狩人は、茂みの向こうを透かし見るようにして、獲物を見つめていた。
緑なす草原に、長耳を揺らして口を動かすウサギ。
小さな口を小刻みに動かし、柔らかな青物を一心に食んでいる。長い冬枯れの時期はすでに過ぎ、季節は青く萌える春。
暖かな日差しの中で、心にほんの少しだけ恵みをむさぼるのに集中する。その油断こそが、狩りの絶好のタイミングだ。
口元を笑みに歪ませると、シェートは素早く腰から短弓を引き抜き、矢筒から粗末な木矢を一本取り出して番えた。
水平に弓を倒し、左手を押し出しながら右肘を体に沿わせて弦を引く。長いマズルの下に矢柄をあてがい、黒く濡れた鼻先に獲物を収める。
引き絞り、体を充実させる。
力がみなぎり、矢の先に己の全てが収束していく。
異変を感じたのか、ウサギがふらりと耳を動かし、わずかに前傾姿勢をとる。
その瞬間、ひょう、と風を切る音が鳴り――
「キーッ」
短い悲鳴を上げ、獲物は草地に転がった。
駆け寄ると、シェートはウサギの足を掴んだ。獲物は大きく、重かった。毛並みも見事だし、締りのいい肉をしている。
年を越した若い奴だろう。品定めを済ませると、腰に結わえてあった蔓で素早く縛り上げ、背中に背負う。
「これで、よし」
これで村の仲間達にも言い訳が立つ。草地の中に立ち、シェートはほっと息をついた。
今日は一人で狩りに出ると言っていたから、このぐらいの獲物を持って帰れば十分だろう。
村の誰もが今日の『本当の目的』を知っていたとしても、言い訳ぐらいはさせて欲しかった。
道らしい道もない草原を、シェートはのんびりと歩き出す。
吹き渡る風に銀灰色の毛をなびかせ、上機嫌に緩んだ顔は犬に似ていた。服は草で編んだぼろ布のようで、粗末な道具袋と矢筒、短弓と山刀を差している。
ふと、帯代わりの蔓に引っかかった小袋を取り出し、中身を取り出した。
摘み上げられ、晴れ渡った空に掲げられたそれは、同じぐらい蒼く透き通った輝石。
二つ向こうの山の奥、人間達もめったに足を踏み入れない沢。その水底に時々見つかるこの石は、ルーとの番(つがい)の儀式のためにわざわざ取りに行ったものだ。
儀式と言っても、そんなに難しいことはしない。番となる雄が、雌に対して適当なものを与えるだけ。それを雌が受け取って晴れて番になれる。
それでもシェートは、一番のものをルーに与えたかった。
ルーとは長い付き合いだ。それこそ子供のころから知っている。かけっこや、魚撮り、おもちゃの弓で鳥を射る、そんな遊びでいつも一番だったルー。
彼女が長の娘であり、ゆくゆくは良い雄を選んで、番わされることになると気が付くまで、いや気が付いた後でさえも、シェートは彼女と一緒にいた。
そして、これからもずっと一緒にいるために、走るのも、狩も、同じかそれ以上になるために励んだ。
いつの間にか、自分は村一番の狩人と呼ばれるようになり、ルーも自分と一緒になることを望んでくれるようになった。
大好きなルー。茶色のかわいい、俺の和毛。
「……ん?」
甘い想像にひたっていたシェートは、いつのまにか姿勢を低くしていた。二つの耳がひくひくと動く。
音が、聞こえた。
大きな、何か不吉な気持ちを掻き立てる、巨大な騒音。
草原の向こうから風が運んでくるのは、きな臭さ。
黒くたなびく煙が、草原の向こうに雷雲のように沸き立っていた。その根元の方からほとばしるのは、激しく何かが燃え上がる閃き。
「……っ!」
弾かれたように走り出す。
広くもない草原を抜け、シェートはその淵に立つ。
足下の粗い岩肌の斜面、そのはるか下に自分達の村はあった。
「……っ!」
狭い川を目の前に、切り立つ崖を背にした、狭い土地。そこには粗末な掛け小屋が立ち並び、集会をするために作られた小さな櫓が立っている。
その全てが、燃えていた。
距離を隔て、毛皮を通しても分かるほどの熱気と、それに煽られて舞い上がる黒煙。
麓の村に、長いものがいくつも転がっている。
それが何であるか気が付くのと同時に、シェートは崖を勢い良く滑り降りていた。
「……ルー!」
広がっていくシェートの視界に、仲間の骸が嫌になるほどくっきりと映り込んだ。
1、勇ましきものと人の言う
まるで鍛冶場のような熱気。全てが燃え盛り、吼え脅すような絶叫を上げている。
炎が踊り、天へ伸び、辺りを黒い煙で包み込み始めていた。
「ルー! どこだ!」
「シェート? シェートか!」
声に振り返ると、こちらを見つけたカイが走りよってきた。
「カイ! だれが襲ってきた!? みんなは!? ルーは!」
茶色の毛並みをあちこち焦がしたカイは、恐怖に顔を歪めて首を振る。
「知らない! いきなり炎が弾けて村が燃えた! みんな逃げた! お前も早く!」
「わかった!」
走り去る同族を見送る暇もなくシェートも走り出す。
襲撃があったときの取り決め。
全ての家財、食料、金品を家の外に放り出す。
家に火を掛け、混乱にまぎれて女子供を隠れ家に逃がす。
戦えるものは襲撃者をひきつけ、それを見届けてから自分が逃げる。
これだけやっておけば、一族が半分以下になることは無い。
小銭にも貪婪な目を光らせるゴブリンや、食い気の先走るオークの足は止められるし、
体の大きなオーガや皮膚の厚いトロールにも、火という暴力を背にすればいくらか持ちこたえられる。
相手が人間なら話はもっと簡単だ。やれることをすべてやったら、別々の方向に逃げ走り、峻険な岩山に入り込めばいい。
ずんっ、と腹に響く轟音がシェートの物思いを打ち破った。
何かがおかしい。家が燃えている、それはいい。しかし燃え方が不自然だ。
逃げる時の取り決めでは家の奥、柱の辺りに火を掛けて、燃え広がるまでの時間を稼ぐようにするはず。
火はほぼ例外なく、屋根から燃えていた。つまり外の攻撃で行われたということ。
「こっちはだめだ! 燃えて通れない!」
「ふもとの方角がひどい! 川へ!」
燃え盛る炎の壁のどこからか、避難を導く声がする。だが、隠れ家は山腹の隠し洞窟にある。川に行ったのでは遠くなるばかりだ。
「だめだ! 川には行くな! 火をよけて山へ!」
「山は無理だ! 火で道がふさがってる! いったん川へ……」
振り返ると、自分が来た方向が真っ赤に燃えていた。家どころか、何もない道にすら壁が出来ている。
「火の……壁?」
自分で口にした言葉に、灼熱の中にさらされたシェートの背骨が凍える。ずっと昔に聞いた、魔法を使う連中の話。
水や風を操り、雷を降らせ、炎を自在に躍らせる奴らが来ている。
「川に行くな! 罠だ!」
逃げ道を塞ぎ、包囲を一箇所だけ緩ませておく。鹿狩りと同じだ、この襲撃はそういうことを考えられる奴の立てた計画だ。
「罠だ! 川はだめだ!」
叫び、走り出す。
でもどうすればいい、川はだめだと言っても、この火が魔法の仕業なら、自分達にはどうしようもない。
「だ、だめ……けふっ……川はっ……」
世界が熱く煮えたぎっている。突き刺すような光の乱舞に目が眩む。
いつの間にか炎の包囲がそそり立ち、世界を圧倒していた。赤い壁と黒い天幕に覆われて、現実感が喪失されていく。
「みんな……川は……」
ぼんやりした頭に乱れた思考が浮かぶ。火を越えるには水がいる、でも川はだめだ。
それならどうすればいい。
必死にさまよわせた視線に、素焼きの甕が映った。
「み……みず」
まだ少し残っているかもしれない。あれをかぶって外に出れば。
そう思い歩み寄った甕には、誰かが取りすがっていた。その周りに溢れかえった水。
「……カイ?」
たぶん、それが誰だかわかったのは、幼馴染だったからだろう。
うつぶせに倒れた犬のような姿、その背中は斜めに断ち割られ、背骨どころか内臓すらはみ出るほどに砕けていた。
一撃を喰らった時の衝撃が大きすぎたのだろう、目玉が飛び出、舌がだらりと垂れ下がっている。水だと思ったのは、流れ出た血。
肉塊になった幼馴染のすぐ側に、文字通り真っ二つに裂かれた死体が転がっている。
木炭の塊と化した小屋の側に別の死体。
なめした皮を掛けておく物干し台が砕け、その下にも転がる死体。
煮炊きをする共同の釜場に、併設された鍛冶場に、おびただしい量の死体が倒れ伏す。
皆悉く、殺しの限りを尽くされていた。
四肢を切り飛ばされた者がいる。口吻を潰された者がいる。
いちどきにやったのか、首を飛ばされた死体が累々と横たわったところもあり、何かの魔法で焼かれ、穴だらけになった死体も多くあった。
逃げるところに追いすがられ、無造作に背中を突き通された死体もあった。そういうやり口をされたものは、大抵子供を抱いて逃げようとした女達。
「あ……」
ぶるり、と体が震えた。
狭い村の見知った顔の多くが、この場で殺されていた。
しかし、これだけの惨状を展開しながら、足跡が驚くほど少ない。
自分達を駆逐するために人間が押し寄せたのなら、魔法使いだけでなく鎧で身を固めたものも連れてきているはず。
だが、それらしい足跡は、たった四つしかない。
(一体……なんだ、これは)
混乱して固まったシェートの傍らで、家がめきめきと音を立てて燃え崩れた。
「うあああああっ!」
柱が砕ける、火の粉が羽虫の波のようにシェートに襲い掛かる。
「うわ、うわあっ」
とにかく、どこかへ逃げないと。
必死に火を払い落とし、そのまま駆け出そうとした。
「や、やめろっ、近づくな!」
炎の幕を貫いた声に、シェートの体が止まった。
聞き間違えようもないあの声。
「ルー!」
叫んで走り出した胸の中に、安堵と恐怖がでたらめに流れ込む。
まだ生きていた。しかし、ルーの叫びの中に満ちていたのは、直面した死への恐怖。
何かに襲われている、それが何であれルーには勝ち目がないのだ。
なぜなら自分達は『世界で一番弱い』と定められたものだから。
「ルーッ!」
壁が自分とルーとを隔て、目の前で盛んに赤い手を振り上げる。
それでも、シェートは走った。
火山のように燃え上がる家々、その一部にわずかな隙が見える。自分ひとり通れそうな隘路。顔を腕で守り、体を固めて、シェートは勢い良く飛び込んだ。
「あつうっ!」
自分の右手に燃え移った火が毛皮を、皮膚を焼き焦がす。赤い舌があっという間に腕に広がり体を舐めようと版図を広げる。
「くううああああああっ!」
それを無理矢理体に押し付けた。じゅうっ、と嫌な音が耳をいたぶるが、痛みも苦しさもかみ殺して走る。
「ルー!」
声が聞こえない。何度呼んでも返事がこない。
それでも方角はあっているはず、そう信じて必死に突き進む。いつ終わるとも知れない炎のトンネルを、毛皮を、尻尾を焦がして走る。
出し抜けに、世界が冷えた。
「え……?」
今までの熱さが嘘のように、そこはあらゆる燃焼が遠ざけられていた。炎は周りを取り囲んでいるが、決して一定の距離以上は近づいてこない。
そしてシェートは、そこが村長の家の前であることに気が付いた。
他のものより少し立派だが、粗末としか言いようのないそれ。
その周囲に、弓や山刀を手に倒れた仲間達が転がっていた。
みんな村ではそれなりに『強い』といわれていた連中。
「う……」
むせ返るような血の臭いのする場所に立つ、四つの影。その一団で一番背の低いものでも、自分の頭二つ分は大きかった。
それぞれが手に武器を持ち、何かを囲んでいた。
彼らの前で倒れ付すの、血まみれの毛皮の塊二つ。
そのうち一つを見たとき、シェートは絶叫と共に弓を引き絞っていた。
「おまえら! よくもルーを!」
全ての視線が、こちらを向いた。
「あれ、まだいたのか」
そう言ったのは、その中でも一番若そうな『人間』だった。
蒼い輝石を固めて創ったような鎧。装飾のために小さな宝石がいくつもあしらわれ、金で文様が描かれている。
手甲もブーツも同じ意匠で、たった今磨き上げられたかのような光沢を放っていた。
片手に携えているのは一振りの長剣。血溝にあたる部分に象嵌が為されており、白刃には血の曇りすら残っていない。
短めの髪の毛は黒く、瞳の色もそれに近い。顔は平板で肌は白というより、薄い黄色とでもいうべき色合いだ。
「逃げ遅れた仲間を探しに来た、といったところでしょうな」
その後ろから、鉄の塊のような鎧が進み出た。兜をかぶっているために表情は分からないが、太い声と紋章を施しただけの装甲から、どこかの騎士だと分かる。
「もっけの幸いです。ここで殺しましょう」
「残ったのはあいつだけみたいだし、どう見ても死に掛けだけど?」
「慈悲をかける必要はありません。あれは魔物です」
皮鎧にケープのようなもので身を飾った女が、そういい捨てる。
白金の長髪に細面、鎧の上からでも分かる豊満な胸と、片手に持った銀製らしい法杖。人間の雄の目を惹きつけるだろう容姿のそいつは、嫌そうに眉間に皺を寄せていた。
「一匹でも取り残せば禍根になります。第一、生きていても害悪になるだけの存在、殺すことこそが御心であり、慈悲です」
「魔物に情けなんて、あんた、時々不思議な思考をするよね。それもそっちの世界の常識って奴?」
結い上げられた赤髪に長いマント、皮の旅行着に長い杖。いかにも旅の魔法使いといった風情の女が付け加える。金髪に比べてこちらの胸は控えめに見えた。
「いや、仮想とはいえモンスター散々狩ってるから、今更そんなこと言うのもなんだけどさ。生きて喋ってるの見ると、ちょっとな」
「では私達で片をつけますか?」
「いや」
若い男は肩を竦め、剣を構えて、笑った。
「経験値稼ぎはゲームの基本だから」
弓を引き絞ったまま、シェートはうろたえていた。
目の前の人間達は、自分のことなど脅威とも思わずに会話をしている。それどころか、青年は防御の構えすらせずに、無造作に歩み寄り始めた。
確かに自分達は弱い、でもあんな風に兜も付けず、むき出しの頭や首をさらしてくるなんて。
「く、来るな!」
「無駄な抵抗はしない方がいいぜ。苦しむだけだから」
「来るなぁっ!」
ゆんっ!
弦が唸り、木矢が唸りを上げる。狙いは間違いなく男の眉間に――
「おっ、あっぶねぇ」
刺さらなかった。
何か、堅い何かにに阻まれ、力なく転がる一撃。
「最弱って割には、結構やるよなぁ」
「コボルトといえど魔物は魔物。侮らないのが肝要です」
世間話の合間に、彼我の距離が詰まる。
身につけた具足の重さも感じさせない、軽い足取りで。
「お……お前……いったい、なんなんだ!?」
目の前に立ちふさがる恐怖に、膝がくず折れる。
尻尾が萎えて地面に伏した。
男の股の向こうに転がる、血袋になった最愛の者すら目に入れられないまま、コボルト族の青年シェートは絶望を見上げる。
「俺の名前は逸見浩二(いつみこうじ)」
鳥のように軽やかに、切っ先が舞い上がる。
「世界を滅ぼす魔王を倒すために、この世界に呼ばれた勇者だ」
そして、刃は振り下ろされた。