――それは、二人の男女の狂った愛から始まった。
カルロス=ストロングが天空闘技場に魅せられたのは10歳の時の話だ。
当時格闘技などには全く興味がなく、寧ろ家で本などを読む方が好きだったカルロスは、父に半ば無理やり連れていかれた天空闘技場で、人の戦い、というものに魅了された。
闘争心剥き出しの男たち。本当に同じ人間なのかと思うほどに隆起する筋肉。影でしか追いきれないほど早い動き。
人間という存在に対する固定観念が根底から破壊されたような気分だった。
それから、カルロスの闘技場通いが始まった。
少ない小遣いをかき集めては、闘技場に通う日々。
最初は月一回ほどだったが、賭けをやるようになってからは毎日いけるようになった。
別にカルロスは特別博才があったわけではないが、カルロスは眼が良かった。あるいは鼻が効くといってもいい。長く選手たちを見ているうちに、カルロスにはなんとなくどちらが強いかがわかるようになっていた。
そうして、毎日のように闘技場に通っていると、これは、と思う選手が何人か出てくる。
そして、そういった選手は、190階までを駆け抜けるように上り詰めて行き、あっという間に200階へといってしまう。
カルロスの興味が、200階に向かうのは半ば必然と言えた。
12歳の時、カルロスは初めて200階クラスの戦いを眼にする。
そこは、まさしく次元が違った。
魔法なのか超能力なのか良くわからない摩訶不思議な力を自在に操り戦う選手たち。
カルロスは、そこで初めてこの世には自分が知らない未知の力があることを知った。
カルロスは、200クラスの選手達が使う不思議な力について周りの大人たちに聞いて回った。
だが、大半の大人たちは『200階以上の選手は不思議な力を身に付ける』という時点で思考停止しており、何か知っている素振りの大人たちも思わせ振りな表情を浮かべて黙秘するだけだった。
カルロスが“燃”という概念に行き着いたのは、それから一年後の話だ。
200階クラスの選手たちを注意深く観察し続けた結果、極一部の選手には不思議な力の師匠が存在することに気づいた。
当時怖いもの知らずだったカルロスは、その師匠の1人へと特攻をかました。
最初は軽くあしらわれるだけだったカルロスだったが、毎日毎日毎日毎日その師匠の元へと通ううちに、その師匠はついに根負けしてカルロスに燃を教えてくれたのだ。
心を燃やす技術。すなわち意志を強く鍛える業。
燃は、「点」「舌」「錬」「発」の四大行で構築されており、「点」で心を一点に集中。自己を見つめ、目標を定める。「舌」でその思いを言葉にし、「錬」で意志を高めて、「発」で行動する。その一連の心の動きを鍛える修行らしい。
これを聞いたカルロスは、それをあっさりと信じた。200階クラスの力は明らかに肉体の鍛練で得られる範疇を越えており、もし介在する余地があるとするならば、心。精神的な力を肉体に影響させるぐらいしかないのではないかと思っていたからだ。
燃を教えてもらったカルロスは、その師匠へと何度も礼をし、自宅に帰った。その師匠が、カルロスが礼を言う度に複雑そうな顔をしていたのに、カルロスは当時全く気付かなかった。
そして、カルロスの燃の修行の日々が始まる。ここでカルロスが普通とちょっと違っていたのは、燃の力を得て自分も戦ってみたいと思うのではなく、燃の力を得ることでより深く200階クラスの戦いを楽しみたいと思っていたことだった。
カルロスにとって、燃とは強くなる方法ではなくあくまでも観戦を楽しむための手段の一つに過ぎなかったのだ。
そんなカルロスの一途な念が項をそうしたのかも知れない。カルロスの燃は、日に日に上達していった。
カルロスは、観戦をし、その師匠へと燃をさらに深く教わり、自宅に帰ると燃の修行を行うという日々を繰り返す。
毎日師匠の元に通ううち、最初は部外者扱いでぞんざいな扱いを受けていたカルロスも、やがて少しずつ身内として受け入れられていく。
その師匠が女性で、面食いであり、時が経つにつれカルロスが精悍なイケメンになっていったのも大きいかも知れない。
師匠の名を知ったのもこの頃だ。師匠は、ビスケット=クルーガーと言い、若くしてシングルハンターの才女であった。
転機が訪れたのは、カルロスが16歳になった頃。燃の修行を始めて三年も経ったころだ。
その日も最前列で200階クラスの観戦をしていたカルロスは、ある時選手同士の戦いの流れ弾を受けた。
不思議な力をその身に受けたカルロスは一発で昏倒し、眼が覚めた時、彼は不思議なもやが体を包んでいるのに気づいた。
カルロスは、気づいた。これが、200階クラスの不思議な力の正体なのだと。
カルロスは、すぐさまビスケの元に行き、ついに燃を完全に身につけたことを報告した。
カルロスの肉体を包むもやを見たビスケは、額に手を当て嘆息した後、カルロスに真実を語った。
それは、不思議な力の真実。燃ではなく念という真の姿の話だった。
カルロスは、自分が今まで騙されていたことをようやく知ったが、不思議と恨む気持ちは沸かなかった。
念の力を知るカルロスはこの力が世に出回れば世界の危険ランクがはねあがることを良く理解していたし、それなりに長いビスケとの付き合いで彼女が意味のない嘘を吐かないタイプと知っていたからだ。
ビスケはカルロスに問いかけた。カルロスが望むなら、念を教えてもいい。だが、念を身につけたその先でカルロスは何がしたいのかと。
カルロスはこの問いに嘘偽りなく答えた。自分はただ、より深く200階クラスの戦いを楽しみたいのだと。
これを聞いたビスケは、呆気に取られ、やがて呆れたように苦笑しながら、本当に変わった奴だわさと小さく呟いた。
そして、それからカルロスの念の修行が始まった。
念の基礎たる纏、練、絶、発の四大行を初め、凝、堅、流、周、円、隠、硬等の応用技を学ぶ日々。
超効率的かつ、スパルタなビスケの扱きに血ヘドを吐きながらもカルロスは闘技場に通い続けた。
そんな日々の中、カルロスは1人の女性と出会う。
輝く金髪と、美しい鳶色の瞳を持った美少女――名をエリナと言った。
カルロスとエリナは、初対面にもかかわらず、磁石の両極のように惹かれあった。
エリナはカルロスと同じように人の戦いを見るのが大好きだったのだ。
やがて、二人は恋仲となり、カルロスはビスケに秘密で彼女に念を教え始める。
それは、自分と同じようにより深く200階クラスの戦いを楽しめるように、というものもあったし、時に観客席にも攻撃が飛んでくる200階クラスで、安全に楽しめるようにという配慮でもあった。
エリナに念を教えていくうち、カルロスは彼女の念の才能にすぐに気づいた。
瞑想を始めて一週間で纏を身に付け、練を1ヶ月で習得。絶は初めから使えており、スポンジが水を吸い込むように応用技も身に付けた。
何百万という選手たちを見続けたカルロスは、彼女の才能を的確に見抜いた。
これは100万人に1人の才能の持ち主だと。
それからも二人は会瀬を重ね、そしてエリナはどんどん強くなった。
数年遅れで念を覚えたにもかかわらず、エリナの総オーラ量はカルロスを遥かに凌駕し、技術においてもカルロスに並んだ。
それでも、エリナはその力を戦いに使うことはなかった。
ただただ純粋に、力を磨き続けたが、それは戦う為の力ではなかった。
ある時、カルロスはエリナに問いかけたことがある。自分の強さを試したくならないのかと。
そんなカルロスに、エリナは言った。
自分が強くなることに興味はない。私はただ、強い存在が好きなの、と。
そして彼女は続ける。いつか私の子供が最強になる。それが私の夢なの。
そのエリナの輝く笑顔を見た日から、カルロスの夢も自分の子供が最強になることになった。
そんな二人の間に子供ができるまで、そう時間はかからなかった。
いわゆる出来ちゃった結婚ではあったが、カルロスとエリナが数年来の付き合いであることは周知の事実であったので、周囲は良いきっかけだ、程度にしか思わなかった。
子供が出来たことがわかると、エリナが自室に籠り切りになり、全オーラを子供に注ぎ続けるようになった。
カルロスはエリナが何をしているのかは具体的には知らなかったが、強化系のエリナの事だ、何らかの形で我が子を強化しているのだろうと思っていた。
ある時、エリナはカルロスに言った。
この子が産まれた時、私はきっと命を落とす。私は命を賭けてこの子を産み落とす。だから……この子が産まれた後はお願いね?
それを聞いたカルロスは、エリナを安心させる為、初めて発を作った。
【夢を叶える小さな小部屋/トレーニングルーム】と名付けられたそれは、生まれてきた我が子を育てる。ただそれ一点に特化した能力だった。無論、我が子以外の何人足りとも使用はできない。
その発を見たエリナは、心底安心したように笑った。カルロスは、その笑みを生涯忘れることはなかった。
そしてエリナが懐妊してから10ヶ月が経ち、11ヶ月が経ち、一年が経過してもエリナが出産することはなかった。
周囲は病院に行くことを進めたが、二人は断固として病院に行くことはなかった。
ある日、ビスケが二人のお見舞いに来た。ビスケは無言でエリナとカルロスを観察するように見つめると、悲しげな、そしてどこか怒った顔でカルロスを見、言った。
――本当に、アンタはどうしようもないアホだわさ。
そして、ビスケがカルロスの前に現れることは二度となかった。
エリナの妊娠が2年を越えると、さすがに二人も周囲を誤魔化すことが難しくなり、二人は逃げるように引っ越した。
その後も3ヶ月ごとに引っ越しを重ね、そしてそれから5年後、ついにエリナの出産の時が来た。
出産は、エリナのたっての希望で、誰も知らない無人島にて行われた。
妊娠が長引くに連れ、エリナは我が子を奪われることを酷く恐れるようになっていた。
まるで我が子の力を知れば誰もが我が子を欲しがると思っているようだった。
何の医学知識もないカルロスでは出産の際母体に凄まじい負担がかかることは容易に予想がついたが、カルロスは何も言わずにエリナの希望に従った。
例えカルロスが熟練の産婦人医だとしてもエリナが出産の際死ぬことは明らかだったからだ。
エリナが死ぬ。それはカルロスにとって耐え難いことだった。しかし、カルロスはそれを受け入れた。エリナを愛していないわけではない。愛しているから、受け入れたのだ。
そしてその日は訪れた。
カルロスが、川で水を汲んでいると、無人島全体を凄まじいオーラが覆った。
カルロスがいる無人島は小さなものだが、それでも5アールはあるものだ。
それをすべて覆い尽くすようなオーラ……。カルロスは、我が子が産まれたことを悟った。
カルロスは、全力で堅をすると小屋へと向かう。
一刻も早くエリナの元に向かいたかったが、嵐の中を突き進むように一歩一歩しか前に進めない。
だが、オーラは突然波が引くように引いていった。
カルロスはすぐに、纏だと気付いた。今までのオーラは垂れ流しになっていただけのものであり、そして我が子は産まれてすぐに纏を本能的に習得したのだろうと。
自由に動けるようになったカルロスは、すぐさま小屋へと駆け込み、そしてエリナの変わり果てた姿を眼にした。
美しかったエリナは、まるでミイラのように渇き縮んでいた。
これが全生命力を絞り出した代償なのか……。カルロスはしばし絶句した。
そんなカルロスを我に返らせたのは、他ならなぬ我が子の産声であった。
我が子は、未だ最愛の妻と臍の緒で繋がりながら、カルロスを爛々と光る緋色の瞳で見つめていた。
カルロスは力無い足取りで我が子に近づくと、我が子を抱き上げそして一筋の涙を流した。
――こうして、カルロスが憎んで止まない最愛の娘、ヒノメ=ストロングはこの世に産まれ落ちたのである。
八畳ほどの白い小部屋。無骨なトレーニング器具と、簡素なベッドのみの殺風景な部屋にその少女は居た。
齢10歳ほどの可憐な少女だ。整った容姿に、肩ほどで切り揃えられた金髪。そして緋色に輝く、この世の物とは思えぬほど美しい瞳と相まって、まるで人形のような印象を見る者に与えた。
だがそんな少女が来ている服はビスクドールのそれのようなゴスロリ服ではなく、まるで防弾チョッキのようなベスト、ボーリングの玉ほどもある腕輪に足輪とまるで囚人のような出で立ちであった。
幼い少女にはあまりにも酷な装いではあったが、少女はまるで錘が存在しないかのように正拳突きや回し蹴りといった武道の型を繰り返している。
傍目から見れば異常な光景ではあったが、少女にとっては日常の一部だ。このベストも錘も、赤ん坊のガラガラよりも先に与えられた、いわば少女にとってのおしゃぶりのようなものなのだから。
そんな少女の名を、ヒノメ=ストロングと言った。
ヒノメは物心ついた頃にはすでにこの部屋で修行をしていた。この部屋を出るときは食事とトイレ、後は入浴の際のみであり、睡眠すらもこの部屋で行われる。他者との交流はきわめて希薄であり、その扱いはあたかも精神患者のそれだ。すなわち、隔離。
当然、外出することも滅多になく、家から出たのも生まれてから数えるほどしかない。
明らかに異常な日常。しかし、それに対してヒノメが止めたいと思ったことも反抗を覚えたこともなかった。ヒノメにとって、それが生まれた頃からの当たり前だったからだ。ヒノメにとって日常とは修行で、修行は修行ではなかった。
なぜ、ヒノメが修行をしているのか。それはヒノメにはわからない。ただ、漠然と死んだ母に関係することなのだろうな、とは思っていた。
ヒノメは母の顔を知らない。ヒノメを生んだ時死んだからだ。それを、寂しいと思ったことはない。
ヒノメには大好きな父がいるからだ。父が二人分愛してくれるから、ヒノメが片親であることに不満を感じたことはなかった。ただ、命を落としてまで自分を生んでくれた母には深い感謝の念を抱いていた。
そんな、ヒノメの日常は、目覚め、瞑想をすることから始まる。燃の修行だ。点、一時間。錬、一時間。計二時間の瞑想を終えると、朝食をとり午前の修行が始まる。
午前の修行は、筋トレだ。両手、両足、上半身、下半身に合計1トンの錘をつけ筋トレを始める。
腕立て伏せ、背筋、腹筋、スクワット。それぞれを1000回づつ繰り返すと、今度はマラソンだ。念がこめられ強化され、壊れにくくなったランニングマシーンの上で、10キロの全力疾走。それが終われば正拳突きや回し蹴りといった武道の型を1000回づつ。
これらが一セットで、これを起きてから昼食までの6時間。延々と繰り返す。その間、オーラはすべて絶の状態で行われ、常に純粋な身体能力を求められ続ける。
食事を取れば、今度は念の修行。基礎的な四大行はほぼ極めているので、修行内容は応用技がほとんどとなる。オーラが枯渇するまで応用技を鍛錬すると一時間ほどの睡眠をとり、オーラを回復させ今度は系統修行。それが終われば晩飯。晩飯が終わると風呂を済まし、オーラが尽きるまで堅。それが終われば泥のように疲れ果てて眠りにつく。そしてその睡眠時間もやはり一時間であり、起床と同時に次の日の修行が始まる。
これが、ヒノメの日常であり、睡眠二時間とその他もろもろ二時間のほかはすべて修行に費やされている。
人間の構造的にありえないハードスケジュールであり、これを可能としているのが、ヒノメの父カルロスの念であった。
【夢を叶える小さな小部屋/トレーニングルーム】という名のそれは、ヒノメを育てる、ただそれだけのために生み出された念である。
主な能力は、空間内の重力操作。オーラ操作の阻害。オーラ消費量の増加。そして回復促進。
重力操作により、通常では考えられないほどの負荷をヒノメに与えることができる。今現在も、この部屋には20倍もの重力がかかっており、ヒノメの着けた錘は20トンにも及ぶ負荷となっていた。
そうした負荷によりダメージを負った筋肉を回復させるのが、回復促進の効能である。一時間の睡眠で8時間熟睡と同じ休息が得られさらには超回復の効果もあるためもはや進化とも言えるレベルで超重力下に適応していくことができるのである。
そして、オーラ操作の阻害は、文字通りオーラの操作の難易度を上げる効果がある。一見何のメリットもないように見えるが、オーラの扱いが難しくなるということは、この空間でも流麗にオーラを扱えるようになれば外の空間に出れば100倍の巧さで扱えるようになるということでもあり、オーラ消費量の増加もヒノメの膨大なオーラを短時間で枯渇させ、オーラの絶対量を増やすには必須の仕掛けである。
ヒノメの戦闘力の源は、本人の資質だけではなくこのどこか脅威を感じさせるまでにヒノメの育成を目的としたトレーニングルームの存在があった。
ただ、この【夢を叶える小さな小部屋/トレーニングルーム】という念からは持ち主であるカルロスのヒノメに対するひとつの姿勢が伺える。
それはどこまでもヒノメの意思や感情といったものを無視し、効率性だけを求めていることだ。
ヒノメが一人の感情を持った人間ということを考慮せず、ただただ強さだけを求める機械と見做す。
それが、この無機質で冷たい空間からは感じられるのだ。そして、それにヒノメは気づかない。
ヒノメが黙々と筋トレをしていると、ふとピピッという音が響いた。
食事の合図である。
「……ごはんの時間」
ヒノメはうっすらと、ほとんど無表情に近い笑みを浮かべそう小さく呟くと、部屋を出た。
そして、一気に軽くなった身体にホッと一息つく。
二十倍の重力から開放され、軽くなった身体はヒノメの心まで軽くしてくれる気がした。
ヒノメの着けているこの錘も、今でこそ総量1トンといったところだが、異空間の中では20トンにも及ぶ重さになるのだ。その重さは、着用するだけで人を殺すには十分だ。
だが、そんな常人なら入った瞬間に圧死確定の空間で何時間も鍛練をし続けたにもかかわらずヒノメは汗一つ掻いてはいない。それは、ヒノメが二十倍の重力下にもすでに適応していることを表していた。
ヒノメはそのままトコトコ……いや、錘のせいでドスドスと足音をたてながらリビングへと向かっていく。
そこには、まるでこれからパーティーでも行うのかというほどの大量の料理が並んだテーブルと、すでに椅子に着いた少女の父、カルロスがいた。
カルロスは、リビングに入ってきた少女に眼を向けると眉を潜める。
「……ちゃんと言われた通りの修行をしたのか?」
その目には、数時間鍛錬していたにもかかわらず、汗一つ掻いていない涼しい顔のヒノメへの疑惑の色が浮かんでいた。
「うん」
「絶でしなければ意味がないぞ?」
「絶でやった」
「そうか……そろそろ20倍では軽すぎるか? ……どのくらいならいける?」
この問いにヒノメは少し考え込んだ後、言った。
「……倍?」
「そうか。では次から50倍にしておく。午後からは念の修行だ。早く席につけ」
「うん」
ヒノメの申告よりもさらに十倍多く重力を増やすという父に、しかしヒノメはあっさりと頷く。父がそういうということはヒノメにとって必要ということであり、そしてヒノメにとって父の言葉は絶対だからだ。
ヒノメは席に着くと食事を取り始める。しかし、対面の父は箸をつける気配はない。すでに自分の分は食べているのだ。
以前は一緒に食事をとっていたが、ヒノメが彼の分まで食べてしまうので、先に自分の分を確保するようになっていた。
ヒノメはそれを少し寂しいなと思っていたが、それを口に出すことはなかった。ヒノメは、父に不平や不満といったことを言ったことはない。それは何かわがままをいって嫌われたくないという思いからで、そしてそれは裏返せばちょっとしたわがままで父に嫌われるかもしれないと恐れているという証だった。それはヒノメが本能的に父が自分を愛していないことに気づいているということに他ならず、それにヒノメは気づいていなかった。
食事を取り終わると、ヒノメは黙って小部屋へと戻る。
小部屋は、午前中とは違い、少女に重力の負荷は掛けない。だが、それは別の方向に向いているだけだ。
ヒノメは、部屋に入るなりオーラを解放し、念における応用技の一つ、堅を取る。
すると、ヒノメは自身のオーラが凄まじい勢いで消耗されていくのを感じた。
【夢を叶える小さな小部屋/トレーニングルーム】の効果だ。重力が解除され変わりにオーラ消費量の増加と操作妨害の能力が働いているのだ。
現在、この異空間内では、オーラは通常の100倍の速さで消耗され、またオーラの扱いも100倍難しくなっている。
ヒノメはすでにこの空間で、超高速とは言わずともそこそこの速度でオーラを操れるようになっていた。
目標はこの空間でも超高速のオーラ移動を身につけることであり、そうなれば外に出て、錘を外した状態の自身の動きにもオーラを対応させる事ができるだろう。
(そうなればきっと父さんも誉めてくれる。名前を呼んでくれる)
ヒノメは、産まれてから一度も父に誉められたことも、名前を呼んで貰ったこともなかった。
ヒノメ=ストロングという名前こそ、文字の勉強の中で知ったが、父がヒノメをそう呼んだことはない。
一時期は、自分はもしかして愛されていないのだろうかと悩んだこともあった。だが、今はそんな風に悩むことはない。
なぜなら、この小部屋こそヒノメが父に愛されている証拠だからだ。
ヒノメの、ヒノメのためだけの、父による小部屋。父の全メモリを注ぎ込み、ヒノメの育成ただそれ一点に向けられたこの小部屋。これこそが、ヒノメに対する父の愛に他ならない。そう、ヒノメは確信していた。
それに、父は毎日美味しいごはんを三食作ってくれる。とにかく食べる量が尋常じゃないヒノメの為に、ヒノメが修行している間父はずっと料理の下ごしらえをしているのだ。
料理は愛情と、以前読んだ本に書いてあった。つまり、父の料理が美味しいのはヒノメに対する愛が詰まっているからであり、ゆえにヒノメは食事の時間が何よりも楽しみだった。
料理に念能力。何処の世界に、愛していない子供にこれだけ尽くす親がいるだろうか。
日々の修行は辛く苦しいものだったが、これも父の愛だと思えばヒノメは耐えられた。
(きっと、この修行が父さんの合格ラインを越えれば、父さんは褒めてくれる。名前で呼んでくれる)
それだけを目標に、ヒノメはひたすらに己の技を磨き続けた。
やがて、父に決められたメニューをこなす頃には、莫大なヒノメのオーラも底を尽き初めていた。
恐らく、あと30分も堅をし続ければ、オーラは枯渇することだろう。
つまり、その30分間は唯一の自由時間、ということになる。
ヒノメは、心なしかいそいそといた足取りでベッドまで行くと、ベッドの下に隠した一冊の本を取り出した。
タイトルは「ハートハンター ~彼にハントされた私の心~」。極普通の恋愛小説だ。
一年に一度、ヒノメは休日が与えられる。母であるエリナの命日でありヒノメの誕生日。その日だけ、ヒノメの修行は無くなる。
この本は、その際数年前公園で拾ったものだ。ベンチにブックカバーがついたまま放置されていたので忘れ物だったのだろう。
ヒノメはそれを持ち帰り、幾度となく読み返した。
小説は、一般的な恋愛小説であり、地味な少女がふとしたことからイケメンのプロハンターと出会い、そこから細々とした交流の果てに結ばれるというものだ。
かつてプロハンターに捕らえられた犯罪者が少女を狙って拉致したり、それをプロハンターが助けたりと、実に王道なストーリー。
別にベストセラーな小説という訳ではなく、凡百の小説の一つだろう。大抵の人は一回読めばもう読むことはあるまい。
だが、ヒノメはそれを何回も、何十回も、何百回も読み返していた。
カルロスは、ヒノメに様々な本を教育に与えていたが、それらは一般教養の参考書だったり、サバイバル知識等の学術書、実用書がメインで小説の類いを与えたことはなかった。
そんなヒノメに与えられたこの小説は、その中身に関わらずヒノメに大きな影響を与えた。
ヒノメに与えた影響、それは恋だ。
小説の中の少女に感情移入し、少女のプロハンターへの恋心に共鳴し胸を高鳴らせ、少しばかり官能的なシーンでは頬を赤らめる。
そして読み終わる度にヒノメは思うのだ。いつか自分もこんな恋がしてみたいと。
そう、ヒノメは恋に恋する少女となっていた。
もしも、カルロスがこの姿を見れば驚愕したことだろう。
何せ、今まで人形のように無表情で言われた事を黙々とこなす機械のようだった娘が、極一般的な少女のように頬を赤らめ恋愛小説を読んでいるのだ。
この姿を見れば、カルロスもヒノメに対する認識を大幅に改めただろう。
だが、カルロスがヒノメの真実の姿を目にすることは生涯なかった。
そう、一生、なかったのだ。
――ヒノメ=ストロングの最大の不幸は、その異常なスペック、ポテンシャルに比べ、その精神があまりに普通のものだったことだ。
彼女は、才能、環境共に非常に恵まれ、かつ本人も努力を怠らなかったため、世界的に見ても頂点の力を手に入れた。
だが、その精神は、いやその感情は人間のものだ。
親の愛を欲し、ただ名前を呼んで、よくやったと褒めてもらう、それだけを目標に頑張る一途な娘。
恋愛小説を好み、恋に恋する普通の少女。
それが、人外の戦闘能力を持ち、そして極普通の人間の感情を持つヒノメ=ストロングの真の姿だった。
もし、カルロスが真実娘を見れば、娘と向き合ったなら、ヒノメの運命は変わっただろう。
今からでも学校に通い、そしてその能力を発揮することなく、普通に恋をして結婚し、その生涯を終えたかもしれない。
それを不幸と取るか、幸せととるかは人によって違うだろう。
だが、ヒノメにとっては幸せな一生になることだろう。
ただひたすらに自分を磨きあげ、父の、いや両親のエゴを愛と勘違いし、ありもしない愛を支えに努力を続ける一生に比べれば、なんと幸せなことか。
それでも、今はいい。ヒノメが、この小さな小部屋に収まるうちは。
父のエゴを愛と思い込んだままこの小さな小部屋に閉じ込められているうちはヒノメは愛を感じていられるだろう。
だが、ヒノメは成長を続ける。ヒノメの存在はどんどん膨らみ、この小部屋には納まらなくなりつつある。
そしていつかヒノメをこの小部屋で縛りつけることができなくなる日が来る。
それが、この生活の終わりの時だ。
そしてその時は意外に早く迎えた。
ヒノメが11歳の誕生日。
ヒノメの小さな世界は崩壊した。
念能力紹介
【人工的な生まれつきの天才/カスタムチルドレン】:強化系
本人のDNAからすべての祖先の情報を読み取り、その中から優れた形質のみを抜き出し、凝縮し、強化した子供を作り出す念。また、生まれるまでにオーラを注ぎ続けることにより、生まれてくる子供のオーラの絶対量を水増しすることができる。ただし、代償として母体は必ず死ぬ。
【夢を叶える小さな小部屋/トレーニングルーム】:具現化系
ヒノメを育てる、ただそれだけのために生み出された念。八畳ほどの異空間を具現化する。
主な能力は、
空間内の重力操作。オーラ操作の阻害。オーラ消費量の増加。そして回復促進。
重力操作により、通常では考えられない修行を可能にする。また、回復促進により超回復の効果もあり筋力量が上がりやすく、原作のビスケのマッサージのような修行が可能になり効率的な訓練が可能となる。
制約と誓約は、ヒノメ以外の人間に使わせないこと。もし彼女以外の人間がこの部屋に入った瞬間、カルロスの命は失われる。