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[36388] 鬼人幻燈抄 江戸~明治編
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2016/05/26 21:40
 完結作の全編になります。

・スレが100を超えたので、新しくスレを立てさせていただきました。
「鬼人幻燈抄 大正編」になっております。そちらもよろしくお願いします。

・小説家になろうにも投稿しています。
 なろう版は

 地の文の追加
 登場人物名の変更
 余談での矛盾点の修正
 エピソードの追加

 を行っております

 2013年 1月7日投稿



[36388]    『みなわのひび』
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/01/05 14:17

「行く所がないんなら、うちに来ないか?」

 降りしきる雨の中、男はそう言って手を差し出した。


 今も思い出す。
 五つの頃、父親の行いに耐えかねて、妹と一緒に江戸を出た。父は妹を虐待していた。こんな家に居てはいけないと思った。

「雨……強くなってきたな」
「うん……」

 雨が降る。並んで歩く夜の街道。先は暗くて何も見えない。傘もなくて、ずぶぬれになって。体は冷え切り、だんだんと重くなってきた。

「鈴音、ごめんな。何もできなくて」

 赤茶がかった髪をした幼い妹──鈴音は物憂げに俯いている。鈴音の右目を覆った包帯。それを見ると嫌な気分になってしまう。
 俺は妹を父から守ってやれなかった。必死になって頑張ったのに、結局家族という形を失くしてしまったのだ。辛くて、悔しくて。右目の包帯に自分の無力を見せつけられたような気がした。

「ううん、にいちゃんがいてくれるなら、それでいいの」

 どちらからともなく伸ばされた手。固く繋がれた手の柔らかさに胸が暖かくなる。そうして鈴音はゆっくりと、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。
 守るべきものを守れない無様な自分。雨に濡れながら笑う妹。その表情を見て俺は何を思ったのだろう。いろんな感情が混ざり合ってうまく言葉になってくれない。

 ただ俺は、鈴音の無邪気な笑顔に救われた。
 
 だから願った。この娘が何者だとしても、最後まで兄でありたいと。
 でも俺は子供で、家を出ても当てなんかなくて。取り敢えず江戸を離れたけれど、どうすればいいのか分からないまま街道で途方に暮れていた。
 雨が強くなった。前も見えないくらいだ。だけど何処にも行けない。帰るところなんてもうない。きっと俺達はこのまま死んでしまうんだろうな。

 そんなことを考えていた時に声をかけてきたのは、三度笠を被りだらしなく着物を着崩した二十半ばくらいの男だった。 

 男は俺達が家出してきたと知るや否や、いきなり「うちに来ないか」と言い出した。出会ってすぐそんなことを言う男など信用できる筈もない。鈴音を背に隠し、精一杯睨み付ける。だけど男は飄々とそれを受け流す。

「そう睨むな。怪しい奴だが悪い奴じゃないぞ、俺は」

 腰には刀を携えている。「武士なのか」と問えば「巫女守だ」と誇らしげに答えた。意味は分からなかったけれど、その表情があまりにも晴れやかだったから、きっと素晴らしいことなのだろうと子供心に思った。

「どうする? このまま此処に居ても野垂れ死ぬのが落ちだろう。なら俺に騙されてみるのも手じゃないか?」

 男の言葉は正論だった。後先考えず家を出たけど、俺達が二人だけで生きていくことなんてできない。情けないけれど、そんなこと自分が一番よく分かっていた。

「にいちゃん……」

 鈴音は怯えるように俺の着物の裾を掴む。左目は不安で揺れていた。妹は父に虐待をされていたから、大人の男が怖いのだろう。でも俺達は所詮子供。誰かに頼らないと、ただ生きることさえ出来ない。

「鈴音、行こう。大丈夫……俺も一緒だから」

 結局、俺達に選択肢などない。生きるためには男の手を取るしかないのだ。そんな俺達の内心を知ってか知らずか、男は呆れたように、けれど優しく眺めていた。
差し出された手を握る。潰れた豆の上に豆を作った硬い手だった。 

「俺は元治(もとはる)だ。坊主、名前は」

 硬い手は、きっとこの人がそれだけ努力を重ねてきた証。店を営んでいた父の手がいつもぼろぼろだったのを覚えている。だからだろう。武骨な手の感触に、この人は信じていいのだと思えた。

「……甚太(じんた)」
「幾つになる」
「五つ」
「ほう、五つにしちゃしっかりしてら。そっちは妹か」
「鈴音。俺の一つ下」
「そうかぁ。いや、俺には娘がいてな。丁度お前の妹と同い年だ。仲良くしてやってくれ」

 男───元治さんに手を引かれ、俺が鈴音の手を引いて。傍から見れば奇妙な道中を元治さんはからから笑う。
 俺達は誘われるがままに彼の住む集落へと向かった。ごつごつとした掌が、鈴音の小さな手と同じくらい優しく感じられた夜だった。

「着いたぞ、此処が葛野(かどの)だ」

 辿り着いたのは山間にある集落だった。
 雨に視界を遮られたまま辺りを見回す。近くには川が流れていて、集落の奥は深い森が広がっている。妙に建物が乱立していてごみごみとした区域と、逆に民家がまばらに立っている区域があって、なんとなく乱雑な印象を受けた。俺が江戸以外の場所を知らないせいかもしれないけど、正直に言って奇妙なところというのが最初の印象だった。

「なんか変なとこ……」

 鈴音も同じような感想だったらしく、辺りをきょろきょろ見回している。

「変なとこねぇ。ま、そうだろな。葛野は踏鞴場(たたらば)だ。江戸と違って大した娯楽もない」
「たたらば?」

 聞き慣れぬ言葉に俺は首を傾げた。

「鉄を造る場所のことだ。葛野のことは追々教えるさ。付いてきな、こっちだ」
そうして案内されたのは、屋敷というほどではないが周りと比べれば十分立派な木造の家だった。どうやらここが元治さんの家らしい。
「さ、入れ」

 促され、元治さんの後を追い玄関へ足を踏み入れる。すると家の中から小走りで、小さな女の子が姿を現した。

「お父さんお帰りなさい!」

 元治さんの姿を見た瞬間、少女は勢いよく飛び出し、そのまま抱き着いた。

「おう、ただいま白雪。いい子にしてたか」
「もちろん」
「そうかそうか」

 言いながら元治さんは鈴音よりも少し小さな、色の白い少女の頭を撫でた。心地好いらしく少女は目を細めている。傍目から見ても仲睦まじい親子だった。

「ぅ……」

 鈴音がその暖かな光景に目を伏せる。仲の良い父娘。鈴音が手に入れられなかったものが此処にあった。悲しそうに、寂しそうに、鈴音は瞳を潤ませる。だから俺は小さな手を強く握り締めた。

「にいちゃん……?」
「大丈夫」

 何が大丈夫なのか、自分で言っていて分からない。でも握った手は離さなかった。

「大丈夫だから」
「……うん、大丈夫」

 安らいだ声。握り返す手。柔らかな暖かさ。くすぐったくなるような感覚に二人して小さく笑みを零す。

「あれ?」 
 一頻り元治さんと話して、少女はようやく俺達に気付いたらしい。

「あの子たち、だれ?」
「道で拾った」

 事実ではある。しかし元治さんの返答はあまりに簡潔過ぎて寧ろ分かり難かった。少女も同じことを思ったようで、しきりに首を傾げている。

「今日から一緒に暮らすことになる」

 唐突すぎる発言に少女は面食らっていた。それはそうだ。いきなり見知らぬ相手と一緒に暮らせと言われて戸惑うなという方が無理だし、普通は嫌がる筈だ。  

「ここで、暮らす?」
「ああ、こいつらをうちで引き取ろうと思う。いいか?」
「……うんっ!」

 嫌がる筈、そう思った。なのに少女は寧ろ嬉しそうに笑った。正直に言えば、俺の方こそ戸惑っている。元治さんといい、この少女といい、何故自分達を受け入れようとするのか。俺には分からない。 

「あ、あの」

 戸惑い口ごもる俺の前に少女はてとてと歩いてきた。そして真っ直ぐに俺の目を見る。

「私の名前は白雪。あなたは?」
「じ、甚太……」

 同年代の可愛らしい女の子に見つめられて、妙に気恥ずかしくて、俺の顔はきっと赤くなっている。

「あ……」

 鈴音が俺の腕にしがみ付く。人見知りの激しい妹のことだ。白雪の態度に気後れしているのだろう。

「こんばんわ。あなたのお名前も教えて欲しいな」
「……鈴音」

 ぽつりと一言だけ返す。ちゃんとあいさつは出来ていないけれど、白雪はにこにこと笑っている。彼女は本当に俺達を歓迎してくれているのだ。

「これからよろしくね」

 差し出された手。やはり父娘は似るものなのか。その姿が雨の中で自分達に手を差し伸べてくれた元治さんに重なって、俺は少し吹き出した。

「どうしたの?」
「ははっ、ごめん、何でもないんだ。よろしく。白、雪…ちゃん……」。

 たどたどしく名を呼べば、微かに頬を緩め、首を振ってそれを否定する。

「ちゃんはいらないよ。だって……」

 白雪は、幼い娘には似合わぬ優しげな笑みで言った。

「私達、これから家族になるんだから」

 多分俺は、その笑顔に見惚れていた。

 

 それが最初。
 柔らかく笑みを落す少女。家族になると言ってくれたことがどうしようもなく嬉しかった。その笑顔にどれだけ救われたことか、彼女はきっと知らないだろう。
 今も思い出す原初の記憶。
 いつか、二人の少女の笑顔に救われた。
 何もかもを失って、小さなものを手に入れた、遠い雨の夜のこと。



 こうして俺達は元治さんの家で暮らすようになった。
 なんでも元治さんの奥さん……夜風さんは葛野の「おえらいさん」らしく、集落の長に俺達が葛野で生活できるよう取り計らってくれたらしい。
 でも俺はまだ会ったことがない。何故一緒に住んでいないのかと聞くと、元治さんは「あいつは仕事で社に住んでいる」と苦笑いしていた。本当はもう少し聞きたかったけど、白雪が悲しそうな顔をするから聞くのは止めた。
 
 ともかく江戸を離れた俺達は葛野で新しい生活を始めた。最初はおどおどしていた鈴音だが四年も経てば流石に慣れてきたようで、今では俺や白雪以外と一緒に遊んでいることもある。
 ちとせという、四歳か五歳くらいの女の子だ。鈴音はもう八歳になるけど見た目は幼いから、二人でいても全く違和感がなかった。
 そして俺はというと、

「くそっ」
「かっかっ、振り回すだけじゃ当たらねえぞ」

 がむしゃらに木刀を振るうが、元治さんは小さな動きでそれをいなしていく。

「甚太、がんばれっ」

 白雪は楽しそうに俺と元治さんの打ち合いを観戦している。いつも通り。ここで暮らすようになってから、毎日のように見られる光景だった。
 俺は葛野に来てから、元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。雨の夜、何もできなかった自分がいた。雨の夜、大切なものを手に入れた。いざという時に鈴音を、そして白雪を守ってやれる男になりたいと思った。我ながら子供じみた発想だ。だけど元治さんは笑ったりしなかった。それどころか毎朝俺の相手をしてくれている。

「ほら、しっかり!」

 白雪の声が聞こえる。朝が早いため鈴音はまだ寝ているが、白雪は毎日この稽古を眺め応援してくれていた。稽古とはいえ格好悪いところは見せたくない。気合を入れて打ち込んでいくが、元治さんは余裕の表情を崩さない。横薙ぎ、弾かれる。突き、体を捌く。袈裟掛け、半歩下がって避けられた。

「おう、中々鋭くなってきた」

 踏み込んで、渾身の振り下し。しかし木刀で俺の一撃の軌道をほんの少しだけ逸らし、
「だが振りが大きい」
「ぎゃっ!」

 返す刀で頭を叩かれる。手加減はしてくれたのだろうが、結構な衝撃が走った。思わず木刀を落し殴られた所に手を当てる。触った感じ、しっかりこぶになっていた。
 この通り、気合を入れた所で結果は同じ。今日も俺は敗戦の記録を更新したのだった。

「ふふ、残念だったね」
 
 白雪は満面の笑顔で近付いてくる。俺は落した木刀を拾い上げ、少し顔を背けた。いいところを見せようと気合入れたくせに、いとも簡単にやられたことが何となく気恥ずかしかった。

「やめろよ」
「いいからいいから」

 仏頂面で座り込む俺の頭を白雪が撫でる。俺の考えなんてお見通しらしい。白雪は強がりを見透かしてにやにやと笑っていた。

「大丈夫、お姉ちゃんが慰めてあげるからね」

 口調は完全にからかいのそれである。

「何がお姉ちゃんだよ。俺より年下の癖に」
「私の方がしっかりしてるからお姉ちゃんなのっ」

 満面の笑みでそんなことを言われてはどう返していいのか分からなかった。
溜息を吐きながらも黙って頭を撫でられる。気恥ずかしいのは変わらない、でも嬉しいと思った時点で俺の負けなんだろう。

「かっかっ、まだまだだな」

 その光景をいかにも微笑ましいといった表情で眺めながら元治さんが言った。

「元治さんが強すぎるんだよ」
「たりめぇだ。年季が違わぁな」

 涙目で睨み付けても木刀の峯で肩を叩きながら笑うだけ。この人は普段の態度からは想像もつかないが、葛野一の剣の使い手らしい。人は見かけによらないというやつである。

「そんな落ち込むな。ま、精進するこった」
「分かってるよ。……でもさ、俺、鍛錬を初めても全然変わらないし」

 強くなれない、ではなく変わらない。守れるように強くなりたいと思っても、現実には俺は何も変わらなくて。時々、自分は何をしているんだろうと考えてしまう。
 俺の内心の不安を悟ったのか、元治さんは普段は見せないような優しげな表情で言う。

「いいか、甚太。変わらないものなんてない。自分じゃそんな風には思えねぇかもしれんが、お前だって少しずつ変わってるんだ。だから腐るな。お前は強くなれる、俺が保証してやらぁ」
「……うん」 

 言われたからって何が変わる訳でもない、やっぱり何かが変わったようには思えない。でも少しだけ心は軽くなった気がした。

「と、そろそろ仕事に行かにゃならん。悪いがここまでだ」

 木刀を持ったまま俺達に背を向ける。

「分かった。元治さん、今日もありがと」
「気にすんな。俺が好きでやってることだ」
「お父さん、いってらっしゃいっ」
「おーう、いい子にしてるんだぞ」

 そう言って振り返りもせず歩いていく元治さんは汗一つかいていない。俺程度じゃあの人を疲れさせることさえできていないということだ。左手は知らず知らずのうちに木刀を強く握り締めていた。実力に差があるのは分かっているけどやっぱり悔しいことには変わらない。

「なあ」
「なーに?」
「元治さんって何やってんの?」

 そう言えばあの人は葛野……製鉄の集落に住んでいるが、他の男達に交じってタタラ製鉄の作業をしている所なんて見たことがない。純粋に元治さんの職業が何なのか気になった。

「いつきひめの巫女守だよ」

 以前も聞いた言葉だった。しかしそれが何を意味するのかは全く分からない。

「お母さんはいつきひめなの」
「お母さんって、夜風さん……だったっけ?」

 実際に会ったことはない。以前名前を聞いたことがあるだけだ。

「うん、そう。お母さんは『マヒルさま』の巫女様なんだ」

 そう言って白雪は遠くを眺める。視線の先は集落の北側、小高い丘に建てられた社の方だ。

「あの社にいるのか?」
「……うん。いつきひめと会えるのは集落の長と巫女守だけなの。『いつきひめはそのしんせいさを保つためにぞくじんと交わってはならない』んだって。お父さんは巫女守だから毎日会えるけど、私はもう何年も会ってないなぁ」

 あはは、と軽く笑いながら、でも寂しげに目を伏せる。その仕種に、なんで白雪が俺達を受け入れてくれたのか、分かった気がした。
 この四年間、白雪は一度も母と会っていない。きっと俺がこの家に来る前も同じなのだろう。
 巫女守というものがどういうものかは分からないが、父は仕事として母と毎日会い、自分だけが会えない。そんな日常に、白雪は仲間外れにされていると感じていたのかもしれない。
 そもそもまだ小さな女の子だ。母親に会えないことを寂しいと思わない訳がないのだ。
 だから家族が欲しかった。
 今になって初めて知る、俺を救ってくれた彼女の弱さ。

「あの、さ」

 気付いたら口はもう動いていた。

「俺は一緒だからな」
「え?」
「俺は、ずっと一緒にいるから」

 だから寂しくなんてない、とは言えなかった。母親と会えない寂しさを埋められる、そんなふうに思える程自惚れてはいない。
 でも傍にいたいと思った。出来ることなんてないけれど、せめて一緒に悲しんでやりたかった。

「なにそれ」

 くすりと笑う。馬鹿にした訳ではなく、思わず零れたといった様子だった。

「笑うなよ」
「だって」

 白雪はただ静かに笑っていた。顔が熱くなる。我ながら恥ずかしいことを言ってしまった。だけど撤回はしない。一度口にした言葉を嘘にするような真似は、もっと恥ずかしいと思った。

「甚太」

 ひとしきり笑い終えて、白雪が真っ直ぐに俺の目を見詰める。どきりと心臓が脈打つ。黒い透き通った瞳に心を見透かされたような気がした。

「ありがとね」

 軽い言葉、微かな笑み。儚げな白雪の佇まいは、揺らいで消えてしまいそうな淡い燈火を思わせた。
 普段は活発な印象を抱かせる白雪の見せた頼りなげな表情。何か言わないと。誘われるように俺は口を開き、

「なあ、白雪。俺……」
「にいちゃん?」
「うわっ!?」

 右目に包帯を巻いた、赤茶がかった髪をした少女。いつの間にか起きてきた鈴音に声を掛けられた。

「す、鈴音」
「おはよー、にいちゃん」

 にっこりと無邪気に笑う鈴音。危なかった。危うく妹の前で恥ずかしい台詞を吐くところだった。

「どうしたの?」

 白雪はにたにたと意地の悪い笑みを浮かべている。多分、俺が何を言おうとしていたのか分かっているのだろう。

「なんでもないっ!」

 恥ずかしさから語気が荒くなる。毎回毎回元治さんに負けている俺は、なんだかんだで白雪にも勝てないのだ。

「さ、すずちゃんも起きたし、ご飯食べたら遊びにいこっか?」

 こみ上げた笑いを殺しきれないまま白雪は鈴音に向き合った。

「どしたの?」

 なんでそんな表情をしているのか分からず鈴音が首を傾げる。その様子がおかしかったのか、白雪はますます笑った。

「いいからいいいから、まずはご飯食べよ」
「うん!」
「食べたらみんなで遊ぼ?」
「どこか行くの?」
「今日は『いらずの森』まで行こっか?」

 わやわやと会話する二人は、容姿は似ていないが姉妹のように思えた。それが嬉しいようで、少し寂しくもある。寂しく思ったのがどちらの為かは分からないけれど。

「甚太もいいよね?」
「ちなみに駄目って言ったら?」
「え、連れてくよ?」

 端から俺の意見を聞く気はないらしい。まあ、いつものことだからいいけど。頷いて見せれば白雪と鈴音は示し合わせたように表情を綻ばせた。

「じゃ、行こ?」
「いこー」

 二人して手を差し出す。俺を救ってくれた二つの笑顔。伸ばされた二つの手。俺は木刀を持っているから片方の手しか取れなかった。
 だから自然と彼女の手を取る。握り締めた手は小さくて、暖かくて。離さないように、でも壊してしまわぬようほんの少しだけ力を込める。

「ああ、行こうか」

 俺も釣られて笑顔になって、三人で走る。いつもと何一つ変わらない、当たり前の朝だった。

 握った手の暖かさを知っていた。いつか離れると知らずにいた。
 まだ俺が甚太で、彼女が白雪で、鈴音が鈴音だった頃の話。



 今も思い出す。
 幼い頃、俺は元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかった。
 それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも俺が負けて、その度に慰めてくれた。
 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日は何して遊ぼうかなんて言いながら無邪気に駆け回る。
 俺達は、確かに本当の家族だった。

 けれど目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。
 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。
 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。
  しかし今も私は幼かった頃を、ぬるま湯に浸かるような幸福を時折、本当に時折だが思い出す。

 そしてほんの少しだけ考えるのだ。

 差し出された二つの手、木刀を持ったままでは片方の手しか握れない。だから何も考えずに彼女の手を取った。選べる手は一つしかなかった。

 だが、もしもあの時逆の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。

 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。
 選んだ道に後悔はあれど、今更生き方を曲げるなぞ認められぬ。
 ならばこそ夢想の答えに意味はなく、仮定は此処で棄却される。
 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残り。

 

 ぱちんと。
 みなわのひびははじけてきえた。



 みなわのひび 了



[36388] 葛野編『鬼と人と』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/04/12 02:55


 風の薫る夜のことだった。



 春の終わり。
 舞い散る花弁で季節を彩ったかと思えば、若葉を芽吹かせ街道を翠で染め上げる。初夏の葉桜は時に神秘ささえ醸し出す景物である。
 新緑が薄紅の花にとって代わり、仄かに夏の気配を漂わせる夜。
 近付く季節に空は僅かながら重くなった。だというのに青葉の隙間を抜けて流れる風は春の名残かいやに冷たい。
 訪れた筈の初夏、梢の緑香を纏った風、見上げれば星の天幕。
心地好い筈の夜に寒気を感じたのは、風の冷たさのせいばかりではないだろう。
 今宵は何処か金属質で、触れる感触が硬く冷え切っている。

 そんな鉄製の夜に青年は佇む。
 江戸から続く街道の一里塚、植えられた桜の木にもたれ掛かった青年は鋭い目付きで宵闇を睨み付けていた。
 青年の名は甚太という。
 齢十八にして六尺近い巨躯。浅葱の着物の下には練磨を重ねた体が隠されている。腰には鉄造りの鞘に収められた二尺六寸の刀を携えていた。 

「もし」

 不意に声を掛けられた。
 横目でちらりと見れば、其処には妙齢の女が。

「貴方様は葛野(かどの)をご存知でしょうか」

 女はゆるりと笑う。
 年若い娘には似合わぬ風情。妖艶な、見る者を惑わす笑みだった。

「其処は私の住む集落だ」

 返すのは感情の乗らない、硬く冷たい金属の声音。
 しかし女は安堵したように表情を緩める。

「ああ、やはり。もしよろしければ案内を頼みたいのですが」
「ほう。何か用向きでも?」

 問い掛けながら一歩前に出る。
 気付かれぬほどに緩慢な所作で、僅かに腰を落とし半身。左手は既に腰のものへと添えられている。

「ええ。葛野には嫁に出た妹がおりまして。挨拶に行こうと思っていたところなのです」
「……そうか」

 その言葉を皮切りに甚太は動いた。
 右足で大きく踏み込む。女との距離が詰まる。両の足が地を噛む。流れるように鯉口を切り抜刀、逆袈裟に切り上げた。

「か……」

 女の口から空気が漏れ、中空に鮮血が舞う。
 白刃が女の肢体を切り裂いたのだ。傍目には凶行に映るであろう一連の動作を終え、一切の動揺なく金属質の声のまま甚太は言う。

「人に化けるのはいい。だが肝心の瞳が赤いままだ……鬼よ」

 鬼と人を見分ける手段としてもっとも単純なものが瞳の色である。
 鬼の瞳は総じて赤い。怪異としての格が高いものは人に化ければ瞳の色も隠せる。
 しかし力を持たぬ鬼にとって瞳の色を隠すことは存外難しいらしく、人に化けても瞳だけが赤いまま残っていることが多い。
 つまり女は、人ならざるものであった。

『き、さま』

 最早その表情は女のそれではなかった。
 憎しみの籠った赤い目が甚太を捉える。
 女の体は隆起し、筋肉が異常に発達し、肌の色も浅黒く変化していく。鬼は元の姿に戻ろうとしているのだろう。
 それも遅い。
 残した左足を一気に引きつけ、更に地を蹴る。天を指していた刀を返し、絶殺の意を込め鬼の首へ。
 今度は、呻きすら上がらなかった。
 鬼は元の姿に戻ることが出来ないまま、女と異形の間の状態で地に伏せる。
 死骸からは白い煙が立ち上る。いや、煙よりも蒸気の方が正しいか。消え往く鬼の体躯は溶ける氷だった。
 その光景に何かを感じることはない。ただ平静に鬼の最後を見届け、血払いに刀を振るい、ゆっくりと鞘に納める。
 ちんっ、とはばきの止まる軽い音が響く頃、鬼の死骸は完全に消え失せた。
 やはり何の感慨もないままに街道を歩き始める。
 葛野の集落まではまだ少し距離があった。






 ────時は天保十一年。

 
 洪水や冷害が相次ぎ、陸奥国や出羽国を中心として始まった大飢饉は、多数の死者を出すも冷害が治まったことにより取りあえずの終焉を迎えた。
 しかしながら日の本の民を長らく苦しめた年月、その間に荒んだ人心を癒すには少しばかり時が足らなかった。
 人心が乱れれば魔は跋扈するもの。

 鬼は時折人里へ姿を現し、戯れに人を誑かすようになっていた。





 鬼人幻燈抄 葛野編 『鬼と人と』





 江戸から百三十里ばかり離れた山間にある集落『葛野(かどの)』。
 近隣を流れる戻川(もどりがわ)からは良質の砂鉄が取れるため、此処は古来よりタタラ場として栄えていた。
 同時に葛野は高い鋳造技術を誇り、刀鍛冶においては「葛野の太刀は鬼をも断つ」と讃えられた、日の本有数の鉄師の集落である。
 
 集落の北側は高台になっており、川が氾濫しても被害が少ないことから、他の民家とは明らかに手の違う朱塗りの社が建てられている。
 社には『いつきひめ』───葛野で信仰されている土着神に祈りを捧げる巫女が常在していた。
 
 葛野は産鉄によって成り立つ土地。
 鉄を打つに火は不可欠であり、自然と信仰の対象は火の神になる。この火を司る女神は『マヒルさま』と呼ばれ、火処(製鉄の炉)に消えることのない火を灯し、葛野に繁栄を齎すと信じられていた。
 いつきひめはマヒルさまに祈りを捧げ、鉄を生み出す火を崇める巫女。
 即ち葛野において姫とは火女であった。
 火の神に畏敬を抱くのは産鉄民として至極当然の成り行きであり、日々の生活を支える鉄、その母たる火と通じ合う巫女の存在は、古い時代には神と同一視された。
 江戸に入った今ではそこまでの信仰はないが、それでもいつきひめは社に住み、俗人に姿を晒すことはない。
 火女は社から一歩も出ず、御簾の向こうに姿を隠し、ただ神聖なるものとして集落の中心に在り続けるのだ。

「甚太……鬼切役、大義でした」

 初夏だというのに、どこか寒々しく感じられる板張りの社殿。 
 いつきひめは社殿の奥に掛けられた御簾の向こうに座している。板張りの間には集落の長、長の隣には若い男、そして鍛冶師の頭や鉄師の代表など集落の中でも権威を持つ数人の男が集まっていた。
 御簾越しに柔らかな声を発したのは当代のいつきひめ、白夜(びゃくや)である。御簾に隠れその顔を見ることはできないが、影は満足そうに頷いていた。

「は」

 鬼を斬り、その足で訪れた社。
 いつきひめや集落の長に結果を報告し、座して次の言葉を待つ。

「如何な鬼を前にしても決して退かぬ。貴方の献身、嬉しく思います」
「いえ、巫女守として成すべきを成したまでにございます」

 いつも通りの答えだ。如何な鬼を葬ったとしても甚太は同じ言葉を返す。真実、大したことではないと思っていた。
 甚太は産鉄の集落に住みながら製鉄に関わらない。彼はこの村で二人しかいない巫女守だった。
 巫女守とは文字通りいつきひめの守役──護衛である。
 本来苗字帯刀は武士のみの特権だが、江戸藩直轄の領地である葛野では巫女守に選ばれた者は帯刀が許され、いつきひめと御簾越しでなくとも話すことを認められた。

 また巫女守には護衛以外に『鬼切役』が与えられる。
 古い時代、星の光だけが夜を照らしていた頃、怪異は現実的な脅威として存在していた。故に病気には医師がいるように、火事には火消しがいるように、怪異にもまた対処役というものが設けられた。
 鬼切役とは文字通り鬼を切る、つまり集落に仇成す怪異を払い除ける役割である。

 いつきひめは葛野の繁栄のために祈りを捧げる巫女。それを守り集落に仇なす怪異を討つ巫女守は、取りも直さず葛野の守人だった。 

「まったく、我らが巫女守は謙虚でいかん。江戸にもぬし程の剣の使い手はおるまい、もっと誇ればいいじゃろうに」

 鍛冶師の頭は豪快に笑い声を上げた。
 巫女守の腕前を褒め称え、しかし返す甚太の言葉は暗い。

「……私には葛野の民としての才がありませんので」

 巫女守であるが故に集落の主産業である産鉄や鍛冶には携わらない彼だが、そもそも甚太には元々職人としての才があまりにもなかった。
 幸いにして剣の腕が立ち、白夜の鶴の一声もあって巫女守についた。
 しかし、もしも巫女守になれなかったならば、恐らく集落のお荷物として生きることになっただろう。
 その様が簡単に想像できるからこそ、剣の腕を褒められても、どれだけ鬼を斬ろうとも、そこに価値を見出せないでいた。

 己に成せるはただ斬ることのみ。葛野の同朋のように生み出す業を持たぬ。

 巫女守という役には無論誇りを持っている。だが鍛冶や製鉄の業に憧れもあった。そのせいか、殺すことしかできず何も生み出せない自分をどうしても低く見てしまう。それが甚太の根底にある劣等感だった。

「なぁに甚太の使う刀はこっちで造ってやる」
「そうだ。儂らには鬼を斬る技はないが鬼を斬る刀ならば打てる。お主には鬼を斬る刀は打てんが鬼を斬る技がある。それでよかろうて」

 頭達の気遣いに甚太は素直な礼を述べ、深く頭を下げる。
 彼の深い感謝に嘘はなく、それが集落の男達の自尊心をくすぐった。
 巫女守は栄誉な役である。甚太自身が嫌うため集落の代表達が敬語で話すことはないが、本来葛野における巫女守の権威は長やいつきひめに次いで高い。
 だから多くの者は巫女守である甚太に敬意をもって接し、中には様付けで呼ぶ者さえいた。

 同時に、それは妬心を掻きたてることにも繋がる。
 特に年齢が高くなればより顕著である。自分よりも年若い、何処の馬の骨とも分からぬ小僧が集落の守り人としても持て囃される。集落の権威達にとって、権威というものを持つからこそ、その事実は受け入れ難いものだった。

 しかしながら当の小僧は剣の腕が立ち、数多くの鬼を葬りながらも自分達の持つ鋳造や鍛冶の技術に羨望を抱き、礼節をもって接している。
甚太の態度は集落の男達を満足させ、故に彼は巫女守として疎まれることなく在り続けている。奇妙なことに劣等感こそが甚太を守っていた。

「此度の鬼は如何なものでしたか?」

 彼の胸中を察したのだろう、白夜が話を進める。
 その意を汲んで沈む心を無理矢理に引き上げ、甚太は問いに答えた。

「人に化けて葛野に侵入しようとしておりました」

 鬼、山姥、天狗、狒々。
 山間の民族にとって怪異は実存の脅威。皆一様に表情を引き締め、真剣に耳を傾けている。
 一瞬の間を置いて、今まで一言も発さなかった集落の長が呻いた。

「ふぅむ……。葛野に侵入、か。おそらく狙いは姫様であろうな」

 息を呑む音。場に嫌な空気が流れた。
 鬼は元より千年を超える寿命を持つが、巫女の生き胆を喰えば不老が得られるという。
 説話や伝承ではよく見られる記述だ。真実か否かは知る由もないが、中にはそれを信じ実行する鬼もいるだろう。
 事実、先代のいつきひめ『夜風(よかぜ)』は数年前鬼に食われ命を落としたという。
 当時の巫女守であった元治もその鬼との戦いに殉じた。かつての惨劇が想起されたらしく、男達は動揺しざわめき始める。

「姫様が……」
「やはり鬼は……」

 口々に不安の声が上がる。
 いつきひめはマヒルさまと繋がる巫女。葛野の民にとって火女は信仰の要、精神的な支柱だ。それが脅かされるという事実に男達の心中は穏やかではない。

「いえ、或いは『夜来』(やらい)かもしれません」

 ざわめく本殿に平静な白夜の声が通った。

「いつきひめが代々受け継いできた宝刀。鬼にとっても価値があるものでしょうから」
「ふむ、成程……」

 怪訝そうに長が眉を顰める。
『夜来』とは社に納められている御神刀である。
 戦国の頃から伝わるこの太刀は火の神の偶像であり、管理者に選ばれた者、即ちいつきひめは『夜』の文字の含んだ名に改名するのが習わしとなっている。故に当代の所有者である彼女も、本名とは別に『白夜』と名乗っていた。

「鬼が御神刀を……夜来は葛野の技術の粋を持って造られた太刀。千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀だという。鬼もその力を欲するかもしれぬ、ということですかな」
「ええ、可能性はあると思いますが」

 厳めしい顔が歪み、長の目がいやに鋭く変わった。
 そうして左手で顎を弄りながら「ふむ」と一つ頷く。

「確かに。ですが、姫様自身が狙われる理由となることも事実。それはお忘れなきよう」
「そう、ですね」

 声は僅かに強張っていた。
 襲撃への恐怖ではない。躊躇い、いや戸惑いか。僅かな動揺から、甚太には白夜の硬さが感じ取れた。
 気取られなかったのではなく、知りつつも見ぬふりをしたのだろう。長は然して気にも留めず言葉を続ける。

「御理解いただけて幸いです。姫様は葛野になくてはならぬお方、我らの支柱。そしていつきひめを、葛野の未来を慮るのは集落の長たる私の義務。ならばこそ、時には諫言を口にせねばならぬ場合も御座います。何卒ご容赦を」
「……ええ、分かっています」

 長は恭しく傅く。
 慇懃無礼に見えるが、彼の葛野への忠心に疑いはない。長は本心から葛野の安寧と繁栄を望んでいる。それはこの場にいる誰もが知るところ。だからこそ白夜も長の態度を諌めることはしない。
 きっぱりと言い切り、一呼吸を置いてから、長は頭を上げて甚太を見据えた。

「甚太よ。以後も葛野の宝、姫様と夜来を狙う鬼は出てくるだろう。巫女守としての責、身命を賭し果たすように」
「御意」

 白夜を責めるような物言いに反感はあったが、彼女自身が認めた以上、此処で食って掛かっても仕方がない。
 無表情を作り答えれば、従順な態度に満足したのか、長は首を縦に振った。
 発言する者は誰もいなくなり、これで終わりかと思われた時、張り詰めた空気の中で声が上がる。

「そうだよな、お前にはそれしかできねぇからな?」

 言ったのは長の隣に座っていた若い男だった。
 細面で顔立ちは良いが、にやついた笑みを浮かべているせいで凛々しさはあまりない。甚太よりも一回り小さい背格好の男、名を清正(きよまさ)といった。
 清正は甚太にとって同僚に当たる、この集落に二人しかいない巫女守の片割れだ。といっても白夜が選んだ訳ではなく、半年程前に長が無理矢理捩じ込んだ人物である。

 清正は長の一人息子だった。
 長の息子として教養は身につけてはいるが、剣の腕は然程でもない。その為彼は巫女守でありながらも鬼切役は受けない。主に甚太が鬼切役で葛野を離れる時、または何らかの理由で護衛に付けない場合、代わりに社の守を務めるのがせいぜいである。
 果たしてそれで巫女守と言えるのかと疑問の声も上がったが、表だって長に反抗出来る訳もなく現状は続いている。

「何が言いたい」

 抑揚のない声。射るような視線を向けても清正は変わらず軽薄な笑みを浮かべている。
 同じ役に就く二人だが、お世辞にも仲が良いとは言えない。巫女守に就いた当初から清正は棘のある態度をとっており、甚太も明らかに長の権力を持って巫女守となったこの男には含むところがあった。

「言葉のまんま、お前は刀を振るうしか能がないって話だよ」

 厭味ったらしい物言い。
 しかし否定する気にはなれないし、できなかった。
 その言葉は中傷ではあったが、同時に自己評価でもあった。
 どれだけ取り繕おうと所詮は斬るしか能のない男、指摘されたとて今更だろう。
 甚太は眼を瞑り、こくりと首を縦に振った。

「成程、確かにその通りだ。ならばこそ、それをもって姫様に尽くそう」
「……ちっ、つまんねぇ奴だな」

 挑発に対して平坦な言葉を返され、清正は不快という感情を隠そうともしなかった。
 顔色は変えないが、甚太もまたこの男の態度を不愉快に思っている。険悪な雰囲気は続き、誰も声を発せずにいた。

「神前での諍いは褒められたものではありません」

 それを打ち破ったのは、平静な語り口の白夜だった。

「甚太、そして清正。巫女守はいつきひめの、延いては集落の守り人。貴方方が争っていては集落の民も不安を抱くでしょう」
「……は、申し訳ありません」

 いつきひめに窘められては反論もない。
 甚太は傅いて頭を下げる。素直な応対を快く思ったのか、御簾の向こうの影がゆっくりと頷いた。

「貴方もです、清正」
「俺もかよ」
「当然です。貴方も巫女守でしょう」 
「巫女守っつっても俺はお前の護衛くらいしかしねぇだけどな」

 不満げな態度を崩さずに清正は悪態をつく。
 あまりにも乱雑な物言いに、白夜は小さく溜息を洩らした。

「相変わらずですね」
「今更喋り方を変えろって言われても無理だぜ?」
「ええ、期待はしていません。ただ今回の諍いは貴方の不要な発言が招いたこと。以後は」
「へいへい、分かってますよ」

 清正は面倒くさそうに言い捨て無理矢理話を切り上げる。長の息子だからか、清正のあんまりな態度を嗜める者は誰もいない。
 白夜自身も不快には感じていないようで、それどころか寧ろ楽しげでさえある。強張っていた彼女の声はいつの間にか柔らかさを取り戻していた。
 二人の遣り取りに甚太は微かな痛みを覚える。
 白夜と清正の間に、少なからず親しみというものが感じられたからだ。清正も巫女守、いつきひめと親しくなって当然だ。十分に理解しながらも痛みは消せなかった。

「清正の態度には罰を与えるべきですが、姫様が認められたならば私からは言うことは在りませんな」

 杓子定規な考え方をする長も息子には甘いらしく、どこか満足そうな様子だ。
 一転表情を引き締め、周りの男達に視線を送る。

「では、今回の所はこれで終わりとする。甚太、お前はそのまま姫様の護衛を。他の者は各々の持ち場へ戻るように」

 それに従い殆どの者は白夜へ一礼をした後、本殿から出て行く。清正も一瞬睨むように目を細め、何も言わず長と共にこの場を後にした。
 そうして本殿には甚太だけが残される。

「今この場にいるのは貴方だけですか」
「は。皆、本殿から離れました」

 人がいなくなり静けさを取り戻した社殿では白夜の声がよく響く。
 甚田が答えると何やら御簾の向こうで音がした。影を見るにどうやら立ち上がったらしい。一度二度と辺りを見回すように首を振り、確認し終えれば御簾がはらりと揺れる。

「なら、もう大丈夫ですね」

 言いながら一人の少女が姿を見せた。
 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。社で長く生活をしているせいだろう、日に当たらない肌は白く、細身の体は触れれば壊れる白磁を思わせた。
 緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女はゆっくりと歩き始めた。

「姫様?」

 こちらの声には反応せず白夜は近付いてくる。
 いったいどうしたのだろうか。疑問に思ったが足取りは止まらず、もう一度声をかけようとするより早く目の前で立ち止まった。そして体を屈め、彼の両の頬を抓る。

「ふぃめはま?」

 数多の鬼を葬ってきた剣士とは思えぬ間抜けな対応だった。とはいえ護衛対象であるいつきひめに逆らうことは出来ず、されるがままになっている。しばらく白夜は甚太の頬をおもちゃのように弄り、最後にぐっと引っ張ってようやく手を離した。

「ねぇ、甚太。何回も言ってるけど、なんでそんな喋り方なの?」

 先程までの清廉とした巫女の姿は何処にもない。
 江戸に住まう町娘となんら変わらぬ女がそこにはいた。

「あ、いや、ですが。やはり立場というものが……あと姫様、今のは流石によろしくないかと。その、巫女としてというより、淑女として」
「また姫様って言った。誰もいない時は昔みたいに呼んでって言ったよね?」
「ですが」

 いつきひめは現在でこそその神性も薄れてきたが、古くは神と同一視された存在。
 巫女守とはいえ決して気安く接していい相手ではない。しかしそれこそが不満だと白夜は言う。

「……そりゃあ、抵抗があるのは分かるけど。せめて二人の時くらいは名前を呼んでほしいな。今はもう、そう呼んでくれるのは甚太だけなんだから」

 反論の言葉を口にしようとして、白夜の笑顔に止められた。
 笑顔のままだというのに隠した寂寞を抑えきれず瞳が揺らぐ。以前も見た表情だった。
 だから声を掛けるのならば巫女守のままではいけないと思った。

「白雪」

 そうして口にする、使われなくなって久しい幼馴染の名。
 一瞬呆けたような顔になった白夜は、しかしすぐに柔らかな笑顔を落した。 

「済まなかった、白雪。もう少し気遣うべきだった」
「ううん。私こそごめんね? 我儘言って」

 抑揚のない、淡々とした甚太の喋り方。素っ気ないと聞こえる筈なのに、白夜は満足気に頷いた。
 巫女守となって『俺』から『私』に変わり、口調も今のように堅苦しくなった。
 しかし言葉遣いは変わっても、昔と変わらず自分の我儘を当たり前のように受け入れてくれる。
 彼はいつもそうだった。白夜には、久しぶりに感じる幼馴染の『らしさ』が嬉しかった。

「もう一回、呼んで?」
「白雪」
「……うん」

 意味のない遣り取りに、白夜は表情を綻ばせる。
 先程のような寂寞の色はない。思わず零れてしまった、素直な笑みだった。



 今から十三年前のことである。
 当時五歳であった甚太は、ある事情で妹と家を出て江戸から離れた後、先代の巫女守である元治に拾われ葛野へ移り住んだ。
 行く当てのなかった兄妹はそのまま元治の家で暮らすこととなり、そうして出会ったのが彼の娘、白雪だった。
 幼い頃の二人は何処へ行くのも一緒で、その上住む場所も同じだから、離れていることの方が珍しかった。
 しかし八年前、先代の巫女・夜風が命を落としたことによりその娘である白雪はいつきひめを継ぎ、同時に宝刀『夜来』の管理者となった彼女は習わしによりかつての名を捨てた。
 無邪気に笑っていた幼馴染の白雪は、葛野の繁栄を祈るいつきひめとして、『白夜』として生きる道を選んだのだ。

「駄目だね。いつきひめになるって決めたくせに、いつまでも甚太に頼って」
「何を。私は巫女守だ。巫女守はいつきひめを守るものだろう」
「……うん、ありがと」

 はにかんだような笑みは、見慣れた、昔からの彼女のものだ。
 白雪はいつきひめとなった。
 それでも幼かった日々は、白雪であった頃は彼女にとって捨てきれるものではなかったらしい。だからだろう、白夜は甚太と二人きりの時だけは『いつきひめ』ではなく『甚太の幼馴染』であろうとした。
 俗世から切り離されてしまった彼女にとって、かつての自分を知る者との会話は数少ない慰めだった。

「今回もご苦労様。いつも無理をさせちゃうね」
「あの程度の鬼ならば無理の内には入らない。元より私は」
「私は?」
「いや、なんでもない」

 言いかけた科白を途中で止める。つい口走ってしまったが、流石に「私は“白夜”を守るため巫女守になったのだ」などとは恥ずかし過ぎて口には出せない。

「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから」

 だが口には出さずとも想いは伝わるらしい。白夜は溢れんばかりの笑顔を浮かべてぐしゃぐしゃと甚太の頭を撫でる。

「誰が姉だ。お前の方が年下だろう。あと撫ですぎだ」
「一つしか違わないでしょ。それに私の方がしっかりしてるからお姉ちゃんなの」
「しっかり、している? 自分も巫女守になると言って親を困らせ、魚を捕まえようと川に入り溺れ、ああ、そう言えば鈴音と一緒になって『いらずの森』へ探索に行き、迷子になって泣いていたこともあったな。ふむ、しっかりしている、か」
「嫌なことばっかり覚えてるね……」
「この手の思い出は幾らでもあるからな」

 言いながらも自然口元は緩む。
 遠い昔、まだ立場に縛られることなく甚太と白雪でいられた頃、二人は確かに幸せだった。今を不幸と呼ぶつもりはない。だがそれでも時折、本当に時折ではあるが夢想する。

 あの幼い日のまま変わらずに在れたなら。
 今もまだ甚太と白雪であったとすれば、二人はどうなっていたのだろうかと。

 ふと思索に耽り、意味がないと気付き考えるのを止めた。
 白夜は己の意思でいつきひめとなった。甚太もまたそれを守ろうと巫女守になると決めた。ならば別の可能性を夢想するのは彼女の、そして自身の決意を汚すことだ。だからその答えは出ないままでいい。

「あ、そう言えば。今日はすずちゃんも来てるよ?」

 思考が現実に引き戻され、しかし一瞬何を言われたのか分からなかった。
 白夜は思い出したように後ろへ振り返り、御簾の方へ近付いていく。

「……ちょっと待て。社殿は立ち入りが禁ぜられている筈だろう」
「ほんと、どうやって入ったんだろうね? 表には人もいるのに」

 言いながら座敷へと戻り手招いている。
 誘われるがままに足を踏み入れれば、まず目に入ったのは小さな祭壇だった。左右に榊立てを配置し、灯明を配しただけの簡素な造り。
 その中心には一振りの刀が収められていた。
 御神刀。先程話題にも出た『夜来』である。
 鉄造りの鞘に収められた二尺八寸程の大刀。曰く千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀。
 信仰の対象という位置づけではあるが余計な装飾は一切なく、鉄鞘のせいか無骨な印象を受ける。
 だが葛野の太刀の特徴は肉厚の刀身とこの鉄鞘であり、夜来の無骨さはマヒルさまの偶像としては寧ろ相応しいのかもしれない。安置された刀には、そう思わせるだけの厳かさがあった。

「ん……」

 しかし厳かな空気を纏う御神刀を前に、そんなものは知らぬとばかりに寝息も立てず熟睡している馬鹿が一人。
 赤茶がかった髪をした、右目を包帯で抑えた四、五歳ばかりの少女が実に気持ちよさそうな寝顔を見せている。
 鈴音。かつて一緒に江戸を出た、甚太の妹である。
 その寝顔はあまりにも穏やかで、思わず呆れの溜息が零れ落ちる。

「……こいつは」

 本来いつきひめに直接対面することが出来るのは集落の長と巫女守のみ。
 もしも誰かに見咎められれば「いつきひめに不敬を働いた」と言われ斬って捨てられても文句が言えない状況だ。妹の迂闊さに頭が痛くなってくる。

「そう言わないの。すずちゃん、甚太に会いに来たんだよ?」
「私に?」
「二日もいなかったから、早く会いたかったんじゃないかな」

 指摘され、少しだけ心を落ち着ける。
 此度の鬼切役で二日程葛野を離れていた。しかし彼等は元々捨て子で、自分たち以外に頼れる親兄弟はいない。つまりは甚太が集落を離れている間、当然ながら鈴音は一人で過ごすことになる。まだ幼いままの妹が、寂しいと思わない訳がない。

「すずちゃん、まだ小さいから。甚太が家に帰ってくるまで我慢しきれなかったんだと思う」
「しかし掟は守らねばならん」
「私としてはこうやって気軽に来てくれる方が嬉しいんだけどなぁ」

 無理と分かっていながら白夜はぼやくように言った。
 甚太と白雪と鈴音。幼い頃、三人はいつでも一緒だった。
 しかし懐かしい日々はもはや記憶の中にしか存在せず、今では社の中で一人。
 自ら選んだ道だ。嘆くことはなく、やり直したいとも思わない。
 それでも不意に覗き見た白夜の瞳は、処理しきれない感情にほんの少しだけ揺れていた。

「なんてね、冗談」

 零れ落ちた小さな弱音すぐさま冗談に変え、ぺろりと舌を出し、はにかんだような笑みを見せる。
 聞かなかったことにしてほしいと、言葉にはせず白夜は願う。
 だから甚太は、彼誤魔化しきれなかった彼女の寂寞に気付かぬふりをした。

「そろそろ起こすか」
「うん、ありがとね」

 噛みあわないようでぴたりと嵌った遣り取り。心地好い距離感だった。
 話題を終わらせ、甚太は屈んで鈴音の肩を掴み揺り起こす。

「鈴音、起きろ」
「ん……」 

 眠りが浅かったのか、少し揺すると寝返りを打ちながら小さく呻きを洩らし、目をこすり、薄らと開けられた目で声の主に目を向ける。

「……ん。あっ、にいちゃんおはよ」

 鈴音はそれが誰かを確認するとふんわりとした笑みを咲かせた。
 甘えるように目を潤ませ、上目遣いのままのっそりと起き上がる。

「あと、おかえりなさい!」

 おかえりという言葉がすぐ出る辺りに、たった二日でも鈴音にとっては長かったのだろうと否応なく理解させられる。
 そんな態度で迎えられては怒ることなどできなかった。

「ああ、ただいま」
「うん。おかえり」

 そっと鈴音の頭をなでれば、くすぐったそうに身をよじる。
 無邪気な妹の態度に、此処が社であることも忘れ、普段ならば鉄のように固い表情も思わず和らいだ。

「ほんと、甚太はすずちゃんにだけは甘いよね」
「そんなつもりはないが」
「そう思ってるのは多分本人だけだと思うよ。甘いのは昔っからだし」

 からかうように白夜が横槍を入れる。
 否定の言葉を口にしながらも、しきれないところが辛い。お互い唯一の家族、自然と甘くなってしまう所はあると自覚していた。

「いいことだとは思うけどね。でも、もうちょっと私にも優しくしてくれるといいと思います」
「あー、なんだ。気を付けよう」
「それでよろしい」

 おどけた様子で満足気に頷く白夜が妙に幼く見えて、小さく笑みを零した。
 今度は鈴音に向き直り、真っ直ぐに見据える。怒る気は失せたが今後社に忍び込むことのないようにちゃんと教えておかなければならない。

「さて、鈴音。何度も言っているが、ここはみだりに近付いてはいけない禁域だ。基本的に立ち入りが許される場所ではない」
「えー、でもにいちゃんだってきてるのに」
「それは巫女守のお役目だからだ」
「またまたぁ、知ってるんだよ? にいちゃんがひめさ」

 瞬間、長年の鍛錬で磨き上げた反射神経を持って鈴音の口を塞ぐ。
 危なかった。もう少しで自分にとって致命的な言葉が放たれるところだった。

「ね、私がどうしたの?」

 しかし白夜は頬を染め、本当に嬉しそうな表情を浮かべながら甚太の隣に立っていた。言葉などなくても完全に筒抜けのようだ。だからと言って改めて口にするのは流石に気恥ずかしい。

「いや、なんでもない」

 自身の顔が熱くなっているのを感じている。なんでもないと言ったのはせめてもの強がりだった。それがおかしかったのか、白夜は明るい表情で口元を緩ませた。腕から逃れ白雪の元へ行った鈴音も嬉しそうに笑っている。

「もう、仕方無いなぁ甚太は」
「にいちゃんは照れ屋さんだね」
「ほんとだね」
「ねー」

 いつの間に結託したのか、白夜と鈴音は顔を合わせてくすくすと笑っている。
 叱ろうと思った筈が、何故かからかわれる立場になっていた。恥ずかしさに一度咳払いして言葉を続ける。

「ともかく! 以後は気を付けるように。これはお前の為でもあるんだ」
「はーい!」

 返事はいいのだが、果たしてどれだけ効果があったのかは分からない。多分、今はこうでもすぐに来てしまうのだろう。その様がありありと想像できる。
 内心が顔に出ていたのか、やはり白雪は面白そうにしていた。

「お兄ちゃんは大変だね」

 ああ、全く儘ならぬものだ。
 苦笑を浮かべ、しかしそれも悪くないと甚太は息を洩らした。



 社殿には、本来在るべきではない笑い声が響いていた。
 白雪と鈴音の遣り取りを眺め、甚太も自然と表情が柔らかくなる。まるで幼い頃に戻ったような暖かい景色だった。
 しかし不意に、言い様のない寂寞が胸を過る。
 今はこうやって笑っているが、いつきひめとなった今では白夜が外に出て年頃の娘のように振舞うことは許されない。
 神聖なものは神聖なものであらねばならず、社に閉じ込められ、無邪気に笑うことさえ出来なくなった少女。
 彼女の孤独は一体どれほどのものだろうか。想像しようとして、一太刀の下に思考を斬って捨てる。憐れむことはしない。してはいけない。
 白夜は、白雪は、葛野の民を守るために自らその道を選んだ。

 ───おかあさんの守った葛野が私は好きだから。
   私が礎になれるなら、それでいいって思ったんだ。

 遠い昔、儚げな笑みを浮かべながら白雪は言った。
 それを美しいと感じ、だからこそ守りたいと願った。ならば、彼女の決意が紡いだ今を憐れんでいい筈がない。安易な憐憫は彼女の決意を軽んずるに等しい。
 だが彼女には幸せであって欲しいとも思う。
 巫女守になった理由を今更ながらに思い返す。
 他が為に己が幸福を捨てた幼馴染。その幼くも美しい決意を守るために、彼女が描く景色を尊いと思ったからこそ、己は刀を振るうと決めたのだ。

「……にいちゃん、ひめさま。すず、そろそろ帰るね」

 甚太の横顔を見て、何故か少しだけ寂しそうな表情を浮かべ鈴音が言った。

「え、もう? 折角だからもう少しいればいいのに」
「ううん。見つかったら大変だし。にいちゃんにも会えたから」

 静かな笑みは、幼い外見とは裏腹に何処か大人びて見えた。
 かと思えば破顔一笑、無邪気な笑みを振りまく。

「じゃね、にいちゃん。早く帰ってきてね!」
「ん、ああ。見つかるなよ」
「分かってるって! ちゃんと抜け道を使ってきたから大丈夫。ひめさまもまたね!」

 一度右目の包帯を直し、鈴音は小走りで出口へと向かう。
 どうやらこの社にはこの娘しか知らない抜け道があるらしい。衛兵に見つからず座敷へ辿り着けた理由はそれか。甚太は少しばかり安心して、座敷から去る背中を見送る。
 そうして最後に一度だけ振り返り、大きく手を振って、鈴音は社殿から出て行った。

「気を使わせたか」

 小さく溜息を吐く。
 鈴音の態度はあからさまだった。大方白夜と二人きりになれるように、ということだろう。幼いままの妹にまで胸の内は筒抜け、その上気を使わせてしまうとは我ながら情けない。

「はぁ……ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」

 しみじみと、感心したように白夜は息を漏らした。
 それについては同感だが、喜びきれないところもある。

「私としては、もう少し我儘になってくれた方が嬉しいんだが」
「いい子過ぎるのも心配?」
「あいつは自分を抑え過ぎるからな」

 その出自故か、鈴音は普段から周りに対して引け目のようなものを感じている。
だからだろう。あの娘は甚太と白夜以外の人間とは上手く話せず、特別な用事がない限り殆どを家の中で過ごしていた。
 そういう現状が、甚太には気がかりでならない。

「掟だから叱りはしたが、本当は社に遊びに来ることくらい認めてやりたい。そちらの方が鈴音の為だ」

 甚太はいずれ鈴音よりも早く死ぬ。そうなればあの娘は一人になってしまう。
 それを考えれば自ら外へ出てくることは寧ろ好ましく、しかし掟に背いている以上肯定はしてやれない。正直な所複雑な気分だった。

「結構考えてるんだね。なんていうか、ちょっと意外」
「私は兄だからな。妹の幸せを願うのは当たり前だろう」
「ふふっ、そっか。ほんと、お兄ちゃんは大変だ」

 白夜の慈しむような表情は、まるで本当の姉のようだ。
 なんとなく気恥ずかしくなり、ふいと中空に視線を逃がす。その照れ隠しが更に笑いを誘ったらしく、白夜は声を上げて笑っていた。
 ひとしきり笑い終えようやく落ち着いたらしい。白夜は若干目の端に涙を溜めている。
 和やかな空気が流れ、ちょうどその時、板張りの床が軋む音を聞いた。

「静かに。人が来た」

 鉄のように硬い声、先程の気安さは一瞬で消え去る。
 白夜は慌てた様子で御簾の向こうの座敷へ戻り、甚太も板張りの間に戻り正座し佇まいを整える。社殿に静寂が戻り、幼馴染だった二人はいつきひめと巫女守になった。
 しばらくすると本殿の外、高床の廊下から声がかけられる。

「姫様、少しよろしいですか」

 それは先程帰ったはずの長の声だった。
 助かった、もう少し鈴音を返すのが遅ければ鉢合わせになっていた。寸での所で最悪の事態は回避できたようだ。

「何かありましたか?」

 冷静で、威厳を感じさせる態度。
 先程まで戯れていた幼馴染は姿を消し、一個の火女が其処には在った。

「いえ、以前の件を少し煮詰めたいと思いましてな」
「……そう、ですか」

 御簾の向こうで白夜が固くなったのが分かる。
 以前の件が何かは分からないが、あまり楽しい話題ではないのだろう。

「失礼いたします」

 返答も聞かずに長は本殿へと踏み入ってくる。
 最低限の礼節を忘れる程に重要な話なのか、長にしては珍しい不作法だった。こちらに一瞥を向け、何処か重々しい様子で長は言う。

「甚太。すまんが少しの間、外へ出ていてくれんか」
「ですが私は巫女守。鬼切役を賜わっているなら兎も角、平時に離れることは」

 白夜の纏う雰囲気に傍を離れることが躊躇われる。
 自身の役職を使って精一杯の抵抗を試みるが、否定の言葉は予想外の所から出てきた。

「甚太、貴方は下がりなさい」

 声は冷たい。いや、冷たく聞こえるように紡いだ固い言葉だった。
 彼女との付き合いは長く、だから分かる。今から行われるのは彼女にとって聞かれたくない類のもの。白夜ではなく白雪にとって、である。

「……御意。ならば私は社の外で控えます」
「ええ」

 短い返答を受け一礼、背を向け本殿の外へと向かう。それを止めるものはこの場にはいない。
 白雪ならば「ごめんね」とでも付け加えただろう。
 しかし白夜は謝らない。神と繋がる火女が俗人に謝罪すれば、その神聖さを貶めることに繋がる。
 だから内心がどうであったとしても、白夜は甚太を自分よりも下位の存在として扱わねばならない。
 彼女がいつきひめである以上、幼馴染であってはならないのだ。

「甚太」

 白夜に呼び止められ振り返る。
 御簾の向こうにいる少女がどのような顔をしているのかは分からない。声色も実に平静で、其処から感情を読み取ることは出来なかった。

「葛野を、これからも頼みます」

 零れ落ちた幼馴染の白雪ではなく、いつきひめたる白夜の言葉。
 同時に「頼む」という、彼女に許された精一杯の謝罪だった。

「は。巫女守として為すべきを為しましょう」

 ならば幼馴染ではなく巫女守として返さねばならない。
 御簾までは約三間。だというのに、たったそれだけの距離がやけに遠く感じられる。
 しかし表情を鉄のように固く、努めて平静を装い再び歩みを進める。踏み締めた床がぎしりと鳴った。
 その音に、冷たい社殿は更に冷え込んだような気がした。





[36388]      『鬼と人と』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/03/31 19:38


 歳月を重ねれば記憶も薄れる。
 ただあの夜、雨が降っていたことだけは今も覚えている。



 ◆



 甚太と鈴音は親に捨てられた子供だった。正確に言えば鈴音が、である。
 二人が生まれたのは江戸のそれなりに裕福な商家で、幼い頃は何不自由のない生活をしていた。
 母は妹を産んだ時に死んだらしい。それ以来父が男手一つで生活を支えてきた。
 商売で忙しいだろうに、時折好物の磯辺餅を焼いてくれたり、遊びにも連れて行ってくれる。仕事に関しては真面目で厳しい人だったが、甚太にとっては優しい父だった。
 そんな父親に感謝し尊敬もしていたが、どうしても我慢ならないことが一つだけあった。

 父は、妹の鈴音には風当たりが強かった。

『これ』は私の娘などではない。
 ほとんど憎しみと呼べる程の視線を向け、虐待していたのである。
 幼心に甚太は、妹が生まれたから母が死んだ、父はそう思っているのだろうと考えた。
 だから父を責めることはしなかった。代わりに少しでも妹が安らかに過ごせるよう心を砕いた。
 鈴音は唯一自分に優しくしてくれる兄に大層懐いた。
 父はそんな甚太を戒めたが、それでも止める気はない。右目にいつも包帯を巻いた妹。おそらくは父に何かをされたのだろう。妹が更なる虐待を受けないようにいつも鈴音の傍にいた。
 甚太は父が好きだったし、妹も好きだった。
 家族の形を守ろうと子供ながらに必死だったのだ。

 しかし終わりは唐突に訪れる。

 甚太が五歳の時、父は珍しく鈴音と二人で出掛けた。
 鈴音は今までに無い程はしゃいでいた。自分に辛く当たっていた父が優しくしてくれる。それだけで嬉しかったのだろう。甚太もまたその変化を喜び、出かける二人を見送った。
 夕刻。
 帰ってきたのは父だけだった。
 意味を悟り、甚太は家を出た。道行く人や近くの茶屋に聞き込み、父と妹の足跡を探る。いったいどれだけ走っただろう。息を乱し、記憶が朦朧とするほどに只管走り、鈴音の行方を追った。
 江戸を離れ街道まで出る。聞いた話では父はこちらに向かっていったらしい。
 日が完全に落ち、宵闇は辺りを包み込む。雨まで降り出して視界は悪い。大声で縋りつくように妹の名を呼ぶ。
 走って、転んで、そんな事を繰り返し。ようやく視線の先に妹の姿を捉えた。
 街道の端で生い茂る木々。
 風景へ溶け込むように希薄な少女。
 泣くこともせず雨に打たれる鈴音の姿を見つけた。

 幼い妹は何をするでもなくただ茫然と立ち尽くしている。
 街道に捨てられたならば帰り道が分からないということはない筈だ。
 それでも戻ってこなかったのは理解していたから。

 自分には帰る場所などない、と。

 やっと見つけた妹。
 救う手段を持たぬ己。
 無力感に苛まれながら声を絞り出す。

 ──雨……強くなってきたな。
 ──うん……。

 返す言葉は雨音に負けてしまうくらい弱かった。

 ──鈴音、ごめんな。何も出来なくて。

 なのに、鈴音は笑った。

 ──ううん、大丈夫。にいちゃんが一緒にいてくれるなら、それでいいの。

 いったいどれだけの痛苦に耐えて紡がれた言葉だったのだろう。
 無邪気に微笑む鈴音の表情から読み取ることは出来なくて、けれどその笑顔に少しだけ救われた気がした。
 どちらからともなく手が延ばされ、しっかりと繋がれる。
 こうして二人は江戸を離れ歩き始めた。
 もう甚太にとってもあの家は帰る場所ではなくなってしまった。
 行く当てなど何処にもない。
 だけど手を繋いだ妹は嬉しそうに笑っていた。

 ……そして知る。
 父が何故あれほどまで鈴音を憎んでいたのかを。

 妹が生まれたその時に死んだ母。
『これ』は自分の娘ではないと言い続けた父。
 雨に打たれ水を吸い、重さで垂れ下がる包帯。
 初めて見る鈴音の両の目は、穏やかに彼を見つめている。





 鈴音の右目は赤かった。





 ◆

 報告を終え、二日ぶりに家へ帰り、一夜が明けた。
 社のある高台の下、それほど遠くない場所に甚太の家はある。
 藁を敷き詰めた屋根に家の周囲は土壁と杉の皮を張った、昔ながらの造りの家。玄関兼台所の土間と、いろりのある板の間と畳敷きの寝室が二つ。然程大きいという訳でもないが妹と二人で住むには十分すぎる。この家は巫女守となった十五の時に与えられたものだ。

「鈴音、もう朝だぞ」

 すうすうと寝息を立てる鈴音を揺さぶる。
 しかし目を覚ますどころか、「まだねむい」とますます体を丸めてしまう。
 思わず笑みが零れた。妹の幼げな仕草に心が温まる。葛野に移り住んでから既に十三年、寝起きの良くない妹を起こすのは日課であり、一種の道楽になりつつあった。

 まだ起きようとしない鈴音を眺めながら、ほんの少しだけ昔のことを思い出す。
 遠い雨の夜。さ迷い歩いていた二人をこの集落に連れてきたのは、鬼切役を受け、江戸へ続く街道を訪れた元治である。
 そして二人の葛野への在住を認めたのが先代のいつきひめ、夜風だった。
 いつきひめには親族といえど直接会うことは出来ない。故に白雪はほとんど母に会ったことがなかった。
 負い目を感じていたせいか、元治は家族が増えることを純粋に喜んだ。白雪もまた母に会えぬ寂しさがあったのだろう、兄妹とすぐに打ち解けた。
 葛野の民は当初こそ集落に入り込んだ異物に戸惑っていたようだが、しばらくすればそれもなくなり、二人は葛野の民として新たな生活を歩み始めた。
 以来二人は先代のいつきひめが逝去し、白雪が白夜になるまでの五年間を幸福の内に過ごすこととなる。

「お前は、変わらないな」

 手櫛でそっと鈴音の髪を梳く。
 思い出の中の鈴音と、眠っている鈴音を見比べる。この娘は本当に変わらない。葛野へ移り住んでから、何一つ変わっていない。
 十三年前四歳だった鈴音は、十三年経った今、四歳のままだった。
 あの頃から僅かも成長していない。相変わらず、幼い妹のままで鈴音は眠っていた。

「いい加減起きないか」
「ん、おはよう……にいちゃん」

 強く揺さ振ればようやく目を開き、ゆっくりと体を起こす。
 しかしまだ目が覚めた訳ではないらしく頭はゆらゆらと揺れていた。

「起きたなら顔を洗え。食事は用意してある」
「はーい……」

 鈴音の額を人差し指でぴんと弾く。頭をふらつかせながらも起き上がり、のたのたと土間へ向かう。思わず苦笑の零れる、いつも通りの朝だった。


 麦飯と漬物だけの質素な朝食を終え、出かける準備を整える。
 今朝方、社の使いが訪れ、今日はいつもと時間をずらし午の刻九つ、つまり正午に社へ向かえばいいと通達があった。
 おかげでいつもより大分のんびりとした朝の時間を過ごしている。
 それが嬉しいのだろう、鈴音は甚太の膝に乗って甘えるように背を預けている。
 その様が殊更愛おしく、されるがままになっていた。時折目の前にある赤茶の髪を手櫛で梳き、幼い妹が楽しそうに笑うのをただじっと眺める。

「んー? なにかついてる?」

 頬を緩ませて、鈴音は見上げる。
 しっかりと巻いていなかったのか、右目を隠す包帯が少しばかり緩んでいた。

「包帯、ずれているぞ」
「あ……」

 指摘され慌てて包帯を直す。鈴音は今でも右目を隠している。赤眼は鬼の証。そのせいで父に疎んじられていたのだと知った鈴音は決して人に赤目を見せようとはしなかった。
 もっとも今はそんなことをする意味はないのだが。
 甚太達が葛野の地に住み着いて長い年月が過ぎた。しかし鈴音はいまだ四、五歳の幼子にしか見えない。
 そして隠した右目。これだけの要素があれば、誰もが答えに辿り着けるだろう。
 だが葛野の民は誰一人としてそのことに触れようとはしなかった。
 長も、決して好意的ではないが、鈴音の秘密を敢えて問い質すことはしない。清正でさえ鈴音をなじるような言葉は口にしなかった。

「私達は幸せだな」

 今では故郷と呼べる場所になった葛野。
 流れ者である甚太を、鬼である鈴音をこの集落は受け入れてくれた。
 此処へ連れて来てくれた元治には感謝してもしきれない。

「すずはにいちゃんがいるならいつだって幸せだよ?」
「そうか」

 目の前で赤茶の髪が揺れている。
 しかしふと鈴音は幼い瞳で甚太を静かに見つめた。

「……でも、きっと。にいちゃんはひめさまと一緒の方が嬉しいんだよね」
「む……」

 答えにくい問いだった。
 どう返そうかと一瞬悩むが、鈴音の方はすぐに言葉を続ける。

「やっぱりにいちゃんはひめさまと結婚したい?」
「いいや」

 今度は迷いなくきっぱりと否定する。
 それは立場を気にしてのことではなく、彼の素直な気持ちだった。

「それって、ひめさまがひめさまだから?」
「そうではない。……今更隠しても仕方ないな。確かに私は白雪を好いている。だが私は白雪と夫婦になりたいと望んでいる訳ではないんだ」
「好きなのに?」
「だからこそ、だな」

 意味が分からなかったのか、鈴音は不満そうに頬を膨らませる。
 それが殊更幼く見えて、窘めるように頭を撫でた。 

「私は白雪を好いている。だがそれ以上に、白夜を尊いと思う。そういうことだ」
「分かんないよ。だって好きな人とはずっと一緒にいたいって思うもん」
「私だってそうだ。だがきっと私は人より不器用なのだろう」
「にいちゃんはひめさまが好きなんだよね?」
「ああ、そうだな。……我ながら儘ならぬものだ」

 噛み合わない会話は不意に途切れた。
 しばらく無言の時が続き、一度体を小さく震わせた鈴音は縋りつくように体を摺り寄せる。甘えているのではなく、怯えているのだ。何故かそう思った。 

「にいちゃん」

 触れ合える距離、暖かさを感じて。
 だというのに、鈴音が迷子のように見える。
 この娘は何をそんなに怯えているのだろう。それが甚太には分からなかった



 ◆



 砂鉄と炭は同時に火をかけると、燃え上がる炭の隙間を落下する間に砂鉄は鉄へと変化する。この時使用する炭のことを俗に『たたら炭』と呼び、楢や椚を完全に炭化しない程度に焼いたものが一般的であった。この炭は製鉄において重要な要素であるため、葛野の地でも定期的にたたら炭作りが行われている。
 その時期には住居の立ち並ぶ居住区からも見えるほどに煙が朦々と立ち込め、同時に鉄を加工する鍛冶師達の奏でる槌の音と混ざり合い、葛野は得も言われぬ雰囲気に包まれる。
 製鉄には携わらない甚太ではあるが、この時の騒々しい集落の様子は気に入っていた。
 立ち上る煙を遠くに見ながら、愛刀を腰に携え社へと向かう。
 そろそろ正午。時間としてはちょうどいいだろう。遠くからは、かぁん、と何度も鉄を打つ音が響いている。それを心地よく感じながら歩き、しかし道の途中、嫌な顔と出くわした。

「よう、甚太じゃねえか」

 清正である。
 どうやら社からの帰りらしい。相変わらずのにやついた笑みを浮かべ、右手には何か包みを持っている。それをぶらぶらと揺らしながら小馬鹿にしたような表情で言葉を続けた。

「今から白夜の所か? ああ、朝はお前だけ呼ばれなかったみたいだしな」
「清正、不敬だぞ」

 自分のことは棚に上げてその発言を諫める。
 果たしてその理由は本当に不敬だったからなのか、自身にも理解できなかった。

「いいんだよ、別に。本人がそう呼べって言ったんだからな」
「それはどういうことだ」

 睨みつけてもにたにたとした笑いを止めようとはしない。
 随分と機嫌が良さそうだが、機嫌が良かろうが悪かろうが鬱陶しいことには変わらなかった。

「おぉ怖い怖い、そんなんじゃ女にもてねぇぜ?」

 清正は初めて会った時から人を小馬鹿にしたような態度で接してくる。
 理由は分からないが、あからさまな敵意を向けられることもあった。正直に言えば付き合いたくない手合いである。

「用が無いならもう行くが」

 巫女守という立場故に冷静を演じてはいるが、元々甚太は沸点の低い男だ。
 表情こそ変わらないものの内心かなり苛立っていた。

「っと、忘れるところだった。ほらよ」

 そんな彼に向けて、清正は言葉と同時に包みを投げ渡す。
 意味が分からず甚太は怪訝そうに眉をしかめる。

「なんだこれは」
「饅頭だよ、行商が来てたから買っといた」

 思わず思考が止まった。
 何故、この男が自分に饅頭など渡すのだろうか。
 脈絡のなさに本気で頭を悩ませる。それに気付いたのだろう、清正は顔を歪めて付け加えた。

「お前にじゃねえ、鈴音ちゃんにだ。あの娘はほとんど外に出ねぇからな」

 その発言もまた意外だった。
 友人同士でもあるまいに、妹を気遣われる理由がない。言葉の裏を読もうとじっと観察していると、ふいと清正が視線を逸らす。

「鈴音ちゃんだってたまにゃ甘いもんでも食べてぇだろ」

 ぶっきらぼうなその声音に理解する。
 どうやら純粋に鈴音を気遣ってのことらしい。正直思ってもみなかった行動に未だ動揺を隠せないが、とにかく頭を下げる。言いたくはないが、礼を返さない訳にもいかない。 

「……すまん、感謝する」
「ちっ、お前からの礼なんて虫唾が走る。そんなもんいらねぇからちゃんと渡せ」
「ああ、そうさせてもらおう。だが何故お前が鈴音を気遣う?」

 この男ならば自分を罵倒する材料にこそすれ、気遣うようなことをするとは思えない。
 だからこの行為の意図を探りたかった。

「……そりゃ、似た者同士だからな、俺もあの娘も。だから苦しみも分かるさ。俺は鈴音ちゃんほど強くなれねーけどよ」

 意味の分からない言葉だけを残し、清正は横を通り過ぎていった。
 その背中は何処か力がないように思えた。



 ◆



「おお、来たか」

 社殿に顔を出した瞬間、安堵したように長は息を漏らした。
 他にも集落の権威たちが揃って顔を突き合わせている。いったい何事があったのか。不思議に思いながらもまずは御簾の前で正座し、白夜へと礼を取る。

「巫女守、甚太。参じました」
「……貴方を待っていました」

 御簾越しでは表情は見えない。しかし硬い響きに、白夜の緊張が伝わってくる。
 社殿の不穏な空気に戸惑いながらも次の言葉を待つ。

「本来ならばこのまま社の守を務めて貰う筈だったのですが……」
「そういう訳にもいかなくなった。つい先刻、集落の娘から聞いた話だ。『いらずの森』へ薬草を取りに行った時、微かながら木陰に蠢く二つの影を見たそうだ。その影のうち一つは、とてもではないが人とは思えぬような巨躯をしていたらしい」

 白雪が濁した先を長が継いで説明する。
 二つの影。成程、そういう話かと甚太は表情を引き締め直す。
 そもそも巫女守がいつきひめの護衛よりも優先しなければならない事態など多くはない。
 山間の集落において怪異は実存の脅威。それを払うために、巫女守は在るのだ。

「つまり」
「ええ、鬼切役です。甚太よ、貴方はいらずの森へ行き、異形の正体を探りなさい。そしてそれが葛野に仇なすものならば討つのです」

 背筋が伸びる。
 与えられた命を自身の内に刻み込めば、自然と目は鋭く変わった。
 答えなど初めから決まっている。甚太は、力強く白夜に応えた。 

「御意。鬼切役、確かに承りました」



 ◆



『いらずの森』は葛野を囲うように広がる森林、特に社の北側一帯を指す俗称である。
 鬱蒼と生い茂る草木の中には山菜や煎じれば薬となる草花も採れる為、集落の女が踏み入っては籠一杯の野草を持って出てくることも珍しくない。
 名前から受ける印象とは裏腹に、この森は葛野の民にとって生活の一部と言っていいほど近しいもので、一体どのような謂れをもって『いらずの森』と呼ばれているのか、それを知る者は殆どいなかった。

 説話ではマヒルさまは元々この森に棲んでいた狐だった、とも言われているが、事実かどうかは定かではない。
 結局のところいらずの森は、葛野の民にしてみれば「山菜や野草の採れる場所」以上の意味はなかった。

「じ、甚太様、こっちですっ!」

 異形の影を見たという娘、ちとせに案内されて森へ足を踏み入れる。
 顔を顰めてしまうほどに濃い緑の匂いは近付く夏のせいだろう。青々と茂る森はそこだけが切り取られてしまったかのような錯覚を覚える。

「随分と深くまで来たな」

 ちとせは白雪よりも五つか六つは下だがタタラ場の女、体力はあるらしくかなりの距離を歩き森の奥まで来たが息は少しも乱れていない。獣道をひょいひょいと歩いていく。

「この辺りは繁縷(はこべ)がよくとれるん、ますので」

 繁縷は小さな花だが、煎じれば胃腸薬となる。
 薬屋など滅多に来ない山間の集落では自生する薬草を定期的に収穫するのは必須であり、大抵の場合それは女の仕事だった。

「今日の朝、です。此処に繁縷を取りに来たら甚太に、様よりも一回りはおっきい影が見えて、それで、その」

 緊張のせいか、まだ年若い娘であることを差し引いても、説明は要領を得ない。
 しかしそれよりも気になるのは、彼女の言葉遣いだ。

「ちとせ……別に様はいらんし、話しにくいなら普通でいい」
「いえっ、巫女守様にそんな無礼は」

 その態度に思わず溜息が漏れる。
 巫女守は本来いつきひめの護衛だが、巫女に関わらぬ者達にとってはそれ以上に集落の守り人である。
 そのため、長や集落の権威達は兎も角として、住人の殆どは葛野の守護者たる巫女守に敬意をもって接する。
 それは分かっているが、ちとせの様付けはどうにも違和感があった。

「甚太にい、で構わんのだがな」
「そ、それは……」

 にやりと口元を上げれば、ちとせの頬が真っ赤に染まる。
 今でこそ様付けで呼んでいるが、数年前までちとせは甚太のことを「甚太にい」と呼んでいた。
 彼女は、父に虐待され同年代の子供と遊ぶことに引け目を感じていた鈴音の、初めての友達だった。その縁で甚太とも知り合い、幼い頃はそれなりに親しくしていた。
 鈴音は初めてできた友達に大層喜び、一時期は甚太達といるよりもちとせと遊ぶことを優先していた時期もあった。
 二人で手を繋いで辺りを走り回る、その後姿は今でも覚えている。少しだけ寂しさを感じながらも、そんな妹を微笑ましく思っていた。

「こうやって話すのも久しぶりだ」
「……はい」
「元気でやっていたか」
「はい。それだけが取り柄、ですから」

 けれど、いつの頃からか二人は一緒に遊ばなくなってしまった。
 何故だったろう。思索を巡らせ、思い至り眉を潜める。

『鈴音ちゃんは小っちゃいね』

 ああ、そうだった。
 段々と成長するちとせ。変わらずに幼子で在り続ける鈴音。見せつけられた、鬼の血を引いているという事実。思い出した。初めて出来た友達を失いたくなかった鈴音は、自分から手を離してしまったのだ。

「嫌われたな」

 軽く笑いながら零した、冗談めかした言葉にちとせが食って掛かる。

「そんなわけなっ、ありま、せん。でも……」

 しかしすぐ尻すぼみになり口ごもってしまう。やはり以前のように話すことは難しいらしい。
 ちとせと鈴音が疎遠になり、自然と甚太とも話すことはなくなった。それから長い年月が過ぎた今、ちとせにとって甚太は『甚太にい』である以上に『巫女守様』なのだ。彼女の畏まった態度に、今更ながら白夜の気持ちが分かる。

「成程、自分ではないというのは中々に窮屈なものだ」
「え?」
「いや、独り言だ。案内は此処まででいい」

 左手は愛刀に添えられ、親指が鍔に触れる。静かに息を吐き、周囲に意識を飛ばす。森の中に音はない。虫の音どころか葉擦れさえ聞こえぬ、全くの無音となっていた。

「そう、ですか?」
「ああ。お前は暗くなる前に帰れ」
「分かりました。それでは、失礼します」

 甚太の雰囲気が変わったのを察したのか、単に言われたからなのか、ちとせは素直に集落の方へと向かった。しかし二歩三歩進み、足を止めてしまう。

「どうした」

 声を掛ければ彼女は振り返り、遠慮がちに、おずおずと口を開いた。

「……あの、鈴音ちゃん、元気?」

 懐かしい景色が、目の前にある。
 それは、まだ幼かった『ちとせ』からの問いだった。

「……元気だよ。相変わらず寝坊助だけど」

 だから返すのは『甚太』でないといけない。その態度が意外だったのか、ちとせは驚きに目を見開き、歳よりも更に幼く見える満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございますっ、それじゃ今度こそ失礼、しますね!」
「気を付けてな」
「はいっ、甚太に、様もお気をつけて!」

 元気よく手を振りながら走り去っていく。思わず口元が緩んだ。ちとせの後ろ姿が、遠い昔、甚太にいと自分を慕ってくれた頃の彼女を思い起こさせる。だから嬉しく…… その傍らに、誰かの姿がないことがほんの少しだけ悲しかった。
 そして思う。
 甚太と白雪、そして鈴音。三人はいつも一緒にいた。しかし考えてみれば、鈴音が甚太の傍を離れようとしなくなったのは、ちとせと疎遠になってからだった。あの幼い妹は、初めての友達と離れ、いったい何を思ったのだろう。
 寂しさ。孤独感。言葉にすれば簡単だが、鈴音が抱えているそれは思った以上に根が深いのかもしれない。

「情けないな、私は」

 遠い雨の夜から歳月を経て、少しくらいは強くなって。
 だというのに何一つ救えぬ己の無様さに辟易する。随分と昔、元治は「変わらないものなんてない」と言っていた。
 しかし今ここにいるのはあの頃から少しも変わらない自分だ。いつだって、守りたいものをこそ守れない。

 沈み込む思考。しかし今は感傷に浸っている場合ではない。頭を振って余計な考えを追い出す。
 不意に見上げれば生い茂る初夏の若々しい葉が空を隠している。僅かに辿り着く木漏れ日がやけに眩しく映り、濃い樹木の香りに胸が詰まる。
 音は相変わらずなかった。
 虫の音も、葉擦れの音さえない、静かの森。
 場所は変わっていないのに、まるで異界へ迷い込んでしまったような錯覚。その違和感に親指が自然と鯉口を切っていた。

 突如、空気が唸る。

 無音の森に音が戻ったかと思えば、七尺を超える巨躯が姿を現し、上から下へ叩き付けるように拳を振り下す。だが大した動揺はない。無表情のまま甚太は後ろへ大きく飛ぶ。
 どごん、と鈍い音が響いた。
 足元が揺れる。地震かと思う程の振動。見れば先程まで立っていた場所は見事に陥没していた。土煙が上がる中、襲撃者は膝を突き、まじまじと地面を眺めている。

『不意を打ったつもりだったのだがな』

 拳をゆっくりと引き、徐に立ち上がる。
 赤黒い皮膚。ざんばら髪に二本の角。筋骨隆々とした体躯は、四肢を持ちながらも人では辿り付けぬ、異形と呼ぶに相応しい規格外の代物だった。
 そして、瞳は、赤い。
 土煙が晴れた時、其処には鬼は凝然と佇んでいた。

「昼間からご苦労なことだ」

 鬼のあまりにも分かり易い容貌に、こんな状況でも微かな笑いが零れた。
 しかしそれも一瞬、直ぐに表情を引き締める。

『成程、確かに鬼が動くのは夜だと相場が決まっている。が、別に夜しか動けん訳ではない。有象無象どもならばともかく、高位の鬼は昼夜を問わず動く者が殆どだ』
「つまり自分は高位の存在だと? 鬼にも特権意識があるとは驚きだ」

 鼻で嗤う。視線は逸らさぬ。鬼の一挙手一投足に注意を払う。
 鬼の方も戦い慣れているのだろう、無造作に見えて甚太を警戒し、間合いを一定に保っていた。

『鬼探しにおなごを連れてくる貴様よりは真面だろう』

 表情を変えもせず揶揄してくる。
 小さく舌を打つ。ちとせを連れていたことどころか鬼を探していたことさえ知られていた。どうやら随分前から見られていたようだ。

「見ていたならばその時に襲えばいいものを」

 ちとせと共にいる瞬間を狙われたとすれば、ああも上手く避けることは出来なかったろう。
 だというのに何故鬼は態々好機を不意にしたのか。純粋な疑問だったが、鬼は不快そうに顔を顰めた。

『趣味ではない』

 こちらの様子を覗き見ていたのは何か腹があってのことではないらしい。
 馬鹿にするな、とでも言いたいげに歪む表情。鬼の反応は実に理性的で、真っ当な怒りを感じさせた。
 不意打ちはしても女を狙うような真似はしない、ということか。
 鬼は千年近い寿命を持ち、生まれながらにして人よりも強い。脆弱な人の放つ侮りの言葉は、この鬼の矜持に傷をつけたのかもしれない。
 言葉を交わしながらも構えは解かず、僅かに腰を落とす。呼応して鬼が拳を握りしめる。

「さて、鬼よ。此処から先は我らが領地だ。立ち去れ」
『聞くと思うのか?』
「いいや」

 鬼は甚太の背後、葛野を遠くに眺めている。
 やはり鬼は葛野へと向かっていたらしい。巫女守は集落に仇なす怪異を討つ。ならば甚太の取るべき態度も一つである。

「聞かなくても別に構わん。今この場で斬り伏せれば同じことだ」

 一歩を進み抜刀。脇構えを取る。
 元から話し合いで済むとは思っていない。鬼は何かしらの目的をもって葛野へと向かっていた。ならば口で言った所で止まる訳がないし、こちらはそれを見逃せない。衝突は自然の流れだった。

『そちらの方が俺の好みだ』

 木々の生い茂る森の中。しかし幸いにもこの辺りは多少開けている為、動きが制限されることもない。
 目を細めて見据えれば、対峙する鬼も既に構えている。お互い軽口は此処まで、ということだ。
 合図もなく甚太は左足で地を蹴り距離を詰める。
 流れるように上段へ。勢いを殺さぬままに跳躍、峰が背中に付くほどに振り上げ、全力を持って脳天に叩き落とす。
 対人の術理としては下の下。飛び上がっての大振りなど殺してくれと言わんばかりだ。しかし固い表皮を持つ鬼は生半な刀では傷一つ付かず、小手先の剣術では打倒できない。鬼を討つには一太刀一太刀が必殺でなければ意味がない。それ故の一刀だった。
 鬼は静かに息を吐いた。腕を交差し、真っ向から受けて立つつもりらしい。
 だが嘗めるな。
 己が振るうは葛野の業をもって練り上げた太刀。生半な武器では通さぬ鬼の皮膚さえ裂くぞ。
 揺らぎない絶対の自信に気付いたのか、鬼は防御の体勢を途中で解き後ろに下がる。
 しかし遅い。切っ先、僅かに一寸ながら太刀は鬼を捉え、胸板に傷を負わせた。刀傷から流れる血は赤い。鬼の血も赤いとは何の冗談だろうか。

『……なかなかやる』

 大した痛みは感じていないようだ。鬼は甚太を見てどこか楽しそうに笑っている。
 その余裕が気に食わない。
 更に詰めよるが、それを阻むように繰り出される拳。体の動かし方など知らぬ児戯、迫り来る甚太に向けて突き出しただけのものだった。
 だが侮ることは出来ない。相手は鬼、ただ振るわれただけの拳だが、そもそも人とは膂力が違う。術理など一切を無視した、力任せの拳でさえ致死の一撃となる。

 踏み込んだ右足を軸にして上体を揺らし、あくまで小さな動きをもって突き出された鬼の右腕を掻い潜る。体を動かす先は突き出された拳、伸びきって動かなくなった腕の外側。
 刀を返しもう一度横薙ぎ、ただし今度は逆からの剣閃だ。畳まれた腕、力は出しにくいが腰の回転で不足を補う。
 伸び切った腕の下を平行に白刃は流れ、狙うは右腕の付け根。この一撃で腕の自由を奪う。

『させないわよ』

 しかし、突如女の声が響く。
 甚太は体を無理に引っこ抜き左方へと流した。当然白刃は鬼の体から離れ、狙った場所を切り裂くことは叶わなかった。
 嘆いてばかりもいられない。すぐさま体勢を立て直し大きく後ろに下がり距離を取った。勿論こんな行動を取ったことには理由がある。

『危なかったわね』

 何時の間に現れたのか。三つ又の槍を構えた着物姿の女が現れ、突進する甚太の顔へ目掛けて刺突を繰り出したのだ。
 それを避けるためには軌道を無理矢理変更するしかなかった。

「二匹目、か」

 女の肌は青白く、その瞳はやはり赤い。
 軽い舌打ち。初めに『二つの影を見た』と聞いていた。しかし現れた鬼は一体。ならばもう片方が何処かに潜んでいると想定してしかるべきだった。
 だというのに周囲への警戒を怠り、折角の好機をふいにしたのは己の未熟。自身の迂闊さに腹が立つ。
 結局今の攻防で手傷を負わせることは叶わず鬼は悠々と立ち並んでいた。
 
『助かった……ということにしておこう。しかしあの動き。あれは本当に人か?』

 どうやら鬼達はそれなりに親しい仲らしい。
 傍目には友人か何かのように見える。

『さあ? でもあの男の子は……確か、鈴音ちゃんだっけ? あたし達の同朋と長く一緒にいたみたいだし、案外あたし達に近付いているのかもね』



「そうか。今すぐ死ね」



 何故鈴音のことを知っている、などとは疑問にさえ思えなかった。
 ふざけた言葉を言い切るよりも速く踏み込み、濃密な殺意を持って繰り出される剣撃。鬼女の首を狙ったその一刀は、あまりにも無様な大振りだった。

『ふん』

 当然その剣は、間に割り込んだもう一方の鬼によっていとも容易く防がれる。腕が羽虫でも払う様に振るわれる、それだけのことで刀は軌道を変えた。
 甚太の表情が歪む。
 あの鬼女を斬り殺すことは出来なかった。苛立ちに顔を歪め、冷静さを失っている自分に気付き、もう一度間合を離す。そして激情に飲み込まれぬよう深く呼吸する。しかし平静はまだ戻らず、視線は憎々しげに鬼女を捉えていた。

「鈴音が、貴様らの同朋だと? 取り消せ。あの娘は私の妹だ」
『おおこわ。ホント、私達より鬼らしいんじゃない? でも妹想いってところは評価できるわ』

 飄々と殺気を受け流す。
 甚太の怒りなどどうでもいいとばかりに、巨躯の鬼は横から言葉を発した。

『首尾は?』
『上々よ、ちゃんとこの目で確認できたからね。間違いない、あの顔は私が<見た>まんま。でもよかったわ、ちゃんといて。自分の<力>だけど流石に荒唐無稽過ぎて信じられなかったのよね』
『お前の<遠見>が間違っているなどという心配はしておらん。この地にいると見たなら確かにいるのだろう。俺が心配しているのは遊んで目的を忘れて帰ってきたのではないか、ということだ』
『……何そのお父さん発言。チョーキモいんですけど』

 敵を前にして、無防備に二匹の鬼は雑談を交わす。
 いや、無防備は鬼女の方だけ。巨躯の鬼はこちらの動向を警戒し、視線と僅かな動作で甚太を牽制していた。

『ちょうきもい……? なんだそれは』
『この前<遠見>で見た景色の中にいた鬼の言葉よ。浅黒い肌で白く眼の周りを縁取りした、えらく派手な服装をした山姥(やまんば)っていう鬼女のね。すごく気持ち悪いって意味らしいわ』
『その鬼は独特の言語体系を持つのか。成程、興味深い。というか後で殴るからな』
『ええ、そいつは昼間でも動ける鬼みたいだし、案外高位で知能も発達してるのかもしれないわね。つか女に手ぇ上げるなんてサイテーねアンタ。マジムカつく』

 鬼ども鬼は甚太の存在を無視して盛り上がっていた。
 その様を眺めるしか出来なかったが、くだらない言い争いのおかげで少し間が取れたのは幸いだった。
 落ち着け、激昂するままに斬り掛かって勝てる相手ではない。
 呼吸を整え、一歩前に出る。

「くだらない話はそこまでにしてもらおうか。貴様ら、目的は何だ。何の為に葛野へ向かう」

 刀を突き付けて問う。
 もっとも本当に返ってくるとは思っていない。どちらかと言えばこの行動の意味は普段の自分を取り戻すための時間稼ぎだ。

『目的……言うなれば未来、だな。我ら鬼の未来。その為にだ』

 しかし意外にも鬼は素直に答えた。
 表情はいたって真剣。嘘を言っているようには見えず、だからこそ甚太は少なからず動揺する。
 更に問い詰めようとするが、いかにも退屈そうに鬼女が欠伸をした。

『取りあえずの目的は達成したんだし、そろそろ帰らない?』

 ぐっと伸びをして、三又の槍を肩に担ぐ。
 鬼女は返答も待たず甚夜へと背を向けた。巨躯の鬼もそれに同意し、主想う句頷いて見せる。

『ふむ、確かにそうだな。人よ、詳しいことが知りたいならば追って来い。今は森の奥の洞穴を根城にしている』
「そして罠を張って待ち構える、か?」
『さて。しかし一つ言っておこう。鬼は嘘を吐かん。人と違ってな』

 にたりと笑みを浮かべて鬼は去っていく。それを止めることはしないし、できない。流石に二体を同時に相手取るのは無謀だ。去るというのならそちらの方がいい。
 だが奴らは何かの目的をもって葛野に侵入しようとしていた。おそらく長が言ったように白夜か宝刀・夜来のどちらか。ならばもう一度相見えることになる。
 そしてその時は、巫女守として言葉通り身命を賭した戦いに挑まなければならないだろう。
 恐怖を感じることはない。元より自身が選んだ道。違えるつもりなど端からなかった。

「儘ならぬものだ」

 しかし自身の選んだ道の険しさを前に、甚太は小さく溜息を吐いた。






[36388]      『鬼と人と』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/04/03 00:56


 いつだって、終わりは唐突に訪れる。

「惚れた女さえ守れない……ったく、情けねぇなぁ、俺は」

 普段の飄々とした態度とは全然違う。
 元治さんは気絶した白雪と俺を背に、目の前の鬼を睨み付けている。
 表情を見ることは出来ないけれど、きっとこの人もそれこそ鬼のような顔をしているのだろう。

『お…おお……』

 言葉にならない呻きで答える。
 獣のように四足で立ちながら、それでも元治さんよりも巨大な鬼。
 皮膚がなく、筋繊維がむき出しの体。だらだらと唾液を垂らしながら、餌を探しているのだろうか、ぎょろりとした赤目で周囲を見回している。

 こいつが、夜風さんを喰らい、そして白雪を喰おうと襲いかかってきた鬼。

 突如社を襲撃した鬼はいつきひめを喰らったらしい。
 その後、集落でも暴れ回り最後には白雪に狙いを付けた。理由は全く分からないけど、あいつは白雪を殺す、いや、食べる気なんだと思う。
 だから俺は白雪を連れて逃げ回った。でも結局追いつかれて、もうだめだと思った瞬間、元治さんが駆けつけてくれたのだ。

 白雪は安心して気を失ってしまった。俺もこれで大丈夫だと思った。
 だけど、状況は全く変わらなかった。
 相手は無傷、元治さんは全身に傷を負って血を流している。俺が憧れた、俺の知っている中で一番強い人でも敵わない鬼。怖かった。毎日剣を習っていたのに何もできない。
 なんで俺はこんなに弱いんだろう。
 あの鬼よりも、殺されるかもしれないことよりも、何もできない自分がたまらなく嫌で、どうしようもなく怖かった。
 いつも、いつだって、俺は守りたいもの一つ守れない。

「だがよ、かえで。てめぇの命はきっちり此処で貰っていく」

 どう考えても元治さんは勝てない。
 だというのにこの人は刀を構え直し、堂々とそう言い切った。

「甚太」

 構えは解かないまま、振り返ることもしない。
 鬼を見据えたまま、元治さんは言う。

「正直に言うとよ、お前を拾ったのは白雪の為なんだ。あいつが寂しい思いをしなくて済むんなら、犬でも猫でもなんでもよかった。お前を拾ったことに、それ以上の意味なんざ無かったんだ」

 そんなこと、とっくに知ってた。
 それでも俺は元治さんに、白雪に救われたんだ。だから最初の理由が何だってよかった。

「だが今は違う。お前でよかった……嘘じゃない」

 一歩を進む。傷だらけの体で、尚も鬼へと立ち向かう。
 斬り掛かる。振るわれる爪。躱しきれず鮮血が舞う。俺の憧れた人が地面を転がる。
 それでも立ち上がり、元治さんはまだ戦おうとしている。

「駄目だよ、もう無理だ……」

 元治さんの体は傷だらけで、血が今も流れ続けている。放っておいたって死んでしまうくらいに。なのに、痛みなんてないかのようにあの人は笑う。

「親父ってのは、子供が見てる前じゃ恰好を付けるもんさ」

 涙が零れる。白雪は気を失っているのに、子供の前で格好を付けると言った。元治さんは、俺のことを自分の子供だと言ってくれたのだ。

「夜風……お前はいつも言ってたよな。俺を巫女守に選ぶべきではなかったと。そう思わせてしまった時点で、俺は巫女守としてもお前の夫としても相応しくなかったのかもしれん」

 元治さんは既に死に体。近付いても然したる脅威と感じないのか、鬼は悠然とその足取りを眺めている。
「だがよ、後悔はしちゃいないんだ。お前と会って俺は変わった。それが良かったのか悪かったのかは今でも分からん。巫女守として生きることを苦しいと思わなかった訳じゃない。だがお前と共に在れた。そんなに悪い人生じゃなかったさ。……お前はどう思ってたんだろうなぁ。結局、最後まで聞けなかったが」

 一度足を止め、腰を落す。
 一太刀の元に終わらせると宣言するような気迫。

「なぁ、甚太」

 だから理解する。
 これが、元治さんの最後の言葉になるのだと。

「俺はな、初めは夜風のことが嫌いだったんだ」

 呆れたように笑う。空気が少しだけ緩んだ。

「巫女守として選ばれたはいいが、あいつは何考えてるか分かんなくてよ。無表情でえらっそーで、こんなやつを嫁にする奴なんかいんのかって本気で思ってた」

 鬼はただ眺めている。その眼に光はない。興味がないのか、そもそも見えていないのか。唸り声を上げていたが襲ってくる様子はなかった。

「でも俺は嫌いだったあいつを守りたいと思うようになった。俺が守りたかったのはあいつだった筈で……それさえ、いつの間にか変わっちまった。そんなもんだよ、人なんてな。いや、人だけじゃねぇ。あらゆるものは歳月の中で姿を変える。季節も風景も、当たり前だった筈の日常も、変わらぬと誓った心さえ永遠に続くことはない。どんなに悲しくても、どんなに寂しくても、多分それは仕方ないことなんだろう」

 自嘲するような響きに胸が痛くなる。

「俺は、それが嫌だった。変わっていく周りが辛くて、変わっちまった自分を受け入れるのが怖くて、必死になって取り繕って……本当は、変わらずにありたいとずっと願ってたのにな」

 そうして元治さんは首だけで振り返り、 

「お前はこうなるなよ」

 諦観を感じさせる弱々しい笑みを零した。

「結局、変わらないものなんてないんだ。どんなに大切な想いだって、いつかは形を変える。もっと大切なものに変わるかもしれねぇし、見たくもない程醜いものになることだってあるだろう。だが、俺にはそれを認めることが出来なかった。……その結末が、これだ」

 沈黙。一度間を置いて、穏やかに彼は言った。 



「だから甚太。お前は、憎しみを大切にできる男になれ」



 意味が分からない。彼が、何を言おうとしているのか。困惑する俺の様子がおかしかったのか、元治さんは何処か優しげに表情を綻ばせた。

「今は分からなくていいさ。お前が大人になった時、ほんの少しだけ思い出してくれればいい。そういや昔、馬鹿な男が下んねぇことほざいてたな、ってよ」

 もう一度鬼に向き直り、深く腰を落す。

「後は任せた。白雪を頼む、んで鈴音と仲良くな」

 上段。ちゃきりと、刀が鳴いた。
 纏う雰囲気が変わる。躍動する体躯。元治さんは弾かれたように駆け出し、






 そこで終わり。
 その後のことは気を失ってしまったからよく分からない。聞いた話だと鬼は元治さんの放った一太刀の前に消え去り、だけど元治さんも死んでしまったらしい。
 俺を拾い、俺を育ててくれた人は。最後によく分からない言葉だけを残し、娘に別れの挨拶さえできないままいなくなった。





 いつだって、終わりは唐突に訪れる。
 無邪気な子供でいられた日々はこうして幕を閉じた。



 ◆



「二匹の鬼ですか」

 白夜はゆっくりと咀嚼するように呟いた。

「は。鬼女の方は既に葛野へと入り込んだような口ぶりでした。偵察か、他に目的があったかは分かりませんが」

 夕刻、いらずの森より戻った甚太はその足で社へ訪れた。
 既に日は落ちようとしていたが、報告を受け集落の権威が集まり、頭を抱えている。
いずれ、鬼がここに攻め入ってくるのか。
 浮足立つ集落の男が口々に不安を零す。その中で長だけが冷静だった。

「やはり目的は姫様か、或いは夜来か」

 ふむ、と一度頷き顎を左手で軽く弄る、
 長はやけに真剣な表情で御簾の向こうに座す白夜を見た。

「もし狙いが姫様だというのなら……今朝の件、考えていただけますね?」
「……ええ、分かっています」

 明らかに沈んだ声だった。
 今朝の話し合いには、甚太は呼ばれなかった。如何なる内容か把握してはいないが、あの反応を見れば白夜にとって不都合なものだったことくらいは分かる。

「長、今朝の件とは」
「なに、鬼の襲来が頻繁ならば備えも必要だろう、という話だ」
「備え、ですか」

 甚太は長に問うたが、明確な事は口にせず躱されてしまった。
 年若い彼では老獪な集落の長を突き崩すことなどできる筈もない。どのように聞いても答えは返ってこないだろう。

「しかし、今はそれよりも二匹の鬼への対策を考えるべきだな」

 その証拠に、長はあからさまに話題を変えようとしている。
 とはいえ発案自体は納得できるもので、甚太も静かに頷いて応えた。
 巨躯の鬼の力量は脅威だ。一対一でも中々に骨。負けるつもりはないが、そこに鬼女が加われば、確実に勝てるとも言い切れなかった。
 しかし手を拱いている訳にもいかない。

「私が鬼の探索に当たりましょう」

 勝ち目が薄くとも、この身が巫女守ならば挑まねばならぬ相手だ。
 覚悟をもって言い切るが、彼の意見はすぐさま却下される。

「いや、甚太は葛野一の剣の使い手。鬼の存在が明確になった以上、出来れば集落にいてもらいたい。探索をするならば男衆を募って行うべきだ」
「おお、確かにそれはそうだ。お前がいない時に襲われたら一溜まりもないからな」

 集落の男達は襲われた時を考え、どうにか甚太を留めようとする。
 事実、あの鬼と斬り合えるのは、この集落では甚太以外にいないだろう。
 彼がいない間にいつきひめを狙われては、その懸念も分かる。
 だからと言って有用な策があるわけでもなく、男はああでもないこうでもないと言い争っている。議論は長く続き、しかしどうにも決定打となるような意見は出てこない。

「姫様はどうお考えで?」

 長の言葉に視線が一斉に御簾へと向かう。
 ざわめいていた社殿はいつの間にか静まり返り、誰もが巫女の言葉を待っていた。
 緊迫した空気だが、白夜は動揺を見せない。
 ここでいつきひめが揺らいでは皆が不安になる。
 だからこそ堂々と、いっそ尊大とも思えるほどにはっきりと、白夜は皆に命じる。

「甚太は明日一日休息を。いらずの森の探索は集落の男を集めましょう。相手は巫女守と相見え尚も生き延びたほどの鬼。探索は社の衛兵も使い、決して無理はせぬように」
「成程、確かにそれがいいかもしれませんな」

 長は納得し、深々と頷く。賛同した男達も、揃って了承の声を上げた。
 それが甚太には内心喜ばしく、込み上げてくる笑みを必死に押し殺す。
 白雪が、いつきひめとして皆を纏あげて見せた。
 葛野の為に巫女となった彼女の毅然とした態度が、我が事のように誇らしかった。

「陽も落ちました。今日の所は皆下がりなさい。ああ、甚太。貴方には聞きたいことがあります。しばし時間を」
「御意」

 白夜の言葉で会合は終わる。
 残された甚太はいつも通り周りの気配を探り、誰もいなくなったことを確認して立ち上がった。
 ではこちらに。促されるままに御簾を潜れば、先程の態度からは想像もできないほど柔らかな笑みに迎えられる。

「ん、今日もご苦労様」

 既に彼女は白夜ではなく、白雪になっていた。
 相変わらずの変わり身に驚かされる。甚太は思わず感嘆の息を吐いた。

「何というか、見事だな」
「なにが?」
「そういうところがだ」

 小首を傾げながら聞き返す。どうやら本当に分かっていないらしい。葛野の繁栄の為にいつきひめとなった白夜。幼い頃を共に過ごした白雪。どちらも彼女の真実なのだとは重々理解している。しかしこの切り替えの早さは一種の才能だろう。

「よく分かんないけど……とりあえず座って。疲れたでしょ?」

 言われた通りに腰を下す。
 神前で胡坐をかくのは流石に気が引けて自然と正座をしていた。彼の融通の利かなさが面白かったようで、白夜はおかしそうに小さく笑った。

「もう少し寛げばいいのに」
「性分だ。勘弁してくれ」

 白夜は仕方がない人だとでも言いたげに肩を竦める。
 しかし次の瞬間には眦を細め、僅かに沈んだ声を出した。

「ね、大丈夫そう?」

 二体の鬼のことを指しているのだろう。甚太の身を案じ、目は不安に潤んでいる。
 戦えば負ける、とは思わない。だが二体の鬼を相手取って確実に勝てると言えるほど自惚れてもいない。次に相見えた時どう転がるかは正直な所分からなかった。

「厄介ではあった。だが、手に負えないということもないさ」 

 強がりは多分に含まれていただろう。それでも、白夜の前で情けない姿は見せたくなかった。
 彼女もその言葉に多少は安心できたらしく、ほぅと安堵の息を吐く。

「そっか、なんか結構余裕あるね」
「相応の研鑚は積んできたつもりだ」
「……うん、知ってるよ。ずっと見てきたんだから」

 思い起こされる懐かしい記憶。
 彼女の父、元治に毎日のように稽古をつけて貰っていた幼い頃。白雪はいつも応援してくれた。それは今尚忘れ得ぬ幸福の日々、甚太の始まりの景色だった。 
 ふと思い出された遠い昔に胸が暖かくなる。彼女も同じだったようで、互いに顔を向い合せては、何とも言えない照れ笑いを浮かべた。
 そんな折、ちらりと畳の上を見れば幾冊かの本が無造作に置かれていることに気付く。あれはなんだろうか。甚太の視線と疑問に気付いた白夜は先回りするように言った。

「あ、それ? 清正の本」

 清、正?
 一瞬息が止まる。暖かかったはずの心持が一気に凍りついた。何故あの男の持ち物がこんなところに。

「ほら、私は外に出れないでしょ? だから暇潰しに読本を持ってきてくれるの」
「そう、か」

 彼女の何気ない言葉に、ひどく動揺している自分がいた。
 確かに白夜は普段から社を出られず退屈なのだろう。考えればすぐにわかることだ。
 しかし甚太は、そんなところにまで気を回せなかった。対して清正は彼女の心を理解し配慮していた。その事実に言い様のない焦燥を感じる。

「清正は自分でも本を書いてるんだって。それも読みたいって言ったら恥ずかしがっちゃって、顔なんか真っ赤で……」

 くすくすと娘らしい笑みを白夜は浮かべる。その表情は、きっと今まで自分だけが見てきたものだ。
 お前にはそれしかできねぇからな?
 以前、清正の口にした言葉が脳裏を過り、ちりちりと頭の奥が焦げる。

 ああ、もしかたら。あの男の言葉は真実で。
 本当の意味で白夜を守ってきたのは───


「甚太?」

 意識が現実に引き戻される。
 奇妙な妄想に取り付かれ霧が立ち込めた頭の中を、不思議そうな白夜の声が晴らしてくれた。

「あ、ああ。なんだ?」
「ん、どうかしたのかなぁと思って。考え込んでるみたいだったから」
「何でもない。気にするな」

 そう、なんでもない。態々白夜の耳に入れるようなことではない。
 己は白夜を守ると誓った。ならば白夜に安寧が与えられるのならば、誰の手からであっても喜ぶべきなのだ。心を落ち着け、自身に言い聞かせ、必死に平静を装う。

「……ね、明日どこかに遊びにいこっか?」

 白夜は今までの流れを無視して唐突に話題を変えた。
 悪びれない表情は、細面の少女で在りながら、何処か悪戯小僧を思わせる。

「待て、そんなこと」
「久しぶりにいらずの森とか、戻川に魚釣りとか。あ、甘いものも食べたい。ちとせちゃんとこって確か茶屋だったよね? お団子食べながらゆっくりするのもいいなぁ」

 指折りを数えながらあそこへもと語る。
 社から出ることなど出来ないと、本人が一番理解しているだろうに。

「そうだ、集落も見て回ろ? 私がここで暮らし始めてからもう何年も経つし、偶には自分の住むところを見てみたいから」
「待てと言っている」

 少し強めに彼女の言葉を止める。
 白夜は楽しそうな、否、楽しそうに見えるよう作った笑みを浮かべていた。

「お前こそ、どうかしたのか」

 その問いに一瞬だけ白夜の体が強張る。

「なんで?」

 しかしすぐにいつもの白夜に戻り、不思議そうに小首を傾げる。
 幼げな仕草。可愛らしくはあるのだが、今は騙されてやる訳にはいかない。
 ぐっと彼女を見据え、まっすぐに向き合う。

「白雪」
「何でもない。気にするな」

 再度問い掛けようとして、茶化したような物言いで遮られる。先程甚太は本心を隠し、白夜はそれを慮り聞かなかった。だから同じように聞いてくれるな。そう言いたいのだろう。だがそれは出来ない。

「お前は昔から好奇心が強く、女だてらに男よりも行動的で慎みとは無縁だった」
「……なんでいきなり罵倒されてるの私?」
「そしてお前は辛い時にこそ笑っていた。言いたくないことがある時、お前はいつもはしゃいでいたな」
「う……」

 図星だったのだろう。ばつの悪そうな顔で言い淀む。
 白夜がはしゃいでいるのは、何か言いたくない事があるから。そしてそれは言わなければならない大切な何かなのだろう。長い時間を共に過ごしたから理解できる。だからこそ聞かない訳にはいかない。先延ばしにすれば、後々苦しむのは彼女自身だ。

「甚太は、ずるいよね」

 先程の遣り取りを指しているのだろう。自分の嫉妬は隠しておいて、白夜の本心を聞き出そうとする。成程、確かにそれはずるいのかもしれない。

「それを言われると弱いな」

 肩を竦め、しかし視線は逸らさない。
 真剣さは心から慮ればこそ。それくらい白夜も分かっている。
 だからだろう。たじろいだ彼女は、しばしの逡巡の後、諦めたように溜息を吐いた。

「はぁ……甚太には隠し事出来ないな」
「すまん」
「ううん、寧ろありがとう、だよ。だって、ちゃんと言わないといけないから。先延ばしにしようとした私が間違ってた」

 そうして彼女が見せたのは、何処か涼やかな笑顔。
 吹っ切ったのか、諦めたのか。いやに透明で、感情の乗り切らない微笑みだ。

「……あの、ね。伝えたいことがあるんだ。とっても大切なこと。だから明日一日、私に付き合ってくれないかな?」

 絞り出すような、小さな願い。何も言わずゆっくりと首を縦に振る。 
 はにかんだ彼女は本当に嬉しそうで、しかし鮮やかな喜びは直ぐに消え失せる。
 不意に背けた視線。白夜は一抹の寂寞を横顔に滲ませて、そっと目を伏せた。





[36388]      『鬼と人と』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/06/07 02:48


 白雪の母、夜風は彼女が九つになった時亡くなった。
 当時の巫女守であった父、元治はいつきひめを喰らったという鬼を命懸けで封じた。
文字通り、命懸けで。
 こうして白雪は一人になった。
 慎ましやかに葬儀を終える。夜半、集落から離れ戻川を一望できる小高い丘に白雪と甚太は訪れた。
 川は星を映して流れ往く。たゆたうように水辺を舞う光は蛍か、それとも鬼火か。見上げた空。月明かり。二人並んで眺めれば、ほんの少しだけくすぐったかった。

 ───甚太、私ね。いつきひめになるんだ。

 何気なく、白雪は言う。 
 葬儀の後、集落の長から打診を受けたらしい。そもそもいつきひめは代々白雪の家系が担う役である。彼女が火女となるのは当然の流れだった。
 なんで、彼女はそんなことを言うのだろう。
 甚太には理由が分からない。
 巫女であったが故に鬼に喰われた母、その仇を取るために命を落とした父。
 悲しい結末を知りながら、いつきひめになると。どうして平然と口に出来るのか。
 問いたかった。けれど彼女の言葉に静かな決意を感じ取り、何も言えなくなった。

 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
   私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。

 幼さの消えた横顔。彼女の瞳は何を映しているのだろう。
 きっと流れる水ではなく、もっと美しい景色を見ている。そんな気がした。

 ───でも、もう会えなくなるね。

 白雪は知っている。
 いつきひめになれば甚太や鈴音においそれと会えなくなる事を。
 けれど、それでよかった。白雪は甚太が大好きだった。そして捨て子だった彼を受け入れた葛野も、そんな集落を成した母もまた大好きで。
 だからこの地を未来へと紡いでいけるなら、自分の幼い恋心に蓋をするくらい、なんでもないと思えた。

 ───なら俺が会いに行くよ。

 自然、そう口にしていた。
 甚太は幼馴染の少女を初めて美しいと感じた。出来れば、彼女には彼女自身の幸福のために生きてほしいと思う。先代の顛末を知れば尚のことだ。
 しかし白雪は母の末路を知りながら、それでも同じ道を歩むと言った。他が為に在ろうと、幼さに見合わぬ誓いを掲げた。
 美しい、と。
 その在り方を美しいと感じ、だからこそ守りたかった。 

 ───今はまだ弱いけど。俺、強くなる。

 子供の発想、けれど真剣だった。
 強くなればきっと、どんなことからも彼女を守れる。

 ───強くなってどんな鬼でも倒せるようになる。そうしたら巫女守になって会いに行くよ。

 紡ぐ言葉は祈りのように。
 強くなりたいと。彼女の強さに見合うだけの男でありたいと、心から願う。

 ───その時には。俺が、お前を守るから。

 静かに白雪は涙を零した。
 守る、と。その言葉にどれだけ救われたのか分からない。
 本当は今日を別れの日にするつもりだった。もう二度と会えない。その覚悟があった。
 なのに彼は、自分の勝手で離れていく私を守ると言った。言ってくれた。
 涙が溢れて、拭うことも出来ず、ただ白雪は柔らかに笑う。

 ───ね、甚太。おかあさんはいつきひめになってからおとうさんに会って、それで結婚したんだって。

 そして想う。二人なら、遙かな道もきっと越えていける。

 ───私はいつきひめになって甚太を巫女守に選ぶから。

 風が吹いて、木々が微かにざわめく。

 ───甚太は、いつか私のことをお嫁さんに選んでね。

 遠い夜空に言葉は溶けて、青白い月が薄らと揺れる。
 森を抜ける薫風は、するりと指から零れ落ちるように頼りなくて、ほんの少しだけ切なくなった。
 だから二人はどちらからともなく手を繋ぎ、言葉もなく空を眺めた。
 言葉と一緒に心まで溶けていきそうな、そんな夜だった。



 ◆



「甚太、もう朝だよ。起きて」

 まどろむ意識がゆっくりと引き上げられる。
 揺さぶられる心地良さがより眠気を誘う、緩やかな朝のひととき。

「鈴、音……?」

 いつまでも眠っていたいと思う。しかしそういう訳にもいかない。
 眠気を必死に噛み潰しながら重い瞼をゆっくり開ける。そうして自分を起こそうとしている妹に声をかけようとして。

「おはよ」

 艶やかな長い黒髪に、雪の如く白い肌。
 ゆったりとした笑顔。その甘やかさに呆け、段々とはっきりしてくる頭が違和感に停止した。

「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。ちゃんと一人で起きれるようにならないと駄目だよ?」

 そこにいたのは、そこにいない筈の人物。
 葛野の土着神『マヒルさま』に祈りを捧げる当代のいつきひめ、白夜。甚太は彼女のことをこう呼んでいる。

「………白……雪?」

 口にして、その在り得無さに思わず唖然となった。
 いやまておかしいなんでこんなところにいる。
 寝ぼけていた意識は一気に覚醒、しかし目は覚めても状況が理解できない。
 何故か分からないが、社から出て来られない筈の白雪が自分を揺り起こしている。
 まるで幼馴染のように、いや、まるでも何も幼馴染ではあるが。しかも着ているのはいつもの巫女服ではなく、薄桃色の着物で長い黒髪も後ろで纏めている。
 何故彼女はそんな恰好をしているのだろうか。

「そんな恰好、って酷いなぁ。可愛いでしょ?」

 えへへ、と無邪気に笑い、立ち上がってくるりと一回転して魅せる。
 確かに可愛いが、と言おうとしてそんな場合ではないと気付き白夜に詰め寄る。

「お前は、なんで、ここに?」

 甚太の胸中は乱れに乱れていた。
 しかし動揺しながらもどうにか言葉を絞り出す。
 
「なんで、って。昨日言ったでしょ? だから約束通り抜け出してきたの」

 抜け出してきた?
 なんということを。いつきひめというのは姿を衆目に晒さない。それは単なる掟ではなく、巫女の神聖を保つために必要なことだからだ。
 だというのに彼女は何を普通に出歩いているのか。

「大丈夫、今の私の顔を知ってるのって、ええと、社の人と長、甚太に清正、後はすずちゃんくらいだから。外を出歩いても私だと気付かれないと思うよ?」

 こちらの内心を正確に読み取り、安心させるように柔らかく言う。
 何が大丈夫なのか全く伝わってこない。けれど慌てる甚太を余所に、白雪は呑気に微笑んでいる。

「しかし、鬼がお前を狙っているというのに」
「それなら甚太の傍が一番安全だし」
「私は鬼を探し出し、討たねばならん」
「昨日言った通り、今日休みだよ? 鬼の居場所が分かったらその時は力を借りることになるけど、まだ時間があるから全然問題なし」
「だがこのことが長にばれたら」
「それも大丈夫、今日のことに関しては長も了承済みー」

 それ以上言葉は続けられなかった。
 何という根回しのよさ。最初から逃がす気はないらしい。

「他には何かある?」

 満面の笑み。完全に自身の勝利を確信しきった、得意げな顔だった。
 そして事実反論は封じられている。

「……お前の強引さには敵わん」

 苦々しく顔をしかめる。
 言えたのは負け惜しみだけだった。



 ◆



「せっかくひめさまが来たんだから、もっとおいしいの出せばいいのに」

 起きてきた鈴音を含め三人で朝食を始める。いつも通りの麦飯と漬物が不服なのか、鈴音は頬を膨らませていた。

「朝から重いものを出しても仕方がないだろう」
「にいちゃん、甲斐性なし?」
「殴るぞ」

 実際には甚太は料理など殆どできず、麦飯も近所の家で一緒に炊いてもらっている始末。
 甲斐性なしと言えばそうなのだろうが、あまりにも直接的な鈴音の言葉に、憮然とした表情になってしまう。
 そんな兄妹の遣り取りを見ていた白夜が半目でぽそりと呟いた。

「できないくせに」
「何か言ったか」
「え? だって甚太甘いし、すずちゃんのこと殴るなんて絶対無理でしょ?」

 そこで「なんでもない」と誤魔化さない辺りが白雪だった。
 どうやら彼女には、妹を叱ることもできないと甘い兄だと思われているらしい。それは思い違いだと、甚太はむっつりとしたまま応える。

「百歩譲って私がこいつに甘いのは認めよう。だが兄として叱るべき時には叱るし、必要ならば手も上げる」
「ふーん」

 気の乗らない返事、完全に信じていなかった。
 白夜はどうでもいいとでも言いたげにぽりぽりと漬物を齧っている。

「でも絶対無理だよね……」
「あ、やっぱりそう思う?」
「うん、だってにいちゃんだもん」
「お前ら本気で殴るぞ」

 身を寄せあってちらちらと甚太を見ながら、ちゃんと聞こえる声量で二人して内緒話。
 懐かしい、というべきか。子供の頃も似たような構図は何度もあった。勿論冗談だと分かっているので、腹を立てるようなことはない。
 とはいえいつまでも子供のままではない。毅然とした態度で甚太は食事を続ける。

「じゃあ試しにやってみて? こつん、くらいでいいから」

 すると鈴音はそう提案をしてきた。
 思わず呆気にとられて視線を向ければ、妹は小さな頭を甚太の前に差し出す
 白雪もその意見に案外乗り気のようで、なにやら期待を込めた目でに観覧していた。
 いかん、本気で舐められている。いい加減ここらでおしおきをしてやらないといけない。
 そう思い、拳を軽く握り締めた所で鈴音は真っ直ぐに甚太の目を見た。そしてゆるりと、絡まった紐が解けるように、柔らかく微笑んむ。
 その表情に、ぐっ、と息が詰まる。それでおしまい。気付けば握り拳は笑顔と一緒に解かれて、もう一度膝の上に戻っていた。

「必要ならば、手も上げる?」
「……まあ、別に悪さをした訳でもないしな」
「そーですね」

 白雪は見透かしたようにまにまと笑う。
 昔から、彼女には勝てなかった。しかし考えてみれば鈴音にも勝てたことなどなかかった。相も変らぬ自分の弱さに思わず溜息が零れた。

「いってらっしゃーい」

 朝食を終えれば白雪に急かされ出かける準備を整える。
 玄関で見送るのはあまりにも元気な鈴音だった。妹はにこにこと笑顔を絶やさない。

「鈴音……何か嬉しそうだな」

 いつになく機嫌のいい妹に違和を感じて問えば、笑顔を崩さず朗らかに答えた。

「うんっ! だって、にいちゃんは今日一日ひめさまと一緒なんでしょ? だからすずも嬉しいの」
「何故それが嬉しい」
「すずはにいちゃんが大好きだもん。だからにいちゃんが幸せだと嬉しいの」

 それはつまり、自分が白雪と一緒にいる時幸せそうにしている、ということだろうか。
 少しばかり問い詰めたくなったが、鈴音が本当に嬉しそうな笑顔を浮かべている。ならばこれ以上突っ込むのも野暮だろう。

「そう、か。済まない、留守を頼む」
「うん、たのしんできてねー」

 ぶんぶんと手を振って見送ってくれる鈴音に軽く手を挙げて応える。
 まったく、あそこまで気合を入れなくてもいいだろうに。

「ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」

 それには同意するが、やはりもう少し我儘になってほしいとも思う。
 しかし今日の所は鈴音の言う通り、折角の機会を楽しむべきだろう。二人は足取りも軽く、互いにくすりと小さく笑い合って家を後にした。





「たのしんで……きてね」
 
 だから遠く、寂しそうに呟いた鈴音の声を聞き逃した。



 ◆



「お、甚太様。その娘は?」

 のんびりと道を歩いていると、すれ違う二人の男に呼び止められた。
 葛野の守り人たる巫女守が見慣れぬ少女と手を繋いで歩いているのだ。集落の民は皆一様に驚き、珍しいものを見たとからかい交じりの言葉をかけてくる。
 既に数度同じ言葉を返している為いい加減面倒になってくるが、顔には出さず答えた。

「古い知り合いです」
「今日は久しぶりに来たので、集落を見せて貰っています」

 嘘は言っていない。
 幼馴染なので古い知り合いには間違いないし、白夜が葛野を見るのは確かに久しぶりだった。

「巫女守様、いいひとがいたんすねぇ。浮いた話の一つもないから結構心配してたんですが」
「いや、まったく。甚太様も色を知る歳になりましたか。小さな頃を知っているだけに感慨深いですなぁ」

 しみじみと頷く男達。
 白夜は見せつけるように甚太の腕を取り、体を寄せた。

「いいひと、だって」

 少しだけ顔が熱くなる。思わず視線を落とせば、彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。
傍から見ればまさしく恋仲だろう。仲睦まじく寄り添う二人に男達は生暖かい視線を送っていた。

「おい」 
「やだ」

 離れろ、と言う前に拒否された。
しかし流石に人前で腕を組むというのは恥ずかしい。寄り添う体から彼女の温度を感じる。残念ながら胸の膨らみが致命的に足りていない為、触れる感触は申し訳程度というところだが。

「今絶対失礼なこと考えたよね?」
「微妙に抓ってくるな」

 何故か此方の内心を察した白雪が脇腹を抓る。
 鍛えに鍛えた体躯を揺るがすほどではないが、精神的には痛かった。

「巫女守様も女性には弱いのですなぁ。もう尻に敷かれてるとは。善哉善哉、男は尻に敷かれてやるくらいが夫婦円満の秘訣です」
「いや、ちとせが泣くな。姫様も残念がるかもしれませんよ?」

 他にも二言三言付け加え、散々からかって満足したのか男達は笑いながら去っていく。
 鬼を相手取るよりもよほど疲れた。しかし取り敢えず白雪の正体には気付かなかったらしい。
 疲れか安堵か、思わず溜息が零れる。

「……その姫様が横にいるのだが」
「ね、ばれないでしょ?」

 ぼそぼそと話し合う。
 成程、確かに意外とばれないものである。しかしそれでいいものなのだろうか、と思わなくもない。

「まあ、深く考えても仕方ないか」
「そうそう、細かいことは気にしないの」

 白雪は更に強く体を寄せた。鼻腔を擽る彼女の香に少しだけ鼓動が早くなった。







「あ、甚太様! いらっしゃい……ませ?」

 訪れたのは葛野に一軒だけある茶屋だった。
 本来タタラ場に茶屋があること自体が珍しく、殆どの集落にはないだろう。
 しかしこの茶屋は、初代の巫女守が「せめてもの娯楽を」と建てさせたものらしい。所以はともあれ、今ではこの茶屋は集落の数少ない憩いの場となっていた。

「ちとせ、邪魔するぞ」

 茶屋の娘、ちとせは目を丸くしてこちらを見ている。
 そもそも甚太は普段茶屋を利用しない。鈴音とちとせが疎遠になってしまってから、自然と足が遠のいて、今では訪れることなど滅多になかった。だから昨日会ったのは本当に随分久しぶりだったのだ。
 そんな彼が急に来ただけでも驚きだというのに、その脇には見知らぬ女性がいる。腕を組んで、実に親しそうだ。いきなりすぎる状況にちとせは困惑していた。

「あの、その方は?」
「知り合いだ。それ以上は聞いてくれるな」
「はぁ……。あ、と。すみません。ご注文は?」

 納得がいったのか、いかないのか、微妙な表情だった。
 しかし思い出したように注文を取ると、勢いよく白夜が声を上げる。

「お団子を……ええと、十本!」
「二本でいい。あと、茶を」
「えー」
「また腹を壊すぞ」

 白夜には悪いがその量は却下する。彼女は普段食べられないせいか、機会があると甘味を大食いする癖があった。
 しかし元々量を食べる方ではなく、腹も弱いのでいつも食べ過ぎで苦しみ、繁縷を煎じた胃腸薬の世話になっている。既にその様を何度も見ているのだから、止めるのは当然だった。

「はい、少し待って、てくださいね。おとーさん!」
「おう、聞こえてた!」

 父親と元気のいい遣り取りをしながら、ちとせは店の奥へ引っ込む。
 するとその後ろ姿を眺めていた白夜がぽつりと呟いた。

「ちとせちゃんも気付かないかぁ」

 投げやりな、僅かに寂しさを含んだ声。ちとせは元々鈴音の友人で、幼い頃には白夜と遊ぶ機会もあった。気付いてもらえなかったのにはそれなりに思う所があったようだ。

「何年も顔を合わせてないんだ。仕方あるまい」
「分かってはいるんだけどね」

 理屈では分かっていても、感情までは納得しないというところだろう。
 二人して店の前の長椅子に腰を下ろす。横目で盗み見たその表情は曇ったままで、まるで置いてけぼりをくらった子供のように見えた。

「お待たせしましたー」

 しばらくすると小さな盆を片手にちとせが戻ってくる。長椅子の上に置かれた盆には湯呑が二つと、団子とは別に注文していない小皿があった。

「これは?」
「磯辺餅。お好き、でしたよね?」

 餅など正月くらいしか食べる機会がない。滅多に食べられないせいもあるだろうが、何が食べたいと言われて最初に思い浮かぶのは餅だ。同じ餅なら磯辺餅がいい。
 そう言えば随分と昔、そんな話をしたこともあった。

「覚えていてくれたのか」

 意外さに目を見開けば、ちとせはぎこちない照れ笑いを浮かべている。
 出された磯部餅は巫女守ではなく甚太への気遣いだ。驚く彼の顔が嬉しかったらしく、ちとせは元気よく首を縦に振った。

「はいっ。ちょうどもらい物があったんで、折角ですから」
「済まん、有難く頂こう」
「えへへ、ゆっくりして、いってください」

 小さくお辞儀をしてまた店の中に戻っていく。
 甚太は少しだけ口元を緩めた。餅を出してくれたことよりも、餅が好きだと覚えていてくれたことが嬉しかった。

「甚太だけ特別扱いされてるー」

 白夜は団子を食べながら不満そうに頬を膨らませている。
 自分が忘れられているのに甚太のことはしっかり覚えているというのが気に食わなかったらしい。

「だから仕方ないだろう」
「でも複雑……というか、ちとせちゃん、なんか変じゃなかった? 妙に緊張してたみたいだけど」

 ちとせの拙い敬語にはやはり違和感があるようだ。
 それに関しては甚太も同じ。しかし言って聞かせられる話でもない。

「あの娘にとって今の私は『甚太にい』ではなく『巫女守様』だということだ」
「あ……そっか」

 結局は、昔とは立場が違う。何もかも昔の儘でなど、どだい無理な話だ
 いつきひめ程ではないにしても、巫女守もまた畏敬の対象と成り得る。
 そしてちとせも、もはや小さな子供ではない。
 そこに思い至り、白夜はばつが悪そうに目を伏せた。

「今更ながらにお前の苦労が分かるよ」

 冗談交じりの言葉を零しながら肩を竦める。
 ただの笑い話だから気にするな。甚太の気遣いに感謝し、その意を汲んで白夜も敢えて茶化した物言いで返す。

「でしょ? いつきひめは大変なのですよ、巫女守様?」
「やめてくれ」

 いつきひめ。巫女守。
 思えば、お互い自由に『自分』ではいられなくなってしまった。
 変わらないものなんてない。白夜の父、元治の口癖だ。歳月が経ち、あの頃のように無邪気ではいられなくなった今、彼の遺した言葉が殊更重く感じられる。

「変わらずにはいられないものだな」

 周りも、自分自身も。
 白夜は何も返さなかった。彼女が、それを誰よりも知っているからだろう。







 集落で社の次に目立つのは高殿(たかどの)と呼ばれる建物である。
 高殿はタタラ製鉄の要で、建物の中には大型の炉が設置されている。これに砂鉄とタタラ炭を入れ、三昼夜もしくは四昼夜鞴を踏み続けることで鉄は造られる。当然高殿の中は尋常ではない程に室温が高まり、近付くだけでもその熱気を感じることが出来た。

「入るか?」
「ううん、やめとく。邪魔したくないし。いこっか?」

 遠くから高殿を眺めていた白夜は反対方向に歩き始める。その表情はどこか嬉しそうだった。背後からは男達の声が聞こえてくる。内容は聞き取れないが、炉の熱気にも負けない程の熱を感じることが出来た。

「嬉しそうだな」
「うん。お母さんも、きっとこんな葛野を守りたかったんだろうな、と思って」

 足取りは軽く、とんとんと拍子をとるように二歩三歩進む。
 白夜は本当に上機嫌で、放っておいたら鼻歌でも歌いそうなくらいだ。

「私ね、鉄を造るところって好きなんだ。いい鉄を造るために皆が力を合わせてるのが分からるから。……いつきひめになったことが、少しでもあの人達の支えなれたなら、すごく嬉しいな」

 そう言った白夜は、いつもよりも大人びて見えて、いつもよりも綺麗に見えた。
“おかあさんが守った葛野が私は好きだから。私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。”
 いつか彼女が口にした想いは、今も変わらない。
 当たり前のように誰かの幸せを祈れる。白雪は、昔からそういう娘で。だからこそ、守りたいと甚太は願った。

「集落の柱が謙虚だな。皆、お前がいるから安心して暮らせるんだ」
「ふふっ、ありがと。でもそれは甚太もだからね」
「私は、それほど大層なことは」
「巫女守様が何言ってるの。あ、もしかして照れてる?」

 のんびりと歩く、見慣れた景色。
 いつだったか、元治が言っていた。『変わらずに在りたいと願っていた』と。夜風が守りたかったもの。元治が守りたかったもの。今なら少しだけ分かる気がする。
 彼等はきっと、何もない昔ながらの葛野を守りたかったのだろう。
 特別なものなど何一つない、当たり前の、小さな小さな幸福。その眩しさに目を細める。

「どうしたの?」
「いや、きっと元治さんはこんな景色を守りたかったのだと思ってな」

 意味が分からなかったらしく、白夜は眉間に眉を寄せていた。
 分からなくてもいいと思う。今はただ何気ないことが嬉しくて、甚太は声をにこやかに笑った。



 それからは特に何をするでもなく、集落をただ歩き、時折くだらない話をした。
 目的などない。元々娯楽の少ない集落だ。然して楽しめる場所などないが、久しぶりに外を歩くこと自体が嬉しいのだろう、白夜はいつになくはしゃいでいる。引き摺られるように、甚太もまた幼い頃に戻ったような心地で一日を楽しんでいた。
 ただ一つだけ気にかかる。
 昔から彼女が必要以上にはしゃぐのは、何か言いたくないことがある時だった。



 ◆



 陽はゆっくりと落ち、空は夕暮れの色に染まっていた。
 散々歩き倒して火照った体を冷まそうと集落を離れる。辿り着いたのは戻川を一望できる小高い丘。
 いつか、二人で遠い未来を夢見た場所だった。

「風が気持ちいい……」

 真っ白な肌を夕暮れの風が撫でている。
 通り抜ける風の優しさに黒髪は揺れて、ざぁ、とさざ波のように木々が鳴いた。

「今日はありがと」
「いや、私も楽しんだ」
「そっか、それならよかった。また私の我儘に付き合わせちゃったから」
「それこそいつものことだろう」
「あ、ひどー」

 表情は次第に曇っていく。
 先程までの無邪気な少女は消え、大人びた横顔に変わった。橙色の陽を映す川は斑に光り輝いて、その眩しさに目を細めて眺めながら、甚太は静かに呟いた。

「もう、いいのか?」

 何気なく零れた言葉。その意を白夜は間違えない。
 隠しごとを話す為の心の準備はできたのか。甚太はそれを問うている。

「う……ん」

 沈んだ声。しばらく口を噤み、しかしようやく何かを決意したのか、戻川を眺めていた視線を甚太に向ける。
 まっすぐ、逸らさない。揺らぐことのない決意が彼女の目に映り込む。

「ここで、甚太と話したかったんだ。ここは私の始まりの場所。だから伝えるのはこの場所がいいと思ったの。ね、聞いてくれる?」
「……ああ」
「そっか、よかった」

 笑った。
 けれど白夜の笑みは透明で、そこに秘められた意を汲み取ることは出来ない。
 風がまた一度強く吹き抜けた。木々に囲まれた小高い丘で、彼女は少しだけ近くなった空に溶け込んでしまいそうだ。
 いや、その姿は自ら溶け込もうとしているように見えた。
 そして空になった彼女は、泣きそうな、けれど強さを感じさせる笑みを浮かべて。


「私、清正と結婚するね」


 そう、言った。





[36388]      『鬼と人と』・5
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/10/28 20:27

 葛野において巫女が姫と呼ばれるのは身分としての意味ではない。
 正確に言うならば『いつきひめ』とは『斎の火女』、即ち火の神に奉仕する未婚の少女を指す言葉であった。
 しかし時代が下るに連れその意味は薄れ、今では先代がそうであったように子を成した後でもいつきひめを務める場合がほとんど。いつきひめは単純に、火の神に祈りを捧げる神職という意味へと変化した。

 だから彼女の言ったことは別段不思議ではなかった。

 いつきひめであっても、いつかは誰かと契りを交わす。そんなことは最初から分かっている。驚くほどのことでも無い。
 それなのに初夏の夕暮れは、少しだけ息苦しくなったように思えた。 

「昨日の朝、ね。長に言われたんだ。鬼が私を狙うなら、先代のようになる前に後継を産まねばならないって。その相手として清正が選ばれたの。他の人も同じ意見みたい。清正は巫女守で、いずれ集落の長になるから。いつきひめと結ばれその間に子供が出来ればこんなに目出たいことはない。葛野のことを考えればこれ以上の良縁はないだろう、だってさ」

 昨日の朝、甚太は普段よりも遅く社を訪れるよう言い渡された。その意味を今になって理解する。
 白夜と清正の婚約。図面を引いたのは長に間違いない。長は清正の対抗馬になり得る、また白夜も望むであろう甚太を遠ざけ、昨日の内に清正との婚約を皆に告げたのだろう。

「子を作るだけなら清正じゃなくてもいい。候補者はもう一人いるって言ったんだけど。甚太は……ね。葛野の血を引いてないから、駄目だって言われちゃった」

 悔しいが、納得できる理由だった。
 いつきひめと巫女守が結ばれること自体は不思議ではない。事実先代もそうだった。だが同じ巫女守ならば流れ者よりも集落の民の方が良いに決まっている。
 葛野の繁栄に祈りを捧げる巫女が、葛野の地を取りまとめる長と婚姻を交わす。確かにこれ以上の良縁はない。
 長は、最初から白夜と結婚させるつもりで清正を巫女守に捻じ込んだ。つまり半年前から今回の件を画策していたことになる。ならば根回しはされていて当然。そして鬼の襲撃に絡め、白夜が首を縦に振らざるを得ない状況になった今、実行に移した。
 つまり、これは既に集落の総意。誰が何と言おうと覆らない決定事項となってしまっている。

「それが葛野の民の為って長は言ってた。私も、そう思っちゃった。だから今回の話受け入れることにしたの」

 葛野の為。彼女の最大の急所だ。その一言で白夜はあらゆる理不尽を受け入れる。
 といっても彼女は浅慮ではない。自身で考え、為すことに意味があると思ったからこそ了承した。
 そうだ、彼女の目を見れば分かる。
 相応の理解が出来るだけの時を共にしてきたのだから、分かってしまう。
 白夜自身、この結婚に反対していない。確かに政略結婚であり心から賛同している訳でもないだろう。だが彼女は婚姻が葛野のためになると判断した。
 そして、その相手として受け入れる程度には、清正を想っているのだ。

「今の私は白雪。だから言うね」

 頭の奥がちりちりと焦げる。立ち眩みを起こしたように痺れている。
 けれど目は逸らさない。彼女の決意が其処には在り、だからこそ真っ直ぐに見据える。

「私、甚太のことが好きだよ」

 知っていた。
 今までは立場からか決して言葉にはしなかったが、白夜がずっと想っていてくれたことは甚太も分かっている。

「でもこれからは白夜。もう白雪には戻れないの」

 それも、知っていた。
 彼女は、最後の最後で自身の想いよりも自身の生き方を選ぶ。己が幸福ではなく葛野の民の幸福を願ってしまう。
 そんなことはずっと前から。多分、この場所で彼女がいつきひめになると誓ったその日から、知っていた。

「私はいつきひめ。葛野の繁栄の為に祈りを捧げる火の巫女。この道を選んだのが私なら、そこから逃げることは許されない」

 最早目の前にいるのは白雪ではない。
 決意を胸に揺らぐことのない、一個の火女だった。

「甚太が好きなのは本当だよ。正直に言うとね、ちょっとだけ思ったんだ。一緒にどこか遠くへ逃げたいって。誰も知らない遠いところで、夫婦になって静かに暮らすの」

 ぺろりと舌を出して、おどけた調子。昔から変わらない白雪がそこにはいる。
 だから甚太は必死になった声を絞り出し、平気なふりを気取って見せる。強がりだとしても、今は彼女との会話を続けていたかった。

「……夫婦か。悪くないな」
「でしょ? 二人は仲のいい夫婦になって、いつもべたべた甘え合うんだ。それでいつかは子供が生まれて、お父さんとお母さんになって」

 あまりにも穏やかな表情。遠くを見つめる彼女の瞳には、願う景色が映し出されているのだろうか。
 或いは、他の何か?
 けれど視線の先を追っても、そこには空があるばかり。甚太には、何も見えない。

「家族が増えて、でも子供達も大きくなったら結婚して家を出てくんだろうなぁ。そうしたらまた二人きりになって。私達はゆっくり年老いて、最後には仲のいいおじいちゃんおばあちゃんになって、並んでのんびりお茶を啜るの。いいと思わない?」

 想像する、優しい未来。
 もはや叶わぬと知っている筈なのに、白雪は心底楽しそうだ。

「ああ。そう在れたらどんなにいいだろう」

 その夢想に甚太もまた顔を綻ばせる。
 彼女と共に年老いていく。そんな日が訪れたなら、どれだけ幸せだろうか。

「だけど甚太はきっとそんな道を選んではくれないよね?」

 質問ではなく確認。彼女の言葉は鋭すぎて刃物のようだ。
 葛野の地を捨て白夜と逃げる。
 その先に在る景色を確かに幸福だと思う。だがそれは選べない道だ。
 遠い雨の夜、全てを失った。
 遠い雨の夜、小さなものを手に入れた。
 元治は捨て子であった自分達に生きる術を与えてくれた。
 白雪は家族だと言ってくれた。
 何処の馬の骨とも知れぬ自分達を、集落の者は当たり前のように受け入れてくれた。
 成長しない、明らかにおかしい妹に、何も言わずにいてくれた。
 故郷を離れ、流れ着いた先はいつの間にか掛け替えのないものに変わって。

「……そうだな。確かに、私には出来そうもない」

 己が幸福の為、切り捨てるには。
 少しばかりこの地は、大切になり過ぎた。

「それって、私のことが好きじゃないから?」
「まさか」

 ずっと好きだった。いつまでも一緒にいたいと思う。
 遠い何処かで夫婦になり、穏やかに暮らす。呆れるくらいに優しい情景を、甚太自身心の何処かで願っていた。
 しかし「一緒に逃げよう」とは言えなかった。
 白夜よりも葛野が大切だからではない。彼女は自身の幸福を捨て、葛野の未来を願った。その決意の重さを知ればこそ、安易な逃げを口にする訳にはいかなかった。

「白雪、私もお前を好いている」

 思い出されるのはいつかの川辺。
 星を映して川は流れる。二人並んで見上げた夜空。風に揺れる少女。紡ぎだした言葉。
 白雪はいつきひめになると言った。
 もう白雪には戻れなくなると知りながら、それでいいと彼女は笑った。
 己が幸福を捨て、他が為に生きる。多くの者はその決意を愚かしいと嗤うだろう。
 けれど尊いと思った。父母を亡くし、自分であることさえできなくなって。それでも素直に誰かの幸せを祈れる。そんな彼女だから好きになった。

「だが私が守ると誓ったのは、『白雪』ではなく『白夜』だ。幼い頃から必死に剣を磨いてきたのは白雪を守る為ではなく、母の後を継ぎいつきひめになると言った白夜の決意を尊いと思ったからだ」

 そんな彼女だから、守ると誓った。 
 全てを捨て、他が為に生きる道を選んだ幼馴染が、せめて心安らかにあれるよう強くなりたかった。
 己には刀を振るうことしかできない。しかし振るった刀が守る彼女はきっと美しい景色を描いてくれるだろう。
 その想いこそが、巫女守としての甚太を今まで支えてきてくれたのだ。

「確かにお前と夫婦になり、緩やかに日々を過ごすのは幸福だろう。だが、この地を切り捨ててまで得ようとは思えない。もしもそんな道を選んでしまえば、お前の幼い決意を、お前が必死になって張ってきた意地を。その道行きを尊いと信じ、研鑽を積んだ己が歩みを否定することになる。私は……俺には、それが受け入れられないんだ」

 彼女の決意を美しいと感じた。
 故に生き方は曲げられない。彼女を好きだというのならば、美しいと感じたその在り方を汚すような真似は出来ない。一度選んだ道を違えるなど認められる筈がなかった。

「馬鹿みたいだよな。もう少し上手くやれたらいいんだけど」

 巫女守ではなく甚太として呟いた。その言葉を聞いて、白夜は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべる。ほぅ、と暖かな息を落とし、穏やかな声で彼女は言う。

「ほんと。……でもよかった。貴方が私の想ったままの貴方で」

 清正と結婚するというのに嫉妬さえしてくれない想い人。
 それでこそよかったと、白夜は満足そうに小さく頷く。

「やっぱり甚太は私と同じだね。最後の最後で、誰かへの想いじゃなくて自分の生き方を選んでしまう人。でも、そうやって自分に拘れる貴方だから好きになった」

 その横顔を強いと思う。
 滲む夕焼けに溶けた彼女の笑顔は、遠い昔に見た、甚太が美しいと感じた白雪のものだった。

「私もね、選べなかった。だっていつきひめになるって決めたのは私。なら巫女としての自分を否定したら、正面から甚太に向き合えない。今まで歩いてきた道を嘘にしたら、貴方を想う私の心もきっと嘘になる。だから、私はいつきひめでいようと思う」

 不意に風が吹いて、長い黒髪がゆらり揺れる。

「貴方を好きな私が、最後まで貴方を好きでいられるように」

 それが答え。
 幼い頃から一緒だった。誰よりも理解し合い、いつだって隣にいた。同じ未来を夢見て、同じものを美しいと感じることが出来た。二人はいつも一緒で、どこまでも同じだった。 
 でも変わらないものなんてない。
 心は離れることなく、しかし歳月に流され、無邪気に笑えた頃にはもう戻れなくて。
 お互いに好きだと伝え合い、それが決定的な別れの言葉になった。

「ああ。なら、やっぱり俺は巫女守としてお前を守るよ」

 例え、結ばれることはなくとも、変わらずにお前の傍に在ろう。
 言葉にはなくても想いは伝わったようだ。白夜はゆっくりと頷いた。

「……うん」

 微かに目を潤ませながら、けれど澄み切った水面のように、少女は透き通った微笑みを浮かべる。
 その笑顔が本当にきれいだったから。選んだ道に間違いはなかったと信じることができた。
 そして見惚れる程の透明さに甚太は理解した。

 二人は、ここでおしまいなのだと。

 もう一緒にはいられない。これからは、今まで傍にいてくれた彼女が他の誰かの隣で笑う。
 どんなに強がっても辛い。寂しいと思わない訳がない。だけど不思議と後悔はなかった。
 お互いに譲れなかったものがあり、お互いにそれを尊いと思えた。想いが形になることはなくても、二人は確かに通じ合うことが出来たのだ。
 だから素直に、負け惜しみでも強がりでもなく、この別れを受け入れることが出来る。
 変わらないものなんてない。
 巡り往く季節。移ろう景色。時代も街並みも、永遠を誓う人の想いさえ。
 歳月の中では意味を成さず、その姿を変えていく。どれだけ寂しくても、どれだけ辛くても、それはどうしようもないことだ。

 ──でも美しいと思った。

 終わりを前にして、残ったのは悲哀でも寂寞でもない。この心は彼女の笑顔を、彼女の決意を、ただ美しいと感じてくれた。
 幼い頃守りたいと誓ったものを、今でも尊いと信じられる。
 自然と笑みが零れた。歳月を経て様々なものが変わり、けれどあの頃の憧憬は今も此処に在る。
 ならば報われることのなかった二人の恋は、きっと間違いではなかった筈だ。

「あーあ、振られちゃった」

 ぐぅと背伸びをして、彼女は溜息を吐いた。

「振られたのはこっちだろ?」
「えー? 私は振ってなんかないよ」
「俺もそんな覚えはない」

 口を突いて出る軽口。どっちが振ったのか。そんなものどちらでも意味がないだろうに、二人は貴方だお前だと押し付け合う。名残を惜しんでいたのかもしれない。言葉が途切れればもう元には戻れないと知っていた。
 何かが壊れてしまわないように言い争いを続け、それでも次第に言葉はなくなり、ついに二人は口を噤んだ。
 終わり掛けた夕暮れの下、流れる川の音だけが耳を擽る。
 そして不意に空を見上げ、万感の意を込めて白夜が言の葉を紡ぐ。

「そっか、ならきっと」

 二人が振られたというならば、それはおそらく。


「結局、私達は。曲げられない『自分』に振られたんだね」


 風に溶ける少女。儚く強い在り方が眩しくて、すっと目を細める。

「……ああ。お互いに、な」

 返す言葉は本当に軽い。その軽さが逆に終わりを強く意識させた。
 互いに想い合い、本当に好きで。しかし自身が掲げた誓いの為に。歩んできた道の為に。何よりも、お互いがお互いの生き方を尊いと信じればこそ。

 共に、在ることは、出来ない。

 そんな恋の終わりもあるのだろう。
 彼女と共に在れたら。それを幸福と感じ、心から願うのに、今まで必死にしがみ付いてきた生き方を曲げられない。
 自分自身、そして彼女もまた。

「随分、遠くまで来たんだな、俺達」
「本当。もう帰れなくなっちゃった」

 幼い頃交わした約束は今もまだ胸に在る。
 けれど心は変わる。いつまでも幼いままではいられないのだ。
 気付けば陽は完全に落ちて宵闇が辺りを包んでいた。
 そしていつか、この場所で未来を夢見た夜を思い出す。
 あの頃に見た景色と、今此処で見る景色。同じものを見ている筈なのに、何故か色合いは違って見える。何が変わったのかは分からない。

「では戻りましょうか、甚太」

 白雪はいなくなり、白夜が微笑んだ。

「御意」

 甚太はいなくなり、ただの巫女守が残った。 
 何が変わったのかはどれだけ考えても分からなくて。
 あの夜と同じように見上げた空は、星の光に少しだけぼやけて見えた。





 鬼の根城が見つかった。
 そう報告が入ったのは翌日の明け方頃だった。



[36388]      『鬼と人と』・6
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/06/10 16:10

「では甚太」
「御意。鬼切役、確かに承りました」

 葛野の北に広がる森林、通称いらずの森。その奥には鬼の言葉通り洞穴があり、確かに彼等の根城となっていた。
 報告が入ったのは明け方頃、朝一番で甚太は社に呼び出され、鬼切役が与えられた。
 白夜の声に感情の色はない。しかし自然と手に力が籠った。彼女は努めて白夜であろうとしている。ならば己は巫女守として、二匹の鬼を討ちとらねばならない。床に拳を突き恭しく頭を下げ、社を後にしようと立ち上がった。

 御簾の近くには清正が控えている。
 あの男は白夜と結ばれる。気に食わないと思うし、嫉妬がないとは言えないが、自身が選んだ道だ。小さく息を吸い、社殿の静謐な空気を肺に満たす。効果があったのか思った以上に心は落ち着いてくれた。
 そうだ、これはいつも通りのこと。己が鬼切役を受け、その間の護衛を清正が担う。その形は以前から何も変わらない。だから心をざわめかせる必要はないと自分に言い聞かせる。

「清正、姫様を頼む」

 自身でもよく分からない感情が溢れそうになり、しかし一飲みにする。
 そして平静を保ち、何の裏もなくそう言った。

「……ああ、分かってるよ」

 相変わらずのにやけた面を見せるかと思ったが、どこか悔いるような声音で清正は返した。
 意外に思い、その表情を覗き見るがふいと視線を逸らされる。歯を食い縛り、引き締められた横顔からは胸中を伺い知ることは出来なかった。

「武運を祈ります」

 凛とした白夜の声が響く。
 清正の態度には不可解なものを感じたが、今は問い詰めている時でもない。微かに残った疑問を頭から追い出し甚太は社を後にした。



 ◆



「おい」

 社殿から出て鳥居を潜ろうという所で後ろから肩を掛けられる。振り返れば清正は親の仇でも睨むような視線を向けていた。

「なんで何も言わない」
「何がだ」
「ふざけんなっ!」

 歯軋りをして、憎々しげに睨み付けてくる。
 今までも突っかかって来ることはあったが、ここまで余裕のない清正は初めてだった。

「聞いたんだろ、白夜とのこと」
「……その話か。確かに姫様から聞いた」
「じゃあなんで何も言わない。お前だって白夜のことが好きだったんだろ」

 平然とした様子が癪に障ったようだ。清正の眼光が更に鋭くなる。
 そう言えば鈴音も似たようなことを問うていた。どうにも自分達の考え方は周りには理解されにくいらしい。表情は変えずに胸の内で苦笑する。

「姫様が決められたことだ。私も納得している」
「本当にそれでいいのかよ。お前、何考えてんだ」
「無論、姫様の安寧と葛野の平穏だ」

 この男は何が言いたいのか。
 意図の読めない詰問にいい加減苛立ちが募ってきた。甚太もまた視線を鋭く変えて清正を見据える。

「反対しないのだからお前には好都合だろう。何か問題があるのか」

 その一言が火に油を注ぐ形となった。
 目に濁った怒りを宿らせ、清正は乱暴に胸ぐらを掴み上げる。

「俺は白夜と結婚するぞ。いいんだな」
「だから納得していると言った」
「っ!」

 まともに取り合おうとしない甚太の態度に激昂し、拳を振り上げた清正は、しかし殴りかかることはせずに体を震わせていた。
 その様子は溢れ出る感情を無理矢理押さえつけているように見える。

「離せ」

 結局清正は殴らなかった。
 腕を無造作に払い除けても大した反応はない。されるがままに手を離し、項垂れた様子で、どこか悔しそうに声を漏らした。

「お前、頭おかしいよ……」

 想い人を奪われて平然と認める。
 成程、傍から見ればおかしくも映るだろう。自身の想いよりも下らない意地を優先するなど、どうかしているとしか言い様がない。
 だが今更生き方を曲げることも出来ない。
 彼女の決意を美しいと思ったのならば、それを汚すような真似は死んでも許されない。
 本当に、我ながら難儀なことだ。

「だろうな。私もそう思うよ」

 自嘲するような、頼りない笑み。
 呆気に取られ、清正は何も言えなくなった。着物を整え、社を背に今度こそ鳥居を潜る。立ち尽くす清正にかける言葉は見つからなかった。



 ◆



「にいちゃん、どっか行くの?」

 一度自宅に戻り、軽く身支度を整える。
 後ろ鉢巻襷十字に綾なして、という訳でもないが、戦いに臨むのならそれなりの準備は必要だ。

「ああ。鬼切役を承った」

 刀、鞘、装束に草履。一通り不具合がないか確認する。そうして最後に刀を腰に差し、表情を引き締めれば、反対に鈴音は沈んだ面持ちで甚太を見た。
 不満気なのではない、そこには純粋な不安が見て取れる。

「……また?」
「直ぐに帰ってくる」
「そう言っていっつも何日も帰ってこないもん」

 言葉に詰まってしまう。済まなく思い、だからといって鬼切役を断れる訳ではない。
頬を膨らませる鈴音には申し訳ないが、「済まん」と小さく返し玄関へと向かう。

「悪いが留守は頼んだ」
「うん……気を付けてね」

 文句を言いながらも玄関までは見送ってくれるらしい。
 やはりと言うか表情は暗い。困ったように苦笑しながら甚太は頬を掻いた。

「そう心配そうな顔をしないでくれ」 
「するよ。……心配くらい、させてよ」

 揺らめく瞳。縋るような色。
 思えば、何度こうやって鈴音を独りにしただろう。大切だと言いながら、巫女守だから鬼切役だからと、いつも留守番をさせていたような気がする。
 鬼の血を引くが故に人の輪に入ることが出来なかった妹。
 この娘はいつも寂しい思いをしていたのに、いつだって我儘など言わずちゃんと自分を送り出してくれた。寂しいだなんて、一度だって言わなかった。
 それが誰の為の強がりだったかなど、考えるまでもないことだ。

「大丈夫だ」

 だからだろう。
 気が付けば片膝をつき、目線を同じにして、鈴音の頭を撫でていた。

「に、にいちゃん?」

 照れているのか、頬を赤く染めた鈴音はわたわたと体を動かす。
 自分の都合で大切なものを置き去りにする身勝手な男だ。撫でる手は罪滅ぼしにもならないだろう。
 それでも、大切な妹が少しでも安心できるよう、精一杯の強がりを見せる。

「安心しろ。ちゃんと帰ってくるから」
「……本当?」 
「ああ、にいちゃんのことを信じてくれ」

 その言葉に鈴音の体が少しだけ強張った。
 流石に恥ずかしくなって手を離し立ち上がる。鈴音は体を固めたまま、何か逡巡するように俯き、顔を上げゆっくりと頬を綻ばせた。

「うん、待ってる。私は妹だから。いつだってにいちゃんの帰りを待ってるよ」

 ふわりと柔らかい、包み込むような笑みだった。
 なのに、諦観を感じさせるような。無邪気で幼げな笑みが、何故か大人びて見える。

「鈴音……?」

 その笑顔がひどく遠く感じられて、気が付けば名を呼んでいた。

「どしたの?」

 返ってきたのは不思議そうな声。呼ばれた理由も分かっていないようだった。
 気のせいだ。
 事実、あの娘はもういつも通りの笑顔を見せている。やはり思い違いなのだと自分に言い聞かせ、甚太は鈴音に背を向けた。

「いや、何でもない……では行ってくる」
「うんっ、いってらっしゃい!」

 そうして短く言葉を残し、いらずの森へ向かう。
 背中に投げ掛けられた声は無邪気な妹のもので、なのにほんの小さな違和感が消えない。喉の奥に小骨が刺さったような、何かを取り違えたような、名状しがたい奇妙な気分だった。



 ◆



 重なり合う木々が天幕となった森は、むせ返るほど濃い緑の匂いで満ち満ちている。
 初夏の柔らかな陽射の中、尚も閑寂たる様相を崩さない『いらずの森』は一種独特の空間だった。時折響く鳥の声と、それに応えるように唄う木々のざわめきが一層静けさを引き立てている。
 踏み締める土は直接日が当たらないせいか微かに湿っており少し歩き難い。だが足を止める程でもない。甚太は一人黙々と小路を歩き続けていた。
 時間はまだ正午に差し掛かったところ。昼のうちに勝負を決めようと鬼の下へと向かっている最中である。

 懸念はあった。
 今回は鬼が二体いる。この状況で態々鬼が自身の居場所を晒したのは、呼び寄せ二体掛かりで仕留める気か、或いは一方が足止めをしてもう一方が葛野を襲う為か。可能性としてはどちらも在り得る。
 後者ならば恐らく足止めは大型の鬼の方だろう。あの鬼は確かに強大だろうが、一対一ならば易々と遅れは取らない。そして鬼女は然程強くはなさそうだった。あれならば数で攻めれば集落の衛兵でも何とかなる。
 前者ならばちとまずくはある。易々と負けるつもりもないが、確実に勝てるとも言い難い。

「さて、どうなることか」

 正直考えた所で分からないし、どの道自分に出来ることは目の前の鬼を斬るのみ。下手の考え休むに似たりとも言う。余計な事に気を回すくらいならば意識を戦いに集中した方がいいだろう。そう思い、神経を研ぎ澄ませながら深い森を歩く。
 その先、岩肌があらわになった場所に辿り着く。
 件の洞穴であった。
 慎重に奥まで歩みを進め、踏み入った場所は洞穴内の大きな空洞。
 光源は鬼が用意したであろう数本の松明しかない、薄暗い広間だった。
 鼻を突いた臭いは松明に使った硫黄だろうか、それとも鬼が殺した人の残り香か。焦げたような、卵の腐ったような奇妙な匂いが漂っている。
 そして空洞の中心には、

『来たか、人よ』

 一匹の鬼がいた。

「……お前だけか」
『あやつは葛野の地へ行った』

 そうか、と小さく呟き左手は腰のものに。
 鯉口を切り、一挙手一投足も見逃さぬと鬼を睨め付ける。問いながらも意識は目前の戦いのみ注がれる。
 他事に気を取られたまま渡り合える相手ではなかった。

『いやに冷静だな?』
「予測はしていた。だが葛野の民をあまり舐めるな。あの程度の鬼に後れをとるほど軟ではない」

 ゆっくりと刀を抜き脇構えを取る。
 それに呼応して、鬼も両の拳を握り右腕を突きだし半身になった。

『ふむ、それは困るな。ならばすぐ加勢に行くとしよう』
「舐めるな、と言っている。この命、貴様如きにくれてやる程安くはないぞ」

 余計な言葉はいらない。
 両者は示し合わせたように飛び出し、それが殺し合いの合図となった。



 ◆



 低く落とした腰は大地に根を張ったように安定している。
 地を踏み締め足から膝を通り腰へ、捻じった体を戻す反動を加え腰から肩へ、全身の連動によって生み出された力が肩から腕へ。
 あくまで小さく、しかし鋭く放たれた袈裟懸けの斬撃へと変わる。
 葛野の太刀と実践で鍛え上げた剣技は容易に鬼の皮膚を切り裂き、だが敵も然る者、怯むことなく反撃を繰り出す。
 空気を裂くでは生温い、空気をえぐり取るような音をたてて拳が突き出される。この体勢では後ろに下がることは出来ない。
 故に振り降ろされた刀はそのままに、右足で地を蹴り間合を零にする。拳が頬の横を通る。それだけで、触れてもいないというのに頬が裂けた。だが止まらない、そして体を鬼の鳩尾辺りに捻じ込む。
 突き出された左肩を中心に体ごとぶつかる、全霊の当て身である。

『ぐぅ……!』

 苦悶に声が漏れ、僅かに数歩ではあるが鬼は後退する。
 一瞬の好機。
 鉄の如き鬼の体躯に加減なしでぶつかりに行ったのだ、弱い人の体が衝撃に軋んでいる。
 しかしこの機を逃す訳にはいかない。半身の状態から刀が半円を描くように大きく振り上げられる。右足を一歩踏み込み、上段に構えられた刀を裂帛の気合いと共に放つ。それはちょうど鍛冶師が振り下ろす槌のようだった。

 肉に食い込み、骨を断つ感触。

 狙ったのは放り出された左腕、確かな手ごたえを持って鬼の腕を切り落とす。ごろんと無造作に転がる腕を確認し、返す刀で首を狙うがそこまでは許してもらえなかった。
 残った右腕を頭部に向けて振り落とす。だが腕を失ったせいか、その動きはぎこちない。甚太は刀を途中で止め後ろに大きく距離を取る。
 そして血払い、最後に小さく一呼吸ついた。
 既に十合を超える交錯を経て、甚太は裂けた頬以外は無傷であった。
 対して鬼には幾つかの刀傷が見える。致命傷には程遠いが左腕も斬り落とした。取りあえずはうまくいっている、というところだ。

『こちらの攻めが一度も当たらぬとは。本当に人間離れした男だ』
「鬼の言うことか」

 悠然と甚太は構える。
 だが勘違いしてはいけない。この戦い、優勢なのはあくまで鬼だった。
 攻撃が一度も当たらぬ、とは言うがそもそも一撃でも当たれば甚太はそこで終わる。鬼の膂力で放たれた拳だ。直撃すれば即死、急所を外しても二度と立ち上がることは叶わない。
 無傷の勝利か無残な死か。そのどちらかしか甚太の結末は在り得ないのである。
 対してこの鬼の体躯は頑強。多少の傷では命を刈るには足らない。首か心臓か、頭を潰すか、急所を捉えねば討ち果たすことは不可能だ。
それが分かっているからこそ、強引なまでに鬼は攻め立てる。傍目には有利と見えるが、その実神経をすり減らす綱渡りの如き戦いであった。

「……っ!」

 漏れる呼気。
 合図もなく、再度拳と刀が交錯する。
 袈裟掛け、振り抜く。逆手、一閃、狙うは首。
 鬼は避けきれない。しかしその頑強さをもって猛然と攻める。放たれた一撃。
躱しながら甚太は地を這うように駆ける。鬼の腕を掻い潜り逆風、下から上へと斬り上げる。
 それに合わせ、鬼もまた地面へと叩き付けるように拳を振るう。
 逃げはしない。寧ろ更に一歩を進み、鬼の懐に入り込む。拳は空振り。刀は胸元を切り裂くが、致命傷には程遠い。
 踏み込んだ右足を引き、体を捌く。左足を軸に体を回し鬼の腹を蹴り付け、その反動で一気に間合いを離す。
 渾身の蹴りでも鬼は怯むことさえない。甚太は軽く舌打ちをした。傷は与えられるがやはり決め手に欠ける。あの鬼を討つには、多少の傷を覚悟で踏み込まねばならないだろう。

『人は、やはり面白い』

 しかし敵は尋常の勝負の最中にあって、見合わぬほどの穏やかさ。
 此方の思惑なぞ知らぬとばかりに鬼は感嘆の息を吐いた。

『鬼の寿命は千年を優に超える。俺もそれなりに長い時を生き、酒を呑み賭けにも興じてきたが、人を超える娯楽には終ぞ逢ったことがない』

 人を脆弱な者と見下し、命を餌程度にしか考えないあやかしならば以前やり合ったことがある。
 しかしこの鬼の言葉はそういった、人を軽んじたものではない。
 娯楽という表現を使ってはいるが、鬼の口調は決して馬鹿にしたようなものではなく、寧ろ真摯さを含んでいた。

『例えば武術。鬼に劣る体躯でありながら、鬼をも凌駕する技を練る。鬼より遥かに短い命、しかし人は受け継ぐことで鬼より長くを生きる。人は当然の如く摂理に逆らう。これを面白いと言わずしてなんと言う」

 それは憧憬だったのだろう。鬼は薄らと目を細めた。
 甚太の剣は元治に学び、度重なる実戦で磨いたもの。元治もおそらくは誰かに師事し剣を磨いたのだろう。彼の師もまた、先人に教えを乞うた筈だ。
 ただ一つに専心し、生涯をかけ磨き、朽ち果てる前に誰かに授け、人は連綿と過去を未来に繋げていく。
 武術に限った話ではない。一個の寿命には限りがある。しかし得たものを次代に遺し、途方もない時間を費やして、人は多くを為してきた。
 千年を超える寿命を持ち、初めから人よりも強く生まれる鬼にとっては、瞬きの間に終わる命で何かを為そうと足掻く人の営みは眩しく映るのかもしれない。

『人はまこと面白い。だからこそ聞きたいことがある』

 細められていた視線は、試すような、値踏みするような色に変わっていた。

『人よ、何故刀を振るう』

 その問いに動きが止まった。
 巫女守である甚太にとって鬼は集落に、人に仇なす外敵でしかない。こちらの意を知ろうとする鬼なぞ初めてだった。

『摂理に逆らい得た力で、お前は何を斬る』
「他が為に。守るべきものの為に振るうのみ」 

 考えるまでもなかった。間を置かずに甚太は答える。
 白夜だけではない。鈴音や葛野の民。自身が大切に想うものの為、ただ刀を振るう。元よりそういう生き方しかできぬ男、単純ではあるが本心だった。

『余分を背負いその重さに潰れ往く。成程、実に人らしい答えだ』

 豪快に鬼は笑う。やはりそこには侮蔑も嘲笑もなく、心底面白いといった様子だ。
 この鬼は決して人を見下さないし、何より理性的だった。だからだろう、甚太もこの鬼が何を考えているのか知りたくなった。

「ならば私も問おう。鬼よ、何故人に仇なす」
『さて、人ならぬ身では言葉で表す答えなぞ持ち合わせてはおらぬ。おらぬが……敢えて言うならば鬼故にだろう』
「鬼は人を殺すが性だと?」
『否。己が為に在り続けることこそ鬼の性よ。ただ感情のままに生き、成すべきを成すと決めたならば……その為に死ぬ。それが鬼だ』

 声音は何処か頼りない。
 先程までの力強さはなかった。自嘲めいた響き、皮肉気に吊り上がる口の端。無力に嘆くような表情は、屈強な鬼にはそぐわぬものだった。

『俺はこの地で成すべきを成すと決めた。故にその為に動き、故にそこから一歩も動けぬ。鬼は鬼である己から逃れられぬ。そういう生き方しかできんのだ』

 人を殺すのが鬼ではなく、結果人を殺すことになろうとも目的を果たすまで止まれないのが鬼だという。
 もしその言が事実ならば、己と鬼に何の違いがあろう。戸惑いが胸を過る。 
 一瞬の逡巡。しかし構えを解くことはない。

「止められないのか」
『出来れば鬼とは呼ばれぬ』

 ああ、そうなのだろう。
 この鬼が……この男が、自らの歩みを易々と曲げるとは思えない。自身もまたそういう男だから分かる。生き方なぞ、そうそう変えられるものではない。
 結局、選べる道は一つしかないのだ。

「……そうか。ならば遠慮はせん」
『必要ない』

 短い言葉。重く冷たく、洞穴内の空気が揺らぐ。
 この交錯で終わる。訳もなく理解した。

『往くぞ』

 瞬間、鬼の残された右腕、その筋肉が隆起する。残った力を全て集めているのか。ぼこぼこと沸騰する液体のような音を立てながら躍動する腕は次第に膨張していく。その急激な変化は右腕が一回りほど巨大になったところで止まる。
 鬼は右腕だけが異常に発達した、左右非対称の異形となっていた。

「面白い大道芸だ」

 肌に感じる圧力は、今まで対峙してきた鬼の遥か上をいく。
 内心の焦りを悟られぬよう、甚太は敢えて挑発めいた言葉を放つ。

『言いおるわ。成程、確かに大道芸よ』

 その物言いが気に入ったのか、鬼は心底おかしそうに笑った。
 そして勝ち誇るように口の端を釣り上げ、肥大化した右腕を見せつけた。

『我ら鬼は通常百年を経ると固有の<力>に目覚める。中には生まれた時から<力>を持っている者もいるし、十年やそこらで目覚めることもあるがな。ともかく、高位の鬼は一様にして特殊な能力を持ち合わせているものだ』
「それがお前の<力>という訳か」
『正確には違う。俺の<力>は<同化>。他の生物を己が内に取り込む、戦いには然程役に立たん。……が、これには別の使い方があってな。同じ鬼と<同化>すればその<力>を喰える』

 もう一つ別の使い方もあるが、それは今語ることでもあるまい。
 最後に鬼はそう付け加え、無造作に腕を振るった。唸りを上げる空気、何気ない動きからもあれが尋常ではないと知れる。
 つぅ、と冷や汗が頬を伝った。
 成程、高位の鬼と称するだけのことはある。勝つにしろ負けるにしろ、無事では済まないだろう。

「つまり、それは」
『本来は別の鬼の<力>……<剛力>という。短時間だが骨格すらも変える程に膂力を増すことが出来る。単純だが効果的だ。もっとも、俺が喰った<力>はこれだけだが」

 今までにない難敵。それだけの脅威と認めたからこそ、違和感があった。
 この鬼は初めから饒舌ではあったが、自身の戦力を語ることに意味があるとは思えない。
 騙そうとしているのか、否、鬼は嘘を吐かないとこいつは言った。何より虚言を弄するような痴れ者には見えない。

「よく回る舌だ。何故態々手札を晒す?」
『言っただろう。成すべきを成すために死ぬのが鬼だと。これも必要なこと……いや、餞別と言ったところか』

 説明するのが必要? 餞別?
 冥途の土産という意味なのだろうか。答えは返ってきたが理解は出来ない。甚太は思わず眉を顰めた。しかし鬼は疑問に目核な答えは返さず、ただ薄く笑った。

『なに、気にすることはない。詮無きことだ』
「……確かに。どうせやることは変わらんか」

 ───どのような理由があったとしても、後に待つのは殺し合い。

 成すべきことは何も変わらぬ。
 互いの視線がそう語っている。ならば余計な考えは必要ない。今はただ眼前の敵、その絶殺に専心する。
 思索に耽り濁っていた意識が透明になっていく。透き通る水の如き純粋な殺気を持って刃を構える。
 息使いにまで神経が通う。


 一つ、息を吐く──半歩前に出る。

 二つ、息を吸う──全身に力が籠る。

 三つ、息を止める──それが合図になった。


 爆発したかと思う程の轟音を響かせ、突進する鬼。しかし突き出されるのは相変わらず技術の無い一撃だ。無造作で、幼稚な、ただの拳。だというのそれは唸るほどに力強く、なにより速かった。今まで全ての攻撃を避け切っていた甚太をして、回避が間に合わぬほどに。
 あれは、止められない。
 瞬時に悟る。どうすればいい。後ろに退く? 否、意味がない。体を捌く? 否、避けられない。刀で防ぐ? 否、受け切れない。鬼の放った一撃から逃れられる未来が全く想像できなかった。
 どうすればいい。
 知れたこと。
 元より己に成せるはただ斬ることのみ。
 ならば己に出来ることなぞ前に進む以外に在りはしない。
 刹那の間に覚悟を決め、甚太は踏み込んだ。腰を落し、突きだされる拳撃を横から払う為に左腕を振るう。

「い、があああああああ!」

 一瞬、僅かに一瞬だった。
 防御など出来る訳もなく、左腕はへし折れ、千切れ、宙に舞う。遅れて傷口から鮮血が舞う。走る激痛。苦悶に歪む表情。しかし甚太は平静だった。この程度の傷は端から折り込み済み。痛みに構っている暇などない。
 重要なのは鬼の拳撃を僅かにだが逸らせたこと。そしてまだ生きているということ。
尚も鬼は止まらない。放たれた拳は拳を逸らしたとはいえ止めるには至らなかった。
 拳を逸らし、僅かに隙間ができた。その空白に潜り込む。拳がすぐ近くを通り、掠めた左肩が裂けた。傷は深い、だが問題はない。左腕一本を犠牲にして、どうにか命を繋いだ。
 次は此方の番だ。
 刀を掲げ、片手上段。
 全身の筋肉を躍動させ、一気に振り下す。鬼は必死の形相で体を後ろに反らし、肥大化した右腕を体に引き付け守りに入る。斬るのが速いか防御が先か。考えている時間もない。
 今此処で全霊をもって斬り伏せる。


 刀身が、砕けた。


 放った剣戟は間違いなく全力にして最速、しかし鬼がそれを上回った。渾身の一刀が鬼の体躯を裂くよりも速く、異形の腕が割り込み防いだ。長年連れ添った愛刀は鬼の腕を断ちきることが出来ず砕け、無惨に金属片が飛び散る。もはやこの手には鬼の命を奪う武器も次の一撃を防ぐ手段もない。
 鬼がにたりと嗤う。
 それでも尚、甚太の目は死んでいなかった。
 砕け散った刀身、折れた刃先がまだ中空に浮いている。咄嗟に柄を捨て手を伸ばし、地に落ちるよりも早くものうち、つまり刀の先端部分を掴む。ものうちを小刀のように見立て握り締める。痛み。強く握りしめれば刃が食い込み掌から血が流れる。
 代わりに、この手にはもう一度攻撃の手立てが与えられた。
 鬼は全力を持って拳を繰り出し、無防備を晒している。


 もうここ以外に好機はない。


 限界まで体を捻り、一歩を進むと同時に右腕を突き出す。
 鬼の目は確かにそれを捉えていた。だが動けない。力を使い切り硬直している。
 手に力が籠り、更に鋭い痛みが増した。握りの弱さを補助するために痛みは無視して肉を骨を刃に食い込ませる。
 狙うは一点鬼の心臓、この一撃を持って終わらせる。

『あ…がぁ……っ!』

 ずぶりと気色の悪い音が骨に伝わった。刀身が鬼の左胸に突き刺さり、鮮血が甚太の全身にかかる。
 その巨躯は力を失くし、崩れ落ちるように天を仰ぎ地に倒れ込んだ。
 此処に、勝敗は決したのである。 




 倒れこんだ鬼の体から白い蒸気が立ち昇る。それは鬼の命が尽きようとしている証拠だ。
 鬼は息絶える時、肉片一つ残さず消え去る。もはやあの鬼が助かることはないだろう。

「ぐぅ……」

 しかしこちらの傷も酷い。
 左腕からは今も血が流れている。腕を抑え少しでも止血しようとするが然程の意味も為さない。このままでは失血死に至る。何か手立てを考えなくては。

『随分と血に塗れたな』

 仰向けに寝転がる巨体は僅かながらに体を起こし、甚太に視線を向けていた。
 今もその体からは蒸気が上がっている。空気が肺から洩れるような、かすれた声。死が目前まで近付いているのだ。だというのに鬼は呼吸こそ荒いが平然とした様子だった。

「お前よりはましだろうよ」

 肩で息をしながらも鼻で嗤う。
 無論ただの強がりに過ぎない。あまりの痛みに目の前が点滅している。気を抜けば途端に意識を失ってしまいそうだ。

『はっ、確かにな』
「……死に往く身で、良く喋る」 
『なに、俺は成すべきを成した。なれば死など瑣末なことだ』

 満ち足りた、安らかな末期だった。
 鬼は悔いなど一つもないと、静かながらも曇りのない面持ちで終わりを待っている。
 志半ばで逝く男の顔ではない。怪訝そうに眉を顰めた甚太を見て、鬼は皮肉気な、しかしどこか落ち着いた笑みを零した。

『教えてやろう。俺と共にいた鬼、あやつの<力>は<遠見>と言ってな、遠い景色を覗き見ることが出来るのだ』

 何のつもりかは分からないが、甚太は黙って鬼の遺言に耳を傾ける。
 死に逝く身であるし、なによりこいつが虚言を弄するとは思えない。今の今殺し合った相手だが、この鬼の言葉には、信頼に足るだけの重さを感じていた。

『<遠見>は遠く離れた景色だけでなく、例え今は形もない未来の情景でも見ることができる。あやつが今回見たのは二つの景色だ。一つは遠い未来の葛野の地に、鬼を統べる王が、鬼神が降臨する姿』

 鬼神。
 途方もない話だ。荒唐無稽ではあるが、戯言と切って捨てるには、鬼はあまりに穏やかだった。
 そして、もしも真実だというのならば看過できない。
 高位とはいえ、一匹の鬼にこの様だ。それら総べる鬼神をどうにか出来るなど、毛程にも思えなかった。

『もう一つ、百年以上未来において鬼神と呼ばれる者が現在この地に住んでいること。それを我等は<遠見>の<力>によって知った。だから我等は此処に来たのだ』

 未来で鬼の王となる存在。この地に住む鬼。未来がどうなるかなど神ならぬ人の身では知る由もない。
 だがこの地に住む鬼ならば心当たりがあった。
 そう言えば、女の鬼は言っていた。


 ───さあ? でもあの男の子は……確か、鈴音ちゃんだっけ?
   私達の同朋と長く一緒にいたみたいだし、案外私達に近付いているのかもね。


 今更ながら違和に気付く。何故鬼はあの場にいない鈴音のことを知っていた?

「それは」

 甚太は思っていた。鬼達は白夜、或いは宝刀である夜来を狙ってこの葛野へ訪れるのだと。だが違っていたかもしれない。
 鬼達の、本当の目的は───

『人よ、餞別だ。持って往け』

 妙に重苦しい声が響く。
 瞬間、目の端で何かが動いた。咄嗟に反応し、体を捌き。

「がぁっ……!」

 一手、遅かった。
 それは斬り落とした筈の鬼の左腕だった。転がっていた筈の左腕が飛来し、まるで生きているかのように甚太の首を掴む。
 ぎしぎしと嫌な音が鳴る。
 咄嗟に掴めた鬼の手首に力を込め引き離そうとするが、人の膂力で成せるわけがない。
 迂闊だった。
 たとえ心臓を貫いたとは言え、完全に死に絶えるまで気を抜くべきではなかった。油断の代償がこれだ。尋常ではない力で首を絞められ、血は今も流れ続け、生命の危機に瀕している。 
 空気が入って来ない。血液が失われていく。目の前が砂嵐のように霞み、額のあたりで火花が散っている。
 喉が熱い。締め付けられた部分が溶かされているようだった。

『お前は、守るべきものの為に刀を振るうと言った』

 誰かが、何かを言っている。

『ならば今一度問おう』

『お前が守るべきと誓ったもの』

『それに守るだけの価値がなくなった時』

『お前は何に刀を向ける?』

 よく理解できない。
 意識が、もう、保てない。



『人よ、何故刀を振るう』



 最後に、なぜかその言葉だけが強く残り。

 白雪……鈴音……

 目の前が、どろりと鉄のように溶けた。



 ◆ 



 葛野では鬼の襲撃に備え厳戒態勢が敷かれていた。
 もしも鬼が襲ってきたとしてもいつきひめには手出しさせぬ。男達は社の前に集まり、それぞれが武器を取り警備にあたっていた。
 女子供は安全のため家に籠っている。鈴音もまた、普段からあまり外出はしないが、家で大人しく兄の帰りを待っていた。

「にいちゃん……」

 沈んだ声。
 大切な兄は今、白夜のために命をかけて戦っている。
 それが辛い。
 正直な事を言えば、鈴音にとって甚太以外の人間はどうでもいい存在だった。
 幼馴染と呼べる白夜の生き死にでさえ興味がない。
 鈴音が「ひめさま」と言って白夜を慕うのは、単に兄が彼女のことを大切に想っているから。
 兄と白夜が共にいることを願うのは、兄自身がそれを幸福と感じているからである。
 そうでなければ、甚太に近付く女など好意的に見られる訳がない。
 それほどまでに鈴音は甚太を慕っていた。家族として親愛の情を抱き、或いは恋慕に近い想いさえ抱いていたかのもしれない。
 遠い雨の夜、父に捨てられ、けれど彼だけが手を差し伸べてくれた。
 彼の手に、救われた。
 その時から鈴音にとっては甚太が全てだった。 
 だからこそ兄が鬼切役を受けるのは好きではない。長い間離れないといけないのは勿論嫌で、彼のことが心配なのも本当だ。
 けれどそれ以上に、あの人が他の誰かの為に命懸けで戦っていることこそが、鈴音には辛かった。

「やっぱりひめさまと結婚するのかなぁ」

 ぽつりと呟いた言葉。声は思った以上に沈んでいた。
 鈴音はまだ清正と白夜の婚約を知らない。彼女が浮かべる想像は、未だに甚太と白夜が結ばれるという結末だ。
 胸が軋む。あの人が、誰かと契りを交わし笑う姿など本当は見たくない。叶うならばずっとずっと一緒にいたい。胸にある想いが妹としてのものか女としてのものかは、鈴音自身にも分からなかった。

 ただ時折、ほんの少しだけ考える。
 もしも自分が彼の妹でなかったら、夫婦として結ばれる未来もあっただろうか。
 そんな未来を夢想し、しかしすぐさま首を振って頭から追い出す。
 何を馬鹿な。彼は妹だからこそ傍にいてくれたのだ。妹でなかったのならきっと手を差し伸べてはくれなかった。
 それなら、これでいい。  
 男女として結ばれることはなくとも、妹として一緒にいられるならば、十分に幸福だ。

 或いは、未だ鈴音が幼いままなのは、だからこそなのかもしれない。
 成長すれば何れ彼の妹ではいられなくなる。
 血縁が消えることはない。それでも大きくなった女は嫁に行き、自分の家庭を持つことになる。けれど成長し大人になり、誰かの嫁になる自分など想像したくもない。とはいえ後家となって兄に迷惑をかけることも出来ない。
 故に鈴音は幼子のままだった。
 自身の感情に破綻を起こさず彼の妹で在り続けるために、鈴音は無意識の内に成長を止めた。彼女の中にある鬼の血がそうさせたのだろう。自然の摂理に逆らう程に、鈴音の想いは強かったのだ。 

「やだな」

 しかしいくら自分が幼子のまま在り続けようと、何れ彼は白夜と結ばれる。
 だからと言って甚太が自分を捨てる訳ではない。彼はどんなになっても自分の味方でいてくれると確信がある。
 けれど、きっと今のままではいられない。
 その未来が堪らなく苦しく、同時に仕方ないとも思う。

 ほんとうはずっといっしょにいたいけど。にいちゃんが笑ってくれるなら、それでいいや。

 声にはせず心の中で呟く。
 繰り返すが、鈴音にとって甚太以外の人間はどうでもいい存在だった。
 遠い雨の夜、一人泣くことも出来ず佇んでいた。
 父に棄てられ、帰る場所を失くした。
 そんな自分に兄は手を差し伸べてくれた。
 あの人の手が、私を救ってくれた。
 だから甚太が幸せならば、「ずっといっしょにいたい」という自身の願いさえ、どうでもよかったのだ。
 鬱屈とした感情を持て余し、することもなく畳の上を転がる。しばらくそうして時間を過ごしていると、がらり、玄関の方で引き戸が開いた。

「にいちゃん!?」

 すぐさま満面の笑顔になり、やっと帰ってきた兄を迎えようと大慌てで玄関に向かう。
 そうして鈴音が見た先には、当たり前のように、



『はじめまして、お嬢ちゃん?』



 一匹の鬼がいた。





[36388]      『鬼と人と』・7
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/06/10 16:10

 あの人の手が全てだった。
 


 お父さんに殴られた。唾を吐きかけられて、蹴飛ばされた。
 でも頭を撫でてくれた。

「二度と帰ってくるな」 

 道端に捨てられて、冷たい雨に打たれて。
 でも手を握ってくれた。

「鈴音ちゃんは、ちっちゃいね」 

 いつまでも子供であることを私は選んだ。だから周りに置いて行かれた。此処では皆責めないけど、傍にも居られなくて。
 でもあの人だけが触れてくれた。
 だから私にとって、あの人の手だけが、全てで。
 それさえあれば、なにもいらなかった。
 なのに───



 ◆



『あたしが見た景色では大人の女性って感じだったけど、まだちっちゃいのねぇ』

 玄関先に鬼がいる。
 非常に違和感のある光景だが、鬼女には大して気にした様子もない。
 じろじろと鈴音の姿を見回しては、自身が<遠見>で見た姿との差異を確かめていた。

『でも安心して。あたしの<遠見>は正確よ。今に鈴音ちゃんはとても綺麗な女性になるわ。ここのお姫様なんて比べ物にならないくらいね』
「……おばさん、誰?」 

 妙に馴れ馴れしい鬼女。こちらの名前や白雪のことまで把握しているのは、つまり下調べは済んでいるということ。
 それだけでも怪しい輩だ。いきなり現れて好き勝手に振る舞う鬼を警戒し、鈴音はじりじりと後ろへ退いた。

『誰がおばさんですって、くらいは言うところでしょうけど。お嬢ちゃんから見たら百年以上生きてるあたしは十分おばさんよねぇ』

 これでも鬼の中ではまだ若い方なんだけど。
 くすくすと笑う鬼女は、人ならざる“あやかし”だというのに、奇妙なほどに邪気がない。こちらに危害を加えようとはせず、喋る調子もやけに軽かった。
 そのせいだろう。鬼を相手にしているというのに、警戒こそすれ逃げ出そうという気にはならなかった。

『ねぇ、お嬢ちゃん。あたしが何者だか分かる?』
「鬼……」
『そう、貴女と同じ。あたしたちは仲間よ』
「違う。すずは……人だもん」

 自分でも信じていないことを口にする。
 鬼だからこそ父に虐げられた。鬼だからこそ友達と一緒にいられなかった。だから人でないなんて、とうの昔に受け入れていた。
 けれど人であると思いたかった。鬼であっても、いつも傍にいてくれた。自分をいつだって守ってくれた兄の為に、そう在りたいと願った。

『そう……お兄さん、いい子なのね』

 鬼女の表情が優しげに緩む。
 馬鹿なことを言っていると鈴音自身思っている。しかし鬼女の笑みに嘲るような響きはなく、寧ろ暖かくさえあった。

「え?」
『だって、人で在りたいと願うのはお兄さんの為でしょう? 貴女がそう思えるように守ってきたのなら、それはとても凄いことよ』
「……うん!」

 鈴音は弾んだ声で返事をした。
 怪しいのは間違いなく、企みはあって然るべき。この鬼は集落にとっては敵以外の何者でもなく、けれど鈴音は笑みを浮かべる。
 鬼だとしても大好きな兄が褒められるのは嬉しかった。

『お兄さんのことが、本当に好きなのね』
「……にいちゃんはね、すずのすべてだから」

 軽やかに流れた声には、その軽さには見合わぬ重さがあるように感じられた。
 いつだって、手を差し伸べてくれたのは彼だった。
 口にした言葉は比喩ではない。鈴音にとっては、本当に甚太が全てなのだ。

『ちっちゃくても女の子ね』

 そこに込められた意を察したのか、神妙な面持ちで鬼女は俯く。
 けれどそれも一瞬。顔を上げた時には先程の暗さは微塵もなかった。
 胸中を隠すように浮かべた笑み、鬼女は軽い調子で言葉を続ける。
 
『でもね、そんなお兄さんを傷付ける人がいるの。お兄さんのために、貴女の力を貸してくれないかしら?』
「すずの、力?」
『ええ、少し付いて来てくれるだけでいいの。大丈夫、鬼は嘘を吐かない。決して貴女に危害は加えないわ』

 力を貸してくれと鬼女は言う。
 差し出された手。鬼ではあるが女性のもの、ほっそりとした綺麗な指だ。
 今までの態度で削がれた警戒心が蘇る。鈴音が鬼女の手を取ることはなく、疑わしげに見詰めていた。

「行かない」
『なぜ?』
「すずに危害を加えなくても、にいちゃんには分からないから」

 敵意を向ける訳でもなく、ただ当たり前のことのように鈴音は言った。それ以外のことなど初めから考えていなかった。
 しかし鬼女にとっては、拒否されるのは織り込み済み。どうすれば信じてもらえるのかも、ちゃんと考えて準備してきた。

『そう……じゃあ、これでどう?』

 目を細めて、鬼女は微かに笑う。
 言いながら差し出した方とは反対の手、伸ばした人差し指の先で鈴音の額にそっと触れる。
 咄嗟のことに鈴音は反応できない。
 一体何を、考える暇もなかった。
 触れた指先から伝わる熱。
 同時に、流れ込んでくる何か。
 それは鈴音の中で形を作り、一つの映像となって網膜に焼き付けられる。
 あまりに非現実的なその光景に、鈴音は驚きの声を上げることさえできない。



 脳裏に映ったのは、兄以外の男の前で、自ら着物を脱ぐ白夜。



 弾かれたように鬼女から離れる。
 しかし思考は鮮明に映し出された、よく知る女性の信じられない行為に絡め取られていた。
 彼女は確かに自分から、何処かで見た男に体を開こうとしていた。わなわなと体を震わせながら鈴音は声を絞り出す。

「なに……今の」
『私の<力>は<遠見>。今のはその応用よ。自分の見た景色を、ほんの一瞬だけど他の誰かに見せることが出来る』
「そんなこと聞いてない! あれは、あれ、は……」
「勿論、幻覚なんかじゃないわ」

 鬼女は言う。
 お前が見た景色は、兄の想い人が他の男と不義を交わそうとする姿は、掛け値のない真実なのだと。

「嘘……」
『信じられない? なら確かめに行きましょう』

 再び鬼女は手を差し出した。
 鈴音は迷った。迷ってしまった。鬼女は嘘を吐いているのかもしれない。白夜が、幼い頃を共に過ごした白雪が、そんなことをするとは思えない。
 けれど、もしかしたら。刻み込まれた僅かな疑念。兄に関わることだからこそ、不安や焦燥は火傷のように、じくじくとした痛みをもって鈴音を掻き立てる。
 結局のところ彼女にとっては、

『お兄さんの為よ』

 それだけが全てで。

「にいちゃんの……」

 戸惑いはある。だが鈴音が迷っている間、鬼は一度もその手を引っ込めることはなかった。
 だから迷いながらも自然と鈴音はその手を取っていた。
 今まで自分と手を繋いでくれたのは、兄だけだった。




 迷いながらも兄の為に手を取る鈴音。その様を見て、鬼女は少しだけ後悔した。

『もし人と鬼が、みんな甚夜くんと鈴音ちゃんみたいに成れたなら。あたし達もこんなことせずに済んだのかもね』



 ◆ 



 社の本殿、御簾の奥にただ白夜はただ立ち竦んでいた。
 既に辺りは夜の帳が下りて、社殿に置かれた行燈の光だけが座敷を照らしている。
 日が落ちて随分経つ。しかし甚太はまだ帰ってこなかった。

「甚太……」

 幾ら彼の強さを知っているとはいえ不安が拭える訳ではない。
 もしかしたら鬼に不覚を取ったのでは。動けない状態にいるのではないか。そう思うと居ても立ってもいられず、出来ることなどある訳もなく、ただ呆然と立ち尽くし視線をさ迷わせる。
 不意に目に映ったのは、御神刀である夜来。
 白夜は意識もせず手を伸ばす。そして通常の刀よりも重量のあるそれをゆっくりと鞘から引き抜いた。
 肉厚の刀身。鈍い光を放つ刃が行燈の光を映している。意味のない行為ではあったが、何故だか心は少しだけ落ち着いたような気がした。

 この夜来は、そもそも古い刀匠が初代のいつきひめの為に造ったものだとされている。
 刀匠はいつきひめの夫であり、自身の打った最高の刀を巫女へ贈ろうとした。
 しかしながら夜来を打つよりも早く巫女は逝去してしまった。結果担い手を失くした夜来は御神刀として社に奉納されることとなったという。
 その真偽は定かではないが、いつの時代にも悲恋というものは存在するのだと思えば、ほんの少しの慰めにはなるかもしれない。
 下らないことを考えるものだ。白夜は自嘲の笑みを零した。
 格好つけて彼と決別したくせになんて未練がましいのだろう。
 未だにざわめく自身の心を抑え、刀を再び元の場所に戻す。後には溜息しか出てこなかった。

「よう」

 しばらく何をするでもなく時を過ごしていると、乱雑に御簾が開けられた。
 そこにいたのは甚太よりも少し小柄な、整った顔立ちの男だった。白夜の巫女守にして、いずれ夫となる男である。

「清正……どうしたの?」
「いや、護衛っつっても今日は集落の男が総出で社についてるから暇なんだ。退屈だから相手をしてもらおうと思ってよ」

 胸の痛みを誤魔化し、普段通りの自分を演じる。
 どうやらうまくできたらしい。彼も特に気付いた様子はなく、普段通りの飄々とした態度だった。
 白夜は少しだけ口元を綻ばせた。清正は巫女守だが、いつもこうやって砕けた調子で話しかけてくれる。甚太に対しての態度は何とかしてほしいと思うが、こういう所はそんなに嫌いではなかった。

「相変わらずだね、清正は。今日は何? 新しい本?」

 気遣ってくれているのだろう。
 そう思った白夜は胸中の不安は隠し笑ったが、清正の反応は想像したものとは違った。
 唇を噛み、表情を歪ませたかと思えば、暗い目で白夜を見る。

「そうじゃねぇよ」

 そして乱雑な言葉と共に肩を掴み、力任せに壁際まで押し込んだ。
 一瞬何をされたのか分からなかった。しかし清正は白夜の動揺などお構いなしに体を寄せる。
 吐息がかかるほど近くなった距離。その意味に気付かぬ筈がない。

「やっ、やめ」

 逃げようともがくが、両の手首を清正の片手にしっかりと握り掴まれ、上方で固定されてしまった。
 清正は にやりと、いやらしい笑みを浮かべる。

「未来の夫が『相手をしてもらう』って言ったら、当然こういうことに決まってんだろ?」

 自由になっている方の手で肢体を弄られる。
 清正のことは決して嫌いではない。けれど気持ち悪いと思った。
 触れてほしくない。ああ、違う。あの人にだけ触れてほしかったから、心を踏みにじるような清正の無遠慮な手つきが、ひどく不快だった。

「な……こんな時に何を!」
「こんな時だからだよ。甚太がそこいらの鬼に負ける訳ねぇだろ。心配するだけ無駄だ。あいつはあいつの役目を果たすんだから、俺は俺の、そんでお前はお前の役目を果たさねぇとな」

 役目。その言葉にびくりと体が震えた。
 それは子を成すことを指しているのだろう。確かに清正との婚姻は次代のいつきひめを生むための政略。だから『こういうこと』も織り込み済み、覚悟はしていた。

「それ、は」
「最初っからお前だって分かってたんだろ?」

 清正の言う通り、最初から分かっていた。分かっていて白夜はこの婚姻に同意したのだ。
 だけど何故、今なのか。
 彼のことを想う時間さえ私には許されないのか。そう思ってしまった。
 分かっている。初めに彼を裏切ったのは自分だ。或いは彼を想うなど、罪深いことなのかもしれない。
 そうだとしても、彼が命懸けで戦っている最中に他の男と肌を重ねる、そんなはしたない女ではいたくなかった。

「やめてよ……お願い。せめて甚太の無事が分かるまでは」
「俺はむしろあいつのために言ってんだけどな」

 白夜の懇願を清正は鼻で嗤う。
 何を言っているのか分からない。しかし彼を匂わせる言葉に動きが止まった。

「じゃあ聞くが、いいのか? 子をつくるのは決定事項。だがお前はいつきひめ。何をするにも護衛が傍に仕える。当然、俺とお前が夫婦になって、正式に同衾する時も護衛はいる訳だが、その時は誰が護衛に付くんだろうなぁ?」

 血の気が引いていく音を聞いた。
 白夜が清正と閨を共にして子を孕む。それは既に集落の総意である。そして清正の言う通り、行為の際も護衛は必要であり、その時に控えているのは、


 ───ああ。なら、やっぱり俺は巫女守としてお前を守るよ。


 間違いなく、彼なのだ。

「あ…ああ……」

 決意はあった、覚悟もあった。しかし想像力が欠けていた。
 彼以外の誰かと結ばれることは想像していても、彼の前で誰かに抱かれるなど考えてもいなかった。
 そこを指摘され、白夜の顔は蒼白に変わった。いつきひめとしての振る舞いなどできず、ただの白雪になってしまっていた。

「ま、お前があいつに声を聞かせたいってんなら別にいいけどな。もしかしてそっちの方が興奮する性質(たち)か?」
「っ、貴方は……!」
「だから言ったろ? こんな時だから、なんだよ。あいつがいなくて、護衛の必要がない今がいいんだ……うまくいきゃ、一回で済む」

 溜息にも似た、力のない声。
 表情からはいつの間にか好色そうなにやつきが消えている。代わりに浮かぶのは、痛みに耐えるような苦渋の表情だった。

「清、正?」
「お前だって、そっちの方がいいだろ。でもま、決めんのはお前だ。好きにしろよ」

 意味が分からなかった。
 無理矢理襲いかかってきたかと思えば、彼はむしろこの行為を不愉快だと考えているようにも見える。
 白夜とて鈍くはない。
 おそらく自惚れでなければ、清正は自分に対して好意を持っている。少なくとも憎しとは思っていない筈だ。だから彼は甚太に対して棘のある態度を取ってきた。
 そして好意を持っているからこそ、今回の婚約を推し進めてきたのだろう。
 だというのに、この態度は寧ろ白夜と『そういう関係になる』ことを忌避しているようにさえ思えた。
 白夜には、清正が何を考えているのか分からない。
 その心を覗こうと目を見詰めても、瞳の奥は靄がかかっているようで、何も読み取れない。
 だが一つだけ分かっていることがある。
 粗雑な言葉で弄られ、行動に嫌悪感を覚えもした。しかし彼の言っていることはすべて真実だった。
 先延ばしにした所で清正と肌を重ねなければならないことも。
 甚太が、自分達が閨を共にする時の護衛となることも。
 ……それに、自分が耐えられないことも。
 すべて、真実だった。

「……離して」
「……おう」

 逃れようともがいていた体からはすっかり力が抜けていた。
 もう抵抗する気はないのだろう。清正は素直に手を放す。

「悔しいけど、貴方の言う通りだね」

 そう言った白夜の声には感情がなかった。

「私は葛野の為に、この道を選んだ。だったらそこから逃げちゃいけなかった。……それなら清正の言う通り、今日は丁度よかったのかも」

 葛野の為。
 敢えてその言葉を口にする。
 これは私が選んだ道なのだと、自分に言い聞かせる。なのに、どれだけ自分に言い聞かせても、あのぶっきらぼうな声がまだ聞こえている。

(済まなかった、白雪。もう少し気遣うべきだった)

 淡々と、けれどいつも自分のことを大事に想ってくれていたあの人の声。

(……お前の強引さには敵わん)

 いつだって我儘を受け入れてくれた、呆れたような表情。

(なら、俺がそれを守るよ)

 いつきひめになる。
 自分の想いを捨てて、巫女として生きると決めた。そんな幼い愚かな誓いを彼だけが尊いと、美しいと言ってくれた。


 ───選ぶから。甚太は、いつか私のことを───


 そして自分が口にした、叶わなかった約束。

「やだなぁ……私って、こんなに」

 彼のことが好きだったんだ。
 今更ながらに思い知る。何を想い出しても、そこには彼がいる。それくらいに、彼は、白夜の全てだったのだ。
 けれどもう戻れない。
 彼を大切に想っている。出来ればこれからも共に在りたいと願う。
 でも生き方は曲げられなかった。そこに後悔などある筈もなく、しかし白夜は自身の選択にこの上無く責め立てられていた。 

「だけど」

 するり。寒々しいまでに静かな本殿に衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。すとんと緋袴が落ちて、次いで白衣に手をかける。奇麗にたたむのは億劫だった。そのまま畳敷きの座敷に無造作に捨てる。
 順々に脱ぎ捨て、身に着けているものは襦袢のみとなった。年頃の少女にしては若干肉付きの足りない体だが、それでも間違いなく美しいと称されるであろう華奢で繊細な肢体が襦袢越しに薄らと透けている。

「私は、いつきひめだから」

 巫女であることからは逃げられない。
 巫女であることを尊いと言ってくれた、彼の想いを裏切るような真似だけは、何があっても出来ない。

「ありがと、清正。気を使ってくれたんだよね? お礼って訳じゃないけど、心はもう彼に渡しちゃったから。残った体は貴方にあげる」

 私は葛野の為に彼を切り捨ててきた。ならば結局、これは受け入れなければならないこと。むしろこういう状況を作った清正には感謝せねばならばなるまい。
 白夜は笑みを浮かべた。ごく自然な笑顔。優しく、けれど揺らがない。後悔なぞ微塵もない、悲壮なまでに強すぎる瞳だった。

「なんで、お前らは……」

 その表情に、誰かの面影が重なって、清正は泣きそうになった。
 大嫌いな男と惚れた女。どこも似ていない、それどころか正反対に見えた。
 けれど、結局は似た者同士だったのだろう。
 二人の間には、彼らにしか分からない何かがあって。
 今もこうして繋がっている。

「違う、違うんだ、俺は……俺はただ」

 それをお前は踏み躙ったのだと、突き付けられたような気がした。
 清正は今にも泣きだしそうに顔を歪める。こんなつもりじゃなかった、俺が望んだのは、もっと違う形だったのに。
 胸にある感情は言葉にならない。それでも何かに縋るような、許しを請うような必死さで絞り出す清正の呻きは、


『ああ、よかった。ぐっどたいみんぐってヤツ?』


 突如、響いた声にかき消された。
 背筋が冷たくなる。声の方へ振り向けば、薄暗い社に浮かび上がる影。
 気付かなかった、いつの間に侵入したのか。社の隅に女が一人、くだらないものを見るような眼で白夜らを眺めている。

『実際あれよねぇ、あの子も報われないわ。命懸けで戦ってるのにその裏で想い人が他の男とよろしくやってるんじゃね』

 泣き崩れそうになっていた清正は一度目元をこすり表情を引き締める。
 迂闊にも刀を置いて来てしまった為、座敷に在った宝刀、夜来を手にして白夜をかばうように前へ出た。

「何者ですか」

 多少衣服を直し、白夜は気丈な態度を作って目の前の女を睨み付けた。
 それが滑稽だと女はせせら笑う。想い人以外の男に股を開こうとしていた“あばずれ”が何を格好つけているのか。

『見ればわかるでしょう、お姫様』

 返す言葉も自然と冷たくなる。
 三つ又の槍を支えにして立つ、雪輪をあしらった藍の着物を纏った女。その肌は青白く、目は鉄錆の赤をしていた。

「鬼……やっぱ白夜が狙いって訳かよ」

 懸念は的中していた。甚太を葛野から引き離し、その隙にもう一体の鬼がいつきひめを襲う。おそらくは端からそれが目的だったのだろう。

『ちょっと違うわね。お姫様は此処で死ぬ、でもそれはあくまでおまけよ』

 しかし白夜の考えはすぐさま否定されてしまう。
 鬼女は軽薄な態度を崩さない。表情こそ笑っているが、その目には侮蔑がありありと映し出されていた。

『にしてもコトに及ぶ前でよかったわ。流石にそこまでいくとこの娘に見せる訳にはいかないものね』
「この娘……?」

 白夜は鬼女の要領を得ない言葉に戸惑い、僅かに顔を顰めた。
 いったい、何を言いたいのか。先程から訳の分からないことばかりだ。
 しかし“この娘”とやらが誰を指しているのかだけは、すぐに分かった。
 問おうと思ったその時には、鬼の影から幼子がゆっくりと姿を現していたからだ。
 右目を包帯で隠した四、五歳くらいの赤茶の髪をした幼げな娘。
“この娘”は、白夜にとって見慣れた容貌していた。 

「すず、ちゃん……?」

 がん、と頭を殴りつけられたような気がした。
 鈴音の登場は、白夜にとってそれほどの衝撃だった。
 なんでこの娘が、ここにいるのか。
 何故鬼と一緒に。もしかして鈴音が鬼をここまで手引きしたのだろうか。確かにこの娘は鬼の血を持っているが、まさか、そんなこと。ぐるぐると思考が巡る。

「ねぇ、ひめさま。なんで?」

 浮かんだ疑問をぶつけようとして、それよりも早く鈴音が口を開いた。

「にいちゃんは命がけで戦ってるよ? 葛野の皆のために、すずのために。でも本当は……一番、ひめさまのために。なのに、なんで?」

 その瞳は、いまだ四、五歳の外見を保っている鈴音には見合わないほど蔑みに満ちていた。
 冷たい、汚物を見るような濁った視線。
 だから分かる。
 この娘は、白夜のことを心底下劣な女だと軽蔑し切っている。
 何か言わないと。出来るだけ普段通りの語り口に聞こえるよう、精一杯自分を取り繕う。

「私は、いつきひめだから。その役割を果たすために、彼と。清正と結婚するの」

 情けない台詞だった。
 馬鹿らしい、自分でも意味の無い言葉だと分かる。そんな戯言が一体何なんの言い訳になるというのだろう。
 事実、意味はなかった。
 愕然と目を見開き、鈴音の視線は清正に移る。瞬間瞳に昏い光が灯り、もう一度白夜を見た時には、宿る感情は侮蔑を越えて憎悪へと変貌していた。

「なに……それ。にいちゃんが命懸けで戦ってるのに、他の男の人と寝ることが、そんなに大切なの?」
「ちがっ……」

 否定しようとして、口を噤む。
 鈴音から放たれる圧力が大きくなった。未だ幼子の域を出ない女童に、この場にいる誰もが気圧されている。

「ひめさまは、にいちゃんのことが好きなんだと思ってた。でも本当は男の人なら誰でもよかったんだね」
「違うっ!」

 それだけは絶対に違う。
 彼を裏切ってしまった。けれどこの想いだけは否定させないと、戦きながらも白夜は必死に喉を震わせる。

「じゃあなんでっ!」

 鈴音もまた感情を抑えることなく吐き出す。
 叫びは引き裂くように苛烈で、なのに何処か頼りない。
 憎悪に目を濁らせながら、けれど鈴音は今にも泣き出しそうだ。

「なんで、ひめさまは。私は、何の為に……」

 そうして溢れ出す、隠していた本音。
 大好きな兄が幸せなら、それでよかった。そう思えばこそ、あの人の手が、他の誰かに触れたって耐えられた。

「あの人が、幸せならって、そう思ってたのにっ」 

 どれだけ辛くても、苦しくても。兄と貴女が結ばれたのなら、心から祝福したのに。
 なのに、なんで。
 頭の中がぐちゃぐちゃになって、言葉はうまく出てこなくて。
 けれど振るえる肩に、声に、鈴音の想いが滲んでいた。

「すずちゃん……」

 白夜は、ようやく理解する。
 同じ女なのに、同じ人を見ていたのに、ずっと気付けなかった。
 この娘は多分、最初から。私と同じ気持ちだったんだ。 
 でも鈴音はそんな素振りを見せなかった。妹として兄に甘えることはあったが、男女のそれを匂わせるような甘さは決して見せなかった。
 その意味に気付けなかった自分が許せない。

「そっか。すずちゃんはずっと、甚太の妹でいてくれたんだね」

 鈴音が、鬼の血を引いていることは分かっていた。成長しないのは鬼だからなのだと分かったつもりになっていた。 
 しかしその考えは間違いだった。
 鈴音は鬼だから成長しなかったのではない。多分この娘は、鈴音だからこそ成長しなかったのだろう。
 外見が昔のままでも鈴音は白夜と同い年の少女だ。中身まで幼い訳ではない。なのにこの娘は「幼い妹」で在り続けた。
 おそらく鈴音は、自分のことを「すず」と呼び、殊更に幼く振るまい、成長を止めてまで甚太の妹という立ち位置に甘んじた。
 今ならその意味が分かる。

 この娘は本当に彼のことが好きだったのだ。

 だから鈴音は妹でいることを選んだ。
 自身の想いを押し込めて、兄妹という枠から食み出ないように気遣い、甚太と白雪が結ばれる未来を願っていてくれた。
 他ならぬ彼がそれを望んでいたから。
 嫉妬だってあっただろう。でも白雪が相手ならば、兄は幸せになれる。そう思えばこそ兄の為に、彼の願いを邪魔しないように。女ではなく妹として無邪気に笑い続けてきた。

「貴女なら、まだ我慢できると、思って、なのに……っ!」

 なのに裏切ってしまった。
 少女の願いを、愛しい人の想いを、全て捨て去って白夜は此処に立っている。
 そして引き返す道なんて何処にもない。

「ごめんね。何て言われても、この生き方だけは曲げられないの」

 母が守り抜いた、彼を受け入れ育ててくれた葛野の地を、今度は私が守る為に。
 想い人を裏切り、幼馴染の気遣いを踏み躙り、一体何をしているのか分からなくなってくる。
 けれど此処で生き方を曲げてしまえば、それを尊いと言ってくれた彼の想いを汚してしまう。
 だから生き方は曲げられない。
 何もかも駄目にしまったが、彼のことだけは捨て切れなかった。
 
「私はいつきひめ。もう、他の何者にも為れない」

 彼は愚かな誓いを掲げた私を美しいと言った。
 ならばたとえ結ばれることはないとしても、せめて最後まで彼が好きになってくれた私で在りたい。
 それだけが、彼に示せる唯一だと信じている。

「火女として葛野の為に生きる。それだけが、彼の想いに報いる道だと思うから」

 紡いだ言葉には揺らがぬ決意がある。
 そして、それがいけなかった。
 葛野の為に。その一言を聞いた瞬間、鈴音の顔付きが変わった。

「じゃあ、ひめさまは」

 声が震える。我慢していた何かが暴発してしまそうだ。
 この女は今何と言った? 葛野の為に。他の男に靡いたのではない。兄の想いを知り、自身も慕い、だというのに。葛野の為にこんなことをしていると言った。

 つまりこの女は。
 私がずっと一緒にいたいと願った人に想われながら。
 おそらくは自分が一生得ることのないであろう、彼に女として愛されるという幸福を、どうでもいい誰かの為に捨てると言ったのだ。 

 許せない。
 憎いと。ただ憎いと。殺したいほど憎いと。殺すでは温い。臓物を引きずり出し目玉を繰り抜き脳髄をぶちまけ死骸を擂り潰しその魂を焼き尽くし。
 それでも尚、飽き足らぬ程に。
 目の前にいる、この女が憎い、と。
 そう思ってしまった。

『ね、私の言った通りだったでしょう? このお姫様は悪い女なの。だからお兄さんの為に頑張りましょう』

 今迄無言だった鬼女が耳元で囁いた。
 人の心の隙間につけ込む。それはいつの世も変わらぬ、あやかしの生業だ。

「聞くな鈴音ちゃん!」
『あら、間男が何か言っているわ』
「お前っ……!」

 睨み付ける清正を無視して鬼女は続ける。
 鈴音も聞き入れることはない。あれは兄の敵、ならば鬼以下の害虫に過ぎず、視界に入れる必要もなかった。

『鈴音ちゃん、許せないわよね?』

 そうして鬼女の言葉に耳を傾ける。
 甘く優しい語り口は、まるで毒のようだ。意識を溶かし、心の奥へと染み渡る。幼い鈴音は鬼女の思うままに誘導されていく。

『あなたの大好きなお兄さんに想われてるくせに他の男と寝ようとする売女なんて。裏切って、傷付けて。でもあの女はのうのうと守られるの。何も知らずに戦うお兄さんを陰で哂いながら』

 許せない。そんなこと、許せる筈がない。
 誘導されたとしても、抱く憎しみは紛れもなく鈴音から生まれたもの。
 幼き日を共に過ごした幼馴染が心底憎い。沸き上がる感情は、誤魔化しようがないくらいに本心だ。

『ま、お兄さんは真実を知ったとしてもお姫様を守るんでしょうけど。そこら辺は鈴音ちゃんの方がよく分かってるでしょう?』

 そうだ。
 この女は私の愛しい人を傷つける。
 けれど彼は優しくて強いからきっと彼女を受け入れ許してしまう。

『考えましょう、お兄さんの為に何が出来るのか』

 こんな糞みたいな女のために、彼が傷付くなんてあってはならない。
 ならばどうすればいい……いや、考えるまでもない。
 ああ、答えは簡単だ。



『こんな女、いなくなればいいと思わない?』



 それに気付いた時、幼子は幼子ではなくなった。

「え……」

 漏れた声は誰の驚愕だったのだろう。
 鈴音の身に起こった変化に白夜達は戸惑いを隠せないでいた。
 ほんの数秒前までは確かに幼子の姿をしていた。しかしその体を瞬きの間だけ黒い瘴気が隠したかと思えば、次の瞬間には見知らぬ女がいた。
 女は眼を伏せたままだらりと力を抜いて立っている。
 赤茶だった髪は緩やかに波打つ眩いばかりの金紗に代わり、踵にかかるまで伸びていた。
 年の頃は十六、七といったところか。身長は五尺ほどになり、まだ少女と呼べる外見で在りながら豊満な体つき。まるで瘴気をそのまま衣に仕立て直したような、淀んだ黒衣を纏った鬼女は気怠げにゆっくりと顔を上げる。
 うっすらと瞳が開いた。
 赤い。
 細い眉と鋭い目付きが冷たい印象を抱かせる、刃物の鋭利さを秘めた美しい女だった。

「すずちゃん、なの?」

 答えは返ってこなかったが、彼女が鈴音であることは理解できた。
 髪の色という相違点こそあるが、顔立ちには確かに面影が残っていたからだ。普通に成長していたのならば、鈴音は今のような美しい娘になっていたのだろう。

「ねぇ、ひめさま」

 その名の通り、鈴の音を想起させる澄んだ声。
 透明な水のような心地よさに、一瞬だが心を奪われたことに気付く。語り口は幼いまま。無邪気なまま、鈴音は軽やかに言の葉を紡ぐ。

「……死んで?」

 紅玉が、ゆらりと揺れる。
 もはや右だけではなく、両の瞳が赤く染まっていた。

「白……!」
『あーら駄目よ色男さん? 女の喧嘩に男が出ちゃ』

 白夜を守ろうと飛び出した清正は、だがそれよりも早く鬼が動く。 
 舌打ちと共に宝刀、夜来を構える。いくら鬼とはいえ女に後れは取らない。鍔に手をかけ鯉口を切り、一気に抜刀し。

「え………」

 しかし抜けない。
 刀身は鞘に収められたまま。どれだけ力を入れてもがちゃがちゃと音が鳴るだけで決して抜けることはなかった。
 その隙を鬼が放っておく訳がない。茫然とする清正に向って、鬼女は左足を軸にして体を回し脇腹に蹴りを叩きこんだ。

「ぐぁっ……!?」

 彼の体は宙を舞い、座敷から本殿の板張りの間まで簡単に吹き飛ばされる。あばらが数本いかれた。
 走る激痛、だが自分は巫女守。この程度で音をあげる訳には。

『へぇ、意外と頑張るじゃない。でもあなたでは無理よ』

 けれど心意気では覆せぬ差というものが在る。
 間合いを詰めた鬼女は清正の右腕を掴み、ありえない方向へと力を込めた。

「いあ、いぎゃああああああああああああ!?」

 ぼきり、という音と共にへし折れたのは骨か心か。
 激痛に膝が崩れ倒れ込めば、間髪入れず腹をつま先で蹴り上げられ、清正は成す術もなく無様に床へ転がされる。
 意識はまだある。しかし痛みで体を動かすことが出来ない。
 何もできないでいる清正を尻目に、鬼女は無造作に転がっていた夜来を拾い上げる。
 集落の宝刀。若干の興味から刀を抜こうとするが、どれだけ力を込めても、やはり鞘が音を鳴らすだけで終わった。

『おかしいわね。確かに<遠見>で見た景色じゃこの刀抜けてたんだけど。あたしじゃ抜けないのかしら。もしかしたら選ばれた者にしか抜けないとかそういうヤツ?』

 ぶつぶつと訳の分からないことを呟きながら鬼は夜来をいじくり回している。
しばらくして諦めたのか、それを鈴音に投げ渡した。

『はい、お嬢ちゃん』

 鈴音はそれを無造作に掴み取る。
 表情は変わらない。ただ冷たく、意を問う様に視線を鬼女へ向けた。

『折角だから、それを使ってあげなさい。私が“見た”通りなら、多分貴女は使える筈だから。自分が今まで崇めてきたモノで殺されるならお姫様も本望でしょ?』

 それじゃ、あたしはこの子外に捨ててくるわ。二人っきりにしてあげる。
 そう言って清正を担いだまま本当に何処かへ行ってしまう。
 社に残された二人。
 鈴音は鞘に収められた夜来を見ながら、小さく呟く。

「……面白そう」

 しなやかな指が武骨な太刀の柄に触れる。力を然程込めることもなく、夜来は抜き身を晒し白刃が光を放つ。
 瞬間、憎悪が膨れ上がる。
 誰かを傷つける手段を手にしたせいか、殺意が明確になった。
 憎い。ならば殺せ。自分ではない自分が語り掛ける。膨れ上がる憎悪に立ち眩みを起こし、瞳は憎悪の行方を探す。
 其処にいるのは心から憎む下衆な女。視界に入れるだけで不愉快な売女だった。

「すずちゃん……」

 白夜の声は震えていた。
 この娘は。かつては同じ屋根の下で暮らしていた幼馴染の妹は、本当に私を殺そうとしている。
 迫り来る死に恐怖を覚えることはない。いつきひめになると決めたその日から、既に命など捨てている。だから今更、死に怯えるなどということは在り得ない。
 しかし心が慄く。死ぬことに、ではない。本当に怖いのは鈴音が自分を殺そうとしていることだ。甚太と白雪と鈴音。三人はいつだって一緒で、本当の家族だった筈で。なのにあの娘は私を確かに憎んでいる。
 それが怖い。自分の信じてきた美しいものが、その実何の価値もなかったと言われたような気がして、たまらなく怖かった。

「じゃ、ひめさま」

 そのまま切っ先を白夜に突き付け、にぃっ、と。
 鬼は嗤った。






「さよなら」





[36388]      『鬼と人と』・8
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/06/08 15:53


 意識が混濁している。
 余計な何かが混じって濁っている。
 自分が自分でなくなるような錯覚。溶け込んだ何かが急き立てる。熱くて冷たく整然とばらばらに。飛び散った自己は形にならない。

『人よ、何故刀を振るう』

 誰か囁いた。
 返す答えは他が為に。俺には守りたいと思えるものがある。だから刀を振るってきた。
 それは紛れもない本心で。なのに誰かはただ憐れんだような視線を送っている。
 何故そんな眼でお前は見るのだ。

『許せよ、我等は宿願の為にお前達兄妹を利用する』

 待て、それはどういう意味だ。

『せめて餞別をくれてやる。必要になる時も来るだろう』

 お前は何を言っている。
 問い詰めようにも今に自分には体がない。声は出せない手も動かない。ただ己だけが波間で揺れる。
 結局、誰かは何も言わず黒い光の中へ消え去った。
 何が言いたいのかは分からなかったが、そいつの意思が、存在が完全に自分の中からいなくなったのだということは理解できる。
 そして、意識が白い闇に溶けた。





 ◆





「う…あ……」

 ひんやりと冷たい地面の感覚に甚太は目を覚ました。
 なにか、奇妙な夢を見ていた気がする。朦朧とした頭を振り、どうにか意識を回復させる。

「ここは」

 体を起こして立ち上がる。見回せばそこは光の無い洞穴。鬼が用意したであろう数本の松明からは既に火が消え、辺りは暗闇に包まれている。相変わらず卵の腐ったような気色の悪い匂いが漂っているため、どうにかそこが洞窟の中だと知れた。

「なんとか、生きている、か」

 次第に目も慣れ改めて周囲を見渡すが鬼の死骸は既にない。自身の首を掴んでいた腕もだ。どうやらこちらの息の根を止めるよりも早く鬼は絶えたらしい。そのおかげか、どうにか命は繋げたようだ。

「そうだ、鈴音……!」

 安堵も束の間、思い出すのは鬼の言葉。奴らの真の狙いは白夜ではなく鈴音だ。まずい、急いで戻らなければならない。
 ただ一人の家族。一緒にいてくれればいいと、何も出来なかった自分を必要としてくれた大切な妹を守る。それもまた自身が刀を振るう理由だ。
 体は無傷、何処にも痛みはなかった。これならもう一体の鬼を相手にするくらいはできそうだ。刀を失ってしまったがそれは後で考える。
 今はただ葛野へと向かわねば。
 先程まで見ていた夢など忘れ、焦燥に掻き立てられた甚太は葛野への道を戻る。明かりの消えた洞穴の中は暗く、先は見通せなかった。




 無傷、と。
 その事に何の疑問も抱かなかった。



 ◆



 走る。
 森の奥、湿った土を踏み締め葛野へ続く獣道をただ走る。
 日没は随分前、木々の切れ目の向こうでは既に星が瞬いていた。どうやら随分長い時間気を失っていたらしい。自分の迂闊さに嫌気がさし下唇を噛む。
 鈴音は無事だろうか。
 今宵は白夜を警護するために集落の男達が総出で社の警備についている。逆に言えば、社以外は手薄になっている筈だ。嫌な予感が拭えない。

「無事でいてくれ」

 祈り、只管に走る。
 その速度は自分でも驚くほどだった。息が切れることもない。体は未だかつてないほどに調子がいい。だが今はそんな事に意識を割いている暇はない。
 木々を抜け、辿り着く葛野の地。脇目もふらず自身の家へ。薄暗く何処か不気味な雰囲気を醸し出す慣れ親しんだ集落。次第に藁を敷き詰めた屋根に家の周囲は土壁と杉の皮を張った、昔ながらの造りの家が見えてきた。

「鈴音っ!」

 乱暴に引き戸を開け、草鞋を脱ぐこともせず入り込み、辺りを見回す。
 其処には誰もいなかった。嫌な予感が膨れ上がる。いったい、鈴音は何処へ行ったのか。
 家の中は荒らされた様子がない。とすれば鬼に拐された訳でもないだろう。鈴音は自分の意思で外に出た。
 そもそも鈴音はあまり外出をしない。自身の赤い眼を、成長していない姿を見せないよう基本は家に引き籠っている。そんな彼女が時折ではあるが行く場所と言えば。

「社か」

 思い当たったのはその程度。白夜の無事も確認せねばならない。どちらにしても一度社へは行かねばならぬだろう。
 ここから社まではそう遠くない。一縷の望みに託し、社へと向かう。
 不安に急き立てられ、一心不乱に駆け抜け。
 しかし辿り着いた鳥居、その惨状を前にして、甚太の足は止められた。

「なんだ、これは……」

 ごくりと息を呑む。濃密な血の匂いに甚太は立ちくらみを起こした。
 社の前には十を超える死体が転がされている。引き千切られた肉、砕かれた頭蓋。見るも無残な光景に動揺を隠せない。

「巫女守様……」

 折り重なる死骸の中に一人だけ、死の淵にありながらどうにか生きながらえた男がいた。
 今夜の為に臨時で警備についた男だった。辛うじて生きているとはいえ腹を裂かれており出血が酷い。もう僅かばかりの命だろう。
 近寄り、その体を抱え起こして問うた。

「いったい何が」
「あ、あ。す、すずねちゃんが」
「鈴音が?」
「鬼と」

 一言。たったそれだけを残して男は力尽きた。
 死体となった男をゆっくりと地面へ下ろし、数秒だが目を伏せ黙祷を捧げる。
 そして甚太は、おそらくはこの男が使ったであろう刀を拾い上げた。鬼がこの先にいるのならば素手では話にならない。死者から物を取り上げるのは気が引ける。とはいえ新しい刀を探している時間もない。

「済みませんが、借ります。弔いはまた後で」

 短い謝罪を残しそのまま社殿へと向かう。
 目指す場所はすぐそこに在る。迫る木戸、開けるのも面倒くさい。勢いのまま蹴破り、一気に本殿へと傾れ込む。

「白雪! 鈴音!」

 瞬間目に映ったのは。
 襦袢だけの姿で肩を震わせる白夜。
 そして床につきそうな程長い金紗の髪をした鬼女が、刀を突き付け今にも襲い掛かろうとする姿だった。
 以前見た女とは違う鬼の存在。しかし驚いている場合でもない。白夜のいる座敷までは約三間弱。今ならまだ間に合う。立ち止まることはせず、板張りの間を走り抜ける。

「甚、太……」

 白夜は声の方に視線を向け、その主の姿を確認し、安堵の溜息を洩らした。
 ああ、もう大丈夫だ。お前は何も心配しなくてもいい。後は任せておけばいいんだ。
 よろよろと覚束ない足取りで白夜は座敷から、鬼女から離れようとする。
 手を伸ばす。応えるように白夜もまた手を伸ばした。たった三間がこんなにも遠い。鬼女は何故か動こうとしない。呆然と、その様を眺めている。何のつもりか分からないが、動かないならそれでいい。距離が近付く。あともう少しで傍に行ける。体が軋むほどにただ走る。

「白雪!」

 届いた。
 左手で白夜の手を掴み引き寄せる。 
 ふわりと風が流れた。しがみ付くように、決して離れぬように、白夜の体を抱き締める。彼女からは甘やかな香りと──ぶちり──鉄錆の匂い。
 間に合った。安堵に息が漏れる。何とか最悪の事態は免れた。あの鬼が何者か、どれだけの力量かは分からないが、せめて白雪を逃がすだけの時間は稼ぐ。
 状況がよくなった訳ではない。だが彼女を、その愚かしくも美しい在り方を守ると誓った。ならば己が為すことなぞ一つ。
 あの鬼女を斬り伏せる。
 眼光も鋭く鬼女を睨め付け、

「消え、た?」

 しかし既に座敷には誰もいなかった。
 何時の間に姿を消したのか、金髪の鬼女は影も形もない。いったい何処へ。其処まで思考を巡らせ、白夜が身動ぎさえしないことに気付く。もしかして怪我でもしたのだろうか。抱き締める力を少し緩め、体を離し、彼女の無事を確かめる。

「あ」

 思わず固まった。
 白夜の表情を見るつもりだった。なのに見ることが出来なかった。腕の中にいる白夜は動かない。
 表情も分からない。
 いや表情どころか、

「しら、ゆ」





 彼女には、首から上がなかった。





 なんだ、これは。
 意味が分からない。ある筈のものが無い。なんでだ、間に合った筈だろう。なのに彼女の笑顔は何処にもない。目の前は赤く染まり、頭の奥で何かがちかちかと瞬いている。
 ぎしり、と背後で床が鳴った。
 咄嗟に振り返り、驚愕する。

「な」

 消えた筈の金色の鬼女は、僅か二寸というところまで迫っていた。
 しかし其処に敵意はない。鬼女は寧ろ気遣わしげな視線を甚太に向けていた。

「駄目だよ、そんなの持ってちゃ。汚れちゃうよ?」

 鬼女の右手には刀。逆手で握られたそれには見覚えがあった。いつきひめが代々受け継いできた宝刀。何故お前が。
 過る疑問とほぼ同時に、刀がぶれた。
 多分、刀が振るわれたのだろう。確証がないのは単純に見えなかったから。あまりの速さに目で追うことさえ叶わない。刀身を視認できたのは、切っ先が白夜の胸に食い込んだ瞬間だった。
 腕に負荷がかかり白夜の体を離してしまう。どさり、と床に彼女の体が落ち、心臓に突き立てられた刀で社殿の床へと縫い付けられる。
 仰向けに横たわる少女。
 白い肌。薄い襦袢に赤色が沁みていく。胸に突き刺さった刀はまるで彼女に手向けられた花のようで。何度確かめても、彼女の笑顔を、見ることは出来なくて。

 白夜が、死んだ。

 その事実がようやく頭に伝わった。

「嘘、だろ……」

 言葉遣いはいつもの堅苦しいものではなかった。まるで幼い頃に戻ったかのような、朴訥な呟き。
 なあに、甚太?
 けれど幼い頃のようには返って来ない言葉。
 彼女は何も言ってくれない。笑ってくれない。仕方ないなぁ、お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。そんな軽口は聞こえてこない。
 もう、彼女は、此処にいない。 
 愕然とする。甚太は鬼女を前にして無防備を晒し続けていた。どれだけ愚かなことをしているかは分かっている。
 なのに体は動いてくれなかった。彼女の死があまりにも唐突過ぎて、現実感が追い付いてこない。

「おかえりなさい……怪我はない?」

 直ぐ傍で、鬼女はにっこりと笑っていた。
 豪奢な金の髪、女性らしい豊満な体付き。しかし浮かべたのは童女のように人懐っこい笑顔だった。
 端正な顔立ちも相まって彼女の笑顔は美しく、しかしその無邪気さに怖気が走る。
 そう、鬼女はにっこりと笑っているのだ。 
 白夜の頭部を、余りにも無造作に、掴みながら───

「てめぇええええええええええええええええあああああ!」

 思考が一瞬で沸騰する。
 膨れ上がる感情が勝手に体を動かし、気付いた時には鬼女の脳天を叩き割ろうと斬り掛かっていた。

「わ」

 激昂する甚太とは対照的に、鬼女はあまりにも呑気な声を漏らした。
 すっと右手を刀に合わせ、緩慢にさえ見える動作でゆっくりと横に払った。然して力を込めたようには見えない。だというのに剣戟は流され、体は引っ張られ、タタラを踏んでしまう。
 崩れた体勢を立て直し、大きく後ろに退がり鬼女と正対する。
 刀は折れていない。腕に痺れもない。当然だ。鬼女は優しく、本当に優しく受け流しただけ。
 まるで戯れに伸ばされた手を笑いながら押し退けるような、そんな気安さで渾身の一刀を払い除けてしまった。

「危ないなぁ、いきなりどしたの?」

 やはり鬼女に敵意はなかった。怒りも、僅かな負の感情さえ見て取ることは出来ない。
 だから知る。この鬼女は、己を敵とは見ていない。当たり前だ。敵と思う訳がなかった。
 人が蝿や蚊に殺意を持たぬのと同じ。歯牙にもかからぬ矮小な存在を敵と見る馬鹿はいない。
 おそらく先程も消えたのではない。鬼女は特別なことなどしていない。普通に走り、普通に白夜の頭を引き千切った。ただ一連の動作が甚太には視認することすらできない速度だったというだけの話。
 鍛錬で得られる武技では埋められぬ、生物としての絶対的格差。
 それを無邪気な笑顔に見せつけられた。
 しかし退けない。
 脇構え。意識を薄く研ぎ澄ませ、眼前の敵を睨め付ける。
 自身でも理解している。この鬼には決して勝てない。斬り掛かったところで無様に屍を晒すことになるだろう。だとしても退くことは出来ない。
 例え敵わぬとしても、

 ──俺が、お前を守るから。

 せめて一太刀意地を見せねば死んでも死にきれない。
 そうして一歩を踏み出そうとして、

「にいちゃん、本当にどうしたの?」

 意識が凍り付く。金髪の美しい鬼女は本当に心配そうな、透き通った声で甚太に語りかけた。
 にいちゃん。
 その呼び方に改めて鬼女を見る。顔立ちには僅かな面影。激情に曇っていた目には映らなかった、見慣れた色があった。

「……鈴音、なのか?」
「うん!」

 明るく無邪気な、どこか甘えるような、いつも見せてくれる笑顔だった。それが今は辛い。何故か妹が成長しているのかなど疑問に思う程の余裕もなかった。
 お前が鈴音だというのなら。
 鬼女の正体を知ったことで、甚太の頭はたった一つの問いで満たされてしまっている。

「本当、に」
「そうだってば」

 不満げに頬を膨らませる。
 大人びた容貌には似合わぬ幼げな態度。それは確かに見慣れたもので、だから余計に泣きたくなった。

「何故だ……」

 お前が鈴音だというのなら、何故白夜を殺す必要があった。
 白夜と、否、白雪と鈴音は仲のいい姉妹のような存在だった。少なくとも甚太にはそう見えていた。だから分からない。何故、鈴音が白雪を殺さねばならなかったのか。

「なんで、お前が、白雪を」

 分かる訳がない。己が白雪を想っていたように、鈴音もまた甚太を想っていたのだと。
 甚太が全て。他の命など塵芥。そんな彼女の真実に気付かない彼には妹の行為は凶行でしかなく、口にする言葉は狂気でしかない。深すぎる愛情から生まれた憎悪など理解できる筈がなかった。

「なんで、そんな顔するの? すずはひめさまを殺したんだよ? もっと喜んでよ」

 同じように、甚太が如何な想いを抱いているか見通せない鈴音には、兄の反応は予想外のものだ。鈴音にとって白雪は大切な兄を傷付ける売女だった。だから殺した。これで兄を傷付けるものはいなくなり、彼はきっと笑ってくれるだろう。無邪気な子供のように彼女はそう信じていた。

 故に分かり合えない。
 彼らは家族として互いに想い合っていた。ただ出発点を致命的に間違えていのだ。

「お前は、何を、言っている」
「にいちゃん、ひめさまはね。他の男の人と結婚するんだって。にいちゃんのことを好きだってふうに振舞ってたくせに裏切ったの」

 違う。裏切ってなどいない。私達は。
 言葉にしようとして、しかし口を噤む。あんなに一緒だった。兄と妹。二人はいつだって一緒で、一番近くにいた筈で。なのに横たわる断崖があまりにも高すぎて声が届かない。だから言葉に出来なかった。

「自分から服を脱いで、自分の体をあげるって言ってた。そんな最低な女なの。だからにいちゃんが気に病むことなんてないんだよ」

 妹の口から語られる想い人の所作に心が軋む。
 痛みはある。けれど分かっていた。そうなると知って、受け入れた。
 それくらい、大切だった。
 白雪の決意も、葛野の地も、鈴音のことだって。
 みんな比べようもないくらい大切で、だからみんな守りたくて。
 なのに、どうしてこうなってしまったのか。

「もう、やめてくれ……」
「にいちゃん……」

 絞り出される悲痛な嘆きに鈴音も悲しそうに目を伏せた。
 甚太の言葉は鈴音を指している。
 ひどいことを言わないでくれ、そんなお前は見たくないのだと。鈴音ことも確かに大切だから、「やめてくれ」と言った
 けれど鈴音は別の意味で捉える。
 白雪のそんな話は聞きたくないと。白雪のことが大切だから、「やめてくれ」と言うのだろうと。
 鈴音はあくまでも甚太の気持ちを優先する。だから、焦点が自身には合わず。
 お互いに想い合うからこそ、どこまでも二人は分かり合えない。

「にいちゃんはやっぱり、今もひめさまのことが好き? あんなにひどい人なのに、死んじゃったら悲しいの?」

 俯き体を震わせる兄の姿が辛くて、鈴音もまた沈んだ声を出した。
 しかし何か思いついたのか、両手を自身の胸の前で合わせて、可愛らしく微笑みながら言った。
 そうして、兄妹は終わりへと至る。

「あ、でもさ! これで、ひめさまが他の男の人と結婚するところなんて見なくてもいいでしょ?」

 澄み切った言葉に、甚太は叩き伏せられた。
 奪われた。
 そう、思ってしまった。
 川辺で伝え合った想い。
 互いが互いの在り方を尊いと感じ、不器用でもそれを最後まで守ろうと誓った。
 最早結ばれることは叶わない。
 だけど変わらずに在ろうと、曲げられない自分を貫いた。
 例えそれが愚かな選択だとしても、二人は誰にも侵されぬものを築き上げた筈だった。

「にいちゃんがひめさまを好きなら、他の男とくっつくよりそっちの方がいいよね? それに今はちょっと悲しいかもしれないけど、もう辛い思いしなくて済むし。あんな最低な女に傷付けられることもない……そう考えたら、最初から必要なかったんだよ、ひめさまなんて」

 その誇りを奪われた。
 お前達の誓いなどただのお為ごかしだ。
 本当は、心は嫉妬に塗れているのだと。
 彼女の決意を、美しいと感じた在り方を。
 正しいと信じ、意地を張って貫いてきた自分自身さえ踏み躙られた。

「ああ……そう、か」

 かすれた声が零れる。
 全てを否定された甚太の胸中に浮かんだ感情は、酷く純粋だった。
 純粋で、透き通った、昏い心。
 混じり気のない、なのにどろりとした、冷たい激情が身を焦がす。

「ね、そろそろ帰ろ? すず疲れちゃった」

 兄の変化に気付かず、いつものように幼げな調子で問いかける。足元には変わらず白夜の肢体が転がっていて、左手で彼女の頭部を掴み、けれどその表情は柔らかい。
 守りたかった者を奪い、だというのに、鈴音は笑っていた。

「私の知っている、お前は」

 もう、いないのか。
 愛しい筈の妹。
 彼女の兄でありたいと。遠い雨の日、確かにそう願った。今もその願いは変わらず胸に在る。白夜を、彼女の幼い決意を尊いと感じたのと同じく、鈴音を大切に想っていた。
 しかし、白雪の死を笑う妹が、もはや化け物にしか見えない。
 鈴音は、本当の意味で鬼となってしまった。
 だから胸に宿る感情はたった一つ。

“憎い”

 ただ純粋に、あの鬼女が憎い。
 沸き上がる憎悪だけが、今の彼には全てだった。
 
 彼女が胸に隠した想いなぞ、知る由もない。
 鈴音の想いを知らぬ甚太にとって、目の前にいる『あれ』は狂気に囚われた異物。
 だからこそ彼は大切な妹を憎むべきモノとして正しく憎悪する。
『あれ』は愛した人と大切な妹を同時に奪った化け物なのだ。
 
 思い至った瞬間、甚太の体が躍動する。
 踏み込み、鬼女の首へ一閃。
 ぱきん、と頼りない音が響く。横薙ぎに放たれた刀は真っ二つに折れていた。白くしなやかな鈴音の腕が、やはり目にも映らぬ速度で刀身を叩き折ったのだ。

「にい、ちゃん……?」

 顔色に変化はない。いきなり斬り掛かった甚太を、ただ不思議そうに小首を傾げ眺めていた。
 殺す気で放った一刀をいとも簡単に防がれる。やはり勝てない。勝てる訳がない。十二分に理解し、尚も憎しみが心を埋め尽くす。
 折れてしまった刀を投げ捨てる。武器はなくなった。しかし戦う手段はまだある。頭ではない他のどこかがそれを知っていた。

「無様なものだ。惚れた女を守れず、大切な家族を失い、自分自身さえ踏み躙られた。私には、最早何も残されていない……」

 構えもせず、だらりと腕を放り投げる。
 めきっ、気色の悪い音が響いた。
 体が熱い。しかし憎しみに満ちた心は、不気味なほどに平静だった。
 筋肉が、骨が、呻きを上げる。
 奇妙な音をたてて甚太の体が変化していく。正確に言えば腕が、である。左腕の肘から先が赤黒く変色しめきめきと音を立てながら筋肉が躍動する。
 しかし動揺はない。
 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。
 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。
 だから、これは当然の帰結だ。 

「ああ、違うな。一つだけ残ったものがあったよ」

 赤黒く筋骨隆々とした鋼の腕。人では持ち得ぬ鋭い爪。
 変容した甚太の腕は、あの時斬り落とした鬼の腕によく似ていた。

 ───人よ、餞別だ。持って往け

 否、それは真実鬼の腕だった。

「お前が、憎い」

 見開いた眼は血のように、鉄錆のように、赤い。
 彼の人としての時間はそこで終わる。
 その身は既に異形。
 甚太もまた、憎悪をもって鬼へと堕ちた。

「……え?」

 戸惑ったような言葉を洩らす。彼の変化に理解が及ばないのか、或いは自分を憎いという兄への疑問か。不安そうに揺れる声だった。
 甚太は妹の様子なぞ気にも留めず、自身の変化した左腕を見詰め、そして納得したように一度小さく頷いた。
 今になってようやく分かった。
 何故、あの鬼が敗北しながらも『成すべきことを成した』と満足げに逝ったのか。その理由を今更ながらに理解する。
 そもそも、あの鬼の目的は甚太を倒すことなどではなかった。

<同化>

 その<力>には別の使い方が在る。
 他の生物を己が内に取り込むことが出来るのならば、他の生物に己を溶け込ませることもまた可能。最後の瞬間腕が襲いかかってきたのは、甚太を殺す為ではなく、自身の一部を<同化>させる為だった。

 それがあの鬼の狙い。
 おそらく、鬼へと転じる下地を作ることこそが真の目的。
 そして甚太は目論見通り自身すら焦がす憎悪に呑まれ鬼へと堕ちた。
 此処に勝敗は決した。
 斬り伏せたことで勝ったつもりになっていた。しかし先の戦いにおいて、真の勝者は甚太ではない。
 あの鬼を殺した時点で、彼は既に敗北していたのだ。
 思わず自嘲の笑みが零れた。息まいて鬼を討ちに行っておきながら、掌の上で踊らされた己の馬鹿さ加減に呆れてしまう。

「情けのないことだ……しかし、今はお前の餞別に感謝しよう」

 前傾姿勢を取る。
 半身になり左肩を鈴音に向け、腕をだらりと放り出す。

「おかげで刀がなくとも『あれ』が討てる」

 鬼の腕に何が出来るのか、彼は既に知っている。奴は、<同化>を正しく使わせる為に態々語って聞かせてから逝った。
 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。
 そしてこの腕が現在所有する唯一の<力>は、

「……<剛力>」

 呟いた一言に異形の腕が更に膨れ上がる。
 鬼の左腕が更に隆起する。沸騰する筋肉、躍動する腕は次第に膨張していく。その急激な変化は左腕が一回りほど巨大になったところで止まる。
 もはや人ではない。甚太は左腕だけが異常に発達した、左右非対称の異形となった。

「どうしたの? なんで」

 そんな眼ですずを見るの?
 大好きな兄が自分を睨みつけている。もしかして怒らせてしまったのだろうか。
 でも、何故兄は怒っている? その理由が分からない。

「すずはただ、にいちゃんのために」

 だから覚束ない足取りで甚太の方へよろよろと近付き、鈴音は必死に言い訳をする。

「あの売女を殺しただけで」



 憎い。



「もういい、黙れ」

 妹の言葉を切って捨てる。比喩表現ではなく、多分その時、真実彼は何かを切って捨ててしまったのだろう。
 憎しみは更に膨れ上がる。鈴音もまたそれを感じたのか、悲しそうに唇を噛み俯いた。

「そっ、か……。結局、にいちゃんもすずを捨てるんだね。にいちゃんは、にいちゃんだけは、すずの味方でいてくれるって思ってたのに……」

 縋るような想い。煩わしい。愛しい筈の妹の所作、その全てが苛立たしく感じられる。
 甚太は何も語らず、ただ眦を更に鋭く変えた。沈黙を返答にしたのだろう、鈴音は俯き悲痛な呻きを上げる。

「ならいい。いらない。もう何も信じない。貴方がすずを……私を拒絶するならば、現世など何の価値もない』

 纏う空気が目に見えて変わった。
 語り口からは幼さが抜け、俯いたままでさえゆったりとした余裕が垣間見える。
 鈴音は、白夜の頭を無造作に投げ捨てた。殺してやる。彼女もまた、一緒になって何かを捨てた。

『そして、貴方にも』

 そうして顔を上げたのは、妹ではなく鬼女。赤い目に映るのは、明確な憎しみだった。
 鬼女の細くしなやかな指が強張りその爪が鋭さを増した。刃物の如く鈍い輝きを持つそれは、確かに刃物の如き切れ味を持つのだろう。
 互いは互いへの憎悪を隠そうともせず対峙する。
 硬直は僅か数秒、鈴音の左足が板の間を蹴って駈け出し、それだけの所作で二体の鬼の距離は一瞬で零になった。
 ひゅっ、と軽妙な音が空気を斬る。高く掲げられた腕を勢いに任せて下へと振るう爪撃。
 鮮血。爪が胸元を切り裂く。鮮血が宙を舞い、しかし命には届かない。左足を大きく引いた分傷は浅かった。
 鬼女は一撃では止まらない。視界の中で姿がぶれ、気付いた時には既に間合いの外だった。速い、ただ速い。およそ体術など意識していない粗雑な動きが、だというのに呆れる程の速さを誇る。
 再度音が鳴る。肉薄し、爪を振るい、すぐさま離れる。その度に裂傷は増えていく。襲い来る凶手。だが甚太は避けようともしなかった。
 と言うよりも、彼にはその攻撃を避けられる程の身体能力がない。鬼となり目は付いて行くようになったが、鈴音の方が生物として格上。尋常での立会において勝機など欠片もない。

『もう、いいでしょう?』

 距離を取り一度動きを止めた鈴音は、憐れむような視線を向けた。
 貴方では私に勝てないと、濁った瞳が語っている。
 分かっている。そんなこと、今更言われるまでもない。元治にも白雪にも、鈴音にも。いつだって勝てたことなんてなかった。

『命を粗末にすることもない。今なら……』
「黙れと言ったぞ」

 返す言葉は鉄のように硬く冷たい。
 合理なぞ端から持ち合わせていない。憎しみに突き動かされる心が望むは一つ、苦悶に歪む仇敵の面だけだ。

『そう……なら、いい』

 鬼女の表情が悲痛に歪む。そして今度こそ意思を固めたのだろう、一直線に駆け出し、殺意の籠った瞳で甚太を射抜く。
 次いで鈴音は左手を下から大きく振るう。
 今迄よりも更に速度を増した一撃。当然の如く避けられない。
 だが、それでいい。
 鈴音の爪が腹に食い込む。走る痛みに表情が歪む。違う、彼の顔はただ憎しみによって歪んでいた。 
 そもそも初めから彼には攻撃を躱す気などなかった
 先程爪を躱せたのは偶然、足を引いたのが功を奏しただけ。
 元より避けることなど考えていない。足を引いたのも回避ではなく攻撃の為。左腕を引き、体を捻り、足は床をしっかりと噛んでいた。
 人であった頃ならば体は引き千切られていただろう。しかし鬼となった今、その体躯は以前よりも遥かに頑強。爪は皮膚を裂き臓器に達したが、かろうじて体は繋がっているし、まだ動くことも出来る。
 そして内臓に突き刺した爪が臓物や筋肉に絡め取られ、ほんの一瞬だが鈴音の動きが止まる。
 だから躱す気などなかった。
 どんなに速くても、止まった相手ならば確実に当てられる。
 この瞬間をこそ待ち侘びていた。

『……っ』

 鈴音も気付いたらしい。
 距離を取ろうと後ろに下がる。その挙動は確かに“速い”、だが此方の方が一手“早い”。

「がぁっ!」

 血を吐きだしながらの短い咆哮。
 踏み込んだ瞬間、板張りの床が軋み割れた。
 赤の目は金髪の女を捉えている。左腕が音をたてて唸った。<剛力>によって肥大化した膂力。その全てを余すことなく拳に乗せ、鈴音の豊かな胸の下にある鳩尾へと叩き込む。
 めきょ、という嫌な音と感触。
 皮膚を破り肉を裂き臓器を潰し、背骨まで到達する衝撃。
 鬼女の体はいとも簡単に吹き飛ばされ、夜来が安置されていた神棚へと突っ込んだ。逃げるどころか防ぐことも出来なかった。

 ───じゃあ試しに殴ってみて? こつん、くらいでいいから。

 或いは、どんなに怒っていたとしても。兄が自分を本気で殴るなど、想像さえしていなかったのかもしれない。
 社殿の奥で舞い上がった埃、その向こうで倒れ込む鬼から一寸たりとも視線は外さない。十二分に手応えはあった。
 しかし、命には届かなかった。

「まだ立つか」

 女は平然と、と言う訳ではないが、風穴の空いた体で立ち上がった。腹からは今も血が流れている。立ち上がった鈴音はただ目を伏せ佇んでいた。
 そうか、いくら見目麗しい女であってもあれは鬼。首を落とすか心の臓を穿つか。もしくは頭を潰すくらいせねば死なぬということか。
 ならばもう一度だ。
 再度構え、一足で懐に飛び込む。
 甚太は憎しみに顔を歪め、拳を振るう。狙うは頭部、その小奇麗な顔を吹き飛ばす。
 対して鈴音は動かない。元よりこれだけ距離を詰められれば避けることなど叶わない。
 これで終わり。
 そう確信し、尚も憎しみを持って鈴音を睨みつけ、

『何度も悪いけど、やっぱりさせないわ』

 またも響く声。
 いつだったかと同じように、いつの間にか現れた鬼女に邪魔をされた。
 だが拳は止まらない。振り抜いたそれは確かに肉を潰す感触を味わう。

「貴様……」

 鈴音の頭部を砕く筈だった拳は代わりに、咄嗟に割り込んだ鬼女の心臓を貫いていた。腕を抜き、次撃を放とうにも腕は鬼の体でしっかりと固定されてしまっている。無理矢理に引き抜きたかったが剛力の持続時間が切れたのか、膂力が極端に下がっていた。
 相変わらず、鈴音は佇んだままだった。何の反応も示さないが、鬼女は静かに語りかける。

『ね、鈴音ちゃん』

 心臓を潰した。鬼の命はもう長くないだろう。事実鬼女からは白い蒸気が立ち昇り始めている。しかし死を目前にして、それに見合わぬ優しげな語り口だった。

『逃げなさい。憎いでしょう、壊したいのでしょう? だったら今は逃げて傷を癒せばいい。今の貴女はまだ自分の<力>に目覚めていない。でも百年を経れば鬼は固有の<力>に目覚める。貴女ならもっと早く手に入れられるかもしれない。その後に改めて貴女の憎むものを壊せばいい』

 その言葉に、鈴音はようやく動きを見せた。
 甚太の横を通り過ぎ、一度捨てた白夜の頭を拾い上げ、社殿の出入口へと向かう。

「待て、鈴音!」

 彼の声に立ち止まったのは、最後の未練か。
 金縛りにでもあったように鈴音は体を強張らせる。目を瞑り、かつて在った幸福を噛みしめ、一度深く息を吸った、
 遠い雨の夜。
 捨てられた自分。
 手を繋いでくれた兄。
 あの夜から、鈴音にとって甚太は全てだった。彼さえ傍にいてくれればそれでよかった。それだけで父に棄てられても、友達と一緒にいられなくても。貴方が触れてくれるだけで、私は幸せだった。


 ───でも、私が信じてきたものは幻だった。


 兄もやはり私を捨てた。結局、自分には最初から居場所などなかったのだと思い知り、大きく息を吐いた。
 鬼は言う。お前が憎むものを壊せと。
 あの鬼女ではない。憎悪をもって鬼へと堕ちた他ならぬ己自身が叫んでいる。
 白雪が死んだ今、何を憎むべきなのか。
 残された憎悪が向かう先を探す。
 しばらく立ち止まったまま思考を巡らせ、それに気付き鈴音は眉を潜めた。
 鈴音にとって甚太は全てだった。
 ならばこそ、全てに裏切られた今、彼女の憎むものは決定した。

『私は、貴方(すべて)を憎む。だから全てを壊す』

 それが答え。
 全てを憎むならば、全てを壊すが道理。

『人も、国も、この現世に存在する全てを私は滅ぼす。そうしないと私は前に進めない』

 そうして最後に、兄の姿を瞳の奥へ焼き付ける。
 本当に、大切だった。
 貴方がいれば、それでよかった。
 なのにどうしてこうなってしまったのか。

『……忘れないで。どれだけ時間がかかっても、私はもう一度貴方に逢いに来るから』

 揺れる感情をそっと言葉に乗せる。
 きっと真意は伝わらなかったと思う。けれど振り返ることなく、鈴音は完全に消え失せた。


 ────にいちゃん、すずはね。ただにいちゃんに笑って欲しかっただけなんだよ。


 去り際、舌の上で転がすように呟いた想いは誰にも届かなかった。




 鈴音がいなくなったことを確認し、ようやく鬼女は体から力を抜いた。
 腕を引き抜けば支えをなくした体は崩れるように倒れ込む。体からは今も白い蒸気が立ち昇り続けている。鬼女は、その生を終えようとしていた。

『あはっ……あはははははは。やった、やったわ。あたし達やったわよ! やった……あたしは、あたしの成すべきことを成した!』

 鬼は狂ったように笑う。
 高らかな声が癪に触った。甚太は沸き上がる衝動を抑えられず、鬼女へと叩き付ける。

「これが、貴様等の成すべきことだと言うのか……こんなことが!」

 白夜が死に、甚太は鬼となり鈴音と殺し合う。
 こんなくだらない惨劇を作り上げることに、何の意味がある。
 砕けそうになるほど奥歯を噛み締める。しかし鬼女は叩き付けた激情など意にも介さず、飄々と語ってみせた。

『あははっ、ええ、そうよ。貴方達には悪いけど、ね』

 同情はしていた。それでも鬼女は止まれなかった。
 鬼は、鬼である己からは逃げられない。
 一度成すと決めたなら、例え何があっても成す。彼女もまた、そういう生き物だった。
 だから同情はしても、鬼女の瞳には一切の迷いがなく、声にも淀みはない。

『あたしの<力>は<遠見>……だからあたしには見えるの。これから先、この国は外の文明を受け入れ発達していく。人工の光を手に入れ、人は宵闇すらも明るく照らすでしょう』

 先程まで笑い転げていた鬼女は、静かに息を吐いた。
 疲れたような、寂しげな、得も言われぬ表情。細められた目は、きっと遥か遠くを眺めている。

『でもね、早すぎる時代の流れの中であたし達鬼はついていけない。発達し過ぎた文明に淘汰され、その存在を消していく。人口の光に照らされて、あやかしは居場所を奪われて。そうしていずれあたし達は、昔話の中だけで語られる存在になるの』

 穏やかな語り口は、逆に決意めいた強さを感じさせる。
 甚太は、変化した鬼女の空気に戸惑っていた。
 呑まれていると表現した方がより的確かもしれない。
 鬼女の所業を許せる訳ではない。しかしいつの間にか怒りは鳴りを潜め、口を挟むこともできずにいる。

『だけどあたしはそんなもの認めない。鬼と人が相容れなくても、ただ黙って淘汰なんてされてやらないわ』

 そこまで言って、鬼は甚太の瞳を見据えた。

『あたしが見た景色を教えてあげる。今から百七十年後、あのお嬢ちゃんは全ての人を滅ぼす災厄になる。貴方は長い時を越えてあの娘の所まで辿り着く。そして貴方達兄妹は、この葛野の地で再び殺し合い、その果てに……永久に闇を統べる王が生まれるの。あたし達を守り慈しむ鬼神が』

 だから鈴音の鬼としての覚醒を促し、甚太が鬼になるよう舞台を整えた。
 鈴音は鬼神として、この身は捧げられる贄として。
 悔しいが、自分は鬼達の思い通りに動かされていたのだ。

『貴方はあたし達を憎むでしょう。でも鬼神は遠い未来で、あたし達の同朋を守ってくれる。これでもう、いずれ訪れる人の光に怯えることはない』

 笑っている。
 先程までの狂気に満ちた笑いではない。実に満ち足りた、己の生涯を全うした老人のように穏やかな笑みだった。

「お前……」

 もはや怒りは欠片もない。
 それが本当の話なら。この鬼達は最初から自分達の欲望ではなく、ただ己の大切なものの為に動いていたのか。
 だとすれば、己と鬼に何の違いがある。

『あたしは満足。同朋の未来を守れたわ……』

 希望の籠った声音だけを残して、鬼女の死骸は溶けて消えた。
 本当は、最後に何か声をかけてやろうと思った。しかし何も言えなかった。名を呼んでやりたかったが、名前など知らないことに気付く。
 そう言えば先だって洞穴で斬り殺した鬼の名も分からないままだった。
 身命を賭し、同朋の未来のために戦った誇り高き者を、今まで甚太は名も無き有象無象として切り捨ててきた。
 その事実が想像以上に自身を打ちのめした。

 それからいったいどれだけの時間が過ぎただろう。
 社に残されたのは甚太だけだった。
 人はいない。
 ……ひとは、いない。
 改めて社殿を見回し、暗闇の中で倒れる白夜の姿を視線に留め、覚束ない足取りで近付く。

「白…雪……」

 首は引き千切られ、胸には夜来が突き刺さったままだ。流石にあんまりだろうと夜来を引き抜き投げ捨てる。
 そして片膝をつき彼女の体を抱え起こす。
 彼女の香はもう感じることができない。代わりに血の匂いが鼻を突いた。

「あ……」

 手をそのまま背に滑らせ抱き締める。胸元に溜まった血が体に触れる。冷たくて熱い、奇妙な感覚。彼女の血が、鈴音の付けた傷跡から自身へと溶け込んでいくようだった。
 今も声が聞こえる。

 もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。

 そうだ、私は……俺は何にも出来ない。
 彼女がいなければ何一つ出来ないのだ。
 こんな堅苦しい言葉遣いを始めたのは、いつきひめになった白夜に、少しでも見劣りしないようにと気を張っていたから。
 鬼を倒せるように自身を鍛え上げたのは、幼くとも葛野を守る為その身を捧げた白夜に見合う強さが欲しかったから。
 生き方は曲げられなかった。でもその生き方を支えてきた想いは一つ。

「俺は、お前が好きだった」

 ただそれだけ。たったそれだけのことが甚太の真実だった。
 本当に、好きで。誰よりも、大切で。
 叶うならばいつまでも傍にいたかった。

「白雪ぃ………」

 だけど現実はどうしようもなく冷たい。
 何が巫女守だ。何が誓いだ。俺に何が出来た。惚れた女を守ることも出来ず、大切な家族を己が手で傷付けた。




 ───俺は、何一つ守れなかった。




 思い知り、堰を切ったように涙が溢れ、ただ甚太は叫び声をあげた。

「あ、ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 夜に鬼の慟哭が響く。
 白夜の亡骸にただ縋りつくしかできぬ己はあまりにも無様で、しかしそれを止める術を知らなかった。







[36388]      『鬼と人と』・9(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/06/08 16:28




 夢を見る。




 私は、あなたの、夢を見る。
 朝のひととき。穏やかな時間。陽射しの悪戯。


「おはよ、甚太」
「白雪。おはよう」


 何気ない挨拶。嬉しくて。私は笑う。


「しかし慣れないな。起きてすぐお前の顔があるというのは」
「なんで? 夫婦なんだから当たり前のことでしょ」
「そうだな。……当たり前のことなのにな」


 空々しい声。寂しさに沈む。でもあなたは笑う。


「なにかあった?」
「いや。ただ……夢を見ていた」
「夢?」
「ああ、怖い夢だ」


 いつかの景色。まどろみの日々。胸を過る空虚。


「お前が何処かにいってしまう夢だった」
「それが怖い夢なの?」
「私にはそれが一番怖い」


 手を握る。握り返す。温もりに涙零れて。


「本当にどうしたの、甚太? 今日は甘えんぼだね」
「そうだな……いや違う。本当は、いつだってお前に触れていたかった」


 それを願っていた。でも叶わなかった。朧に揺らめく。


「うわぁ、恥ずかしい台詞」
「茶化すな。……だが私は幸せだ。お前が傍にいてくれる」


 頬が染まる。顔が熱い。だから胸は暖かい。


「私も甚太と一緒にいられて幸せだよ」
「……そうか。本当に。ずっと、こんな日が続けばいいのにな」


 陽だまりの心地良さ。触れ合える距離。でもきっと。





「それでも、貴方は止まらないんだよね?」





 いつまでも、夢を見たままでは、いられない。

「白雪」
「貴方はいつまで此処にいられる人じゃないもの。だってそうでしょう? 甚太は私と同じ。自分の想いよりも、自分の生き方を優先してしまう人……だから立ち止まれないし、今まで貫いてきた生き方を変えられない」

 不器用で。無様で。でも必死に意地を張って。
 私達はいつだってそうだった。
 二人はそうやって歩いてきた。 

「だが私はお前を、それを亡くしてしまった。大切な家族、守るべきもの、刀を振るう理由。私には、何一つ残ってない」
「ううん、違う。今はただ見失っただけ」
「だが」
「そんなに怖がらないで。甚太ならきっと、答えを見つけることができるよ」

 握った手と手。どちらからともなく離れる。でも心は近付いて。

「大丈夫、私の想いはずっと傍に在るから」

 そうして、いつかのように、柔らかく笑う。

「貴方は、貴方の為すべきことを」

 そこで終わり。
 意識が白に溶け込む。零れ落ちそうな光の中で、目の前が霞んでいく。

 或いは選んだ道が違ったのなら。
 この夢のように、夫婦となって二人幸せに過ごす未来もあったのかもしれない。
 でもそんな幸福は選べなくて。小さな願いが叶うことはなく。
 ぱちんと、水泡(みなわ)の日々は弾けて消えた。

 けれど想いは巡り、いつか私の心はあなたへと還る。
 だから寂しいとは思わない。

 そうしてまた眠りにつく。
 木漏れ日に揺れながら。 
 私は、あなたの、夢を見る。



 ◆



 不意に訪れた目覚め。
 夢の名残を纏いながら、ゆっくりと意識が覚醒していく。いつの間にか意識を失ってしまっていたらしい。社で泣き崩れ、そのまま眠っていたようだ。
 致命傷と思えた腹の傷は既に塞がりかけていた。程無くすれば完治するだろう。遠くなった死に、己が本当に人ではなくなってしまったのだと否応なく思い知らされる。胸の奥が軋む。苦々しく表情を歪め、薄暗い本殿を見回せば、近くには現実が転がっていた。
 白夜の亡骸が、彼女を殺した夜来が傍にあった。
 溜息を吐き、すくりと立ち上がる。
 眠ってから一刻といったところか。まだ夜は明けていない。板張りの上で直に眠っていたせいか、体が冷えている。しかし何故か暖かいと思った。 
 夢を見ていた。
 誰かを妻に娶り、穏やかに暮らす夢。
 けれど夢の中で彼女は言った。
 貴方はいつまでも此処にいられる人じゃない。
 成程、確かにその通りだ。
 最後の最後で自分の想いよりも自分の生き方を選ぶ、そういう融通の利かない男だ。
おそらく、甚太はこれからもそうやって生きていく。きっと今際の際までも変わらぬのだろう

「悪い、行ってくる」

 だから小さく零し、甚太は社を後にした。
 涙はもう乾いていた。



 ◆



 一夜明け、いつきひめの訃報は集落に伝わっていた。
 葛野の繁栄を願う巫女の死は皆に衝撃を与えた。元々いつきひめは白夜の家系が一手に担ってきた役柄である。白夜が年若く後継を生んでいなかったこともあり、その動揺は大きい。
 集落の権威達は白夜の遺体を弔った後、次のいつきひめをどうするかを話し合っている。 
 彼らは白夜の死ではなく葛野の繁栄を願ういつきひめの不在をこそ嘆いていた。つまるところ自分達の生活を支えるものがなくなってしまった不安こそが動揺の正体。仕方のないこととはいえ、それを甚太は少し寂しく感じた。

「さて、と」

 社で崩れるように一晩を過ごしてしまった甚太は一度自宅に戻り、着替えを済ませていた。
 普段の着物に布の手甲、脚絆に三度笠。風避けの合羽を身に纏う。
 振り分け籠(現代で言う旅行鞄)には手拭いや麻紐を数本、扇子や矢立てなどの小物を少々。替えの着物や草鞋、薬品類や晒し、旅提灯に蝋燭、火打石などを用意している。全財産を懐に入れて、路銀が足りなくなった時の為に葛野の鉄製品も用意した。葛野の鉄製品は高く売れる。しばらくは食い繋げるだろう。
 二つの籠を紐で繋ぎ肩に掛ける。これで準備は整った。
 本来なら自身の愛刀を腰に携えるのだが、今まで使っていた刀は砕けてしまった。新しいものを調達せねばなるまい。
 粗方の支度を終えて、玄関へと向かう。草鞋を履き、立ち上がって、最後に一度後ろを振り返った。
 十五の時に移り住んだ家。僅か三年ではあったが思い出はある。妹と過ごした幸せな時間だった。過る思い出、しかし溜息と共に郷愁を吐き出す。

「未練だな」

 自ずから手放した幸福だ。懐かしむことは許されない。けれど誰もいない家の中に、あの無邪気な笑顔がまだ残っているような気がした。
 ただ、それを想うと、黒い何かが胸で蠢く。
 くだらない感傷を振り切り、引き戸を開け、我が家を後にする。すると前からちょうど集落の長がやって来た。
 長は左手に刀袋を持ち、神妙な面持ちで甚太に近付く。

「長……」
「昨夜のことは清正から聞いた」

 正面で立ち止まり前置きもなく、沈んだ調子で言った。
 長は既に鈴音が鬼となったことを知っているようだ。しかし表情に険しさはなく、どこか物寂しい印象を受ける。

「話を聞かせてくれ」

 躊躇いはあった。しかし集落を取りまとめる長には知る権利があるだろう。甚太は隠すことなく、ぽつりぽつりと話し始める。
 鈴音が白夜を殺したこと。自身もまた鬼へと転じたこと。鬼が語った未来。
 荒唐無稽な話に長は黙って耳を傾ける。そうして聞き終えた後、しばらくの間逡巡し、一転真っ直ぐに甚太を見据えた。

「お主はこれからどうする」

 出で立ちを見れば分かるだろうに敢えて問うたのは、決意のほどを知るためだろう。
 だから間髪を入れず、揺るぎなく言い切った。

「葛野を出ます」

 衝動的なものではない。そうせねばならぬと心に決めた。
 全てはいつか訪れる未来、妹と再び出会う時の為に。
 今は故郷を切り捨てでも、前に進まなくてはいけない。

「鬼は百七十年の後、葛野の地に闇を統べる鬼神が現れると言いました。そして鈴音は、現世を滅ぼすと」

 鈴音。その名を口にするだけで黒い感情が渦巻く。
 大切だった。なのに、こうも憎い。惑う自身の心を見ない振りするように、静かに目を閉じる。
 瞼の裏に在りし日の面影を写し、しかし選んだのはそれを踏み躙る道だ。

「幸いにしてこの身は鬼。寿命は千年以上ある。ですから私は往きます。いずれこの地に降り立つであろう鬼神を止める為に」

 つまりは、妹と対峙する。それが甚太の選んだ道だった。
 守りたかった筈のものは消え失せて、残ったのはその程度。
 所詮は、刀を振るうしか能のない男。そういう生き方しかできないのだ。

「まずは江戸へ。私の世界は狭く、技も心も未熟。数多に触れ、今一度己を磨き直そうと思います」
「よいのか。その話が真実ならば鬼神とは」
「……けじめは、つけねばならぬでしょう」

 絞り出した声に滲む感情。
 長は眉を顰め、嘘は許さぬと真剣な表情で問うた。

「だがそこに在るのは義心ではなかろう」

 人を滅ぼす鬼と対峙する。成程、耳触りのいい言葉だ。
 しかしその根底にあるのはただの憎悪。お前はただ鈴音が憎いだけではないのか。
 見透かすような目、辛辣な言葉。痛いと感じたのは、紛れもない真実だから。

「……かも知れません」

 平静を演じて見せても、声の硬さは隠せない。
 胸には消しようのない憎しみが在る。私怨と言われればそれまでだろう。

「憎しみに身を委ね、妹を斬る。甚太よ、お主は本当にそれでいいのか?」

 対峙する、などと誤魔化してみても結局はそういうこと。
 鈴音が人を滅ぼすと謳うならば、立ちはだかることは斬ると同意。
 お前は何を考えている。強い口調で詰問する長に、甚太は困ったような、場違いな笑みを浮かべた。

「私にも、分からないんです」

 素直な答えだ。自分のことなのに、何一つ分からない。
 風が吹く。初夏の薫風は肌を撫ぜ、しかしその心地よさも鬱屈とした心持を拭い去ってはくれなかった。

「鈴音は、大切な家族で。けれど白雪……姫様を殺された。その憎しみが確かに在ります。今も憎悪が私を追い立てるのです───あの娘を殺せと」

 風の向かう先を捜すように空を見上げた。
 流れる雲。空はただ遠くに在る。晴れ渡る青を眺めながら、甚太は静かに言の葉を紡ぐ。

「故に振り抜いた拳を間違いとは思わない。ですが、間違いと思えなかったことを、ほんの少しだけ後悔もしているのです」 

 白夜を奪われ、自身を踏み躙られ、しかし鈴音を想う心も決して嘘ではない。
 なのに後から後から憎しみは沸き上がって。斬ることを肯定も否定もできずにいる。
だから甚太は“討つ”と明確な表現を避け、“対峙する”と逃げた。鈴音を放っておけないと理解しながらも、自身の在り方を決められなかった。

「安心したぞ」

 長はそういう曖昧な態度を、殺すと言い切れない甚太の迷いをこそ喜んだ。
 安堵の息の混じった穏やかな声に視線を地上に下ろせば、そこには初めて見る柔和な笑みがある。

「鬼に堕ちたお主は殺戮を是とするのだと思った。しかしまだ残っているものがあるらしい」

 本当に、そうなのだろうか。
 愛した人。大切な家族。守るべきもの。刀を振るう理由。自分自身。何もかも失くしてしまった。
 その上、妹を憎み斬り殺そうと考える男に何かが残っているとは思えない。
 もし残っているとすれば、淀むような憎悪だけだ。

「鈴音を、殺したくないのだろう?」

 情けないが、明確な答えは出てこなかった。
 家族でありたいと思いながら、ただ只管に殺したいとも願う。そのどちらもが本心で、矛盾する感情に甚太は唇を噛む。

「やはり答えは返せそうにありません。今の私には、あの娘を許すことは出来ない。けれど躊躇いもあります。もう一度出会った時、どうすればいいのか。憎悪の行方も、刀を振るう理由も。本当に、何一つ分からないのです」

 そう、何一つ分からない。
 何もかも失い、憎しみだけが残り。
 鬼神を止めねばと思いながらも、斬るかどうかさえ決められず。

「ですが叶うならば、斬る以外の道を探したい」

 しかし鬼となった今でも、人の心は捨て切れぬ。

「憎しみは消えない、けれど心は変わる。今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれない。だからもう少しだけ、答えを出すのは後にしようと思います」

 胸に淀む憎しみを消す手立てなど本当にあるのだろうか。疑いながらも“討つ”ではなく“対峙する”と言った。
 最後の希望か、単なる未練だったのか。今の甚太には何も分からない。
 けれど信じていたかった。
 鬼神を止め、しかし鈴音を救える未来があるのではないかと。
 これだけ憎いと思いながら、まだ淡い夢に縋っている。 

「そうか。……では再び出会った時、鈴音が鬼神と為り果てていたならばどうする」

 夢は夢。どうしようもない現実を突き付けられる。
 もしも長い歳月の向こうで、鈴音を許せたとして。 
 彼女を心から救いたいと思えたとして。
 尚も鈴音が滅びを願ったならば。人を滅ぼす災厄、鬼神と成り果てたのならば、お前はどうするつもりなのか。

「私が其処まで追い詰めた。ならばこそ、けじめはつけねばなりません」

 知れたこと。
 兄として。同じく鬼へと堕ちた同胞として。
 救うにしろ、殺すにしろ、最後の幕はこの手で引かねばならない。

「もしも道行きの果てに、鈴音が滅びを願う鬼神と為るのならば」

 迷いがないと言えば嘘になるだろう。 
 だからこそ、あやふやな決意の輪郭を縁取るように、はっきりと口にする。

「私が……あの娘を討たねばならぬでしょう」

 再び大切なものを斬り捨てる。
 そうなれば、己も生きている訳にはいくまい。
 弔いとしてこの首を彼女の墓前に捧げよう。

「それを含めてのけじめか」
「はい。己が何を斬るのか、百七十年の間に答えを探そうと思います」

 目が前を向く。其処には決意の色が確かに在った。
 甚太の言葉に感じ入るものがあったのか、長はゆっくりと頷き、刀袋から一振りの太刀を取り出した。

「持っていくがいい」

 葛野の刀の特徴である、鉄造りの鞘に収められた太刀。
 戦国の頃より葛野に伝わる宝刀、夜来である。
 いつきひめが代々管理してきたこの太刀は、マヒルさまの偶像であり、集落にとって火女と同じく精神的な支柱だ。
 まかり間違っても外に出していいものではなく、だというのに長は平然それを手渡す。

「夜来は嘘か真か千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀だ。長き時を越えて往くお主の獲物にはちょうどよかろう」

 受け取った太刀から伝わる、ずっしりとした重み。
 冷たいはずなのに、事実金属の冷たさが肌に触れているというのに何故か暖かく感じる。

「抜いてみろ」

 言われるがままに鯉口を切り抜刀する。
 陽光を浴びて鈍く光る肉厚の刀身。波紋は直刃、切れ味はもちろんのこと頑強さを主眼に置いた造りとなっている。
 御神刀として安置されてはいたが、これは決して観賞用ではなく、寧ろ実践を意識して鍛えられた刀だった。

「夜来ならば生半な鬼に後れをとることもあるまい。ふむ……これでお主は夜来の正当な所有者となった。ならば慣例に従い以後は甚夜(じんや)と名乗るがよい」
「しかし、私が持っていく訳には」
「かまわん。いつきひめの家系が途絶えた以上それはただの刀。社で埃を被っているよりもお主に使われる方が余程いい。なにより……」

 一瞬の逡巡の後、長はおずおずと口を開く。

「その方が、姫様も喜ぶであろう」

 懺悔するような響きに、長が此処へ訪れた理由をようやく察する。
 集落の責任者としての役目ではない。彼は純粋に甚太を慮り来てくれたのだろう。
どうやら想像は外れていなかったらしい。まっすぐ真意を伝えるように、長は深く頭を下げる。

「済まなかった。お主と姫様が互いに想いを通じ合わせていたのは知っていた。しかし清正もまた姫様を想っていてな。儂は我が子可愛さに、清正と姫様の婚儀を進めた。葛野の未来などお為ごかし……この惨劇は、儂が招いたのだ」

 正直に言えば、長がそんな行動に出るとは思っていなかった。
 頭を下げて、微動だにしない。その所作には心底申し訳ないという気持ちが滲み出ている。
 曇りのない謝罪に気付く。
 長もまた戦っていたのだ。自分が大切に想う誰かの為に。

「顔をあげてください。貴方は息子の幸福を願った。ただそれだけでしょう」

 そうと知れたから、声音は自分でも驚くほどに穏やかだった。
 顔を上げた長の目には、まだ後悔が色濃く残っている。それを拭うように、甚太は首を横に振った。

「そして白雪もまた葛野の民の安寧を願って受け入れた。清正も彼なりに白雪を愛していた。そこに間違いなどなかった」

 そう、悔しいが。
 長の選択は決して間違いではなかった。それが我が子可愛さから出た行動だったとしても。……甚太自身の心を傷付けたとしても。誰かを大切に想っての行為が、間違いである筈がなかった。

「鬼達もまた同朋の未来を愁い戦った。皆、守るべきものの為に己が刀を振るっただけ。是非を問うことではありません」

 善いも悪いもない。誰もが守りたいものの為に刀を振るった。
 しかしその中で甚太だけが憎悪故に刀を振るい、守りたかった者を斬り捨ててしまった。自嘲の笑みが零れる。真に鬼と呼ばれるべきは、想いに囚われ憎しみをまき散らした自分だけなのかもしれない。

「すまん」
「もう過ぎたことです。それよりも、長はこれからどうなされるのですが」
「変わらぬよ。長として葛野を守るのが儂の役目だ。それが姫様の弔いにもなろうて。ただ」

 目にあった後悔は随分と薄れた。
 代わりに何かを思いついたらしく、にやりと意地悪く口元を歪める。

「そうだな、お主が長い年月の果てに葛野へ戻ってくると言うのなら、神社の一つでも建てようか」
「神社、ですか?」
「神社の名は……甚太とでもするか。うむ、そうしよう。甚太神社、語呂は悪いがそれもよかろう」

 くつくつと笑う長など初めて見た。
 口にするのも冗談のような内容。しかし長の表情は一転、真剣なものに変わっていた。

「時の流れは残酷だ。百年の後、ここはお主の知っている場所ではなくなっているだろう。人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない」

 きっと長は集落の行く末を思い浮かべているのだろう。しかし甚太にはその景色が見えない。
 目の前のことさえ覚束ないのだ。百年先など想像もできなかった。
 変わらないものなんてない。元治も、長と同じことを言っていた。
 多分、その言葉の意味を甚太はまだ理解し切れていない。

「だが瞬きの命とて残せるものもある。せめてもの侘びだ。いつか再び訪れた時、涙の一つも零させてやろう。楽しみにしているがいい」

 だから、その言葉の意図を推し量ることはできない。
 しかし踵を返し去っていく長は、普段と変わらないようだが、何処か楽しそうにも見えた。
 一人残され、ふと握り締めた夜来に視線を落す。
 曰く千年を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。その存在がこれからの年月を強く意識させる。

「重いな」

 人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない。
 何気ない言葉に、刀は少しだけ重くなった。



 ◆



「あの、甚太様っ!」

 長と別れ、集落の出口へ歩みを進める。
 その途中横切った茶屋の前で、ちとせに声を掛けられた。立ち止まり表情も変えずに返せば、彼女は俯いてしまう。

「どうした」
「あの、姫様のこと、その」

 白夜の訃報を耳にしたらしい。狭い集落だ、或いは鈴音が消えたことも既に聞き及んでいるのかもしれない。
 わたわたと何処か落ち着きない様子で、口ごもり続けるちとせ。落ち着かせるように、甚太は小さく笑みを落とした。

「甚太様……」
「私は何一つ守れなかった。だからそう呼ばれる資格なんてもうないんだ」

 しかし笑ったつもりでも顔の筋肉は強張って、歪な自嘲となってしまった。
 強がるならもう少し上手くやれればいいだろうに、儘ならないものだと口元を釣り上げる。

「悪い、ちょっと行ってくる」

 散歩にでも出かけるような気軽さで別れを告げる。
 あまりの軽さに頼りなく思えたのか、ちとせは不安げに甚太を見た。

「……甚太にい、帰ってくる?」

 縋るような目だった。
 あまりに真っ直ぐすぎて目を逸らしてしまう。無様なこの身を慮る色が今は耐えられなかった。

「また今度、磯辺餅でも食わせてくれ」

 答えにもならない答え。そんなものしか返してやれない自分が、心底情けない。
 けれどちとせは笑った。意味するところを理解しているだろうに、気丈に振る舞う。

「うん、今度は一緒に……だから、いってらっしゃい」

 潤む瞳。いってらっしゃい。いつか、それと対になる言葉が返ることを期待しているのだと分かる。分かるから何も言わず背を向け、軽く手を上げることで返事にした。

“その時には。俺が、お前を守るから”

 守れもしない約束を交わす気にはなれなかった。
 背中に注がれる視線を感じながら、しかし歩みは止めない。白夜が死んだせいで慌ただしい集落。時折すれ違う人々はなにやらひそひそと話ながら、陰鬱な表情でこちらを見る。大方守るべきものを守れなかった情けない男を侮蔑しているのだろう。
 五つの時に流れ着いた、今は故郷となった場所。
 だというのに、この地へ恩を返すどころか最悪の事態を引き起こし逃げるように離れる。
 なんと無様な。しかし今は行かねばならぬ。揺れる心を抑え込み、辿り着いたその先には。

「清正……」

 折れた腕を三角巾で固定したまま、清正は立っていた。
 待ち伏せされていたのだろう。視線は甚太に真っ直ぐに射抜いている。
 鬼女と戦い、敗れたというのは長から聞いた。だが鬼女は彼を殺さなかった。何故かは分からない。衛兵を殺しておいて、何故清正だけ生かしたのか。
 もしかしたらあの鬼女は、あの大鬼も、誰も殺す気はなかったのではないだろうか。

 社の警備を殺したのは、本当は───

 奇妙な妄想。頭を振って追い出す。過ぎたことだ、今更考えても仕方無い。

「出ていくのか」

 力の無い声だった。
 まだ痛みがあるのか、表情は歪んでいる。

「ああ」
「どこに行くんだよ」
「そうだな……まずは江戸へ向かう。話によれば江戸にも鬼は出るらしい。それらを討ちながら己を鍛え直そうと思う」
「鈴音ちゃんを斬るためにか」

 甚太は口を噤んだ。斬りたくはない。だが憎い。
 自分がどうしたいのか、明確な答えがない。何を言っても嘘になるような気がして、清正の問いに返すことが出来なかった。

「あまり動くな。怪我に触る」

 誤魔化すようにそれだけ言って横を通り過ぎようとするも、体で道を塞がれた。眉を潜め、文句の一つも言ってやろうと清正の顔を見て、何も言えなくなった。
 清正は泣いていた。
 拭うこともせず、ただ涙を零していた。

「……俺、お前が嫌いだった。強くて冷静で、鬼だって簡単に退治しちまって。後ろ盾なんてないのに皆に認められるお前が。なにより……白夜に想われてるお前が大嫌いだった」

 声は震え、途中でつっかえながらも、なんとか言葉を絞り出す。
 恥も外聞もなく、清正は泣きながら訴えかけていた。

「でも別に俺はお前から白夜を奪いたいなんて思ってなかった。俺は、俺はただ白夜が好きだったんだ……一緒にいれたらよかったんだ、それだけで幸せだったんだよ。なのに、俺は…俺は……」

 悔やむような声音に気付く。
 ああ、そうか。
 本当は、この男も結婚など望んでいなかったのだろう。
 清正は純粋に白夜が好きで、大切に想っていた。伝わらなくていいと思えるくらい、大切な想い。彼女が其処にいるだけで幸せだった。
 例え報われなくとも、白夜への恋慕は時が流れれば過ぎ去りし日々として、美しい思い出となって記憶に埋もれていくだけ。多分、清正はそれで十分に満足していたのだろう。
 しかし清正は集落の長の息子。
 本人の意思とは関係なしに、彼の地位はいつきひめに触れられるほど高かった。手を伸ばせば本当に届いてしまった。
 皮肉にも、それこそがこの男の不幸だったのかもしれない。

「私もだよ、清正」

 自然、そう口にしていた。

「え……?」
「ただ一緒にいたかった。それだけを願っていた……それで、よかった」

 たとえ男女として結ばれることがないとしても。
 巫女守として、白雪であることを捨てた白夜の決意を守りたかった。
 どんな形であれ、彼女と共に在ることが出来たなら。
 甚太もまた、それだけで幸せだったのだ。
 一度、ふうと息を吐く。清正と話していても苛立った気分にはならない。寧ろある種の安堵さえ感じていた。

「もっと話せばよかった。そうすれば」

 こんな結末にはならなかったのかもしれない。
 口にしようとして、思い直し首を振った。飲み込んだ言葉はただの夢想に過ぎないし、清正を責めることにしかならないだろう。

「或いは、お前を友と呼ぶこともあったのかもしれない」

 代わりに、落すような笑み。誤魔化しではあったが同時に本心でもあった。同じ想いを抱え、同じ痛みを共有した。ならばきっと二人は分かり合えた筈だった。

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」

 悪態はついても、涙は流れても、その表情は穏やかな色をしている。
 最後に見る顔が、そういう晴れやかなものでよかった。おかげ少しだけ、足は軽くなったような気がした。

「では、な。もう逢うこともあるまい」

 清正の横を通り過ぎ、江戸へ向かう街道へと出る。
 流れ着いて、日々を重ねて、葛野の地はいつしか故郷となった。未練がないと言えば嘘になる。
 しかし、後ろ髪を引かれても歩みを止めることはしなかった。

「甚太っ!」

 背中に投げつけられる大声。
 涙を止められず、震えたまま。ひどく頼りない、けれど心から絞り出した叫びだった。

「鈴音ちゃんは、俺と同じだ……。俺が白夜のことを好きだったみたいに、あの娘もお前のことが好きだったんだよ。こんな事になっちまったけど、あの娘はお前が好きなだけだったんだ……」

 清正の叫びに喚起され、脳裏に映る妹の姿。
 大切な家族だと思っていた。
 しかし鈴音の想いは、甚太のそれとは違ったのだろう。
 であれば、気付いていなかっただけで、最初から兄妹は破綻していたのか。
 いや、考えても仕方のないことだ。
 甚太は浮かんだ思考を無理矢理に振り払う。
 きっと、そこには気付いてはならないものが潜んでいる。止まらない歩みは、過る不安から逃れようとしていたのかもしれない。

「だから……頼む。それだけは、忘れないでやってくれ」

 必死の懇願を受けながらも振り返らず、言葉を返すこともしなかった。出来なかった。
 鈴音の想いなど知りようもないし、甚太自身がどう見ていたかも今更だ。 
 過去がどうあれ、二人は互いに憎み合い鬼へと堕ちた。結局のところそれが全てだろう。

 鬼は言った。
 己が為に在り続けることこそ鬼の性。
 鬼は鬼であることから逃げられない。
 鬼となった今、その言葉の意味を真に知る。
 いつだったか、いっしょにてくれればいいと、鈴音は笑った。あの一言に救われた遠い雨の夜。共に在った幸福な日々。
 今もあの娘を想っていると自信を持って言える。鈴音は大切な家族だと、そう思っている。
 なのに、かつて慈しんだ無邪気な笑顔を思い出す度に安らぎを感じ、湧き上がる憎悪が胸を焦がす。
 最早それは感情ではなく機能。鈴音を憎むことで鬼と成ったこの身は、その憎しみから逃れることは出来ない。
 どれだけあの娘を愛し、大切に想っていたとしても。



 ───私は、そういう鬼なのだ。



 胸に在るのは曖昧な憎悪。
 鬼に成れど人は捨て切れず。
 あやふやな憎しみだけを抱き、旅の伴に夜来を携え、甚太は葛野の地を後にする。
 広がる街道の先は遠く、目指す江戸はまだ見えない。

「百七十年、か」

 そうして江戸より更に先、形すらない未来を想う。



『人よ、何故刀を振るう』



 遠く、声が聞こえた。

 いつか再びこの葛野の地で鈴音に出逢う日が来る。
 その時、己はどうするのだろうか。
 鬼としてこの憎しみを抱えて歩き、鈴音を切り捨てるのか。
 それとも鈴音を許し人へと戻る日が来るのだろうか。
 今は何一つ分からない。
 ただ願わくは、この道行の先で答えが見つかるように。
 眦を強く、前を見据える。



「先は長いな」



 小さく呟く。
 そうして甚太は────甚夜は長い長い旅路を歩き始めた。








 徳川の治世は少しずつ陰りを見せ始め、現世には魔が跋扈していた。

 江戸から百三十里ばかり離れた葛野の地で起こった一夜の惨劇。
 鬼の襲撃によりいつきひめと呼ばれる巫女の一族は絶え、集落は失意に塗れていた。
 巫女は火の神に祈りを捧げる火女。崇めるべき神と繋がる術を失った葛野はこれから緩やかに衰退の道を辿るだろう。 
 だが歴史という大きな流れから見れば、それは取るに足らない事柄。一つの集落の盛衰なぞ騒ぐようなものでもない。
 同じく、彼の道行きもまた瑣末な出来事である。
 葛野で起こった惨劇の後、青年は集落を出た。
 その行く末は誰も知らず、彼自身にさえ分からない。川に浮かび流れる木の葉の如く青年は漂流する。
 それは誰に語るべくもない。
 決して歴史に名を残すことの無い。
 鬼と人との狭間で揺れる鬼人の旅立ちであった。




 時は天保十一年。
 西暦にして1840年のことである。





 鬼人幻燈抄 葛野篇『鬼と人と』 了






[36388]  余談『あふひはるけし』(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/24 23:07
 

 そうして歳月は流れる。
 

 ◆


 昔々のお話です。
 ある村に一人のお姫様が住んでいました。

 お姫様にはいつも護衛がついていました。護衛の青年は幼馴染で、二人はとても仲がよく、中々屋敷の外へは出れなかったけど幸せな毎日を過ごしていました。
 
 でもそんな二人を遠くから眺めている者がいます。
 一人は村長の息子。
 村長の息子はお姫様が好きでした。だから青年のことが憎く、いつもいつも辛く当たっていました。

 もう一人は青年の妹。
 妹にとってもお姫様は幼馴染でしたが、兄がお姫様のことを好きなのが分かるから、大好きな兄を取られたような気がして寂しい思いをしていました。
 それでも表面上は何事もなく毎日は過ぎていきます。


 ある日のことです。村を二匹の鬼が襲います。鬼はお姫様を攫おうと考えていたようで、だから青年はお姫様を守るために鬼の根城へと向かいました。
 森の奥にある住処には、一匹の鬼が待ち構えていました。どうやらもう一匹は村へ行ってしまったようです。青年はなんとか鬼を打ち倒し、急いで村へと戻ります。


 ただ不幸だったのは、青年の敵が鬼だけではなかったということでした。

 
「これは好機だ」

 村長の息子は青年がいなくなったことを喜び、お姫様を自分のものにしようと動き始めました。村長の息子という立場を利用してお姫様に結婚を強います。お姫様はそれに逆らうことができません。そうして村長の息子はまんまとお姫様を手に入れたのです。

 それに憤ったのは青年の妹でした。
 ですがその怒りが向けられた先は村長の息子ではありません。

「なんでお兄様を裏切ったのですか」

 大好きな兄を傷付けるお姫さまこそが悪いのだと妹は詰め寄ります。
それは妹の意思だけではなかったのかもしれません。妹の傍にはもう一匹の鬼がいました。鬼は妹がお姫様を憎むように仕向けたのです。

 たとえ仕組まれたものだとしても妹の憎しみが治まることはありません。嫉妬の心に焼かれた彼女は次第に姿を変え、なんと妹は赤い鬼になってしまったのです。
 そして彼女はその憎しみのままにお姫様を殺してしまいます。

「妹よ、お前はなんてことをしてしまったのだ」

 そこで運悪く帰ってきてしまったのが青年です。自分の想い人が妹によって殺された。それを目の当たりにした青年は、妹を憎んでしまいます。そしてその憎悪の心から、青年もまた青い鬼になってしまいました。

 青鬼となった青年は、妹を誑かした鬼を討ち、そして赤鬼のこともまた切り伏せます。赤鬼は兄に憎まれてしまったことを悲しみ、彼の前から去っていきます。

「私は貴方を愛していました。だから貴方に憎まれたのなら、現世など必要ありません。私はいつかこの世を滅ぼすために戻ってきましょう」

 最後に、不吉な呪いの言葉を残して。
 そうして青鬼は愛した人を、家族を、自分自身さえ失くしてしまいました。
 鬼になってしまった彼は「もう人とはいられない」と旅に出たそうです。或いは、行方知れずになってしまった赤鬼を探しに行ったのかもしれません。


 以後の青鬼の行方は誰も知りませんが、江戸には人を助ける剣鬼の逸話がごく僅かですが残されています。おそらくこれは旅に出た青年が江戸に立ち寄った時のことなのでしょう。
 一説には、旅をする青鬼の隣にはいつもお姫様の魂が寄り添っていたそうです。

 これが葛野の地(現在の兵庫県葛野市)に伝わる姫と青鬼のお話です。


 

 河野出版社 大和流魂記『姫と青鬼』より

 

 ◆



 2009年・2月
 

 私の家は境内に桜の木が植えられた、市内でもそれなりに有名な神社だ。
 お父さんが神主でお母さんが巫女。うちは江戸時代から続く歴史ある神社らしい。私はあまり興味がないから謂れなんかは詳しく知らないけれど。

 参拝客の少ない日曜日の朝。
 何気なく境内を見てみると結構落ち葉が散らかっていたので、時間もあることだし私は竹ぼうきで掃除を始めた。一人で境内を全部掃くのは時間がかかるかと思ったけれど案外順調に進む。そうして小一時間もしないうちに掃除は終わり、一角にはこんもりと落ち葉の山が出来ていた。

「……寒いな」

 ぼやきながら私は悴んだ手に息を吹き掛けて温めた。
吐息は白い。流れる木枯らしが小さく砂を巻き上げげ、空には薄墨のような雲がかかっている。真冬の情景には色がなく、少しだけ寂しく見えてしまう。

「あら、みやかちゃん。境内の掃除してくれたの?」

 声の方に振り返ると、いつの間にかお母さんがやってきていて、綺麗になったわと微笑んでいた。

「ごめんなさいね、折角の休みなのに」 
「別に。やることもなかったし」
 
 自分でも素っ気ないと思う返し。こういう言い方しかできない私を、お母さんはくすりと笑う。

「ありがとう。でも、どうせならちゃんとした服を着ない?」
「いいよ、そういうのは」

 だって服というのはお母さんが今着ているもの、つまり巫女装束のことだ。流石にその恰好は恥ずかしい。お母さんは年齢よりも若いし綺麗だから似合うとは思うけど。私が着たって似合わないし、友達が訪ねてきたらからかわれるに決まっている。

「いいからいいから」
「ちょ、お母さん!?」
 
 まあどんなに拒否しても、ほぼ強制的に巫女装束を着せられてしまうのだけど。いつも笑顔で優しいお母さんは、その実ものすごく押しの強い人なのだ。

「お母さんはいつも強引なんだから……」

 結局無理矢理服を変えられてしまった。お母さんはにこにことご満悦だ。

「みやかちゃん、とっても似合ってるわよ」

 何の裏もなく褒めてくれているのだと分かっているけど、それでも恥ずかしいことには変わらない。私は呆れるように溜息を吐いた。

「お母さん」
「なあに?」
「前から思ってたけど、なんで私にそこまで巫女をやらせたいの?」

 ここは有名な神社だけど敷地自体は小さい。はっきり言って巫女の仕事もほとんどなく、行事ごとの時にアルバイトで来てもらうくらいで十分回っている。別に私が巫女をする必要はないと思うけれど。

「そうねぇ。それが、この神社に生まれた女の役目だから、かしら」

 私の疑問に穏やかな口調で答えてくれる。
 ゆったりと、優しく微笑むお母さんは娘の私から見ても魅力的だった。
 長い黒髪はまさに大和撫子という印象。こんな女の人が巫女なら参拝客も増えるかもしれない。
 でも私は背が無駄に高いし、長いのは同じでも髪は少し茶色がかっていて、とてもじゃないが巫女なんて似合わない。

「勿論、高校を卒業したらこの神社を継ぎなさい、なんて言わない。貴女は貴女の好きなように生きればいいと思うわ。でも、せめてここにいる時は巫女であってほしいの」

 境内に植えられた桜の木を眺めるお母さんは、何処か遠い所を見るような、心ここに非ずといった様子だった。
 かと思えば急に歩き始め、お賽銭箱の前で立ち止まり手招きをしている。呼ばれるままに渡しもついていく。お母さんはお賽銭箱の向こう側、木の格子の奥に在る御神体を眺めていた。私もそれに倣い視線を向ける。

「娘が生まれたなら名前には必ず『夜』を付けること。そして巫女を絶やさぬこと。この二つだけは決して違えてはならぬ」

 声の調子はいつもと変わらない。なのに何故か重々しく感じられる語り口だった。

「これが初代、つまり私達の御先祖様が取り決めたこと。私もお婆ちゃんに、この伝統だけは必ず守って、次の世代に繋いでいきなさいと教わったわ」
「なんで?」
「さぁ?」

 予想外の返答にどう反応すればいいのか分からなかった。もっと重々しい感じの話になると思っていたのに。

「なにそれ」
「何故かは私も分からないわ。でも分からなくてもいいの。この話をする時、お婆ちゃんは凄く楽しそうだった。だから私も守っていこうと思ったのよ」

 そう言ったお母さんは懐かしむような、とても穏やかな顔をしていた。
 お婆ちゃん。私からすると曾お婆ちゃんになるけれど、一体どんな人だったんだろう。

「それにね。私達には分からなくても、それを決めた誰かにとっては、この伝統はすごく大切だったんじゃないかと思う。なら守ってあげないと。伝統は守らなくてはいけないもの。でも本当に守るべきは伝統という形じゃなくて、そこに込められた想い」

 お母さんは私に向き直った。

「だから、私達は『夜』の名を継いでいくの。遠い昔に在った筈の想いが、長い長い道行きの果て、無意味なものに変わってしまわないように」

 そして穏やかさはそのままに、真剣さを増した瞳で私に語り掛ける。

「今度は、名も知らぬ誰かの想いを貴女が未来に紡いでいくのよ。美夜香(みやか)」

 ふわりと柔らかい笑み。
 絹のような肌触りは、きっと誰かの優しさなのだろう。

「お母さん」 
「さ、私はそろそろご飯の用意をしてくるわね」

 言いたいことだけを言って、満足そうにお母さんは家に戻っていく。

「……なんだかなぁ」

 残された私はどうすればいいのか分からず、ただ境内で立ち尽くしていた。



 ◆



 しばらくすると参拝客が訪れた。
 態々休みの日に、それも朝から神社にお参りなんて珍しい。
 真新しい制服を着た、背の高い男の子だった。
 襟元の校章は私が今年の四月から通う戻川高校のもの。もしかしたら同級生なのかもしれない。入学前にお守りでも買いに来たのだろうか。
 そう思っていると、何故か男の子は私の方に近付いてくる。
 なんで? もしかしてナンパの類?

「貴女は、ここの巫女ですか? 少し聞きたいことが在るのですが」

 私の予想は思い切り外れていた。
 しまった、私はまだ巫女装束のままだった。境内でこんな恰好をしていたら着てたら関係者だと思うに決まっている。
 仕方ない。声を掛けられたからには応対はしないといけないだろう。ただ、間違いは訂正しておこう。

「いえ、巫女じゃなくて、いつきひめです」
「いつき、ひめ?」

 疑問を浮かべる青年。
 それはそうだろう。いきなり言われたら何のことかは分からないに決まっている。

「この神社では巫女のことをそう呼びます」

 そう、この神社では巫女のことを「いつきひめ」と呼ぶのだ。その謂れはやっぱり分からないけれど、お母さんの話を聞いた後では分からなくてもいいかもしれないと思う。

「そう、ですか」

 男の子はいつきひめと噛み締めるように呟いた。
 そうして強く、けれど何処か縋るような声で問うた。

「済みません……この神社は、なんと、いうのですか?」

 私は小首を傾げた。
 鳥居の所に看板があるのに、見てこなかったのだろうか。まあ、意識していなかったら見ないものなのかもしれない。不思議に思いながらも私は素直に答える。



「はい。甚太神社と言います」



 その由来はいくら私でも知っている。
 かつて葛野市がタタラ場として栄えていた頃、集落の守り人の名にあやかって建てられたのがこの神社だ。
 葛野の民はこの神社を、甚太という人が葛野を守ってくれたのと同じように守っていこうと支えてきたらしい。

「そう、か」
 
 私の言葉に彼は目を瞑り、ただ静かに一筋の涙を零した。

「ありがとうございます、長。貴方は、本当に私の帰る場所を守り抜いてくださったのですね……」

 呟いた言葉は小さすぎて、私には届かなかった。少しだけ眉を潜めると、それまで無表情だった男の子は落すように小さく笑った。

「ありがとうございました。では失礼します」
「え? 聞きたいことがあったんじゃ」
「もう聞けました。貴女は、私が聞きたかった言葉を運んできてくれた」

 踵を返し、振り返ることなく、男の子は歩いていく。あまりにも堂々とした背中。多分同年代だと思うけれど、何故かすごく大きく見えた。

「なんだかなぁ……」

 なんか納得して帰ったようだけど、私は意味が分からないままで、またしても境内に立ち尽くすしかなかった。

「みやかちゃん、お昼ご飯出来たわよ……どうかしたの?」
「別に」
 
 ちょうどお母さんが呼びに来てくれたので、私は先程の遣り取りは忘れ家へ戻ることにした。
 気が付けば薄い雲は晴れて、冬の日差しが境内には満ちていた。





 
 そうして歳月は流れる。

 始まりから遠く離れ、原初の想いは朧に揺らめき、水泡の日々は弾けて消えた。
 変わらないものなど何処にもなくて。
 けれど小さな小さな欠片が残る。
 
 
 逢ふ日遥けし。

 
 出逢いの日は遥かに遠く。
 けれど故郷は今尚此処に。
 
 二人が本当に出会うのは、もう少しだけ後の話───


 

 余談『あふひはるけし』・了



[36388] 江戸編『鬼の娘』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/21 00:45

鬼が出る、という噂が流れ始めたのはいつの頃からか。




 天保八年、アメリカ船モリソン号が浦賀港へ侵入する。
 この事件を皮切りに天保十四年にはイギリス船サマラン号が琉球・八重山を強行測量、翌年にはフランス船アルクメール号が那覇に入港するなど、長らく続いた鎖国体制は破綻の兆しを見せていた。


 嘉永三年(1850年)・秋。
 ちらつく諸外国の影。まともな対応を取れぬ幕府。
 不安が少しずつ民の心を摩耗させたせいだろうか。
 江戸では「鬼が出る」という噂が実しやかに囁かれていた。
 元々江戸は怪異譚の多い都だ。信徒に狂う鬼女や柳の下の幽霊、夜毎練り歩く魍魎ども。数え上げればきりがないほどではあるが、しかしここ数年、その目撃談は異様と言っていい程に増加している。
 だからと言って江戸の民の生活は変わらない。
 皆不安を抱きながらも日々を繰り返していく。

 ただ誰もが漠然と理解していた。

 何かが、終わろうとしていると。





 
 甚夜が葛野を出て、既に十年の歳月が流れていた。



 ◆

 

 善二(ぜんじ)が日本橋の大通りにある商家・須賀屋で住み込みを始めたのは十歳の頃である
 小僧として使い走りや雑役に従事して早十年。二十歳になり手代を任せられた彼は生来の人懐っこい性格が幸いしたのか、問屋や顧客の覚えもめでたく次の番頭にと期待されていた。

「では、これからもよろしく頼んます」
「こちらこそ。善二さんが相手なら安心して商いが出来ます」
「はは、よしてくだせぇ。そんな大層な男じゃありませんて」

 日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋が並び、人の出入りも多い為せわしない印象を受ける。
 善二もまた朝早くから日本橋を訪れ問屋の主人と話し込んでいた。
 須賀屋は根付や櫛、扇子などの小物を取り扱っている。職人に直接一品ものを依頼する他にも、問屋から大量生産品を仕入れることも多い。当然問屋並びに足を運ぶことも多く、今ではすっかり裏通りの店主達と親しくなっていた。

「さて、帰って飯としますかね」

 発注を終え、帰り道を小走りで進む。朝から動き回って流石に腹が減った。今日の飯はなんだろかと鼻歌交じりに帰路を辿り、しかし店の前で足は止まった。

「って、なんだ?」

 須賀屋は通りに面した店と母屋を玄関棟で繋ぐ形の、比較的大きな商家である。店舗部は独立している為、滅多なことが無い限り常に玄関が開いている場合が殆どだ。しかし善二が戻ってきた時、まだ商いの時間だと言うのに店が閉まっていた。

 なんでだ? 

 疑問に思いながらも取り敢えずは店に戻る。鍵は閉まっていないようだ。ゆっくりと引き戸を開きながら、出来た隙間から中を覗き見る。
 中には二人の男がいた。
 一人は見知った顔、須賀屋の主人である重蔵だ。そしてもう一人は見たことのない、六尺はある大男だった。善二は五尺程度しかないため、頭一つは違う。細身に見えるががっしりとした首周りを見るに服の下は相当鍛えられているに違いない。

 旦那様、一体何話してんだ?

 刀を腰に携えたその男は、着物こそ綺麗に洗われているが髷を結っておらず、肩まで伸びた髪を後ろで縛っただけの乱雑な容貌だった。真っ当な武士ならばそんな髪型はしない。つまるところあれはよくて野放図な武家の三男坊、或いは真面な職に在り付けぬ浪人という所だろう。

 最初は因縁でもつけられているのかと思ったが、どうにもそういう雰囲気ではない。しかし商家の主人と浪人なぞ接点もあまりないだろうに、態々店を閉めてまで何を話しているのだろうか。

 もう少し隙間から様子を窺おう。
 そう思った矢先、大男がついと玄関へ視線を送り、思い切り目が合ってしまった。
 意識せずびくりと肩が震え、冷や汗が流れる。大男は善二に気付きほんの少しだけ眉を顰めた。まだ年若いようだがおよそ真っ当な生き方をしてこなかったのだろう。その眼光は刃物のように鋭かった。

「誰か、来たようですが」

 低い声で男が言う。
 そうなれば覗き見している訳にはいかず、引き攣ったような笑みで引き戸を開けた。

「はは、どうも。なーんか、邪魔しちまったみたいで」

 どうにも居た堪れなくて、ぺこぺこと頭を下げながら仕方なしに店へ入る。そんな善二に主人はいつも通りの重苦しい声で語りかけた。

「……善二か」

 須賀屋主人・重蔵。
 須賀屋を一代で築き上げ、五十に届こうという歳でありながら未だに表に立って動く根っからの商人である。刻み込まれた眉間の皺が苦労を感じさせる、厳めしい面をした男だった。

「あっと、ただいま戻りました。旦那様。こちらは?」

 特に怒った様子もない。安堵し軽く息を吐いた。そして視線を大男に送り尋ねれば、眉間の皺を更に深めて重蔵が答える。

「今回雇った浪人だ」
「は?」

 思わず間抜けな声を零してしまう。
 雇った? 意外過ぎる答えに上手く頭が回らない。

「ああっと……店で働くんで?」
「阿呆。学もない浪人にそんな真似が出来るか」

 本人を目の前にしてそりゃねぇだろう。
 そこの青年も気分を害しているのではないかと横目で表情を盗み見る。しかし当の本人は然して気にした様子はなく、表情も変えていなかった。

 浪人というから気性の荒い男かと思えば実に冷静だ。年の頃は十七か十八といった所か、自分よりも年下に見えるこの青年は、目の前で侮辱の言葉を吐かれても気にしていない様子だった。

「奈津に付けるのだ。これはそれなりの剣が使えるらしい」
「御嬢さんに?」

 奈津というのは重蔵の娘である。といっても血は繋がっていない。生まれて間もない頃、家族が不幸に逢い、天涯孤独となった彼女を重蔵が引き取ったのだ。
 顔に似合わず重蔵はこの娘を溺愛しており、奈津の我儘は大抵受け入れてしまう見事な親馬鹿ぶりである。
 其処まで考えて、浪人を雇う理由に思い当たる節があった。

「ああ、もしかして例の?」

 重蔵は重々しく一言「うむ」とだけ答えた。
 成程、納得がいった。つまりこの浪人は護衛役という訳だ。

「後は任せる。奈津は血こそ繋がっていないが本当の子供と同じくらいに大切な娘だ。しっかりと守れ」

 厳めしい面はそのままに言い捨てる。
 その言葉を受け、大男は静かに頷いて返答とした。折り目の付いた所作に満足したのか、重蔵はほんの少しだけ口元を緩めた。彼にしては珍しく、楽しげな表情だった。

「詳しい話はお前からしておけ」
「いや、でも、そういうのは旦那様からするのが筋じゃ」
「しておけ」
「……はい、畏まりました」

 一睨みで反論を封じられ、頷くしかなかった。
 そうして店の奥へと下がる重蔵の足取りは、何故かいつもより軽いように思えた。
 二人の遣り取りを無言で眺めていた浪人へと向かい合う。

「すまん。悪い人じゃないんだが。っと、俺は善二、須賀屋の手代を任せられてる」
「甚夜(じんや)と申します」

 言いながら浪人──甚夜はしっかりと頭を下げる。
 ほう、と善二は息を吐いた。浪人といえばごろつきのような輩を想像していた。しかし無表情ではあるが最低限の礼儀は弁えた青年である。
 多少警戒を解き、にっかりと笑って見せる。

「おう、よろしくな。早速だけど、旦那様からどんだけ話聞いてる?」
「娘が鬼に襲われようとしているのでそれを討ち払え、くらいでしょうか」

 呆れて溜息を吐いた。
 世間体を考えれば秘するべき奈津との関係を簡単に話してしまう癖に、肝心の依頼の内容は全く伝えていない。あの人は何をやってんだ。

「ほんとに何も話してないんだな……。なら、簡単にだが説明させてもらうよ。あんたに頼みたいのは奈津お嬢様の護衛なんだ」
「奈津……店主殿の娘、でしたか」
「ああ、今年で十三になる。ちょいと生意気だが可愛い娘さんだよ。聞いての通り血は繋がっていないけどな」
「奈津殿のご両親は?」
「何でも生まれて一年も経たないうちに亡くなったそうでね。それを旦那様が引き取ったって話だ。んで、だ。その御嬢さんが言うには、どうにも夜な夜な『鬼が出る』らしい」



 そうして善二は事の起こりを話し始める。

 鬼が出る。
 奈津がそう言いだしたのは昨日のことである。
 初めは奈津の部屋、廊下側の障子に黒い影が映ったというだけだった。奈津自身夢でも見たのだと思い然して気にしてはいなかった。

 二日目。影は昨夜よりも大きくなっている。障子の向こうは庭。つまり何者かが庭におり、段々と近付いてきているのだ。影は人の形をしている。だから奈津は思った。ああ、あれは鬼なのだ、と。

 三日目。流石に怖くなり奈津は父に言った。「鬼が出る」。重蔵は苦渋に顔を歪め、対策を取ると約束した。
 その夜のこと。唸り声と共に再び鬼は現れる。
 そして、やけにはっきりと通る声で言ったという。






『娘ヲ返セ』





「娘を返せ……」
「ああ。つまり鬼は奈津御嬢さんを娘だと思って攫おうとしてるって訳だ」

 何事かを考えているのか、甚夜はえらく真剣な表情で話を聞いている。

「あんたはその為の護衛ってことだ。本当に出るのかどうかは分からないが、まあ、護衛付けて旦那様や御嬢さんが安心するならそれでいいさ」
「その物言いからすると、善二殿はあまり信じていないようですが」
「ああ、いや、まあ……な」

 図星を突かれたせいで歯切れの悪い返しになってしまった。
 正直な所、善二は鬼の話をあまり信じてはいなかった。
 そもそも彼は須賀屋に住み込みをしており、しかし昨夜鬼の声が聞こえたなどと言うことはなかったのだからそれも仕方ない。
 奈津は十三歳。子供というほどの歳でもないが、まだまだ父親に甘えたい頃だろう。
 だから「鬼が出る」というのは奈津の狂言で、ただ単に父親の関心を引きたかったのではないかと思っていた。

「ま、まあ、俺がどう思っていようが構わないだろ? 大事なのは奈津御嬢さんなんだから」
「確かに、そうですね」

 納得したのかしていないのか、無表情のままで甚夜は頷いた。

「しかしなんだな。目に入れても痛くないくらいに溺愛してる御嬢さんの護衛を、なんで浪人なんぞに任せようと思ったのか」
「浪人だからでは? まさか鬼が出たと奉行所に助力を乞う訳にもいかぬでしょう」
「あぁ、そりゃそうか」

 言い方は悪いが、金で転ぶ浪人くらいしかこんな話を受けなかったというだけのこと。その中でもまだマシだったのがこの男なのだろう。

「っと、悪い。流石に失礼な物言いだった。一応言っとくけど別に馬鹿にしている訳じゃないぞ? 旦那様の性格からすると考えられないってだけで」
「いえ、お気になさらず」
「そっか、ならいいんだけどよ。あと、話し方も普通でいいって。堅苦しいのは苦手でね」
「商家の手代がそれでよろしいのですか?」
「んな大層なもんじゃないって、小僧が少なかったから俺が選ばれたみたいなもんだし」
「それだけの理由で選ぶような人ではないと思いますが」
「ま、確かに。あんまりの謙遜は旦那様に失礼か、と話が逸れたな。なんにせよ俺は気安い方がいいんだ」

 甚夜は少しの間逡巡していたが、やがて納得したように小さく頷いた。 

「ではお言葉に甘えて」
「まだ硬いが、まあいいか。さ、話してばかりでも仕方ないな。そろそろ御嬢さんの所に行く」
「善二っ!」
「悪い。行く必要なくなった」

 店に年若い女の声が響いた。
 視線を向ければそこには品のいい茜色の着物を纏った少女が、目の端を釣り上げて立っていた。

「あー、御嬢さん、ただいま戻りました」
「遅い。ちゃんと早く帰ってきなさいって言ったでしょう」

 相変わらずの態度である。この少女は気が強く、歳上の善二にも命令口調で話す。
 生意気、気が強い。須賀屋の者達が抱く印象はそんなところである。もっとも善二自身は然程気にしてはいないのだが。

「いや、そんなお袋じゃあるまいし。あと一応俺仕事してきたんですけど」
「何か言った」
「いいえー、別にー」

 じろりと睨まれ、思わず苦笑いが零れた。
 血が繋がっていないという割には、父親張りの視線の鋭さである。

「ところで、そこの人は? お客じゃないんでしょう?」

 言いながら奈津は甚夜に訝しげな視線を送っている。
 というのも、彼は正に浪人といった出で立ちである。浪人というのは殆どが真面な職に付けぬ食詰め者。印象が悪いのも仕方のないことではあった。

「あーと、旦那様がお嬢様につけろと」
「お父様が?」
「はい。護衛ですよ、鬼が出ると仰ってたでしょう」
「ふうん。随分若いけど」
「はぁ、旦那様が言うには相当な剣の使い手らしいですが」
「本当にぃ?」
「ええ、まあ」

 いや俺も見た訳じゃないですけどね、とは言わなかった。敢えて疑惑を強めるようなことは言わなくてもいいだろう。

「そう、じゃあ帰ってもらって」

 ふいっと首を横に向け、吐き捨てるように奈津は言った。

「って、お嬢様。いきなりそれは」
「護衛につくって、つまりずっと一緒にいるってことじゃない。いやよ、どうせ金目当てで胡散臭い話に飛びついたごろつきでしょう? でもお生憎様。あんたに払うお金なんて一銭もないわよ」
「いや、別に御嬢さんが払うわけじゃ……あと、旦那様が選んだんだから、ごろつきってほどじゃないと思いますよ。というか自分で胡散臭いとか言っちゃうんですね」
「いちいち五月蠅いわね。とにかく浪人が護衛なんて嫌」

 自分も人のことを言えないが、親娘揃って辛辣な物言いだ。そう思いながらも雇われの身、下手に諌めることも出来ない。だからなるたけやんわりと進言する。

「しかしですね。折角旦那様が御嬢さんの身を心配してくださったんですから」
「どうしてもっていうなら善二がつけばいいじゃない。あんたなら別にいいわ」
「あー、いや、俺弱いですよ?」
「あっそう、ならいい。そいつは早く追い出しなさいよ」
 
 不満気に頬を膨らませ、奈津は部屋に戻っていく。男二人、どうすることも出来ずに立ち尽くす。
 その一方的な態度は、重蔵のそれとよく似ていた。

「血は繋がってないという話だが、親娘は似るものだな」

 二人のやり取りを黙って聞いていた甚夜は、無表情をほんの少しだけ崩して、なんとも微妙な顔でそう言った。

「……なんか、つくづくすまん」

 返す言葉もなかった。



 ◆


 
 夜は深く、江戸の町はいっそ不気味なまでに静まり返っている。
 草木も眠る頃になり、しかし眠れないまま奈津は布団の上で膝を抱えていた。
 夕食後は自室に籠っていたが一向に眠気は訪れない。寧ろ夜が深くなる程に不安が募る。日を追うごとに庭の影は大きくなっている。今度はこの部屋に鬼が入り込むのではないだろうか。自身の想像に肩を震わせていた。

 生意気。気が強い。普段の言動からそう思われている奈津だが、所詮は十三の娘。決して傍目程に強い訳ではない。
 物心つく前に家族を失い、だから一人になるのが怖くて。
 重蔵に引き取られ家族を得て、だから捨てられるのが怖くて。
 怯えてばかりの自分が嫌いで、だから必死に外面を強気な自分で取り繕って。
 素直な自分を出せなくて、だから人に好かれている自信が無くて。
 外面からは思いもしないくらいに彼女は鬱屈とした感情を抱き、しかし意地を張って平気な振りをする。奈津はそういう少女だった。

「御嬢さん」

 不安に沈み込む思考が男の声に引き上げられた。
 
「善二?」

 障子越しの声に顔を上げる。
 声の主は善二。奈津が四歳の時に須賀屋へ来た男である。

「まだ寝ていないんですか?」
「あんたこそなにしてるのよ、こんな夜更けに」
「いや、まあ。護衛の真似事でもしようかと」

 その返しに呆気を取られる。
 奈津の部屋は障子側が中庭に面している。障子に映った影を見るに、善二は中庭を監視するように座り込んでいた。鬼が現れた庭を、である。

「……なんで?」
「御嬢さんが言ったんでしょう。俺が付けばいいって」

 先程の浪人は帰した。元々善二は鬼が本当に出るとは思っていない。だから護衛などいなくても然程問題はなかった。

「それは、そうだけど」
「剣の心得なんざありませんが。ま、盾くらいにはなれますよ」
「善二……」

 軽く笑えば、安堵したような声で奈津が呟く。しかし素直になれなくて、刺々しい憎まれ口に変わる。

「ふん、どうせあんたも私が嘘を吐いているとでも思ってるんでしょ」
「いや、あー……」

 善治は口ごもった。
 事実だった。だから上手い返しが出来ない。

「お父様も嘘だと思ってるからあんな浪人をあてがったのよ。そうに決まってるわ」

 声は悔しさに耐えるようなに、怯えるように震えていた。

「いえ、それは違うと思いますよ」

 すぐさま否定する。確かに自分は鬼が出るなんて信じ切れてはいないが重蔵は違う。

「旦那様は御嬢さんのことをいつも心配して、いつも気にかけてます」

 力強い言葉。けれどそれをそのまま受け取れるほど強くはなれなくて。

「でも、私は」

 ───あの人の本当の子供じゃないし。
 
 飲み込んだ言葉。傍から見れば重蔵は十分に奈津を大切にしている。しかし血の繋がりが無いという負い目か、奈津はそれを認められないでいた。

 両親が死んだのは物心がつく前だったから、本当の親がいないと悲しんだことはない。奈津にとって本当の親とは重蔵のことだった。
 
 けれど聞いてしまった。
 須賀屋の使用人は言っていた。重蔵には、今は出て行ってしまったが息子がいたと。
 だから思う。
 もしかしたら私は、本当の子供の代用品なのではないか。
 だからあの人は、私が想うほどには想っていてくれないのでは。
 不安が消えることはない。

 ああ、いっそのこと──






『返セ』





 やけにはっきりとした声が聞こえた。

「あ、ああ……」

 来た。やっぱり今夜も来てしまった。

「御嬢さん、どうしたんで?」
「来た、来たのっ!」
「来たって何が……っ!?」

 一拍子遅れて善二もまたその声に気付いた。



『娘ヲ』



「おいおい……まさかだろ」

 善治は思っていた。
 奈津は仕事にかまけて自分を見てくれない父に心配してほしくてあんな嘘を吐いたのだと。
 だから護衛など意味がない。
 大切なのは奈津が安心できるようにしてやることだ。
 そう思っていた。
 だから、まさか。

 本当に鬼が来るなんて考えてもいなかった───!



『返セ……!』
 


 一体何処から現れたのか。
 空気が滲み、闇夜が揺らめき、浮かび上がるように鬼は姿を現した。
 酸でも浴びたように爛れた表皮をした鬼。その外観からは男か女かも定かではない。四肢を持った肉塊が腕を突き出し、何かを求めるようににじり寄る。

『娘ヲ…返セ……!』

 いや、何かではない。
 この鬼は娘を、奈津を手にしようとしているのだ。
 どうすればいいのかは分からない。しかしとにかく立ち上がり善二は身構える。

「ぜ、善二」
「御嬢さん、部屋から出たらいけません!」

 思わず叫んだが遅かった。
 既に奈津は障子を開け、醜悪な鬼の姿をその眼で見てしまった。

「ひぃ……」

 叫び声にもならない。引き攣った声が漏れただけだった。
 善二は庇うように奈津の前に立ち、立って、立って……後はどうすれば?
 あんな化け物を前にして俺に何が出来る?
 分からない。何も分からない。足が震える。なんだこれ。混乱する意識。けれど鬼は止まらず距離が縮まっていく。

『娘ヲ……』

 俺、此処で死ぬのか?
 恐怖で頭がどうにかなりそうだ。だけど御嬢さんを見捨てて逃げるなんて選択肢は選べない
 鬼がまた近付く。

『返セ……!』

 ああ、もう駄目だ。
 


 突き出された鬼の腕が消えた。




「……あ?」

 善二は死を覚悟し、しかし次の瞬間、鬼の腕が地面に転がっていた。

 一体何が?

 目の前にふらりと人影が現れる。
 突然の出来事に理解が追い付かない。
 意識の外から現れた影に驚愕し、その姿を認めれば思わず呆気にとられる。
 影は、背丈六尺はある総髪の大男だった。
 腰に携えた鉄鞘に納められた刀。
 その出で立ちには見覚えがある
 あれは、先程の浪人ではないか。

「一応聞いておこう。名はなんと言う」

 先程の会話とさほど変わらぬ調子で大男は問い掛ける。しかし鬼は答えない。返せ返せと同じ言葉を繰り返している。

「まあ、元より期待はしていないがな」

 ふう、と一度溜息を吐いた。異形を前にしてあまりにも平静過ぎる男。その立ち振る舞いがあまりにも普通だから、ほんの少しだけ奈津の恐怖は薄れていた。

「あんた、さっきの浪人……?」
「今は押し売りだ」

 大男は緩慢とも思える動作で刀を構える。
 それが自分を斬った獲物だと理解したのか。
 先程までゆっくりとしか近付いてこなかった鬼が、突如として大男に飛びかかった。

「あぶ……!」

 ない、とは続けられなかった。
 一太刀。僅かに一太刀。鬼の動きに合わせ一気に踏み込み、唐竹に振るわれた刀。善二が気付いた時には異形は両断され、地に伏せっていた。

「つ、つえぇ……」

 尋常ではない。
 男は鬼を刀一本で振り払った。その姿は、まるで読本の中に描かれる嘘くさい伝説を持った剣豪そのものである。
 そして振り返り、鬼の死骸を背にした浪人──甚夜は表情を変えることなく静かに言った。


「さて、私の腕はいくらで買ってもらえる?」
 



[36388]      『鬼の娘』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/21 00:51
 
 夜の庭。転がる鬼。刀を構えた男。
 星明かりの下に映る非現実的な光景。

「さて、私の腕はいくらで買ってもらえる?」

 何気ない調子で男が言う。
 それが「あんたに払うお金なんて一銭もない」と言ったことに対する皮肉だと気付くには、少しばかり時間がかかった。

「……嫌なやつ」

 目の前の脅威が去って、ようやく落ち着いた奈津の返しは負け惜しみにもならない言葉だった。

「それはないでしょう、御嬢さん。助けて貰ったんですから」

 善二も平静を取り戻し彼女の失礼な物言いを諌める。

「ていうか、甚夜、だったか。お前なんでここに?」
「私の雇い主は重蔵殿だからな。善二殿に帰れと言われても従う訳には」
「……つまり帰ったふりして庭に隠れてたってか?」
「まあ、な」

 帰ったふりをしてこそこそ隠れ、庭でずっと鬼が出るのを待ち構えていたらしい。想像するに結構情けない姿だった。

「まあいいや、助かった。正直あんな化けモンが出てくるとは思ってなかったしな」
「……やっぱり、嘘だと思ってたんじゃない」

 安堵してしまったが故に零れた言葉だった。非難がましい奈津の視線にぎくりとする。失言だと気付いた時には既に遅かった。

「あ、いや、それは、ですね」

 誤魔化そうとして、彼女の表情にそれすらできなかった。歯を食い縛り俯く姿は痛みに耐えるようで、その痛みを与えたのが自分だと分かるから口を噤んでしまう。

「別にいいけどね、もう終わったことだし」

 ふいと視線を逸らす。そう言いながらも横顔からは落胆と寂寞が見て取れた。信じて貰えなかった、その想いが彼女の胸中に昏い影を落としていた。

「あの、御嬢さん」
「終わってなどいない」

 弁明に声が被さる。
 その主は鬼の死骸を鋭く睨み付けていた。

「何言ってるの? 鬼は今あんたが斬ったでしょう」

 鬼は動かない、完全に息絶えている。しかし甚夜の表情は未だ刀を納めてはいなかった。

「見ろ」

 言われた通りに二人は鬼に視線を送る。するとおかしなことに気付いた。鬼の体の向こう側、地面が見えている。つまり鬼は透明になっているのだ。

「おいおい、なんだ?」

 死骸は更に色褪せ、夜に紛れるような自然さでその体躯が消えていく。そうしてものの数十秒で鬼の死骸は完全に存在しなくなった。

「死んだ、の?」

 奈津の呟き、横に首を振って返す。

「鬼は死ぬと白い蒸気になって姿を消す。今迄、それ以外の死に方をする鬼なぞ見たことが無い」

 しかし今の鬼は白い蒸気など出さなかった。
 それは、つまり。

「どういうからくりかは分からんが、あれはまだ死んでいないということだ」
「じゃあ、あの鬼は」
「当然また来るだろうな。鬼の狙いが、その娘である限りは」

 緩んでいた空気が再び張り詰めた。
 その中で甚夜は血払いに刀を振るい、ゆっくりと納刀する。柔らかく滑らかなその所作に、時間の流れまで緩やかになったような気がした。

「奈津殿、といったか。悪いが、今度は無理にでも護衛に付かせてもらう」

 声は鉄のように硬かった。



 ◆



 一夜明け、庭に面した縁側に甚夜は座り込んでいた。
 寝ずの番をしていたが、結局鬼は姿を現さなかった。あの鬼は今まで夜にしか現れなかったという話だ。ならば夜が明けた今なら多少は安心できる。
 とは言え鬼が死んでいないことに間違いはなく、状況がよくなった訳ではない。まだまだ予断は許されない、といった所だ。

 すぅ、と背後で障子の開く音がした。奈津が目を覚ましたのだろう。振り返れば、何処か陰鬱な様子の少女は声もかけずに歩き始めた。

「何処へ」
「顔、洗ってくる。付いてこないでよ」

 ぴしゃりと言い放つ。
 既に朝だ、昨夜の鬼が出ることはないだろう。そう思い、「ああ」と短く返す。
 そうして再び庭を見やる。
 整然とした庭には郷愁を呼び起こす風情がある。和やかな心地で眺めていると、戻ってきた奈津がゆっくりと隣に腰を下ろした。

「眠れたか?」
「少しは」
 
 髪も梳かさず寝巻のまま。少女は沈んだ表情をしていた。無言の時間が続く。

「お嬢様、お待たせしました」

 沈黙を破ったのは甚夜でも奈津でもなく、なにやら盆を運んできたまだ童の域を出ない須賀屋の小僧(使用人)だった。

「それ、こいつのだから。置いたらもう下がっていいわ」
「はい」

 言われるままに盆を二人の間に置いて小僧は去っていく。盆の上には二つの握り飯と漬物、急須と湯呑があった。

「これは?」
「朝ごはん」

 一言。意味を理解できず眉を潜めれば、苛立ったように言葉を続けた。

「だから、お腹減ったでしょ」

 どうやら顔を洗いに行く、というのは口実でこれを頼みに言っていたらしい。護衛の礼というところだろう。

「ありがとう」

 その心遣いに感謝し、小さく頭を下げる。すると奈津は何故か驚いたような顔をしていた。

「どうした」
「……浪人がそんな素直にお礼、言うなんて思っていなかっただけよ。なんか調子狂うわね」

 浪人、というところで粗野な人物だと思われていたようだ。それも仕方ないと思いながら、遠慮なく握り飯に齧り付く。
 奈津はまだ何処かへ行くつもりはないらしい。無言で食べている甚夜の隣に座ったまま。二人は並んで庭を見ている。

「やっぱり、今夜も来ると思う?」
「おそらくは」
「ふうん……」

 強がって興味のない振りをしても体は小さく震えた。
 全身が爛れた、醜悪な鬼の姿を思い出す。あんな化け物がまた来る。いや、それよりもあの鬼は言っていた。
『娘を返せ』
 両親は物心つく前に他界し、奈津はその顔を知らない。
 だから思う。あの鬼は、もしかしたら本当に───

「そう不安がるな」

 ひどく軽い、朝の挨拶のように何気ない口調だった。

「これでもそこそこ腕は立つ」

 どうやら鬼に『襲われる』のが怖いのだと勘違いしたらしい。
 的外れな気遣い、しかし納得もする。鬼の存在は確かに恐ろしいが、この男も規格外だ。善二は「相当な剣の使い手」と言っていたが確かにその通りだったようだ。

「強いのは認めるわよ。浪人なんてどうせ口だけで、何かあったらすぐ逃げ出すと思ってたけど。お父様の目は確かだったみたいね」

 素直な感想だった。言葉としては失礼なものだというのに、甚夜はまるで表情を変えない。浪人というけれど、この男は本当に理性的だ。それが妙に引っかかって、気が付けば問い掛けていた。
 
「怒らないの?」
「怒る?」
「だって昨日から私、結構ひどいこと言ってると思うけど。なのに全然怒らないから」
「自覚はあったのか」
「五月蠅いわね」

 強気な態度は臆病な自分を隠す為。そんなこと、ずっと前から自覚していた。自覚して尚改めることの出来ない自分の無様さが嫌で、だからまた乱雑な言葉を吐いてしまう。

「いいから答えなさいよ」
「ああ……」

 もう一度茶を啜り、然程気負うことなく甚夜は答えた。
 
「半分は演技だ」
「演技?」
「立ち合いの最中に感情を見せれば隙になる。だから普段から意識して平静であろうと努めている」
「表情を変えないのも剣の技の内ってこと?」
「そんなところだ」

 常在戦場の心構えとでもいうのか、江戸の世に在ってこうまで戦う為の剣を意識する者など珍しい。なんというか、言葉の意味は分かってもその考えは理解し難かった。
 ただ少しばかり引っかかるところはある。 

「……ちょっと待って。それってつまり内心怒ってたってことじゃない?」
「まあ、多少は」

 軽い、それこそ茶飲み話のような調子だった。
 だから逆に困ってしまう。
 どう返せばいいものか。怒っているというのなら謝るべきなのだろうが今更という気もするし、かと言って謝らないのも何か違う。なんとも反応に困る答えだ。

「気にしなくていい。得体の知れない輩を信用できないのは当然だろう」
「それは、そうかもしれないけど」

 続けようとして、結局何も言えず口を噤んでしまう。
 言葉に詰まる少女。甚夜は静かに笑った。自然に湧き上がる、落とすような笑みだった。

「なにがおかしいのよ」

 馬鹿にされたとでも思ったのか、奈津は目を細めて睨み付ける。とは言っても十三の少女、迫力なぞ微塵もなく、寧ろ我儘を言う子供のような印象を受けた。それが殊更おかしくて、自然と表情も柔らかくなる。

「いや、不器用なものだと思ってな」
「……ふん」

 気にするくらいなら最初から態度を考えればいい。大方そんな風に思っているのだろう。
 だけどそんなこと言われなく分かっている。
 奈津自身何度も思って、そして結局できなかったのだ。
 もう少し優しく。たったそれだけのことが奈津にはあまりにも難しかった。

「まあ生き方なんぞ易々と変えられるものでもないか」
「……あんたも?」
「ああ。変えられんままこの歳になってしまった」
「そんなことを言うような歳じゃないでしょ」
「そう、だな」

 声が僅かに強張る。それを疑問に思ったのか、奈津が不思議そうに問い掛けた。

「なんか私、変なこと言った?」

 そうではない。ただ少しだけ胸に痛かっただけだ。
 甚夜の外見は十年前葛野を出た頃から何一つ変わっていない。未だ十八のままだ。鬼となったせいだろう、彼の妹と同じく歳を取らなくなった。
 この身は最早人ではない。
 何気ない会話にそれを思い知らされてしまった。
 だから胸が痛む。その程度には、まだ人の心は残っていた。



「ふむ、打ち解けたようで何よりだ」

 丁度その時、しかめっ面をした男が店の方から歩いてきた。須賀屋主人、重蔵である。

「お父様」

 すぐさま奈津は立ち上がり、父の方まで歩いていく。

「おはよう。どうしたの、朝から?」
「様子を見に来ただけだ。奈津、昨夜は寝れたか」
「う、うんっ。お父様が、護衛の人を付けてくれたおかげで! 心配してくれてありがとう」

 既に聞かれた問いだがうんうんと何度も頷き答える。親子仲がいい、というには奈津のそれは若干行き過ぎているようにも思えた。

「そうか」

 厳めしい表情は変わらず、しかし声には満足そうな響きがあった。
 一度重々しく頷き、今度は甚夜を見る。

「よくやった」
「まだ終わった訳ではありません」
「ならば、しっかりと役目を果たせ」
「努力はします」

 無味乾燥な会話だった。しかも甚夜は茶を啜りながら目線も合わせない。

「あんた、お父……雇い主が話しかけてるのにその態度はないでしょ!」

 それを諌めたのは奈津だった。父に対しての無礼な振る舞い、言わずにはいられなかった。

「奈津、いい」
 
 しかし止めたのは、普段は礼儀に五月蠅い父だった。

「お父様……」
「そいつは信頼できる。多少の無礼くらいは構わん」

 そう言って踵を返し、再び店舗の方へ戻ろうとする。数歩進んだところで、甚夜は背中に声を投げかけた。

「重蔵殿」

 振り返りもしない。ただ立ち止まり背を向けたまま言葉を待っている。

「借りは、返します」

 庭を眺め茶を啜りながら、適当に乱雑に投げ捨てられた言葉。しかし何か思う所があったのか、重蔵はすっと目を伏せた。

「……精々励め」

 短い遣り取り。しかし二人にはそれで十分だったらしく、今度こそ重蔵は店へ戻った。

「ちょっと、今のなんなの?」

 置いてけぼりを喰らったような気分になって、奈津は語気も強く甚夜を問い詰める。最後に茶を啜り、とん、と湯呑を盆の上に置く。わざと大きく音を立てるような置き方だった。

「馳走になった」

 言葉と同時に立ち上がり、甚夜もまた歩き始める。

「ちょ、何処行くのよ!」
「流石に眠たくなってきた。夜にはまた来る」

 軽く手を上げる。挨拶のつもりだったのか、それ以上は何も言わず、立ち止まることなく庭を後にする。そうして奈津だけがその場に残されてしまった。

「なんなのよ、あいつ」

 無視されたことに苛立ちを覚え、去っていく背中を睨み付ける。
 その後ろ姿は何故か、父のそれに似ていると思った。



 ◆



「おう、甚夜。もう帰るのか」

 帰り際、店の方に顔を出すと善二が中で何やら店の小僧に指示を出している。店の準備で忙しいのだろう。
 しかし少し聞きたいことがある。手の空いたところを見計らって声を掛ければ、仕事の途中で会っても人懐っこい笑顔で迎えてくれた。

「ああ。その前に、少し話を聞かせて貰いたいのだが」
「今か? あー、……すんません、兄さん! ちょっと抜けたいですけど」

 おそらくはこの店の番頭なのだろう。奥で帳簿を片手に商品を数えている、羽織を着た三十くらいの男に声を掛ける。

「奈津御嬢さんの件だろ? 昼までには帰って来いよ」
「分かってますって、そんじゃ行こう」

 どうやら番頭もある程度話は聞いているらしい。割合簡単に許可が出たので取り敢えず店を出る。

「済まない、忙しい時に」
「なに、無理を言ってるのはこっちも同じだろ? そう気にすんなって。……俺も、少し話したいって思ってたしな」

 声は何処か沈んでいた。




「なんか食うか?」
「いや」
「んじゃ茶だけでいいな。俺は団子を一皿」

 近場の茶屋に腰を落ち着け手早く注文を済ませる。流石に朝早いせいか客もまばら、話すには丁度良かった。

「まずは、昨日は助かった。もう一度ちゃんと礼を言いたいと思ってな」

 膝に手を置いて、ぐっと頭を下げる。

「終わった訳ではない、と言っただろう」
「あぁ、そうだったか……すまんが、今夜も頼む」
「勿論だ」

 きっぱりと言い切れば、善二は何故か沈んだ面持ちに変わる。片眉を吊り上げて視線を合わせると、疲れたように苦笑を浮かべた。

「お前は、ちゃんと信じたんだよな」

 零れた言葉には力が無い。店員が運んできた茶に手も付けず善二は視線をさ迷わせていた。

「お前は、鬼が出ると思って庭に隠れてたんだろ?」
「ああ」
「でも俺は、本当は信じちゃいなかったんだ。鬼が出るなんて、旦那様に構ってほしい御嬢さんの狂言だってな」

 それは懺悔たったのかもしれない。悔やむような声音に、ただ黙って耳を傾ける。

「だけど御嬢さんは嘘なんざ吐いてなかった。俺は、ちゃんと信じてやるべきだった。なのに」

 絞り出すような痛み。信じてやれなかったという後悔がその表情に滲んでいる。

「すまん、忘れてくれ」

 答えなかった。
 何も聞いていないとでも言うように一口茶を啜る。その態度に善二はもう一度「すまん」と呟き、今までの雰囲気を払拭するように気軽な態度を作って見せた。

「あー、聞きたいことってなんだ?」

 空元気なのは分かり切っている。だがそれを指摘するのは無粋だろう。だから甚夜はまだ硬い表情には気付かないふりをして言った。

「奈津殿のことを」
「御嬢さんの?」
「娘を返せ……あの鬼の言葉が少し、な」
「ああ……」

 何が聞きたいのか、大凡の見当がついた。
 善二は奈津の両親についてこう語った。
『何でも生まれて一年も経たないうちに亡くなったそうでね。それを旦那様が引き取ったって話だ』
 つまり奈津の両親は既に死んでおり、彼女自身親のことを知らない。
 ならば『娘を返せ』というあの鬼が、本当に奈津の親なのではないか。甚夜はそう考えているのだろう。
 しかしそれは在り得ない。

「確かに、御嬢さんの本当の両親はもう死んでる。お前の懸念も分かるが……安心しろ、それはない。そもそも、もしそうなら旦那様が御嬢さんを引き取る訳ないしな」
「と、いうと?」

 話してもいいものか一瞬躊躇う。しかし重蔵はこの浪人を随分と信頼していた。ならば少しくらいは良いだろう。

「旦那様は奥方を鬼に殺されてんだ」

 ぴくりと、甚夜の眉が動いた。

「兄さん……うちの番頭から聞いた話だけどな。御嬢さんを引き取るよりも前に殺されたそうだ。だからだろうなぁ。今回の件に関しては御嬢さん以上に過敏なんだよ」
「だから、もしも奈津殿が鬼の娘なら引き取る筈がない?」
「そういうこと。それに御嬢さんは旦那様の親戚筋の娘で、両親のこともよく知っているらしい。絶対、とは言えないが、まずないと思うね」
「そうか」

 納得したのかしていないのか、難しい顔で黙り込み、何やら思索を巡らしている様子だった。

「まだ疑ってんのか?」
「いや。もう一つ聞きたいのだが、重蔵殿はそこまで鬼を嫌っているのか?」
「そりゃあな。……あー、実はな、旦那様には息子がいるんだ」

 気まずそうに善治は頬を掻いた。

「正確には『いた』だけどな。まあ息子って言っても俺より年上だし、昔出て行ってそれきりらしいがね。それも鬼のせいだと旦那様は言ってる。奥方を殺され、息子を亡くした。旦那様にとっちゃ鬼は家族を奪った仇敵なんだろう」

 その言葉に甚夜は無表情に、しかし声にはいくらか沈み込むような色を付けて呟いた。

「……そうか、あの人も傷付いていたのだな」
「そういうこった、だから言葉の足りん人だろうが、悪くは思わないでやってくれ」

 甚夜は小さく頷き、目を伏せて黙り込んでしまった。
 不自然に間が空いて、どうにも居た堪れなくなり適当な話題を振ってみる。

「あー、そういやお前の親は?」
「随分と昔に」

 一言だけ。しかし硬い声にその意味を知る。

「もしかして、お前も」
「父は私に剣を教えてくれた故郷でも随一の使い手だったが、鬼との戦いで」
「そう、かぁ」

 だから善治は思う。
 旦那様が何故浪人に大事な娘の護衛を任せたのか。それほどの信頼を浪人に置いたのか。
 その理由を聞くことは出来なかったが、案外同じ匂いを感じ取っていたのかもしれない。

「悪いことを聞いたな」
「いや、話したのは此方だ」
「そう言ってくれると助かるよ」

 その後、しばらく益体もない話をしてから二人は別れた。
 一夜明け状況は何も変わらないまま。


 
 そして、また夜が来る。




[36388]      『鬼の娘』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/18 00:39
 
 怖い話。
 
 魑魅魍魎。
 柳の下の幽霊。
 皿屋敷。
 鬼。
 牛の首。
 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。 


 物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。
 自分には厳しいし、怖い顔をしてることも多くて、だけどいつだって私には優しかった。
 言葉は少ないけれど、私のことを気遣ってくれた。
 血の繋がりなんて関係ない。
 両親の顔なんて私は知らないから、あの人が私にとって本当のお父様で。
 だけど、聞いてしまう。


「旦那様、本当は辛いんだろうなぁ」
「奥方様は鬼に殺されて、息子だって鬼女に拐わかされて……跡取りはどうするのかね」
「旦那様は息子さんがまだ帰ってくると思ってるんじゃないか、多分? だから男じゃなくて女を養子にしたんだろ」


 お父様には妻がいて、本当の息子がいて。
 でも鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。


「……不味い」


 一人位牌を眺めながらお酒を呑んでいるお父様は、いつも悲しそうな顔をしていて。
 だから分かる。
 お父様はまだ亡くした家族を思っているのだと。
 小僧達が話していたようにまだ息子が帰ってくるのを待っているのだと。
 私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼の奪われた家族こそが本物なのだ。
 それを否応なく思い知らされる。
 
 嫌な想像が頭を過る。
 もしかしたら家族だと思っていたのは私だけで、私は単に『代わり』だったのではないだろうか。
 もしも私の思った通りなら。
 いつか、本当の息子が帰ってきた時、私は捨てられるんだろうか。

 でもそれを認められるほど強くはなれなくて。
 聞きたくて、聞きたくなくて。
 私はいつも何も言えないでいる



 怖い話。

 魑魅魍魎。
 柳の下の幽霊。
 皿屋敷。
 鬼。
 牛の首。
 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。 



 怖い話なんて怖くない
 怖いのは、いつだって作り話じゃなくて、掛け値のない本当のこと。



 ◆

 
 日が落ちて店を閉じ、家屋へ戻った重蔵と奈津は夕餉をとっていた。
 囲炉裏を囲んで無言のまま箸を進める。厳格な重蔵は食事の際に話をするのはあまり好まない。しかしこの日は彼の方から言葉を発した。

「奈津」
「えっ、あっ、はい」

 滅多にないことの為思わずどもってしまった。恥ずかしさに少しだけ頬が熱くなる。

「護衛についた男、問題はないか」
「うん。浪人って言ってたけど、そんなに悪い奴じゃないみたい。それにお父様が選んだ人だし」
「そうか」
「ありがとう、心配、してくれて」
「当然だろう。娘を心配せん親なぞおらん」

 殆ど表情は変わらない。しかし重蔵が自分を心配してくれていると分かり、奈津は満足げに口元を綻ばせた。
 
「ねぇ、お父様。なんであの男を雇ったの?」

 それは純粋な疑問だった。確かに信頼できる男だったが、それは結果論だ。何故父は浪人なんかを護衛にしたのか。

「馴染みの客に聞いた噂だ。近頃江戸には鬼が出るという噂が流れている。しかし同時に刀一本で鬼を討つ男もいるらしい」
「それが、あの浪人?」
「ああ。金さえ払えば如何な鬼でも討つ……腕も確かなようだ」

 その答えに安堵し、喜びを感じる。父は決して『鬼が出る』という話が嘘だと思ったからあの浪人を付けたのではない。鬼の存在を真実と受け止めた上で、対応策を考えていてくれたのだ。

「なによりあれは信頼できる。お前の護衛には相応しかろう」

 苦笑を落す。その笑みがどんな感情をもとに零れたのか、奈津には分からなかった。



 ◆



「では任せる」

 夜になり、須賀屋を訪れた甚夜に重蔵はそう声を掛け自室へと戻った。奈津の部屋の前には甚夜と善二が構え、昨夜と同じように庭を睨み付けている。

「……なんで、善二がいるの?」
「いや、昨日の失態を挽回しておこうかなーなんて、はは」

 奈津は自室から顔を出し、半目で善二を見る。昨日の発言が尾を引いているのだろう。その態度はひどく冷たいものだった。

「ふうん。別にどうでもいいけど」
「冷てぇ……許して下さいよ御嬢さん」
「……なら、今度何処か連れてってよ。それで勘弁してあげる」
「勿論、そんなことでいいんでしたら幾らでも!」

 沈んだ表情から一転、人懐っこい笑顔が浮かぶ。善二は二十歳、奈津よりもかなり年上だが立場は随分と下のようだ。

「そう言えば、あんた。お父様と知り合いだったの?」

 今度は甚夜に声を掛ける。

「随分と昔に、少しな」
「お父様はなんかあんたを買ってるみたいだったけど」
「ああ、それは確かに」

 思い当たる節があったらしく、善二もこくこくと頷いている。

「でしょう? 浪人に依頼するってだけでもおかしいのに、朝だってあんな失礼な態度とっても怒らないし。あんた、お父様とどういう関係?」
「なんか夫の浮気相手を問い詰める妻みたいな言い方ですね」
「善二はほんとにいちいち五月蠅いわね。で、なんで?」

 二人の遣り取りを聞きながらも、甚夜は然して気にした風ではなく、庭から視線を移しもしない。そしてそのままの体勢を崩さず答える。

「さて、そこまで信頼される理由は私にも分からん。私はただ借りを返すつもりでこの依頼を受けただけだからな」
「借り……? まあいいわ。お父様が信頼してるみたいだから、私も取り敢えずは信用する。少なくとも剣の腕が確かっていうのは事実みたいだしね」

 その物言いに甚夜はぴくりと眉を動かした。

「重蔵殿が信頼しているから、か。奈津殿は随分とあの人を慕っているのだな」
「当たり前でしょう。お父様は血の繋がらない私をここまで育ててくれたんだから。感謝しない訳ないじゃない」

 語り口は弾んでいる。この娘は本当に重蔵を慕っているのだと分かる。

「そうか。重蔵殿の方も随分と気にかけているようだ」
「そうかしら」
「そりゃあそうでしょう。考えてみれば鬼が出るってお嬢様が話したらすぐに護衛連れてきましたし。はっきり言って過保護だと思いますよ?」

 二人の意見に首を傾げながら、しかしその表情の端々に歓喜が見て取れる。
 内心を全く隠せていない。鬼が今夜も現れるかもしれぬというのに、恐怖など微塵も感じさせなかった。

「……案外と、善二殿が正しかったのかもしれん」
「え?」
「いや」

 舞い上がっていたせいか、呟いた言葉は聞こえなかったらしい。奈津は不思議そうな顔をしていた。
 その様を見て、すっと甚夜の目が細められる。そして一瞬何かを逡巡するように眉を潜め、徐に口を開いた。

「……ああ、そういえば少し耳に挟んだのだが。重蔵殿には息子が」
「知らない」

 遮るように被せたのは、苛立った声だった。
 表情からも先程の喜びは消えている。

「出て行った息子のことなんか知らないわよ。変なこと聞かないで」
「そう、か。それは済まなかった」

 質問を遮られ乱雑な受け答えをされて、しかし然して腹を立てた様子もない。寧ろ納得がいったとでも言うように小さく頷いた。



 それから一刻弱。
 初めの内はまだ会話も続いていたが、夜が深くなるにつれ口数は減っていく。疲れたのか、奈津の顔は陰鬱な色をしていた。

「寝ないのか」
「眠れないのよ」

 自室から出て縁側に座り込む奈津は、不安からか声が少し強張っていた。しばらくはまた無言のままだったが、意を決したように口を開く。

「ねぇ……鬼と人の間に子共って生まれるの?」
 
 焦燥が口をついて出た。
 父の話が事実なら、この浪人は今までも鬼を相手取って来た筈だ。ならばそういうことも知っているかもしれない。
 だから聞いた。もしかしたら、自分が望む答えを返してくれるかもしれない。

「生まれる。その姿が鬼に似るか人に似るかは個体で変わるがな」

 しかしそんな淡い期待は斬って捨てられた。

「そう……」

 悲しみに震える。
 ああ、やっぱり。『娘ヲ返セ』。あの言葉の通り、私は本当に。

「御嬢さん、大丈夫ですよ。そんなことあるわけ」

 善二が慰めようとするが。破裂したように奈津は大声で叫ぶ。

「でも私はお父様と血が繋がってないし、本当の親なんて知らないし! もしかしたら、もしかしたら本当に……」

 あの鬼こそが、私の親なのではないだろうか。

「いいや、あの鬼はお前の親などではない」

 感情の乗らない、金属のように冷たい声だった。あまりにも優しさの無い慰め。それを聞いて激昂と呼んで差支えがない程に興奮する。

「なんであんたにそんなことがっ!」
「分かる。私はあの鬼を知っているからだ」

 けれど次いで放たれた言葉に、一気に頭が冷えた。

「……え? 」
「少なからず因縁があってな。だから分かる。あの鬼はお前の親ではない。間違いなく、な」
「本当、に?」
「嘘は吐かん」

 きっぱりと言い切る。その堂々とした態度に、信じてもいいような気がした。

「だから不安に思うことはない」
「そ、そうですよ! ほら、鬼の専門家がこういってるんですし! あんな鬼なんざ俺らが追い返してやりますよ!」
「……あんたはどうせ見てるだけでしょ」
「ぐぅ、なんかいちいち棘がある……」

 大げさに肩を落して見せるも、善二は内心安堵していた。奈津にいつもの調子が戻ってきた。多少は落ち着いたようだ。

「はぁ。話してたらなんだが眠くなってきたわ」

 あからさまに演技の欠伸をして、そして横目でちらりと甚夜を見る。そして若干ためらいがちに問うた。

「ねぇ、あんた名前は?」
「……甚夜だ」
「ふぅん。甚夜、ね。なら、そう呼ばせてもらうわ」

 そんなことを言って、直ぐにそっぽ向いてしまう。
 善二は口元に手を当てた。くくっ、と漏れた息。笑いを堪えているのだろう。素直に感謝の言葉を言えない奈津が面白くて、笑いが止められなかった。
 肩を震わせ一頻り笑い終えた後、表情を引き締め甚夜の耳元で小さく言った。

「甚夜、すまん」

 急な謝罪に眉を潜めれば、申し訳なさそうなまま言葉を続ける。

「奈津御嬢さんのことを気遣ってあんな嘘を吐いてくれたんだろ?」
「なんのことだ?」
「惚けなくてもいいだろうに、お前も素直じゃないな」

 やれやれ、とでも言わんばかりに肩を竦める。

「ちょっと……目の前でひそひそ話しないでよ」
「おっと、これはすいません」

 和やかな空気が流れる。
 そんな中で甚夜はすくりと立ち上がる。

「ところで、鬼はどうやって生まれてくると思う?」

 そして話の流れも和やかさも断ち切って、まるで鉄のように冷たい声を発した。

「なんだいきなり?」

 意味の分からない質問。疑問を口にしても返ってきたのは沈黙だけ。だから仕方なく先程の問いに答える。

「どうって……そりゃあ、なぁ。普通は親からだと思うが。実際どうなんだ?」
「鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。稀に人と恋仲になる鬼もいる。中には無から生ずる鬼もいてな」
「無から?」
「想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる」

 それは予兆を捉えていたからこその問いだったのかもしれない。
 善二は目を見開いた。
 庭に生暖かい風が吹く。甚夜の言葉に呼応するかのように、目の前の空気が歪んでいく。
 黒い霧のようなものが立ち込め、次第にそれは集まっていく。淀み、凝り固まり、一つの形を成す。それは今し方語って聞かされた内容と完全に一致している。


 つまり、


「無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念だ」


 鬼が生まれようとしているのだ。


 軽やかに庭へと踊り出る。しかし斬り掛からない。抜刀さえせず、鬼が完全に生まれるのを待っている。
 次第に靄は凝固し、四肢をもつ異形へと姿を変える。
 昨夜も見た、爛れたような皮膚。あまりにも醜い鬼がそこには立っていた。

「名を聞かせてもらう」

 甚夜は再び鬼の名を問うた。

『娘ヲ…返セ……!』

 知能が高くないのか、昨夜と同じように無警戒に飛びかかる鬼。
 だが遅い。体を捌き半歩下がる。距離が詰まった瞬間、潜り込むように懐へ入り当て身を喰らわせる。
 思った以上に軽い。鬼は見事に吹き飛ばされ、庭を転がった。

「名乗る程の知能はないか」

 かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。
 それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。
 しかし答えは返ってこない。この鬼の名前は、心底知りたかったのだが。

 四つん這いになって体を起こし、唸り声を上げながら突進する鬼。
 抜刀はしない。鞘に納めたまま刀を振るい、柄で顎をかちあげる。そのまま鞘で打ち据え、再び鬼は地面に伏した。

「さて、どうしたものか」

 それを悠然と眺め、追撃をしようともしない甚夜に痺れを切らし、善二が声を上げた。

「って、お前何やってんだ!? そんな悠長なことやってないで……」
「斬っていいのか?」

 意外、とでも言いたげな表情で聞き返す。
 この男は本気で何を言っているのか。

「当たり前だろうが! さっさと」
「私は奈津殿に聞いている」

 一際強くなった甚夜の声に善二は言葉を止められた。
 何を言っても無駄だ。そう思い奈津の方を向いて、瞬間、頭が真っ白になった。

「なに、を」

 明らかに奈津は動揺していた。
 わなわなと唇を震わせ、視線をあちらこちらにさ迷わせ、答えることが出来ずにいる。

「鬼に襲われ、『本当の家族のように』父に心配してもらう。奈津殿の望んだ通りだ。さて、もう一度聞こう。本当に斬っていいのか」

 淡々とした語り口。しかしその眼光だけが異常に鋭い。射抜かれた奈津は怯えていた。
 鬼にでも、鬼が親である可能性にでもない。
 目の前の男に見せつけられた、自分の弱さにどうしようもないくらい怯えていた。



 怖い話がある。 

 物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。
 本当の親がいないと悲しんだことはない。
 私にとって、あの人こそが本当のお父様だったから。
 けれど聞いてしまった。
 重蔵には、今は出て行ってしまったが息子がいたと。

 でも鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。

 お父様はまだ亡くした家族を思っている。
 小僧達が話していたようにまだ息子が帰ってくるのを待っている。
 私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼の奪われた家族こそが本物なのだ。

 だから思う。
 もしかしたら私は、本当の子供の代用品なのではないか。
 あの人は、私が想うほどには想っていてくれないのでは。
 不安が消えることはない。



 ああ、いっそのこと───私も鬼に襲われれば、あの人は大切に想ってくれるだろうか。



「善二殿の言は正鵠を射ていた。これは奈津殿の狂言。ただ、本人が気付いていなかっただけの話だ」

 幾度となく鬼は立ち上がり、幾度とのなく甚夜に襲い掛かる。その度にいなし叩き伏せるが、それでも鬼は諦めることをしない。奈津ではなく、甚夜へと向かう。

「例え此処で斬り捨てたとしても、この鬼はまた現れるだろうな」
「なん、で」

 そんなことが分かる。
 奈津の言葉にならない問い。無慈悲なまでにきっぱりと答えた。

「言っただろう、この鬼は奈津殿の想いだ。ならば幾ら斬り伏せようと蘇る。その大本を断たぬ限り」
「……私に死ねってこと?」
「違う。ただ一言、こいつを『斬れ』と言えばいい」

 薄らと細められた、刃物のような視線が奈津を捉えている。
 
 斬ると言えば鬼は消える。
 何が言いたいのか、分かってしまった。
 あの鬼が自身の想いで出来ているのならば、斬れと言うことは想いを捨てるに等しい。
 あの浪人は父が大切だと思うこの気持ちを、今この場で斬り捨てろと言っている。

「そんな、こと」

 そんなこと、出来る訳がない。
 ようやく分かった。何故あの鬼があれ程まで醜い姿をしているのか。
 あれは、私だ。
 見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。
 優しくしてくれた父に縋って、けれどこんな自分を愛してくれるなんて信じられなくて。
 既にいない妻や息子に嫉妬して。それを認めることさえ出来やしない。
 そうして見て見ぬふりをしてきた醜い想い。
 あの爛れた容貌は、強気な態度の下に隠れた私そのものなのだ。

「いや……」

 怖い。自身の醜さを凝視するのは堪らなく怖かった。

「やだよぉ」

 奈津は子供のように泣いていた。
 殴られ蹴られ転がされる自身の想い。見たくないものを、見せつけられている。
 本当はただ父と仲良くしたかっただけ。
 それだけだった筈の想いはいつの間にか捻じ曲がり、醜い異形を生み出してしまった。
 あんなものを内に孕んでいるのならば、例え両親が人であったとしても、この身は確かに『鬼の娘』なのだろう。
 きっと本当に斬られないといけないのは、私───

「違うでしょう、御嬢さん」

 でも、声が聞こえた。

「ぜん、じ……?」
「あいつが斬れって言っているのは鬼だ。貴女じゃありません」

 違う。そうじゃない。あれは、あの鬼が私なんだ。

「そうじゃない、そうじゃ、ないの」
「ねえ、御嬢さん。人当たりがいいなんて言われちゃいますがね、俺だって嫌いな相手くらいいますよ。正直朝起きんのしんどくて仕事したくない日だってあるし、旦那様の無茶ぶりにかちんとくるのだってしょっちゅうです」

 おどけたように肩を竦め善二は軽く笑う。

「でもそれが全てじゃない。嫌いな相手よりも好きな奴は多くいて、上手くいきゃあ仕事は楽しい。俺を引き立ててくれた旦那様にも感謝してます。皆そんなもんなんです」

 普段の情けない様子とは違う、大人を感じさせる態度だった。
 
「あの鬼が御嬢さんの想いでも、きっとそれが全てじゃない。だからあいつを斬り捨てましょう。そんで今度は真っ直ぐな想いを育てればいいじゃないですか。大丈夫、旦那様は絶対に御嬢さんのことを大切な家族だと思っていますから」

 そんなに不安がらなくたっていいんです。
 その物言いに気付く。善二は自分の葛藤をちゃんと理解している。あの醜い鬼は奈津なのだと認めた上で大丈夫だと言ってくれている。

「親娘揃って言葉が足りないんですよ。もうそろそろ腹割って話して、ちゃんと家族になりましょうや」



 きっとそれは、私が本当に望んでいたことだ。



「……斬って」

 甚夜の背中に声を投げかける。

「斬って」
「いいんだな」
「ええ。そいつは多分私の想いなんだろうけど、私じゃない」

 震える声で、しかし気丈に睨み付ける。
 それが感じられたから、甚夜は落すように笑った。 
 優しく、まるで家族を慈しむような暖かさ。
 奈津はその表情に一瞬目を奪われた。しかしそれは本当に一瞬。笑みは消え去り、眼光も鋭く甚夜は鬼を見据える。

「そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ」

 だけど、いつまでも立ち止まったままではいられない。
 悲しみに足を止めることもあるだろう。過去の後悔はどうしようもなく付きまとう。

 それでも人は日々を生きていかねばならない。

ようやく甚夜は抜刀し、脇構えを取った。
 そうして一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。

「今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ」

 それで終わり。
 一太刀の元に、鬼は両断された。



 ◆



「終わった、のか?」

 鬼の体躯から白い蒸気が立ち昇る。今度こそ鬼はその終わりを迎えようとしていた。

「ああ」
「また現れたりは」
「大丈夫だとは思うが。それは、これからの奈津殿に任せるしかないな」
「そりゃそうか」

 奈津は心労からか気を失い、今は善二の腕の中にいる。
 軽い。この娘はこんなに軽かったのか。

「しかし、なぁ。鬼ってのは、あの程度の想いで生まれるもんなんだな」
「それは違う」
「いや、だってよ」
「善治殿にとっては『あの程度』でも奈津殿にとっては違った。それだけの話だ」
「ああ……そっ、か」
 
 想いの重さは人によって変わる。当然のことだ。
 言うべきことはないのか、そこで会話は途切れた。途端に夜風が吹き、その冷たさに体が震える。

「うぉ、寒」
「夜は冷える。奈津殿を寝かせてやってくれ」
「ああ、そうだな。お前はどうする?」
「取り敢えず今夜は番をさせて貰う」
「そうしてくれると助かる。そんじゃ」

 奈津を抱きかかえたまま善二は部屋へ行き、ゆっくりと布団の上に寝かせる。そして流石に眠くなったのか、軽く甚夜に挨拶をして自室へと戻っていった。
 庭には甚夜と、鬼だけが残された。





 ……ところで、言葉というのは存外に難しい。

 確かに甚夜は「嘘は吐かん」と言った。
 しかし本当のことを全て話した訳ではない。
 此処から先は二人には見せたくなかったものだ。

『娘ヲ…返セェェ……』

 鬼が立ち上がる。
 蘇った訳ではない。今にも消えそうな体を無理矢理動かしているだけだ。しかし甚夜は冷静に再び刀を構えた。

「やはりな」

 もしこの鬼が奈津の想いから生まれたのならば、彼女が否定した時点でその存在意義を失う。
 しかし鬼は死屍累々とはいえ動くことができた。だから甚夜は自身の推測が正しいのだと確信した。

 想いから鬼が生まれるとしても、奈津の想いだけでは鬼になるには少し足らない。
 だからあの鬼にはもう一つ混ざった想いがあると考えていた。
 
 この家にはもう一人、鬼に成り得る女がいた。
 殺された重蔵の妻。彼女こそが足りない想いを補っていた。あの鬼が何度も『娘を返せ』と繰り返していたのは、彼女の想いが混じっていたからだ。
 つまり鬼の娘とは重蔵の妻が生んだ子供なのだ。

「お久しぶりです。こんな形で会うことになるは正直思ってもいませんでした」

 何故か鬼に向かって畏まった口調で話す甚夜は、ひどく沈んでいた。

「最後に、貴女の名を聞かせてほしい」

 けれど返る答えは同じ。

『娘ヲ、返セ……!』

 痛ましく歪む表情。ぎり、と奥歯が鳴った。
 刀を上段に構え、静かに言う。

「済みません……不義理をお許しください。ですが、皆今を生きている。過去に足を止めてはいられないのです。だから」

 唐竹。
 鬼は断末魔の叫びさえないままに斬り伏せられ、白い蒸気となり溶けように消え去る。

「もう眠ってください」

 苦渋の声音。
 ぽつりと呟いた言葉だけが庭に残った。




 ◆



 朝になり、須賀屋の前に甚夜はいた。

「世話になったな」

 既に重蔵から護衛の報酬は貰った。そそくさと帰ろうと思ったのだが、善二と奈津が見送りたいと言い出し、結局捉まってしまった。

「ほら、御嬢さんも」
「う、うん」
「そんなんじゃまた鬼が出ますよ」
「分かってるわよ。……その、ありがと」

 そう言った奈津の表情は不貞腐れたようで、照れたような。初めて会った時よりも幾分か幼く見えた。

「もうちょっと、色々直してみるわ。すぐにはうまくいかないと思うけど」
「ああ、それがいい」

 ゆっくりと頷けばそっぽを向いてしまう。素直になるまではまだまだ時間がかかりそうだ。

「しっかし、甚夜。なんでここまで体を張ってくれたんだ? 初めに鬼を斬った時点で報酬貰って帰ってもよかったろうに」
「重蔵殿の依頼だからな。そんな中途半端なことは出来んよ」
「お父様の?」
「言っただろう、私は借りを返しに来たんだ」

 昨夜のことを思い出す。そう言えばそんなことを言っていたような気がする。

「借りって、一体なんだったの?」

 その問いに甚夜は目を伏せた。
 そして静かに語り始める。

「長く生きれば大人になれるというものでもないが、それでも歳月を重ねた分気付くこともある」
 
 返ってきた言葉は、意味の繋がらない独白だった。

「子供の頃は目に見えるものだけが全てだった。傷つけるのはいけないことだと、其処に隠れたものが在るのだと想像するには私は幼すぎた」

 古い話である。
 甚夜は──甚太は五歳の頃、妹と一緒に江戸を出た。
 父は妹を虐待していた。だからこんなところにいてはいけないと思った。
 虐待の理由は簡単だった。
 母は妹が生まれると共に死んだ。そして、妹の目は赤かった。
 妹──鈴音が鬼の娘であることは間違いなく、母が人である以上その父親が何者であるかなど容易に想像がつく。
 おそらくは鬼が戯れに人を犯し、結果生まれた娘だったのだろう。
 父は母を犯し殺した鬼を憎み、鈴音をもまた憎んだ。
 それに耐えきれず甚太は鈴音と共に家を出た。


 二人は元々江戸にある、それなりに裕福な商家の出だった。


「だが、色々なものを失くした今なら少しは理解してやれる。だから、あの時父を見捨てることしか出来なかった『幼さの借り』を返したかった」

 自分たちのことしか考えられなかった。
 母を亡くし失意の淵に在った父が、子供まで失くし何を思うのか。そこまで慮ってやることが出来なかった。多分、それをずっと後悔していたのだ。
だけど今は少しだけ安堵している。

「ぜんぜん意味が分からないんだけど」

 甚夜の言葉の意図が読めず、奈津は少し怒った様子だ。 
 しかし説明する気はなかった。昔のことだ、彼女達が知る必要はない。重蔵の子供は奈津だけ。それでいい。

「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」

 落すような笑みでそう言った。
 もしかしたら妹になったかもしれない少女。どんなに生意気な態度でも怒る気になれなかったのは、だからなのかもしれない。

「親孝行?」
「重蔵殿は奈津殿にとって親なのだろう?」
「そりゃ、そうよ」
 
 奈津の言葉を嬉しいと思う。
 あの人にはもうちゃんと家族がいるのだと、一人ではないのだと知れたから。
 そして奈津の言葉を嬉しいと思えたことが、嬉しかった。不肖の息子だったが、少しは返せるものがあった。



 ただ一つ心残りがあるとすれば、あの鬼の名前を知りたかった。

 かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。
 それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。
 しかしそれとは別に甚夜は知りたかった。

 ───果たして、あの鬼の名前は何というのだろう。

 奈津の想いから生まれたのならば、鬼の名前も『奈津』になるのだろうか。
 父を慕うその気持ちが形になったというのならば、『愛情』とでも呼ぶべきか。

 だがもしも、あの鬼の中に、彼女の想い以外の何かがあるのなら。
 いなくなった娘の行方を探す母の想いがあったとしたのなら。

 鬼に無理矢理犯され孕み、その果てに生まれた娘。
 それでも『娘を返せ』と死して尚残り続けたその願いが、憎しみの最中に在った筈の母の想いが一体何という名前なのかを知りたかった。
 結局、それを聞くことは叶わなかったが。




「なら、仲良くな。ああ見えて打たれ弱い人だ。貴女が支えてやってくれ」
「あんたに言われなくたって」

 奈津の言葉に緩やかな笑みを落し、甚夜は踵を返した。

「では、な」 

 一度も振り返ることなく甚夜は真っ直ぐに歩いていく。背筋の伸びたその歩みをしばらく眺めていると、背後から声が聞こえた。

「行ったか」

 重蔵はちょうど甚夜の影が見えなくなった辺りで姿を現した。

「はい。つーか旦那様も見送りゃあよかったでしょうに。世話んなったんだから」
「その必要はなかろう」

 淡々とした口調。全くこの人は相変わらずだと内心溜息を吐く。

「あいつならば、必ず為してくれる。最初から分かっていたことだ」
「そういや旦那様はえらい甚夜のことを買ってますよね。なんか理由でもあるんですか?」

 軽い調子で聞いてみる。
 すると重蔵は何故か、懐かしいものを見るような穏やかな目になった。

「馬鹿なことを聞くな」

 そうして笑う。



「……子を見間違える親がいるものか」



 落とすような、何処かの誰かに似た笑みだった。

 重蔵は甚夜を呼び止めることも、見送ることさえしなかった。
 呼び止めたとしてもきっと喜ばない。
 最早交わらぬ道行きを少し寂しくも思うが、それも仕方ない。あれは既に自分の意思で歩いている。ならばこそ、邪魔をするような真似はしたくなかった。

「はぁ……?」
「お前はさっさと仕事に戻れ。そうでなくば番頭が遠のくぞ」
「そいつは勘弁。ではお嬢さん俺はこれで」

 すたこらと逃げるように店へ向かう。それを眺める重蔵は鼻で笑い、しかしその表情は優しい。

「あ、あの!」

 奈津が緊張した面持ちで重蔵の前に立つ。

「ん?」
「お、お父様……私にも、なにか手伝えることある?」

照れているのか、ほんの少し赤く染めている。

「どうした急に」
「だって、お、親孝行はしておいた方がいいって」

 それが誰に言われた言葉なのかは容易に想像がついた。
 まったく、下らないことを。
 
「お前はそんなことを気にする必要はない……子供はな、親より長生きするのが一番の孝行だろう」
「お父様……」
「私はそれだけで満足なのだ」

誰かの影は遠く、零した呟きは届かない。
 けれどその言葉は、おそらく奈津にだけ向けた訳ではなかったのだろう。
 ぽんと奈津の頭に手を置き、重蔵は踵を返し歩き始める。奈津もまた追うように店へと戻った。
 その光景は、確かに家族のそれだった。
 
 







 鬼が出る、という噂が流れ始めたのはいつの頃からか。

 乱れた世相に故か、夜毎魍魎どもは練り歩く。
 人の口に戸は立てられぬ。江戸では鬼が出るという噂が実しやかに囁かれていた。
 それに付随して、もう一つ噂があった。

 
 曰く。
 江戸には、鬼を斬る夜叉が出るという───





   『鬼の娘』・了
 次話『貪り喰うもの』





 注・一応言い訳。
 善二は二十歳、だから十八の頃のままの外見の甚夜を年下だと思っています。
 ですが実際には甚夜は二十八歳なので善二より年上。
 だから『重蔵の息子は自分より年上』だと思っているので、結構危ういことを言っていますが最後まで二人が親子だとは気付きませんでした。





[36388]      『貪り喰うもの』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/03/16 23:06
 
 嘉永六年(1853年)・春。





 江戸は深川にある蕎麦屋『喜兵衛』。
 甚夜がここ数日足繁く通う店である。 

「最近は明るい話題がありませんねぇ」

 店主は小忙しく手を動かしながら愚痴を零した。

「聞いた話じゃ外国船がちょこちょことちょっかいを出してきてるとか。だってのにお上はなんもしやがらない。はいよ、かけ一丁」
「はーい」

 可愛らしい声と共にそれを受け取り運ぶのは、薄桃色の着物を纏った、年の頃は十五、六の小柄な少女。店主の一人娘、名をおふうと言った。
 店主の方は四十くらいだろうか。親娘二人で店を回しているようだった。
 おふうは狭い店内をゆっくりと歩きながら蕎麦を運ぶ。しかし慣れていないのか、どうにも見ていて危なっかしい。

「お、お待たせしました。かけ蕎麦です」

 はにかんだ、というよりも引き攣ったような笑みを見せ、甚夜の前にかけ蕎麦を置く。見た目は整った顔立ちにすらりとした立ち姿が奇麗な少女だが、案外不器用なようだ。

「よし、よくやったおふう。……それに最近は辻斬りまで出て。俺にも娘がいますから不安で仕方ない。ったく、お上ももうちょっと真面目に仕事をして欲しいもんですよ」

 蕎麦一つ運んだくらいでよくやったはないだろう。思いながらも口には出さない。
 それはともかくとして、このご時世彼の発言はちとまずい。箸を取り蕎麦を啜りながらどうでもいいことのように甚夜は言った。

「滅多な事は言わない方がいい」
「まぁ確かに。睨まれて店潰されたらかないませんしねぇ。開いてから十日しか経ってねぇのに、そりゃあちょっと」

 店主はからからと笑った。
 甚夜は箸を止めて店主に視線を向ける。今零した言葉が少しだけ気になったからだ。

「新しい店だとは思っていたが、まだ十日か。その歳で店を開くのは珍しいと思うが」
「珍しいってんならこんな閑古鳥が鳴いてるような店に毎日来る旦那も相当だと思いますがね。もう五日連続ですよ?」

 言葉通り、店には甚夜以外に客の姿はなかった。
 ここしばらく通ってはいるが客入りは良くない。あまり人気のある店ではないらしい。もっとも、だからこそ通っているようなものではあるが。

 甚夜は外見こそ人と変わらないが、その正体は鬼。嘗ては人として生きていたが、想い人を妹に殺され、憎悪から鬼へと転じたのが彼である。
 そして鬼であることこそ、彼がわざわざ人気の無い店を訪れる理由だった。 
 江戸に来てから既に十年以上経っている。しかし彼の外見は──鬼と人の間に生まれた妹がそうであったように──まるで変化はなく、未だ十八の頃のまま。鬼は千年以上の寿命がある為、ある程度成長すれば外見の変化はせいぜい爪や髪が伸びる程度でほとんどなかった。

 今はいい。しかし長く江戸に留まれば、いずれは「おかしい」と思う者も出てくるだろう。
 故に甚夜は比較的新しい、しかも客入りの悪い店を選んで利用している。怪しまれない為のせめてもの工夫、といったところだ。
 とはいえ、まさか正直に答える訳にもいくまい。
 返答に困っていると割り込む形でおふうが父を叱責する。

「お父さん、折角のお客さんになんてことを言うんですか」
「そう怒んな、おふう。ただの世間話だろう。で実際どうなんです? うちの蕎麦うまいですか?」

 その流れに安堵し蕎麦を一口啜る。不味い、ということはない。寧ろ美味いと言ってもいい味だ。しかし江戸の都に数ある蕎麦屋の中で飛び抜けている訳でもなかった。

「……不味くはないと思うが。まぁ普通だな」
「旦那もたいがい正直ですね……ま、下手の横好きで覚えた蕎麦ですから当たり前っちゃ当たり前ですが」

 苦笑いで返される。世辞くらい交えた方が良かっただろうか。

「それでも店を出した。何か訳でも?」 
「ま、色々ありましてね。人に歴史あり、旦那も話したくないことくらいあるでしょう?」
「違いない」

 そう言われてはこれ以上聞くことは出来かった。そもそも聞いたのも単なる好奇心、然して実りのある話ではなかったので黙って蕎麦を食べることにした。

「でも、怖いですね。辻斬りなんて」

 数少ない常連だからか、おふうは割合気軽に声をかけてくる。

「そうだな」

 その返事は話を合わせただけということも無かった。
 人であっても鬼を打ち倒すことのできる者もいる。事実甚夜は人として生きていた頃、その剣技を持って多くの鬼を討ち倒してきた。だから辻斬りが人であることは、自身より弱い証明にはならない。

「甚夜君も気を付けてくださいね?」

 言葉の通り、気遣わしげな視線。だが「む」と甚夜は唸った。
 というのも、外見は十八のままで止まっているが、彼の実年齢は三十一である。
 対しておふうは、正確な年齢は知らないがせいぜい十五かそこらといった所だろう。不愉快、とは思わないが十近くは年下に見える少女から君付けと言うのは流石に違和感があった。

「君、という歳ではないのだがな」

 やんわりと否定の意を告げるもおふうはくすくすと笑う。

「そうやって背伸びしたがる内は『君』で十分ですよ」

 そう言って軽く流してしまう。
 まったく、女というのは何故こうも男を子供扱いしたがるのだろうか。
 

 ───もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと───


 やめろ。考えるな。湧き上がる感情を一太刀の下に切り捨てる。

「馳走になった、勘定を」

 眉一つ動かさず蕎麦を片付ける。
 五年の間に覚えたことがある。赤い眼を隠す業と、自身の心を隠す術。下らないことばかりが上手くなる。顔には出さず甚夜は自嘲した。

「へい、十六文になります」

 懐からちょうどの小銭を取り出して渡すと、店主は枚数を確認する。

「しかし旦那は浪人って言ってた割りに金回りいいですよね」
「まぁ、な。仕事はある」
「ちなみにどんな?」
「鬼退治だ」
「そりゃあ豪気で。次は竜宮城ですか?」

 冗談ではないのだが、と小さく呟く。
 江戸にも鬼は少なからず存在する。当然その被害に逢う者もおり、力を持たぬ被害者の代わりに鬼を討ち払うのが今の甚夜の生業だった。時折商人や旗本など金を持った人間からの依頼もあり、意外にも見入りは悪くない。何より自分を鍛えることにも繋がる為一石二鳥である。

「はい確かに、ありがとうございやした」
 
 小銭を数え終えたようなので、そのまま踵を返し出口へと向かう。

「そういや鬼といえば、さっきの辻斬りなんですがね。死体には刀傷がないって話でして」

 その言葉に、ぴたりと足を止めた。

「なんでも獣に引き裂かれたような無残な死体ばかりらしいんでさ。それに、死体の数が合わないって話も聞きますね」
「数が?」
「へぇ。死体の数とここら一帯でいなくなった人の数が合わないとか。攫われたのか、神隠しにあったのか。そんなだから、下手人は“鬼”じゃないかって噂が流れてるんですよ」

鬼が犯人ってんなら丸ごと喰われたのかもしれませんねぇ。
 脅かすように、店主は意地の悪い笑みを浮かべた。

「ほう」

 甚夜は表情を変えずに呟いた。

 

 ────それは、面白い話を聞いた。




 ◆




 江戸橋は徳川家康がこの地に訪れ四十年ほど経ってから造られたもので、神田川に掛かる橋の中でも規模が大きい。昼間は町人や流れの商人がこぞって利用するが、黄昏が過ぎ宵闇が響く今は人影もまばらである。
 腕を組んで欄干にもたれかかり、目を伏せたまま甚夜は時間を過ごしている。
 
 此処は辻斬りが出たという場所だった。

 辻斬り、とはいうがその死体は獣が引き裂いたような無残なものだという。鬼が事を起こしたという噂もある。橋とは現世と幽世を繋ぐ道。鬼が出るにはお誂え向きの場所なのかも知れない。

 空を見上げれば朧月夜。しっとりと肌に触れる夜露は絹の心地良さ。淡く揺れる青白い月光も相まって実にいい夜だ。こんな夜に鬼を追うなど我ながら風情がない。表情こそ変わらないが内心溜息を吐いた。

 欄干から背を離し歩き始める。現場に来ては見たものの、流石に都合よく辻斬りは現れてくれない。考えてみれば探し始めて今日が初日。そう易々と馬脚を現すならばとっくの昔に岡っ引きが捕まえているだろう。
 普通の辻斬りならば、の話ではあるが。

 噂通り鬼が辻斬りを行っているのならば、奉行所では止められまい。出来れば新たな被害が出る前に止めたいところだが、肝心の辻斬りが何処にいるかも分からない。結局今は何か事が起こるのを待つしか術がなかった。
 
「まったく、儘ならぬものだ」

 小さく呟く。この身は人ではなく鬼。だが鬼になったとはいえ、都合よく超常の力を得られる訳でもなく、探し人は足を棒にして探さねばならない。
 特殊な<力>がない訳ではないが、万能ではないのだ。鬼であれ人であれ、現世とは儘ならぬものである。
 溜息を吐き、ぼやいても仕方がないと気を引き締める。さて、見周りでもしながら鬼を探すか、と思った矢先。

 ………いやあぁ…あ………

 掠れた女の悲鳴が聞こえた。
 弾かれたように走り出し、声の方へ。橋を渡り、右に見える荒布橋。その先、東堀留川にかかる思案橋へ辿り着く。
 
 死体。死体。死体。

 川の近くでありながら、その空間は濃密な血の匂いで濁っている。それもその筈、其処には三つの、無惨に打ち捨てられた町人の死骸が在った。

 辺りを見回すも辻斬りの影はない。どうやら少しばかり遅かったらしい。甚夜は死体の傍に寄り、片膝立ちになって顔を近付ける。粗雑に転がされた屍は目を背けたくなる程に無残だが、今更臆するほど初心でもない。表情も変えずに三つ全てを検分する。
 
 そっと死体に触れる。まだ生温かい傷口は、切り口ではなく抉り取ったように思われた。確かにこれは刀傷ではない。爪で引き裂かれた創傷。鬼が下手人というのもただの噂では終わらないようだ。
 しかし、おかしい。

「男、か」

 転がされている死体は男のみ。だが聞こえた声は確かに年若い女だった。では悲鳴の主は何処に消えた。


 ───へぇ。死体の数とここら一帯でいなくなった人の数が合わないとか。攫われたのか、神隠しにあったのか。
    そんなだから、下手人は鬼じゃないかって噂が流れてるんですよ。

 ───鬼が犯人ってんなら丸ごと喰われたのかもしれませんねぇ。


 蕎麦屋の店主の言葉を思い出す。彼は冗談めかして言っていたが、或いは、その科白は真実を言い当てていたのかもしれない。
 調べてもこれ以上得るものはないだろう。立ち上がり、この場を後にしようと一歩を踏み出す。
 刹那の瞬間である。

 ひゅっ。

 すぐ近くで、音が聞こえた。
 宵闇に鳴る風切の音。聞き慣れた音。だから意識よりも先に体が反応する。反射的に体を捌き、音の方向とは逆に飛ぶ。

「ちっ」

 しかし一手遅かった。
 小袖が斬られ、右腕から血が滲んでいる。斬り付けられたのだ。深手ではない。動きにも支障はない……が、そんなことよりも問題なのは。

 なにが、起こった?

 甚夜は一瞬本当に理解できなかった。
 慣れ親しんだ音だった。刀を振るう、その度に聞いてきた音。それが急に聞こえたかと思えば、実際に自分は斬り付けられた。
 しかし辺りを見回しても誰もいない。
 自分は今襲われている筈だ。
 だというのに、肝心の襲撃者が何処にもいないのだ。

 ひゅっ。

 再び音が前方で鳴り、後ろに退くも胸元を斬られた。
 それでもやはり斬り付けられる瞬間まで敵の存在に気付かなかった。斬り付けられた今でも、やはり敵の姿は見当たらず、気配も感じない。

 今度は音が鳴らなかった。
 音もなく、鋭い痛みが肌を刺す。
 刃が背の肉に触れている。それは体に侵入してしようとしている。見えないが感触として分かった。
 すぐさま痛みの方向とは直角に離れる。肉は多少抉れたがそんな事を気にしている場合でもない。一間は飛んだ後、辺りに視線を向けるもそこにあるのは静寂のみ。襲撃者など影も形も存在しない。
 だが現実としてこの身は傷を負っていく。
 そして下手人は鬼という噂。
 つまり、

「……それがお前の<力>か」

 辻斬りは<力>を得た、高位の鬼ということだ。
 おそらくは姿を消し気配を断つことがこの鬼の<力>。
 しかし物音を消すことは出来ず、鬼自体の膂力は然程でもない。素手で倒す程の膂力がないからこそ刀を使う。
ならば対策はある。正直好んで使いたい手ではないが、手段を選べる程己は強くない。

「こうなれば生き残りがいないのは幸いだな。おかげで……」

 だから使えるものは使う。当たり前のことだ。
 一度眼を伏せる。瞬間、気色の悪い音が鳴った。
 
 めきっ。
 
 甚夜の左腕の筋肉が隆起し、見る見るうちに赤黒い異形の腕となる。再度瞼を開けた時、瞳は黒から赤に変化していた。

「隠す必要もない」

 甚夜は鬼となり、されど襲撃者も止まらず。
 再度皮膚に痛みが走る。だがそれはチクリと針で刺された程度の痛み。鬼となったこの身を貫く程ではない。
 おそらく刀があるだろう場所を左腕で払う。
 所詮数打ち。大量生産のみを考えられた刀では鬼の膂力に耐えきれる訳がなく、ぺきん、と頼りない音を響かせて刀身は折れ、切っ先が地面に落ちた。
 傍目には刀が急に現れたようにしか見えなかった。

 成程、消えるのは体に触れている部分だけ。
 ならば一度体を裂き流血させればその<力>の意味も無くなる。

 それを確信し、右腕だけで刀を構え、腰を深く沈める。肌に何かが触れた瞬間周囲を凪ぎ払うためである。
 
「さて、辻斬り。仕切り直しだ」

 これで既に相手が逃げていたらお笑いだが。
 心の中で呟く。実際の所、甚夜には相手がいるかどうかも分からないのだ。この場から去っていたとしても知る術はない。
 相手はどう出るか。

 思考した瞬間、目の前の空気が揺らいだ。

 かと思えば其処には小柄な、五尺……甚夜よりも一回小さい程度の体躯をした鬼が姿を現した。
 黒ずんだ肌。肩幅はあまりなく、身体も細い。やはり膂力の無い鬼らしい。
 特徴的なのは右目。左よりも大きく白目の部分まで赤く染まった、何を見ているか分からぬ無貌の瞳だ。右目の周りは鋭角な意匠の鉄仮面のようなもので覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。
 腕には折れた刀がある。間違いなく、この鬼が襲撃者だった。

「……私の名は甚夜だ。お前は何という。斬り捨てる前に聞いておこう」

 わざわざ姿を現した理由は分からないが、取り敢えず名乗りを上げ鬼にも問う。

『俺は茂吉、です』

 意外にも素直に答える。
 茂吉という名前らしいが、“鬼”の名にしては随分平凡な名前だった。

「そうか。その名、確かに刻んだ。安心して消えるがいい」

 名を噛みしめ、ぎりっと刀の柄を強く握る。
 そして一足を持って間合いを詰めようと体重を前に倒した瞬間、

『いえ! 俺に争う意思はございません!』

 刀を捨て、慌てた様子で両腕を突き出し、戦う意思はないと主張する鬼よって動きを止められた。

「………………ぬ」

 どうにも斬り掛かる機を逸してしまった。
 肩透かしを食って、しかし飛び出す訳にもいかず、前傾姿勢のまま鬼を睨み言った。

「戦う意思がない、だと?自ら襲いかかっておいてよく言う」
『それは……貴方が辻斬りだと思ったからです。辻斬りは鬼だという噂が流れて実際鬼の匂いを漂わせた貴方が現場にいた。疑うなって方が無茶でしょう。ですが貴方も俺を辻斬りだと言う。どうにもおかしな様子だった。だから』
「姿を現した、という訳か」

 今の所、話の流れとしては不自然なところはない。だが疑念は消えず眉を顰め更に問う。

「鬼が辻斬り退治をして何になる」
『取り敢えず此処から離れませんか? 誰かが来てはよろしくないでしょう』

 改めて辺りを見回す。
 転がる死体と異形の己。
 確かに、この状況では己が辻斬りと思われても仕方無い。人の姿に戻り、血払いをして刀を鞘に納める。
 それを「戦う意思はない」と取ったのか。
 鬼は異形に見合わぬ朴訥とした笑みで言った。
 
『では小さいながら我が家にご案内しましょう』




[36388]      『貪り喰うもの』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/03/16 16:07
 犬の遠吠えが聞こえた。

 夜はますます深くなり、つい先程見た時には月にかかる薄衣のような雲は流れていた。この部屋には窓がないため確認は取れないが、江戸の町並みは今頃青白く染まっていることだろう。
 甚夜は四畳半程の部屋に座っていた。幾分古い畳敷き、変色した壁。建てられてからそれなりに時間が経っているのが分かる。くすんだ色合い、しかし部屋に転がる小物に生活感が感じられた。

「……まさか、こんな所に住んでいるとは」

 驚きか、呆れか。一度溜息を吐く。
 先刻出会った鬼に案内され辿り着いた場所は、神田川からさほど遠くない場所にある裏長屋だった。長屋には表と裏があり、裏の方は比較的貧しい町人が暮らす集合住宅である。
 
「なに、鬼も長ずれば人に化ける術を身につける。中には人に成り済まし生きる者もいます。鬼は嘘を吐きませんが、真実は隠すもの。それは貴方も同じでしょう?」

 言いながら透明な液体で満たされた茶碗を甚夜の前に差し出す、継ぎを当てた小袖に髷を結わった男。細身でどこか頼りなさげな印象を抱かせる、如何にも町人といった風情のこの男こそ先刻の鬼、茂吉だった。
 言葉の通り、茂吉は人に化けこの長屋で生活をしているらしい。眼の色は黒い。流石に高位の鬼、化け方も堂に入ったものである。

「どうぞ。毒なんて入っていませんのでご安心してください」
「どのみち毒程度で死ぬ体でもない。頂こう」

 茶碗の中に入っているのは茶ではなく酒だった。
 一口呑む。酒とは言っても水で薄めた安酒だ。蕎麦一杯十六文に対し酒は四十八文、裕福ではない町人にとって酒は高級品のため、庶民の呑む酒は水で薄めたものが一般的である。

「改めまして。俺は茂吉。見ての通りしがない裏長屋に住む町人です」
「そして、その正体は鬼か」
「ええ。これでも百年を経る、高位の鬼と呼ばれる存在です」

 その言葉に少しだけ違和を感じる。高位の鬼という割には圧迫感というか、それに相応しい空気がない。なにより、正直なところ今まで葬ってきた下位の鬼よりも茂吉は弱く感じられた。

「しかし、それにしては……」
「あまり強くない、ですか?」
「ああ。まぁ、な」

 一応気を使って濁した言葉を明言されて、少しだけ言い淀む。しかし相手は実にあっけらかんとしている。

「それは当然でしょう。そもそも高位の鬼というものは、力量に関係なく固有の<力>に目覚めた鬼を指すのです。ですから高位であっても膂力や速さは下位の鬼に劣る者もいます。恥ずかしながら俺も、ということです」
 
 確かに以前出会った<遠見>を使う女も然して強い訳ではなかった。戦闘に特化した<力>を持たぬ鬼も一括りに高位と捉えているらしい。
 納得して一つ頷き、世間話の為に来た訳でもないと本題へ移る。

「では改めて確認するが、お前は辻斬りではない……こう言うのだな?」
「はい、勿論です。そして甚夜さん、貴方も」

 黙って頷く。そして茂吉の目を覗き込む。その瞳は揺らがず真っ直ぐにこちらを見据えており、動揺の欠片もない。嘘は、吐いていないと思う。漠然とした感覚だが、そう信じられるような気がした。

「分かった、信じよう」
「ありがとうございます」
「だが先程の口振りでは辻斬りを追っていた……いや、話も聞かず斬り掛かるところを見るに、殺そうとしていたようだが。何か理由が?」
「私怨です」

 即答だった。なんと答えるか最初から決まっていた、というよりも、その答え以外頭にないといった様子だ。
 
「神隠しの噂はご存知でしょうか」
「確か、辻斬りによる死体の数と、失踪者の数が合わないという話だったか。攫われたのか、或いは神隠しにあったのではないか、という噂が流れているのは知っている。私も先程女の悲鳴を聞いたが、女の死体はなかった」
「はい。どうやら辻斬りに殺されるのは男だけ。女は軒並み攫われているようなのです」
「攫われている、か。神隠しではなく、辻斬りの手でそれが行われていると」

 その言葉に茂吉はぐっと詰まった。
しばらく沈黙し、

「俺の妻も、神隠しにあったんです」

 頭を垂れるように俯き、苦々しく声を絞り出した。

「あいつは人でしたが、鬼である俺を受け入れてくれた。そういう優しい女でした。ですが一月ほど前姿を消し、その十日ほど後の晩に神田川で見つかりました。奉行所の役人の話では、その体には乱暴された跡があったそうです」

 性的暴行を受けた、ということか。それが事実ならば確かに神隠しではない。下卑た欲望が透けて見えている。

「信じられませんか」
「いや、鬼は嘘をつかないのだろう?」
「ええ、勿論です」

 煽るように杯を空け、茂吉は今まで以上に力強い口調で言った。

「お人好しで、自分よりも他人を優先する、そういうやつだった。誰にでも優しくて、鬼の俺を愛してくれて……決して、あんな死に方をするような女じゃなかった。なのに」

 ぎりっ、と拳を握りしめる音が聞こえるようだった。

「甚夜さん、俺は人に化けて暮らしてますが、決して人の全てが好きな訳ではありません。人として生きるが故に人の醜さも知っています。ですが、それでも異形の俺を受け入れてくれた妻のことは愛していました。だから正直なところ、彼女を汚し奪った辻斬りが憎くて仕方がない」

 肩を震わせ、血走った眼で歯を食い縛る。傍から見れば痛々しいとさえ思えるその姿。
 だが甚夜には憐憫の情は湧かなかった。
 脳裏を過った感情は、今の状況とは不釣り合いなもの。

 ──羨ましい。

 茂吉が羨ましい、と思ってしまった。
 憎むべき相手として、正しく憎むべき存在がいる。曖昧な憎悪しか持ち得ぬ己とは違う。彼の憎悪の正当性を羨み、そして嫉妬している自分の心に気付く。それを洗い流すように酒を飲み干す。薄い酒だがそれでも喉を通る感覚は心地良かった。

「そう、か」
「ええ。ですから貴方はこの件に手出ししないでほしい。俺は自分の手で辻斬りを葬りたいのです」
「それは……」

 頷くことは出来なかった。甚夜にも辻斬りを、正確に言えば鬼を討つ理由がある。
素直に「はい」とは言えない。それを悟ったのか、一呼吸置いて茂吉が更に言う。

「甚夜さんの目的はなんでしょうか」
「辻斬りが真に鬼で在るならば、それをこの手で討つ」

 嘘を吐いた訳ではない。だが本当はその先、討った後にこそ目的がある。其処までは言わなかった。

「……分かりました。では共に探す、というところでどうでしょう。お互い邪魔することなく、各々で辻斬りを探す。情報は共有する。出来れば、辻斬りを殺す役は私に譲ってほしいですが」

 彼なりの妥協なのだろう。妻の仇を討つと決めた鬼。憎悪に駆られた彼が妥協してくれたのならば、それを否ということは出来ない。
 ゆっくりと頷き、了承の意を示す。

「分かった。茂吉、私はそれでいい。しかし、お前はいいのか」

 甚夜の視線が若干ながら鋭さを増した。

「鬼であれ人であれ、その命を奪うことは罪悪だろう。憎悪に駆られ手を汚す。お前は罪を犯す自身を受け入れられるのか」
「それは」
「私はいい。とうの昔に血塗れだ。だがお前は違うだろう。命を奪うことに躊躇があるならやめておいた方がいい。幸い、命を奪うことに何の躊躇いも持たぬ下衆がここにいる。仇を討つことが目的だというなら態々己の手を汚すこともあるまい」

 茂吉はその言葉に息を吞み、だがすぐに思い直し首を振った。弱気の虫を噛み潰すようにぐっと顎に力を入れる。

「ありがとうございます。気を使ってくださって。ですが甚夜さん、俺も鬼の端くれです。俺は妻の仇を討つと決めた。成すべきを成すと決めたなら」
「その為に身命を賭す、か」
「はい。それが鬼という生き物です。私は、妻を奪ったものをこの手で殺さなければ、まともに生きることさえできない」
 
 答えは最初から分かっていた。彼の言う通り鬼とはそういう生き物なのだから。
 だが、それでも甚夜は言わずにいられなかった。
 憎しみに身を委ねる必要はないと。別に殺す必要はないのだと。
 
 或いは、それは自分に向けた言葉だったのかもしれなかった。

「ならば何も言うまい。ただしお前の願いは優先するが、私が先に辻斬りと出会ったとしても」
「はい、それも運。恨むことはしませんよ」

 そう言って茂吉は笑って見せた。それが強がりか、気遣いなのかは分からない。ただ憎しみを呑み込む苦さは知っている。だから何も言わず、甚夜はただ目を伏せた。



 ◆



 翌日から二人は夜が訪れるのを待ち江戸の探索に出かけた。
 と言っても当てなどある筈もない。辻斬りが行われた場所を巡るのが精々だ。

「辻斬り? 知らんねぇ」
「さあ私も見たことはないですので」
「あんたら、一体何モンだい?」

 聞き込みもしてみたが結果は芳しくない。然して得る物もなく帰る日が三日ばかり続いた。

「今日も収穫はなし、と。上手くいかないものですね」

 探索の途中で落ち合い情報を交換するが茂吉も同じようなもので、事態に進展はない。

「仕方あるまい」
「ですね。地道に探すしかありませんか」

 しかし結局何の手がかりも見つけられず、重い足取りで二人は茂吉の家へ戻る。
 帰りつけば顔を突き合わせて酒を呑む。憂さ晴らしのつもりはないが、この夜会も三日ばかり続いていた。
 仇はまだ見つからないが呑んでいる時まで持ち込む気はないようで、茂吉は比較的穏やかな顔をしている。それとなく聞けば「同胞と呑むのはいいものです」と答えた。
 成程、その気持ちは分かる。
 お互い人の中で暮らす鬼。隠し事もなく語り合える輩、というのは貴重だ。甚夜自身この関係が気に入っていた。

「……くぅ、沁みますなぁ」
 
 くはぁ、と息を吐いた。顔色は変わっていないが、もう随分と呑んでいる。今日の酒はいつもの安酒ではなく、偶には良い酒をと甚夜が持ち込んだ下りものだった。

「いや、申し訳ありません。こんないい酒を」
「なに、毎晩お前に奢らせるのも悪い」

 そう言って自分も口を付ける。旨い。しかし酒を旨いと思ったのは随分と久しぶりのような気がする。
 夜の見回りは何の実りもなく終わった。それでも互いの表情に曇りはない。酒を酌み交わしながら、思い出したようにぽつりと茂吉は問うた。

「甚夜さんは何故同朋を討つのですか?」

 茂吉が辻斬りを追うのは私怨である。しかし甚夜は『辻斬りを』ではなく『鬼を』討つと答えた。それが引っ掛かっていたのだろう。
 ぴたり、と淀みなく動いていた手が止まる。
 何と答えるべきか。
 以前は人だったと答える?
 しかし鬼と人は相容れぬもの。自分が人であると知ったならばこの穏やかな時間もなくなってしまうのではないか。
 正直に答えていいものか、ほんの少し逡巡する。
 沈黙、そして重々しく口を開く。

「私は元々人だ。かつて想い人を鬼に殺され、憎しみをもって鬼に転じたが、今でも考え方は人に近い。人に仇なす鬼を討つのはある意味で当然だろう」

 止まっていた手を動かし茶碗を空ける。
 甚夜は自らが鬼になった理由を答えた。この関係が気に入っていたからこそ、嘘をついて誤魔化すような真似はしたくなかった。結果、この夜会が終わったとしても仕方のないことだ。

「成程。ああ、どうぞもう一杯」

 しかし茂吉は大して気にした様子もなく空になった茶碗に酒を注いだ。意外だった。もう少し、堅い反応が返ってくると思っていたのだが。

「随分簡単に納得するのだな」

 鬼でありながら同胞を討つ。嫌悪されてもおかしくないと思っていた。
 だというのに茂吉は平然としている。

「過去がどうあれ今の貴方は鬼。ならば同朋であることに変わりはないでしょう」
「それはそうかもしれんが」

 それでも納得がいかず憮然とした表情を作ると、それがおかしかったのか茂吉は笑って杯を飲み干した。

「閑古鳥は他の鳥の巣に卵を産むそうです」

 そして茶碗を握り締めたまま言った。

「ですが例え別の鳥の雛が孵ったとしても、その巣の親鳥は必死に雛を育てるし、雛はその鳥を親だと思う。自分で産んだ雛でなくとも雛には変わらず、雛にとっても自分を育ててくれるならそれは親です。それと同じですよ。生まれながらに鬼であっても、人から転じようと、木の股から産まれてこようが鬼は鬼。出自を問うて差異を付けるのは人くらいのものでしょう」

 実に楽しそうだった。今度は茂吉の茶碗に酒を注いでやる。朴訥な笑みで返し、旨そうに酒を呑む。それは茂吉なりの気遣いなのだろう。その意を受け、感謝の言葉を述べる代りに甚夜もまた軽く笑った。

「耳に痛いな」

人としての言葉だった。それを許されたのが嬉しかった。微かに口元を緩め、くいっと茶碗を傾ける。酒の味は変わらず旨いままだった。

「では、貴方が鬼を討つのは人を守るため、ということで?」
「まさか」

 すぐさま否定する。想い人を守れず、大切な家族を傷つけた。そんな無様な男が守るなどと言える筈がない。それは口にしてはいけない言葉だ。

「理由は幾つかあるが、まずは金の為だ」
「金、ですか」
「人は鬼を嫌う。ただ出たと言うだけでそれを滅そうとする。私はそういう者達から金をせしめて鬼を討っている……軽蔑するか?」
「いえ、甚夜さんは意味もなく鬼を滅する方ではないでしょう。大方、人に危害を加える鬼だけを討つ、といったところでは? 俺が生かされているのが良い証拠です。それにほら」

 見せびらかすようにもう一口。

「その金で買った酒を楽しんでいる俺に何か言える訳ないでしょう」

 それがおかしくて、二人して声をあげて笑った。一頻り笑い終えた後、茂吉は更に問いを続ける。

「いくつか、というからには他にも理由が?」
「質問が多いな」
「俺は全てを話しましたからね。こちらも聞かせて貰わないと不公平じゃないですか」

 そういうものなのだろうか。だが他の者ならばともかく同じ鬼相手に隠すようなことでもない。

「……もう一つは、力を得るためだ。私はある鬼を止めるために生きている」

 思えば、この話を誰かに聞かせたのは初めてだった。

「鬼との戦いはそれに備えての鍛錬、ということですか。しかし止めるため、とは? 殺すではなく?」
「殺すのか生かすのかは逢ってから決める。だがどちらにしても最低限の力はいるからな」
「複雑なのですね」
「いいや、私が軟弱なだけだ」

 かつて未来を見る鬼が言った。
 百年以上先の葛野の地に、全ての人を滅ぼす災厄が現れると。
 遠い未来において鬼神と呼ばれる存在は、己の想い人を殺した鬼であり、同時に大切な妹だった。
 名を鈴音。
今迄、あの娘を止める為だけに力を求めてきた。
 
 だが鈴音をどうしたいのか。その答えが今になっても分からない。
 救いたいと願っても、身を焦がす憎悪は捨てられず。
 殺したいと望んでも、かつての幸福が瞼にちらつく。
 葛野の地を離れてから既に十三年。
 だというのに、それだけの歳月を重ねても、未だに刀を振るう理由さえ見つけられぬ。
 そんな己の惰弱さに辟易する。

「茂吉。お前は、妻の仇を討ったらどうする」

 話を逸らすように茂吉へ問いかけた。誤魔化しもあったが、聞いてみたいというのも事実だった。形は違えど、同じく愛しい人を奪われた。ならば彼が復讐の果てに何を見ているのか、それが知りたかった。

「特に何も」

 しかし返ってきた答えに肩透かしを食らったような気分になる。気負いなく紡がれた言葉に、嘘でも誤魔化しでもないと感じられた。

「そもそも俺が人に化けて暮らしているのは、争うのが嫌いだからです。鬼として生きるのは面倒だ。何かにつけて人は鬼を討とうとするし、鬼は我が強いから同朋であっても意見の違いで殺し合うことがある。そういうのが嫌だから俺は人として生きる道を選んだ。緩やかに、ただ日々を過ごせればと思っていました。……こんな事にならなければ<力>を使って誰かを殺すなんてこと考えもしませんでしたよ」

 投げやりに酒を呑む。茂吉は無表情に、しかしほんの一瞬だけ顔を顰めた。きっと酒が苦いのだろう。そう思うことにした。

「日陰に隠れて誰にも気づかれず生きていければ、それで俺は良かったんです。何事もなく毎日を過ごしたかった……出来れば妻と一緒に。だから仇を討った後は、今まで通りひっそりと生きていくつもりです」

 妻の墓を守りながら、ってのも悪くないかもしれませんね。
 冗談を言ったつもりなのだろう、しかし浮かんだ表情には疲労の色が見て取れた。聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。

「儘ならぬものだな」
「まったくです」

 謝罪するのも失礼だ。だから愚痴のように零した。沈黙。二人は黙って酒を呑む。

「ああ、そうだ」

 思い出したように甚夜は声を上げた。視線は合わせず、目を伏せたままである。

「先程のお前の話だが、一つだけ否定しておこう。お前は私が意味のないことはしないと言うが、そうでもない」

 乱雑に茶碗を煽る。

「私は、意味もなく妹を憎悪している」

 喉を通った酒は血の味だった。
 

 ◆



「あら? 甚夜君、いらっしゃいませ」

 翌日、茂吉と探索へ向かう前に腹ごしらえでもと、日が落ちてから訪れた蕎麦屋『喜兵衛』。
 甚夜を迎えたのはいつも通りの奇麗な立ち姿で微笑むおふうだった。今日は杜若を模した簪で髪を纏めている。

「かけ蕎麦ですか?」
「ああ、頼む」
「はーい。お父さん、かけ一つ」
「あいよ!」

 元気よく答えた店主が忙しなく動き出す。そのまま適当な席に座ると、おふうが傍らに立った。

「ところで、辻斬りは見つかりましたか?」

 前置きもなく問う。
 何故彼女は自分が辻斬りを追っていると知っているのか。

「話してはいなかったと思うが」
「何を言ってるんですか。御自分で言っていたじゃないですか、鬼退治が仕事だって。だったら鬼の噂を追うのも甚夜君の仕事のうちでしょう?」

 どうやら以前零した、冗談としか思えない言葉を真実として受け取ったらしい。実際真実ではあるのだが、それを額面通りに受け取るのは純粋なのか、言葉の裏を見る聡明さか。或いはただの天然だろうか。今一つ判断し辛いところだ。
 おふうは軽く膝を曲げて視線を落とし、甚夜の回答を待っている。おそらく言うまでこうしているつもりなのだろう。

「いや。中々上手くはいかない」

 諦めたように溜息を吐いて答える。と言っても進展はないため伝えられる内容はほとんどないが。

「そうですか……あまり気を落とさないで下さいね?」
「端から易々と見つかるとは思っていないさ。何を成すにもそれなりの苦労や面倒はある。鬼退治にしろ、商売にしろ、な」
 
 そう言って辺りに視線を漂わせる。店内は相変わらず客が少なく、甚夜の他には身なりの整った若い武士が一人いるだけ。この店も上手くいっているとは言い難い状況だった。

「あはは、相変わらず客足が悪くて」

 苦笑するように零すが、その雰囲気は何処か楽しげである。

「看板娘も客が居なくてはあまり意味がないな」
「いやですねぇ、あまりからかわないでくださいな」

 遠まわしに世辞の一つもと思って声をかければ、満更でもないのか頬を染め口元を緩める。もっとも、看板娘と胸を張れるほど繁盛はしていないが。

「お、旦那。なかなか手が早いですね」

 狭い店内、店主にも聞こえてしまったらしい。前掛けを外し、厨房から出てきて甚夜の隣に立つ。娘を誑かす不埒の男に対して物申すのかと思えば、寧ろ嬉しそうに笑っていた。

「おふうのこと、美人だと思いますか?」
「……十人に問えば、八人は美人と答えると思うが」

 素直にそう答えると、店主はばしばしと甚夜の背中を叩きながら実に上機嫌な様子である。

「そうですかそうですか、いやぁ旦那は見る目がある! どうです旦那? なんなら、おふうを嫁にとってうちの店をやるっていうのは? 鬼退治もいいかもしれませんが小さい店を夫婦二人でってのも悪かないと思いますよ?」

 この男はいきなり何を言っているのか。
話が飛び過ぎている。甚夜以上に付いていけないのか、おふうは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

「お父さん! 行き成り何を言ってるんですか!?」
「いや、お前の婿候補を探そうと」
「そんなの自分で探せます!」

 娘に責め立てられ、先程までの上機嫌から今度は弱気な表情でおろおろとしている。一度声を出して多少溜飲が下がったのか、おふうは説教でもするように父親を窘めていた。そして甚夜は放置されている。かけ蕎麦はまだ来ない。

「だがなぁ、お前もそろそろ男の一人や二人作らんと。知ってるんだぞ? お前そういうお付き合い、今までいっぺんもしたことないだろ?」
「そ、それはそうですけど。でも時期が来ればちゃんと考えます。甚夜君にも迷惑でしょう?」
「いや、俺はただお前のことを心配してだな。俺もいい加減歳だし、任せられる男を探してぇってのが親心だろう」

 店主にとって甚夜は娘を任せられる男らしかった。特に評価されるような何かをした覚えもない為、彼の発言には違和感しかない。そもそも甚夜は定職を持たない浪人である。そんな男に大事な娘を任せていいのだろうか。

「それは、とても嬉しいです。でも私には私の考えがあるんですから」
「そうかぁ。旦那なら、お前と似合いだと思ったんだかなぁ」

 説教が一段落ついて、ぼやくように店主は言った。
おふうはその言葉に不満げな様子で俯いた。そして顔を上げた時には、瞳の端にほんの少しの寂寞を浮かべていた。

「もうっ、お父さんは私を追い出すことばかり考えているんだから」

 頬を膨らませるおふうの姿は普段の彼女よりも幾分幼く見えた。
 彼女の物言いから察するに、こういったことは別に甚夜が初めてではないのだろう。案外若い男を見る度に婿にならないかと声をかけているのかもしれない。

「そういう訳じゃねぇよ。ただ俺は」
「分かっています。お父さんが、私をいつも心配してくれていることくらい」

 怒ったように見せても、そこにある愛情を感じるから決して冷たくはない。彼女は激昂しているのではなく、自分を嫁に出そうと急かす父親の行為を寂しく感じているだけなのだろう。
 対して店主の方は、娘が誰かと夫婦となって仲睦まじく暮らす、当たり前の幸福を願っている。二人の喧嘩は結局のところお互いを大切に想っているだけだった、

「大丈夫、ちゃんといつかは家を出ますから。でも、もう少し貴方の娘でいさせてくださいな」

 花が咲くような、とはこんな笑顔を指すのだろう。
 そう思わせる柔らかな笑みだ。

「すまねぇ……」

 その笑顔に打ちのめされたのか、すごすごと厨房に帰っていく。それを確認しておふうは甚夜に頭を下げた。

「甚夜君、すみません、父が変な事を言ってしまって」
「いや、気にしてはいないが」
  
 それに、いいものを見せてもらった。厨房に戻り小忙しく手を動かす店主に視線を送る。

「良い父親だな」

 親娘というのはこう在ってほしいと思う。
在れなかった親娘を知っているからこそ、尚更に。

「はい、自慢の父です」

 まるで自分のことのように喜ぶおふう。彼女の笑顔が眩しくて目を細めた。
真っ直ぐなものを真っ直ぐに見ることが出来ないのは、自分が歪んでしまったからだろう。それを思い知らされたようで、花のような笑顔はほんの少し痛かった。
 
「あの、こんな事を聞いてもいいのか分かりませんが」
「ん?」
「甚夜君のお父さんは違ったんですか?」

 感情を隠したつもりだった。しかし彼女にはお見通しだったようで、心配そうに覗き込んでいる。別に話す必要はない。誤魔化せばいい、そう思いながらも口は自然に動いていた。
 
「私には妹がいてな」

 或いは、聞いてほしかったのかもしれない。

「妹さん、ですか」
「ああ……鈴音という。父は鈴音に辛く当たっていた。自分の子ではないと言って虐待し、最後には捨てた。だから私も鈴音と一緒に家を出た。まあ、昔の話だ」

 父が鈴音を捨てた理由は伏せた。話して、「鬼を捨てるのは当たり前だ」と言って欲しくなかった。

「お父さんのこと、憎んでますか?」
「いいや。……正直に言えば、あの人の気持ちも分かるんだ。ただ」
 
 そうだ、今なら父の気持ちが少しだけ分かる。
 鈴音はおそらく、鬼が母を無理矢理に犯した末生まれた子だったのだろう。鬼に愛した妻を汚され、鈴音が生まれたことで命まで落とした。
 父が鈴音を虐待してきたその意味を今更ながらに理解する。甚夜もまた白雪を、大切な人を亡くしたからこそ、理解できるようになった。憎悪とは培った愛情を塗りつぶす程に昏く淀んでいるのだと知ってしまった。
 だからもう、あの人を責めることは出来ない。
 何より己も結局は鈴音を見捨てた。父のことをとやかく言う資格はないだろう。
 
「ただ?」
「なに、儘ならぬと思っただけだ」

 僅かに歪んだ表情。おふうが気遣わしげな眼で見ていたが気付かないふりをした。
 脳裏を過ったのは茂吉のこと。おふうと店主のこと。そして自分のことだった。

 愛した者を奪われ、それ故に憎しみに囚われる。
 お互いを想い合って、だからこそ言い争う。
 そして私は───

「綺麗にはいかないものだな」

 まこと人の世は儘ならぬ。
 己の感情一つとっても容易ではない。
 誰かを愛し、誰かを憎む。
 ただ生きて、ただ死ぬ。

 
 たったそれだけのことが、こんなにも難しい。







[36388]      『貪り喰うもの』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/20 00:17

 春の宵。風はまだ冷たく、それだけに空は透き通り月の光がよく届く夜だった。

「こっちは全然だめですね」

 ふう、と茂吉が息を吐いた。
 二人は荒布橋で落ち合い、言葉を交わしていた。夜毎江戸の町を見回っているが未だ辻斬りは見つからない。思わず零れた溜息も仕方のないことだろう。

「そちらは?」
「いや、特には」

 ここ数日は辻斬りもなかった。訊き込みもしているが情報はあまり入って来ない。
 甚夜が初めて辻斬りに遭遇した時、女が一人拐された。或いは辻斬りは女の相手に忙しいのかもしれない。下衆な考えが頭を過り、その予想が在り得るかもしれないという事実に吐き気がする。

「見つかりませんか。やっぱり、探し方を変えた方がいいかもしれません」

 闇雲に探しても同じこと。明確に辻斬りの足取りを追う方法があればよいのだが。
 そうは思っても名案なぞ浮かび上がっては来ない。結局、非効率的であっても聞き込みをしながら足で探すしかなさそうだ。

「おや?」

 不意に茂吉が不思議そうな声を上げた。

「どうした」
「いえ、あそこ」

 指差したのは堀のように整然と整備された神田川の近く、ちょうど草が押し茂り、柳の立ち並ぶ場所だった。よく見ると柳の下には女性の姿がある。あれは……。

「おふう?」

 蕎麦屋『喜兵衛』の看板娘である。薄桃の着物に身を包み、すらりとした立ち姿が印象的な少女は、柳に手を添え愛でている。月の光に照らされた彼女は淡く儚げで、普段の不器用ながらも明るい娘とは別人に見えた。

「知り合いですか」
「馴染みの蕎麦屋の娘だ」

 簡潔に伝えると眉を顰める。 

「女性の一人歩きはよくありませんね」

 ここ数日は辻斬りの被害が出ていないとはいえ危険なことには変わりない。妻を失っている茂吉だ。そういうことに関しては敏感になっているのだろう。甚夜としても知り合いが辻斬りの犠牲となっては寝覚めが良くない。

「すまん、茂吉」
「ええ」

 こちらの言葉を察して、笑顔で頷いてくれた。
 普段世話になっている店に多少なりとも恩を返すと思えば然程の手間でもない。思い立ち、橋を渡っておふうの方に近付いていく。 

「あら、甚夜君?」

 すると彼女の方もこちらに気付いたのか、甚夜に向き直る。そして普段とは違う、淡く儚げな、消えてしまいそうなくらい緩やかな笑みを見せた。
 
「いい月ですね」

 言葉もいつもよりも柔らかくゆったりとした印象だった。案外普段の凛とした立ち姿は余所行きで、この儚げに笑う繊細な少女こそがおふうなのかもしれない。何故かそう思った。

「甚夜君はこんな時間に一人で散歩ですか?」
 
 いや、連れがいる。
 そう返そうとして、言葉を口にすることは出来なかった。自分の傍らにいる筈の男がいつの間にかいなくなっていたからだ。辺りを見回しても自分以外誰もいなかった。

(すみません、俺はこれで失礼しますよ)

 姿は見えないが耳元で茂吉の声が聞こえた。ぼそぼそと小さな、しかし何処かからかいの色を帯びた声音だった。

「な」

 彼にしては珍しく驚きに表情を崩した。
 そして気付く。この男、<力>を使って姿を消したのだ。

(その娘さん、送ってあげてください。ここで別れて辻斬りに襲われても困るでしょう)

 何を勘違いしたのか、言葉とは裏腹に声の調子は楽しげだ。完全に面白がっている。
 反論しようにも姿の見えない茂吉に話しかけようものなら奇人扱いは免れない。焦る甚夜を余所に茂吉は足音を殺して去っていった。おそらく去っていったのだろう。流石に姿を消したまま覗き見るような悪趣味な真似はしていない、と信じたい。
 しかし、まさかこんなくだらないことに<力>を使うとは。

「あの、どうかしましたか?」
「……少し、な。考えごとをしていただけだ。それよりも、おふうはこんな夜中に何をしている」

 気持ちを切り替え、少しきつめに問い詰める。辻斬りの噂が流れているというのに一人で出歩くのは感心しない。言外の意味を感じ取ったのか、甚夜の語調の強さに反しておふうの表情は柔らかい。
 そうして視線を切って、もう一度柳に手を添える。

「桜を見ていました」

 柳の枝を撫でる。母性さえ感じさせる優しげな手つきだった。

「これは柳だろう」
「違いますよ、ほら」

 そっと触れたのは白い花。遠目では気付かなかったが、しな垂れた柳には五弁の真っ白な小花が咲いていた。

「雪柳と言います。柳と名前に付いていますが、実際には柳ではなく桜の仲間なんです」

 視線を雪柳に移す。
 成程、小さな白い花は確かに綿雪が降り積もったようにも見える。

「咲いた花の重さにしな垂れる姿が柳に似ているから、雪柳と呼ばれているんです。知らない人は柳の一種だと勘違いしてしまいますけど」

 雪柳は夜風に吹かれ揺れている。その姿はやはり柳。桜の仲間と言われても、白い柳といった方が近い姿だ。恐らく多くの者にとってこの花は桜ではなく柳だろう。

「どうかしましたか?」

 無言で眺める姿に違和を感じたのか、おふうが問う。

「いや」

 言えなかった。
 この花は己が身を嘆いてはいないのだろうか。
 ふと過った疑問。花の想いを想像するなぞまるで年若い少女のようで、思わず口を噤んでしまう。
 それでも雪柳を眺めながら甚夜はほんの少しだけ考える。
 仲間の桜と同じ姿ではいられない。
 かと言って柳にはなれない
 柳にしか見えない桜は、己をどう思っているのだろう。
 考えてもそれを知ることは叶わない。ただ柳の姿をした桜が憐れに思えた。
 
「桜で在りながら柳を模し、柳に見えて柳ではなく。柳と桜、どちらにもなれない。……雪柳は憐れだな」
 
 ちくり。
 無意識に零れた言葉が少しだけ胸に痛かった。
 柳に見えて柳ではない。人に見えて人ではない。どこかの誰かのようだ。
枝にはふわりと無邪気に咲いている白い花。物言わぬ白色に責め立てられているような気がした。
 直視し難い自分自身を突き付けられた、そんな心地だった。茫然と立ち尽くすように柳の花を眺める。くだらない感傷と分かっていても陰鬱な気持ちを拭い去れない。

「でも、きれいでしょう?」

 柔らかい声だった。
 沈み込んでいた意識がゆっくりと引き上げられる。いつの間にかおふうの視線は甚夜に向けられていた。それに気付き瞳を合わせれば、小さく頷き彼女は微笑む。
  
「柳ではないけれど、桜として見られなくても、雪柳はとても可愛らしい花を咲かせるんです。何度散っても、春になればまた咲いて。私には雪柳の心は分からないけれど、きっとこの子は自分を儚んではいないと思います。だって、自分が嫌いだったら毎年咲こうとは思わないじゃないですか」

 少女は小さく笑う。
 その言葉は甚夜にではなく、雪柳に向けられたものだった。おふうはこの花が可愛らしいと言っただけだ。それでも彼女の声が胸に沁み入り、鬱屈とした感情が少しだけ薄れてくれた。

「だから憐れむ必要なんてありませんよ。桜であっても柳であっても、この子は春が来る度にきれいな花を咲かせるんですから」

 たとえ己が何者かは分からなくとも、巡る季節の中で咲いては散り咲いては散り。
 何れ散り往く定めと知りながら、生きた証を咲き誇る。

「それが花の生き方、か」 

 彼女の言う通り、憐れむ必要はないのかもしれない。否、憐れんではいけない。雪柳はおそらく自分よりも遙かに強いのだ。それを憐れむなど傲慢にも程がある。一つ頷いて納得の意を示す。甚夜の雰囲気が変わったのを察しおふうも力を抜いて口元を緩めた。
 
「でも、なんだか女の子みたいですね」

 弾んだ声でおふうが言う。
 確かに植物の心を想像して憐れむというのは年頃の娘のような夢想だった。自覚があるため反論もできない。
 押し黙ったことが面白かったようで、おふうはくすくすと笑っている。気恥しかったが彼女の笑い方があまりに無邪気だったから、苦笑しながらそれを受け入れた。

「送ろう。過保護な父親が心配する」
「ふふ、そうですね」

 一頻り笑い終えた後、二人は並んで歩き始めた。既に日付の変わる刻限、江戸の町を歩いても商家は軒並み店じまい。普段のにぎやかさは感じられなかった。
 風が吹く。春の風はやはり冷たく、しかし夜は先程よりも少しだけ暖かくなった。

「甚夜君には、少し余裕が必要なんだと思います」

 歩きだしてしばらく経ち、彼女はそんな事を言い出した。
 目の端で盗み見た彼女の横顔は澄ましたもので、自分より年若い娘だろうに大人びて感じられる。

「私はそんなに切羽詰って見えるか」
「どちらかと言えば思い詰めてる、でしょうか。時々、無理をしているように見えて」

 別に甚夜とおふうは個人的な付き合いがある訳ではない。店主は婿にならないかと言っていたが、あくまで彼らの関係は客と店員に過ぎなかった。
 だというのにおふうは、甚夜の深い部分を正確に見抜いていた。彼女が鋭いのか、自分が分かり易いのか。これでも少しは感情を隠すのがうまくなったと思っていたのだが。

「ああ、そうかもしれん」

 図星を突かれたせいか、素直に言葉か出てきた。

「私には成すべきことがあり、その為だけに生きてきた。だから思い詰めていると言われれば、おそらくその通りなのだろう」

 思えば、力だけを求めてきた。
 鬼を討つのも鍛錬に過ぎず、義心なぞ欠片もなかった。
 それを間違いだとは思わない。かつて妹は現世を滅ぼすと言った。ならばこそ、けじめは付けねばならない。その為には力が必要で、他のものなぞ全て余分でしかない。
 ただ、強くなりたかった。
 強くなって、けじめをつけて。その為だけに生きてきた。どこまでいっても、それが全てだった。

「甚夜君の成すべきことが何かは分かりません。でも偶には息抜きくらいした方がいいですよ。目的があるのは良いことですけど、それに追われるのはつまらないでしょう?」
「……だが、私にはそれしかないんだ」

 想い人も、家族も、自分自身さえ。全て失くしてしまった。
 なのに、いつか抱いてしまった憎悪だけが、今も燻っている。

「悪いな。お前の忠告は聞けそうにない」

 彼女の諫言は有り難い。しかしつまらないと言われても己にはそもそも生きることを楽しむという発想がない。
 何一つ守れなかった。
 そんな男が生を謳歌するというのは間違っているように思える。おふうが自身を案じてそう言ってくれるのは分かるが、それでも生き方は曲げられない。

 表情は変わらず、声色もいつも通り。そんな甚夜に視線を合わせることはせず、おふうは先んじて一歩二歩進んで立ち止まり、道の端でしゃがみ込む。不思議に思いそれを追えば、彼女の前には四弁の小花が集まり玉のように咲いた白い花があった。

「名前、分かります?」

 話の流れを断ち切って穏やかな笑みを浮かべながらおふうは問う。
 花の名など、食べられる野草や薬になるもの以外はほとんど知らない。だから甚夜は首を横に振った。

「いや」
「これは沈丁花。秋に蕾をつけて、冬を越して春に咲きます」

 まるで愛し子に触れるかのような優しい手つきで花弁を撫でる。少し顔を近づければふわりと甘酸っぱい不思議な香が鼻腔を擽った。

「香りが強いな」
「これは春の香り。沈丁花は春の訪れを告げる花なんです」

 そう言って立ち上がり、今度は家屋の日陰でひっそりと自生する小さな花を指差した。

「あそこに見えるのは繁縷(はこべ)ですね。小さいけど可愛らしいでしょう?」

 普段は意識しなかったがその花は確かに繁縷。江戸の町にも咲いているとは気付かなかった。それは数少ない甚夜も知る草花だった。

「繁縷なら私でも知っている」
「そうなんですか?」
「ああ。茎を煎じると胃腸薬になる。葛野……昔住んでいた集落ではよく使った」

 おふうは意外そうな表情を浮かべた。甚夜は六尺を超える巨躯であり、細身ながら鍛えられた体が着物の上からでも分かる。とてもではないが胃腸薬を常用するような繊細な神経の持ち主には見えなかった。
 自覚があるのかすぐさま続きを話し始める。 

「幼馴染がよく飲んでいた。箱入りで普段食べられないせいか、機会があると甘味を大量に食べる癖があってな。食べ過ぎで腹を壊しては、繁縷の世話になっていた」
「なんというか……幼馴染さんは面白い人だったんですね」
「ああ、私はいつも振り回されていた」

 此処ではない何処かを眺めるように甚夜は目を細めた。
 思い出されるのは幼かった頃。まだ白雪と甚太でいられた幸福な日々だ。とても巫女とは思えない、無邪気で好奇心の強い白雪にいつも振り回されて、傍らには鈴音がいて、甚太は二人の後始末に追われ……それでも素直に笑うことが出来た。
 だが、今はもう無理だ。
 あの頃のようには笑えない。

「ほら、“それしかない”なんて嘘ですよ」

 しかし甚夜が浮かべた自嘲を見た少女は、彼の憂鬱を拭うようにゆったりと微笑んだ。

「甚夜君は蕎麦が好きで、花をきれいだと思えて、大切な思い出だってあります。“成すべきこと”が何かは分かりませんけど、今はそれに囚われて周りが見えていないだけ。だから、それしかないなんて言っちゃ駄目です」

 何も言えない。口を挟んではいけない。そう思わせるだけの何かが今の彼女には在った。

「偶にはこうして足を止めてみてください。貴方が気付かないだけで、花はそこかしこで咲いています。見回せば、きっと今まで見えなかった景色が見える筈ですから」

 そう言ってたおやかに彼女は笑う。
 ほんの一瞬、甚夜は彼女の笑顔に見惚れた。 
 この娘は花に託けて甚夜を慰めようとしてくれたのだ。然して親しい訳でもなく、深く事情を知らずとも。
 その心遣いを嬉しく思い、しかしそれを無にしてしまうであろう己に嫌気がさす。
 結局、甚夜には彼女の言うような生き方は、足を止めて幸福を探すことなど出来はしない。
 自分の想いよりも自分の生き方を優先してしまう彼は、誰に何と言われても、鈴音を止めるために力を求め続ける。
 だが、それでも。

「そう言えば、花をゆっくり眺めたことなどなかったな」

 鬼に成れども人の心は捨て切れぬ。
 少女の優しさを一太刀の下に斬り捨てるほど冷酷にはなれなかった。相変わらず中途半端な男だ。呆れて苦笑すると、それを見たおふうも笑いを零した。
 
「他の花の名も教えてくれないか」
「はい、もちろん」

 そうして二人はまた歩き出す。
 空には青白い月。
 春の宵。辿る通い路。少女は数えるように花の名を歌い上げる。
 
 
 もう少しだけ、ゆっくり歩こうか。


 訳もなく、そう思った。



 ◆


「送っていただいてありがとうございました」

 蕎麦屋の前でおふうは深々と頭を下げる。

「いや、こちらも面白い話を聞かせて貰えた」
「それならまた今度違う花をお教えしましょうか?」
「明るい時間帯なら、な」

 辻斬りの噂が流れているというのに夜歩きをしていたおふうを冗談めかして窘める。そういう物言いが出来たのは、先程の会話で少なからず余裕が出来たからだろうか。彼女の言う通り、少しは足を止めて見るのも悪くないのかもしれない。
 口元を緩ませる甚夜に対して、少女は不満げな表情を作った。

「お父さんといい甚夜君といい、私の周りの男の人は過保護が過ぎると思います。辻斬りが出ても逃げるくらいなら出来ますよ」
「そう言ってやるな。親というものは、例えそうだとしても心配くらいはするのだろう」

 随分昔に家を出た不肖の息子を、それでも信頼してくれたように。
 親というのは何処まで行っても親なのだろう。

「なら貴方はどうして心配してくださるんですか?」

 からかうような笑みを浮かべる。

「さて、な」

 明確な答えは返せない。何故かは自分にもよく分からなかった。

「悪いが、そろそろ行かせてもらう」
「あ、すみません。引き留めてしまって」

 小さく首を横に振り気にするなと示してみせれば、返すようにおふうも微笑みを浮かべた。
 穏やかな心地で踵を返し、再び辻斬りの捜索へ戻る。足取りはいつもより軽かった。

「いや、いい娘さんですねぇ」

 隣から急に声を掛けられ、足がぴたりと止まる。首を横に向けて見れば、にやにやと笑いを浮かべている茂吉がいた。
 
「茂吉……お前、まさか」
「さーて、そろそろ行きますか」

 甚夜が二の句を告げる前にそそくさと逃げ去る。
 その態度に理解する。この男、姿を消したまま一部始終を覗き見ていたのだ。
 文句を言おうにも既に姿はなく、出来ることと言えば呆れ交じりの溜息を零すくらいのものだった。

 
 ◆


 おふうと別れ、もう一度探索を続ける。
 訪れたのは日本橋。しばらくこの界隈をうろうろと歩いていたが、辻斬りの痕跡さえ見つからない。とりあえず橋へ戻り、真中辺りの欄干にもたれ掛かる。
 昼間は騒がしい日本橋だが時間も時間、人通りはまばら。一杯ひっかけた帰りなのだろう、赤ら顔の男が通るくらいのものだ。
 静けさが染み渡る。川の流れる音がはっきりと聞こえるくらいに穏やかな夜だ。揺れる月と心地よい風に、これは今夜もはずれかと小さく溜息を吐いた。
 そうして立ち止まっていると、夜も深いというのに茜の着物を纏った女が一人、橋を渡っているのを見つけた。
 年の頃は十五、六。おふうと同じくらいだろうか。こんな時間に一人歩きとは危なっかしい。横目で眺めていれば、女の方も気付いたらしく甚夜の前を通り過ぎる途中で視線を向けた。

「あ……」

 すると何故か女は目を見開き、小さく声を漏らした。
 何を驚いているのだろうか。内心疑問に思い改めて女を見て、微かに眉を潜める。
 あの女、何処かで会ったような気が。
 器量は良いが気の強そうな目付き。見覚えがある。一体何処で。思い出そうと思索に耽り、



 瞬間、空気が唸りを上げた。



「あ、が?」

 近くを歩いていた赤ら顔の男は橋を渡り切ることが出来なかった。突如として血飛沫が舞ったかと思えば体が崩れ落ち、それきり動かなくなった。その体躯には爪で抉ったような傷跡が残されている。男は断末魔さえ上げられず、一瞬にして絶命していた。

「……え?」

 短い声。何が起こったか分からず、女は目を点にしている。数瞬置いて橋の上にへたり込み、ようやく男の死を理解したのか悲鳴を上げた。

「い、いやああああああ!?」
 
 その声をどこか遠くに聞きながら、甚夜はそっと腰のものに手をやった。
 何者かの襲撃。意識が冷えて、鋭敏になっていくのが分かる。

 再び空気が唸る。

 対応は速かった
 襲撃者の存在に気付けたのは、音よりも先に濃密な、淀むような殺気が漏れていたから。左足を軸にした最短の動作で音の鳴る方へ向き直り、鯉口を切り一気に抜刀。

「ぐっ……」
 
 だが相手は更に上。
 甚夜が刀を鞘から抜くよりも何者かが突進の方が速かった。幸い抜き掛けの刀でも盾くらいにはなった。刀身で防ぎ、後ろへ下がって完全に抜き切る。反撃に移る、つもりが既に相手は間合いの外へ逃げた後だった。

「え、なっ、なに? 今の、なんなの!?」

 女は突然の事態に混乱している。だが今は構っている暇もない。

「あまり動くな。死にたいなら別だが」
「わ、分かったわよ……」

 案外と素直に聞き分ける。
 まだ混乱はしているが、それなりには落ち着いてくれたようだ。有難い、下手な動きをされるとこちらもやりにくい。そう思いながら甚夜は巻き添えを食わぬよう女から距離を取った。
 
 人目がある。鬼と化す訳にはいかない。八相に構え、次の襲撃へ備える。
ごう、と風切りの音を立てながら何者かが襲い掛かる。音が聞こえた方へ体を回し、袈裟掛けの一刀を振るい───間に合わない。
 途中で軌道を曲げ、受けに入る。肉薄する襲撃者。振るわれた鋭利な爪。鍔でいなし半歩下がり、返す刀で切り上げる。しかし手応えは微か。傷を与えたとはいえ僅かに掠った程度だった。
 待ち構え、攻撃を予測し、的中し……尚も振り遅れた。
 その事実に甚夜は目を細める。

 ───速い。

 それ以外の感想は出てこなかった。人では為し得ぬ速度。あまりの速さに理解する。容姿を確認することは出来なかったが、間違いなく襲撃者は鬼だ。そう簡単に悟れてしまう程の動きだった。
 四間は離れた場所に鬼は降り立った。
改めて見据えれば、異形は唸り声を上げている。四肢を持つ人型だというのに、四つん這いでこちらを睨みつける鬼。獣人、という表現が最も分かりやすいだろう。浅黒い体毛に覆われた鬼は犬と人の合いの子のように見えた。
 濁った赤の瞳は虚ろにこちらを眺めている。どうやら女を襲う気はないらしく、濃密な殺意は甚夜にのみ向けられていた。
 
「今度こそ、だな」

 鋭い爪。男を襲う。女は殺さない。
 今度こそ当たりだ。奴が件の辻斬りに相違ないだろう。

「お前は」

 言葉は途中で途切れた。名を問うことは出来ず、舌打ちする暇さえなく鬼が迫る。
 その脳天へ向け唐竹に振るうも、鬼は速度を保ったまま横に飛んだ。
 躱された。甚夜は逆手に持ち替え、鬼の動きに合わせ一歩を踏み込み、体を回転させながら追うように剣戟を繰り出す。
 宙では身動きがとれない。それ故の一手、しかし鬼は甚夜の予想を覆す。
 何も無い空を“蹴った”鬼は軌道を変え更に疾駆する。驚愕。だがあまりの速さに驚きの声さえ出ない。
 鬼は止まらない。その、先には。

「ひっ」

 先程の女がいる。
 やられた。こちらへの攻撃は囮。鬼は男を殺し、女を『攫う』。狙いは初めから女の方だった。気付いたとしてももう遅い。此処からでは間に合わない。
 鬼はその手を女に伸ばし。

「きゃっ!?」

 だが空を切る。
 女は何故か、誰かに突き飛ばされるようにして鬼から逃れていた。周りには、誰もいないというのに。
 だから気付く。

「茂吉……!」

 姿を消す<力>。いつの間にか茂吉は此処へ来ていたらしい。寸での所で女を救ってくれたのだ。
 助かった。安堵に軽い笑みが零れるもすぐさま表情を引き締める。そして身を低く屈め地を這うように駆け出す。
 鬼も状況が理解できなければ固まるものなのか、動こうとしていない。それならそれでいい。名を聞けないのは残念だが此処で斬り捨てる。

『う、うう……』

 走りながら刀を水平に構え、左足で地面を蹴り、一気に距離を詰める。
 放たれたのは、絶殺の意を込めた横薙ぎの太刀。横一文字に振るった刀は──何も斬ることはなかった。

『ああああああああああああああっ!』

 既に鬼は此方の間合いから抜け出ていた。
 劣勢を悟ったのだろう。背を向け、雄叫びを上げながら鬼は走り去る。あの速度で逃げに専念されれば追い縋ることなど叶わない。一瞬で見えなくなった背中に、甚夜は奥歯を噛み締めた。

「あれは、追えんな」

 表情は変えない。しかし内心は無念で満ちていた。
 江戸に来てから既に幾度も鬼と立ち合ったが、こうまで後手に回ったのは久々だった。
 ふぅ、と息を吐き熱のこもった体を冷ます。
 逃がしたのは痛いが後悔しても仕方ない。ゆっくりと納刀し、冷たい夜の空気で肺を満たせば、少しは心も落ち着いてくれた。

「甚夜さん」

 耳元で声が聞こえた。 
 姿を消したままの茂吉だ。まだ女の目がある。<力>を解き、鬼としての姿を見られるのを嫌ったのだろう。甚夜も女には聞こえぬよう小声で返す。

「すまん、逃がした」
「いえ、俺もあそこまでの相手とは思ってませんでしたよ」
 
 尋常ではない速さを目の当たりにし、茂吉は苦々しく唇を噛む。彼は然程の身体能力を持たない。正面からぶつかればまず負けるということが証明されてしまった。

「取り敢えず、逃げてった方へ俺は行きます。塒くらいなら見つけられるかもしれませんし」
「無理はするなよ」
「分かってます」

 空気が流れた。茂吉がこの場を離れたせいだろう。さて、私はどうするか。鬼の逃げ去った方へ視線を向ける。

「ちょっと」

 思考を遮るように女は言う。いつまでも座り込んだままこちらを見上げ、不機嫌そうな顔を隠しもしない。

「どうした」
「……のよ」

 声が小さくて聞き取れなかった。
 僅かに眉を潜めれば、悔しそうに恥ずかしそうに、女はもう一度ぼそぼそと呟いた。

「だから……立てないのよ」

 腰を抜かしたらしい。自身の醜態に頬が赤く染まっている。

「悪いけど、ちょっと手を貸して」

 無表情のまま手を差し出すと、女は微妙な表情を浮かべた。

「ありがと」
「いや」
「……そういう素っ気ないとこ、なんかすごく懐かしいわ」

 その物言いに少し違和感を覚え、改めて女の顔を見る
 気の強そうな女。確かに、何処かで見た覚えが。

「……ねえ。もしかして、覚えて無い?」

 何も言わない甚夜を怪訝そうな顔で女は見る。
 目尻が少し吊り上る。しかし瞳には不安が揺らいでいて、その頼りない雰囲気に数年前のことを思い出す。
 ああ、そうだ。確かに私は彼女のことを知っている。

「……奈津、殿か?」

 須賀屋店主、重蔵の一人娘。
 そう言えば以前護衛に就いたことがある。あの時の少女の面影が少なからず残っていた。
 間違ってはいなかったらしい。安堵に奈津の表情は幾分か柔らかくなる

「なんだ、忘れてた訳じゃないのね」
「いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな」

 以前会ったのは十三の時。三年を経て奈津は背が少し高くなり、輪郭も微かに丸みを帯び、少女といった印象から女性らしい佇まいに変わっていた。

「そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね」

 当たり前だ。この身は例え百年経とうとも老いることはない。
 指摘されても動揺することさえなくなった。歳を取ったせいか、人から離れたせいかは分からないが。
 
「あまり老けん性質(たち)だ」
「世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ」

 言いながらもまだ少しふらついている。足に力が戻っていなかった。近付いて少し支えてやる。男に触れられたからか、少し照れたような顔で小さく「ありがと」と言った。
  
「いつも夜歩きをしているのか?」
「そんなわけないじゃない。今日はお使いの帰りよ。御贔屓にしてくれるお客様の所に届け物をしてきたんだけど、すっかり遅くなっちゃって」
「親の手伝いか」
「そういうこと。親孝行ね」

 くすくすと笑う奈津は、かつての余裕のない少女とは違って見える。

「奈津殿は変わったな」
「そう?」
「なんというか、笑い方が自然になった」

 以前はありがとうと素直に言えない娘だった。
 しかし今では意識せず口に出来る。小さなことかもしれないが、この娘も成長したということなのだろう。

「ま、私だっていつまでも子供じゃないわよ」
「いえいえまだまだ子供ですって」
「ひぃ!?」

 急に背後から声を掛けられ、奈津は甚夜から離れ身を竦ませた。

「御嬢さん、随分遅いんでお迎えに上がりましたよ」
「ぜ、善二? 脅かさないでよ!」
「普通に声かけただけなんですけど……なんかあったんですか、ってお前。もしかして甚夜か?」

 一拍子遅れて甚夜の姿を確認し、善二は目を見開いた。

「善二殿、久方ぶりだな」
「おお、本当に久しぶりじゃないか。どうしたんだ、いったい?」
「鬼に襲われた所を助けて貰ったのよ」

 そっぽ向いたままの奈津がそう言えば、嫌に神妙な顔つきで善二は彼女の肩に手を置いた。

「鬼……? 御嬢さん、またですか? 前も言いましたが、旦那様はちゃんと御嬢さんのことを大切に想ってます。ですから」
「今回はそうじゃなくて! 甚夜もちゃんと説明しなさいよ!」

 以前の鬼がまた現れたと思ったらしい。二人の遣り取りに呆れながらも甚夜は言われた通り説明することにした。

「辻斬りの噂は知っているか」
「へ? ま、一応は」
「辻斬りの正体は鬼……私は今そいつを追っている。奈津殿が襲われたのは単なる偶然だ」
「ほぉ。お前、相変わらず訳の分かんないことに首突っ込んでんだな」
「……訳分かんなくって悪かったわね」
「あ、いや、御嬢さんのことじゃなくてですね」
 
 しかし今の言い方では奈津の時も「訳の分かんないこと」になる。相変わらず失言の多い男だ。

「別にいいけど」
「ですから、決して今のは御嬢さんのことを言った訳ではなく」

 三年経った今でも力関係は然程変わっていないらしい。微笑ましい二人だった。

「迎えが来たなら私は行かせてもらうが」

 二人の言い争いが落ち着いたところで声を掛ける。懐かしいのは事実だが、時間を無駄にはしていられない。

「そう、今日はありがと。そういえば、あんた今どうしてるの?」
「変わらんさ。気ままな浪人だ。今は深川にある喜兵衛という蕎麦屋によくいる。鬼に纏わる厄介事があるなら来ればいい。多少は安くしておくぞ」
「金はとるんだな」
「当たり前だ。私にも生活がある」

 小さく笑い合って、二人に背を向ける。

「あ、そういや。甚夜、ちょっと待て」

 歩き始めたが後ろから呼びかけられ、立ち止まり半身になって善二へ視線を送る。

「お前、谷中の寺町は知ってるか?」

 甚夜は無言で頷く。
 寺町は江戸の外れに位置し、名前の通り寺院が集中して配置されている。そのせいか、幽霊だの魍魎だのが出たという類の話が多い場所でもある。

「そこに瑞穂寺ってのがあってな。随分前に住職が亡くなって廃寺になってるんだが、お客さんから聞いた話じゃ夜な夜な女性の声が聞こえるらしい」

 女性の声。
 攫われたのは女性だけ。
 少し引っかかる話だ。

「この話結構よく聞くんだ。……中には鬼が住み着いたっていう噂もある」

 廃寺。
 女を拐かして“こと”に及ぶなら、落ち着ける場所がいる。女が声を出してもいいように、人が寄り付かず姿を隠せる場所。寺町なら条件としては見合う。
 それが辻斬りかは分からないが、少なくとも女を攫う何者かがそこにはいるのだろう。
 そして先程の鬼が逃げて行った方角とも合う。

「鬼を追ってるってんなら、こんな噂でも役に立つかと思ったんだが……どうだ?」
「有難い、面白い話を聞かせて貰った」
「そいつは何よりだ」

 これは、案外当たりかもしれない。
 ようやく掴んだ尻尾に甚夜は表情を引き締めた。

 

 ◆


 走りに走り辿り着いたのは、江戸の外れにある寺町だった。

「方向はあってると思うんだが」

 茂吉はまだ捜索を続けていた。谷中の寺町。この一帯は寺町の名の通り寺院が多い。夜の闇に浮かび上がる情景はいやに不気味で、怪異の噂が多いのも納得できる雰囲気である。 
 しかしこの辺りは人通りが少ない。辻斬りにしても獲物を探すには不都合な場所だ。これは外れだったか、と考えた矢先。

 ……あああぁぁ……

 夜に響く誰かの悲鳴を聞いた。

「近い」 
 
 呟くと共に茂吉の姿が周囲に溶け込むように消えた。<力>を行使し、足音を殺しながらも声を辿る。急がなくては。焦る気持ちを抑えただ歩みを進め。

 その時、びゅう、と風が通り抜けた。

 否、それは風ではなく。
 宵闇の中、女を片手で抱えて疾駆する鬼だった。
 すれ違いざまに見たのはぐったりとした年頃の女を抱えた、犬と人の合いの子のような鬼。間違いなく先程見た鬼だ。爪先からは血が滴り落ちていた。逃げながら誰かを殺し、女も攫ってきたようだ。


 ───あの鬼が、俺の仇だ。


 茂吉は背筋を通り抜けるぞわぞわとした感覚にそれを理解した。
 そうして走り抜けた鬼の消えた先を睨みつける。
 狭い路地の突き当りにはうらぶれた寺があった。そこは随分前に住職が亡くなったため廃寺となり、そのまま放置されている場所だった。
 名前は確か、

「瑞穂寺……」

 やっと見つけた。
 あそこが、俺の憎悪の行き着く場所だ。





[36388]      『貪り喰うもの』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/20 00:25

 鬼は様々な方法で生まれてくる。

 鬼が戯れに人を犯しその結果生まれる鬼。
 憎悪や嫉妬、絶望。負の感情を持って人から転じた鬼。
 想念が寄り集まり凝固し、無から生ずる鬼。
 その出自は多岐に渡り、しかし一様にそれは同じ鬼と括られる。

 そんな中で茂吉は鬼の父母を持つ、純粋な鬼として生まれてきた。
 とは言え父母と共に過ごした記憶はあまりない。鬼は同朋を大切にするが同時に総じて我が強い。父であることより、母であることより、己であることの方が大事だという者がほとんどである。
 故に子が生まれても自身の生き方が制限されるならば簡単に捨てるのが鬼だった。

 茂吉の両親もまたそういう鬼らしい鬼で、名前を付けることすらせず彼を捨てた。不満はない。それが鬼なのだと茂吉自身理解していた。だから憎むことはせず、ただ自分にはそういう生き方は出来ないとも思っていた。

 茂吉が人に化けて生きる道を選んだのは、つまりそういう鬼としての生き方が肌に合わなかったからに他ならない。
 争う事をしてまで通す程の我を持ち合わせていなかった茂吉にとっては、揺らがぬ自分に囚われた鬼より状況によって簡単に変節する人である方がまだ生き易かった。
 
 人の目からも鬼の目からも隠れ、大きな喜びはなくとも小さな幸せを得て。
 誰に目を付けられることなくひっそりと、ただ穏やかに生きて穏やかに死んで往きたい。

 それだけが茂吉の願いだった。
 人に化けて彼は生きる。茂吉という名前はその時に自分で付けたものだ。
 町人として裏長屋に住まい、貧しいながらものんびりと過ごす毎日は気に入っていた。一所に留まれば自然としがらみは生まれる。邪魔くさいと思うこともあったが、それも仕方のないことだろう。怪しまれない程度に近所と交流し日々を過ごしていく。

 そんな折、茂吉は一人の女と出会った。
 
 同じ長屋に住んでいた娘で、仲のいい家族に囲まれた、屈託ない笑いを浮かべる女だった。
 女は朴訥とした、穏やかな茂吉の人柄を気に入ったらしい。毎日何気なく挨拶を交わし、さり気無く独り身の茂吉を気遣ってくれた。茂吉もまた邪気のない彼女に魅かれていった。

 次第に二人は親密さを増し、二度目の春が訪れる頃には恋仲となっていた。

 傍から見ても微笑ましい二人の姿を長屋の皆は祝福してくれた。
 だが茂吉には罪悪感があった。この身は鬼。今こうして笑い合う瞬間さえ自分は彼女を騙している。その引け目は彼を長らく苦しめた。

 在る日のこと。
 茂吉は女に自身の正体を明かすことにした。

 俺は彼女を妻に迎え入れたい。
 それならば彼女を騙したままでいいはずがない。

 人の目からも鬼の目からも隠れひっそりと生きることを願った彼が、初めて見せた気概だった。
 求婚を前にして、茂吉は女に自身の正体を語って聞かせた。もし彼女が自分を拒絶しても恨むことはしまい。人と鬼は分かり合えぬもの。たとえうまくいかなかったとしても、それは当然のことと諦められる。
 覚悟を決めて彼女に全てを明かし、しかし返ってきたのは予想外の反応だった。


 ────それで?


 覚悟を決めて打ち明けたというのに、あんまりな返答である。
 もう少し何かないのか。もうちょっとこう、真面目な対応というか、深刻な感じの。
 ちゃんと鬼である事実を受け入れて貰えたのに、女の言葉が大雑把過ぎていまいち実感が湧かないのだ。
 それを伝えれば何を言っているのだと笑った。
 そして何でもないことのように女は言う。 


 ────私が好きになったのは最初から鬼でも人でも無くあんただよ。


 その姿はやはり邪気がなく、緊張していた自分が馬鹿みたいだと茂吉は笑い、それがおかしかったのか女もまた笑った。

 こうして二人は夫婦になった。

 だからと言って劇的に毎日が変わる訳でもない。相変わらず彼は穏やかに、ひっそりと日々を過ごしていく。
 ただ傍らにはいつも妻がいる。
 当たり前に過ぎ往く歳月はほんの少しだけ柔らかくなった。
 大きな喜びはなくとも小さな幸せが此処には在る。
 退屈ではあったが穏やかな日々はこれからも続いていく。
鬼でありながら人として生きる道を選んだ茂吉の願いは、確かに結実した。



 そう、退屈ではあったが穏やかな日々はこれからも続いていく。
 続いていく、筈だった。



 ◆



 瑞穂寺の境内は放置されていたせいで荒れ放題だった。
 草木は野放図に伸びて、とでもではない寺社仏閣の神聖さを感じることは出来ない。
 春の宵は空気が冷たい。吹く風に雑草が撫でられ、ざあっと鳴った。それは随分と物悲しく聞こえる。草木以外に音を出すものがないという事実は打ち捨てられた場所の寂寞をより強く感じさせた。
 
 じゃりっ。

 静寂に響く。
 踏み締めた砂が音を立てたのだ。茂吉は瑞穂寺に消えた鬼を追い、既に敷地まで入り込んでいた。
 その姿は頼りない町人ではなく、浅黒い肌と異形の右目を持った鬼となっていた。既に力は使っている。姿を消し、足音を殺して本堂へと進む。
 握り締める短刀は以前の刀を甚夜に折られてしまったため新しく購入したものである。今度は簡単に砕けぬよう大枚を叩いた。短刀は葛野という土地で鍛えられたもので、鬼さえ裂くという触れ込みだった。それが真実かどうかはこれから分かるだろう。

 本堂に近付くと、僅かながらに女の声が聞こえる。
 だが心には微塵の動揺もなかった。もとより義侠心で動いていた訳でもない。女が鬼に襲われ死体が一つ増えるくらい、正直に言えばどうでもよかった。大事なのは今この場で“あれ”を殺すこと。それ以外のことは心底どうでもいい。
 土足のまま本堂を歩けば板張りの床が鳴った。
 足音を殺しても木の板が鳴るのは止められなかった。だが鬼は気にも留めない。
 鬼は獣のような様相をしていた。人と犬を掛け合わせたような、奇妙な体。二足歩行をするためか、腕と足は獣のそれではなく人に近い。浅黒い地肌も相まって全身が沈み込む闇色で染まり、影がそのまま浮かび上がったのではないかという出で立ちである。


 ぺちゃ……ごりっ……


 水音のような、家鳴りのような、気色の悪い音
 それが咀嚼する音だと気付いたのは、赤眼の狼の腕には頭部の無い豊満な女の死骸があったからだ。
 生々しい赤い肉から血が滴っている。もう一口。今度は首から胸にかけてが消えた。起点を失くした腕がどさりと床に落ちる。鬼は一片たりとも残す気がないのだろう。落ちた腕を拾い骨ごと平らげた。


 ───だが、そんなことはどうでもいい。


 いったい、どれだけの時間探していたのだろう。
 長いような、短いような。
 だが「それ」に出会った瞬間、頭が真っ白になった。
 変わらず鬼は女を貪り喰う。

 ───どうでもいい。
 
 短刀を構え近付く。

『はヤく……帰らナきャ………』
 
 鬼はぶつぶつと呟いている。

 ────どうでもいい。
 
 何を焦っているのか。 
 悲壮感さえ漂わせ鬼は一心不乱に血を臓物をまき散らしながら女を喰っている。それはまるで親に怒られて嫌いな野菜を食べる子供のようだった。

 ────なにもかも、どうでもいい。

 お前か、お前が妻を殺したのか。
 茂吉の目にはただ憎悪の色だけが在った。あの鬼が何故辻斬りをしたのか、女を喰らうのか。理由なぞ関係ない。そんなことよりも重要なのは妻を汚し奪った事実。それが茂吉にとっては全てだった。

 もう限界だ。憎悪に突き動かされ、姿を消したまま茂吉は一直線に走り出す。相手はまだ気付いていない。後頭部を串刺しにして頭蓋を砕き中に詰まった肉を掻き回してやる。
 逆手に持った短刀を振り上げ、あと一歩で間合いに届くというその時。


 鬼が振り返った。


 憎むべき宿敵を前にして忘れていた。
 茂吉の<力>では姿を隠せても発する音までは消せない。
 音を殺すことも忘れ激昂したままに走り出して、相手が気付かない訳がないのだ。
 向けられた赤銅の瞳にすっと血の気が引いた。足が竦み思わず立ち止まってしまう。
 
 落ち着け。まだだ、まだ大丈夫だ。
 相手の鬼は俺が見えているんじゃない。ただ音がしたから振り返っただけ。なら位置を移動して斬りかかれば問題ない筈だ。

 幾分冷静になった頭で次に取るべき行動を考える。
 振り返った鬼が動かない。それがいい証拠だ。やはり相手はこちらの居場所を把握できていない。今度は足音を殺し、ゆっくりと背後に回ろう。

 そうして一歩を歩き、ぎしりと床が鳴り、鬼の姿がぶれた。

『がっ……!?』

 次の瞬間には鬼の姿は消え失せ、茂吉の脇腹から胸までが深くえぐり取られていた。臓器をいくつも持って行かれ、その傷は心臓にまで達し、立ってることさえままならずがくりと床に崩れ落ちる。鉄錆の味が口内に広がった。痛すぎて笑ってしまいそうなのに、痛みが遠い。揺れるように霞むように視界が濁る。

 助からない。

 血を失くし冷たくなっていく体に茂吉はそれを理解した。
 茂吉には鬼が消えたように見えたが、実の所別に大したことはしていない。鬼はただ一直線に走り抜け爪を振るっただけ。消えた茂吉の姿が見えていた訳でもなく、ただ音のした辺りを攻撃してみたら当たった、それだけのこと。
 だが茂吉の目には鬼が消えたとしか見えなかった。
 それほどまでに鬼は速かったのだ。

 力を維持することも出来なくなり、血を流し伏す異形の鬼の姿が晒される。体からは白い蒸気が立ち上った。遠からずこの体は消え去るだろう。いや、それよりもあの鬼に殺されるのが先か。

 俺は、このまま殺されるのか。妻の仇も討てないまま。

 死への恐怖よりも後悔の方が勝った。もっと冷静になれていれば違う結末もあったのかもしれないのに。そう思っても、もはや取り返しはつかない。茂吉はこのまま無様に殺されるしかない。
 悔しさに歯を食い縛る。
 しかし、いつまで経っても鬼はとどめを刺そうとはしない。いったいどうしたのだろう。不思議に思い顔を上げると、鬼は転がる茂吉には目もくれず食事の続きをしている。
 
 ぐちゃぐちゃ。

 腹にたっぷり詰まった臓物を頬張り、細っこい足を齧りごくりと飲み込む。肉の一片すら残さず女の死体を完食し、満足がいったのか鬼は茂吉の横を通り過ぎて本堂から出て行った。茂吉にはその背中を黙って見送るしか出来ない。

 俺には、殺す価値すらないか。

 どの道放っておけば消える身だ。わざわざ殺すまでもないと思ったのかもしれない。

『はは、情けねえや』

 力なく茂吉は笑う。
 確かに此処は憎悪の行き着く場所だった。

 身に余る憎悪の行く末は、己が身の破滅。
 ただ、それだけのことだ。


 ◆


「……ここか」

 多少遅れて甚夜もまた瑞穂寺に辿り着いた。
 うらぶれた寺。薄月の照らす境内はいやに静かで、落ち着いた風情だというのに薄気味が悪い。一種独特の雰囲気を醸し出す廃寺を、神経を研ぎ澄ましゆっくりと歩いていく。もしも辻斬りがいるのならば広く場所の使える本堂だろう。当たりを付けて目的の場所を目指す。

 板張りの床を土足で踏めば古い建物特有の軋む音。長い間手入れされていないのだろう。うっすらと埃が積もっており、そのおかげで分かる。ここには己以外の足跡もある。つまり、ここは誰かが使っているのだ。

 鯉口を切る。いつどこから襲ってきても対応できるよう意識を周囲に向け、少しずつ進む。
 そうして本堂に入った瞬間、肌にべったりと張り付く濃密な空気を感じた。
 嗅ぎ慣れた匂い。死体の発する独特の鉄錆と硫黄が混じり合った香だ。飛沫する肉の脂に気分が悪くなる。

 殺されたのは最近。
 本堂を見回せばところどころに血の跡。
 床には力なく伏す異形の鬼が。
 
 それは同じく辻斬りを追っていた茂吉である。町人ではなく鬼の姿に戻った彼は左半身を抉り取られ、ただ打ち捨てられていた。びくびくと体が痙攣している。白い蒸気は立ち昇るが、まだかろうじて意識は保っているようだ。
 
 だが駆け寄ることはしなかった。
 茂吉を抱え起こすその瞬間を狙った罠が張られているかもしれない。いつでも抜刀出来るように力を込め一歩ずつ距離を縮める。
 どうやら罠の類はないらしい。
 何事もなく茂吉の傍まで辿り着くが、表情には出さないものの苦々しい気分だった。昔ならばこういう時、何も考えずに飛び出し抱え起こしていただろう。しかし今は違う。罠を警戒して、血を流し伏す者に駆け寄ることさえしなくなった。そんな己の変化に嫌気がさす。

「茂吉」

 小さく呼びかける。荒い息。異形の鬼は体を転がし何とか仰向けになり、虚ろな瞳で甚夜を見上げた。

『いやぁ、情けない姿を晒したようで』

 笑ったのは強がりだろう。苦渋に歪む表情を見れば分かる。妻の仇を討つことだけを考えてきた。ただその為に生きた。だというのに仇は討てず、自身もまた辻斬りの手によって死に往く。どれほどの悔恨かなど想像するのもおこがましい。

「辻斬りか」
『はい。ここで、女を貪り喰ってやがった。あのくそ野郎……あいつが、妻の……仇です』

 途切れ途切れの言葉だった。声を出すもの苦痛なのだろう。それでも憎々しげに表情を歪め恨み言を口にする。
 だが甚夜はそれを聞きながら別のことを考えていた。
 
 貪り喰っていた?

 その言葉に強い違和感を覚える。何かがおかしい。奇妙な引っかかり。喉に痞えるようですっきりとしない。いったいこの違和感は。

『すみません、甚夜さん。一つだけお願いが』

 一際強くなった語調に飛んでいた意識を取り戻す。今は考えるよりも茂吉と向かい合ってやらねばなるまい。

「聞こう」

 白い蒸気は立ち上る。声も弱々しく、死はそこまで近付いている。男の遺す最後の言葉だ。聞き洩らさぬよう体を屈め、顔を近づける。
 届いたのは今にも泣き崩れそうな、悔いに満ちた声だった。


『どうか、どうか、妻の仇を』


 そう言って、手にあった短刀を甚夜へ差し出す。
 泣きたくなった。
 本当ならば己の手で成したかっただろうに。
 甚夜もまた憎悪に身を委ねた一人。志半ばで果てる茂吉の気持ちは、例え想像することさえ罪深いとしても、感じ取れてしまう。
 出会ってから期間は短いが、気の合った相手……いや、友人だ。最後の願い。それくらいは叶えてやろう。
 甚夜は茂吉の体に左手で触れた。

「ああ、わかった。だが代わりにお前の力を貸してほしい」

 死に逝く俺に何を。疑問には思ったが、茂吉は間を空けずに言葉を返した。

『勿論です。折角の友の頼み、俺が役に立つならなんにでも使って下さい』

 甚夜は静かにこくりと頷いた。

「お前の願い、確かに聞き届けた」

 右手はしっかり短刀を握り。
 無表情に、無感動に、甚夜はそう告げた。




[36388]      『貪り喰うもの』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/22 00:24
 
 ずっと探していた。



 誰かを。誰を? 分からない。でもずっと探していた。
 探す途中で男を見つけた。殺した。男は男というだけで殺さなくてはいけないのだと思う。だから見つける度に殺してきた。
 理由は分からないけど、殺さない理由もない。それに殺すと気分がすっとするから私のやっていることは間違いではないんだろう。きっと私はあいつ等を殺すために生まれてきたんだ。訳もなくそう思った。

 でも、昨日だけは違った。
 男を殺したのにすっとしなかった。
 もやもやする。いらいらする。

 だから私はまた町に出かけた。
 そして、ずっと探してる。
 誰かを。誰を? 私は、誰かをずっと探している。早く行かなきゃ。帰らなきゃ。
 帰る? 何処に? 何も分からない。

 でも一つだけ分かった。
 私はこのままじゃ帰れない。だから今夜も女を攫った。女は生かしたままねぐらに連れていく。食べるためだ。
 おいしいとは思わない。でも女は食べないといけない。だって私には“これ”が足りない。いっぱい集めていっぱい食べて、早く帰らなきゃ。

 攫った女を連れて廃寺まで戻ってきた。広い本堂に攫った女を落とす。遊女なのだろうか。随分と派手な着物を着ている。確か、夕凪とか呼ばれていた。まあ名前なんてどうでもいい。早く食べよう。いっぱい食べて、帰るんだ。何処に? それはやっぱり分からないけど。私は帰りたい。男を殺すのも女を食べるのもそのため。はやく。私は帰るんだ。

 早く、速く、ハヤく、卂く、はやく。誰よりも何よりも疾く、あの人の下に帰らなきゃ。 
 そのために。
 今はまず攫ってきた女を早く食べないと……




「既に見つかった根城に戻る。獣の姿をしていると思えば頭の方も獣並みか」




 鉄のように冷たい声が響いた。
 虚を突かれ、目を見開いて振り返るがそこには誰もいない。気のせい? まさか。確かに声が聞こえた。今この本堂には私以外の誰かがいる。
 
 ひゅっ。

 音が鳴ったその時には腕が落とされていた。

『あ…おぉ……』

 いきなり腕が落ちた。なんで?分からない。痛い。痛い。痛い。何が起こっている?
 
 待て、これは。

 ああ、そうだ。私は知っている。
 姿を消す<力>。それは昨日襲いかかってきた鬼が持っていたものだ。殺したつもりだったが生きていたのか。何故か心が浮き立つ。よく分からないが、多分殺し損ねた男をもう一度殺す機会が巡ってきたからだろう。

『ああああああああああああああああっ!』

 四肢に力が満ちて弾けるように私は走る。<疾駆>───誰よりも疾く駆け出すための、私の<力>。相手が何処にいるかは分からない。でも、いるのは分かっているのだから爪を振り回していればいつかは当たる筈だ。だから私は駆ける。床を壁を天井を、何もない空中すら蹴って縦横無尽に本堂を駆け回りながら爪を振るう
 
「やはり速い。宙さえ足場にできる<力>……なかなかに厄介だな」

 すぐさま声の方に突進する。だが空振りに終わった。でもいい。いつかは当たる。あの男では私を捉える事は出来ない。この勝負、最初から男には勝ち目がないのだ。
 だから走り、ただ爪を振るう。でも当たらない。何故? 狭い本堂。逃げる場所は何処にもないはずなのに。

「だが今度は二人掛かりだ」

 今度は本堂の奥で声が聞こえた。睨みつければ、そこには一人の男が。
しかし姿を現したのは昨日の鬼とは違っていた。

 六尺ほどの体躯。
 肩まであるだろう髪を大雑把に縛っただけの髪型。
 その手には太刀、藍の小袖を纏った姿は乱雑な髪型も相まってただの浪人にしか見えなかった。
 だが、その男もまた人ではない。
 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
 そして白目まで赤く染まった異形の右目をもった鬼だった。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面のようなもので覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。


 それは確かに、あの時の鬼が持っていた特徴で。


『お前モ…喰ッた……?』

 そうか。こいつは昨日の鬼を喰って自分の<力>に変えたんだ。それを理解し、私は何故か激昂する。絶対に、この男は殺さないといけない。目には際限ない憎悪。ただあの男を殺す。今はそれだけ考えていればいい。
 全速で駈け出す。だけどまた鬼の姿が消えた

 今度は何処に? 関係ない。このまま一直線にあの男を殺す。だが空振り。逃げられたのか。いや、あの男よりも私の方が速いのだから逃げられる訳がない。何処に消えた。振り返ってもう一度走り出そうとして。

 なのに、動けない。

 急に足が動かなくなった。
 走る激痛。違う。足が動かなくなったんじゃない。動くも何も、私の足はなかった。床にある。駆け出すために必要な足が無造作に転がっている。なんで? 

「<隠行>……それがお前を討つ<力>の名だ。憎しみに囚われなければ、茂吉の刃はお前に届いていたのだろう」

 耳元で声が聞こえた。
 そして気付く。
 この男は逃げたんじゃなく、ほんの少し体をずらしただけ。ほとんど動いていなかった。この男は昨日の鬼と違い、私の攻撃をちゃんと避けていたんだ。それに気付かず、私はまんまとこの男の間合いに飛び込んでしまった。
 私は振り向きざまで体を崩してしまっている。
 対して男は私の事を待ち構えていた。
 つまり逃げられないのは────



「これで終いだ」

 熱い。刃が体を引き裂く感触。





 ───私の、方だ。



 ◆



 袈裟懸けに鬼の体躯を斬り裂き、<隠行>を解く。
 甚夜はもともと人でありながら、鬼を幾体も葬ってきている。脆弱な人の身では鬼の攻撃を一度でも受ければ致命傷となるため、全ての攻撃を避けねばならない。
 そんな綱渡りの戦いを経てきた彼であっても此度の鬼は厄介だった。もしも真正面から尋常の勝負を挑んでいたら、後れを取ったかもしれない。
しかし今の甚夜には姿を消し気配を隠す<力>がある。
 厄介ではあるが相手はただ速いだけ。戦いに慣れている訳でもなく、こちらの位置が分からなければ打つ手立てはない。この結果は至極当然だと言える。
 
 先程までの戦いで寺の本堂は埃が舞い上がり床や壁、天井までも踏み抜かれ見るも無残な状態だった。
 血払いをして、愛刀である夜来を鞘に納める。そうして白い蒸気を発しなら伏す鬼を見下ろし甚夜は問うた。

「もし私の言葉が分かるなら、一つ教えてくれ」

 その声に息も絶え絶えという状態で鬼は体を起こす。赤い瞳が己に向けられる。しかしそこに憎しみはなく、虚ろで焦点が定まっていなかった。抗おうという気概は感じられない。

「私は初めに聞いた。此度の辻斬りでは『死体の数が合わない』と」

 辻斬りに殺された者は引き裂かれたように無残な死体で発見される。
だが死体の数が合わない。
 死体の数と行方不明者の数が一致しないため、いなくなったものは攫われたのか、神隠しにあったのか分からなかった。だから死体の傷のこともあり、犯人は鬼ではないのかという噂が流れた。

「だが茂吉は言った。『妻の死体が発見された』と」

 それはおかしい。
 たとえ攫われたとしても、後に発見されるのであれば『死体の数は合っている』。店主と茂吉の言は矛盾していた。だがどちらかが嘘をついたということもない筈だ。店主が嘘を吐いても利はないし、鬼は嘘を吐かない。
 ならばこれはどういうことだろう。

「茂吉が言うには、お前は此処で女を喰っていた。ならばお前が辻斬りであることは間違いない。間違いないが……」

 そもそも、この鬼は女を喰っている。ならば女の死体が残る筈はない。だが現実として茂吉の妻は性的暴行を受け死体として発見された。
 つまり、誰も嘘を吐いていないと仮定して、矛盾なく解を導くならば。

「辻斬りと茂吉の探していた仇は別の存在と考えるのが自然。さて、お前は何者だ?」

 この鬼は茂吉の妻を殺していない。
 茂吉の妻が攫われたのは一月前、発見されたのは十日前。
 しかし辻斬りの噂が流れたのはごく最近だ。とすれば、最初にいた『男を殺し女を攫い犯す』辻斬りはいつの間にか消え、『男を殺し女を攫い喰らう』辻斬り、即ちこの鬼が犯行を引き継いだ、という事になる。
 ならば最初の辻斬りは何処に消え、そしてこの鬼は何処から現れたのか。
 しばらくの間、甚夜は鬼の返答を待った。沈黙は続き、どれくらい経っただろう。

『から……ダ…………』
 
 ぽつりと呟く

『から…ダが……なイと』

 しかし出てきたのは意味の通じない言葉。知能が低いのか、要領を得ない呻きだけを上げている。そしてまた口を噤み再び沈黙の時間が訪れた。これ以上問い詰めても答えは返ってこないだろう。
 ふぅ、と一度溜息を吐く。

「最後に名を聞いておこう」

 答えるかどうかは分からないが今一度問う。
かつて相手の名も聞かずに斬り殺し後悔したことがあった。以来甚夜は自分が討つ相手には出来るだけ名を聞くよう心掛けている。

『は……つ………』

 たどたどしく、それでもなんとか鬼は答えた。

「はつ……。それがお前の名か」

 胸に刻み込む。
 己が踏み躙った命だ。抱えて往くのがせめてもの礼儀だろう。
 そうして転がる鬼の首を左手で掴み、そのまま己の視線の高さまで片腕で持ち上げる。

『あ……』

 鬼は小さく声を上げた。無貌の瞳はただ甚夜を見詰めている。そこには憎しみも恐怖も見て取ることは出来ない。それが辛かった。己がこれから行うのは辻斬りよりも遙かに下衆な所業だ。だから憎んでくれた方がよかった。

「先程お前は問うたな。喰ったのか、と」

 無表情。何も感じていない訳ではないがそれでも感情を外には出さない。これは己が成すと決めたこと。ならば苦渋の念を外に漏らすのは逃げだ。自分も苦しいのだから許してくれと言い訳をすることに他ならない。だから決して表情は変えなかった。

「その通りだ。お前が女を喰うように、私は鬼を貪り喰う」

 だからこそ、茂吉の仇ではないと分かっていながらお前を斬ったのだ。

『がっ……!?』

 どくり、と。
 左腕がまるで心臓のように脈を打つ。白い蒸気を上げながら消え往く鬼は刀傷とは別の痛苦に悶えた。

「お前の<力>……私が喰らおう」

 元々甚夜の左腕はそういうもの。
 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。
 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。

『あがっ……ぎゃ』

 喰われてる。
 鬼はそれを理解した。自分の中の何かが流れだしている。あのよく分からない男は自分の肉をその左腕から取り込んでいるのだろう。理解し、しかし抗う術などある筈もない。

「<疾駆>……一時的な速力の向上。発動の瞬間は空中であっても“蹴って”走り出すことが出来る。成程、使い易そうだ」

 鬼の持つ知識が甚夜の中に入り込んでくる。
 異形の左腕が持つ<力>は<同化>。
 他の生物を己が内に取り込み、同一の存在へと化す<力>。それ故に、“繋がっている間”は喰らわれる者の記憶や知識に多少なりとも触れることが出来る。
 鬼の記憶が断片的にではあるが左腕から伝わってきた。
 
 どうやら生まれてからまだ十日かそこら。普通、鬼は百年を経ることで固有の<力>を得るが、稀に生まれながら<力>を備えたものも存在すると異形の左腕の持ち主が言っていたことを思い出す。
 記憶は更に入り込む。
 そして辿り着く。
 この鬼が何者かという答えに。


 まず飛び込んできたのは眩暈を起こす程の恐怖だった。


 二人の男に女が襲われている。

 服を破られ、口を押さえられ。

 成す術もなく犯された。

 肌に触れる手の感触。

 貫かれる痛み。

 聞こえる男の笑い声。

 人ではなく、女ではなく。

 欲望を満たすための道具として使われる。

 そうして最後には命を奪われ川へ捨てられた。 
 そこで終わり。
 否、この鬼が人であった頃の記憶が終わった。
 去来する絶望。湧き上がる憎悪。
 死んだ体だけを残し、女の想いは鬼となった。

「そうか、お前は」

 元々は男に犯され殺された一人の女、正確に言うならば彼女の遺した恨み。
 死に往く女が残した絶望と憎悪が凝固し生じた鬼だった。

 彼女は『男』を殺す。
 憎しみに囚われ自我を失った彼女にとって、自分を犯した『男』も関係の無い他の男も同じに見えていたのだろう。彼女はいつまでも自分を犯し殺した『男』を探し、見つける度に殺してきた。探して見つけて殺してまた探す。そんな事をずっと繰り返してきた。

『探さなきゃ』

 そして彼女は『女』を喰らう。
 それは一種の帰巣本能だったのかもしれない。肉体を残し想いだけが鬼と化した。だが彼女は人に、打ち捨てられた自分に戻りたかった。
 しかし彼女に残されているのは想いだけ。肝心の体がない。それでは戻れない
 彼女は考えた。
 体がない。なら、代わりを集めればいい。
 自分が失ってしまった『女』の体を彼女は求め続ける。年若い女を見つけて攫い、食べることでなくなった体を補おうと考えた。食べて食べて、食べ続けていればいつか、失った女の体をもう一度取り戻すことが出来ると。そんな事を想ってしまったのだ。

『帰らなきゃ』

 だから『男』は殺し『女』を攫って喰った。
 起因する感情。
 鬼の心は「帰りたい」という想いで満たされていた。何処に帰りたかったのかは分からない。だが鬼となった身では帰れないと知っていたのだろう。帰る為に、憎むべき『男』を殺し、『女』の姿を取り戻したかった。
 これが男を殺し女を喰らう辻斬りの正体。
 つまりこの鬼は。

「お前はただ、帰りたかっただけなのだな」


 かつて在った幸福に。
 いつかは、もう一度帰れると信じていた。


「そんなこと」

 出来る訳がないのに。
 失ったものは失ったもの。たとえどんなに願ったとしても戻ることはない。それは当然で、しかしそれでもこの鬼はかつての幸福を求め続けた。それが悲しくもあり、同時に羨ましくもあった。
 
 いっそ、彼女くらい壊れてしまえた方が楽だったのかもしれない。

 同じく過去に引き摺られて生きる身だ。そう思わなくもない。
 胸に宿るのは憐憫か、それとも羨望か。自分でも把握しきれない感情が甚夜が渦巻いている。

『……なンで?』

 気付けば、赤の瞳は揺れている。

『あナタハ……なンで? 鬼を食べテ、そレで……どウスル……の?』

 それは皮肉ではなく、純粋な疑問だった。
 自分は人に戻るために喰い続けた。ならばこの男は何故鬼を喰うのか。彼女には甚夜が理解できない化け物に映っているのだろう。眼には僅かな悲しみの色がある。

『あ…あぁ……』

 だがそれも長くは続かなかった。彼女の意識はすぐにでも消え去ろうとしている。苦悶の表情でそれでも譫言のように呟く。

『早く……ハヤく…探さナきャ……帰ラなきゃ……』


 あの人の、所へ。


 最後に、そんな言葉だけを残し。
 鬼は完全に消え去った。




 本堂に残されたのは甚夜一人。
 自分の右手を眺める。肌の色が浅黒い、鉄錆のような褐色に変化していた……恐らくは全身が。今の鬼を取り込んだ為だ。また一つ鬼に近付いてしまった。
 寒々しいまでに静寂が横たわる本堂。それがいつかの情景と重なったせいだろう。古い記憶が蘇る。


『人よ、何故刀を振るう』


 遠い昔、鬼が投げ掛けた言葉。
 今も尚その問いに返す答えはなく。
 歳月を重ねる度に斬り捨てたものだけが増えた。

「どうするの、か」
 
 憎悪はまだこの胸に在る。
 それでも鈴音を許したかった。
 人として彼女を止めたい。
 だからこそ止めるだけの力を欲して。
 その為に他者の願いを踏み躙り、次第に身体は鬼へと変わっていく。
 矛盾。
 刀を振り下ろす先は未だ見つからない。

「本当に、私は一体どうしたいのだろうな」

 自嘲の笑みが漏れた。

 白雪。
 こんなことばかり繰り返して、本当に私は答えを見つけられるのだろうか。

 答えるものは誰もいない。
 気付けばいつも一人だった。



 ◆



 数日の後、茂吉が住んでいた裏長屋を訪ねた。
 いつものように人の姿へと戻れば右目や浅黒い皮膚は肌色に戻っていた。人の中で暮らしていくことには問題なさそうである。
 
 右手には酒瓶がある。手土産に買ってきた下りものだ。
 酒瓶を持ってきたことには別に意味が在った訳ではない。ただ何となく彼の住居を訪ねるならば必要だと思った。
 辿り着いた長屋の一室。
 引き戸を開ければ狭い室内は以前のままで放置されている。あまりに以前と同じせいで、少し経てば茂吉が「おや、甚夜さん。いらっしゃい」と朴訥な笑みで現れるような気さえした。

「おや、お兄さん。茂吉さんの知り合いかい?」

 驚愕に振り返る。
 まさか本当に、と思って見れば声をかけてきたのは茂吉とは似ても似つかぬ女だった。年の頃は三十半ばか。でっぷりと肉のついた、恰幅のいいお母さんといった印象である。
 
「ああ、一応は」
「ここ数日帰ってきてないんだけど、どこに行ったか知らないかい?」

 真実を告げる訳にもいかず目を伏せる。それを「知らない」という返答だと取ったのか、女は唸って息を吐いた。

「そっか……お初さんが亡くなってから随分沈んでたからねぇ。変な事になってなきゃいいけど」
「はつ?」

 その名前に疑問を浮かべると、すぐに女は教えてくれた。

「え? ああ、知らなかったのかい。お初さんは茂吉さんの奥さんの名前だよ。二人は長屋でも有名なおしどり夫婦だったんだ」

 どこかで聞いた名前だった。

「お初さんはそりゃあもう茂吉さんにべた惚れでねぇ。世間話をしてる途中でも『早く茂吉の所に帰らなきゃいけないから』って切り上げて帰っちゃうような娘だったんだよ。それなのに、あんなことになっちまって……。あ、ごめんね。変な事を聞かせて」
「いや」

 あんなこと、というのは犯され殺された事実を指しているのだろう。はつ。犯され殺された女。嫌な符合だった。
 そして思い出す。
 探さなきゃ。帰らなきゃ。何度も鬼は呟いていた。
 甚夜は鬼が探していたのは、自分を犯し殺した男だと思っていた。しかし、もしかしたらそれは間違いなのかもしれない。本当は探していた者も帰らなくてはならない場所も同じだったのではないか。

 あの鬼が本当に探していたのは。
 自分を殺した男などではなく─────

 いや、詮無きことだ。どうせ分かったところで出来ることなど在りはしない。
 失われたものは失われたもの。過去に手を伸ばしたとて成せることなど何もない。

「ところで兄さん、それは?」

 手にした酒瓶を指して女は不思議そうに小首を傾げた。

「酒だ。本当は、茂吉と呑みたかったのだが」

 誤魔化しでなく本心だった。結局、此処に訪れたのはそういう理由だ。自分で思っていた以上に茂吉との関係が気に入っていたらしい。僅かな未練を満たすために態々こんな場所まで来る程度には、彼と呑む酒は旨かった。

「そうだな……初殿の墓前に添えてやって欲しい」

 気付けばそんなことを口走っていた。

「へ? 別に初さんはお酒が好きってこともなかった筈だけど」

 不思議そうな表情を浮かべる女に甚夜は首を振って見せた。そうして酒瓶を押しつける。自らがその身を喰らった。茂吉が戻ってくることはもうないと知っている。
 だがそれでも、

「いいんだ」

 誰も茂吉の最後を知らない。墓を建てられることもないだろうから、せめて妻の墓に好物を預けておこう。
 己に喰うことが出来るのは体と<力>のみ。
 彼の想いはまだ現世に留まっている。
 だとすれば、いつかきっと彼は妻の下に辿り着く筈だ。

 帰らなきゃ、と。
 初がずっと思い続けていたように。
 茂吉の想いもまた彼女の傍へ還ってくるだろう。
 
「折角の下りもの、喜んでくれるといいのだが」

 くだらない感傷だ。
 そんな夢想で救われるのは茂吉でも“はつ”でもなく己のみ。
 理解しながらも、甚夜はそれを止めなかった。夢想ではなく願いだったのかもしれない。せめてそうであってほしいと。想いくらいは最後まで妻の傍に在って欲しいと強く願った。

「悪いが頼んだ」
 
 小さく落とすように笑い、甚夜は踵を返す。そうして振り返ることもせず裏長屋から離れた。
 歩き出せば春の陽気に目が眩む。
 暖かい日差し。冬の名残はいつの間に姿を消して、穏やかな春の日が江戸には横たわっていた。

「では、な。茂吉」

 口ずさむように別れを告げる。
 短い期間の交友だったが悪くはなかった。
 月を肴に呑む時は思い出すこともあるだろう。

 かつて私には酒を旨くしてくれる、呑み友達がいたのだと。



 鬼人幻燈抄 江戸編『貪り喰うもの』・了




















 宵闇に闊歩する二つの影があった。

「おい、もうそろそろほとぼり冷めたろうし、次はどうするよ?」
「ん、ああ、もっと若いのを狙ってみるか?」

 にやにやといやらしい笑みを浮かべながら二人の男は言葉を交わす。それはどれも不穏当なものばかりである。
 彼等は以前女を攫い無理矢理に犯したことがあった。だが岡っ引きに捕らえられることもなく今も生活を続けていた。

「しかし馬鹿が多いな。なんでも今回の件は鬼が犯人で女が消えるのは神隠しっていう噂が流れてるらしいぜ」
「そりゃあいい。つまり俺らが何をしてもそれは鬼のせいってことだろ? まったく鬼さまさまだな」
「ちげぇねぇ」

 下品な笑い声が上がる。

「結局どうすんだ」
「俺は前の感じが良かったけどなぁ。やっぱ旦那もちが良いよ」
「けっ、趣味悪ぃなぁ」
「いいじゃねぇか。身持ちの堅い女を無理矢理ってのがいいんだよ。なんつーか征服感があるっての?その点、前の女は最高だった。最後まで旦那の名前を呼んで抵抗したからな。『茂吉、もきちぃ』……って………」

 最後まで言い切ることは出来なかった。
 それよりも早く、彼の首が切り落とされ地に転がったからだ。

「………………え?」

 何が、起った?びゅうと風が通り抜けたかと思えば、隣を歩いていた男の首が落ちた。なんだ?なんなのだこれは?辺りを見回しても誰もいない。なのに首は鋭利な刃物で切り落とされている。
 恐怖。
 人は理解できないものを恐怖する。
 男もまた理解できない何かを前にして、恐れ戦いていた。

「う……うわぁっ……………あ?」

 そして叫び声を上げようとしたが、それも遅い。気付けば自分の体もいつの間にか切り裂かれている。痛い。焼ける。誰もいない。誰もいない筈なのに。なのになんで?


「茂吉、お前の願いは確かに果たしたぞ」


 最後にそんな声を聞きながら、男は仰向けに倒れる。
 
 どすり。

 胸には短刀が墓標のように突き立てられた。





 

 江戸の町を騒がせた辻斬りはこの二名の被害者を最後にぴたりと止まった。
 結局犯人は分からず仕舞い。被害に遭い姿を消した者達も見つからず、何の解決も見せずに辻斬り騒動は幕を下ろした。
 この事件は鬼や神隠しの噂もあり、犯人が最後まで分からなかったため、一種の怪談として取り扱われた。
 明治初期の書物、『大和流魂記』には今回の件が僅かながら記されている。
 その為、姿の見えぬ辻斬りが人々を斬り落としていく『寺町の隠行鬼』という怪談は、後の世まで長く語り継がれていくことになった。
 その真実は、誰にも知られぬまま。


 
 そしてまた時は流れる。
 春は終わろうとしていた。



 次話『幸福の庭』 





[36388]      『幸福の庭』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/25 20:20
 
 ぽぉん……ぽぉん……。


 音が響く。
 それが毬をついているのだと気付けたのは、童女の数え唄が共に流れてきたからだった。
 辺りは黄昏に沈んでいる。遠くから聞こえてくる音を頼りに歩けば、辿り着いたのはうらぶれた屋敷。

 
 ぽぉん……ぽおぉん……


 音が大きくなった。距離が近づいたのだろう。耳を擽る童女の声。心地よいようで、空恐ろしく、しかし誘われるように足は向かう。



    ……ひとつ ひがんをながむれば

              ……ふたつ ふるさとはやとおく



 門を潜り、幽鬼の如き足取りで庭へ。
 辿り着く場所。
 見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
 気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる。
 ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。



            ……みっつ みられぬふぼのかお
 
   ……よっつ よみじをたどりゆく
 

 ゆらりと光が揺れた。庭先を白い小さな光が舞っている。
 あれは蛍? それとも人の魂?
 彼岸の景色を眺めるような現実感の無さ。此処は既に現世ではないのかもしれない。
 

     ……いつつ いつかはとおくなり

              ……むっつ むかしをなつかしむ


 昔ながらの武家屋敷。
 花が咲き誇るというのに朽ち果てたように感じる。
 鮮やかな灰色に染められた庭。
 
 
 その中心で、童女は毬をついている。

 
 美しい娘だった。
 黒髪を短く整えた娘。張り付いた表情のせいか、まるで人形が動いているようだった。童女は庭で一人毬をつき数え唄を歌う。
 奇妙な姿だった。幼い娘の遊びとしては別段不思議ではない。しかし娘が纏う愁いを帯びた空気が、それを奇妙と思わせる。
 童女は笑っていない。過去を眺めるような遠い眼で唄を口ずさむ。

 ぽぉん、ぽぉん、と響く音に鼓動が重なる。

 寂寥の庭
 幽世の美しさ。
 胸に宿る感情は形を持たない。
 足が動かなかった。この眼は娘に囚われている。奇妙な、否、不気味とさえ呼べるはずの景色。だというのに逃げようという気持ちは微塵もない。
 或いは、一目見たその瞬間に、魂魄を奪われたてしまったのだろうか。



  ……ななつ なみだはかれはてて

         ……やっつ やがては─────


 毬をつく音は未だ絶えていないが、数え唄は途切れた。何故、続きを歌わないのだろうか。
 不思議に思ったのも束の間、やけにはっきりと、舌足らずな幼い声が耳元で聞こえた。




『続きはないよ』
 




 だってもう。
 帰る道はなくなった。



 ◆




 嘉永六年(1853年)・秋

 鮮やかな乱花を過ぎ、むせ返る炎天を越え、辺りは秋の色に染まっていた。
 時折吹く風に木の葉がくるりと舞っては何処かへ流れ往く。訪れた季節は抒情詩のように趣深い。もっとも日々の生活に追われる町人には、秋の風情に足を止める暇などない。相変わらず江戸の町は喧騒に溢れ、賑やかしく人々が行き交っていた。

 その中で、憂鬱そうな面持ちでのったりと歩く男が一人。

 三浦家嫡男・三浦直次在衛(みうら・なおつぐ・ありもり)は大いに悩んでいた。
 直次は今年で十八になる。
 三浦家は江戸藩に属する三百五十石の貧乏旗本ではあったが、代々祐筆として幕府に召し抱えられていた。直次も未だ若輩と呼べる齢ではあったが、祐筆として江戸城に出入りしている。と言っても彼は表祐筆。機密文書を取り扱う奥祐筆とは違い、朱印状や判物の作成、他は幕臣の名簿管理といった重要度の低い文書の整理が主だった役である。
 纏う着物は糊が効いており、装いには一分の乱れもない。月代をつるりと剃り上げ、銀杏髷を結わった、見ためにも生真面目な性格がにじみ出た武士だった。

 直次は仕事仕事で女性関係こそ寂しいが、それ以外は順風満帆と言ってもいい生活を送っている。父母は穏やかに年老い、兄弟の無い直次は問題なく家督を継ぐこととなるだろう。前述したように三浦家は旗本ではあるが三百五十石程度の小録であり、然程裕福ではない。といっても普通に生きる分には家禄だけでも食いっぱぐれる心配はなく、彼自身祐筆としての稼ぎもある。彼の人生は既に安泰だと言っても良かった。

 しかしながら彼は大いに悩んでいた。
 戸惑っていた、と言い換えてもいい。直次は傍から見れば恵まれている環境に在りながら、しかしその環境にこそ違和を感じている。
 兄弟の無い直次は問題なく家督を継ぐ。 
 彼は三浦家の嫡男だった。
 そして自身が嫡男である事実こそが、直次の悩みの種だった。


 ◆


「御馳走様でした」

 綺麗にかけ蕎麦を食べ終え、奈津は小さく手を合わせた。

「はいよ、お茶のお代わり」
「ありがと、親父さん」

 とん、と食卓の上に新しい湯呑が置かれる。態々厨房から出てきて茶を持ってきてくれた店主に礼を言ってから奈津は店内を見回した。

「でも、お客さん全然いないわね」
「はは、そこは言わないでくだせぇ」

 店主はからからと笑い、一転悪戯をする子供のような表情に変わる。

「しかし残念でしたね。旦那が居なくて」
「別に、あいつに会いに来たわけじゃないけど」
「そうなんですかい? 入って来た時にはあいつまだ来てないの、って言ってたじゃないですか」
「いっつもいるのに今日はいないから気になっただけ」
「はぁ。ま、それならそれでいいんですが。なんせ旦那はうちの婿候補ですんで、いくらお奈津ちゃんでも譲れませんしねぇ」

 その物言いに奈津の眉が微かに動く。

「もしかして、おふうさんとそういう?」
「いんや、二人とも憎からずは思ってる筈なんですがねぇ」
「そう……」

 ほう、と息を付きゆっくりと茶を啜る。

「そう言えば、おふうさんは?」
「出前ですよ。なんか、京から来たっていうお客さんが近場の宿にいるんですが、時折出前を頼むんでさぁ」
「ふうん、少しはお客さんも増えてきたのね」
「でもそのお人はいつか帰る訳ですし、なかなか上手いことはいきませんよ」
「客商売はそういうものでしょ?」
「ま、そうなんですがね」

 奈津の家はそれなりに大きな商家だ。人間相手の商売の難しさはよく分かっているようだ。
 しばらく世間話を交わしていると、戸口が開き暖簾が揺れる。

「ただいま帰りました。……あら、お奈津さん、いらっしゃいませ」

 店に入って来たのは薄桃の着物を纏った、小柄ですらりとした少女だった。椿の簪で髪を纏めた彼女は蕎麦屋の店主の一人娘で、名をおふうと言った。

「こんにちは、おふうさん」

 座ったまま軽く礼をすれば、おふうが緩やかな笑みで返す。奈津よりも背は低く、見た目も幼いが、その笑みは何処か大人びていた。

「おふう、お帰り。平気だったか」
「いつまでも子供じゃないんですから、そんなに心配しないでくださいな」
「馬鹿言うな、子供じゃなくたって心配なのは変わらん」

 憮然とした表情。しかし底にある感情を感じ取り、照れたように頬を染め、おふうは笑った。出前から帰り岡持ちを店の奥に片付け、着物の上に前掛けを纏い戻ってくる。そうして仕事に戻ろうとした時、奈津がおふうに声をかけた。

「お互い、過保護な父親を持つと大変ね」
「ええ、本当に」

 にっこりと笑い合う。性質は違えど似たような父親だ。お互い通じるものがあるのだろう。

「さり気にひどいこと言われてるな、俺」
「そんなことありませんよ、お父さんは私の自慢ですから」
「へへ、そうか?」

 仲のいい親娘を眺めながら、穏やかな心地になる。何となく邪魔をするのも悪い気がして、奈津は小銭を卓において席を立った。

「じゃ、お勘定此処に置いておくわね」
「あら、いいんですか? まだ彼は来ていないみたいですけど」
「親父さんと似たようなこと言わないでよ」

 軽く溜息を吐く。
 とは言え、彼等の意見は決して外れてはいなかった。
 そもそも奈津がこの店を使うようになったのは、確かに件の彼の存在があってこそ。今日も彼の顔を見に来たというのが本当の所だ
 つい先日、昔とある事件で世話になった男と偶然再会した。
 三年経ったが男はまったく変わらない。懐かしく思い、何より彼のおかげで父親と仲良くなれたようなものだから感謝もあった。このまま再び会えなくなるのも寂しいと、彼が贔屓にしているという店を訪ねた。それが喜兵衛の暖簾を潜った最初である。
 以来奈津は偶に喜兵衛へ訪れる。
 以前は生意気な盛りで、自分の護衛を買って出てくれた彼にまともな対応を取れなかった。しかしあれから少しは大人になって、今なら穏やかな気持ちで喋ることが出来る。それが嬉しかった。
 
「それじゃ、また」

 男には会えなかったが、これ以上からかわれるのも恥ずかしい。そそくさと逃げるように奈津は玄関へ向かい、しかし前を見ていなかったせいで、暖簾を潜ろうとした誰かにぶつかってしまった。

「あっ、と……済みま」

 取り敢えず謝ろうとしたが言葉は途中で止まる。ぶつかった相手を見て奈津は固まった。
 腰の刀に結わった髷。糊のきいた召し物。男はまだ年若いが、その装いは明らかに武士のものだったからだ。

「これは、お武家様。申し訳ありませんっ」

 一歩下がり深々と頭を下げる。いくら裕福な商家の娘とはいえ奈津は町人、武士とは身分が違う。性質の悪い武士ならば、無礼打ちと言って町人なぞ斬り殺してしまうことさえあった。だからこそ自身の失態に肩を震わせ、必死に奈津は謝罪する。

「いえ、私も前を見ていませんでした。こちらこそ申し訳ない」

 しかし返ってきた言葉は予想外のものだった。
 意外さに思わず顔を上げれば、困ったような表情で男の方も小さく頭を下げる。身分が上である筈の武士、しかもこちらからぶつかってしまったというのに謝罪され、奈津はどうすればいいのか分からなくなってしまった。

「はは、大丈夫ですよお奈津ちゃん。このお人は三浦様といって、お武家様ですが人が良すぎるってんで有名ですから」

 三浦直次在衛。
 未だ客足も疎らな喜兵衛の数少ない常連で、直次は親しみのある店主の接客が心地よいらしく、時折ふらりと足を運んでいた。

「やめてください店主殿」

 妙に疲れたような笑みを浮かべる。
 とはいえ言葉遣いといい物腰といい、人が良いというのは間違いないのだろう。

「とにかく、私は気にしておりませんので」
「は、はい。本当に申し訳ありませんでした」

 再び深く頭を下げて、今度こそ奈津は店を後にした。
 言葉通り大して気にした様子もなく、入れ替わりで直次は卓へつく。

「かけ蕎麦をお願いします」
「はい、お父さんかけ一丁」
「あいよっ」

 注文を受け厨房へ戻った店主が小忙しく動き始める。
 反対に席へついた直次は殆ど動かず、暗い顔で俯き溜息を吐いていた。

「どうしたんです、溜息なんてついて」

 おふうは茶を準備し、店に入って来てから沈んだ様子で卓をじっと眺めている直次に声をかけた。

「あ、いえ……少々悩み事と言いますか」

 直次は町民が相手であっても敬語を使う。近頃は士農工商の階級も崩れ始めており、町人であっても商いを営む者は下手な武士よりも裕福である。だが依然武士の特権意識は強く、それを鼻にかけ町民を見下す武士が多い中、彼のような男は珍しかった。

「悩み事、ですか?」
「ええ、少し」

 そう言ってまた俯いてしまう。
 その姿があまりにも痛ましく、おふうもまた悲しそうに俯いた。

「おふう、できたぞ」
「あ、すみません」

 父親に声を掛けられるまで気付かなかったらしい。慌てて蕎麦を盆に載せて運ぶ。

「どうぞ、かけ蕎麦です」
「ありがとうございます」

 目の前に置かれた傍に箸を付けることなく、また溜息を吐く。そうしてしばらく間を置いて、意を決したように直次は厨房の店主に声を掛けた。

「……店主殿、少し聞いてくださいますか」

 予想していたのだろう。驚くこともなくこくりと頷く。

「まあ俺でいいならそりゃ聞きますが」
「よかった。……実は、私には兄がいるのですが」

 しかし出だしからおかしな直次の言に、店主は待ったをかけた。

「いやいや。馬鹿言っちゃいけませんよ。直次様は三浦家の嫡男。兄なんている訳がないでしょう」

 嫡男であるならば、兄などいる筈がない。まったくもって店主の言葉は正しかった。
そして、だからこそ直次は大いに悩んでいる。

「ですが、私には確かに兄がいたのです」

 字を長平(ながひら)、諱は兵悟(ひょうご)。
 二つ年上の、自分とは違い快活な兄が確かにいた筈なのだ。
 冗談でも妄想でもない。確かに自分には兄がいた。それは間違いない。間違いない筈なのに。

「なのに、父母は言うのです。お前に兄などいない、お前が三浦家の嫡男だと。私は頭がおかしくなってしまったのでしょうか」

 その言葉に対して店主は困ったような表情を浮かべた。

「直次様、そんなに思い詰めないでくだせぇ。ほら、蕎麦も伸びちまいますぜ」
 
 ああ、やはり。
 散々探してきた。けれど誰に聞いても今の店主と同じような態度が返ってくる。直次は言葉を続けることが出来ず俯き、湧き上がる悔しさに奥歯を噛み締めた。 
 
 兄がいなくなったのは今年の春先である。
 しかし流れるように春は過ぎ去り、夏の陽射しが身を刺すようになり、今では憂愁の秋が町の至る所に溢れている。その間、方々を探したが兄の足取りは掴めない。それどころか兄の痕跡さえ見当たらなかった。
 見も知らぬ者に問えば「そんな男は知らない」。兄を見知った者に聞けば「直次には兄などいない」、父母に問うても同じ答えが返ってくる。
 何故、誰も兄のことを覚えていないのか。
 
「おふうさん」
「は、はい」
「私には兄がいるのです。三浦長平と言う男をご存じないでしょうか」

 一縷の望みだった。
 誰も知らない、けれど確かにいた筈の兄をずっと探していた。
 だが少女はその可愛らしい顔を曇らせ、沈んだ声で言った。 

「……すみま、せん」

 申し訳なさそうにただ謝る。
 ある程度予想はしていたものの返ってきた答えに愕然となってしまう。
 本当に私は、おかしくなってしまったのだろうか。
 兄など本当は自分の頭の中にしか存在せず、周りの方が正しいのでは。
 沈み込むように項垂れるその姿があまりにも哀れに見えたのか、心配そうにおふうが声をかけた。

「あの、三浦様。差し出がましいようですが、よい人を紹介しましょうか?」

 その言葉に憂鬱そうではあるが顔を上げる。

「よい人、ですか?」

 行き成り過ぎる申し出に、眉を顰める。多少は力が戻ったのだろう。その様を見て、おふうは表情を少しだけ柔らかくした。

「はい。その方なら、もしかすれば三浦様のお力になってくださるかもしれません」

 おふうの言に納得がいったのか、店主もまた頷いた。
 
「ああ、確かにこういうのはあの旦那の領分か」
「旦那、ですか?」
「いえね、そういう不思議な話に好んで首を突っ込むお客さんがいるんですよ」

 面白そうに、にやにやとしていた。
 直次は右の親指で軽く唇を擦った。考えごとをする時の癖である。不思議な話に好んで首を突っ込む。ああ、そう言えば聞いたことがある。世には陰陽師や退魔師と呼ばれる、妖異を討つ者達がいると。 

「それは陰陽師、のような人なのでしょうか。あやかしを祓うことを生業としている」

 だがその問いは店主の爆笑によってかき消された。おふうも口元を隠しながらくすくすと笑っている。自分はそんなにおかしな質問をしただろうか。
 一頻り笑い終え、それでも表情を緩ませたまま言葉を続ける。

「いんや、ただの浪人です。ああいえ、桃太郎ですかね」
「浪人……」
「ええ、鬼が出るって噂や怪異の類を聞きつけてはそれに関わって、次の日には平然と蕎麦を食べに来るんです。聞いた話じゃ刀一本で鬼を討つ凄腕の剣士だそうで……いや、刀抜いたとこなんて見た訳じゃないですが」

店主は大きく笑った。

「まぁそれは良いんですけど、どうにもその人はそういう怪異を解決してくれるらしいんですよ、勿論金は取りますが。俺もお客さんやおふうから聞いただけですから、実際どんな感じなのかは分かりませんけどね」

 今度はゆったりと微笑むおふうが言葉を繋げた。

「少し取っ付き難そうに見えますが、いい方ですよ? あれで可愛いところもありますし。相談してみてはいかかでしょう」
「たぶん今日も来ますよ。毎日かけ蕎麦ばっかり食ってます……ああ、ほら噂をすればってやつです」

 店主の視線を追って振り返れば、ちょうど店の暖簾がはためいた。
 そうして入ってきたのは六尺を超える、いやに鋭い目つきが印象的な偉丈夫だった。
 年の頃は直次と然程変わらない。着物は小奇麗だが、髷は結わず総髪にしている。といっても頭の上で結わず、肩まであるだろう長さの髪を後ろで一纏めに縛っただけの雑な髪型だ。成程、浪人らしい無頓着だ。しかしその顔つきも相まって、粗野というよりは無骨という印象を受ける。
 腰には本人に負けず劣らずの無骨な刀。その反り具合から見るに太刀だろう。
 見るからに浪人といった容貌。だが容貌以上に目を引いたのは、その歩みだった。
 直次とて武士の端くれ、剣術の嗜みはある。故に分かった。ぶれのない歩みは、何十年と剣を振ってきた老練の剣士を思わせる。武術の基本は歩法である。そして、この男の正中線は無造作に歩いているだけだが決して揺らがない。おそらく相当“できる”のだろう。 

「あの方は」

 大男から発される滲み出る圧迫感のようなものに気圧された自分を理解した。それを誤魔化すように問えば、おふうは実に柔らかい微笑みを浮かべた。

「甚夜君……件の、桃太郎です」




 鬼人幻燈抄 江戸編『幸福の庭』




「かけ蕎麦を」
「あいよ、旦那は相変わらずだねぇ」

 店主は笑った。この男、甚夜は三日と置かずこの店に来ているが、その度にかけ蕎麦を食べているからだ

「そんなにウチのかけ蕎麦が気に入ったんですかい?」
「いや、別に」
「相変わらず歯に衣着せねぇ人ですね。もう少しこう、気遣い的なもんを」
「……ああ。この店の蕎麦は然して美味くはないがそれなりに気に入っている」
「でしょうね」

 あまりにも下手くそな世辞だった。というか世辞にもなっていない。その手の気遣いをこの男に期待するのは止めようと店主は胸に刻んだ。

「あいよ、かけ一丁」

 甚夜が店に入った時点で作り始めていたため蕎麦は早く上がった。それをおふうが運び、ゆっくりと前に置く。

「はい、おまたせしました」
「随分手慣れてきたな」

 思えば少し前、まだ春の最中には蕎麦を一つ運ぶだけでも精一杯だった。

「当然ですよ、私も日々成長していますから」

 満足そうにうんうんと頷く。意外と気にしていたのだろうか。
 
「そういう甚夜君はどうですか?」
「秋は木犀の頃だ。甘い濃密な香りを漂わせ、これからの季節に美しい花を咲かせる」
「はい、その通りです」
 
 おふうの物言いはまるで手習指南所に通う子供を褒める師匠のようだった。どうやら自分は彼女の教え子になるらしい。 
 ここ最近、甚夜はおふうから花の名について教わっていた。
 以前、春の夜に「少し余裕が必要だ」と言われた。そのせいだけでもないが、意識的に多くの事柄に触れようと心掛けている。おふうの教えを受けるのもその一環だった。
 
「覚えてみると中々面白いな。自然と道端の花にも目が行く」
「でしょう?」

 甚夜の言葉が嬉しいのか、たおやかに笑みを浮かべる。近頃は店員としての姿だけではなく、儚げで透明な、雪柳を愛でていた夜の笑顔を見せてくれるようになった。付き合いも長くなってきた。そろそろ慣れてくれた、ということなのだろう。

「それにしても、最近は少し穏やかな顔つきになりましたね」
「そうか?」
「ええ」

 だとしても、憎悪は胸の奥で燻っている。 
 いつかの記憶。
 自身の想い人を殺した妹は、遠い未来で全ての人を滅ぼすと言った。
 だからあの娘を止めると誓った。
 憎悪のままに鬼として殺すか、それとも人に戻り許すのか。刀を振るう理由さえ分からないまま、ただ力だけを求めてきた。
 歳月を重ね、未だ答えは見つからぬ。
 生き方なぞ曲げられる筈もなく、あの頃から何も変わらない己がいる。
 
「取り敢えず春夏秋冬の花は終わりましたから、今度は花に纏わる説話をお教えしますね」

 しかし目の前の少女もまた変わらず。
 あの夜のように、花を教えることに託けて甚夜を慮ってくれている。ならば、そんな少女の変わらない優しさに報いるくらいはしてもいいだろう。
 そう思えるだけの余裕が今の甚夜には在った。

「私が覚えられる量で頼む」

 表情は変わらない。しかし寛いだ様子だった。
 江戸に出てきて随分と経った。生き方は曲げられない。けれど暖かいと感じる心はまだ残っている。ならば、いつか鈴音を許せる日が来るのかもしれない。
 穏やかな心持ち。胸には小さな希望が在った。

「そうだ、甚夜君。少しお話、というかお願いがあるのですが」

 言いかけて、それを遮るように男の声が響く。

「話の途中で失礼します」

 ずいと前に出たのは店内で何度か見た顔。確か三浦某といった筈だ。
 顔は知っていても話をしたことはない。怪訝そうに眉を顰める甚夜に、男は深く頭を下げて弁解する。

「ああ、すみません。私は三浦直次と申します。あの……いきなり不躾ですが、貴方は不思議な話や鬼が出ると言う噂にばかり首を突っ込んでいる、と聞いたのですが」
「ふむ、確かに。鬼を討つのが私の生業だ」

 それを聞いた瞬間、直次は顔を明るくした。

「では貴方に依頼すれば怪異を解き明かしてもらえるのですね!」

 興奮に語気を強める若い武士。しかし甚夜は眉を顰めたままだった。相手の態度が不快だった訳ではなく、彼が少しばかり思い違いをしていたからだ。

「それは少し違う」

 え……、と小さく呟き表情が固まった。多少の罪悪感は在ったが、表情は変えず言葉を続ける。

「期待を持たせたようで悪いが、私に出来るのは鬼を討つまでだ。怪異の原因が鬼であったなら、成程、それを解決することにもなるだろう。だが『怪異を解き明かす』こと自体は私の領分ではない。あまり期待されても困る」

 別に怪異を引き起こすのは鬼だけではなく、また鬼が引き起こした怪異であっても既に怒ってしまったことを戻せはしない。結局、いつまで経っても己には刀を振るうことしかできぬのだ。甚夜は顔には出さず自嘲した。

「そうです、か……」

 見るからにがっくりといった様子で肩を落とす。そうして机の上にいくらかの小銭を置いて覚束ない足取りで店を後にする。蕎麦は手付かずのまま残されていた。
 しばらく店内には沈黙が占拠していた。誰もが直次の背が消えた後の暖簾を見詰めている。そんな中おずおずと店主は口を開いた。

「旦那。すいませんが、在衛様の力になってやってくれませんかねぇ」

 直次を心配しているのか浮かない顔である。

「どうもあのお方は馬鹿な兄貴がいなくなったせいで大層思い悩んでるみたいなんでさ。正直、かなり心配で」
「あの、私からもお願いします」

 両の掌を合わせ、祈るように懇願する。

「三浦様は……大切な人を失ってとても不安定になっているのだと思います。ですからどうか……」

 それ以上言葉を続けることは出来なかった。彼女は何を想っているのだろうか。沈み込む表情。愁いを帯びた瞳。二人には同情以上の何かが在るように感じられた。
 もしそれが彼らにとって譲れぬものであるというのならば、断るのはちと酷だろう。普段世話になっている身。ここいらで恩返しというのも悪くないかもしれない。 

「分かった」

 目を伏せ短くそう答えた。
 瞬間、二人は喜びに顔を綻ばせる。

「ありがてぇ。すいません、手間をかけちまって。ああ、三浦家は南の武家町でさぁ。あの辺りでも一番古い屋敷ですから、結構すぐに見つかりますんで」
「甚夜君……本当に、ありがとうございます」

 少しばかり感謝が心苦しい。実際に解決できるかは別問題だというのに、二人が安堵の息を漏らしたからだった。そう期待されても困るのだが。

「なに、普段世話になっている分の恩返しと思えばそう手間でもない。ただ……」
「ただ?」

 僅かに数秒の空白の後、諦めたように甚夜は言った。

「いや。私が関わると、厄介事になるような気がしてな」

 今迄からの経験則だ。
 どうせ今回も厄介なことになるのだろう。




[36388]      『幸福の庭』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/25 20:30

 まだ覚えている。
 優しい父。よく笑う母。
 私は庭で毬つきをしていた。

「■■■は本当にそれが好きですねぇ」

 この毬は父が買ってきてくれたもの。父は武士らしい厳しい人だったから笑った顔を見たことはない。それでも顔を赤くしてこの毬を渡してくれたその仕種から、言葉は少ないけれどちゃんと私のことを想っていてくれたのだと分かる。

 びゅうと風が吹いた。まだ一月、空気は冷たいけれど透き通っていて気持ちいい。庭ではたくさんの水仙が風と遊ぶように揺れている。
 この庭を整備したのは母だ。専属の庭師を押し退けて「この花を植えます!」と言い切った強引さに父も目をぱちくりとさせていた。
 母は花が好きで私にも色々なことを教えてくれた。そんな母が作ったこの庭は私にとっても大切な場所だった。
 父の毬。母の花。冷たい風も暖かく感じられる。私は満ち足りていた。目に映る全てを好きだといえるくらいに。


 そう、此処は幸福の庭。
 幼い私が過ごした陽だまり。


 でも、忘れてはいけない。
 歳月は一定の速さでは流れない。
 苦痛の時間は長く留まり、幸福の日々は無情なまでに早く往く。
 

 そう、いつだって。
 大切なものこそ簡単に失われていくのだ。
 


 ────彼岸を眺むれば、故郷はや遠く。


 ◆

「あんた、昼間っから何やってるの?」

 三浦直次が喜兵衛を訪れた翌日。
 正午を少し過ぎた頃、深川の通りにある茶屋で休息を取っていると、通りがかった奈津に声を掛けられた。

「見ての通り休んでいる。お前も食うか?」
 
 日が暮れる頃には三浦直次に会う為南の武家町へ行く。それまでの時間つぶしのつもりで寄った茶屋だが、珍しく磯辺餅が置かれていたので思わず頼んでしまった。久々に食べる餅はやはり旨い。餅は蕎麦以上の好物だった。

「別にいらないけど……暇なのね」
「そうでもない。仕事が入った」
「ふうん……」

 甚夜の仕事とは即ち鬼の討伐である。
 鬼に良い思い出のない奈津は若干顔を顰めた。
 
「ところで、もしかしてお餅好きなの?」

 普段とは違う様子に思わず奈津が問う。
 店の表に設けられた長椅子で磯辺餅を食べる甚夜は、表情こそ変わらないがどこか満足そうだった。

「ああ。私は元々タタラ場の育ちでな。子供の頃は餅なんぞ滅多に食えなかった」
「だから今になって好きなものを、ってこと?」

 茶を啜り、無言で頷く。

「そう……蕎麦よりも好き?」
「まあ、な。思い出もある。今でも好物はと聞かれれば蕎麦よりも磯辺餅だな」

 随分と昔、何も言わないでもこれを出してくれた茶屋の娘がいた。今頃どうしているだろうか。

「へえ」

 奈津は生返事と共に甚夜の隣に腰を下ろし、店の娘に茶と磯辺餅を頼む。

「いいのか?」

 何処かへ行く途中のように見えたが座り込んでしまって大丈夫なのだろうか。一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、言葉の意味を察し、奈津は微妙な表情で答える。

「え? あー、別に。喜兵衛に行くつもりだったけど、なんかめんどくさなったから私もお餅をご飯代わりにしようかなって」

 最近は奈津や善二も喜兵衛へ来る。客が増えて店主は喜んでいたが、まだまだ流行っているとは言いづらい。勿論、その方が甚夜としては有難いのだが。

「奈津殿がそれでいいのなら」
「じゃあ、そうするわ」

 軽い笑みを浮かべ運ばれてきた餅と茶を受け取る。ありがと、自然と言えるようになったのは奈津が大人になったからだろう。

「うん、久しぶりに食べるとおいしいわね」

 一口一口、小さく餅を齧る。
 そう言えば以前、須賀屋の庭で同じように並んで握り飯を食ったことがあった。あの時の余裕のない娘が、肩の力の抜けたいい女になった。歳月の流れとは本当に不思議なものだ。

「そう言えば、奈津殿はまだ善二殿と結婚しないのか?」

 思わず餅を喉に詰まらせたのは致し方ないことだろう。

「……いきなり、何よ」

 呼吸困難に陥りかけたが茶で無理矢理流し込み、一心地ついて甚夜を睨む。しかし相手は実に平然と話を続ける。

「確かもう十六だろう。頃合かと思っただけだが」

 女の適齢期は十五、六。奈津くらいの歳ならば浮いた話や見合いの一つや二つあってもおかしくはない。甚夜としてはごく当然の問いのつもりだったのだが、どうにも奈津は随分と立腹のようだ。

「そもそも善二とってのが在り得ないわよ」

 その発言は意外だった。てっきり恋仲だと思っていたのだが。

「そうなのか? 重蔵殿としても善二殿なら安心できると思うが」
「善二は……そうね。兄、みたいなものだから。それにお父様は見合い話こそ持ってくるけど結婚自体は私の好きにしていいって言ってくれてるの」

 店のことを考えたら、大店や武家に嫁がせた方がいいのにね。
 照れたような笑み。素直ではない言葉には、父親に対する感謝と愛情が透けて見える。それが嬉しい。奈津が父親を慕っていることが、あの人の家族で在ってくれることが、たまらなく嬉しかった。

「そう言うあんたは結婚しないの?」
「定職を持たん浪人に嫁ぐような物好きは少ないだろう」
「そう……うん、それもそうね」

 足を少し揺らしながら空を見上げる彼女は随分と楽しそうで、だから甚夜も寛いだ心地で茶を啜った。

「じゃあお互いしばらくは一人身ね」
「そうだな、肩身の狭いことだ」
「ふふ、ほんとに」

 大真面目に頷いて見せれば、くすくすと奈津が笑う。
 実際の所嫁を取らなかったからといって五月蠅く言う家族なぞ甚夜にはいないのだが、敢えてそれを口にするようなことはしない。折角の心地よい時間を壊しくたくはなかった。

「でもそろそろ真剣に考えないといけない歳よね……そういえば、あんたって幾つなの?」

 今更思い出したように奈津が聞く。隠すようなことでもないので普通に答えた。

「三十一だ」
「嘘!? 善二より上!?」

 しかし奈津にとっては普通のことではなかったらしい。驚きに目を見開いている。

「え、ほんとに?」
「嘘は吐かん」
「えぇ……私の倍近く? そりゃ老けない性質(たち)とは言ってたけど。なんか、秘訣でもあったりするの?」
「さて、な」

 まさか鬼だからと答える訳にもいくまい。ここらが切り上げ時か。懐から取り出した銭を長椅子の上に置く。

「馳走になった、勘定は置いておくぞ」
「もう行くの?」
「ああ、仕事だ」

 立ち上がり、ぐっと表情を引き締める。

「また、鬼?」

 無言で頷けば、何故か奈津の表情が少しだけ陰った。

「ねぇ、甚夜」

 そうして遠慮がちに問う。

「なんで鬼退治なんてしてるの? あんたくらい剣の腕が在ったらもっと違う仕事もあると思うんだけど」
「それは買い被りだと思うが」
「話逸らさないでよ」

 怒ったように振る舞っても分かる。
 態々危ない真似なんてしなくてもいいのに。
 そこに在るのは純粋な憂慮。だからこれ以上誤魔化すことはしなかった。したくなかった。

「……私にも、よく分からん」

 表情が陰る。零れ落ちたのは頼りない笑みだった。

「は?」
「時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか」
「何よそれ」
「事実だから仕方ない。だが敢えて言うならば……多分、私にはそれしかないんだろう」

 鬼よ、何故刀を振るう。
 あの時の問いに返せる言葉は未だ見つからないままで、歳月を重ねる度に斬り捨てたものだけが増えた。
 それでも何を斬るかさえ選べず、ただ力を求めて。
 殺すか否か、たったそれだけのことを今尚迷い続けている。
 本当に、私はどうしたいのだろうか。

「そう……なんか、ちょっと安心した」
 
 甚夜の答えに奈津は安堵の息を吐く。意外な反応に眉を顰めるが、彼女は安らいだ様子で微笑んでいた。

「甚夜って普段冷静だし、浮世離れしたところがあったから。正直よく分かんないやつだと思ってた。でも悩んだり弱音吐いたりもするんだ」
「寧ろそんなことばかりだよ」
「だから、安心した。あんたも普通の人だったんだ」
「奈津殿」

 嬉しそうに足をぶらぶらとさせている。子供じみた仕種なのに、その横顔は晴れやかに見える。不思議な感覚に名を呼べば、訂正するように彼女は言う。

「奈津、でいいわよ」

 初めて見る、安らいだ微笑み。

「いい加減付き合いも長いんだし、いつまでも殿じゃ他人行儀でしょ」
「……奈津が、それでいいのなら」

 名を呼ばれたのが嬉しかったのか、満足そうに頷く。
 
「うん、今度からはそう呼ぶこと。それじゃ私もそろそろ店に戻るから」
「そうか」
「あんまり、気にしない方がいいわよ。何がしたいかなんて、分からない人の方が多いんだから」

 気楽な慰めの言葉。それで何が変わる訳でもない。しかし嫌な気分ではなかった。

「ああ、ありがとう」

 素直に礼を言えば、小さく笑う。そうして二人は茶屋を後にする。
 飲んだお茶のせいだろう。胸が暖かかった。

「さて」

 そろそろ行くとしよう。
 向かう先は三浦某の屋敷があるという南の武家町。いやに足取りは軽かった。
 

 ◆


 江戸の町はその八割を武家屋敷が占める。
 城の周りには堀が張り巡らされている。それをぐるりと囲うように武家町が形成されており、三浦家は城の南側の武家町に居を構えていた。既に築百年を超えてはいるが、江戸を襲った幾多の地震にも耐え抜いた屋敷だった。

 蕎麦屋『喜兵衛』を訪れた翌日、直次は日が落ちてから外出しようと準備を整えていた。無論兄を探すためである。
 打刀と脇差を腰に携え、草鞋を履いて母屋から出てきた直次は、随分と暗い顔をしている。疲労の色を消せないまま門を潜り、出かけようとしたその時、

「在衛、また今日も行くのですか」

 四十そこらの女が後ろから声をかけた。直次の母である。
 
「何度も言っているでしょう。三浦家の嫡男は貴方です。兄などいはしません」

 直次が夜毎街へ繰り出すのを嫌っている為だろう、物言いには棘があった。

「兄上は確かにいました」
「聞きましたよ、兄を探すのに遊郭や貧民窟にまで足を踏み入れているそうですね。武家の人間がいったい何を考えているのです」
「兄が見つかれば出入りをやめます」

 この問答もいつものことである。
 母は存在しない兄を探す直次に諫言を重ねていた。家柄を重んじ世間体を気にする人間だったからだ。三浦家では父よりも母の方が厳格な、旧態然とした『武家の者』であった。

 義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
 徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。
 ただ忠を誓ったもののために在り続けるが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。

 表の祐筆として代々事務に携わってきた三浦家。然して裕福ではなく、家柄も低くかった。それでも三浦家が武家であるならば、忘れてはならぬ武士の在り方だと息子にも厳しく教えてきた。
 そんな母にとって、遊郭やら貧民窟に家督を継ぐべき直次が通っている事実は到底耐えられるものではないのだろう。

 そういう母から勤勉に学んだのが直次であり、兄である長平はどちらかと言えば母を苦手にしていた。
 
 ───家があって人がいるんじゃない。人がいて家があるんだ。

 長平はよくそう言っていた
 家を重んじる武家が多い中、その物言いは非常に珍しい。
長平は良くも悪くも自分の意思を強く持った人間だった。家の為に幕府の為に、そういう考えは理解する。しかしその為に自分の意思を曲げることはしたくない。その快活で奔放な性格は、生真面目な直次にとってある種の憧れさえ感じさせるものだった。 
 母からよく学んだ直次自身は家を重んじる古くからの武士に近い感性を持っている。その為母が言うことも分かる。武家の人間たる者、名誉を守るために動かねばならない。十二分に理解しているし、自身もそう思っていた。
 それでも。

「いもしない兄を探すのはもうやめなさい」

 そんなこと、出来る筈がない。
 直次は自分には出来ない生き方をする兄に尊敬の念を抱いていた。
 だからこそ今は母の言葉に頷くわけにはいかない。
 兄が何故いなくなったのか。何故も誰も覚えていないのか。
 真実を知るまでは例え武士に有るまじき行為をしたとしても。
 それは直次が初めて見せた反骨であった。

「失礼します」
「在衛!」

 背に浴びせられる怒声を無視し門を潜る。
 秋の月は雲に隠れ、辺りは夜の闇に包まれていた。雲の切れ目から漏れる僅かな星明りを頼りに歩みを進める。さて、今宵はどこへ探しに行こうか。つらつらと思索をしながら取り敢えずは武家町を出ようと橋へ向かう。
 するとその途中、六尺を超える大男と出くわした。

「今から探しに行くのか」
  
 何事もないように男は言う。驚きに目を見開いてみれば、闇の中で佇む男は、今日初めて口をきいたばかりの浪人だった。

「貴方は」
「甚夜、しがない浪人だ」
 
 まったく表情を変えない男は鉄のように揺らぎのない声でそう名乗った。







 店主らの願いを受けた甚夜は三浦家へ向かう途中だった。
 すると宵闇に一人、強張った表情で歩く男の影。
 それが件の武士であることに気付き、挨拶もそこそこに声をかけていた。直次は驚いているようだが、然して気にすることもなく話を続ける。

「話は聞いた。なんでも兄を探しているということだが」
「は、はい。ですが」
「兄などいないと周りは言う、か」

 確かに普通ではなかった。
 人の理を食み出る怪異。原因は分からないが、鬼が関与している可能性はある。ならば答えは一つしかない。

「此度の怪異、やはり首を突っ込ませてもらうことにした。どれほど力になれるかは分からんがな」

 この話を受けるのは何も頼まれたからだけではない。もしも鬼の存在があるならば<力>を得られるかもしれない、という打算があった。
しかし直次にとっては意外だったらしく、大きく目を見開いていた。

「よろしいの、ですか?」
「ああ。ただし必ず解決できるとは約束できない。そこは納得してくれ」
「ええ……! それでも構いません。いえ、私の言葉を信じてくださる。それだけでも、私は、救われた思いです」

 言葉の通り彼は正しく極まったという様子だった。
 兄を探し続けるも、周りは兄などいないという。
 その不安は如何程のものか。本当は周りが正しくて、自分は狂ってしまったのかもしれない。そんなことを考えたこともあったのだろう。直次は自分を信じてくれる者がいるという安堵に柔和な笑みを落とした。

「さて。早速で悪いが、三浦殿の兄が消える前の様子を教えてほしいのだが」
「分かりました。では屋敷へ……いえ、母が五月蠅く言うでしょうから別の場所に」

 腕を組み悩む直次に甚夜は軽い調子で言った。

「ならばちょうど良い所がある」



 ◆



 甚夜に案内された場所で、二人は向かい合って椅子に腰かけていた。

「そう言えば、甚夜殿は浪人と仰っていましたね」
「ああ」
「腰のものは数打ちではないとお見受けしますが、元は武家の出ですか?」
 
 改めて見た甚夜の刀は、その鉄鞘を見るに粗悪な大量生産ではない。しかし刀は値が張る。浪人が易々と買えるものではなく、如何なる経緯でその刀を得たのか、この男がどういう出自なのか純粋に興味があった。

「いや、違う」

 甚夜の端的な答えを聞き、怪訝そうに眉を顰める。
 それもその筈、そもそも苗字帯刀は武士のみに許された特権で在り、武家でないと言うならば甚夜は苗字の公称も帯刀を許されていない筈だ。つまり勝手に帯刀している彼は犯罪者ということになる。
 思い至り、直次は胡散臭そうだという胸中を隠そうともしない不躾な視線を向けた。それに気付き、無表情のまま答える。

「私が以前住んでいた土地は山間にあるタタラ場でな。古くより怪異や山賊に晒されていた歴史がある為、自警の意味も兼ねて帯刀を許された役があった」

 巫女守。
 人であった頃、甚夜が就いていた役柄であった。
 この時代、領地を治める藩主が例外的に町人の帯刀を認める事例は少なからずあった。新田開発の援助、藩への献金など幕府に貢献した一部の商人には褒賞として名字帯刀を許されていたし、タタラ場のように幕府にとって重要性の高い場所でありながら警備に人員を割けない場合にも帯刀が認められた。巫女守もその事例の一つである。

「私もまたその役に付き、江戸藩より直々に帯刀を許されている」

 ただし随分と昔に、ではあるが。そこまで詳しく話す必要はない。とある友人の言葉を借りれば鬼は嘘を吐かない、されど真実は隠すもの、というところだろう。
 納得したのか、直次も剣呑な雰囲気を治める。

「もしや故郷は葛野ですか?」

 ずばりと言い当てられ、表情にこそ出さないものの内心驚きがあった。

「よく分かったな」
「いえ、タタラ場の出身という言葉と、その鉄鞘を見てよもやと思いまして」

 甚夜の出身である葛野は江戸から百三十里ほど離れた所にある産鉄地だった。
 同時に刀鍛冶でも有名で、葛野の太刀は鬼さえ裂くと謳われている。その特徴は鉄造りの鞘と頑強さを主眼に置いた肉厚の刀身。まだ日ノ本が戦国の頃にはこういった造りの刀も稀にあったが、江戸に至るまで一貫して戦うための刀に拘り続ける土地は珍しい。刀剣の知識を持つ者にとっては葛野の名を導き出すことは容易だろう。

「お恥ずかしながら、好事家なもので。貧乏旗本の息子が道楽を、と思われるかもしれませんが。刀剣の類を見聞するのが趣味なのですよ」

 ぽりぽりと頬を掻きながら言葉通り照れた笑いを浮かべる。

「葛野の刀は飾り気のない鉄造りの鞘が特徴と聞きますが、甚夜殿のものは鞘の造りが丁寧ですね」
「これは元々集落の社に奉じられていた御神刀だ。故あって譲り受けた」
「ああ、御神刀であるならば見た目にも気を使って当然、ということですか。銘はなんと?」

 ぐいぐいと突っ込んで話を聞いてくる。好事家というのは皆こうなのだろうか。

「夜来という」
「夜来……成程、“やらい”。葛野の太刀は鬼をも裂くという。追儺のことを『おにやらい』と言いますが、案外そこから来ているのかもしれませんね。或いはその刀自体に鬼を祓ったという伝説でもあるのか……そういう説話はないのですか?」
「聞いたことはないな。集落の長は嘘か真か千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀とは言っていたが」
「ほう、それは」

 必要以上に大きな反応だった。
 かと思えば今度はぶつぶつと何事かを呟いている。はっきり言って外観から見受けられた生真面目そうな印象は吹き飛んでいた。
 そうして意を決したように甚夜の目をまっすぐに見やる。
 ぐっと表情を引き締め直次は言った

「ところで抜いて見せてくれたりは」
「せん」

 にべもなく切って捨てる。
 ついでに冷め切った視線を送ってやった。
 お前は兄を探したいのではなかったのか。
 意を察し直次はばつが悪そうに表情を歪める。生真面目そうではあるが自分の趣味となると周りが見えなくなる性格らしい。

「すみません。流石に話が逸れ過ぎました」
「構わない。だがそろそろ始めてくれ」

 直次が重々しく頷いた。

「では。既にご存知の通り、私は兄……三浦長平を探しております」

 声も表情も硬く、精神的な疲労が見て取れた。

「いなくなった兄を私はずっと探しているのです。いくら探しても、兄は見つからない。いえ、誰も兄を知らないのです」
「誰も知らない?」
「はい。奇妙な話ですが、父も母も知らないと言うのです。三浦家の嫡男は私だと。長平などという男は知らない、そんな奴は息子ではない。周りに聞いても同じような答えが返ってきます。私以外、誰も兄のことを覚えておりませんでした」

 誰も覚えていない兄。確かに奇妙な話だ。
 空気が重くなった。再び直次は口を開こうとして、かと思えばまたも話は中断される。

「なぁ……旦那方よぉ」

 ようやく本題、というところで今度は傍から声が掛かったからだ。
いかにも「どうすればいいのか分からない」といった戸惑いを顔に浮かべて男は言う。

「なんでここでそんな重要そうな話してんですか?」

 男は蕎麦屋の店主だった。
 詰まる所、二人が話し合いの場に選んだのは蕎麦屋『喜兵衛』である。

「ああいや、屋敷でこの手の話をすると母が五月蠅いもので。そうしたら甚夜殿が此処でいいだろう、と」

 その言葉に自然と視線が甚夜へと集まる。 

「いや、いいんですがね。密談をするのは人のあまり来ない場所って相場が決まってると思うんですが」
「この店は人など滅多に来ないだろう」
「結構辛辣ですね旦那……」

 事実だった。どうしようもなく事実過ぎて店主には立ち眩みでも起こしたように手を顔に当てた。

「お、お父さんしっかり」
「お、おう。そうだな、いずれ旦那は息子になる男。ここはやっぱいい関係を保たねぇとな」

 その話、まだ続いていたのか。
 そうは思ったが突っ込むのも嫌なので軽く流す。どのみち店主はおふうに後で説教を食らうだろう。というか既に説教は始まっていた。相変わらずな親子である。

「それは冗談として、随分と三浦殿を心配していたようだからな」

 だからここに連れてきた。ぼそりと言えば今度は説教を止めたおふうが優しげな眼で甚夜を見た。

「どうかしたか?」
「いえ、ただ甚夜君が冗談を言えるようになったのが嬉しくて」

 彼女にとっては気遣いを見せたことより甚夜の物腰に余裕が出てきたことの方が嬉しいらしい。
 そうまで心配してくれるのは有難い。が、外見はともかく中身の年齢は既に三十一。この歳で子供扱いされるのはちと反応に困る。姉が弟の成長を喜ぶような生暖かい視線はやめてほしかった。

「まあいい。で、三浦殿の兄がいなくなった時のことを教えて欲しい。それはいつ頃のことだ」
「え、ええ。兄がいなくなったのは今年の春先、一月の終わり頃でしょうか」
「となると、以前あった辻斬り事件よりも一か月程は前か」
「そうですね。辻斬りに巻き込まれたということもないでしょう」

 取り敢えず辻斬りに殺されている、などということはなさそうだ。

「ではいなくなる前の様子は?」
「それは。正直に言うと、特に変わった様子はなかったのです。何処か特別な場所に出かけたという訳でもなく、気付けばふっと姿を消してしまい……」
「ふむ」
「あ、いえ。おかしな様子はありませんでしたが、一つだけ。兄はいなくなる少し前に言っていました。“娘に逢いに往く”と」

 唇を親指でいじりながら直次は思考に没頭する。流石に店主ら親子もこうなっては声を出さず、沈んだ面持ちで直次の様子を眺めていた。

「娘……」
「それと……もう一つ。兄の部屋に花がありました」
「花? それはどんな」
「すみません、花には疎いもので名前は分からないのです。ですが、品のいい香りがしました。ほっそりとした葉にすらりと伸びた茎に、黄色い中心に白い花弁の付いた。小さな、可愛らしい花です。兄は花を愛でるような人ではありませんから少し気になって」

 直次の言葉からその花を想像する。最近はおふうから色々と花の名を教わっている。その中で似通った印象の花は。

「水仙……か?」

 確認の意を込めておふうを見ると微かに頷いてくれた。どうやら正解らしい。だが直次は小さな可愛らしい花と言った。それは……。

「三浦殿、間違いないか」
「え?」
「その花の色は白く、小さな花だったというのは本当か、と聞いている」

 あまりにも硬い、鉄のように揺るぎない声。
 直次にとってはあまり重要な話とは思えない。だが甚夜は刃物の如く鋭利な空気でそれを問うてくる。

「あ、はい。花弁は白でした。小さい、というのは私の主観ですが」

 訝しみながらも答えれば、鋭く目を細めた男は何事かを考えているようだった。

「それも、兄君が消える前に?」
「いえ、花を見つけたのはいなくなった後です。それ以前は気付きませんでした」

 相も変らぬ平静な表情、しかし何かに気付いたらしく、甚夜は言った。

「悪いが、三浦殿の屋敷を見たい」

 少し気になることがある。
 彼の表情は実に真剣だった。



[36388]      『幸福の庭』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/25 23:01
「あらあら、■■■ったらあんなにはしゃいで」

 花の満ちた庭で毬をつく。
 水仙の芳香に酔いしれた。
 冬の冷たささえ暖かく感じている。 

「お父さん、見て見て!」
「ああ、ちゃんと見ている」
「あの娘、毬つきが上手になったでしょう?」

 父は母と共に縁側で私を眺めていた。細められた瞳には優しさがあって、それが嬉しくて私はずっと毬をついている。そんな私がおかしいのか母はくすくす笑っていた。
 穏やかな午後は少しだけ時間の流れが早い。夢中になって遊べば夕暮れはすぐにやってくる。ほら、遠くから橙色が近付いてきて、落日はもう目の前だ。

「あれ?」

 でもおかしいな。空にはまだお日様が出ている。なのになんで橙色の空が見えるんだろう。
 そして私は自分の間違いを知る。
 まだ夕暮れの時間じゃない。
 あの橙は夕日ではなく炎だ。
 遠くで黒く高く煙を上げる炎。鳴らされる鐘。騒がしく行き交う声。

「千代田城が……」

 父の言葉に江戸の中心たる城を見やれば天守閣が炎に包まれ焼け落ちた。熱気の満ちた空気は直ぐそこまで近づいていて。それが未曾有の大火事だということにようやく気付いた。

 早く逃げなくては。

 そう思った時には、季節の風に煽られて炎が屋敷を襲っていた。見る見る広がっていく火の手はまるで生き物だ。木が爆ぜる音を響かせて私の家が燃え盛る。
 
 怖い。

 私は思わず父の下に走り出した。怖い。だからすぐにでも父に触れていたかった。母に慰めてほしかった。走って、走って。あともう少しで辿り着ける。
 そう思って、手を伸ばした瞬間、


 炎が大口を開けて猛り父母を飲み込んだ。


「………え?」
 
 一瞬、何が起こったか分からなかった。
 遠く、近く。
 悲鳴が聞こえる。橙色に滲むその景色は夕暮れのようで。灰を燻す空気に呼吸が苦しい。

 此処に、落日の時は来た。
 
 おかあさん。
 おとうさん。

 さっきまであったはずの穏やかな時間は過ぎ去った。
 父の厳しくも暖かかく見守る視線。
 母の優しげな笑顔。
 そんなものもう何処にもなくて。

 代わりに、目の前には。



 炎に包まれ、それでも私に手を伸ばす亡者が。


 

「あ────────────」

 父と母が。
 直ぐ傍で笑っていたのに。
 人が人でなくなった。
 あまりの恐怖に叫んでも、上がったのは声にならぬ声。逃げなきゃ、逃げなきゃ。思うのに足が震えて動くことも出来ない。
 視線の先では屋敷の柱が燃え尽きた。当然、支えを失くした屋敷は。
 崩れた屋敷が雪崩のように襲い掛かる。
 悲鳴すら掻き消す轟音を聞きながら、私は。


 其処で終わり。
 こうして、幸福の庭は終わりを告げた。


 ───見られぬ父母の顔、黄泉路を辿り逝く。



 ◆



 あくる日、甚夜は三浦家へ向かうことになった。
 とは言え直次との約束の刻限は夕方。今は正午に差し掛かったところで、まだ時間に余裕がある。
 特にすることもなく、昼食もとっていなかった為自然と足は喜兵衛へ向いていた。

「あ、甚夜」

 すると先に奈津が来ており、のんびりと茶なんぞ飲んでいる。

「……奈津」

 呼び捨てはまだ少し慣れない。たどたどしい言い方に奈津は苦笑していた。手招きされるままに同じ卓へつく。

「かけ蕎麦を」
「はい」

 いつも通りの遣り取り、しかし厨房の店主はいつも通りとはいかぬ、えらく神妙な顔つきだった。

「……旦那、いつの間にお奈津ちゃんを名で呼ぶようになったんで?」
「ああ、幾日か前に、少しな」

 曖昧に誤魔化せば今度はおふうの方に向き直り深刻な雰囲気で言葉を絞り出す。

「おふう……お前も、もうちょっと頑張らんと」
「お父さん、何を言ってるんですか……」

 どうやら甚夜を婿に、という話は店主の中では継続しているらしい。そこまで買ってもらえるのは有難いが、その理由はやはり分からなかった。

「でも、随分と仲良くなったんですね」
「別に、そういう訳じゃないけど」

 女二人で和やかに話す。しかし目の前でやられるとどうにも居心地が悪い。少し聞きたいこともあった、割り込むような形でおふうに声を掛ける。

「おふう」
「はい?」
「三浦殿とは親しいのか?」
「三浦様、ですか? 親しいと言うほどではありませんが、時折来てくれますから話すくらいは。どうしたんです?」

 きょとんとした様子でおふうが聞き返した。

「いや、どういう人物なのか少し聞きたくてな」

 世間話代わりに直次のひととなりを問うてみる。少し迷ったように視線をさ迷わせ、間を置いてからおふうは答えた。

「そうですね……。私にも丁寧な言葉遣いで話してくださいますし。生真面目で優しいお方ですよ」
「それって、この前のお武家様?」
「はい。そう言えばお奈津さんも一度会ってましたね」
「会ったというか、なんというか。でも確かに、お武家様なのに腰の低い人だったわ」

 真面目で丁寧。武家らしからぬ立ち振る舞いの人物。二人とも大体同じ印象を持っているらしい。

「ま、刀が目の前にあると別ですがね」

 付け加えるように店主が言った。
 ついと視線を向ければからからと笑う。
 
「いえね、直次様は大層な好事家で、刀剣に関しては目の色を変えるんですよ」

 それは確かに、と甚夜は内心納得する。兄の捜索を依頼しに来ておいて、夜来には興味津々といった様子だった。

「あの人の刀好きは相当でしてね。そうだ、旦那。ちょいと待っててください」

 そう言って店の奥に引っ込み、がさごそと何かを漁ったかと思えば、布に巻かれた何かを持ち出してくる。

「見てくださいよ、これ」

 そうして布を取り去れば、中から出てきたのは金属で出来た棒状の小物だった。

「へえ、笄(こうがい)?」

 初めに声を上げたのは奈津だった。
 笄は髪を掻き揚げて髷を形作る時に使う結髪用具の一つである。頭が痒い時に髪型を崩さずに掻くなど、女性の身だしなみに欠かせない装身具としても使われた。根付や櫛などの小物を扱う奈津にとっては見慣れたものだったのだろう。

 この笄は、男性の場合は日本刀と共に持ち歩く場合が多い。
 目貫(めぬき)・小柄(こづか)と合わせて三所物(みところもの)と呼び、刀装具として武士の間で流行した。
 と言っても江戸時代には刀剣装具について厳しい格式があり、小柄や笄をつける身分の武士は上級の者に限られていた。
 加えて大名家や旗本の正式の拵には、必ず金工の名門として知られる後藤家で製作された金具を用いるのが普通である。

「まあ、三浦家は三所物を付けられるような高い身分じゃありませんが、どうにも堪えられなくなってつい買ってしまったそうで。んで俺にはこの笄をくれたんです。人に贈るもんまで刀関係なんですよ、あのお人は」

 目の前にあるものは金属製ではあるが後藤家の作ではない。随分と古く表面はくすんでおり、大した装飾もされていない簡素なものだ。浮彫は藤を象っている。

「作り自体は繊細だし、藤の浮彫にも品がある。造った人は結構な腕ね」

 感心したように奈津はうんうんと頷いている。

「そうですかい? ったく、御自分は刀が好きだからいいかもしれませんが、蕎麦屋の店主にこんなもんどうしろってんでしょうね」

 笄を褒められたからなのか、苦笑しながらも嬉しそうな表情を隠せていない。そうして店主は何かを思いついたように目を見開き、何処か優しげな表情で言った。

「そうだ、旦那。これ貰ってくれませんか」

 いきなりの提案に面を食らう。奈津も呆気にとられていた。
 折角の贈り物を他人に譲ろうなど、あまりに失礼だろう。
 なにより店主の表情を見れば、笄を大切にしているのが分かる。にも拘らず実に穏やかな様相でそれを手放そうとするのだから、正直なところ困惑していた。

「それは三浦殿からの贈り物だろう。受け取れん」
「いいんですよ、刀装具なんて俺が持ってても意味ありませんし」
「しかし」
「どっちにしろ、これは俺にはもう必要ないんです。だから、どうか貰ってやってください。頼んます」

 深く頭を下げられる。
 店主が何を考えているのかは分からない。しかし微動だにせず懇願するその姿に、きっと何を言っても無駄なのだろうと思わされた。

「……これは、預かっておこう」

 あくまでも持ち主は店主だと言外に匂わせる。それでも十分満足したのか、店主はからからと快活な笑みを見せた。

「いや、ありがとうございやす。助かりますよ」
「済みません。父が無理を言って」

 申し訳なさそうにおふうも頭を下げる。

「預かるだけだ」
「はい。それでも、ありがとうございます」

 感謝の言葉は純粋で、だから店主を問い詰めることも出来なかった。
 結局彼が何をしたかったのか分からないままで話題は途切れ、甚夜は蕎麦を食べ始めた。味自体はいつもと変わらない筈なのに、旨いとは思えなかった。


 ◆


 直次が仕事を終え江戸城から戻ってきた頃には既に日が傾いていた。兄を探す目的があっても仕事は決して休まない辺りは彼の生真面目さである。
 しかし帰路はかなりの早足だ。それもその筈、今日は人を待たせている。同じ祐筆の武士からは「女と逢瀬か?」などとからかわれもしたが、残念ながら待ち人は女ではなく男、それも細身ながらに筋骨隆々とした偉丈夫。艶っぽい要素など欠片もなかった。
 つらつらとくだらないことを考えながら城門を潜り外堀にかかった橋を渡れば、相変わらずの仏頂面で甚夜が待っていた。

「では案内を頼む」

 挨拶もなく短く言ってその後は押し黙る。どうにも彼は昨日から何か引っかかることがあるらしく、表情は変わらないがその雰囲気は妙に硬かった。そのせいか直次もまた何処か緊張した面持ちで家路を辿る。四半刻も経たぬうちに見えてきたのは敷地こそ広いが古めかしい三浦家の屋敷だった。

「着きました。どうぞ」

 先に門を潜り甚夜にも促せば軽く一礼し後に続いた。立ち止まり左右に首を振って外観を確認する
 正面にある母屋、右手には普段は誰もいない離れが、左側に生い茂る椿の木を通り過ぎれば、この屋敷唯一の自慢ともいえる広い庭に行き当たる。造りとしては珍しくもない普通の武家屋敷だった。
 それ以上見るものもなかったらしく、二人は母屋へと入った。玄関を潜った瞬間、女の声が響く。

「在衛。……おや、お客人ですか?」

 直次の母である。
 説教でもしようと思って待ち構えていたのか、強い語気だった。しかし甚夜の姿を認め声は幾分か緩やかになった。
だが彼の容貌を見て訝しげな視線を向ける。それを察した直次が弁解をしようとしたが、それよりも早く甚夜自身が口を開いた。

「失礼。突然の来訪ご容赦ください。甚夜と申します」

 大雑把な髪形をした、礼節など持ち合わせているようには見えない浪人然とした大男の第一声は意外にも丁寧な挨拶だった。礼をもって接するならば礼をもって返さねばならぬ。直次の母もまた丁寧にお辞儀をした。

「これはご丁寧に。在衛、甚夜様はどのようなお方で?」

 それでもまだ胡散臭そうな目で見ている。甚夜は態度を崩さぬまま直次よりも先に答えた。

「葛野より参りました」
「葛野というと、刀鍛冶の?」
「はい。鉄師の集落です」
「母上、甚夜殿は最近知り合った同好の士で、今日は一晩呑み明かそうと呼びました」

 間髪を入れず直次が補足する。勿論嘘であるが。
 ああ、と母は納得した。直次は生真面目で折り目の付いた性格をしているが刀剣の類には目のない好事家、そして葛野といえば刀鍛冶で有名な産鉄の集落だ。
 大方趣味の合う友人ができて嬉しくなり家に呼んだのだろう。腰に携えた太刀は実に立派なもの。あれは彼自身が打ったものなのかもしれない。

「それでは部屋に籠りますので心配はなさらず」

 無論勘違いだ。
 葛野の育ちではあるが甚夜は鍛冶師ではなく、現在は職を持たぬ浪人である。突かれてぼろが出ないよう直次はそそくさと玄関から立ち去る。甚夜も一礼して廊下を歩いて行った。あまりにも唐突な流れに母はぽつりと呟いた。

「仕方ありませんね、あの子も」

 呆れながらも口元は緩んでいる。最近の直次は兄を探すが見つけられず、その度に思い悩んでは暗い顔ばかりしていた。しかし今日見た息子の表情は生気に満ちていた。母としては嬉しいことだ。
 何処の誰とも分からぬが、それだけでも信頼に足るというものである。母は幾分晴れやかな気持ちで二人の背を見送った。



 案内された直次の自室。腰を下ろして顔を突き合わせれば、直次は微妙な表情をしていた。

「どうした」
「あ、いえ。なんといいますか、随分と堂に入った喋り方だったもので」

 先程の遣り取りのことを言っているのだろう。
 浪人が丁寧な言葉遣いで挨拶をしていたことが彼には驚きだったらしい。

「昔取った杵柄だ」

 葛野にいた頃はそれなりの重要な役を承っていた。言葉遣いくらいは心得ている。

「昔、ですか」
「気にするな。雑談をしに来た訳でもないだろう」
「確かに。……しかし甚夜殿、何故屋敷を見たいと思われたのですか?」

 直次は今更ながらに問うた。畳敷きの小さな部屋は彼らしく綺麗に整っており、行燈の放つ光が橙色に染め上げている。

「その前にもう一度聞かせてほしい。長平殿の部屋で花を見つけたのはいなくなった後で間違いないな?」
「は、はい」
「そうか。あと一つ、長平殿は消える前、娘に逢いに行くと言ったのだろう?」
「その通りです。ですが一体」

 そんな質問に何の意味があるのか。
 言おうとして、しかし遮るように言葉が被せられる。

「私はその娘こそが鬼ではないかと思っている。そして長平殿は現世とは隔離された何処かに連れ去られた。水仙の花は」
「その鬼の住処に咲いていた、ということですか?」

 重々しく甚夜は頷く。
 しかしその言葉に直次は同意することができなかった。居なくなったからとはいえ現世とは隔離された何処かに連れ去られた、というのは流石に飛躍し過ぎている。その上、理由が花だけでは納得できる訳がない。

「しかし花など何処にでも咲いているものでしょう」
「そうだな。だから長平殿の部屋を見せて欲しい。或いは、まだ手がかりが残されているやもしれん」

 その目は真剣そのものである。彼も決して冗談を言っているのではない。それが感じられたから、しばらくの沈黙の後、口を開いた。

「分かりました。では、ご案内します」

 直次は表情を引き締め立ち上がる。しかし甚夜は座ったままだった。

「済まないが、先に行ってくれないか?」
「は? いえ、ですが」
「なに、すぐに後を追う。三浦殿は部屋で待っていてくれ」
「それでは場所が分からないでしょう」
「構わん」

 兄の部屋を見せてほしいと言った本人がこれである。訳が分からない。彼は一体何がしたいのか。
 理解は出来ない。だが不思議と甚夜を疑う気にはなれなかった。
 
 自分には兄がいる。
 どれだけ言葉を尽くしても、誰もそれを信じない。父母でさえ兄などいないと断じ、己の言葉に耳を傾けてはくれなかった。
 その中で、彼だけが自分のことを、兄の存在を信じてくれた。
 ならば己も疑いはしない。
 彼を信じることで報いよう。
 どうするかはもう決まっていた。

「それは、怪異を紐解くのに必要なことですか」
「ああ、おそらくは」

 その毅然とした態度は適当なことを言っているようには思えない。おそらく、自分には分からなくとも意味はあるのだろう。

「分かりました。では先に行きます」

 そうして部屋を出て、しっかりとした足取りで廊下を歩いていく。表情には微塵の不安もなかった。





 それを眺めながら、聞こえるか聞こえないかという小さな声で甚夜は言った。

「私の姿があると何も起こらないかもしれんからな」


 
 ◆



 兄・長平の部屋へ先に入る。
 調度品はしばらく使っていないが、定期的に掃除されているようで埃は積もっていない。個人の部屋とはいえ兄はよく外を出歩いていて此処には寝に変えるだけの生活をしていた。彼の人となりを示すようなものは少ない。件の花もいつの間にか無くなっていた。枯れたので母が片付けたのだろう。

「そう言えば」

 ちゃんと兄の部屋が残っている。なのに何故父母は兄などいないと言ったのか。今更だがそのおかしさに気付く。これは一体……。
 と、そこまで考えて直次は鼻をひくひくと動かした。
 何か、いい香りがする。

「この香り……」

 微かに漂う、馥郁たる香り。いつかこの部屋で嗅いだとことのあるものだ。そう、これはあの白い花の香り。確かあの人が言っていた花の名は。

「水仙……?」

 それに思い当たった時、一際匂いが濃密になり、あまりの香気にくらりと頭が揺れた。

「あ、れ……」

 立ち眩みだろうか。
 目の前が滲む。
 頭の中が撹拌される。
 この感覚はなんだ?

 分かる訳はなく、為す術もなく。
 直次はその場に崩れ片膝をついた。



 ──────ひとつ ひがんをながむれば



 遠く。
 数え唄を聞いたような気がした。



[36388]      『幸福の庭』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/02/25 22:27

 死んだと思っていた。
 でも私の意識は確かにあって、自由に動く手足もある。助からないと思ったが、どうやら私は生きているらしい。自分の命に疑問を抱きながらも崩れた屋敷から這い出る。

 死んでいた方が良かったかもしれない。

 そんなことを考えてしまう。
 だって、辺りを見回しても何も残されていなかった。
 家は潰れ庭の花も燃え尽き、当然毬もなくなっていた。
 廃墟となった屋敷に私は一人佇む。

 何もかも無くなってしまった。
 父を亡くした。母を亡くした。家を失くした。
 何故私だけが生き残ってしまったのだろう。失意に塗れ、かと言って何もないこの庭にいるのも嫌で私は屋敷を後にする。
 南の武家町は全壊だった。未曾有の大火事は収まったが後に残ったのは瓦礫だけ。これでは町とは呼べないだろう。私が生まれた町は見る影もない。思い出ごと根こそぎ奪われたような感覚だった。

 私は当てもなく歩く。
 しばらく進んで奇妙なことに気付く。
 集まった野次馬が私を見て震えている。
 どうしてだろう?
 疑問に思う。
 いや、疑問に思うというのなら。

 なんで瓦礫に押し潰され炎に焼かれた筈の私は生きているのか。


   「おい、あの娘の目」
                 「赤いぞ……」
            「まさか」
「間違いない」


 誰もが恐怖を孕んだ声で、嫌悪に満ちた瞳で言う。
 その言葉に気付く。
人は嫉妬や憎悪、絶望など負の感情をもって鬼へと転ずるもの。 
 
 ああ、そっか。
 
 父を亡くした。母を亡くした。家を失くした。
 思い出ごと根こそぎ奪われた。
 それだけじゃない。私は、



 ─────あの娘は、鬼だ。



 私は、私さえ失くしてしまったんだ。

 だから私は逃げた。
 もう何も見たくなかった。


 


 

 それからいったいどれくらいの月日が流れただろう。
 江戸から逃げ出した私は各地を転々とした。
 まるで水面を漂うように私は生きる。
 ゆらゆらと当てもなく。
 ただ流されるままに。

 だってもう、帰る道は失くしてしまった。
 あの庭に戻ることは決してできないのだ。思い返すのは泡沫の夢。光に満ちた暖かい陽だまり。父がいて母がいて。無邪気に笑えた幸福の日々。瞼にはまだ色鮮やかな景色が焼き付いていて、戻れないと知っているからこそ、幸福の庭が美しく思えた。

 おとうさん。
 おかあさん。

 失ったものだけを眺めながら私は生きる。
 
 十年が過ぎ────幼かった私は年頃の少女になり。

 二十年が過ぎ────少女のまま老いることも出来ず。
 
 五十年が過ぎ────人に紛れ意味もなく生きる。

 苦痛の時間は長く留まり、それでも何十年という歳月が流れた。
もう父の顔も母の声も思い出せない。思い出せなくなるくらい、長い長い時間を越えてきた。なのに、目を瞑れば瞼の裏に映し出されるのは在りし日の幸福。

 長い時が経った。
 あの頃は名残すら残っていないというのに。
 何故、この悲しみだけが消えてくれないのか。

 失くしたものに縛られたまま日々は流れる。
 生きていたくない。でも──脳裏には炎を纏う亡者の姿が──死ぬのも怖くて。身動きの取れない私は惰性で生きている。鬼の寿命が何年あるかは分からないけれど、きっとこのまま私はゆっくりと死んでいくのだろう。

 百年を経る頃、一つの変化があった。

 久しぶりに戻ってきた江戸。あれから随分経った。私を知っている人はもう誰もいないだろう。そう考えて帰ってはみたが、歩く町並みは様変わりしていて、懐かしいはずなのにどこか違和感がある。足は自然と南の武家町へ。郷愁に駆られ歩いて歩いて。たどり着いた先、かつて自分が住んでいた場所には、

「あ……」

 立派な屋敷が建っていた。

 それは当然、自分の住んでいた屋敷ではなかった。あの大火事の後復興した武家町。この屋敷にも別の誰かが住んでいるのだろう。それが分からないほど幼くはない。此処は既に自分の居場所ではないのだ。そんなこと分かっている。分かっている。分かって、いる、のに。

「……おとうさん、おかあさん」

 どうしようもなく涙が零れる。
 まるで現世の全てに自分が否定されたような気がした。
 胸を過る空虚。自分には、本当に何もないのだと見せつけられ、私は叶わない願いに縋る。



 帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。



 思い返す幸福の庭。
 あの頃のように父母と一緒に。
 無邪気に笑うことのできた幼い日々に。
 ただ、帰りたいと強く願った。

「え……」

 その瞬間、世界が変わった。
 気付けば、辺りは既に黄昏に沈んでいる。目の前にはうらぶれた屋敷が。

「なにこれ……」

 突然のことに頭がついていかない
 疑問はあった。それでも、その屋敷が見慣れた場所だったから、私はその門を潜った。足は勝手に動く。屋敷の左手を通り過ぎ一直線に庭へ向かう
 そして辿り着く場所。
 見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
 気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる
 ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。

「ここは」

 間違いない。
 この場所は、私が生まれた屋敷。
 遠い、幸福の庭だ。

「あらあら、■■■ったらあんなにはしゃいで」

 いつの間にか縁側には二人の男女が座っている。その姿を見た瞬間、忘れたと思っていたのに自然と私は声を上げた。

「お母さん……お父さんも」

 父は相変わらずの厳しい顔、でも細められた目には優しさがあって。懐かしい声音で私に話かける。

「ああ、ちゃんと見ている」
「あの娘、毬つきが上手になったでしょう?」

 何を言っているの?
 そう思い自分の手を見る。
 紅葉のように小さな手はまるで幼かった頃のようで。
 手には失くしてしまった筈の毬があって。
 一体何が起こっているか分からない。分からないけれどそれでいいと思えた。
 過ぎ去ってしまった“いつか”が此処にある。
 他のことなんて、どうでもよかった。
 
 
 ────いつかは遠くなり、昔を懐かしむ。
 
 
 だから私は毬をついている。
 幼かったあの日々を取り戻すように。
 幸福の庭にしがみつくように。

 父が買ってくれた毬を。
 母が植えた花に囲まれて。
 数え唄を歌いながら。
 ずっと此処で毬をついている。


 朧に揺らめく。
 結局私は。
 
 今も、幸福の庭から動けずにいる。
 


 ◆



 花の香気に立ち眩みを起こし、一瞬の前後不覚を起こす。 
 その僅かな時間に妙な夢を見た。見も知らぬ少女の半生。あれは一体なんだったのだろうか。
 片膝をついたまま頭を二、三度振れば何とか意識が覚醒してきた。そうして辺りを見回せば、

「な……」

 其処は兄の部屋ではなかった。似てはいる。だが置かれた調度品など細々としたところで差異が見受けられた。何が起こった? 驚愕しながらも親指で唇を摩りながら思索に没頭していく。

「昔ながらの武家屋敷といった所だな」
「うおぉっ!?」

 その瞬間いきなり隣から声が聞こえて、思わず驚きに数歩下がる。気付けばすぐ近くに六尺を超える大男がいた。

「じ、甚夜殿?」
「だが造りが三浦家とは違う。どうにも、お前の兄の部屋とは別の場所に迷い込んでしまったらしい」

 彼もまた差異に気付いたのだろう。部屋を鋭い刃のような視線で観察していた。しかしそんなことよりも直次には気になることがある。

「……あの、甚夜殿」
「どうした」
「一応確認しますが、先程まで貴方は傍にいませんでしたよね?」

 確認するまでもなくいなかった。直次は先に兄・長平の部屋を訪れ、後から誰かが入ってきた様子もなかった。事実数瞬前にはその姿が見えなかったというのに、何故彼は当たり前のようにいるのだろうか。
 怪訝な視線を送るも甚夜はいつも通りの平静な様子で言う。

「なに、ちょっとした大道芸だ」

 慣れてくると“このまま”でも使えるようだ。
 よく分からないことを呟く。結局、彼がいつの間に現れたのかは分からないままだった。

「で、今のを見たか?」

 覗き込むような視線だった。

「今の、とは」
「火事の景色。鬼となり放浪する童女。在り得ない筈の、かつて住んでいた屋敷」

 淡々と語られる言葉に驚愕する。それは意識を失った瞬間に見た、奇妙な夢だった。

「見ましたっ。では貴方も?」

 首を振って肯定の意を示す。やはり彼も見たのか、そう思うと同時に驚きは段々と薄気味悪さへ変わっていく。

「二人が同時に同じ夢を見るなど……」
「単なる白昼夢ではない、か」

 直次の背筋にぞわりと嫌なものが走る。己が今まさに怪異の中心にいるのだと理解したのだ。だが、対する甚夜はいつもの仏頂面のまま呟いた。

「当たりだな」

 表情こそ変わらないものの声音には「幸運だ」とでも言わんばかりの響きがあった。 

「それはどういうことですか?」
「現世ではない何処かを住処にした鬼がいた。ならば」
 
 そこまで聞いて気付く。
 そうだ。確かに彼は言っていた。
 兄は消える前、娘に逢いに行くと言った。
 ならばその娘こそが鬼ではないか。そして兄は現世とは隔離された何処かに連れ去られたのだ、と。
 つまり。

「兄は、此処に連れ去られた?」
「連れ去られたのか、自ら足を踏み入れたのかは分からんが」

 息を呑む。散々探しても見つからなかった兄の影がここにきてようやく見えてきた。

「しかし、何故気付いたのですか? 兄が現世とは隔離された何処かに連れ去られた。それは確かに正しかったのでしょう。ですが正直に言えば、発想が突飛過ぎてその結論に至る道筋が分かりません」

 それは純粋な疑問だった。しかし甚夜はただこう言うだけである。

「私はそれなりに花には詳しい」

 答えにならぬ答えだった。そして返答もそこそこに部屋から出て行こうとする。

「あの、何処へ」
「ここで突っ立っていても仕方あるまい。少し辺りを調べる」
「確かに。ならば私も」

 二人は並んで廊下へ出る。
 外は黄昏に沈んでいるのだろう。廊下の先は暗すぎてまるで見通せない。鬼の住処ということもあり殊更不気味に感じられた。
 板張りの床は老朽化しているように見えるが踏み締めても家鳴りはしなかった。造りは甚夜の言う通り昔ながらの武家屋敷である。三浦家と大差ないため、然程迷うことなく玄関へ辿り着くことができた
 玄関から外へ出れば、一面に広がる仄暗い空。黄昏の色がうらぶれた、しかし風格のある屋敷にはよく似合う。門も立派なものでおそらく住んでいた武士は低からぬ身分だったのだろう。
 
「この閂、力を入れても動きませんね」
 
 外には出られるのだろうか。
 そう思い門を開けてみようと直次は試していたが、結局閂は抜けなかった。どうやら閉じ込められたようだ。

「下がっていろ」

 夜来を鞘から抜き去り高々と上段に構える。そして一歩を踏み出すと同時に唐竹割り、渾身の一刀を放つ。
 鉄の如き鬼の体躯さえ裂く甚夜の剣。
 しかし木で出来ている筈の閂には傷一つなかった。 
 掌に広がるのは鉄でも肉でもない奇妙な手応え。

「やはり簡単に出られる場所ではないらしいな」

 鬼と化して<剛力>で殴り付けても結果は同じだろう。刀を鞘に納め、平静に呟く。

「おそらくはあの童女が此度の怪異を引き起こしたのだろうが。閉じ込める<力>……いや、それだけでは先程の白昼夢の説明がつかない」

 思索を巡らしているのか、小さく何事かを呟きながら甚夜は門を眺めている。しかし<力>とはいったい何のことだろう。疑問に思い直次は問うた。

「<力>とは?」
「鬼は百年を経ると固有の<力>に目覚める。中にはもっと早く目覚める者もいるがな。遠い未来を見通す。膂力を異常なまでに高める。個体によってそれは変わるが、高位と呼ばれる鬼は一様に特殊な能力を身に付けているものだ」
「では先程の少女が見た屋敷は<力>によって生み出されたもの、ということでしょうか」
「……だと、思う」
「はっきりしませんね?」
「いや、一体どのような<力>を使えばこのような現象を起こせるのか、それが分からん」

 取り敢えず、出るには<力>の謎を解くか元凶を討たねば。
 そう言って再び思索に没頭していく。
 それを邪魔しては悪いと直次は辺りを見回しながら時間を潰していた。情けないが、自分にできることはない。精々辺りを警戒しておくくらいだろう。どんな変化があっても見逃さぬよう周囲に意識を配る。音はない。風も吹かない。屋敷は全くの無音だった。此処まで音のない場所というのも不思議だ。あまりの静けさに耳鳴りがするほどである。
 

 ぽぉん……ぽぉん……。

 
 不意に、音が響いた。
 規則正しく鳴る微かな音。普通なら聞き逃してしまいそうなそれも周囲から音の消え失せたこの屋敷ではよく響く。
 
「甚夜殿」
「どうした」
「音が聞こえます」

 集中し過ぎていたせいだろう。甚夜には聞こえていなかった。直次に倣い周りに意識を向ける。すると確かに音が響いてくる。


 ────ふたつ ふるさととおくなり


 次いで、数え唄が聞こえた。
 だから気付く。これは毬をつく音なのだ。
  
「この歌は」

 先程兄の部屋で聞いた声。幼くも澄んだわらべうた。異界へと誘う幽世の調べだった。

「屋敷の主からのお誘いだ」

 冗談めかして口元を釣り上げるが、左手は夜来へとかかる。鬼との対峙を前にして空気が張り詰めた。

「庭の方ですね」
「行くか」

 小さく頷き合って二人は歩みを進める。
 屋敷の左手を通ればすぐその場所に辿り着く。
 見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
 気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる
 ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。

 そして、その中心には。
 体格のいい男と毬を抱えた童女がいた。

「兄上……!」

 目を見開く。
 それは間違いなく、兄・長平だった。ようやく見つけた。直次はその姿を確認すると同時に駈け出そうとして。

 くらり、と頭が揺れる

 また、花の香が立ち込めた。



 ◆



 庭先には体格のいい男と毬を抱えた童女がいた。

「お前は、もう此処で長いのか?」

 庭先にいる男は童女に声をかけた。
 男の名は三浦長平兵悟という。直次とは違い豪放そうな雰囲気である。片膝をつき童女と視線を合わせた長平は優しげな語り口だった

『百年以上ここにいる』
「百年っ!?そいつぁ豪気だ」

 見た目は五、六歳の幼い娘が実は百を超えると聞いて驚きの声を上げる。娘の言葉を全く疑ってはいないらしく「へーほー」と珍しそうに視線を送っていた。

「その間ずっと一人か?」

 無表情で頷く。瞳には何の感情もなかった。両の手で抱えた毬は大事なものなのか、しがみ付いているように見えた

『言ったでしょう。帰る道はなくなった、と。私はここから逃げられない』

 長平が此処に辿り着いてからどれだけの時間が流れただろう。
 数え唄に誘われて訪れた幽世。
 最初は恐ろしいだけだったが、一人毬をつき数え唄を歌う童女がどうにも気になり、気がつけば結構な時間が経っていた。
 童女はほとんど自分のことを話さない。それでも根気よく話し続けてみればぽつりぽつりと話してくれた。

 自分が“鬼”であること。
 両親は既に亡くなったこと。
 この屋敷の秘密。
 此処に百年以上一人でいること。

 実をいうと、長平が此処に来てしまったのは単なる偶然で、今も決して閉じ込められているという訳ではなかった。
 童女曰く、長平の住む屋敷と彼女のいる屋敷が何故か繋がり、長平が迷い込んでしまったらしい。
 したがって童女には何の悪意もなく、長平はどうにもこの娘を責められないでいた。

『早く帰りなさい……長くいれば貴方も帰る場所を失くすことになる』

 怪異の原因たる鬼が言っても一向に長平は帰ろうとしない。それどころか呑気に庭の花なんぞを愛でていた。

「お、きれいな花だな。俺は花の名なんかしらねぇが、これはきれいだと思うぜ」

 この花はなんて言うんだ?
 童女の言葉などなかったことにして話を進める。こちらは何の感情もこもらない瞳のままだった。

『……沈丁花』
「ほう。甘酸っぱくていい匂いだ。食ったらうまいかな」

 真面目な顔で検討している。砂糖でも持ってこりゃよかった、などと言っている辺り確実に本気だった。

「お、ようやっと笑ったな」

 童女は、本当に小さくだが、顔を綻ばせた。目敏くそれに気付いた長平は嬉しそうに笑っている。そう、彼がこの幸福の庭を離れられない理由は、単にこの娘のことが心配だったからだった。
 彼が自宅へ戻らないのは、自分が戻ってしまえばこの童女がまた一人ぼっちになってしまう。それが分かっているから、なかなか戻れないのである。

『もう、いい加減貴方は帰った方がいい』

 笑い顔を見られたのが恥ずかしかったのだろう。童女は殊更無表情を作った。

「さて、今日の昼飯は何をするかな。我ながら腕があがってきたと思うんだが、よしここは一番の得意」
『ちゃんと聞いて』

 いつものように誤魔化そうとしたが、今回は有無を言わせぬ迫力があった。

『貴方にも家族はいる。帰る場所だってあるでしょう?それをくだらない同情なんかでふいにしては駄目』
「しかしだな」
『ここは幸福の庭。此処にいればおとうさんともおかあさんとも会える。だから貴方はいなくてもいい。むしろ邪魔なの』
 
 その裏には、童女の優しさが確かにある。
 長平のことを慮って紡がれた言葉。やれやれ、と呆れたように溜息を一つ。まったく、この娘は嘘を吐けない。そんな風に言われて帰れる男がいるわけないだろう。

「お前は勘違いしてる。いいか、家があって人がいるんじゃない。人がいて家があるんだ。だから、人が笑えないのならそこは家じゃない」
『なにを』
「だからここは家じゃない。本当はお前だって分かってるんだろう?」
『それ、は……』

 長平の言葉に急所を突かれ、童女は押し黙った。まるで苛めているようだ。そんなふうに思えて、せめてもの侘びとして優しく娘の頭を撫でてやる。

「分かった。じゃあこうしよう。お前がここを離れてくれるなら、俺も出ていこう」
『そんなの無理』
「なぜだ?」
『私にはもうこの庭しか帰る場所がない』
「なら簡単だ。俺の家に来い、ああいや、二人一緒に暮らす方がいいか。うん、そうだな。なぁ、俺の娘にならないか? 俺も武士をやめて、外でのんびり暮らすんだ」

 何でもない事のように武士をやめるという。それでも童女は頑なだった。

『私は此処から逃げられない。それに、貴方をおとうさんとも思えない』
「あー、振られたか。まあいいや。お前さんの心変わりをゆっくり待つさ」

 大して悔しそうな様子ではない。なんだ、ただの冗談だったのか。彼の様子にそう思ったが、真剣な、けれど柔らかく細められた長平の視線を見て気付いた。

「そうだ、一度だけ家に帰してくれないか? 最後になるかもしれんから家族の顔を見ておきたい」

 最後? それはどういう意味、と聞こうとして。


「言っとくけど俺は本気だからな。もし、お前が俺を父と思える日が来たなら。その時は一緒に此処を出よう」

 
 彼の言葉に息を呑む。
 それは冗談ではなく、本心なのだと確かに信じられた。

『そんな日は来ない』

 ふい、と顔を背ける。でも顔が熱い。もしかしたら赤くなっているのかもしれない。現に、彼は声をあげて笑っていた。

「ならしゃあねえ。俺がずっと此処にいてやるさ」

 そうして、長平は快活な笑顔を見せて。



 ◆



 瞬きの間に、その姿は消え去った。

「え……兄、上?」

 直ぐそこにいたはずの兄が今はもういない。いったいこれはなんだ。何が起こった。庭の中心に辿り着く頃には誰もいない。いや、其処には。

 毬を抱えた童女だけが、一人立ち尽くしていた。

『此処にはもう誰もいない……なにも、残っていない』

 呟きは誰に向けられたものか。
 幼いが透き通った、よく通る声だった。人形のように整った容姿。瞳は、赤い。

「兄上はどこに」

 少しだけ童女の瞳が陰ったような気がした。おそらくはこの鬼こそが元凶なのだろう。だが直次の気性ではいくら元凶とはいえ、娘子に憎しみをぶつけることも出来なかった。
 反応はない。今度は少しだけ語気を強める。

「どこにやったと聞いている」

 やはり何の反応もなく、娘の纏う憂いだけが濃くなった。どうすればいいのか分からない。直次は崩れ落ちるように膝を地につけた。

「兄を、返して下さい……お願いします」

 土下座までして童女に頼み込む。武家の生まれである彼にとってそれはいかな屈辱だろうか。肩を震わせ只管に直次は懇願する。それでも童女は何も言わなかった。むしろ、彼女こそが涙を堪えているようにさえ見える。

「無駄だ」

 甚夜は直次の肩に手をかけ引き起こす。

「何故無駄なのですか! 貴方も見たでしょう、兄は確かにいた!」

 必死の形相。しかしただ首を振り言い聞かせるように告げた。

「花には、咲く季節がある」

 およそ関係のないことを話し始める甚夜に食って掛かる。

「何を言っているのですか貴方は……!」
「お前が言ったのだろう。水仙の花が兄の部屋にあった、と。だから私は、長平殿はこの世ならぬ場所へ連れ去られたのだと気付けた」

 それは事実だ。確かに彼の言う通りではあった。しかし今はそんなことを話している時ではないだろう。

「だから何をっ!」

 その言葉の意味を理解できず、語気も荒く聞き返す。


「三浦殿、水仙は冬の花だ」


 抑揚のない声に、一瞬時が止まったような気がした。
 水仙は冬から春にかけて咲く花である。が、春先に咲くものは総じて花弁が一回り大きい。直次が言うような小さく可愛らしい花は早咲きの水仙で、冬に咲くのだ。

「貴殿はこうも言ったな。春先にいなくなった、と。そして今は秋……ならばいなくなった兄君は何処で水仙の花を手に入れた」

 長平がいなくなった期間は春先から秋。
 単純に考えて、彼が水仙の花を手に入れる機会など存在しない。それでも彼の部屋に咲く筈のない花があったというのなら。
 彼は現世とは違う季節の流れる場所に、『違う時を刻む異界』に足を踏み入れたということになる。

「ですが兄はいました」
「ああ、いた。以前は確かにいたのだろう」
「それはどういう意味ですか」
「私はどうすれば長平殿が水仙を手に入れられるかを考えていた。咲く筈のない水仙が裂く場所。恐らくは鬼の<力>によって生まれた、現実とは違う時を刻む異界。それは予想できていた。しかし今の景色では……沈丁花が咲いていた」

 甚夜の纏う悲壮な雰囲気が色濃くなった。

「初めはな、異界ではずっと水仙が咲いていると思っていた。だから其処は人の理の届かぬ、時の止まった異界だと推測していた……だが違った。沈丁花は春を告げる花。季節の花が咲くのなら時は流れている。ただ速さが現世とは違うのだ。それ故季節外れの花が咲く」

 そして鬼女の言葉が真実ならば。
 此処には誰もおらず、何も残っていないというのならば。 

「おそらくこの異界では」



『現実よりも遥かに早く時が流れる』



 言葉を継いだのは今まで何の反応も見せなかった童女だった。

『此処は既に失われた場所。かつて幼い私が過ごした幸福の庭……』

 歌うように紡がれる。無感情を装い、しかし微かな寂寞を感じさせる声だった。

『百年を経て、私は<力>に目覚めた。かつて在った幸福の庭を作り出す<力>。でも……』

 視線を屋敷に向けた。

「あらあら、■■■ったらあんなにはしゃいで」

 いつの間にか縁側には二人の男女が座っている。

「ああ、ちゃんと見ている」
「あの娘、毬つきが上手になったでしょう?」

 仲の良さそうな夫婦。しかし次の瞬間には消え失せる。最初からいなかったように、何の名残さえ残さなかった。

『私の<力>は<夢殿>。箱庭を造り、思い出を映し出す。ただそれだけの<力>。閉じ込めることなんてできない。この<力>にできるのは、ただ昔を懐かしむだけ』

 つまり先程の夫婦も、白昼夢も、長平の姿も彼女の思い出。
 現実ではなく他人も見ることのできる夢。
 娘の<力>の正体は『思い出の再現』なのだ。

 童女は逃げられないと言った。それは物理的な意味合いではなく、単に彼女が幸せだった頃の思い出から離れられなかっただけ。屋敷に囚われていたのは長平ではなく、創り出した鬼女の方だった。

『だから箱庭の中では外の世界よりも遥かに速く時が流れる。そして、箱庭にいる者は外の世界から忘れられていく。いつだって、大切なものこそ簡単に失われる……思い出はどうしようもなく時の彼方に押し流されていくものだから』

 でも。
 童女は悲哀に満ちた声で言葉を続ける。

『私だけは、その流れについていくことは出来ないけれど』

 それがこの世界の法則。
 鬼女は時の流れが速まった箱庭にいたとしても、外と同じ時間を刻む。
 此処は彼女の夢見た場所でありながら、理想には今一歩届かぬ願い。誰もいない幸福の庭。この場所にいる限り彼女は幸福な思い出に浸れるが、いつまでも一人でいなければならない。幸福の庭では、誰もが彼女より早く寿命を迎える。
 流れ去る幸福の日々に取り残されてしまった彼女は、その速さに着いて行くことが出来ないのだ。

「ならば、兄上は」

 声が震える。
 此処が、外の世界よりも遥かに時間の流れが速いとするのなら。
 もう誰もいないと言うなら。 
この屋敷から出ることを選ばなかった長平は。

「もしや、既に………」

 聞きたくない。聞きたくない。
 しかし自然に言葉は零れてしまい、童女はまっすぐに直次を見据えた。



『此処にはもう、誰もいない』



 知りたくない、事実だった。

「そん、な……」

 それでは、自分がしていたことは全くの無意味だったのか。体から力が抜けていくのを感じる。
 瞬間、先程まで無風だった庭に強く風が吹き付けた。

『さよなら……そしてごめんなさい。私があなたのお兄さんを奪ってしまった』

 悔いるような声だった。
 吹き荒れる風に花がしなり花弁が舞う。吸い込まれるように空へ帰る花弁。砂のようにさらさらと、屋敷が形を失くしていく。

『でも、ありがとう。私は兵悟に救われた』

 何もかもが希薄になっていく。
 幸福の庭が終わる。訳もなくそれを感じ取れた。
 
『目を覚ませば、元の場所に帰れる。だから安心して』

 優しげな声だった。幼い外見に見合わぬ柔らかさ。
 もともとこの娘は誰かを閉じ込める気などなかった。此度の長平の件は偶然が引き起こした事故のようなものにすぎない。彼女は最初から甚夜達をどうこうしようとは思っていなかったのだろう。
 或いは、ここに呼んだのも。
 直次に兄のことを謝るためだったのかもしれない。

「娘、お前はこれからどうする」

 箱庭の崩壊を眺めながら、平静に甚夜は問うた。全てを失くした絶望から鬼へと転じた童女。彼女の行く末が、何を思っているのかが純粋に気になった。

『此処ではない何処かに』

 答えた表情は満ち足りたものだった。

『誰もいない幸福の庭にはもう戻ることはない。兵悟が、私の父になってくれたから』
「お前は、それでよかったのか。此処は大切な場所だったのだろう」
『ええ、もちろん』

 そうして、たおやかに彼女は笑う。

『私はずっと失ったものばかりを眺めてきた。でも、あの人は自分の人生をかけて私の大切な場所になろうとしてくれた。だから私は幸福の庭を抜け出すの。あの人の娘になりたいって思えたから』

 ああ、そうか。
 つまり彼女は。

「お前は、長平殿との約束を守るのだな」


 ────言っとくけど俺は本気だからな。
          
              もし、お前が俺を父と思える日が来たなら────


『ええ。胸を張って言います。あの人は、私の自慢の父だって』
 
 私は幸せ。
 失ったものは多かったけれど、私を愛してくれる父を二人も得ることができたのだから。

 最後に、見惚れるほどの笑顔を残して。
 花の香に包まれた世界が黄昏に溶ける。
 


 其処で終わり。
 こうして、幸福の庭は終わりを告げた。


 ────涙は枯れ果てて、やがては……







 ◆


 
 気付けば二人は庭にいた。
 ただし三浦家の庭に、である。

「戻ってきたのですね……」

 直次は力なく、それでも何とか立ち上がる。

「もしや、あの幼子はずっとこの屋敷に住んでいたのでしょうか」
「あの鬼の<力>は箱庭を造ると言っていた。あの屋敷は<力>によって造られた、現世には存在しない場所と考えるべきだろう」

 何も言わず直次は俯いている。

「ただ何の因果か、この屋敷と“繋がって”しまった。三浦殿の兄上は偶然にも足を踏み入れ……」
「出られなくなった、いえ、あの屋敷で暮らす道を選んだ」

 目を伏せれば浮かび上がる、たおやかな鬼女の笑み。
 幼い頃、父母と過ごした庭に鬼となってまで固執した娘。
 偶然に出会った、自分の父になると言ってくれた男。
 男が、そして娘が。一体何を思って共に在ることを選んだのかは分からない。だがそれでも、彼女は最後に笑っていた。ならばきっと彼女は確かに救われ、男は確かに報われたのだろう。
 
「兄は、何故あの場所に留まろうと思ったのでしょうか」

 呆然としたまま、直次は問うた。それは独り言だったのかもしれない。
 長平はあの娘が鬼であることも、現世とは時の流れが違うことも知っていた筈だ。なのに何故、家を捨て家族と別れ、それでも童女と共に過ごすこととを選んだのか。それが直次には理解できなかった。

「案外、理由などなかったのかもな」

 拾うようにして甚夜が答える。彼もまたどことなく力がないように見えた。

 寂しげな鬼女。
 それを慈しみ救いたいと願った男。
 たとえ結末が、どうであったとしても。
 己がどうなるとしても。 

「理由などなくても、傍にいてやりたかった。そういうこともあるだろう」

 自分にも覚えがある。ただ傍にいるだけで幸福を覚えた頃が確かにあった。納得がいかないのか、返す言葉が何もないのか。ただ直次は押し黙った。甚夜もそれに倣い、黄昏に沈む庭を見回す。

 庭に花は咲いていない。今は秋、花はとうの昔に散ってしまったのだから当然だ。しかし先程まで花に満ちた庭にいたせいか、こちらの方が普通だというのに違和感さえ覚えてしまう。
 もしかしたら、火事の後に建った屋敷こそが三浦家だったのかもしれない。
 そう考えると花の咲いていない庭は殊更寂しく思えた。
 
「過ぎ去りし幸福の庭、か……」

 失われたものはどうしてこうも心を捉えるのか。
 失ったものは失ったもの。たとえどんなに願ったとしても戻ることはない。童女は全てを失った絶望から鬼へと転じ、それでも戻ることのないかつての幸福に固執し続けた。
 
だがそれで終わりではなかった。
 そんな娘を救いたいと長平は願い。
 彼女もまた与えられる救いを受け入れ、自身が願った幸福の庭を抜け出した。
 胸を過った感情は嫉妬だったのかもしれない
 己とは全く別の強さを持つ二人があまりにも眩しすぎて、目を背けるように仄暗い天を仰ぐ。


 ─────幸福の庭を抜け出した鬼女は、今頃どうしているのだろう。


 宵闇に変わり往く空を眺めながら、今は何処にいるかも分からない、名も知らぬ娘子の行方に想いを馳せる。
 遠くで星が瞬く。近付く夜にほんの少しだけ目を細めた。




[36388]      『幸福の庭』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/04/01 01:34
「あの後、母と話しました」

 鬼女と出会った翌日、甚夜と直次は蕎麦屋『喜兵衛』にて顔を合わせていた。例によってこの場所を指定したのは甚夜である。
 浪人の甚夜とは違い直次には勤めがある。そのため彼は昼食時に江戸城をわざわざ抜け出してきたのだ。
 しかし二人は何も注文もせずに茶だけを啜って話し合っている。一種の営業妨害だろうが、店主もおふうも咎める気はないらしい。むしろ愁いを帯びた直次の様子を心配そうに眺めていた。

「何故兄を覚えていなのか、ずっと考えていたのですが……思い至り問い詰めてみました」

 直次の纏う愁いは一層強くなった。

「冷静になって話を聞くと、母は兄を忘れた訳ではなかった。ぼんやりとは覚えていたのです。ただ母の中で兄は“二十年以上前に”家を出て行った息子、ということになっていました。そんな兄は既に三浦家の人間ではない、だから私が嫡男、なのだそうです」

 母の言は武家の生まれにしてみればある意味当然、家を顧みない者は切り捨てられて然るべきだろう。だがその事実こそ直次にとっては悔しかったのかもしれない。

「おそらく母は、あの屋敷で兄が過ごした時間と同じだけの年月、兄がいなくなったものと感じていたのでしょう。本当は忘れていたのではなく、忘れたかったのかもしれません。出て行った兄を思い出すのが辛くて」

 だから思い出したくなくて、忘れようとして……いつの間にか本当に忘れてしまった。
 それがあの異界に組み込まれたからくり。
 忘れていくのは鬼の<力>ではなく人の性。

「家族であっても長い間離れれば名前も顔も忘れてしまう。きっと私もいつか兄を忘れ、普通に暮らすようになるのでしょう。……人は、寂しいですね」

 失われた幸福を抱えて歩くのは辛くて、だから人は大切なことも簡単に忘れてしまう。鬼女の<力>はその体現だったのかもしれない。
 二人は揃って沈黙し、しばらく店内に静けさが鎮座した。静寂の時間は流れ、何かを思い出したのか、直次がそれを破った。

「そうだ、もう一つ伝えようと思ったことが。今朝、城に納められている資料を調べてみたのですが、実際に南の武家町辺りで昔火事がありました。あの童女がすべてを失った未曾有の大火事、あれは真実だったようです」
 
 懐から数枚の紙を取り出す。覚書きらしく、それを読みながら言葉を続ける。

「明暦三年。今から二百年は前に、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災があったそうです。明暦の大火……振袖火事、丸山火事の方が一般的ですね。被害は未曾有の大火事というに相応しく、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失したそうです」
「そう言えば、屋敷で見た白昼夢では城の天守閣が燃え落ちていたな」
「ええ。そこから考えるとあの童女が見舞われた火事は明暦の大火に間違いないでしょう」

 言い終えると持っていた紙を卓の上に放り出す。
 明暦の大火。死傷者は最低でも三万に上る災禍。幼い娘子の心を壊すには十分な地獄だったのだろう。文字からでは当時の悲惨さを知ることはできないが、それでも童女の悲しみの一端には触れられたような気がした。

「この大火の後、江戸は都市改造に着手した。南の武家町も区画整理が行われ、三浦家の屋敷は復興計画の初期に建てられたもの、ということです。これは私の想像ですが、大火以前には三浦家の敷地に」
「あの童女の住んでいた屋敷があった」

 先回りするように甚夜が言うと、ゆっくり首を縦に振った。

「やはりそう思いますか。だからこそ彼女の創り出した屋敷と“繋がった”のではないでしょうか」
「だろうな。何とも奇縁だ」
「全くです。時を越えた出会い、とでも言えば綺麗にも聞こえますが、実際のところ……」

 あの童女に決定的な喪失を与えたのが己の住む屋敷だと思うと、たとえ自分に咎がないと分かっていても遣り切れないものがある。兄の失踪、その怪異はほぼ解決したと言ってもいい。しかし胸中は淀んでいて、とてもではないが怪異の終端を喜ぶ気にはなれなかった。

「済まなかった、三浦殿。結局私は何の力にもなれなかった」

 目を伏せ、深く頭を下げる。
 突然の行動に直次は驚き目を見開く。甚夜の声はひどく沈んでいて、普段見せる鉄の如く揺るぎない雰囲気を感じることはできない。
 自責の念か、頭を下げたまま微動だにせずいる。しかし直次は首を振って彼の謝罪を否定した。 

「顔を上げてください。私は感謝しているのです」

 想像以上に落ち着いた語り口だった。言葉の通り顔を上げ直次の目を覗き見る。
 穏やかな瞳に責め立てる色はない。寧ろ満ち足りているようにさえ見えた。

「兄は良くも悪くも自分の意思を強く持っている人でした。だからこそ、兄はあの童女を救う為に家を捨てた。その理由は私には分かりませんが、結局あの人は最後まで自分の意思を曲げなかった。それだけの話です」

 誇らしげに笑う彼の顔はまるで無邪気な子供だった。だというのに一本芯が通ったように感じる。

「甚夜殿、兄はやはり私の尊敬する兄でした。それを知ることが出来ただけで私は満足です」

 兄が己の為すべきを為したように、私もまた兄に恥じぬ生き方を。
 そんな決意があるのだろう。静かに落とした彼の笑みには、言い知れぬ強さが滲んでいるような気がした。

「と、そろそろ時間ですね。すみませんが城へ戻ります」

 結局何も注文せずに直次は店を出ようとする。

「あの、三浦様」

 その背に今まで黙っていたおふうが声をかけた。

「おふうさん」
「貴方のお兄さんは素晴らしい方です。誰も覚えていないとしても……自分の全てをかけて一人の女の子を救ったのですから」

 その言葉に直次は瞬きもせずに一筋の涙を零した。

「はい、兄は私の誇りです」

 言い切ったその表情は晴れやかで、何処か長平の見せた快活な笑顔に似ていた。



 ◆



「甚夜君、本当にありがとうございました」
「俺からも礼を言わせて下せえ。旦那のおかげであの人も吹っ切れたようですし」

 直次が立ち去った後、店主とおふうはそう言って深々とお辞儀をした。

「私は何もしていない。結局怪異を解くことは出来なかったし、鬼も討てなかった」
「そりゃあ、仕方無いことでしょ。なんにせよ、これでもう兄を探すなんてことはしなくなる。あのお人にとっちゃいいことだったと俺は思いますよ?」
「そうならいいのだがな」

 歯切れは悪い。何かを考え込むように少し顔を俯かせ眉間に皺を寄せている。

「浮かない顔ですね」
「……今回の件にはまだ疑問が残っている。そのせいだろう」
「疑問ですか? そいつは例えばどんな」

 惚けたような店主の返しに、甚夜は溜息を吐いた。 
 そして表情を引き締める。


 ────さて、そろそろ真に今回の怪異を紐解こう。


「例えば……そうだな。鬼女は、三浦殿の兄君のことを兵悟と呼んでいた。しかし私が聞いた兄の名は三浦長平だ。名前が違う」

 至極真面目にそう言った甚夜を奇異の目で店主は見る。いったいこいつは何を言っているんだろう。そういう呆れた視線だった

「あのー、旦那? それは諱(いみな)なんだと思いますけど」

 諱とは分かりやすく言えば本名である。
 日の本には古くから、清(中国)と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想が基盤としてあった。故に本名を隠し、代わりに通称を名乗る文化が生まれた。

 長平に関して言えば、姓は三浦、字は長平、諱が兵悟。この場合通称が長平で本名が兵悟となる。
 漢字文化圏では、諱で呼びかけることは家族や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であるとされた。
 名を知ることは本質を知ることに繋がる。
 本名とはその人物の霊的人格と強く結びついたものであり、それを口にすることは、その人物の存在そのものを支配することに等しいと考えられた。このような慣習は「実名敬避俗」と呼ばれ、日本に限らず多くの地域で行われている。

「しかし武士の諱は基本的に主だけが知るものだろう」
「いやでも、家族なら諱を知っていてもおかしくないですよ。その娘が兵悟って呼んでたのは単にその兄貴が家族と認めた、ってだけの話でしょう。いったい何が疑問なんです?」

 瞬間、ぎらりと視線が鋭さを増した。

「ところで、店主は私に何と言って今回の件を依頼したか覚えているか?」
「へ?そりゃもちろ」

 そこで店主は目の前の男が何を言いたいのかようやく理解した。そう、今回の件に甚夜が携わったのは、店主がこう願ったからである。



『旦那。すいませんが、在衛様の力になってやってくれませんかねぇ』



 しまった、と焦りの表情が浮かぶ。だがもう遅い。

「例えば、普通ならば『主か家族しか知らない筈の諱』を、何故蕎麦屋の店主が知っているのか……というのは、大きな疑問だ」
「あーいや、それはですね」
「三浦殿は寿命で兄が死んだと思っていたようだが、私は違う。鬼女は此処にはいないと言ったが決して死んだとは言わなかった。鬼は嘘を吐かないが真実は隠すもの。故に、兄君は生きて現実に戻ってきたのだと考えている」

 たらりと汗を掻いても攻め手は休めない。

「三浦長平は鬼女の屋敷に迷い込んだ。そこは通常よりも時間が速く流れる異界。彼は二十年以上を屋敷で過ごし、しかし途中で出ることができた」

 窮する店主を追い詰めるように言葉を続ける。

「するとどうだろう。自分は二十以上齢を重ねたというのに、現実では一月も経っていない。一人年老いてしまった長平は帰る場所を失くしてしまった。当然だ、三浦家に帰ったところで父母も弟も自分が長平だとは信じないだろう。故に家には戻らず市井へと下り、江戸の町で蕎麦屋を開き現在に至る、というのが私の推測だ。間違っているところがあったら訂正してくれ……三浦長平殿」

 確信を持って放たれた言葉に店主が固まった。
 王手である。そんなこと言っていない、と惚ければよかった。だが動揺を見てとられた時点で嘘は通じない。逃げられないと理解し、しかし店主は最後の抵抗を試みる。

「鬼女の屋敷は時間が早く流れるんでしょう? そこに閉じ込められたんなら、長平様はとっくに死んでいるんじゃないんですかい?」
「それはない」

 そんな戯言はにべもなく斬って捨てる。

「なんで、そんなことが分かるんです?」

 絞り出すような店主の言葉。しかし何でもない事のように甚夜は言う。

「あの娘が笑ったからだ」

 思い出すのは最後の瞬間。
 全てを失った童女の見せた、見惚れるくらいの笑顔。

「長平殿が死んだとは思えない。あの娘が笑えるのは父がいてこそだ」

 失った過去は今も胸を焦がし、けれど喪失を上回る優しさがあった。少女の笑みは幸福に満ちていた。
 長平が生きていると知れた理由など、あの笑顔一つで十分だ。

「まいった……旦那はずるいですよ。そんな言い方をされたら、否定なんて出来る訳がない」

 それはそうだろう。
 此処で自分が長平であると否定することは、彼を父と慕った娘の純粋な思いを踏み躙るに等しい。そこまで来てようやっと店主は自分が長平だと認めた。

「いつから気付いてました?」
「最初からと言いたいところだが、気付けたのは全てが終わった時だ。違和感は幾つもあったがな。諱もそうだし、これもだ」

 言いながら懐から笄を取り出す。
 以前店主から預かったそれは、元々は直次からの贈り物だったという。

「蕎麦屋の店主に刀装具などおかしいとは思った。これは“店主”にではなく“長平殿”に贈ったものなのだろう?」
「そういうことです。在衛は、俺ががしがしと頭をかく姿がどうにもよろしくないと思ってたらしくて。こいつをくれたんですよ」

 武士とは礼節を重んじるもの。頭を掻くのがみっともないと思うものもいるだろう。そういう時、髷を崩さぬように頭を掻く為の道具が笄だ。蕎麦屋の店主への贈り物には妙だが、相手が武士ならば納得はできる。

「“どっちにしろ、これは俺にはもう必要ないんです”。言った通りだったでしょう?」

 その言葉は“こんなもの必要ない”ではなく“武士から蕎麦屋の店主になった今、笄など必要なくなった”という意味だった。
 店主は嘘を吐いた訳ではないし誤魔化しもしなかった。ただ甚夜が気付かなかっただけの話だ。

「名乗らないのか。三浦殿は兄を心底尊敬している。無事を知れば喜ぶだろう」
「旦那、俺はね。小さい人間なんですよ。家を守ることと、あの娘を守ること。どっちも選べるほど強くはなれなかった。だから俺はより守りたいものだけを残した。その時点で俺には三浦の姓を、あいつの兄を名乗る資格なんてないんです」
「だが」
「俺はもう三浦家の嫡男じゃありません。ただの蕎麦屋の店主です。だから名乗るつもりはありません。それにあいつだって子供じゃないんだ。俺がいなくたって立派にやっていけますよ」

 頑とした否定。これ以上は何を言っても無駄だろう。

「その笄は旦那に差し上げます。俺にはもう必要ないですから」

 この男も相当に頑固だ。呆れたように溜息を吐き、笄を懐に戻す。

「しっかし、理由が分からない、か」

 直次が言った科白を反芻し店主は苦笑を零した。

「まだまだあいつにゃ精進は必要ですかね。ちなみに旦那は分かりますか? 俺があの娘の父親になろうとした理由」

 にやにやと笑いながら問う。試すような挑戦的な視線だった。一度茶を啜り、まさに茶飲み話のような気楽さで甚夜は答えた。

「さあな。理由などなかったんじゃないか?」

 それを聞き満足げに頷く。

「その通り、大した理由なんてないですよ。ただ俺はあの娘が寂しそうにしているのが嫌だった。だから一緒にいると決めた。一度決めたんなら、他人には理解できなくても、それを為すのが男ってもんでしょう?」

 例え誰にも理解できなくても、全てを捨てることになったとしても、俺には“自分”からはみ出るような生き方は出来なかったんです。
 そう締め括った店主には後悔など微塵も感じることはできない。ただ己の為すべきを為したという誇らしさだけがあった。

「大体理由なんぞ他人が聞いても分かるもんじゃないでしょうに」

 結局長平は自分がそうしたいからそうしただけ。
 しかし結果として鬼女は救われた。それだけの話だ。難しく考えるようなことではない。
 
「ああ、そうだな。己の理由なぞ余人に理解して貰うようなものでもない」
「流石、分かってらっしゃる。伊達に長生きはしてませんね、鬼の旦那」

 軽い調子で店主は言う。
 その一言に今度は甚夜が固まった。
 ……なんで、それを。そんな意を込めて店主を見ればからからと笑っている。

「俺は二十年以上鬼と過ごしたんですよ? なんとなく雰囲気で分かりまさぁな」

 勝ち誇った意地の悪い表情だった。
 固まった体を何とか動かす。平静を装いもう一度茶を啜る。気付かれぬように小さく深呼吸をすれば、ほんの少しだけ落ち着いたような気がした。
 
「そう言えば、あの童女は元気でやっているのか?」

 話題を変えるために問うてみる。しかし、間髪を入れず店主が返した。

「へ? そこにいるじゃないですか」

 意外だ、という風に店主が人差し指を突き出した。
 そちらに振り返ると、いつも通りの綺麗な立ち姿でおふうが笑っている。そして一度目を伏せ、再び開いた時には。



 赤い瞳があった。

 

「……どうりで都合良く鬼女の屋敷に入れた訳だ」

 やられた。
 心底そう思ってしまった。
 今回の件は最初からこの二人の掌の上だったのだ。
 直次はいなくなった兄の行方を憂いていた。
 大方、直次が兄のことを吹っ切れるように話を進めていく案内人として己が選ばれたのだろう。何というか、うまく使われてしまった。

「ね、言ったでしょう? まだまだ“君”で十分だって」

 苦々しく顔を歪める甚夜が面白いのか、くすくすと笑っている
 そしてもう一度瞬きすればまた黒い瞳に戻っていた。
 鬼は齢を重ねても外見は変化しない。ある程度成長してしまえばそこで老化は止まる。実体験として知っているのに、なぜそれを考えなかったのか。己の迂闊さに頭が痛くなってくる。

「お前からすれば私は確かに子供だろうよ」

 何せ相手は二百年近く生きている。それに比べれば己など子供も子供、歩きも覚束ないひよっこだ。彼女でなくとも子供扱いしたくなるというものである。

「で、どうします? 甚夜君は鬼退治が仕事なのでしょう」

 ゆったりとした笑顔でおふうが言った。
 確かに、鬼を討つことは甚夜にとって必須と言える。
 自身の想い人を殺した妹。
 妹は遥かな未来で、全ての人を滅ぼすと言った。
 それを止めるために<力>を求める。そしてそのためには高位の鬼を喰う必要があった。
 そう、己はたった一つの理由の為に生きてきた。
 ならば甚夜の一言など決まっている。

「……とりあえず、かけ蕎麦を」
「はい、お父さんかけ一丁」
「あいよっ」

 店主が小気味よく返事をする。
 相変わらずおふうはたおやかな笑みを湛えたままだ。
 それにつられたのだろう。甚夜の表情も随分柔らかくなっていた。
 
 彼女の<力>は戦いに向かない。故に喰らう意味などない。
 脳裏に浮かんだ考えは言い訳めいていて、しかしそのまま受け入れる。
 自嘲から溜息を落す。まったく、相も変わらず惰弱な男だ。しかし今だけは弱いままでもいいと思えた。

「ふふっ」
「……何を笑っている」
「嬉しいから笑ってるに決まってるじゃないですか。ほら、やっぱり“それしかない”なんて嘘ですよ」

 いつかの言葉を笑顔で否定する。気づけば店主も笑っていた。歪なようで、けれど暖かい。不可解な親娘はそれでも幸せそうである。

「あいよ、かけ蕎麦一丁」
「はーい!」

 全てを失った鬼女と、彼女を救った男。
 血の繋がらない、種族さえ違う、それでも二人は家族だった。
 上手く利用されてしまったというのにその事実が何故か嬉しくて、甚夜はしばらく頬杖をついて眼前に広がる幸福の家を眺めていた。










 その昔、全てを失った娘がいた。

 父を亡くした。母を亡くした。家を失くした。
 思い出ごと根こそぎ奪われた。
 それだけではなく彼女は、


 ─────あの娘は、鬼だ。


 自分自身さえ失くし、娘は鬼女となった。

 それでも歳月は無情なまでに流れ往く。
 
 花は枯れ、季節は移ろい、水泡の日々は弾けて消える。
 時の流れは留まることを知らない。
その速さの中では、誰もが大切なものさえ手放し失ってしまうだろう。
 失ったものは失ったもの。
 それが返ることは決してない。

 だが忘れてはいけない。
 失くしたものが返ってくることはなくとも。
 新しい何かが道行の先に見つからないとは限らないのだ。

 さて、幸福の庭を抜け出した鬼女がそれからどうなったかというと────



「はい、お待たせしました。かけ蕎麦です」

 まるで花が咲くような笑顔。


 
 ────今は、江戸の蕎麦屋で看板娘なぞをやっている。



 鬼人幻燈抄 江戸編『幸福の庭』・了

       次話『花宵簪』



[36388]      『花宵簪』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/03/18 18:34

 嘉永七年(1854年)・夏


 江戸の夏の風物詩を語るならば、浅草寺の四万六千日は外せないだろう。

 観音菩薩の縁日と言えば毎月十八日というのが一般的であるが、室町時代以降これとは別に功徳日というものが設けられている。
 この日に参拝すれば大きな功徳が得られると言われ、中でも七月十日は千日分と最も多く「千日詣」とも呼ばれた。
 浅草寺ではこの日を「四万六千日」と言い、参拝すれば四万六千日分に等しい功徳が得られるとされている。

 さて、この浅草寺の四万六千日に一番乗りで参拝したいという民衆は多く、前日から大層な人出となる。
 こういった大きな縁日では、参拝客目当ての市が立ったり祭りが催されたりする。
 浅草寺では「ほおずき市」が開かれ、参拝客は仲見世の商店街を練り歩きながら、この盛大な市を楽しむのだ。





「ってなわけで、どうだ? 明日のほおずき市、俺達も行かないか?」

 善二は喜兵衛に入って来た途端、とうとうとほおずき市について語り、満面の笑みでそう言った。

「あぁ、もうそんな時期ですかい」

 店主が感慨深げに頷く。
 昼飯時に差し掛かり、喜兵衛はそれなりに客が入っていた。と言っても居るのは甚夜、奈津、そして以前の依頼から常連となった直次の三人。詰まる所いつもの面子が集まっただけに過ぎない。

「ねぇ、善二。仕事は?」

 奈津は半目で冷たい視線を送っていた。しかし善二はそんなもの関係ないとでも言わんばかりである。

「昼飯食ってくるって言って出てきました。市の日のことなら、ちゃんと旦那様から休みをもらうつもりです」
「あんたねぇ……」

 軽い言動とは裏腹に、善二は須賀屋では手代に就き、次期番頭にと期待されている。そんな男が市に行きたいから休ませてくれ、などと言う。須賀屋の旦那も頭が痛いことだろう。 

「まま、そう言わんでくださいよ御嬢さん。大きな催しがあるなら、燥いで騒いで楽しみたいってのが人情じゃないですか」
「そうですねぇ、折角の市ですし」
「さっすがおふうさん、分かってる!」

 おふうの同意を得て強気になった善二は、食事を終えのんびりと茶を飲んでいる直次に向き直る。

「直次。お前も偶には羽目を外さないか?」
「あ、いえ。済みません。私は休みが取れそうもないので」

 直次は申し訳なさそうに頭を下げた。彼は幕府に仕える表祐筆。そう簡単に休みが取れるような身分ではない。

「ああ、そりゃそうか。残念だな……んじゃ、甚夜。お前は当然空いてるだろ?」

 反面甚夜は定職を持たぬ浪人。鬼の討伐依頼が無い限り、基本的には暇だ。

「勿論行くよな?」
「いや、遠慮しておこう」
「せめて考えるくらいしてくれ……」
 
 考えてみたところで断ることには変わらない。
 酒くらい呑むし、餅も好んで食う。生きることを楽しむ、とまではいかないにしても、以前より少しは余裕が出てきたように思う。
 だがそこまで盛大な催しは、流石に気後れしてしまう。
 脳裏には、首を引き千切られ死んだ白雪の姿がまだ焼き付いている。それを忘れて娯楽に興じるなど、許されないような気がした。
 
「甚夜君、行ってみてたらどうです?」

 無表情。しかしその奥にある感情を感じ取ったのか、ゆったりとおふうが笑う。

「偶の息抜きですよ。まだ、先は長いんですから」

 先は長い、その意味を間違えない。
 鬼の命は長い。それを考えれば祭りに興じたとしても所詮は偶の息抜き、瞬き程度の時間でしかない。ならば蕎麦を食うのも酒を呑むのも、祭りに行くのも変わらないだろう。大雑把なようで細やかな気遣いが何気ない言葉の裏にはあった。

「そうね、私も行こうかな。あんたも来るなら磯辺餅くらいなら奢ってあげるわよ?」
「なんで磯辺餅?」
「さあ?」
 
 首を傾げる善二に、笑いを噛み殺して奈津は惚ける。そう言えば餅が好きだと伝えたのは奈津だけだった。店主らも不思議そうな顔をしている。

「こうまで誘われているのだから、甚殿も行かれては?」
「直次」

 同年代に見えるせいもあるのだろう。直次は甚夜に対してはほんの少しだけだが砕けた態度を取る。生真面目な彼にしては珍しく、朗らかな笑みを浮かべている。

「私はいけませんが、どうぞ代わりに楽しんできてください」

 いつの間にか視線は甚夜に集まっている。
 しかし答えは変わらない。

「折角の誘いだが、明日はこちらの予定がある」

 腰の刀を少し動かしてみせれば、奈津が嫌そうに顔を歪める。

「また鬼退治?」
「ああ。詳しくは話せんが」

 嘘ではない。ただ時間は夜、市の時間に予定はなかった。だから行こうと思えば行けるが、そんな気にはなれない。

「そりゃ、仕方ねぇか。じゃ、おふうさんはどうです?」
「私は……」
「おふう、お前も行ってきたらどうだ?」

 おふうよりも早く店主が答える。

「え、でも」
「なあに、気にすんな。どうせ客なんてこねえ。俺一人でも何とかならあな」

 快活に笑うが、それでいいのかと思わなくもない現状である。

「偶にはお前も休んで来い」
「……それなら、はい。善二さん、よろしくお願いします」
「よっしゃ! 悪いなぁ、甚夜、直次。明日は両手に花で楽しんでくるわ」

 勝ち誇ったようにそんなことをのたまう善二に、男衆は曖昧な笑みを浮かべるしかないなかった。



 鬼人幻燈抄 『花宵簪』(はなよいかんざし)



「で、休みを貰えず来れなくなった、と」
「まあ、そういうことね」

 ほおずき市当日、雷門の前には女二人しかいなかった。
 善二は結局休みを貰えず今も須賀屋で働いている。須賀屋主人、重蔵に休ませてもらうよう頼み込んでいたが、にべもなく斬って捨てられてしまったのだ。

「急に“休ませてくれ”で休める訳ないじゃない。なのに本気で泣きそうな顔してたわよ、あいつ」
「あはは……」

 どう反応すればいいのか分からず、おふうはただ乾いた笑いを零した。

「……どうします?」
「折角来たんだし、一緒に回らない?」
「そう、ですねぇ。偶には女同士もいいかもしれませんね」
「ええ、馬鹿な男どもはほっといて」

 お互い口元を隠し笑い合う。そう言えば、二人で出かけたことなどなかった。これもいい機会なのかもしれない。

「じゃ行きましょうか?」
「はい」

 二人は並んで歩き始める。
 浅草寺の雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並んでおり、俗に仲見世と呼ばれている。店を冷かしながらのんびりと進み、時折菓子を買ったりもした。

「すごい人出」
「本当に。それにしても、殿方には見せられませんね」

 手には先程買った饅頭がある。食べながら歩くのは確かに淑女の振る舞いではない。とは言え食べ歩きは市や祭りの醍醐味だ。少々はしたないかもしれないが、これくらいはいいだろう。

「いいじゃない、市の時くらい」

 一口齧っておふうと奈津は二人して笑った。
 境内に入ればほおずき市の名の通り、ほおずきの露店でにぎわっている。ざっと数えても五十では利かない。

「夏も盛りねぇ」

 ほおずきの赤を眺めながら奈津が呟く。
 この時期もほおずきは花ではなく果実、鮮やかな橙色をした六角形の果実が垂れ下がる姿は、まるで提灯のように見えた。
 そもそもほおずきは花よりこの果実の方が有名で、夏の風物詩として定着している。

「そういえば、なんでほおずきって言うの?」

 何気なく奈津が聞く。おふうは草花に造詣が深い為、もしかしたら知っているかもしれないと思ったからだ。

「実が頬のように赤いから頬付きとか、身が火のよう赤いから火火着(ほほつき)が転じたとかいろいろな話がありますけど、詳しいことは分かっていないそうですよ」
「ふうん」
「鬼の灯りと書いて鬼灯と読ませることもあります。提灯みたいな果実は、鬼が帰る為につけた灯りなのかもしれませんねぇ」
「やめてよ、飾れなくなるじゃない」

 おふうの冗談に心底嫌そうな顔で返す。その表情に、おふうは少しだけ目を細めた。

「鬼は嫌いですか?」
「好きな人を探す方が難しいわよ」
「ふふ、そうですねぇ」

 楽しそうに笑っていた。その内心を計ることは出来ないけれど。

「私は二回も鬼に襲われたんだから。正直、あいつが居なかったら今生きてないと思うわ」
「あいつって、甚夜君ですか?」
「ええ。もう四年くらい前かな。二晩だけど、私の護衛をしてくれたことがあるの。子供心に思ったわよ。ああ、読本の剣豪がそのまんま目の前にいるって」
「渡辺綱とか?」
「そうそう! 鬼の腕を斬り落とすとか在り得ない、なんて思ってたけど実際にやる奴がいるのね」

 昔のことを思い出しているせいか、子供のようなはしゃぎ方だった。

「お奈津さんは甚夜君のことが好きなんですねぇ」
「ちょ、だからそういうのじゃないって」

 ほんの少し頬を染める。けれどそれも一瞬、はにかむような困ったような、得も言われぬ表情を浮かべた。

「あいつはね、物語の中の存在だったのよ。刀一本で鬼を討つ剣豪。ほら、在りそうじゃない? そう思ってた。……思ってた、んだけどね」

 遠い目。ほおずきを見ているのに、何か違うものを映しているかのようだ。

「時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか」

 下手くそな口真似。しかし誰の言葉なのかは簡単に分かった。

「前にそう言ってた。私にとってあいつはそれこそ読本の中の剣豪みたいな、現実感のない奴で……なのに、なんでだろ。あの時の横顔は剣豪どころか、迷子の子犬みたいに見えたな」

 あんな大男なのにね。
 そう付け加えた奈津は寂しそうに笑う。

「でもね、それが嬉しかったの」
「嬉しい?」
「そう。多分、私はあいつに仲間意識を持ってるんだろうなぁ。見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。どうすればいいのか分からないのに、それを認めることさえ出来なかった。多分、本当はあいつも私と同じで……同じように弱いから、安心できるんだと思う」

 だからきっとこれは恋じゃなくて、

「こんなのを『好き』だなんて言ったら、世の女の人に失礼よ」

 同病相哀れむ。傷をなめ合うだけのぬるま湯。それを表現するのに、「好き」という言葉は少し綺麗過ぎる。

「ごめんね、変なこと言って」
「いえ、そんな。でも甚夜君と同じなのは、確かにそうかもしれません」
「え?」
「自分の気持ちから必死に目を逸らそうとするところなんて、そっくりですから」

 たおやかな笑みだった。初めて見る、母のような、柔らかな佇まい。歳はほとんど変わらないだろうに、おふうがやけに大人びて見えた。
 そう言えば、彼女はあの男のことをどう思っているのだろう。気になって奈津は遠慮がちに声をかける。

「ねえ、おふうさ」
「ちょいとそこの御嬢ちゃんら、見ていかへん?」

 遮るように発された言葉。びくりと体を震わせ慌てて声の方に視線を向ける。
 ほおずきの植木が立ち並ぶすぐ隣、敷物を広げ小物が並べられた一角。胡坐をかいて手招きをする男がいた。
 露天商なのだろう。ほおずき市の時期を狙って、小物を売りさばこうとしているようだ。
 しかし男は小袖に黒の差袴(さしこ)、簡素な白の狩衣という、露天商にしては妙な格好だった。烏帽子を付けていれば神事に携わる神職である。

「あら、秋津さん?」
「おふうちゃん、こんにちは」

 にこにこ顔を崩さないまま、子供にするような挨拶だった。

「今日はどうされたんですか?」
「見ての通り売り子さんや。よかったら買ってって」

 どうやらおふうは露天商と面識があるらしい。なんとなく気が抜けて、肩を落しておふうに問う。耳元に口を寄せて聞いてみる。 

「なに、この人?」
「去年くらいから、うちに出前を頼まれてる方です。京から来たらしいですけど」
「ああ……」

 そう言えば以前店主がそんなことを言っていたような気がする。改めて見れば秋津と呼ばれた男はにこにこと、張り付いたような笑い顔をしている。なんとなく胡散臭い雰囲気を醸し出していた。

「秋津染吾郎(あきつ・そめごろう)や。よろしゅう、お嬢ちゃん」
「ふうん、随分大仰な名前なのね」

 少しだけ奈津の目が冷ややかなものに変わった。
 それもその筈、秋津染吾郎というのは明和から寛政(1750~1800年頃)にかけて活躍した金工の名だ。櫛や刀装具など金属製の小物を扱った職人で、簡素ながらも繊細な浮彫の技術は今に至って尚人気がある。染吾郎の櫛は須賀屋でも滅多に入らない一品だった。
 そんな職人の名を使う、いかにも軽そうな男。懐疑の目を向けるなという方が難しい。

「名前は気にせんとって。そんなんより、見てってえな」

 広げられた小物は多岐に渡る。根付や簪、櫛に手鏡。張子や煙管。とりとめのない品揃えだ。

「そやなぁ、お嬢ちゃんくらいの歳の頃なら、こんなんどない?」

 そう言って染吾郎が手に取ったのは、内側に蒔絵が描かれた、一対の蛤の貝殻だった。

「合貝(あわせがい)?」
「お、よう知っとるね」
「これでも商家の娘だもの」

 須賀屋は櫛や根付など、女性ものの小物を扱う店だ。こういったものも範疇に入っている。

「随分古い品みたいだけど、いい出来ね」

 平安の頃から伝わる貴族の遊びに、貝合わせというものがある。
 合わせものと呼ばれる遊びの一種で、貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合うものだ。
 この貝合わせから発展したのが貝覆い。二枚貝を二つに分け、一方を持ってもう一方を探し当てる。現代で言う神経衰弱に近い遊戯である。
 合貝は貝覆いに使われる二枚貝のことを指す。

 江戸に入ると内側を蒔絵や金箔で装飾された蛤(はまぐり)の貝殻が使用されるようになり、遊びのための小道具から小物の一種としても扱われた。
 蛤などの二枚貝は、貝殻を二つに分けてもぴたりと嵌るのは元々対となっていたものしかない。だからこそ貝覆いが成立するのだが、このことから合貝は夫婦和合の象徴と考えられ、公家や大名家の嫁入り道具にもなっている。
 庶民でも婚約の際に合貝の片方を相手に贈ることは珍しくない。

 ───この蛤の貝殻と同じように、お互いにとって代わるもののない、深い絆で結ばれた夫婦となりましょう。

 合貝を贈ることは即ち、離れることのない愛の誓いだった。

「お嬢ちゃんも気になるお人くらいいてるやろ? これ贈って告白したら成功間違いなしや」
「……別に、そんな相手いないけど」

 ぼそぼそと呟く奈津に、染吾郎はにこにこ笑いを崩さない。横からおふうが悪戯っぽい笑顔で言う。

「いえいえ、この娘は素直じゃないですから。本当はいるのに照れて言えないだけなんです」
「ちょ、おふうさん!?」
「あはは、かいらしい子ぉやなぁ。そんならこっちはどない?」

 そう言って指し示したのは木彫りの、でっぷりとよく太った雀の根付(ねつけ)である。

「福良雀の根付や。この子もかいらしいやろ? 僕が作ってん」

 福良雀は肥え太った雀、或いは寒気のために羽をふくらましている雀のことを言う。丸みを帯びた愛嬌のある福良雀は、根付の造形として人気が高かった。

「確かに可愛いわね。……染吾郎には程遠いけど」
「なかなか言うなぁ。でも、これはお嬢ちゃんにぴったりやと思うで?」

 その意味が分からず小首を傾げれば、染吾郎は穏やかな様子で語り始める。

「清(中国)ではなぁ、雀は海ん中に入って蛤になるそうや」
「雀が蛤に?」
「そ。雀海中に入って蛤となる。まあ迷信やね。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わる、って話」
「だから?」
「お嬢ちゃんには蛤はまだ早いみたいやから、雀の方がお似合いやろ?」
「あんたこそ、言うじゃない……」

 蛤の合貝よりも福良雀の根付がいい。
 染吾郎の科白はつまり、お前は愛だの恋だのを謳うには子供過ぎると言ったようなものだ。
 
「別に馬鹿にした分けちゃうよ? 今は寒さに耐える福良雀でもええと思う」

 そうして一息吐き、優しげに笑う。

「でも心は変わるもんや。お嬢ちゃんの想いも、いつか蛤になれるとええね」

 福良雀の羽毛に包んだ想いが、いつか素直に合貝の愛を伝えられますように。
 その言葉にほんの少しだけ心を揺さぶられた、それを自覚してしまった。何となく負けたような気になり、奈津は若干悔しそうな顔をしていた。

「……別に、そんなつもりないけど。でも確かに可愛いし、一つ貰うわ」
「三十五、いや三十文でええよ」

 何となくもなにも、買おうと思ってしまった時点で完全な敗北だろう。財布を取り出し、ちょうどの銭を払う。

「まいど」
「ありがと」

 福良雀の根付。手に乗る程度の大きさのそれを握り締める。
 そうしてふと考える。私の雀は、いつか蛤になるのだろうか。らしくないことを思ってしまったと照れたように奈津は俯いた。多分、この変な男のせいだ。

「そや、これおまけに持ってって」
「え、いいわよ。悪いし」
「気にせんでええて」

 そう言って押し付けられたのは金属製の簪(かんざし)。
 小さなほととぎすをあしらった、簡素ではあるが品のある装飾だった。

「ってこれ、本当に染吾郎の簪じゃない」

 名乗っているとはいえ、まさか本物を持ってくるとは思っておらず、奈津は思わず声を上げた。

「二束三文で手に入れたもんやから、気にせんとって。いらんなら捨ててまうよ?」
「捨てるって」
「だから、貰ったって」

 殆ど押し付けるように簪を渡される。
 二束三文だと言ってはいるが、それが嘘だということくらいは分かる。染吾郎の作は人気が高く、店に並べばそれなりの値が付く品だろう。それを簡単に捨てるなど、どうかしているとしか言い様がない。
 正直これ程のものをただで貰うのは気が引ける。しかしこうまで言われては首を縦に振るしかない。

「それじゃあ……ありがと、でいいの?」
「ええてええて。お嬢ちゃんならその子も喜ぶと思うし」

 子を慈しむような声色だった。胡散臭いが、物に愛情を持てる男ではあるのだろう。奈津は若干ながら染吾郎の評価を改めた。

「おふうちゃんもどない?」
「私は遠慮しておきます」
「あらら、意外と財布の紐固いなぁ」

 大げさに項垂れて見せる。それが滑稽で二人はくすくすと笑った、

「じゃ、ありがと。おふうさん、そろそろ行く?」
「そうしましょうか。秋津さん、お暇させて頂きますね」
「うん、折角の市、楽しんできてな」

 そうして再び再び市を見て回る。
 炎天の下、ほおずきの橙が揺れていた。



 ◆


 浅草は江戸でも随一の繁華街である。ここまで発展した背景には、浅草御蔵と呼ばれる江戸幕府最大の米蔵の存在があった。
 この蔵は単なる米の保管場所ではなく、年貢米の収納や幕臣団への俸禄米が収められている。俸禄米とは旗本・御家人達の給料にあたるもので、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。

 浅草御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋が立ち並び商いを営んでいる。

 夜半、甚夜が訪れたのは蔵前の米問屋がある一角から少し離れた場所にある酒屋だった。
 裏手には二つの蔵を有した規模の多い商家で、そのうちの一つに入り、ゆったりとし所作で抜刀し脇構えを取る。
 埃っぽい匂い。蔵の中の米は殆ど運び出されており、十分な広さがある。これなら立ち回りも楽だ。
 唸るような声が響く。
 蔵に潜むは一匹の鬼。

「名は」

 幼い。如何なる経緯で生まれたかは分からない。青白い肌、赤い目。憤怒の形相。しかしその鬼はまだ子供、甚夜の半分程度の背丈しかなかった。

『……伝助』

 名を刻む。
 同情はある。しかし興味はない。女だから、子供だから。斬ることを躊躇う理由にはなり得ない。
 一太刀の下に斬り伏せる。それで終わり。白い蒸気が立ち昇り、後には何も残らなかった。ちくり。少しだけ残った胸の痛みには気付かないふりをした。





「ああ、ありがとうございます! おかげで漸く安心して眠れるというものです!」
「いや」

 酒屋の主人は大げさに騒いでいるが、所詮下位の鬼。一振りで終わるような雑魚を相手取った程度でそこまで感謝されても正直困る。
そもそもあの鬼は悪さをしていた訳ではなく、ただ蔵にいただけ。そのような者を斬って捨てて飯の種にする。下衆の所業だ。表情には出さず静かに自嘲した。

「これは約束のものです」

 布に巻かれた小判を受け取り、中身を確認する。二両。酒屋の規模は大きい。よく稼いでいるのか、随分と太っ腹だ。

「確かに」
「あっと、そうだ! うちの自慢の酒持っていかれませんか? いやあ、最近いいのが入りまして。まだ売りに出していない一品なんですよ」
「いえこれ以上貰う訳にはいきませんので」
「そうですか、残念ですねえ」

 好意で言ってくれるのだろう。しかしこの男からはこれ以上貰いたくはない。表面上は丁寧な態度を崩さず柔らかく拒否する。

「ではこれで失礼します」
「いやいや、本当にありがとうございました、もしまた何かあればよろしくお願いします」

 二度目はごめんだ。割りのいい仕事だったというのに、そう思ったのは何故だろう。甚夜自身にもよく分からなかった。
 




 星以外に光のない夜。
 酒屋から出てすぐ、女に声を掛けられた。

「あぁ。待ってたよ、浪人」

 気だるげな雰囲気。だらしなく着崩した装い。不健康そうな白い肌と細い体、しかしゆるやかな動作は何処か艶がある。

「夜鷹」
 
 投げ捨てるような微笑みで姿を現したのは、少し前に知り合った女だった。

「終わったのかい?」
「一応は」

 こいつは夜が似合う女だと思う。白い肌は青白い夜の中いっそ病的なまでに映るのに、美しいとも感じられる。春を売る女特有の、男を誘うような仕草が実に自然で様になっていた。

「怪我もないみたいだね」
「なんだ、気をもんでいたのか」
「そりゃそうさ、あたしの売った情報で死なれちゃ寝覚めが悪い」

 夜鷹というのは名前ではない。
 辻遊女、即ち道端で男に声を掛け、体を売る女の総称だ。甚夜はこの女の本当の名前を知らない。その為便宜上夜鷹と呼んでいるに過ぎなかった。

 ───あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?

 初めて会った時、彼女自身がそう言った。
 奈津と同じくらいの歳で体を売って生計を立てる女。彼女が一体どのような経緯でそうなったのかは分からないし、然程興味もない。
 しかし夜鷹の女は遊女同士で横のつながりを持ち、様々な男と寝ることで普通なら知り得ない情報を得ている。情報屋としてはこの女は有能で、だからこそ甚夜は時折金を払い鬼の噂を探って貰っていた。

「受け取れ」

 今回の依頼もこの女の情報から受けたもの。情報料として報酬の内一両を取り出し投げ渡す。

「こんなにいいのかい?」
「ああ」
「体を売ってる女に同情……って訳でもなさそうだねぇ。嫌なことでもあったって顔だ」

 図星だった。あんな仕事で得た金だ。素直に喜ぶことは出来ず、だから半分を受け取ってもらいたかった。
 夜鷹は仕事柄か心の機微に敏い。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物である。

「斬りたくないものを斬った。それだけだ」
「でも、斬らないなんて選べない?」

 眉を顰め横目で見る。夜鷹はにたにたといやらしい笑みを浮かべでいる。

「くっくっ、あんたは分かり易いねぇ」

 見透かしたような顔。しかし不愉快とは思わなかった。おふうや善二達とは形こそ違えど、ある程度は気を許しているからだろう。

「そんなに気分が悪いなら、どうだい。また一晩相手しようか?」
「いや、遠慮しよう」
「そりゃ残念。それは次の機会にするよ」

 気だるげな様子は変わらぬまま、ゆったりと舞うように踵を返す。

「ああ、そういえば」

 数歩進んでから、振り返ることなく夜鷹は言った。

「最近鬼を退治する男がいるって噂があるんだ。ああ、あんたのことじゃないよ。なんでも、式神を操る陰陽師って話さ」
「陰陽師?」
「犬だの鳥だのを操って鬼を討つらしいよ。所詮寝物語、何処までほんとかは知らないけどね」

 意地悪そうに口元を釣り上げる。

「じゃあね、浪人。せいぜい商売敵に仕事を奪われないようにね」

 そうして夜鷹は夜の町に消えていった。
 置いて行った言葉を反芻する。鬼を退治する男。確かに少し気になる話だ。得られた情報を胸に留め、甚夜は帰路に付く。夏の夜は蒸し暑い。不快な空気は纏わりついたままだった。
 


 ◆



 翌日、七月十日。
 功徳日ではあるが、甚夜の向かう先は当然浅草寺ではなく喜兵衛である。昨日はそれなりに稼げたが、同時に気分が悪くなった。蕎麦でも食べて少し心を落ち着けたかった。

「旦那っ!?」

 しかし暖簾を潜った瞬間、店主の慌てた声が飛んでくる。

「甚夜君! お、お奈津さんが!」

 おふうも随分と狼狽した様子である。

「何かあったのか」

 二人の様子に眉を顰めるも、店内に入れば何事もなく座っている奈津の姿を見つける。見慣れない簪を付けている以外は至って普通の様子だ。
 なんだ、普通にいるではないか。何をそんなに慌てているのか。そんなことを思いながら取り敢えず近付き声を掛ける。

「奈津」

 すると奈津の視線がこちらへ向いた。しかしここでようやく様子がおかしいと気付く。熱にでも浮かされたようにとろんとした目。顔も多少上気している。

「どうした」

 すっと手を伸ばせば、奈津もまた手を伸ばす。なにをするかと思えば甚夜の手を取り、その甲に頬ずりをしてきた。

「へ?」
「え?」

 親娘は何が起こっているのか分からず間抜けな声を上げ、予想もしない反応に甚夜は固まった。何が起こったのか、一瞬本気で理解できなかった。
 甚夜が呆けているのをいいことに奈津は体を寄せ、蕩けるような表情で胸元にしな垂れかかる。
 そうして聞き覚えのある声、しかし聴き慣れぬ口調で甘く囁く。

「お逢いしとうございました、お兄様……」

 その言葉に、多分立ち眩みを起こした。
 



[36388]      『花宵簪』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/03/16 16:09
 例えばの話である。

 もしもあの雨の夜、家に戻っていたのなら。
 家族という形を失わずに済んだのなら。
 それでも変わらず父が、天涯孤独となった娘を引き取っていたのなら。
 
 在り得ない話だ。
 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。
 けれど、もしも何かの間違いがあったとしたら。
 心底惚れた女と出会わない代わりに、もう一人妹が出来ていたのではないか。
 そんなことを、心の片隅で思っていた。

「やっとです……」

 らしくもなく動揺してしまったのは、きっとそのせいだろう。

「な、つ」

 胸元にしな垂れかかる少女の熱。しかし心が冷えていく。見たくないものを、見せつけられている。
 もしかしたら妹になっていたかもしれない少女。
 甚夜が重蔵との縁を彼女に語らなかったのは、父を見捨てた甚太よりも、彼女の方があの人の家族に相応しいと思えたから。
 あの人の娘は奈津、それでいい。
 それが奈津の、そして父の為だろうと。
 だから何も語るまいと決めていた。
 なのに。

「お兄様……ようやく貴方の元に帰ってこれました」

 奈津が自分のことを兄と呼ぶ。
 僅かながらに出来たと思えた親孝行が、その実何の意味もなかったのだと言われたような気がした。
 冷え切った心が動くことはない。
 所詮この身は鬼。それが人並みに親を想うなぞ、間違いだったのかもしれない。
 そう思ってしまった。


 ◆


 無理矢理に奈津を引きはがそうとするも必死の抵抗を受け、結局は甚夜の腕にすがりついたまま離れることはなかった。

「いったい、何があった」

 仕方なくそのまま話を進めるも、女と引っ付いたまま真面目な話というのは非常に違和感がある。甚夜はいつも以上の仏頂面だった。

「それが、昨日買った簪(かんざし)を付けたら、急にお奈津さんがぼうっとしてしまって」
「意識が無いみたいだったから俺達も慌ててたんですが、旦那が入って来た途端こうな訳で。正直なところ俺達も訳が分かんないんですよ」

 奈津の髪には見慣れない、ほととぎすの意匠が施された簪がある。簡素だが品のある造り、しかしい至って普通の簪だ。

「ふむ。奈津、済まないがその簪を見せてくれ」
「はい、お兄様」

 意外にも簡単に渡してくれる。普通に考えて原因はこの簪しか考えられない。しかし体から離れても奈津の様子は変わることなく、熱に浮かされたような潤んだ瞳を甚夜に向けている。
 
「そいつ、壊したらいいんじゃないですかい?」
「いや」

 それで奈津が戻ればいい。しかし戻らなかった場合、取り返しがつかないことになる。なんにせよ、今は情報が足りない。

「お兄様、そろそろ」

 そう言って遠慮がちに手を差し出す。取り敢えず返すと奈津はもう一度簪を髪に差し、ゆったりと笑い甚夜の腕に抱き着いた。

「……いったいなんなんでしょうね、これ」

 店主の言も仕方ないだろう。奈津はどう見ても正気ではない。別段害はないが、普段の態度と違い過ぎて困惑するしかなかった。

「案外、お奈津ちゃん旦那といちゃいちゃしたいだけだったり」
「お父さん」
「んな怖い顔するなよ。冗談だ冗談」

 空気を読まない父の発言をおふうが諌める。数少ない同性の友人を心配してか、少し語調が強かった。

「甚夜君、どう思います?」
「ふむ」

 簪が原因であることは間違いない。間違いないが、今の奈津はどういう状況にあるのだろうか。体を乗っ取られているのか、或いは何らかの影響を受けて性格が変わっているのか。
 ただ、どちらにしても自分を兄と呼ぶ理由が分からない。
 もしも彼女が重蔵と甚夜の関係を知ったならば、成程お兄様という呼び名も強ち的外れではない。しかしそれを知るのは甚夜のみ。例え当時のことを知る者がいたとしても、未だ十八のままの外見を保つ甚夜が重蔵の息子であると導き出せはしないだろう。

 ───兄ちゃん。

 何かが憑りついているのかもしれない。憎い。そう考えて、浮かんだ一つの可能性を斬って捨てる。
 それはない。憎い。あの娘が甘やかに兄と呼ぶ、そんなことがあってはならない。

「あの簪は何処で買った」

 結局行き着くのは簪。まずはあれが何なのかを知らねば話にならない。

「昨日、ほおずき市で。秋津さんと言って、京から来られた方が露店を開いていたんです」
「秋津って、時折出前を頼む?」

 店主も名前は知っていたらしく、意外そうな顔をしている。
 顔見知りなら話は早い。どうせ考えても分からないのだ。思索を巡らせるよりも、その秋津某から奈津に何をしたのか吐かせればいい。

「おふう、案内を頼む」
「は、はい」

 席を立った甚夜と一緒に奈津も腕にしがみ付いたまま立ち上がる。

「私も、行きます。お兄様と離れたくありませんから」

 拒否できなかったのは何故か。考えても分からなかった


 ◆


「昨日はこの辺りにいたんですけど」

 人混みでごった返す浅草寺の境内、その一角ではほおずきの鉢植えが売りに出されており、見渡せばそこかしこで赤い果実が揺れていた。
 秋津染吾郎とやらが昨日いたという場所は既に片付けられている。どうやら一足遅かったらしい。

「他に心当たりは?」
「いえ、それが……。以前は泊まっている旅篭まで出前をしていたんですが、今は何処にいるのか分からなくて」

 聞いた話によれば秋津某は京から来たということだ。
 初めの内は宿に泊まっていたそうだが、そもそも宿は長く泊まれるような場所ではない。 
 庶民が利用する宿には旅籠(はたご)と木賃宿(きちんやど)の二種がある。前者は三食が準備された宿で、後者は旅籠のよりもはるかに安い値で泊まれる分、食事の用意のない素泊まりの宿だった。
 どちらに泊まるかは旅人の自由だが、同じ宿に連泊することは原則として認められていなかった。宿はあくまでも一時しのぎの宿泊施設でしかなく、夜が明けるには目的地に向かって出発するのが一般的だったからである。
 
「手がかりはなし、か」

 宿を出てからの経緯はおふうでも分からない。早速手詰まりになってしまった。

「はい、済みません……」
「気にしなくていい。易々と見つかるとも思っていない」

 とは言え、出来れば早く捕まえたい。奈津は相変わらず腕を組んで甚夜に寄り添っており、傍目からは兄妹よりも恋仲だろう。
 境内は人で溢れている。中には恋人達もいて、甘く体を寄せ合い練り歩いていた。時折向けられる周りの視線に、自分もそういう風に視られているということが分かる。分かるから、どうにも居た堪れなくなる。

「奈津、少し離れないか?」
「嫌です」

 やんわりと伝えてみるも即刻拒否される。

「歩きにくいだろう」
「そんなことはありません」

 にべもない。説得は無理のようだ。

「ようやくお兄様に会えたのですから、少しでも傍にいたいと思うのは当然でしょう?」

 純粋な目。見上げる奈津の表情は柔らかく、顔の造りは変わっていないのに別人としか思えない。それでも、奈津に兄と呼ばれるのは少しだけ辛かった。

「え、ええと。済みません。秋津さんのこと、少し周りに聞いてきますね」

 居た堪れないのは甚夜だけではなかったらしい。おふうはそそくさと逃げるように離れていく。少し待て、と呼びとめる暇さえなく二人きりになってしまった。
 それを好機と思ったのか、腕を組むだけでは飽き足らず、体を寄せ胸元にしな垂れかかる。人の多い境内でそんなことをすれば当然視線が集まる。溜息を吐き、多少無理矢理に境内の奥、社殿の影になり人の少ない場所へ奈津を連れて行く。

「お兄様?」

 何故連れてこられたのか分かっていないようだった。しかし困惑する奈津を余所に甚夜は重々しく声を絞り出す。

「済まない、私にはお前が何を言っているのか分からない」

 事実だ。何故彼女が兄と呼ぶのか、甚夜には理解が出来ていなかった。

「え……?」
「何故お前は私を兄と呼ぶ。何故慕う。私には理由が分からない」

 情けない言葉だった。しかしそれを受け、奈津はあまりにも優しく笑った。

「鳥が花に寄り添うのに、なんの理由がいりましょう。私はただお兄様の傍に在りたいと願っただけです」

 熱に浮かされた女。夢を見るような、陶酔した瞳。放っておけばそのまま溶けてしまうような気がした。

「長い時を経て、それが叶った。あぁ……私は幸せです」

 そう言った奈津は本当に幸せそうで、だからこれ以上問い詰めることは出来なかった。


 ◆


 おふうと再び合流し、秋津染吾郎の足取りを掴めるかもしれないと旅篭を訪ね、宿の者や辺りの店にも聞きこんではみた。しかし結果はやはりと言うべきか、何の情報も得られなかった。
 結局尻尾どころか影さえ見つけられるままに日が暮れて、仕方なく三人は喜兵衛と戻った。

「で、どういうことだ」

 不機嫌さを隠しもしない言葉は、戻ってからしばらく経った後、いつまでも帰ってこない奈津の様子を見に来た善二のものである

「いきなりだな」
「前置きなんていらないだろ。御嬢さんに何があった。話しかけても俺のことは忘れてるし、対応は丁寧、振る舞いにも気品がある。まるで別人だ。というか、そもそもなんでそんなことになってんだ」

 奈津は帰ってきてからも甚夜にべったりと引っ付いている。
 いつもとあまりにも違う奈津の様子を見たせいだろう、普段の善二からは想像もつかない程剣呑な空気だ。

「お兄様……」

 甘やかな声だった。

「お、御嬢さん……? え、あ、ええ? え?」

 男の腕の中でとろけたような表情を浮かべる見知った女。驚愕と困惑が同時に襲い掛かり、先程の怒りなど何処かに飛んで行ってしまう
 奈津と一番交流があるのは善二だ。あまりの変化に狼狽するのは致し方ないことだろう。皆しばらく固まり、二人の様子を眺めていた。




「しっかしまあ、御嬢さんはあれか、なんか呪われてんのか?」

 現状を粗方話し終えると、善二は思い切り溜息を吐いた。またも怪異に巻き込まれた奈津に思う所があったらしく、腕を組んで難しい顔をしている。

「で、どうするんだよ、これ?」

 取り敢えず命の危険はない為か、幾分か気を落ち着け、取り敢えず怒りはおさめてくれたらしい。善二は困ったような、疲れたような、なんとも微妙な表情だった。

「簪を売ったのは秋津染吾郎というらしい。取り敢えずはそいつを探す」
「は? おいおい、秋津染吾郎?」
 
 疑いの視線を向けられる。疑いというよりは、こちらの言が理解できないといった様相だ。その眼の理由が分からず甚夜もまた疑問に眉を顰めた。

「どうした」
「いや、どうしたって……秋津染吾郎ってとっくに死んでるんだが」
「死んでいる?」
「おお。秋津染吾郎ってのは何十年も前にいた職人だよ。櫛だの簪だの、後は三所物なんかもか。金属製の小物を製作が主で、うちの店にも染吾郎の品は時々入るんだ」

 須賀屋は小物などを扱う店、其処の手代の言だ。秋津染吾郎という職人が既に死んでいるのは確かだろう。だとすれば件の男は何者なのか。

「あ、そういえば。お奈津さんはこの簪は染吾郎のものだと言ってました」
「ああ、やっぱり? ……って、おいおい。もしかして今度は死んだ染吾郎が鬼になって出てきた、ってんじゃないだろうな」

 在り得ない話ではない。そう思ったが、すぐさま店主がきっぱりと言い切る。

「いんや、それはないでしょう」

 何気なく零れた、しかし絶対の確信を含んだ言葉だった。

「んん? なんで親父さんがそんなことわかるんだ?」
「俺も秋津さんのことは見てますからね。ありゃ、鬼じゃない。普通の人です。間違いなく」
「ふむ、店主がそう言うのならば確かだろう」
「って、甚夜まで。会ってもないんだろ? えらく簡単に納得するじゃないか」

 当たり前だ。なにせ店主は鬼である自分を見抜いたのだ。彼の見立てならば説得力がある。

「つまり秋津某は名を騙っているだけか」
「なんで態々、って感じはするけどなぁ。それに結局何処にいるのかは分からないんだろ?」
 
 確かに手掛かりは殆どないと言っていい。探すといってもどうすればいいか。
 思索に耽り、そういえば浅草には様々な情報に通じた女がいることを思い出す。
 どうせ打てる手など殆どないのだ。ならば頼ってみるのも悪くない。

「お兄様?」

 そうして立ち上がろうと体を動かした瞬間、奈津の腕に込められた力が強くなった。立たせまいと必死にしがみついてくる。

「済まないが、少し離れてくれな」
「嫌です」

 甚夜の言葉を不満げな声が遮る。視線を下に向ければ奈津が少し膨れ面で見上げていた。

「ようやく貴方を見つけることが出来たのですから、離れるなんて嫌です」

 ようやく? それはどういうことだろう。
 甚夜には奈津が何を言っているのかが分からなかった。
 確かに彼女は、何かの間違いがあったのなら、妹になっていたのかもしれない。 
 奈津は重蔵の娘。ならば『甚太』にとっては真実妹なのだろう。しかし『甚夜』として生きた以上この娘を妹とは認められない。
 家を出て、流れ着いた場所はいつの間にか大切な故郷となった。
 出会った男を父と思えるようになった。
 ただ美しいと思える女に会った。
 最後は上手くいかなかった。しかし葛野の地で過ごした時間はかけがえのないもので、だからこそ奈津を妹だと認めたくなかった。
 そんなことをすれば、今まで必死になってしがみ付いてきた生き方が、無駄になってしまうように思えた。

「なあ、ここはやっぱり“御嬢さんが欲しいんなら俺を倒してからにしろ!”くらいは言った方がいいのか?」
「はあ。言ってもいいですが、旦那に勝てるんで?」
「無理だな。一瞬で斬られる自信がある」
「でしょうね」

 内心の葛藤とは裏腹に、周りからは恋人同士の逢瀬にでも見えるらしい。気の抜けた会話が聞こえてくる。暗く沈んだ心地を無理矢理に引き上げ、甚夜は奈津に向き直る。

「奈津」
「はい?」
「私は出かけねばならん。留守を頼めるか」
「え……それなら私も」

 ぽんぽんと優しく、頭を二、三度叩く。顔は納得していなかったが、奈津はそれでも腕の力を緩めてくれた。

「お兄様」
「すぐに帰る。そう心配するな」

 昔のことを思い出す。
 そう言えば出かける時、いつもそんなことを言っていたような気がする。妹は何時も素直に待っていてくれた。思い出し、どす黒い憎悪が胸に渦巻く。
 嫌になる。鬼となったこの身は、あの娘をどうしようもなく憎んでいるのだと今更ながらに思い知らされた。
 本当は、兄と呼ばれるのが嫌な理由も、そこに在ったのかもしれない。

「だから、待っていてくれ」

 しかし顔には出さない。遠い夜から歳月を重ね、表面を取り繕う術だけは上手くなり、それを辛いと思うこともなくなった。

「……はい」
「いい子だ」

 ゆったりと笑う。本当の妹には、もう向けられない笑顔だった。

「……旦那。なんか、えらい慣れてませんか?」
「気のせいだろう。善二、悪いが後は任せたぞ」
「は? て、ちょ、甚夜!? お前任せるってそれ面倒事押し付けたいだけ」

 何事かを言っていたが、最後まで聞くことなく店を出る。
 少しだけ後ろ髪を引かれたのは、何故だったのだろう。 


 ◆


 夜も深くなり、甚夜は浅草に向かっていた。
 あの辺りは夜鷹の河岸だ。或いは彼女ならば何か情報を持っているかもしれない。藁にも縋るような気持ちで月夜を歩く。

「兄、か」

 思わず漏れた言葉だった。
 奈津の相手を善二に押し付け店を出た。何故兄と呼ぶのかは分からないまま。しかしそれでいいと思った。
 所詮は余分だ。明確な目的があり、それ至る手段がある。そして目的こそが甚夜の全てだった。ならば他のものなぞ余分に過ぎぬ。拘る方が間違いだろう。
 何より生き方は曲げられない。
 甚夜として生きた。今更甚太には戻れない。彼女に兄と呼ばれても、応えることなど出来る筈がなかった。
 下らない思考を斬って捨てる。考えてもどうにもならないことだ。無駄な思索は止めて、今は夜鷹の元へ向かおう。甚夜は僅かながら歩く速度を上げ、

「ええ、月夜やね」

 しかし道の途中、静まり返った大通り。不意に男が声を掛けてきた。
 立ち止まる。体が一瞬強張った。何時の間に現れたのか、狩衣を纏った男が二間ほど先にいた。考え事をしていたとはいえ、この距離まで気付かぬとは。我ながら呆けていた。

「こんな夜は月を肴に一杯やりたなるなぁ」
「何か、御用でも?」

 男の態度に不審なものを感じ、視線を鋭く変える。にこにことした笑い顔を張り付けたままで男は答えた。

「へ? 用があるんはあんたの方やろ?」
 
 返ってきたのは意外な言葉だった。自分から声を掛けて来ておいて、その言はおかしいだろう。

「僕んこと探してたて聞いたけど」

 いや、おかしくはなかった。
 そうだ、確かに探していた。それが彼の耳にも入ったのだろう。だから同じように男も探していた。自分のことをこそこそと嗅ぎ回る得体の知れぬ輩を。

「六尺はある大男が僕を探してるて、何の用かと思たら、成程」

 朗らかに笑う。しかし目は笑っていない。目の前の男から放たれる、隠しようもない敵意に自然と鯉口を切っていた。

「鬼が僕を探す理由なんて、まぁ一つしかないなぁ」

 初見でこちらの正体は看破され、更に空気が張り詰めた。
 鬼と対峙しても怯えた様子もない。その堂々とした態度に、夜鷹の言葉が思い出される。


 ───最近鬼を退治する男がいるって噂があるんだ。ああ、あんたのことじゃないよ。なんでも、式神を操る陰陽師って話さ


 男の装束は神職のそれに近い。陰陽師に見えなくもないだろう。

「一応、聞いておこう。名は何という」

 腰を落し、いつでも動けるよう周囲に意識を飛ばす。
 対して男は何気なく腕を振るう。
 瞬間、黒い靄が男元に現れ、それは次第に凝り固まり三匹の犬となった。
 式神を使う。どうやら、あの黒い犬は男が使役しているらしい。

「僕? 僕は秋津」

 そうして男は高らかに宣言した。
 
「三代目秋津染吾郎や」

 だから理解する。
 この男は、鬼を討つ者だ。




[36388]      『花宵簪』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2014/04/05 19:52
「そしたら始めよか」

 秋津染吾郎。
 探していた男が目の前にいる。しかし話を聞けるような状況ではない。染吾郎の目は完全に敵を見るそれだった。

「行きぃ、犬神」

 短い声とともに走り出す三匹の黒い犬。
 犬は群れを作る傾向が強い。その習性上、狩りも集団が基本である。
 一度大きな群れが出来上がると人間ですら襲われる危険が高まり、時には命すら脅かされる場合がある。
 犬を模っている為だろう。犬神の動きは正しく集団を主とする犬の狩りだ。
 後ろに回り込むもの、距離を取って備えるもの、正面から飛び掛かるもの。見事に連携を取りながら襲い掛かってくる。

 だとしても、飼い犬如きに後れは取らぬ。

 動きは速く、連携もいい。
 だがそれだけ。見切れない程ではない。
 身を低く屈め、右足を軸に体を回す。間近まで迫った犬神は纏うように振るわれた一刀に切り裂かれる。いや、“切り裂かれる”よりは刀とぶつかった衝撃で“はじけ飛んだ”という方が正しい。頭部が完全に潰れ、犬は断末魔の声もなく地に伏した。

「おー、ええ腕やね」

 しもべを失いながらも染吾郎は面白そうに笑っている。
 なんだ、あの余裕は。疑問が過り、しかしすぐにその訳を知る。

「まあ、そんな程度じゃ僕の犬神は倒せへんけどね」

 たった今打ち砕いた筈の犬に黒い影が集まり、十秒も経たぬうちに元の体躯を取り戻す。それに驚愕するよりも早く、甚夜の喉元に向かって黒い犬は飛び掛かった。
 体を捌き再び斬り捨てる、更に残る二匹も牙を剥く。そうして二匹を相手取っているうちに、またも犬神は蘇る。

 襲い来る犬神を丁寧に捌きながら、じっくりと観察する。
 速度と連携、そして再生能力。大口を叩くだけはある。犬神はなかなかに厄介だ。
 再生するのならこいつらを相手にしても無駄だ。さっさと飼い主を組み伏せる。

<隠行>

 喰らった<力>で姿を消し、静かに間合いを詰める。

「お、それがあんたの<力>?」

 一目で<力>だと理解する辺り、既に高位の鬼と立ち合ったことがあるのだろう。その上で生きているのならば、力量は推して知るべしといったところだ。

「でも残念、姿を消しても逃げられへんよ」

 言葉の通り、犬神は正確に甚夜の位置を察知し攻撃を仕掛ける。表情こそ変わらないものの内心驚きはあった。

「犬やからね。鼻も耳もええ」

<隠行>は姿を消す<力>。姿を隠し気配を隠すが、音は消せない。
 そして犬は音源の方向の識別能力が高く、人の四倍はあるという。確かに犬神が犬の特性を持っているのなら、姿を消したところで意味はない。
 姿を現し、襲い来る犬を迎え撃つ。
 刀を振るい、斬り伏せ、しかし再び蘇る。先程からそれの繰り返しだ。染吾郎はその様子を遠くから眺めている。悠々と、表情には余裕さえある。
 状況はあまり良くなかった。このままでは嬲り殺される。何か打開策を考えなくては。

「あはは、折角の<力>も無駄やったなぁ」
「そうだな。ならば次の手を打とう」
「ん?」

 まずは間合いを詰めねばならない。
 夫では駄目だった。ここは妻の<力>を借りよう。
 甚夜は何気なく一歩を進み、次の瞬間には。

<疾駆>

 誰よりも何よりも速く駈け出す。
 犬神の横を難なく通り過ぎ、染吾郎の懐まで潜り込んでいた。

「は?」

 あまりの速度に相手は対応できていない。
 この男には聞かなければならないことがある。殺す訳にはいかないが、こちらの命を狙ったのだ。多少の痛みは我慢してもらおう。
 敢えて両足で地面を踏ん張り、無理矢理に速度を殺す。腰の回転は抑え、刀ではなく拳で腹部を狙う。

「こ、のっ……!」

 染吾郎の驚愕が見て取れた。
 この距離からでは犬神を呼び戻すことも叶うまい。
 数瞬遅れて体を動かすも防御の姿勢を取るより早く拳が突き刺さり、染吾郎の体躯はその衝撃に三間程吹き飛ぶ。そして地面を転がり、砂埃を巻き上げながら止まった。
 直撃。死んではいないが、しばらくは立ち上がれだろう。
 今の内に拘束してしまおうと甚夜はゆっくりと距離を詰める。一歩、二歩、着実に歩みを進め、しかし途中で足が止まった。

「あい、たたたたた」

 加減したとはいえ、間違いなく直撃したのだ。だというのに、染吾郎は痛いと言いながらも平気な顔で立ち上がる。明らかに人の耐久力ではなく、どう見ても人でしかなく。その奇妙さに甚夜は眉を顰めた。
 奇妙さを覚えたのは染吾郎も同じらしい。
 高位の鬼でも通常一つしか<力>を持ち得ない。二つの<力>を行使する鬼の存在に疑惑の視線を投げかけていた。

「なあ、あんた。なんで二つも、ってあぶなぁ!?」

 間合いを潰し不意打ちの一刀。隙をついたつもりだったが、不恰好ながらも染吾郎は何とか避ける。
 動きは止めず刀を振るう。染吾郎は随分と頑丈だ。殺さぬように拳で打ったが、力を加減すれば峰打ちでもよさそうだ。

「ちょい、まち」

 誰が待つか。 
 相手は体術に長けている訳ではない。距離を詰めればこちらが優位だ。
 刀を振るう。当てるのではなく少しずつ逃げ場を潰すように追い立てる。
 一、避ける。二、退がる。三、掠め、そこで染吾郎はよろめきタタラを踏んだ。

「悪いが終わらせるぞ」
 
 勝機。
 一歩踏み込む。刀を小さく振り上げ狙うは肩口。峰打ちとはいえそれなりに力を込め、打ち据えるように振り下す。
 体勢を崩し避けられない状況。空気を裂く音と共に袈裟掛けの一刀を放つ。

「残念、はずれ」

 しかし空振り。
 否、刀身がすり抜けた。
 たった今打ち据えた筈の染吾郎が嗤う。ゆらゆらと揺れる輪郭。これは、一体。

「幻影……?」
「蜃気楼や」
 
 声が聞こえる。弾かれたように体が動く。声の方に振りむこうと体を回し、

「がっ……!?」

 背中に走る衝撃。迂闊。気付けば犬神は甚夜を取り囲んでいた。対応を取ろうにも今度は此方の体勢が崩れている。
 構えようと体を起こし──今度は腹に犬神が突進する。
避けようと足に力を籠め──爪が大腿の肉を抉る。
 刀を振るい斬り伏せようと──肩口に食い込む獣の牙。

「なめ、るなっ!」

 横薙ぎ。一匹を葬り、それでも猛攻は止まない。鈍い痛みが全身を襲う。残る二匹が休む間もなく責め立てる。

「悪いな。これでおしまいや」

 そうして最後に、犬神の牙が喉に突き立てられた。
 上体が反り、膝が砕け、甚夜は仰向けに倒れる。犬はまだ追撃を止めない。その姿は死体を漁る野犬のようにも見えた。

「僕の犬神、なかなかのもんやろ……ってもう、聞こえてへんかな?」

 あはは、と朗らかに笑いながら染吾郎は地面に転がる甚夜を眺めている。
 しばらく時間が経ち、犬神たちも大人しくなった。おそらく鬼は息絶えたのだろう。そう思った染吾郎はゆったりと踵を返す。

「ほなね」

 軽い挨拶を残し、歩き始める。
 感慨はない。鬼なぞ今迄飽きる程葬ってきた。高位の鬼であったとしても己の術ならば対等以上に渡り合える。染吾郎は退魔のものとしての実力に、相応の自負を持っていた。
 その為勝利に微塵も疑いを持たず、

「確かに、『なかなかのもん』だな」

 だから、呼び止められるなど思ってもみなかった。

「……なんで、無事なん?」

 振り返り、立ち上がった甚夜を睨み付ける。
 犬神はいつの間にか消えていた。
 それがおかしい。犬神は、無限ではないが、ある程度の再生能力を有している。あの一瞬で打ち倒すなぞ不可能だ。百歩譲って無事なのはいい。しかし何故犬神が消えている?
 染吾郎の焦燥を余所に、甚夜は悠然とした立ち振る舞いである。左手を握ったり開いたりと動かしている。

「いや、実に見事なものだ。犬神は高位の鬼に匹敵する」

 ならばこそ、こんな真似も出来る。
 そう付け加え地面に左手を付き、染吾郎を見据え呟いた。

「行け<犬神>」

 地面から黒い影が湧き上がる。それは次第に凝り固まり、三匹の犬となる。
 
「ちょ、反則やろそれ!?」

 犬神は消えたのではない。『奪われた』のだ。 
 それを理解した時には勝敗は決していた。犬神の連撃に少しずつ追い詰められ、目の前には一匹の鬼が。四方を囲まれ逃げ場などなくなってしまった。

「……殺さへんの?」

 優位に立ちながらも止めを刺そうとしない甚夜に、苦々しく言葉を漏らす。

「元々殺す気なぞない。聞きたいことがあっただけだ」
「話すことなんてない、ゆうたら?」

 穏便に済ませたかったが、もしそうならば仕方がない。

「喰らって記憶を奪うしかなくなるな」
 
 <同化>を使えば何の仔細もない。取りたくない手段ではあるが。

「ふーん、選択肢はないってことやね。ま、ええわ。それなら答えよか? どっちにしろ逆らえへん訳やし」
「よく言う」
「ん?」
「手の内の全てを晒した訳でもなかろうに」

 甚夜はこの状況を『追い詰めた』とは思っていなかった。
 犬神は喰ったが、先程の異常な耐久力、蜃気楼とやらのからくりを見破れた訳ではない。何よりこの余裕。こちらを出し抜く手の一つや二つある、それ故の態度だろう。
 
「お互いさまやろ。君やって手加減してたんやから」

 確かに鬼と化さず、力も加減した。
 殺す気が無かったのも見切っていたらしい。つくづく厄介な相手だ。

「質問なら答えたるよ。代わりに、この子ら消してくれん? なんや落ち着かん」

 染吾郎は体から力を抜いている。今更逃げる気はないだろう。
 言われた通り<犬神>を消す。すると声を上げて笑われた。

「あはは、素直やなぁ。そないやと簡単に騙されるで?」
「騙す気はないのだろう?」
「僕はね。っと、質問はちょっと待ったって。犬神拾てくるから、ああ、別に警戒せんでええよ。逃げる気ぃないから」

 犬神を拾ってくる?
 意味の分からない言葉に眉を潜める。染吾郎は丁度先程まで甚夜が倒れていたところまで歩き、腰を屈め何かを拾い上げた。

「お疲れさん、後でちゃんと供養したるからな」

 掌にあるのは、小さな張子の犬だった。

「それは」
「犬張子ってやつやね」

 犬張子は犬の形姿を模した紙製の置物である。
 犬は一回に複数頭の子供を生む。出産自体も他の動物に比べ親への負担が軽いと考えられた。また古くより邪霊や魔をはらう呪力があると信じられ、その為出産前の妊婦や子供の健康を祈るお守りとして犬張子は普及していた。

「付喪神って知っとる?」

 耳慣れぬ言葉に押し黙れば、染吾郎は壊れた張子の犬を優しくなでながら口を開いた。

「器物百年を経て、化かして精霊を経てより、人の心を誑かす。物には想いが宿る。優しくされたら嬉しいし、忘れられたら寂しく思うて当然や」

 先程までの張り付いた笑みではなく、子を慈しむ父のような顔をしている。

「想いは力。負の想念が肉をもって鬼になるなら、物の想いが形になっても不思議やないと思わん?」

 それが犬神の正体。
 先程の黒い犬は、張子の犬に宿った想いが鬼と化したものなのだろう。

「つまり、お前は物に宿る想いを鬼に変えるのか」
「そや、僕は付喪神を生む。つまり陰陽師みたいな式神使いやのうて、付喪神使いや……なんや、語呂悪いな」

 付喪神使い。
 世の中には奇妙な人種がいる。ほう、と感心したように甚夜は息を吐いた。

「三代目と言ったな。お前は退魔の家系の出か」
「家系、やないよ。“妖刀使い”の南雲(なぐも)やら“勾玉”の久賀見は家で技を継いでいくんやけど、秋津は一派やから」

 壊れた張子の犬を懐に仕舞い込む。そうすれば親の慈愛も鳴りを潜め、作り笑顔が再び浮き上がる。

「元々秋津染吾郎は普通の職人やった。でも、あんまりにも腕が良くてなぁ、染吾郎が作ったもんにはみぃんな魂が宿ってしもた、比喩やなくてね。で、それが高じて物の魂を付喪神に変え、操る術を生み出した。隠居した後は弟子が染吾郎を継いで、その三代目が僕。つまるとこ、秋津染吾郎はそもそも職人としての名で、退魔の名跡やないんよ」
「成程、だからか」

 鬼を討つ者でありながら、鬼と言葉を交わす。
 初めは違和感があった。しかし彼の話に合点がいった。
 結局は染吾郎にとってより重きは退魔ではなく職人としての自分なのだろう。
 だからこそ、自身に危険がないのなら鬼だからといって無意味に反目はしない。

「そ、僕らはどこまでいっても退魔の出来る“職人”でしかないんやろうなぁ……話が逸れてもたね。えーと君」
「甚夜だ」
「うん、甚夜は何が聞きたいん?」

 前置きが随分と長かったが、ようやっと本題に入ることが出来る。

「昨日、お前は女に簪を売ったな」

 刀を鞘に納めぬまま甚夜は問うた。

「簪? 昨日、かんざし……ああ、別に売った訳やないけど。確かにあげたわ」
「女は身に着けた途端まるで別人のようになった。あの簪はなんだ」

 言葉に抑揚はなく、冷静そのもの。しかし感情の昂ぶりを隠せていない。甚夜の目は赤く染まっていた。

「何って言われてもなぁ……ごく普通の簪やけど」

 心当たりがないのか、うんうんと唸っている。

「あ、そか。分かった」

 そして甚夜の胸元に目をやり、何かに気付いて大きく目を見開いた。

「その女の子、なんとかしたるよ。そやから取り敢えずその物騒なもん引っ込めてくれん?」
「……嘘はないな?」
「さあ? 嘘かも知らんしほんとかも知らん。でもどっちにしたって僕の言うこと信じるしかないんちゃうかな?」

 言う通りだ。
 まったく食えない男だと、甚夜は溜息を吐いた。



[36388]      『花宵簪』・4(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2014/03/12 21:05
 月夜の立ち合いを経て、深川の喜兵衛に戻る。
 夜は深く辺りは寝静まり、虫の音だけを聞きながら辿る道。
 付喪神使いを名乗る男、三代目秋津染吾郎も同道していたが、つい先程一方的に言葉を残し消えた。

「そしたら手筈通りに頼むな」

 道すがら告げられたのは、怪異を終わらせる方法。その通りに行えば奈津を救うことが出来ると染吾郎は言った。
 伝えられた方法は実に単純なもので、本当にそれだけで解決するのか疑問に思ってしまう。とはい取れる手がない以上、あの男を信じる他あるまい。
 もしも謀ろうというならば首を落せばいいだけのこと。多少の不安はあるが、取り敢えずは黙って従う。
 
 喜兵衛に戻ってきたが、流石に暖簾は片付けられている。店の火は既に落ち、しかしその軒先にはほととぎすの簪を髪に差した女が。

「奈津」
「お兄様、お帰りなさいませ」

 じっとりと暑い夏の夜で良かった。もしも季節がずれていれば彼女に凍えさせてしまう所だった。

「待っていたのか」
「はい、お兄様が待っていてくれと」

 ああ、そうだった。
 出かける前に確かに言った。落ち着かせる為の言葉だ。本当に待っていてほしかった訳ではない。だというのに、彼女は文句も言わず幸せそうな笑みで日付が変わる時間まで待っていてくれた。

「済まない、遅くなった」

 謝ったのは待たせたことか、それとも安易な約束をしてしまった為か。
 理由は分からないがごく自然に謝罪していた。

「いいえ、お兄様は帰ってきてくれると知っていましたから」

 彼女はそう言ってくれる。

 ──だから願った。この娘が何者だとしても、最後まで兄でありたいと。

 だけど遠い雨の夜の誓いはいとも簡単に壊れてしまって。
 純粋な信頼の言葉が、純粋だからこそ耳に胸に痛い。

 それでも表情は変わらない。
 子供の頃は転んで膝を擦りむいて泣いていた。けれど今では腹を裂かれても涙なんぞ零れない。
 強くなったのではない。ただ痛みに鈍くなっただけ。 
 長く生きれば痛みには鈍くなる。その是非を問うことは、今の自分には出来ないけれど。

「少し、出かけようか」

 誤魔化すように呟いた。

「え?」
「こんな時間からで悪いが」
「……いいえ、お兄様となら何処へでも」

 そうして夏の夜に体を寄せ合って、二人月夜を歩く。
 まるで読本に描かれる恋仲の男女。
 なのに、何故こうも心が冷えるのだろう。


 ◆


 青白い月の光に染まる深川の町並み。
 じー、じー、と虫の音。
 整然と整備された神田川の近く、ちょうど草が押し茂り、柳の立ち並ぶ場所に辿り着く。

「雪柳だ。春には雪のような花を咲かせる」

 近付き、雪柳にそっと触れる。
 何かを話すならこの場所がいい。
 雪柳のおかげで少しだけゆっくり歩けるようになった。
 だから、此処でなら少しは穏やかに話が出来ると思った。

「お兄様?」
「正直に言えば」

 奈津の言葉を邪魔するように言った。

「兄と呼ばれるのは苦手なんだ」
「え?」
「私は最後まで兄でいてやることが出来なかった。だから苦手……ああ、違うな。多分、自分の弱さを見つけられたようで、嫌な気分になるんだ」

 妹を憎悪する男が兄と呼ばれる。
 なんと滑稽で無様なことか。
 惰弱な己を否応なく理解させられるから、奈津が「お兄様」という度に、古い記憶を思い出す。
 原初の記憶。愛していた筈のもの。でも何一つ守れなかった。
 だから強くなりたかった。
 それだけを願って生きてきた。

「私はもう甚太ではない。結局のところ、奈津とも……鈴音とも。兄妹ではないのだろう」
「いいえ」
 
 きっぱりとした否定だった。

「鳥が花に寄り添うのに、何の理由がいりましょう。兄妹だって同じではないですか。たとえ何があったとしても、繋がりとは断たれぬものです」

 奈津は月夜に溶ける淡い微笑みを浮かべた。
 本心から零れ落ちた素直な表情。兄妹はどこまでいっても兄妹なのだと彼女は言う。

 ───だけど、この憎しみだけが、今も消えてくれなくて。

 真っ直ぐなものをまっすぐに見つめることが出来ないのは、自分が歪んでしまったからだろう。
 彼女の笑顔が素直であればある程、余計に辛かった。

「私は、幾星霜を巡りお兄様の元へと辿り着きました。だからきっと、貴方も同じように帰ることが出来ると思います」
「帰る……?」
「ええ。きっと私達は、想いの帰るべき場所を探して、長い長い時を旅するのです」

 脈略もなく繋がりもない。
 彼女が何を言っているのか分からない。
 でも本当に、出口のない憎しみにも帰る場所があるのなら。
 それを見て見たいと思えた。

「見つかるだろうか」
「見つけるのです。きっと、その為の命なのでしょう」

 或いは、鬼の命が人よりも長いのは。
 昏い心に迷い込んだ想いが、いつかは帰り道を探せるように。
 その為に千年という時間は与えられたのかもしれない。

「奈津……いや、違うのか」

 彼女が奈津でないことは初めから分かっていた。
 それでも彼女の容貌は見慣れたものだから、甚夜にとっては奈津の延長線上にある存在でしかなかった。
 けれど今は違う。
 彼女は奈津ではなく、妹ではなく、名も知らぬ誰かになった。

「名を呼べなくてすまない」

 しかし名を聞く気にはなれなかった。
 甚夜にとって名を聞くことは斬り殺す為の作法だ。
 だから聞かない。彼女は月夜に擦れ違ったただの女。それでよかった。

「愚痴を聞いてくれた礼だ」

 懐に手を伸ばす。
 彼女が誰なのかは分からないが、何よりも求めていたものなら知っている。染吾郎がちゃんと教えてくれた。

「……返そう、お前の半身だ」

 取り出したのは、藤の装飾が施された笄(こうがい)。
 以前喜兵衛の店主から貰ったものだった。

「ああ……」

 蕩けるような、熱っぽい瞳。
 甚夜にではなく、笄に向けて奈津は語り掛ける。

「……お兄様」

 そっと指先で触れる。装飾を撫ぜるように指を動かす。

「ようやく貴方に触れられた」

 鳥の声が聞こえる。
 囁くように、歌い上げるように、甲高い音色が夜に響く。

 てっぺんかけたか。てっぺんかけたか。
 
 鳴き声はそんな風に聞こえた。
 
「これは」
 
 古今要覧稿という類書がある。
 この類書は文政から天保に掛けて編纂されたもので、日本の故事の起源や沿革についての考証を分類し記されている。

 書に曰く、「籠の内に有て天辺かけたかと名のる声の殊に高く、清亮なるは空飛びながら鳴にも勝れり」。

 それは正しく鈍ることのない透明な音色だ。

「ほととぎすの声……」

 月夜にほととぎすが鳴いている。
 ああ、そういえば。
 彼女の簪の意匠は、ほととぎすだった。

「ありがとうございます。ようやっと、私も……」

 簪を外し、笄を受け取り、二つを包み込むような優しさで握り締める。ほっそりとした指から漏れる光。女の手の中で簪と笄は、月の光にも負けてしまいそうなくらい淡い光を発していた。
 
「お兄様」

 淡い光はほととぎすの形になって、羽ばたきを始める。

「共にまいりましょう」
 
 奈津は、奈津の口を借りた誰かは幸福に満ちた溜息を零した。
 そうして優しく、ただ優しく。
 満ち満ちた微笑みを残して、ほととぎすは宵の空に消えて行った。


 ◆


 ───たぶん君、なんか懐に入れてるやろ? 僕の想像があってるんなら、櫛か笄。
   あー、笄のほうかな? それをあの娘に上げれば終いや。


 染吾郎が語った怪異を解き明かす手段はそれだけだった。
 半信半疑だったが、実際に終わりを見せつけられては信じるより他にない。
 意識を失い崩れ落ちた奈津を腕に抱く。
 しかし目は何時までも飛び去ったほととぎすの行方を追っていた。

「お疲れさん」

 見計らったように現れた染吾郎は気楽に声を掛けた。

「秋津染吾郎」
「かったい呼び方やなぁ。まあええけど。それより、上手くいったやろ?」
「ああ」

 正直何故上手くいったのかは今も分かっていないが。

「笄(こうがい)は“髪掻き”が転訛した名前でなぁ」

 それを悟ったのか染吾郎は滔々と語り始めた。

「そもそもは髪を結わう時に使うもんやし、頭が痒い時に髪型を崩さん掻いたり、まあ娘さんの身だしなみの為の道具やね。だから同じ職人が作ったんなら、簪と笄はある意味兄弟かもなぁ。ああ、簪は女もんで、笄は男の刀装具でもあるからどっちかゆうと“兄と妹”やね」

 その物言いに何となくだが理解する。

「つまり」
「その藤の笄も染吾郎の作なんやろ。だから簪は自分の兄貴をもっとる君をお兄様って呼んだんちゃうかな」

 そう言えば事あるごとに奈津は、奈津の中にいた誰かは胸元にしな垂れかかってきた。
 あれは甚夜に触れようとしていたのではなく、懐にある笄を求めていたからなのかもしれない。

「しかし簪が兄を探す、か」
「納得いかんか?」
「いや、ただ予想外でな。……あの簪には、死んだかつての持ち主の想いが宿っている。だから、奈津はそれに取り憑かれ兄を探しているのだと思っていた」
「んで君は兄貴によく似とる、とか? あはは、講談なんかやとよくあるヤツやね」
 
 しかし実際は簪“の”兄を探していた。
 納得できない訳ではないが、妙な心地だった。

「犬神みたやろ? 物にだって想いはあるし、肉を持って形になる。なら簪が兄貴と一緒にいたいと思うても不思議やないと思わん?」

 言われてもよく分からない。言葉に窮すると呆れ交じりの苦笑を零される。

「好きな人の傍にいたいのは、人も動物も物も、みぃんなおんなじやと僕は思うな」

 その想いだけを抱えて簪は流れ往く。
 様々な人の手に渡り、幾星霜を巡り。
 本当に帰るべき場所を探して、長い長い時を旅してきた。

「そもそも、これ対になるよう作られたみたいやし」

 言いながら奈津の手にある簪と笄をじっと眺める。

「“藤に不如帰”……花札やね。初代も冗談が好きやな」

 確かに店主から受け取った笄には藤の意匠が施されている。花札の一枚、“藤にほととぎす”に準えて作ったものなのだろう。初代染吾郎のちょっとした悪戯だ。

 ────鳥が花に寄り添うのに、何の理由がいりましょう

 奈津が、奈津の中にいた誰かが口にした言葉を思い出す。
 それは比喩ではなかった。ほととぎすはずっと、藤の花を探していたのだ。

「現世には不思議なことがあるものだ」
「鬼の言葉ちゃうなぁ」
「違いない」

 確かに己も“不思議なこと”の筆頭だった。
 今更この程度のことを不思議と思うのも妙な話か。

「まあでも、君のゆう通り兄を探していた持ち主もいたんかもしれんね」

 あはは、と朗らかな声で笑う。

「もしかしたらあの簪と笄は、昔どっか兄妹が互いに持ってたもんで、持ち主が死んだ後も一緒にいようとする想いが二つを引き合わせたんかもなぁ」

 その様を想像しているのか、染吾郎は実に楽しそうだ。

「それかどこぞの夫婦の思い出の品やったんかも。いやいや、遠く離れた恋人同士が、お互いにこれを見て、遠く離れても浮気なんかせずに愛し合いましょうね、なぁんて約束を交わしたり」

 歌い上げるような冗談。甚夜は呆れて溜息を吐いた。
 
「適当だな」
「しかたないやん。あの簪がどんな旅をしてきたのか。どんな人が想いを込めてきたのか。そんなん、誰にも分からへんよ。でも、分からんでもいいんちゃうかな?」

 二人は並んで空の向こうを眺める。

「清(中国)ではなぁ、ほととぎすはとある男の霊魂の化身らしい。在る国の王様になった男は、死んだ後もほととぎすになって自分の国に戻ってくる。でも長い長い時間が流れて男の国は他んとこに攻め滅ぼされたもうた」

 人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない。
 いつかの言葉が思い出される。

「だから帰る場所が無いって鳴きながら血を吐いたってお話や。帰り去くに如かず。だから不如帰(ほととぎす)なんやと」

 視線は空から動かさぬまま。染吾郎は万感の意を込めて言った。

「だけどあのほととぎすは、自分の兄貴のところまで帰って来れた。それでええやろ」

 ほととぎすは姿も形も見えない。鳴き声も遠く離れ、その行方を探ることは出来なかった。
 だけど不如帰はちゃんと兄と巡り合えた。
 確かに、それで充分なのかもしれない。
 
「あの不如帰は何処へ飛んで行ったのだろうな」
「そりゃあ、遠くちゃう?」
「遠く?」
「そ、遠く。空高く、広い海を越えて。遠く遠く、想いの還る場所へ。何処かはあのほととぎすに聞くしかないけど……でも、想いって、最後には自分の望んだ場所に還るて僕は思うな」

 長い時を流れ、己が半身へと辿り着いた簪。
 ならば今度は自分が触れた想いを、他の誰かへ伝えるために飛んで行ったのだろう。
 きっと誰かが幸福に笑う傍らには。
 ほととぎすの鳴き声が優しく響いているに違いない。

「そうか。……そうだと、いいな」

 意識しての言葉ではなかった。
 だからこそ限りない本心だった。
 あのほととぎすが帰るべき場所に辿り着けるよう小さく小さく祈りを掲げる。

「さってと、僕はもう行くわ」

 両手を組んで背筋を伸ばし、染吾郎は踵を返した。

「一応聞いておくが、いいのか」

 歩き出す前に、空から視線を外さぬまま呼び止める。

「何が?」
「私は人に化けた鬼だ」
「ああ……そゆこと。ま、別にええんちゃう」

 返ってきたのはあまりにも気楽な声だ。
 退魔よりも職人こそが染吾郎の本分なのだろうが、余りにも適当過ぎる答えだった。

「だって君、おふうちゃんの知り合いやろ? あの娘のこと見逃しとるんやから今更やし、君は危なそうに見えんからね」
「だが」
「僕はあくまで職人や。依頼があれば鬼を討つし、命狙われたら抵抗もするけど、害のない鬼まで叩こうとは思わんよ」

 その言葉を最後に、染吾郎は表情を変えた。
 昏く静かな、鬼を討つ者の顔だった。

「でも、忘れたらあかんよ。君らは鬼、どこまでいっても倒される側の存在や。どんなにおふうちゃんがええ娘で、君が人を救って、僕が君らを認めた所でそれは変わらん」
「……ああ、分かっている」
「それならええんやけど。ほな、さいなら」

 今度こそ歩き始める。
 夏の月夜に残された甚夜は、奈津を抱きかかえたまま、しばらくの間空を眺めていた。
 空では消えた筈の不如帰の羽ばたきが、甲高い鳴き声が、まだ聞こえてくるような気がした、


 ◆


「いやぁ元に戻ってよかったよかった! ……てのに御嬢さんはなんでへこんでるんですか?」

 翌日、喜兵衛の一角では暗く沈み込んでいる奈津の姿があった。

「おふうさん、知ってます?」
「えーと、どうもあの時の記憶が残ってるみたいで」
「ああ、そりゃあ……」

 善二は納得してうんうんと頷いた。

「お兄様ぁ~とかやっちゃってたしなぁ。確かにあれは恥ずかしい」
「善二、後で覚えてなさいよ」
「あ、いや、別に馬鹿にした訳じゃ」

 若干目を潤ませながら、奈津は憎々しげな視線を向ける。相も変わらず失言の多い男である。

「まま、お奈津ちゃんも落ち着いて。今日は好きなもん頼んで下せえ。奢りますから」
「親父さん……ありがと」
「しかし、旦那来ませんね」
「う」

 店主の気遣いに感謝し、しかしあの男のことを思い出し顔が赤くなる。それを目敏く見付けたおふうが、たおやかに笑いながら声を掛けた。

「ハマグリになりそうですか?」

 男どもはその言葉の意味が分からなかったらしい。「は? ハマグリ?」と顔を見合わせている。

「……やっぱり、私はまだ雀で十分だわ」

 言いながら卓の上に置いた福良雀の根付をちょんと指先で突く。
 あの男にしな垂れかかったり、腕を組んだり。自分の意思ではなかったにしろ余りに恥ずかし過ぎる。決して嫌ではなかったし、寧ろ嬉しいと思わなくもなかったが、奈津には少しばかり早すぎたようだ。

「あらあら」
「……ああもう、どんな顔して会えばいいのよ」

 頭を抱え奈津はぐったりと卓に突っ伏した。
 どんな顔して会えばいい。そんなことを言いながらも彼の良く来る蕎麦屋に訪れる。その意味を、それがどんな感情に起因しているかを理解できていない奈津が面白くて、おふうはくすくすと笑っていた。


 ◆


 ところ変わって浅草。
 流石に翌日すぐに喜兵衛へ行く気にはなれなかった。もしも奈津と顔を合わせれば気まずいことこの上ない。数日は間を置こうと考えていた。
 ほおずき市が終わり、人の少なくなった大通りを仏頂面で歩く。すると珍しい相手に声を掛けられた。

「おや、随分難しい顔をしているねぇ」
「……夜鷹か」

 辻遊女が通りに立つのはよると相場が決まっている。真昼間から顔を合わせるのは稀だった。

「男を誘うには少し時間が早いだろう」
「心配して声を掛けたっていうのに、随分と失礼なものいいじゃないか」

 言葉とは裏腹に夜鷹は楽しそうに笑っている。

「ま、折角だ。話でもしてかないかい?」
「ほう、それは」
「噂、幾つか仕入れといたよ」

 それは有難い。
 今は体を動かして頭をからっぽにしたかった。
 そう思った瞬間、甲高い鳴き声が響いた。

「今のは……ほととぎす?」

 昨日聞いたばかりだ。間違える筈がない。

「ああ、またかい」

 うんざりとした様子で夜鷹は溜息を吐いた。

「いや、今日の朝なんだけどね。寝よう思ったら急にほととぎすが鳴いてねぇ。結局寝れないからこうやって出てきたのさ。それにさっきから妙にあたしの近くで鳴くんだ。なんだろうね、いったい」

 その言葉を聞きながら、甚夜は昨夜のことを思い出していた。



 ────そ、遠く。空高く、広い海を越えて。
     遠く遠く、想いの還る場所へ。
     何処かはあのほととぎすに聞くしかないけど……
     でも想いって、最後には自分の望んだ場所に還るて僕は思うな。



 染吾郎は確かにそんなことを言っていた。
 例えばの話である。
 もしあの不如帰が選んだ、“最後に帰りたい場所”がかつての持ち主のところだとしたら。

「ん、なんだい?」

 思わずじっと見つめてしまう。
 奈津と同じ年齢で体を売る女。
 甚夜は彼女の過去を知らない。それどころか名前さえ知らなかった。
 だから、もしかしたら。

「まさか、な」

 浮かんだ想像を一太刀の下に斬って捨てる。
 流石にそれは出来過ぎだ。そんな偶然ある訳がない。
 
「だから何が? ……ねえ、あれ鬼とかじゃないだろうね」

 甚夜が何かを知っている様子から嫌な想像でもしたのか、僅かな不安が見て取れた。
 相も変わらずほととぎすは綺麗な声で鳴いている。

「いいや」

 片目を瞑り、透明な音色に耳を傾けながら甚夜は言った。

「宵を越えた不如帰が、花に留まっただけだろう」

 ただ、それだけの話だ。


  

     『花宵簪』・了
次話 余談『雨夜鷹』



[36388]   余談『雨夜鷹』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2014/04/05 19:52
 人が知ることの出来る範囲には限りがある。


 ◆


 2009年 5月

 兵庫県立戻川高校の恒例行事として、毎年五月に芸術鑑賞会がある。
 市の文化ホールに一学年が全員行き演劇を鑑賞するというもので、正直言って私は全く興味ないけど、授業が潰れるので喜んでいる人たちも多い。

「なんか、ちょっとわくわくするねー」

 生徒は全員着席し、ホールの照明が落とされた。開演数分前というところで声を掛けてきたのは中学の頃からの友達、梓屋薫(あずさや・かおる)だ。
 小柄で顔の輪郭も少し丸い薫は年齢よりも幼く見える。後頭部の低い位置で髪を束ねただけの簡単な髪形。メイクもほとんどしないから余計に幼い印象があった。

「そう? えっと、何の劇やるんだったっけ」
「みやかちゃん、事前のプリント見てないの?」
「うん。あんまり興味なかったし」

 昨日は夜更かしをしてしまったし、正直眠い。途中で寝てしまわないか心配だ。

「もう……」

 仕方がないなぁ、とでも言いたげに薫は小さく笑う。
私は素っ気ないとよく言われる。けど薫はもう三年くらいの付き合いになるし、いい加減私の態度にも慣れてきたようで、気にしていない様子だった。

「『雨夜鷹』だよ。夜鷹と武士の恋を描いたお話。ヒロインの夜鷹は実在の人物で、その人の手記をもとに作った劇なんだって」
「へえ」

 夜鷹、というのは中学の頃歴史の授業でやった。
 吉原の遊女よりも遥かに格の低い、道端で客を取る売春婦のことだ。でも、だとしたら少し変だと思う。

「江戸時代は識字率が低くて、字を書ける女の人って結構少なかったって授業でやったけど。なんで売春婦が書けるの?」
「ば、売春婦って」

 あけすけな物言いに薫は頬を染めて苦笑いしている。だってそれ以外の表現がないんだからしょうがない。

「えーと、遊女の中には元々武家や商家の娘だったけど、親が死んだり家が取り潰されたりでそういうことをしてた人も多いんだって。このヒロインもそうなんじゃないかな? 多分」
「ふーん」
「あ、始まるみたいだよ」

 きりの良い所で開演のブザーが鳴り響き、ざわざわとした声も段々静かになる。


「お待たせしました。ただいまより劇団クカミに寄ります、舞台『雨夜鷹』を開演いたします」


 まばらな拍手がホールを満たす。
 そうして、ゆっくりと赤い緞帳が上がった。





 鬼人幻燈抄 余談『雨夜鷹』






 

 雨が降っていた。

「ふぅ……」

 三浦直次は珍しく酒を呑んだ帰りで、若干頬が赤くなっている。
 とある事件を切欠に知り合った浪人と商家の手代、三人で浅草の煮売り酒屋(居酒屋)まで繰り出した。最初はのんびりと酌み交わしていたのだが、浪人の方は底無しで、つられて結構な量を呑んでしまった。
 酔っぱらって歩けないというほどではないが、足元は少し危うい。そのうちに雨まで降り出すものだから、適当な商家の軒先を借り雨宿りしている最中である。

「止まないな……」

 季節は春。冬の寒さも姿を消したが、夜はやはりそれなりに冷える。
 ぼやきながら空を見上げる。雨はまだ止みそうになかった。
 商家の手代は「吉原にでも」と息巻いていた。適当な女でも買って一夜を過ごすつもりらしい。非難はしない。しかし直次自身はそういうことは苦手だった。
 浪人は「仕事を探す」と言って姿を消した。定職を探す、という意味ではない。彼の生業は鬼を討つこと。大方呑み直しがてら怪異の噂を探しに行ったのだろう。
 直次は明日も城へ行かねばならない。その為真っ直ぐに家へ帰ろうと思ったのだが、急な雨で足止めを食ってしまった。これなら浪人の方へ着いて行き、もう少し呑んでいた方が良かったかもしれない。

「まったく、運が無い」
「ほんどだねぇ、濡れちまったよ」

 零れ落ちた言葉を拾い上げるように答えが返ってくる。
 驚きに目を見開けば雨の中に人影が映る。ゆっくりとした足取りで軒先へ訪れたのは、粗末な着物に手拭で顔を隠した女だった。着物は随分と濡れている。彼女も雨にやられたらしい。

「おや、お武家様も雨宿りかい?」

 出で立ちを見れば武士だと分かるだろうに、女は砕けた態度を直そうともしない。もっとも直次自身畏まられるのが苦手なため、敢えて指摘はしなかった。

「ええ、降られてしまいました」
「あたしもだよ。今日はもう客を取れそうもないねぇ」

 その物言いに改めて女を見る。
 
「なんだい、お武家様。あたしを買ってくれるのかい?」

 ああ、成程。彼女は夜鷹か。
 
「あ、いえ、私は、そういうのは」

 女を買ったことなど今まで一度もない。元々が生真面目な男だ。色事には慣れていなかった。

「あらま、振られてしまいました」

 おどけたように女は笑った。
 そうして濡れてしまった手拭を取り払う。今迄は隠れて見えていなかった女の顔に、直次は一瞬戸惑った。

「いい歳をして、随分初心だねぇ。それとも夜鷹なんか相手に出来ないって?」

 夜鷹という割には随分と年若い。知り合いの商家の娘とさほど変わらぬように見える。
 夜鷹の多くは年増や病気持ちが占める。真面には売れぬ容貌をしているからこそ、顔を隠し薄暗い路地で男を誘う。花代(料金)も僅か二十四文の微々たるもので、まともな遊女を買えない貧乏人相手の最下級の街娼だ。

 だというのに手拭の下に隠れていたのは夜鷹とは思えぬ容姿だ。
 大層な美人、という訳ではない。しかしまだ幼さを残した容貌と化粧の必要が無いくらいに白い肌が印象的な、儚げな娘だった。

「若い女が体を売ってるのがそんなに珍しいかい」

 不躾な視線を送り続ける直次に、からかうような調子で女は言った。 
 そこでようやく自分の無礼に気付き、反射的に頭を下げる。

「あ、いえ……済みません。他意があった訳ではないのです。ただ、少し意外で」
「……驚いた。売女に頭を下げるお武家様なんて初めて見たよ」

 今度は女の方が面を食らったようだ。武士と言えば横柄なものだとでも思っていたようで、直次の素直すぎる態度に若干の困惑を見せた。

「変な人だねぇ」

 くすくすと笑う。顔を上げれば笑顔が映る。表情は実に無邪気で、とてもではないが体を売る女のものではない。

「そうです、か? 真面目だとか固いとはよく言われますが」
「誰にでも真面目で固いのは変だと思うね」
「そういうものですか」

 そこで言葉は途切れ、しばらくの間ただ雨音だけが弾んでいた。
 沈黙を重いとは思わなかった。女は明け透けな物言いをするのに、静かな佇まいは夜に溶け込むような自然さだ。そのせいだろう、雨音を聞きながら過ごす夜は心地よかった。

「本当に止みそうもないね」

 長く短い時間が流れ、しかしいつまでも雨足は弱くならない。いい加減痺れを切らしたのか、女は灰色の雲を眺めながら、軽やかな足取りで軒先から離れる。

「いけません、濡れてします」
「もう濡れてるんだから今更だよ。それじゃ、お武家様」
「あ、あの!」

 まだ雨の残る夜、女は静かに振り返る。
 咄嗟に呼び止めてしまったが、一体何のつもりだったのだろう。二の句を告げられない直次を、女は不思議そうな顔で見つめている。

「あの、ですね。ああ、いや。そう、名前を!」

 女の視線に顔を赤くして、誤魔化すように、思い付いた言葉を考えもせずに口走る。

「私は、三浦直次と申します。よければお名前を」
「夜鷹」

 直次の問いかけに女は静かに笑った。
 青白い肌。静かな雨の中。濡れそぼる闇色の髪。

「あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?」

 夜に溶ける女の笑みは浮世のものではないような気がして。
 なのに美しいと思った。
 女性に見惚れるなど、これが初めてだった。




 ……見惚れたままでいれば、雨の夜の小さな出会いで終わったのかもしれない。
 ただ直次は気恥ずかしさに、ほんの少しだけ夜鷹から目を逸らしてしまった。
 だから気付く。

「ん、あれは……」

 霧雨の中、人影が一つ。
 おそらくは男。雨に邪魔されて黒い塊にしか見えない。ただその輪郭は男のように思えた。
 ただ何処かで見たことのある姿。いつだったろう。何時から会っていなかったか。あれは、あの人影は。

「兄、上……?」

 そうだ、人影は黒い塊にしか見えないのに、何故かいなくなった兄に似ているような気がした。

「あぁ……あの人は」

 夜鷹は吐息を漏らす。雨に打たれながら、気怠そうに、しかし決して影から目を逸らさない。

「貴女は、あの男を知っているのですか?」

 雨の中の女。光のない、墨染めの目。兄に似た男を見詰める夜鷹は、遠い景色を眺めるようで、どこか諦観さえ感じさせる色をしていた。
 答えは返ってこない。
 ただ雨音だけが辺りを包む。
 沈黙の空白に入り込むような激しい雨。耳をつんざくのに静かだと思える。春の雨に晒されて、冷たい筈なのに夜鷹は身震いさえしなかった。
 そうして自身に言い聞かせるように彼女は言う。

「昔の男、だよ」

 面倒くさそうな、投げ捨てるような言い方だった。




 安政二年(1855年)。
 花を散らせるような、激しい雨の夜のことである。





 ◆ 




 蕎麦屋『喜兵衛』。
 直次が暖簾を潜れば、いつも通りの笑顔で看板娘のおふうが迎え入れてくれた。

「あら、いらっしゃいませ。三浦様」
「どうも」

 しかしどうにも直次には活気が無い。返事もそこそこに、疲れた表情ででのったりと歩いている。
昨夜、夜鷹はあの人影を無視して夜の町に消え、直次も特に何かするでもなく帰宅した。そうして屋敷に戻り床へ就いたはいいが、兄に似た昔の男が、何より夜鷹自身が気になってあまり眠れなかったのだ。

「ああ、甚殿」

 店内を見回せば、やはりというか、相変わらず甚夜の姿があった。本当にこの男は毎日喜兵衛へ訪れる。一日一回は蕎麦を食べているのではないだろうか。
 軽く一礼して、甚夜の前に座る。取り敢えずかけ蕎麦を注文し、その後はむっつりと黙り込んでしまう。

「どうした」
「え? あ、いえ、なんでも」

 曖昧な笑みで返す。
 これで本人は隠せているつもりなのだ。呆れたように甚夜は溜息を吐いた。馬鹿にしたのではない。直次のこういう嘘の付けないところは甚夜にとって好ましい所であった。

「また悩み事ですかい? 直次様もよくよく悩むのが好きな方ですねぇ。あいよ、かけ一丁」
「はーい」

 出来上がった蕎麦が運ばれてくる。それに箸をつけることなく、はにかんだような笑みを浮かべた。

「はは、面目ない」
「何かあるんなら聞きますよ?」
「いえ、本当に何でもありませんよ」
「直次様の何でもないは信用できませんて。旦那も何か言ってやってくだせえ」

 そう言われても正直なところ然程興味が無い。
 鬼に纏わる厄介事ならば放っておいてもこちらに話を持ってくる。それをしないとうことは、本当にごく個人的な悩みなのだろう。ならば土足で踏み入るのも気が引けた。

「何でもないと言っているならそれでいいだろう」
「いや、ですがね」

 食い下がる店主に直次は穏やかな調子で言った。

「本当に大丈夫ですから。もし何かあればちゃんと頼らせていただきますので」

 言葉尻こそ柔らかいが頑とした否定だった。
 しかしその堂々とした態度に少しは安心したのか店主は肩を竦めた。

「ったく、直次様は意外と頑固ですね。誰に似たんだか」
「お父さん、いけませんよ」
「おっと」

 油断からつい零れてしまった子供扱いするような物言いをおふうが嗜める。それが仲のいい親子の姿に見えたからだろう、直次は微かに笑みを浮かべていた。

「そう言えば、甚殿は昨日あれから?」

 確か昨日、帰り際に仕事を探しに行くと言っていた。どうなったかが気になった。

「ああ、少し面白い話を聞いた」
「やはり鬼ですか」
「おそらくは、な」

 面白いといってはいるが、この男は厄介な鬼を相手取る時こそ面白いと笑って見せる。おそらく今回も相当な厄介事を背負い込んだのだろう。

「取り敢えず今夜、もう一度浅草に行くつもりだ」

 今夜。
 その一言に直次の思考は止まった。
 或いは、今夜も彼女はあの辺りにいるだろうか。
 そんなことを思った。






[36388]      『雨夜鷹』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2014/03/12 21:08
 最初から名前なんて必要なかった。

 父は“武士”で私は“武家の娘”で。
 貧乏な武家に生まれた娘の使い方なんて少ない。私は“武家の娘”として、否応なく名も知らぬ誰かの元に嫁いでいく。其処に親子の情はなく、ただ役割と利害があったのみ。

「娘よ、名はなんという」

 私を見初めたという武士はそう言った。
 だから私は答えた。

「“武家の娘”に御座います」

 もとより己の意思ではなく、ただ家を存続させる為この場にいる。
 ならば名は“武家の娘”。
“私”なぞ端から必要ではない。重要なのは“私”で在ることよりも、“武家の娘”であることなのだから。
 
 しかし相手は馬鹿にしているとでも思ったらしい。
 婚約は破談となり、縋る縁を失った家は没落し、私は“武家の娘”ですらなくなった。

 失意の内に死んだ父。恨み言をぶつける母。どうでもよかった。
 悪いとも思わなかった。情など与えて貰ったことはない。あの人たちにとって、私は“武家の娘”でしかなかった。役割が破綻すれば他人と何処が違う。
 行方知れずになった兄は、少しだけ気になった。けれどもう会うこともない。そういうものだとすぐに諦めた。

 そうして一人になり、私の名を呼ぶ者は誰もいなくなった。
 悲嘆はない。
 だって父母は私に教えてくれた。
 私が誰であろうと、役割さえあればそれでいい。


 だから、最初から名前なんて、必要なかったのだ。



 ◆



 日が落ちて、直次は再び浅草へと足を延ばした。
 商家の立ち並ぶ大通り。途中、またも雨が降り出した。今夜は傘を初めから持ってきていたので濡れなかったが、雨の夜はやはり冷える。ほんの少し肩を震わせながらも淀みなく進み、辿り着いたのは昨夜と同じ軒先。傘をたたみ、軒先で雨宿り。自分は何をしているのか。明確な答えは出せぬまま直次はただ待ち続けた。

「おや、昨日の。傘を持って雨宿りかい?」

 夜も深くなり、雨が激しさを増した頃だった。
 ぼろぼろの傘をさした、着崩した粗末な着物を纏う女。
 夜の雨に濡れた白い肌。小さく微笑めば、幼げな顔立ちだというのに妖しげな色香が漂う。

「今晩は、夜鷹殿」
「夜鷹殿? 妙な呼び方だね」
「ですが貴女が名乗ったのでしょう?」
「それもそうか」

 傘を持つ二人が軒先で雨をしのぐ。妙な状況ではあるが、直次には傍目を気にする余裕はない。彼女を待っていたというのに、いざとなれば緊張に体が硬くなっていた。

「で、お武家様はどうして此処に?」
「あ、いえ。何と言いますか」

 見透かすような目だった。
 口にしていない言葉さえ読まれたような気がして、自分よりも年若いであろう女相手に狼狽させられる。
 趣味など刀剣の見聞・収集くらいしかなく、酒も嗜む程度。なにより元が生真面目な性格だ。夜鷹と渡り合うには少しばかり経験が足りなかった。

「少し、気になったものですから」
「へえ、なにが?」

 貴女のことが、と言えるほど遊び慣れてはいない。
 だからもう一つの方を口にする。

「あの、人影が」

 嘘という訳でもない。雨の中に見た、兄とよく似た人影。恐らくは夜鷹を見ていたのだろう。あれが何者なのか気になったのは事実だ。

「言っただろう、昔の男だよ」

 感情の乗らない冷たい声は、雨音の中でもいやにはっきりと聞こえた。
 
「それは」

 兄とよく似た男は、彼女と寝たということだろうか。得体の知れない何かに心の臓を握られた。上手く呼吸できず、それでも真意を問おうとする。

「女の、それも娼婦の過去を探ろうなんて随分と下世話じゃないか」

 しかし夜鷹の言葉に二の句を封じられた。
 娼婦に身を落す女の半生なぞ語るまでもない。差異はあれど皆一様に無惨な道行きに決まっている。それを掘り起こそうなんぞ確かに下世話だ。

「済みません。無神経でした」

 呼吸を整え、すぐさま頭を下げる。二度目とはいえ娼婦に頭を下げる武士という構図には慣れないのか、夜鷹は微妙な表情をしていた。

「ほんと、お武家様は素直だね」
「私のことは直次で構いません」
「そうかい。で、お武家様は結局あたしに何の御用で?」 

 名前を呼ぶことはせず、薄く妖しい笑みを浮かべる。幼げな顔立ちではあるが十分に蠱惑的と言ってもいい。しかし直次にはその笑顔が何故か寂しそうに思えた。

「あの人のことだけじゃないんだろう?」

 あの人。何故か嫌な気分になる。誤魔化すのは得意ではない。きっと顔に出ていただろうに、夜鷹は気付かないふりをしてくれた。

「別に用があった訳ではないのです。ただもう一度会ってみたかった」

 素直な言葉だった。

「それだけかい」
「ええ、まあ」
「夜鷹がそんなに珍しいのかね」
「そうじゃありません。私が会いに来たのは貴女です」

 むっとした様子。さすがに失礼だと思ったのだろう、夜鷹も言葉は続けなかった。 

「別に馬鹿にしたわけじゃないんだ」
「済みません、私も大人げなかった。でも本当に、ただもう一度会ってみたかっただけなんです。それ以上のことは考えていませんでした」

 他に理由があったのかもしれない。けれど上手く言葉には出来ない。ただ彼女のことが気になった。一目惚れ? 違う、そんな艶かしい感情ではなく、もっと違う何かが。

「ほんと、変なお人だね」

 浮かんだ笑顔は今までのものよりも無邪気で、それに見惚れた自分に直次は気付いていた。 
 けれど長くは続かなかった。



「あ……」

 やはり、今日も来た。
 花の季節には似合わない。洗い流すでは表現が綺麗過ぎる、全てを流し去ろうとする激しい雨。
 その中に、ぽつり、黒い影。


 ───あの黒い影がこちらを見ている。

 
 何をするでもない。
 近付いてきて話しかける。負の感情を向ける。或いは、襲い掛かってくる。本当に何一つしてこない。
 黒い影は動かずただ眺めるばかり。
 雨に遮られその姿を明確に捉えることは出来ない。
 だがやはり、影は兄に、三浦長平に似ているような気がした。

「なんで、今更来るんだろうね」

 胸が締め付けられる。昔の男。それは以前寝た客という意味ではなかったのかもしれない。夜鷹の声には隠しきれない親愛の情があった。
 でも彼女は震えていた。怯えている。ならば、自分に出来ることなど一つ。

「お武家様……?」

 直次はずいと前に出て夜鷹を背に隠した。
 意味があるかは分からない。けれどあの男から隠してやりたかった。
 夜鷹は彼の背中に体を少しだけ預けた。
意味がないとは知っている。けれどこの男の不器用な優しさに少しは報いてやりたかった。
 とくん、と高鳴った鼓動は一体誰のものだったろう。
 雨の夜。まだ少し冷たい春の風に吹かれ、でも暖かいと感じられる。
 だから自分の取った行動はきっと間違いではないのだと思えた。



 そうしてしばらくの後、黒い影は雨に流されて消えた。



 ◆



「どうしたんです? 珍しく箸が進んでいませんねぇ」

 かけ蕎麦を頼んでおきながら一向に箸を付けない甚夜におふうが声を掛けた。

「ん、ああ」
「伸びてしまいますよ?」
「そうだな、頂こう」

 言いながらも動作は緩慢で、一口啜っては止まり何かを考え込んでいる。元々表情は豊かではなく大抵は仏頂面をしている甚夜だが、今日はいつにもましてだ。彼の様子が気になり、おふうは少しだけ腰を屈め顔を近づけた。

「そう言えば昨日は鬼を討ちに行ったんですよね。なにか、あったんですか?」
「……いや」 
「言いたくないなら、無理には聞きませんけど」

 そう言いながらも目は心配そうに揺れていた。
 おふうはいつもさりげなく気にかけてくれていると知っている。その上同じ鬼、正体も知れているのだから、甚夜にとっておふうは最も心安い相手だった。
 だからごく自然に答えていた。

「昨夜は後れを取った。それだけだ」

 短い答えにおふうは随分と驚いた様子だ・ 

「甚夜君が、ですか?」

 いい加減付き合いも長く、甚夜の剣の腕は十分に理解している。だからこそ彼が後れを取ったというのは意外に思えた。

「でも怪我はないですよね」
「向こうからは仕掛けてこなかったからな」

 重く溜息を吐く。

「でしたら、今日も行かれるんですか?」
「それは天気次第だな」
「天気?」
「ああ。どうにも件の鬼は雨の夜にしか出ないらしい。ここ二日は雨が降っていたからよかったが、取り逃しのは痛いな」
「え? ですけど」

 おふうが何かを言おうとした瞬間、遮るように暖簾が揺れた。

「あ、いらっしゃいませ」

 反射的に発した明るい声。訪れた客は見慣れた顔、喜兵衛の数少ない常連、三浦直次在衛である。

「三浦様、なにに」
 
 注文を取ろうとするが歩みを止めず、一直線に友人の元へ行った直次は、今まで見たこともないくらいに真剣な表情だ。

「甚殿、少しお時間を宜しいでしょうか」
「ああ、構わんが」
「ありがとうございます。実は少し話を聞いてほしいのです」

 その重々しい様子に甚夜も表情を引き締める。
 そういえば昨日も何か悩み事があるような素振りだった。
 おそらくはその相談なのだろう。だが正直なところ、鬼の討伐なら兎も角、他事では上手く相談に乗ってやれる自信などなかった。

「出来れば店主殿にも、出来ればおふうさんにも」
「俺らもですかい」
「はい、御助言頂ければと思いまして」
「はぁ。俺は別に構いませんが。おふう」

 父の声掛けにおふうも聞く程度ならばと頷いて見せる。

「よし、それなら俺らも」
「済みません」

 二度目の礼はしっかりと頭を下げた。
 さて、何から話したものか。直次は話そうとしていた内容を自分の中で組み立て、途中で止める。
 考えることに意味がないと気付いたからだ。
 あの黒い影のことは勿論気になる。兄似た、彼女の昔の男。何故彼女は名を名乗らず、呼んでもくれないのか。引っかかるところはいくらでもある。
 しかしそんなものよりも、優先すべきは此方の方だ。

「実は、ですね。気になる女性が出来まして」

 予想外の言葉に甚夜達が固まってしまったのは致し方ないことだろう。 


 

 雨の夜の出会いを所々ぼかしながら語って聞かせる。
 そのうちに店を訪れた善二と奈津も加わり、いつの間にか随分と大人数になってしまった。

「ほお……あの晩の帰り、そんなことがなあ」

 感心したように善二は息を吐いた。

「私としては吉原に行った誰かさんの話も気になるんだけど」
「うっ、それは、ですね。そんなことよりもまずは直次の話が大事でしょう御嬢さん!」
 
 半目で睨む奈津を勢いで誤魔化そうと大声を張り上げる。

「つまりあれだな。直次はその女性の気を引きたい訳だ」
「あ、いえ、別にそこまでは。ただ、もう少し仲良くなれればと」
「ほうほう、お前も男だな」

 にたにたといやらしい笑みを浮かべる。対して直次は照れたように俯いていた。

「実際、出来れば……とか考えてんだろ?」

 からかうような物言いに、しかしうまい言葉が見つからず曖昧な笑みで返す。
 背中のぬくもりはまだ残っている。
 憎からず思っているのは間違いないが、一人の女性にこうまで執着したのは初めてで、どう言えばいいのか分からなかった。

「なんとも言えません。お恥ずかしながら私はこの歳まで女性とそういったお付き合いをしたことがないもので」

 直次は確か奈津の二つ上、今年で二十の筈。もう結婚していてもおかしくない歳だ。女性に不慣れなのが恥ずかしかったのか、頬が若干赤い。しかし表情を引き締め、大真面目に彼は言う。

「けれどあの人が気になっているのは事実なのです」
「なかなか言うじゃないか!」

 妙に楽しそうな善二とは裏腹に、表情の変わらない甚夜以外は皆一様に困惑の表情を見せている。実直で生真面目な直次の相談がまさか色恋沙汰とは思わなかったのだ。

「夜鷹にって、本気で、ですか?」

 もっとも、奈津の問いも困惑の原因の一つではあった。
 夜鷹は最下級の街娼。直次は旗本の跡取り。とてもではないが釣り合っているとは思えない。女だからこそ、奈津の表情には僅かな嫌悪感があった。

「分かっています。彼女は娼婦。おそらくは多くの人が顔を顰めるでしょう」

 それに腹を立てることはない。直次でさえ分かっていた。夜鷹とは、“そういう存在”なのだ。体を売って糊口をしのぐことしか出来ぬ汚れた女。だから奈津の態度は当たり前のもので、しかし柔らかく否定する。

「ですが私は彼女のことを知りたいのです。知ってどうなるかは、私にも分かりませんが」

 言い切った直次の表情は言葉の強さとは裏腹に、実に穏やかなものだった。 

「案外情熱的なんですねぇ、三浦様は」

 おふうがくすくすと笑みを浮かべる。笑顔の理由は、彼の穏やかさがいつか自分を救ってくれた誰かのものに重なったからなのかもしれない。

「いや、大人になったなぁ。おふう、お前もそろそろ旦那とだな」
「だからね、お父さん」

 件の誰かは、今ではすっかり親馬鹿なのだけど。

「つまり、その女との仲を取り持ってくれ、ということか?」

 今まで黙っていた甚夜が端的に表現すれば、顎を微かにいじりながらこくりと頷く。

「いや、そこまででは」

 率直な言い方は流石に照れるらしく、少しばかり言い淀んでしまう。甚夜は更に眉間の皺を深くした。

「まあ、どちらにせよ私では役に立てそうもないな」
「確かに甚夜君は苦手そうですねぇ」

 図星だった。今まで強くなることだけを考えてきた。遠い昔には惚れた女もいたが、結局は上手くいかなかった。とてもではないが良い助言など出来そうもない。

「ならここは俺に任せとけ」

 にい、と自信ありげに善二が笑う。

「なにか妙案でもあるの?」
「あれですよ、その女が悪漢に襲われてるところを直次が颯爽と助けるんです」
「うわあ……」
 
 自信を持って討ちたした提案の陳腐さに奈津は軽く引いていた。

「いやいや、御嬢さん。馬鹿にしちゃいませんて。やっぱり自分を守ってくれる男に女はよろめくもんなんですよ」
「だとしても都合よく悪漢など出る訳もないだろう」

 呆れ混じりの溜息を吐く甚夜の肩にぽんと手を置く。

「何言ってんだよ、悪漢」

 先程よりも更に口元を釣り上げた、心底楽しいといった笑みだった。

「……おい」
「お前ならでかいし、目付きも鋭いから似合いだ。お前がその女を襲って、それを直次が助ける。完璧じゃないか」

 満足そうにうんうんと頷き、「だろ? 直次」と話を振る。

「甚殿を……」

 下らない提案を受けて、しかし直次は真面目に思索を巡らせている。
 そして想像する。
 夜鷹を襲う甚夜。
 庇うように立ちはだかる直次。
 襲い掛かる悪漢を討ち払う為、直次は刀を抜き。
 刀を抜き、刀を抜き、刀を抜いて、抜こうとして。
 
「はは、馬鹿なこと言わないでください善二殿。私が勝てる訳ないでしょう」
  
 ……想像の中の自分は刀を抜くことさえ出来ずに斬り伏せられていた。

「いや、演技。演技だからな? 勿論甚夜には手加減してもらうし」

 しかし甚夜の方を見ても難しい顔をしている。どうやら似たり寄ったりの想像だったらしく、重々しく口を開く。

「手加減は苦手でな。一応やってはみるが命の保証は出来ん」

 紛れもない本心だった。

「お前ら揃いも揃って融通効かねえな!」
「というかこの二人にそれを求めるのがそもそも間違ってると思いますけど」

 おふうも流石に呆れ気味だ。それが果たしてどちらに向けてのものかは分からないが。

「いいと思ったんだがなあ。ちなみに親父さんはなんかいい案ありませんか?」
「そりゃあ、積み重ねることじゃないですかね」

 何の気負いもなく、店主はさらりと言ってのけた。

「積み重ねる、ですか?」

 直次が問いなおせばからからと快活な笑みで答える。

「ええ、積み重ねるんです。例えば、旦那は最初から鬼を討てる程強かったんで?」
「いや」
「善二さんだって須賀屋に入った時から手代って訳じゃないでしょうに」
「そりゃそうですよ」

 当たり前だ。幼い頃は稽古をつけて貰っても簡単にあしらわれていた。それでも毎日のように剣を振るって、振るって、ただ只管に振るい続けて、いつの間にか鬼を討てるようになっていた。
 と、そこまで考えて店主の真意に気付く。

「ああ、成程。確かに店主の言う通りだ」
「でしょう? 強くなりたいなら毎日剣を振るう。偉くなりたいなら真面目に働く。誰かの心が欲しいなら、それに見合うだけの時間をかける。結局人の心を動かすのは劇的な何かじゃなくて積み重ねた信頼だと思いますよ、俺はね」

 そうして店主は勝ち誇ったような顔で言ってのける。

「ちなみに言いますが、俺は二十年以上かけて信頼を積み上げて、最高の女を手に入れました。経験者の言うことは素直に聞いとくもんです」

 締め括りの言葉に甚夜はちらりと横目でおふうを見た。彼女もまた同じ仕種で自然と視線が交わり、それがおかしくて二人して笑う。

「二人とも、どうしたの?」

 その様子を見ていた奈津が不思議そうに小首を傾げる。

「何でもありませんよ」
「ああ、何でもない」

 返す答えも同じで、余計に面白く感じられた。

「ふうん」

 反対に奈津は面白くなさそうな顔で不貞腐れている。除け者にされたような気分なのだろう。しかし易々と話せるような内容でもなく、やはり二人して苦笑を零した。

「そう、ですね」

 しばらく無言だった直次が力強く頷く。

「確かに店主殿の言う通りです。まずは何度も顔を合わせ話してみると事から始めようと思います」
「それがいいと思いますよ。直次様は、何も考えずに真面目にってのが一番似合ってる」
「そうかも知れません。ありがとうございました。では、これで失礼します」

 晴れやかな表情で席を立ち、迷いなく暖簾を潜り出て行く。蕎麦の一つも食べずに、しかし実に満足そうな背中だった。

「……結局、親父さん一人で解決しちゃったわね」

 奈津の一言に甚夜も善二も押し黙る。分かっていたことではあるが、相談を受けてもまともな言葉をかけてやれなかった。なんとも居た堪れない心地だ。

「ま、年の功ってやつですよ。無駄に年齢だけは積み重ねてますから」

 快活な笑みは普段よりも頼もしく見える。
 ただ納得がいっていないような顔をしているのがおふうだ。

「ん、どうしたおふう。俺、なんかまずいこと言ったか?」
「そうじゃありません。ただ、ちょっと三浦様のお話が奇妙で」
「奇妙?」

 こくりと頷き、釈然としない様子で甚夜の方を見る。

「さっきの甚夜君の話もなんですけど、おかしいですよね」

 思わず眉を顰める。
 おかしいと言われても、昨日あったことをそのまま話しただけだ。直次の話も特に矛盾する点はない。内容も奇妙なものではなかった。彼女が何を言おうとしているのかよく分からず、正直なところ困惑していた。
 しかし次いで放たれた言葉に更に困惑する。



「だって昨日も、一昨日も。雨なんて降ってませんよ?」






[36388]      『雨夜鷹』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2015/10/19 14:05
 人が知ることの出来る範囲には限りがある。


 どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。
 例えば、先に店を出た生真面目な武士はここ数日雨など降っていなかったという事実に最後まで気付くことはない。
 同じように鬼を討つ男も、夜鷹が雨の中に何を見たのかなぞ分かる筈もない。
 そもそも蚊帳の外にいる店主らは、何があったのかさえ知り得ない。
 それぞれが“自分”を生きる以上、そこから食み出たものは所詮余所事。
 今を生きる者は自分の物語しか見ることは出来ず、『雨夜鷹』はどこまでいっても夜鷹と武士の恋の話でしかない。

 
 けれど忘れてはいけない。
『見えない』と『無い』は同義ではない。


 誰に見えなくとも、それは確かに在って。
 
 だからいつかは───



 ◆

 激しい雨音が耳をつんざいて、吐く息の白さに春の宵の寒さを実感する。
 ぼろぼろの傘では雨はしのげず肩口は濡れてしまっていた。不意に映った軒先に立ち寄り雨宿り。そこが昨日と同じ場所だったことに他意はない。少なくとも夜鷹には、そのつもりはなかった。

「流石に、今日はいないか」

 やまない雨に零した言葉。何故か、少しだけ落胆した自分には気付かないふりをした。
 昨日と同じ軒先。もしかしたらあの奇妙な武士が訪れるかもしれない。もともとその程度の想像だ。別に来なかったからと言って何かある訳でもない。件の彼が来なかったところで別にどうでもいいだろう。
 
 春とはいえまだ少しだけ寒い。冷えた体を小さく震わせ、夜鷹はふと空を見上げる。
 広がる黒。天の底が抜けたように降り止まぬ雨。星のない夜空。冷たい春の宵。
 身を震わせる冷たさがいつかを思い起こさせるのだろう、雨の夜には遠い記憶が浮かんで、しかしそのまま流されて消える。
 大した話ではない。裕福な家に生まれ、落ちぶれた女が娼婦に身を窶しただけのこと。何処にでもある、ありきたりな不幸だ。元より過去は縋る程の幸福でもなかった。
 もしも未練があるとすれば、ちゃんと私を“私”として扱ってくれた兄くらいだ。
 貧乏な武家に生まれ余裕もないだろうに、時折無理をして装飾の類を買ってくれた。
 そう言えば、あの簪は一体何処へいってしまったのだろう。
 
『…き………』
 
 思い出したことがいけなかったのか。
 激しい雨音に紛れて、か細く、今にも消え入りそうな声が聞こえてくる。心が冷えた。緩慢な所作で視線を声の方に映せば、雨の中に黒い影が。

「あぁ……」

 捨ててきたもの、いる筈のない人が、雨の中でこちらを見ている。
 まやかしだ。そう思いながらも体は震える。寒さのせいではない。恐怖など微塵もない。この震えは一体どこから来るのだろう。
 
 夜鷹の夜鷹。
 名前もなく、ただ春を売る女。
 それでよかった。
 よかった、筈、なのに。
 今も過去が私を見詰めている。

『こっちへ……』

 あの人が、私を誘っている。
 馬鹿な。ある訳がない。だって、あのひとはもう。
 なのに、足は勝手に動く。
 力が入らないのに、前へと進む。
 影は動かない。
 ただ待っている。
 きっと、私を

「お兄、様……」

 幽鬼のような足取りで影の元へと歩み往く。
 雨は、まだ止みそうもない。





 ◆



 
 浅草の大通り。立ち並ぶ商家も夜になり閉まっており、普段の喧騒はなく、ただ叩き付けるような雨音だけが辺りに響いている。
傘も差さず、雨に打たれ、それでも身動ぎさえせずに佇む男が一人。

「雨は、まだ止みそうもないな」

 男──甚夜はゆっくりと刀を抜いた。
 見据える先には黒い影。沈み込むような、浮かび上がるような。雨の中にあって影は異様な存在感を醸し出している。
 影に敵意はない。だからこそ甚夜には噛み締めるような苦渋があった。





 善二や直次と酒を呑んだ晩、奇妙な噂を耳にした。
 曰く、雨の夜にのみ現れる奇怪な黒い影。
 目撃談は多くあったが正確なことは分からない。
 屈強な男、或いは細身の小男。ある人は見目麗しい娘と言い、またある人はみすぼらしい老女だと言う。
 実態の定かではない黒い影。成程、これは面白い話を聞いた。
 そうして訪れた浅草の大通り。初日は空振りに終わったが、二日目の夜は件の影と出会うことが出来た。
 その正体を見極めようと対峙するも、甚夜は驚愕に身を震わせる。
 斬り伏せようと立ち向かうも剣に普段の冴えはない。凡庸な太刀捌きでは影を捉えることなど出来ず、結局は逃がしてしまった。
 それを不覚と思う余裕なぞ甚夜にはない。
 消えた影の行方を追うように雨を睨み付ける。



 ───影は、随分と懐かしい姿をしていた。



 そうして今宵再び影との邂逅を果たし、しかし心は僅かに波立っている。
 今も思い出す。
 故郷を離れ、流れ着いた先で触れた得難き暖かさ。
 幸福に満ちた水泡の日々
 しかし目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。
 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。
 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。
 それでも、今も時折、昔のことを思い出す。

「昨夜は後れを取った」

 目の前の黒い影に、ではない。
 黒い影の姿は、あまりにも懐かしかった。雨の中、輪郭さえ不確かだというのに、あの頃のままの気配が其処には在った。
 だから刃が鈍った。弾けて消えた水泡の日々に、無様にも縋ってしまったのだ。
 昨夜は確かに遅れを取った。しかしそれは『黒い影』にではなく、幸福を当たり前のものと甘受していた『かつての自分』にだろう。

「だが今度は逃がさん」

 迷いはない。
 強くなりたかった。あの娘を止めると誓った。ならば他事は所詮余分、斬り捨てることに何の躊躇いがある。
 雨が強くなった。 
 幸いだ。視界が邪魔されて黒い影の姿は良く見えない。少しだけ斬りやすくなった。
 四肢に力を込める。躍動する体躯。弾かれたように影へと肉薄する。
 踏み込み、いつかのように、上段、唐竹。叩き割るように振るう一刀。
 しかし近付いた黒い影の姿に息を呑む。




 其処には、懐かしい人が確かにいて。



 ◆



 夜半、雨は強くなった。
 叩き付ける雨音を静かに感じるのは、穏やかな心持のせいだろう。
 馴染みの店主から貰った助言を胸に夜鷹の元へと、正確に言えば昨夜の軒先へと向かう。会えるかどうかは分からない。けれどそれでもよかった。まずは少しずつ積み重ね彼女のことを知り、そして自分のことを知ってもらおう。
 年甲斐もなく胸が高鳴る。一向に雨足は弱まらず、それさえも心地好い。
 あの軒先まであと少し、僅かながらに頬が緩む。
 しかし目的の場所に辿り着いた瞬間、直次の体は固まった。


 ふらふらと、幽鬼のような足取りで雨中を往く夜鷹。


 一気に、心が冷えた。
 彼女の向かう先には黒い人影が。
 駄目だ、そっちに行ってはいけない。
 思わず傘を捨て駆け寄り、ぐっと肩を掴む。しかし彼女は歩こうと一歩二歩と足を前に出し、それ以上進めなくなってから直次の方に目を向けた。

「あれ、お武家様、かい?」

 虚ろな目だった。視線は向いていても直次の姿を映していない。

「どうしたのですか、一体」
「呼んで、るんだ、あの人が」

 感情の乗らない声。夜鷹は惰性で喋っている。

「何を言っているのですか貴女は」

 両肩を掴んで揺さ振れば、ようやく視点が定まる。呆けたような表情が少しずつ強張り、声にも力が戻ってきた。

「あ、あぁ、そうだね。あの人がいる訳ないんだ。こんなところに、だけど」
「そうではない! あれが」

 直次には夜鷹が正気を失っているようにしか思えなかった。
 彼女はまた黒い影に向き直った。大切な物を壊してしまった子供のような、悲しさとも寂しさともつかぬ曖昧な表情を浮かべていた。
 あの人。昔の男と言いながら、本当は今でも大切に想っている相手なのだろう。それくらいは直次にも理解できた。
 だとしても夜鷹を影の元に行かせる訳にはいかない。 
 影は動かずこちらをじっと見ている。見ているように感じられた。特に何かをするつもりはないらしい。それが直次には恐ろしい。
 遠くから見た人影は兄に似ていると思った。
 雨に遮られ、輪郭さえ覚束なかったが、纏う空気は確かに兄のそれだと思えた。
 しかし夜鷹を止める為に近付いた今、あの影を兄と思うことはもうできない。

「あれが、人の訳ないでしょう!」

 距離は二間まで詰まり、尚も黒い影は黒い影のままだった。

「なに、を」

 困惑する夜鷹にこそ直次は困惑していた。
 四肢はある。おぼろげな輪郭は確かに人の形をしている。けれど顔がない。皮膚が無い。
 遠目だから黒い塊に見えた訳ではなく、この影は本当に黒い塊だ。

「何を言っているんだい? あの人は」

 だというのに夜鷹は、まだこれを“あの人”だと言う。
 正直に言えば気が触れたようにしか見えない。
 しかし直次は知っている。在り得ないことを当たり前のように起こす存在が現世にはいるのだと、身を持って経験していた。

「鬼……」

 高位の鬼は一様に人知を超えた特異な<力>を身に着けているという。
 つまりおかしいのは夜鷹ではなく、あの黒い影。
 直次は夜鷹を離し、庇うように前へと出た。黒い影を睨み付け、腰に差した打刀を抜き、正眼に構える。

「お武家様、一体何を……!」
「夜鷹殿、落ち着いてください」

 背から着物を引っ張られても振り返ることはしない。直次は祐筆、武士とはいえその仕事は書類の整理が主。思えば誰かに刃を向けるのはこれが初めてだ。一通り道場剣術を収めていても実戦となれば話は別。木刀にはない重さに手が震える。
 それでも逃げることはしない。したくない。
 たとえ相手が高位の鬼であれ、戦うことなく背を見せるなど武士のすることではない。

 義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
 徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。
 ただ忠を誓ったもののために在り続けるが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。

 表祐筆として代々幕府の事務に携わってきた三浦家。然して裕福ではなく、家柄も低くかった。それでも三浦家が武家であるならば、忘れてはならぬ武士の在り方だと母は厳しく教えてきた。
  
「私は武士だ。そして武士が徳川に仕えるのは、泰平の世を守り力なき人々を守る為」

 ならばこそ、この刀には意味がある。

「刀にかけて言います。あれは、貴女の大切な人ではない」

 生真面目そうな、ちょっと変な武士。
 夜鷹が直次に抱いていた印象はその程度のものだった。しかし刀を構える彼は、小刻みに震えていると言うのに、今まで閨を共にしたどんな男よりも強く見えた。

「どうか、私を信じてください」

 着物を掴んでいた手が離れ、直次は全速で突進する。
 斬り合ったことなど一度もない。“戦い”になれば自分は勝てないだろう。それを理解しているからこそ直次は躊躇わなかった。
 裂帛の気合。振り上げた刀。眼前の敵。相手に抵抗はない
 一刀。ただ一刀をもって戦いが始まる前に斬り伏せる。
 
「お、おおおおおおお!」

 直次は腕に力を籠め、しかし振り下すはずだった刀は途中で止まる。
 黒い影が、“直次の刀が触れるよりも先に”唐竹に斬られていくからだ。
 刃は触れてもいない。なのに何故?
 疑問に答える者などなく、ただ切り裂かれる黒い影を眺める。次第にあやふやな輪郭が更に不鮮明となり、夜の闇に霧散していく。

「これは」

 影の崩壊は止まらない。影は霧に、霧は霞に、霞は程無くして空気に変わる。直次が手を下すまでもなく、黒い影は雨に流され消えてしまった。
 一瞬の安堵。しかしすぐに緊張が走る。
 黒い影の向こうに、もう一つの人影を見たからだ。

「っ!」

 構え直し影に正対する。今度は黒い塊などではなく、細身ではあるが鍛え上げられた体躯を持った大男だ。手にした刀は実に見事なもの。これ程の業物はなかなかお目に掛かれない。
 前傾姿勢のまま微動だにしなかった男は、ゆっくりと体を起こしていく。
 雨に打たれながらも冷や汗が流れる。
 しかし逃げる気など毛頭ない。
 大男は顔を上げ、その鋭い眼光で直次を見据えた。

「む、直次……か?」

 一気に脱力感が襲ってくる。
 雨に濡れた総髪の大男、それは見慣れた友人だった。



 ◆


 
 あの影が消えたせいなのだろうか、雨足は少しずつ弱まってきた。
 三人はずぶ濡れになりながらも軒先へと戻ってただ空を見上げていた。雲は流れ段々と薄くなってきている。もうしばらくすれば雨は上がるだろう。

「お武家様、案外と強かったんだね」

 夜鷹は心底意外とでも言いたげな声音だった。

「え? いや、それは」

 位置的に夜鷹にはよく見えていなかったらしい。本当はあの影を斬ったのは直次ではなく甚夜だ。訂正しようと思ったがそれよりも速く甚夜が口を開いた。

「確かに。あれに斬り掛かるほどの気概を見せるとは」

 無表情で、しかし声にはどこか嬉しそうな響きがある。あの影を誰が斬ったかなど彼自身が一番理解しているだろうに、本気で感心しているような口振りだった。

「いえ、ですから」

 声を掛けると甚夜は首を横に振る。直次が影を斬った、そういうことにしておけ。大方そんな意味なのだろう。更に反論をしようとするも、被せるように夜鷹が言葉を発する。

「ねえ浪人」

 夜鷹は当たり前のように甚夜へと声を掛けた。
 その呼び方にこの二人が既知の間柄なのだと知る。直次にはそれが意外だった。知り合ってからそれなりに時間は立つが、この友人は案外と固い性格をしており、夜鷹を買うような男には思えない。どのような経緯で知り合ったのか、直次には想像もつかなかった。

「結局、あの黒い影は鬼、だったのかい?」

 二人の関係は確かに疑問だが、あの影の方が今は気になる。
 あれが何者だったのか、何が起こったのか。直次もまた黙って甚夜の返答を待った。

「あれは鬼になりきれなかった未練だ」

 しかし返ってきた答えも意味の分からないものだった。

「だから定型を持たず、傍から見ればどんな姿にも成り得る。元が元だ、他者の未練とも相性が良かったのだろう」

 正直意味が分からず、顎を軽く掻いて頭を捻る。直次の様子に甚夜は説明を付け加えた。

「分かり易く言えば鏡だ。かつて失ったものか、今も尚拘るものか。見る者が未練を残した誰かに姿を変える。<力>も持たず、鬼にさえなることなく怪異を引き起こす想いなぞ流石に初めてだな」

 鏡。
 だから直次にはあの影が兄に見えた。其処に捨てきれぬ未練があったから。
しかしいなくなった兄に未練はあれど、既に決着はついている。だからだろう、近付けばただの影に変わった。

「未練、ねぇ」

 だから夜鷹には“あの人”に見えた。
 其処には捨てきれぬ未練があったのだろう。
 それがどのようなものかを知る術はないのだけれど。

「全部捨ててきたつもりだったんだけどね」
 
 直次は夜鷹の過去を知らない。
 だから彼女が影に誰を重ね、何を見たのかなど分かる筈もない。
 当然だ。どれだけ聡明な人間であったとしても、物語の裏側で何が行われていたかを見ることは出来ない。彼女が澄ました顔の下でどんな思いを抱いているかなど、彼女にしか理解できないことだ。

「それでも、捨てられぬものはあるさ」

 彼にもまた、そういうものがあったのだろう。
 表情は変わらず、声も平静。その全く感情の乗らない言葉が、逆に痛みを強く感じさせた。 

「なら、浪人」

 消えた影が立っていた場所を尚も眺め続ける夜鷹は、投げ捨てるようにそう言った。

「あんたは、雨の向こうに何を見たんだい?」

 虚を突かれたように立ち尽くす。相変わらずの仏頂面で、内心を読み取ることは出来ない。

「昔は、一太刀も入れることが出来なかった」

 自嘲するような、落とすような、静かな笑みだった。

「毎日のように木刀を振り回して、簡単にあしらわれて。……なのに斬れてしまった。多分、それを寂しいと思っているんだろうな」

 夜鷹は甚夜の過去を知らない。
 だから彼が何を言っているのかは分からない。
 結局はそういうもの。
 人が知ることの出来る範囲には限りがある。
 それはどうしようもないことなのだ。

「へえ……。ま、詳しくは聞かないよ」
「助かる」
「だろう? あたしに下世話な趣味はないんだ」

 以前の意趣返しなのか、横目で直次のことを盗み見る。はは、と乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
 そうしてまた空を見上げた。 
 雨はいつの間にか止んで、灰色の曇の切れ間から、青白い月が顔を覗かせる。静けさに染まる夜がようやく戻ってきた。

「さてと」

 雨上がりの夜空を眺めながら、夜鷹は軽やかな足取りで軒下から離れる。

「もう、行かれるのですか」
「ああ、今日は仕事をする気にはなれないからね。帰ってとっとと寝るよ」

 仕事。思わず眉を顰める。彼女は夜鷹。だから男と閨を共にしなければ生活さえままならぬと知っている。十分に理解しながら、それでも胸には言い様のない感覚が去来し、直次は口を噤んだ。
 それが面白かったのか。夜鷹は見透かしたように笑い、

「じゃあね浪人、それに……直次様」

 何処か弾んだ声を残して、夜に消えていった。





 
 直次と夜鷹の出会いには、偶然が重なり関わり合うこととなった。
 しかし其処から先の話を甚夜は知らない。
 二人がどうなるか、その結末は知っていても、彼等が一体どんな道筋を辿ったのかは分からない。
 それはあくまでも夜鷹と武士の恋の話であり、憎悪に駆られ鬼を討つ男の物語から見れば余談でしかないのだ。
 故に『雨夜鷹』は彼の知らぬところで始まり、知らぬ間に終わる。

 人が知ることの出来る範囲には限りがある。
 
 何処まで行っても、人は自分に見えるものしか見ることが出来ないのだろう。









 ◆






「みやかちゃん、みやかちゃんてば」

 ゆらゆらと揺れている。
 耳元で聞こえる優しい声。くすぐったくて、でも気持ち良くて、もう少しだけこのままでいたいと思ってしまう。私はしばらくまどろんでいて、

「もう、劇終わっちゃったよー」

 けれどひときわ大きく揺さ振られて、驚きに目を覚ました。

「あ、起きた?」
「……かお、る? あれ、私眠ってた?」
「うん、ぐっすり」

 にっこりと笑ってるけど、物凄い勢いで体を揺さぶっていたのは間違いなく薫だ。いくら起こす為とは言え流石に乱暴じゃないだろうか。

「って、劇は?」
「もうとっくに終わったよ」
「あぁ……そう」

 やってしまった。周りを見れば生徒は席を立ちホールから出て行こうとしている。劇の終わりにも気付かないなんて、どうやら本当にぐっすり眠ってしまっていたようだ。

「どうしよ」

 言葉は軽いけど、結構真剣に悩んでしまう。というのもこの芸術鑑賞会の後には、劇の内容や感想をレポートにして提出しないといけないのだ。ほとんど見ていないのにどうやって書けばいいんだろう。

「ちょっと手伝うね」
「……ありがと、薫」

 幼い顔立ちの薫が救いの女神さまに見えた瞬間だった。





 学校に戻ってからは、感想を書くために自習の時間が与えられた。
 教室はざわざわと騒がしい。先生がいないから皆適当に書き終えてめいめい勝手に話をしている。私はというと薫の席まで行ってみてもいない劇の感想を書くために四苦八苦していた。

「こんな感じでいい?」
「うん、それくらいなら大丈夫だと思うよ」

 何とか体裁を整え、ほっと一息。私も他のクラスメイトに倣い自習の終わりまで話をすることにした。

「でも勿体無かったね。劇、面白かったよ」

『雨夜鷹』は薫の趣味にあったらしく、随分楽しそうだった。

「ね、結構面白かったよねー」

 言いながら隣の男子にも声を掛ける。彼はまだ感想を書き終えてなかったようだが、顔を会が得て仏頂面で返した。

「ああ、朝が……梓屋」
「ちゃんと名前覚えてよ……」

 薫は不満そう、というか若干落ち込み気味になる。

「いや、すまん。覚えていない訳ではないんだが、どうもその顔を見ると、な」
「そんなに私と似てたの?」
「ああ、よく似ているよ。まるで天女のような女だった」
「もう、またそういうこと言うー」
 
 この二人、席が隣同士のせいか結構仲が良い。私の知らないところでも話をしているんだろう、会話は全く理解が出来なかった。

「そういえば薫、葛野君と随分仲良くなったよね」
「へへー、ちょっとね」

 含み笑いで返される。なんだろう、すごくひっかっかるんだけど。

「なんだかなぁ。でも、そんなに面白かったの?」

 聞いても答えてくれなそうだし、彼に劇の話を聞いてみた。というかそんなに面白い面白いと言われると流石に気になってくる。

「それなりに興味深くはあった。……直次の友人である浪人が悉く無能に描かれている点は解せんがな」

 そう言えば彼の名前は直次の友人と同じだった。自分と同じ名前を持つキャラの扱いが悪いのに文句があるんだろう。喋り方は硬いのになんか子供っぽいところがあると思う。

「助けに来たのに結局鬼を倒したのは直次だったしねー」
「うむ。夜鷹の手記には悪意を感じる」
「あはは、言い過ぎだよー。それに夜鷹は直次のことが好きなんだから、どうしてもそうなっちゃうんじゃないかなぁ、きっと」

 それでも納得はいっていないようで、彼は腕を組んで憮然とした表情をしていた。

「でもあそこは良かったと思うよ? 直次の家での稽古のシーン」

 その時はちょっとだけ起きてたから分かる。確か、武士と浪人が庭で木刀で稽古をしていて、武士の妻となった夜鷹と浪人の娘がそれを眺めているシーン……だったと思う。寝ぼけていてあんまり見ていなかったから話に加われるほどじゃないけど。

「ああ……」

 彼も同意見なんだろう。珍しく、軽く落とすような穏やかな笑みで返した。
 
「ねえ、それってどんなの?」

 二人で仲良く話をされるとちょっと寂しい。取り敢えず口を挟んでみると、薫は笑顔で答えてくれた。

「あのね、夜鷹が、浪人の正体が鬼だって気付いているのに、気付かないふりをして気遣うとこ」




 そう、人が知ることの出来る範囲には限りがある。

 どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。
 例えば、先に店を出た生真面目な武士はここ数日雨など降っていなかったという事実に最後まで気付くことはない。
 同じように鬼を討つ男も、夜鷹が雨の中に何を見たのかなぞ分かる筈もない。
 そもそも蚊帳の外にいる店主らは、何があったのかさえ知り得ない。
 それぞれが“自分”を生きる以上、そこから食み出たものは所詮余所事。
 今を生きる者は自分の物語しか見ることは出来ず、『雨夜鷹』はどこまでいっても夜鷹と武士の恋の話でしかない。

 
 けれど忘れてはいけない。
『見えない』と『無い』は同義ではない。


 誰に見えなくとも、それは確かに在って。
 だからいつかは気付くこともあるだろう。
 かつては見えなかったものに。
 其処に隠れた、小さな小さな優しさに。




「夜鷹にはやられたよ……そんな素振り見せもしなかった癖にな」

 感慨深げに溜息を吐く。そんなにいいシーンだったんだろうか、こいつの反応にちょっと興味がわいてきてしまった。

「ほんと、あの女優さん演技上手かったねー」

 二人は演劇の話で盛り上がっている。私は取り残されてしまって、なんかちょっとだけ寂しい。

「……DVDとかレンタルしてないかな」
「え? あ、そっか。みやかちゃん途中で寝ちゃったもんね」
「うん、ちょっと見直そうかなって」
「DVDは分からないけど、文庫本にはなってるみたいだよ」

 文庫本か。今度本屋でも探してみようかな。

「ふむ。なら私も探してみるか。本当は夜鷹の手記が読めればいいのだが」
「そっちの方が興味あるの?」

 薫の疑問に彼は重々しく頷いて見せる。 

「ああ、特に浪人の扱いに関しては」

 彼はどれだけ大人げないんだろう。
 というかなんか夜鷹に恨みでもあるんだろうか?
 でもあんまりにも真面目な顔で言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。つられたように薫もくすくすと笑っている。それでも憮然とした表情を崩さない彼がおかしくて、私達は更に笑った。
 教室の窓からは五月の風が流れてくる。緑の香りを纏った風が心地よい、抜けるような晴れの日のことだった。









 ◆


「じゃあね浪人。それに……直次様」

 虚を突かれた直次は、金縛りにでもあったように固まった。
 今まで頑なに名を呼ぼうとしなかった夜鷹が、最後に己の名を呼んでくれた。その意味を考える。もしかしたらという期待とただの気まぐれではという疑念。結局答えは出ず、隣にいる友人へ声をかける。

「……あれは、どういう意図だったのでしょう」
「さて、な。少しは希望があるということじゃないか?」

 気楽な答え。珍しく友人はにやりと面白そうに笑っていた。

「そ、そうでしょうか」
「多分だが。しかしまあ」

 笑みはそのままに呆れたように溜息を吐いて甚夜は言った。

「よく分からん女だ」

 人が知ることの出来る範囲には限りがある。
 いつかはその優しさに気付く日が来るとしても、しばらく夜鷹への印象は変わりそうもなかった。





 鬼人幻燈抄 余談『雨夜鷹』・了
 次話 江戸編終章『残雪酔夢』





[36388]   終章『残雪酔夢』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/04/09 18:14
 

 今も、雪が、止むことはなく。


 ◆


 安政三年(1856年)・冬

 一片、一片、音もなく降る雪。
 緩やかに咲く雪花の夜。 
 しかし飛び散った血は妙に赤々としていた。
 此処は埃臭い屋敷の一室。
 巣食っていた最後の鬼を葬り、血払いをして刀を鞘に納める。
 既に鬼は蒸気となり掻き消え、甚夜は斬り伏せた鬼の死骸があった場所を無言で見つめていた。
 金の為、同胞を当たり前のように斬り捨てる。思えば随分と慣れたものだ。
 躊躇いも後悔もありはしない。昔は鬼を斬る度に何か感じていたような気もするが、今となっては思い出すことさえままならず、ただ結果だけがそこに転がっている。

 変わらないものなんてない、随分と昔に誰かが言った。

 或いは、捨て切れなかった心まで鬼に近付いているのかもしれない。斬ることに疑いさえ持たなくなった自身が無様に思えて、甚夜は小さく溜息を吐いた。
 だとしても生き方は曲げられぬ。
 振り返ることもなく部屋を後にすれば、其処に何かを落してしまったような気がした。




 夜半、雪は強くなった。

「ありがとうございます……これは、少ないですが」

 降りしきる雪の中、寒さに体を震わせることさえなく門の所で待っていたのは、白髪交じりの髪に皺の目立つ顔をした初老の男だった。
 この屋敷に仕えていたという男は綺麗に折り畳まれた布を手渡す。じゃり、と言う音が聞こえた。おそらく僅かながらに銭が入っているのだろう。中身を確認せず懐に仕舞いこむ。然程重くなかったからだ。

 江戸城の西側に位置するこの武家屋敷の主は、数日前突如として失踪したらしい。そして入れ替わるように現れた十を超える鬼。初老の男は命からがら逃げ出し、鬼を狩る男がいるという噂を頼りに甚夜の元へと辿り着いた。

『主を殺した鬼を討ってくれ』

 それだけが男の願いだった。

「長綱様は雪月花を肴に酒を呑むお方でした。墓を造り、好きだった酒でも墓前に供えれば、喜んでくださるでしょう」

 今は亡き主を思い出したのだろう。寂しげな語り口が冬の空気を震わせる。肩に積もる雪を軽く落とし、男は頭を下げた。

「では、失礼します。本当にお世話になりました」

 曇天の下、ゆっくりとした足取りで去っていく。
 貴方はこれからどうされるのですか。
 背中に問い掛けようと思い、途中で止めた。全てを亡くした初老の男。その道行きがどうなるのかなど誰にも、本人にさえ分からない。だから問う意味はない。
 誰もいなくなった屋敷を眺める。
 最早朽ち果てていくだけの場所は、だからだろう、寂寥の佇まいをしていた。
 そうして男は姿を消し、夜には灰色の雪だけが残された。
 雪夜は続く。しんしんと、音も匂いも静かに消して。



 鬼人幻燈抄 江戸編終章『残雪酔夢』





 昨夜の立ち回りで疲れていたのだろう。目が覚めた時には部屋に差し込む光は昼のそれとなっていた。
 甚夜が住まうのは深川の外れにある貧乏長屋で、壁も薄く生活の音は筒抜けだがそれなりに満足していた。
 江戸に来てから住居を三度ほど変えている。老いぬ己に違和を持たれぬ為だが、この住処に移り住んでからはそれなりに長い。だがそろそろ新しい所を探しておかなくてはいけないだろう。

「おとっつぁん、お酒は控えないと」
「まあいいじゃねぇか、偶の休みなんだ。お前も呑めよ」

 こじんまりとした部屋を出て喜兵衛へ向かおうとすれば豪快な笑い声が聞こえてくる。三軒向こうの親子の会話だ。どうやら昼間から酒を呑んでいるらしい。娘は嗜めるようなことを言っているがその口調は優しい。声だけだが仲のいい親子だと分かる。他人事でもそれは心地好く、自然と足取りは軽くなった。








「随分と寒くなりましたねぇ」

 昨夜の雪は積もることなく溶けて消えた。それでもひりつく程に冬の空気は冷たく、ほう、と吐いたおふうの息は白い。かじかんだ手を擦り合わせる仕種に、今更ではあるが冬の訪れを強く感じた。

「すみません、手伝ってもらってしまって」

 おふうと甚夜は買い出しを終え帰路に付いたところだった。
 甚夜の手には二本の酒瓶、右腕には白菜などの野菜。それぞれ風呂敷に包んだものを抱えている。荷物は全て彼が持ってしまい、手ぶらで歩くおふうは申し訳なさそうに頭を小さく下げた。

「いや、構わん」
 
 別段気にしてはいない。元々今日はおふうの手伝いをするために喜兵衛を訪れたのだ。というのも、今晩はちょっとした祝い事があり、そのための準備をすると知っていたからだ。

「重くありませんか?」
「まさかだろう」
「それはそうなんですが」

 人の姿をしていようとその本質は鬼。この程度の荷物を重いなどと思う筈がない。分かっているだろうに、それでも聞いてしまう辺りが彼女らしいところではあった。

「そう気にするな。私とて祝ってやりたい気持ちはあるんだ」
「あ……」

 一瞬呆けたように口を開き、甚夜の言葉を咀嚼して飲み込み、おふうはたおやかな笑みで返した。

「はいっ、そうですね」

 何気ない言葉だった。それがおふうには嬉しかった。
 いつか“それしかない”と語った彼が、祝ってやりたいと素直に言えるようになった。巣立つ雛鳥を見るような、得も言われぬくすぐったさがあった。

「で、他にもあるのか」
「いいえ、食材もお酒も買いましたし、もう大丈夫です」
「なら帰るか」
「はい」

 おふうと二人で歩く時は自然と少しだけゆっくりになる。目の端に映った花に足を止め、これは何の花だとかこんな説話があるだのと話すのが常だった。
 今は冬、花はほとんど見当たらず、しかしいつもの癖かのんびりと二人は歩く。それが心地よい。心地好いと思える程度には、甚夜にも余裕が出来ていた。
 
「あれ、あそこ」

 帰路の途中、通りに人だかりを見つけ、おふうが声を上げた。

「随分にぎわっているみたいですけど」

 ざっと見ただけでも町人と武士、男と女、様々な人が集まっている。よく見ればそこは酒屋の前だ。皆店が開くのを今か今かと待ち望んでいる様子だった。
 ちょうどその時がらりと引き戸の開く音が響き、中から痩せた小男が出てくる。そして貧相な外見とは裏腹によく通る大きな声で言った。

「さあさあ、皆々様お待たせいたしました! “ゆきのなごり”再入荷致しました!」

 酒屋の店主の言を受け民衆は更にざわめいた。歓喜と言っていいだろう。皆一様に興奮している。

「一口呑めば心を奪われ、一合呑めば天にも昇り、一升呑めば戻ってこらず……なんてことは御座いませんが、銘酒“ゆきのなごり”。どうぞこの機会にご賞味あれ!」

 それを皮切りに、雪崩れ込むような勢いで酒屋に人が詰め寄せる。周りが見えていないのか、男も女もなく乱闘のような形で件の酒を求めていた

「三本だ! 三本くれ!」
「こっちもだ!」

 銭を握り締め、我先にと押し合いへし合い。酒を手にいれようと躍起になっている。土煙が巻き上がるほどの混雑に、おふうは唖然としていた。

「すごい勢いですねぇ」

“ゆきのなごり”
 聞いたことのない酒だがあの様子を見るに随分と人気の品のようだ。甚夜もそれなりに酒を嗜む。あの熱狂を生み出す酒に興味が無いと言えば嘘になる。

「折角ですし、私達も行きます?」
「いや、興味はあるが……流石にこれではな」

 両手の荷物を上げて見せる。
 重さで言えば問題はない。この身は鬼、米俵の一つや二つ片手で持ち上げる程度の膂力はある。しかしそんなことをすれば怪しまれるだけ、敢えてしようとは思わなかった。

「そうですね。お酒は買ってありますし、今回は止めにしましょうか」
「ああ」
 
 興味を引かれるのは事実だが、あの騒ぎに首を突っ込むのも面倒だ。好奇心を抑え、二人は再び歩き始めた。
帰れば祝いの準備がある。
 夜までは少しばかり忙しくなりそうだ。


 ◆


「ども、失礼しますよっと」

 冬の日が落ちるのは早い。僅か一刻で昼と夜が入れ替わる。辺りは夜に覆われており、空気は一段と冷えた。
 夜の寒さに体を震わせながら、風呂敷に包まれた荷物を抱えた善二は喜兵衛の暖簾を潜った。
 既に甚夜と奈津は店の中にいる。店主は奥の厨房で忙しなく手を動かしていた。

「遅かったじゃない」
「すいません、御嬢さん。なんせ仕事が忙しかったもんで」

 善二はにまにまと口元を緩ませている。忙しいと言う割に随分と機嫌が良さそうだ。

「まあ、今日はあんたが主賓なんだから別にいいけど。直次様もそろそろだと思うんだけど、って」

 示し合わせたように暖簾がはためき、糊のきいた着物を纏った生真面目そうな武士、直次が姿を現す。

「おう、直次」
「善二殿。遅くなって済みません」
「いやいや、今日は来てもらって悪いな」

 店内にはいつもの顔触れが揃った。善二はうずうずと体を小刻みに振るわせている。待ちきれないと言った風情である。

「これで揃いましたね。では始めましょうか」

 おふうがそう言うと、皆が一斉に善二の方を向く。視線が集まり流石に照れたのか、若干赤くなっている。

「いやあ今日は俺の為に集まってくれてすまん。思えば俺が須賀屋に来たのは」
「そういうのいいから」
「御嬢さん冷たい……ま、俺も方っ苦しいのは苦手だし、簡単にいくか」

こほん、と一度咳払い。揃ったものの顔を見渡す。
そうして一呼吸置き、満面の笑みで善二は言った。

「この度、わたくし善二は須賀屋番頭を務めることに相成りました! それに際しこのような祝いの席を設けて頂けたこと、心より感謝いたします!」

 固い物言いとは裏腹に、彼の目は喜びに潤んでいる。
番頭(ばんどう)とは商家において経営のみならず、その家政(家系において営まれる事業から家事全般)にもあたる役職を指す。とどのつまりが商家使用人における最高の地位である。

「おめでとうございます、善二さん」
「いや、おふうさんありがとう」

 にこやかに祝いの言葉をかけるおふうに甚夜も続く。

「おめでとう。重蔵殿をしっかり支えてやってくれ」
「おう、任せとけ。俺がもっと須賀屋をでかくしてやらぁ」。

 直次や奈津からも声を掛けられ、店内が騒がしくなった頃、厨房で忙しなく手を動かしていた店主が手に大きな土鍋を持ってやってきた。

「っと、お待たせしました。どうぞ食って下せえ」

 食卓の真中におかれた土鍋の中身はぐらぐらと煮立っている。
 出汁と醤油で作った割り下に、白菜やネギなどの野菜類、そして一面には軍鶏の肉が陣取っていた。

「おお、軍鶏鍋!」
「こんな日まで蕎麦じゃ味気ないでしょう。ですから、ちっと奮発させてもらいやした。ま、素人芸ですがね」
「親父さん、いや、ありがてえ」

 思わぬ御馳走に感激する善二に、今度はおふうが声を掛けた。

「こっちの方もありますよ、どうぞ」

 猪口を善二に渡し、徳利から人肌に温められた酒を注ぐ。そのあまりの透明さに善二は目を見開いた。

「下り酒じゃないか。こんないい酒どうしたんだ?」

 江戸近辺は醸造技術が発達しておらず、酒と言えばどぶろくのような濁り酒に近いものが主だった。その為上方で洗練された江戸に運ばれた澄んだ酒は下り酒と呼ばれ、大いに持て囃された。とは言え値段も非常に高く、一般庶民ではなかなか手の出ない高級品だった。

「甚夜君が用意してくださったんですよ」

 その言葉にちらりと表情を盗み見れば、いつも通りの仏頂面で甚夜が椅子に座っている。

「まあ、折角の祝い酒だからな」

 視線を合わせないのが照れ隠しだと分かったから、店内に小さな笑いが湧き上がった。

「泣かせる真似してくれるなぁ。有難く頂くよ。さ、冷めないうちに皆も食おう」

 そうして皆鍋をつつき、酒を煽り祝いの席を楽しんだ。肉など滅多に食べないからだろう、専門ではない軍鶏鍋も喜んで頬張っている。店主を除く男三人は食べるよりも飲む方がいいようで、結構な速度で酒を消費していった。

「っかあ、うめえ。流石にうわばみの甚夜が選んだ酒だな」
「一応、褒められていると思っておこう」
「一応も何も褒めてるんだよ」

 とても褒め言葉とは思えないが、いい加減長い付き合いだ、彼の言葉選びの下手さは十二分に理解している。さらりと受け流し甚夜もまた酒を煽る。喉を通る熱が心地よい。旨い酒だ。以前、酒を旨くしてくれる呑み友達がいた。そいつと呑んでいた頃と変わらない旨さだった

「御嬢さんらは呑まないんで?」
「私はいいわ」
「すみません、私もちょっと。ささ、善二さんもう一杯どうぞ」

 二人とも酒は苦手らしく、軍鶏鍋をつつきながら茶を啜っている。断る代わりにおふうは次の一杯を注いだ。

「こいつはすいません。親父さんは?」
「俺ももう歳なもんで。昔ほどは呑めませんよ」
「何言ってんですか、まだまだ若いですって……おっと、そういや忘れてた」

 宴もたけなわという所で、何かを思い出したのか、善二は自分が持ってきた手荷物の方に向かう。そうして風呂市区に包まれたそれをどんと卓の上に置いた。

「どうしたんですか、善二さん」
「ああいや、俺も酒を持ってきてたのを忘れてたんですよ」

 風呂敷を取り去って、中から陶器の瓶を二つ取り出す。五合程度の瓶は随分と立派なもので、それが高級な酒だというのが見て取れた。

「最近巷で話題の酒なんだが、旦那様が毎晩旨い旨いって呑んでるから気になって買ってみたんだ。今日はみんなで呑もうと思ってな」
「“ゆきのなごり”か」
「お、やっぱ甚夜は知ってたか」

 知ったのは今日のことだが、成程あの熱狂ぶりだ、巷で話題と言うのも納得が出来る。

「こいつは冷やで呑むのが一番だって旦那様が言ってたからな。すんませんおふうさん、杯あります?」
「はーい」

 ぱたぱたと奥へと向かい、先程の猪口よりも幅広の杯を三つばかり持って戻ってくる。受け取り手酌で注ごうとして、酒瓶に伸ばした手は空を切った。

「お、御嬢さん?」

 善二よりも早く、奈津がそれを取りゆったりとした所作で酌をする。しばらくその意外さに呆けていたが、照れたように頬を赤く染め奈津は言った。

「祝いの席なんだし、偶にはね」

 その笑顔はあまりに柔らかで、思わず善二の目が潤む。

「おおぉ、まさか御嬢さんの酌で酒を呑める日が来るなんざ。長生きはするもんだなぁ」
「あんたまだ二十六でしょ」
「気分ですって、気分。いや、あんな生意気だった御嬢さんが……なんか感慨深いんですよ」
「……今夜は聞き流しといてあげる」
「あ、はい。すいません」

 何処まで行っても二人の力関係は変わらないようで、それがおかしくて皆笑った。
 なみなみと注がれた杯を、愛おしそうに、そっと口を付ける。そうして一気に酒を煽り、

「ぶはぁっ!」

 善二は思い切り口から吐き出した。

「ちょ、汚いわね! 何してるのよ!」

 自分が注いだ酒を吐き出され若干苛立ったのか、ほとんど睨み付けるような表情だった。しかし気にする余裕など善二にはない。ごほごほと苦しそうに咽こんでいる。

「な、んだこら。辛くてきつくて飲めたもんじゃねえよ」
「え?」

 気になったのか直次も手酌で酒を注ぎ少し口に含む。

「ぐっ、これは」

 目を細め、痛みに耐えるような顔だ。ゆっくりと喉に流し込むのもかなり辛そうに見える。

「確かにこれはきつい。吐くほどではありませんが、正直美味しいとも思えません」

 そう言って盃を卓に置く。初めの一杯は呑み切ったが、次には手が出ないようだ。表情は彼にしては珍しく不満気だった。

「まったく、嫌な気分にさせてくれましたね」
「い、いや、それを俺に言われてもよ」

 普段温和な直次の辛辣な物言いに思わずたじろぐ。
 
「甚夜も呑んでみろ」

 やけになって善二は殆ど無理矢理盃を押し付けてくる。評判は芳しくないが昼間あれ程の熱狂を誇った酒だ。正直興味があり、甚夜も酒に口を付ける。

「む……」

 辛いということはない。寧ろ薄く、酒の香気も喉を通る暑さも全く感じられなかった。
 以前友人が呑んでいた水で薄めた酒よりも更に薄い。ほんのりと酒の香りがするだけで、殆ど水と言っていいくらいだ。ただ風味自体は悪くない。どこか懐かしいと思わせる、素朴な香りだった。

「不味くはない。が、薄いな」

 その感想に二人は信じられないとでも言いたげだ。

「……これを薄いとか、このうわばみが」

 返ってきた視線は実に冷たい。確かに二人よりは酒に強いが、其処まででもないつもりだった。しかし事実としてこの酒は薄く感じられる。甚夜には二人の反応こそ信じられなかった。

「あー、おふうさんも呑んでみます?」
「え、ええと。私はお酒が苦手ですので」
「自分が吐きだしたようなもの勧めないでよ。というかそれ、ほんとに話題の酒なの?」
「間違いないですって。実際旦那様は旨い酒だって言って毎晩呑んでるし」
 
 せっかく買ってきた酒は誰にも呑まれることなく、先程までは騒がしかった店内は静まり返ってしまった。居た堪れない心地で善二はぼやく。

「なんか、最後の最後にしらけちまったな」
「まったくです」
「直次、そう怒んなよ。あーあ、これ旦那様にでも差し上げるか。高かったのになぁ」

 がっくりと肩を落し項垂れる。 楽しい筈の祝いの席は、暗い雰囲気のまま終わることになった。無言で片付けが始まる中、甚夜は残された“ゆきのなごり”を一口だけ呑んだ。

「薄い……」

 でも懐かしく、馴染むような味がした。





[36388]      『残雪酔夢」・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/04/15 18:55
「おとっつあん、もう少しお酒控えた方がいいんじゃ」
「うるせえなあ。いいじゃねえか、こんぐらい」
 
 翌日、黄昏が夜に変わる頃甚夜は長屋を出た。
 三軒隣の親娘の会話が聞こえる。相変わらず父親の方は酒が好きなようで、娘に窘められても止めようとはしない。それどころか体を気遣っての言葉さえ鬱陶しそうに聞き流していた。一杯は人酒を飲む、二杯は酒酒を飲む、三杯は酒人を飲むという。程々に楽しめばいいものを、量に計りを付けられないのが酒である。
  
 親娘の言い争いを通り過ぎ、夜の喧騒に満ちた大通りを抜け、神田川が隅田川へ流入する落口に架けられた柳橋へと辿り着く。目を凝らせば橋の中腹辺りに人影を見る。相手もこちらを見つけたようで、気だるげに笑って見せた。

「ああ、浪人」

 夜鷹。奈津と同じ年頃でありながら春を売る女。
 彼女は相も変わらず夜鷹として在り続ける。直次はそれを快く思っていないようだが、無理に止めることも出来ず悔しそうな顔をしていた。だからという訳でもないが、近頃は夜鷹から頻繁に情報を買っている。払う銭に色が付いたのは気のせいだろう。

「随分と寒くなったねぇ」
「仕事を探している。なにかあるか」
「おやおや、世間話に付き合ってくれてもいいじゃないか」

 小さな溜息。普段でも白い肌は、寒さのせいかいつもより更に青白く見えた。

「む、済まん」
「別にいいさ。仕事だろう? いくらでもあるよ」

 ゆるやかに笑う。以前と変わらない筈なのに、立ち振る舞いには余裕があるように思えた。

「なんか最近鬼の噂が多くてね。家で寝ていた病気の息子が鬼にとってかわられた。橋の下に数匹の鬼が屯っていた。喋る刀があった。後は……金の髪をした美しい鬼女が夜の町を練り歩いていた。所詮寝物語、どれだけ信用できるかは分からない。でも流石に多すぎると思わないかい?」

 甚夜も感じていたことだった。先日の武家屋敷でもそうだったが、一度に十を超える鬼が現れるなど滅多になかった。

「まあ、それだけ不安なのかもしれないけどね。あんたも聞いたことくらいあるだろ、浦賀の話」
「ああ……」

 今から二年前、嘉永六年(1853年)のことである。
 アメリカのマシュー・ペリーが率いる四隻の黒船が浦賀に来航する。蒸気船の存在は諸外国の国力を知らしめる結果となり、江戸の民衆に大きな衝撃を与えた、またこの時アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年には日米和親条約締結へと至る。長年鎖国政策を強いてきた幕府が、アメリカに開国を迫られ大人しく従う姿は多くの者にとって頼りなく映ったことだろう。

「お上がそんななんだ、町人が不安になるのも当然じゃないか」
「そして、人心が乱れれば魔は跋扈する、か」

 少しずつ徳川の治世は揺らぎ、いまや日の本は混迷の時代へと差し掛かろうとしている。或いは渦巻く疑念と不安が鬼を江戸へと誘ったのかもしれない。

「そういうことだろうね。最近聞く話といったらお上への不満か鬼の噂、後は酒くらいのもんさ」
「酒?」
「ん? あぁ、最近流行の酒があってね。随分高いみたいだけどそれを買ったって自慢げに話す男もいたよ。確か、“ゆきのなごり”とかいう」

 ぴくりと眉が吊り上る。
 まただ。
“ゆきのなごり”。酒屋での盛況を見たのだ、確かにあの酒は巷を賑わせているのだろう。しかし実際に呑んだ今、あれ程までに大衆が求めるようなものとは思えなくなってしまった。
 だと言うのに“ゆきのなごり”は事実として江戸の人々に受け入れられている。
 分からない。分からないこそ、その酒の存在は奇妙に思えた。

「味については何か言っていなかったか」
「味、かい? そうだねぇ、天にも昇る極上の酒だ、とは言ってたけど」

 あの薄い酒をか。言おうとして、止めた。薄いと言ったのは己だけだった。周りの者は水のような酒を辛いと言っていた。その違和感を思い出したから、言葉を続けられなかった。
 甚夜にとってあの酒は薄かった。善二には辛くて飲めなかった。直次は美味しいとは思えないと言っていた。須賀屋の店主は毎晩旨い旨いと呑んでいるらしい。
 そして夜鷹の話によれば、極上の酒と言う者もいる。
 あれだけの人気を誇る酒だ、名酒と感じる者は案外と多いのかもしれない。
 それがおかしい。酒の好みはあるだろうが、嗜好云々でここまで味が変わろう筈もない。
“ゆきのなごり”はまるで呑む者によって味を変えているようだ。

「夜鷹、頼みたいことがある」

 あの酒には何かがある。思った時には口が動いていた。

「鬼の噂と並行して“ゆきのなごり”について調べて欲しい。味の良し悪し、売られている店、そもそもどこで作られているのか。何でもいい」
「なんかあるのかい?」
「私にも分からん。何も無ければそれでいい」
「ま、あんたには世話になってるしね。それくらいなら構わないよ」

 鬼が関わっているのかどうかも分からない。ただあの酒が気になった。素朴で懐かしい、しかしあまりにも薄い酒。こうまで引っかかるのは何故だろう。理由は甚夜自身にも理解できなかった。

「助かる。だが無茶はしてくれるな。お前に何かあったら直次に恨まれる」
「ははっ、あんたでも冗談を言うんだね」

 冗談のつもりでもなかったのだが、夜鷹は軽く笑い飛ばす。しかし目には濡れた情の色があって、彼女もまんざらではないのだと感じられた。
そうして一頻り笑った後、不意に夜鷹は空を見上げた。

「ああ、どうりで寒い訳だよ」

 黒の空からひらりひとひら。
 静かに揺れる雪の花。ゆらりゆらりと雪の欠片が降り始めていた。

「雪か」
「もうすっかり冬だね。ああと、仕事の話、途中になったけど、どうする?」

 興が削がれた。曇ったままの胸中で戦いに臨んでも良い結果は得られぬだろう。首を横に振って否定の意を示す。

「そうかい? ならこれで。じゃあね、浪人。」

 挨拶もそこそこに夜の闇へと消えていく。辺りを見回せど人影はない。匂いのない夜に少しだけ足を止め、誘われるように空を仰ぐ。
 今も、雪が、止むことはなく。
 風の冷たさに甚夜は小さく肩を震わせた。


 ◆


 数日後。
 そろそろ出かけようと思っていた時に訪ねてきた、突然の来客。その意外さに甚夜は面食らった。

「……奈津?」

 玄関にいる見慣れた女。しかし住処にまで来るのは初めてで、一瞬思考が止まってしまう。
 貧乏長屋には似合わぬ品のいい赤の着物を纏った奈津は、きょろきょろと周囲を見回している。彼女はそれなりに裕福な商家の娘、長屋住まいが珍しいのだろう。
 とは言え甚夜の住み家には物なぞ殆どない。そもそも寝に帰るだけの場所だ。生活感のない、無味乾燥な部屋だった。

「おはよ、って言ってももう昼だけど」
「ん、ああ。よく此処が分かったな」
「おふうさんに教えて貰ったの。あんた、こんな所に住んでたのね」

 深川は喜兵衛からそう遠くない場所に長屋はある。教えてくれてもいいだろうに、と奈津の視線には軽い非難の色があった。

「お父さん、もういい加減にしてよ!」
「うるせえ! とっとと酒買って来いっつってんだろうが!」

 急に聞こえてきた怒号に奈津はびくりと体を震わせる。

「な、なに? 今の」
「三軒隣の親娘だな。また昼間から酒を呑んでいるようだ」

 相変わらずと言えば相変わらずか。しかし今日の喧嘩は随分と激しいようだ。怒鳴り合いは今も続いており、奈津は怯えた容姿で身を縮こまらせていた。

「で、何の用だ? まさか興味本位で来た訳でもあるまい」

 甚夜の声にはっとなり、佇まいを改める。

「そ、そうね。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」

 ばつの悪い表情で語る奈津。頼りなく潤む瞳は、まだ幼かった頃の彼女を思い起こさせた。




「善二が?」

 取り敢えず部屋に入れ詳しい話を聞く。最中奈津はずっと俯いたままで、目も合わせてくれなかった。

「ええ。最近呑み歩いてばかりでまともに仕事もしないのよ。今日も日本橋の煮売り酒屋に入り浸って……」

 番頭となった矢先にこれである。流石にそろそろ見過ごせないと店主である重蔵も言い出し、降格も十分に在り得るところまで来てしまった。そうなる前に善二を説得したいというのが奈津の考えだった。

「それで? 何故私が呼ばれる」
「一応私も女だしね。呑み屋に一人で乗り込むのは正直怖いもの。その点、あんたが護衛ならちんぴらの百や二百くらい平気でしょ?」

事実ではある。誰にでも勝てると思うほど自惚れてはいないが、そこいらの相手に後れを取るつもりもない。

「お願い、なんならお金も払うから」

 頭を下げる奈津。甚夜が戦うのは<力>を得る為。その観点から言えば彼女の依頼を受け入れる意味はない。

「金など要らん。少しくらいは付き合おう」

 だが真摯な懇願を斬り捨てられるほど冷たくも為れない。付き合いも長いのだ、この程度はいいだろう。甚夜はゆっくりと首を縦に振った。

「……ありがと」

 感謝の言葉と共に見せてくれた素直な笑顔。
 報酬の代わりにしては上等すぎる。甚夜もまた落すように笑った。


 ◆


 訪れた日本橋の煮売り酒屋はそれなりに広く、昼間だというのに二十人近い客が入っていた。充満した酒の香に息がつまったのか、奈津は少し顔を歪ませる。口元を隠しながら店内を見回し、目的の人物を見つけ奥へと入っていく。

「おおぅ、御嬢さぁん。いらっしゃい! こんな場所に何かごよぉですかぁ」

 善二の大声が店に響いた。悪びれた様子もなく杯を傾ける。随分と呑んでいるようで、卓の上には空の徳利がいくつも転がっていた。“ゆきのなごり”。徳利にはそう記されていた。

「なにか、じゃないでしょ! 店を放り出してこんな所でお酒呑んで!」
「いいじゃないですか、うるせえなぁ。きゃんきゃん犬みたいに喚かないで貰えますかね?」
「な……」

 絶句する。善二との付き合いは奈津が一番長く、彼の気性もよく知っている。だからこそ彼に罵倒されることなど考えてもいなかった。

「そんなだから行き遅れるんですよ、御嬢さん。ま、あんたみたいな可愛げのない女欲しがる男なんざいないですけどね」

 怒りか、それとも悲哀か。肩を震わせる奈津を尻目に善二は杯を傾ける。旨そうに呑むものだ。数日前は辛くて飲めたものではないないと言っていた筈だった。

「善二、あんた」
「あ? まだいたんですか鬱陶しいなぁ。さっさと消えてくださいよ」
「それくらいにしておけ」

 暴言を見過ごせず話に割って入る。善二の目には淀むような憎悪、慣れ親しんだ感情が見て取れる。

「邪魔すんなよ甚夜」
「出来んな。酔った上での発言にしても行き過ぎだろう」
「はん、浪人風情がすかしやがって。俺はな、前からてめえが気に入らなかったんだ」

 のっそりと立ち上がり、甚夜を睨み付ける。酔った勢いなどではない、目には明確な憎悪が宿っていた。

「ちょ、善二!? やめなさい!」

 制止の言葉など聞いてはいない、手は今まで呑んでいた“ゆきのなごり”、空になった大きめの徳利に伸ばされる。眼光は更に厳しく、視線だけで殺そうとしているようだ。

「呑み過ぎだな」

 散々鬼を相手取ってきた、今更その程度で怯む訳もない。甚夜は呆れたように溜息を吐き、それが合図になった。

「うるせえ、糞が!」

 馬鹿にされたとでも思ったのか、善二は腕を振り上げ徳利で殴り掛かる。
 だが遅い。無防備な突進に合わせ僅かに体をずらし、一歩を進むと同時に腹へ掌底を叩き込む。

「おごぉ……!」

 手加減したとしても鍛えていない善二の腹は衝撃に耐えられず、膝から崩れるようにその場へ倒れ込んだ。口からは大量の吐瀉物。びくびくと体を痙攣させながら、今まで呑んでいただろう酒を吐き出していた。

「酒は天下の美禄。量に計りは無粋の極みだが、乱に及ぶは無様だろう。しっかりと吐き出しておけ」

 気を失った善二はぴくりとも動かない。呼吸の音は聞こえるので心配はないが、いきなりの流れに奈津は慌てふためいていた。

「ちょ、ちょっと甚夜! あんた、それは流石にやりすぎ」
「そうでもないと思うが。あれは吐いておいた方がいい」
「え?」

 意味が分からず言葉は止まる。いや、止まった本当の理由は店内の空気の変化だったのかもしれない。
  
「おいおい、やってくれるじゃねぇか」
「許せねえなぁ」

 酒を呑んでいた男が次々に立ち上がり、甚夜達を追い詰めるように取り囲んでいく。異様な雰囲気に奈津は怯え、甚夜の背中に隠れた。

「ちょ、ちょっと、なによこれ」
「呑み仲間が殴られ激昂した、という訳でもなさそうだ」

 目には先程の善二と同じく、明確な憎悪がある。殺意と呼べるほどにどろりとした負の感情だ。
 卓に置かれた酒を見る。“ゆきのなごり”、“ゆきのなごり”、“ゆきのなごり”。
 この店では誰もが“ゆきのなごり”を呑んでいた。だから確信する。あれは、まともな酒ではない。

「じ、甚夜」
「目を瞑っておけ。すぐ終わる」

 刀は抜かぬ。斬るつもりは端からなく、だが怪我くらいは覚悟して貰おう。
 波のように襲い掛かる男達。所詮は素人、速度も技もない。一歩を進み距離を潰し、一つ右手で顎を打ち抜く。右足を軸に体を回し手刀で二つ、体を落とし当身で三つ。刹那の内に三人打ちのめしてみせる。
 しかし相手に動揺はない。血走った目で次々と襲い掛かる。殴り蹴り投げ飛ばす。敵わぬと分からぬ訳でもあるまいに、男達は決して止まらない。それは勇敢でも蛮勇でもなく、発狂と言った方が正しい。明らかに男達は正気を失っていた。

「てめぇ!」

 数人の男が徳利やら皿やらを投げ出した。馬鹿らしい。人相手ならばともかくこの身は鬼。そんなもの当たっても怪我さえしない。
 とは言え奈津はそうもいかないだろう。甚夜は庇うように彼女の前に立つ。
全て叩き落とす。腰を落し、手は夜来に掛かり、抜刀しようとしたところで彼の動きは止まった。


「行きぃ、“かみつばめ”」


 突如現れた一匹の燕が中空の陶器をすべて叩き割って見せたからだ。
 有難い。刀から手を離し、地を這うように駆け出す。男達が次のものを投げるより早く間合いを詰め、一気に叩き伏せる。総勢二十一人、片付けるのに然程の時間はかからなかった。



「善二、大丈夫?」

 善二はまだ気を失っている。あれだけ暴言を吐かれてもやはり彼が心配のようで、奈津は傍で声をかけていた。

「取り敢えず息はしている。心配はいらん」

 それに酒も吐かせた。起きた時は多少はましになっているだろう。

「うん……そうね。ありがと」

 まだ心配ではあるのだろうが、それでも気丈に振る舞う。こういうところは幼いころから変わっていなかった。


「それにしても……ほんと、あんた無茶苦茶よね」

 店内を見回せば伏したままの男達。
 二十人以上相手にしておきながら、甚夜は息も乱していない。強い強いとは思っていたが、ほとほとこの男は人間離れしている。ちんぴらの百や二百は平気。自分で言っておいてなんだが、見せつけられた光景に奈津は唖然としていた。

「これくらいは問題ない。助けもあったからな」
「助け?」

 不思議に思い声をあげると、背後から答えるように誰かが言った。

「別に、助けんでもよかったとは思うけどね」

 驚きに振り返れば玄関に人影。狩衣を纏った、二十後半の男。彼とは奈津も面識があった。

「手間は省けた。礼を言おう」
「あはは、相変わらずやね君は」

 軽薄な笑みが店内に響く。張り付いたような表情。以前よりも齢は重ねているが、印象は変わらない。何処か胡散臭い男だ。

「久しぶりだな」
「うん、お久しゅう。元気しとった?」

 彼は数年前に出会った“付喪神使い”。
 名を三代目秋津染吾郎という。




[36388]      『残雪酔夢』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/05/21 17:48

「んぁあ……あ?」

 ずくん、と響く腹部の痛みに善二は目を覚ます。
 吐き気も襲ってきたが何故かすきっ腹で、吐くものはなく嘔吐いただけで終わった。
 うっすらと見えてきた辺りの景色。見回して違和感に戸惑う。見慣れた場所。其処は須賀屋の一室、小僧達の共同の寝床となる広間だった。

「あれ、俺何でこんなとこに……」

 窓から差し込む橙色の光。夕方頃だろうか、赤く染まった広間がどこか寂しげに映る。誰もいない。自分はどうして此処で寝ていたのだろうか。善二はぶつぶつと呟きながら、一つずつ指折りを数えるように記憶を辿っていく。

「確か、酒呑んでたような」

 そうだ。浴びるように酒を呑んだ。天にも昇る極上の酒だった。呑んで呑んで、意識がぼやけて、その中で。


 ───うるせえなぁ。きゃんきゃん犬みたいに喚かないで貰えますかね?


 彼女を、傷付ける言葉をぶつけたような気がする。

「あ……」

 そうだ。
 日本橋の煮売り酒屋。心配して訪ねてくれた奈津に、ひどいことを言った。その上友人に殴りかかって、返り討ちにあって気を失ったのだ。
 無様な行いが次々と思い出される。情けない。恥ずかしい。湧き上がる感情に善二は歯軋りをした。なんてことをしてしまったのだろう。

「あ、善二。起きたの?」

 恥辱に顔を歪め力なく項垂れる。時期を計ったように現れたのは、自分が傷つけてしまった娘だった。

「お、御嬢さん!」

 驚いて上体を起こす。ずきん。腹筋を使ったせいか腹がまた痛んだ。

「あつっ」
「無理に起きなくてもいいのに」
「あ、いえ、ですがね」

 思わずどもってしまう。広間に入って来た奈津はあまりにも普段通り。少なくとも善二には。普段と変わらぬ彼女に見えた。

「まだ痛む?」

 傍に座り、気遣うように奈津が言う。何故彼女は。酷いことを言ってしまった。なのに、なんで。善二に彼女の心が分からず、ただ困惑していた。

「え? あ、ああ? はい、ちょっとばかり」
「あいつ、もう少しくらい手加減すればいいのに」
「あー、でも手加減苦手って言ってましたし」
「そう言えばそうね。まったく、融通が利かないんだから」

 くすくす笑う奈津の表情は自然で、どうすればいいのか分からなくなってしまう。

「……すいません」

 言えたのはそんな陳腐な謝罪。

「すいません。本当に、すいませんでした」

 もっと気の利いたことを言いたいのに、零れてくるのは拙い言葉だけ。情けなくて、でも謝ることを止められない。

「謝らないでいいわよ、別に」

 返ってきたのは穏やかな声だった。
 俯いたまま謝り続ける善二に、優しく、本当に優しく奈津は言葉をかけた。

「でもそれが全てじゃない。あんたが言ったんでしょ?」

 それは確かに、いつか彼自身が言ったことで。

「そりゃあ、少しは傷付いたわよ? でもあれが善二の本心でも、きっとそれが全てじゃない。あんたがちゃんと私のことを大切にしてくれてるって知ってるから」
「御嬢さん……」
「だからあんたもそんなに気にしないの。お酒の席での言葉を真に受ける程子供じゃないわよ」

 強がりなのか、本当にそう思ってくれているのか。
 善二には判別がつかず、しかし思う。あの生意気だった娘が、いつのまにかこんなにも優しく笑えるようになった。感慨深いようで、ほんの少し寂しいような。複雑な気分だった。

「でも、すみません。あんときの俺は真面じゃなかった」
「確かにね。いきなり殴りかかってくるんだもの」
「それは……」

 何故だったのだろう。
 きつい筈だった酒。呑んでるうちに慣れたのか、旨く感じるようになった。
 呑んで呑んで、どれだけ飲んでも呑み足りなくて。旨いと思うのに満たされなくて、只管に盃を空けた。
 心地よい気分だった。なのに奈津と話している時、妙に苛立っていた。煩わしくて、鬱陶しくて、とっとと消えろと考えていた。
 傷付けるとすっとした。それくらい彼女のことが憎々しく感じられた。
 しかし甚夜が出てきた瞬間、苛立ち程度では収まらなくなってしまった。死ね。殺してしまえ。憎しみが後から後から湧き出てきた。
 そうだ、善二はあの時甚夜を『憎んで』いたのだ。
 その理由が分からない。酒に酔った勢いでは説明がつかない。気が立っていたのではなく、明確な憎しみがあった。それこそ殺してしまってもいいと思うくらい、あの男が 憎かった。
 それが何故か、自分のことだというのに、善二には分からなかった。

「起きたのか」

 いくら考えても答えは出ない。思索に没頭していたが、重々しい声に心は無理矢理現実へと引き戻された。
 間違いなく今一番合いたくない人の声だった。ゆっくりと顔を上げ、声の主を確認する。

「善二。大層な醜態だったそうだな」

 須賀屋店主、重蔵。その眼は冬の空気よりも更に冷たい。凍り付く、と言うのはこういう心地か。見下すような、汚物を眺めるような、悪意に満ちた視線だった。

「だ、旦那様……」

 口が渇く。喉が痛い。冬の空気の冷たさとは関係なく肌が引き攣る。唾液など出てもいないくせにごくりと喉を鳴らし、緊張の面持ちで次の言葉を待つ。

「次はないと思え」

 その響きは忠告と言うよりも脅迫であった。一言だけ残し、ふいとと目線を切り去っていく。重蔵の後姿には怒気が宿っており、自業自得とはいえ胃が重たくなるのを善二は感じた。

「あー……なんつーか、どうしよ」
「真面目に働くくらいしかなんじゃない?」
「そりゃそうなんですがね」

 折角番頭になったというのにこの有様。少しでも汚名を払拭せねば最悪小僧からやり直しもあり得る。

「取り敢えず、しばらく酒は控えます」
「それがいいわ」

 くすりと零れた笑みに心が温かくなる。
 その笑顔を酔った勢いで壊してしまわなかったことだけは、良かったと思えた。 



 ◆


「おとっつぁん、うちにはもうお酒なんて」
「うるせえ! とっとと酒持ってこい!」

 夜になり、しかし三軒隣りの親娘はまだ言い争いを続けている。
 泣く娘と酒飲みの父。お決まりのやり取りだが、最近は随分と激しくなっている。住処にいても響く声に、少しだけ嫌な気分になった。

 目の前で座り込んでいる秋津染吾郎は、相変わらず軽薄な作り笑いで、その内心を窺い知ることは難しい。持て成しの茶一つ出されていないのが、二人の距離感を如実に表していた。

 聞けば彼は京の生まれらしい。
 普段は根付の職人だが、鬼が出れば付喪神使いとして彼奴らを討つ。彼もまた鬼を討つ者ではあるが、甚夜とは在り方が異なる。甚夜にとって重きは鬼を討つことであり、染吾郎にとって重きは職人としての己。形こそ似ているが彼等は別種と言ってもよかった。

「噂は聞いとるよ。なんや君、有名なんやね」

 人の口に戸は立てられぬ。鬼を討つ男の話は、噂程度ではあるが江戸で語られている。染吾郎もまた鬼を討つ者。自然と耳にする機会もあるのだろう。

「そこそこには、な」

 曖昧に濁せば追及はない。鬼を討つ鬼に興味はあるのだろうが、それは興味でしかなく、不明瞭な答えでも特に気を悪くした様子はなかった。
 そもお互いの関心は何故あんなところにいたのか、その一点に尽きる。二人の交わす言葉は雑談よりも腹の探り合いに近かった。

「お前は何故あんなところに?」

 先に切り出したのは甚夜の方だった。

「ちょい野暮用で……じゃ、納得はしてくれんよなぁ」

 当然だと言わんばかりに目を細める。 
 以前の騒動を最後に一度京へ戻ったようだが、またも彼は江戸に来た。ならば何かしらの目的があるのは間違いなく、それが鬼に纏わる厄介事だと想像するのは容易だった。

「ま、別に秘密にしとる訳でもないし、君ならええか。実はな、京でけったいというか、物騒な事件があってなぁ」
「事件?」
「そ。兄が弟を斬り殺したっていう、まあそれだけならよくある悲劇やけどね」

 しかし予想は簡単に覆される。彼の話す事件は鬼とは何ら関係のない、誤解を気にせず表現するならば、いたって“普通”の殺しだ。確かに物騒ではあるが、染吾郎の言う通り然して珍しいものとも思えない。

「普段やったら僕も気にせんような話やったんやけど、最近似た事件が多いんや。普段は気のいいお人が豹変して周りを殴り散らす。いきなり若いのが暴れ出す。酒飲みの乱闘が、いつの間にか殺し合いに変わる。そんなんが立て続けに起こっとる」

 甚夜の眉がぴくりと吊り上る。性格が変わったような振る舞い、いきなり暴れ出す男達。何処かで聞いた話だ。

「こらおかしい思て調べてみたら、一番最初の事件な。弟が酒好きの兄ちゃんに珍しい酒を買うてきて、その晩酒盛りしながら殺されたらしい。他のも、なんや、暴れとるお人はみぃんな酒を呑んどった。しかも銘柄も同じ、江戸から入って来たゆう酒や。そいつになんかある、そう考えるのが普通やろ?」

 そこまでくれば流石に分かる。つまりこの男も、

「“ゆきのなごり”。僕はそいつの出所を探っとる」

 同じものを追っていたのだ










「秋津染吾郎。お前はあの酒に関して、どの程度知っている」

 夜を歩く。冬の寒さ、問い掛けた声は白かった。

「いんや、ほとんどなんも知らんよ。僕が知っとるのはあの酒が憎しみを掻きたてるもんってことくらいやね」

 憎しみを掻きたてる。確かにあの時の善二の目には、明確な憎しみがあった。殺すことを躊躇わない、苛烈な憎悪。“ゆきのなごり”がそれを誘起するのならば、煮売り酒屋での一件も納得が出来る。 

「そういう君は?」
「私も同じようなものだ。ただ、この先にはあれを大量に仕入れていた酒屋がある。入荷した途端売り切れていたようだが」
「おー、実際に扱っとった店か。そら興味はあるなぁ」

 張り付いた笑みのまま、切れ長の目が夜の先を捉える。
 深川の近隣は元々湿地帯であり、夜ともなれば冷え込みが厳しい。星さえ見えない黒の空、厚い雲。何時雪が降り出してもおかしくなかった。

 そうして辿り着いたのは件の酒屋。
 数日前の日中、店の前はごった返していた。その為建物まではよく見ていなかったが、近付いてみれば木の傷み具合から随分と古い店だと分かる。住宅を兼ねた商家であり、あの時の盛況ぶりから考えればこじんまりとした印象だった。

「態々夜に来たってことは?」
「当然忍び込む」
「そういや、君の<力>って姿を消せるんやっけ?」
「ああ。店の者を脅せば多少は話を聞けるだろう」
「あはは、君普通に人でなしやな」
「何を今更」

 当たり前のことを言われても動揺なぞする筈もない。無表情のまま静かに目を伏せ、左手を腰のものにかける。
 おかしそうに笑っていた染吾郎も一転ひりつくような空気を纏い、眼前の酒屋を睨め付けた。

「でもま、それくらいはした方がいいんかもね。あの酒はけったいにも程があるわ。これ以上広がるんはなんやまずい気がする」
「同意見だ」

 だからこそ手段を選んでいる余裕などない。憎しみを煽る酒。その先がどうなるかを考えれば、多少人道から外れたとて放置できない代物だ。
無表情のまま一歩を進み、其処でぴたりと足は止まる。

「なぁ……」
「ああ」

 引き戸が微かに開いている。戸締りもしないとは不用心な、とも思ったがどうにも様子がおかしい。虫の知らせ、予感。断じてそんなものではない。寧ろ慣れ親しんだに怖気が走る。
 飛沫する脂。鉄錆の香。塗れ味わってきた、ざらついた感触。
 
「血の匂い……」

 冬の冷たい空気のせいだろう。薄く延ばされた香りが針のように鼻腔を突く。
 だとしても躊躇いはない。引き戸に手をかけ、音を立てぬようゆっくりと開ける。踏み入った店内には、いくつもの酒瓶が割られ打ち捨てられていた。壁には亀裂、備え付けられた家具も損壊している。そして酒の香気さえ消してしまうほど濃密な血の匂い。

「こら、まぁ」

 普段の飄々とした態度を脱ぎ捨て、染吾郎が不快そうに顔を歪める。
 店の土間には死骸が転がっていた。纏った羽織を見るにおそらくはこの店の店主なのだろうが、既に人とは思えぬ程無惨な姿になってしまっていた。
 体は血に塗れ、各所が陥没し、関節は在り得ない方向に曲がり、顔は拉げ、頭は柘榴のように潰れている。撲殺されたのは間違いなく、だが流石にここまで歪な死体を見るのは初めてだった。

「けったくそ悪い……」

 何度も何度も殴打し、死んでからも殴り続けなければこうは為るまい。
 正義を気取るつもりはない。それでも悪意が透けて見えるような死に方に染吾郎は吐き気を覚えた。

「ないな」

 そんな心境を慮ることなく、いっそ冷酷な響きで甚夜は呟いた。死体には目もくれず店内を見て回っていたが、何かを見つけなのか、ある一か所で立ち止まっている。
 凄惨な光景を前にして眉一つ動かさぬ。成程、この男は人ではないと改めて実感する。僅かに不快な色を目に宿し染吾郎は呟きの意味を問うた。

「ないって、なにが?」
「“ゆきのなごり”。一本くらいは残ってるかもしれないと思ったのだが」
「前も入荷した途端売り切れたって君が言っとったやん」
「それだけが理由でもなさそうだ」

 くいと顎で示す先には、まだ無事だった棚。酒が陳列されているのだが、その一か所だけがごっそりと無くなっていた。

「確かに、不自然やな」
「おそらく押し入った輩がいる。そしてそいつらの狙いは」
「“ゆきのなごり”……そやけど、たかだか酒の数本で人ぉ殺すもんか?」
 
 言いながら染吾郎は懐に手を入れ、甚夜は夜来の鯉口を切った。

「呑んだだけ人を憎むようになる酒だ。それこそ今更だろう」
「かも、しらんねぇ」

 一度息を吸い、ぴたりと止める。
 そして、 

「いきぃ、“かみつばめ”」

 間近に迫る三つの影。
 振り返りざま、突き出した腕の先から飛び立つ一羽の燕。
 最高速に達した燕は刃物のごとき鋭さで背後から襲いかかろうとした黒い影を貫き、更に翻り急降下。もう一つの影……赤黒い皮膚の、憤怒の形相をした鬼。その脳天から股下までを切り裂いて見せた。

「ほう、見事なものだ」
「……言っとくけど、やらんからね」

 以前奪われた犬神のことをまだ根に持っているのか、染吾郎は半目で睨んでくる。
どこ吹く風といった様子で甚夜は抜刀し、刹那の瞬間、暗がりから影が躍り出た。
 赤黒い肌をした鬼だった。隠し様のない殺意を発しながら、染吾郎の方には目もくれず甚夜に向かって鬼は猛進する。
 技巧のない動きだ。斜め後ろへ左足を退き半身、脇が前から右足を軸に体を回し、捌きと同時に横薙ぎの斬撃。憎悪に曇った目では反応さえできない。瞬きする暇もなく、鬼の胴と下半身は綺麗に離れていた。

「そっちこそ、やるなぁ」

 付喪神を扱う術こそ心得ているが、染吾郎自身は体術に長けている訳ではない。賞賛にはからかいではなく、純粋な敬意があった。
 戦いにすらならず斬り捨てられた三匹の鬼。しかし甚夜の表情は苦々しい。

「どう見る?」
「そやなぁ、鬼も酒の匂いにつられてきた、とか?」
「成程。案外、そうかもしれんな」

 冗談のような物言いだが否定する気にはならなかった。正体の分からぬ酒だ。鬼を呼ぶくらいのことはしてもおかしくない。それを最後に黙り込めば、血の匂いは更に濃くなったような気がした。
 どちらからともなく足を動かし、二人は何一つ得る物なく酒屋を後にする。
 染吾郎は店主の死骸を弔ってやりたかったようだが、痕跡を残す訳にもいかず結局は放置したままになった。
 
「お、雪か……」

 外に出ればまたも雪。
 しんしんと降りしきる白い花。そういえば最近は毎晩のように雪が降っている。
 感慨がある訳ではない。雪は確かに綺麗だが、遮られる視界が先行きの見えぬ現状と重な、今は寧ろ煩わしく感じられた。
 なにより月のない夜はあまり好きではない。満天の星空より、静かに降る雪より、青白い月がゆらりと揺れる静かな夜の方が好みだった。
 だから甚夜は灰色の空を睨み付けた。見上げた先に広がる曇天。今も雪が止むことはなく、頬に触れる雪の冷たさにほんの少しだけ寂寥を覚えた。

「嫌な空だ」

 ああ、そう言えば。
 昔見上げた夜空はもっと綺麗だったように思う。
 あの時の想いからは、随分と離れてしまったけれど。




[36388]      『残雪酔夢』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:23e8c533
Date: 2013/07/10 21:29
 
はやくみつけて ここにいるから

 ◆

「おとっつぁん……」
「酒だ! とっとと酒持ってこいやぁ!」

 その日の目覚めはお世辞にも良いとは言えなかった。
 近頃は恒例となっている三軒隣の親娘の喧嘩が聞こえてくる。けたたましい怒号にたたき起こされ、ただでさえ狭い貧乏長屋に異物が増えたのだから、爽快な目覚めになる筈がなかった。

「くぁ……」

 雑魚寝していた染吾郎は起き上がると、背筋を伸ばしながら大きく欠伸をしている。
 染吾郎が江戸に着いたのは昨日のことらしく、宿も取っていなかったようで、なし崩し的に甚夜の部屋に泊まり込んだ。特に親しい訳でもない相手、それも鬼だと知りながら平然と眠れる辺り随分と神経の太い男だった。

「おはようさん、と。腹減ったんやけど、朝飯なんかない?」

 起き抜けの第一声がこれである。図太いのか単に馬鹿なのか、今一判別が難しい。それは兎も角こうやって無防備な姿を晒すところを見るに、寝首をかくような真似はしない、その程度には信用されているようだ。

「ない」
「あらま。ほな、どっかで済ませよか。君も行くやろ?」

 しかし張り付いた笑みの下の真意までは読み取れない。やりにくい相手だと甚夜は溜息を零した。






 昨夜の雪は朝まで降り続けたようで、江戸の町は雪化粧に色を失くしていた。
 雲の切れ目から零れた光が時折雪に反射して眩しく映る。踏み締めればさくりと小気味の良い音が鳴った。雪に喜ぶような童心は最早残ってはいないが、これも冬の風情と思えば悪くはなかった。

 飯を食う所など近場の茶屋か喜兵衛くらいしか思いつかない。巳三つ刻、結局喜兵衛へと足を運べば、おふうのたおやかな笑顔の代わりにけたたましい怒声が出迎えた。

「糞アマが、なんか文句でもあるってぇのか!?」

 暖簾を潜ればこめかみに欠陥を浮かべ、赤ら顔で凄む男が二人。今にもおふうに掴みかかろうとする瞬間だった。

「そ、そんな」

 長らく罵詈雑言を浴びせられていたのだろう。おふうは怯えに瞳を潤ませ、ただ狼狽えている。
 せめて客に被害が及ばぬよう計らってか、厨房には店主と奈津の姿があった。
 と言っても愛娘に危害を加えようとする輩など見過ごせるはずもなく、店主は今にも飛び出そうとしている。それどころか怒りに包丁を持ち出そうとしているのが見えた。
そいつは流石にまずい。甚夜は店内へと歩を進め、店主が厨房から出てくるよりも早く、普段よりも大きく声を張った。

「随分と騒がしいな」

 見知った顔は驚きから、見知らぬ者は憎悪を込めて、店内の視線が甚夜に集まる。

「じ、甚夜君」

 動揺したまま震えた声で甚夜の名を呼ぶ。鬼とはいえ自分よりも大きな男に詰め寄られれば不安も恐怖も感じる。どれだけ生きても少女は少女なのだろう。

「んだてめぇは?」

 近付いてきた男、吐き出された酒臭い息に眉を顰める。その匂いが不快だったのではない。またも酒が関わってきたことに、言い様のない不快感を覚えた。目に見えた憎悪。その原因となる酒を知っているからだ。

「酒乱か、それとも」

 男は無視して後ろに控えている染吾郎へと声を掛ける。

「うーん、どっちも有り得るやろうけど。昼間っからこんなんってのも変やしなぁ。僕は君が言わなかった方を押しとくわ」

 彼も同じくこの男達が“ゆきのなごり”を呑んでいると思ったようで、張り付いた笑みは消え、鬼を討つ者としての顔が覗いている。

「何を訳分わかんねぇこと言ってやがんだガキが!」
「いや、多分やけどそいつ君よりおっさんやで」

 憤怒の形相で睨み付ける男と、茶化すようなことを真面目に言う染吾郎。こんな状況だというのに、どうにも緊張感が無い。次第に甚夜も面倒くさくなり、男が再び口を開く前に右腕を鞭のようにしならせた。

「あがっ!?」

 寸分違わず顎を打ち抜く。顎は急所だ。頭部を揺さぶられ、くるんと白目を向き男は崩れ落ちる。

「面倒だ。失せるか伏すかここで選べ」

 凄むこともなく、まるで今日の天気を話すような軽さだった。舐められてる。そう感じた男が逃げるなど選ぶもなく、憎悪は更に膨れ上がる。

「この野! ろ…お……ぅ」

 瞬時に間合いを潰し首の後ろに手刀を落す。恐らく男はその動きを見ることさえ出来ていなかったのだろう。視線はあらぬ方向を向いたままだった。

「手加減ないなぁ」
「十分にしているが」
「ま、そりゃそうやろうけど」

 死ななかったのだ、十分すぎる。悪びれない態度の甚夜に、やれやれとでも言いたげに染吾郎は肩を竦めた。
 
「甚夜君……」

 男達が倒れ、おふうがほうと息を吐いた。気が抜けたようで、普段の凛とした立ち姿はなく、今にも倒れてしまいそうなくらい弱々しく見える。何か言葉の一つもかけてやろうと思い、しかし甚夜の目が冷たく細められる。 

「て、めぇ、殺してやらぁ……」

 顎を打ち抜いたのだ、しばらくは立てぬと踏んでいた。
 手刀は完全に意識を刈り取った。動ける筈などなかった。
 確かに手加減はしたが、それでも並の人間が耐えられるようなものではない。
だというのに、緩慢な動作ではあるが、男達は呪詛を紡ぎながらゆっくりと体を起こしてくる。在り得ない。しかし現実男達は立ち上がり、憎悪を撒き散らしている。
 



 甚夜は怯えるように体を震わせていた。
 在り得ぬ現実に恐怖し、一歩二歩と後ずさる。
そして次の瞬間には、愛刀である夜来を投げ捨て逃げ出した。途中で転びながら、這いずるように前へ進み、負け犬のように無様に走る。

「待ちやがれ糞がああああああ!」

 発狂したかのような叫びをあげ、男達は甚夜の後を追う。怯えながら後ろを見て、追いつかれぬよう再度走り出す。
 突然の事態に頭が付いて行かず、残された者達はただその様を眺めているしかなかった。






「……染吾郎、お前何をした」

 謎の絶叫と共に喜兵衛から去って行った男達、まだ少し揺れる暖簾を眺めながら甚夜が問うた。

「ん、なにって?」
「惚けるな」
「あはは、そない凄まんでもちゃんと教えたるって。ほれ、見てみい」

 そう言って甚夜にだけ見えるよう開いた彼の右手には、内側に蒔絵が描かれた一対の蛤(はまぐり)の貝殻。貝覆いで使われる合貝(あわせがい)があった。
 店主等には聞かせたくないのだろう。小声で言葉を続ける。

「清(中国)ではなぁ、蜃……つまりハマグリは春や夏に海ん中から息を吐いて現実には存在せん楼台を作り出すって言われとる。蜃気楼の語源やね。ならハマグリの付喪神は当然それに沿ったもんになると思わん?」

 つまりこの合貝は蜃気楼を造り出すことが出来る。彼の言葉を信じるのならば、恐らく男達は造られた蜃気楼を追って店の外へと出て行ったのだろう。

「意外と応用が利いてな。見せたい相手にだけ見せることも出来る。君も前ん時騙された」やろ」

 そういえば以前やり合った時、染吾郎を打ち据えた筈なのに刀がすり抜けてしまった。あれも蜃気楼だとすれば、成程、確かに応用の利く厄介な力だ。

「しかしあの様子。いったいどんな蜃気楼を見せた?」
「いやあ、それは聞かん方がええんちゃう? そんなことよりお腹減ったし、はよなんか食べよ」

 説明はせず、ただにたにたと笑う染吾郎は一人で勝手に席へ付いてしまう。本当に図太い男だと感心する。確かに聞いても意味のないことだ。元より大して興味もなかったので、それ以上は追及せず同じ卓についた。

「あの、甚夜君。ありがとうございました、おかげで助かりました」
「ん、ああ」
 
 追っ払ったのは染吾郎だが、あの蜃気楼が男たち以外に見えていなかったのならばそれに気付ける訳もない。感謝される謂れもなく、だから返答は曖昧になってしまった。

「秋津さんも」
「いやあ、僕は大したことしてへんからね」
「実際見てただけよね」
「相変わらずやなぁ、お嬢ちゃんは」

 厨房から出てきた奈津の言葉に苦笑する。それでも自分がやったことを話す気はないらしい。業を隠しているのか、甚夜を立ててのことかは分からないが。

「まあええけど。おふうちゃん、天ぷら蕎麦一つ貰える?」
「はい。甚夜君はかけ蕎麦でいいですか?」
「ああ」

 兎も角これでようやっと飯にありつける。今日は朝から随分と疲れる日だった。




 



「で、今も必死になって働いてるわよ。自業自得と言えばそうなんだけど」

 あれから善二がどうなったのかを聞くと、奈津は面白おかしく事の顛末を話してくれた。
 番頭を解かれるようなことにはならなかったが、やはり重蔵には睨まれたらしく、信頼を取り返そうと今朝からは働いているようだ。

「善二の様子は?」
「もう全然普通。やっぱりあれは酒に酔っての暴言だったみたい」

 安堵からか実に柔らかく奈津が笑う。
 しかしそれを聞かされた甚夜は穏やかな心地とは言い難かった。
 善二は初め呑めなかったが、いつの間にか普通に呑んでいた。極上の酒だと言って好んで呑む者もいる。店での人気や先程の男達を見るに、“ゆきのなごり”は結構な速度で江戸の町へ浸透しているようだ。
 今はまだいい。しかし憎しみを煽る酒が蔓延し切った時、一体どうなるのか。
 脳裏を過った想像はひどく血生臭いもので、それが在り得てしまうと思えるからこそ吐き気を覚えた。

「それならばいいのだが」

 顔には出さない。態々不安にさせることもないのだろう。努めて普段と変わらぬよう振る舞い一口茶を啜った。

「じゃあ私はそろそろ。善二の様子も見ておきたいし、お父様のご機嫌取りにお土産も買っておかなきゃね」

 内容は「善二のこと、怒らないで」といったところか。彼女も存外苦労性である。

「土産?」
「うん、好きなお酒でも」
「止めておけ」

 間髪入れず否定する。そのあまりの早さに奈津は面食らっていた。

「な、なによ」
「ゆきのなごり、毎晩呑んでいるのだろう。あれは得体がしれん。重蔵殿にあまり酒を呑むなと伝えてくれ」

 たかが酒だろう。思いながらも甚夜の気迫に押され、こくこくと奈津は頷く。

「言伝、頼んだ。気を付けて帰れ。最近は物騒だ」
「……あんたって、ほんとお父様みたいなこと言うわね」

 それが嬉しかったのか、緊張した表情を和らげくすくすと無邪気な笑顔で返す。

「大丈夫、ありがとね」

 機嫌のよさが足取りに出ている。軽やかに背を向け、弾んだ調子で奈津は店を出た。
 その様子を見ていた染吾郎がぽつりと呟いた。

「まだまだ雀のままかぁ」
「はい、蛤には遠そうです」

 答えるおふうもまた楽しそうだ。二人のやり取りの意味が分からず眉を顰めれば、おふうは余計に笑った。

「雀はいつか蛤になるそうですよ」

 だから何だというのだ。そう思って視線を送るもおふうは笑うばかり。それ以上のことは教えて貰えず、結局意味の分からないまま溜息を吐くしかなった。



 
 ◆



「おや、浪人。今日は連れがいるのかい」

 黄昏が夜に変わる頃、柳橋へ訪れれば、雪の夜に浮かび上がるような風情を醸し出す女が一人。ぼろぼろの傘をさした夜鷹は白い息を吐きながら、それでもゆるりと妖艶な仕種で甚夜達を迎えた。

「気にするな。成り行きの帯同だ」
「確かに仲間やお友達て訳やないけど、なんや扱い悪いなぁ」

 夜鷹は明らかな作り笑いを浮かべる染吾郎に一度視線を向け、然程興味はなかったのか再び甚夜へと向き直る。

「なんでもいいさ。頼まれごと、調べといたよ」

 空気がぴんと張りつめたのは、寒さのせいばかりでもなかった。

「でもあの酒がどこで作られたのか、どういう道筋で江戸へ入って来たのかははっきりとしなくてね。ただ仕入れてる店だけは分かったよ。蔵前に在る酒屋なんだけど、どうやらそこから江戸の酒屋へ卸してるみたいなんだ」
「流石に早いな」
「言われた仕事はやるさ。で、その酒屋なんだけど、覚えてるかい? 前に蔵に住み着いた鬼を討ってほしいって依頼してきたところだよ」

 ぴくりと眉が動く。以前、伝助という幼い鬼を斬った。ひどく嫌な気分になったためだろう、よく覚えている。あの時酒屋の店主は良い酒が入ったと言っていた。それは案外“ゆきのなごり”のことだったのかもしれない。

「何処で作られたのか聞いた客もいたんだけど、店主は“ゆきのなごり”は泉から湧き出る神酒、私が手に入れられたのはそれこそ神仏の導きというものでしょう、なんて答えたらしいよ。どこまで本気か分からないけどね」
「菊水泉を見つけた孝行息子のつもりなんかね。なんや、随分痛い奴やなぁ」


 昔、ある男は貧乏ではあったが年老いた父親の為に骨を粉にして働き、少しでも長生きをしてもらおうと願っていた。
 父親は大層な酒好きで、しかし米を買うお金にさえ苦労する男には、酒など滅多に変えない高級品だった。

 ある日男はいつものように薪を取りに奥山へと踏み入り、その途中足を滑らせ、谷底まで落ちていってしまう。
 幸いなことに怪我は軽く、頭も打っていない。目覚めた時に喉が渇いていたこと以外は問題なさそうだ。

 水が飲みたいなぁ、男がそう思っていると何処かから水音が聞こえてくる。
 どうやら近くに川があるらしい。これ幸いと近寄ってみれば、其処には見上げるばかりの滝が飛沫を上げて流れ落ちる美しい光景が広がっていた。
 有難いと近場の泉に湧き出た水をすくい上げ、咽喉に流し込めば驚きに目を見開く。
なんと泉から湧き出ていたのは水ではなく、これまで嗅いだこともないくらいに香しい酒だった。

 早速父親の為に酒を持ちかえれば、あまりの旨さに何処で手に入れたかを聞いてきた。
 男が山であった不思議の話をすると、父親は言った。

『それは、親孝行をしてくれるお前に、神さまがごほうびにくださったんじゃろう」

 この話は間もなく、奈良の都の天皇の耳に伝わることとなる。
 天皇はこれにいたく感心すると、男に褒美を取らせ、そればかりか年号を「養老」と改め、そして滝は以後「養老の滝」と呼ばれるようになったという。

 菊水泉とはこの説話に登場する酒の湧き出た泉であり、天皇自身が「老いを養う若返りの水」と称えたらしい。大和流魂記にも登場する有名な話ではあるが、それを知って先程の発言をしたならば確かに酒屋の店主は相当面の皮が厚い男だ。


「ま、痛いってのは否定しないさ。酒屋の親父は昨日今日と仕入れがてらの行楽に抜け出してるみたいだね、行き先が山の奥かは知らないけど。明日の夕方には帰ってくるって話だ。気になるなら行ってみたらどうだい?」
「助かった。そうさせて貰おう」

 懐から銭の入った袋を取り出し、夜鷹へと渡す。中身を確認せず彼女が受け取ったのは、それなりに信頼してくれているということだろう。

「ああ、そうだもう一つ。その酒屋、水城屋って言うだけどね。そこに、時折なんだけど金髪の美しい女が出入りしているって話だよ。もしかしたら“ゆきのなごり”は異国で作られた酒なのかもね」
「そうではないだろう」

 否定の言葉は早かった。それを意外に思ったのか、夜鷹は珍しく驚いたような顔をしていた。
 驚いたのは甚夜も同じだ。意識してではなく、殆ど反射で出てきた答えだった。何故そう思ったのかは彼自身にもよく分からなかった。

「いや、なんとなく、だが」
「なんだい、それ? はっきりしないねぇ」
 
 まったくだ。しかしあの懐かしい風味をした素朴な酒が、異国で作られたとは思えなかった。
 そうだ、だから違うと答えた。それ以上の意味などある筈もない。
 自身にそう言い聞かせても、どこか言い訳のように感じられた。



 ◆



 そうして夜が明ける。
 貧乏長屋にはやはり昨夜も染吾郎が泊まり込み、狭い部屋で男二人という非常に寝苦しい夜を過ごした。
 硬くなった体を解すように肩を回す。既に起きていた染吾郎は、挨拶代わりに軽く手を上げてみせた。

「今日は、水城屋やったけ? 行くんやろ」
「ああ。しばらくは時間を潰すが」
「ならまた喜兵衛いこか? お嬢ちゃんからかいたいし」

 本気なのか冗談なのか、この男は読みにくい。死体を弔ってやりたいと考える辺り、真っ当な感性の持ち主ではあるのだが、甚夜にとって染吾郎はやはりやりにくい相手だった。

「おとっつぁんっ、いい加減に」
「うるせぇっていってんだろうが!」

 朝の怒号もいつもの調子で、けたたましい父親の声が長屋中に響いている。

「おーおー、朝からようやるわ」

 所詮は対岸の火事、呑気な調子で染吾郎は感想を述べる。甚夜も毎度のことなので気にせず出かける準備を整える。
 しかし今日ばかりは勝手が違った。

「おぅ、ぷ。うがぁああああっぁぁぁあ!」
「おとっつぁんっ、おとっつぁん!?」

 嘔吐でもしているのか、娘の慌てた声が響いている。しかしただ穿いているだけにしては随分な慌てようだった。

「あぅ!? や、止めておとっつぁん! い、いや!」

 切羽詰まった空気。染吾郎も違和感を覚えたようで、流石の気楽な態度は為りを潜めている。

「なんや、様子おかしない?」
 
 確かに様子が変だ。甚夜もまた目を細め聞き耳を立てている。喧嘩は終わったが、今度は苦しむように唸り声を上げる父親と心配する娘に変わった。かと思えば嫌がるような娘の言葉。
 酒乱で暴力を振るいだしたか? 浮かんだ想像は一瞬で斬り捨てられる。

「いぐぅあがぉ……おおおおおぉぉぉぉぉぉ』

 声は重く響くような、人では出せぬ咆哮へと変わっていた。

「甚夜っ!」

 言われるまでもない。夜来を掴み長屋の外へ駈け出す。ちらりちらりと降る朝の雪。構っている暇はない。走り抜け三軒隣、障子を空けるのも面倒だ。蹴破ってそのまま部屋へ飛び込む。
 ぐちゃっ、という軽い音が響いたのはそれとほぼ同時だった。

『おっ、おお、おぉぉぉぉぉ……』

 聳え立つ異形。
 鬼の足元には首のない娘の死骸が転がされている。
 鬼の掌は赤く染まり、液体がしたたり落ちていく。
 そして、今までいた筈の父親の姿はない。
 それを繋げて考えられるほど愚鈍にはなれなかった。

「鬼へと堕ちたか……!」

 夜来を抜き去り脇構え。対峙する鬼を睨み付ける。
 硬直は一瞬。弾かれたように鬼は突進する。目には昏い憎悪。生まれたての癖に機敏だ。左足を進めると同時に踏ん張り、それを軸に体を回す。突進を躱し、しかし鬼は止まらず向かいの長屋へとぶち当たった。

「ひ、ひっぃいいぃ!?」
「何だこの化け物!?」

 派手な騒音に人が集まってきた。まずいな、そう思ったが杞憂に終わる。鬼は周りの人間には目もくれず、甚夜にのみ殺気を向けてくる。どうやら手当たり次第人を襲うような真似はしないようだ。理由は分からないが、自分だけを狙ってくるならば好都合。握りを直し、静かに腰を落す。
 体勢を立て直した鬼は拳を握りしめ、駈け出すとともに甚夜の頭部を打ち抜こうと剛腕を繰り出す。生まれたばかりにしては身体能力が高く、攻撃にも迷いがない。しかしただそれだけ。梃子摺るような相手ではない。
 踏み込むことで上体を低くし、鬼の拳を掻い潜る。左足を引き付け踏ん張り、腰の回転を肩に腕に切っ先にまで乗せ、全霊の横薙ぎ。
 鬼の体は綺麗に両断され、断末魔さえ上げることなく息絶えた。

「おー、流石」

 一部始終を眺めていた染吾郎が、ぱちぱちと拍手を送る。勿論喜びなど感じないし、そもそも染吾郎自身笑ってはいなかった。

「秋津染吾郎」
「分かってる」

 酒を呑んでいた。憎しみを煽る酒。人は負の感情を持って鬼へ落ちる。
 飲んでいたであろう酒瓶は壊れていて、それがなんだったのかを知る術はない。 
 知る必要などないような気もする。否、本当はすでに知っていたのかもしれなかった。 
 善二がそうならなかったことを考えれば即効性のものではないのだろう。
 それでも脳裏を過る嫌な、しかし恐らくは正解に近いであろう想像が心臓を締め付ける。
 
「酒屋の親父に聞くことが増えたな」

 零れた言葉は白い。
 雪は更に強くなった。



[36388]      『残雪酔夢』・5
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:0ee79dd0
Date: 2013/07/10 21:38
 
 その日は朝から雪が降り続け、曇天が夜色へ変わる頃には、江戸の町は真っ白に覆い隠されていた。





 怖い話。
 
 魑魅魍魎。
 柳の下の幽霊。
 皿屋敷。
 鬼。
 牛の首。
 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話があった。
 過去形で話せるようになったのは、前より少しは大人になれたからで、私を支えてくれた人が沢山いたからだ。
 今はもう怖いと思うこともない。
 遠回りをしてしまったけれど、ちゃんと私達は家族になれたんだと思える。それがあいつのおかげだとおもうと、ちょっと癪ではあるけれど。

「お父様、失礼します」

 お父様はいつものように部屋で一人お酒を呑んでいる。
以前はまずそうに飲んでいたけれど、最近は穏やかな顔をしていることが多くなった。だからこんなふうに苦々しい様子で杯を空けていくお父様を見るのは久しぶりだった。
その理由はやっぱり善二の失態なんだろう。

「……奈津か」

 しかめ面で杯を煽るお父様は、横目で私の方を一度見て、すぐ視線を戻して手酌で酒を注いだ。

「お父様、あの、善二のことなんだけど」
「なんだ」

 苛立っているのが声の響きで分かる。相当怒っているみたいだ。

「やっぱり、怒ってる?」
「……失望はしている。目をかけてやったというのに」

 番頭になった次の日から呑んだくれていたんだ。自業自得だとは思う。でも善二もちゃんと反省しているのだから、少しくらいは大目に見てやってほしい。

「そ、そうだ。実はお父様に渡したいものがあるの」

 ご機嫌取りという訳ではないけれど、少しいい茶葉とお茶菓子を用意した。ここ最近お父様が毎晩呑んでいるお酒を買おうと思ったけど、甚夜が顔を顰めていたから止めた。代わりに、お父様が好きそうなお菓子を選んできた。

「む」

 目が薄ら細められる。興味は示してくれている。でもすぐに手にある盃に視線を戻し、もう一杯お酒を煽る。

「有難く受け取ろう。明日にでも貰おう」

 そう言ってどんどんお酒を煽る。

「お父様、あの、もう少しお酒は控えた方が」

 甚夜にも頼まれていたことだし、私も心配だからそれとなく注意してみた。でもお父様は表情を変えずにお酒を呑み続けている。

「いや、今は酔いたい気分なのだ」

 そう言ってごくりと喉を鳴らす。
 床に置かれた酒瓶には、“ゆきのなごり”と記されていた。




 ◆
 

  
 その日は朝から雪が降り続け、曇天が夜色へ変わる頃には、江戸の町は真っ白に覆い隠されていた。








 江戸は蔵前にある酒屋、水城屋。
 その店主は奥座敷で帳簿をめくりながらにたにたといやらしい笑みを浮かべていた。
 ここ最近の儲けは尋常ではない。下手な旗本よりも遥かに稼ぎ、その勢いは留まるところを知らない。それも全てはあの女のおかげ、笑いが止まらぬとはこのことだと口の端を釣り上げた。

「いかにも妖しい女だと思ったが、いやはや。あれは大山咋神(おおやなくいかみ)の化身だったのかもしれん」

 ───人を堕とす美酒に興味はないか。

 底なし沼のような美しさだと思った。 
 一年半程前に現れた、金紗の髪をたなびかせた見目麗しい女。今迄見たこともないほどに女は美しく、しかし見惚れるよりも恐怖が先に来た。一目見た瞬間分かった、あの美しさは人を惑わす魔性。それがあやかしのものであることは、容易に想像がついた。

 女は言った。人を堕とす美酒に興味はないか、と。

 逆らうなど出来る筈がなかった。
 店主は言われるがままに“ゆきのなごり”を売りに出した。妖しいとは思ったが逆らえば殺されると分かっていたし、いくらでも売れる酒だという女の言葉はこの上なく魅力的だった。
 そしてそれは正しかった。
 あの女が教えてくれた酒は今も飛ぶように売れている。一口目はきつく感じるが、二口三口と呑めばそれでおしまい。後はもう坂を転げ落ちるだけ。“ゆきのなごり”はそういう酒だ。稀に相性の良すぎる者は呑み過ぎてしまうが、まあそれは知ったことではない。酒に溺れる阿呆の行く末を気にしていては酒屋の主など務まらない。

 店主は帳簿を置き、庭へ向かった。
 庭には二つの蔵がある。そのうちの一つに足を踏み入れ、にたにたと笑う。今日仕入れてきたばかりの“ゆきのなごり”。蔵にある大量の酒瓶は、数日もすれば空になるだろう。
 皆この酒を欲しがり、亡者のように群がってくる。これは江戸一番の商家になる日も遠くない。華やいだ未来を想像し、店主はかすれた笑い声を上げる。

「くくっ、ははは」

 もう本当に笑いが止められなくて、



「随分と景気が良さそうだな」



 止まらない筈の笑いが、一瞬にして凍り付いた。
 誰もいなかった筈の蔵に、鉄のように重い声が響く。
 振り返れば、腰に太刀を携えた、六尺を超える総髪の大男。
 間違いなくいなかった。先程までそこに在った酒瓶を眺めていた、誰かがいる訳はないのだ。なのに男───甚夜は当たり前のように、ごく自然な様子で佇んでいた。

「あ、貴方は」
「一年程前に顔を合わせたと思うが、覚えているか」
「え、ええ、勿論です。以前蔵に住み着いた鬼を退治してくださった」

 刀一本で鬼を討つという、ごく一部では有名な浪人、らしい。
 伝助の奴を処理してくれた男だ。その件にしては感謝しているのだが、堂々と不法侵入をしておいて悪びれもしない態度は心象がよくない。なにより店の命たる酒蔵に無断で入り込むなど、流石に許せることではなかった。

「以前の件に関しては感謝しております。ですが、勝手に敷地へ入られては困りますね」

 この男は勝手に水城屋の敷地に入り込んだ。こちらは追及し、叱責してしかるべきところだ。だから当たり前のことを言ったまで。
 しかし返答はなく、代わりに凍り付くような視線が向けられる。
 冷たさに肌がひりつく。発せられる無言の圧力に、店主は一歩二歩と後ろへ下がった。

「ま、勝手に入ったんは確かに悪いと思うけどなぁ。それはそれとして、ちょぉっと話があるんやけど」

 またも声が。
 びくりと体を震わせ声の方に目を向ければ、浪人の後ろに見知らぬ男がいる。明らかにこの浪人の連れであり、彼等が真っ当な目的でここに来たのではないことも明らかだった。

「は、話?」

 気圧されて怯えたように声が震えた。ように、もなにも店主は事実怯えていた。相手は勝手に敷地へ入り込む狼藉者。堂々としていればいい筈だが、自分にも後ろ暗いところがあるので自然と押しは弱くなってしまう。

「貴殿に用があってな。終わればすぐにでも出て行く」

 蔵の出口で見知らぬ男は仁王立ちしている。逃がす気はないのだろう。応じる義理も義務もないが、甚夜の左手は腰のものに触れている。その時点で選択肢などないようなものだった。

「分かりました。それで、一体、如何なご用向きで?」

 にへらと愛想笑いを浮かべても甚夜達の態度は揺らがない。平静に重々しく、放つ空気は硬い鉄のように感じられる。

「酒を探している」
「さ、酒ですか?」
「ああ。最近流行の酒を探しているのだが、どこの店にも置いていなくてな。この店なら扱っていると聞いて訪ねさせてもらった」
 
 酒屋の店主への用向きとしては実に真っ当なものだ。勿論このような状況でなければの話だが。
 返答に窮していると甚夜一歩を進むと同時に言葉を続ける。

「この店なら扱っていると聞いた」

 空気が鉄ならば細められた眼光は刃物のようだ。切り裂かんばかりの敵意が向けられ、店主は体を震わせる。

「“ゆきのなごり”……あるのだろう?」

 酒が欲しいなどという男の目ではない。
 下手なことを言えば首が飛ぶ。感情の乗らない双眸に否応なく理解させられた。

「はぁ、こら壮観やな。ぜんぶ“ゆきのなごり”や」

 何処か呑気な口調で染吾郎が言う。
 蔵の中を見回せば所狭しと酒が並べられている。“ゆきのなごり”。人を堕とす美酒。現在の水城屋を支える命の水である。

「へへ、へへへ。そ、そうでしょう。人気のお酒で、今日仕入れてきたばかりなんです」
「ほう、どこでだ」
「い、いやいや、流石に教える訳には。わ、私も生活が懸かっていますので」
「それは残念だ。ならば」

 自然な動き、淀みのない所作だった。
 流れるように抜刀すれば、夜に瞬く鈍い光。相当な業物なのだろう、僅かな間ではあるが無骨ながらも美しい刀に心を奪われ、甚夜の踏み出した一歩に意識を取り戻す。

「ひ、ひぃ!?」
「少し、聞き方を変えるとしよう」

 軽い言葉。まるで命まで軽く扱われたような、そんな気がした。
 



 ◆




「奈津、お前も呑んでみろ」

 お父様に盃を勧められたけど、私は少しだけ躊躇った。
 だってこれは善二が「きつくて呑めない」と言っていたお酒だ。普段呑まない私に合うようなものとはとても思えなかった。
 でもお父様と呑むことなんか滅多にないし、勧めてくれるのが嬉しくて、結局は受け取ってしまう。
 
「じゃ、じゃあ」

 恐る恐る一口。
 すごく辛かった。でも吐き出す程でもない。なんだ、善二が大げさだっただけみたいだ。そのまま喉に流し込めばやけるような熱さを感じる。折角勧めてくれたけど、やっぱりお酒は苦手だ。

「注いでくれんか」

 少しためらったけど、やっぱり言われるままに私は動いてしまう。
 徳利を手に、空になったお父様の杯にお酒を注ぐ。ん、と小さく返事をして、一気にあおる。こんな強いお酒なのにお父様は平然と、でも何処か不機嫌そうに呑む。旨いと何度も零しているのに、全然楽しそうには見えなかった。

「ん」

 でも盃を差し出されては注いで。
 そんなことを繰り返しながら、夜は深くなっていった。




 ◆




 一歩を進む。
 淡々とした口調が、だからこそ恐ろしい。
 構えるでもなく、だらりと腕は放り出されている。あまりに無造作で、無造作過ぎて、この首まで無造作に斬り落とされてしまいそうだ。自身の想像に腰を抜かし、尻餅をついたまま後ろに下がっていく。

「近頃奇妙な事件が増えている。酒を呑んだ者が憎しみに駆られ凶行へと走る……皆、“ゆきのなごり”を呑んだ者達だ」
「あ、う、あ」
 
 一歩を進む。
 上手く言葉が出てこない。逃げなければ、頭の中はそれしかない。だというのに立つことも出来ない。

「真面な酒ではあるまい。何処で手に入れた」

 一歩を進む。
 口が渇く。鈍く光る。体が震える
 殺される。殺される。殺される。
 店主は恐怖にただ這いずっている。

「話して貰おうか」

 男が一歩を進み、更に後ろへ下がろうと思い、かちゃんと音が鳴った。
 蔵の端まで追い詰められ、背中には酒棚。最早逃げられない。けれど男は一歩、また一歩と近付いてくる。

 そうして冬の空気余地も冷たい鉄の輝きが突き付けられる。

 声にならぬ叫び。恐怖は際限なく高まる。
 切っ先はゆっくり、ゆっくりと近付き───そこで限界だった。

「お、大山っ! 相模の大山の中腹に泉があって、そ、そこから湧き上がってる! 俺はそれを詰めただけで!」
「そうか、命がいらんか。その意地見事だ。冥土まで持って行け」
「ひぃぃぃぃ!? 嘘じゃない、嘘じゃないんだ! 本当に泉の全てが酒になってる! 信じてくれ!」

 構えた刀がぴたりと止まる。
 怯えてはいるが、嘘を言っているようには思えない。荒唐無稽ではあるが、菊水泉の話もある。真面な酒でないのならば、由来が真面でなくても不思議はない。

「ならばあの酒はなんだ」
「わ、分からねぇ。ただ人を堕とす美酒だとかあの女は言っていた。最高に旨いが依存性が高く、呑み続ければ憎しみに取り込まれる。あれはそういう酒なんだ」

 あの女。金髪の女が店に出入りしていたらしい。それが誰なのかは、何となく想像がついている。湧き上がる憎悪を必死に隠し、店主への尋問を続ける。

「それだけか?」
「へ?」
「呑み続ければ憎しみに取り込まれる。“ゆきのなごり”の効能はそれだけかと聞いている」
「あ、ああ。あの女に聞いたのは」

 肩透かしを食らったような気になる。
 水城屋の店主はもう少し真実に近い位置にいると思っていた。しかしこの口振りから察するに上手く利用されているだけなのかもしれない。勿論、鬼になるという事実を隠している可能性もあるが。

「それを知りながら売ったのか」
「の、呑み過ぎたらそうなるってだけだ! 適量なら普通の酒と変わんねえ! 酒なんだ、飲み続けりゃ体に悪いのは当たり前だろ!? 俺は売っただけで、呑み過ぎて体を壊そうが凶行に走ろうが、そいつの自業自得だろうが! 商人が売りもん捌いて金を稼ぐことの何が悪い!?」

 攻め立てるような勢いで言葉を発する。しかし甚夜は押されるどころか、更に視線を冷たく変えた。

「……つまり、金の為? なんや理由があるんかと思えば、ただの屑か」

 不快さに顔を顰める染吾郎、甚夜もまた刀を仕舞うことをしなかった。
 勢いに任せ怒鳴りつけたが、男達の態度は冷たく、激昂の熱もすぐさま引いてしまった。後に残されたのは重苦しい空気のみ。沈黙の後、一度溜息を吐いて染吾郎が言った。

「ま、裏は取れたな。一連の騒動の原因は“ゆきのなごり”や。取り敢えずここの酒処分したら大山の方へ行こか」
「しょ、処分!? あんた何言ってるんだ!?」
「なにって、当たり前やろ? 悪いとは思うけど、こんな危ない酒は放置できんよ」
 
 憎しみを掻きたてる酒。それに纏わる事件を目の当たりにしているのだ、染吾郎の意見は至極真っ当なものだった。
 しかし“ゆきのなごり”は水城屋にとってそれこそ生命線といっていい。それを処分するなどといわれて冷静でいられる筈がない。店主は食って掛かろうとして、あまりにも昏く重苦しい呟きに邪魔をされる。

「少し待て。まだ聞きたいことがある」
「ん?」

 言い切るよりも早く尻餅をついてへたり込んでいた店主の胸ぐらを掴み、無理矢理に立たせる。その乱暴さに染吾郎も少しばかり驚きを見せた。

「ひぃ……!?」
「ちょ、君。なにしてんねん」

 雑音が邪魔だ。周りの音は無視して店主を睨み付ける。

「最後にもう一つ。この店には金髪の女が出入りしていると聞いた」

 そこまではあくまでも敵意だった。しかし金髪の女と口にした瞬間、甚夜の纏う気配が一変する。
 敵意、憤怒などでは生温い。
 どろりと淀んだ、へばりつくような薄汚い情念。
 彼の目に宿ったのは、あまりにも濃密過ぎる憎悪だった
 
「女について、洗いざらい話せ」

 あまりの濃さに窒息してしまいそうだ。
 店主は答えることが出来ない。それどころか、呼吸さえままならなかった。何時まで経っても「あうあう」と訳の分からない喘ぎを漏らすだけ。いい加減鬱陶しくなってきた。

「話せと言っている」

 手は胸倉から首へ。そのままゆっくりと上へ、店主の体は左腕一本で釣り上げられる形になった。

「あがっ、あ」

 ぎしぎしと骨の鳴る音。顔を赤くして、血管がびくびくと脈を打っている。

「話せ……!」

 そうか、まだ話さないつもりか。
 胸には際限のない憎悪。
 ならば、その首の骨へし折って───


 頬に、衝撃が走った。


 殴り付けられたのだと気付いたのは一拍子置いてからだった。
 染吾郎が右の拳を突き出したまま、動かずにこちらを睨んでいる。おそらくは全霊の拳だったのだろう。
 しかし人ならぬこの身は微動だにしない。痛みも殆どなく、なのに敵に向けるかのような冷静な表情を少しだけ痛いと感じた。
 
「ええ加減離さんと、そいつほんまに死ぬで」

 言われるままに左腕から力を抜く。どさりと店主が落ちて、途端に咳き込みながら呼吸を始めた。もう少し時間が経っていたらおそらく窒息死していただろう。
 一度呼吸を整えれば、次第に心も落ち着いていく。胸の憎悪は消えてくれないが、今は姿を隠してくれた。
 そこまできてようやく自分が何をしていたのかに思い至る。
 憎しみに囚われ無様を晒した。何時まで経っても何一つ変われない自分に嫌気がさす。

「金髪の女……なんかあるん?」

 責めるような目でも、いつもの作り笑いでもない。
 ただただ冷静な、鬼を討つ者としての顔がそこに在った。

「……いや」
「言いたないなら無理には聞かん。でも人殺してもたら、今度は僕が君を討たなならん。できればそんなことさせんで欲しい」
「そうだな、気を付けよう」

 空々しい声。頭で理解したとて、どれだけの意味があるのだろう。結局今も憎しみは消えぬままで、今も己はそれに振り回されるだけの惰弱な男だ。
 力だけを求めて生きてきた筈が、何故こうも弱い。

「止めてくれて、助かった」

 素直な気持ちだった。
 弱さのままに誰かを殺す。そのような無様を犯さずに済んだのは、間違いなくこの男のおかげ。言葉は簡素だが、そこには心からの感謝があった。

「やめてえや。殴っといて礼言われたらなんやむず痒いわ」

 内心をくみ取ってくれたのか、染吾郎も照れたような、自然な笑みで返す。
 このような状況でも一瞬和やかな空気が流れ、


 がしゃん。


 陶器の割れる音に、それもすぐさま消え去った。

「……やらねえ、やらねえぞ。これは俺の酒だ」

 いつの間にか棚を支えにする形で立ち上がった店主、その足元には壊れた陶器が飛び散っている。呑み干してから地面に叩き付けたのだろう、酒は殆ど零れていなかった。

「殺されてたまるか。俺の酒だ。江戸一番の商人になるんだ」

 譫言のように呟きながら、“ゆきのなごり”を手に取り、そのまま流し込む様に呑む。口から溢れても気にすることなく一本、二本と手を伸ばしていく。

「あんた、なにやっとんのや。呑んだらあかん」
「うるせえ! そう言って奪う気だろうが!?」

 酔っているのか、それとも単に殺されかけたが故の敵意か。
 制止の言葉など知ったことではないと次の酒に口を付ける。

「やめろ」

 その姿に言い様のない不安を覚え、甚夜は小さく零した。
“ゆきのなごり”は憎しみを煽る酒。どういう原理かは理解できないが、そういうものなのだ。
 だとすれば甚夜はそれの行き着く先を知っている。
 不安の正体は既視感だった。 

「それ以上は呑むな。“戻れなくなる”ぞ」

 ああ、何故だ。
 呑み続ければ憎しみに取り込まれると聞いた時、何故『それだけ』と思ってしまったのか。
 本当は知っていた
 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。
 揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。
 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。
 それを理解しながら、考えようともしなかった。目を背けていた。 
 人の身に余る憎しみがどういうものか、己が誰よりも知っていた筈なのに。

「お、おぉぇ。うぉぉぉぉあああ」

 店主の呻きは唸り声に変わっていく。肥大化する肉が衣を破り付き出てくる。最早彼は人と呼べない姿をしている。
 
「なあ、これやばいんちゃう?」
「ああ……」

 降り積もる想いはまるで雪のようだ。
 例え人為的に植えつけられた想いだとしても、降り積もればかつての心など埋もれてしまう。

『おぅう、お、おあぁぁぁぁぁ』

 酒にのぼせたような赤い肌。崩れ落ちる容貌。隆起する骨。
“ゆきのなごり”とはつまり本当の心を白く染め上げる雪のような憎悪。
 だから、これは当たり前の変化だ。



「憎しみを植え付ける酒。取りも直さず、“ゆきのなごり”は鬼を生む酒だった」



 そうして変化は止まり、見開いた目は夜にあって尚も赤々と輝いていた。

『あぁお、おぅぅぅぅぅぅぅ』

 最早言葉を発することも出来ず、憎しみに満ちた目で甚夜を見据える。
 自身を殺そうとした男。何を憎むかが定まったようだ。

「少量ならば問題はない。憎しみなど誰もが抱くものだ。しかしそれが過ぎて憎悪に囚われれば鬼へと堕ちる」
「“ゆきのなごり”もおんなじ、呑み過ぎれば鬼になるって訳やね」
「ああ」

 冷静に会話をしているように見えて、甚夜の胸中は焦燥で満ち満ちていた。
 耳元には以前聞いた言葉が響いている。



 ───間違いないですって。実際旦那様は旨い酒だって言って毎晩呑んでるし。



 重蔵がもし本当に毎晩“ゆきのなごり”を呑んでいたとしたら。
 ならば、いずれあの人も。
 ほんの少しだけ瞳が揺れる。
 敵を前にしてあるまじき動揺だった。



 ◆



「お、お父様!?」

 呑み過ぎたせいかお父様は俯き、体を震わせ唸り声を上げていた。
 
「ぐぅああぅっぅおおおお……」
「ちょっと、誰か! 誰かいない!?」

 声を張り上げてもだれも来てくれない。どうしよう。どうすればいいんだろう。やっぱり甚夜に言われた通り、もっと強く止めるべきだった。お酒に酔ったなら揺らす訳にもいかないし、でも放っておくわけには。

「そうだ、お医者様……!」

 まずはお医者様を呼んでこないと。そう思って立ち上がろうとして、行かせまいとするように腕を掴まれた。

「お父様、待っててすぐお医者様呼んでくるから!」

 でも離してくれない。それどころかさっきよりも力が強くなったような気がする。
 気付けば唸り声も体の震えも消えている。もう大丈夫なのだろうか。

「ひっ……!?」

 それが勘違いだと気付くのに時間はいらなかった。
 ぼこぼことお父様の服の下で何かが動いている。違う、体の形が変わってきているのだ。

『おうぉあぉああ』

 かすれた声。骨から大きくなって、肉が増えて、どんどんと人ではなくなっていく。
 
「あ…あ……」

 身近にこういうのに縁のある人がいる。この手のものを見たのも初めてではないから驚きはない。
 ただ体が震える。心が震える。
 そして思った。

「なんで……」

 そこにはお父様がいた。いた筈だった。
 遠回りしたけれどちゃんと家族になれて。
 少しずつあゆみよって。
 さっきまで一緒にお酒を呑んでいて
 なのに、


『じ…ん……たぁぁぁぁぁ』


 なんでそこに、鬼がいるんだろう。




[36388]      『残雪酔夢』・6
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/05/21 17:49
 寒々とした蔵の中に獣の呻きが響く。
 眼前には七尺を超える鬼。急激な変化に肉体が付いていっていないようで、腕や足の長さが左右で違う。辛うじて人型を保っているからこそ左右非対称の四肢は奇妙に映る。着物は肥大化した肉に耐え切れず破れ、その下から灰色の皮膚が見えていた。

「……伝助といったな、確か」

 かつてこの蔵で斬った鬼を思い出しながらぽつりと呟けば、鬼に突き付けた切っ先が僅かに揺れる。
 動揺の為か、怒りの為かは甚夜にもよく分からない。ただ声はいつも以上に硬く暗く、敵意に満ちていた。

 間違いない。水城屋の店主は“ゆきのなごり”を呑めば鬼になると初めから知っていた。
 しかし酒は泉から湧き上がったものを詰めただけだという。
 ならば、どうやって知り得たのか。酒を買った者がそうなったと聞いた?
 いや、まさか。この男が商売人ならば、得体の知れないものを行き成り売りつけるなどということはあるまい。
 だとすれば答えは決まっている。

「小僧に“ゆきのなごり”を呑ませたか」

 成程、「女に聞いたのはそれだけ」というのは確かだ。鬼になるというのは手ずから確かめたのだから。
 売りに出す前、“ゆきのなごり”がどういうものかを知るために、この男は店の小僧(従業員)に酒を呑ませたのだろう。
 そしてその小僧の名前が伝助。かつて蔵に住み着いた、童の鬼だ。

『ぉうジ…おォン』

 答えられる程の知能はない。聞き取りづらい呻きを発しながら鬼は蠢く。

『たぉハ、ゥヤぉくぁぉア!』

 咆哮と共に突進する鬼。
 駈け出した瞬間に蔵の地面が陥没するほどの踏み込みだ。
 七尺を超える巨体へと変容した鬼は、その体躯に見合わぬ速度で甚夜の間合いを侵す。それを可能とする規格外の筋力。ならば繰り出される拳もまた規格外の代物である。

 体勢は低く、鬼の脇をすり抜けるように前へ進み、立ち位置を入れ替える。そして鬼が振り返るよりも早く斬り、いや、遅かった。振り返るよりも早く斬る筈が、鬼の目は既にこちらを捉えている。

 ぶぉん、と空気が唸る。

 拳と呼ぶのもおこがましい、ただ振り回すだけの攻撃。それすら致死の一撃へと変える鬼の膂力。しかし逃げることはしない、そんな暇はない。こいつをさっさと葬り、急いで須賀屋に向かわねばならないのだ。
 逃げずに一歩を踏み込む。腕を掻い潜りながら距離を潰し、逆袈裟に斬り上げる。
 確かな手応え。刃が肉に食い込み、鮮血が舞う。ただ血の量は少なかった
 浅かった訳ではない。単に鬼の皮膚が予想より硬かっただけ。傷は負わせたが相手の動きを止めるには至らなかった。

『みォぅぃツァァァ!』

 意味の分からない叫びと共に、上から下へと殴り付ける。時間が無い、多少の手傷は覚悟の上で迎撃する。迫る拳、避けきれない、関係あるか。右肘を突き出し半身になる。足の裏で地を噛むと同時に前傾、肘を起点に前腕を伸ばし、全身の連動で斬撃を繰り出す。

「がぁ……!」
『け、てぇコォあ』

 避けられなかった拳が左の胸に突き刺さり、甚夜の剣戟も鬼の皮膚を裂く。
 命を刈り取ることは出来なかったが、こちらの傷も浅い。取り敢えずは相打ちという所か。
 そう考えて、奇妙さに気付く。
 あの拳が直撃して、しかし大した傷はない。それがおかしい。あの豪腕だ、骨が折れて臓器が潰れても不思議ではない。なのにあるのは多少の痛みのみ。疑問に思えば、答えるように染吾郎が一歩前へ出た。

「君、攻め手が雑やな」

 右手には福良雀の根付が握られている。
冬の雀は寒さから身を守るため体の毛を立てて羽毛の層を厚くし、空気を重ねて体温の低下を防ぐ。その外見はでっぷりと肥え太っているように見え、これを福良雀と呼ぶ。
 福良雀の羽毛は寒さから身を守る為。しかしあの根付は外敵から身を守るための力を宿しているようだ。以前見せた染吾郎の人では考えられない耐久力も福良雀の力だったのだろう。
 
「すまん、助かった」
「別にかめへんよ」

 空気が唸る。
 短い会話を断ち切るように鬼は甚夜へと拳を振るう。脇構え、微かに腰を落し足の裏に力を込める。後ろには退かない、寧ろ前へと進みながら打点をずらし唐竹一閃。裂ける肉。まだだ、踏み込み左肩で鳩尾を狙い、全霊でぶち当たる。
 僅かに後退する鬼。好機、更に一歩を進み逆袈裟に斬り上げる。

「行きぃ、かみつばめ」

 夜の空気を裂く燕が一羽。甚夜の剣戟と合わせるように直進する燕は、鬼を斬り刻む程の力を秘めている。
 燕と刀、異なる刃が鬼を襲う。

『こぉぉニァッ!』

 咆哮と共に鬼はもがくように腕を振り回す。
 たったそれだけのことで燕も刀も容易く薙ぎ払われてしまう。
 刀を横から叩かれ僅かに流れた体勢。直さぬまま強く柄を握り、力任せに鬼の首を狙う。
 刺突が突き刺さるも貫くには足らない。硬いからではなく、体勢が崩れたまま突きを放ったためだ。力が乗り切っていなかった。
鬼の反撃を避けつつ、軽い舌打ちと共に後ろへ大きく距離を取る。

「……こいつ。生まれたての割に妙に強い。なんやおかしない?」

 染吾郎の言葉に小さく頷いて答える。
 追撃はない。相も変わらず呻き声を上げる鬼。所詮は下位の鬼、なんの<力>も持ち合わせてはいない。ただこの鬼は膂力に優れ、動作も反応も速い。特別なところは何もないが、だからこその強さがある。確かに生まれたばかりの鬼にしては些か強すぎた。

「案外、端から仕組まれていた……いや、仕込まれていたのかもしれん」
「ん? それって」

 その理由を、何となくではあるが、甚夜は理解していた。だが説明する気はなかった。

 可能性の話である。
 もしも金髪の女が甚夜の想像した誰かならば。

 養老の青年は功徳によって菊水泉へと辿り着いたが、水城屋の店主は金髪の女に拐されて“ゆきのなごり”を得た。だとすれば酒の泉は湧き出たものではなく、女によって「造られた」と考えた方が自然。
 
 女は呑めば鬼へと化す酒だと知りながら“ゆきのなごり”を世に広めた。
 しかし彼女は自身を憎み追う男のことを知っている。対策は取ってしかるべきだ。
 水城屋の店主は酒の正体に気付くであろう誰かを塞き止める防波堤として、彼女に弄られた。初めから人ならざるものへ変じる為の何かを仕込まれていたのかもしれない。
 そして酒の泉の正体にも大凡見当がついている。

「使ったのは頭か、それとも体の方か」
 
 呟く言葉は憎しみに淀んでいる。
 酒の泉は初めから人に害為すものとして造られた。
 もしも金髪の女が酒の泉を「見つけた」のではなく「造った」のだとすれば。
 もしも金髪の女の正体が甚夜の知っている娘ならば。
“ゆきのなごり”とは即ち──
 
 浮かんだ想像に甚夜はぎりと奥歯を噛み締めた。
 いずれ全ての人を滅ぼす災厄となる。
 あの娘は、着実に鬼神への道を歩んでいる。そう感じられて、憎悪と共に形容しがたい感情が湧き上がる。締め付けられる心臓は、一体何に由来したのだろうか。

「……君、なんや随分焦っとるな」

 聞いても答えないと思ったのか、それとも気遣ってくれたのか。染吾郎は甚夜の呟きを聞かなかったことにして話しかけた。
 それに感謝し一度大きく息を吸い込む。冬の冷たい空気で肺を満たし、一気に熱を吐き出せば多少は心も落ち着いてくれた。

「奈津の父親は毎晩のように酒を呑む」
「お嬢ちゃんの? なーる、そらまずい」

 それだけで焦燥の訳を知り、染吾郎もまた表情を変えた。
 目の前で鬼へ変じた者を見たのだ。甚夜の想像は決して有り得ないことではない。

「そんなら甚夜、行きぃ。こいつの相手は僕がしたる」

 一瞬の逡巡の後、染吾郎は力強くそう言った。
 それが甚夜を慮ってのことであるとは分かっている。しかしこの鬼はそれなりに厄介だ。幾ら鬼を討つ者とはいえ人の身では。

「秋津染吾郎」
「なんや、その顔。もしかして僕じゃこの鬼に勝てんとか思とる?」

 図星を指され言葉に窮する。すると戦いの最中に在って染吾郎は朗らかに笑った。

「舐めたらあかんよ。人って、結構しぶといで? 多分、君が思とるよりずっとね」

 言いながら懐から短剣を取り出して示してみせる。一尺程度の両刃。武器として使えるか怪しく、染吾郎の体術は並程度。そんなものを持ったからといって戦えるとは思えなかった。

「だから君はお嬢ちゃんとこ行きぃ」
「だが」
「言っとくけど、鬼如きに心配されるほど秋津の業は拙ないよ」

 一転眼光が鋭く変わる。
 それすらも気遣い故だ。どうする、などと考えること自体彼に対する侮辱。なにより冷静な思考力を書いた己ではいたとしても大して役には立たないだろう。
ならば答えはもう決まっていた。

「……感謝する」

 染吾郎を残し、蔵を後にする。背後で激しい音が聞こえた。鬼が襲い掛かろうとしたところを染吾郎が阻んだのだろう。

「おーおー、せいぜいしてや。お嬢ちゃんとこって須賀屋やろ? 終わらせたらすぐ追うわ」

 軽い調子の科白を背中に受けて、更に速度を上げる。
 折角の気遣いを無駄には出来ない。甚夜は雪が敷き詰められた夜道をただ只管に駆けていった。



 ◆



 多分、自分は足が遅いのだろう。
 なんとなしに甚夜はそう思っていた。

 江戸の町は雪に覆い尽くされて、流れる風は刃物のように鋭い。今も雪はやむことなく、夜は灰色に染め上げられていた。
 降り積もった雪を踏みしめながら、甚夜はただ走る。
 遠い昔、まだ人であった頃。あの夜もこうやって走っていた。
 走って、走って、只管に走って。
 でも惚れた女に、大切な家族に、この手は届かなくて。
 だから走るのが遅いのだと思う。
 どんなに走り続けても間に合わないことの方が多かった。
 
 それでも走る。
 何故走っているのかは分からないが、足は勝手に前へと進む。
 目的があった。
 だから強くなりたくて、そしてそれが全てだった。
 なのに立ち止まることが出来ない。
 かつて見捨ててしまった父。もしかしたら妹になったかもしれない娘。
 今更取り戻せるものではなく、間に合ったとて自身が得る物などない。
全てだと思った生き方から横道に逸れて。何がしたいのか、本当に分からなかった。

 しかし彼等は家族として時を刻んでいた。
 それを嬉しいと思えた自分がいた。
 ならば走らねばならない。その意味を今は理解できずとも、ここで立ち止まってはいけないと思った。

 雪に足がとられる。足袋が濡れて足が悴む。冷え切った体が動かしにくい。
 そんなものはすべて無視して走り抜け、ようやく見えた懐かしい場所。
 灯りが落ちた須賀屋の佇まいに嫌な予感が膨れ上がる。扉は当然閉まっている。

 …お…様……て、お願……


 けれど冬の風に紛れて悲しげな声が聞こえてきた。
 事態はのっぴきならないところまで来ている。
 正攻法など取っていられない。閉じられた扉へ全霊の当身。閂は折れ、そのまま扉を突き破る。
 彼等のいる場所ならば分かる。あの人はいつも自室で酒を煽っていた。遠い記憶を頼りに走り抜ける。
 床を踏む度に嫌な音がする。まるで誰もいない屋敷のようだ。過った想像を即刻捨て去り、目的の場所へと辿り着く。

「なんで…なんで……」
 
 障子越しに聞こえてきた、震える奈津の声。血液が沸騰し、既に足は動いていた。
 乱雑に戸を開け部屋に飛び込む。
 そうしてまず目に入ったのは、腰を抜かしその場にへたり込む奈津の姿だった。
 揺れる瞳を追っていけば、赤黒い影が視界に入り込む。


『じ、ん……たぁぁぁ……』


 爛れた皮膚を持つ醜い鬼は、今正に奈津へと手を伸ばそうとする瞬間だった。
 
 多分、自分は足が遅いのだろう。
 どんなに走っても間に合わないことの方が多くて。
 

 ───けれど、この手はまだ届く。


 踏み締めた足。畳敷きの床を蹴った瞬間そこが拉げた。
<疾駆>
 そう自分は足が遅い。けれど今は、誰よりも何よりも速く駈け出す為の<力>がある。
 強くなりたいと願い、多くを踏み躙って得た<力>。 
 その是非を問うことは出来ず、その意味もない。
 ただ確かなのは、あの時にはなかった<力>が今あるということだ。
 一歩目から最速を振り切った、人の身では為し得ぬ速度。刹那の間に鬼との距離が零となる。
 眼前に奈津を襲おうとする鬼がいる。刀を抜くことさえ邪魔くさい。拳を握り締め、速度を殺すことなく全て乗せ、狙うは醜い鬼の面。

「あぁぁああああああああああああああああああああ!」

 絶叫と共に振り抜いた拳は、正確に鬼の顔面を捉えた。
 鬼の膂力と<疾駆>の速度。二つが合わさって一撃だ。耐えることなぞ叶わず吹き飛ばされる鬼。そのまま壁に衝突し、どさりと倒れ込んだ。

「奈津、無事か」

 横目で腰を抜かし震えている奈津の様子を窺う。

「あ…ああ……」

 怖かったのだろう。焦点は定まらず、かちかちと奥歯が鳴っている。庇うように前へ立ち、油断なく鬼を見据える。
 全力の拳だったがやはり鬼を倒すには足りなかった。
 ゆっくり、ゆっくりと鬼は体を起こす。

『じ、んたぁ』

 呻くような、懐かしい響き。
 心がささくれ立つ。しかし鬼が眼前にいるならば、甚夜の採る行動など決まっている。
 抜刀し、脇構え。どんな挙動も見逃さぬと心を落ち着け、視線を鋭く変える。
 名を聞かなかったことに他意はなかった。そう思い込もうとしていた。

「やめ、て、甚夜」

 けれど背中から聞きたくなかった声が聞こえてくれる。
 言わないでくれ。分かっているから。
 しかし言葉にしない思いは伝わらない。
 奈津は絞り出すように、悲鳴を上げるように言った。

「その鬼は…お父様なの……!」

 ああ、まただ。
 また私は間に合わなかった。



 ◆



 かみつばめは紙燕。
 元々は燕の形に切り抜いた紙に紐をくくり付け、振り回して遊ぶおもちゃである。犬神にしろかみつばめにしろ紙で出来ている為持ち運びやすく、染吾郎はこれらを好んで使っている。

「かみつばめ、犬神!」

 奪われたといっても犬神は犬張子の付喪神。代わりのものを用意するのも容易い。燕が切り裂き、犬が噛みつく。一定の距離を保ち、付喪神で責め立てていく。

『イァァるぅぅぅ……』

 しかし鬼は容易に襲い来る獣を薙ぎ払う。多少の傷は与えられたが、何の影響もなく動き続けている。
 犬神には多少の再生能力と敵を察知する聴覚嗅覚が、かみつばめには速度とそれを維持したままの旋回性能がある。反面威力には欠け、眼前の鬼を討ちとるには少しばかり足らなかった。
 
 鬼は巨体に見合わぬ速度で進軍する。体術に優れた訳でもない染吾郎にとってそれは脅威だ。間合いに入り込まれるのはちとまずい。だから犬神やかみつばめで牽制しつつ立ち位置を細かく変えていく。
 距離を詰めようとする鬼、距離を取ろうとする染吾郎。
 この構図を先程からずっと続けていた。

「いつまでもこのままって訳にはいかんよなぁ」

 体力で勝るのは明らかに鬼の方だ。このままの状態を維持していてはいつかはやられる。それを理解しながら、染吾郎は余裕の態度を崩さない。

「ま、だからあいつ行かせたんやけど」

 浮かべた笑みは自身に満ちているが何処か無邪気で、何となく悪戯小僧のような印象があった。
 染吾郎が甚夜を行かせた理由はいくつかある。
 奈津のことは確かに心配だったし、集中力を欠いた甚夜を慮ったのも事実。
 そして甚夜がいては戦いにくいのも事実だった。

「切り札は隠せるだけ隠すもんやしな」

 今は慣れ合っていても相手は鬼。いずれは争うことになるかもしれない。そう思えば自身の切り札を晒す気にはなれなかった。
 だがいなくなった今、堂々と切り札を切れる。
 手にした短剣。これが染吾郎の持ち得る最高の戦力である。

「ほないこか」

 清(中国)がまだ唐と呼ばれていた頃、九代皇帝玄宗が瘧かかり床に伏せた。
 玄宗は高熱の中で夢を見る。
 宮廷に跋扈し、自身に取り憑く悪鬼。或いはこの病も彼らの仕業か。ざわめく悪鬼に体を蝕まれていく。
 しかしどこからともなく恐ろしい形相をした大鬼が現れて、悪鬼どもを難なく捕らえ喰らってしまう。
 玄宗が大鬼に正体を尋ねると大鬼は言った。

“かつて官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれた。その恩に報いるためにやってきた”

夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、彼の絵姿を描かせた。
 その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だったという。

 玄宗は自身の命を救ってくれた大鬼を神として定め、疫病除けの神として祀られるようになる。
 この話は後に日本へ伝わり、鬼を払うという逸話から端午の節句に彼を模した人形を飾る風習が生まれた。
 染吾郎が取り出したのは五月人形の持っていた短剣。
 即ち、その付喪神は───


「おいでやす、鍾馗(しょうき)様」


 ───鍾馗。厄病を払い、鬼を討つ鬼神である。

 現れたのは力強い目をした髭面の大鬼。
 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手には染吾郎の持つ短剣と同じ意匠の剣がある。冬の冷たい空気の中、大鬼の居る場所だけは違う。温度が高くなった。そう錯覚させるほどの威圧感だった。

『カァおうあぁ……』

 その尋常ではない気配を鬼も察知したのか、じりじりと警戒しつつにじり寄ってくる。
 そうして弾かれたように駆け出す。躍動する筋肉。狙う先には鍾馗がいる。引き絞られる背筋、反動で繰り出される拳はまるで矢のようだ。
 狭い蔵に響く鈍い音
 眼前の敵を貫かんと放たれた鬼の拳は見事に直撃し、

「その程度じゃあかんなぁ」

 しかし大鬼は微動だにしない。
 それが分かっていたからこそ染吾郎は余裕の態度を崩さないのだ。

 断っておくが、鍾馗に特別なことはできない。
 福良雀のような防御力の向上、犬神の再生能力、合貝の蜃気楼。他の付喪神が皆特異な力を持つ中、鍾馗にだけはそういった付加能力はなかった。
 かみつばめほど射程距離もなく、せいぜいが一間(1,8メートル)程度。
 元も短剣でそれなりに重さがあり、正直なところ使いやすいものではない。
 それでも鍾馗は染吾郎の切り札である。

 伸びきった腕をすくい上げるように弾く。そして流れるような動作で鍾馗は身を縮こまらせた。力を溜め込み、狙うは頭。

「悪いけど、これでしまいや」

 鍾馗には特別な力はない。しかし──
 
「いね」

 ──ただ強い。

 視認すら難しい速度で振るわれた剣、通り過ぎた後には何もない。鬼の頭部は斬られたのではなく、消し飛んでいた。
 何度も言うが特殊な力ではない。ごく単純な強さ。それこそ鍾馗の全てである。
 一拍子遅れて鬼はその場に崩れ落ち、白い蒸気が立ち昇る。最早その死骸が消えるのを待つばかりだ。

「嫌なもんやな。目の前で堕ちた鬼を討つんは」

 つい先ほどは人として会話していた。鬼に堕ちたとはいえ、命を奪うにはやはり抵抗がある。苦々しい顔つきで鬼の死骸を眺め、完全に消え去ったのを確認してから背を向ける。

「大丈夫屋とは思うけど、急がなあかんな」

 小さく呟き染吾郎は蔵を後にする。
 行き先は須賀屋。“ゆきのなごり”は人を鬼に変える。甚夜の話が本当ならば最悪の事態も想定しなければならないだろう。
ほんの少し表情が歪む。足取りが重いのは、敷き詰められた雪のせいばかりではなかった。


 ◆


 強くなりたかった。
 それだけを考えて生きてきた。
 なのに。

『あがぁあああああ!』

 敵は決して強くはない。先程蔵でやり合った鬼に比べれば、速さも力も感じない。技術も知能も有りはしない、非常に与しやすい相手だ。

「ぐっ!」

 なのに避けきれない。繰り出される拳、刀で落、間に合わない。左腕で防ぐも鬼の膂力だ。肉は抉れ骨が軋んだ。返す刀、袈裟掛け。しかし遅い。幾多の鬼を討ちとってきた夜来は、ひゅんと頼りない音を響かせて空を切った。

「く、そ……」

 息が荒れる。足が腕が重い。体が思うように動いてくれない。
 鬼との攻防は既に数合。甚夜の体は満身創痍、大して鬼は刀傷の一つもない。あまりにも無様。戦いとも呼べぬ一方的な展開だった。
 呼吸を整えようにも間髪入れず襲い来る鬼。
見えている。反応も出来る。脇構えから一歩引き、刀を振り上げる。
 踏み込み唐竹一閃。無防備な脳天を全霊で叩き斬てばいい。
 相手は避けようともしない。これで終わりだ。
 甚夜は一気に刀を振り下し、


 ──甚太。


 なのに、不器用でも優しかったあの人が思い出されて
 躊躇いが切っ先を鈍らせ、鈍った切っ先を越えて鬼の拳が甚夜を捉える。

「がっ、はぁ」

 見捨てることしか出来なかった父。
 家族が出来たと知って嬉しかった。
 嬉しいと思えたことが、嬉しかった。
 不肖の息子でもちゃんとあなたの子供であったと信じることが出来た。


 爪が肉を裂く。紅く染まる。


 ───奈津は血こそ繋がっていないが本当の子供と同じくらいに大切な娘だ。しっかりと守れ。

 長い年月を経て再び会うことが出来た。
 その時あの人が口にした言葉。分かっている。奈津を大切にしていると言いたかったのではなく、護衛をさせるが本当の息子もまた大切に想っているのだと伝えたかったことくらい分かっていた。
 鬼に堕ちたこの身を、それでも本当の子供だと言ってくれた。

「あぁ!」

 苦し紛れに振るう刀は当たらない。本当は、当てる気が無かったのかもしれない。刀は無様に空を切る。
 
「ぐ、ふぅ」

 隙をついて拳が腹に叩き込まれる。内臓がいくつかやられ、舌に鉄錆の味が広がる。耐え切れず吐血。意識が飛んでしまいそうだ。
 衝撃に体は痺れている。足が動かない。
 その隙を鬼が見逃すはずもなく。
 まずい。
 思った時にはもう遅かった。

 衝撃に体が宙を舞う。
 派手に吹き飛ばされ、甚夜は壁に叩きつけられた。背中に広がる鈍痛、そのまま壁を背もたれに座り込むように座り込む。指先まで痺れている。動くどころか顔を上げることさえままならない

『じ、たぁ』

 見えなくても気配は感じられる。
 唸り声と足音。鬼は獲物を殺す為に動き始めたのだ。そして自分は身動き一つ取れない。その先は容易に想像がついてしまった。

「あ、がぁ……」

 刻一刻と迫る命を刈る者。それを理解しながらも体は動いてくれない。
 
 本当に無様なものだと甚夜は自嘲した。
 いずれ葛野へ戻る鬼神を止めると誓った。
 その為に強くなりたかった。
 多くのものを斬り捨て、踏み躙り、喰らい尽くし。
 あの頃より少しは強くなったつもりになっていた。
 
 強くなりたくて、それだけが全てで。
 今までそうやって生きてきた。思い込んできた。 
 なのに何故、切っ先は鈍る。
 これまでさんざん斬り捨ててきおいて、なんで一匹の鬼さえ斬れない
 鬼になって、でも人の心は捨て切れなかった。
 だけど今、捨て切れなかった心にどうしようもなく追い詰められる。
 どうして私はこんなにも弱い。

「あ、あ……」

 漏れる呻き。指先に何かが触れた。どうやら酒瓶、“ゆきのなごり”だろう。
 確かめようにも手を伸ばすことさえ出来ない。本当に指一本動かなかった。
鬼神を止めるだの、けじめをつけるだの、大層なことをほざいておいてこれだ。
 騙し騙しやってきたが、所詮はこの程度の男だったのだ。
 虚脱感が心身を襲う。
 なんだか疲れた。
 こうしていれば、楽になれるだろ


 ───やっぱり甚太は私と同じだね。
    最後の最後で、自分の想いじゃなくて自分の生き方を選んでしまう人。


 だけど、そんな男を信じてくれた女がいた。
 諦めかけていた心に火が灯る。
 ああ、そうだ。
 本懐を遂げることなくここで終わるなぞ認められる訳がない。
 鬼神を止めると誓った。
 ならばそれを曲げることはできない。
 いつだってそうやって生きてきた。
 今更生き方を変えられる程器用にはなれない。何よりここで自分を曲げることは、今まで積み重ねてきた全てに対する侮辱だ。

「ぐ、ああぁぁぁ……!」 
 
 手は自然に“ゆきのなごり”を握り締める。
 そして軋む体を必死に起こしていく。
 痛み、知ったことか。動け、動かないとしても動け。お前がこんな所で立ち止まっているなど許されない。
 己が誓いを違えるような無様、認められる筈がないだろう。
 ぎしぎしと体が鳴る。力が入らない。気を抜けば膝から砕けてしまいそうになる。
 それでも無理矢理に体を引き起こし、



「お、お父様…いや、こないで……」


 ──その声に、ようやく立ち上がることが出来た。
 

「だ、誰か。た、たす」

 鬼は標的を奈津に変えたらしい。部屋の隅で震える奈津の元へ歩みを進めていく。
 重たい足取りで、それを阻むように立ち塞がる。

「じ、甚夜」

 血塗れになり、尚も立ち上がる男の背に奈津は声を掛けた。
 それには答えず、甚夜は手にした酒瓶の口を指でへし折った。そして浴びるような乱雑さで呑み干す。喉を通る冷たさ。まるで水のようだ。

「やはり、薄いな……」

 初めて飲んだ時も思った、懐かしい風味はするが薄い酒だと。
 今更ながらにその理由を理解する。
“ゆきのなごり”は鬼を造る、その起因たる憎悪を育て上げる酒。
 だから薄いと思った。
 普段からもっと濃い味に慣らされているのだ、薄く感じて当然だった。

「だが気付けくらいにはなった」

 投げ捨てた陶器がかしゃんと音を立てて割れた、
 あの時程の激情はない。 
 しかし憎悪は渦巻いている。
 妹への、そして無様を晒した己への。

「あぁ憎いなぁ……」
 
 憎い。
 あの人を前にして、たったそれだけで戦うことを止めようとした己の弱さがたまらなく憎かった。

「え……」

 意味が分からないとでも言いたげな奈津の呟き。それを無視してただ一言、女の名を呼ぶ。

「奈津……」

 今助ける。守る。大丈夫だ、安心しろ。
 言えなかった。何一つ守れなかった男の言葉にいったいどれだけの価値がある? 
 誰かを守るなど、己には過ぎたことだ。

 どくん。

 左腕が鳴動する。
 満身創痍。体をうまく動かすことが出来ない。だがこの程度の傷は問題ない。
 人ならばともかくこの身は鬼。問題になる筈がなかった。

 めきめきと嫌な音を立てながら甚夜の体が変容していく。
 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。
 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
 異形の右目は周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。
 そして見開かれる濁った真紅。

「鬼よ、名は聞かん。ただお前は殺すぞ」

 何処まで行っても甚夜に出来ることはそれしかなかった。



[36388]      『残雪酔夢』・7(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/10 21:38
 強くなりたかった。
 そうすれば全てを守れると思っていた。


 ◆

「あ、あ……」

 掠れた声は、何を見てのものだろう。
 背後にいる奈津の表情を知ることは出来ない。しかしその声から怯えているのだと分かる。
 分かっていて尚、甚夜は鬼と化した。
 眼前の鬼は奈津に手をかけようとした。彼女が殺されるのを黙って見ているなど出来はしなかったし、例え自我を失っていたとしても、あの人に娘を殺させるような真似はさせたくなかった。

 だからこの姿になることを選んだ。なんという余分。己が生き方から食み出た、感傷の為の戦い。そこに価値はなく、だというのに逃げる気には到底なれなかった。
 
「皮肉なものだ」

 甚夜は相対する鬼の、左右非対称の姿をまじまじと見る。その歪さは左腕だけが肥大化した己とよく似ている。親子で同じような形の鬼になるとは、本当に皮肉な話だ。
 思えば父の人生は鬼に奪われてばかりだった。
 妻を鬼に犯され、生まれた鬼女に命を奪われた。
 息子は鬼女の手を取って出て行った。
 鬼へと堕ち、自分自身を失くした。
 そして今、鬼に命を奪われようとしている。

「だが」

 奈津には手を出させないと、この場で殺すと決めた。
 ならばそれを曲げることは出来ない。左腕に力を籠め、もう一度、自身の退路を断つように宣言する。

「お前は殺すぞ」

 そう口にしなければ揺らいでしまいそうな決意。軟弱な心をひた隠すように構えを取る。刀を持った右腕はだらりと放り出し、左半身ではあるがごく自然な立ち姿である。
 普段は好んで脇構えを取るが、鬼と化せば左腕は刀を超える武器となる。ならばこそ両手を使えるか前の方が有利、それ故の構えだった。
 それが隙だらけに見えたのだろう。鬼は憎悪を孕んだ目で甚夜を睨め付け、隠しようもない殺意を放ちながら無警戒に突進してくる。
 しかし遅い。動きがよく見える。そして最早躊躇いはない。
 まるで落ちている小石を拾うように無造作な動きで間合いに入った鬼の頭を鷲掴み、

「がぁっ!」

 全力で床へ叩き付ける。畳が拉げ鬼の頭部はめり込むが、床の方が弱かった。簡単に突き抜けてしまい、鬼の頭蓋はまだ潰れていない。
 そのまま鬼を高々と掲げ、勢いをつけて放り投げる。部屋の壁を突き破り、庭へと飛んでいく鬼。すぐさま体を起こすも、力量差を感じているのだろう、憎悪の目で睨みつけるもその場で動けずにいる。
 所詮は下位の鬼、食うにも値せぬ。
 甚振るのも性に合わない。早々に終わらせるとしよう。

「……<剛力>」

 ぼこぼこと煮えたぎる湯のような音を発しながら左腕が隆起する。骨格すら変容し、一回り大きくなったところで変化が止まった。

「せめてもの手向けだ。一瞬で終わらせよう」

 あなたが、苦しいと思う暇などないくらいに一瞬で。

『じ、たぁ』

 動じるな。あれはただの呻き声だ。一つ呼吸をして、ゆっくりと庭へと足を踏み入れる。
 一歩。
 そう言えば昔、この庭でよく遊んだ。
 二歩。
 父親は忙しいながらもよく付き合ってくれた。鈴音と一緒に走り回ったこともあった。
 三歩。
 奈津の並んで縁側に座り、握り飯を食った。不器用な優しさが微笑ましくて、ただの握り飯がやけに旨く感じられた。
 四歩。
 その全てをぶち壊す。
 他ならぬ己自身の手で。
 後悔しないかと問われれば、答えることは出来ない。だがそう決めた以上、意思を曲げることも出来ない。
 五歩、六歩と距離を詰める。
 がくがくと膝を震わせる鬼。
 逃げることなど出来ない。分かっているからだろう。力の入らない体で懸命に襲い掛かる。

『じん、たぁっ……!』

 駈け出す。しかし無防備だ。
 心が冷えていく。その分動きがよく見える。
 ゆっくりと左腕を後ろに退き、背筋に力を溜め込む。
 鬼は真っ直ぐにこちらへ向かっている。
 そして間合いを侵した瞬間、


「さようなら、父上」


 踏み込みと同時に振るわれる剛腕。
 限界まで逸らされた背筋、その瞬発力を持って放たれた拳は鬼に突き刺さり、上半身が爆ぜたように弾け飛んだ。
 拳に伝わる生暖かさが鬼の死を実感させる。倒れ込んだ鬼から白い蒸気が立ち昇っている。そこに在るのはただの肉塊。元がどんな姿をしていたかなど分からない程に無惨な死骸だった。
 もう父の面影など何処にも見出せない。
 そうしたのはほかならぬ己だというのに、その事実に胸が締め付けられる。
後悔はしない、してはいけない。
 ただ自身が踏み躙った命だ。これから背負っていかなくてはならない。
 一度息を吐き、ゆっくりと冬の空気を吸い込む。少しでも平静な表情を作り、重蔵の死骸に背を向ける。

「奈津……?」

 すると奈津もまた庭へと出て来ていた。
 まだ体は震えており、俯いて立ち尽くしている。父に殺されようとしたのだ。それも仕方あるまい。

「大丈夫だ、終わった」

 だから少しでも安心させようと、彼女の元へ歩きながら穏やかに語り掛ける。

「ちか、よるな」

 しかし絞り出したようなかすれた言葉に足が止まった。
 体の震えが更に大きくなる。いったい、なにが。思うよりも早く奈津が顔を上げる。
 そして彼女の感情を理解した。
 その表情からは奈津からは恐怖など微塵も感じることは出来なかった。
 代わりにあったのは、慣れ親しんだ感情。


「近寄らないで化け物ぉ!!」


 明確な憎悪を持って吐き出されたそれに、甚夜は完全に固まった。
 

 ───時々、忘れてしまう。


 自分が鬼であるということを。
 分かっているつもりだった。なのにその意味を忘れてしまう。 
 人の中にいるせいだろう。自分が鬼であっても、人に受け入れらているのだと、錯覚してしまう。
 けれど本当は、自分は物語の中では討たれる側の存在で、彼女の態度は当たり前のことで。 
 なのに勘違いをしていた。 


 鬼でありながら人を娶った友人を知っている。
 人と鬼でありながら親娘になれた家族を知っている。
 鬼を討つ者でありながら鬼と語り合える男を知っている。
 だからだろう。それを信じて疑わなかった。

 でも、そうではない。

 どこまでいっても、人と鬼は相容れぬもの。
 人は鬼を受け入れず、また鬼は人を容易く屠る。
 例え言葉を交わすことが出来ても所詮は別種。
 真の意味で鬼と人が共に在ることなど出来ない。

 自分が知っているのはあくまでも例外でしかない。

 鬼を受け入れられる人がいることと、自分が受け入れて貰えるかは、別の話なのだ。
 それを、長い年月を人の中で過ごしたからといって、勘違いしていたのだ。

「お父様を、あんたは、お父様を……」

 奈津は喜兵衛で“ゆきのなごり”を勧められた時断っていた。つまり彼女の憎しみは酒を呑んだが故のものではない。
 憎悪は全て彼女から生まれたもの。
 憎しみの籠った目に囚われる。
 守ったつもりになっていた。しかし彼女にとって甚夜は、父を殺した化け物でしかない。そんなことにも頭が回らなかった。
 それでおしまい。
 結局は何一つ守れない。
 愚かで滑稽な男が、またしても道化を演じた。
 ただ、それだけの話だ。



 ◆


 降り止まぬ雪の中走り続け、染吾郎が須賀屋に辿り着いた時、店の前に人影があった。

「お、甚夜?」

 甚夜は着物の至ると事が破れており、血だらけになっている。この男が此処まで苦戦する鬼がいたのか。流石に驚きを隠せなかった。

「随分な強敵やったみたいやね」
「ああ、正直死んでしまった方が楽になれると思ったほどだ」
「君にそこまで言わせるとか、尋常やないな」

 かなり疲れているのだろう。血も多く失っているせいか顔色が悪い。

「でも、ここにいるってことはもう終わったんやろ?」
「……ああ、終わった。後は、大本を片付けるだけだ」

 それきり会話は途絶えた。
 降り止まぬ雪が江戸の町へ積もり積もる。このまま自分も雪に染まってしまえればいいのに。訳もなくそんなことを思った。



 ◆



 相模国に聳え立つ大山は、富士山に似た美しい山容をしており、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた。
 大山の山頂に阿夫利神社本社、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。大山は別名を「雨降山」ともいい、古くより雨乞いの神の住まう山として農民からの信仰を集めたていた。

「ちょ、ちょい待って。もうちょっとゆっくり歩けへん?」

 翌日も雪は降り続け、黄昏時ともなれば本当に暗い。少し先も見通せない暗がりの山道を甚夜と染吾郎は歩いている。出来る限り早く酒の泉へと辿り着こうと無茶な行軍をしてきたが、ここに来て遂に染吾郎が弱音を吐いた。

「急いだ方がいいと言ったのはお前だろう」
「そらそやけど。半日歩き詰めやで? 僕はふつーの人なんや。君と一緒にせんとって」

 確かに人と鬼では体力には差があり過ぎる。仕方ないと少し速度を落とす。曇り空は黒に染まろうとしている。目的の場所に辿り着く頃には完全に夜となるだろう。

「もう夜になるな」
「まー、そこらへんは勘弁したって。それに怪異の大本に行くんや、夜の方が“らしい”やろ?」

 軽口ではあるが事実でもある。怪異がその姿を見せるのは夜だ。だからこそ夜の山道をこうやって踏み入っているのだ。

「ところで、聞きたいやけど」
「なんだ」

 荒い息をしながら、それでも喋ることを止めようとしない染吾郎に甚夜は呆れて溜息を吐いた。話せばそれだけ体力を消耗する。黙って進めばいいものを。
 そう思いながらも耳を傾ける。染吾郎は歩きながらさらりと言った。


「君、“ゆきのなごり”がなんのなのか、見当ついとるんやろ?」


 まるで茶飲み話でもするような気軽さで確信を突かれ、甚夜は何も返すことが出来なかった。

「やっぱな。なーんとなくそうやとは思っとったけどね」

 沈黙を答えにして、染吾郎は勝ち誇ったように口元を釣り上げた。それも一瞬直ぐに真剣な表情を作る。誤魔化しは通用しないだろう。

「教えてくれるんやろな」

 頼みではなく命令に近い言い方だ。
 ここまで来たのだ、元より隠すつもりもない。甚夜は先に進みながらゆっくりと語り始めた。

「そもそも、酒はどうやって造る?」
「んん? そら蒸した米で麹つくって、水にぶち込むんやろ?」
「些か大雑把だがその通りだ。ならば“ゆきのなごり”も同じように造るのだろう」

 平然と言ってのけるが、その荒唐無稽さに染吾郎はあんぐりと口を空けた。

「は? いやいや、あほなこと言わんといて。そんなんでどうやって酒の泉なんてつくんの? 泉に麹ぶち込んだからてどうにもならんやろ」

 当然の疑問、しかしやはり甚夜は平然と答える。
 
「ぶち込むのが麹でなければいい」

 視線は前を向いたまま、何処か疲れたような響きだった。

「混成酒というものがある。果実や香草、薬草の類を漬け込んで風味を加える酒だ」

 その物が内包する性質を酒に溶かすには、長い長い時間漬け込むのが最も手っ取り早いのだ。
 ならば人を鬼へと堕とす酒を造るにはどうすればいいか。
 簡単なことだ。
 それを誘発する何かを漬け込めばいい。
 
「それって梅酒とかのことやろ? ……って、あー、そゆこと」

 何を言いたいのか察し、染吾郎は苦々しく表情を歪める。

「つまるとこ、人が鬼へと変わる要因となる何かが漬け込まれとる、って訳や」
「ああ。おそらく泉には、非業の死を遂げた骸が沈められている」

 それはあくまでも推測に過ぎず、しかし甚夜は確信を持って言い切った。
 金髪の女がもしも想像した通りの者ならば、泉に沈むものの正体には容易に想像がついてしまった。

「お前が言った、物にも想いが宿ると。ならば骸に宿った想いが、水に溶け出すことだってあるだろう」
「なーる。んで、それをやったのが金髪の女?」
「だろう、な」

 勿論、死体を静めた程度で泉が酒に変わることはない。金髪の女が手を加えたから“ゆきのなごり”になった。しかし根本的なところは外れていないだろう。あの酒から懐かしい風味がしたのは、そういう理由だ。

「そやけど人を鬼に変える想いなんてぞっとせん話やなぁ。どんな恨み抱えて死んだんやろな」

 軽い調子の染吾郎に、甚夜はいつも通りの、硬い鉄のような声で返す。

「そう言ってくれるな。結果として鬼を生む酒になったが、骸の意図ではない。ああ、いや。意図したのかもしれないが、悪意があった訳じゃないんだ」
「は?」
「この匂い。近いな」

 まるで骸の内面まで知っているかのような言葉に染吾郎は疑問を感じたが、甚夜はそれを無視して歩みを早める。
 木々をかき分けるように先へと進めば、山の中腹に位置する、開けた場所へと辿り着く。

「これは……」

 息を呑んだのは誰だったろう。

 微かに漂う酒の香。
 森の天井は大きく開けられて、灰色の雲からはちらりちらりと雪が降る。
 不意に風が吹いて、ざあ、と森が揺れる。
 朽ち果てた木々が浮かぶ透明な泉。

 たゆたうように湖面を舞う光は蛍か、それとも鬼火か。
 曇天に覆われ星すらない夜。
 今も止むことのない雪とゆらり揺れる白光。
 眼前に広がるのは、まるで彼岸に訪れてしまったかのような、あまりにも現実感のない優美な光景だった。

「こら、すごい……」

 鬼を造る酒に満ちた泉は、そのおぞましさとは裏腹にあまりにも幻想的で、染吾郎はぽかんと口を開けて魅入っている

「こんな景色を造れる想いが恨みやとは到底思えんなぁ」
「だから言っただろう」

 素直な感想だった。それに答えた甚夜の声は、今まで聞いたことが無い程に優しかった。

「鬼になる酒が生まれたのは、そういう形の方が目的を達しやすかったからなのか。それとも長い年月をかけて彼女の想いがそうなってしまったのか。それは私にも分からん。だが少なくとも、悪意はなかった」

 そうして甚夜は泉の方へと向かって歩いていく。染吾郎は止めなかった。その歩みが、そう在るべきと思えるほどに自然だったから、止めてはいけないと思った

「ただ彼女は見付けて欲しかっただけなんだ」

 冬の泉だ、凍える程に冷たい。しかし甚夜は足を止めない。ただ歩みを進め、酒の泉の中心へ。腰まで酒に浸されているというのにその表情は穏やかだ。
 徐に酒の泉へと手を伸ばし、泉の底で眠る骸をゆっくりと引き上げる。

「憎しみを煽り、淀ませ、人を鬼へと変え……」

 抱骸は軽すぎる。暖かさの感じられないそれを、優しく、壊れてしまわぬよう優しく抱き上げる。

「……そうしていればいつか、鬼を討つ者が会いに来てくれると信じていた」


 その骸には頭蓋骨がなかった。
 

 ああ、だから。
“ゆきのなごり”を呑み鬼へと変じた者達は、甚夜を優先して襲った。
 そこに揺らがぬ想いがあったから。
 きっと彼女は、見つけて欲しかった。止めて欲しかったんだろう。
 遠い昔抱いた、綺麗だった筈の想い。歳月を経て歪み、いつか鬼を生む酒へと変じてしまった心を、それでもいつかは止めてくれる者が現れると信じていた。
 誰かが、ではない。
 止めてくれのるが誰かなんて、疑う余地もないほどに。
 彼女は信じていてくれた。

「お前は。こんなになっても、俺を求めてくれたんだなぁ……」


 ───当たり前だよ、甚太。


 酒の香気に、麗らかな幻聴に酔う。
 体に染み渡る酒。きっと、そこには溶けだした想いがあって。
 だから憎しみを煽り人を堕とす酒でありながら、甚夜には懐かしく感じられた。


 ───ごめんね、結局あなたを傷付けて。


「私は巫女守だ。いつきひめの為に剣を振るうのは当然だろう」


 ───……うん、ありがとう。


 肉の削げ落ちた骸骨を見つめながら静かに笑う。いつかの少年が零したであろう朴訥な笑みだった。
 それを受けて骸は砂になり、冬の風に吹かれ空へと流れる。
 同時に酒の香気が薄れていく。目的を達したからだろう。原因となった骸は天に還り、泉もまた自然のものへと戻ろうとしているのだ。


 ───それじゃあね、甚太。


「……ああ」

 名残惜しいと思う。
 幻聴であっても彼女の声が耳を擽ってくれた。骸だとしても彼女を抱きしめることが出来た。その心地好さが失われる。どうしようもない現実が、冬の寒さ以上に心を凍てつかせる。
 けれど追い縋ることは出来ない。
 彼女は既に過去だ。過去に手を伸ばしたところで得られるものなどある筈もなく、今を生きる以上立ち止まってはいられない。
 いつだって二人はそうやって生きてきた。
 そんな二人だから想い合うことが出来た。
 ならば彼女が隣にいないとしても……生き方は曲げられない。
 だから甚夜は万感の想いを込めて呟く。
 
 
「……おやすみ、白雪」


 遠い夜空に言葉は溶けて、真っ白な雪がゆらりと揺れる。
 それでおしまい。
 腕の中にいた骸は空へと還り、酒の香気も消え失せた。
 泉に取り残された甚夜は天を仰ぐ。

 空は灰色の雲に覆われて、青白い月は姿を見せてくれない。
 けれどいつかのように夜空を見上げながら、そっと優しく雪の名残を見送った。



 ◆



 一週間の後、甚夜と染吾郎は深川の茶屋にて顔を合わせた。
 表の長椅子に並んで座りながら茶飲み話に興じている。

「あれ以来、鬼の噂も乱闘やらも治まっとる。取り敢えずこれで解決ってとこやな」

 気楽な調子で団子を頬張りながら。染吾郎は朗らかに笑った。
 江戸の町から“ゆきのなごり”は完全に姿を消した。大本が消えたせいなのか、既に売りに出された酒も水に戻ってしまった。当然ながら買った者達は騙されたと怒り、今では“ゆきのなごり”を求める客は全くいないと言っていいだろう。

「にしては、まだ江戸の民は浮足立っているように見えるが」
「そら仕方ないやろ。世相ってヤツや」

 染吾郎は肩を竦めた。

「近頃は幕府が外国にへーこらしとるもんやから、それが不安なんやろ。まあでも鎖国なんていつまでも続けられるもんやないし、時代の流れなんやろぉな。なんにせよ“ゆきのなごり”は関係ないと思うで?」

 夜鷹も浦賀に来航した黒船の話をしていた。
 鬼の存在に関わらず、江戸の民は不安を抱えているのだろう。

「僕らにできるんは鬼を討つまで。時代の流れなんて、どうしようもないことやろ?」
「お前の言う通りだ」

 そもそも自分に出来ることなど刀を振るう程度。あれこれと手を出せる程強くはないのだ。

「なんや、浮かん顔やね」
「む。まあ、な」

 甚夜は茶を啜りながらも眉を顰めていた。
 今回酒の泉に使われていたのは体の方だった。しかし鈴音は葛野を出る際、白雪の首を持ち去った。
 だとすれば、もう一度白雪の躯が何かに利用される可能性がある。それを想像すると、事件が解決したとしても手放しで喜ぶ気にはなれない。

「金髪の女を止めねば、と思ってな」
「あー、そいつが今回の黒幕やしなぁ。またなんか企むかもしれん、ってこと?」
「ああ」

 嘘は言ってない。彼女を止める。それだけを考えて生きてきたのだから。

「でもま、先のことは考えてもしゃーないやろ。っと、ごちそうさん。ここ勘定置いとくで」

 言いながら懐から銭を取り出し、椅子の端に置いて立ち上がる。

「そしたら僕はもう行くわ。そろそろ帰らな弟子も心配するしな。ほなね、甚夜。もし京に寄ることあったら訪ねてな。秋津染吾郎って名前を出せばすぐに見つかるわ」
「ああ、機会があったらな」
「うん、ほなさいなら」

 気安い挨拶を残して染吾郎は去っていく。
 その背を眺めながら茶を一口啜る。茶はすっかり温くなってしまっていた。






「あら、甚夜君。ごぶさたですね」

 昼時になり喜兵衛を訪れれば、おふうがたおやかな笑みで迎えてくれる。
 いつもと変わらぬ彼女の柔らかさが、少しだけ心を落ち着けてくれた。

「お、らっしゃい、旦那。随分久しぶりですねぇ。こんなに来なかったのって初めてじゃないですかい?」
「ああ、最近は色々あってな」

 説明するのも面倒くさい。それだけ言って椅子に座るれば、注文を受けずともかけ蕎麦を作り始める。

「失礼します。おお、甚殿。お久しぶりです」

 ちょうどその時暖簾が揺れる。
 店に入って来たのは直次だ。甚夜を見た瞬間、明るく笑って頭を小さく下げる。

「直次か」
「最近はあまり見かけませんでしたが、また厄介事でも?」
「そんなところだ」

 当たり前のように甚夜と同じ卓を囲い、自分の分の蕎麦を注文して直次は喋り始める。

「いや、最近は此処に誰も来ないものですから、少し寂しく思いました」
「誰も」
「ええ、善二殿も奈津殿も全く来られず」
「その上旦那も来ないもんですから、閑古鳥が鳴いて鳴いて仕方がないですよ」

 蕎麦を作りながらからからと笑う店主。来たのは久しぶりだが、相変わらず客の入りは悪いらしい。

「ほんとお奈津ちゃんたちどうしたんでしょうね。おふう、お前なんか聞いてないか?」
「いいえ、特には」

 親子二人で不思議そうな顔をしている。甚夜は何も言わなかった。言えなかった。

「っと、あいよ。かけ蕎麦二丁」
「はーい」

 話しているうちに蕎麦が出来た。運ばれてきた蕎麦は出来立て、湯気と共につゆの香りが漂っており、冬の気候も相まって実に旨そうだ。

「はい、おまたせしました」
「すみません。では早速」
 
 直次も同じ感想だったのだろう。湯気の立ち昇る蕎麦に箸をつける。

「ふぅ。やはり寒い時は暖かい蕎麦が身に沁みますね」

 満足そうに蕎麦を啜る直次。自分もと甚夜も蕎麦を啜り、その味にぴくりと眉を動かした。

「……店主」
「どうしたんで?」
「少し、味が落ちたか?」
「へ?」

 思いがけない発言だった。呆気にとられ上手い返しが出来ずにいると、代わりに直次が答える。

「いえ、そんなことはないと思いますが。寧ろ少しずつ味は良くなっていると思いますよ?」
「そう、か。ならば私の気のせいなのだろう」

 そう言ってもう一度蕎麦を啜る。
 甚夜の様子に三人は訳が分からないといった顔をしているが、当の本人は普通に蕎麦を食べ続けている。
 久しぶりに訪れた喜兵衛での食事風景は些か珍妙なものとなった。




 しかし、と甚夜は思う
 蕎麦はやはり薄い。
 毎日食べていた筈なのに、味気なく感じられる。
 その理由は食べきった後も分からなかった。



 鬼神幻燈抄 江戸編終章『残雪酔夢』・了
       次章幕末編『妖刀夜話~飛刃~」



[36388] 幕末編『妖刀夜話~飛刃~』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/05/21 21:41
 ぬるり。

 不意に手を伸ばし触れた傷口。
 絡みつくような妖しげな手触りに酔いしれる。
 暖かく冷たい奇妙さが心地よい。
 皮膚の裂け目から覗く肉。

 この手には、一振りの、鈍い輝きが。

 女子の肌よりも艶かしい刃。
 鎬を伝い滴り落ちる血液。
 足元に転がるは妻の骸。

 優美な夢想の中で握り締めた鮫肌の感触だけが現実だった。

 今し方妻を斬ったばかりだというのに。
 宵闇に在りて尚も眩い白刃を見れば心が浮き立つ。
 にたりと、愉悦に表情が歪んだ。

 だから気付く。
 ああ、私は。

 ───妖刀に、心を奪われたのだ。


 ◆



 文久二年(1862年)。
 酒を巡る騒動から六年、江戸は仄暗い不安に揺れていた。 

 第十三代征夷大将軍・徳川家定の逝去。
 次々に交わされる他国との通商条約。

 ペリー来航を発端に長く続いた鎖国体制は崩壊し、海外の文化が少しずつ国を変えていく。
 欧米諸国の圧倒的な力を前に開国を決定し、弱腰の外交を続ける幕府。
 朝廷は開国に反対し、これを受けて尊王攘夷を訴える者達は幕府に激しく抗議。また開国を望んでいた武士達も惰弱な幕府に不満を募らせ、倒幕の勢威は徐々にではあるが高まりを見せていた。

 そして乱れる世相に紛れ、鬼もまた江戸の街に在った。
 気付かれず、密やかに、しかし確かに魔は蠢く。

 時は幕末。
 一つの時代が終わりを迎えようとしていた。





 ◆





 
 まだ冬の名残を残す早春の頃。
 その日、三浦直次は城下にある刀剣商へ訪れた。
 刀剣商とは単純に言えば刀屋である。刀剣の販売の他に藩のお抱え刀工「藩工」、或いは著名な刀匠へ製作を依頼する場合の仲介、研ぎ師の紹介など刀に纏わる諸々を一手に引き受けていた。
 江戸の愛宕下・日影町は多くの刀剣商が軒を連ねており、直次がいつも刀を研ぎに出す『玉川』もその一つだった。

「三浦殿は相変わらず丁寧な扱いをなさりますな」

 砥ぎに出した無銘の刀を返却しながら、『玉川』の主はにこにこと商売用の顔を作って語りかけた。

「いえ、単に使う機会がないだけです」
「それでも歪みも曇りもない刀身を見れば普段どれだけ手をかけているかが分かります。刀は武士の魂と言いますが、三浦殿は我が子のように扱いなさる。刀も喜んでいるでしょう」

 直次は褒められても然程嬉しそうではなかった。
 刀を抜き、砥ぎの具合を確かめるその表情は硬い。

「何かご不満でも?」
「いえ。出来に不満はありません。ただ曇りのない刀身に、これでいいのかと思ってしまいまして」

 直次は今年で二十七になった。 
 妻を娶り子も生まれ、穏やかで幸福な日々を過ごしている。
 現状に不満はないが、刀の綺麗さにほんの少し陰鬱な気持ちになる。


“義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
 徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。
 ただ忠を誓ったものの為に在り続けるが武家の誇りであり、その為に血の一滴までも流し切るのが武士である。”


 近頃、母の教えをよく思い出す。
 武士は忠を尽くした者の刀たるべし。常々直次はそう教えられてきた。
 しかし彼は実戦で刀を使ったことが無かった。以前鬼に向けて刀を振るったこともあったが、結局はその鬼も友人が斬った。何も斬ったことが無いのだから綺麗なのは当然で、綺麗であればある程疑ってしまう。
 使われぬ刀に果たして価値はあるのだろうか。
 異国が我が物顔で歩くこの時代、少しずつ変化していく武士の世に、だからこそ曇りのない刀の意味を自問し続けていた。

「は? 綺麗ならばそれに越したことはないと思いますが」
「そう、ですね。本当はそうなのでしょう」

 歯切れの悪い言葉を返し、刀を納め腰に携える。
 深呼吸をしてみたが気分は晴れないようで、表情は硬いままだ。それを見て玉川の主はふむ、と一度頷いた。

「どうやら三浦殿は気分が優れない様子。どうでしょう、ここは珍しい刀でも見て気を落ち着けては?」

 刀で気を落ち着けるとは奇妙ではあるが、直次にとっては効果的な気遣いだ。
 というのも、彼は刀剣類には目のない好事家だからである。玉川の主は刀の扱いを褒め称えたが、実際のところ彼の刀に手入れが行き届いている理由は半ば趣味だからだった。

「……すみません。何か気を使わせたようで」
「いえいえ、常連様には報いるものがなくては。少し待っていてください」

 そういって店の裏手に姿を消す。四半刻も経たぬうちに主は細長い桐の箱を仰々しく抱えてきた。緩慢な動作で蓋を開け中から一口の刀を取り出す。

「戦国後期に造られた作品、銘を兼臣(かねおみ)といいます。鬼太刀兼臣などという呼ばれ方もしますが」

 鉄鞘に納められた一振りだった。手渡され、受け取った瞬間ずっしりとした重さに危うく落としそうになる。拵えは最低限の体裁を整えた程度、外見だけで言えば野暮ったい印象さえ受ける刀だった。

「抜いてみても?」
「どうぞ」

 しかし抜刀しその白刃が目に入った瞬間その感想は覆される。

「これは見事な……」

 引き抜かれた兼臣は深い反りの入った二尺四寸程の刀だった。
 反りとは刀身の峯の曲がり具合を差し、これは作製された年代によって大きく異なる。概して時代が古くなるほど反りが深くなり、これを太刀と呼ぶ。直次の友人である甚夜が携えている夜来も太刀に分類される。

 そもそも日本刀は元来直刀が基本だった。しかし時代が奈良、平安に入ると個対個による戦闘を考慮し、甲冑をも断ち切るべく直刀から厚みと反りのある太刀へと変化した。さらに時代が下り室町、南北朝時代を境に反りの浅い打刀(うちがたな)が主流となる。直次の刀はこちらに属する。

 太刀は切れ味が鋭く打刀は刺突に優れる。反りは刀の強度や鋭利さを大きく左右する要素だ。そのため反りの変遷は美意識の変化と言うよりも、その時代の戦法に対する適応と呼ぶべきだろう。

「戦国の作にしてはこの反りは珍しい」
「鬼をも裂くと謳われる葛野の太刀、その中でも刀匠・兼臣の作。個対個を念頭に置き、甲冑ごと叩き割るための深い反りと厚い刀身、波紋は少しでも折れにくくするために簡素な直刃。悉く実戦を意識した造りが兼臣の特徴です」
「確かに、これは戦うための刀だ。しかしこの美しさは見事の一言です」
「機能美、というやつですな。下手な装飾を排し華美な波紋もない、実戦一辺倒であるが故に古い武士の潔さを感じられる。懐古主義と言われればそれまでかも知れませんが、こういう刀も良いものです」

 直次はどちらかと言えば古い武家の人間。彼にとって飾り立てることなくただ刀足らんとする兼臣の在り方は好ましいものだった。先程までの陰鬱な雰囲気はいつの間にかなくなっており、子供のように邪気のない様子で兼臣に見入っている。

「しかしこれだけの刀匠だというのに、あまり名を聞きませんね」
「まあ流行ではないというのはありますが。こういう戦いのための刀は徳川様の御世では人気がないのですよ。それに兼臣は著名な刀派に属するでもなく、後継もいない一代限りの刀匠ですからね。兼臣の銘を切られた刀はそもそも絶対数が少ない。そのせいで質のいい刀ではありますがほとんど流通せず、知る人ぞ知る隠れた名作に留まっています」

 そこまで言って玉川の主は口元を釣り上げ、一段声を低くした。

「といっても、ある意味では有名ではありますが」

 脅かすような声音に、直次も思わず怪訝そうに眉を顰める。
 
「というと」
「兼臣の作には、四口ほど有名なものがあるのですよ。三日前なら実物をお見せできたのですけれど」
「四口の刀、ですか。それほどの名刀が?」
「いいえ、名刀ではありませんね」

 笑いを噛み締め、わざわざおどろおどろしい声音に変える。

「所謂、妖刀というやつですよ」
 
 刀には付随する伝説が数多く存在する。
 例えば、酒呑童子を斬ったとされる童子切安綱。
 稲荷明神が童子に化けて相槌を打ったという三日月宗近。
 伝説を持つが故に名刀と呼ばれるのか、名刀故に伝説が生まれるのか。
 それは分からないが、往々にして名刀と謳われる刀には相応の曰くというものがあるのだ。
 その中には稀に血生臭い伝説を持つ刀もある。持ち主を不幸にする刀。血を好み、使い手に殺人を強要する人斬り包丁。それらは妖刀と呼ばれ、纏わる怪異譚は講談でも多く語られている。

「それは、村正のような」
「徳川を呪う妖刀村正は有名ですが、兼臣の場合は少し違います。なんでも兼臣は鬼と交流を持ち、その力を借りて“人為的”に妖刀を造ろうとしたという話です」
「人為的に……そんなことが出来るのですか?」
「さあ、私からはなんとも。ですがこの刀匠には色々といわくがありまして。彼の鍛冶場には数体の鬼が出入りしていた、鬼を妻に娶った、その妻を鉄に溶かして刀を打ったなどと妖しげな話が多いのです。兼臣の刀が鬼太刀と呼ばれる所以ですな。まあ、それは後代の刀剣商が脚色した話でしょうが、兼臣が妖刀を造ろうとしたのは事実のようです。自身の手記でそれを語っておりますから」

 妖刀。
 以前ならば何を非現実的な、と思ったかもしれないが今となっては疑う気持ちは微塵もない。何と言っても彼の友人にはそういった怪異に好んで首を突っ込む男がいる。鬼がいるのだから妖刀くらいあってもおかしくはない。
 そう思えば途端、嫌な気分になった。また誰かが怪異の犠牲になるのか。知らず直次は玉川の主を睨み付けていた。

「兼臣は最後に四口の妖刀を打ち、以後は鋳造に関わらなかったそうです。一説にはもう一口名もなき刀を鍛えたともありますが、それは眉唾ですね。ともかくこういった経緯で兼臣の最後の刀はある意味で有名なのですよ、勿論真っ当ではない方々に、ですが」
「そのうちの一口が此処にあった……いえ、妖刀と知りながら売ったのですか?」

 責めるような響きを含んだ声、しかし飄々と玉川の主は商売用の笑みでそれを躱す。

「ええ。三日前に江戸住みの会津藩士が買っていかれました。三浦殿、私は刀剣商に御座います。正邪に関わらず刀を扱うのが生業。名刀であっても妖刀であってもお望みであれば売ります。それが、商人の一分というもの」

 それはそれとして、人の道を捨てる気もありませんがね。
 張り付いた笑顔のままでそう締め括る。
 その姿に何となく自分の兄が、そして友人の姿が思い出される。だから分かった。玉川の主もまた兄や友と同じ一度決めたら梃子でも動かない人間だ。彼は何があっても商人としての生き方を曲げることはない。

「世の中には頑固な方が多すぎる……」

 直次は溜息を吐いた。
 あんな言い方をされては責めることも出来ない。玉川の主は商人として為すべきことを為しただけ。ならばそれを咎めるのはお門違いだし、どうせ言っても聞きはしない。

 何より、彼はちゃんと責任を感じている。態々「江戸住みの会津藩士」などと言ったのは、妖刀を売ったことに僅かながら罪悪感があるからだろう。
そうでなければ商人が顧客の情報を漏らすような真似はしない。『うっかり口を滑らせて顧客の情報を話してしまった』。それが彼にできるぎりぎりの妥協なのだ。その情報を使ってこれから直次が何をしようと関知しない、というところか。

「申し訳ない。商人とはそういう生き物でして」
「いえ、そういう人の相手は慣れていますから」
「それはまたご苦労なことで」
「自分で言いますか……所で、刀の名はなんというのです?」


「はい。彼の打った妖刀は夜刀守兼臣(やとのもりかねおみ)と呼ばれています」




 ◆



 蕎麦屋『喜兵衛』。
 直次が暖簾を潜れば、いつも通りの笑顔で看板娘のおふうが迎え入れてくれた。
 店内を見回せば、やはりというか相変わらず甚夜の姿があった。初めて会ってから随分経つというのにその外見は以前と変わらず若々しい。確か同年代の筈なのだが、羨ましい限りである。
 
「直次か」
「どうも、甚殿」

 軽く一礼して彼の前に座る。さて、何から話したものか。取り敢えずかけ蕎麦を注文し、直次は先程聞いたばかりの話を自分の中で組み立てていった。











「妖刀?」

 捏ね鉢に蕎麦粉を入れる。繋ぎには山芋、大体一九の割合だ。『の』の字を描くように混ぜながら万遍なく水を加える。この時水は一挙に入れず、四回ほどに分けること。注意するのはあくまで蕎麦粉一粒一粒に水を染み込ませることである。

「はい、馴染みの刀剣商の話では夜刀守兼臣という刀を三日程前に売ったとのこと。甚殿の“仕事”の範疇からは若干外れますが一応伝えようかと思いまして」

 水が万遍なく蕎麦粉に行き渡ったら拳大の球形数個に纏める。次にそれを握り、重ねて捏ね鉢に。腰を入れ、体を使って押さえることを繰り返す。馴染んできたら掌で、手前から向こうへと押し出すように捏ねていく。更に、蕎麦粉を手前に寄せて丸めて寄せて丸めて、三度程繰り返す。表面に“つや”が出てくればよし。

「有難い。鬼と交流することで造り上げた人為的な妖刀……面白いな」
「随分と簡単に信用するのですね。もしや以前にも見たことが?」

 蕎麦生地が馴染み捏ね上がった状態になればそれを一つの大きな塊にする。さて、いよいよ本番、これから生地を延ばしていく。大きな塊になっていた生地を平らに延ばす。この際に蕎麦粉以外に用意した打ち粉を振りながら円盤状に、適当な大きさまで丸く広げていく。

「いいや、ない。だが物には想いが宿るものだ。ならば歳月を経た刀が鬼と化しても不思議ではなかろう」
「そういうものですか」

 適当な大きさまで丸く薄くなったところで、更に薄くするため麺棒で延ばす。打ち粉をもう一度。麺棒で手前の端の方から向こうに押しながら、少しずつ長方形になるよう整える。延ばしていく作業でどうしても厚くなったり凹凸が残る場合はあるが、全面が均等になるよう修正をかける。細かいが重要な作業である。

「ああ。ましてや夜刀守兼臣とやらは、そうなるべくして鍛えられたのだろう?」
「それは、確かに」

 蕎麦生地を折りたたみ切る準備を整える。駒板で押さえ、細目に切り揃えていく。火を通したときばらつきが出ないよう均一に切ることを心がけねばならない。
 切り終えれば蒸籠で蒸す。江戸の蕎麦と言えば蒸籠が基本である。本来ならば蒸しあがったものを蒸籠ごと出すのだが今回はかけ蕎麦。火の通った蕎麦を丼に移し温めた蕎麦つゆをぶっかける。故にかけ蕎麦というのだ。
 最後に小口切りにした葱を乗せれば完成。
 七味は各々の裁量に任せるとしよう。

「実際の所は見て確かめればいいことだ。そら、できたぞ」
「はーい、三浦様おまたせしました。かけ蕎麦です」

 おふうが明るい笑顔と共に蕎麦を運んできた
 目の前に置かれた丼からは湯気が立っている。まだ寒い季節、暖かい蕎麦は実にうまそうだった。
 ……それはそれとして、そろそろ物申さなくてはいけないだろう。

「あの、今更なのですが、よろしいですか?」
「どうした?」
「これは純粋な疑問なのですが」
「ふむ」
「何故甚殿が蕎麦を打っているのですか?」

 沈黙。
 もしかしたら聞いてはいけなかったことだろうか。そう思った時、頬を掻きながら言いにくそうに甚夜が口を開いた。

「……店主が蕎麦打ちを教えてくれるというので、つい」

 直次の視線が腕を組み蕎麦打ちを監督していた店主に注がれる。

「いやあ、旦那もいつまでも浪人って訳にはいかないでしょう? ここいらで手に職をつけといた方がいいかと思いまして、以前から少しずつ仕込んでたんですよ。それにおふうからも花の名を習ってるらしいですし、そんなら俺が蕎麦打ちを教えようってことで」

 快活な笑みであった。どうやら店主の言に間違いはないらしく、曖昧な表情で甚夜も首を縦に振った。

「何事も経験だ。花の名にしろ蕎麦打ちにしろ、触れてみるのも一興と思っただけだ」

 そう言った本人は大真面目だった。
 確かに以前、甚夜自身から「ある目的の為に己を磨いている。鬼を討つのもその一環だ」と聞いたことがある。しかしどう考えても蕎麦打ちは必要のない能力だと思うのだが。
 
「それに」

 微かに、落とすような笑みで言葉を付け加える。

「気遣いを無下にするのも気が引けてな」

 その言葉に、直次はなんとなくだが理解した。
 今から六年程前だろうか。ちょうどこの店の常連だった二人の男女がぱたりと来なくなった。同じ時期、甚夜は傍目には相変わらずの仏頂面だったが、何処か沈んだ雰囲気を醸し出していた。
 おそらく店主はそんな彼を見かねて気分転換がてらに蕎麦打ちを教えたのだろう。
 そしてそれは間違いではなかった。

「甚夜君、随分慣れてきましたねぇ」
「そうか?」
「ええ、これならお店が開けるかもしれませんね」
「世辞とはいえ、悪くない気分だ」
「もう、お世辞なんかじゃありませんよ」

 常日頃、生き方は曲げられないとのたまうこの友人がそのような余分に付き合ったのは、裏にある気遣いを知っているからだ。
 しかし初めの理由が何であれ、この仏頂面の友人は笑うようになった。
 以前も笑わないという訳ではなかったが、近頃の笑みには寛いだような穏やかさがある。それは店主やおふうの尽力の結果なのだろう。

「そうしていると、まるで仲の良い夫婦ですね」

 甚夜とおふうの和やかな会話を聞きながら、頭に浮かんだ通りのことを口にする。

「いやですねぇ、三浦様。からかわないでくださいな」

 ちらりとおふうを見やれば、頬を少しだけ赤く染め、嬉しそうに口元を緩める。案外とこの二人が結ばれる未来もあるのではないか。暖かな夢想に直次は満足そうに小さく頷いた。

「夫婦といえば、細君は壮健か」

 多分彼も照れていたのだろう。誤魔化すように話を変えてくる。
 
「きぬですか? ええ、よろしければ遊びに来てください。妻も喜びます」
「あれが私の顔を見て喜ぶとは到底思えんが」

 きぬ、というのは直次の妻である。 
 貧乏旗本とはいえ武士、それが恋愛結婚をしたのだから周りには些か驚かれた。しかし昔気質な母も今ではきぬを認めてくれている。夫婦仲は良く、息子は今年で四歳になる。慎ましいながらに円満な家庭を築いていた。

「そんなことはありませんよ。しかし甚殿、結婚は考えていないのですか?」
「特には」
「妻を娶り子を為す。なかなか良いものですよ」
「そうは言われてもな」

 然程興味はないのか肩を竦めて言葉は途切れた。
 代わりに満面の笑みで店主が話に加わる。

「いや、流石直次様、いいことを仰る! 旦那もそろそろ身を固めた方がいいんじゃないですかい? ところでいい娘がいるんですが、紹介しましょうか。気立ても器量もいい、旦那にぴったりの娘なんですがね」
「どうあってもそこに持っていきますか……」

 そう思わざるを得ない直次だった。
 と言うのも、以前より店主は今尚おふうの婿に甚夜をと画策していた。蕎麦打ちを教えたのは甚夜を慮ってのことではあるが、喜兵衛を継がせる為の一環でもあるのだろう。

「もう、お父さんは……」

 横目で見たおふうは呆れたように溜息を吐くが、それほど嫌がった様子はない。寧ろいつものことだと苦笑していた。

「以前から思っていたんだが、何故お前はそこまで私をおふうとくっ付けたがる?」
「そりゃあ俺は親ですからね。娘の婿には相応しい人をと思うのが普通でさぁ」
「定職を持たん浪人が夫ではおふうも可哀想だろう」
「いやいや、ですからここはうちの店をを継いでですね」
「それは出来んと何度も言っているが」
「ぐぅ、旦那は相変わらず頑固ですね」

 本気なのか冗談なのか、軽い調子の掛け合い。直次もおふうもそれを楽しそうに眺めている。

「店主殿は相変わらずですね」
「ふふ、そうですね。でもいいんですよ、あれはあれで。甚夜君も偶には息抜きをしないと」
「そういうものですか」
「そういうものです。あの人は少し張り詰めすぎていますから、気の抜ける時間って必要だと思います」

 そう言ったおふうの目はとても優しく、妻どころか母の風情を感じさせる。
 飽きもせず店主と甚夜は問答を続けているが、どうやら取り立てて騒ぐことでもないらしい。
 実際、これは日常の一幕。わざわざ無粋なことを言う必要もない。ぐだぐだと考えるのは止めて冷めないうちに蕎麦を啜る。

「美味い……」

 長く生きていればこんなこともあるだろう。
 ただそれだけの、平和の肖像である。




[36388]      『妖刀夜話~飛刃~』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/04 19:39
 

 変わらないことの何が悪い。
 杉野平七(すぎの・へいしち)は常々そう思っていた。

「あんた、今日もしっかりね」
「おう、勿論だ!」

 朝起きて、支度をしていると妻がぽんと背中を叩いてくれた。それだけでやる気になるのだから、自分も大概単純だ。。
 平七は妻と同じ武家屋敷で働いている。彼が御坊主(雑用役)で妻は女中。杉野家は武家とは名ばかりの貧乏な家で、平七も元々は町人のような暮らしをしていた。しかしとある縁で知り合った武家の当主に引き立てて貰ったのだ。
 今は当主に恩を返すべく毎日仕事に精を出している。新しい住居も準備してもらい、忙しいが以前と比べれば生活の質は雲泥の差だ。当主には足を向けて寝ることが出来ない。

「そういや、昨日憲保(のりやす)様に呼ばれたって聞いたけど、何の話だったんだい?」
「いや、それが。へへ、まあ、くくっ。なんとい言おうか。うふ」
「気持ち悪い。あんた、すっごく気持ち悪い。油虫くらい気持ち悪いよ」
「流石にそれは言い過ぎじゃないか!?」

 妻のあんまりな物言いに思わず平七は大声を上げた。
 
「あんまり大きな声出さないでほしいんだけど。で、結局なんだったのさ」
「それがな……憲保様が、俺の為に刀を用意してくださったんだ」
「刀を!?」

 今度は妻が驚きに声を上げる。

「俺の仕事ぶりが目に留まったらしくてな。“毎日尽くして貰っている、お前には報いるものが無ければな。刀を渡そうと思う。受け取ってくれるか?”なーんて言われちまってよ!」

 似ていない声真似で当主の言葉を繰り返してみせる。平七は喜びのあまり顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
 というのも杉野家は本当に貧乏で、平七は生活の為に刀を売り払ってしまっていたのだ。
 武士の魂を手放してしまったことを本当は後悔していた。だからこの手にもう一度刀を握れると聞いて、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのだ。

「もう金も払ってあるってよ。後は店で受け取るだけなんだ、これが」
「そっか、憲保様が……だからあんた、そんなに興奮してるんだね」
「おうよ! 今日はこれから玉川っていう刀剣商に寄って、俺の刀。俺の刀。お・れ・の・か・た・なを取ってくるんだ! そりゃ興奮もするさ!」
「うん。嬉しいのは分かるけど鬱陶しいね。寝入り端に耳元で飛んでる蚊くらい鬱陶しいね」
「だからいちいち例えがひどいんだよお前は!?」

 妻の態度は相変わらずで、怒鳴りつけてはいるが決して嫌な気分ではない。
 結婚する前から二人はこうだった。夫婦になり、しかし今でも昔のままでいられることは、寧ろ喜ばしかった。
 変わらないことの何が悪い。
 平七は常々そう思っていた。
 この口の悪い妻と、毎日を過ごしていく。それだけで充分幸せで、此処に来て刀まで得ることが出来た。幸福の絶頂というのはこういうことを言うのだろう。後から後から込み上げてくる笑いは、やはり止められなかった。

「ったく、お前は。取り敢えず行って来らぁな!」

 そうして兵七は妻に見送られて家を出た。
 三日前のことである。


 ◆


 桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、久世広周と共に幕府の実権を握った老中・安藤信正だった。
 安藤の基本は井伊の開国路線の継承であり、幕府の存続及び幕威を取り戻すことを旨としていた。その一歩として朝廷(公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかる、所謂公武合体を政策として打ち立てる。
 しかしながら先の日米和親条約に見られる弱腰の外交から、既に幕府の権威は取り返しがつかない程に失墜し、攘夷派の武士達は勿論のこと開国派にとっても徳川幕府は唾棄すべき老害でしかなくなっていた。
 地方では脱藩する者も増え、薩摩・長州などは表立って幕府と敵対し、倒幕の姿勢を崩さない。長く続いた徳川の治世も終わりが見え始めていた。

 そんな中で会津藩は古くより徳川に付き従い、幕末の動乱に在って尚変わらぬ忠誠を幕府へ誓う稀有な存在だった。
 幕府も会津藩に江戸湾警備の任務を命じ、鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を藩領とするなど大層厚遇した。諸藩の信頼を失った幕府にとって会津藩は最後の砦と言ってもいい。そのせいか、あるいは単にお国柄か、江戸住みの会津藩士もまた一様に徳川へ強い忠義を捧げた者達が揃っていた。





「会津藩士、杉野平七(すぎの・へいしち)……」
「はい、江戸城下にある会津畠山(はたけやま)家中屋敷で御坊主をしている男です。話によるとつい三日前に刀を新しく買ったとのこと。玉川のご主人が妖刀を売ったのは彼でしょう」

 甚夜と直次は江戸城より東にある牛込(うしごめ)に位置する、所謂山の手の武家町を歩いていた。目指す先は件の武家屋敷、畠山家である。牛込では大名や旗本の住む武家屋敷が集中し、一方で町屋も少なからず形成され、町人や武士の交流が活発に行われている。自然、武家の零れ話が町人に伝わることも多く、道行く者へ問えば割合軽い調子で畠山家に関して教えて貰えた。

「畠山家は会津藩の中でも歴史が古く、もともとは江戸湾の警備に当たっていたそうです。ですが安政の大地震で屋敷が倒壊してしまったとか。今では現当主は幕命で京へ移り、牛込の中屋敷には先代の当主である憲保(のりやす)が住んでいるらしく、杉野某はこの憲保殿が引き立てた武士、という話です」
「随分と調べるのが早かったな?」
「ええ。牛込の気風もありますが、なにより私は江戸城に出入りする祐筆。目録をつけるためと言えば大抵の者は疑わずに教えてくれます」
「……お前も大概いい性格になった」
「朱に交われば、でしょう」

 快活に笑う直次。昔は真面目一徹な彼だったが最近では随分立ち回りが上手くなってきた。鬼とは違い人は変わるもの。彼もある意味成長したのだろう。

「ところで、よかったのか?」

 横目でちらり表情を覗き見ながら甚夜は言った。
 この日、直次には普段通り祐筆としての仕事があったが、妖刀を一目見ておこうと牛込へ向かった甚夜に同行していた。いくら少しずつ変わっているとはいえ基本的にこの男は真面目で勤勉な性質である。そんな直次が態々仕事を休んでまで随行することには多少の違和感を覚えた。

「もともとこの話を持ち込んだのは私です。また怪異の犠牲になる者がいるかもしれない。それを思えば放り投げる訳にもいきません。……私に出来ることなど限られていますが、情報を集めるくらいはできますから」

 そう言った彼は何処となく愁いを纏っているように見えた。だがそれを指摘されたくはないだろう。だから何も返さず、話を元に戻す。

「しかし妙な話だ」
「何か気になることでも?」
「御坊主というのは、屋敷の雑用役のことだろう? 武士とはいえ刀が必要になる場合など殆どない」
「態々刀を買い求めること自体がおかしい、ということですか」
「ああ。何より刀はそれなりに値が張る。御坊主がおいそれと手を出せるものではないと思うが」

 何気なく零れた疑問だった。しかしその言葉に直次は表情を暗くした。無言のまま立ち止まり、腰に携えた刀、その柄頭に手を触れ小さく零した。

「後者はともかく、前者の方は然程不思議な話ではありませんよ」

 春の初め、薄く雲がかかった灰色の空。見上げれば何処かで“ぴい”と鳥が鳴いた。渡り鳥だろうか。姿の見えぬ鳥を探すように直次の視線が動く。

「土佐勤王党の話はご存知でしょうか」

 声は出さずただ首を振った。何故か声を出してはいけないような気がした。

「昨年のこと、土佐出身の武市端山殿が同郷の武士を集め土佐勤王党と呼ばれる組織を結成したそうです」

 文久元年、江戸に留学中であった武市瑞山は尊王攘夷思想を掲げた一派、土佐勤王党を立ち上げた。その主眼は尊王攘夷思想とともに、安政の大獄により失脚した土佐藩前藩主・山内容堂の意志を継ぐことが謳われている。このような尊王攘夷派の動きは何も武市端山に限ったことではなく、近年では多くの若い志士が水面下で倒幕運動を行っていた。

「嘉永の黒船来航からの幕府の外交は、私から見ても頼りないものでした。幕府に対する諸藩の不信も分からないではありません。土佐勤王党の志士達は挙藩勤王、つまりは個人ではなく土佐藩をあげて勤王を行おうという者達です。きっと、これからもそんな武士が増えていくのでしょう」
「詳しいな」
「登城する武士には江戸住みの土佐藩士もいますから。私の友人も一人、土佐勤王党へ入りました。武市殿も土佐へ戻り、攘夷の為に行動していると。……今の時代、刀は幕府の為に振るうものではなく、自身の思想を通すため武器だと考える者の方が多い。だから誰が刀を求めたとしても不思議でありません」

 もう主君に刀を捧げる時代は終わろうとしているのでしょう。
 多分、彼は自嘲の笑みを零したつもりなのだろう。ただそれは強張っていて笑いにはならなかった。

「その在り方は、武士として間違っている。けれど彼らを見ると思うのです。三浦家は代々祐筆として徳川に仕えています。ですが、このままでいいのか。弱腰の外交を続け武士の誇りを捨て去ろうとしている幕府に仕えるのが本当に正しいのか。私は……」

 そこまで口にして直次ははっとなった。これでは徳川に叛意有りと疑われても仕方ない物言いである。

「すみません、忘れてください」

 最後にそう締め括って直次は再び歩き始め、甚夜もまたそれに倣い後を追う。もう一度、“ぴい”と鳥が鳴いた。遠く響く甲高い声がいやに寂しげだった。
 
 なんとなく彼の憂いの正体が分かった気がした。
 祐筆は文書作成・整理を主とする役職である。
 武士とはいえ刀を振るうことのない直次にとって、分かりやすく国のために行動する者達は眩しく映るのかもしれない。


 果たして自分は何をしているのか。
 動乱に差し掛かった今という時代、己がやっていることに意味などないのでは。

 元々が生真面目な性格だ。自身に対する疑念が彼を苛んでいるのだろう。

 甚夜に随行し、助力を買って出たのもそれが理由。
 おそらく彼は誰かの為に役立っているという実感が欲しかったのだ。
 およそ自分のことしか考えていない理由。一種の逃避とさえ取れる行動、しかしそれを責める気にもなれなかった。己とて刀を振るう理由など今も見つけられていない。直次の感じている焦燥には覚えがあった。

「人よ、何故刀を振るう」
「え?」
「昔、鬼に問われたことがある。今も尚、答えは見つからないが」
「……甚殿も、ですか?」
「ああ、情けないことにな。己が何を為したいか、そんなことさえ定かならぬ」

 齢を重ね既に四十。それだけの歳月を生きたというのに、答えなぞ今も分からない。人を滅ぼすと言った妹。斬ることを躊躇い、憎悪を捨てることも出来ず。ただ力だけを求め無為に生きてきた。甚夜にとってもまた、命を懸け時代に立ち向かう若き志士達の姿は眩しく感じられる。

「儘ならぬものだ。生きるということは、ただそれだけで難しい」
「……ええ、本当に」

 呟いた言葉に力はない。
 二人はただぼんやりと道の先を眺めながら歩いていた。
 しばらく経って件の屋敷、畠山家が見えてきた。鬼瓦の立派な屋敷は江戸住みに与えられたとは思えぬ程風情のある造りだ。外壁を回り正門へと辿り着けば、重厚なその佇まいに圧迫感さえ覚えた。

「ここが」
「ええ、畠山家ですね。しかし、どうにも騒がしいようですが」

 門を潜り玄関へ向かえば、確かに直次の言う通り女中や御坊主が慌ただしい、というよりも浮足立った様子である。ちょうど御坊主が二人並んで玄関から顔を覗かせたので、これ幸いと声をかける。

「すみません、ここに杉野平七殿は居られますか」

 直次の言葉に御坊主はびくりと体を震わせた。

「は、はあ。平七、ですか」
「はい。と、私は江戸藩表祐筆、三浦直次と申します。杉野殿に少しお話を伺いたいことがありまして」
「あー、いえ、今は少し……おい、ちょっと」

 なにやら耳打ちをされ、一方の御坊主が屋敷の奥へ引っ込む。残された男はしどろもどろになりながら、せわしなく視線を泳がせるだけで、どれだけ待ってもまともな返答をしてはくれなかった。いい加減に痺れを切らし、強めに詰問しようとしたその時、

「どうした」

 御坊主の後ろから体格のいい男が現れた。

「あ、土浦(つちうら)様……」

 土浦と呼ばれたのは七尺に届くのではないかという長身の、肩幅の広い偉丈夫だった。帯刀をしていないところを見ると武士ではないのか、しかしその身なりは小奇麗ではあった。とはいえその体躯のせいか纏った素襖(すおう)はえらく窮屈そうな印象である。髪は甚夜以上に乱雑で、縛ることもせず肩まで伸び放題になっている。
 およそ武家屋敷には見合わぬ風体の男は、じろじろと甚夜達を観察している。おそらく先程の御坊主は彼を呼びに行ったのだろう。だとすればこの屋敷ではそれなりに位が高いのだろうが、その容貌からは彼の立ち位置が今一つ読み取れなかった。

「この方々が、平七に会いたいと……」
「ふむ。客人、平七に如何なご用向きか」

 野太い声で睨みを利かせる土浦。一歩前に出たのは甚夜である。

「失礼、甚夜と申す。突然の来訪、申し訳ない。杉野平七殿が三日程前、夜刀守兼臣という刀を手に入れたと聞いて訪ねさせてもらった。出来れば面を通していただきたいのだが」

 言い訳も誤魔化しもせず、率直に来訪の目的を伝える友人に直次は少し慌てたが、対する大男は気にした様子もなく答える。

「そうか。だが平七ならばいない」
「そうですか。いつごろ戻られるか分かりますか」
「いや……おそらくは、もう戻ってはこんだろう」
 
 直次の問いに抑揚も変えず平静な調子で答える。

「それは、どういう」
「今朝方のことだ。杉野平七は妻を斬り殺し、屋敷から姿を消した」

 淡々と告げる土浦の目からは何の感情も読み取れなかった。しかしここで嘘を吐く必要もない。彼の語った言葉に嘘はないのだろう。

「甚殿」
「一歩、遅かったか」

 戦国後期の刀匠・兼臣。
 彼が残した四口の刀は鬼の力をもって生まれた人為的な妖刀だという。
 如何な経緯で造られたとて妖刀であることに変わりはない。
 それを彩る説話には、やはり血生臭さが必要なのだろう。
 



[36388]      『妖刀夜話~飛刃~』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/05/29 22:25


「御初にお目に掛かります。この屋敷の主、畠山憲保(はたけやま・のりやす)と申します」

 畠山家の座敷。
 目の前には六尺を越え七尺に届こうという大男・土浦。そして彼の主であろう細目の男が正座していた。

「は、わたくしは三浦直次。江戸藩にて祐筆の役を承っております」

 同じく正座した状態で男と正対している直次は恭しく一礼をする。流石に登城を許された武士、彼の礼は典礼に則った秀麗な所作だった

 案内された座敷で二人を迎え入れたのは畠山憲保と名乗る男だった。
 杉野平七の失踪を聞き早々に屋敷を離れようとしたのだが、土浦に「憲保様がお前達に会いたいと仰っている」と言われ半ば強制的に奥の座敷まで連れてこられた。
 そうして面会した憲保は三十代後半といったところか、家督を譲り隠居したとは思えぬ程に若かった。畠山家は会津藩の旧臣と聞いたが、体格は然程良い訳ではないし、柔和そうな表情は武家の人間らしからぬものである。

「私は」
「甚夜殿、ですね」

 次いで名乗ろうとした甚夜だったが、細目の男が先回りして名を呼んだ。眉を顰めて憲保を睨むも相手は飄々とそれを受け流す。

「噂は聞き及んでおります。なんでも刀一本で鬼を討つ怪異の請負人だとか」

 視線が鋭さを増した。
 甚夜が江戸で退魔を生業としてから長い年月が経った。人の噂に戸口は立てられない、その存在を知っているものも少なからずいるだろう。
とは言え憲保のような立ち位置の人間の耳に入るような話でもない。それでも知っているのは態々調べたのか、他に理由があるのか。どちらにしろ胡散臭いことこの上ない。

「随分と眼鼻が利く」

 自然態度は荒くなる。乱雑な甚夜の言葉に反応したのは憲保の護衛として控えていた土浦だった。殺気立つ大男、しかし腰が上がるのを憲保は手で制した。

「甚殿、もう少し態度を。畠山殿、御無礼をお許しください」

 友人のあんまりな態度に直次も軽く叱責し頭を下げる。しかし憲保の方は気にした風でもなく首を横に振った。

「いえいえ三浦殿、お気になさらず。喋り易い口調で結構。なにより私は既に隠居の身。そう畏まらないでいただきたい」
 
 柔和そうな笑みはそのままにからからと笑う。懐が深い、ように見える。だがその張り付いた笑みはどこか得体のしれない印象を抱かせた。

「甚夜殿もそう警戒しないでほしい。此処に呼んだのは他意があった訳ではなく、ただ音に聞こえた剣豪を一目見てみたいと思っただけなのです」
「見ても面白いものではないと思うが」
「いやはや、御謙遜を。いとも容易く鬼を討つ、人の枠に収まらぬ<力>の持ち主。私でなくとも興味を抱くというものでしょう」

 ぴくり、と眉が動いた。
 含みを持たせた物言い。笑顔を張り付かせたままうっすらと開けられた双眸は値踏みでもするようにこちらを眺めいていた。
 その視線に理解する。 
 この男は、間違いなくこちらの正体に気付いている。
 本当に眼鼻が利くらしい。何処から情報を仕入れてきたか知らないが、憲保は甚夜が鬼であるという事実を正確に掴んでいた。

「畠山殿は」
「当方の屋敷には、杉野を訪ねてきたのでしたな」

 語気も強く問い質そうと思えば被せるように話題を変えられた。

「あれはよく働いてくれる男でした。しかし今朝ですが、妻を斬り殺し、この屋敷から姿を消したのです。いや、彼は私が引き立てたのですが、こんなことになるとは。他の御坊主の話を聞けば、なんでも杉野は妖刀を手に入れたとのこと。ああ、御二方の目的はそれですかな?」

 のらりくらりと話の主導権を奪われている。隠居の身とはいえ相手は会津藩に古くから仕える武家の当主、食えない男だった。

「……ああ」
「噂に違わぬお方のようだ。怪異に囚われ身を滅ぼす者は多い。人心を惑わす悪鬼羅刹を討つ貴方は、まさしく正義の剣士ですな」
「世辞は結構だ」

 静かで重い声には若干の苛立ちが混じっていた。
 甚夜が鬼を討つのは醜い感情から生まれた目的の為。とても正義と呼べるような代物ではない。
 今回も妖刀に鬼の<力>が込められているのならば己が内に取り込めるのでは、そう考えたから首を突っ込んだに過ぎなかった。
 憲保は此方の事情を知らないのだ。決して悪気があった訳ではないだろう。しかし彼の物言いに、己の在り方を揶揄されたような気がした。

「ですが、貴方は怪異の犠牲になる者を見捨てられぬでしょう」

 見透かすような言葉。だが甚夜は素直に頷いた。
 憲保の言が掛け値のない真実だったからだ。 

「ああ、だろうな」

 それは正義だからではなく、巫女守として在った為に。
 人に仇なす怪異を討つのは己の役目。守るべき巫女がこの世を去った今でも、その在り方は変えられなかった。

「で、畠山殿の用向きは?」
「はて、それはどう意味ですかな」
「まさか雑談をするために呼んだ訳ではあるまい」

 相変わらずの鉄面皮のまま早く本題に入れと視線で促す。

「はは。個人的にはそれでよかったのですが。確かに呼び立てたのには理由があります」

 軽く笑い、すぐさま憲保は表情を引き締める。其処には先程の柔和な印象とは打って変わり、一個の武士としての畠山憲保の姿があった。
 
「甚夜殿は浪人だとお聞きしましたが」
「ああ」
「ならばどうでしょう、もしよろしければ当家にて身を置いてみては。仕えろ、という訳ではありません。ただ力を貸してほしいのです」
「な」

 声が漏れた。驚愕は誰のものか、憲保の突飛な提案に場の空気が固まった。

「私は江戸藩より帯刀こそ許されているが身分で言えば町人と変わらない。武家に出仕するのは不可能だと思うが」
「なに、正式な藩士になる訳ではなく、あくまで私個人が雇うだけ。問題はありません。事実、土浦も貴方と似たような身の上ですし」

 その言葉に控えている巨漢へ目を向ける。確かにその風体はおよそ武家の出とは思えない。延ばし放題の髪といい、そこいらの浪人と言えるほどに粗雑な格好である。彼もまた武士ではなく、憲保が引き立てた町人なのだろう。

 だが憲保が言ったのはそういう意味ではない。
 同じような身の上。
 それは甚夜と同じく町人である、ということではなく。

「成程、“似たような”、か」

 視線を向けた時、僅かに瞬いた瞳は鉄錆のような赤色をしていた。
 もう一度瞬きをした後は黒の眼に戻っている。だがあの赤は決して見間違いではない。この男も鬼。此処まで自然に人に為ることが出来るならば、おそらくは高位の鬼だ。 

「今、この国は岐路に立たされております」

 気迫に満ち満ちた語り口だった。

「嘉永の黒船来航より始まった諸外国との外交は、いつからか攘夷派が鳴りを潜め、開国派が主流となっています。その権力は大老であった伊井殿、その後継たる老中の安藤殿により盤石となりました。今や幕府の内部では佐幕開国思想が横行しています。しかし彼らは勘違いをしている。開国などと耳触りのいい言葉を使ってはいますが、欧米諸国が我が国に強いてきた条約はあまりにも横暴。それは外交ではなく侵略だ。このまま進めばこの国は諸外国の植民地となる。幕藩体制は崩壊し、徳川が長らく保ってきた治世は失われるでしょう」

 在り得ない話ではなかった。
 事実、現時点で既に幕府は諸外国のいいなりと言っても過言ではない。このままいけば幕府という政体が保てなくなるのは目に見えている。

「そして、その時には我ら武士もまた幕府と命運を共にする定め。幕藩体制の崩壊は即ち武士が支配者として相応しくないという証明。ならば幕府が終焉を迎えた後に生まれるであろう政治機構には……新しい時代には武士は必要とされず、いずれ武士という存在は消えてなくなるでしょう。武士は時代に取り残されようとしているのです」

 そんなことは。
 直次は否定したかった。だが声を出すことも出来ない。熱に浮かされたようにまくしたてる憲保の放つ独特の空気に呑まれていた。

「それを開国派の連中は理解していない。徳川が没しても尚己が特権階級でいられると考えています。そんな愚鈍なぞどうでもいい。ですが私には、我ら会津藩士には自負があります。戦国の世を乗り越え、太平の世を築いた誇り高き英傑の系譜たる自負が。我らはこの国を。今まで続いてきた徳川の治世を。武士の誇りを守らねばならない。そのためには、我ら武士が生き残る道は、夷敵を討ち払う他にないのです。………たとえ、どんな手段を用いたとしても」

 力強く言い切った憲保の目は真剣で、其処に虚偽など欠片もないと感じられた。
 詰まる所、憲保は典型的な佐幕派────江戸幕府存続を根幹に据えた、攘夷論を掲げる古い武士だった。
 幕藩体制を保ちながら夷敵を討ち、古くから続いた“日の本の国”を守り通したいと願っているのだろう。それ自体はごく有り触れた発想。武士として誰に憚ることのない、一つの在り方だ。

「私は既に隠居の身。ですがこの国の未来を憂う一人でもあります。何人をも打倒し得る貴方の<力>、徳川の治世を守るために使って頂きたいのです」

 ただし鬼を利用しようなどと考えなければ、の話ではあるが。
 憲保は既に土浦を子飼いにし、更には鬼であると理解した上で甚夜を手駒に加えようとしている。
 その理由は実に簡単だ。
 佐幕攘夷派は決して少なくない。今まであった幕府を守ろうとするのも、現体制を崩壊させかねない諸外国を忌避する感情も、至極真っ当なものだ。

 だがその思想は致命的な弱点、根本的な欠陥を抱えている。
 そもそも開国派が増えた理由は、嘉永に来訪した黒船を、また諸外国の持つ力を実際に見た上で、現在の国力では直接的な侵略に出られた場合抗いきれぬと判断したからである。だからこそ幕府は開国し、欧米列強の技術を得て幕藩体制を立て直そうとした。


 そう、それこそが佐幕攘夷思想の根本的な欠陥。


 この思想は欧米諸国の駆逐を掲げてはいるが、現実問題としてそれを討ち払うだけの武力が今の幕府にはないのだ。
 故に攘夷派の多くは尊王を掲げ、幕府は開国に傾倒していく。それはある意味で当然の帰結。佐幕攘夷が遠からず時代に淘汰されていくのは目に見えている。

「甚夜殿。貴方はこの国の未来をどう思われますか」

 それをこの男は。
 畠山憲保は鬼という理外の存在、盤外の一手をもってひっくり返そうとしている
 おそらくは倒幕派や諸外国を殲滅するために鬼を欲しているのだろう。
 
「さて。折角の御高説だが生憎と浅学でな。開国だ攘夷だと言われても然程興味がない」
「ほう。では貴方はこの国がどうなってもよいと?」

 声には少なからず侮蔑が含まれているように聞こえた。
 仕方のないことかもしれない。憲保にはこの国の未来を憂い、現状を変えようと───その是非は置いておくにしても───邁進している。そんな彼にとって無関心としか思えない物言いは許せないものだった。
 しかし甚夜は軽く目を伏せ、平然とした様子で言葉を続ける。

「昔、似たようなことを言う鬼がいたよ。この国はいずれ外からの文明を受け入れ発達していく。だが早すぎる時代の流れに鬼は淘汰され、我らはいつか昔話の中だけで語られる存在になるのだと」
「面白いことを言う鬼もいるものですね。それは我らにも言えたこと。武士も同じく、時代に淘汰されようとしている。ならばこそ」

 力を貸せ。
 鬼も武士も、時代に取り残されようとしている。
 お前も同じく淘汰され往く存在だろう。
 声ならぬ声で憲保はそう語っていた。

「悪いが、力を貸すことは出来そうもない」

 それを受け止め、はっきりと甚夜は言い切った。

「……私の考えを間違いだと思いますか」

 鬼を手駒に反抗勢力を潰す。およそ真っ当とは言えない手段。成程、人によっては卑怯、汚い、お前の行いは悪だと騒ぎ立てる者もいるだろう。
 しかし首を振って憲保の問いを否定する。

「甚夜殿は人に仇なす鬼のみを討つと聞きました。貴方は、力無き人を守るためにしか<力>を使わないと?」
「まさか」

 馬鹿なことを。
 己には既に誰かを守る資格などない。何一つ守れなかった。大切だと思った筈の妹を鬼へと変えた。母を、父をこの手で殺した。
 憎悪をもって全てを切り捨て、今尚多くのものを踏み躙り続けている。
 そんな男が『守る』などと、言える訳がなかった。
 
「言いたいことは分かった。いかなる手を使おうが、悪辣とも卑怯とも思わん。だが貴殿に目指すものがあるように、私にもまた目的がある。鬼を討つのもその為。貴殿の志に比べれば薄汚い私怨でしかないが、私にはそれが全てだ。幾ら望まれようとも、今更生き方は曲げられん」
「目的とやらが何かは分かりませんが、生き方を曲げさせる気も、邪魔をする気もありません。ただ貴方が生きる長い時間、ほんの一瞬の間だけ助力が欲しい。それでも」
「ああ、出来んな」

 まるで茶飲み話のような軽さで紡がれる頑とした否定。
 その答えに何を思ったのかは分からない。ただ憲保は静かに耳を傾けている。

「そも目的を別にしても、貴殿の下で刀を振るう己を肯定できん」
「それは何故。貴方は私が間違いではないと仰ったでしょうに」
 
 間違いではないと確かに思う。
 だが首を縦に振ることは出来ない。己の生き方を曲げられぬが故に。

「栄枯盛衰は世の常だ。貴殿の言う通り、いつかこの国は諸外国に踏み荒らされ滅び往くのかもしれない。時流に抗い剣を取ることが尊いというのも理解できる。ならばこそ私が関わるのは間違っている。隆盛も衰退も須らく“あなたたち”の手で行われるべきだろう」

 あなたたち、という言葉が何を意味するのか憲保はちゃんと悟ってくれた。
いくら取り繕ったとてこの身は鬼。
 既に人の理から外れてしまった己が、人の行く末を決める動乱に手を出すなどあってはならない。
 憲保の遣り様を間違いだとは思わない。鬼を利用しようが、外道に染まろうが、本当に何かを為したいと願うのならばそれを否定する気は微塵もなかった。
 それでも己が開国だ攘夷だと謳いながら刀を振るうのは間違っている。時代の変革は須らく人の手で。人外たる己が踏み入ってはいけない領域だろう。
 たとえこの国が滅びゆくとしても、それが人の選んだ道行きならば、受け入れねばならぬ事だ。

「だから力は貸せぬ、と?」
「ああ。何より私は何の為に刀を振るうかさえ見つけられていない。そのような男が、未来を切り開く戦に携わっていい筈があるまい」

 それは真にこの国を想い、刀を振るう者達への冒涜だ。
 だから開国の為にも攘夷の為にも刀は振るえない。

「曲げられませんか」
「曲げられたなら、此処にはいなかったろうよ」

 その答えを聞いて、憲保は堪え切れず笑いをもらした

「くくっ、面白い方だ。倫理にもとるからでも思想が相容れぬからでもなく、己が美学に反するから刀は振るえないと?」

 憲保の言は正に正鵠を射ていた。
 友を喰らい、父を斬り捨て。後悔が無いとは言わない。しかし全ては己が手で、己が意思で犯した罪だ。だから後悔はあれど納得はしている。
 しかし他人の願い、理想の為に刀は振るえない。振るう自分を認められない。
 どれだけ言葉で飾ったとしても、根本的に甚夜は善悪の基準ではなく、己の中でそれを是と出来るかということしか考えていないからだ。

 憲保に見透かされたが、不思議と嫌な気分にはならなかった。“それ”が分かるということは、立ち位置は違えど憲保もまた甚夜と同種の人間だ。だからこそ二人は一種の共感さえ抱いていた。

「上手いことを言う……ああ、貴殿の言う通りだ。どれだけ正しかろうと、意思を曲げて何かを斬ることが、私には美しくないと思えるのだ」

 結局はそういうこと。
 甚夜の剣は人の為ではなく己の為。
 国の未来より、倫理や人道より、曲げられない生き方の方が彼にとっては重いのだ。

「だから否定はしない。だが私も頑迷でな。一度決めたならばそこから揺らぐことは出来んのだ」
「では……次に会う時は、敵同士やも知れませんな」

 憲保は笑った。
 声に先程までの侮蔑はない。代わりに鋭くなった眦からは敵意を感じ取ることが出来た。だが今すぐどうこうしようという気はないらしい。土浦の方も動こうとはしなかった。

「私もまた、この生き方を変えるつもりは御座いませんので」

 そのようだな、と甚夜は頷いた。
 憲保は隠居の身とはいえ、攘夷活動を続けるつもりだ。そしてその手段に鬼を使うのならば、当然怪異の犠牲になる者は出てくる。
 そうなれば開国や攘夷といった思想に関係なく甚夜は憲保と敵対せざるを得ない。お互いが自分の生き方を曲げられない以上、衝突は必然だった。

「お互い、難儀なことだ」
「いや、まったく。ですが己が在り方を貫くというのはそういうことでしょう」
「違いない」

 最後に軽く笑い合って甚夜は立ち上がった。

「直次、そろそろ行くとしよう。妖刀を追わねば」
「あ、は、はい。では畠山殿、これにて失礼いたします」
「そうですか。では土浦」
 
 無言で立ち上がった土浦に案内され二人は座敷を離れる。

「ああ、そうそう。杉野ですが、どうやら『富善』に興味があったようです」

 最後に背後から、そんな呟くが聞こえた。



 ◆



「土浦殿と言ったか」


 玄関に辿り着き、先に甚衛が正面門を潜ったところで思い出したように甚夜は言った。

「畏まる必要はない」
「そうか。ならば土浦、何故畠山殿に仕える? お前も私と同じく開国だ攘夷だなどといったことに興味などないだろう」

 彼は鬼。そして己と同じ身の上だとするならば、初めから畠山家に仕えていたわけではなく、憲保が引き立てたのだろう。
 ならば何故この鬼は憲保に従うと決めたのか。およそ関係のない人の主義主張に態々首を突っ込む理由が分からなかった。

「俺はかつて人に裏切られた」

 いや、信じることが出来なかったのか。
 目を伏せた、何処か沈鬱な面持ち。
 感情のこもらない声で淡々と語り始める。

「随分昔の話だ。人に裏切られ、失意に塗れた俺を憲保様が拾って下さった。その折に仰られた」

 正直なところ素直に答えるとは思ってもいなかった。
 表情は真剣であり、嘘を吐いているようには思えない。そもそも鬼は嘘を吐かないものだ。ならば彼の言葉は掛け値のない真実なのだろう。

「鬼と武士は同じく時代に打ち捨てられようとしている旧世代の遺物、いわば同胞。ならば共に手を取り合うことが出来る筈だ、と。故に俺は憲保様に仕えている。……俺は、あのお方を信じているのだ」

“信じている”。土浦はやけにその言葉を強調した。過去に何があったのかは分からない。だが酔狂ではなくそれなりの忠節を抱いているようだ。

「聞いたのは此方だが、何故話した?」
「何故、か。同胞への情けとでも思えばいい」

 どうでもよさげに投げ捨てた科白。その眼は虚ろで、土浦の感情を読み取ることは出来ない。

「鬼は人と相容れぬ。人の中で生きるならば、お前も分かっているだろう」

 ───近…らな…で化け……!

 投げ付けられた感情を思い出す。一瞬だけ揺れた瞳を見抜いたのか、土浦は静かに言葉を続ける。

「だが憲保様は受け入れてくださる。その意味、忘れぬ事だ」

 それが裏のないものだと理解できる。
 同胞ゆえの気遣いだ。だが首を縦に振ることは出来ない。

「配慮は痛み入る。しかし畠山殿の下には付けん」

 無表情のまま土浦の言を斬って捨てる。
 今更生き方を変えるなど出来ようはずもなかった。

「言っただろう。開国に攘夷、どちらにも興味はない。だがお前達が鬼を使い無意味に人へ危害を加えるというのなら、私はおそらく刃を向けることとなるだろう」

 そうか、と一度目を伏せ、しばしの間逡巡をする。

「憲保様の意向だ、今は手を出さん」

 沈んだ表情は一瞬で消えた。
 そこに在るのは外見に相応しい餓えた獣の相貌である。

「貴様が静観を貫くのならばそれでいい。だがもし憲保様の邪魔をするというのなら……」

 瞬間、男の瞳が赤く染まった。
 纏う殺気は本物。肌が痛くなる程に空気は張り詰める。

「それは此方も同じ。お前達が私の道を塞ぐというならば」

 甚夜はそれを飄々と受け流し、左手は腰に携えた夜来に掛かる。触れた金属の冷たさが意識を透明に変えていく。
 そして互いの視線が交錯し、
 
「潰す」
「斬る」

 二人は同時に絶殺を宣言した。
 




[36388]      『妖刀夜話~飛刃~』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/04 19:37
 ぬるりとした感触を覚えている。
 それに恍惚を感じてしまった時点で、もう逃げ道はなくなってしまった。

 妖刀に取り憑かれた。そのせいで妻を斬り殺した。
 だから斬り続けなければならない。
 己の感情なぞ関係ない。
 この身は妖刀の意思のままに、斬ることを止められない。

 人を斬る。
 最早それ以外に出来ることなどないのだ。


 ◆


「ずいぶん遅かったですね」

 先に門を潜り外で待っていた直次が軽い調子で言った。

「少し、な」

 土浦と呼ばれた鬼。
 彼は随分と憲保に固執しているようだった。憲保が妖異の力による攘夷を志すのならば、或いはいずれ殺し合うことになるかもしれない。短い会話ではあったがそれを予見するには十分すぎた。

 先程の会話については誤魔化して、蕎麦屋『喜兵衛』へ向かう。毎度のことながら何かの話し合いをするにはそこがいい。

「しかし畠山憲保……随分と胡散臭い、いえ、性質の悪い男でした」

 真面目な気質で普段ならば陰口を叩くことなどしない男だが、今日ばかりは歩きながら眉を顰めて呟く。
 直次には己が鬼であることは話していないし、先程の会話からそれを悟られたということも、憲保の真意を理解した訳でもないだろう。それでも憲保の、まるで狂信者のような雰囲気に当てられたのか。忌々しいとでも言わんばかりの表情だった

「ふむ。確かに胡散臭い……だが、面白い男ではあった」

 率直な感想だったが、それを聞いて直次はむっとした。

「あのような男が、ですか?」
「そう睨むな。真面ではないが、あれは張るべき我を持っている。私は、ああいう不器用な男は決して嫌いではない」

 短い邂逅だったが人となりは何となく理解できた。
 畠山憲保は目的のためには手段を選ばない類の男だ。
 直次にしてみればそこが受け入れられず、甚夜にしてみればそこが好ましくある。
 鬼を使って時代に抗おうとする男。およそ真面ではない発想、だがそうでもしなければ現状を打破できぬ程に佐幕派は追い詰められているということでもあるのだろう。
 其処まで追い詰められて尚生き方を曲げられない男だからこそ、甚夜は胡散臭いと思いながらも否定し切れず、それどころか一種の共感さえ抱いていた。
 そして同時に、決して相容れぬであろうとも確信していた。

「しかし、最後に言った『富善』。何か心当たりはあるか」
「一応は」

 憲保を認めるような発言が気に入らなかったらしい。何処となく触れくされた様子だった。
 しかしそれも僅か、一度深呼吸をし、視線を合わせた時には普段通りの彼に戻っていた。

「『富善』(とみぜん)というのは深川にある料理茶屋です。“町人でも気軽に”とまでは言えませんが、少し無理すれば利用できる程度の値段の店で、結構人気もあるそうです。私はまだ行ったことはありませんが」

 気軽に言うその様子からすると本当にただの料理茶屋らしい。
 とすると憲保の言葉の意味が分からなくなる。

「では杉野平七がそこに興味がある、というのは」
「それは……すみません、よく分かりません。杉野殿がその店に入り浸っている、ということでしょうか」

 唇を親指でいじりながら直次は思考に没頭する。しかしいくら考えても答えは出てこないようだ。

「取り敢えず行ってみますか?」
「そうだな。場所は分かるか」

 こくんと直次はうなずいた

「ええ、聞いています。ではご案内しましょう」



 ◆



 そもそも江戸の食は粗野とされていたが、幕末の頃にもなると手の込んだ本格的な料理を提供する、趣向を凝らした座敷や庭を持つ料理茶屋が数多く生まれた。
 両国や深川といった盛り場だけでなく近郊の行楽地のも贅の限りを尽くした料理茶屋は増え、文化人の会合に利用されることも多い。
今では「京の着倒れ」「江戸の食い倒れ」と言われ、江戸は食文化の中心であった。

 その中で富善は、庶民が気軽にとまでは言わないが、江戸を代表する高級な料理茶屋よりは幾分価格の安い店だった。利用し易い為か下級武士や町人の会合など、座敷では様々な人々の交流の場として賑わいを見せていた。

 今も奥の座敷ではどこぞの武士達が集まって宴を開いているようだ。甚夜達の借りた小さな個室までその声は聞こえてきている。
 騒がしい宴の声を聴きながら、甚夜は箸を動かしていた。

「ふむ。旨い……」

 鰤(ぶり)の塩焼きを一口。香ばしい皮。しっかりとした身。脂も適度に乗っており、塩加減も丁度いい。

「……ええ、ですね」

 直次もあら汁を啜りながら曖昧に返す。磯の香りが心地よく、これも大変美味なのだが二人の表情はどこかぎこちなかった。

「酒も、いいものを揃えている」
「いや、まったく。ですが」

 気まずそうに、非常に苦々しい面持ちで直次はぽつりと呟いた。

「普通の、料理茶屋でしたね」

 暗い表情の理由はそれだった。
 畠山憲保の物言いから何があるか分からないと気を引き締めて訪れた富善。しかしいたって普通の店であり、肝心の杉野兵七もおらず、二人は本当にただ食事を取っているだけだった。

「杉野もいなかったな」

 店の者の話では確かに杉野は此処に時折訪れていたようだが、それは畠山家で使える者達が宴会を開く時だけであり、足げく通っていたということでもないらしい。 
 殆ど情報を得ることは出来ず、しかし店に入ったからには何も頼まず出る訳にもいかず、取り敢えずは何か食べていくことになった。
 単なる流れだが出された飯は流石に旨い。酒も土佐から仕入れた辛口のものを取り揃えており、値段は安めだがのど越しは悪くない。

「さて、どうしたものか」

 甚夜は無表情のまま盃を煽った。
 酒も料理も旨いのはいいが、杉野兵七に関して何の情報も得られなかった。これでは態々来た意味がない。

「出来れば早めに見つけたいものですね。杉野殿は妻を斬り殺したという。だとすれば夜刀守兼臣は“本物”の妖刀だ」
「ああ、次が起こる前に奪いたい。だが」
「肝心の行方が分からない。何か手がかりがあればいいのですが」
 
 二人が黙り込めば奥の座敷での大騒ぎが此処まで響いてくる。声は心底楽しそうで、その分此方の空気が重くなったように感じられた。
 一口酒を呑む。旨い、旨いのだが、どうにも楽しめる雰囲気でもない。
 直次もそれは同じようで無言で箸を動かしていた。

「……そろそろ、出るか」
「……そうですね」

 何の実りもない時間が過ぎ、二人は若干気落ちしたまま二人は立ち上がった。外から聞こえる話し声がなんとも遠く感じられる。軽く俯いたまま襖を開けて廊下へ出る。すると目の前に人影があり、思わず甚夜は立ち止った。

「けんども武市先生はまっこと遅いのー! 今日はもう来んがか、っぉと!」

 前を見ていなかったせいで同じく歩いていた二人組の男とぶつかりそうになってしまう。途中で止まり、相手の男も大げさに後ろに退いた為体は当たらなかったが、甚夜は直ぐに小さく頭を下げた。

「失礼した」
「いやいや、謝るのはこっちじゃき。前ぇ見ちょらんかったわ!」

 がはは、と豪快に笑う灰の袴に黒の羽織を纏った男。あちらも会話に夢中で前を見ていなかったようで、同じように謝ってきた。二人とも既に相当な量の酒を呑んでいるのだろう、顔は真っ赤に染まっている。

「そうじゃ! おまんら、こっちで騒がんか? 詫び代わりに奢っちゃるき!」
「はぁっ!?」

 酔った勢いなのか、いきなりのお誘いだった。
 もう一人の小柄な男が突然の提案に驚き声を上げるも、ぼさぼさ髪の土佐弁を喋る男はただ楽しそうに笑うだけだ。

「そうほたえなや。ここで知り合うたのも何かの縁じゃか」

 小男の方は困った様子でおろおろとしている。流石に可哀想になって来たのか、直次が割って入った。

「折角の御厚意ですが遠慮させていただきます。少しまだ用がありますので」

 ちらりと甚夜の方に視線を送る。話を合わせろということだろう。

「……ああ、そうだな。そろそろ店を出よう。済まないが、私達はこれで」
 
 こちらとしても見知らぬ者の中で酒を呑む気にはなれない。素直に直次の案に従い、もう一度小さく頭を下げる。

「ほうか? あー、まぁさっきは済まんかった」
「いや、こちらこそ。そうだ、ついでと言ってはなんだが、一つ聞きたい」
「おう?」
「杉野兵七、という男を知っているか?」

 その問いに男は頭をぼりぼりと掻きながら右に左に頭を動かしている。それを何度か繰り返し、ぴたりと動きを止めて一言。

「いんにゃ、知らん!」

 あまりにも清々しい否定だった。
 じっと目を見ても動揺の欠片もない。嘘は言っていないように思える。

「……そうか。妙なことを聞いた。感謝する」
「こんくらい、なんちゃやないちや!」

 意味は分からないが、多分気にするなくらいの意味だろう。とりあえず聞きたいことは聞けた。ここらが潮時だろう。

「では、これで失礼させて貰おう」
「おう! ほんなら、わしもいぬるぜよ!」

 ぼさぼさ髪の男はずんずんと足音が聞こえてきそうな歩き方で、小男の方は何度も頭を下げ、二人は奥の座敷へ戻っていく。残された甚夜達は何とも言えない気持ちでその背中を見送った。

「なんとも騒がしい男だ」
「はは、本当に」

 奥座敷には彼等の仲間が大勢いるのだろう。入って行った瞬間、どっと笑い声が聞こえてきた。
 しばらくの間甚夜はそこで立ち止まっていた。なんとなくだが、あの男のことが気になった。
 というのも彼の言葉の土佐訛りに、土佐勤王党の話をした時に見せた直次の憂いを思い出したからだ。

「土佐の生まれ……武市先生と呼んでいましたし、あの方も土佐勤王党の一員なのでしょうか」

 奥座敷で騒ぐのは攘夷を志す若者たち。少しだけ陰った直次の表情には気付かないふりをした。

「武市とやらは土佐に帰ったのではなかったか」
「勿論、勤王党の拠点は土佐ですが、江戸にも勤王の士はいます。時折江戸へ訪れることもあるそうです。もっとも、これは知り合いの言ですが」
「成程。まあいい。出よう」
「ええ」

 二人は歩き始める。足取りはやけに重かった。




 店を出れば既に辺りは暗くなっていた。まだまだ寒い時期、店が暖かかっただけに風の冷たさが身に染みる。今日は終わりにしようと二人は帰路に付いた。

「甚殿、そういえば先程の質問は?」

 道の途中、直次は思い出したようにそう言った。

「ん、ああ。先程の男は大広間を借りていた。帯刀もしていた。その上勤王党の話もあったからな」
「では、彼も」
「十中八九攘夷派。案外江戸住みの、土佐勤王党の一人かも知れん。であるならば杉野某が富善に通っているのは、彼等と接触を図っているからではとも思ったのだが。どうやら違ったらしい」

 奥の座敷で宴会を開いていたのは江戸にいる攘夷派ならば、先程会った土佐弁の男もその一員だろう。もし杉野平七が彼等とか関わりを持っているならば顔くらいは知っていると思った。
 しかしあの男は知らないと言う。嘘を吐いているようには見えなかった。とすれば攘夷派に属している、或いは入ろうとしていることもないだろう。
 では富善に興味があるという言葉は結局なんだったのか。いくら考えても答えは出てこない。

「まあ、杉野殿は会津藩士ですからね。同じ攘夷と言えど尊王を重きに置く者達とは相容れ…ぬ……」

 そこまで言って、直次は急に固まった。
 立ち止まり口を噤む。いったい何事かと甚夜も歩みを止め様子を窺うが、直次は俯いたまま何事かを考え込んでいる。

「そうだ、会津と土佐では考えが違う。ならば、いがみ合って当然。邪魔立ても有り得る……」

 そしてしばらく経ち、何かに気付いたのか肩を震わせながら言葉を絞り出す。
 
「甚殿、分かりました」

 低い声には苛立ちが混じっている。

「分かった?」
「ええ。杉野殿が富善に興味を持っている、という言葉の意味が」

 その答えが分かったと直次は言う。
 だというのに彼の纏う空気からはあからさまな苛立ちが感じ取れた。それを本人が分かっているのか分かっていないのか、重苦しい雰囲気のまま言葉を続けていく。

「友人に聞いた話ですが、富善は江戸住みの土佐藩士が多く通う店だそうです。友人が勤王党に入ってからも皆で集まって酒を酌み交わしているし、時には重要な会談を行うこともあるとか」

 重要な会談。という言葉に甚夜も引っ掛かりを覚える。

「では先程の男が言っていた“武市先生”とは」
「ええ。間違いなく、武市端山殿のことでしょう。そして恐らくは、近日中に土佐から江戸へ訪れる予定だった」

 武市端山。
 土佐勤王党の中心人物。
 土佐藩と会津藩は共に攘夷を掲げるが、両者の主張には決定的な違いがある。
 会津は幕府を助け幕藩体制の存続を願っているが、土佐は天皇を立て徳川を政治から廃そうとしているのだ。
 そして武市は分かり易過ぎる勤王派の象徴。
 此処まで情報が出そろえば流石に気付かない訳がない。

「畠山殿の下についているからには杉野兵七もおそらくは佐幕派でしょう。佐幕派の会津藩士が土佐藩士、それも土佐勤王党に属する者達が通う場所に興味があるという。そして会津藩士は数日前に刀を手に入れた。もしそれを使うつもりならば、可能性は限られてくる」

 武市端山の存在は佐幕攘夷を掲げる合図藩にとって目の上のたんこぶ。
 出来る限り早急に消えて貰わねば困る人物。
 もしも畠山憲保の言に嘘が無かったとすれば。



 ───ここで遠い未来において記述されるであろう事柄に触れておこう。



 文久二年・一月二十七日。
 史書に曰く、江戸は深川某所にて土佐勤王党と江戸住みの佐幕派との会合があったとされる。
 武市端山は活動方針として挙藩勤王を掲げると共に絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、坂本龍馬もその中の一人であった。

 龍馬は武市の指示によって諸藩の動向を探っていたが、文久元年・一月にその任務を終えて土佐に帰着した。同時にこの頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。勤王義挙。天皇という御旗の下、幕府に明確な敵対意思を示す行動であった。

 しかし土佐藩はそれに追随しなかった。これに不満を持った土佐勤王党同志の中には脱藩し京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来ていた。
 翌年一月二十七日に深川であった会合ではこの事実を知った多くの党員が脱藩を決意し後に薩摩藩と合流。会合に参加した坂本竜馬もまた文久二年三月二十四日に脱藩している。
 
 武市端山。

 後の名で呼ぶならば武市半平太は、土佐勤王党を結成し、坂本竜馬の脱藩を促し、若い志士達の流れを倒幕へと導いた歴史の分水嶺となる人物である。
 そして幕末期において倒幕への流れを決定づけ、坂本竜馬と武市端山が袂を分かつ契機となった一月二十七日に行われた会合を、俗に『深川会談』という。
 
 勿論、それは後の世で史書に記される内容であり、今を生きる二人の預かり知らぬところである。
 それでも現段階で武市端山を代表とする土佐勤王党は倒幕の旗印となる可能性を秘めている。
 あくまでもそれは可能性でしかなく、現在の武市は未だ何も為さぬ男に過ぎない。
 だがその可能性を重く感じる者がいたならば。
 例えば、理外の一手を考える、慧眼の持ち主が見たならば。
 佐幕攘夷を掲げる”誰か”にとって、武市は目障りなことこの上ない筈。
 つまり杉野平七の目的は、

「武市端山の暗殺」

 それ以外に考えられない。

「杉野平七も会津藩の一員。徳川に、畠山憲保に傾倒してもおかしくはない。とすれば、『富善』に興味があるというのは」
「おそらくは近日中に、武市殿が江戸へ訪れるという情報を得たのでしょう」

 そして杉野平七はその日に武市端山を暗殺するため、御坊主には見合わぬ妖刀を求めた。成程、話は繋がっているように思える。が、それでも所々に疑問は残った。

「しかし分からん。それが事実だったとして、なぜ畠山は態々教えた?」
「畠山殿にとって、杉野平七という男にはもう価値がないからです」

 彼にしては珍しく、確信めいた響きだった。しかし脈略のない返答に今一意味を理解できない。言葉の意を問おうと見れば、怒りを堪えるように口元が震えている。

「おかしいとは思いませんか? 私達が畠山家を訪ねたのは偶然です。だというのに畠山殿は私達を座敷に迎え入れ、あまつさえ甚殿を召し抱えようとした」
 
 偶然訪れた浪人を、例え以前から知っていたとはいえ、その場で雇おうとするなど奇妙な話ではある。それに納得して頷くと、直次はやはり怒気を孕んだ表情で続けた。

「今日の様子を見るに、畠山殿は甚殿のことを初めから知っていたようです。浪人としてではなく、怪異を討つ者として。おそらくは以前より貴方を迎え入れたいと思っていたのでしょう。だからこそ貴方を呼びつけた」
「呼びつけた? 私は」

 妖刀を買った者が畠山家にいると聞いたから尋ねただけで。
 そこまで考えてようやく甚夜は直次の言いたいことを理解した。

「妖刀は、囮という訳か」
「おそらく。あれは単に貴方を呼び寄せるための餌にすぎなかった。今回は偶然にも私が甚殿へ伝えましたが、そうでなければ噂を流布つもりだったのでしょう。『会津畠山家の御坊主が妖刀を手に入れた』と。そうすればいずれ怪異を討つために畠山家へ貴方が訪れるでしょうから」
「つまり妖刀をどうしようと畠山憲保にとってはどうでもいい」
「ええ、甚殿と直接会えた時点でそれ自体は既に用済み。その後何があろうとそれは余分に過ぎないということでしょう。だからこそ杉野殿の行方を教えた」

 だから杉野平七にはもう価値がない、か。
 武市端山を討てればそれでよし。
 討てなかったとしても目的自体は果たしている。
 憲保にとっては暗殺が成功すれば儲けもの、失敗しても腹は痛まないということだろう。

「甚殿の言葉です。刀は値が張る。御坊主がおいそれと手を出せるものではない、と。私もそう思います。ならば、金の出所がある筈」
「それが畠山憲保、か。杉野平七が暗殺を企てることまで想定していたとするならば……成程、確かに性質の悪い男だ」
「ええ。……ああいった男がのさばっているのは佐幕派が相当追い詰められている証拠。徳川は、本当にもう駄目なのかもしれない」

 ぎりっ、と直次の奥歯が鳴ったような気がした。そう錯覚させるほどに彼の顔は苦渋で満ち満ちていた。代々幕府に仕えた三浦家の当主だからこそ、現状に悔しさを感じるのか。それとも自身が仕えてきた主に対する失望か。

「すみません。感情的になってしまいました」
「いや」
「それで、どうしますか?」

 それは先程畠山家の座敷での遣り取りを見ていたからこその問いだった。
 開国にも攘夷にも興味がない。だがここで妖刀を追い、杉野平七を邪魔すれば結果として尊王派に与したと同義だ。
 しばし逡巡し、甚夜はゆっくりと口を開く。

「例え妖刀を使ったとしても、“真っ当に”暗殺を企てたならば、私は邪魔立てをするつもりはなかった」

 甚夜が刀を追っていたのはあくまでも怪異の真相を見極める為。決して人道や倫理、義心といった綺麗な理由ではない。それでも畠山憲保の遣り様には、どうしても引っ掛かりを覚えてしまう。

「だがこうなってくると話は別だ。どんなお題目を掲げようと、畠山憲保は自身に仕える者を体のいい捨て駒にした。私はそれを是とは出来ん」

 断っておくが、甚夜は決して善人ではない。
 既にその手で人も鬼も殺している。鬼の<力>を使って人を斬り殺したこともあった。善悪で語るならば殺人を犯した彼は悪に類される。だから鬼を手駒にしてて開国派や夷敵を滅したとしても、それ自体を非難するつもりはない。
 だが畠山憲保は、妖異の力を持って何も知らぬ者を利用した。そのやり方が受け入れられない。 

そこまで考えて、甚夜は首を振った。
 何を今更綺麗ごとで取り繕っているのか。
 己は主義主張や道徳の為に刀を振るえる程立派な男ではないだろう。

「……いや、お為ごかしだな。正直に言おう、私はあの男が気に食わん」

 共感は出来るし、決して嫌いな類の男ではない。
だがそのやり方が決定的に気に食わない。
 いつか誰かが言っていた。
 己は自身の想いよりも自身の生き方を選ぶ男だと。
 今回のこともただそれだけの話。妖刀を止めると決めた、畠山憲保を認められないと感じた。ならば、最早そこから食み出ることはできない。
 非難はしない。だが怪異の力は己が手で排除する。
 
「では」
「初めに言った通りだ。妖刀を追うぞ」

 迷いはない。
 無意識に動いた左手は既に刀へ掛かっていた。




 ◆


 そして数日後。
 文久二年・一月二十七日。
 
 江戸は深川に向かう河川沿いの通り。
 男は一人歩いていた。

 左手に握り締められた刀。
 ぞくりと何かが体を通り抜けた気がした。

 夜刀守兼臣。
 戦国後期の刀匠・兼臣が造り上げた人為的に生まれた妖刀。
 その“力”は既に試した。
 だから確信する。
 この刀をもってすれば勤王を掲げる阿呆共を皆殺しに出来る。


 ──あんた、なんで……。


 耳に残る女の声。
 関係ない。最早己に感情はない。
 妖刀に操られるまま妻を斬り殺してしまった。
 ならばいまさら人斬りを止められる訳がない。
 斬って斬って、ただ只管に斬って。
 その果てに斬り殺される。
 それくらいしかこの刀から逃げる術はないのだ。


 向かう先は『富善』。
 今日は武市端山が訪れるという。
 この好機を逃すわけにはいかない。
 同じく攘夷を志す相手だが、武市は倒幕の士。
 武士の世を壊そうとする国賊にすぎん。
 あの男の影響力は計り知れない。
 放っておけば倒幕派は更に力を増すだろう。
 ……故に、武市端山は斬らねばならない。
 己にはその理由がある。斬る理由がある。だから斬ってもいい。斬らないといけない。とにかく斬らないと。斬らないと、きっと自分は壊れてしまう。


 胸中は淀み、足は淀みなく進む。
 既に心は決まっている
 そうして深川の橋に差し掛かった辺りで、

「断っておくが」

 鉄のような声が響いた。

「私は暗殺という手段を卑劣とは思わない。刀に出来るのは所詮斬るのみ。ならば如何な手段を用いたとて斬ってこその刀だろう。故に否定はせん。だが……」

 宵闇に浮かぶ、六尺を超える偉丈夫は悠然と腰のものを抜き、切っ先をこちらに突き付ける。

「悪いな。邪魔はさせてもらう」

 だから理解する。
 この男は、敵だ。



[36388]      『妖刀夜話~飛刃~』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/25 01:50
 薄月の夜。
 映し出された二つの影。
 それ以外に人はいない。
 静けさが染み渡る川縁。
 深川に掛かる橋の前、二人の男が視線を交える。
 切っ先を突き付けた鉄面皮の偉丈夫、甚夜は橋を背に悠々と構えている。
 対する男、会津藩士・杉野平七は忌々しげに睨み付けていた。目指す料理茶屋『富善』へ向かうためにはこの橋を渡らねばならず。しかし目の前の大男は譲る気はないと無言で語っている。
 その時点で杉野の取るべき行動は決まっており、初めから甚夜の行動も決まっている。
 
 甚夜は突き付けた切っ先を相手の視線から隠すように後ろへ回す。
 脇構え。
 半身となり右脇に刃が見えないように太刀を構える。間合いを隠すと同時に相手を監視し、出方によって臨機応変な対応をとる為の構えである。
 対する杉野は正眼。
 中段の構えは全ての基礎となる構えであり、攻防に最も適していると言えるだろう。

 互いに為すべきは決まっている。
 故に言葉は必要とせず、対峙は瞬きの間に終わる。

 先に動いたのは杉野である。
 身を屈め、一直線に距離を詰める。同時に高々と刀を掲げ、一挙手一投足の間合いを無警戒に侵し、速度に任せ振り下ろす。
 
(遅い、な)

 今まで鬼を相手取ってきた甚夜にとって、杉野の一刀は然して脅威とは映らなかった。
 だが油断はしない。例え相手に膂力や速度で劣ったとしても討ち倒す手段がない訳ではないのだ。甚夜はそうやって自身よりも遥かに強大な体躯を持つ鬼を滅ぼしてきた。だからこそ警戒は怠らない。

 放たれた一刀を右に半歩進んで躱し、脇構えから腕をたたみ小さく振るう。
 相手はどうだか分らないが、甚夜に殺すつもりはない。刀を奪えばそれでいい。
 両の手を回し狙うは“はばき”、鍔の上に在る刀身の手元。そこを打ち据え叩き落とす。
 それを読んだのか、咄嗟の反応か。相手は手首を返すことで打点をずらし、鍔と“はばき”の間で甚夜の一刀を受けた。そしてそのまま刀身をずらし、鍔迫り合いの形まで持っていく。そして二人は硬直状態に陥った。

 鬼の膂力ならば力任せに押し切って相手を退かせることも出来る。しかし甚夜は敢えて鍔迫り合いを維持し、相対する敵の姿を見た。
 ただの御坊主と思ったがそれなりに剣術を修めているらしい。とはいっても道場剣術を一通り学んだ、程度のものだ。
 だからこそ違和感があった。
 正直な所、己と杉野平七の間には歴然とした実力差がある。それは杉野自身も感じているだろう。だというのに相手の表情には何処か余裕めいたものを感じる。いや、余裕というよりも見下すような絶対の自信だ。
 この状況で何故?
 脳裏を掠める疑念。
 それを振り払うように二人は動いた。
 一瞬の硬直の後、杉野はほんの少しだけ力を抜き半歩下がり、僅かにできた隙間から縫うように刀身を滑らせ、脇腹を狙って横凪に一閃。狙いは良い、だがやはり遅い。杉野の一撃はどこかぎこちなく、その動作を見てからでも十分対応が取れる。
 甲高い音が響く。 
 鉄と鉄がぶつかり合う。脇腹への剣撃を悠々と防いでみせるが、相手も止まる気はないらしい。振り被り、更に追撃を加えようとする。
 しかし挙動が大きすぎる。隙だらけの上に何処を斬ろうとしているかも容易に見て取れた。
 此処に来て、下手を打ったとしか思えない行動である。
 好機。
 紙一重で躱し相手の腕を抑え、刀を奪い無傷のまま制圧する。思い至ってからの行動は速かった。振り下ろされる太刀。間近に迫る白刃。
 それに合わせ右足を残し、左足を大きく引く。刃は体を触れるか触れないかの距離で空振り、甚夜は手首を極めるために左腕を伸ばし、
 

 にたり、と男が笑った。


 まずい。
 その笑みに嫌な予感を覚え、伸ばした腕を引っ込め大きく後ろへ下がる。しかし今度はこちらが遅かった。
 端から紙一重で避けられるだけの距離は空けていた。更に後ろへ下がった。普通に考えれば刀が触れる訳はない。事実杉野の放った一撃は切っ先を掠らせることさえ出来ずに終わった。
 だというのに。
 鮮血が舞った。
 届かない筈の刀が、事実届かなかった刃が甚夜の身を裂いたのだ。

 胸元に熱を感じる。
 焼けた鉄柱を抱かされたような痛み。しかし顔には出さず距離を取る。杉野もこれ以上は追撃できなかったのか、一、二歩下がってこちらの様子を眺めていた。

「ふむ。妖刀、か」

 傷口に触れる。今も血が流れ続ける、鋭利な刃物で切られたような綺麗な傷口。いや、ようなも何もこの傷口は正しく刀傷だった。刀には触れていないにも拘らず刀に斬られていた。通常ではあり得ない創傷が、かの刀が理の外に在るのだと教えてくれる。
 つまり夜刀守兼臣という刀は。

「斬撃を飛ばす<力>……面白い大道芸だ」

 妖刀の名に相応しく、高位の鬼が持つ<力>をこの刀は宿しているのだ。
 実に単純な<力>だが、その効果の程はたった今実証された。杉野の使い方も悪くない。飛ぶ斬撃を飛び道具として使わず、紙一重で躱そうとした瞬間に放つ。躱したと思った刃が寸での所で伸びてくる。理外の一手。大抵の相手は一刀の下に斬り伏せることが出来るだろう。

「なんだ、てめえ。なんで、生きている」

 だというのに、血を流しながらも甚夜は平然と立っている。
 杉野にとっては必殺の一撃だったのだろう、あからさまに動揺していた。

「生憎と人よりは丈夫でな」

 吐き捨てるように言った。
 人の姿をしてはいるがこの身は鬼。膂力や頑強さは人のそれを遥かに凌駕している。この程度の傷では死ぬことが出来ないのだ。……その可否は、今の己には分からないが。

「なら斬る。何度でも斬る。斬らないと、斬らないと俺は……」

 距離を空けたまま妖刀、夜刀守兼臣を振り抜く。瞬間風を裂く音と共に、周囲の空気とは密度の違う、透明な斬撃が飛来した。互いの距離は約三間弱。今度は純粋な飛び道具として<力>を使ってきた。
 空けられた距離を潰す為に一歩を進みながら体を躱す。しかし踏み込みに合わせて杉野は更に剣撃を放っていた。回避は間に合わない。ほとんど反射的に飛来する斬撃を薙ぐ。

 甲高い鉄の音。

 腕には微かな痺れがある。
 そして今尚血は流れ続けている。
 其処から想像するに、原理は分からないがあの透明な刃はかまいたちのようなものではなく斬撃“そのもの”を飛ばしているらしい。
 しかも一度放ってから逃げ決めを繰り出すまでの時間が短い。
 それはある意味当然か。どうやら妖刀を振り抜けばそれだけで斬撃を飛ばせるようだ。だとすれば相手にとっては素振り程度の負担でしかない。連続で使っても何ら問題ないのだろう。
 反面こちらは斬撃を避ける、或いは防ぐためにそれなりの負担を強いられる。速さ、というよりも攻撃の回転率では杉野に分があった。
 観察しながらも体は動く。距離を詰めようと試みるも、一歩進もうとすればそれに合わせて斬撃を繰り出してくる。自然甚夜は躱すか防ぐかを選ばねばならず、未だ間合いは三間以上空いたままだった。
 膂力、速度、剣技、戦闘経験。
 全てにおいて甚夜が勝っている。
 しかし杉野は妖刀の<力>という一点によって優位な戦況を創り出していた。

 だがそれでも自身の勝利は疑いようがないと甚夜は考える。
 故に然程焦燥を感じることもなく、作業のように飛来する斬撃を処理することが出来た。
 飛ぶ斬撃は確かに厄介だが、対抗策がない訳ではない。そもそも現状を打開する手ならば幾らでもあるのだ。
 例えば<隠行>により姿を消し、気付かれぬうちに斬り伏せればいい。
 例えば<犬神>を放つだけで、三匹の黒い犬が勝手に勝負を終わらせる。
例えば<疾駆>をもって一気に距離を詰めることだってできる。
 例えば<剛力>ならばあのような軟弱な斬撃、涼風の如く薙ぎ払えるだろう。
 いや、態々<力>を行使せずとも、鬼と化すだけで十分に終わらせることが可能だ。
 
 そうだ。現状を打破しようとするならば直ぐにでもできる。
 だが甚夜は未だ有効な手段を取らず、飛来する斬撃を捌きながら少しずつ距離を詰めようとしていた。
 どうしても、先程挙げた手段を取る気にはなれなかった。
 
 ふいに視線を向ければ、杉野は相変わらずにたにたと笑みを浮かべている。
 それが気に食わない。
 あれは自分の優位を確信している顔だ。口には出さずともあの目が語っている。
 
 ───お前の持つ刀では、この妖刀には敵わない。

 その見下した視線が決定的に気に食わない
 柄を握る手に力が籠った。
 妖刀を得たことがご自慢らしく、杉野は自分の刀こそが最も優れているとでも言いたげだ。
 それがどうしようもなく神経を逆撫でする。

「許せる、ものか」

 自然、呟いていた。
 甚夜は己が太刀に想いを馳せる。
 その銘を『夜来』。
 産鉄の集落葛野において、社に安置され、火の神の偶像と崇められた御神刀である。
 曰く千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。
 葛野の業、その粋を集めて作られた大太刀。
 二十年以上前、旅立つ己に集落の長が託してくれた、長い時を連れ添った愛刀。
 そして何より。

 ───甚太。

 夜来はいつきひめが代々受け継いできた葛野の宝。
 懐かしい笑顔を思い出す。集落の為に身を捧げた巫女。自身の想いより自身の生き方を選んでしまった女。夜来の所有者として『夜』の名を冠した彼女は、幼かった自分を捨て、ただ葛野の民の幸福を願った。

 遠い昔。
 その愚かさをこそ美しいと感じた。
 だから守りたいと、そう願った

 全てを失い今尚忘れることのない原初の想い。
 あの男の視線はそれに泥を塗るかのようだ。
 気に食わない。
 高々妖刀風情に夜来を愚弄される謂れはない。
 胸には懐かしい、まだ若人と呼べる齢だった頃の青い激情が灯っていた。 
 
「そんな、なまくらでよく防ぐ。だけど斬る、斬らなきゃあいつを」
  
 悉く斬撃を叩き落とす甚夜に焦れたのか、小さく零した。
 忌々しいとでも言いたげな杉野の口調に胸が決まった。
鬼にはならぬ。
 曲りなりにも己は『夜』の名を冠する者。
 あの男は夜来をもって叩き伏せる。

 三間。

 空気を裂く音と共に飛来する斬撃。躱しながら重心を敢えて前に崩し、倒れ込みながら一歩を進み、地を這うように駈け出した。
 
 二間。

 己が領域を犯そうと進む蒼夜へ杉野は更に斬撃を放った。今更その程度で躊躇する訳もない。夜来は左手、逆手に握る。そのまま薙ぎ払い、眼前の敵へ肉薄する。

 一間。
 
 杉野は刀を再度振り上げた。対してこちらは攻撃を防ぐために全力で刀を振るった後だ。夜来をもう一度構え直し防ぐよりも杉野がこの身を斬り捨てる方が早い。それを確信しているのだろう、嫌な笑みを浮かべている。夜来で防ぐことは叶わず、この距離では避けることも出来ない。
 空気を裂く音。
 刀が振り下される。
 この身に迫る白刃。
 それは脳天を確実に捉えており。


 ───零。


 響く甲高い鉄の音。

「………な」

伸びきった筋肉は一度収縮するまで動かすことは出来ない。だから構え直すには一拍子以上の時間が必要だ。
 だから間に合わない筈だった。

 なのに、驚愕に動きが止まった。
 脳天を叩き割る筈だった妖刀は届かなかった。

「振り抜けば斬撃を飛ばせる。逆に言えば振り抜かねばただの刀だ」
 
 振るった刀を構え直す必要はない。
 柄頭に右の掌底を叩き込み、動かない左腕で無理矢理突きを放つ。当然狙いは付けられないが、正確さはいらない。ただ相手の意表を突ければいい。
 次の手はないと思い込んでいた。だというのに、意識の外から突きを放たれ杉野は一瞬動揺し、その一瞬で十分。勢いを殺さず突きから払いに変化、妖刀の腹を打ち据える。

「ぎぃ……!?」」

 そもそも膂力が違う。杉野ではその衝撃に耐えきれず、振り下す筈だった刀が流れる。
 この距離で、決定的な隙。先程までの余裕の面に戦慄が走る。互いに無防備、同じように体勢を崩してしまっている。状況は対等。

「がっ……」

 ならば当然、自力で上回る方が勝つ。
 杉野が構え直すよりも甚夜の一刀が早かった。刹那の瞬間に、横凪の一閃を腹に叩き込む。
 確かな手応え刀越しに伝わる。杉野は膝から砕け、崩れ落ちるようにその場へ倒れ込んだ。
 峰打ちだ。骨のくらい折れたかもしれないが、死には至らないだろう。地に伏した杉野を見下ろす。完全に意識を失っているようだ。
 それを確認して構えを解き、ふう、とようやく一息を吐く。

「まだまだ、青い」

 それは杉野に向けた言葉か、それとも年甲斐もなく激情に身を任せてしまった己への戒めか、自分でもよく分からなかった。
 妙に気恥ずかしい心地になって、それを誤魔化すように先程まで杉野が使っていた刀を左手で拾い上げる。
 夜刀守兼臣。
 これには鬼の<力>が込められていた。ならば案外、“喰う”ことが出来るかもしれない。

<同化>

 意識を刀に繋げる。
 目の前が白く染まった。





 ◆ 




『兼臣、それが』

「ああ、お前の血を練り込んで打った太刀だ」

『ふむ。流石にいい出来だ。だが本当に“鬼”の“力”を持った刀になるのか?』

「さあ?“鬼”が百年を経て“力”を得るんなら、この“鬼”の血の流れた刀が百年後“力”を持ってもおかしかないと思うが……実際のところどうなるかは分かんねえな」

『……適当だな』

「だがよ、出来たら面白いと思わねぇか?“鬼”と“人”。異なるものが混じり合って新しいものが生まれる。俺はな、それが見たいんだ」


「お前はいつだったか聞いたな。“鬼”と“人”は互いに疑い、憎しみ合うことしか出来ぬのか、と」

「なあ、夜刀よ。俺は刀を打つしか能のない馬鹿な男だから、お前の疑問に答えることは出来ん。だが俺とお前は夫婦になれた。ならばきっと、いつかは“鬼”と“人”が共に生きることのできる日が来るんじゃねぇかって思ってる」

『本当に、そう思うか?』

「ああ、勿論。だから俺はこの刀を打った。これは“鬼”と“人”が共に在って初めて造ることが出来た。もしこの刀が百年後“力”を得ることが出来たなら、それは俺の考えが間違いじゃなかった証明だ。……残念ながら俺にゃあ、それを見ることは叶わんが」

「悪い、夜刀。代わりにお前が見てきてくれねえか?俺の刀が果たして“鬼”の“力”を得ることが出来たのかを。そして、もし得ることが出来たなら疑わないで欲しい。“人”は馬鹿で、時々間違いを犯すが。“鬼”は自分を曲げられず、ぶつかり合うこともあるが。それでも俺達は共に生きられるのだと」

『……兼臣』

「お前の血を練り込んだ刀。そうだな……後三口程打ってみるか。四口の刀に刻む銘は全て大銘を夜刀守、小銘を兼臣としよう。夜刀守兼臣……俺とお前の名を持つ刀が、“鬼”と“人”が百年後どうなるのか。お前に、確かめてほしい」

『分かった……任せるがいい。お前の想いの行く先は私が見届ける』

「済まんな、面倒を押し付けるようで」

『なに、夫の願いを叶える……これも妻の務めだよ』

 その時鬼女が浮かべた笑顔には。
 何故か、見覚えがあって────


 
 ◆



 がちゃん。
 陶器が割れるような音を響かせて、意識が現実へと呼び戻された。

「今のは……」

 何処かで語り合う男女。夜刀と呼ばれた鬼。彼女を妻と呼んだ人。あれはこの刀の記憶、なのだろうか。それとも刀工……兼臣の記憶が刀に残っていたのか。
 兼臣は鬼の力を借り人為的に妖刀を造り上げようとした。
 直次からはそう聞いたが、今の記憶を見るに夜刀守兼臣とはそんな禍々しいものではないように思える。どう足掻いても先立つことになる夫が、妻の為に何かを遺したかった。彼が妖刀を造ろうとした理由はただそれだけだったのではないだろうか。

「だが皮肉なものだ」

 鬼と人が共に在れるようにと願いを込めた刀は、鬼を利用する畠山憲保の手によってくだらない謀略に巻き込まれた。
 嫌な気分だ。戦いには勝利した。だがどうにもすっきりとしない。


 すっきりしない本当の理由は、妖刀に残された、杉野兵七の記憶にあったのかもしれない。

 兼臣の記憶と共に流れ込んできた、妻を殺した時の映像。思い出すだけで嫌な気分になる。それを振り払うように甚夜は夜刀守兼臣を眺める。懐かしい、鈍い色。葛野で作られた太刀の持つ無骨な輝きが、少しだけ心を落ち着けてくれた。

「残りは三振りか……」

 夜刀守兼臣はまだ三口残っている。
 胸に刻み、転がった鞘を拾い上げ兼臣を収める。鞘の分しか重量は増えていない。それなのに何故か、この刀が酷く重く感じられた。
 静寂が響き渡る夜。
今頃富善では土佐藩士達が大騒ぎをしているのだろう。
 だが詮無きことだ。
 一度だけ橋の向こうに視線をやり、甚夜はその場を後にした。



 文久二年・一月二十七日。
『深川会談』当夜。
 後の史書に記される出来事の裏で行われた、然して意味のない一幕である。

 

 ◆



「そうですか、やはり」
「ああ杉野は富善に向かおうとしていた」

 蕎麦屋『喜兵衛』。
 昼の食事を取り終え、食後の茶などを啜りながら甚夜は粗方の流れを直次に伝えた。複雑そうな表情で聞き入っている。徳川に仕える身として、暗殺という手段を取った者に思うところがあるのかもしれない。

「そう言えば件の刀は何処へ?」
「刀剣商に売った。確か玉川とか言ったか……中々の高値で売れた」

 その言葉に直次はぎょっと眼を見開いた。

「甚殿、それはっ!」
「安心しろ。兼臣にはもう<力>残っていない。今の兼臣は妖刀ではなくただの刀だ。それに玉川の主人はもう売る気はないそうだ。しばらく店に飾った後、適当な神社に奉納すると言っていた」
「そうなの、ですか?」
「ああ。玉川があの妖刀を売ったのだろう? 私から買い取ったのは、どうやら詫びのつもりらしい。あれで一本芯の通った男のようだ」

 安心したのか一つ息を吐き、しかし今度は暗い顔になった。

「しかし、妖刀……人の心を惑わす刀。世の中には恐ろしいものがあるのですね」

 その言葉を聞いて、甚夜の片眉が小さく上がった。

「何を言っている?」
「え? ですから、杉野殿は妖刀に囚われ妻を斬り殺してしまったのでしょう? それは恐ろしいことだと思っただけですが」

 不思議そうな表情を浮かべる直次に対し、ゆっくりと首を振ってみせる。


「それは違う。杉野は妖刀に囚われ凶行へ走った訳ではない」


 直次にとっては予想外の言葉だった。
 今回の件は妖刀が中心となっていると思っていただけに理解が追い付かない。

「夜刀守兼臣は真実妖刀だった。だがあの刀が有していた<力>は<飛刃>。斬撃を飛ばす、ただそれだけの<力>だ。人を操る、持つだけで誰かを斬りたくなる、そういった妖刀“らしい”ものではない」
「で、ですが実際、杉野殿は妻を」

 そう、杉野兵七は妻を殺した。それは間違いない。
 夜刀守兼臣を喰らった時、その情景もまた流れ込んできたのだ。





『あんた、なんで……』

『え、あ』

 手に入れた刀に浮かれ、その切れ味を試したいと思っていた。
 ただそれだけ、それだけだった筈なのに。
 なんで、あいつが血に塗れている?

『あん、た』

『違、血が、違う! 俺は、違う!』

 何が違う? お前が斬り殺した。
 お前は、再び手に入れることが出来た刀を振るいたかったのだろう?
 崩れ落ちそうな妻を抱きとめる。
でも刀を投げ捨てることは出来なかった。

ぬるり。

 不意に手を伸ばし触れた傷口。
 絡みつくような妖しげな手触りに酔いしれる。
 暖かく冷たい奇妙さが心地よい。
 皮膚の裂け目から覗く肉。

『おい、しっかり、しっかりしろよ! なんで、なんで俺……』

 この手には、一振りの、鈍い輝きが。

『あ…ああ……』

 女子の肌よりも艶かしい刃。
 鎬を伝い滴り落ちる血液。
 足元に転がるは妻の骸。

『俺が、殺した?』

 優美な夢想の中で握り締めた鮫肌の感触だけが現実だった。

『ち、違う! そ、そうだ、これは妖刀。斬ったのは、これが妖刀だったからだ。俺じゃない。俺じゃない! ……そうだ、俺は悪くない、この刀を持つと誰でも斬りたくなる! だから俺が悪いんじゃない!』

 今し方妻を斬ったばかりだというのに。
宵闇に在りて尚も眩い白刃を見れば心が浮き立つ。
 にたりと、愉悦に表情が歪んだ。

 だから気付く。
 ああ、私は。


『あいつを斬ったのは、この妖刀なんだっ!』


 ───妖刀に、心を奪われたのだ。




 だから妖刀のせいでないと分かる。

「直次。お前は刀剣の類の好事家だと言っていたが、集めた刀は飾るだけか? 業物を手に入れれば一度くらい使ってみたいと思うだろう」

 確かにそう思うこともあるし、実際巻き藁で試し切りくらいはする。
 そう考えて、甚夜が何を言いたいのか理解してしまった。嫌な答え。想像するだけでおぞましい話だ。

「それは、つまり」

 杉野平七は夜刀守兼臣という刀を手に入れた。
 それは人為的に造り上げられた妖刀。
 だからこそ妖刀に魅入られた杉野は妻を殺してしまったのだと思っていた。
 だがもし本当に、兼臣に人を惑わす力がないとするのなら。
 当然、妻を殺した時、杉野は自分の意思を持っていた筈だ。
 だとすれば彼は自分の意思をもって、

「あの男は手近に妻がいたから斬った。それだけだ」

 自身の妻で試し斬りをしたのだ。
 
「そんな……」
「だがそれに耐え切れず、刀に操られて殺したのだと思い込んだ。案外そこに畠山は付け込んだのかもしれん」

 杉野平七は斬るべきものを求めた。妻を斬ったのは妖刀のせいだと証明する為に。
 畠山憲保は武市端山という斬るべきもの、己にとって邪魔な存在を提示して見せた。杉野にとっては願ってもない話であり、畠山にとっても使い捨てに出来る手駒を手にすることが出来る。ある意味で二人の利害は一致していた。

「……杉野殿は、国のためを思って暗殺を企てたのではなく。斬る理由を欲して畠山殿に与した、ということですか」
「所詮想像だ。本当の所は分からん」
「いえ、正直納得できる話です。……認めたくはありませんが」
 
 もしこれが真実だとすれば皮肉な話だ。
 妖刀と呼ばれた太刀は夫が妻を想い鋳造した刀で。
 世の為にと語った男が人を血溜りへ駆り立てる。
 これではどちらが妖異なのか、分かったものではない。

「正邪に関わらず刀は刀。妖異は人心にこそ宿るものなのかもしれんな」

 ぼやくように甚夜が呟く。それを聞いてしばらくの間、直次は俯き肩を震わせていた。しかし顔を上げた時には、何かを決意したような精悍な表情をしていた。

「甚殿はよく生き方を曲げられないと仰っていましたね」

 そして力強く彼は言う。

「私もまた、生き方を決定しなければならないのかもしれません」

 甚夜はそれ以上何も聞かなかった
 直次はそれ以上何も言わなかった。
 だが言わなくとも分かる。彼の中に、一本の芯が通ったのだ。

 一月。
 未だ春の日差しは遠く、空には墨を流したような曇天が広がっていた。






 ◆
 

 数日後、一人の会津藩士が斬り合いの果てに命を落とした。
 その武士は土佐藩士に斬り掛かり返り討ちに在ったという話である。
 彼が何故いきなり斬り掛かったのか理由は分からない。
 ただ息絶える際、彼は泣き笑うような表情で言ったという。


 私は。

 ───妖刀に心を奪われたのだ。



 鬼人幻燈抄 幕末編『妖刀夜話~飛刃~』了
        次話『天邪鬼の理』







[36388]      『天邪鬼の理』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/04 13:37
 ……嘘だよ、これは。


 ◆


 文久三年(1863年)・七月。

「あー、腰が痛ぇ」

 黄昏を過ぎた頃。
 いつもと同じように蕎麦屋『喜兵衛』でかけ蕎麦を食べていた甚夜は、呻くようなその声に顔を上げた。
 見れば厨房に立つ店主が二度三度腰の辺りを叩いている。蕎麦屋は立ち仕事が主だ。既に五十を過ぎた店主には辛いものがあるのだろう、近頃は以前よりも体の不調を訴えることが増えていた。

「お父さん、大丈夫ですか?」

 気遣うように声をかけたのは、椿の簪で髪をまとめた十四、五の少女。細身ですらりとした立ち姿が印象的な喜兵衛の看板娘、名をおふうという。

「ああ、心配すんな。まだまだ大丈夫だ、っつ……」

 平気だと強がって見せてもやはり痛みは強いようだ。老いたとて体が衰えることのない甚夜には分からぬ苦しみだが、だからこそ気遣いの声を掛ける。
 
「少しは休んだらどうだ」
「いや、ですがね」
「どうせ他に客もいない、座るくらいはいいだろう」
「はぁ……すんません。そんじゃお言葉に甘えて」 

 納得はし切れていないようだが、おふうの心配そうな瞳を見て渋々ながらも頷く。そして厨房から出てきた店主は、かけ蕎麦を啜っている甚夜の近くの椅子に腰を下ろした。
 横目で盗み見れば店主の顔の皺は以前より随分と増えていて、それが時間の流れを否応なく理解させる。
 初めて会ったのは嘉永の頃。客が少ないという理由で選んだ店だったが、ここまで通い詰めることになるとは思ってもみなかった。相変わらず閑古鳥の鳴いている店内を見回せば、なにやら感慨深いものがある。

「もう十年近くなるか……お互い年を取ったな」
「四十を超えて腹が全く出てねぇ旦那が言っても説得力ないんですが」

 世間話のつもりだったが思いきり突っ込まれてしまった。
 だが店主の言うことも分かる。何せこの身は鬼。実年齢はともかく外見は未だ十八の頃を保っている。いつまでも若い姿でいられるというのは見る者が見れば羨ましく感じられるのかもしれない。自然に齢を重ねることが出来なくなった己を、本人がどう思うかは別にして、ではあるが。

「ちくしょう、なんか俺だけ歳をとっていくなぁ」

 何でもないぼやき。それを聞いて甚夜はじろりと店主を睨み付けた。何故睨まれたのか分からなかったようだが、おふうの方に目をやって気付いたらしい。彼女が浮かべていたのは泣き笑うような、複雑な表情だった。

 幸福の庭を抜け出した鬼女は、人と共に生きる道を選んだ。
 しかし鬼の寿命は千年以上あり、鬼女はいくら歳月を重ねても少女のまま生きる。
 店主は段々と老いる自分を嘆くが、おふうはどれだけ望もうとも老いていくことが出来ない。
 それは例えば、かつて自分を救ってくれた父が老衰し死を迎えたとしても、彼女は若い姿のままそれを眺め、そして父がいない日々を何百年と過ごさなければならないということだ。
 彼女の憂いはそう遠くない未来に避け得ぬ別れが訪れることを、それでも続いていく孤独な日々を予感しているからなのだろう。
 それに思い至り、店主はすぐさま弁解する。

「すまねぇおふう。無神経だった」
「分かっていますよ、お父さんがそんなことを言う人じゃないってくらい」

 笑って誤魔化したつもりなのだろう。しかし表情は昏く沈み込んでいる。それもまた鬼の性なのか、本当に嘘の付けない娘だった。

「馳走になった。勘定を」

 淀みかけた空気を振り払うように、甚夜は大げさに音を立てて丼を置く。その音に目を見開いた店主がこれ幸いと笑って見せた。

「へい、三十二文になります」

 初めの頃の倍近い値段にほんの少し眉が動く。それを見た店主は疲れたような笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。

「すんません。近頃は物価が高くて、今まで通りの値段じゃやってけないんですよ」

 嘉永の黒船来航を発端にした動乱は収まる気配を見せない。倒幕を巡る武士達の争いは激化する一方であり、江戸では物価が高騰、ここ最近町人達の暮らしはひどく圧迫されていた。
 それが分かっているから文句は言わず銭を払う。誰が悪いという訳でもない、責める気にはなれなかった。

「どうも。しかし相変わらず旦那は金払いがいいですねぇ。羨ましい限りで」
「最近はどうにも“仕事”が多くてな」
 
 それは決して良いことではないが。
 人心が乱れれば魔は跋扈するもの。江戸の民の不安は高まり、呼応するように鬼の起こす怪異も増えてきている。その為甚夜の元には引っ切り無しに討伐の依頼が舞い込んできているのが現状である。

「それじゃあ、今夜も?」
「ああ」

 おふうの問いかけに表情も変えず頷けば、手は無意識に刀へ向かう。それを見ていた彼女はすっと目を細め、心配そうな視線を送ってくれた。

「甚夜君は変わりませんね。……もう少し肩の力を抜いて生きることはできませんか?」
「生き方などそう変わるものではないし、元より変えるつもりもない」 

 相変わらずおふうは甚夜の在り方を憂い、いつも気にかけている。しかし甚夜もまた相変わらずで、自身の目的の為に力を求めていた。以前よりは余裕がでてきたと言っても結局生き方は変えられない。何とも儘ならぬものだと、甚夜は顔には出さず内心で自嘲した。

「本当、貴方は頑固です」
「悪いな、性分だ」

 いつも通りの遣り取りだった。
 彼女の出す、呆れたような、それでも優しいと感じられる声。いつものようにおふうは生き方を変えろと言ってくる。
 彼女は己の生き方を理解してくれはしなかったが、それを煩わしいと思ったことはなかった。おふうは彼女なりに慮ってくれている。年上ぶった彼女とのやり取りはそれなりに心地よく感じられた。

「気を付けてくださいね」
「ああ」
「油断したら駄目ですよ」
「分かっている」
「終わったらまた報告に来てください。寄り道もいけませんからね」
「……いい加減子供扱いは止めてほしいのだが」

 年齢的には彼女の方が遥かに上なのだが、見た目が十五、六の少女にこうまで心配されるというのはどうも違和感がある。いつものことではあるのだが、いつまでたってもこれには慣れなかった。

「そう心配するな。下手は打たん」

 逃げるように背を向けて店の外へ向かう。ように、も何も実際に逃げたのだ。純粋に己手を心配してくれる彼女の視線がむず痒かった。

「あ、もう、甚夜君は……。いってらっしゃい。ちゃんと帰ってきてくださいね」

 彼女はいつもそう言って、心配しながらも止めはせず見送ってくれる。
 柔らかな言葉を耳にしながらも振り返らずに、手を軽く振って応えそのまま暖簾をくぐった。
 何も特別なことはない。
 いつも通りの夜だった。




 鬼人幻燈抄 江戸編 『天邪鬼の理』




 いつも通りの夜だった。
 谷中の寺町には。随分前に住職が亡くなり、荒れ放題のまま放置された寺がある。
 瑞穂寺。遠い昔、訪れたことがある場所だった。
 曰く、この寺には鬼が住み着いたという。
 食人鬼。
 なんでも人を攫い食う鬼が此処に出入りしているらしい。目撃談も多数あり、中には子供を攫われた者もいる。そうして噂が流れ出るにつれ、事態を重く見た寺町の住職の一人が甚夜にこの食人鬼の退治を依頼した。これが此処に至った経緯である。
 
 以前も此処には人を喰う鬼がいた。ほとほと鬼と縁がある寺だ。いつかの記憶を辿るように、敷地へと足を踏み入れる。
 うらぶれた廃寺、ゆっくりと歩みを進める。そして本堂に辿り着いた瞬間、どろりとした鉄臭さが、硫黄のような刺激臭が鼻を突いた。死臭、血の香り。成程、確かにここで殺人が行われたのだろう。表情を引き締め、本堂の中心にいる影を睨み付ける。

『ゥゥゥゥ……』

 其処には人よりも遥かに大きい狐がいた。
白銀の毛が夜の闇の中でも一際眩しく輝いている。鋭く研ぎ澄まされた双眸、その瞳はやはり赤い。あれが件の鬼に相違ないだろう。

「お前が人を喰う鬼か」

 確認の意を込めて問うが、鬼は何も答えない。代わりに眼光を更に鋭く変え、瞬間、計六つの火球が宙に浮かぶ。
 問答無用、ということらしい。あの火球が鬼の<力>なのだろうか。視線は逸らさず夜来を抜き、脇構えをとる。
 燃え盛る炎を前にしても熱は感じない。本堂は七月だというのに何故か冷たい空気で満ちていた。睨み合う二体の鬼。互いに微動だにしない。温度がさらに下がった気がした。

『っぁあああああっ!』

 白銀の狐の甲高い声。
 燃え盛る火球がまずは二発。甚夜へ向かい一直線に襲い来る。それを大きく横に飛んで躱す。火球は直線にしか放てないようで、速度こそそれなりだが単調。避けるのは容易い。
 しかし単調な分だけ速射性には優れる。火球は気付けば倍以上中空に浮いており、鬼は雨あられと放つ。単調ではあるが此処まで連射されると近付くことも出来ない。
 繰り出される炎。その向こうでは白銀の狐が、必死の形相でこちらを睨んでいる。
 どうあっても近寄らせないつもりだ。休むことなく火球を放ち、甚夜は鬼の目論見通り距離を詰められないでいた。
 炎を紙一重で避ける訳にもいかない。どうしても大きく躱せねばならず、少しずつではあるが確実に体力を消耗している。このままの状況が続けばいずれは体力が尽き、その瞬間を鬼は見逃さないだろう。
 
「だが、悪いな」

 表情を変えないまま小さく呟く。
 確かに普通ならばこちらが負ける。
 ただ相手は勘違いしている。別に間合いの外から攻撃できるのはお前だけではない。
 一度足を止め上段に構える。
 息を吸い、平静に、ただ眼前の敵を見据え。
 ぎり、と音が聞こえる程に強く柄を握り締め、狙うは喉元、一太刀で終わらせる。

<飛刃>

 斬撃を飛ばす<力>。
 高々と掲げた刀を袈裟掛けに振り抜く。傍目にはただ空振りしたように見える。だが振り抜いた瞬間、風を裂く音と共に周りの空気とは密度の違う透明な斬撃が刃から放たれた。
 驚愕に鬼が止まる。しかし斬撃は止まらない。それは鬼の火球の間を縫うように進み、正確に咽喉を捉える。

『アぐぅ………』
 
 肉を裂く音がやけにはっきりと聞こえた。
 まさか刀を振るうことで間合いの外から攻撃してくるなど予想していなかったのだろう。銀色の狐は無防備にそれを受け、本堂に血飛沫が舞った。それで終わり。苦悶の声を漏らしながら、倒れることはしないもののもう動くことは出来ないようだった。随分と呆気ない。そう思ったが、しかし何か罠を張っているようにも見えない。最低限の警戒は怠らないように一歩ずつ近付いていく。

「名を聞いておこう」

 距離を詰めながら鬼に問う。やはり動けないらしく、相手は棒立ちの状態でなんとか掠れた声を絞り出した。

『夕、凪……』
 
 名を刻む。また斬り捨てものが増えた。それを嘆き、しかしこの生き方を変えることも出来ない。儘ならぬものだ。自嘲をしながらも表情は変えず、傍まで近寄り徐に左腕を伸ばす。

「そうか。さらばだ夕凪。お前の<力>、私が喰らおう」

 夕凪に触れる。
 どくり。
 心臓のように鳴動する左腕。

<同化>

 それは文字通り他者と同化する<力>。鬼を喰らいその<力>を我がものとする異形の腕。随分と慣れてしまったせいか、今では<鬼>に為らずとも使えるようになった。
 どくり。
 夕凪が左腕を通って自身と繋がっている。
 記憶が流れ込み、血管を通り全身に何かが巡っている。
<同化>は他の生物を内に取り込み己の一部へと変える。
 それ故に、喰らわれる者の記憶や知識に多少なりとも触れてしまう。
 夕凪の記憶が、断片的にだが左腕から伝わってくる。
 
 いつまで経っても慣れない感覚だ。
 相手の内をのぞき見るようで気分が悪い。それに意識が混濁する。今日は普段より更に酷く、まるで酔っぱらってしまったように目の前が歪んでいる。

「自分を喰らう鬼……助けに来てくれたと思った、でも助けてくれなかった」

 細切れの記憶が脳裏に浮かんでは消える。
 しばらくすると段々とそれも治まってきた。<同化>した異物が体に馴染み、安定してきたのだ。
 けれど頭の中がぐるぐると廻っている。
 
「一人。子供が、嫌い? しかし、それは」

 何か大きなものが入り込んだ。
 そして流れ込む記憶が止まり、一際大きく世界が歪む。


 ほぎゃあ、ほぎゃあ。


 何処か遠く。
 赤ん坊の声が聞こえた。







 ◆







「おや、旦那。らっしゃい」

 いつも通りの夜が明けた。
 鬼を退治した翌日、いつものように甚夜が喜兵衛を訪れると、やはりいつもの通り見知った顔があった。

「どうも、甚殿」

 軽く頭を下げて挨拶をしたのは糊のきいた小袖を纏った、生真面目そうな武士だった。
 今では随分と付き合の長い友人となった三浦直次は、既に食事を取り終えたようでのんびりと茶などを啜っている。今年で二十八となった彼は、嫁を貰っても相変わらずこの店を訪れている。もっとも彼は江戸城に登城する祐筆、今日のように昼食時にいるのは珍しい。

「今日は休みか」
「ええ。ですからここで息抜きをしています」
「きぬ殿を放っておいて、か?」
「誘ったのですが、遠慮すると」

 助かった、と思ってしまったのは秘密にしておく。直次の妻である“きぬ”はどうも苦手だ。何を話せばいいのか分からない。
 直次もそれを知っており、だから苦笑いを浮かべた。普段から折り目の付いた所作をする彼は、喜兵衛ではこういった素直な表情を見せる。彼にとってもこの店は存外居心地がい場所なのだろう。昼下がりは何時になく穏やかだった。

「お帰りなさい」

 そしていつものように、おふうがゆったりとした笑みを湛えながら近寄ってくる。
 彼女はどうにも心配性だ。鬼との戦いなど幾度も重ねているというのに、それでも安心はしてくれない。そして帰ってくれば今日のように、本当に嬉しそうな笑顔で迎えてくれる。それが少しむず痒く、それが少し心を落ち着けてくれた。

「どこかお怪我はありませんか?」
「見ての通り無傷だ」
「はは、聞かずとも真面な戦いならば甚殿が後れを取ることなどないでしょう」
「それは、甚夜君が強いことは知っていますけど。でも、あんまり危ないことはしないでくださいね? 貴方を心配している人だっているんですから」

 そういうことを言う彼女の表情は、見た目こそ少女ではあるが母性さえ感じさせる暖かなものだった。年齢的に言えば、母どころか老婆と言ってもいいのだが。無論本人には言わないが。

「確かに。それはそうですね。あまり細君を心配させるものではありません」

 直次は意味ありげに含み笑いをしながら、視線を横に流した。

「……そうですね。私以上に、心配していたんですから」

 何故か濁った言葉でおふうも同じ方向に目をやった。彼らが何を言っているのかがよく分からず視線を追う。
 その先には、

「もっと言ってやって。この人は女を気遣うなんて器用なことできやしないんだから」

 いつも通り、赤子を抱いた女が座っていた。
 年若い女。歳の頃は十八かそこらというところだろう。細面の大人びた雰囲気の女だった。
 襟元がゆったりとした、金糸の入った赤い派手な着物を着崩している。黒髪を櫛三枚で纏め、小さい簪の前ざしが六本。その着物も相まって古い時代の遊女を思わせた。おふうよりも小柄で線が細い。その肌は病的に思える程に白かった。
 赤子をあやすように時々体を揺らし、しかしその表情は甚夜に負けないくらいの仏頂面である。面倒くさい、というのを隠しもしない表情。それでも腕の中の赤子は機嫌がよくなったらしく無邪気に笑っている。
 それもいつも通りの光景だった。

「夕凪さんも大変ですね」
「ほんと、気の利かない旦那を持つとね」
「でも、少し羨ましいです。甚夜君はあれで優しいですし、やっぱり子供は可愛いですから」
「それならあげるよ? 私は元々子供が嫌いだし」
「そんなこと言っちゃ駄目ですよ」
「はいはい、おふうは本当いちいち五月蠅いんだから」

 つん、と指先でおふうが赤子の頬をつつく。実に穏やかな表情だった。
 だが女の方は相変わらず仏頂面で、にも拘らず手つきは優しく、慈しむように触れている。
 傍目には女同士の和やかな語り合い。
 微笑ましくも見えるのだが、今はそれよりも気になることがある。

「夕、凪……?」

 おふうが口にした彼女の名は何処かで聞いたことがあった。何時聞いた? 靄がかかったような思考。いつも通りの光景に違和感を覚えるのは何故だろう。呆然と二人を、正確には夕凪を眺める。その視線に気付き、彼女は小首を傾げた。

「どうしたの、“あなた”?」

 くらりと頭が揺れた。
 あなた。そう、か。私は彼女───夕凪と夫婦だった。夫婦になったのだ。しかし、それはいつだったか。違和感。朧に揺らめく。足元が覚束ない。動揺。失くした何か。いつか夢見た。誰かと夫婦になる。「だって甚太は私と同じだから」そうだ。遠い昔に思っていた。惚れた女と夫婦になり、緩やかに日々を過ごすのは幸福だと。確かにこれは私が望んだことで。

「……ああ、済まない。少し呆けていた」

 無意識にそう答えていた、まるで何かから逃げるように。顔を少し俯かせれば、夕凪の腕に抱かれた赤子と目線があった。生後一年程だろうか、甚夜を見た瞬間、垂れた眦を更に緩ませて笑う。

「この子は……」
「本当に、どうしたの? あなたの娘でしょう」

 言われて思い出す。そうだ、この子は己の娘だ。
 名前は、

「そろそろ、名前を付けてあげないとね。私はそういうの苦手だから、あなたが考えて」

 まだ、決めていなかった。だから名を知らぬのは当然のこと。何もおかしくはない。

「ん、ああ」

 歯切れ悪く返すと、夕凪は怪訝そうに上目遣いで顔を覗き込む。大人びた雰囲気とはいえ、まだ少女の域を出ない顔立ち。其処にはほんの少しの不安が見て取れた。
 だから笑う。
 己が夫だというのなら、妻の不安を和らげるのもまた務めだろう。そう思い、ぎこちないながらも夕凪に笑いかける。

「ほんと、どうしたんだい? 何か変だよ」
「いや、別に」
「ふうん」

 納得はしていない目だ。いつも彼女は聞きたいことがあっても無理に聞こうとはしなかった。気が強いように見えて、本当は臆病な女の子だった。
 ああ……でも。彼女というのは、夕凪のことだったろうか。

「気にするな。大したことではない」

 何故かそれ以上は考えたくなくて、思考を断ち切るようにそう言った。違和感があったせいだろう、夕凪の疑いの目は更に深くなった。

「どうだか。あなたは隠し事が多いから信用できない」
「夕凪……」

 困ったような表情を浮かべる。それが面白かったのか、目の前にいる妻はくすりと笑った。

「ふふっ、嘘だよ」

 その笑顔はいつか見たような、初めて見るような。
 ゆらゆらと不思議な感覚に思考が揺蕩っている。
 けれど暖かく思えたのも事実だった。

「そもそも、最初から心配なんてしてないしね」

 言いながらも気遣わしげな視線を送ってくれる。夕凪は確かに甚夜を心配していた。それに違和を覚え、しかし思い直す。妻が夫を慮るのは当然だ。ならば何故そんなことに疑問を抱くのか。

「刀一本で鬼を討つ旦那も女房にゃ敵いませんか」

 普段鉄面皮の甚夜が少なからず動揺した。その理由が妻とのやり取りにあると勘違いした店主は、心底面白がっている。

「そのようですね」

 直次も同じような態度だ。二人はこの状況が常日頃のとして受け入れている。当然だ、これはありふれた日常の一端に過ぎない。ならば疑う方がどうかしている。なのに、違和感が拭い去れない
 
「……甚夜君?」

 まだ少し戸惑っていると、おふうが不思議そうに声を掛けた。

「どうかしましたか?」
「ああ、いや」

 おふうは普段との様子の違いから心配してくれている。しかしそれだけ。彼女もまた“いつも通り”甚夜を心配してくれているに過ぎない。
 だからこの戸惑いを上手く言葉に出来なかった。彼女もまた現状を是としている。ならば疑問をぶつけた所で答えは返ってこない。

「旦那は最近連日鬼退治に行ってましたからねぇ。疲れがたまっているんじゃないですか?」
「そうですね。甚殿、今日くらいは体を休めてはどうでしょう」

 男二人でにやにやと随分楽しそうだ。
 その視線の先には夕凪がいる。彼らは言外に「家族水入らずで過ごしたらどうだ」と言っているのだ。

「いや、それは」
「駄目ですよ、甚夜君。ちゃんと奥様を大切にしてあげないと」
「おふうまで……」

 味方は何処にもいないらしい。溜息を吐いて夕凪を見れば、妻もからかうような笑みを浮かべている。

「いいじゃないか、偶にはのんびり過ごそうよ」

 だからもう一度溜息を吐く。
 それでもやはり、何故か暖かくて、堪えきれず口元が緩んだ。


 そうして今日も始まる。
 何も特別なことはない。
 いつも通りの一日だ。



[36388]      『天邪鬼の理』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/07 10:35
 

 昔々のことです。

 お婆さんが川で洗濯をしていると川上から瓜が流れてきました。お婆さんは瓜を拾い家に持ち帰ります。それをお爺さんが割ってみると中から可愛い女の子が生まれました。瓜から生まれたので瓜子姫と名付け大事に育てているうちに大きくなり、機織をしてお爺さんとお婆さんを助けるようになったそうです。

 或る時、お爺さんとお婆さんが出かけて留守の間に、瓜子姫はいつもどおりに機を織っていたところ、天邪鬼が現れ、瓜子姫をだまして家の中に入ってきました。

 鬼は嘘を吐かない。
 けれど天邪鬼は嘘を吐く鬼だったのです。

 そして包丁とまな板を持ってこさせると、瓜子姫の皮をはいで、肉を切り刻んで食べてしまいます。痕には指と血だけを残し、自分は皮をかぶって瓜子姫になりすまし、お爺さんたちが帰ってくると、指は芋、血は酒だと偽って食わせてしまいました。

 こうして天邪鬼は瓜子姫として日々を過ごします。

 そのうち瓜子姫を嫁にしたいという長者が現れました。
 瓜子姫に化けた天邪鬼が馬に乗ってゆくと烏が、


「瓜子姫の乗り物に天邪鬼が乗った」


 と鳴くではありませんか。
 長者の家に着いた天邪鬼が顔を洗うと化けの皮がはがれ、もとの天邪鬼になってしまいます。長者に正体がばれてしまった天邪鬼は山の中に逃げていきます。その後の天邪鬼はようとして知れません。
 これが古く伝わる「あまのじゃくとうりこひめ」のお話です。


 大和流魂記 『天邪鬼と瓜子姫』




 ◆



 蕎麦を啜る。
 夕凪はもう食事を終えていたようで、子供を抱いたまま何をするでもなくただ隣に座っていた。甚夜が食べているのはいつも通りかけ蕎麦である。

「しかし、なぁ。旦那はおふうと一緒になってうちを継いでくれるもんだと思ってたんですが」
「お父さん!?」

 思わず箸が止まる。
 流石に表情が強張った。妻が隣にいるというのに、一体何を言い出すのか。

「へえ、そうなの?」

 横目でちらりと覗き見た夕凪は店主が降った話題に平然と乗っかってくる。その顔は、悪戯小僧の笑みとでも言うのか、実に面白そうだった。

「その為に蕎麦造りを仕込んだり俺なりに色々やってきたんですがねえ。おふうも結構積極的に二人で過ごそうとしてたんですが……」
「違います! 花のことを教えてただけでっ」
「おふう、そんなに慌てると逆に怪しいよ?」

 わやわやと言い合う三人を余所に只管無言で蕎麦を啜る。話に参加してはいけない。何となくそんなことを思った。

「嬢ちゃん、実際の所この鉄みたいに頑固な旦那をどうやって陥としたんで?」

 その一言で視線が甚夜に集中する。出来れば無関係のまま居させてほしかったのがそうはいかないらしい。

「さぁ、付き合い長いからじゃないかな」

 遠い目をしながら夕凪は語る。

「では甚殿とは以前からの知り合いだったのですか?」

 直次が問うと悪戯っぽい笑顔を浮かべて頷いた。

「私達は元々幼馴染でね。故郷に流れる川を一望できる小高い丘で、私の方から告白したの。いつか、私をお嫁さんにしてって。それが本当になるとは思っていなかったけど」
「そうだったんですか……いいですね、そういうの。少し憧れてしまいます」

 待て。
 それは何の話だ。

「かぁ……付き合いの長さ。そいつは確かに有利ですね」
「故郷というのは、葛野でしたか」
「うん。昔は同じ家に住んでたんだよ。しばらくして別々に住むようになったけどさ」
「じゃあ、甚夜君の小さい頃も知っているんですか?」
「勿論。昔からこの人は頑固でね。生き方は曲げられない、ってのがほとんど口癖だったよ」
「ははっ、甚殿らしい」

 ああ、そうだ。
 私は最後の最後に己の想いではなく己の生き方を選ぶ。
 そういう男だ。
 だけど、それは。
 
「甚夜君は昔から不器用だったんですね。夕凪さんも大変だったでしょう?」
「そりゃあね。でも嫌いじゃなかったよ。だからずっと一緒にいたんだ。それに」

 一瞬の空白。
 そして柔らかな笑みと共に夕凪は言う。

「この人は私がいないと何にも出来ないんだから」

 心臓が一際大きく跳ねた。
 だから待て。
 お前は、何を、言っているのか───

「まあ、全部嘘なんだけどね」

 焦げた胸の内に水をかけられた気分だった。遠い目をしていた夕凪はいつの間にかにまにまと意地の悪い笑顔を浮かべており、ぺろりと舌を出してそんな言葉で締めくくる。

「……へ?」

 間抜けな声を店主があげた。他の者も彼女の雰囲気の変化があまりにも唐突過ぎて理解が追い付いていないようだ。そんな中で夕凪一人が実に楽しそうだった。

「嘘、全部嘘だよ。男女の話を突っ込んで聞くのは野暮って話さ」

 だから嘘で誤魔化した。そう言いたいのだろう。しかしお前が語ったことは。

「さ、そろそろ行こうか?」

 夕凪は腕の中の赤子を一度二度あやすように揺すり席を立った

「……ああ」

 聞きたいことは色々あった。それでも幼い娘を抱いてゆったりと笑う彼女が眩しく見えて、甚夜は口を噤んだ。疑問を口にすれば何が壊れてしまうような気がした。
 そうして甚夜と夕凪は暖簾を潜る。
 親子三人並んで店を出る。
 いつも通りの光景。
 不意に視線を向ければ隣にいる妻が穏やかに笑う。
 多少の引っ掛かりはある。それでも心地よいと思える距離感だった。
 


 なのに、何故かそれが寂しい。



 ◆


「新刊では大和流魂記や心中天目草子なんかが人気ですよ」

 七月の空。雲一つなく広がる青。息を吸えば熱せられた空気が肺に満ちて、横たわる夏の重苦しさを強く意識させた。
 周囲の思惑通りに事が運び、結局親子三人で出かけることとなった。
 しかし家族水入らずで過ごすと言っても別段行きたい場所がある訳でもない。
 歌舞伎や落語を見に行くにも赤子を連れては入れないし、食事も既に終えている。結局特に目的もなく江戸の町を歩くのがせいぜいだった。それでも夕凪は楽しいのか、微妙に口元を綻ばせていた。

 その途中、何気なく立ち寄った貸本屋で夕凪は流行の読本を物色している。彼女がそうしている間は甚夜が娘を抱いて、店の前で待っていた。
 ふにゃりと柔らかい肌、首もまだ座っていない。生まれて間もない赤子は直ぐに壊れてしまいそうだ。そのせいで肩には必要以上に力が入っており、緊張して突っ立っている甚夜の姿は傍から見れば相当に滑稽だろう。事実、貸本屋にいた数人の客、それも女性客がくすくすと笑っていた。何ともいたたまれない状況だった。

「それはどんなの?」
「大和流魂記は鬼に纏わる怪異譚を集めたものですよ。『天邪鬼と瓜子姫』や『寺町の隠行鬼』など講談になっていないような地味な話まで載っているから読む人は多いですね。心中天目草子は名前を聞くと心中ものようですが、内容は妻に先立たれた男の苦悩に焦点を当てた読本です」
「ふうん、どうでもいいけど夫婦に進める話じゃないね」
「ごもっとも。他には……」

 夕凪はまだ貸本屋の店主から話を聞いていた。
 貸本屋とはその名の通り本を借りることのできる店である。紙や製本した和本は高価で、町人にはなかなか手が出ないものだった。そのため草双紙、読本、洒落本などを貸し出す貸本屋という生業が生まれ、江戸に住む庶民の手軽な娯楽として親しまれている。

「うん、詳しくありがと。でも今日は行くところがあるからまた借りに来るわ」
「左様ですか。よろしくお願いします」

 店主の話に満足がいったらしく、ようやく話が終わったようだ。店主は営業用の笑顔で深々とお辞儀をした。そうして店から出てきた夕凪の表情は晴れやかなものだった。当然、行くところなんてなかった。

「お待たせ」
「いや」

 子供を差し渡そうとすると少し顔を顰めた。
 それを疑問に思い目を細めると、唇をとがらせて夕凪は言う。

「私は子供が……この子が嫌いなんだよ」

 幼い娘から目を背け、ふうと溜息を吐いた。心底面倒くさいとでも言いたげである。

「ま、でも仕方ないか。あなたに任せきりって訳にもいかないしね」

 そう言って結局は娘を抱き、二人は並んで江戸の町を歩き始めた。言葉の割に夕凪の手つきは柔らかく、娘も気持ちよさそうにしている。やはり男親に抱かれているよりも嬉しいのだろうか。しかし肝心の夕凪の顔は不機嫌なままだった。

「何故嫌う。お前の娘だろう」
「違うよ。だって、この娘は元々捨て子なんだから。腹を痛めて産んだ子供じゃないんだ。愛着なんてわかないさ」
「捨て子……」

 言われてみれば、そうだったような気もする。だが深く考えようとすると頭が痛む。だから考えるのは止めた。どうせ考えた所で答えは出ないだろう。

「なら何故」
「そんなことより、何処かで休もうか? ちょっと疲れたし」

 拾ったのだ。そう聞こうとすれば誤魔化すように夕凪は近くの茶屋へ向かう。その足取りは軽い。とてもではないが疲れているようには見えなかった。

「お茶二つと団子一皿、ああ、磯辺餅があるんならそれも」

 夕凪は手早く茶を注文して、店の前に在る長椅子に座って寛いでいる。全く勝手なものだ。思いながら憮然とした表情で甚夜も彼女に倣い腰を下ろした。

「不機嫌だね」

 平然とした様子。夕凪はくすくすと悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。

「別に腹を立てている訳ではない。ただお前の真意が掴めない。……お前は嘘ばかりを言う」
「女は元々嘘吐きなんだよ」

 その嘘とは何を指す?
 問い詰めたいと思い、しかし言葉にはならない。彼女に違和感を覚えると同時に、自分自身にも違和感がある。何故己は彼女に決定的な問いを投げかけないのか。それが分からなかった。

「ありがと、磯辺餅はこの人に」

 しばらくして運ばれてきた磯辺餅と茶が甚夜に渡される。磯辺餅は蕎麦以上の好物だった。

「よく知っていたな」
「なに言ってるんだい、あんたが教えてくれたんだろう? タタラ場の育ちで子供の頃は餅なんて滅多に食べれなかった、好物はと聞かれれば蕎麦よりも磯辺餅だって」

 ああ、そうか。
 確かそんな話をしたこともあった。でも、夕凪にしただろうか。

「じゃあ、食べようか?」

 夕凪という女は分からないことだらけだ。
 何処かで聞いたような過去を語り、それを嘘と呼び。
 子供が嫌いと言いながら捨て子を拾い。
 何よりも、己を夫として扱う。
 彼女の何が真実で何が嘘なのか、甚夜はそれを計りかねていた。
 それでも、一つだけ分かることがある。

『夕凪が嘘を吐くのはおかしい』

 それだけは間違いない。彼女は嘘を吐かない筈なのだ。
 何故ならば、彼女は────
 
「お前は……」

 ほぎゃあ、ほぎゃあ。

 お前は、一体、誰だ?
 無意識に問おうとしていた。
 しかし口に出そうとした瞬間、遠く聞こえてくる泣き声に、言葉を掻き消された。見れば夕凪の腕の中で赤子がぐずり始めていた。

「ああもう、仕方ないね。本当にこの娘は面倒くさい」

 呆れたような、だが優しさに満ちた声だ。ほんの一瞬だけ見せた表情。夕凪の横顔は柔らかく、目尻はこちらが微笑ましく感じるくらい垂れ下がっていた。
 体をゆすり泣く子供をあやす夕凪の姿。それを美しく感じ、だからこそ思う。
 彼女が何者かは分からない。
 自分の妻だというのに、どんなに考えても分からなかった。
 それでも、確かなことはある。

 例え何者であったとしても、彼女は、夕凪は間違いなくこの娘の母親なのだ。
 ほんの僅かに漏れた彼女の笑みがそう信じさせてくれた。

「なにか言ったかい?」

 不思議そうに言った夕凪へ向かって首を振り、何でもないと示す。

「それならいいんだけど」
「ああ、気にしなくていい。さて、十分に休んだ。次は何処に行くか」
「別に特別な所に行く必要はないだろ? 町をぶらぶら歩くだけでも私は十分楽しいし」
「それでいいのか?」
「うん。こんな機会はめったにないんだからのんびりしようよ、家族水入らずでさ」
「そうだな、そうするか」

 疑念はいつの間にか消えていた。代わりに気安い、本当の家族のような暖かさが感じられた。だから自然、甚夜も笑みを浮かべる。そう言えば昔、こんな景色に憧れた頃もあった。それはいつのことだったろう。

「そろそろこの娘に名前を付けてやらなきゃ。ねえ、あなた?」
「ああ……どういう名前がいいか」

 名前は一生のものだ。よく考えてつけてやらねば娘が可哀想だ。難しい問題に頭を悩ませ、それさえ心地よく感じる。不思議な暖かさ。今まで知らなかった感覚。奇妙な、それでいて緩やかな流れに浸っている気分だった。

「ま、それはあなたに任せるよ」

 向けられた笑顔に思う 。
 もう少しこのままでもいいのかもしれない。
 本当に、そう思った。


 






 ああ、それなのに。
 懐かしい声が聞こえる。



『結局、私達は。曲げられない“自分”に振られたんだね』



 笑顔の向こうにはいつかの景色。
 胸に宿る想い。
 その暖かさに何故か、遠い別れを幻視した。




[36388]      『天邪鬼の理』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/25 01:50
「……こうして、正体がばれてしまった天邪鬼は、森の中に逃げていったとさ。はい、おしまい」
 
 茶屋で雑談を交わしている途中、先程貸本屋で見ていた書物に話題が移った。ぱらぱらと読む程度だが夕凪は目を通していたらしく、それに記されていた『天邪鬼と瓜子姫』という話を語ってくれた。
 と言っても甚夜自身も知っている話である。天邪鬼の話は割合有名な怪異譚だ。この天邪鬼と瓜子姫の物語には様々な形があるのだが、甚夜が知っているものも夕凪のそれとほぼ同じだった。

「しかし不思議な話だな」
「なにが? こう言ったら何だけど、よくある怪談だよ」

 瓜から生まれた娘が鬼に殺される。
 桃太郎やかぐや姫に代表される異常生誕、鬼の犠牲になる力なき民。物語の命題としては然程珍しくはない。

「だが瓜子姫は何故天邪鬼に喰われるのか。その理由が分からない」
「それを言ったら何で瓜から子供が生まれてくるのか、なんで鬼がいるのかって話になると思うけど」

 む、と思わずうなってしまった。
 確かにそうかもしれない。説話というものは大抵の場合脈絡のない話である。そこに突っ込みを入れる方が無粋だ。確かにそう思うのだが、自分の正体を顧みれば多くの説話における鬼の扱いには正直不満がある。なんというか、鬼というだけで悪役にされてしまっている気がする。そういうものだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

「ま、でも瓜子姫が殺された理由ならなんとなく分かるね」

 何処か悪戯っぽい笑顔を浮かべて夕凪が言った。

「この話に出てくる鬼はさ、瓜子姫をお爺さんとお婆さんに食わせちまうだろう? だったらそいつは瓜子姫を“食おう”と考えてた訳じゃない。天邪鬼は瓜子姫を殺して“入れ替わろう”としたんだ」
「ふむ、つまり」
「簡単だよ、天邪鬼は“自分が嫁入りしよう”と思ったのさ。多分こいつ女だね。玉の輿に乗る瓜子姫に嫉妬して入れ替わろうと考えたんだよ」
「真面目に聞いた私が馬鹿だった」
「あれ? 私は結構、的を射てると思ったんだけど」
「それも嘘だろう?」
「いやまあ、そうだけどさ」

 本人も単なる冗談のつもりだったのか、甚夜の全く取り合おうとしない態度にも然程気分を害した様子はなかった。
 会話が途切れると、自然に夕凪の目は腕の中の赤子へ向かう。嫌いといいながらも見つめる目は優しく、やはり彼女は母なのだと思える。

「……天邪鬼、だな」

 ぽつりと呟けば不思議そうに夕凪がこちらを見る。そして思い出したように「私は子供が嫌いなんだ」と付け加えた。
 そういうところが天邪鬼だと言っているのだ。甚夜は落すように笑い、湯呑に残った煎茶を飲み干す。それを見て夕凪はふうと一息吐くとゆっくり腰を上げる。

「そろそろ行こうか?」
「そうだな」

 二人は茶屋を後にした。日が落ちるまではまだ時間がある。もう少し町を巡ろう。
そんなことを考えながら、ふと昔を思い出す。そう言えば以前もこうやって何をするでもなくただ二人歩いたことがあった。
 胸をよぎる懐かしさ。
 陽だまりのような暖かさ。
 心地よいと思う。しかし違和感は拭えず、隣で歩く妻に目を向けた。
 そこにはやはり悪戯っぽく笑う女がいる。




「あ、可愛いね、これ」

 途中で寄った商家は簪や小物を取り扱っており、店先には様々な商品が陳列されていた。夕凪は赤子を甚夜に預け、根付を一つ手に取ってしげしげと眺めている。

「福良雀か」

 彼女が手にしたのはでっぷりと肥えた雀の根付だ。確かに愛嬌のある造形をしているが、可愛いとは思えなかった。作品の出来がどうこうではなく、甚夜にとって福良雀はどこぞの男が扱う武器のようなものだからだ。

「知ってるかい? 雀はね、蛤になるんだよ」
「何だそれは」
「まあ嘘だけど」

 前言を簡単に翻しておきながら、夕凪は楽しそうに笑う。その様に呆れ思わずため息を零す。

「お前は……」
「そんな顔することないじゃないか」

 何気ない遣り取り、苛立ちはない。
 寧ろ幸せと感じ、なのにどうしても違うと思ってしまう。
 湧き上がる疑念。そこまで考えて甚夜は首を振った。いや、疑念など既にない。本当は理由などもう分かっているのだ。こんなにも幸せなのに、寂しいと思ってしまう。その理由を、理解してしまった。

 だから、空を見上げた。
 夕暮れが近付いている。そろそろ今日は終わろうとしていた。


 ◆


 大通りを二人並んで歩く。妻の腕の中ですやすやと眠る娘。ありきたりな家族の肖像。だがそれも悪くないと思えた。当てもなく歩く。それだけで心安らかになれるならば、己は確かに幸福を感じているのだろう。
 
 通りに在る店を冷やかし、妻にからかわれ苦笑し、娘の眠る姿に安堵を覚え。

 そこに在るのは当たり前の幸せの形。既に甚夜の歳は四十一。もしも真っ当に年老いていくことが出来たならば、或いはこんな風に過ごす未来もあったのかもしれない。結局、そんな生き方は出来なかったが、遠い昔憧れたこともあった。去来するのは懐かしい記憶。今も尚忘れ得ぬ原初の想い。

 見上げた先、溶けるように日は落ちて、辺りは橙色に染まっていた。
一面の空。澄み渡り、雲一つない。風のない夕暮れの景色。遠くを見通せば夏の色。透き通るように穏やかな空では、美しい夕日が滲んでいた。
 けれど夕暮れの色は何処か曖昧で、綺麗だと思うのに少しだけ不安になる。もうしばらくすれば空で揺らめき滲む夕日は完全に落ちて夜が訪れる。それを知っているから、夕暮れは寂しく見えるのだろう。

「夕凪だね」

 空を眺めながら、夕凪は目を細めた。その言葉の意味を理解できず、不意に彼女を見やればくすくすと笑う。

「海辺ではね、天気のいい昼には海風が、夜には陸風が吹く。だから海風が陸風へ切り替わる時の、ほんの少しの時間だけ風が止んで、海は波のない穏やかな顔になるの」

 夕凪が浮かべたのは今まで見せてきた悪戯っぽい笑みではなく、何処か柔らかな、母性を感じさせる微笑だった。

「それが夕凪。あ、これは嘘じゃないよ」

 紡ぐ言葉は唄うように。心地好く染み渡る声を聴きながら、甚夜もまた空を眺めた。

「この空を見たら思い出したんだ。夕凪の海は鏡みたいに澄み渡って、本当に綺麗なんだ。いつかまた見たいなぁ……出来ればあなたと一緒に」
 
 風がなく雲の流れない夕暮れの空に夕凪を重ねたのだろう。妻の瞳は柔らかく、昔を懐かしむように潤んでいた。

「泣いているのか」
「夕日が目に染みただけ」
 
 また嘘だ。だが態々問い質したりはしない。そんなくだらないことでこの穏やかさが消えるのは勿体無い。もう少しだけ、夕凪の時間に浸っていたかった。

「夕凪の空、か。なら夕暮れはお前の時間だな」
「なんだい、それ。意外に恥ずかしいことを言うね」

 苦笑が漏れた。我ながら似合わないことを言ってしまった。お互い笑いを噛み殺しながら歩けば、しばらくして玉川の河川敷に辿り着く。周りを見回しても人はいない。そこには静かに流れる川の音と、夕日にあたり朱に染まる小さな花があった。

「へぇ、綺麗だね……」

 薄紅、白、黄。一株ごとに色違いの花をつけたそれは、風のない夕暮れに穏やかな風情を添えている。郷愁に似た暖かさを覚え、二人は花が群生する土手に足を踏み入れた。

「白粉花だな。夕化粧(ゆうげしょう)や野茉莉(のまつり)という別名もある。夏から秋にかけて咲く花だ」
「おしろいばな……? 黄色や赤もあるけど?」
「この花の種子の皮の中には白い粉が入っている。それを使って子供が化粧遊びをしたことから『白粉花』と呼ばれるようになったそうだ。そして白粉花は、何故か夕方から花を咲かせ始める」
「随分詳しいじゃないか」
「受け売りだ」

 誰からの、かは言わない。流石にここで他の女の名前を出すほど無粋ではない。

「でも不思議な花だね。夕方から咲き始めるなんて」
「ああ。何故かはよく分かっていないらしい」
「案外、目立ちたがり屋だったり」
「そう、かもな」

 冗談のような言葉を交わし合う。その間にもゆっくりと日は沈んでいく。この穏やかな夕暮れも終わりが見えた。
 だから、そろそろ、ちゃんと終わらせないと。

「夕凪、今日は楽しかった」

 話の流れを無視して甚夜は言った。

「なんだい急に」
「いや、素直な気持ちだ」
「そんな仏頂面で言われてもねぇ」
「それは許せ。だが嘘はついていない」

 そうだ。嘘ではない。今日は楽しかった。胸に宿る違和感は最後まで拭い去れなかったが、それでも間違いなく楽しかったと言える。
 妻と娘。家族と一緒に江戸の町を冷かして、穏やかな夕暮れを見詰めながら家路を辿る。そんな平凡な一日。それが甚夜にはどうしようもないくらい幸せだと思えた。

「昔、な。こんな景色を夢見ていた頃があった。惚れた女と夫婦になって緩やかに年老いていく。そうあれたら、どれだけ幸せだろうと。そんなふうに考えた」

 結局、生き方を変えることは出来なかったが。
 突然の独白。しかし夕凪は何も言わずただ耳を傾けてくれた。

「……なあ、私の名前を呼んでくれないか?」
 
 夕凪に穏やかな口調で語りかける。思えば彼女は今日一日甚夜を『あなた』と呼んでいた。だが知らなくてはならない。彼女が、己をなんと呼ぶのかを。
 一瞬の空白。
 横たわる沈黙。
 耐えかねたのか、おずおずと夕凪が口を開いた。

「……甚太。これでいいのかい」

 ほんの少し、眉を顰める。
 しかし急に話題を変えても夕凪はちゃんと返してくれた。その答えに、胸が締め付けられる。表情にこそ出さないが、何気なく彼女が口にした己の名が想像以上に己を打ちのめした。
 そんな甚夜を、夕凪もまた無表情に見詰めている。
 いや違う。ただ取り繕っているだけで、その視線は気遣わしげなものだった。
 だからこそ思う。いつまでもこんなことを続けていてはならない。
 彼女は己の妻だと名乗った。
 腕の中にいるのは己の娘だと言った。
 それならば、夫として、父として恥ずかしい姿を見せることは出来ない。

「そうか、ありがとう」

 ちっぽけな意地。しかしその意地を今ここで絞り出せたことが少しだけ誇らしい。それは短い時間だったが、己は彼女達の夫に父に成れた証だと感じられたから。頑固で不器用な己の在り方を、傍目には愚かにさえ見えるだろうこのちっぽけ意地を誇らしいと思えた。

「本当は、後悔していた」
 
 夕日が落ちるまであと僅か。
 明確な終わりを前にして甚夜は淡々と語り始めた。

「もしも私がもっと上手くやれていれば、白雪が死ぬことはなかった。そうすれば子を為し、穏やかに年老いていく未来もあったかもしれない」

 そしてその骸を、想いを利用されることもなかった。

「父のことも、奈津のことも。やり様によっては別の結末があったんじゃないか……本当は、ずっと後悔していたんだ」

 いつもの堅苦しい言葉が少しだけ崩れていた。
 甚夜ではなく、甚太でいられた頃。まだ幼い自分に少しだけ近付けたような気がした。

「これは、お前の<力>なのか。それとも私の……“俺”の未練だったのかな」

 思い出す、別れ。
 目の前で心臓に刃を突き立てられた少女。
 
 ただ一緒にいたかった。それだけを願っていた……それで、良かった。
 たとえ男女として結ばれることがないとしても。
 巫女守として、白雪であることを捨てた白夜の決意を守ることが出来たなら、それでよかった。
 どんな形であれ、彼女と共に在ることが出来たなら甚太もまた、それだけで幸せだったのだ。

「けれどそれは叶わなかった。俺は足が遅いらしい。どんなに走っても、間に合わないことの方が多いんだ」

 いつか見捨ててしまった父を、もしかしたら妹になったかもしれない娘を守りたかった。
 なのに間に合わなくて。
 父をこの手で殺し、妹に憎まれて。
 守りたかったものを自分自身で踏み躙ってしまった。

「……だから。ここにいるのはお前なんだな」

 白雪は死んでしまった。
 奈津は化け物である己を憎んだ。
 もう二度と会うことは出来ない。
 だから、此処にいるのは白雪ではなく、奈津ではなく、夕凪なのだ。

「分かってた。嘘を吐いていたのはお前じゃない」

 夕凪は甚太と呼んだ。
 だがそんなことは在り得ない。たとえこの不可解な現状が鬼の<力>によって生み出されたものだとしても。
 甚太という名前を、夕凪が知っている筈はない。 
 それは、つまり。
 此処に到り、ようやく答えに辿り着く。 

 


「……嘘だよ、これは」





 天邪鬼は、私だ。


 





「あなた……」
「そもそも、お前が此処にいる訳はない。当たり前のことだ」

 だって夕凪は。
 その名を持つ鬼は。

「お前は、私が」

 振り抜いた刀。飛来する刃は確かに彼女を切り裂いた。
 そうだ。
 何故忘れていたのか。
 夕凪は、私が、この手で────
 
「いいえ」

 ゆっくりと首を振って彼女が言葉を遮った。
 慚悔を覚えながらも夕凪に視線を向ければ、彼女はたおやかに笑っていた。

「それはあなたの勘違い」
「だが……」
「だって本当は、“私”なんて何処にもいないんだから」

 彼女が何を言っているのか、意味が分からない。

「言っただろう、嘘だよ。全部私の嘘。あなたの妻だってことも、思い出も、今ここにいる私だって嘘なんだ。あなたは“私”を殺してなんかいない。だからあなたが気にすることなんてない何もないんだ」
「お前は、何を」
「でもよかった。来てくれたのがあなたみたいな人で」

 言いながら彼女は腕の中にいる娘を甚夜に手渡した。されるがままに受け取り、一度赤子に視線を向ける。安らかに眠る娘。もう一度顔を上げ夕凪を見れば、彼女は慈愛に満ちた、子供の成長を喜ぶような母親らしい顔をしていた。

「私は子供が、嫌いなんだ。だから後は任せるね」

 何を言っている。問いたかった。しかしできない。夕凪の空の下笑う彼女はあまりにも優美で、何を言ってもその美しさを汚すだけのような気がして。言葉を発することが出来なかった。
 そんな甚夜を見て、夕凪はやれやれと溜息を吐いた。その動作にさえ暖かさを感じられる。それは本当に、妻が夫へ向けるような。そういう優しい顔つきだった。

「大丈夫。あなたになら、この娘を託せる」


 そして最後に、あまりにも穏やかな笑顔と。




「じゃあね、また逢いましょう」




 一つの、優しい嘘を遺して。
 夕凪の空は夜に消えた。






 ◆




 ほぎゃあ、ほぎゃあ。

 赤子の泣き声が遠くから聞こえてきた。それが呼び水となって急速に意識が覚醒する。
 甚夜は薄暗い寺の本堂にいた。瑞穂寺。かつて人を喰う鬼が確かに存在した場所だった。
 
 気付けばいつの間にか甚夜は鬼の姿になっていた。
 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。
 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。

 そして、不意に触れた髪は宵闇で尚も輝く銀色になっていた。

 心を静め鬼から人へ戻る。目を瞑り、思考に没頭していけば先程己が喰らった鬼の記憶に触れることが出来た。

「<空言>。幻影を創り出し他者を騙す……。ただし作り出せる幻影は使用者の記憶に依存し、使用者が知らないものを創り出すことは出来ない」

 それがあの鬼の───夕凪の、行使した<力>。
 あの白銀の狐や火球は、夕凪の記憶をもって創り上げた幻影。それを甚夜は斬り伏せた。正確に言えば幻影と気付かぬままに夕凪を斬り伏せたのだ。
 そして夕凪の<力>を<同化>によって取り込んだ。
 この時点で<空言>の使用者は甚夜に移る。
<空言>で生み出せる幻影は使用者の記憶に依存する。
 使用者が甚夜であったなら、当然先程まで見ていた幻影は、甚夜の記憶に依存し創り上げたものとなる。
<力>を使う<鬼>がいた以上確かに夕凪は存在していた。
 しかし妻であった夕凪は甚夜の記憶をもって作られた幻影でしかない。あの夕凪は白雪や奈津といった関わりの深かった娘の記憶を統合して造り上げられた、先程討った鬼とは何ら関係のない存在なのだ。


『本当は、“私”なんて何処にもいないんだから』

 
 夕凪の持つ<力>。
 幻影を創り出すそれは、真実を隠す<力>、とでも言うべきか。
 いや、違う。 
 結局、彼女の<力>の本質は『嘘を吐く』ことなのだろう。

「私は、騙された訳だ」

 今回、谷中の寺町で起こった怪異。随分前に住職が亡くなり、荒れ放題のまま放置された寺、瑞穂寺に鬼が住み着いたという話を聞き甚夜は此処に訪れた。
 食人鬼。
 なんでも人を攫い食う鬼が瑞穂寺に出入りしているらしい。目撃談も多数あり、中には子供を攫われた者もいる。そうして噂が流れ出るにつれ、事態を重く見た寺町の住職の一人が甚夜にこの食人鬼の退治を依頼した。これが此処に至った経緯である。

 だが、夕凪の<力>は幻影を生み出す。

 見回しても、辺りに死骸は見当たらない。本堂に入った時感じた血の匂いもいつの間にか消え去っていた。
 つまり人を喰う鬼という話自体が、<空言>によって生み出された騙りなのだ。

『でもよかった。来てくれたのがあなたみたいな人で』

 そして恐らく、大本となった鬼の夕凪は<力>を使ってこの場所に人を呼び寄せたかった。
 鬼は嘘を吐かない。
 その理を曲げてまで彼女が為したかったこと。
 それは、多分。


 ほぎゃあ、ほぎゃあ。


 本堂に響く赤ん坊の声。
 ゆっくりと本堂の奥に安置されている仏像に近付く。そうして目を凝らせば、荷葉座に隠されるような形で、布にくるまれた何かがあった。
 いや、いたと言うべきだろう。

『だって、この娘は元々捨て子なんだから』

 其処には赤子が捨てられていた。朽ち果てた寺、こんなところに捨てれば誰に拾われることもなく餓死するのが落ちだろう。そんなこと誰が考えても分かる。もし甚夜が気付かなければ、この子はあと数日もすれば死に絶えていた筈だ。

『私は子供が……この子が嫌いなんだよ』

 遠く、声が聞こえる。
 その言葉に思わず笑みが零れた。

「成程、大した天邪鬼だ」

 ようやく繋がった。
 夕凪はこの娘が捨てられているのだと誰かに伝えたかった。人を喰う鬼という話はその為に彼女が吐いた盛大な嘘なのだ。曰く、天邪鬼は瓜子姫の皮を被ったと言うが、夕凪にとっては天邪鬼の方が皮だったらしい。その想像に普段の鉄面皮を崩して甚夜は笑い続けた。
 本当は、“私”なんて何処にもいない。夕凪はそう言った。だがそれは間違いだと思う。だから甚夜は誰に聞かせるでもなく呟いた。

「そんなことはない。あの時のお前は確かにいた。……ちゃんと、この娘の母親だったよ」

 言いながら捨てられた赤子を抱き上げる。
 鬼の理を曲げてまで守りたかった子供。
 真実を欺く<力>を行使して尚、隠しきれなかった愛情。

 彼女がどのような経緯で生まれた鬼なのかは分からない。しかし夕凪が何者かは分からないが、彼女は確かに母だった。それが、どうしようもなく嬉しい。

「そう言えば、名前を頼まれていたな」

 腕の中にいる赤子を見詰める。どんな名前がいいだろう。できれば母に因んでやりたいのだが。そう考え、ふと思い付いた名を口にしてみる。

「夕凪に咲く花……野茉莉(のまり)というのはどうだ」

 その響きが気に入ったのか。まだその小さな瞳は潤んでいるが、それでも娘は───野茉莉は笑ってくれた。

「いつか大きくなった時、お前の母の話を聞かせよう」

 理を曲げてまでお前を守ろうとした鬼。
 嘘吐きな彼女の精一杯の愛情を、いつか語って聞かせよう。
 その時、野茉莉は一体どんな表情をするのだろうか。
 それを想像しながら、甚夜は静かに笑みを落とした。





 ◆




「おや、旦那。らっしゃい」

 いつも通りの夜が明けた。
 鬼を退治した翌日、いつものように甚夜が喜兵衛を訪れると、やはりいつもの通り見知った顔があった。

「どうも、甚殿……っ!?」

 軽く頭を下げて挨拶、しようと思ったらしいが直次の動きが途中で止まる。その視線は甚夜の腕に抱かれている赤子に向いていた。

「じ、甚夜、君? その子は……?」

 おふうもまた驚愕に目を見開いている。

「ん、ああ」

 さて、どう返そうか。普通に拾った、と言う? いや、犬猫ではあるまいにそれでは軽すぎる。だが夕凪の話はあまりしたくない。どうしようかと考えていると、

『本当に、どうしたの? あなたの娘でしょう』

 彼女がいつか口にした言葉を思い出した。
 そして店内を見回す。当然そこに夕凪の姿はない。しかしあの悪戯っぽい笑みが己の背中を押してくれたような気がして、甚夜は覚悟を決めた。
 そうだ。
 己は彼女からこの娘を任されたのだ。
 ならば『その娘は何者だ』と問われれば、返す言葉など決まっている。


『大丈夫。あなたになら、この娘を託せる』


 遠く、誰かの声が聞こえた。
 だからほんの少しだけ穏やかに笑える。
 甚夜は普段の彼からは考えられない程に晴れやかな表情を浮かべた。
 そして、はっきりと誇らしげに、その言葉を口にする。

「私の、娘だ」

 それでいいのだろう、夕凪?




 鬼人幻燈抄 幕末編『天邪鬼の理』了



[36388]   余談『剣に至る』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/13 19:12
「ありがとうございましたー」

 兵庫県立戻川高校、そのすぐ傍にはその名の通り戻川(もどりがわ)という大きな川が流れている。校門までの道は銀杏並木になっており、景観豊かな通学路は実にのどかなものだった。

 さて、その途中。高校から十五分くらいの所にあるコンビニ『アイアイマート』で自分が働き始めてから、もう随分と時間が経つ。
 元々は以前の同僚が葛野で働いていたから、その程度の軽い理由で訪れ、偶然オーナー募集の広告を見つけ、応募して現在に至るという形だ。
 正直に言えば自分は勤労意欲と言うものが殆どなく、叶うならば働きたくはない。が、働かねば金は貰えず飯も食えん。仕方なくアイアイマートの店長として、それなりの毎日を過ごしている。

 しかし何事も長く続けてみるものだ。コンビニ店長という仕事もなかなかに興味深い。一番気に入っているのはレジ打ちで、アルバイトは雇っているが好んでこの業務に携わっている、何が興味深いかと言えば、やはりさまざまな客模様だろう。

 この店は立地上、戻川高校の教師・学生がよく利用する。特に学生は朝に菓子類・昼食を買って行き、放課後には買い食いをして帰るのでありがたい存在だ。しかし一口に学生といっても十人十色、買うものは千差万別見ているだけで中々面白い。
 例えば、毎朝この店による教師は、

「ん」

 新聞を乱雑に置き「たばこ」とだけ短く言う。毎日使っているのだから銘柄は覚えていて当たり前、とでも思っているのだろう。こういった横柄な客は間々いる為怒りも沸かぬ

「またそれ?」
「うん。これすっごくおいしーんだー。みやかちゃんもどう?」
「私はいい」

 背の高い少女と、少女というよりも女童といった印象の娘。二人組の女学生だ。恐らくは同学年なのだろうが、なんとも対照的な娘子達である。
 女童が買ったものは新商品の『生クリームたっぷりのアップルパイ』。女性にはなかなかの人気だ。これはもう少し仕入れておいてもいいかもしれない。
 背の高い方は目覚まし用のミントガムだけ。ふむ、若い女だからといって甘いものが好きとも限らんのか。なかなか難しいものだ。

「これを」

 今度は学生服を着た男だ。この男も毎日昼飯を買ってから学校に行くのだが、今回レジに出されたのは“カトーの切り餅”だった。既に数度あったことだが、思わず学生服の男に問うてしまう。

「あの、これは」 
「ん? 以前も言ったが昼食だ。いや、好きな時に磯辺餅が食えるとは良い時代になった」

 ……こやつ、間違いなく頭がいかれておる。 
 昼飯代わりに磯辺餅を一袋食う高校生が何処におるか。ちなみに餅ではない日はカップのインスタント蕎麦かアンパンを買っていく。流石に偏食が過ぎると思う。客の健康など知ったことではないが。

「すみません、これお願いします」

 次の客は実に丁寧、さわやかな笑顔で雑誌を出す。まだ高校一年生か、なんとも清々しい少年だった。若者らしいとはこういうことをいうのだろう。
そう思い商品に目をやり、ぴたりと思考が止まる。
 清々しい少年が持ってきた雑誌は『月刊Loマガジン』。
 読んで字の如く幼い娘子の写真や漫画を載せた雑誌である。一応直接的な描写はないので成年指定ではないが、少なくとも朝から買っていくようなものではない。取り敢えずレジに通し代金を受け取ると「ありがとうございました」とこれまた丁寧な礼を言ってくれる。

「吾妻、何買ったの?」
「んー、おかず」

 外で待っていた女学生と共に学校へ向かう少年。見た目からはいかがわしい本を買うような印象受けないのだが。いやはや、なんとも分からないものである。

 とまあこのように、コンビニには様々な客が訪れる。
 叶うならば働かず趣味だけに興じて生きていたいと考えている自分が、なんとか仕事を続けられているのは、この客模様の興味深さ故だろう。

 近頃になって思うのは、様々な客がおり、その客それぞれに生き方があるということだ。
 例えば先程の女学生二人組も、いかがわしい本を買っていった少年にも、餅を馬鹿ほど食う先程の男にも。
 それぞれの生き方が、それぞれの悩みが楽しみが目指すものがある。
 何気なく買ったもの一つとっても、彼等がそれを買うに至るまで、何かしらの理由がある。
 彼等を深く知ることは叶わないが、彼等にもそれぞれの物語というものあるのだと、この歳になって考えられるようになった。
  
 とまあ、とうとうと語って見せたが別に大仰な話ではない。
 つまり何が言いたいかといえば、コンビニの店長という生き方にも、このようにささやかではあるが楽しみもあるというだけのことだ。

「いらっしゃいませー」

 そんなことを考えている間に新しい客が来た。
 さて、次の客は何を買っていくのか。
 にこやかな作り笑いを浮かべながら仕事を続けていく。忙しい朝の時間はまだ始まったばかりだった。

 



 鬼人幻燈抄 江戸編 余談『剣に至る』





 元治元年(1864年)・三月


 夜は深く、星以外に灯りのない武家町を三人の男が闊歩していた。
 年若く血気盛んそうな若者達は、今し方会合を終えたばかりだ。

「やはり既に幕府は形骸、我ら武士は今こそ立たねばならぬのだ!」
「やめろ、何処に耳があるか分からん」

 彼等は国の行く末を憂い、未来の為に剣を取った倒幕の士だった。
 もはや徳川は当てにならぬ。気たるべき新時代を切り開くべく刀を振るわねばと、同じ開国を志す者達と幾度も会合を開いている。未だ実際に動けてはいないが、それでも国を想う心は確かだった。
 少し酒が入ったせいか、各々の考えをぶつけながら三人は歩く。しかししばらくして、その足取りが止まった。

「かっ、かかっ」

 星の天蓋、月のない夜。
 春は終わり、しかし夏にはなれず、曖昧なままに滲む季節。
 不意に流れた風が砂埃を巻き上げる。
 生温い肌触り。とてもではないが心地好いとは言えない。

 空気が抜けるような薄気味悪い笑い声。
 宵闇に佇む人影一つ。

「何奴!」

 三人の男は身構えた。
 ゆるりゆるり、と人影は近付く。星明りに照らし出された姿。三十代前半といった所だろうか。五尺程度の背丈、肩幅が広い訳でもなく決して体格は良くない。しかしその首は奇妙なほどに筋張っており、尋常ではない鍛錬を積んできたのだと分かる。
 ぎょろりとした目が男達を見た。
 そしてその手には、抜身の刃が。

「貴様、何のつもりだ!」

 刀を見て緊張は更に高まる。その真意を確かめようと一人の男が怒鳴り付け、

「刀を見て尚も弁舌を抜く……濁っておるな」

 それこそ瞬きにも満たぬ間に、首が落ちていた。

「なっ!?」

 目を離しはしなかった。なのに謎の男は一瞬で間合いを詰め、ひゅっという軽い音が響いたかと思えば、既に斬り付けられていた。まるで妖術にでもかかってしまったようだ。あまりにも現実感が無く、だというのに血だまりが、其処に伏す若者の傷が現実を語る。
 私達は今、得体の知れない何かに遭遇してしまったのだ。

「きさぁぅ……」

 しかし刀を抜くことさえ出来ない。一人に付き一太刀、それだけで命は容易く消え去る。悲鳴も上がらず、逃げられる訳もなく。

「おぁ……」

 何事もなく、死体が三つ転がった。
 見下す男の目に感情はない。ただつまらなそうに一言呟く。

「まこと、濁っておる」

 もはや興味を失くし、男は死骸に背を向け夜に紛れ歩き出す。

「かっ、かかっ」

 月のない夜には、気色の悪い笑い声だけが残った。


 ◆

 
 蕎麦屋『喜兵衛』。
 いつも通り甚夜はこの店に顔を出しているが、今は店内ではなく、奥にある普段店主等が使っている畳敷きの寝床にいた。
 そこに赤子を寝かせ、木綿の布を臀部の下に引く。もう一枚小さな布を間にかませ、ずれがないように木綿の布を巻いていく。

「……随分、慣れましたね」
「そうだな」

 十年近い付き合いになる友人・三浦直次の言葉に抑揚もなく答えた。
 会話をしながらも手は止まらない。
 甚夜は相変わらずの鉄面皮だが、やっていることは赤子のおしめ交換である。真剣な表情で赤子のおしめを取り替える六尺の偉丈夫というのは中々に奇妙だった。
 おしめを換えるのも今では慣れたもので、随分と手際も良くなった。手早く終わらせた甚夜は赤子──愛娘である野茉莉を抱き上げた。

「たぁた」
「どうした、野茉莉」

 目は冴えているらしく、甚夜の腕の中で彼の顔をじっと見つめている。時々体を揺すってやるとその動きに野茉莉は笑った。それに釣られる形で甚夜もまた穏やかに笑みを零す。父娘の、何気ない触れ合いだった。

「お父さん、ですねぇ」

 おふうが感嘆の為か呆れの為か、ふう、と一度溜息を零す。

「私の娘だ、なんて言って野茉莉ちゃんを連れてきた時は何事かと思いましたけど」
「いや、まったくです」

 なにやら微妙な顔で二人は甚夜の所作を眺めている。
 我関せずと野茉莉と戯れる姿は、成程正しく父と呼ぶに相応しく、しかし鬼を容易に斬り伏せる剣豪だからこそひどく違和感があった。

「そう言ってくれるな。私自身似合わんとは思っている」

 おふう達には夕凪のことは話していない。ただ、ある人から事情があって育てられなくなった娘を託されたとだけ告げた。
 それでよかった。いずれ野茉莉には母のことを伝える。それまでは、嘘黄な彼女の精一杯の愛情を、大事にしまっておこうと決めていた。

「似合わない、ということはないでしょう」

 初めの頃はおしめを換えるのも難儀し、直次の妻であるきぬに教えを乞うたこともあった。甚夜はきぬを苦手としており、それでも娘の為に頭を下げる辺りに、彼が半端な気持ちで野茉莉を娘と呼んでいる訳ではないと分かる。だから直次はこの奇妙な親娘を、それでも微笑ましく感じていた。

「そう、ですね」

 おふうの方はまだ若干引っかかるところがあるらしく、曖昧な笑みを浮かべてはいるが。

「旦那、ちょっといいですかい?」

 しばらくすると店の方から店主が顔を出した。
 
「ん、ああ。すまんな、寝床を借りた」

 おしめを換える為に店主の布団を借りてしまった。取り敢えず礼を告げるが、店主はもごもごとはっきりしない様子だった。

「いや、それはいいんですがね。あー」
「どうした」
「なんというか、旦那に、お客さんが来てるんですが」
「客?」

 店主は言い難そうにしているが、こういったことは決して珍しくなかった。 
 どこかから“鬼を討つ浪人”の噂を聞き付け、依頼の為喜兵衛を訪れる者は少なくない。大方今回もその類なのだろう。

「分かった。今行く」
「ああ、なんか、すんません」

 相変わらず店主ははっきりしない物言いだ。若干不思議に思いながらも、野茉莉を抱いて店の方へ向かう。
 其処には一人の男が腰を掛けていた。
 
「ああ、甚夜殿。突然の訪問申し訳ない」

 その姿を確認した途端甚夜の動きがぴたりと止まる。
 三十代後半くらいの、小柄な男。纏った羽織は実に立派なもので、豪奢ではない縫製がしっかりしている。二本差しと相まって、男の出自が格の高い武家の出だと一目で理解できた。
 柔和そうな表情、しかしその細目の奥では何を考えているのかは分からない。
 それは以前顔を合わせたことのある男だった。

「畠山…憲保……」

 佐幕攘夷を掲げる武士、畠山憲保。
 あまりにも意外過ぎる来客がそこにはいた。

「いや、お久しぶりですね。壮健そうでなにより。おや、その娘子は甚夜殿の……?」

 ゆったりとした語り口だった。
 成程、店主が動揺するのも分かる。前畠山家当主、憲保。そもそも庶民の蕎麦屋に訪れるような身分ではない。憲保自身は平然としているが、本来なら有り得ない光景だった。

「何故ここに?」

 憲保の質問には答えず、冷たい視線を送る。それを受けても尚穏やかな様子は変わらない。

「何故? これは異なことを。刀一つで鬼を討つ剣豪の下に訪れる理由……一つしかないでしょう」

 そうして畠山憲保は細目のまま甚夜を見据え、

「貴方に、討ってほしい鬼がいるのです」

 にい、と笑った。





「岡田貴一(おかだ・きいち)……配下の中でも随一の腕を持つ男です。今迄も夷敵を討ち払う為、剣を振るってくれました」

 甚夜の正体を知らぬ直次にこれ以上の話を聞かせる訳にもいかない。ちょうど昼時も過ぎたところだ、申し訳ないが彼には店を出て貰った。
 気を使ってか、おふうと店主も店の奥で待機してくれている。店内で甚夜は憲保と対峙する形になっていた。

「暗殺であろうと、襲撃であろうと、貴一は揺らがずあらゆる者を斬って捨てた。……しかし、此処に来てちと問題が出てきました。どうにも彼は開国派や異人以外にも手を出すようになってしまたのです。攘夷派の武士も通りすがりの浪人であっても、果ては女子供でさえ斬り殺す始末。詰まる所、ただの人斬りと化してしまった」

 表情も変えず語り続ける憲保。
 まるで能面のようだ、その奥にある感情を読み取ることは出来ない。

「私としてもこれは捨て置けぬ。この身は武士の世の為に如何な犠牲も払い、神仏であろうと駆逐しましょう。しかし無軌道な惨殺は私の是とするところではない……とは言え、彼は最早私の言葉なぞ利かぬでしょう。だからと言って力付くで止めるような腕もない。そこで貴方を思い出したのです」

 其処で一度言葉を区切り、試すような視線を甚夜へと送る。

「私の為に刀を振るえとは言いません。ただ、これ以上被害が出る前に止めたい。貴方の力、この一度だけお貸し願えぬでしょうか」

 ただの浪人に対し、真摯に頭を下げる。
 その態度は誠実、だがこの男はどうにも胡散臭かった。
 如何な手段を用いたとしても己が在り方を抜こうとする。正直に言えば、彼の在り方は決して嫌いではない。ただ同時に相容れぬとも思う。生き方を貫こうとする姿勢は甚夜と同じだが、憲保はいとも容易く何も知らぬ者を利用する。彼の在り方は嫌いではないが、その遣り様はいけ好かない。甚夜の憲保に対する評価は複雑なものだった。

「分からんな」

 ぽつりと呟く。

「貴一の狙いが、ですか?」
「お前の狙いが、だ。何故その話を私に?」

 それは純粋な疑問だった。
 この男は攘夷の為に鬼を配下としており、それなりに力を持った手駒がある。態々金を払ってまで頼む必要はあるまい。

「土浦、だったか。あの男にでも命じればいいだろう」
「確かに土浦は信の置ける男。ですが、今回ばかりは……。なにせ、仮にも貴一は同胞。身内に打たせる訳にもいかぬでしょう」

 甚夜には畠山憲保が何を言っているのか理解できなかった。
 普通は逆だろう。
 身内が凶行に走ったならば、情報は外に出さず内々で終わらせるべきだ。態々自分達は一枚岩でないと喧伝する馬鹿が何処にいる。

「相も変わらず胡散臭い男だ」
「中々に辛辣ですな。で、いかがでしょう。この依頼受けてくださいますか?」

 即答は出来なかった。
 無軌道な惨殺を繰り返す人斬り。確かに放っておけるような存在ではない。しかし甚夜は正義の為に刀を振るっている訳ではない。

「一つ聞こう。その人斬りは鬼か」
「ええ。もっとも下位の鬼、人と膂力は変わらず<力>も得てはおりません。ただしその剣技のみで高位の鬼に匹敵する使い手。一筋縄ではいかぬでしょうな」

 鬼。人に仇なす怪異であれば、甚夜の範疇ではある。だが<力>を持たぬのであればやり合う旨味はない。
 そして何より畠山憲保自身が信用ならない。
 果たして受けてもいいものか。
 逡巡を繰り返せど答えは出ず、沈黙を守ったままの甚夜に憲保は声を掛ける。

「すぐに答えは出せませんか。ならばこうしましょう。三日後の夜……そうですな、江戸橋に貴一を呼び寄せます。斬りがいのある相手がいる。そう言えばまず間違いなく彼は来る」

 語り口に淀みはない。恐らくは端から用意して会った提案なのだろう。

「もし貴方が受けてくださるならば江戸橋へ。そのつもりが無いならば無視してくださって結構、貴一のことは土浦に任せましょう。では、私はこれで」

 言うだけ言って立ち上がり、振り返ることもせず玄関へと向かう。淀みない歩き。離れていく背中に甚夜は言葉を投げかけた。

「畠山憲保。お前は、何を考えている」

 突き付けた問い、返す答えは悠然と。

「無論、この国の……そして武士の行く末を」

 それだけ残し、今度こそ去っていく。
 堂々とした背中に揺らぎはない。痛々しいほど不器用な彼の在り方が滲んでいるように思えた。




[36388]      『剣に至る』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/14 23:01
 牛込にある畠山家の屋敷、その庭には白木蓮が植えられている。
 三月から四月にかけて、銀の毛に覆われた蕾が空を仰ぐように花開く。大輪のように見えるが白木蓮は開花しても微かに蕾んでおり、その慎ましやかな佇まいが優美さを醸し出している。

「土浦よ、見事とは思わんか」

 座敷に鎮座する畠山憲保は、手にした小太刀の刀身をしげしげと眺めながら呟いた。

「は、それは?」
「葛野、と言ったか」

 軽く指先で刀身を弾けば、涼やかな鉄の音が座敷に響く。それを憲保は楽しげに、土浦は僅かに眉を顰め聞いていた。
 
「先日刀剣商が屋敷を訪ねてな。葛野の刀に興味があったのだが、生憎と小太刀しかなかったが買うてみたのだ。日の本有数の鉄師の集落と聞いたが……確かになかなかのものだ。凡庸な造りに見えて味がある」

 返答は出来なかった。土浦はただ黙し、俯いている。

「かっ、かかっ」

 代わりに返ってきたのは、空気が抜けるような気味の悪い笑い声だった。

「畠山殿は見る目がある。葛野の刀は濁りが無い。まこと、名刀と呼ぶにふさわしき代物よ」

 乱雑に襖をあけ座敷に入って来たのは、三十代前半の男だった。
五尺程度の背丈でありながら首の筋肉が妙に発達した、ちぐはぐな体つき。ぎょろりとした目が印象的だった。
 名を岡田貴一(おかだ・きいち)。
 畠山憲保の下で要人の暗殺に携わる人斬りである。

「貴一、帰ったか」
「貴殿の命は確かに果たした。斬りがいの無い相手ではあったが、そこは我慢をせねばなるまい」
「その割には、随分と楽しんできたようだが?」

 貴一の腕は確かであるが、彼はあまりにも斬り過ぎる。
 今回憲保は開国派の武士の暗殺を命じたが、標的以外の者も彼は斬り殺して帰ってきた。それでいて実に飄々としている。憲保が視線を送ってもその態度が崩れることはなかった。

「かっ、かかっ。それは仕方あるまいて。所詮儂は人斬り。ならば赴くままに人を斬るが道理よ」

 にたりと笑う貴一。悪びれないその態度に、土浦は不快げに口元を釣り上げた。
 
「下衆が」

 呟きに腹を立てた様子もなく、貴一は平然とした様子だった。

「おお、土浦。ぬしは儂が気に食わんか」
「当然だ。貴様が下らない趣味に興じれば憲保様に累が及ぶ」
「かかっ、相も変わらず濁った男よな。ぬしには余分が多すぎる」

 土浦の言葉が大層面白かったらしく、にたにたとした笑いが更に歪んだ。

「畠山殿は、累をこそ嬉々として受け入れると思うがの」

 言いながら意味ありげに憲保を見る。当の本人は全く揺らがず、自然体のままそれを受け流していた。

「さて、貴一よ。一つ頼みたいことがある」

 そして徐に口を開く。

「お前に斬ってもらいたい男がいる」
「それは構わんが、また軟弱な開国派の武士か?」
「いや、今回は斬りがいのある相手だ。聞いたことはないか、江戸には鬼を討つ夜叉が出ると」

 それが琴線に触れたらしい。

「ほう」

 貴一は言葉を発さず、ただ表情を歪めた。
 べたつくような肌触り。じっとりとした、鉄錆の匂いのする、凄惨な笑みだった。


 ◆


 畠山憲保との邂逅から二日後。
 約束の日を前日に控え、しかし甚夜はいつものように喜兵衛で蕎麦を啜っていた。

「よしよし」

 食べている間はおふうが野茉莉を抱いている。厳めしい男よりもやはり優しげな女の方が安心できるのか、心地よさそうに寝息を立てていた。

「いつもすまんな」
「いいえ、気になさらないでくださいな。他にお客さんもいないことですし」
 
 たおやかに笑う。おふうは鬼の討伐に出かける際、いつも野茉莉の面倒を見てくれる。有難いことだが、反面申し訳なくも思う。足を向けて寝られない、というのはこういう心情を言うのだろう。

 しかし、おかしい。こういう時、いつもからかいの声を掛けてくるはずの店主が今日は一言もない。不思議に思い視線を向ける。厨房の店主は、竈の火の近くにいるというのに、青い顔をしていた。

「お父、さん?」

 気付いたおふうが声を掛けるも反応はない。

「お父さん」

 やはり反応はない。

「お父さん!?」
「うぉ!? な、なんだ!?」 

 三度目の大声にようやく反応し、しかし顔色は青いまま。歳のせいで以前より痩せたとは思っていたが、ちらりと見えた腕は想像以上に細くなっていた。

「どうしたんですか、何度も声を掛けたのに」
「お、おう。そうだったか。すまん、ぼーっとしてた」

 語り口に活気はない。そう言えば近頃、体調の優れない日が増えているような気がする。疲れているだけではない。そもそもの体が衰えてきているのだろう。歳月を重ねていけば仕方のないことだ。

「少し休んだらどうだ」
「いやいや、仕事休んだら飯が食えませんて」

 快活な笑み、少なくとも店主はそう見せようとしたのだろう。しかし疲労の色は濃く、頬は引き攣っていた。

「大丈夫だって、そんな心配そうな顔すんな」
「でも……」

 おふうも僅かに潤んだ目を向けている。愁いを帯びた視線に気圧されたのか、ぎこちない笑みで店主は阿多会をガシガシと掻いた。

「あー、分かった。今日は早めに店を閉めて休む。それでいいんだろ?」

 頑固で我が強く、しかし娘に弱いのが彼だ。流石におふうの憂慮を無視はできなかったらしく、溜息を吐きながらそう答えた。
 おふうは満足げに大きく頷く。やれやれと呆れながら、それでも嬉しさを隠しきれない笑顔で受け入れる店主は、まさに父親といった印象だった。
 二人のやり取りを見届けた甚夜は手早く蕎麦を食べ終え、懐から銭を取り出した。

「馳走になった。勘定は置いておくぞ」
「あ、甚夜君。ちょっと待ってください」

 野茉莉を受け取り玄関へ向かおうと思ったが、おふうは抱いたまま離そうとしない。そして首だけ父親の方に向け、憂いの消えぬ表情で声を掛ける。

「あの、お父さん」
「ああ、構わねえよ。旦那のこと送ってやんな」

 視線を交わし、二人して頷き合う。親娘の間では意思の疎通が出来ているのだろうが、傍目から見る甚夜には意味が分からない。不可解に思い眉を顰めれば、もう一度甚夜に向き直ったおふうがたおやかに笑った。

「少し、出かけませんか?」


 ◆


「これ、どうですか?」
「ん、ああ」

 思わず曖昧な返答となってしまった。それも仕方がないだろう。「少し出かけよう」と言ったおふうに連れてこられたのは、神田川の近くにある瀬戸物屋。いきなりすぎて意味が分からず、甚夜は所在無さげに棚に置かれた陶器を眺めていた。

「たぁた」
「ん、野茉莉どうした」

 腕の中では野茉莉がきゃっきゃっと無邪気に笑っている。思わず目じりが下がったのもまた仕方のないことだ。普段の鉄面皮からは想像もつかない、実に穏やかな顔つきだった。

「ふふ、甚夜君も娘さんにはそんな顔をするんですね」

 それを目敏く見付けたおふうが小さく笑った

「あまりからかうな」
「別にからかった訳じゃありませんよ」

 言いながら、おふうはまた陶器の方に視線を戻す。小さめの茶碗を一つ一つ手にとってじっくりと見比べていた。

「あ、これなんてどうですか?」

 普通のものよりも少し小さく、底が広い深めの茶碗だった。

「どう、と言われてもな。そもそも何に使うのかが分からん」
「野茉莉ちゃんの使う丼をと思ったんです。店のだと大きすぎるでしょう?」

 意外な答えだった。口を噤む甚夜に、おふうは言葉を続ける。

「こういうのがあれば野茉莉ちゃん用の小さなお蕎麦が作れますから。あと一年か二年もすれば必要になると思ったんですけど……迷惑でしたか?」
「まさか。私ではそこまで頭が回らなかった。気を使ってもらって済まない」
「いえいえ。常連さんには報いないといけませんから」

 安心しほっと息を吐き、一転嬉しそうに顔を綻ばせる。
 
「だったらこれ、買ってきますね」

 なら金を、というより早くおふうは店の奥に行ってしまう。普段姉ぶっている彼女の無邪気さに、甚夜は思わず笑みを落した。

「済みません、付き合わせてしまった」
「何を。野茉莉の為にしてくれたことだろう」

 帰り道のんびりと二人連れ立つ。男女が並んで歩いており、腕には赤子。傍目からはそういう間柄に見えるかもしれない。もっともそうやって考えれば、男の方が赤子を抱いているのは珍しいが。

「そうだ、少し寄り道していきませんか」

 そう言っておふうが一歩前に出る。
甚夜も言葉は返さず頷いて彼女の後を付いて行った。




 散策はしばらく続き、気が付くと日は既に暮れはじめていた。
 ゆったりと落ちながら空に溶けていく夕日。
 遠く笑い声が聞こえる。恐らく仕事帰りの若い衆だろう。騒がしくはあるが昼の活気は薄れ、騒音に包まれた夕暮れ時は何処か寂しく映った。
 
 わずかに感じる寂寞の中で少しだけ目を細め、流れる江戸の町の様相を眺めながら二人は歩く。
 荒布橋を渡り、堀のように整然と整備された神田川を沿うようにいけば、草が押し茂り柳の立ち並ぶ場所に辿り着く。近付いて見れば、それはただの柳ではない。しな垂れた枝には五弁の真っ白な小花が咲いていた。

「ここに来るのは久しぶり……」

 おふうは雪柳の下で立ち止まり、そっと手を添えて花を見上げた。

「そうか、もう雪柳の季節だったか」

 目に映る懐かしい花。雪柳は傍目には柳に見えるが、実際には桜の仲間である。三月から四月にかけて咲く白い花。一つの枝に所狭しと咲いている白い花は、それこそ雪が積もっているようだった。

「ええ。今年の花もきれいですね」

 夕暮れの中の白。懐かしさにおふうが目を細める。随分と昔この花の下で彼女と語り合った。生き方は曲げられず、けれど少しだけゆっくりと歩けるようになったのは間違いなく彼女のおかげだろう。

「寄り道して正解でした」

 優しげに雪柳を愛でる。しかし、何となく違和感を覚えた。慕う父を放り出して買い物に出かけ、こうして寄り道までしている。どうにも彼女らしくないと思える。

「よかったのか」
「何がですか?」
「父親の傍についていてやらなくて、だ」
「いいんです。病気という訳ではありませんし」

 違和感を覚えた、それは間違いだった。
 取り繕ってはいるが、その言葉が強がりだということくらいは分かる。その程度には、歳月を共にしてきた。
 本当は心配で、傍にいてやりたいと思っているのだろう。しかしおふうは雪柳の下から動こうとはしなかった。

「それに、今は甚夜君の方が心配ですよ」

 彼女らしくないというのも大きな間違いだ。 
 肩を竦め、「仕方がないな」とでも言いたげな顔。本当に、女というのはどうしてこうも男を子供扱いしたがるのか。彼女の表情は、姉が弟に向けるそれだ。何時だって甚夜を気にかけてくれた、おふうの優しさだった。

「私が、心配?」

 虚を突かれ、視線でどういうことだと問い掛ける。

「済みません、盗み聞いてしまいました」
 
 遠慮がちにおふうが言う。
 ああ、成程。彼女は畠山憲保からの依頼を聞き、だというのに明確な意思表示をしなかった甚夜を見て、何か思い悩んでいるのではないかと気遣ってくれたのだ。 
 
「迷って、いるんですか?」 

 盗み聞かれても怒りはない。彼女のことだ、純粋に心配しての行動だろう。そう思える程度にはおふうを信頼しており、だからこそ素直に心情を吐露した。

「迷いはいない。ただ、戸惑ってはいるんだろう」

 ぽつりと呟いた言葉に力はなかった。
 確かに甚夜は憲保の依頼に即答できなかった。しかしそれは迷ったからではない。ただ自分でもどう言えばいいのか分からなくて、答えなられなかったのだ。

「無軌道な殺戮を繰り返す人斬り。流石に放っておく訳にはいくまい。畠山憲保の企みがなんであれ、私はそれを止めようと思った。だが……」

 だが目的が在った。
 果たす為に、強くなりたかった。
 だから鬼を討ち、貪り喰い、<力>へと変えてきた。
 今までそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていく。
 それだけが全てで、それでよかった。
 その筈だった。

「人斬りを止めることは、私の目的から考えれば大して意味はない。だというのに、当たり前のように人斬りを止めると考えた自分に愕然とした。だから畠山憲保に即答できなかった。そして今でも、そんな自分に戸惑っているんだ」

 なのに、いつの間にか余分は増える
 人斬りを止めたところで得る物などない。十二分に理解しながら、ふとした瞬間嫌な想像が脳裏を過る。
 もしも人斬りの犠牲になるのがおふうだったら。
 店主だったら。
 直次だったら。
 野茉莉だったら。
 もう会えなくなってしまった、あの二人だったとしたら。

 関係ない。誰が犠牲になろうと構わない。
 そういう生き方を選び、友を、その妻を貪り食った。
 母の想いを踏み躙り、父をこの手で殺した。
 今まで散々斬り捨ててきた。斬り捨てるものが一つ二つ増えたからと言ってなんだというのだ。
 心からそう思う。
 心からそう思い、尚も湧き上がる不安が最善と思える道を選ばせてはくれない。

「私は、弱くなったのかもしれん」

 憎しみの為に刀を振るってきた。
 強くりたくて、それだけが全てで。
 なのに全てと思ったものに専心できなくなってしまった。
 なんという無様。強く奥歯を噛み締める。悔しさが、焦燥が、甚夜の肩を震わせていた。 

「ふふっ」

 しかしおふうは笑った。
 其処に負の感情はない。微笑ましくて仕方がない、そういう母性に満ちた笑顔だった。

「何故笑う」
「いえ。ただ、甚夜君は可愛いなぁと思って」

 意味が分からなかった。
 言葉尻だけを聞けば馬鹿にしているとしか思えない。ただそう言った彼女は本当に穏やかな笑顔だから、反論する気にはなれなかった。

「多分、今の甚夜君は私が何を言っても納得できないと思います。でも、貴方の言う弱さを忘れないでくださいね。きっといつか、その弱さを愛おしく思える日が来ますから」

 まるで花が咲くような笑顔。
 彼女の言葉はやはり理解できなくて、甚夜はただ立ち尽くした。
 夕暮れの中、雪柳に寄り添うおふうは本当に綺麗だ。本当は立ち尽くしたのではなく、見惚れたのかもしれない。
 暖かな光景、けれど何故か寂しいと思った。
 
 ───思い出す遠い夜空。今も忘れ得ぬ原初の記憶。

 それに比肩する夕暮れを寂しく思い、少しだけ瞳が潤むのを感じた。
 その理由は分からない。 
 きっと、橙色の光が目に染みたのだろう。





 そうして今日は過ぎ、約束の日が訪れた。




[36388]      『剣に至る』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2015/10/19 14:06
 
 約束の夜が訪れた。

 江戸橋は神田川に掛かる橋の中でも規模が大きい。
 既に日は暮れ、灯りは星と月のみ。昼間の喧騒はなく、月の光を映して流れる川のせせらぎだけが耳を擽る。
 人の気配はない。おあつらえ向きとは正にこのような状況のことを言うのだろうと、甚夜は一人ごちた。
 
 橋の中央で待ち構えてから一刻は経っただろうか。ようやく夜の闇に人影が揺れる。
 ぎょろりとした目付きが印象的な男。腰には鉄鞘に納められた太刀。その歩みは無造作に見えて隙がない。武術の基本は歩法。ぶれのない歩みに男の実力が見て取れる。

 男は甚夜の前でぴたりと足を止め、にやついた笑みを向けてきた。いや、笑みというにはちと物騒だ。隠しきれぬ白刃のような殺気。その鋭さに理解する。この男が件の人斬りに相違ないだろう。

「岡田貴一殿とお見受けする」

 甚夜は夜来に手をかけ、鯉口を切った。同時に左足へ軽く体重をかける。

「如何にも。貴殿は」
「深川の浪人、甚夜と申す。今宵は手合わせを願いたく参上仕った」
「ほう。いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮、とでも返すべきかの」

 茶番だ。二人が放つ殺気は既に抜身。名乗りなど上げずとも死合はもう始まっている。

「しかし手合わせを乞われたとあれば無下に断る訳にもいかぬな」

 春とはいえ吹く風は冷たい。
 一種独特の緊張感が満ちた橋の上で、互いに間合いを測る。
 まるで時間が止まってしまったような錯覚。


 対峙はほんの一瞬だった。


 ゆらりと貴一の体が揺れたかと思えば、瞬きの間に距離が詰まる。前傾、踏み込み、速度を殺すことなく一歩目から最速へと達する。
 肉薄し、間合いを潰し、振るわれた刀が狙うは首。下位の鬼と聞いたがその技は見事。貴一の動きは速い。並みの相手ならば何が起こったか分からぬうちに斬られているだろう。
 だが、速いだけの攻撃など見飽きている。
 横薙ぎの一刀に夜来を割り込ませ防ぎ、下方に大きく払う。そして無防備になった貴一へと目掛け袈裟掛けに斬り下す。

「ほう、なかなかにやる」

 一太刀で首を落すつもりだったのだろう。それを容易に防いで見せたばかりか、すぐさま攻撃に転じる。眼前の敵の思わぬ実力に愉悦の笑みが漏れた。
 体勢を低く、左足を軸に半身となり、最低限の動作で甚夜の剣をやり過ごす。返す刀で逆風、下から上へと斬り上げる。
 一歩下がり、打ち据えるように刀を合わせる。膂力においては甚夜が勝るようだ。いとも簡単に貴一の刀は弾かれた。
 しかし止まらない。
 貴一は僅かな動揺も見せず、軸をずらし甚夜の追撃を捌きながら、更に距離を詰める。
 一足の踏み込みと同時に、心の臓を貫かんと放たれる刺突。速い、いやそれ以上に無駄がない。回避から構え直し、突きに入るまでの動作の隙が極端に少ない。その為に刺突自体が途方もなく速いと錯覚する。
 振るわれる白刃以上に貴一の身のこなしは鋭利。恐るべきは一切の無駄のない、研ぎ澄まさされた挙動。洗練された肉体の運用。
 疾風の如き刺突は心臓を喰らおうと迫り来る。
 左足を一歩引き、迎撃の為に刀を振るおうとして、


「が、濁っておるな」


 跳ね上がる切っ先。
 心臓を穿つ筈だった刺突は突如として軌道を変え、甚夜の首を食い破ろうと襲い掛かった。
 咄嗟に甚夜は体を捌く、だが少しばかり遅かった。なりふり構わず上体を横に反らし、それでも避けきれず僅かに首の肉が抉れ、鉄錆のような血液の匂いが鼻腔を擽る。
 甚夜の反応が遅れたのは軌道の変化があまりにも滑らかだった為。ごく自然に、あたかも初めからそうだったかのように、刃は翻った。滑らか過ぎて怖気が走る程に、貴一の剣には無駄がなかった。

 貴一の攻めは終わらない。突き出した刀は紫電の如く、執拗に甚夜の首を狙う。
 だがここで為すがままになるようであればこの身はとっくに死に絶えていた。
 崩れた体勢のまま追撃を打ち落とそうと甚夜は刀を片腕で振り下す。しかし容易に見切られ、斬ったのは空。
 こちらの剣はすかされた……が、それでいい。刀を振るった勢いで無理矢理に上体を起こし、貴一が刀を引いた分両者の間に僅かな空間が出来る。
 僅かな空白を利用して体を落とし、放つは左肩で鳩尾を穿つ全霊の当身。

 しかし、またも空を切る。

 捉えたと思った。高位の鬼さえ怯ませる体術だ、細い小男の体躯では耐えらぬ。確信を持ち、完璧に放った。だから捉えたと思い、だというのに当身はほんの僅か、届かなかった。
 一寸にも満たぬ隙間。余裕の表情で見下す男。向けられた視線に理解する。完全に見切られた。悠々と後ろに退がり、十分に距離を照って人斬りが哂う。

「か、かかっ。成程、ぬしは強い。肉の持つ性能は儂をはるかに上回る……が、濁っておる」

 ……強い。
 甚夜は口の中で転がすように呟いた。畠山憲保は岡田貴一を剣技のみで高位の鬼に匹敵する使い手と評したが、成程、確かに尋常ではない使い手だ。甚夜とて度重なる実戦で剣を磨き、腕には少しばかり自信があった。
 しかし剣術という土俵においては貴一の方が明らかに上。尋常の立ち合いでは十中八九どころか十中十まで負ける。
 だから、それ以外の攻め手を使う。

<疾駆>

 弾かれたように甚夜は駈け出す。人を超える速度で間合いを侵し、その勢いを殺すことなく唐竹一閃。人を超えた膂力から斬撃が貴一の脳天目掛けて振り下される。
 しかし貴一はまるで涼風を受けるが如く平静だった。

「過剰な力」

『斬撃』などという表現では生温い。甚夜が振るうのは一太刀で敵を砕く豪撃だ。まともにぶつかれば一瞬で終わる。もし完璧に攻撃を受け止めたとしても、力で押し切られるだろう。
 故に貴一はまともにはぶつからない。
 動きはあくまで小さく、あくまで丁寧に。まるで硝子細工を扱うような繊細さで攻撃を捌く。

「余分な所作」

 刀の腹に沿わせほんの少しだけ軌道をずらし、出来た空白に潜り込む。肘を視点に上腕を回し、摺足で進みながら逆袈裟の一刀へと可変させる。防御から回避へ、進軍しながら攻撃へ。流れるような、無駄のなさすぎる挙動。

「浮動する心」

 一瞬の動揺を見透かすように投げ掛けられる言葉。咄嗟に体を捻るが避けられない。すれ違いざま、脇腹を刀が抉る。熱い。臓器には達しなかったが肉を持っていかれ、じわりと纏う衣に赤が広がった。
 返す刀、首を狙う一刀。貴一の追撃が迫り来るも、刀で受けに回りどうにか防ぎ、もう一度<疾駆>を使い距離を取る。

「まこと、濁っておる。ぬしには無駄が多すぎる。肉にも、心にもだ」

 甚夜の攻めなど意に介さず、いっそ無防備とさえ思える構えで悠然と立つ。
 今の立ち合いで理解した。貴一の身体能力はさほど高くない。無論人の限界値は超えている。それでも他の鬼と比べればせいぜいが中の上、高く見積もっても上の下といったところ。人智を超えるような代物ではなく、極めて常識的な範囲に留まっている。

 それでも尚、強い。
 膂力、速度ともに甚夜が上回り、特異な<力>も持たず。
 その上で数多の鬼を打倒してきた甚夜を出し抜ける程の剣技。
 見出したのは呆れるほどの練磨。純粋に剣を振り続けた年月。積み重ねた研鑚のみが岡田貴一という男の強さを支えている。

「……お前は、なぜ人を斬る」

 自然と零れ出た言葉。責めるつもりはない、それは純粋な疑問だった。
 不可解に思ったのか貴一は僅かに眉を顰めた。

「初めに人斬りと聞き、岡田貴一という男は粗野で残虐な気質なのだと想像した。だがお前の剣はあまりにも清廉だ。歳月を積み重ね、呆れるほどの練磨を繰り返せねばこうはなるまい。そこまで真摯に剣に向き合える男が、何故殺戮に興じる?」

 甚夜にとっては至極当然の疑問だった。しかし貴一は哂う。見当外れの問いをする愚か者に、侮蔑の視線を向けていた。

「何故斬る? これは異なことを。寧ろ問おう、何故斬らぬ。刀は人を斬る為のもの。儂にはぬしの言こそ理解できぬ」

 語気は至って穏やか。物の道理が分からぬ童に教え諭すような語り口で貴一は言葉を続ける。

「頑強な鉄を造るには不純物を取り除かねばならぬ。旨い酒を造るには透き通った水が必要となる。それは我らとて同じとは思わぬか?」

 返ってきた答えに戸惑い、しかし顔には出さず貴一を見据える。

「余分は純度を下げる。ならば削ぎ落とさねばなるまいて」

 哂う。
 凄惨な、血の匂いのする笑みだった。

「武士として生まれた。故に剣を与えられ、故に剣を振るってきた。振るったからには人を斬らねばならぬ。刀を手にしたならば斬るのが道理であろう。その為の刀、その為の剣術よ」

 成程、同意見だと甚夜も思う。
 刀に出来るのは所詮斬るのみ。ならば如何な手段を用いたとて斬ってこその刀。故に否定はしない。

「初めて斬ったのは剣の師であったか。以来儂は人を斬り人を斬り、呆れる程に人を斬り、そして気付いた。武士で在らねば人を斬る為の刀は与えられず、にも拘らず人を斬るには武士の生き方は邪魔なのだとな」

 だが肯定も出来なかった。
 貴一に狂気はない。理路整然と、それが常識であるかのように、殺戮を語る。
 彼は狂っているのではなく、心底剣は人を斬るものだと考え、それを実践しているに過ぎない。

「忠義、名誉、信念、尊厳、道徳……あまりに無粋よ。そのようなものを剣に籠めるから人は濁る。刀は斬るもの、ならば斬ることを鈍らせる武士道なぞ唾棄すべき不純物にすぎぬ。故に儂は家を斬り捨て、武士である己を斬り捨てた」

 何となくだが理解できた。
 この男に目的などない。
 攘夷や開国に興味はなく、それどころか未来にも過去にも自身の生き死ににすら興味はない。
 敢えて目的を挙げるとするならば、死に絶えるその瞬間まで“岡田貴一”であり続けること。
 剣に生きた、その道行き。
 それが無意味ではないと証明する為に人を斬る。
 この男にとっては、今迄続けてきた自身の歩みを汚さぬ事だけが唯一であり至上の誇りなのだ。

「師を斬り捨て、人を斬り捨て、家を斬り捨て、係累を斬り捨て、友を斬り捨て。最早何を斬り捨てたのか覚えていない程に斬り捨て、呆れる程に剣を振るってきた。かっ、かかっ、其処まで行くともはや人とは呼べぬらしい。いつの間にか鬼と成っておったわ」

 薄く笑い、斬って捨てるような鋭利な視線で貴一は言った。
 
「何故斬る、主はそう問うたな。答えよう。儂は人を捨て、鬼へ堕ち、その果てに……剣へと至る為に斬っておる。儂は剣に生きた。ならば只管に斬り、剣に至ってこそ意味のある命」

 願ったのはただ一つ。剣に生きるということ。
 刀は人を斬る為に造られた。ならばこそ斬る。
 剣術はより上手く人を斬る為に生まれた術。ならばこそ斬る。
 人であれ鬼であれ、武士であろうと町人であろうと、女子共であったとしても関係ない。
 己が剣であるならば、ただ斬る。
 倫理道徳を排した、その真理こそが岡田貴一の全て。

「剣に生きるとは、即ち剣に為ることであろう」

 その言葉に打ちのめされた気がした。
 対峙する敵、その眩しさに目を細める。
 岡田貴一は甚夜の憧れの体現だった。

 ───人よ、何故刀を振るう。

 遠い日に投げ掛けられた問いは今も耳に残っている。
 目的があった。
 だから、強くなりたかった。
 強くなればきっと、振るう刀に疑いを持たずに在れると思った。

 だから、力だけを求めてきた。
 鬼を討つのも鍛錬に過ぎず、義心なぞ欠片もなかった。
 それを間違いだとは思わない。かつて妹は現世を滅ぼすと言った。ならばこそ、けじめは付けねばならない。その為には力が必要で、他のものなぞ全て余分でしかない。
 ただ、強くなりたかった。
 強くなって、けじめをつけて。その為だけに生きてきた。
 どこまでいっても、それが全てだった。

「そう、か」
 
 けれどいつの間にか余分は増える。
 憎しみの為に刀を振るってきた。
 強くなりたくて、それだけが全てで。
 なのに全てと思ったものに専心できなくなってしまった。
 岡田貴一の生き方は、甚夜がそう在りたいと望んだ理想だ。
 叶うならばあのように、一つの目的の為に全てを切り捨てられる己で在りたかった。

「問答は終わりか」
「ああ……。正直に言おう。私には、お前が眩しい。羨ましいとさえ思う」

 その生き方は間違いなく甚夜が望んだものの筈で。

「だから、続きといこうか」

 なのに何故だろう、それを歪と感じるのは。

「ほう」

 貴一は感嘆の声を上げた。侮蔑の色は消えている。首から、脇腹から血を流しながら甚夜は脇構えを取る。好んで使う構え。その堂々とした立ち姿に、凄惨な笑みを向ける。

「逃げぬか」
「無論。話を聞いて、是が非でもお前を斬ってみたくなった」

 何故? 違う、理由は分かっている。
 憧れた筈の生き方、その体現を美しいと思えないのは奴が語る濁りに価値を見出してしまったからだ。
 花の名前。友と呑む酒。笑える場所。蕎麦の打ち方。今ではおしめだって替えられるようになった。
 なにもかも無駄だ。全てと信じた生き方を濁らせる余分にすぎない。
 だがそれを大切に想える自分がいる。
 
 故に退けぬ。
 剣の腕で劣るならば鬼と化し、<力>を使えばいい。
 思いながらもそれを選ばなかった。勝つための手段を敢えて封じる、それもまた余分だ。
 だとしても使う気にはなれない。奴のいう濁りによって弱くなった己が、かつて抱いた理想にどれだけ追い縋れるか。それが知りたかった。
 その結果命を落としたとしても、納得できるような気がした。

「中々に澄んだ言葉を吐く。気に入ったぞ」

 初めて貴一が構えた。僅かに刀を左へ傾けた、変形の正眼。ようやく敵と認めて貰えたのだろう。甚夜は笑みを落した。
 空気が凝固していく。
 息が詰まる。口が渇く。
 二人は微動だにせずに睨み合う。隙を窺っているのではなく、自身に力を溜め込んでいる。斬る。ただその一点にのみ意識は向けられていた。
 じり、と僅かに距離が詰まる。摺足で少しずつ間合いを測る。
 沈黙はどれくらいだったろうか。
 二人の間にひゅるりと夜風が吹いて。

 
 それが合図となった。


 甚夜は静止状態から一転、弾かれたように駆け出す。鍛え上げられた体躯、その力を余すことなく発揮した疾走だった。
 対する貴一も一歩目から最速に達する。肉ではなく、鍛え上げられた技術における身体操作。同じ疾走であっても二人のそれは意味合いが違う。
 距離は瞬きの内に零となり、互いに渾身の一刀を振るう。

「――――――っ!」

 言葉にならない雄叫びを上げ、二匹の鬼が交錯する。
 駆け抜け、足を止め、再び静まり返ったように立ち止まる。
 そして、一匹の鬼が膝をついた。

「あ、ぐ」

 遅れて鮮血が舞う。胸元が切り裂かれ、皮膚の下の血肉が露わになっていた。
 二人は全霊の剣を見せ合った。
 剣に至ろうとした男。力だけを求め、そう在れなかった男。
 互いの道に優劣はない。
 ただ大切なものが違っただけ。
 どちらが正しいのかは誰にも、おそらくは彼等にも分からないことだ。
 
 しかし、どうしようもなく勝敗というものは存在する。

 血払いをして、刀を鉄鞘に納め鬼は言う。

「かっ、かかっ。見事、久々に“剣”を見た」

 片膝をついたまま動けぬ甚夜に向けて、心からの賞賛を送る。
 両の足で立っているのは岡田貴一。
 全霊を尽くした。それでも尚、届かなかった。

 ごふ、と口から血が零れ出る。死に至る程ではないが傷は深い。すぐには動けず、無防備を晒してしまっている。このままでは殺される。勝敗は決した。だが黙って殺されてなるものか。まだ目的がある。たとえいかに無様であろうと、足掻いて足掻いて、生にしがみ付かねばならぬ。
 そうして体を起こそうとするが、いつまで経っても追撃は来ない。
 何故。疑問に思い顔を起こせば、貴一は甚夜に背を向け立ち去ろうとするところだった。

「何処へ…行く……」

 息も絶え絶えになりながら甚夜は立ち上がり、その背中に声を投げ返る。そこには怒りが混じっている。斬られなかった、命が助かった。だというのにそれが納得できず、真意を問い詰めようと語気を荒げた。

「お前の勝ちだ。何故斬らん」
「勝ち? 異なことを言う。剣の勝負とは即ち命の奪い合い。互いに生きておるのだ、勝ちも負けもあるまいて。それが濁っておるというのだ……が、ぬしは確かに儂を斬った」

 そう言って、甚夜に向き直り、掲げるように腕を挙げた。上腕の辺り、着物の袖が裂けている。僅かに切り口は赤い。見せつけるように袖をまくれば、そこには僅か二寸にも満たぬ切り傷があった。

「余分に塗れ濁ってはいるが、その剣の冴えは清澄。矛盾した剣との立ち合いは中々に楽しめた」

 哂うではなく、笑う。ぎょろりとした目の小男は、まるで童のような無邪気さで笑う。

「剣とは濁りなきもので在るべきだと儂は思うておる。しかしぬしは濁ったまま剣に至ろうとしている。儂はその行く末を見て見たいと思った。故にその命は預けておこう」

 だから斬らぬ。
 貴一は純粋だ。結局のところ頭には剣のことしかない。そしてその純粋さ故に鬼となった。鬼は己が生き方から逃げられぬ化生。ならばこの男はきっと、剣から逃げることは出来ず、また逃げる気もないのだろう。

「いずれ、再び相見えようぞ。その時には濁った剣の答え、見せてもらうとしよう」

 心底楽しそうに、笑い声を上げながら貴一は去っていく。
 畠山憲保からの依頼は果たせず、件の人斬りは再び巷へと還った。自身は完全に敗北し、何一つ得ることは出来なかった。
 しかし何故か、心は晴れやかでさえあった。
 橋の真中で甚夜は寝転がり夜空を見上げた。
 瞬く星と青白い月を眺めながら先程の立ち合いを、そしていつか、雪柳の下で語り合った夜を思い出す。

「くっ、くく…ははは……」

 そうして甚夜もまた笑う。
 負けた。だが余分に塗れ濁った剣で、理想の己を傷つけられたことが嬉しかった。
 あの小さな傷の分くらいは、今までの生き方にも意味が在ったのだと思えたから。

「なんだ、やれるじゃないか」

 己の手で、それを証明が出来たたことが嬉しくて、甚夜は血だらけのまま笑い続けた。









 ◆


 2009年 9月


 さて、時間は五時。
 そろそろ放課後の生徒達がこぞってこの店に訪れる。稼ぎ時がやってきた。

「店長、おつかれさまでーす」

 声を掛けてきたのは最近入ったアルバイトの少女。戻川高校の一年生である。

「ふむ、みやか君。今日は早かったの」
「急いできたので」

 色素の薄い長い髪はうっすらとした茶色をしており、その容姿も相まって彼女を目当てに訪れる男子生徒もいる。なかなかに有難いことである。
 しかし最近の娘は皆このように素っ気ないのだろうか。いやいや、どうもこの娘だけのような気もするが。そのようなことを考えているとみやか君がレジに来たため引き継ぎのレジチェックを行う。……うむ、一円の誤差もない。我ながら完璧であった。

「それでは品出しを」
「はい」

 見た目は生意気そうな小娘だが、それに反して性格は素直で真面目に働く。他のアルバイトの者達も見習ってほしいものだ。

「あ、いらっしゃいま……げ」

 品出しの最中、客が入ってきた為みやか君は笑顔で挨拶をし、途中で表情をひきつらせた。

「みやかちゃーん、遊びに来たよー」
「邪魔しに来たぞ」

 背の小さい、幼げな顔立ちの少女と厳めしい面をした男。なんともちぐはぐな男女である。制服は共に戻川高校のもの。おそらくはみやか君と友人同士なのだろう。この男が友人だなどと、なかなかに信じがたいものはあるが。

「やめてよ、恥ずかしい。……というか二人とも、相変わらず仲いいよね」

 若干不機嫌になったのか半目で睨む。しかし件の男女は全く気にした様子はない。

「へへー、まあね! なんと言っても古い付き合いだから!」
「古い?」
「うん、百年以上前からの」
「薫、ちょっと滑ってるよ?」
「えー、冗談じゃないのにー」

 幼げな少女が頬を膨らませる。
 女三人寄ればかしましいというが、二人でも相当なものである。そんな少女らを横目に男の方は店内を物色し、日本酒の五合瓶を持ってきてこちらのレジに置いた。

「いらっしゃいませ」
「……慣れんな、敬語のお前は」

 マニュアル通りの対応をすると疲れたように溜息を吐く。それならば、と普段通りの言葉遣いに変える。

「これは、いや、なかなかに辛辣よの。では態度を改めるとしよう」
「そうしてくれ。その方が有難い」

 話ながら酒をレジに通す。学生服を着ているがこの男は既に二十歳を超えている、別に売っても構わぬだろう。

「学生服で酒を買うのは止めた方がいいと思うが」
「言ってくれるな。他の店では買えないんだ」

 近頃は酒類の規制が厳しい。高校生である以上仕方のないことだろう。
 一度雑誌コーナーの前で談話する少女達を横目で見てから、眼前の男に視線を移す。

「高校生活、楽しんでいるようで何より」
「そういうお前も、店長が板についているようだが」
「ふむ。生きる為に始めた仕事ではあるが、楽しみもある。悪くないとは思っておるな」

 だが、それでも。

「しかし余分よ。今も昔も、曲げられぬものがある」

 例えば、その為に斬り捨てろと言われれば容易に為せる。
 楽しく思うのはこれが己の本分ではないから。余暇や趣味を楽しむ心持となんら変わらぬ。

「ぬしはどうだ。その濁った剣に意味は見出せたか」

 投げ掛けた問いに一度沈黙し、しかしぽつりぽつりと男は語り始める。

「お前は私の理想だ、今も昔も」

 男は真っ直ぐな視線で語り始める。相変わらず余分を背負い濁り切ったその男は、しかし鉄のように硬いと思えた。

「一つに専心し、他の全てを切り捨て。あまりにも純粋なその在り方に、心底憧れていた」

 遠い目。映す景色はまほろば。厳めしい面の男から紡ぎだされるのは、実に穏やかな言葉だった。

「だが私もそれなりに長くを生きた。多くのものを失って、それでも小さな何かが残って。そんなことを繰り返して今の私がある。余分を背負いその度に揺らぐ私は、成程、確かに濁っているのだろう。だが積み重ねてきたものは余分であっても無駄ではなかった。今ではそう思えるよ」

 そうして穏やかな笑顔を落す。
 
「では、な。お前も偶には足を止めて周囲を眺めてみるといい。きっと、違った今が見える」

 そう言い切った男は実に堂々としており、纏う空気は以前よりも強く見える。
 もう一度斬り結んでみたい、そう思える程度には。
 
「……甚夜、店長と知り合いだったの?」

 品出しを終わらせたみやか君がレジに戻ってきてそう言った。話し込んでいる姿が親しげに見えたのか、不思議そうな顔でこちらと男を交互に眺めている。

「古い知人だ」
「うむ、懐かし顔よな」

 誤魔化した訳ではなく、事実を言ったに過ぎない。しかし意味が分からなくなったらしく小首を傾げている。

「そろそろ行くか」
「え? あ、そうだね。じゃあね、みやかちゃん」
「うん、また、明日?」

 納得のいく答えを返さぬまま、男は幼げな少女に声を掛け、店を出て行こうとする。本当に遊びに来ただけだったらしい。少女の方は何も買わなかった。

「ああ、そうだ。一つ言い忘れていた」

 足を止め、首だけで振り返り男は言う。

「濁った剣では切れ味は鈍る。だが、おかげで斬らずに済んだものもある。それが、私の答えだ」

 挑発的な笑みを残し男は去っていく。
 揺らぎのない背中。それは、まるで剣のようだと思った。

「なんだかなぁ……」

 言葉の意味が理解できず、みやか君は眉間に皺を寄せている。
 反面、この胸は愉悦に満ちていた。
 以前立ち会った時には掠り傷一つ負わせるだけで精一杯だった男が、ああも強くなるとは。
 まこと、歳月とは不可思議なものである。
 追想と現実を重ね合わせれば。思わず口元が吊り上る。
 そうして儂はかつて夜叉と呼ばれた男の背を見送り、

「かっ、かかっ」

 堪え切れず笑うのだった。




 鬼人幻燈抄 幕末編 余談『剣に至る』了
           次話『流転』





[36388]      『流転』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/12 21:14
 それは何でもない日のことだった。
 
 いつも通り甚夜は蕎麦屋『喜兵衛』に顔を出し、昼食をとっていた。隣に座るのは野茉莉(のまり)。子供の成長は早い。ついこの間まで赤子だと思っていたのに、もう自分で歩けるようになり、言葉も達者になった。

「頂きます」
「いただきまーす」
 
 置かれた蕎麦を前に、手を合わせて小さく礼をする。野茉莉もそれに倣い、元気よく声を上げた。
 以前は「頂きます」などは言わなかった。だが今は人の親だ。子は親の真似をするもの。だから自然と言うようになっていた。勿論、そのあからさまな変化をおふう達に笑われたのは言うまでもない。

「おう、嬢ちゃん。うまいか?」
「んーと、ふつう」
「うん、この子、間違いなく旦那の娘ですね」

 歯に衣着せぬ野茉莉の物言いに店主は乾いた笑みを浮かべた。そう言えば昔同じように答えたことを思い出す。血は繋がらなくとも親娘は似るものである。
 野茉莉の使っている丼は以前おふうと買ったものだ。小さくても深さがあり、この娘には丁度いい。まだ箸が上手く扱えず、食べ物を口で迎えに行っているが、それも可愛らしいと思ってしまう。まったく、父親とは難儀なものだと甚夜は内心苦笑を零した。

「ほら、野茉莉。口元」

 言いながら汚れてしまった口元を拭う。その姿があまりにも自然だったから、おふうは嘆息した。

「ほんと、お父さんですねぇ」
「なんというか、旦那が親馬鹿とか意外過ぎるんですが」

 何処か呆れたような視線で見つめるのは店主だった。その隣では娘のおふうが優しい瞳で眺めていた。普段は無表情で、笑顔をあまり見せない甚夜が娘を見詰めて笑う姿は、店主には酷く奇異に映ったようだ。

「何とでも言え」

 知ったことかと野茉莉と戯れる。成程、その姿は立派な親馬鹿だった。

「ま、旦那の気持ちも分からんではないですがね。娘ってのはいいものでしょう」

 その言葉に甚夜は深く頷いた。

「父が娘を心配する気持ち、今なら分かる」

 横目でちらりと店主を、おふうを盗み見る。そして野茉莉の方へ視線を戻し、軽い笑みを落す。

「? とうさま、わたし、なにかした?」
「何もしていない。それでも、やはり心配はしてしまうものだ」

 不思議そうにこてんと首を傾げる娘が愛らしくて、頭を軽く撫でる。気持ちよさに目を細める野茉莉の姿に、甚夜もまた眩しそうに目を細めた。

「はは、父親ってやつは無条件で娘の心配をしちまうもんですから。旦那も大変ですよ、これから」
「そうだな、だがそれも悪くない」

 お互い娘を持つ身、一種の共感があるのか、分かり合うような二人の会話。それを微笑ましく見つめる直次とおふう。店内には暖かい空気が流れていた。

「ところで、その娘にも母親が必要だと思いませんか? ここはどうでしょう、うちのおふうを妻に迎えるってのは」
「……やっぱりそういう話になるんですね」

 父親の馬鹿な発言におふうは溜息を吐いた。店主は甚夜を婿に迎え入れ、蕎麦屋を継がせようとしているらしく、悉くおふうとの婚姻を勧めてくる。初めのうちは顔を赤くして慌てていたおふうだが、今では「またか」と軽く流していた。

「いや、だがなおふう」
「はいはい、お話は後で聞きますから」
「……最近、おふうが冷たいような気がする」
「お父さんが馬鹿なことばかり言うからですよ」

 すげない態度の娘に心なしか沈んだ表情の店主だった。

「……いずれ野茉莉も、ああやって父に冷たくなるのだろうか」
「いや甚殿。その心配はあまりに早すぎるかと」

 何故か甚夜も若干沈んでいた。しかもその顔を見るに冗談ではなく真面目に言っているらしい。それがおかしくて、おふうが噴出した。

「じ、甚夜君、変わりましたね」

 その言葉に甚夜は思う。
 自分は変わったのだろうか。正直に言えば、実感はなかった。
 
 かつて想い人を殺した妹──鈴音。
 
 彼女に対する憎しみは今も胸に在る。
 鈴音を憎むことで鬼と成ったこの身は、その憎しみから逃れることは出来ない。
 目を閉じれば瞼の裏で揺らめく憎悪。
 許せないと。
 それでも殺したくないと。
 相反する感情を抱いたまま甚夜はこれまで生きてきた。 
 振るう刀の意味も見出せず、ただ無為に力を求めて。
 生き方は今も変わらず、おそらくこれからも変わらないのだろう。
 
「私は、変わったと思うか」
「はい。私はそう思います。前よりも優しく笑うようになりました」
「そう、か」

 おふうの言葉が胸に染み入る。
 結局、甚夜には刀を振るうことしか出来ないし、生き方は曲げられない。
 遠い夜、抱いた憎しみは今も胸を焦がして。

 だが、それでも変わっていくものはあるのだと。
 僅かにでも変わっていくことが出来るのだと、半世紀近く生きてようやく信じられるようになった。その是非を問うことは今の自分には出来ない。しかし胸には言い様のない暖かさがあった。

「ありがとう、おふう」

 だからそれを少しでも伝えられるように甚夜は笑った。
いつもの落すような笑みではない。柔らかな表情。彼らしくない、しかし彼らしいと思わせる純朴な笑みだった。
 それが嬉しくて、おふうもまた笑顔で返す。
 穏やかな、ただ穏やかな午後の日。
 うららかな陽射し。
 心地よい緑風。
 当たり前のように笑う、普段通りの店内。
 それはいつもと何も変わらない、何でもない日のことだった。
 何一つ特別なことなどない昼下がりは、こうして過ぎていった。





 そうだ。
 日々は過ぎていく。

 苦痛に打ち拉がれても。
 幸福に満ちていたとしても。
 毎日は続き、そして流れ往く。

 その是非を問うことは誰にもできず。
 それでも歳月は無慈悲で。




 あらゆるものは、流転する。
 



 鬼人幻燈抄 幕末編『流転』






 慶応三年(1867年)・九月。

 晩秋に差し掛かり、雲の厚くなった空が季節の終わりを感じさせる午後の日だった。
 南の武家町にある三浦邸の庭では二人の男が切り結んでいた。と言っても獲物は木刀、詰まる所ただの鍛錬である。しかしその気迫は実戦さながら。庭の空気は冷たく張り詰めていた。

 かんっ、と乾いた音が響いた。

「くぅ……!」

 三浦直次在衛は苦悶に声を漏らす。
 上段から唐竹割り、尋常ではない速度の振り下しが襲ってくるも、咄嗟に木刀を盾にして何とかそれを防ぐことが出来た。と言ってもそれは相手が手加減をしてくれたから防ぎ切れただけ。彼我の戦力差は歴然としている。

 相対する敵───甚夜はいつも通り無表情のまま、しかしその眼だけが刃物のように鋭く研ぎ澄まされている。

 甚夜は木刀に力を籠め、直次の守りをこじ開けようとしている。普段の彼ならば取らないであろう粗雑すぎる攻めは直次がこの状態から如何な反撃をしてくるか期待しているためだ。

「さて、どうする?」

 その言葉を機に、直次は一歩を踏み込み力付くで甚夜の木刀を跳ね除けた。
両者の腕力を比較すれば、確実に甚夜が上である。にも拘らず自分が押し勝てたのは何故だろうか? 

 いや、考えている暇などない。この隙は逃さない。左足で地を蹴り更に一歩踏み込み、左手の力で相手の肩口から斜めに切り下す。
お手本通りの袈裟掛け。この距離ならば確実に捉えた。
 直次はそう確信し、

「青い」

 しかしそれは現実とならなかった。
 直次が袈裟掛けの一刀を振り下すよりも速く、甚夜の木刀がぴたりと首に触れていたからである。
 
 速過ぎる。

 何故後から動いたはずの甚夜の方が自分よりも早く刀を突き付けている?
 直次は訳が分からないと言った顔だが、実の所甚夜がしたことは実に単純だった。
 刀を押し返そうと直次が力を入れた瞬間、自ら力を緩めただけ。押し退けるために全力を使った直次とすかした甚夜。次の行動は当然甚夜の方が一手早くなる。
 その上で右足を下げ半身になり、両手を体に引きつけ、切っ先を相手に向ける。形としては正眼の構えに近い。この動きも振り被って剣撃を放つ直次よりも遥かに早い。

 何故直次よりも甚夜が刀を突き付ける方が先だったか。 
 それはより速かったからではなく、より無駄がなかった為。
 結論だけ言えば、直次が一歩踏み込むより先に甚夜はこの構えを取っていたに過ぎない。
 つまり、正確には甚夜が首元に木刀を突き付けたのではなく、突き出した木刀に直次が自分から突っ込んでいっただけ。
 無駄を削ぎ落とした太刀。以前対峙した人斬りの技を真似てみたが、存外に上手くいった。

「ま、参りました」

 冷や汗を垂らしながら直次が降参する。その言葉を聞いて甚夜は木刀を引いた。

「実直なのはお前の美徳だが同時に急所だな。狙いが分かりやすい」
「はは、面目ない。しかし流石に甚殿は強い。鬼をも打倒する剣、味あわせて頂きました」
「所詮我流だ。私こそお前の剣には学ぶことが多い」

 甚夜の剣は幼い頃元治に教えられた剣術を我流で磨いたもの。
 対して直次のそれは生真面目な彼らしく、剣術の基礎に忠実な、まるで教本のように綺麗な剣だった。だからこそ基礎を学び直す上で彼は良い手本となる。今回稽古をつけて欲しいと言い出したのは直次だったが、彼との鍛錬は甚夜にとっても得る物があった。

「いえ、そんな。学ぶことが多いのは私の方です。我流だからこそ私には勉強になります。恥ずかしながら、この歳まで実戦を経験したことがありません故。実戦で練り上げた甚殿の剣は私にとって珠玉です」
「ならばいいのだが。しかしどうした、急に稽古をつけて欲しいなどと」
「少し体を動かしたかった。それだけですよ」

 ふいと視線を逸らしながら直次は言う。額面通り受け取った訳ではないが、追及はしなかった。この男は生真面目で当たりも柔らかいが、本質的には古い武士。問い詰めたところで話はしないだろう。

「力に為れることがあれば言え」
「そうさせて頂きます……近々、伝えられると思いますので」

 今はそれくらいしか言えることがなかった。だがそれで十分だったらしい。不器用な甚夜の気遣いに直次は感謝をこめて一礼した。

「あなた。甚夜様も、お疲れ様です」

 二人の会話が終わった頃を見計らって声をかけたのは、直次の妻・きぬである。夫と同じく折り目の付いた立ち振る舞いの、元々は武家の出の女だった。縁側には手拭と茶が用意されている。きぬは手拭を持って鍛錬の終わった直次に近付いた。

「きぬ、すまないね」

 軽く微笑みながら手拭を受け取り、流れる汗を拭う。既に一刻半は鍛錬を続けている。流石に疲れたようで、そのまま縁側に向かい腰を下ろす。すると流れるようにきぬがお茶を差し出した。夫婦の呼吸だった。

「とうさま」

 幼い声。とてとてと覚束ないながらも歩いてくるのは野茉莉。五歳になった甚夜の愛娘である。
 黒髪を肩口まで伸ばした童女は満面の笑みである。膝をついて娘が自分の所に来るのを待つ。その意を理解したのか少し足早になった。そうして何とか甚夜の下まで辿り着き、そのまま胸元へ倒れ込んだ。

「危ないぞ」

 思わず苦笑が漏れる。歩けるようになったが、まだまだ危なっかしい。それとも父に抱き着きたかっただけなのだろうか。危なく転びそうだったと言うのに野茉莉はやけに嬉しそうだった。

「ん」

 差し出したのは手拭だった。しかし鍛錬の後ではあるが、甚夜は殆ど汗をかいていない。正直に言えば必要ないのだが、

「ありがとう」

 礼を言って手拭を受け取った。折角持ってきてくれたのだ。いらないと突っぱねることもない。二、三度頭を撫でて抱え上げれば野茉莉は嬉しそうに微笑んだ。
 
「野茉莉、退屈させたか?」
 
 ふるふると首を横に振る。そうか、と小さく返し縁側へ向かう。そこではきぬが甚夜の分も茶を用意していた。

「……きぬ殿、すまない」
「いえ、この度は夫が無茶を言ったようで」
「気にするな。私としても得る物はあった」
「そう言っていただければ幸いです」

 安心したように彼女はゆっくりと頷いた。
 直次に紹介され、きぬとは既に数度顔を合わせている。親としての経験が浅い甚夜に色々と助言をしてくれる貴重な人物だ。
 しかし甚夜は、どうにもきぬのことが苦手だった。

「ところで、甚夜様」
「……なんだ」

 というのも、

「いい加減この喋り方やめてもいいかい、浪人?」

 彼女は少し前まではあまりにも粗雑な遣り取りをしていた相手で、どういう顔で接すればいいのか分からなくなってしまうからだ。

「……そうしてくれた方が、有難い」
「あんたも夜鷹でいいんだよ?」

 きぬ、というのは彼女の本名である。
 しかし甚夜は名を教えて貰えず、ずっと夜鷹という名称を使ってきた。その為きぬと呼ぶのには未だに抵抗が在った。
 とは言え夜鷹というのは最低位の売春婦を指す言葉、流石に夫の前でそんな呼び方をする訳にもいかない。

「人の妻を娼婦呼ばわりはできん」
「固いねぇ」

 くすくすと笑う。以前の妖艶さは顔を顰め、無邪気ささえ感じさせる。
 数年前、彼女は直次と結婚した。どうやら甚夜の知らぬところで二人は逢瀬を交わしていたらしく、結婚前に直次本人からの報告があるまで気付けなかった。
 武士には珍しい恋愛結婚、無論すんなりといった訳ではない。直次の母は古い武家の女であり、何処の馬の骨とも知れぬ夜鷹に強い拒否感を抱いていた。結婚に至るまでは当然のごとく紆余曲折があり、直次は大層苦労をすることになったのだが、それはまた別の話である。

「息子はどうした?」
「忠信かい? 今は手習指南所に行ってるよ。野茉莉ちゃんと会うのを楽しみにしていたんだけどね」
 
 手習指南所とは所謂寺子屋のことで、江戸近辺ではこの呼び方が一般的である。直次の息子・忠信(ただのぶ)はいずれ三浦家の当主と為る身、今の内からしっかりと学ばせようということなのだろう。

「忠信は野茉莉嬢がお気に入りのようで。どうですか甚殿? 娘を武家の嫁にする気はありませんか?」

 冗談とも本気とも取れる口調だった。しかし直次の性格上全くの冗談と言うこともないだろう。ふむ、と一度頷き甚夜もそれに返す。

「娘はやらんぞ。……と言いたいところだが、お前の息子ならばどこの馬の骨とも知れん輩よりは信が置けるか」

 この男、やはり武家の当主らしく息子の教育に熱を入れており、普段の彼からは想像できないほど躾には厳しいのである。

 義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
 己が矜持に身を費やし、それを侵されたならば、その一切を斬る“刀”とならん。
 ただ己が信じたものの為に身命を賭すのが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。

 まだ童の域を出ない息子・忠信に、直次は繰り返し教えていた。
 その結果、忠信はまだ八歳でありながら生真面目で礼儀正しい、実に武士らしい性格に育っていた。古臭いと言えばそれまでだが、甚夜自身頑固で不器用な古い男。幼いながらに一本筋の通った忠信の在り方は嫌いではない。このまま真っ直ぐ育てば本当に野茉莉の婿として迎え入れてもいいとさえ思っていた。

「だが結局は野茉莉次第だ。大きくなった時、この娘自身が決めればいい」

 頭を撫でると気持ちよさそうに野茉莉が目を細めた。黒髪が指に絡まることなく流れる。その手触りが心を暖かくさせた。

「とうさま、もっと」
「ああ、分かった」

 わしゃわしゃと頭を撫でれば顔が綻ぶ。その様を微笑ましく思いながら直次は言葉を続けた。

「意外ですね。もっと反対すると思っていましたが」
「親馬鹿なのは認めるが、私自身が生き方を曲げられん男だ。娘が決めたことをどうこうしようとは思わん」

 生き方なんぞ他人に何を言われたところで変わらないし、そもそも変える気もない。
 甚夜自身がそう考えている。ならばこそ娘に自分の考えを押し付けるような真似はしたくない。
 それに、この話が現実になるのは然程悪くないと思う。
 野茉莉と忠信が結ばれれば、直次や夜鷹……きぬと家族になるということだ。それは案外面白いかもしれないと思えた。
 暖かな夢想を浮かべていると、気付けば直次が笑いを噛み殺していた。しかし隠しきれず肩が揺れている。

「何故笑う」

 何かおかしなことを言っただろうか。問い質せば、直次はゆっくりと首を振ってそれを否定した。

「すみません。別に甚殿がおかしなことを言った訳では。ただお互いの子供を結婚させよう、などと話し合っている今がどうにも不思議で」

 堪えているつもりなのだろうが、口の端にまだ笑いが浮かべている。
 成程、直次の言うことも分からないでもなかった。初めて会った時のことを思い出す。二人が知り合ったのは今から十四年も前のこと。直次の兄・三浦長平兵悟の失踪した事件が切欠だった。
 結局、彼の兄は生きていたものの三浦家に帰らなかったが、これを機に甚夜と直次は長らく友宜を結び現在に至っている。

「確かに、初めて会った時からは想像も出来んな」
「でしょう? 私達も歳を取ったものです」

 そうしてまた笑い、ふと直次の表情が陰った。どうしたのか、問うよりも先に何処か寂しそうな視線を向けた友人は、小さくぽつりと呟いた。
 
「甚殿は……変わりませんね」

 それは、いつかおふうが口にした言葉とは逆だった。
 あの時彼女は甚夜の内面を指して変わったと言った。しかし今、直次のそれは外見を指している。
 直次は今年で三十二となり、顔の皺も少しずつ目立ち始めている。歳月を重ねれば年老いていく。人として当たり前の変化だった。
しかし鬼の寿命は千年を超える。
 未だ甚夜の外見は、十八の頃と変わっていなかった。

「済みません、忘れてください」

 甚夜もおふうも人には鬼であるという事実を隠している。だが、長らく共に在れば老いぬ二人に違和感くらいは覚えるだろう。
 彼も薄々二人の正体に気付いているのかもしれない。

「ああ。……さて、そろそろ失礼させて貰おう」

 言いながら野茉莉の手を取り立ち上り、そのまま抱き上げる。まだまだ甘えたい盛り、だっこされたのが嬉しいようで無言のまま父に頬を寄せてきた。

「待ってください、貴方を責めるつもりでは」

 もう一度謝ろうとする直次に首を振って“気にするな”と示して見せる。そうだ。気にしてなどいない。いつまでも歳を取らない自分に友人として接してくれた。直次にはそれだけでも感謝している。
 しかし自身が鬼であるとは言い出せなかった。
 彼を信頼していなかったからではない。正体を明かせなかったのは、話せばおふうが鬼であることも、果ては三浦長平についても語ることになると危惧したからだ。
 ……僅かに浮かんだ恐怖を、否定することは出来ないが。

「気にしてはいない。ただ、喜兵衛に顔を出そうと思っただけだ」
「そうですか……」

 納得してくれたのか、少しだけ俯きそれ以上何も言わなかった。
 そうして甚夜達は三浦家の庭を後にした。
 もう、無理かもしれない。
 不意に昏い不安が脳裏を過った。




「おや、もう帰るのかい?」

 門を潜ろうというところできぬに呼び止められる。ああ、と短く答え早々に立ち去ってもよかったが、次いで放たれた言葉に足を止められた。

「随分と暗い顔をしているけど、あの人が何か言った?」

 感情を隠したつもりだが、きぬにはいとも容易く見破られてしまった。
 そう言えば彼女は昔から表情を読むのが上手かった。夜鷹は仕事柄、心の機微に敏い。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物であった。

「特には」
「そうかい? ま、あの人が何を言ったかは知らないけど、懲りずに来てやっておくれよ」

 にっこりと顔を綻ばせる。彼女にしては珍しい素直な笑みだった。それが意外過ぎて、思わず唖然となる。

「どうしたんだい?」
「ああ、その、なんだ。……正直に言えば、意外だ。私は歓迎されていないと思っていた」
「そんなことはないさ。浪人の方は、あたしのことが苦手なんだろうけど」

 またも見透かされて言葉に窮する。それがおかしかったのか、今度は声を上げて笑った。

「相変わらず分かり易いねぇ」
「だとしても、こうまで見透かすのはお前くらいだ」
「それは光栄だね。じゃあ見透かしたついでにもう一つ。あんたは少し自虐が過ぎると思うよ」

 肩を竦めてそう言った夜鷹は、はにかんだような、困ったような、名状しがたい表情をしていた。

「生きてるんだ、良し悪しはあって当たり前だし、変わるものも変わらないもの同じようにあるさ。捨てようと思っても捨て切れないものがあったようにね」

 すっと自然に手が伸びて、夜鷹のしなやかな指が甚夜の頬に触れる。そうして感触を確かめるように頬から顎へ指は流れた。

「何を抱え込んでいるのかは知らないさ。でも、それをひっくるめてのあんただろう? 自分でどう思っていようが、あたしは浪人のことをそれなりに気に入ってるよ。多分あの人もね。それじゃあ、納得いかないかい?」

 夜鷹は直次とのやり取りを聞いていた訳ではない。
 だからこれは単に「何を悩んでるのかは分からないが、些細なことは気にしないでいい」という意味に過ぎない。だがそれでも、少しだけ気が楽になったような気がした。

「まさかお前に気遣われる日が来るとは」

 ありがとう。口にするのはどうにも気恥ずかしくて、礼ではなくそんな憎まれ口を返してしまう。
 だから夜鷹は笑った。彼女がこんな下手くそな照れ隠しを見破れない筈がなかった。

「つれないねぇ」

 でも、その方があたし達らしいか。
 そう付け加えた言葉が、何故か心地好く感じられた。



 ◆


 三浦邸を離れ深川へと向かい、蕎麦屋『喜兵衛』を訪ねる。
 いつもは暖簾を潜った所で店主が威勢のいい声で迎えてくれるのだが、今日は何も聞こえない。店主がいつも経っている筈の厨房には誰もいなかった。
代わりに、

「甚夜君……野茉莉ちゃんも」

 店内の机で俯いている少女が一人。
 疲れた表情で、何とか声を絞り出すおふうの姿があった。

「こんにちは」

 甚夜の腕から離れとてとて歩き、お辞儀をしながら挨拶をする野茉莉。おふうはそれに硬いながらも笑顔を作って返してくれた。

「はい、こんにちは。野茉莉ちゃんは礼儀正しいですね」

 だがそれも一瞬、すぐさま陰鬱な雰囲気が彼女を包む。その理由は分かっている。だからこそ甚夜は近頃、空いている時間には喜兵衛を訪れるよう心掛けていた。

「店主は」
「奥で寝ています」

 目線を合わせることなく答える。
 店の奥には普段店主やおふうが使っている寝床がある。よく見れば畳敷きの部屋には布団で店主は眠っていた。

「そう、か」

 去年の暮辺りから、店主はこうやって寝込むことが多くなった。病気ではない。単に年老いただけ。人ならば逃れることのできぬ自然の摂理だ。
 そして、それこそがおふうの憔悴の原因だった。
 鬼と人では寿命が違う。おふうは店主のことを父として慕っていた。それでも同じ時を生きることは叶わない。彼女は、かつて己を救ってくれた父の死後、数百年という長い長い歳月を独りで生きていかなくてはならない。刻々と近付く現実が、彼女を打ちのめしていた。

「私の、せいで……」

 もう一つ、彼女を苦しめていることがあった。
 店主の老衰には少なからずおふうが───彼女の<力>が関与していた。
 本来ならば店主はもう二十歳ほど若く、まだ寿命を迎えるには早い筈だ。しかし現実として彼は死に絶えようとしている。それ故に自責の念が彼女を必要以上に打ちのめしていた。
 甚夜は黙っておふうの隣に腰を下ろした。だからと言って何か気の利いた言葉をかける訳ではない。本当に、ただ隣にいるだけ。沈黙の時間が長く続く。

「……何も言わないんですね」

 重苦しい空気を破ったのはおふうの方だった。

「何か言ってほしいのか」
「いいえ。きっと、何を言われても素直には受け取れませんから」

 そうしてまた押し黙る。
 言えることなどある筈もなく、甚夜も口を噤んだままだった。
鬼と人。
 悔しいが、異なる種族が真の意味で共に在ることは出来ないのかもしれない。
 音のないかつての憩いの場で甚夜は静かにそう思った。




[36388]      『流転』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/22 15:32

 晩秋の折、触れる空気の冷たさが身に染みる午後の日。
 野茉莉と共に訪れた蕎麦屋『喜兵衛』ではいつも通りの、しかし最近では見ることのなくなっていた光景があった。
 店内にはすらりとした立ち姿の綺麗な細身の少女、おふうが。
 そして厨房には、

「らっしゃい、旦那」

 見慣れていた筈の、今では違和感のある景色。
 以前よりも痩せ衰え、手などは枯れ木のようになってしまっている。頬はこけ、皺だらけの顔で、それでも店主は昔を思い出させる快活な笑顔で甚夜を迎え入れた。

「大丈夫、なのか」

 近頃店主はずっと寝込んでいた。それが急に起き出して蕎麦を打っているのだ。驚かない訳がない。

「いやいや、今日はえらく調子が良くて。久々に蕎麦を打とうと思ったんですよ」

 言葉の通り、衰えた体ではあるがその表情は活力を感じさせる。話しながらも手は動き、既に板状に伸ばされた生地を包丁で切り揃えるところまで来ていた。

「お父さん……あまり無理はしないでくださいね」

 心配そうに視線を送るおふうに、軽い笑みで返し店主は作業を続ける。甚夜はその状況に何も言えず、取り敢えずは店内の椅子に座った。
 無言。隣に座っている野茉莉は声を出さずただ椅子の上で足をぶらぶらとさせている。おふうも目を伏せ、ただ成り行きを見守っていた。

「へい、おまち」

 かけ蕎麦である。此処に来るたびそれしか注文しないので、いつの間にか何も言わずとも出てくるようになってしまった。そうなってしまう程に長い時間をこの場所で過ごしたのだと、今更ながら意識する。

「頂こう」
「いただぎまーす」

 備え付けの箸を手に取り蕎麦を啜った。野茉莉の方には小さな丼が置かれている。これはおふうがまだ幼い野茉莉のために準備してくれたものだった。それもまた此処で過ごした時間の長さ故にだろう。
 思えばこの店とは随分長い付き合いになった。初めは人目を避けるために客の少ない店を選んだだけだった。だというのに足繁く通い続けたのは、口にはしなかったがこの場所が自分にとって居心地の良い場所だったからに他ならない。率直に言えば、甚夜は此処で過ごす時間が好きだったのだ。

 好き“だった”。

 無意識に過去形で考えていた。予感があったからだ。この機を逃せば、もう好きだった時間が訪れることはない。それを訳もなく理解した。
 
「ほれ、おふうも」
「え、でも」

 更に二つの丼を用意した店主は甚夜達と同じ卓に座った。二つの蕎麦は当然店主とおふうの分だ。しかし肝心の娘はいきなりの提案に困惑し、戸惑いを顔に浮かべている。

「いいじゃねえか、偶には」
「そうだな。こんな機会は滅多にない」

 甚夜の同意もあり、戸惑ったままではあったがおふうも席に着く。それも仕方ないのかもしれない。一つの卓を四人で囲む。今迄一度もなかった状況に、奇妙なくすぐったさを感じた。

「しかし、旦那ともいい加減長い付き合いですねぇ」
「もう、十年以上になるか」
「ええ。初めての時も、旦那はここでかけ蕎麦を食っていた。今と全く同じ姿のままで。あの時嬢ちゃんはいませんでしたが」

 視線を向けられた野茉莉はその意味を理解できず小首を傾げる。それが妙に可愛らしく映って、甚夜は口元を緩めた。

「くくっ、旦那のそんなにやけた面を見れるなんて、長生きはするもんですねぇ」

 それを目敏く見付けた店主は噛み殺しきれなかった笑いを零している。

「そう言ってくれるな。自分でも似合わないと思っている」

 表情を引き締め、憮然とした態度を作ってみせる。もっとも今更そんなことをしても手遅れ。おふうもそんな甚夜の姿を見てくすくすと笑っていた。

「いえいえ、似合ってますよ。……多分、鬼退治なんかよりずっと」

 不意に笑いが途切れた。店主が発したあまりにも穏やかな声に店内が静まり返る。

「娘が出来たんだ。鬼と戦うなんて危ない真似、止めるには頃合だと思いますぜ。仕事がなくなるってんならうちの蕎麦屋で働いたっていい。そうですねぇ、ここはやっぱりおふうと一緒になってうちを継ぐってのはどうでしょう」

 冗談めかした言葉。
 しかしそれは何の裏もない、純粋に甚夜を心配してのものだ。
 いつ命を落とすともしれぬ戦いに身を置くよりも、平穏の中で緩やかに時を過ごした方がいい。店主はそう伝えてくれている。
 
 それは確かに真実だろう。
 甚夜自身、遠い昔願っていた。惚れた女と結ばれ穏やかに年老いていけたなら。そんな夢を見た。今は野茉莉もいる。争いから離れ平穏を求めることも然程悪くないかもしれないと、本心から思う。

「悪いな。それは出来そうにない」

 しかし穏やかな声できっぱりと、暖かな優しさを拒絶する。

「そう、ですか」

 答えは予想済みだったのだろう、深く追及はしてこなかった。眼には明らかな落胆があった。
 一瞬の躊躇い。このまま誤魔化そうとも思ったが、向けられた憂慮の視線を嬉しく思う自分がいた。店主は、ただの客でしかなかった己を本気で慮ってくれている。それが感じられたから、少しでも報いようと甚夜は重々しく口を開いた。

「鬼は鬼である己から逃れられぬ」

 重い、鉄のような声だった。
 自身の左腕を見詰める。軽く開かれた掌に何を映しているのか、遠い、此処ではない何処かを眺めるような瞳。鉄のように張り付いた表情からは感情を読み取れない。いや、甚夜自身、己の感情を掴みかねていた。

「昔、そう語った鬼がいた。鬼はただ己の感情のために生き、成すべきを成すと決めたならば……その為に死ぬ。だから私はずっと思っていた。どれだけ歳月が流れても私は何一つ変えられず、胸に在る感情のまま生きて死ぬのだと」

 目を瞑れば映し出される、遠い記憶。
 あの夜抱いた憎悪は今も胸を焦がして。
 けれど憎しみに身を任せ、過去を切り捨てられる程、強くも為れなくて。
 未だ刀を振るう理由さえ見つけられぬまま、力だけを求めて。
 
 全ては、妹───鈴音を止めるために。

 殺すのか、救うのか。
 答えはまだ出ていない。
 けれど己はそれだけの為に生きてきた。

「でも、旦那は変わりましたよ」

 店主の言葉にゆっくりと首を振る。

「確かに、少しは変わることが出来たのかもしれない」

 この場所を心地好いと感じた。
 おかえり、そう言ってくれる女に会えた。
 共に笑うことのできる友を得た。
 嘘吐きな妻から娘を託された。
 そう在りたいと願った理想と対峙し、今の己の強さを証明してみせた。
 大切なものはいつの間にか増えて、その度に心は変わる。
 
 ───なのに、胸を焦がす憎悪だけが今も消えてくれなくて。

 心は変わってしまったから、それが余計に、痛い。

「だがどれだけ変わろうとも、生き方だけは曲げられない。結局私は、最後には自身の想いよりも自身の生き方を取ってしまう。私は、いずれ全てを……自ら斬り捨てることになるのだろう」

 此処で手に入れたものを本当に大切だと思えるのに。
 その全てを、いつか裏切ってしまう。
 それは予測ではなく予知。かつて相見えた<遠見>を持つ鬼と同じように、どうにもならない未来を見せつけられている。

「だから、普通の暮らしは出来ない?」
「ああ、そうだな」
「……旦那は、それでいいんですか」

 向けられた視線は憂慮よりも憐憫を感じさせて、ほんの少し胸が軋んだ。その痛みに、己が僅かながらにも変わることが出来たのだと自覚する。その是非は理解できなくとも。

「辛いと思ったことはない。私には目的があり、そしてそれが全てだった。他のものなど全て余分と断じることが出来た」

 だから母の想い、その名残を斬り捨てることが出来た。
 友を、その妻を喰らった。 
 父をこの手で殺し、義妹に恨まれ、尚も強さだけを求めた。
 貫くと決めた生き方が在れば、揺らぐことのなく歩いて行けると思い、事実そうやって生きてきた。
 結局甚夜にとっては胸を焦がす憎悪だけが全てで。

 なのに──

「……だが、何故だろうな。今は、そんな生き方が少しだけ重い」

 ──どうして、それでいいと思えないのだろう。

 どうしてなんて分かり切っている。大切な物が増えたから、斬り捨てることを躊躇ってしまうのだ。
 多分、いつか対峙した人斬りならば『濁っている』と評するだろう。大口を叩いて理想の己に斬り掛かった癖して、未だに迷っている。そんな自分があまりにも情けなく思えた。

「なら捨ててもいいでしょうに」
「それが出来れば鬼にはならなかった」

 毀れたのは乾いた声。自嘲するような響きに、しかし店主は快活に笑った。それは恐らく、三浦直次が憧れた通りの笑みだ。

「まあでも、嬉しい。俺は、そう思っちまいますね」

 その意味を理解できず怪訝な視線を送れば、店主はまるで父親のような目で甚夜を眺めている。

「旦那が今までの生き方を重く感じるのは、それだけ今の生活が気に入ってるってことでしょう。だから切り捨てるのが怖くなる。俺は、俺達は。旦那の目的に肩を並べるくらい価値のあるものになれたってことだ。嬉しくなるじゃねぇですか」

 頭が真っ白になる。
 その言葉は、的確に急所を突いていた。
 長々と語っても、結局はそういう話。
 詰まる所、甚夜という男は。

「そうか、私は寂しかったのか」
  
 終わりが訪れるのを寂しいと思ってしまうくらいに、この場所で過ごす時間に拘っていたのだ。
 鬼の寿命は長い。
 だから最初から分かっていた。どんなに長生きしたとしても、店主も直次も自分より先にいなくなってしまう。
 そうすれば終わりだ。
 同じ鬼であるおふうは一緒にいられたとしても、二人がいなくなれば蕎麦屋『喜兵衛』で過ごした穏やかな時間は消え去ってしまう。
 それが、たまらなく、寂しかった。

「相も変らぬ軟弱者だな、私は」

 不意に見せつけられた己の弱さ。少しだけ表情を和らげれば、店主はまるで息子の成長を喜ぶ父親のような顔でこちらを見つめていた。

「おふう……それに旦那も」

 一度自分の娘に目をやり、店主は目を伏せた。空気が硬くなったのが分かる。ここからは、一言たりとも聞き逃してはいけない。何故かそう思った。

「二人は俺達よりも遥かに長い歳月を生きて、これから多くのものを失っていく。当たり前だが、失くしたもんは返ってこない。そして、なんでかな。得てしてそういうもんの方が綺麗に見えるんだ。悲しくて、寂しくて、泣きたくなる時もあるかもしれない」

 眩しさを避けるように店主の眼が細められた。うっすらと開かれた遠い瞳は何を映しているのだろうか。その心情を窺い知ることは出来ない。

「でもな、それは決して悪いことじゃない。もしもお前達がこれからの道行きの途中、ふと過去を振り返って泣きたくなったら、それを誇れ。その悲しみはお前達が、悲しむに足るだけのものをちゃんと築き上げてきた証だ。だから悲しいと思ったっていい、泣いたっていいんだ」

 ただ彼は、心底自分達を想い、その行く末を憂いてくれている。
 それが分かるから、口を挟むことはしなかった。

「ただ頼む。どうか、いつか来る別れに怯えて“今”をないがしろにしないでほしい。過去を、俺達を、お前達を悲しませるだけのものにしないでくれ」

 一度言葉を止め、目を閉じる。

「お前達は長くを生きる。いつか、失くしたものの重さに足を止める日も来るだろう。昔を思い出しては悲しくなって、何もかもが嫌になることだってあるさ」

 そして再び目を開き、穏やかな笑みを浮かべて。

「だけどお前達には、泣きたいときに泣いて、それ以外は誰かの隣で笑って。長くを生きるからこそ誰よりも“今”を大切に生きて欲しい」

 あまりにも優しい声で、彼はそう言った。
 過去に囚われることなく今を大切にできるような、そういう生き方をしてほしいと。 

「俺は、そう在ってほしいと思う」

 いずれ過去になる彼自身が、願う。
 その意味を噛み締める。忘れ得ぬように心へ刻む。
 語り終え、一息を吐く。そして、

「……なんてことを言ったら、ちょっとは親父らしく見えますかね?」

 片眉を吊り上げ、にぃと笑う。おどけたような仕草が店主らしいと思えて、張り詰めていた空気は途端に柔らかくなった。

「らしくも何も、お前はおふうの父だろう。ただ少し、始まりが他と違っただけだ」

 例え血が繋がっていなくても。

「ええ、お父さんは私の自慢なんですから」

 例え種族が違ったとしても。
 鬼と人は共に在れるのだと、この男は自身の生涯をもって証明して見せた。見せてくれた。
 それは多分、刀一本で鬼を討つよりも、遥かに強い在り方だった。

「と、そうだ。旦那、嬢ちゃんも。すいませんがちょっと立って貰えませんか」
「どうした」
「ちょっと、ね」

 悪戯小僧のような顔を浮かべる店主。その意図は分からないが、取り敢えずは言われた通りに立ち上がる。

「どうも。あと、おふう。お前は旦那の隣、そうそう、それくらいの位置に立ってくれ」

 身振り手振りで指示を出し、満足できる配置になったらしく満面の笑みで大きく頷く。
 店主の側から見れば厨房を背にして甚夜とおふうが肩が触れ合うくらいの距離で立ち並び、その間には野茉莉の姿がある。

「んで、最後は嬢ちゃん。父ちゃんとおふうの手を握ってやってくれるか?」
「ん」

 素直に頷き、二人の間に立ったまま手を片方ずつ握る。そこで野茉莉が体重を預けるように力を抜いた。結果ほんの少しだけおふうが体勢を崩し、二人の距離が更に近付く。親しい相手とはいえ流石に気恥ずかしかったらしく、おふうの頬には少し赤みがさしていた。
 それを見詰める店主の視線はひどく柔らかい。
 二人の男女。
 間にいる童女。
 触れ合える距離。
 繋がれた手。
 その姿はまるで───


「ああ、本当に……いいもんを見せてもらいました」


 万感の想いを込めて呟く。
 それは今まで見た表情の中で、最も優しく穏やかで、幸福に満ちた笑顔だった。

「あー、久々に働いてちっと疲れた。おふう、後片付けは頼まぁ」

 ぐぅ、と背筋を伸ばしてそう言った店主は、片手を挙げて寝床に戻った。

「そんじゃ、また明日」

 一度首だけで振り返り、今まで何度も見せてくれた快活な笑みを残して。





 それが最後。
 寝床に戻った店主───三浦長平兵悟は二度と目覚めることはなかった。
 鬼にその生を曲げられ、しかし今際の際にさえ恨み言一つ無く。
 彼は、おふうの父として、その生涯を終えた。

 
 晩秋の折、触れる空気の冷たさが身に染みる午後の日のことだった。





[36388]      『流転』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/23 18:30


 この店はこんなに広かっただろうか。
 蕎麦屋『喜兵衛』。見慣れた筈の店内を眺めて抱いたのはそんな感想だった。

 店主の葬儀はしめやかに行われた。彼の家族はいないも同然。かつての友人との交流もない。大げさなものではなく、取り敢えず形だけはという程度の葬儀だった。
 出棺を終え、一先ずは片付いた。野茉莉は葬儀が長くなりそうだったので直次の妻・きぬに預けてある。店に残されたのは甚夜とおふうの二人だけだった。
 疲労からか、喪失感からか、おふうは沈んだ面持ちで呆然と立ち尽くしていた。視線は定まらず、ただぼんやりと店内を眺めている。甚夜もまた何をするでもなく、立ったまま壁にもたれ掛かっていた。
 
「広い、な」

 おふうに話しかけた訳ではなかった。ただそう思ったから呟いただけ。店主の死は甚夜にとっても想像以上の傷となった。沈み込んでしまい、何かをしようという気にはなれなかった。

「本当に。こんなに、広かったんですね」

 主のいない店は何も変わっていない筈なのに少しだけ広く見える。九月の涼やかな空気がいやに冷たく感じられる。おふうもきっとそうなのだろう。少女は一度だけ自身を抱きしめるようにして肩を震わせた。……あの振るえは寒さのせいなのだと、そう思うことにした。

「本当は、分かってたんです」

 つい、と店内の卓を指でなぞりながらおふうは言う

「私達は寿命が違う。いつまでも一緒にいられない。だから、私はずっとお父さんを……兵悟を幸福の庭から追い出したかった」

 独白。いや懺悔だったのかもしれない。泣き笑うような表情でおふうは言葉を続ける。

「なのに、結局あの人の優しさに甘えて。分かってた筈の別れに傷付いて。駄目ですね。私は、昔から何も変わってない」

 本当の両親を亡くした時のことを指しているのだろう。彼女は家を、両親を失った絶望から鬼へ転じた。本当に大切だったから、失くした絶望は深かった。
 同じように、彼女は本当に店主───三浦長平兵悟のことを慕っていた。だからこそ両親を失った時に比肩する悲哀を感じていた。
 瞬きをすることもなく彼女の瞳から涙が流れる。胸が締め付けられた。それを感じた時には無意識に足は動いていた。傍まで近付き、そっと肩に触れる。慰めの言葉など持ち合わせてはいない。それでも近くには居てやりたかった。

「甚夜君」

 おふうは倒れ込むように、いや、縋りつくように甚夜の胸元に体を寄せた。傍目には男女の抱擁にも映るかもしれない。しかし甚夜には己の腕の中にいる彼女が迷子の子供のように見えた。

「少しだけ、こうさせてください」

 振るえる肩。泣き腫らし、それでも零れる涙。胸に縋りつくおふうの姿は頼りなく、ほんの少しでも力を籠めれば壊れてしまいそうだ。
 何百年と生きても、彼女はやはり少女だった。

「店主は、よく言っていた。お前を嫁にしないかと」
「ええ。そう、ですね」
「今になって分かる。あれは冗談などではなく、真にお前を慮ってのことだったのだな」

 二人は同じく鬼。
 互いに長命、ならばこれから続く長い時を共に渡っていける。たとえ自分が死んでも、共に歩める者がいるならきっと寂しくはない筈だ。大方そんな意図をもって二人を夫婦にしようとしていたのだろう。それに思い至り、小さく苦笑が漏れる。

「全く、店主は私のことを親馬鹿と言ったが、あの男の方が余程親馬鹿だ」
「はい。……本当に、あの人は。いつも、私のことばかりで」

 少しだけ強く、おふうを自分の傍に引き寄せた。抱きしめる形にはなっているが、艶っぽさなど欠片もない。彼女が迷子の子供であるように、己もまた迷子の子供だった。どうすればいいか、何処へ行けばいいのか、まるで分からない迷子が二人で慰め合っている。

「私達はこうやって……多くのものを失っていくんだろうなぁ」

 遺言となってしまった彼の言葉。過去を悲しむことが出来たならそれを誇れ。しかし少なくとも今は無理そうだ。失くしたものに目を覆われて前が見えない。

「長いですね」
「ああ、長い」

 お互いに主語はなかった。言う必要があるとは思えないし、口にしてしまえば店主の遺した言葉を汚してしまうような気がした。

 ────おそらく、これからも私は多くのものを失って、
         いつかその重さに潰れて野垂れ死ぬのだろう。
 
 ふと過った未来もまた、言葉には出来なかった、


 しばらくの後、どちらからともなく二人の距離が離れる。元々艶っぽい理由での抱擁ではなかった。二人の間に在ったのは恋愛感情ではなく単なる共感。離れる瞬間も実にあっさりとしたものだった。それでも男と抱き合っていたことが恥ずかしかったのか、おふうの頬は朱に染まっていた。

「す、すみません……」
「いや、私こそ」

 なんとなく滑稽な遣り取りを交わし、互いに顔を見合わせ苦笑する。
 何かを失うことは悲しい。しかし同じように悲しいと思ってくれる誰かがいるということは、この上ない幸福なのかもしれない。だからきっと、いずれ別れが来ると知りながら、人と繋がっていたいと願ってしまうのだろう。
 もう一度互いに笑みを零し、おふうは涙を拭った。

「ありがとうございます」
「私は何もしていない」
「でも、一緒にいてくれたじゃないですか」

 それで充分です、と笑ったおふうはいつものようにたおやかで、ほんの少しだけ安堵する。何もしてやれないと思っていた。それでも彼女は笑ってくれた。それならば、その笑顔の分くらいは誇ってもいいような気がした。
 
「失礼」

 ちょうどその時、暖簾を潜り、糊のきいた着物を纏った生真面目そうな武士と童女が姿を見せた。直次と野茉莉である。

「甚殿、おふうさん」

 二人の姿を確認し、外見通りの生真面目さで直次一礼する。その姿を見て野茉莉もまた頭を下げた。
 見ると二人は手を繋いでいた。野茉莉は直次にもよく懐いている。案外彼の息子・忠信との縁談は野茉莉にとってもいい話かもしれないと甚夜は割合本気で考えていた。

「三浦様、この度は」
「いえ」

 葬儀に参列した直次へ礼を言おうとしたのだろうが、おふうの言葉は途中で遮られた。

「私も、この店で過ごす時間が好きでした。礼を言われるようなことではありません」

 そうして笑う。
 店主の葬儀に参列したのは、社交辞令ではなく、自身が本心から彼の死を悼んだからこそ。直次はそう言っている。その言葉に甚夜は小さく笑みを落した。此処で過ごす時間を大切に想っていたのは何も自分だけではなかった、その事実が嬉しかった。

「とうさま、ただいま」

 舌足らずな幼い声で駆け寄ってくる愛娘に「おかえり」と言いながら頭を撫でる。くすぐったそうに目を細める仕種が心を暖かくしてくれた。

「直次。済まなかったな、無理を言って」
「いえ、構いませんよ。忠信も喜んでいましたし……ああ、ところで甚殿、話があるのですが」

 軽い口調だった。しかし目は真っ直ぐで、その奥には強い意志が見え隠れしている。彼の纏う雰囲気から想像するに、何らかの決意をもってこの場に臨んだのは明白だった。

「分かった場所を変えよう」
「いえ、おふうさんにも聞いてほしいので、ここで」
「私も、ですか?」
「ええ。やはり私にとってこの場所は大切なものでした。だから、お二人に聞いてほしいのです」

 緊張に強張った表情。空気が幾分重くなった。一瞬の沈黙。不意に目を伏せ、再び開けると同時に直次は口を開いた。

「私は弁が立ちません。ですから簡潔に言います」

 前置きをして、

「京へ行こうと思います」

 短く、力強くそう言った。

「京へ……」

 慶応に改号してから幕府と尊王攘夷派の争いは激化の一途をたどり、中でも京都は動乱の中心といっても過言ではない。そんな時期に京へ行くと直次は言う。理由など簡単に想像がつく。

「脱藩か」
「はい。江戸藩を抜け京へ行き、薩摩・長州と合流して倒幕に身を窶すつもりです」

 三浦家は代々徳川に仕えて古い武家。しかし直次は現在の幕府の在り方に疑問を持っていた。その選択は別段意外というほどでもなかった。

『私もまた、生き方を決定しなければならないのかもしれません』

 以前、夜刀守兼臣という妖刀を巡る事件があった。その結末を知り、直次が漏らした言葉を思い出す。恐らくはその時既に脱藩を考えてはいたのだろう。
 急に稽古を申し出たのも、これから斬り合いをするかもしれないから。
 つまりこの話は相談ではなく決定事項の通達に過ぎない。
 彼はもう生き方を決定したのだ。

「いいのか」

 短く問うた。
 脱藩し、薩摩・長州につくことは、同時に彼が今まで仕えてきた徳川に弓引くことである。
今まで自身が忠誠を誓ってきた相手と殺し合いをする。
それで本当にいいのか。刃のような鋭さで直次を見据える。しかし彼は揺らがず。その立ち姿は堂々としたものだった。

「はい。私は長らく徳川に仕えてきました。ですが、この動乱の世において幕府は既に機能していないと言っていい。事実江戸の人々の生活は困窮し、しかしそれでも幕府は諸外国のされるがままになっている。私は武士として徳川に、幕府に忠義を誓っていました。ですが武士が刀を持つのは、力なきものを守るため。この期に及んで徳川に縋りつき、多くの人々が苦しんでいるのを見て見ぬ振りするような生き方は出来ない。だから私は倒幕のために戦います。そして、その果てに在る新時代を……未来を見てみたいのです」

 揺らぎのない、真っ直ぐな目。

「その為に命を落とすことになってもか」
「私の命が、未来への礎に為れるなら本望です」

 武士。
 彼はまさしく武士だった。いつか、誰かが言った。武士は時代に取り残されようとしていると。それはどうしようもないくらい真実だった。
 掲げた生き方に身命を賭し、曲げられない己自身の為に死を選ぶ。
 その生き様に思う。結局のところ武士という人種は、初めから滅びを約束されていたのだと。

「あの、きぬさんは」
「納得してくれています。京へ共に行ってくれると。……本当は、待っていてほしかったのですが、あれも武家の女。中々に強情で」
「そう、ですか」
 
 おふうの表情が沈んだ。
 妻が納得しそれを認めたならば、これ以上甚夜達に言えることなどない。多少の心配はあるが、それでも黙って見送るのが友の役目だ。自分に言い聞かせ、努めて無表情を作ってみせる。

「ならば行って来い。それがお前の決めた生き方なのだろう」
「寂しいけど、仕方ないですよね。元々何を言われても変えるつもりはなかったようですし」

 その言葉に表情は幾分柔らかくなっていた。 
 
「はい。私は祐筆として徳川に仕えていましたから、刀を振るう機会など殆どありませんでした。そんな私が戦に出た所でどれだけ役に立てるかは分かりません」

 それでも命懸けの戦いに身を投じる。
 愚かしいと思う。
 生き方を曲げられない甚夜をして、理想のために殉ずる彼は愚かしく感じられる。
 
「ですが私は武士です。武士に生まれたからには、最後には誰かを守る“刀”で在りたい」

 だが、その愚かしい決意を、一体誰に否定できるというのか。
 誰かの為に。
 直次の言葉は綺麗事ではない。もっと言えば、彼は真の意味で誰かの為にと語っているのではなかった。
 彼は武士として生きると決めた。だからその生き方から食み出ることが出来ないだけ。人の為に戦うのもその一環に過ぎない。
 結局、三浦直次在衛という男は、自分が自分であるために、武士という在り方を曲げることが出来ないと言っているのだ。
 
「全く、難儀な男だ」
「自分でも思います。ですが、甚殿にだけは言われたくないですね」
「確かに、甚夜君こそ頑固者の代表格ですから」

 おふうにまで言われてしまった。
 言葉に詰まる甚夜を見て、直次は笑った。本当に楽しくて仕方がないという、底抜けの笑いだった。 


 ◆ 


 そろそろ昼時、四人は蕎麦屋『喜兵衛』を離れ、深川にある料理茶屋・富善を目指していた。

「折角の門出だ。奢ろう」

 言い出したのは珍しく甚夜である。これから直次は京へ赴き戦に身を投じる。その結果、どうなるかは分からない。想像したくはないが、三日と経たず屍を晒すことになるかもしれないのだ。それでも死地へ赴くと言った友に、せめて何かをしてやりたいと思った。

「すみません、気を遣っていただいて」
「気にするな。私が勝手にやることだ。それに、この子にも旨いものを食べさせてやりたい」

 野茉莉を抱いたまま歩く甚夜は、視線は愛娘に置いたままで答えた。

「今日はごちそうだぞ」
「うんっ」

 親娘遣り取りを見る直次の表情は綻んでいる。雑談を交わしながら歩く江戸の町。続く内乱で疲弊した江戸に以前の賑やかさはない。それでも流石に昼食時、溢れ返るという程ではないが道行く人は多かった。

「出立は何時されるのですか?」
「明日には。出来るだけ早い方がいいと思いまして」
「ならば明日に残さぬよう酒の量は抑えた方がいいな」
「いや、そもそも昼間から呑む気はありませんが……」
「む。そう、か」

 いかにも残念といった様子だった。甚夜は依然知り合った鬼の友人の影響か、それなりに酒を嗜んでいる。本当は今日も直次と呑み明かすつもりだったのだが、いきなり本人に否定されてしまい、若干の落胆があった。

「甚夜君も今日くらいは我慢してくださいね」
「仕方ない、そうしよう」

 おふうの念押しに渋々ながら頷く。その様がまるで姉と弟のように見えて、直次は笑った。馬鹿にした訳ではなく、見慣れていた二人に遣り取りが、店主が死んだ今までも続いているのが嬉しかった。

「京へ行くと決めましたが、この景色が見られなくなるのだけは残念ですね」

 そう思えるだけの時間を、彼らと過ごしてきた。
 直次もまた蕎麦屋『喜兵衛』で過ごす時間を大切に想ってきたのだ。それが分かるからこそ、店主の死からまだ立ち直ってはいないだろうに、おふうもまた笑って言葉を返す。

「やめてくださいな、そんな言い方」
「全くだ。そんなに名残惜しいなら、早く終わらせて帰ってくればいい」

 終わらせて、というのは幕府を倒して、という意味。為すべきことを為し生きて帰って来いという甚夜なりの激励なのだろう。時代の節目、その動乱をまるで子供のお使いのように言う。全く、このお人は無茶なことを。思わず苦笑が直次の口元から漏れて、


「ほう、京へ行く、か」


 雑踏に紛れ、しかしはっきりと。
 後ろから無骨な声が響いた。
 即座に野茉莉をおふうに預け、甚夜の左手が夜来に触れ、いつでも動けるように腰を落とす。声の方に向き直れば、其処には六尺を超え七尺に届くのではないかという長身の、肩幅の広い大男がいた。
 帯刀をしていないところを見ると武士ではないのか、しかしその身なりは小奇麗ではあった。とはいえその体躯のせいか纏った素襖(すおう)はえらく窮屈そうな印象である。髪は甚夜以上に乱雑で、縛ることもせず肩まで伸び放題になっている。
 その男の風体には覚えがあった。以前訪れた会津藩の江戸住みの屋敷、畠山家で会ったことがある。

「随分と、面白い話をしている」
 
 佐幕攘夷を掲げる先代畠山家当主、畠山憲保。
 彼に従い、その力を振るう鬼。
 

 ───男の名は、土浦と言った




[36388]      『流転』・4(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/25 01:51
「相変わらず、方々で動いているらしいな」

 目の前にいる七尺余りの大男───土浦(つちうら)は見下すような視線を送る。
 甚夜はずいと一歩前に出て、おふうや野茉莉を背にして守るように立った。
 左手は既に夜来へ掛かり、鯉口を切っている。いつでも抜刀できる状態。相手の一挙手一投足に細心の注意を払う。

「いい加減、私が目障りになってきたか?」
「私情は挟まん。我が主の邪魔にならん以上俺から言うべきことはない」

 その言葉は意外だった。甚夜と土浦。二人の鬼の意見が合わないことは前回の邂逅で実証済み。
 ならばこそ再び相見える時には問答無用の殺し合いになると思っていた。だが今回に限って言えば、土浦にそのつもりはないらしい。

「用があるのはそちらの男だ」

 射殺さんとばかりに睨め付ける。一瞬直次の体が震えた。それも仕方ない、人の姿をしているが土浦は鬼。己を造作もなく殺すことのできる存在から敵意をぶつけられて、本能的に恐怖を感じているのだろう。

「私、ですか?」
 
 震えながらも何とか声を絞り出す。土浦はその様をつまらなそうに見ている。

「我が主は当主の座を息子に譲り隠居してはいるが、今も幕府の要人と繋がりを持っている。先達てその伝手からある情報を手に入れた。江戸藩の武士が、幾つかの文書を外に持ち出そうとしている、と」

 動揺。直次は冷や汗を垂らしている。件の藩士が彼であることは明らかだった。

「三浦家は表とはいえ代々続いた祐筆。江戸城に納められている文書を簡単に得られる位置だ。その当主が京へ行き、薩長に付くのはちとまずい、というのが我が主のお考えだ」

 その言葉に甚夜は眉を顰めた。
 正直に言えば、違和感があった。直次は所詮表祐筆。江戸城の文書に触れられるとはいえ、その多くは一般的な目録でしかない。その彼が脱藩して情報を倒幕派に渡したとしても然程の痛手ではない筈。畠山憲保───佐幕攘夷を掲げる彼が気にする程のことではないと思うのだが。

「詰まる所、お前の主の狙いは直次の命か」

 頷いて肯定の意を示す。憲保の意図は分からないが、三浦直次の命を狙っていることだけは確か。何故、とは思うが考えても答えは分からない。だから考えるのを止めた。分からないことに意識を割くよりも、今は眼前の鬼に注意を払うべきだろう。

 視線を向ける。
 瞬間、土浦の体が異形へと変化し始めた。
 めきめきと気色の悪い音を立てて筋肉が膨張する。その圧力に押され着物は破れ、肌の色が変わり、四肢が異常に発達していく。

「俺の役目は主の弊害となる者の排除』

 一回り大きくなり、八尺近い巨躯。額辺りから生えた一角。鈍い、青銅の色をした肌。全身には円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様が浮かび上がっている。

『故に、貴様は此処で潰す』

 そして瞳は、錆付いたような赤を呈していた。

「お、おいあれ」
「何だあの化け物……!?」

 町に動揺の声が走る。それも当然、いきなり町中に鬼が現れたのだ。悲鳴を上げながら町人達は散り散りに逃げてゆく。中には遠巻きに突如出現した異形を眺めている者達もいた。

 喧噪に包まれる大通り、土浦は自身に向けられる畏怖など意にも介さず堂々と仁王立ちしている。
 不意に鬼の体がぶれた。
 かと思えばその巨躯が一直線に疾走。
 その先には、直次の姿が。
 直次も武士、剣術の嗜みはある。だが嗜み程度の剣術では鬼と戦うことなど出来ない。あまりにも早すぎる突進を前に直次は動けなかった。腰に差した刀を抜く所か、指一本動かすことさえ出来ない。

 ───だが、させん。

 空気を裂く音。横から割り込んだ甚夜の一刀が土浦の進軍を止めた。唐竹に振るわれた、直次との稽古で見せたものより遥かに速い一撃。しかしそれを予見していたのか、土浦は勢いを殺すことなく横へ飛ぶ。大幅に距離を空け、不意を突いた一撃を悠々と躱してみせた。

『流石に鋭い太刀だ。刀一本で鬼を討つというだけはある』

 言いながらも大して慌てた様子もない。軽く躱しておいて流石もないだろう。内心悪態をつきながら眼前の鬼を睨み付ける。

「おふう、野茉莉を頼む。直次も離れていろ」
「甚夜君……はい、わかりました」

 おふうは野茉莉の手を引き雑踏の中に紛れていく。娘は心配そうな顔をしていた。早急に終わらせ安心させてやらねば。

「ですが甚殿、あれは私を狙って」
「鬼を討つ。それが私の生業だ」

 視線は外さないままに切って捨てる。渋々ながらも直次が離れたのを確認し、更に眦を鋭く変えた。

「土浦……貴様、正気か」

 真昼から、それも町中で堂々と鬼の姿を晒すとは。射殺さんとばかりの視線を平然と受け止め、土浦は鼻を鳴らす。

『正気……? それはこちらの科白だ』

 そうして正対する。直次を狙うよりも、まずはこちらを片付けると決めたらしい。それは甚夜にとっても好都合。左足を前に出し肩の力を抜く。そのまま刀は後ろに回し、とったのは脇構え。
 土浦もまた軽く拳を握り構える。軽く腰を落とし、左足は下げられている。重心はやや後ろ、しかしそれは防御を考えてのことではなく、左足で直ぐにでも地を蹴り駈け出すため。隙を見せれば瞬時にあの巨体は襲い掛かってくるだろう。

「結局はこうなったな」

 構えを崩さぬまま独りごちた。予想通りと言えば予想通り。甚夜と土浦は同じく鬼。通すべき我があり、それが相容れぬならば衝突は必然。

『退け……といっても聞く気はなかろう』
「無論」

 ならば、後に待つのは殺し合い。
 言葉はいらぬ。
 道理道徳かなぐり捨てて、ただ対敵の絶殺にのみ専心する。

 短い問答を終え、先に仕掛けたのは土浦だった。
 摺足で距離を詰め、構えの姿勢から右拳を脇の下まで引いた。同時に逆の手は受けの形をとっている。 引き手とした拳を腰の回転を切り返しつつ、甚夜へ向けて最短距離で拳が突き出される。
 それに対し、甚夜は脇構えから左足を前へ進めると同時に白刃を翻す。狙うは右上腕、振るわれる拳を掻い潜り、その腕を落とす。
 
 交錯。
 
 結果だけ言えば互いの一撃は共に空振り。
 すれ違い、立ち位置を入れ替えるだけに終わった。
 放たれた拳を掻い潜ることは出来た。しかし腕を断つ程の斬撃を放つ余裕はなかった。

 土浦が見せたのは引手を重視し、体幹を軸とした螺旋の回転力を突き手に乗せた正拳。しかもその全身連動がほぼ一瞬のうちに行われる、拳法の基礎をきっちりと抑えた手本通りの動きだった。
 繰り出される拳は速いのではなく早い。生物としての速度ではなく、術理に裏打ちされた早さ。鬼の身体能力ではなく、相応の鍛錬をもって練り上げた人の拳だ。

 鬼の体躯を持ちながら、人の業をもって戦う。
 ある意味では以前戦った岡田貴一と同じだが、似ているというならば寧ろ甚夜自身の方が近いかもしれない。鬼の体躯と人の技、その両立。それはつまり、土浦は甚夜と同じ性質の強さを持っているということに他ならない。

 厄介だ、ともう一度思う。しかし愚痴を言っても仕方がない。更に意識を鋭く研ぎ澄ませ戦いに没頭する。
 振り返り、すぐさま踏み込むと同時に袈裟掛けの一刀。土浦はそれを右腕で薙ぎ払い、左拳を腹部に向けて突き出す。
 真面に喰らえば一撃で動けなくなるほどの剛腕。柄を握っていた右手を放し、今度は甚夜が掌底を放つ。攻撃の為ではない。相手の拳を躱し次の一手に繋げるための布石だ。振るわれた左腕、その前腕に当てると同時に一歩を進み、拳撃をいなしながら左側へ回り込む。
 
 視線が絡み合った。
 
 土浦は自身の左腕に邪魔をされる形となり、右腕を振るうことが出来ない。
 それこそが甚夜の狙いである。
 柄に添えた左手は避けながら逆手に握り直されている。
 右手は土浦の腕を抑えたまま。
 右足半歩、僅かに間合いを詰め。
 沈み込むように腰を落とし、両の足はしっかりと大地を噛んでいる。全身の力を余すことなく乗せた逆手の一刀が、真っ直ぐに土浦の頸を狙って突き上げられた。
 この距離では防ぐことも躱すことも出来ない。絶対の自信を持って放たれた一閃。それは吸い込まれるように咽喉へ。

 その首、貰った。
 
 白刃が鈍く煌めいた。逆手で放たれた夜来は、視認すら難しい速度で土浦の首を斬りつける。それはまさに狙い通りだった。
 しかし狙い通りに放たれた一刀は。狙い通りの結果を齎さなかった。

 がきん、と。
 甲高い、鉄と鉄のぶつかり合う音が響く。

「な……」

 驚愕に目を見開く。
 甚夜の放った一刀は鬼の首を落とせなかった……それどころか、かすり傷さえつけられず、皮膚の上で止まっていた。

 鬼は人と比べて硬い表皮を持つ。生半な刃物では傷一つ付けられないのは事実だが、しかし決して傷付かない訳ではない。名刀と謳われる業物ならば十分に切ることは可能だし、相応の技術さえあれば普通の刀でも皮膚を裂くくらいはできる。事実甚夜は葛野の太刀をもって数多の鬼を葬ってきた。
 それ故に驚愕する。
 葛野の技術の粋を集めた鍛えられた夜来。
 長年鬼を相手取ってきた自身の業。
 その二つを背景に放たれた一閃は、土浦の皮膚さえ傷つけることが出来なかったのだ。

 甚夜の斬撃など意に介さず、土浦は動いた。巨体が潜り込むように体を落としながら左腕を脇に引き付け、その勢いのまま左足を軸に旋回する。
 まずい。
 首を落とす為に間合いを詰め過ぎた。この距離では刀よりも拳の方が速い。土浦は回転を殺さず小さな挙動で右腕を振るう。狙いは腹。この体を貫かんとばかりに放たれた拳。甚夜は重心を後ろに崩しながら地を蹴り、自由になる右腕でそれを防ぐ。
 しかし鬼の一撃は苛烈だった。

「ぐ……!」

 漏れた苦悶の声。 防御など何の意味もない。受けた腕が軋み、防いだというのに衝撃が内臓を貫いた。
 だが今度は此方の番だ。
 右手は柄に。片手ではなく両の腕で振り下す渾身の一刀。唐竹に放たれた甚夜の一閃は正確に土浦の頭蓋に叩きつけられ。

 またも響く、甲高い鉄の音。

 やはり刃が皮膚で止まる。全霊をもって振るわれた剣戟でも通らなかった。ただ金属音が響くだけ。甚夜は間合いを取ろうと一歩下がる。

『無駄だ』
 
 土浦も合わせて距離を詰め、追撃の体勢をとる。
 決して特別な動きではなかった。
 左足はしっかりと地を噛み、右の摺足で距離を詰める。
 拳を脇の下まで引き、腰の回転を切り返しつつ、右拳を螺旋回転させながら捩じり込む。
 それは大仰なことではなく、あくまで基本の正拳の打ち方に過ぎない。
 だというのに、ぞくりと背筋に嫌なものが走った。

 両腕を交差し防御。更に後ろへ飛んで少しでも威力を減らす。
 だがこちらの思惑などお構いなしに鬼の剛腕が振るわれる。
 正拳突き
 何度も言うが、それは決して特別な動きではない。だが同時に特別でもあった。恐るべきは技自体ではなく練度の高さ。
 正拳突きは腰の回転と拳の螺旋の力を正確に拳頭に集中し、当たった瞬間に炸裂させる業。
 土浦の動きはその基本から逸脱したものではなく、だが要たる全身の連動、その完成度の高さに鳥肌が立つ。いったいどれだけの修練を積めばここまでのものを身に付けることができるのか。僅かに一瞬、刹那とも呼べる時間ではあったが、甚夜はその動きに見惚れた。

 そして空気が唸りを上げる。

 防御の上からたたき込まれた鬼の拳。 
 両の腕が爆発したかと思うほどの衝撃が襲う。
 甚夜の体は吹き飛ばされ、二度ほど地面を無様に転がった。
 致死の一撃。それを受けて生きながらえたのは、甚夜が鬼であったからに他ならない。もし人であった頃に受けたならば紙屑のようにこの体は千切れていただろう。
 地に伏したまま自身の状態を確認する。
 何とか、腕は折れていない。だが突き抜けるほどの衝撃が内臓を傷つけた。全身が痺れ、体を動かすことが出来なかった。口の中に鉄錆の味が広がる。溜まった血を吐き捨て、地に伏したまま視線を上げる。

『残念だったな、如何な名刀であっても俺を裂くことは叶わん。……この体は、決して壊れんのだ』

 そこには無表情に、無感情に、ただ事実を告げる鬼の姿が。
 骨は折れていないが内臓を幾らかやられている。何より全身を襲った衝撃が抜け切っていない。立ち上がるにはもう少し時間が必要だ。

 しかしそれを待つ理由など相手にはない。

 ゆっくりと土浦が近付いてくる。止めを刺そうというのだろう。無理矢理に立ち上がろうとすれば体が軋んだ。それでもこのまま寝転がっている訳にはいかない。

「ぐ、あああ……」

 走る激痛。駄目だ、立てない。焦燥。己は、こんなところで死ぬ訳には。内心の焦りとは裏腹に、体は思うように動いてくれない。そうこうしている間にも鬼は距離を詰め、

『ほう』

 しかし途中で足を止めた。
 面白そうに土浦が声を上げる。
 地に伏したまま動けず苦悶の声を上げる甚夜。その彼をかばうように、三浦甚直次が土浦の前に立ちはだかったのだ。

『三浦直次。何のつもりだ』
「この方は私の友だ。やらせる訳にはいかない」

 腰の刀を抜き、正眼に構える。
 怯えはない。鬼を前にして、直次は堂々と向かい合っていた。

『笑わせる、お前如きが勝てるつもりか』

 嘲りの言葉。しかしそれは真実だ。
 直次では土浦に及ばない。
 反論はしなかった。言われるまでもない。恐らく自分はあの鬼の攻撃を前に、反応することさえ許されず絶命する。こうやって立ちはだかること自体が度し難い愚挙。そんなこと、他ならぬ直次自身が一番よく分かっていた。

「勝てるとは思っていない。だが私も武士だ。勝てぬ相手と分かっていても退けぬ時がある……!」

 それでも、退かなかった。此処で退けば甚夜は無惨に殺される。ならば決して退く訳にはいかない。友を見捨て敵に背を向け生き長らえるなど、そんな恥を晒すならば、今ここで死んだ方がましだ。普段の彼からは想像もつかない程険しい表情で直次は刃を突き付ける。

『そうか……』

 その姿に思うことがあるのか、土浦は何処か遠い目をしていた。しかし一度目を伏せ、再び開いた時には凄惨な形相に変わった。直次を、敵と認めたのだ。

『ならば三浦直次。我が主の命にて、此処で死んでもらう』

 土浦は直次を───己の友人を叩き潰そうと一歩前に進んだ。
 ぎり、と唇を噛む。
 甚夜の脳裏に映るのはいつかの景色。
 
 想い人が目の前で心臓を貫かれる。
 それを何もできず呆然と眺める己。
 
 鬼と化した父。
 憎しみの目を向ける、もしかしたら妹になったかもしれない娘。
 
 状況は全く違うのに、いつかの絶望が目の前をちらつく。

「直次、退け。お前では……」
「言った筈です。私が武士である以上、退けません」

 思った以上に頑なだ。言葉通り、例え死んでも退くことはしないだろう。その結果は簡単に想像が出来る。一発。たった一発で彼は人から肉塊に変わる。

『潰す』

 土浦が拳を振り上げた。吹き飛ばされ地に伏した甚夜との距離は二間以上空いている。今からでは間に合わない。

 ───またか。また何一つ守れないのか。

 あの時と同じように。
 いや、違う。
 甚夜の目に活力が戻る。
 確かにあの時は何もできなかった。だが今の私には<力>がある。
 幸い土浦と直次の問答の間に少しは体も動くようになった。軋む体に鞭を打って無理矢理奮い立たせる。

「がぁああああ……っ!」

<飛刃>

 痛みを振り払い、立ち上がると同時に横凪の一閃を放つ。斬撃を飛ばす<力>。それは二間の距離を一瞬で零に変え土浦の体躯に直撃する。しかしそれだけだった。やはり傷一つ付けることは出来ない。鬼は直次から甚夜へ再び視線を移した。

 それでいい。<飛刃>はあくまでも牽制。肝要なのは直次への攻撃を止めること。それが為された以上傷つけられなかったとしても問題はない。痛みはあるが動ける。軋む体を押して一直線に疾走する。

 甚夜はたった今、人外の業を使って見せた。その事実に直次もまた呆然とこちらを見ている。その横を通り過ぎ、土浦の間合いを侵す。
 土浦は小さく眉を吊り上げる。先程の突きは決死の一撃だったのだろう。表情には意外さと、僅かな感嘆が見て取れた。
 そしてその表情に、
 
 ─────正気……? それはこちらの科白だ。
 
 土浦が零した言葉、その意味を理解する。
 認めよう。 
 正気を失っていたのは私の方だ。
 奴は今まで対峙した鬼の中でも強大な存在。それを人の姿で打倒しようとは我ながら傲慢が過ぎた。まして正体を隠す為に全力を出さぬまま相手取るなぞ、確かに正気ではなかった。

 めき。
 ただ走る。足は止まらぬままに体から気色の悪い音が鳴った。筋肉が異常なほど隆起する。甚夜の体が人以外の存在に変わっていく。
 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。
 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。
 後ろで縛ってあった髪は紐が切れたせいで肩口までかかっている。次第に色素が抜け、黒髪が銀に変わる。

 ─────だから、此処からは出し惜しみしない。

 そしてその瞳は、鉄錆のように赤い。
 鬼と化し、変容は尚も止まらない。

<剛力>

 口の中で転がすように呟く。ぼこぼこと音を立てながら左腕が鳴動する。骨格すら捻じ曲げて肥大化する異形の腕。ぎしり、握り締めた拳が鳴った。
 
「今すぐ死ね」

<剛力>は甚夜が切ることのできる手札の中で最大の威力を持つ。まさしく鬼札と呼ぶべき一撃だ。
 赤く染まった両目が殺すべき者を捉えている。振るわれる剛腕。唸りを上げる空気。
 この一撃で終わらせる。
 狙うは心臓、その体ごと打ち抜く。
 正確に心臓へ向けて放たれる、尋常ではない膂力を秘めた拳。並みの相手ならば風穴を空け、即刻死へ至らしめる程の剛撃は確実に相手の左胸に打ち込まれ。


『<不抜>』


 それでも尚、無傷────
 二歩、三歩。自身の最大戦力を持って為せたのは三歩程の後退。たったそれだけだった。

「それが、貴様の」

<剛力>をもってしても貫けぬ堅牢な体躯。幾ら鬼とはいえそんな規格外の表皮を持っている訳がない。つまり土浦の言う<不抜>こそが、この異常なまでの防御力の正体。

『如何にも。壊れない体こそが俺の<力>だ』

 壊れない体。
 単純にして明快過ぎる、絶対の有利だった。
 
 もしその言葉が本当ならば、甚夜に彼を倒す手段はない。<剛力>さえ通じなかったのだ。少なくとも現状において土浦を討つことは不可能だった。
 とは言え逃げるという選択肢はない。奴の目的は甚夜ではなく直次の命。此処で逃げれば自分の命が助かるだけ、直次は殺される。ならば、己に出来ることは。

「直次、逃げろ」

 彼を逃がす。それくらいしか取れる手段はなかった。
 呼びかけるが、しかし反応はない。若干の焦り。直次が逃げれば取り敢えず土浦もの目的が達成されることはない。横目で彼を見据え、逃げろともう一度強く叫ぼうとして、

「甚、殿……?」

 その表情に言葉を失う。
 まるで、化け物を見るような目。
 其処に宿る恐怖。
 
「その姿は」

 いや、違った。
 まるでも何も、


 ────近寄らないで化け物ぉ!!


 今の私は、化け物だったな。
 

 いつか叩き付けられた声がまだ聞こえている。
 ああ、そうか。だから私は。
 誰かの前でこの姿になることを無意識に避けていた。
 様々な鬼を喰らうことで得た、継ぎ接ぎだらけの異形の体躯。何一つ守れず、大切なものを切り捨てて、いつか自分自身さえ失った。そんな弱い自分を見られることがたまらなく嫌だった。
  
 己の醜さを曝け出すのが、本当はとても怖くて。

 彼のことを友と言いながら、出来るならば、ずっと己の真実を隠しておきたかったのだ。

「逃げろと言っている!」

 苦渋に歪む表情で声を絞り出す。その形相に、わなわなと震えながらも直次が走り出す。去り際「すみません……」と小さく呟いたのが聞こえた。それでいい。若干の痛みを感じながらも安堵する。安堵できた事実が、少しだけ嬉しかった。
 もう一度、土浦へ向き直る。
 直次は逃げた。次はこの鬼をどうにかせねばなるまい。
 とは言え今のままでは勝てない。それは分かっていた。何か策を考えねばならぬ、しかしそもそも攻撃の通じない相手をどうすれば打ち倒せるというのか。
 そこまで考えた時、土浦が構えを解き、だらりと両腕を放り出した。

「何のつもりだ」

 急に戦意を失った土浦へ問い詰めるが、相手はどうでもいいと言わんばかりの態度である。

『俺の目的は三浦直次。いなくなった以上争う意味はない』

 言いながら、背を向ける。
 それは<不抜>への自信だろう。たとえ背後から斬り掛かっても己は死なぬと言外に告げている。
 彼の突然すぎる行動に着いて行けず、甚夜は茫然とその背中を見送る。
 少し歩き、土浦は思い出したように振り返った。

『以前お前に言ったな。鬼は人と相容れぬと』

 先程まで戦っていたとは思えぬ程に平静な表情。
 その視線には何処か憐憫の色がある。

『どうだ、言った通りだったろう』

 遠巻きに見る町人たちを一瞥する。彼等の瞳には恐怖がありありと映し出されていた。土浦という鬼に対する……そして、甚夜の異形へ対する。
 当然だ。人は人と違うものを排斥する。
 彼等が己の姿を恐怖するのは至極真っ当な在り方だ。

「とう、さま」

 その中には、雑踏に紛れた愛娘の視線も含まれていて。
 だから、当然だと思っているのに、泣きたくなった。

『これも以前言ったが、我が主は受け入れてくださる。鬼だろうが人だろうが才あれば認める。そこに偏見は一切ない。逆に才が無ければ鬼でも人でも切り捨てるがな。その意味、考えておけ』

 それだけ残して、土浦はこの場から去った。
 残されたのは一匹の鬼。
 町人の視線は甚夜に集中している。恐怖。嫌悪。忌諱。負の感情がべったりと纏わりつく。

「化け物だ」
「知ってるぞ、あいつ」
「ああ、俺も見たことがある」
「鬼だったのかよ」

 口々に上がる、辛辣な言葉。
 痛む。
 それは土浦の一撃のせいか。
 それとも他に原因があるのかは、よく分からない。
 ただ、もう聞きたくなかった。

<隠行>

 小さく呟くと同時に甚夜の姿が背景に溶けていく。
 こうして二匹の鬼は姿を消した。
 昼下がり。
 九月の空には薄く墨を流したような雲が広がっていた。



 それで終わり。
 日々は過ぎていく。

 苦痛に打ち拉がれても。
 幸福に満ちていたとしても。
 毎日は続き、そして流れ往く。

 その是非を問うことは誰にもできず。
 それでも歳月は無慈悲で。


 ─────大切だった筈の平穏は、あまりにも脆くて。


 あらゆるものは、流転する。
 



 鬼人幻燈抄 幕末編『流転』・了
       次話 『願い』






[36388]      『願い』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/05/14 19:55

 鬼人幻燈抄 幕末編 『願い』



 強くなりたかった訳じゃない。
 ただ、壊れない体が欲しかった。

 
 ◆


 今も思い出す、美しい景色がある。
 川のせせらぎを聞きながら、彼女と語り明かした日々のこと。
 俺は彼女が本当に好きで。
 彼女も俺のことを好いてくれている筈で。
 俺は本当に幸せだった。

 その日も彼女に呼び出され、いつものように川辺へ足を運ぶ。
 彼女はいつものように俺を笑顔で迎え入れて、柔らかな笑顔で言った。

「あたし、あんたのことが好きだよ」

 言葉を聞き終えると同時に痛みが走る。
 振り返れば刀を持った数人の男。
 血に塗れた白刃。 
 体に刀が突き立てられた。

 でも、彼女には何の動揺もない。
 だから気付く。

 これは初めから画策されたこと。
 ああ、俺は、騙されたんだ。

 鋭い痛み。鈍い痛み。
 痛かったのは体か。
 それとも別の何かだったのか。
 
 何かが壊れていく。
 薄れていく意識。

「鬼め」
 
 男達が発する雑音。
 ひたすらに刻まれる自分。
 これ以上は、死んでしまう。
 そう思った瞬間、体は勝手に動いていた。

 膨れ上がる憎悪。
 薙ぎ払う。
 血が飛び交う。
 男達が死骸に変わる。
 全て殺し、でも止まれなくて。

 ずぶり。
 嫌な感触。
 俺の手が、彼女の体を貫いている。
 
 俺を殺そうとしたのは彼女で。
 だから俺のこの行為は正しい筈で。

 なのに、彼女は。
 やっぱり、柔らかい、笑顔で。

「ごめんね、あたしは、あんたみたいに強くなれなかった……」

 響く残悔の声。
 次第に動かなくなっていく彼女の体。
 肌に触れる血液だけが温度を持っている。 
 其処に至りようやく正気を取り戻す。


 俺は、一体、何を。


 そして暗転。
 夢が終わる。
 
 あの日の美しい景色だけが、瞼の裏に残されて。



 だから、俺は願った───





 ◆





 不意に思い出した遠い日のこと。
 何故だろうか。 
 今更どうすることも出来ない、愚かな己が脳裏に映る。
 土浦は表情を変えず、思い出の中にいる女を掻き消した。
 くだらない。最早どうでもいいことだ。
 意識を切り替える。そうして顔を上げれば、眼前には自身が忠誠を捧げた主の姿があった。

「ご苦労だった、土浦。して首尾は」

 江戸藩邸・会津畠山家の座敷で土浦は傅いていた。彼の一間程先には、以前よりも皺の増えた細目の男、会津畠山家前当主・畠山憲保がいる。

「申し訳ありません。三浦直次を取り逃がしました」

 額が畳に触れそうになるほど深く頭を下げる。土浦は憲保の命を受け、三浦直次の命を狙った。しかしそれを甚夜に邪魔され、為すことは出来ないまま逃げ帰る形となった。憲保は自分の手腕を信じて任せたというのにこの様だ。言い訳のしようもない。

「全ては私の失態。如何様な処罰も賜る所存です」

 頑とした物言い。土浦は真剣だったがそれを聞いた憲保は軽く笑い、穏やかに返す。

「土浦よ。私は、お前の忠心を疑ったことはない。そしてそんなお前に私は信頼を寄せている。その念は一度ばかりの失態で揺らぐことはないぞ。この不始末は次の機会に取り返せばいい」

 言葉通り憲保は然程気にはしていない様子だった。
 だが勘違いしてはいけない。畠山憲保という男は決して甘くはない。寧ろ他人を簡単に切り捨てる冷徹さを持っている。ただ同時にある意味では誰よりも公平であった。
 憲保は鬼であろうと人であろうと才能あれば登用するし、鬼であろうと人であろうと、或いは自分自身であろうと必要とあらば切り捨てる。
 そんな彼が土浦を処罰しなかったのは、まだ価値を認め信頼している証拠。だからこそ思う。これ以上信頼を裏切る訳にはいかない。
 
「は、ありがとうございます。次こそは三浦直次を」
「ああ、それはもういい。代わりに、お前には京へ行ってもらいたい」
「京へ?」
「うむ。今、京は荒れている。松平公が尊王攘夷派を抑えているのだが、やはり押されているようでな。お前の力が必要だ」

 京都守護職に就任した会津藩主・松平容保は配下である新選組などを使い、京都市内の治安維持にあたっていた。
 松平容保は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対している。しかしながら時代の流れは倒幕に傾いており、薩長同盟の締結や各地での農民反乱など幕府は、それに追従する会津藩は次第に進退窮まる状況へと追いやられようとしていた。
 それでもまだ憲保は諦める気はないようだ。その表情には微塵の動揺もない

「先に百ばかりの鬼を京へ送った。もっとも、お前とは違い下位の鬼ばかりだが。お前はそれを追い、京にて陰ながら反幕の士を討ってほしい。先に送った鬼は手駒として使え」
「は。……しかし百もの鬼をどうやって配下に?」
「なに、世には不思議な酒もあってな。もっとも、最早手に入れることは叶わんが」

 答えの意味は分からなかったが追求しなかった。憲保がやれと言ったならばそれをやらぬ道理はない。
 憲保を信じると決めた。ならばこそ彼の言を疑わず、彼が命ずるままに力を振るう。それこそが土浦が唯一抱く譲れない生き方だった。
 実のところ土浦は開国だ攘夷だ、佐幕や倒幕といった思想には全く興味がない。彼が畠山憲保に仕える理由はただ一点。
 かつて人に裏切られ、全てを失った所を憲保に拾われた。
 その恩義故である。
 今から十年以上前、彼は自分に手を差し伸べた。


『私を信じろ。鬼と武士は同じく時代に打ち捨てられようとしている。我らは旧世代の遺物、いわば同胞。ならば共に手を取り合うことが出来る筈だ』


 信じろ、と。
 裏切られ打ち捨てられ、当てもなく放浪していた自分を前にして憲保は堂々と言い切ったのだ。
 そのあまりにも傲慢な在り方が眩しくて、だからこそ土浦は畠山憲保という男に忠誠を誓った。
 憲保は人であったが、自分にはない強さを持っている。
 或いは、抱いた感情は憧憬だったのかもしれない。もし彼のように強くあったなら、と。土浦は畠山憲保という男の在り方に憧れていた。

「では失礼いたします。京へ行き、憲保様の敵を残らず討って見せましょう」
「うむ、頼んだ」

 七尺を超える巨躯は淀みなく歩み、座敷を後にしようとする。その途中、一度立ち止まり土浦は僅かに躊躇いながら憲保へ声をかけた。

「憲保様、お聞きしたいことが」
「なんだ」
「何故、あの男の前で三浦直次を襲う必要があったのでしょうか」

 先刻の邂逅。
 甚夜と直次が同道している最中の襲撃は偶然ではなかった。甚夜の前で三浦直次を襲い、その命を絶つ。それが憲保の下した命令だった。
 疑問が残る。その状況であれば甚夜が邪魔をするのは当然。本当に三浦直次を殺害したいのならば、なぜ態々あの男が傍にいる時を狙う必要があったのか。どれだけ考えても分からなかった。

「必要だったからだ。それが答えでは不満か」

 返す言葉は実に簡素の表情から内心を見通すことも出来ない。

「……いえ」

 しかし土浦はそれ以上の追及はしなかった。
 俺は憲保様を信じると決めた。ならば、彼がどんな命令を下そうとも、それに従う。そう、俺は憲保様を信じているのだ。
 疑心は晴れない。それでも、自分には分からないだけで、彼なりの理由があったのだろう。自分に言い聞かせ、思考に区切りをつけて座敷を後にする。

「任せたぞ、土浦」
「は」

 短く返す。
 ぴしゃりと閉じられた襖。
 何故かその音を寒々しく感じた。
 




 ◆



  
 谷中の寺町にはうらぶれた廃寺がある。
 瑞穂寺。
 住職が随分前に亡くなって放置されたこの寺は、かつて人を喰う鬼が出るという噂が実しやかに流れた為、殆どの者が気味悪がって今では誰も近付くことはない。
 そういう場所だから、身を隠すには丁度良かった。
 
 黄昏が過ぎ辺りは黒に染まり、薄月の青白さがやけに目立つ。夜が訪れてからしばらく経った頃、瑞穂寺の本堂には一匹の異形が在った。
 甚夜は本堂の壁にもたれ掛かり、力なく座り込んでいる。鬼へと化したまま人に戻ることもせず、何をするでもなくただ中空に視線をさ迷わせていた。
 土浦との戦いを経て、一直線にこの瑞穂寺へ逃げ込んだ。今は体を休めている最中、甚夜の呼吸音だけが本堂に響いている。
 何故、逃げ場に此処を選んだのかは自分でも分からない。
 ここが茂吉の、“はつ”の最後の場所だからか。
 夕凪と出会った場所だから、野茉莉を拾った場所だからか。
 それとも人を喰う鬼が出るという寺が、自身に相応しいと思えてしまったからなのか。
 つらつらと思考を巡らせて、どうでもいいことだと切って捨てる。答えなど出る訳もなく、出た所で意味もない。正直に言えば無駄な思考に労力を費やす程の余裕はなかった。

 あの後直次は何処へ行っただろう。
 おふうはちゃんと野茉莉と逃げてくれたのか。

 心配ではあるが体は動かない。
 土浦との戦いで負った傷は直撃こそ受けなかったが決して軽くはない。骨は無事だったが内臓がいくつかやられた。幾ら頑強な鬼の体躯とは言え無理が出来る状態ではなかった。

 だが動けない理由はそれだけではない。
 傷も理由ではあるが、何より精神的な負担が大きかった。
 本当におふう達が心配ならば這ってでも確かめてこればいいだろうに、足は鉛のようで、立ち上がることさえままならなかった。

 ────また、全て失くしてしまったなぁ。

 鬼と化した姿を衆目に晒した。
 その事実が、思った以上に甚夜を打ちのめしていた。町人達は皆恐怖や嫌悪をもって己が異形を眺めていた。直次や野茉莉が浮かべた恐怖の視線は脳裏に焼き付いている。その痛みは土浦が放った拳を遥かに超えていた。
 覚悟を持って正体を晒したというのにこの体たらく。自嘲の笑みさえ浮かんでこない。友も、娘も、異形を見て戦いていた。
 
 当然だ。人は人でない者を排斥する。
 そして己はもう人ではない。彼等と繋がっていようという願い自体がそもそも間違っていたのだ。
 そう思うと殊更体が重くなる。
 頭を動かすのも億劫だ。
 何もかもがどうでもよくなって思考を放棄すれば、心身の疲労からか少しずつ瞼が下がってきた。
 
 何か、疲れた。
 このまま眠ってしまおうか。
 そうだな、そうしよう。
 
 まだやらなければならないことが残っている。
 その為には少しでも休息を取らないといけない。今は動けないが少し眠ったら為すべきを為そう。想いながら瞼を閉じれば、

 ふわりと、どこかで嗅いだことのある、甘い香りが鼻腔を擽った。
 
「これは……」

 思わず目を見開く。懐かしい空気。遠い夜が思い出される。
 確か、この花の香りは。

「……沈丁花」

 そうだ。この甘やかな芳香は、春を告げる花の色。
 何故九月に沈丁花が。
 不思議に思い顔を上げれば、其処には少女の姿があった。
 すらりとした立ち姿の、細面の美しい少女は甚夜の姿を認めると安堵から一息吐いて、穏やかに語りかける

「ここにいたんですね」

 おふうは、本当にいつもと変わらない様子で、ゆったりと笑って見せた。





[36388]      『願い』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/26 02:23

 ざぁ、と雨音が聞こえた。
 今迄気づかなかったが寺の外では雨が降り出したようだ。おふうの肩も少しばかり濡れている。どうやら彼女はこの雨の中、甚夜のことを探していたらしい。

「ここにいたんですね」

 柔らかな声。変わらない口調。この十年余り、彼女は何時だって姉が弟を心配するように気遣ってくれた。それが懐かしいようで、けれどいつものことのような。胸には形容しがたい不思議な安堵があった。

「おふう……」
「探しましたよ? 急にいなくなるから」

 何故と口にしようとして、意味のない問いだと気付く。おふうは甚夜の正体について知っているし、彼女自身もまた鬼だ。鬼と化した甚夜姿を見たところで驚くほどのことではなかったのだろう。現に今も左右非対称の異形の鬼を前にして、いつも通りたおやかに微笑んでいる。

「よく此処が分かったな」
「分かった訳じゃありません。ただ甚夜君が行きそうな場所を全部回ってみただけです」

 くすくすと笑いながら近づいた彼女は甚夜の隣に腰を下ろした。触れ合える距離に鬼と少女が並んで座る。傍から見れば随分と奇異なことだろう。

「大丈夫ですか」
「あの程度で死ねる程脆くはない」
「そっちじゃないんですけど」

 仕方がない人、とでも言わんばかりに苦笑する。
 彼女に返す言葉が見つからず甚夜は口を噤んだ。
 そうしてしばらくの間二人はただ並んで座っていた。どちらも何も言わない。だが重苦しいとは思わなかった。むしろ心地好いとさえ思える沈黙。言葉はなくとも同じ痛みを共有できる、同族だからこその安らかさが此処にはあった。
 
「これから、どうするんですか?」

 正体を衆目に晒してしまったのだ。最早江戸には居られない。可能ならば早々にこの町を離れなければ。
 しかし、その前にやり残したことがある。

「土浦……先刻の鬼を討つ」
 
 力の籠らない、ひどく軽い調子だった。おふうは思ってもみなかった言葉に息を呑む。先程の戦いは終始甚夜が劣勢だった。それを知っているからこそわなわなと体を震わせた。

「……無茶です。甚夜君は、あの鬼に傷一つ付けられなかったじゃないですか」

 彼女の言うことはもっともだ。現実として土浦の<力>、<不抜>を破る方法など見当もつかなかった。だがそれでもあれは討たねばならない。土浦が直次を狙ったのは憲保の君命。ならばあの男は確実にそれを為すだろう。放っておくことは出来ない
 そして何より。

「だとしても私の目的の為に、逃げる訳にはいかない」

 鬼を討つ。
 それは正義や道徳、倫理といった綺麗な動機ではなく、ごく個人的な目的から生まれた行動だ。誰に何を言われたところで止める気など端からなかった。
 切って捨てるような甚夜の言葉に再び沈黙が鎮座する。先程までの心地好い沈黙ではなく、引き攣ったような空気だった。
 少し雨が強くなったらしい。静まり返った本堂では雨音がやけに響く。二人は言葉もなく、降りしきる雨音に耳を傾けていた。

「甚夜君」

 沈黙を破ったのはおふうの方だった。
 普段より少しだけ低い声。緊張、それとも迷い。どちらかは分からないが彼女は言葉を躊躇っている。しかし逡巡の後、意を決したように一度頷き、隣に座っている甚夜に視線を向けた。

「ずっと聞きたかったんです。貴方は、なんで鬼と戦うんですか?」

 突き付けるような問いだった。おふうの目は真剣で、それがただの雑談のつもりではないのだと感じられる。
 そう言えば、今まで話したことはなかったか。いい加減付き合いも長い。彼女になら話してもいいだろう。甚夜は中空で視線をさ迷わせたままぽつりぽつりと話し始めた。
  
「今から二十年以上前の話だ。私は葛野という集落に住んでいた」

 そうして口にする、己の始まり。
 何一つ守ることが出来なかった。
 どうしようもなく醜い“鬼人”の話。

「葛野は産鉄の集落。しかし私には職人としての才能はなくてな。幸い剣が立ったから、いつきひめ……集落の巫女の護衛についていた」
「巫女……」
「名を白夜、幼馴染だった」

 其処には隠しきれない愛しさがあって、答えなど聞かなくても分かっているが、敢えてその質問を口にする。

「あの。好き、だったんですか?」
「……ああ。彼女は、葛野の未来のために自身の幸福を捨て巫女となった。それを尊いと思い、だからこそ護りたいと願った」

 結局、それは叶わなかったが。
 漏れた声に力はない。かつての光景を思い出しているのか、此処ではない何処を眺めるような遠い目だった。

「ある日、葛野を鬼が襲撃した。私は巫女守として彼女の護衛についていたが、護り切ることが出来ず彼女を死なせ、結果全てを失った。彼女を殺した鬼は去り際に言ったよ。この世の全てを破壊し尽くすとな」

 遠い夜。
 愛した女を守れず、大切な家族を失い、自分自身さえ踏み躙られた。
 残されたのはたった一つの感情のみ。

「私は、憎い。私から全てを奪った鬼が。今から百四十四年後、その鬼は全ての闇を統べる王、鬼神となって葛野の地に戻るらしい。……私は鬼神を止める。そのためだけに、今まで生きてきた」

 だから力が欲しかった。
 人を滅ぼす災厄を止めるだけの力が。
 
「鬼を討つのは、彼らを喰らいその<力>を奪うため。私は、強くなりたかった」

 鬼を、同胞を喰らい<力>を奪う。
 下衆な所業に何も感じなかったと言えば嘘になる。茂吉や夕凪、喰らった中には己にとって大切だと思える者達もいた。それさえ斬り捨て、踏み躙り、ただ只管に力を求めた。
 他の生き方など、選べなかった。

「白夜を殺した鬼の名は鈴音。……私の、妹だ」

 全ては、かつて慈しんだ筈の妹を止めるために。
 鈴音、と。
 口にしただけで憎悪が胸を焦がす。二十年以上経った今でも妹に対する憎しみが消えない。消えてくれない。この憎悪は感情ではなく機能。彼女を憎むことで鬼へと堕ちたこの身は、どれだけ心で許そうと思っても、その憎しみから逃れることは出来ない。

「じゃあ、甚夜君は……自分の妹さんを殺すために、強くなりたかったんですか?」

『止める』と語った甚夜に対し、おふうは虚飾を取り去って『殺す』と言い切った。責めるような調子ではなく、平静な、抑揚のない問いだった。

「さて、な」

 どうでもいいとでも言いたげな口調。投げやりな返しに少しだけおふうがむっとした。

「真面目に答えてください」
「済まない。だが誤魔化した訳ではなく、本当に分からないんだ」

 情けないがその言葉に嘘はなかった。
 救いたいと願っても、身を焦がす憎悪は捨てられず。
 殺したいと望んでも、かつての幸福が瞼にちらつく。
 己が鈴音をどうしたいのか。
 何のために刀を振るうのか。
 ずっと探し続けてきた答えは今もまだ見つからない。

「そう、ですか……なら、もう一つ。聞きたいことがあるんです」
 
 おふうは要領を得ない甚夜の言葉を聞き、何故か納得したように頷いた。訝しげにその様を眺めればまっすぐな瞳で見詰め返してくる。

「<力>を得るために鬼と戦う。そして<力>を求めたのは妹さん……鈴音さんを止めるため。それなら、甚夜君は」

 目を瞑り、何かを決意するように再度瞼を開く。そしておふうは視線を逸らさず、

「なんで、鈴音さんを止めたいんですか?」

 一点、急所を突き刺した。
 頭の中が真っ白に塗り潰された。
 鈴音を止めるという『目的』ではなく、その道を選ぶに至った『理由』。
 彼女はそれを問うている。

「妹さんを止める。もしかしたら殺さないといけなくなる。それでも、その道を選んだ理由が、私には分からないんです」
「……それは」
「甚夜君は人を守るために戦うんですか?」

 答えることは出来なかった。
 かつて葛野を旅立つ時、甚夜は言った。

『幸いにしてこの身は鬼。寿命は千年以上ある。ですから、私は往きます。いずれこの地に現れるであろう鬼神を止めるために』

 そこには、確かに鬼神を止めるという決意があって。
 しかし、今はかつて口にした言葉を空々しく感じる。人の為に、その気持ちがなかった訳ではない。それでも誰かの為に、正義の為に。何かを守る為だけに剣を取ったのではなかった。

「それとも憎いから……貴方が望んだのは復讐ですか?」

 勿論だ。
 憎悪はあの夜と変わらぬまま胸に在る。だから復讐の為と言われれば否定できない。しかし同時に間違いでもあった。憎悪も復讐の念も確かにある。だがその為に刀を振るってきたならば、己は殺すことをこんなに迷わなかった筈だ。

 それでも殺すにしろ、救うにしろ、最後の幕は己の手で下さねばならないと。
 そう思って、ただ力を求めてきた。
 けれどそれは何故だろう。
 鈴音を止めて、どうしたかったのか。
 私は、何故、刀を取ったのか。
 考えた瞬間、

『私が其処まで追い詰めた。ならばこそ、けじめはつけねばなりません』

 遠い昔、自分が語った言葉を思い出す。

「あ……」

 そうして知る。
 今まで気付かなかった、否、心の奥底では気付いていながらずっと眼を背けてきた理由を、甚夜はようやく理解した。

「なんで、貴方は。そこまで……」

 心底理解できないといった様子だった。理由もなく妹と殺し合おうなど正気の沙汰ではない。おふうには甚夜が訳の分からない化け物に見えていることだろう。
 甚夜は絞り出した彼女の問いを、ゆっくりと首を振って否定した。

「違うんだ」

 何故か、そう言っていた。
 本当は、己の醜さを知られるのはとても怖くて。
 今までずっと気付かないふりをしてきた。
 普段なら適当に誤魔化しただろう。
 しかし不思議と今はそんな気分にならなかった。思えば、おふうは何時だって気にかけてくれた。今も鬼の姿を衆目に、友に、娘に晒し、沈み込む己の隣に座っていてくれる。
 彼女は隣にいようとしてくれた。言葉にはしなかったが、甚夜はそれをずっと感謝していた。だから、彼女になら話してもいいような気がした。

「私は、今でも鈴音を大切に想っている。だけど憎しみが消えてくれない。今この瞬間だって思っている。憎い、殺したい。大切な妹だと、そう想っているのに」

 際限なく膨れ上がる憎悪が、かつての幸福さえ塗り潰す。

「なのに殺すことだって躊躇っている。私は何十年と生きて、自分がどうしたいのか、そんなことさえ分からない」

 ずっと答えを探していた。
 何のために刀を振るうのか、何に刀を向けるのか。
 長い間その答えは見つからなかった。
 けれど今なら分かる。
 自分が、本当に斬りたいと願ったものが何なのか。 
 
「それでも鈴音を止めると誓った。けれどそれはきっと、鈴音が憎いからでも人の為でもない。私は、私が刀を振るうのは」

 ─────此処に告解しよう。

 己がこの生き方を選んだのは。
 人を守りたいという義心ではなく。
 殺された白雪の復讐ではなく。
 多分、想い人を殺した妹に対する憎悪の為でさえなくて。 
 
「私は……ただ、己の生き方にけじめを付けたかった」

 人を滅ぼす。
 無邪気な妹にそんなことを言わせてしまったのは、あの娘をそこまで追いこんでしまったのは他ならぬ己自身。
 だから鈴音を止めたかった。
 そうすれば、かつて犯した過ちを払拭できるような気になっていた。
 復讐だの、怪異の犠牲になる人を見たくないだの、そんなものは全てお為ごかし。
 実際は、ただ鈴音の向こうに弱かった己の影を見ていたに過ぎない。


 そうだ、私が本当に斬りたかったのは。


 何一つ守れず、自らの手で全てを壊してしまった。
鬼として憎悪に身を委ねることも、人として憎悪を飲み込むことも出来なかった。
 意味もなく、意義もなく。
 ただ無為に生きる醜い“鬼人”。
 

 そんな弱い己をこそ、私は斬り捨てたかったのだ───
 

「……無様だな、私は。あの娘を憎み殺したいと思ったのも、出来れば許し救いたいと願ったのも事実。だが結局それは鈴音の為ではなく、己の生き方を肯定する手段でしかなかった」

 異形の鬼はその外見には似合わぬ弱々しい笑みを落とす。

「私は、始まりを間違えていた。だが今更生き方を変えることも出来ない。きっと私はこの憎悪を消せないまま、最悪の結末に辿り着く。……私の生き方は、間違っていたんだ」

 不意に気付かされた己の真実は目を背けたくなる程に醜悪だった。それに気付かず刀を振るい、多くのものを斬り捨ててきた。
 私は、今まで何をやってきたのだろう。
 己の弱さから目を背けるように俯き、嫌悪に表情を歪める。

「よかった」

 そんな甚夜の内心とは裏腹に、安心したようにおふうが息を吐いた。顔を上げ隣に座る少女を見やれば真実安堵に満ちた少女の笑顔がある。

「甚夜君は、やっぱり私の知っている甚夜君でした。貴方は自分の間違いをちゃんと認められる人。意味なく誰かを傷つける鬼じゃなかった」

 何故彼女がそんな顔をしているのか。理解できず問いかけようとすれば、それを遮るようにおふうは言った。

「正しいことって、そんなに大切なんでしょうか?」

 雨を通り抜け冷たくなった風が本堂を流れた。

「お父さんは……彼は、私のために全てを捨てました。今になって思いますけど、それは多分、人として間違っていたんだと思います」
「そんなことは」
「いいえ。自分を育んだ全てを、自分の勝手で捨てる。どんな理由があってもそれは間違い。……そのせいで、辛い思いをした人だっているんですから」
 
 店主の弟のことを言っているのだろう。彼の弟は心底兄を尊敬していた。それを切り捨てた店主は、確かに間違っていたのかもしれない。敬愛する父を否定し、けれどおふうは嬉しそうに口元を緩めている。

「でも私は救われました」

 それはいつか見た、見惚れる程に眩しい、童女の笑みだった。

「お父さんは間違っていたけど、それでも私は救われたんです。正しいことを正しく行うことが、必ずしも正しいとは限りませんよ。甚夜君は自分が間違っていると思ってるかもしれません。事実間違っていたんでしょう。でも、間違いだとしても。それが悪いことなのかは、きっと誰にも分からないと思います」

 間違いでもいいと、己の醜さを肯定する少女。彼女は一体何を言おうとしているのか。

「妹さんを殺す為に戦う。鬼を喰らって<力>を奪う。……その理由は、全部自分の為。そうですね、甚夜君はきっと間違ってます。貴方の始まりも、歩んできた道も全部間違いだった」

 言われないでも分かっている。
 結局己がしてきたことに意味なんてなかった。沈み込むように項垂れ、唇を噛む。その様を見てもおふうはたおやかな笑みを崩さず、確信に満ちた声で言った。
 
「でも、そんな貴方の間違いに救われたものだってあるんです」

 そんなもの、ある訳が。
 否定しようとして、しかしそれは言葉にならなかった。ぎしりと床が鳴る。目を向ければ、本堂には新しい二つの影があった。見慣れた、そしてもう二度と見ることのないと思っていた。
 
「直、次」

 其処にいたのは、随分と長い付き合いになった、甚夜の友人だった。

「野茉莉も。何故、此処に」

 愛娘もまた、まだ覚束ない歩きで湿った本堂の床をとてとてと歩いてくる。

「すみません、実は最初から隠れていました」
「野茉莉ちゃんも三浦様も、甚夜君を探してくれたんですよ。謝りたいって」

 どうやら最初から皆一緒に行動していたらしい。
 直次の目を見据える。己の異形を前に、ほんの少しの怯えはある。だがそれでも下がろうとはせず、ぐっと眦を強くした。

「正直に言います。私は、貴方の姿が怖い。私は人です。自分よりも遥かに強い理外の存在を前にして、怯えています。事実、私は貴方の前から逃げ出した」
「ああ……」

 自分とは違う、ということは十分に排斥の理由と成り得る。それを責めることは出来ない。人とはそういう生き物なのだから。

「見ての通り、私は化け物だ。お前の感情は正しい」
「違うっ!」

 激高したように大声で叫ぶ。

「申し訳ありませんが、話を聞かせてもらいました。だから言える。甚殿は何が正しいのかを迷い、悩み。それでも曲げられない生き方のために命を懸けてきた。それは、私と何も変わらない。貴方は私と同じだ。鬼かもしれない。でも、化け物なんかじゃなかった……!」

 目には涙が浮かべ、自身の過ちを悔やむように奥歯を食い縛っている。

「甚殿、貴方は私の友人だ。一度は逃げてしまいました。だからもう逃げたくない。私は、最後まで貴方の友人でありたい」

 絞り出した声は震えている。涙を流し、鼻水を垂らし、お世辞にも格好良いとは言えない。なのに直次が眩しい。惨めな姿を晒しているというのに、どうしてこうも心が震えるのか。

「とうさま」

 胸元に何かがぶつかった。見やれば、其処には愛娘の姿が。

「野茉莉……私が怖くないのか」

 勢いよく何度も首を振る。野茉莉は泣いていた。小さな瞳から後から後から涙が零れる。拭ってやりたかった。しかし、直次の手で触るのは罪深いことのような気がして、甚夜は何もできなかった。

「とうさまは、とうさま」

 しがみ付き、涙を流し。こんな野茉莉を見るのは初めてだった。環境のせいか年の割に手のかからない娘に育った。だからこんな風に取り乱すことなど想像したこともない。

「こわくなんてない。だから……」

 しかしそこにいるのは年相応の童女だ。甘えん坊で、わがままで。そういう、幼い娘だった。

「だからどこにもいかないで……」

 そうして理解する。
 娘は確かに怯えていた。だがそれは鬼である己を、ではなく。自分とは違う父親が、どこかに行ってしまうのではないかと怯えていたのだ。
 それがあの時の視線の意味。
 馬鹿らしい。本当に怯えていたのは、甚夜の方だった。本当に情けない男だと思わず自嘲の笑みが零れる。

「……やっぱり、甚殿は親馬鹿ですね」

 鼻を啜ってから甚衛は何とか笑みを作る。

「そうですね。野茉莉ちゃんにとうさまって呼ばれただけで、そんな顔をするんですから」

 言われて口元に手をやる。自嘲の笑みは形にならず、ただのにやけ面になってしまったらしい。娘に父と呼ばれただけでにやけるなど、これでは親馬鹿と言われても仕方ない
 気恥ずかしくなって押し黙ると、直次は声を上げて笑い始めた。おふうもくすくすと笑いを口元に浮かべている。腕の中の娘はようやく泣き止んでくれて、うらぶれた廃寺だというのに、流れる空気は蕎麦屋『喜兵衛』で過ごした暖かな時間を想起させた。
 
「これは貴方の間違いが作った景色です。ほら、そんなに悪いものじゃないでしょう?」

 小さな笑みを噛み締めながら、悪戯っぽく片目を瞑る。おどけた仕種に彼女の父親を思い出す。血は繋がっていなくても、父娘というのは似るものだな。思わず苦笑が漏れた。

「ああ、そうだな……本当に、そうだ」

 朴訥とした笑み。
 それは、いつかの少年が零したものだったのかもしれなかった。


『それでも、貴方は止まらないんだよね?』


 遠く、声が聞こえる。
 かつて愛した女は言った。

『貴方はいつまでも此処にいられる人じゃないよ。だって甚太は私と同じだから。貴方は自分の想いよりも自分の生き方を優先してしまう人。だから立ち止まれない。今まで貫いてきた生き方を変えられない』

 それは事実だった。
 間違っていると理解した今でも、生き方を曲げることは出来そうもない。きっとこれからも己は間違いを積み重ねて往くのだろう。

『ううん、違う。今はただ見失っただけ』

 ああ、お前の言うことはいつも的を射ている。
 大切な家族、守るべきもの、刀を振るう理由。私には、何一つ残ってない。
 ずっとそう思っていた。
 しかしそれもまた間違いだった。
 彼女の言う通り、ただ見失っていただけ。

『そんなに怖がらないで。甚太ならきっと、答えを見つけることができるよ』

 憎しみは消えない。鈴音をどうしたいのか、まだ答えは出ないけれど。
 この手には大切なものが沢山ある。
 こんなに弱く、醜悪な己を心配してくれた。
 異形を前にそれでも友だと言ってくれた。
 とうさまはとうさまだと、まだ家族であろうとしてくれた。

『大丈夫、私の想いはずっと傍に在るから』

 そして今も尚。
 かつて愛した女の声は自分を奮い立たせてくれる。
 
 全てを失くしたと思っていた。
 事実多くのものを失ってきた。
 だけど大切なものが此処にはまだ残っている。
 そうだ、私は。 

『貴方は、貴方の成すべきことを』



 私は、失ってなどいなかった───



 先程まであんなにも重かった四肢に力が籠る。痛みは残っていたが問題にもならない。
一度野茉莉に離れて貰い、床を踏み締め、ゆっくりと体を起こす。
 左右非対称の異形の鬼は堂々と、迷いなど欠片もない様相で立ち上がった。

「甚夜君……」
「認めよう。私は、間違っている。私は鈴音を止めるために生きる。<鬼>を喰らい、ただ<力>を求めた。そんな生き方は最初から間違っていたんだ」

 思えば、強くなる事だけを考えてきた。
鬼を討って己を鍛え、来るべき時の為に強さだけを求めていた。
 ……己にはそれしかないと思っていた。
 
「だが間違いに気付いたとしても憎悪は消えない。この生き方を曲げられない。恐らく私は憎しみを抱えたまま、百年の先、鈴音と殺し合うことになるだろう。それでも……」

 血に塗れたこの手でも救えるものがあるというのならば。

「……私はもう一度、誰かを守りたいと願ってもいいのだろうか」

 おふうの顔を見る。直次の、そして野茉莉の顔を見る。
 異形のままの甚夜をまっすぐに見つめる六つの瞳。
 皆穏やかに、優しく微笑んでいる。

「甚夜君は、今までだって多くのものを守ってきました。貴方がそれに気付いていなかっただけ」

 その言葉に自然と笑みが零れる。
 間違いの果て、それでも得ることのできた暖かさ。
 だから信じられる。
 
「そうか。……たとえ間違えたままだとしても、救えるものはあるのだな」

 何時までも間違えたままの愚かな己でも救えるものはあるのだと。
 この道の果ては決して間違いだけではないのだと。
 彼女の笑顔が、そう信じさせてくれた。

「……さて、行くか」

 まるで散歩にでも行くかのような軽さだった。
 動けるようになったからには、為すべきを為そう。直次が京へ向かうならばあの男もまたそれを追う筈。そして土浦は佐幕攘夷派の手駒。入京すれば必ず開国派の志士を討つために動く。それを放置する訳にはいかない。
 直次は顔を顰め、悔しそうに歯噛みする。

「すみません……結局、貴方に頼ってしまう」
「気にするな。お前は京へ向かうのだろう。雑事に関わることはない」
「ですが」
「蛇の道は蛇、鬼は鬼に任せればいい」
「すみま……いえ、ありがとうございます」
「ああ。私は為すべきとを為す。お前も人として、武士として、為すべきを為せばいい」

 その言葉に直次の表情が引き締まる。頷き、今度はおふう達に視線を移す。

「おふう、野茉莉を頼む。いい子にしているんだぞ」

 野茉莉の頭を撫でてやれば今泣いた鳥がもう笑う。微かな笑みを落とし、彼女達の横を通り過ぎ本堂の外へと向かう。

「うん、とうさま」
「行ってらっしゃい、ちゃんと帰ってきてくださいね。待ってますから」

 彼女はいつもそう言って、心配しながらも止めはせず見送ってくれる。
 だから甚夜もいつものように軽い調子で返した。

「ああ、行ってくる」

 振り返りはせず足も止めない。
 本堂を出て、雨に濡れながら荒れ放題の境内を進む。
 
 人よ、何故刀を振るう。

 雨音に紛れ聞こえてくる、いつかの問い。
 異形の左腕の持ち主が投げかけた言葉に甚夜は以前こう答えた。

『他が為に。守るべきものの為に振るうのみ』

 今はもう、あの頃のようには答えられない。
 時は流れ、多くを失って。
 長い長い道の途中、憎悪故に刀を振るい、ただ斬り捨てたものだけを増やしてきた。
 この手は血に塗れ過ぎて。
 誰かの為になどおこがましくて。
 守るなんて言葉、いつしか口にすることも出来なくなった。

 失くしたものがある。切り捨てたものがある。
 歳月は過ぎ、かつていた場所は遠くまで流されて戻れなくなってしまった。
 
 守る、と。
 
 真っ直ぐに言えたあの頃に帰ることは出来ない。
 けれど、守りたいと思えるものが少しずつだけど増えた。


 ───だから、今度こそ強くなろう。


 鬼を討つためではなく、妹を止める為ではなく。
 守りたいものを、素直に守りたいと言えるように。
 降りしきる雨。雨足は更に強くなっていた。夜の闇も相まって、目指すべき道の先は僅かも見えない。しかし悪くない気分だった。
 迷いはない。
 踏み締めるように一歩を進む。
 冷たい雨に打たれながら、しかし胸には遠い日に抱いた筈の熱が宿っていた。
 



[36388]      『願い』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/24 22:34


 鬼子。
 幼い頃から異常なまでに体格の良かった土浦は周りの者にそう呼ばれ育った。
 彼を鬼子と呼ばなかったのは幼馴染の少女だけ。他の者は挙って土浦を責め立てた。
 
 それを辛いと思ったことはない。
 同年代の子供達は鬼子だ鬼子だと土浦をからかってきたが、腕力に優れた土浦が暴れれば一溜まりもないと知っていた。
 だから彼等に出来るのはせいぜい遠くから負け犬のように吠えるだけ。そんなくだらない者達の声に心を動かされる訳がない。
 時折手を出してくる者もいたが大抵の場合一発殴れば泣いて逃げる。
 そういった毎日を続けていたがために孤独な幼少時代を過ごした土浦だったが、やはり辛いとは思わなかった。

 人は僅かな差異をさも大事であるかのように取り上げ他者を差別するもの。

 土浦は自身の経験によりそれを理解した。幼い頃から鬼子と呼ばれ続けた彼は周りの人間になど端から期待していない。だから鬼子と蔑まれても、大人達から邪魔にされ時には蹴飛ばされもしたが「やはり」と思う程度。失望も痛苦もある筈がなかった。
 長らく人に虐げられた彼は当然のように答えを得る。

 人は信じるに足らない。

 僅か七歳の時に至った現世の真理だった。



 二十を超える頃、七尺の巨躯を誇った土浦はやはり周りから鬼子……いや、この時には既に鬼と呼ばれるようになっていた。 
 断っておくが、彼の両目は黒である。
 外観から鬼と呼ばれただけであって、彼は紛れもなく人だった。それでも周りの者からは彼が理外の存在に思えたらしく、ある集落に身を置いていた土浦はほとんど村八分の扱いを受けていた。
 父も母も既に亡くなった。
 幼い頃から鬼子と呼ばれた彼に友などいる訳もない。
 だがそれでも辛いとは思わなかった。
 その理由は、幼い頃とは少しだけ変わり始めていた。

「おお、土浦。来たか」

 鍛冶場で鎚を振るっていた男は一段落ついたところで振り返り、子供っぽい無邪気な笑顔で土浦を迎え入れた。
 土浦は集落の鍛冶師の徒弟として腕を磨き、自身が鋳造した包丁などの鉄製品を売って生計を立てていた。鍛冶師になりたかったのではない。村八分にあっていた彼を唯一受け入れた働き口が鍛冶の道だったというだけだ。

「見てくれ、二本目だ。今度のは少し波紋に拘ってみてな。のたれ刃に葉の組み合わせ。まるで少女のように涼やかな刀身じゃねえか」

 自身が打った刀を見せつけながら満足そうに師は頷く。
 彼の鍛冶の師匠は稀代の名工ではあったが同時に奇怪な変人だった。
 古くから続く産鉄の集落、その中でも随一の鍛冶の腕を持ちながら、その時の気分でしか仕事をしない。
 水へし小割り。積沸かし。鍛錬に皮鉄・心鉄造り。素延べ火造り土置き焼き入れ。拵えを作る以外の全ての工程を自分一人で行う頑固者。
 自分が出入りしているせいで「あの男の鍛冶場には鬼が出入りしている」と陰口を叩かれていたが、それでも平然と笑っている。
 そして何より、

『兼臣、それ以上はやめておけ。弟子が困惑している』

 土浦の件はただの誤解だが、師の鍛冶場には本当に鬼が出入りしていた。それどころかこの男は鬼を娶り、人外の存在と夫婦になったのだ。

「いや、でもよ夜刀。お前も見てくれ。こいつは我ながら美少女になった」
『……そんなだから、お前は変人だと言われるんだ』
「何故呆れたような目で俺を見る。って我が弟子よ、お前までっ!?」
「ああ、いや。つい」

 三十を超える男と見た目十四、五と言った少女の遣り取りに土浦は苦笑いを浮かべ、今日も鍛冶を始める。
 鬼子と呼ばれ虐げられるだけだった日々。
 しかしこの場所には今までにない充足感があった。
 
 鬼と集落の者から呼ばれても辛いとは思わない。
 人は信じるに足らない。それをすでに知っているから。
 だが今の土浦には僅かながら信じられる者達がいた。
 己に生きる術を与えてくれた師匠。
 鬼でありながら人に嫁いだ師の妻。
 師の友人。
 そして、最後は。

「お、嬢ちゃんが来たぜ。ったく、毎度毎度見せつけてくれんなぁ」

 鍛冶場を外から覗いている少女を目敏く見付け、完全にからかう調子で師がいやらしく笑った。
 外にいたのは、同年代で唯一自分を鬼子と呼ばなかった女。
 土浦の幼馴染の少女だった。

「そうだな……今日は一段落ついたら切り上げて行っていいぞ」
「ですが」
「いいから行け。師匠命令だ」

 長い黒髪の鬼女も優しく目を細め土浦に言う。

『折角だから行けばいい。偶にはそんな日もいいだろう』
「……わかりました。ではお言葉に甘えて」
「おう! ……それはそれとしてなんでこいつの言葉には素直に従うんだ? 俺、師匠じゃねえの?」

 師の言葉は聞かなかったことにしてそそくさと片付け鍛冶場を離れる。
 表情は変わらず、しかしこことは浮き立つ。
 その先では彼女が。
 
 相変わらずの、柔らかい笑顔で───





 ◆





 降りしきる雨の中、傘と合羽を纏った土浦は暗い道を歩いていた。
 日本橋より京都・三条まで六十九宿、百三十里弱をつなぐ中山道。
江戸を起点とする五街道の一つで、東海道とともに日の本の主要な交通路として多くの人々が利用してきた道である。
 雨の夜は視界が悪い。耳を突く雨音、遠くを見ても夜の闇があるばかり。歩いているのは自分だけ。長く続く道は開けているのに先を見通すことが出来ない。
 
 そのせいだろうか。
 今日は随分昔のことが脳裏を過る。

 土浦は少しだけ顔を顰めた。思い出したくもない過去だ。だというのに何故、忘れ去ることが出来ないのか。陰惨とした心持ち。足取り重く、しかし一歩ずつ前に進む。
 土浦は一、二度首を振り、無理矢理に古い記憶を追い出す。
 そして行く先を睨む。
 京には多くの志士がいるだろう。
 倒幕を画策する者どもを皆殺しにする。
 それが憲保より与えられた命。ならば余計な考えは必要ない。俺は憲保様を信じている。他の感情など余分だ。今はただ、主命を為すことにのみ専心する。
 
 余計な思考を斬って捨て、ただ歩く。
 流れる風景。
 街道の脇には槐(えんじゅ)の木が立ち並び、その傍らには土盛りがされていた。
 
 一里塚。

 全国の街道には旅人の目印として一理毎に土盛りが設置されている。これを一里塚と呼び、多くの場合榎や槐の木が塚の近くに植えられている。
旅人はこの目印に沿って歩き、時には木陰で休息を取り、通り過ぎた一里塚を数え行く先を計り、長い長い旅路を越えていくのだ。
 
 人は面白いことを考える。
 土浦は元々人であったが負の感情をもって鬼へ転じた。しかし幼い頃から鬼子と呼ばれ育ってきた彼は、自分のことを人だと思えないでいる。それ故の感想だった。
 更に歩き、幾つの塚を越えたか分からなくなり出した頃、一里塚の傍ら、槐の下に人影が見えた。
 雨宿りしている旅人だろうか。不審に思い目を凝らせば、その姿に驚愕する。木陰に佇んでいるのは人ではなかった。

 雨の中傘も差さず佇む男は腕を組み、左目だけを瞑ったまま槐に背を預けている。
 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。
 着物の袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。
 肩口までかかった銀髪は雨に濡れ、そのせいか鈍い刃物のように見えた。

「随分と、遅かったな」

 言いながら槐の木陰からゆっくりと離れ、街道の真中、土浦の前に立ちはだかった。 
 男の瞼が上がる。

 其処には、赤の双眸が。

「貴様……」

 男の名は甚夜。
 先刻争ったばかりの鬼は悠々と、再び土浦の前に立ち塞がってみせた。

「お前を待っていた」

 言葉と共に甚夜は腰のものを抜刀する。構えずだらりと腕を放り出しているだけだが視線は鋭い。

「先刻、鬼の群れに話を聞いた。京へ向かうそうだな」

 鬼の群れ、というのは憲保が先に送ったという兵のことか。どうやら自分よりも早く行動を始めていたらしく、その上で此処に立っているのならば鬼達は既に斬り伏せられた後だろう。

「全て倒したか」
「手間取ったが準備運動にはなった」

 お互い其処に感情はない。
 甚夜にしてみれば邪魔なものを斬り伏せただけ。土浦にとっても必要ない有象無象。特別な感情など生まれる訳もなかった。
 だが疑問はある

「何故だ」

 甚夜は何も答えない。

「貴様は、何故同胞を討ってまで憲保様の邪魔をする」

 しかしやはり無言。尚も土浦は問う。

「お前は、何のために刀を振るう」

 そこで初めて表情に変化があった。意外なものを見るような、怪訝な表情だった。
 そして漸く甚夜は口を開く。

「別に邪魔をしている気はない。以前も言ったが思想に興味などない。開国でも攘夷でも好きにやってくれ」
「ならば何故」
「だがこれも以前言ったぞ。栄枯盛衰は世の常だが、それは須らく人の手で行われるべきだと」

 今、京では開国派と攘夷派がお互いの我を張り合って戦い続けている。
 思想こそ違えど彼等は共にこの国の未来を憂え立ち上がった者達だ。
 短い命で、それでも何かを成し遂げようと彼等は刀を振るっている。
 儚く咲いて散る命は長くを生きる鬼にはない美しさだった。

「この先にあるのは人の戦い、時代を決める闘争だ。ならば我ら鬼が関わっていい筈はない」

 どこまでいっても鬼は鬼。
 人同士の戦いに手を出してはならない。
 しかしそれ以上に甚夜が立ち塞がる理由は。

「何よりこの先は友の戦場だ。悪いが通さん」

 最後まで武士でありたいと願った直次。
 最後まで友でありたいと言ってくれた彼の選んだ生き方を、妙な横槍で汚されたくは ない。
 直次が人同士の争いの中で命を落とすのは仕方ない。武士としての生き方を貫いた果ての死ならば本望だろう。
 それを邪魔する気はない。
 だが鬼の手によるものなら別だ。

「お前は」
「私には資格がないと思っていた」
 
 土浦の言葉を硬い鉄の如き声が遮る。

「憎悪に塗れ、妹を殺そうとする男にそれを為す資格などある筈がないと。口にするのもおこがましいと、躊躇ってきた。だが、間違えたままでも救えるものはあるのだと教えて貰った。だから……」

 人よ、何故刀を振るう。
 あの時の問いに、今答えを返す。
 憎悪は消えない。
 鈴音を止めると。
 殺すか、救うか。
 未だに選べぬこの手にもまだ守れるものがあるのなら。

「曲げられぬ生き方、そして譲ることの出来ぬ矮小な“意地”の為に」

 正義ではなく、ただ己の願うままに。
 それがどれだけ醜い偽善だとしても。
 
「自身が守りたいと願うものの為に……今一度この刀を振るおう」

 それでも、間違えたままの生き方にも、きっと救えるものはある筈だ。
 突き付ける切っ先。
 其処に迷いはなかった。

「そうか……」

 納得したように頷き、瞬間土浦の体が膨張する。
 服を破り肥大化する筋肉。浮かび上がる紋様。
 彼もまた鬼へと化したのだ。

『貴様にもまた信じるものがあるということか』

 赤い瞳に憎悪や敵意はなく、寧ろ真摯でさえあった。何故そんな目で見るのか。甚夜には土浦が何を考えているかは分からない。
 しかし感じ取れる。 
 この男もまた何か信じるものの為に、曲げられない己の生き方の為に戦っているのだと。

「ああ。私から譲る気はない」
『無論、俺もだ』

 お互いに譲れない自分がある。
 お互い生き方を変えることなど出来ない。
 ならば、お互い選ぶ道は一つだけ。
 
『潰す』
「斬る」

 降りしきる雨の中。
 二匹の鬼は──以前と同じように──絶殺を宣言した。



[36388]      『願い』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/24 23:10

 人は信じるに足らない。
 分かっていた筈なのに、理解していなかった。
 
 信じるな。
 誰かが囁いた。
 
 だから俺は願った。 
 壊れない体が欲しい。

 もし、壊れない体なら───
 



 ◆

 
 月のない夜だった。
 冷たい雨の降りしきる、江戸と京を結ぶ中山道。槐の葉が雨に打たれ揺れる。しなる枝は首を垂れるようで、何処か頼りない輪郭を宵闇の空へ浮かべていた。
 人はいない。
 代わりに蠢く二匹の異形の影が在った。
 
 雨に紛れ、甲高い鉄の音が響く。

 剛腕を掻い潜り懐に潜り込み、鬼の膂力を持って放たれた一刀はやはり簡単に弾かれてしまう。
 迫り来る拳を異形の左腕で防ぐが、勢いは殺しきれない。軋む体。しかし後ろには下がらず返す刀で首を狙う。
 打ち付けた瞬間、手に痺れが走る。その首を断ち切ることは出来ず、それどころか皮膚を裂くことも叶わない。
 軽い舌打ち。次の行動は速かった。地を蹴り後退。十分に距離を取ったところでもう一度構え直し、眼前の敵に正対する。
 視界には、全霊の斬撃を涼風のように受ける鬼。
 幾度目かの攻防はまたも傷一つ与えられず終わった。 

『何度やっても無駄だ』

 既に十を超える剣戟をその身に受けて、土浦は尚も平然としている。
 技量という点で見れば二人は互角。
 膂力や速力にも大きな開きはない。寧ろ<剛力>や<疾駆>で瞬発的に高められる分甚夜の方が有利である。
 だというのに甚夜は一方的な劣勢を強いられていた。
 当然だ。相手はいくら受けても傷を負わない。力量が然程変わらない以上、壊れない体は絶対の優位だった。

「無駄ではない」

 劣勢に立たされてはいるが、戦意はまだ失っていない。
 不敵ともいえる態度で甚夜が指差した先、土浦の胸元には僅か二寸程度の傷がある。掠り傷ではあるが、幾多の攻防を経てようやく与えた裂傷だった。
 例え僅かでも傷をつけることは出来た。
 だから確信する。
 不利は事実。だが決して相手は無敵ではない
 
「<不抜>……肉体の極端な硬質化。だが使用している最中は動くことが出来ない」

 ぴくりと眉が動く。
 その反応を見るに間違ってはいないようだ。
<不抜>は絶対の防御力を誇るが、使用中は全身を硬質化するため、筋肉や関節も固まってしまい動けなくなるのだろう。

『だからなんだ』

 自身の<力>の弱点を指摘されても土浦に動揺はなかった。

『それが事実として、貴様が俺を壊せんことに変わりはない』
 
 成程、確かにその通りだ。
<力>の弱点は看破したが、現状それは弱点になっていなかった。
<不抜>を使っている最中は動けない。
 仮説に間違いはない。しかし現実としてあの鬼は何の問題もなく動き回っている。何故か。そのからくりには当たりが付いていた。
 実に単純、土浦は攻撃が当たる瞬間にだけ<不抜>を使っているのだ。
 だから壊れない体と高速の挙動を両立できる。
鬼の<力>と人の業、その高次元での合一。鬼人たる甚夜が目指すべき一つの究極がそこにはあった。

 この男は本当に強い。
 壊れない体は確かに厄介だ。
 しかし真に恐ろしいのは壊れない体ではなく、攻撃が当たる刹那を見切るその判断力。それに比べれば<不抜>も練磨された体術も余技に過ぎない。
 この男が強いの、膂力に秀でた鬼だからではない。
人の業を習得しているからでも、<不抜>があるからでもない。
 能力が優れているのではなく、能力を扱う術に長けていることこそが強み。
 つまりこの男は鬼だから強いのではなく、土浦だから強いのだ。

 さて、どうするか。
 構えを解かず、意識は対敵に向けたまま思考を巡らせる。
 土浦は強い。そんなことは初めから分かっている。問題は如何に奴を斬り伏せるか。それを考えなくてはいけない。
 どうすれば<不抜>を打ち崩せるのか。
 動いている瞬間を狙っても、土浦は直撃の寸前に<力>を発動する。
<疾駆>の速度で距離を詰めても、<隠行>で姿を消し斬り付けても防がれた。
<飛刃>の威力は普通の剣戟と変わらないし<犬神>も威力が足らない。
<剛力>でも破ることが出来なかった。
 残された<空言>に攻撃力はない。
 現状の手札で効果がありそうなのは。

 思索はそこで中断された。
 八尺はあろう巨躯が、その大きさに見合わぬ速さで襲い掛かる。並みの使い手ならば反応すら許されない速度。しかし上半身は決してぶれない、正中線を意識した歩法。嫌になる程の練度の高さだ。

 激しく振る雨はまるで壁だ。それを貫くように突き出された拳。甚夜は避けることも防ぐこともせずに一歩を踏み込む。右腕で夜来を振るい、土浦の腕の下に潜り込ませる。防ぐのではなく、僅かに正拳の軌道を逸らす。岡田貴一が使った、無駄を削ぎ落とした剣。練度は及ばずとも真似事は出来る。
しかし真似事程度では完全に受け流すことは出来なかった。土浦の拳が左肩の肉を抉る。痛みはあるが、それを無視して返礼とばかりに異形の左腕で掌底を放つ。
 
『無駄だと言っている』

 鉄を殴ったような感覚。<不抜>はやはり破れない。土浦もそれを確信しているからこそ、甚夜の掌底を真っ向から受けて見せた。実際鬼の膂力をもってしても僅かな損傷さえ与えられなかった。
 土浦は無駄な攻撃を繰り返す甚夜に侮蔑の視線を向けている。
 甚夜は無表情のまま、しかし四肢に力が籠る。

 侮るな。
 この程度でお前を倒せるとは端から思っていない。この一撃の目的は、お前を打倒するのではなく、左腕で触れること。
 左腕がどくりと脈打つ。鳴動する異形の腕
 その空気に、何かまずいと感じたのだろう。土浦はすぐさま後ろに下がろうとする。
 
 だが遅い。

 甚夜の手札には<不抜>を破る程のものはない。
 だが防御力など関係なく相手に干渉する<力>ならばある。
 如何に壊れない体だろうと、壊すのではなく己が内に取り込む<力>。

「<同化>」

 鬼を喰らう異形の腕。
 その<力>をもって、お前を喰らい尽くす。

 瞬間、左腕から記憶が奔流となって入り込んでくる。
 遠い景色。
 白く染まる意識。
 自分のものではない記憶に何故か。
 いつか見た、始まりの場所を思い出した。


 ◆


 小高い丘。
 故郷を流れる川が一望できるその場所は、幼かった俺達のお気に入りだった。
 今日は子供の頃のように、彼女に手を引かれて丘を訪れた。
 そして何をするでもなく清流を眺める。
 遠い日々を思い出す。娯楽のない集落。あったとしても鬼子と呼ばれ除け者にされてきた自分では混じることは出来ない。そんな俺を気遣ってくれたのだろう。三つ年下の、幼馴染だった彼女はよくこの場所に連れて来てくれた。
 丘から見る清流は陽光を受けて瞬くように光を放つ。彼女はその様が好きで、遠い日にも今と同じように、二人並んで眼下に広がる美しい景色を眺めていた。

「豊臣様が亡くなられた。戦が起こるな」

 時折集落に訪れる商人から師匠がそんな話を仕入れてきた。豊臣の齎した一時の安寧は秀吉様の死後乱れ始め、戦の機運は高まってきていた。恐らく近々戦があるのだろう。それも、この国の行く末を決める程の大きな戦が。

「どうした」
 
 戦の話がつまらなかったのか、彼女は浮かない顔をしていた。

「別に、なんでもないよ」

 固い笑み。それで何でもないは無理がある。
 
「悩みでもあるなら聞くが」

 鬼子。
 虐げられていた幼い頃、唯一傍にいてくれたのは彼女だった。俺は彼女に救われてきた。だからこそ、少しでも力に為りたかった。
 なのに彼女は。
 一瞬だけ、泣きそうな顔をした。

「そっか、なら聞いてほしいことがあるの」

 しかし憂鬱の色は直ぐに消え、代わりの彼女はあまりにも柔らかな笑顔を作った。
 熱っぽく潤んだ瞳。
 ゆっくりと、彼女は口を開く。


「あたし、あんたのことが好きだよ」


 緊張に震えた声。しかしそれは確かに愛の告白だった。
 鼓動が高鳴る。まさか、という気持ち。同時に湧き上がる喜び。頬が緩む。そして俺はその言葉に何かを返そうとして。

 どすり、と。
 
 背中には鋭い痛みが。どすり。どすり。痛みが増える。おかしい。なんだこれは。何故俺の体から刀が生えている。
 ぎこちない動きで後ろを振りかる。
 そこには、いやな笑みを浮かべる数人の男。
 集落の若い衆だった。

「鬼め」

 更に斬り付けられる。鬼と呼ばれた所でこの身は人。面白いほどに体は刻まれ血を流す。
 もう一度、彼女に向き直る。
 幼馴染の少女は、泣きそうな顔をしていた。
 けれど驚いてはいなかった。
 多分、ここで俺が襲われることを彼女は知っていたから。

 いや、違う。
 
 今日此処に行こうと言い出したのは彼女だ。
 それはつまり。

「へへ、よくやったな。おかげで鬼を討てた」

 彼女の立ち位置は、男達の側だということ。
 俺は最初からこの場所で殺されるために呼び出されたということ。


 ───俺は、裏切られたのだ。


 理解した瞬間、膝が砕けた。ああ、俺は馬鹿だ。人は信じるに足らない。分かっていた筈なのに、理解していなかった。彼女なら信じられると誤解していた。

「後はあの鬼女だけだ。最初からこうしてりゃよかったんだよ」

 あの鬼女。師の妻を指しているのだろうか。集落の者達は、鬼を排除するために動いている? 俺も鬼として排除の対象になった?
 分からない。何も分からない。
 ただ膝をついたまま、彼女の顔を見上げる。
 視線が合って。
 
 ふいと彼女は横を向いて。

 もう、目も合わせてくれない。
 そうか。結局彼女にとっても俺は鬼子でしかなかったか。

 彼女は最初から、俺を殺す為に、この場所へ連れてきた。
 彼女にとって、俺の思い出の場所は。
 その程度の価値しかなかったのだ。

 苦しい。彼女の態度が想像以上に俺の心をかき乱す。喪失。絶望。憎悪。自分でも把握しきれない感情が胸の中で渦巻いている。
 血が流れる。
 段々と意識が朦朧としてきた。
 死が近付いている。

人は信じるに足らない。

 もっと疑うべきだった。何故彼女が俺に近付いたのか。それを考えていればこんなところで無様に死に往くこともなかっただろうに。
 胸に宿る後悔。
 だけどそれ以上に怖かった。
 ■■■のは怖い。
 騙され裏切られ、何の価値もなく朽ち果てていくことが、たまらなく怖かった。

 …………ない。

 俺は何もしていない。なのに謂れもなく何故死ななければならない。

 こん……ころで、……たくない。

 俺を裏切り、騙し、虐げてきた人がのうのうと生きているのに、何故俺だけが死ななければならない。

 こんなところで、死にたくない。

 情けないくらいに願う。
 無様な生への渇望。
 しかし、それが全てを変えた。

「お、おい」
「なんだよこれ……!」

 男達は驚きの声を上げる。
 だが逆に俺は平静を取り戻す。
 自分の身に何が起きているのか、正確に理解できる。

『何を驚いている……?』

“これ”はお前達が望んだことだろう。初めにお前達がそう呼んだ。今更何を驚く必要があるのか。
 体が作り替わっていく。突き刺さった刀が肥大化するに筋肉に押し出され独りでに抜けた。体躯も一回り大きくなり、額辺りから一本の角が生える。肌は青銅に変色し、全身には円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様が浮かび上がっている。

「あ…あ……」

 彼女が怯えているのが分かる。
 しかし心は動かなかった。人は信じるに足らない。彼女もまた、信じるには足らなかったのだ。
 ならば、最早何も信じることはない。
 膨れ上がる憎悪。
 此処に。


 
 ───この身は、真実“鬼”と為った。



 群がる男どもを薙ぎ払う。人は脆い。簡単に肉は裂け血が飛び交う。声を上げることさえ出来ず男達が死骸に変わる。
 全て殺し、でも止まれなくて。
 次いで目に映るのは大切だった筈の女。
 彼女は怯え、しかし逃げようとはしなかった。

『逃げないのか』

 無感情な声。
 幼馴染だった。けれど彼女は俺を騙し殺そうとした。“鬼”となった今、憎しみは際限なく膨れ上がる。
 しかし彼女はむけられた殺気を感じているだろうに、一歩も下がらない。

「怖い、けど…逃げない。鬼になっても、あんたはあんただから」

 かたかたと震えながら、それでも平気だと強がって柔らかく笑う彼女の顔は。
 いつか、鬼子と呼ばれた自分に向けてくれた、小さなころの無邪気な笑顔で───


 信じるな。


 誰かが囁いた。
 この女はたった今俺を騙した。人は信じるに足らない。この笑顔も、言葉も、単なる命乞いでしかないのだ。
 ああ、そうだ。彼女は。情に訴えかけて命乞いをしている。たった今騙した相手に、そんな無様を晒しているに過ぎない。
 俺を、裏切りながら。
 思い至ったのと足が動いたのは同時だった。

 ずぶり。

 おそらく正気を失っていたのだろう。一瞬、自分が何をしているのか本気で分からなかった。
 気が付いた時には全てが終わっていた。
 
 嫌な感触が広がる。
 俺の手が、彼女の体を貫いている。

「あ………」

 漏れた声は、俺のものか。それとも彼女が零したのか。
 それすら分からぬ程に俺は茫然としていた。
 
 俺を殺そうとしたのは彼女で。
 だから俺のこの行為は正しい筈で。

 そう思う。それでも胸が締め付けられる。腕を引き抜けば彼女は力なく崩れ、そのまま仰向けに倒れ込む。
 彼女の視線は俺に向けられている。自分を殺した鬼に。
 なのに、彼女は。
 やっぱり、柔らかい、笑顔で。

「ごめんね、あたしは、あんたみたいに強くなれなかった……」

 響く残悔の声と共に、一筋の涙を流した。
 ほとんど無意識に彼女の手を取る。
 次第に動かなくなっていく彼女の体。
 肌に触れる血液だけが温度を持っている。 
 其処に至りようやく正気を取り戻す。

 俺は、一体、何を。

 握り締めた手が冷たくなっていく。
 当たり前だ。体を貫かれて生きていられる筈がない。

 彼女は俺が殺したんだ。

『違う……』

 違う。
 俺はこんなことをしたかった訳じゃない。
 騙された。裏切られた。
 悔しくて。自分が大切の思ったものが全部崩れてしまった気がして。

 でも、こんな結末は望んじゃいなかった。

 なのに止まれなかった。
 鬼は鬼である自分から逃れられない。
 死にたくない、という醜い執着は。
 疑心となってこの身を突き動かしてしまった。


 ───俺は、そういう鬼となったのだ。




 そして暗転。
 夢が終わる。
 あの日の美しい景色だけが、瞼の裏に残されて。


 だから、俺は願った───




[36388]      『願い』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/29 21:18
 鬼ごっこ。
 
 鬼は子を追いかけ、子は鬼から逃げる。
 鬼に触られた者は鬼となり、元の鬼は子に戻る。
 そして今度は新しい鬼から子が逃げる。
 単純な図式の遊び。
 多くの者が幼い頃に経験したことだろう。

 だけど子供の遊びには、時に目を覆いたくなるような真実が隠れている。
 
 鬼に触れられたものは鬼となる。
 周りの者は鬼から逃げる。
 子供達は無邪気に遊びながら語る。

 鬼と触れ合った者は、鬼と同一の存在と見做す。
 そして人は、決して鬼を受け入れない。

 いつか、鬼と呼ばれた自分と。
 それでも傍にいてくれた少女がいた。
 村八分を受けていた鬼子。そんな彼とずっと一緒にいた少女。
 いつも鬼の傍にいた彼女が、裏でどんな扱いをされていたのか。
 そんなことに気付かなかった、気付こうともしなかった 。
 遠い遠い、昔の話。


 ◆


 痛み。
 尋常ならざる痛みと共に意識が覚醒する。
 全身を捻じ切るような激痛。
 極度の吐き気。
 頭の中を素手でかき回されている気分だ。

 だがここはまだ相手の間合い。
 無理矢理にでも体を動かし離れなければ。

 土浦から手を離し、軋む体で後ろに飛び退く。あまりにも緩慢な挙動。しかし土浦は追撃をしてこなかった。

『なん、だ、これ、は……』

 見れば相手も痛苦に顔を歪めている。先程使った<同化>のせいだろう。今までにない動揺を晒している。
 しかし攻め入ることは出来ない。そんな余裕は甚夜にもなかった。
 呼吸が荒れる。
 自分が何処にいるかも分からなくなる程に絶え間なく痛みが襲ってくる。それ以上に意識が混濁し、足元が覚束ない。
 だが朦朧とした意識の中で理解出来たこともある。

 今までは斬り伏せた相手、死にかけた者だけを喰らってきた。
 だから気付かなかった。
<同化>は他の生物を取り込み己がものとする<力>。鬼の<力>を喰らうことも出来る。だがそれを為すには条件がある。

 意識が強く残る者を<同化>で喰らうことは出来ない。

<同化>によって<力>を己が身に取り込む時、肉体だけではなく記憶や意識も同時に取り込んでしまう。
 しかし一つの体に異なる二つの意識は混在できない。
 そんなことをすれば肉体の方が耐えきれず自壊する。
 
 甚夜が今感じている痛みはそういうことだ。
 自意識を強く持つ土浦と甚夜の自我がぶつかり合って体を引き裂こうとしている。幸い咄嗟に<同化>を中断したが、もしあのまま続けていれば共倒れになっていただろう。

 痛みはまだ続いている。
 その中で強い後悔もある。かつて土浦の抱いた後悔が、まるで我が事のように感じられる。
 人は信じるに足らない。
 そう思い少女を殺した。

 だけどそれは間違いだった。
 
 彼女が土浦を殺す為に動いていたのは事実。
 それでも彼女を疑う必要なんてなかった。
 だから、願った。

 狂おしいまでの願い。
 土浦の内面を知ってしまった今、心から思う。

 ───この男には、負けられない。

 痛みをねじ伏せ眦は強く、眼前の鬼を見据える。
 負けられない。誰かの為に、ではなく。己の意地の為、この男にだけは絶対負けられない。
 視線の先では土浦もまた痛みから立ち直って来たのか、こちらを鋭いまなざしで射抜いている。

『鈴音……』

 驚きはなかった。一瞬ではあったが<同化>した。恐らくこの男もまた己の記憶を垣間見たのだろう。

『それがお前の戦う理由か』
「ああ」
『……お前は、俺と同じだな』
「かも、な」

 一瞬、戦っている最中とは思えぬ程に和やかな空気が辺りを包んだ。
 共に人から鬼へと堕ちた。
 大切なものを己が手で切り捨てた。
 それでも生き方を変えられず、無様なまでに生へしがみ付く。
 お互いに同じ痛みを抱え生きてきた。だから互いに通じ合うものがあり、だから互いに譲ることは出来ない。

『止める気はないだろう』
「止められるのなら鬼にはならなかった」
『違いない』

 緩んだ空気が引き締まる。鬼は鬼である己から逃げられない。この男には負けられないと思ってしまった以上、斬り伏せなければ刀は鞘に納められない。
 土浦も同じことを考えているようだ。その構えには隙がなく、目には一片の迷いもない。

『だが幾らやってもこの体は壊れん』

 勝ち目はない、土浦の視線がそう語っている。
 それを受けてもう一度強く思った。
 お前には、負けられない。

「壊れない体、か」

 小さく呟き、甚夜の姿が消えた。
 しかし土浦に動揺はない。既に見せた<力>だ。種の割れた手品に驚く者はいない。
 逆袈裟。
 胸元を切り裂く筈だった一撃は軽々と避けられる。姿を消しても音は消せず、空気の流れは隠せない。また足跡までは消せない。故にこの大雨の中では姿を消しても動いた足跡が容易に見て取れた。
 次に甚夜が姿を現したのは街道の脇、三間は離れた場所だった。

『無意味だな』

 馬鹿な真似をする敵に僅かな侮蔑を込めた言葉が投げ付けられる。しかしそんなものは意に介さず甚夜は淡々と語り始めた。

「茂吉は鬼からも人からも隠れて生きていたかった」

 ────だから彼の<力>の名は<隠行>。
    それは何者からも姿を隠す<力>、しかし願った筈の平穏は崩れ去った。

 踏み込む。甚夜は異常なまでの速度で距離を詰める。土浦も回避は間に合わない。
 放たれた剣戟は正確に咽喉を捉えた。
 響く甲高い鉄の音。
 またも<不抜>に遮られる。しかしやはり気にした様子はなく、もう一度距離を取り言葉を続ける。

「“はつ”は誰よりも何よりも早く夫の下へ行きたかった」

 ────それ故に誰よりも速く駈け出す為の<力>、<疾駆>を得た。
     彼女は事実誰よりも速く、それでも夫の元に辿り着くことはできなかった。

 土浦は一直線に突進。ぎしり。握った拳に力が籠った
 自身の間合いを侵す鬼、しかし甚夜は避けようともしない。

「おふうは幸福の庭に帰りたいと願った」

 ────帰る場所を失くした童女はかつての幸福を求め<夢殿>を造り上げた。
     映し出されるは過ぎ去りし日々。触れること叶わぬ幸福の庭。

 繰り出される剛腕が正確に脳天へと突き刺さる。

『な』

 突き刺さった、筈だった。しかし手応えがない。それどころか正確に甚夜の頭を捉えた拳は突き刺さるのではなく“すり抜けて”しまったのだ
 まるで、蜃気楼を殴ったような。

「夕凪はたった一つの感情を隠したかった」

 ───鬼は嘘を吐かない。<空言>はその理を曲げた。
    それでも隠したかった愛情にだけは嘘を吐くことが出来なかった。

 背後から声が聞こえる。
 急いで振り返れば、悠々と立つ甚夜の姿がある。後ろを取りながらも攻める気はないらしい。刀をだらりと放り出したまま目を瞑り、静かに彼は語る。

「昔、未来を見通す鬼がいた。あれはおそらく鬼の未来を憂いたが為に見通す<力>を手に入れたのだろう。どんなに未来を変えたいと願っても『見る』ことしかできない。それが<遠見>という<力>だった」

 では鬼を喰らう異形の腕を持っていたあの鬼は何を求めていたのだろうか。
 それは分からないが、奴にもまた譲れない願いがあったのかもしれない。心から望み、それでも叶えられなかった願いが。

「今になって分かった。鬼の<力>とは『才能』ではなく『願望』だ。心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。人は負の感情をもって鬼に落ちるが、鬼は叶わぬ願い故に<力>を得る。いや、或いは。叶わぬ願いへの執着こそが鬼の素養なのかもしれんな。だとすれば、儘ならぬものだ」

 人は己が手で為し得ぬ願いを抱き、その重さに潰れ往くもの。
 しかし鬼はその重さに耐えられてしまったが故に、長い時を苦しむ。
 どちらがいいのかは分からない。だがどちらにしても報われぬことには変わらない。
 結局、人も鬼も失った何かにしがみ付き、無い物ねだりをしながら生きていくことしか出来ないのかもしれない。

「だから分かる。お前は強くなりたかった訳ではない。土浦……お前は何故、壊れない体を欲した」
『……黙れ』

 あからさまな怒りだった。無遠慮に自身の内面へと踏み込む下郎に対して怒りを露わらにしている。
 甚夜はゆっくりと腰を落とす。
 左腕が嫌な音を立てながら肥大化していく。
<剛力>。甚夜が持つ手札の内で最も威力のある<力>だ。

「ならば問いを変えよう。お前は、何の為に戦う」
『俺を拾ってくれた憲保様への恩義の為。武士と鬼は共に在れる、そう言ってくれたあの方を信じるが故に』

 今度は間髪入れず答えを返した。予想通りの答えだった。
 記憶の断片が蘇る。
 幼馴染の少女を殺した後、土浦は集落を離れた。それからの長い年月を彼は失意の内に過ごすこととなる。
 十年程前、畠山憲保と出会うまでは。
 
『憲保様は、鬼である俺を受け入れてくれた。全てに裏切られた俺にとっては、あの方への忠義が全てだった。俺には、それしかないのだ』

 聞いたような言葉だ。そういえば何処かの馬鹿が似たようなことをほざいていた。

「だけど、それしかないなんて、嘘だ」

 口調は随分と崩れていた。違和を感じ、怪訝そうな目で見る土浦をまっすぐ見据える。
 敢えて問うたが、実の所土浦が何を望み<不抜>を得たのか、大方の見当は付いていた。
 そして土浦の記憶を見た甚夜がそれに気付いたならば、本当は土浦自身も分かっている筈なのだ。


 ────だから、願った。
    壊れない体が欲しい。


 なのにこの男は答えなかった。
 それは多分、答えを知りながらも、目を逸らしていたいから。

「お前は、私に似ていると思った。だが違ったな」

 
 誰にも聞こえないように小さく呟く。
 似てなどいなかった。甚夜はただ失ったような気になっていただけ。けれどこの男には、本当に何もない。何もかもを失くして、ただ一つ残された生き方に縋って。他の全てを切り捨てて。痛みに軋む体を抱え、それでも壊れなければ耐えられると歯を食い縛った。そうしなければ生きていけなかった。
 
「土浦……多分、お前は私よりも強い」

 しかしそれを強いと甚夜は思う。
 人は信じるに足らない。
 その想いをもって鬼に堕ちながら、憲保を信じると公言して憚らない土浦は甚夜よりも遥かに強い。
 強いのは力ではなくその在り方。
 たった一つの何かの為に全てを捨てられる、多分以前は甚夜も持っていたであろう強さだ。

 逆に己は弱い、と甚夜は思う。
 強さだけを求めてきた筈だった。でも大切なものはいつの間にか増えて、かつて妹を憎んだ時のようには刀を振るえなくなってしまった。
 私は弱くなった。
 今となっては鈴音を止める為に全てを切り捨てることは出来ないだろう。

 だがそんな弱さが今は少しだけ嬉しい。

 店主は鬼と人が共に生きられるのだと、自身の生涯を持って示してくれた。
 おふうは間違ったままでも救えるものがあるのだと教えてくれた。
 直次は鬼である己を友と呼んでくれた。
 野茉莉は今も家族であろうとしてくれた。

 多くのものを失ってきた。だけど手に入れたものだって確かにあった。
 
 だからこそ負けられない。
 
「だが負けんぞ。全てを切り捨て、自分を騙して造り上げたお前の“強さ”などに………」

 此処で負けたら認めることになる。
 己が手に入れたものに意味はないと。
 失ったものに勝るものなど得られないと。
 今まで必死になって積み上げてきた己自身を無価値だと認めることになる。
 そんな無様、許せるはずがない。

「未だ刀を振るうことにさえ迷う私の“弱さ”が負けてなるものか……!」

 今まで貫いてきた間違った生き方、その途中で拾ってきた大切なものの為に。
 これから先も自分が自分であり続ける為に。
 此処で、私はお前を打倒する。

『大仰なことを』

 決意を持って放った一言を土浦は鼻で嗤った。

『どれだけ粋がろうと貴様にこの体は壊せん』

 それは単なる傲慢ではない。
 実際甚夜は今まで一度も<不抜>を破っていない。付けた傷は偶然の産物に過ぎず、土浦の優位は揺るぎない。
 
 しかし甚夜の目は鋭く、刃物のように研ぎ澄まされている。
 其処には迷いなど欠片もない。己の為すべきことしか映っていない目だ。
 土浦は小さく笑った。侮蔑ではなく、心からの愉悦故に笑みを零した。

 先程から癪に障ることばかりを語る男だった。しかし、その目は嫌いではない。何処まで行っても“自分”から食み出ることのできない頑固者。そういう馬鹿は決して嫌いではなかった。

『いいだろう、真っ向から受けてやる』
 
 甚夜はべた足でしっかりと地面を噛み、腰を落とし、力を溜め込んでいる。<剛力>で膂力を強化してある。だとしても<不抜>を破るには足りない。そんなことは甚夜自身が一番よく分かっている筈だ。
 
 ならば待ち構え、何かを狙っている。

 あの男が何を企んでいるのかは分からない。だがそれを真正面から受け止め叩き潰す。何故かそうしたいと思った。

 雨足が弱くなっている。もうそろそろ雨は止むだろう。
 
 それまでに決着をつけよう。
 思考と行動は殆ど同時だった。
 土浦は体を前傾に、倒れ込むように一歩を進む。疾走する巨躯。外見からは想像もつかない速さだ。
 対する甚夜は左腕を大きく後ろに引き、今正に拳を振るおうとする瞬間だった。
 だが遠い。
 二人に間にはまだ距離がある。振るった所で空振りするだけ。甚夜の行動には意味がない、少なくとも土浦にはそう思えた。
 そもそも徒手空拳の技術でならば土浦に分がある。
 いくら高い膂力をもって突き出された拳であっても問題なく捌けるし、結局<剛力>では<不抜>を破れない。
 
 そんなことは甚夜自身が他の誰よりも理解している。
<剛力>では<不抜>を破れない。
 甚夜には<剛力>を上回る膂力を生み出せない。
 だから。

「……<疾駆>」

<剛力>によって生み出された膂力、其処から放たれた一撃を。
<疾駆>の速度をもって打ち出す。

 甲高い鉄の音は響かなかった。
 遠いと思われた拳は異常なまでの速度をもって土浦に衝突し、辺りにはまるで寺の鐘を突くような反響する鈍い音が響いた。
 体を裂く、痛み。
 二つの<力>の同時行使は流石に負担が大きいらしい。当たり前だ。そもそも鬼は一つの<力>しか持ち得ない。故にこんな使い方は本来在り得ないし、鬼はそれに耐えられるようには出来ていない。在り得ない筈の同時行使が負担にならない筈はないのだ。ただ一撃振るっただけで体が壊れそうになる。走る激痛。多用は出来そうもなかった。
 だが、

『ぐ、ああ……』

 手応えは、あった。
 此処に来て初めて土浦は苦悶の表情を見せた。
 口元からは一筋の血。
 体はあまりの衝撃に頼りなげにふらふら揺れている。
“揺れている”。
<不抜>を使用している最中は筋肉も硬質化するため動けない。
 だとすれば体が動いている今は<不抜>が解けている筈。
 此処しかない。
 この機を逃せばもう勝機は訪れない
 体の痛みは無視する。
 そんなものに構っている暇はない。

 ────此処で決める

 甚夜は全霊をもって夜来を振るった。


 ◆


 強くなりたかった訳じゃない。
 ただ、壊れない体が欲しかった。
 
 
 久しく感じることのなかった痛みに何故か、遠い昔を思い出す。
 
 昔、幼馴染の少女がいた。
 彼女は鬼子と呼ばれていた自分といつも一緒にいてくれた。
 だが彼女は俺を裏切り、集落の男達と殺そうと画策した。
 結果俺は本物の鬼となり、幼馴染みの少女をこの手で殺すことになる。

 その、少し後の話。

 彼女を殺した直ぐ後、集落に戻った。もうこの地には居られない。旅支度を整え出ていこうと思った。
 その時、偶然会った彼女の父母は生きている俺を見て驚いた。
 そして泣いて謝った。
 何故だろうか。まだ彼女を殺したことが伝わっていなくても、彼らが自分に謝る理由などない筈だ。
 不思議に思って話を聞けば、彼等もまた俺を殺す為に集落の者が動いていたことを知っていたらしい。自分の娘がそれに関わっていたことも。
 動揺はない。
 端から信じていないのだから、裏切られたという気にはならなかった。
 だが続く言葉が俺を揺さぶる。
 彼女は、鬼子と呼ばれていた自分といつも一緒にいてくれた。
 そのせいで、鬼の自分といたせいで迫害を受けていたらしい。
 それは長く続き、それでも彼女は俺の傍にいてくれた。
 しかし今回は違った。
 集落の皆から責め立てられ、俺を殺す手引きをせねば父母も村八分にすると肉親を人質に取られ、裏切りを強要された。
 俺が、鬼が集落にいるということそれほどまでに認められない事実だったのだろう。
 父母を人質に取られた彼女は仕方なく、俺の殺害に手を貸した。
 どんな理由があったとしても彼女の行いを許せる訳ではない。結局彼女が俺を裏切った事実に変わりはない。
 だが、それでも。

「あの娘は、ほんとにあんたのことが好きだったんだよ」

 彼女の母が漏らした言葉に、彼女の笑顔が重なる。


 ────あたし、あんたのことが好きだよ。


「ああ。鬼であってもなくても、あいつはあんたのことを信じてたんだ」

 彼女の父が零した声に、泣きそうな彼女が脳裏を過る。


 ────怖い、けど……逃げない。鬼になっても、あんたはあんただから。


 どんな理由があったとしても彼女の行いを許せる訳ではない。
 結局彼女が俺を裏切った事実に変わりはない。
 だが、それでも。

 彼女は、何一つ嘘を吐いていなかった。

 だからと言って何が変わる訳でもない。
 失ったものは失ったもの。戻ることは決してない。
 全てを疑い、信じることのできなかった男の無様が証明されただけのこと。


 ただそれだけの、遠い遠い、昔の話。

 





 古い記憶に囚われていた思考が響く痛みに現実へと引き戻される。
 目の前には嵐のように剣戟を繰り出す一匹の異形がいた。
 拳を刀を次々に放つ。どうやら先程の一撃で<力>が解けかけているようだ。もう一度<不抜>を行使する。壊れない体。俺が望んだ<力>。これで最早攻撃は通らない。だというのにあの男は止まろうとせず、更に勢いを増した。

『無駄だ』

 何度も繰り返した。それでも止まらない。
 あまりにも苛烈すぎる攻撃に、<不抜>を解き反撃に転じる暇がない。
 言葉を返さず、ただ愚直なまでに攻撃を繰り返すその姿。
 鋭い痛い。体が、ではなく。この男の在り方が心のどこか、大切な何かを抉っているような気がした。

 ────お前は強くなりたかった訳ではない。 
    土浦……お前は何故、壊れない体を欲した。

 何も言わない。だというのに、男の目がそう語っている気がした。

『黙れ』

 何も言わぬ男に黙れという。意味の分からない行為だが言わずにはいられなかった。

 ────お前は、何の為に戦う。

 攻め立て、責め立てる。物言わぬ瞳は問うている。
 お前は何の為に戦う。
 お前は、何を願っているのだと。

『黙れと言っている……っ!』

 もう一度、大きな衝撃が襲ってくる。
 先程見せた尋常ではない速度の正拳。あれは駄目だ。あれだけは<不抜>でも防げない。体は壊れない、けれど痛みが伝わってくる。
 またも体が揺らぎ、甚夜は只管に刀を拳を振るう。
 痛い。この男の姿を見ていると何故か昔を思い出す。
 何故か、ではない。この男は自分とよく似ている。だから昔を思い出す。
 だが決定的に違う。
 この男は、自分とは違い大切なものが残っている。
 本当はそれを羨ましく思っていたのかもしれない。
 他が為に刀を振るう。
 自分とよく似ている筈なのに、そう言ったこの男は。
 弱く、無様で、醜く。
 なのにどうしようもないくらい眩しく見えた。

 ────だが負けん。

 言葉が己の内で反響する。
 この男は俺を強いと言った。だが剣戟を受ける度に心が揺らぐ。
 強くなんてないと。
 俺は強くなんてなかったのだ。


 人は信じるに足らない


 そんな言葉、大嘘だ。
 本当はただ怖かっただけ。誰かを信じて裏切られるのが怖がった。最初から信じなければ裏切られても傷付かないで済む。俺は弱い。弱かったから、人は信じるに足らないと嘯いて、何も信じないことを正当化した
 その結末は、語るべくもない。
 信じることが出来ず、全てを疑って。
 疑いの果てに在りもしない何かを恐れ、大切な人をこの手で殺した。

 でも彼女は何一つ嘘なんて吐いていなかった。

 彼女は俺を裏切り殺そうとしたのかもしれない。
 だけど彼女が口にした想いに、偽りはなかったのだ。
 なのに信じられなかった。
 だって傷付くのは怖い。
 死にたくない。
 そんな醜い弱さから生まれた疑念は全てを壊してしまった

 
 だから願った。


 人は信じるに足らない
 そうやって誰かを疑うのは傷付くのが怖いから。
 痛みに怯えてこの心が戦くから。
 傷付くのが怖いのはこの体が簡単に壊れてしまうから。
 容易に訪れる終わりがこの足を竦ませる。

 だから俺は願った
 壊れない体が欲しい。
 
 もし壊れない体なら傷付くことを恐れないで済む。
 もし壊れない体なら訪れる死に怯えないでいい。
 もし壊れない体なら───

 
 あたし、あんたのことが好きだよ。


 ───彼女が絞り出した精一杯の愛情を。最後まで信じてやることが出来たのに。


 百年経て望んだ<力>を得た。
 壊れない体を手に入れて、でも結局、自分から誰かを信じられるほど強くは為れなくて。

『私を信じろ。鬼と武士は同じく時代に打ち捨てられようとしている。我らは旧世代の遺物、いわば同胞。ならば共に手を取り合うことが出来る筈だ』

 都合よく与えられた救いに縋った。
 信じろと言ったから信じる。
 裏切られても騙されていたのだという言い訳を作った。
 そのくせ憲保様を頑なに信じると嘯くことで、何も信じられず全てを失った過去を無かったことに出来るような気になっていた。
 何が忠義だ。
 何が信じているだ。
 俺は何一つ変わっていない。
 壊れない体を手にしても、俺はこんなにも脆い。

 
 鮮血が舞った。
 最早<不抜>を維持できるほどの体力が残っていない。それとも心の動揺のせいか。どちらにせよ壊れない体はもうなくなった。
 だが甚夜は止まらない。
 死は目前に迫っている。

 だというのに、心は追想に囚われている。

 強くなりたかった訳じゃない。
 ただ、壊れない体が欲しかった。

 でも本当に俺が望んだのは。
 俺の、願いは。



 俺はただ……誰かを信じていたかった。


 
 きっと多くのものに裏切られてきたから。
 無邪気な子供のように、信じられる何かが。
 無条件で信じられる、大切なものが欲しかった。



 ────それが出来るなら、彼女であって欲しかったのだ。



 奥底にあった憧憬が見つかった。
 その瞬間、体躯に熱が走る。

 袈裟掛けに振るわれる一刀。

 放たれた全霊の斬撃がこの身を裂いた






 ◆





 雨はいつの間にか止んでいた。
 渾身の一刀は土浦の体躯を袈裟掛けに裂き、巨躯はゆっくりと仰向けに倒れる。
 此処に勝敗は決した。
 
『お前は、強いな』

 土浦は焦点が定まらない瞳で空を見上げる。もう力は残っていないのだろう。体からは白い蒸気が立ち上り始めている。
 
「弱いさ」

 弱いから妹を止めるなどという生き方を選んだ。
 もし本当に強かったなら、あの夜、全てを憎むと言った鈴音を受け入れてやることが出来た筈だった。

「だが土浦。多分、私達は弱くてよかったんだ」

 今になって心からそう思う。

「失くしたものを取り戻そうなんて思うから鬼になった。弱いくせして中途半端に強くなろうとするから間違った生き方に囚われた。もし、もっと弱かったなら……自分の弱さを認められたなら。私達は、多少はましな死に方が出来ただろうよ」

 もっと弱くあったなら。
 弱い自分を認められていたならば。 
 土浦は幼馴染に騙されたまま死んでいた。
 甚夜は妹に殺されていた。
 其処で終わり。
 救いはないかもしれないが、間違った生き方に身を費やすことはなかった。
 或いはそちらの方が余程真っ当な人生だったろう。

『そう、か』

 土浦はどこか満足そうに声を漏らす。

『お互い、死に場所を間違えたな』
「全くだ」

 笑い合う。
 命の遣り取りをしたばかり、それも片方は死にかけているというのに、二人は古くからの友人のように気安く笑い合った。

『だが悪くない。俺は自分の願いに気付くことが出来た』

 そうして土浦は左手を、天を掴むように突き出した。

『<不抜>、持って行け』

 甚夜の記憶から鬼を討つ理由も知ったのだろう。自らを喰えと彼は言う。意外さに顔を覗き込めば土浦は満足そうな笑みを湛えていた。

『無様な執着から生まれた<力>だが、何かの助けにはなるだろう』

 その表情はまるで天寿を全うしようとしている老人のように見えた。

『貴様には、感謝をしている。死に場所を、悪くない死に様を与えてくれた』

 彼の手を取る。折角の厚意だ。無下にすることもない。
<同化>
 先程のような痛みはない。彼の自我が消えようとしているからだろう。自らの肉体が喰われようとしている。だというのに土浦には全く動揺がない。

『憲保様、すみません。俺は貴方の願いを叶えられなかった』

 小さく零した。
 なんだかんだ言いながら、彼は畠山憲保に忠誠を抱いていたのだろう。お為ごかしでもなく、自身を救ってくれた相手に感謝していたのだ。
 
『不思議だ、この身を喰らう貴様が少しも憎くない。或いは、出会う形さえ違えば』
「ああ、私達はきっと友に為れた」

 同じ想いを抱え、同じ痛みを共有した。ならばきっと二人は分かり合えた筈だった。

『そうだ、な』
 
 自分の科白を先回りされ、それがおかしくて土浦は笑った。
 そして消え往く意識の中、幻視する。
 
 江戸にある小さな蕎麦屋。
 調子のいい性格の店主。たおやかに笑う看板娘。
 生真面目な武士に年端もいかぬ女童。
 仲がいいのか悪いのか、いつも言い争う商家の娘と番頭。
 鬼の討伐を専門とする浪人。
 
「さて、行くか。土浦」
「ああ」

 いつも通り、一杯の蕎麦を食べ、二人は鬼退治へ出かける。看板娘はいつものように、浪人に声をかける。いってらっしゃい、と。
 その隣には、“彼女”がいて───

 暖かい、けれど在り得ぬ景色に土浦は笑みを浮かべ、ゆっくりと瞼を閉じた。
 あんなにも怖かった死が今は心地好くさえ感じられる。
 本当に、悪くない。
 ただ心残りもあった。

 ───だから願う。

        もし来世というものがあるのならば。

                     次こそは、何も、疑わぬように───





 邪気のない願いを残し、土浦は完全に消え去った。
 甚夜の体には円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様が浮かび上がっている。土浦の残してくれたものがその身に宿った証だ。

「さて」

 人に戻り、刀を納める。
 今回は随分無茶をした。まだ体には痛みが残っているし、手足は錆付いたかのように軋んでいる。出来れば少し休息を取りたい所だった。

 しかし、まだやらなければ為らないことが残っている。

 不意に空を見上げた。
 雨は止み雲も薄まり、空には月が顔を見せている。
 辺りが薄らと青白く染まり往く。雨上がりの静謐な空気が心地よく感じられる。
こんないい月夜に風情のないことだが、けじめは付けねばなるまい。
 痛みの残る体を引きずり、江戸への道を辿る。
 槐の立ち並ぶ街道は長く続いていた。
 一度立ち止まり、ふと振り返った。
 誰もいない。何一つ痕跡はない。
 彼の体は己が喰らった。
 想いも最早消え失せた。
 多分この宵闇には、叶わなかった願いだけが揺蕩っている。

「では、な」

 簡素な別れを告げて再び歩き始めた。
 
 ───叶わなかった願いは一体何処へ行くのだろう。
 
 朧月夜。
 揺らめくような夜の色に、少しだけそんなことを思った




 鬼人幻燈抄 幕末編『願い』・了
        終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』



[36388]   終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』・(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/26 01:55
 会津畠山家中屋敷
 花の散った白木蓮が並ぶ庭に面した自室で、一人の男が正座している。
 何をするでもなく目を瞑りただ座る。その姿は何かを待っているようにも見えた。
 がさり。
 畳を誰かが踏んだ。自分以外誰もいない筈の座敷に響いた音。その違和に瞼を開く。

「おお、これは甚夜殿」

 其処には、不躾にも挨拶一つ無く屋敷に入り込んだ甚夜の姿があった。

「貴方がここにいる……つまり、土浦が討たれた、ということですか」

 急に現れた甚夜に表情も変えず語りかける。憲保にとっては忍び込んだことも予想外の行動ではなかったのかもしれない。そう思えるほどに彼の対応は平静だった。

「ああ」
「そうですか……最早倒幕の流れは止められない。土浦を失った今、私に打てる手はない。終わり、ですな」

 他人事のように憲保は言う。以前熱弁を振るった男とは別人のように力がない。

「そうだな、だから」

 甚夜は無遠慮に近付き、夜来を抜刀する。一挙手一投足の間合いに憲保を収め、上段に構える。

「お前の願いを叶えに来た」

 無表情に、そう告げた。




 鬼人幻燈抄 幕末編・終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』





「私の願い、ですか」

 抜刀した甚夜を前にしながらも動揺はない。
 噛み締めるように呟いている。

「ああ。私は土浦を討ち、喰らった。ならばあの男の責任を果たすのが筋だろう」
「では、貴方が代わりに仕えてくださると?」

 ゆっくりと首を振る。

「違う。私は、お前の願いを叶えに来たのだ」
「ふむ。ならば私の願いとは」

 値踏みするような視線だった。
 受け流し、甚夜は静かに語り始める。

「最初からおかしいと思ってはいた。随分前、妖刀を追っていた私達にお前は杉野の行方を教えた。岡田貴一と戦うよう仕向けた。今回、態々私の目の前で直次を殺せと土浦に命を下した。お前の行動は私を挑発するようだった。何故そんな真似をしたのか」

 杉野の件は兎も角、もしも直次を目の前で殺されていたとしたら甚夜は間違いなく報復に出た。それが想像できない程憲保は愚鈍ではない。
 もし佐幕攘夷を為したいのならば、こちらに接触するべきではなかった。
 正直な所直次が襲われなければ土浦を討つことも憲保が京へと送ろうとした下位の鬼を斬り伏せることもなかった。最初に言った通りも甚夜は攘夷になど興味はない。無為に人へ仇為すような真似をしなければ、そもそも関わり合いになる気すらなかったのだ。

 更に言えば、京へ送ろうとした鬼どもを討てたこと自体がおかしい。憲保がもっと早く行動をしていれば、例えば直次を襲うと同時に京へ鬼を送っていれば、甚夜は間に合わなかった。
 畠山憲保の遣り様ははっきり言って下策ばかり。何かを行う度に自身を窮地へと追い込んでいる。此処まで行くと最早わざとやっているようにしか思えない。

 だが今回土浦を“喰った”ことで、多少なりとも畠山憲保という人物を理解できた。
 だから、彼の奇妙な行動の理由に思い至った。
 
「考えて、前提を間違えていたのと気付いた。お前の目的は夷敵を討ち払い、幕府をもう一度立て直すことだと思っていた。だが違ったんだな」

 邪魔が入ることなど最初から気にしていなかった。
 何故ならば、本当は。

「本当はお前自身が、誰よりも攘夷など叶わないと思っていた」

 だから邪魔をされてもよかった。
 いや、それではまだ足りない。彼の行動は敢えて邪魔が入るように誘導していた節さえある。もし其処に何の裏もなかったとすれば。
 畠山憲保の目的。
 彼の願いとは。


「真の目的は、“目的の達成”ではなく“目的の頓挫”。邪魔されることをこそお前は願っていた」


 証拠のない推測、しかし絶対の確信があった。
 座敷は静まり返っている。二人は押し黙り、ただ視線を交差させる。しばらく沈黙が続き、不意に目を伏せた憲保は重々しく口を開いた。

「隠し事は、無駄のようですね」

 諦めたように息を吐く。

「ええ、その通りです」

 もう一度目を開き、両の掌を眺めている。手の中には何もない。それとも彼には何かが見えているのだろうか。

「本当は、分かっていたんですよ」

 自嘲じみた笑みを落とす。

「もはや時代の流れは止められない。どれだけ抗おうとも、外来の文化がこの国に入り込むことも。幕府が滅び、武士の世が終焉を迎えることも。決して、止められない。……本当は、全て分かっていた」

 憲保は慧眼だった。
 慧眼であるが故に早くから時代の流れが見えてしまっていたのだろう。 
 自分達が歴史に淘汰されて往くという、避けようのない未来が。
 以前、<遠見>という<力>を持つ鬼がいた。彼女は避けようのない未来を見せつけられ、それを回避するために狂気とも思える行動に出た。
 この男もまた同種の絶望を抱いていたのかもしれない。

「多くの武士は時代の流れに身を任せた。剣を捨て、新時代の権を得る為に刀を振るう。それが間違いでないことも分かっていた。時代は変わる。ならば新しい時代を受け入れ、己もまた変わっていく方が正しいのだど。そんなこと、最初から分かっていた。けれど私にはそれが出来なかった。今まで貫いてきた生き方を曲げることが、どうしようもなく醜く思えた。だから私は」

 攘夷を掲げ、佐幕に身を窶した。
 けれど同時に時代の流れを変えられないことも、その慧眼故に見通せてしまった。
鬼の力を使っても武士の世の崩落は止められない。
 それでも武士以外の生き方など選べない。
 ならばせめて。

「私は殺されたかった。最後まで、幕府の為に在った一個の武士として」

 最後まで、武士として在りたかった。
 三浦直次の願いが最後まで武士として生きることなら。
 畠山憲保の願いは最後には武士として死ぬこと。
 最早武士の世が続かぬと誰よりも理解できるからこそ。
 新時代を生きるのではなく、武士の世に最後まで拘った男として死にたかった。

「攘夷に身を窶したのもその為。そうしていればいつか、誰かが殺しに来てくれると思った。……くくっ、貴方は確かに、私の願いを叶えに来てくれた」

 ただ彼は武士でいたかっただけ。
 生き方は変わらない。変わったのは時代だ。なのに、曲げられなかった生き方は幕末の動乱に在って、何よりも歪に曲がって見えた。
 きっと傍目には自分も同じように見えているのだろう。
 甚夜は訳もなくそう思った。

「お互い、難儀なことだ」
「いや、まったく。ですが己が在り方を貫くというのはそういうことでしょう」
「違いない」

 いつかも交わした言葉だった。本当に、この男は何一つ変わっていない。
 だから此処で幕を下ろしてやらなくては。
 自身の目的の為に、杉野や土浦を利用した。決して嫌いではないが、根本的なところで甚夜と畠山憲保とは相容れない。
 それでも彼が拘った生き方くらいは認めよう。
 同じく、間違った生き方に拘り続けた、同胞として。

「私を斬りますか」
「ああ。お前の願い、叶えよう」

 柄を握る手に力が籠った。
 殺すもの、殺されるもの。
 立ち位置は明確。しかし流れる空気は和やかでさえある。
 深く息を吸う。夜の冷たい空気が肺に満ちる。
 ぴたりと止める。迷いはなかった。
 そして、

「さらばだ、畠山憲保。お前は此処で武士の世を守り切れず、しかし武士のまま死んでいけ」

 一歩踏み込み、上段に構えた夜来を振り下す。
鬼を相手取る時と変わらぬ全霊の一刀。手加減はしない。せめてもの礼儀だった。
 その剣戟は正座したままの憲保の胸元を裂き、致命傷を与えた。
 薄暗い座敷に鉄臭い血の香が漂う。
 だが倒れない。座位を維持したまま、残されたい命を振り絞るように声を出す。

「予言しましょう」

 にたりと嗤った。

「これから訪れる新時代は、武士も刀も必要としない。諸外国が齎した技術により日の本は発展し、代わりに大切な何かを失っていく」

 がふ、と血を吐いた。
 致死に至る傷を受け、尚も悠然と語り続ける。

「刀を振るう鬼よ。この先に貴方の居場所はない。鬼も刀も、時代に打ち捨てられて往く存在だ」

 そこで糸が切れたように憲保は前のめりになった。首を垂れる形になり、それでも彼は嗤う。

「急流の如く過ぎ行く時代の中、貴方がどうやって生きていくのか。冥府にて、ゆっくりと、観覧させ、ていただ、きま、しょう」

 不吉な予言を残し、畠山憲保は息絶える。
 日の本の、そして己の行く末を聞かされた甚夜には不安も恐怖もない。ただ複雑な心境だった。

「不器用な男だ」

 無表情に零した。
 最後の予言は彼が予測する日の本の行方ではあるのだろう。しかし敢えて憲保がその言葉を残した意味を甚夜は理解した。理解してしまった。
 それは多分、いや、間違いなく甚夜の為だ。
 武士のまま死ぬという願いを叶えてくれた彼に報いる為、畠山憲保は最後の最後に呪言を残すという、分かりやすい悪役を演じてみせた。
 お前には何の咎もないと。
 斬ったのは正しかったのだと、言い訳を与える為に。
 彼は、そういう死に方を選んだ。

「恩義に報いるのも武士故に、か」

 相容れない男だった。
 しかし武士としての在り方を、最後まで守りぬいた事だけは認めないといけないだろう。
 だから畠山憲保の死を悼んではならない。
 憲保が悪役を演じ死んでいったのは己の為。
 ならば彼の死を悼むことは、その生き方を、事切れる瞬間まで貫いたであろう彼の誇りを奪うことに他ならない。


 ───この男は最後まで武士だった。


 それで充分
 くだらない感傷で、彼の最後を台無しにするような真似はしてはならない。

「……では、な。お前の名は忘れん」

 零れた言葉に感慨はない。
 そんなもの、あっていい筈がない。
 最後に一度だけ憲保の死骸に目を向け、甚夜は座敷を後にした。



 慶応三年某日、会津藩士・畠山憲保が暗殺される。
 既に家督を息子に譲った身、会津藩に然したる混乱はなかったが、陰ながら幕府に援助をしていた彼の死は佐幕攘夷派に大きな衝撃を与えた。
 下手人は長州か薩摩かと物議を醸しだしたが結局最後まで分からず、彼の死は歴史に埋もれることとなる。

 史書に鬼の姿が描かれることはなかった。




 ◆



 夜が明けた。
 眠っていれば朝は直ぐに訪れるというのに、誰かを待っている夜は長い。それだけ長い時間が過ぎて。なのに何時まで経っても待ち人は訪れなかった。
 
「とうさま、おそいな」

 足をぶらぶらさせながら、野茉莉は椅子の上で暇を持て余している。昨夜は寝てしまったが、早起きをして父の帰りを待っている。

「本当、ですね」

 おふうもその隣で店の暖簾を眺めている。
 昨日は一睡も出来なかった。強がっていたが、いつもそうだ。誰かの帰りを待つ時はいつも眠れない。目が覚めて、それでもその人が返ってこないのが怖くて。いつだって眠れない夜を過ごした。

 大丈夫。
 そんなことを思うには、失くしたものは多すぎて。未だ目に焼き付いている、炎を纏った亡者のように、彼も帰ってきてはくれないかもしれないと思ってしまう。
 でも結局自分に出来るのは待つだけ。
 いつだって私は、誰かを待っている。
 
「起きていたのか」

 不意に暖簾が揺れて、店内に鉄のような声が響いた。
 抑揚の小さい、ぶっきらぼうな。今ではもう慣れてしまった、誰かの声だった。

「悪い、待たせたようだ」

 表情も変えずにそう言う甚夜は、本当にいつも通りで。ちゃんと帰ってきてくれたのだと心の底から安堵する。

「違いますよ」

 だけどそれを知られるのは恥ずかしくて、いつものように年上ぶった態度で彼と接する。

「帰ってきた時の挨拶は、違うでしょう?」

 気付いたらしく、小さな苦笑を見せた。彼はいつの間にかよく笑うようになった。鬼であったとしても、変わっていけるのだと。彼の在り方はそれを教えてくれたような気がする。

「ただいま」
「はい、お帰りなさい」

 お互い小さく笑い合う。
 くすぐったくて、暖かい。不思議な感覚だった。

「とうさま、おかえりなさい」
「ただいま。いい子にしていたか?」
「ん」

 足元まで近づいて無邪気な笑顔で迎える野茉莉。
 頭を撫でられて心地良さそうに目を細める。その様を微笑ましく見つめながら、本当はあまり聞きたくないが、おふうは甚夜に問うた。

「これから、どうするんですか?」

 昨日も同じことを聞いた。
 帰って来れたということは、あの鬼を討てたのだろう。
それなら、次はきっと。

「江戸を離れようと思う。いつまでも此処に留まる訳にはいくまい」

 正体を晒してしまった。だから、そう言うと思っていた。

「そう、ですか……」

 予想通りの答えだった。
 そして彼が一度決めたなら、例え誰が何を言っても覆さない。その様を明確に想像できるくらいの時間を共にした。だから分かる。彼は自分が何を言っても、江戸を離れる。
 けれど言わずにはいられなかった。

「……例えば、ですよ。例えば、お父さんが言っていたみたいに、このまま蕎麦屋を営むというのは選択肢にないでしょうか」

 甚夜は普段の彼からは珍しく、虚を突かれたような顔をしていた。まさかおふうがそんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう。

「屋号は、そうですね。『鬼そば』……なんてどうでしょう。鬼の夫婦が営む蕎麦屋。面白いと思いませんか?」

 何の裏もなく、ただ自然に零れた言葉。
 それは、遠回しな告白だったのかも知れなかった。
 恋愛感情があったのかどうかは分からない。けれど一緒にいたいと思う気持ちに嘘はなかった。
 返答を待つおふうから視線を外し、甚夜は厨房を見詰めながらぽつりと呟く。 

「悪くは、ないかもしれんな」
「でしょう? なら」

 二人で蕎麦屋を切り盛りして、幼い娘が成長していくのを見守る。野茉莉は人だ。自分達よりも早く逝ってしまう。
 けれど互いは鬼。
 それから続く長い長い年月を一緒に越えていくことが出来る。
 きっと、それは。ただ一人刀を振るい、妹を止める為に力を求め続ける生き方よりも、遥かに幸せな日々なのだろう。
 本当に、そう思う。
 
「済まないが」

 だけど、それを選ぶことは出来ない。

「やっぱり、出来ませんか?」
「今更、生き方は曲げられない。そこまで器用には為れんさ。お前だってそれを承知で言ったのだろう」
「それは、そうですけど。……本当にあなたは頑固ですね」
「全く、我ながら儘ならぬな」

 鈴音を止める。
 生かすのか、殺すのか。
 それは分からないが、あの娘を止める為だけに生きてきた。それが間違いだと気付いたとしても生き方は曲げられない。
 結局、甚夜は自身の想いよりも自身の生き方を優先してしまう。
 これからもその在り様は変わらないのだろう。
 しかし不思議と苦痛とは思わなかった。

「なあ、おふう。私の生き方は間違っていたかもしれない。……けれど、そんなに悲観はしていないんだ」

 憎しみは今もこの胸を焦がす。
 その憎悪さえ、己の弱さを払拭する手段でしかなかった。
 己は始まりを間違えていた。
 けれどその途中で拾ってきたものは、決して間違いではなかった。

 同じように、あの娘を慈しんだ日々は決して嘘ではない。
 妹を許したいと願ったのは、それだけは間違いではない筈だ。

「あの娘を許せるのか、まだ答えは出せない。だが間違えたままでも救えるものがあるとお前が教えてくれた。だからもう少し迷ってみようと思う」

 憎悪を拭い去り、許せる日が来るのかは分からないけれど。 
 あの娘が人の滅びを願うならば、己は斬り捨てるのだろうと、小さな不安を胸に抱えながら。
 しかし諦めたくはなかった。
 我ながら優柔不断な決意だと甚夜は自嘲する。
 それでも、血に塗れたこの手でも救えるものがあるのなら、もう少しだけ足掻いてみるのも悪くはない。

「なら、鈴音ちゃんを」
「憎しみは消せない。だが今なら、少しだけ優しくなれる。そんな気がするんだ」

 この町で沢山の優しさに触れたから。
 思わず口元が緩む。その表情は朴訥な、いつか他が為に刀を振るうと語った少年の笑みに似ていた。

「逆に聞こう。一緒に行くか?」

 言いながら右手を差し出す。
多分彼女は手を取らない。何故かそう思った。

「……すみません」

 おふうは少しだけ悲しげに目を伏せた。
 一緒にいたいと思った。なのに手を取れなかった。心変わりした訳じゃない。だけど着いて行きたいとは言えなかった

「駄目ですね、私は。甚夜君を見て思ったんです。貴方は変わったけど、私は何にも変わってないなって。お父さんに手を引かれて外へ出て、それからずっとあの人に守られてきました。あの人に、寄り掛かって生きてきた……寄り掛かる場所が幸福の庭からお父さんに変わっただけだったんです」

 瞳は遠く、いつか失くした幸福の庭を眺めている。
 その横顔には寂寞が映し出されていた。

「もしここで貴方の手を取ってしまったら、私は貴方に寄り掛かってしまう。それじゃあきっと私は何も変わらない。幸福の庭に逃げ込んだあの頃のままなんです。甚夜君は変われたのに、私だけが変わらないなんて悔しいじゃないですか。だから、すみません。先に誘ったのは私ですけど、貴方の手は取れません」

 一度俯き、何かを逡巡するように黙りこくる。
 顔を上げた時には、晴れやかな、涼やかな、春風のような微笑みがあった。

「まずは一人で立てるようになろうと思います。そうじゃないと、貴方の隣にいても寂しいだけだから」

 締め括ったその一言に、甚夜は呆れ交じりの溜息を吐いた。散々自分を頑固者と言ったくせに、彼女だって相当だ。

「お互い、不器用だな」
「本当ですね」

 お互いに、一緒にいたいとは思っている。
 ただ譲れないものがあっただけ。
 明確になった別れ。なのに何故か嬉しいと思う。笑顔で別々の道を選べたことが、いつかの自分よりも少しは成長できた証のように思えて嬉しかった。 
 そうだ、と思い出したように甚夜が声を上げる。

「お前の誘いを断っておいて悪いが、一つ頼みがある。済まないが野茉莉を」

 預かってくれないか、と言おうとした。しかし袴にしがみ付き泣きそうな目で睨み付ける愛娘の姿に甚夜は何も言えなくなった。
 己はこれからも鬼を討ち生きる。だからできれば野茉莉には平穏な生き方をしてほしいと思ったのだが。

「いや」
「野茉莉……」
「とうさまといっしょにいる」
「だそうですよ?」

 からかう様な口調に苦笑いを零すしかできない。

「分かった。一緒に行こう」
「ん」

 満足げに頷く。その仕種が可愛らしくて、目尻が下がる。親馬鹿と言われても仕方がないと自覚できた。

「さて」

 名残は尽きないが、これ以上いても離れ難くなるだけ。
 そろそろ行こうと野茉莉を抱き上げる。
 おふうも別れを予感したのだろう、少し目を潤ませていた。

「また、逢えますか?」

 縋るように問いかける。

「さて、な。だが互いに長命だ。生きていれば何処かですれ違うこともあるだろう」
「そこは嘘でも逢えるって言うところだと思いますけど」
「鬼は嘘を吐かないものだ」

 軽い調子。
 彼女は膨れた顔。でも小さな笑みを落とす。
 交えた別れに悲痛はなくて、それだけで胸が熱くなる。

「ではな、おふう」
「はい。いつか、また」

 そうして二人は、短い言葉ではっきりと別れた。
 どんなに隠しても寂しさはある。でも不思議と後悔はなかった。

 甚夜は少しだけ目を瞑り、ここで過ごした日々を思い返す。
 そして思う。
 私は、沢山のものを貰った。
 だから寂しくても後悔はない。
 もう一度目を開き、暖簾を潜り、店を出る。
 離れていく距離。でも心は傍にあると感じられる。無論それは錯覚だ。しかし今はその暖かな勘違いに身を委ねていたかった。
 
 町並みが流れていく。まだそれほど噂になっていないのか、自分を見て鬼だと騒ぎ立てるものは少ない。表情は僅かに緩んでいる。

「とうさま、うれしい?」

 店から離れしばらく経って野茉莉が言った。
 堪えきれず笑いが漏れていたらしい。抱き上げた娘に指摘され、気恥ずかしくもあったが誤魔化すことはしなかった。

「ああ、多分嬉しいんだろう。また、逢えるといいな」

 心からそう思う。
 おふうはまた逢えるかと問うた。
 そして甚夜はまた逢いたいと思った

 ならば幾つもの歳月を越え、流れゆく季節の中。
 いつかどこかの街角で、また巡り合うこともあるだろう。

 その時には、一緒に雪柳でも眺めようか。

 暖かな夢想を浮かべたまま歩いていく。
 江戸はいつものように賑わいを見せていた。随分長く過ごしたような、あっという間だったような。奇妙な感覚を胸に、慣れ親しんだ場所を後にする。
 ふと立ち止まり、振り返れれば映る景色。
 人混みの中に、懐かしい誰かの姿を見つけたような気がして小さく呟く。

「……さよなら」

 最後の未練を振り切るように、人混みに背を向ける。
 別れを寂しいと思う。けれど心は心地好い暖かさを感じていた。
 二十七年前。
 憎しみと夜来だけを供に訪れた江戸の町。
 まさかこんなに穏やかな気持ちで離れられるとは思っていなかった。
 
 けれどまだ道の途中。
 何時までも立ち止まってはいられない。
 腕の中にいる野茉莉を抱え直し、前を見据える。

「行くか」
「ん」

 そうしてまた歩き出す。
 行く先も決めず、当て所無く。
 一匹の鬼は江戸から姿を消した。




 それから一か月後、慶応三年十月十四日。
 江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が政権返上を天皇に上奏し、翌十五日に天皇がこれを勅許した。
 俗に言う大政奉還である。
 その後同年十二月九日、王政復古の大号令をもって江戸幕府・摂関制度の廃止と明治新政府樹立が宣言された。
 
 長く続いた武士の世の終焉。
 そして新時代の幕開けであった。




 鬼人幻燈抄 幕末編 『いつかどこかの街角で』・完










 ……何故か、その声はやけにはっきりと聞こえた。

「とうさま、うれしい?」
「そうだな。また逢えるといいな」

 すれ違う親娘の何気ない会話に耳を傾け、私は立ち止った。
 娘を抱く父親はとても優しい顔で、その分だけ胸が痛くなる。
 でも表情には出ない。
 幼かった頃は生意気だとよく言われたけど、今では淑やかな女で通っている。ああ、だけど。こんな時に素直な感情を見せられないのだから、結局私はあまり変わっていないのかもしれない。

 ふと振り返る。見えたのは彼の背中だけ。
 彼の歩みは止まらない。私達は言葉さえ交わさず、ただの擦れ違いとして別れた。
 当たり前のことだ。
 なのに、勝手に傷付いている私がいた。

「どうかしたか?」

 急に立ち止まった私を心配して、隣にいる夫が声を掛けてくれた。私が沈んでいるのに気付いたのだろう。ちゃんと気にかけてくれるのが嬉しくて、でも返す笑顔はぎこちない。

「懐かしい、人に会いました」

 見ました、ではなく、会いました。
 未練たらしい表現に思わず自嘲する。

「懐かしい人?」
 
 この目はまだ遠く離れていく背中を眺めている。
 声を掛けることは出来ない。私が、傷付けてしまった人だ。
 でも、あの人は笑っていた。
 腕に抱いていたのは娘だろう。
 あんな優しい表情見たことが無かった。向けては、貰えなかった。

「ええ。あなたも、知っている人ですよ」

 私の言葉に打ちのめされ、何も言えず目を伏せたあの人。
 でも、今はあんなに幸せそうに笑っている。
 嬉しいと思う反面、少し悔しかった。
 私が居なくても笑えることが。
 傷付いた彼を癒したのが、私でなかったことが。

 本当は、少しだけ夢想をしていた。
 何かの偶然で、二人はまた出会って。
 あの時の言葉を私は謝って。
 彼はいつものように仏頂面で許してくれて。
 そうしてまた、あの楽しかった日々の続きが始まるのだと。
 心の片隅で思っていた。

 でも現実はそう上手くはいかない。

 肩をぶつけることなく擦れ違う二人。名前さえ呼び合うことはない。
 それが今の、私達の距離。

 仕方のないことだ。だけど、少しだけ考えてしまう。
 もしも、もしもあの時優しい言葉をかけてあげられたなら。
 腕に抱かれた小さな女の子に、私の面影があったのだろうか。

 頭に浮かべて、馬鹿みたいだと思ってすぐに消す。
 私から手を放したのだから、それを想像するのは間違っている。

「ごめんなさい。急に立ち止まってしまって。さ、あなた」

 そろそろ行こうと促す。きっと私は今泣きそうな顔をしているのだろう。夫はとても心配そうな顔をしている。
 少しだけ眉を顰め、何かを考えるように俯き、そうしてにっこりと笑いながらこう言った。

「……なら、そろそろ店に帰りましょうか、奈津御嬢さん」

 その懐かしい呼び方に、私は目を見開いた。

 父が死んでから、私は彼と結婚した。
 彼は言ってくれた。「旦那様には及ばないかもしれないけど、これからは俺が貴方を支えます」と。普段は頼りない彼だけど、その時ばかりは頼もしく見えたことを覚えている。
 その言葉通りに結婚してからの彼は須賀屋を、そして私を支えてくれた。
 そうして歳月を重ね、いつか子が生まれ、私達は幸福の日々を過ごす。
 私達は、周りが羨むほどの夫婦になっていた。
 
「あなた……?」

 でも彼が使った呼び名は、まだ結婚する前。私達が、毎日のように蕎麦屋へ通い詰めていた頃のものだ。
 意図を読めず、夫の目を見る。彼は、照れたように頬を掻いた。

「いや、なんとなく。なんとなくなんですけど、今はそう呼んだ方がいいような気がしたんです。なんででしょうね?」

 彼自身、どうしてそう言ったのか分かっていないような顔をしていた。
 私も何故彼がそんなことを言いだしたのかは分からない。
 でもきっと、私を慰めようとしてくれたのだろう。そう考えられるくらいには、彼と同じ時間を過ごしてきた。
 だから私は心からの笑顔を夫に向けた。

「じゃあ、行きましょうか善二」

 歳月に流された私は、もう懐かしい場所には帰れない。けれど、今だけはあの頃と変わらない私になれたような気がした。

「はい! ははっ、なんかこれ恥ずかしいな」
「そんなの、私もですよ」

 お互いに笑い合って、すっと距離が近くなる。
 横目で去って行った彼を見送る。
 

 ────ふと、彼が振り返った。 


 勿論ただの偶然だ。でも視線が交わったような気がして、少しだけ胸が熱くなる。
 でもそれは名残のようなもの。熱はすぐに引いて、彼はまた背を向け歩き出す。
 
「……さようなら、甚夜」

 遠く離れていく背中に、届かない別れの挨拶。
 返る言葉なんてある筈もなく。
 瞬きの後には、もう見えなくなっていた。
 


 私はまた歩き始める。
 夫と並んで眺める江戸の町。
 忙しない空気に漠然と思う。
 徳川の御世はもう終わりを迎えようとしている。
 きっと、新時代は直ぐそこまで来ているのだろう。
 それは殆どの人にとって、喜ばしいことで。

 けれど、歳月は人の心を置き去りにする。

 江戸の町は新しい時代を迎え、どうなっていくのだろうか。
 今よりももっと栄えるのか、それとも衰退の道を辿るのか。
 それは私には分からない。
 ただ一つだけ言えるのは、幼い私のすごした江戸が、なくなってしまうということ。
 大切なものが沢山あるこの町は、伝わらなかった想いだけを残して、変わってしまう。
 

『福良雀の羽毛に包んだ想いが、いつか素直に合貝の愛を伝えられますように』
 

 私の部屋にある福良雀は、あの頃から何も変わっていない。
 同じように、胸に燻って、恋にすらなれなかった心もまた。
 何一つ変わらないままに時代は流れる。
 ふと見上げた空の青さに、私は目を細める。
 いる筈のない雀の姿が、遠い空に見えたような気がした。




 こうして、彼と私の物語は終わりを迎えることなく幕を下ろした。


 蛤になれなかった雀だけが、江戸には一羽遺されて───





 終章『雀一羽』・完

 次章 鬼人幻燈抄 明治編『二人静(ふたりしずか)』
 



[36388] 明治編『二人静』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/29 20:47


 京都は西大路四条から一歩裏へ分け入ると、華やかな通りとは打って変わった、静けさの漂う細道がひっそりと存在している。



 夜半。星の隠れた夜。光は黒色の空に浮かぶ月のみ。
 灯る明りのない小路は僅か先も見通せない。深々とした闇の中では擦れ違う誰かの顔さえ定かではなく。

 だから、きっと。
 其処にあやかしが潜んでいたとして、誰も気付きはしないのだろう。

 日本有数の都市であり在りながら魔境として名高い京の都は、新時代が訪れた後も依然妖異が跋扈していた。

 細い小路には三匹の鬼。
 赤黒い体。皮膚の色ではなく、筋繊維がむき出しになっているせいだ。双眸は虚ろで何を映しているのか分からない。だらりと放り出された腕の先、手には獲物を切り裂く為の鋭い爪が生えている。
 
 欲しい。
 足りない。
 返せ。

 禍々しい気配を漂わせた異形達は、不明瞭な言葉を発しながら道の端に屯している。
 その中心には幼い娘子の姿があった。異形に取り囲まれ、微動だにしない童女。あまりにも分かりやすい構図だった。
 一歩。
 鬼が童女へと近付いた。
 

「魔都とはよく言ったものだ。夜毎、鬼が練り歩く」


 小路に鉄のような声が響いたのはほぼ同時。
 反応し鬼は振り返る。其処にいたのは、いやに眼付の鋭い男だった。
 黒の羽織に灰の袴、腰に携えた大太刀。出で立ちは侍のようだが髷は結わず短髪。その体躯は六尺近い偉丈夫である。

「一応、聞いておこう。名はなんという」

 当然鬼は答えない。答えられるだけの知能がない。悠然と立っている男をただ睨み付ける。
 最初から期待していなかったらしく、返答がなくとも男の様子に変化はない。自然な動作で左手は太刀へ掛かり、鯉口を切った。そうして男は無遠慮に、まるで散歩でもするが如く気安さで鬼へ近づいていく。

 その仕種に敵だと理解したのか、三体の異形は童女から離れ男へと襲い掛かった。
 乱雑な動き。しかし人には出せぬ速さ。振り上げられた、彼の身を容易に裂くであろう猛禽の爪。
 それでも男は平静を崩さず、斜め前に一歩を踏み込む。鬼の突進を躱し、すれ違いざまに抜刀。

 一つ。

 太刀を引き抜く動作はそのまま横凪の一閃に変わり、左から迫る鬼の体躯を両断した。次いで左足を軸に小さく体を捌き、逆風、切り上げる。

 二つ。

 今度は右の鬼が地に伏す。
 同胞が瞬時に切り捨てられた。
 自我は薄いように見える。だが迫る危機くらいは感じ取れたのか、残された鬼は動揺にじりじりと後ずさり、背を向けて逃げ出す。
 だが遅い。
 男は振り上げた刀で中空を斬る。
 瞬間、風を裂く音と共に周囲の空気とは密度の違う、透明な斬撃が切っ先より放たれる。飛来する斬撃。在り得ぬ一刀は逃げ惑う鬼の背を容易に切り裂く。

『マガ…ツメ……』

 呻き声を挙げながら鬼は地に伏し、立ち昇る白い蒸気となった。

 これで、三つ。

 数十秒、僅か三振りで鬼の命は絶えた。
 しかし予断なく周囲へ意識を向ける。周りに気配はない。伏兵はいないようだ。それを確認してようやく男は血払いに刀を振るい、ゆっくりと鞘へ納めた。
 息も乱さず妖異を討ち払った男は、だというのに眉を顰めている。
 勝利の愉悦も絶えた命への憐憫も其処にはない。
 ただ鬼の残した言葉が気になった。

 男───葛野甚夜は噛み締めるように呟いた。

「“マガツメ”……?」

 何を指した言葉かは分からない。
 だというのに、その響きが妙に耳から離れなかった。

 



 鬼人幻燈抄 明治編『二人静』





 
 明治五年(1872)・四月。
 大政奉還による江戸時代の終焉とともに始まり、明治維新を経て、日の本は新時代を迎えた。
 江戸幕府の解体により成立した明治新政府は、政体書において地方制度では大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治の形を残す府藩県三治制を打ち立てる。
 昨年、明治四年八月には幕末より倒幕の主導を取ってきた薩長の軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立された。
 かつての名残は緩やかに姿を消していく。
 幕藩制は完全に崩壊。
 武士は一部大名が華族として特権階級に残り、しかし多くは士族と呼称され、ある程度の特権は認められたが以前の身分を剥奪されることとなる。また政府は明治三年に庶民の帯刀を禁じ、翌年には帯刀及び脱刀を自由とする散髪脱刀令を発した。


 ───これから訪れる新時代は、武士も刀も必要としない。


 畠山憲保の遺した予言は真実となる。
 長らく続いた安寧を支え、新時代を切り開いた筈の武士達は明治においてその存在を認められず、過去の遺物として駆逐されようとしていた。



 ◆




「無事か」

 全ての鬼を討った後童女に近寄り、平坦な声で問い掛ける。
 時代が変わっても彼の為すべきは変わらない。甚夜は相変わらず鬼の討伐を生業としていた。

「あの、もしかして、助けて下さったのでしょうか?」

 舌足らずな幼い声で、しかし丁寧な口調だった。 
 状況がまだ掴めていないらしく、童女は不思議そうな顔で甚夜を見上げる。

「一応、そうなる」
「そうですか、それは、有難うございます」

 深々とお辞儀をする。
 なんというか、丁寧ではあるが掴み所のない娘だった。
 異人の血が入っているのか、娘は色素の薄い茶の髪をしていた。肩までかかった髪は柔らかく波打っている。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。大きな黒い瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。
 纏う着物は薄い青に紋様は宝相華、金糸まであしらっている。庶民が着るには些か上等すぎる。案外華族の令嬢なのだろうか。

「そう言えば、名乗っておりませんでした。向日葵(ひまわり)、と申します」
「珍しい、だがいい名だ」
「母が付けてくれた名前です。お前は、この名に相応しいと」

 名を褒められたのが嬉しかったらしく、満面の笑みを浮かべている。
 
「私も気に入っています。ですので、どうぞ向日葵とお呼びください」

 幼げな向日葵の笑顔はそれこそ夏の鮮やかな花が咲くようで、成程、確かに彼女は向日葵だった。

「しかし、あー、向日葵は礼儀正しいな」

 いきなり呼び捨てでいいものだろうかと思いながらも、本人の希望もあったためそう呼んでみた。戸惑った甚夜の姿が面白かったのか向日葵は余計に笑っている。

「今年で八つになります。もう子供ではないのですから、それなりの応対をせねば母の恥となりますので」

 愛娘である野茉莉よりも年下だが、随分としっかりした娘である 。
 成程、母親の教育が行き届いているようだ。そう言えば友人である三浦直次も礼儀には五月蠅かった。やはり躾は多少厳しい方がいいのだろうか、などと若干ずれたことを考えていると、向日葵は不思議そうに小首を傾げた。

「いかがなされましたか?」
「いや、私にも娘がいてな。多少、思う所があっただけだ」

 ちょうど、お前の一つ上だ。
 そう伝えると向日葵は意外そうな顔を浮かべる。それも当然。甚夜の外見は十八の頃の姿を保っている。とてもではないが九つの娘がいるようには思えない。

「失礼ですが、お歳は」
「今年で五十になる」
「……見えま、せんね」

 丁寧な言葉が一瞬崩れる。どうやら冗談の類と受け取ったようで、向日葵は微妙な笑みを浮かべていた。しかし俄かに信じられるようなことでもはないし、仕方ないとも思うので軽く流しておく。

「よく言われる。さて、夜道は危ない。送ろう。此処には一人で来たのか?」
「あ、いえ。母と共に来たのですが、逸れてしまって」

 夜も深い頃、一人出歩くのはおかしいとは思ったがどうやら迷子だったらしい。逸れたというのなら連れまわす訳にもいかないし、どうするかと悩ませていると向日葵の方から提案をしてくれた。

「母は私が家に戻ったと思っているのかもしれません。西大路まで出れば帰れますのでそこまで送っていただけますか?」

 本当にしっかりした娘だ。
 首を縦に振って返せば、向日葵のような笑顔が咲く。

「では行きましょう」

 自然と手を繋いでくる。振り払うことも出来ず、甚夜はされるがままに西大路までの道を歩く。
 月の夜。
 薄明かりに照らされた小路。
 何気ないその道行を、何故か懐かしいと感じた。




「有難う御座いました、おじさま」

 年齢が五十だと聞いたせいもあるのだろうが、向日葵の呼び方は甚夜の外見に見合わぬものだった。とはいえ嫌な気はしない。普段年齢通りの扱いを受けたことがないので、それほど悪くないと思っていた。

「此処でいいのか」
「はい、もう一人で帰れますので」
「何なら家まで送るが」
「いえ、直ぐ近くなので大丈夫です」
「そうか」

 やんわりと断られる。辺りに目を配る。西大路はまだ人通りがある。再び鬼に襲われることはないだろう。しかし人が害をなさぬとは言い切れない。やはり送っていきたいが。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですから」

 本人がそれを望まない以上、無理に着いて行くのも気が引ける。仕方なくその言を認め、小さな溜息を零した。

「分かった。気を付けて帰れ」
「はい。ではおじさま、またお逢いしましょう」

 ぺこりと一礼。顔を上げ、無邪気な向日葵の笑顔を振りまいて少女は人混みへと消えていった。
 しばらくそれを眺めていたが、いつまでもそうしている訳にもいかない。家では愛娘が留守番をしてくれている。早く帰ってやらなければ。思い至り、甚夜もまた帰路へと着いた。

 ◆

 東海道に繋がる京の出入口は『粟田口』と呼ばれ、近くにはその由来となる粟田神社が鎮座している。
 スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬されるこの神社はその立地故に古くから東海道を行き来する人々が多く訪れた。
 旅の安全を願い、また道中の無事を感謝して参拝する為、いつしか粟田神社に祭られるは『旅立ちの神』と信仰されるようになった。

 さて、粟田口から白河橋を越え、南北路の東大路通を過ぎると京都は三条通に辿り着く。粟田神社の北側に位置するこの通りには、明治元年に創業した一軒の蕎麦屋があった。店には『鬼そば』と書かれた暖簾がかけられている。

「父様、お帰りなさいっ」

 暖簾を潜った甚夜を出迎えたのは、腰まで届く長い黒髪を編み込み穂先で一纏めにした、小柄な少女だった。まだ幼く、丸みを帯びた顔の輪郭。そこに邪気のない笑顔を浮かべている。
 名を野茉莉。今年で九つになる愛娘だった。 

 時代が変わっても甚夜の為すべきは変わらない。相変わらず鬼の討伐を生業としていた。
 しかし変わったこともある。
 庶民でも姓を名乗ることが許された新時代、自身の育った故郷にあやかり「葛野甚夜」と名乗るようになった。
 そして、かつて世話になった蕎麦屋の店主から蕎麦打ちを教わった経験を生かし、甚夜は明治の新時代を蕎麦屋の店主として生きていた。
 初めは閑古鳥が鳴いていた。そこから経験を積み、徐々に客足を伸ばし、五年経った今ではそれなりに人気の店だ。
 そして店舗兼自宅である『鬼そば』に、甚夜は野茉莉と共に住んでいる。
 血の繋がらない二人ではあったが、傍から見ても仲の良い親子で、父親の親馬鹿ぶりは常連の客に揶揄されるほどである。

「起きていたのか」
「うん、もちろん」

 満面の笑みを浮かべる娘はまだまだ幼く、先程の向日葵と比べる訳ではないが子供っぽく見える。

「大丈夫だった?」
「怪我はない」
「ううん、そっちじゃなくて」

 言いながら刀を指差す。成程、そういうことか。明治三年になり庶民の帯刀は禁じられた。下手をすると帯刀しているだけで官憲に拘束されてしまうのである。野茉莉は鬼にやられるよりも警察に捕まることを心配しているらしい。

「見つからなかったから平気だ」
「でも父様、気を付けないと。やだよ、警察に捕まるとか」
「善処はする」
 
 確約は出来ん、とは続けなかった。しかし帯刀で官憲の厄介になるというのは流石に問題だ。あまりにも情けなさすぎる。
 とは言え刀を持ち歩かない訳にはいかない。土浦程の体術を習得しているならばまだしも、自分の腕前では素手で鬼を討つのは無理がある。何か手立てを考えておいた方がいいのかもしれない。

「でも最近多いね」
「……ああ、そうだな」

 野茉莉は夜毎出かける父を案じているのだろう。心配と、僅かな寂しさに沈んだ声で言った。それは同時に甚夜自身の懸念でもあった。
 
 近頃、鬼の討伐依頼が増えている。

 蕎麦屋を営みながら、その裏で甚夜は依然と同じように鬼の討伐を請け負っている。
 開店以来噂を聞きつけた者からの依頼はあったが、しかしここ一年で依頼の頻度が上がってきているのだ。
 今夜も依頼を受け、下位とはいえ三匹の鬼を討った。討てばそれなりの報酬を得られるのだから不満はないが、それでもあまりに数が多い。いくら京が日本有数の魔都だとはいえこれ程に鬼が生まれるものだろうか。
 そして討たれた鬼は揃って口にする。

“マガツメ”と。

 それが何であるかは分からない。しかし“マガツメ”なる存在が、幾多の鬼が跋扈している現状に関わっていることは間違いなかった。

「父様」

 知らぬ間に表情が厳しくなっていたらしい。野茉莉は不安に目を潤ませている。

「大丈夫だ」
「……うん」

 頭を撫で、心地を和らげようと笑いかけてみても、その表情は優れない。もう少しうまく慰めてやれればいいのだが。思いながらもそれを為せない己が恨めしい。
 浮かべる表情が自身を案じてのものだと分かる。この娘は、血の繋がらない──人ですらない──自分を、本当の父と慕ってくれているのだ。 

 それが嬉しく、だからこそ不安になる。

 今宵の鬼は幼い娘、向日葵にたかっていた。
 それがもし野茉莉だったなら。
 そして、己がその場にいなかったら。
 一瞬過った想像を頭の外に追いやる。

「さあ、今日はもう遅い。そろそろ休もう」

 内心を隠し、娘を寝床へと促す。

「父様は?」
「私も休む。先に行っていてくれ」

 まだ少し沈んだ色は残っていた。それでも野茉莉は幾分元気を取り戻したようで、店の奥にある畳敷きの寝床へ小走りに向かう。
 その後ろ姿を見つめながら思う。
 
「夕凪、私はうまく父親をやれているだろうか」

 小さく、自身の左腕に語りかけた。
 五歳で衝動的に家を出てしまった己には、正しい父親像というものがない。だから父親という役割を果たせているのか、今一つ自信がなかった。

 それでも、叶うならば守りたい。

 復讐に身を窶す、間違った生き方。その途中で出会った得難い暖かさ。
 せめて彼女が大人になるまでは、あの娘の父で在りたいと、野茉莉の小さな背中を見送った。



[36388]      『二人静』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/29 22:10
 
 店屋の朝は早い。
 空が白んできた頃には起床し、今日の仕込みを済ませる。粗方を終えれば今度は店先の掃除に取りかかる。最初の頃は早起きが辛かった。しかし慣れというものは恐ろしい。今では自然とこの時間になると目が覚める。それだけ蕎麦屋の店主が板についてきたということだろう。

「おーす、おはよう。葛野さん」
「どうも」

 鬼そばの隣は三橋屋という、去年創業したばかりの和菓子屋がある。そこの店主である三橋豊重(みはし・とよしげ)は、甚夜と同じく江戸──東京から移り住んで来た二十の若者だ。丁度同じくらいの時間に豊重も掃除を始めるのでよく顔を合わせる。彼は早起きが苦手なようで、大概は眠そうな顔をしていた。

「いー天気だ。後は客が来れば言うことなし、ってなもんなんだが」
「まだ一年。これからでしょう」
「そうだといいんだがねぇ、あー掃除めんど」
 
 曖昧な笑みを返される。三橋屋はまだ出来たばかりで客の入りはまだまだ悪い。甚夜自身蕎麦屋を始めた時は似たようなもので、辛い気持ちはよく分かる。

「愚痴を言っても仕方ない。今日も頑張るかねぇ」

 それでも悩まない辺り豊重は前向きである。大げさな動作で店先のごみを片付けていく様は、まるで子供のようだった。
 甚夜も店先を箒で掃いてから店へ戻り、今度は朝食の準備に取り掛かる。
 自分一人ならば握り飯でも構わないが、今は野茉莉がいる。やはり食事はきちんとしなければならない。茄子の味噌汁、漬物を用意して寝床の方に向かう。布団ですやすやと寝息を立てる野茉莉の姿に笑みが転べたのは致し方ないことだろう。

「野茉莉……朝だ」
「はいっ」 

 優しく頭を撫でながら声を掛ければ瞬間ぱっちりと目を開く。寝ていたのではなくただ目を瞑っていただけだらしい。起き抜けでにっこりと笑顔を見せてくれた。

「なあ、起きているなら私が起こしに来る必要はないと思うのだが」
「でも父様に起こしてほしい」
「いや、まあ構わんが。取り敢えず顔を洗ってこい」
「はーい」

 起こしてほしいと娘が頼む、ただそれだけの理由で甚夜は未だに野茉莉を起こしに行っている。逆らえない辺り、結構な駄目親父だと思わなくもない。しかしああも喜んでくれるものだから、これもまた習慣となってしまっていた。

「頂きます」
「いただきまーす」

 野茉莉が起きれば朝食をとる。
 味噌汁と漬物だけの簡素な食事だが、それでも娘は笑顔で食べてくれる。やはり自分が作ったものを食べて貰えるというのは嬉しいもので、表情こそ変わらないが甚夜は内心満足していた。

「よく噛んで食べるんだぞ」
「わかってるよー」

 野茉莉はもう九歳、箸の使い方も上手くなった。しかし時折今でも幼子へ向けるような言葉をかけてしまう。気を付けねばとは思うが、口をついて出てしまうのはどうしようもなく、父親というものは厄介なものだと反省する日々だ。

「野茉莉、弁当だ」

 笹の葉に来るんだ握り飯と漬物、簡単な弁当を渡す。

「ありがとう父様、それじゃあいってきまーす!」
「ああ、気をつけてな」

 店が始まるよりも早く野茉莉は学校へと出かける。
 江戸の頃は、女性に学問など必要なく、家を守っていればよいと考えられていた。
 そのため女子に対する教育といえば寺子屋、それもごく初歩的なものに限られていた。しかし明治に入り欧米の思想が定着すると、女性にも教育が必要と考えられるようになり、尋常小学校という初等教育機関が設立された。
 野茉莉が通うのは下京第二十五番小学校。友達も出来たらしく、毎日楽しそうに通っている。
 店先で娘を送り出し、その背中を眺めながら甚夜は思う。

「……所帯染みたな」

 憎しみの為に刀を振るってきた男が、変われば変わるものである。
 余分はいつの間にか増えて、かつてよりも刀は濁った。今では以前のように全てを切り捨ててまで戦うことなど出来はしないだろう。
 しかし悪くない、そう思えるようになった。
 そんな自分がおかしくて、甚夜は穏やかに笑みを落した。

「さて」

 一日が始まる。
 天気もいい。今日も忙しくなりそうだ。



 ◆  



「ありがとうございました」

 日も落ちて、『鬼そば』へ訪れた最後の客を見送ってから暖簾を外し店の中にしまえば、ようやく今日は店仕舞いとなった。
 甚夜は、鬼の討伐依頼がない時は普通に蕎麦屋の店主として生活している。髪を短く切ったのも、店を始める際に衛生面を気にしてのことだ。
 頭には三角巾を巻いており、藍の作務衣に前掛け。その恰好は正しく蕎麦屋の店主としか言いようがない。
 産鉄の民としての才能はなかったが蕎麦打ちはそこそこ向いていたらしく、親子二人で暮らしていくには十分な稼ぎを得ていた。
 とはいえ、蕎麦屋はあくまで副業。甚夜の生業はあくまでも鬼の討伐である。
 己の生き方が間違いだと気付いた今でもそれは曲げられない。彼は相も変わらず妹を止める為に力を求め、鬼を討つ日々を過ごしていた。 

「父様、お疲れ様」

 店が片付けば夕餉の時間になる。少し遅くなるがやはり一緒に食べたいらしく、野茉莉は学校から帰った後、いつも店の奥で待っていてくれていた。

「ああ。今夕食の準備をしよう」

 そう言って厨房に置かれた食材に手をかけようとした時、がらりと引き戸を開け客が入ってくる。

「すみませんが今日はもう」

 店仕舞いですと言おうとして、途中で止めた。入って来たのは一見の客ではなく、見知った顔だった。

「分かっとるよ、その時間狙って来たんやから」

 そう言って片手を挙げたのは初老の男、秋津染吾郎(あきつ・そめごろう)である。
 年の頃は四十を過ぎたあたりか、しかし年齢に反して体は随分と引き締まっている。

「お前か」
「お前かって、なんや冷たいなぁ、親友に対して」

 秋津染吾郎。正確には頭に「三代目」が付く。
 物に籠った想いを鬼へと変え使役する「付喪神使い」、その三代目にして根付職人でもある彼は、よく弟子を連れて『鬼そば』に出入りをしている。
 染吾郎も甚夜と同じく裏では鬼の討伐を請け負っており、しかし彼は人に仇なす鬼に危害を加えることのない珍しい人物だ。だから甚夜の正体を知りながらも然して気にしておらず、成程、友人と言っても差し支えはない。しかし親友は流石に言い過ぎだろう。

「誰が親友だ」
「あら、そんなこと言ってええの? 誰がこの店を建てる時土地を探したんやっけかなー。着工の渡りを付けたんかなー。諸々の手続きやったんかなー」

 ぐっ、と思わず言葉に詰まる。それを言われると弱い。甚夜は元々産鉄の集落の出、読み書きは辛うじてできるが、勉学が必要だった場面など殆どない。その為契約だのなんだのといった細かい文書処理を苦手としていた。
 そこで京都に住む知り合いである染吾郎を頼ったのだが、それを今でも言われ続けている。甚夜にとって染吾郎は友人ではあるが同時に油断のならない相手だった。

「ま、それは置いとこか。今日はちょっと頼みがあるんやけど、今時間ええかな?」
「頼み?」

 秋津染吾郎は『鬼そば』の常連客の一人だが、中でも特別な立ち位置にいる。
 根付職人として京都でも有名な彼は、裏では鬼の討伐を請け負っている。自然京の都で起こる妖異の類に耳が早くなる。しかし彼はあくまでも職人であり、最優先で鬼の討伐に関わることはあまりない。
 反して甚夜にとっては蕎麦屋が副業であり、鬼の討伐にこそ重きを置いている。そこで染吾郎は妖異に纏わる話があり、自分の手が回らない時は幾らか甚夜に回してくれるのだ。
 そういう時は大抵、店が終わった後にひょっこりと顔を出す。
 彼がこの時間に来たということは。

「依頼人、連れてきたで」

 染吾郎が自分の後ろを親指で指す。その先には、一人の女がいた。

「……済まない、野茉莉。もう少し待っていてくれ」
「……うん」

 寂しそうに頷く娘に申し訳ないと思いながらも、その目は鋭くなっていく。蕎麦屋の店主は此処で終わり。三角巾と前掛けを脱ぎ、一度溜息を吐く。そうして意識を切り替え、女へ視線を送る。

「失礼します」

 染吾郎に連れられて入って来たのは、薄い紫色の小袖を着流しに纏った、年若い女だった。年の頃は十七か、十八。背は五尺を下回る程度。細身な体と白い肌も相まって、繊細な女と言った印象を受けた。
 しかし服装の方は繊細とは程遠い。着流しからは白いほっそりとした脚線が見えている。着物の胸元は微かに開けられており、そこから胸に巻きつけたさらしが覗いていた。
 長い黒髪。髷を結わず縛りもせず、穂先だけを揃えている。
 その髪型も珍しいが、なにより目を引いたのは彼女が腰に携えたもの。其処には鉄造りの鞘に納められた刀があった。
 本人は繊細な女、しかし恰好は女渡世人。ちぐはぐと言えばいいのか、何とも奇妙な出で立ちだった

「貴方様は、鬼の討伐を請け負うと伺いました」

 装いに反して丁寧な、ゆっくりとした口調で深々と頭を下げる。

「どうか、御助力を」
「頭を下げるのは早かろう。まずは話を聞かせてくれ」

 既に大層恐縮している女に頭を上げるよう促す。

「野茉莉」
「うん、奥で待ってる」

 こういう状況は初めてではない。野茉莉は寂しげな顔を隠し、とたとたと店の奥にある居住場へ向かった。あの娘にはいつも苦労を掛ける。今度埋め合わせをしなくては。
 
「染吾郎」
「取り敢えず、君のことは“詳しく”話しとるよ。了承済みやから、そこら辺は安心しぃ」

 鬼であることの話しているのだろう。染吾郎は浅慮ではない。彼が大丈夫だと判断し話した相手ならば、取り敢えず人格面では信用できる。

「ほな、僕はこの辺で」
「もう行くのか?」
「君なら悪いようにせんやろ? その娘は古い知り合いでなぁ。よろしく頼むわ」

 口調の軽さとは裏腹に、真摯さを感じさせる目だ。一方的に言葉を押し付け、染吾郎は店を出ていく。その背中は何故か、少しだけ寂しそうに見えた。

「さて、座ってくれ」

 店内は二人だけになり、落ち着いて話すため茶を入れて適当な椅子に腰を下ろす。少女は卓を挟んで甚夜の向かい側に座り小さく一礼をした。

「既に聞いているかもしれないが、私の名は葛野甚夜。鬼の討伐を生業としている。……もっとも、この格好では説得力がないか」

 付け加えた言葉に女は小さく笑った。今の甚夜の服装はやはり蕎麦屋の店主でしかなく、とてもではないが戦いに身を置く者には見えなかった。

「貴女の名は」

 甚夜の問いに少女はちらりと腰に携えた刀へと目をやり、臆面もなく答えた。
 
「兼臣(かねおみ)、と」

 あからさま偽名だった。どうやら名乗る気はないらしい。
 それを咎めることはしない。正直に言えば彼女の名に興味はなかった。重要なのは鬼の情報であり、彼女が何者であるかは二の次だ。例え彼女の正体が鬼であり、近付き寝首をかこうとしているのだとしても、鬼を討つ機会が得られるならばそれはそれで構わなかった。
 寧ろ気になったのは、

「やはり兼臣か」

 腰に携えた刀の方だ。
 無骨な鉄鞘に納められた一振り。刀身は見ていないが鞘の反り具合から想像するに打ち刀ではなく太刀に類されるだろう。また簡素な鞘の造りを見るに葛野の太刀に相違なく、漏れる気配はかつて見たことのある刀によく似ていた。
 そうだ、あれはただの兼臣ではなく。

「戦国後期の刀匠・兼臣の作……夜刀守兼臣」

 高位の鬼が持つ<力>を宿した、人為的に造られた妖刀。
 遠く戦国の世にて、一人の男が鬼と人、異なる種族が共に在る未来を願い鍛え上げた太刀である。

「御存知、でしたか」
「少しばかり縁があってな」

 何せ、かの妖刀のうち一振りを、正確に言えばその<力>を甚夜は所持しているのだ。その気配を間違える筈がなかった

「と、話が逸れた。済まないが兼臣殿。詳しく話を聞かせてくれ」
「はい。……葛野様は、五条大橋をご存知でしょうか」

 五条大橋は鴨川に架かる橋で、古くは清水寺への参詣路であったため清水橋とも呼ばれた。天正十八年に豊臣秀吉の命により現在の場所へと移設され、その際に石材で改築された、古い歴史を持つ橋である。

「夜毎、其処には一匹の鬼が出ます。名を地縛(じしばり)……その鬼を捕えたいのです」

 その物言いに眉を潜める。

「捕えたい……討ちたい、ではなく?」
「はい。私はあの鬼に、大切なものを奪われました。それを、取り返したい」

 恰好こそ奇妙だが兼臣は良家の子女といっても十分に通じる端正な面立ちである。それを苦渋に歪める様は、ひどく痛ましく見える。だが共感し同情できる程若くもなく、甚夜は奥歯を食い縛る少女の姿をただ黙っていた。

「既に一度、私は地縛に敗れています。……ですから、刀一本で鬼を討つという葛野様に御助力を願いたいのです」

 そうして頭を下げる。
 自分では勝てないから力を貸してくれ。刀を振るうものにとってその言葉がどれだけ屈辱なのか、それくらいは甚夜にも理解できた。

「詳しく、お伝えすべきでしょうか」

 兼臣は上目遣いに甚夜の表情を覗き見る。
 地縛という鬼との関係。奪われたもの。そもそも彼女が何者なのか。不明瞭なことばかりだ。
 兼臣は多くの隠し事をしている。それを彼女自身理解しているのだろう、気まずそうな様子だ。しかし甚夜は敢えて問い質そうとは思わなかった。染吾郎の旧知、ならば取り敢えず信は置ける。それで十分だ。

「己の理由なぞ余人に理解して貰うようなものでもない。話したくなければ構わん」
「御気遣い、感謝いたします」

 別に気遣った訳ではない。真実そう思っているからこその言葉だったのだが、兼臣は少しだけ口元を緩めた。
 そして懐から束になった札を取り出す。

「依頼料は、前金で六十円用意しています」

 眉を顰める
 公務員の初任給は八円から九円。つまり彼女の提示したのは実に半年働かずとも生きていけるだけの額。法外と言っていい程の金である。

「この依頼、受けて下さいますか?」
「一つ、確認しておく」
「なんでしょうか」
「お前は地縛という鬼から取り返したいものがあるという。ならば、その後の処遇はどうするつもりだ」
「どうする、とは」
「生かすか殺すか、ということだ」

 その問いにほんの一瞬だけ逡巡し兼臣は答える。

「別にどちらでも、構いません。正直に言えば、私は私の目的を果たせれば、それでよいので」

 それを聞いて安心した。一度ゆっくりと頷いて、

「全てが終わった後、地縛を私が討ってもいいというのならこの依頼受けよう」

 その言葉に兼臣は表情を綻ばせる。

「本当ですかっ、ありがとう、ございます」

 柔らかな口調、しかし目は真摯な感謝の気持ちで潤んでいる。

「だが少し依頼料が多くはないか?」
「いえ、これは私の感謝の気持ちとでも、思っていただければ幸いです」

 言いながら彼女は札束を甚夜の前に置いた。
 それを突き返すのも妙な話だ。ありがたく頂戴する。そう言って一礼し話を続ける。

「地縛という鬼の特徴を教えてくれ」

 兼臣の力量は分からないが、話を聞くに結構な難敵のようだ。戦う前に少しでも情報を得ておきたかった。

「はい。年の頃は十七。背丈は五尺を下回る程度でしょうか。細身で、色白な少女です。顔立ちも、然程悪くはないと思いますが」

 淡々と語る鬼の容貌は甚夜が彼女に抱いた印象とよく似ている。

「待て、それは」

 違和感を覚え、問い掛けようとすれば静かに頷き。

「五条大橋に出る鬼は、このような顔をしています」

 兼臣は、先程とは打って変わった自嘲の笑みを浮かべて見せた。




[36388]      『二人静』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/04/05 19:56
 

 昼の混雑がようやく落ち着いた頃、秋津染吾郎は店を訪れた。
 といっても特に何か用があった訳ではなく、弟子を引き連れ食事に来ただけである。しかし弟子の方はむっとした様子で甚夜に視線を送っていた。

「お師匠、他の店やったらいかんのですか?」
「なんや平吉、不満か? 折角奢ったるゆうとるのに」
「それは嬉しいですけど。なんで鬼の店なんかで……」
「こら、滅多なこと言いなや。今は他に客がおらんからええけど」
「そんくらい、俺かて分かってます」

 宇津木平吉。
 今年で十二になるこの少年は、染吾郎の下で根付づくりを学んでいる。とは言えそれにも不満がある様子、彼は元々根付職人ではなく付喪神使いになりたいが為に師事を受けた。だというのに未だそれらしき術を教えて貰えないらしく、あまり納得がいかないのだろう。
 そして甚夜の存在にも納得がいっていないようだ。
 鬼でありながら人に紛れて暮らす甚夜の存在は平吉にとって許容し難く、いつも嫌悪感に満ちた目を向けてくる。

「きつね蕎麦、二つな。ほれ、平吉も座り」

 しかしそんな弟子の様子を軽く無視して注文をする。毎度のことなのでもう取り合う気はないらしく、染吾郎は既に腰を下ろしていた。
 そうすれば平吉も従う他なく、隣の席に渋々座る。そこまでが定番の流れなので、甚夜も口を挟まず黙々と蕎麦の用意をしていた。

「きつね蕎麦二丁、お待ち」
「お、すまんね……なあ、今更なんやけど、なんできつね蕎麦? うどんの方が普通ちゃう?」
「そうだろうが、私の故郷では狐を神様と崇めていてな。あやかってみただけだ」

 甚夜が育った葛野では、マヒルさまと呼ばれる火を司る女神が信仰されていた。マヒルさまは元々森に住んでいた狐であるとする説話があり、思い付きできつね蕎麦を出してみたのだが、これがなかなか評判がいい。神仏の加護があったのか、今ではきつね蕎麦は『鬼そば』の一番人気である。

「はぁー、成程なぁ。平吉、はよ食べんと伸びるで?」
「分かってます。……食いもんに罪はないしな」

 言い訳するように呟き蕎麦を啜る。態度がいいとは言えない、しかし甚夜は然程気にしてはいなかった。江戸で過ごした日々のおかげか、単に歳を取ったからなのか、以前ならば気にしていたようなことも自然と受け入れられるようになった。少しずつだが、変わっている。その実感が確かに在った。

「相変わらずやね」
「そやかて、鬼は退治すべきやないんですか、お師匠」
「鬼をただ討ちたいだけなら“妖刀使い”の南雲や“勾玉”の久賀見あたりに養子にでもいきぃ。でも秋津は付喪神使い、物の想いを鬼へ変える。そしたら、鬼を憎しと扱うのはなんや違うと思わん? 鬼は想いの果てに堕ちる場所。なら、その是非はちゃんと見極めなあかん」
「それが付喪神使いの矜持ですか?」
「人としての、最低限の礼儀や。想いを力に変えるのが僕らなら、誰よりも僕らは想いを大切にせなな」

 穏やかな様子で平吉を嗜める姿は、まさしく師匠といった様子だ。江戸で出会った時にはまだそこまでの貫録はなかったし、以前は染吾郎が「何処まで行っても鬼は倒される側の存在」だと言っていた。この男もまた歳月を重ね、少しずつ変わっていったのだろう。

「色々ゆうたけど、人に善人悪人がおるように、鬼にやって悪鬼も善鬼もおる。人やから鬼やから、なんていうのは阿呆やと思うで?」
「……そやけど、納得はできません」
「あらま。ま、いつかは分かるようになるわ。出来れば、それが遅すぎた……なんてことにならんとええね」

 そう締め括り、蕎麦に向かい合う。甚夜にとっては油断のならない友人である染吾郎も、平吉から見れば穏やかに教え諭してくれる師匠。普段は見ることのない師としての染吾郎の姿に、微笑ましいものを見たような気分になる。
 成程、野茉莉の父で在ろうとする自分を見ていたおふうや直次の気持ちもこうだったのだろうと、今更ながらに気付かされた。

「師というものも大変だな」
「はは、そやね。それ言うたら父親も相当もやと思うけどな」

 確かに彼のいう通り、父親も中々に難しい。大変なのはお互い様だと、二人して小さく苦笑し合う。珍しく穏やかなやり取りだった。

「……なんでお師匠は鬼なんかと」
 
 ぶつぶつと呟きながら恨みがましい目で甚夜を見る。呆れたように溜息を吐きながら、平吉に声を掛けた。

「そう睨むな、秋津の弟子」
「うるさいわ」 

 平吉は視線を切り、甚夜の方には目もくれず蕎麦を啜る。その姿に肩を竦め、取り敢えずは放っておくことにした。

「染吾郎。聞きたいことがある」
「ん?」
「兼臣のことだ」

 昨夜、染吾郎は「古い知り合い」と言っていた。なら少しは彼女の人とのなりを知っているだろう。そう思っての問いだったが、何故か不思議そうな顔で返された。

「兼臣……って、なんや?」
「昨日の女だ。そう名乗った」
「あー」

 やはり偽名だったらしい。納得がいったらしく、うんうんと頷き、一度茶を飲んでから染吾郎は答える。

「そやけど僕もあんまり知らんよ? 別に個人的な付き合いがあった訳やないし」
「というと」
「正確に言うと、あの娘とやなくて主人の方と知り合いなんや。あの娘のご主人様は、まあ、ご同業でな」

 ご同業。当然裏の方で、だ。
 主人。身なりは兎も角、兼臣自身は十分美人と言える。そう不思議ではないかもしれないが、まさか結婚しているとは思わなかった。

「何度か肩を並べたこともあったんやけど、鬼にやられてもうてなぁ。その縁を頼って、僕のとこ訪ねてきてんよあの娘」

 そして地縛という鬼の討伐を依頼した。普通に考えれば、そういうことなのだろう。

「それ以上のことは本人に聞いたって。そんで、出来れば気ぃ遣ったって。あの子は抜身の刀や。多分、君が思っとる以上に脆い」

 それだけ言って染吾郎は黙り込んだ。
 無理に聞き出すことは出来ず、蕎麦をすする音だけが店内に響いていた。



 ◆




「二人静(ふたりしずか)をご存知でしょうか」

 残寒が身に染みる春の夜だった。
 既に日付が変わり、辺りは寝静まっている。整然とした京の町並みを歩く男女。しかし艶っぽい雰囲気はない。男は無表情、女は何処か物憂げな空気を纏わせている。その上共に帯刀しているのでは、とてもではないが浮いた話を想像することなど出来そうもない。
 
 夜になり、甚夜は兼臣と並び五条大橋へと向かっていた。

 夜毎出るという鬼───地縛。
 話によれば兼臣とよく似た鬼らしい。
 もっとも、それ以外には大した情報は得ていない。兼臣と地縛の間に何があったのか、どんな<力>を持っているのか。結局何一つ分からないままである。
 しかしそれはそれで構わない。二者の間に如何な因縁があろうとも、甚夜の為すべきに変わりはない。

 鬼を討ち、喰らう。

 その為に依頼を受けたのだ。余計な詮索は必要ないし、どんな<力>を持っていたとしても逃げる気なぞ端からない。既に甚夜の意識は鬼の絶殺へのみ傾けられていた。

「山野の日陰に自生する、白い小花だな。晩春から初夏にかけて咲く。『一人静』という花に似ているが、二つの花穂を付けることから『二人静』と呼ばれるようになったそうだ」

 押し黙って歩いていたかと思えば急に話しかけてきた兼臣に淡々と返す。
 以前知り合った女に様々な花の名を教えて貰った。その為よどみなく答えられたが、隣を歩く少女は首を振って否定した。

「葛野様は花に詳しいのですね。ですが、私が言ったのは世阿弥の謡曲のことです」

 会話をしながらも足は止まらない。目線を合わさずに言葉を交わす。
 
「謡曲……」

 そちらの方は生憎と知らない。疑問に眉を顰めれば、兼臣は前を向いたままで語り始める。

「吉野の里にある勝手神社では、毎年正月7日に麓の菜摘川から菜を摘んで神前にそなえる風習があったそうです」

 ある一人の菜を摘む女───菜摘女は例年通り、菜摘川へと足を運ぶ。
 しばらく菜を摘んでいると、一人の女が姿を現した。

『吉野に帰るなら言付けて下さい。私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って下さい』

 女は涙ながらに菜摘女へと頼み込む。
 名を尋ねると何も答えず、煙のように跡形もなく消えた。

 不思議な体験をした菜摘女は吉野に戻り、そのことを神職に報告する。
 しかしその途中、女の顔付きが、言葉遣いが変わっていくではないか。
 神職が驚き、『お前は何者だ』と問えば、菜摘女は『静だ』と名乗った。

 勝手神社には、義経と別れた静御前が荒法師に捕えられた時、雅やかな舞を披露したという説話があり、境内には舞塚がある。
 だから神職は一つの仮説を立てた。


 彼女に取り憑いたのは、静御前の霊ではないだろうか。


『弔う代わりに舞いを見せて欲しい』

 自身の仮説を確信へと変える為、神職はそう頼んだ。
 すると菜摘女は精好織りの袴や秋の野の花づくしの水干など、静御前が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝蔵から取り出した。

 女は衣装を身に着け舞う。
 流麗にして典雅、それでいて艶を感じさせる菜摘女の……静御前の舞。
 
 皆一様に見惚れていたが、ふとおかしなことに気付く。
 舞い踊る菜摘女の後ろに何やら影が在る。
 目を凝らしてよく見れば、それはうっすらと透けた白拍子。

 其処にいたのは、静御前の霊だった。

 静御前に取り付かれた女。
 静御前の霊。
 二人の静は重なり合うように舞を披露したという。

「これが謡曲『二人静』の内容です」
「幽霊と共に舞う……なんとも奇怪な話だ」
「ええ。ですが、この話が本当に奇妙なのは、静御前の幽霊が現れた所ではないのです」

 声は何処か寂しげに聞こえる。

「菜摘女は静御前に取り付かれていたから彼女の舞を踊ることが出来た。けれど、途中で静御前の幽霊が現れ、それでも菜摘女は舞い続けます」

 指摘され、確かに奇妙だと甚夜も思った。
 菜摘女の舞は静御前のもの。彼女に取り憑かれていたからこその舞だ。そして静御前の幽霊が現れたというのなら。
 その時点で、菜摘女は取り憑かれていない筈なのだ。

「それなら、“何”が菜摘女を動かしていたのでしょうか」

 彼女の中に静御前の霊はいない。
 ならば彼女はどうやって舞った?
 舞は菜摘女の内から零れたのか。
 静御前の想いがその身に残されていたのか。
 それとも、彼女を動かしていたのは。

 
 ───もっと、得体の知れない“何か”だったのか。


「さて。生憎と浅学でな。小難しい話は分からん」

 考えても出ることのない問いだ。奇妙な考えを振り払い、眼前を見据える。

「それに無駄話をしている暇もなさそうだ」

 気付けば視界の先には五条大橋が見えている。そして、其処に立つ女の姿も。
 遠目ではあったが、月明かりの夜だ。女の容貌がよく見える。
 若い女だった。
 年の頃は十七か、十八。背は五尺を下回る程度。細身な体と白い肌も相まって、繊細な少女と言った印象を受けた。
 しかし服装の方は繊細とは程遠い。男物の羽織に袴をはいた姿は、一見すれば見目麗しいと言える顔立ちをしているからこそ殊更違和感があった。
 髪は短く整えられている。覗き込んだ瞳は、夜の闇の中で尚も赤々と輝いている。
 そして、あの顔立ち。
 彼女が件の鬼で相違ないだろう。
 それを確認し兼臣は腰の刀に手を伸ばす。甚夜は夜来を抜刀し、その切っ先を眼前の鬼へ突き付け、鋭い目付きのまま皮肉げに言った。
 
「そら、静御前の御目見えだ」

 女の顔は、気味が悪いくらい兼臣に似ている。
 寸分違わぬと言っていい程に彼女達は同じだった。

「地縛っ……」

 端正な顔を歪め、兼臣は鬼を睨む。
 夜刀守兼臣を引き抜き、正眼に構える。ぴんと張った背筋を見るに剣術は修めているのだろう。

「今日こそ返して貰います」
「あらあら、相変わらず無駄な努力が好きなのね」

 兼臣と顔は同じだが声は別のようだ。地縛の方が若干高く、口調とは違い子供っぽさを感じさせる。そして鬼ではあるが、反響するような、淀んだ声ではない。外見も声も、人としか思えなかった

「今日は男連れ?」

 嫌味な物言い。
 薄目で値踏みでもするような不躾な視線を送ってきた。

「私の名は葛野甚夜。鬼の討伐を生業としている」

 突き付けた刀を後ろに回し脇構えを取る。
 名乗ると地縛は目を見開いた。そして珍しいものを見るように甚夜をしげしげと眺めている。

「あらまあ、貴方が……お噂はかねがね」

 どうやら名を聞き及んでいたらしい。鬼の身でありながら同胞を討つ男。案外鬼の間では悪名が鳴り響いているのかもしれないと、顔には出さず自嘲した。

「私の名は地縛。マガツメ様の命に従い、人を狩っております」

 ぴくりと眉が動く。
 芝居がかった仕種でお辞儀をする地縛。しかしそれよりも気になる言葉があった。また、マガツメ。しかも様付けで呼ばれるとは、この鬼はマガツメなる者の配下なのだろうか。

「マガツメとはお前の主か」
「いいえ? 違うわ」
「ならば」
「貴方はお喋りに来たのかしら?」

 くすくすと馬鹿にしたような笑いを零す。その態度を見るにこれ以上問い詰めても得るものはないだろう。
 ならば。

「そうだな、続きはお前を斬り伏せてからにしよう」

 その身を喰らい、記憶ごと奪えばいいだけの話。
 意識を研ぎ澄ます。
 女であろうと関係ない。
 悪いが、討たせてもらう。

「葛野様、あの鬼は真面ではありません。どうか油断なさらぬよう」
「忠告感謝する」
 
 甚夜は冷静に地縛を観察していた
 彼女の体付きは兼臣と同じく細身であり、その立ち姿から武技を収めている様子もない。異形へと化す素振りも見せず、男物の羽織を纏っている以外は普通の娘としか思えない。
 しかし兼臣は地縛に負けたと言った。
 ならば何か隠し玉があるのだろう。
 十中八九それは彼女の<力>だ。 
 警戒を緩めず、摺足で間合いを縮める。
 
「っ!」

 もう一歩を進もうとした時、突如飛来した何かが進軍を止めた。甚夜目掛けて真っ直ぐに放たれた何かを、咄嗟に刀を振るい弾く。勢いを失くし地に転がったそれは、

「鎖……?」

 先端に小さな鉄球の付いた鎖だった。この鉄球が投げ付けられたらしい。
 しかし、一体いつの間にこんなものを。
 疑問に思う暇もなかった。次の瞬間、地面に転がっている筈の鎖は生き物のようにもう一度甚夜目掛けて飛来する。
 今度は弾けない。大きく後退し距離を空ける。そうして地縛を睨み付ければ、

「な……」

 一本、二本、三本、四本、五本、そして先程放たれた六本目の鎖。
 それだけの鎖が彼女の周りでゆらゆらと揺れている。鎖の起点となっている場所も計六つ。しかしそこには何もない。ただ黒っぽい球形の歪みが中空に浮いているだけ。何もないところから鎖が生えている。奇妙な言い方だが、そうとしか言いようがなかった。

「私の名は地縛(じしばり)。<力>の名も……」

 余裕たっぷりの笑みで、見下したような目。
 そして鬼女は右腕でゆっくりと兼臣を、次に甚夜を指差し言った。

「<地縛>」

 鎖は蛇だった。
 じゃらじゃらと金属音を響かせながら襲い来る鉄球は、餌を求める蛇の咢に見えた。その牙は甚夜と兼臣を同時に狙っている。
 鎖を造り出し自在に操る<力>、といったところか。
 こういった<力>は初めて見るが、成程、あれならば本人の身体能力がどれだけ低くても戦える。
 地縛の意思で操れるなら紙一重で躱すのは危険。僅か数秒でそう判断し、甚夜は大きく横に飛び放たれた鎖を回避する。

 がきん、と鎖と刀がぶつかり合う。

 やはり思った通りある程度地縛の意思で操れるようだ。回避したはずの鉄球が背後から襲ってきた。しかしそれは予想通り。振り向きざまに夜来を一閃、鎖を弾くと地縛は一度手元にそれを戻した。

「まぁ……貴方、後ろに目でも付いてるのかしら」

 背後からの一撃を防がれたことに純粋な驚きを見せる。

「さて、な」

 予想していたから防げただけ。だが敢えてそれを教えてやることもない。隣を見れば兼臣も鎖を回避し再度正眼に構えていた。見た目は少女だが剣の腕は確からしい。

「厄介な相手だ」
「はい。私では一太刀を浴びせることさえ出来ませんでした」
「なに、あれを相手取り生きているだけでお前は十分に強い」

 戦っている最中ではあったが、簡素な慰めの言葉に兼臣は小さく笑みを零した。そうして彼女が次の言葉を紡ごうとした瞬間、重ねるように地縛りの声が響いた。

「休んでる暇なんてあるのかしら?」

 言い放つと同時に空気が唸りを上げる。鞭のように振るわれた二本の鎖。直撃すればこの身を裂くであろう痛烈な鞭打、だが当たってやる訳にはいかない。

<疾駆>

 初速から最速を超える、人には為し得ぬ速さをもって掻い潜る。瞬きの間に間合いを侵し、唐竹。殺気を十分に込めた一刀だ。

「あっと……今のは、少し危なかったわね」

 しかし残る四本の鎖が盾になり、容易く防がれてしまった。 
 あの鎖を断ち切るのは難しいか。
 無表情で鎖の盾の奥にいる女を見据える。地縛は戦々恐々といった様子。この距離まで肉薄されたことが今までなかったのか、完全に防ぎながらも冷や汗を流していた。
 そして、彼女は「ほぅ」と安堵の息を吐き、

「休んでいる暇があるのか?」

 刀は囮。地縛の細い体、その脇腹に蹴りを叩き込む。

「やぁっ!?」

 妙に可愛らしい声だった。焦りに顔を歪め、たたらを踏みながら再度鎖で防御。蹴りをなんとか防ぎ地縛は後退する。だが逃がさん。間合いから外れていく鬼女を睨み、

<飛刃>

 此度の目的はあくまで捕縛。殺してしまわぬよう腕に向けて斬撃を放つ。しかし追撃も通らなかった。腕を一本貰っておくつもりだったが、いつの間にか手元に戻っていた二本の鎖に阻まれる。しかし一拍子遅く、完全には防ぎきれていない。彼女の着物の袖口は僅かながらに裂かれ、その奥、白い肌には鋭利な刀傷がつけられている。
 
「あっ、ぅ」

 苦悶に歪む表情。
 何とか足を動かし、よろよろと体を揺らしながら、地縛はどうにか距離を取った。

「今のは」

<疾駆>の尋常ならざる速度、飛ぶ斬撃を見て兼臣は眉を潜める。

「……貴方様は鬼、でしたね」
「その通りだ」

 甚夜は平然としていた。以前ならばもう少し気に病んでいただろう。しかし今は違う。己が鬼であっても受け入れてくれた者達がいる。だから鬼の<力>を晒すことに抵抗はなかった。
 ちらりと横目で兼臣の顔を覗き見れば彼女は何かを言おうとして、途中で思い直したように首を振った。

「いえ、葛野様が何者であろうと、私に助力してくださったのは事実。ならば今はそれを信じます」

 それが本心か、自分一人では地縛に勝てないという打算かは分からない。
 彼女の主人は鬼を討つ者だったと聞いた。ならば兼臣にとっても鬼は敵だろう。
 しかしすぐに敵対する気はないらしい。ならばそれでいい。後のことを気にしても仕方がない、今は地縛を捕えることに専念する。

「さて、続きといこう」

 一歩を踏み出し、動揺から冷めやらぬ地縛を見る甚夜はいつも通りの平静な表情。と言ってもそれは傍目だけ、内心はかなり波立っている。
 
 あれは、厄介だ。
 
 優勢を保ってはいるが、その実甚夜は危機感を抱いていた。
 兼臣が負けたというだけはある。まさか二つの<力>を行使して捕えられぬとは思っていなかった。
 正直なところ地縛は然程強くはない。
 土浦のように練磨された体術を持たず、<同化>の鬼のように膂力に優れる訳でもなく、岡田貴一のようにそれらを覆す程の技もない。今迄相手取ってきた鬼を考えれば、その実力は強いと言えるようなものではなかった。

 だというのに結果はこの通り。
 掠り傷を負わせた程度で地縛は未だ健在、捕えることが出来ていない。

 理由は勿論<地縛>……鎖を操る<力>のせいだ。
 立ち振る舞いから想像するに、地縛は実戦経験が少ないのだろう。それでも縦横無尽に振るわれる鎖は、並みの使い手ならば一瞬で沈む程に苛烈である。
 地縛の練度が低い為、鎖を操る<力>も現状は多少厄介な程度。しかし経験を積み、状況に合わせた最適な<力>の行使を会得すれば、地縛はこの上ない脅威となるだろう。
 
 夜来を握る手に力が籠った。先は分からないが、今ならばまだ己に分がある。故に、この機は逃さない。
 もう一度<疾駆>を使い攻め入り、今度こそ捕縛する。腰を落し、全速で駈け出そうとして。


「ね、言った通りでしょう?」


 舌足らずな、幼い声。
 どこかで聞いた声が、甚夜の足を止めた。
自然と眼がその主を探す。地縛を視界の止めたまま周囲に意識を向ければ、すぐに一つの小さな影が見つかった。
 五条大橋の欄干に誰かが腰を下ろしている。

 たったそれだけ。なのに、心が揺れ動く。

 その理由は甚夜にも分からない。
 所詮一度会っただけ。思い入れなどない筈。なのに、らしくもなく動揺した。
 目の端に映ったのは、薄い青に宝相華の紋様、金糸をあしらった着物を纏った幼い娘だった。色素の薄い、波打つ茶の髪は肩までかかっている。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。大きな黒い瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。

「あの娘は一体……」

 兼臣は怪訝そうに童女を見詰めている。甚夜もまた彼女に目を奪われていた。
 それは、つい昨日見たばかりの姿だった。

「向日葵……」

 何故、こんなところに。
 あまりの驚きに問い掛けることが出来なかった。そんな蒼夜を尻目に欄干に座ったまま、向日葵の笑顔を浮かべて童女が言う。

「こんばんわ、おじさま。昨日は有難うございました」

 まるで普通の挨拶だった。
 昨日出会った時と同じように彼女の笑顔は向日葵で、だからこそこの場では酷く歪に見える。

「流石おじさまですね。まさか妹がここまで追いつめられるなんて思ってもみませんでした」
「妹、だと?」
「はい。地縛は私の妹です。見えないかもしれませんけど、私、長女なんですよ?」

 冗談めかした彼女の言葉に、甚夜はなぜか納得してしまった。
 そして細切れだった情報が己の中でかみ合っていく。
鬼の跋扈。マガツメ。それに従う地縛と、彼女を妹と呼ぶ向日葵。母と逸れた。鬼に怯えぬ様子。心配しなくても大丈夫。ああ、そうか。襲われることを心配する必要などない。
 何故ならば、

「成程、昨夜の鬼はお前を襲う為に囲んでいたのではなく」

鬼達は向日葵に『従って』いた。取り囲まれていたのではなく、年端もいかぬこの娘こそが中心だったのだ。

「はい、あの子達は母からの預かりものです。でもですね、勘違いでしたけど、おじさまが私を心配して助けてくださったのは本当に嬉しかったんですよ?」

 その言葉は本心なのだろう、彼女は確かに嬉しそうに顔を綻ばせていた。その仕草は無邪気で、少なくとも甚夜にはそれが無邪気に見えた。だから余計に気が重くなる。

「母、というのは」

 もう粗方の予想はついている。しかし敢えて問うた。本当は、その答えを認めたくなかったのかもしれない。叶うならば、否定してほしかった。
 しかし現実はいつだって思うようにはならない。

「あ、まだ伝えていませんでしたね」

 向日葵は──宝玉の如く赤い瞳──にっこりと笑った。

「私の母は“マガツメ”と申します」




[36388]      『二人静』・4(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/06/29 21:16

 マガツメの娘を名乗る鬼女、向日葵は欄干から飛び降りて地縛の傍らまで歩み寄る。

「大丈夫ですか?」
「……ええ、姉さん」

 先程までの動揺から立ち直った地縛は、その端正な顔を能面のように変え、虹彩のない瞳でこちらを見た。
 腕にかすり傷を負った程度で動揺する。地縛は<力>こそ厄介だが本人はその程度でしかない。恐れるに足らぬ相手。しかし何故か、その瞳にはぞくりと寒気が走った。

「だから言ったでしょう? おじさまは強いんです」
「本当、姉さんの言う通り……正直、あの男を捕えられる気がしないわ」
「それなら……」

 地縛に身を屈めさせ、向日葵はなにやら耳打ちをする。その仕種は戦いの場だというのにどこかのんびりしていて、傍目から見れば妹が姉に内緒話を聞かせているようだった。もっとも、真実妹なのは地縛の方ではあるが。

 聞き終え、納得したように頷き、鬼女はにたりと嫌な笑みを浮かべる。
 兼臣と同じ顔立ちをしていても受ける印象はまるで違う。美しいと呼べるだけの容貌でありながら、だからこそその笑みは気味が悪い。
 今度は向日葵が甚夜を見詰め、こちらは相も変わらず花のような笑みを咲かせる。
 それと同時に六本の鎖が再度動き出す。金属のこすれ合う音を響かせ、鎌首を擡げこちらを狙っている。
 どうやら、「続きを」ということらしい。

「おじさま。ここからは姉妹で行かせて頂きますが、よろしいでしょうか?」
「好きにしろ」

 兼臣に目配せをすれば黙って頷く。
 仕切り直しだ。息を吸う。肺を冷たい空気で満たし、心を鎮める。相手が誰であろうと己は為すべきを為す。向日葵を、敵として認めよう。
 
「では、始めましょう」

 向日葵の一言に鎖が蠢いた。甚夜と兼臣に二本ずつ、計四本の鎖が飛来する。地縛本人は兎も角この鎖はやはり脅威だ。躱し、弾く。しかし軌道を変えてすぐさま襲い掛かってくる。
 ちらりと横目で見れば、兼臣も苦戦しているようだ。
 兼臣の戦い方は正当な剣術といった印象だった。
 甚夜の剣は我流。幼い頃に学んだ剣術が下地に為になってはいるものの、そのほとんどが実践によって磨かれた剣だ。
 対して兼臣の剣は足捌き、打突共に基本に忠実。しかし応用にかけるという訳でもなく、道場剣術を実戦向きに扱っている。人に出来る範囲内の動きで、鬼をも凌駕し得る体技。それはある意味で剣の理想形というべきものである。

「くっ……」

 しかしそれ故に地縛とは相性が悪い。剣術とはあくまで対人の技巧。四肢をもって戦う鬼ならばまだしも、縦横無尽に襲い来る鎖はやりにくいのだろう。
 とは言えそれは甚夜も同じ。流石にこんな相手との戦いは初めてだ。
 まだ後ろには向日葵も控えている。地縛の姉というならば、あの娘もまた<力>を得た高位の鬼である可能性が高い。

 ならば、地縛に手間取っていれば状況は不利へ傾く。
 多少の無茶を承知で現状打破に動くべきだろう。

 傷は覚悟の上、無理矢理に突っ込んででも距離を詰める。甚夜は腰を落し、鎖を弾き、次撃が来るまでの僅かな合間を縫って駈け出した。まずは地縛を斬り伏せる。断を下し、対敵を睨み付ける。
 しかし鬼女は余裕さえ持った態度でそれを眺めている。
 何故か、彼女達は笑っていた。

「今です」

 無邪気な声。その声に呼応して、地縛は左手を空に翳す。すると先程まで甚夜を狙っていた鎖が手元に戻った。
 何故、と疑問に思う暇さえなかった。
 次の瞬間には唸りを上げ、風を切り、猛り狂う。
 鞭のように、蛇のように、鎖が振るわれた。



 ただし、六本全てが兼臣を狙って。



 一瞬、思考が真っ白になった。
 六本の鎖は兼臣に向かっている。
 まずい。
 幾らなんでもあの全てを捌ききるなど彼女には出来ない。

「おじさまは、目の前で傷付こうとしている誰かを見捨てるような人ではありません。ですから、捕えようと狙う必要はないんです」

 ああ、お前の言う通りだ。
 以前ならばまだしも、江戸での生活で大切なものを得てしまった今では、目的の為に全てを切り捨てられる程強くはなれない。
 だから向日葵の言葉は、
 
「あの女性を狙えば、自分からに当たりに来てくれます」

 掛け値のない真実だった。
 甚夜はほとんど無意識のうちに兼臣の元へと向かっていた。<疾駆>。瞬きの間に少女の前へ。かばうように立ち、襲い掛かる鎖と真っ向から対峙する。それ以外の選択を選べる訳もなく、相手の策略と理解しながら、猛撃の前に身を晒すしかない。

「葛野様っ」

 何か言いたいようだが今は構っている暇はない。襲い来る鎖を夜来で薙ぐも、一つ防いだところで次から次へと鎖が降り注ぐ。

 状況に合わせた最適な<力>を行使を会得すれば、地縛はこの上ない脅威となる。
 
 想像は現実のものとなった。
 地縛の<力>を有用に動かす頭が付いた。
 それだけで一気に劣勢へと追い遣られる。
 退くことも避けることも出来ない。それをすれば兼臣が討たれる。親しくもない相手だが、見捨てることは出来そうにない。我ながら難儀な男だと甚夜は舌を鳴らした。 
 一本、二本、三本、近付く鉄球を斬り付けても鎖の部分たわむだけ、直ぐに元へ戻り再度攻撃を仕掛けてくる。それでも多角的に放たれる猛攻を一つ一つ叩き落としていく。
 だが手数が足りない。

「捕まえた……」

 何時の間に忍び寄った鎖に、左足を絡め取られていた。
 地縛が嘲笑う。

「づっ……!?」

 鎖が急激に熱を帯び、肌を焼いたかと思えば足に巻きついていた筈の鎖は消えている。
 猛攻が止んだ。地縛は先程の動揺など無かったことにして悠然と立っている。

「……何をした」
「さぁ?」

 睨み付けるも鬼女はにたにたと余裕の笑みを見せるだけ。動きを止めた甚夜に対して追撃もしかけてこない。
 よく理解は出来ないが、己は地縛に“何か”をされた。それが余裕の正体。手傷を負わせた訳でもなく、それでも自身の優位を確信するだけの“何か”。地縛にはそれがあるのだ。
 そこまで考え、思索を斬って捨てる。
 いくら考えた所で推測は推測に過ぎず、己が為すべきは変わらない。
 ならば、やることなぞ端から一つ。
 あの鬼女を取り押さえる。
 何をされたかは後で考えればいい。
<疾駆>。一気に距離を詰め、袈裟掛け。刃を返し、峰で地縛を打ち据える。

「あら、残念」

 打ち据える、つもりだった。
 なのに足が動かなかった。違う。<疾駆>が発動しなかったのだ。いったい何故。一瞬の驚愕、それがまずかった。

「ちぃっ」

 鳩尾を狙う。
 迂闊。戦いの最中に呆けるなど、己の愚かさに嫌気がさす。
 寸での所で鎖を弾き、地縛に目を向ける。

「不意を打っても当たらない、ほんと厄介。でも、<地縛>……ようやく貴方を捕まえたわ」

 女は勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 やられた。
 
 絶対の自信が込められた言葉に理解する。
 これが“何か”。地縛の<力>なのだと。
<地縛>は鎖を操る<力>などではない。鎖の具現・操作はあくまで余技に過ぎず、その本質は『縛る』こと。

「貴方の速さを縛った」

<疾駆>を『縛られた』。甚夜は感覚でそれを理解した。
 動揺する暇もなく、再度鎖が振るわれた。背には変わらず兼臣がいる。これでは先程の繰り返しだ。

「悪い、兼臣殿。退ってくれ」

 小刻みに刀を振るい鎖を逸らしながら、出来るだけ平静に言い聞かせる。

「……すみません、無理ですっ。足が、動かないのです」

 返ってきたのは歯噛みするような嘆きだった。
 悲嘆の表情。打ち砕くように鉄球が飛来する。兼臣に意識を割いた分、一瞬反応が遅れた。右腕を精一杯伸ばし払うも、たわみ、巻きつく鎖。またも熱が肌を焼く。

「飛ぶ斬撃も厄介ね。縛っておくわ」

 飛ぶ斬撃。今度は<飛刃>を封じられた。まずい、このままではやられる。足が動かないという兼臣を左腕で脇に抱え、無理矢理に後ろへ飛ぶ。十分に距離を取って腕の中にいる少女に目をやれば、彼女は悔しそうに顔を歪めている。

「すみません……足手まといに」

 怪我をしたのかと思ったが違うらしい。兼臣には傷一つない。ただ着流しから覗く彼女のすらりとした足、その白い肌には鎖の模様をした刺青があった。
 思わず自身の右腕を見れば、其処にも鎖の刺青。恐らく左足にもあるのだろう。

「<地縛>……」

 咀嚼するように呟く。
 宵闇に沈む京の町。五条大橋に佇む鬼女は、不遜な態度でこちらを眺めている。その周りには三本の鎖がゆらゆらと揺れていた。
<疾駆>、<飛刃>を封じられた。兼臣は足が動かなくなった。消えた三本の鎖。肌に浮かび上がる鎖の刺青。
 どうやら鎖は<力>を封じるだけではないらしい。

「鎖一本につき、何か一つを制限する<力>か」

 おそらく<地縛>は『縛る』という言葉の範囲内ならば、如何なるものでも縛り付けることが出来るのだろう。<力>であっても、行動であっても。

「はあい、正解。これで貴方の勝ち目はないわよ」

 せせら笑う鬼女。傷を負った程度で動揺していた割に、随分と上から見てくれるものだ。
 ふう、と一度溜息を吐いて肩を竦める。

「お前は阿呆だな」
「……なんですって」

 顔付きが変わる。挑発にも乗りやすい。よかった、と思う。<力>に反して本人は与しやすい。これならまだ付け入る隙は在りそうだ。
 ゆっくりと歩く。地縛の存在など意にも介さぬ、まるで散歩でもするかのような気楽さである。それが気に障ったのか、激昂と共に三本の鎖が放たれた。

「っ!? 駄目です!」

 向日葵が叫ぶ。しかし止まらない。まったく、有難い。こうも簡単に動いてくれるとは。
 兼臣は既に間合いの外、鎖は全て己に向かってくる。理想的な状況だ。甚夜は平静のまま夜来を振るい、近付く鉄球を全て薙ぎ払う。
<力>を封じられても鎖の数が減ったのだから、防ぐのは寧ろ楽になった。そして鎖の数が減ったのならば地縛は自身の防御に鎖を回す余裕もない。
 向日葵が止めたように、三本の鎖で受けに回っていれば攻めあぐねただろう。
 だが攻撃に全ての鎖を使った今。

 追い詰められたのは地縛、お前の方だ。

<隠行>。
 風景へ溶け込むように甚夜の姿が消える。

「え?」

 少女の声。突然姿が消えたことに頭が追い付いていないようだ。動きを止めたまま辺りに視線をさ迷わせている。地縛は<力>が使える以外は本当にただの少女だ。正直に言えば、刀を振るう相手としては心情的にやりにくい。
 だが、悪いな。
 己は為すべきを為す。男だろうが女だろうが関係ない。一瞬顔を見せた惰弱な思考を、捻じ伏せ、間合いを詰める。

「目の前にいます!」

 向日葵が叫ぶ。何故分かった。疑問に思ったが動きは止めない。弾いた鎖がもう一度振るわれる、しかしこちらの方が速い。先程の交錯で地縛自身の技量が低いのは立証済み、今更回避も防御も不可能だ。

「いっ、あぅ……!?」

 腹部に一閃。峰打ちとはいえ、渾身の横薙ぎが突き刺さった。体は「く」の字に曲がり、膝が折れる。遅れて届いた鎖を防ぎ、首を垂れる地縛に切っ先を突き付けようとして。

 宵闇に蛇が二匹。

 悶えながらも鎖を振るう。頭部に目掛け放たれたそれを後退し躱す。その隙に体を無理矢理起こし、地縛はこちらを睨みつけた。だがその視線に力はない。

「退きましょう」

 最早これまでと悟ったのか、向日葵は冷静に地縛へと言いつけた。

「貴女はまだお母様の命を果たしていない。此処で散ることは許されません」
「うぅ、わ、分かってるわよ……」

 傍へ寄りそう向日葵の言葉に悔しさを浮かべながらも頷く。

「ではおじさま、申し訳ありませんが此処で失礼致します」
「向日葵よ。悪いが逃がさんぞ」

 後を追おうと一歩踏み込む。しかし邪魔をするように、鎖は不規則な動きでこちらへ襲い掛かってくる。
 正面。体を捌き更に進む。
 袈裟掛け。身を屈め掻い潜る。
 地を這い、顔を目掛けて跳ね上がる。立ち止まり夜来を振り下す。
 三本全てを躱し、防ぎ切った。最早相手に攻撃の手段はない。<疾駆>は使えないが今の地縛や向日葵よりも己の方が速い。全速で走り、逃げる二体の鬼へ追い縋る。

「後ろっ」

 しかし追跡は中断される。
 兼臣の声に振り返るよりも早く、鉄球が背中を殴り付けた。

「がっ……!?」

 走る衝撃。体勢を崩しそうになるもどうにか耐え、背後から再度襲い掛かる鎖を叩き落とす。
 そして向き直り地縛を追おうとした時、

「逃げられた、か……」

 既に彼女達の姿はなかった。
 五条大橋から眺める京の町は川の流れが聞こえる程に静まり返っている。足音はない。今からでは追いつけないだろう。

「葛野様」

 先程まで動けなかった兼臣が近付いてくる。見れば足から鎖の刺青が消えていた。どうやら四本目の鎖は彼女を縛っていたものらしい。

「すみません……」
「いや、気にするな。これは私の失態だ」

 自分が足を引っ張ってしまったと思っているのか、酷く沈んでいる。
 甚夜の表情は険しい。それは兼臣に対してではなく、己への怒りだった。
地縛の立ち振る舞いを思い返す。
 強さで言えば土浦や岡田貴一の方が遥かに上。脅威と感じるような相手ではない。しかし地縛は<力>一つで身体能力の低さ、体術の未熟、経験差を引っくり返してみせた。
 勝利の目は幾つもあった。
 それを拾い切れなかったのは己の未熟。
 慢心していた。
 あの程度鬼に遅れは取らぬという自負が、増長がこの敗北を生んだのだ。

「マガツメ、か……」

 敗北を噛み締め、あの鬼女の後ろにいるであろう存在を思う。

 ───マガツメ様の命に従い、人を狩っております。

 地縛はそう言っていた。マガツメと呼ばれる存在が人に仇なすならば、いずれ相見えることもあるだろう。
 その娘を名乗る地縛とも……そして、向日葵とも。
 柄を握る手に力が籠る。 
 これ以上の無様は晒さん。
 宵闇に沈む京の町、五条大橋の上。
 次は負けぬと固く誓い、しかし何故か、胸に一抹の寂しさが過った。



 ◆



「ありがとうございました」

 暖簾を潜った客に一礼。愛想笑いさえしない店主だが、常連にとっては慣れたもので特に気にした風もなく店を出ていく。昼食時は賑わいを見せた店内もそろそろ落ち着きを見せ始め、客足もまばらになってきた。店内には甚夜以外は一人しかいない。ようやく夕方まで一心地、といった所である。
 
 一夜明けて、甚夜は蕎麦屋の店主としていつも通り店を開けた。
 しかし働きながらも頭にあるのは昨日の出来事。屈辱の敗戦が脳裏を過る。

 五条大橋に出る鬼。
 その討伐は結果として失敗に終わった。
 地縛を捕えることは叶わなかった。向日葵の言う『お母様の命』とやらが何だったのかも分からず仕舞い。何一つ得る物はなく、それどころか<疾駆>と<飛刃>は封じられたまま。頭が痛くなる程の失態だった。
 そして思う。
 
 マガツメ。

 あれ程の<力>を持つ鬼の母、おそらく並みの相手ではない。
 向日葵の言から想像するに何やら目的を持って動いているようだ。嫌な気分になる。地縛はマガツメの命で人を狩っていると言った。その目的は分からないが、少なくとも良いものではないだろう。

「まったく、儘ならぬな」
「ただいまー」

 暗い気持ちで溜息を吐くと、見計らったように出かけていた野茉莉が学校から帰ってきた。店に入ってすぐ、父の様子がおかしいと察して心配そうに声を掛ける。

「父様、どうかした?」
「いや。なんでもない。お帰り、野茉莉。どうだった」
「うん、今日は算術と国語をやったよ。早く覚えてお店を手伝うね」

 嬉しいことを言ってくれる。
 沈んだ心地も自然と薄れ、甚夜は軽く愛娘の頭を撫でた。

「疲れただろう」
「へへ、これくらい大丈夫だよー」
「ならいいが。一段落ついたし、一緒に茶でも飲むか?」
「え、いいの?」

 嬉しそうに、しかし戸惑ったような表情で問いかける。

「どうかしたか?」
「でも、まだお客さんが」

 そう言って、店内に一人だけ残っていた客と思しき少女へ視線を送る。少女は蕎麦を食べ終えたようで、一度茶を啜り、丼を甚夜に差し出し言った。

「次はかき揚げ蕎麦をお願いします」
「……おい、三杯目はそっと出せ」
「ですが前金で六十円、お金は十分払っていますよ?」
「だとしても食い過ぎだ。というか何故まだうちにいる」

 少女は昨夜の依頼人、兼臣だった。
 何故か兼臣はまだ『鬼そば』にいる。その上既に二杯食べ終え、更に蕎麦を注文しようというのだから文句の一つも言いたくなるのは仕方のないことだろう。

「葛野様は鬼の討伐を生業としている。ならば、いずれマガツメと見えることもあるでしょう。それに今や貴方様にも地縛を追う理由があるのでは?」

 それは事実だった。<疾駆>と<飛刃>は地縛によって封じられた。ならば地縛を討てば戻るだろう。最早地縛の討伐は依頼だけが理由ではなくなっていた。

「確かに。だが、お前が此処にいる理由にはならん」
「貴方様が地縛を追うのでしたら、私も此処に住まわせて貰おうかと。そうすれば地縛の情報を得られますし」

 案外、向こうの方から襲ってきてくれるかもしれません。
 冗談にもならないことを綺麗な笑顔で言う。昨夜のしおらしい態度は何処へ行ったのか。口調とは裏腹に随分と押しが強い娘だった。繊細な少女、という感想は覆さなくてはいけないかもしれない。

「父様、どういうこと?」

 若干不機嫌な顔でこちらを睨む野茉莉。どういうことなのかは甚夜の方が聞きたかった。

「同じ目的を持っているのですから、私がいても問題はないでしょう。足手まといにならぬよう腕を磨きますし、お店の方も手伝わせていただきます」
「年頃の娘が男の家に転がり込むなど認められる訳がなかろう」
「ですが葛野様は私の依頼を受けてくださいました。前金も払っている以上、私は依頼人。従え、とまでは言えませんが、多少の無理は受け入れて貰えませんか?」

 思わず言葉に詰まった。
 そう、彼女は既に六十円という大金を払っている。その上甚夜は地縛の討伐を失敗しているのだ。立場が弱いのはこちらだった。
 そして彼女は地縛を追っている。おそらく昨夜の戦いから甚夜ならば地縛を討てると判断した。ならば依頼を取り下げるような真似をする筈がない。今更金を返すと言っても兼臣は受け取らないだろう。

「いかかでしょう」

 優しげな表情を見せながら小首を傾げる。
 詰み、だ。
 押し黙り、厨房で淡々と作業を始める。
 そうして出来上がった一杯の丼を兼臣の前に置く。
 
「……かき揚げ蕎麦、おまち」
「つまり、認めてくださるということですね」

 してやったりとでも言わんばかりの満面の笑顔だった。反面野茉莉は完全にふくれっ面。後で機嫌取りの一つでもせねばなるまい。
 そんな甚夜の内心など知らぬ兼臣はかき揚げ蕎麦を旨そうに啜っている。
 考えてみれば、分からないと言えばマガツメだけでなくこの兼臣もそうである。
 この少女が何者なのか、そもそも何故地縛と同じ顔をしているのかも分からない。

「これも美味しいです」

 じっと見つめていると、甚夜の視線に気付いたようで兼臣は少しだけ口元を緩めた。
 分からないことは在る。しかし悪い人間ではなさそうだ。地縛を捕えるまで宿を貸すくらいは良いだろう。
 軽く溜息を吐きながら、甚夜は自分を納得させることにした。




 葛野甚夜は新時代を蕎麦屋の店主として、娘と二人穏やかに暮らしていた。
 しかし鬼の跋扈、マガツメと呼ばれる存在。
 歴史に名高い魔都・京都。宵闇の中で何やら得体の知れないものが蠢き始めていた。

 それはそれとして、甚夜の暮らしは変わらない。普段は蕎麦屋の店主、裏では鬼を討ちながら、毎日を過ごしていく。
 彼はやはり何時まで経っても生き方を変えられない。
 ただ、それでも変わるものもある。

「ごちそうさまでした」

 ようやく満足がいったのか、兼臣は実にいい笑顔で両手を合わせる。
 邪気のないその仕草に、毒気を抜かれたような気がした。 



 こうして、二人静かに暮らしていた『鬼そば』には。

「では、これからもよろしくお願いします」

 よく分からない居候が増えた。


 鬼人幻燈抄 明治編『二人静』了
     次話 余談『林檎飴天女抄』





[36388]  余談『林檎飴天女抄』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/09/07 19:40

 むかしむかし、雲の上の天の国には、七人の美しい天女の姉妹が住んでいました。


 天女達は天の神様の娘で、彼女達の仕事は白く美しい布を織ることです。この布からつくられた羽衣を纏えば、誰でも空を飛べるのです。
 ある日のこと、姉妹の内一人が水浴びをしたいと思い、そこで彼女は羽衣に身を包み地上へと降り立ちました。
 
 さて、所変わって地上では、一人の若者が暮らしをしていました。
 両親を早くに亡くした若者は、鍛冶の村で一匹の子狐と共に細々生活しています。この子狐は近くの森で怪我して倒れていたところを若者が拾ってきたもので、以来若者を慕い彼の家に住み着いていました。
 ある夜のことです。床に就こうとしていた若者に向かって、子狐は人間の言葉で言いました。


「ご主人様、明日は美しい天女が水浴びに地へと下りてきます。彼女の羽衣を盗んでしまえば、天女は天へ戻れず貴方の妻になるでしょう」

 突然人の言葉を喋ったことに若者は驚きましたが、長く一緒にいるせいか、怖いとは思いませんでした。そして子狐の言葉に従い、教えられた川のほとりで天女が現れるのをじっと待ちました。

 するとどうでしょう。
 子狐の言った通りに見目麗しい少女が空から降りてきたではありませんか。
 天女は羽衣を脱ぎ、近くの木にかけ、水浴びを始めます。
 これは好機。
 若者はこっそりと木に近付き、羽衣を盗んでしまいます。
 水浴びを終えた天女は、羽衣を奪われてしまったことに気付き、さめざめと泣きながら若者に懇願します。


「お願いです、羽衣を返してください。それがないと私は天へと帰れないのです」



 しかし若者は聞きません。それどころか天女の目の前で羽衣を燃やしてしまいます。
 泣き崩れる天女に若者は言いました。


「私は貧乏ですが、貴女のために一生懸命働きます。ですからどうか、私の妻になってください」


 空へ還る術を失くした天女にはもとより選択肢などありません。
 だから天女は仕方なく、若者の妻になりました。

 でもそれほど不幸ではなかったのかもしれません。

 若者は言葉の通り、必死になって働きました。その姿を傍で見続けた天女は少しずつ若者に魅かれていきます。
 そしてしばらくの後には天女も彼を認め、互いに好き合うようになりました。
 
 こうして天女は真実、“若者の妻”となったのです。



 流魂記 『狐の鏡』より抜粋



 


 ─────見上げれば晴れ渡る空。


 澄み切った青は今も変わらず其処に在る。
 けれど、いつか飛んだあの場所は遠くて。
 最早届かぬと知りながら、地上の天女は空を見る。

 彼女の瞳は空へ何を映したのだろう。

 在りし日の幸福?
 囚われた悲哀?
 冷め遣らぬ郷愁?
 色褪せぬ景色。無邪気に空を飛べた、揺らめき滲む玉響の日々。

 若者の妻となった今でも空への憧憬が消えることはない。
 想いは費えることなく溢れ、しかし形にならず日常に埋もれる。

 帰りたいと。

 どんなに願ったとしても空へは帰れない。
 天を仰ぎ、手を伸ばしても、空はただ其処に在るばかり。
            

“若者の妻”
 
    
 今は異郷で与えられた望まぬ称号だけが彼女の居場所。
 天女はそこから一歩も動けない。
 それを受け入れなければ生きていけないと知っているから。

 だから逃げられない。
 懐かしい天への想いだけを置き去りにして、彼女は地に縛られた。


 それでも緩やかに歳月は流れる。
 空へ帰れぬ自身を憐れんだこともあったが、天女はそれなりに幸せな日々を送っていた。
 初めは無理矢理だった“若者の妻”という立ち位置も、悪くはないと思い始めていたのかもしれない。
 毎日は慌ただしく過ぎて、そして不意の暇に天を仰ぐ。

      
 見上げれば、いつか見た、晴れ渡る空。

     
 あの青は今も変わらず。
 けれど、彼女が空を見ることは少なくなった。
     
 こうして天女は飛べなくなった。

 空への憧憬はまだ胸に在る。
 なのにいつか過ごした筈の日々を遠く感じる。
 此処には切り取られたように空だけが在って。
 天はいつの間にか彼女にとって、帰るべき場所ではなくなっていた。


 天から降り立ち、地に囚われた女。
 若者の恋慕に絡め取られ、帰る場所を奪われた。
 悲哀や嫌悪は彼女の身を苛んで。
 けれど心は変わる。
 悲哀は薄れ、嫌悪したはずの若者との生活に安寧を感じるようになった。
 穏やかに過ぎる日々の中で空を自由に舞う自分さえ忘れてしまった。
 長く地に居たせいだろう。
 彼女は、“天女”ではなくなったのだ。



 さて、憎むべき若者に恋をした彼女は、果たして何に囚われていたのだろう。

 彼女を繋ぎ止めていたもの。
 彼女が繋ぎ止められたもの。


 地に縛られたのは体か。
 或いは、飛ぶことを忘れた心だったのか───





 鬼人幻燈抄 余談『林檎飴天女抄』






 2009年 8月

 なんだか、とても珍しいものを見た。

「む、みやかか」

 夕方、道端で偶然友達と出会った。
 いや、友達と言っていいのかすごく微妙だけど。仲が悪い、ということじゃなく、普通の付き合い方をしていないので普通に友達と言っていいのかよく分からない。
 取り敢えず彼が変な奴だってことだけは確かだ。

「なに、その恰好」

 それは言いとして、私は彼の格好に驚いた。
 普段は学生服か、ジーンズとシャツのラフな格好しか見たことが無い。でも今の彼は何故か浴衣を着て、夕暮れの町並みを堂々と歩いている。しかもやけに似合っていて、まるで時代劇の1シーンかというくらいのハマり様だ。

「見ての通りだが。今日は甚太神社で縁日があるだろう?」

 確かに今日は八月の十五日、うちの神社のお祭りの日だ。昨日から道路の方までテキ屋さんが入って、小さいながらに神社は大賑わい。夏休み終わり間近のイベントとして楽しみにしている人も多いだろう。

「そうだけど。行くの?」
「ああ。お前は?」
「行くっていうか、私は手伝う側だから」

 神社のいつきひめとして、雑事にてんやわんやで縁日なんて楽しめる訳がない。
 お母さんは別に「手伝わなくていいのよ」って言ってくれるけど、毎年忙しそうにしているのを知ってる。だから少しくらい楽させてあげたかった。

「でも、なんか意外かな。こういうの好きなようには見えなかったし」

 正直、彼がこういったイベントに自分から参加するとは思ってもいなかった。
 私の指摘に彼は少しだけ苦笑する。

「そうでもない。祭囃子を聞きながら呑む酒は格別だ」
「おい高校生」

 なんか聞いてはいけないことを聞いてしまった。
 ちなみに未成年者の飲酒は法律(未成年者飲酒禁止法)で禁じられています。

「なんだかなぁ。じゃあその浴衣って縁日の為?」
「浴衣ではなく着流しだ」

 訂正されたけど、違いが今一つわからない。
 私が疑問に思っているとすぐに説明してくれた。

「浴衣は湯上がりや夏場の着物。着流しは襦袢と着物……袴を省いた略着だな」

 相変わらず妙なところで博識だ。機械系は全然ダメなのに。どれくらいダメかというと、未だにブルーレイをDVDどころかビデオとか言ってしまうくらいだったりする。

「へぇ。それにしても、気合い入れ過ぎじゃない?」
「なにがだ」
「その恰好。普段着で行く人だって多いのに、わざわざ、着流し? なんて」

 私の問いに、彼は珍しく笑った。
 落すような、凄く柔らかい笑い方だった。

「気合も入るさ。古い馴染みとの、随分前からの約束だ」

 そう言った彼の声は本当に優しくて、だから何となく分かってしまった。

「………………もしかして、女の子?」
「ああ。よく分かったな」

 否定するとか照れるとか、そういう反応は全然なく、まったく平然と言ってのける。
 
「ふーん……随分と嬉しそうだけど、可愛いんだ?」

 半目になった私の言葉に彼は頷き、あまりにも堂々と言ってのける。

「無論だ。何せ相手は天女だからな」

 勝ち誇ったような彼の言い方に、思わず呆気を取られた。 

「では、な。そろそろ行かせてもらう」
「え、あ、ちょ」

 そのせいで上手く受け答えが出来ず、彼が立ち去るのを止めることさえ出来ない。私がまごまごしている間に彼はどんどん歩いて行き、直ぐに見えなくなってしまった。
 天女みたいな女の子、なんて恥ずかしいことを言った彼。そして一人残された私。
 だから何、という訳でもない。なのに、なんだか負けたような気がした。何に負けたのかはよく分からないけど。
 とりあえず、

「……………………なんか、むかつく」

 ぽつりと呟く。
 答えるようにカラスがカァと鳴いた。







 ◆





 明治五年(1872)・八月



「縁日?」

 甚夜は厨房で蕎麦を打ちながら聞き返した。

「そ。一週間後、荒城神社で縁日があってなぁ」

 蕎麦を啜りながら話しかける男、秋津染吾郎は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべている。
『鬼そば』の建つ京都は三条通から少し外れると、木々に囲まれた神社に辿り着く。古くから信仰され、今も多くの参拝客が訪れるこの荒城稲荷(あらきいなり)は、三条界隈では有名な神社である。
 もっとも、それは信仰の対象である祭祀施設としての知名度ではない。有名な理由は八月の十五日に行われる縁日の為だった。
 荒城神社の境内は広く、縁日の夜には多くの屋台が出店し大層な賑わいを見せる。本来縁日とは神仏との有縁を尊ぶ神事だったのだが、現在では大衆が騒ぐ口実になっている場合がほとんど。荒城稲荷神社の縁日も御多分に漏れず、娯楽としての意味合いが大きかった。

「野茉莉ちゃんと一緒に行ってみたらどない? 偶にはええやろ」

 言葉尻だけを捕えれば全くの善意。しかし染吾郎はやはり作ったような表情で、それが善意だけの言葉ではないのだと分かる。何か裏があるのは間違いない。

「で、本当の所は?」

 表情も変えずに短く問えば、待ってましたと言わんばかりに染吾郎は顔を明るくした。

「うん、君は話が早うて助かるわ。おもろい話仕入れてきたんやけど、聞くやろ?」

 やはり、そういう話か。
 毎度毎度のことながら、自分が受けた依頼を甚夜に押し付けようという魂胆だった。
もっとも、それは甚夜にとっても望むところ。願ったりかなったりというものだ。勿論染吾郎もそれを理解しており、が嫌いではなかった。

「荒城稲荷神社の祭神って何か知っとる?」
「稲荷神社は稲荷神(いなりがみ)を祭っているに決まっているだろう」
「ま、そらそやな。その通り、荒城はお狐様を祭っとる。そんで、その御神体は鉄を磨いて作られた鏡なんやけど、ちょっとした説話が在ってな。昔この辺りに降りてきた天女を空へ返す時に使ったのがこの鏡なんやと」

 蕎麦を食べ終えて、茶を啜り染吾郎は続ける。
 何でもこの辺りには空から降りてきた天女と地上の男が結婚したという天女譚があるらしい。この手の異類婚姻譚は各地に残っている。然程珍しい説話ではなく、細部は違えど天女の来訪や羽衣を奪われ地上の男と婚姻などどれも似通った話だ。

「羽衣伝説か」
「そうそう。そやけど荒城の天女譚は、他の地方とちょっと違ってなぁ。天女は羽衣を奪われ若者の妻になるんやけど、病気になってまう。そやから若者自身が天へ妻を返そうとする。その時に使ったんが天と地を繋ぐ鏡、つまり荒城の御神体である鉄鏡って話や」
「天女を空へ返した鏡……」

 それをただの説話とは思わない。
 甚夜の持つ夜来は千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀だと謳われており、事実三十年以上実戦で使っていても刃こぼれ一つない。夜刀守兼臣は鬼の血を練り込むことで特異な力を得た。
 そして染吾郎の扱う付喪神もある。物であっても歳月を経れば想いを宿す。ならば御神体として崇拝を集めるものが、長い年月をかけて地と天を繋ぐ鏡に変化したとしても驚くようなことではないだろう。

「こっからが重要な所。なんや昨日の晩、鏡が安置されとる本堂から光が漏れてきたらしくてなぁ。それを見たっていう男の話やと人影もあったとか。荒城の神主は賽銭泥棒の類が持っていた明かりやないかって特に気にした風やないんやけど……なんや、おもろそうやと思わん?」

 にたりと、口元を釣り上げる。

「今回は別に依頼があった訳やない。でも、君好みの話やろ?」

 確かに興味深くはある。
 鏡の真贋は分からないが、鬼がいるのに天女を信じない道理はない。そして光や人影を見たという目撃談があるのならば、鬼にしろ天女にしろ、怪異を起こしうる“何か”が其処にはあるのだ。
 ならば首を突っ込んでみるだけの価値はあるか。

「確かに、面白そうではあるな。今の話、代金代わりに受け取っておく」
「お、悪いなぁ」

 普段世話になっているのだ、蕎麦の一杯くらいはいいだろう。
 きつね蕎麦を食い終え、染吾郎は店を出て午後の仕事へ戻っていく。店内には結構な数の客が残っており、甚夜の仕事もまだまだ終わりそうにはない。

「しかし、縁日か」

 天女の説話、謎の光。気になる点は幾つかあったが、縁日の方にも興味がある。そう言えばまだ野茉莉を連れて行ってやったことはなかった染吾郎の言う通り、怪異を解き明かした暁には、野茉莉と屋台を冷かすのも悪くないかもしれない。


 ◆



「お待たせして申し訳ありません。ここの神主を務めております、国枝利之です」
「これはご丁寧に、葛野甚夜と申します。三条通で蕎麦屋を営んでおります」

 荒城稲荷神社の神主、国枝利之(くにえだ・としゆき)は痩せ衰えた四十も後半に差し掛かろうという初老の男だった。
 柔和そうな雰囲気通りの人物で、甚夜の率直な質問にも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。

「ええ、確かにこの地方には天女が降り立ったという説話が残されております。また当社の御神体である鉄鏡が天と地を繋ぐという説話もあります。しかし昨日の件はやはり賽銭泥棒かと。説話はあくまで説話。そう頻繁に起こることではありませんよ」

 染吾郎から話を聞いた後、甚夜は店を閉めて荒城稲荷神社を訪ねた。
 聞けば神主は昨日本堂で見られたという光と人影はただの賽銭泥棒だと結論付けているらしく、あまり気にしていないようだった。
 
「そうですか……その鉄鏡というのは、見せて頂けぬものでしょうか」
「申し訳ありませんが、一般の観覧は御遠慮していただいております」

 まあ当然のことか。
 神社の建築物のことを社殿と呼び、社殿は本殿と拝殿の二つに分けられる。人々が普段参拝する際に訪れるのは拝殿であり、御神体が安置されるのは拝殿の奥にある本殿である。
 そして本殿へ入ることが出来るのはその神社の関係者のみというのが一般的だった。
 御神体は祭神と同一の存在ではないが、それに近しい聖なるものとして扱われる。それ故に、御神体とは本殿の御扉の奥に蔵し、衆目に晒さぬのが常となっているのだ。
 それは荒城神社でも同じようで、頼み込んでも御神体は見せてもらえないだろう。

「ところで葛野さんは蕎麦屋を営んでいると仰りましたね。どうですか、まだ境内に空きもありますし縁日で屋台などを出してみては」
「折角の誘いですが」

 目を伏せ、申し出を断る。
 見回せば境内は一週間後の縁日に向けて少しずつ準備が進められているようだ。屋台を出店する者達だろう、様々な機材を持ち込んで組み立てている。

「ん……」
「どうかされましたか」
「いえ」
 
 今、本殿のある方、神社を囲う木々──鎮守の杜辺りで何かが動いたような気が。
 神主の方を見ても不思議そうな顔をしているだけ。どうやら彼は気付かなかったようだ。しかし目の端とはいえ、甚夜は確かに蠢く影を見た。

「何か気になることでも?」

 誤魔化すように首を振る。勿論、見えた影は気のせいなどではない。しかし「本殿の方で何か動いたような気がしたので見に行ってくる」と正直に伝えても止められるのが関の山。此処は何でもないふりをして、後で調べるとしよう。

「しかし、随分と賑やかですね」
「祭りの夜はもっと賑やかになりますよ。私は毎年これが楽しみで」

 話を逸らすための言葉だったが、それを受けた神主は万感といった風情で返した。
 若かった頃でも思い出しているのか。神主は郷愁を感じさせる穏やかな表情を浮かべている。

「何か思い出でも?」
「ええ……この季節になるといつも思い出します。遠い、夏祭りを」

 緩やかに紡ぎだされる熱。纏う雰囲気が先程までとは全く違ったせいだろう。自然と甚夜は問い掛けようとして、

「あなた」

 先に発された言葉にそれを掻き消された。
 声をかけたのは、神主と同じ年の頃の女性だった。すっきりとした顎の線に少し垂れた目尻。恐らく若い頃は大層な美人だったのだろうと想像できる老淑女は、柔和な笑みで甚夜に一礼をした。

「ああ、“ちよ”」

 親しげな呼びかけ。神主の奥方なのか、仲睦まじい様子が見て取れる。

「お話し中申し訳ありませんが、お客様がいらしていますよ」

 遠慮がちに、こちらに目配せをしながらちよは言う。奥ゆかしい立ち振る舞い。神主の応対も柔らかく、それだけで仲睦まじい夫婦なのだと分かる。

「そうか。では葛野さん、これで失礼させて頂きます」
「いえ、こちらこそお手間をかけました」

 これ以上話していても得るものはないだろう。軽いお辞儀をして、この場を離れていく神主とちよを見送った。二人の後ろ姿は正におしどり夫婦と言った印象である。
 不意にくるりと振り返ったちよは、優しげに顔を綻ばせながら言った。

「甚夜様、何かありましたらまた訪ねてくださいね。お待ちしておりますから」

 そこに嘘はない。奥方は社交辞令ではなく、本心からそう言ってくれているのだと感じられる。

「有難うございます。では、私もこれで」

 甚夜が返した言葉に満ち足りた笑みを浮かべゆっくりと頷く。
 突然の来訪の上、不躾な質問も多かった。だというのに神主もその奥方も甚夜の来訪を歓迎するような態度だった。ああいう心の広い人間でないと、神に仕えるということは出来ないのかもしれない。そんなことを思い、だからこそ多少の罪悪感を覚える。

「済まん」

 聞こえる訳もないが謝罪を口にする。
 そして甚夜は境内から本殿の方へと移動した。先程の影が何だったのかを確かめたかった。とは言え、迂闊に本殿へ近づけば奇異の目で見られ、最悪の場合官憲を呼ばれる。
 だから、

<隠行>

 申し訳ないが、こういう手段を取らせて貰おう。
 姿を消し本殿の近くへ。神社は大抵の場合森林に囲まれており、これを鎮守の杜と呼ぶ。荒城稲荷神社の周りにあるのは森林というほどの規模ではないが、それなりに木々が折り重なっていた。周囲を警戒しながら木々が作る陰へ足を進める。

 がさり。

 本殿の裏手に辿り着いた時、木々の根元、雑草を踏み締める音が響いた。腰の者に手をかけ、<隠行>を解き、音の方向へ視線をやる。

『アァ……』

 一匹の鬼がいた。
 背丈は甚夜とほぼ変わらない。顔は能面のような無表情、薄紫の肌をしている以外は大して特徴のない鬼だ。
 甚夜は鬼を前にしても刀は抜かず、ただ怪訝そうに眉を顰めた。
 と言うのも、鬼は既に死に体。白い蒸気を撒き散らし、今にも消え入りそうな状態だったのだ。腹は裂かれ血が流れている。そして鬼の爪は血で塗れていた。
 
 つまりこの鬼は、自分で自分の腹を掻っ捌いたのだ。

 いったい何故。
 こちらの戸惑いなど関係なしに鬼は嗤う。

『マガツメ様……私は、やりました』

 何処か感情の籠らない言葉を残し、鬼は完全に消え去った。
 甚夜は表情を歪めた。自己完結して勝手に消えた鬼。あれは一体なんだったのか。思考を巡らせ、直ぐに止める。どうせ考えた所で分からない。ならば頭を働かせるだけ無駄だ。そう思い、しかし少しだけしこりが残る。

「また、マガツメか」

 どうやらあの鬼もマガツメの配下だったらしい。ということは、昨日の光にもマガツメが関わっているのだろうか。
 だとすれば、もう少しこの辺りを調べた方がいいかもしれない。
 周囲への警戒を強め、鎮守の杜に踏み入る。しかしすぐに足が止まった。あの鬼が来た方向に人影が見えた。それは段々とこちらに近付いてくる。

 あの鬼の仲間か。

 鯉口を切り、いつでも抜刀できる状態で待ち構える。相手はまだ気付いていないのか、無造作に歩いていた。さて今度はどんな鬼が出てくるのか。摺足で半歩進み、神経を研ぎ澄まし、敵の姿を確認する。

「うぅ、ここどこ……? ねー、いるんでしょ? これ絶対〝おしごと”関係だよね? お願いだから出て来てよー」

 しかし途端に体から力が抜けた。敵、というにはあまりに緊張感のない少女の様子に、警戒した自分が馬鹿のように思える。
 
「なんだあれは……」

 其処にいたのは、幼げな娘だった。
 薄水色の生地に朝顔の刺繍が入った浴衣を纏った少女。年の頃は十三、四といった所か。小柄でまだまだ幼さの残る顔立ちだ。
後頭部の低い位置で髪を束ねただけの簡単な髪形、しかし髪は艶やかな黒色で丁寧に手入れされているのが分かる。髪を縛っているのは紐ではなく、何と言おうか、飾り布とでも言うような赤い布だった。
 顔立ちは整っているが、まだ少女の域を出ておらず、美しいと言うよりも可愛らしいという表現の方が似合っている。

「あっ!?」

 しばらく眺めていると少女の方もこちらに気付いたようで、ぱあっと表情を明るくし、まるでじゃれつく子犬のように傍へと駆け寄る。

「よかったぁ、やっぱりいたぁ。ようやく会えたよー」

 そうして彼女は甚夜に近付き、しかしその姿を改めて見て、何故か凍結したように固まった。

「え、と。あの、え? なんで?」

 口から出てきたのは、まったく意味の分からない間抜けなものだった。





[36388]      『林檎飴天女抄』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/02 00:11


 幸せな日々は長らく続きました。
 夫婦となった若者と天女は睦まじいもので、二人の間にわだかまりはもうありません。言葉の通り若者は貧乏ながらも一生懸命働き、天女もまたそんな若者を日々支えます。奇妙な始まりではありましたが、二人は本当の夫婦になれたのです。
 
 けれど、終わりは唐突に訪れます。

 ある日、天女は病に倒れます。心配し、若者はなけなしの金で医者を呼ぼうとしますが、天女は穏やかに拒否してこう言いました。

「私は天で生まれました。ですから地上では長く生きられないのです」

 天女は天の国の清浄な空気の中でしか生きられず、地上での生活は毒に浸かって生きるようなものだというのです。

「貴方と夫婦になれた。私は決して不幸ではありませんでした。けれど最後に、あの空へもう一度帰りたかった」

 若者は羽衣を燃やしてしまったことを後悔しました。何とかして天女を助けてやりたいと悩んでいる時、歳月が経ち大きく育った狐がまたも人の言葉で語りかけます。

「私の体を燃やし、その灰を鉄に練り込んで鏡を作ってください。その鏡は天と地を繋ぐ道となることでしょう」

 それを伝えると舌を噛み切り、狐は死んでしまいます。
 青年は言われた通り狐の死骸を燃やし、その灰を練り込んで鉄の鏡を造りました。そうして病床の天女の元に持っていくと、鉄の鏡は光を放ち、天女の体は空へと昇っていきます。

「これで貴女は天の国へと帰れます」

 若者の妻として死のうと決めていた天女。しかし若者は天に帰って生きて欲しいと懇願しました。

「ありがとう。けれど忘れないでください。例え天と地に分かれたとしても、私達は夫婦のままです」

 そうして天女は天へと戻りました。
 残された若者は神社に鉄の鏡を奉納し、以前の生活に戻りました。しかし奉納された後も時折鉄の鏡は光るそうです。きっとそれは、天女が地上へ遊びに来ていたのでしょう。

 これが京は三条、荒城稲荷神社に伝わる『狐の鏡』と呼ばれるお話です。



 ◆




「と、これが“狐の鏡”。京都三条に伝わる羽衣伝説ですね」

 語り終えた兼臣は咽喉を潤す為に茶を一口啜った。
 神社から帰ってきた甚夜は『鬼そば』の店内で兼臣の話に耳を傾けていた。一度帰ってから荒城稲荷神社に伝わる羽衣伝説を調べに出かけようと思ったのだが、兼臣が「それなら私が知っています」と語って聞かせてくれたのだ。

「すまない。しかし、よく知っていたな」
「いえ、貸本屋でこの本を借りていたものですから」

 そう言って手に取った本には『大和流魂記』と書かれている。

「大和流魂記……」
「『天邪鬼と瓜子姫』、『姫と青鬼』、『狐の鏡』、『寺町の隠行鬼』『幽霊小路』。他にも有名無名にかかわらず様々な怪異譚を集めた説話集です。他の説話集では取り上げていないような話も載っていますし、編纂者の後書きも興味深いもので……どうかしましたか?」
「……何でもない」

 本当に何でもない。ただ、実在の書物だったのか、という驚きがあった。なにせ甚夜が大和流魂記の名を聞いたのは、野茉莉の母である夕凪と過ごした虚構の一日の中である。だからその書物も夢の一部で、実際には存在しないものだと思っていた。
 しかし現実として大和流魂記は目の前にある。その事実に困惑し、同時にあの一日の全てが虚構ではなかったのだと言われたような気がして、ほんの少し嬉しかった。

「それならいいのですが。すみません、話が逸れましたね。葛野様が知りたかった天女譚はこの“狐の鏡”で間違いないかと。……ところで、そちらは?」

 そう言ってちらりと視線を送った先には、店内に入ってから一度も声を上げていない少女がいる。
 薄水色に朝顔をあしらった浴衣。黒髪に結ばれた赤い飾り布。小柄な少女。まだ顔立ちには幼さが残っている。

「……ど、どうもー」

 急に視線を向けられた少女は戸惑いながらも少し硬い愛想笑いを浮かべた。
 甚夜に連れられて『鬼そば』を訪れたはいいが、兼臣には何の説明もされず、少女も今の今まで何も喋らず座っていただけ。甚夜が紹介しなかったのだから当然彼女が誰なのか兼臣には分からなかった。

「初めまして。兼臣とお呼びください。お名前を頂戴しても宜しいですか?」
「私は、えーと。あれ、こういう時って普通に答えていいのかなぁ……」

 曖昧な表情でぶつぶつと呟いている少女は、何やら考え込んでいるらしくそれ以上何も言わなかった。その様を傍観していた甚夜に兼臣が視線を送る。「どういうことですか?」彼女の目が問うていた。
 
「彼女は天女だ」
「はい?」

 少女達の声が重なる。
 兼臣は何を言っているのだという訝しげな表情。天女と呼ばれた少女は顔を真っ赤にして、二人とも甚夜の方をまじまじと見ている。
 その様子に、

「だから、彼女は天女だ」

 もう一度、そう言った。


 ◆


 時間は戻り半刻程前。
 鬼に次いで現れた少女は目を白黒させて甚夜を見ている。

「え、と。あの、え? なんで?」

 困惑から視線が中空でさ迷う。あからさまな挙動不審だ。しかもこの女は先程の鬼……マガツメの配下と同じ方向から来た。警戒はしておいた方がいい。
 そう思っていたのも一瞬だけ、この少女は明らかに人で、武技を収めたようにも見えない。それでも不測の事態に備え、左手は夜来に掛かったまま、いつでも抜刀できる状態を維持し問いかける。

「なんで、と言われてもな」
「え、でも。え、えぇ?」

 要領を得ない反応だ。少女が何を言っているのか甚夜には分からない。しかし向こうも同じようで、しきりに首を傾げている。
 このままでは話が進まない。まずは自己紹介でもして、少しでも情報を聞き出すとしよう。

「さて……と。取り敢えずは名乗っておこう。私は葛野甚夜だ」
「なんでいまさら自己紹介?」
「今更?」
「え?」

 どうにも話がかみ合わない。甚夜は眉を顰め、少女は小首を傾げ、二人して疑問顔をしているのは傍から見ればひどく滑稽だった。

「よく分からんが、まあいい。済まないが、少し話を聞かせて貰いたい」
「う、うん……あ。でもその前に私も聞かせてほしいことがあるんだけど、いい?」

 少女は無防備を晒していた。先程の歩き方を見た時点で、戦う術を持たないただの娘だということも分かっている。若干警戒を解き頷いて見せると、少女はおずおずと遠慮がちに問い掛けた。
 
「なんで、そんな格好してるの?」

 言われて甚夜は自分の衣服に目をやった。黒の羽織に灰の袴。糊はきいているし、着崩れた様子もない。帯刀はしているが、明治に時代が移った今でも時折そういう武士崩れは見かける。別段おかしな所はない、普通の格好である。

「なにか、おかしいか?」
「え、えと。似合ってるとは、思うんだけど……」

 何とも微妙な表情で乾いた笑みを零す。かと思えば急に大きな目を見開く。

「あっ!? もしかして……ねぇ。えーっと、ここって何処、ですか?」
「荒城稲荷神社だ」
「それって、何処……土地の名前というか、なんていう場所? ですか?」
「京都、三条通だな。後、話しにくいのなら敬語はいらん」

 窮屈そうな敬語を使いだした少女にそう言えば、「あはは、ありがと」とはにかんだ笑顔を見せる。そして「京都……」と反芻しながら何度も頷いていた。
 その姿に敵意は感じられない。少しだけ肩の力を抜き少女の言葉に耳を傾ける。

「あともう一つ。今って、何年?」
「……? 明治に入って五年だな」

 それで合点が言ったのか少女はあからさまな溜息を吐いた。

「あの、ありがと。なんとなくだけど分かったよ……百歳とか冗談だと思ってたけど、ほんとだったんだ。ふふ……もうこれくらいのこと簡単に受け入れられちゃう自分が悲しいよ……」

 力なく首を縦に振り肯定の意を示す。少女は何故か異様に疲れた顔をしていた。

「ではこちらからも。何故、こんな所にいた?」
「え?」

 ここは荒城稲荷神社の本殿、その裏手にある茂み。普通ならば踏み入るような場所ではない。こんな所にいる人間など本殿へ盗みに入ろうとしている泥棒くらいしか思い当たらなかった。

「えーと、ね。なんで…いるんだろうね……?」

 甚夜の問いに少女はがっくりと肩を落し項垂れる。

「それが、いきなりバァーって光ったと思ったらいつの間にかここにいて、私もなんでこんなところにいるのか分かんないんだよ……」
「……一応聞いておくが、家は?」
「……何処にあるんだろうね。少し見て回ってみたけど、うちの近所じゃないみたい。帰り方も分かんない」

 乾いた笑いを浮かべる少女をじっと見つめる。
 潤んだ瞳、沈んだ表情。彼女が何者かは分からないが、少なくとも騙そうとしている態度ではないように思える。
 言葉を鵜呑みにするならば、彼女は全く違う場所から光に包まれて此処へ降り立った、ということになる。だとすれば、少女は此処ではない何処か──通常の手段では帰ることのできない場所から訪れた?
 其処まで考えて、昨日光ったという鉄の鏡の話を思い出す。
 もしかして。
 甚夜は、湧き上がる突飛な考えに疑いを抱かなかった。

「……本当に、天女なのか?」



 ◆



「それで連れてきたという訳ですか」
「ああ」

 結局、少女から明確な答えを得ることは出来なかった。
 ただ帰る場所がないという少女を放っておくのも気が引けて、甚夜は自宅まで連れ帰ったのだ。
 説明を聞き終えて兼臣は小さく溜息を吐いた。

「どう言えばよいのでしょうか……私といい彼女といい、葛野様は女性を連れ込むのがお好きなのですね」

 失礼な話だ。
 一応言っておくが兼臣は無理矢理ここに転がり込んだだけで、決して連れ込んでなどいない。

「それよりも葛野様は本当に彼女が天女だと?」
「さて、な。だが異郷から訪れたというのは事実だろう」

『鬼そば』への道すがら、少女は物珍しそうに町並みを見ていた。服装に関しても違和を感じているようだった。異国から来たのか、それとも全く別の異界から来たのか。それは分からないが、日の本の文化とはかけ離れた場所にいたのではないか、と言うのが甚夜の推測である。

「で、だ。天女殿」

 話を振ると、顔を真っ赤にしたまま少女は言った。

「あの、葛野くーん? お願いだからその天女っていうのやめて欲しいんだけど……」

 あうあうとよく分からないうめきを上げながら、必死に天女という呼び方を否定する。 

「しかし、他の呼び名がない」

 少女は未だ名を名乗ろうとしない。ならば仮の名でもいいから呼称がないと話を進めにくいのだが。

「名は、名乗りたくないのだろう?」
「うん、それは……なんか変なことになりそうだし」

 何故とは問わない。
 彼女にも理由があるのだろうし、他人の秘密を詮索するような趣味はなかった。

「そうだな……ならば、朝顔というのはどうだ」
「朝顔?」
「ここにいる間の、お前の名だ」

 少女の浴衣の朝顔が鮮やかだった、それだけの理由で付けた名だ。我ながら安直だと思うが、あくまでも一時的な呼称。別にかまわないだろう。

「安直な名前ですね」

 甚夜自身思っていたことを兼臣に指摘される。

「そうだな。だが、“兼臣”に言われたくはない」
「私は偽名という訳ではありませんが」
「ぬかせ……で、それで構わないか」
「あ、う、うん!」

 戸惑いながらも少女──朝顔は、こくりと頷く。

「行くところがないならば、しばらくここにいればいい」

 自分でも予想外の、如何にもお人好しな科白だった。

「……いいの?」
「別に構わん。他に当てはないのだろう」

 それでいいな、と兼臣に視線で確認を取る。

「私は居候の身、否応もありません」

 そう言って席を立ち、出口の方へ向かう。

「何処に行く」
「話は終わりのようですから、出かけさせて頂きます。約束があるもので」
「約束……?」
「ええ、殿方との逢瀬が」

 随分と艶っぽい理由だった。
 彼女の言葉が意外過ぎて、うまく言葉を返せない。黙りこくる甚夜が面白かったのか、兼臣は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「相手は葛野様に勝るとも劣らない男前ですよ」

 そんな言葉を残し、涼やかな立ち振る舞いで店を後にする。何が言いたかったのかは全く理解が出来ず、その後ろ姿を見送るしか出来なかった。

「あいつは、読めん」

 心底そう思った。

「と、済まない、話が逸れた。それでどうする。無理には引き止めないが」
「あ、ええと」

 朝顔は俯き、しばらくの間逡巡する。
 少女は今一つ決めかねているようだった。今日出会ったばかりの男が泊まっていけと誘う。考えてみれば怪しいことこの上ない。彼女が迷うのもわかる気がする。
 しかし甚夜に他意はなかった。
 ただ帰る場所を失くした彼女が、遠い昔、行くあてもなく江戸を去り葛野に流れ着いた頃の自分を思い起こさせて、思わず呼び止めてしまっただけだ。泊まれというのは少女を心配した訳ではなく、単なる感傷に過ぎなかった。

「本当に、いいの? 私お金なんて持ってないし」
「これでもそれなりに稼ぎはある」
「自分で言うのもなんだけど、私、怪しいよ?」
「侮るな。寝首をかけるつもりならやってみろ」

 いつもの無表情を少し歪めて不敵に鼻で嗤う。
 その様子を見て、少女はどこか懐かしそうな眼をした。

「あはは、やっぱり、葛野君は優しいね」

 そうして遠慮がちに答えた。

「それじゃ、甘えさせてもらおうかな」

 迷いはあったようだ。しかし朝顔は先程までの戸惑うような硬い笑みではなく、ふうわりとした柔らかな笑顔を見せてくれた。



 
 ◆




「また……?」

 夕方。
 野茉莉が小学校から帰宅し、朝顔がこの家に居候する旨を伝えると、あからさまに曇った表情を見せた。

「あの、初めまして野茉莉ちゃん。えーと、朝顔、です」

 その名に慣れていないのだろう。ぎこちない自己紹介をするが、それでも不満げに野茉莉は頬を膨らませている。

「野茉莉」
「野茉莉……です」

 甚夜に促され、ようやくほんの少しだけ頭を下げる。それでも表情には寂しそうな色が残っていた。
 野茉莉はまだまだ幼い。甘えたい盛り、父が他の者に構うのを嫌がっているのだろう。
 考えてみれば最近は鬼の討伐にかまけてあまり遊んでやれていない。もう少し、娘を気遣ってやるべきだった。

「済まない、勝手に決めてしまって」
「……うん、でも父様がそう決めたなら」
「そうか。では代わりと言ってはなんだが、今度一緒に出掛けるか」
「……本当?」
「ああ。一週間後、荒城で縁日……お祭りがあるらしい。偶には屋台を冷かすのも良いだろう」
「お祭り?」

 沈んだ顔が明るくなった。大きく目を見開き、先程とは打って変わった元気な表情で甚夜を見上げる。どうやら、機嫌を直してくれたらしい。
 野茉莉の頭を撫でながら穏やかに語り掛けうる。

「そうだな、折角だ。明日はその時に着る浴衣でも見に行くか」
「うんっ。父様、約束だよ?」

 まったく、現金なものだ。
 呆れながらもそんな娘が可愛らしく思えて、甚夜は苦笑を落した。そんな親娘の遣り取りを朝顔は微妙な表情で眺めている。

「……葛野君って、本当にお父さんだったんだね」

 その言葉に野茉莉が帰ってくる前の問答を思い出す。

『私には娘がいる。帰ってきたら紹介しよう』
『むす、め?』
『ああ』
『冗談、だよね?』
『本当のことだが』
『でも、え? からかってるの?』
『そんなつもりはない』

 朝顔は頑なに娘の存在を信じようとしなかった。もっとも甚夜の外見を顧みれば仕方のないことではあるが。

「だから本当だと言っただろう」
「それはそうだけど……普通に考えて嘘か冗談だって思うよ」

 それもそうか。
 自分でも納得してしまい、それ以上の言葉は続けられなかった。

「でも、意外と親馬鹿だよね」
「よく言われる」
「よく言われてるんだ……」

 その返しにくすくすと、堪え切れず笑い出す。
 もう硬さは残っていない。朝顔は、柔らかな笑顔で甚夜達を見詰めていた。 





 こうして、天女は地に囚われた。
 
 縛られたのは体か。
 それとも、飛ぶことを忘れた心だったのか。




[36388]      『林檎飴天女抄』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/06 02:11


<八月九日>

 ふと奇妙な違和感に目を覚ます。
 
「ん……」

 寝ぼけ眼をこすり、辺りを見回せば、そこは見慣れない畳敷きの部屋。隣で眠っている幼い女の子。もう一つあった布団は綺麗に整え片付けられている。此処は何処だろうと考え、昨日のことを思い出す。
 昨日は、確か。
 脳裏に浮かぶ、自身の身に起こった荒唐無稽な出来事。

 そうだった。
 私はなんだかよく分からないけど、明治時代に来てしまったんだ。

 少女は溜息を吐いた。
 此処に来た原因は分からない。つまり今の所自分が元いた場所へ帰る手段はないということだ。知り合いに会えて昨夜の寝床は確保できたのは幸いだったけれど。

「明治時代でクラスの男の子に会いました、なんて誰も信じてくれないよねー……」

 思わずくすりと笑う。
 少女が甚夜と自分の知っている“彼”を繋げて考えられたのは、以前本人から正体は鬼で、百歳を超えているのだと聞いていたからだ。

 そして腰に差した、夜来と呼ばれる刀。
 夜来は自分の愛刀で、集落の長に託されてからずっと使い続けた。
 他人に預けたのは後にも先にも一度しかないと彼は言っていた。

 だから葛野甚夜と名乗った男が同姓同名の他人の空似でもご先祖様でもなく、彼本人なのだと理解できた。

 でも、これからどうしようか。
 彼の厚意で取り敢えずは助かった。
 だけど、いつまでもこのままという訳にもいかない。
 思い悩んでいると、物音が聞こえた。誘われるように寝床を抜け出し、襖を開けてみる。
 其処には、黒の羽織と灰の袴を纏う、見知った男がいた。
 
「起きたのか」

 この家の主、甚夜は店舗の厨房で何か作業をしている。見れば竈には火が入っており、ことことと鍋が音を立てていた。どうやら朝食の準備をしているようだ。

「え、と。葛野君、おはよう」

 挨拶をしてから自分が起き抜けだったことを思い出し、少女───朝顔は頬を赤く染めた。流石に起きたばかりの姿を男の子、しかもクラスメイトに見られるのは恥ずかしかった。

「顔を洗いたいんだけど、どうすればいい?」
「裏の庭に小さな井戸がある。使え」
「あはは、井戸、ね……」

 苦笑いを浮かべる朝顔。何かおかしなことを言っただろうか、と甚夜は疑問を抱いた。しかし問うよりも先にぱたぱたと庭の方へ向かっていく。

「兼臣といい、最近の若い娘はよく分からん」

 そんな愚痴を零しながら、小さく溜息を吐いた。


 ◆


「いらっしゃいませー!」

 いつも通り昼時を少し過ぎ、店が落ち着いた頃を見計らって秋津染吾郎は『鬼そば』へ訪れた。
 暖簾をくぐれば元気な声に迎えられる。声の主は可愛らしい少女で、普通ならば気分がよくなるところだろうに、染吾郎は違和感に目を白黒させた。

「あれ、僕、店間違えた……?」
「お師匠、間違ってないです」

 この店にいる女は旧知である兼臣だけだと思っていたので、染吾郎の驚きは大きかった。
 彼の弟子である平吉は普段通りむすっとした顔である。とは言え見慣れない店員に興味があるようでちらちらと目の端で追っている。
 
「染吾郎か」
「なあ、甚夜? あー、兼臣は?」
「殿方と逢瀬、だそうだ。何にする」
「あー、うん、そやね。きつね蕎麦もらおかな。平吉は?」
「……天ぷら蕎麦で」

 歯切れの悪い二人、しかし応対する甚夜は至っていつも通りだ。
 そうまで普通にされると間違っているのは自分達の方ではないかと思ってしまう。ぎこちない動きで二人は近くの席に腰を下ろす。
 すると先程の少女──朝顔が、お盆に湯呑を乗せて近付いてきた。

「はい、どうぞっ」

 朗らかな、実に少女らしい笑顔だった。
 小柄で、顔立ちは幼げ。後頭部の下の方で髪を纏めた、見慣れない赤い飾り布。朝顔の浴衣で店内をちょこまかと動く姿は、小動物的な可愛らしさがある。
 しかし普段の鬼そばを知っているだけに、どうにも朝顔の存在を奇異なものと感じてしまう。

「……あ、ありが、とう?」
「……ども」

 詰まりながら言葉を返す。表情は軽く引き攣っていた。








「はあ、天女なぁ」

 取り敢えず今までの経緯を説明すると、染吾郎は大きく溜息を吐いた。

「世の中には不思議なことがあるもんやね」
「お前が言えたことではないだろう」
「そらごもっとも」

 もともと荒城稲荷神社の話を持ってきたのは染吾郎だ。話を聞いてから納得するまでは早かった。

「と、自己紹介がまだやったね。僕は秋津染吾郎、こいつの親友や」
「だから誰が親友か」
「あはは、君は照れ屋やなぁ。ほれ、平吉」

 今度は弟子に挨拶させようと促すが平吉は名乗らない。朝顔に懐疑的な目を向けている。

「光と現れた……? なんやそれ。こいつも鬼なんちゃうか」

 光と共に現れた女。付喪神使いを志す彼にとっては、天女よりも鬼女の方がまだ説得力があるのだろう。向ける視線に興味ではなく、若干の敵意が見て取れた。

「あ、あの、ええっと」

 あからさまな態度に一歩二歩後ずさる。

「こら、平吉。すまんなぁ、朝顔ちゃん。こいつあほやから」
「いてえ!?」

 笑顔で朝顔を気遣いながら、平吉の頭にげんこつが振り下される。
 ごん、という音が響いた。結構な力を込めたらしい。平吉は頭を押さえて並で目立った。

「なにするんですかお師匠?」
「殴られた意味が分からんのやったら黙っとき」

 言葉の通り、ぐう、と押し黙り俯いてしまう。
 その様を見て、朝顔の方が慌て出す。

「あの、秋津さん? 私は別に怒ってないですから、あのその」
「あはは、朝顔ちゃんはええ娘やね。でも僕が怒ったんは別に、君を鬼やゆうたからちゃうよ?」
「え?」
 
 染吾郎の意外な返しに言葉が止まる。言った本人は、実に堂々とした、父性を感じさせる穏やかさで言葉を続けた。

「この子はいずれ付喪神使い、いや、四代目秋津染吾郎になるかも知らん。だから、鬼を前にしたからてあからさまな敵意を見せるような、そんな器のちっさい男やったら困るんや。清濁を飲み干すくらいの器量が無いと“秋津染吾郎”は譲れんよって」

 それは、まぎれもなく師としての言だ。
 またも平吉の目が潤む。今度はげんこつの痛みではなく、言葉に涙腺が緩んだ。

「お、お師匠」
「平吉。鬼を好きになれ、とは言わん。でも付喪神使いは付喪神を使う。取りも直さず鬼を使役するのが僕らや。せめて受け入れな、力に為ってくれんよ?」
「……はい」

 納得はしていないようだが、言いかえす程の反発もない。平吉は黙って蕎麦を食べ始める。仕方がない子だ、とでも言うように染吾郎は肩を竦めた。

「ごめんな、変なとこ見せて」
「いえっ、そんな」

 急に声を掛けられて朝顔はびくんと体を震わせた。

「そういや朝顔ちゃん、こいつんとこに泊まっとんの?」
「はい。おかげで野宿せずに済みました」
「ほうほう」

 それを聞いて染吾郎は、先ほどの師匠の顔から一転にたりといやらしい笑みを浮かべた。

「甚夜、えらいお盛んやなぁ」

 心底面白いといった様子、完全にからかう気だった。

「なにがだ」
「いやいや、娘おるくせに二人も女連れ込むとか。やるなぁ。よっしゃ、ちょい待ちぃ。今から東京行って来るから。そんでおふうちゃんに現状伝えてくるわ」
「ほう、その首要らんと見える」
「冗談、じょーだんやって。本気で睨むとかやめてえな」

 勿論染吾郎の軽口だと分かってはいる。だが放っておくと何処までも行くのがこの男だ。早めに止めておくのが身の為だろう。

「おふうさんって?」

 朝顔は興味津々といった様子で聞いてくる。隠すことでもない、甚夜は割かし素直に答えた。

「恩人だ」
「恩人?」
「おふうには様々なことを教えて貰った。今の私があるのは間違いなく彼女のおかげだろう」
「へー、恋人とか?」
「その手の艶っぽさはなかった。友人であり、姉のような。どうにも上手く言い表せないな」

 落とすような笑み。優しさに満ちた目。朝顔はそんな甚夜を見て実に楽しそうだった。

「どうした」
「え、なんか意外だなぁって。そんな顔もするんだね。それに親友もいるし」
「だから違うと言っている」
「またまたぁ」

 先程の説明では昨日会ったばかりということだが、それにしては随分と仲がいい。染吾郎は二人のやり取りを微笑ましく眺めていた。



 ◆




「父様、早く早く!」

 午後、小学校から帰ってきた野茉莉と共に甚夜は三条通にある呉服屋へと出かけた。
 兼臣は朝早くから「殿方と逢瀬に」出かけたまま帰ってきておらず、家では朝顔が留守番をしてくれている。おかげで今日は親娘水入らず、野茉莉は久々に父と出かけられるのが嬉しいようで、見るからにはしゃいでいた。

「そう引っ張るな」

 手を繋いだまま野茉莉が走るものだから、甚夜も引っ張られる形になり自然早足となっていた。
 嗜める言葉を口にしながらも表情は優しい。心地好い陽気、すれ違う人々もどこか楽しげに見える。数年前の京は動乱の最中にあり、こうやって遊山に出ることさえ危ぶまれた。
 それが今は穏やかに午後の時間を楽しむことが出来る。本当に時代は変わったのだ、今更ながらに甚夜は実感した。
 
 ───すれ違う人々の中には、携えた太刀に奇異の視線を向ける者もいる。

 時代は最早刀を必要としていない。
 その事実をまざまざと見せつけられたような気がした。

「いらっしゃいませ」

 辿り着いた呉服屋には所狭しと反物が並べられていた。とはいえ、陳列されている商品から上物を選べるほど着物には詳しくない。下手に自分で選ぶよりも聞いた方が確実だろう。そう思い甚夜は店主らしき恰幅の良い男に声をかけた。

「浴衣を見せて欲しい」
「浴衣ですか。それならば長板本藍染のものはどうでしょう。この藍染は、絹に染めるのと同じ様な細かい文様を木綿に染める技法で、これを使って染めた浴衣は絹の着物に負けないほど優雅で美しくなります」
「ふむ。どうする、野茉莉」
「父様が選んで」

 にっこりと笑う野茉莉。甚夜は軽く頭を掻いた。戦いならばともかく、審美眼には自信がない。しかし娘は期待しているようで、上目遣いにこちらを見ている。全く、難儀なことだ。

「あー、ではその長坂、なんだ」
「長坂本愛染ですね」
「その浴衣を。着るのはこの娘だ。柄は……そうだな、夕顔はあるか」
「はい、今お持ちします」

 そう言って店の奥に行く店主。待つ間は手持無沙汰になり、何気なく店内を眺める。

「お母さん、ありがとー」
「はいはい」

 見れば一組の母娘が買い物をしている姿。娘は何やら布のようなものを手に取り嬉しそうに笑っている。母親は買ったばかりのそれを娘の髪に結ぶ。それは朝顔が髪を縛るのに使っていた飾り布に似ていた。

「あ……」

 仲の良い母娘。その様を野茉莉はじっと見ていた。

「どうかしたか?」
「ううん、何でもないっ」

 笑顔で返す。しかしそんな寂しそうな眼をして何でもないもないだろう。もう一度問おうとするが、その時ちょうど店主が帰ってきてしまった。時期を逃し、先に買い物を済ませてしまおうと店主に向き直る。

「お待たせしました。こちらになります」
「すまない。ところで、あれはなんだ?」

 視線の先には先程の娘。あの飾り布が何なのか少し気になり店主に問う。

「ああ、あれはリボンですね」
「りぼん?」

 聞き慣れぬ言葉に眉を顰めれば、すかさず解説を入れる。

「リボンと言うのは、西洋から入って来た髪を結ぶための飾り布のことですよ。外国の女性はこれで髪を纏めるのだとか。まだまだ入って来たばかりで一般には浸透していないのが現状ですが、流行に敏感な御婦人方は目を付けているようです」
「ふむ……」

 洒落た女性の髪形といえば髷を結うか纏めるかくらいだと思っていた。しかし本当に時代は変わっているようだ。これからも新しい文化が日の本には入ってくるのだろう。ならばそれに触れるのも一興か。

「ではそのりぼん……リボンも貰おう」
「ありがとうございます。色はどうしましょう」
「白粉花……は流石にないな。桜色はあるか?」
「はい、では包ませていただきます」

 従業員に指示し、紙で浴衣とリボンを包む。
 それを見た甚夜はどうも奇妙な気分になった。
 紙で品物を包む行為は古く『折形』と呼ばれ、紙が広く普及した江戸では贈りものなどを包む様式として普及していた。和紙を選び、包み方に工夫を凝らし、そこには贈る側の遊び心と気遣いがあった。
 しかし印刷物が大量生産され始めた明治、簡易な包みが出回り、今ではこの折形はあまり見られない。
 
 古い時代、貴重だった紙を折る行為は儀礼と祈りの象徴だった。
 紙を折るのは心を込める行為に等しい。贈りものは一過性のものだが、そこには贈る側の心遣いがある。その心遣いを表すのが折形だったのだ。
 しかし今は大量生産の紙で作業として包装が行われる。


『諸外国が齎した技術により日の本は発展し、代わりに大切な何かを失っていく』


 畠山憲保が残した予言は真実だった。
 新しい文化を否定する気はない。だが新しいものの陰には失われていく何かが確かにあるのだと、一抹の寂寞を覚えた。


 ◆


 夕焼け空の帰り道、手を繋いで歩く二人。 
 橙色に染まる町並みの中、しかし野茉莉は何処か沈んだ様子だった。
 沈黙が続く。しばらくの後、野茉莉は上目遣いに甚夜の顔を覗き込んだ。

「ねぇ、父様」
「ん?」
「……私の母様ってどんな人だった?」

 躊躇いがちに問う。どうやら先程の母娘を見て、自身の母のことを思ったらしい。野茉莉はまだまだ幼い。やはり母がという存在が恋しいのかもしれない。
 甚夜は返答に迷った。
 野茉莉は捨て子であり、甚夜自身彼女の本当の両親など知る筈もない。だから彼女の問いには答えられないのだ。
 しかし、


『大丈夫だよ。あなたになら、この娘を託せる』


 例え血は繋がっていなくとも、野茉莉の母と呼ぶに相応しい女を知っている。

「お前の母の名は、夕凪と言う」

 いつか見た夕焼けを思い出してしまったからだろう。懐かしい幻聴に、自然とそう口にしていた。

「夕凪は、嘘吐きだった」
「嘘吐き?」
「ああ。例えば、夕凪は子供が嫌いだと言っていた」

 思い出す悪戯っぽい笑み。虚ろな場所で見た妻の所作が今も胸に残っている。それが嬉しかった。

「だが、お前を抱く手つきは優しかった。子供は嫌いだと言いながら、お前の行く末を心配していた。どれだけ嘘を吐いても、お前への愛情にだけは嘘を吐けない。そういう、不器用な女だった」

 鬼は嘘を吐かない。その理を曲げながら、しかし本当に隠したかった愛情にだけは嘘を吐けなかった。夕凪は自分自身が嘘の存在だと言った。しかし甚夜は、彼女こそが野茉莉の母だと今でも思っている。
 本当の両親のことは知らない。だが鬼の理を曲げてまで野茉莉を託してくれた彼女は、確かにこの娘の母親だった。

「野茉莉というのは“おしろいばな”のことだ。夕凪に咲く花……お前の名は、夕凪にあやかって私が付けたものだ」

 野茉莉はただ黙って耳を傾けている。その表情からは内心を窺い知ることは出来ない。

「私には母がいなかったら、どういう人間が正しい母なのかは分からない。だが夕凪は確かにお前を愛していた。母というのは、彼女のような人を言うのだろうと思わされたよ」
「……そっか。うん」

 そこでようやく野茉莉に笑みが戻った。

「ありがとう、父様。ちょっとだけ気になってたの。私の、本当の母様がどんな人なのか」

 その言葉に虚を突かれる。
“本当の”と野茉莉は言った。そういう表現を使うのは、甚夜が“本当の”親ではないと知っているから。自分が捨て子だったと理解しているからに他ならない。

「知っていたのか?」
「分かるよ」

 はにかんだような笑みで短く答える。
 考えてみれば野茉莉は甚夜が鬼であると知っている。鬼と人。異なる種族。これで実の親子だと勘違いし続けられる程、野茉莉は幼くなかったのだろう。
 野茉莉は瞳を逸らさず、真っ直ぐに甚夜を見詰めている。
 嘘や誤魔化しを口にしていい雰囲気ではない。小さく溜息を吐く。そうして甚夜は、出来ればずっと隠しておきたかった言葉を紡ぐ。

「お前の思う通りだ。私は、お前の本当の父ではない」

 自分の言葉がちくりと胸を刺す。
 しかしその科白を聞いた野茉莉は、穏やかな様子で首を横に振った。

「父様は、父様だよ」
「野茉莉」

 野茉莉は「母はどういう人だったのか」と問うた。本当の両親は、とは聞かなかった。それは何故か。その疑問を口にするより早く野茉莉は答えた。

「母様のことはね、ずっと知りたいって思ってたんだ。学校でもみんな自分の母様のことを話してるもん」

 手を繋いで歩きながら、歌のように流れる言葉。他愛のない雑談を思わせる軽さだった。

「でもね、父様はいるから。だからいいの。私にとっては父様が、“本当の”父様だよ」

 大人びた笑顔だった。
 野茉莉は言った。
 血が繋がっていないと知っている。しかし血の繋がった実の父などではなく、人ですらない甚夜こそが本当の父親なのだと。
 彼女はそう言ってくれたのだ。

「おしめを換えていたのが、ついこの間だと思ていたのだがな」

 気恥ずかしくなって思わず苦笑する。
 子供だとばかり思っていたが、いつの間にか大きくなったものだ。
 
「へへ」

 言った本人も恥ずかしかったのか、頬を赤らめていた。

「帰るか」
「うん。……あ」
「どうかしたか?」
「あのね、父様。母様が欲しいんじゃないからね?」

 唐突な野茉莉の言に戸惑い、上手く答えが返せなかった。
 しかし愛娘は攻めるような勢いで言葉を続ける。

「だから、母様のこと知りたかっただけで、欲しくないの」
「待て、なんのの話だ」
「……兼臣さんとか、朝顔さんとか。うちに泊めてるし」

 不貞腐れた顔に、言わんとすることがようやく分かった。
 つまり野茉莉は、父が兼臣や朝顔と結婚し、新しい母が出来るのではないかと危惧しているのだ。

「安心しろ、今のところそのつもりはない」
「……本当?」
「嘘は吐かん。そもそも私も今の生活で手一杯だ。今更妻を娶ろうとは思わんよ」
「そっか、へへー」

 嬉しそうに笑い、何事もなかったように家路を辿る。
 見上げれば夕凪の空が広がって、それがいつか、一日だけ妻になってくれた女の笑顔を思い起こさせる。甘ったるい感傷に揺らめく夕日。毎日のように見ている筈の夕焼けの景色が、今日は妙に美しく思えた。

「ねぇ父様」
「ん」
「父様にも、母様がいなかったの?」
「ああ」

 物心ついた時には既に亡くなっていた。葛野に移り住んでからも、育ててくれたのは白雪の父。母性というものを感じたことはない。
 短く答えた甚夜に向かって、野茉莉は無邪気な笑顔で言った。

「じゃあね、私が父様の母様になってあげる」
「なんだそれは」

 思わず苦笑が零れる。お父さんのお嫁さんになる、ならばよく聞くが、母親になるというのは初めてだった。

「父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの」

 妙なことを言うものだ。
 そう思いながらも零れる笑いが止まらない。馬鹿にしている訳ではなく、その言葉が嬉しかったから、止めることが出来なかった。

 野茉莉は、母がいないと言った自分を慮ってくれているのだ。
 
 本当に大きく、そして優しく育ってくれた。
 正直に言えば、自分が父親という役割を果たせているのか、今一つ自信がなかった。だが野茉莉はこうして、誰かを慈しむことのできる娘に育ってくれた。だからその優しさの分くらいは誇っていいだろう。
 握り締める手に小さく力を込める。

「そうか、ならば楽しみにしている」
「うんっ」

 夕日に映し出された影は長く、重なり合って一つになる。
 帰り道、我が家はそろそろ見えてくる。この穏やかな時間も終わりが近づいていた。

 しかし、もう少しだけこうやって歩いていたい。
 
 いずれ訪れる終わりを予見している。
 だからこそ、揺らめき滲む夕日にそんなことを思った。







「あ、おかえりー」

 鬼そばへ戻ると小さく手を振りながら朝顔が出迎えてくれた。

「ただいまー!」
「えっ!?」

 野茉莉が元気よく挨拶したことに驚き、思わず声を上げる。昨日は明らかに歓迎していない様子だったが、一日経って態度が百八十度変わっている。そのあまりの変化に思考が付いていかない。

「あ、うん、おかえ、り? えっと、いいの買えた?」

 戸惑いながらも声を掛ければ、帰ってくるのはやはり笑顔。

「うんっ、朝顔さんにも後で見せてあげるね!」

 言いながら買ったばかりの包みを抱え、店の奥へとぱたぱたと小走りに向かう。

「……どうしたの、あれ?」
「いや、まあ、な」

 甚夜も曖昧な言葉で濁すのみ。
 取り残された朝顔は微妙な顔をしていた。





[36388]      『林檎飴天女抄』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/13 20:00
<八月十日>

「そう言えば、兼臣さんは?」

 朝早く目覚め顔を洗い、浴衣に袖を通した朝顔は店内を見回し問い掛けた。

「もう出かけた。また殿方との逢瀬らしい」
「そっかぁ。ところで、あの刀って兼臣だよね?」
「ああ。夜刀守兼臣……所謂妖刀だ。よく知っていたな」
「本物をね、見たことあるんだ」

 朝顔は力ない笑みというか、何とも言えない表情を浮かべる。何処で見たのか突っ込んで聞いてもいいが、今の様子を見るに答えては貰えないだろう。だからさっさと話題を切り替えることにした。

「昨日はよく眠れたか」
「うん、おかげさまで。本当に、葛野君にはお世話になりっぱなしだね」
「泊めたくらいでそう言われても返答に困る。それに店を手伝ってもらっている」
「それくらいするよー。結構楽しいしね。案外ウェイトレスとか似合うかも私!」
「うえいとれす?」

 知らない単語に聞き返せば。何が面白かったのか、くすくすと笑っている。そうして不意に、朝顔は寝床の方に目を向けた。

「気にしない気にしない。それにしても、よく寝てるね、野茉莉ちゃん」
「ああ」

 多分寝たふりなのだろう、とは言わなかった。

「それにしても、懐いてるよねー」
「あまりからかうな、まだまだ甘えたい年頃なのだろう」
「あはは、分かってるって」

 鬼そばで暮らし始めてから二日目、朝顔もだいぶ慣れたようでよく笑う。見知らぬ土地で不安を抱えているかと思えば、そうでもない様子だった。

「何回も聞くけど、葛野君の娘さんなんだよね」
「ああ」
「やっぱりなんか変な感じ」
「よく言われる」

 甚夜の外見は十八の頃のまま。九つになる野茉莉と並んでも親娘に見えないことは重々理解していた。その事実が、次第に親子と思われなくなってきている現実が少しだけ痛い。しかし平静を装い、何事もなかったように会話を切り上げる。

「さて、と。そろそろ朝食にしよう。野茉莉を起こしてくる」

 そうして寝床の方へ向かい、途中で足を止め甚夜は振り返った。

「ああ、そうだ。私は野茉莉を送り出してから出かけるが、お前はどうする」
「え、何処に行くの?」
「荒城神社だ」
「それって……」

 不思議そうな表情を浮かべる朝顔に、甚夜はいつも通りの無表情で言った。

「“狐の鏡”は天女を空へ還したという。調べない手はないだろう」



 ◆




 野茉莉を小学校へ送り出した後、甚夜達は三条通にある荒城神社へと向かった。
 再び訪れた神社は昨日よりも縁日の準備が進んでいる。それに比例して人の数も増えていた。
 境内には既に多くの屋台が建てられており、神社特有の静謐な空気はない。喧噪は止まず、祭りの日が近付いているのだと実感できる。

 喧噪に紛れ、甚夜と朝顔は神社を見て回っていた。

 その理由は勿論縁日の下見などではない。
 秋津染吾郎が語った謎の光。現実として存在する、この地ではない何処かから降り立った少女。朝顔が本当に天女なのかは分からない。しかし何らかの怪異に巻き込まれたことだけは間違いない。

 そしてその中核にあるのは、狐の鏡。
 天と地を繋ぐという祭器なのだろう。
 そう考えた甚夜は再度荒城神社を訪れた。現状、全くと言っていいほど情報がない。神社を観覧するだけで得られる情報などたかが知れているが、彼女を空へと返す手段、その糸口でも掴めればと藁にも縋る思いで足を運んだ。

 稲荷神社だけあって、鳥居を潜れば狐の石像が出迎えてくれる。
 石畳の両脇に狐の石像が設置されているのだが、何故か二つとも左目の部分が潰されていた。それ以外には特に気になるところはない、普通の神社といった風情だった。
 さて、外観を見ているだけでは意味がない。
 狐の鏡を調べる為、本殿に忍び込んでみるべきか。そう思った瞬間見知った顔が声をかけてきた。

「あら、甚夜様?」
 
 荒城稲荷神社の神主、国枝利之。その妻、名前は確かちよと言ったか。
 初老の女は柔和そうな笑みを浮かべ近付いてくる。流石に無視して本殿へ忍び込む訳にもいかず、甚夜はちよに向かって軽く一礼をした。
 それに対しちよも会釈で返す。若い頃は折り目の付いた美人だったのだろう。頭を下げる所作さえ典雅だった。

「そちらの方は」
「あっ、初めまして、朝顔です」
「はい、初めまして。ちよと、申します」

 もう名乗りにも為れたのか、朝顔は淀みなく偽名を口にする。
 それは置いておくにして、甚夜には気になることがあった。初めて顔を合わせた時、ちよは甚夜が名乗るよりも先に名を呼んだ。その違和に、僅かながら目が細められる。

「ちよ殿。私は、まだ名乗っていなかったと思いますが」
「ええ。ですが名は聞き及んでおりますので」
 
 しかし疑問は直ぐに解消された。単に夫から聞いたというだけの話だったらしい。

「そうですか、失礼しました」
「いいえ、こちらこそ」

 ゆったりとした礼を見せ、次いでちよは朝顔の方に視線を向ける。

「そちらは……奥方様ですか?」
「ち、違いますっ!?」

 朝顔が大声で否定する。余程恥ずかしかったらしく顔も赤い。そんな彼女を見て、ちよは余裕のある笑みを浮かべている。

「あら、そうでしたか。夫婦連れだって縁日の下見に来られたのかと思いました」
「だ、だからっ」
「ふふ、可愛らしい方ですね」

 朝顔の言い分を軽く流し微笑む。

「今日はどのようなご用向きで?」
「国枝殿に少し話を聞かせて頂こうと思い訪ねました。呼んでいただけますか?」
「はい、ただ今。……ところで、甚夜様」
「なにか」
「いえ、大したことではないのですが……どうか、敬語を使わず普段通り喋って頂けないでしょうか」
「は?」

 ちよの意外な願いに間の抜けた声を発してしまう。しかし当の本人はいたって普通。当たり前のことを言っただけ、といった風情だった。

「甚夜様に敬語を使われるのは、なにか奇妙に思えまして。出来れば畏まらず、呼び捨てて頂きたいのです」
「いえ、流石にそれは」

 会って間もない女、それも人の妻を呼び捨てるなど出来る筈もない。本人の希望ではあるが受け入れることは出来なかった。

「……残念です。では今、利之を呼んで参ります。そこで少々お待ちください」

 指し示したのは境内の一角に並べられた長椅子だ。おそらくは縁日の最中休憩所代わりに使われるのだろう。二人は並んで椅子に腰を下ろし、縁日の準備で騒がしい境内を眺める。

「お祭りがあるんだよね?」
「ああ」
「いいなー、私も行きたいなー」
「何ならお前も来るといい」
「ほんと?」
「野茉莉を優先するから然して相手は出来んが」
「葛野君、なんというか本気で野茉莉ちゃん大好きだよね」

 親馬鹿ぶりに軽く溜息を吐く朝顔。二人はぽつりぽつりと雑談を交わす。
 しばらくすると長椅子の方へと歩いてくる人影を見つけた。

「どうも、葛野さん」

 神主は直ぐ傍まで近寄り、ゆっくりと丁寧にお辞儀をした。甚夜達も礼を返し、朝顔が自己紹介を終えてから本題に入った。

「今、お時間はよろしいですか?」
「縁日の準備を監督せねばなりませんが、少しなら」
「でしたら、話を聞かせて欲しいのですが」
「構いませんよ」
「有難う御座います。では、狐の鏡という話をご存知でしょうか」
「勿論、これでも神主ですから。当社に祭られている御神体の説話くらいは」

 そうして神主は淀みなく語り始める。
 
 鍛冶の村で生活する若者と言葉を喋る子狐。
 地に降りてきた天女の羽衣を焼く若者。
 天へ帰れなくなった天女は若者の妻となる。
 長らく続いた幸福な日々。
 病に倒れる天女。
 狐を焼き、その灰を練り込んで造り上げた鉄鏡。
 鉄鏡は天女を空へと還す。
 離れ離れになっても、互いは夫婦だと約束を交わし、物語は終わりを告げる。

「と、このような話になっています」

 神主が語った“狐の鏡”の説話は兼臣のそれと差異はない。やはりこの神社の御神体には天女を空へ還したという伝説が残っているようだ。

「どうです。おかしな話でしょう」

 面白そうに神主は言う。

「おかしな、ですか?」
「ええ。この京の町には古くから多くの天女譚が残されています。ですが狐の鏡の説話だけは、少しおかしいのです」
「そういえば、天女を空へ還すってお話は珍しいよねー」

 朝顔が感想を述べると、神主はゆったりとした様子それを否定する。

「いえ、そうではありません。この話は京の天女譚として、根本的に間違えて作られているのです」

 それはどういう意味だ。
 問おうとしたが、神主は遮るように声を被せた。

「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」
「つまり狐の鏡には嘘があると?」
「はい。そして同時に掛け値のない真実が含まれている。説話とはそういうものです」

 神主の言葉が意味するところはうまく掴めない。朝顔も同じようで、しきりに首を傾げていた。

「朝顔さん、でしたか」
「は、はい」

 急に話を振られ、朝顔は慌てて受け答えをする。

「お祭りはお好きですか」
「へ? あ、えーと」
「はは、すみません。五日後の八月十五日、この神社で縁日が行われるのです。もしよろしければ葛野さんとご一緒に来られてはいかがですか」
「はぁ」

 急な話題の転換に着いて行けず、朝顔はただ曖昧な答えを返すだけだった。しかし気にした風でもなく神主は言葉を続けていく。

「当日は屋台が並び、実に賑やかな祭りとなります。朝顔さんは、何か好きなものはありますか?」
「えーと、屋台だと……わたあめとか、林檎飴かなぁ。甘いの好きだから」

 その言葉に、神主はゆっくりと、満足げに頷いた。

「いいですね、林檎飴。私も好きですよ」
「あ、そうなんですか?」
「はい。あれを食べるとお祭りに来たという気がします。大きすぎて食べにくいのだけはどうにかしてほしいですが」
「あはは、分かります」

 同意する朝顔に気をよくしたのか、神主は次々と縁日の話を語って聞かせてくれる。正直な所甚夜は狐の鏡を調べにこの神社に訪れたため、縁日の話には然程興味がなかった。この話題を切り上げたいのだが。

「あなた、そのくらいに」

 そう思った矢先、神主を止めたのは、ゆっくりと近付いてきた淑女だった。

「ああ、ちよ」
「失礼します、お茶をお持ちしたのですが」

 言いながら手にしたお盆を長椅子の上に静々と置く。お盆には湯呑が二つと、茶請けを乗せた小皿が二つあった。

「こちらもどうぞ」
 
 柔らかい笑顔。小皿には磯辺餅が乗せられている。茶を出すまでに時間がかかったのはどうやらこれを準備していた為らしい。

「あ、磯辺餅だ。葛野君、よかったね」

 にっこりと笑う朝顔に眉を顰める。
 どういう意味だと問おうとして、それよりも早くちよが言った。

「お好きかと思ったのですが、違いましたか?」
「……いえ、好物です」
「よかった、どうぞ召し上がってください」

 ほぅ、と安堵の息を吐く。
 しかし甚夜の胸中には再び違和感が生まれた。朝顔も、ちよも。自分の好物が磯辺餅だと知っているかのような口振りだった。小さなことかもしれない、しかしどうにも気にかかる。

「すみません、夫は話し始めると長いものですから」
「寧ろ引き留めたのは当方です。申し訳ない」

 問い詰めることはしなかった。
 少なくとも悪意や敵意の類は感じられない。ここで問い詰めて関係を悪くすることは避けたい、少なくとも狐の鏡の詳しい情報を得るまでは。
 甚夜の謝罪を笑顔で受け入れ、ちよはちらりと神主を横目で見た。それを受けてばつの悪そうな表情を浮かべている。

「お話も良いですけど、相手の都合を考えてあげないといけませんよ」

 まるで子供を嗜めるような物言いだった。

「いや、済まない。御二方も申し訳ありませんでした。つい、懐かしい気分になってしまって」
「懐かしい……ですか?」

 不思議そうに問うた朝顔に、回顧の念を催させる声音で答えた。

「ええ。……実はちよ、妻と出会ったのは縁日の夜なのです」

 遠い目で拝殿を眺めている。

「妻は、以前ここではない神社で巫女を務めておりまして。私はそこで彼女と出会いました。言ったでしょう、私はこの祭りが毎年楽しみなのだと。それは、妻と初めて会った夜のことを思い出すからなのです」

或いはかつての情景を其処に映しているのだろうか、穏やかな目をしていた。

「今でも覚えています。見たこともない満天の星、祭囃子。行燈の光に揺らめいた夜の神社。そして、その中で佇む少女」

 ゆったりと、万感に満ちた声音で神主は言う。

「あの夜、出会ったちよは……まるで、本物の天女のようでした」

 彼女もまた、天女であるという。 
 ちよに照れた様子はなく、彼女もまた昔を思い出しているのか、柔らかく微笑んでいる。寧ろそれに当てられた朝顔の方が照れた風に下を向いていた。

「天女……」
「勿論比喩ですよ。ですが、私にとっては彼女こそが天女だった」
 
 何処か意味深な表現。何を言いたいのかは分からない。しかし何故か、重要なことを聞いたような気がした。

「そうだ、葛野さん、朝顔さん」

 神主は何かを思い立ち、急に話を変えた。

「もしよろしければ、狐の鏡をお見せしましょう」

 そして悪戯を成功させた子供が浮かべるような、無邪気な笑みでそう言った。





「これが、狐の鏡」
「はい。天と地を繋ぐと言われる祭器です」

 神主に案内されるままに甚夜達は本殿へ足を踏み入れた。
 奥に安置された鉄鏡はくすんだ色をしていて、何処か野暮ったい印象を受ける。趣がある、と言えば聞こえはいいが、正直なところ古ぼけた鏡にしか見えなかった。

「見た目には古い鏡でしかありません。しかしこれは、確かに説話と同じ力があります」

 確信を持って紡がれた言葉に、甚夜は眉を顰めた。
 驚きはない。特異な力を有する器物は今迄にも見てきた。だから狐の鏡が説話通りの力を持っているとしても騒ぎ立てるようなことではない。
 しかし違和感があった。何故、彼はそれを断言できるのか。

「それは、どういう」
「以前、この鏡は過去に説話と同じ力を、即ち天と地を繋いで見せたのです」

 きっぱりと言い切った。それは聞き及んでいる、というあいまいな表現ではなく、実体験を基にした力強い言葉だった。

「だから、多分。天女を空に返すことも出来るでしょう。朝顔さん」

 振り返り、朝顔をまっすぐに見据える。
 先程からの物言い。間違いない。神主───国枝利之は、狐の鏡の力も、朝顔が天女であることも理解している。理解しているからこそ本殿まで案内したのだ。

「なん、で?」

 話してもいないのに、こちらの事情を知っているのか。
 動揺する朝顔に、神主は安心させるように穏やかに語り掛ける。

「二度目ですから、分かりますよ。貴女が此処ではない場所……いえ、遠い遠い歳月の果てから来たことくらい」

 だから以前は入ることを拒んだ本殿へと案内をした。
 神主の言葉は恐らく厚意なのだろう。その態度は実に穏やかで、神職に携わるものらしく父性に満ちている。
だというのに、まるで怯えるように朝顔は小刻みに震えていた。
 そんな少女の様子を眺めながら、神主は懐から小刀を取り出す。

「発動の条件は血液。さあ、狐の鏡に血を。そして触れてみてください。そうすれば貴女が願う場所へ、望む時へ、帰ることが出来ます」

 荒唐無稽なことを真顔で言う。しかしその同窓とした態度には、それを信じさせるだけの雰囲気があった。

「え、あの。でも」
「どうしました、貴女は、これで帰れるのですよ。喜ばしいことでしょう」

 さあ、と目の前に小刀が差し出された。
 朝顔は固まったように動かない。いや、動けなかったのかもしれない。表情には驚きと、僅かな恐怖と、あからさまな戸惑いがあった。
 しばらく二人は動かないままになった、しかしようやくゆるゆると朝顔が動き始める。
 そして、

「ご、ごめんなさい! やっぱりもうちょっと心の準備をしたいかなー、なんて。あはは……」
 
 力のない、空気が抜けるような笑い声。
 誰も言葉を発さず時間だけが流れる。
しかしどれだけ時間が経っても朝顔は小刀を受け取らなかった。

「……そうですか」

 ゆっくりと神主は頷き、じっと朝顔を見据えた。

「ならもしも必要になったら、声を掛けてください。八月十四日。縁日の前日までなら構いません」

 その言葉に甚夜は少し眉を顰めた。

「縁日の前日、というのは何か理由があるのですか?」
「いいえ。ただ、祭りの日まで残るようであれば、きっと帰れはしないでしょうから」

 何故か寂しげに、彼は言った。
 遠い何処かを眺めるような、透明な目だった。
 




[36388]      『林檎飴天女抄』・5
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/06 02:24

<八月十一日>

「ありがとうございましたー」

 店内に少女の声が響く。
 朝顔が『鬼そば』に寝泊まりしてから三日経った。
 その間何もしないのでは居心地が悪いと朝顔は店員の真似事や皿洗いなどをして手伝ってくれている。日も傾き、最後の客を送り出したところで今日は店仕舞い。暖簾を片付け、ようやく晩の食事となった。
今日の食事はかき揚げに味噌田楽、きゅうりとわかめの酢和え。葱と油揚げの味噌汁。若干店の残り物が混じっていが、それなりに豊かな食卓である。

「兼臣さん全然帰ってこないね」

 かき揚げをつまみながら野茉莉が言った。最初は兼臣が居候することに反対していたが、今では然程気にしていないらしい。声には心配するような響きがあった。

「放っておいてやれ。あいつにも理由があるのだろう」

 ここ数日兼臣はよく出かけており、一緒に食卓を囲むことがない。しかし甚夜はそれ程気にしていなかった。本人は「殿方と逢瀬に」などと言っていたが、そんな艶っぽい理由でないことくらいは分かる。
 だから問い詰めることもない。助力を乞われれば手は貸そう。それくらいの気持ちでいた。

「美味しいねー、これ」
「うん、おいしーね」

 初日の顔合わせでは固い雰囲気だったが、野茉莉も朝顔も随分打ち解けた。
 かき揚げを頬張りながらにこにこ笑う朝顔は、年齢では上だろうに野茉莉と同い年に見える。二人して黙々と口を動かす姿は姉妹のようで実に微笑ましかった。

「葛野君って料理できたんだ?」
「当然だ。野茉莉に下手なものを食わせる訳にはいかん。まあ、かき揚げは店の残りだが」
「なんか完全にパパさんだ……」
「ぱぱ……?」

 いちいち問うのも面倒なので流しているが、相変わらず朝顔は時折意味の分からない言葉を使う。彼女はやはり日本とは違う文化圏で過ごしたのだろう。それが言葉の端々から理解できる。

「ん、どうかした?」

 どうやら意識せず朝顔に見入っていたらしい。
 といっても艶っぽい理由ではない。
 彼女は本当に楽しそうだ。しかしその笑顔にどうしようもなく違和を感じる。

「いや……」

 彼女は天女だ。
 故郷を離れ異邦の地へ訪れ、帰る術を失った。
 だからこそ彼女の態度に疑問が浮かぶ。
 天から地へと降り立った天女。
 空へ還る道を見つけながら、しかし朝顔は決して昨日のことには触れようとしなかった。



 ◆



 夜も更けた。野茉莉を寝かしつけてから甚夜は店舗へと戻り酒を呑んでいた。揺れる行燈の灯りだけが肴。それでも喉を流れる熱さはそれなりに心地よかった。

「……葛野君?」

 甚夜の用意した寝間着代わりの浴衣のままで、朝顔はふらりと姿を現した。
 
「起こしたか」
「ううん、ちょっと眠れなくて」

 はにかんだような笑みを少し寂しげだと思ったのは、きっと夜の暗がりのせいだろう。楽しそうに笑う朝顔は此処にはいない。まるで迷子の子供のような、頼りない少女がいるだけだった。

「お前も呑むか?」
「ううん、お酒、呑めないから」
「なら茶を淹れよう。座っていろ」

 言いながら厨房へと向かう。既に竈は落してしまったが、一度朝顔とはしっかりと話をしてみたかった。少し手間だが火を起こすことにした。

「ごめんね」
「いや、考えてみればゆっくり話していなかった。これもいい機会だ」

 淹れた茶を朝顔に差しだし、向かい合わせに座る。素直に一啜り茶を飲んで、朝顔は何処か気だるげに笑った。

「本当、葛野君にはお世話になりっぱなしだね」
「気にするな。ここでの生活は慣れたか」
「うん。最初は戸惑ったけど、慣れると楽しいよ?」
「ならよかった」

 本当に、彼女は楽しそうに笑う。
 不安を感じていないようにさえ見える。唯一、彼女が不安げな表情を見せたのは、帰る手段が見つかった時だけだった。

「……ね、聞きたかったんだ」
「ん?」
「なんで、私のこと泊めてくれたの? 多分、普通はいくら困ってるからって見ず知らずの人を止めたりなんかしないよ?」

 彼女の言う通りだ。
 しかし甚夜には朝顔を見捨てることが出来なかった。

「昔、な。当てもなく家を出た私を拾ってくれた人がいた」

 遠い過去を思い出す。
 鈴音と共に江戸を離れた雨の夜。
 冷たい雨に打たれて、前に進めなくて、でも帰る場所なんて何処にもなくて。
 このまま死んでいくんだろうな、なんて思った。
 だけど、手を差し伸べてくれた人がいた。

「多分それをずっと覚えていた。だから、柄にもないことをする気になったのかもしれん」

 自分の背景を知らない彼女には理解できないだろう。しかしこれ以上話す気はなかった。どうせただの感傷だ。話したところで意味はない。

「私も聞かせてほしいことがある」
「うん? なに?」

 お茶を一口啜り、笑顔で彼女は答え。

「元いた所は、つまらないか?」

 凍り付いたように息を止めた。 

「……なんで?」

 たっぷり十秒は沈黙し、絞り出すような声で返す。
 甚夜は静かに酒を呑みながら、どうでもいいことのように続けた。

「今のお前を見てると、なんとなく、な。納得できなければ年の功とでもしておけ」

 無造作な言葉に力なく項垂れた朝顔は、そのまま机に突っ伏した。顔を上げようともしないが、責める気にはなれない。それくらいに彼女は疲れて見えた。
 
「で、どうだ?」
「つまらない訳じゃないよ、別に。友達もいるし。……でもね、時々なんか疲れる」

 いつも楽しそうにしていた朝顔が見せる、初めての憂いだった。

「学校に行って、勉強して、友達と一緒に帰って。帰りにはいろんなところに遊びに行くの……毎日すっごく楽しいよ」

 その言葉に嘘はない。それなのに声は沈み込んでいる。

「でも時々ね、同じくらい、すごく息苦しくなる。みや……友達の女の子は神社の巫女さんで、私と同い年なのにすっごく大人なんだ。見た目が、じゃなくてね。やりたいことをもう見つけて、勉強だって私よりもできて」

 乾いた笑み。似合わない。ぼやくように朝顔は続ける。

「クラスで隣に座ってる男の子もね。すっごいの。強くって、優しくって。自分が痛い思いをしても目的の為に頑張ってる。そういうのを見てると、毎日楽しいだけの私は、なにやってるんだろって思っちゃうんだー……」

 朝顔が、天女が地に堕ちた原因をいくつか考えていた。
 鬼の<力>、狐の鏡。しかしその想像が今では空虚に思える。
 本当は、ただ逃げだしたかっただけなのかもしれない。
 当たり前に過ぎる毎日が息苦しくて、少しだけゆっくりと呼吸がしたかった。 
 幸か不幸か、それは叶えられた。
 天女はそうして地に堕ち、空を忘れようとした。

「楽しいのはいけないことか?」
「ううん、そんなことないよ。でも、苦しんで頑張ってる人の方がすごいと思うから」

 だから帰り道が見つかって戸惑った。
 楽な呼吸が出来るようになったから、窒息しそうな“当たり前の日常”に戻るのが怖くなった。
 それを責めることはきっと誰にもできない。

 見上げれば、いつか見た、晴れ渡る空。

 天女は、果たして何に囚われていたのだろう。

 彼女を繋ぎ止めていたもの。
 彼女が繋ぎ止められたもの。

 地に縛られたのは体か。
 或いは、飛ぶことを忘れた心だったのか。
 
 もしかしたら天女は、天女であることにこそ縛られていたのかもしれない。
 朝顔もまた、天で“当たり前の日常”を過ごす自分に囚われていたのだろう。

「ねぇ。葛野君は、今、幸せ?」

 ようやく朝顔は顔を上げて、じっと甚夜の目を見た。

「……どうだろうな」

 一拍子置いて酒を煽り、ゆっくりと答える。

「無論、不幸と言うつもりはない。だが“そうだ”と臆面なく答えられる程も強くもなれなくてな。情けない話だが」

 憎しみに身を窶す男が幸福をどの口で語るのか。どれだけ変わり、大切な物を得たとしても、胸にある憎しみだけは消えてくれない。
 甚夜にとってはそれが“当たり前の日常”で、娘を得て穏やかな生活を送ったとしても、生き方までは変えられなかった。

「そっか」

 案外、二人は似た者同士だったのかもしれない。
 自分に縛られているのは甚夜も同じ。ただ立ち止まると愚痴や溜息がどっと出てきそうだから、今まで必死になって進んできただけ。
 そういう生き方を重いと思えるようになったのは、きっと今まで出会った多くの人々のおかげだ。しかしそれでも曲げられないものがある。

 なんとなく、朝顔が「息苦しい」といった意味が分かった。
 今を否定する訳ではない。十二分に満足できる。けれど、自分であり続けるということは疲れる。
 彼女は自分であることに疲れた。だから“朝顔”として笑うのだろう。

「儘ならぬな。生きるということはただそれだけで難しい。だが」
「“いつまでも、立ち止まったままではいられない”?」

 先回りするように、朝顔は言った。
 目を見開く。今正に言おうとした言葉を奪われ口を噤む。その様子に、緩やかな口調で朝顔は返した。

「前にね、クラスの男の子が言ってた。だからホントは分かってるんだ、いくら居心地がいいからって、このままじゃいけないって」

 そうして彼女は、疲れた笑みではなく、ゆるりと。
 水面に揺蕩うような、心地好い笑顔を見せてくれた。

「でも、もう少しだけ。もう少しだけ、ここで休ませて貰ってもいいかな?」

 空への憧憬は今も胸にある。
 ただ今は疲れて、見上げるのが辛くなっただけ。
 だから少しだけ休憩しよう。
 時には立ち止まって一息吐くのもいいかもしれない。
 それはきっと、甚夜自身も同じだ。

「そうだな、偶にはのんびりしようか」

 そう言えるようになった分、以前より少しはマシになっただろう。



 ◆


<八月十二日>


「済みません、一度断っておいてなんですけど、狐の鏡を使わせてもえらませんか?」

 翌日、荒城稲荷神社を訪ねた朝顔は、開口一番神主にそう願った。

「……どうしたのですか、朝顔さん?」

 昨日とは打って変わった態度に、少しだけ違和感を覚えながら神主は問うた。返す言葉ははっきりと、鮮やかな声で言い切った。

「やっぱり、いつまでも立ち止まったままではいられませんから!」






「へぇ、朝顔ちゃんもう帰んの?」
「はい、お世話になりました」
「なんや簡単やなぁ。天て結構楽に行き来できるんやろか?」

 朝顔は鬼そばに戻り仕事の手伝いをしている。帰るのは十四日に決めた。だからそれまでは、しっかりと働いて恩を返そうと思った。

「ちなみになんで? もしかして甚夜がなんかした……訳ないな。そんな甲斐性ある訳ないし。というか野茉莉ちゃん至上主義やし」
「……否定できんとこが辛いな」

 その物言いに朝顔は吹き出す。親友という言葉を否定していた甚夜だが、案外相性はいいように思えた。

「そうですか、それは残念ですね。折角会えたというのにもう別れとは」

 今日は珍しく兼臣も店にいた。と言っても仕事の手伝いはせず、きつね蕎麦を楚々とした仕種で啜っているだけだ。

「……兼臣、確か初めの時、仕事を手伝うと聞いた気がするが?」

 甚夜の冷たい視線、しかし兼臣は平然と答える。

「しかし葛野様、考えてみれば帯刀したまま店で動き回れば逆に迷惑になりましょう」
「その時ぐらいは刀を置け」
「何を仰るのですか。これは私の魂、貴方は私に死ねと?」

 明治になっても帯刀している辺り、兼臣の刀に対する執着は相当のものだ。とは言えこの状況でそう返されても、働きたくないが為の言い訳にしか聞こえなかった。

「あはは、葛野君も大変だねー」
「ああ……まったくだ」

 溜息が漏れる。口元が僅かに緩んでいたのは、きっと気のせいだろう。



 野茉莉とも仲良くなり、一緒に夕暮れの街を散歩する。
 秋津染吾郎は相変わらずで、甚夜と朝顔の関係をからかっている。
 兼臣とはあまり話せなかったが、それでも食卓を共にして騒いだ。
 楽しいと、心から思える。
 けれど、楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎる。
 気付けば二日が過ぎ、別れの日はすぐそこまで来ていた。




「はぁ、いよいよ明日かぁ」

 以前と同じように、野茉莉が寝静まってから二人は店で顔を合わせていた。

「大丈夫か」
「ん。ちょっと、寂しいとは思うけどね」

 酒を呑み、朝顔は茶を啜り、ゆっくりと時間を過ごす。
 
「例えば、さ。私が、ここに残りたいって言ったらどうする?」
「どうもせんが」
「えー、なんで?」
「言わないと分かっているからな」

 気負いなく答え酒を煽る。朝顔は少し頬を膨らませ、文句を言ってくる。

「それじゃあたとえ話の意味がないよ」
「なら、実際のところは?」
「……それは、言わないけど」
「だろう?」

 見透かされたようなことを言われて、でも悪い気はしない。遠すぎず、近すぎず。今の距離感が心地よかった。

「休憩は、休憩だからいいんだ。長く続けば有難みも薄れる」
「うん、そうだね」

 朝顔が、笑う。

「神主さんが、明日を指定した意味、分かっちゃった。きっと、もし私が“お祭りを楽しんでから帰ろう”なんて言うなら、きっとこれからも帰れないと思ったんだろうね」

 お祭りを楽しんでから帰ろう。
 なら次はお月見だろうか。冬になればお正月を楽しんだら帰ろうと言い出すかもしれない。だからわざわざ祭りの前日を指定した。
 何時までも先延ばしにしては、きっと帰れなくなるから。
 
「だから、私、帰るね」

 ここで帰ると言えなければ、もう二度と帰ろうとは思えないだろうから。

「ああ、それがいい」

 それきり二人は口を噤み、夜は更けていく。


 そして八月十四日。 
 最後の日が訪れた。



 ◆



「では、私達はこれで」

 荒城稲荷神社、その本殿に二人を残し、神主らは去って行った。
 気を使ったらしい。そういった艶っぽい関係ではないのだが、と甚夜と朝顔は顔を見合わせて笑った。

「それじゃあ、葛野君。お世話になりましたっ!」

 大げさな動作でお辞儀をする朝顔。甚夜はいつも通りの態度を崩さなかった。

「達者でな、天女殿」
「もう、またそういうこと言うー」

 燥いで見せても、目にはほんの少しの寂しさが映っている。当然だ。別れを悲しめるくらいには、ここでの日々は楽しかった。それは甚夜にとっても同じだった。

「帰ったら、此処にはもう来れないんだろうなぁ」
「だろうな。もう逢うこともあるまい」

 元々ここに来たのは偶然。二度も偶然が起こるとは思えない。だからこれが今生の別れになるだろう。

「ふふっ、そうだねっ」

 何故か笑いを堪えるようにして彼女は言った。
 その意味を問い詰めたかったが、彼女は本当に楽しそうで、だから聞く気にはなれなかった。折角の別れだ。どうせなら笑顔で行ってほしいと思う。

「しっかり、休めたか」
「うん。向こうでも、もう少し、頑張れると思う。葛野君は?」
「変わらんさ。変えようとも思わん」
「この頑固者ー」 
「褒め言葉だな」

 掛け合う言葉はしばらく続き、それでもいつしか途切れ、沈黙が訪れる頃には言うべきことは一つになった。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 神主から借りた小刀で指先を傷付ける。血がつぅ、と出て赤い玉が出来て、ほんのり鉄錆の香がした。
 朝顔は本殿の奥に安置された鉄鏡の前に立つ。
 そして甚夜に背を向けたまま、おずおずと語りかけた。

「葛野君」
 
 ここに来たのは偶然だったが、そんなに悪いものでもなかった。
 会う人は皆優しく、毎日は楽しかった。 
 心残りはと言えば、一緒にお祭りを楽しめなかったくらいのもの。
 
「もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!」

 でも未練はない。
 ありったけの笑顔で、別れを告げよう。

「ああ、そうだな。その時には何かを奢ろう」
「なら、林檎飴がいいな」
「構わんぞ」

 交わす言葉はあくまでも軽く、まるでじゃれ合っているようだ。
 朝顔は最後にもう一度、感謝を告げるように、精一杯の笑顔を向ける。
 そうして狐の鏡に触れた瞬間、

 目の前が白くなり、

 もう、彼女はいなくなっていた。

「では、な。朝顔」

 何の未練も名残もなく、天女は空へ還った。
 彼女はもう一度、飛ぶことを思い出したのだろう。 




[36388]      『林檎飴天女抄』・6(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2015/10/19 14:08
 八月十五日。
 縁日の当日、甚夜達は揃って荒城稲荷神社を訪れた。

「よっしゃ、平吉。取り敢えず屋台全部まわろか!」
「お師匠お願いです声を小さくしてください恥ずかしいです」

 神社に着いた途端走り出す恥ずかしい子弟を尻目に、甚夜はのんびりと祭りの雰囲気を味わっていた。

「すっごい人!」

 初めて見る祭りに野茉莉もいつになく燥いでいる。

「野茉莉さん、あまり走ってはいけません」

 刀を腰に差したまま祭りを見て回る兼臣は、今にも走り出そうとする野茉莉のお目付け役だ。本来なら甚夜が一緒に回るつもりだったのだが、少しばかり用があったためしばらくの間は兼臣に任せた。

「まったく、騒がしいことだ」
「それが祭りの醍醐味というものでしょう」

 甚夜の呟きに答えたのは荒城稲荷神社の神主、国枝利之である。
 二人は休憩場所として設置された長椅子に座り込んでいる。無事に朝顔は空に変えることが出来た。しかし分からないままのことは多く、詳しい話を聞きたかった。

「結局、狐の鏡とはなんだったのか」

 天女を空へ還した鏡。目の前で見せつけられたのだ、その力を疑うことはない。
 しかし何故か釈然としないものを感じて甚夜はぼやいた。

「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」

 返ってきたのは以前も聞いた言葉だった。

「狐の鏡は大方が真実だった。では国枝殿、嘘とは?」
「簡単なことですよ。この話は京の説話としてはおかしいのです」
「おかしい?」
「ええ、狐の鏡は京都三条に伝わる説話。ですが考えてもみてください。京の説話だというのに、なぜ青年の生まれが鍛冶の村なのでしょうか?」

 今更ながら気付かされ、甚夜は目を見開いた。
 この物語の主人公は『鍛冶の村に生まれた、子狐と共に暮らす青年』だ。確かに京都の説話にしては設定がおかしい。

「そもそも狐の鏡と羽衣伝説は別の説話。それが習合し現在のような形になったのです」
「だとすれば、祭器としての“狐の鏡”も京で作られた訳ではない?」
「その通りです」

 更に聞こうとして、話を遮るように歩いてきたのは、神主の妻・ちよだった。
 
「甚夜様、どうぞ」

 ことりと長椅子の上にお盆が置かれる。
 其処には二つの湯飲みと、またも小皿に置かれた磯部餅がある。

「ちよ殿」
「お好きでしょう? 磯辺餅」

 淑やかな笑みを浮かべる。それを見て、神主はすくりと立ち上がった。

「ここからは妻と変わりましょう。私よりも狐の鏡には詳しい。何せ鏡が作られたのはちよの故郷ですから」
「いや、しかし」
「ではこれで。私も祭りを見て回りましょう。林檎飴が無いのは寂しいですが」

 そう言ってそそくさと歩いて行ってしまう。残された甚夜はどうしたものかとちよの方を見た。

「お隣失礼します」

 ちよの方もその気らしく、緩やかな動作で甚夜の隣に腰を下ろすところだった。

「ああ……では、ちよ殿」
「ええ。狐の鏡について、ですね。かつて狐の鏡を作った鍛冶師は、未来を見る<力>を持った鬼女、彼女が持っていた槍と残された鬼の血を混ぜて鏡を打ちました。鍛冶師は未来を映す鏡が出来れば、と思っていたそうなのですが、何の因果か過去と未来を繋ぐ、途方もない代物になってしまった。故に神社の御神体として安置し、一般の者が触れられないようにしたのです。それが羽衣伝説と混じり、天と地を繋ぐ鏡と呼ばれるようになりました」

 説話は真実を語らないがまったくの嘘という訳ではない。
 しかし本当に途方もない話だ。自由に未来を行き来出来る鏡など国がひっくり返る。

「ですがその力は年々弱くなっています。おそらく、いずれは狐の鏡はただの鉄鏡になるのでしょう」
「ならば朝顔は」
「多分彼女は、未来から訪れたのだと思います」
「そう、ですか」
 
 それが天女の正体。
 彼女がどれくらい先の未来からやってきたのか、そこでどのような暮らしをしていたのかは甚夜には分からない。息苦しいと言った彼女の日々は遥か先で、想像することさえ出来なかった。
 しかし朝顔は自分の意思で戻ることを選んだ。ちゃんと帰るべき場所に帰ることができた。
 甚夜にとっては、その事実だけで十分だった。 

「ありがとうございました」
「いえ。お力になれたようで何よりです。……あの、甚夜様。やはり敬語は止めて頂けないでしょうか」

 話が終わった所で、ちよは以前と同じ願いをぶつけてきた。

「いえ、しかし」
「どうか、お願いします」

 何故かは分からない。しかし真っ直ぐな目は僅かに潤んでいて、縋るような色さえある。
 これ以上拒否するのは酷か。ふう、と一度溜息を吐いて甚夜は頷いた。

「分かった。代わりにちよ殿も楽にしてくれ」

 変化した態度にちよは本当に嬉しそうな顔をした。
 その理由は甚夜には分からない。

「そうですね、でしたら……」

 そこでちよは年齢には見合わぬ、悪戯を成功させた子供のようにほくそ笑みを浮べて言った。



「甚太にい、とお呼びしてよろしいでしょうか?」



 一瞬、頭が真っ白になった。
 随分と懐かしい呼び名。そう呼んでくれたのは一人しかいない。

 思い出される遠い過去。
 そうすれば絡まった糸が解けるように色々なことが分かってくる。
 彼女が、名乗る前から自分の名を知っていた理由、『夜』の名を冠したと知れた理由。
 磯辺餅が好きだと知っている理由。
 隠された真実。未来を見る鬼女。
 荒城稲荷に伝わる狐の鏡の説話。
 鉄鏡。産鉄の土地。稲荷神。説話において語られる火の神性。
 そして“狐”の意味。 

 曰く、マヒルさまは火処に絶えることのない火を灯す神。
 もともとは“いらずの森”に住んでいた狐だったという。

 其処まで考えて、ようやく合点がいった。

「……お前、ちとせか!?」

 柄にもなく大声で聞き返す。その動揺こそが面白かったのか、くすくすとちよ───ちとせは笑っている。

「やぁっと気づいてくれましたね。甚太にい」
「なんで、こんな所に」
「ここ、葛野の神社の分社なんです。姫様が亡くなられた後、私がいつきひめを務めましたから。その流れで私たち夫婦がこの神社を任されたんです」

 ああ、そうか。
 つまり“狐の鏡”における産鉄の集落とは、葛野のことだった。
 そして狐はマヒルさま。ここは、火の神を崇めるいつきひめの社、その分社だったのだ。

「お前が、いつきひめ」
「今はもう夜来はありませんし、形だけの巫女ですけど」

 その言葉に、甚夜は彼女の名前の意味を知る。

「そうか、ちよ……千歳(ちとせ)だから千夜(ちよ)か」

 白雪が白夜と名乗り、甚太が甚夜と名乗ったように、彼女もまた夜の名を継いだのだ。
 いつきひめ。懐かしさに少しだけ胸が熱くなる。
 もう随分と昔の話だ。

「はい。でも今は社から出ずに暮らすなんてことはないんです。いつきひめの社も、普通の神社ですよ。名前は、ふふっ、とても素敵になりましたけど」
「社はどうなっている?」
「娘に任せてきました。ちゃんと、巫女が途絶えないように言伝を残して」

 そうか、と感嘆の息を吐き、改めてちよを見た。
 あの幼い子がこんなに大きくなるのだから、歳月というのは不思議なものだ。

「葛野も随分変わったのだな」
「はい。……それにしても残念です。もう少し早くいつきひめになれれば、甚太にいに守ってもらえたのに」
「なんだそれは」
「だって、もう巫女守はいませんから」

 笑った。笑い合えた。思いがけぬ再会は何処かくすぐったく、けれど絹のような柔らかい手触りをしていた。

「でも、これでちゃんと約束は守れましたね」

 一瞬意味が分からず、返答に窮する。
 しかしすぐに思い至り、甚夜は笑みを落した。

「甚太にいが言ったんでしょう?」
「……ああ、そうか。そうだったな」

 旅発つ際に、甚夜は確かに言った。


 ───また今度、磯辺餅でも食わせてくれ。


 帰ってくるなんて言えなかった。誤魔化す為の言葉だった。
 なのに、ちとせはずっと覚えてくれた。
 約束が果たされるというのは、こんなにも暖かいことだと教えてくれた。

「では、どうぞ」
「遠慮なく頂こう」

 彼女が準備してくれた小皿に手を伸ばす。
 磯辺餅は、今まで食べたどんなものよりも旨く感じられた。

「旨いな」
「当然です」

 ぐっと胸を張る、四十をとうに越えた女。だというに、何故かその姿が幼い“ちとせ”に見えた。

「父様ー!」

 人混みの中で、野茉莉が手を振っている。傍らにいる兼臣は明らかに疲れた顔をしていた。かなり振り回されたのだろう。

「行ってきてください」
「ん、そうだな」

 名残惜しいものはあるが、娘を無視することなど出来ない。
 茶を一口啜り、腰を上げる。
 
「では……いや、またな。ちとせ」
「はい、いってらっしゃい。甚太にい」

 短い別れの言葉。それでよかった。いつだって会えるのだ。別れを惜しむ必要などない。

「父様、お話終わった?」
「ああ」

 自然と手を繋ぎ、親娘で歩く。

「葛野様、助かりました……」

 疲れたように溜息を吐く兼臣に思わず苦笑い。
 
「何か食べたい!」
「そうだな。林檎飴なんてどうだ」
「じゃあそれっ! ……でも、林檎飴って、なに?」
「……私も知らん」

 言葉の通り、林檎の形をした飴細工なのか。それとも林檎味の飴なのか。実の所甚夜も知らなかった。

「すまん、忘れてくれ。取り敢えず、色々回ってみようか」
「うんっ」

 野茉莉と並んで祭りを楽しむ。
 いつか、朝顔との約束も果たせればいいと思う。
 彼女が未来から訪れたというのなら、いずれそういう機会もあるかもしれない
その時までには林檎飴が何なのか、調べておこうと思った

「父様、こっちこっち」

 けれど今はこの祭りを楽しむことにしよう。
 天高く、抜けるような青空。
 夏の祭りはまだ始まったばかりだった。



 林檎飴が縁日で売られるようになるのは明治の中頃、もう少し後の話である。








 ◆













 気が付けば、神社の本殿で私は寝転がっていた。

「あ、れ?」

 聞こえてくる祭囃子。体を起こしきょろきょろ見回す。明るい方へ誘われるように歩き、周りを気にしながら本殿の外へ足を踏み出せば、辺りはお祭りの真っ最中。
 ここは甚太神社の境内。たこ焼き、フランクフルト、金魚すくい、林檎飴、射的、チョコバナナ。私の知っている出店がたくさん並んでいた。

「戻って、これたんだ」

 安堵からか大きく息を吐く。
 クラスメイトの“彼”のおかげで不思議な体験は沢山してきたけど、今回のは飛びきりだ。まさか明治時代に行くなんて思ってもみなかった。
 でもまあ、いっか。楽しかったし。
 
「あれ、薫?」

 その時、後ろから声を掛けられた。
 振り返ってみればそこにいたのは私の中学の頃からのお友達。
 みやかちゃんが、巫女さんの服装で立っていた。

「あ、みやかちゃん。こんばんは」
「うん、今晩は。お祭り、来てたんだ?」
「あははー、うん、ちょっとね」

 曖昧に答える。でもちょっと明治時代に行ってきました、なんて言っても信じて貰えないだろうから仕方がない。

「あ、ねぇねぇみやかちゃん。今年って何年だっけ?」
「なに、いきなり?」
「あはは、度忘れしちゃって。ごめんね」
「別にいいけど。平成二十一年ね」

 なら西暦だと2009年。夏祭りの夜だから8月15日で間違いない。私が光に包まれてから半日くらいしか経っていないみたいだ。
 
「その朝顔の浴衣、可愛いね」
「ありがと。みやかちゃんもとってもかわいいよ?」
「私の格好には触れないで」

 みやかちゃんは巫女さんの格好をしていた。背が高くてすらっとしてて、こういう服を着ても似合うんだからみやかちゃんはずるいと思う。
  
「あ、浴衣と言えば」

 そう言うと、みやかちゃんは急に不機嫌な顔になった。拗ねたように唇を突き出している。

「どうしたの?」
「さっき、石段の下で甚夜に会った」

 あいつ。みやかちゃんがそう言う相手は一人しかいない。私がさっきまで一緒にいた彼だと思う。なんか不思議な気分だった。

「あ、そうなんだ」
「なんか、着流し? を着て、デートみたい。待ち合わせかな、相手はまだ来てないみたいだったけど」
「でーと?」

 そう言うと、すっごく微妙な顔で小さく頷いた。

「うん、そう。前からの約束だって」
「へー、誰とだろう。私達の知ってる人かな?」

 肩を竦めて、面白くなさそうにみやかちゃんが言う。

「さあ? 相手は天女だとか言ってたわよ。女の子を天女みたいとか、恥ずかしいヤツ」

 天女。
 その科白に重なって、幻聴が聞こえる。





 ────もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!





 それは私自身が言った言葉で。
 だから私は、気付けば走り出していた。

「ちょ、薫!?」

 みやかちゃんの声が聞こえたけど止まらない。
 だって“もしかしたら”って思ってしまったから、止まれなかった。
 思い切り走る。不思議な体験の余韻はまだあったけれど、だからこそ、“待ち合わせの場所”に早く行きたいと思った。だっていつも余裕たっぷりな彼がどんな顔をするのか見てみたい。顔がにやけるのを止められない。不思議だ、私は彼がそこにいないなんて想像もしていない。

 浴衣は走りづらいけど、二段飛ばしで石段を駆け下りる。そうして降りきって辺りを見回す。人が多い。でも、私はすぐに見つけられた。階段の下、道の脇辺りに彼はいた。

「遅かったな、梓屋」

 ああ、やっぱり。
 彼は天女を待っていた。

「あの、えっと、あの」

 着流し姿の彼は、私を見つけて軽く手を上げた。
 初めて見る格好なのに、学生服よりも似合うと思う。
 明治の頃と全く変わらない姿で、彼は待っていてくれた。

「とりあえず落ち着け」
「う、うん、ごめんね? えーっと、あの。ひ、久し……ぶり?」

 どう挨拶すればいいのか分からなくて、変なことを口走ってしまう。多分私の顔はすっごく赤くなっている。あー、馬鹿なこと言っちゃったな。そんなことを思っていると、彼は落すような、穏やかな笑顔で迎えてくれた。

「ああ、久しぶりだ。これで気兼ねなく呼べるな……朝顔」

 顔が更に熱くなった。
 熱さの理由は嬉しかったから。すごく嬉しくて、ぶるりと肩が震える。
 だって彼は一週間しか一緒にいなかった女の子のことを、百年以上たっても忘れていなかった。私のことを、ずっとずっと覚えていてくれた。それを嬉しいと思わない訳がなかった。

「覚えてて、くれたんだ」
「一緒に祭りへ行こうと言ったのはお前だろう」
「あはっ、あはは。それはそうだけど。まさか覚えていてくれるなんて思ってなかったんだよ」

 だって、百年以上も前のことだ。きっと、忘れていると思ってた。
 でも彼はあの時と同じように、朝顔と呼んでくれる。

「なんか、不思議な感じ」
「私には懐かしい。もう思い出すことも稀になってしまったが、あの頃は本当に満ち足りていた」

 多分彼は、私の姿に重ねて懐かしい景色を見ているんだろう。遠い目は優しく、とても穏やかだ。その雰囲気が、彼は本当に百年以上生きているのだと思わせた。

「あの、葛野君。聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「構わんが」
「ありがと。あの、さ」

 少し口ごもり、でも意を決して私は聞いた。

「ねぇ。葛野君は今、幸せ?」

 あの時と同じ質問をもう一度してみる。
 私には一瞬前の出来事だけど、彼にとってはもうずっとずっと、百年以上も前のこと。
 当たり前だけど、 野茉莉ちゃんはもういない。秋津さんも、平吉くんも。兼臣さんも。彼と笑い合っていた人は、もう全員死んでしまっている。
 彼はきっと私じゃ想像つかないくらい多くの別れを経験してきた。
 それなのに、こんなにも穏やかに笑える彼が、今をどう思っているのか知りたかった。

「当たり前だろう?」

 鉄のように揺るぎない、でも暖かな声。 
 彼は、穏やかな笑顔でそう返してくれた。

「長く生きれば失うものは増える。寂しいと思わない訳ではないが、そう悪いものでもない。失くすものが多い分、手に入れるものだってあるさ。それに、長くを生きればこそ時折降って沸いた再会に心躍らせることもある」

 嬉しかった。
 あの時、幸せだと言えなかった彼が、こんな風に笑える今が。
 きっと彼は、私では想像もできないようないろんなことを乗り越えて、こうやって笑えるようになったのだろう。
 それを思うと、とても温かい気持ちになる。

「えーと、それって、私のこと?」
「多分、お前には分からんよ。教室で会えた時、どれだけ私が嬉しかったことか」
「もう、またそういうこと言うー」 

 誤魔化すように笑っても、きっと顔は凄く赤い。
 それでも彼は落すように笑って、見ないふりをしてくれた。

「さて、そろそろ行くか。約束通り、林檎飴を奢ろう」

 そう言って踵を返す彼の動きは、あまりにもはまっていて、まるで時代劇の1シーンを見ているような気になる。

「やっぱり、そういう格好似合うよね」
「そうか? お前の浴衣姿には負けると思うが」

 思ってもみなかった返しに、私は少しだけどもった。

「そ、そう、かな?」

 たどたどしく聞いてみると、彼は初めて見せる穏やかな笑顔で言った。

「勿論。やはり、お前には朝顔の浴衣がよく似合う」

 ああ、違う。
 思ってもみなかった返しなんかじゃなかった。
 私は多分、なんて続くのかを、ずっと前から知っている。
 だから何も言わずに言葉を待つ。
 そして林檎飴を奢るなんて些細な約束を百年もの間忘れずにいてくれた彼と。

「まるで、いつか見た天女のようだ」

 今度こそ、一緒にお祭りを。

 遠い約束は、此処に果たされた。


 鬼人幻燈抄 明治編 余談『林檎飴天女抄』
           次話『徒花』


<中書き>
 これで前回の投稿分をこえられたので、そろそろオリジナル版に移ることを考えていますが、どうでしょうか。まだ早い、ここは修正した方がいいとの意見がありましたらよろしくお願いします。




[36388]      『徒花』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/20 21:06
 体が重い。

「はぁ…はぁ……」

 息が荒れる。

「しっかり、してください。もうすぐ、本隊に」

 声を掛けて、でも帰ってくる声は弱々しく。

「あぁ、見たかったなぁ。新しい、時代を」

 奮い立たせるように私は怒鳴り付ける。 

「なにを! あと少しで、我らが望んだ未来に手が届く。こんなところで死んでは……!」

 歩けなくなった同胞を背負い、長い道のりを歩いた。
 共に命を懸けたのだ。見捨てることなど考えられない。励ましの声を掛けながらただ只管に前へと進む。

「そうだ、なあ……」

 男は嬉しそうに笑い、私も同じように笑い。

「もうちょっとで、俺達の、おれ、た、ちの……」

 それが最後。
 背負われたまま、男は二度と動くことはなかった。





 戊辰戦争。
 薩長を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟。二つの政府が争った、幕末から毎時初期に起こったこの戦争は、新政府軍の勝利によって決着を迎えた。
 この勝利を持って表立って敵対する勢力は消滅し、これ以降、明治新政府は名実ともに日本の政治的主導者の地位を確立することになる。
その戦いの裏には、当然ながら名もなき武士達の奮戦があった。

 しかし命をかけて戦った筈の彼等には、来るべき新時代において、居場所が与えられることはなかった
 江戸が武士の世ならば、その終焉は等しく武士の終わりでもあったのだ。



 ◆



 明治九年(1876年)・三月。


 その日、葛野甚夜は愛娘と並び、三条通を歩いていた。十三になった娘は、少しは落ち着いたものの父を慕っており、店の備品を買いに行く際は好んで付いてくる。今日もいつものように甚夜と買い物に出かけたのだが、その途中、肝心の父が足を止めてしまった。

「父様?」
 
 愛娘────野茉莉は、大きな目と丸みを帯びた輪郭の、まだまだ幼さを感じさせるが可愛らしい少女に成長していた。
 薄桃色の着物と、それに合わせたような桜色のリボンで肩にかかる黒髪を纏めている。立ち止まった父。野茉莉は、明らかに強張った表情をした甚夜を心配そうに上目遣いで見つめていた。

「ん、ああ」
「どうかした? なんか、辛そうだよ?」
「なんでも、ない。気にするな」

 曖昧な言葉を返しながら、視線は手にした新聞から話さない。
 道端では「号外ー! 号外ー!」とけたたましい叫び声をあげ、男が新聞を配って回っている。甚夜もそれを受け取り、紙面を見て、書かれた文字に思考が止まった。そこに書かれていたのは、彼にとって致命傷とでもいうべき内容だった。

「廃刀令、か……」

 江戸幕府が確立した封建体制を排した明治新政府は、自身が正しいことを証明する為に江戸時代に創り上げられた常識を、江戸の名残を感じさせるものを次々と禁止していった。
 江戸を東京と改め、廃藩置県によりかつての制度をつぶし、士族を設定することで武士を有名無実へと追い遣った。

 そして明治六年二月七日。
 明治政府は「復讐ヲ嚴禁ス」、俗に言う「敵討禁止令」を発布した。
 江戸の頃、仇討は当たり前だった。係累を殺されて泣き寝入りするような輩は武士としては認められず、復讐を為せぬ男なぞ笑いの種でしかなかった。しかし敵討禁止令により復讐は単なる犯罪として扱われるようになる。
 
 更に明治九年。
 大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止──即ち、「廃刀令」が発布される。
 廃刀令は大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁じるもので、これにより明治政府に属する特権階級以外は刀を取り上げられた。
 武士の世、その完全なる終焉であった。

「時代は、変わるものだな」

 知らず、左手が夜来に触れる。
 彼の呟きは、おそらくは多くの武士が感じた嘆きだろう。
 刀も憎しみも、等しく価値のない明治。
 甚夜は幕末の動乱を経て訪れた新時代に、言い様のない息苦しさを覚えた。







 鬼人幻燈抄 明治編『徒花』

 



 ひゅう、と風が吹く。
 否、風に非ず。
 脱力からの抜刀、涼風の如き一閃に、風が鳴ったように思えただけ。鈍色の刀身は夕暮れの庭で橙色に煌めいている。
 
 一心不乱に刀を振るい続ける、薄い紫色の小袖を着流しに纏った年若い女。
 渡世人のような恰好、長い黒髪は髷を結わず縛りもしていない。その為動く度に髪焼き物の端がゆらりと揺れて、彼女の鍛錬はまるで舞のように見えた。
その所作が流麗な舞踏ならば、刀が空気を裂く音は舞いを彩る雅楽である。
 斬る、払う、突く。基本的な武術の動き、それすらも突き詰めればここまでの美を持つものなのか。彼女が手にしている物は人を殺すための道具だと知っている。この舞の真の姿は、命を奪う業だと十分理解している。だというのに、彼女の舞は死の匂いなど微かにも感じさせず、ただ純粋に美しいと思える。
 次第に舞は速度を上げ、苛烈になる。
 そして最後に裂帛の斬撃を放ち、舞姫はそこで動きをぴたりと止めた。

「見事」

 短い、それ故に素直な褒め言葉だった。
 夕暮れ時、甚夜は『鬼そば』の裏手にある庭で鍛錬を続けている兼臣をじっと眺めていた。彼女の剣は実に素直で、見ていて気持ちのいいものがある。基本の剣術でありながら舞にまで昇華された動きからは、彼女の弛まぬ練磨が見て取れた。

「……葛野様」

 甚夜の存在にようやっと気づき、兼臣は意外そうな顔で声を上げた。剣の腕ならば甚夜の方が上。だから素直に褒められるとは思ってもいなかった。

「良い太刀筋だった。生半な鍛錬で身に付くものではあるまい」
「いいえ。このような技、これからは何の意味も持たぬでしょうから……」

 真っ直ぐな賞賛を受け、しかし泣き笑うような表情で兼臣が言う。
 その態度に気付く。おそらく彼女もまた廃刀令の話を耳にしたのだろう。刀の冴えに反して纏う空気は随分と暗かった。
 甚夜は縁側に腰を下ろした。兼臣は気にせずもう二度三度刀を振るい、今度はぴたりと止めて刀身を眺める。それはまるで、刀が自身の手にあると確かめているようだった。

「葛野様もお聞きになったようで」
「ああ、一応は」
「正直に言えば、いつかは来ると想像しておりました。ですが、現実となればやはり困惑するものですね」

 傾いた装いの女には似合わぬ頼りない笑みだ。刀を納めることが出来ず、寂しげにそれを見る兼臣は、まるで気弱な娘子のようにさえ映る。
 気持ちが分かる、とは言わない。しかし突き付けられた廃刀令に困惑しているのは甚夜も同じ。自然左手が夜来に伸びた。慣れ親しんだ手触りが其処には在る。

「兼臣……お前は刀を捨てられるか」

 その問いに、兼臣は泣き笑うような表情をしていた。

「まさか。“これ”は私そのもの。どうして捨てるなど出来ましょう」

 彼女のいう通りだ。
 飾り気のないその言葉は、甚夜の内心を代弁していた。

「ああ。そうだ、な」

 初めて握ったのは、まだ幼い頃。幼馴染の父が与えてれくれた木刀だった。
 強くなりたかった。
強くなれば多くのものを守れると思い、がむしゃらに木刀を振るった。
 手にするのが本物の刀になってからもそれは変わらない。
他が為に、守るべきものを守る為に刀を振ってきた。
 
 数えきれない歳月が過ぎ、守れたものがあり、守れなかったものがあった。
 歳を取れば背負うものは増える。背負う余分が増えた分、振るう刀も鈍くなる。
 それでも手放すなど考えられなかった。
 刀を持ったからと言って全てを守れる訳ではない。
 分かった今でも捨てることは出来なかった。
 手にしたものは武器であり、振るい続けるうちに大事なものを守る盾となった。
 ただの道具はいつしか友となり、歳月を経て半身に、ついには己自身と化した。
 それくらいに、刀はいつも傍に在った。

 それを、新しい時代は捨てろと迫る。

「葛野様。私達は、駆逐される為に今まで在ったのでしょうか」

 答えられる訳がなかった。そんなもの、甚夜にも分からない。
 それでも一つだけ分かることがある。

「さて、な。ただ……我らは、やはり死に場所を間違えたのだろう」

 死すべき時に死せぬは無様。
 このような未来を嫌悪したからこそ、畠山憲保は武士のまま死ぬことを選んだのだろう。
 本当に正しかったのは彼なのかもしれない。
 夕暮れに溶ける空を眺めながら、甚夜は最後まで武士であった男の笑みを思い出していた。



 ◆



「大将、聞いたかい。廃刀令の話」

 昼時、鬼そばに訪れた二人組の客が甚夜にそう話しかけた。

「ええ、まあ」
「いや、ほんま、新しい時代ってなええもんやなあ。刀を持って威張り散らしていたお上とは違うわ」
「そう、ですか」

 曖昧に返すことしか出来なかった。彼等に悪気が無いのは分かっている。しかし上手く言葉が出てこない。

「昔は刀をもっとるからて偉そうな奴らがよーさんおった。そんな浪人崩れが居なくなるだけでも新政府さまさまやな」
「そうそう! 刀を持っとるだけで戦う気概もない奴らがこの国を駄目にしたんや! とっとと馬鹿な武士どもから刀を奪ったらよかったろうに」
「違いない違いない! どうせ武士なんていない方がいい人種や。昔より今の方が暮らしやすいんが証拠やろ」

 高らかに笑い上げる。その度に心がざわめく。
 その粗野な笑い声に、刀と共に生きてきたこれまでを愚弄されたような気がした。
 知らず手に力が籠る。そして二人組の客を睨み付けようとして、

「あぢい!?」

 それよりも早く、秋津染吾郎は男達の頭の上にきつね蕎麦をぶちまけていた。

「あら、すまんな。いや、僕も歳とってなぁ。最近自分が何しとるか分からん時があるんや。いやーもうボケてもたかな?」

 白々しくも悩んでいるような素振りを見せる。神経を逆なでされた男達は舐めたマネをした輩に向けてがなり声を上げた。

「何のつもりやぁ!?」
「こんな真似、ただで済む思うなや!」

 しかし染吾郎は冷静に、冷徹に、男達を見据える。

「ただで済む思うな……? はぁ? それどう考えても僕の科白やろ」

 四十を超えた初老の男とは思えぬ、鋭すぎる眼光だった。

「この店で舐めた口利きおって。去ねや、屑が。次は蕎麦で済むと思うなや」

 それだけで男達は気圧された。
 付喪神使いとして多くの鬼を相手取ってきた染吾郎の睨みはもはや凶器に近い。低い声で絞り出した彼の科白と眼光。この二つを前にして喧嘩を売るような真似は、男達には出来なかった。

「ちっ、いくで」
「おお、こんな店二度と来るか!」

 三流の捨て科白を残して男達は乱暴に店を出て行く。金も払わなかった男達の後ろ姿に染吾郎は舌打ちをして、すぐにいつもの作り笑いを浮かべて残された客に頭を下げた。

「いやあ、騒がせてもたね。皆さまはどうぞどうぞゆっくり蕎麦を食べてってな」

 おどけたような調子の染吾郎に、少しだけ店内のざわめきは落ち着いた。そうして彼は厨房近くの席に腰を下ろす。

「染吾郎、すまん」
「いやいや、こっちこそ君んとこの客にひどいことしてもたね」
「そうでもない。……正直、爽快だった」
「お、結構言うなぁ」

 からからと笑う。いつも通りの態度に甚夜もまた笑みを落した。

「ところで、甚夜」

 一転、染吾郎が真剣な表情に変わった。
 その気配に佇まいを直し、耳を傾ける。十秒ほど沈黙が続き、ようやくゆっくりと重い口を開く。

「………僕のお昼、どないすればええと思う?」

 ちらりと横目で見る。
 染吾郎のきつね蕎麦は、床に飛び散っていた。



 ◆



 少しばかり騒動はあったが無事に仕事を終え、野茉莉と二人夕食を取り終えて甚夜は今でくつろいでいる。

「父様ぁ」

 食後に茶を啜って休んでいるのはいつものことだが、今日ばかりは勝手が違った。
 というのも、野茉莉が何故かは分からないが、背中合わせでもたれ掛かってくる。着物越しに感じる体温が心地よく、しかしさっきから動こうとせずちょっかいをかけてくる娘に違和感を覚えたのも事実だ。

「なあ」
「なぁに?」

 野茉莉は今年で十三、少しずつ父に甘えることも減ってきていた。だというのに今日は引っ付いて離れようとしない。嬉しいと思わない訳ではないが、釈然としないものを感じていた。

「今日はどうした」
「ん、ちょっと、久しぶりに甘えてみようかなって」

 言いながら背中から覆いかぶさるように甚夜を抱きすくめる。まるで親が子供にするような仕草だった。耳元に息がかかる距離まで唇を寄せて、柔らかく、優しい声で野茉莉が言う。

「元気出してね、父様」

 ぎゅっ、と腕にも力が籠り、強く抱きしめられた。

「……野茉莉?」
「刀を差してない父様なんて想像できないけど、これからそうなっちゃうでしょ? でも、元気出してね」

 一瞬、息が詰まったような気がした。
 そうか、この娘は甘えていたのではない。父の気持ちを慮り、甘えるふりをして慰めようとしてくれたのだ。

「……甘えていたのは私の方か」
「へへ、だって私は父様の母様になるんだから。それでね、いっぱい甘やかしてあげるの」
 
 それはいつかも聞いた言葉。母のいなかった甚夜の為に、母になると言った娘。大きくなって、おかしなことだと気付こうものなのに、野茉莉は決して撤回はしなかった。
 多分、歳月を重ねればいずれ甚夜の年齢を追い越してしまうと知っているからだ。
 甚夜は鬼、寿命は千年以上あり、年老いることもない。
 野茉莉は人、後十年もすれば彼女の外見は父の年齢を超えてしまう。
 だから野茉莉は母になると公言憚らない。例え甚夜よりも年上になってしまっても、家族であり続けると彼女は言い続けてくれているのだ。

「まだ言っているのか」
「当たり前だよ、私の将来の夢だもん。私は父様に守ってもらってきたから、早く大きくなって、今度は父様を守るんだ」

 何を言っているのか。
 本当は、私の方こそ守られてきた。野茉莉がいてくれたから今が在るというのに。

「そうだ、明日も一緒に散歩にいこ? 刀を差さなくてもいいなら手が空くでしょ。一緒に手を繋いで歩けるね!」

 無邪気に笑う娘。
 得難い幸福が此処にはあって、それを尊いと心から思える。
 甚夜は胸にある暖かさを少しでも伝えられるように微笑んだ。

 
 ────だけど、言い知れぬ何かが心の奥に暗い影を落とす。


 自分の代わりに起こってくれる友がいる
 時代が変わろうとも、傍にあろうとしてくれる人がいる。
 その優しさを暖かく感じ、だというのに、それでも鈍い鉄の手触りが遠くなることを寂しいと思ってしまう自分がいた。




[36388]      『徒花』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/14 00:54

 昨夜、野茉莉と散歩に行くと約束した。
 その為、店は昼の客を捌き終えてから閉める。店と娘との約束、当然優先すべきは後者だ。

『うん、君おかしいやろ?』

 いい加減付き合いの長くなった友人はそう言ったが、そもそも蕎麦屋は副業。何が何でも続けねばらないという訳ではない。それよりも、自分を慮ってくれた娘の気持ちに報いてやりたかった。
 野茉莉はもう準備を終えている。
あまり待たせても悪い。早く着替えようと作務衣を脱ぎ、まずは肌襦袢を着る。
 次に長着を纏い、腰紐と帯を結ぶ。
 袴を穿いて、腰に刀を……差すことなく、身支度を終える。普段の装いから少しだけ軽くなったが、どうにも落ち着かない。仕方のないことだと分かっていても、違和感は拭い去れなかった。
 
 無論、甚夜とて刀を捨てようなどとは思っていない。鬼を討つにはやはり刀が必要だ。
 とは言え昼間から帯刀して警察の厄介になる訳にもいかない。以前ならばそんなことは思わなかっただろう。しかし今は野茉莉がいる。娘に心配をかけてまで我を通すことは出来なかった。

「……濁っているな」

 いつか、誰かが言っていた言葉を思い出す。
 全ては無駄。志したものを濁らせる余分に過ぎぬ。十分に理解しながらも斬り捨てられない自分に辟易とし、同時に悪くないと思う。
 それでも今まで共に歩んできた夜来が腰にないことは物足りなくも感じてしまう。自分でもどう表現すればいいのか分からない、ひどく奇妙な心持のまま襟を直し、取り敢えず準備は整った。

「野茉莉、行くか」

 玄関で待っていてくれる娘に声を掛ける。

「うんっ」

 返ってくる無邪気な笑顔。
 それが刀を差さぬことで得られたものならば、ほんの少しだけ救われたように思えた。



 ◆



 元より目的はない。
 ただ道を歩くだけ、それでも野茉莉は楽しそうに笑う。しかし態々甚夜の左側から手を繋いでくる辺り、無邪気なだけではなかった。
 以前は左側に刀を差していた。だから足りなくなった重さを補うように野茉莉は左側に立つ。その気遣い自体もだが、さりげない気遣いの出来る優しい娘に育ってくれたことが甚夜には嬉しかった。
 子供は気付かぬうちに大きくなるものだ。それがやはり嬉しく、けれど何処か寂しいような。父親とは難儀なものだと甚夜は表情には出さず自嘲した。

「葛野様?」

 三条通に沿って歩いていると、ちょうど鬼そばへ帰る途中の兼臣と出くわした。
 その出で立ちはいつもとなんら変わらない。長い黒髪も、渡世人のような恰好も、腰に差した刀も。兼臣はいつも通りの装いだった。

「兼臣、帰りか」
「ええ、店の方はどうなされたのですか?」
「ちと用があって閉めた」

 流石に野茉莉と散歩に行きたかったから、とは言えなかった。
 ふむ、と一度頷き、兼臣は甚夜の装いを眺め何処か寂しそうに微笑んで見せた。

「……意外ですね。葛野様が、刀を持たずに出歩くとは」

 意外に思っているのは甚夜も同じだった。それだけ“人の親”が身についてしまったのだろう。わだかまりがあったとしても、当たり前のように野茉莉を優先するのだから。

「余計な厄介事を背負うのも、な」

 ちらりと野茉莉の方に視線を送れば、納得したように兼臣は小さく頷いた。
 もはや帯刀は立派な犯罪だ。野茉莉の親として、我を通して捕まるような真似はしたくなかった。

「娘子の為ならば、ですか。貴方らしいと言えばそうなのでしょうね」
「お前は、曲げられなかったか」
「ええ。これは私自身。手放すことは出来ません故」

 そう言って優しく夜刀守兼臣に触れる。

「葛野様も、今は帯刀をしていないだけ。結局は、捨てることなど出来ないのでしょう?」

 彼女の言葉は正鵠を射ていた。
 娘と共に歩くから帯刀しなかっただけ。刀を身に着けないことは、目的を捨てること同義ではない。復讐を禁じられ、帯刀を禁じられ、それでも憎しみを消せる訳ではない。
 新しい時代は少しばかり流れが早い。色々なものが変わっていくのに、心だけ置き去りにされているような気がした。

「……では先に戻っています」
「ああ」

 急に話を切り上げ、兼臣はすぐさま早足で場を離れた。
 次第に小走りになり、背中はあっという間に見えなくなる。

「忙しないことだ」
「父様、あれ」

 野茉莉の指さす方には警官隊の姿がある。どうやら帯刀を見咎められないよう逃げたらしい。流石に警官に喧嘩を売るような真似はしたくないようだった。

「成程。しかし、今日は妙に警官が多いな」
「うん、何かあったのかなぁ?」

 きょろきょろと野茉莉が辺りを見回す。
 道行く人々に紛れて物々しい様子で警邏をしている男達が数人。傍目に見ても分かるほど慌てた様子だ。
 それを尻目に通りを歩く。自然と騒がしい方に足が向いてしまうのは、長年怪異を相手取ってきたが故の癖だろう。
 京都は三条通から少し離れると知恩院があり、その参道を下って白川にぶつかる手前には古門と呼ばれる瓦葺の門がある。どうやら騒ぎは古門の方らしい。

「野茉莉、離れるなよ」
「う、うん……?」

 父の空気が変わったのを察し、すっと体を寄せる。視線の先には人だかりがある。周囲に注意を払いながら進めば、人混みの中から声が掛かった。

「おーす、葛野さん」

 そこにいたのは見知った顔だ。鬼そばの隣にある菓子屋『三橋屋』の店主、三橋豊重(みはし・とよしげ)である。

「おお、娘さんもこんちわ」
「はい、こんにちは」

 丁寧にお辞儀をする。豊重は手をひらひらとさせて挨拶を返し、再び人混みの方を横目で見た。

「三橋殿。これは何の騒ぎで?」
「あー、娘さんがいる時に話すよなことじゃないんだがなぁ」

 相変わらず面倒くさそうに話す男だ。しかし彼にしては珍しく、真面目な顔になっていた。

「人死にがあったらしい」

 野茉莉に聞こえぬよう、耳元でぼそりと呟く。返す甚夜もまた小声になった。

「何か事件でも?」
「辻斬り、って話だぁな。江戸の世じゃあるまいに」

 肩を竦めておどけて見せても顔には嫌悪が浮き出ている。

「どうせ新しい時代に馴染めない浪人崩れが馬鹿をやったんだろうよ。みっともないねぇ、時流に乗り遅れた輩ってのは」

 何も答えられなかった。答えられる訳がなかった。甚夜こそが、彼のいう「時流に乗り遅れた輩」だった。

「ま、流行らない菓子屋やってる俺も、十分時流に乗り遅れてるんだが」

 冗談めかした言葉を残して、豊重は人混みから離れていく。

「じゃあな、葛野さん。あんたも早めに帰った方がいい。娘さんもいるんだしよ」
「三橋殿は?」
「もーちょい、ぶらぶらしてくる。新商品考えろって嫁さんに言われてんだが、何も思い浮かばんのだわ。あー、面倒くさ」

 言葉の通りぶらぶらと、頼りない足取りで豊重は去っていく。残された親娘はもう一度人混みを見た。死体が見えない程に人が溢れていて幸いだった。野茉莉に嫌なものを見せなくて済んだ。

「……そろそろ、帰るか」
「そう、だね」

 野茉莉が微妙な顔で同意する。
 折角の散歩は嫌な後味を残して終わることになった。






 そんな二人を、人混みの中から見つめる影が在った。

「おじ様、相変わらず野茉莉ちゃんと仲がいいです」

 どこか不満気に頬を膨らませる女童。
色素の薄い、柔らかく波打った茶の髪。年齢は見た所八つか九つといったところだろうか。
 大きな瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。
 金糸をあしらった着物は薄い青に紋様は宝相華。豪奢ではないが品の良い出で立ちは、一見すれば華族の令嬢にも思える。
 しかし彼女の瞳は紅玉。
 名を向日葵。
 その正体は鬼、そして“マガツメ”が長女である。

「なにか癪ですね。……ともかく、今回もありがとうございました」
『いえ』

 深く、沈み込むような声だった。問いに返したのは向日葵の傍らにいる男。彼の目もまた赤い。堂に入った人としての姿を見るに、おそらくは高位の鬼なのだろう。

「本当は、嫌だったんじゃありません?」
『まさか。安寧をむさぼる豚を一匹屠っただけのこと。感慨などありません』

 男が殺したのは、元々は武士だった男だ。幕末の世に在っては大した働きもせず、新政府軍にいたというだけ。しかし上手く取り入って明治政府の末端に名を連ねた、胸糞の悪くなる愚昧だった。斬り殺したところでなんだというのか。

「なら、いいのですけど。おかげで沢山の死体が手に入りましたし。本当に、ご苦労様でした。……でも、そろそろ邪魔が入りそうな気もしますね」

 無論それは“おじ様”────甚夜を指しての言葉だ。
 怪異に好んで首を突っ込んでくる彼のことだ。死体集めが長く続けば当然介入してくるだろう。

「潮時でしょうか」
『では終わりに?』
「はい。あんまり無茶をして、おじ様に嫌われるのも嫌ですし」
『そうですか……ならば、これからは己が目的を果たさせていただきましょう』

 丁寧な、しかし感情の乗らない言葉。人の姿をした鬼は、ただ去りゆく甚夜の姿をじっと見つめている。
 
「本当に、挑むのですか?」
『無論。寧ろこのような機会を与えてくれたこと、感謝いたします』
「でも、おじ様、強いですよ?」
『知っています。だからこそ挑む価値がある』

 言いながら、男は向日葵の傍を離れた。
 すぅ、と人混みに紛れ、別れの言葉もなく消えていく。

「……立ち去るなら挨拶くらいしてくれてもいいと思います」

 僅かに頬を膨らませるも、零れた文句は冗談のようなもの。怒りなど微塵もない。
 元々あの男の目的は一つ、甚夜と戦うことのみ。初めから他事に興味などなかった。それを「命を救ってくれた礼だ」と言って望まぬ殺人を繰り返し、自分の目的を後回しにてくれたのだ。感謝こそすれ怒るなどお門違いもいいところだ。

「彼は……徒花、ですね」

 去りゆく一匹の鬼に想いを馳せる。
 咲いても実を結ばずに散る花ように、何一つ残せず消えていく。
 少しだけ寂しく思ったのは、気のせいだと思うことにした。



 ◆



「ただの辻斬り、って訳やないと思うけどね」

 その夜、仕事が終わってから甚夜は染吾郎を店へ呼んだ。
 二人で顔を突き合わせ、杯を傾けながら話すのは辻斬り事件のことだ。

「というと?」
「そもそも、今回の辻斬り事件。表になるまでに時間がかかったんは、死体が上がらんかったかららしい」
 
 酒を呑みながらも目付きは鋭い。染吾郎も普段の笑みは鳴りを潜め、鬼を討つ者としての顔が覗いている。

「辛うじて残ってるんも頭だけとか、腕だけとか。尋常じゃない量の血があんのに、死体は見つからん。扱いとしては事件よりも怪奇譚やね」
「それは聞き及んでいる。死体は見つからない。……辻斬りが死体を隠したと思うか?」
「隠すったって無理があるやろ。殺したことばれるんやったら隠す意味もあんまないしな。どっちかゆうと殺すことやなくて、目的自体が“死体を集める”って方がしっくりくる」

 確かに。とするならば、やはりこれは事件よりも怪異の範疇か。
 
「私もそう思う」
「死体を使って何をする気か知らんけど、嫌な感じやな。……うん、僕の方でも調べてみるわ」
「頼む」

 刀を必要としない時代になっても、生き方が変わることはない。
 鬼は鬼であることから逃げられない。結局、どんなに取り繕ったとしても、自分には刀を振るうことしか出来ないのだと思い知らされる。
 ぐい、と杯を煽った。
 喉を通る熱さ、しかし旨いとは思えなかった。






 染吾郎に情報収集を依頼してから数日後、朝早くから甚夜は再び古門に訪れた。
 警官がいた為近寄ることが出来ず数日が経ち、入れるようになってから来てみたものの、今更辻斬りの痕跡が残されているはずもない。しかし情報が殆どない以上、まずは足を動かすしか方法はなかった。

「名残すらないか」

 とは言え既に警官隊が去った後だ。死体どころか血の跡さえ綺麗さっぱりなくなっている。半ば分かっていたことではあるが、やはり無駄足になってしまったようだ。 
 甚夜が再びここに訪れたのには勿論理由がある。
 ここ数日、辻斬りについて調べていたのだが、どうやら昨日の一件だけではないらしい。
 聞き及んでいるだけで既に八件。うち二件は死体に刀傷があり、それが辻斬り事件だと言われる理由だった。
 ただ、この一連の騒動は、“真っ当な”辻斬りにしてはおかしなところがあった。 
 先の二件は分かり易く惨殺されていたが、残る六件には刀傷が見当たらなかった。というよりも、殺害現場には死体すらなかったのだ。
 辺りに残されたおびただしい血液と肉片から、誰かが殺傷されたのは間違いない。しかし死体が無い以上身元の確認も出来ず、結果としてこの事件は表になるのが遅くなったらしい。
 普通ならば奇怪な事件、と考える。だが甚夜は鬼の討伐を生業としている。これは怪異によるものだと考え、事件を探っていた。
 とは言え情報など殆どなく手詰まりの状態だ。後手に回らざるを得ない状況に、小さく溜息を吐いた。
 


 そして、ふわりと漂った慣れ親しんだ匂いに、甚夜は身構えた。



 つい先日人死にがあったばかりの場所だ。警官隊が去った後、好んで近付く者はおらず、此処には甚夜しかいなかった。

 人目はない───成程、“おあつらえ向き”だ。
 
 甚夜は違和感に気付いた。違う、気付いたのではなく、相手が隠そうともしていないだけだ。気配を殺すことも、足音を隠すこともせず、濃密な香りを振りまいて何者かが古門の屋根から跳躍する。

『あああああああああああああああっ!!』

 不意を打つ気すらないらしい。突如現れた、咆哮を上げながら襲い掛かる異形。まるで血のように赤黒い皮膚をした、身の丈を超える大太刀を振り上げた鬼は、真っ向から両断しようと甚夜へと唐竹の一刀を放つ。
 自由落下しながらの大振り、あまりにも雑だ。後ろに飛んで斬撃をやり過ごせば、空ぶった大太刀が大地を叩き付け砂埃が舞った。
 そして鼻腔が擽られる。
 鉄錆のような、硫黄のような、どろりとべたつくような手触り。
 慣れ親しんだ、甚夜にとって身近な匂い。


 ───これは、血の匂いだ。
 

 眼前の赤鬼からは、やけに濃密な血の匂いが漂ってくる。
 目立った傷はない。なのに咽かえる程だ。

『お相手、願いましょう』

 鬼は以外にも丁寧な語り口だった。

「問答無用で襲い掛かっておいて“お相手願う”とは恐れ入る」
『これは失礼。貴殿との死合いこそ私の望み。故に逸る気持ちを抑えられませんでした』

 腰に夜来はない。廃刀令が施行され昼間の帯刀は難しくなったが、これは少しばかり迂闊だった。

『ですが、まさか帯刀していないとは……正直に言えば、落胆。いえ、失望さえ感じています』

 真紅の刀身、規格外の大太刀を甚夜へ突き付け、鬼は心底苛立ちに満ちた声で言った。
 奇妙な言い回しだ。この鬼は、以前からこちらのことを知っているような口ぶりだった。

『貴方は、刀を捨てたのですか』
「捨てたつもりはない。ただ、大切にしたいものが増えただけだ」
『そうですか……』

 甚夜は平然と言ってのける。それが癪に障ったのか、鬼は敵愾心を隠そうともしない。

『残念だ。刀も持たぬ腑抜けた貴方を斬り捨てることになろうとは』

 視線は鋭くなり、最早我慢ならぬとばかりに鬼は駈け出す。綺麗な足捌き。それは身体能力に飽かせた疾走ではなく、剣術を学んだものの動きだ。
 左足で地面を蹴って敵の間合いへ飛び込む。お手本通りの所作で鬼は間合いを侵す。振り上げる刀、それもまた剣術の基本を押さえている。
 対して甚夜に刀はいない。
 迫り来る大太刀、回避は間に合わない。
 だが甚夜は平然としている。
 そうして赤い刃は甚夜を切り裂かんと袈裟掛けに振るわれ、身に食い込み。

 響く、甲高い鉄の音。

 鬼の一刀は甚夜の着物を裂いたのみ。斬り伏せることは叶わず、皮膚の上でぴたりと刃は止まっていた。
 鬼は驚愕の様相を呈し、しかし甚夜は変わらず平静なまま鬼を見据える。

「刀がなければ斬れるとでも? そう舐めてくれるな」

<不抜>。
 一人の男が願った『壊れない体』、その体現だ。易々と砕けはせぬ。刀が無いからと言って戦えない訳でもない。

「来い、<犬神>」

 翳した左腕から黒い靄、次第に凝固しそれは三匹の黒い犬へと変化する。至近距離から放たれた<犬神>はそれぞれ喉、腕、足を狙い襲い掛かる。鬼は大太刀でそれを薙ぎ払い、

『がっ……!?』

<犬神>は囮、懐に入り込み左肩で鳩尾を穿つ全霊の当身。鬼は対応しきれず、見事に吹き飛ばされる。素手で鬼を退けながら、やはり平然とした態度を崩さない。甚夜の態度は不敵であったが、鬼に今迄の敵意はなく、寧ろ嬉しそうでさえあった。

『確かに、舐めていたようです。やはり、貴方は強い』

 しかし、と重々しく言葉を続ける。

『それでも、刀を振るわぬ貴方など見たくはなかった』

 吐き捨てるようにそう言って、鬼は大きく後ろへ跳躍し、迷いなく去っていく。
 襲い掛かるのも突然ならば逃げるのも突然。鬼はすぐさま見えなくなり、古門には甚夜だけが残された。
 追うことはしなかった。強がってはみたものの刀が無いのはやはり痛い。ここで無理をして反撃に合うのは避けたかった。
 しかし追わなかった一番の理由は、鬼の力量を警戒してではなく、一瞬の邂逅に違和感を覚えたからだ。
 あの鬼は何故かこちらのことを知っている様子だった。
 おそらくは以前切り結んだことがあるのだろう。それ故に失望などという言い回しをした。
 あの鬼は一体何者なのか。
思索に耽り記憶を探るも、あのような鬼を相手取った覚えは欠片も出てこない。
 だが同時に覚えがあるような気もしている。
 どれだけ考えても答えは出ず、甚夜は一度溜息を吐いて思考を中断する。


 ────それでも、刀を振るわぬ貴方など見たくはなかった。


 鬼の捨て台詞が、何故か耳にこびりついていた。




[36388]      『徒花』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/18 00:26



 鬼との遭遇から数日、何の進展も見せぬまま無為に時間は過ぎる。
 あの鬼こそが辻斬りの犯人なのだろうが、結局それ以外に大した情報は得られなかった。近頃は新たな被害者も出ることはなく、辻斬り事件は収束に向かっているようだ。
そうなれば甚夜に出来ることは何もない。怪異は怪異のままとなり、残るのは日常だけ。蕎麦屋の店主として過ごすしかなくなる。
 
「……しまったな、酒を切らした」

 昼飯時の客を粗方捌き終えて、甚夜は酒が無くなっていることに気付いた。
 ここでの酒は自分が呑むものではなく、調理酒の方だ。鬼そばは連日それなりに盛況だ。調味料の減りも速く、予備がなくなっていたのをすっかり忘れていた。

「父様、私買ってこようか?」

 店内の掃除を手伝ってくれている野茉莉がそう言った。
 野茉莉は尋常小学校を卒業後、更に上の高等教育を受けることも出来たが、それを是としなかった。基礎的なことさえ学べれば、後は父の手伝いをしたいと言った。
 甚夜としてはそんなこと考えなくてもいいと思っていたのだが、その決意は固く今では鬼そばを支えてくれている。
 
「ん、そうか? なら……いや、自分で行ってくる」

 買い物位なら任せてもいいだろうとも思った。しかし辻斬り事件の後だ、一人で行かせるのは心配だった。幸い客は全てはけた。

「なら一緒に行きたい!」

 その申し出にも戸惑いがあった。先日やり合った鬼は甚夜こそが狙いであるような口振りだった。
 衆人環視の中でことを起こすとは思えないが、それでも連れて行くのは危ない気がする。

「すぐに戻る。留守番していてはくれないか?」
「えぇ……いっちゃ駄目?」

 上目遣いで野茉莉は訴えかける。そうなれば詰みだ、甚夜にそれを拒否することなど出来ない。我ながら甘い。思っていても娘が純粋に自分を慕ってくれているのが分かるから、無下には出来ない。危ないのならばこの身を挺するだけの話だ。

 
「なら行くか」
「うんっ」

 喜兵衛の店主もおふうをこんな風に見ていたのだろうか。
 最早わからないことではあるが、楽しそうな野茉莉の姿に甚夜はあの仲の良かった親娘のことを思い出していた。



 ◆



 閉店ぎりぎりで酒屋に間に合い、目的のものを買って家路を辿る。右には酒瓶、左には野茉莉の手。帯刀せぬからこそ、こんな風に歩ける。きっとそれは悪いことではないのだろうと思う。
 それでも割り切れないものもある。

 
 ─────寧ろ問おう、何故斬らぬ。刀は人を斬る為のもの。儂にはぬしの言こそ理解できぬ。

 ─────ですが私は武士です。武士に生まれたからには、最後には誰かを守る“刀”で在りたい。

 ─────私は殺されたかった。最後まで、幕府の為に在った一個の武士として。


 五月の心地よい空の下、娘と二人並んで歩く。ありふれた幸福に浸かりながら、しかし脳裏に過るのはかつて聞いた言葉の数々だ。
 最近は昔のことをよく思い出す。
 剣に生き、剣に至ろうとした人斬りがいた。
 最後には刀でありたいと友は願った。
 最後まで江戸の世に拘り続けた武士は、江戸と共に消えていった。
 生き方はかけ離れていたが、それは大切にしたものが違っただけ。彼等は皆一様に、守るべきものの為に己が刀を振るった。そこには彼等の誇りが、想いがあった。
 
 だというのに、新しい時代は、その全てを押し流そうとしている。
 
 分かっている。どう取り繕おうが刀は人を斬るもの。それを忌避し、禁ずることを間違いとは思わない。寧ろ長い目で見れば、廃刀令はこの国の為になるのだろう。
 けれど刀と共に生きてきた。
 その生き方を、今更どうやって曲げろというのか。

「へへー」
「どうした、野茉莉」
「なんかね、嬉しくて」
「嬉しい」
「最近は父様といっぱいお出かけできるもん」

 左手の暖かさ。冷たい鉄鞘よりも遥かに心地好く思える。それでも寂しいと思ってしまうのは、まだ割り切れないからだ。そしておそらく、そういう者は新時代に必要ないのだろう。
 


『刀を振るう鬼よ。この先に貴方の居場所はない。鬼も刀も、時代に打ち捨てられて往く存在だ』



 予言は真実となる。
 こんなにも暖かいのに、今が幸福だと間違いなく言えるのに、何故か取り残されてしまったような寂寞を感じてしまう。
 沈み込む様な心持。しかしそれが急速に引き上げられる。

「こんにちは、おじ様」

 追想に囚われていた心が、涼やかな声に目を覚ました。
 驚きから僅かに眉が動く。人混みの中で声を掛けてきたのは、波打った茶の髪が特徴的な童女だった。

「お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」

 向日葵。
“マガツメ”の長女を名乗る幼い鬼女は、すでに敵対している間柄だというのに、親しみのこもった笑顔を向け、丁寧にお辞儀をした。
 澄まして、しかし隠しきれない親愛を滲ませて微笑む向日葵は、容姿よりも大人びて見える。だが彼女は敵だ。そんなものを向けられても、返せるものなど何もない。

「おじ様……まだそう呼ぶのだな」
「え? でも、おじ様はおじ様でしょう?」

 きょとん、とした様子で聞き返す。その姿はまるで何も知らぬ娘子のようで、正直に言えばやりにくい。
 見目は九歳くらいの女童、向日葵の言葉を信じるならば中身もまだ十二歳だ。娘と同じ年頃であることを考えれば、幾ら鬼で敵対する相手とはいえ、あからさまな態度は取りづらかった。

「父様、誰?」
「初めまして野茉莉さん、私は向日葵と言います。おじ様とは、ちょっとした知り合いなんです」

 にこやかな挨拶。野茉莉もぺこりと頭を下げる。ここだけを切り取れば微笑ましいと言えなくはない。しかし相手は“マガツメ”なる得体の知れぬ鬼の配下。自然と甚夜は野茉莉を背に隠し、庇うように立っていた。

「……もしかして、嫌われています、私?」
「そういう言う訳ではないが、やりにくいのは事実だな」
「むぅ。少し悲しいです」
「そう言ってくれるな。……で、何の用だ。偶然会った訳でもなかろう」
「それは、確かに偶然じゃないですけど。……言伝を頼まれただけです。用があるのは私ではありません」

 少し拗ねたような素振りで、奇妙なことを言う。
 どういうことだ、と問おうとして出来なかった。

「葛野甚夜殿。夕暮れに差し掛かる頃、山科川の土手にて待つ。その時には帯刀を願う。……果し合いをしたいそうですよ」
「それは」
「多分、以前も会った相手だと思います」

 その物言い、おそらく言伝を頼んだ相手は古門で襲い掛かってきた赤い大太刀を振るう鬼だろう。
 そういえばあの鬼は、甚夜が刀を持っていなかったことに失望したと言っていた。態々帯刀を願うとは、よほど刀での戦いに拘っていると見える。

「あと、もし来なかった場合は」

 言うと同時に、目の端が高速で動くなにかを捉える。咄嗟に甚夜は野茉莉を抱きかかえ、遅れて周囲の人々の悲鳴が聞こえてきた。

「がっ」
「ご、ぼぉ」

“なにか”は甚夜達を狙ったのではない。その周囲を歩く人々に真っ赤な刀身の刀が突き刺さり、一瞬にして四つの死体が出来上がっていた。

「父さ……」
「野茉莉、見るな」

 娘の目を腕で隠し、鋭い視線で刀が富んで来たであろう方向を睨む。しかし其処はただの人混み。鬼の姿を見ることは出来なかった。
 剣呑とした空気を纏う甚夜に、しかし向日葵は先程と変わらぬ穏やかな様子で言葉を続ける。

「貴方の大切な者を悉く屠る、とのことです」

 物々しい言葉を柔らかな声で吐く。
 年端もいかぬ娘子が、ひどく歪に見えた。


 
 ◆



「果し合い……随分と、古風なことをする鬼もいたものですね」

 向日葵と別れ一度鬼そばへ帰り、甚夜は支度を整えていた。
 着物は普段のまま、しかし腰には長年を共にした夜来がある。

「受けるのですか?」
「ああ」

 兼臣の問いに短く答える。
 そっと左手で鉄鞘に触れる。帯刀しなくなってからまだ数日。だというのに、その手触りが懐かしく、安堵を覚えた自分に気付いた。

「何故」

 野茉莉たちに危害を加えるというのなら、果し合いに応じない訳にはいくまい。そう思いながらも、何処か言い訳めいたものを感じる。
 それを見抜いているのか、兼臣は端正な顔立ちを微かに歪め、悲しそうな───憐れむような目でこちらを見ていた。
 彼女も刀に拘って生きてきた。甚夜の心情は察しているのだろう。だから割合素直に、胸の片隅にある引っ掛かりを吐露した。

「未練だろう」

 認めたくないことではあった。
 しかし刀での勝負を願われ、心が浮き立った。
 命の遣り取りを前にして、親しいものを人質に脅しをかけていたというのに、刀を振るう理由が与えられたことを喜んでしまった。

「どれだけ幸福に浸ろうと所詮はその程度の男だ。結局、こういう生き方しか出来んのだ」

 刀に縋る男。なんという無様。
 しかし、そうやって生きてきた。他の生き方なんて知らなかった。
 おそらくこれからも、刀を捨てるなど甚夜には出来ない。

「ええ。きっと、そうなのでしょうね」

 弱々しい声は、彼女もまた同じだからだ。兼臣は刀を捨てられない。それが彼女そのものだから、捨てることなんて認められる訳がない。
 例え時代が流れ、刀が誰からも必要とされなくなっても、彼等は決してそれを捨てられない。
 生き方は変わらない。変わったのは時代だ。なのに、曲げられなかった生き方は明治の世に在って、何よりも歪に曲がって見える。
 正しさも信念も、結局はその程度のもの。
 一個人の想いなどより大きな流れの前では何の意味も持たず、それでも生き方を曲げられない者もいるのだ。
 だから甚夜は夜来を携えて、以前と変わらぬ装いで店を出た。
 彼は新時代を迎えても、変われない男だった。
 
 そしておそらくは、あの鬼も。
 


 ◆



 四月。
 山科川に沿って立ち並ぶ桜の木々は今が盛りである。夕暮れの中朱に染まる花弁は昼の桜にはない風情で、いずれ訪れる夜を知っているからこそ儚げな美しさを醸し出している。
 しかし並木を眺められる土手に立つ甚夜の表情は、冷たい鉄のように揺るぎが無い。

『よくぞ来てくださった』

 眼前には、赤黒い皮膚の鬼が。
 優美な景色にそぐわぬ異形は、しかし悠然と甚夜を待っていた。
 あの時の大太刀はない。

「人に帯刀を願いながら自分は丸腰か、侮られたものだな」
『これは失礼。しかし、私に刀は必要ありません』

 本格的に舐められているのか。甚夜の表情が微かに歪み、それを目敏く見付けた鬼は、甚夜の内心を否定するように言った。

『私はただ、貴方と殺し合うことだけを願って生きてきた。その強さも十二分に理解している。どうして貴方を侮ることができるのか』

 空気が変わる。
 敵意ではなく、憎悪でも殺気でもなく、ただただ純粋な戦意。
 この鬼は心底甚夜と戦いたがっている。
 理由など知る訳もない。ただ鬼の目はひどく真摯だ。受けてやらねば互いに遺恨となる。訳もなくそれを理解した。

「確認するが、お前が辻斬りに相違ないか」
『如何にも』
「そうか……ならば、名を聞かせて貰おう」

 斬り捨てるならば名を聞くのが流儀だ。甚夜は表情を変えずゆっくりと抜刀する。
問いに答えることなく、鬼は申し訳なさそうに目を細めた。

『貴方には、既に名乗っております。忘れたというなら、所詮私はその程度の男なのでしょう』

 名乗っている?
 しかしこのような鬼は記憶にない。疑問に思う間もなく、ゆるゆると鬼も動き始める。
 鬼はゆったりとした挙動で右の手を突き出し、ぐっと拳を作った。力を込め過ぎたのか、爪が食い込み、血がしたたり落ちる。
 いったいなにを。疑問に思い、しかしすぐに鬼の意図を知る。
 血液は流れ、次第に凝り固まり、ついには一本の太刀になる。それでも血は止まらず、太刀を覆うように纏わりつき、

『<血刀>(ちがたな)』

 赤い刀身をした大太刀が鬼の手に握られていた。

「成程、刀はいらぬか」
『ええ。刀など必要ない。私こそが刀だ』

 血液を刀に変える。刀に拘る鬼らしい<力>だ。
 鬼は無造作に、だらりと大太刀を放り出すような構え。
 対する甚夜は脇構え。
 互いに獲物を手にした。ならば疑問はあるが、もはや遠慮はいるまい。

 後は、斬り合うのみだ。

 言葉もなく、二体の鬼は駈け出した。
 構えからは想像も出来ぬ程に鬼の歩法は丁寧だ。左足で地を蹴り一足で間合いを侵す。お手本道理の挙動だった。
 
 それとほぼ同時、唐竹に振るわれる赤い大太刀。
 受けには回らない。右斜め前に踏み込み、右足を中心に体を回し、斬撃をよけながら鬼の左側に移動する。
 放つ横薙ぎの一刀。しかし鬼はそれを、何を考えたのか左の掌で受け止めた。当然血が飛び散るが、斬り落とすまではいかなかった。

 刀身を握られ動きを止めるのはまずい。甚夜は追撃を警戒し後ろへ退がる。鬼は苦痛に顔を歪め、そのまま左腕を振るった。
 距離は既に離れている。そこからでは当たらない……しかし、そう思ったのが間違いだった。
 体から離れた後も<力>の影響を受けるらしい。掌から流れ出る血液が刃となり甚夜へと襲い掛かったのだ。

 些か驚きながらも、太刀を小刻みに振るい、血の刃を叩き落とす。
 その隙を逃すまいと鬼は更に攻め立てる。身の丈ほどもある大太刀で袈裟掛けに斬り下す。
 教本通りの丁寧な一太刀。だから至極捌きやすい。
 赤い刀身、その腹を横から叩き付け、軌道を逸らし返す刀で斬り上げる。
鬼の胸元を切っ先が掠め、鮮血が舞った。飛び散る飛沫。追撃を咥えようとして。

 鬼が傷口に触れ、そこから太刀を取り出す。

 突如として増えた太刀が甚夜を狙う。予想外の反撃を夜来で防ぎ、甚夜は鬼を静かに観察する。
 剣術の腕はそこそこだが、<力>の方は厄介だ。
 血液の量と刀の質量が一致しない。おそらくは血を刀に変えるというよりも、血を触媒に刀を生み出す<力>と言った方が正鵠を射ている。出血多量で動けなくなるのを待つのはちと難しそうだ。
 
 しかし、と甚夜は思う。
 この鬼に見覚えはない。なのに、この鬼の太刀筋は何処かで見たような気がした。
 お手本通りの丁寧な剣。嘘のない、実直な太刀筋。
 一体何処で……いや、そんなことを考えている時ではない。
 疑念が一瞬体を止めた。その隙を狙い鬼は赤い大太刀を振り上げ、上段から唐竹割り。尋常ではない速度の振り下しが襲ってくるも、甚夜は咄嗟に鉄鞘を抜き、それを盾にして防いでみせた。

 間髪を入れず、甚夜は一歩を踏み込み鬼の太刀を跳ね除ける。
 流石に高位の鬼。膂力は高く、しかし剣術の方は然程だ。 
 甚夜はすぐに体勢を整え、左足で地を蹴り更に一歩踏み込み、左手の力で相手の肩口から斜めに切り下す。
 袈裟掛け。この距離ならば確実に捉えた。
 
 しかし振り抜くことは出来なかった。
 甚夜の一手を鬼が上回る。
 鬼は、甚夜の一刀が届くよりも早く突きを繰り出していた。

「………………っ!」

<不抜>は使えなかった。甚夜は壊れない体を土浦程早く構築できない。攻撃を読んで待ち構えるならばともかく、咄嗟に発動できる程熟練していなかった。
 何とか体を捻るも、左肩が抉られた。距離が詰まる、痛みはあるが止まっている訳にはいかない。甚夜は体を落し、鬼の鳩尾を当身で狙う。しかしそれは既に見せた技、鬼は甚夜の挙動から反撃を読み、すぐさま後ろ退いていた。
 そして互いに間合いが離れ、硬直状態に陥る。
 
「お前……」

 鬼は戦闘態勢を崩さない。だが甚夜は動揺していた。
 先程の突きはそれ程に甚夜を驚かせた。
 技巧としては決して優れてはいない。同じ突きでも岡田貴一が放ったものは鳥肌が立つほどに滑らかだった。それに比べれば、先ほどの鬼の突きなど然して驚くほどのものではない。
 それでも甚夜は動揺した。

 先程の突き、その術理は恐ろしく単純だ。
 甚夜が鬼の太刀をはねのけようとした瞬間に力を抜く。
その上で右足を後ろにして半身になり、両手を体に引きつけ、切っ先を相手に向けて突きを放つ。
 甚夜の力を“すかして”反撃に移っただけ。
 しかしその動きにこそ甚夜は驚愕した。

「何故だ」

 思い出すのは遠い過去。
 先程の鬼の動きはかつて甚夜が友人に見せたものだ。
 稽古をつけてくれと頼む友人。彼は真面目で実直な、武士らしい男だった。
実直なのは美徳だが、戦いのいては急所と成り得る。だから甚夜は敢えて奇をてらった技を見せた。少しでも友人の力に為れればという心遣いがそこにはあった。

『これは、以前貴方に見せて貰った技でしたね』

 その言葉に胸が締め付けられる。
 勘違いであってほしかった。
 丁寧な口調。
 実直な太刀筋。
 既に名を知っている筈だと言った訳。 
 刀に拘ろうとする心。
 そして、今見せた技。
 もう、言い逃れは出来ない。誤魔化すことは不可能だ。
 甚夜は、鬼の正体を理解した。理解してしまった。

「何故、お前が」

 表情が歪む。
 肩を振るわせながら、甚夜は悲痛な叫びを絞り出す。

「何故お前がこんなことをしている直次っ……!」

 鬼の名は三浦直次在衛。
 かつて、江戸で同じ時間を過ごした、甚夜の友だった。




[36388]      『徒花』・4(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/23 23:41
 

 取り敢えずの政体を整えた頃、明治新政府の討幕派は公議政体派を抑え、徳川慶喜に辞官納地を命じた。
 慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱工作にのり、江戸薩摩藩邸を焼打ちした。更に旧幕府勢力は、慶応四年・一月二日、会津・桑名両藩兵ら一万五千人を北上させた。
 新政府も薩摩・長州両藩兵ら四千五百人で応対し、一月三日、両軍は京都郊外の鳥羽と伏見で衝突した。
 後に言う、鳥羽伏見の戦いである。

 この戦いは、数では劣るものの、装備と士気に勝る新政府軍が旧幕府勢力を一日で退却させ、僅か六日で戦いは終わりを迎える。
 これにより新政府内での討幕派の主導権が確定し、江戸へ逃れた慶喜を討つ為に追討軍が編成される。
 正しく新しい時代を切り開いた一戦と言えるだろう。

 しかし忘れてはいけない。

 犠牲の出ない戦争などない。
 例え勝利しても、その過程で零れる命はある。
 被害を少なくすることは出来たとしても、どうしようもなく失われる命というものは存在するのだ。

「はぁ…はぁ……」

 三浦直次在衛もまた、鳥羽・伏見の戦いに参戦していた。
 戦いに勝利できたとしても、局地的な趨勢は別。彼の当たっていた戦場は旧幕府勢力の猛攻に甚大な被害を受けていた。

「しっかり、してください。もうすぐ、本隊に」

 それでも辛くも勝利し、直次は志を同じくした同胞を背負い歩いていた。
 戦いは終わったのだ。こんなところで死ぬ訳にはいかないと、何度も同胞に声を掛け、しかし返ってくる声は弱々しい

「あぁ、見たかったなぁ。新しい、時代を」

 奮い立たせるように直次は怒鳴り付ける。 

「なにを! あと少しで、我らが望んだ未来に手が届く。こんなところで死んでは……!」

 自身にも傷がある。腹をやられた。けれど友を見捨てるなど出来ない。
 共に命を懸けたのだ。見捨てることなど考えられない。励ましの声を掛けながらただ只管に前へと進む。

「そうだ、なあ……」

 男は嬉しそうに笑い、直次も同じように笑い。

「もうちょっとで、俺達の、おれ、た、ちの……」

 それが最後。
 背負われたまま、同胞は二度と動くことはなかった。

「あ、ああ……」

 もう、立ってはいられなかった。
 直次の傷も相当に深い。今迄歩いてこれたのが不思議なほどだ。
 血が足りない。体が冷たくなっていくのが分かる。
 私もここで終わりか。
 見たかった、未来を。
 皆が当たり前に笑える平穏を。
 でも、それもここまで。
 直次はゆっくりと、まるで眠るように目を閉じようとして、



『直次様、しっかりしてください』



 まだ幼げな声に目を見開いた。

「あなた、は」

 そこにいたのは、線上には似合わぬ、美しい少女だった。
 異人の血が入っているのか、色素の薄い茶の髪をしていた少女。肩までかかった髪は柔らかく波打っている。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。
 纏う着物は薄い青に紋様は宝相華、金糸まであしらっている。庶民が着るには些か上等すぎる。
 何処かの令嬢かとも思ったが、このようなところにいるという事実。
 そして瞳の色に、彼女が人ではないと容易に知れた。
 赤い。
 その瞳は紅玉だった。

『向日葵と申します。実は私、貴方を救うことができます、人の体を捨てることにはなってしまいますけど』

 ふんわりと、と鬼女が笑う。

『鬼になれば、まだ生きることが出来ますよ』
「何故、そんなことを」

 何故名前を知っているかなど、疑問にさえ思わない。
 ただ急に現れ命を救うなどとのたまう女の目的が分からなかった。
 直次の問いに鬼女は笑う。
 無邪気な、ほっそりとした美しい外見に反し、可愛らしいと思えるような笑みだった。

『母様の命令ですから。多分、嫌がらせか暇潰し……遊びの一巻だと思います』

 やはり何を言っているのか分からない。

『どうします? ……やっぱり、その身を鬼へと変えるのは嫌ですか?』

 嫌だなどと思う筈がなかった。
 直次の友には鬼がいる。それも二人もだ。
 彼は鬼が異形であっても邪ではないと知っている。
 だから鬼になることを怖いとは思わなかった。
 寧ろともと同じになれるのならば、喜ばしくさえある。

『決まったみたいですね。……さあ、これを呑んでください』

 一瞬、揺らいだ心を見透かされた。
 そうして鬼女は懐から小瓶を取り出し、入っている液体を無理矢理に呑まされた。

「ぐっ、あ、がぁあああっ……』

 直次の意識はそこで消えた。












 再び目を覚ました時、直次は鬼となっていた。

『感謝はいらぬ。どうせ、ただの嫌がらせ。……暇潰しなのだから』

 向日葵の母であるマガツメはそう言った。
 だが直次は感謝した。
 彼女のおかげで戦うことが出来る。
 そして、新時代を見ることが出来るのだから。

 直次は戦った。
 鬼の身体能力は高い。今迄のように苦戦することはなく、勝利に貢献しているという実感があった。

 しかし彼の喜びは長く続かなかった。

 慶応四年・五月十五日。
 江戸上野において彰義隊ら旧幕府勢力と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で戦闘がおこる。
 その戦いにおいて、刀が重要視されることはなかった。
 新式のスナイドル銃、四斤山砲……そしてアームストロング砲。
 近代兵器は瞬く間に旧幕府勢力を蹴散らし、圧倒的な勝利を治めることになる。

 よかった、余計な被害が出なくて。

 そう思いつつも、自身の手にある刀が頼りなく思えた。



 こうして戊辰戦争は新政府軍の圧勝で終わりを迎えた。
 近代兵器によってもたらされた勝利だったが、皆それを心から喜んだ。
 ようやく平穏が訪れる。
 もはや夷敵に怯えることもない
 彼等が願った、新時代の幕開けだった。
 
 しかし版籍奉還の直後、明治二年六月二十五日。
 明治新政府は旧武士階級のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた。
 こうして武士は歴史から消えることになった。


 ───それくらい構わない。ようやく平穏が訪れたのだから。


 それでもまだ士族は特別な階級ではあった。
 しかしその後、明治三年には庶民の帯刀が禁止され、明治四年には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発布される。
 次第に刀を持つことは罪なのだと思われるようになる。
 事実これは凶器。しかし、明治の世を切り開いた誇りでもあった。
 なのに新時代はそれを認めようとしない。

 それも当然だ。江戸幕府を排したからには、江戸の名残を認める訳にはいかない。
 明治新政府は次々と古い時代を思わせるものを駆逐していく

 明治六年二月七日。
 明治政府は「復讐ヲ嚴禁ス」、俗に言う「敵討禁止令」を発布。
 仇討は禁止された。
 そして明治九年。
 大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止──即ち、「廃刀令」が発布される。
 廃刀令は大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁じるもので、これにより明治政府に属する特権階級以外は刀を取り上げられた。
 武士の世、その完全なる終焉であった。

『あ…ああ……』

 ここまで来て、直次はようやく自身の過ちに気付く。
 道行けば笑う人々。
 誰もが廃刀令を喜んでいる。

『何故、何故だ……』

 その刀こそがこの時代を切り開いたのだろう。
 言葉にならぬ嘆きが届くことはない。
 争う以上殺戮を是とせねばならず、同胞を討たれようとも非と断じることは出来ない。
 しかしそれは理屈だ。
 肉を斬る感触は気持ちが悪い、誰かを殺せば心が軋む。
 同じ未来を語った友が殺されて、悲しいと思わない訳がない
 それでも立ち止まらなかったのは、目指したものがあったから。
 正しいと信じた未来があればこそ、痛みも嘆きも呑みこむことが出来た。
 なのに、訪れた新時代こそが武士の戦いを否定する。

『直次様?』

 体を震わせる直次の前に、いつかのように、向日葵が姿を現した。

『実は、手伝ってほしいことがあるのですけど』

 鬼女の願いを、断ることは出来なかった。
 もはや刀は、武士は人の世に必要ないのだから。







 
『向日葵嬢に救われ、“マガツメ”なる鬼に会いました。消えゆく命を救ってもらった。感謝はしています』

 眼前の鬼───三浦直次在衛は、遠くを眺めている。

『ですが、今では生き残ってしまったことは間違いだったと思える。案外、嫌がらせか暇潰しとはこういうことだったのかもしれません』

 鬼の表情が歪む。それが自嘲だと読み取れたのは、それなりの年月を共にしたからだろう。

「直次、お前は、何故こんなことをしている」

 もう一度、絞り出すように甚夜は問いを投げかける。

『何故? 質問の意味が分かりませんね』

 赤黒い異形は、平然と答える。
 対する甚夜はわなわなと肩を震わせていた。
 以前は逆だった。冷静で無表情なのは甚夜であり、直次の方が動揺を現すことが多かった。
 入れ替わってしまった構図が、過ぎた歳月を意識させる。
 あの頃とは違うのだと、まざまざと見せつけられた。

「辻斬りに身を落とし、何人斬った。お前は、無為な殺戮の為に刀を握ったのか」

 はん、と鼻で哂う。
 そんな仕草、初めてだった。

『甚殿、間違えています。私が斬ったのは与えられた平和に肥えた豚だ。豚は何人ではなく何匹と数えるのです』
「お前は……!」

 何故、お前がそんな言葉を吐くのか。
 まだ覚えている。
 武士が刀を持つのは、力なきものを守るためだと言った。
 徳川に縋りつき、多くの人々が苦しんでいるのを見て見ぬ振りするような生き方は出来ないと。
 だから直次は倒幕を志した筈だ。
 なのに、何故。

『なぜ怒るのですか、貴方も同じ筈でしょう』

 直次は寧ろ自分の方こそ分からないといった様子だ。
 否定はできない。
 確かに甚夜も直次と同じだ。新しい時代に刀を、今まで拘ってきたものを奪われようとしている。直次の目には憐みの色がある。無様な友人に同情さえしているのだろう。

『不愉快ではないですか。この平穏を作り出したのは我ら武士。刀を振るい戦った者だ。だというのに我らが虐げられ、何もしなかった者が安穏と生きる。不愉快だ……いっそ、こんな世など』

 それは、言わせない。
 言葉を邪魔するように甚夜は踏み込み、袈裟掛けに斬り下す。
 軽く赤い大太刀で防がれた。鬼となったからだろう、以前よりも身体能力も反応速度も上がっている。

「言わせん、明治は、お前が願った未来だろう」
『私が、願った?』
「武士の刀は力なきものの為に……それをお前が否定するのか」

 甚夜の言葉に鬼は苦悶の表情を浮かべた。

『五月蠅い……!』

 だがそれも一瞬
 力押しの攻め、薙ぎ払う直次の太刀もまた力任せだ。感情に任せた叫びと共に横薙ぎ、それに合わせて甚夜も距離を取る。
 そして再び対峙する。直次が睨む。彼が初めて見せた、明確な敵意だった。

『貴方には分からないっ! 曲げられぬものがあると言いながら時代とともに変節し、刀を奪われた今を是とする貴方にはっ!』

 お前がそれを言うのか。
 変われないと思っていた。
 強さだけを求めて、けれどいつの間にか分は増える。
 甚夜は弱くなった。もはや憎悪の為だけに生きることは叶わないだろう。
 けれどそんな自分も悪くないと笑えるようになったのは、おふうの、店主の、野茉莉の、染吾郎の、今はもう会えない二人の、そして間違いなく直次のおかげだ。
 なのにそれをお前が否定するのか。
 ぶつけられた言葉は剣戟よりも苛烈だ。心が軋む。けれど表には出さなかった。言った直次自身が、甚夜以上に悲痛に嘆いた顔をしていた。

「ああ、お前のいう通りだ。形だけとはいえ私は廃刀令に従った。守るべきものが出来たからだ。直次……お前にだって守る者はある筈だろう。その為に一時の屈辱を受け入れることは出来ないのか」

 彼は廃刀令に憤りこんな真似をした、それくらいは分かる。
 しかし甚夜に野茉莉がいるように、直次にも妻が、子がいる。
 ならば彼だって変われる筈だろう、そう思った。
それでも直次は頑なだった。願いを込めた問いに表情を変え、激昂したように叫ぶ。

『五月蠅い…五月蠅い……っ! 刀を奪われ、それを受け入れろ……? 出来る、訳が、ないだろうっ!!』

 そして異形は駈け出す。赤い大太刀を上段に、まるで感情をそのままぶつけるように、全霊をもって振り下す。そんな時でさえ、教科書通りの綺麗な太刀筋だ。その太刀筋に、直次がどれだけ真摯に剣と向き合ってきたのかが分かる。

「刀を捨てられぬ。それは私も同じだ。だが辻斬りに身を落とし、次は私を殺すか? それに何の意味がある! お前はそんなことの為に剣を握ったのか!?」

 応じる甚夜もまた感情のままに剣を振るう。斬り合いの中で感情を見せれば隙になる。理解しながらも、抑えることはしなかった。

『違う! 私は、守る為に!』
「ならば!」
『でも死んだんですっ!』

 繰り広げられる剣戟。
 甚夜は反撃することが出来ない。
 違う、反撃する気になれない。
 只管に受けに回り、刀を防ぎいなしていく、

『大勢死んだ……未来を夢見た者がいた、誰かを守りたいと言った者がいた』

 刀も、言葉も、同じ鋭さを持って互いに傷をつけていく。 
 それでも止まらない。止まれない。
 お互いにそういう道を歩いてきた。
 刀を奪われ、憎しみを否定されても、今更立ち止まれる筈がなかった。

『戦うことが怖いと、殺すのは嫌だと嘆いた者いた。それでも自分達の命が未来の礎になれればと、私達は戦った! 今は、新しい時代は、我らの振るった刀が切り開いた!』

 その誇りこそを支えに、彼等はただ美しい未来を願った。
 そして彼等武士は、確かにそれを実現させたはずだった。

『なのに……なのに武士は刀を、誇りを奪われた! それを守られた筈の者達が嘲笑う!』 

 しかし明治の世に置いて武士はその存在を認められなかった。
 官軍の一部が新政府に属すのみ、多くの武士は戦いの果てに庶民と変わらぬ地位へと落された。
 
『何故ですか!? 戦いの果て死ぬのはいい。罵倒も愚弄も構わない。賞賛など元より求めてはいなかった。私達が嘲笑われる程度で平穏が齎されるなら喜んで受け入れよう。それでも、それでも刀を、誇りを奪われることだけは我慢ならない! その誇りこそが我らの全て、我らそのものだった!』

 地位などどうでもよかった。
 ただ誇りがあった。
 太平の世を支えてきた武士、その末裔としての誇りが。
 だから刀を振るった。太平の世を支え、そして腐らせたのが武士ならば、その幕を引くのは武士でなければならぬと身命を賭した。
 その果てに、願った幸福があると信じていた。
 なのに、全てを奪われた。
 新時代は武士が築いたものを壊し、武士を士族に変え、その価値観を貶め。
 ついには誇りさえ奪い去ろうとしている。
 それを、どうして認めることが出来るのか。

『これが新時代だというのなら、こんなものを守る為に同胞は死んだのか!? 私達の命は何の為に在った!? ……私は、私達はこんな未来の為に戦った訳じゃない!』

 止まらない。息継ぎの暇もないほどに攻め立てる。苛烈すぎる剣戟。直次の剣は彼の想いそのものだ。刀を、誇りを奪われた男の嘆き。それは甚夜が感じていた鬱屈とした感情とよく似ていた。

「だから人を殺すのか? お前はそうやって犠牲になる弱き者をこそ守りたかった筈だろう!」

 言葉程度で止まってくれる筈もない。十分に理解しながら、それでも言葉を叩き付ける。

『ならば耐えろと!? 誇りを奪われ、価値を認められず、屈辱に甘んじ……それでも戦わぬ者の為に刀を振るえと言うのか!? ふざけるな! 振るうべき刀を奪ったのは奴らだろう!』
「だとしても、この戦いに何の意味がある! 何故……なんで、お前に剣を向けなければならない……っ!」
『意味ならある……寧ろ、未来をと願った戦いにこそ意味がなかった。だけどこの戦いには意味がある!』

 下から救い上げるように放たれた逆風の一刀。避けることは出来なかった。刀で防いでもあまりの力に吹き飛ばされる。
 その流れに逆らわず、体勢を崩すことなく甚夜は後ろへ下がり、しかし直次の追撃はなかった。ただ怒りの表情で甚夜を睨み付けている。
 それは真面な反撃をしようともしない、戦う気のない無様な男への苛立ちだった。

『私は、“マガツメ”なる鬼に命を救われました。だからその恩に報いる為、人を殺す。そしてそれを邪魔する貴方を斬る。どうです、意味ならあるでしょう』
「ならば闇討ちでも仕掛ければいいだろう」
『武士としてそんな真似は出来なかった。だから果し合いを選んだだけのこと』

 不動。幾ら言葉を積み重ねても直次は揺らがない。

『戦ってください。……それに貴方にとっても意味はある。私を止められねば野茉莉嬢は死にますよ』

 甚夜の表情が歪む。
 なんでそんなことが言える。野茉莉はお前によく懐いていた。お前だって、息子の嫁に、などと言っていただろう。

「……何故だ、何故お前は刀を振るう」

 自分には出せなかった問いだ。
 しかし直次は少しの動揺も見せずに答えたこと。

『知れたこと。明治の世に、刀の意味を知らしめる。辻斬りでも死体集めでもいい。刀に為せることがあると示さなければならない。マガツメとやらが斬り捨てた死体で何をする気かは知りませんが、世が覆るならそれも一興でしょう』
「そんなことを証明してどうなる……!」
『ですがっ! 刀に意味が無いのなら……私達は武士、何のために生まれたのですか?』

 異形の鬼の目に涙はない。でも泣いていると思った。直次は、どうしようもない現実に押しつぶされようとしていた。 

『甚殿、貴方がまだ私を友と呼んでくれるなら、戦ってください。意味のない刀だった。けれどあなたと立ち合えるなら、それだけでも意味がある』

 誰かの為に刀を振るった。
 でも望んだ未来は得られなかった。
 振るった意味さえ奪われた。
 自分が信じたものを無価値だと言われ、

『だからどうか、何一つ為せなかった私の刀に、振るうに足る意味を』

 その果てに彼は、そんなことしか望めなくなった
 彼は時代の徒花だ。
 咲いても実を結ばずに、何一つ残すことなく、新時代という風の前に散って行こうとしている。

「他に道はないのか。全てを忘れ、新時代を生きることは」
『くどい! 自分にさえ出来ぬことを押し付けるな!』

 もう、なにもできない。
 甚夜に為せることは何もない。
 彼を変えることも、止めることも、何一つ。
 してやれることと言えば、精々。

『ああ……ありがとう、ございます』

 彼の望みを叶えてやるくらいのものだ。

『やはり、貴方は私の友です』

 甚夜もまた、異形の鬼と化した。
 直次の腕は高くない。おそらくは人のままでも斬れただろう。しかし鬼と化して戦うことを選んだ。この戦いが彼への手向けならば、全力を出さねば失礼だと、彼の友を名乗る資格がないと思った。

「私もそう思っている」

 夜来を一度鞘に納め、腰を落し、右肩を往き出すような半身。
 対する直次はお手本通りの正眼だった。

「だから、終わらせてやる」

 自分が吐いた言葉に責め立てられる。
 友だと思った。今でもそう思っている。
 なのに、なんで。
 湧き上がる弱音を必死に押し殺す。
 そしてもう一度甚夜は抜刀し、それきり言葉はなくなった。
 もはや語る必要はない。
 直次の真意を理解してしまった。本当の願いは果し合いではなく、全力の果たし合いの果て命を落とすという、武士らしい死に方だ。
 それを理解したからこそ手は抜かない。そんなものを求めて人を殺した彼には、何処にも居場所はないのだ。
 だからこの場で、きっちりと終わらせてやろう。


 彼が、武士でいられる今の内に。


「……行くぞ」
『ええ』

 先に動いたのは甚夜の方だった。
 地を這うように駆け出す、左手は鞘に、右手は夜来を握り、全身に力が籠っていると分かる。
 一挙手一投足の間合いに入り込む。ただしそれは直次の、だ。彼の大太刀の方が長い。自身の間合いに入り込んだ敵を両断しようと全霊で刀を振るう。

『おおおおおおおおおお!』

 裂帛の気合と共に放たれる斬撃。
 しかし読まれた。掠める程に狭い間隔で直次の剣をやり過ごし、左に一歩踏み込み、一太刀で首を落さんと夜来が振るわれる。
 それに反応し無理矢理上体を逸らす。白刃が一寸にも満たぬ距離を取りすぎる。本当にぎりぎりではあったが、どうにか避けることが出来た。
 
 甚夜は更に攻め立てる。上段からの袈裟掛け、肩口を切り裂こうと刃が迫る。
 応じる直次は逆手で下から上へ、ちょうど甚夜の太刀とは対照に斬り上げる。
 重なり合う刃、相手の太刀を弾き飛ばし追撃に移る。
 直次の狙いはそこに在り、しかし甚夜の狙いはそこになかった。

 ───重なり合った筈の太刀が、するりとすり抜ける。

 在り得ない現象に直次は驚愕する。刀がすり抜けた、馬鹿な、そんなことが。動揺したままに甚夜を見れば、表情も変えずぽつりと呟く。

「<空言>」

 夜来は、まだ鞘に納められたままだった。

『な……』

 騙された。
 先程見せた刀は幻影。その実甚夜はまだ抜刀さえしていなかった。
 幻影の刃を全力で打ち据え、直次の体は伸びきってしまっている。
 対する甚夜は居合抜きの構え。
 精一杯体を捻る、だが間に合わない。
 既に相手は刀を抜き始めている。居合には向かない鉄鞘であるが、それでも直次が避けるよりは速い。
 放たれる白刃。
 直次はその鈍い輝きをしっかりと見ていた。
 なのに動けない。
 霞むほどの速度の斬撃が身に食い込み、

「以前も言ったぞ。実直なのはお前の美徳だが同時に急所だと」

 直次は、一太刀の下に地へと伏した。



















『あぁ、やはり、甚殿には勝てませんね』

 虚ろな目は何も映していない。
 仰向けに倒れた直次の体からは白い蒸気が立ち昇る。見上げた夕暮れの空は高く遠く、どこか懐かしいその色をぼんやりと眺めていた。

「悪いな。私は武士ではない。正々堂々などという言葉に興味はなし、卑怯な手も使う」

 貴方は嘘が下手ですね。
 そう思ったが、口にはしなかった。
 彼がああいう騙し討ちのような戦いをしたのは直次の為だ。
 剣に拘った直次だからこそ、剣で負けたのではなく、<力>と策に負けたような形にしようとした。
 何とも回りくどく不器用な気遣い。それが自分の良く知る友人らしくて、直次は小さく笑った。

『いえ、これが勝負。私は全霊で戦い、負けた。それだけのことです。少なくとも……意味のない戦いではなかった』

 清々しい、というほどではない。
 それでも立ち合いの果てに息絶えるのならまだマシだ。そんなことを考えながら直次はただ空を見上げる。段々と、眠くなってきた。

『それに、醜い明治の世をもう見なくても済む。私は結局、死に場所を間違えたのでしょう』

 それは甚夜もまた感じていたことだった。
 だからだろう。直次の傍まで近寄り、腰を屈め、左腕でそっと彼の体に触れる。
 何をするつもりなのか分からず、直次が甚夜を見る。そこに在るのはいつも通りの無表情だった。

「私は、いずれ葛野の地に現れる全てを滅ぼす災厄……鬼神を止める為に強さを求めた。その心は今も変わらぬ」

 抑揚のない口調。以前も聞いた、正確には盗み聞いた話だった。

「そしてこの左腕は鬼を喰らいその<力>を我がものとする異形の腕」

 どくん、異形の腕が鳴動した。 

「お前の<力>が欲しい。故にその<力>……私が喰らおう」

<同化>
 元々甚夜の左腕はそういうもの。
 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。

『あぁ、ぐ……』

 喰われている。
 直次は自分の中の何かが流れだしているのを感じた。ほとばしる激痛。それと同時に甚夜の記憶もまた少しずつ流れ込んでくる。
 白雪。鈴音。鬼神。
 人よ、何故刀を振るう。
 見捨ててしまった父、もしかしたら妹になっていたかもしれない少女。
 雪柳の下で語った夜。
 嘘吐きな妻から託された娘。
 強さを求め、けれどいつの間にか余分は増える。
 それでも、曲げることの出来なかった生き方。

『はっ、はははは……』

 気付けば直次は声を出して笑っていた。
 甚夜の記憶を垣間見て、彼が自分を、<血刀>を喰らおうとしていると知った。
 なのに。
 いや、だからこそ直次は笑った。

『甚殿、私の<力>は、役に立ちますか……』

 彼はこれからも戦いに臨む。
 時代が刀を必要とせず、憎しみを否定されたとしても。
 生き方を曲げることはきっとできない。

「無論だ。血液を刀と変える。これからの時代、お前の<力>は私を支えてくれる。そしていずれは、鬼神へ届き得る刃となるだろう」

 その迷いのない答えが、嬉しかった。

『はっ、はは……そうですか。私の<力>が人に災厄を齎す鬼神と戦う時、役に。貴方のこれからを支えますか』

 笑う。
 激痛の中、ただ笑う。
 手に取った刀はなにも守れなかった。身命を賭し振るったその果ては、武士も刀も認められない時代だった。
 
 それでもいいじゃないか。
 お前が望んだ未来はここにある。
 これからは刀も武士も、いらなくなる。
 本当はその方がいいって分かってるだろう?

 だけど、そう思うには、失くしたものが多すぎた。
 刀に生涯を掛けた者達が切り開いた未来だ。自分だけが刀を捨て安穏と生きるなど、出来る訳がなかった。
 だから刀に拘った。
 この嘆きは私だけのもの。
 でもみんな見ていないだけで、“私”は沢山いるのだと。
 新時代は数多の屍の上に成り立っているのだと。
 貴方達の幸せの為に散って行った名もなき命があるのだと、忘れて欲しくなかった。
 
『よかった……何も守れなかったけど』

 だから得体の知れぬ鬼に従い、辻斬りとなった。
 思えば、馬鹿なことをしたものだ。
 本当はこの果し合いも、止めて欲しかったからなのかもしれない。
 自分を止めるものは、時代でも、民衆でもなく。
 散々拘った刀であってほしかった。
 本当に馬鹿なことをした。
 でも最後の最後に救いがあった。

『私の戦いには、確かに意味があった……』

 間違えた想いが生んだ<力>。
 けれど私の刀は彼の助けになれる。
 それで充分。
 ありがとう、甚殿。
 こんな救いを与えてくれた友人に限りない感謝を。 

 ああ、眠くなってきた。

 直次は痛みの中、しかし安堵と幸福を感じていた。
 もうそろそろ、眠ろうか。
 死に場所を間違えたと思った。
 でも友に看取られて死ねるならそんなに悪くないと思える。
 だからゆっくりと、微睡みに身を委ね、そっと瞼を閉じた。
 自然と笑みが漏れる。
 彼の目が最後に映したのは、見上げた夕暮れの空ではなく。
  
 いつか笑い合った、蕎麦屋での一幕だった。









 ◆







 夕暮れが過ぎ、夜が訪れ、しかし甚夜は未だ動けずにいた。
 また姿が変わった。
 右腕。肌は浅黒いままだが、若干太さを増し爪が鋭くなっている。自分の肌を傷つけやすくするための変化だった。

「<血刀>……血液を媒介に刀剣を生成する<力>」

 声に力はない。
 自身の腕を眺めながら、甚夜はその<力>の意味を想う。
 鬼の<力>は才能ではなく願望。
 心から望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。
 だから直次の<力>は<血刀>。 

『義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
 己が矜持に身を費やし、それを侵されたならば、その一切を斬る“刀”とならん。
 ただ己が信じたものの為に身命を賭すのが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である』

 そういう男だからこそ、<血刀>を得た。
 かつての直次を思い出しながら、絞り出すような声で甚夜は呟く。

「お前は、最後まで。血の一滴までも刀で在りたかったのだな……」

 結局、そう在ることは、できなかったけれど。

 新しいものはいつだって眩しく見えて、時折目が眩んで、失われていくものを見失ってしまう。
 例えば、道の端に咲く花。
 早すぎる時代に押し流され、咲いて儚く散り往きて。
 いずれ訪れる春の日に、芽吹くことなく忘らるる。
 巡り来る時に咲く場所を奪われた花は、実を結ぶことなく枯れていく。
 そこに籠められた想いを、誰に知られることもなく。 

「では、な。 直次。最後は上手くいかなかった。だがお前に会えてよかったと思うよ」

 甚夜は踵を返し、山科川を後にした。
 いつか、直次と善二と、三人呑んだ夜があった。
 けれど今は一人。
 それが無性に寂しく思えた。
 
 訪れた夜に空を見上げる。
 映るのは、優しげに光を落す月。
 春の夜空に浮かぶ月は、輪郭も朧に滲んでいる。
 月夜の小路を一人歩く。
 ふと触れれば、知らないうちに頬が湿っていた。
 どうやら春夜の露に濡れたらしい




 それでお終い。
 花一つ散り、けれど咲くことは止められず。
 時代の片隅で、今も徒花はひっそりと咲いている。




 鬼人幻燈抄 明治編 『徒花』了
        次話 『妖刀夜話 ~御影~』





[36388]      『妖刀夜話~御影~』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/26 23:43
 

 明治十年(1877年)・八月

 最近、とみに思う。
 一年という期間は、想像以上に長いのだと。
 鬼となり千年の寿命を得てしまった甚夜には最早実感することは出来ないが、人の一年は長い。
 変わらないものなんてない。
 一年もあれば大抵のものは容易に変わってしまう。

「おーす、おはよう。葛野さん」
「どうも」

 今日も今日とて店先の掃除をしていると、鬼そばの隣にある三橋屋、その店主である三橋豊重(みはし・とよしげ)も同じように表に出てきた。

「今日も、あっついなー」
「いや、まったく」

 二十五になり、以前よりも少しは貫禄が出て来たように見える。しかし豊重は相変わらず面倒くさそうに掃除をしている。それでも手を抜かない辺りは店主としての心掛けだろう。

「それじゃ」
「ええ」

 軽い挨拶を交わし互いに店へ戻る。
 既に仕込みは終わらせてある。朝食を準備し終えた頃には、野茉莉は既に起床し、裏の井戸水を汲んで顔を洗っていた。
 昔から寝起きはいい方だった。ただ起こして貰えるのが嬉しいからと寝たふりをしていただけ。しかし今では起こすこともなくなった。それを少し寂しいと感じてしまうのは、仕方のないことだろう。

「いただきます」
「いただきます」

 親娘で顔を合わせ、言葉少なに朝食をとる。
 野茉莉は大きくなった。
 髪型は以前と変わらず、黒髪を甚夜が買った桜色のリボンで纏めている。しかし顔立ちからは少しずつ幼さが抜けてきた。一年前と比べれば、女性らしい丸みを帯びてきている。
 
「……なに?」

 甚夜の視線を訝しんで、短く野茉莉が言った。

「ああ、いや」
「そう……」

 よく分からない遣り取りを交わし、また食卓は静かになる。
 かちゃかちゃとなる食器の音だけが響く。気まずい空気をどうにか打ち破ろうと、甚夜はもう一度口を開いた。

「今日は、天気がいいな。どうだ、久しぶりに散歩でも」
「ううん、別にいいよ」
「……そう、か」

 にべもなく言葉を断ち切られ、それ以上何も言えなくなる。結局まともな会話は出来ないまま朝食を終えた。
 それでも野茉莉は当たり前のように洗い場まで食器を運ぶ。店の手伝いも変わらずに続けてくれている。
 決して何もかもが変わった訳ではない。野茉莉は間違いなく昔のままの優しい娘で、
ただ以前のように上手く会話が出来なかった。

「ありがとう」
「ううん」

 短い返事、長い沈黙。やはり会話は続かない。
 野茉莉は大きくなった。その分、色々なものが見えるようになり、いつまでも幼い娘ではいられなくなった。
 そうすれば自然と親を煩わしく感じるのだろうか。野茉莉が無邪気な笑顔を見せてくれることは少なくなった。

「野茉莉、洗濯物があれば出しておいてくれ」

 何気なく声を掛けたつもりだった。しかし何故か野茉莉は、僅かながら頬を主に染め、顔を背けてしまった。

「いいよ、自分のくらい洗えるから」
「だが手間だろう。まとめて洗えば」
「だからいいって!」

 甚夜の言葉を遮るように強く言う。自分で出した大声に驚き、今更ながら自分の態度を顧みて野茉莉は更に顔を赤くした。

「ご、ごめんなさい! でも本当に自分で洗うから!」

 一度も父の目を見ずに謝り、小走りで奥の部屋へと行ってしまう。
 残された甚夜は、何も言うことが出来なかった。


 最近、とみに思う。
 一年という期間は、想像以上に長いのだと。
 鬼となり千年の寿命を得てしまった甚夜には最早実感することは出来ないが、人の一年は長い。
 変わらないものなんてない。
 一年もあれば大抵のものは容易に変わってしまう。

 葛野野茉莉、十四歳。
 思春期、そして反抗期であった。





 鬼人幻燈抄 『妖刀夜話~御影~』





「それは、葛野様が悪いでしょう」

 夜になり、店で酒を煽っている甚夜に、兼臣ははっきりとそう言った。

「例え父親であっても殿方に服を洗われるなど恥ずかしく思って当然。寧ろちゃんと謝れた野茉莉さんを褒めてあげるべきです」

 女性として甚夜の態度引っ掛かったらしく、兼臣は慰めるようなことは言わなかった。
 甚夜も父としての振る舞いには自信が無い為、反論はせずにそれを受け入れている。

「そう、か?」
「ええ。子供はいつまでも子供ではないのですから。野茉莉さんはもう十四。江戸の頃ならば結婚していてもおかしくない歳でしょうに」
「結婚だと」

 それは流石にまだ早すぎる。
 にわかに動揺し声を荒げれば、兼臣は呆れたように溜息を吐いた。

「だから、もう子供ではないのです」
「あ、いや……うむ。分かっているつもりでは、いたんだが」

 変わらないものなんてないと知っていた。
 だから野茉莉もいつかは大きくなると理解しているつもりになっていた。しかし本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。子供扱いをしてはいけないと頭では理解しているのに、出てくる言葉は子供に対する物言い。結局のところ甚夜は娘の変化に付いていけてなかった。

「儘ならぬものだ」

 ぐっと酒を飲み干せば、空になった器に兼臣が酒を注ぐ。
 兼臣は酒をやらない。代わりに酌をしてくれていた。
 別にそんなことをしてもらうつもりはなかったのだが、普段世話になっている礼だと言われては断るのも心苦しい。
 仕方なしに頼むと、兼臣は傾いた装いとは裏腹に楚々とした仕種で酒を注いでくれる。
 杯を飲み干す。喉が熱い。偶にはこんな酒も悪くないかもしれない。そう思えた。

「お前にも、ああいう時期はあったのか」

 酒を呑みながらも気にかかるのは野茉莉のこと。
 女でなければ分からぬこともあろうと聞いたが、兼臣は困ったような顔になった。

「いえ、私は随分前に父を失くしているものですから、相手がおりませんでした。もっとも、生きていたとて父に反抗する自分など想像もつきませんが」

 初めて聞く話だった。そもそも兼臣とじっくりと話したことはない。
 もう五年近く同居しているというのに、知っていることなど殆どないのだと今更ながらに気付かされた。

「不躾なことを聞いた」
「いいえ、お気になさらず」

 また酒が注がれる。陰鬱な気分を飲み干すように、甚夜は一気に盃を空ける。
 それが面白かったのか、兼臣はくすりと静かに笑った。

「難しいな、親というのは」
「人を育てるのです、当然でしょう」

 染吾郎は、この娘の主人と知己だと言っていった。
 若く見えても夫のある身。彼女なりに思う所があるのかもしれない。

「そうか、お前は結婚しているんだったか」
「え?」

 何の気なしに零せば、兼臣はきょとんとした顔をしている。何を言っているのか分からないといった様子だった。

「葛野様、何の話でしょうか?」
「以前、染吾郎から主人がいると聞いたが」

 甚夜の言葉に納得がいったのか、兼臣は薄く微笑む。

「ああ、確かに主人はいます。ですがそれは“夫”ではなく“仕えるべき主”。私は刀、そのようなものを嫁に迎える物好きはいないでしょう」
「……すまん、如何やら勘違いだったらしい」
「ですから、お気になさらず」

 軽く言う兼臣。しかし彼女の言が真実とすれば、それは決して軽いものではないだろう。
 染吾郎は彼女の主人と知己。そして主人が鬼に討たれ、染吾郎を頼った兼臣は、鬼を討つという男に地縛の捕縛を依頼した。
 おそらく彼女の主人は地縛にやられた。
 つまり彼女の目的は主の敵討ということになる。
 知らず溜息が零れた。
 刀を捨てられず、復讐を願う。
 彼女もまた、明治の世に取り残された一人だった。

「そういう葛野様は妻を娶ろうとは思わないのですか?」

 己を刀だと言い張る兼臣、ならば主を守れなかった後悔は推して知るべしというものだ。
 だが顔には出さなかった。同情など彼女は欲していない。彼女の無念が晴れる時は、地縛を打ち倒したその時だけ。ならば安易な慰めなどしてはならない。

「相手がいない。……それに以前、野茉莉に母親はいらんと言われた」
「それを律儀に守る辺り、貴方らしい」
 
 言いながら酒を注ぎ、そこで徳利が空になった。
 どうやら随分と長いこと話をしていたようだ。

「深酒は体に毒。そろそろお休みになられては?」
「そうしよう。すまんな、愚痴に付き合ってもらった」

 最後に盃を煽り、一息ついて甚夜は落すように笑った。
 何かが解決したわけではないが少しは気が楽になった。

「いいえ。葛野様にはお世話になっております故」

 甚夜の様子に安心したのか、返すように兼臣も笑い、徳利を片付けてから彼女は寝床に戻った。
 彼女がどういった出自かは分からないが、刀に拘っていること、また恩義に報いようとする辺り、武家の娘だったのかもしれない。
 少しだけ穏やかな心地で彼女の背中を見送り、そろそろ自分も寝ようと席を立てば、

「……父様?」

 計ったように、暗がりから声が聞こえた。

「野茉莉、どうした」

 障子に身を隠し、覗き込むように野茉莉はこちらを見ている。表情は硬い。あからさまに不機嫌な様子だ。

「ちょっと目が覚めて……お酒、呑んでたの?」

 声は重く冷たい、鉄のような響きだった。

「ああ」
「ふーん、兼臣さんと? 夜中に、二人きりで?」
「む、少し、な」

 無感情で平坦な言葉を積み上げていく。
 問い掛けているというのにその眼には興味も好奇も宿ってはいない。
鬼との戦いでさえ気圧されたことなど殆どない。だというのに愛娘の放つ圧迫感に、甚夜は少したじろいだ。
 野茉莉は眉を顰め、昏い視線を向けた。
 
「……不潔」

 そしてぼそりと呟き、反論を聞くことなく去っていく。
 咄嗟のことで甚夜は何も返せなかった。
 そもそも何と答えればよかったのかも分からない。
甚夜は愛娘からぶつけられた言葉に打ちのめされ、しばらくの間立ち尽くしていた。



 ◆


「いやー、しかし野茉莉ちゃんかいらしなったなぁ」

 昼時になり店を訪れた染吾郎は、店内を動き回る野茉莉を眺めながらそう言った。
 甚夜は口には出さなかったが同意した。親の贔屓目はあるが、娘は十分に可愛らしくなったと思っている。近頃は上手く会話できなくなってしまったが、それでも店をちゃんと手伝ってくれる優しい娘に育ってくれた。
 おしめを換えていたのがついこの間のように感じていたが、歳月は気付かぬうちに流れるものである。
 
「まだまだ子供や思っとったのに。いや、僕も爺になる訳や」

 甚夜の気持ちを代弁するように染吾郎は嘆息した。
 きつね蕎麦をゆっくりと啜りながら穏やかに目を細める様は、言葉通り好々爺といった印象だ。しかしながら甚夜はこの男が一筋縄ではいかないことをよく知っている。

「なぁ? 平吉」

 予想通り、染吾郎は穏やかな顔のまま、隣でてんぷら蕎麦を食べている弟子をからかい始めた。

「えっ!?」
「そやから、野茉莉ちゃん。かいらしなったと思わん?」

 宇津木平吉。
 今年で十七になるこの青年は、秋津染吾郎の弟子である。
 付喪神使いを目指しながらも体は鍛えているのだろう。歳の割に肩幅は広く、背丈も五尺半程と体格がいい。いくつか術も習得し、それなりに“できる”ようになったと染吾郎が嬉しそうに話していた。

「あ、はい、いや、ええ……えぇ?」

 そんな彼は、根深く鬼を嫌っており、その割に何時の頃からか文句も言わず鬼そばへ訪れるようになった。以前は師に無理矢理連れてこられていただけだったが、今では一人でも時折蕎麦を食いに来ることさえある。

「そりゃ、はい。俺も、そう思い……いやいや!」

 それがどういう感情からの行動かを理解できぬ程、甚夜は鈍くはなかった。

「知っとるで、平吉、野茉莉ちゃんに会うために時々ここ来とるやろ?」
「えっ、なんで!?」

 ぼそぼそと、しかし甚夜にも聞こえる程度の声量で染吾郎が囁く。
 ばれていないとでも思っていたのか、指摘された事実に平吉は顔を赤くして慌てふためいていた。

「いやぁ、かいらしなったもんなぁ。桜色のリボンもよう似合っとる。あれか、告白とかはせんの?」
「お、お師匠!? そんなんじゃないですから!?」
「僕に隠し事なんかせんでもええやろ。ほれ、言うてみ? お近づきになりたいんやろ?」

 わやわやと騒がしい二人に呆れて溜息を吐く。


「父親の前でそういう話をしてくれるな。どういう顔をすればいいのか。分からなくなる」

 呆れもするというもの。平吉を弄っているに見えて、染吾郎が本当にからかおうとしているのは甚夜の方だ。大方娘に恋人が出来るかもと思わせ、慌てさせようとでもしているのだろう。
 
「あらら、案外平気そうやね」
「お前の弟子なら何処の馬の骨とも分からん男よりは信が置ける。取り立てて騒ぐことでもあるまい」
「……なんや、ちょっと照れるなぁ」

 からかおうと思ったのに真っ直ぐな言葉を受け、少しばかり恥ずかしそうに染吾郎は頬を掻いた。

「ま、それはおいとくにして。そしたら平吉と野茉莉ちゃんがくっついても?」
「私が口を出すことではなかろう」

 甚夜個人としては娘にはまだ“娘”であってほしいと思う。
 しかし野茉莉が望むのならば、それは仕方のないことだ。
 ただ少し引っかかりはあった。
 平吉に、ではない。本当ならばもう一人、婿になるかもしれなかった者がいたと思い出してしまったからだ。
 遠い昔、友人は野茉莉を武家の娘にするつもりはないかと聞いてきた。
 その時甚夜は確かに“それも悪くない”と思った。
 しかしもうそれは望めないだろう。友人をこの手で殺した。彼の息子にも、妻にも、今更合わせる顔などなかった。

「えっ、ほんまに!?」

 平吉はものの見事に頬を緩ませる。
 鬼を嫌っている彼だが、以前より態度は軟化した。甚夜に慣れたのか、それとも野茉莉の父だからなのかは今一つ分かり辛いが。
 それでも彼は目標のために努力できる人間だ。そしてその為の手段に正道を選べる誠実さも持っている。
 勿論、娘が誰かと恋仲になるのは父親としては寂しいが、その相手が平吉だというのは少なからず安心できる要素ではあった。

「まあそれも野茉莉が」
「……私のいないところで、そんな話しないでよ」

 望むのならば、だが。
 そう続けようとして、悲しそうな、苛立ったような声に遮られた。
 いつの間にか傍まで寄っていた野茉莉は甚夜を無表情で見つめている。しばらく沈黙が続き、新しい客が入って来たところで「いらっしゃいませ」と元気な声で野茉莉は離れていった。
 なにも声を掛けてやることが出来なかった。

「あーいや。なんや、僕、拙かった?」
「お前のせいという訳でもない。近頃はどうにも、な」

 拙かったのは寧ろ甚夜だ。
 自分の行く末を父が勝手に語るなど確かに不快だろう。もう少し気遣わなければいけないところだった。 

「お父さんは大変やね」
「まったく、儘ならぬものだ」

 弱音を吐いた甚夜はいつもより疲れて見える。話題を振ったのはこちら、流石に悪いと思ったのか、染吾郎は努めて明るい表情を作った。

「そや、実は君好みの話持ってきたんやった。詫び代わりに聞いたって」

 甚夜の顔付きが一転した。
 
「ほう?」

 どれだけ日常に浸かろうとも彼は鬼、掲げた“己”は曲げられぬ。
 その在り方にほんの少し苦々しいものを感じながらも染吾郎は言葉を続ける。

「近頃な、百鬼夜行を見たって話がようさん聞こえてくる。なんか被害が出た、ってとこまではいっとらんけど。鬼がなんやしとるのは間違いなさそうやね」

 例えば宇治拾遺物語には、ある修行僧が摂津の竜泉寺で、百もの鬼と出くわした話が記されている。
 夜毎街を練り歩く鬼や妖怪の群れを百鬼夜行と呼び、遭遇すれば寿命が地事務など不吉の象徴として多くの説話が残されていた。

「成程、確かに私好みだ」

 百鬼夜行というからにはそれなりの数の鬼が目撃されているのだろう。
 それがいきなり自然発生したとは思えない。
 何か裏がある。
 そしてその裏はおそらく。

「ああ、そういや」

 思い出したように染吾郎は付け加える。

「百鬼夜行の中心には、鎖を操る鬼女がいたって話や」

 マガツメが、動き始めたのだ。




[36388]      『妖刀夜話~御影~』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/07/31 01:21

 つまり、兼臣は刀であった。




「娘はいずれ南雲を継ぐ。しかし剣の腕が無くてな。少しばかり指南をしてやってくれ」

 退魔の家系として名高い、“妖刀使い”の南雲。
 当主の娘、南雲和紗(なぐも・かずさ)は退魔の家に生まれながらも、その容姿は刀など似合わぬ優しげな少女で、一見すれば良家の令嬢としか思えぬ線の細さだった。

「よろしくお願いします」

 和紗の父に引き合わされたのが初めての出会い。
 その時、和紗はまだ十二の女童だった。
 外見に反してタコの出来たごつごつとした手、だというのに剣の腕はあまりに拙い。
それもその筈。和紗は刀を振るっても相手に当たる瞬間、力を緩めてしまうような娘だった。
 兼臣は彼女が退魔に向いていないと思っていた。
 優し過ぎて、誰かを傷付けることに傷付けられるような娘だ。鬼を討つ家の当主になぞなれよう筈もない。


 ────貴女は、刀を振るうのには向いていない。


 それは兼臣なりの優しさだった。
 彼女の父の考えは兎も角、別に当主は和紗でなくてもいい。このような優しい娘が鬼を斬る家を継ぐ必要はないと思えた。

「ええ、私もそう思います。でも、だからこそ父は私を望んでくださったのです」

 不躾な言葉だった。しかし怒りはなく、柔らかな仕種で彼女は答える。

「貴女は戦う術を持たぬ者は妖刀使いに相応しくないと言う……けれど本当は、傷付けることを躊躇えない人こそ相応しくないのです。妖刀は心をもてど斬るものを選べない。ならば、使い手はそれを選べる者でなければなりません」

 そうして和紗は儚げに微笑んだ。

「斬るべきものを選べる心こそ、南雲の誇りなのです」

 なんとも、お人好しな退魔の家系があったものだ。
 呆れながらも妖刀の心さえ慮る彼等のことを兼臣は気に入った。
目の前でたおやかに笑う和紗の力に為ってやりたいと思ってしまったのだ。
 
 つまり、兼臣は刀であった。
 この優しい娘が傷付かぬよう、優しいままでいられるように。
 彼女を助け、立ち塞がるものを切って捨て、進むべき道を切り開く。
 そういう刀で在りたかった。
 心からそう思って。
 なのに────




 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。




 私は大切な者を奪われた。
 それを取り返す為ならば、いかな屈辱でも耐えよう。
 兼臣の道行きはただその為だけにあった。

 つまり、兼臣は刀であった。
 鞘はとうの昔に失くしてしまった。



 ◆



 三条通を行く兼臣は小走りだった。

「そこの女、止まれ!」

 廃刀令が施行されても帯刀を止めない彼女は警官隊によく追われており、要注意人物としてあげられる程。しかしながら刀を手放すことは出来ない。その為この追走は既に日常的な光景となってしまっていた。

「ふぅ……」

 いい加減このやり取りも面倒くさくはなってくる。兼臣にとって、明治という時代はひどく生きにくいものだった。
 取り敢えずは警官隊をやり過ごし、再び通りを歩く。しばらくすると、三条通に店を構える小物屋の店先でなにやら唸っている平吉と出くわした、

「宇津木様?」
「あ、兼臣さん」

 えらく真剣に悩んでいる様子だったが、兼臣の姿を確認すると背筋を伸ばして挨拶を返した。

「どうしはったんですか、こんなとこで」
「いえ少し。宇津木様は?」

 女物の櫛や装飾具などを扱った店で体格のいい十七の青年が唸りを上げている様は中々に奇異だ。思わず問うてみれば平吉は僅かに顔を赤くした。

「いや、俺も、少し」
「はあ」

 答えたくないらしく、平吉は適当に誤魔化す。突っ込んで聞くほどの興味もなく、結局話はそのまま立ち消えた。
 平吉にとって兼臣は師匠の知り合いであり行きつけの蕎麦屋の居候。
 兼臣にとって平吉は居候先の蕎麦屋によく来る客。
 お互い顔は知っているもののそこまで親しくもない。話が途切れると何となく居た堪れない心地になってしまい、気まずさから逃れるように兼臣は当たり障りのない話題を振った。

「今日は、秋津様は?」
「いつも通り蕎麦食いに行ってます。まあ、ほんまはあいつに会いに行ってるんでしょうけど」

 あいつ、というのは店主のことを指しているのだろう。
 理由は分からないが平吉はやけに鬼を嫌っている。付き合いが長くなったとはいえ、鬼である甚夜を完全に受け入れることはできないようだった。

「相変わらずですね」
「今回は変な話仕入れてきたみたいですし、それ関係やと思います」
「変な話、ですか」

 こくんと頷いてから平吉は言った。

「はい、鎖を操る鬼女が、夜な夜な鬼を引き連れ練り歩いとるらしいんです」

 その言葉が兼臣にとってどういう意味を持つのか、彼は知らなかった。



 ◆


 夜になり、野茉莉が寝静まってから甚夜は自室に戻り腰に夜来を差した。
 廃刀令が施行され日中の帯刀は難しくなった。しかし鬼を討つのに無手という訳にもいくまい。形だけは法に従ったとしても、どこまでいっても彼は刀を捨てられなかった。
 もう一度店舗へ戻り、心を落ち着けるようにゆっくりと呼吸をする。
 すると時期を計ったかのように、部屋から出てきた兼臣が顔を出した。 

「……葛野様」

 朝出かける前は普通だったが、今の兼臣はいやに昏い顔をしていた。

「どうした」
「……地縛が、現れました」

 呟く声は震えている。
 どうやら彼女も百鬼夜行の噂を聞きつけたらしい。
 五年ぶりに姿を現した仇敵。冷静でいられる方がおかしいというものだ。
 それでも感情に任せた行動をとらない辺り、彼女は現実というものを知っている。見ているこちらが苦しくなる程に、だ。
 兼臣の腕では地縛を倒せない。
 彼女は、それを誰よりも理解していた。

「どうやらそのようだ。百鬼夜行を引き連れるとは、しばらく見ぬうちに随分と出世したらしい」

 冗談を言っても表情は変わらない。

「では、貴方も」
「ああ。染吾郎から場所も聞いた。今夜向かうつもりだが、お前はどうする」
「答えなど、聞く必要もないでしょうに」
「そうだったな」

 確かに意味のない問いだった。
 断るなど在り得ない。
 その為に刀を振るってきた。今更尻込みする理由が何処にある。
 悲壮なまでの表情を浮かべ、兼臣は真摯に頭を下げた。

「……どうか、御助力を」

 微動だにせず、只管に願う。
 刀を振るう者が、己が刀の弱さを曝け出す。それは耐えようもない屈辱だろう。
 甚夜もまた刀に生きた男。憎むべきものを前にして力が足りない、その悔しさには覚えがあった。

「私はな、お前を高く評価している」

 帰ってきた答えは、兼臣の意表を突いた。

「地縛の動きを知ったお前は、考えもなく動くと思った。だが違ったな。地縛を仇と憎みながら、激情に駆られ無謀な行動をとるような真似はしなかった」
「褒められたことではありません。私では勝てない、だから貴方に縋っただけです」

 歯噛みする兼臣は、言葉の通り心底悔しそうだ。
 それも当然、彼女は刀だったのだ。敬愛する主を守る刀で在りたかった。
 なのに主を守れなかった。敵を討つことも叶わず、ただ力を貸してくれと縋るしかない己が、どうしようもなく無様に思えた。

「弱さを認めるのは、強く在るより遥かに難儀だ。お前の気質では誇れはしないだろうが、卑下することでもない。憎しみを飲み込むだけの度量は、素直に見事だと思うよ」

 甚夜は左手を夜来にかけ、落とすような笑みを零した。

「私には出来なかったことだ。正直、嫉妬さえ感じるな」

 ほんの少しだけ垣間見えた、頼りない表情。
 もしも彼女のような強さがあったなら、あの夜、妹を傷つけずに済んだのだろうか。
 どろりとした憎悪を感じながらも、甚夜は心の片隅でそう思った。 

「済まない。……何故か、お前には愚痴を言ってしまう」
「ふふ、それが信頼の証なら、甘んじて受け入れましょう」

 ようやく、小さくだが兼臣は笑ってくれた。
 そして幾分か肩の力を抜き、甚夜の目をまっすぐに見詰めた。

「あの、葛野様。代わりと言ってはなんですが、私の話を聞いてもらってよろしいでしょうか?」

 淀みのない瞳。
 受けてやらねば、彼女を傷付けることになる。甚夜は訳もなくそう思った。

「ああ」
「ありがとうございます」

 もう一度はにかむように笑い、兼臣は緩やかに語り始める。

「貴方には聞いてほしいのです。私の始まりを。……守るべきものを守れなかった、無様な刀の話を」



 ◆



 兼臣は刀として和紗に仕えた。
 しかし和紗にとって兼臣は、刀である以上に剣の師であり、教え諭してくれる姉であり、何よりも無二の友であった。
 それがくすぐったく、同時に心地よく。
 兼臣は南雲での暮らしに言い様のない安寧を感じていた。

「おぉ、和紗ちゃん。こんにちは」

 時折南雲の家へ遊びに来る男は、秋津染吾郎と名乗った。
 妖刀を扱う南雲と付喪神を使役する秋津。
共にあやかしとなった器物を扱う者達、それなりに交友があるらしく、染吾郎は土産に京の菓子を持ってきては日長一日南雲の家で過ごしていくこともあった。

「いつもありがとうございます、秋津のおじ様」
「あはは、おじ様は止めてぇな。まだ三十代やで僕?」

 三十代なら十分におじ様だと思いますが。
 兼臣がぽつりと呟けば、それを耳聡く拾った和紗が面白そうに話してしまう。聞いた瞬間、染吾郎はにこにこ笑いながらどすの利いた声で兼臣を睨み付けた。

「なんかゆうてくれたらしいなぁ?」

 大人気ないことこの上ない。けれど和紗が心底楽しげに笑うから、兼臣はそれでいいと思った。
 妻も子もいない染吾郎は、和紗を大層可愛がった。
 彼女が十五になり、初めて退魔を請け負った時も心配して付いてきた程だった。


 ───大丈夫です。今の和紗様ならば、十分に倒せる相手です。


「うん……力を貸してね?」

 当たり前のこと、私は彼女の刀なのだから。
 もっとも力を貸す必要などなかったが。
 予見通り、彼女は苦戦することなく鬼を斬り伏せた。南雲の当主になる為積んできた鍛錬が身を結んだのだ。
 けれど、つうっ、と涙が頬を伝う。

「謝りはしません。これが、私達の役目ですから」

 歯を食い縛り、しかし一筋の涙を堪えられなかったことを、和紗は嘆いていた。
 自分で討つと決めた。なのに命を奪うことが辛くて涙を流すのは、ただの逃げだと彼女は言った。
 和紗は歳月を経て優しく、強く育った。
 彼女に仕えたのは間違いでないと、信じさせてくれた。

 
 けれど終わりは唐突に訪れる。


 二年後、和紗は十七になり、鬼の討伐にも慣れてきた頃のことだった。
 最近は成長を見届けた為か、染吾郎が同道することもなくなってきた。
 その日も依頼に従い、鬼の討伐へと和紗は赴いた。
 対峙したのは無貌の鬼だった。
 顔のない、髪のない、皮膚のない。
 四肢と爪だけを持った、何もかもが足りな過ぎる鬼。
 外見は奇妙だが、為すべきことは変わらない。
 和紗はいつものように、傷付けることを躊躇いながらも刀を振るう。
 この程度の討伐は。いつものことだった。
 


 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。



 
 いつものこと、その筈だった。
 しかしその鬼は今まで対峙したどの鬼とも違った。
 鎖を操る<力>を持って和紗を弄り、最後には命を奪ったのだ
 別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。
 彼女の魂は体を離れた。

『地縛…あたしは、地縛……』

 まだ生まれたばかりだったのだろう。
 次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。
 そうして出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は自分の名前を確認するように何度も呟く。

 兼臣はその声を遠くに聞きながら、只管に悔いていた。
 守ることが出来なかった。
 兼臣に出来たのは、抜け殻となり動かなくなった和紗と共に逃げるくらいのもの。
 主の身を守ることとも、主の敵を斬ることもできない。
 何一つ為せぬ無様な刀。
 それが兼臣だった。




 それからの話は甚夜も知るところである。
 旧知である染吾郎を頼り、兼臣は「刀一本で鬼を討つ剣豪」に地縛の捕縛を依頼する。


 胸中にあった感情はただ一つ。

 私は大切な者を奪われた。
 それを取り返す為ならば、いかな屈辱でも耐えよう。
 兼臣の道行きはただその為だけにあった。


 つまり、兼臣は刀であった。
 鞘は随分昔に失くしてしまった。



 ◆




「ですから、私は、地縛を」
「もういい」

 話をしている時、兼臣は悲痛に表情を歪めていた。
 だから甚夜は止めた。粗方の内容を聞ければそれで充分。これ以上彼女にそんな顔をしてほしくなかった。

「……すみません」
「謝らなくていい。お前の気持ちが分かるとは言わん。だが守るべきものを守れぬ辛さは知っているつもりだ」

 脳裏に映るのは、かつて幼き日を共に過ごした愛しい人。
 本当に大切だった。なのに、何一つ守れなかった。
 兼臣が感じている悲痛は兼臣にしか分からないとしても、その痛みは甚夜にも覚えがあった。

「それは、どういう」

 言葉の真意を問おうとして、それより早く店の引き戸が空いた。

「おー、おまたせ、甚夜。準備は整っとる?」

 驚き、兼臣は弾かれたようにぴんと背筋を伸ばす。
 既に店は閉まっている。だというのにずかずかと入ってくる客に兼臣は視線を向けた。
 秋津染吾郎。
 鬼そばの常連であり、兼臣にとっては旧知の間柄である。染吾郎は付喪神使い。数える程度ではあったが、主である南雲和紗と轡を並べて戦ったこともあった。
 その縁で兼臣のことをよく知っており、今でも気にかけてくれる。そもそも刀一本で鬼を討つという“鬼殺し”を紹介してくれたのは染吾郎だった。

「秋津様……」
「こんばんわ、今日は僕も一緒に行かせてもらうな?」
「はい?」

 重く沈んでいた空気が染吾郎の登場によって取り払われ、思わず間の抜けた声を上げてしまう。

「すまん、押し切られた」

 甚夜の方に視線を向ければ、腕を組んだまま呆れたように溜息を吐いていた。
 彼の纏う空気も先程よりだいぶ柔らかくなっている。ある意味で、染吾郎が来てくれたのは有難いことなのかもしれない。
 もっとも、それはあくまでも“ある意味で”。
 甚夜にとって染吾郎が来るのは、あまりうれしい状況ではなかった。
 
「そう言いなや。百鬼夜行の相手するんや、手数は多い方がええやろ?」
「だが、な」

 本当は、甚夜と兼臣の二人で向かう筈だった。
 それを染吾郎は「前、負けとるんやろ? しゃーない、僕が手伝ったるわ」などと言い出した。何度も拒否はしたのだが聞く耳は持たず、結果今に至っている。

「僕が行くの反対しとる癖に待っとる辺り君は律儀やなぁ」
「置いて行けば勝手に来るだろう」
「お、よう分かっとるね」

 悪びれずに笑う。暖簾に腕押しとは正にこのことだった。

「もう一度言おう。止めておけ」

 本当は、出来れば自分だけで片付けたいのだ。
 言おうとして、それを口にしては兼臣の矜持を傷付けると気付き、思い留まった
甚夜は兼臣が戦いに出ることは止めない。
 前回は彼女を庇ったが故に遅れを取ったが、そもそもこれは彼女の我を通す為の戦い。あくまでも甚夜は助力しているに過ぎない。
 だから、彼女を守りながら戦うことにより勝率が下がるとしても。
結果として二人とも命を落とす可能性があるとしても、止めることはしない。
自分自身が生き方を曲げられぬ男だ。兼臣の矜持を曲げさせるなど、出来る筈がなかった。
 だが染吾郎は違う。
 まったくの善意で戦うと言ってくれている。
 それを受け入れることは、甚夜には難しかった。

「聞けへんなぁ……君、僕が死ぬかも、とか思っとるやろ?」

 図星だった。
 以前は共に戦ったこともある。彼の実力に疑いの余地はない。
 しかし染吾郎は既に五十近い老体。齢を重ねれば技は練れるだろう。それでも肉体の衰えは誤魔化せない。今の彼がどの程度まで戦えるのか、甚夜にも分からなかった。
 善意で手伝うと言ってくれているからこそ、必要のない戦いで命を落とすような結果になってほしくないと思う。
 染吾郎を拒否するのは、偏に彼の身を慮ってのことだった。

「あはは、心配してくれるんは有難いけどな。でも人はしぶといで。僕もそうそう死なん」

 目の前の初老の男は、いつの間にか静かに笑うようになった。
 若い時に見せていた作り笑いではなく、心からの、父性に満ちた笑みだった。

「人は鬼ほど強くはないし、長く生きることはできん。けど僕らは不滅や」

 堂々と言ってのけた染吾郎には悪いが、どうしてもそうは思えなかった。
 人は脆い生き物だ。体は些細なことで壊れ、小さな擦れ違いで心は移ろいゆく。変わらないものなんてない。人の在り方はとてもではないが不滅とは言い難かった。

「お、その顔、そうは思えんって感じやね。ならええよ。僕が人のしぶとさを証明したるから」

 そう言って背中を向けた染吾郎は、一番に店から出ようと扉を開けた。

「ほな、さっさといこか? あんま気ぃ遣わんとって。手伝うのは善意だけってこともないしな」

 そうして薄く目を細め、口元を歪めて見せる。
 何かに耐えるような表情。そこから真意を読み取ることは出来なかった。

「秋津様にも思う所があるのでしょう。手伝ってくれるというのなら、それでいいのではないでしょうか」
「そう、だな」

 まだ引っ掛かりはあるが、取り敢えず納得しておく。
 次は兼臣が外に出て、追うように甚夜も玄関を潜ろうとすれば、背中から声を掛けられる。

「父様……?」
 
 振り返ればそこには寝間着姿の野茉莉が立っていた。

「済まない、起こしたか」
「ううん……どこか、行くの?」

 詰問するような声。しかし無表情のまま甚夜は、夜来の柄頭をぽんと叩いて答える。

「こちらの用事だ」

 その仕種に鬼の存在を感じ取ったのか、野茉莉は痛みを堪えるように、少しだけ目を細めた。
 
「寝ていてくれ。すぐに帰ってくる」
「分かってる。……どうせ、私が何言っても行くんだよね?」

 何気ない言葉が突き刺さる。
 暗がりで良く見えないが、野茉莉の瞳は潤んでいるような気がした。 

「野茉莉……」
「ごめんなさい、私、ひどいこと言った」

 肩を震わせる。
 この娘は自分の言葉に傷ついてる。だから頭を撫でて慰めようと手を伸ばし、

「あ……」
 
 少しだけ野茉莉は後ろに下がり、それ以上手を伸ばすことが出来なかった。

「ごめん、なさい」
「いや……」

 そうして二人して固まってしまう。
 しばらく沈黙が続き、それを取り払うように野茉莉はぎこちない笑顔を浮かべた。
 けれどそれは引き攣っていて、笑顔よりも泣くのを我慢しているように見えた。

「行ってらっしゃい、父様」

 それでも、愛娘は送り出そうとしてくれている。
 だから甚夜は平坦な声で返した。

「ああ、行ってくる」

 互いに空々しい挨拶。
 胸を過る空虚。
 触れ合えぬままに、甚夜は娘に背を向けて店を出た。




 そう言えば、ずっと昔もこうやって誰かを待たせていたような気がする。
 今はもう、あの頃の気持ちは思い出せないけれど。






[36388]      『妖刀夜話~御影~』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/04/05 19:54
 今は昔、一条桟屋敷にある男とまりて、傾城と臥したるけるに、

 夜中ばかりに風吹きて雨降りてすさまじかりけるに、大路に諸行無常と詠じて過ぐる者あり、

 何ものならんと思いてふしど少し押し開けて見ければ長は軒と等しき馬の顔なる鬼なりけり。

 おそろしさにふしどをかけて奥に入りたれば、この鬼、格子押し開けて顔を差し入れてよく御覧じつるな御覧じつるなと申しければ、

 太刀を抜きて入らば斬らんと構えて女をそばに置きて待ちけるに、よくよく御覧ぜよと言いていにけり。



 百鬼夜行にてあるやらんとおそろしかりける。



『宇治拾遺物語』より






 そもそも百鬼夜行という話は古く、決して珍しいものではない。
 深夜に練り歩く鬼や妖怪の集団は、説話だけでなく絵巻物の題材として取り扱われることもある。
 絵巻物で著名なものを上げるとするならば、真珠庵本だろう。
 室町時代の絵巻で、付喪神が夜毎練り歩くさまを描いた作品である。

 しかし近頃噂になっているものは、そういう“真っ当な”百鬼夜行ではない。

 百鬼夜行の主は鎖を操る鬼女だという。
 その正体は地縛に相違なく、ならばその裏にマガツメがいることは疑いようがなかった。
 だから甚夜は、本当は自分だけで片をつけたかった。
 もしも発端が兼臣の依頼でなければ、誰にも話さず百鬼夜行に挑んでいただろう。
 今ですら兼臣と染吾郎を戦わせたくないと思っている。
 もっとも、それに納得するような二人ではないが。

「静か、ですね」

 百鬼夜行の目撃談は一条通に集中していた。
 平安末期の『今昔物語』では、大晦日の夜に一条堀川の橋を渡っていた侍が、灯を持った鬼の集団に出会ったという。
『宇治拾遺物語』には、一条大路の建物に女性と泊まった男性が夜、馬の顔をした大きな鬼に出くわす話が出てくる。
 室町時代の『付喪神記』では、捨てられた器物が恨みを抱え、人に復讐を果たす為鬼となり一条大路を練り歩いたとされる。
 一条ほど百鬼夜行が似合う場所も中々ない。

「ほんまやなぁ」

 辺りを見回せど、人の気配も鬼の影も見当たらない。
 ひゅるりと夜の風が抜け、砂埃が舞う。そんな微かな音が響くほどに、一条通は静まり返っていた。

「……あの、秋津様」

 周囲を警戒しながら、おずおずと兼臣が声を掛けた。

「ん?」
「済みません、私事に巻き込んでしまって」
「ああ、ええてええて。それにさっきも言ったけど、善意だけって訳でもないしな」

 手を軽く振り、何でもないことだと示してみせる。
 兼臣はそれでも申し訳なさそうにしていた。それを見かねた染吾郎は、仕方ないと溜息を吐き、自嘲するような笑みを見せた。

「そんなに気にせんでええて。和紗ちゃんのこと。僕は、何もしてやれんかったからなぁ。これは罪滅ぼしやと思っといて」

 南雲和紗。先程聞いたばかりの名前だ。
 しかし南雲という家に関しては、染吾郎が何度か零していた。

「妖刀使いの南雲、だったか」
「そ。南雲と“勾玉”の久賀見あたりは退魔の家系の中でも有名な方やね。南雲の方とは縁もって、和紗ちゃんとも何度か肩を並べて戦ったなぁ。あの頃はまだ僕も三十代やったし、もうちょっと無理ができたんやけど」

 あはは、と力なく笑う。
 兼臣の主人──南雲和紗は、地縛に命を奪われた。
 それは染吾郎にとっても傷であったらしい。

「でも結局、しばらく会わんうちに和紗ちゃんは鬼にやられて……多分僕は、後悔してるんやろな」

 もう少し上手くやれてたら、違う今が在ったのではないか。
 考えてもどうにもならないと分かっている。今更過去に手を伸ばしても、為せることなど在りはしない。
 それでも過ぎ去ってしまった“いつか”を忘れるというのは、少しばかり難しい。
 
「そやから、少しは力になったろうと思てな」

 いつだって後悔は付き纏う。
 だから、例え傍目には意味のない行為に見えたとして、自分が納得する為に動くこと は間違いではないのだろう。

「そうか……済まなかった。お前にも戦う理由はあったのだな」
「ええて、そんなん」

 自分の考えを押し付け、彼を戦い方から遠ざけようとしてしまった。
 小さく頭を下げれば、また普段通りの染吾郎に戻り軽く笑って見せる。
 彼の胸中は分かった。ならばもう止めはすまい。
 だが、少し引っかかることもあった。 

「兼臣。一つ、聞きたい」
「なんでしょうか?」
「お前の話も、染吾郎の話も、何かが引っ掛かっていた。理由がようやく分かった。……初めて会った時、南雲和紗は十二だと言ったな」
「ええ、そうですが」

 質問の意図が読めないのか、微かに眉を顰める。
 しかし甚夜には、それこそが引っ掛かっていた。

「ならば、それは“いつ”の話だ?」

 どう考えても計算が合わない。
 向日葵は明治五年(1872)の頃、八歳だと言っていた。
 地縛は向日葵の妹、当然彼女より年下の筈。
 仮に地縛が生まれたその時から<力>を使えたとする。
だとしても、南雲和紗が殺されたのは江戸末期から明治の初めの間。その頃ならば染吾郎は三十代前半、そこまでならば一応は計算が合う。
 しかし初めて会った時の兼臣は、どう見ても十六、七の少女だった。
 つまるところ、南雲和紗の指南役だったにしては、彼女は若すぎるのだ。

「それ、は」
「もっとも、お前の容姿をそのまま答えにしてもいいのだがな」

 今まで指摘してこなかった。
 しかし彼女は、出会ったころから殆ど変っていない。全くと言っていい程老けていなかった。
 彼女が鬼ならば、単に実年齢と外見年齢がそぐわなくても不思議ではない。
 だからそういうことなのかとも思った。
 しかし兼臣は首を横に振って否定する。

「私は、鬼ではありません」
「ならば」
「済みません。いずれ……いいえ、地縛を捕えた時に話したいと思います。ですから、今は」

 深く沈み込んだ瞳。なのに、揺るぎのない空気が漂う。
 兼臣は思った以上に頑なだ。問い詰めたところで意味はなさそうだ。

「分かった。それでいい」
「ありがとうございます。全てが終われば、必ず」

 話すと言っているのだ。無理に聞き出すこともない。
 この件を解決する理由が一つ増えたと思えばいい。そう自分を納得させ、気を引き締め直し、宵闇を睨み付ける。

「あー、なんや、そろそろか?」
「どうやらそのようだ」

 夜の気配が変わった。
 ぬるまった風が流れ、紛れるように吐息が聞こえる。
 折り重なる呻き、雑踏の音。
 ぼう、と宵闇に浮かび上がる影。
 その数は次第に増え、通りを埋め尽くさんばかりの群れとなる。
 星の瞬きに照らされたその姿は、まごうことなき異形だった。
 皮膚を持たず、筋繊維がむき出しになっている。
 七尺を上回る巨躯。
 童の如き小ささ。
 体の一部が欠け、まともに歩けず這いずる。
 各々特徴は違う。
 しかしそれは一様に鬼と呼ばれる。
 

 百鬼夜行。
 伝承に語られる不吉な異形の群れが其処には在った。



「なあ、明らかにこっち見とるんやけど」

 数え切れぬ程の鬼の目は甚夜達を捕えている。
 唸り声は高まる。いつ襲い掛かってきてもおかしくなかった。

「ふむ。信心が足りなかったか」
「……君、冗談とか言うんやな」

 百鬼夜行の説話は、読経や神仏の札などで難を逃れた話が多く、一般的には怪奇譚というよりも仏の功徳を説く話である。
 だから冗談めかしてそう言ってみれば、染吾郎が呆れたように半目でこちらを見てくる。我ながら似合わないことをしてしまったと甚夜は微かに唸った。

「随分と、懐かしい顔だこと」

 唐突に響いた声。弛緩しかけた空気が再度ぴんと張りつめる。
 抜刀し脇構えを取り、鬼どもを睨み付ける。
 声は実に懐かしいもので。しかし感慨は沸かない。
 だとしても、逢いたかったのは事実だった。

 異形の群れ、その中に若い女がいる。
 年の頃は十七か、十八。背は五尺を下回る程度。細身な体と白い肌も相まって、繊細な少女と言った印象を受けた。
 しかし服装の方は繊細とは程遠い。男物の羽織に袴をはいた姿は、一見すれば見目麗しいと言える顔立ちをしているからこそ殊更違和感があった。
 髪は短く整えられている。覗き込んだ瞳は、夜の闇の中で尚も赤々と輝いている。
 女の顔は、気味が悪いくらい兼臣に似ている。
 寸分違わぬと言っていい程に彼女達は同じだった。

「お久しぶり」
「地縛……ようやく、会えました」

 小刻みに揺れる体。恐怖ではない。耐えがたい感情が兼臣の体を震わせる。

「本当にしつこい。執念深い女は殿方に嫌われるわよ?」

 しかし余裕があった。
 地縛の泰然とした様子。話ながら左足を僅かに下げ、袴に隠しながら体重をかける。突発的な状況でもすぐ動き出せるようにだ。
 五年経った。その間に地縛も成長したということだろう。

「おじさまも、元気そうね」
「……その呼び方は止めて欲しいものだ」
「向日葵姉さんには許してるのに? そう言えば娘にだだ甘って聞いたし……もしかして幼女趣味なのかしら」

 何処か楽しげな女の声。やはり、やりにくい。地縛は相変わらずそこいらにいる娘子のようだ。敵はもう少し分かり易い醜悪さを持っていてくれると嬉しい。その方が、斬り易いからだ。
 もっとも、多少やり難かろうと、その首を落すことに躊躇いなどまるでない。
 一度敵と定めた以上、彼女は敵以外の何物でもなかった。

「娘に甘いのは否定せんがな」
「あら、案外冷静ね。もっと怒るかと思ったけど」
「浅い挑発に乗ってやれる程若くもない。それに、幼子の背伸びというのは見ていて微笑ましい。怒りなど沸かんさ」

 小娘の言など取るに足らん。そう言ってのけても地縛に動揺はない。
 以前ならば怒りを露わにしただろう。しかし今では会話をしながらもこちらの一挙手一投足を警戒し、決して視線を外そうとはしない。
 成程、本当に成長したらしい。これはなかなかに厄介だ。

「むぅ。おじさま、野茉莉ちゃんには相変わらずなんですね。……なにか癪です」

 次いで現れたのはどこか不満気に頬を膨らませる女童。
色素の薄い、柔らかく波打った茶の髪。年齢は見た所八つか九つといったところだろうか。
 大きな瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。
 金糸をあしらった着物を身に纏う娘は、八尺を越えおる一際巨大な鬼の肩に腰を下ろして、こちらを見下ろしている。
 向日葵、“マガツメ”が長女である。

「姉妹揃い踏みか……マガツメは何を企んでいる」
「企む、ですか?」

 きょとんとした様子は、本当にただの女童のように見える。

「そう、ですね。母は昔からの願いを叶えようとしています。だから私達はその手助けをしたいのです」

 言葉面は綺麗だ。
 しかしその実、地縛に人を狩らせ、直次を鬼に変え、死体を集めて鬼の群れを造り上げた。
 願いとやらが何かは分からないが、およそ真っ当なものではあるまい。

「……どうしますか?」

 兼臣が小さく呟く。
 地縛との距離は遠くない。
 しかし阻むように無数の鬼がにじり寄る。まずはあれをどうにかしないと近付くことさえままならぬ。
 鬼の群れを前に、緊張からか兼臣はごくりと唾液を飲み込む。
 反して甚夜も染吾郎も気負うことなく自然体である。

「鬼共を斬っていればいずれは地縛が矢面に立つだろう」
「ええな。それが一番手っ取り早そうや」

 言いながら甚夜は左手を鬼へと翳し、染吾郎は懐に手を入れる。

「向日葵、地縛。お前が此処で何をやっていたのかは問わん。だが相手を願おうか」

 投げ付けた言葉に、姉妹は同じように微笑んでみせる。

「勿論です」
「ええ、おじさまの願いなら断れないわね」

 無邪気に向日葵が微笑む。
 地縛は挑発的に笑い、視線を鋭く変え、そしてそれが合図になった。
 多種多様な鬼の群れが雪崩のように迫る。
 しかし甚夜も染吾郎も冷静に言の葉を紡ぐ。

「来い、<犬神>」
「いきぃ、かみつばめ」

 黒い影は三匹の犬となり、空を往く燕は刃となり、鬼共に襲い掛かった。
 前列にいる鬼共はそれだけで絶命する。所詮はその程度。群れを成したとところで然程の脅威ではない。

「兼臣、お前は自衛に努めろ」
「しかしっ」

 甚夜の言葉に兼臣は激昂したように叫ぶ。
しかしそれを染吾郎がやんわりと言い聞かせた。

「雑魚は僕らに任しときぃ。君は、大物を相手にせなあかんのやから」
 
 流石に理解が早い。
 地縛を斬るのは兼臣でなくてはならない。
 ならばここで無駄な体力を使わせる訳にはいかない。元より実力では地縛に劣る。ならば彼女が地縛を討てるようお膳立てをするのが自分達の役目だ。

「分かり、ました……」

 渋々ながらも納得した兼臣が抜刀し構えを取る。
 その態度に少しだけ安堵し、再び鬼の群れを睨み付ける。

「地縛の<力>は鎖を操り、相手の行動を“縛る”。鎖には注意しろ」
「ありがとさん。ほないこか?」

 駈け出すと共に、数匹の燕が空を舞う。
 前回のような無様は晒さぬ。
 甚夜は強く奥歯を噛み締め、鬼共に斬り掛かった。




 首を落す。
 胴を薙ぐ。袈裟掛けに斬り捨て、心臓を貫き、唐竹に両断し。只管に屍を積み重ねる。

『おおっぉぉぉぉ』

 背後から迫る数匹の異形。
 しかし振り返る必要性さえ感じない。

「かみつばめ」

 飛来する燕が鬼の体を貫き、屍が増えるだけだ。
 
 百を超える鬼との戦いは、以前甚夜達が優勢であった。
 相手は鬼とはいえ全て下位、時折膂力に優れる者はいるがそれだけ。数多の鬼を屠ってきた彼等が苦戦するような相手ではない。
 討ちとった鬼が五十を超えたところで一度間合いを離し、甚夜と染吾郎は背中合わせに構え周囲を警戒する。
攻めあぐねているのか、鬼もまた様子を観察しており、出来た空白の時間に染吾郎はぽつりと呟いた。

「なんや、妙やな」

 見据える異形の群れに対する素直な感想だった。
 どういう意味だ、とは問わない。 それは甚夜もまた思っていたことだった。

「態々“造った”にしては弱すぎる、か?」
「なんや、君も気付いとったんか」
「一応はな」

 向日葵は初めて会った時数体の鬼を従えていた。
 地縛はマガツメの指示で人を狩っていると言った。
 直次は恩義故に死体を作り集めていた。
 そして、百鬼夜行に至る。

 百鬼夜行の主は鎖を操る鬼女だという。
 その正体は地縛に相違なく、ならばその裏にマガツメがおり……なにより、人の死体を集め、その結果生まれたのが鬼の集団であるならば、鬼が“何からできているのか”は容易に想像がつく。
 だからこそ、甚夜は出来れば自分だけで片付けたかった。

「死体を集めてこんな役にも立たん雑魚造って、なんや意味あるんか?」
「弱いのは造り始めだから」
「理由としては今一やな」
「ならば、そもそも戦いに使うものではなかった」
「それや。多分、作ること自体が目的やったんちゃうかな」

 染吾郎は更に鋭く鬼を見る。
 そこには僅かな苛立ちがあった。人の命を弄ぶ輩に対する、至極真っ当な嫌悪だった。

「本当に造りたかったんは別モンで、こいつらはその過程で出来た失敗作みたいなもんなんやろ。案外、誰かに処分してもらお思て百鬼夜行なんて組んだんかもな」
「では死体を集め、鬼を生み、マガツメは最終的に何を造ろうとしていると思う?」
「うーん、分からん。そこら辺は地縛に聞いた方がええやろ」

 鬼の数が減って、周りが見やすくなってきた。
 視線の先には年若い女。
 地縛のところまで、あと少しだった。

「ほんと、人間離れしてるわね。ああ、おじさまは人間じゃないけど。そっちの老人も普通じゃないわ」

 溜息と共に零れた地縛の言葉が引っ掛かったのか、染吾郎はぴくりと眉を動かした。

「ちょい待ち、なんで甚夜がおじさまで僕が老人なんや」

 いきなり噛みつかれて地縛は不思議そうな表情を浮かべる。

「え? だっておじさまはおじさまでしょう? 貴方が老人なのも間違いないし」
「いや、そやけども。なんか扱い違わん?」
「そりゃそうよ。おじさまと見ず知らずの他人じゃ扱いが違って当然じゃない」
「正論やけど……なんや納得できん」

 せめておじい様やろ、とぶつぶつ文句を言う染吾郎。
 呆れるように甚夜は溜息を吐いた。

「……何をふざけている」
「ふざけとらん。そやけど老人呼ばわりはひどいやろ。もうちょっとこう気遣い的なもんをやな」
「敵にそんなものを期待するな」

 後ろに控えている兼臣も冷たい視線を送っている。

「秋津様……お願いだから真面目にやってください」
「う……いや、ちょっと君の緊張をほぐしたろう思ただけやん」

 引き攣った笑いを浮かべる染吾郎は、流石にばつが悪そうだ。
 兼臣にとっては主の仇。それと和やかに話されては、苛立つのも無理はない。
 その遣り取りを眺めていた地縛は、戦いの場には似合わぬ程の楽しげな笑みを浮かべた。

「うふふふ、なんか、貴女達面白いわねぇ」
「……まさか、私も含まれているのか」
「当たり前でしょ、おじさま。向日葵姉さんも同じこと言うと思うわよ?」

 非常に納得がいかない。顔を顰める甚夜が面白かったらしく、地縛は更に笑った。そして一頻り笑い終え、一転冷酷な視線で兼臣を捕える。

「でもそろそろ貴女、目障りになって来たわ……勝負、つけましょうか」

 薄く笑う。
 それは少女のものではなく、地縛という鬼女の顔だった。

「なにを」
「一対一よ。悪い話しじゃないでしょう? 主の仇と誰にも邪魔されず闘えるんだから」

 兼臣の目付きが変わった。
 その為に生きてきた。
 刀である彼女の、唯一願い。
 それが今叶おうとしている。
 しかし彼女の実力では地縛には勝てない。
 誰よりも兼臣自身が理解しているからこそ、助力を乞うた。 

「それとも怖い? それならそれで別にいいわよ。単に貴女は、ゴミみたいな主を守れず、その上仇を前にしても怯えて男に媚びて縋ることしか出来ない無様な女だったというだけだもの」

 理性では戦ってはいけないと分かっている。
 それでも譲れないものがあっただけだ。

「挑発だ、乗るな」
「分かっています。……でも聞けません」

 その言葉が全て。
 敵わないと分かっていても退くことは出来ない。
 主を愚弄され、己が生き方を否定され黙っていられるようならば、そもそも此処には立っていなかった。
 己が愚かだと理解している。
 しかし兼臣は刀であった。
 刀だからこそ、足は自然と前に出ていた。

「ふふ……」

 妖しく笑う地縛は、鬼の群れへ紛れるように退いた。
 追う兼臣。それを止める為甚夜と染吾郎も前に出ようとして、

「勿論、させません」

 響く舌足らずな幼い声。
 八尺はあろう巨大な鬼は、向日葵を肩に乗せたまま、地面へ叩き付けるように拳を振るう。
 後ろに飛んで躱したが、その隙に地縛も兼臣も見失ってしまう。
 巨大な鬼は立ち塞がる。その肩の上で、相変わらず向日葵は無邪気に微笑んでいた。

「退け」
「出来ません。母が、あの兼臣を欲しがっていましたので」

 それは兼臣ではなく、妖刀である夜刀守兼臣を指しての言葉だ。
 やられた。初めから狙いは兼臣、向日葵は足止めのために此処へ来ていたのだ。

「百鬼夜行は単なる囮か」
「はい。地縛が表立って動けば兼臣さんは自分から飛び込んでくれますし、そうしたらおじさまも来てくれます。一石二鳥、ですね」

 無邪気に笑ってみせるが、その言葉は妙だった。

「なんや、マガツメゆうのは甚夜のこと狙っとるんか?」

 聞きたかったことを染吾郎が問う。
 先程の向日葵はマガツメの狙いは夜刀守兼臣だけでもなく甚夜もだというような口振りだった。しかし甚夜はマガツメなる鬼が如何なる存在かも知らない。何故狙われるのか、理由が分からなかった。

「はい、母はおじさまを殺したがっています」
「ほぉ。その割に、君ら“おじさまぁ”とか言って随分慕っとるやん」

 あげつらうような言い方に、何故か向日葵は戸惑った様子だった。

「あの、先ほどから気になっていたんですけど。私達がおじさまと呼ぶのは、そんなに変ですか?」

 不安げに、おずおずと。演技ではなく、心から不思議がっているようだ。
 その様子に奇妙なものを感じながらも甚夜は答える。

「敵への態度としては相応しくはないな」
「むぅ、それはそうかもしれないですけど」

 その答えに、不満そうに頬を膨らませる。拗ねたような表情。彼女は本当に、普通の娘だった。
 しかし返ってきた言葉は、意識の外から甚夜の頭を殴り付けた。




「でも、私達が、母のお兄様を“おじさま”と呼ぶのは当然でしょう?」




 真っ白になった。
 そして一拍子、二拍子置いて頭が動き始める。
 そうすれば分からなかったことが次々と紐解けてくる。
 以前人を鬼に変える酒を造った鬼女がいた。
 今回、死体が鬼に変えられた。
 何故繋げて考えられなかったのか。
 甚夜は自分の迂闊さに、苦々しく表情を歪めた。

「そうか、マガツメ……だから“禍津女”か」

 神道には禍津日神(まがつひのかみ)と呼ばれる神が存在する。
 禍(マガ)は災厄、津(ツ)は「の」、日(ヒ)は神霊を意味する。
 即ちマガツヒは災厄の神という意味を持つ言葉である。
 ならばマガツメは、“禍津女”は災厄の女。
 甚夜はそう呼ばれるべき存在を───長い歳月を越え、“全ての人を滅ぼす災厄”となり果てる女を知っている。

「成程、確かに、おじさまという呼び方は正しい」

 つまりはそういうこと。
“ゆきのなごり”を使い人を鬼へと変えたのも。
 愛しい人の屍を弄んだのも。
 地縛に人を狩らせたのも。
 直次を鬼に変え、死体を集めさせたのも。
 百鬼夜行を生み出したのも。
 全て、

「でしょう、甚太叔父様?」




 お前なんだな、鈴音─────







[36388]      『妖刀夜話~御影~』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/09/07 19:41

「ここで、いいかしら」

 辿り着いたのは堀川にかかる一条戻橋(いちじょうもどりばし)である。
 そう言えば以前は五条大橋の上で対峙した。
橋の真中で佇む鬼女、突き付けた刀。
あの時と同じ、いや、同じではない。
前回は甚夜が矢面に立ってくれたが今は己のみ。更に不利な状況だった。
 それでも兼臣は敵意を隠そうとはしない。

「私は、貴女を許せない。和紗様を奪った貴女を」

『平家物語』剣巻には次のような話がある。
 摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に一条戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。
 渡辺綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、彼の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行ったが、鬼の腕を太刀で切り落とすことにより、どうにか逃げられたという。

 ここはかつて剣豪が鬼の腕を切り落とした橋だ。
 あやかろう、などと考えるのは勝手が過ぎるだろうか。
 伝説に語られる剣豪には遠く及ばぬが、せめて腕の一本も奪わなければ、かつての主に申し訳が立たない。
 しかし実力では相手が勝る。腕一本どころか傷一つ付けられるかもわからない。
自ら飛び込んだ窮地に唾を飲み込み、しかし憎むべき仇敵を睨み付ける。

「あらあら、でも、守れなかったのは貴女でしょう?」

 ああ、そうだ。そんなことは分かっている。
 命のやり取りをしているのだ。返り討ちにあったからと言って、相手を憎む方がおかしい。それを忌避するならば守ればよかった。
 けれど、できなかった。
 彼女の刀だった。そう在りたいと願っていた。なのに守れず、仇を討つこともままならず。無為に歳月は流れ、刀も復讐も認められない時代になった。
 今となっては間違っているのは兼臣だ。
 復讐を語る彼女こそが罪深いのだと、訪れた明治の世が語る。

「ええ、その通りです。だからこそ今此処で、和紗様の魂を取り戻す」

 それでも、曲げられないものがあった。
 地縛に奪われた主の魂。そのままにしておくなど認められなかった。
 奪われたものを取り返す。その為に振るう刀さえ明治の世では罪でしかなく、だとしても、今更生き方を曲げられる筈がない。

「出来ると、思うの?」

 嘲りを含んだ瞳の色に神経を逆なでされる。
 激高しそうになり、どうにかそれを抑え、正眼に構える。

「その為の刀です」

 つまり、兼臣は刀であった。
 収めるべき鞘はとうの昔に失くしてしまった。




 ◆




「叔父様、か。父と呼ばれ、叔父と呼ばれ……私も歳を取ったものだ」

 表情は変わらない。
 突き付けられた真実は確かに予想外だったが、動揺し狼狽するには歳を取り過ぎた。
 八尺を超える大鬼の肩に座る向日葵を見上げ、普段となんら変わらぬ平坦な声で言う。

「だが間違えるな。私の名は甚夜だ」

 夜来を託され、『夜」の名を継いだ。
 間違えた生き方に拘った無様な男の名だ。だとしても道行きの途中で拾ってきたものは、決して間違いではなかった。だから甚夜として在れたことには誇りもあった。

「でも、母は甚太と言っていましたよ?」

 しかし鈴音にとって彼はまだ甚太なのだろう。
 全ての人を滅ぼす災厄になろうとするあの娘は、それでもまだ甚太を兄だと思っている。
 その事実を知り、なのに、湧き上がった感情は憎悪だった。
 最早それは感情ではなく機能。
 鈴音を憎むことで鬼と成った彼は、その憎しみから逃れることは出来ない。
 そしておそらく、全てを滅ぼすと言ったあの娘も同じく。
 鬼とは、そういう生き物なのだ。

「まあいい、問答をしている時間もない。悪いが押し通らせて貰うぞ」

 浮かんだ感傷を斬って捨て、甚夜は僅かに腰を落した。
 兼臣では地縛には勝てない。急がなければ、後味の悪い結末になる。
 とはいえ鬼の群れは往く手を阻むように犇めいている。後を追う為には立ち塞がる大鬼を斬り伏せねばなるまい。

「でも、この子は結構手強いですよ? 成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきましたから」
「ほな、僕が相手しよか?」

 そう言って甚夜を庇うように染吾郎は前に出る。
 そして懐から以前も見た短剣を取り出し、にやりと不敵な笑みを浮かべて見せる。

「染吾郎」
「こっちは僕がやるから、雑魚の方任せるわ」
「しかし」
「正直、大勢相手すんのは苦手やしね。代わりに、一対一なら切り札が切れる」

 からからと笑うその態度には余裕があるように見える。
 相変わらず読みにくい男だが、今の言葉には何やら確信めいたものが感じられた。
 まかり間違っても敗北など在り得ない。絶対の自信が其処には在った。

「堪え性のない馬鹿を追わなあかんし、あんま時間もないやろ。体術に優れた君が多勢を、僕がこいつをやる。多分、それが一番早く済む」

 それも理由の一つ、しかし染吾郎が大鬼との戦いを買って出たのは戦略的に有利だからだけでもない。
 好戦的な態度は、甚夜の心を慮っての行動だ。
 姪だと言った向日葵と戦わせたくない。それこそ行動の理由。甚夜の正体が鬼だと分かっていながら、人間的な気遣いを忘れない。
 秋津染吾郎はそういう男だ。それを理解できる程度には、付き合いも長くなった。

「それでは、貴方がお相手をしてくださるのですか?」

 向日葵は意外そうな顔をしていた。
 立ちはだかる男は五十近い。先程までの戦いを見ても燕だの犬だのを使い援護するのが精々。とてもではないが、一対一で大鬼と戦えるようには見えなかった。
 しかし相手が戦うと言っている以上止める必要もない。
 向日葵の役目は足止め。どちらにしても彼等を阻まねばならないのだから。

「そやね。ごめんな? 大好きなおじさまやなくて」
「大好きって……否定はしませんけど、そう言い方をされると照れますね」
「いや、否定せんのかい」

 冗談の掛け合いに見えて、互いに間合いを調節している。
 既に戦いは始まっていた。止めることはもうできない。
 それに兼臣のこともある。染吾郎の言う通りなら、大鬼は任せた方がいいのかもしれない。 

「……済まない」

 甚夜は僅かに目を伏せた。
 染吾郎の気遣いは心苦しい。あまり無茶をさせたくないとも思う。しかし自分の為に体を張ろうとしてくれる友人の心を無駄には出来なかった。

「気にせんでええて。周りは頼むで?」
「ああ、余計な手出しはさせん」

 二人は頷き合い、それぞれの敵と相対した。
 甚夜は迷いなく鬼の群れへと向かい、染吾郎は一呼吸おいて大鬼を見据え、手にした短剣を突き付ける。

「もしかして、その短剣で戦うつもりなのですか?」

 少しだけ不満気に向日葵が言う。
 染吾郎の体格を見れば武術を扱う人種ではないのは分かる。舐められると思ったのだろう、頬を膨らませていた。

「うん、そや。そんな木偶の坊には勿体無いけどな」
「木偶の坊、ですか。さっきも言いましたけど、この子結構強いですよ? それに貴方が剣で戦えるとも思えませんし」
「あはは、アホなこといいなや。付喪神使いが剣で戦う訳ないやろ?」 

 舐めてなどいない。寧ろこれから見せるのは彼の全力だ。
 以前は甚夜の目があるところでは“これ”を見せなかった。
 今は慣れ合っていても相手は鬼。いずれは争うことになるかもしれない。そう思えば自身の切り札を晒す気にはなれなかった。
 しかしそれなりに付き合いも長くなった。今更甚夜を警戒する必要は感じない。
 だから堂々と切り札を切れる。
 武器としては役に立たない短剣。
 これが染吾郎の持ち得る最高の戦力である。

「ほないこか、お嬢ちゃん」
 
 かつて唐の九代皇帝玄宗は瘧かかり床に伏せた。
 玄宗は高熱の中で夢を見る。
 自身を苛む悪鬼、そしてそれを駆逐する大鬼。
 玄宗は自身を救ってくれた大鬼を神として定め、疫病除けの神として祀った。
 この話は日本へと伝わり、鬼を払うという逸話から端午の節句に彼を模した人形を飾る風習が生まれたという。
 染吾郎が持つ短剣は五月人形の付属品。
 そして件の大鬼を模った人形から具象化される付喪神は───


「おいでやす、鍾馗(しょうき)様」


 ───鍾馗。厄病を払い、鬼を討つ鬼神である。


「あれは」

 甚夜は鬼の群れを相手取りながらも、現れた髭面の大鬼に息を呑んだ。
 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手には染吾郎の持つ短剣と同じ意匠の剣がある。
 尋常でない気配を放つ付喪神・鍾馗。
 これが自信の正体、三代目秋津染吾郎の切り札。

「……すごいです」

 零れた素直な賞賛に染吾郎は朗らかに笑った。

「そやろ? さて、さっさと終わらせよか」
「ええ、それはこちらも同じ気持ちですね」

 向日葵に動揺はない。
 だが警戒はしたのだろう。軽やかに大鬼の肩から飛び降り、その足が地面に着くと同時に大鬼が突進する。
 土埃が舞う。地響きを連想させる咆哮と共に大鬼は迫り来る。無造作な進軍に空気が唸りを上げる。重量と筋力に裏打ちされた突撃。繰り出される拳もまた相応の威力を秘めているのだろう。
 人の身なぞ容易く貫くであろう拳を前に染吾郎は薄ら笑う。
 既に五十近い老体。優れた体術もない。しかし彼は泰然と鬼を待ち構える。

「鍾馗様に特殊な能力はない。その代り」

 一瞬拳が霞み、空気を裂きながら鍾馗を正確に捉える。
 大鬼は速度を殺さず、全霊の一撃を叩き込んだ。
 空気が震える。
 夜が軋む程の轟音を響かせ、

「桁外れに強いで?」

 だというのに、鍾馗は微動だにしない。
 剣を盾に鬼の拳撃を軽く防ぎ、そのまま上にかちあげる。
 単純な膂力だった。
 八尺を上回る大鬼、体格では明らかに鍾馗よりも優れている。だというのに、技巧ではなく特殊な能力ではなく、ごく単純な膂力によって大鬼の腕を払い除けたのだ。
 そして体を捻り、力を溜めるように一度ぴたりと止める。

「終いや」

 呟く。
 鍾馗は引き絞られた弦だった。それが染吾郎の呟きによって放たれる。
 反動で打ち出されたのは矢ではなく剣、命を穿つ紫電の刺突だ。
 音はなかった。 

 ただ、鬼の腹に文字通り風穴を空けた。

 肉を削ぎ、臓物を抉り取る。
 音が響いたのはそれからだった。
 そのまま力なく両膝をつく大鬼。
 ほんの一瞬で、勝敗は決していた。

「どや、お嬢ちゃん、僕も結構やるやろ?」

 大鬼を討ちとり、左手で肩をとんとんと叩く。大した疲れもない。飛んでくる小蝿を払った、染吾郎の感覚はその程度のものだった。
 しかし向日葵には、やはり動揺が無かった。
 倒れた鬼をじっと見つめる。目に感情の色はなく、失望も敵に対する恐怖も感じさせない。
 ゆるゆると、静かに女童は語り始める。

「初めに、母は人を鬼に変えるお酒を造りました」

 浮かんだのは、幼い容姿にはそぐわぬ柔らかい笑みだった。
 向日葵は怪訝そうに眉を顰める染吾郎は無視し、淡々と見当外れとしか思えない話を進めていく。

「憎しみを植え付け煽り淀ませる。それに相応しい死骸を使って造ったお酒です。でも馴染みやすい人難い人がいましたし、おじさまが死骸を片付けてしまったから続けられませんでした」

 ゆきのなごり。染吾郎もかかわった事件だ。
 そして思い出す。甚夜はあの事件の際、話の中に出てきた“金髪の鬼女”に異常なほどの敵意を向けていた。
 向日葵は甚夜の妹の娘。そしてその母はマガツメ。ならば、甚夜の妹がマガツメであると容易に想像がつく。

「次は人を攫って、直接体を弄って鬼に変えました。作ってる途中で死んでしまうことも多くて方法としては今一でしたけど」

 甚夜と初めて会った時、向日葵は鬼を引き連れていた。
地縛はマガツメの命で人を狩っていたことを考えるに、その鬼こそが直接体を弄った個体なのだろう。

「だから今度は死体を使うことにしました。正確には死者の魂……想念と言った方が分かり易いかもしれません。負の感情を寄せ集めて、無から生ずる鬼を人工的に……あれ、鬼工、的? とにかく、肉体に寄らない鬼の生成ですね。結果は良好、こんなにたくさんの鬼が出来ました」

 そして百鬼夜行に至る。
 鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。
 中には無から生ずる場合も存在する。
 想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。
 憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる。
 無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念。
 マガツメとやらは、人を鬼に変え、魂すらも鬼に変える術を得た。

「んで? 鬼を沢山造ってどないすんの? “それなりに上手くいった”鬼がこの程度やったら作るだけ無駄やろ」
「いいえ。そもそも、鬼を造ることが目的ではありません。それはあくまで過程ですから」

 緩やかな微笑み。
 綺麗、と素直に染吾郎は思った。
 敵意も邪気も感じさせない。向日葵の微笑みには一点の濁りもなかった。

「人が鬼に堕ちるのは自分でもどうにもならない程の想い故に。だから鬼を造る術は想いを操る術です。……なら、それを突き詰めれば想いの根幹に辿り着くと思いませんか?」

 だから僅かに警戒心が緩んでいたのかも知れない。
 想いの根幹?
 向日葵の言葉に疑問を抱き、少しだけ眉を顰める。
 その瞬間、

「染吾郎っ!」

 鬼共を斬り伏せながら叫ぶ甚夜の声が聞こえた。
 なんだ、と思う暇はなかった。

『オォォォォォォォォっ!』

 先程討ちとった筈の鬼が再度襲い来る。
 致命傷を与えた。なのに、鍾馗が空けた風穴がない。
 傷一つない大鬼が、再び染吾郎を叩き潰そうと剛腕を振るう。 

「なんでっ……!」

 言い切るより早く鍾馗を操り、繰り出された拳、伸びきった腕を剣で斬り落とす。
 次は確実に葬る。狙うは心臓。一瞬で穿ち抉り取る。
 刺突で貫き、そのまま斬り上げる。血が、肉片が飛び散る。手応えはあった。
 為す術もなく大鬼は伏した。しかし警戒を緩めずに染吾郎は死骸を睨む。
 そう、それは死骸であった。
 心臓を穿ったのだ。無事で済む訳がない。
 なのに、鬼の体から白い蒸気が立ち昇ることはなかった。

「って、なんやこれ……」

 引き攣った笑みを浮かべる。
 鬼の傷が塞がっていく。
 草木のように生える血管、血が肉が蠢き増殖し、穿った心臓さえも復元される。
 腕も繋がり、びくんびくんと震えるだけだった鬼の体は動きを止め、顔を上げて光が灯った赤の目で染吾郎を射抜く。
 そして大鬼は、何事もなかったように立ちあがって見せた。

「<治癒>…<回復>……<再生>? うーん、面白くないです。何かいい名前が無いでしょうか?」

 人差し指を唇に当て、何度も首を傾げ向日葵が悩んでいる。その態度が妙に子供っぽく、それが逆に恐ろしく感じられる、
 鬼とはいえ、短時間であれだけの傷が感知するなど在り得ない。
 だとすればこの回復力こそが大鬼の<力>。
 蘇生と見紛うほどの強力な再生能力。
 向日葵は大鬼を「成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきました」と評した。
 つまり、これこそがマガツメの望みの一端。
 求めたのは自由に<力>を生み出す術だ。
 
「鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望み、それでもなお叶えられなかった願いへの執着が<力>となる……成程なぁ。君の母親が作りたかったんは、鬼やなくて<力>の方か」

 言葉はそこで途絶えた。
 完治し終えた大鬼は更に攻め立てる。
 風を切る一撃。染吾郎は繰り出される拳を鍾馗で防ぎ、鬼の右側へと廻り込む。
それがちゃんと理解できているのか、大鬼は薙ぎ払うように腕を振るってきた。

「お、っとぉ!」

 その程度では攻撃にさえならない。逆風、上から下へ斬り上げる。鍾馗の一刀に鬼の腕はいとも容易く切断される。
 しかし 大鬼が腕を拾い上げ傷口を重ね合わせれば、同じように容易く傷は塞がり腕は元通り。かかった時間はわずか三秒。斬るのは容易、治るのも容易。同じことの繰り返しだった。

「ちょっと、違いますね」

 向日葵が口にしたのは否定の言葉だった。
 決して強くない相手だ
 殴る、突進する、腕を振り回す。大鬼は、その程度の単純な攻撃しかしてこない。
 だから戦いながらも余裕はある。染吾郎は視線を鬼に固定したまま、向日葵の声に耳を傾けた。

「母が造りたかったのは鬼ではなく<力>……もっと言えば、“心そのもの”です」
「心ぉ?」

 その答えに若干戸惑ってしまう。
 人を狩り死体を集めて百鬼夜行を生んだ鬼女の言葉にしてはなんとも意外だった。

「心、ねえ。分からんなぁ。そんなもん造ってなんになる?」
「さあ、それは母に聞いてみないと」

 本当に知らないらしく、向日葵はこてんと首を傾けて「むぅ」唸っている。

「なら君は、訳も分からんことに手ぇ貸しとんの?」
「分からなくても、母の望みです。叶えたいと思うのは変でしょうか?」
「はは、それもそやな。いい娘さんもってマガツメも幸せやね」

 褒められたのは存外嬉しかったのだろう、綺麗な笑顔でありがとうございますと返した。
 対する染吾郎の気配は鋭利だった。
 がむしゃらに責め立てる大鬼。邪魔だ。その懐に潜り込み、鍾馗の拳で殴り飛ばし、無理矢理間合いを作る。
 そうして一息ついてから、大鬼に短剣を突き付けた。

「いろいろ聞かせてもろたね、ありがとさん。そやけど、僕らもあんま暇やなくてなぁ。そろそろ終わりにしよか」
「まだ続けるんですか? この子の<力>は理解したでしょう。人の身で打ち倒すのは難しいと思いますよ?」

 それは見下した訳ではなく、ごく素直な感想だ。
 向日葵にとってこの戦いは持久戦。
 今は優勢でも体力には限りがある。
 大鬼は傷付いても直ぐに治るが、染吾郎はそうはいかない。
 だから持久戦、相手は戦えば戦うほど不利になるのだ。果てにある結末は揺るぎないものだった。

「ま、確かに人は君ら鬼より遥かに脆い。……それでも人はしぶといで。そう簡単に諦めてはやれんなぁ」

 染吾郎は余裕の態度を崩さずに、あはは、と軽く笑う。
 鬼の<力>を知って尚、彼に諦めるという選択肢はない。
 違う、諦める必要が無い。
 彼の見ている結末は向日葵のそれとは違う。
 あの程度の鬼、三代目秋津染吾郎を継いだ己に打ち破れぬ筈がないのだ。

「何か策でも?」
「ある訳ないやろ? さいぜんゆうたけど鍾馗様に特殊な能力はない。当然、真正面から蹴散らすだけや」

 にやりと口元が吊り上る。

「ほないこか」

 軽い調子の呟き、そして染吾郎は駈け出す。
 既に五十を超えた老人。疾走というほどの速度はない。それでも鍾馗を使役し鬼の攻撃を払い除けつつ距離を詰め、まずは脳天、唐竹に割る。

「無駄です。頭を潰してもこの子は止まりませんよ」

 そうだと思った。
 染吾郎も同じく止まる気はない。潰れた頭部が再生し始め、傷が塞がるより早く剣戟を叩き込む。
 唐竹横薙ぎ袈裟掛け逆袈裟斬り上げ粉微塵になるまで只管に斬り付け、流れるように首を落す。

「だから無駄」
「黙っとれ!」

 向日葵を一喝し、尚も手は休めない。
 鬼の腕は離れた頭部を探すように伸ばされる。拾い上げようとしているのだろう。だがさせない、触れるより早くその腕を落す。返す刀、歩こうとする足を落す。
 倒れる暇も与えない。崩れるより早く心臓を穿つ。
 胸を斬る。腹を裂く。肉を抉り骨を砕く。
 剣で斬り、拳で貫き、全身ありとあらゆる場所を切り刻み打ち据える。鮮血が舞うでは生温い、飛び散る鬼の血はまるで霧のようだ。

 向日葵にとってこの戦いは持久戦。
 染吾郎の体力が尽きるまで待つ、ただそれだけで勝利を得られる筈だった。
 しかし染吾郎にとってこの戦いは速度勝負。
 相手が再生するよりも早く、完全に殺しきる。
 だから止まらない。真正面から何の策もなく、奇をてらうような真似はせず、颶風の如く染吾郎は攻め立てる。

 鬼の体は少しずつ再生しており、それを超える速度で削り取られていく。
 夜を背景に血の霧は濃くなり、少しずつ白い霧も交じっていく。

「そんな」

 向日葵の驚愕が見て取れた。
 しかし反応はしない。そんな暇があるならばただ斬り殴る。
 白色は霧ではなく蒸気。鬼がその体を保てなくなってきているのだ。
 ここが勝機。
 颶風は更に勢いを増す。

「こんで、ほんまに終いや」

 最後の一太刀ではなく、最後の幾太刀。 
 斬る断つ突く裂く削る貫く抉る穿つ。
 視認することさえ難しい速度で、数えきれぬ程の剣閃が鬼を斬り刻む。
 鬼は既に原形を保っていない。人であったのか鬼であったのかも判別が出来ない程の細切れ、地面にはただ血と肉片だけが残っていた。
 立ち昇る白い蒸気と赤い霧。
 むせ返る程の鉄錆の香。
 その中心には赤く染まる男。
 
 
「やっぱ、ただの木偶の坊やったな」


 秋津染吾郎は、血に塗れた凄惨な姿で、いつものようにからからと笑って見せる。
 一部の隙もない、完全な勝利だった。

「お、そっちも終わった?」
「ああ、所詮は雑魚だ」
 
 五十以上いた鬼をすべて斬り捨て、甚夜が染吾郎の下へと近付く。
 そして大鬼の末路に顔を歪めた。<力>を持った鬼だ、喰えば<力>を得られるかともおもったが、ここまで細切れでは食うこと自体が難しそうだった。
 
「すまん、やり過ぎてもた」
「構わんさ」

 短い遣り取りを交わし、すぐさま意識を切り替え、周囲を警戒する。
 鬼はもう見当たらない。
 百鬼夜行は一晩のうちに壊滅し、残されたのは向日葵……そして、地縛のみ。

「って、お嬢ちゃんは?」

 鬼と共に、いつの間にか向日葵の姿もなくなっている。
 辺りを見回せば直ぐに見つかったものの、距離が随分と離れていた。

「あらま、完全に逃げる気やな」

 流石に疲れたのか、普段よりも重い声で染吾郎が言う。
 男二人が女童を睨み付ける。どちらが悪役か分かったものではない。
 
「まさか、ここまで一方的にやられるなんて。流石おじさまです。それに、秋津さんも」
「で、君は逃げんの?」
「はい。時間は十分に稼げましたから」

 向日葵は二人の視線を軽く受け流し、無邪気に笑う。
 確かにかなり手間取った。兼臣のことを考えればこれ以上時間を無駄にするわけにはいかない。
 
「向日葵……鈴音は、マガツメは今何処にいる」

 しかし甚夜は向日葵に問いを投げかけた。
 鈴音を止める為に生きてきた。今の彼女のことが気にならない筈がなかった。

「それは答えられません」

 答えは返ってこない。
 当然と言えば当然だ。向日葵は鈴音の娘。ならばある程度事情は知っているのだろう。

「あ、でも。一つだけ言っておかないといけないことが」

 思い出したように向日葵は呟き、甚夜に真っ直ぐな笑顔を向けた。

「母は確かに私を生んでくださいました。でも父はいないんです」

 吐き出されたのはよく分からない言葉だった。

「……何を言っている」
「私も、地縛も。私たち姉妹は全て母の“切り捨てた一部”が鬼になった存在です。だから母に夫はいません。そこのところ、おじさまにもちゃんと伝えておこうと思って」

 意図が全く掴めない、
 しかし甚夜の戸惑いを余所に向日葵は軽い足取りでくるりと背中を向ける。
 そして、首だけで振り返り無邪気な笑顔を浮かべ、

「それではおじさま、また会いましょう。今度はゆっくりお喋りがしたいです」

 そんなことを言って、この場を後にした。
<疾駆>を封じられた今、あの距離を零にする手はない。それに兼臣を追わねばならないのだ。向日葵は見逃すしかないだろう。

「……ようわからん娘やなぁ」

 先程まで敵対していた。だというのに、分かり易い親愛を露わにする。
 甚夜も向日葵という鬼女を測り兼ねていた。
 思索に耽り、その時間はないと気付き切って捨てる。

「兼臣を追う。急ぐぞ」

 今頃は地縛とやり合っている筈だ。
 急がねば取り返しのつかないことになる。

「そやな。……悪いけど先に行ってくれるか? 僕じゃ君の足にはついていけん」

 付喪神使いは術を扱うことはできるが鬼程の身体能力はない。
 それに染吾郎は随分と疲れている。申し訳ないがこの場において行った方がいいだろう。

「ならば行かせて貰う」
「うん、頼んだで」

 目指すは一条通の先、堀川にかかる一条戻橋。
 胸を不安には気付かないふりをして、甚夜は夜の通りを走り始めた。



 ◆


 一条戻橋での決闘は既に終わっていた。
 勝負は時の運だという。
 実力差があったとしても、偶然が重なり合い、運をものにした弱い者が勝つこともある。
 しかし勘違いしてはいけない。
 運を手繰り寄せるには、それ相応の積み重ねが必要だ。 
 鍛錬を繰り返し、周到に策を巡らし、その上で運を手にしたからこそ実力差を覆せるのだ。 
 だというのに、兼臣はいままで積み重ねてきたものを自分から捨ててしまった。
 だから、


「やっぱり、こうなったわね」


 この結末は初めから分かっていた。

「あ、ああぅ……」

 呻く兼臣。地縛は、つまらないとでも言いたげに鼻で嗤う。
 元より兼臣は地縛に敵わないと知っていた。だからこそ甚夜に助力を願った。
 単独で戦いを挑んでしまった時点で勝敗は決定している。
 ならばこそ、これは至極当然の流れだ。
 刀を握り締めたまま、兼臣はピクリとも動かない。


 ───鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。


 主と同じように。
 あの時と同じように、鎖は体を貫いていた。





[36388]      『妖刀夜話~御影~』・5 
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/08/13 02:36
 

 地縛は向日葵の妹、彼女もまたマガツメが切り捨てた一部だ。
 もっと言ってしまえば、必要が無いと捨てた“心”の断片より生まれた鬼である。
 マガツメの子供は全て生まれながらにして<力>を習得している。
 鬼の<力>とは『才能』ではなく『願望』。
 心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。
 生まれながらにそれを抱けるのは、そもそもが切り捨てた心、叶わなかった願いからできた体であるが故に。
 その意味で<地縛>という<力>は地縛自身の想いではなく、マガツメの願いの一つだと言っていいだろう。

 地縛は、姉である向日葵のように、今の姿のまま生まれてきた訳ではなかった。
 向日葵は誕生したその時から女童の姿をしていた。
 しかし地縛は、顔も体ものっぺりとした、四肢を持っているだけの無貌の鬼だった。
 生まれたての地縛は極端に自我が薄かった。
 その為明確な目的は与えられず、ただ漠然と町中に放り出され、“人を狩れ”とだけマガツメに命じられ、
 
「……あなたを、討たせていただきます」

 その討伐に駆り出されたのが、南雲和紗という娘である。
 高位の鬼はそのほとんどが強い自我を持っている。そこから零れ落ちる強い願いが無ければ<力>を得ることが出来ない為だ。
 だから和紗は油断した。
 自我は薄い。いつも通りの、下位の鬼だ。痛みもないくらいに一瞬で終わらせてあげたい。
 そういう気持ちが彼女に隙を作ってしまった。
 しかし、

「……え?」

 突如として現れる“七本”の鎖。
 しなり、蠢き、牙を立てる。鎖は毒蛇のように和紗へと襲い掛かる。咄嗟のことに、彼女の刀である兼臣も何もできない。

「なに、これ」

 鬼は鎖を操る<力>を持って和紗を弄ぶ。まるで猫かネズミをおもちゃにするようだ。
 縦横無尽に振るわれる鎖、これ以上はいけない。
 兼臣は和紗を助けようと……しかし遅かった。


 ずぶり


 嫌な音が聞こえ、鎖の先の鉄球が和紗の体を貫く。
 断末魔の悲鳴さえ上がらない。
 別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。
 彼女の魂は体を離れた。


 漏れるような吐息だけを残して、和紗は倒れた。
 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
 何一つ守れなかった刀。
 情けない。何が刀だ。お前に何が出来た。
 刀が斬る為に造られたのならば、斬ることの出来なかった刀に何の意味がある。
 心は苦渋に満ちている。
 そんな兼臣を余所に、一本の鎖が和紗の死体から引き抜かれ、鬼の体へと埋没していく。
 本当の悪夢は此処からだった。


『地縛…あたしは、地縛……』


 鬼は変容していく。
 次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。
 そうして出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は自分の名前を確認するように何度も呟く。
 浮かび上がった顔は、どこかの誰かにひどく似ている。
 それが兼臣を驚愕させた。
 鬼───地縛の周りで蠢く鎖の数は六本に減っていた。
 倒れた和紗はぴくりとも動かない。
 そして鬼の変容。
 兼臣は唐突に理解する。


 あの鬼は、比喩ではなく、和紗様の“魂”を奪ったのだ。


 そうして地縛は一本の鎖を失う代わりに和紗の魂を縛り付け、“地縛”としての人格を得た。
 もっとも気付けたからと言って何かが出来た訳ではない。
 兼臣には和紗の死体を動かし逃げることしか出来なかった。
 だから兼臣は取り返したかった。
 奪われた主人の魂を。
 そんなことをしたところで和紗が生き返るかは分からない。
 けれど、失くしたものが大きすぎて、それに縋ることしか出来なかった。
 

 何一つ守ることの出来なかった、一振りの刀の話である。





 ◆





 甚夜が一条戻橋に辿り着いた時、初めに耳を突いたのは夏の虫の声だった。
 あれは鈴虫だろうか。湿気を含んだ温い風に紛れて鳴く虫達、聞こえてくる音色は騒がしくも清澄だ。見上げれば満天の星。むせ返るような盛夏の夜が横たわる京の町は、だからこそ甚夜は僅かに奥歯を噛み締めた。
 夏の夜が在ってはいけなかった。
 鬼がおり、刀があり、憎む者が憎まれるべき者がいる。
 ならば其処が平穏で在ってはいけない。
 それなのに、虫の音が響き渡る夜。夏の重苦しい静寂が辺りを包んでいる。

「あら、おじさま? 遅かったわね」

 橋の真中には影が在る。
 マガツメの娘。
 気負いのない涼やかな様子で、地縛は静寂の中心にいた。

 ぎり、と奥歯を噛み締める。ゆらゆらと揺れる鎖、そのうちの一本が地縛の傍らにいる女から生えている。
 左胸から生えた鎖が夜の色に濡れている。
 今宵の色は、黒よりも赤に近い。
 女は、地縛によく似ている。それとも地縛が彼女に似ているのか。
  
「鬼の血を練り込んで造り上げた妖刀。その中でもこの夜刀守兼臣は特別。マガツメ様が欲しがっているの」

 兼臣。地縛を捕えたいと願った刀は、その望みを為せなかった。
 立っているのではなく鎖に吊られて立たされている。
 心臓を貫かれ、僅かにも動かない。物言わぬ死体はがただそこにあるだけ。
 夜の闇の中で尚赤々と濡れた鎖から滴がぽたりと落ちる。それが地面を叩いた時、甚夜はようやく言葉を絞り出した。

「地縛……」

 年甲斐もなく声が震えた。どのような感情に起因するかは気付きたくなかった。
 地縛はこちらに一度視線を向け、緩やかに、まるで「今日はいい天気ね」とでも話すような軽い調子で言った。

「でも体の方はいらないわね」

 動かない兼臣の四肢に鎖が巻き付き、鈍い音が響く。腕の骨、足の骨がへし折れ、それでも兼臣は刀を手放さない。崩れ落ち、地に伏そうとする瞬間、更なる鎖が彼女の体を貫く。
 広背筋を破り、背骨を砕き、臓器を食い破る。鎖は容易く兼臣を持ち上げ、まるでゴミのように、真実ゴミとして動かなくなった体を後方に投げ捨てた。
 一度後ろを振り返り、無様に転がる兼臣を見てにたりと地縛は哂う。
 向き直り甚夜を眺めるその眼には、勝者の自負があった。

 甚夜は何も言わなかった。
 目の前で知己の死体を弄られたのだ。眼前の下衆を憎み、怒りを露わにするところだろう。
しかし彼はその光景を見つめながら、誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。

「歳を取るというのは悲しいな」

 以前ならば、甚夜はおそらく激昂した。
 兼臣が傷つけられたことに激昂して、形振り構わず斬り掛かった。斬り掛かってやることが出来た。
 そういった青臭い年頃から数十年が過ぎた。
 今はもう、感情の昂ぶりに身を任せられる程若くない。
 ふつふつと怒りを感じながらも、地縛を討つ為に激情を飲み込めてしまう自分が、あまりにも薄情に思える。
 だが勘違いしてはいけない。
 甚夜は決して冷静ではなかった。

「済まない兼臣。約束を破ることになりそうだ」

 重く、ひどく寂しげな呟きだった。
 地縛は、兼臣と瓜二つの端正な顔を僅かに歪める。
 
「どういう意味?」
「兼臣はお前に大切なものを奪われたから取り返したいと言っていた。その為に捕えたいのだと。此処で、彼女の代わりに願いを果たせればいいのだろうが、どうやら私には出来そうもない」

 抑揚のない、淡々とした語り口からは感情を読み取ることは出来ない。それが地縛には意外だった。
 知己がやられたのだ、もう少し怒りや悲しみを露わにすると思っていた。
 しかし甚夜は怒りに体を震わせることも、涙どころか悲しみに表情を歪めることさえしない。あまりにも冷静な態度は、まるで兼臣などどうでもいいと言っているようだ。

「あら、早々に敗北宣言?」

 せせら笑う地縛を見る目は薄く細められ、やはり抑揚のない口調で甚夜は告げる 

「笑わせるな小娘」

 鉄のような表情に、鉄のような声。
 あまりにも硬すぎて、ぞっとするくらいに冷たかった。

「捕える必要がなくなったと言っている。鬼を討ち、その身を喰らい尽くす。やることは今迄となんら変わらない。己が目的の為にお前を斬るだけだ」

 抜刀し無造作に構える。
 少しだけ寒くなったような気がする。地縛の肩は微かに振るえた。

「だが……兼臣がいないのに、その小奇麗な顔があるのは正直気に入らなくてな」

 ひくり。地縛の笑いは引き攣りに変わった。
 冷静などではない。その小奇麗な顔があるのは気に入らない。つまり彼は、地縛の顔が二度と判別の付かないよう吹き飛ばすと言っている。
 そもそも地縛は勘違いしていた。甚夜の冷静な態度や固い口調は巫女守として相応しい在り方を考え作ったもの。本質的に彼は感情の起伏が激しい男だ。
 長い年月をかけて“冷静な自分”もまた彼の一部となり、老成し若さのままに動くようなことも少なくなった。
 それでも本質とは、容易く変わるようなものではない。

「悪いが、八つ当たりに付き合ってもらおう」

 その言葉と共に全身の筋肉は肥大化し、甚夜は変容していく。
 左右非対称の異形。鬼としての姿が其処には在る。
 有体に言えば。
 甚夜は、この上なく冷静に激昂していた。

「……っ!」

 全身が粟立つのを感じた。
 純粋すぎる敵意は痛いほどにざらついていて、まるで目の粗いやすりのようだ。睨まれただけで皮膚を削られたのではないかと錯覚してしまう。
 身構え、眼前の異形を見据える。
 彼の正体を知っていたというのに、地縛は勘違いしていた。
 これは剣豪と鬼女の戦いだと思っていた。人と人ならざるものの争いだ。だから地縛は自分のことを一段上に置いていた。

 
 この身はマガツメから生まれた鬼、一方的に他者を狩る化生。


 前回は<力>を上手く扱えなかったから、自分に経験が少なかったからこそ押された。
 ならば戦闘の経験を積んだ今、正しく剣豪と鬼女の戦いになったのだと。
 相手は狩られるだけの獲物だと、地縛はそう思っていた。


 ────左右非対称の異形は、冷徹過ぎる、殺すことしか考えていない瞳で。
    この身を砕き、喰らい尽くそうとしている。


 しかし違った。
 あれは自分と同じ、狩る側だ。相手もまた、人の枠を食み出た化け物なのだ。
 それを理解し、だからこそ油断も慢心も消え去った。

「<地縛>……っ」

 じゃらじゃらと音を立てながら襲い掛かる二本の鎖。
 叩き付けるように狙った肩口。動きを止める為に足を絡め取る。
 同時に地縛は後ろへと下がる。自身の<力>は距離を取って初めて有効。六本の鎖のうち二本は<疾駆>、<飛刃>を抑えるのに使っている。四本であの敵を捌くのは至難、まかり間違っても間合いに踏み込むような真似はしてはならない。

 対する甚夜は<飛刃>を封じられ遠距離での決め手に乏しく、<疾駆>で間合いを一気に詰めることも出来ない。
 まずは様子見、左腕を翳し<地縛>を迎え撃つ。 

「来い、<犬神>」

 この身を砕こうと牙を剥く蛇、迎え撃つは三匹の黒い犬。しなやかに跳躍する<犬神>と空気を裂きながら蠢く不気味な鎖がぶつかり合う。
 ぱん、と軽くはじけるような音。地縛は五年前よりも力をつけているようだ、<犬神>はいとも簡単にはじけ飛んだ。代わりに鎖も大きくたわみ、狙いとは見当外れの場所へ向かう。
 
「成程、如何やら一筋縄ではいかないらしい」
「鎖だけに?」
「下らん冗談だ」

 甚夜は無表情に、地縛は何処か楽しげに言葉を交わす。
 たわんだ鎖が再度甚夜へ狙いを定めた。重心を倒し、前傾姿勢になりながら、地を這うように甚夜は駈け出す。距離は八間。<犬神>では鎖を砕くことが出来ない以上、これを零にしなければ話にならない。

 身を翻し、鎖をやり過ごす。ついで<隠行>を発動し、姿を消す。そのまま間合いに踏み込もうとするが、地縛も以前のままではない。
 即座に鎖を自身の周りへ戻し身構える。しかし見えていないことには変わらない。甚夜は左足で橋を蹴り、速度を上げる。

「残念、見えてるわよ」 


 その瞬間地縛は乱雑に、縦横無尽に、四本全てを振り回す。
 何処にいるかは分からない。ならば薙ぎ払おう。その程度の考えかとも思ったが違った。鎖は縦横無尽に見えて確実に甚夜を追い詰めるように逃げ場所を誘導していく。
 そして空気を裂きながら、一本の鎖が鞭のように振るわれた。
 全身の筋肉を躍動させ、横薙ぎの一太刀で迎え撃つ。
 金属と金属がぶつかり合う。甲高い衝突音を響かせ、鎖を払い除ける。後ろに退き、甚夜は再度構える。地縛は余裕の表情でそれを眺めていた。

「姿を消しても自分の<力>が何処にあるかくらいは分かるわ」

 甚夜の腕と足には鎖の刺青がある。これが消えない限り地縛はその位置を把握でき、消す為には地縛を討つしかない。
 <飛刃>、<疾駆>は封じられた。位置が分かるなら<隠行>、<空言>も意味がない。<犬神>では決定打にはならない。
 僅か五年で地縛は厄介な相手になった。しかし退くという選択肢はない。
 ここで逃がせば地縛は更に強くなるだろう。マガツメによる被害も拡散してしまう。
 そしてそれ以上に、彼女は兼臣を弄った。見逃せるはずがない。表には出さないが、甚夜は地縛を斬り伏せること以外考えてはいなかった。

「……随分と、強くなった」
「これでも、少しはね。おじさまにそう言われると何だか嬉しいわ。お礼に、鎖で雁字搦めに縛り付けて甚振ってあげる」

 口角を釣り上げ、見下したような視線を送る。
 確かに彼女は成長した。それでも性格の方はあまり変わってないようだ。しかし隙は少なくなった。
 自身の周囲には二本を残し、他の鎖で甚夜を攻める。空気が唸りを上げた。鉄球が正確に急所を目掛けて飛来する。
 
「趣味ではないな」

 それを丁寧に捌きながら甚夜が答える。地縛は確かに強くなったが、今回は誰かを守りながら戦わなくてもいい。その分精神的にも肉体的にも余裕があった。

「そう。でも、やめないわよ?」
「構わんさ。どのみち為すことに変わりはない。お前は、私が喰らおう」
「あらまあ、私が食べたいの? 向日葵姉さんに嫉妬されちゃうわね」

 ふざけたことを言いながらも、地縛の攻め手は苛烈だ。鎖の操作技術、その威力、共に五年前とは比べ物にならない。
 地縛が攻め、甚夜が防ぐ。戦局は硬直状態に陥っていた。 

「……っ」
「ほんと、厄介な人!」

 既に数合、致死の一撃を幾度も放ちながら甚夜は息も乱さずそれをいなす。
 強くなったと思っていた、なのにまだ届かない。地縛はその現実に焦れ、苛立っていた。
 焦れていたのは甚夜も同じだった。
 間合いは未だに詰められない。鬼と化しながらも攻め込めないのは<地縛>、封じる<力>故に。
 痛みは耐えられるが“縛られる”ことはどうしようもない。
 だから無理に攻めることは出来ず、硬直状態に甘んじるしかない。

 しかしこのままではいずれ不利に傾く。

 二匹の鬼は、同時に同じことを考えた。

「ねえ、おじさま?」
「なんだ」

 攻防を交わしながら、互いに穏やかな調子で語り合う。

「いい加減、飽きてきたと思わない?」
「奇遇だな、私もそう思っていた」
「そう、なら……」

 鎖が全て地縛の周囲へと戻る。
 甚夜は腰を落し、左の拳を音が鳴る程に握り締める。

「そろそろ、終わりにしましょうか」
「良い案だ」

 そして動く。
 それもまた同時だった。
 地縛が攻撃を止めたのは甚夜を呼び込む為。遠距離で攻撃を繰り返しても捌かれるだけ。ならばぎりぎりまで距離を近づける。鎖の速度に甚夜自身の疾走を加え、多少の手傷は覚悟の上で、攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。
 甚夜は<剛力>を使わない。威力は随一だが手数の多い地縛相手ではあまり意味がない。鬼の身体能力と剣技に飽かせた真っ向勝負。相手の策略など正面から斬り伏せる。
 一挙手一投足の間合いへ踏み入り、二匹の鬼がやはり同時に仕掛ける。
 速度は殺さない。甚夜が狙うは咽頭、放つのは鬼の腕力を余すことなく乗せた刺突だ。
 右腕を引き、構えた瞬間、それを地縛は待ち構えていた。
 四本全ての鎖を用いて甚夜を打ち据えにかかる。距離が近くなった。突きよりも待ち構えていた地縛の鎖の方が早い。唸りを上げる鎖は蛇だ。敵の命を刈り取ろうと牙を剥く。 
 だがそこまでは読めている。
 かつて岡田貴一が見せた刺突には及ばないが、甚夜は放った突きの軌道を滑らかに薙ぎへと変化させる。拙い業だ。それでも地縛には十分驚愕で在ったようだ。狙い澄ました筈なのに鎖を防がれた。
 甚夜は止まらない。打ち払うのは目の前のものだけでいい。それがなくなれば地縛に拳が届く。<剛力>を使わずとも彼の拳は凶器だ。一撃で鬼女の美しい顔を退き飛ばすことが出来る。
 更に距離は狭まる。拳が届く位置、だから勝利を確信する。
 


「これで、私の勝ちね」



 地縛は勝利を確信して笑った。
 瞬間、防がれた四本の鎖ではなく、甚夜の体から二本の鎖が解き放たれ、彼の心臓を頭を狙う。
 攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。もとよりそれが地縛の目論見。しかしその程度で甚夜を仕留めるのは難しい。そんなことは、彼女自身が一番よく分かっていた。
 だからこそ使える四本の鎖を囮にした。<力>を封じている二本の鎖を開放し、真正面から不意を打つ。
 避けられない。
 鉄球が唸りを上げる。それは正確に甚夜の心臓と頭に直撃し、




「その程度では、壊せんぞ」



 がきんと、甲高い鉄の音が響く。
<不抜>。壊れない体の前では鎖など涼風にも劣る。
 地縛の笑みに不吉なものを感じた。だから、その瞬間から甚夜は<力>を発動した。彼では土浦程早く壊れない体を構築できない。直撃より一瞬遅かった為、完全に防ぎきることは出来ず血が垂れている。しかしどうにか間に合った。

 地縛は歯噛みした。目論見通りだった。策を張り、不意を打って……尚も命には届かない。
 驚かされたのは甚夜も同じだ。今のは綱渡りで命を繋いだに過ぎない。
戦いはまだ終わっていない。
 互いにすべて手札を切り、二匹の鬼は硬直していた。
 甚夜はまだ<不抜>が解けていない。壊れない体を得られるが、使用中は動くことが出来ない。それが<不抜>の弱点だ。
 地縛も六本の鎖を防がれた。攻撃に移るまで少しばかり時間がかかる。
 先に動いた方が勝つ。
 そして、<不抜>が解けるよりも、たわんだ鎖が元に戻る方が早かった。

「……っ」

 甚夜は演技ではく、心底の焦りから顔を歪めた。
 まだ動けない。打てる手はもうない。地縛は既に鎖を操り始めた。今度こそ、それを防ぐことは出来ないだろう。
 にいっと、地縛が口の端を釣り上げる。

「ようやっと、これで終わりね」

 勝ち誇った表情。地縛は左腕を翳した。
 蠢く鎖が甚夜に咢を向ける。
 そして放たれた一撃が体を貫いた。






「ええ。これで終わりです。終わるのは、貴女ですが」





 一振りの刀が。
 背後から、地縛の心臓を貫いたのだ。

「……………え?」

 ずぶり、と気色の悪い音が聞こえる。
 遅れて吐血し、地縛は目を見開く。
 おかしい。
 これで勝ちのはずだった。なのに痛い。おかしい、おかしい。
 なんで自分の体から、刀が生えているんだろう?
 地縛はいきなりの事態に頭が回っていなかった。それは甚夜も同じ。彼にしては珍しく、驚愕に呆けたような顔をしている。
 くるりと、首だけで後ろに振り返る。
 そこには見知った女がいる。
 自分と同じ顔をした女が。

「まだ、動けるのっ……!?」

 心臓を貫き、背骨を砕き、四肢をへし折った。
 なのに兼臣は、確かに心臓から血を流しているというのに、立ち上がっていた。
 夜刀守兼臣が地縛の心臓を貫いている。痛みを感じてもいないのか、淡々と兼臣は語った。

「……四口の夜刀守兼臣は、全てが妖刀。それぞれ異なる<力>を有しています。この刀の<力>は<御影>。骨が折れようが腱が切れようが、物理的に動かない状況であろうが。<力>を持って“自分自身”を傀儡と化し、無理矢理に動かすことが出来る……!」

 その<力>は知っている。
 だから念入りに彼女の体を壊した。
 なのに、まさか背骨を砕かれても動けるなんて。
 そうは言えなかった。言うより早く、首を鷲掴みにされた。
 ぎしり、骨が折れそうになる程の力で締め付けられ、そのまま高々と持ち上げられる。
 息が出来ない。見下ろせば、何の感慨もなくこちらを見る赤い目が。
 そこには左右非対称の異形の鬼がいた。
 
「兼臣、無事だったのか」

<不抜>が解け、甚夜も動けるようになった。
 異形の左腕で鬼女の首を絞めたまま兼臣に視線を向ける。

「見ての通りです」

 満身創痍、とても無事とは言えない。しかし兼臣は微笑んでみせる。

「そうか。聞きたいことは山ほどあるが、取り敢えずこいつはどうする」

 もともとは地縛と兼臣の私闘。甚夜は横槍を入れたに過ぎない。
 そして彼女を切ったのも兼臣。どうするかを決める権利は彼女にあるだろう。

「葛野様の、お好きに」

 目を伏せ、感情の乗らない声で答えた。
 仇を追い詰めながら、どうでもいいと言いたげだった。

「いいのか」
「ええ。……私は信じていたんです。地縛を捕えれば、和紗様の魂が取り戻せるのだと。そんなこと訳がないのに。失った命が戻るなどと、在り得ない希望に縋ってしまった」

 そうして自分の心臓に出来た創傷を見て、決心したように顔を上げた。

「でもそれが叶わぬと、ようやく受け入れられました。だからどうか、貴方の手で終わらせてください」

 その言葉が如何なる想いを込めて紡がれたものかは甚夜には分からない。
 しかし彼女の笑顔は本当に綺麗だった。だから問い返すような真似はしたくなかった。 

「地縛……お前に聞きたいことがある。」

 甚夜は左腕に籠めた力を僅かに緩めた。
 心臓を潰され、彼女の体からは既に白い蒸気が立ち昇っている。
 その眼には明らかな恐怖。外見だけで考えれば悪役は甚夜の方だろう。 

「マガツメの目的はなんだ」
「……さ、あ?」

 怯えながら、それでも地縛は気丈に答えて見せる。

「何も聞いていないのか」
「ええ、興味も、ないし。でも何か為したいことがある。手伝う理由なんてそれで十分でしょう? だって、元は同じも、のだったんだから。……もっとも、マガツメ様は私達のことなんて気にも留めていない、でしょうけど」

 初めて見せる、どこか自嘲めいた笑みだった。

「私達はマガツメ様が切り捨てた、心の一部。目的を果たす為に必要だったから私達を造ったんじゃないわ。目的を果たす為に、必要ないから私達が出来た。それがたまたま使えたから使ってるに過ぎない。大切にはしてくれるけど、本当は私達のことなんて最初から必要なかったのよ、きっと」

 或いは、彼女が“母”ではなく“マガツメ様”と呼ぶのは、だからなのかもしれない。
 必要とされていないのではないか、その不安が母と呼ぶことを躊躇わせる。
 聞かなければよかった、甚夜はそう思った。
 地縛の寂しさが垣間見えてしまった。子を持つ身としては、彼女の苦悩は身につまされるものがある。
 そしてそういう娘だと思えば、余計に気は重くなった。

「済まない。くだらないことを聞いた」
「いいわ、私は負けたんだもの」
「そうか。ならば……お前の<力>、私が喰らおう」
 
 どくん、と左腕が鳴動する。
元々甚夜の左腕はそういうもの。
 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。
 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。

「あ、ああああ……」

 苦悶の声。聞こえないふりをした。
 少しずつ地縛が自分の中に流れ込んでくる。
 しかし何故記憶も想いも理解が出来なかった。
 靄がかかったようにはっきりしない。
 それでも少しずつ、地縛が自分のものになっていく。

「では、な。地縛」

 腕の中にいた鬼女は完全に消え去る。
 こうして、百鬼夜行は一晩のうちに姿を消した。
 









「ああ、よかった。和紗様の仇だけは討つことが出来た」

 兼臣は万感の意を込めて呟き、そしてそれが限界だった。

「兼臣っ」

 糸が切れた人形のように膝から砕け力なく倒れ込む。近付き、抱え起こす。腕が足が折れ、心臓が貫かれ、尚も刀を手放さぬ娘。最後まで刀で在ろうとした彼女は、あまりにも穏やかな微笑みを湛えている。

「ありがとう、ございます。葛野様、貴方のおかげです」

 儚げに漏れる吐息。彼女は助からない、というよりも、今生きていることさえおかしい。
 だから甚夜は理解した。兼臣は、当たり前のように、命を落とす。
 これが最後の会話になるのだ。

「今医者を」
「無理ですよ。元々<力>で無理矢理動かしていただけに過ぎません。もう、この体は終わっているんです」

<御影>。
 自身の体を傀儡のように操り、骨が折れようが腱が切れようが、無理矢理に動かす<力>。
 動ける訳のない彼女が動けた理由。しかしそれも終わり。
 抱えた体は冷たい。もう、彼女は終わっているのだ。

「兼臣……」

 兼臣は真っ直ぐに甚夜の目を見る。
 それがまるで天寿を全うする老人のように見えて、泣きたくなった。
 まただ。結局、甚夜は何も守れない。
 自分を頼ってくれたこの娘に、何もしてやれなかった。

「ふふ、そんな顔をしないでください。こうなることは最初から決まっていました。けれど、為すべきを為せた。私は十分満足しています。心残りと言えば、もう葛野様の作る蕎麦を食べられないくらいのものでしょう」
「蕎麦なんぞ幾らでも作ってやる」
「その言葉は、もう少し早く言ってほしかったですね」

 くすりと零れ落ちた笑みに、甚夜は表情を歪める。
 それが嬉しくて、兼臣は目を細めた。

「そんなに惜しんでもらえるなんて、思ってもいませんでした」
「……済まない、私は、お前に」
「そんなことを、言わないでください。何も言えなかった私に手を差し伸べてくれた。あの夜、私は救われたんです。何一つ為せなかった刀は、ちゃんと斬るべきを斬れた。それは紛れもなく貴方のおかげなのですから」

 最後の力だろう。ゆっくりと手を動かして、甚夜の手にそっと触れた。

「地縛に奪われた和紗様の魂は、きっと貴方の中に。ならば今度は貴方を主人と仰ぐべきでしょうか?」

 冗談めかした物言いに胸を締め付ける。

「ああ、それでいい。だから」

 だから、死ぬな。
 言いたかった。でも言えなかった。
 
「ふふ、そう、ですか」

 腕の中にいる兼臣は。

「なら……貴方の刀となるのも、悪く、ありませんね」

 最後に、穏やかな笑みを残して。
 
 ────するりと、手は離れて。

 もう、動かなくなった。













[36388]      『妖刀夜話~御影~』・6(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/08/13 02:36
「ほれ、甚夜」

 夜が明け、取り敢えず一寝入りして体を休めてから、甚夜達は鬼そばへと集まった。
 店は開けていない。流石に疲れたので今日はこのまま休みにしようと思った。

「なんだこれは」
「今回の仕事料や。いや、実はな。百鬼夜行をどうにかしてくれゆう依頼は多くてな。結構な稼ぎになった。今回は僕と山分けってことで」

どうやら休んだ後、態々金を受け取りに行っていたらしい。五十近い老人だが中々体力のある男である。

「そういうことなら」

 袋に入れられた銭を受け取り、店の奥に片付けてからもう一度向かい合うように座る。
 店の中には甚夜と染吾郎しかいない。傾いた格好をした、細面の娘は戻ってくることが出来なかった。
 傍らに置いた夜刀守兼臣を眺めながら甚夜は眉を顰めた。

「“心を造る”……結局、マガツメの目的はよう分からんかったなぁ」

 何か思うことがあったらしい。茶を啜り、ぽつりと染吾郎が呟いた。
 マガツメ。鈴音は人の死体を弄りながら何かを為そうとしている。彼女の目指す者は甚夜にもよく分からなかった。ただ、思い浮かべるだけでどろりとした憎悪が湧き上がる。
 何十年と経って、それでも僅かも変われなかった自分を見せつけられたような気がした。

「夜刀守兼臣を欲しがっとったんもそれやろか?」
「おそらくは」

 声は沈んでいる。その理由は染吾郎にも想像がついていた。

「なあ」
「なんだ」
「……今更やけど、マガツメが“金髪の鬼女”なんやろ?」

 以前、ゆきのなごりという酒を巡る事件があった。その時甚夜は、“金髪の鬼女”に対して普段からは想像もつかない程感情を露わにしていた。染吾郎はそれを覚えていたらしい。

「ああ……百年の後に鬼神と為り、葛野へと降り立つ鬼だ」
「君の故郷やったか」

 黙って頷く。
 染吾郎は笑うとも呆れるともつかない、なんとも微妙な表情を浮かべた。向日葵とのやり取りでマガツメが甚夜の妹であると知った。なのに妹だと言えなかった甚夜を、痛ましく思ってしまった。

「ま、詳しいことは聞かん。……でも、そやな。その時になったら力は貸すわ」
「すまん」

 だが、その頃には彼は、もう。思ったが、甚夜は何も言わなかった。こちらを慮っての言葉だ。はねのけるようなことはしたくなかった。
 それきり二人は黙り込む。
 茶を啜る音だけが聞こえる。どれくらい時間が経っただろうか。
 何処か冗談めかした物言いに、沈黙が破られた。




『しかし葛野様は、案外と情の深いお方なのですね』




 声は、随分と聞き慣れた女のもの。
 喋ったのは、傍らに置いた夜刀守兼臣だった。

「……五月蠅い」

 甚夜は眉を顰め、仏頂面で返す。
 その態度にずいと体を前に出した染吾郎は、随分と興味深そうだった。

「お、なになに、何や面白い話しでもあるん?」
『面白いという訳ではありませんが、葛野様が私に蕎麦なんぞ幾らでも作ってやると』
「おおっ!? 嫁に来いとかそういう話!?」

 わざとらしく驚いて見せる。顔は思い切りにやけている。完全にからかう気だった。

「……だから、五月蠅いと言っている」

 不機嫌な態度を隠そうともしない甚夜を、染吾郎も、表情は分からないがおそらく兼臣も、生暖かい目で眺めている。
 彼が不機嫌なのは怒りではなく、気恥ずかしさからだ。普段あまり表情の変わらない甚夜が、自分の勘違いが恥ずかしくて怒ったように見せている。それが面白くて、どうにも笑いが止められないようだ。
 甚夜は目の前で笑っている男を睨み付ける。

「染吾郎……お前、最初から知っていたな?」
「そりゃ、まあ。というか、ちゃんと僕ゆうたやろ? 兼臣は刀やって」

 ああ、そうだ。確かに染吾郎は言っていた。


 
 ────あの子は抜身の刀や。多分、君が思っとる以上に脆い。



 だが、まさかそれが比喩ではなく“本当のこと”だなどと、誰が思うというのか。
 染吾郎に続いて夜刀守兼臣も口を開く……否、口は無いが空気を震わせ、声を発する。

『私もちゃんと言った筈ですか。これは私そのものだと』

 確かに何度も言っていた。
 刀は自分そのものだと。これは私の魂だと。
 ただ、甚夜が勝手にそれを単なる比喩表現だと勘違いしたに過ぎない。そもそも彼等は何一つ嘘を吐いていなかったのだ。

「ああ、分かっている」

 そう、甚夜は全てが終わってようやく兼臣が何者なのか理解した。


 兼臣───妖刀・夜刀守兼臣は、元々和紗の刀。
 何度も言うが比喩ではなく、“妖刀使い”の南雲、その当主たる和紗の父が娘に与えた妖刀こそが兼臣だった。
 和紗の指南役になった、というのは単純に「自分の正しい使い方」を教えるという意味に過ぎない。
 主とは「主人」ではなく「使い手」。
 そして今まで会話していた兼臣は、夜刀守兼臣に宿った人格なのだ。

 兼臣は和紗の刀となり幾許かの年月を過ごし、地縛という鬼女に出逢う。
 南雲和紗は地縛に魂を奪われた。
 これもまた比喩ではなく、おそらく地縛は<力>によって和紗の魂を縛り、己が内に取り込んだ。
 魂のない体では動くことは出来ない。
 だから兼臣は動かない和紗の体に<力>を使った。

<御影>

 自身の体を傀儡のように操り、骨が折れようが腱が切れようが無理矢理に動かす<力>。
 もっと言えば今喋っている“彼女”こそが<御影>という<力>だ。
 
 刀の現身としての人格、妖刀の落した影。
 故に名を<御影>という。

 それを持って和紗の死体を動かした。
 だから地縛と兼臣は同じ顔をしていた。
 地縛は和紗の魂を取り込んだが故に、兼臣は和紗の体を操るが故に、二人はあれ程までに瓜二つだった。

「そうだな、お前は最初からこのことを伝えようとしていた」
『二人静、ですか?』
「ああ」
『ならば今一度問いましょう。……菜摘女は、何故舞うことが出来たのか』

 兼臣は、地縛の討伐へ赴く際、謡曲「二人静」について語って聞かせた。
 静御前の霊に取り憑かれ舞う菜摘女の話。
 舞いの途中で静御前の幽霊が現れ、それでも菜摘女は舞を続ける。


 ───それなら、“何”が菜摘女を動かしていたのでしょうか。

 あの時、兼臣が投げかけた問いを思い出す。
 彼女の中に静御前の霊はいない。
 ならば彼女はどうやって舞った?
 舞は菜摘女の内から零れたのか。
 静御前の想いがその身に残されていたのか。
 今なら、何と答えればいいのか分かる。

「そんなもの、“別の何か”が菜摘女を動かしていたに決まっているだろう」

 その体に魂が無いのなら、動かしている“別の何か”があってしかるべきなのだ。
 それは謡曲のことではなく、彼女自身のこと。
 妖刀の魂に憑依された南雲和紗こそが兼臣の正体。
 だから騙された訳ではない。
 ただ単に、甚夜が気付かなかっただけの話だ

『はい、正解です』

 声の調子から満足そうに頷く女の姿を想像する。
 マガツメが兼臣を求めた理由も何となく理解できた。
 あの娘が心を造ろうとしているのならば、心の宿った刀は確かに興味深いものだろう。

「そやけど、死体なのによう腐らんかったなぁ」
『それは、どちらかというと地縛の<力>でしょう』

 殺されたのではなく魂を縛られた。
 故に、南雲和紗は半分生きていて半分死んでいる状態だったのだろう。
 死んでいるから魂はなく年老いることはなく、生きているから腐りもしなかった。
 しかし今回の戦いで四肢を折られ、背骨を砕かれ、心臓を貫かれた。
 和紗の体は真実死骸となった。
 兼臣が地縛を“喰う”ことを認めたのはおそらくその為。
 肝心の体が壊れてしまったのだ、魂を取り戻す意味がなくなってしまった。
 
 ……或いは、最初から魂を取り戻せるなんて思っていなかったのか。
 
 本当は取り戻せないと知りながら、拘っていたのかもしれない。そうしなければ生きていけなかったから。

『……? どうかされましたか?』
「いや」

 甚夜の視線に気付き、不思議そうに兼臣が声を上げる。
 甚夜は今考えたことを言葉にはしなかった。
 本当の所を知るのは兼臣自身の他におらず、聞く気もない。
 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。態々傷を穿り返すようなことはしたくなかった。

「まあ、これで百鬼夜行の件は解決。この子も敵を討てて、甚夜にも嫁が出来た。万々歳やね」
「お前そろそろ本気で黙れ」

 まだからかおうとしてくる染吾郎を更に睨む。しかし暖簾に腕押し、飄々と視線を受け流し朗らかに笑っている。本当に、いい性格をした爺である。

「まあまあそう言いなや……って、ん?」

 何かに気付き、怪訝そうに染吾郎は目を細めた。
 その視線を追っていけば店の奥から出てきた野茉莉の姿がある。

「野茉莉……?」

 何故か暗い顔をした、野茉莉はじっと甚夜のことを見ている。
 様子がおかしい。席を離れた甚夜は娘に近付き、少しばかり体を屈めた。

「どうした」

 声を掛けても反応はない。無言を貫き、しばらく間を空けてから小さく呟く。

「……今の話」
「ん」
「父様に、嫁が出来たって」

 どうやら中途半端に話を聞いてしまったらしい。甚夜に嫁が出来たとでも勘違いしているようだ。
 弁明しようとして、きっと視線を鋭くした野茉莉にそれを封じられる。

「嘘吐き」

 刃物のような言葉か突き立てられた。
 何も言えない甚夜に背を向け、野茉莉は再び奥の部屋に戻っていく。
 先程までの和やかさは消え去り、店内の空気はぴんと張りつめていた。

「……なんや、みぃんな解決したと思っとったけど、一番の問題はそのままみたいやね」

 流石に笑えなかったらしく、頬を引き攣らせて甚夜を眺めている。
 嘘吐き。その科白は思いの外強烈だった。
 甚夜は動けず、立ち尽くすしか出来なかった。

『あの、済みま、せん?』

 謝ればいいのか、慰めればいいのか。
 よく分からず口に出来たのは、やはりよく分からない科白だった。
 別に彼女が悪い訳でもない。動揺を隠し、努めて普段通りの顔を作って答える。

「……大丈夫だ」

 沈んだ声は隠しようがなかった。
 
「まあ、年頃の女の子は難しいわなぁ」
『女性と縁のない秋津様でもそう思われますか』
「よっしゃ、お前表に出え」

 染吾郎と兼臣のやり取りを横目に甚夜は溜息を吐いた。
 紆余曲折はあったが、何一つ守れなかった刀の物語は、どうにか笑顔で終えることができた。
 少なくとも兼臣は───以前の体は失ってしまったが───ここにいる。
 それは喜んでもいいことだろう。

『どうかされましたか』
 
 溜息に耳聡く気付き、兼臣は声を掛けた。
 決して憂鬱から出た訳ではない。軽く首を振って、心配するなと示してみせる。

「なに、少し疲れただけだ」
『それならばいいのですが』
「済まない、気を使わせたようだ」
『いいえ、貴方の嫁ですから』

 話がこじれた原因をいとも簡単に言ってのける。
 面の皮が厚い女だと甚夜は思った。そもそも刀の面の皮が何処かは分からないが。
 しかし兼臣の声は弾んでいて、表情は分からないが楽しそうだと思えた。
 だから咎めることはしなかったが、溜息がもう一度零れた。



 これで地縛と兼臣の話は終わりである。
 南雲和紗の仇をうち、彼女は随分と気が楽になったようだ。
 マガツメの目的はよく分からないまま、野茉莉とのこともある。甚夜の方は前途多難だが、取り敢えずは一件落着というところだ。
 紆余曲折はあったが、今回の件を締めくくる言葉はやはりこれが相応しいだろう。




『では、これからもよろしくお願いします。旦那様』




 つまり、兼臣は刀であった。
 





 鬼人幻燈抄 明治編「妖刀夜話~御影~」・了
        次話「夏宵蜃気楼」




[36388]      『夏宵蜃気楼』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/08/17 03:20
明治十一年(1878年)・七月


「お師匠」


 秋津染吾郎の仕事場は、京は三条にある自宅の一室である。
 金工であった初代染吾郎と違い、三代目の彼は木彫りの根付の製作も行う。寧ろ今では根付職人として認知されているほどだ。
 金工の技術は二代目染吾郎、つまり師匠から学んだ。元々彼は小器用で、金属製の櫛(くし)や簪(かんざし)を造らせても一級品が出来上がる。
 しかし染吾郎としては温かみのある木彫りの方が好きで、彼の作品は金属製の櫛よりも根付の方が多い。近頃は年老いて体力がなくなってきたこともあり、その比重は更に傾いていた。

「おう。おかえりー、平吉」

 既に五十近い年齢だがその手捌きは見事というしかない。平刀、合透、小刀、剣先、丸刀。次々に彫刻刀を持ちかえ、何でもない木片を芸術作品へと変えていく。染吾郎に師事してから随分と経つが、平吉の技術では足元にも及ばない。制作風景を見る度に、師に対する羨望と自身に対する落胆を覚えてしまう。
 もっとも師とは違い平吉は“秋津染吾郎”の付喪神使いとしての一面にこそ重きを置いている。落胆の理由は「まだ自分には強い付喪神を作ることが出来ない」という所にあった。

「どやった、東京は?」

 取り敢えず仕事を中断し、部屋に入って来た平吉の方へ向き直る。
 声を掛ければ平吉はいつもよりも楽しそうな様子で答えた。

「やっぱり様変わりしてました。新しいもんもいっぱいあって。あんぱんゆうの食べましたよ」
「そかそか、楽しんできたようで何よりや」

 平吉には東京の商家に頼まれていた根付を納品に行ってもらった。
 明治に入って江戸は東京に名を変え、随分と変わった。観光がてらの仕事だ、いい息抜きになるだろうと思って任せたが、やはりそれは正解だったようだ。

「ところで、それなんや?」

 手には紙の包みが一つ。行く時にはなかった筈だ。土産であれば先に渡しているだろうし、純粋に疑問だった。

「あ、えーと、東京の店でですね。櫛とか根付とかもらってきました。その、女の子に似合いそうなの」

 恥ずかしいのか僅かに頬を染めて歯切れ悪く言う。

「もらってきた? 買うた、やのうて」
「はあ。師匠の馴染みの蕎麦屋の話しとったら、なんでか店主の話になって、いつのまにか野茉莉さんの話になって、そしたらなし崩しに」

 その様子に染吾郎は溜息を吐いた。

「平吉ぃ、秋津染吾郎の弟子なら野茉莉ちゃんへの贈り物ぐらい自分で造らな……」
「俺もそういうのは造れますってゆうたんですけど、いいからいいからて店の女の人が無理矢理」
「あー」

 無理矢理持たされ断ることも出来ずあたふたする平吉の姿が目に浮かんだのだろう。
 呆れながらも「仕方ない」と染吾郎は一度頷いた。

「ま、貰ったんなら渡してきい。きっと、その櫛やら根付は野茉莉ちゃんとこに行きたがっとんのやろ」
「行きたがっとる、ですか?」
 
 意味が今一分からず聞き返すと、染吾郎は優しい、まるで父親のような笑みで答えた。

「そ。物には収まり所ゆうもんがある。その人の手に渡るのは偶然やなくて、物がそこに行きたいと思たからや。その子らも、そういう誰かを探してここに来たんかもしれんなぁ」

 想いは、最後には自分が帰りたいと願った場所に還る。
 だから物がその人の手に渡るのは、物の願いでもあるのだ。
 染吾郎は事あるごとにそう言っていたが、平吉にはよく分からなかった。
 付喪神になるような器物なら兎も角、普通のものが持ち主を選ぶなんてある訳がない。

「そういうもんですか」
「そういうもんや。想いは巡り巡って、最後には帰りたい場所に還るもんやと僕は思うな」

 何度も聞いた言葉、それでも首を傾げてしまう。
 納得し切れていないであろう弟子を見る目はそれこそ息子に対するような暖かさだった。

「ま、いつか分かるわ。それ、はよ持ってったり。ああ、そろそろ飯時か。僕も行くわ」
「あ、はい」

 結局よく分からないまま平吉はその場を後にして、師と共に鬼そばへと向かう。
 その歩みは随分と早足で、染吾郎が笑ったのは言うまでもない。






 鬼人幻燈抄 明治編『夏宵蜃気楼』






 野茉莉は今日もいつものように父の手伝いをしていた。
 昼の蕎麦屋は忙しい。忙しなく手を動かす父はいつもと同じ表情、汗一つかいていないけれど、やはり疲れているのだろうか。横目で様子を見ても疲労の色を見て取ることは出来ない。
 父は普段から無表情で、時々笑うことはあっても、苦しんだり悲しんだりといった感情を表に出す人ではない。だから何を考えているのかはよく分からなかった。

「どうした、野茉莉」
「……ううん、なんでもない」

 昼の忙しさも一段落つき、野茉莉の視線に気付いた甚夜は表情を変えずにそう聞いた。
 返せたのは味気のない誤魔化しの言葉。野茉莉は、自分の拙さに少し落ち込んだ。
 小さな頃は仲が良くて、父は客にからかわれるほど親馬鹿で、野茉莉はそんな父が大好きだった。
 一緒の布団で寝て、朝起きる時は父に起こしてほしくて寝たふりなんてしていた。
 なのに今ではそんなこともなくなり、以前より会話は少なくなった。
 嫌いになった訳ではない。
 父はいつだって自分のことを考えていてくれる。
 不器用だけど頑固ではなく、人の話をよく聞きそれを受け入れてくれる優しい人だ。
 父として尊敬しているし、今だって間違いなく大好きで、この人を支えてあげたいとも思う。
 なのに時々息が詰まる。父の言葉が妙に苛立たしく思えて、いざ目の前にすると何を話せばいいのか分からなくて、結局は黙り込んでしまう。
 そんな自分が情けなくて、野茉莉は父には見えぬよう顔を背けて小さく溜息を吐いた。

「いらっしゃいませ」

 暖簾が揺れ、父の声が店内に響き、野茉莉ははっとなった。遅れて挨拶をしようと思ったが、それよりも早く客の方が口を開く。

「野茉莉さん、こんにちは!」

 客は宇津木平吉、師匠の染吾郎と一緒に長く鬼そばへ通ってくれる常連だった。

「あ、平吉さん、おかえりなさい」

 平吉は少し前まで仕事で東京に行っていた。野茉莉も幼い頃は東京、正確には江戸で過ごしていたことがある。だから懐かしい土地へ、仕事とはいえ行ける彼を、少しだけ羨ましく思った。勿論、本人には何も言っていないが。

「こんにちは。甚夜、きつね蕎麦な」

 後から入って来たのは彼の師である秋津染吾郎。五十近い年齢ではあるが相変わらず元気で、寧ろ父の方が年老いているように見える。もっとも、実年齢では甚夜の方が年上なのだから当たり前と言えば当たり前だった。

「ああ、宇津木はどうする」
「ん、天ぷら蕎麦」

 平吉と甚夜は微妙に仲が悪い。これでも以前よりは大分打ち解けたのだ。
 正直なことを言えば、幼い頃の野茉莉は平吉に対してあまり良い感情を持っていなかった。父にひどい態度を取る嫌な男の子。それが第一印象だ。
 けれど彼はなんだかんだで自分を気にかけてくれて、少しずつではあるが態度を変えて父とも喋るようになった。
 今ではそんなに嫌ってはいない。平吉が十八、野茉莉が十五、年齢が近いこともあり、寧ろいい友人と言える関係を築いていた。

「お仕事お疲れ様」

 席に座った二人へ茶を運びがてら声を掛ける。平吉は嬉しそうに頬を緩ませた。

「ゆうても、観光がてらやけどね」
「そうなの?」
「名物とかも食うたしなぁ」
「へー、いいなぁ」

 会話は和やかに進む。染吾郎の方は甚夜となにやら話をしているようだ。小声で上手く聞き取れないが、父は僅かに眉を顰めている。だからきっと重要な話で、聞いても答えてくれないのだろうな、と野茉莉は思った。ちくりと何かが刺さったような気がした。

「野茉莉、出来たぞ」
「あっ、う、うん」

 ぼんやりとしていたせいで少し反応が遅れた。慌てて蕎麦を二人の前に運ぶ。すると平吉は立ち上がり、紙の包みを野茉莉の前に差し出した。
 
「あ、そ、そや。野茉莉さんこれ。あぁ、おみやげ!」
「え、私に?」
「そ、そや」
 
 顔は赤くなっていた。幼い頃の平吉は自分と喋るのが苦手だったらしく、つまったりどもったりすることが多かった。
 最近はそれも減ってきたと思ったが、今の様子は以前の彼のようだ。久しぶりの慌てた彼が面白くて野茉莉は小さく笑った。恥ずかしかったのだろう、平吉は更に顔を赤くしていた。

「櫛とか、根付とか、その、いろいろあるから見たって!」

 恥ずかしさをごまかすように視線を切り、机の上で包みを広げる。
 中からは言葉通り櫛や木彫りの根付、他には簪などが八つもある。この手のものに詳しい訳ではないが、素人目に見てもそれなりの値段がするのだと分かる精巧な品々だった。

「あ、ありがとう。でも、こんなにいっぱい」
「気にせんでええ。元々貰いもんみたいなもんやし! あは、あはは」

 押し付けるような勢いでずいと目の前に差し出される。しかしこんな高価そうなものを受け取っていいのか迷い、野茉莉は困ったように視線を泳がせた。
 困惑した様子にまるで気付いていない弟子を横目で眺めていた染吾郎は、小さく溜息を吐いた。

「……平吉ぃ、もうちょい落ち着かな。だいたい貰いもんとかいわんでええやろ」
「仕方あるまい。緊張して当然だと思うが」

 大人二人で何かこそこそと話しているけど上手く聞き取れなかった。
 野茉莉は どうすればいいのか分からず、逃げるように父へ視線を送る。甚夜は表情も変えずに答えた。

「折角だ、貰えばいいだろう」

 ああ、まただ。
 何気ない言葉がちくりと刺さるのは何故だろう。

「ここで断られても宇津木が困るだけだ」
「そ、そうそう! 俺が持っててもしゃあないし、野茉莉さんがもろてくれたら嬉しい! ……あ、いや、この櫛たちも嬉しいと、思うん、やけど」

 何故か最後の方は尻すぼみになってしまう。けれどここまで言われては断るのも気が引ける。

「じゃあ、貰うね。ありがとう、でいいのかな?」

 その言葉にぱあ、と顔を明るくして何度も首を縦に振る。
 そうまで喜んでくれるのなら。やっぱりもらった方がいいのだろう。野茉莉は微笑みながら沢山の土産を受け取った。
 二人のやり取りを生暖かく眺めている大人二人。染吾郎はにやにやと、甚夜も普段より幾分穏やかな様子だった。
 ちくり。
 野茉莉は、少しだけ苛立っている自分に気付いた。



 ◆



 夕食を終え、片づけを済ませてから自室に戻る。
 部屋にある小さな机には今日貰ったお土産が置かれている。美しい櫛や簪、愛嬌のある木彫りの根付。どれも女の子が好みそうなものばかりだった。
 見るからに高そうだったから気後れはしたが、野茉莉もこういう類のものは決して嫌いではない。平吉に心の中で感謝し、貰った品々を眺めていた。
 その途中、ほんの少し表情が曇る。
 お土産のせいではなく、机の上に置いたリボンが理由だった。
 子供の頃、父に買ってもらった桜色のリボンだ。浴衣と一緒に買ったそれは、今でも髪を纏めるために使っている。
 だけど、最後に父と買い物へ行ったのはいつだったろうか。
 記憶を辿っていくが直ぐに思い出すことは出来ず、野茉莉は考えるのを止めた。
 別にどうでもいいことだ。自分に言い聞かせ、行燈の火を消してから布団にもぐる。
 目を瞑って、浮かんだ暗い考えを早く忘れようとした。










 ** ** **







 その夜、野茉莉は夢を見た。
 夢を見ている、それがはっきりと自覚できた。
 通りを歩く。懐かしいような、見慣れないような、なんとなく違和感のある景色。
 体は動いている。自分の意思ではなく、勝手にだ。

「どうした」

 それに、自分の手を握る父は、優しげに声を掛けてくれる。
 だから夢だと分かった。
 今ではこんな風に、手を繋いで歩くことなんてできない。
 体が自由にならないのは、自分は夢の登場人物で、夢に沿って動いているからなのだろう。

「ううん、なんでもない」

 野茉莉は少しいい気分だった。
 夢ではあるが、まるで幼い頃のように、父と手を繋げる。
 いや、夢だからこそ気兼ねなくいられる。それは久しく感じていなかった穏やかさだった。
 親娘並んで通りを進み、どこかで見たような川、そこに架かった橋を渡る。
 そして更に歩き、二人は目的地にたどり着いた。
 店……蕎麦屋だ。鬼そばではない。見たことがある、でもどこでだったろう。父に手を引かれ、体は勝手に動き、目の前の店の暖簾をくぐる。
 そうして、野茉莉は驚きに目を見開いた。

「らっしゃい、旦那」

 迎えてくれたのは、快活な笑みを浮かべる四十を過ぎた男だった。
 記憶の片隅にある、あやふやになってしまった輪郭。
 けれど懐かしいと思う。

「あら、いらっしゃいませ、甚夜君」

 次いで出てきたのは、すらりとした立ち姿が印象的な、十五、六の娘。細面の彼女は、やはり見覚えがあって。

「どうかされましたか、甚殿?」

 席に座り蕎麦を啜っていた、生真面目そうな武士が首を傾げる。
 みんな、みんなどこかで見たことがある。
 まだ幼かった、三歳か四歳の頃。微かにだが野茉莉は覚えていた。
 思い出した。此処は鬼そばではなく、喜兵衛だ。
 店主のおじさんに、おふうさんに、直次おじさん。
 もう過ぎ去ってしまった、江戸で過ごした懐かしい日々だった。
 
「なんで……」

 あの頃は小さかった。記憶はもうあやふやで、明確な思い出なんてない。
 なのに、なんでこんな景色を今更夢に見るのか。
 野茉莉はこの夢の意味が分からない。ただ目の前の景色に立ち尽くしていた。

「ふうん、その子があんたの娘?」

 聞き慣れない声だった。
 視線の方に目を向ける。野茉莉の意思ではなく、またも体が勝手に動いた。
 品のいい赤の着物を着た、気の強そうな少女。年の頃はおふうと同じくらいだろうか。
 懐かしい場所。なのに、その少女は見覚えが無い。昔のことを夢に見ているのだと思った、だから野茉莉は戸惑った。
 しかし件の少女はこちらの戸惑いなど知らない風で微笑んでいる。

「あの、貴女は?」

 この問いは、野茉莉の意思から零れ落ちたものだ。純粋に、彼女が何者なのかを知りたかった。
 
「私? 私は■■」
「え?」

 名乗ってくれたのだろう。でも雑音に掻き消されて聞こえない。
 もう一度聞き返そうとしたけれど、被せるように少女が言う。 


「よろしく、■■■ちゃん」

 何故か、彼女が呼んだ野茉莉の名前もまた、雑音に掻き消された。




[36388]      『夏宵蜃気楼』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/08/25 01:31


 凛とした佇まいを見せる青緑の竹林が、風に揺られて“ざあぁ”と鳴く。
 京都・嵯峨野は桜や紅葉の時期は人通りも多くなり喧噪に包まれるが、少し時期を外せば清澄な風情漂う昔ながらの京を味わえる。
 まだ朝も早い。陽はようやっと登り始めたところで、嵯峨野の竹林に足を踏み入れる者もいない。
 
 薄明るい空の下、静けさが染み渡る竹藪の中に甚夜はいた。
 右手には夜来、左手には夜刀守兼臣。
 二刀を手に構え、腰を落し周囲に意識を飛ばす。

 ざわめくような葉擦れの音に紛れ、獣の呻きが聞こえた。
 竹林の影から姿を現したのは、鮮やかな黄と黒の縞模様の毛衣の獣。

「虎と竹林か。随分と風情のあることだ」

 竹林の中に潜む虎は、しばしば水墨画などで見られる題材だ。
 確かに風情はあるかもしれないが、現状を顧みれば抱く感想としては間違いかもしれない。虎は明らかにこちらを見ており、今にも飛び掛かろうと地に爪を立てていた。
 
 ひゅう、と風が鳴いた。
 
 鞭を思わせるしなやかな筋肉が躍動し、巨大な四足獣はその大きさに見合わぬ速度で疾走する。
 爪も牙も生来のものだが、鍛えた刃に匹敵する凶器だ。人であれば数瞬もせぬうちに肉塊と化す。
 甚夜は鬼、膂力を競っても押し負けはしない。<剛力>を使えば肉塊になるのはあちらだ。しかし敢えて剣で相対することを選んだ。
 二刀を持って受けに回り、突進をいなしながら左に踏み込み、そのまま後方へと流す。
 手が少し痺れた。上手く捌けたかと思ったが、まだ無駄がある。更に意識を研ぎ澄まし、次の手に備える。

 ひゅるりと一羽燕が飛んだ。
 
 滑空する燕は空中で翻り、一直線に甚夜へと向かう。
 風を切る甲高い音、視認も難しい速度で襲い来る燕。最高速に達したそれは既に刃、首を掻っ切ろうと飛来する。
 動作は最小限に、体勢を崩さぬように軸をずらし、皮膚に触れるか触れないかという距離で燕を躱す。
 息を吐く暇もない。次いで現れたのは三匹の黒い犬。
 雄叫びを上げて駈け出し牙を剥く。右足を踏み込むと同時に夜来を振るいまずは一匹しとめる。右足は軸、左足で半円を描くように後ろへ引きながら夜刀守兼臣の横薙ぎの一刀。二匹目を斬り捨てるも体が僅かに流れた。
 好機とばかりに再び燕が舞う。斬った筈の犬の体も再生し、再度駆ける。
 燕は兎も角犬の方はある程度の再生能力を有している。真面に相手をするだけ無駄、甚夜は刀を握ったまま左腕を突き出す。

「<地縛>」

 短い言葉により生み出されたのは四本の鎖。
<地縛>は鎖を造り操る<力>。一本一本神経が通っているかのように細やかな操作が可能だ。
 じゃらじゃらと音を立てながら鎖は空を這う。まるで蛇のように、襲い来る犬どもを絡め取った。
 次は燕、その後方から虎も地を蹴った。二体同時。先程は刀を振るった後、僅かに体が流れた。大振り過ぎたのだ。だから今度は動きを修正する。
 摺足で位置を調節し、刃となった燕を見据える。速い、だが捉えられない程ではない。半歩左足を前に、肘を起点にあくまで小さくあくまで丁寧に夜刀守兼臣を振るう。
 すぅ、と軽い手応え。燕を斬り捨て、体を捌きながら、滑らせるように右足で踏み込み、突進する虎の側面に回り込む。踏ん張ると同時に体を回し二刀連撃、上から下へ叩き付ける。断末魔のうなり声を上げ、虎はそのまま地に伏した。
 燕も犬もまた白い蒸気となって消えていく。それを確認して、ようやく甚夜はふうと一息を吐いた。

「よっ、お見事」

 ぱちぱちと柏手を打ちながら染吾郎が姿を現す。

「僕の虎の子が一発かぁ……ま、張子の虎やけどね」

 燕、犬神、張子の虎。全て染吾郎の付喪神だ。
 鍛錬自体は普段から行っているが、今回は染吾郎に付き合ってもらった。というのも、鍛錬の成果を見たかったからである。
 夜刀守兼臣を手に入れ、<地縛>を喰った。しかしながら二刀を扱う技術は身に着けておらず、鎖での戦い方もまた然り。
 その為使いこなせるよう二刀での鍛錬を繰り返していたのだが、ようやく形になったので染吾郎に相手をしてもらった。
 結果は中の下、といったところか。まだまだ拙いが、使えないというほどでもない。これならば実戦でもそれなりにはやれるだろう。

「悪いな、付き合わせた」
「気にせんでええて。で、満足できた?」
「……正直に言えば、多少不満が残る」
「んん? 僕、なんやまずかった?」

 首を横に振って否定の意を示す。
 二刀の扱いはそこそこ、しかし引っ掛かるところもあった。
 自身の左手を眺めながら、甚夜は目を細める。引っ掛かりを覚えたのはたった今使った<力>、<地縛>に関してだ。

「……地縛は六本、元々は七本の鎖を操ったと聞いた。しかし私は四本が限界、行動や<力>を縛ることも出来そうにない」
「つまり、<力>が劣化しとる?」
「ああ。こんなことは初めてだ」

 例えば、甚夜は<不抜>を土浦のようには使えない。
 <不抜>は壊れない体を構築する<力>。その代償として使用中は体を動かすことが出来ない。
 言い換えれば体を動かしていない状態でなければ、発動自体が不可能だ。
 だから甚夜では、土浦ほど早く壊れない体を構築できない。
 力量こそ互角であったが、攻撃が当たる刹那を見切る目や<力>を使うために体を静止状態へと持っていく身体操作技術が土浦に及ばないからだ。

 だが<地縛>に関しては違う。
 もともとは「七本の鎖を操り、鎖一本につき何か一つを制限する<力>」だった。
 だというのに今は「四本の鎖を操る<力>」になってしまっている。扱う側の技術の問題ではなく、<力>自体が弱まっているのだ。
 疑問に眉を顰めていると、染吾郎は軽い調子で言った。

「いや、別に不思議やないんちゃう? 地縛はもともとマガツメの一部。そんなら<力>もマガツメの切れっぱしみたいなもんなんやろ」

 だから、“大本”を喰わない限り<力>は十全に使えない。
 そこまでは言葉にしなかった。マガツメが甚夜の妹だと知ったからだ。口にすれば妹を喰えと言ったも同然、だから言えなかった。

「成程」

 その心遣いが分かったから、取り敢えずは納得して夜来を鞘に収める。
 肺に溜まった熱を吐き出し、息を整える。むせ返るほどに濃い緑の匂い。夏の気配がそこかしこに感じられる朝の空気が肺を満たせば、少しだけ気が楽になった。

「染吾郎、助かった」
「だからええて、こんくらい。偶には僕も気合入れとかな、いざって時戦えんようなるし。……ところで、気になったんやけど。君、刀一本の方が強ない?」

 自分でも思っていたことを指摘されてしまった。
 その言葉に返したのは甚夜ではなく、まだ鞘に収めていない夜刀守兼臣だった。

『……秋津様は本当に失礼ですね』

 口もないのに声を発する。これが夜刀守兼臣の<力>、刀に宿った人格。名を<御影>という。

「いや、実際動きぎこちないとこあったし。今まで通りの戦い方の方がええと思うけどなぁ」

 当然と言えば当然だ。
 数十年の間、夜来一本で戦ってきた。二刀での鍛錬など一年足らず。付け焼刃の技で今まで培ってきた己を超えられる筈もない。だから染吾郎の言っていることに間違いはなかった。

「だろうな。私もそう思う」
「は? ならなんでこんな無駄な鍛錬しとんの?」

 あまりにも返答が自然すぎて呆気にとられる。
 当の本人は普段通りの無表情で言葉を続けた。

「私は地縛を、南雲和紗の魂を喰った。ならば兼臣を預かるのは私の責任だろう」

 気負いのない様子から、それが本心だと知れる。
 だからこそ染吾郎は眉を顰めた。
 甚夜がマガツメを止めようとしているのは知っている。その為に力を求めていることも。
 だというのに態々隙を作るような真似をする。彼の真意を探ろうと更に問いを続ける。

「預かるのが責任やゆうんなら、別に使う必要はないんちゃう?」

 しかしその問いは一瞬で斬って捨てられた。

「馬鹿なことを言うな」
『まったくです。使われぬ刀に何の意味がありましょう』

 そのあまりの息の揃い様に染吾郎は溜息を吐いた。

「で、そない理由で使い慣れん刀で戦うん? 弱なるて分かっとんのに?」
 
 頷いて肯定の意を示す。
 強くなりたかった。それが全てと思っていた頃もあった。
 目的に専心し、あらゆるものを斬り捨て、そう在れたらと願っていた。

「それでも曲げられないものもある。刀と共に在った半生だ。ならばこそ、刀として生きた同胞の心を無下にすることは出来なかった。その主を喰った以上、尚更な」

 けれど心は変わる。傍から見れば無駄な拘りも、大切だと思えるようになった。
 だから甚夜は兼臣を使うと決めた。
 あの娘を止める為に力を求めた、それは今も変わらない。
 結局、どこまで行っても彼は生き方を曲げられない。
 ただ、大切にしたいと思えるものが増えただけ。

 ───間違えた生き方、その途中で拾ってきた大切なものが、正しく大切なものであると証明する為に。

 兼臣を使うと決めた。合理性の欠片もない、意味のない感傷だ。しかし、そういう道を選べるようになった自分は、そんなに嫌いではなかった。  

『流石旦那様です』
「まだ言うか」

 兼臣の声は満足気だった。
 傍から見れば下らない意地、それを捨て切れない無様な男。しかし廃刀令が施行され、時代に取り残された兼臣には、甚夜の在り方が尊く思える。自分を使ってくれることよりも、刀に拘る古い男がいてくれることに喜びを感じた。
 
「兼臣はそれでええやろうけど……例えば、慣れん戦いでもし死んだら?」
「後悔するだろう。だから、こうやって死なぬよう鍛錬をしている」

 呆れてしまう。
 兼臣を持たなければそれでいいだけの話だ。だというのに要らぬ苦労を背負い込んで、それを当然とでも言わんばかりの態度。元々合理的に動ける男ではないと知ってはいたが、ここまでとは。

「うん、君って心底めんどくさい性格しとるなぁ」
「どうやらそうらしい。まったく、難儀なことだ」
「いや、自分のことやからね?」

 もう一度溜息を吐き、染吾郎は呆れながらも納得はしたようだ。

「ま、君が納得しとるんならええけど。きっと、兼臣の収まり所はそこやったんやろ」
 
 甚夜の腰、携えた鞘を眺めながらどこか楽しげに言う。
 言葉の意味は分からない。今度は甚夜の方が呆気にとられる番だった。

「物やって、持ち主くらい自分で選ぶって話や」

 そうして染吾郎はからからと笑った。





 ◆



 朝の鍛錬を終えて、染吾郎と別れ鬼そばへと戻る。少し遅くなってしまった。そろそろ仕込みを始めないといけない。
 着替えて、いつものように店の準備をしている途中でふと気づく。野茉莉の顔をまだ見ていない。普段ならこの時間には起きているのだが、如何やら今日はまだ寝ているらしい。
 気になって店の奥、住居部分に向かう。野茉莉の部屋、襖を開けようとして、ぴたりと手が止まった。起こそうと思ったが、確認もせず部屋に入るのと嫌がられるかもしれない。そう思うと手が動かず、とりあえず襖は開けずに声を掛ける。

「野茉莉、起きているか」

 返事はない。もう一度声を掛けるがやはり何の反応もない。
 流石に不安を覚え、少し躊躇いはしたが襖を開け部屋に入る。
 もしかしたら倒れているのでは、とも思ったがどうやら違ったようだ。野茉莉は安らかに寝息を立てている。ただ単に眠っていただけらしい。

「野茉莉、朝だ」

 近付いて声を掛けると、ようやく反応があった。
 少し身動ぎをして薄らと瞼を持ち上げる。

「父様……?」

 寝ぼけているのか、野茉莉はとろんとした目で甚夜を見上げている。
 幼い頃から寝起きがよかったから、こういう顔を見るのは初めてだった。

「大丈夫か。体調でも」
「ううん、だいじょうぶ。すぐ、おきるから」

 まだ眠そうにしているせいだろう。何処か甘えたような声。まるで昔に戻ったようだ。
 少しだけ感慨に耽り、目を覚ましたならいつまでも此処に居る必要もないと部屋を出る。
 なんとなく野茉莉の様子に違和感を覚えながらも、甚夜は朝食の準備に戻った。





「ねえ、父様」

 卓袱台を挟んで迎え合わせに座り朝食をとっていると、珍しいことに野茉莉の方から話しかけてきた。

「どうした」

 話し掛けたはいいが何かを言いあぐね、視線をさ迷わせている。そうしてしばらくしてから、意を決したように野茉莉は甚夜の目をまっすぐに見据えた。

「あの、ね。昔、父様ってお蕎麦屋さんによく通ってたよね?」
「あぁ……」

 今でもよく覚えている。
 蕎麦屋『喜兵衛』。
 あの店で過ごした時間は甚夜にとってかけがえのないものだった。間違えた生き方、その途中で出会えた得難き暖かさ。
 憎しみの為に刀を振るい、ただ力だけを求めた。その生き方を僅かながらに変えられたのは、間違いなく喜兵衛で出会った人々のおかげだ。

「忘れる筈もない」
「それなら……いつも店に来てた人のことも、覚えてる?」
「勿論だ。と言っても私を除けば直次くらいだったが。それがどうした?」

 なぜ急に喜兵衛の話をし出したのか分からず逆に聞き返すと、困ったように野茉莉は俯いてしまった。少しの間唸り、もう一度顔を上げ、おずおずと再び問い掛ける。

「他に、いなかった?」
「ん?」
「だから、いつもの人。店主のおじさんと、おふうさんと。後直次おじさんと。……後、女の人」

 喜兵衛にいる女。
 一番最初に浮かんだのはやはりおふうの顔。凛とした立ち姿、そしてたおやかな笑みだった。
 それ以外となると。
考えて、どこか生意気そうな娘の笑顔を思い出し、甚夜は少しだけ目を細めた。

「……ああ、いたよ」

 確かにいた。
 何かの間違いがあったのなら、妹になっていたかもしれない娘だ。
 なのに、この手で彼女の大切なものを奪ってしまった。
 懐かしさを感じながらも僅かに眉を顰める。噛み締めた後悔は、少しばかり苦みが強すぎた。
 とは言え娘の前で無様を晒す訳にもいくまい。努めて平静な顔を作ってみせる。

「しかし、何故知っている。会ったことはないと思うが」
 
 こういうのも歳の功なのだろうか。表情に動揺はなく、声も全く震えなかった。

「えっ!? あの、えーと、秋津さん! 秋津さんが、教えてくれたの!」
「そうか……口の軽い男だ」

 ふう、と溜息を吐いて見せれば野茉莉はあきらかにほっとしていた。
 だから染吾郎が教えたのではないと分かる。
 しかし追及することはしなかった。
 今の質問にどういう意味があったのかは分からない。ただ野茉莉の表情は真剣で、決して興味本位ではなかったから、問い詰めるような真似はしたくなかった。
 ただ気にかかることもある。
 染吾郎が話したのではないとすれば、一体誰が。
 あの頃を知っている人間は多くない。店主と直次は既に死んでいる。おふう……ではないだろう。
 何者かも目的も分からない。だが、もしも野茉莉に近付きよからぬことを企む輩がいるのならば、相応の対処をせねばなるまい。
 
「野茉莉、あまり危ないことはするなよ」
「う、ん。分かってる」

 それきり会話は途絶えた。
 少し注意しなければいけないかもしれない。味噌汁を啜りながら、甚夜はそう思った。



 ◆



 いつも通りの日が過ぎ、夜がまた訪れる。
 寝床に戻った野茉莉は布団の上で寝転がりながら溜息を吐いた。
 
『秋津さんが、教えてくれたの』

 嘘を吐いた。
 当たり前のように父を騙してしまった自分が情けなく思える。
 いつからこんな風になってしまったんだろう。素直にものを言えなくなって、嘘までついて。子供の頃はこんな風じゃなかった。もっと、違ったような気がする。
 なのに、今は上手く喋ることが出来ない。

「……もう寝よ」

 何だか妙に疲れて野茉莉は布団に潜り込んだ。
 目を瞑ればすぐに眠気が襲ってきて。
 深く、深く眠りについた。








 夢を見ている。
 蕎麦屋『喜兵衛』で、父と並び蕎麦を食べる。
 店主、おふう、直次。懐かしい顔に紛れて、知らない女が一人。
 
「最近はどうです、善二さん」

 そして知らない男の人もいた。
 店主が声を掛けた男の人は善二というらしい。けれど女の方の名前は分からない。

「あーまあ、ぼちぼちやってます。やっぱり番頭になるとやることが多くて」
「そりゃそうよ。お父様を別にしたら、あんたがうちで一番偉いんだから。えらくなったらなった分の責任があるに決まってるじゃない」
「分かってますって御嬢さん」

 善二は名も知らぬ女のことを“御嬢さん”と呼ぶ。けれど他の人が呼ぶと、やはり雑音に掻き消されてしまい、結局彼女の名を知ることは出来なかった。
 彼女達は一体誰なのだろう。
 忘れているのではなく、本当に知らない。蕎麦屋の店の中はあの頃と同じで、だからこそ彼女達の存在には酷く違和感があった。

「どうした、■■」

 甚夜が野茉莉を呼んだ。その筈なのに、名前はまた雑音に掻き消された。
 夢の話だ。気にするようなことではない。そう思うのに、夢でありながら頭がはっきりとしているせいで、余計なことまで考えてしまう。

「■■ちゃん」

 思考に没頭しようとした時、遮るように“御嬢さん”が声を掛けてきた。
 自分と同じ歳か、少し上くらいだろうか。口調や気の強そうな態度とは裏腹に立ち振る舞いは綺麗だ。御嬢さんという呼ばれ方からすると良家の子女なのかもしれない。

「は、はいっ!?」

 思わず声が上ずってしまった。
 野茉莉の様子を見ていた甚夜が表情も変えずに言う。

「そんなに緊張する相手でもないだろう」
「あんた、何気に失礼ね」

 不満そうに見えて、“御嬢さん”は楽しげだった。
 和やかな空気に揺蕩いながら、野茉莉は夢を眺めている。
 昨日の夢の続き。ここまで明確に続く夢なんて、まともじゃない。そう思ったが、嫌なものは感じなかった。寧ろ暖かくさえある。だからよく分からないが、もう少し見ているのも悪くないと思えた。

「馳走になった」

 先に蕎麦を食べ終えた父がじゃらりと銭を机の上に置く。そして立ち上がり、腰に携えた刀の位置を直した。

「今日も、ですか?」

 それを目敏く見付けたのはおふうだった。僅かな動作から察した。これから甚夜は鬼を討ちに行く。昔も今も変わることのない、彼の生き方だった。

「ああ」

 おふうの問いかけに父は表情も変えず頷く。
 
「本当に、甚夜君は変わりませんね」
「悪いな、性分だ」
「もう……」

 おふうの出す、呆れたような、それでも優しいと感じられる声。
 触れ合える距離が二人の親しさを示している。父はいつも通りの無表情で、けれど寛いでいるようにも見えた。 

「あまり無茶したら駄目ですよ」
「ああ」
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「分かっている。そう心配するな」

 ちくりと胸の奥が痛んだ。
 昔から何となく感じていた。でも、今こうやって見返してみて、ハッキリと分かってしまった。
 二人の間には、他の人には入り込めない何かがある。
 言葉を掛け合っているように見えて、本当は、何も言わないでも分かり合えるような。
 そういう一瞬が、そういう何かが、二人にはある。
 だから寂しいと思ってしまった。
 そしてそれは、

「あ……」



“御嬢さん”も一緒なのだろう。



「声、かけないんですか?」

 気付けばそう問うていた。
“御嬢さん”の横顔は少しだけ寂しそうで、きっと、自分と同じように感じているのだと思った。

「私が傷つけてしまった人だから。あんまり、ね」

 目を伏せて、静かに笑う。
 名前も知らない女。なのに、当たり前のように会話が出来た。

「彼に酷いことを言ったの」
「なら、謝ればいいのに」
「……うん、そうできれば、よかったのにね」

“御嬢さん”は肩を竦めて、まるで子供をあやすような柔らかい笑みを浮かべた。

「本当は、謝りたかったの。でも会いに行けなかった……自分が傷つけたくせに、傷付いた彼と会うのが怖かった」
「怖かった?」
「うん。これでも昔はそれなりに仲が良かったのよ。だからきっと、謝ったら許してくれたと思う」

 最初は生意気そうに見えたが、“御嬢さん”は意外にも穏やかだった。
 見た目の年齢よりも大人びて見える。語り口はゆっくりと、思い出を眺めるようだ。

「でも彼の目は変わってしまうわ。以前のようには、私のことを見てくれない。会いに行って、謝ったら。もう二度と元には戻れないような気がして……それが怖くて。想像するだけで足がすくんで、結局謝りに行けなかったの。情けないわよね」

 そんなことない。
 素直に謝ることが出来ないのは野茉莉も同じだった。
 本当は、言いたいことは沢山ある筈なのに。
 いつだって、何も言えなくて。 

「いってらっしゃい、甚夜君」
「ああ。行ってくる」

 穏やかな二人のやり取りが突き刺さる。
 野茉莉は、この夢を悲しいと思った。




[36388]      『夏宵蜃気楼』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/09/06 04:33
 これで四度目、いや、五度目だったろうか。
 野茉莉はまた夢を見ていた。
 流れはいつも変わらない。蕎麦屋・喜兵衛に父と向かい、そこで雑談をしながら蕎麦を食べ、終われば父が鬼退治へ行くのを見送る。
 その後は、“御嬢さん”と一頻り話す。
“御嬢さん”と喋っている間は誰も声を掛けてこない。というよりも、何故か誰の姿も見えなくなってしまう。そこまで考えて、何故かも何も、これは夢なのだからそういうものなのだと気付く。
 ともかく野茉莉は今夜も喜兵衛で、“御嬢さん”と二人きりになっていた。

「子供の頃は餅なんかめ滅多に食べられなかったから、磯辺餅が今でも好きだって言ってた。それを知っているのが私だけってことが、なんだかとても嬉しかったなぁ」
「へえ、そうなんですか」

 話題はやはり父のこと。“御嬢さん”は野茉莉の知らない父の姿を知っている。それを聞くのが楽しくて、この夢が何であるかなんて既にどうでもよくなっていた。

「……聞きたいことがあるんですけど」
「なに? ■■ちゃん」

 やはり名前は雑音に掻き消されたが、それにも慣れた。気にすることなく問いを続ける。

「父様とは、あの、どういう」

 直接的な表現は流石に照れるので何とか遠まわしに聞こうとしたが、上手く言葉にならない。なんと言えばいいのか分からずまごついていると、くすりと“御嬢さん”は笑った。

「お父さんとの関係?」

 そうだ。
 この女の人のことを野茉莉は知らない。つまり彼女は、父が自分を拾う前の知り合いなのだ。
 だから父と彼女がどういう関係にあったのかが気になった。

「その……はい」

 言い当てられて恥ずかしそうに野茉莉は頷いた。
 それを見てもう一度静かに笑い、どこか寂しそうに彼女は答えた。

「さあ、どうだったのかな」

 軽い口調で、誤魔化すような物言い。「真面目に答えてください」。そう言おうとして、言えなかった。
 彼女はここではない何処か遠くを眺めている。下手なことを言えば、彼女を傷付けてしまうと思った。
 感情の色が見えない透明な横顔からは、内心を窺うことは出来ない。
 沈黙が重すぎて、耐えかねた野茉莉はおずおずと問うた。

「好き、だったんですか?」

 けれど、彼女にとって父が特別な存在だったことだけは理解できた。

「今はもう、分からないわ」

 呆れたような、疲れたような、不思議な笑み。
 複雑なその表情。彼女自身、自分の気持ちを掴みかねているのかもしれない。

「ただね、あなたのお父さんと私は、似た者同士だったの」
「似た者同士?」
「そう。強がってるけど、本当は弱くて。だからね、あいつの傍にいると安心した。同じ痛みを感じてくれるから」

 でも、と“御嬢さん”は悲しそうに目を伏せた。

「私は雀から変われなかった。結局、それが全てなんだと思うわ」

 諦めにも似た、力ない言葉。
 その意味を問おうとして、けれど、そこで夢から覚めた。





 ***   ***






「御じょ……女の人とは、どういう関係だったの?」

 夕食を取りながら、野茉莉はまたも甚夜に質問をしていた。
 
「ん?」
「蕎麦屋さんに来てたっていう女の人」
「またその話か」

 最近、野茉莉はあの娘のことばかり聞いてくる。何故そこまで興味を持つのか、甚夜は計りかねていた。
 ただここ数日、不審な輩が野茉莉に接触するような場面はなかった。あの娘のことは、誰かに吹き込まれた訳ではないようだ。
 とすると、人の理から食み出た“なにか”によって知識を与えられたのか。
 例えば過去の映像を見せる<力>だとか。
 もしそうならば、こちらから打てる手はない。別段衰弱している様子もなし、取り敢えずは様子見を続けるしかなさそうだった。

「友人、だった思う。だが、もしかしたら家族になったかもしれない相手だ」

 もし何かの間違いがあれば、心底惚れた女のと出会わなかった代わりに、妹になっていたかもしれない。
 だからだろう。
 どんなに生意気でも怒る気にはなれなかった。

「じゃあ、好きだったんだ」
「嫌いではなかったな」
「なのに、会いに行かなかったの?」

 突飛な言葉に眉を顰める。
 流石に話が飛び過ぎたと思ったのか、慌てたように野茉莉が付け加えた。

「喧嘩して、仲直りできなかったって言ってた。あ、えと、秋津さんが、だけど」

 本当のことは隠しておきたいらしく、やはり野茉莉は嘘を吐いた。
 追及はしないが、少し寂しくも思う。
この子も大きくなった。秘密くらい出来るし、その為なら嘘も吐く。当たり前のことだ。
 なのに、当たり前のことが胸に痛い。
 そう思ってしまうのは自分が弱くなったからなのだろう。

「私が、傷付けてしまった女(ひと)だ。合わせる顔が無かった」

 痛みを誤魔化すように素っ気なく答えた。 
 しかしそれを聞いて、野茉莉は何故か一瞬動揺を見せた。

「え……?」
「どうした」
「……ううん、別に」

 ふるふると首を横に振って、何でもないと示してみせる。そして遠慮がちに聞いてきた。

「謝ったりは、しなかったの?」
「謝ってどうする」

 甚夜は表情も変えず、間髪入れずに答えた。

「私は、彼女の大事なものを奪ってしまった。許せるものではないだろうし、よしんば許せたとて失われたものが返ることはない」
「それは、そうかもしれないけど」
「謝ったところで彼女の負担を増やすだけだ。そう思えば、逢いに行くのは憚られた」

 だが、と甚夜は目を伏せた。

「それでも、時折考えるよ。もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今が在ったのではないか、とな」

 懐かしむような、でも力ない声。
 それは何処かの誰かの嘆きによく似ていた。
 
「ふうん」

 甚夜としては素直な感情を吐露しただけだった。
 しかし話を聞き終えた野茉莉は一目でわかる程にいらついていた。
 
「どうした」
「別に」

 いきなりすぎる態度の変化に驚く。返事もは素っ気なく、目も逸らされてしまった。

「しかし」
「だから何でもないって。ごちそうさま。もう寝るね」

 野茉莉はそう言って食卓から離れる。妙に思い声を掛けた。

「随分と、早いな」
「……なんか、眠くて。おやすみなさい」

 それだけ残し、振り返ることなく部屋へと戻る。
 足音がよく響く。人一人いなくなっただけ。なのに居間は随分と広くなったように感じられた。 






 ***   ***




 今も、雪が、止むことはなく。



 ◆



 今日の夢は、いつもとは違った。
 何処かの大きな家。縁側に“御嬢さん”並んで座り、庭を眺めている。
 雪が降っている。それでも寒いと思わないのは、やはり夢だからだろうか。




『そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ』

 父は焼けただれたような皮膚の、醜悪な鬼と対峙している。
 抜刀し、脇構えを取った。
 そうして一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。

『今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ』

 それで終わり。
 一太刀の元に、鬼は両断された。




 そこで父の姿も鬼の死骸もなくなり、平穏な雪の庭だけが残された。

「昔ね、あなたのお父さんが護衛をしてくれたことがあった。本当に強くて、ああ
、読本の中の剣豪が目の前にいるって思ったわ」

 懐かしさに目を細める。
 語る声は暖かくて、彼女の気持ちが滲んでいるようだ。
 それが嬉しいようで、自分の知らない父の姿を知ってることがちくりと胸に痛いような、複雑な気持ちで話を聞いていた。

「■■ちゃん、今日は元気ないわね?」

 穏やかな様子で聞かれて、何故か惨めな気持ちになる。
 でもこれは夢だ。そう思えば、素直に言葉は零れていた。

「父様、貴女のことが好きだったのかな」

 もしかしたら家族になっていたかもしれないと言っていた。
 きっと二人は恋仲だったのだろう。結婚の約束までしていたのかもしれない。


 ───それでも、時折考えるよ。
   もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今が在ったのではないか、とな。


 懐かしむような声に苛立って、傷付いている自分を野茉莉は自覚した。
 だってその言葉は、“今”よりも望んでいた未来があったということだ。

「あいつの気持ちなんて分からないけど。私は……もしかしたら。貴女の言う通り、好きだったのかもしれないわね」

 ああ、やっぱり。
 それは、つまり───

「でも恋じゃなかったわ」

 けれど否定の言葉が紡がれ、意味が分からず野茉莉は“御嬢さん”の横顔を見つめた。
 痛みを感じさせない、穏やかな表情だった。

「え……?」
「私は、あいつの弱さに気付いてたのに。抱えているものの重さを考えてあげられなかった。その時点で、私の想いは恋じゃなかったの、多分ね」

 それが悲しいのか、寂しいのか。目は僅かに潤んでいる。
 だから野茉莉は何も言えなくなった。

「私は雀なの。羽毛を精一杯膨らませて、冬の寒さに耐えることしか出来ない雀。そんなだから、冬を越した時あの人はもう傍にいなかった。馬鹿みたいね」

 自嘲の笑みに、何故か自分が重なる。
 何故か、ではない。
 なんとなく、この不可解な夢の中で、こんなにも穏やかな会話ができる理由を野茉莉は理解した。


 ───この人は、私といっしょなのだ。


 言いたいことも言えずに、自分の想像に怯えている。 
 
「お父さんと、なにかあった?」

 語り終えて、優しい、まるで母親のような微笑みで彼女はそう言った。
 声には出さず、頷くことで返事をする。

「なら、もう少しここにいる?」

 少し迷った。
 でも、直ぐに変えるのは躊躇われて、もう一度頷く。
 仕方ないなぁとでも言うように、“御嬢さん”は肩を竦めた。

 そして雪は止むことなく、辺りを白く染め上げる。





 ***   ***





「は? 野茉莉ちゃんが目ぇ覚まさん?」

 昼飯を食べようと鬼そばへ訪れたが、暖簾が出ていない。
 何かあったかと思い染吾郎は勝手に店へと入ったのだが、そこで目にしたのは焦燥した様子の甚夜が項垂れている姿だった。
 案内されるがままに、野茉莉の部屋へと向かう。
 片付けられた室内。机の上には平吉の土産がそのまま転がされていた。

「何度も声を掛けたが反応はない。医者にも見せたが異常はないらしい。状態としては眠っているだけ。なのに、目を覚まさない」

 体を屈め、野茉莉に手を触れる。
 暖かい。脈も正常。規則正しい寝息。一見何の問題もないように思える。
 ただ、目を覚まさない。

「いったい、どうすれば」

 余裕のない語り口だった。
 普段の無表情は崩れ、動揺を隠すことが出来ていない。
 
『旦那様、落ち着いてください』
「分かっている。分かっているが」
『それが、落ち着いていないというのです』

 ぴしゃりと兼臣は叱りつけた。
 甚夜はぐっと黙り込んだ。表情は分からないが、彼女の物言いには毅然としたものが感じられた。

『貴方の想いを分かるとは言いません。ですが、此処で動揺してどうするのです。野茉莉さんを想えばこそ、まずは貴方が冷静にならなければ』

 兼臣の言う通りだ。
 慌てた所で意味はない。野茉莉に何かがあったのは間違いない、ならばその“なにか”を見つけるのが自分の役目だろう。

「……そうだな。済まない」
『いええ、貴女の妻ですから』
「まだ言うか」

 甚夜の纏う空気が変わったのを感じ、兼臣も声を和らげた。
 取り敢えずは多少落ち着いたようだ。染吾郎も安堵して軽口をたたく。

「なんや、結構うまくやってるみたいやね」
『勿論です』

 勝ち誇るような言い方に思わず苦笑が漏れる。しかし一転表情を引き締め、眠り続ける野茉莉を見る。

「取り敢えず、甚夜は傍にいたり。僕の方で調べてみるわ」
「……助かる」

 甚夜は腰を下ろし、野茉莉の手を握った。
 滑らかで小さく、とても暖かい。
 歳を取れない自分では、いつまでもこの娘と共に在ることは出来ない。
 いつかは離れていく手だと知っている。
 しかし叶うならば、もう少しの間だけ傍に在ってほしいと思った。
 





 ***   ***






 雪は今も尚降りしきる。
 野茉莉は白い夢を見ている。長い長い夢だ。

『なんだ、忘れてた訳じゃないのね」』
『いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな』
『そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね』
『あまり老けん性質(たち)だ』
『世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ』

 偶然の再会。あの時と同じように彼は助けてくれた。

『時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか』
『何よそれ』
『事実だから仕方ない。だが敢えて言うならば……多分、私にはそれしかないんだろう』

 茶屋で磯辺餅を食べながら語り合う。
 強いと思っていた彼の弱さを知った。

『兄と呼ばれるのは苦手なんだ』
『え?』
『私は最後まで兄でいてやることが出来なかった。だから苦手……ああ、違うな。多分、自分の弱さを見つけられたようで、嫌な気分になるんだ』

 雪柳の下。彼は弱くて、

『ええ。きっと私達は、想いの帰るべき場所を探して、長い長い時を旅するのです』
『見つかるだろうか』
『見つけるのです。きっと、その為の命なのでしょう』

 でも少しずつ変わる。それが何故か嬉しかった。

『二人とも、どうしたの?』
『何でもありませんよ』
『ああ、何でもない』

 彼と蕎麦屋の娘。二人の間には、他の人にはない何かがある。
 それを見せつけられるのがつらかった。

『金など要らん。少しくらいは付き合おう』

 危ないことを頼んでも、引き受けてくれた。
 庇うように前へ出てくれる。その背中の大きさを、多分頼もしいと思っていた。
 なのに───


 

 近寄らないで化け物ぉ!!



 降りしきる雪の夜。
 投げ付けた言葉で傷付けてしまった。
 彼を。今迄積み重ねたものを。
 ずっと形にすることが出来なかった、自分の心すらも。

「あいつは、私を助ける為にずっと隠してきた秘密を曝け出したのに」

 場面が変わる。先程も見た雪柳の下。
 春の花が咲くのに、雪はまだ降り続けている。
 白い花が雪に紛れて揺れている。綺麗だと思うのに、何故か少し寂しいとも思った。
 
「……なんであの時、違う言葉をかけてあげられなかったんだろう。そうすれば」

 なんとなく、気付いてしまった。 
 夢を見ている。でもこれは野茉莉の夢ではない。
 これは“御嬢さん”の夢なのだ。 
 彼女が繰り返し見る未練。その中に、自分は迷い込んでしまっただけ。
 だから名は雑音に掻き消される。
“御嬢さん”は野茉莉に会ったことが無い。名前を知らないから、彼女は野茉莉の名を呼ぶことが出来ない。
 でも、ならなんで“御嬢さん”の名前まで掻き消されるのか。

「あなたに、私の面影があったかもしれないのにね」

 その嘆きに、思考を止められた。
 首を振って彼女の言葉を否定する。そんなことは有り得ないのだ。
 だって、

「違うんです」

 あの人の、子供じゃないのだから。

「え?」
「私、捨て子なんです。父様が拾ってくれて、育ててくれて。本当は娘なんかじゃないんです」

 今まで吐き出すことの出来なかった想いだ。
 野茉莉は甚夜のことを本当の父だと思っていて、ちゃんとそれを伝えた。
 しかし聴くことは出来なかった。
“私のことを本当の娘だと思ってくれますか”なんて、聞けるはずがなかった。
 だってあの人は優しい。
 兼臣や朝顔といった、行く当てのない者達を家に泊めていた
 もしも自分もそうだったら?
 育ててくれたのは優しさからで、本当は、自分のことを娘だなんて思っていなかったら。
 それを考えると、聞けなかった。

「そう……」
「父様は優しくて、何も言わないけど。本当は私のことなんて邪魔なんじゃないかって。だって、私がいたって何の役にも立たない。兼臣さんや秋津さんみたいに戦えないし」

 本当は分かっている。父は邪魔だなんて思ってないことくらい。
 でも重荷になってるのは事実なのだ。
 助けられてばかりで、何も返せるものはない。
 子供の頃はまだよかった。無邪気に「いつか父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげる」なんて言っていた。
 あれから随分と時間が経って、背は高くなり、少しくらいは大人になれて。
 なのに相変わらず助けられてばかりで、父が居なければ何もできない自分がいる。
 辛かった。 
 何もしてあげられない自分が、たまらなく惨めだった。

「だから、だから」

 野茉莉は泣いていた。
 瞬きもせずに、すぅと涙が零れる。自分が何を言っているのかも分からない。
 でも後から後から涙は溢れて、止めることは出来なかった。

「よかった」

 暖かい声だった。
 泣きながら、それでも顔を上げ“御嬢さん”を見る。涙で滲んで輪郭さえはっきりしない。けれど彼女が柔らかく微笑んでいることだけ分かった。

「私は多分、あいつのことが好きだった。同じくらい弱いから、きっと支え合うことが出来ると思ってた。……支えて、あげたかった」

 それが彼女の未練。
 彼女もまた、父のことを守りたいと思っていた。
 結局、それが叶うことはなかったけれど。

「だけど……今はもう傍にいてくれる人がいるのね」

 本当に、安堵するような笑みだった。

「本当はとても脆くて、なのにそれを見せようとしてくれない人だから……あなたみたいな人が傍にいてくれてよかった」

 その笑顔が本当に真っ直ぐだったから。野茉莉は目を背けたくなった。
 真っ直ぐなものをまっすぐに受けられないのは、自分が歪んでしまったから。
 父が昔そう言っていた。
 きっとそれは正しい。彼女の笑顔を辛いと思うのは、真っ直ぐに成長できなかったからなのだろう

「……でも、私。父様にひどいことばっかりして、ひどいことばかり言って」

 傍にいてくれてよかった。
 そんなこと、父は思っていない。
 私は重荷にしかならない。
 いつか、きっとあの人も────

「あ……」

 そこでようやく野茉莉は気付いた。
 自分の気持ちに、父と上手く喋れなかった理由に。
 
 所詮は拾われた子供だ。
 明確な繋がりなどある筈もない。
 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。
 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。
 結局のところ、野茉莉は怖かったのだ。
  

 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。


 だからいい子になりたくて、でも、出来ないことはあまりに多すぎて。
 父に失望されるのも怖くて、声を掛けることさえ憚られた。
 そのまま時間が過ぎて、いつの間にか上手く喋ることが出来なくなった。

「馬鹿みたい。私、何やってるんだろう」

 上手く喋れない自分が苛立たしくて、父に八つ当たりをして。
 嫌われたくないのに、上手く言葉に出来なくて。
 優しい父に甘えて、なのに自分を愛してくれるなんて信じられなくて。
 想像に怯えて、口を閉ざす愚かな女。
 見せつけられた自分の弱さに野茉莉は震えた。
 こんな面倒な娘、きっと父も煩わしく思っている。

「きっと、父様も」

 そして決定的な科白を口にしようとして、



「私も、そうだった」



 穏やかな溜息と共に紡がれた彼女の言葉に遮られた。
 降りしきる白。この雪が止むことはない。この夢は、彼女が越えられなかった冬。だから今も、雪が、止むことはなく。彼女の想いは、此処で立ち止まっている。
 でも綺麗だと思った。
 辺りは真っ白に染まって、その中で色付いた彼女の笑顔は、やけに美しく見えた。

「自分に自信が無くて。本当は言いたことがいっぱいあった筈なのに、何にも言えなかった」

 助けられたのに、ありがとうって言えなかった。
 傷付けたのに、ごめんなさいって言えなかった。
 そうやって言えないことばかりを積み上げてきたから。
 最後に、さようならを伝えることさえ出来なくなってしまった。

「ちょっとしたきっかけで話さなくなって、仲直りできずいつの間にか時間が過ぎて……すれ違っても気付かなくなって。そうなって初めて気づいたわ。想いって薄れていくものなのね」

 くすりと笑う彼女に、悲しみの色はない。
 寧ろ足跡のない雪原を思わせる。淀みも汚れもない、真っ白な心だ。

「もう胸は痛くない。彼のことも、そんなこともあったなんて笑えるようになったわ。誰かを傷つけても、誰かに傷つけられも、いつかはそれを忘れられる。でもね、痛みと共に消えていくものだって確かにあるの」

 彼を傷付けてしまった。
 会えなくなって、別の誰かが支えてくれた。
 優しくて暖かくて、痛みも少しずつ薄れて。
 もう一度笑えるようになった頃、胸の中で燻っていた何かは、どこかに消えてしまっていた。
 本当に、大切だった筈なのに。
 今では思い出すことさえ出来ない。

「あなたはそうなっちゃ駄目よ」

 だから彼女は言う。
 最後の未練を吐き出すように、優しく、そして力強く。

「もう私には、あの頃の想いは思い出せないけれど。まだ、あなたは間に合うでしょう?」

 冬の夜。
 吹く風に冷たさは感じない。それどころか暖かいと思う。
 もしここが彼女の夢ならば、暖かいのはきっと彼女の心なのだろう。

「でも」
「大丈夫、ほんの少し素直になるだけでいいの。あいつ、あれで結構そういうのに弱いんだから」

 白く染まる景色。その中で彼女は笑う。

「……私には、それが出来なかった。だから、あなたが支えてあげて」

 言えなかった想いは降り積もる雪のようだ。
 たとえそれがどんなに美しい情景だったとしても。
 季節は巡り、春は訪れる。
 暖かな陽光の中で雪は溶けて流れていく。
 そうやって日々は過ぎて往くものなのだ。

「なんで、私にそんな話を?」

 野茉莉は自然にそう問うていた。
 この夢は“御嬢さん”の未練。けれど、これを見せてくれたのは、野茉莉の為だったように思う。
 何故そんなことをしてくれたのか、純粋に知りたかった。

「そうね……多分、借りを返したかったのよ」
「借り?」
「そう。あいつが、私達を親娘にしてくれたから。その借りをね」

 遠くを眺めるような目。
 野茉莉には意味が分からない。しかし説明する気はなかった。
 代わりに彼女はこう付け加える。

「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」

 似ていない口真似。それが誰の科白なのかは、野茉莉にも分かった。

「あの」
「なに?」

 自分では形に出来なかった想いを託してくれた、名も知らぬ女。
 その優しさに少しでも報いたいと思う。だから野茉莉は言った。

「あなたは、恋をしてたと思います。ちゃんと、父様を好きでいてくれました」

 せめて彼女の想いが何の意味もなかったものになってしまわないよう、あやふやな想いの輪郭を縁取るように、はっきりと。

「……ありがと」

 彼女の心は分からない。
 だけど少しだけ雪が弱まった。だから、ちゃんと彼女に何かをしてあげられたのだと思えた。

「今更だけど、名前……名前を」

 何度も雑音に掻き消された。でも今なら名前を受け取れるような気がした。
 しかし彼女は首を横に振って、静かに降る雪を背景に、あまりのも晴れやかな笑顔で答えた。

「私はずっと雀だったの」

 気付けば雪は弱まり、ふわりふわりと、名残だけが夜空に揺れている。
 冬の終わりを告げるように、染まった白い景色も滲んでいく。
 目の前に落ちてくる雪の一かけら。
 野茉莉は意識せずに手を伸ばし、それを掬い取る。
 掌に在る一片の雪を、失くさないように強く握りしめる。
 そうして、野茉莉は静かに終わりを理解した。




「でも……ようやく、蛤に為れた気がするわ」




 雪のように解け往く笑顔。
 随分と遠回りをしたけれど。
 名も知らぬ彼女の初恋は───今、終わったのだ。





 そうして夢もまた、終わりを告げた。





 ***   ***





「野茉莉っ」

 目を覚ました時、最初に映ったのは、今まで見たこともないくらいに慌てている父の顔だった。

「とう、さま?」

 まだ眠りから覚めきっていない。だから上手く反応が出来なくて、しかし父は心底安堵したような笑みを浮かべ、野茉莉の両肩に手を触れた。

「よかった……体調はどうだ」

 感極まったように息を吐く。いきなりすぎて頭の方がついてこない。

「え、別に。寝てただけだし」
「だとしても、丸二日起きなかったんだ。おかしなところはないか」
「え!?」

 驚きに思わず声を上げる。
 そう言えば随分長い夢だと思ってはいたが、まさかそんなに眠っていたとは。そして、初めて見る父の動揺ぶりにも少し驚いた。

「もしかして、心配、した?」
「当たり前だろう」

 そうだ。父は無表情だけど優しい人だ。だから心配するのも当然、



「娘の心配をしない親がいるものか」



 だと思っていたから、その言葉に心を揺さぶられた。

「娘……? だから、心配してくれた?」
「何を今更」

 父はよく分からないと言った顔をしていた。
 その表情に、頭の中が真っ白になる。


 本当に、馬鹿だったと野茉莉は思う。


 所詮は拾われた子供だ。
 明確な繋がりなどある筈もない。
 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。
 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。
 結局のところ、野茉莉は怖かったのだ。
  
 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。

 だからいい子になりたくて、でも、出来ないことはあまりに多すぎて。
 父に失望されるのも怖くて、声を掛けることさえ憚られた。
 そのまま時間が過ぎて、いつの間にか上手く喋ることが出来なくなった。

「ごめん、なさい」
 
 上半身を起こし、そのまま抱き付く。
 いきなりのことに父は反応できていない。鬼からの奇襲を容易に躱す父が、反応できない筈がないのに。
 それでもこうやって無防備を晒してくれるのは、家族だから、娘だと思っていてくれるからに他ならない。 
 なんで気付けなかったのか。
 知っていた筈だ。
 店を開いたのは、周りから見ても恥ずかしくないように。
 料理を覚えた理由は、ちゃんとしたものを食べさせるため。
 累が及ばないようにと、あんなに大切にしていた刀だって腰に差さなくなった。
 それが誰の為の無理だったかなんて、考える必要もなかった。
 いつだって父は自分を想ってくれていた。
 いつだって父で在ろうと、努力を重ねてきてくれたのだ。

「ごめんなさい、父様。ごめん、なさい……」
「野茉莉、どうした」
 
 縋りついて涙を流す。父は優しく、本当に優しく頭を撫でてくれた。
 まるで子供みたいだと思って、野茉莉は嬉しくなった。
 まるでも何も自分はこの人の子共なんだから、これでいい。
 そう思えた今が、たまらなく嬉しかった。
 
「怖い夢でも見たのか」

 気遣うような声。父の腕の中で、野茉莉はふるふると首を横に振った。

「ううん、いい夢を、見たの」

 泣き笑い、思い出す、夢の中の雪景色。
 視線を落すと、枕元に何かが置いてある。

 よく見ればそれは、平吉に貰った小物の一つだった。。

 でっぶりとした、愛嬌のある根付。
 木彫りの福良雀が、何故か笑ったような気がした。





 ◆





「平吉さん、あのお土産って何処で買ってきたの?」

 翌日、染吾郎に連れられて鬼そばへ訪れた平吉に野茉莉は聞いた。
 あの福良雀の根付を枕元に置いた覚えはなかったからだ。
 平吉は付喪神使いの弟子。ならばあの根付が不思議な力を持っていても不思議ではない。きっと、“彼女”の夢はあれが見せたのだと思う。だから由来を知りたかった。

「あー、いや。実はあれ、貰い物で」
「そうなんですか」
「うん。納品に須賀屋ゆう店に行って、しばらく話しとったらなんや鬼そばの話になって。そんで店主の話しとったらいつのまにか野茉莉さんの話になって。そしたら、店の女の人がお土産にてくれた」
「じゃあ、特別な由来とかは」
「うーん、ごめん。俺も知らん」

 須賀屋。やはり記憶にはなかった。
 結局あの福良雀はなんだったのだろうか。真相は分からず仕舞いだ。

「ああ、そう言えば」

 思い出したように平吉は付け加える。

「店の女の人、“これを贈る相手に頑張ってって伝えてね”てゆうとった。なんやったんやろな、俺に頑張って言うんならともかく……って別に頑張るようなことないけどな!」

 慌てて誤魔化すも、最後の方は野茉莉の耳には届いていなかった。
 頑張って。
 自然と頬が綻ぶ。あの根付が何だったのかは分からない。でもきっと、これを平吉に渡してくれた人は“御嬢さん”なんだろう。
 そう思えば自然と暖かい気持ちになる。

「平吉さん、ありがとう。これ、大切にするね!」

 華やかな笑顔に平吉は心臓が高鳴る。
 これは結構いい雰囲気なのではないか?
 そう思い、何か言おうとして、

「きつね二丁、あがったぞ」
「はーい!」

 甚夜の一言に思い切り邪魔をされてしまった。
 元気よく野茉莉は返事をして、笑顔で父の元へ走っていく。取り残された平吉はあうあうと意味の分からない声を漏らしていた。

「まぁ、なんや。平吉、がんばり」
「はい、お師匠……」

 涙が出そうだが本当に零したら流石に情けなすぎる。
 歯を食い縛り、睨み付けるように甚夜の方を見る。

「頼む。病み上がりだ、あまり無茶はするなよ」
「別に病気じゃないよ。でもありがと、父様」

 照れたように微笑み、蕎麦を受け取る野茉莉。元気になったのはいいが、何となく複雑な心境だった。

「……なんで、俺が贈り物をしたのにあっちが仲良くなってるんですかね、お師匠」
「いや、それを僕に聞かれても。ただ君、大変やな」
「はい……」

 以前のような固さのとれた親娘。あまりにも仲が良すぎて、入り込む余地があるのか疑問だった。というか父親に心配されて頬を染める娘というのはどうなのだろうかと平吉は思う。

「今回は迷惑をかけたな、染吾郎」

 厨房から声を掛ける甚夜は随分と穏やかな様子だ。
 娘とのわだかまりが無くなり、一安心という所だろう。

「きにせんでええて。面白いもんも見れたしな」

 勿論、動揺し切った甚夜のことだろう。
 野茉莉が心配だったからとはいえ醜態をさらしてしまった。今更ながらに苦々しく口元を歪める。

「忘れてくれると有難い」
「あはは、恥ずかしがらんでもええやろ。君がちゃんと父親やっとる証拠や」
「だとしてもな……ところで宇津木はなんでそんな目をしている」

 まだ睨み付けたままだった平吉は、ふんと顔を横に背けた。

「うるさいわ」
「まあ、気にせんとったって。ちゃんと男の子やっとる証拠やから」

 好いた女の子が他の男と仲良くしているのが気に入らない、ただそれだけのことである。

「……まあいい、何を食べる。今日は奢ろう」
「お、ええの?」
「ああ、野茉莉が世話になった礼だ」
「ほな、遠慮なく。僕はきつね蕎麦、こっちはどうせ天ぷら蕎麦やろ」

 そう、今回の件を解決したのは染吾郎だった。
 と言っても特に何かをした訳ではない。

『特に害はないから放っておいても大丈夫や』

 そう伝えただけである。
 半信半疑だったが、彼に言われるまま眠り続ける野茉莉の世話をしていた。
 すると二日後、野茉莉は目を覚ました。
 本当に、何もしないでも解決してしまったのだ。

「結局なんだったのか。野茉莉も“いい夢を見た”と言うだけ。よく分からん」

 腕を組んで、眉を顰める。
 最後まで蚊帳の外だった甚夜は何が起こっていたかさえ把握できていなかった。

「夢やない。蜃気楼や」

 難しい顔をして悩みこんでいる甚夜に、茶飲み話のような軽い調子で言う。
 
「あれは、福良雀の根付が見せた蜃気楼やったんよ」
「蜃気楼を見せるのは蛤(はまぐり)の付喪神だと言っていた筈だが」
「うん、そうやね。だから、蛤の話。清(中国)ではなぁ、雀は海ん中に入って蛤になるそうや。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わるもんなんやと」

 どこか嬉しそうに、満足げに、染吾郎は笑う。
 すると野茉莉も近付いてきて、優しく、たおやかに微笑んでいた。

「そっか、じゃああの福良雀は、冬には間に合わなかったけど、ちゃんと蛤になれたんだ」
「そやね、この娘なら、自分の想いを大切にしてくれる。そう思ったから、福良雀はきっと君ん所に来たんやろ」
「そうかな。……そうだと、嬉しいな」

 やはり意味は分からない。
 けれどその笑顔があまりにも晴れやかだったから、分からなくても更に問うことは出来なかった。

 微笑みながらこくこくと頷く愛娘。
 結局何一つわからないままだが、野茉莉は無事で、久しぶりに笑顔も見れた。
 それで良しにしようと自分を無理矢理に納得させる。それでも眉間の皺は取れない。
 
「気にせんでええて。どうせ全部、夏の宵が見せた蜃気楼や」

 そんな甚夜を眺めながら、染吾郎は悪戯を成功させた子供のようにほくそ笑んだ。





 結局、“彼女”は蛤になることが出来なかった。
 雪の降りしきる冬を越えられなかった想い。
 言えなかった言葉は言えなかったまま消えてしまったけれど。
 それでも季節は巡る。
 歳月は往き、福良雀は長い冬を越えてようやく蛤となる。 
 伝わらなかった想いもまた巡り、いつかは帰りたいと願った場所に還る。
 だから何の不思議もない。
 遠い昔言えなかった想いが、巡り巡って彼の下へと辿り着いた。
 これは、ただそれだけの話だ。




 

「うん、気にしなくていいの。それより父様、今度一緒に買い物に行こう?」
「……ああ、そうするか」

 親娘はじゃれ合うように言葉を交わす
 今まで上手く話せなかった分まで沢山お喋りをしようと思う。 
 それは、“彼女”が残した、叶わなかった願いだったのかもしれない。
 野茉莉は不意に視線を外し、格子の窓から外を眺めた。
 夏の盛り、外を見ても雪は降っていない。
 しかし雪のように降り積もった心がくれたのはちゃんと此処に在る。
 それがどうしようもなく嬉しい。
 
 夏の宵が見せた蜃気楼。
 
 野茉莉は、その眩しさにうっすらと目を細めた。




鬼人幻燈抄 明治編『夏宵蜃気楼』了
       次話『鬼人の暇』(きじんのいとま)



[36388]   余談『鬼人の暇』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2015/10/19 14:09

 鬼人幻燈抄 明治編 余談『鬼人の暇』 


 明治十二年(1879年) 五月

 三条通・鬼そば。
 店の玄関口には張り紙がされている。

『本日休業』

 つまり、余暇の話である。




<朝・師匠の話>

 嵯峨野の竹林での鍛錬は今も続いている。ただ今回は相手が違った。

「まだまだ、青い」

 二刀を構え悠然と立つ。投げ掛けた言葉に平吉は何も返さない。というよりも、返す余裕がなかった。
 今回の鍛錬は甚夜の、というよりもむしろ平吉に重きを置いている。染吾郎が弟子に少しでも経験を積めませようと甚夜に相手を頼んだのだ。

「まあ、こんなもんやろなぁ」

 染吾郎はからからと笑っている。
 甚夜はかすり傷どころか汗一つなく、息も乱さず着崩れさえない。平吉の方はといえば立つこともままならぬ程に疲弊し、大の字になって寝転がっている。数十年闘い続けてきた鬼が相手、当然と言えば当然の結果だった。

「お師匠…あいつ、人間やないです……」
「そら鬼やからな」
「いや、そうやなくて」

 あまりにも強すぎた。付喪神を操れるとは言え実戦経験の少ない平吉では相手にもならない。何とか体を起こすも立ち上がることは出来ず、地べたに座り込んだまま。疲労困憊といった様相である。

「体術と付喪神を交えた戦法。悪くはないが、修練が足りん」
「分かっとるわ、くそ……」

 平吉は染吾郎と違い、無手の体術を主とし、隙を消すように付喪神を操る。染吾郎ほど強い付喪神を持たない為、どうにかしようと工夫し編み出した戦い方なのだろう。
 目の付け所は良かったが、いかんせんどちらも未熟。そこそこ動けるが決定打に欠けるというのが印象だった。

「ま、自分がどんくらいやれるか、くらいは分かったやろ? まだまだこれからやね」
「はい……。我流とはいえもうちょっと出来ると思っとったんですけど、一発も当てられませんでした」
「僕は体術からっきしやからなぁ。そっちを教えられんのは許したって」
「そんな、許すなんて。……お師匠からは、そんなもんより大切なことを数えきれんくらい教えてもろてますから」
「……泣かせることゆうてくれるなぁ」

 染吾郎の顔は師のそれになっている。平吉も普段は雑な応対をしていることもあるが、師としての染吾郎を心底尊敬している。その眼には絶対の信頼が宿っていた。

「本当に慕っているのだな」
「当たり前や。俺の親は鬼に殺された。その仇を討って、今まで俺の面倒を見てくれたんがお師匠。尊敬して当然やろ」

 付き合いは長いが、平吉の過去を聞いたのは初めてだった。
 鬼を嫌っていた理由そこにあるのならば、初めの頃あそこまで敵意をむき出しにしていたことにも納得できる。普通に会話をするだけでも彼にとっては苦痛だったのだろう。

「俺は鬼を討つ力が欲しかった……まあ、鬼も悪いヤツばっかやないって分かったけどな」

 甚夜の方を向いて、話の流れを無視してそう付け加える。分かりやすすぎる、不器用な気遣い。染吾郎ならばもう少し上手くやるだろうが、こちらの方もまだまだ鍛錬が足りないらしい。

「平吉ぃ。ええ子やなぁ」
「な、なにがですか」

 十九の男に「いい子」はないだろう。思いながらも止めずに、微笑ましい気持ちでじゃれ合う師弟を眺める。落すような、穏やかな笑み。横目でそれを見た染吾郎は、意外そうに目を見開いた。

「お? なんや珍しいね」
「ん?」
「えらい機嫌良さそうやん」

 ああ、と微かに息を吐く。
 確かに染吾郎の言う通り機嫌は良かった。

「師弟とはいいものだな」

 感慨深げな声色に、師弟は揃って目を丸くした。それがおかしくて、もう一度落すように笑みを零す。

「ただ一つに専心し、生涯をかけ磨き、朽ち果てる前に誰かに授け、人は連綿と過去を未来に繋げていく。……人よりも遥かに長くを生きるからこそ、その尊さが分かる。正直羨ましいとさえ思うよ」

 自身の意志を継いでくれる者がいる。その眩しさに目を細めた。
 染吾郎は既に老体、いずれは死を迎えるだろう。しかしその時が来たとしても“秋津染吾郎”が消えることはない。それを継いでくれる者が、ちゃんと此処に居る。

 昔、人は面白いと言った鬼がいた。
 鬼より遥かに短い命、しかし人は受け継ぐことで鬼より長くを生きる。人は当然の如く摂理に逆らう。それはどんな娯楽よりも面白いとあの鬼は笑った。
 今になってその気持ちがよく分かる。おそらくあの鬼も、今の自分と同じような心境だったのだろう。

「なんや知らんけど、師匠ならあんたにもおるんちゃうの?」

 甚夜の言葉が今一理解できなかったらしく、平吉は首を傾げた。
 怪訝そうに眉を顰めれば、寧ろその態度こそ疑問だとばかりに話を続ける。

「いや、だから剣の。あんたは力任せやなくて、ちゃんと剣術を使っとるから、師匠がおるんかと思ったんやけど」

 その問いの思い出したのは、やはり元治のことだった。
 今は遠き“みなわのひび”。幼かった自分を思い出しながら、懐かしさに瞼を閉じて答える。

「私に剣を教えてくれたのは養父だ。毎日のように稽古をつけて貰っていたよ。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかったが」
「……一太刀も? ほんまに?」
「鬼は嘘を吐かん。養父は集落で一番の使い手でな。刀一本で鬼を討つ剣豪だった」
「ふーん、先代って訳か」

 その物言いに眉を顰めれば、平吉は平然と言ってのける。

「いや、だってあんたも“刀一本で鬼を討つ剣豪”とか言われとるし。羨ましいも何も、あんたも似たようなもんやろ」

 頭が、真っ白になった気がした。
 そして数瞬置いてから意識を取り戻し、歓喜とも興奮ともつかぬ、自分でもよく分からない感情に背を押され言葉を落した。

「……そうか、そうだったな」

 想いを繋ぎ未来へと残すのは人の業だと思った。
 しかし平吉の中に染吾郎の技が息づいているように、自身の中にも元治が遺したものがある。それは鬼になった所で変わりはない。
 なにより、多くの出会いがあり、多くの別れがあった。
 店主や直次、おふう。彼等彼女らに出会い、僅かながらに変わることが出来た。
 ならば鬼に堕ちたこの身にもまた、連綿と続く人の想いが宿っているのだ。
 それを、改め気付かされた。

 ───羨ましいやろ? これが僕の弟子や。

 ふと見れば染吾郎は勝ち誇るような顔。言葉にせずとも何を考えているのか分かってしまった。
 これも師の教えか。平吉は想いを大切にできる男となった。あの生意気な小僧がよくぞここまで大きくなったものだと感心する。物に宿る想いを扱う“秋津染吾郎”にとっては、こういう弟子を持てるというのは、まさしく師匠冥利に尽きるというものだろう。

「やれへんよ」
「必要ない」
 
 短い遣り取り。確かに羨ましい弟子だが、欲しいとは思わない。
 代わりに、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にする。

「励めよ、宇津木。私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ」

 今度は平吉の方が呆気にとられる。驚きに上手い返しが出てこないようだ。
 一拍子置いてその言葉の意味を理解したのか、平吉は不機嫌そうに、しかし照れを隠しきれずそっぽ向いた。

「……おう」 

 甚夜の言葉は、“秋津染吾郎”を継ぐのに最も相応しいのはお前だと言ったに等しい。
 普段は見せないが師を敬愛する平吉にとって、それは途方もない褒め言葉だった。

「あはは、よかったな平吉。勿論僕も君以外に“秋津染吾郎”を譲る気はないよって」
「ありがとう、ございます、お師匠」

 感極まったと言う様子だ。
 普段の態度こそ雑だが、平吉は本当に師を敬い慕っている。本人からの後継と認める発言だ、嬉しくない筈がない。

「でも、その前に君は甚夜を倒せるようにならあかんな」

 一瞬にして、凍り付いた。

「……え?」

 思わず聞き返すも染吾郎は朗らかに笑い言葉を続ける。

「平吉、野茉莉ちゃんのこと好きなんやろ? そしたら“お父さん、娘さんを僕に下さい!”ってこともあるかもしれへわけや。ということは」

 ちらりと染吾郎が甚夜の方を見る。
 いい加減付き合いも長い。何を求めているのか、分かってしまった。

「ならば私の返しはこうだな。“娘が欲しいのならば私を倒してからにしてもらおうか”」
「さっすが、完璧や!」

 定番の言い回しを口にすれば、子供のようにはしゃぐ。無駄に元気な老人である。

「…………え?」

 対して平吉は目を点にしている。
 あれ、を、倒す?
 人を超える膂力を持ち、複数の<力>を操り、剣術にも長けた鬼。それを倒さない限り、野茉莉に結婚を申し込むことは出来ない? いや別に付き合ったりしてるわけではないけども。
 混乱する平吉を余所に二人の会話は続く。

「頑張り。野茉莉ちゃんを手に入れるんはしんどそうや。なんせこいつは僕でも倒せるか分からん」
「それはこちらも同じ。鍾馗、だったか。あれは中々に厄介だ」
「僕の切り札やしね。勝てるかどうかは分からんけど、易々と負けてはやれんなぁ」

 いやに好戦的な視線を交わしながら、とんとん拍子に話が流れていく。ただ平吉だけがついていけていない。
 いや、冗談だ。師匠一流の冗談だ。頼むからそうだと言ってくれ。

「さて、そろそろ終いにするか。時間も時間だ。朝食を準備しよう」
「お、もしかして誘ってくれとる? 悪いなぁ。味噌汁玉ねぎ、玉ねぎな。平吉もいこか」

 しかし否定することなく、茶化すことなく、二人は歩き始めてしまう。
 しばらく歩いてから甚夜は振り返り、真っ直ぐに平吉を見据えた。

「楽しみにしている。……ただ、私はそれなりに手強いぞ、宇津木」

 冗談など言いそうもない男がダメ押しの科白を吐いてくれた。
 だから平吉はどうすればいいのか分からなくなり、

「…………………………え?」

 立ち尽くすことしか出来なかった。
 いつの世も、最後に立ちはだかる壁は父親である。







<昼・あんぱんの話>



「で、だ。協力してほしいんだ」

 野茉莉を交え朝食をとった後、平吉は納品の仕事があるらしく先に戻った。
 染吾郎は悠々と食後の茶なんぞを楽しみ、親娘二人で後片付け。その後、それなりにのんびりとした時間を過ごしていると一人の男が店へ訪れた。
 三橋豊重(みはし・とよしげ)。
 開口一番協力してほしいと言い出したのは、鬼そばの隣にある三橋屋という和菓子屋の店主だった。

 今年で二十七になるこの男とは、店が隣同士と言うこともありそれなりに話もする。普段ならば多少相談に乗ってやっても構わないのだが、残念ながら今日は予定があった。

「すまんが、今日は」
「そういや休業とか書いてあったが、何か予定でもあったか」
「ああ、野茉莉と買い物に行く」
「ちょっと待ってくれ葛野さん。もしかしてその為に店を休んだのか」
「もしかしなくてもそうだが」

 豊重は信じられないといった面持ちだった。
 しかし何故そんな表情をされるのか甚夜には分からなかった。店と野茉莉との買い物、当然ながら優先順位は後者の方が高い。よって店を休みにするのもまた至極当然。驚かれるようなことではないと思うのだが。 

「なんでこの人こんな普通の顔してんだよ」
「いやぁ、甚夜にとってはこれが普通やし。基本野茉莉ちゃん至上主義やからね」

 初対面の豊重と染吾郎だったが、何故か仲良くひそひそ話なんぞをしている。二人とも甚夜の行動に疑問を抱いているらしい。甚夜からすればおかしいことなど何一つしていないのにそんな態度を見せる二人の方こそ理解できなかった。

「まあそういう理由だ。すまんがまた今度に」
「あ、いや、そこをどうにか。少しの時間でいいんだ」
「しかしな」

 難色を示し微かに唸ると、くいくいと袖を引っ張られた。傍らに立つ野茉莉である。

「父様、別にいいよ?」

 豊重が可哀想に思えたのか、同情的な視線を送っている。
 楽しみにしていた買い物を後回しても構わない、野茉莉はそういうことを言える優しい娘に育ってくれた。だからこそ約束を反故にしたくはない。
 その考えを先回りして、野茉莉は柔らかく笑う。

「普段三橋さんにはお世話になってるし、ね? お話を聞いて、それから買い物でも私はいいから」
「……そう言うのなら」

 申し訳ないと思うが、同時に嬉しくもなる。今までのように、嫌われることを恐れていい子を演じるのではないと分かったからだ。本当に、子供は知らぬうちに大きくなるものだ。

「三橋殿、話を聞こう」

 だから自然と、表情は穏やかになった。





「新商品の開発?」
「そうだ。あー、めんど……と普段なら言う所なんだが、売上少なくて嫁さんがキレそうでな。ここいらでちょっと気合入れとかないと後々もっとめんどくさくなりそうなんだよ」

 確かに三橋屋の客入りは今一つだ。彼の細君が気を揉むのも分かる。とは言え、相談相手として甚夜は適当ではないだろう。

「しかし、私では力に為れそうもないが」

 蕎麦打ちや家庭料理なら出来るが菓子作りなどしたこともない。適切な助言など出来るとは思えなかった。

「そんなことはないさ。あとは、野茉莉ちゃんの方にも期待してる」
「私、ですか? あの、でも私料理は」

 急に話を振られて少しだけ体を震わせる。
 野茉莉は最近になってようやく父に調理を教えて貰い始めたが、その腕はまだまだ。甚夜以上にこういうことには向いていない。
 気後れしているようで野茉莉は俯いてしまったが、問題ないとばかりに豊重は笑った。

「いやいや、協力ったってそんな固っ苦しく考えなくていんだ。あー、とだ。味見役をしてほしいんだよ。それで意見が欲しい」

 味見役。確かにその程度ならばできそうだ。野茉莉にも期待しているというのは単に若い女の意見も聞きたい、といったところだろう。それを聞いて野茉莉は安堵の吐息を漏らす。

「よかった、それくらいなら」
「お、なら頼めるか?」
「はい、私でよければ」

 取り敢えずの同意を得られ、今度は甚夜の方に視線を移す。あからさまに期待した目。野茉莉が受け入れたのだ、ここで断るのも妙な話だ。

「ああ、私も構わん」
「ありがてえ。実は何を作るかももう考えてあるんだよ」
「ほう?」

 仕方なくという雰囲気を漂わせていたが意外にもやる気らしい。周りの視線が集まる中、溜めに溜めて豊重は高らかにのたまう。

「木村屋って知ってるか」

 にやりと釣り上げられた口元からは相応の自信が感じられた。
 甚夜が首を横に振り否定の意を示せば、待ってましたと言わんばかりに滔々と語り始める。

「東京の銀座にある店なんだがな、この店があんぱんっつー菓子を作ったらしいんだ。それが売れに売れて、天皇様まで気に言っちまって今じゃ皇室御用達らしい。知ってるか、あんぱん?」
「残念ながら」
「そうか……んー、まいいか。とにかくそういうことだ」

 一人で納得してうんうんと頷く。しかしそこで話を止められては意味が分からない。
 それで? と言葉を促してみれば、何故か返ってきたのは不思議そうな表情だった。

「いや、それでって……それが全てだろ?」

 なにいってるんだ。豊重の視線はそう言っている。
 今一意図が理解できず眉を顰めると、豊重は溜息を吐いてから説明を始める。

「だから、今はあんぱんが人気なんだよ」
「ふむ、で?」
「つまり、奇をてらった新商品なんざ考えなくても、あんぱんを作ればいいって訳だ」

 堂々と真似をする気らしい。
 自信満々といった様子だが、言っていることは最低だった。
 
「……なあ甚夜? 僕、こん人の店が流行らん理由分かったような気ぃするんやけど」
「……奇遇だな、私もだ」

 集まっていた視線は全て呆れ交じりのものに変わってしまうが、本人は全く気にしていない。寧ろ自分の提案の素晴らしと心底思っているようだ。

「我ながら完璧だ……問題はあんぱんの作り方どころか見たこともないってとこだけだな」
「うん、問題しかあらへんね」

 染吾郎の突込みは見事に無視された。
 作り方も知らず見たこともないものをどうやって作ろうと言うのかこの男は。
 そう考えて、甚夜は気付いた。
 彼の言う“味見役”に求められる役割は、味を見るのではないのだ。

「三橋殿、もしかして私達の役目というのは」
「ああ! なんせ俺はあんぱんなんて知らないからな。取り敢えず適当に作るから、葛野さんがこれだってやつを決めてくれ」
「だから私もあんぱんを知らんのだが」
「いいんだよいいんだよ。食べた感じ一番あんぱんっぽいものを選んでくれれば」

 実に無茶苦茶なことをさらりと言ってくれるものだ。
 ともかく、こうして三橋屋のあんぱん作りは始まったのである。



 ◆



「ほい、まずはこれ」

 甚夜達の前に出されたのは小さな茶色の菓子である。

「どうやらあんぱんってのは小麦を使った生地で餡をくるんだ菓子、らしい。取り敢えず素直に作ってみたんだが、どうだ?」

 期待の視線を受けながら、促されるままにあんぱん(仮)を齧る。
 若干甘さを抑えたあずきに多少風味の付いた生地
 味を確かめるようにゆっくりと咀嚼し、呑みこんで一言。

「饅頭だな」
「饅頭やね」
「おまんじゅうですね」

 甚夜、染吾郎、野茉莉が声を揃えて同じことを言う。
 出されたそれはまったくもって普通の饅頭であった。

「それに生地あんまりおいしくない……」

 野茉莉はむーっと若干不機嫌そうな顔になってしまう。
 やはり若い娘だ、甘いものは好きなのだろう。甘いものを好まない甚夜や染吾郎よりも、こだわりがある分野茉莉の方が評価は厳しかった。

「そ、そうか。結構自信あったんだが。まあいい、次に行くか」

 そそくさと新しい菓子を店から運んでくる。
 次いで出されたのは何とも奇妙な菓子である。球形ではあるのだが糸のようなもので幾重にも包んであり、あまり食欲をそそる外見はしていなかった。

「……三橋殿、これは」
「小麦の生地って聞いてたからな。小麦で作ったものって考えてたら、素麺が思い浮かんだ。つーことで、素麺で包んでみた」
「中には当然?」
「あんこが入っている」

 腕を組み、堂々と言ってのける。
 この男は何故こうも自信に満ち溢れているのだろう。

「……すまん、あずき味の麺は食べたくない」
「あ、やっぱり?」

 分かっていたなら何故出した。

「……甚夜、これまずい」

 何故食べた染吾郎。
 ひどく疲れて、甚夜は俯いて溜息を零した。
 いかん、豊重の発想に任せていては何時まで経ってもこの味見は終わらない。この後には野茉莉との買い物が控えている。早々に終わらせねばならない。
 甚夜は気を取り直し、積極的に意見を出すことにした。

「三橋殿、あんぱんというのは小麦の生地であずきを包んだ菓子、だったな」
「ああ、そうだ」
「ならば“きんつば”に近い菓子ではないのか?」

 きんつばは金鍔焼きの略称で、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包んだ菓子のことである。これも小麦の生地で餡を包んだ菓子だ。

「きんつば、か。いや、話によると本当に包んじまうみたいなんだ。あんこが外から見えないくらいに」
「ふむ。きんつばの生地で包むと」
「流石に野暮ったくなるだろう。あれは薄いからいいんだ」

 確かに豊重のいう通りだ。あの記事がそのまま分厚くなっても旨いとは思えない。

「あーでも、既存の菓子と照らし合わせて考えるってのはいいかもなぁ。おっしゃ、ちょっと待っててくれ」

 そう言ってまたも店に戻る。
 何か思いついたらしく、えらく真面目な顔つきだった。

「……なんだかんだ、甚夜も付き合いええなあ」
「父様は優しいですから」

 呆れたような染吾郎と、何故か自慢げな野茉莉。
 取り敢えず二人の言葉は軽く流すことにした。




「団子風の生地にしてみた」
「悪くないな」
「うん、もちもちしてて美味しいです」

 豊重は次々に、工夫を凝らした菓子を運んでくる。

「小麦だからな、焼いたらいい香りがすると思ったんだが」
「水で練った小麦の生地を焼き上げたか」
「お、いけるやん。そやけど、時間が経ったらちょっとこれはなぁ」

 しかしながら“あんぱん”が何か分からない以上、悩みに悩んだところで明確な正解を出すことが出来ず、ただただ菓子を喰い続ける。

「あー、いい加減しんどなって来たんやけど。老人にこれはきついて」

 最初に根を上げたのは染吾郎だった。
 食べ過ぎで腹が苦しいらしく、居間の方で寝転がっている。かくいう甚夜も相当きつくなってきていた。

「父様、大丈夫?」
「……一応は」

 甘いものが苦手という訳ではないが、流石にこう連続すると中々に辛い。
 野茉莉がまだ平気そうなのは、やはり若い娘だからなのか。男と女では甘味の摂取容量に違いがあるのかもしれない。

「悪いな、長いこと付き合わせて。だが、今度こそってなくらいの自信作だ」

 言いながら豊重はまたも店からあんぱん(仮)を運んでくる。今回のものは黄色っぽい生地に包まれた円形状の菓子だった。

「小麦の生地だが、卵と水あめをたっぷり入れて柔らかく焼いてみた。いい感じに仕上がったと思うぜ」
「……そうか」
 
 見た感じ中々旨そうではあるのだが、如何せん食べ過ぎた。甘味であるというだけで体が拒否反応を起こしている。

「……あかん、僕もう無理」

 染吾郎はもはや見向きもせずに手をひらひらとさせている。甚夜も出来ればそうしたかったが、協力すると言ってしまった。
 些細な約束でも反故にするのは彼の矜持に反する。
 躊躇いがちに手は揺れ、それでも何とか動かし、出された菓子を頬張る。

「む」

 一口食べてみたが、案外と口当たりはいい。卵と水あめを使ったからだろう、小麦の生地は今までのものよりもふんわりと軽かった。中の餡は若干甘さを控えてあり、後味も悪くない。

「これは、旨いな」

 批評したつもりではなく、旨いという言葉が自然と漏れた。続いて野茉莉も一口。にこやかな表情を見れば味を問う必要もない。しかし期待に満ちた目で豊重は感想を求めた。

「ど、どうだ野茉莉ちゃん」
「……おいしい。うん、これが一番おいしかったです」

 親娘の答えを聞いて、豊重は感極まったように振るわせる。
 野茉莉もこれが気に入ったようで、おいしそうに食べている。
 その笑顔に、ようやく確信というものを抱くことが出来た。

「三橋殿、おそらくこれが正解だ」

 にやり、口元が吊り上る。
 豊重の方も手ごたえがあったらしく、不敵な笑みを浮かべる。 

「そうか、これが」

 呟いた声に頷きで返す。
 そうして甚夜はきっぱりと、確信を持って言い切った。

「間違いない……“あんぱん”だ」

 もっとも、その確信は見当はずれな訳だが。

「これがあんぱん……!」
「ああ、あんぱんだ」

 勿論違う。
 小麦粉を使い卵と水あめをたっぷり入れて焼き上げる。それはパンではなくカステラである。もはやあんぱんとはかけ離れたものが出来てしまった訳だが、突っ込める人間はこの場にいない。
 野茉莉もあんぱんがどのような菓子か知らず、これがあんぱんなのだとこくこくと頷いている。

「ありがとう、葛野さん野茉莉ちゃん。あと、名前知らない爺さん。おかげで、ようやくあんぱんを作ることが出来たよ!」
 
 間違っているとも知らず、今までの苦労から豊重は目を潤ませている。
 それに応え、甚夜は軽く豊重の肩を叩いた。

「これを作ったのは三橋殿だ。私達は何もしていない」
「そうですよ、三橋さん」

 野茉莉も純粋に賞賛していた。何度も言うが、この菓子はあんぱんとは全く違うものである。

「そんなことねえさ。俺一人じゃこいつは出来なかった……そうだ、もう一つ頼みがある」

 照れくさそうに豊重は頬を掻いている。あんぱんの完成に気をよくした甚夜は、穏やかな表情で頷いてみせた。

「ああ、聞こう」
「名前を、考えて欲しいんだ。手伝ってもらったからできたんだ。出来れば葛野さんにつけて欲しい」
「む、そうか」

 多分、場の空気に流されて柄にもなく高揚していたのだろう。
 少しばかりむず痒い気持ちを感じながらも、その菓子に名をつけて────



 ◆




 2009年 8月

 時は流れて現代。
 葛野市、甚太神社。その敷地にあるみやかの自宅では甚夜、薫、そしてみやか本人がテーブルを囲んでいた。
 8月25日。夏休みもそろそろ終わる。残った夏の課題を終わらせる為に三人は朝からみやかの部屋でテキストに挑んでいる最中だった。

「甚くん、大丈夫?」
「一応は。ただ英語は苦手でな」
「なら私がちょっと手伝うよ。代わりに古典で助けてね」
「ああ、そちらは殆どのものを原文で読んだことがある」
「あはは、さすがー」

 みやかは二人のやり取りを半目で眺めていた。
 何故か薫は甚夜のことを「甚くん」などと親しげに呼んでいる。元々仲は良かったが、いつの間にこんなに距離が近くなったのか。

「朝顔、すまん」
「あ、ここはねー」

 甚夜の方は「朝顔」と、何処をどうすればそうなるのか分からないあだ名を使っている。薫を見るに嫌がった様子もないし、一体どうなっているのか、みやかにはまったくもって理解が出来なかった。
 じっと見ていると、不意に顔を上げた甚夜と目が合ってしまう。
 しばらく見つめ合う形になった後、大した動揺もなく彼は言う。

「どうした、手が進んでいないようだが」

 だとすれば間違いなくあんたのせいだ。
 言おうとしたが、流石に理不尽過ぎると思い直す。

「……てい」

 しかしあまりにもいつも通りすぎる態度が何となくいらっと来て、消しゴムなんぞを投げてみる。

「何をする」

 こつんと頭に当たった。避けもせず受けもしない。なんだか子供扱いされたようで、イライラは全く晴れなかった。




「やった、終わったー!」

 薫がシャーペンを放り出してぐっと伸びをした。
 ちょうど同じタイミングで甚夜も息を吐く。 

「うん、こっちも終わった」

 みやかの方も片付き、三人は課題を何とか終わらせることが出来た。
ようやく一息つける、というところで母親がお菓子を用意しておいてくれたことを思い出す。

「疲れたー。でもこれで安心して遊べるね」
「そうね。……っと、ちょっと待ってて。今お茶淹れてくる」

 そうして台所に行き、煎茶とお菓子を御盆に乗せて戻る。
 部屋では完全にだらけモードに入っている薫とそれを微笑ましく眺めている甚夜の姿がある。確かにこの二人は仲がいいけど、恋人とかよりも兄妹と言ったイメージだった。

「あ、おかえりー」
「薫、床でゴロゴロしない。はしたないよ。一応男がいるんだし」
「だって疲れたんだもん」

 大して気にした様子はない。仲はいいけど、男としては意識していないのかもしれない。
 そんなことを考えながらテーブルにおぼんを置けば、さっと薫は起き上がる。まったくもって現金だった。

「お母さんが京都旅行に行ってきたから、そのお土産。三橋屋の“野茉莉あんぱん”だって」
「あ、知ってる! この前テレビでやってた!」

 嬉しそうに頬を綻ばせる薫。反面、甚夜は普段通りの無表情。しかし若干眉間の皺がいつもより深かった。

「ごめん。もしかして、甘いもの嫌いだった?」
「いや、嫌いではない、がな」

 珍しく歯切れが悪い。腑に落ちないものを感じながらもテーブルの上を片付けお茶を配る。
 そうして三人の前に菓子と親が行き渡ったのを確認して、食べるのを促すようにこくりと頷いた。

「いただきまーす」

 一口頬張る。
 野茉莉あんぱんは京都・三橋屋の銘菓で、カステラ生地で餡を包んだ菓子である
 柔らかい生地とあずきの組み合わせは確かに美味しい。人気があるのも納得の出来だった。

「あ、おいしー」
「うん。……でもこれ、あんぱんじゃないよね」
 
 そもそも、パンじゃない。
 なんでこれがあんぱんなんだろうと思っていると、思わぬ方から意見が出てきた。

「いや、小麦の生地に餡が入っていればあんぱんと呼んでもいいんじゃないか?」
「流石にそれ、適当過ぎると思う」

 反射的に突っ込むと、何故か甚夜は苦々しい顔であんぱんを噛み締めている。
 その様子に何か気付いたらしく、薫がおずおずと問うた。

「……ねえ甚くん。三橋屋って、確か甚くんが昔住んでた家の隣にあったお菓子屋さんだよね?」
「え? 甚夜、京都に住んでたの?」
「昔、一時期な」

 初耳だった。というか、何故薫が知っているんだろう。席も近いし、案外プライベートなことも話しているんだろうか。

「でさ、もしかしてこのあんぱんって」
「……言うな朝顔」

 やけに重い、疲れた声だった。

「でも、野茉莉あんぱんってどう考えても」
「頼む、言わないでくれ」
「ああ、うん。何となく分かった」

 それきり俯き黙り込んでしまった。
 恥じるべきは一時のテンションに身を任せてしまった過去である。 
 まさかあんなノリで作られた菓子が百年を越えるなど誰が思うものか。
 なんとなく事情を察した薫と訳が分からないみやか。二人の視線を受ける甚夜は、ただただ項垂れるしかなかった。



<夕方・リボンの話>に続く。




[36388]      『鬼人の暇』・2(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/09/10 20:20


<夕方・リボンの話>


 三条通をゆったりと歩く。腰に刀はない。その軽さにはまだ慣れないが、流れ往く景色に心浮かれて、いつになく通りの喧騒が心地よく感じられる。
 あんぱん作りは思ったよりも時間がかかり、気付けば夕暮れ。橙色の空、雲もなく晴れ渡り、波のない静かな海を思わせる。
 つまりは夕凪の空。だから遅くなったことも悪くないと思える。夕暮れは“彼女”の時間だった。

「父様、どうしたの?」

 夕凪の花がゆらりと揺れる。
 訪れた呉服屋は、野茉莉たっての願いだ。父様と買い物に行きたいと頼まれた。子供の頃なら兎も角、今ではそんな機会も減ってしまった。だからそう言われた時、甚夜は僅かながらに驚いた。
 とは言え二人で掛けるのは久々のことだ、今日は店を休みにして野茉莉と過ごすことにしようと考えた。もっとも、予想外の出来事で実際に出かけられたのはこんな時間だったが。

「すまん、少し呆けていた。さて、何を買う」
「あのね……リボンが欲しいの。父様に、買ってほしいなって」

 申し訳なさそうに、はにかむような笑みで、野茉莉がそう言う。
 昔からこの手の我儘を殆ど言わない娘だ。あれが欲しいこれが欲しい、それを言わせなかったのは、血が繋がらないからこそできてしまった遠慮だ。
 だから、素直に我儘が言えるようになった今が嬉しかった。

「どれがいい」
「父様に選んでもらいたいの。駄目?」

 上目遣いで小首を傾げる。
 何となく懐かしい気持ちになった。野茉莉が使っている桜色のリボンもまた、随分と昔に甚夜が選んだものだ。
 あれはいつのことだったか。記憶を辿る、思い出される日々。
 ああ、そうだ。林檎飴の天女が居候していた頃、祭り用の浴衣を買った。あの時も同じように、浴衣を選んでくれと乞われた。

「懐かしいな」
「え?」
「前も同じやりとりをした」

 花が綻ぶ。
 野茉莉もちゃんと覚えていたようだ。

「覚えててくれたんだ」

 その呟きに、最初から幼い日を意識していたのだと知る。敢えて同じ道筋を辿ったのだろう。ならば選ぶものもそれに準じるのが筋だ。

「なら……やはり、桜色のリボンを」

 甚夜の言葉に、野茉莉は綺麗に微笑む。
 選択は間違っていなかった。なんとなく、彼女が次に行きたい場所も想像がついた。

「すまない、これを」

 店の者に声を掛け桜色のリボンを包んでもらう。営業用の笑みを浮かべる小男は、心底の善意から、暖かな声で言った。

「ありがとうございます、恋人への贈り物ですか?」

 一瞬にして思考が凍り付く。
 甚夜の実年齢は五十七、しかしその外見は老いることなく未だ十八の頃のままだ。
 十六になった野茉莉と並べば、成程、そういう関係に見えなくもない。
 分かっていたことだった。いずれ野茉莉は自分を追い越して大人になってしまう。十分理解していた筈なのに、いざ現実を突き付けられて何も考えられなくなってしまった。
 自分では、この娘の父親でいてやることが出来ないのだ。
 それを否応なく思い知らされ、

「いこ、父様」

 腕を取って抱き付く野茉莉の笑顔に、もう一度思考を止められた。

「野茉莉……」
「もう一つ、行きたい所があるんだ。だから、ね?」

 目を白黒させている店員から物を受け取り、それでも野茉莉は腕に抱き付いたまま。引き摺られるように店を出る。
 手から伝わる温もりに思う。
 ああ、この娘は本当に大きく、そして優しく育ってくれた。
 暖かさが気恥ずかしく、不器用ながらも気遣いの出来る子に育ってくれたことが嬉しいような。何処か寂しくもあって、複雑な心境で野茉莉の横顔を眺める。
 差し込む陽光、夕暮れに視界が滲む。
 昔は野茉莉の手を引いて歩いたけれど、もうそれも必要ない。
 いつか離れる手だと知っていた。
 きっと、その時はすぐそこまで来ているのだろう。
 
 

 ◆


 
「おや、葛野さん」

 荒城神社の境内には年老いた男の姿がある。
 国枝利之。この神社の神主である彼とは、少しばかり縁がありそれ以来わずかながらに交友を持っている。
 
「どうも国枝殿、お久しぶりです」
「ええ、本当に。同じ町に住んでいても中々顔を合わせないものですね。偶には遊びに来てください。ちよも喜びます」

 ちよというのは彼の細君で、甚夜とは同郷でありそれなりに親しくしてきた。
 今更だがそれを不思議に感じる。「あの小さい娘が」と思うのは、自分が年を取った証拠だろう。

「今日はどうされました」
「ちょっと、懐かしくなって寄ってみたんです」

 甚夜が答えるよりも早く野茉莉が言う。その声色は確かに懐かしむようで、同時に僅かな固さを含んでいた。

「そうですか……では、私はこれで失礼します」

 野茉莉の様子に何かを感じ取ったのか、神主はうっすらと目を細める。そうして親娘をじっくりと観察してから頷いて見せた。

「すみません、気を使わせたようで」
「いいえ、そんなことは。どうぞゆっくりしていってください」

 それだけ言ってそそくさと境内から離れていく。
 残された二人。ざあと木々が鳴く。
 夕凪の空にも陰りが見えた。この夕暮れもあと僅か。もうすぐ夜が訪れる。
 野茉莉は甚夜の腕を離し、大きく三歩程進んだ。
 落ち掛けた夕日を背に振り返る。親娘は向かい合い、ただ互い見つめ合う。
 伸びる影法師。頬を撫ぜる風。夕暮れの中、滲む景色。
 何もかもが揺らめくようで、輪郭さえ覚束ない。
 不意に、野茉莉は懐から何かを取り出した。
 それは根付だ。でっぷりとした、愛嬌のある福良雀を両の手でしっかりと握りしめ、彼女は真っ直ぐに甚夜の目を見据えた。

「父様、今日は我儘を聞いてくれてありがとう」

 先に言葉を発したのは野茉莉だった。

「いや、私も楽しんだ」
「よかった。恋人に間違えられたのは、ちょっと恥ずかしかったけど」

 何気ない一言にちくりと胸が痛む。
 けれど野茉莉は微笑む。
 一呼吸おいて、絞り出すように彼女は言う。

「もうすぐ、同い年になっちゃうね」

 痛みに耐えるような、置いてけぼりにされたような。
 そういう、心もとない微笑みだった。
 
「これからは、誰も親子だなんて思わなくなる。だから欲しかったの。私がわがままを言って、父様がそれを聞いてくれて。そういう、当たり前の親娘の証が」

 野茉莉もまた知っていた。
 いつまでも親娘ではいられないと。所詮は人と鬼。同じように年老いていくことは出来ない。
 いつかは終わりが訪れるのだと、最初から知っていた。
 結んだ髪をするりと解く。

「ね、父様。結んでほしいな」
「……ああ」

 言われるがままに傍へ寄り、新しく買った桜色のリボンで彼女の髪を結ぶ。子供の頃はよくやった。しかし今では一人で結べるようになり、こういう形で触れ合うのは随分と久しぶりだ。
 変わらないものなんてない。
 いつかの言葉が脳裏を過る。
 そしてリボンを結び終えて、甚夜は理解した。
 これはこの娘なりのけじめなのだ。
 野茉莉は、ここで新しいこれからを始めようとしている。





 ────結局、私達は。曲げられない『自分』に振られたんだね。





 夕暮れの色に、いつかの別れが重なる。
 僅かに甚夜の目は細められた。夕日の眩しさに目が眩んだ、そう思うことにした。

「父様は、いつだって私の父様であろうとしてくれた。知ってるんだよ? 蕎麦屋さんを始めたのは、小学校で私が周りから浮かないように、だよね」

 生活面だけで言えば、鬼の討伐依頼だけでも食っていくことは出来た。
 しかしそれでは傍から見れば無職と変わらない。だから蕎麦屋を始めた。小学校に通う娘が、恥ずかしい思いをしないように考えた結果だった。

「刀も持ち歩かなくなったね。……警察に捕まったら私が嫌な思いをするから。それも私の為。いつだって父様は、私の父様でいる為ずっと努力してきてくれた」

 記憶を辿る。遠い目の先には何を映しているのだろう。
 大人びた野茉莉の雰囲気に、甚夜は何も言えない。
 ただ思う。この娘は小さな子供ではない。
 もう手を引いてやる必要はない。一人で歩いていける、強い子に育ってくれた。
 だから彼女の描くこれからに、たとえ自分の姿が無いとしても。
 ちゃんと受け入れられるような気がした。

「今度は私の番、だね」

 けれど野茉莉は、あまりにも柔らかな笑顔を浮かべた。
 そして静かに、力強く、決意を口にする。

「昔言ったこと、もう一度言うよ。……私、父様の母様になるの」

 それは夕暮れには似合わぬ晴れやかさだった。

「今はまだ年下だから、妹くらいかな? その次は姉。もっと年を取ったら今度こそ母親になって、父様をいっぱい甘やかすの。頭だって撫でてあげる」

 まるで冗談のような語り口。なのに胸を打つ。
 そこに籠められた心が、熱が、染み渡るようだ。

「私、今まで甘えてたね。家族でいられることが当たり前だって思ってた。でも違うんだってようやく分かったの」

 人と鬼。
 寿命が違う生き物だ。いつまでも同じようにいられる訳がない。
 それを理解して尚、野茉莉は言葉を紡ぐ。

「私達が親娘でいられたのは、それだけ父様ががんばってくれたから。だから、今度は私の番。父様の家族でいる為に、精一杯努力するの。私は父様ほど長くは生きられないから……いつか、あなたを置いて行ってしまうけど」

 俯く横顔に夕日が差し込む。
 橙色に染まる瞳は、僅かに潤んでいる。
 いつか離れる手だと知っていた。
 親娘でいられなくなると分かっていた。
 それでも────

 


「これからも、家族でいてくれますか?」




 ────野茉莉は、傍にいたいと願ってくれた。

 差し出された手。眩しいと思った。
 夕日に映し出された愛娘。
 初めてかもしれない。野茉莉を美しいと感じたのは。

「野茉莉……」
「へへ、ちょっとは、素直になれたかな?」

 もう片方の手では福良雀を握り締めたまま。
 たおやかな微笑みは、柔らかいのに力強い。

「……おしめを換えていたのが、ついこの間だと思っていたんだがな」
「おっきくなったでしょ? これからは何時でも甘えていいんだよ?」
「なにを、まだまだ親の座は譲れん」
「えー。……でも、うん。もうちょっと私も、父様の娘でいたいな」

 そう言って傍らに寄り添う。風に桜色のリボンが揺れる。
 夕凪の空は薄い紫に染まり、夜が訪れる。
 見上げれば、ぽつりぽつりと瞬く星。

「まだ答え、聞いてないよ父様」
「そんなこと、言うまでもないだろう」
「でも聞きたいの」

 素直というか、押しが強くなったというか。
 野茉莉は嬉しそうに、どこかからかい交じりの笑みで詰め寄ってくる。


「……これからも、家族でありたいと、思っている」

 観念して、空を見上げたまま答える。
 見はしなかったが、花のように綻ぶ彼女の笑顔が容易に想像できた。

「……うんっ」

 そうして二人はしばらくの間、寄り添ったまま星を眺めた。
 いつか離れる手と知っているからこそ、固く固く、小さな手を握り締めた。







 

















<夜・おしまいの話>

「むぅ……おじさまと野茉莉ちゃん、すっごく仲良しですね。なんか悔しいです」

 何処かくたびれた屋敷の一室。向日葵は目を瞑ったまま、頬を膨らませていた。
 <力>をもってここではない遠い景色を覗き見て憤慨する。向日葵はマガツメの長女。マガツメが兄と敵対するうえで、一番初めに斬り捨てなければいけなかったのもが鬼となった存在である。

「お母様もご覧になられました?」

 後ろから向日葵を抱きすくめる、黒衣を纏った鬼女。緩やかに波打った金紗の髪。闇の中にあって眩いまでの美しさを誇っていた。
 マガツメ。
 向日葵の母は、質問には答えなかった。
 ただ昏い、宵闇よりも尚昏い声でぽつりと呟いた。

『……許せない』

 夜は深く、呟きはそっと消えていった。





 鬼人幻燈抄 明治編 余談『鬼人の暇』・(了)
           次話『あなたとあるく』



[36388]      『あなたとあるく』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/04 16:53
 


 いまもおぼえている、あなたとすごしたひびのこと。




 ◆



 明治十四年(1881) 十一月


 頬を撫でる風に僅かながら目を細める。
 変わる季節、くっきりとした星空に感じる冬の色。触れる外気が肌に痛い。吹く際の甲高い音と相まって、冬の風は鋭い剃刀を思わせた。
 整然とした京の町も、大通りから少し離れれば薄暗い小路が多くなる。黄昏にもなれば光の差し込まぬ小路は本当に暗く、すれ違う人の顔さえ定かではなく。
 そういう場所には古くから、人に紛れてあやかしが闊歩していた。

 寒々とした黒天の下、呻きが聞こえる。

 夜になり、まともな灯りのない小路には、一匹の異形と一人の男があった。
 鬼は眼前の男を睨み付け、しかし当の男は退屈そうに頭を掻く。そこに怯えはなく、ごくごく自然な立ち振る舞いだ。
 余裕の態度を崩さぬ男。言葉を発さぬ鬼にも感情はあるのだろう。己を軽んじる男へ向けて、目に見えた憎悪を振りまきながら鬼は駈け出す。一息で距離を零にする脚力。見せつけられた人の枠を食み出た挙動。

「所詮は下位やな」

 男はあくまで自然体だった。
 あわせるように腰を落し、左足に体重をかけ、ぐっと踏み込む。
 足の裏は地面をしっかりと噛んでいる。捩じられた体、その反発を持って力を生み出す。足から腰へ、上半身、肩。そして腕の先にまでそれは伝わる。

「どこぞの蕎麦屋の店主より遥かにのろいわ」

 繰り出す掌打は正確に鬼の顎を捉え、その勢いに相手の体が僅かに浮き上がる程だ。人が相手ならばこれだけ決まっていた。
 だが相手は下位とはいえ鬼。ただの掌打では倒すに至らない。
 だから、次の一手がある。

「“しゃれこうべ”」

 左手には三つの腕輪念珠。鉄刀木で作られたそれは、全てに羅漢彫が施されている。
突き出した左腕から放たれたのは、人の骨。骸骨がカラカラと音を立てながら鬼へと襲い掛かる。
 一体だけではない。四体五体と現れ、雪崩れ込むように鬼を覆う。その頭蓋は、念珠のうちの一つに施された彫刻とよく似ていた。
 骨が肉を齧る。されど咽喉はなく、零れ落ちる。
 血が飛び、しゃれこうべが赤く染まる。
 鬼は抵抗など出来ぬまま肉を荒らされ、次第に白い蒸気が立ち昇る。
 消えゆく骸をどこかつまらなさそうに男は眺め、しばらくの後、鬼は骸骨どもと共に冬の空気へ溶け込んでいった。
 それを見届け、 ふうっ、と一息吐いて男───宇津木平吉は佇まいを整えた。
 
「……嫌な気分やな」

 憎い筈の鬼を討ちとり、しかし何故か胸中は霞がかったようで、冬の冷たい風は殊更厳しく感じられた。 





「……宇津木さん、助かりました」

 路地裏から出れば、裕福そうな身なりの、恰幅のいい男が待っていた。
 とある商家も主人で、今回平吉に鬼の討伐を依頼した張本人である。

“店の近くの小路で鬼の目撃例が増えている。だから退治してくれ”
 
 この依頼はもともと秋津染吾郎へのものだった。
 しかし当の染吾郎が乗り気ではなかった為、ならば俺がと平吉が引き受けたのだ。

 染吾郎は本来この依頼を受けるつもりはなかった。
そもそも件の鬼は誰かに危害を加えた訳ではなく、主人も特に被害を受けてはいなかったからだ。
 商家の主人は言う。近くに鬼がいる。ただそれだけで不安なのだと。
 それが気に入らない。何の罪もない鬼をこちらから出向いて討つのは彼の矜持に反した。鬼にも悪鬼善鬼がいる。鬼だから、というのは染吾郎にとって討伐の理由にはなり得なかった。 
 しかし平吉には違った。
 鬼を嫌う彼には、主人の気持ちがよく分かる。だから師がいかないのならば俺が代わりにと言って依頼を受けた。それが一連の流れである。

「ああも簡単に鬼を討つ。“あの”秋津の弟子というだけはありますなぁ」

 商家の主人は心からの安堵を顔に浮かべ息を吐いた。
 それを見て、平吉は胸のつかえが取れたような気がした。 
 彼自身、鬼の中にだって“いいヤツ”がいることくらい、長年蕎麦屋へ通い詰めたのだから十分に理解している。もしかしたらさっきの鬼もそういう善鬼だったのかもしれない。
“鬼だから”は、討伐の理由にはなり得ない。
 本当は、師の言っていることが正しいのだと、彼にも分かっていた。

 それでも現実として、鬼がいるだけで苦しむ人々は確かにいる。
 そして今目の前に、鬼が居なくなったことで笑う人がいる。
 だから師の言うことが正しいと理解しながらも、平吉は自分が間違っていないのだと思えた。

「もう師を越えられたんやないですか?」
「まだまだお師匠の足元にも及びませんわ。……蕎麦屋の店主にも負ける程度やし」
「は?」

 最後の呟きは商家の主人には聞こえなかったようだ。
 実際の所平吉は鬼を討つ者としては一端の腕を持っていた。付喪神の使役と体術の複合、二十一と言う若さを考えればその完成度はかなり高い。
 ただ不幸なのは、身近に規格外が二人もいる点である。
 未だに師の扱う付喪神は越えられず、鍛えた体術も甚夜相手では掠らせるのがせいぜい。その状況で自分が強いと思えるほど彼は自惚れていなかった。

「いや、何でもないです。ほな、俺はこれで」
「ああ、ちょっと待ったってください」

 主人から依頼料を受け取り、そそくさとその場を後にしようとが、歩き始める前に呼び止められる。
 
「まだ、何か?」
「いやあ、その腕を見込んで頼みがあるんです」
「はあ」

 曖昧に返事をする平吉。しかしそんなことはお構いなしに、主人は重々しく口を開いた。

「宇津木さんは、“癒しの巫女”をご存知でしょうか」








 鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』







「そやけどやっぱり寂しいもんやね」

 くいっと杯を傾け、染吾郎は溜息を吐いた。
 夜も深くなり、鬼そばで甚夜と二人酒を酌み交わす。染吾郎は今年で五十四、老人と言ってもいい年齢だがかなりの酒豪で、底無しの甚夜とどっこいどっこいである。そんな二人が呑んでいるものだから、卓の上に転がる徳利は既に十を超えていた。

「弟子の成長は勿論嬉しいんやけど、こうも一人で何でもやれるようになると、なぁ」

 今、平吉は一人で鬼の討伐に赴いている。勝手に、ではない。染吾郎がそれに足る実力を身につけたと判断したからこそなのだが、どうにもすっきりとしない心地だ。
 手のかかる弟子だった。だからこそ余計に手のかからない今が、なんというか、物足りなく思えてしまうのだ。

「自分で考えて、自分で動けるようになった。なのに、なんやろなぁこの感じ」
「分からんでもないさ」

 酒を飲み干して甚夜が答える。染吾郎の感じている物足りなさは、彼も経験があった。
 
「育ってくれたことが嬉しくもあり、手を離れていくことが寂しくもあり。そういうものだろう」
「あー、そか。野茉莉ちゃん?」
「ああ。親というのは難儀だな」

 野茉莉もまた、強く優しい娘に育ってくれた。それを嬉しく思うのに、もうこの娘には自分が必要ないのだと感じてしまうのがたまらなく寂しい。親というのはまことに儘ならぬものである。

「そか、今更やけど、君の辛さ分かった気がするわ。……よっしゃ、今日は呑も! 一晩中呑んで」
「駄目です」

 甚夜に共感し、これなら愚痴を肴にうまい酒が飲めると声を上げた所で、女の声が聞こえた。
 肩までかかる髪を桜色のリボンで結んだ細身の娘は、おぼんに乗せた徳利を卓に置きながら、少し強めに言う。

「深酒は体に悪いですから。これが最後ですよ」

 十八になり、しかしまだ表情にはあどけなさの残る、幼げな印象。
 葛野野茉莉。甚夜の愛娘であった。

「いや、もう少しくらいは」
「父様も駄目、だよ。明日もお店があるんだから」

 父が反論をしようとも聞く耳持たぬ。一刀両断とはまさにこのことである。幼い頃は父にべったりだった野茉莉が甚夜を押している。その姿が染吾郎には今一しっくりこない。

「……野茉莉ちゃん、押し強なったな」
「勿論。母は強し、ですから」
「………………は?」

 返ってきた答えは全く意味が分からないものだった。甚夜の方を見れば肩を竦めて、しかしどこか嬉しそうに口元を緩ませている。
 そしてぐいと盃を空け一言。

「この娘は私の母になってくれるそうだ」

 帰ってきた答えも、やはり訳の分からないものだった。

「はぁ?」
「もう同い年になっちゃったね。今は妹でも姉でもなく、お嫁さん、くらいかな?」

 甚夜をまっすぐに見つめ、何処か照れたように冗談を口にする。
 何を言っているのだろうか、この親娘は。呆気にとられ口を挟むことの出来ない染吾郎を余所に、またも女の声が聞こえた。

『ふむ……ここは正妻としての余裕を見せ、愛人の一人や二人認めるべきでしょうか。それとも旦那様の浮気は認めません、と毅然とした態度をとるべきか。難しい所ですね』

 卓の上に置かれた一振りの刀。夜刀守兼臣が、口もないのに空気を震わせ声を発する。
 甚夜の妻を自称する彼女にとっては野茉莉の言に思う所があったのだろう。

「まだ言うか」

 しかし今度は甚夜が戯言を切って捨てる。
 そもそも妻だと認めてはいないし、愛人という言葉を使うならば寧ろそれは兼臣の方になるだろう。
 確かに夜刀守兼臣も使ってはいるが、彼にとって生涯を共にすると決めた刀はやはり夜来である。
 いつきひめが受け継ぎ、長に託された。
 旅立ちの時から片時も離れなかった夜来は、既に彼の半身と言ってもいい。物言わぬ刃ではあるが、兼臣以上に愛着があった。

『何か問題でも?』
「問題が無いとでも?」

 刀と男がにらみ合いながら言葉を交わす。それを微笑ましく見つめる娘。あまりにも奇妙でやたらと疲れる光景だった。

「……こういうのも“女にもてる”ゆうんやろか」

 三人、もとい一鬼一人一振りのやり取りを眺めながら染吾郎は呆れたように息を吐く。
 もてているのは事実だろうが相手は娘と刀。あまり羨ましいとは思わなかった。

「……………なんや訳分からんからとりあえず呑も」

 それでも益体のない話というのも酒の肴の基本。
 騒がしい店内。手酌で酒を注ぎ、ぐいと咽喉へ流し込む。
 通る熱さは笑いが零れる程に心地好かった。



 ◆


 翌日。
 鬼の討伐を難なくこなした平吉は鬼そばで遅めの昼食をとっていた。依頼料が入ったので少しくらいは贅沢しようと思ったが、習慣というのは恐ろしい。気付けば鬼そばの暖簾をくぐり天ぷらそばを注文していた。

「平吉さん、昨日はお疲れ様」

 周りの客は少ないが、小声で、他には聞こえぬよう配慮しながら野茉莉が話しかける。

「おう、ありがとな。まあ疲れるような相手でもなかったけど」
「そっか。修行の成果、だね」

 それはもう眩しいほどの笑みで野茉莉は言う。
 彼女が自分の努力を認めてくれている。そう思えば自然と顔が熱くなった。
 
「まあ、そりゃ。ははは」

 返しは歯切れの悪いものになってしまった。二十一歳にもなって好いた相手の笑顔一つで言葉に詰まってしまうとはなんとも情けない。何か気の利いた科白を、そう考えた所でちょうど新しい客が入ってきてしまう。

「いらっしゃいませー!」

 ごめんなさいと身振りで示し、元気な声を上げて野茉莉が離れていく。
 呼び止めることも出来ず、所在無さげにほんの少しだけ手を伸ばす。それくらいが精一杯で、相変わらずの軟弱な自分に平吉はがっくりと肩を落した。

「昨日はどうだった」

 野茉莉に変わって平吉に話しかけたのは、新しい客の蕎麦を作り終えた甚夜だった。

「楽勝に決まっとるわ。……言いたないけど、あんたと比べたら大抵の鬼は雑魚やしな」

 先程の醜態から思わず語気が荒くなってしまうが、以前のように敵視しているのではない。それどころか、本人の前では決して口にしないが、今では甚夜に感謝さえしていた。
 というのも、平吉の師である染吾郎は体術を習得していない為、そちらの方は甚夜に相手をしてもらっているのである。
 もっとも甚夜は剣術が主であり、徒手空拳はそれなりといったところ。師と呼べるほど技は教えられず、練習相手と言った方が正しいだろう。
 しかし甚夜にとっての“それなり”は平吉からすれば十分規格外であり、そういう相手と鍛錬をしているからこそ、下位の鬼を取るに足らぬと一笑に付すことが出来る。
 つまり今こうして鬼と戦えるのは染吾郎のおかげ、そしてこの男のおかげでもあった。

「過分な評価だ。私よりも強い鬼などいくらでもいる」

 そう思っているからこそ、彼の言葉には驚愕を覚えた。

「……ほんまに?」
「知っているだけでも二匹。随分と昔だが、下位でありながら剣で私を上回る鬼がいた。そして……マガツメもだな」

 鬼は嘘を吐かないし、この男は冗談を言うような男ではない。
 つまり今の言葉は掛け値のない真実。平吉から見ればそれこそ化け物と言っていいほどの力を持つ鬼、それすらも凌駕する存在が現世にはいるのだ。その事実にごくりとつばを飲み込み、平吉は真面目な顔で頷く。

「俺、これからも真面目に修行するわ」
「それがいい。慢心している暇はない。以前も言ったが、私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ」

 至極真面目な顔で甚夜はそう言ってくれる。しかしそれが痛くて、平吉は俯いた。
 以前は喜んでいた筈なのに、明らかに沈み込んでいる。妙に思い甚夜は表情を変えず、雑談の延長のような調子で問うた。

「どうした」
「……あんたはそうゆうけど。俺、ほんまに“秋津染吾郎”に相応しいんかな」

 零れてきた弱音。意外だった。そういった悩みを抱いていることも、それを嫌っている筈の鬼に漏らすことも、想像していなかった。もっとも今は甚夜が思うほど嫌われている訳ではないのだが。
 俯いたまま、力のない声で平吉は更に言葉を続ける。

「お師匠は鬼にも悪鬼善鬼がおるんやから、悪さをしとらん鬼を討つのはまちがっとるって言う。そやけど俺は……あんたの前でこんなこと言うんは最低やけど。鬼を慮って、鬼の存在を怖がってる人を無視するのはなんや違うと思うてまう。お師匠の言ってることが正しいって分かっとのんに、や。そういう奴が秋津染吾郎を継ごうとして、ほんまにええんやろか」

 彼にとって付喪神使い、そして秋津染吾郎は特別なものなのだろう。
 そういえば以前、僅かだが語っていた。師は自分の親の仇を取ってくれたと。
 おそらくは、その時から秋津染吾郎の存在は憧れだった。
 平吉の苦悩はだからこそだ。憧れたものと、それとは程遠い己。理想と現実に挟まれて、彼は動けないでいる。

「私があいつに初めて会ったのは江戸の頃、もう二十年以上前だ」

 そんな彼に甚夜が返したのは、落とすような笑みと自身の古い記憶だった。
 簪とほととぎす。物に込められた想いが紡いだ不可思議な事件、それが切欠となり染吾郎と知り合った。しかしその頃のことを思い出すと、笑いが込み上げてくる。堪え切れず、甚夜はにやりと口元を釣り上げた。 

「その時染吾郎は言っていたよ。鬼はどこまでいっても倒される側の存在だとな」

 今の染吾郎とは真逆の主張。それを聞いて、あまりの意外さに目を見開く。

「お師匠が? 嘘やろ?」
「事実だ。元々害のない鬼を討つ気はなかったようだが、あれで昔は案外と好戦的でな。多少ではあるがやり合ったこともある。よく話し合えば回避できた戦いだ。思えば、互いに若かったんだろう」

 平吉は唖然とした。
 師もこの男も、彼にとっては理性的で分別を持った“大人”だ。
 それが感情に任せて戦うような真似をするとは正直に言えば思っておらず、意外さに目を見開いている。

「なんや、お師匠も昔からああやなかったんか」
「ああ、そうだ。それでも秋津染吾郎を名乗っていた。ならばお前が相応しくないなど在り得ん。寧ろそうやって悩める分お前の方が上等だ」
「はっ、そら言い過ぎやろ」
 
 ほっとしたように、表情を緩める。
 その反応が甚夜には微笑ましかった。
 成長はしたが、まだまだ青い。しかしその青さはかつての己が通った道だ。 
 甚夜もまた悩み、様々な出会いを経験し、僅かながらに変わることが出来た。そして変われたからこそ、変わろうともがく若者を暖かな心持で見てやれる。

「宇津木、お前は少し急ぎ過ぎだ。あいつも相応の経験をもって“尊敬に足る秋津染吾郎”となった。今のお前が届かないのは当然だろう。しかしそこに優劣はない。染吾郎は既に答えを出し、お前はこれから出す。それだけのことだ」

 その言葉を噛み締めるように小さく頷く。
 目に宿っていた陰りは消えていた。

「人の命は短い。だが、まだまだお前には時間がある。今は只管に悩み、より多くを積み重ねることだ。先達に比肩する答えを求めるには、お前はまだ若すぎる」
「ん……そう、やな」

 不敵な、戸惑いのない真っ直ぐな笑みが浮かぶ。
 鬼を是とするか。
 彼の悩みは簡単に解決するものではない。おそらくは、これからも事あるごとに立ち止まり苦悩するだろう。
 しかしそれでも、四代目秋津染吾郎を名乗るのは平吉であってほしいと思う。
 だから平吉の不敵な笑みが、甚夜には喜ばしく感じられた。

「あーと、なんや。とりあえず、あんがとさん」

 あからさまな照れ隠しで、投げ捨てるように礼を言う。
 ぱんっ、と自分で両の頬を叩く。胸のつかえは完全に取れた訳ではないが軽くはなったようだ。

「おっしゃ、結局んとこ悩んでる暇なんぞないってことやな。なら次の依頼に取り掛かるわ。……それでなんやけど、あんた、“癒しの巫女”って知っとるか?」

 平吉は気を取り直して次の依頼……昨夜商家の主人が語った巫女について訪ねてみる。
 甚夜もまたも鬼を討つ者。何か情報を持っているかもしれない。

「ああ、半年ほど前から噂になっている、触れただけで苦しみを癒す神仏の加護を受けた女、というやつだろう?」
「へぇ、そんな噂あったんか。俺、昨日聞くまで全然知らんかった」
「こういう店をやっているとな、自然と噂話の類は集まってくるものだ」

 それもそうだと納得する。案外蕎麦屋を職に選んだのはそういう理由からなのか。
 ともかく、知っているのなら話が早い。

「そんなもんか、まあええけど。んで依頼ってのが、癒しの巫女からて話なんや」
「ほう?」
「依頼自体はこれから聞きに行くんやけど。その前に、ちょっとでも情報集めとこ思てな」

 ふむ、と頷きしばし逡巡する。そして思い付くままに甚夜は言葉を並べていく。

「曰く、触れるだけで苦しみを癒す神仏の加護を受けた女。病魔に侵された者も癒しの巫女が触れればその日の内に歩き出したという。神出鬼没で何処に住むかも分からない。ふらりと現れては人々を癒し、対価に金銭の類も求めないそうだ」

 それはまた分かり易過ぎる善人だ。
 しかしその手の輩を素直に賞賛できるほど平吉は幼くなかった。

「出来過ぎとって逆に怪しいわ。そいつ、鬼女なんちゃうか」
「傷を癒す<力>といったところか。確かに、高位の鬼と考えた方がしっくり来るな」

 どうやら甚夜も同意見らしいが、その物言いに違和感を覚える。
 傷を癒す<力>。そんな“おいしそうな鬼”の話、甚夜ならば首を突っ込んでいてもおかしくない。だと言うのに噂を聞きながら、今まで何の動きも見せなかった。
 
「確かめとらんの? あんたの好きそうな話やろ」

 不思議に思い問い掛ければ、小さく首を横に振る。

「いや、確かめようとはした。ただ“癒しの巫女”に会えなかっただけだ」
「会えなかった?」
「ああ。神出鬼没とはよく言ったものだ。巫女が何処から来たのか、そもそも何者なのか。今話した内容くらいしか情報は得られなかった」
「ますます怪しいやん」

 はん、と鼻で哂う。
 同意するように重々しく甚夜も頷いた。
 今から依頼を聞きに行くが、警戒しておいた方がいいかもしれない。
 数多の鬼を討ってきたこの男が癒しの巫女を警戒している。ならば用心するに越したことはないだろう。

表情を引き締め、平吉は席を立つ。

「会ってみな詳しいことは分からんか」
「できれば、付いていきたいが」

 声を掛けた訳ではない。思わず零れてしまった呟きだった。
 心配、ということだろうか。
 細められた目。相変わらず表情は変わらない。師匠なら兎も角、平吉ではその奥にある感情までは読み取れなかった。

「やめろや、ガキやあるまいし。俺一人でってのが先方のお望みやしな」

 取り敢えず言葉を額面通り受け取り、軽く返す。するとやはり表情を変えないままで目を伏せた。

「そうか……宇津木、警戒は怠るなよ。癒しの巫女……名の響きとは裏腹に、存外厄介な相手かもしれん」
「忠告は受け取っとく。詳しい話はまた明日にでもしたるわ」

 気軽に言ってみたが、甚夜は僅かに眉を顰める。

「いや、悪いが明日は店を閉める。こちらにも、ちと依頼が入っていてな」
「なんや、そっちもか。ちなみにどんなん?」

 一瞬だけ躊躇いを見せ、しかし隠すことでもないと思ったのか、気負いなく語る。

「“逆さの小路”という話を聞いたことがあるか」
「んー……ないな」
「そうか、私もだ」
「おい、なんやそれ」

 聞いておきながら自分も知らない。意味が分からない
 ふざけた物言いに若干声を荒げるも、甚夜は相変わらずの無表情で言葉を続ける。 

「知らなくていいんだ。曰く、“逆さの小路”は呪われた話である為、それを聞いたものは非業の死を遂げる。故に内容を知る者はいない」
「あぁ、怪談とかでようあるやつか」
「その通りだ。……だが近頃この話がやけに耳を突いてな。その上つい先日、“逆さの小路を見た”という者まで現れた。どうだ、中々面白そうだろう」

 おかしな話だ。
 逆さの小路は誰も知らぬ筈の怪談。ならば現実に遭遇として、誰がそれを「本物」だと判断できるというのか。
つまり不自然に流れた噂も、目撃譚にも、なにか裏がある。
 そして、そこには相応の怪異が潜んでいる筈だ。

「……前から思とったけど、ようそんなけったいな話見つけてくるな」

 呆れたように半目で甚夜を見れば、言葉の通り口元を釣り上げてみせる。師のことを好戦的だとか評していたが、この男だって相当だ。結局二人とも似たようなものなのだろう。

「まあ、どうでもええか。長居してもた。もう行くわ」

 鬼と長々と話し込んだ。以前の自分からは想像もできないことだ。
 溜息を残し、今度こそ平吉は後にする。
 少し疲れたが、足取りの方は少しだけ軽くなったような気がした。
 

 ◆

 京都の東部、四条通の更に東。通りから少し外れた場所に、うらぶれた寺院が鎮座している。
 明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。
 神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
 平吉が訪れた寺院も廃仏毀釈の憂き目にあい、打ち壊されたひとつである。 
 放置され、草は生い茂り、廃墟と化した寺。ここに“癒しの巫女”がいると言う。
  
「寺に巫女がいるってのも妙な話やな」

 敢えて声に出したのは、高まり始めた緊張を少しでも和らげたかったから。癒しの巫女。平吉の推測が正しいのならば彼女はおそらく高位の鬼だ。鬼の討伐自体は何度か経験したが、まだ高位の鬼と一人でやり合ったことはない。否が応でも体が固くなる。

「ちっ、情けない奴」

 自分で自分を罵倒する。境内に入り足は竦み、本堂に入ることが出来ていない。しかしいつまでもこのままという訳にはいかない。量の掌で頬を叩き、気合を入れ直す。

「……いこか」

 ようやく歩き出す。
 商家の主人の話では、本堂で癒しの巫女が待っているという。警戒は解かず、いつでも付喪神を使えるよう左手に力を込める。
 そうして本堂に辿り着き、土足のまま中に入れば、そこには人影が在った。

「あ……」

 平吉は思わず声を漏らす。その声がどういう意図で零れたのかは彼にも分からない。
 ただ視線は本堂の奥で座したへと注がれている。

 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。
 透き通るような、とはこういうことを言うのだろう。少女の肌はあまりにも白く、細身の体と相まって触れれば壊れる白磁を思わせた。
 緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女は座したまま、能面のような無表情で平吉を見据えている。

「宇津木様、でしょうか」

 涼やかな声に、一瞬思考が止まる。

「あ、ああ」

 巫女の雰囲気に当てられ、ぼうっとしていたせいで上手く返せなかった。
 しかし巫女は気にした風でもなく、典雅な所作で頭を下げる。

「此度は依頼を受けてくださるとのこと。まことに感謝いたします」

 もう一度顔を上げれば、夜のように澄み渡る黒の瞳がこちらを捉える。
 艶やかな長い黒髪。白磁を思わせる肌。年の頃は十六、七と言った所か。見目麗しい巫女は、笑っているのに何故か冷たく感じた。

「そしたら、あんたが」
「はい」

 そこでようやく巫女は、緩やかな笑みを見せた。

「私は東菊(あずまぎく)……癒しの巫女、などと呼ばれてもおりますが」

 その姿が、最後まで巫女で在ろうとした“彼女”に似ているなどと、平吉に分かる筈もなかった。




[36388]      『あなたとあるく』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/04 16:53
 
 とうめいなあさ、さわがしいひる、ゆうなぎのそら。
 しずむひ、みあげれば、ほしにかわり。 




 ◆



「宇津木様、どうぞ楽に」

 寒々しい板張りの本堂。 
 東菊は本堂の奥、朽ちた木製の仏像を背に座している。
 柔らかな声を発したのは東菊(あずまぎく)───癒しの巫女と呼ばれる、実像定かならぬ女である。

「お、おお」

 言われるがままに腰を下ろし、正座する。何となく胡坐をかくような真似は出来なかった。そういう高貴な雰囲気が東菊にはあった。

「一応、確認しとくけど。あんたっ、じゃなくて、東菊さんは、依頼したいことがあるって話で間違いない……です、か?」

 その空気に飲まれ、どうにもうまく言葉を紡ぐことが出来ない。そんな平吉に、余裕のある態度で東菊は微笑んでみせる。

「ふふ、そう畏まらずとも結構です。巫女などと呼ばれてはおりますが、そもそも何の位もない。宇津木様が気を使うような女ではありません」
「そ、そか。ほな、あんたも」
「私はこれが普段通りですから」

 なんというか、上手くやり込められていると思った。
 二度三度首を横に振って平吉は気を取り直す。
 相手は鬼、それも高位の存在かもしれないのだ。弱みや隙を見せるのは好ましくないし、相手の見た目は十六くらい。自分より年下の女の子に押されるままではあまりに情けない。
 なにより、こんなザマでは秋津染吾郎に相応しいと言ってくれた何処かの誰かに申し訳が立たない。

「どうかされましたか?」
「いや。ほな、話を聞こか。これでも鬼の友人くらいおるからな。あんたが何もんでも、ちゃんと聞いてやれる」

 堂々と言い切った。知り合いではなく、自然と友人と言えた自分が少し恥ずかしく、同時に誇らしかった。

「それ、は……?」

 意外さに目を見開く。
 先程から動揺してばかりの青年が、こちらを見透かすような科白を吐く。おそらくは意識の外から殴られたような気分だろう。
 
「あんた、鬼やろ? それも、高位の」

 確認ではなく確信だった。何の気負いもなく、分かり切っていることを言ったに過ぎないという態度で口にする。
 どうやら当たりのようだ。あからさまに東菊の表情は固くなった。

「……隠すのも無駄、ということですか」
「おう。悪いけど、これで案外場数は踏んどる。秋津の弟子、舐めてもろたら困るわ」

 その呆気にとられた顔こそが見もので、平吉は勝ち誇ったように笑った。

「では私を討ちますか。秋津は退魔の名跡でしょう」
「当たり前や……と、言いたいとこやけど。話聞いてからにするわ」

 訝しんで目を細める東菊。秋津は鬼を討つ者、鬼を討ってこそである。彼女には平吉の言が理解できなかった。

「よろしいの、ですか」

 東菊の問いに、なんら動揺することなく、ごくごく自然体で平吉は答える

「人に害を出すような依頼は受けられん。そやけど鬼だから討つってのは、控えとこ思てな」

 無論、人と鬼を比較すれば、重きは人だ。
 しかしお前はまだ若いと、これから答えを出せばいいと言ってくれた鬼がいる。鬼にも善鬼悪鬼がいる、それを実感できた今、“鬼だから”を理由に討とうとは思えなかった

「そう、ですか」
「信じられんか?」
「いいえ、元々助力を乞うたのは私。ならば何を疑うことがありましょう」

 再び平静な巫女の顔で、東菊は丁寧に頭を下げる。
 その真摯な態度に、彼女は信じられるのだと平吉は感じた。

「では話を聞いてくださいますか」

 そうして東菊はゆっくりと語り始めた。




 ◆



「おぉ、巫女様……ありがてぇ、ありがてぇ」

 四条の裏長屋に足を運んだ東菊(あずまぎく)に、年老いた男が縋るように地面へ頭を擦り付ける。
 男は皺だらけの顔をくしゃりと歪めて、今にも泣きそうな表情だ。
 東菊は憐憫を帯びた瞳で男を眺めている。そして言葉もなくそっと触れると、掌からぼんやりとした光が零れた。
 変化は分かり易かった。次第に年老いた男の顔は穏やかになっていく。まるで憑き物が落ちたかのようだ。目じりが下がり、心からの安堵が伺える。
 
「巫女様」
「どうか、どうか」

 しかしそれだけで終わる訳がない。
 自分も楽になりたいと人々は次々に群がってくる。

「ああ、わたしも」
「お願い。辛くて、もう」

 重なり合う求めは願いよりも怨嗟に聞こえる。
 自分も自分も助けてくれと縋りつく人々は、平吉の目には亡者の群れのように見えた。
 しかし東菊は顔を歪めることなく、ただ静かな微笑みを称え、一人一人に触れていく

「勿論です。ひと時の慰めだとしても、どうか今は心安らかに」

 平吉は東菊の後ろから、その光景を呆然と眺めていた。
 これこそが、彼女の依頼だった。



 ***



「依頼は二つ。人探しと護衛です」

 今度は平吉が呆気にとられる番だった。

「人探し、護衛……」
「はい。といっても、人探しは私の方で。貴方には、その際の護衛を請け負っていただきたいのです」

 平吉は秋津の弟子であり付喪神使い、即ち鬼を討つ者である。それが、まさか討つべき対象である鬼から護衛を依頼されるとは思っていなかった。

「人探しは兎も角、護衛って誰ぞに狙われでもしとんの?」
「そういう訳ではないですが、外へ出るのに護衛が必要と言いますか」
「なんやそら」

 表情を変えずに訳の分からないことを言う。
 何か裏があるのか、考えても分からず彼女の表情からは何も読み取れない。むぅ、と平吉が唸っても、東菊はいたって冷静に話を続ける。


「本当は素性を隠して願うつもりだったのですが」
「ばれてもたしなぁ」
「ええ。ですから素直に依頼をさせて貰おうかと」

 静かな湖面のような、動かない微笑みを浮かべ、東菊はこくりと頷く。
 奇妙な話ではあった。師匠が師匠だし、鬼との交遊もある為、一方的に鬼を討つような真似はしない。しかし、もし平吉が“まっとう”だったなら、その時点で東菊は殺されていてもおかしくなかった。
 彼女はそういう相手に護衛を頼んでいる。普通に考えれば、在り得ない話だ。

「一応聞いとくけど、あんた俺がどういう奴か知っとるよな?」
「ええ、勿論」

 澄ました顔で答える。
 やはり平吉には東菊の意図が読めない。考えても分からない、元々深く考えるのは得意ではなかった。

「そしたら、なんで俺に頼んだん? もしかしたら、殺されとったかもしれんのに」
「なん、で? なんで、でしょうか」
 
 自分でもその理由を掴みかねているのか、先ほどまでの澄ました態度は崩れて、少女らしい顔が覗いている。
 悩み、視線をさ迷わせ、平吉の問いに答えるではなく、思い付いた言葉をただ口にする。

「ただ、貴方に頼めばなんとかなると思いました。だって鬼を討つ者だから」
「はぁ?」
「そう、そうです。きっと鬼を討つ者なら、私をいつだって」

 そこまで言い掛けて、ようやく意識を取り戻し東菊は佇まいを直した。

「……いえ、人伝に聞いた貴方ならば、私を助けてくださると思ったのです」

 鬼は嘘を吐かないというが、彼女が本当のことを語っているとは思えなかった。
こういう時、師はどう考えるのだろう。蕎麦屋の店主だったならば。精一杯想像するも、一向に浮かんでこない。
 今分かるのは、東菊が鬼であることを隠してまで、探したい誰かがいるということ。
 とは言え、それだけでは依頼を受けていいものか判別がつかない。 

「そやけど人探しは兎も角、護衛ゆわれても、四六時中一緒にいる訳にはいかん」
「そこまでは求めません。外へ出る際だけでも結構です」
「んー……」
 
 煮え切らない態度の平吉に、東菊は静かな微笑みを浮かべる。

「貴方は、私の意図が読めないから受けるのを躊躇うのでしょう?」

 こちらの思考を読まれ、ぐっと言葉に詰まる。
 しかし巫女は不機嫌な様子もなくやはり微笑んだまま。

「ならば、試しに今から付き合っていただけますか?」

 そう、言った。



 ***



 このような遣り取りを経て、平吉は一応のこと護衛として東菊の傍に控えている。
 秋津の弟子を護衛にしてまでやりたいことが何なのか見極めたかった。
 そうして目の当たりにしたのは、鬼女が人を癒す為に身を粉にする姿だ。先程から東菊はひっきりなしに訪れる人々に手を翳していく。
 触れるだけで苦しみを癒す、神仏の加護を受けた女。
 噂は事実だった。確かに癒しの巫女は触れるだけで人を癒す。彼女を中心に円を描くように長屋の住民は押し寄せてくる。
 一人触れて癒し、一人触れて癒し。
 繰り返し繰り返し、癒しの巫女は人々に救いを与える。
 

 本当に、こんな女がおるんか。


 目の当たりにする奇跡。触れるだけで人を救うことではない。救ってくれと我先に押しかける人々を前に、微笑んでその醜さを受け入れられる、それこそが平吉にとっては奇跡に等しかった。
 しばらく、あまりにも非現実的な情景に目を奪われていたが、人の輪の外が騒がしいことに気付く。何かあったかと思い平吉は東菊から離れ、騒音の下へと近付いていく。

「太助さんもはよう! 巫女様が来てくださったんや!」
「良いんですよ、儂は」

 どうやら二人の男、既に五十を越えた老人同士が言い争っていたようだ。
 いや、言い争いと表現するには一方的だ。一人は巫女の所に行こうとしているが、もう一人はそれを拒否している。興奮しているのは連れて行こうとしている老人だけ。太助と呼ばれた老人は疲れたような表情で首を横に振るばかりだった。

「止めはしません。ですが、儂は本当にいいんです」
「太助さん! ……なんでや」

 太助の言葉に訛りはない。おそらく、元は他の土地の生まれなのだろう。
 振り返ることなく、ふらふらと覚束ない足取りで去っていく。それで終わり。太助は姿を消し、戻ってくることはなかった。
 だから大して気にするでもなく、もう一度奇跡のような女に目を向ける。
 長い黒髪、雪のように白い肌。
 美しい容姿、しかしそれ以上に彼女の所作が美しいと思える。
 平吉はしばらくの間、癒ししを与え続ける東菊の横顔を眺めていた。




 ◆




「護衛って、そういう意味な」

 陽はもう完全に落ちて、薄暗い廃寺の本堂に戻る。向かい合わせで座り込み、平吉は呆れたように溜息を吐いた。

「すみません、どうも切り上げ時というものが分からなくて」

 置かれた行燈の灯が揺れている。疲れているのだろうか、淡い灯りに映し出された少女は、先ほどよりも白い肌をしているように見えた。

「人探しがはかどらんってそらそうや。自分、探してないやん」
「返す言葉もありません……長々と付き合わせてしまって」

 結局あれから数えるのも億劫になるくらい癒しを与え、いい加減焦れた平吉が人々を帰らせるまで東菊は動こうともしなかった。折角外へ出ても、目的の人探しは全くできないままだった。
 平吉は、依頼の意図をようやく理解した。
 東菊の言う護衛とは、命を狙われているから守ってくれ、という意味ではい
 後から後からやってくる癒しを求める人々。放っておけば何時まで経っても身動きが取れない。だから適当なところで人々を解散させてくれる、押しの強い誰かが欲しかったのだ。

「俺は別にかまへんけど、あんたこそ疲れたんちゃう?」
「いいえ、それほどでは。……あと、東菊です」
「は?」
「ですから、あんたではなく、東菊とお呼びください」

 物腰こそ柔らかいが、頑として譲る気はない、彼女の言葉にはそういう力強さがあった。

「あー」

 初対面の女に名前で呼ぶのは正直照れくさい。しかし彼女の目はあまりにも真っ直ぐで、
どうにも断りきれそうにない。
 
「あ、東菊」
「はい」

 返ってきたのはあまりにも素直な笑顔。それが妙に子供っぽく可愛らしく見えて、平吉は顔を赤くした。

「いや、ああ。そやっ、さっき触れただけで皆えらい穏やかになっとったけど、あれってなんや? あん……東菊の<力>なんやろ?」

 自分でも思っていた以上に動揺してしまい、照れ隠しに取り敢えず問いかけてみる。
 平吉の内心など透けて見えているだろうに、東菊はそこには触れずちゃんと答えてくれた。

「<力>の名も<東菊>と言います。……周囲からは癒しの巫女などと呼ばれていますが、あれは癒しなどではありません。記憶の消去・改変、それが私の<力>です」
「記憶の?」
「ええ。辛い記憶を消して、ひと時の慰みを与える。私に出来るのはその程度……だから、私は東菊なのです」

 愁いを帯びた目。沢山の人を救いたいのに、為せることはあまりに少ない。無力に苛まれたその色は、平吉にも覚えがあった。

「すまん。なんや、嫌なこと聞いた」
「いいえ、気にしてはおりません」

 気遣ってか、静かに微笑んでくれる。
 そんな表情を見せられては、平吉に言えることなど一つしかなかった。

「……護衛の依頼、受けるわ」
「え?」
「そら四六時中ついてはやれんけど、偶にくらいならな」
「宇津木様……」

 ゆるりと目を細め、感謝に潤ませる。
 こういう時に照れてそっぽ向いてしまう辺り、自分はあまり成長できていないのだろうと平吉は思った。

「ありがとうございます。……あまり、お礼は出来ないのが心苦しいのですが」
「期待してへんからええよ。まあ、息抜きやと思うことにするわ」

 そう言って手をひらひらと振って、気にするなと示してみせる。
 これは修行の一環。決して情にほだされた訳ではない。自分に言い聞かせて見ても、あまり説得力はなかった。

「ああ、そうや。依頼を受けるからには聞いとかなな。あんたの探しとる人って、どんなヤツ?」

 何気なく、軽い調子で聞いたのは、彼女を安心させてやりたかったから。

「さあ? ……私には、よく分かりません」

 しかし東菊の浮かべた表情に安堵はなく、何故か寂寞の色が映し出されている。
ここではない何処かを眺めるような遠い瞳。
 平吉には何故か、彼女が帰る家を失くした子供のように頼りなく見えた。

「は? 分からんって、探しとるんやろ」
「……はい。ずっと探しています。誰かを。それが、誰なのかは分からなくて。でも、ずっと、探しているんです」

 そして、すぅ、と瞬きもせず一筋の涙が零れる。

「お願いします、宇津木様。どうか、御助力を……」

 縋るような想い。
 それがあまりにも痛ましくて、平吉は何も言えなかった。




 ◆



「あー、今日もいい天気だ。しっかり働くとしますかねぇ」
 
 翌朝、いつものように甚夜は三橋屋の主人、三橋豊重と店先を掃除する。
 以前作った“あんぱん”は今では三橋屋の人気商品となり、気をよくした豊重は以前からは考えられないほど真面目に、そして楽しそうに働いていた。

「調子がいいようでなにより」
「いやいや、これも葛野さんのおかげだ。借りはちゃんと返すから、なんかあったら俺にどんと任せてくれ」
「三橋殿の努力のたまものだとは思うが……そう言うならば頼らせて貰おう」

 お互い顔を見合わせ小さく笑い合い、それでも手は止まらない。
 ゴミをちりとりで集め終え、さて店に戻ろうかという時、三条通に見知った顔を見つけた。

「宇津木」
「おう。よかった、まだおった」

 挨拶代わりに軽く手を上げた平吉は、昨日よりも幾分晴れやかな顔である。
 というよりも、にこやか過ぎて訝しんでしまうほどだった。 

「どうした」
「あんた今日出かけるんやろ? その前に話せへんかな思て。あと、土産も欲しかったしな」

 その言葉に反応したのは、掃除を続けていた豊重だ。
 身を輝かせて隋と平吉の前に躍り出る。

「お土産をお求めですか? それなら三橋屋名物“野茉莉あんぱん”を是非に!」

 商売根性が出てきたのは喜ばしいことだろうが、平吉の目はひどく冷たかった。もっとも向けられているのは豊重ではなく甚夜の方である。

「おい、野茉莉あんぱんて」
「……その、なんだ。新しい菓子の名前を考えてくれと頼まれて、ついな」

 親馬鹿ここに極まれり。
 なんというか、この男、実は見た目ほど“冷静な大人”ではないのかもしれない。平吉がそう思ってしまうのも仕方のないことであった。

「まあ、ええけど。あんぱんは後で見に行くわ」
「はい、ありがとうございます!」

 依然顔を近づけたままの豊重をあしらい、平吉は目配せで合図をする。言葉無く頷き、二人は店へと入って行く。
 そうして適当な椅子に腰を落ち着け、開口一番平吉は言った。

「東菊って知っとる?」

 いきなりすぎる問い。僅かに甚夜が顔を顰めれば、失敗したと思ったのか慌てて言葉を付け加える。

「いや、俺そうゆうのイマイチ分からんから教えて欲しかったんやけど。あんた、結構詳しかったやろ?」

 しかし甚夜の表情は変わらない。視線からは相変わらず意図が読めず、何故か妙に緊張してしまう。

「東菊は、都忘れの別名だな」

 たっぷり数秒は間を開けてから、甚夜は答えた。

「都忘れ?」
「晩春から初夏にかけて青紫や濃紫の花を咲かせる。その昔、佐渡に流刑の身となった順徳天皇が、咽び泣く日々の中この花を見つけ“しばし都を忘れさせてくれる程に美しい花だ”と称したらしい。以来“都忘れ”と呼ばれている、という話だ」
「はぁ……ほんまに詳しいなぁ」
「受け売りだ。昔ある女に教えて貰った……で、癒しの巫女となんの関係がある?」

 一気に確信を突かれ、平吉は体を震わせた。
 なんで? 驚きに声を出せず、視線で問えば呆れたような溜息で返される。

「昨日の今日だ。関係があると思うのは当然だろう」
「……それもそうやな。あー、癒しの巫女の名前が東菊ってゆうんやけどな。どんな花なんか気になって」
「ほう、中々に風流な女だ。ひと時の慰みを与える巫女、己が在り方を都忘れと例えたか」
「ああ……」

“辛い記憶を消して、ひと時の慰みを与える。私に出来るのはその程度……だから、私は東菊なのです”
 彼女の言葉の意味に今更ながら気付かされた。
 こういう時、自分はまだまだ未熟だと思い知る。もう少し知識があったならば、昨日東菊が名を名乗った時、気の利いた科白の一つも掛けてやれたのに。

「もう一つ、人探しをする時、あんたならどうする?」
「私なら、か。まずは足取りを追い、周りに話を聞く。足で探すのが基本だと思うが」
「やっぱ、そうか」

 普通はそうなるだろう。だが東菊は、“誰かを探している、それがだれかは分からない”らしい。これでは足取りを追うことは出来ない。さて、どうしたものか。

「で、どう見る?」
 
 悩みこんでいると、唐突に甚夜が言った。

「どうって」
「癒しの巫女に会って、お前はどう思った」

 最初に思ったのは、長い黒髪と白い肌の美しい女だということ。しかし甚夜が聞きたいのはそういう感想ではない。東菊は人か鬼か、その性状は如何なるものかを問うている

「高位の鬼……そやけど、人を傷つけるような奴やない」
「そう、か」

 含むところがあるのか、歯切れの悪い返事だった。
 顎に手を当て視線を落とし、なにやら考え込んでいる。かと思えばすぐに顔を上げ、いやに真剣な顔つきで平吉を見る。

「ならいいが、油断はするなよ」
「そない警戒するような相手やないと思うけどな」
「だとしてもだ」

 妙に強い口調で、反論を封じられてしまう。
 平吉は、この男は東菊を見ていないから警戒しているのだと思った。つまりは、得体の知れない鬼を相手にするのだから注意しろということ。強硬な物言いには若干苛立ちもしたが、それも自分を心配するが故、だから表には出さず飲み込む。
 そして一息ついて、平吉は立ち上がった。

「ほな行くわ」

 素っ気ない態度は苛立ちがまだ少し残っていたせいだろう。
 今日もまた護衛の約束をしている。土産に菓子でも買って、廃寺へと向かうことにした。









 去っていく背を眺めながら、甚夜は目を細めた。
 彼は純粋に平吉を心配していた。秋津の弟子だ、その眼力は確か。平吉が害はないと判断したならば、癒しの巫女は事実無害な鬼なのだろう。
 ただ、東菊という名が引っ掛かる。
 向日葵、地縛……彼女らは花の名を持つ鬼女だった。
 そして東菊もまた、花の名を持つ鬼女である。

「杞憂であればいいが」

 店内に静かな呟きが響く。
 悪い想像はべったりと脳裏に張り付いていた。




 ◆



 平吉が廃寺を訪れた時、昨日と同じ場所で正座していた。

「宇津木様」

 迎えてくれたのは目を細め口元だけで微笑む、感情の乗らない表情。
 確かに東菊は美しい少女だと思う。ただ表情があまり好きではない。個人的には、やはり笑顔というのはもっと明るい方がいい。
 そう、例えば野茉莉のように……と、そこまで考えて平吉は煩悩を振り払うように首を振った。いけない、金は貰っていないとはいえ一度受けた依頼、もっとまじめに望まなければ。

「……どうかされましたか?」

 その様子を不審に思ったのか、冷たい目で東菊が見ている。
 居た堪れない気持ちになりながらも、努めて冷静な表情を作ってみせる。知り合いの蕎麦屋の店主を真似てみたが、上手くいかず、口元は完全に引き攣っていた。

「いや、べつに」
「そうですか」

 無味乾燥な遣り取り。気まずくなって、平吉は取り敢えず話を逸らそうと手にした包みを見せる。

「あー、土産持ってきた」
「みやげ、ですか」
「そう、野茉莉あんぱんゆう、最近流行の菓子なんやけど」
「え、やった!」
 
 ……今度は、平吉が冷たい視線を送る番だった。
 先程までのすまし顔の巫女はいない。ぐっと握り拳を作り、見せられた菓子を喜ぶ年相応の娘がそこにはいた。

「……………気を使わせてしまったようで、申し訳ありません」

 平吉の白けたような態度に気付き、東菊は佇まいを直しこほんと咳払いをする。
 残念ながら今まで感じていたような高貴な雰囲気は欠片も残っていなかった。

「……今更取り繕っても遅いと思わん?」
「何のことでしょうか」
「いや、なんのことって。もしかせんでも、今までの態度って演技か」

 呆れたような視線が突き刺さる。
 それに耐えられなくなり、東菊はいじけたように、子供のように呟く。

「……………………だって、そっちの方が巫女っぽいし」

 台無しだった。
 人々に癒しを与える巫女、奇跡のような女。
 平吉の抱く癒しの巫女像は物の見事に粉砕された瞬間であった。




「まあ、喜んでくれたんやったら俺も嬉しいけど」

 買ってきた野茉莉あんぱんを満面の笑みで頬張る東菊。もう溜息も出てこなかった。

「私ずっとここにいるから甘いものってあんまり食べられないんだ。外に出たら昨日みたいなことになるし。あー、おいしーなーもう」

 どうやら彼女の態度は、“巫女に相応しい在り様”というものを考えて自分で造ったものらしい。ちゃんと接して見れば、東菊は甘いものが好きで明るい、普通の娘だった。

「喋るか食べるかどっちかにせーや」
「なんか、昨日より態度悪くなった」
「理由が分からんとは言わんよな?」

 あはは、と軽く笑いながら視線を逸らす。
 昨日の東菊の振る舞いには感動したのだが、まさか一日もたずに評価を改めることになろうとは。

「別にええけどな。……つーか、まさか昨日の依頼まで嘘とは言わんよな」
「あ、それひどい。嘘は吐いてないよ。護衛してほしいのも、人探しもほんと。私、ずっと探してるの。名前も可も分からないけど、その人を」


 最後の一欠けらを飲み込み、真剣な表情で平吉の目を射抜く。
 そこに嘘はない……ような気がする。確信はないが、そう思えた。

「ふーん、そん人のこと、ほんまになんも覚えて無いんか?」
「……うん」
「それやったら探しようがないな」

 腕を組んで悩む。しかしその愁いは彼女の言葉で払拭される。

「でも、会ったらわかる」
「は?」
「分かると思う、会えば。ずっと探していた。だって私は、その人に会うために生まれたんだから」
 
 思い詰めるような表情。
 奥底にある想いが如何なるものか、平吉には読み取ることが出来ない。
 東菊が隠しているからではなく、“その為に生まれた”と言えるほど強い何かが、平吉にはないからだ。
 覗き見た横顔は、済ました巫女の顔よりも余程綺麗に見えて。
 でもそれを何故か、寂しいと感じた。







 ◆





「……おお、あんたか」

 平吉と別れた後、四条通の裏長屋へ訪れた甚夜はその足で依頼人の下へ向かった。
 五十半ばから六十といったところだろうか。おそらくは甚夜と同じくらいの歳だ。
“逆さの小路”に入った友人が命を落とした。調べて、解決して欲しい。
 それがこの老人の依頼だった。

「すまんなぁ。態々来てもろて」
「いえ。早速ですが、詳しい話を聞かせて貰えますか」

 しかし肝心の話になると、悔やむように俯いてしまう。

「すまん、分からんのや」

 前回依頼を受けた時もまた同じだった。
 逆さの小路。彼はその話を知らないと言う。そしてそれは、下調べをした甚夜もまた同じだった。



“逆さの小路”はあまりにも恐ろし過ぎる怪談。
 聞いた者は恐怖のあまり身震いが止まらず、三日と経たずに死んでしまう。
 この怪異に見舞われた初めの者は発狂し命を落とし、それを見ていた者達も恐ろしさのあまり人に乞われても語らぬまま寿命を迎えこの世を去った。
 そうして逆さの小路を知るものはみな死んでしまい、今に伝わるのは逆さの小路という名称と、それが無類の恐ろしい話であった、ということだけである。



 これが今回甚夜の調べた逆さの小路の全てである。
 つまり逆さの小路という名前だけが先行して、如何なる怪異があるか誰も知らない。最初から、そういう話なのだ。

「“逆さの小路”は呪われた話。聞いたもんは皆死んで、話の筋は誰も知らん。だから儂もなんも知らん」
「だが」
「ああ、そうや。知らん、知らんはずやのに。儂にはそこが逆さの小路だと分かった。なんでか儂にも分からんけど、分かったんや」

 なのに、老人は逆さの小路を見つけ、友人が命を落としたと言う。
 内容の分からない怪異に巻き込まれ、だというのにそれが逆さの小路によるものだと彼は判断した。
 その理由が、自分のことなのにまるで分らない。
 老人は体を震わせ、不快感から顔を歪めた。演技には見えない。心からの不安がにじみ出ている。

「そうですか。では、逆さの小路まで案内をしてほしいのですが」
「……分かった。そやけど、儂はそこまで行きとうない」
「場所さえ教えて頂ければ、途中までで構いません」
 
 結局のところ、行って実際に調べてみるしかないだろう。
 訳の分からない怪異に対する躊躇いはなかった。この手の中身のない怪談というのは、殆どが作り話だからである。
 甚夜は逆さの小路自体は単なる作話だと考えていた。
 ただ、作り話が此処まで流布された理由、そこに潜むなにか。
 それをこそ知りたかった。
 今は、多くの怪異を解き明かすことが甚夜の目的。
 そのどれかが、或いはマガツメに繋がっているかもしれない。
  
 そうして訪れたのは四条通の裏長屋を通り過ぎ、寺社仏閣の立ち並ぶ区域。そこからわずかに外れた、建物と聞きの影になり光の差し込まぬうらぶれた小路だった。
 既に老人は逆さの小路を恐れ帰った。しかし実際に見ても、別段普通の裏路地であり、鬼の気配も感じられない。これは外れを引いたかと唸っていると、不意に姿を現した老翁に声を掛けられる。

「もし、ここで一体何を?」

 背骨の曲がった、年老いた小男。年齢は依頼人とさほど変わらないだろう。
 目には不信の色が浮かんでいる。

「失礼。逆さの小路というものを調べておりました」

 隠すことでもない。妙な疑いを掛けられぬよう、素直に答える。

「逆さの、小路?」
「はい。なんでも此処で命を落とした者がいるとか。それが逆さの小路のせいだ言う者がおり、調べて欲しい依頼を受けました」
「ああ……」

 老翁が浮かべたのは呆れたような、馬鹿な子供を見るような得も言われぬ表情だった。

「そうですが。ですが、調べたところで何も出てきませんよ。そこはただの小路ですし、逆さの小路なんぞ存在しませんから」

 その物言いが引っ掛かる。今まで集めた情報では“逆さの小路はあるが、その内容は知らない”というものばかり。しかしこの老翁は“ない”と断定した。それは、全容を知らなければ口に出来ない言葉だ。

「貴方は、何かご存じで?」
「……いいえ」

 疲れたような笑み。間違いない。この老翁は全てを知っている。

「挨拶が遅れました。三条通で蕎麦屋を営んでおります、葛野と申します。よろしければお名前を」
「……太助と」

 京訛りのない男、太助は名乗ると同時に背を見せ、去っていく。
 呼び止めることはしなかった。今強硬な手段を取った所で話してくれるとは思えない。まず自分なりに逆さの小路を探り、真相のとっかかりくらいは見つけなければ話を聞いてもらうことさえ出来ないだろう。
 まずは、小路に入り調べる。
 そうして足を踏み入れ、甚夜は動きを止めた。

「……な」

 先程まで確かに何の気配もなかった。
 油断もなかった。なのに気付けば、目の前に。
 吐息がかかる程の距離に、黒い影が。
 咄嗟に夜来へと手を掛け、いや遅い、それよりも黒い影の蠢きの方が早い。
 辛うじて人型を保っていた黒い影は崩れ、淀み、しみのように広がり、

「ぁ」

 避けることも、声を上げることさえ出来ず、甚夜は影に飲み込まれた。




 ◆








 それからどれくらいの時間が経っただろうか。
 自分が眠っている。それが分かる。しかし体は重くて、起き上がろうという気にはならず、頭の方もまだ寝ぼけている。

「…太、もう朝…よ。……て」

 まどろむ意識がゆっくりと引き上げられる。揺さぶられる心地良さがより眠気を誘う、緩やかな朝のひととき。

「野、茉莉……?」

 いつまでも眠っていたいと思う。しかしそういう訳にもいかない。眠気を必死に噛み潰しながら重い瞼をゆっくり開ける。そうして自分を起こそうとしている娘に声をかけようとして。

「おはよ」

 艶やかな長い黒髪に、雪の如く白い肌。
 ゆったりとした笑顔。その甘やかさに呆け、次第にはっきりしてくる頭が違和感に停止した。

「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。ちゃんと一人で起きれるようにならないと駄目だよ?」

 凍り付いた。
 夢に見ていた。もう一度会いたいと心の片隅で、きっと願っていた。
 しかし現実になった今、心が追い付いてこない。
 そこにいたのは此処にいない筈の人物。
 葛野の土着神『マヒルさま』に祈りを捧げるいつきひめ。
 甚夜は彼女のことを、かつてこう呼んでいた。

「………白……雪?」

 ああ、なんで。
 失くした筈の彼女が、どうしてここにいる?





 鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』中断
    次話 葛野編『鬼と人と』・4(再)






[36388]      『鬼と人と』・4(再)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/04 16:54

 いつものように、てをつないで、ふたりいえじをたどる。



 ◆



「そやけど、イマイチ分からんな」

 あんぱんを満足気に食べる東菊を眺めながら平吉はふと零した。

「なにが?」
「記憶の消去・改変なんて<力>で、ついた通り名が癒しの巫女。なんでやろなーと思て」

 傷を治したり病を癒したり、癒しの巫女はそういう<力>を持っているのだと思っていた。
 しかし実際は治癒的な要素などまったくない。純粋に、何故彼女が癒しの巫女と呼ばれたのか気になった。
 
「んー」

 東菊は最後の一欠片をこくりと飲み込み、口元を拭く。少しだけ悩み、うんと頷いてから言葉を発した。
 
「例えば、私と宇津木さんが恋人同士だとするよね?」
「こっ、こいび……!?」
「だから、例えば!」

 例え話といえども相手は美しい少女。恋人という単語は平吉を慌てさせるには十分だった。
 照れて視線をあちらこちらに動かす平吉を見て、言った本人も照れたのか、僅かに頬を染めながら怒鳴る。
 そしてこほんと咳払いをして、冷静なふりをして話を続ける。

「で、もし私が誰かに殺されたら、どう思う?」
「……そら、多分殺した奴を恨む」

 不愉快な仮定に顔を顰める。
 平吉の父母は鬼に殺された。大切なものを失う痛みは、実感として胸にある。だから目の前で死に絶える東菊の姿が容易に想像できてしまった。
 答えは間違っていなかったらしく、東菊は満足げに頷く。 

「それが普通だと思う。恨んで、どうにもならないって知ってるから苦しんで。毎日毎日なんで自分はあいつを守ってやれなかったんだろうって嘆きながら暮らすの」
「嫌な話やな」
「そうだね。……じゃあ、もし私が病死とか寿命とか、そういうどうにもならないもので死んだら? きっと悲しいけど、仕方のないことだからって諦められるんじゃないかな」

 それは、確かに。
 殺されたのでなければ恨む相手は神様くらいのもの。天寿を全うできたなら、悲しみこそすれ後悔はないだろう。
 と、そこまで考えてようやく納得がいった。

「ああ、そうゆうことか」
「分かってくれた? 私の<力>じゃ死んだ事実は変えられないけど、原因の記憶を改変したり消去したりすれば、“納得できる”ようにはしてあげられる」

 そうして、力ない笑みを浮かべて締め括る。

「だから、私は東菊。誤魔化しのような癒ししか与えられない、中途半端な巫女にございます」

 おどけて見せても目に宿った悲しげな色は消せない。
 本当ならば救ってやりたいのに、それが出来ない。
 抱く理想に今一歩届かぬ己。その嘆きは平吉がいつも感じている焦燥とよく似ていた。

「ひと時の慰みを与える花ってわけか……」

 蕎麦屋の店主の言を真似てみれば、意外さに東菊が目を見開く。

「……意外、花の名前なんて知ってたんだ?」
「おう、まあ、な。東菊って、えーと、都忘れ……の別名、なんやろ? 風流な女やな」
「風流な女、か。ふふ、そう言われると私の名前も悪くないね」

 どうやら少しは気が紛れたようだ。無邪気に笑う東菊を眺める。
 寛いだ様子に安堵の息を吐き、しかし平吉は表情を強張らせていた。
 彼女の話には聞きかかるところがあった。
 記憶を消去・改変することで癒しを与える巫女。
 東菊は探し人をしているのに、その相手を知らないと語る。
 
「なあ、もしかして」
「うん?」

 問いかけに返ってきたのは、やはり無邪気な笑顔。

「いや、すまん。なんもない」
「そう?」

 だから聞けなかった。
 もしかして、お前が探し人を知らないと言うのは。
 そこに、耐えがたい何かがあったからなんじゃないかなんて。
 聞ける訳がなかった。

「なんなら宇津木さんも経験してみる?」

 意外なと言葉に一瞬反応が遅れた。

「だから、辛い記憶とかがあるなら消してあげられるよ?」
「……やめとく。なんや、ちょっとあれやし」

 得体の知れない<力>に身を任せるのは流石に怖い。しかし素直に怖いと言うのも情けない気がして、軽く笑って誤魔化した。

「そう?」
 
 東菊もそれ以上勧めることはしなかった。
 廃寺の本堂には沈黙が訪れ、だから平吉は少しだけ考えた。

 記憶の改変。
 確かにそれをすれば楽にはなるのだろう。
 或いは父母の死を消せれば、という思いが無かったと言えば嘘になる。
 だけど、実際にその<力>が信用できるものだとして。


 自分は、悲しかった記憶を無かったことにするのだろうか。


 考えても答えは出ず、平吉は何をするでもなく、しばらくの間東菊を眺めていた。









 
 鬼人幻燈抄 葛野編『鬼と人と』・4(再)





 どれだけ歳月が流れようとも、忘れ得ぬ景色がある。



 ───甚太、私ね。いつきひめになるんだ。


 戻川を一望できる丘に二人佇む。


 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
   私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。

 
 幼さの消えた横顔。彼女の瞳は何を映しているのだろう。
 きっと流れる水ではなく、もっと美しい景色を見ているのだと思った。


 ───でも、もう会えなくなるね。


 白雪は知っている。
 それが別れを意味すると知っていながら、他が為に生きる道を選んだ。
 自分の想いよりも拘った生き方を優先する。
 そういう、不器用な女だった。


 ───なら俺が会いに行くよ。


 だから自然、そう口にしていた。
 甚夜は──“甚太”は幼馴染の少女を、その時初めて美しいと感じた。
 出来れば、彼女には彼女自身の幸福のために生きてほしいと思う。彼女の母は巫女であったが為に命を落とした。その顛末を知れば尚のことだ。
 だが白雪は母の末路を知りながら、それでも同じ道を歩むと言った。他が為に在ろうと、幼さに見合わぬ誓いを掲げた。
 美しい、と。
 その在り方を美しいと感じ、だからこそ守りたかった。 


 ───今はまだ弱いけど。俺、強くなる。


 子供の発想、けれど真剣だった。
 強くなれば、どんなことからも彼女を守れると思った。


 ───強くなってどんな鬼でも倒せるようになる。そうしたら巫女守になって会いに行くよ。


 紡ぐ言葉は祈りのように。
 強くなりたいと。彼女の強さに見合うだけの男でありたいと、心から願う。


 ───その時には。俺が、お前を守るから。


 静かに白雪は涙を零した。
 その涙の意味を知ることは、幼い甚太には出来なかったけれど。
 それでも二人は、確かに通じ合えた。


 ───ね、甚太。おかあさんはいつきひめになってからおとうさんに会って、それで結婚したんだって。


 そして想う。二人なら、遙かな道もきっと越えていける。


 ───私はいつきひめになって甚太を巫女守に選ぶから。


 風が吹いて、木々が微かにざわめく。


 ───甚太は、いつか私のことをお嫁さんに選んでね。


 遠い夜空に言葉は溶けて、青白い月が薄らと揺れる。
 森を抜ける薫風は、するりと指から零れ落ちるように頼りなくて、ほんの少しだけ切なくなった。だから二人はどちらからともなく手を繋ぎ、言葉もなく空を眺めた。
 言葉と一緒に心まで溶けていきそうな、そんな夜だった。
 


 今も忘れ得ぬ原初の想い。
 俺は白雪が好きだった。
 それが、“甚太”の全てだった。




 ◆




「………白……雪?」

 意識せずに彼女の名を呼ぶ。
 らしくもなく動揺していた。失くした筈のものが、目の前にある。その事実に心が震えている。
 起因する感情は歓喜か、暗鬼か、或いは在り得ぬ今への恐怖だったのか。いったい何に心を動かされたのか、自分でも理解できない。
 
「どうしたの?」

 明らかに動揺している幼馴染を白雪は不思議そうに見つめている。
 
「いや、少し寝ぼけていただけだ」

 わずか数秒で平静を取り戻し、普段通りの顔を作って見せる。
 その裏側で、甚夜は郷愁に駆られながらも思索を巡らせていた。
 驚愕も動揺もあった。しかし積み重ねた歳月により育まれた警戒心がそれを上回った。
 何があったのかを思い起こす。そうだ、逆さの小路に入った途端、黒い影に襲われ、気が付けば布団で寝ていた。そして起こしに来たのが白雪だった。 
 あの影が原因と考えて相違ない。白雪には気付かれぬよう自身の状態を確認する。
 呼吸正常。意識ははっきりしている。痛めた所はない。
 左腕、僅かに力を込め、そして驚愕する。

“ない”。

<同化><剛力><隠行><疾駆><犬神><飛刃><空言><不抜><血刀><地縛>。
 自身の内にある筈の<力>を感じ取れない。これは鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕ではなく、単なる人の腕だ。鬼と化すことも出来ない。 

 つまり、記憶はあるがこの身は“甚太”なのだ。

 そして目の前に白雪がいる。
 考えられる可能性。
 空言、合貝の付喪神……幻覚、幻影。
 おふうの<夢殿>……過去視。
 狐の鏡……時間逆行。
 或いは記憶に干渉する<力>か。
 自身の経験と照らし合わせながら現状を理解しようと努めるも、如何せん情報が少なすぎる。仮説にすらならない想像を棄却し、穏やかな声で未だ疑いの視線を向けてくる白雪に話しかける。

「何でもない、気にするな」
「それならいいけど。さ、ご飯食べよ?」

 お腹の辺りを手で摩り、待ちきれないとでも言わんばかりの振る舞い。そのおどけた所作を懐かしいと思った。
 納得した訳ではないだろうに、白雪はそれ以上何も聞いてこなかった。
 昔からそうだった。白雪はこちらが隠したいと思っている所には、それを十分理解しながらも踏み込もうとしない。隠し事があると気付いていても、話せるようになるまで気付かないふりをしていた。
 無理に聞かなくとも、心の整理がつけば話してくれると信じてくれているから。信じられるくらいに、二人は同じ時間を過ごしたのだ。
 忘れかけていた距離感に胸が詰まる。だから、現状を理解しないまま、それでも穏やかな心持になれた。

「そうだな、準備しよう」

 懐かしさに心が鈍ったのかもしれない。
 甚夜は当たり前のように、なんの警戒もなく白雪の隣に立っていた。





 ◆





「せっかくひめさまが来たんだから、もっとおいしいの出せばいいのに」

 起きてきた鈴音を含め三人で朝食を始める。いつも通りの麦飯と漬物が不服なのか、鈴音は頬を膨らませていた。

「にいちゃん、どうしたの?」

 反応が無いことを疑問に思ったのか、幼い鈴音が見詰めている。
 それを、平静な心持で見つめ返す。
 見つめ返せたことに、違和を覚える。あれだけ己を苦しめた、既に機能となってしまった憎悪。しかし何故か、鈴音を前にしても憎しみが湧き上がってこない。だから甚夜は戸惑っていた。

「なんでもない。気にするな、鈴音」

 そう穏やかに言えたのは憎しみが無いから。
 つまりは“まだ何も起こっていないから”だ。
 頭ではこの娘が白雪を奪ったと知っている。けれど憎悪はない。無邪気に笑う鈴音を受け入れ、頭を撫でてやれる程度には余裕があった。

「ほんと、甚太はすずちゃんには甘いよね」

 兄妹の遣り取りに白夜が半目でぽそりと呟いた。

「そうでもないさ」

 妹を殴り殺そうとした男の、何処が甘いのか。
 そう考え、しかしそれもまた起こっていない出来事だと気付く。
 鈴音はマガツメではなく、甚夜は未だ甚太のまま。ここには、そもそも憎しみの入る余地が無いのだ。

「えー……」

 不満気、ではなく信じられないといった様子で鈴音が見ている。本人からして兄は甘いと思っていたのだろう。

「あ、すずちゃんもやっぱり甘いと思う?」
「うん、だってにいちゃんだもん」

 まったく理由になっていないが、白雪はそれで納得してうんうんと頷いている。肩を寄せ合ってひそひそと話す二人はまるで姉妹のようだ。

 その暖かさに、視界がが滲む。

 甚夜は食卓を眺めながら、静かに息を吐いた。
飯と漬物だけの朝食を、それでも笑顔で頬張る白雪と鈴音。

「にいちゃん、どうしたの?」

 不思議そうに小首を傾げる鈴音。その無邪気な仕種が、本当に無邪気だから、甚夜は泣きたくなった。

「なんでもない」
「えー、でも」
「本当に、なんでもないんだ」

 上手く笑えなかった。まだ頭が、心が現状に追いついていないからだ。
 自ら捨て去ってしまった幸福が、目の前にある。
 今は遠き“みなわのひび”。
 あの頃の甚太の世界は狭く、だからこそ完成されていたのかも知れない。
 兄として妹を守る。
 巫女守としていつきひめを守る。
 それだけが全てで、それでいいと思っていた。
 なのに、どうして────

「さ、そろそろいこっか?」

 わざとらしく柏手を打ち、白雪はすくりと立ち上がった。
 彼女の声に引き上げられ、思考に没頭していた意識が急速に覚醒する。
 何を考えていたのか。
 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。分かっていた筈だ。
 自身の醜態を恥じ、甚夜は自嘲し溜息を零した。そして何事もなかったように問いかける。

「何処へ?」
「どこへって……昨日も言ったでしょ?」

 白雪が見せたのは、何処か涼やかな笑顔だった。

「伝えたいことがあるんだ。とっても大切なこと。だか今日一日、私に付き合ってくれないかな?」

 絞り出すような、小さな願い。。 
 はにかんだような笑み。嬉しそうで、しかし鮮やかな喜びは直ぐに消え失せ、白雪は 一抹の寂寞を浮かべ目を伏せた。
 だから甚夜は気付いた。
 いつきひめは社から出ず、ただ神聖なものとして在り続ける。
 なのに、白雪が此処に居る理由。
 ようやく分かった。
 

 ────これは、あの日の再現なのだ。










「いってらっしゃーい」

 朝食を終えれば白雪に急かされ出かける準備を整える。玄関で見送るのはあまりにも元気な鈴音だった。妹はにこにこと笑顔を絶やさない。

「鈴音……何か嬉しそうだな」
「うんっ! だって、にいちゃんは今日一日ひめさまと一緒なんでしょ? だからすずも嬉しいの」
「何故それが嬉しい」
「すずはにいちゃんが大好きだもん。だからにいちゃんが幸せだと嬉しいの」

 思い出す。
 遠い雨の夜、何もできなかった。だけど鈴音は傍にいてくれればいいと笑ってくれた。
 この娘の言葉に、笑顔に、どれだけ救われたか分からない。 
 いつだって鈴音は自分の寂しさを押し殺して、笑っていた。

「そう、か。済まない、留守を頼む」
「うん、たのしんできてねー」

 ぶんぶんと手を振って見送ってくれる鈴音に軽く手を挙げて応える。
 
「ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」

 白雪は呑気にそんなことを呟く。
 しかし甚夜の内心は深く沈んでいた。二人でこれから集落を歩くというのに、心が浮き立つことはない。
 知っているからだ。
 今日の終わりには、明確な終わりが待っている。
 甚夜はそれを知っていた。



 のんびりと集落を見て回る。
 二人手を繋いで歩く。すれ違う人々は好奇の視線やからかいの言葉を投げかける。
 白雪は見せつけるように甚夜の腕を取り、体を寄せる。満面の笑顔。仲睦まじく寄り添う。鼻腔を擽る彼女の香に少しだけ頬が熱くなった。
 如何なる怪異によってこの状況が鵜満たされたかは分からない。けれど彼女と再び会えた。それを嬉しいと思わない筈がなかった。

「あ、甚太様! いらっしゃい……ませ?」

 二人が訪れたのは葛野に一軒だけある茶屋だった。
 本来タタラ場に茶屋があること自体が珍しく、殆どの集落にはないだろう。しかしこの茶屋は、初代の巫女守が「せめてもの娯楽を」と建てさせたものらしい。所以はともあれ、今ではこの茶屋は集落の数少ない憩いの場となっていた。

「ちとせ、邪魔するぞ」

 茶屋の娘、ちとせは目を丸くしてこちらを見ている。
 甚夜は思わずくすりと笑った。まだ小さいちとせ。彼女はこれからいつきひめとなり、国枝利之と結婚することになる。その行く末と、幼げな表情の差異が面白かった。 
「あの、その方は?」

 白雪を見てちとせは問う。あの時と同じ問い、記憶をなぞり、あの時と同じ答えを返す。

「知り合いだ。それ以上は聞いてくれるな」
「はぁ」

 納得がいったのか、いかないのか、微妙な表情だった。

「あ、と。すみません。ご注文は?」

 茶と団子を頼み、待つ間は談笑して過ごす。
 しばらくするとちとせがおぼんに湯呑と小皿を乗せて戻ってくる。

「磯辺餅。お好き、でしたよね?」

 白雪には団子を、甚夜には磯辺餅を差し出しはにかむように笑う。
 懐かしい。磯辺餅は昔からの好物だった。

「覚えていてくれたんだな」

 今も、そして何十年と経っても。
 それが嬉しかったから、表情はいつもより柔らかい。

「はいっ。ちょうどもらい物があったんで、折角ですから」
「済まん、有難く頂こう」
「いえ、ゆっくりして、いってください」

 小さくお辞儀をしてまた店の中に戻っていく。懐かしい遣り取り。心が満たされていく。
 当時は気付かなかった。けれど、葛野で過ごした何気ない日常はこんなにも幸せだったのだと、改めて思い知らされる。

「甚太だけ特別扱いされてるー」

 白雪は団子を食べながら不満そうに頬を膨らませている。そんな彼女の膨れ面さえ幸せに思える。
 そして、だからこそ目を伏せた。
 自分はこれを自ら斬り捨ててしまったのだと。

「変わらずにはいられないものだな」

 あの時と同じ言葉を、違う意味で呟く。
 白夜は何も返さなかった。それが何故かは、考えても分からなかった。
 




 集落をただ歩きくだらない話をした。
 目的などない。元々娯楽の少ない集落だ。然して楽しめる場所などないが、それでも 久しぶりに外を歩くのが楽しいのか白雪はいつになくはしゃいでいる。
 それに引き摺られる形ではあるが、甚夜もまた幼い頃に戻ったように。
 否、実際に過去へと戻ったような心地になっていた。
 
 ただ一つだけ気にかかる。
 
 ゆっくりと沈む日、もうすぐ辺りは夕暮れの色になる。
 終わりは、直ぐそこまで近づいていた。
 そうだ、甚夜は知っている。
 これから戻川を一望できる丘へと向かい、互いに想いを伝えあい……二人は終わりを迎える。 
 それに気付き、自然と甚夜の足は前に進むのを躊躇い、立ち止まってしまった。 

「甚太?」
 
 心配そうに声を掛けてくれる白雪。耳には入っていたが、何も返せなかった。
 頭にあるのは“これから”のことだけだった。

 別れを間違いと思ったことはない。
 自分の想いよりも自分の生き方を取る。
 そういう不器用な二人で、二人は何処までも同じだから、結局のところ別れは必然だったのだろう。
 
 けれど時折思い出し、ほんの少しだけ考える。
 もしもあの時彼女の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。
 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。
 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もないと。斬って捨ててきた。
 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残った。

 だけど、と思う。

 甚夜は“これから”別れの場所へと向かう。
 まだ何も起こっていない。“甚夜”も“マガツメ”もこの世にはおらず、白雪と離れることもない。
 変えられる。
 惚れた女を守れず、大切な妹を憎み、ただ力だけを求めた無様な鬼人。
 その間違えた生き方も、“これから”なら覆すことが出来るのだと、気付いてしまった。

「なんでもない……行こうか」

 感情の乗らない声。
 それきり二人は黙り込んで、気付けば夕日が辺りを橙色に染めていた。




 ◆



 散々歩き倒して火照った体を冷まそうと集落を離れる。
 辿り着いたのは戻川を一望できる小高い丘。いつか、二人で遠い未来を夢見た場所だった。

「風が気持ちいい……」

 真っ白なその肌を夕暮れの風が撫でている。黒髪が揺れて、さざ波のように木々が鳴いた。

「今日はありがと」
「いや、私も楽しんだ」
「そっか、それならよかった。また私の我儘に付き合わせちゃったから」
「それこそいつものことだろう」
「あ、ひどー」

 表情は次第に曇っていく。先程までの無邪気な少女は消え、大人びた横顔に変わった。橙色の陽を映す川は斑に光り輝いて、その眩しさに目を細めて眺めながら、甚夜は静かに呟いた。

「もう、いいのか?」

 紡がれた言葉。
 それは白雪へ向けたものなのか、或いは自分だったのかは分からなかった。
ただ、覚えている。忘れる筈がない。
 彼女はこれから決定的な言葉を口にする。
 そして二人は終わりを迎え、明日には全てを失くしてしまう。
 甚太は<剛力>の鬼を討伐へ向かう。戦いに赴いている間、白雪と清正は逢瀬を交わし、それを見た鈴音は白雪を殺す。
 結末は決して変わらない。

「う……ん」

 沈んだ声。しばらく口を噤み、しかしようやく何かを決意したのか、戻川を眺めていた視線を甚夜に向ける。

「ここで、甚太と話したかったんだ。ここは私の始まりの場所。だから伝えるのはこの場所がいいと思ったの。ね、聞いてくれる?」
「ああ」
「……よかった。ねえ、甚太」

 笑った。
 透明な笑みに秘められた想いを、甚夜は既に知っている。
 風がまた一度強く吹き抜けた。木々に囲まれた小高い丘で、彼女は少しだけ近くなった空に溶け込んでしまいそうだった。いや、その姿は自ら空に溶け込もうとしているように見えた。
 そして空になった彼女は、泣きそうな、けれど強さを感じさせる笑みを浮かべて。

「貴方は、どうしたい?」

 あの時とは違う問いを投げかけた。

 



[36388]      『鬼と人と』・5(再)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/10 22:50




あたたかさがくすぐったくて、こどもみたいだねと、わたしはわらう。





 ◆



「はいはーい、おしまい。散った散った。巫女様は忙しいんやからあんま足止めてくれんなや」

 午後になり、ようやく本腰を入れて人探しを始める。
余計なことで足を止められぬよう巫女服ではなく普通の着物に着替えてきた。最初の内はそれで誤魔化せていたのだが、すれ違う一人が東菊の顔を覚えていたらしく、あれよあれよと人だかりができてしまった。
 結局昨日と同じように、癒しを求め人々は東菊へと群がる。
 平吉は隠すことなく嫌悪の表情を歪め、彼等を乱雑かつ適当に追っ払っていく。我先にと癒しを求めるその姿は、ひどく薄気味が悪い。
 だから恨みがましい目で見られたとしても気にすることはない。他人の与える癒しへ縋る彼等が、平吉には醜悪に思えてならなかった。

「ありがと」
「ま、一応依頼受けた訳やしな」

 民衆を散らし、四条通を歩く。名も知らぬ顔も分からぬ者を探す。どうすればいいのか平吉には分からず、取り敢えず東菊が何かを思い出すまでは当て所無く歩こうと考えていた。
 勿論、そんな大雑把な探索で探し人が見つかる訳もない。既に一刻歩き回り、得られるものもなく、ただ足を棒にしただけだった。

「う、宇津木さん。そろそろ休憩したいかなーなんて」

 見るからに疲労困憊といった様子の東菊には、巫女の威厳など既に欠片もない。
 高位の鬼とはいえそんなに体力がある訳でもないらしい。

「情けないなぁ、高位の鬼なんやろ?」
「それ以前に女の子ですー」

 むぅ、と頬を膨らませる東菊。その仕種は子供っぽく、妙に可愛らしく思えて平吉は吹き出した。
 とは言え実際結構な距離を歩いた。平吉に疲れはないが、確かに女には辛いかもしれない。仕方ない、どこか休めそうなところでも探すかと辺りを歩きながら見回せば、ある一点で平吉の視線は止まった。
 目の前を通りすぎようとする、四条通に面した神社から出てきた年老いた男。
 よたよたと歩く老翁が妙に気になって、しばらくそちらを眺める。
 先程の老人、どこかで見たような気が。

「どうしたの?」

 黙りこくる平吉に東菊は声を掛け、彼女を見てようやく思い出す。
 あれは昨日言い争っていた、京訛りのない男だ。
 然して特徴がある訳ではない平々凡々とした老人を覚えていたのは、彼が巫女に癒しを求めなかったからだ。多くの民衆が花の蜜に群がる虫の如く癒しを求める中、あの老人だけがそれを嫌った。それが印象に残っていた。
 
「確か……あぁ、太助、やったか?」

 殆ど意識せずにそう零してしまう。
 自分の名を呼ばれたせいで、不意に老人は顔を上げる。
 しまった、口に出ていたか。慌てても後の祭り、老人は訝しげな眼で平吉を見ている。

「はて、どこかでお会いしたことが?」

 力のない、何処か冷たい目。鬼の相手をするよりも緊張してしまう。
 微妙な愛想笑いを浮かべ、何か言わなければと取り敢えず弁明を口にする。

「あー、ちゃうちゃう。昨日、喧嘩しとるとこ見ただけです。……なんや、すんません」
「そうでしたか。みっともない所を見られたようで」

 表情を和らげ、疲れたような笑みを浮かべた老人は、今度は東菊の方に向き直る。 

「……そちらは、巫女様ですか」

 口調は変わらないが、好意的でないことは容易に知れた。東菊を見る太助の目は、路傍の小石を見る時のそれだ。好意どころか興味もない、何の価値も見出せぬ有象無象としか思っていない。

「はい」

 いつの間にか澄ました顔の東菊が立っている。
 しかし太助の態度に変化はなく、やはりどうでもいいことのように視線を切った。

「あんたも珍しいな。癒しの巫女相手にそんな態度て」

 平吉は思ったことをそのまま口にする。
 癒しの巫女を知るものは皆彼女に救いを求めた。しかしこの老人は、寧ろ東菊を煩わしく思っているように感じられた。

「貴方の言う癒しには然程興味もありません。癒しを与えられた者も末路を知っておりますので」

 太助の物言いに東菊はぴくりと眉を動かした。表面では冷静に振る舞っているが、その発言に動揺しているのは明らかだった。

「末路って、えらい物騒やな。なんや、変なことにでもなったんか? 死んだとか、病気になったとか」

 それに気付かぬまま、純粋に意味が分からなくて平吉は問うた。

「いいえ。今も健やかに、心安らかに暮らしております。それはもう幸せそうに」
「ええことやん」
「そうですね。だから、私は癒しの巫女というお方を好ましくは見れません。貴女がいなければ」

 目が細められ、睨み付けるように太助は言う。

「逆さの小路が蘇ることもなかったでしょうから」

 二人して固まる。
 東菊は思っても見なかった言葉に何も言うことが出来ず、平吉はこんな所で聞くとは思っても見なかった怪異の名にひどく動揺していた。
 
「逆さの、小路? あれか、内容を知ったら死ぬゆうやつ」
「若いのによくご存じで。そういえば、先程も逆さの小路を調べに来たという方に会いましたよ」

 甚夜は今日、逆さの小路を調べると言っていた。太助のいう人物は恐らく彼だろう。

「あんた、なんや知ってんのか?」

 声が僅かに固くなる。太助はやはりどうでもいいことのように返した。

「はい、私が若い頃からある話ですので」
「そやけど、あんたは死んどらん」
「当たり前ですよ。逆さの小路など、初めからないのですから」

 老人の言葉は難解だった。“蘇る”と表現しながら“ない”と言い、しかし若い頃からある話だとも語る。
 戸惑う平吉を眺める太助の目には感情の色が無い。最後まで投げやりな態度を崩すことはなく、

「なんなら、場所をお教えしましょう」
  
 そう言って太助は、自嘲するような笑みを落した。






 ◆







 本当は、後悔していた。
 鈴音、白雪、奈津。大切だったのに、守れなかったものが多すぎて。
 もっと上手くやれば、或いは違う今があったのではないかと、多分心の片隅で考えていた。
 その始まりが、最初に失くしたものが、此処にある。

「貴方は、どうしたい?」

 白雪は、あの頃のように笑う。
 これが如何なる怪異によって引き起こされたものなのかは、甚夜には分からない。
 ただ目の前に、過ぎ去り最早届かぬと諦めていた過去が転がっている。
 手を伸ばせば、届いてしまう。
 それだけでこんなにも動揺してしまうなど、自分でも想像していなかった。

「しら、ゆき」

 絞り出した声はかすれている。 
 口の中が乾いて、僅かに唇は震えていた。
 らしくもない。
 けれど、今も思い出す。
 幼い頃、元治に剣の稽古をつけて貰っていた。
 あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかった。
 それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも甚夜が負けて、その度に慰めてくれた。
 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日は何して遊ぼうかなんて言いながら無邪気に駆け回る。
 あの頃、確かに甚夜は満たされていた。




 ────おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
     私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。




 遠い日に、恋をした。
 いつきひめになる。 
 己が幸福を捨て、他が為に生きる。
 美しく愚かしい在り方を、当たり前のように選んでしまう。
 そういう不器用な女だった。
 そんな彼女だから好きになった。
 なのに。


 ぶちり、嫌な音が聞こえた。


 まだ覚えている。
 重さも冷たさも、鼻腔を擽る鉄錆の香。
 抱き締めた、首のない死骸、その手触りを。

「なにが、なんて言わないよね?」

 目の前の彼女は、記憶の中の白雪とはかけ離れているように思えた。
 同時に白雪だという確信もある。空に溶けるような笑みを浮かべる娘。それはいつか好きになった彼女のものだった。

「お前は、一体」

 投げ掛けた問い、白雪は寂しげに目を細めた。

「私は……“此処”は、貴方の傷。ずっと見て見ぬふりをしてきた追憶の情景」

 静かな水面のような佇まい。澄んでいるのに、何処か頼りない。
 いつかの面影。触れれば消えてしまいそうだ。

「そうでしょう? だって貴方は……なによりも、この景色を後悔していた」

 気付けば陽は完全に落ちて宵闇が辺りを包んでいた。
 夜の暗がりは別れの色をしている。だから少しだけ胸が痛んだ。
 柔らかく、しかし射抜くような白雪の視線。
 嘘や誤魔化しは許さないと、彼女は言葉にせずともそう語っている。

「……ああ」

 白雪の言葉を否定することは出来ない。
 惚れた女を守れず、大切な妹を傷付け、間違った生き方に身を窶した。
 後悔は数えきれないほどにある。
 けれど本当は、この景色にこそ甚夜は拘っていた。

「確かに私は、後悔していた」

 ずっと傍にいたかった。
 そう願っていたのに、自分から手を離してしまった。
 同じ方向を向いていれば心は寄り添えると、意地を張って、強がって。
 それでも自身が選んだ道を後悔したことはない。
 自身の想いよりも、自身の生き方を取る。そういう不器用な二人だから通じ合えた。
 だから“別れ”を後悔したことはない。

「私は……俺は、お前のことが好きだった」
「うん、知ってた」

 風が吹く。砂が混じっているのか、どこかざらついている。
 不快な肌触り。しかしその質感が、此処を現実だと錯覚させる。
 如何なる怪異なのか。そんな疑惑はとっくに頭の中から消し飛んでいた。

「貴方は自分の生き方を選んだ。それを間違いと思うような人なら、私は好きにならなかった」

 しかし甚夜は後悔していた。

「それでも後悔していたよ。生き方を曲げられぬが故に選べなかった、お前の語る幸福な未来を」


 ────正直に言うとね、ちょっとだけ思ったんだ。

 一緒にどこか遠くへ逃げたいって。

 誰も知らない遠いところで、夫婦になって静かに暮らすの。


 遠い日に、無邪気に語った二人の未来。
 そんな道を選べる訳がなかった。
 白雪はいつきひめとして、甚夜は巫女守として在ろうと誓った。
 ならばそれを違えることは出来ない。
 自らが選んだ道を嘘にしてしまえば、互いを想うこの心もきっと嘘になる。
 だから二人は意地を張って、曲げられない自分を最後まで貫いた。
 そこに後悔などある筈もなく。


 ───でも遠い昔、確かに憧れたこともあった。


 惚れた女と夫婦になって緩やかに年老いていく。
 そうあれたら、どれだけ幸せだろうと。そんなふうに考えた
 選んだ道に後悔はなくとも、約束された幸福を選べなかったことを。
 多分、心の何処かでずっと後悔していた。

「だから……もう一度聞くね。貴方は、どうしたい?」
 
 内心を見透かすように、白雪は手を差し伸べる。
 浮かべる表情は懐かしい、幼い頃から知っている無邪気な少女のものだ。
 目の前の白雪に、不吉な影が重なる。
 例えば、此処で彼女の手を取らなかったとする。
 その結末を甚夜は知っている。
 此処で二人は別れ、白雪は清正と婚約し逢瀬を交わす。
 それを見た鈴音は白雪を殺し、甚太は鬼となる。
 そして憎悪を抱え歩く長い長い歳月が始まる。

「私は……」

 けれど、もしここで彼女の手を取っていたなら?
 鈴音が白雪を殺す理由はなく、ならばこの身が鬼となることもない。
 白雪と夫婦となり、鈴音とも兄妹として傍にいられる。
 それはどんなに幸福なことだろう。


 その機会が与えられた。


 彼女の手を取ることが許される今。
 何を迷うことかあるのか。
 それをこそ、お前は願っていた筈だ。
 そうして甚夜は───“甚太”は彼女に手を伸ばし、



『これからも、家族でいてくれますか?』



 夕凪の空の眩しさに、目が眩んだ。

「どう、したの?」

 何かを掴もうとして、けれど止まってしまった手を白雪は感情のない目で見ていた。その意を察することは出来ない。
 二人は似たもの同士で、どこまで行っても同じで。
 でも、昔誰かが言っていた。
 変わらないものなんてないのだと。

「蕎麦を打てるようになったんだ」

 だから甚夜はそう答えた。
 寂しそうに、しかしどこか誇らしげな、決意に満ちた声だった。

「え?」
「これが結構人気でな。常連客もいくらかいる。料理、掃除洗濯。一通りできる。それに花の名、根付や骨董にも詳しくなった。今は機会もなくなったが、おしめだって替えられる。信じられないだろう? 剣を振るうしか能のなかった私が、それだけのことを出来るようになった」

 思い返せば笑い話だが、当時は全てが悪戦苦闘だった。
 花の名前なんて意識したのは初めてで、中々頭に入らなかった。
 飯を炊こうとして粥を作ったことがあった。
 洗ったつもりで駄目にした着物だっていくつもある。
 おしめをぴっちりと付けられなくて、友人の妻に教えを乞うた。
 どれもこれも、“甚太”にとっては価値のなかったもの。けれどそれが積み重なって、“甚夜”を形作った。

「始まりも道行きも憎しみに塗れていた。成程、私の生き方は間違っていたのかもしれない。それでも、手に入れたものはちゃんとあったんだ」

 だから、ほんの少しだけ優しく笑えるようになった。
 甚夜は落すような笑みで、白雪を見る。それはきっと、彼女の知らない表情だろう。

「白雪……私はお前が好きだった」

 ただ一緒にいたかった。それだけを願っていた。……それで、よかった。
 その程度のことで満たされてしまうほどに、彼女が好きだった。
 これから先、誰を好きになったとしても。
 あんなに強く、あんなに鮮やかな恋は二度とできない。
 何十年、何百年と歳月が流れ、彼女の声も顔も忘れてしまったとしても。
 心の片隅に白雪への想いは残り続けるだろう。

「あの頃、お前は私の全てだった。剣を取ったのも、強くなろうと決めたのも。生きる意味さえもお前が理由で」

 俺の言葉の意図が掴めないのか、白雪は眉間に皺を寄せた。それに構わず言葉を続ける。

「だが心は変わる。あれから多くのものを積み重ねてきた。その度に余分を背負い私は濁り……今ではその余分さえも尊く思えるようになったよ」

 いつかの別れを覚えている。
 それを悲しいと思っている。
 でもやり直したいとは思わない。
 憎しみに囚われた間違えた生き方。でもその途中で拾ってきたものは間違いではなかった。
 目を閉じれば、いつだって思い出せる。
 喜兵衛での騒がしい日々。
 おふうと指折り数えた花の名、店主が遺してくれた言葉。
 善二と直次、男三人馬鹿をやったことだってあった。
 夜鷹と交わした言葉、もしかしたら妹になったかもしれない彼女との語らい。
 茂吉との出会い、夕凪との別れ、土浦と我を張り合った。
 野茉莉との暮らしも、染吾郎と呑む酒も、平吉との組手や兼臣との馬鹿な遣り取りも。
 優劣などない。その全てが、葛野で過ごした“みなわのひび”に比肩する。
 そう思える日々を歩んできた。

「あの頃と同じ想いではないかもしれないが、やはり”俺”はお前が好きなんだろう」

 今も、白雪を想っている。
 自分を曲げることの出来ない、不器用な女。多くのものを失って、それでも誰かの為にと願うことが出来る。その愚かしくも美しい在り方に心魅かれた。
 だけどここで手を取ってしまえば嘘になる。
 憎しみを抱え。それでも歯を食い縛って進んできた道のりが。
 その途中で拾ってきた大切なものが。
 そして何よりも、二人で意地を張って守り抜いた、互いに美しいと信じた在り方が。

「だが済まない。“私”には、その手は取れない」

 強がりじゃない。
 心穏やかにかつて好きだった、今でも胸を張って好きだと言える愛しい人に別れを告げる。

「過去に手を伸ばして、今を取りこぼすような真似はしたくないんだ」

 そういう道を選べた自分が、少しだけ誇らしかった。

「そっ、か」

 感情のない声。
 彼女が甚夜の答えに何を思ったのかは分からない。
 そして、それを想像する時間もなかった。

「これは……」

 急速に景色から色が失われていく。
 揺らめき、輪郭が滲み、形を保つことも出来なくなり淀んでいく。
 その中で彼女の姿だけがやけにはっきりと見えた。しかしそれもつかの間、段々と白雪の色も薄れ、背景と同化していく。

 声はかけない。
 多分気付いていたからだ。
 これは怪異などではない。いや、怪異という外的要因があったにせよ、白雪は間違いなく甚夜の知る白雪だった。
 つまり幻影の類であったとしても、それを生み出したのは己に他ならない。
 ならば彼女の存在は、

「未練、だな」

 結局はそういうこと。
 あれは、選べなかった未来への未練に過ぎなかったのだろう。
 だから声はかけず、ただあの頃と変わらぬままの白雪を心に焼き付ける。
 幻かも知れない。それでも彼女をもう一度見られて、素直に嬉しかった。嬉しいと思えた。
 目は逸らさない。白雪から、失われた幸福からも目は逸らさず、けれど胸を張る。
 甚夜は最後に、一言だけ、誰に聞かせるだけでもなくぽつりと呟く。
 なんと言ったのかは誰にも分からない。
 そうして甚夜は静かに目を閉じて、終わりを受け入れ。












 ぱちんと。
 みなわのひびははじけてきえた。
 



 鬼人幻燈抄 葛野編『鬼と人と』・5(了)
       明治編『あなたとあるく』再開



[36388]      『あなたとあるく』・3(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/19 23:03




 なつかしさにこころうかれて、けれどちかづいたみちのおわりに、しらずけしきはにじんで。





 ◆ 




“逆さの小路”はあまりにも恐ろし過ぎる怪談。
 聞いた者は恐怖のあまり身震いが止まらず、三日と経たずに死んでしまう。
 この怪異に見舞われた初めの者は発狂し命を落とし、それを見ていた者達も恐ろしさのあまり人に乞われても語らぬまま寿命を迎えこの世を去った。
 そうして逆さの小路を知るものはみな死んでしまい、今に伝わるのは逆さの小路という名称と、それが無類の恐ろしい話であった、ということだけである。

「なんなら、場所をお教えしましょう」

 しかし目の前の老翁、太助はそれを知るという。彼は逆さの小路までの道順を細かく教えてくれた。
 本来ならば平吉には逆さの小路を調べる理由はない。とは言え、ちょうど知り合いが調査しているところだ。
 普段は刺々しい態度を取ることも多いが、世話になっているのは事実だし、それなりに感謝もしている。ここらで多少でも借りを返しておくのも悪くない。そう思い、太助との会話を続ける。

「太助さん、あんたは逆さの小路を知っとるんやな?」
「一応は。私がそれを耳にしたのは五十年近く前ですが」
「なのに、逆さの小路はない?」
「ええ、存在しません」

 矛盾する事柄を平然と言ってのける。
 元々考えるのは得意ではなく、こういった怪異の経験も乏しい平吉では、やはり考えても意味は分からない。

「で、場所を教えてくれる? 俺にはあんたの言っとることが理解できん。行きずりの俺にそないなこと話してくれる理由も含めてな」

 一応のこと平吉には調べる理由がある。しかし太助には、平吉に詳細を教えてやる義理などない筈だ。
 だというのに、積極的に彼は情報を与えようとしている。正直に言って一番わからないのは太助の真意だった。

「理由ですか。それが私の役目だからでしょう。……納得できなければ恨み言とでもしましょうか」

 返ってきた理由もまた、平吉には理解できないものだった。

「はあ?」
「逆さの小路を蘇らせた、巫女様に対する。貴方に話したのはただの八つ当たりだと思っていただければ……それでは、私はこれで」

 まったく意味の分からない言葉を残し、止める間もなく太助は去っていく。
 場に残された平吉と東菊は、どう反応すればいいのか分からず立ち尽くすしかなかった。

「ほんまに意味分からん」

 ぼやきに返す声はない。ふと東菊の方を見れば、目を伏せ、随分と落ち込んだ様子だった。

「どないした?」
「ん、別に」

 返ってきたのは優しげな笑み。
 平吉にはその内心を読み取ることは出来ない。先程疲れたとは言っていた。そのせいだろうと思った。

「なら、ええけど。ところで逆さの小路を甦らせたのって、ほんま?」
「む、そんなわけないでしょ。そもそもそんな話聞いたの初めてだし」
「そか。そやったら、あの爺様は何が言いたかったんやろ」

 少しばかり考え、そういうのは性に合わないと中断する。
どうせ考えた所で分からない。頭を使うのは苦手だし、折角情報を貰ったのだ、足を手を動かし直に見る方がよっぽど早い。
 思い直し、ぱんっと両手で自身の頬を叩く。

「おっし、悪い東菊。ちっと離れるから、ここらで休んどってくれんか」

 やはりぐだぐだ考えるよりも行動する方が性に合っている。一度調べようと決めたら迷いはさっぱりと無くなっていた。

「どうしたの急に?」
「そない大したことないんやけど、知り合いが逆さの小路に調べとってな。まー、ここらで貸の一つでもつくっとこかなーと」
「そっか、その人のお手伝いがしたいってこと?」
「お前人の話なんも聞いとらんやろ?」

 そのくせ良い所をついてくるから性質(たち)が悪い。
 平吉の考えは彼女の言う通りであり、しかしそれを素直に認めるのも癪で、顔を顰めて見せる。もっとも内心など容易に見透かされており、まるで幼子を見るような生温い目でで見られてしまった。

「またまた照れちゃって。というか、私も一緒に行くよ? 私のせいって言われたらやっぱり気になるし」
「いや、一応護衛やし危ないとこに近付いてほしくはないんやけどなぁ」
「大丈夫大丈夫。何かあっても宇津木さんがいるしね。それに護衛なら離れる方が駄目じゃない?」

 言われてみればそれもそうだ。
 そもそも東菊は誰かに狙われているという訳でもない。手早く終わらせて帰ってこれば問題ないだろう。

「それもそやな。ほな、ぱっぱと行ってこか」
「うん。早く終わらせて甘いものでも食べに行こう」
「まだ食うんかい……」

 呆れたように平吉は肩を落し、朗らかに笑う東菊と共にその場を去る。
 助けに教えられた場所は此処からそう遠くない。四条通、寺社仏閣が立ち並ぶ区域からわずかに外れたうらぶれた小路だ。
 気を引き締め、腕にある念珠を確認し、二人は逆さの小路へと向うことにした。





 ◆






 ぱちん、と。
 みなわのひびははじけてきえた。








 景色が変わる。
 ふいに訪れた目覚め。甘やかな幻想は消え去り、気付けばうらぶれた小路に一人佇む。夢の名残も、彼女の笑みも見えぬ。当たり前の感覚が何故か寂しくて、甚夜は小さく息を吐いた。

『旦那様…旦那様……気を確かに』

 女の声は直ぐ近くから、携えた太刀から聞こえてくる。
 腰には夜来と夜刀守兼臣。左手をぐっと握り締める。自分のものではない自分の腕。確かに“ある”。異形の腕も、喰らってきた<力>も己が内に感じられた。

「……聞こえている、そう心配するな」

 呟きに、驚きと喜びの混じり合った声で兼臣が応える。

『旦那様っ、気付かれたのですか』
「ああ。私はどれくらい意識を失っていた」
『冬の四半刻程も経ってはおりません』
「そうか……」

 まだ少しに濁る意識を無理矢理に引き上げる。
 静かに、鋭く前を見据えれば、二間先に黒い影。
ゆらゆらと揺れる。改めて見ればそいつには見覚えがあった。 

『来ます』

 兼臣の短い言葉に呼応し、影は再び襲い掛かる。
 しかし今度は遅い。距離があれば十分に対応できる。夜刀守兼臣を鞘から抜き去ると同時に<飛刃>。距離を詰めることも出来ず影は上下に別れ、更に一歩を踏み込み上段に構えた夜来を唐竹に振り下す。十字に切り裂かれた影は断末魔もなく霧散していく。
 手応えはない。煙か霞を斬ったかのようだ。それもその筈、元々あの影はそういうもの。奇妙に思うような事でもない
 影を討ち払い、構え直し、辺りを警戒する。二手目は来ない。それを確認してから息を吐き、刀を鞘に戻した。

『お見事……ですが、あの影はなんだったのでしょうか?』

 先程の影を重い返し、兼臣が言う。
 影が消えたせいか、うらぶれた印象の合った小路の雰囲気は変わった。風が吹けば葉擦れが鳴り、木漏れ日が目に届く。僅かに空気が軽くなったような気がした。
 
「あれは鬼になりきれなかった未練だ」

 影の正体は既に知っている。殆ど間を置かずその問いに答えた。

「随分と昔、見たことがある。肉を持つには拙いが、人を惑わす負の想い。定型を持たず如何様にも姿を変える、報われなかった心だ」

 昔、直次や夜鷹も襲われたことがあった。
 いや、襲われるという表現はおかしい。あれは肉を持たないが故に肉を傷付けることはない。出来ることと言えばせいぜいが鏡のように未練を映し出す程度。
 ただし、未練を映し出すことしか出来ないが故に、あれの見せる幻は掛け値のない真実だ。だから先程の情景は、正しく甚夜自身の未練に過ぎなかったのだ。

「もっとも、以前見たものは姿を変えるだけ。“憑り殺す”ような真似はしなかったがな」

 依頼主は、逆さの小路に入った友人が死んだと言っていた。原因はあの影に相違ない。
 未練を映し出す影。おそらく白雪の手を取っていたならば、目覚めることなく死に至ったのだろう。

『つまり、それが“逆さの小路”の正体、ですか』
「いいや、違う」

 兼臣の言をすぐさま否定する。
 影は後悔や未練を映し出し死に至らしめる、極めて“真っ当な怪異”だ。選択さえ間違えなければ生き残ることも出来る。
 ならばあれを見た所で“聞いただけで死ぬ”怪談の原因になる筈がない。
 つまり影と噂になった逆さの小路にはそもそも繋がりなどないのだ。
 だとすれば、

「本当は、逆さの小路なぞなかったのかもしれん」
『え?』

 ふと浮かんだ仮定があった。しかし、それを確信へと変えるには些か情報が足りない。
 思い出したのは先程少しばかり言葉を交わした老翁だ。確か、太助と言ったか。
 僅かに目を伏せ、逆さの小路に背を向ける。

「少し調べたいことがある。付き合ってもらうぞ」
『勿論です、旦那様』

 踏み出す一歩、少しだけ躊躇いがあった。その理由を知りながら敢えて見ないふりをする。
 未練や後悔はいつだって付き纏う。今までも、そしてこれからも、何も失わず歩いていくことはおそらくできない。
 しかしそれでいい。失くして、何かを手に入れて、そうやって歩いてきた道のりは決して悪いものではなかった。捨て切れぬ未練が見せた幻影が、そう思わせてくれた。
 だから踏み出した後の足取りは、いつもより、少しだけ軽かった。





 ◆





 辿り着いた小路。神社と生い茂った林が重なり合い、光があまり届かぬ為薄暗い。しかし不気味かというとそうでもなく、寧ろ葉擦れと木漏れ日が心地よい実に景観豊かな場所だった。

「うらぶれた小路っていうからどんなところかと思ったら、結構きれいだね」
「そやな。しっかし、鬼の気配も血の匂いもない。はずれ引いたみたいやな」

 太助の言葉はやはり分からないままだが、此処には怪異の原因と成り得るようなものはない。
 つまり逆さの小路などという怪異は存在しなかったのだろう、おそらくは初めから。
その一点だけは、確かに太助の言う通りだった。

「あほらし。東菊、悪いな付き合わせてもて」
「ううん、大丈夫だよ。それに私も一安心って感じだから」
「ああ……」

 そう言えば「お前のせいで逆さの小路が蘇った」などと言われていたこと思い出す。しかし実際には逆さの小路などなかった。ならば太助の言葉を気にする必要もない。東菊が漏らした笑みには、心からの安堵があった。

「それならええけど。とりあえず詳しいことは明日にでもあの爺さんに聞くとして。ほな、そろそろ本題の方へいこか」
「うん。探し人探しだね」
「その通りなんやけどもうちょっとこう言い方が……」

 探し人が分からないから間違ってはいないのだが、どうにも気の抜ける響きである。はあ、と溜息を吐く平吉と笑う東菊。知り合って間もないが、既に立ち位置というものが決定してしまったようだ。

「気にしない気にしない。さ、行こ?」

 だけどそれも悪くない。
 そう思えてしまった時点で負けなのだろうと、平吉もまた口元を釣り上げ軽く哂ってみせた。






 ◆






「おや、貴方は」

 翌日、甚夜は再び四条通を訪れた。
 朝も早く、音のない道を歩く。向かう先は逆さの小路ではなく、とある神社だ。太助という男は毎日のように其の神社へ参拝に行くと聞いたからだった。

「どうも」
「確か、葛野さん、でしたか」

 木々に囲われた小さな神社、その境内に太助は一人佇んでいた。
 疲れたような表情。彼の持つ空気は世捨て人のように感じられる。こちらに気付いてからも気だるげな様相に変わりはなく、どこか投げやりな態度だった。

「突然の訪問、申し訳ありません。太助殿に話を伺いたいのですが」
「話ですか」
「逆さの小路について、です」

 ぴくりと僅かに頬の筋肉が強張った。
 おそらくこの老翁は全てを知っている。その確信があった。

「あれから多少調べましたが、人を死に至らしめる怪異などそこにはなかった。しかし噂に語られる内容では、聞くだけで命を落とすという。その矛盾の答えを、貴方は知っているのではないでしょうか。誰も知らぬ、逆さの小路の真実を」
「何故、そう思うのですか」
「誰も知らなかったからです。昨日、この辺りで聞き込みもしてみました。皆口々に言います。“逆さの小路という名前は知っている。だが、その内容は知らない”と。だが貴方だけが“ない”と言った。存在の有無を語るには、内容を知らねばできないでしょう」

 境内は風の音がはっきり聞こえる程に静まり返っていた。
 早朝、他に参拝客もいない。二人の間には沈黙だけが鎮座する。はっきり言えば、太助が真実を知っていたとしても甚夜に教える義理はなく、このまま沈黙を維持されればもはや逆さの小路の真実を知ることは出来ない。

「無理を言っているのは分かっています。ですが、どうか教えて貰えないでしょうか」

 どれだけ時間が経ったのか、未だに黙ったまま。もう無理か。諦めが脳裏を過る頃、ようやく太助は重い口を開いた。

「昔、天保の頃でしたか。貴方の歳では知らぬでしょうが、それはひどい飢饉がありましてな」

 語られた内容は、見当外れに思える。
 しかしその眼は真剣で、彼が誤魔化そうとしている訳ではないと知れた。

「陸奥国や出羽国を中心として始まった大飢饉ですね」
「ほう、お若いのによくご存じで」

 驚いた様子だったが、別段不思議なことでもない。そもそも甚夜はその頃から生きている。実際に体験しているのだから、知っていて当然だ。

「まあ、食べるものない。疫病も流行る。京でも、それはもう多くの人が息絶えましたよ」

 過去の惨状を語る老翁は無表情で、無感動だ。全く動揺なくすらすらと話す。

「あんまりにも人が死ぬと、言葉は悪いですがその処理……弔うのも手間がかかりましてな。初めの内は一つ一つ丁寧にしていたのですが、数が多くなれば身寄りのない者の躯は次第に後回しになりました。そうすると、今度は置き場所に困る。だから人目のつかぬ小路へと一時的に放り込んでいたのです」

 おどろおどろしい内容だが、やはり老翁は抑揚なく、感慨など欠片もない口調。
 思い出したくもないのか、それとも、他に理由があるのか。不快皺の刻まれた顔は、いつしか悲しそうに伏せられた。

「いくつもいくつも骸を積み上げ……すると、どうでしょう。ある日のこと、骸が、死肉がいやに荒らされている。野犬でも来たかと思いましたが、その様子もない。そういったことが何度も続くと流石に気味が悪くなりましてな。数人で調べました」

 薄暗い影。虚ろに、何を見るでもなく、眼は開かれている。

「理由は直ぐに分かりましたよ。……骸を喰う者がおったのです」

 絞り出した一言に力を奪われたのか。
 肩を落して俯く。十年は年老いた。そんなふうに感じられた。

「それは、鬼でしょうか?」
「……いいえ。物を喰わぬと体だけでなく心も痩せ細るものなのですなぁ。骸を喰っていたのは人でした。子供、大人を問わず、あまりにも腹が減り過ぎて、骸であっても食えればいいと、死肉にたかっておった」

 それを責めることは出来ない。
 甚夜もまた飢饉の恐ろしさは知っている。食うものもなく野垂れ死ぬ子供や僅かな食料を奪い合う大人。食べられないというのは、想像以上に人の心を追い詰める。飢餓が極限に達すればそれくらいはやると、納得してしまった。

「止められませんでした。儂も腹が減っていた。……だから、止められません。次第にそこは“逆さの小路”などと呼ばれるようになりました」

 諦観を感じさせるその様相。言葉を止めることは出来ない。

「呼び方に意味などなかったんです。怪談らしい、“それっぽい名前”なら何でもよかった。あまりにも恐ろしい話があるから近寄ってはならない。そこで見たことを語れば呪われる。そういう噂が流れれば、誰も近付かなくなりますから」

 老翁は逆さの小路など存在しないと言う。当たり前だ、元々それはただの作話だったのだ。
 人を遠ざけるにはなるべく恐ろしい方が好ましく、話が明確だとそれを確かめようという者が出てくる。
 結果作られたのは、聞くだけで死ぬという不明瞭な怪談。骸を安心して食べるように流布された怪奇譚だ。
 だから“逆さ”の小路。
 本当に恐ろしいのは怪異ではなく人の業。目を覆うほどの醜悪さを隠す、形だけの怖い話。

「ですが、それは四十年以上前の話の筈。今になって何故噂が流れたのでしょうか」
「忘れたからでしょう」

 今までの疲れた表情から一転、悔しそうに唇を噛む。

「人は楽になりたがるもの、与えられる癒しに縋ったとて責めるのは酷だ。罪の重さから逃げて、人を喰った記憶も忘れ、ただ“逆さの小路”という言葉だけが残った」
「忘れた? しかし」
「そういうことが出来る者もいるのです。記憶を消し、作り変える。確かに辛い記憶を忘れられれば確かに幸せでしょうな」

 それを弱さと責めることは出来ない。
 辛い記憶を忘れたくて、都合のいいように置き換えて。
 多くの者が人を喰った過去などなかったことにして。
 歳月は流れ、いつしかそちらの方が真実になってしまった。 
 だから誰に聞いても逆さの小路の内容は分からなかった。
“知らない”のではなく“忘れた”から。

「自分が何をしたかも忘れ、過去を都合よく作り変えて。それでも、逆さの小路という名前は忘れていなかったのでしょうな。誰か一人が口にすれば、自分も知っていると騒ぎ立てる。しかし名前は知っているのに内容が分からない。そんな“怪異らしい”要素があればなおさら怪談としての価値は上がる。そうして噂は蔓延し……ついには、存在しなかった筈の逆さの小路が生まれました」

 それも一瞬、全てを諦めたような笑みで太助は呟く。

「現世とは奇怪なものですなぁ。刻まれた罪過が消え去り、存在しなかった筈の怪異がまことになる。何が本当で何が嘘か、時折分からなくなります」

 甚夜はようやく逆さの小路にいたあの影の正体を理解した。
 あれは鬼になり切れなかった負の感情。行き場を失くしてしまった後悔の念だ。
 誰もが忘れ、見ることもなくなり、それでも尚残り続けるかつて犯した拭いきれぬ罪過。
 一つでは何の力も持たぬ後悔が積み重なり、妄念は濁り、いつしか淀む影となった。
 そこにあるのは忘れ去られた想い。郷愁を呼び覚ます幻覚は、つまりそういうこと。
 忘れ去られた記憶だからこそ、過去を映し出す鏡となって、見て見ぬふりをしてきた願いを突き付ける。
 そこから抜け出せなかった者は死に至る。
 踏み込んだ者に変えようのない未練を見せて取り込む小路。
 始まりは違ったかもしれない。
 しかし“逆さの小路”は、此処に真実となったのだ。 

「すみません。長々と語ってしまいましたな」

 ふう、と大きく息を吐いて太助は顔を上げた。

「いえ、ありがとうございます。ようやく、納得がいきました」
「それはなにより。……では、そろそろ行かせていただきます」

 もう話すことはないと甚夜の横を通り過ぎ、鳥居へと向かう。
 振り返れば年老いた小男の頼りない足取り。小さな背中がやけに寂しそうで、思わず声を掛ける。

「太助殿」
「……まだ何か」
「最後に一つだけ聞かせて貰いたいのです。誰もが逆さの小路を忘れたというのなら、何故貴方は忘れようとしなかったのですか? その方が楽になれたでしょうに」

 そんなことかと鼻で笑い太助は答える。

「忘れてはいけないからでしょう」

 初めての、力強い言葉だった。 

「どれだけ歳月が流れても、新しい時代が訪れたとしても。忘れてはいけないものはあると思います。……同じように、捨てられないものも」

 背中越しではその表情を見ることは出来ない。
 同じく、彼が如何なる道程を歩んできたかも。
 しかし太助の背中は、年老いて曲がり見るからに頼りなく、寂しそうで。
 だというのに何故かひどく重々しく感じられた。

「問われれば、いつなりとも逆さの小路の真実を語りましょう。今も覚えています。喉を通る肉の感触を。それを忘れずにいることが、私に出来る唯一償いですから」

 それだけ残し、今度こそ太助は神社を去った。
 人を喰った記憶はいつまでも彼を苛む。しかし太助はそれを忘れていくことを良しとしなかった。
 そうと決めたから。
 そこから外れるような真似は出来なかった。

「人の身でありながら……あれもまた、一個の鬼か」

 遠くなる後ろ姿に思う。
 おそらくは人を喰ったその時から、太助は人でありながら鬼だった。
 これからも人を喰った鬼として生きていく。それが、彼の選んだ道なのだろう。









 こうして逆さの小路は真実となった。
 一応影を討ち払いはしたが、怪異を解き明かした訳ではない。影は行き場を失くした想いの塊。その全てを消し去るなど甚夜には、他の誰にも不可能だ
 だから逆さの小路もまた消えることはない。
 過去の陰惨な記憶を隠し、しかし逆さの小路という名だけは、これからも語り継がれていく。
 或いは、それこそが太助の願いだったのかもしれない。

「お?」

 しばらくすると、入れ替わるように見知った顔が神社へ訪れた。
 左腕に三つの念珠を填めた青年。宇津木平吉である。

「宇津木」
「あんたか。なあ、ここに爺さんおらんかった? 毎日来とるって話聞いたんやけど」
「太助殿のことならもう行ったが」
「へ?」

 その返答が意外だったのか、平吉は呆けたように目を見開いた。
 話を聞いてみると、どうやら彼も逆さの小路について調べていてくれたらしく、太助ならば何か知っていると思い此処へ来たということだった。

「なんや、そしたらあんたも知っとったんか? 逆さの小路なんて存在せんて」
「ああ」
「そしたら、もう?」
「一応は解決でいいのだろう」
 
 これから先どうなるかは分からないが、少なくとも今は。
 飲み込んだ言葉。語る気はなかった。あまり気持ちのいい話ではないし、逆さの小路の真実を語るのは太助の役目。それを奪うのも気が引けた。

「そか。こっちはまだまだかかりそうやな」
「癒しの巫女の依頼は厄介か?」
「あー、まあな。誰かも分からん相手を探せ。正直、どうすればええのかも分からん。……ま、俺なりにやってみるわ」

 難航はしているようだが諦める気もないらしい。鬼嫌いを公言する平吉がそこまでする。出会ってから数日、随分と彼女のことが気に入っているようだ。

「お前がそこまで鬼に肩入れするとはな」
「あんたがそれ言うか?」

 自分だって鬼だろうに。目でそう訴えている。
 それもそうだと肩を竦めれば、仕方がないとでも言うように平吉は小さく息を吐いた。

「今更鬼やからどうこうなんて言う気ないわ。あんたが教えてくれたことやろ」

 不敵な笑みを浮かべる。平吉はそういう顔が出来る男に成長した。
 それがどうにもくすぐったくて、落とすように甚夜は笑った。

「そうか。ならば一度店に連れて来るといい」
「いやや。野茉莉さんに誤解されたらかなわん」

 間髪入れず否定する。あまりの速度に甚夜も思わず溜息を吐いた。

「……そういうことを、本人の前で言えればいいのだがな」
「言えるかっ!?」
「親の前で言うのも大概だと思うが……まあいい。私は行くが、お前は」
「東菊んとこ」

 本当に入れ込んでいるらしい。
 軽く口元を釣り上げ、短い挨拶を残し、平吉の横を通り過ぎる。境内には涼やかな空気が流れ、ざあと木々を鳴らした。
 そのまま鳥居の方へ向かい、思い立って首だけで振り返る。

「ああ、二股をかけるような真似はするなよ。肉塊になりたいのなら別だが」
「洒落にならんこと言うな!? あんたマジでできるやろーが!?」

 慌てる平吉の叫び声が何故か心地好く、甚夜は少しだけ穏やかな気持ちで神社を後にした。
 残された平吉は「ったく、あいつは。そやけど婿として認められとる? いやいや……」などと独り言を呟いている。

「って、そろそろ俺も行かなな」

 両手で挟み込むように自身の頬を叩き、気を取り直して前を見据える。

「おっしゃ。気合入った」

 そうして平吉もまた歩き始めた。
 逆さの小路と癒しの巫女。二つの事件は根幹を同じくしながら、甚夜も平吉もそのことに気付かないまま流れていった。






 ◆








 ───今も覚えている、あなたと過ごした日々のこと。








「父様、お帰りなさい」

 鬼そばへ戻った甚夜を迎えたのは、満面の笑みの野茉莉だった。

「ただいま。留守中何もなかったか」
「もう、いつまでも過保護なんだから。もう同い年なのに」
「それでも心配するのが親というものだ」

 笑いながら冗談を言って、窘めるように頭を撫でて、いつも通りの親娘の触れ合い目尻が下がる。

「でもあと数年もしたら私が甘やかすからね」
「ああ、楽しみにしていよう」

 軽く流して、二人は店の準備を始める。
 もうすぐ昼時、今日も忙しくなりそうだ。








 ───透明な朝、騒がしい昼、夕凪の空。
   沈む陽、見上げれば、星に変わり。








「宇津木さん、いらっしゃい」

 廃寺で平吉を迎えたのは、やる気のない様子で手をひらひらとさせる東菊だった。

「もう演技する気さらさらないんやな?」
「だってめんどくさいし」

 最初に抱いた印象は完全に砕け散った。しかしこちらの方が親しみ易いとも思う。呆れたような物言いはしているが、平吉は決して彼女のことが嫌いではなかった。

「ええけど。ほな、いこか。……そやけど、実際どうすればいいんやろなぁ」

 名も顔も知らぬ相手を探す。方法など分からない。初手から手詰まりのような気がする。
 しかし東菊は気楽な様子である

「大丈夫だって“その人”に会えればちゃんと分かる。だって私は」
「その為に生まれた?」
「うん。だから絶対大丈夫なの」

 そう言って笑う東菊。 
 平吉も返すように笑う。
 細められた、悪意のない緋の瞳。その無邪気さに根拠のない大丈夫も、何故だか信じられるような気がした。








 ────いつものように、手を繋いで、二人家路を辿る。  
    暖かさがくすぐったくて、子供みたいだねと、私は笑う。








 昼時を迎え、相変わらず鬼そばは盛況だった。
 目まぐるしく客は入れ替わり、止まることなく次々と蕎麦を作っていく。

「きつね一丁」
「お、悪いなあ」

 染吾郎は丼を受け取り、朗らかな笑みを返した。
 これもまたいつも通りの光景だ。蕎麦を啜りながら話す内容はやはり可愛い弟子にことである。

「平吉、うまいことやっとる?」
「腕は上がってきているし、依頼もそれなりにこなしているようだ。今はちと手こずっているらしいがな」
「そか」

 師匠として弟子が自分で受けた依頼に口を出すような真似はしたくない。
 しかし心配なのは変わらない。こういった会話を交わすのは今回が初めてではなかった。

「もう少し信用してやれ……と、言いたい所だが」 
「君も似たようなもんやろ?」
「違いない」

 心配するなと言っても心配してしまうのが親であり師匠だ。儘ならぬと互いに視線を交え、小さく笑う。

「成長しとるて分かっとるのになぁ。師匠ってのは厄介やね。なあ、おとうちゃん?」
「からかうな」

 そして染吾郎は視線を僅かにそらし、少しだけ寂しそうに呟いた。

「そやけど、もう一年二年もすれば。ほんまに僕の手は必要なくなるんやろなぁ……」

 それは甚夜もまた思っていたことだった。
 もう、あの娘は父の手など必要としていないのだろう。








 ───懐かしさに心浮かれて、けれど近付いた道の終わりに、知らず景色は滲んで。







「うん、満足」

 三橋屋でしこたま野茉莉あんぱんを買い、東菊は言葉通り満足そうだった。
 巫女服から着物に着替え、髪形も後ろで一つに纏め、薄く化粧をした。そこまですれば癒しの巫女と気付く者もおらず、足を止めることなく街を歩くことが出来た。

「で、外出て一番に菓子屋って。探し人はどないした」

 自分へのお土産を抱えて離さない東菊を半目で見る平吉。しかしそんな視線はなんのその、東菊の笑顔が崩れることはない。

「いいでしょ。こんなこと今迄出来なかったんだから。これからは真面目に探そ?」
「真面目に探してないんはお前やけどな」
「なんか、辛辣になったよね」
「理由が分からんとは言わんよな?」

 言葉を交わしながら鬼そばを通り過ぎる。少し顔を出そうとも思ったが、やはり女連れで野茉莉の前に行くのは気が引けた。

「結局探し人ってどんなん奴なんやろな?」
「それは、分からないけど。なんとなく、頭に浮かぶ景色はあるんだ」

 先程までの空気は消え失せ、物憂げな眼で遠くを眺める。
 映している景色は平吉には分からない。此処ではない何処かを彼女は見ている。そんな気がした。

「多分、その人は私にとって……ううん、ごめん。変なこと言っちゃったね?」

 口にした言葉を濁し、なんでもないと誤魔化して、東菊は笑った。
 笑っているのに、泣いているように見えた。

「……いや」

 うまい慰めなんて思いつかなくて、短く一言返すのが精一杯だった。
 そうして二人は己傍へは立ち寄らず、三条を後にする。


 例えばの話ではあるが。
 もしもこの時、何かの拍子に東菊が鬼そばへ立ち寄っていたなら、もう少し違う未来があったかもしれない。
 しかしそれは結果論に過ぎず。
 いつかのように、すれ違い。






「じゃ、いこっか?」

 いつかのような、笑みを浮かべて。





 玉響の日々、名残を惜しむように───私は、あなたとあるく。






 鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』了









 ***







「でもお母様、結局何がしたかったのですか?」

 何処かくたびれた屋敷の一室。畳敷きの部屋でしな垂れ、気だるげに虚空を眺める母に向日葵はそう問うた。

「東菊のしていることは町の人の記憶を消して、癒しを与えているだけ。お母様の目的にはあまり関係ないように思えますけど」

 全ての滅びを願う退廃的な母の在り方からはかけ離れた娘の存在。あれが母の如何なる部分を切り取って創り上げられたのか、向日葵にはよく分からなかった。
 しばしの空白。鎮座する沈黙。打ち破るように、揺れる涼やかな声が響いた。

『……東菊には、奪った頭蓋骨を取り込ませた。だから容姿も、性質も。あの売女と何も変わらない。記憶を失った状態ならば、意味のない滅私奉公に興じるなど初めから分かっていた』
「記憶を失った、ですか?」
『あれは私の娘であることも、その目的も覚えていない。……ただし、“探し人”に出会えたなら思い出す。己が何をするべきか』

 そうして虚空を眺める瞳は、悪意に研ぎ澄まされては物の輝きを見せる。

『私はただ、見たいだけ。東菊が本懐を遂げた時、あの人が何を選ぶのか』

 ゆらり、夜に溶ける。
 静かに紡がれた言葉は空気に紛れ、程無くして見えなくなった。









 次話『面影/夕間暮れ』






[36388]      『面影/夕間暮れ』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/10/27 00:27



 明治十六年(1883年) 五月




「はい、どうぞ」
「いただこう」

 荒城稲荷神社に立ち寄った甚夜は、拝殿の階段に腰を下ろし茶なぞ啜っていた。
 隣ではここの神主の妻であるちとせが柔和な表情で彼を眺めている。
 温めの茶が喉に流し、置かれた小皿に手を伸ばす。茶請けは磯辺餅、甚夜の好物だ。
ちとせは同郷であり、付き合いもそれなりにあった為、甚夜の嗜好を理解している。こうして顔を出せば、いつも磯辺餅を出してくれた。
 だからという訳でもないが、甚夜は時折荒城神社を訪れる。悪いとは思うが、一息つきたい時には茶屋よりも居心地がよかった。

「今日はどうされました?」
「ちとせの顔を見に来ただけだ」
「もう、こんなおばさんをからかっては駄目ですよ?」

 ゆるりとした笑み。小じわの目立つ、優しげな老淑女の顔だ。
 葛野を出た時にはまだ女童だった。しかしいつの間にか、彼女は柔和な物腰の似合う歳になった。老いることのない身であればこそ、その変化を殊更重く、尊く感じる。

「大きくなったなぁ」
 
 憧憬と寂寞が綯交ぜになったような不思議な心地、気付けば思わずそう零していた。
 
「いきなりどうしたんです、甚太にい」
「時が経つのは早いと改めて思わされた。昔は上手く敬語を使えなくてまごついていたお前が、こんなにも大きくなるのだから」
 
 伸ばした手、くしゃりとちとせの頭を撫でる。それがくすぐったかったのか、恥ずかしかったのか、少しだけ目を細め困ったように彼女は笑った。
 嫌がる様子はなく、手を払い除けることもしない。老淑女は何処か無邪気に頬を緩める。既に五十近い、なのに浮かべる表情に幼いちとせの笑顔が重なった。
 変わるものと変わらないもの。重ね合わせれば、不意に過る郷愁。思えば遠くに来たものだと、ちとせの笑顔に故郷を想う。
 とは言えそれも一瞬、手を離し、無造作に立ち上がる。

「馳走になった」
「いいえ。磯辺餅、いつでも食べられるように準備してますから」

 僅かな名残さえ感じさせない、朗らかな声。
 軽い別れの挨拶を交わし、甚夜は前を見据えた。
 鳥居を背もたれにしてぼんやりと空を見上げる男が一人。視線の先には古くからの友人である染吾郎がいる。

「染吾郎」
「おぉ、もうええの? ほないこか」

 黙って頷き、肩を並べる。
 此処に来た理由は、本当にちとせの顔を見たかっただけだ。
 あの娘は幼い頃、それなりに同じ時を過ごした。初めの友達だった。だから、なんとなく会っておきたかった。
 言葉少なく二人は歩みを進める。
 区画整備がきっちりとなされた京の町は、人通りは多くても整然とした印象を受ける。賑わう商家で道は騒がしく、すれ違う人は朗らかに笑う。江戸の頃は考えられなかった光景だ。
 楽しげな喧騒の中、甚夜と染吾郎はしかめ面だ。目指す場所はあまり楽しい所ではない。自然と表情は曇った。

「懐かしい、な」

 不意に甚夜は零した。

「んん?」
「以前もお前とだった」
「ああ、そういやそうやな。何十年前や」
「さて。数えたことはない」

 確かに懐かしくはあるが、そこに笑みはない。
 胸中にはどろりとした憎悪。肺が焼け爛れ、逆流してしまいそうになる。それを懸命に隠し、ただ歩く。
 顔に出なかったのは重ねた歳月故に。
 しかし薄れることはない。この憎しみは心ではなく肉、感情から機能となった。
 呼吸するように、腹が減るように、眠くなるように、ごくごく自然な生理機能として憎悪は湧き上がる。拭い去る術は見つからぬまま、道の途中沢山の優しさを知って、尚も刀は捨てられず出来ずここまで来た。

「ま、感傷は最後でええやろ。今は目の前のこと片付けよか」

 辿り着いたのは、一軒の酒屋。
 三条通にある、別段変わった所のない商家である。

「おこしやす」

 裕福そうな身なりの、恰幅のいい男がにこやかに応対する。
この男は以前染吾郎に鬼の討伐を依頼したことがある。
 どうにも興が乗らなかった為、実際に討伐を買って出たのは平吉であるが、一応のこと面識はあった。

「これは秋津さん」
「お久しゅう。もうかっとる?」
「はは、それなりに。今日はどないな御用で」
「いやぁ、最近流行の酒があるって聞いたもんでなぁ。こら呑んどかな思て友人と顔を出させてもろたんやけど、置いとるかな?」
 
 言葉に意味はない。最初からあるというのは知っていた。
 態々荒城神社で待ち合わせをしたのは、染吾郎が先に調べ回っていたからだ。近頃流行の酒。半年ほど前から名を聞くようになり、今ではどこの酒屋でも取り扱っているという。

「流行の酒ですか」

 その話を聞いたからこそ、酒屋に足を運んだ。
 ちらりと横目で見れば、友人は相変わらず固い鉄の様相をしている。
 きっかり三秒間を取って、低い声で甚夜は言った。

「ああ。“ゆきのなごり”……という酒があると聞いたのだが」

 








 鬼人幻燈抄 明治編『面影/夕間暮れ』










 その日の昼は偶にはいいだろうと、近場の牛鍋屋に足を運んだ。
 店内は盛況、肉食文化もそれなりに根付いてきたようで、牛肉は気軽な外食として大衆に受け入れられていた。

「肉うまっ」

 平吉はがつがつと肉を口に運んでいる。
 初期の牛鍋と言えば角切りの肉を味噌ダレで煮込んだものが一般的だった。肉の質が悪く、そうしなければ臭さく食べれたものではなかったからだ。
 しかし大衆文化として浸透するにつれ、肉の質も自然とよくなり今では醤油や砂糖、出汁を合わせた割下に変化した。この店でも後者であり、それだけ肉の質が良いことを示している。

「平吉さん、凄い勢い」
「ははは、普段お師匠の趣味に合わせて薄味やからなぁ。こうゆうがっつりしたのは中々食えん」

 次々と肉を平らげていくその様を見て、感心したように野茉莉は目を見開いている。彼女も味は気に入っているようで、平吉ほどではないが箸は進んでいた。
 それを眺めながら甚夜と染吾郎は酒をやり、時折思い出したように野菜や付け合せの漬物をつまんでいる。
 
「あぁ、マジでうまい。……そやけど、ええんか? ほんまに御馳走になって」

 四人での食事を発案したのは甚夜で、支払いも彼が持つ。人の金で飯を食っているというのに、流石に食い過ぎたかもしれない。
 散々食い倒して少しばかり不安になったのか、のんびりと杯を傾けている甚夜に向かって平吉が遠慮気味に問うた。

「ああ、構わん。子供が遠慮するな」

 野茉莉の酌を受けながら、視線を合わせず答える。そうしてまた一口。辛口の酒、芳醇な香り。悪くない、どころか中々に良質な酒だった。

「俺、一応二十三なんやけど」
「酒をやらん男など子供で十分だ」

 子供扱いが癪に障ったのか、若干表情が曇る。

「そやな、平吉」

 染吾郎も同調し、言いながらビヤザケを煽った。
 むぅ、とあからさまに顔を顰める。舶来の技術を模して造られた酒らしいが、染吾郎の趣味には趣味に合わなかったようだ。のど越し苦味も悪くないが、総じて“たるい”。もう少し切れ味のいい方が好みだった。

「なんやあんた、微妙に機嫌悪い?」
「そういうつもりはないが」

 無表情も抑揚の小さい喋り方も普段と変わらない。なのに、今日はやけに素っ気なく見える。気になって問えば、染吾郎が答える。

「あはは、平吉。こいつな、君と酒呑みたかったんや。そやけど呑めんいうから拗ねとるだけ」
「五月蠅いぞ、染吾郎」

 じろりと睨み付けても軽く受け流す。相変わらず好々爺然としながら食えない爺である。
  
「それ、ほんま?」
「否定はせんな。楽しみが増えると思っていたのだが」
「そら、あー、すまん、かった?」

 酒を呑まない平吉にはその感性が分からない。だから抱いた感想は、こっちのことは放っておいて呑めばいいのに、くらいのものだ。
 そういう考えが読み取れるから、染吾郎は仕方がないなと優しげに溜息を吐いた。
 一緒に酒を呑みたいと思うことの意味に気付かないのだから、子供と言われても仕方がないだろう。

「やっぱ、まだまだ子供やね。ところで甚夜、そいつの味はどない?」

 落ち着いた表情は変わらず、口調も何気ない。ただほんの刹那だけ、目は鋭く細められた。
 杯を傾け、咽喉に酒を流し込み、意に甚割と広がる熱さを感じる。

「辛口で切れのあるいい酒だ」

 実に普通の感想だ。
 期待外れの答えに染吾郎は顔を顰めた。こちとら真面目な話をしているというのに、返しがそれでは呆れもする。

「そうやなくてな?」
「……が、それだけ。“普通”の酒だな」

 答える甚夜も目つきが鋭くなっている。
 普通という言葉を強調する辺り、ちゃんと質問の意図は汲んでくれたようだ。

「そか、予想通りっちゃ予想通りや。この酒が出回ってから半年、話もあんま聞かんしな」

 呑んでいる酒の名は“ゆきのなごり”。
 甚夜と染吾郎は近頃巷で名を聞くようになった“ゆきのなごり”について調べていた。酒屋を周り現物も買い、問屋を調べ酒の流通、また実際に甚夜が呑んで中身を確かめても見た。
 結果としては、ある一点を除いて、特に何も出てこなかった。
 呑んでみても普通の酒、正規の流通に乗って品は出されており、人が鬼になるといった類の噂もない。
 駄目押しとばかりに牛鍋屋に置いてあったゆきのなごりを頼んでみるも、やはり質がいいだけで、呑んでも懐かしい風味はしなかった。
 つまり今回の酒は名前が同じだけで以前とは別物ということになる。 
 
「染吾郎、どう見る?」

 しかし、だからと言って何の関わりもないという訳ではなさそうだ。瓶も記された文字も、江戸の頃と全く同一。これを偶然と片付けることは出来なかった。
 
 なにより、気になるところが一つだけあった。
 
 当然ながら出荷元も調べたのだが、問屋から教えて貰った場所に酒蔵はなく、実際に行ってみれば既に打ち捨てられた屋敷へと辿り着いたのだ。
 ご丁寧に、どの問屋に聞いても屋敷へ繋がるようになっており、あからさま過ぎて失笑してしまう程の怪しさだった。

「誘い。噂の女からの結び文ってとこやな」
 
 その物言いに顔を顰める。
 結び文は細く巻き畳んで、端または中ほどを折り結んだ書状。古くから恋文に使われた形式である。
 噂の女というのは当然マガツメのこと。
 屋敷の中までは調べていないが、間違いなくそこで彼女は待っている
 まったく嬉しくない逢瀬の誘い、しかし同時に嬉しくもあった。
 憎むべき者が態々こちらに出向いてくれた。そう思えば、にたりと猛禽のような笑みが浮かぶ。

「向こうからの誘いとは有難い」
「がっつく男は嫌われんで?」
「既に十分過ぎる程嫌われているさ」

 明言はせず、二人だけが分かる会話を交わす。
 そこに割り込んだのは、若干不機嫌そうに頬を膨らませた野茉莉だった。

「……噂の、女?」

 野茉莉は反芻する。父に近付く女の影、幼い頃はもう少し過敏に反応していたが、今ではそこまでではない。それでも今更母親が出来るのは嬉しくないらしく、ささくれ立った態度を隠そうともしない。
 
「あー、別に気にせんでええよ。艶っぽい話やないから」
「どちらかと言えば血生臭い」

 二人が即座に否定すれば、安堵したのか柔らかく目尻を下げる。同時に血生臭い、という言葉が引っ掛かり、心配そうに声を掛けた。

「なにかあるの?」
「探っている段階だ。そう心配するな」

 軽く答え何でもないことだと示してみせる。
 最後の一杯を飲み干し、追加を注文しようと手を上げると、その手をやんわりと握った野茉莉に無理矢理下げられてしまった。
 
「お酒はもうおしまい」

 めっ、とまるで子供を嗜めるように野茉莉は言う。
 その仕種がよく似合うと思う。そう思える程に、彼女は大人になった。
 長い髪は子供の頃と同じように桜色のリボンで一纏めにしている。しかしその面立ちから幼さは抜け、立ち振る舞いにも落ち着きがあった。
 
「いや、もう少しくらいは」
「呑み過ぎだよ。深酒は駄目だっていつも言ってるでしょう?」

 野茉莉は二十歳になった。
 対して甚夜の外見は十八の頃から止まったまま。
 つまりとうとう彼女は甚夜を追い越してしまった。
 今では並んで歩いていても親娘かと問う者は誰もいない。こうやって四人集まれば、当然ながら甚夜が一番年若いと思われる。
 恐れていた時がきた。
 もう、親娘でいることはできないのだ。 

「駄目ですよ、ちゃんとお姉さんのいうこと聞かないと」

 しかしそれを悲しむことはなかった。

「おー、出た。野茉莉ちゃんのお姉ちゃん風」
「はい。今の私はお姉さんですから、弟が無理しないようにしっかり見ていないと」

 からかうように染吾郎が言えば、ふふん、と勝ち誇った笑みで甚夜を嗜める。
 野茉莉は人目のあるところでは甚夜の姉を自称し、家では今迄通り父様と呼んでいた。
 父であることは変わらず、傍から見ても家族で在れるように、野茉莉は二つの態度で甚夜に接する。その心遣いを嬉しいと思わない筈がない。

「だから、甚夜。今日はもう止めとこうね?」
「ああ、分かった。姉上様」
「はい、よくできました」

 茶化して姉と呼べば満足そうに何度も頷く。形は変われども家族として在ろうと二人の戯れ。それが染吾郎には眩しく見えて、光を避けるように目を細めた。

「野茉莉ちゃん、昔はかいらしかったけど、今はええ女になったなぁ。なあ、平吉?」

 急に話を振られて、肉を喉に詰まらせる。むせ返りそうになったが茶で無理矢理流し込み、呼吸を整え、何とか言葉を絞り出す。

「え、ええ。そですね。野茉莉さん、綺麗になった、と思います」
「ふふ、なんだか照れるなあ。ありがと、平吉さん」

 返ってきた笑顔は本当に綺麗で、顔が熱くなるのを自覚した。
もっとも平吉にとってはそれが精一杯。小さい頃から知っていた仲良くもしているが、さん付けはまだ取れない。あと一歩が踏み出せず、仲のいい幼馴染というのが現状だ。
 その遣り取りを見て、甚夜は重々しく口を開く。

「可愛いということも、いい女になったことも認めよう。確かに野茉莉は親の贔屓目を抜きにしても器量よし、気立てもよく家事に関してもそつなくこなす。その上で男を立てる、夕暮れに咲く花のように淑やかな娘だ」
「出たな野茉莉ちゃん至上主義者」

 染吾郎の揶揄もなんのその、堂々と言ってのける。親馬鹿どころか馬鹿親丸出しの発言であった。

「も、もう父様まで」
「事実だ」
「ふふ……」

 照れたせいで姉としての態度は崩れていた。
 この親娘の仲の良さは有名で、鬼そばやでは名物となっている。相変わらず過ぎて辟易とした様子の師弟だった。

「だが、少し気になるところもある」
「お、珍しい。なんかあかんとこでもある?」
「いや、まあ、なんだ」

 言い淀む甚夜を見てぴんときたのか、からからと笑いながら染吾郎が答えた。

「ははん、分かった。そろそろ嫁の貰い手を探さんとな、てとこやろ」

 見事に図星を突かれてしまった。
 ぴしり、と空気が凍り付いたのは気のせいではないだろう。
 言い当てられた甚夜と同時に、照れ笑いのまま野茉莉も固まっている。
 晩婚化が進んでいる現代の日本とは違い、江戸の女性の結婚適齢期は十五から十八、明治に入っても十七から十九まで。明治後期になると早婚の弊害が説かれたため二十歳を過ぎる例も出てきたが、大抵は親が二十歳までに結婚させてしまう。
 
 二十歳を過ぎても未婚のままでいる女性は、奇異な目で見られるのが一般的だ。
 そして野茉莉は今年で二十歳。行かず後家と言われてもおかしくない年齢に差し掛かっていた。

「秋津さん、何か、仰いまして?」

 困惑し、戸惑いに視線をさ迷わせる。
 わなわなと震えた唇で、たどたどしく紡ぐ言葉。何とも頼りない声は、自分でも少しばかり意識していたからだろう。

「いや、そろそろ年齢がな? 女の子は早め早めの方がええと思うたんやけど」
「うぅ」

 言葉に詰まる。
 非常に失礼ではあるが言っていることは分かる。野茉莉の歳なら子供がいる女も珍しくない。というよりも、体への負担を考えれば出産は早い方がいい。少なくとも明治の頃はそういう考え方が普通だった。

「父親としては、嫁に行かれるのは寂しい。家にいてくれるのは嬉しいと思うが」
「う、うんっ、そうだよね?」
「そやけど相手が一人もいないってのは流石にあれやろ?」
 
 今度は親娘共々何も言えなくなってしまう。
 染吾郎の言は甚夜の内心でもあった。
 今更ながらおふうを嫁にしないかと言い続けた店主の気持ちが分かる。可愛い娘、手放したくないとは思うが、適齢期を過ぎても相手がいないというのは確かに心配だ。

「でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。あは、あはは」

 微妙な笑みを浮かべて乾いた笑いを垂れ流す野茉莉。そこに染吾郎は追い打ちをかける。

「そんなら、平吉はどや?」
「お師匠っ!?」
「なに言ってるんですか秋津さん!?」

 突飛な提案、しかし口は挟まなかった。
 大事な娘が嫁に行くのは複雑な心境だが、それでも平吉なら信は置ける。案外悪くないかもしれない。そう思って止めなかったのだが、予想以上に二人は混乱している。

「そ、そういうのは、ほら! 平吉さんも迷惑だと思いますし、ね?」
「いやっ、迷惑とは思わんけども」
「えっ!?」

 慌てふためく様を甚夜はじっと観察する。
 平吉は言わずもがな、野茉莉も顔を赤くしている。お互い憎からず思っているのは間違いない、筈。とはいえ如何せん性急すぎたらしい。互いに照れ、戸惑い、ずれた会話を繰り返すのみだ。
 
「あちゃー、やってもったな」
「そうだな」

 手酌で残ったビヤザケを盃に注ぎ、軽く煽ってみる。
 染吾郎は気に入らなかったようだが、呑んでみればそれなりにいける。個人的にはもう少し辛口が好みではあるが、それほど悪くはない。

「あら、怒らんの? うちの娘に何しとるー、くらいは言うかと思たんやけど」

 騒ぎを余所に酒を呑んでいるのが不思議だったらしく、染吾郎は首を傾げる。
 持ち出した話は場を混乱させることしか出来なかった。しかし怒る気にもなれない。ビヤザケを呑みながら、何気なく甚夜は言う。

「友人の気遣いを叱責するような真似は出来ん」
「なんや、ばれとる?」

 意外だ、と言わんばかりに目を見開く。
 染吾郎が態々こんな話を始めたいとは分かり切っている。何故ならば、それこそが今回の昼食の目的だった。
 勿論ここまであからさまにするつもりはなかったが、それとなく「そろそろ結婚でも考えてはどうだ」とでも促そうと、甚夜こそが思っていたのだ。

「済まない。道化をやらせた」
「僕が勝手にやったことやけどね」
「それでも感謝くらいはさせてくれ」

 結果として上手くはいかなかったが、これで踏ん切りは付いた。
 ちゃんと野茉莉と話そう。あの娘の為にも、避けては通れない道だ。

「一度、腹を割って話してみようと思う」

 少しだけ寂寞を思わせる横顔に、染吾郎は穏やかに頷いた。

「そやな。そのほうがええ」

 一転、茶化すように口の端を釣り上げる。

「ま、野茉莉ちゃんはええ女や。多分君が思っとるようにはならんけどな」

 そしてからからと、楽しそうに彼は笑った。




 ◆




 あくる日の夜、夕食を終えて親娘二人のんびりと茶を啜る。
 近頃では食事は野茉莉が作るようになった。腕前も中々で、今では炊事掃除洗濯、糠床の管理まで彼女がこなしている。
 流石に悪いとは思うのだが、「私だって作れるようになったんだから」と野茉莉も頑として譲らない。結局やれるといえば食事の後片付けを手伝う程度になってしまっていた。

「有難くはあるが、お前にばかり負担をかけるのもな」
「駄目。こういうことはお姉さんに任せて。ね?」

 まったく都合のいい。野茉莉は娘と姉を上手く使い分けている。
 此処で言う“都合のいい”は野茉莉にとってではなく、甚夜にだ。彼女は娘と姉の立場を使って、極力甚夜の負担を減らそうとする。そういう気遣いが出来る大人に育ってくれた。
 しかし手放しに喜んでいる訳でもない。
 娘の成長が嬉しい反面、申し訳ないとも思ってしまう。
 この娘は父を気遣い過ぎる。もう少し自分を優先しても罰は当たらないだろうに。




 ───でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。




 当たり前のように紡がれた嘘。
 親の贔屓目を抜きにしても、野茉莉は器量よしで気立てもいい。引く手数多とまでは言わないが、その気になれば相手などいくらでも作れただろう。
 そうしなかった理由など考えるまでもない。
 それは偏に父を慮ればこそ。
 老いることの出来ない父と、少しでも長くいようと彼女は努力してきてくれた。嫁に行こうとしなかったのも、そう意図があったのだと本当は知っていた。
 けれどそれに甘えたままではいられない。

「なぁ、野茉莉」
「はい?」

 お茶を楽しみながらたおやかに笑う。
 その柔らかさに躊躇い、けれど彼女を想うからこそ言わなくてはならない。

「いいんだぞ、無理をしないでも」

 穏やかな声に空気が固まる。
 野茉莉に動揺はなかった。落ち着き払った様子を見るに、なんと続くかを既に察しているのだろう。しかし黙って、彼女は甚夜の言葉を待ってくれていた。
 
「お前もそろそろ、結婚を考えてみないか。相手がいないというのなら見合いでもどうだ? なに、これでもそれなりに伝手はある。お前の希望に沿う相手を探そう」

 江戸で生活していた甚夜にとっては、それが普通である。野茉莉が望むならば恋愛結婚も構わないが、そうでないのなら見合うだけの人物を探すのは父たる己の役目だ。

「いや、探さなくとも宇津木がいるか。あれは、いい男に育った。気心も知れているだろう、相手としては申し分ないと思うが」

 野茉莉は何も言わなかった。
 沈黙は焦燥を掻きたてる。捲し立てるように口を開くのは、一度止めてしまえば二の句を告げられなくなると思ったから。この熱が冷めるまえに、伝えておかなくてはならない。

「二十歳を過ぎれば相手を探すのも難しくなる。考えるなら頃合だと」
「……なんで?」

 甚夜の言葉を遮るように野茉莉は言った。
 やはりそこに動揺はなく、しかしほんの少しだけ瞳は寂寞に揺れている。

「なんで、そんな話するの? 私のこと邪魔になった?」

 抑揚なく紡ぎだされたのは、心の奥底にあった劣等感だ。
 血が繋がらない。その一点をもって、幼い頃はずっと怖がっていた。いつか自分が嫌われた時、捨てられるのではないだろうか。そんなことを思っていた。

「馬鹿なことを。そんなわけがないだろう」
「なら、なんで?」

 それでも今は違う。父がちゃんと家族だと思ってくれていることくらい分かっている。
 だからこそ、何故父がそんな話をするのか理解できない。否、なんとなく理解しながらも、認めたくなかった。
 身構える野茉莉に、甚夜は困ったような静かな笑みを落した
 
「お前が結婚しようとしない理由は、私だろう」

 そうして口にした言葉は、まぎれもない真実だった。

「とう、さま」
「分かるさ。お前が私を慮り、家族であろうとしてくれていることくらい分かっている。それが嬉しくて、甘えてしまった。……だが、それはいけないのだと思う」

 鬼の寿命は千年を超える。
 しかし人は五十年もすれば消えてしまう。野茉莉がどれだけ努力しても、家族でいられるのはほんの刹那でしかない。
 その刹那の為に、彼女の幸せを犠牲にはしたくない。
 家族だと、自信を持っている。
 そう思えるだけのものを、野茉莉は与えてくれた。
 ならばそれでいい。自分は十分に救われてきた。
 今度は、こちらが彼女の幸せを祈る番だろう。

「離れたとて家族であることに変わりは無かろう。だから無理はしなくていい。結婚し、子を産み、緩やかに生きる。女として当たり前の幸せを得てもいいんだ、お前は」

 胸を過る空虚を今は見ないふりして、穏やかな笑みを落す。
 野茉莉は俯き、肩を震わせていた。しかしそれも一瞬、顔を上げ、揺れる瞳で甚夜を射抜く。
 泣いているのだと思ったが、違った。僅かに潤んではいるが、そこには決意の色があった。

「父様……私、もう子供じゃないよ」

 震える声に、込められた心。
 真っ直ぐ視線は逸らさない。もう子供ではないと、態度で示そうとしているようだ。

「自分の道くらい自分で選べる。それとも、そんなことも出来ないように見える? そんなに私って頼りない?」
「そんなことは」
「なら、そんなこと言わないで。父様が私のこと心配してるって分かってるよ。でも、私も、私だって……」

 口ごもり、首を横に何度か振って、気を引き締め直す。
 濁してはいけない。伝えたいことははっきり口にしないといけない。懐にある福良雀が、そう教えてくれた。

「私は、父様の娘で、姉で、いつか母親になるの。そうするって自分で決めた。それが幸せじゃないなんて、間違ってるなんて言わないで」
「野茉莉……」
「大丈夫。自分のことだって考えてるから。だから、もう少しだけ好きにさせて欲しいな」

 精一杯の笑顔で紡ぐ強がり。
 ちゃんと笑えただろうか。自信はないかったが、野茉莉は胸を張る。
 幼かった娘は、そうやって我を張るだけの強さを手に入れた。
 
 それが甚夜には嬉しく、同時に少し寂しく。けれど思う。この娘は本当に大きくなった。浮かべた笑顔の眩しさに、少しだけ安堵を覚えた。

「済まない。お前の気持ちを考えていなかった」
「ううん、それだけ私のこと心配してくれたんだよね。……今更だけど、父様が私に甘いっていうの実感出来ちゃった」

 ぺろりと舌を出しておどけて見せる。
 釣られた甚夜も表情を柔らかくして、親子二人のんびりとした空気が戻ってくる。
 本当は、誰かの妻となり、穏やかに老いていく、そういう生活を選んでほしかった。
 マガツメに繋がる道を見つけた今、余計にそう思ってしまう。
 きっと、野茉莉が止めたとしても、甚夜はマガツメの下へと向かう。
 それだけが全てで、そういう生き方をしてきた。
 だからこそ、愛する娘には平穏を生きて貰いたかった。
 結局それは叶わなかったが、悪くはない。
 この子が娘でいてくれたことが、殊更誇らしく感じられた。







 それでも生き方は変えられない。
 明日、甚夜は打ち捨てられた屋敷へ向かうと決めていた。
 マガツメとの邂逅は、直ぐそこまで近づいているのだ。




[36388]      『面影/夕間暮れ』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/11/08 11:45



 廃寺の本堂に向かってから、いつものように東菊と町を練り歩く。
 昼食時を過ぎても未だ喧噪に満ち満ちた通り。人混みの中、軽い雑談を交わしていると、彼女は膨れ面でそんなことを言いだした。

「ずるい」

 東菊は子供のような怒り方で睨み付けてくる。睨むといってもそこに悪意はない。単純に、平吉が羨ましいだけである。

「ずるい。一人だけ美味しいもの食べてる」
「そらしゃあないやろ。お前つれてく訳にもいかんし」
「……私が遊びに行ったらいろいろ御馳走してくれたり」
「どんだけ腹すかせとんのやお前は……」

 平吉は呆れたように溜息を吐く。
 初めて会ってから二年、まだ彼女の探し人は見つからない。特別な感情はないが付き合いも長くなり、友人と読んでも差し支えが無い程度には親しくしていた。
 ちらりと東菊の横顔を盗み見る。普段は意識していないが、やはり鬼だ。彼女は二年前と寸分違わぬ容姿のままだった。
 中身の方も寸分違わず、相変わらず明るく、よく笑い、若干食い意地が張っている。
 睨み付けている理由もそこにあり、牛鍋屋でたらふく肉を食べた話をすると、見るからに不機嫌そうな顔で平吉に文句を言い始めたのだ。

「でもいいなぁ。その人、お蕎麦屋さんだったっけ?」
「おう。俺に体術教えてくれたりもしとる。ちなみにお前が好きな野茉莉あんぱんの名前付けたんもそいつや」

 もっとも、命名に関しては親馬鹿の結果ではあるのだが。
 菓子に自分の娘の名を付けるなど、あの男らしいと言えばそうなのだろうが、行き過ぎていると思わなくもない。

「へぇー、会ってみたいなぁ。……あれ? そう言えば宇津木さんって私のこと知り合いに全然紹介してくれないよね?」
「そらそうやろ。癒しの巫女様を紹介して騒ぎになったら嫌やし」

 しれっと嘘を吐く。本当の所は、彼女が鬼女であり、信頼に足るかが判断できなかったからだ。もっともそれは最初だけ、今ではそれなりの親しくなり、紹介することもやぶさかではない。
 しかし親しくなったからこそ、今度は別の理由で紹介できない。唯でさえ長い長い片思い、野茉莉の前で別の女と親しくしている姿などさらす訳にはいかないのだ。

「しかしなんかあれやな。俺、二股かけとるみたいや。……やばい、紹介できん理由もいっこ増えたわ」
「どうしたの? ぶつぶつ独り言言って」
「いや、いつの間にか命の危険が近付いとったことに今更気付いただけや。下手するとほんまに肉塊やな、俺」

 東菊は「なにそれ?」と呑気に笑っているが、案外と平吉には死活問題である。
 あの男は冗談など言わないだろう。やると言ったら間違いなくやる。別に付き合っている訳ではないが、野茉莉と東菊を両天秤にかけているなどと思われでもしたら割合本気で命が危ない。
 やはり東菊と一緒に鬼そばへ近付くのは止めておいた方が無難だろう。
 うむ、と一つ頷き、

「じゃ、久しぶりに三橋屋さんいこっか?」

 僅か数秒、平吉の考えは簡単に崩れ去った。

「い、いやぁ、あんぱんやったらまた買うて来たるから、今日はやめとかん?」
「えー、滅多に行けないんだからいいでしょ? さ、はやくはやく」

 腕を取られ引き摺られる形で三条通を歩く。見た目は少女だが、そこはやはり高位の鬼。思った以上に膂力は強く、振りほどくこともできない。全力で抵抗すればできるかもしれないが、流石に女相手ではそんな真似も出来ず、殆どなすがままになっている。
 
「……言ったらすぐ帰んで」

 自分の意志の弱さには呆れる。正直行きたくはないが、そんな嬉しそうな笑みを見せられては止められる筈もない。腕組んであの親娘がいる鬼そばの近くまで行くなど軽い自殺ではあるが、仕方ない、手早く買い物を済ませてさっさと帰ってこよう。

「ふふ、ありがと。なんだかんだ宇津木さんは優しいよね」
「どーでもええから手ぇ離せ」
「あ、ひどー」

 じゃれ合うような会話を交わしながら、ふらり二人歩く。
 それを楽しいと思えるようになった自分が信じられない。以前はあんなにも鬼を嫌っていたというのに。

「……やっぱ、お師匠は凄いわ」

 ぽつり呟き、平吉は知らず頬を緩めた。
 昔は悩んでいた、鬼を忌避する己は秋津染吾郎には相応しくないのではないかと。
 しかし今なら師の言葉を理解できる。
 鬼にも善鬼悪鬼がいる、だから“鬼だから”は討伐の理由にならない。
 人と鬼。種族が違い、寿命が違い、そもそも生き方がまるで違う。
 だとしても笑い合うことは出来るのだと。
 ようやく、心からそう思えた。

「何か言った?」
「なんでもない。ほら、さっさと行くで」
「はーい!」

 足取りは軽くなる。
 人の流れに沿って、鬼と並び歩く。それが何処かおかしくて、自然と笑う。
 柔らかな午後の日に、心浮かれて。

「……え?」

 けれど隣にいる少女の、呆けた声に足を止められた。
 立ち止まり、目を見開く。
 肩が揺れ、わなわなと唇は震えている。
 あまりの動揺ぶりに、視線の先を追う。鬼そばの店先には三橋屋の店主、三橋豊重がいる。店から出てきた野茉莉と甚夜もだ。なにやら和やかに話しているようだが、それをまるでこの世の終わりとでも言わんばかりの表情で東菊は眺めている。

「どないした」

 流石におかしいと思い声を掛けるが反応はない。驚愕では生温い。恐怖ではちと毛色が違う。東菊は名状しがたい感情に心を震わせている。
 理由は分からない。ただ彼女は変わらず三人を見つめ、しばらく経ってからふと意識を取り戻しぎこちない笑みを浮かべた。

「……ごめん。宇津、木さん。私、これで、帰るから」

 待て、と止める暇もなかった。
 言い切るより早く東菊は踵を返し駈け出す。手を伸ばし、掴もうとして、するりと少女の細い腕は逃げた。振る還ることなく人混みに紛れ、後ろ姿も見えなくなる。

「おいっ! ……なんやあいつ」

 追い掛けるにも遅い。
 結局平吉は東菊の背中を見送ることしか出来ず、どうすればいいのか分からないままに悪態をつくしか出来なかった。










 だから走り去っていく東菊の呟きを聞き逃した。

「やっと、見つけた……」

 底冷えするような低温の声は雑踏に紛れ消えていく
 そこに籠められた熱は誰にも伝わらなかった。






 ◆




 甚夜は通りの方に目をやった。
 昼時を過ぎ、店内も落ち着いた。しかしまだ通りは行き交う人々で雑多な印象を受ける。それをただ凝視し続ける父を不思議に思い、野茉莉は声を掛けた。

「父様、どうしたの?」
「いや……」

 今、誰かがこちらを見ていたような気がした。しかし辺りを見回してもその気配はない。
 単なる杞憂か、既に逃げた後か。ともかく視線を送っていたであろう人物は既に去った後のようだ。

「如何やら勘違いだったようだ」

 そういうことにしておこう。いたずらに不安を煽ることもあるまい。
 なんでもないと態度で示し、肩を竦めて見せれば豊重が僅かに口元を釣り上げた。

「葛野さん、疲れてるんじゃないか? もういい加減歳だな」

 甚夜の“皺の増えた顔”を見ながらそんなことを言いだすものだから、今度は野茉莉が柔らかく微笑む。

「そうだね、父様」

 幼さの抜けた、穏やかな笑み。悪戯っぽいのに大人びた印象を受けるのは、彼女が年相応の落ち着きを身に着けたからだろう。
 ふとした仕種、立ち振る舞い。もう子供扱いは出来ないと、甚夜は微かに目を細めた。

「しっかし、野茉莉ちゃんも悪いな。こっちの都合に付き合わせて」
「そんな。いつも楽しみにさせて頂いてますから」
「ははっ、そう言ってくれるとありがてぇ。こりゃ面倒だとか言ってる場合じゃないな」

 手渡された紙包み。中に入っているのは豊重が手ずから作った菓子だ。
 あんぱんの一件以来、豊重は時折新商品を持って鬼そばへやってくる。そこで味を確かめて貰い、御眼鏡にかなえば実際に店を出す。今日鬼そばを訪ねたのも、味見をしてもらう為だった。
 最近では嫁にせっつかれなくても新作の開発に余念がない。以前は面倒臭いと言って男が変われば変わるものである。
 
「っと、あんま引き留めてもなんだな。んじゃ、俺はこれで」

 そう言って挨拶代わりに軽く手を上げてから豊重は背を向けたあ。甚夜らもそれに倣い店へ戻る。店内の一角にはどっかりと椅子に腰を下ろし、のんびりと茶など啜っている老人が一人。

「お、もう終わった?」

 染吾郎は朗らかに笑いながらそう言った。
 店内には親子二人に染吾郎しかいない。夜にはマガツメがいるであろう屋敷へ向かう。その為、今日は店を昼で閉めることにした。
 昼間でとはいえ大勢の客を捌き、流石に疲れた。それなりに体力はあるつもりだが、鬼を相手取るのと人を相手取るのでは疲れの種類が違う。客商売だ、気苦労はいつだって付き纏う。だからせめて、夜に備えて体を休めておきたかった。
 疲れから、ふう、と一息吐いた甚夜を染吾郎は怪訝そうな目付きで眺めていた。

「……そやけど、違和感あるわぁ」

 目の前には、“年老いた四十代前半の甚夜”がいる。
 その視線に気付き、甚夜はすっと目を伏せる。すると次の瞬間には、普段と同じ、十八歳の青年の姿があった。

「そう言ってくれるな。これはこれで高等技術なんだ。自身の体に<空言>で造り出した幻影を重ねる。言葉にすれば簡単だが<空言>は使用者の記憶に依存する為、年老いた自身を細部まで明確に想定しなければ破綻してしまう。その上、仕事をしている間は常に行使していなければならないからな」
「ここまで無駄な<力>を使う鬼初めて見たわ」

 呆れたように染吾郎は溜息を吐く。
 無駄とは言うが、これも必要なこと。いつまでも歳を取らない店主というのは流石に怪し過ぎる。野茉莉と此処で生活を続けるには、こういった小細工もしなければならない。
 と言っても、日常生活で常に行える訳ではない。だからせめて店を開いている間は、“歳を取った父親”として在りたかった。

「ん? そういう使い方が出来るんやったら、他のヤツにも化けられるんか?」

 興味が出てきたのか、思い付いたように問うた。
 意外な発言に軽く顎を弄りながら考え込む。誰かに化ける。人に化けるのは鬼の常套手段だが、別人になるというのはやったことはない。そういう使い方が出来るなら案外と面白いかもしれない。

「そうだな……」

 早速試しに<空言> を発動する。手近にいた染吾郎をしっかりと記憶に留め、自分自身に幻影を重ねる。
 記憶を体に映しこむ感覚だ。体の動きに合わせて幻影も動かさねばならぬ為、かなり繊細な運用が必要になってくる。慎重に幻影に神経を通わせるが如く、ゆっくりとゆっくりと。
 創り出された幻影を纏う。どうだ? と言わんばかりに見回せば、二人はそれぞれ声を上げる。

「気持ち悪っ! 顔が僕やのに体が筋肉質すぎる!」
「父様、上と下が合ってないよ……」

 そこには非常に不気味な、背丈六尺で筋肉質な秋津染吾郎がいた。

「む……。<空言>は幻影を創り出す<力>。元あるものに幻影を“重ねる”ことはできても“消す”ことは出来ん。これは失敗だな。……或いは<隠行>で自身の姿を消してから幻影を重ねれば。いや、<力>の同時行使は負担が大きすぎる。私では別人に化けることは無理そうだ」

 周囲の反応に失敗を悟り、ぶつぶつと弁明の言葉を連ねる。それがなんとなく滑稽で、染吾郎はからからと笑った。

「まぁ、そうゆうんは狐か狸に任せとけってことやね」

 残念だ、と呟きながら<空言>を解く。
 見慣れた青年の姿に戻れば、安堵した様子で野茉莉は息を漏らした。

「やっぱり父様はその姿が一番だね」
「これが普通だからな。さて、そろそろ昼食にしよう」
「うん、今準備するね。秋津さんも食べていきます?」

 目配せをすれば、「お、悪いなぁ」とゆっくり頷く。
 染吾郎は結婚しておらず、平吉は料理を作れない。なんだかんだ彼や平吉はここで食事を取っていくことが多い。いい加減慣れてきたのか、野茉莉も聞く前からそこを踏まえて献立を考えるようになっていた。
 親娘水入らず、ではないが騒がしくも暖かい食卓。
 こういうのも団欒というのだろうと、甚夜は小さく笑みを落した。

 夜が訪れなければいい。
 過った弱音には気付かないふりをした。








 
 
 五月の夜。
 抜ける風は生暖かい。どこか粘ついたような肌触り、その気色悪さに身震いがする。
違う。本当は、夜が気色悪いのではなく、胸中で蠢くものだ。
 あれから長い長い歳月が過ぎた。流れ着き、いつしか故郷となった地で過ごした水泡の日々も弾けて消えて、僅かに名残を残すのみ。
忘れ得ぬ原初の想いも積み重ねた記憶に少しずつ薄れていった。

 
 それでも思い返せば、暖かな何かが心に灯る。

 
 ぬるま湯のような幸福。
 まだ人であった頃はそれが全てだった。
 鈴音と暮らし、白雪を守る為に刀を振るう。それだけが全てで、それでよかった。
 かつて幼い己が守りたいと願った、小さな小さな世界。
 なによりも大事で、本当に大切で。だけど時の流れは速すぎて、いつの間にかあの頃には戻れなくなり、今では思い返すことも少なくなった。
 あれから少しは成長できて、その分だけ世界は広がった。
 多くのものをなくして、けれど手に入れたものだって確かに在った。
 あの頃と比肩するほどに、間違いなく今を幸福と呼べる。


 ───なのに、どうしてこの憎しみだけが消えてくれないのか。


『旦那様』
「どうした」
『いえ、随分と固くなっているようなので』

 泥濘から引き上げるように兼臣が声を掛ける。
 刀に表情などないが、響きから心配しているのだと分かる。憎しみは消せない、しかし長く生きれば感情を隠す術には長ける。次の瞬間にはいつも通りの鉄面皮に戻っていた。

「固くもなるさ。ようやく会えるんだ」
『それほどまでに会いたいと願う女性……妬けますね』

 わざとらしいおどけた物言いはこちらを気遣ってのもの。
 ほんの僅か、心が穏やかになる。己は出会いに恵まれた。

「なに、妻の前で浮気はせん」

 返す冗談は感謝故に。それを感じ取ったのか、刀は静かに笑う。
 本当に、恵まれている。始まりは憎悪しかなかった。それでも積み重ねた歳月に価値はあったと断言できる。
 月も星も朧に滲む。薄墨のような雲に覆われた夜空。三条通を抜け、東山へ向かう。
 程無くして山の斜面に沿って作られた庭園、そして既に廃墟と化した屋敷が見えてくる。
 かつて東京が江戸と呼ばれている頃、京に保養地や山荘を有する武士は多かった。ここもとある武士が隠居の為に造営した屋敷であった。
 しかし明治になり、武士はいなくなった。元々の主を失くした屋敷は廃墟となり時代に取り残され、今では誰も住んでいない筈だ。
 ゆきのなごりの噂を手繰り、辿り着いた廃墟。しかしここで酒など造れよう筈もない。
 やはりゆきのなごりは方便。単なる誘い文句でしかったのだろう。
 
 庭園に足を踏み入れ竹林の中の道を行くと、石段の上に門が見えてくる。潜り更に進めば屋敷の玄関。二階建ての立派な造りではあるが、手入れはされておらず、所々朽ちた部分が見受けられる。
 玄関の前には、宵闇に浮かぶ人影がある。
 色素の薄い茶の髪をした娘。肩までかかった髪は柔らかく波打っている。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。大きな黒い瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。

「いらっしゃいませ、おじさま」

 夜に咲く、向日葵の微笑み。
 驚きはない。そもそも、此処は端からその為に用意された場所。偽物のゆきのなごりは単なる餌。屋敷は甚夜を呼び出す舞台に過ぎなかった。

「夜分の訪問恐れ入る。“家主”はおられるか」
「むぅ。おじさま、固いです。もっと砕けてくれた方が嬉しいのですけど」
「すまない。今は出来そうになくてな」

 感情の乗らない声。頬を膨らませた向日葵は、それも仕方ないと溜息を吐き、気を取り直して花のような笑顔を再び咲かせた。

「では、さっそくご案内します。母の所へ」

 薄暗い廊下はまるで己の心のようだ。先を見通せない、何があるのかも分からない。
 だけどようやくだ、と思った。
 強くなりたいと願い、彼女を止める為に、長い長い歳月を越えてきた。




『人よ、何故刀を振るう』




 いつかの問い。何を斬るべきか、今も答えは出せないままに、しかしようやくあの娘に逢える。
 胸に感じた熱さは高揚か、それとも結局消せなかった憎悪だったのか。
 考えないようにして、向日葵の後について長く続く廊下を歩く。
 そして辿り着いた一室。

「どうぞ」

 襖を開けた向日葵。誘われるままに座敷へ足を踏み入れれば、横座りで虚空に視線をさ迷わせる女が。
 年の頃は十六、七といったところか。
波打つ眩いばかりの金紗の髪。幼げな容貌に反した、女の体つき。
まるで瘴気をそのまま衣に仕立て直したような、淀んだ黒衣を纏った鬼女は気怠げにゆっくりと顔を上げる。
 うっすらと瞳が開いた。
 赤い。
 細い眉と鋭い目付きが冷たい印象を抱かせる、刃物の鋭利さを秘めた美しい女。
 その姿に膨れ上がる憎悪。
 ああ、ようやっと会えた。



「久しいな……鈴音」



 実に四十三年。
 長く短い歳月を越えて、愛しく憎い妹は再び甚夜の前に姿を現した。






[36388]      『面影/夕間暮れ』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2013/12/11 14:53
 埃臭い座敷。生温い五月の夜、だというのに寒気がする。
 女はゆっくりと立ち上がり、甚夜を見据える。赤い瞳は揺らがない。昏い光。灯ったのは憤怒か、憎悪か、それとも他の何かか。
 べったりと張り付くような、偏執的な眼光だ。

「久しいな……鈴音」

 憎い。
 気安い態度で繕っても、胸中に渦巻く際限ない憎悪。
 駄目だ。優しくなれたと、少しは変わることが出来たと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。
 彼女を前にしただけで憎悪が胸を焦がす。
 吐き気がする。
 遠い雨の夜を、あの娘の兄でありたいと願った日のことを覚えている。大切な妹だと分かっている。なのに憎しみは、まるで羽虫のように沸いて出る。
 奪われた全てに報いる為、今この場であの鬼女を殺せ。
 肉を裂き骨を砕き臓物を抉り魂さえも磨り潰せと、鬼となった身体が叫んでいる。

「態々誘いに乗ってやったんだ。一言くらいあっていいと思うが」

 気を抜けば斬り掛かってしまいそうだ。湧き上がる衝動を必死に隠し、鉄のように硬い表情で吐き捨てる。
 しかし鈴音の反応は薄く、どこか胡乱とした様子でこちらを眺めるのみ。
 沈黙が鎮座する座敷。返答はない。ただ無意味に時間だけが過ぎる。
 どれだけ時間が経ったろうか。ゆっくりと、表情を変えぬままに、ようやく鈴音は口を開く。



『おままごとは楽しかった?』



 実に、四十三年ぶりの再会。
 マガツメ───鈴音の第一声は憎悪と侮蔑、嘲笑が綯交ぜになっていた。
 甚夜もまた鉄面皮を崩さない。怒りに任せて突っ込むような若い時期はとうに過ぎた。それでも胸を焦がす憎悪は更に濃くなり、眼は鋭く研ぎ澄まされる。

「面白い冗談を言う」
『冗談? こちらの科白だ。自ら家族を捨てた貴方が、血も繋がらぬ人の子を娘と呼び、家族ごっこに興じる……それが冗談でなくなんだというのか』

 私を捨てた貴方が、何故家族なぞ求める。
 言外の意味を間違えない。分かっている。あの娘をマガツメと変えたのは己が罪過。甚夜こそが鈴音を其処まで追い詰めた。そんなこと、今更言われるまでもない。

『寂しさを紛らわせたかった? それとも人と関わっていれば鬼となった自分を忘れられると思った? だとしたら、なんて無様な男』

 鈴音は笑わない。
 冷たく、見下すような眼。しかし込められた色は侮蔑よりも憎悪が勝る。
 かつて無邪気に笑った幼い娘はもうどこにもいない。同じく、そんな娘を慈しみ大切にしたいと願った男も消え去った。
 彼女を鬼へと落したのは己の罪過であり、しかし彼女こそがこの身を鬼へと変えた。
 ならばどちらが正しいか、どちらが間違っているかなど問題にもならない。
 もはや是非を問うこと自体無意味。どちらに罪が在ろうと関係ない。是非を問うたところで、二匹の鬼の間にある憎悪は消えない。
 互いは同じように罪を犯し、同じように憎みあう。そういう生き方をあの夜に選んでしまった。
 
「無様、か。確かにそうかもしれん。だが私はあの娘に救われた。おそらくは、楽しかったのだろうな」
『ぬけぬけと……』

 表情は更に歪む。羅刹もかくやという形相で鈴音は睨み付ける。
 真正面からそれを受け止め、甚夜もまた問うた。

「私は答えた。こちらも聞かせて貰おう。鈴音……お前はまだ全てを滅ぼすとほざくか」
『何を今更』

 そうしたのはお前だろうに、口にせずとも目が語っている。
 場を占拠する空気は固く冷たく、まるで氷のようだ。あまりの冷たさに背筋が寒くなり、響く声を聞く度に苛立ちが募る。
 憎しみはやはり消せない。それでも、苦渋に奥歯を噛み締めながら、言葉を絞り出す。


「……人里を去り、人と関わらず暮らすという選択肢はないか」

 鬼神を“止める”。
 叶うならば、斬る以外の道を探したい。
 憎しみは消えない、けれど心は変わる。
 今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれない。
 葛野を旅立つ際、長の前で語ってみせた。今も覚えている。忘れる訳がない。その為に生きてきた。
 かつての甚夜にとっては、それが全てだった。

「こうして再び逢い、思い知った。やはり私はお前が憎い。どれだけ幸福に浸ろうと、憎しみを消すことは出来なかった」

 けれど結局答えは出せなかった。
 憎しみは今も胸に。
 鈴音を止める為に、強くなりたかった。
 あれから様々のものを拾ってきたけれど、憎しみは消えず。
 未だ切るべきものを見つけられぬ自分がいて。
 それでも、一つだけ確かなことがある。
 憎しみを捨てられなくとも、あの娘を愛しいと思い、慈しんだ日々もまた嘘ではないのだ。
 
「そしてお前が人を滅ぼすと言う以上、私はそれを見逃せない。だがもし人に危害を加えないと言うならこれ以上追いはすまい。……そうすれば、お前に刀を向けなくて済む」

 憎しみと共に生き、何も為さぬまま死ぬ。
 少しだけ優しくなれたい今なら、そういう道を選べる。
 あまりにも理不尽だと分かっている。己こそが彼女を追い詰めた。だというのに手前勝手で消えろと言う。しかしそれが甚夜に出来る最大の譲歩だ。
 鈴音は俯き、逡巡してくれているのか、端正な顔を僅かに顰めた。
 出来れば頷いてほしい。憎々しくも愛しい妹。殺さずに済むならば、そう在りたいと思う。
 黙する鈴音を見つめ、ただ答えを待つ。
 祈るように求め、縋るように願う、最後の可能性。
 どうか首を縦に振ってほしい。
 もしもこれが受け入れられないと言うのなら。



『無理だな……割に合わない』



 後は殺し合うしかなくなる。

『貴方と離れ歳月を重ね、そして気付いた。今も私にとっては貴方が全て。貴方を愛しく思えればこそ、どれだけ辛くとも現世の全てを大切に想えた。だからこそ私は憎む。貴方を憎むのと同じように、現世の全てを。私は、全てを滅ぼす。滅ぼして、滅ぼして今度こそ……』

 零れ落ちる呪言。
 本当は、その答えを知っていたのかもしれない。鈴音は向日葵を、地縛を生んだ。
 彼女らはマガツメが捨てた心の一部が鬼と化したもの。不要なものを捨て去り、己が在り方を純化してきた鈴音にとっては、甚夜以上に憎しみが全てだったのかもしれない。

「そうか、残念だ」

 詰みだ
 これ以上言葉を重ねても意味はあるまい
 何を斬るか。答えは出せぬまま、しかし斬る以外の道はなくなった。
 抜刀、夜来と夜刀守兼臣をだらりと放り出すように構え、鈴音を───眼前の敵を睨み付ける。
 
『……そんな顔でよく言う』

 指摘されて気付く。
 甚夜は笑っていた。
 湧き上がる感情を抑えきれず、獰猛な笑みを晒す。
 

 ───所詮はこの程度の男なのだ。


 鈴音の答えを嬉しいと思ってしまった。
 こちらの提案を断られた。よくぞ、断ってくれた。
 こうなっては仕方ない。もはや斬るしかない。……これで気兼ねなく斬れるのだ。
 憎むべき敵に、正しく刃を向けられる。
 
「ああ……そう、だな」

 それが嬉しい。
 心がどうあれこの身は鬼。憎しみは感情ではなく機能でしかない。
 憎悪に浸った心が高揚する。
 大切な憎らしい女を、ようやく殺せると、歓喜に打ち震えている。

「この夜を待ち侘びたぞ鈴音。白雪の……いや、奪われた全ての仇。此処で果たそう」

 止める、などと甘い考えはもうどこかに消えていた。
 白雪、二人交わした誓い、大切な妹、人であった己。
 奪われた全てに報いる為、貴様を斬る。
 その為だけに生きてきた。

『ふん……』

 鼻で嗤い、鈴音はすっと目を細めた。そこには憎悪とも侮蔑ともつかぬ、極低温の悪意がある。

『貴方は結局、何も変わっていない。……本当に、無様な男』
 
 叩き付けた言葉が合図となった。
 二匹の鬼の距離は刹那の内に消え去る。
 鈴音はただ歩いただけ。何の技術もない、無造作な動き。だというのに、長い歳月鍛錬を続けてきた甚夜よりも遥かに速い。
 ひゅっ、と軽妙な音が空気を斬る。高く掲げられた腕を勢いに任せて下へと振るう爪撃。
 刀身を寝かせ下からすくい上げるように防ぐ。右足で踏み込み、返す刀、夜刀守兼臣で首を突く。
 容易に躱される。相変わらずの粗雑な挙動、だというのに呆れるほど速い。鈴音は間合いの外に逃げようと後ろへ退く。
 基礎能力は明らかに鈴音が上、最初から分かっていたことだ。しかし逃がさぬ、こちらもあの頃のままではない。

<疾駆>

 退がる鬼女に肉薄する。
 動揺が見て取れた。だから獰猛な笑みで甚夜は語る。

「あれから四十三年。私もそれなりに強さを得たぞ」
 
 彼の挙動はあの頃よりも鋭い。四十三年鍛え、戦い続けた。今や甚夜の動きは人の出せる限界を遥かに凌駕している。
 横薙ぎ一閃。が、それでも尚鈴音が速かった。上に飛び夜来をやり過ごし、そのまま爪で頭蓋を狙う。
 襲い来る一撃は無防備な頭部を正確に切り裂き、

<空言>

 幻影は消え去り、鈴音の側面に回り込んだ甚夜は袈裟掛けの一刀を放った。
 空を切る、鈴音の顔が僅かに強張る。
 鬼としての格では下回っても、武芸者としては甚夜が上。短い攻防で悟る。鈴音は強く速いが、戦い慣れていない。付け入る隙はある、隙をつける程度には、強くなれた。
 獰猛な笑みが更に歪む。
 付いていける。付いていけるのだ。
 あの夜、捨て身でなければ当てることさえ出来なかった。だが今は尋常の勝負であっても、規格外の鬼女に追い縋ることが出来る。
 それが嬉しく、憎しみに満ちた心が喜びに跳ね上がる。
 しかし同時に、自分の方が弱いという自覚もあった。分かっているからこそ攻め手は止めず、ガラス細工を扱うような繊細さで体を動かす。

 対して鈴音はひどく冷めた目で甚夜を見つめていた。
 袈裟掛け、突き、体を捌き逆風、踏み込んで胴を貫く。
 苛烈に責めを危なげなく避けていく。あくまでも、実力では鈴音が上。油断や慢心は出来ない。

 鈴音は避けながら、すっと腕を上に翳す。
 呼応して虚空から三匹の鬼が現れた。皮膚がなく、赤黒い筋肉がむき出しとなった鬼。おそらくは死体から生んだのだろう、赤い目は生気を感じさせない。
 鬼共は鈴音と甚夜の間に割り込んだ。
 たかだか三匹、障害にはなり得ない。襲い来る鬼、体を捌きすれ違いざまに一刀。腕を切り落とすと同時に懐へ潜り、袈裟掛け一閃その身を裂く。

「失せろ」

 まずは一匹。
 止まる気はない。間髪入れず拳を振り上げた残る二匹。仕切り直すのも面倒だ、今この場で斬り伏せる。脳裏に浮かべるは岡田貴一の剣。過剰な力も余分な所作もいらない。迫り来る鬼共を前に心は平静を保つ。
 流れに身を任せるように突き出す刀身。まずは一方の鬼の拳、振るうことによって伸びきった腕に刀の腹を添わせる。僅かに軌道を逸らし、右足で踏み込み鬼へと並び、そのまま軸として体を回し二刀連撃横に薙ぐ。

 構えは崩さず、腰を落し最後の一匹に目を向ける。殴り掛かる鬼、しかし遅い。摺足で大きく前に進むと同時に肘を切り上げる。腕をはねのけ、左足を引き付け、狙うは素首一太刀で斬り落とす
 三匹合わせても三十秒も持たず、全ての鬼は死骸へと変わる。
 しかしその程度でも距離を空けるには十分だ。既に鈴音は観戦していた向日葵を抱き上げ庭へと躍り出ている。

「ちぃ」

 後を追い甚夜も庭へと出たが、再び鬼が現れる。雑魚とはいえ今度は十を超える。
 その後ろで悠々とこちらを見下す鬼女。憎しみが膨れ上がり、どういうつもりだと睨み付ける。

『貴方は、何も変わっていない』

 先程と同じ言葉を吐く。
 鈴音は何故か、どこか寂しそうで。涙を堪えるように目を伏せる。呟きにも力はない。
 はかなげな立ち振る舞い。なのにその姿が殊更苛立たしい。
 
『あの夜も同じだった。鬼を討ちに森へ向かった。……残された私のことなんて、気にもかけないで』

 瞳に宿った感情は侮蔑より失望より寂寞を思わせる。
 睨み付けているつもりなのか、表情は泣き笑うようだった。

『貴方はいつだって、残されたもののことなんて考えない』
「何が言いたい」

 冷たく斬って捨てるような甚夜の声に、鈴音は氷のような微笑で答える。 


『あの夜と同じ。貴方は誘いに乗った』


 氷の冷たさに、四肢が固まった
 あの夜、甚夜は───甚太は思っていた。 
 鬼達は白夜、或いは宝刀・夜来を狙ってこの葛野へ訪れるのだと。
 だが違っていた。本当の目的は鈴音。鬼神を生むための舞台を整えることこそが狙いだった。
<剛力>の鬼は囮に過ぎず、甚太がいらずの森へ向かった隙に鬼は鈴音との接触を図った。 
 それと同じだと言うのならば、鈴音の本当の狙いは。

「……野茉莉か」
『ようやく気付いた? だから貴方は何も変わらないと言った。今も、同じ過ちを繰り返す』

 例えば、もしもあの夜、鈴音を独り遺して行かなければどうなっていただろう。
 分からない。鈴音が如何なる経緯で社へ向かい、白雪を殺すに至ったか。それを知らぬ甚夜には、仮定の未来など想像できる訳がない。
 だが鈴音は、もし甚太が残っていれば、或いは違った未来があったのではないかと信じている。
 だから見せつけるように野茉莉を狙った。
 憎みあう今はお前の罪だと思い知らせる為に。

『……本当に、無様な男』

 見下した物言い、なのにその言葉は何処か痛ましく感じる。
 地面から湧き上がるように鬼は増えていく。雑魚であっても数が多い、蹴散らすだけでも時間はかかる。あからさまな足止めだ。
 固くなった表情に焦りが見て取れる。しかしそれだけ。激昂し鬼共に斬り掛かると思っていたが、甚夜は冷静に周囲を警戒していた。
 その様子に違和を感じ見据えれば、平然とした様子で甚夜は言う。

「随分と見下してくれる。だが言ったぞ、私は“それなりに強さを得た”と」

 鈴音の知る兄ならば、激昂して鬼共に斬り掛かっていた筈。なのになぜこうも冷静なのか。
 意図が読めない。僅かに表情を顰め、しかしすぐさま意識を切り替える。
 十分な数を呼び出し終え、静かに息を吐き、鈴音は軽やかに跳躍した。屋敷の囲いの上に立ち、背を向けたまま振り返ることもしない。

「逃げるのか」
『為すべきは為した。貴方はそのまま鬼と戯れていればいい。……事が終わるまで』

 おそらくは今頃、野茉莉もまた鬼に襲われている。
 甚夜は奥歯を噛み締めた。自分ではなく野茉莉を狙う。その所業に憎悪は淀み、更に濃くなる。

「回りくどいことを。私が憎いのならば直接ぶつければいいだろうに」

 分かっている。甚夜が憎いからこそ、大切な者を奪うことで苦しめようとしているのだ。鈴音の遣り様は決して不思議ではない。
 しかし鈴音は背を向けたまま、ゆっくりと首を横に振り、甚夜の想像を否定する。
そうして静かな、何処か頼りない声で鈴音は言う。

『私はただ知りたいだけ。貴方が何を選ぶのか』

 割に合わない? 選ぶ?
 何を言っているのか。問おうとして、それを遮るように向日葵がにっこりと笑った。

「それではおじさま。私達はこれで失礼します。あ、今度一緒にお茶でも飲みましょうね?」
『黙りなさい向日葵』
「むぅ」

 下らない遣り取りを交わす二匹の鬼女、追い縋ることは出来ない。数多の鬼が立ち塞がったからだ。取り囲まれ、<疾駆>で逃げるのも難しい。
 野茉莉が危ない。もしもの情景が想起され、憤怒に憎悪に体が震える。暴走しそうな感情を無理矢理に抑え込み、去ろうとする背中を呼び止める。

「鈴音……何故今になって動いた」

 これまではあくまで実験だった。
 鬼を生み、百鬼夜行を為し、その果てに心を造る。向日葵の言葉を信じるならば、マガツメはその為に動いていた。
 しかし今回は違う。態々誘いだし、野茉莉を狙う。そこには私怨しかない。今になって何故目的から外れた行動をとったのか、それが分からなかった。
 甚夜の声に一度足を止め、何かを逡巡するように鈴音は俯いた。
 そしてわずかに顔を上げ、投げ捨てるように返す。

『決まっている。“割に合わない”からだ』

 意味の分からない答えを残し、鬼女は去っていく。
 逃げるな。ようやく逢えたのに何故見逃さねばならない。なんたる屈辱。憎悪が脳を焼く。心臓は早鐘を打ち、ほとばしる感情に目が眩む。 

『旦那様』
「分かっている」

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 以前も兼臣に窘められた。焦りは禁物だ。野茉莉を思えばこそ、まずは落ち着き、冷静に対処せねばならない。
 鈴音が何を考えているのかは分からないが、何を企んでいようが今はどうでもいい。鬼共を蹴散らし、野茉莉の下へ急がなければならない。だから落ち着け。焦ればその分だけ動きは鈍る。時間が無いからこそ、冷静に平静に眼前の敵を斬る。

「……悪いが、道を開けて貰う」

 意識は刃のように鋭く、意思は鉄のように硬く。
 刀を構え直し、甚夜は鬼の群れへと斬りかかった。




 ◆




 犬の遠吠えが聞こえた。
 夜は深まり、空気は澄み渡る。透明な宵闇に揺蕩う星々。
 三条通は静まり返り、人通りもなくなった。いや、ゆっくりと歩く人影が一つだけあった。
 裕福そうな身なりの、恰幅のいい男。平吉と癒しの巫女を引き合わせた、三条通にある酒屋の主人である。
 男は一歩一歩踏み締めるように夜道を行く。その顔に色はなく、ぞっとするくらい冷たい。
 目は、赤い。
 そもそも男は“誰も居場所を知らない”筈の癒しの巫女の居場所を知っていた。巫女の正体を考えれば、彼が鬼であること、そして誰によって造られたのかもまた明確だった。
 迷いない歩み。見えてきたのは、三条通にある一軒の蕎麦屋。
 鬼そば。
 当然ながら既に暖簾は外されている。
 既に寝静まっているのだろう。ならば好都合。男はにたりと気味の悪い海を浮かべた。
 
『マガ…ツメ……』

 思考力は奪われた。
 男の頭にあるのはこの店に訪れ住人を襲うことのみ。その為に成形された鬼である。
 歩く、ぎしりと筋肉が鳴った。
 歩く、体躯が膨張する。
 歩く、容貌は醜悪に歪み。
 店の前まで辿り着いた時、男は人ならぬ異形と化していた。

『オ…オオ……』

 六尺を超える鬼は、気味の悪い呻き声を上げる。
 全ては目的を為す為。赤黒い腕を伸ばし、鬼は玄関の戸に手を掛け、






「“しゃれこうべ”」





 雪崩のように襲い来る骸骨に押し流された。

『オォ……』

 叫び声はからからとなる骨の音に掻き消された。
 突然の状況に頭は付いて行かないが、それでも腕を振り回し骸骨を振り払う。埋もれる程の骨から這い出れば、眼前には面倒臭そうに頭を掻く男の姿がある。

「この店、もうとっくに営業時間終わっとるで。勝手に入られたら困るわ」

 左手に三つの腕輪念珠を填めた青年が無造作な歩みで店から出てくる。
 襲撃を予見していたらしく、異形を前にしても動揺はない。
 鬼は青年を睨み付ける。それを飄々と受け流し、不敵に笑う。

「そんで、静かにせえ。野茉莉さんが寝とる。起こしたら可哀想やろ」

 名を宇津木平吉。
 三代目秋津染吾郎が一番弟子、付喪神使いの後継である。




 ────だが私も言ったぞ、“それなりに強さを得た”と。




 甚夜がマガツメに叩き付けた言葉は負け惜しみではない。
 確かに彼は遠い夜と同じく誘いに乗った。しかし今はあの頃とは違う。後ろを任せられる者がいる。ならばこそ、誘いと理解しながらも敢えてそれに乗ることが出来た。
 全てと信じた生き方に専心できなくなった甚夜は、確かに以前よりも弱くなった。だとしても、道行きの途中、拾ってきたものは決して無駄ではなかった。
 だから胸を張って言える。己は弱くなった、だがそれに比肩する強さを得たと。

『オォ……』
「案外、丈夫やな」

 意外だった。一撃で終わらせるつもりだったが、しゃれこうべを受けながらも鬼は平然としている。
 流石にマガツメの配下。一筋縄ではいかないようだ。
 しかしここは退けない。平吉は甚夜に頼まれた。



 ────マガツメが如何な手を打つか、私にも分からない。だからもしもの時は野茉莉を頼む。



 あの男が野茉莉を頼むと、何よりも大切な愛娘を任せた。任せられるだけの人物だと、自分を見込んでくれたのだ。
 言葉の裏にある、最大級の信頼。
 それを裏切るような真似は出来ない。

「まあ、所詮雑魚やけど」

 左腕を突き出して、平吉は不敵に笑う。
 今なら如何な鬼が相手でも後れは取らない。それだけの自信があった。






 ◆




 屋敷を離れ、東山を下る。
 腕に抱えた向日葵は少しだけ不満そうにしていた。

「むぅ。おじさまともう少し話していたかったのですけど」

 マガツメは反応を見せない。しかし向日葵を抱く手つきは優しく、その柔らかさはまさしく母を連想させる。
 薄雲に覆われた夜空の下、歩く緩やかな傾斜。木々に囲まれた小路には淡い星の光も届かない。
 薄暗い道の先は見えず、尚も歩みは止まらず、迷いなく鬼女は進む。
 取り敢えずの目的は達した。
 あの人を呼び寄せ、足止めする。それだけの為にゆきのなごりの噂を流した。
 目論見通り逢いに来てくれた。数えきれない歳月を越えて、ようやく逢えた。
 胸に過る淀んだ感情。
 憎悪。恋慕。愉悦。悲哀。憤怒。寂寞。それとも、他の何かなのか。
 考えるまでもない、全てだ。今も変わらない。マガツメにとっては彼が全て。
 そも彼以外に心動かされることなどない。ならば湧き上がる感情の全てはあの人だ。
 鬼へと堕ち、現世の全てを敵に回したとて、それだけは揺らがない。
 どこまでいっても、あの人が全てだった。

「お母様、今から野茉莉さんの所へ?」

 向日葵はこてんと首を傾けて問う。
 この娘はマガツメの長女。鈴音が兄と敵対し、マガツメとなる為、初めに切り捨てた心が鬼と化した存在である。
 だからこそマガツメは、現世に絶望し滅びを願う今でもこの娘を慈しんでいた。既に切り捨てた心、しかし本当に大切だった。
 問いには答えなかったが、優しく髪を梳き、宵闇を見つめる。
 赤の瞳は薄く細められている。何を見ているのか読み取れない。
 ただ鬼女は山道を下る。
 その歩みに淀みなく、



「ええ夜やね」



 しかし投げ掛けられた言葉に足を止められた。 

「月も星もない夜……おあつらえ向けってヤツや」

 立ち塞がるように現れたのは、齢五十を超える老翁だった。
 張り付いた作り笑いでにこにこと語りかけてくる。マガツメは立ち止ったまま、更に視線を鋭く変えた。

「向日葵ちゃん、お久しぶり。君がおるってことは、そっちがマガツメで間違いないな。なんやえらい別嬪さんやなぁ。とても娘がおるようには見えん」

 しかし老翁は気にも留めず、軽妙な語り口である。
 こちらの正体を知りながら、おどけた態度を崩さない。この不敵な老翁の名を、マガツメは既に知っていた。

『秋津、染吾郎』
「お、僕のこと知っとんの? いやぁ、有名になったもんやね」

 付喪神使い、三代目秋津染吾郎。
 深い夜、森の中。闇の中でおどける姿は何処か浮世離れしていて、寧ろこの男の方こそ怪異のように映る。
 浮かべた笑みは張りぼてのようだ。見栄えばかりしっかりしていて、中身が伴っていない。表情は穏やかなのに、その奥は敵意に満ちていた。

「ゆきのなごりの噂を聞いたら屋敷にマガツメがおること、誘いであることまでは甚夜も“読む”。そやけど、なんの為の誘いかまでは考えん。一応あいつの名誉んために言っとくけど、頭悪いからやないよ? 君のことが憎すぎて、自分と君にしか焦点が合わんからや」

 懐に手を入れ、短剣を取り出した。
 語りながらも隙は見せない。老齢に見合った抜け目なさで、少しずつ位置を調整していく。
 マガツメも向日葵を下し、木陰に隠れさせた。一瞬だけ緩んだ表情は優しく、しかしすぐさま鬼として顔を取り戻す。


「甚夜は、普段冷静ぶっとるけど基本頭に血が上り易いからなぁ。君がおるって分かった時点で、他事はすこーんと抜けとる思うたわ。まぁ、端から僕らに頼る辺り、マシにはなったけどな。……君の狙い、野茉莉ちゃんやろ?」

 確信を持って放った言葉。
 染吾郎は短剣を突き付け高らかに宣言する。

「そやけど、やらせん。野茉莉ちゃんのとこには平吉がおる。そんで、僕が君を片付ける。君の道行きは此処で終いや」

 夜の風が吹いた。
 木々の鳴き声はいやに不気味だ。薄雲に覆われた黒の空、宵闇に紛れ対峙する。
 肌に張り付く不快感。空気自体が粘ついている。
 鈴音の表情は能面のようで、些かも感情を見せない。呟くようなか細さで、染吾郎に問い掛ける。

『何故、立ち塞がる』

 お前には関係ないだろうと言外に匂わせ、氷の視線で邪魔者を射抜く。
 並みの者ならばそれだけで凍り付く。しかし染吾郎は涼風を受けるが如く悠々と立ち振る舞っていた。

「ははん、さては君、友達おらんな?」

 鼻で哂う。
 何故? 馬鹿なことを問う。寧ろ立ち塞がらぬ方が道理に合わない。
 長い年月を共にした。一緒に酒を呑み、愚痴を言い合った。お互い年を取ったと、娘を弟子を見ながら笑った。
 ならば、突き付けた短剣も同一線上にあるだけのこと。

「僕はあいつの親友やからな。いざって時は、そら体くらい張るやろ」

 他に理由などない。
 甚夜と野茉莉、親娘の触れ合いを一番近くで見てきた。
 不器用だった。けれど歳月を重ねて、血の繋がらない、種族さえも違う二人は本当の家族なり、今でも家族であろうと努力している。
 それを崩させてなるものか。
 此処で体を、命を張れないのなら、自分には友を名乗る資格はない。
 染吾郎の心は既に決まっている。
 マガツメの息の根を止める。
 そして、あれが甚夜の妹だと言うのならこう伝えよう。

“マガツメは自分に勝てなかったから逃げた。もう悪さもしないだろう”

 妹を殺すなどという罪を彼が犯すことのないように、泥は全て自分が被る。その為に、立ち塞がったのだ。 

「一応聞くとこか……何を望む、マガツメ」
『滅びを』

 臆面なく言ってのけるマガツメ。
 分かる、鬼女は大言を吐くだけの力を有している。散々鬼を相手取ってきた染吾郎は、マガツメから発せられる禍々しい空気だけで、その実力の一端を感じ取っていた。

「はん、滅び? 鬼のくせに嘘吐きやね自分」
 
 だからこそ滅びという言葉をくだらないと一蹴する。

「君のやっとることはむしろ逆や。人を鬼に変え、<力>を生み、心を創り出そうとしとる。やのに、滅びが望み? そない拙い嘘に騙されてはやれんなぁ」

 推測ではなく確信だった。
 なにが狙いかは分からない。ただマガツメは何かを“創り出そう”としている。そこだけは間違いない。
 滅びを謳う鬼女が望む“なにか”。それが知りたかった。もしも知ることが出来たなら、或いは兄と妹がもう一度分かり合えるかもしれないと思った。

「聞き方変えよか。マガツメ……手を血ぃで濡らし屍敷き詰めて、何を生めるつもりでおんのやお前は?」

 挑発めいた物言いにもなんら動揺なく、マガツメは黙したままだ。
 初めから答えるとも思っていない。落胆はなかった。ただこれで問答の必要もなくなり、染吾郎の次手も決まった

「ま……そろそろ始めよか」

 構えたのは短剣、秋津染吾郎の切り札である。
 相手の実力は未知数、ならば出し惜しみはすまい。
 それに正々堂々戦う理由もない。初手から最大戦力をぶつけ、相手が全力を出し切らぬうちに息の根を止める。
 対峙する鬼女は構えることなくだらりと手を放り出している。ただ目には明確な憎悪が宿っていた。

『……一つだけ訂正しておこう。私の狙いは野茉莉、だったか。あの気色の悪い小娘ではない。お前だ』
「は? 僕?」
『私の目的が知りたいのだろう? 教えてやる……“割に合わない”の』

 意外な言葉に目を見開く。
 見下し、口元を釣り上げ、侮蔑を込めてマガツメは語る。

『私には、あの人が全て。なのにあの人はそうじゃない。それでは、割に合わない。昔は違った。あの人にとっても私が全てだった。私を殺す為に全てを投げ出してくれた。なのに今は違う。周りに余計なものが多すぎる』

 何を産もうとしているのか、そういう大局的な話ではない。
 今回、何故動いたのか。その理由をマガツメは口にする。
 今までの氷のような印象は一瞬で消え去った。熱情に浮かされた狂信者。もはや正気を失っているとしか思えない。

「なんやそれ。君は、あいつのことを殺そうとしとるんやろ」
『そう、殺すの。だってそうしないと私は前に進めない。あの人を殺して現世を滅ぼしてそうしなければ私の夢はかなわない』

 無茶苦茶だ、染吾郎は思った。
 支離滅裂すぎて何を言っているのかが分からない、故に怖気が走る。鬼女の纏う不気味な空気に背筋が寒くなった。


『あの人は私のことを憎んでいてくれればよかった。あの人が私を探してる私の為に強くなろうとしてる私のせいで苦しんでいる。あの人の全てを私が満たしている。蜜のように甘い幸福だ。なのに今は違う。割に合わない。私にとってはあの人が全て、ならばあの人もそう在るべきだ。だから再び逢った。でもそれだけじゃ足りない。娘も友人もいらない。私がいればそれでいい。あの人の目をこちらに向けなければ。なら傷付ければいい。そうすれば私を憎む、憎んでくれる。傷つけて傷付けて、他のことなんてどうでもよくなるくらい傷付ければあの人の目にはもう私以外映らない……その為に」

 そうしてマガツメは、心からの愉悦に表情を歪める。





『今宵、あの人の全てを奪う』








[36388]      『面影/夕間暮れ』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/04/05 19:57

 東菊は暗い廃寺の本堂で佇んでいた。
 探していた人を見つけてしまった。
 それとともに思い出す。
 自らに与えられた役割を。

「私は……」

 あの人の下へいかなきゃ。





 ◆



 ぞわりと背筋を走る冷たい何か。染吾郎は意味の分からない言葉を垂れ流すマガツメに、おぞましいものを感じた。
 恐怖ではない。恐怖よりも気色悪さが勝る。一寸先の闇に足が竦むのと同じ。マガツメの心は染吾郎には理解できず、だからこそ鳥肌が断つ程に気味が悪い。

「……無茶苦茶やな」

 正直な感想だった。
 マガツメは甚夜を憎んでいる。それは間違いない。
 しかし同時に執着してもいる。殺したいと願いながら、何よりも強く彼を求めていた。
 それは別にいい。人だろうが鬼だろうが、心はそう簡単に割り切れるものではない。
“誰よりも愛しているけど、殺したいほど憎い”。
 相反する想いを抱いたとて別段不思議はないだろう。

「甚夜に見て貰いたいから、憎まれたいが為に野茉莉ちゃんや僕を狙う? 君、なに言っとんのか分かっとる?」

 分からないのは、マガツメの行動だ。
 あの人に私だけを見て欲しい。
 私にとってあの人が全てであるように、あの人にとって私が全てであって欲しい。
 額面通りに捕えれば、この上ない愛の告白。しかし其処までの執着を見せながら、彼女の形相は憎しみに染まっている。狂ったように語り続ける彼女から放たれるのは歪んだ愛情か、それとも純粋な憎悪なのか。 
 構えを解かぬまま染吾郎は思考に深く没頭する。

(混じり合ったような憎悪と愛情。そやけど、なんやこの気色悪い感じは)

 上手く考えが纏まらない。ただ脳裏にはこびりつくような、奇妙な違和感がある。
 何かがおかしいのは分かる。しかしその何かが分からない。喉の奥に魚の小骨が刺さったような不快感だ。

 この奇妙さをどう表現しよう。
 語る想いと行動が釣り合っていない、とでも言おうか。
 執着心だけが先に立って、肝心の感情がついてきていないとするか。
 例えば、憎悪の形相で愛の言葉を撒き散らす。
 例えば、自分を見て貰いたいから他の者を殺す。
 そもそも愛情にせよ憎悪にせよ、そこまで甚夜に拘っているのならばもっと早く行動を起こしていてもおかしくない。
 だというのに、マガツメは存在を匂わせながらも今まで大きな動きを取らなかった。
 
 そうだ、この鬼女は言動と心が乖離し過ぎている

 それが無茶苦茶だと感じた理由。在り方がちぐはぐすぎて、まるでだまし絵でも見せられているような気になる。
 
『当たり前だ、今もあの人は私の全てなのだから』

 そう口にする鬼女からは、もはや感情の色は読み取れない。
 端正な顔からは色が消え能面のような無表情があるばかり。少しでもマガツメの意図を探ろうと染吾郎は言葉を続ける。

「ほぉ。憎いゆうたり全てやゆうたり忙しないなぁ。そこんとこ、どうなっとんの?」

 マガツメが甚夜に対して、良しにせよ悪しにせよ特別な感情を抱いているのは間違いない。だから質問自体に意味はない。ただ反応を見たかっただけだ。
 数瞬の間を置いて、興味なさげにマガツメは吐き捨てる。

『お前には分からない。……どうせ、知る意味もない』

 どのみちお前はここで終わるのだから。無造作な科白の裏には強い侮蔑が込められていた。
 とうとうと語ったかと思えば肝心なところで口を閉ざす。やはり染吾郎にはマガツメを理解できない。
 それでも一つだけ分かっていることがある。

「ま、言いたないなら別にええよ。ただ、君のことは放っておけん。あいつの親友として、なにより“秋津染吾郎”として」

 こいつを放っておけば甚夜だけでなくその周囲にも累が及ぶ。
 いや、それどころか訳の分からない理論を振りかざし、いつしか本当に現世を滅ぼそうとするかもしれない。
 ならば染吾郎の行動は決まっている。


「悪いけど、此処で討たせてもらおか」


 眦は強く敵を射抜く。
“妖刀使い”の南雲や“勾玉”の久賀見、付喪神の秋津。
 日の本に退魔の名跡は幾つかあるが、その中で秋津は家門ではなく一派。鬼を討つ者よりも職人としての一面が強い。
 故に害意のない鬼は討たぬが信条、しかしもはやマガツメを見逃すことは出来ない。
 今この場で討ち取らねば、後の世の禍根と成り得る。突き付けた短剣に力を籠め、染吾郎は敵意をあらわにした。

『笑わせるな老いぼれ』

 しかしそれを意にも介さずマガツメは動く。ゆらりと揺れる体はまるで幽鬼のようだが、美しい容姿と相まってどことなく艶かしい。
 見惚れる暇もない。一足で距離は零となり、鬼女は既に爪を振り上げていた。
 空気を裂く音、視認することさえ難しい速度。人の身なぞ容易く引き千切る一撃だ。
 マガツメは寸分の狂いなく染吾郎の頭蓋を狙い、



「老いぼれ舐めんな小娘」



 しかし、微動だにしない。
 振るわれた爪を受け止めたのは、力強い目をした髭面の大鬼。
 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手にした釣り義で悠々とマガツメの一撃を受け切る。

 ───鍾馗。
 
 疫病を祓い、鬼を討つ鬼神。
 染吾郎の持ち得る付喪神の中でも最上級の戦力である。

「無駄に長く生きただけのガキに遅れなんぞとるかボケ」

 無造作に薙ぎ払えば、それだけでマガツメの体は後ろへと飛んだ。
 自分から、ではない。単純な膂力に圧されたのだ。
 ふわりと軽やかにマガツメは着地した。傷はなく、悠々と立つ鬼女。反撃を悠々といなし、体勢を崩すことさない。しかしその姿を見ても染吾郎の表情は余裕に満ちている。

 ────速く、強い。だが“それだけ”だ。

 マガツメは今まで相手取ってきた鬼の中でも最上級。
 だが体術では甚夜よりも数段劣る自分でも、不意打ちの一撃を防げた。技巧のない愚直な突進だったからだ。
 確かに強いが、これならば付け入る隙はある。
 軽く鼻で嗤い、染吾郎は言ってのける。

「君が死んだらあいつにはこう伝えといたる。マガツメは僕に勝てんから逃げた。多分もう悪さもせんやろ、ってな」

 既に五十を超える老翁とは思えぬ気迫。そこには数多の鬼を屠ってきた、“三代目秋津染吾郎”としての彼の姿があった。
 一気に終わらせる。懐から犬張子(いぬはりこ)を取り出し、マガツメへ向け解き放つ。

「いきぃ、犬神」

 黒い靄が走り出す。次第に輪郭ははっきりしていき、犬の姿を取った時には既にマガツメへ飛びかかっている。
 近寄るな、とでも言わんばかりに腕で払い除ける。やはり強い。払うどころか犬神はまとめて吹き飛ばされ、粉微塵になった。甚夜と違い染吾郎は人。あの一撃を受ければ生き長らえることは叶うまい。
 出来れば間合いを離したいが、相手は強い。おそらく鍾馗でなければ致命傷は与えられないだろう。
 鍾馗の射程はせいぜい一間(1.8メートル)。危険だが、距離を詰めるしかない。

「まだまだいこか、虎さんおいで」

 次いで繰り出したのは“張子の虎”、大型の付喪神だ。
 夜を震わせる獣の呻き。躍動する筋肉、虎は鬼女を食い殺そうと疾走する。ぐっと地を蹴り、覆いかぶさるように牙を剥き、

 ざしゅう、と奇妙な音が響く。

 爪も牙もマガツメには届かない。
 容易く虎の体躯は引き裂かれ、しかしそれは囮。染吾郎は既に距離を詰めている。
 左方から踏み込み振り下す短剣。連動し、鍾馗もまた脳天から唐竹に割ろうと一刀を放つ。
 しかし既にマガツメはそちらへ向き直り構えている。
“読んだ”のではない。虎を葬るのに腕を振るい、近付いた染吾郎を視認してからでも、彼女は間に合うのだ。
 二者の能力にはそれだけの差がある。囮を使い、不意を打ち、それでもマガツメの迎撃の方が速い。
 鬼女は無感動に染吾郎を見下す。
 鍾馗が剣を振り下すよりも先に僅かに一歩踏み込む。間合いはなくなり、白くしなやかな指がぴんと伸びる。
 そこから先は見えなかった。霞むほどの速度で繰り出されたマガツメの抜き手は染吾郎を一瞬で貫く。

「残念、はずれ」

 ただし幻影の、ではあるが。
 清(中国)では、蜃気楼とは大きな蛤の吐く息であるという。
 故に合貝(あわせがい)、蛤の貝殻の付喪神は蜃気楼を産み出す。マガツメが貫いた染吾郎は蜃気楼。本物は既に背後へ周り、本命の一撃を放っている。
 気配を察知し、振り向こうとするが今度は染吾郎が速い。
 一撃で葬る。殺意を込めた剣戟はマガツメが振り向いた瞬間に肩口へ食い込み、白い肌を破り肉を裂いた。
 飛び散るのは赤。血飛沫を撒き散らしながら、マガツメは能面のまま染吾郎を見下す。

『……で?』

 意識の外から、背後から斬り掛かり、尚もマガツメには回避するだけの余裕があった。僅かに打点を外され刃は肉を切ったのみ、骨を断つには至らなかった。とはいえ傷は決して浅くない。

 だというのにマガツメは眉一つ動かさず、それどころか左手で鍾馗の短剣を掴んだ。
ぶしゅ、という嫌な音からかなり力を込めたのだと分かる。
 思ってもみない行動。それだけでは終わらない。ゆったりとした様子でマガツメは右腕を動かし、


「なんや、その腕……?」


 染吾郎は自身の目を疑った。
 ぐちゃり、不愉快な音が鳴る。
 刀を掴んだ腕とは逆、鬼女の右腕が胎動している。まるで別の命を宿しているかのように、蠢き変容し始めたのだ。
 その醜悪さに息を呑む。
 少なくとも人の、鬼の腕とは全く違う。
滑らかな陶磁器のような肌は、深緑に変色し、芋虫のようなグニャグニャとした気味の悪い皮膚に。
 それを食い破り、外骨格が現れる。手に当たる部分には鋭い爪。構造を見るにあれは節足動物の歩脚に近い。あまりにも気色が悪い。芋虫と歩脚が混在した腕だ。
 見目麗しい少女の右腕が、虫に為る。気色悪い。しかし染吾郎を驚かせたのは気色悪さよりも発される気配である。

 あれは、まずい。

 一目でわかる程の禍々しさ。離れないと、考えた時には体が動いていた。無理矢理に剣を引き、マガツメの指を切り落とし大きく後ろへ距離を取る。
 
「って嘘やろ……っ!?」

 それで一息、とはいかない。
 マガツメは一歩も動いていない。なのに虫の腕が体躯を伸ばし襲ってくる。
 構え直し、鍾馗の剣で薙ぎ払う、つもりだった。
 だが斬れない。鍾馗の一撃をもってしても、傷一つかない。硬いのではなく奇妙な弾力がある。刃は喰い込むだけで断ち切るには至らない。

「ぬぉぅ、りゃ!」

 それでも力尽くで虫の腕の軌道を逸らし、どうにか退ける。
 鬼女の変容を眼前にし、染吾郎は奥歯を噛み締めた。
 脳裏に浮かぶ疑問。どうでもいいとばかりにマガツメは虚空を眺めている。その仕種は穏やかで、だから染吾郎は少なからず動揺した。

「……あら、おっかしーなぁ」

 冷や汗が垂れる。唇がかさつく。
 内心の焦りを悟られぬように、軽い調子で微かに笑う。



「僕、今君のこと斬らんかった?」



 マガツメは、まったくの無傷だった。
 幻影などではない。確かに手ごたえはあったし、鍾馗の剣には血がついている。間違いなく斬ったのだ。
 なのに平然と立っている。
 切り落とした筈の指は戻っている。血も流れていない。着物には僅かなほつれもない。
 鬼の再生力は人を上回るが、それだけでは説明がつかない。


 ───つまりはあれがマガツメの<力>。


 鬼は百年を経ると特異な<力>を得る。
 中にはもっと早く習得する者もいる。マガツメもその手合いなのだろう。
 鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望みながらも理想に今一歩届かぬ願いの成就。
 ならば通常よりも早い<力>の目覚めは渇望故に。強すぎる願いへの執着が<力>を目覚めさせる。
 染吾郎は地面を見渡した。
 斬り落とした指が転がっている。ならば幻覚や幻影の類ではない。衣服が元に戻っている以上、単純な再生能力でもない。
 相手の挙動を注視しながら<力>の正体を推測する。臆したと思ったのか、動きを止めた染吾郎を見た。

『どうした……私を討つのだろう?』

 見下すでも勝ち誇るでもない、淡々とした語り口だった。
 美しい少女から虫が生えている。数多の鬼を屠ってきた秋津染吾郎をして、あのような鬼は初めて見た。
 あまりにも不気味。しかし何故か、マガツメの纏う空気は寂寞を思わせる。圧倒的な力を振るいながら、まるで迷子のような頼りなさを感じた。

「あはは、言ってくれるなぁ」

 不用意に攻め立てることはできない。
 傷の再生、そのからくりを解かない限り意味がないし、そもそも虫の腕を掻い潜るだけでも至難だ。 
 間合いを取り、牽制代わりに付喪神を放ちまずは様子見。虫の腕が音を立てて振るわれ、一瞬で蹴散らされる。かさかさ。がしゃがしゃ。不気味に蠢く、吐き気がする。見ているだけで不快だが、目を逸らす訳にもいかない。

『向日葵、あの人の所へ』

 やはりどこか寂しげな様子で、マガツメは少し離れた所にいる娘へ声を掛ける。
 その言葉が意外だったのか、こてんと向日葵は首を傾けた。

「え?」
『様子を見てきなさい』
「ですけど」
『此処から先は貴女が見るようなものではない』

 曲りなりにも母、ということなのか。
 おそらく様子見をさせることに意味はない。単にこの場から話す為の方便だ。
 言葉尻には娘を案じる愛情が含まれている。

『いいから。あの人が貴女に危害を加えるようなことはないだろう』
「……分かりました、お母様」

 少し躊躇いがちに、しかし一転満面の笑みになる。
 このような状況でも“大好きな叔父様”の下へ行けるのは喜ばしいらしい。呆れたように溜息を吐き、染吾郎は去って行こうとする向日葵に言った。

「ほんま、君は甚夜のこと好きやなぁ」
「え? あ、はい。勿論です」 

 急に話を振られて少しだけ慌てた様子で向日葵は答えた。

「あはは、かいらしなぁ」
「むぅ。馬鹿にされたような気がします」
「馬鹿になんてしてへんよ。多、甚夜の奴もおんなじこと思っとるで?」

 視線はマガツメに向けたまま、和やかに談笑する。向日葵は染吾郎の言葉に、名前の如く晴れやかな笑みを浮かべた。

「そう、でしょうか?」

 落ち着いた対応を取ろうとしているのだろうが、喜びを隠せていない。
 無邪気な女童。甚夜を慕う、マガツメの娘。
 そうだ、向日葵は本当に甚夜を慕っている。
 その意味を、染吾郎は以前の邂逅で何となくではあるが予測していた。
 甚夜に話さなかったのは確信が持てなかったから。そして、出来れば予測がはずれていてほしかったからだ。

『無駄話は止めなさい』
「はい、ではお母様行ってきますね。それは秋津さんもこれで」

 ぺこりと頭を下げ、今度こそ向日葵は走っていく。
 明るい笑顔が無くなり、夜は深まった気がする。マガツメが娘を行かせた理由は分かっている。ここからは、子供の見るようなものではない。つまり染吾郎の息の根を完全に止める気なのだ。
 染吾郎に動揺はない。
 元より命の取り合い。覚悟はとうに出来ている。だから思考は今から行われる戦いよりも、マガツメの目的の方に向けられていた。

「ほんま、かいらしい娘や。君もあの娘のこと、大切にしとるみたいやし……ねっ!」

 言葉と共に左手を翳す。
 犬神。四方八方から襲い掛かる爪と牙。しかしマガツメは粗雑に腕を振り回す。ただ それだけで全て薙ぎ払われ、ぼとりと犬神の残骸が地面に転がった。
 それはそれでいい。今は相手に手傷を負わせることより考える時間が欲しい。
 更に犬神を繰り出し、その度に地の残骸は増える。相手の所作を警戒しながら軽い調子で言った。

「その腕、悪趣味やけど大したもんや……それも“実験の結果”か?」

 マガツメの動きが止まる。
 答えは返ってこない。しかし当たらずとも遠からずなのか、僅かに表情が固くなった。
 一挙手一投足に注視し、反応を窺いながら染吾郎はゆさぶりをかける。

「“心を造る”のが君の目的やったな。そのおまけで人を鬼に変える酒やら百鬼夜行がでてきたんや。その腕も同じ技術やと思うんが普通やろ」

 初めは人を鬼に変える酒だった。
 次は死体を鬼に変え、百鬼夜行を為した。
 自由に<力>を産み出す術も得た。
 しかしそれらは副産物に過ぎず、心を造るのが本来の目的だという。


“心を造る”


 心を造ったなら、どうなる?
 人は心の闇から鬼へと堕ちる。
 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。
 そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。
 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。
 つまり心を自由に造れるとすれば、容れ物もまた自在に変容させられると同意。

「人は想い故に鬼へ堕ちる。そんなら心……想いを自在に造れるんなら、中身も外見も自由自在やな」

 即ち“心を造る”技術の行き着く先は、完全に自分の意思を反映させた命の誕生に他ならない。
 
「好きなように造れる命。それが君の望みか? はん、吐き気がするわ」

 ほんの僅か、マガツメの眉間に皺が寄った。
 反応を見るにどうやら“当たり”か。
 ぎり、と奥歯を噛み締め睨み付ける。
 人として生きてきた染吾郎には彼女の望みが虫の腕よりも醜悪に映る。命を侮辱している。湧き上がる感情は憤怒と嫌悪。年甲斐もなく明確な敵意を露わにする。

「その腕、自分の心弄ったんか?」
『……違う』

 今度は間髪入れずに否定する。
 ゆっくりと首を横に振る仕種はやはりどこか寂しそうで、成熟した外見とは裏腹にまるで幼い娘のように見えた。
 
『心を造り、命を産み出す。お前のいう通りだ。でも“これ”は私の心。……散々切り捨てて来たのに、これだけは消えてくれなかった』

 心を弄った訳ではないと言う鬼女からは寂寞さえ感じられる。
 染吾郎に語るのではなく、独白のように零す。周りにまったく意識が向いていない。

「切り捨てられなかった……?」

 似たような言い回しをどこかで聞いた覚えがある。
 どこでだったろうか。染吾郎は紐解くように記憶を辿り、


 ───私も、地縛も。私たち姉妹は全て母の“切り捨てた一部”が鬼になった存在です。

 
 百鬼夜行の夜
 かつて向日葵が零した言葉を思い出して目を見開いた。

「そういや、向日葵ちゃんは、確か長女やったな」

 予想は確信へ
 あの時の言葉が真実ならば、向日葵の正体は容易に想像がつく。
 向日葵はマガツメの長女。つまり一番初めに切り捨てたもの。
 兄を慕う妹が、マガツメとなり敵対するうえで一番必要ないものこそが向日葵だ。
 それは何か? 考えるまでもない。


 マガツメの娘は、切り捨てた想い。
 長女たる向日葵の根幹は“兄を慕う心”、大好きだという気持ちだ。


 故に向日葵は甚夜のことを慕う。彼女はそもそも、そういう思いが形になった存在だから。
 そこに思い至った時、同時に染吾郎は理解してしまった。

 そもそもの目的は心を造る。
 造らなければならない、理由があった。
 それはいったい? 
 新しいものを造る理由。普通に考えれば古いものが使えなくなったから、失くしたから。
 交換しなければならない程、壊れてしまったから。
 だからマガツメは、心を造らなければならなかった。




 つまりこの鬼女は、切り捨てた想いの代わりに、造り物の心を自身に植え付けたのだ。




 だが所詮は模造品、質は悪かったのか。それとも元ある心と上手く合わなかったからか。
 いや、マガツメの言を鵜呑みにすれば、慕う心を切り捨てて憎しみだけを残してしまったせいか。 
 ともかく偽物の心の影響で、マガツメは人でも鬼でもない、別の何かに体が変質してしまった。
 虫の腕は、想いを捨て去りそれでも捨てられなかった憎悪。人の、鬼の枠を食み出る程に歪んだ感情の発露だ。
 違和感の正体をようやく理解する。
 並外れた執着の割に大した動きを見せず、愛を語りながら憎しみを振りまく。
 自分を見て欲しい、だから“憎まれたい”。
 一致しない感情と言動。
 おかしく感じて当然、マガツメの心と体は、本当にばらばらだった。
 

 有体に言えば、彼女はとっくに壊れていたのだ。 



「あかん、分かってもた君の“願い”」

 そして、マガツメの“願い”とやらも染吾郎には分かってしまった。
 苦々しく表情を歪める。眼前の鬼女の歪みを見せつけられ、知らず手に力が籠った。

「マガツメ、君はそんなことのために……」
『そんなこと? 何度も言わせるな。私にはそれが全てだ』

 震えている。体が、心が、内から滲み出るものに慟哭していた。
 マガツメが初めて見せる激情。熱いのか冷たいのかも分からない、靄のように淀む想いだった。

『なにも変わらない。向日葵を、地縛を、東菊を産んだ。散々、散々心を切り捨てて、偽物の心を植え付けて。なのに、こんなにも愛おしい。……なのに、この憎しみだけが消えてくれない。今も想っている、でも憎いの。私を捨てたことが。傍に、いて欲しかった。それでよかった。傍にいてくれるなら、あの人が誰かの隣で笑っていても耐えられた。ただ、ほんの少し、頭を撫でてくれれば。手を繋いでくれれば。それだけで、よかったのに……』

 だけど、もうあの頃のようには笑えない。
 兄は妹を憎み鬼へと堕ちた。
 捨てられた妹は、全てを憎み、いつか鬼神と為る。
 愛おしく思う心は変わらず、けれど兄妹は憎しみを選んでしまった。
 彼等が鬼である以上、もはや互いに憎み合うことしか出来ない。

『だから私は造るの。憎しみに染まった心なんていらない。純粋で、無垢な心を。憎いと思わない、嫉妬もしない、ただ純粋にあの人を想える心を。そうすれば、きっと、もう一度あの人の……にいちゃんの傍にいられる』

 憎しみは消せなかった。
 マガツメにはそれが認められない。
 だから憎しみを消す為に、心そのものを造ると決めた。
 その為に本当の心を、兄への思慕さえも切り捨てた。
 矛盾ではない。少なくとも、彼女の中では。
 例え、“それ”が本当に大切なものだったとしても。
 大好きな兄を憎んでしまう欠陥品/心なぞ、初めから在ってはならなかったのだ。

「……君、ほんまに甚夜のこと好きやってんなぁ」

 本当に、好きだった。
 結局マガツメにとっては、どこまでいってもそれだけが全てで。
 その全てを失ってしまった時点で、彼女の崩壊は必然だったのかもしれない。

「そやけど、君のやっとることに何の意味がある? 鬼を造り、心を造り、自分自身さえ造り変えて。甚夜自身を傷付けて、現世を滅ぼしたその果てに、君はほんまに……」『あると信じている。心から願う場所が……きっと』

 きっと、もう一度幸せになれる。
 淡い希望を信じる彼女は、人を踏み躙り現世を破壊し尽くし、その果てに在る場所へと辿り着こうとしている。


 ───滅びの先にある夢を、マガツメは見ている。
 

 なんて愚かで、なんて純粋で、なんて気持ちが悪く。
 けれど、なんて美しいのだと、思ってしまった。
 首を横に振って浮かんだ感情を振り払い、染吾郎は歯を食い縛る。そして敵意に満ちた視線でマガツメを射抜く。

「やっぱり、君のことは捨て置けん」

 本当は、ほんの少しだけ希望を抱いていた。
マガツメの目的を知って、妥協点を見いだせれば、案外戦わないでも済むかもしれない。
 そうすれば、兄妹が仲直りして“めでたしめでたし”、そういう終りだってあるのではないかと、そんな夢を見ていた。
 それが無理だと分かってしまった。
 マガツメは目的の為ならば現世の全てを滅ぼしていい、それほどの覚悟を持って事に臨んでいるのだと思っていた。
 
 けれど違った。
 現世を滅ぼすのに覚悟など要らない。
 彼女にとっては、大げさな表現ではなく、甚夜以外はどうでもいいからだ。
 だから簡単に、心の底から、滅ぼすなんてことを言えてしまう。
 悪意ではない。兄の傍へもう一度戻る為に歩む道。その途中に落ちていたゴミを片付ける程度の軽い気持ちで、彼女は現世を滅ぼそうとしているのだ。

「このままやと君は本当に現世を滅ぼしてまう。なにより、君のやっとることは甚夜への……いや、僕ら人への侮辱や」

 染吾郎の目には明らかな敵意がある。
 マガツメの願いを理解した。だから分かる。この女を放っておけば、どうしようもない悲しみが広がっていくだけだ。
 説得など意味がない。彼女は、もう手が付けられないくらいに壊れている。 
 今この場で、討たねばならぬ相手だ。

『知ったことか。この身は鬼。ならば為すべきを為す』
「鬼? 違うな。君はもうとっくに人で鬼でもないわ」

 人は想い故に鬼へと堕ちる。
 ならば、その想いを捨て去ってしまった鬼は、もはや何物でもない。
 彼女は真実、鬼でも人でもない、ただ災厄を振りまく存在に。
“鬼神”に為ろうとしている。
 四肢に力を籠め、鍾馗の短剣を構え、静かに腰を落す。

「君の居場所はどこにもない。とっとと黄泉路に還れ」

 放つはかみつばめ、紙燕の付喪神。
 速度を上げたそれは既に刃。マガツメを切り刻もうとひゅるりと飛んで、届くことなく虫の腕に叩き落とされる。
 逆に、マガツメの攻撃も届かない。
 虫の腕は確かに脅威だが、鍾馗は染吾郎の最大戦力。容易く打ち破れるものではなく、こともなげに異形を払い除ける。
 しかし距離を詰めることも出来ない。それだけマガツメの攻めは苛烈。隙を見て犬神を繰り出してもすぐさま消し飛ばされる。
 距離を詰めたい染吾郎と、離しておきたいマガツメ。互いに思惑通りとはいかず、状況は千日手に陥ろうとしていた。

 息を漏らし、染吾郎は再度虫の腕を払い除ける。
 既に十合を超える攻防、マガツメの攻撃を退けながら染吾郎は額に汗を垂らした。
 見得を切ってみたはいいが、状況は悪い。
 意思を持つように蠢く虫の腕。伸びて、うねり、爪を立てる。鍾馗を使いどうにか凌いではいる。
 劣ってはいない。決して劣ってはいないのだ。
 マガツメの攻撃など鍾馗ならば容易く受けられるし、腕は兎も角マガツメ自身を貫くことは可能。
 互角の攻防、しかし染吾郎の顔には次第に焦りが見えてきた。

「いい加減、しつこい!」

 空気を裂きながら振るわれる剣が虫の腕を払い除ける。
 犬神で反撃、容易く薙ぎ払われ地に残骸が転がる。
 一進一退。それでも力負けはしていない。
 鍾馗は、秋津染吾郎は決してマガツメに劣ってはいない。
 なのに攻防を繰り返すたび、染吾郎は次第に劣勢へと追い遣られる。
 足りないのは膂力でも速度でもない。
 鍾馗ならばマガツメ相手でも互角。戦いに関して言えばマガツメは素人同然、或いは このまま持久戦に持ち込めば勝機を見出せるかもしれない。
 だが染吾郎は劣勢だった。

「ちぃ、歳は、取りたくないもんやな」

 肩で息をしながら零す愚痴。どうしようもないことだが、言わずにはいられなかった。
 そう、現状は互角。いずれは勝機を見出せる。
 だとしても、“いずれ”が来るまで現状を維持するだけの体力が、既に五十を超える染吾郎にはないのだ。

『人の身ではそれが限界か』
 
 淡々とした口調が逆に鬱陶しい。
 染吾郎は奥歯を強く噛み締めた。
 マガツメの言葉は正鵠を射ていた。
 このままならば染吾郎の体力が先に付き、無惨に死骸を晒すだろう。
 もしこの身が鬼であったなら、歳を取らなかったのなら。
 ふと過る思考を染吾郎は鼻で嗤い飛ばし不敵に笑う。

「はん、舐めんなや。人はしぶといで」
 
 老いることのない体、若さへの羨望は確かに在る。
 けれど鬼であればよかったとは思わない。
 確かに人は鬼よりも遥かに脆い。
 千年を生きる鬼から見れば人の一生など瞬き程度だろう。
 それでも染吾郎は人の強さを知っている。
 短い命。それ故に積み重ね、受け継ぎ、繰り返し。
 人は連綿と紡いでいく。
 技を、血を、心を、想いを。 
 そうやって人は今を造り上げた。
 それは、脆く儚い命だからこそ成し遂げられた偉業だ。

「確かに人は弱い。体も心も脆いし、鬼程長く生きることもかなわん。……そやけど僕らは不滅や」

 その尊さを、信じている。
 だから人であるが故に陥ったこの劣勢を染吾郎は甘んじて受け入れる。
 受け入れて、マガツメを屠る為に身命を賭す、そう覚悟を決めた。

「いくで、虎さん」

 染吾郎は身を翻し、自ら繰り出した張子の虎に跨った。
 そのまま虎の背に乗り夜を駆ける。躍動する獣の筋肉。疾走は人を凌駕する速度、それでもマガツメにとっては遅い。迎撃も容易いだろう。
 幾ら鍛えようとも人出は彼女の域に辿り着けない。生物としての格がそもそも違う。マガツメが上、染吾郎が下。絶対的な、埋まることのない差がそこに在る。

「ああ、言い忘れとった」
 
 漏れた呟きなぞ意にも介さず、その進軍を冷めた目で眺める。
 当たり前だ。マガツメが乱雑に手を払い除けるだけで染吾郎の命は簡単に消し飛ぶ。ならば何事を語ろうが、真夏の蚊の羽音と然程変わらない。ぶんぶんと喧しく煩わしいだけ、心に届く筈もない。
 そうしてマガツメは無造作に虫の腕を振るおうとして、


「犬神には再生能力がある」


 地に転がった残骸が、瞬時に形を取り戻す。
 四方八方縦横無尽に駆け回る黒い犬。取り囲み、それぞれが再びマガツメへと襲い掛かる。
 意味はない。犬神などマガツメの力ならば容易に薙ぎ払える。
 しかし一瞬、マガツメの動きが止まった。
 犬神が脅威だからではない。
 ただ単に“びっくりした”のだ。 
 それでいい。
 重要なのは威力ではなく突飛であること。
 目論見通り、復活した犬神に鬼女は僅かながら動きを止めた。
 マガツメが戦いに関して素人であり、それに反して能力が高いからだ。突如として襲い掛かる犬神に、反応できてしまうほど反射神経がいいからこそ、意識がそちらに割かれた。
 通じないと分かっていながら犬神を放ち続けたのは仕込み、この一瞬だけ思考を止める為。
 いいぞ、そのまま驚いていろ。
 駆け抜ける。虫の腕が振るわれ、犬神がまたも砕かれ、その隙に染吾郎は間合いを詰める。
 マガツメは既に二撃目に移っている。下から上へ掬い上げるように虫の腕が迫る。
 虎はそれこそ紙屑のように切り裂かれ、だがそれも予測済み。染吾郎は張子の虎から飛び降りていた。
 もう十分だ。間合いに入った。
 染吾郎は短剣を翳す。
<力>の正体は分からないが、傷が治っていたところをみるに再生・復元に類するもの。ならば己が為すべきは一つ。
<力>を使わせる間もなく、一瞬で命を刈り取る。
 それならば如何な<力>であっても関係ない。
 マガツメは虎を打ち倒すのに一撃を放った後。無防備を晒している。
 千載一遇の好機。
 此処をものにせねばもはや勝ち目はない。
 

 ひゅっ、と軽い音が響いた。

 
 鍾馗の剣が空気を裂いて夜に白い線を描く。狙うは頭蓋、再生など出来ぬよう完全に粉砕する。
 マガツメはまだ動かない。避けることも、防ぐことも今からでは間に合わない。
 とった。
 横薙ぎの一閃は吸い込まれるようにマガツメの頭部へ。
 絶対の確信を持って放たれた、染吾郎の渾身の一刀は、




『<地縛>』




 しかし虚空から現れた鎖に四肢を絡め取られた。
 いや、鎖ではない。また虫だ。尋常ではない体長を誇る大百足(おおむかで)が肌にまとわりついている。
 急に制動をかけられぎしりと骨が鳴った。走る痛み。ぞわぞわと這い回る虫の足。締め付けられている、ただそれだけの筈なのに、指一本動かせない。動きそのものが“縛られている”。

「こいつ、は……!」

<地縛>は以前甚夜との鍛錬で見た。地縛から喰らった<力>だ。
 何故、と問うことはない。そもそも地縛はマガツメの想い、その具象化。ならば想いの大本はマガツメにこそある。
 鎖ではなく虫に変化しているのは、地縛を切り捨てた故に。
 本当の想いは捨て去った。残っているのは醜く歪んだ執着のみ。だからマガツメの<地縛>はこんなにも醜い。
 
「あかん、やばっ……!」

 染吾郎は冷や汗を垂らし、体を強張らせる。自身も鍾馗もやはり動かない。完全に無防備だ
 仕損じた。
 身動きは取れない。
 眼前には、マガツメがいる。
 虫の腕が、振り上げ、られた。

 マガツメは、冷めた目でこちらを見ている。
 心底興味が無いといった風情だ。
 彼女は甚夜以外に興味などない。染吾郎のことなど、羽虫程度にも思っていない。
 だから躊躇いはなく、感慨などもある筈はなく。
 それこそ虫を叩き潰すように、あまりにも乱雑に。


「……………あ」


 虫の腕が、突き刺さった。
 拘束は解かれ、衝撃に鍾馗は掻き消え、染吾郎の体は大きく吹き飛ばされた。
無様に地面を転がる。与えられたのは致死の一撃。だからこそ、マガツメは眉を顰めた。
 羽虫を叩き潰したと思っていた。今の一撃は、人の体なぞ軽く貫くだけの重さがあった。なのに、あの男は吹き飛ばされただけ。羽虫如きが何故生きている。冷たい視線で染吾郎を見下す。

「が、は……福良、雀」

 懐にあるは福良雀。付喪神としての力は、防御力の向上。
 おかげで一命は取り留めた。しかし骨は折れ、臓器は潰れた。死に至るまでの時間が僅かに伸びただけ。
 どのみち染吾郎は死ぬ。
 どうしようもなく、なんの慈悲もなく、此処で死ぬ。
 その事実が変わることはない。

「あかん、下手、うってもたなぁ……」

 できればマガツメは自分が倒しておきたかった。
 仏頂面で冷静ぶっているくせにどこか脆い親友が、これ以上傷付かないように。
 あいつが妹と戦うなんて、そんな悲しいことをさせない為に。
 だけど届かなかった。

「もう、動けん。付喪神も出せてあと一回、ってとこか」

 打つ手はなしだ。
 秋津染吾郎は何もできず此処で死ぬ。
 親友の為と意気込んでおいてこのザマ。なんと滑稽なことか。
 情けなさに乾いた笑いしか浮かんでこない。

『何故生きている』

 マガツメには今染吾郎が生きていることさえ信じられない。
 人は脆い。脆い、筈。なのに、なぜこの男は。
 二者の噛み合わない遣り取り。断ち切るように染吾郎は表情を引き締めた。

「最後の付喪神。一矢報いな死んでも死に切れん」

 翳す鍾馗の短剣。
 懐に左手を入れ、放つ秋津染吾郎最後の付喪神。

「犬神……っ!」

 最後の最後に選んだ付喪神は鍾馗ではなく犬神だった。
 マガツメは怪訝そうに眉を顰める。染吾郎の付喪神の中では唯一鍾馗だけがマガツメと渡り合えた。だというのに、今更雑魚を出す意図が分からなかった。

『無駄なことを』
「無駄? んなことないやろ」
 
 不敵に笑う。
 そして染吾郎は翳した短剣を、


「これが、僕の最後のあがき」


 自身の腹に突き刺した。
 皮膚を破り、内臓を刻み、刀身が血に染まる。熱い。痛い。しかし苦悶の声は上げず、不敵な笑みのまま刃を体から抜いた。
 
「この短剣に、僕は想いを、命を込める。秋津染吾郎の遺言や」

 血塗れになった短剣を鞘に戻し、犬神に渡す。
 口に咥えたことを確認すると、染吾郎は険しい形相で叫んだ。

「行け犬神っ! 平吉んとこまで走ってそいつを届けろぉ!」

 疾走する。
 これが最後の付喪神。マガツメに今一矢を報いることよりも、平吉に鍾馗を託す道を染吾郎は選んだ。
 走り抜ける犬神に、マガツメは何もしなかった。染吾郎の行動に意味を感じなかったのか、別の思惑があったのかは分からない。
 ともかく犬神はこの場を離れ、平吉の下に向かう。
 短剣には想いを、命を、そして言葉を込めた。
 平吉ならばちゃんと受け取ってくれる。その確信があった。
 
「僕は、君に勝てんかった」

 棒立ちしているマガツメを睨み付ける。
 目に宿るのは敵意ではなく決意。如何な暴威にも屈しない、人の心だった。

「そやけど“秋津染吾郎”は負けん。人間はしぶといで。鬼みたく長くは生きられんが、僕らは不滅や」

 がふ、血が口から零れる。
 もう長くはもたない。それでも、最後の命を振り絞って染吾郎は叫ぶ。
  
「今此処で断言しといたる。君が鬼神とやらになった時、僕は、“秋津染吾郎”はもう一度君の前に立ちふさがる。甚夜の隣で、一緒に戦ってみせる」

 その為の言葉を鍾馗の短剣に残した。
 想いは平吉が受け取り、五代目六代目と受け継がれていく。
 だから“秋津染吾郎”は負けない。
 今は退く。だが、いつか秋津染吾郎はお前に届く。

「葛野での再会、楽しみにしといたるわ!」

 喀血しながら高らかに笑う。
 しかしマガツメには何の反応もない。
 染吾郎の遺言にすら興味が無いのか。




 ただ、冷めた目で────













 ◆





 犬の遠吠えが聞こえた

「やっぱ、雑魚やったな」

 鬼そばを襲撃した鬼は四半刻も持たず消え去った。それなりに梃子摺ったのに余裕ぶって見せるのはやはり若さか。
 ともかく野茉莉を狙う鬼の撃退は成った。
 ようやく一息、気楽な様子で平吉はぐっと背筋を伸ばした。

「あー、終わった終わった。お師匠やあいつが負ける訳ないし、もう安心やな」

 激しく動いて流石に腹が減った。
 そうだ、甚夜が帰ってきたら夜食に蕎麦を作ってもらおうなどと考えながら鬼そばの店舗を見る。

「……しまった、思いっ切り玄関壊してもた。どないしよ」

 そういえば“しゃれこうべ”で鬼ごと押し流してしまったのだった。
 やばい、どうしよう。弁償とか言われるか? いやいや、あいつのことだ。野茉莉さんを守ったんだからこれくらい大目に見てくれる可能性も。
 うんうんと唸っていると、目の端には疾走する黒い影を見つける。

「ん?」

 向き直れば、そいつには見覚えがあった。
 師が好んで使い、自身が初めに教えて貰った付喪神。

「犬神……?」

 なんでこんなところに?
 口には短剣を加えている。それにもまた見覚えがある。鍾馗の短剣。三代目染吾郎の切り札だ。
 なんで、と口に出そうとした時変化は訪れる。
 平吉の下に辿り着いた犬神は、輪郭を失って崩れ、黒い靄へと戻っていく。
 再生能力を持つ筈なのに、壊れたらそのままだ。
 そして、ぽとりと足元に落ちる短剣。 
 まさか、嫌な想像が脳裏を過る。



「……お師、匠?」



 乾いた呟きは夜に紛れ、何処かへと消えた。





[36388]      『面影/夕間暮れ』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/08/10 22:50



 京都三条にある自宅の一室。
 夜も深まり、静けさが染み渡る。しかし肌に感じる冷たさは、夜ばかりが理由ではないだろう。
 ゆっくりと息を吸い、肺を冷たい空気で満たす。
 仕事場で身支度を整えた染吾郎は、マガツメなる鬼の手勢との戦いを前に英気を養っていた。
 今回は平吉の手を借りることになる。心配な反面、頼れるようになった弟子の成長が嬉しくもある。自然と笑みは零れ、戦いの前とは思えぬ程染吾郎の表情は寛いでいた。


「さ、平吉。行く前に、伝えとかなあかんことがある」

 穏やかさはそのままに、鍾馗の短剣を手にした染吾郎は平吉をまっすぐ見据える。

「なんですか?」
「うん。二つあるんやけど、まずは一つ目」

 行燈の光だけが揺れる室内で二人は向かい合う。
 そして彼はゆっくりと、あまりにも穏やかな様相で言った。


「僕になんかあったら、君が四代目秋津染吾郎や」


 紡がれた言葉に平吉はひどく動揺した。
 戦いに赴く師が、秋津の名を託そうとする。その意味が分からない程子供ではなかった。

「ちょ、お師匠!?」
「ま、僕やってそう簡単にやられるつもりはないけどな。そやけどマガツメは鬼の首魁、いつか鬼神になるゆう規格外の相手や。何があってもおかしない」

 死ぬかもしれない。
 その覚悟を持って、染吾郎はマガツメへ挑もうとしている。
 それをこそ信じることが出来ない。師の名は秋津染吾郎。付喪神使い、その三代目にして稀代の退魔。秋津染吾郎が鬼相手に後れを取るなど想像もつかない。

「そんなやつ。そもそも師匠とあいつが手を組んで倒せん鬼なんておるわけない」

 むっつりと不機嫌そうに平吉は零す。
 掛け値なしの本心だ。師は言わずもがな、甚夜もまた尋常ではない使い手だ。
 以前『マガツメは自分より強い』などと言っていたが、そんなものは謙遜にしか思えない。マガツメなる鬼がどれほどのものか、師と甚夜の二人を相手に勝てる鬼などいる筈がないと心底考えていた。

「嬉しいこと言ってくれるなぁ。勿論、僕も負けるつもりはない。そやから、これはあくまでもしもの時の為や思っといてくれればええよ」

 軽い笑みを浮かべても、目は笑っていない。
 つまり師は、それほどまでにマガツメとやらを警戒している。
 自身が心底尊敬し信奉する師匠の弱気が平吉には面白くなかった。

「……お師匠がそう言うなら。もしもなんて在り得ませんけど」

 しぶしぶながら頷けば、満足弦染吾郎は嘆息する。
 そして父性を感じさせる穏やかさで言葉を続けた。

「まぁ、マガツメのことがのうても、四代目は君以外おらん。平吉は僕の自慢の弟子、ほんまやったら今すぐにでも秋津染吾郎を譲ってもいいくらいや」

 本当に穏やかだった。
 だから先程までの話は、あくまで念のためなのだろうと安堵する。そう思えば返す言葉も気楽なものだ。
 
「そんな。秋津染吾郎を名乗るには俺なんてまだまだです」
「あはは、謙遜せんでもええよ。……そやけど、今回の戦いが終わるまでは名を譲るんは勘弁したってな」

 つい、と行燈に目を滑らせる。
 ゆらゆらと滲む橙色を眺め、苦笑しながら息を吐く。
 初めて出逢った時は、ここまで長い付き合いになるとは思っていなかった。
 人に化けた鬼。性質こそ善良ではあったが、相手は鬼。いつ敵になるとも知れぬ。だから共闘した際も切り札を見せる気にはなれなかった。
 それが今では酒を酌み交わす仲となった。本当に、人生とは分からないものだ。
 
「“秋津染吾郎”は甚夜の親友やからな。名を譲る前に、あいつの為に出来ることはやってやりたい」

 マガツメが如何な手を打つか、私にも分からない。だからもしもの時は野茉莉を頼む。
 甚夜は敵地に向かう際、そう遺して行った。
 あの不器用な男が、自分を、弟子を頼ってくれた。親友だと冗談のように言えばすぐさま否定する。そういう男が、自分を友だと思い、後ろを任せてくれた。
 ならばその心意気に報いたいと思うのが人情。
 染吾郎にとっては、十分過ぎる程に命を懸ける理由と成った。

「これが一つ目の話。二つ目は、ちょっと伝言をな」
「伝言、ですか」
「そや。いつ伝えるかは、君に任せるけど」

 そしてもしもの時の為に、弟子へ伝言を残す。
 普段は冷静ぶっているが、あれで案外情の深い男だ。自分に何かあれば甚夜は苦しむだろう。
 だからそうならぬように、“秋津染吾郎”はあいつに伝えよう。
 思わず笑みが零れる。
 伝言を聞いた時、あの仏頂面がどんなふうに歪むのか。

「いつか、あいつにこう伝えたってくれ」

 それを想像しながら、染吾郎は遠くを見つめ────





 ◆
 




 思えば、あの時既に死は終わりを予見していたのかもしれない。
 だからこそ“甚夜にこの言葉を伝えて欲しい”と遺して逝った。
 平吉は足元にある瘴気の短剣を拾い上げる。生温い血の香り。握り締めれば、自身に何かが流れ込んでくるようだ。

「お師匠……確かに、受け取りました」

 鍾馗の短剣を。
 あなたの想いを。
 一筋、涙が零れる。
 大の男が情けない。思いながらも、拭うことはしなかった。
 これからは自分が秋津染吾郎になる。ならば、平吉として泣けるのは今日が最後だ。
 だから涙を拭うこともしなかった。今だけは師の背中を追っていた生意気な小僧として、染吾郎の死を悼んでいたかった。
 目を閉じて、最後の涙を押し流す。瞼の裏に映し出す、懐かしい記憶。
 平吉はかつての騒がしい日々を主起こしながら、ただ立ち尽くす。
 夜の風が身に染みても、動こうとはしない。
 それからどれくらいの時間が経ったろうか

「平吉さん、こんばんは」

 此処にない筈の、涼やかな声に顔を上げた。
 いつの間に訪れたのか。この二年で随分と親しくなった顔がある。

「東、菊……?」

 長い黒髪の鬼女は、何処か疲れたような微笑みを浮かべながら平吉の前に立っていた。
 何故、此処に?
 いきなりすぎて頭が追い付いてこない。そんな平吉を尻目に、東菊はゆっくりと近付いてくる。

「どうしたの、目が赤いよ」

 吐息がかかる距離。いつもなら照れて身を離したかもしれない。
 けれど動けなかった。

「泣いて、たの?」

 東菊は気遣わしげに、上目遣いでこちらを見る。沈んだ表情。彼女の方こそ泣きそうで、離れようと思えなかった。

「いや、なんでもな」

 思わず普通に返そうとして、平吉の思考が止まった。
 東菊の態度があまりに普通だったからだ。
 鬼そばの玄関は見事に壊れている。辺りには鬼との戦いの名残がある。
 そもそもまだ鬼の死骸は完全に消えきってはいない。
 しかし東菊は、それらを見ながらも普通だった。日常とはかけ離れたこの場に在りながら、あまりにも普通過ぎた。
 何故、なんて考えるまでもない。
 そもそも彼女は鬼。そして今回の敵は鬼の首魁だと師が言っていた。
 ならば、ここに来た意味だって分かり切っている。


 おまえ、まさか。


 平吉は身構える。しかし退くことも攻撃に転じることも出来なかった。
 余裕はあったが同時に余分もあった。
 彼女が敵である、その可能性を考えた。
 それでも、癒しの巫女としての振る舞いが、その下に隠れていた少女の顔が、雑談を交わしながら並んで歩いた日々が、積み重ねた余分が反射的な行動を躊躇わせた。
 なにより彼女は、本当に心配そうな目でこちらを見ている。
それは平吉がよく知る東菊の優しさで。
 だからこそ、一瞬の戸惑いが身動きを封じる。
 その間隙を突くように東菊はしなやかな指を伸ばし、

「ごめんなさい」

 そっと優しく、平吉の頬に触れた。








 ◆











 踏み込み、横薙ぎ一閃首を落す。
 目の前が染まる程の赤。霞のように濃密な、鼻腔を擽る鉄の香り。
 鬼であっても血は人と変わらない。本当は、鬼も人も差異などないのかもしれない。
 不意に過る夢想は振るう刀で薙ぎ払い、鬼の心臓を貫き、体躯を裂き、頭蓋を叩き割る。

『何匹目、だったでしょうか』

 兼臣の言葉に反応し鬼を斬った刀、その為に振るわれた腕が刹那も置かず跳ね上がる。
 伸びきった筋肉はもう一度収縮するまで動かせない。当たり前の肉体構造、だというのにそれを無視して、甚夜の腕は在り得ぬ力強さで刀を返す。
<御影>。妖刀夜刀守兼臣が有する、自身の肉体を傀儡とする<力>だ。
 自身の肉体を<力>で操り、本来ならできない筈の動きをも可能とする。

「知らん」

 十を超えた辺りで数えるのは止めた。
 返す刀で斬り捨て、しかし尚も鬼共は立ち塞がる。
 下位とは言え鈴音の配下。おそらくは死体を弄り産み出した存在。並みの鬼とは比較にならぬし、なにより数が多い。
 時間稼ぎと分かっていながらも甚夜は鬼共を振り払えずにいた。
 闘わず逃げることも考えた。実際<疾駆>や<隠行>を試したが、結果は失敗、ものの見事に阻まれた。
 数多の鬼の中には尋常ではない速度でうごくもの、見えない筈の己の姿を見る鬼もいた。
 つまりこの屋敷にいる鬼は、甚夜の現在の能力に合わせて、初めから足止めの為に造られていのだ。
 
 甚夜は只管に刀を振るい、鬼を斬り伏せる。
 無論焦りはあるが、そこに動揺はない。冷静に、闘うことが出来る。
 当たり前だ。今の己には、遠い昔には持ち得なかった力が在る。
 鍛錬で得た技でも鬼を喰らい奪った<力>でもない。
 染吾郎や平吉、兼臣。
 憎しみに囚われた道行き、それでもこの身を案じ手を貸してくれる者達がいる。ならば動揺などするはずもない。己が為すべきはあの師弟を信じ、一刻も早く鬼を片付けること。
 迷いはなく、故に濁りはない。
 一挙手一投足が斬る為にある。眼前の鬼、その絶殺にのみ専心する。

「兼臣、悪いな。無茶に付き合わせる」
『夫の無茶を支える。まさしく妻の役割でしょう』
「言っていろ」

 自然と口の端が吊り上る。
 滑るように鬼の懐に潜り込み、左肩かぶつかる全霊の当身。怯み生まれた隙間を埋めるように夜刀守兼臣を突き出す。
 眼球を貫き、頭蓋を砕く。飛び散った脳漿、血払い、休む間もなく次の鬼を斬る。
 襲い来る鬼は、瞬く間に死骸へと変わる。荒れ放題の庭にこもる濃密な血の匂い。慣れ親しんだ香りは心を落ち着けてくれる。
 冷静に平静に、命を摘み取る。その途中、甚夜は奇妙なことに気付いた。

『旦那様』
「ああ」

 兼臣も訝しんだ様子だ。先程までは雪崩のように攻めてきた鬼共の動きが鈍っている。まるで、攻撃を躊躇っているような。
 踏み込み、斬る。こちらから仕掛ければ応戦はするが、やはりどこかぎこちない。
 一体どうしたというのか。
 
「みなさん、もういいですよ」

 疑問はすぐに消える。
 響き渡る幼げな声に、鬼の動きは完全に止まった
 それを辿れば鬼共の後ろから、宝相華の着物を纏う女童が現れた。
 波打つ薄い茶の髪、ほっそりとした顔の輪郭。
 もういい加減見慣れた娘だった。

「向日葵……」
「おじさま、さっきぶりです」

 軽く手を振って微笑む様子は、無邪気な娘でしかない。
 本質が鬼だと知っていても、やはりやりにくい相手だ。
 何故ここにいる。視線で問い掛ければ何故か嬉しそうに向日葵は言う。

「母が様子を見て来いと」
「そうか。残念だが、この通りまだ生きている」
「むぅ。言い方が意地悪です」

 頬を膨らませる。その仕種が、いつかの面影と重なる。
 向日葵と話していると、何故か妙な心地になる。多分、似ているからだろう。
 この娘はどこか鈴音に似ている。いや、親娘であることを考えれば当然なのか。無邪気に慕ってくる様は、まだ鈴音だった頃の妹を思い起こさせた。
 拗ねた様子で、向日葵はすっと左手を上げた。すると甚夜を取り囲んでいた鬼共は揃って円形を崩して道を開けた。
 
「どうぞ、行ってください」

 一度深く息を吐き、穏やかに微笑む。夏の花の鮮やかさではなく、秋を彩る柔らかな色だ。
 場違いだが、素直に綺麗だと思った。だからこそ奇怪な印象を受ける。ちぐはぐな女童の振る舞に、警戒心は否応にも高まる。
 
「なんのつもりだ」

 投げ付けた言葉にきょとんとした顔で返される。意味が分からないのはこちらだといった風情だ。
 
「鈴音の目的は足止めだろう。何故態々鬼を引かせる」
「え、あ……」

 合点がいったようで、微かに息が漏れた。
 視線を泳がせ、困ったように曖昧な微笑みを零す。
 綺麗だと思うのに、心許なく感じられる。微笑みと言うには少し憂いが勝ちすぎるかも知れない。

「もう、意味がありませんから」

 そうして何処か寂しげに零れた一言。
 自然すぎて聞き逃してしまいそうなたった一言に、思考力を奪われた
 
 待て、お前は何を言っている。
 
 問おうとしても声が出ない。全身の筋肉が強張っている。
 
「私の名前は向日葵。<力>の名も<向日葵>。私の目はあなただけを見つめる……設定した対象への遠隔視、千里眼が私の<力>です」

 実年齢は兎も角として、向日葵の容姿は十歳の少女といったところだ。しかし浮かべた表情は、幼げな容貌には似つかわしくない。
 胸中を隠し、けれど滲み出る心を隠しきれない。
 そういう大人びた憂いだった。

「だから遠く離れていても見えるんです。もう足止めの意味はありません。この夜のうちにしたかったことは、みんな終わりました」

 待てと言っている。
 マガツメの目的は野茉莉。それは読めていた。読めていたからこそ、染吾郎と平吉が護衛を買って出てくれたのだ。
 その上で、目的を果たしたと言うのなら。
 無表情のまま、敵に動揺は見せない。しかし内心は焦燥に満ちている。

「謝りません。私は、母が大好きです。だから母の願いは叶えてあげたい……だから、謝れません。でも私はおじさまのことも大好きですから」

 緩やかな、泣き出しそうな笑みに胸を締め付けられる。
 だから、これくらいなら母に許して貰えるだろう。
 飲み込んだ言葉はそんなところか。
 鈴音の最終目標が何処にあるのかは甚夜には分からない。
 しかし向日葵は知っているのだ。
 母が目指す場所と甚夜の安寧が両立し得ないと理解してしまっている。
 愁いを帯びた目は、自身の感情と役目を上手く処理できないから。情けない話だ。くだらない兄妹喧嘩で、無邪気な少女を悲しませている。

「野茉莉さんなら無事ですよ。初めから、命を奪う気はなかったので。でも、秋津さんは別です」

 それでも無邪気な笑顔を造り向日葵は言った。


「この先で、母は秋津さんと戦いました。今ならまだ、末期には立ち合えるかもしれません」

 少女の心を慮る余裕はない。
 限界だった。鬼共を目にしながらも、警戒することさえ忘れ甚夜は走り出していた。





 ◆





 夜は、寒い。
 いや、寒く感じるのは、血を失ったせいだろうか。
 分からない。分かった所で意味もない。
 自分は死ぬ。
 鬱蒼とした森の中で、独り。太い木の幹にもたれ掛かる。 
 奇跡などない。間違いなく、疑いようなく、死を迎える。

「まっとうな死に方なんて、出来るとは思っとらんかった」

 己は曲りなりにも鬼を討つ者。
 他の命を奪う男が寝床で死ねるとは思っておらず、だから嫁を取ることもしなかった。
 一人で生きて一人で死ぬ。そういう生き方が似合いだと思っていた。

「そやけど、やっぱ寂しいもんやなぁ」

 つぅ、と口元から血が一筋たれる。
 臓器が潰れているせいだ。血を吐きすぎて、口の中は鉄錆の味しかしない。
 それも仕方ない。自分が殺してきた鬼は、もっと無惨に死んでいった。形が残っているだけでも有難いと思わねば。
 己が死はとうに受け入れている。
 ただ気掛かりなのは、周りのこと。なにより弟子の安否だ。
 平吉は無事だろうか。犬神は辿り着けたか。
 ちゃんと、自分の遺志は伝わっただろうか
 伝わったなら、寂しく死んでいく自分にもまだ救いはある。
 多少の未練はあっても、安心して眠ることが出来る。

 ああ、体が重い。
 瞼も段々と落ちてきた。けれど必死に耐える。きっとこのまま目を瞑れば、二度と目覚めることはないだろう。
 だからもう少しだけ、景色を眺めていたかった。
 星ない夜。朧月。木々の鳴く音が、逆に静けさを強調する。
 霞んだ目でぼんやりと虚空を眺める。

 
 ───もう、そろそろか。
  

 ここらが限界だ。
 体の感覚は既にない。
 終わりがやってきた。
 まあ、こんなものか。
 素晴らしいとまでは言わないが、納得のできる人生だった。
 嫁こそ貰わなかったが、子のようにかわいい弟子を持った。
 愚痴り合いながら酒を呑む友人も得た。
 そんなに、悪いものでもなかった。
 だから、もうそろそろ目を瞑ろう。
 そう思えば、ゆっくりと瞼は落ちて。


「染吾郎……」

 
 聞こえた声に思い直す。
 やっぱり、あと少しだけ、頑張ろうか。
 マガツメは結局止めを刺しては行かなかった。
 刺さずとも死ぬからか、それとも何か企みがあったのか。
 或いは、単なる気まぐれだったのかもしれない。
 その意図は読めないが、今は感謝しよう。
 おかげで、今際の際に、親友の顔を見ることが出来た。

「おぉ、甚夜……あはは、すまんなぁ。下手ぁ打った」

 反応はない。
 甚夜は何も言わず、ただ立ち尽くしていた。
 僅かに歪んだ表情は後悔ゆえに。染吾郎ならばと、頼ってしまった。その結末がこれだ。ならば、彼を殺したのは己。大方、そんなことを考えているのだろう。

「戦いは素人やけど強かったわ。能力は治癒と、ようわからん虫の腕。マガツメは、ほんまに人でも鬼でもない“何か”……鬼神に為ろうとしとる」

 駆け寄って抱き起すような真似はしない。
 甚夜も一目見た時点で分かったのだ。
 もう何をしても助からない。
 体を動かしても体力を消耗させるだけ。だから正対し見下ろすような形から動かなかった。本当は、動けなかったのかもしれなかった。

「済まない、染吾郎」

 軋むような嘆きだった。
 奥歯を砕かんばかりに噛み締め、湧き上がる感情を隠そうともしない。
 己の失策を悔やみ、無力感に苛まれ。それ以上に、染吾郎の死を嘆き俯いていた。

「私が、お前を、巻き込んだ」

 表情は見えず、絞り出すような声にいつもの強さはない。
 不謹慎だと思いながらも染吾郎は軽く笑った。
 立ち尽くす甚夜の姿が申し訳なく、同時に嬉しくも思う。
 こいつは悲しんでくれている。自分のことを友人だと思い、それ故に立ち尽くしている。

「何故、私は大切な者をこそ守れない。いつも、いつもだ……」

 ああ、僕は。
 こんな風に悲しんでくれる友人を得たんか。
 一人で生きて一人で死ぬ。そう思っていた。
 だからこそ、自分の為に悲しんでくれる誰かが、たまらなく嬉しかった。

「アホなこと、言いなや。僕は、僕の意思で戦って、結果負けた。そんだけの、ことやろ。君の責任……なんぞ、どこにもないわ」

 傷付かなくていい。
 この最後を、笑顔で受け入れられる。だから負目を感じることなんてない。

「……だが。すまな」
「謝んな。頼むから、謝らんでくれ」

 残された力を振り絞るように、ぴしゃりと言い放つ。
 思ったよりも強かったらしい。ようやっと甚夜が顔を上げた。

「そら、ちょっとばかり届かんかった。ほんでも、僕は友人の為に、体張ったんや。ちっぽけな意地かもしれんけど、冥土にもってくには十分すぎる誇りや。……そいつを奪ってくれんな」

 ゆるやかに言葉を紡ぐ。
 お前が、こんな老いぼれの命を背負うことはないのだ。
 穏やかに。お前に咎はないと、何の未練も後悔もないと、ただ穏やかに笑う。
 
「そやから、はよ行け」

 そして、突き放すように別れを告げる。
 友が、自身の死を悼んでくれている。
 それを嬉しいと思えたなら、彼の足を止めてはいけない。

「君はさっさと野茉莉ちゃんとこ行かな。こんなとこでぼーっと突っ立っとる暇ないやろ」

 いっそ粗雑とも思える物言い。根底にある感情が透けて見えたせいだろう、甚夜は僅かに表情を歪めた。
 染吾郎の心遣いが分かる。分かるくらい、一緒に酒を呑んだ。
 毎日のように蕎麦屋でくだらない雑談を交わした。
 鬼を討つ者でありながら、鬼である己を友と呼んでくれた。
 憎悪に塗れた道行きを肯定も否定もせず、それでも力を貸してくれた。


 ───そういう友を、失うのだ。


 甚夜は動けなかった。
 愛娘の危機を十二分に理解しながら、一歩も動けない。弱々しく呼吸する姿から目を離せずにいた。

「はは、鬼の目にも、涙やなぁ」

 何も言えない甚夜を、染吾郎はからからと笑った。笑ったつもりだった。
 もう顔の筋肉は殆ど動いていない。声も無理矢理絞り出したようで、掠れ切っている。

「誰が泣いた」
「君がや。一人になるんが怖くて怖くて、迷子の子供のみたく泣いとる」

 見透かすような言葉。それ以上の反論を口にしないのは、否定しきれなかったから。
 紛れもない事実だ。
 恐怖に足が竦んでいる。一歩も動けない。
 如何な鬼を前にしたとて恐れに動きを封じられることなどなかった。
 命など数えきれぬ程に奪ってきた。
 なのに、ただ一人の死が、こんなにも怖い。  

「……なぁ甚夜、人って案外しぶといで?」

 染吾郎はそう何度も言っていた。
 甚夜とて元は人。その在り方が鬼に劣るなどとは思わない。
 それでもやはり人は脆すぎる。現に、しぶといと言いながらこの友人はもう終わりを迎えようとしている。

「僕はもう終わり。そやけど、続くものがある。僕は僕のやるべきことをやった……これでも、結構満足しとるよ」

 自分の遺志を継いでくれる者がいる。ならばこの命にも意味はあった。
 間近に迫った死を、あまりにも穏やかに受け入れる。
 弱々しく、今にも消え入りそうな灯が何故か眩しい。

「そやから、悲しまんでええ。今度は君が、やるべきことをやらな。此処で、僕の死を看取るなんて無様な真似、さらしてくれるなや」

 動かない表情筋を無理やるに動かして、染吾郎は精一杯笑う。
 やはりうまく笑みは作れなかったが、ちゃんと伝えられたと思う。
 甚夜は俯いたままだったが、背を向けてくれた。
 前を、しっかりと見てくれた。
 
「……おい、染吾郎」

 揺らぎのない、鉄のような声。
 恐れを抑え込んで、甚夜は冷静な己を作る。
 本当は染吾郎を見捨てて行くような真似はしたくない。だがここで手を差し伸べるのは、命を張って味方してくれた親友への侮辱だ。
 だからこの背中を返答にする。
 最後まで友で在ってくれた男に、少しでも報いることができるよう、今は悲しみを押し殺す。

「おう、なんや親友」

 甚夜の意思もまた伝わったようだ。
消えてしまいそうな意識を必死で繋ぎ留め、染吾郎はおどけて返した。

「ありがとう。お前と酌み交わした酒は悪くなかったぞ」
「そんなん、僕もや」
 
 なにに対する礼だったのか、甚夜自身にもよく分からなかった。
けれどそれでいい。きっと、言う機会が無かっただけで、いつも礼を言いたかったのだと思う。
 素直に言えてよかった。
 最後の最後に、妙な意地を張らずに在れた自分を褒めてやりたい。
 僅かな沈黙。振り払うように、甚夜は一歩目を踏み出した。

「さらばだ。もう逢うこともあるまい」
「あほ、こういう時はいつかまた逢おうって言うもんや」

 顔を合わさずに、それでも互いに笑い合う。
 ざっ、と土を踏みしめる音。
 それを合図に颯爽と、僅かな名残さえ感じさせず甚夜は歩き始める。
 遠ざかる背中は、硬く強く、まるで鉄のように映る。
 染吾郎はほんの少しだけ悔しさを感じた。
 これから、あの不器用な友人は。
 長い長い、気が遠くなるような道を歩いて行く。
 その道行きを、共にすることはもう出来ない。
 例え此処で生き残ったとしても、人と鬼では寿命が違う。
 いつまでも友人でいてやることなど、染吾郎には不可能だ。
 あいつが辛いと思う時、何の手助けもしてやれない自分が歯がゆい。
 ああ、だけど。


「人は、しぶといで。そやから、“またな”」


 去っていく背中に、約束を。
 気が遠くなるくらい先の未来でいつかまた会おうと、一方的な約束を押し付ける。
 あの男が歩む道が何処に繋がっているのか、見通すことは出来ない。
 同じく、“秋津染吾郎”がこれからどうなるかもまた。
 けれど願わくは。
 もう一度、笑い合える未来が訪れますように。
 その時に、あいつの傍にいるのは自分じゃないけれど、それでいいと思える。
 もしも道の先で、偶然出会った誰かが“秋津染吾郎”を名乗った時、あいつは一体どんな顔をするのだろう。
 驚くのか、訝しむのか。喜ぶだろうか、いやいや喜び過ぎて涙を流すかもしれない。
 いずれ訪れる小さな奇跡を夢想しながら、染吾郎は笑う。
 だけど、かくんと頭が揺れる。
 なんだか、眠くなってきた。少し、頑張りすぎたようだ。
 最後の力を振り絞って顔を上げる。
 背中さえ見えない。本当に、立ち止まらずに甚夜は歩いて行った。
 ならきっと、もう一度会える。あいつが歩みを止めないのなら、“秋津染吾郎”が絶えず在り続けられた、いつか道が重なり合うこともあるだろう。
 そのいつかを心待ちにし、微かに笑みを浮かべて。
 染吾郎は、そっと、瞼を閉じた。






 ざあ、と風が鳴く。
 沈み込むような夜空の下、染吾郎は木の幹に背を預けたまま佇んでいた。
 その姿は本当に穏やかで。
 ともすれば心地よい風の中でうたた寝をしているようにすら見える。
 けれど彼の目が開くことはもうない。
 微睡みに揺蕩い、見果てぬ未来を想いながら、彼は息絶えた。
 瞼の裏に映したのは、きっと再会の日だろう。
 上手く表情を作れずに歪んだ顔は、それでも何処か楽しそうに見えた。







 ◆




 空が白みかけた頃、ようやく甚夜は鬼そばに戻ることが出来た。
 遠目からでも、店の玄関が壊されているのが分かる。
 焦燥に足を速める。そうして辿り着いた店先で見た光景に、甚夜は毒気を抜かれた。

「おう、おかえりー」

 壊れた玄関の前で座り込んでいる平吉の姿が其処には在った。
 眠そうに欠伸を一つして立ち上がる。ぐうっ、と背筋を伸ばし、肩を回す。座り続けていたせいで体が固まっている。気怠げな、緩慢な動作だ。

「鬼、結局一匹来ただけやった。それも雑魚。相手にもならんかったわ。野茉莉さんも、まだ中で寝とる」

 軽い笑みに、一先ずは安堵する。
 全てが終わった。ならば野茉莉もかと思ったが、如何やら無事のようだ。
 礼を言おうと平吉の顔を見て、声を出せなくなった。
 多分平吉はちゃんと笑えているつもりだったのだろう。しかし目は少し赤い。右手には、短剣が握りしめられている。鍾馗の短剣、染吾郎の切り札だ。
 だから気付く。平吉は既に染吾郎の死を知っている。その上で、何でもないと振る舞っているのだ。
 
「言っとくけど、あんたのこた恨んどらんからな」

 甚夜の視線に気付き、目を逸らしたまま投げ捨てるように平吉はそう言った。
  
「お師匠は、最初からこうなると分かっとった。その上で、戦った。恨むのは筋違いや」
「宇津木……」

 敬愛する死を失って辛いだろう。含むところがあって当然だ。だと言うのに、平吉は甚夜を責めることはしなかった。
 それでも真っ直ぐ向き合うことが出来ないところに、複雑な心境が現れている。

「そやけど、整理し切れとらん。あんま、“そこ”には触れんでくれ」

 精一杯の譲歩だと、平吉は背を向けた。
 仇、という訳ではない。だとしても、巻き込んだのは事実。とは言え甚夜を憎むことは出来なくて、やり場のない苛立ちだけが募る。
 自分でもどんなふうに感じているのか分からないと言った風情だ。だから今はそのままにしておく。もう少し落ち着くまで、師のことは考えないでいようと平吉は決めた。
 頼まれた伝言も次の機会にしよう。今は素直にその言葉を口に出来そうもなかった。
 平吉は結局甚夜の目を見なかった。
 上手く感情を処理できない自分が、殊更子供っぽく思えて、気付かれないように奥歯をぐっと噛み締めた。
 悔しかった。何が悔しいのかは、やはり分からなかった。

 言葉少なく甚夜と平吉は店に戻った。
 壊れているのは玄関のみで、店内は荒らされていない。確認もそこそこ、いの一番に店の奥、廊下を進み、辿り着いた部屋の障子を静かに開ける。

「すぅ……」

 よく眠っている。
 本当に平吉は上手くやってくれた。野茉莉は、外での騒ぎなど気付くことなく普段と変わらぬ様子で眠っている。
 しばらく寝顔を見ていたかったが、起こしてしまっては可哀想だ。ゆっくり、音を立てぬよう静かに障子を閉める。
 そうして店歩に戻り、すぐさま甚夜は頭を下げた。

「感謝する。よくぞ野茉莉を守ってくれた」

 平吉は驚き、あたふたと視線をさ迷わせる。
 甚夜の親馬鹿ぶりは承知の上だが、まさかここまで素直に謝意を伝えてくるとは思っていんなかった。

「ちょ、やめぇや。別にあんたの為ってだけやないんやし」

 染吾郎は甚夜の為に戦った。平吉にもその気持ちはある。頼られたのが嬉しかったのは事実、しかし理由の大半は本音を言えば野茉莉にこそある。
 昔から惚れている女だ。危機を知って見捨てるなど出来る筈もない。詰まる所頼まれずとも端から体を張るつもりだった。だから感謝がどうにもくすぐったい。
 
「しかし」
「ええから。あんま礼とか言わんでくれ。なんや居た堪れん」

 なにせ下心ありだ。真正面から受け入れるのはなかなかに辛かった。
 胸中を見透かしたのか、店に戻ってからずっと張り付かせていた硬い表情を崩し、甚夜は落すように笑った。
 
「なんや」
「いや、お前達を頼ってよかったと心から思っただけだ」
「ちょっとは隠せや、恥ずかしい奴やな!?」

 それがいつも通りの姿だったから、平吉もいつものように照れ隠しの叫びを上げた。
 そして間を空け、ようやく目を合わせて、もう一度ぎこちなく笑い合う。まだ少しわだかまりは残っているが、空気はほんの少し柔らかくなったような気がした。
 そうこうしていると、店の奥でかすかな物音が聞こえた。次いで障子が開く音。どうやら、野茉莉が目を覚ましたらしい。

「おう、起きたみたいやな」

 浮き立った声。あからさまに表情が明るくなった。
 好意を隠すのが下手なくせして、決定的な言葉は口に出来ない。唯一こういう所だけは頼りないと思ってしまう。
 もしも平吉がそのつもりなら、親として認めてやろうと思っているのだが。
 そんなことを考えていると、朝の寒さに肩を抱きしめ、覗き込むように野茉莉が顔を出した。

「おはよ、野茉莉さん」

 片手を軽く上げて、何気ない風を装い平吉が挨拶をする。そこに至るまでの態度を見ているだけに、甚夜は小さく溜息を吐いた。

「ん、おはよう。今の声って平吉さん?」

 野茉莉は寝間着のまま着替えてもいなかった。
 淑女としてはしたないと思ったのか、どこか居心地悪そうにしている。
 昨夜は甚夜が帰れない為、平吉に留守を任せるとだけ伝えておいた。鬼に狙われるかもしれない。そんなことを言って怖がらせたくはなかった。
 結果、野茉莉は何事もなく夜を過ごしただけ。鬼との戦いがあったことさえ知らない。やはり平吉に任せてよかったと思える。

「すまん、五月蠅かった? 喋っとったら、ついな」

 流石に朝から大声を出し過ぎたらしい。申し訳なさから、はは、と曖昧な笑みを浮かべる。親指でくいと甚夜を指し示せば、野茉莉は意外なものを見るように目を見開いた。

「え……?」

 その姿は何処か幼げで、思わず口の端が緩む。
 平吉の、染吾郎のおかげだ。こうして愛娘の姿を見られるのは。

「野茉莉、ただいま」

 娘の無事を確認し、甚夜は安堵の息を漏らした。
 そして夕間暮れは過ぎ。




「……あの、どなた、ですか?」




 夜が、訪れる。




 鬼人幻燈抄 明治編「面影/夕間暮れ」(了)
        次話「あなたを思う」


 



[36388]      『あなたを想う』・1
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/02/04 01:56


『私はただ、見たいだけ。東菊が本懐を遂げた時、あの人が何を選ぶのか』



 ◆



「……あの、どなた、ですか?」

 今、彼女はなんと言ったのか。
 阿呆のように口を開けて固まる。耳に入った筈の言葉を認識できない。
 目の前には、僅かな怯えをにじませ見上げる野茉莉の姿がある。普段から父を慕っている彼女が初めて見せる表情は、今の言葉が真実だと雄弁に告げている。

「の、野茉莉、さん……? 自分の父親にそないな冗談、ちょっと悪趣味やろ」

 硬直して何の反応も返せない甚夜より先に平吉が先に口を開いた
 近くで親娘の触れ合いをずっと見てきた。野茉莉と甚夜は本当に仲睦まじく、だから彼女が何を言っているのか分からず視線を泳がせている。

「父、親?」

 よりにもよって野茉莉さんが、父親の顔を忘れる? 馬鹿な、在り得ない。
 そう思いながらも不安が過った。
 呆けたような、感情の乗らない声。初めて聞いたとでも言わんばかりの野茉莉の反応は、とてもではないが演技には思えない。
 平吉もそれなりに場数を踏んでいる。こういった在り得ない現象を起こしうる存在が現世には在るのだと、十分過ぎる程に理解していたからだ。
 いや、不安の本当の理由は、彼女の状態から一瞬で浮かんでしまった想像のせいかも知れなかった。

「いつっ、あ……」
「野茉莉っ」

 頭を抱え、苦悶に表情を歪め、立ち眩みを起こしたように野茉莉の体が揺れた。咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちそうになる寸前で支える。抵抗はなかった。抵抗されるかもしれない、そう考えた自分を情けなく思う。
 けれど手は離さない。野茉莉も振り払うような真似はしなかった。腕の中で身動ぎ、こちらを見上げ、焦点の合わない目でたどたどしく口を開く。

「父、親。え、あ……あれ、とう、さま?」

 とうさま。紡ぎだされた響きに安堵し、甚夜は気付かれぬくらい微かな吐息を漏らした。
 強張っていた全身の筋肉がほぐれていく。どうやら思った以上に動揺していたらしい。
 しかし野茉莉は体調こそ悪そうではあるが、ちゃんと自分を父と呼び、今も腕の中にいてくれる。

「ご、ごめん、なさいっ。ちょっとぼーっと、して……つぅ」
「いいから喋るな。調子が悪いならもう少し寝ていた方が」
「ううん、大丈夫だよ。今ごはんの準備するね?」

 少しぎこちないながらも笑顔で返し、するりと腕から離れていく。足取りは普段通り、体も揺れていない。少し顔色が悪い。出来れば休んでいてほしいが、あれで頑固なところがある。多分聞いてはくれないだろう。

「分かった。だが、何かあったらすぐに言ってくれ」
「もう、父様。相変わらず過保護なんだから」

 その応対は普段と変わらず、甚夜は胸をなでおろした。先程は寝ぼけていたのだろう。ふう、と小さく息を吐き、台所に向かう野茉莉を見送る。
 ふと視線を横に向ければ、平吉が暗い顔をしていることに気付く。野茉莉の方をじっと眺め、時折辛そうに口元を歪めている。

「どうした」
「へ?」

 見られていることに気付かなかったらしく、びくりと肩を震わせる。慌てた様子で視線をさ迷わせ、外の方をちらりと見て平吉はにへらと笑った。

「いやー、なんや、一雨きそうやなーと思って」

 誤魔化しであると気付いてはいたが、甚夜は敢えて問い詰めはしなかった。
 平吉が悪意から隠し事をするとは思えないし、染吾郎のこともある為無遠慮に踏み込むような真似はしたくない。「そうか」と一言だけ残し今へと向かうことにした。

「……名前を、忘れる? まさか、な」

 だから平吉の呟きを聞き逃した。




 ◆

 平吉のいう通り、朝食時には雨が降り出していた。 
 壊れた玄関の片づけを後回しにして、三人は居間で食卓を囲む。
 漬物を頬張り、白飯をかっ込む。味噌汁は豆腐、副菜には煮豆が添えられている。簡素だが手抜きのない丁寧な食事だ。平吉は料理が出来ない為、こう言った普通の朝食にはなかなかあり付けない。決して豪勢ではないが、寧ろ彼にとっては嬉しい献立だった。

「はぁ、ごっそーさん」

 かちゃん、と乱雑に茶碗を置き、茶を一啜り。平吉は満足げに一息吐いた。
 甚夜が帰ってきたら蕎麦でも作ってもらおうと考えていたが、野茉莉の手料理を食べることが出来た。蕎麦は勿論旨いのだが、やはり女性の手料理は別格。それが想い人のものであればそもそも天秤に乗せること自体間違っている。

「昨日はよう動いたからなぁ。飯が旨いわ。ま、まぁ野茉莉さんの作る飯はいつ食っても旨いけどな!」

 慌てたように褒め言葉を付け加える。顔は僅かに赤くなっていた。どうにも平吉には素直に褒めるという行為が恥ずかしいらしく、幼い頃からこうだった。
 変わらない彼が何となく微笑ましくて野茉莉は微笑みながら頷いた。

「お粗末様でした。お茶、お代わりいる?」
「そやな、貰おかな」

 平吉の顔がにやける。今のやり取りが、まるで夫婦のようだと思えたからだ。
 ただ少しだけ寂しくも思う。こんな時、いつもからかってきた師はもういないのだ。けれど顔には出さない、出さないよう努力する。野茉莉に心配はかけたくないし、何より自分は師から“秋津染吾郎”を受け継いだ者だ。この程度でヘタレていては、師に合わす顔が無い。

「はい、父様も」
「済まんな」

 下手くそな平気な振りでも、何とかやり過ごせた。甚夜は気付いているだろうに、気付かない振りをしてくれている。心遣いに感謝し、平吉はグイと茶を飲み干した。こんな風に酒を呑めれば、少しはこの仏頂面に報いることが出来るだろうか。そう考えたことが意外で、けれど悪い気分ではなかった。

「そやけど、野茉莉さんほんまに料理上手なったなぁ」
「ふふ、先生がいいからね」

 ぺろりと舌を出して、照れくさそうに笑う。
 もう二十歳になるというのにその仕種は幼げで、惚れた弱みを別にしても可愛らしく映る。無邪気な微笑みは、昔から変わらない。

「なんといっても、私の先生は……せん、せいは?」

 なのに、微笑みが凍り付く。
 またも野茉莉の体が揺れる。甚夜は手を伸ばそうとして、しかし今度は支えることが出来なかった。一瞬、ほんの一瞬。野茉莉がこちらを見る目に、怯えが宿っていたからだ。

「あれ、私料理、教えて、もらった。その筈なのに、なんで……?」

 畳に座り込み、手をついて俯く野茉莉。微笑みは困惑に変わる。ぶつぶつと呟きながら、まるで信じられないものを見たかのように目を見開いている。

「野茉莉、やはり少し休め」

 怯えられてもいい。甚夜はすぐさま野茉莉を抱きかかえ寝所へと向かう。何も言わない。素直に従った、というよりも動く気力が無いのだろう。完全に体を預け、しかし体は僅か震えていた。

「……とう、さま」

 腕の中にいる愛娘の瞳は、自身でも理解できない恐怖と不安を映していた。
 縋るような声はまるで細い糸のようだ。するりと手からすり抜けていきそうなくらい頼りなくて、胸が締め付けられる。
 
「とう、さま……だよね? 私の父親で。ずっと一緒に暮らして……料理を教えてくれたのも、父様」

 そっと伸ばされた手、白く細い指先は何もつかめずただ小刻みに揺れている。
 直ぐ近くにいるのに、腕の中にいる筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。怯えて縮こまる野茉莉を少しでも安心させようと出来るだけゆっくりと、出来るだけ穏やかに話しかける。

「どうした、のま」
「分からないの……! 分からない! 父様だって分かってるのに、ずっと一緒に暮らしてきたのに、貴方の名前が、思い出せない……!」

 堰を切って流れる感情に、言葉は途中で断ち切られた。
 甚夜は何の反応も返せず、ただ立ち尽くす。貴方の名前が思い出せない。そういった野茉莉に嘘を吐いている様子はなく、そもそもそんな悪質な嘘を吐くような娘ではない。
 つまり野茉莉が口にしたのは紛れもない真実。この娘は、本当に父親の名を忘れてしまっているのだ。

「なんで私……分からない、怖い、怖いよ父様……」
「いいから、落ち着け」
「でもっ」

 それ以上言わせないように、野茉莉を抱き寄せ地椎の胸元へ押し付ける。
 正直に言えば、甚夜自身にも恐怖と不安があった。野茉莉の異変を前に冷静でいられる筈がなく、だからこそ努めて冷静で在ろうと浮動する心を抑え付ける。 

「まずは休め、それからだ」
「…………うん」

 完全に納得した訳ではないだろうが、それでも野茉莉はおずおずと従った。
 起きたばかりだ、布団に寝かせてやっても眠れないようだ。しかし自身の異変に怯え、無理矢理目を瞑り布団を頭から被っている。

「野茉莉」

 怯えている所を申しわけないとは思うが、聞かなければならないことがある。
 愛娘に起きている異変を知る必要があるだろうと、甚夜は問いを投げかけた。

「私の名前が分からないと言ったな。他にも、何か思い出せないことはあるか」

 答えは返ってこない。それも当然か。まともに答えられる精神状態ではないし、なにより“何を忘れているか”など問いとしておかしい。聞いたところで思い出せないのだから、返す答えなどないに決まっている。そして野茉莉の態度を見るに、やはりいくらか記憶が失われているところがあるのだろう。
 その後も何度か声を掛けたが、返ってくるのは意味のない繰り言か沈黙のみ。結局何の情報も得られぬままだ。これ以上は問うても意味がないだろうと、ゆっくりと愛娘の頭を撫でる。

「取り敢えず休んでおけ」
「うん……」

 小さく頷き、髪を纏めていたリボンをほどく。
 それを手にしたまま、何故か野茉莉の動きが止まった。

「……これ」

 見詰めたままぽつりと呟けば、表情から怯えが消えた。
 意図が分からず甚夜が眉を顰める。答えるように柔らかな笑みが浮かんだ。

「このリボン、父様が昔買ってくれた、んだよね?」

 縋るような目が痛ましく、何もできない自分が歯がゆい。それでも顔に出ないのは、積み重ねた歳月のせいだろう。しかし今は有難い。娘を安心させる為、心の内の焦燥は隠し、ただ穏やかに頷いて見せる。

「ああ、そうだ」
「……よかった。ちゃんと覚えてる。だから、それが嬉しくって」

 野茉莉は心からの安堵に息を吐く。かなり精神的に参っているらしい。手の中にある、小さな思い出を愛おしそうに眺めている。
 だからこそ次いで口から出た言葉は、鋭い刃物のように胸を刺した。

「朝顔さんがいた頃だったよね、確か。父様が浴衣を買いにつれていってくれたの」

 もしかしたら、思った以上に時間はないのかもしれない。
 かける言葉を失った甚夜は、野茉莉を寝かしつけてから寝所を後にした。







 雨は強くなった。
 遠く聞こえる雨音を聞く。清澄な響き、しかし心が落ち着くことはない。
 平吉にとっても野茉莉は特別な相手、思うところがあるのだろう。どかりと椅子に腰を下ろし、そわそわと、落ち着きのない様子で膝を揺らし続けている。
 平吉が難しい顔をして俯いていると、しばらくして甚夜が戻ってくる。それに気付き慌てて立ち上がるも、眉間の皺は取れていなかった。

「の、野茉莉さん、どうやった?」

 上ずった声。どれだけ心配していたのかが分かる。
 甚夜は子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で言った。

「私の名前を思い出せないだけではなく、所々記憶が抜け落ちているようだ」
「そ、か。あ、医者! 医者に診せて……っ!」

 喋っている途中で意味がないと気付き黙り込む。成長したとはいえ、まだまだ平吉は若い。大切な者が怪異に巻き込まれ、浮足立ってしまっている。

「意味はない。なにより原因なら分かっているだろう」
「そう、やな」

 甚夜の脳裏には愛しくも憎々しい妹の姿が映し出されている。
 鈴音は野茉莉を狙うと言っていた。記憶の欠落がその一環であり、それがマガツ
メの配下、或いは娘の持つ<力>によるものだとは容易に想像がついた。
 もっとも、平吉が思い浮かべたのはまた別の鬼女であったが。 

「記憶の欠落、いや忘却か。朝よりも進んでいる。おそらくは時間と共に全て、いや、私に関する記憶を忘れるのだろう……中々に性質(たち)が悪い」
「やっぱり……そうなんか」

 甚夜は表情を変えず、投げ捨てるように言った。平吉の反応を見るに、彼もある程度推測していたようだ。
 最初に「どなたですか?」と問うたところを見るに、記憶を消す類の<力>であることは間違いない。
 甚夜を父親と認識できた以上、まだ完全に消えた訳でもいないだろう。
 しかし野茉莉は今身につけているリボンを指して、「朝顔がいた頃に買った」と言った。
 父の名を忘れているのに、朝顔は覚えている。平吉を見ても動揺はなかった。
 つまり、野茉莉の記憶はただ単に消えたのではない。甚夜のことだけを忘れているのだ。
 だから“性質が悪い”。マガツメの狙いは野茉莉ではない。野茉莉の記憶を奪うことで、甚夜を追い詰めようとしている。やはり、あの幼かった鈴音は最早何処にもいないのだと思い知らされ、ほんの少しだけ甚夜は唇を噛んだ。

「あんた、冷静やな」

 野茉莉を溺愛しているこの男のことだ。もっと動揺するかと思っていたが、案外落ち着いている。自分だけが慌てているのが悔しくて、少し棘のある言い方になってしまった。

「慌てても意味はない。野茉莉を想えばこそ、冷静になるべきだろう」

 事も無げに答える。やっぱり、こういう所は敵わないと思ってしまう。
 平吉は動揺し切っていた。
 どうすればいいのだろう。こういう時彼の導となってくれた師は既におらず、これからどうするのかは自分で決めなければならないのだ。
 しかし野茉莉のこと、頭に浮かんでしまった可能性のこと。頭の中がごちゃごちゃになって、上手く考えが纏まらない。
 そして甚夜が口にした言葉に、完全に思考を止められた。

「それにやるべきことは明確だ。忘却の<力>を有した鬼、おそらくはマガツメの配下。そいつを探し出す」

 当たり前のことだ。方策としてはごく単純、当然の帰結。なのに平吉は冷や水をぶっかけられたような気分だった。
 唇がわなわなと震えている。それを懸命に隠し、何とか歯を食い縛り、平吉は途切れ途切れになりながらも問う。

「み、見つけたからって、どうにかなるんか? そら<力>の持ち主なら治せるかも知らん。そやけど、そいつが……治す義理なんて、ない訳やし」

 対して甚夜はさらりと言ってのけた。
 まるで死を宣告する医師のように、冷静で無慈悲だった。

「喰えばいい」

 え? 
 短すぎる返答に、思わず間抜けな声を出してしまう。
 一瞬意味が理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
 だって鬼の<力>で野茉莉がああなったなら、それを治すにはやはり鬼の協力が必要だ。なら殺す訳にはいかない筈で。

「如何な鬼であろうと斬り殺し喰えばいいだけのことだ。……それが一番手っ取り早い」

 だけど、こいつには態々生かしておく必要はないのだ。
 元々甚夜の左腕はそういうもの。
 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。
 此処に来て、平吉はようやく気付いた。甚夜は冷静なのではない。怒りなどとっくに振り切れている。娘の為ならばどんな手段を取る。
 だから例えば、<力>を持つ鬼が女で、少し食いしん坊だけど明るくて楽しい奴だったとしても、何の躊躇いもなく喰い殺すのだ。
 目の前が真っ白になった。
 野茉莉さんを助けなきゃ。そやけど、もしかしたら忘却の<力>を持つ鬼っていうのは。
 知らず体が震える。自分は、一体どうすれば。

「て、なんだこらおい!?」

 平吉は聞こえてきた声に意識を取り戻した。
 思考に没頭していたせいで人の気配に気づかなかった。玄関の方に目を向ければ、ぐちゃぐちゃになっている店を見て唖然としている男がいる。三橋豊重、鬼そばの隣にある和菓子屋、三橋屋の店主である。
 豊重は店内に甚夜らを見つけると、軽く手を上げて近寄ってきた。

「おお、葛野さん。どうしたんだよこの惨状。性質の悪い客が暴れでもしたか?」

 壊れた玄関を見て様子を窺いに来てくれたのだろう。ただ、その声掛けが意外で、甚夜は僅かに眉を顰めた。

「三橋殿……私のことを覚えているのか?」
「は? いや、そらお隣さんのことくらい覚えてるだろうに」

 問いの意味が分からず、豊重は首を傾げた。そんな呑気な態度を見て、平吉も呆気にとられている。
取り敢えず、記憶を失ってはいないようだ。甚夜は強張った顔の筋肉を僅かに緩める。

「なんか、大丈夫そやな」

 何とか平静を取り戻し、一度深呼吸をしてから甚夜に声を掛けた。
 
「らしいな」
「……正直言うと、もっと手当たり次第やってくるんかと思っとった」

 それは甚夜も想像していたことだった。
 野茉莉だけではなく、甚夜と関わりを持った者全ての記憶を消す。そうすれば自然今迄通りの生活は遅れなくなる。つまりマガツメの目的は、憎い兄の居場所を奪うことなのだと推測していた。
 しかし実際には平吉も豊重も記憶を消されてはいない。
 確かに甚夜にとって野茉莉は別格だが、彼女だけを狙った理由はなんなのか。勿論、野茉莉の記憶を消すことが甚夜にとって一番の痛手となるのは間違いない。
 同時にマガツメの意図を読めていないのも事実。相手の狙いが分からないと言うのはどうにも居心地が悪い。

「あー、なんかよく分からんが。どういうことだ?」

 話に着いて行けず豊重は、頭をぼりぼりと掻きながら困った様子で立ち尽くしていた。
 とは言え詳しい内容を話すことも出来ない。誤魔化す方法を考えていると、同じく隣でなにやら考え込んでいた平吉が先に口を開いた。

「俺、そろそろ行くわ」

 取り敢えず落ち着くことが出来た。なら、次は行動しなければならない。
 軽い調子。けれど感情の色を失った冷たい横顔に、むしろ平吉の激情が滲んでいる。

「宇津木……」
「野茉莉さんほっといてお喋りなんてしとるのもあれやしな。取り敢えず、心当たり回ってみる」

 笑ったつもりだったのだろうか。引き攣ったように口角を釣り上げ、言い捨てた後は振り返ることもせず店を出て行く。雨の中、傘もささずに走っていく。その後ろ姿から伝わる気配は強張っていて、掛ける言葉を失くしてしまう。

「……なんか、あったか?」

 完全に姿が消えさってから豊重が零した。状況は分かっていなくても、平吉の纏う空気にただ事ではないと察したのだろう。彼にしては珍しく、真面目な表情に変わっていた。

「いや……」

 もう姿は見えないが、平吉が去っていた方を甚夜はただ眺める。
 その目付きは鋭いが、豊重には甚夜が何を考えているのは分からない。

「……まあ、話せないんならいいけどな。でもよ、俺はこれでも懐広い方だから、気が向いたら話してくれ。その時は、面倒だなんて言わねえよ」

 からからと笑う。あからさまに造った笑顔、甚夜を気遣ってのものだ。
 そして続ける言葉も気遣い故のものだった。

「多少のことじゃ驚かねえよ。あんたが何者か、なんてことも聞きやしないさ」

 甚夜のまったく年老いていない姿を見ても、今まで近所付き合いを続けてきた。
 特に親しい友人という訳ではなく、こちらの事情も全く知らない。それでも三橋豊重という人間は信頼できる。
 甚夜にはその確信がある。だから何かを逡巡するように俯き、もう一度顔を上げて真っ直ぐに豊重を見た。

「三橋殿、貴方は以前借りを返してくれると言ったな」

 以前、豊重は店の新商品を作る際甚夜らに助力を乞うた。それに恩義を感じており、「借りはちゃんと返すから、なんかあったら俺にどんと任せてくれ」と言っていた。勿論、豊重はそれを忘れておらず、急な質問でも戸惑うことなく、力強く首を縦に振った。

「おお、勿論だ」

 それを聞いて安心した。
 甚夜はいやに真剣な顔で「ならば」と言葉を続ける。

「済まないが、野茉莉を見ていてくれないか」
「は?」
「少し体調を崩しているんだ。生憎と、私はこれから出かけねばならん。留守を頼みたい」

 豊重は意外そうに目を見開く。
 それもその筈、いい加減付き合いも長く、甚夜がどれだけ娘を大切にしているかは知っている。鬼そばの常連客が「野茉莉ちゃん至上主義」だなどとからかっていたが、豊重にしても同意見だった。
 そういう男が、娘を見ていてくれと頼む。正直どう返せばいいのか分からなかった。

「いや、そりゃいいが……あー、俺でいいのか?」

 留守番ぐらいで大層かもしれないが、一応のこと確認しておく。
 しかし豊重の困惑を余所に、甚夜は自然体で、さらりと言ってのけた。

「私はそれなりに貴方のことを信頼しているよ」

 それなりに、という表現には引っ掛かるが、嘘を言う男ではない。
 ならば素直にその信頼を受け取ろうと、豊重は軽く笑った。

「そうか。しゃあない、なら今日は三橋屋は休業でございます……絶対嫁さんに怒られるけど」

 おどけてそう言ってくれる豊重に限りない感謝を。
 深く頭を下げて、甚夜は力強く言い切った。

「ならば、此処で借りを返して貰う。野茉莉のことは任せたぞ」

 一緒に浮かべた笑みは、どこか寂しそうにも思えた。






 ◆






 降りしきる雨に先は見通せない。
 体は雨の冷たさに悴み、けれど平吉は足を止めなかった。
 体が冷え切り強張っても、焦燥が彼を突き動かす。
 自分の想い人が怪異に巻き込まれた。その時点で冷静さを保てる筈はなく、なにより“記憶が消えた”という事実に胸を締め付けられていた。
 甚夜は気付いていない。単純に、マガツメの配下が引き起こした怪異だと思っている。
 しかし平吉は怪異の真相に気付いていた。すぐさま気付ける程に親しくなっていた。
 記憶を消したり、改変したり。そういうことが出来る鬼を、平吉は既に知っているのだ。

「頼む、俺の勘違いであってくれ……あいつは、そないなことせん」

 だってする意味がない。あいつが、そんなことをする理由なんてない。
 そうやって自分に言い聞かせても不安が苛む。
 息切れを起こし、それでも尚走る。
 甚夜はまだ彼女の存在を知らないが、気付き場所を突き止められれば終わり。あの食いしん坊は無惨に食い殺される……そして、自分はそれを止めることが出来ない。
 野茉莉が助かる可能性を、選んでしまう。
 
 だから走らないといけない。
 甚夜が気付くよりも早く彼女の下に辿り着き、なんとか野茉莉を救ってもらうのだ。そうしないと、彼女は。
 浮かんだ想像を振り払い、通りを只管に進む。向かう先は四条通の更に東。通りから 少し外れた場所にある、うらぶれた寺院。
 迷うことはない、通い慣れた道だ。
 お土産に野茉莉あんぱんを持っていくのがいつものこと。毎回同じお土産でもあいつは喜んで食べてくれた。
 最初は緊張してたけど、素のあいつを見れば呆れた溜息しか出なくて。
 でも中身はいい奴で、鬼であっても何ら気にすることなく雑談を交わして。 
 いつの間にか依頼なんて関係なく、無駄話をするのが楽しくてこの道を歩いていたのかもしれない。
 泣きそうになる。雨が降っていたのは幸いだった。潤んだ瞳を誤魔化せた。
 今は泣いている場合ではない、とにかく急がないと。
 
 そうして平吉は走りに走り、ようやく辿り着く、草木が無造作に生い茂る境内。立ち 止まらない。本堂に向かい一直線に走り抜けた。
 だんっ、と大きな音を立て、板張りの間に雨に濡れたまま、土足の中で上がり込む。
 恰好なんて気にしてはいられない。荒い息のままぐっと前を見据える。
 其処には、彼女が居た。
 本堂の奥、座敷で彼女は正座している。
 この数年で見慣れた、もう友人と読んでも差し支えが無いくらい親しくなった相手だ。

「……おう、東菊」

 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。
 透き通るような、とはこういうことを言うのだろう。少女の肌はあまりにも白く、細身の体と相まって触れれば壊れる白磁を思わせた。
 緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女は座したまま、能面のような無表情で平吉を見据えている

「すまん、今日は土産買って来れんかった」

 片手を挙げて、いつものような気やすい挨拶を演出して見せる。
 いつものように返してほしかった。そうすれば、いつものように座り込んでくだらない冗談を言い合える。
 だから、頼む。食いしん坊で無邪気で明るい、そういう東菊で迎えてくれ。

「宇津木、さん」

 だけど、そんな願い叶う訳もなくて。

「そっか、宇津木さんの方が先に来ちゃった、かぁ」

 長い黒髪を指先でいじりながら、どこか無気力に、ぼやくように言葉を続ける。

「ちょっと辛いな。……二人とも、それだけあの子のことが大切なんだね」

 もう言い逃れは出来ない。
 疲れたような微笑みに、平吉は泣きたくなった。

「そうだ、探してた人見つかったよ。色々思い出したんだ。野茉莉ちゃん、って言うんだよね? 私は、あの子に出逢うために生まれたの」

 聞きたくない。聞きたくないのに、耳は塞げない。
 何故か目の前が滲んだ。東菊の顔がよく見えない

「あの娘の記憶を消す。それがすずちゃん……お母様から与えられた役目」
「なん、で……そんなこと」
「なんで、かぁ。多分、お母様は知りたかったんだと思う。結局、あの子にとっては甚太が全てだから」

 絞り出した声。返ってくるのは乾いた声。
 上滑りするような会話。感情なんて何処にもない。

「でも、同じくらい知りたくなかったんじゃないかな。だから、野茉莉ちゃんに会えば記憶が蘇るようにした。もし逢わなかったら、それはそれでいいってことなんだろうね」
「そうやないっ! なんでお前がこんなことを……そんな奴ちゃうやろ!?」

 慟哭、けれど届かない。
 東菊は疲れたように溜息を吐いた。

「ううん、そういう奴だよ私は。この身はお母様の想いだから。……それに、知りたかったのは私も同じ。お母様の命令に従ったのは、私の意思」

 遠くを見るような、思い出を眺めるような、言い様のない寂寥。
 もっと問い詰めたかった。しかし何も言えなくなった。
 野茉莉の記憶を消した鬼。こいつは、人に害をなす鬼なのだ。
 だけど、凄く寂しそうに見える。
 だから何も言えない。彼女は下手なことを言えば壊れてしまいそうなくらい儚くて、平吉は口を噤む。


「私は……私達は知りたいの。あの人が何を選ぶのか」


 そうして東菊は酷く悲しそうに微笑む。
 透き通るような声音が雨音に紛れて消えた。












[36388]      『あなたを想う』・2
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/02 14:28

 ざぁ、ざざ。

 雑音が聞こえる。
 雨の音なのだろうか。ざざ、ざざ、と頭の中で何度も何度も反芻している。
 気持ち悪い。時折痛みを伴って、だけどその痛みが過ぎると少しだけスッキリする。
 楽になって、でもなんでか無性に寂しくなって。
 私は布団で横になったまま、すうっと一筋涙を流した。

「野茉莉」

 低い声。寝所に父様がやってきて、寝ている私の頭をくしゃりと撫でた。
 昔から剣を振っているからだろう。ごつごつとした、豆の上に豆を作った無骨で不器用な手だ。父様の手はあったかくて気持ちいい。私は昔からこの手で撫でられるのが好きで、
 ざぁ、ざざ。
 あれ、でも、なんでだろうか。今日は、そんなに気持ちいと思わなかった

「とう、さま……?」
「済まない、少し出てくる。留守は三橋殿に任せてある、何かあれば頼れ」

 不安で胸が締め付ける。不安の意味は分からない。だけど離れて欲しくなくて、必死になって首を横に振った。

「やだ」

 言ってから、ほんの少し後悔した。
 表情こそ変わらないけれど、父様はきっと困っている。
 ざざ、ざざ。
 だけど頭の中で響いている奇妙な音が怖くて、私は情けない声を上げてしまう。

「ひとりはやだよ……」

 福良雀の見せた蜃気楼を思い出す。父様がちゃんと私のことを娘だと思っているのは知っているけど ───ざざ、ざざ─── 父様が私のことをどう思っているのかなんてわからないのだから、どうしても不安になる。

「済まない、直ぐに戻る」

 最後にさらりと髪を梳いて、父様が離れた。
 大きな背中。何度この背中を見送っただろう。
 でも今日だけは縋りつくように手を伸ばす。
 このまま見送ってしまえば、何か大切なものを失くしてしまいそうで。
 なのに、声を掛けることはもうできなくて。

 障子の閉まる音が部屋に響く。

 それと一緒に、何かが閉じたような気がした。




 ◆





 身支度を整え、後ろ髪引かれながらも店を出る。
 腰には夜来と夜刀守兼臣。慣れ親しんだ重みを指で確かめる。一度息を吐き、濡れた空気で肺を満たせば、少しだけ心は落ち着いてくれた。
 とはいえ、不安や焦燥はやはり消えない。
 それを感じ取ったのだろう。兼臣は気遣わしげに声を掛けた。

『旦那様……』

 記憶の消失は時間とともに進行する。その推測は恐らく間違っていない。
 野茉莉の状態は次第に悪くなっている。行き着く先は、甚夜のことを完全に忘れ他人になること。家族ごっこと揶揄してきたのは鈴音だ、それが狙いだろう。

「正直に言えば、心細くはあるな」

 甚夜は素直に心情を吐露した。柄にもない、そう思いながらも弱音を吐いたのは隣に誰もいなかったかもしれない。

 ───人って、しぶといで?

 こういう時、いつも隣で染吾郎が茶化すように笑っていた。
 甚夜が激昂し判断を間違えても、染吾郎は冷静でいてくれた。
 しかし彼はもういない。それが思っていたより心細い。付喪神使いとしての力を別にしても、甚夜は秋津染吾郎という男を頼っていたらしい。
 今更ながらそれを思い知らされ、苦々しく口元が歪む。

「しかし泣き言も言ってられん。時間が無い、急ぐぞ」
『ですが、手がかりもなく動いては』

 兼臣の言葉を遮り、甚夜は呟いた。

「当たりは付いている」
『何か心当たりが?』
「私にはない。だが宇津木には在ったようだ。悪いが、<犬神>に付けさせた。後は追うだけだ」

 冷たく固い鉄の声音は、確信に近い響きを持っている。
 同時に何処か悔いるような重さだった。

「疑ってはいたんだ。癒しの巫女の名は東菊、花の名を持つ鬼女だ。おそらくそいつが野茉莉の記憶を消したのだろう」

 疑いを持ちながら直接会おうとしなかったのは、そもそも甚夜では巫女の所まで辿り着けなかった為。なにより、平吉の判断を信じた為。
 だからこの状況を後悔しない。弱くなった心が引き起こした窮地、大切なものを信じた結果ならば、悔いることはせず結果を受け入れる。

「“喰えばいい”と態々目の前で言った。何かしら行動を見せてくれると思ったぞ」
 
 そして同時に、悪辣とも思わない。
 長い歳月親として在った。
 だから娘を救う為ならば、如何な手段であろうと選び、大切なものでさえ利用する。
 すぅ、と目を細め甚夜は雨の向こうを見た。
 ざぁ、雨の音は不安を掻きたてる。





 ◆





 朽ち果てた本堂で二人は対峙する。
 遠い雨の音。紛れるようで、なのに彼女の声はどこか透き通って聞こえる。
 聞き慣れた無邪気な響きを、空恐ろしいと思ってしまうのは何故だろう。

「東菊……お前なら、野茉莉さんを治せるやろ? 頼む、助けたってくれ」

 声が震える。
 必死に抑え付けた感情はなんだったのだろう。野茉莉へ向けられたものか、それとも東菊へのものだったのか。何一つ分からないままにただ願う。
 本当は知っていた。東菊がマガツメの配下ならば、どれだけ頼み込んでも助けは得られない。十二分に理解しながら懇願する。
 理解はしていても信じたかったからだ。明るく無邪気で、少しばかり食い意地が張った彼女は、敵などではないのだと信じていたかった。

「私の<力>は<東菊>」

 でも、言葉は届かない。

「しばしの憩い、そして短い恋……記憶の消去、及び改変。胸を突く痛みを忘れさせる花」

 黒髪の、美しい鬼女だった。
 もう東菊ではない。初めて会った時の、癒しの巫女でもない。
砕けた言葉遣いの中でも何処か冷たさの残る、鬼としての彼女が其処にいる。

「野茉莉ちゃんの記憶は……夕方頃には、完全に消えるかな? あ、大丈夫だよ、宇津木さんのことは忘れないから」

 冗談めかした物言いにひどく距離を感じる。
 ついこの間のことだ。一緒にあんぱんを食べて、人探しと言いながら通りを練り歩いて、軽い雑談を交わして。
 鬼と人と。けれど、笑い合うことが出来た。
 日常になり過ぎて別段意識はしていなかったが、きっと楽しかったのだ。

「消えるのは甚太のことだけ。普通の生活で困ることもない」

 なのに今は、こんなにも泣きたくなる。
 悔しい。大切な人が、大切な人に苦しめられている。守りたいと思うのに、こいつをどうにかしてやりたいと思うのに。

「貴方が必死になる理由なんてないんだよ?」

 東菊の目は、何も映していない。
 目の前にいる平吉を通り越して、もっと遠く、見果てぬ何処かを眺めている。
 人が知ることの出来る範囲には限りがある。平吉とって東菊は“癒しの巫女”で、気の置けない友人だ。彼女が何者であるかを知らぬ平吉では、その内心を図ることは出来ない。
 それでも希望に縋りただ願う。

「頼む……野茉莉さんを」
「無理だよ」

 けれど噛み合わない。
 東菊は泣き笑うように表情を歪ませた。

「だって私は、ただこの時の為だけに生まれたんだから」

 力強いのではなく、決意にあふれている訳でもない。
 ごく自然に言葉は流れる。空気を吸うのと同じように、夜眠くなるのと同じように、それは当たり前に為されることだと彼女は言う。
 諦観だったのかもしれない。かつての白雪は己を曲げられないが故に巫女として在った。
 しかし東菊は、与えられた役割から食み出ることが出来ない。そもそも彼女はマガツメの暇潰しと単なる嫌がらせの為に生み出された。
 初めから彼女はそういうもの。
 初めから選択肢など与えられていない。
 初めからそれ以外に価値がないと、生まれた時に決められているのだ。

「“しゃれこうべ”……!」

 左腕を突き出し、付喪神を放つ。しゃれこうべ。鉄刀木の腕輪念珠から生み出される骸骨が東菊を取り囲む。
 からから、からから、骨がにじり寄る。
 だというのに抵抗する素振りどころか立つことさえしない。不気味な骸骨には目もくれず、東菊は静かに平吉を見据えている。
 しゃれこうべは今にも襲い掛かろうと構えている。
 それでも東菊に動揺はなく、おそらく平吉の目論見は既に意味がない。そう思いながらも、最後の可能性に縋り、無抵抗なままの少女を睨み付ける。

「最後や、治せ。断ったらどうなるか、わかるやろ」

 必死の形相で絞り出した脅しにもならぬ脅し。肩を震わせ、今にも泣きそうな暗い表情を歪め、決定的な言葉も口には出来ず。脅しとしての役割は殆ど果たせていない。
 平吉の様子に東菊は目を伏せた。そこに隠された感情を伺いすることは叶わない。
しかし続く言葉だけは容易に想像がついた。

「だから、無理だよ」

 抑揚のない否定。
 ぶつりと、何かが千切れるような音を平吉は聞いた。
 ああ、話し合いの余地なんてなかった。
 そして野茉莉は平吉にとって大切な人で。東菊は鬼で。
 鬼と人は相容れない。師匠は違ったが、平吉はずっとそう思っていた。
 ならば、きっとこの結末は必然だったのだろう。
 
「そんなら、俺がお前を……っ!」

 衝動と共に言葉を叩き付ける、筈だった。
 しかし現実は違う。平吉が言い切るよりも早く、冷たく、重く、誰かが呟いた。

「<地縛>」 

 突如として出現した暴れ狂う蛇。違う、鎖だ。じゃらじゃらと冷たい音を響かせて、鎖がしゃれこうべに襲い掛かる。
 風を切り、鞭のように鎖は骸骨どもを薙ぎ払う。鉄と骨、勝敗は考えるまでもない。薄汚れた白色は音を立ててへし折れ、宙を舞う。僅か数瞬で全てのしゃれこうべは砕け散っていた。

「宇津木……それは言うな。お前が野茉莉を想ってくれることは素直に感謝しよう。だが、そこまでしなくていい」

 それを為した人物は、ゆっくりと本堂に姿を現した。
 
「それは私の役目だ」

 六尺近い長身、練磨を重ねた体躯。腰に携えた二振りの刀。
 息も乱さずしゃれこうべを片付けたその男は、真っ直ぐに東菊を見つめている。

「……あんた、なんでここに」

 平吉の問いに甚夜は答えなかった。
 最初から道案内をさせるつもりだとは、これ以上平吉を追い詰めるようなことは言いたくなかった。
 視線は巫女へ固定されている。
 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。白い肌は、線の細さも相まって触れれば壊れる白磁を思わせる。
 緋袴に白の羽織、巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けたその出で立ちは、どこかで見たことがあった。
 あれが、癒しの巫女。
 
「やっぱり、来たね」

 それは、甚夜のよく知る、懐かしい顔だった。

「白、雪……」

 どこか嬉しそうな、なのに寂しそうな、思い出を揺り起こす声だった。
 郷愁に心が震え、込みあがる熱情を必死に抑え、甚夜は無表情を作った。
 “なんで”、と問うことはない。
 動揺を表に出さなかったのは、ある程度予測していたからだろう。マガツメは、鈴音はいつかそういう手で来る。頭の片隅でその可能性を考えていたからこそ、彼女を見ても比較的冷静でいられた。

「成程……奪い去った頭蓋を使ったか」

 あの時、鈴音は引き千切った彼女の生首を持ち帰った。
 だからこれは想像の範囲内で、しかしどろりと憎悪が淀む。
 今も、覚えている。
 巫女として在った。己が幸福を捨て去っても、誰かの為に祈れる。
 自身の想いよりも曲げられない生き方を取る、不器用な女だった。
 そういう彼女だから好きになった。
 刀を取ったのも、強くなろうと決めたのも、生きる意味さえも。
 あの頃、彼女は確かに甚夜の全てだった。

「うん、正解。初めまして、“甚太”」

 そして、全てと信じたかつての想いを穢された。
 己で在ることに拘った彼女が、別の何かに変質させられている。
 あいつは諦めたような、流されるような、そんな笑い方をしない。
 いつだって強がって、それでも誰かのために笑う。
 脳裏には遠い遠い、みなわのひびが映し出されている
 心底愛した人の愛した部分を踏み躙られた気がして、“彼女”と寸分違わぬ容貌をした東菊に冷めた目で吐き捨てた。

「……いや、今のお前は東菊だったか」

 彼女とは違うのだと明確にする為、敢えて強く東菊と呼ぶ。
 あくまでも眼前にいるのは東菊。白雪ではないのだ。そう自身に言い聞かせ、尚も視界に穏やかだった日々がちらつく。
 いつか、全てを失った。
 いつか、小さなものを手に入れた。
 幼かった自分を救ってくれたものが、今は障害として其処に在った。

「甚太のことはちゃんと覚えてるけどね。ううん、知っている、かな? 過ごした日々も交わした約束も……いつか、一緒に見上げた夜空も。私にとっては思い出じゃなくて知識。それでも、大切なことには変わらない」

 だからこそ、東菊は諦観を纏っている。
 東菊として過ごした平吉との日々。白雪として過ごした甚太との日々。 
 そのどちらもを大切に想いながらも、彼女は揺らげない。
 生き方を曲げられないからではない。マガツメの娘として生まれた以上、彼女に母の思惑から外れることは出来ないのだ。
 中核にあるのは東菊の心でも白雪の生き方でもない、切り捨てられた鈴音の想いだからだ

「ならば、お前は……いや、止めよう」

 甚夜は言おうとした言葉を飲み込んだ。
 そもそも何を言おうとしたのか。過去に手を伸ばしたところで得られるものなど何もないと、知っている筈だ。
 ならば言葉に意味はない。白雪は、みなわのひびは既に幕を下ろしている。
 全て今更だ。過ぎ去った日々は思い出になった。目の前にいる彼女も残滓に過ぎない。
 甚夜に、“甚太”として出来ることなどありはしなかった。

「確認しよう。お前が、野茉莉の記憶を弄ったのか」

 下らない感傷は切り捨てて、本来の目的に専心する。
 自分は、野茉莉を救うために此処へ来た。他事に囚われている余裕はない。

「うん。私の<力>は<東菊>……記憶の消去、及び改変が本質。野茉莉ちゃんの記憶は、夕方頃には全部消えるよ。勿論、甚太に関することだけね」

 予想通りだ、動揺する必要もない。

「……ならば、治す気は」
「態々、分かっていることを聞かなくてもいいと思うなぁ」

 惚けたような返しに奥歯を噛み締める。
 これも分かっていた。記憶を消したのが彼女なら、治す気なぞある筈がない。
 つまり甚夜の選ぶ道は、初めから一つしかない。

「ああ、そうか……」

 ようやく分かった、鈴音の……マガツメの意図が。
 重要なのは野茉莉の記憶を奪うことではない。
 この瞬間こそが望み。マガツメは態々お膳立てをしてまで、甚夜に問うているのだ。

「ねぇ、甚太。知ってるよ。貴方の左腕のこと」

 そもそも東菊に直させる意味はない。
 甚夜には鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕がある。
 拒否しようとも、喰らって<力>を奪えばなんの仔細もない。
 喰わなければ助けられない。
 かつて愛した人を、その面影と記憶を持つ彼女を。

「私は……私達は知りたいの。貴方が何を選ぶのか」
「お前、は」

 つまり鈴音は選べと言っている。

「貴方の大切なものって、なに?」

 今か昔か。
 家族か愛しい人か。
 愛情を理由にするのなら、お前が本当に大切だと思うものはなんなのか。
 その為に、何を切り捨てるのか。
 今此処で選べと、鈴音は言っているのだ。








[36388]      『あなたを想う』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/12/19 23:14
 いつか、夢を見ていた。





 私は、叶わなかったあなたとの夢を見る。
 朝のひと時。布団の中で微睡みながら、穏やかな時間を二人で笑う。
 目を開ければふと差し込む陽射しが、まるで子供の悪戯のように私を擽る。

「おはよ、甚太」
「白雪。おはよう」

 私は社から出ることを許されない。それが、いつきひめになるということ。
 だからずっと夢を見ていた。
 夢の中の私は、彼の妻。夫婦となり、契りを結び、いつでも触れ合える距離にいる。
 想い合う人の隣にいる。ただそれだけのことが出来なかったから、そんな夢に浸れることが嬉しくて、私は笑った。

「しかし慣れないな。起きてすぐお前の顔があるというのは」
「なんで? 夫婦なんだから当たり前のことでしょ」
「そうだな。……当たり前のことなのにな」

 空々しい声で二人は呟く。どこまでいっても、これは夢でしかなくて。暖かな夢想にたわむれた後は、戻ってきた現実の寂しさに沈む。
 でも夢の中の貴方は笑う。

「なにかあった?」
「いや。ただ……夢を見ていた」
「夢?」
「ああ、怖い夢だ」

 これは、いつかの景色だ。まだ幼かった頃、まどろみに浸かるような幸福の日々を思い出す。
 お父さんがいて、甚太がいて、すずちゃんがいて。特別なことはないけれど、暖かい毎日を過ごす。
 そんな日が続いてくなんて初めから信じてはいなかったけれど。
 もし何かの間違いがあったなら、例えばこんな風に彼と夫婦になって暮らす未来もあったんじゃないだろうか。
 そう思ってみても、胸を過る空虚は消えない。
 私は私を曲げられず、彼もまた彼を曲げられない。
 なら結局、私達が結ばれることは、在り得なかったんだろう。

「お前が何処かにいってしまう夢だった」
「それが怖い夢なの?」
「私にはそれが一番怖い」

 だから私は夢を見る。
 彼が私の手を握る。握り返せば、その温もりに涙が零れる。
 夢の中ではこうやって触れ合えるのに。

「本当にどうしたの、甚太? 今日は甘えんぼだね」
「そうだな……いや違う。本当は、いつだってお前に触れていたかった」

 本当は私こそがそれを願っていた。
 でも叶わなかった。こんなに好きなのに、私は巫女である自分を捨てられない。
 なんて、無様な女。視界が滲み、目の前が朧に揺らめく。
 気付けば私は涙を零していた。暖かな夢が急速に冷めていく。
 それでも終わりが怖くて、この夢へ縋りつくように、ぎこちない笑みを浮かべる。

「うわぁ、恥ずかしい台詞」
「茶化すな。……だが私は幸せだ。お前が傍にいてくれる」

 頬が染まる。顔が熱い。
 胸は暖かくて、なのに何処か冷え切っていて。

「私も甚太と一緒にいられて幸せだよ」
「そうか。ずっと、こんな日が続けばいいな」

 私は夢に微睡む。
 陽だまりの心地良さ。触れ合える距離。
 ゆっくりと彼の方に手を伸ばして。
 だけど、




「それでも、貴方は止まらないんだよね?」

 いつも私が、夢を終わらせる。





 ずっと夢を見ていた。
 私はいつきひめじゃなくて、彼は巫女守じゃなくて。
 二人は夫婦になって、子供緒を産んで、ゆっくり年老いて。
 そんな在り来たりな幸福を、私は夢見ていた。
 結局、選べはしなかったけれど。


 そして選ばなかったくせに、私は何も為せなかった。
 彼は愚かな誓いを掲げた私を美しいと言った。
 ならばたとえ結ばれることはないとしても、せめて最後まで彼が好きになってくれた私で在りたい
 そうやって意地を張って、巫女で在ろうと決めたのに。 


 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
     私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ


 彼の想いを捨てて、巫女であることに拘って。
 だけど巫女として在ることさえ出来なかった。


 ───ああ。なら、やっぱり俺は巫女守としてお前を守るよ。


 本当に好きで、大切だった。彼がいればそれでよかった。
 なのに私に出来たことは、彼を傷付けるだけで。


 ───貴女なら、まだ我慢できると、思って、なのに……っ!


 私なら彼を幸せにできると、自分の恋心を押し殺しくれた娘がいた。 
 そんな無垢な信頼も、下らない意地で切り捨てた。



 故郷も、家族も、愛した人も、妹みたいな女の子も、巫女としての自分も。
 みんなみんな、大切だった筈なのに。
 何一つ守れなかった。


 それが白雪の後悔。
 何一つ為せず死んでいった巫女の無念は、東菊の胸にもまた刻まれている。
 故に、彼女は語る。

「私は、ただこの時の為だけに生まれてきた」

 マガツメの思惑とは別に、東菊……白雪の想いもまた。
 ただ、この瞬間の為に在った。




 ◆




 
 ────望む望まざるにかかわらず、生涯には選択の時というものがある。




 今も思い出す。
 幼い頃、俺は元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかった。
 それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも俺が負けて、その度に慰めてくれた。
 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日は何して遊ぼうかなんて言いながら無邪気に駆け回る。
 俺達は、確かに本当の家族だった。

 けれど目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。
 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。
 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。
 しかし今も私は幼かった頃を、ぬるま湯に浸かるような幸福を時折、本当に時折だが思い出す。

 そしてほんの少しだけ考えるのだ。

 差し出された二つの手、木刀を持ったままでは片方の手しか握れない。だから何も考えずに彼女の手を取った。選べる手は一つしかなかった。

 だが、もしもあの時逆の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。

 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。
 選んだ道に後悔はあれど、今更生き方を曲げるなぞ認められぬ。
 ならばこそ夢想の答えに意味はなく、仮定は此処で棄却される。
 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残った。



 思えば、幼かった頃。
 白雪と鈴音、どちらの手を取るかという些細な選択こそが、甚夜にとっての転機だったのかもしれない。
 選んだ末路は語るべくもない。
 全てを失った無様な男が、間違った生き方に身を窶しただけの話だ。






「貴方の大切なものって、なに?」






 あれから気が遠くなるくらいの歳月が流れた。
 そして今再び、甚夜は岐路に立たされている。
 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 本当に大切で、心から守りたいと願うものの中から、たった一つを選ばなければならない。
 例え選ぶこと自体が間違いだったとしても。
 それでも、選ばなければならない場面は必ず訪れるのだ。

「すずちゃんへの復讐? それとも、今の暮らし? ……少しくらいは、私と過ごした日々も想ってくれてるのかな」

 甚夜は何も言えなかった。
 既に白雪は死んでいる。目の前にいるのは白雪の記憶を持っているだけの鬼女に過ぎない。
 そんなこと、分かっている。
 しかし理解と納得は違う。
 同じ姿、同じ声。彼女を別人と断じるほどにはまだ割り切れてはいなかった。

「向日葵ちゃんから聞いたんだ。<同化>、高位の鬼を自分の中に取り込んで、<力>を奪う<力>。でも、それには条件がある、だよね」

 降りしきる雨の音が本堂に響いている。
 湿気た空気の中で、だというのに口内が渇く。
 甚夜は動けない。突き付けられた選択肢に軽い眩暈さえ覚える。
 
「“強く意思の残る鬼を取り込むことはできない”。……だから、<力>を奪うためには、まず相手を瀕死の状態まで追い込まないといけない」

 彼女の言っていることは正しい。
<同化>は他の生物を取り込み我が物とする<力>。
 鬼の<力>を喰らうことも出来るが、それを為すには条件がある。

<同化>によって<力>を己が身に取り込む時、肉体だけではなく記憶や意識も同時に取り込んでしまう。
 しかし一つの体に異なる二つの意識は混在できない。
 そんなことをすれば肉体の方が耐えきれず自壊する。
 故に“意識が強く残る者を<同化>で喰らうことは出来ない”。
 それが<同化>の条件。<力>を喰らう為には、まず意識を弱める為に斬り伏せる必要がある。

「つまり私を殺さないと、野茉莉ちゃんは助けられない……これで、貴方が本当に大切だと思うものが分かるね」

 東菊を生かすなら野茉莉を見捨てねばならず。
 野茉莉を助けるには東菊を己が手で、己が意思で斬らねばならない。




 此処に、選択の時は来た。




「貴方は、何を選ぶの?」

 それが、彼女の───彼女達の望み。
 過去を想うのであれば、今なぞ不必要と断じろ。
 今を生かすのであれば、過去の全てを切り捨てて見せろ。
 マガツメは、鬼と人の間で揺れる甚夜に選択を強いている。
 そして東菊はその二択を甚夜に強いる為の駒に過ぎない。
 其処に思い至り、甚夜は苦々しく表情を歪めた。
 鈴音は、そんなことの為に白雪の頭蓋を使った。最後まで巫女として在ろうとした彼女の死を汚した。憎い。何処まで私達を馬鹿にすれば気が済むのかと、湧き上がる憎悪に奥歯を噛み締める
 
「……貴方の声で聞かせてほしいな」

 揺さ振りをかけるような白雪の声。
 甚夜にとっては、それは東菊ではなく、白雪のもの。
 懐かしい、遠い日に心底愛した女の声だ。
 ならば切り捨てるのもまた東菊ではない。
 此処で切り捨てねばならないのは、かつて全てと信じた想いだ。

「白、雪……」

 誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。
 彼女を、斬る? 
 突き付けられた、考えたこともない選択肢に全身が強張る。
 本当に好きだった。
 当たり前のように誰かの幸せを祈れる、そういう彼女に恋をした。
 何十年と経った今でも思い出す、思い出せる。
 彼女と過ごした“みなわのひび”こそが甚夜の原風景だ。
 明治の世となり、刀も復讐も新しい時代に否定された。
 それでも刀を捨てられなかったのは、きっと幼かった白雪の声が耳に残っているから。
 元治との稽古、「甚太、がんばれ」といつも彼女が応援してくれた。
 この身を鬼と変えた憎しみも、彼女を失ったが故に。
 道行きの途中、沢山のものを手放し、沢山のものを拾ってきたけれど。
 失った彼女への想いだけは、落さずちゃんと抱えてきた。 

「お前は、そんなことの為に野茉莉を」
「そう。これが私の生まれた意味だから。なにより、私自身の望みだから」

 なのに何故こうなってしまったのだろう。
 憎しみに身を窶した男が、分不相応にも家族を持ってしまったからか。
 或いは、“逆さの小路”で彼女に手を伸ばさなかったからか。
 それを知ることは叶わない。知った所で意味もない。
 どのみち、やることは変わらない。
 自然、甚夜の左手は夜刀守兼臣に掛けられていた。夜来でなかったのは単なる感傷だ。
 夜来はいつきひめが受け継ぎ守ってきた宝刀、彼女に向けるのは忍びない。
 甚夜の所作を静かに眺めていた東菊は小さく、緩やかに息を吐く。それは何処か、安堵の溜息に似ていた。

「うん、知ってた。本当は、答えなんて聞かなくても」

 そうして彼女は、諦めたように薄く笑った。
 彼女の表情の意味を間違えることはない。
 本当は、迷いなどなかったのかもしれない。迫られた選択は、しかし既に答えが出ている。
 納得はできないとしても、所詮東菊は白雪の記憶を持つだけの偽物に過ぎないのだ。
 であれば自然、甚夜の選ぶ道も限られてくる。それはマガツメも承知の上だろう。
 後は、覚悟のみ。
 より大切なものの為に、大切なものを斬り捨てる覚悟を決めるだけだ。

「だろうな……迷うことでもない」

 踏み出す一歩が、何よりも雄弁な答えだった。
 その力強い足取りに嫌な予感を覚え、蚊帳の外になっていた平吉は甚夜の前に立ちふさがった。

「ま、待ってくれ!」

 決断を感じ取ってしまった。
 平吉のしゃれこうべはあくまで脅し。しかし甚夜は間違いなく東菊を殺す。
 野茉莉を救うという目的は同じであっても、あの男には東菊との交流が無い。だから自分と違いどこまでも無慈悲に冷酷になれてしまう。
 斬り殺し、貪り食う。
 其処に躊躇いなどなく、だとしても認めることなど出来る筈がなかった。 

「あいつは」
「分かっている。マガツメの娘だ」
「そうやけどっ! そうやけど……悪い奴やない! きっと、話せば」

 何とか思い留まらせようと必死に懇願する。
 何を言っても無意味だと知っている。けれど言わずにはいられなかった。
 ここで歩みを止められなければ東菊は死ぬ。東菊が死ななければ野茉莉は救われない。
 それは十二分に理解しているが、東菊もまた大切な友人だ。相反する感情を吐き出すように平吉は呼びかける。
 しかし甚夜は一歩ずつゆっくりと距離を詰めていく。

「心変わりを待つ時間などない。そして、心変わりなど在り得ない。あれが、白雪の頭蓋を取り込んだならば尚更だ」

 何を言っているのか分からない。白雪が誰なのか、平吉は知らないからだ。
 歩みは止まらないと分かっている。甚夜という男を、平吉はよく知っているからだ。
 例え誰が何を言おうと、葛野甚夜は自分を曲げない。野茉莉を救う為ならば如何な手段で在ろうと、例え虐殺を強いられたとしても、この男は間違いなくやる。

「分かってる! そやけど、頼む。あんたや、俺に鬼と人でも仲良うやってけるって教えてくれたんはあんたやろ!?」

 息がかかる距離まで近づき、声を絞り出して叫んでも、平吉には彼を止められない。
 野茉莉と東菊。双方を大切に想い、未だ全てが救われる道を願う彼に止められる訳がない。
 既に甚夜は“選んでいる”のだ。
 だからもう、言葉は無意味だ。

「宇津木。お前が彼女と友誼を結んでいたのは知っている。親友の弟子の言葉に頷いてやりたいとも思う」

 甚夜は、落とすように笑って見せた。
 普段の彼からは考えられないくらい、頼りない笑みだった。

「だが。私は、親なんだ」

 僅かに腰を落し、言葉と同時に平吉の腹へ拳を叩き込む。
 加減はしたが、それでも鬼の一撃。平吉の体はくの字に折れ、短い呻きを上げる。

「なん、でっ」
「悪いな。少し眠っていろ」

 そうすれば、嫌なものを見なくて済む。
 次いで顎を裏拳で打ち抜き、意識を一瞬で刈り取る。倒れ込む前に平吉を抱き留め、本堂の隅へ運び寝かせておく。あんまりな扱いだとは思うが、それでも友人が食われる様を見せつけられるよりはましだろう。

「ひどいことするね」
「そうだな。出来るようになってしまった」

 僅かな苛立ちを含んだ東菊の声。その態度から彼女にとっても平吉は大切なのだと感じ取れる。少しだけ痛んだ胸には気付かないふりをした。

「だが、それはお前もだろう」
「そう、だね。この体はすずちゃんの想いで出来ているから……それに私、すずちゃんに嫌われてるしね」

 だから逆らうことは出来ない。
 いや、そもそも逆らうという表現自体がおかしい。
 嫌でも分かる。東菊は、マガツメの切り捨てた一部分。そして白雪の頭蓋を取り込ませた理由は甚夜を傷つける為、なにより白雪を苦しめる為だ。
 白雪が、野茉莉の記憶を奪う。
 そういう状況を演出したかったのだろう。それによって白雪の記憶を持つ女が苦しむことこそ望み。兄を裏切った売女への、八つ当たりにも似た復讐の念が東菊を産んだ。
 つまり彼女は、生来の性質として甚夜の敵である。
 それを彼女がどう感じているのかは分からないけれど。

「さて」

 平吉の安静を確認し、もう一度東菊に向き直る・
 これでもう邪魔する者はいない。ゆっくりと一歩ずつ甚夜は歩く。板張りの床がぎしりぎしりと音を立て、その度に心がざらついていく。
 二人は次第に近付き、手を伸ばせば触れられる距離となった。
 甘やかな空気はなく、しかしどこか穏やかでもあった。
 目を伏せ、過去と現在に想いを馳せる。
みなわのひびから幾星霜、甚太は甚夜となり、白雪は東菊となった。選択の理由はそれが全て。
 変わらないものなんてないと、遠い昔に誰かが言った。
 だから甚夜は選んだのだ。

「白雪、敢えてそう呼ばせて貰う」

 そうして告解するように言葉を紡ぐ。
 
「あの頃と同じようにとは言えない。だが私は今もお前を想っている。遠い夜空の下、伝えた言葉に嘘はなかった」

 結局、守れはしなかったけれど。
 例え結ばれることはなくとも、貴女の尊い在り方を守りたかった。
 美しいと信じた生き方を、出来れば近くで眺めていたかった。
 
「そっか」

 小さく、しかし満足げに東菊は頷いてくれる。
 ああ、目の前に彼女が居る。本当に好きだった。ずっと一緒にいたかった。
 偽者と分かっている。白雪とは別人なのだと、言われなくても十分に理解している。
 なのに、手を伸ばせば届いてしまいそうな幸福に、心が締め付けられる。
 甚夜は不意に夢想する。
 もしも、彼女の手を取って逃げられれば。 
 誰も知らないところで、夫婦ととなり。穏やかに年老いていければどれだけ幸せだろうか。

「だが、私はあの娘に救われた。見捨てることは出来ない」

 けれど叶わぬ夢だ。
“みなわのひび”から長い長い歳月が流れた。
 貴女を失って、憎しみに身を任せて生きてきた。それはきっと間違った生き方で、けれどその途中、沢山のものを拾ってきた。
 だから彼女の手は取れない。

「やっぱり、私よりも大切?」
「順位など付けられる訳がない。あの雨の夜、お前が私を救ってくれたのだから」

 本当に、好きで。誰よりも、大切で。
 叶うならばいつまでも傍にいたかった。
 それでも───

「それでも、野茉莉ちゃんを選ぶんだ?」

 責めるでもない、ただ事実を確認するような軽い問いかけ。

「ああ」

 言い淀むような真似はしない。
 力強く、はっきりと甚夜は言い切って見せた。

「お前を失ってから、憎悪に塗れて生きてきた。その道行きは、間違いだったと理解している。けれど、手に入れたものだってあった」

 自分を殺す男の前で、東菊は無防備に微笑む。
 それは先程の諦観に似たものではなく、安らかなのに強い、遠い過去を思い起こさせる笑みだった。

「己が在り方を濁らせる余分だが、無駄ではないと思っている。だから、お前の手は取れない。私には、今まで積み重ねてきた己を曲げられない」
「うん、知ってた。甚太は、最後の最後には、自分の想いよりも自分の生き方をとる。そう人じゃなきゃ私は……白雪は、好きにならなかったよ」

 そして、それ以上に。
 甚夜は白雪を傷付けることになると理解しながらも、最後の言葉を口にする。

「なにより、私は親だ。何を選ぶかというのなら、あの娘の親になると決めた時点で、とうに選んでいた」

 夜刀守兼臣を抜刀し、上段に構える。
 万の言葉で飾り立てても、結局はそういうこと。
 愛娘を見捨てる選択肢など在り得ない。
 だから、この結末は最初から決まっていた。 

「……そっか。もう貴方は、甚太じゃないんだね」

 何気なく零れた声は寂寥に満ちていて、思わず切っ先が揺れる。
 迷いはある。それだけ白雪のことを愛していた。
 しかしここで終わりだ。
 
 白刃が軌跡を描く。

 視認さえ許さぬ速度で振り下された一刀は、少女の細い体躯を袈裟掛けに切り裂く。
『もう、仕方無いなぁ甚太は』やめろ。
『お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから』思い出すな。
『私達、これから家族になるんだから』既に資格はない。
『貴方を好きな私が、最後まで貴方を好きでいられるように』もう、想うことさえ許されない。
 鮮やかに舞う鮮血。鉄臭い香り。手に残る骨を斬る感触。殺しなど慣れた筈なのに、吐き気を覚える。

「あぁ……」

 東菊の瞳は何も映していない。四肢は力を失い、そのまま崩れ落ちようとしている。
それを阻止するように、甚夜は左腕で東菊の首をへし折らんとばかりに掴んだ。

「終わりだ。お前の<力>……私が喰らおう」

 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 ならばせめて後悔はしないように、責任の所在を他に預けることだけはしない。
 野茉莉を救う為ではない。
 全ては己の意思であり、彼女を斬ったのはこの手だ。
 そしてこれから起こることも全ては自らの選択。
 甚夜が左腕に力を込めた瞬間、弾けるように筋肉が膨張し、人のものとはかけ離れた赤黒い異形の腕へと変化する。
 どくんと心臓のように脈をうち、それに反応し東菊の顔が苦悶に歪んだ。
<同化>。鬼を喰らい、その<力>を我がものとする<力>。
 本来ならば喰らう相手の記憶を垣間見るのだが、地縛の時は何も見えなかった。
 しかし東菊は違った。同じマガツメの娘であっても、僅かながらに流れ込んでくるものを感じる。

「あ、ぅ」

 それは次第に量を増し、水滴が流水に、川のように流れ、氾濫し、決壊する。
 初めて経験する圧倒的な“なにか”。それに巻き込まれ、甚夜は意識を失った。

「よかった……これで、“私の願い”が叶う」

 けれど、恐怖はない。
 暖かく柔らかな、懐かしい肌触りがした。










 ◆ 







 夢を、見ている。

 頬を撫ぜる風が、流れゆく川に細波を作る。
 星の天蓋、木々のざわめき。小高い丘から見下ろす戻川は、記憶と違わぬ清澄な音色を奏でている。

「ここは……」

 意識を取り戻した時、甚夜は廃寺の本堂ではなく懐かしい丘の上だった。
 幼い頃に白雪と約束を交わし、大きくなって約束を破った思い出の場所だ。
 何故、とは思わなかった。辺りの空気は、逆さの小路で黒い影に取り込まれた時とよく似ている。つまり此処は現実ではなく、想いによって形作られた幻影にすぎない。
 そして甚夜が既に未練を振り払ってしまった以上。
 この景色を造り上げたのは、


「懐かしいなぁ」


 彼女しか、いないのだ。

「東菊……」

 気付けば隣にいた彼女は、星が敷き詰められた夜空を眺めている。
 その横顔が懐かしく見えて、甚夜は目を細めた。
 穏やかな表情に、直感的に理解する。
 以前の土浦を喰らった時も、彼が最後に臨んだ景色を垣間見たことがあった。
 つまりこれは東菊が見た末期の夢。喰らわれ、完全に同化する直前、彼女のむき出しの想いが作った世界だ。

「違うよ、東菊じゃない」

 彼女は静かに首を振った。その所作は記憶にある白雪そのものでほんの少しだけ戸惑う。
 表情に出さなかったが、それでも東菊……白雪には分かったらしく、まるで出来の悪い弟を嗜めるように苦笑した。

「だって、もう鬼としての私の体はないから。それにいつきひめでもない。体も役目もなくなって、残ってるのは私の想いだけ。東菊でも白夜でもない。……今の私が、本当の白雪」

 とん、と軽やかに一歩を進み、くるり舞うように振り返る。向かい合う形になった二人。星降る夜を背景にした白雪の笑みは透明で、澄みきった湖面を思わせるくらい美しく、同時にひどく儚く見える。
 当然だろう。これは末期の夢。こうして笑う彼女は、彼女自身の最後の未練に過ぎない。
 それでも甚夜の前に姿を現したのは、きっと伝えたいことがあったから。
 だから甚夜は何も言わず耳を傾けた。彼女が遺そうとしているものだ、受けてやらなければならない。

「私は……私達は知りたかった」

 彼女が白雪だというのなら、甚夜の内心を推し量れない訳がない。心遣いを正確に読み取り、感謝を示すように頷く。

「過去と今を並べた時、貴方がどちらを選ぶのか。それを知ることがすずちゃんの願いで、東菊の役割。東菊はその為に生まれ、目的を果たした」

 結果として甚夜は今を、野茉莉を選んだ。
 選択に後悔はない、とは言い切れない。しかし納得はしている。
 自ら選んだ道だ、ならば謝ることもすまい。ただ静かに言葉を待つ。

「願いも役割も消え去って、最後に残ったのは私の未練。ここにいるのは貴方に会いたいと願う、白雪の心」

 マガツメの願いは知ることで、東菊の役割はそれを助けること。
 しかし“白雪”は違うと。彼女は、ただ甚夜に会いたかったのだと、昔と変わらぬ柔らかさで語り掛ける。
 不意に、風が強く吹き抜けた。
 いつかのように、空へ溶けゆく少女。
 だけど心は近くにあると感じられる。彼女は儚くて、胸には寂しさがあって、なのにこんなにも暖かい。

「神様って、ちゃんといるんだね。きっとマヒルさまが私達に少しだけ時間をくれたんだよ。二人とも葛野のために頑張ったから、その御褒美に」
「違う」

 会いたいと言ってくれた白雪に心を解きほぐされ、ようやっと甚夜は声を出した。
口にしたのは静かではあるが、頑とした否定だった。

「葛野の為ではない。お前だ。お前がいつきひめに為ろうと決めたから、剣を取ったんだ」
「ふふ、そっか」

 頬を緩める白雪はまるで子供みたいに無邪気で、だから甚夜は俯いた。
 この笑顔を消してしまったのは自分なのだと思い知らされる。それが辛くて、もはや意味がないと知りながらも問うてしまう。

「なあ、聞かせてくれ白雪」

 情けないとは思うが止められない。ずっと白雪に。違う、誰かに聞きたかった。
 祈るように、縋るように声を絞り出す。

「私は何を間違えたのだろうか」

 涙は流れなかった。ただ自嘲するように笑った。
 笑おうとした。実際には引き攣ったように口の端が動いただけだった。 

「……“俺”は。どんな答えを選んだなら、お前の傍にいれた?」

 生涯において必ず訪れる選択の時。
 思えば、間違いばかりを選んできた気がする。
 例えば幼い頃。白雪と鈴音、どちらの手を握ればよかったのか。
 例えばいつきひめになると彼女が言った時。 
 例えば清正との婚約を聞かされた時。
 ……例えば、野茉莉と白雪。本当は、どちらを選ぶのが正しかったのか。
 人は自分の見える範囲しか見えない。選ばなかった選択肢の先が何処に繋がっているのかなど知りようもないが、自分が間違えたのだということだけは分かる。
 もし正しい道を選んでいたのなら、今も彼女の傍にいられた筈だ。

「分からない」

 白雪は首を横に振り、困ったように小首を傾げた。

「だって、私の方こそずっと間違えてきたから。もし正しい答えを選べてたら、きっと今頃、縁側で甚太と一緒にお茶を飲んでたと思う。ほんとなら私達、おじいちゃんおばあちゃんだもんね」

 けれど、いつか語った未来は叶うことなく消えていった。 
 違う、消えたのではない。自ら手放したのだ。もっと上手くやれていれば、そういう未来だってあった筈なのに。

「ああ……お前と、ゆっくりと年老いていけたなら、どれだけ幸せだったろう。俺だってそれを望んでいた」

 しかし想う資格は白雪と共に斬り捨ててしまった。
 何を間違えたのかは、どれだけ考えても分からない。
 或いは、遠い雨の夜。元治に手を引かれ、彼女の前に立ったその時こそが────
 
「でもね、幸せだった」

 ───けれど、白雪は柔らかく微笑む。

 甚夜は呆けたように白雪を見ることしか出来ない。
 淑やかな、けれど満ち足りた表情に澄み切った水面のような心が滲んでいる。嘘や誤魔化しではない。口にした言葉は紛れもない真実だと、彼女の静かな笑みが語っていた。

「そんな顔しないで。二人とも、大事なところで間違えちゃったかもしれないけど。私は貴方に会えてよかったって思う」
「だが、私はお前に何もしてやれなかった……」

 お前のことも、交わした約束も、己の在り方さえ。
 何一つ守れなかった。そんな無様な男が一体何を為せたというのか。
   
「もう仕方ないなぁ甚太は。お姉ちゃんがいなきゃ何にも出来ないんだから」

 苦悩に沈む心に届く、驚くほどに甘い、穏やかな彼女の声。
 ふわりと、言葉よりなお甘い彼女の香りが鼻腔を擽る。白雪はそっと手を伸ばし、しなやかな白い指で甚夜の頬に触れた。その仕種はまるで赤子をあやすように優しかった。
 ああ、懐かしい。彼女はいつもそうやって、お姉さんぶっていた。
 今も思い出す、しかしもう届かない、遠い過去の日常が此処に在る。

「お父さんが貴方を連れて来て、家族になってくれて。毎日毎日楽しかった」

 そんなの、こっちだって同じだ。
 あの雨の夜、白雪と鈴音、二人の笑顔に救われた。
 
「いつきひめになるって、私の馬鹿な意地を貴方だけが認めてくれた」

 それをこそ美しいと思った。
 その在り方を尊いと信じ、だから守りたいと願った。

「約束を破ったのに、それでも守るって言ってくれた」

 でも守れなかった。
 なによりも、大切だったのに。

「私は沢山の物を貰ったよ。今感じている暖かさも、愛しさに速まる鼓動の心地良さも、傍にいられない寂しさも。全部貴方が教えてくれたの」

 だけど白雪はあの頃のように笑ってくれる。

「だから、何もできなかったなんて言わないで。貴方の傍で生きて、貴方の腕の中で死ねた。それで充分。私は、これ以上ないくらいに幸せだった。それは、貴方にだって否定させない」

 それでも甚夜は思う。
 私には、そんなことを言って貰う資格はない。
 誰が何を言おうと、結局私は白雪を選べなかったのだ。
 かつては自分の生き方と白雪を天秤にかけて、生き方を選んだ。
 今は野茉莉と白雪を天秤にかけて、野茉莉を選んだ。
 愛していると言いながら、ずっと蔑ろにしてきた。
 なのに、彼女は何故そうやって笑えるのだろう。

「貴方はどうだった? 一緒にいて、私と同じ気持ちを少しは感じてくれてたのかな」
「そんなもの……俺も、同じだ。幸せだった。お前の傍にいられれば、それだけでよかったんだ」
「そっか。でも、それならちゃんと言ってくれればよかったのに」
「言えるわけがないだろう」

 そういう道を選んでしまったのだ。
 彼女はいつきひめ、甚夜は巫女守で在ろうとした。
 互いが互いの在り方を尊いと感じ、不器用でもそれを最後まで守ろうと誓った。
 口にしてしまえば、二人が美しいと信じたものを汚してしまいそうで、何も言えなかった。

「……うん。お互い、そういう生き方しか出来なかった」

 それは彼女も同じで。
 そんな二人だから想い合えて、そんな二人だから共にはいられなかった。

「私達、ずっと一緒にいたのに、素直に話せなかったね。いつきひめとか巫女守とかいろんなものに振り回されて。きっとそんなだから、最後の最後も何一つ言えないままだった」

 嬉しさと寂しさを同時に瞳へ浮かべ、白雪はいつかのように空を見上げる。
 そしてもう一度、甚夜と視線を合わせ、肩を竦めて見せた。

「ちゃんと、お別れできなかったでしょ? きっと私の一番の間違いはそれ。もしもしっかりとお別れを伝えられたら、甚太がこんなに傷付くことはなかったと思う」

 もしかしたら彼女はこの為に在ったのかもしれない。
 マガツメに従い、東菊として役割を果たしたのも全てはこの瞬間の為。
 今と過去、甚夜がどちらを選ぶか図るのがマガツメの望み。
 その為の場を作り出すのが東菊の役割。
 
「それが幸せだった私の、最後の未練」

 そして、それに甘んじてでも。
 例え甚夜に殺され喰われてでも白雪は“白雪として”在りたかった。
 伝えられなかった言葉を、此処で言うために。
 彼女はもう一度生まれてきたのだ。

「随分遠回りだったけど、これでようやく甚太に向き合える。今なら、伝えられなかった私の心も伝えられる」

 水のような、空のような、青く透明な声音。
 愁いのない、混じり気のない、真っ直ぐな心が真っ直ぐに届く。

「甚太、受け取ってくれる? いつきひめでも鬼でもなく。白夜でも東菊でもなくなった、何者でもない“ただの白雪”の想い」

 そうして、白雪は笑う。
 いつかのように、ではなく。彼女が歩いてきた長い長い歳月、その全ては今この瞬間の為に在ったのだと語るように。

「いつか、言えなかったお別れを」

 その言葉に心が震え、ほんの少しだけ寂しくもなる 
 別れを告げようとする白雪。戸惑いながらも動揺を露わにしなかったのは、自身の未練を自覚していたからだろう。
 白雪に未練があったように、甚夜にも未練があった。“逆さの小路”でそれを思い知らされた。
 生き方を曲げられぬが故に選べなかった幸福な未来は、今も胸に突き刺さったままで、時折ちくりと痛む。

「……ああ、そうか」

 だけどそれでよかった。
 痛みを感じていられる間は、彼女が傍にいてくれると錯覚できたから。
 安易な悲劇の主人公を気取って、憎しみだの悲しみだのを持ち出して、彼女の死を引きずり傷付くことで自分を保っていた。
 結局のところ甚夜は、彼女を失ったことから立ち直れていなかったのだ。
 失われたものは失われたもの。過去に手を伸ばしたとて成せることなど何もない。そう嘯きながら、未練を捨てられなかった。
 それはきっと明確な別れが無かったら。彼女の死が中途半端なままだったから。
 消えた筈の“みなわのひび”に、甚夜の心はずっと揺蕩っていた。

「ようやく分かったよ。別れを言えなかったのがお前の間違いだと言うのなら、私の間違いはお前に拘り続けたこと。私はまず初めに、お前の死を認めねばならなかった」
「……うん、そうだね。だから、ここではっきりと別れよ? 私達の日々をちゃんと終わらせなきゃ。貴方は、これからを生きていくんだから」

 だけど本当は、何処かでけじめをつけなければならない。
 過ぎ去った日々はいつも眩しくて、時々その光に目を焼かれて明日が見えなくなるけれど。
 そこで足を止めてしまったら大切だと思う心もいつかは輝きを失くし、醜い執着へとなり果ててしまう。
 甚夜は心の何処かで気付いていながら、終わらせようとしなかった。いつまでも彼女を想っていたかったからだ。
 それは間違いだった。
 もう、白雪はいない。
 彼女の死を悼み、寂しいと感じ、時折後ろを振り返り思い出を眺めるのも悪くない。
 だとしても、固執し続けてはいけなかった。
 みなわのひびは既に弾けて消えた。ならば彼女のことも、過去は過去として、思い出は思い出として終わらせなければならなかったのだ。

「まったく、これではお前のいう通りだ」
「え?」
「“お姉ちゃんがいないと何もできない”。まさか、こんな歳になってまでお前の世話になるとは思っていなかった」
「ふふ、なにそれ」

 心の陰りが晴れるのが分かる。
 名残を惜しむようにくだらない遣り取りを交わし、いつまでもこのままではいられないと甚夜は真っ直ぐに前を見た。
 其処にいるのは白雪だ。
 白夜でも東菊でもない、ただの白雪だった。
 
「……ごめんね、結局あなたを傷付けちゃって。でも、会えてよかった」
「私もだ」
「そう言ってくれてよかった。じゃあ、そろそろ」
 
 彼女が切り出した言葉に理解する。
 これで、かつて胸を焦がした恋が終わると。
 遠い日に、心から愛した彼女はいつかの思い出に変わる。
 歳月が流れれば彼女の声も、触れた温もりも、胸を震わせた熱情すらも薄れて。
 積み重ねる日常の中、大切な人も守るべきものも増えて、思い出を取り出すことは少なくなり、全てと信じた想いもいつかは忘れ去ってしまうのだろう。

「ああ、此処でしっかりと別れよう」

 しかしそれでいいのだと今なら思える。
 人は夢の中では生きられないし記憶はどうしようもなく薄れるものだ。
 それでも目を瞑れば今も瞼に映る“みなわのひび”。
 あの頃の想いを忘れてしまっても、残るものだってきっとある。
 君は此処にいないけど、貴女から貰った沢山のものは息づいている。
 触れた肌の温もりは遠くても、暖かな想いが胸に満ちている。
 結局、傍にはいられなかったけれど。


 ────彼女は、彼女の心は確かに私を支えて来てくれた。


 そう信じることが出来たなら、胸を抉った悲しみさえ、いつかは笑い話に変わる。
 言わなければならなかった別れを、間違いではなかったと誇れる日だって来るだろう。
 だから別れを受け入れよう。
 彼女は、その為にこんな奇跡を起こしてくれたのだから。

「それじゃね、甚太。私はここで終わり。そろそろ顔も見飽きたし、こっちにはしばらく来なくていいからね」

 すっと片手を挙げて、ふるふると手を振って、あまりにも軽すぎる別れの挨拶。

「おい、散々引っ張っておいてそれか」
「えー、だって。あんまり重くても嫌でしょ?」
「相応の重さは欲しかったが」
「我儘だなぁ」

 二人して笑う。じゃれ合う様な別れ。まるで何かに耐えるようで。

「あ、それと、いつまでも私に拘ってちゃ駄目だよ。こっちに来るのは、お嫁さんでも貰って、子共も作ってからね。奥さんといちゃいちゃして幸せに緩みきった甚太の顔、笑ってあげる」
「そうだな。すこぶる付きの美女を嫁にして、お前を悔しがらせるのも悪くない。ただ、子共は野茉莉がいるからな」
「うわー、既に意外と親馬鹿だった。まぁ、甚太じゃそんな美人捕まえられないと思うけど」
「なにを。これでも、嫁を名乗る女の一人くらいは」
「はいはい」

 言葉はなるたけ軽く。
 この先も道は続いて行くから、重荷にはならないように。

「ちゃんとご飯は食べなきゃだめだよ? 昔みたいに若くないんだから、無茶もしないように。お姉ちゃんは心配です」
「これでも料理の腕はそこそこだ。お前より上だと思うぞ。無茶は、まあ、善処しよう」
「貴方の善処はまったく信用できないんだけど」
「それを言われるとつらいな」

 二人の距離は僅かな未練さえ感じさせず自然に離れる。
 ぬくもりは遠くなって、けれど胸には暖かいものが灯る。

「しかし、なんともしまらない別れだな」
「ふふ、ほんと。でも、そんなものだよ、きっと」

 彼女はくるりと舞うように背を向けて首だけで振り返った。

「あとは、最後に一つ」

 そうして懐かしむように、慈しむように。
 白雪は真っ直ぐに目を見て微笑んでくれた。

「どうした」

 此処に白雪の、最後の未練が形になる。
 巫女として生き、巫女として死ねなかった少女。
 死して尚骸を弄ばれ、
 鬼女として望まぬ復活を果たし。
 愛しい人を傷つける為だけに在った。
 彼女は生前も死後も、何一つ為せなかった。
 
 それでも彼女は選んだ。
 望む望まざるにかかわらず訪れる選択の時。
 苦しくても、愛した人を傷つけても、この場所に至る道を選び。
 何一つ為せず、何もかもを失い。
 けれど最後には本当に大切な想いが、ほんの小さな奇跡だけが残った。
 犯した過ちは全てはこの瞬間のため。
 そう、全てはこの一言のために在ったのだ。





「さようなら甚太。本当に、大好きだった─────」





 そこで終わり。
 意識が白に溶け込む。零れ落ちそうな光の中で、目の前が霞んでいく。

 或いは選んだ道が違ったのなら。
 この夢のように、夫婦となって二人幸せに過ごす未来もあったのかもしれない。
 でもそんな幸福は選べなくて。小さな願いが叶うことはなく。
 ぱちんと、水泡(みなわ)の日々は弾けて消えた。

 けれど想いは巡り、いつか私の心はあなたへと還る。
 だから寂しいとは思わない。
 
 そうしてまた眠りにつく。
 木漏れ日に揺れながら。 
 私は、あなたの、夢を見る。


 気か遠くなるくらいの歳月を巡り。
 ようやく白雪の想いは、帰りたいと願う場所に還った。


 最後に────

「ああ、さよなら白雪。俺も、お前が好きだった」

 伝わらなかった筈の想いを、遠い夜空へと響かせて。








 こうして夢は、ようやく終わりを告げた。












 ◆












 不意に訪れた目覚め。
 夢の名残を纏いながら、ゆっくりと意識が覚醒していく。
 東菊を食らい、白雪の想いに触れた。
 マガツメの娘となりながら、想いを伝えるために最後まで足掻いた少女。
 本当に好きだった。彼女を忘れることは、これから先もおそらくない。
 それでもけじめはつけられたと思う。彼女の想いを知り、あの時言えなかった別れを告げることが出来た。
 それで十分に心は満たされた。
 しかし甚夜の表情に安らかさはなく、ひどく険しかった。

「<東菊>」

 ぽつりと、重く固い声で呟く。
 甚夜を、白雪を苦しめる為に生まれた鬼。
 その意味を、もう少し考えるべきだった。

「記憶の消去。消去する事柄、人物を指定することで接触した対象一人の記憶を消去する」

 マガツメの目的は、甚夜が“過去と今のどちらを選ぶか”を知ること。
 ただ、知りたかっただけ。知ることが出来ればそれでいい。
 だから、選んだあとはどうでもよかったのだ。

「記憶の改変、時間経過に寄る記憶崩壊は劣化により使用不可」

 望む望まざるにかかわらず、生涯には選択の時というものがある。
 本当に大切で、心から守りたいと願うものの中から、たった一つを選ばなければならない。
 誰しもに、そういう場面は必ず訪れる。

「そして一度消えた記憶を復活させる、或いは記憶崩壊を止める手段は……」

 しかし勘違いしてはいけない。
 選択肢が提示されるとして、その中に正解があるとは限らない。
 だから、この結末はある意味で当然だった。



「………………存在しない」




 希望は、此処に潰えた。







[36388]      『あなたを想う』・4
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/04/21 13:57
 雨が強くなった。
 本堂に漂っていた血の匂いは雨の香りに流され、今はその名残さえ感じさせない。
 時刻は八つ時に差し掛かる辺り。時間はまだある。ただ、手立てはない。東菊を殺し喰らったというのに、解決策を得ることは叶わなかった。
 計り知れないほどの失望と焦燥を覚え、しかし立ち止まっている時間はない。寝転がっている平吉を抱え上げ、廃寺を後にした甚夜は鬼そばへと戻った。
 どうすればいいのかは分からないが、立ち止まってはいられなかった。

「か、葛野さんっ!」

 店に入った途端、留守番をしていてくれた豊重が慌てた様子で声を上げた。
 
「三橋殿。すまないが、まずは下ろさせてくれ」
「お、おお」

 平吉はまだ意識を失っていたため、横たわっていた彼を両腕で持ち上げ抱き抱えてきた。所謂横抱きである。女性に対してなら兎も角、男同士ではひどく違和があったらしく、店内にいた豊重は奇異なものを見るような目をしていた。
 取り敢えずは店の奥、自身の寝室に寝かせる。布団は引いておらず畳で雑魚寝させる形になってしまったが仕方ない。なるべくゆっくりと平吉の体を畳の上に下す。もう一度豊重と向かい合えば、思い出したように彼も合われて口を開いた。

「って、大変なんだ! 少し目を離した隙に野茉莉ちゃんが!」

 瞬間、背筋が粟立った。冷たい何かが全身を一気に駆け抜ける。
 そして気付けば言葉を最後まで聞くことなく走り出し、乱暴に野茉莉の寝室の障子を乱暴に開いていた。
 
「野茉莉っ!」

 ばんっ、と大きな音が響いた。
 しかし寝室からは何の反応もない。というよりも、そこにあるのは乱雑に放置された布団だけだった。
 野茉莉は、何処にもいなかった。

「すまねぇ。留守を任されてたのに」

 寝間着が脱ぎ散らかされている。いつもつけているリボンも見当たらない。
 ちゃんと着替えている辺り、攫われたという訳ではあるまい。おそらくは隙を見て抜け出したのだろう。

「すまねぇ、すまねぇ……」

 豊重はくしゃくしゃに顔を歪めている。
 留守を任された。なのに、野茉莉はいなくなった。原因は自分の迂闊さだと、豊重は慙愧の念にこうべを垂れていた。

「気にするな。野茉莉を探してる」

 それを受けた甚夜は、ひどく冷静だった。
 愛娘がいなくなった。もっと動揺してもおかしくはないし、原因となった豊重に恨み言の一つや二つあってしかるべきだ。だと言うのに心は落ち着いている。そのことに違和感さえ覚えなかった。
 意外さに目を見開き、豊重は甚夜を見た。すると何故か、甚夜は落とすような、疲れたような笑みを浮かべている。

「何故かな。ひどく落ち着いているんだ」

 零れたのは、悲しげな、寂しげな頼りない声。
 普段の鉄の固さは感じられない。それくらいに弱々しかった。

「葛野さん……?」
「自分でも意外だ。いや、或いは。こうなると心の何処かで思っていたのかもしれない」

 部屋は荒らされておらず、着替えもきちんと済ませている所を見るに自らの意思で外へ出たのは間違いない。
 しかし布団はそのまま、寝間着も脱ぎ散らかしている。普段なら片付けているが、今は出来ていない。その余裕がないからだ。
 外に出たのも精神的に追い詰められたが故の、衝動的な行動なのだろう。
 同時に、そこまであの娘が追い詰められているというのなら。 
おそらくもう殆ど記憶は残っていない。


 ───既に手遅れということだ。


 もはや野茉莉を救う手立てなど在りはしない。
 東菊を喰ったことで、これから先どうなるかも知った。
 記憶が完全に消去された後、野茉莉の記憶は改変されるよう設定してある。父がいない、甚夜の記憶も覚えていない、それを矛盾なく受け入れられるように。
 そうなってしまえば、野茉莉にとって甚夜は完全な異物となる。
 記憶を失くした娘ともう一度やり直すことも出来ない。
改変された記憶だけを消すような細かな能力の運用も不可能。
 完全に詰みだ。どうにもならないのだと、理解してしまった。

「……三橋殿、もう一度頼む。“野茉莉ことは任せる”。借りは、それで帳消しだ」

 豊重の答えは聞かない。
 一方的に言葉を投げつけ、背を向ける。
 会話はこれまで。野茉莉を救う手立てはないが、まだ自分には最後の役目が残っている。きっと、あの娘は雨の中で独り怯えている。
 だから、早く会いに行かないと。
 そうして傘も差さず、甚夜は雨の京へと消えていった。





 

 甚夜は酷く冷静だった。
 自分でも意外に思う反面、そういうものかと納得もする。
 結局は、こうなると心の何処かで思っていたのだろう。
 遠い昔、誰かが言っていた。
 変わらないものなんてない。
 だから、本当は知っていたのだ。




 ────いつか、幸福の日々は終わると。







 ◆



 それは何でもない日のことだった。
 蕎麦屋、喜兵衛。昼食時。

『頂きます』
『いただきまーす』
 
 父様と、並んでおそばを食べる。
 にこにこ笑っている、蕎麦屋のおじさん。

『おう、嬢ちゃん。うまいか?』
『んーと、ふつう』
『うん、この子、間違いなく旦那の娘ですね』
 
 なんかひどいこと言われた気がする。でも父様の娘だと言って貰えたからちょっと嬉しい。
 笑顔で蕎麦を食べるけど、橋がうまく使えなくて口元についてしまう。

『ほら、野茉莉。口元』

 自分で拭わないのは父様がやってくれるって知ってるから。
 嬉しくて笑う。
 私は、小さな頃から父様が、大好きで。





 ざ、ざざ。





 消える。
 




 ざ、ざざ。
 頭の中の雑音に、心が撹拌される。
 断続的な痛みが過ぎる度、何かがなくなっていく。
 それが怖くて、私は部屋を抜け出していた。
 もう沢山のものを失くしてしまった。何を失くしたのかさえ思い出せない。
 でも、大切なものだった。大切なもののはずなのだ。
 だから私は雨の町を、ふらふらと覚束ない足取りで進む。
 大切なものを拾い集めるように。失くしてしまわないように。忘れないように。
 零れ落ちていく何かを、少しでもつなぎとめられるような気がして、縋るような想いで歩いて行く。
 そうして辿り着いたのは、呉服屋。
 ああ、懐かしい。
 思い出せなかった筈の記憶が蘇る。




『あのね……リボンが欲しいの。父様に、買ってほしいなって』

 今髪を縛っているリボンは、父様が勝ってくれたもの。
 我儘なんて、殆ど言ったことないけど、これだけは聞いてほしかった。

『どれがいい』
『父様に選んでもらいたいの。駄目?』

 楽しかった。店員さんに恋人と勘違いされたのは恥ずかしかったけど、親娘としての買い物ができた。それが嬉しくて……。
 


 ざざ、ざ。



 けど消える。

「あ、あぁ」

 懐かしい。
 懐かしいと思うのに、なぜ懐かしいと思うのかが分からない。昔、この呉服屋で大切なことがあった。
 忘れてはいけないかったのに。
 思い出せない。

「いやぁ……」

 濡れが頬は雨か、それとも別の何かのせいだった。
 私は逃げるように呉服屋を後にした。
 雨の中でも人通りのある三条通。傘もさしていない私を皆奇異の目で見るけど、そんなものに構っている余裕はない。
 脳裏に映るのは、やはり懐かしい景色。
 この道を、父様と一緒に何度も歩いた。




『そうだ、明日も一緒に散歩にいこ? 刀を差さなくてもいいなら手が空くでしょ。一緒に手を繋いで歩けるね!』




 確か随分前。廃刀令が決まって、刀を差せなくなった頃の話だ。
 父様は刀を捨てた。違う、捨てた訳じゃない。でも外で刀を差すのは止めた。
 それが寂しそうに見えて、私はそう言った。
 言葉通り手を繋いで、二人でこの道を歩いて。



 ざ、ざざ。



 消える。
 ようやく私は理解する。
 失われていく何かは、記憶だ。父様との思い出が、消えていっている。
 きっと私は色々なものを忘れている。なのに、忘れたことにさえ気付いていないのだろう。
 
「いや、だよ」

 それが怖い。
 まるで自分が自分じゃなくなるような錯覚。違う、錯覚じゃない。
 父様と過ごした日々が今の私を形作った。なら、記憶を失うことは私が私でなくなるの同じ。
 そして、消えてしまえば。
 私を愛し大切に育ててくれた人を、大切に想えなくなってしまう。
 所詮は拾われた子供だ。
 明確な繋がりなどある筈もない。
 ただ積み重ねてきた思い出が、過ごしてきた時間が二人を家族にしてくれた。 
 だから記憶を失くしてしまえば、もう家族ではいられない。
 いつか恐れていた時が、目の前に差し迫っている。
 私が全てを忘れた時、二人は他人になるのだ。

「違う……まだ、覚えている」

 それだけは認められない。
 歯を食い縛って、私は歩く。何処に向かっているかは自分でも分からない。
 でも足は止められない。この道の先に何かを求めて、私はふらふらと、今にも倒れそうになりながらも前へ進む。

「牛鍋屋さんで、皆でご飯食べて」

 うわ言のように思い出を数える。
 ざざ、ざざ。
 でも消える。

「あんぱん、味見したり」

 苦しそうに頬張る父様を見て笑った。
 ざ、ざざぁ。
 消える。

「毎日、おべんとうつくってくれて」

 消える。

「本当は起きてるのに、おこしてほしくて、ねたふりして」

 消える。

「勉強しないと。おみせ、てつだわなきゃ」

 消える。
 気付けば私はいつの間にか泣いていた。
 涙が、記憶と、大切な何かと一緒にぼろぼろと零れ落ちる。
 怖くて、それ以上に悔しくて。後から後から湧き出てくる。
 だけど耐えなきゃ。
 私にはやらなければいけないことがある。

「私は、父様の母様になるの……父様が守ってくれたように、あの人を守るの」

 幼い頃からずっと願っていた。
 捨て子だった私を守ってくれた父様を、今度は私が守ってあげたいと。
 それは子供だからこその発想だったけど、あの夜に願いは決意へと変わった。




『父様……?』
 
 まだ覚えている。
 あれは百鬼夜行の事件があった時のこと。その夜、父様はいつものように鬼退治へ出かけようとしていた。

『済まない、起こしたか』
『ううん……どこか、行くの?』
『こちらの用事だ。寝ていてくれ。すぐに帰ってくる』
『分かってる。……どうせ、私が何言っても行くんだよね?』

 責めるような言葉を口にしたのは寂しかったから。
 鬼との戦いだ、安全な訳がない。
 もしかしたらこのまま帰ってこないのではないかといつだって不安だった。

『野茉莉……』
『ごめんなさい、私、ひどいこと言った』

 俯く私に、父様は手を伸ばす。
 頭を撫でて慰めようとしてくれて。

『あ……』

 でも素直になれない私は、反射的にそれを拒んでしまった。
 その時の父様の顔を忘れることはないだろう。
 誰よりも強いと思っていた父様の、傷付いた顔。
 私は、あの人を傷つけてしまった。
 誰よりも大切で、誰よりも大切にしてくれたのに。





「今まで、父様が頑張ってくれた。家族でいる為に、ずっと頑張ってきてくれた」

 後悔はしない。
 そうやって傷付いて傷付けて、あの頃より少しは大人になれたからこそ、分かることもある。
 
 父様は強い。
 鬼を簡単に倒して、剣の腕だって凄い。
 辛いこと悲しいことを、いつだって乗り越えてきた。
 父様は強いと、ずっと信じてきた。 
 馬鹿だったと思う。幼い私が見ていたのは表面だけだった。
 力が強くても心が強くても、悩みや傷の痛みが消える訳じゃない。
 私の知らないところで父様は沢山悩んで、沢山傷付いて。
 それでも、いつだって私の父親であろうと頑張ってくれていた。そんな当然のことに、ようやく気付けるようになった。

 そして気付いた時、幼い夢は決意に変わった。 
 母親になって、父様をいっぱい甘やかしてあげる。いつかの少女が口にした未来を現実に変えよう。
 どんな形で在ろうと、あの人の家族でいる。
 それが私に出来る精一杯の恩返し。娘として、妹として、姉として……最後には、あの人の母親として。
 長い長い時間を生きる父様が少しでも寂しくないように、最後まで家族であろうと決めた。

「今度は、私が守るの。父様のことを」

 そう、決めた、はず、なのに。
 頭には、雑音が響いて。

「だから、だか、ら……」





 ざ、ざざ。





「お願いだから、消えていかないでよぉ……!」

 他のことなんてどうでもよくなるくらい、強く願っても。
 ずっと大切にしてきた想いが、こんなにも簡単に消えてしまう。

「あ、ああ、あ」

 頭がぼーっとする。
 なんでだろう。風邪でも引いたかな。でも、前に行かなきゃ。
 あれ、なんで歩いてたんだっけ。
 分からない。だけど足は勝手に進む。
 三条通を抜け、鳥居を見つけ、辿り着いた石段、滑らないように一歩ずつ歩く。
 ああ、そうだ。荒城稲荷神社。この神社に行こうとしてたんだ。なんでかは、覚えていないけど。一歩進む度に心が温かくなるから、間違いない。
 登って登って、辿り着いた境内。暗い。そろそろ、夕方かな? 雲がかかっててよく分からないけど、取り敢えず辿り着けてよかった。
 境内は誰もいない。当たり前だ、こんな雨の中参拝客なんているはずない。
 だけど、此処は私にとって大切な場所で。
 お祭りにいった───消える。
 此処で、父様と話した──消える。
 大切だった筈なのに、眺める景色に心を動かすことはなく。
 さ迷うように歩く私は、疲れからか崩れるように倒れ込んだ。

「ぅ、あ」

 何とか手をついて、顔から突っ込むのだけは防いだ。
 けれどそのせいで、まるで土下座するような格好になってしまった。

「あ、あ」

 立ち上がらなかった。何故かそんな気にはなれなかった。寧ろこうべを垂れる今の状態が、私には相応しいと思えてしまう。
 自分が情けなくて、無性に謝りたくなって。

「あ、ああ、ああああああああ……っ!」

 私は、声を上げて泣いた。
 怖い。それ以上に悲しい。
 多分私は、大切な何かを失くしてしまった。もう、取り返しがつかない。
 なにより悲しいのは、その失くしてしまった“なにか”が、思い出せないことだ。
 なんで忘れてしまったんだろう。それを私は心から願っていた筈なのに。
 雨に打たれて体は冷えて、なのに動こうと言う気にはなれない。ただ私は覚えてもいない“何か”を想い、ただ謝罪を続けている。
 それからどれだけ時間が経ったろう。
 気が遠くなるくらい、或いは一瞬だったのか。




「最後には、此処を選ぶような気がしていた」
 



 突然、雨の音に紛れて、誰かの声が聞こえた。
 懐かしい、聞き覚えのない、声だった。
 誘われるように顔を上げると、そこには六尺近い、大きな男の人がいた。
 どくん、と心臓がはねた。呆然と見上げる私を余所に、男の人はゆっくり口を開く。

「子供の頃、何度も祭りに来たからか。それとも家族であると誓った場所だからか。その理由は、私には分かりようもないが。」

 まっすぐに見つめるその人を、私は知らない。
 知らないのに、余計に泣きたくなる。怖い。男の人が、じゃなくて。彼がそこにいるのが、今の自分を見られるのがたまらなく怖かった。

「あ、あ……」

 上手く喋れない私と、私から目を逸らさない見知らぬ男の人。
 境内で二人佇む姿はとても奇異で、現状に頭が追い付いてこない

「それでも、最後にお前が選ぶのは、此処だと思っていた」

 なのに、泣きたくなるのは何故だろう。
 意味もなく二人は見つめ合い。
 そして雨が強くなったような気がした。

「私にとっても思い出深い場所だ。染吾郎がいて、兼臣がいて、宇津木がいて。ちとせが見守る中、お前の手を引いて祭りを回る。口にこそしなかったが、楽しかった。一瞬、本当に一瞬だが。胸にある憎しみを忘れられる程に」

 男の人がゆっくりと一歩を踏み出す。
 近くて遠い距離が少しずつ縮まっていく。

「そして夕凪の空を覚えている。家族でいるために努力するとお前が言ってくれた。それが、どれだけ嬉しかったことか。本当は、私の方こそ、ずっとお前に救われてきたんだ」

 私の知らない思い出を語るその人は、とても冷たい顔をしている。
 無理矢理に感情を抑え付けた、仮面みたいな。いや、違う。仮面なんて軽さではない。微動だにしない完全な無表情は、まるで硬い鉄を思わせた。

「なのに、済まない。守ってやれなかった」

 抑揚のない、鉄のように冷たい言葉は何処か悔いるような響きを持っている。

「誰よりも大切だったのに、お前には泣いてほしくなかったのに、結局泣かせてしまったな」

 近付いてくる知らない男の人。乱暴をするような人には見えないけれど、とても怖い。
 それが何処から来る感情なのか、私には分からなかった。

「い、や」

 でも分かっていることがある。
 逃げないと、逃げないと大変なことになる。
 そう思っているのに体が動かない。気付けば怯えに満ちた言葉が零れていた。

「お願い、来ないで……」

 泣きながら懇願しても、僅かに表情がぴくりと動いただけ。
 男の人は止まらない。ゆっくりと、一歩ずつ距離を詰めてくる。

「記憶の崩壊も、一度消え去った記憶も、治す手立てはない。私はお前に何もしてやれない……出来ることがあるとすれば、その恐怖を消し去ることだけ」

 何か言っているけど、耳には入っても頭に入ってこない。 
でも、きっとあの男の人は、私が一番嫌だと思うことをしようとしている。

「記憶を戻すことは出来ない。だが、“今すぐ完全に消し去る”ことならできる。終わりを少しばかり早めるだけだが、楽にはなるだろう」

 だから逃げなきゃ。
 あの人は、私が大切にしてきたものを、全部奪っていってしまう。

「何も出来なかった私の、自己満足だ。それでも泣いているお前は見たくないんだ」

 男の人は、寂しそうな顔で私を見た。
 それも気のせいだと思ってしまうくらいの一瞬で消えた。
 まばたきの後には感情の色もなくなり、鉄の固さだけが残っている。
 
「野茉莉」

 何故名前を知っているのか、疑問に思う暇もなかった。もう男の人は私の目の前にいる。
 そして彼は膝を落とし、動けない私を正面からすっと抱き締めた。

「あ……」

 振り払うことは出来たかもしれない。けれど、しなかった。
 出来なかったのではなく、したくなかった。
 私の中にほんの少しだけ残っている“何か”がそれを躊躇わせる。
 湧き上がる感情に心を震わせる。恐怖ではなく、じんわりと染み渡る暖かさが其処には在った。

「あぁ、あな、あな、たは……」

 私の失ってしまった“何か”を知っているの?
 聞きたいのに、嗚咽に掻き消されて言葉が出てこない。
 ごつごつした、タコの上にタコを作った無骨な手が頭を撫でてくれている。
 知らない人に抱き締められているのに嫌悪感はない。それがすごく不思議で、当たり前のような気もして。自分の感情さえあやふやで、どうすればいいのか分からない。
 ああ、涙が溢れる。
 重なり合う鼓動が響いて。
 表情は見えないけれど、微かに優しくなった空気に知る。
 きっと彼は静かに、穏やかに、微笑んでくれたのだと。
 










 こうして、一つの家族は終わりを迎える。
 甚夜は野茉莉の髪を愛おしげに手櫛で梳いた。
 震える体は嫌悪か、恐怖故か。
 しかし手は離さなかった。これが最後になるのなら、単なる我儘だとしても、もう少しだけ温もりを感じていたかった。

「大きく、なったなぁ。お前を腕に抱いていた頃が嘘のようだ」

 記憶の中の赤子と今の彼女を見比べて、落とすように笑う。
 重ねた身体から伝わる鼓動が、彼女は此処にいると教えてくれている。
 例え、記憶が失われ、触れ合えた今が消え去ってしまうとしても。 
 この瞬間は決して嘘ではないと信じさせてくれた。

「おしめを換えるのに四苦八苦して、毎朝学校に送り出して。ああ、洗濯を嫌がられたこともあったか。当時は思い悩みもしたが、今ではいい思い出だ。……それも消えてしまうんだな」

 ああ、胸が締め付けられる。
 この一時が過ぎれば彼女は他人になってしまう。
 本当は、ずっと傍にいたかった。
 父親として、家族として、この娘の道行きを見届けたかった。
 いてやりたかった、ではなく。甚夜自身が、野茉莉と家族でありたいと願っていた。
 そう思えるだけのものを積み重ねてきた。
 しかし叶わぬ夢だ。
 必死になって積み重ねて、だというのに、崩れるのはあまりに早すぎて。
 追いつかない心を置き去りに、別れの時が訪れてしまった。

「や、だよ」

 か細い、雨に負けてしまいそうな呟きに胸を締め付けられる。
 縋りつくように甚夜の胸元に顔を埋める様は、まるで幼い頃に戻ってしまったかのようだ。

「忘れたく、ないよぉ……」

 殆ど記憶が失われた状態で紡いだ言葉だ。口にした本人も意味は理解できていないだろう。
 後悔が胸に刺さり、けれど、ほんの少しだけ嬉しかった。
 彼女が過ごしてきた歳月を大切に想ってくれているのだと信じられたから。
 それで十分だ。この勘違いだけで積み重ねた今までは報われた。
 心残りは、これからのことだけ。

「……済まない。結局私は、お前を傷付けてばかりだった」

 失われた記憶を戻す術はないし、彼女に関わる術もなくなった。
 或いは、必要もなくなってしまったのかもしれない。
 野茉莉は大人になった。
 幼い頃とは違う。今では手を引いてやらなくても、一人で歩けていける。歩いて、いかなければならない
 マガツメの干渉があってもなくても同じ。子供ではなくなったと言うのなら、彼女はこれから続く人生を、自分の力で切り開いていくことになる。
 それが最後の心残りだ。
 父親というのは難儀なものだ。既に手を離れた娘であっても心配してしまう。
 そして何かあった時、手を差し伸べてやれない自分がひどく歯がゆい。

「だけど祈っているよ。鬼に堕ちた私の祈りでは、神も仏も受け入れてはくれないだろうが……ああ、そうだな。マヒルさまに祈ろうか。こんな私にも奇跡をくれた心の広い女神だ。少しくらいの無理なら、きっと聞いてくれる」

 出来ることは何もない。
 もう手助けはしてやれないが、せめて想いだけは預けていこう。
 共に過ごし、笑い合った。上手くいかず、思い悩んだ。そうやって積み重ねてきた歳月の分、この娘を好きになれた。

「お前は私を救ってくれた。だから今度は、お前が救われることを祈る。好いた男と契りを交わし、子を産み育て、緩やかに年老いていく。私には、得ることも与えることも出来なかったが。だからこそ、そんな当たり前の幸福を生きてほしいと思う」

 紡ぐ言葉に精一杯の想いを込める。
 例え忘れ去られるとしても、何も心に残ることはないとしても。
 無駄ではなかったと。野茉莉と過ごした幸福の日々は、確かに意味があったと伝えられるように。

「そしてどうか、いつまで幸せでありますように」

 心から祈る。
 大丈夫。きっとこの娘が歩く先は、沢山の光に満ちた、陽だまりのように暖かい場所だ。
 私の母になり、守ると言ってくれた。そんな優しい彼女が、幸せになれない筈がないのだ。




「家族でいてくれてありがとう。野茉莉……私は、お前を愛していた」




 そしてもう一度笑ってほしい。
 例え、それを見ることが叶わないとしても。
 その笑顔にこそ、私はずっと救われてきたのだから。




「だから、これでさよならだ」

 そろそろ時間だ。
 心配は尽きない。しかしふと浮かんだ、小さな頃から知っている青年の顔に思い直す。
 自分がいなくなっても、この娘の笑顔を大切に想ってくれる人がいる。
 少しばかり頼りない所はあるが、信頼に足る男だ。後のことは彼に任せよう。
 甚夜は、静かな。普段とはかけ離れた、柔らかな笑みを浮かべた。
 最後に一度、優しく野茉莉の頭を撫でて。


「<東菊>」


 そうして終わりを迎える。
 偶然が重なって出会った二人は、日々を重ねて家族となり。
 けれど雨は全てを流し。
 





 また、他人に戻った。






 ◆





 虚ろと現の間で心がぷかぷかと浮いている。
 まるで浅い眠りで見る夢のよう。
 私は、心に最後まで残った、懐かしい景色を眺めていた。






 今も覚えている、あなたと過ごした日々のこと。

『ねぇ父様』
『ん』

 透明な朝、騒がしい昼、夕凪の空。
 沈む陽、見上げれば、星に変わり

『父様にも、母様がいなかったの?』
『ああ』

 いつものように、手を繋いで、二人家路を辿る。  
 暖かさがくすぐったくて、子供みたいだねと、私は笑う。

『じゃあね、私が父様の母様になってあげる』
『なんだそれは』

 懐かしさに心浮かれて、けれど近付いた道の終わりに、知らず景色は滲んで。

『父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの』

 玉響の日々。名残を惜しむように、私は、あなたを想う。

『そうか、ならば楽しみにしている』
『うんっ』


 懐かしい記憶。
 あなたの母親に為ろうと決めた、私の始まりの風景。
 ああ、でも、もう思い出せない。






 ────あなたって、誰だったのだろう?








 こうして私の中の大切な何かは。
 雪のように、溶けて消えた。









[36388]      『あなたを想う』・5(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/11 10:57
 一つの終わりを経て、翌日の朝を迎える。
 野茉莉はいつも通り自分の部屋で目を覚ます。
 昨日は一日大雨だったが、朝には抜けるような清々しい晴天となった。
 障子の向こうから淡い光を感じる。頭痛はない、体にだるさも残っていない。すっきりとした、心地好い目覚めだった。

「……あぁ、起きたんか」

 急に男の声が聞こえて、野茉莉は驚きそちらに視線を向けた。
 寝ていた布団の傍で胡坐をかいていたのは宇津木平吉。師匠の秋津染吾郎と共に幼い頃からの付き合いで、幼馴染であり一番親しい友人だ。
 例えば、野茉莉に父がいて平吉が生意気な態度をとっていたという過去があったなら少しばかり印象は変わっただろう。
 しかし彼女は元々捨て子で、父親などいない。そんな寂しい幼少期を支えてくれた彼に野茉莉は感謝と親愛の情を抱いていた。

「ありがとう、平吉さん。看病してくれ、たんだよね?」

 何故部屋にいるのかと一瞬考えて、自分が寝込んでいた理由を思い出す。
 野茉莉は二日前から風邪を引いてしまった。彼女には家族がおらず、看病をしてくれる人はいない。それを心配した平吉はわざわざ来てくれたのだ。

「ごめんね、迷惑かけたみたいで。でも久しぶり、風邪ひいたのなんて」

 にっこりと笑う。
 そこに憂いなど欠片もなくて、だから平吉は言葉に窮した。

「……そか。そういう風に、なっとんのか」
「え?」

 平吉は何故か気落ちしているように見える。
 目が赤い。もしかして泣いていたのだろうか。

「いや、すまん。体の方は大丈夫なんか?」

 しかし野茉莉は何も聞かなかった。
 殿方が泣くのだから相応の理由があったのだろうし、そうやって笑って誤魔化そうとしている辺り聞いてほしくはないのだろう。
 ならば話してくれるまで待つ。もしも助力が必要ならば、彼は話してくれるはずだ。

「うん、もうすっかり」
「そか、よかった」

 二人は軽く笑い合い、平吉は枕元にあるものを見つけて、少しだけ表情を影らせた。

「なぁ、それって」

 置かれていたのはリボンだった。随分汚れている。まるで雨に濡れて、そのまま洗わず放置してしまったかのようだ。
 もっともここ二日は寝込んでいたため、出かけてはいない。雨に濡れる機会などなないのだが。

「あ、リボン結構くたびれてきてる。お気に入りだったんだけど、そろそろ買い替え時かな」

 枕元に置いてあるリボンを見て野茉莉は言う。
 リボンは自分で買ったものだ。古くなったと思えば、野茉莉は簡単に捨てるだろう。
 思い出や思い入れが無ければ消耗品でしかない。

「ええんか。大切な、もんなんやろ?」

 おずおずと問う平吉に違和感を覚えながらも、質問の理由が分からない野茉莉はいたって普通に答える。

「え? でもこれ、自分で買ったのだし、そこまでは……」

 甚夜の記憶が無い。しかしリボンがあることを疑問には思わない。
それが東菊の<力>。
 マガツメの娘の<力>は喰らった時に劣化する。彼女達はあくまでもマガツメの想い、その切れ端でしないからだ。
 故に甚夜ではできないが、本来の<東菊>は発動の瞬間に条件を三つまで設定することが出来る。
 東菊が設定したのは三つ。
 
 一つ、葛野甚夜に関する記憶のみを失う。
 二つ、記憶の消失は時間経過で行われる。
 三つ、完全に消えた後は甚夜の存在を無かったことにして記憶は再構成及び改変される。

 記憶の消去を甚夜が行ったとて同じこと。使用した<力>は<東菊>に違いなく、設定を改変或いは無効化するような細かな能力運用は彼には出来ない。
 故に誰が何をしようが、この結末は変わらない。
 ただ単に記憶が消えるのではなく、甚夜がいなくても問題ないように修正されてしまう。

 例えば、野茉莉が蕎麦屋の店舗に住んでいるのは、住み込みの働き先を染吾郎が紹介してくれたから。
 店主がいないのはつい先日高齢の為辞めてしまったから。
 捨て子だった自分を育ててくれたのは、甚夜ではない別の誰か。
 そうやって記憶を失った後、もう一度二人が家族になれる可能性さえ潰されている。
 何かのきっかけで野茉莉が記憶を思い出すなんて奇跡は在り得ない。
 彼女の人生において、葛野甚夜という男はそもそも関わることがなかった。
 少なくとも彼女にとっては、それが真実である。

「……あ、でも。やっぱりもうちょっと使おうかな」

 だから彼女がそう言ったのは奇跡ではない。
 単なる気まぐれに過ぎない。けれど東菊の<力>を知っている平吉だからこそ、あまりの驚きに目を見開き狼狽してしまった。

「なっ、なんでっ!?」
「なんで、ってこれ結構気に入ってたし……というか平吉さん顔近いよ!」

 平吉の過敏過ぎる反応に野茉莉の方も驚いて声が少し上ずった。
 真剣な顔で詰め寄ってくる幼馴染の青年。吐息がかかる程の距離に顔があって、昔から仲良くしていとはいえ流石に照れてしまう。

「ほんまか。それ、気に入ってるって」

 そんな野茉莉の戸惑いなど気にも留めず、真っ直ぐに平吉は見つめている。
 顔が熱くなる。頬を赤く染め、野茉莉は誤魔化すように言葉を続けた。



「う、うん。なんでかはよく分からないけど。やっぱり長く使ってたからかな……捨てるのが、寂しいような気がするんだ。変だよね?」



 ああ、泣きそうだ。
 その言葉が平吉には嬉しかった。
 染吾郎外の命を落とし、甚夜がいなくなり、野茉莉は記憶を消され。
 たった二日の内に、幼い頃から入り浸っていた鬼そばは、かつての騒がしさを失くしてしまった。
 口にはしなかったけれど、此処は平吉にとっても大切な場所で。
 あの楽しかった日々は二度と帰ってこないのだと思うことがひどく寂しくて。
 だけど救いがあった。
 もう甚夜のことを覚えていない筈なのに、野茉莉はリボンがなくなることを寂しいと言ってくれた。
 それがどうしようもなく嬉しい。
 例え、野茉莉がそう思ったのは単なる気まぐれだったとしてもよかった。
 全て壊れてしまったけれど、ちゃんと残るものはあったのだと信じることができたから。

「そか。そっ、かぁ」

 零れそうになる涙を堪えて、平吉は必死に笑う。
 甚夜はもう帰ってこない。
 野茉莉を抱きかかえ家に戻ってきた時、「済まない、後は任せる」と静かな笑みだけを残して去って行ってしまった。
 止めることは出来なかった。何一つ守れず何もかもを失った男を、助けになってやれなかった自分がどうして止められるだろう。
 なのに甚夜は、最後まで平吉を責めなかった。
それどころか、任せると。何もできなかった自分を信じ愛娘を託してくれた。
 その信頼を裏切るような真似は出来ない。
 だから守ろうと思った。
 彼女を、そして彼女の中にほんの少しだけ残った“何か”を。
 宇津木平吉は……四代目秋津染吾郎はその為に在ろうと心に誓う。

「だ、大丈夫?」
「ああ……なぁ野茉莉さん」

 野茉莉の細くしなやかな指を両手で優しく握り締め、祈るように首を垂れる。
 伝わる熱が心地好い。この暖かさが失われないようにしよう。
 多分、あいつはこれを守りたかったのだから。

「えぇ!? ど、どうしたの平吉さん!?」

 平吉の行動ははっきり言って意味が分からず、どう反応すればいいのか分からない。 ただ手をしっかり握られているのが恥ずかしくて、わたわたと野茉莉は慌てていた。

「なんでもない、なんでもない。そやけど、そのリボン大切にしたってくれ……ずっと、ずっと。せめて、それだけは捨てんとったってくれ」

 壊れないようにそっと、けれど決して離さないように手に力を込める。
 最後に残った一かけらの想いが消えてしまわぬように。
 あいつが大切にしてきたものを、同じくらい大切にできるように。

「分かった、分かったよ平吉さん!? だからまず手を離そ!? 恥ずかしいってば!」

 慌てふためく野茉莉がなんだかおかしくて、平吉は涙を堪えながら、顔をくしゃくしゃにして笑った。
 店には平吉と野茉莉しかいない。
 胸を過る空虚に慣れるまでは、まだ少し時間がかかるだろう。
 だけとなんとかうまくやって行こう。
 四代目の名に野茉莉。
 尊敬し憧れた二人の男が託してくれたものに相応しい自分でありたいから。
 平吉として流せる涙は染吾郎が死んだ時もう出し尽くした。だから涙は流さない。
 そう決めたのに、目は潤んで。
 それでも泣いてはやらないと意地になって笑ってみせる。





 滲んだ瞳の向こうには、遠く晴れ渡る空。
 緩やかな風に誘われて、今日もまた一日が始まる。
 







 鬼人幻燈抄 明治編『あなたを想う』(了)





 ◆





 ……時を少し遡り、一つの終わりを迎えたその夜のこと。
 鬼そばへ野茉莉を届けた甚夜は、四条通の廃寺にいた。
 叩き付けるような雨はまだ止まず、特有の香りが本堂に満ちている。
 東菊を食らった場所へ再び訪れたのは直感だった。
 此処で待っていれば彼女が来る。そんな気がしていた。

「見事だよ」

 その予感は正しかった。
 背後に気配を感じ、甚夜は独白するように呟く。
 そして緩慢な動作で振り返れば、其処には金紗の髪をたなびかせた美しい鬼女がいた。

「私は何一つ守れなかった。此度はお前の勝利だ」

 湿った空気に乾いた言葉。雨が強くなり、なのに雨音は遠くなったように感じられた。
 当然だろう、雑音に耳を傾けている余裕などなく、意識は鈴音だけに向けられていた。
 ただ只管に憎い。それは機能としての憎悪ではなく、大切なものを悉く奪っていった仇敵に対する感情だった。
 甚夜は思う。やはり私は選択を間違えたのだと。
 彼には鈴音を憎悪のままに切り捨てる道など選べなかった。
 叶うならば、斬る以外の道を探したい。
 憎しみは消えない、けれど心は変わる。
 今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれないと、決断を先送りにしてきた。
 しかしそれは間違いだった。
 白雪が選んだ故の結末なら、鈴音は選ばなかったが故の結末。
 葛野を出る際、鈴音を斬ると明確に選べていたのなら、こうはならなかった筈だ。

『勝ち負けなど考えていなかった』

 対する鈴音は宵の海のようだ。
 墨染めの水面は穏やかに、けれど時折微かにざわめく。静かに見えて一瞬で全てを飲み込む、昏い海を思わせる。

『私はただ、見たかっただけ。東菊が本懐を遂げた時、貴方が何を選ぶのか』

 涼やかで、涼やか過ぎて底冷えするような声音だ。
 
『いいえ、違う。本当は信じていた。貴方は東菊を……ひめさまを選ぶって』

 それは、彼女に残された最後の欠片だったのだろう。
 既に始まりの景色は見失った。様々な想いを切り捨て、偽物の心を詰め込んでここまで来た。
 そうして様々なものを手放して、尚も捨て切れなかった追憶の情景。
 甚太の隣にいられた、幼い幸福の日々。
 所詮は付属品に過ぎなくとも、兄が大切であればこそ、白雪も葛野の地も決して嫌いではなかった。
 其処は彼女にとって完成された世界だった。
 その意味では、“みなわのひび”に一番拘っていたのは鈴音だったのかもしれない。
 
『私は、すずは、にいちゃんが憎い。それはにいちゃんも一緒で。私達は、そういう道を選んでしまった。もうお互いに殺し合うしかない。それでも』

 ああ、だけど。
 初めに手放したのは鈴音だったとしても、兄もまたそれを切り捨てた。
 もう戻れないと、見せつけられた。お互いに、本当に大切だった筈のものをこの手で壊してしまったのだ。

『……それでも、一緒に過ごした日々くらいは、捨てないでいてくれるって思ったのに』

 そう言い捨てた鈴音は、一体何を思ったのだろう。
 甚夜には分からない。分かりたくもない。
 全てを失って、胸には憎しみしかなくなった。ならば彼女の抱く想いが何であれ、憎しみ以外を感じるなど在り得ない。
 沈黙する二人。雨の音だけが聞こえている。
 数瞬の間を置いて、甚夜はかつて妹だった何者かに呼びかける。

「なぁ、鈴音」
『違う』

 返ってきたのは静かな否定。
 淡々と、鈴音は独白するように語り続ける。

『私は名乗り、貴方もそう呼んだ。ならば私は禍津女(マガツメ)。現世に災厄を振りまく鬼神。もとより、そう在る為に生まれたのだろう』
「……ああ、そうか。そうだったな」

 彼女の物言いに心は決まった。
 もう後戻りはできない。する気もない。 
 遅いか早いかの話で、結局いつかはこうなったのだろう。

「鈴音……いや、“マガツメ”よ」

 敢えてそう呼んだのは、気を抜けば揺らいでしまいそうな弱い決意を明確にする為。
 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 甚夜はまた一つ選んだ。鈴音ではなく、マガツメを選んだのだ。

「確かに私は、様々なもの切り捨てて来た。だが足りなかったようだ。捨てる覚悟が、足りなかった」

 めきめきと嫌な音を立てて、甚夜は左右非対称と異形と化す。
 夜来を抜き、ゆっくりと腰を落し、軽い前傾姿勢を取る。出し惜しみは無しだ。

「様々な余分を積み重ね今の私がある。失ったとて、重ねてきた日々を間違いとは思わない。だが、まだ捨てなければならないものがあったんだな」

 憎悪に急き立てられ、逸る心を抑え、冷静に冷徹に仇敵を見据える。
 引き足に体重をかけ力を溜め、全身の筋肉からは力を抜く。体を強張らせてはいけない。滑らかな挙動の為には程よい脱力がいる。
 感覚を研ぎ澄まし、脳裏に浮かべるはただ一つ。


「許せるかもしれない。そんな淡い希望、初めから捨てておくべきだった……!」


 今は余計な感情はいらない。ただ眼前の鬼女を討ち果たすことにのみ専心する。
 そうして甚夜は弾かれたように疾走し───






























 ───結果として、それは戦いにもならなかった。

「あ、ぐぁ……」

 本堂の壁を背もたれにして、どうにか甚夜は座位を保っている。全身血塗れ、傷が無い所を探す方が難しい。
 一刻半に渡る攻防。鬼と化し、全霊をもって挑み、しかしマガツメには届かなかった。
 激情に任せた訳ではない。憎しみを飲み込み、冷静に、仇敵の絶殺にのみ専心する。
 油断はなく焦燥もなかった。
 事実剣も拳も通じ、肉を引き裂き、骨を砕いた。砕いた筈だった。
 しかし数秒もあればマガツメの傷は完治しまう。体力と攻め手を失った甚夜が、染吾郎の命を奪った蟲の腕に一方的になぶられたのは当然の流れだろう
 友を殺され、家族を失い、思い出を汚され、積み重ね得た力さえ否定された。
 此処にマガツメの目的は達された。
 甚夜は、自らが正しいと信じた全てを奪われたのだ。

「……し…う」

 もはや真面に口もきけない。
 か細い声で何事かを呟く甚夜を見つめながら、マガツメは嬉しそうに語る。

『貴方が過去を選んでくれなかったのは悲しい。でもそれ以上に、嬉しいの……。だって、ようやく私を見てくれる。もう貴方には私しか残っていない。憎いでしょう? 殺したいでしょう? なら余計なものはいらない。私達は二人で完結できるの』

 ゆったりと、しかし狂気に満ちた笑みを見せつける。
 おぞましい。無邪気に笑った童女の影はどこにもない。
 今更ながら思い知る。彼女は既に、甚夜には理解の及ばぬ化生なのだ。

「待…て……」
『いいえ、今は待たない。もう目的は果たせたから。でも大丈夫、遠い未来で貴方が来るのを待っている』

 百七十年後、葛野の地に再び降り立つ。
 予言を忘れたことはない。おそらくは彼女も。
 二人は再び葛野後で殺し合い、その果てに全ての人を滅ぼす災厄───鬼神は生まれる。
 これは最初からそういう話だ。

『いつかまた懐かしい場所で逢いましょう。私は、ずっとあなたを待っているから』

 最後に儚げな、この場にはそぐわぬ微笑みを残して。

『その時には、きっと私の願いが叶う』

 凛とした背中を見せつけ、彼女は雨の夜に消えていった。









 朦朧としながらも、マガツメが去って行ったのだけは分かった。
 追い縋ることは出来ない。立ち上がるどころか指一本動かせなかった。
 完全なる敗北。全てを奪われ、一矢報いることさえ出来ず、仇敵に情けを掛けられ命を繋いだ。
 なんという無様。あまりにも惰弱な己に怒りを通り越して殺意が沸いてくる。
しかしそれも長くは続かない。血を失い過ぎたせいで、起きていることさえ難しくなってきた。
 ぐるり、と頭の中が回る。
 そうして甚夜はすっと瞼を閉じて。
 静かに、意識が消えた。





 ………………………ちくしょう。




 次話 明治編・終章『一人静(ひとりしずか)』




[36388]   終章『一人静』(了)
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770
Date: 2014/03/14 02:19
『うわぁ、なんだこれ」

 ある朝、青年は四条通にある廃寺へと訪れた。
 この寺は随分と前に住職が亡くなっている為、明治になり廃仏毀釈の煽りを受けても然程破壊されず、しかし管理する者がいないため放置されていた。
 ところが何故か一晩でぼろぼろになってしまっている。昨日は一日雨が降り続いていたが、まさかそれだけでこうはなるまい。青年はあまりの惨状に口をあんぐりと開けて壊れてしまっている寺を眺めていた。

「いいから、早くこっちに」

 そう言って急かすのは青年の母である。
 今年で二十四になるこの青年は母と二人で暮らしている。父は既に亡くなっているが元々徳川に仕えた旗本で、莫大とは言えないが財産もそれなりにあったため特に不自由を感じたことはなかった。
 青年の母は庶民の出だった。父母は当時にしては珍しい恋愛結婚で、二人の出会いと父が求婚を繰り返した話は未だに母から語って聞かされている。
 この寺に訪れたのは母の頼みだった。
 毎朝散歩で寺社仏閣を歩いている母が、此処で行き倒れている人を見つけたから手を貸せと言ってきたのだ。 
 父がいなくなって女手一つで青年を育てた母は、肝っ玉母さんという表現がよく似人物だった。母がこうしろと言えば青年は逆らうことは出来ず、仕事が休みだということもありやってきたという訳である。

「ごめん、母さん」
「本堂の方。頼んだよ」

 足を踏み入れた本堂は、床板は踏み抜かれ壁は打ち壊され、それはもうひどい惨状だった。中でもののけでも暴れたのかと言いたくなる壊れ具合だ。
 眉を顰めながら青年は壊れた床に足を取られないよう慎重に歩みを進め、血塗れの壁にもたれ掛かっている男を見つける。
 全身傷だらけ、にも拘らず右手は刀を手放していない。こいつが件の男だろう。

「凄い血だな……死んでない?」
「縁起の悪いこと言わないの。ちゃんと息してるだろう?」
「というかよく見付けたなぁ。それに行き倒れって普通道で倒れてる人を指すと思うんだけど」
「くだらない揚げ足取りしてないでさっさと運ぶ!」
「ああ、分かったよ」

 もたもたとしている青年を母親が叱り付けると、しぶしぶながら男の傍まで近づいて行く。
 そこで青年は微かな違和感に動きを止めた。

「あれ」

 この人、どこかで見たような気が。
 最近ではなく、随分と昔だが……しかしいくら考えても思い出せない。何となく、初対面ではないと思うのだが。

「と、いけない」

 今はそれどころではないだろう。
 青年は血塗れの男を抱え上げ、自宅への道を戻っていた。




 鬼人幻燈抄 終章『一人静』




 一人残されて夜の湖面に意識は揺れる。 
 月も星もない、沈み込むような空。
 脳裏に浮かぶのは在りし日から変わらぬ後悔のみ。

 ───また、守れなかった。

 反芻する言葉に責め立てられる。
 憎しみを全てと信じた始まり。
 その途中で沢山のものを拾ってきた。
 余分を背負い、その度に弱くなって。
 生き方は濁り、代わりに大切なものは増えた。

 しかし守れなかった。
 力ではない強さを手に入れておきながら、その正しさを証明できなかった。
 ならば今迄の道程に何の意味があったのか。


 私は、何の為に────








 ────そして、目を覚ました。





「あ、ぅ」

 うっすら届く眩しさが、意識を揺り起こす。
 ぎこちなく甚夜は瞼を開けて、手で光を遮りながら体を起こした。

「ここは」

 気付けば、見知らぬ部屋に彼は寝かされていた。
 頭がまだはっきりしない。此処は何処だろうか。少し体を動かすと、塞がりかけた傷が痛む。筋肉も強張っていて、すぐに歩けそうはなかった。
 取り敢えずは周囲を見回す。畳敷き、六畳ほどの部屋。小奇麗ではあるが箪笥と机程度しか調度品の類はなく、随分と簡素な印象を受ける。
 部屋の障子から光が漏れてきている。向こうはおそらく縁側、庭があるのだろう。時刻は昼頃だろうか。

「あぁ、目を覚まされましたか」

 つらつらと思考を浮かべていると、聞き慣れない男の声がした。
 障子を開けれ入って来たのは二十過ぎくらいの、細身の青年だった。きっちりと中割にした髪型もあり、随分と生真面目そうに見える。
 布団のすぐ傍で正座し、甚夜と視線を合わせて青年は言う。

「お医者様は、見た目ほど傷はひどくなかったから二日三日もすれば動けるようになると。いやあ、正直血塗れの姿を見たときは死んでいるのではないかと思いましたが」

 ははは、と笑いながら体を見回し、最後に顔色を確認して男は一つ頷く。

「大丈夫そうですね。覚えていますか。貴方は廃寺の本堂で倒れていたんです」

 記憶を辿る必要もなく、浮かんでくる。
 マガツメに手も足も出ずやられた。多くの<力>を喰らい、剣の腕も磨いた。しかし届かなかったのだ。
 屈辱、憎悪、後悔、失意。様々な感情が綯交ぜになり、今の心境をどう表現すればいいのか分からない。
 ただ傷とは関係なく手足が重く、動こうという気にはなれなかった。
 表情を僅かに陰らせ、しかし現状を知る為に甚夜の方からも青年に話しかける。 

「……貴方は。貴方が、私をここに?」
「ええ。正確に言うと、母に頼まれたからですが。横になっていてください。今、母にも目を覚ましたことを伝えてきます」

 そう言って青年は出て行き、部屋はまた甚夜一人になった。

「兼臣」
『はい、此処に』

 部屋の片隅には夜来と夜刀守兼臣が置かれている。
 刀身は見ていないが、外見上壊れた所はない。あの戦いの後だ、流石に心配だったが少し胸を撫で下ろす。

「なにがあった」
『言葉の通り、先程の男性が旦那様をここに連れてきました。医師の往診を受け、それ以降は時折様子を見に来ただけ。特に不審な動きもなし。信用は出来るかと思いますが』
「そう、か」

 青年の足取りを見たが、武道を修めた者の歩きではなかった。肩幅は狭く、手は綺麗で傷やタコもない。およそ荒事とは無縁の人物だ。
 態々傷の手当もしてある。おそらくこちらに危害を加える気はないだろう。
 少し警戒を解き、ふうと静かに溜息を吐く。

「少し疲れたな」
『旦那様……』

 睡眠は十分にとった。体が重く感じるのは大量の出血のせい、そしてなにより失ったものが多すぎたせいだろう。
 たった二日で、あまりに多くを失った。
 動く気がしないのは、傷以外のなにかが痛むから。このままもう一度寝てしまおうか。そう思った時、近付く足音が聞こえてきた。

「入っていいかい?」

 今度は女の声だ。
 どうぞ、と答えれば入って来たのは、藍の地に菖蒲をあしらった着物を纏う初老の女性だった。

「よかった、目を覚ましたんだね」

 四十半ばといった所だろうか、小柄で楚々とした佇まいの淑女といった印象だ。痩せこけた頬は年相応であるが、その輪郭はかつて美人だったであろうと想像させる。
 女性は甚夜の傍で正座し、しげしげと顔を眺め、ゆるやかに表情を柔らかく変えた。

「まだ傷は痛むだろう?」
「ええ、少し」
「ならしばらくうちで休んでいくといい。粥くらいなら食べれるだろ? 用意してくるよ」

 捲し立てるように女性は言う。
 意外だった。彼女がここに来たのは、こちらの話を聞く為だと思っていたからだ。
 見ず知らずの、しかも血まみれで倒れていた怪しい男。普通に考えれば警戒するべきだし、追い出すくらいのことはしてもおかしくない。

「いえ、そこまで世話になる訳にも」
「若者が遠慮なんてするもんじゃないさ。少し待ってな」

 しかし目の前の女性は、世話をするのが当然であるかのように振る舞っている。
 何故ここまでしてくれるのか。疑問に思いながら、部屋を出て行く彼女の背を見送った。





「ごちさそうさまでした」
「はい、おそまつさま」

 粥を食べ終え、一息吐く。
 女性は食べ終わった後の土鍋とお椀を片付けてくれている。腹が膨れたせいか少しだけ眠気が出てきた。瞼が重くなってきた辺りで女性は戻ってきて、甚夜の様子を見て少し笑った。

「眠くなったんなら寝ときな。夕食の時には声を掛けるよ」

 彼女の中では甚夜が泊まることは決定事項らしい。
 それにどうしても違和感を覚えてしまう。彼女の目は疑いや怖れといった感情が欠片もない。
 それどころか心底楽しそうにしている。現状があまりに奇妙過ぎて、甚夜は彼女の真意を測りかねていた。

「何故、私を助けてくれたのですか」

 真っ当な輩ではないと初めからわかっていた筈だ。何故彼女はここまでよくしてくれるのか、純粋な疑問だった。
 その問いに女は表情を変えることなく、ゆったりとくつろいだ様子で答える。

「人を助けるのに理由がいるかい」
「貴方には不要でも、私の納得には必要です。明治の世に帯刀し、血塗れで倒れていた男。助ける理由が善意では少し足らないでしょう」
「融通きかないねぇ」

 くすくすと笑う。
 母親らしいとでもいうのか、我儘な子供を諭すような優しい笑い方だった。

「だけど善意以外の理由は本当にないんだ。敢えて挙げるなら、あの刀だね」

 部屋の隅に置かれている二振りの刀、特に夜来を見つめている。
 意味が分からず言葉に窮すれば、彼女はどこかおどけた風に続けた。

「多分あたしは、あんたの父親を知っているよ」

 どくんと心臓が脈打ち、僅かに数秒機能を放棄する。
 呆気にとられた。
 父・重蔵のことは今も深い傷として残っている。失意にある父を見捨て、その手で殺した。積み重ねた日々の中でも薄れることのない己が罪過だ。
 それを知っていると言われ、体が固まる。薄れていた警戒心が再び顔を表した。

「あの刀の前の持ち主、あんたの親父さんだろう? 髪型は違うけど面影がある。というか、瓜二つだよ」

 しかしそれも一瞬、どうやら勘違いだったらしい。
 夜来の前の持ち主。髪型は違うが瓜二つ。そこまで言われれば流石に気付く。
彼女が言っているのは甚夜自身のことだ。蕎麦屋をやっていた為短く整えてはいるが、 江戸にいた頃は総髪だった。そして鬼であるが故に年老いていくことの出来ない彼は、以前も今も外見上は十八のままである。
 おそらく彼女は、若い頃に甚夜と会っている。その為夜来を持つ甚夜を、自分が出逢った総髪の男の息子だと勘違いしているのだろう。

「おっと、名乗るのを忘れていたね」

 そうして女性は、懐かしむような穏やかな顔つきで言った。

「あたしは三浦きぬ。……あんたの親父さんの古い知り合いさ。あいつは、夜鷹なんて呼んでたけどね」

 今度こそ、心臓が止まったような気がした。
 夜鷹。
 かつて情報屋として甚夜に協力してくれた人物。そして友人の妻。
 懐かしい、出来れば会いたくなかった女だ。

「そういや名前を聞いてなかってね」

 思い出したように夜鷹は声を上げ、甚夜はぴくりと眉を動かした。
 甚夜と名乗るのはまずい。しかし戸惑えばあらぬ疑いをかけられる。なるべく自然に、間を置かずに答える。

「甚太。葛野甚太と申します」

 選んだのは昔の名前だ。
 嘘は吐いていないし、これなら呼ばれて気付かないといった失敗もないだろう。

「甚は、こらえる?」
「はい」
「そうか。親父さんの名前を貰ったんだね」

 懐かしげに息を吐く。それが記憶の中の彼女と重ならなくて、少しだけ戸惑った。
 きぬ……夜鷹という女は、甚夜にとって理解し難い人物の一人だった。
 決して嫌いではない。恋慕や親愛の類を抱いてはいなかったが、それなり信用も信頼もしていた。ただ二人の関係を問われれば、どうにも表現しにくい。
 江戸にいた頃は、夜鷹から鬼の情報を流して貰っていた。傍から見れば情報屋と客、そんな所だろうか。
 しかし顔見知り程度の間柄ではなく、仕事相手で済ませるほど無味乾燥でもなかった。
 とは言え友人にしては互いのことを知らないし、恋人のような甘さもなかった。
 そうして上手い表現が見つからないまま夜鷹は友人の妻という立ち位置に落ち着いた。
 いつの間にか結ばれた二人に面食らったことを覚えている。
 彼女の顔は年相応に皺が増えていて、歳月の流れを否応なく感じさせた。

「まあ、そういうことだから、気にせず泊まっていきな。昔、あんたの親父さんには稼がせて貰ったからね。その分のお釣りだと思ってくれればいいさ」

 そうして夜鷹は立ち上がり、にやりと何処か不敵に笑う。

「それじゃあね、甚太君。今はゆっくりと休みな」

 離れていく後姿は綺麗に見えて、その分複雑な心境になる。
 叶うならば会いたくはなかった。
 彼女の夫を斬り殺した、その手触りはまだ残っていた。







 そうして、また目を覚ます。

「あ……」

 混濁する意識。夢と現をさ迷うような曖昧な感覚。
 まとわりつく後悔が思考の邪魔をしている。
 胸にあるのは消えぬ後悔と隠しようのない喪失感。
 目覚めの気分は最悪だった。

 二日目。
 朝になり、少しは体を動かせるようになった甚夜は庭先に出ていた。
 不快感を和らげようと部屋を出て、外の空気を吸おうと思った。しかし朝の清澄な空気も陰鬱な心地を拭い去ってはくれない。 野茉莉と、夜鷹。
 失ったもの。そして、己が奪ったもの。二つの後悔が彼を苛んでいる。
 どうすればいいのかも分からず、甚夜はぼんやりと庭に植えられた杜若(かきつばた)を眺めていた。
 濃紫色の花は燕の飛び立つ姿に似ているから燕子花とも書く。
 花のことは随分と昔、ある女に教えて貰った。何もかも失って、残ったのはこの程度かと自嘲する。
 体が重い。そろそろ部屋に戻るかと振り返れば、ちょうど通りかかった青年と目が合った。

「おや、もう起きて大丈夫なのですか」
「忠信殿……」

 既に朝食を済ませ、仕事に出かけるところなのだろう。洋装に着替えた青年……忠信が庭に顔を出す。
 今更ながら、この青年が忠信で在ると知った甚夜は奇妙な心地で応対していた。
 何せ彼の中で忠信は手習指南所に通っている、野茉莉と交流のある子供で止まっている。それが大人になり、立派に働いているのだから戸惑うのも無理はないだろう。

「んー」
「どうかしましたか、忠信殿」

 自分は“甚夜の息子”ということになっている為、一応忠信にも夜鷹にも敬語で話す。
 違和感はあるが此処に居る間はそれで通すことにした。理由は幾つかあり、最たるものは負目だろう。直次を斬った。その事実が正体を晒し甚夜と名乗ることを躊躇わせた。

「ああいえ、甚太さんはやはり父親に似ているなぁと思いまして。実は私もあなたのお父さんにはお世話になったんですよ。もう十五、六年は前になります」

 まだ子供だったが、忠信はちゃんと覚えているらしい。
 こくこくと何度も頷きながら、懐かしそうに薄く目を細める。

「そう言えば、野茉莉ちゃん……お姉さんは元気ですか」
「……ええ」
「そうかぁ。いや、本当に懐かしい。きっと綺麗になったんだろうなぁ。っと、すみません。私はそろそろ行きますので、甚太さんは無理せず養生してください。」

 いそいそと忠信は仕事へと出かける。
 そう言えば、小さな頃の彼は随分と野茉莉を気に入っていた。
 或いは、何かが違えば。野茉莉の隣にいるのは平吉ではなく忠信だったのかもしれない。
 なんとなしに、そう思った。



 ◆



 生き方は曲げられなかった。
 間違いと知りながら、それでも意地を張って歩いてきた。
 そうして数えきれないほどの言葉、数えきれないほどの想いを受け。
 数えきれないほどに裏切ってきた。


 かつて重蔵は言った。
『そいつは信頼できる。多少の無礼くらいは構わん』
 けれどその信頼には答えられなかった。

 染吾郎は言った。
『そやけど人はしぶといで。僕もそうそう死なん』
 いとも簡単に彼の命は途切れた。

 野茉莉は言った。
『これからも、家族でいてくれますか?』
 約束は守れなかった。
 
 直次は言った。
『だからどうか、何一つ為せなかった私の刀に、振るうに足る意味を』
 望むままに、彼を切り捨てた。


 昔、ある女が教えてくれた。
 間違えた道でも、救えるものはあるのだと。
 故に、歩んできた道に後悔はなく、これから進むべき先に不安もない。
 例え間違いだとしても何かを為せると知っているから。

 ならば、何故こうも苦しくなるのだろう。

 私は、なんで───




 ***




「顔色が悪いね」

 三日目の朝。
 布団で上半身だけを起こし、粥を食べ終える。しかし血色が悪いままの甚夜の額に、夜鷹はそっと手を添えた。
 熱はない。体の方を見ても血は滲んでおらず、経過自体は悪いものではなかった。

「すみません」
「謝ることじゃないさ」

 なのに甚夜の表情はひどく暗い。気力というものが感じられず、死んだ魚のような目というのが当て嵌まるだろう。
 理由は分かっている。今まで貫いてきた自分を、生き方を、そして積み重ねてきた大切なものを否定された。
 だからどう動けばいいのかが分からない。
 今まで己を支えてきた芯が、ぽっきりと折れてしまっていた。

「ここには、忠信殿と二人で?」
「ああ。前は違うとこだったんだけど、二人で住むには広すぎたから」

 しばらく沈黙が続き、耐えかねた甚夜の方から話しかけた。
 夜鷹の現在がどのようなものか、そして直次に関わることも、ずっと気になっていた。
 その視線に気付いたのか、苦笑を浮かべ夜鷹は言葉を続けた。

「うちの旦那は武家の生まれでね。脱藩して政府側についた一人だったんだよ」

 語り口はゆっくりと穏やか、瞳は此処ではない何処か遠くを眺めている。

「戦に参加して、生き残って。家族三人それなりに楽しくやってきたんだ。……けど、やっぱり男ってのは馬鹿だね。その上うちの旦那は頭に“くそ”が付くくらい真面目でさ」

 口調とは裏腹に表情は穏やかで、寂寞も悲哀も感じさせない。
 安らいだ空気はまるで子守歌を口ずさむようだ。

「真っ直ぐに生きてきたあの人には、明治はちょいと生き辛い世の中だったんだろうね。廃刀令で刀を奪われて、今までやってきたことも否定されて……最後には武士で在りたいなんて言って、出てっちまったよ」

 そして直次は、甚夜に殺されることを望み決闘を申し出た。
 あの時、斬り伏せたことを間違いとは思わない。
 刀として生きた、刀として死にたかった。
 最後の最後、血の一滴まで刀で在りたいと願った友に、願った死に様を与えてやれた。
 それは紛れもなく救いであり、だからといって殺した罪が許されるわけではない
 夜鷹から夫を、忠信から父を奪ったのは紛れもなく己。その後悔は何時までも付き纏う。

「止めは、しなかったのですか」
「男が意地張ってんのに、どの面下げて止められるんだい?」

 嘆息と共に零れる言葉は、柔らかな手触りをしている。
 直次と結ばれたからなのか、それとも母となったからなのか。
 強がることも、茶化して誤魔化すこともしない夜鷹には、かつては見られなかった強さがあった。

「傍から見れば、あの人は妻子を捨てて出てっただけなのかもしれない。でもね、あの人は自分の死に方を選んだんだ。ならあたしに出来ることは、“御見事”と称えてやるくらいだろう。それが、武家の女ってもんさ」

 誰かを打ち倒すことも、何かを為すことも出来ない。
 しかし彼女を強いと思う。
 例えるならば寒葵の花。
 根元に咲くため葉をかき分けなければ見えないが、静かに冬を彩る優しい色。
 寒さに耐えてひっそりと咲く、慎ましやかな強さだ。

「……まあ、あたしがそういう女じゃなかったら、あの人は今も傍にいてくれたかもしれない、とは思うけどね」

 それでも彼女の横顔には僅かな憂いが映り込む。
 不意に見せた寂しさに見たのは、確かに甚夜の知る夜鷹の表情だった。









 大切なものは、なんだろう。
 守りたかったものは、どこへいったのか。
 辺りを見回しても、見つからなくて───




 ***




 四日目。
 夜になり、甚夜は部屋を抜け出して縁側に腰を下ろしていた。
 夜空には銀砂の星が広がっている。
 そこから顔を覗かせる琥珀の月が庭を染め上げていた。
 そういえば以前、染吾郎から聞いたことがある。清(中国)では月には嫦娥という仙女が住んでいるという。
 成程、この儚げな美しさは何処かたおやかな女性の姿を連想させる。零れ落ちた輝きさえここまで人の心を打つのならば、月の仙女は絶世の美女なのだろう。
 
 下らない想像を浮かべ、何をするでもなく月に見入る。
 鬼の再生力は人の比ではない。既に甚夜の傷は完治している。いつ此処を離れても問題はない。
 やるべきことは分かっている。マガツメを追い、討ち果たす。初めからそこは揺らいでいない。
 なのに何故、いつまでも此処に居るのか。
 この四日、寝て過ごした。体を鍛えるどころか刀も握っていない。それではいけないと分かっているのに、無為に時間を過ごし、気付けば日は暮れている。

「……私は、何をしているんだろうな」

 呟いても、答える者はいない。
 思えばいつも誰かが隣にいてくれたような気がする。それを今になって思い知るのだから救いようがない。
 見上げた先、透明な空気に映える月は何処か冷たい。
 ぼんやりと時間を過ごすしていると、ぎしりと縁側の板が鳴いた。

「月見かい?」
 
 月明かりを辿り、夜鷹が姿を現す。
 彼女も眠れなかったのか、寝間着にも着替えていなかった。

「きぬ殿」
「暇なら、月を肴にこいつでもどうだい」

 手にしたお盆には徳利と杯が乗っている。こちらの返答も聞かず、夜鷹は隣に腰を下ろした。
 押し付けるように盃を渡し、殆ど無理矢理一杯目を注ぐ。

「嫌いじゃないだろう?」

 悪びれた様子はなく、からかうように口の端を吊り上る。秋には遠いが酒を呑むにはいい月だ。一度頭を下げて、杯を煽る。喉を通る熱さ、心地好い筈なのに、何故か旨いとは思わなかった。

「聞かないのですね」

 しばらく杯を交わし、一息ついたところで甚夜は言った。
 何も言わず酒を呑み続けていた。しかし夜鷹が月見酒を楽しむ為に来た訳ではないことくらい分かっている。
 多分、彼女は話す機会を設けようとしていたのだろう。

「話してくれるなら聞くよ」
「それは」

 それでも自分から切り出さなかったのは、甚夜が話せるようになるのを待っていたから。
 そして話す気が無いというのも正解だった。
 夜鷹が苦笑する。馬鹿にしたのではなく、子供の悪戯を嗜めるような優しさだ。そういう笑みが似合うのは、やはり母親になったからだろう。

「あんたは分かり易いねぇ。ならさ、私の惚気話を聞いてもらおうか」
「のろけ、話……」
「そう。あたしと旦那の話だよ」

 くいと酒を流し込み咽喉を潤す。
 にやりと口の端を釣り上げて、彼女は自慢げに語り始めた。

「私は元々夜鷹、街娼でね。江戸で適当に男を見つけて体を売って暮らしてた。あんたの父親と知り合ったのもちょうどその頃。直次様……旦那と会ったのも」

 在る雨の夜、二人は偶然出会い、ちょっとした騒動を経て親しくなった。
 夜鷹と言えば最下級の街娼、武士どころか庶民にも唾を吐きかけられるような存在だ。
 しかし直次は武士でありながら夜鷹になんの偏見も持たず接した。
 女心の分からぬ男で、偶の逢瀬で行きつけの刀剣商を訪れたり、誰に聞いたのか如何にも覚えたての花の知識を披露しながら贈ってみたりと、夜鷹を呆れさせることも多かった。
 けれど彼は朴訥で真面目な人柄で、金で体を売る女であっても誠実な接し方を繰り返した。
 
 そんな不器用な彼にこそ心魅かれたのだろう。
 二人はいつしか恋仲になり、夜鷹は夜鷹でなくなる。
 娼婦を辞め、かつて捨てた筈の名前、きぬを名乗るようになった。
 直次はきぬを嫁にしたいと母に願った。
 簡単に許されるはずがない。武士の結婚は見合いが殆どだったし、なにより家の長男が娼婦と結婚するなど母には認められる筈がなかった。
 
 それでも直次は諦めない。きぬを嫁に迎える為、自分の母親に土下座して頼み込んだ。
 母は言う。『武士が軽々しく頭を下げるものではありません』
 直次は言う。『きぬに比べれば軽くて当然でしょう』
 大真面目に答えて、ひたすらにこうべを垂れ続ける。
 傍から見れば間抜けでも、夜鷹にとっては最高に格好いい男だった。

「なんだかんだでお義母様が折れてくれて、私達は結婚した。子供も生まれて、そりゃあ幸せだったよ」

 それも長くは続かなかったけれど。
 異国の影響に幕府の衰退、時代は変わり往く。
 涙を流すのは何時でも力ない者だ。
 見捨てることは出来ない。彼は武士であり過ぎた。
 脱藩し新しい世の為に戦うと直次は言う。
 止めることはしない。寧ろ着いて行こうと決めた。
 直次にとっても意外だったのだろう。本当は、きぬには江戸に残ってほしかった。
 何か出来る訳ではない。だとしても、彼の傍にいようと思った。
 彼の選択は誰に恥じるものでもないと、貴方は正しい道を選んだのだと伝えられるように。

「勿論、一緒にいたかった。でもそれ以上に、あの人の迷いを晴らしてあげられる自分で在りたかった。いけないねぇ、どうにも我が強くて。結局あの人の前では、夫の後ろに控えるような可愛い女ではいられなかったよ」

 其処から先は甚夜も知るところである。
 直次は戊辰戦争に参加し、マガツメの手によって鬼へと堕ちた。
 きぬの下に帰ることは出来たが、明治の世は彼にとって少しばかり住みにくかったらしい。
 失われていく刀の意味を繋ぎとめようと辻斬りに身を落とし、最後には甚夜に挑み命を落とした。

「ちゃんと聞いてたんだ。自分は鬼に堕ちた、あんたの親父さんに決闘を挑む。何一つ為せなかった刀にも、最後には振るうに足る意味がほしいって。……本当に、馬鹿な人。あたしたち家族三人が普通に暮らせる世を作ったのに、意味が無いなんて言うんだからさ」

 そう思っていてもきぬは、やはり止めることはしなかった。
 例え今生の別れになるとしても、直次の願いを、意地を、その生き方を。
 否定することだけは出来なかったのだ。

「断っておくけど、あんたの親父さんは恨んじゃいないよ。あいつも不器用だからねぇ。直次様の言葉をまっすぐに受けて、真っ直ぐに返したんだろうさ。男の意地の張り合いに、女が口出しはしちゃいけないと思ってる。だから、例えあいつが直次様を斬ったとしても、感謝こそすれ恨むのは筋違いだ」

 語り終えた夜鷹は、空になった甚夜の盃に酒を注ぐ。
 月に濡れた老淑女の佇まいには薄絹のような憂いがあって、だから彼女が堪えている感情に何となく気づいてしまった。

「後悔、しているのですか?」

 口にした問いは意識してのものではなかった。
 思わず零れ、言った後で気付いた。それを夜鷹も感じていただろうに、自分の盃を空けて、冬枯れの花を想起させる物悲しい微笑みで答えてくれた。

「当たり前だろう? あたしは自分の選んだ答えが間違いだなんて思っていない。それでも苦しいとは感じるし、少しは考えるさ。あの時直次様を止めていたら、違った今があったのかもしれない。そんな風にね」
 
 ああ、彼女のいう通りだ。
 今迄歩んできた道程に後悔はなく、これから進む先に不安などない。
 なのに、なぜこうも苦しくなるのか。
 甚夜は何かを避けるように俯き目を伏せた。すると夜鷹は、すっと手を伸ばし甚夜の頬に触れ、頬から顎へ、指で輪郭をなぞった。

「正しい道を選べたって後悔くらいするさ。人間、そこまで強くはなれないよ」

 その感触に顔を上げれば、夜鷹ははにかんだような、困ったような、名状しがたい表情を浮かべていた。
 懐かしいと、そう感じさせる。
 いつか言葉を交わした夜鷹が其処にはいた。

「貴女も……?」
「これでも結構泣いてきたんだよ。忠信に聞いてごらん、母さんは泣き虫だなんてこと言うに決まってる。いつだってあたしは後悔してきた。あんただって、そうじゃないのかい?」

 何も答えられなかった。
 自分がどう思っているのかさえよく分からなかったからだ。
 それを見透かすように夜鷹は言う。

「何があったかは知らないけど。随分疲れているじゃないか」

 ああ、そう言えば。
 夜鷹は仕事柄か心の機微に敏かった。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物だった。
 いつだって彼女の前では、隠し事なんてできなかった。

「私は、勝たねばならぬ相手に敗北しました」

 だから素直に心情を吐露した。
 今更隠し事をする意味は感じられなかった。

「積み重ねた歳月の中、大切だと思えるものを見つけた。間違えた生き方でも救えるものはあると。憎しみに身を窶してもそれが全てではないと。“力”ではない“強さ”の価値を、出会えた人々が教えてくれた」

 間違えた始まりであったとしても、その身との途中拾ってきたものは、けして間違いではないのだと。
 在り方を濁らせる余分も、己を作る一つなのだと、胸を張って言える。
 なのに────

「なのに、その正しさを証明できなかった。それは偏に己の未熟。なにより選択を間違えてきたから。貴女のいう通り、私は後悔しているのでしょう。そして動くことさえ出来ない」

 傷が治ったのに初めの一歩を踏み出せないのは心が戦くから。
 あまりに失くした過ぎたせいで希望を持てないでいる。
 間違えた道の先、辿り着いてしまった今という末路に。
 甚夜はどうしようもなく怯えていた。

「本当に、男ってのは馬鹿だね。いや、この場合馬鹿なのはあんたか」

 夜鷹は穏やかな声音でそう言った。
 母性を感じさせる暖かさ。変わってしまった彼女に、もう違和感はない。歳月の重さを感じながら、ゆっくりと甚夜は頷く。

「はい。私は愚かだった。そのせいで、全てを失くしてしまった」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」

 首を横に振って甚夜の言を否定する。
 彼は自分が間違ったと言う。けれどそれは、少しばかり焦点がずれているのだと夜鷹は思う。

「可哀想に。今まで、誰も教えてくれなかったんだね」

 選んできた道が、間違いだったのかは夜鷹には分からない。
 ただ、彼が何かを間違えたと言うのなら、それは強く在ろうと決めたこと。
 強く在ろうと決めて、願った自分を貫ける程に彼が強かったこと。
 そんなだから彼は、本当なら子供の頃に、誰もが教えて貰えることを学べなかった。

「きぬ、殿?」

 もしかしたら、彼との出会いはこの為に在ったのかもしれない。
 不器用で融通の利かない馬鹿な男が、俯いてしまって明日を見ることの出来ない心が ちゃんと前を向けるように。
 きっと、この琥珀の月夜はあった。

 だから彼に教えてあげよう。
 特別なことじゃない。誰もが知っている当たり前のこと。
 ただそれを伝えるのが自分だっただけ。
 家族ではなく、他人ではなく、恋人でもなく、友達でもなく。
 何者でもない二人だから、無責任に伝えられることがある。
 そうして夜鷹は緩やかに口を開く。





「辛い時は、辛いって言っていいんだよ」





 彼が強く在ろうと決めたから、今まで誰も口にすることの出来なかった言葉を。
 彼女だけが言ってくれた。

「あんたは強いのかもしれない。でも、いつでも強く在る必要はないんだ。当たり前じゃないか。弱音を吐いたっていい、泣いたっていいんだ。辛い時は辛いって言って立ち止まればいい。誰もあんたのことを責めてなんていないさ」

 頭が真っ白になる
 何を言われたのか分からなくて、けれど次第に言葉は心へと染み渡り。

「あ、ああ……」
「馬鹿だねぇ。今迄涙は零せても、しっかり弱音を吐いてこなかったんだろ。そりゃあ動けなくもなるさ。大丈夫、ここにいるのはあたしと月くらいだ。みっともなくても、笑い話で済むだろう?」

 甚夜は泣いた。
 一筋の涙を零すのではなく、子供のように顔を両目から大粒の涙をぼろぼろと零す。
 そんな泣き方をしたのは白雪が死んだ時ぐらい。
 弱音なんて、吐けるわけがなかった。
 巫女守として父として。
 ただ強く在ろうと心に決めて意地を張って生きてきた。

「私は、大切なものを守れなかった」

 こうやって無様に心情を吐露するのは初めてだった。
 堰(せき)を切って流れる弱音。それを嫌な顔一つせず、夜鷹は受け止めてくれている。

「うん、それで?」
「守りたかったものを、切り捨ててしまった」
「うん」
「斬るべきものを、斬れなかった」
「うん」
「私は、何もできなかった」
「うん」
「何もかも、失くしてしまった。本当は…みんな、みんな、守り、たかったのに……っ!」

 後悔だとか、正しい道だとか。気取った科白はいらない。
 ただ悲しかった。寂しかった。人として当たり前の感情を、父だから鬼だからと、様々な理由をつけて見ないふりしてきた。
 それでも耐えられてしまう程度には、彼は強かった。
 動けなかったのはそのツケが回って来ただけの話。
 自分でも知っていた。かつて土浦にも言った筈だ。他人には言える癖に、自分のことはおざなりになっていた。
 本当は、弱くてもよかったんだ。

「本当に馬鹿だねぇ。何もかも抱えてくるから荷物の重さで動けなくなるんだ。ここで少しくらい吐き出していきな。そうすればまた、明日からは歩けるようになる」

 涙に滲む視界。
 空には変わらずに月がある。
 冷たさは息を潜めて、月の光はしっとりと柔らかく辺りを包む。
 夜に流れる風は優しい。案外と、月に住むという仙女が気を利かせてくれたのかもしれない。

「あ、ああぁ」
「大丈夫。何も失くしても、残るものはちゃんとある。だから大丈夫、大丈夫だよ」

 髪を撫でる手が心地好い。
 細く骨ばった、ところどころ傷のある、苦労してきた母親の手だ。
 そうして甚夜は琥珀の月夜の下、しばらくの間涙を流し続けた。





 もう悪夢は見なかった。





 ◆





 五日目。
 布団を抜け出し、着物に着替える。今まで来ていた着物と袴はぼろきれのようになってしまったが、夜鷹が同じ意匠のものを準備してくれていた。久しぶりに寝間着以外のものに袖を通し、軽く体を動かして筋肉を伸ばす。やはり少し硬くなっている。勘を取り戻すのに数日はかかるだろう。
 五日ぶりに、腰に刀を差す。その重さに一つ頷く。やはりこうでなくてはいけない、自然と落すような笑みが零れた。

『旦那様、少しは、疲れは取れたでしょうか』
「からかってくれるな。もう大丈夫だ」

 兼臣との短い遣り取り。強がりではなく、素直にそう言えた。
 随分と長い間立ち止まってしまった。
 しかし大丈夫だ。失ったものは多く、後悔もあるけれど。
 ちゃんと、前は見えている。

「ああ、随分元気になったじゃないか」

 部屋を訪ねた夜鷹は甚夜の様子を見て安心した。安心したから、からかうように生暖かい視線を送っている。
 それを真正面から受け止めて、甚夜は深く頭を下げた。

「きぬ殿。昨夜は有難うございました」
「あたしはなにもしてないさ」
「そんなことは。私には、初めての経験です。泣くと言うのは、悪いものでもないのですね。心が軽くなりました」
「何言ってんだか。そんなこと、そこらを走り回っている子共だって知ってるよ」

 軽く笑い合う。笑い合うことが出来た。
 あんなにも重かったからだが嘘のようだ。これなら、しっかりと歩いて行ける。

「お世話になりました。そろそろ行こうかと思います」
「そうかい、残念だが仕方ないね」

 別れの際だ。自分は息子でなく本人だ、そう言おうとしたが止めておいた。
 夜鷹は知り合いの息子、その程度で面識のない相手でも手を差し伸べてくれた。その心を大切にしたかった。
 世話になったから金を払うと甚夜が言い、そんなものはいらないと夜鷹が突っぱねる。そんなやりとりを何度か交わし、二人は玄関に辿り着く。結局甚夜の方が折れて、もう一度頭を下げて終わりとなった。

「では、きぬ殿。貴女に会えてよかった。本当に、お世話になりました」
「こんなおばさんに言う科白じゃないと思うけどね。ああ、そうだ。親父さんと瓜二つって話、なしにしといてくれ。あんたは、親父さんより随分男前だよ」

 ばん、と甚夜の背中を叩き、彼女の方こそ男前な笑顔を浮かべる。

「なんせ、あいつはほんとに頑固だったからね。そうやって素直な方が可愛げがあるってもんさ」

 少しだけ嬉しかった。
 可愛げがあると言われたことが、ではなく。
 あの頃から少しでも変われたのだと認めて貰えたような気がしたから。

「じゃあ、行ってきな。泣きたくなったらまた来ればいい。まあ、そんな心配はもういらなそうだけどね」
「はい。ありがとうございました」

 散々泣いて、背中を押されて、甚夜は初めの一歩を踏み出した。
 今まで足を止めていたのは、摂るに足らない恐れだった。
 歩き出した今なら、そう言える。
 強くなったと思っていた。
 なのに何一つ為せなかった。
 守れなかったもの、失くしたもの。後悔はいつも胸に付き纏う。
 
 それでも、 残るものはちゃんとあった。
 
 甚夜は、誰かの前で泣けるだけの『弱さ』を手に入れた。
 積み重ねた歳月の果てに得ることが出来たものにしてはちと物足らない。
 けれど、それは確かに残った。
 傍にいられなくても残るものはちゃんと在る。
 幸福の日々が残してくれた暖かさは、今も胸に息づいている。
 




 

 振り返ることも、足を止めることもしない。
 今はただ、この偶然の再会がくれたものに、琥珀の月夜に感謝して、ただ真っ直ぐに前を向く。

『何処に行きましょうか。旦那様』
「さて。歩きながら考えればいいだろう」
『ふふ、そうですね』

 交わす言葉さえ軽やかに。
 そうしてまた彼は流れる。
 


 一人静、風に揺れ。
 京の町に別れを告げた。
 



 鬼人幻燈抄 明治編・終章『一人静』了


 










「あれ、母さん。甚太さんは?」
「ああ、怪我がよくなったみたいでね。今日出てったよ」
「えー、本当に? もう少し話したかったんだけどなぁ。お父さんのこととか、あと、野茉莉ちゃんのこととか」

 忠信が仕事から帰ってくると、既に甚夜はいなくなっていた。
 母の自室に様子を聞きに行けば、きぬはなにやら書き物をしている最中で、顔も向けずにいなくなった旨を伝えられた。
 心底残念そうに忠信は顔を顰める本当はもっと仲良くなって、父親や野茉莉ともう一度交流を持ちたかったのだが。

「今どこに住んでるとか聞いてないの?」
「そういや忘れてた。ま、どっちにしろ京から離れるみたいだったけどね」
「そっかぁ」

 重ね重ね残念だ。やはり自分と野茉莉ちゃんは縁が無いのか、などと初恋の相手の顔を脳裏に浮かべてみる。
 少しだけ拗ねたように唇を尖らせるも、きぬは我関せず筆を動かし続けていた。

「母さん、さっきから何書いてるの?
「んー、手記。あたしの人生もいろいろあったからねぇ」

 ここで言う手記とは、自分の体験やそれに基づく感想を綴ったものである。何が嬉しいのか、きぬは面白そうに文字を綴っていく。

「ふぅん」
「なんなら、書きかけだけど読んでみるかい」

 若干興味はあったため、忠信はそれを受け取りぱらぱらと読み進める。
 ちなみに内容はひどいものであった。
 直次と夜鷹の恋物語。 
 多少の誇張はあれど、父から聞いたものと大差はない。実直な父だ、嘘を吐いたとは考え辛いし、この手記の内容は殆ど事実なのだろう。

 ただ直次の友人である甚夜という浪人の扱いが致命的に酷かった。
 剣はそこそこ、万年金欠で、直次に蕎麦を奢ってもらい食いつないでいる。喜兵衛という蕎麦屋に通っているのは、それを期待してのことである。
 おそらく見せ場として設定されたであろう、夜鷹に黒い影が襲い掛かる場面では、助けに来るも一歩間に合わず結局直次が解決してしまう。
 子供が出来てからは親馬鹿で、娘の言葉に一喜一憂して辺りを走り回る。
 その他もろもろ、手記中ではおもしろおかしい三枚目として描かれている。

「なぁ、これ甚夜さんのこと悪く書き過ぎじゃないか?」

 勿論、忠信の記憶の中にある甚夜の姿とはまったくもって一致しない。
 浪人であるのは事実だが、父はその友人を誰よりも信頼していた
 剣の腕に至っては「刀一本で鬼を討つ」とまで謳われた剣豪で、庭で稽古をしていた時も父は簡単にあしらわれていた。
 子供にとって強いというのはそれだけで憧れの対象だ。御多分に漏れず忠信も、子供の頃は無骨な太刀を操る剣豪の姿に微かな憧れを抱いたものだ。

「いいんだよ、これで」

 しかしそんな忠信の反応を見ながら、きぬはおかしそうに笑う。
 それこそが狙いだと言わんばかりの自信に溢れた態度だった。

「あいつが読んだ時、こっちの方がおもしろいじゃないか」
「読んだ時って、そんな機会ないと思うけど」
「何言ってんだい。もう会うこともないと思っていた奴と再会できたんだ。これからだってそんなことが無いとは限らないだろう?」

 きぬは忠信から手記を取り戻し、再び書き始めた。
 相変わらずにまにまと、実に楽しそう書き進める。
 しかし彼女は不意に、何処か悪戯っぽく微笑んだ。

「だからいつか、十年か二十年か。もっと先になるかもしれないけどね。何かの偶然で、この手記が残って。何かの偶然で、あいつの手に渡って。もし読んだなら、こう言うんだ。『中々面白い。だが、悉く私が無能に描かれているのは解せんな』、なんてね」

 その姿を想像しているのか、筆を止めたきぬは目を細めた。
 遠く未来を見つめているのか、懐かしい過去を眺めているのか。
 どちらかは分からないが、彼女の語り口はとても優しい・

「懐かしんで感傷的になるだけが思い出じゃないよ。思い返して、何してくれてんだあの馬鹿女は、とでも思ってくれればいいんだ。そう思えたならきっと、あいつは泣かずに笑ってくれる。誰かの隣で私に悪態ついてくれれば最高さ」



 もしもの話をしよう。
 例えば、あなたの前に切り立った崖があるとする。
 そこに、あなたにとって大切な二人がぶら下がっている。あなたは一人しか助けられない。
 さて、あなたはどちらを選ぶ? 
 どちらに手を伸ばす?

 その問いに、答えられなかったのが平吉だ。
 野茉莉と東菊。どちらも大切で、選ぶことが出来なかった。

 その問いに、答えたのが甚夜だ。
 野茉莉と白雪。選んでしまったが故に、選ばなかった方を自ら斬り捨てることになった。

 どちらが正しいという話ではない。
 答えは人の数だけ存在する。
 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 そして往々にして、並べられた選択肢には間違いしかない。
 正しい未来だけを選び取って生きていくなんて、きっと誰にもできないことだ。

 だから本当に大切なのは、“何を選んだか”ではなく“どう生きたか”。
 間違いを選んだ先、訪れるであろう困難を真摯に受け止めて、前を向いて歩いていくこと。
 もしも、そう在れたのならば。
 どちらを選んだとしても、どちらも選べなかったとしても。

“大丈夫、あなたは間違ってなんかいない”と。

 あなたに、そう言ってくれる誰かがいるだろう。


 葛野甚夜は間違い続けてきた。
 けれど選んだ答えを投げ出したことは一度もなかった。
 だからこそ与えられた救い。
 琥珀の月夜は、彼が確かに前を向いて歩いてきた証。

「だから“浪人”、安心しな」

 いつかこの手記が、“雨夜鷹”が彼の目に留まればいいと思う。
 そしてどうか、彼がこの手記を紐解く時には。
 隣に、馬鹿な彼を笑ってくれる誰かがいてくれますように。

 願いの行方を、彼女が知ることは叶わず。
 しかしここに想いを綴る
 愛でも恋でも友情でもない。
 彼女の想いを形にするならばこんなところだ。
“必死に頑張った貴方が、いつか報われますように”
 誰もが思う、当たり前の感情。

「何もかも失っても、残るものはちゃんとあるから」

 言葉を風に乗せるように、そっと夜鷹は呟く。
 今を生きる者には、遥か遠くは見通せない。 
 だから想いが本当に届くのかは、彼に確かめて来てもらうとしよう。

 そうして彼女は去っていた背中に、小さく小さく祈りを込めた。
 


 次話 鬼人幻燈抄 大正編『コドクノカゴ』





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