレは行ってみる。きっと何か理由があるんだよ」

 ゴンの素直で真直ぐな心根は美徳だが、レオリオが少しは人を疑うということを知った方がいいという言葉に同意せざるを得なかった。
 だがゴンは一度信じたことを否定するつもりはないのか、バスで行くことを進めるレオリオの言葉にも頷かず、彼は一本杉に向かい歩き始めた。

「ハルカ、君はどうする?」
「私も一本杉に向かうわ」

 それならば私も否やはない。
 いざとなれば歩いてザバン市に向かってもいいのだ。ひとまず、私たちのルートは決まった。

 ゴンに続いて歩き出す。隣を見るとクラピカもまたゴンについていくようだった。

「ちっ、俺は地道にバスで向かうぜ。じゃーな、短い付き合いだったが、元気でな」

 後ろから聞こえるレオリオの声。
 しかし、数分歩いたところでレオリオが乾いた笑いを洩らしながら追いついたのは、追及しないことにしてあげた。





 港から一本杉に向かう道路を進むと、寂れた貧民街に入った。
 人の姿は見当たらない、しかしそこら中から気配を感じる。
 これは隠れているつもりなのだろうか。あまりにもお粗末。害意は感じないが、これもハンター試験と何らかの関係があるのだろうか。
 そんな疑問を持った瞬間、携帯が振動し始めた。

「―――ん?」

 取り出して見ると、知らない番号だ。
 はて……誰だろうか?
 ゴンたちに断りを入れ、首をかしげながら通話ボタンを押す。

「もしもし」
『ぁ、アゼリアさんっすか? お久しぶりっす。スミスっす』
「おお、久しいな」

 電話の主はスミスだった。
 見るからに強面という風貌なのに人懐っこい男だ。
 この数ヶ月会うことが無かったので、あの妙なギャップが懐かしい。
 しかし、彼とは携帯の番号を交換していた筈だ。
 何故携帯以外から電話をしてきたのだろうか。
 そんな疑問を持つと、彼は声をひそめて言った。

『ところで、アゼリアさん……重要な話があるっす。今、傍に誰かいますか?』
「……ああ」
『それじゃあ、お願いするっす。誰にも聞かれることのないような場所に移動してください』
「―――ちょっと待て」

 通話口を押さえて、こちらを訝しげに見る四人に向き直った。

「すまない、少し用事が出来た。先に行ってくれるか?」
「別にオレたちはここで待っててもいいよ?」
「いや、すぐに追いつく。一本杉に向かえばどうせ会えるのだから、構わずに先に行ってくれ」
「うん、わかった!」

 ゴンたちの姿が道の向こうに消えていくのを確認して、私は道を引き返した。
 そこら中からこちらを見やる視線や気配を感じる。港からずっと着けてくる受験生らしき気配も感じるし、誰にも聞かれそうにない場所というと港からの見晴らしのいい道くらいしか思いつかなかった。
 急いで駆けもどり、周囲に人影が無いことを確認。電話に出た。

「待たせたな。一体、何があったんだ?」
『ええ……最近、アゼリアさんも駆り出されたと思うんすけど、標的が組の幹部だったことあるじゃないすか』
「ああ、あったな」

 この半年ほどの間にあった任務の多くは、組の内部で不正をしたとされる幹部たちの粛清だ。
 私も何件かその任務に駆り出された。

『その結果幹部たちのパワーバランスが大きく変わったらしくって、先日、ついに内紛勃発って感じになったらしいっす』
「ほう……組の上部がドロドロの関係というのは君から聞いていたが、そんなことになっていたとはな。だが……それが私に何の関係があるんだ?」

 組の上部の意向なんて私には関係ない。
 私は言われた任務をこなすしか出来ることがないのだから。

『えーっと、一方の派閥の実質的な筆頭がカーティスさんなんすよ。あの人が組の内部を塗り替えたようなものなんす。確かにここまでは雲の上の話なんで大して関係はないんすけど、それでカーティスさん、念能力者を何人か組にスカウトしたんすよ。そのうちの一人が、裏でも結構有名なヤバい奴なんす』
「……どんな奴だ?」
『プロハンターで、快楽殺人者っす』
「最悪の組み合わせだな」

 よりによってそんな奴が、多くの場合殺人すら免罪されるプロハンターだなんて。
 たちが悪いにも程がある。

『「首狩り公爵(ネックハンター)」って聞いたことないっすか? プロハンターだからってことでつけられた厭味らしいっすけど。殺しすぎるからって理由で前の仕事を干されそうになって、ムカついたからって理由で仲介人を殺してます。とにかくヤバい奴っす。周りの親しい人にも忠告しておいた方がいいっす。気を付けてください』
「ああ、わざわざありがとう」
『ただし……今の話が自分から出たってことは言わないでくださいっす。知られるとちょっと困るんで……それが何でかも追及しないでくれると助かるっす』
「判った。それでは切るぞ」
『りょーかいっす。それじゃ、また今度!』

 ヤバい奴が来た、か。
 ハルカには一応忠告しておこうか。彼女は危険にひょいひょい首を突っ込んでしまいそうな感じがするからな。
 今の会話の内容を思い出す。
 すぐさま必要な情報は特になかったため、私は頭の片隅にそれを置いて走り出した。





 通話を終えて、スミスは自室のソファーに体を沈めた。
 アゼリアに先ほどの忠告をしたのは、百パーセント善意での行動のつもりだ。自分は確かに、彼女の無事を願っている。
 だが、そこに打算が入っていないと断言できるだろうか……?
 そう考えると、自分の醜さを否定しきれなかった。
 彼女の存在が必要ということは確かなのだから。

 ひとまず、火急の危険を彼女が避けてくれればいい。
 今はこれが伝えられる限界。

 伝えたいことはまだまだある。教えたいことは山ほどある。
 だが、今は出来ない。
 本当ならば、先ほど教えたこともヤバいかもしれない。
 それは自分が知っている筈がないことなのだから(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 下手な真似をするわけにはいかない。
 耐えろ。
 今は、まだ……





 貧民街まで駆けもどり、一本杉目がけて突き進む。
 相変わらずそこら中から気配を感じるが、気にしないことにした。こんな気配丸出しな連中に襲われるとも思えない。
 先行する四人に追いつこうと、寂れた建物と建物の間を駆けていく。
 すると、前方で道をふさぐように、一人の老婆とマスクを被った集団が現れた。

「ドキドキ―――」

 駆ける。

「ドキドキ二択クイ……待たんしゃいっ!!」
「ちっ」

 無視して駆け抜けようと思ったが、そうはいかないようだった。
 仕方なく足を止め、老婆に向き直る。

「ご老人、私は急いでいるのだが?」
「だからと言って無視するでないっ! お前、ハンター試験受験生だろ? あの一本杉を目指しているなら、この町を抜けないと行けないよ。通りたければクイズに答えてもらおう。もしも間違えたなら、今年の試験は諦めるんだね」
「なるほど。つまりはこれも試験の選抜の一環ということか」
「そういうことさ。話が早いね」

 ハンター試験というのは本当に変わっている。こんなところでクイズをさせるとは。
 しかし、クイズか……正直、自信が全くない。
 武器の名称とか、武術とか、尾行術とか、そう言った質問なら答えることが出来るが……
 ああ、こんなことなら……以前ハルカに(無理やり)連れて行かれたゲームセンターにあったクイズゲームをやってみればよかった。クイズなんたらアカデミーといったか、あれは。

「① か②で答えること。あいまいな答えはすべて失格とするよ」
「判った」

 さあこい、と身構える。
 老婆は数秒の間をおき、その質問を口にした。

「妹と恋人が人質に取られた。一人を救えばもう一人は救えない。どちらを救う? ①妹 ②恋人」
「① だ」










〈後書き〉

計算通りってニヤリと笑う神とか、あんた嘘つきだねってカリカリ梅食べ続けるギャンブラーとか、ああいう話を作れる人に激しく憧れる。
心理戦と頭脳戦は表現力+知識+高度な論理的思考が無いと書けないなぁ……
今の自分にはどちらもない。せめて完結させる熱意だけは……!

それでは、次の更新の時に。



[3597] 合格? 不合格?
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/11/04 21:41
「……何故そう思う?」

 クイズを出した老婆はしばしの沈黙の後そう聞いてきた。
 なんだ、この問題は理由も聞かれるのか? 曖昧な回答は失格と言っていたくせに、おかしなことだ。
 だが、その理由は決まっている。

「何よりも妹が大事だからだ。私はそう決めている」

 そのためには人も殺す。
 必要とあらば自分の命もくれてやる。
 だから、こんな問題で迷う筈が無い。

 老婆はしばし私を見つめると、マスクをかぶった者たちと合議を始めた。
 私の合否がこれで決められているのだろうか……?
 そんなもの、試験官の気分一つで正解が変えられるじゃないか。いや、そもそもこの問題に万人に共通する正解などないが……

「……通りな」

 だが、私の答えはどうやら正解と見なされたようだった。
 これでいいのかと首を傾げてしまうが、まぁ構うまい。
 開けられた道を通り、貧民街を抜けて山に入った。

「さて、ハルカたちはどの辺に……」

 しかし、その時眼に入った光景を見て、私は口を噤んだ。
 足もとに転がる、妙に丸い鼻の男の首。
 口から漏れたのは、深い深い溜息だった。

 獣、獣、獣、獣、獣……!
 オオニクハミコウモリ、アシナガコング、ダイオウシカ、サーベルリス、イッピキウサギ、etc……
 私でさえ知っている危険な動物たちが勢ぞろいだ。

「……これもハンター試験の一環か? ずいぶんと厳しい審査だな」

 まぁ、それだけ厳選された者たちが集まるということだが。
 ハルカたちは大丈夫だろうか?
 この獣たちに襲われてないか心配だ。急いで一本杉まで行くことにしよう。

「さて、出来れば襲いかかってくれるなよ」

 痛い目を見るのはおまえたちなのだから。





「合格にしてもよかったんじゃないのか?」

 遠ざかる少女の背中を見送っていた老婆は、後ろから聞こえてきたくぐもった声に振りかえった。
 仮面を被った者たちの一人が、表情こそ見えない者の、どこか不満げな声で言う。

「不満かい?」
「ま、多少不満だね。あの子、どんな事情があるのか知らんが、本気で迷わず妹を選んだように見えたが?」
「だろうねぇ。アタシもそう思うよ」

 口には出さないが、ならば何故、と仮面の男は態度で問いかけていた。
 老婆はしばし考え込み、理由を口にする。

「だけど……アタシが知りたかったのは、もしもその質問が現実となったときどちらかを選べるかどうかじゃない。どちらを選んでも正解ではないと理解した上で、それでもその時までに覚悟を決められそうな人間か否かということさ。アタシにはあの子が思考停止しているように見えたからね」

 なるほど、と仮面の男は頷く。
 あの少女は迷わずに答えを選んだ。
 それは決意と言えば聞こえはいい。だが、その本質は思考の放棄ではないのか。悩み、苦しみ、それでも尚選択することのできる「強さ」には至らないのではないか、と老婆は言っているのだ。
 これがもし妹でなく、母親と恋人だったならば?
 あるいは、親友と父親だったならば?
 その時、彼女は「正解」に至ることが出来ただろうか。そう考えたとき、老婆は否と判断したのだった。

「だから不合格に?」
「いや……アタシは不合格とも言ってないさ。ナビゲーターのところまで、魔獣の巣窟を通っていけるかどうか。もしも辿り着けるようなら、合格でもいいよ」
「……審査会に文句言われるぞ?」
「かまいやしないよ。あそこは堅物ばっかだけど、あのじじいは話が判るからね。それに、アタシは報告をちょいと忘れてただけさ」
「このタヌキ婆」
「ぬかしな、若造」





 もういくつめか判らない魔獣注意の看板を見つけ、本当にこの道で合っているのかと一抹の不安を抱く。
 空には夜の帳が下りはじめ、森の陰影は視界を遮る。もっともこの程度で困るほどやわな鍛え方はしていないが。

「なあ、何か食うもんもってねーか?」
「なあ、ちょっと休憩してこうぜ」
「なあ、そろそろ三時間くらい経つんじゃね?」
「―――うるさいぞ、レオリオ」

 すでに話も途切れた山中の行脚の中、幾度となく響くレオリオの不満の声に私はいい加減黙るよう声を上げた。
 道を間違っていた場合を考え、私も多少精神的に疲れている。
 前を歩き先導するゴンは山野で育ったという経験からか確信をもって進んでいるようなのだが―――そうした感覚も鍛えたつもりでいたが、まだまだ修行が足りないらしい。
 しかしレオリオも情けない。女性のハルカが不満を口にすることなく歩いているのに、いい歳した大人が……
 そんな呆れを込めてレオリオを見やる。その時、ハルカがポツリと呟くのが聞こえた。

「……遅いね」
「だよなぁ。おい、ハルカも言ってくれよ。ぜってーあの婆さん、年のせいでボケてやがるぜ」
「そっちじゃないわよ」

 船の中で知り合ったハルカは、まだゴンより少し年上程度にしか見えないが、実際はもう十六歳。私より一つ年下なだけらしい。
 フリルやリボンのたくさんついた、黒を基調とした装飾過多の服を着て、大きなヴァイオリンケースを手にしている。
 お嬢様然としたその姿からは戦闘者の気配は感じられないが、意外と鍛えられているらしい。少なくとも、あの荒れた海を越え、ここまでの山道に音を上げない程度には。

「私が言ってるのはアゼリアのこと。すぐ追いつくって言ってたのに……」
「先程のクイズでつまずいたという可能性もあるな……ハルカ、メールは送ったのか?」
「うん……あのあとすぐ送ったけど、見てないかも。アゼリア、基本的に電源切ってるから」

 携帯のストラップをぼんやりといじくりながら、ハルカは空を仰いだ。
 遠くの山間は薄紫に染まっていた。

「教えておくのをすっかり忘れてたわ……まずったわね……」
「? 何の話だ?」
「え、ううん! 気にしないで!!」

 慌てたように手を振るハルカに、まあいいかと私はそれ以上のことを聞こうとはしなかった。
 山に入ってから既に三時間が経つことを確認し、先ほど話題にでた女性のことをぼんやりと思い出す。

 アゼリアというのは、ハルカとともに船で出会った女性だ。
 スーツに身を包み、どこか陰のある怜悧な表情を崩さない。どこか人を拒絶するような雰囲気があるが、船の上で船員を救おうとしたところから、ただ人づきあいが下手なだけなのだと思われた。
 ハルカとは試験以前からの知り合いらしい。顔立ちが似ているから姉妹かと思ったが、ハルカというのはエイジアン系の名だし、アゼリアはヨルビアン大陸系の名前だ。姉妹という可能性は少ないか。
 その彼女が、クイズの試験を受けさせられた地点の手前で一時別れてから、未だに追いつかない。
 あのクイズを思い出すと、不合格を懸念してしまうのも無理はなかった。私とて受験生の悲鳴が聞こえなければ、「沈黙」という選択肢を確実に選べたという自信はない。

「でもさ、あのおばあさん、不正解とも言ってなかったよ? ナビゲーターのところまで行けたら合格なんじゃないかな?」
「希望的観測だが……その可能性はあるな」

 ゴンの言葉に私とハルカは頷いた。
 確かに考えてみれば、不合格の場合の処置が魔獣たちの巣窟に突っ込ませるとは悪辣に過ぎる。
 間違えたら即失格というのは嘘で、実際は追試としてあの道が用意されていたのだろうか……?
 とはいえ、こんなものは憶測に過ぎない。ただの気休めでしかないが。

「……まぁ、少なくともアゼリアが魔獣なんかにやられるとは思えないから、無事なのは間違いないだろうけど」

 確かに、彼女は見たところ相当の手練だ。
 物腰に、足運びに、視線の配り方に、あまりにも隙が無い。どういう経歴なのかは知らないが、警戒慣れしすぎている。
 魔獣などにやられないというハルカの言葉も決して誇張されたものなどではないだろう。
 そういえば、彼女たちについて私たちはまだ全然知らないな。

「なあ、ハルカたちは何故ハンターになりたいんだ?」
「え、私たち?」
「ああ。私やレオリオ、ゴンの志望動機は船の中で話したが、君たちのはそういえば聞いていなかったからな。無論、強制はしないが……」
「ううん、いいわよ」

 特に気負う様子もなく、ハルカは自分の志望動機を語り始めた。

「私がハンターになりたい理由は……二つかな。一つ目は、まああんまり重要じゃないんだけど―――ゲームを探してるの」
「ゲーム?」
「そ。ジョイステーションのゲーム。グリードアイランドってやつ」
「おいおい、ゲームだあ? そんなもん、ハンターにならなくても手に入るだろうがよ」

 レオリオが「なんだそりゃ」と呆れた声を出す。失礼なやつだ。人の志望動機にケチをつけるとは。
 とはいえ、私とて少し意外だった。ハンターにならなければ手に入らないようなゲームなのか……?
 だが、ハルカは特に気にした風もなく続けた。

「ところがそのゲーム、ハンター専用ゲームなのよ。限定百本しか制作されてないしね。それに、値段聞いたらレオリオ驚くわよー」
「いくらだよ」
「五十八億ジェニー」

 レオリオの馬鹿面にさらに磨きがかかった。

「~~~っ!! なんだそりゃ!! ゲームの値段じゃねーだろ!!」
「だから伝説のゲームなんて呼ばれてるのよ。これが欲しいってのが第一の理由」
「それ面白いの、ハルカ? なんか曰くつきとか、そう言う感じ?」
「んー、そうね、ゴン。多少曰くつきかもしれないわね。ああ、ただ……面白い噂を聞いたことがあるわ。その製作者の話」
「なになに?」
「うん。製作者のリーダーが、結構な有名人らしいの。ジン=フリークスっていう―――」
「えっ!? オレの親父!!?」

 ゴンの驚愕の叫びが夜の森に木霊した。

「そういえば、ゴンとファミリーネームが一緒ね。もしかしたらって思ってたけど、本当にお父さんだったんだ……」
「うん! きっとそれはオレの親父だよ!」
「ゴンはそういえばお父さんを探してるんだったわね。それじゃあ、もしも判ったことがあったら伝えるわ」
「ありがとう、ハルカ!!」

 思わぬ手がかりを得たことでゴンは喜色満面の様子だ。
 元気いっぱいにスキップしながら山道を進んでいく。
 その様子についつい頬が緩みながら、話を進めた。

「二つ目の理由は?」
「うん。友達作り。いろんな人との出会いを楽しみたいの。ハンター試験では面白い人もたくさんいるでしょうし。だから、あなた達と友達になれてとっても嬉しいわ」

 飾らないハルカの言葉に、なんかちょっといい雰囲気が流れた。
 こそばゆい気恥かしさが流れる。
 なんとなく、ハルカはゴンと同じタイプだと思った。

「ま、まぁ! それはいいとしてだ!!」

 殊更大きな声をレオリオが張り上げる。その顔はむずむずするのを堪える顔だ。
 こういう雰囲気が苦手なのは私もレオリオも同じらしい。

「ハルカの理由は判ったとして、アゼリアの理由は?」
「……普通、本人に聞かない?」
「そ、それもそうだな、わりぃ」

 話題を無理やり変えようとして、見事に失敗しているレオリオだった。

「ま、いいわ。アゼリアは多分、ハンターになりたいって思ってるわけじゃないのよね。試験に来たのだって、私が心配だから付いていくって言ってたし」
「君と彼女はどういう関係なんだ?」
「同居人、かな? 私が居候だけど。訳あって彼女にお世話になってるの」

 なるほど、そういう繋がりか。
 その事情まで詮索するほど厚顔無恥ではないが、彼女たちが似ているのは関係あるのだろうか、と想像するくらいはいいだろう。

「そうね、他に何か質問ある? 軽い質問なら答えるけど」
「んじゃ、スリーサイズは?」
「アゼリアは、87・58・85よ」
「ハルカは?」
「……聞くなっ!!」

 華奢な(貧相な、とは言わない)体を両手で抱え込むように隠して、ハルカはレオリオを睨みつける。
 その様子を、レオリオは完全にスケベ親父の顔になってからかいだした。

 セクハラだ。

 というか、失礼なやつだ……

 あ、殴られた。





 許可なく立ち入る者のいない私室で、ヴァレリーは頭を抱えていた。
 しきりに机を指で叩き続けるその様子からは、隠しようのない苛立ちと焦りが見て取れる。傍らの灰皿にはタバコの吸い殻が山となっていた。
 なんとか落ち着こうとするが、先日のことを思い出すと、平静を保つことは難しい。ガシガシと頭を掻いて、纏らない思考を続けた。

 義弟の存在が知られていたのは、完全に予想外だった。
 父サンジの愛人の子、クヌート。
 組織の内部崩壊を引き起こしかねないその存在は秘せられていた筈だ。
 火種があれば、火事は起こりうる。
 クヌートの存在を幹部たちが知れば、そちらを支持することで旨味を得ようと考える者は必ず出てくる。そうして内部抗争に繋がるだろう。
 まさしく、今の状況だ。

 だからこそ父はその存在を隠そうとした。
 アレッサンドロという実力者の養子とすることで、迂闊な詮索を出来なくする。同時に父が接触を持つことも不自然ではなくなる。
そして情報を規制しておけば、いずれ事実はひっそりと消えていく。その筈だった。

 一体どこから情報が漏れたか。それを知ることが重要だ。
 本来、この事実を知っている者は数少ない。サンジと、アレッサンドロ、そして自分。三人しか知らないはずだった。

 父がこの情報を洩らすとは考えづらい。自分が隠したものを、自分から曝したりはしないだろう。
 自分から洩れた筈もない。誰にも話したことはないのだから。
 ならば……アレッサンドロ?
 その可能性は、否定できない。

 アレッサンドロは父と旧知の仲だ。父が最も信頼している人間でもある。
 だからこそ相談役という立場を任されているのだし、クヌートの存在を隠す大役を担ってもいる。
 その彼が、父の意向を無視する……?

 あり得る。
 実力もあり、多くの支持も得ているアレッサンドロだ。更なる権力を欲したとしても不思議ではない。



 父は自分を愛してはいなかった。
 母親は、現在のボルフィード組のシマの東部にあたる地域を治めていたマフィアの一人娘だった。
 ボルフィード組とは同じ老頭の系列であり、組の間の仲も良好。そのため、後継ぎのいないそのファミリーはボルフィード組とともに歩むことになった。
 そうして両親は結婚した。だが、甘やかされて育った母はただの我儘な女だったらしく、父はその存在を疎ましく思っていたらしい。
 相手方のファミリーへの関係上、一人の子を生したが、それだけ。夫婦仲は冷えていた。
 自分が副首領という立場にあるのも、その相手方ファミリーへの義理でしかない。

 もしもクヌートが、次期首領の候補として担ぎ出されたならば、そしてそれをアレッサンドロまでもが支持していたならば……
 自分はきっと、切り捨てられる。
 自分の約束されたはずの未来が崩れてしまう。
 それは耐えられない。
 許せない。
 何とかしないと……

 だが、どうする?
 幹部たちの支持を得ようにも、派閥の勢力すら拮抗した状況ではそれすらも難しい。
 アレッサンドロや父の支持を得る? どうやって?
 ああ、糞……いっそのこと、あいつを消してしまおうか……?

 そんな、一瞬頭をよぎっただけの考えが、妙に頭にこびりついた。

 ……それは、案外悪くない考えかもしれない。
 ボルフィード組には後継ぎとなり得るのは自分とクヌートしかいないのだ。
 クヌートを消したとき、自分を処断すれば、組の存続自体が危ぶまれる。
 無論、如何に取り繕おうともお咎めなしというわけにはいかないだろう。
 だが最終的には、候補が一人しかいないのならば自分は次の首領だ。
 それはこのまま手を拱いているよりも、遥かに良いのではないか……?

「……そうだな。いっそのこと……」

 殺るか……





 私をからかって遊んだ―――乙女にする仕打ちではなかったため、股間を蹴りあげておいた―――レオリオはしばらくの間不平を言うことなく進んでいたが、やがてそれにも飽きがきたらしい。
 さらに一時間ほど歩く頃には、三歩歩くたびに腹へったー、と言い続けていた。

「こんな調子で本当にオレ達会場につけるのかなァ……うんこしたいぜ」
「レオリオ、置いておくよー」

 ゴンの方がと時折レオリオよりも落ち着いて見えるから不思議だ。
 しかし、そうこうしているうちに一本杉がすぐそこに見えた。

「着いたぞ」
「や~~~っと着いたぜ!」
「静かだな。我々以外に受験生は来ていないのか?」

 ノックをしても返事はない。
 だが、この先の展開を知っている私は少しわくわくしながら、部屋を覗きこめる位置を取った。

「入るぜ~」

 ―――キルキルキルキルキルキルキルキル、キール

 でかっ!
 怖っ!!
 リアルで見ると予想以上の大迫力。
 魔獣、凶狸狐。猫背でガニ股ながら二メートル近い巨体を持つ、見ようによってはラブリーな……いや、無理だ。リアルで見ると怖い。

「魔獣っ!!」

 私以外の三人が、女性を片手に抱えた凶狸狐に身構える。しかしその瞬間、凶狸狐は勢いよく飛び出し、窓を破り森の中に消えていった。

「助けないと!」
「レオリオ、ハルカ、怪我人を頼む!」
「任せろ!」
「ええ!」

 飛び出していくクラピカとゴン。
 私とレオリオは部屋に残された男性の傍に駆け寄った。

「つ、妻を……」
「今仲間が助けにいった! 大丈夫だ!! 今あんたも手当をする。どこか酷く痛むところは!?」
「わ、私は大丈夫……」

 男を力強く励ましながら、レオリオは素人眼に見ても早く的確に傷の処置をしていく。
 私は周囲の警戒をする振りをしながら、部屋の中を眺めた。
 解答を知っている私から見ると、この家は不自然なところがいくつも目につく。
 レオリオが応急処置を終えたことを見て、私は彼の横に並んだ。

「レオリオ、彼の様子はどう?」
「ああ、深い傷は特になかった。応急処置は終えたし、あとは大人しくしておけば大丈夫だ」
「そう。それじゃあ、ちょっとどいて」

 私は手にしたヴァイオリンケースを開き、短機関銃を取り出した。

「な、なんつーもん入れてんだお前は!?」
「銃器を楽器ケースに入れた少女ってのは、ロボにドリルくらい浪漫なのよ。それよりほら、どいてどいて」

 短機関銃の照準を男に向ける。
 念能力を使えない者にとって、銃器は見た目的にも大きな脅威となる。
 男は驚きと恐怖に目を見張り、レオリオは怪訝に眉を顰めた。

「な、なにを―――」
「おい、ハルカ―――」
「貴方は何者かしら? この部屋、酷く壊されているけど、不審な点がたくさんあるわ。そこら辺の焼け跡なんて、もう何日も経っているんじゃない? それに今貴方達が襲われたにしては、私たちが着いたときにあまりに気配が無かった。突然というなら、いつあの魔獣は来たというの?」

 つらつらと並べられる不自然な点にレオリオも気付いたようだ。
 彼はナイフを取り出し、警戒するように男を睨む。
 私としては回答を知った上で式を組み立てるという、カンニングそのもののチートっぷりなのだから、無論それに間違いがあるわけもなく―――

「―――いやー、参りました! 申し訳ない! あなたたちを試させてもらいました!!」

 男はすぐに凶狸狐に変化し、謝罪したのだった。

 ―――計算通り……!!





 凶狸狐夫妻はナビゲーターだった。
 彼らは私の知識力、レオリオの医術と優しさ、ゴンの運動力と観察力、ハルカの推理力とそれぞれの特性をいい、試験会場へのナビゲートを約束してくれた。
 早速出発しようとする凶狸狐たちに、私はしばし待ってくれるように告げた。
 もう一人、きっと来るはずなのだ。

「うーん、もう一人ねぇ……」
「クイズをやっていた麓のおばばからは、他に正解者の連絡は受けてないからねぇ」
「そりゃ、君たちの友達なら、この家まで来れたら連れていくのは構わないけど、どうだろうねぇ」
「君たちの来た順路以外は、魔獣たちの巣だらけだからねぇ」
「無事に来れるかどうか……」

 夫妻の言葉に、沈黙が流れる。
 確かに、魔獣の巣などプロのハンターでも進んで入ろうとはしないだろう。求めるモノがそこにあるというのならば話は別だが……
 私とて、危険を考えれば魔獣の巣に入ろうとは思わない。
 アゼリアはかなりの実力者のようで、そう簡単にやられはしないだろうが、魔獣が群れで襲ってきたりしたら、果たして……
 そんな重くなった場の空気を払拭しようと、凶狸狐―――ゴン曰く夫の方―――が言った。

「ま、会場に連れていくのは明日でも間に合う。なんなら、今晩はうちで休んで―――」

 その言葉が終わらないうちに、小屋が揺れた。
 大きな塊がぶつかった音がして、窓から見える一本杉がミシミシと音を立てている。その揺れが伝わってきたらしい。
 明らかに尋常ではない事態。
 私たちは顔を見合わせると、警戒を怠らずに窓から飛び出した。

「な、なんだよ、一体……」
「気をつけろ。何が来るか判らないぞ……」

 ぶつかった何かは、一本杉の裏でのびているようだった。
 家が入りそうな太い木の幹を回り込み、ソレが何かを見る。

「なっ!?」
「こいつ……アシナガコングだ」
「は、八頭身モナー?」

 木の幹を大きく凹ませて、白眼を向いて倒れていたのは巨大な魔獣だった。
 巨大なゴリラの手足を引きのばした、とでもいえばいいだろうか。
 足回りだけでも私たちの胴ほどありそうな巨体が、立ち上がれば八頭身に至るスタイルを持つのは、ちぐはぐで奇妙な感じをうける。
 だが、ある種滑稽な姿とは裏腹に、高い知性と強靭な肉体で魔獣の中でも難敵とされる奴だ。
 一体誰が……?

「あ、アゼリア!」

 疑問の答えはあっさりと出てきた。
 夜の森の陰影の中、浮かび上がるように一人の女性が現れる。
 ダークスーツにはところどころ木の葉が付き、黒髪は乱れているが、見たところ傷一つない。
 確かな足取りで彼女は進み出て、私たちと再会した。

「すまない、遅れた」
「全くよ!」

 ぷんぷんと腰に手を当てて怒りを露わにするハルカ。
 その気持ちは判るが、アゼリアは困り顔だ。

「そうは言ってもな……魔獣たちがやけにしつこくて。ハルカたちこそ、よくこんな早く着いたな」
「……アゼリア、下のクイズ正解って言われた?」
「通れ、とは言われたから、正解だろう?」
「やっぱり……」

 あちゃー、と頭を抱えてハルカは下のクイズの答えを解説しだす。
 それを横目で見ながら、私たちは気絶したままのアシナガコングを見ていた。

「おやおや……」
「まさか、本当に違う道からここまで来るとはね……」

 いつの間にか出てきていた凶狸狐夫妻が、感心したような呆れたような溜息を吐いた。

「こいつら、群れでいるはずなんだけどねぇ」
「さっき息子が見に行ったら、ココまでの道に気絶したコングが何体もいたってさ」
「しかも一体も死んでないっていうから、驚きだねぇ」

 大したもんだ、と語られるその内容に、私は戦慄を覚えずにはいられなかった。
 どうやら彼女の戦闘力は私の見立てよりも遥に上のようだった。
 敵とならなければ、頼もしい限りだ……

「ま、こんなもの見せられちゃ、不合格なんて言えるはずもないわな」
「これで全員揃ったんだろ? じゃ、行こうか、ザバン市へ」

 腕の部分を翼に変化させる凶狸狐たち。
 私たちは全員が無事本試験に挑めることを喜びあいながら、束の間の夜の空中遊泳を楽しむのだった。

 ハンター試験、前日のことだった。










〈後書き〉

原作を読んでいて思ったんだけど、あのクイズって悪辣過ぎません?
答えは出せないって考えても、だから「答えない」が正解であると気付いて、そう答えられる人っていないんじゃないかなー。
クラピカだって受験生の悲鳴を聞いたからその答えにたどり着いたようなものだし。
さらにそれを間違えたら、魔獣の巣にご招待。
船旅では死ぬ前に引き返す道が与えられていたんだから、不合格者への仕打ちにしても酷すぎる。
だから、あの魔獣の巣コースは追試みたいなものじゃないかなー、と考えているんですが、どうでしょう?
だってほら、不合格とは言われてないし。

さて、次回からはハンター試験本番。
いろいろ出していきます。キルアとか、ヒソカとか、トンパとか(笑)
それでは、次回更新の時に。



[3597] それぞれの理由
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/11/13 22:52
 ハンター協会は本気で頭がおかしいと思った。

「ただの定食屋だよね」
「それ以外に見えるなら、眼科に行った方がいいな」

 アゼリアの言葉にも、その通りだと頷いてしまう。
 飯所「ごはん」
 前の世界でも一部では有名な定食屋の前に、私はいた。

 実際に見てみると……凄いよね。
 まず、この定食屋から地下百階まで、わざわざエレベーターを作ったわけでしょ?
 地下道は、流石にもともとあったものだと思うけど……なんの用途に使われていたんだろう。薄暗いし、配管とかはむき出しだし……通行用とは思えない。けど、下水用だとしたら、地下道の突き当たりがヌメーレ湿原に出る階段というのも変な話だし……
 物資の運搬? あー、でも階段じゃ車とかで行くことも出来ないし……
 昔この辺の領主が戦時の抜け道として作った、なんて理由が一番納得できる気がしてきた。

 ……こんな仕掛けを、わざわざ毎回やってるのだとしたら……頑張りすぎでしょ、ハンター協会。

 と、そんな呆れきった考えをしていたら、いつの間にか案内人(ナビ)の凶狸狐たちは「ごはん」の中に入っていた。
 慌てて私も入る。

「ご注文は?」
「ステーキ定食」

 店主がぴくりと反応したのがよく判った。

「焼き方は?」
「弱火でじっくり」
「あいよー」
「お客さん、奥の部屋にどうぞー」

 有名シーンキタ―!!
 数多の並行世界(二次創作)で描かれてきた超有名シーン。
 それが見れた感動で、私は凶狸狐が去り際に残した言葉も、クラピカとレオリオがゴン相手にハンターの魅力を語り聞かせている様子も聞き逃していた。
 ちなみにステーキは美味しかった。

 チン、と音を立てて地下百階にエレベーターが止まる。

「着いたらしいな……」
「話の続きは後だ!」

 激論を一時止めて、試験会場へと乗り込もうとする私たち。
 だが、エレベーターが開いた瞬間入り込む、冷やりとする張りつめた静寂。
 港などにいたハンター試験志望者たちとはまるで違う威圧感。紛れもなく、ここまでの審査で選ばれた達人たちであることが判った。

「ほう……」

 一人だけ余裕そうだったけど。
 まあ、経験が違うのだから仕方が無い。

「それにしても、薄暗いところだな……」
「地下道みたいだね。一体何人くらいいるんだろうね」
「君たちで四百七人目だよ」

 ゴンのあげた疑問に答える声。
 出たな、新人潰し……!!

「よっ、俺はトンパ。よろしく」

 トンパは、見たところ本当にただのおっさんだった。
 けど、こんなメタボの心配をした方がよさそうなおっさんでも毎回試験上位に残るだけの実力者なのだから、この世界は本当に面白い。
 と、そんなことを考えていたら、マーメンがやってきてプレートを渡してくれた。

 うわー、本物のマーメンだ。ちっちゃー。
 生命の神秘を感じそうなその姿に感動を覚える。
 そうしているうちに、トンパによる実力者紹介は終わっていた。

 と、いうことはこの次は……!?

「ぎゃあぁああああああああああああああああッ!!!」

 ついに。

「アーラ、不思議❤ 腕が消えちゃった♠」

 ついに……!!

「気をつけようね♦ 人にぶつかったら謝らなくちゃ♣」

 ついにこの時がッ!!!!

「チッ、また危ない奴が今年も―――」
「ヒソカキタアアアァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」

 ―――キタァァァーーーーーーーーー
 ―――キタァーーーー
 ―――キタァーー

 地下道に木霊し響き渡る叫び声。
 その場にいた全受験生の注目を―――かの道化師本人すら意表を突かれたようなきょとんとした顔で見てきた―――集めてしまったことに気づき、正気に戻った。

「な、なーんて……あは、あははははは……」
「あ、ほ、か、オマエはァァァァァァッ!!」

 スパーンッ! とこれまた良い音立てて、アゼリアの張り手の音が響き渡った。
 痛っ、超痛い!! アゼリア、今かなり本気で叩いてきた!!
 グッと私の首に腕を回すと、アゼリアは耳元に口を寄せて小声で囁いてきた。

「あんな見るからに不気味で不吉なオーラを出してる奴に、わざわざ目に付けられるようなことするなんて……!! キミは本当に自殺志願でもあるのか!?」
「い、いやぁ……そんなつもりは……」
「だったら、大人しくしていろ!! 目立つな、騒ぐな、暴走するな! いいか!?」
「ら、らじゃー!!」

 コクコクと頷くと、アゼリアは疑わしそうにしながらもようやく腕を離してくれた。
 怪訝な眼を向けてくるゴンたちに、笑顔で「なんでもない」と伝える。
 ひとまず場が収まったことを確かめて、そっとヒソカのいた方を見る。

 ―――あ、眼が合った……!!

 ヒソカはチェシャ猫のような笑みを浮かべて、こちらを不気味な視線で舐め回した。
 慌てて視線を外す。心臓は今の一瞬だけでもドキドキとしていた。

 ああ、やっぱりかっこいい……!

 アゼリアにはああ言ったけど、折角のチャンスを逃すなんてあり得ない。
 なんとしても、この試験中にヒソカと親密にならなくては。
 ならば、まずは興味を持ってもらうこと……

 そんな考えを纏めている中。
 一次試験の開始を告げるベルが鳴り響いたのだった。

 ああ、件のトンパジュース?
 記念に貰っておきましたよ。





 心臓が飛び出るかと思った。
 唐突に地下道に木霊した熱狂的な叫び声の出元は私のすぐ隣にいる少女で、熱のこもった視線をちらちらと例の男に向けている。
 トンパ曰く、ヒソカ。
 去年、合格確実と謳われながら、気に入らない試験管を半殺しにして不合格となった男。

 地下道に降り立った時、なかなかにいいオーラを出す者たちがいたことに感嘆の溜息が洩れた。
 流石はハンター試験、と賞賛の念を覚えたものだ。

 だが、奴が目に入った瞬間。そんなことは考えられなくなった。
 立ち上る邪悪なオーラ。強大で、不吉で、背筋が寒くなるほどの出鱈目さ。
 一目で彼我の実力差が判ってしまった。

 そういえば、ヒソカというのはハルカがよく口にしていた名前だったか。
 幻影旅団に属する奇術師。変態ピエロにして戦闘狂(バトルマニア)
 成程。実際に目にするのは初めてだが、噂に聞く幻影旅団というのもあのオーラを見れば納得だ。

 極力関わるべきではない。死神を自分から誘いこむようなものだ。
 そう思っていたのに、ハルカがいきなり叫ぶのだから……

 とりあえず、殴っておいた。加えて説教も。
 ハルカを野放しにしておくと、私まで被害を被りそうだ……
 だが、いくら口で言っても本当に理解しているとは思えない。
 私が目を光らせているしかないか……と考えて、ひとまず腕を離した。

「なんていうか……す、すごい娘さんだな」
「私も頭が痛い」

 人の好さそうな笑顔を浮かべたトンパが、その顔を僅かに引き攣らせてやってきた。
 その気持ち、痛いほどよく判る……

「ま、とりあえずアンタもどうだい? お近づきのしるしだ。互いの健闘を祈って乾杯しよう」
「ふむ、それでは戴くかな」

 ジュースをハルカの分と私の分、二本をもらい、ハルカに渡そうとした。
 ハルカは熱っぽい顔をして、先ほどヒソカがいた方向を見つめている。

 ―――こいつ、判ってないな……

「ハルカ、私の言ったことを聞いていたか?」
「うん」
「トンパさんがジュースをくれたんだが、貰うか?」
「うん」
「……君の部屋にあるPC壊してもいいか?」
「うん」

 これはダメだ、と首を振らざるを得なかった。
 ジュースの一本を押しつけて、ゴンたちの元に戻る。
 ちょうどゴンたちはカンを開けて飲むところだった。
 だが、ゴンは一口含んだ瞬間にそれを吐きだした。

「トンパさん、このジュース古くなってるよ! 味が変!!」
「え!? あ、あれ? おかしいな~?」

 笑いを引き攣らせるトンパ。
 その顔には僅かに、「何故判った」と言いたげな様子が滲んでいる。

 ああ、つまりは毒か……

 ハンター試験。内にも外にも曲者揃い。苦労しそうだ……
 そう考えたとき、一次試験の開始を告げる音がした。





 髭がダンディな紳士が現れて、一次試験の開始を宣言。
 参加者は406名。ヒソカに腕を切り落とされた一人の受験生を除いた全員が参加した。
 一次試験の内容、それは二次試験会場まで試験官についていくこと。さしずめ持久力と精神力のテストと言ったところか。
 どの程度走るのかは判らないが……ハルカは大丈夫だろうか?
 以前に比べれば大分体力がついたが、まだ100kmくらいしか走らせたことはない。
 それ以上を走るのならば、私がフォローする必要もあるだろうか……?

「おい、ガキ、汚ねーぞ! そりゃ反則じゃねーか、オイ!!」
「なんで?」
「なんでってオマ……これは持久力の試験なんだぞ!?」
「違うよ。試験官はついてこいって言っただけだもんね」
「ゴン!! てめ、どっちの味方だ!!」
「怒鳴るな。体力を消耗するぞ。何よりまず五月蠅い。テストは原則として持ち込み自由なのだよ」
「そうそう、クラピカの言う通り」
「てめ、ハルカ!! お前までそんなものを……!!」

 どうやらその心配はなさそうだった。
 レオリオがスケートボードに乗った銀髪の少年に対して噛みついている横で、ハルカは何時の間に履いたのかローラーブレードで走っていた。
 同い年くらいのゴンに興味を持ったのか、キルアと名乗った少年はゴンと一緒に走ることにしたようだった。
 レオリオの年齢を聞き、騒ぎだす二人。ついでにハルカが十六歳だと知って、これまた驚くキルア少年。
 とりあえず、レオリオが十代というのは私も嘘だと思った。





 試験開始から既に八十キロほどは走っただろうか。
 受験生たちの集団の半ば程度を走っていた私に追いついたレオリオは、上半身はネクタイだけという露出狂一歩手前の姿で走り続けている。
 息は荒く、顔は限界の一歩手前であることを訴える。だが彼は根性で試験に耐えていた。
 ハンターになりたいと思う者たちの動機は様々だ。
 私のように復讐のための手段として求める者。ゴンのような好奇心。あるいは何かを追い求めたいと考える者。
 レオリオは船の上で志望動機は金だと語っていた。だが本当にそれだけの理由だろうか。

 彼の言動を見る限り、確かに彼は軽薄だ。頭も悪いし、感情的な面もある。
 だが決して底が浅い人物とは思えない。金儲けが生き甲斐の人間は何人も見てきたが、そいつらにはない芯をレオリオには感じる。
 ハンターになることを求める彼の思いは本物だ。だからこそ、その動機が何なのか気になる。
 気がついたら私はその疑問を口にしていた。

 だがそれに対するレオリオの答えはやはり金だった。

「ウソをつくな! 本当にこの世の全てが金で買えるとでも思っているのか!?」
「買えるさ! 物はもちろん、夢も心もな! 人の命だって金次第だ!! 買えないモンなんか何もねぇ!!」

 吐き捨てるように断言するレオリオ。
 その言葉は到底許容できるものではなかった。
 人の命が金次第、だと……!?
 どんな大金を積もうとも、私の同胞は一人として帰ってこないというのに……!!

「許さんぞレオリオ!! 撤回しろ!!」
「何故だ!? 事実だぜ!! 金がありゃ俺の友達は死ななかった!!」

 ハッとした。
 言うつもりはなかったと、速度を上げたレオリオの後ろ姿が言っている。

「……病気か?」
「……決して治らない病気じゃなかった!! 問題は、法外な手術代さ!!」

 その叫びは心の底の泥を吐きだすようで、強く心に響く。

「俺は単純だからな! 医者になろうと思ったぜ!! 友達(ダチ)と同じ病気の子供を治して、『金なんかいらねぇ』ってその子の親に言ってやるのが俺の夢だった!!」

その言葉には、彼が世界は金が全てではないと証明したがっている、そんな思いが籠められていて。

「笑い話だぜ……!! そんな医者になるためには、さらに見たこともねぇ大金がいるそうだ!! 判ったか!? 金、金、金だ!! 俺は金が欲しいんだよ!!」

 照れ隠しか、振り向くことなく走る彼の背中を見て、私はつい口元が緩むのを抑えられなかった。
 ああ、やはり彼は気持ちのいい人物のようだ。久々に清々しい気分にさせてもらった。

「どうしたんだ、クラピカ。やけに嬉しそうだな」
「ん……ああ、お帰り、アゼリア」

 ローラーブレードで走っていたはいいが、階段に差し掛かり逆にそれが邪魔になったハルカのところへ行っていたアゼリアが戻ってきた。
 その手にはハルカの持っていたヴァイオリンケースもある。おそらくあの中にローラーブレードも入っているのだろう。
 しかし、私はそんなに嬉しそうだったか。

 そういえば、アゼリアの志望動機は結局聞けていなかったな……
 こうしているとまるで自分が詮索好きの人間みたいだが、ことのついでに聞いてしまおうか。

「そういえば、アゼリアは何故ハンターになりたいんだ?」
「……私か?」

 唐突な問いかけに少し驚き、考えこんだ。
 もしかして聞いてはいけない質問だったのだろうか……?

「もちろん、無理に聞こうだなんて思っていない。もしも話しづらいことならば、話さなくとも……」

 人には話したくないことの一つや二つ、誰にでもある。
 そんなことを無理に聞き出そうだなんて無礼な真似をするつもりはない。
 だがアゼリアは少し考え込んだ後、意を決したように語りだした。
 それは彼女の物語だった。





 本心を語った気恥かしさで振り向くことなく走っていると、背後からアゼリアの語る声が聞こえてきた。
 視線を向けることなく聞き耳を立てる。
 訥々と語る彼女の声は、何百人もの人間の荒い息と足音が響く地下道の中でもよく聞こえた。

「私は、別にハンターになりたいわけではないんだ。はっきり言ってハンター試験など受けなくても構わない。私が受験した理由といえば……まぁ、ハルカの付き添いだな」

 その言葉は俺には意外なものだった。
 ハンター試験は命すら落としかねない危険なもの。試験官もあらかじめそのように念を押していた筈だ。
 それをただの付き添いとして受けにくる?
 よほど自分の実力に自信がなければ出来ないことだろ。それとも二人はそんな深い仲なのか?

「君にとって、ハルカは何だ?」
「……初めて会った時は、不審者だった。帰ってきたら私の部屋に彼女がいて、訳のわからないことを言い続けていた。ある意味では監視のために手元に置いていたんだ。だが、いつの間にか捨てられない存在になった。情が移ったというのかな……?」

 ふぅ、とアゼリアは一息ついた。
 語るべき言葉を選んでいるようで、クラピカも言葉を差し挟むことが出来ない様だった。
 憂いの込められた声が響く。

「ハルカはね、私の妹にそっくりなんだ。瓜二つと言っていい。だから私は彼女から離れられなくなってしまった」
「妹さんは……」
「いや、まだ生きている。あくまで、まだ、というだけだが……」

 振り向かなくとも、その時の彼女の表情が判る気がした。
 それほどまでに、アゼリアの声は疲れていた。

「十年前から植物状態だ。おまけに、三年前から大病を患っている。治療にかかる金は……莫大だ。私はずっとその金を稼ぐために働いてきた。求めるものが何かと言われれば……金だな」

 俺は、何も言うことが出来ない。
 口にする言葉が、俺に無力感を突きつけると判ってしまうから。

 だって―――
 それはまさに……
 俺の救いたい人たちそのものじゃないか……

「私はあの子を助けたい。そのためには全てを投げ出してもいい。それが私の生きる理由だ」

 決意の込められた、しかし酷く疲れたその声を聞いて。
 俺が悪いわけではないのに……聞くだけ辛くなると判っているのに……今はまだ何も出来ない自分が苛立たしくて。
 何かを言わなければいけない気がして、俺は気がついたら問うていた。

「なぁ、その……妹さんの病気は、治せるのか?」

 俺が聞き耳を立てていることくらい気付いていたのだろう。
 アゼリアは特に驚く様子もなく答えた。

「金さえあれば、な。症例は少ないが……治療法はある。知っているかは判らないが、病名は―――」

 一拍を置いて。
 彼女は長年苦しんできたその病の名を口にした。

 頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 ある意味、俺はその答えを予測していたのかもしれない。まさか、と……そう思っていた。

 動揺はあまりに大きくて。
それが顔に出ていたのだろう。
 余計な心配をかけたとでも思ったのか、アゼリアは困った顔をして、速度を上げた。

「……らしくもない。余計なことを話しすぎたな。すまないが、少し先に行かせてもらう」

 階段を数段飛ばしで駆けあがっていくアゼリア。
 その背中を黙って見送る。
 かける言葉が、見つからない。

「……」

 クラピカもまた無言。
 頭のいいあいつのことだから、俺の願いを聞いた後では、余計なものを溜めこんじまっているのだろう。
 だが、今はそれがありがたい。

 先ほど彼女が口にした病名を繰り返す。

 それは……
 それは…………



 ―――俺の友人(ダチ)と同じ病気だ……










〈後書き〉

レオリオ中心の話が原作で書かれないかなー、と思っているけど、多分ない気がします。。
彼は他の主人公たちの話を横でそっと支えてくれる兄貴分でいるのが一番なんでしょう。

さて、一応ハンター試験編に入りました。
ヨークシン編がメインな予定なので、ここはまだ通過点。
そろそろヒソカを動かすか……

そしてレオリオフラグが少し立ちました。



[3597] ファーストコンタクト
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/11/17 00:28
 地下道を抜けると、そこは一面の湿原だった。

「ヌメーレ湿原。通称『詐欺師の塒』」

 濃い湿気と、それ以上に濃い獣臭さ。
 周囲には獣特有の不気味な気配が満ちている。

「十分注意してついて来て下さい。騙されると死にますよ」

 受験生たちの顔は一様に重かった。
 一次試験、後半戦が始まる。





 人面猿が起こした一騒動で、受験生たちはますますその警戒の色を強めたようだった。顔を強張らせ、何時どこから襲われても大丈夫なように気を張っている。
 私もまた、然り。

「やはりあの男……危なすぎる」

 奇術師ヒソカ。
 奴は人面猿が起こした騒動の際、なんの躊躇いもなく攻撃をした。
 あろうことか試験官に。攻撃自体は手抜きそのものだが、殺意は本物で。
 打算でも何でもなく、そこにあるのはただの興味だったのだろう。
 私の今までの経験上、ああいうタイプは快楽主義者だ。それでいて実力は紛れもない本物だというのだからたちが悪い。
 出来れば、いや、絶対に相手にしたくない。

 だというのに、最悪なのは……

「くっくっくっ……❤」

 背中に感じる舐めるような視線。
 しくじったと言わざるを得ない。
 私はヒソカにしっかりとマークされてしまったようだった。

 何のことはない。ついうっかり、というミス。
 人面猿が騒動を起こした際のヒソカの攻撃。
 そこに込められた背筋を総毛立たせるような殺気に、長年の経験から私の体は意図せず反応してしまった。
 吹きあがるオーラと、冷めていく思考。
 それが大失敗であったことを悟るのは、ヒソカが頬まで裂けそうな笑みを浮かべてこちらを見つめていることに気付いたときだった。
 折角目立たないように「纏」すらも解いていたというのに……全部無駄だ。
 いつ背後から攻撃が飛んでくるかと思うと気が気でない。

「ふふふふ……視線よ。視線を感じるわ」
「……」

 能天気というのもある種の才能だと思った。
 今自分たちが危険にあることを察してくれ……



 霧が濃さを増していく中、私とハルカ、クラピカとレオリオは受験生集団のやや後ろを走っていた。
 ぬかるみが動きを封じ、走りづらい。
 序盤にローラーブレードで体力を温存したハルカも、階段と湿原で相当に疲れているらしく、口数が減っていた。
 出来ることならペースを上げてヒソカから離れたいのだが……この分だと難しいか。

「レオリオー!! クラピカー!! ハルカー!! アゼリアー!! キルアが前に来た方がいいってさー!!」
「どアホー!! 行けるならとっくに行っとるわい!!」

 ……緊張感のない奴らだ。
 行けるなら行きたいが、レオリオとハルカは体力的に厳しそうだ。
 大声であんなやりとりが出来るあたり、レオリオはまだ余裕がありそうだが。

 霧が一段と濃くなっていた。
 そんな中、ハルカは何故か後ろをやたらと気にしていた。

「……どうかしたのか、ハルカ? 疲れたか?」
「ん、まぁ、そんなとこ……」

 随分と歯切れの悪い答え方だった。
 訝しく思って、私も意識を後ろへ傾ける。

 殺意の詰まった風船が破裂寸前に膨れているような、そんな嫌な感じがした。

「……ヒソカから離れたいな。ハルカ、ペースを上げられるか?」
「え!? む、無理無理!! 冗談じゃないわ!!」
「な、何故そんな力強く否定を……?」
「と、とにかく! これ以上で走るなんて無理だからね!」
「わ、わかった」

 ……怪しい。
 ヒソカが絡むと、ハルカは―――普段からだが、それ以上に―――挙動不審になる。地下道に入ったときもそうだった。

「……ハルカ、君は何か私に隠していないか?」
「ぅえ!? そ、そんなことはないって!!」
「本当だな?」
「当然!」

 まぁ、そこまで言うならば信じるしかないか……
 あからさまに怪しいが……無理に聞き出すことも出来まい。
 私はハルカとの問答をそこで終わりにして、ヒソカが爆発しないか注意を払った。



 ハルカはアゼリアがそれ以上の詰問をしなかったことに安堵していた。
 嘘に嘘を重ねていくと、そのうち自分でも判らなくなり自滅することがありうるからだ。
 勘付かれるような振る舞いは―――まぁ、あったかもしれない。気をつけないと。

 ―――これからの未来を知っているなんて、流石にアレだしね。

 ハルカは心の中でそう呟く。
 彼女は基本的に原作の流れに沿おうと考えている。ゆえに、そこにイレギュラーが介入して流れが変わるのを望まない。自分やアゼリアがいる時点でズレが発生しているかとも思うが……それは進んでみなければわからない。むざむざリスクを高める必要はないだろう。何故ならそれは自分の最大のアドバンテージが失われることを意味するからだ。
 もしもそうなったとき、原作の世界観から考えれば、半端な力しかない自分ではあっさりと死んでしまいかねない。そう考える程度には彼女は自分の力量を自覚していた。
 だからこそ、その情報は自分の胸のうちに秘めておく。
 勿論、自分の望む未来になるように、かつ大筋に影響が無いように多少の介入はしていくつもりだが……

 ヒソカとゴンの湿原での争いは、ゴンがヒソカに目をつけられる最初のイベント。
 勿論、あのイベントがなくてもいずれはゴンの才能にヒソカは眼を付ける筈だが、おそらくは重要イベントであろうそれを逃す理由はない。ヒソカ見たいし。どうせなら興味をもって欲しいし。
 受験生たちの中でも念使いは少ないのだから、殺されるということはないだろうと考えている。
 だからそれをアゼリアに教えたりしない。彼女のことだ。ヒソカが暴れだすなんて知ったら、速攻で私たちの手を掴んで逃げ出すに決まっている。それでは意味が無い。
 イベントが起こるのはもうすぐだろうか。ドキドキしながらその時を待つ。

 そして、悲鳴が聞こえた。





 いつの間にか別の場所に誘導されていた後方集団が湿原の生物たちに襲われて、阿鼻叫喚のパニックに陥った。
 周囲から聞こえる無数の悲鳴。どうやらレオリオ、クラピカ、ハルカは無事のようだ。

「ぎゃっ!!」
「ぐっ!!」

 そこに混ざる苦痛の悲鳴。
 飛来する何かを察知した私は、「円」を広げ、私とハルカを襲う全てをキャッチした。
 それはトランプ。不吉なことにその数十三枚。
 来たか―――!!

「ってぇーーー!!」

 その中に混じる、レオリオの苦痛の声。
 攻撃を受けそこなったのか、レオリオの左腕にはトランプが一枚突き刺さっていた。

「てめェ!! 何をしやがる!!」

 怒声。
 答えるのは、本当に愉しそうな声で。

「くっくっくっ♦ 試験官ごっこ❤」

 視線の先。
 霧の向こうから、道化師の装いをした死神が現れた。



 受験生たちの波状攻撃は、しかし奇術師相手には刹那の時間しかもたなかった。
 天才的な身のこなしで、僅か一枚のトランプを用い次々に死体の山を築いていく。
 空しく空を斬る受験生たちの攻撃。それを最小限の動きでこなし、一閃。鮮血が大気を濡らす。
 返す刀でさらに一閃。倒れ伏す誰か。
 腕を振る数だけ、死体が積み重なる。

「くっくっくっ……あっはっはァーーーーァ❤」

 哄笑しながら佇むその姿は、童子のようでも悪鬼のようでもあった。
 なんて、圧倒的な暴力……!

「ちっ……三人とも! 奴が他の連中に構っているうちに逃げるぞ!!」
「お、おい!! あいつら見捨てるのかよ!?」
「優先順位の問題だ!」

 あんな奴の相手をしていたら、命がいくつあっても足りない。
 見知らぬ誰かの命と、自分たちの命。
 そんなもの、秤にかける必要すらないだろう。

「急げ! 大体の方角は判っている!」

 ヒソカに向かって行った受験生たちの既に半分ほどは首を掻き斬られ絶命している。
 撤退することを躊躇っていたクラピカたちもそれ以外の選択肢はないと理解したのか、振り向くことなく駆けだした。

「♣」

 背後から感じる気配が一つ、また一つと消えていく。
 残る猶予は何秒だ? その間にどのくらい距離を稼げる?
 逃走が成功する確率を計算し、戦闘に至った場合に取るべき手段を数十通り瞬時に考え―――

「つれないなァ❤」

 ―――凄まじい速度で追いついた死神に、その考えは霧散させられた。





 立ち向かってきた男たちの最後の一人を斬り捨て、ほんの少ししか退屈が紛れなかったことにがっかりした。
 受験生なんていってもこんなもの。自分の前では障子紙よりも容易く切り捨てられる。悲しくなるほどに手ごたえがない。
 まだまだ遊び足りない。もっともっと楽しみたい。
 逃げだした集団に目を向ける。
 一人で逃げ出した男は、さっきトランプを投げて殺しておいた。闘っても面白そうな相手ではなかった。

 だが、もう一方の四人組。
 あの四人は、なかなか面白そうだ。
 使える(・・・)人間も二人ほどいるようだし……

 ―――遊ぶか♦

 鍛え上げられた大腿部は驚異的な瞬発力を生み、即座にトップスピードまで加速する。
 大地が爆ぜるほどの踏み込みは己の体を四人のところまで容易く運び、正面に回り込ませた。

「つれないなァ❤」

 嗚呼……見れば見るほど美味しそうだ。
 どれもこれも、まだまだ熟しきっていない、青い果実。
 思わず食べてしまいたくなる。だが、イケナイ。まだまだ高く積みあがる。しっかりと熟れるまでガマンガマン。今は味見だけ……

「逃げたのはいい判断だね♦ そこは褒めてあげよう♣ けど、寂しいじゃないか❤ 折角の舞台だ♠ デートくらいしてくれてもいいだろう?」
「え、デート? なら私―――むがっ」

 名乗りをあげようとした小柄な少女の口を、スーツ姿の少女が慌てて抑える。
 ああ、そういえば試験の始まる時に大声でボクの名前を叫んだ子だったな。どこかで会っただろうか……?
 ……覚えてないや♠ まあ、そんなことは大した問題じゃない♦ 大切なのは、彼女が遊び相手として面白いかということ♣
 見たところ肉体の研磨も念能力も並程度、といったところ。もう少し熟さないと美味しくなさそうだ♣
 今殺すには勿体ない、というほどでもないが……年齢の分将来に期待してみよう。
 今は他に楽しそうな子が何人かいるみたいだし❤

「へっ……ちょうどいいぜ……」

 一人一人、じっくりと物色していたら、上半身裸の男が左腕の傷をネクタイで縛り、こちらを睨みつけた。
 足元に落ちていた棒きれを拾い、構える。

「ムカついてるとこだったんだ……やられっぱなしで我慢できるほど、オレは気ィ長くねェ……!!」

 大上段に振りかぶり、突進。その攻撃はボクから見れば遅い。
 狙いも、軌道も、あまりに見え透いている。
 ああ、それでも美味しそうだ……!!
 その青さが! 将来熟した時の甘味を考えるだけで!!

「レオリオ!?」
「馬鹿ッ!! 止めろ!!」

 交差する瞬間に見えた顔は、とても真直ぐで。
 見ているだけで勃起してしまいそうだった。

「ん~、いい顔だ♦」

 いいね。実にいい。

 ―――合格❤

 レオリオの攻撃はあっさりと空を切り。
 背後から叩きつけた掌打で吹きとんだ。

「がッ!!」

 地面に叩きつけられ、ゴムボールのように弾み、また叩きつけられる。
 かなり手加減をしたから殺してないはずだ。彼は合格だから♣

「貴様ッ!」

 少年とスーツ姿の少女が敵意を露わにする。
 先ほど追いついたせいで、逃亡という選択肢は無駄だと悟ったのだろう。

「くっくっくっ……安心しなよ♦ 彼は殺しちゃいない♣」

 惜しみなくぶつけられる敵意は、それだけでいきり勃ってしまいそうなくらいステキだが、これ以上興奮すると我慢できなくなっちゃいそうだ。
 今ここで殺すのは勿体ない。だから自重の意味も込めて、相手の敵意を和らがせてしまうような勿体ないことを言う。

 もうそろそろ遊んでいられる時間も少ないだろう。
 遊べるとして、あと一人くらいか。

 三人をじっとりと物色する。
 今遊ぶとしたら、この中で一番楽しそうなのは―――

「どうだい? 少しボクと踊らないかい?」
「……私か?」

 スーツ姿の少女に決めた。
 才能や将来性ならば少年の方が上だが、現在の実力なら彼女の方が遥に上のようだ。
 少しの間遊ぶだけなら、こちらの方が楽しいだろう。

「キミが遊んでくれるなら、他の二人は見逃してあげよう❤」
「なっ!?」
「アゼリア、ずるい!」

 驚愕し、同時に心が揺れている少年。
 そして何故か羨ましがる少女。
 まぁ、少女の方はこの中ではあまり美味しそうでないので、放っておくことにする。

 しばしの逡巡の後、彼女は強い意志を込めて問うた。

「……嘘じゃないな?」
「モチロン❤」
「―――クラピカ。ハルカを頼んだ」
「本気か!?」
「一番生き残る確立が高い」

 その考えは正しいだろう。
 彼女は念能力者であるということを除いても、肉体的な研鑽、実戦経験、全てがクラピカと呼ばれた少年よりも上だ。
 足手まといとなる二人がいなければ、ボクから逃げ切ることも出来るかもしれない。
 もっとも、もったいないから今は殺すつもりなんて無いのだけど。

「―――すまない!」

 クラピカはハルカの手を引いて走り去って行った。
 その気配が十分遠くなるまで見送る。ボクは動こうとはしない。アゼリアと呼ばれた目の前の少女もまた、こちらに最大限の警戒を払いながら動こうとはしない。
 霧がさらにその濃度を増し、僅かに風も出てきた。
 演出としては粋なものだ。

「そろそろいいかな♦」
「……待っていたのか? 律儀だな」
「道化師は誠実なのさ♠」

 ふんっ、と鼻で笑い飛ばすアゼリア。
 まるで信じていないようだ。
 まぁそんなことはどうでもいい。
 折角のデートだ。楽しむとしよう。

「それじゃあ、パーティーの開始といこうか❤」

 さぁ、楽しませてくれ……!!

 臨戦態勢に入り膨れ上がるアゼリアのオーラ。
 予想よりもさらに力強く安定した「堅」。期待を超える手応えに口元が緩むのが抑えられない。
 彼女は四足獣のように体を低く低く沈め、地面を吹き飛ばして大きく背後に跳んだ。
 彼我の距離は二十メートル。両者にとって、本気を出せば一瞬で縮められる間合い。

 ヒソカはその豊富な経験と発想力、そして念能力により、如何なる距離にも対応するだけの実力があるが、その本領は接近戦だ。
 故にすぐさまその間合いを縮めようとその身を引き絞り、矢のように飛び出そうとし―――

「!?」

 その直前、獣染みた直感で突進を止め、「周」をしたトランプを弾丸のような速度で投げ放った。

「ッ!」

 どこに仕込んでいたのか、一瞬で抜き放ったナイフを構えトランプを迎撃するアゼリア。その顔に焦りが浮かぶ。
 ヒソカの攻撃が苛烈だったから、ではない。ヒソカが間合いを詰めてこなかったことが計算外であり、初撃必殺を期すアゼリアにとって最大の勝機(チャンス)を逃したからだ。
 ヒソカの投げ放ったトランプの数枚は、空中で何かに絡め取られたように留まっていた。

「糸、か♠ 面白い武器だね♦」

 何時の間に仕掛けたのか、ヒソカとアゼリアの間には、極細の鋼糸が幾重にも張り巡らされていた。
 あのまま進んでいれば、浅からぬダメージを負っていただろう。真正面から不意をつくという離れ業をやってのけた彼女にヒソカは感嘆する。
 糸を掛ける場所もなければ、仕掛ける素振りもなかった。ヒソカはそのことから、これがアゼリアの念能力の一つと推測した。
 具現化系、または操作系の能力者。いや、同じく糸を使う彼女のように、変化系という可能性も十二分に考えられる。
 もしもこれが推測通りアゼリアの念能力だとしたら、迂闊に触れるわけにはいかない。如何なる能力か判らないからだ。仮に彼女が操作系の能力者だとして、あの糸に触れた瞬間に体のコントロールを奪われるという可能性だってあり得るのだから。
 ヒソカはこれまでに得た情報からそう考え、瞬時に十数通りもの対応策を打ちたてていた。
 その中から選び取った結論は―――当たらなければどうということはない。
 糸に注意を払いつつ、自分の土俵である近接戦に持ち込む算段を立てる。
 その過程の危険すら、彼にとっては愉悦に過ぎないが故に。



 一方、アゼリアは初撃を外したことに歯がゆさを感じていたが、それでもまだ自分の目論見通りに戦闘が推移していることを知り、幾分か気を取り直していた。
 間合いを詰めようと高速でジグザグに移動するヒソカに対し、鋼糸を用いて攻撃を行いつつ間合いを保つ。時にトランプで糸を弾き、時にその身のこなしで回避するヒソカにアゼリアの攻撃は当たらないが、それでも現在の状況は不利というには至っていない。

 アゼリアにとっては、自分が間合いを取った瞬間にヒソカが突っ込んできて、その身を糸に引き裂かれるという状況が最良だったのだが、そこまで甘い相手ではなかった。
 糸はアゼリアが『大気の精霊(スカイハイ)』の補助として使用している武器の一つである。
 風そのものに刃としての威力を持たせるには、それなりに念を練り込まなければならない。だがもとより刃としての威力を持つ鋼糸ならば、オーラの消費量が少なくて済む。糸の操作にのみ風を使えばいい。このオーラの消費効率が利点の一つ目。
 さらに、糸を使用することで相手の迷いを誘える。
 自在に動き襲いかかる鋼糸を見れば、大抵の念能力者はそれを具現化、または操作した糸と考えるだろう。ある程度経験のある者ならば、それに触れることの危険性まで考えるかもしれない。
 相手の思考の選択肢を増やすことで、相手の動きを制限できるのだ。
 そしてその目論見は今のところ成功していた。

「ふッ!」
「♣」

 この攻防にも慣れてきたのか、容易くかわすヒソカ。
 じきに糸は攻略されてしまうだろう。予想よりもはるかに早いペースであり、またヒソカの戦闘センスが見立て以上だったことは計算外。
 とはいえ、それはさしたる問題ではない。

 もとよりアゼリアにヒソカを倒しきるつもりなどない。
 というよりも、正面切っての戦いを強いられた時点でそれは困難に過ぎると諦めている。
 ただでさえ目視が困難な上に複雑な軌跡を描き襲いかかる数多の糸を、ヒソカは避け続けているのだ。このことからも彼我の戦闘力が隔絶していることは判り切っていた。
 いずれは隙をついて撤退するつもりの勝負。ここで時間稼ぎをしているのは、自分が逃げ出すことでヒソカの気分が変わり、ハルカたちがその攻撃の対象となることを避けるためだ。少なくとも十分な距離を取れるまでの時間を稼ぐつもりだった。
 相手の攻撃範囲に入らないこと。それこそがこの戦闘における必須条件。
 そのためにアゼリアはさらに糸を振るう。

 だが―――

「この繰り返しにも飽きたね♣」

 ヒソカは紙一重で糸をかわし切り、トランプを豪雨のように一斉に投げつけた。
 その全てが軌道を異にしながら、十分な威力をもって逃げ場を塞ぐように襲いかかる。
 避けきれない。
 アゼリアはすぐさま回避を諦め、致命傷となる攻撃をナイフで迎撃する。
 迎撃しきれなかったトランプが、服や肌を浅く切り裂いていった。
 しかし深手はない。再び距離を―――ぉぉぉぉお!?

「なっ!?」

 さらに後ろへ飛ぼうとしたところを、突如ナニカに引っ張られ体制を崩す。

「ぐっ……!!」

 保っていた間合いが埋められていく。
 意志に反して死神の元へと翔ばされたアゼリアを、カウンター気味に迎撃するヒソカの拳。
 体制を崩された動揺からアゼリアは一瞬防御が遅れ、十分な攻防力移動が出来ないままにヒソカの拳を受けていた。
 幸い、『大気の精霊(スカイハイ)』に使用していたオーラ量が極僅かであり、「堅」に使うオーラが充実していたこと。そして攻撃の寸前に腕を滑りこませられたことで、決定打となるには至らなかった。
 だが、重い。
 ピンボールの玉のように弾かれ、地面に叩きつける。
 衝撃に咽る中、「凝」をしたアゼリアは自らの体に付けられたオーラに気付いた。

「何時の間に……?」
「それ、『伸縮自在の愛(バンジーガム)』っていうんだ♦ もう逃がさないよ❤」

 念の、ゴム!? いや、ガムか!?
 先ほどのトランプの投擲で受けた傷には、ヒソカの左腕から伸びたオーラがくっついていた。

「ちぃっ!!」

 「周」をしたナイフでオーラを切り裂こうと攻撃する。
 しかしそのとても千切れそうな様子がない。ナイフで切りつけようとも、まさしくガムのように形を変え威力を殺される。
 これはヤバい、ということは一目瞭然だった。

「無駄だよ♠ そんなことをやっても逃げられない♣ さぁ、情熱的に踊ろうじゃないか❤」

 先ほど引っ張られたことを思い出す。たとえ逃げ出そうとしてもこのオーラがある限りは逃げきれない。
 撤退するためにはこのオーラを何とかして外す必要があるが、それは難しい。
 最悪だ。そう心の中で吐き捨てて、アゼリアは覚悟を決めざるを得なかった。





 クラピカに腕を引かれて湿原を駆けながら、ハルカは頭を抱えていた。
 早くも原作の流れとは差異が出ている。いずれは違いが現れるだろうとは考えていたが、いくらなんでも早すぎた。
 アゼリアとヒソカだ。念能力者同士の戦いだ。いくらゴンでも割って入ることは出来ない。
 いや、割って入らないならばまだいい。もしもその戦いに突っ込んでいき、念の攻撃を喰らったら……最悪、死ぬ。そうでなくても、天空闘技場の新人狩りどもみたいな怪我を負う可能性は否定できない。
 逆にこの場で念能力を習得するという可能性もあるか……? だが、そうなるといよいよ原作との乖離が進むことに……

「あー……っ! どうしよう!!」
「気持ちは判るが、今は逃げるぞハルカ!」

 クラピカもまた苦悩していた。
 ヒソカの先ほどの戦闘力を見た後では、勝負などとてもやってはいられなかった。
 自分にはやらなければならないことがある。幻影旅団への復讐と、仲間の眼の奪還。それを成すためにはここで死ぬわけにはいかない。なんとしても。
 だが……残されたレオリオは? アゼリアは?
 ヒソカは、レオリオは殺していないと言っていた。その気になれば一撃で殺せるだけの実力差があったのに殺さなかったのだ。わざわざ止めを刺したりはしないだろう。
 けれど、アゼリアは?
 一人であのヒソカの相手をしなければならないのだ。彼女もかなりの達人だと見ているが、それでも奴には勝てまい。
 最悪、彼女を犠牲にすることになる。

 覚悟を決めたつもりだった。
 自分の命すら投げ出す覚悟で復讐を志した。
 しかし……新たな仲間を犠牲にすることは、果たして……?

 二人とも、内容は異なれど悩みながら進む。
 その心情を映し出すかのように霧は深くなっていき―――そしてハルカは足を止めた。

「ハルカ?」
「……やっぱりダメ! 戻ろう!!」

 アゼリアの強さを見てきたハルカは、アゼリアがそう簡単にやられはしないと判っている。
 ヒソカは今殺すには惜しい相手を殺すことはない。そう知っているハルカは、アゼリアを心配する気持ちも無論あるが、それ以上に別の想いからこの言葉を言った。
 もしも原作との乖離があるならば、それがどの程度のものなのか知っておく必要がある。そして自分が干渉することで軌道修正をある程度測れるようならば、そう動くべきだ。
 それにせっかくのヒソカのバトルシーンなのだ。これを見なかったら勿体ない。

 ハルカがそんなことを考えているとは全く知らないクラピカは、しかしその言葉に迷いが断ちきれたような気がしていた。
 そうだ。ここで逃げたら、自分はきっとまたどこかで逃げてしまう。
 逃げて、無様に生き残るのではない。闘って、死中に生を掴んでやる。
 自分が相手どるのは、かの幻影旅団なのだ。それを考えたら、こんなところで仲間を見捨てて逃げ出してるようでは、一生懸かっても復讐なんて無理だ!

「わかった! 急ぐぞ!!」

 どこかすれ違いを抱えながら、しかしその目的は同じく、二人は駆けだした。





「ふッ!!」

 鋭い呼気と共に、アゼリアは駆けだした。
 四足獣の如く低く沈み込み、全身のバネを使って飛びかかる。
 突風のようなその攻撃をヒソカは紙一重で回避し、その笑みをさらに深くした。

「接近戦もイケルじゃないか❤」
「……それはどうも」

 銀閃が煌く。
 霧で白色に染まる視界を、一息で十七の剣閃が切り裂いた。
 狙うは全て急所。地力で劣るアゼリアは手数と速度で勝負する。

 もとよりアゼリアは接近戦が得意ではない。
 無論、訓練の成果で並以上の使い手である自信はある。だがもとより直接戦闘を避け、奇襲と暗殺を本懐とする彼女にとっては、接近戦を強いられることがそもそも戦略的に敗北といえた。
 それに加えて、相手は超一流の達人。さらにアゼリアは念能力に捕えられており、戦術面でも優位に立たれている。
 一瞬の気の緩みが即座に敗北に、ひいては死に繋がると理解させられ、相手の攻撃を許すことなく連撃を叩きこむことに決めた。

 並の使い手ならば既に三度は死んでいる攻撃。
 だが常識など何処かに置き忘れてきた道化師は、浅い切創を負いながらも致命傷を許さない。
 そしてアゼリアの連撃の打ち終わりを見計らい、能力を発動させた。

―――伸縮自在の愛(バンジーガム)

 アゼリアの体が宙を舞う。
 その場に踏みとどまることも出来ない、凄まじい力。
 ヒソカのオーラによりアゼリアは容易く体勢を崩され―――

「ぐぅッ……!!」

 サッカーボールのように蹴り飛ばされた。
 ガードを行った両腕の骨がミシミシと嫌な音をたてる。
 握力が失われ、ナイフは衝撃で吹き飛ばされた。
 そしてヒソカの攻撃はそれだけでは終わらない。未だ空中を舞うアゼリアは、流れていく景色が止まり、再び逆巻きに流れていくのを感じた。
 その先では死神の鎌が振りかぶられている。

 ―――このままではジリ貧だ……!!

 勢いよく引かれ、ヒソカの右ストレートがその身を捉えた直後、アゼリアは『大気の精霊(スカイハイ)』を発動させた。
 能力を発動する分「堅」が薄くなるが、この際仕方がない。
 大気に満ちるオーラ。それに伴い広がる知覚。意志に答えるように対流する風。

 三度宙を引かれるアゼリアを再び撃ちすえようとしたヒソカは、眼を見張った。
 拳が当たる寸前、アゼリアは宙を蹴り、ヒソカの背後へと跳んでいた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。
 パンチを放った姿勢のまま、その背を無防備にさらけ出しているヒソカ。
 その延髄に向けて、アゼリアは宙を舞い反転した視界のまま、足刀を叩きこんだ。

「~~~~~っ♣」

 完全に無防備なところへの、かなりのオーラを練り込んだ一撃だ。
 流石のヒソカも耐えきれず、十数メートルを転がりようやく止まった。

「く……はぁ、はぁ、はぁ……」

 しかし消費が大きいのはむしろアゼリアの方だった。
 今の攻撃に使用したオーラ。ヒソカの攻撃を受け続けての消耗。それが疲労となって彼女を襲う。
 重さを増した体を立て直し、深く息を吸って呼吸を整えた。
 出来ることなら、そのまま起き上がってくれるな……!

「くっくっくっ❤」

 だが、その思いも空しく。
 ヒソカはゆらりと、幽鬼のように立ちあがった。

「素晴らしいよ、想像以上だ♦ 「流」も「堅」も、十分実戦レベル♣ 本領ではないようだけど、その体術も大したものだね❤」

 実に嬉しそうなヒソカとは反対に、アゼリアは苦々しい思いでいっぱいだった。
 今の一撃で、せめてしばらくの間動きを止めたかった。
 だがヒソカは足取りも確かに歩み寄る。
 化け物め……

「本当は、ちょっと摘み食いのつもりだったんだけど―――こんな美味しそうな果実があるなんてね♠」

 ヒソカは陶酔したような顔になる。
 うっとりと、夢見るような声で、ぞわりと背筋を寒くする声で、言う。

「ああ……今すぐ君を―――」

 それは悪魔の笑顔で。

 ―――食べちゃいたい

 あまりに不吉だった。

「……っ!!!!! あ、あああああああああああッ!!」

 叫ぶ。
 邪悪な殺意にへたり込みそうになる体を、心を叱咤するかのように。それはまるで、獣が捕食者を精一杯威嚇するかのように。
 能力がバレるとか、そんなことは既に思慮の外。
 『大気の精霊(スカイハイ)』で操作した風を幾重もの刃とし、ヒソカ目がけて放つ。

 一方、ヒソカは走る。
 邪悪で、醜悪で、それでいて強大で、眼を離せない。
 そんな頽廃的なオーラを纏い、ヒソカは疾走する。
 風の刃はヒソカの「堅」を僅かに貫き、微かな切り傷を増やす。だが高速で疾走し、分厚いオーラの鎧に守られたヒソカ相手では有効な一撃足りえない。

 瞬く間に、二人の間にあった距離が消える。
 右手に構えられたトランプ。
 首筋を切り裂かんと振りかぶられたソレの絵柄がジョーカーであることを、やけに時間の流れが遅くなった世界で知覚し―――

「アゼリアッ!!」

 ―――飛来した釣り竿の錘が、ヒソカの顔を殴打した。

 その瞬間、アゼリアの時間の流れが元に戻る。
 死を覚悟し停止した思考の中、体に染みついた戦闘の経験は、ヒソカの隙を逃さなかった。

「ふっ!!」

 全体重を乗せた蹴り。
 「硬」により凄まじい威力を秘めたそれは、ヒソカの腹部を撃ちぬく。
 ヒソカは再び宙を滑った。

「たぁぁぁぁぁーーーーッ!!」

 さらに、異なる方向から響く聞きなれた声。
 霧の中から現れたハルカに、「何故!?」と驚くが、そんな暇はない。
 眼にオーラを集中させたハルカは、先ほど吹き飛ばされたアゼリアのナイフを拾い、その刃をヒソカのオーラに突き立てた。
 パァン、と風船が割れるような音を立てて千切れるヒソカの「伸縮自在の愛(バンジーガム)
 ヒソカの顔が驚愕に歪む。

「急げ、逃げるぞ!!」

 ハルカとともに現れたクラピカは、未だ意識を取り戻さないレオリオを背負い、そう声を張り上げた。
 その言葉に否やなどない。
 何故か呆けたままのヒソカに背を向け、ハルカの手を掴み、すでに駆けだしているゴンとクラピカの背を全速力で追いかけた。










〈後書き〉

文章の書き方をちょっと変えてみる。三人称っぽい感じに。まだ全然使いこなせている感じがないです。
ヒソカ相手だと流石に苦戦。というか撤退しか考えてない。でも仕方ない。幻影旅団のメンバーは強すぎます。
ハンター試験のときゴンやレオリオを殴ったのなんて、たぶんプロボクサーが赤ん坊を怪我させないように殴るとか、そんな位にまで手加減していたんじゃないかなぁ。
あの段階では実力差がありすぎるでしょう
それでは次の更新の時に。



[3597] ズレ
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/11/22 13:47
 走り去っていく四人の姿を茫然と眺め、ヒソカは手にしたトランプを眺めた。
 血に濡れていない、綺麗なままのジョーカー。
 血に染まるはずだった、未だ綺麗なジョーカー。
 それを見て、ヒソカは嗤った。

「……いけないなァ❤ 楽しみはまだ先なのに♣」

 もう少しで、まだ熟していない果実をもいでしまうところだった。
 楽しい愉しいひと時だったとはいえ、昂った想いを見境なくぶつけてしまっては勿体ない。
 もっともっと美味しく実るまで、じっくりとお預けにしなければ。

「彼女はもっと強くなる♦」

 手合せした彼女は、旅団(クモ)のメンバーなどと比べれば劣るが、それでも滅多に見れない美味しそうな実力者だった。
 体術も、念能力も、機転も判断も覚悟も。全てがハイレベル。
 あの若さであの力。実にすばらしい。

 まだ伸び白はたっぷりとある。
 ひとつ山を越えれば、彼女は飛躍的に強くなるだろう。

 彼女には決定的に足りないものがあるのだから(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 そういう意味では釣り竿で攻撃した少年に感謝するべきだった。彼がいなければ、すでにあの果実は潰れていただろうから。
 その時のことを思い出すと、あの少年を思い出すと、ヒソカは陶然とする。

「あァ……彼はとてもとても、とてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとっても美味しそうだった❤」

 黒髪の少年。
 彼は凄くイイ。
 見ているだけで欲情してしまうくらい。素晴らしいオーラを出していた。
 将来、きっとピカイチの使い手に育ってくれるだろう。
 決めた。

「カレはボクの獲物だ……❤」

 ああ、素晴らしい。
 こんな出会いがあるなんて。ハンター試験を受けに来て本当に良かった。
 他にも美味しそうなコは何人もいた。
 殴りかかってきた長身のカレも、金髪の少年も。
 きっと彼らも美味しく育つ。

「ああ、そういえば、あのコ……」

 ふと思い出されたのは、ハルカと呼ばれていた少女。
 最初見たときは、全然美味しそうとは思わなかった。
 いきなり人の名前を叫んでくれたから何事かと思ったが、別にそれだけ。
 自分と()以外の念能力者ということで、少しだけ興味を持ったが、大した使い手にはならないだろうと思った。
 だが……

「さっきの能力……くっくっくっ……❤」

 先ほど見せた能力。あれは興味深い。
 彼女は『伸縮自在の愛(バンジーガム)』を千切った(・・・・)
 『伸縮自在の愛(バンジーガム)』は、手元から離さない限り超一流の能力者でも破壊するのは難しい。
 ガムとゴム両方の性質を持つこの能力は、念的な要素で考えても攻撃がうまく通らないのだ。
 それを破壊した。
 除念、とは違う。
 除念というのは、一般的には「念を取り除く」能力を意味する。
 優秀な除念師というのは極めて少ないため、一概に言えることではないのだが、紙に描かれた絵を消しゴムで消すかのように、文字通り取り除くのが除念だ。

 だが、アレは違う。
 彼女のは、描かれた絵を鉛筆で塗りつぶすかのように、乱雑に壊された。
 除念とは異なる。だが、それゆえにむしろ気になる。

「しばらくの間、見ていてみようかなぁ♣」

 案外美味しく実るかもしれない。
 まあ、お菓子程度にはなるだろう。

 ああ、本当に素晴らしい。
 こんなにも楽しいのは久しぶりだ。

「くっくっくっ……あっはっはっ~~~~~~~~~~~!!!」

 笑う。
 童子のように嗤う。
 腹の底から、愉快で堪らないと。
 その笑い声は二次試験開始が間もないという報せが届くまで、不気味に霧の中をすり抜けていった。





 息をつく間もなく必死で走って逃げて、追い縋る動物たちにも眼をくれず、自然のままだった湿原が、森林と言える程度に整然としだしたあたりで四人は足を止めた。
 誰もが息を荒げ、喋る余裕もない。
 クラピカは背負ってきたレオリオを邪魔そうに振り落とし―――その弾みでレオリオは「イテッ」と目を覚ました―――はるか後方を見やった。

「追ってはこないようだな」
「……逃げきれたか」

 湿原に入ってからの記憶が無いらしいレオリオは何のことだと肩を竦め、アゼリアとクラピカとゴンは安堵の溜息を吐き、何故かハルカは少し残念そうな顔をした。
 当面の危機は去ったと考え、アゼリアの先導で五人はひとまず先へ歩きだす。
 何故道が判るのかとクラピカが尋ねると、アゼリアは秘密だと切って捨てた。
 『大気の精霊(スカイハイ)』で操作した風をサトツに付けていたので、そちらの方へ向かっているだけなのだが、念を知らない人間に説明しても仕方がないだろう。
 クラピカもしつこく詮索する性格ではないので、その話は追及されることなく終わり、五人は受験生たちが集う建物の前にたどり着いた。
 五人の姿を認めたキルアが驚きに眼を見張り近づいてくる。

「よく着いたな、ゴン。どうやったんだ? 絶対にもう戻ってこれないと思ったぜ」
「アゼリアがこっちだって教えてくれたんだ」
「へぇ。あんた、どんなマジック使ったの?」
「企業秘密だ」
「んだよ、ケチ」

 口ではそう言うが、さほど気にした様子もなくキルアはゴンに向かい合った。
 同い年の少年が気になってしょうがないようだ。試験会場とされている建物を見て、中から聞こえる唸り声が何かと話し合いだした。
 アゼリアはしばらくの間その様子をぼんやりと眺めていたが、ふと舐めるような視線を感じて振り返る。
 人畜無害そうな笑顔を浮かべて、誰よりも有害なピエロが手を振っていた。
 見なかったことにする。

「……アゼリア?」
「振り向くな。視線を向けるな。無視だ、無視」

 さっさと興味を失ってほしいのだが、視線は一向に外れない。
 ナメクジが首筋を這っているようで鳥肌が立つ。
 視姦されている気分で、アゼリアは時間が過ぎるのを待った。



 試験開始とされている正午に近づくにつき、周囲の緊張は高まっていく。
 建物の中から響く獣のような唸り声は、中にいるであろう生物の凶悪さを想像させた。
 いきなり襲いかかられないとも限らない。誰もが身構えた。
 そして、ドアが開く。

 現れたのは、小山のような大男だった。
 ……あ、手前に女の人もいる。

「どお? お腹は大分すいてきた?」
「聞いての通りもーペコペコだよ」

 ぐるるるる、と唸り続ける男の腹。
 まさか、これは腹の虫だったのか……!?

「ありえない……」

 人間離れした肉体に、アゼリアは戦慄した。

「そんな訳で二次試験は、料理よ!」

 高らかに為される宣言。
 予想外の内容に驚愕する受験生たち。

 ―――二次試験、開始。





「うん、おいしい! これもうまい!」

 むしゃむしゃ。積み上がる骨。

「うんうん、イケる。これも美味」

 翳りすら見せない食欲。留まることのない暴食。一分と待たずに一頭が消える。

「あ~~~、食った食った。もーお腹いっぱい!」

 見上げるほどの、小山となった食事の跡。
 受験生は全員ひいていた。誰もが心の中で叫んだ。
 豚の丸焼き72頭……!! バケモンだ……!!

「馬鹿な……一食毎にアレでは、一体食費がいくらになるというのだ……!!」
「アゼリア、驚くべきポイントが違うわ……」

 呆れたように言うハルカ。
 しかし食費はアゼリアにとっては切実な問題だ。
 真剣に計算をし悩むアゼリアを見て、ハルカはやれやれと首を振った。
 それよりも問題は次の試験だ。さて、と身構えた。
 女性の方の試験官、メンチが一歩前に出る。

「あたしはブハラと違ってカラ党よ! 審査も厳しくいくわよー!」

 テーマはスシ。それもニギリズシのみ。
 発表された題材に、受験生たちは皆頭を抱えた。

「スシ、か。いったいどんな食べ物だ?」
「ライスだけで作るのかな?」
「見た感じ他の物も使うみたいだぜ?」

 それぞれ意見を出しているが、決定的な情報は出てこない。
 その場にいた誰もが―――ただ二人を除いて―――この難問に苦しんでいた。

 そのうちの一人、ハルカは悩んでいた。他の受験生とはその内容が違うが。
 この試験で如何にするべきか、について。
 自分は当然ながらスシの作り方を知っている。料理だって得意だ。ハンゾーが作り方をばらしてしまうよりも前に提出すれば、きっと合格は貰えるだろう。
 しかし、この試験で一人でも合格者が出たならば、果たしてネテロ会長は仲裁に乗り出すだろうか。
 合格者ゼロ、という状況だからこそ救済措置を講じたという可能性は否定できない。ならば自分が合格しては、原作との乖離が修正不可能なほどに大きくなるのではないだろうか。
 となると、やはりクモワシの卵を取りに行くのが無難? けど、あの試験絶対に怖い。間違いなく怖い。フリーフォール系のアトラクションは苦手なのである。ノーロープバンジーなど以ての外なのである。

「むむむむむ……」
「ハルカ、君は料理が得意だろう? 何か知らないか?」
「ごめん、ちょっと待って。考え中」

 というか、あの試験はあり得ないのではないだろうか。
 メンチは「下はふかーい川」と言っていたが、底が見えないほどの距離から飛び降りたら水なんてコンクリートのようなものだ。突っ込んだ瞬間バラバラ死体。川の水が赤く染まること請け合いです。
 やはりこの試験で合格しておいて、もう一つの試験を免除してもらうのがいいか。二次創作だと結構そういうシチュエーションが多いし。もし救済措置が講じられないならば、その場合は仕方がない。自分が先ほどの合格を辞退して再試験の提案をすることにしよう。

「魚ァ!? お前、ここは森の中だぜ!!」
「声がでかい!!」

 ―――魚!!!!!

 一斉に走りだす受験生たち。
 ただ一人そこに取り残され、ぶんぶんと頭を振った。

 ……ええい、ままよ。
 大丈夫。きっと何とかなるさ。





 スシ。それもニギリズシに限る。
 形は大事。形が違ったら審査の対象にならない。
 調理場から読み取れる情報。使用するものはライス、包丁、魚。
 試験官の持つ食器。棒が二本。そしてその前に置かれた、ソースらしき液体の入った皿。

 根がまじめなアゼリアは、正直なところ試験自体は大して興味がないものの、真剣にこの問題に挑んでいた。
 形が判らない以上、情報を読み取り、ヒントを捜し出し、解を導くしかない。

 形は大事という話からすると、固定の形状があるのだろう。
 ニギリズシというからにはきっと握る料理。
 試験管の持つ食器は棒が二本。あれはどうやって使うのだろうか。

 以上の情報から導かれる解。イメージしろ。その料理を。

 ―――スシ
 ―――スシ
 ―――ニギリズシ

「……視えた!」

 そして頭に浮かんだ解。
 すぐさまそれを形にする。
 イメージ通り!

「完成だ」
「あら、今度は女の子? ちょっとは期待してもいいんでしょうね」
「ふっ……無論だ」

 蓋を被せた料理を試験官に差し出す。
 自信満々の様子に、メンチもワクワクした様子で、その料理を見た。

「……………………………………………」

 沈黙。
 時間が止まった。
 いや、メンチの手は少しだけ震えていた。

「食えるかァァァァァァーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!」
「あぐぁッ!!」

 アゼリアの顔目掛けてソレ(・・)を力いっぱい投げつけるメンチ。
 ソレは彼女の許容量を超えていた。

 アゼリア・クエンティ、現在19歳。料理センス、皆無。





 アゼリアが自信ありげな様子で料理を持って行ったから、どんなものかと様子を見ていたら、試験官のメンチが吠えた。
 怒鳴ったって言うより、吠えた。この表現で間違いない。
 投げつけられたソレが、コメディのようにべちゃりと地面に落ちる。
 ソレを見て、ハルカは思わず眼を背けた。

 い、今見たモノをありのままに話すぜ……!! などとポルポル君風に話す気にもならない。
 アレは酷い、としか言いようがない。
 だがまぁ、アレを出来る限り詳しく解説するならば、だ。

 緑色のヌメヌメしたチョウチンアンコウのような奇妙な魚が、絞殺されて目玉を飛び出させ、口の中にぎゅうぎゅうと米を詰め込まれているのだった。

 ひどい。いくらなんでもひどすぎる。
 思わず夢に出てきそうなグロテスクさだ。アゼリアの料理はホラーの域に達している。
 ニギリズシの握るという言葉に従ったつもりらしかった。但し、握ったのはシャリではなく、魚だったが。

「やれやれだぜ……」

 本人は至って真面目なつもりだからなぁ。
 やっぱり彼女に料理はさせないようにしよう。

 さて、それじゃあそろそろ作るとするか。
 まともに食べられそうな魚を探していたら時間がかかってしまった。ゴンに釣り竿を借りて何とか釣れたのは、他の受験生たちが持っているキワモノよりは美味しそうだ。
 魚を捌き、切り身を作る。
 米を握り、素早くシャリを完成。
 わさびを付けて、タネを乗せる。
 ひとつ味見。

「よし!」

 うん、おいしい。
 これなら文句なしだろう。

 一料理人として、グルメハンターを唸らせてみたいという気持ちもある。
 とりあえず、本気出した。

「なんだとお!?」

 ―――ん?

「メシを一口サイズの長方形に握って、その上にワサビと魚の切り身をのせるだけのお手軽料理だろーが!! こんなもん、誰が作ったって味に大差ねーーべ!?」

 し、しまった……!!
 遅れた……!!

「ざけんなてめぇぇぇぇえええええ!!」

 キレるメンチ。
 あーあ、って感じの顔で見ているブハラ。
 メンチの気迫に冷汗のハンゾー。

 くっ、ハゲのせいでメンチがキレる前に提出して、合格を確実にしたかったが……!
 これでは審査が凄まじい厳しさに跳ね上がってしまう……!!

「けど、これは私の快心作……! あの舌を唸らせて見せるわ……!!」

 作り方を知ったとたん、群がりだした受験生たち。
 その有象無象を押しのけて、何とかメンチの前にたどり着く。

「どれどれ……」

 喰らえ! 私の最強の一撃を……!!

「ダメ!! タネの切り方が悪いわ!! やり直し!!」

 ―――ばっさり切って捨てられた。

「……な、なんですって…………!!」

 ムカついた。
 こ、こんな有象無象の雑魚どもと同じ扱いだなんて……!!
 料理にはかなり自信があったのに……!!

「決めた……絶対、いつかぎゃふんと言わせてやる……!!」

 雑魚キャラ風の捨て台詞を残して、鼻息荒く調理場に戻るハルカ。
 余談だが、アゼリアの食事がどんどん豪華になり、食費が嵩むようになるのは、まだ先の話である。

 ―――メンチのメニュー、合格者、ゼロ。





 重い空気が漂っていた。
 受験生たちは皆、マジかよ、と言いたげな顔でメンチを穴が開くほどじっと睨んでいる。
 そのメンチは携帯電話の向こう側に、不機嫌そうに怒鳴っていた。

「―――とにかく、アタシの結論は変わらないわ! 二次試験後半の料理審査、合格者はゼロよ!!」

 メンチのその宣言に、受験生たちは一斉にざわめいた。
 当然か。とてもじゃないが合格出来るような試験ではなかったのだ。

「……不合格、か。予想外の結末だったな。ハルカ、どうする?」

 試験の合否にはさほどこだわっていないアゼリアは、特に気にした様子もなくハルカに話しかけた。
 不合格ということに衝撃を受けているだろうと思われたハルカは、しかし平然と答える。

「んー、まぁ、何とかなるんじゃない? こんな試験、審査会が黙ってはいないでしょ」
「……どうかな。ハンターなんて誰もが変わり者だろう? 案外、毎年こんなものじゃないのか?」
「えー、でも今回は―――」

 ハルカは何かを言いかけて、びくりと振り向いた。
 ドゴォォン、と大きな音を立てて、255番のプレートを付けた男―――トードーが調理台を破壊していた。

「納得いかねェな、とてもハイそうですかと帰る気にはならねェな。オレが目指しているのはコックでもグルメでもねェ!!ハンターだ!!しかも賞金首ハンター志望だぜ!!美食ハンターごときに合否を決められたくねーな!!」

 怒気も露わに声を震わせるトードー。
 他の受験生たちも、声にこそ出さないが、彼に賛同していることをその場の空気が物語っていた。
 だが、メンチもブハラも揺るがない。彼の剣幕などそよ風程度にも感じていないという様子で、平然と答える。

「それは残念だったわね」
「何ィ!?」
「今回の試験では試験官運が無かったってことよ。また来年頑張ればー?」

 まるで他人事の、舐めた口調で話すメンチに、トードーは怒りのあまり血管が浮かび上がった。

「ふ、ふざけんじゃ―――!!!!??」

 今にも殴りかかろうかという瞬間、トードーが冷水を掛けられたような寒気を感じ飛び退いたのは、彼の鍛練の成果と言えるだろう。
 蛇を前にした蛙が感じるであろう圧迫感。
 圧倒的な捕食者の気配。
 怒りに沸騰しかけていた頭は、冷汗をとめどなく流している。
 気がついたら彼は腰を抜かしていた。
 それほどまでに邪悪で強大な殺気を感じたからだ。

 しかもそれは、自分という個人に向けられた殺意ですらなく。
 周囲にまき散らされた殺意のほんの一欠片だったのだ。

「くっくっくっ……❤ 試験はもうおしまいなのかい? 折角楽しくなってきたところだったのに……♣」

 まるでモーゼの如く受験生たちの間から進み出た道化。
 彼が歩を進めるたびに、受験生たちは恐怖のあまり腰を抜かしてしまうのだった。

「キミは今美味しいモノが食べれなかったみたいだけどね♦ ボクさっき、とっても美味しそうな果実を少しだけ味見して、そのせいでむしろ欲求不満なんだ♠」

 ヒソカは殺意を撒き散らす心地よい快感に身を委ねていた。
 ただの雑魚を狩ったところで面白くない。強く、頭がキレるタイプとの戦いが彼は大好きだ。

 一次試験の途中、少しだけ遊んだアゼリアはかなりいい線行っていた。思わず熟さないうちに食べてしまいそうになったくらい。
 他にも美味しそうな、輝くばかりの才能を持った少年たちもいた。
 そんな才能という華が飛躍的に芽吹こうとするこんな絶好の機会をあっさりと消してしまおうとする試験官に対し、かなり本気で殺意を抱いていた。楽しみに取っておいたデザートを横から掻っ攫われたかのような気分だ。

「……だから、なんだってんだい?」

 大気が震えるほどの存在感。
 それを真っ向から受けても、尚も姿勢を保てるのは流石プロハンターといったところか。
 メンチは流石に顔を強張らせていたが、真っ向からヒソカを睨み返した。
 空々しい笑顔で、眼を邪悪に濁らせ、ヒソカが言う。
 メンチとブハラは、なかなかに美味しそうだった。

「最近溜まってたんだ♦ ボクのお愉しみを奪うなら、代わりにキミにお相手願おうか……❤」
「ッ……! ブハラッ!!」

 イスから飛び上がり、包丁を構えるメンチ。
 立ち上がり、メンチを護るように前に出るブハラ。
 念を使えるものならば視えるだろう。その身から吹きあがるオーラが。そして一つ星(シングル)ハンターの名は伊達ではないことを知るだろう。
 だがヒソカにとっては、それこそが極上の食材。
 その血の味を想像し、舌舐めずりをする。それまでの一時を早く過ごすのも勿体ないと、一歩一歩を踏みしめる。
 すると、ヒソカの足が何かに当たった。

「う、うわあああ!」

 それはトードーだった。
 腰をぬかし、メンチへと向かうヒソカの進路上で倒れ伏したままでいた。
 這いつくばって逃げようとするトードー。
 ヒソカはソレが酷く邪魔に思えた。これからのお愉しみに、こんなモノはいらないと思った。

「邪魔だよ♠」

 何気なく振り上げた足。
 それを、本当に何でもないかのように、軽く蹴りだす。

 ―――ぐしゃり

 トードーは独楽のように回転し、地面に叩きつけられた。
 四肢をだらりと弛緩させて投げ出し、ぴくぴくと痙攣するだけで起き上がる様子はない。
 それも当然だろう。その首は捻れ、彼の顔は背中側を向いていたのだから。

 ―――NO255、トードー、死亡により失格(リタイア)





 目の前で繰り広げられる戦いを見て、ハルカは震えていた。
 恐怖から、ではない。
 予想すらしていなかった事態に愕然としたが故に。

 知らない。
 私はこんなイベント、知らない……!
 トードーがここで死ぬなんて、知らない……!!

 否定する。
 ハルカは必死で、目の前で繰り広げられている戦いを否定する。
 何かの間違いだ。こんなはずはない、と。

 だが、現実は変わらず。
 ハルカの脳の冷静な部分は、認めざるを得ない「事実」を突きつけてきた。

 ―――原作から、大きく乖離している。

 予想はしていた、ハズだった。
 自分たちの介入により、多少は変化が生まれるだろう、と。

 その予想は、甘すぎた。
 その考えは、未熟すぎた。
 その行動の結果が人の死に繋がるなんて、思ってもみなかった……!

 ヒソカと切り結ぶメンチを見る。
 その巨体で殴りかかるブハラを見る。
 もはや痙攣すらしなくなったトードーの死体を見る。

 それは否定のしようもない、其処にある「現実」だった。

「なんで、こんな………………」

 ハルカの呟きは、誰に聞かれることもなく大気に消えた。










〈後書き〉

ヒソカさん欲情→暴れる。
この作品でヒソカ暴れてばっかだな……いや、原作でも暴れてるけど。
下手に愉しんで、不完全燃焼で終わっていた分、ヒソカが暴れやすくなってます。

ハルカは、原作介入で起こるであろうズレがどの程度か、実感として理解していなかったのです。
認識の甘さ。自分の行動が誰かの死に繋がるとまでは考えていなかった。
でも、作者的にはそれが果たして思慮不足だったかというと、実際にはそうとは言えないのでは、と思います。
何気ない行動が、どこかで誰かを殺すかもしれない。そんなことを常に考えていたら、身動きが取れなくなってしまいます。もし自分がハルカと同じ立場になったら、と考えて、そこまで配慮する自信が正直ありません。
けど、原作にないファクターが入り込めば、当然出てくる結末は変わるわけで。
これからも少しずつズレていくと思います。

それでは、次回更新の時に。



[3597] 小さな救い
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2008/11/24 20:54
『そこまでじゃ』

 響き渡る声に、メンチとヒソカは同時に距離を取った。
 上空に現れた飛行船を見て、誰もが表情を強張らせる。

 ハンター協会のマークがついたそれは、審査委員会。

 飛行船から飛び降りた老人は、ネテロ会長。
 審査委員会の会長にして、ハンター試験の最高責任者。
 そして―――最強の念使いと呼ばれた男。

 ヒソカが不吉に舌舐めずりをした。

「44番、名前を聞いてもいいかの?」
「―――ヒソカ❤」
「ふむ、それではヒソカ君。しばらく矛を収めてくれないかの? ワシはメンチ君と話さねばならないことがあるんじゃ」
「……いいよ♣ ここは退くとしようか♦」

 熱の籠った視線をネテロにぶつけながらも、ヒソカは外から見ると意外なほどあっさりと引き下がった。
 それは気まぐれ故ではない。
 ヒソカは悟っていた。たとえ今この場でネテロに襲いかかったとしても、自らの望む「死合」は出来ない、と。
 いくら殺気をぶつけても飄々と受け流し、それに応えようとはしないネテロ。
 極上の使い手を相手に半端に戦うなどと、勿体ない愉しみ方をする気にはなれなかった。

 そこから先は、ハルカの知る光景と変わらなかった。
 ネテロがメンチに問いかけ、メンチが審査の不十分を認める。
 試験を無効とし、審査員を降りようとするメンチに対し、ネテロが実演し参加するという形で審査員を続行してもらおうとする。
 だが、難しい顔をして悩んでいたハルカはそのことを殆ど憶えていなかった。
 自分の行動がどのような結果に結びつくのかを考えるのに必死だったのだ。

 飛行船に乗り、連れて行かれた山頂。
 谷間に糸で吊るされたクモワシの卵を取りに行く試験。
 苦手な高所から飛び降りたことさえ意識の外。
 そして四十四名の合格者を乗せて飛行船が飛び立ち、一時解散を告げられても、ハルカは頭を抱え続けているのだった。





 元気が無くなったように見えたのだろう。心配してくるアゼリアたちを置いて、ハルカは人気のない一角に来ていた。
 窓の外に煌く夜景は宝石のようだ。だが、それとは対照的にハルカの心は重く暗い。

 ―――トードーが死んだ

 その一事がハルカの心に暗い影を落としていた。

 少し考えれば判ることだ。
 本来居なかった要素が入り込めば、導かれる解は異なる。
 ハルカとアゼリア。この二人が参加した試験は、原作とは異なる流れをたどるだろう。

 その程度のことはハルカも理解していた。
 そしてその上で、原作から出来るだけ乖離しないように。自分の知識を参考に出来るような状況を保とうと考えていた。

 だが、ハルカは思慮が足りなかったと言えるだろう。
 流れが変わった結果、死ぬ運命に無かった人間が死ぬかもしれない。
 そのことまで考えが回らなかったのだ。
 いや、心の中でこう考えていたのかもしれない。
 世界の大きな流れ(ストーリー)がそうそう変わりはしない、と。
 そんなこと、神でもなければ保障できないというのに。

 原作において、一次試験の時ヒソカはレオリオとゴンに眼をつけた。
 その輝かしい才能を見込み、今後の成長を見守ろうと考えた。

 だが、この世界では違った。
 ハルカが原作シーンを見たいと考えていたが故に、アゼリアはヒソカの殺戮現場に居合わせた。
 アゼリアというこの時点ですでに実力のあった使い手がいたことで、ヒソカは退屈凌ぎに戦闘行為に移行。それが中途半端に終わったせいで、ヒソカは欲求不満な状態に。
 原作でも試験官に殺気をぶつけ続けていたヒソカは、欲求不満も合わさり、この世界では我慢が出来なかった。試験の終了を告げられ、ならばもう我慢する必要はないと襲いかかったのだ。
 その過程に落ちていた石が、トードー。
 故に彼は殺された。

「…………………」

 ハルカは苦悩する。
 トードーが死んだのは、原作と違うこと。
 ならばその原因は、自分ではないのかと。

「違う……違う違う! 私が悪いんじゃない……!」

 その考えを必死で否定する。
 自分にはトードーに死んでもらうつもりなんかなかった。
 それに自分がやったことといえば、ただヒソカを見ようとした。それだけだ。
 原作を知っているから、その流れの差異故に自分のせいだと感じてしまっているだけだ。もしも原作を知らなければ、トードーの死に責任を感じることなどなかっただろう。
 だから、自分は悪くない……

「そうよ……殺したのは、ヒソカ……彼は運が悪かっただけ……」

 何度も何度も、自分に言い聞かせる。心を平静に保とうと、眼をしっかりと瞑って。
 けれど、次に浮かんだ考えに恐怖した。
 自分の介入の結果が、責任の所在を問うことすら無意味なほど恐ろしい結果に至ったら?
 ゴンが、キルアが、レオリオが、クラピカが、ヒソカが……
 あるいは、アゼリアが死んでしまったら?
 その時、自分で自分を許せるのだろうか……?

 だが、既に賽は投げられてしまった。
 その賽がどのような意味を持つのか、きちんと理解せぬままに振ってしまった。
 運命はもう変わってしまった。
 それがその後どのような結果をもたらすのかなど、誰にも予測できないままに。

 ハルカは今、悟った。
 実感として思い知らされた。
 この世界には、運命の流れ(ストーリー)神の意志(ご都合主義)もない。
 これは容易く変化し移りゆく、冷徹で無慈悲な現実なのだ、と。





 通路の向こうへハルカが消えていくのを見送って、クラピカとレオリオは壁に背を預けて一息ついた。
 二次試験の途中から、何故か意気消沈していたハルカ。だが、彼女にもいろいろと考えることはあるのだろう。もしも自分たちに相談したくなったならば、その時は心から応じてやればいい。そう考え、特に引き留めることもなく見送った。
 何より、彼らはとても疲れていた。ハンター試験の重圧と負担は大きく、鍛えられた彼らにとってもそれはハードなものだった。
 ちなみにゴンとキルアはまだまだ元気いっぱいといった様子で船内の探検に出かけた。
 レオリオもクラピカもまだ二十歳にもなっていないのだが、それを見ると若いなぁ、と思ってしまう。

「オレはとにかくぐっすりねてーぜ」
「私もだ。おそろしく長い一日だった」

 一日の間にいろいろなことがありすぎた。
 こんなに密度の濃い試験では、ヒソカのような異端児がいなくとも再起不能になる受験生がいるというのは納得だ。

「……しかし一つ気になるのだが……試験は一体あといくつあるのだろう」
「あ、そういや聞かされてねーな」
「その年によって違うよ」

 その会話に割り込んでくる、何度か聞いた声一つ。

「試験の数は審査委員会がその年の試験官と試験内容を考慮して加減する。だが大体平均して試験は五つか六つくらいだ」
「あと三つか四つくらいってわけだ」
「尚のこと今は休んでおいた方がいいな」

 そう感想を漏らす二人に、トンパは訳知り顔で忠告した。

「だが気をつけた方がいい。さっき進行係は「次の目的地」と言っただけだから、もしかしたら飛行船(ココ)が第三次試験会場かもしれないし、連絡があるのも「朝八時」とは限らないわけだ。寝てる間に試験が終わっちまった、なんてことにもなりかねない。次の試験受かりたけりゃ、飛行船(ココ)でも気を抜かない方がいいってことだ」

 黙りこんで視線をかわす二人。
 トンパはじゃあな、と背を向けて去っていく。
 二人には見えないように、口元を歪ませて。

 残された二人は、トンパの消えた先を見て、言った。

「……どう思うよ?」
「……別に、休んでいいだろう」

 飛行船(ココ)が試験会場であれ、連絡が来ないのであれ、この飛行船の中には何十人もの人が乗っているのだ。
 何か動きがあれば自然と目を覚ます。
 トンパの目論見は、何の効果もあげそうになかった。



 飛行船の中には受験生用にブランケットがいくつも用意されていた。
 レオリオとクラピカはそれに身を包み、眠る用意をする。
 そして眼を閉じようとしたところで、服がべっとりと体に張り付く不快さにレオリオは顔をしかめた。
 一次試験の時、滝のように汗を流していたのだ。このままでは明日の朝酷い臭いを発してそうだった。

「……汗が気持ちわりぃ」
「確かシャワールームがあった筈だ。浴びてきたらどうだ?」
「そうするぜ」

 一刻も早く寝たいが、このままではそもそも眠れそうにない。
 ブランケットを置いて、通路を進む。
 そしてさして時間を置かずにシャワールームが見つかった。
 更衣室の前にはランドリーも置かれている。
 発酵食品さながらの匂いを発することは避けられそうだった。

「助かったぜ……クラピカがなんて言ってくるかわからねーからな」

 更衣室は扉一枚隔てた向こう側なのだが、別に誰が見ているわけでもない。
 別にいいか、とレオリオは服を脱いでランドリーにぶち込んだ。
 素っ裸になると、なんとなく開放感に満たされるものだ。
 かなり疲れていたレオリオは、そのまま股間のモノを隠すこともなく意気揚揚と更衣室を開けて―――

「―――ん?」



 ―――凍りついた。



 象牙のように白い、二本の足が見える。
 長く、細く、健康的で、それ自体が輝いているかのように眩しい。
 生足だった。
 スラリと伸びたその足を辿って視線を上に上げると、際どく隠された神秘の領域がある。
 キュッと締まり魅力的な曲線を描く腰は、白いワイシャツの裾で覆われている。隠されていることで想像が掻き立てられ、逆に危険な魅力を放つ。
 裸ワイシャツだ―――レオリオの脳内に変な電波が送られた。

 さらに視線を上げる。
 くびれた腰の描く流線型から、さらに上へ。
 そこには小高い山が二つある。
 確かな存在感を放つそれは、重力に逆らうようにシャツを押し上げている。
 山が二つ並べば、当然その間は谷になる訳で。
 脱ぎかけている途中だったのだろう。第二ボタンまでが外されたワイシャツの隙間からは、白いふくよかな谷間が見えていた。
 今にもこぼれそうだ。
 ボインボインである。

 そして―――

「ああ、レオリオ、君も来たのか?」

 ―――その言葉で、レオリオの世界は動きだした。

「わ、わりぃッ!!!!」

 慌てて眼を逸らし、更衣室から飛び出す。
 呼吸をすることも忘れていたようで、脳が酸素を求めて呼吸を繰り返させる。
 心臓がドクドクと喧しく脈打っていた。
 眼を閉じれば、今見た情景がはっきりと浮かんでくる。
 そして自分は今全裸だったことを思い出した。
 ブランブランである。
 レオリオ、はいてない。
 大蛇が鎌首を擡げそうになっていた。

 普段はどこか悪ぶっているが、レオリオは基本的に善人である。
 グラビア雑誌などは愛読しているが、それは元からそういうもの(・・・・・・)だからで。
 知人の少女の裸体を見てしまうというイベントは、彼には刺激が強すぎた。

 茹った頭を冷やそうと、深く息を吸おうとして―――

「どうしたんだ、いきなり?」
「おわあぁぁぁあああああ!?」

 ドアを開けてアゼリアが追ってきた。
 谷間が間近に見える。心臓が跳ね上がる。蛇がむくむくと起き上がる。

「ちょ、ちょっ、おまっ!! こ、こっち向くな! てか、見える見える!! 服! 服ッ!!」
「み、見えるって、何がだ?」

 とりあえず、アゼリアは言われた通りに視線を逸らした。
 背中を向け、しかし生足が覗いたその姿を隠そうとはしない。
 先ほどの言葉も、本当に何を指しているのか判っていないようなので、レオリオは頭が痛くなった。

「おまえ、いい歳して……恥じらいとかねーのかよ」
「何を言いたいのかよく判らないな……大体、何故君はそんな慌てて逃げ出そうとしているんだ? シャワーを浴びに来たのだろう?」
「そ、そうだけどよ……おまえが入ってるじゃねーか」
「シャワーはいくつかある」

 暗に、一緒に入ればいいだろうと言われて、レオリオは本当に頭が痛くなってきた。
 狼に変身してしまいそうだ。
 レオリオは最後に残った理性を振りしぼって、言った。

「オレは後で入る……」
「その格好で待つのか?」

 全裸のレオリオの服は、ランドリーの中で回っていた。
 レオリオは頭を抱えて天を仰いだ。





 何故こんなことになっているんだろう。
 レオリオは十九年間の人生の中でも初めての事態に遭遇し、同じ疑問がぐるぐると頭の中をめぐっていた。
 サーッと細かい音を立てて、温かいシャワーが汗ばんだ肌を流していく。
 本来は気持ちいいはずのそれも、今のレオリオには判らない。
 カーテンで仕切られた背後から聞こえてくるもう一つのシャワーの音が気になって、それどころではないのだ。
 くらくらしてきた。

「……はぁ」
「さっきから溜息ばかりだな。どうしたんだ? 何かあったのか?」

 おまえのせいだよ、と声を大にして言ってやりたいが、何とか堪えた。
 というか、シャワー室くらい男女別に作ってほしかった。ハンター協会に抗議するべきだろうか。
 ……絶対に墓穴を掘るだけになりそうだ。止めておこう。

「……なんでもねぇ」
「そうか。ま、疲れてるなら早く休むことだな。ああ、ところでシャンプーを取ってくれ」
「……ほらよ」

 差し出された手に、備え付けのシャンプーを押しつける。
 意識しないようにすると余計に意識してしまうもので、それだけで心臓がドクドクと脈打った。
 そして今度は腹が立ってきた。何故かって、アゼリアは自分のことをまるで気にした様子でもないからだ。
 自分一人が動揺してて馬鹿みたいだし、何より男としてのプライドの問題だった。
 一言文句言ってやらないと気がすまなかった。

「おまえ、いつか襲われるぞ? オレは紳士だからいいけどよ、普通の男はそんなの我慢しねーの。男はみんな狼なんだよ。判るか? 大体よ―――?」

 クラピカあたりに聞かれたら全力で否定されそうなことを言っていたレオリオだったが、言葉を唐突に詰まらせた。
 背後で人が倒れこむような音が聞こえたからだ。

「お、おい、アゼリア?」

 返事はない。
 カーテン越しに透けて見えるシルエットは床に倒れ伏していた。

 医学の心得のあるレオリオは、これはマズイかもしれないと瞬時に判断した。
 原因が何かは見てみないことには判らないが、少なくとも意識を失っているんだ。全くの無事と考えるのは虫が良すぎるだろう。
 三度、大きく呼びかける。
 返事はない。

 一瞬迷った。
 カーテンの向こうの彼女がどんな格好をしているか、そんなことは考えるまでもない。
 いいのか、と一瞬思う。
 だがそんな迷いを振り払って、レオリオはカーテンを開けた。
 非常時故に、レオリオの心の中に不純な気持ちは一切なかった。無いったら無かった。

「おい! しっかりしろ!!」

 倒れ伏したアゼリアは、脇腹を押えて苦しげに顔を歪めている。
 未だ拙い知識を総動員し、処置をしようとして、気付いた。
 背中を横切る、大きな傷痕に。

「ッ……? これか?」

 だが、その傷は既に治っているようだ。
 先ほどはシャツに隠されていて気付かなかったが、彼女の体には無数の傷痕がある。
 銃創。切創。鞭で打たれたような跡。
 いずれも既に治っているようだが、その数にレオリオは息を呑んだ。

「ん……ぐ……」

 レオリオが驚きに固まっている間に、アゼリアが目を覚ました。
 脇腹を抑えたまま、しかし意識を確かにレオリオを見据える。

「大丈夫か?」
「ああ、すまない……ただの貧血だ。ヒソカに肋骨を数本やられてな。様子を見ようとしたら、血が回らなくなった」

 そういえば、アゼリアはあのヒソカと一度やり合っているのだった。
 あれほどの強敵だ。その程度で済んだことはむしろ凄いと賞賛するべきかもしれない。
 ひとまず、病気などの類ではないことに安堵して、レオリオは今の状況に気がついた。

 レオリオ、全裸。
 アゼリア、全裸。
 場所、シャワールーム。

「わ、わりぃ」

 いろいろと不味かった。
 慌ててそこから出て、カーテンを閉める。
 そしてそのまま座り込んだ。
 また倒れないかと心配だったし、このまま出ていく気はしなかった。
 シャワーの音だけが聞こえる。
 なんとなく気まずくて、気がついたら口を開いていた。

「なぁ……その傷、どうしたんだ?」

 聞いてから、馬鹿な質問をしたと後悔した。
 女性に傷の由来を聞くなんて、デリカシーのないレオリオでも馬鹿だと判る。
 だがアゼリアは特に気にした様子もなく声を返した。

「どれだ?」
「どれって……じゃあ、その背中の切り傷は」
「ああ……これは確か、十歳くらいの時にしくじって受けた傷だな。標的を一瞬逃がしてしまい、その隙に護衛にやられた」

 随分と不穏な内容だった。
 訝しみ、尋ねる。

「……今まで何をしてきたんだ?」
「殺し屋」

 淡々と、何でもないことのように語るアゼリア。
 しかし、その内容はあっさりと聞き流せるものではなかった。

「何でそんなことしてやがる?」
「……金のため、だ。妹の治療代が莫大だというのは、話しただろう?」
「そんな―――ッ!!」

 そんなことをして稼いだ金で助かっても、妹さんは喜ばないぞ。
 一瞬、そう喉を突いて出そうになったが、奥歯が割れそうなほど強く歯を噛みしめて、その言葉を呑みこんだ。
 命の価値は、平等じゃない。
 それはきっと、「人は皆平等」なんていう綺麗事よりも、よっぽど真理なのだろう。
 誰にだって大切な人はいる。
 他の何を犠牲にしても助けたい。そんな思いを否定できない。
 そして何より―――同じ病気で親友を亡くしたレオリオは、同じ苦しみを味わっている彼女を否定出来なかったのだ。

 けど、それでも。
 何か一言、言ってやらなければいけない気がした。

「後悔してるのか?」

 彼女の声が、自分を責めてほしいというかのように辛そうだったから。

「……きっと、してる。けれど、してない」

 アゼリアはその問いかけを受けて、考えた。
 人を殺してきたことを思うと、辛い。
 やりたいとは思わない。投げ出したくなったこともある。
 けど、それを認めてしまったら、二度と元に戻れない気がするから。
 もう人を殺すことなんて出来ないだろうから。
 もう妹を助けられない気がするから。
 だから言わない。
 後悔してるなんて、認めない。
 認め、られない。

 レオリオはそんなアゼリアの心の揺れを、なんとなく悟ってしまった。
 そして腹が立った。とんでもなくムカついた。

 アゼリアは強い。
 ヒソカと闘って無事なことを考えても、多分自分よりもずっとずっと強いのだろう。

 だけど、弱い。
 どんなに戦いが強くても、その心はまだ弱く幼い少女のままなのだと判った。
 肌を見られても恥ずかしがらないのだって、きっとそんなこととは無縁だったからだ。
 精神的には、恥じらうことすら知らない幼いときのまま成長してないんだ。

 彼女がそうしなければならなかったことに。そう強要した、運命とでもいうものに、腹が立った。
 だから、言った。

「おまえ、もう殺しなんて止めろ」
「……そうしたら、妹が―――」
「オレが治してやる」

 アゼリアが眼を見開いたのが、気配で判った。
 レオリオは勢いに任せて言葉を紡ぐ。

「オレの夢は、医者になることなんだ。昔、親友を妹さんと同じ病気で亡くして、同じ病気の人を救ってやりたかった」
「……………」
「金なんかいらねぇ。そう言ってやるのが夢だった。その病気に苦しんでる子や、その家族の喜ぶ顔が見たかった」
「……………」
「今はまだ、ムリだ。オレは医者の卵にもなれてねぇ。だけど、必ず……オレが治してやる。だから―――」

 レオリオは、細く息をついた。
 重い、誓いの言葉を口にするために。

「だから、もう泣くな」

 シャワーの流れる音が、静かに聞こえた。
 他には何の音もしない。
 それでよかった、と思った。



 シャワーから流れるお湯が、髪を伝い、頬を伝い、地面に落ちる。
 それはただのお湯だと思った。
 けど、涙でもいいと思った。
 だって、嬉しかったから。
 胸がぎゅーっとなるほど嬉しくて、いつの間にか視界が歪んでいたから。
 苦しくて、でも暖かくなるような、不思議な気持ちだったから。

 レオリオがいくら誓ってくれても、アゼリアは殺しを止めることはできないだろう。
 ヴィオレッタを救うには、ただ治療費が稼げればいいというものではない。
 あの子は言うならば人質だ。
 アゼリアを組に縛りつけ、仕事をさせ続けるための楔。
 それはレオリオには話していないこと。
 アゼリアが殺し屋としての仕事を拒否したならば、妹が無事で済むとは思えない。
 だからレオリオが誓ったからと言って、アゼリアは殺しをもうしなくて済むわけではない。

 だけど、アゼリアは救われたと思った。
 自分たちのために、こんなにも力を尽くしてくれようとする人の存在に。
 ただそれだけで、救われた気がした。

 辛かった。
 重かった。
 寂しかった。
 そんな長年の思いが、流されていくようだった。

ありがとう……
「ん? 何か言った―――!?」

 カーテンを、開けて。
 振り向いたレオリオの唇に、啄ばむようにキスをした。
 多分、すっごい下手なキス。
 一秒もしないで、すぐに離す。
 レオリオのびっくりした顔が、アゼリアの眼いっぱいに映る。
 それがなんとなく面白くて、自然に笑いが零れていた。

「なんでもない」

 急いでカーテンを閉めて、ドキドキしている胸を抑えた。
 顔が風邪でもひいたように熱い。
 それに、何だか恥ずかしかった。
 さっきまでは何とも思わなかったのに、今は何だかレオリオに裸を見られるのが恥ずかしかった。
 だけど、胸がとっても暖かくて。
 悪い気分では、無かった。










〈後書き〉

はい、石を投げてください。
こんな甘いモノを読みに来たんじゃねー! って人は、ドMな作者に罵声を浴びせてください。悶えます。

書いてて思った。
これどこの夢小説だよ。
けど後悔はしてない。

ちなみに更衣室でのシーンは、ラノベ風サービスカットを書いてみたいと思いたって書いた。後悔はしてない。全く。

レオリオはグラビアとか読んでエロ親父キャラっぽいけど、本質的に奥手な感じがする。
このレオリオはあくまでELのイメージですので、原作とはちげー!って人もいるかもしれませんが、お目こぼしを。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 次の一手
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/01/03 01:23
 到着予定の八時はすでに過ぎている。
 窓からは樹海や朝日に照らされた山裾が見え、しかしその情報から目的地を推測することは出来ない。
 まぁ、到着すれば判ることだ。他の受験生もそこらに見えることだし、連絡を聞き逃したということはあるまい。
 そう考えて、クラピカは姿勢を正した。
 とりあえず隣で寝ているレオリオを起こそうとする。

「―――なんだ、起きてたのか?」
「……眠れねぇ」
「何があった?」

 レオリオは眼をパッチリと開けていた。眼の下には隈が出来ている。
 まさか一睡もしていないのだろうか。昨日は疲労困憊という様子だった筈だが……
 クラピカの質問にもレオリオは答えず、遠くを見つめて悩ましげに溜息を吐いた。

「……なぁ、クラピカよ」
「なんだ?」
「空はどうして青いんだろうな……?」
「……知るか」

 冷たく突っ返すが、レオリオは堪えた様子もなく遠い目をしている。
 ……ダメだこれは。
 何があったかは知らないが、完全に心ここに在らず。
 レオリオはしばらく戻ってきそうにない。他の誰かが来てくれればいいんだが……

「アゼリアやハルカはどこにいったんだ?」

 ゴン、と音がした。
 レオリオが突っ伏して、頭で床を叩いていた。

「……レオリオ?」
「べ、べ、別に、あ、あいつとは何も……ッ!!」
「落ち着け」

 ……怪しい。
 挙動がとにかく不審だ。
 レオリオは今も、誰にともなく喋り続けている。
 慌てて何かを否定したかと思うと、ごにょごにょと口の中で何かを呟き、「参ったな」と頭を掻くと、口元をニヤつかせながら唇を手でなぞる。
 ……キモい。そして怪しすぎる。
 クラピカはレオリオとは違う思いで遠くを見た。
 頼む、誰か来てくれ……

「おや、二人ともおはよう」

 その祈りが通じたのか。
 通路の向こうから、アゼリアがやってきた。

「おはよう。そしてちょうどいい所に来た。レオリオをどうにかしてくれ。様子が変なんだ」
「……レオリオが?」

 アゼリアはレオリオを見た。
 レオリオは自分の世界に入っているようで、アゼリアが来たことに気付いていない。
 未だに、傍から見れば滑稽な一人芝居を続けている。

「……なるほど」

 状況は判った、とアゼリアは頷いた。
 レオリオの目の前に行き、その顔を覗きこむ。
 するとレオリオの眼がはっきりとその姿を映した。
 驚きに見開かれる。

「やあ、レオリオ」
「あ、アゼ、アゼリ……」
「うん、ちょっと動かないでくれ」

 ゆっくりと近づけられるアゼリアの顔。
 レオリオは慌てふためき、顔を真赤にし、何を思ったのか眼を閉じる。
 そして唇を突き出した。

 ―――コツン

 だが、レオリオの唇は間抜けに突き出されたままで。
 アゼリアは自分の額をレオリオの額に押し当てていた。

「ふむ、やはり少し熱があるようだな。あのあとすぐに寝なかったのか? 体調を崩したら大変だぞ?」
「……お、おお」
「待ってろ、今温かいものでも貰ってくる」

 そう言って、アゼリアは踵を返した。
 レオリオは、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしていた。
 突き出された唇が哀愁を誘った。

 ……アゼリアと何かがあったのかと思ったが、そうでもないようだ。
 アゼリアはいつもどおり平然としていたのだし……

 そんな風に考えていると、レオリオは再び遠い目をした。
 窓の外を眺め、言う。

「なぁ、クラピカよ」
「なんだ?」
「愛って、なんだろうな……?」
「……自分で考えろ」

 クラピカはそっけなく返した。
 レオリオは飛行船が着陸するまで、ぶつぶつと考え込んでいた。



 飛行船が着陸したのは、異様に高く広い塔の上だった。
 そこには誰もいないし、何もない。吹きすさぶ風が体温を奪うだけ。
 ぞろぞろと降りてきた受験生たちは、誰もが首をかしげた。ここで何をさせるつもりなのか、と。
 そしてその疑問に応えるように、マーメンが説明した。

 ―――生きて下まで降りてくること。制限時間は七十二時間。

 その最低限の説明だけを残し、飛行船は飛び立っていった。
 ここはトリックタワー。残された受験生は四十二名。
 三次試験が始まる。





 NO86の筋骨隆々の男が外壁を伝って降り、怪鳥によって無残に食い散らかされたのはつい先程の出来事だ。
 外壁を伝うルートは不可能。となると、塔の内部を通って下るのか。
 どこかに下へ向かう扉があるハズだ。
 そう考えた受験生たちは、各々隠し扉を探し始めた。

 アゼリアもまた、他の受験生たちと同様に隠し扉を探していた。
 コツコツと足音を立てて歩を進め、足の裏で厚みを測る。
 隠し扉があるということは、その下は空洞となっている筈だ。
 その違いを見極める。

 無論、「円」を使えばすぐに判る話なのだが、それでどこかの道化を興奮させてはたまらない。
 別に難しい話でもないのだから、この程度は念無しでも乗り切れる。

 そう考えていると、ハルカの姿が目に入った。
 思い悩んだように、壁面から身を乗り出して塔の下を覗き込んでいる。
 その姿からなんとなく嫌な感じを受けて、アゼリアは彼女に近づいて行った。

「……ねえ、アゼリア」
「なんだ?」
「高いわね、ここ……落ちたら死ぬと思う?」
「普通は死ぬだろうな」
「だよね……」

 ぼんやりとハルカは言葉を紡ぐが、心ここにあらずといった様子だった。
 本当に聞きたいことは、本当に言いたいことは他にあるのだろう。
 だが、それをどう言葉にしたらいいのか判らない。そんな様子だった。

「……私ね、彼が死ぬって判ってたの」
「彼?」
「さっき塔を降りて行って、怪鳥に食べられた人」
「……」
「けどね、何もしなかった。していいのか、判らなかった。背負い込みたくなかったから……」

 ハルカの言っていることは、アゼリアにはよく判らなかった。
 大きな悩みを抱えている。そう思う。
 だけど、それが何なのか判らない。

「もしも、彼が死ななくて……彼が、死ななかった筈の人を殺したら、それは私の責任なのかな?」
「……どういうことだ?」
「二次試験の時、ヒソカに殺された男……トードーっていうんだけど、彼、本当はここで死ぬ運命にはなかったの」
「……それで?」
「死なないはずの人間が、死んだ。その原因が自分にあるなら……それって、殺したってことじゃない?」

 アゼリアは考え込んだ。ハルカが痛切に悩んでいると、彼女の様子から感じ取っていた。
 トードーが死んだのは、自分が原因……そうハルカは考えている。
 アゼリアには、ハルカが何故自分のせいと考えているのかは判らない。トードーがあそこで死ぬ運命に無かったというのも、どういうことか判らない。
 けれど、それが実際にハルカの責任であるのか……そんなことは大した問題ではないのだろう。ただ、ハルカがそう思いこんでいるのならば、その上で真剣に答えてあげるべきだと考えた。

「君は、トードーを殺そうとしたのか?」
「違うッ!! そんなこと思ってもない……!!」
「ならば、何を悩む必要がある? 手を下したのはヒソカだし、君が何をしたわけでもないのだろう」

 ハルカは心の中で呟いた。
 そんなことは自分でも判っている。
 自分にはそんなつもりはなかったし、それは予想できた未来でもない。
 だから、自分は悪くない。
 そう何度も言い聞かせてきた。
 けど、それでも納得できないのだから……

「本当に……私は悪くないの?」
「それは知らない」

 縋るような声音は、ぴしゃりと撥ね退けられる。
 予期せぬ答えにハルカは眼を丸くした。

「罪とは罰は与えられるが、許しは与えられない。もしも君が本当にトードーの氏に罪を感じているのならば、それが消えることはないだろうさ」

 たとえそれがどういう考えであれ、自分が悪いと思っているのならばそれは罪だ。少なくともその本人にとっては。
 そしてその罪を消すことなど出来ない。心の中で如何に取り繕うことが出来ても。過去が変えられないのと同じように。

「だが、私は少なくとも彼の死の責任が君にあるとは思っていない。君は未来を変えてしまったと言ったが、ならば、君の変えた未来は、変わる前の未来よりも絶対に悪いものなのか?」
「そ、それは……」

 ハルカは答えられない。
 どちらがより良いかなど、決めることは出来ないのだから。

「答えられまい? ならば、何を落ち込む必要がある。君の行動で世界が滅ぶわけではないんだ。自分の選択に胸を張れ。その未来が決して間違いなんかではないのだと、そう言って見せろ」

 アゼリアはそう言い残し、その場を足早に去った。
 苛立ったように、何時になく荒い足取りで。

 ハルカはその言葉を聞いて、恥じた。
 どれほどこの世界を現実として認識しようとしても、尚も「ストーリー」の存在する「フィクション」という考えが抜けない自分に気付いたからだ。
 そうだ。正しい選択など、きっとない。
 もしも自分がハンター試験に参加しなかったとしても、回りまわってどこかで誰かが不幸になっていたかもしれない。ただ自分がそれに気付かないだけで。
 それに、いつかどこかで……この選択が、誰かを幸福にするかもしれない。

 この世界は、描きあげられた絵じゃない。自分の存在がその絵を壊してしまうわけでもない。
 今もこの(せかい)は描かれている最中なのだ。
 そう考えると、抱えていた自責の念が少し軽くなった気がした。

 自分の選択に胸を張れ、か。
 そう言われると、「原作」なんて括りに囚われて、未来を知っているというメリットを活かすべく考えていた自分が、酷くちっぽけに思えた。
 「原作」の世界が果たして最善の未来を紡いだのか。それは判らない。
 だけど、もっと幸せな未来があるのなら……それを掴み取るべく努力をしなかった自分が、情けなかった。

「そうだね……もっと、頑張ってみるよ」

 既に「原作」からは乖離が始まっているんだ。
 今さら未来を知っているなんてメリットに固執することもない。
 なら、自分で考えて、自分で未来を掴んでやる。

 そして、自分の選択に胸を張れという先ほどの言葉を思い出して。
 その言葉は忘れないようにしようと、小さく口の中で繰り返した。

 ゴンとキルアの声が聞こえたのは、そのすぐ後だった。





「扉が五つ……こんなにも密集してるってのが、如何にも怪しいぜ」
「おそらくこのうちのいくつかは罠……」
「だろうな」

 ゴンとキルアが言うには、扉は一度しか開かないらしい。
 扉は一人一つ。全員が別々の道を進む必要がある。
 それすなわち……罠にかかったとしても引き返すことは出来ないということだ。
 とはいえ、この扉のいくつが罠か、そして待ち構えているものがどのようなものかも判らない。さらには他の扉を探した方が安全だという保証もないのだ。
 結局、罠にかかったとしても恨みっこなしということでこれらの扉を選ぶことにした。
 だが、根本的な問題が一つある。

「私たちは六人いるが……どうする?」

 扉は五つしかないのだ。
 誰か一人は別の道を進まなければならない。
 全員が顔を見合わせた。

「……まぁ、妥当にじゃんけんで決めよーぜ」
「そうだな。これもまた恨みっこなしだ」

 運も実力のうち。
 そういうことだ。

「いくぞ、せーの、じゃーんけーん―――」

 ……で

「それじゃあ、ここで一端お別れだ」
「一・二の三で全員行こうぜ」
「地上でまた会おう」

 大会の決勝でまた会おう、的なノリで彼らは一時の別れを告げている。
 もっとも、この試験自体が大会のようなものだ。あながちそれで間違っていないのかもしれない。
 ならば負けた私は、さしずめ予選落ちの敗残者といったところか。そんな風にアゼリアはぼんやりと考えた。

「アゼリアも、また下でね」
「扉くらいさっさと見つけてきなさいよ!! と、ツンデレ風に言っておいてあげるわ」

 私の不運はこんなところでも健在なのか、最初に出した手はパー。他のみんながチョキだった。鮮やか過ぎる一発敗退だ。
 心配は、ある。ハルカを一人にして大丈夫なのかという思いは強い。だが、ここは同じように別れを告げよう。自分の選択に自信を持てと私が言ったのだ。ならば彼女の選んだ道を信じようではないか。
 そう考え、力強く別れを告げる。

「みんなも、下で会おう」
「おう」
「それじゃ」
「一」
「二の」
「三ッ!」

 そうして、五人の姿は塔の中へと消えて行った。

 風が吹き抜ける。
 なんだか急に寂しくなったような気がした。
 昔は一人でいることが当たり前だったのに……

「ふぬけたのか、それとも成長したのか……どちらなのかな、私は……」

 答えは、出そうにない。
 アゼリアは唇にそっと触れた。
 そこにはまだ、昨晩の熱が残っているような気がした。
 それが不快でなく、むしろ胸が温かくなる。その気持ちだけは確かだった。

「……どちらでもいいか」

 今言えることは、私が変わったということだけ。
 それが良いのか悪いのか、判断を下す必要などないだろう。いずれ、結果が私に降りかかるその日まで。
 ブルブルと頭を振って、周囲を見渡した。
 残りは……十七名。
 すでに半数以上が脱出している。
 急がなければならない。全員分の隠し扉があるとは限らないのだから。

「いや……扉を使わなくてもいいか?」

 塔の壁面に行く。
 見下ろすと、地面までの距離は……まぁ、天空闘技場よりは低い。
 この程度の高さならば、問題はない。
 空気があるならば、そこは私の道となる。

「……ヒソカもいないな」

 念のため確認しておく。
 あんな奴と関わりたくないしな……
 さて、それではと念を発動して―――

「お先に」

 ―――塔から身を投げた。





 円を描くように作られた、片側が崖に面した山道を、一台の車が走っていた。
 黒塗りの、見るからに高価そうな車だ。
 黒塗りの窓からは中が伺えず、如何にもその筋(・・・)の人間が乗っていると看板を背負って走っているような車だった。
 多くの人間は、それを見れば道を譲る。誰だって厄介事に巻き込まれたくはない。
 故にその道程は、あまり広くない山道といえども楽なものだった。
 運転手を務める男がどこか退屈そうにしているのも頷ける。

 そんな車の対向車線を、一台の大型車が走ってきた。
 危険物運搬中を示す標識を付け、タンクを背負っている。
 何故こんな山道を? と思うが、運転手はすぐに考えるのを止めた。自分には関係ないことだし、今回もまた相手が道を譲るだろうと考えたからだ。
 彼は何故休日返上でこんな任務を、と心の中でぼやいた。
 ルームミラーで後部座席を見ると、そこにはまだ十を過ぎたかどうかというくらいの少年の姿が見える。
 なんでも、組の相談役の息子らしいが……その子を港まで連れて行けと上司から命令されたのだ。体のいい子守りとも言う。
 仲間たちと麻雀をする予定だったのに……こんな子守をさせられるなんて、とんだ貧乏くじだ。
 はぁ、とため息を吐く。
 せめてさっさと終わらせて、飲みにでも行こう。
 そんな風に考えていたのだが……

「ッ!!? お、おいッ!?」

 タンカーは道を譲ることなく、むしろ速度を上げてこちらに向かってくる。
 中央線をまたぎ、車線を越えて、道を塞ぐように。
 慌ててハンドルを切ろうとするが、気付いた時にはもう遅い。
 声にならない悲鳴を上げ、二台の車は崖下へと落ちて行った。



 そしてその様子を見ている二人の人影があった。
 事故の起きた場所から二キロ以上離れた場所から双眼鏡を覗いている。
 片方の男が双眼鏡から眼を離し、もう一人に話しかけた。

「……殺ったか?」
「あの状況だ。生きてるとは考えられんが……一応、死体を確認しなければならない。行くぞ」
「へいへい……本人と確認できればいいがな」

 車を飛ばせば、十分もしないで現場まで辿り着いた。
 タンカーを運転していた男は、多額の借金を背負っていた運送会社の社長だ。
 返済が不可能になったから、生命保険を懸けて死んでもらうことになった。
 そのついでに、事故を装って一人の少年を殺させた。
 何故殺さなければならないかは知らされていない。だが、組の副首領の命令だ。下っ端の兵隊は、命令に従っていればいい。
 絶対に、確実に殺せと言われていたので、念のためにタンカーにはガソリンを積んでいた。
 それが引火し、車の周囲は燃え盛っていた。あと数分もしないうちに騒ぎになり、消防が到着するだろう。

「うえー、滅茶苦茶だな、こりゃ」

 車の中では、明らかに少年と判る人影が炎に包まれていた。
 肉の焦げる異臭が漂う。
 死体など見慣れている男たちにしても、その匂いはあまり慣れるものではない。

「とりあえず、これでオッケーか? さっさと帰りてえ」
「同感だな。とりあえず、こいつが人間ならこれで生きてるなんてことはないだろうさ」
「ハッ……化け物なんかだったら、任務失敗しても許してくれらぁな」
「まぁ、問題ないだろう。騒ぎになる前に行くか……」

 遠くからはサイレンの音が聞こえてくる。
 長居は無用だ。二人は急いで車に乗り込むと、その場を立ち去った。

「ところでよ」
「ん?」
「さっき殺したガキ……なんで、ヴァレリーさん自ら、絶対に殺せなんて厳命下したんだろうな」
「……余計な詮索は身を滅ぼすぞ」
「まあな。だが……なんか知ってんだろ?」

 ハンドルを握った男は、軽く溜息をついた。
 年の離れた兄が組の上部にいるため、確かにいろいろな噂が入ってくる。
 今回のことの顛末についても、聞きかじった程度の情報ならばあるが……

「な? 誰にもいわね―からさ。こっそり教えてくれよ」

 本来ならば、そんな他人に話すべきことではないが……この友人は、気になったことは判るまで気がすまないのだ。
 話さないとずっと騒ぎ続けるだろう。
 それに、そんな性格だが口は固い。実際、話さないと言ったことは自分の中にとどめておく。
 男は仕方が無い、と少しだけ話した。

「これはあくまで噂だぜ」
「おう」
「……さっき殺したガキ、あいつ、アレッサンドロさんの息子らしい」
「ハァッ!? マジかよ……随分な大物が出てきたな」
「ま、詳しいことは俺も聞いてねえからしらねーんだけどよ。今上の方はかなりやっかいなことになってるじゃねーか。きっとその関係だろうぜ」

 話を聞いた男は、勘弁してくれとばかりに肩を竦めた。
 上が争いを起こすと、割を食うのは下なのだ。
 今回の殺しだって、もしもヴァレリーの命令で殺したことが誰かにバレたならば、上は尻尾切りに自分たちを見捨てるだろう。
 いつだって損をするのはこちらだ。
 二人はそう言って、揃って肩を落とした。





『―――きっとその関係だろうぜ』

 通信機から聞こえてくる声に、自室でカーティスはクツクツと笑いを噛みしめた。
 全てが計算通りに推移し、舞台が完全に整ったことをカーティスは確信したからだ。

 サンジの子であり、ヴァレリーの異母兄弟でもあるクヌートが外出する情報を情報屋に流したのはカーティスの手の者によることだ。
 この情報にヴァレリーはきっと食いつくと考えていて……事実、その通りになった。

 以前カーティスがヴァレリーに招かれた際に、彼がクヌートのことを知っていることをあっさりと敵側に知らせた理由は二つある。
 一つは、情報の裏付けが完全には取れなかったこと。
 何せ、一大ファミリーのトップ3がこぞって秘密にしようと情報を統制しているのだ。いかに優れた情報屋であれ、そうそう真偽を確かめることは出来ない。
 だが、それならば他にもやりようはある。裏付けを取りたいならば、真実を知るものに聞いてみればいい。
 よってカーティスはヴァレリーの反応からその見極めをしようとしたのだ。

 二つ目は、クヌートの存在を餌に使った釣りだ。
 組を継ぐ権利を持つ者が二人になったとて、それだけではまだイーブン。派閥の勢力は拮抗しているし、むしろ副首領という地位を持つヴァレリーが組を継ぐ可能性の方が高いくらいだ。
 ならば、その形勢を傾けるだけの状況を作らねばならない。
 ヴァレリーの方から手を出したという事実さえあれば、後は自らの正当性を訴えることが出来る。
 紙より薄っぺらな正義という言葉は、しかし組織というモノと絡み合った時に大きな力となるのだ。

 その目論見は……成功だ。
 すでにあの男たちの会話は録音してある。
 後はこれをサンジたちに聞かせるだけでいい。
 ヴァレリーは、相談役の息子を殺そうとした者として後ろ指を刺される。
 そして自分は、辛くもその企みを阻んだ者(・・・・・・・・・・・・)として支持を得る。

「くっくっくっ……」
「何かありましたか、カーティスさん?」
「いえいえ……ただ、局面が私に有利になったということです」
「……? ボクの方が勝ってるように見えますけど……?」

 眼前のチェス盤を眺めて、クヌートは少年らしい無邪気さで首をかしげた。
 その身には傷一つない。
 車に乗っていて、炎に包まれて死んだと思われたクヌートがそこにいた。

 ―――『悲鳴楽団(オーケストラ)』解除。

 カーティスは盤面を眺めながら、遠く離れた山の中でクヌートの姿をした人形がオーラに戻るのを感じた。
 『悲鳴楽団(オーケストラ)』、は念人形を作り、操作する能力だ。
 外見的な精巧さ、及び動作の複雑化に伴いオーラの消費は増えるが、その気になれば百体以上の人形を同時に操ることも出来る。
そして、対象となる人物の髪の一本でもあれば、外見だけならば忠実に再現することが出来る。
その違いに気付けるものはほとんどいないだろう。今回の事の顛末に気付ける者もまた……
カーティスは酷薄そうな笑みを浮かべ、盤上の次の一手を指した。

「……あ」
「ふふふ……クヌート君、憶えておきなさい。盤上の戦いでは、相手よりもさらに先の手を読むことこそが重要なのですよ」

 カーティスは得意げに嘯く。
 今度は自分が攻勢に転じる番だ。
 相手の撃つ手は何通りか予想出来る。だが、これからは搦め手や陰謀よりも、正面からのぶつかり合いだ。それまでに場を整えてきた自分の方に勝ちの目がある。
 彼は嗤った。
 心底おかしくてしょうがないという笑みだった。

「……いえ、これだとそこのナイトが落ちて、ほとんどボクの勝ちです」
「はははははははっ…………は?」





 多数決の道……そこでは行く先々での選択を全て多数決で決定しなければならない。
 不和と決裂。合理的に見せかけた少数者意見抹殺のこの仕組みに飲み込まれては、その先にゴールはない。難易度の高いコースだ。
 だがハルカたちは現在のところ特に争いもなく道を進んでいた。多少なりとも気心の知れた間柄、数年来の知り合いというわけではないが、互いの信用は築けている。
 そして、底の見えない深い堀に囲まれた闘技場のような場所に出た。
 対岸には、ローブを被り手錠を嵌めた男たち。

「我々は審査委員会に雇われた試練官である!! ここでお前たちは我々五人と闘わなければならない!!」

 手錠を外された一人の男が言う。
 彼らと闘い、勝たねば先に進むことはできないのだ、と。

「それではこの勝負を受けるか否か!! 採決されよ!! 受けるなら○を、受けないなら×を押されよ!!」

 無論、五人に迷いはない。
 全員が○を押し、試練官との戦いが行われることになった。
 敵の一番手は、ただ一人ローブを脱いだ男、ベンドット。
 鍛え上げられた肉体と頭に残された傷痕が、彼が決して素人ではないと物語る。
 ならば、こちらは誰が一番手として行くか……

「それじゃ、私行くわ」
「ハァッ!?」

 あっさりと手を上げたハルカに、レオリオが素頓狂な声を上げた。

「な、なによ。悪い?」
「おま、悪いも何も……本気か?」
「もちのろんよ」

 ハルカは当然だと頷いた。
 トンパの代わりに自分がいるならば、ここは自分が一番手として出るのが良い。
 負けたところで最終的には何とかなるのだし、他の組み合わせになったときに必ずしも全員が無事とは限らないからだ。
 というよりも、ここでキルアが下手にやる気を出して一番手として出たとき、五番手で出てくるジョネスに対抗できる人間が多分いない。
 ゴンやクラピカとて現在では真っ向勝負は厳しいだろうし―――現在のキルアと彼らの間には圧倒的な戦闘力の差がある。フリーザと初期ベジータくらい違う―――レオリオは論外だ。
 自分は念を使えるのだから、大丈夫かもしれないが……アゼリアに念は絶対ではないと口を酸っぱくして言われているし、ジョネス相手に下手を打ってデッドエンドなんて洒落にならない。
 よって自分が行こうと思ったのだ。

「やめとけって。あいつ、おそらく元軍人か傭兵だよ。どう考えても勝ち目はないぜ」
「む、キルア君……私が弱いと思っているのかな?」
「どう見ても弱そうじゃん」
「ムカ……」

 ハルカの額にピシっと青筋が浮かんだ。
 デリカシーのない子供はこれだから……とぼやく。

「こう見えても私結構強いよ。任しときなって!」
「はいはい。いいから止めとけ。どうせ負けるだろうし。てか、オレが行くよ」
「それはダメ!!!!!!!」

 一瞬で浮上した誰かの死亡フラグに、ハルカは必死で制止の声を出した。
 キルアは何故そんな反対されるのかも判らずにびっくりしている。

「な……? なんだよ、いきなり大声出して……なんかオレが出ると困ることでもあんのか?」
「え、えーっと……そう! キルアは五番目!! オオトリ!! そう決めたの!!」
「ああ? なんでだよ」

 後回しにされて、如何にもキルアは不機嫌そうだ。
 だが、何故かと聞かれてハルカは上手い言い訳を思いつかなかった。
 仕方なく、ぼやかして真実を伝えることにした。
 ジョネスの姿は、フードに隠されて誰が彼だか判らない。
しかしオーラを見れば、念使いでないにも関わらず邪悪な彼のオーラは一目瞭然だった。
 その人影を指差す。

「あそこにいる奴……あいつ、一人だけ凄い嫌な感じがする」

 キルアも彼に眼を向ける。
 その圧倒的な感性は、精孔が開かれていなくとも、そして敵の姿を認めていなくとも、滲み出る血の匂いをかぎ取ったのだろう。
 ハルカの言葉が適当ではないと知ったキルアは、軽く嗤った。

「なるほどな……あいつをオレにやれ、と」
「不満?」
「いや……面白そうだ。いいぜ」

 楽しげに、猫のような笑みを浮かべて引き下がるキルアを見て、ひとまず死亡フラグは回避したとハルカは胸を撫で下ろした。
 しかし、だからと言ってハルカが一番手に出ることが認められたわけではなかったようだ。
 レオリオとクラピカにまで強く反対された。

「んじゃオレが行くよ」
「よし行けゴン!」

 ビシっとゴンを指差すレオリオ。
 伸びてきた通路をひょいひょいと渡ってしまい、ハルカは出遅れた。

「何よ! 皆してひとのこと馬鹿にして……! じゃあ、次は絶対私が行くからね!!」
「あー、判った、判ったよ!」

 見くびられていることにハルカは少しムカついていたが、内心ではまあいいかと考えていた。
 ゴンの相手だったのは、蝋燭の芯に油を仕込ませておくだなんていう、有効だがセコイ手を使っていたセドカンだ。
 攻略法も判っているのだから、大勢に影響はないだろう。
 そう考えているうちに通路は収納され、リングの上には彼ら二人だけが残された。

「さて、勝負の方法だが……オレは、デスマッチを提案する」

 レオリオとクラピカの顔に緊張が走る。
 この試験がまさしく命を懸けたものなのだと、そう思い知らされた。

「一方が負けを認めるか、または死ぬまで―――戦う!」

 彼の声には、怯えも緊張もない。
 命を奪い、そして自らの命を危険にさらすことにすら慣れた者が持つ凄味。それがある種の重圧ともなって場にのしかかる。
 だが……そんな空気をまるで感じていないかのように、ゴンはあっさりと聞いた。

「参ったって言わせればいいの?」
「あ、ああ……それでも良い」
「ん、判った!」

 拍子ぬけしたようにゴンを見つめるが……そこには強がりも、気負いすらも見いだせない。
 要するに、頭が緩いんだな……
 そんな風にベンドットは考え、身構えた。

「それでは―――」

 ゴンも相手を見据え、走り出す体勢を作る。

「―――勝負!」

 猛然と駆けだすベンドット。
 その眼が大きく見開かれ、さらには白眼を剥くのは、その直後のことだった。





「うわぁ……」

 ハルカは目の前の試合を見て、思わず眼を覆った。
 ベンドットは哀れにも倒れ伏し悶絶している。
 その横では申し訳なさそうにゴンが謝っていた。
 敵ながら思わず同情してしまう。

 まぁ、何があったかというと、だ。
 開始の合図と同時に両者がダッシュした。ここまでは良かった。
 格闘訓練を受けていたベンドットは、体格差から楽に組み伏せられると思ったのだろう。足を止め、ゴンが突っ込んでくるのを待ち構えた。カウンターの一撃でも叩き込もうと考えたのかもしれない。
 しかしここで彼にとって誤算があった。
 ゴンの瞬発力とダッシュ力は、彼の予測をはるかに超えていたのだ。
 突っ込んでくるゴンに対し、満足に体制を整えることなく迎え撃ってしまったこと。これが一つ目の不幸。

 二つ目の不幸は、ゴンは格闘の訓練などうけていない、言うならば本能のままに相手を打倒する才能の持ち主だということ。
 純粋な体術ならばベンドットの方が勝っていただろう。それはまたゴンも感じ取り、自分に分のある瞬発力で勝負しようと本能的に判断した。
 すなわち……ダッシュの勢いをそのままに、やったのだ。頭突きを。
 ちょうどネテロ会長にやったみたいに。
 そんな予想外の選択を取られたこと。なまじ経験があったために対処できなかったこと。これが二つ目の不幸。

 そしてこれが最大の不幸で、今彼が悶絶している理由なのだが……
 ゴンのロケット頭突きが、当たったのだ。
 どこって……その、男性が切なくなる部分に。
 自分には判らない痛みだが……まぁ、数多くの小説での描写と、目の前の惨劇から、あれは酷いとハルカは内心唸った。

「ゴメン! 本当にゴメンなさい!!」

 ペコペコと謝るゴン。
 唸りながらベンドットは立ち上がろうとするが、あまりの痛みに涙が浮かんでいる。
 必死に立ち上がったが、生まれたての小鹿のようにプルプルと震える足が痛ましい。

「え、えーっと……続けるの?」
「あ、当たり前だ! この程度……ほわぁっ!」

 相手の言葉を遮って、腰の辺りに軽く蹴りを撃ち込むゴン。
 震動が届いて痛むのだろう。ベンドットは再び倒れ、悶絶した。

「ゴン、きちく……」

 ベンドットが参ったというのに、それからさして時間はいらなかった。





 なんとも微妙な、痛ましい空気の流れた第一戦。
 最後の矜持なのか、今にも穴の底に落ちそうになりながらも誰の手も借りずにベンドットは歩いていき、壁に背を預けた。

「チッ……何の役にもたたねぇな。俺たちの恩赦、どうしてくれるんだよ」
「うるせえ……てめえが働いてから言いやがれ」

 ベンドットは悔しそうにそう返す。
 それを耳ざとく聞き咎めたクラピカが、彼らが恩赦と引き換えに試練官の役目を負っているのだと告げた。

「ゴン、お前危なかったなー。下手に長引いたら、捕まって喉潰されて、ずーっと拷問されてたかもしれないぜ」
「うわ、それヤダなぁ……」
「んで、次ハルカ行きたいって言ってたけど、それでも行くの?」
「当然よ」

 この話を聞いても行けるって、案外度胸あるなぁ、とキルアはひそかに感心した。
 一応相手を見ておく。次の試練官はどうみても肉体派ではない。
 大丈夫だろ、と行かせることになった。

「さて、ご覧のようにぼくは体力にあまり自信がない。単純な殴り合いや跳んだり走ったりは苦手なんだけどな」
「つまりは引きこもりってことね」

 ひく、と試練官―――セドカンの顔が引き攣る。
 だが風貌的にはセドカンはその言葉を打ち消せそうにない。

「ま、まぁ、ぼくは頭脳派なんだよ。で、簡単なゲームを考えてみたんだけど、どうかな」

 提案されたのは、互いに蝋燭を同時に燃やし、火が消えた方が負け。
 それをハルカはあっさりと承諾した。

「さて、それじゃあ……長い蝋燭と短い蝋燭、どちらがいいか多数決で決めてもらおう」

 不自由な二択……あからさまにどちらか一方には罠が仕掛けられている。
 考えだせばキリがない。
 出された結論は……実際に勝負の場に立つハルカに選択を任せる、というものだった。

「じゃあ長い方ね。あれこれ考えても仕方ないし」

 答えはどちらも罠……セドカンは内心ほくそ笑む。
だが、答えを知っているハルカはそのセドカンの内心を想像し、笑いを堪えるのに必死だった。

「それじゃあ、同時に火をつけよう。ゲーム……スタート!」

 互いに同時に火を付け、ゲームの開始が宣言された。
 そして、勢いよく燃え上がるハルカの蝋燭。

「お、おい! ハルカの蝋燭、明らかに奴のより火の勢いが強いぜ!!」

 レオリオが焦った声を上げる。
 力強い炎は、ほんの数分で蝋燭を燃やし尽くしそうな勢いであった。
 だが、ハルカは慌てない。
 計算通り……! そう笑いながら、地面に蝋燭を置く。

「火の勢いが強いってことは、ちょっとの風じゃ消えないってことね」

 そして、足にオーラを集め、飛びだした。



 ここで時間は少し遡る。
 それはセドカンがこの試練官としての準備をしていた時の話。
 警察署長のリッポーに内容を説明し、必要なものを届けてもらうよう依頼した。
 そして届いた油と蝋燭。二本の蝋燭の芯に油をたっぷりと染み込ませ、そこでセドカンはふと思った。
 もしも相手が何らかの手段でこちらの火を先に消そうとしたら?
 相手の蝋燭が燃え尽きるのを待っている間に、負けてしまうかもしれない。
 ならばもっと確実を期すべきではないのか……

 幸いなことに、自分の得意分野でその対策は打てる。
 むしろご無沙汰だった感覚が鎌首をもたげて、その考えがとても魅力的に感じられた。
 早速リッポーに追加で必要なものを依頼するセドカン。
 届いたそれを、喜々として蝋燭に仕込んでいった。



 念の強化により、かなりの速度で飛びだしたハルカは、後ろから聞こえた音に思わず足を止めた。
 爆竹を何倍かしたような音が響き、見ると蝋燭が無くなっている。
 あれ? と思ってセドカンを見ると、彼はしてやったりと言った笑みを浮かべ、飄々と言ったのだった。

「あ、蝋燭が無くなっちゃったね。じゃあ、僕の勝ちかな」

 何が起こったのか、ようやく理解したハルカは頭を抱える。
 こんな……下らないことで……

「な、なんでよーーーーーっ!!」

 セドカン……懲役149年。
 罪状は、大量の器物破損と傷害罪、及び殺人罪。
 かつての称号は、連続爆弾魔である。










〈後書き〉

新年あけましておめでとうございます。三が日の間にアップできてよかったと思う今日この頃。
牛のように食っては寝をしていたら、お肉がぽにょです。

今回の最後のあたりは、ハルカは結局うまくいかない、ということがテーマです。
むしろ女の子がトンパの代わりにいたら、セドカンと当たることになりそうな気がしたので、勝敗をイーブンにするためにもこうなりました。
なんでセドカン油仕込んだだけなんだろ、爆弾魔なのに。という考えも含まれています。

原作沿い……ほとんどが原作と合致しているような部分を書くのが辛いです。展開上説明しなければですが、原作読んだ方が面白さが伝わるのならば、何も描写する必要が? と考えてしまうことが多々。
ハンター試験編はあまり変化が出ませんが、ヨークシン編はいろいろ変える予定。早くそこに行きたいな~。
それでは、またの更新の時に。



[3597] 怖れるモノ
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/01/25 02:22
 風が吹いた。
 頬を撫でるように、ふわりと。
 優しく、柔らかく。
 それでいて冷たい風が自分の体を通り抜けたように感じた。
 そうとしか、感じられなかった。

 いつの間にか目の前からいなくなっている、自分の「獲物」
 自分の手で羽を毟られ、翼を捥がれ、地に堕ち、そしてその囀りで自分を楽しませる筈の小鳥。
 それが消えている。
 何か、重大な喪失感。
 胸が空っぽになってしまったような感覚。
 それはきっと、獲物を逃したからとかそんなことじゃなくて、きっと……!
 胸から僅かに零れる赤色は……!!

 振り向く。
 小鳥を、見つける。
 小鳥だったナニカを、見つける。
 その小さな手の上には―――赤い実が……
 未だ脈打つ、赤い、赤い、心臓が……!!

「か、かえ……」

 伸ばされた亡者の腕は、届くことなく地に落ちる。

 ジョネスの眼に、最後に飛び込んできたのは……ネズミを前にした猫のような、残酷な笑顔。
 小鳥の皮を被ったバケモノが、鋭い牙を覗かせて、赤い実を租借するところだった。

 ―――ぐしゃり





『この部屋で五十時間過ごしてもらえば先に進めるドアが開くので待っていたまえ』

 与えられた部屋には数日分の水と食料、そしてボロボロのソファーとクッションがいくつか。ついでに暇が潰せるよう適当に見繕われた本があった。
 ハルカはシャワールームが無いことに憤っていたが……ここで時間が過ぎるのを待つしかない。
 みんなそれぞれに時間を潰すようだ。
 レオリオはソファーに座りこみ、昨日の寝不足を埋めようと寝息を立てている。ハルカもまた疲れていたのか、部屋の隅にクッションを集めて横になっていた。
 私もまた部屋の片隅に腰を下ろし体を休めるが……瞼の裏には、先ほどの光景が焼き付いて離れない。
 堪え切れず、問いかけた。

「キルア……さっきの技はどうやったんだ?」

 小説の類を読んでいたキルアは、私の問いになんでもないことだと答えた。

「別に技ってほどのもんじゃないよ。ただ抜き取っただけだよ」

 ただし、と間をおいて―――キルアの掲げた右手は、爪が鋭く伸び、収縮した筋肉が鋼のような強靭さを見せつける。

「ちょっと自分の肉体を操作して盗みやすくしたけど」

 あり得ざる絶技に絶句する。
 肉体の研磨……もはやそういう領域ではない。あれは、肉体を改造しているというべきだ。
 そんな私の驚きを平然と受け流し、キルアは自信に満ちた声で言った。

「殺人鬼なんて言っても、結局アマチュアじゃん。オレ一応元プロだし……オヤジはもっと上手く盗むぜ。抜き取る時、相手の傷口から血が出ないからね」

 ニヤリと擬音が付きそうなその笑みに、私は背筋が寒くなる。
 確かに、頼もしい限りだ。
 あくまで、味方のうちは、だが……

 そんな空気を敏感に察知したのか、キルアはこちらを向くと嗤った。

「怖い?」
「っ? い、いや……」

 否定の言葉は本心だ。キルアは既に友人。その彼が多少高い戦闘力を抱いていたからと言って、恐れる理由などない。
 だが、もしも彼と敵対することになったならば……自分は生き残れるのか。それを考えたとき、僅かに心が揺らいだこともまた事実だった。

「ま、安心しなよ。オレは殺しなんて好きじゃないし。それにもうプロじゃないしな。頼まれてもあんたらを殺ろうなんて思わないよ。そっちから手を出したりしない限りは」

 不敵な笑みと、それに相応しい威圧感に……私は僅かに手を強張らせてしまった。
 そのことが、屈辱で……また、恥ずかしかった。
 自分の心の弱さと、何よりキルアをがっかりさせたのではないかと。
 だから自分を奮い立たせるように、そして冗談に聞こえるように、出来る限り余裕のある調子で言った。

「ふ……ありがたい限りだな」
「……なんだ、脅かしがいねーなー。ま、こんなんでビビられたらそれはそれでがっかりだけどさ」

 キルアはつまらなそうに、しかしどこか嬉しそうに言った。
 感じていた威圧感はあっさりと霧散する。
 彼はホッとした様子で頭を掻いた。
 私は……どうやら試されていたらしい。

 これはキルアなりのテストだったのだろう。闇の世界に住んでいた者なりの、人間の見極め。
 己の力を、闇を恐れるか否か。
 そこにあるのは、僅かな遊び心。そしてきっと、彼らが身を護るための術。
 あまりに恐れの強い者は、へりくだり追従するだけのつまらない者となるか、いずれ牙を剥く。
 そんな人間と共に居ることは、辛い。

 キルア自身もきっと怖かったのだろう。
 自分自身を拒否されること。それは、何よりも辛い。
 なんでもないことだと言いたげな表情を作りながらも、キルアはどこか嬉しそうだ。
 それを見て、私の胸もまた軽くなった。

「―――私は合格か?」
「んー、ま、及第点? 考えてみりゃ、あいつと一緒にいる時点でこの程度じゃビビらないか」
「……アイツ?」
「え、アゼリアのこと……なんだ、気付いてなかったの? 俺と同業者だよ。クラピカなら気付いてると思ったけどな」

 なーんだ、とキルアは呆れたように言う。
 考えてもみなかったことを告げられ、私の心は驚きで満ちた。

 だが、心のどこかでは納得もしていた。何しろ、ヒソカと渡り合うことの出来る実力者だ。
 むしろまともな仕事をしていた方が信じられない。

「キルア、ほんとうに?」
「ま、ゴンが気付いているとも思わなかったけどさ。オレと同じ臭いがするからなー。多分、間違いない」

 私では知りえない世界。
 これから、いやでも関わることになるだろう世界。
 そこの住人だからこそ判る感覚らしかった。

「ま、オレも家族以外で同業者見るの初めてだけどさ……オレはアイツ苦手だな。隙無いくせに、なんか隙だらけっぽくてよく判らないし……それに、なんか見ててイライラすんだよね」
「え、いい人だよ?」
「ま、いい奴だとは思うけどさ。苦手なもんはしょーがねーよ。なんでイライラすんのか、自分でもよく判らねーんだけどな」

 キルア自身も自分の気持ちを持て余しているようだ。
 ゴンの言葉に一応の同意はするものの、その思いはなくならないらしい。

「そうだなぁ、強いて言うなら……」

 ふーむ、と顎に手を当て、キルアは考え込んだ。
 己のその苛立ちに付けるべき名を。

「―――同族嫌悪?」





 三次試験の開始から七十時間以上が経過した。
 現在、一階の広間では二十名の合格者が各々身体を休めている。
 私もまた他の者たちと同様に壁を背に身を休めていた。

 開始四十五分。他の追随を許さない最速タイムで合格した私は、この三日間のほとんどをここで過ごした。
 塔の内部を通ってこなかったので不合格かもと一瞬危惧したが、試験官は地上まで降りてくることとしか合格条件を定めていない。一応、塔の外部を通るルートも想定されていたらしく、きちんと合格第一号が言い渡された。
 だがそれも失敗だったかと思う。時間切れいっぱいまで塔の頂上で過ごすべきだったか……

「❤」

 数メートル隣で機嫌良さそうにトランプタワーを作っている男のことを出来る限り意識から締め出す。
 それでも、視姦されているかのような寒気はずっと付きまとった。

 少し考えれば判ることだった。
 この男が、この程度の試験でつまずくことなどあるハズがないと。
 そして、必ずや早い段階で地上まで降りてきて……残る時間をともに過ごす羽目になる、と。

 無論、その予想は大当たり。
 私に続き地上に降り立ったのはヒソカで……私の平穏は五時間と経たずに消え去った。

 いや、表面上は……別に戦闘になったわけでも、殺気をぶつけられたわけでもない。
 今戦う気はないのか、ヒソカは特に何をするでもなくこちらを眺めていた。
 そして時折私に話しかけてきたり―――無論、無視した―――時にクツクツと嗤ったり……ただそれだけで、私の心的ストレスは莫大なものだった……
 早くハルカたちが下りてきてくれればいいのだが―――時間は残り僅かだというのに、未だに五人が出てくる様子はない。
 壁に掛けられた時計を確認すると、定められた時間までは……十五分。
 ここまで来ると不安も募る。
 時間が足りないというだけならば……問題はない。
 ハンター試験は落ちても、無事ならば別に構わない。
 だが、もしも……もしも、彼らが一人でも重傷を負っていたならば……

「ゴンたちは随分と遅いねェ……♠」

 そんな私の心を読み取ったかのように、ヒソカが呟いた。
 ねっとりと絡みつくような声音に不快になるが、相手にするなと自分に言い聞かせて眼を閉じる。
 だが、今までも無視され続けて、流石に暇だったのだろう。ヒソカは無視されていることも気にした風もなく続けた。

「キミたちはもともと知り合いなのかい? 随分と仲が良さそうだよね♣」
「……」
「ボクが見る限り、キミもこっちの世界の住人みたいだけど……その割には、九十九番以外は闇の匂いがしない♦ どういう繋がりだい?」
「……」
「彼らはみんな美味しそうだけど……ボクは特に、ゴンとキルアがいいね❤ キミはどう思う?」
「……」
「……えいっ❤」
「……ッ!」

 反射的に動く腕。
 その手には数枚のトランプがキャッチされていた。

「なァんだ、起きてるんじゃないか❤ お話しようよ♣」

 白々しい……と内心で毒づいた。
 ヒソカもいい加減退屈だったのだろう。三日もこんな何もない場所にいれば当然だが……迷惑な話だ。
 だが、手の中でパラパラとトランプを弄るヒソカを見て、私は溜息をついた。
 残りの時間をダーツの的にされるくらいなら、話の相手をしてやるほうがまだマシだ。

「私はお前と話などしたくないのだが」
「ボクがしたいんだよ❤ それにしても、やっと返事をしてくれたね♦」
「女性の誘い方を学んで来い」
「よく言うよ♠ 自分のことを女だなんて考えていないんじゃない?」

 まぁ、それは確かにそうだが……変態に言われたくはない。

「で、だ。ボクはさっきも言った通りゴンとキルアが一番好みなんだけど、キミも美味しそうだからね❤ 興味あるんだ♦」

 にっこりと釣り上った笑顔に、真面目に貞操の危機を感じた。
 変態め……そう吐き捨てるが、ヒソカは堪えた様子もない。

「念は独学かい? なかなかイイ線行ってるよ♦」
「……それはどうも。一応、師匠らしき者ならいる」
「へぇ……そのヒトも強いの?」
「今では私の方が強い」
「へぇ……今のキミでも、かい?」

 気味の悪い笑顔を張り付けて、ヒソカは意味深に言った。
 その含むような物言いに眉を顰める。
 何を言いたいのだろうか、コイツは……
 私の能力は、以前よりは確実に強くなっている。それは間違いない。
 だというのに、何故そんなことを言うのだろうか……
 何故―――私は言いようのない不安を感じているのだろうか……
 そんな私の心の揺らぎを楽しむように、ヒソカは言った。

「何をそんなに怯えているんだい? 人を殺すことが、そんなに怖いのか❤」
「……?」
「一次試験の時、キミと闘ってみて思ったことがある♦ キミの攻撃には、致命的なまでに殺気がない♣ ボクが感じたのは、恐怖だけだった♠」
「なにを……!」

 唐突な指摘に言葉が詰まる。
 その先を言わせるな、と本能が警鐘を鳴らす。
 しかしヒソカは言葉を止めることなく、むしろ批難するように続けた。

「キミからは強い血の匂いがするくせに、キミは殺すことにすら恐怖を感じている❤ 死にたくない。だけど、殺したくもない♣ そこに喜びも怯えもなく、淡々と作業をこなせるならば、それはそれで素晴らしい♠ でも、怯えて、怯えて、その迷いの挙句に手を汚すなんて、その矛盾はいつかキミを殺すよ❤」
「……まれ」
「怖いのならば逃げればいい♦ 何もかも捨てて、背中を向けて走り出すのならば、それも間違いではないだろう♣ あるいは壊れてしまえばいい❤ 倫理観も、世俗的な正義も、全てを捨て去って血に濡れれば、それはそれで楽しいさ♠ だけど、今のキミは無様だよ♦ 薄暗がりに留まって、怯えて謝って泣いて気付かないふりをして傷付いて最後には血を浴びるんだ❤」
「だまれ……」
「自分に対する嘘は、多くの不幸を呼ぶ♣ 断言するよ♦ キミのその選択は、誰も幸せにならな―――」
「黙っていろッ!!!!!」

 重機をビルに突っ込ませたような轟音がした。
 ガラガラと瓦礫が転がり、トリックタワーの外の森が目に飛び込む。
 ジンジンと痺れる右手と大穴の空いた壁面を見て、しかし私の胸には未だ激しい動揺と、怒り。そして息苦しさが渦巻いていた。
 そんなこと―――そんなこと、言われなくても自分が一番判っている……!!
 それでも、眼を向けたくなかったのだ……
 だから、それ以上を言うな―――!!

「くっくっくっ❤」

 ヒソカは、笑う。
 玩具を見て子供が笑うのと同じように、無邪気さを装う笑顔を張り付ける。
 いや、実際に彼は純粋で無邪気なのだろう。
 純粋に、イカレテいるのだ。

「いいね……そのチグハグさが、ある意味ではキミの魅力なのかもしれない……♠ だが、とりあえず、今のキミと殺り合うつもりは、全くない♦ キミが答えを出したとき、改めてデートを申し込むとしようか……❤」

 ヒソカは立ち上がって、私に背中を向けた。
 今はもう用はないと言うように。
 最後に、背を向けたまま一言を残して。

「これでもボクはキミに期待してるんだ♣ ボクを失望させないでくれよ❤」

 遠ざかる背中を見て、私はどう思ったのだったか。
 ほっと安堵したのか。
 それとも、悔しかったのか。
 後で考えなおしてみても、答えは出ない。
 もしかすると、その両方だったのかもしれない。

 ヒソカの残していった言葉が頭の中でなんども繰り返された。

 ―――キミのその選択は、誰も幸せにならない

 そんなこと、判っている。
 ああ、判っているさ、畜生……!!
 何度も何度も考えた!!
 だって、私は大切なたった一人(ヴィオレッタ)のためにこの道を選んだのに……
 人の命を犠牲に自分の命が助かったのだと知ってしまったら、彼女が喜ぶはずないのだから……

 胸の中に深く沈んだ、最も恐れていること。
 私のこの選択こそが、妹を最も傷つけてしまうとしたら……
 自分を傷つけて、他人を傷つけて、最愛の人をも傷つけて……
 もしもそうなら、私の生にどんな意味があるっていうんだ―――

「だからって、どうしろっていうんだ……」

 他に選択肢なんて無かったじゃないか……
 これが、自分の選べた一番マシな結果だろう?
 そうでも思わないとやってられない。
 そうでなければ、誰も救われない。

 三次試験終了を知らせる放送が響き、駆けよってくるゴンたちの姿が見えても、胸の痛みは消えなかった。
 うまく笑えていたかどうか、自信はない。





 (ファミリー)の屋敷、その中で自分に割り当てられた執務室の椅子に腰掛け、アレッサンドロは報告書に眼を通した。
 一通りを読み終え、疲れを一緒に吐き出すように溜息をつく。
 溜息を吐くと幸せが逃げるというが、幸せが先に逃げたのならこれはカウントされないかな、と馬鹿なことを考えた。疲れた眼を解そうと、眉間を揉みほぐす。

 全く以て厄介なことになったものだ。

 机の上に広げられたのは、事の発端となった書類と、一本のカセットテープ。そしてそれらに関する調査書。
 先日カーティスから提出されたものだ。

 副首領ヴァレリーが、相談役アレッサンドロの息子を殺そうとした。幹部カーティスがそれに気づき、未然に阻止。
 事の流れを簡単に言い表すならば、そういうこと。
 一般構成員たちの間ですら既に噂として広まりつつある。

 組織の大物同士のいざこざだ。
 ヴァレリーは何か正当な理由を発表することが出来なければ避難を受けることになるだろうし、カーティスはこの功績でさらに勢力を増すだろう。
 昨今の組織内部に様々な問題が生じてきたことはアレッサンドロも知っている。
 そこに油を注ぐかのようなこの出来事。
 偶然と考えるほどおめでたい頭を彼は持っていない。
 誰かがこの組を引っ掻き回している。

 そもそも、本来ならばヴァレリーが彼の少年を殺そうとすること自体が考えられないのだ。
 アレッサンドロの息子とされているが、その実態は、ボスであるサンジのもう一人の息子。そのことが明らかになれば、組の次の首領にと担ぎあげる連中が必ず出てくる。
 ヴァレリーにしてみれば、あの少年は波風立たずに忘れ去られてくれることがベストなのだ。わざわざ自分から火をもう一度灯す必要などない。
 だというのに、何故このような事態になったのか。

 さらにもう一つ、見過ごせないことがある。
 組の幹部レベル、およびその周辺で、今回暗殺されそうになった少年が「ボスの息子」なのだという噂が流れているのだ。
 それは静かに、しかし確実に、人々の間に浸透していっている。

 その事実を知っているのは三人だけのはず。
 自分が誰かに話したことはない。
 そしてヴァレリーが誰かに話すことも考えられない。彼にとってのメリットがないのだ。
 ならば残る一人……ボスが?

「……結論は出せない」

 結論を出すには情報が足りなすぎる。
 アレッサンドロは部下に調べさせた最近の組の内部の動向を見なおして、再び溜息をついた。
 だが、今回の一連の騒動はあまりにもきな臭い。
 まるで、出来の悪い脚本の上で踊らされているようだ。このまま放置しては、組を内部から腐らせてしまう。
 まずは、知られるはずのないボスの息子のことを、誰がどうやって知ったのか。
 その情報の出所に、答えがあるような気がする。

 だが、現在でも部下に情報は集めさせているが、それでも元々マフィアというのは情報戦や探偵じみた行いが得意な人間ばかりではない。むしろ苦手な奴の方が多いくらいだ。
 どうやっても、そうしたことへの人手は量も質も足りない。

「……蛇の道は蛇。探りを入れてみるか」

 情報が欲しいならば、その専門家を使うべきだ。
 アレッサンドロは備え付けられた電話を手に取り、随分と前に使った番号を入れた。
 コール音が鳴りだす。
 相手はヨークシン周辺の出来事に関しては並ぶ者がいないとさえ言われる情報屋だ。
 姿を見たことはなく、態度もどこかふざけた感じの奴だが、少なくともその肩書きに偽りはない。
 そいつに探りを入れてみることは決して無駄にはならないだろう……

 数度の呼び出しの後、電話が取られた。
 聞こえてくるのは、変声機越しの妙な声。相手が誰だか、その正体は判らない。
 ただ、相変わらずふざけた態度のやつだ、と思った。あるいはそれが素なのだろうか……

『ど~も~、こちら情報屋のエスっす! はい、ご用件は何っすか?』

 どこかで聞いた気もするんだがな……
 そんなアレッサンドロの考えは、浮かんですぐに消えた。





 時間ぎりぎりに滑り込んだ五人と再会すると、三次試験の試験官であったらしいパイナップル頭の小男がやってきた。
 三次試験の合格者は二十七名―――そのうち一名は死亡しているので、実質は二十六名か。
 タワーを出た順にくじを引かせると、彼は四次試験の説明を開始した。

 カードに書かれたナンバーのプレートがそれぞれのターゲット。それが三点。
 自分自身のプレートも三点。
 その他のプレートは一点。
 四次試験の会場であるゼビル島での滞在中に六点分のプレートを集めれば合格だという。

 戦闘力、体力、持久力。自分で食糧や水源を確保出来るサバイバル能力。さらには情報を集める能力。
 すなわち『狩り(ハント)』に必要な能力を総括的に問われる、難易度の高い試験だ。
 ゼビル島へと向かう船の上は重苦しい空気が漂い、みな視線を外し、情報を遮断しようとしていた。

 私もまた、一人で甲板の隅に腰掛け、海風を頬に受けていた。
 ヒソカに言われた言葉が未だに消えてくれず、一人になりたかったのだ。

 何度も何度も、同じ考えが回る。
 人を殺してヴィオレッタを救ったところで、彼女は喜んでくれない。
 きっと、それを知ったら彼女は悲嘆するだろう。死ぬよりも彼女を苦しめてしまうかもしれない。
 しかも……考えたくもないことだが、必ず彼女が助かるとは限らない。
 いつの日か彼女が目覚めてくれることだけを祈ってきたが……たとえ病気が治っても、脳の障害は治せない。それこそ、奇跡でも起きない限り。
 それでは、誰も幸せになれない。

 ならばどうすれば良かったというのか。
 妹を見捨てて、ただ自分の保身のために逃げだせば良かったとでもいうのか?
 あり得ない……そんなことになるくらいなら、今の方がマシだ! たとえ自己満足でも、人を殺すことになっても……

 答えの出ない問題は、ただグルグルと頭の中を巡るだけ。
 もどかしさを抱えながら、私は空を見上げた。

「……どうすればよかったのかな、私は」
「え、何が?」

 話しかけられて正面を見ると、ハルカが来ていた。
 やあ、と手を上げて隣を勧める。
 彼女は言われるがままに横に座ると、私と同じように空を見上げた。

「何か悩んでた?」
「……なんでそう思う?」
「見れば判るわよ。アゼリアって、案外思ってることが出やすいよね」

 そうなのだろうか。
 感情を表に出さない訓練は受けたはずなのだが……いや、それはハルカの前だからなのかもしれない。
 ハルカが来てから、私の調子はしょっちゅう狂わされているのだから。

 その質問には答えずに、私は肩を竦めて聞き返した。

「私のことは、まあいいさ。そんな大した悩みじゃないからな……それより、君の方は大丈夫なのか? 三次試験の時、ずいぶんと悩んでいたようだったが……」
「ああ、あれね……」

 はぐらかされたと気付いたのだろう。
 ハルカは不満そうに口を細めたが、軽く肩を竦めると、ゴロンと横になった。
 晴れ渡った空が彼女の瞳に映り、とても綺麗に思えた。

「私ね、決めたの。無理に傍観者であることなんて止めようって……せっかく舞台に上ったんだから、台本なんて無視してやることにしたわ。そうじゃないと失礼じゃない」
「……舞台の上なら、台本に沿わないと迷惑じゃないのか?」
「たとえ話よ、たとえ話! 細かいところは気にしないで!!」

 ハルカは楽しそうに伸びをする。
 その顔に気負った様子はない。
 彼女の言うことは相変わらずよく判らない部分が多いが……少なくとも、二次試験の時のトードーのことをもう引きずっていないのだと判った。

「それにね、アゼリアが言ったんじゃない」
「……なんて?」
「自分の選択に自信を持てって。どうせ、過去のことはもう変えられないのよ。だったら、せめてそれを最善だと思ってやるわ」

 何でもないことのように紡がれたハルカの一言。
 だが、それは鈍器のように私の頭を揺らした。

「……ははは、そんなことを言ったな、私は」
「何よ、自分で忘れてたの?」
「ああ、忘れていたよ」

 しかも今では、その言葉に自信を持つことも出来ない。
 自分の選択に自信を持て、か。
 どの口で言ったのだか……
 私は将来、自分の選択は間違っていなかったのだと胸を張ることが出来るのだろうか……

 沈黙が、流れた。
 どこか気まずい沈黙。
 それを打ち破るかのように、ハルカが口を開いた。

「そ、そういえばさ、アゼリアのターゲットは誰だったの?」
「そういうハルカのターゲットは?」
「私は、406番(アゼリア)じゃないわ」
「私も407番(ハルカ)じゃない」

 二人してほっと顔を見合わせた。
 知りあいがターゲットというのは、やはり多少やりにくい。

「せーの、で見せ合おうよ」
「まあ、別にいいぞ」

 胸ポケットから、先ほどひいたカードを取り出す。
 スカートのポケットからハルカも取り出し、わくわくした様子で彼女は合図した。

「せー、のっ!」

 同時に見せられるカード。
 それを見たときのハルカの反応は、なかなか見物だった。
 口をあんぐりと開けて、眼を大きく見開いて。
 マジ? と顔で語っていた。
 はて、これはそんなに不思議な相手だったかな……?
 誰がどのナンバーだったか、残念ながら全員分記憶などしていない。
 島に着くまでにどうするか考えないといけないな……そんな風に考えながら、二枚のカードをもう一度見た。

 ―――アゼリアのターゲット、NO301
 ―――ハルカのターゲット、NO294

 四次試験が始まるまで、残り一時間。










〈後書き〉

明日は大学の試験だっていうのに、今回の話の半分以上は今日書いたんだ。
ついでに言うと、明日の試験は98点取らないと単位が来ないんだよ。どうしよう。現実逃避、いい言葉だよね。
そんな感じで、ちょっと勉強しなければと思っているELです。

ヒソカさんによる切開タイム。心の中にある不安。出来るだけ眼を逸らしたいもの。
最善の選択肢を選んでも、尚自体は良くならない。人生にもそういったことはあるのだろうと思います。
そういったとき、「これが自分にとっては一番マシだったんだ」と言い聞かせることも、実は結構難しいんではないかなぁ、と考えたり。

次は四次試験。ハンター試験編が個人的には一番難産なので、出来るだけ早くヨークシンに行きたいところ。
次回辺りから、針の人が動く……かも?
それでは、次の更新の時に。



[3597] 四次試験 一日目
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/02/08 00:28
 狩りにおいて重要なのは、状況だ。
 地形、天候、風の向き、獲物の体調、自身の体調、彼我の実力差、一瞬の隙とそれをモノにするだけの実力。
 これら全てが複雑に絡み合い、場が作られるのだ。
 ならば、私が今挑む「場」はどのようなものか。

 四次試験の舞台となったのはゼビル島。緑に溢れた無人島だ。
 一週間の間に六点のプレートを集めることがこの試験の合格条件。
 これはたとえ一度プレートを奪われても、奪い返す余地があることを意味している。
 であるならば、ターゲットを焦って狙う必要などない。情報を集め、時を待つ。安全かつ確実。暗殺(しごと)と同じだ。

 島へ降り立つのは、三次試験をクリアした順だ。
 三次試験を一位で合格した私は真っ先に島へ入り、森の中で気配を消した。
 二番目にヒソカがやってくることは判っていることなので、彼に気付かれることのないように、多少森を奥へ進んだ大木の上で「絶」をした。

 まずはターゲットが誰かを知らなければならない。
 私のターゲットは301番。正直誰だったか覚えていない。
 姿を隠して見張ったところで、プレートを隠されてしまっていては特定は困難だが……それならそれで、誰か隙を見せた者を尾ければ良い。
 そいつを狩って、情報を聞き出す。同時にプレートもゲット。悪くてもそれを三回繰り返せば私は合格だ。
 そう思い、島へ入ってきた受験生たちを観察していたのだが……

「―――301番、だよな……?」

 視線の先、五十メートルほど前方にいる男の胸に付いてるのは、見間違えでもなんでもなく―――301番のプレートだ。
 プレートを奪い合うこの試験に置いて、ターゲットそのものであるプレートを目に見える場所に付けておくなんて愚行としか言いようがない。
 よほど己の技量に自信があるのか。

 ともあれ、相手が判明したのはこの上ない収穫だ。
 決して気付かれることのないように細心の注意を払って、一定の距離を保ち追跡した。
 ターゲット本人はもちろんのこと、その周囲のありとあらゆる情報を逃さないように観察する。
 だからこそ真っ先に気付くことが出来たのだろう。
 私と同じく木の上に登り、腹ばいになって銃を構える男の姿に。

「狙いは301番(かれ)か……」

 銃口の向けられた先にいるのは私のターゲットである301番。
 恐らく銃の男も私と同じ考えに至ったのだろう。
 隙のある者、弱い者を狩って、プレートと情報をゲットする。
 単純だが、狙う相手さえ間違えなければ実に効果的な戦略だ。
 まして彼の武器はスナイパーライフル。腕に自信のある狙撃主ならば、一撃で相手を無力化しうる以上、この戦略を取ることはなんの不思議もない。

 好都合だ、と思った。
 銃の男は私に気付いていない。そして私のターゲットを狙っている。
 もしも彼がターゲットを無力化出来たならば、銃の男を奇襲して両方のプレートを手に入れてしまえばいい。残る時間プレートを守り切るだけならば至って簡単なことだ。
 たとえ301番が狙撃を回避したとしても、そこから私は彼の技量を見て取れる。狙撃主との戦闘で彼に隙が出来るようならば、その場で仕掛けるという選択肢もありだ。どのみち私に損はない。
 果たして、その時は来た。
 狙撃主が息を潜め、その引き金を引く一瞬。
 私もまた気配を殺し、その瞬間を見た。
 大気を震わせて、音速を超える弾丸が飛び出す様を。
 だが―――終わった、と思ったその時だった。
 釘を鉄の板に打ち込むような硬い音が聞こえたと思ったら、狙撃を行ったはずの男が逆に肩を抑えて地面に落ちたのだ。
 慌てて301番に視線を向けると、彼は振り向きもせずに、後ろ手に何かを投擲したかのような姿勢のまま止まっていた。

「ぐぁっ―――!!」

 完全に気配を消して、状況の変化を見守る。
 木から落ちた男は攻撃を受けたらしい右肩を抑えて悶絶し、それでも漏れ出る悲鳴を出来る限り抑えようと無駄な努力をしていた。
 狙撃をどうやってか迎撃し、しかも相手に反撃するという神業をやってのけた301番がゆっくりと振り返り、男を見据えていた。

「うざいなぁ……」

 301番は男に近づくと、左手を力いっぱい踏みぬいた。
 乾いた枝が折れるような音と、男の苦悶の声が響く。取りだそうとしていたベレッタが落ちた。
 その際に露わになった右肩を見て、私は絶句した。

 そこにあったのは、錐のような針だった。銀色の光が男の右肩から覗いている。
 男の右肩を貫いたその針の根本には、なんと銃弾が串刺しになっていた。
 あの男(301番)は投擲した針で発射された銃弾を空中で撃ち落とし、その勢いのまま狙撃主を迎撃したというのか……!
 なんという技量だろう。おまけに本人にとってはあの程度、無意識の反応に過ぎないらしい。
 常日頃から狙撃などの危険に曝されてきた者の力。僅かな殺気も鋭敏に察する能力。
 おそらくは……闇社会の人間。
 そして何より恐ろしいのは、今の一瞬の攻防を見るまでその実力を見抜けなかったということだ。
 あれほどの技量の持ち主ならば、普通は見ただけでそうと察することが出来る。それは挙動に現れる隙のなさであったり、警戒しなれている様子であったり、様々な面から判る。
 言うならば臭いが違うのだ。
 だというのに、あの男にはそれが無い。
 恐るべき実力を有しながらも、それを読み取らせない。
 その事実に背中が総毛立つ。

 301番は冷徹に男の頬を蹴り飛ばして、何の感情も読み取れない声で尋ねた。

「プレートは?」
「う、ぐ……」
「言わないと死ぬよ?」
「……そこの木の、リスの巣穴の中だ……」

 301番が男の言った通りの場所を探すと、80番のプレートが見つかった。
 何の感慨もなさそうにそれをポケットにしまうと、再び男の前に立った。
 80番の男は301番を見上げ、苦しげな声で懇願する。

「た、頼む……プレートは渡したんだ……見逃してくれ……」
「オレさ、銃で狙われんの嫌いなんだよね。ムカついたから、やっぱ殺す」
「そ、そんな……! 止め……!!」

 80番の声が恐怖に染まったものになったとき。
 場の空気が、変わった。

「―――ッ!」

 どろりと粘つくように重く、冷たい空気。
 その発生源は301番の男。
 その身から立ち上るオーラ。

 ―――念能力者!

「あ、あああ……」

 ビキッ、ビキッとここまで音を響かせて、80番の男の顔が不気味に変形していく。
 それはまるで子供が粘土をこねるように、奇妙なオブジェへと変わっていき―――80番はピクリとも動かなくなった。

「さ、て……次行くか」

 死体をそこに放置し、301番は去る。
 場の空気は、すでに先ほどまでの平和な島の空気に戻っている。
 だがそのすぐ下に、化け物が暗闇から舌を覗かせるような冷たい空気が流れているのかと思うと、まるで現実味がなく感じられた。
 301番が動くのを見ても、私はすぐに動こうという気になれない。
 彼を視認し続けられる限界の距離に来てから、私はようやく息を吐いた。

「……最悪だな」

 自分の運の無さは知っていたが、まさかこれほどの実力者がターゲットとは……
 おそらく、ヒソカ級の能力者。私より数段上の戦闘者……正面から行ってはまず勝ち目はない。
 あの301番……ギタラクルは。





 島に入ったあと、私はまず水場を探すことにした。
 一週間の滞在。そもそもサバイバル訓練なんてしたことない私には、その間単純に生き残ることが第一の関門だ。
 もともと四次試験がサバイバルということは判っていたので、バッグ変わりのヴァイオリンケースに食糧は入れてある。カロリーメイトだけど……
 水は一週間分も確保しようとしたら、重すぎて入らなかったのだ。だから水だけは現地調達することに決めた。
 ちなみにヴァイオリンケースにした理由は趣味だ。ゴシックドレスに合わせるならばヴァイオリンケース。これは譲れない。
 少女に与えられたのは大きな銃。イタリアの社会福祉公社とて採用している正式な偽装だ。

 しかし……水場を探すと言っても、そもそもどこをどう探せば水場があるのか判らない。
 川のせせらぎを聞き取るとか、空気の湿り気から判断するとか、あるいは地形の特徴から見分けるとか……出来るかそんなこと!
 仕方がないから、とりあえず適当に歩き回ることにした。原作でゴンが竿を振って訓練していたのは森の中にある湖のようだし、受験生たちが皆同じ水源を使わなければいけないのでは、すぐに戦いになってしまう。
 この島には多分、それなりの数の水源があるのだろう、と考えて森の中を探索した。
 それにしても―――

「森の中を歩くのって、疲れるわ……」

 足元の不安定さや、地面の起伏。木の枝や茂みが肌を掻き、ところどころに小さな切り傷が出来る。
 マラソンはそれなりに訓練したが、森の中での疲労はまったく別種のものだった。
 加えて、他の受験生と遭遇しないように注意しなければならない。
 島に入って以降、私はずっと「凝」をしていた。
 木々に隠されようとも、立ち上るオーラは誤魔化せない。
 少なくとも視界に入っている限りでは、他の人間はいないようだった。

「しっかし……どうしたものかな」

 四次試験はターゲットが誰になるかくじを引くまで判らないので、事前に試験内容をしっているとはいえ、対策が立てられなかったのだ。
 名前もあやふやなモブキャラ相手ならば、そいつを狙っても念能力補正で何とかなると思ったのだが……

「まさかハンゾーがターゲットとはね……」

 そう、私のターゲットはNO294、霧隠流上忍ことハンゾーだったのだ。
 原作のキルアですら、ハンター試験終了時に自分よりも強いと認めていたのだから、念能力補正があっても勝ち目は薄い。
 しかも舞台は深い森。NINJAに絶好のフィールドではないか。

「うーん……モブを三人くらい狩ろうかなー……いや、というかキルアに余ったプレートくれるように言っとくんだった……うっかりしてたなぁ」

 ぶつぶつと呟くが、答える人はいない。
 だが自分で頑張ってやろうと決めたんだ。この程度の試験、自分だけで乗り越えてやる。
 物語の流れにも、もう沿ってなんかやらない。
 私は私のやりたいようにやる。
 私は私の望む未来を掴む。
 ならば、それくらい出来なきゃ、この世界に来た意味なんてないでしょう?
 そう考えて、手伝ってやるとアゼリアが言ったのも断った。

 僅かに射しこむ夕暮れに目を細めながら、私はようやく見つけた泉で顔を洗った。
 もうすぐ陽が暮れる。
 命すら賭けられた試験の、たった一人の夜が。
 私は一人で命をかけたことなんて、無い。
 この世界に来てからは、いつも彼女の姿があった。
 それが無い。
 どこにも、彼女の姿はない。
 ゆっくりと忍び寄る夜の闇が重みを増したように感じる。
 どこか遠くでガサガサと音がして、ビクっと振り返った。
 羽ばたく音が遠ざかり、二羽のカラスが夕焼けに消えて行った。

「……大丈夫かな」

 木の幹に背を預けて、じっと小さくなり気配を消す。
 明日の朝は遠そうだった。










〈後書き〉

今回は短い。けどここで区切りたいので投稿してみる。どうも、ELです。
四次試験、ターゲットはそれぞれあの二人。イルミ描きづらいよイルミ。性格がいまいち捉え切れない……

最近メイン掲示板をよく読んでるんですが、「最近のSSの動向」とか「魅力的なオリキャラって」みたいなスレを見ると、耳が痛いと同時に、なるほどなぁ、と思うことがよくあります。
その中で、「魅力的なオリキャラって」のところに「原作に馴染んでいること」とか「そのオリキャラを客観視出来ていること」が魅力的なオリキャラの条件として挙げられていて、自分の作品はそれが出来ているのか……と自分では判断できない疑問があったり。
もしもこの作品を読んでくださってる方の中に、「ここはねーよ」とか「これは説明不足だろ」といった、数えきれないダメなポイントが目につく方いらっしゃいましたら、よければ辛口コメでも指摘してやってください。真剣に文章力を伸ばしたい、と考えていますので、批評などをしていただけるととてもありがたいです。
とまあ、手前勝手な「お願い」を書かせていただきました。
それでは、次回の更新の時に。



[3597] 四次試験 二日目
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/02/13 12:16
 極度の緊張した神経は、浅い眠りを私に強いた。
 木々のざわめきや鳥の羽ばたく気配。僅かな音にも反応しては起き、そして眠りを繰り返し、気がつくと陽が昇っていた。
 硬い地面に太い木の幹。ベッドとしては最悪に近く、体の節々が痛む。さらに寝不足が堪え、立ち上がったものの足元は覚束ない。
 ひとまず泉の水で顔を上がり、軽く歯を磨くと多少は眠気が紛れた。

「さ、て……今日はどうしよ」

 幸いというべきか、今のところ私は他の受験生と遭遇していない。
 何の妨害もなく拠点が手に入ったのは喜ぶべきことだが、果たして広い島の中でターゲットを見つけることが出来るか。いや、そもそもターゲットに勝てるのかという点からして疑問だ。
 何しろ私のターゲットはハンゾーなのだから。正面からの決闘ですら勝ち目は薄いというのに、フィールドが深い森とあっては絶望的だ。

「どうにかして隙を作る……原作でゴンがやったように、プレートを奪うだけならどうにかなる? うーん……でも、私はあんな釣り竿テクニック持ってないし……ところで釣り竿テクニックって何かエロくない?」

 思考が脱線したことを悟り、頭を殴った。反省。
 まぁ、どうでもいい思考は置いておき、どうやったらハンゾーからプレートを奪えるか、だ。
 実力で劣るものが一本を奪うためにはどうすればいいか。
 一つには、数で攻める。個で勝てないならば軍で行くのは兵法の基本だろう。
 だが、これは却下。自分の力でどの程度頑張れるかを考えて、アゼリアの協力も断ったのだ。これを使っては意味が無い。
 では二つ目、罠を仕掛ける。
 これは考える価値があるかもしれないが……私は罠なんて全然知らない。罠の知識も技術もハンゾーの方がずっと上だろう。付け焼刃のアイデアでどうにかなる相手とは思えない。
 ならば、三つ目。局地戦。
 総合力で劣っているならば、自分が勝てる土俵に相手を引きずりこむ。
 やはりこれが最も有力な案だろうか……
 とはいえ、私がハンゾーに勝てる部分など一つしかないわけだが……

「念を使えるか使えないか……この差を活かすしかないわよね……」

 ハンゾーは凄腕だが、念を使うことは出来ない。
 私は素人だが、念を使える。
 とはいえ、私の「発」は除念に近いもの。念使い相手ならば効果は大きいが、念を覚えていない相手には「発」自体は有効ではない。
 ならば――

「いろいろと工夫しなければならないわね……」

 まぁ、まだ時間はたっぷりとある。
 チャンスは多くて一度。
 絶対にモノにしてやる……

「さて、とりあえずいろいろと探索してみるかな」

 そう考えて荷物を手に取り、「凝」で警戒しながら先に進もうとして―――

「あ」
「なっ?」

 二十メートルほど先に、人を見つけた。
 相手は私の気配に気付かなかったのか、驚きを全身で表現している。
 寝ている間は「絶」をしていたので、気配などなかったのだろう。
 くりっくりの頭に、拳法をやってそうな胴衣の少年。
 その顔に見覚えは、あるようなないような……とりあえず、原作で出番のあったキャラじゃない。多分。

 ならば勝てる!

 先手必勝、と私は駆けだした。
 一瞬呆けていた相手も、流石にこの試験まで残ってくるだけのことはある。すぐに気を取り直し、しっかりと構えを取り迎撃する。

「ふっ!」

 念で強化された体は、身体能力だけならば念無しの達人に匹敵する。
 走る勢いをそのままにヴァイオリンケースを思いきり叩きつけた。

「くっ!!」

 だがそんな大ぶりな一撃は容易く見切れるということか。
 余裕を持って回避した少年は、鋭い中段蹴りを放ってきた。
 オーラに包まれているためにさしたるダメージは受けないが、カウンターで入ったその攻撃に体制を崩す。
 それを好機と見たか、さらに一歩を踏みこむ少年。
 大地を震わす震脚とともに加えられた中段突きは、私の腹部に深々と突き刺さった。

「か、ふッ……!!」

 肺から、空気が漏れる。
 体はよろけ、お尻から倒れこむ。
 少年は確かな手ごたえを感じたのか、僅かな警戒の後に近づいてきて―――倒れた。
 寝転んだ姿勢から繰り出した蹴りは、彼の切なくなる部分に突き刺さったからだ。
 合掌。

「ふー、まずは一人……」

 悶絶している彼に、アゼリアから貰った眠り薬をしみこませたハンカチを押しあてて意識を奪った。
 そしてポケットを適当に漁ると、362番のプレートが手に入った。

「うーん、しかし……「堅」をしても結構痛いものね……」

 先ほどの中段突きは見て取れたので、腹部にオーラを集中させたのだが……純粋な身体能力の差は如何ともし難いらしい。
 私はまだ多少重い痛みの残る腹部を擦ると、溜息をついた。
 名前も知らないモブキャラでこれだ。
 念を知らないとはいえ、ハンゾー相手にどうすれば……

「先は長そうね……はぁ……」

 とりあえず、しばらくは起きないであろう362番をどこかに捨ててこよう。
 本当に、厄介な試験だと思った。





 島の朝。
 ヒソカは一本の木の幹に背を預け、肩の傷痕に寄ってくる好血蝶と戯れながらゆっくりと時間が過ぎるのを楽しんでいた。
 血に濡れる戦場こそが何よりも好きなヒソカだが、彼の好みはなかなかに手広い。
 奇術や言葉遊びは言わずもがな。実は恋愛シミュレーションのようなことも好きだったり、時にはまったりと散歩もする。
 気まぐれな性格故に、すぐに行動を転換させてしまうことが難点ではあったが――散歩の最中にふと人が殺したくなったりだ――ともあれ、こうした時間の過ごし方もまたヒソカは嫌いではない。
 そんな一時は、ピピピと無機質な電子音が携帯から響いたことで中断させられた。
 画面を見ると、そこに示された名前はまだ付き合いの浅い友人だ。
 闇の世界に所属するくせに、どうでもいい相手に情けをかけたり、かと思えば冷徹にして非情な合理主義が本当の顔であったり……割と面倒見がいいくせに、本質的にはビジネスライクな関係であったりと、掴みにくい人物だ。そうしたところが気があったのかもしれないが。

 ともあれ、電話に出よう。
 通話ボタンを押すと、念によって骨格ごと変わった友人の声が聞こえてきた。

「もしもし♦」
『ヒソカ? プレートもうとったか?』
「いや、まだだよ♣」
『どうせ獲物が誰だか判らないんだろ?』
「うん❤」
『教えてやろうか?』
「いいよ♠ 適当に三人狩るから♦ キミのターゲットは判っているのかい?」
『当然だろ。さっき見つけた。これから狩ってくる』
「流石だね❤ ああ、ボクのおもちゃは出来るだけ壊さないようにしてよ❤」
『善処するよ。じゃあな』

 そうして、電話が切れた。
 ヒソカは電話をしまい、再び好血蝶と戯れる。
 その姿からは血に濡れる死神の姿は想像できない。
 だが、一度だけ。
 試験を通じて出会った、何人もの新しいおもちゃを想像して、彼は嗤った。

 それは、正しく不吉そのものだった。





 さて、ヒソカが不吉な笑みを浮かべている頃、ハルカはその辺の蔓を使って手足を縛った362番を抱え、拠点とした泉から数百メートル離れたところまで来ていた。
 拠点の傍に彼がいたのでは困るので、捨てに来たのだ。
 大分歩き、そろそろ彼を置いて行っても問題はないだろうと思えたので、引きずってきた362番を適当に放り出した。
 疲れた肩をぐるぐると回す。
 コキコキと小気味よい音が響き、大分楽になった。
 それでは戻ろうかと振り向いたとき、それが目に入ったのは偶然に過ぎない。
 しかし、それになんとか反応出来たのは、こちらに来てからの訓練の賜物と言っても問題はなかった。

「なっ!!」

 大きく横に体を投げ出し、受け身を取って素早く体制を立て直す。
 音もなく木の上から来襲したその男は、着地の音すら立てずにこちらを視界に収めた。

「チッ! よく避けたな」

 あまりに特徴的な忍装束は、自分のターゲットその人だ。
 碌に準備も整わないうちに、私はハンゾーと出会ってしまった。

「まあいい。どうだ、362番のプレートを持ってるだろ? それを渡せば、ここは退いてやるぜ」
「……なに、あんた何時から見てたの?」
「そいつをずっと追ってたんでな。アンタが戦ってるときから、ずっとだ」

 チッと舌打ちした。
 自分は「凝」で警戒していたというのに、まるで気付けなかった。
 ハンゾーは念など使えないはずだが、なるほど、流石はキルアが自分よりも強いと評しただけのことはある。
 気配を消すのは野生の獣並だ。

 さて、どうするか。
 準備が整っていない以上、ここで戦うのは諦めてプレートを差し出すか、それとも―――

「―――覗きなんて趣味悪いわ、ね!」

 闘うか、だ!
 オーラを爆発させ、表情一つ変えずに自然体のまま構えるハンゾーに向けて間合いを詰めた。
 ここで退いたとしても、ハンゾーはそれで6P を手に入れて、後は守りに徹するだろう。
 そうなれば、私では二度と見つけることはかなうまい。
 ならば今こそが最大の好機。
 作戦なんて戦ってる中で気合で考えろ!

「おいおい、無茶すんなよ、嬢ちゃん!」

 ハンゾーの姿が、ぶれた。
 音もなく、残像を残して一瞬で最高速へ。
 速い! しかし、「凝」でオーラの残滓を辿れば、移動先は予想がつく!

「上、だァッ!!」

 両手にオーラを集中させ、上空からの攻撃に備える。
 木の幹を蹴り私の真上へ移動したハンゾーは、驚きに顔を歪めながらも手刀を繰り出していた。

「ぐっ……!」

 空中で放ったとは思えないほど、鋭い一撃。
 受け止めた左腕が、オーラの上からだというのに痛む。
 だが、止めた……!
 ハンゾーはまだ空中で身動きが取れない!

「吹っ飛べぇぇぇぇえええッ!」

 手刀を放ったハンゾーの右腕を抱えるように脇に挟み、体を回転。遠心力をそのままに、ハンゾーを木の幹に向けて叩きつけた。

「うおおおおおおっ!?」

 確かな手ごたえ。
 驚愕したハンゾーは慌てて体と木の幹の間に手を差し込もうとするが、体制が悪すぎる。
 勢いよく打ち据えられたハンゾーは、苦悶の表情を浮かべて後ずさった。
 この機会を逃す手はない。
 今の一撃は、ハンゾーが私のことを自分の早さに着いてこれないだろうと判定したが故の隙をモノにしただけだ。
 実際、「凝」無しでは彼の早さに私は追いつけない。
 一度体勢を立て直されたら、次はそのような失態を犯しはしないだろう。
 今ここで彼を無力化する……!!

「てやああああああああああああッ!!」

 オーラを足に籠め、先ほどの突撃を遥に超える速度で間合いを侵略する。
 攻撃にオーラを使うわけにはいかない。オーラの攻撃は彼の精孔をこじ開けてしまう。そうなったら後々自分に問題が降りかかりそうで、責任が取れない。
 だからこそオーラによる強化を純粋な速度に転換し、攻撃力を強化する。体ごとハンゾーにぶつかり、四十五キロの砲弾と化す。
 ……その、心算だった。

「―――あれ?」

 一瞬、何が起こったのか判らなかった。
 何故、横に流れていた筈の景色が上に流れていくのか。
 何故、木々を見上げる形になっているのか。

 背中から地面に叩き落とされたとき、ようやく自分が投げられたのだと悟った。

「かふッ……!」

 オーラを足に集中していたのが仇になったのか。
 防御を殆ど無視していたために、投げられたダメージはモロに体を襲い肺から空気が押し出される。
 一瞬目の裏がスパークし、おとされた拍子に開いたヴァイオリンケースの中身が散らばった。
 慌てて起き上がろうとするが、素早く足を刈られて地面と再開する。
 ハンゾーは素早く私の腕を固めると、膝で背中の中心を抑えて一切の身動きを封じた。

「くっ……放しなさいよッ! 変態! 痴漢!! ロリコン!!」
「そう言って放す奴がいたら、UMAハンターに知らせるべきだぜ。ま、ちょっと驚いたな。オレの動きについてこれるとは思わなかったな。予想以上だったぜ、嬢ちゃん」
「ハッ……! 勝ったようなセリフを言うには早すぎるわよ!!」
「……いいねぇ。全く以て、その通りだ。相手を完全に無力化するまでは、その脅威は一切失われていない。下忍の時に教わったことだ」

 身動きを完全に封じていながらも、ハンゾーには一切の油断はないらしい。
 固めた腕を緩める様子もなく、散らばった私の荷物からクロロホルムの瓶を取った。

「ま、腕の一本くらい折ってもいいんだが、流石にオレも趣味じゃねーし……しばらく寝ててくれ」

 彼は薬品を布の切れはしに染み込ませて、私の口元に近づけてくる。
 私は眼を瞑り、溜息をついた。
 ああ、これで負けた―――

「―――アンタがねッ!」

 眼を瞑り、背後の気配に集中。
 オーラの糸が背後の様子を鮮明に教えてくれる。
 そして、極めて小さな念弾を一つ、放った。

 精孔を開いてしまうため、ハンゾーをオーラで攻撃することは出来ない。
 だが、ハンゾー自体に当たらなければ何の問題もない。
 狙うは、彼の手にした薬品瓶……!!

 ガシャン、と瓶が割れる音がした。

「ぷわッ!」

 クロロホルムをもろに浴びたのだろう。
 焦った声が聞こえ、背後からの拘束が緩む。
 このチャンスは絶対に逃さない……!
 全身を強化して、拘束を無理やり振り払う。
 ハンゾーは急な力の変化に対応出来なかったのか、マウントポジションこそ崩さなかったが腕の拘束だけは放してしまった。
 自由になった手を伸ばす。
 掴んだのは勝利の機会。
 碌に照準も定める余裕もなく、そこにいるであろうハンゾーに向けて引き金を引いた。

「ぐッ……! て、てめ、ぇ……!」

 声からは威圧感が失われ、序々に圧し掛かる体の力が抜けていく。
 軽く体をゆすると、ハンゾーは横に倒れて鼾をかき出した。
 その胸に刺さるは一本の注射筒。

「大型動物用の麻酔銃よ……いくらアンタでも、すぐには起きないでしょ」

 はぁ、はぁ、と荒く肩で息をして、地面に座り込む。
 冷えた地面の熱が、今だけは気持ちいい。
 体中が痛むが、それ以上に何かをやり遂げたという喜びがふつふつと体の奥から湧いてきた。

「やった……ハンゾーに、勝った……!!」

 口に出しても、どこか現実味が無い。
 目の前で眠りこけたハンゾーを見ても、とてもじゃないが信じられない。
 けれども、時間が経つにつれて喜びが体中を満たしていき、ついに私はガッツポーズを天に向けた。
 とりあえず、パッと頭に浮かんだ決め台詞。

「最っ高にハイ! ってヤツだー!!! 鼻歌でも歌いたい気分よ!!」

 そう言って、しばらく横になろうと思った。
 疲れたのだ。
 硬いベッドでも、今はきっと気持ちいい。
 流石のハンゾーもすぐには起きないだろうし、十分くらい休んでからでも十分だろう、と。
 そう思って、空を見上げた時―――

 ―――何かが飛んできた。

「ふぇ?」

 ビィィィンと揺れながら、木の幹に突き刺さった錐のようなもの。
 音もなく高速で飛来したそれが、先ほどまで私の頭があった位置を通り抜けていた。

「―――あれ? 外しちゃった」

 聞こえてくる、声。
 カタカタカタ、という不気味な音。
 嘘、でしょ……?

「ま、とりあえずクジ運無かったってことで、プレートもらうね」

 飛び起きた私の視界に映るモノ。
 体中に刺さった針。
 骨ばった骨格と、モヒカンヘッド。
 キルアにばれないためだろうか。「纏」をしていないものの、尚溢れる威圧感。

「ギタラクル……!!」

 本当に、クジ運がない。
 なんでアンタのターゲットが私なのよ……!
 足が、一歩後ろに下がった。










〈後書き〉

スパーが女、だと……!?
すいません、完全に男だと思っていました。ELです。
アニメ版だと出番あるんですね……大失態です。
ただ、そこを改訂するよりは先を書いた方がいいと思うので、修正はまたいずれということにさせていただきます。

さて、今回はハルカメイン。
モブ → ハンゾー → ギタラクルの三連戦です。ハルカがターゲットなのはギタラクルでした。
ハルカは強くしない。罠とか策略とかの知識もない。ピンチになって特殊な能力とか目覚めない。
そうした、極めて一般人な状態を貫こうとしたので、盛り上げるのが難しい……
平和な日本で暮らしていたのに、忍者を超えるようなトラップワークなんて出来る筈もないし、その場で劣性を覆せるようなIQ200(笑)なんて出来ないので……
さて、次かその次で四次試験も終了の予定。お楽しみ下さい。
それでは、次の更新の時に。



[3597] 四次試験 二日目 ②
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/02/16 13:32
 視線の先には一人の女がいる。
 まだ若い。年齢のほどは、俺と同じかそれより下だろう。
 ここまでハンター試験に残った実力は驚嘆に値する。女でありながら、よくあの試験をここまで通ってこれたものだ。
 だが、それもここまで。ここで俺に狙われたのが運のつきだ。
 あの年齢では、こうした狩り(ハント)の経験が豊富ということはあるまい。
 平然と振舞っているようだが、その内心は推して知るべしだ。
 時折背後を振り返るのは、俺の尾行に気付いているからか?
 いいや、確信はしているまい。もしもそうならばもっと態度に表れる。
 だが疑念はあるだろう? どこからか自分が監視されているのではないか、と。
 それでいい。
 もっと怯えろ。
 もっと憔悴しろ。
 オレは慎重な男。たとえ相手が女であろうとも、万全を尽くす。
 完全に疲労し、眠りに落ちた時……叩く!
 くくく……我ながら恐ろしいぜ。
 オレは慎重な男……

 お、そんな石なんて拾ってどうするんだ?
 武器のつもりか?
 くくく……護身用にはちょっと心許ないんじゃないのかい?
 いい加減怖くなっただろう?
 恐怖は疲労になって蓄積していくのさ。
 もって、あと一日か。

 もちろん戦っても負けるわけがないがな。
 俺は紳士で、慎重な男。
 女に上げる拳は持ってないのさ。
 くくくくく……自分に惚れそうだぜ。

 そうして慎重に、相手に気配を気取られるようなヘマはせずに観察していたら―――

 ひゅん、と音がして……

「ガッ!?」

 強い衝撃とともに、視界が真っ白になった。

「……尾行のつもりかしらないが、無視してもよかったんだが……いい加減うっとうしかったんでな。寝ててくれ」

 そんな声が、最後に聞こえた気がした。





 体勢が崩れることなど完全に無視して、体を横に投げ出した。
 木の陰に滑り込む。
 直前に私がいた場所を貫く五条の流星。
 陽光を反射した針が、鋭く空気を裂きながら木に突き刺さった。

「冗ッ談じゃないわよ……!」

 荒く乱れた息を必死で整えようとするが、ほんの一瞬の攻防にも関わらず、疲労は先ほどまでの数倍だ。
 それでも、愚痴を言う暇などない。単純な問題として、現在進行形で命のピンチなのだから。

 ギタラクルのターゲットなんて、死亡フラグしか立ってないポジションをゲットした私は、どうにかしてこの場から撤退しなければならない。
 流石に彼相手に勝てるとは思わない。
 実力差はゾウとアリですらまだ足りないだろう。
 まったく、なんて割に合わない……!!

「せめてイルミの顔で来なさいよね……!! あんたのその顔、キモイのよ!!」

 ここに居てもジリ貧にしかならない。
 私はなけなしのオーラを足に籠めて、一秒でも早くこの場を離れるべく木の陰から飛び出した。

「~~~~~~~ッ!!!」

 声にならない悲鳴が漏れた。
 針を投げているとはとても思えない速度と威力で、私の後ろの空間が抉られていく。
 ジグザグに、少しでも不規則な動きになるよう飛び跳ねるが、それでもギタラクルとの間に稼げた空間は悲しくなるほど微々たるものだった。
 これは、このまま逃げていても無理!

「こんの……! プレートが欲しいなら―――」

 ポケットからプレートを取り出して、怒りを込めて放り投げた。

「くれてやるってのよ……!!」

 念を込めた投擲は、キルアほどではないものの勢いよく飛んで行った。
 それとは全くの反対方向に向けて逃げ出す私。
 これで、逃げきれる……!!
 そんなことを考えていた時代が私にもありました。

「……うっそぉ」

 ギタラクルは投げられたプレートのほうをチラリと見ることもなく、針を一本投擲して……撃ち落とした。
 高速で飛んでいくプレートを、あっさりと……!?

「クレー射撃かってのよ……!」

 ダッシュする私を尚も捕捉しながら、足元に落ちたプレートを拾って、ギタラクルは言った。

「これ、362番。欲しいのはこれじゃない」
「ギャァァァァーーーー! バレたーーーーー!!!」

 耳元を掠める大量の針。
 私がまだ無事なのは、ココが木々の密集した森の中で、如何にギタラクルといえども射線が限られるからだ。
 だが、それは圧倒的な実力差を埋めるにははるかに足らない。
 運が尽きれば、蝋燭の火よりも容易く消される。
 そしてその時は実に早かった。
 後ろに気を取られていた私は、木の根に足を取られてしまった。

 そこに飛んでくる、針が―――

「……ッ!! ア゛ア゛ぁあアぁアァああああああッ!!!」

 足を、貫いた。





 駄々漏れの気配で今朝から私を尾行していた男を投石で気絶させると、プレートが一枚手に入った。
 さらにその男と組んで受けに来たらしい、兄弟と思われる二人からも、そいつを人質としたら容易くプレートを獲得出来た。
 結果、合計六点分のプレートが私の手元にはある。
 これでこの試験の合格ラインは通過した。

 昨日、NO301ギタラクルの実力を垣間見て、すぐに私はその場を離れた。
 あんな化け物相手に向かっていくなど、正気の沙汰ではない。
 危険には近づくな。命の方がはるかに大事だ。
 ならば、より安全な手段を選択するは当然。私は適当に三人ほどターゲットを狩ることに決めて、その最低条件は無事達成できた。

 残りの日々は、ヒソカやギタラクルといった危険を避けつつ、このプレートを守り切るだけだ。
 他の受験生は、輝かしい才能を感じさせるものこそ多々いたが、現状では後れをとることはあるまい。
 たとえ奇襲、狙撃の類を受けたとしても対処する自信はある。
 だが、万全を期すならばより安全な場所を探すべきだ。

 とりあえず洞窟でも捜すか、と踵を返して―――

『―――ア゛ア゛ああッ!!!』

 聞き覚えのある悲鳴が、響いた。

「ッ!?」

 声は、それほど遠くない。
 そして、聞き覚えのある声。

「……ハルカッ!」

 駆けだそうとした。
 彼女は、守ると誓った。
 妹に似ているからではない。
 彼女という一人の人間を、私が好いているからだ。

 だというのに……足が前に出ない。
 むしろ後退ろうとする。
 まるで自分の体ではないかのように、ピクリとも動こうとはしなかった。

 判っているのだ。
 感じているのだ。
 その先にいるのが誰なのか。
 先ほど感じたオーラが誰のものなのか。

 脳裡に警鐘が鳴らされる。
 痛いくらいにガンガンと内側から響く。
 近づくな、と。
 命が惜しいならば近づくな、と。

 その声に従って、私の足は止まっていた。

 幾度も私の命を救ってくれた本能の声だ。
 誰よりも死に臆病でいたがために身についた命の嗅覚だ。
 それは、きっと正しい。
 何よりも、正しい。

 だが、見捨てるのか?
 守ると誓ったのに、守りたいと思う相手なのに、捨てるのか?

 感情とは裏腹に、理性が叫ぶ。

 ―――優先順位を間違えるな
 ―――お前が護るべきは誰だ?
 ―――自分の命よりも大切な妹だろう
 ―――そのために何人殺してきた?
 ―――お前が死んだら、彼女も死ぬ
 ―――生かされる保障など、砂粒ほどもない
 ―――犠牲を無駄にするな
 ―――血に濡れた過去を無駄にするな
 ―――妹を救えないならば、お前の命など結局は無駄だ
 ―――無駄だ
 ―――ムダだ
 ―――ゴミだ
 ―――ただ誰かの命を奪っただけの屑だ

 ―――だから見捨てろ
 ―――彼女も見捨てろ
 ―――他の人間と同じように、切り捨てろ
 ―――彼女は二番目だろう
 ―――妹が一番だろう
 ―――なら、考えることなどない
 ―――考える必要もない
 ―――以前と同じように、ただ決められた解を出せばいい

 体の震えを体現したかのように、本能が叫ぶ。

 ―――行くと死ぬ
 ―――殺される
 ―――敵わない
 ―――敵うわけがない
 ―――化け物がいる
 ―――あっという間に殺される
 ―――死にたくなるほど殺される
 ―――数えきれないほど殺される
 ―――だから、行くな
 ―――行くな
 ―――行かない
 ―――行きたくない……!!

「ふ、ざけ……」

 そんな、感情とは裏腹のことを、自分の体は叫び続ける。
 この瞬間にも、彼女の命が尽きているかもしれないというのに。
 思い通りにならない肉体への怒りの声も、掠れて小さなものだった。

「今の声、ハルカだよな」

 そんな声が、近くから聞こえて。
 いつの間に近づいたのかも判らないほどに動揺していたのだろうか。
 キルアが、立っていた。

「行かないの? って、見れば判るか」

 キルアは、恥ずかしいことに震えを隠すことも出来ない私を見て、嘲笑うかのように鼻で嗤った。
 そして森の向こうを見通すかのように見つめる。
 それは悲鳴の聞こえてきた方角だった。

「確かに、こっちから凄く嫌な感じがする。まぁ、そうだよな。行けば死ぬかもしれない。なら行かないよな」

 そう。
 行けば、多分死ぬ。
 なら行くべきではない。
 行ってはいけない。
 だけど……
 ハルカが、死んでも―――?

「……いや、だ……!」

 それは、絶対に嫌だ。
 何が嫌だとか、そうするとどうなるかじゃなくて、ただ嫌なんだ。

 理性の叫びは、正しい。
 本能の予感も、きっと正しい。

 けど。
 感情の叫びが、一番間違っていて、けど正しい……!
 だから―――

「う、ごけ……ッ!」

 震えが伝わる右手で、ベルトからナイフを引き抜いて。
 左手を添えて、血管が浮き出るほどきつく握りしめて。
 右足のふとももに深々と突き刺した。

「……ァッ!!」

 激痛が脳髄を刺激する。
 痛みに慣れても、痛覚は誤魔化せない。
 焼けるような熱が、理性の叫びをかき消す。
 突き刺すような苦痛が、本能の叫びに蓋をする。
 それだけで、私の足は前に進んでくれた。

「行くとも……!」

 眼を丸くしたキルアに、全ての気を言葉に込めて答えて、私はもう一歩を踏み出した。
 痛い。
 けど、動ける。
 こんな傷なら死なない。
 闘っても、死んでなんかやらない。
 だから、急げ……!

 そんな私を見て。
 キルアが、苛立たしげに舌打ちした。

「キルア、君はどうする―――ッ?」

 空を切って目の前を通りすぎる手。
 ナイフよりも尚斬れる、硬質化した魔手。
 無音で一息に間合いを詰めたキルアの攻撃だった。

「なにを……?」
「やっぱり、アンタは気に入らない」

 強張った声で、キルアは言う。
 今の一撃も、お遊びなんかではない。
 殺す気でなくとも、壊す気の一撃だった。
 自然と私の体も戦闘態勢を取る。
 キルアは、一見無防備にすら見える自然体で、しかし爆発的な瞬発力を体中に蓄えて、言葉を紡いだ。

「あっちにいる奴、アンタより強いんだろ? 勝ち目のない相手に、死ぬほど怖いくせに立ち向かってく? なんだよ、それ……」
「……どけ。私は急いでいるんだ」
「勝ち目のない敵とは戦うな……だろ? なのに、なんでアンタは行けるんだよ……」
「いいから、どけ! 君が私と闘う理由こそないだろう……!」
「あるさ」

 すっと、キルアは飛びかかる寸前の豹のように、軽く腰を落とした。

「俺のターゲットは406番(アンタ)なんだよ。それに……」

 ―――よく判らないけど、気に入らないんだ

 そう呟いて、キルアは滑るように間合いを殺した。
 先ほどよりも数段上の鋭さで迫る手刀。
 舌打ちをして、私は叫んだ。
 腹の底から、叫んだ。

「どけぇぇぇぇぇえええええッ!」





 もはや強弓と変わらぬ速度で飛んでくる針を、形振り構わずに避けた。
 避けきれず突き刺さる針も少なくない。
 痛い。
 ズキズキと、死ぬほど痛む。
 だけど、その部分にオーラを集中させれば、動くのに支障はない。
 血は止まる。
 痛覚も少しだけ紛れる。
 針は刺さる先から引っこ抜いて、その辺に捨てた。
 まだ頑張れる。
 諦めるには、ちょっと早い。

 けど、それは本当にちょっとだけだった。
 私の体力は、それほど残っているわけではないのだから。

「うぁッ!」

 ガクン、と膝が震えた。
 酷使した体は限界が来ていた。
 そこに飛来する針。
 避けられない。
 そう考えて、来るであろう痛みに目を瞑った。
 けど、その時感じたのは痛みだけではない。
 先ほどまでとは、針に込められたオーラが明らかに違った。
 そして―――その正体を、私は知っていた。

「ッ……!!」

 グニャリ、と子供が粘土遊びをするかのように、自分の足が捏ねられる感触。
 ヤバい、と思った。
 なけなしのオーラで必死に「凝」をして、その針を「視」た。

「こわれ……!!」

 針に込められた、複雑な思念。
 絡み合う黒いオーラの糸。
 その念の基点。
 オーラを結びつける糸の結び目。
 そこにオーラを叩きこむ。

「ろっ!!」

 針は、そのまま。
 けれど、その針に込められた肉体操作の念は、弾けた。

「~~~~~~~~ッ!!!」

 奥歯が砕けそうなほど噛みしめて、悲鳴を押し殺した。
 けれど、そんなことをしても意味はなく。
 ギタラクルが、すぐそこまで来ていた。

「結構逃げたね」
「……おかげさまでね」
「で、どうする?」
「……プレートを渡したら見逃してくれるわけ?」
「別にいいよ。オレ別に快楽殺人者じゃないし」

 それに、と彼は続けた。
 何の感情も籠められていない声だった。

「キミ、別に今殺さなくても何時でも殺せるし」

 その眼が、どこまでも無関心で。
 路傍の石を見るようだったので。
 私は、生まれて初めて……屈辱というものの味を知った。
 知ったけど、何も出来なかった。
 ポケットから、自分のプレートを差し出すしかなかった。

「うん。それじゃ、これは……ッ?」

 プレートをその手にした瞬間、ギタラクルは飛び退いた。
 何を、と思う間もなかった。目の前の木々が根元から切り裂かれたのだ。

 ギタラクルは表情こそ変えないものの、明らかに警戒した姿勢を取る。
 木々を切り裂いた何かは、その破壊を尚も続けながらギタラクルを取り囲むように旋回する。
 そして、それは何時しか竜巻になっていた。

 風の、刃。
 知っている。
 一番近くで見てきた。
 そして、いつも私を守ってくれた人の技だ。

 ああ……また、私は守られるのか。
 結構頑張ったんだけどなぁ……

「無事か、ハルカ……ッ! 早く逃げろッ!」

 その声にホッとする一方で。
 私は、先ほど味わった屈辱と同じくらい、悔しさを感じていた。





 その場に着いたとき、ギタラクルはハルカに向けてその手を伸ばしていた。
 間に合わない、と思った。
 しかし、咄嗟に放った風の刃にギタラクルは飛び退き、またハルカも命があった。
 そのことにホッとしつつ、全力で大気にオーラを練りこむ。
 敵を切り裂く意志を強く込められた風は刃となり、触れるモノ全てを切り裂きながらギタラクルを襲う。
 指向性を持った風は弧を描きながら敵に殺到し、ぶつかり吹きあがり竜巻と化す。

「早く逃げろッ!」

 練り上げたオーラは、私の顕在オーラの限界量いっぱいだ。
 吹き荒れる暴風は大岩とて容易く砂粒に化すだろう。
 けれども私の嫌な予感は消えなかった。
 本能は尚も警鐘を鳴らしていた。
 死の匂いには何よりも敏感だ。
 そんな背筋の寒くなる予感は、むしろ強まっていた。
 尚も動こうとしないハルカに苛立ちが募る。
 死ぬぞ……!

「早くしろ―――ッ!?」

 言葉が聞こえたかは判らない。
 ハルカに気を取られる余裕など、もはや消えていた。
 荒れ狂う暴風の中からだというのに、三本の針が狙い違わずに弾丸のような速度で投擲された。
 そのあとに続き、竜巻の檻から飛び出てくる人影。
 細かい掠り傷こそ無数にあるも、その足取りは些かの乱れもなかった。

「こっちは結構出来るみたいだね」
「……ッ!」

 私は大木の枝から飛びかかった。
 本来ならばあり得ざる選択。
 遠距離戦闘を得手とする私だが、ここで退くことは出来なかった。
 立ち位置が非常に悪かったのだ。
 ハルカはギタラクルのすぐ近くにいる。
 ここで私が退いては、彼らの間にそれを遮るものはない。
 全力の一撃ですら足止め出来ない相手を止めるならば、近接戦に持ち込むしかないのだ。

 敵の能力を分析する。
 武器は、あの針。
 昨日見た能力は、肉体操作。おそらくは操作系の能力者。
 操作条件は、あの針が刺さることだろう。
 つまり、それを受けてはいけない。

 自身の能力を分析する。
 『大気の精霊(スカイハイ)』の近接戦闘における利点は、死角を完全に消せること。そして小回りの利く機動力だ。
 単純な念の出力においては勝ち目がない。
 ならば速さで翻弄する。

 大地を、木々を、そして風を足場に縦横無尽に駆け巡る。
 ギタラクルはそのスピードについてこれていない。
 速さだけならば私が勝る。
 投擲ではなく刺突を以て繰り出される針は悉く空を切った。

 だが、私の方も決定打が足りない。
 大木でさえ断ち切るであろう、千の風を纏わせた蹴りですら、彼のガードを貫けない。
 それは出力の差。
 そして何よりも、戦闘技術が―――「流」の技術が圧倒的に劣っていたのだ。
 攻撃は完全に見切られている。
 ガードの瞬間だけ、彼はガード箇所に全てのオーラを集中させているのだ。
 なんという無駄が無く、かつ圧倒的な技量。
 もしもその狙いが外れたならば、この実力差を一撃で引っ繰り返しかねないというのに……!
 その技量が判るからこそ、押している筈の私は、しかし焦燥に包まれていた。

 だが、それでも攻め続けるしかない。
 何故なら、ハルカはまだそこにいる。
 何故動かない……?
 まさか、動けないのか?

 だとしたら、状況は最悪の一言だ。
 私の方から戦場を変えるべく動くしかない。
 だが、どうやって?
 この圧倒的な実力差を前に、相手をコントロールするべく動くなど、どうすれば……!?

 そんな心の揺らぎを悟られたのか。
 ギタラクルは、幾度となく繰り返された攻防の後、私の繰り出した蹴り足を掴んだ。

「掴まえた」
「……ッ!」

 腹部が、爆発した。
 そうとしか感じられなかった。
 大気に練り込んだオーラを神速で防御に当てた―――それ自体は成功したというのに、「堅」を持ってしてもこの威力……!
 毬のように蹴られた私は、木々の茂みをへし折って、数十メートルの距離を飛んだ。
 大木の幹にぶつかり、ようやく止まる。
 薄れかける意識の中、飛来する針が妙にゆっくりと見えた。



 ―――ああ、やっぱり死んだ

 ―――馬鹿だなぁ、私



 そんな思いを最後に。
 私の意識は、途切れた。










〈後書き〉

イモリを書くのが思った以上に楽しかった。どうも、ELです。
何気にイモリ好きです。原作で読んだとき、うわっ、このビビリっぷり大好きだわ! と一発で惚れました。小者好きだよ、小者。

さて、ハルカは頑張っていますが、やはり勝ち目無し。
まぁイルミって多分旅団クラスの能力者ですしねぇ。
運で引っ繰り返せるのは限界があるんです。

次で四次試験は終了の予定。
お楽しみください。
では、次の更新の時に。



[3597] 四次試験終了 最終試験へ
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/02/19 10:16
『ただ今をもちまして第四次試験は終了となります。受験生の皆さん、速やかにスタート地点へお戻りください』

 ボーッと汽笛が鳴り響いた。島中に備え付けられたスピーカーから、受験生たちに向けてのアナウンスが流れる。

『これより一時間を帰還猶予時間とさせていただきます。それまでに戻られない方は全て不合格とみなしますのでご注意下さい。なお、スタート地点に到着した後のプレートの移動は無効です。確認され次第失格となりますのでご注意ください』

 そのアナウンスを切欠に、スタート地点の周辺に身を隠していた受験生たちが一斉にその姿を現した。
 ゴンもまた、行動を共にしていたレオリオ、クラピカとともに茂みから現れた。
 そして最近出来たばかりの友人の姿を見つけて、破顔した。

「キルアッ!」

 元気なやっちゃなー、とレオリオの疲れ切った声を背中に受けながら、ゴンはキルアに駆け寄る。
 そして振り向いたキルアの頬が大きく腫れ上がっているのを見て、びっくりして足を止めた。

「よっ、ゴン! プレートは?」
「六点あるよ……で、キルア、どうしたのそれ?」
「……んだよ、お前だっていっしょじゃん」

 背中から話さないオーラを出して憮然としたキルアにゴンは苦笑した。

「おや、みんなお揃いだな」

 背後から聞こえた声に振り返ると、脇腹を手で抑えたアゼリアと、彼女に肩を貸され、右足を引き摺ったハルカがやってきていた。
 キルアはその声を聞いて顔を固くし、決して振り向こうとしない。
 四次試験の前、船の中で見せ合ったターゲットのナンバーを思い出し、あー、やられちゃったのかと納得した。

「よぉ、お二人さん! 一週間ぶりだな。無事……でもないか」
「ああ。かなり危なかったよ。そちらは?」

 アゼリアの問いかけに、クラピカとレオリオは獲得したプレートを提示した。
 自分のものと、ターゲットのもの。点数は足りている。

「私たちは全員合格だ。そちらは?」

 アゼリアとハルカは顔を見合わせた。
 困った様子でハルカを見るアゼリアと、苦笑するハルカ。
 二人の間でどんなやりとりがあったのか。アゼリアは四枚のプレートを取り出した。
 自分のものと、その他を三枚。

「私は六ポイントで―――」

 その言葉を引き継いでハルカは言った。
 いっそ晴れ晴れとした感じの声だった。

「私はゼロポイント。落ちちゃった」

 ペロッと舌を出して言ったその声には、後悔はなさそうだった。
 そしてゴンが見てきた中で、一番魅力的な彼女の笑顔だった。





 体を襲う衝撃に踏みとどまることも出来ず、ハルカは右肩を押さえて尻から倒れた。
 針は根本まで刺さり、完全に体を貫通している。
 痛い。半端じゃなく痛い。何しろ完全に穴が空いてるのだ。
 けどこのままにもしておけない。ハルカは奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめると、震える左手で一息に針を引き抜いた。

「ぐぅゥゥぅッ!」

 先ほど以上の痛みに、殺しきれないうめき声が漏れる。
 けど、大丈夫。
 私は死んじゃいない。
 彼女も死んじゃいない。
 なら、大丈夫。

「……なんのつもり? 見逃してあげたのに。邪魔するなら殺すよ?」

 ギタラクルの声からは何の感情も感じ取れない。
 その眼もまた、覗きこむことが怖いほどの深い暗黒だった。

 彼は躊躇うことなんかない。
 なんの恐怖も興奮もなく、食事をするように容易く人を殺すだろう。
 原作からの知識なんかじゃない。ただ彼の眼を見ただけでハルカはそう実感した。
 けど、それでも言わなければと思った。
 自分の我儘で巻き込んだ人が後ろにいるんだ。
 なら、意地を張ってやらなければならない。
 努めて毅然とした声を作り、ハルカは言った。

「悪いけどね、こっちも守られてばかりじゃいられないのよ」
「そう。じゃ、死んで」

 本当に躊躇いなしかぁ、と。
 そんなことをぼんやりと考えながら、投擲された針をハルカは見た。
 ああ、そう言えば……思わず飛び出したけど、これじゃ結局アゼリア死んじゃわない?
 そんなことを考えて、ツメが甘いなぁ、とため息をついた。

 興奮しているのかもしれない。
 現実味が無い。
 もうすぐ自分が死ぬなんて、とても思えない。
 なによ、これ。
 まるで主人公みたいじゃない。
 何とかなる気がしてくる。
 体なんて、全然動かないくせに……

 けど。
 結局、何とかなってしまった。
 とはいえ、それはハルカ自身の力などではなく―――

「ボクのおもちゃなんだ♦ 壊さないでよ♣」

 ―――トランプで針を撃ち落とした、道化姿の死神の手によって、だが。

「ヒソカ」
「別にいいだろう? もうキミはプレートも獲得しているんだから♠ それとも、殺さなきゃいけない理由があるのかい?」
「うん、ないね。将来的に怖い相手ってわけでもないし。ヒソカがそういうなら、まぁいいか」
「ボクはキミのそういうところが好きだよ❤」
「そんなに嬉しくもないね。あ、あとこれあげる。じゃあね」

 ハルカから獲得した362番のプレートを渡すと、ギタラクルは身を翻して木々の奥に消えて行った。
 それを見送り、そして受け取ったプレートをしばらく弄ったあと、ヒソカが二人の方を見据える。
 その顔は、狂気というよりは歓喜に満ちている。
 だが、興奮と、死に近づいたことで恐怖心が一時的に麻痺しているハルカは、その邪悪なオーラにも怖れたりはしなかった。

「竜巻が見えたから、もしかしてと思ったらやっぱりキミたちか♣ 何とか生き延びれたみたいだね♦」
「……ふん、別に感謝なんかしないけどね」
「それは残念❤ なら、せいぜい強くなってお礼参りにでも来てくれ♠」

 どこまでもおどけた調子で語るヒソカに、ハルカの苛立ちが募る。
 腹に力を込めて彼を睨みつけた。
 だが、そんな視線は意にも介さず、ヒソカは二人を鑑賞するようにじっくりと観察する。
 そして、ぺろりと舌舐めずりをした。

「クックックッ……たった数日で、見違えるほど成長する♦ これだから、青い果実は堪らない……❤」

 喜悦の浮かぶヒソカの顔は退廃的な魅力に満ちたものだった。
 けれど、ハルカは普段のように彼の笑顔に魅力を感じることはなかった。
 当然だ。眼の前に迫る餓えたライオンを可愛いと思う人間は希少種である。
 そんな、強張った表情のハルカを見て、ヒソカは言った。

「ちょっとだけ、キミにも興味が出たよ❤ 今のキミは、美味しそうだ♠」

 一通り眺めて満足したのか、ヒソカはくつくつと笑いながら身を翻した。
 ギタラクルとは異なる方向へ、その足を進める。
 そして思い出したように、振りかえらずに言った。

「ああ、けど、震える手くらいは隠した方がいいね♦」

 左手を見ると、いつの間にかガタガタと震えていた。
 本能を現したかのように、恐怖を映し出す。
 ハルカはそれをもう一方の手で強く握りしめて、吐き捨てるように言った。

「大きすぎるお世話よ」
「❤」

 今度こそ、ヒソカは立ち去った。
 それを見送って、ハルカは疲れ切った身を横たえる。
 木々の隙間から見える星空は、都会のようにネオンにかき消されることもなくとても綺麗だ。
 ふぅ、とため息をついて、ハルカはズキズキと痛む右足を擦った。

「……どうしたものかなぁ」

 そこは、ギタラクルの針が刺さった場所。
 筋肉が酷くねじれ、少しの力が加わるだけで引き攣るような痛みが襲った。
 だが、それはおかしい。
 確かに、あの念は壊したハズなのに……
 自分の念で、肉体操作の発動は防いだはずなのに……

「試験期間中に回復は無理、かなー……はぁ、不合格かも」

 けど、とハルカは考えた。
 ゴンやキルアといった主人公組と知り合うという目的は達成できたのだ。
 ハンターの資格は確かに欲しいが、無いと困るというわけでもない。
 それに、今日は疲れた。
 これ以上何かを考えたりするのは、今度でいいじゃないか……

「まぁいっか……」

 そう言って、ハルカはまどろみの中へ落ちていった。
 四次試験、二日目の夜のことだった。





「まぁ、座りなされ」

 最終試験の前に会長との面談があるという。
 四次試験の合格者は十名。
 ゴンたちのあと、番号順で言えば最後に当たるアゼリアが呼び出された。
 見慣れない作りの部屋に一瞬どうしたものかと思い、ネテロ会長と正対する形で置かれたクッションに腰掛ける。
 座り方が判らなかったので、とりあえず膝を立てたのだが、それを見てネテロ会長は苦笑した。

「何か?」
「それは正坐とかで座るものなんじゃが……まぁかまわんよ。楽にしなされ」

 好々爺然とした笑みを浮かべるネテロは、そうして見ると極普通の老人のようだ。
 そう、一瞬忘れかける。
 その身に内包した絶大なオーラを。

 まるで海のようなオーラだと思う。
 どこまでも大きいのに、怖くない。
 荒れた海は誰もが恐れるが、凪いだ海を恐れる人が少ないように。
 不思議な人だ、とアゼリアは思った。

「まず、何故ハンターになりたいのかな?」
「いや、私は付添いで受けに来ただけだ。特にハンターになりたいわけじゃない」
「付き添いというと、407番のかの?」
「ああ、そうだ……それと、ハルカの乗船を許可してくれて感謝する」

 ええよええよ、とネテロは手を振った。
 本当は四次試験の合格者のみが飛行船に乗せられ最終試験へと向かうのだが、頼んでみたら乗船の許可を出してくれた。
 今は疲れ切った様子でベッドで寝ている。
 よほど森の中はお気に召さなかったらしい。

「さて、それでは次の質問じゃが……おぬし以外の九人の中で一番注目しているのは?」

 アゼリアはちょっと考え込んだ。
 思いつく顔は数人いる。
 その中で一番と言うと、誰になるのか……

 結局、絞り切ることは出来なかった。

「悪い意味で44番と301番」
「ほう、では良い意味では?」
「403番」
「ふむ。その理由は?」
「個人的に彼を応援している。理由はそれくらいだ」

 なるほどのう、とネテロ会長は顎を擦った。
 403番の顔を思い出す。
 医者になりたいと言っていた。そのためにハンター試験を受けたのだと。
 なかなかいい目をしていた。
 応援をしたくなる気持ちは判らなくなかった。

「それでは最後の質問じゃ。九人の中で、今一番戦いたくないのは?」
「それも同じだな。悪い意味で44番と301番。良い意味で403番だ」
「うむ、ご苦労じゃった。下がってよいぞ」

 それでは失礼する、と言ってアゼリアは退室した。
 彼女自身、色濃く疲労を感じていた。
 ベッドで泥のように眠りたかった。
 今はそれが何よりも魅力的だった。





 そして、三日後。
 ハンター試験委員会の経営するホテルが貸し切られ、そこで最終試験が行われることとなった。
 負け上がり式のトーナメント。不合格者はたった一人。相手を死に至らしめた時点で失格というルール。

 その、最終試験が始まった。

 第一試合はハンゾーVSゴン
 三時間にも渡る、戦闘とも呼べない一方的な暴行が繰り広げられた。
 実力の差は歴然としていた。
 身体能力、戦闘技術、全ての面でゴンはハンゾーに勝てなかっただろう。
 しかし、ゴンは勝った。
 理屈ではない、意地の勝利だった。
 ハンゾーはゴンの真直ぐな心根を気に入ってしまったらしい。
 気絶したゴンが運び出されるのを見ながら、ハンゾーは照れたようにそう言い捨てた。

 第二試合はヒソカVSクラピカ
 しばらくの戦闘の後、クラピカが勝利した。
 勝利したというよりは、ヒソカが負けを宣言したというべきか。
 その直前にヒソカが何事かを囁いたのが、受験生たちには奇異に映った。

 第三試合はハンゾーVSポックル
 こちらは実に早い決着だった。
 ハンゾーが素早くポックルの腕を固め、今にもへし折らんとして言った。

「悪いがあんたにゃ遠慮しねーぜ」

 鬼気せまる形相に、ポックルはあっさりと負けを認めたのだった。

 第四試合はヒソカVSボドロ
 こちらも一方的な試合となった。
 実力差は歴然であり、ヒソカの攻撃をなすすべなくボドロは受ける。
 だが、その後ヒソカが何かを囁くとボドロは負けを認めた。
 道化師の合格が決まった。

 第五試合はキルアVSポックル
 こちらは開始早々キルアが戦闘を放棄。
 次で勝てると判断したのか、自信たっぷりの様子だった。

 そして、第五試合―――

「レオリオVSアゼリア、始め!」

 アゼリアはレオリオと対峙していた。
 そして内心で、飄々とした狸爺のことを罵っていた。
 何が参考にする、だ。
 闘いたくない相手を聞いたくせに、しっかりと当ててきた……
 だが、もしも私がこうすることを見越してこのカードを作ったのだとしたら……本当に、いい性格をしている。
 そんな風に皮肉って、アゼリアは宣言した。

「参った。私の負けだ」

 開始僅か三秒のこと。
 どうしたものかと頭を掻いていたレオリオは、唖然とした。
 そして何が起きたかを理解し、声を荒げた。

「いい医者になれよ、レオリオ」

 ポン、とアゼリアはレオリオの肩を叩き、その場から離れようとする。
 その背に向けて、レオリオは怒鳴った。

「おい! そりゃねーだろアゼリア!! なんでそこで参ったなんだよ!!」
「別に私はハンターになりたいわけではないからな。君に合格を譲ったとしても、なんの不思議もあるまい?」
「だからってよ! こんなんで納得できるかー!! つーかこういう所は男の方が折れるとこだろ!!」
「なっ……か、関係あるか!! 大体、私の方が強いのだから、君は合格を喜べばいいだろうが!!」
「お? 言うじゃねーか。なら勝負しろや、コラ!」
「この試験は参ったと言わせるしかないのだろうが!! どうせキミは参ったなんて言わないのだから、私がいま言っても変わるまい!!」
「そういう問題じゃねーッ!!」
「どういう問題だッ!!!」

 怒鳴り合う二人。
 いつしかそれは、中身があるのかないのかよく判らない口論になっている。
 それを見て、他の受験生たちは平和だなぁと思った。

「ああ、もう! うるさいッ!!」
「ヒデブッ!!」

 結局、面倒臭くなったアゼリアがレオリオの腹にいい一発を入れて、レオリオは悶絶した。
 そのレオリオの首根っこを掴んで、アゼリアは受験生たちのいる隅へ戻った。
 彼女もまた肩で息をしている。
 どうやら、多少頭に血が上っているらしかった。

「おい、試験官。私の負けだ。次の試合に進んでくれ。それと、私の試合までには戻る。少し外を歩いてくるぞ」
「結構です。それでは、第六試合―――」

 試験官が、キルアとギタラクルの名を呼ぶ声を背に受けて、扉に向かう。
 部屋を出るとき、キルアと目が合った。
 四次試験の時の事があってか、キルアはアゼリアと目が合うとどうにも不機嫌そうだ。
 このときも、鼻息を一つついただけで、すぐに眼を逸らした。

 まぁいいかと考えて、アゼリアはその場を離れたのだった。
 とりあえずハルカのいるホテルの部屋に向かうか、と。
 そう考えて……

 まるでそれは予定調和の如き運命の流れ。
 だがそれを咎めることは出来ない。
 アゼリアは、この後この場で何が起きるのか知らなかった。










〈後書き〉

四次試験終了。ハルカは落ちました。
ハルカが合格するプロットもあったのですが、色々と考えて、やっぱり落そうと決心。

どうしようかと思ったのが最終試験。
いえ、展開はもう決定していたんですが、原作と全く同じ描写をすることほど詰まらないものはない、と思いまして。
けど状況と配役が変わらないので、異なる展開を入れようという気にもなれず、あっさり風味になってしまいました。
次でハンター試験編終了予定。
どうぞお付き合いください。



[3597] 試験終了
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/02/23 13:34
 まるで体中に耳が出来たようだと思った。
 衣擦れの僅かな音まで聞き取れる。
 激しすぎる心臓の鼓動も、風の音も。
 後ろから聞こえる、彼女の命の証も……

『じゃ、死んで』

 だが、これだけは……聞き逃したかった。
 ゾッとするほど平坦な声。
 その声を最期に。
 彼女は、もう何度目かも判らない死を迎える。

「―――ハッ!!」

 だが飛び起きてみれば、眼に入るのは豪奢なホテルの一室。
 治療が施された自分の体には、死に至る傷は無い。
 そのことにいつもと変わらぬ安堵をして、ハルカはベッドに再び体を横たえた。

「……」

 眠れない。

 この三日間、その大半の時間をベッドで過ごしたはずの彼女は、尚も霧に覆われたような意識の中にいた。
 四次試験で負った傷と疲労。無論、それもある。
 だが根本的な原因はそれではない。
 単純に、眠れないのだ。
 身体がどれほど睡眠を求めても、意識がそれを許さない。
 ほんの僅かな物音にも反応して飛び起きてしまう。夢の中で死を迎える度に、自分の体を確かめる。
 浅い眠りと覚醒を繰り返すハルカの肉体には、確実に疲労が蓄積していた。

 ムリなのだ。
 どれほど自分に言い聞かせても、忘れられない。
 幾度となく夢に出る。
 自分の最後を覚悟した瞬間が。

 死んだ。

 死んだと思った。

 その瞬間は一枚の静止画のように思い出せる。
 暗闇に落ちる木々の一本一本。
 木の葉のざわめき。
 またたく星々と月の冷たい光。
 うるさいほどに高鳴る鼓動。
 静かに、しかし疾く来る魔弾。
 奈落のような瞳。
 後ろから聞こえる、彼女の息遣い。

 本来ならば視認すら出来ない筈の針が、寸分違わず自分の眉間を射抜くであろうことまで、その瞬間だけは理解出来た。

 麻痺していた恐怖が、後からジワリジワリと忍び寄り、心を侵す。
 あの時、ヒソカが来なかったならば私は死んでいた(・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 そのことが嫌というほど理解できて、恐怖は鎖のように彼女の精神(こころ)を縛る。
 眼をきつく締めて、彼女は毛布を頭から被った。

 この三日間、碌に外にも出ていない。
 思い出したように起きては軽い食事を取り、また寝る。
 どのみち体中に出来た怪我が未だに痛み、特に右足の具合が悪いので立ち上がるのにも困難している有様なのだが……

 そんな自分を見て、ハルカは―――

「……情けない」

 そう、自嘲した。

「死んでいた。絶対に、あのとき……私は死んでいた」

 それは不慮の事故のような不幸でも、油断でも何でもない。
 純然たる、絶望的なまでの実力差。
 運などというモノでは回避できない、天災のような死の気配。
 生き残れたのは、幸運などでは到底足りない。奇跡と言わざるを得ない。

 情けない。震える身を抱きしめて、心からそう思う。
 甘く見ていた。
 『死』の怖さなんて、想像上のものに過ぎなかったのだ。
 怖い。
 心の底からそう思う。
 冷たい腕が背中に差し込まれたように身が竦む。

 けど、それを招いたのは自分の選択なのだ。
 原作キャラを見たいと、今から思えばふざけた願いで試験に参加して、その結果がこの様だ。
 しかも、最大の友人すらそれに巻き込むところだった。
 もしもあの時、アゼリアが死んでいたら……
 それは、自分のせいだ。
 自意識過剰でも何でもなく、自分のせいだ。
 その最悪だけは避けられた……そのことは、嬉しい。
 だがそれでは足りないのだ。
 絶対に、足りないのだ。
 彼女は自分を守ろうとするだろう。それこそ、彼女の意思で。
 それは何故だ?
 弱いからだ。
 自分が、弱いからだ。
 だから彼女は私から目を離せない。
 その身を危険に晒す羽目になる。
 すでに彼女には護らなければならないヒトがいるというのに、その身を割かねばならなくなる。
 そのことが、ハルカは今ならばはっきりと理解出来た。

「強く、なりたい……」

 心の底から零れ出た一言。
 どんな努力も厭わない。
 苦しくても、もうこんな思いはしたくない。
 一片の虚飾もなく、ハルカはそう思った。

 それは明確な、そして純粋な「力」への渇望だった。

「今の私に出来ることをやらないと……」

 体が動かなくとも出来ることはあるだろう。
 「練」も「絶」も「凝」も、それとも「燃」の修行をするべきだろうか?
 時間を無駄にするな。
 今の一時で出来ることを……!
 そして、何よりもやらなければならないのは―――

「……アゼリア?」
「―――! ああ、起こしてしまったか。すまない……」

 この友人に、これ以上心配をかけないことだろう。

 音をたてないようにそっと入ってきたアゼリアに、ハルカは努めて明るい声を作り、話しかけた。
 未だに眠気の残る頭を何とか誤魔化す。
 湧いて出たやる気が僅かな活力となったかのようだった。

「とっくに起きてたわ! もうね、三日も寝てるとむしろ体がだるくて……心配かけた? え、別にお前のことなんか心配してないって? アゼリアってばツンデレ?」
「そんなこと言ってない! けど……まぁ、多少は心配させられたぞ、バカ」
「うわ、今の言い方ちょっとかわいいかも! デレ要素出るの早いわね!!」
「……やっぱり心配するの止めようか」

 アゼリアは疲れたように溜息をついた。
 この三日間、ハルカは寝るたびにうなされ、碌な睡眠がとれていなかったことをアゼリアは知っている。
 心に負った傷は、治るのが遅い。
 初めて身近に感じた「死」が残した影響は少なくないだろう。
 そのことが心配で、レオリオとの試合で頭に上った血を冷ましがてら、ハルカの様子を見に来たのだが……すっかり元の様子に戻った彼女に、内心でほっと息をついた。
 ……いや、正しくは元の様に振舞おうとしている、か。
 あの恐怖はまだ彼女を捕えているだろう。
 だが、それでも良いとアゼリアは思った。
 虚勢でも、それを張れるならば回復の兆候だ。
 この三日間で、多少は彼女の中に整理がついたのだろう。
 そのことにアゼリアは安堵したのだ。

 そんな考えはおくびにも出さず、アゼリアもまた普段通りの素っ気なさで口を開いた。
 普段通りに振舞う事がハルカのためになると考えたのだ。

「ま、それだけ元気なら心配はもういらないな」
「ええ。いらないわ。私はもう、大丈夫……」
「……なら、私は会場に戻るよ。キミが変なことを言い出さないうちにな」

 試験の前に見にきてよかった、と。
 そう思って、アゼリアはその部屋を後にしようとした。

「……ねえ、アゼリア」

 その背に、ハルカは呼びかけた。
 これだけは、今覚悟を得た内に……何よりも先に、言っておこうと思ったのだ。

「私ね、この試験が終わったら、天空闘技場に行ってくる。ちょっとね、一から鍛え直してくる」
「……決めたのか?」
「うん。半年くらいは帰らないかな」

 アゼリアは一度だけ振り向いた。
 正面から、ハルカの眼を見据える。
 未だに寝不足に赤く充血した彼女の眼は、しかしはっきりとした決意を宿していた。
 だから、アゼリアは頷くことにした。

「頑張れ」

 激励を言霊に乗せて。
 それだけを残して、アゼリアはドアを閉じた。
 ハルカはその言葉を噛みしめて、頷いた。
 聞く人のいなくなった部屋の中で。

「頑張る」

 ギュッと手を握る。
 決意を決して放さないというかのように。
 一から鍛え直そう。
 自分の身は自分で守れるくらいには。
 体も、そして弱い心も。

 頑張る。
 そうもう一度口の中で呟いて、今度こそしっかりと回復しようと横たわった。

 そういえば、ゴンとキルアも闘技場に来るんだったか。
 いい加減眠りに落ちそうな頭で考える。
 そうだ。そこで二人は念を覚えるんだ。
 主人公組の才能が一気に開花する時だった。
 あれ、けれど……彼らはすぐに闘技場に行ったんだっけか?
 いや、違う……試験が終わったら、まずはゾルディック家に行ってたはずだ。
 なんで、そこに行くことになったんだっけ……?

 ―――そこまで、考えて。
 ―――ハルカの脳内に、スイッチを入れたかのように電流が流れた。

「ああッ!!!!!」

 絶望的な悲鳴を上げて、ハルカは飛び起きた。
 ベッドから転がり落ちるように地面に降りる。
 まだ穴の塞がらない足がガクリと落ちそうになるが、必死に堪えた。

 忘れていた。
 完全に、忘れていた。
 最終試験。そこで起きるであろう出来事を。

「間に合って……いえ、むしろ何も起きないで……!!」

 祈るように言って、ハルカは駆ける。
 ふらつく足がどこまでももどかしかった。





 アゼリアが会場に戻ると、その場に流れていた空気は異質だった。
 張りつめている。
 何か、黒く冷たいモノが。

「……キルア?」

 部屋の片隅で抜け殻のように俯くキルアに、レオリオとクラピカが必死に話しかけている。
 しかしキルアはそれに返事をしない。
 何の反応も見せることなく、人形のようだ。

「一体何があった、クラピカ?」
「……ギタラクルだ。あいつが、キルアの兄貴だった」

 ギタラクル? とアゼリアは聞き返した。
 そういえば、先ほどの試合はキルアとギタラクルの戦いだった筈だ。
 しかし、部屋を見渡すが、そこには大量の針を刺した不気味な人影はない。
 いや……違う。
 一人、先ほどはいなかった人物がいる。
 四次試験の際に相まみえた人物と同じオーラだ、とアゼリアは思った。
 アゼリアの体は自然と強張っていた。

「……何か言われたな」
「それは―――」

 クラピカが口を開きかけたときだった。
 立会人の声がホールに響いた。

「それでは第七試合、ボドロVSアゼリアを開始します。二人はホールの中央へ」

 間が悪い、とアゼリアは舌打ちした。
 後で詳しいことを聞かせてくれとクラピカに言い残し、ホールの中心で壮年の武道家と対峙する。
 速攻で終わらせる。
 そうアゼリアは意気込み、腰を低く落とした。

「始め!」

 だが―――
 立会人がそう叫んだ瞬間、だった。

 一つの影がすっと動いた。
 音もなく、滑るように。
 間近にいたクラピカとレオリオにも気付かせることなく、キルアが飛び出した。
 駄々漏れの、しかし研ぎ澄まされた殺気を纏って。

「な、にっ!?」

 意図せぬ方向からの殺気に、アゼリアの体が強張る。
 そして混乱する意思とは裏腹に、自然と体は迎撃の態勢を取っていた。
 無意識下の防衛本能は一切の無駄を省いた反撃を用意し、収束したオーラは人体を破壊するに十分すぎる破壊力を秘める。

 一方、キルアもまたその殺気に反応していた。
 己の身の危険を感じ取り、即座に攻撃目標をボドロからアゼリアへと変更する。

 キルアの攻撃は、貫手。
 狙い違わず、アゼリアの心臓を貫かんと手が伸びる。
 遠慮などない、恐ろしいまでの鋭さ。
 だが、念で強化された身からすれば、まだ遅い。
 容易く見切り、逆にその心臓を抉りとれる。
 それが、アゼリアには出来てしまう。

「と、ま、れぇぇぇええええッ!!」

 だからこそ……それが判ったからこそ、彼女は無意識に動く身体を必死に止めなければならなかった。
 反射的に繰り出した反撃だからこそ遠慮のない一撃は、それを受け止めるために全精力を傾けねばならず―――それはアゼリアに致命的な隙を作り出した。
 必死にキルアの腕を弾くが、間に合わない。
 僅かに攻撃の軌道を逸らすのみで、止めるには至らない。
 それもその筈だ。念の強化なしでの純粋な身体能力ならば、キルアの方が遥に上回る。

 ぞぶり、と……キルアの手が腹部を貫く感触を感じて―――

「―――!! ―――――ッ!!!」

 誰かの叫び声を聞きながら、彼女は倒れた。
 ゴボリ、と一度だけ大きく血を吐いて……体中から命の水が抜け落ちていくのを感じた。

 明滅する視界。
 薄れていく意識。
 何も聞こえず、何も見えない彼女の視界の中で。
 自分に駆け寄ってくる少女の姿と、入れ違いに飛び出した銀髪の少年の姿だけがはっきりと映った。










 ―――簡単なことです。何も考えずに指を引きなさい。そうすれば仕事は終わっています

 そう言った男に、小さな女の子が泣きながら首を振っている。
 怖くて、辛くて、痛くて。
 もう投げ出したいと心の底から思い、泣き喚いた。
 そんな少女の髪を掴み、男は痛烈に平手を見舞った。
 男は告げる。

 ―――止めるというなら、貴方達姉妹は別の方法で金を用意する。それだけの話です

 それも嫌だ、と少女は泣いた。
 自分が傷つくのはいい。
 だが、妹が死ぬのは嫌だった。それだけは何よりも怖かった。
 けれど、誰かを殺すのも怖かった。
 幼いながらも培われた倫理感が、そのことを忌避する。
 もう嫌だ、と。昨日誰かの血を浴びたばかりの少女は叫んだ。
 それはまさに子供の我儘。
 選ばなければならない選択肢を、どちらも嫌だと泣きわめく。
 泣き喚いても、何かが変わるわけではないというのに……
 同情すべきは、その選択肢がどちらも少女にはあまりにも重すぎるということか。

 だが、男にはそんな同情の気持ちなどない。
 もう一度少女の頬を張り、冷たく言い放った。

 ―――まったく……これだから餓鬼は嫌いなんです。泣けば誰かがどうにかしてくれるとでも言うんですか? 私が仏心を出すとでも? 馬鹿馬鹿しい。無能な餓鬼ほど始末に負えないものはないですね

 張られた頬の痛みに耐えながら、少女は嗚咽を何とか噛み殺そうとしていた。
 そうして、渡された拳銃を握りしめる。
 けど、訓練の様にはいかず。
 相手を油断させるための幼い風貌は、緊張に強張っていた。
 銃を構える腕は、恐怖にブルブルと震えていた。
 それを見て、男は溜息をついた。

 ―――本当に無能ですね、貴女は……仕方がない。私が少し、手伝ってあげましょうか

 その言葉に、少女はパッと顔を上げた。
 今よりも、少しでも楽になるなら、猫の手でも死神の手でも借りたかった。
 だが、それが果たして少女にとって幸せだったのかは判らない。

 目の前に浮かぶ赤い髑髏。
 それが消えたとき、彼女の手から震えは消えていた。

 ―――やるべきことは判りますね?

 ―――ハイ。標的の胸に三発、頭に一発、引き金を引クだケです

 ―――よろしい。危険は冒さず、確実に殺れると思った時に行動しなさい。警戒されずに近づき、ヤバいと思ったら距離を取る。勝ち目のない相手とは戦うな。それが教えです

 ―――かしコまりマしタ

 ―――それでは行きなさい

 ―――Yes, master





 懐かしい、懐かしみたくもない夢を見た気がして、アゼリアは眼を覚ました。
 そして盛大に顔を顰めそうになったのを必死で堪えた。
 眼に入ったのはカーティスの顔だったのだ。

「おや、眼が覚めましたか」
「……カーティスさん。どうして、ここに?」
「貴女が大怪我をしたというのでね。どれほどのものかと思えば、たかが腹に穴が空いたくらいで三日も寝込むとは、情けないですね」
「……三日も」

 いろいろと言いたいことはあるが、アゼリアは反論せずにその事実を噛みしめた。
 攻撃を受けたときに、多少は念でガードした筈だ。内臓器官にはさほどダメージを受けていないと思う。
 単純な刺し傷でそれほどの時間を寝込むとは、確かに彼女自身珍しい。

「ハンター試験は終了しました。貴女は合格とのことですよ。無能ながらも面目は保たれましたね」
「合格……? 私は倒れていた筈ですが」
「貴女が倒れた後、No191は降参したということです。そして貴女を刺したというNo99が―――なんでもゾルディックの者らしいですね。そこは流石と言うべきでしょう―――まぁ、その彼が最終戦を前に姿を消したので、不参加という扱いになり彼が不合格。というのが今回の顛末らしいですね」

 それではこれは預かっておきますね、とカーティスは発行されたハンター証をポケットにしまった。
 ハンター証に関する説明は代わりに聞いておいたので、お前は知る必要が無いとカーティスは言った。

「それでは、これ以上時間を無駄にする必要も理由もありません。早々に帰りますよ、アゼリア。急いで支度なさい」

 病人服に包まれた彼女に、脇にたたまれたスーツを放り、カーティスは言った。
 アゼリアはまだ重い体に鞭打って急いで着替える。
 その際に右脇腹を見てみると、そこは隙無く包帯に覆われていた。
 どうやらその下の傷は縫合され塞がっているようだった。

「それでは、行きますよ」

 準備を終えてカーティスの後に続き部屋を出る。
 そこでアゼリアは、予期せぬ顔を見た。

「あっ! 気がついたんだ!!」
「心配掛けやがって!!」
「傷は深かったようだが……起き上がって大丈夫なのか?」
「もう、本当にアゼリアは心配かけてくれるわね!!」

 てっきりもうどこかへ行ったのだと思っていたゴンたち四人組が、病室とされた一室の前に集まっていたのだ。
 呆けたアゼリアは驚きに目を見開いて聞いた。

「……てっきり、キミたちはどこかへ旅立った後だと思ったがな」
「んなわけねーだろが!!」
「ちょ、レオリオ、痛い痛い!!」

 バンバンと荒っぽく背を叩いてくるレオリオに、脇腹の傷が引き攣るように痛みアゼリアは細い声を上げた。
 そんなレオリオをハルカが蹴り飛ばし、レオリオが何するんだと怒鳴る。
 まるで変わらないやりとりに、自然とアゼリアの頬は笑みの形を作っていた。

「……アゼリア」

 と、そんな眼を冷めた眼で見ていたカーティスが、低く不機嫌そうな声で呼びかけた。
 有無を言わさぬその声に、その場の視線が集まる。

「三分だけ待ちます。表の車で待ちますので、早く来なさい」
「は、はい」

 フン、とやはり不機嫌そうに鼻を鳴らし、じろりとその場の人間の顔の上に視線を滑らせてカーティスは廊下の向こうに消えて行った。
 その背を見送りながら、レオリオが声を低める。

「……あれが上司か? 感じ悪い奴だな」
「性格は最悪だよ」

 肩を竦めたアゼリアの肩をもう一度叩いて、レオリオは苦笑した。

「それで、君たちはこれからどうするんだ?」

 アゼリアの質問に、四人は顔を見合わせると、言っていいものかと顔を見合わせた。
 だが隠しておくつもりもなかったのだろう。意を決したようにクラピカが一歩前にでると、口を開いた。

「私たちは……キルアに会いに行く。彼がキミを刺すだなんて、その直前の様子と合わせて考えても尋常ではない。何らかの暗示のようなものでも掛けられていたと考えるべきだ。もしもそうならば、彼を解放しなければならない」

 なるほど、とアゼリアは思った。
 確かに、彼のあの様子や行動は、操作系の能力で何らかの強制力が働いていたと考えれば実に自然だ。

「自分を刺したキルアをキミがどう思っているかは判らないが……きっと、あれは彼の本意ではないだろう。怒らないでやってほしい」

 その上で自分のことを待っていたのか、とアゼリアは思った。
 キルアが気に病むことのないように、刺された自分がどうなったかを伝えるために。
 そして、出来ることならば、彼との関係を保ってくれるような言葉を伝えたくて―――

「みんな。私は仕事の関係上戻らなくてはならないので、着いていくことは出来ないが……何かあったら呼んでくれ。出来る限り力になろう」
「あ、ああ」
「それと、キルアに会えたなら伝えてくれ」

 ―――そう思ったからこそ、アゼリアはこう言った。

「四次試験の時のパンチと合わせて、これでチャラだ、と」

 その言葉を聞いて、四人はホッと安心したように表情を崩した。

 もうすぐ、許された三分が経つ。
 今度彼らと会うのはどれほど先だろうか。
 その日のことを楽しみに。別れを惜しむのではなく、再会を期して。
 全員がこう言った。

 ―――また会おう











〈後書き〉

ハンター試験編、これにて終了です。お付き合いいただきありがとうございます。
ここから数話をおいてヨークシン編。こっちが本命なので、作者自身書くのが楽しみな今。
一番難産だった所はこれで超えたことになるので、たぶん筆が進む……かな?

ところで、一か所、やってしまったー! となったところがありました。
感想でご指摘いただいたのですが、四次試験でハルカが投げたプレート、これがハンゾーのターゲットだったこと。
ヒソカ、キルア、アゼリアが四次試験で四枚のプレートを集めたので、残り合格者七人が二枚ずつでぴったり二十六枚。
よっしゃー! ぴったり!! これで勝つる!! とか考えていたのですが、ハンゾーのターゲットをヒソカが貰ってしまったので、それではハンゾーも四枚なければならないことに。
プロットと本文で微妙に食い違っているのに、指摘されるまで気付きませんでした。
いずれ修正したいと思います。
指摘してくださったmalativasさん、ありがとうございました。

それでは、これにて試験は終幕。
よろしければ今後もお付き合いください。
次回の更新の時に、また。



[3597] 首狩り公爵
Name: EL◆8dda00b7 ID:cbded637
Date: 2009/05/16 22:26
「う、ぐ……! お、重いぃぃぃぃぃ!!」

 肩にズシリと食い込む重みに、奥歯を噛みしめて耐える。
 思わず膝を着きそうになるが、そこはオーラの量でカバーする。
 肉体の強化。それは実際に使ってみて、ようやくその重要性が理解出来た。
 いや……そんなことも理解出来ていなかったから、私はただ空想に走るだけの少女でしかなかったのだ。

 身に着けた重りは100キロ。
 自分の体重が2~3倍になっているのだ。念無しでは、とてもじゃないが、動けない……
 だが、それでも大分慣れてきた。
 今では「練」は使わずとも行動出来る。
 
「ッ~~~~~!!」

 ボタボタと大粒の汗が落ち、地面に斑模様を作っていく。
 膝を折り、そして立ち上がる。
 たったそれだけの動作が、まるで3000m超の山を踏破するかのように、辛い。
 横目で見れば、ゴンなどはまるで涼しい顔だ。
 クラピカやレオリオとて表情を強張らせているというのに、まるでどうということないかのようにスクワットを繰り返している。
 彼の付けた重りは私のそれよりさらに重いというのに……さらには念無しだというのに……!
 なんという怪物。フリークスの名は伊達ではない。これが1000万人に一人と言わしめる才能か。
 私は唖然としながら、目の前の巨大な扉を見上げる。
 もう一人の、1000万人に一人の才能の持ち主。その少年を連れ去り、閉じ籠めている檻を。
 ゾルディック家に来て一週間。
 私たちは、試しの門を開くべく、今日も体を鍛えている。



「ふぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……!! ムリムリムリムリ! ムリだって!! いいや無理じゃない無理じゃない! もっと熱くなれよ!! 熱い血燃やしていけよ!! ふあああああああああッ!!」
「ハルカ、うるせぇッ!!」

 失礼な。これは伝説のテニスプレイヤーの熱き叫びだというのに。
 怒鳴るレオリオを後でシメると心に誓い、しかし意識だけは扉に集中し、さらに力を込めた。
 だが限界を突破するべく内なる魂を激しく燃やしてみたというのに、二トンにも及ぶ試しの門はピクリともしない。
 踏ん張った靴が地面を抉る。
 しかし、じりじりと足が後ろに下がる一方で門が開くことのないまま、私はオーラが切れてその場にへたり込んでしまった。

「あー、もうッ! なんでこんな門を開けられるのよ!! ゾルディックの息子は化け物かッ!?」
「……ハルカ、絶好調みたいだねー」
「いやゴメン、もう無理! 体力限界! 動けないから手を貸して!」

 事実、もう体にオーラはほとんど残っていない。
 ビスケに「堅」を三時間やらされた時のゴンたちみたいな感じだ。
 今は本当に体を動かすだけの体力もない。
 へるぷみ~、と声を上げれば、仕方がないなぁとゴンがやってきて私の背と膝の裏に手を差し込んでひょいと持ち上げた。
 お姫様抱っこをごく平然に使うとは……ゴン、判っているな。
 パームとのデートで見せた気遣いも流石というものだ。
 私を運んで壁に背を預けさせてくれると、ゴンは水筒を口元まで運んでくれた。

「んー、ありがと」
「どういたしまして。それにしても、ハルカって扉に挑戦する度に凄い疲れてない?」

 それはそうだ。
 純粋な筋力ではとてもじゃないが二キロの扉なんて開けない。
 だからこそ私は顕在オーラ量を出来るだけ増やそうと全力で「練」をして、なんとか扉を開けようとしているのだ。
 オーラが切れるまで頑張っても扉が開かないのだから、涙も出ないが……
 けどまだ念を知らないゴンにそれを説明することは出来ないので、適当に誤魔化すことにする。

「私はこれでいたいけな乙女なものですから……箸より重いものは持ったことがありませんの」
「ハシ? 二次試験でメンチさんが持ってた棒だっけ――って、そんなにか弱くないでしょ、ハルカは」
「あ、そう言われるとちょっとショックかも、乙女的に」

 とはいえ、口ではそう言うが、そう思われていても仕方あるまい。
 念を知らないゴンたちからすれば、実際の肉体能力を超えた力を時に発揮している私の方が不可解なのだろうから。
 ……私に言わせれば、あんなに小さいのにゴリラ並の力があるゴンやキルア、何気に力持ちなクラピカなどの方が不可解なのだが。念無しだし。

「ま、そんなこと言ったらこの世界自体おかしいのよねぇ……アゼリアだって、実は細いしなぁ……」

 筋肉や骨の密度が違うのかなー、と呟いて、赤く染まり出した遠くの空を眺めた。
 今はまだ冬なのだ。風が汗を冷まし、少し寒気がする。
 空は雲ひとつない。
 今夜はきっと月が綺麗だろう。
 ヨークシンの空はどうかなぁ、とぼんやり考えて、眼を閉じた。





 趣味の良い調度品は部屋の主の品位と裕福さを表しているが、度を過ぎれば下品にすら映る。
 キラキラと輝く、一品でいくらするか判らない内装を見て、私は率直にそう思った。
 文化や芸術といったものにはまるで縁が無いが、棚の上に飾られた皿が札束の塊に見える程度には価値があると判るからだ。
 その部屋の主は私の目の前で弛んだ身体を揺らしながらそわそわと落ち着きなくしている。
 この屋敷に来て以来、外出する時になるといつもそうだ。
 時計が予定していた時刻を指したため、私は秘書として出発する旨を伝えた。

「議員、そろそろ時間です」
「う、む……警備の方は大丈夫かね?」
「ご心配なく。万全の態勢を整えております」

 不安をあおることのないよう平坦な調子で答えたつもりなのだが、議員はそれでも心配が残るようだった。
 もっとも、無理はない。
 毎日、外出する度に命を狙われているのだ。私たちがいなければ、彼はもう五回は天国へ旅立っている。

「ミ、ミスターカーティスに話は通してくれたのかね? ほ、ほら、攻撃は最高の防御というではないか。先手を打って叩くことが出来れば――」
「お言葉ですが、議員」

 怯えが含まれた議員の言葉を遮ったのは、青年の声。
 柔和そうな顔立ちに眼鏡を掛けたその姿は、大学生程度に見える。
 ヒト当たりの好さそうな笑顔を向けているその男は、しかし凄腕の能力者らしい。
 今回の任務でリーダーを務める、組織の新顔。
 新たに組に入ったという、ヴラドという男だ。

「我々の側から攻勢に出るとなると、それはもはや抗争に発展します。カーティス氏の一存ではその決定を下すことは出来かねますので、しばしお時間を戴くことになるかと」

 笑顔を絶やさず、しかしきっぱりと言われたその言葉に、議員の顔が不機嫌そうに歪んだ。
 怒りに鼻の穴を大きく膨らませ、唾をまき散らして声を荒げる。

「わ、私が今まで君たちの組にどれほどの貢献をしてきたか忘れたのかッ!? ボルフィード組には私を守る義務がある!!」
「ですから、言伝は致しました。しかし何分ボスも多忙の身です。決定には時間がかかります。なに、それまでは我々が議員の身をお守りしますので、ご安心を」

 そうは言われても、議員はまるで安心した様子はない。
 ぶつぶつと小声で不満を呟き、しかしそれ以上を言い募る様子はなかった。

「それでは、僕とアゼリアが議員の護衛を。フェルナンデスは夫人を、ラッドは子息の護衛を任せる。ケヴィンとリノは館で待機。いつでも出られるようにしろ」
『はい』

 ヴラドの言葉に全員が動き出す。
 ある者は屋敷の周辺を見回り、ある者は護衛対象のもとへ向かった。
 私とヴラドは議員と共に車に乗り込んだ。予定時刻より幾分遅れている。後部座席に議員と私が乗りこむのを確認すると、ヴラドは車を出発させた。
 道中の警護が最も気を使う。
 まだ完治していない腹の傷がズキリと傷み、軽く顔を顰めた。
 本当に、やっかいな仕事を与えられたものだ……

「アゼリア、周囲の警戒を」
「了解。二十秒で半径五百メートルを確認します」

 能力の発動。
 それと同時に、私の知覚がグンと広がる。
 この大気に触れるモノ、その動きの全てが手に取るように判る。
 通りを歩く人の群れ。携帯を打つ指の動き。カップルの談笑する声。皿を割ったウェイトレス。引き絞られる引き金――

「敵です」

 そう言うより早く、四百メートル先から狙撃されたのを感知した。
 音速より早く飛ぶ弾丸が着弾するまで、約一秒。
 対処するには十分すぎる時間だ。
 銃弾など、少し横風を当ててやるだけで狙いを外す――!

「今日もお出ましですねぇ……ったく、やってくれる……!!」

 弾丸が車の間横の地面を抉り、ヴラドは忌々しげに、しかし楽しそうに声を上げた。
 議員などは気が気でない様子だというのに、喜悦を隠そうともしない。
 私が風の刃で狙撃者の首を刈り取ったとき、ヴラドは通りの向こうから飛び出した三人の能力者相手に躍り出ていた。
 三人の襲撃者は、迎え撃ったヴラドを見て三手に別れる。
 流石に同時に三人を抑えることはできないのか、ヴラドは声を上げた。

「二人は僕が殺るんで、一人頼むよ」
「……了解」

 ヴラドは振り向きもせず、二人の敵を視界に収める。
 そして軽く手を振れば、そこには人の背ほどもある巨大な深紅の処刑鎌が握られていた。
 禍々しい造形に襲撃者たちが一瞬怯む。
 その隙を逃すことなく、ヴラドは素早く間合いを詰めると、処刑鎌を横薙ぎに振るった。

「くぉおおおッ!!」

 間合いを詰められた男も具現化系だったのだろう。
 虚空を掴むようにして出現したのは、無骨な棍だ。
 ヴラドの攻撃を防ごうと、鎌の軌道に棍を慌てて滑り込ませて、その表情は永遠に驚愕に染められた。
 棍をバターのようにスライスした鎌は、そのまま男の首を刈り取っていたのだ。

「んん~、まず一人」

 頬についた返り血を普段と変わらぬ笑顔のまま舐めとり、ヴラドは如何にも楽しげに声を上げた。
 ヴラドが足止めするもう一人はその様子を見て警戒を露わにしたが、どうやらヴラドと闘う覚悟を決めたようだ。
 そして残る一人、私に任された男は、彼らの任務遂行のため決死の形相で駆けてくる。
 男の標的は、私たちの護衛対象である議員。そして彼を殺すためには私たちが邪魔だ。
 男は懐から投擲ナイフを取り出すと、私に向けて投げ放った。

「こんなもの!」

 念は籠められているものの、特別変わった一撃ということはない。
 私もまたナイフを引き抜くと、放たれた四本を容易く打ち払う。
 きっとこれは牽制。本命の攻撃が来るのだと思い身構えた。
 しかし、実際は私の予想の斜め上を走っていた。

「なに……ッ!?」

 男は再びナイフを引き抜くと、投擲する。
 右手から、左手から。次から次へと。
 それはまるでナイフの雨だ。
 私は両手にナイフを握り、繰り出されるナイフを弾き続ける。
 地面に落ちたナイフはあっという間に五十を超え、尚も増え続けていく。

「くっ……だが、こんなナイフをいくら繰り出したところで私を倒すことはできんぞ」
「そうかな?」

 ナイフを繰り出し続ける男の口が、にやりと歪んだ。
 その表情に寒気を感じたのは一瞬。
 『大気の精霊(スカイハイ)』で広がった知覚が、私の足元に散らばったナイフがピクリと浮かび上がるのを感じ取った。

「……ッ!!」

 慌てて飛び退く。
 間一髪といったところで、獲物を食らう鷹のように飛び立ったナイフたちは私の皮膚を僅かに斬り裂くに留まった。

「外したか……」

 男は忌々しげにつぶやく。
 単調なナイフの投擲からの、真下からの強襲。
 それこそが男の必殺を機した一撃だったのだろう。

「……操作系の能力者!」

 地面に落ちていた無数のナイフ。
 それが男を護るように、あるいは獲物にとびかかる前の蛇のように、旋回している。
 男はさらに数本のナイフを取り出すと、それを構えて言った。

「逃げたければ逃げるがいい。議員の命は戴いていくがな! 先ほどの一撃を避けたのは褒めてやるが、ならば当たるまで続けるだけのこと……!」

 その言葉と共に、再び攻撃が開始される。
 先ほどと同じように飛来するナイフの群れ。
 問題は、その数。
 数十に及ぶナイフが飛び交い、四方八方から私を狙う。
 速度や威力は大したことはない。
 だが、あまりの数に手が回らない……!!

「くっ……」

 じり貧といえる状況に舌打ちする。
 他所からの襲撃や狙撃に備えて、『大気の精霊(スカイハイ)』は解除できない。
 広域を覆った状態のまま、索敵を続けなければならない。

 敵の操作能力はそこまで精密ではないのだろう。ナイフたちはただ「私の方向」に単調に向かってくるだけで、全てが急所を狙っているわけではない。
 深手になりうる攻撃だけを叩き落とし、残りのナイフは身のこなしで避ける。
 とはいえ、浅い傷は次から次へと積み重なっていく。
 そして、ナイフを叩き落とそうとした瞬間に視界がグラリと揺れるのを感じ、私は本能的に大きくその場から飛び退いていた。
 その様子を見て、男がニヤリと笑う。

「くくくくく……ようやく効いてきたか? 熊も倒れるような麻痺毒だ。カスリ傷とはいえ、立っているのも辛いだろう……?」

 男の言葉通り、視界が霞み、体が重くなる。
 投擲ナイフに毒を塗る、か……確かに、よく使われる手だ。

「それでは、さっさと死ね……!」

 得意げに笑った男が、指揮者のように手を振り降ろす。
 それと同時に、銀の龍のようにナイフの群れが飛来した。

 ――私から遠く離れた場所へ。

「……お前こそ、ようやく効いたか」

 ポケットの中、開けられた小瓶を閉める。
 幻覚、催眠効果を持つ、催眠蝶の鱗紛だ。
 大気に乗せて散々かがせてやったというのに、効き目がずいぶんと遅かったようだ。

「風の刃なんて作らなくても、戦い方はあるのだよ……」

 満足げに高笑いを続ける男の中では、都合の良い結末が繰り広げられているのだろう。
 この鱗紛はアップ系のドラッグの代わりにもされる強力なものだ。
 私は痺れた体を引きずって男の元へ行くと、顔の真ん中に彼のナイフの一本を突き刺しておいた。
 熊も倒れる麻痺毒だ。きっと起きられないだろう。永久に。

「さて……思った以上に苦戦してしまったか」

 解毒剤を飲み、体の痺れが少しずつ抜けていくのを感じる。
 議員が震えているであろう車へと戻る途中、ヴラドの方はどうなったかと視線を向けた。
 そして、そのことを後悔した。

「ん~……美味美味……」

 戦闘はすでに終わっていた。
 ヴラドは体中を返り血で真赤に染め上げ、楽しそうに首なしの死体を弄っている。
 いや……壊している。
 彼の得物である鎌で、すでに原型を留めていない死体をざくざくと刻んでいるのだ。
 そしてその度に、死体は時を経たミイラのように干からびていく。
 その身から滴る血液を吸われていくように……

「悪趣味な……」

 ヴラドのいつもと変わらぬ笑顔を、そして楽しげな様子を見て、私は唾棄した。
 酷く、胸糞悪い気分だ。
 あの道化師(ヒソカ)の方が、ただのバトルマニアな分マシと思えるほどに。

首狩り公爵(ネックハンター)か……スミスが言った通り、最悪にヤバい奴だよ」

 殺人狂め、と吐き捨てる。
 この男と仕事を一緒にするというだけで気が滅入るというものだった。
 仕事を受けた時は、楽な仕事だと思ったものだが……そんなことを考えていた自分を叱ってやりたくなる。
 その時のことを思い出して、私は溜息をついた。
 それはハンター試験から帰ってきて十日ほど経った日のことだった――





「要人警護、ですか……?」

 命令の内容がいまいち的を得ず、私は問い返した。
 要人の警護。何故私がと思わずにはいられない。何かの間違いだろうか、とも思った。
 私の能力は隠密性、秘匿性に非常に長けている。
 元より、相手との戦闘を避け任務を遂行するために作られた能力だ。そうした面に優れているのは当然と言える。
 そしてそれは私の能力の最大の長所であり、そのことはカーティスも承知している。
 だからこそ、彼は常に伏せ札となるように私を運用(・・)してきたはずだ。
 その私が要人警護など、それまでの作戦との違いに戸惑いを覚えざるを得なかった。
 だがそれは決して間違いではないらしく、カーティスは疲れた声で命令を繰り返した。

「護衛対象はマーカス上院議員。この国の軍部と繋がりが深く、武器弾薬の横流しをしてくれるお得意様です。ですが……調子に乗って取引相手を増やしすぎ、そこでミスをしたらしいのですよ。相手先のマフィアは大層ご立腹らしく、彼の命を狙っているとか……それ故、私たちに泣きついてきたというわけです。彼と、彼の家族を守ってくれるようにね」
「任務の内容については了解致しました。しかし、何故私なのですか……? 護衛任務ならば、もっと適した人材が――」

 尋ね返すと、カーティスは驚きに軽く眼を見開き、その後不機嫌そうに眼を細めた。

「……何時からあなたは私の命令に疑問を返すようになったのですか? あなたはただ私の指示に従っていればよいのですよ」
「――申し訳ございません、分を超えておりました」

 どうやら相当に不機嫌なようだ。
 蜂の巣を突いては堪らないと、大人しく頭を下げることにする。
 カーティスは尚も眼を細めていたが、やがて鼻を鳴らすと眼を逸らした。

「まぁ、今回だけは許しましょう。そして、あなたの問いへの答えですが、それは理由があります。あなたの今回の仕事は、護衛というよりも諜報です」
「諜報……」

 何やらキナ臭い話になってきたな、と私は溜息をついた。
 確かに私の能力は広域探索と諜報に長けている。それは戦闘よりも本領を発揮出来ると言えるだろう。
 病み上がりの身としては確かにちょうどいいかもしれない。
 しかし問題は、何を調べるのかということだ。
 その疑問に答えるように、彼は口を開いた。

「調べるのは、議員が武器を入手するルート。軍部の誰と通じているのか。護衛の傍ら、それを調査しなさい」

 早い話が、議員のコネクションを奪ってしまおうという話なのだろう。
 武器を手に入れるパイプさえあれば、議員の存在にさして価値はないのだから。

「その他詳しい情報は資料に載っています。眼を通しておくように」
「……判りました」

 まぁ、暗殺任務などよりはずっと気が楽だ。
 私はこの時、そう考えていた。










〈後書き〉

リアルが忙しくて凄く更新に間が空きました。お久しぶりです、ELです。
PVがいつの間にか100000超えていてテンションがちょっと上がりました。ただの指標とは判っていても、やっぱり嬉しいものは嬉しいですね。
更新頻度は今後も落ちると思いますが、飽きたとか投げ出したということでは一応ありませんので、もしも楽しみにして下さる方がいましたら、気長にお待ちいただけると嬉しいです。
それでは、次回更新の時に。


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