<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[36842] あやしや/いなき 六孫王暗殺篇【サイバーパンク剣戟】【完結済】
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/25 13:08
人類が撤退して数百年経過した仮想世界〝八百八町〟では、AIが勢力を二つに分け長く争いを続けていた。 二つの勢力の一つ〝九重府〟に属し、バグを抱えたAI〝憑人〟を狩る暗殺者いなきは、もう一つの勢力〝六孫王府〟の本拠地・深川永代島に訪れていた。義妹と共に、彼女の母親の仇にして父親である永代島の王〝六孫王〟を暗殺する為に。 その旅路には、彼自身の仇である〝蠱部尚武〟の娘、あやめが随行していた――

【前書き】
・この話は、講談社BOX刊の拙作「あやしや/いなき」の過去篇という位置づけで書かれたものです。製品版が売れずに単なるワナビに戻ってしまったので、趣味として書ききれなかった話を投稿させて頂きます。
本編とは独立した話として作ったつもりなので、製品版にノータッチでも内容は分かると思います(そうでなければ、単に作者の腕の問題です)。
・エログロ過多の内容ですので、ご注意下さい。
・先日オリジナル板に投稿した作品ですが、「商業物を扱った作品であるなら、作者自身が書くとは言えオリジナル板には相応しくない」と指摘されてチラ裏に移行させて頂きました。

【追記】
とおりすがり◆9c63fa87様の勧めでオリジナル板に戻りました。
問題があれば撤退します。



[36842] プロローグa/兄妹契約
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:26
 ――全ては終わったんだ。
 それが、自分の名前以外で最初に記憶した言葉だった。

 その後、少女は地を這いずり始めた。
 元いた場所とさして変わらない清潔で、胸の痛むような空気の漂う宮殿の中、両手で床を掻いて進む。爪が割れる程に力を入れても、いくらも進まない。腿から先の消え失せた右足では地虫の真似すら難しかった。数刻もかけて通路の端に辿り着いては病床へ連れ戻されるのを繰り返した。昼に見張りが立てば夜に抜け出した。渡された鎮静剤は飲む振りをして捨てた。激痛に苛まれたが、それでも自分はここに留まる訳にはいかなかった。

 しばらくしてから、医者と、監視役を押しつけられた同心が彼女を牢に幽閉する事を相談しているのを聞いた。彼女が言葉を覚えつつあるのを知らなかったのだろう。看護人が渡した書物を読み、人の会話を聞いて、彼女は言語を獲得していた。
 初めの言葉の意味も知った。

 だから、閉じ込められる訳にはいかなかった。
 苦痛を枷のように引き摺りながら、少女は必死で宮殿をさまよった。覚えたばかりで、上手く伝わるか自信の無い言葉を絞り出す。それの名前を、その持ち主達へと。この宮殿には、そうした人間が数多くいたのだ。
 ――〝けん〟を、おしえてください。
 きっとそれは、自分に必要なものだ。

 暗い穴となった右目から、赤い血が流れて包帯を染める。消えた眼球が見定めた最後の光景がいつまでも、右半分の視界の中にある。
 引き裂かれた女と、引き裂いた怪物が。

(……ってない)

 這いずる少女を遠巻きにして、忌避の目線を注ぐ群衆の中、少女は吐き出すように胸の内に言葉を落とした。

(おわって……ない)

 言葉を作る事で力が生まれる。一度では砂粒ほどの儚さで、だから何度でも繰り返した。

(おわってない、おわってない、おわってなんかない……っ!)

 ――殺さないと。
 あの怪物を、殺さなければ。
 そうでなければ――

(だから……だから……っ)

〝それ〟を、わたしにください。
 お願いします。
 お願いしますから。
 だれか――


「これが、欲しいのか」


 いつの間にか、群衆から一人が進み出て、彼女の前に立っていた。
 この場にいる誰よりも小さくて――誰よりも怖い顔をしていた。
 周囲の群衆の作る円は檻のようで、少年は檻に入り込んできた狼のようだった。
 怯える少女に、少年はもう一度繰り返した。

「これが、欲しいのか」

 そうして少女の前に跪くと、容れ物に収まっていたそれを抜き放った。
 きらきらと光って、きれいな銀色の羽根のようだった。
 吸い込まれるように少女はその輝きに見入って、首を頷かせた。
 少年は、そうか、と呟いて。
 銀の羽根を、その手で握り込んで隠した。
 少女の目の前に、羽根の根本が差し出された。

「取れ」

 望んでいたものを渡された喜びよりも、脅された恐怖に突き動かされて、少女は羽根の根本を握って引いた。
 少年は怖い顔のまま眉一つ動かさず、獣の口のように裂けた掌を差し出した。

「これが〝剣〟だ」

 少年の言葉を正しく理解する知恵が、少女にはあった。
 それは、とても怖い事だった。受け入れてこの先に進めば、自分は必ず不幸になる。この少年は悪魔の使いだ。全ては終わったんだ――あの言葉は福音だった。
 恐ろしさに柄から手を離しかけて――
 こぼさないよう、強く握り込んだ。
 少年はそれを見定めて、「そうか」と言った。
 初めて、怖い顔でない顔になった。
 今この時の少女には、それを怖い顔でない顔としか表現できなくて。
 だから、羽根を自分の掌に押し当てて、引いた。

〝あの時〟と同じ鮮烈な痛みが走る。
 少女は、少年の提示したものだけでは足りない理解をその激痛で補った。
 これが、剣か。
 左手を、涙のように流れ落ちていく血を眺めて、少女はそれを少年の左手に重ねた。
 濃さの違う赤が混じって、互いの腕を辿っていく。
 少女は、覚えたばかりの言葉を使って、誓いを告げた。

「これで、わたしたちは〝きょうだい〟です――にいさま」



[36842] プロローグb/殺(あや)し屋
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:27
 夏の陽炎の中を、祭礼の輿が行く。
 輿を頭に見立てた長蛇の体色は清浄の白。列を形作る者共は白の裃(かみしも)を着込み、腰の差料の柄には白紙を巻いている。舌の役を為す露払いらの魔除けの禹歩に合わせた歩みは鈍く、盛夏の大気の分厚さが、油蝉の鳴く音の波が蛇の鱗にのし掛かる。しかし彼らは、周囲の騒々しさに比して不気味とすら思える程の静粛な歩みを止めない。弓持ちが梓弓を担ぎ直す動作も非礼として忌避される。蛇の鱗には少なからぬ数の女も、元服して間も無いであろう少年も含まれていたが、彼らが鱗の並びを乱す事は無かった。

 機械的な群体ですらなく、一つの生物として機能していた。
 士(さぶらい)、という名の生き物。
 神使の白蛇は、段葛(だんかずら)の果ての逃げ水を追ってずるり、ずるりと這い進んでいく。社へ還る為に。

 ――八百八町(はっぴゃくやちょう)南東の地、深川・永代島に建立された八幡宮は、一度戦乱で焼け落ちて後に再建された。
 およそ百年前、識与一二六年の乙未(いつび)の変に端を発する大規模な内乱は、その翌年に一応の休戦協定を結び、小康状態に入る。直後に丘陵地に遷宮された社は要路である永代橋を見下ろす位置にあり、参道は先細りの段葛を配された。有事に前線の陣屋として機能するであろう事は明白だったが、行政府たる九重府(ここのえふ)は形ばかりの抗議を行うのみに留めた。

 再戦は確定事項で、とうに芝居の主題としても廃れつつある「破れ橋下の手打ち舟」にて交わされたと双方主張する、序文の時点で既に食い違う「永代橋議定書」の内容は、どちらも縦に読もうと斜めに読もうとその伏線でしかない点のみが共通しており、誰に書かせた芝居の筋でも両軍の将は川から上がるなり八幡神、宗像三女神、双方の氏神の名を記入した起請文を川に捨て、「未那元(みなもと)と多意良(たいら)の戦は神仏も止められぬ」との台詞で結ぶ。

 百年後の戯曲家がそう語るのだから、これは予言でもなんでもなく単なる歴史であり――現時点で常備軍の衝突という意味なら二度、小競り合いなら両手足の指に余る程行われており、戯曲家の知り得ない水面下の陰惨な工作は絶えたことすら無い。
 深川の八幡宮には、始まりの戦を戦った将の一族を祀る廟がある。既に千年近く続く系譜の根たる初代の祖霊を龍の尾として、代々の御霊が龍の腹を形作り、やがて一頭の龍神に成り上がった暁にはこの戦に勝利をもたらすという。

 時の流れに連なる龍。
 王、という名の生き物。
 未那元宗家当主。
 その名跡を、六孫王(ろくそんのう)と称す。



 未那元宗家男子の年祭(※年忌法要)は、奉納した神馬を馬場で行軍させる「出征の儀」から始まる。
 中興の祖たる九代目六孫王の旗揚げの際随行した八騎と合わせ、十騎と定められており、馬丁の引く空の鞍の白馬は、死者が王であれば王太子を先頭にした二番手に。王子であれば先頭の王と並行する。

 今回はそのどちらとも違っている。空の馬が二騎あり、二番手の馬は馬丁の手で引かれるが、先頭の馬の手綱は併行する馬上の武士が握っていた。
 浄衣に烏帽子姿の、少壮の男。
 武人としては平凡な体格。後続の騎馬武者と比べていかにも見劣りしていた。しかし、総身に雑に鏨(たがね)を入れたような尖った造作の発する圧力が、大男の頭も押さえつけ、振り向かせる。そうした非凡な空気を纏う男であった。

 眼前に付き従うべき何者もいないままに、男は泰然自若とした並足で馬を進めていく。
 ――終始、祭礼はその男を実質的な主役として進行した。榊を削り出した木剣を奉幣し、鳴弦の儀の弓頭を務め、祝詞を読み上げる。

「――恐み恐みも申(まお)す」

 結びの言霊と共に再拝二拍手一拝し、男は軍勢の跪く境内に降り立つ。

「傾聴せよ!」

 中背の男の腹から、巨人の如き大音声が発せられた。声は最後尾まで行き渡り、武者どもを同時に立ち上がらせた。

「まずは、祖霊への尊崇の御志強く、幼少の御身体を押して喪主を勤め遊ばされた王太子殿下に拝礼を」

 号令とほぼ同時、誰よりも早く男は隣に待機する輿に跪いた。軍勢がそれに続いて後、立ち上がるのもまた男が誰より早い。自然と、軍勢が男に跪く形になる。
 天蓋に吊された幕に覆われる輿は影も映さない。――無人の座である事を、この場の誰もが暗黙の内に了解している。赤子の泣き声で祭礼が中座する事などあってはならない。

「此度の王兄森羅(しげあみ)公の十七年祭は我、方丈梢継(ほうじょうすえつぐ)が殿下の名代として采配する栄誉を賜った。典礼を滞りなく勤め上げる事相叶ったのは、偏に累代の龍王の霊験加護によるものと存ずる。我ら六孫王府五千騎の兵に功徳無し。藩屏を成す一握の石塊に過ぎず、勲を掴む腕も、名乗る口も持たぬ。全ての功は王の手にあり、名は王の頭にある」

 応! と、軍勢が声を発し、足踏みが地鳴りを生む。

「王兄殿下は御自ら我らにその志を示すべく、先んじて身罷られた。この祭礼を以て殿下の御霊は神座に赴き龍体の礎となる。かつて我は殿下の近習を勤め、神君元羅(もとあみ)公の再来と讃えられた才気を間近で拝した。追惜の念を一層深く持つものである」

 男はそこで一呼吸置く。段の更新を聴衆の誰もが理解する。軍勢を支配する能弁家の才であった。

「――当代龍王もまた、その後を追われるとあれば、この心中、追惜の一言では語り尽くせぬ」

 第三者から見れば、とうに疑問に思う事だろう。
 祀られるべき死者でもなく、祀る座に口の利けぬ嬰児を立てて。
 王はいずこに。

「これより二十日の後、来たる庚申(こうしん)の日に〝大殯(おおもがり)の儀〟は果たされ、当代六孫王・大樹(はるしげ)公がお隠れになる事は周知の通りである」

 男は朗々と語る。

「真の忠臣とは主君の死を嘆き歩みを止めるものにあらざる事を我は知る。龍の血は絶えず、より色を濃く次代に受け継がれる。逆臣の巣と化した禁裏には未だ多意良の係累を騙る羽虫が威を恣(ほしいまま)にしている。王太子殿下は三年の御諒闇(ごりょうあん)(※王の喪に服す事)の後即位され、必ずや大逆の徒を喰らい滅ぼす龍頭となりて、簒奪されし高御座に昇るであろう! 院中に参らんと欲する賢者は既にこの場には無く、来るべき戦に屍を晒す愚者のみが立つ! 者共、骨身を尖らせよ! 滅してなお敵の五体を貫く棘であれ! 我は評定衆(ひょうじょうしゅう)筆頭として、六孫王府第一の臣として諸君の規範たらんと欲する! 我らの死するべき時は間近である!」
「オオオォォ――」

 鯨波(とき)が空に昇っていく。
 軍勢の目が熱狂に眩んでいるのを確かめて、男、方丈梢継はその日初めて素顔を人前に晒した。
 誰も気付かなかっただろう。
 その男は騎馬の先頭にある時も、榊の剣を捧げる時も、祝詞を読み上げる時も、人目が離れる時には必ずその表情を貼り付けていた。

(……馬鹿共が)

 紛れもない倦怠と軽蔑であった。



  /

 死ねばいいのに、と、女は数年続けて習慣に堕しつつある呪詛を胸中で吐き捨てる。

「茶番、茶番だ。あんなものは」

 呪いの対象である男は女を犯しながら、別の誰かを呪っている。その事が彼女にとっては更に恨めしい。好き勝手言える相手がいるだけ、おまえはずいぶんとましな方だ。
 男は唇をすぼめてやや白目を剥き、ふぅふぅと吐息を上げる。知性をまるで感じない顔面が、思い出したように繰り言を述べる。加減を知らない男の抽送に布団がずれ、畳が背に擦れて痛むが、女は声も上げない。この離れでいくら泣き叫んでも母屋の者には聞こえない事はとうに知っていたし、そもそも囲われ者の妾を気に留めるような奇特な人間などここにはいない。

 切れ切れで順序もちぐはぐな屋敷の主人の物言いを冷め切った頭で要約すると、こうだ。
 ここ数年、破竹の勢いで台頭していったある男がいる。
 方丈〝梢継〟――その名が示す通り、深川・六孫王府の政治中枢の実権を握っていた一族の分家筋に過ぎないこの男は、卓抜した政治手腕により瞬く間に自分の活躍出来る舞台を仕立ててみせた。形骸化していた評定衆という主要氏族の代表からなる合議制を復活させ、常備軍である奉公衆の支持を背景に本家の力を蚕食し始めた。

 この男を語る時の言いぐさである〝虎に翼の生えたが如き〟というのは、龍を王の象徴に立てる六孫王府において、出世頭を讃える言葉として最上級のものだ。
 そして、ついにこの翼虎は本家を爪の下に敷く。
 十七年前に死んだ当代六孫王の実兄・森羅公の追善供養は、彼が実権を掌握した事を示す為の御披露目(パフォーマンス)に過ぎない。生まれたばかりの赤ん坊を次代の王に立て、その後見人として方丈梢継は大いに権勢を振るうであろう――あなかしこ。

 そして、方丈宗家に取り入って美味い汁を啜っていたこの男はそれが面白くない。女の目には、日に日に色褪せていくかのような屋敷の斜陽ぶりが見て取れた。
 男の性情からして、単純な嫉妬の方が割合が大きかろうが――どうやら一時期、件の男を配下に置いていた事もあるらしい。それが逆に、今では男の使い走りでもしなければ妾を囲うのもおぼつかない。

 好い気味だ――と女は嗤う。一度でも下に敷く立場にあったなら、なぜその好機に男を殺さなかったのか。凡愚は釣り損ねた稚魚が自分を食い滅ぼす鮫である事に気付かない。大物ぶって時機を見逃した言い訳を述べ立てる。
 今となってはもう遅い。男は俎板の上の鯉だ。傑物たるべき人間は小さな禍根も決して許さない。自身の道を遮るものは小石でも排除する。自身の過去を知る愚物を永らえさせておく理由など、殺す順序が後ろの方であるというだけでしかないだろう。没落貴族出身の女はその事を身に染みて知っている。呪いの成就が近い事を確信すれば、むしろ男を哀れむ気持ちすら生まれてくる。

「――糞ッ!!」

 男は玻璃(グラス)の椀の中身を一息に呷って投げ捨てる。
 宙に投げ出された酒精が玉を作り、そこに留まる。
 その不可思議を皮切りに、幼児の見る悪夢のような光景が現れる。

「クそ、屎、Kuソッ!」

 男の顔面の左半分が歪む。皮膚が引き攣れ、黒ずみ、石片のように荒れ果てる。頬、額が裂けて三つになった眼球は白目が失せており、屈辱と恐怖の色を隠す。太股を這い回る無数の脚の感触に、女は震える。
 男は、〝ばけもの〟だった。

「たダの人ゲン風情ガッ……!!」

 百足(ムカデ)の面をした男はそう喚いて、女の首に右手をかける。窒息の恍惚に女は涙した。これより一刻程もかけて、気を失い小便を漏らすまで男は女を責め立てるのだ。怪物として振る舞う以外に、この男の人生には縋り付くべき縁(よすが)が無い。

 行灯の形作る奇形の影法師を眺めつつ、女はもう一度呪詛を吐く。男がこの姿になった時に周囲に起こる障りは、女の身体も蝕んでいた。三年も前に一度子を産んでからは孕む様子も無い。好かった、と女は思う。追いやるように僻地に売り飛ばした双子が今どのような姿をしているか、彼女は知りたくも無い。

 女は朦朧としながら、夢を見るように時を遣り過ごす。そのようにして全てを虚ろにする術をいつからか彼女は覚えていた。

(……そう言えば)

 男がしばしば漏らす言葉を、女は思い出す。
 この世界はどこかのだれかが見る夢で、自分たちは夢を賑やかす為に仕立てられた人形に過ぎず――男の異容は、それを示す一つの証しであるのだと。
 浮世を嘆くあまりに狂ったかと最初は思ったが、その言葉は、気付けば足下にあった泥沼のように女を捉えた。

 夢ですら己のものでない生に、何の意味があるのか……
 そうして女は、化物に掻き抱かれるよりも疎ましい空虚な眠りに落ちた。



 翌朝、男の死を知らされた直後、女は長年の居室であるこの離れに火を放ち、毒杯を呷った。
 男には正妻に産ませた継嗣があったが、数年後に不行状を咎められて改易された後首を括り、この家は煙のように消え失せたという。



  /

 気を失った女を下女に任せて、男は屋敷を出て行く。とうに九つ(※午前零時)を知らせる時の鐘が鳴った夜更けであった。昼間の、巨人の身体の内にあるような熱気と違った、総身に絡む生温さを覚えつつ男は歩む。人目を忍ぶ道行きである事は明らかで、迂回路を数度経由し、一度は逆行するなどして執拗に尾行を警戒している。襦袢が汗で張り付き不快を極めたが、駕籠掻きに尋問の手が回る事を考えると徒歩で移動するしかない。

 武家町の小路の一つに入り、四分の一程まで進んだ時、後ろに人の気配を感じたような気がした。
 振り向くが、自分の影しかない。
 風声鶴唳――どうにも、己の肝は随分と細かったようだ。

 無尽灯というガス燃料式の照明器具が〝解放〟されたのは二十年ほど昔の話で、指呼の間も見えない真暗闇の領域は減りつつあった。辻斬りを警戒しての措置だが、間者(スパイ)にとっては邪魔になる。
 背筋の緊張を解きほぐそうと息を吐いた時、首筋に毒の風が吹付けられた。
 思い過ごしとするには余りにも存在感のある悪寒に、男は振り返る。

 灯明の影と光の境界線を草履で踏みにじり、白い頭巾付の二重廻し(インバネス)姿の男が立っていた。
 路地の出口と外套姿の男の立ち位置まで、半町(※約五十五メートル)はある。築地の塀は二丈(※約六メートル)と、乗り越えられる高さでは無い。男が余所見をしていた時間は三秒も無く、駆け足の音など聞こえなかった。怪談じみた出現に指先が強張る――

「侍所所司代、足影秀郷(あしかがひでさと)殿とお見受けする」
「何者だ!」

 実際的な意味を持つ問いかけに、男は現実に引き戻された。誰何の声を上げる。
 外套姿の男は応えず――
 既に腰間の刀刃を抜き放っていた。
 二尺四寸(約七十二センチメートル)程の、特に工夫の無い打刀――地肌の色のみを除いて。
 暗闇からぬるりと生まれ出てきたような黒色の切っ先が、灯明の下に晒される。

 誤解しようもない所作であった。男は戦意を固めて腰の大刀に手を掛ける。刺客との距離はおよそ三間(※約五・四メートル)。構えから初手を予測する。片手持ちのまま、切っ先と柄をこちらからは点としか見えない配置に保ちつつ、顔の高さまで持ち上げて――
 視界の下の端で、人魂じみた金色の髪が揺れた。

 遠間ゆえに察知出来た。主の身を離れた刀と外套が一瞬ふわりと浮いて落ちていく。囮の切っ先を目に付け、こちらの目線を引きずる芸は堂に入ったものだった。当の刺客は這うような低い姿勢で跳んでいた。明色の外套の内の衣の色は、闇に溶ける黒。工夫を尽くした奇襲。
 既に男の足下に踏み込んでいる。残った脇差で斬り付ける意図か。

 男は既に迎撃の算段を付けていた。刺客は最後まで視界の外に逃げる腹であったのだろうが、己の――憑人(セリアンスロープ)の視野の広さを考慮していなかった。抜打ちを放つ機は失ってしまったが、小刀の狭い間合いであれば組打ちでの対処が可能だ。柄から手を離し、牽制の熊手を放ち――
 ざぐんっ――と。
 男は、命の抜け落ちる音を聞いた。



 ――男は二つの失策を犯していた。
 一つは、刺客の呼びかけに応えてしまった事。最初から変化して先手を打てば展開は違ったものになっていたはずが、敵の正体を探ろうとして〝待ち〟を選んでしまった。不安定な立場にある政治的動物故の心の動きを、敵手に利用されてしまった形になる。
 もう一つは、刺客の接近に、安易に視野を狭めてしまった事。持ち上げられた大刀を、ただの囮として捨てたと思い込んでしまった。

 これは条理の外側の戦い。
 男が人間を超えた怪物であるなら、
 刺客は人智を外れた異能を用いた。
 政敵の存在を意識するあまり、男は自らの、怪物の一族の最大の宿敵を忘れてしまった――



 いかなる不可思議によるものか、刺客の手を離れたはずの刀は今、男の首に突き立っている。
 その柄を握って、刺客は駄目押しに刃を斬り抜ける。首の可動域が不自然に広がり、男はこめかみを肩に付けた奇妙な姿勢でぐらりと地に落下する。
 最期の光景に、男は返り血に髪を濡らす刺客の横顔を見る。少年と言って差し支えない若さ。
 それよりも、眼の色が男の気を引いた。

 髪色と同じ金色でありながら、どうしようもなく色彩に欠ける沼のような瞳。
 それが己を見下ろしながら、今更最初の問いに応じた。

「――殺(あや)し屋だよ」



  /

 凶手は刃にこびりついた血脂を、薬液を含ませた懐紙で拭う。応急処置だ。明け方までに本格的な洗浄をしなければ、憑人の血液の障気(しょうき)で刀身が腐食する。

「――おい」

 汚れた懐紙を放り捨てて、彼は路地の出口へ苛立たしげに声を掛けた。今は死体となって地に伏せる男が入ってきた道の影から、小柄な娘が現れる。
 地面に触れる程の長さの髪を後ろで纏め、袴を穿いた男装。裾から覗く右足は鎧のように無骨な鉄の義足で、首ほどまでの高さの鉄杖を支えにその足を進める。何より奇怪なのは、顔に貼り付けた龍面であった。
 おずおずと近寄ってくる娘の足を止める、尖った言葉を吐く。

「誰が、手を貸せと言った」
「……申し訳ありません」

 鉄杖を掻き抱いて、娘は面に覆われた顔を伏せる。

「――コワいねェ」

 頭上から被さってくる軽い声。凶手が振り仰げば、土塀の屋根に寝釈迦よろしくの姿勢で小路を見下ろす男の姿があった。孔雀と蛇の性交をあしらった鮮やかな赤の羽織、黒檀の羅宇(らう)、金無垢の雁首の煙管、実用とはかけ離れた華美な拵の刀、香油を塗った長髪……身を飾るものを全て書き連ねれば巻紙が痩せ細る程豪華絢爛な伊達男は、暗殺者と死体が揃って佇む路地では仲間外れにされたように浮いている。

 一つだけ――左の袖がだらりと平らかに垂れ下がっている。
 隻腕の侠客は、凶手の眼におどけた仕草で応じ、

「お姫様は、ちょいと目を貸しただけじゃないの」
「……言葉遊びに付き合う気は無いぞ」

 ――周到に計画された暗殺だった。
 対象である足影秀郷は、人目を憚る密会の為に暗所を選んで移動していた。しかし例外として、灯明の複数設置されたこの小路だけは通過せねばならない。
 暗所に順応した視力は、灯明に紛れる黄色がかった白色の外套を知覚出来なかった。
 凶手は更に一つ仕掛けを施す。

 秀郷の注意力がもう少し足りていれば、小路の照明の数が増えている事に気付いただろう。
 街灯の屋根に縄を結びつけ連結し、その間に用意した灯明を吊る。
 目的は、光を被せる事にある。複数の光源に照らされた箇所に立つ物体は、影が希薄になる。現代で言う所の無影灯、外科手術用の照明器具の原理だ。

 秀郷は刺客が突然目の前に現れたと考えたが、実際にはこの凶手は、用意された眼前の死角を歩いてきたのだ。そして、明所に慣れ始めた視界が再び暗闇に潜るよう照明の位置が調整された死地で、両者は対峙した――

「か、風向きが」

 娘はおっかなびっくりと言う。

「変わって、きて……こちらが風下になりました」

 匂いで、悟られてしまうのではないかと――細々とした声で、ようやく娘は主張を絞り出した。
 憑人の鋭敏な五感を警戒して、常道である暗所の仕事を中止したのだ。暗がりから明るい場所に出て安堵した人間が視覚頼みに陥るという心理を利用したとはいえ、その危険はあり得た。
 娘が路地の角から秀郷に視線を送って振り向かせた時に距離を稼いでいなければ、もう二、三間ほど遠間で察知されていただろう。戦いの趨勢に大いに影響する距離だ。

「その時はその時だ。俺が次善の策も用意していない愚図に見えるのか、お前は」

 凶手は冷たく返して、娘の口をつぐませる。
 指先が白む程杖を握り込んだ左手に、しばし目をやってから――
 つまらなそうな顔をして、言った。

「……分かっている。この相手は強かった。まともにやれば勝てなかったかもな」

 抜き身のままであった刀を鞘内に納める。――指先の震えが治まる前に納刀すれば、手を切っていたかも知れなかった。
 娘が頑なに首を横振りして、

「そんな事ないです! ただ、足影は未那元分家でも位の高い一族で、血が濃くて。力も相応の」
「あーあー、もういい。言うな」

 空いた右手をひらひらと振って、続く言葉を遮る。

「それでも、少しは信用しろ。十度に一度の勝ちを先に拾う術くらいは叩き込んできたつもりだ」
「……はい」

 弛緩しかけた空気を混ぜ返す、頭上の声。

「謙遜が過ぎると嫌味ったらしいねぇ。楽勝だったじゃない」
「はん。素人には分からねぇよ」

 伊達男に冷笑で返すが、こちらは柳のように受け流した。立て板に水を流すようなお喋りを続ける。

「余人の理解を遠ざけるその態度、好くないねぇ。芸が衰退するね。知ってる? 十八番(おはこ)って言葉は台本を立派な箱に入れて後生大事に閉まっていた事から来てるそうだよ。この手の悪弊をそのままにしとくと、いつか歌舞伎も「玄人好み」って箱に詰め込まれて大衆から見えない場所に仕舞われちゃうだろうね。能みたいにさ。予言するよ。きみはその辺どう思う?」
「知るかよ。それに、俺の芸は一代限りだ」
「ああもったいなやもったいなや。せっかくの手品なのに。それにしてもすごいねぇ、あの芸は。あの時、きみがもう一人現れて、柄尻を打ち合わせて刀を弾き飛ばした」

 先程の飛刀術を思い返しているのか。座り直して、考え込んだ後伊達男は言い直す。

「……いや、ちょっと違うな。刀を飛ばしたきみと、そこの彼に斬り込むきみが同時に現れて、動作の後に残る方を選んだ。そんな感じだ。あの瞬間の、きみの気配の曖昧さは……〝雷穢忌役(らいえのいみやく)〟ってのはみんなこんな芸を持ってるのかい? どういう仕掛けなの?」
「……あんたの宗旨はどうであれな、自分の芸のタネを進んで明かしたがる芸人なんてそうはいねぇよ。特に武芸ってのはな。手前の命に関わる」

 毒づきながらも、凶手は内心舌を巻いていた。深い理解だ。この男の述べた言葉は、己の〝相生剣華〟の本質を正確に捉えている。

「一つだけ教えてやる。俺たちはこの芸を、蠱業(まじわざ)って呼んでいる」
「ふぅん。外連(けれん)だねぇ」

 お箱の中身はともかく、名前にはさして興味は無いらしい。伊達男は気も漫ろに呟いて、

「……ところでさ、きみが片付けた梯子を持ってきてくれないかな。このままここにいて誰かに見つかると、もしかしたら非常に不幸せな誤解を招くおそれがあるような気もしないでもないよ」
「飛び降りろよ」
「この塀、僕が三人直立で肩車したのより高いんだけど」
「行灯と縄はお前が片付けろよ」

 彼の抗弁を端から無視して、凶手は撤収を始める。放り捨てた外套を拾って肩に掛け、

「――行くぞ」

 初めて、この場に立つ最後の一人に声を掛けた。
 一言で言えば、黒い女だった。
 夜の暗がりが柔い黒であれば、女の黒は硬く鋭く、同じ色合いの中にありながら強く存在を主張した。衣服と髪と瞳の黒色に対して、白い肌が目を眩ませる程に際立つ。
 中程まで髪の毛で覆った背を、凶手の側に晒して、女は塀に立てかけた死体の首の位置を直している。指先に落ちた血が川となって手首に流れる。
 凶手は、殺人の時でさえ発しなかった敵意を露に女を恫喝する。

「やめろ。無意味な事をするな」

 それを無視して、女は男の着衣を直すと、どこで拾ってきたのか懐から胡蝶蘭を出してその胸元に挿した。軽く手を合わせてから立ち上がり、凶手へ向き直って応える。

「意味は、あると思うのだけれど」
「それを決める事の出来る人間はもういなくなった」
「あなたの見解は知った事ではないけれど……そうね、確かに悪い事をしたかも知れないわね。あなたに」
「……っ」

 大声で喚き立てたくなるのを、胸を押さえつけて自制する。今すぐに立ち去らねばならないと言うのに。それでも我慢が難しい。

「知った風な口を利くな、お前は――」
「やめなよ、死者が目覚めるぞ」

 頭上の声が興奮を静めた。
 凶手は舌打ち一つして、女を押しのけ路地の出口に向かう。
 龍面が覆い隠していても分かる、もの言いたげな風情で、隻脚の娘が立っている。その頭に手を置く。

「〝き〟」

 左手の傷で、少女に触れた。

「心配するな。この仕事でいくらかの時間を稼げるだろう。〝大殯の儀〟までに六孫王のいる殯宮は必ず見つける。必ず、奴が死ぬ前にお前を奴の前に立たせてやる」

 娘は迷う仕草をして――凶手の胸に手を当てる。

「にい――いなき様」

 左手の傷で、少年に触れた。
 いなき、と呼ばれた凶手は誓いを告げる。

「お前の前に立つ奴は全て俺が殺す。俺は、お前の仇討ちを遂げさせる――お前に必ず、お前の右目と右足、そして母親を奪った男……父親を、殺させてやる」



 時季は夏。
 ひたすらに真っ直ぐで、溺れる程の熱情に溢れ、刻一刻と変化して、風のように駆け抜ける。暴悪と清純と狂気と夢想が混ざって滾り、別の姿に成ろうとして足掻く、焼けた坩堝のように熱い時代――
 子が親を殺すような、傲慢の季節。



[36842] 1a/仮想世界・八百八町
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:28
【七日前 識与二五六年 七月三十一日】


 現在ではAIのみが生活する仮想世界・八百八町(はっぴゃくやちょう)。その統治機構・九重府と反徒たる六孫王府の対立を論じるには、少々歴史を語る必要がある。

 そもそも、現在では一〇〇〇平方キロメートルにも満たず、いち都市程度の規模に過ぎないこの世界はかつて、八洲国(やしまくに)という広大な国土を有する国家だった。無数の島嶼によって構成され――八とはこの場合数の膨大さを示す接頭辞である――、その中に膨大な人口を擁していた。

 首都は西方に配され――そこには支配者が存在した。
 唯一の人(ユニーク・ワン)。
 ネットワークを介して仮想世界に没入した精神、という形で存在する、物理的実体を持つただ一人の人間。管理者権限(ルートパーミッション)――AI生命に対する絶対的な支配権を有する存在。

 彼がどのような王者であったか。賢王であったのか、暗君であったのか。それは過剰に婉曲で儀礼的な政(まつりごと)の構造に紛れ、犬の世話をした程度でも満艦飾にするような公文書の書体にはぐらかされてしまい明らかでない。

 ただ、不良データ――雷(らい)の穢れ、あるいは憑物(バグ)と呼ばれるものに対する処断の苛烈さについては一貫している。
 憑物を宿したAIである憑人(セリアンスロープ)は太古の昔から存在しており、現存する最古の史料の時点で既に、生尾人(いくおびと)という名で確認されていた。

 憑人は周囲の演算を歪める障気(しょうき)というデータを発生させる性質があり、これがシステムリソースを圧迫するとAI存在にとっての最大の災厄――世界の止滅(システムダウン)に繋がると言われている。
〝唯一の人〟は彼らの消去を決定した。コンピューターが人類の歴史に登場して以来、当然の如く行われてきた行為。

 彼の〝デバッグ〟はこの世界では、九馬人(くめびと)なる征伐軍を編制し、各地に点在する憑人の部族に侵攻をかける……という軍事行動の形で実行された。北方の疫子(エミシ)、南方の曲疽(クマソ)、破夜刀(ハヤト)。彼らの抵抗は頑強で、遠征を幾度繰り返しても滅ぼし尽くす事は出来なかった。

 やがて北方の部族に英雄が現れる。
 悪路王アテルイ――彼は鎮定軍を撃退すると南方の二部族と糾合し、朝廷へ逆に侵攻を図った。
〝唯一の人〟は南北から押し寄せる軍勢を前に、その後の仮想世界の方向性を決定づけるある決断を下す。

 大粛正(グランドパージ)。
 管理者権限を以て彼らは大地ごと削除された。残されたAIの記憶も操作され、辺境の〝尾の生えた人〟の存在は完全に消失し、世界から憑人は排除された――と思われた。
 およそ百三十年の後、京(みやこ)に一人の男子が生まれる。
 未那元経基(みなもとのつねもと)。
 未那元という氏族は、もう一つの多意良(たいら)氏と同じく〝唯一の人〟がAI存在に産ませた後裔であり、経基はその一人だった。

 当時そうした存在はさして珍しくも無かった。その時点で千年ほど生存している〝唯一の人〟は、それだけ子孫の数も多い。増えすぎた一族をただの家臣に格下げして、各地の領主として着任させる事で無産階級を減らさなければ、国庫に悪影響が出る程であった。経基もまた、そうした中級貴族の一人に過ぎなかった。

 残存する史料によれば、小人物であったらしい。任地である東国では略奪を働き、先んじてその地に地歩を築いていた多意良の一族などの在郷勢力と衝突し、あっさりと敗れて逃げている。その時敵対した人物、多意良将門(たいらのまさかど)公と比べて明らかに器の格が落ちる――というのは多意良にひいき目のある九重府の史料ゆえの見解でもあるだろうが。
 もっとも、九重府側も歴史を語る時にこの二人を引合いに出す事は珍しい。多意良将門がその後新皇を僭称し、朝廷に叛逆して討伐されたからである。

 そして経基はこの討伐軍に参加して名を売り、やがて鎮守府将軍にまで上り詰め、後の多意良一族との大戦に勝利して武門の頂点に上り詰めた大家の基盤を作り上げた。
 ――晩年、彼は屋敷に籠り、顔を仮面で隠すようになる。湯浴みに侍る女中にも目隠しを強要し、人との接触を酷く嫌った。

 伝え聞くところによれば、ある小姓が誤って彼の仮面の奥の顔を見て、斬られたらしい。
 彼にはしばし息があり、看取った武士に「六孫王様は鬼じゃ。額に角が生えておった」と言い残して死んだという。
 六孫王。
 その時彼は、〝唯一の人〟との血縁を示す名を通称としていた――



「――まぁ、最後らへんの下りはいかにも脚色臭いがな」

 小隊が横列を組んで行進できそうな幅の階段を下りながら、いなきは後方の〝き〟の方を向いてそう付け加える。義足の妹を連れての宮城地下への長い道行きは時間がかかり、暇潰しの講義にやや熱が入り過ぎた感がある。振り返ったのはそれを冷ます為の小休止の意味があった。
 ――九重府、という名称は居城である紫垣城(しえんじょう)が九つの城門を持つ九層構造である事に由来する。

 一般官吏が登城するのは第一門・一白水門(いっぱくすいもん)の内の玄天垣(げんてんえん)にある軍事施設と、第二門・二黒土門(じこくどもん)の内の朱天垣(しゅてんえん)にある行政機能を担う区画までで、そこから先は貴族の領分となる。第五の五黄土門(ごおうどもん)からは上階に続き、いわゆる星の位――高級貴族が住む。
 昇殿資格を持たない下級貴族や一般官吏は、上階には第七門である七赤金門(しちせききんもん)までしか存在しない事を知らない。

 五黄土門には裏門が存在し、そこから辿る地階に第八門・八白土門(はっぱくどもん)と最終門・九紫火門(きゅうしかもん)がある。
 九重府の暗部組織である〝雷穢忌役(らいえのいみやく)〟は、八白土門の内の変天垣(へんてんえん)に拠点を持っている。

「つまり、九重府と六孫王府の確執は即ち多意良氏と未那元氏の対立である――」

 言ってから、親指で喉を切って舌を出す。

「なんて答える奴は落第だな」

 話を聞く妹が、今の解説を納得しかけていると察しての脅し文句である。唯一のお洒落らしく、気分次第で変わる面は今は狐を模したものだ。顔が全て隠れているのになぜこうも感情の動きが分かりやすいのだろう。

「あのな、そこから更に千年近く経過してるんだぞ。戦争の構造に変化があって当然……何より、二つの家の対立程度で説明出来る程世間様はお易くないんだよ」
「ぅ。す、すいません」

 こいつは昔から謝ってばかりだな、などと思いつついなきは解説を続ける。

「初代六孫王経基の時代からしばらくは京での小競り合いの時期だ。大貴族・不二原(ふじわら)氏を含めた争いに勝ったのは多意良で、未那元の主立った武将は殺されて残りも地方に流された。これを復興させたのが九代目六孫王頼朝(よりとも)。彼は異母弟の〝軍神〟九郎義経(くろうよしつね)と共に、多意良の末流も含む東国の武士と糾合して京で隆盛を極めていた多以良一族を放逐し、鎌倉に初めて武家による独立政権である幕府を打ち立てる」
「あ、あの」

 聞き役に徹していた〝き〟が疑問を投げかける。

「なぜ、初代六孫王の一族は憑物を確認された時点で処刑されなかったんですか。〝唯一の人〟はそれまで、世界の一部を切り離してまで憑人を殺しているのに」
「……三つ理由がある。一つは、未那元の家柄が抹殺するには大きすぎた事だな。六孫王以外にも〝唯一の人〟の親族たる未那元氏は数多く存在していた。大っぴらに剪定すれば近場の枝が怖がるだろ? 実際的な問題として、六孫王の一族を迫害すると、未那元という氏族全体の権威低下に繋がるおそれがある。多以良、不二原と強大な政敵を抱えた状態でそれは望ましく無い。もう一つの大貴族である太智華(たちばな)氏が没落したのが記憶に新しいとあっては尚更な。未那元氏全体で六孫王を守る必要があった」
「その、にい……いなき様」
「なんだ」
「それだけでは説明がつかないと思いもふ」
「もふ?」
「す、すいませんっ。怖くて噛んじゃったんですっ。怒らないでください睨まないでください蔑まないでくださいぃ。これは純粋な知的好奇心の発露であって、決して兄への反意などという不敬千万な気持ちがあるわけではないんですぅ……」
「そこまであからさまに怯えられると逆に傷つくんだが……じゃあ何だよ。言えよ。とっとと」

 問い糾すいなきの顔に何か思う所があるかのように、ひぃっ、と震え上がった後〝き〟はおどおどと述べる。

「……先程、その後の争いで一度多意良が勝ったと仰いました。六孫王直系以外の未那元氏も権力が低下しているはずなのに、なぜその後も六孫王は存続し得たのでしょう。抹殺する好機で、そうしない理由も無いではありませんか」
「……なんかお前、気が弱い癖に発想はすこぶる過激だよな。……まぁ、確かにその通りだが。そうならなかったのは明確な理由がある」
「なんですか?」
「〝唯一の人〟が助命させたからだ」

 その回答は、より〝き〟を混乱させたようで彼女は首を傾げる。確かに、前言から酷く矛盾している。
 しばし階段を下りる音が続く。彼女にこの根拠を説明するのは気が引けたからだ。
 迷った後に、遠回しに告げた。

「ギリシャ神話の女神ガイアの心境、って奴かな」

 地母神ガイアは子であるティターン族の王クロノスの暴君ぶりを諫める為に、孫のゼウスを匿って彼を討伐させた。
 ゼウスはティターンを冥府(タルタロス)に幽閉し――ガイアはその行為に憤激した。ティターンは彼女の子供達である。孫とは言え、それを無下に扱う事は許せなかった。
 親心だ。

「なるほど。じゃあ、多意良も強くは出れませんね。巨人(ギガース)や怪物(テュポーン)を遣わされたら敵いませんもの」
「理解が早いな。そうだ。多意良もそれを恐れて六孫王一族の根絶は出来なかった」
「それがアキレウスのかかとになった、って事ですねっ」
「……上手い事言ってやったぜと喜んでる所に水を差すようだが、なんでそんなに舶来の神話雑学ネタについてこれるんだ? まさか修行をサボってるんじゃないだろうな」
「えっ、ひっ、ちちち、違いもふ。わたしはただ、あやめ様から話を聞いてですね……」

〝き〟はがたがたと震えて言い訳を述べる。
 その自然な振る舞いを見て、気に病みすぎたかといなきは思う。

「ちっ、あの図書館の主のうんちく話はそこそこに聞き流せよな。無駄知識しか言わねぇんだから。……まぁ、それが第一の理由だな」
「第二の理由とは?」
「六孫王一族が、誰にも分かりやすい形で朝廷に恭順したからだ」
「分かりやすい形?」
「六孫王の登場が示すように、結局、システムからバグは根絶出来なかったんだ。同時期、各地に再び憑人の部族が発生し始める。隠(おに)や都知久母(つちぐも)、鵺(ぬえ)と呼ばれる連中。――彼らを討伐したのは、六孫王一族だ」
「同類を、滅ぼしたんですか?」
「責める筋合いは無いと思うがな。政府の走狗(イヌ)になって憑人を抹殺するって意味なら、それこそ俺たち忌役と同類だ。そして今はその同類の子孫と俺たちが殺し合ってる」
「……なんだか、泥沼ですね」
「今更だろ。……とまぁ、上手く尻尾を振る事で六孫王一族は存続し、自分たちの国を作って容易に手を出せない力を付ける事が出来た」
「あのあの、三番目の理由を聞いてません」
「それは後の話と絡むからその時語る。……この幕府ってシステムは滅法図に当たった。それまでの反政府勢力と比べて決定的に優れていたのは、ノーマルな人間と共存出来る体制を作った事だ。そもそも多意良との合戦の時点で、中央の徴税で困窮していた土豪を吸収して旗揚げした訳だからな。彼らはそのまま評定衆って政務機関を組織して存在感を保ち続けた。鎌倉幕府はその後も順調に勢力を伸ばしていく。政府の徴税に相乗りする形で資金を得て、地方から徐々に支配体制を確立していった……」
「〝唯一の人〟はその動きを危険視しなかったんですか?」
「一応、建前として。鎌倉幕府は朝廷に叛逆を企てた事は無い。当初の京への進軍も「社稷(しゃしょく)を私する多意良を討ち果たし御宸念(ごしんねん)を安んじ奉る為」って名目を掲げた」
「なんだかとっても耳がかゆいです」
「同意見だ。……さて、したのかしなかったのか。それとも、危険視したのはもっと別の所だったのか」
「?」
「これが三番目の理由。――それまでの全ては〝唯一の人〟の思惑通りだったからだ」

 かつーん、と。
 階段を踏む音が地下に反響する。

「鈞天垣(きんてんえん)の書庫で調べた現実世界の日本史と照らし合わせて驚いたよ。それまでの八洲国の歴史は現実のそれとそっくりに進行していた。この仮想世界で歴史を再現する意図があったのは明らかだな」
「全部〝唯一の人〟の操作によるもの、って事ですか? この世界の人の意志もすべて?」
「所詮、俺たちは夢の中で踊る人形に過ぎない」
「……」

 階段の奥の暗がりを見据えながら皮肉を言えば、後方から怒りに満ちた気配を感じる。振り返らずとも分かる。自分もさして変わらない心境だ。自分を、意志まで操作するような存在に好意など抱けるはずが無い。

「救いを言えば、その支配からはもう逃れているって事だ」
「そうなんですか?」
「ああ。ある時突然〝唯一の人〟はいなくなった。仮想世界での遊びに飽きたのか、それとも別の理由か」

 後方の気配が安堵めいたものに変わったのを察して、水を差す言葉を吐く。

「入れ替わりに〝敵〟がこの世界に浸入した」

 妖魅(ヴァイラス)。
 それが仮想世界に倦んだ〝唯一の人〟の置き土産なのか、他の外部勢力によるものなのか。そもそも〝唯一の人〟の仮想世界からの撤退の理由がそれであるという説もある。単純な物事の順序すらはっきりと遺らなかった程の混乱の時代をもたらした存在は、データの海洋から――その向こうの現実世界から襲来した。
 現世界寇掠(リアルワールド・アグレッション)、略して現寇。

 当時は魍胡(モウコ)と呼ばれていたその怪物群は、西方から浸入して瞬く間に世界を侵食していった。呪いの烙印を押されたに過ぎない憑人とは違う、AI存在の殺戮のみを単一目的として行動する機械知性。大粛正によって半分ほどの面積になっていた西海道は鏖殺(おうさつ)の巷となり三日で壊滅した。

 既に最大の軍事力に成長していた六孫王軍がこの防衛にあたった。八千の憑人を含む五万の兵力が山陽道・長門国の最西端・馬関海峡に集結し――
 魍胡軍をその場に押しとどめるだけで半分に目減りした。
 敗北は必至である。現実史では神風が吹き外敵を押し流したと言われるが、既に世界に神は無く。当事者の行動が因果を定めるという至極当然の原則しか存在しない。

 その行動は、世界を後世に残す事に成功し、そして残った世界に禍根を投じる。
 ――第二次大粛正(セカンドパージ)。
 京の貴族たちは〝唯一の人〟が残していった管理者権限の一部を獲得する事に成功し、それを以て西海道と山陽道の西端を削除した。奇しくも当代六孫王は、かつて多意良との戦いに完全勝利を得た壇ノ浦で消滅する。

「……その後は……当事者にとっては違う見解もあるだろうが……同じ事の繰り返しだ。京の貴族勢力と六孫王軍は、憑物という病巣と、妖魅という外敵を抱えながら八洲国の支配権を巡って争い続け、幾度かの大粛正を経て……二五六年前の第十二次大粛正で八洲国はいち都市程度の面積に縮小され、八百八町と名を変えた……」

 幾度世界を縮めても、一部と全体が同じ形をしたフラクタル図形のように、その基礎構造に変化は起きなかった。闘争を血液として循環させ、廻りゆく世界。
 ――九年前に起きた事も、やはり繰り返しでしか無い。
 当事者にとっては、違う見解もあるのだが――皮肉を笑うには若すぎて、固い表情のままいなきは韜晦(とうかい)めいた弁舌を振るう。

「最初の、九重府と六孫王府の確執が多意良と未那元の対立に帰結するってのは、まぁ、陥りやすい誤解ではある。今、九重府の武官の頂点である所の九衛大将は松平宗翅(まつだいらときはね)……多意良の落人の出自って触れ込みだからな」
「触れ込み?」
「地上(うえ)で話すなよ。首が落ちるぞ。……実際は陰陽師系の賀茂氏の末裔だ。この紫垣城の設計にも絡んでいるらしい」

 二五六年前の大乱で最も武勲を挙げた賀茂氏――当時は鴨留木(おるき)という姓だったらしい――は、いち武将に納まる事を良しとせず家伝の風水技術を売り物に積極的に内政に介入し、揺るがぬ地歩を築いた。合戦から再興出来なかった多意良の名を引き継ぎ、九重府の実質上の首長となっている。

「未那元に対する旗印は多意良でないといけないのさ。貴族の頂点は不二原から分化した五摂家だが、彼らじゃ臣たり得ても王にはなり得ない。実体を持つ神である〝唯一の人〟の嫡流でないと世界の後継者として認められない。劣等感と選民意識を混ぜ込んで二千年以上かけて熟成した結果、両者はそんな極端な権威主義に縋って殺し合ってるって訳さ」

 この階段を見ろよ、といなきは〝き〟に声をかける。
 小隊が横列を組んで行進できそうな階段――その中央には緋毛氈の神道が敷かれている。
 この階段の最深部にある九紫火門を越えた炎天垣(えんてんえん)に、王権の象徴たる神器と玉座である高御座が安置され、戦いの勝者はその道を征き、全てを得るとされる。
 いなきは肩をすくめて、結びの言葉を加えた。

「さて、この戦いに決着がつくのかね。ついたとして、その時椅子と銅剣と鏡と勾玉以外に何か残ってるのか……」

 地下の底の門の内に納まる神器が声を発し、その問いに答えるなどという事は無い。
〝き〟が声を上げる。

「あの、質問がありもふ」
「三度目だな」
「す、すみませむ。……その知識はどこで得たのですか? いなき様が今語った事は、ただの殺し屋が知っても害にしかならない、知るべきでない情報です。現に、わたしは忌役の基礎教養でそうした事を習いはしませんでした」
「その通り。誰にも喋るなよ。脳ミソ洗われて情報の出所探られて、二人仲良く死体になる」
「き、共犯ですね。えへへ」
「なんで嬉しそうなんだよ……この話はな、これから会う奴に聞いたんだ」

 遮るものを間近にして、空気の流れが変わりつつある。第八門・八白土門が近付いているのだ。
 手汗がやや滲むのを感じて、いなきは妹に最後の忠告をした。

「お前は数度顔を合わせた程度だから分からないだろうが、あれは本物の妖怪だ。毒を貰わないよう気をつけろ……」



[36842] 1b/妖姫・鎚蜘蛛姫
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:28
 戸を開けるなり霞の形をした暗闇が吹付けて来た――というのは過度の警戒から来る錯覚だろう。
 実際は逆で、外の照明の光が屋内に潜り込んで、暗がりはある程度物の輪郭の分かる安っぽいものになっている。それでも奥まった部分は判然としないが。地上の太陽光を光ファイバーで取り込むという採光方式のおかげで、こうして地下でも土竜気分を味わう事は無い。

 この程度の面積の部屋なら〝き〟にはその構造が瞬時に分かる。「ふあ」とうめいてもじもじしだした。その理由の方はいなきにも理解出来る。

「あ、あの……ちょっと待ちませんか?」
「そんな時間は無い」
「でも、そのぅ……」
「あのエロババアがまともな格好するのを待ってたら寿命が来るぞ。気にするな。ガキの裸見た程度で誰もどうにもならん」

 傍で聞けばどうにもちぐはぐとした物言いをして、壁伝いに歩み寄って鎧戸を開き光を入れる。
 殿舎の奥まった区画にある局の中身は、以前訪れた時と同じように無残な有様だった。規定の配置に納まっているのは火床(ほど)や鞴(ふいご)といった作り付けの器具程度で、他は爆心地のようにとっちらかっている。メモ書きは床に散乱しただけでは飽きたらず天井に糸で括って何枚も吊り下がり、机のフラスコとビーカーは中身の入ったまま転がっているものがある。机に欠けがあるのは以前誤って流れた薬品の混合液で溶解したせいだと言う。このままでは再度事故が起こる事は間違いなく、いなきはその場に自分が居合わせない事をいつも祈っている。

 初見でここを鍛冶師の工房と言い当てられるものは少ない。
 そして工房の主は、机に踵を引っ掛けて床に頭をつけるという奇抜な体勢で寝入っていた。
 机の位置はいなきの腰ほど。つまり、その程度の身丈の子供である。自分が鍛える鋼よりはずいぶんと上品な色彩の銀髪を至極いい加減にまとめて、仕立ての良い白い表衣(おもてぎぬ)を一枚引っ掛けただけの姿で、上に「翠玉板写本」と題を振られた冊子を被せた中身がたいそう下品ないびきをかいている。悪夢を見ているのか、いびきには時折苦しげな寝言が混じる。

「……ふやぁ……まさむねどん、おあしばきらんとってぇ……おいが悪かったけん……そら生ゆっばってん……」

 何か聞いてはいけない私事のようだったので、起床させる事にした。
 側頭部に全身全霊の十分の一程度の力で蹴り込むと、子供の頭はごぎりと鈍い音を立てて跳ね上がってからとても硬そうな石の床に落下し、数回バウンドして止まる。
 沈黙が三秒ほど続き、子供は突如として起き上がり大声を上げた。

「ぐああああああああ世界の真理に目覚めそうな程痛ぁいっ! そうか相対性理論は間違っていたのかそんな単純な数式が証明するとはニュートンのののシャイニングウィザードがががアインシュタインの延髄ににに突き刺さったぁああっ! ゆりーかっ! ゆりいいいいかっ!」

 おもしろおかしく騒いで観客二人をたっぷりと引かせてからこちらへ向き直る。

「……ん。いの字じゃん。相変わらず安っちーパツキンな」
「うるせえよ。おはよう」
「おう、おはよう。……あれ? なんか夢の中ですっげぇ~大事な事を思いついたはずなのに忘れっちった」
「ああ。あるある」
「なー。あるあるだよなー」

 けたけたと子供っぽく笑って、

「なんでいんの? おれちゃんおめーに用ねーよ?」
「ようやくお呆け遊ばされたかクソババア。俺の約束だ」
「いてっ、いててっ。いてーな馬鹿金バエ。つっつくんじゃねーよー」

 額を突くいなきの人差し指を、子供は小さな手でぱしぱし払う。
 それを無視して額に指をねじ込みつつ、いなきは恫喝した。

「今日が約束の日だ。お前のワガママ聞いて決行日当日まで待ったんだぞ。その言葉を洒落で済ます気は俺には無い」
「ちっ、脅し文句までちんぴらじみてきゃーがったなおめー。ったく、野暮天どもは口を開きゃ納期だの締め切りだの口からくせークソ垂れやがる。ヤスくてハヤくてウマいブツなんて簡単に言っちゃ口開けて待つだけなんだからよ。クソでも詰めときてーっての。この三つに得難いを足して神サマの名前になんだぞこれ。みだりに唱えるべからずって十戒にも書いてある」
「そのナリでクソクソ言うんじゃねぇ……! 品性の方はとうに廃棄処分してるみたいだな」
「くひひひひ。純情臭い童貞坊やの夢を叩き壊すのがくそばばーの楽しみってモンよ。――ってああ、こないだ捨てたんだっけ……うお、殺気立つんじゃねーよ。おっかねーなぁ」

 半秒待てば抜刀していた、という間を崩すように、どっちらけー、などと悪態を入れた子供は、
 逆にいなきを喰い殺さんばかりの気配を放射した。
 風の吹かない殿舎の中の大気が乱れ、偏った水分が各所に霧を生む。
 ――憑人の持つこの性質を〝障気〟と言う。仮想世界の物理現象を形作る演算処理を狂わし、エラーを発生させるデータの歪み。

 半秒待てば抜刀していたはずで、そうなれば取り返しの付かない所まで踏み込んでいた。
 足下を表衣で隠したまま、憑人の女は憤怒を露に言葉を放ってくる。

「おれを誰だと思ってやがる。肥前国は嬢子山(おみなやま)に跳梁跋扈、喰ろうた雄は数知れず、八十(やそ)の女郎鍛冶束ねる妖姫海松橿(みるかし)が嫡流。本名開祖に倣い字(あざな)は鎚蜘蛛(つちぐも)。金槌仕事で抜かりは無ぇ。おれが今日上がるっつったら今日以外にあり得ねぇんだよ。あんまナメた口利くなよ小僧。つい殺したくなっちゃうだろ……」

 鎚蜘蛛姫。
 南方を拠点としてかつて存在した憑人の一族の、おそらく最後の末裔は、謎に満ちた流浪の果てに宿敵の住処たる九重府に身を寄せている。
 大貴族五摂家の一流である一定家の男の側室として出仕したはずの彼女は、彼の死後、どうした手練手管の結果か雷穢忌役の専属刀匠の位置に納まっていた――
 くひ、と不意に鎚蜘蛛姫は弛緩した笑みを浮かべる。怒気も障気も四散して、周囲の霧が晴れていく。

「じょーだん、じょーだんだって。大事なじっけんどーぶつを傷物にするわけねーじゃん。――だから得物(こ)を制作者(おや)に向けんじゃねーよお姫様。それがおめーの流儀なんだろうけどよ」

 いなきの背後で、半秒も待たずに突きの打てる姿勢で〝き〟が杖を構えていた。
 彼女は氷点下の声音をいなきの肩越しに投げかける。

「……その侮辱も取り下げなさい」
「親殺しを侮辱と感じる感性はあったんだな」
「違います。それはただの事実に過ぎない。――兄はあなたの玩具ではありません」
「あーはいはいそっちね。わるぅござんした、いの字。……おい、早く許せ。殺されちゃうだろ」
「〝き〟、俺たちの目的にはまだこいつが必要だ」
「……」

 残心を数秒、その後に〝き〟は杖を己の足下に戻した。

「ったく、三日続きの徹夜仕事の報いがこの老人虐待たーなー。忠孝の徳は若者の宝だぜ?」

 するすると表衣を引き摺りながら部屋の奥に引っ込んで、外の光が染め残した暗闇から姿を見せぬまま、無造作に何かを放り投げてきた。
 大刀と小刀である事は受け止める前に分かった。鎚蜘蛛姫は外装から研磨までの制作を兼ねて行う為に、完全状態である。柄糸も鞘も白塗りの――とまで観察した時点で手の内に納まる。

 旧い大小を机に置き、入れ替えてから大刀を抜く。
 奇妙な刀、としか表現しようがない。理由は地肌にあった。

「黒い刀身。……いや、それだけじゃない。なんだこの模様は。板目肌……とも違う」

 年輪を圧縮したような歪んだ縞模様が全身に走っている。ただの鍛えの特徴とするにはあまりに奇形で、どこか呪術性を感じさせる。

「ニアミスだな。確かにその子にゃ相州古刀の血が混じってるよ。元々おれちゃんそっちで修行したクチだしな。郷義弘(ごうのよしひろ)って知ってっか?」

 鎚蜘蛛姫は中途半端に暗がりから出てきて、冊子の束を椅子にして座り込み軽口を叩く。

「ただ根っこが違う。前に言ったろ? おれちゃん生涯の研究テーマ、「作刀による人間史の探求」その成果の一つ――ダマスカス・ブレードだよ」
「……聞いた覚えが。しかし、それは」
「そう、失伝してる。鈞天垣の書庫の原本、データベース〝啓示の森林(アーラニヤカ)〟にも存在しない過去の記録。あの〝三十六歌仙〟の連中が使う身に過ぎたるの業(オーバーテクノロジー)とは真逆の、通り過ぎたるの業(ロストテクノロジー)。その再現に成功した。――ま、学術的価値なんざおめーらにゃどーでもよかろーが、デキの良さはお墨付きだぜ? 有史以来最も折れず曲がらずよく斬れるなんて妄想に近付いた鋼よ。模様のパターンである程度視覚を誤魔化す工夫もあるから、夜討ち朝駆け大好きなおまえさん向けだろ。粘りにクセがあるから使いながら覚えろよ」
「ああ。感謝する。脇差も同じか?」

 納刀して、もう一つ問いかける。

「小太刀」

 鎚蜘蛛姫は、なぜか言葉尻を捉えて反駁した。その手にはいつの間にか、交換した旧い差料が握られている。
 彼女の座る場所と机には距離があり、そして彼女が動いた形跡は無い。

「おれちゃんその脇差(サイドアーム)って言葉はおめーにゃ合わねーって思うわけ。それはこの子見て確信したよ。その子はそーゆー設計思想で産んでる。柄も両手持ち出来るよう延伸してるし刀身の重量もそれに合わせてやや重くしてる。脇差のつもりで扱うと具合わりーよ」
「……あのな、小刀なんて普通扱わないモンなんだよ。実戦で一寸の間合いの差を埋めるのにどれだけ技術がいると思うんだ」
「居付いてるぞ、おまえ」

 鎚蜘蛛姫の眼差しは、己の鍛えた剣のように鋭かった。

「たかが十八のガキが剣理を悟ったように語るんじゃねーよ。体用(たいゆう)を知り、無体(むたい)を知る――その言葉を履き違えんな」
「……俺はもう紫垣城の忌役の武官全員に勝ち越してる。殺した憑人の数は五十じゃ利かない」
「はっ、不可知領域の任から漏れた木っ端と血の薄れきった小僧っ子を何人ふっ飛ばした所で鼻紙程度の自慢にもなりゃしねーよ。典型的な井の中の蛙だなおめー」

 いなきの反論をあからさまな侮蔑で返しながら、鎚蜘蛛姫は言う。

「いーかクソガキ。おめーは蠱部尚武(まじべしょうぶ)じゃねぇ」

 ぎぃ、といなきの奥歯が鳴った――

「あの小僧が何を思ったか永代島の日帰り旅行に出かけてったのは十六の時だ。その時点で既にあいつは隔絶してた。おまえより二つ下だった蠱部尚武にとって、六孫王軍五千騎を出し抜いて六孫王と対面するのはただ現実的な発想だった。そしておまえが同じ事を思えばそれは夢想だ。夢想を現実に差し替えようとすれば、ただの粋がったガキとしておまえは死ぬだけだ。
 おれの刀(むすめ)を托す男にそんな不様は許さねぇ。宿題は出してやった。後はおまえ次第だ。死地でおまえの現実を変えるんだよ。命懸けで己を会得しろ」
「……うるせえよ」

 そっぽを向いて、不細工に忠告を受け流した。
 首を向けた先で、〝き〟がこちらの袖を引いて切なそうにしている。片手に鉄杖と義足を抱えて、

「わたしの武器は、前のと変わりません。あのひと、手抜きしてます」
「だってつまんねーんだもーん」

 鎚蜘蛛姫は足をばたばたさせる。なぜか背後の暗がりがわさわさと蠢いた。

「おれちゃんお姫様ちょーきらい。おめーにゃその辺の棒きれで十分じゃねーか」
「いなき様いなき様、なんだかなめられてる気がしますので、ちょっと焼きを入れてきていいですか」
「こえーこと言うなよー。そりゃ体格の変化に合わせただけだけど、ちゃんと工夫はしてんだぞ。仕込みの刀身はいの字の刀打つ時の余った鋼材で作ったんだ。精錬してねーから普通の鋼だけどな。どうだ? ツボだろ~? もゆるだろ~?」
「むっ! ……かなり、その、できますねあなた」
「なぁ……会話について行けないんだが」

 よく分からないじめっとした理解を交わす二人。今度は蚊帳の外に置かれたいなきが切なそうにする。

「ああ、忘れてた。もひとつ餞別だ」

 次いで暗がりから〝き〟に向けて放られたのは、武器の類では無かった。
 龍を模した仮面。

「あとで付け替えとけよ」
「なんです? これは」

 抱えた鉄杖で器用に面を引っ掛けつつ問いかける彼女に、鎚蜘蛛姫は悪戯を好む幼児めいた顔つきで言った。

「何事にも遊びを忘れるべからず。世を楽しむ秘訣だぜ。こいつをおまえが付けるってな、六孫王にとっちゃたいそうな皮肉なんだよ、斎姫(ときのひめ)」
「……それは捨てた名です。二度と口にしないで下さい」

 不機嫌そうに〝き〟が告げると、へいへいと手を振って、

「……ったくよぉ」

 鎚蜘蛛姫は気怠げな顔で、かいたあぐらに当てた肘で頬杖をつく。憎悪とも畏敬ともつかない色が瞳に宿っていた。

「おれの仕事が、こーやってモチベーション上げるくらいしかねーなんて……〝夔〟……隻脚の雷神ね……あのぶっ壊れかけたお姫様がよくも化けたモンだよ。――いや、あの時既に化けていたのかね?」
「……何が言いたいんだ?」
「欠落には神性が宿る、って事だよ」

 秘密(オカルト)に通じた仙人じみた物言い。

「こいつぁおれらにゃ当たり前の信仰でね。足萎えと隻眼は鍛冶神の象徴さ。天目一箇神(あまのひとつめのかみ)、一本踏鞴(いっぽんだたら)、ヘーパイストスとその弟子キュクロプス……これは焼けた鉄を直視する鍛冶師、鞴を足で操作する踏鞴師(たたらし)の職業病なんだがね。おれの脚と眼がいくつ残ってるか教えてやろうか?」

 ざわり、と鎚蜘蛛姫の背後の空間が蠢く。暗がりの奥に、かすかに紅玉めいた眼球が覗く。

「卵が先か鶏が先か、信心って奴は無理矢理順序を決めちまった。鍛冶師は歳月を投じて完全なる欠落に近付いてるって考えた。本来鍛冶(かぬち)ってのは神事(かむこと)なんだぜ? おれの着てるのは浄衣の白ってわけ。……こりゃ鍛冶に限った事じゃねーよ? 詩人にも同じ事が言える。琵琶法師、ホメロス……吟遊詩人のステレオタイプは盲人だぁな。神にしても同じ事で、アステカの夜の神テスカトリポカは右足と引替えに鰐の女神シパクトリを打倒して世界を創造した。マヤ神話の嵐の神フラカンもその意は〝一つ脚〟……北欧神話の主神オーディンも、片目を潰したり自前の槍で自分を貫いたり首くくったりとドマゾい拷問の末に魔術を得た。さてお姫様よ。おめーは残った左目まで潰してどんな魔術を得たんだ?」
「……」

 背後の気配が何かを答える様子は無い。
 代わりにいなきが返答する。

「おいこら、我田引水も大概にしろよ。お前の言ってる事と逆の伝承なんて山ほどあるだろう。ケルトのヌアザは腕、ギリシャのウラヌスは陰茎を切られて力と王権を失ってるじゃねぇか」
「ちっ」

 講釈に水を差されて、鎚蜘蛛姫は口を尖らせる。

「んだよー。年寄りの話は盲目的にありがたがって聞けよー。――っつーか、同じ事を蠱部のお嬢に言われたな。なに? 受け売り?」
「違いもふ」
「あっ、わたしの芸風取らないでくださいよぅ」
「芸風だったのかよ……」

 妹の抗議にげんなりといなきがうめいていると、鎚蜘蛛姫はぱんぱんと両手をはたいて、

「武装に関しちゃこれで全部だ。他の装備は自前のを使えよ」
「……もう一つの餞別は?」
「抜かりねーよ。〝仮痴不癲(かちふてん)〟には渡りを付けてる」

 言って、彼女は更に付け加えた。

「サービスに、おまえの抜かりを補ってもやる」
「?」
「もうそろそろかな」

 別に、その言葉を合図にした訳でもないだろうが。
 戸口の外から、からからと音が聞こえてくる。
 それは部屋の前で止まり、「よっこいしょ」というかけ声と共に扉を開けた。
 しずしずと入ってくる女。
 姿を見るまでもなく、足音と声で見当は付いていた。互いに身丈が今の三分の二ほどの頃から付き合いのある女だ。

 年月を経て体格の成長はあっても、武家の息女、という余人の共同幻想を練り固めるとこうした感じだろう、といった印象はついに変化が無かった。墨液(ぼくえき)を流したような直線的な黒髪に、切れ長の瞼の内にある黒瞳。夏場でも変わらぬ黒い小袖と同色の袋帯。汗をかかない、という訳では無いだろうがこの女が暑そうにしている所をいなきは見た事が無い。むしろ周囲に寒気を覚えさせる、雪原めいた地肌。完全なモノクロームで構成された容姿――

 そして、誰の幻想によってもこの女は出来上がらないであろうと思う。百人の想像する「武家の息女」は全てこの女と極めて似通い、そして決定的に相違する。抜けている画竜点睛は何かと、長年観察しても答えは出ない。女の容姿を一通り眺めて、今日もその試みに失敗した事を悟る。顔、衣服、手に持った台車に乗る鳳凰を模した水飴細工……
 ――いや、なんだよそれ。

「あやめ様あやめ様、なんですかそれは」

 妹が同じ疑問を言葉にする。
 ふ――と女はあるか無いかのような、どちらかと言えば「無い」に大きく傾いた薄い微笑みを浮かべる。

「遠足にはおやつがつきものでしょう? 故事に曰く、おやつは三百文まで。でも三百文って結構高いのよね。限度いっぱいまで使い切ったらこんな大物になってしまったわ」
「超かっこいいですっ。匠の技ですっ」

 妹は、今度は「別に限度いっぱいまで使い切る必要は無いだろう」といういなきの意見を代弁してはくれなかった。
 いなきは無言で、工房の刀架からとても重くてでかくてとげとげした金槌を拾い上げた。
 無言のまま、とても重くてでかくてとげとげした金槌を水飴細工に叩き付ける。
 きらきらとした透明な破片が宙に舞い上がる。無駄に美しい光景だった。
 女は無表情にそれを眺め、破片が全て床に落ちてからもしばしぼーっとしてから、

「ご挨拶ね、いなき君」
「こんなゴアイサツなら何度でもしてやるぞコラ」
「ああ……近頃とみにあなたの語彙が低俗化しているのを感じるわ。若さが暴走しているのね。わたしは気にしないわ。透明で割れやすいものと見れば殴りかからずにはいられない、歪んだ性癖を持て余す男子には相応の哀れみで接するのが当然なのだから」
「ぶっ飛ばすぞお前」

 割れた鳳凰の頭を突き出して腹話術風に語る女に、それを噛み砕きつつ脅しかける。

「……なんでここにいる」

 女は鳳凰の首をひとかけ上品に口に含み、「甘いわね」と言ってから、

「蜘蛛のおばさまに呼ばれたわ」
「……鎚蜘蛛! 裏切ったか!」

 肩越しに振り向き、責め立てる。今回の行動は秘密裏に行われなければならない。この時点で露見したならば確実に失敗する。

「ばーか。早とちりすんじゃねーよ。おまえの抜かりを補ってやるっつったろーが」

 鎚蜘蛛姫は恫喝を受け流して、

「当代六孫王大樹の暗殺――おまえはその難しさを理解してねぇ」
「それがなぜ、この女に秘密を明かして呼びつける事に繋がるんだ。親父はともかく、こいつは腕立て五回で息切れするような想像を絶する虚弱女だぞ」
「失礼ね。七回は出来るわ」

 背後の無意味な抗弁は無視する。
 鎚蜘蛛姫が言う。

「難しさの意味を履き違えてるぞ。おまえたちがなぜ忌役から隠れて行動を起こそうとしてるのか考えろ」

 最大最強の憑人・六孫王は、仮想世界の安定維持を存在理由とする雷穢忌役にとって究極の敵対者である。抹殺は至上の命題で、それを行う事は天理の保証する正義である――
 などと簡単に言える程、現在の八百八町の構造は単純ではない。
 彼の殺害は、九重府と六孫王府の戦争を前提とする。軍事行動による討伐か、暗殺を契機とする戦争――戦の中で殺すか、殺してから戦の二択しか無い。

 両者がそれを選べない事は歴史が証明している。史上、常備軍の衝突は最初の内乱と合わせて三度。どれも決定的な戦果の上がらないままに数ヶ月で終結している。理由は至極常識的なもので、兵糧が尽きた――兵站活動により経済が破綻しかけたからだ。

 いち都市程度の規模の八百八町は、既に戦争を完遂する能力を持たない。極論すれば、現在の両者の軍事行動は、武士という第二の貴族階級を扶養する為の経済活動に過ぎないのだ。それは九重府が実質上の予備役にあたる火付盗賊改方を編制した事が象徴している。
 反政府勢力の旗印である六孫王は、決定的に憎悪されながら、その実政府に存命を切望されている――

「それぐらい分かってる。だから機会を待ったんだろう」

 この状況に穴の空く時機が、一度だけ存在する。
 六孫王は自殺する。
 個人の身に余る憑物を抱える彼は、やがて自我すら障気に侵食され、理性を持たない怪物に成り果てて更に肥大化していく。行き着く先はシステムのダウンだ。
 その回避策として、彼は継嗣を産み、体制を持続する準備が完成した段階で自ら命を絶つ。それは〝大殯の儀〟という祭事として制度化されている。殯宮という祭殿に籠って最期の時までそこを出ない。

 この時点で彼が殺害された場合、それは確実に秘匿される。儀礼は滞り無く完成し、つつがなく体制が次世代に受け継がれた事を六孫王府が公式に表明する。――彼らもまた、現行の秩序に依って立つ存在であるが為に。

「抜かってんだよ」

 鎚蜘蛛姫はもう一度繰り返す。

「おまえらが京が一にもあのバケモンをぶち殺したとして、ここの貴族どもが凱旋パレードでも催してくれると思ってんのか? 既に存在しない土地の生まれのガキと、死んだはずの姫君。しかも公的な露出は一度も無い暗殺者と来てる。末端の暴走として始末して闇から闇へってのが一番簡単なシナリオじゃねーか」
「その程度、考えていないと思ったか……! 六孫王暗殺に成功するだけの実力は五摂家も無視しない。奴らは俺たちに利用価値を見出す」

 いなきの声には隠しきれない苛立ちがあった。

「どうせ抹殺するなら奴らに有益な死に方を用意するはずだ。俺たちは、不可知領域での妖魅防衛任務に派遣される」
「そう。――そこのお嬢の父親、蠱部尚武の膝元にな。国の仇を暗殺する機会。それがお前の、今回の行動によって得る見返りだ」

 彼のその苛立ちをあしらうように、にたり、と、毒のある微笑みを鎚蜘蛛姫は浮かべる。
 間近に佇む蠱部あやめは、無表情を崩しもしなかった。

「ただな、そりゃ分の悪い博打なんだよ。おめーは貴族って連中のケツの穴の小ささを知らねーの。シュロの箒を鬼に見立てて、枯れススキを幽霊と勘違いするやつらだ。てめーの立場を脅かしそうな存在を一秒だって許したくないんだよ。六孫王の暗殺ってのは、やつらにとっちゃ枕元で爆撃喰らったくらいのインパクトがある。そういう算盤勘定に沿った判断するアタマなんて宇宙の果てまでぶっ飛んでんだよ。――ただ、やつらは火事場でも理解出来る言葉を二つだけ持ってんの。権威と、権力な」

 つまり、政治的有効性を持つ逃げ口上が必要不可欠なの――と、鎚蜘蛛姫は結んだ。
 いなきは反駁する。

「こいつが、その逃げ口上とやらを用意してくれるとでも?」
「そーだよ。――知ってんだろ? 忌役の武官は、無条件に現場の貴族の指揮下に置かれる」

 確かに、綱領の序盤の方に記載されている。非正規任務の遂行者である雷穢忌役は、その秘匿性故に他の武官とのかち合いがしばしば起こる。その安全装置としての措置だ。しかし――

「昇殿資格を持つものに限って、だ。確かにこいつの住処は幽天垣(ゆうてんえん)の高級貴族専用の屋敷だがな、あれは蠱部尚武に拝領されたものであって」
「あれ、わたしのうちよ」

 蠱部あやめが口を挟んでくる。肩越しに突き出されたいなきの親指に人差し指をくっつけて、「いえてぃ」などと呟きつつ、

「あのめったに帰らない不良親父がそんなもの持っても無駄じゃないの。年に一度くらいのわたしとお父さんの交流は、わたしの屋敷の一番下等な客間に逗留する彼に冷や飯を与える事から始まるのよ」
「なんだよその鶏の序列みたいな殺伐とした親子関係は……」

 引き気味に顔をしかめるいなき。

「――あー、つまりだな」

 鎚蜘蛛姫は、蠱部あやめを指さして、

「そこのお嬢様は、正真正銘の殿上人。位階従五位上の貴族サマなんだよ」
「はぁっ?」

 いなきは、素っ頓狂な声を上げる。

「蠱部尚武の表の身分は正五位下の検非違使(けびいし)大尉だろ!? なんで蔭位(※七光り)で親父とほぼ同じ位階持ってるんだよ! そもそも奴は堂上家の出自じゃない。特例の叙位なのに娘に便宜出来る訳が……」
「相変わらずお父さんの情報はなんでも把握してるわね。四十がらみの中年男に異常な興味を示す十八の少年。ちょっと気持ち悪いわ」
「うるせえ!」
「じゃあ、ちょっとエロいわ」
「エロくもない! その歪んだ目線を今すぐ正せ!」
「……そ、その、わたしも今のは、ちょっとエロいと思いました」
「なー。ちょっとエロいよなー」
「黙れ女共ぉおおおお!」

 全方位に向かって怒鳴りつけると、鎚蜘蛛姫に「まぁ、それは置いといて」と話題を逸らされた。

「んなこたどーでもよかろーに。とにかく、おめーの目的を叶えるにゃ貴族サマの監督……っつーか、おめーらが貴族の行動に随伴するって名目がねーとダメなの。その点じゃあやめのお嬢以上に適当な人材はねーわけ。なにせ忌役の武官の頂点である武神蠱部尚武の娘だからな。なにも言わんでも貴族連中はそこに意味を見出す。お嬢が実際には将校教育なんてなーんも受けてねーただの箱入り娘でもな。シュロの箒を鬼に見立てるように、ってやつだ。――だからお嬢を連れて行け。なんか文句あっか?」
「あるに決まってるだろう……! 足手まといだ!」
「その足手まといを連れて行くのが大前提なんだよ」
「別に連れ歩く必要は無いだろう。ここで指示を受けたって事にすれば、」
「この制度で認められてるのは現場指揮権までなの。行動期間中、一日ニ三度以上、アルイハ一刻以上ノ接触ヲ要ス、って規定されてる」
「なら、紫垣城にいなければいいだろう。どこかに逗留させて、」
「コトの後はおめーら揃って七日間、十人以上の担当者と仲良く査問パーティだ。んなちゃちーアリバイ工作なんてケツ拭く紙ほどの役にも立たねーよ」
「……っ」
「打ち止めか?」

 女郎蜘蛛めいた老獪な憑人の女が言う通り、もう用意できる言葉が無い。彼女は嬲るような笑みを浮かべている。
 それから逃げるように、背後を向く。

「おい、こいつにどう言いくるめられてるのか知らないが、考え直せ。お嬢様はいつも通り家で大人しく本でも読んでろ」
「嫌よ」

 一言だった。

「分かってるのか? 俺たちはこれから、敵しかいない場所に行くんだぞ」
「あなたの敵は、わたしの敵ではないもの」
「出くわす深川武士の中にその言葉を受け入れる奴がいればいいがな。自分が殺されないとでも思ってるのか?」
「あなたは生き残るつもりなんでしょう?」
「お前を生き残らせる為に力を割くゆとりは無い」
「ほら、あなたも自分が死なないと思ってる。死を思え、なんて小利口な事考える必要無いのよ。人間死ぬ瞬間まで自分は死なないと思って生きるものだし」
「屁理屈をこねるな! ……聞いてただろうが。俺は、お前の父親を殺す機会を得る為に戦うんだぞ」
「好きにすればいいじゃない?」
「俺に奴を殺す力が無いとでも思ってるのか?」
「前々から思ってたのだけど、なんでみんなそうやってあの宿六親父をすごいすごいと褒め讃えるのかしら。あの人、自分じゃ下穿きの洗濯もおぼつかないのに」
「……お前、もしかして親父の事嫌いなのか?」
「別に。……まぁ、死んだら悲しいとは思うわ。それでも、それはあなたとお父さんの問題」
「相っ変わらず理解しがたい思考回路してるなお前は」
「そう? あなたよりは単純明快であると自負しているのだけれど」
「――痴話ゲンカじみてきてんぞおめーら」

 鎚蜘蛛姫の水入りで言い争いは中断した。あやめの肩越しでは、〝き〟が杖をかかえておろおろとしている。
 見苦しい、とばかりに憑人の女は嘆息した。

「青っくせーんだよ。巻き添え作りたかねーなんてよ」
「……この女は何も関係ない」
「かっ、救いようが無ぇな。反吐の出る思い違いだぜ」

 蔑みに反射的に言い返す前に、鎚蜘蛛姫は言葉を重ねて封殺する。

「他人様に迷惑かけたかねーってんなら、こんなクソ溜めじみた世界に生まれてくんじゃねーよ。お袋の胎ん中で臍の緒使って首括ってろ。何よりもおまえの道は、無関係の人間をゴミのように殺し尽くす屍山血河よ。――おまえはもう童貞捨て(人殺し)てんだ。今更人を冥府に退ける事を恥じてんじゃねぇ」
「……っ」
「その点、おめーよりお姫様のがよほど分かってんよ。――ほら、トドメ差してやれ」
「……」

 呼びかけられた〝き〟は無言のまま、
 仮面が隠そうとも理解出来る冷徹な声を出した。

「いなき様。彼女の言う事が正しいです」
「お前……っ!」
「これ以上だだをこねるようであれば、あなたを連れてはいけません。そもそも、わたし一人であれば保身を図る必要などそもそも無いのですから。――わたしの目的は今回遂げられます。先の道は不要です」

 退路を断つような口調だった。
 何も言えずにいる内に、目の前の蠱部あやめが言葉を挟んでくる。

「勘違いをしているようだけど」

 暗幕のような瞳。そこに何かを読み取れた事は無い。

「わたしが行くのは、わたしの目的ゆえによ。あなたがわたしの道行きに付いてくる、そういう事よ」

 後方で茶化すように、鎚蜘蛛姫が喝采を上げる。

「女三人相手に男が一人。勝ち目ねーよな色男」
「……お前ら全員地獄に堕ちろ」

 いなきが苦し紛れにどうにか絞り出した恨み言は、いかにも負け犬じみていた。

「話はついたな。切り火はいるか?」
「いいえ。代わりに一つだけ質問を許してもらえるかしら、おばさま」

 会話の主導権まで奪い取って、あやめが鎚蜘蛛姫に言った。

「まだあんのかよ。松尾芭蕉みてーに鹿島立ちにだらだら前置きすんのが趣味か?」
「ゆっくり行くものは確実に行く、と言うわ。――あなたがここまで至れり尽くせり手を焼いてくれる理由は何かしら? ああ、前置きを簡略化する為に申し置いておくけれど、ただの善意だなんてこのいなき君ですら誤魔化しおおせないのであしからず」
「……どういう意味だ」

 いなきの漏らす不平は完全に聞き逃され――本当に主導権を取られた――、あやめは九重府一の怪人の返答を待っている。
 鎚蜘蛛姫は語り出す。

「未那元とは因縁浅からぬ仲でね。未那元頼光(よりみつ)の都知久母退治ってなそこのいの字にも語った事だが、それまでおれらの一族は、頼光の親父の二代目六孫王満仲(みつなか)と密約を結んでた。京の政争の旗色が悪くなったんで、おれらはトカゲの尻尾みたいに切り離されたんだよ」

 数百年に渡る孤独な放浪の日々で練り固められた、屈辱と憎悪を滲ませて、

「やつらは一族の怨敵。正直、百ぺん殺しても飽きたらねーよ。元はといや、九重府(ここ)の厄介になったのも復仇を期してだ。それを果たしてくれるなら股開こうがどうしようが」
「――おばさま、人間じみた物言いをするのは止めてもらえるかしら」

 刺すように、あやめは告げた。
 ――くひ、と鎚蜘蛛姫は嗤う。

「ホント、怖ぇのな」

 毒気を解放するように、幼児じみた容姿の妖姫は語る。

「確かに、おれちゃんが興味あんのは刀(子)の生産、それだけよ。殺(ヤ)るのがウマい相手ならどんなやつのヨメに出してもいい。忌役を嫁ぎ先に選んだのは、こいつらのがヤり口が丁寧だからってだけさ。憑人ってな力任せでイケねぇ。――安心しなよ。おれのアガリはひとりヨガりさ。おめーらがどこで死んでも詳細な報告が上がってくるよう手配してるってだけ。おれぁそのデータで刀(むすめ)のデキを知る。次の作刀(生殖)に活かす為に。だから、安心して死んでこい」
「そう。ならば、わたしはこの子たちを生かす事にするわ」

 蠱部あやめは。
 武術の心得一つ持たない、何ら武力を有しない女は確信を込めてそう言った。

「そうかい。なら、やってみろよ」

 鎚蜘蛛姫は、その挑戦を、真剣に受けたかのように応じた。



[36842] 1c/三十六人衆
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:29
 八百八町の社会構造を説明する際、豪商の頂点三十六人衆を第三勢力と呼ぶ者は多い。それどころか社会を裏でコントロールする黒幕である、などと陰謀論めいた想像を語る講談師も少なくなかった。九重府と六孫王府が彼らに図る便宜の過剰さを思えば、さほど荒唐無稽とも言えない論旨である。
 例えば札差暁翁こと大口屋治兵衛。彼はロビイストめいた手口を(実際、芝居小屋付属の茶屋で煙管を蒸かしつつ高級官吏と談合する様を描いた風刺画は、発禁処分を受けるまでそれなりに出回った)駆使し、政府に金融業の優遇政策をいくつか発布させた……

「この話の根本的な誤解は、大口屋は三十六人衆じゃないって事だ」

 人気で賑わう目抜き通りを歩みながら、いなきは後方を歩くあやめと〝き〟に言った。路面には、上空に無数に渡された架橋の作る影が貼り付いている。終夜無尽灯の焚かれた品川の歓楽街は、夜中でも光と影に二分される。

「三十六人衆、別名会合衆(えごうしゅう)。彼らには名前が無い。普通商家ってのは屋号で呼ぶもんだが、それすらもな。瞞天過海(まんてんかかい)、笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)、趁火打劫(ちんかだこう)……そうした称号のみが存在する。大口屋治兵衛はその内の誰かが用意した大衆向けのスケープゴートだな。何人か似たような道化を仕立てた後は、何もせずとも、誰もが吉原で豪遊するような大商家を三十六人衆と思い込むようになった」
「なぜそんな工作をする必要があったんですか?」

 つい数刻前と同じく聞き役、質問役に徹するつもりの〝き〟が問いかけてくる。

「彼らがこの世界で果たす役割の為に必要だったからだ」

 いなきは人差し指を立てて、

「八百八町史における最大の発明品。なんだ?」

 指名を受けた生徒のように妹はあたふたとして、途切れ途切れに言う。

「け、建築技術、だと思います。高楼が一般化されたのが二百年前で……おかげでこの品川迷宮のような大きな建造物も。増加する人口を狭い都市に効率的に収容出来るようになりました」
「サンカクだな」
「あぅ」

 辛い採点を受けてしょぼくれる〝き〟に、正解を告げる。

「消火器だよ」

 路上の各所には、手押し式の井戸を小さくしたような器具が置かれている。

「竜吐水……炭酸カリウム水溶液を消化剤として噴射する道具だ。二百年前の大火災の反省に基づいて、という名目で生まれた発明品。この竜吐水とその他多数の防火技術によって、八百八町にとって火事は現実世界ほどの脅威では無くなった。江戸という都市にとっては、頻発する火災は市民性にも影響する重大なファクターだったんだ。これが消えてどうなったか。お前の言う通り、高楼を含めたコストの高い建築物が増えた。他にも「宵越しの銭を持たない」という風潮が無い為に蓄財の習慣が生まれた。今じゃ両替商は貨幣の交換よりも為替の発行やら預金で儲けてる。まぁ、それは慢性的な物価の下落傾向にも繋がるんだが……」

 ともあれ、この都市が江戸でなく八百八町である最たる特徴が防火技術である事は論を待たない。

「それを世に広めたのが趁火打劫、三十六人衆の一人だ」
「……つまり、三十六人衆は発明家であると?」
「違う。彼らは〇から一を作るのではなく、一〇〇から一を切り分けていく存在だ」
「?」

〝き〟が不思議そうにしている隙に、あやめが声を上げた。さっきまで彼女は、二人の話を全く無視して周囲を興味深く見回していた。

「なんだかここ、九龍城塞みたいね」

 上階を直接通す、蜘蛛の巣めいて無秩序に設置された橋。野放図な増築によって子供の玩具箱じみた乱雑さで肥大化した建造物。蜂の巣のように緊密な人口密度。確かに現実世界にかつて存在した大スラム街に似ていなくもない。規模はこちらの方が遥かに大きいが。

「現実世界の知識に基づいた発言は禁句なんだがな」
「何よ。それならあなたの方がさっきから危ない会話してるじゃない。……つまり、そういう事でしょう?」
「そういう事だな」

 同意する。

「現実世界の知識はあるんだ。しかも、格別先進的な。そうしたオーバーテクノロジーの段階的な解放、抑制……この役割を担うのが三十六人衆だ。これは軍事組織を抱えた九重府と六孫王府には出来ない」
「具体的には、どういう事をするのかしら」
「特許権(パテント)の占有だな。両政府ともに、三十六人衆の称号には株という名前で不可侵の専売特許を認めている。彼らは座という同業者組合(ギルド)を組織して、その枠組み以外での商業活動を禁止している」
「自由が無いわね」
「望むべくも無いな。彼ら自身も、経済の徒でありながら九重府やら六孫王府と比べて遥かに禁欲的だ」
「……なんだか、言いたい事が分かった気がするわ」

 あやめは嘆息と共に、剣呑(けんのん)剣呑、と付け加えた。いなきは頷いて、

「そう……株というのはあくまで称号に付与された特権だ。誰がそれを持っていようと構わないんだよ。彼らはその役割の重要さ故に、無能も増長も許されない。だから自分たちを極めて不安定な立場に置く。席は頻繁に更新される。大概、暗殺によってな」
「そんなに回転率が高くて、機密が守られるものなんですか?」

〝き〟の質問に頷く。三十六人衆の制度が生まれたのは現寇直後の徳知(とくち)暦元年。戦時の混乱の中で仮想世界の真実を知った商人三十六人。その中の一人が斬首刑直前にあって、五摂家と六孫王を前に述べた言葉は「六梨下の奇弁」という名前で伝わっている。
 ――我らを脅かす程業の強い人物なら、無意味に秘を明かすなど出来ませぬ。利が、その手にへばり付いて離れぬのですよ……

 消失した筑前国出自のその商人は、妻と子を置き捨てて、商売の種である織物一反だけを脇に抱え込んでいた――

「結局五百年以上、彼らは仮想世界の運用の最も困難な部分をやりおおせている。貴族や武家がそれを行っていたら、多分百年と保たなかっただろうな。両者もそれを分かっているから、三十六人衆の要請する便宜には応え続けた。よきにはからえ、ってな。この商業自治区、通称品川迷宮もよきにはからった結果だ。彼らには秘匿された研究・開発環境が必要不可欠だ。この一里四方程度の区画のどこかに三十六人衆の三分の一ほどの本拠地があると言われている。俺たちが会う〝仮痴不癲〟もその一人だ」



 ――All the world's stage.And all the men and women merely players.
 待ち合わせに指定された大劇場には名前が無く、その碑文だけが表の金板に刻まれていた。

「この劇場を作った人は、よほど気取り屋でもったいぶった輩のようね」

 舞台を円形に囲む、外周から一段ずつ高度が下げられていく形式の桟敷(さじき)。最も外側の客席に腰掛けて舞台を眺めつつ、あやめはそう漏らした。その左隣に座したいなきは問いかける。

「どうしてだ?」
「さっきのあれ、シェイクスピアよ。『お気に召すまま』……劇場の名前もたぶん分かるわ。『世界劇場』でしょうね」
「ふーん」
「あなた、解説役と聞き役でやる気が違いすぎないかしら」
「いや、だって、よく知らんし興味もないし……そもそも主導権を握られるのは好きじゃないんだ」
「わがままねぇ」
「わ、わたしはすごいと思いますっ。あやめ様の深い知見に目からウロコですっ」
「……それは……体を張ったブラックジョーク、なのか……?」

 更に左側で追従する〝き〟を怖ろしげに眺めながら、いなきはうめいた。

「ふん。ならば好きなだけ解説するがいいわ。けれど覚えておく事ね。あなたは解説一つするごとに深みにはまり、その内「あ、あれはまさかっ!」という定型句を抜きには何も語れない紋切型の人間に堕ちていくのよ……」
「なんだその呪いは……」
「あ、じゃあわたしは「知っているんですかっ!」って合いの手を入れる役どころですね」

 機嫌を損ねたらしくぷりぷりと(表情には表れないが)語るあやめに、意味不明の理解を示す〝き〟。
 三つ目の演目の修羅能までは三人とも観劇に徹していたが、浄瑠璃、詩舞、舶来の金管楽器を伴奏に用いた前衛舞踊などなど経て既に二刻は経過し深夜になっている。観客も一人、また一人と引いてきて、今またもう一人が立ち上がった所だ。無駄話の一つもしたくなるだろう、などと思いつついなきは口を開く。

「仮痴不癲の所有する権利は主に芸能関係だ。と言っても、劇団を管理している訳じゃない。舞台建築、照明、音響の技術全般……俺たちが今いる客席の形態は段桟敷と言うんだが、要はローマの円形劇場だな。猿若町の劇場街でも実験的に取り入れられてるが、土地の事情からしてあそこじゃ普及しないだろう」
「大事な事を聞いていなかったのだけれど」

 あやめはそう前置きして、

「なぜ深川に行くのに真逆の方角の品川に来ているのかしら」
「永代橋、新大橋……深川入りする経路は全て関が置かれている。俺は既にあそこの憑人を何人か殺ってるし、〝き〟の存在も知られていないと楽観視するのは……難しいな。だから、品川から海路を使って密航する事にした……六孫王府は漁船や回船の出入りも管理していて、抜け荷(密輸)のルートを……持っている三十六人衆を頼るしか無い。あの鎚蜘蛛姫は独自のコネをあちこちに持っていて……それで……渡りをつけて貰った」
「ちょっといなき君。解説にキレが無くなってきているわよ。唯一のアイデンティティも放り捨てた、ゴミ箱の縁にぶつかって床に落ちたちり紙のような人間になり果てるつもり?」
「失礼極まりないなお前……」
「あの役者がどうかしたのですか?」

〝き〟が口を挟んでくる。
 先程からいなきが注視している舞台上では、今一人だけが踊っている。本来男装の婦人が務める白拍子を女装した男が踊るという、倒錯した演目だった。白い水干姿の役者が優美に舞いつつ歌を吟(ぎん)ずる。
 ――何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

「あの男、最初から出ずっぱりだな」
「そのようね。よく疲れないものだわ」
「職業人をお前みたいなもやしと一緒にするなよ。俺だって十貫(※三十七・五キロ)の荷物背負って一昼夜走り続けるくらいは出来る」
「度を外れた体力って傍目には気持ち悪いわね……しかもそれを常識と思い込んでいる体育会系的感覚には、正直戦慄を禁じ得ないわ」

 減らず口を――減らず口だろう、たぶん――叩くあやめに憎まれ口を返すにも気がそぞろで、いなきはその原因である役者を眺めて、

「さっきまでな、俺はあれを別人が入れ替わり立ち替わりしているんだと思ってたんだよ」
「そんな訳無いじゃない。歌声も体格も一緒で、それに」

 彼女は、男が隻腕である事を指摘したいのだろう。先程からずっと、彼が着るどの衣装も左の袖が平らに垂れ下がっていた。

「ああ。だから何か仕掛けがあるんだろうと探していたんだが……」

 それ程に、俳優が同一人物である事をいなきは信じられなかった。

「動きに癖が無いからですね?」

〝き〟がいなきの困惑の理由を指摘する。
 その通りだった。武将、遊女、姫君、鬼、神霊……演じられた役は多岐に渡るが、その全てに彼は個別の動作を示した。技術には分岐する前の根本、背景があり、いくらかの状況ごとの動作を観察すればその起源が判別出来る。その訓練をいなきは受けている。
 彼についてはそれが読めなかった。扇の上げ下げ一つも役柄ごとで変化させている。足使いで使用する筋肉すら違う。技術への深い理解と、それに対応する身体操作の多彩さがあって初めて成立する行為だ。
 感嘆すべき芸であった。

「達人って奴はいるんだな」
「――あら、お目が高いのですね」

 いなきの言葉に応じたのは、第四の人物。
 後方を振り向けば、紺碧のドレス姿の、年の頃十二、三程の少女がスカートを手に取り一礼した。

「あれなるは我が『世界劇場』の看板役者です。お見知りおきを。そして、ようこそおいで下さいました、雷穢忌役の皆様方」



「コロンビーナとお呼び下さい。短い間ですが、よろしくお願い致しますわ」

 そう名乗った案内役の少女が、三人の先頭を行く。灯明をほのかに灯した石の小路。針金を通した群青のスカートが傘のような影を作り、ヒールがかつかつと硬質の音を立てる。
 あやめが声を上げた。

「女使用人(コロンビーナ)ね。本名は教えて下さらないのかしら?」
「非礼をお許し下さい、博学な方。我が主はいかな時も諧謔を楽しまれます。――それに、そちらもアルレッキーノを連れていらっしゃいますもの。不作法はお互い様ではありませんこと?」
「軽業師(アルレッキーノ)の面は猫よ。……まぁ、この子のは験担ぎみたいなものなの。許してちょうだい」
「構いませんわ。〝我が恋人〟ですものね」

 くすり、と少女は微笑む――

「なぁ、あいつらは何語を喋ってるんだ?」
「わかりません……ですがただごとでないおしゃれなふいんきを感じますよ……」

 肉体派二人が蚊帳の外で頭の悪い発言を交わしていた。

「あんたの御主人様の住処は遠いのか? 夜も随分更けた。そろそろ腰を落ち着けたいんだが……」

 声をかけるいなきに、少女は振り向いて、

「もう少し我慢なさって下さいまし。主の居城は決まった順序を経ないと辿りつけませんの。理由はお分かりになりますわよね?」

 言わずもがなである。

「そういう事なら。〝き〟、しんがりを任せる」

 隣の妹に声を掛け、追い越して使用人の前に立つ。

「露払いをやる。道順は後ろから指示してくれ」
「客人に気を使わせては、使用人の名折れです」
「勘違いをしないで貰いたいな。俺たちの目的をつつがなく遂げる為だ」
「そういう事でしたら」

 その後はしばし無言の道行きになった。
 次に声が上がったのは、建物を連結する架橋に差し掛かった所だった。地上は遠ざかり、夜空はさして近くなったでもない。

「月のような御髪ですね」

 少女はいなきの髪色を見て、そう指摘した。

「あんたの方は……そうだな、金貨のようだ」
「あら、下品な色合いと仰いますの?」
「誰でも価値が分かるって事だ。瞳の方は青玉(サファイア)かね。――悪いな、詩心の持ち合わせが無いんだ」
「いいえ。率直は美徳です。洒落っ気を求めるなら、青い金剛石(ダイヤモンド)くらい言って欲しくはありますけれど」

 くすくすと微笑みながら、少女は隣に移動してきた。興味の色を、件の青玉の瞳に浮かべている。

「あなたも渡来人の出?」

 渡来人――舶来の知識、物品の存在を説明する為に、古くから一定数存在した黄色人種以外の形質を持つ人々。少数民族の常として、彼らはどの時代においても差別の対象となる。
 定められた役割を前提に存在する、という点では彼らは誰よりAI的と言える……

「いいや。そう誤解される事は多いがね。顔立ちは八百八町人標準だろ。混血じゃ劣性遺伝の金髪を受け継ぐ事は出来ない」
「目の色もよく見れば金色ですわね。どういう事なのでしょう?」
「さぁ。俺にも分からんよ。突然変異、ってのが一番しっくり来るかな」
「あら、最も身近な所に大きな謎がありますのに、興味を覚えませんの?」
「生来の無骨者でね。目先の団子しか追えない」
「誰であれ、花鳥風月を愉しむ素養はありますわ。あなたも、十年もすれば分かりませんわよ? 蛹と蝶が別の生き物に見えるように、歳月による変化は大きなものですから」
「そんなに長生きするつもりは無い」
「なるほど。あなたの心には、美観を詰め込む隙間がありませんのね」
「あんたと違って、蝶よ花よと愛でられるような人間に生まれついた訳じゃないんでね」
「怒らせてしまいましたわね」

 少女は楚々とした仕草で目を伏せた。胸に手を当てて、

「私(わたくし)は自分の謎に余程興味を持っているものですから。我が身の美しさの由来を理解する事は、花鳥風月を愉しむ方々に深く寵愛される事に繋がりますもの」

 月明かりの薄い光源を余す事無く受けて、輝きに変える美貌。金髪も青瞳も白磁めいた肌も、新しい血が入らない以上は絶えていくばかりのものだ。彼女と同じかたちを持つ人間は既にいないのかも知れない。

 青いダイヤのような希少性(レアリティ)を、人はどのように見て、どう扱うか。
 蝶も花も、人に愛でられる為に生まれた訳では無い――

「無理矢理謝ろうとしなくても構いませんわ」

 物思いを断つように強く、少女は言った。

「確かに、誇りに思うには卑しい生き方をしてきましたけれど、それでも自分の選択であったという自負はあります」
「……そうか」
「そうですわ」

 などと頷いて――少女は顔を綻ばせた。先程までの、強い職業意識によるものでない崩れた笑顔。

「く、ひひ。それにしても……あなたは随分とうぶですのね! 謝ろうか謝るまいかどう謝れば格好が付くか……顔が百面相でしたわ!」

 いなきの背中をばんばんと叩いて、少女はかしましくからかってくる。

「だいいち、あなたのええかっこしいなんてここにいる全員が見透かしてますわよ。歩き慣れない貴族の子女と義足の娘……体力自慢のあなたがこんなにも歩くのが遅いのはどちらの為かしら?」
「……ちっ」

 どうも、女三人相手の状況ではとことんやり込められる運命らしい。男の全てがそうであるのかも知れないが。

「私、なんだかあなたの事を少しだけ気に入りました」
「そーかい――」

 彼女は不意打つように、いなきの頬に口を寄せた。

「アントニア」

 吐息の熱が耳を湿らす。

「それが私の名前。後ろの方々にはないしょですわよ、お兄様」

 その言葉に何か感情を発する前に。
 後頭部を強打されて、いなきは橋板に口付けする羽目になった。投げつけられた、欄干を素手で捻り折ったような木片が側に落ちる。

「……し、失礼しました、敵襲を察知したような気がしましたので……気のせいでしたけど」

 直前に欄干を素手で捻り折ったとは思えない気弱げな声で〝き〟は言った。しずしずとした足使いで(なぜか足音はずしずしと重かった)歩み――進路上に寝そべるいなきを踏みつけて、鉄の義足を的確に肋骨に押し当てごりごりしてから通り過ぎていった。

「あらあらまぁまぁ」

 アントニアはけたけたと小悪魔めいた愉悦を顔に浮かべ、その後に付いていった。

「次はあなたとお話がしたいですわ、お姉様。年近い女同士、好い仲を築きましょう……」

 二人が建物の中に入っていく所で、いなきを屈み込んで見下ろしていたあやめが述べた。

「格好悪いわね」
「言うな……」



  /

 幸運か、あるいは防護策が万端整っていたのか、その後も仮痴不癲の敵対勢力と接触する事なく居城に到達する事が出来た。
 仮痴不癲の館は、高楼群の作る高低差が生んだエアポケットのような空間に、吊り下げられる形で建設されていた。上空に蓋をする天井、それに向かって伸びた数本の柱が館の自重を支えているようだが、どういう技術がそれを成立させているかは想像の埒外だった。

「住人全員が偶然思い立って、その場で垂直跳びしたら落ちていくんじゃないかしら」

 いつも通り特に意味のないあやめのコメントを無視しつつ――しかし内心、そう思うのもむべなるかなと同意していた。少なくとも設計者と、その誇大妄想めいた図面を現実にする気になった工匠連中の正気を疑うのに十分な光景である。ゴシック建築に倣ったらしき鋭角な造作も不安感を助長する。

 今いなきらがいる、館を囲う壁面の一辺から正門へ続く軒廊(こんろう)が伸びている。アントニアを先頭にその跡をついていく。敷石が大理石に変わり、足音の質が変化した。手摺子(バラスター)の形に切り取られた影を踏みながら、彼女は宣告めいた助言をした。

「言わずもがな、仮痴不癲は商人です。救いようが無い程の実利の徒。皆様に万金の価値がある事をお祈りしますわ――」



 そこは異国だった。
 円形の大ホール。ドーム状の天井に竹ひごを編み重ねたような穹窿(ヴォールト)。高窓やシャンデリアなどの光源が無いのは、壁面の格間に填め込まれたクリスタルの内にライトが配置され、屈折して中央に降り注ぐ作りになっているからだ。

 毒物めいた目映さの光の下でまばらに立つ五十人ほどは、全て八百八町人の標準的な特徴から外れていた。白人、黒人、アラブ系、インディオ……この世界での少数民族。装束はマオカラーやカソック、トレンチコート、奇抜な所では半裸で全身入墨の者もいる。

 その中にあっていなきたちは、どこまでも異邦人でしか無かった。人見知りの気の強い〝き〟は、ずらりと並ぶ他人に怯えて低い背を更に縮めている。あやめはいついかなる状況でもぼんやりとした顔つきで、何を考えているか分からない。
 いなきの方は、正直に言えば居心地が悪かったが――それを意識するゆとりは無い。

(二階部分に誰もいない……射手を配置するのが常道だろうに。どういう事だ?)
「あら」

 あやめが声を上げる。中央階段の内側に、先程の役者が隠れていた。舞台衣装は着替えていて、孔雀と蛇が性交する様を描いた、正気を疑う意匠の赤い装束を羽織っている。人の良い、言い換えるとそれ以外に特徴の無い笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。応じたのはあやめだけだったが。

「――まぁ」

 その中央階段から女が一人降りてくる。

「驚いたね。蜘蛛姫様からはかなりの腕利きと聞いていたけど、子供じゃないか」
「あんたとそう変わらないと思うがな」

 いなきは皮肉を返す。踊り場で立ち止った女がその身に纏うのは、役者の着物の鮮血めいた紅色とは違った、葡萄酒めいた深い赤のドレス。あるいは退色した血の色と言った方が適当か。黒髪と淡褐色の肌は、役者を除けばこの中で唯一八百八町人のそれと似通っているが、挙動が異なっていた。八百八町の一般的な民衆は片側の足と手を連動させる歩法をする。女の歩みで動く手足は互い違いのものだった。
 女は快活な笑い声を上げ、

「はは、確かにね! 小さいようで世界は広いな。若年から輝く才覚を示す者も少なくは無いよ。栴檀(せんだん)は双葉の頃より香し、だ」

 そして、毒蛙めいた視線はその表情になっても変化していない。

「ただ、才覚にも序列があるという事を知りなさい。暗殺者(狗)風情に対等の目線でものを言われるのは、率直に不快だよ」
「俺の飼い主はあんたじゃないんでね。何より、この世界の両頭の一人をこれから殺してのけようって言うんだ。たかだか商人如きに怖じ気づいてはあんたも頼りなかろう」
「――狂犬だね、君は」

 女は嘆息し、いなきの背後に立つ異人の少女に声を掛けた。

「おいで、私の青いダイヤ。そこのこわいこわい狗に、食べられてしまうよ」
「ふふ――気の小さい事を仰いますのね、お姉様」

 からかうように言って、アントニアは女の元に帰っていった。女は彼女を腕に抱くと、その口を吸う。かすかな水音を、ホールにいる誰もが耳にした。スポットライトを当てられたような踊り場で、強く口付けを交わす二人。赤い布に包まれた太股が、少女の青いドレスの裾を二つに割る。地上に取り残された人魚のように、少女の身が跳ね、呼吸の不足に顔を紅潮させる――

「……帰っていいかしら」
「我慢しろ。俺だって今ものすごく帰りたい」

 後方で耳打ちしてくるあやめに返事する。なぜか〝き〟だけは小声できゃあきゃあとはしゃいでいた。
 二人の行為が終る頃を見計らって(さすがに水を差す度胸は無かった)、いなきは頭を掻きながら言った。

「腹芸は程々にしよう。……そもそも、仮痴不癲の地位が盤石なら、暗殺者風情を相手にする理由が無いはずだ。そうだろう?」
「はは、一応は良く見透かしたと言っておこうかな。……確かに、我々は先代を排除したばかりでね。しかも見ての通り、渡来人の集団……愚連隊と言って差し支えないくらいさ。当代仮痴不癲は即座に取りつぶされてもおかしくない風前の灯火。速やかに地歩を築く必要がある」

 期待以上の本音を明かされていなきは面喰らう。それもペースを握る手法か、と思う内にも女は立て続けに述べる。

「六孫王暗殺は、言うまでもなく大きなインパクトのある事件だ。公になる必要は無い。我々の世界はとても敏感なんだ。……弱者が生存を図るなら、大きな混沌の状況が適していると私は考えるよ。何より、仕掛け人である以上誰より適合が早い。証券の空売り、為替相場の操作……穏やかな所だと、このくらいの事をしようと思う」

 ゆったりとした口調で、女は言葉を並べていく。売り物を紹介するような具合に。

「穏やかでない所は語るまでもないぜ。それは俺たちの商売でもある」

 口の端を下劣に歪ませていなきは応じる。

「……ねぇ、なんだか急に生き生きし始めたわよあの子」
「たぶん、愚連隊って言葉を聞いたからではないかと……」
「ちんぴら仲間の匂いを嗅ぎつけたのね。耳ざといわー」

 後方の会話を必死で無視して表情を固定する。
 彼の努力を誰も認めてはくれないようで、女がその様子を眺め気怠げに告げた。

「……正直に言おう。君たちにそんな大役を任す事は不安だ」

 思わず同意してしまいそうになりつつも、いなきは踵を軽く二度踏む。この場でただ一人だけが聞き取れる程の音量で。鉄杖で床を叩く合図で、返答される。

「ただ……あのいかれ具合で人後に落ちない妖怪がよこす程の連中だ。それだけで値踏みをする価値くらいはあるかな。――まぁ、ある種のリスクヘッジと捉えてもらいたい」

 女の手振りで、周囲の連中が戦闘態勢を取り始める。得物のだいたいが衣服の内に隠していたつもりの組立式の鉄棍や鉄拐(トンファー)だ。練度の低い兵士であれば、刃筋を立てねば正当な威力を発揮しない刀剣類より適切と言える。
 大商人の私兵にしてはお粗末な戦力を読み取って――それは、優秀な連中を外部に派遣しているからだろうと思う。なるほど、本当に仮痴不癲は窮状にあるようだ。

 足の折れた鼠を差し出された猫のような表情は維持しつつ、頭の内の情報を整理してからいなきは言った。

「〝三十六歌仙〟直々の値踏みとあれば、光栄だな」

 ――女の腰には優美な拵の脇差が吊り下げられている。
 三十六歌仙。三十六人衆に必ず一人割り当てられる護衛。彼らはその身分の証として、歌仙拵(かせんごしらえ)という外装の儀仗を所持していると言う。

「さて、それは誰の事かな?」

 受けた言葉に女は韜晦を返す。
 女の佩用(はいよう)する脇差と同じものが、周囲の私兵の腰に下げられていた。
 全員ではない。五十人の内十六人ほどが護衛・三十六歌仙を示す儀仗を所持しているようだ。
 そもそも、馬鹿正直に身分証を下げて歩く護衛などいるはずがない。周知されている事を利用してこのような撹乱戦術を――それも古い手だ。この場に三十六歌仙などいないと考えるのが常道だろう。
 しかし、この時に限ってはいるのだ。そうでなくてはおかしい。

「……まぁ、」

 加速度的に剣呑さを増していく空気の中、いなきは未だ緩く立ったまま。得物に手を掛けてもいない。

「今後ともごひいき願いたい相手だ。あんたの部下は殺さないでおいてやるよ」
「そいつは助かるな。人は資本だからね。ただ――今のところ、私は君に価値を見出していない事を忘れないように」
「ああ。今からそれを見せてやる――」

 それが、開戦の合図だったのだろう。
 その瞬間、いなきの全身に視界が白化する程の激痛が走った――



[36842] 1d/凶手
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:29
 拝領機関(はいりょうからくり)。
 三十六歌仙が個別に持つ兵装。三十六人衆の保有するオーバーテクノロジーを無制限に投じて開発された戦闘用デバイス。幾度か、九重府はその正体を探ろうと間諜を送ったが、そのほとんどが使命を完遂する前に闇に消えた。

 三十六の機関全てを目にしたのは、ただ一人。絵師であった彼は、間近に死の迫る中、その正体の一端を絵図という形で残した。水揺剱(みずゆするつるぎ)、焔吐小駒(ほむらはくこうま)、奇回廊渡天女(くしきみちわたりしおとめ)……
 それら一連の絵図三十六葉は、武ヶ具三十六形(ぶがぐさんじゅうろっけい)という名で伝わっている――



「が――ぎっ!?」

 痛苦に石床をのたうち回りながら、いなきは必死に理性を掻き集めて状況の分析に努める。周囲の私兵連中は全く動いていなかった。薬品をかけられたでもない。身体に触れるものなど何も見えなかった。
 痛い――いや、熱い。焼けた鉄の箱に押し込まれたような熱感。

 痛覚は、皮膚を支点にその痛みを訴え続けている。
 不可視――皮膚――表面――
 理屈が繋がった。

(ミリ波だ)

 その名の通り、ミリ単位の波長、三〇~三〇〇ギガヘルツの周波数の電磁波。人体に照射されれば、身体を透過せずに体表の温度を上昇させ、激痛を生じる。

(行動阻害機器(ADS)か……ッ!)
「三十六歌仙〝猿丸(さるまる)〟が拝領機関〝二十七番〟……君たちには、陰振雨笠(かげにふらすあまがさ)という名の方が通りが良いかな?」

 消失した視界の中、声だけが降りかかってくる。興の失せたような色を宿して。

「随分とあっさりした、つまらない運びになったものだが、これで詰みだ。君には身動きを封じられたままリンチを受けて貰おう。手足を砕かれ、陰嚢を潰され、肋骨を砕かれ、顔面を西瓜のように腫れ上がらせても殴られ続ける。酒の肴にはいささか趣味が悪いけれどね」

 彼女の言葉を実現する為に、私兵どもがこちらに近寄ってくる。

「『我々は夢と同じもので出来ている。そして、儚い命は眠りによって閉ざされる』」

 歌を吟ずるように女は告げた。

「『真夏の夜の夢』に堕ちなさい」
(やってみろ)

 足音の数、質を聞きながらいなきは毒づいた。

(やってみろ)(熱い)(やってみろ)(痛い)(死んで楽になれ)(やってみろ)(皮膚を剥(は)ぎ取りたい)(やってみろ)(似合いの死に様だ)(何も考えたくない)(やってみろ)(やってみろ)(お前の生きる価値がどこにある?)(やってみろ)(そもそも生きている事が間違いだ)(やってみろ)(あの時死ぬべきだった)(やってみろ)(やってみろ)(それでも)(やってみろ)(ここで死ぬ訳には行かない)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)
(やってみやがれ……ッ!!)

 最も大きな足音が間近に迫った瞬間――痛みが消失した。
 猶予された一瞬の間にその場を横転する。空いた石床を鉄棍が叩いた。
 かぁん――と硬質の激突音が誰の耳にも認識される前に、通り抜けざまその相手の左足を膝から切断している。

 敵手が痛みを覚える前に、いなきは抜刀した刀を再び納刀している。
 激痛に口を絶叫の形に開いた相手が黒人の大男であると知る前に、また抜刀している――
 大木のような男の胴が、真っ二つに裂けた。

 いなきは斬撃を止めない「いぎゃ」切断があまりに速やかだったせいで、既に致命傷を負っている事に気付かない男が悲鳴を上げ続ける「やめでっ」無限に繰り返される高速の抜刀と納刀「いだいッ」人間が解体され物体に作り変えられていく「ぴぎゅっ」縦の斬り下ろしが肩を割り「まマ」旋転からの薙ぎ払いが首を跳ね飛ばし「マぶっ」袈裟懸けの一刀が横に浮き上がった男の脚を切り落とす――

 惨殺の光景に、周囲の私兵どもは凍結していた。黒衣の修羅一人だけが望むままに尊き命を弄ぶ。
 その斬撃、一九――×二斬。
 ■腸がバラけて私兵の一人の顔にかかる。■茎が先に落ちた男の歪む口中に潜る。膵■を足首より上の無い右足が踏む。弾みで眼窩から飛び出た眼■が柱の一つにへばり付く。
 血雨と肉片を大理石の床に落とし尽くして、いなきは笑った。

「きひ」

 ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ。

「スッッッッ――ゲぇ斬れ味だなァオイ! さすがは刀キチ■イ鎚蜘蛛姫の御作刀。人間がコマだよ! バラバラの糞袋が臭ェったらねェ!!」

 狂人の称号すら不足するような表情を顔に塗り込めて、躁病めいた言葉を吐く。

「白も黒も黄色も茶色も、この反吐の出る臭ェ中身は同じだぜ? テメェら、自分の臭いを嗅いでこい」

 血塗れの刀身を鞘内に納めて――それがこの男の戦闘態勢である事を、気づけば男の支配する戦場に立たされた誰もが、理解させられていた。
 目の中に浮かぶのは、明らかな恐怖だ。
 彼らの内一人が、ぽつりと「悪魔(デーモン)……」と呟いた。

 皮切りに、全て意味を同じくする言葉が、次々と立ち上る。「悪魔(シヤイターン)」「悪魔(ダエーワ)」「悪魔(アサグ)」「悪魔(マーラ)」
 殺さなくては。
 この悪魔を磨り潰さなくては、自分たちは生きてこの場を出る事が叶わない――

 狂奔する私兵どもより先んじて、いなきは血の池を歩き始めた。表面に浮かぶ凶相とは真逆の、冷めた言葉を胸の内に落とす。

(さて……こちらのシナリオには乗ったか)



「あやめ様、こちらです」

〝き〟はホールの影、二階部分の作る空間の柱の裏側へあやめを先導する。

「ここならば、あれの死角です」
「あれ……何なのかしら? 何もされていないのにいなき君が痛がりだしたように見えるけど」
「見えないだけです。波長の短い〝波〟が観えましたので、あれで肌を灼(や)いたのではないかと……」

 疑問を浮かべる彼女に答えながら、〝き〟は柱の陰より顔を出して戦況を観察する。兄が敵勢の一人に接近し、足払いで転がした所だった。興奮して受け身を忘れた私兵は、追撃をかけるまでもなく床に頭を打ち付けて失神する。その瞬間には別の敵の顎を裏拳で払っている。脳を揺すられた男は墜落するように倒れ、沈黙した。

 姿勢は常に低く、周囲の敵を楯とする配置に占位し続けている。あれならば〝波〟の掩護が出来ないはずだ。

「いつきちゃん」

〝き〟という字ではなく、既に呼ぶ者が一人しかいない本名で呼ばれる。
 あやめの声色、心音は常に安定している。彼女は本気で聴勁しても心境を読み取る事の出来ない数少ない相手だ。会話から意図を知るしかないが、それも難しい。

「わたし、足手まといになってるかしら?」

 自分が彼の手助けに行かず、留まっている事を言っているようだ。あやめの警護の為に自分がそうしている――自然な解釈だろう。〝き〟は振り向かずに答えた。

「はい。ものすごく邪魔です」

 言ってから、自分の心を読んでしまった。数秒迷って訂正する。

「すいません。意地悪を言いました。――わたしは、自分の力を節約しなければならないのです。元よりいなき様の助勢は出来ません」

 彼女は、自分の内情を明かすのを躊躇う必要の無い二人の内一人だ。〝き〟は自分の腕を見せて、

「か弱い腕ですね。――これで生木の欄干を折れる訳がない」

 先程のやり取りを思い出しつつ言う。あのいけ好かない女が彼をお兄様などと呼ばなければ自制出来たのだが。

「わたしは、魔術を使います」

 あの妖姫の言う通り、視力を捨てて獲得した秘法が自分にはある。

「厳密には仙術・内丹術です。体内の構成物を把握して……その上で、架空の臓器を仮定します。胸部の上焦、臍上の中焦、臍下の下焦……三焦という、気を練る為の器官です。存思と築基という、瞑想と生活環境のコントロールで煉気し、同じく架空臓器・経絡を通じて全身に巡らせる。……その効力は、筋力の強化。わたしは、というか未那元宗家の血筋は総じて五行の木行に適合する素養を持つので、木行の象徴する五臓である〝肝〟を通じて、筋力に作用する気を練るのが適しているのです」

 語りつつ、〝き〟は目の前の柱を指で弾いてみせた。それだけで、大理石の柱に罅が入る。

「ただ、この力には弱点があって……精製するのが難しいのです。一度消費し尽くすと、再び長い期間をかけて煉気する必要があります。わたしは、自分のコンディションを最高の状態のまま保持する必要がある……」
「ひどい話ね」
「はい。とても」

 兄を駒として利用している事を、彼女は認める。ひどい話で、卑しい話だ。

「ですが、あの方が駒に終始する程ちゃちではない事も確かです」
「……あの子が戦う所を、初めて見たわ」
「強いですよ。いなき様の蠱業・相生剣華……斬撃事象を同一の時間にして異なる空間に重ね合わせるあの秘術は、汎用性がとても高い。先程の大男を斬ったのもあれによるものです」

 試斬では無いのだ。生きて動いている人間の、しかもあれだけの大男の胴体を両断するなど普通は出来ない。

「逆側を陰刀で押さえて、力の逃げを封じています。その後の連撃は、常に片方の斬撃で肉体を打ち上げるよう力を掛けつつ斬り続けた……前者は〝草ノ草〟、後者は〝真ノ行〟とあの方が分類している技法です」

 並列起動抜刀術(デュアルブート)。
 AI存在が自己のデータを改竄(ハッキング)する事で発現する異能・蠱業の内、武神・蠱部尚武の一門に特有の技術――量子化刀法の一種だ。

 扱う状況ごとに真(対個人)・行(対集団)・草(強化攻撃)の三段に大別され、そこから更に斬撃の順序によって、同じく真(同時)・行(陽→陰)・草(陰→陽)三形に分かれる。基本はその九つの型。例えば草の段は膂力を補う刀法であり、陰刀を先に出した場合は形も草。草ノ草の型となる。

 多勢に対する状況を切り抜ける場合は、行の段――今彼が正面の敵を斬り付けている間に、背後から襲い掛かろうとした男の肩を斬ったような刀法を用いる。

「そして、異能だけがあの方の武器ではありません。剣術家として、抜きん出た才覚をあの方は持っている……」

 右斜め前方から打ちかけられた鉄棍を、いなきは避けもしなかった。目測を誤った打撃が皮一枚を掠めて床を叩く。その後に悠々と間合いに飛び込み、金的を蹴り上げて悶絶させた。

「あの方は、飛んでいる鷹を投石一つで落とした事があります」
「……縁日の輪投げ遊びよりは難しそうね」
「静止視力、動体視力のみならず、距離感を把握する為の深視力、視野の深さを決める中心外視力……その全てにあの方は超人的な値を示しました。剣術家の要訣に一眼二足三胆四力とある程に視力のアドバンテージは高いのです。先天的に、あの方は戦いに最も適した肉体の素養を持っていました」

 無論、それは原石に過ぎない。大規模な戦争の代わりに、水面下での陰惨な暗殺競争の場と化している今の八百八町で生き残るには、生まれ持ったものだけでは明らかに不足だ。
 五人がいなきを囲い込んだ。振り上げた打ち込みの内二つは空中で衝突する軌道だが、残りは当たる。
 針穴を通すような活路を、彼はあっさりと潜り抜けた。瞬時に一人の後背に占位する。

「雷穢忌役の鍛錬の基本理念は、〝動作の分解と再構築〟にあります。骨格筋には筋紡錘、ゴルジ腱器官という感覚器がありますので……それを手掛かりにして、およそ四百程の骨格筋を個別に把握した上で高効率の運動を求める。これは、大陸の拳法で言う所の〝勁〟を作る鍛錬法です。――あの方の肉体の掌握率は六割を超えています。九重府全体でも三十人といない高水準です。普通の人間には、あの方の動きは猿(ましら)のように感じられるでしょう」

 総じて――彼は間違い無く希有な天才であり、その才覚を全力で闘技の成熟に傾注している。発狂しかねない程の痛みに耐え続け、人間らしさを刮げ落とすような生活の末に力を獲得した。
 齢十八にして、彼は自身を完成させつつある。
 そして。
 彼のその力は、彼の目的に対しては、無意味とすら言える程に脆弱だった――

「……ごめんなさい。言葉が正確では無かったわ」

 あやめの言葉が〝き〟の物思いを中断させる。珍しくも、その声には色が付いていた。

「わたしは、あの子が人を殺す所を初めて見たわ」

 憐憫の色彩。

「あの子は、とても楽しそうに人を殺すふりをするのね」
「はい」

〝き〟は首肯する。
 一人で多勢に対応する要諦は、敵勢の心を一つにする事だ。チームワークとは自立した個別の意志に基づき他者を利用し合う、理知と狡猾による営みであり、依存心に基づいた、無知と愚鈍による、一致団結などという美しいだけの言葉とは対極の行為である。

 いなきは一人の惨殺によって、敵勢の思考を愚劣に堕とした。多勢の弱点は、焦燥や恐怖が集団心理で容易に加速する点にある。一度冷静さを欠けば復旧は極めて困難だ。
 衆愚と化した彼らの上に、いなきは王として君臨し、支配している。目先の肉を追う餓えた犬のようにただ己に群がるだけの敵勢を、コントロールする。単調な攻撃を誘発し、稚拙な動作の隙間を付いて打倒していく。

 頭に血の上った彼らは、〝き〟とあやめを探して人質に取るという発想も思い浮かばない。
 そして、最初の男以外は誰一人殺されていない事にも気付かない。
 敵勢が冷静に戦闘へ参加したならば、そうした手加減は出来なかっただろう。

「あの方は常に、必要最低限の残虐さを見切って実行します。互いに殺し合いを合意している中で、あまりに無駄な行為です。それでも、そうせざるを得ないのは」
「……いつまで経っても、人殺しに慣れないからね」

 嘆息めいた響きをもって、あやめの声が震える。彼女の言う通り、彼はこの世界の生命が架空のものと知ってもなお、それを軽視できない。

「……本来なら、故郷で誰とも同じように田畑を耕して生き、平凡に死ぬ事を選ぶひとだったはずです」

 恨みます、という言葉を内に隠して〝き〟は言った。彼女が悪い訳では無いが、抑える事が出来なかった。
 彼を不似合いな屍山血河の道に置いたのは、充溢する殺人者としての才覚と、もう一つ。

「あの子の帰る場所は、もうどこにも無い。それを為したのは、わたしの父……参ったわ。籠の鳥すら世間と無関係でいられないとはね」



[36842] 1e/仮痴不癲
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:30
 二十三人目を無力化した時点で、いなきは仕掛け時を探り始めている。

(位置取りは良いんだ……道を開けてやってるだろうが。来い)

 鉄拐の打ち下ろしを鎬(しのぎ)で滑らせて躱し、泳いだ下半身を後押しする形で蹴り付ける。マオカラースーツの男が階段に肩から落ちて、苦痛にのたうち回る。脱臼したのだろう。

「ぇきぃいいいいぁぁぃっ!!」

 熱狂に当てられた奇声を上げつつ、ツナギ姿の男がこちらに駆けてくる。爪先の向きと腰の動きでその軌道を察し――

(来た!)

 喝采を上げつつ男の懐に潜る。鉄棍を振り下ろす、下向きの力に合わせてツナギの襟を引き、足を払う。鞠のように男の身体が弾け飛んだ。
 その先には、赤いドレスの女とその愛人である少女がいる――
 宙に飛ばされた男を傘にして、階段を駆け上がる。男が墜落した時には既に、彼女らとの距離はあと八段の位置にいる。己の脚力なら一息に到達出来る。〝陰振雨笠〟の狙撃は間に合わない。

「――お姉様!」

 愛人を庇って、少女が飛び出した。広い階段を塞ぐには小柄過ぎる。容易に通り抜けられる――
 いなきは、少女の襟首を掴んで即座に飛び退いた。
 その瞬間には、眼前に刃が迫っている。
 既に抜刀している。飛来する投擲武器――鏢の内三本は陰刀が切り払い、残り五本を陽刀が落とす。
 残りの一本は歯で囓りついて受けた。

 敵勢の待つ後方でなく中央階段の横の床に着地し、抱えたアントニアを即座に外壁に向けて立たせる。憤怒の形相でこちらを見下ろす女は、それだけで表情を凍らせた。ドレスが裂けて、膝に取り付けた鏢の射出機が露出している。
 前歯で挟んだ鏢を吐き捨てて、いなきは言った。

「あんたのからくりは見えてるぜ、猿丸」

〝陰振雨笠〟の本体をどこに隠したかは、既に見抜いている。ホールの光源である、壁面の格間に填め込まれたクリスタル――その発光に隠れるようにして、銀色の円盤が数基浮かぶのが微かに見える。

「他媽的(くそやろう)! お嬢様を放せ!」

 一転して野卑に染まった口調の罵倒を聞き流して、いなきは皮肉げな調子でアントニアに言った。

「地金を晒すのが早すぎるな。あんたと違って、あいつは芝居がそれ程上手くないようだ。演技指導は徹底しておけよ」
「演技……何ですの?」

 往生際悪く芝居を続けようとする彼女に、いなきは告げる。

「我々は夢と同じもので出来ている――あれは、『テンペスト』の台詞だ」
「……ひっ」

 我慢しきれず、といった風に、彼女の口の端から息が漏れる。

「ひひっ、ひひひひひ、きひひひひひひっ――そうかそうか! 仮痴不癲(馬鹿のふり)か! 一本取られたわ! アンタ、洒落を分かっとるなァ!」

 部下と同じく口調を一変させて、愛人の少女は呵々大笑する。

「猿! おとなしゅうせえ! この遊び、ウチらの負けや!」
「で、でも……」
「聞き分け悪いと〝ごほーび〟やらんで」
「……っ」

 嬲るような響きの言葉に、女は身体を強く震わせてから、一歩下がり戦意を消した。
 退場した部下には興味が失せたらしく、アントニアはこちらに顔を向ける。飴玉を口の中で転がすような、人品の卑しさを示す笑顔だ。

「ウチが仮痴不癲である事に気付いた理由は分かった――けど、奴が三十六歌仙・猿丸である事に気付いた理由はなんや? 普通に考えたらあからさまに罠。確かに、罠と見せかけて本命って考え方もアリっちゃアリや。しかし、アンタは命を張った戦術に踏み切る程確信しとった。しかも、どうもコトのアタマからハラぁ決めとったフシがある」
「剣術家が、商売道具に目が利くのは当然だろう?」

 種を明かす手品師のように、いなきは告げた。
 例えば、と最初に惨殺した大男の残骸の中に落ちている脇差を指差す。

「柄巻の作る菱の数が十二半。本当の歌仙拵は十三半だ」

 他にも数人、間違いを指摘してからいなきは言った。

「歌仙拵……現実史の武将細川三斎佩用の脇差を原型とする、肥後拵の流れを汲む儀仗刀。鐔は丸形、鉄磨地、丸耳、左右影蝶大透。鐺(こじり)は鉄地舟底形。一番の特徴である鞘の黒研出鮫皮、腰元印籠刻……正しい拵は、あの猿女の下げてる奴だけだ」
「おまえに猿って言われる筋合いは無い!」
「キーキー喚くなよ。後でバナナをくれてやる」

 顔を赤らめて(本当に猿のように)激高する猿丸を思う存分挑発して――負かした相手だ。遠慮する必要も無い――、いなきはアントニアとの会話に戻る。

「本当は、その間違い探しまでがあんたのゲームだったんだろうがな」
「主導権を握られるのは好きやない、やったか」

 負けん気故か、こちらも手品師の種明かしのように、異人の少女は言った。
 ――観劇の際、いなき達の周囲にいた観客は全て仮痴不癲側のスタッフだった。あの時から三人は〝査定〟されていたのだ。
 自ら品定めに踏み切る主に、彼らは盗み聞きした情報を差し出した。「体力自慢のあなたが」などと彼女自身ボロを出したりもして、盗聴については早期に確信する事が出来た。

 客席の間諜らの不審な動作に気付いてからは、いなきは演劇、特にシェイクスピアについて無知である事をアピールし続けた。言ってみれば単なる保険だったが――仮痴不癲の過剰な遊び心故に、千金に値する情報を得る事が出来た。

「俺にだけ耳打ちしたつもりの会話を、〝き〟が聞き取った時は焦っただろう。あれからお前はずっと奴に貼り付いていた……あやめにだけは、お前の名乗った名前は知られる訳にいかなかったからな。……まぁ、それも偽名なんだろうが」
「うん? ちゃんとした本名の一つやで? 先代仮痴不癲……前のウチの持ち主が気取って付けた名前や」

 皮肉げに言ってから、彼女は腕組みして悔しそうにうめき声を上げた。

「んー、じゃあウチにもミスはあったなァ。不自然に隠そうとせんかったら、誤魔化せたかも知れん」
「かもな。俺だって、名前程度でお前みたいな子供が八百八町有数の大商人の正体と判断するのは勇気が要った……」
「なァ兄ちゃん、そろそろアンタのオンナ二人も混ぜたりィや。一人遊びが過ぎるで――痛っ」

 金髪の頭を引っぱたいて黙らせる(階段上の猿丸が喰い殺さんばかりの表情を浮かべ睨んできた)。少女は下卑た笑い声を上げ、

「ちぇっ。アンタみたいなウブなネンネにヤり込められるとは、ウチも焼きが回ったなァ」
「……あの妖怪婆と気が合う訳だ」

 うんざりと表情を歪めて、いなきは近場の柱の陰で観客に徹していたあやめと〝き〟に声をかける。

「〝き〟、あやめにこいつの名前を教えてやれ」

 妹が言う通りに、あやめに異人の少女の名を告げる。彼女はそれだけで、得心がいったと嘆息する。

「〝アントニア〟……ヴェニスの商人(アントニオ)の女性形だ」

 解答を告げると、仮痴不癲は破顔し、

「『拍手を! 芝居は終わりだ』」

 その命令に呼応して、彼女の部下たちは手を打ち鳴らす――



  /


「血生臭い……」

 ダークカラーの燕尾服に着替えた猿丸が、白い手袋を填めた指で鼻を摘み険悪な声を上げる。

「汗臭い、獣臭い、何よりオス臭い。なんでおまえみたいな汚い男を、あたしとお嬢様の愛の巣に入れなきゃなんないんだ……」
「サカった事ばかり言うなよ。猿みたいだぞ」
「きぃいいいいいいいいっ!」

 袖の内に仕込んだバネ仕掛けのレールから鏢を取り出して、猿丸が奇声を上げる。さすがに投げつける程自制心を欠いてはいなかった。――忍が仕込みを見せびらかすのは、間違い無く致命的な自制心の欠如ではあるが。

「ごめんなさいね。一度人を序列の下に置くととことんまで見下げ尽くさねば収まらない、犬のような性格の子なの」
「かかっ。お互いペットの習い性には難儀するなァ。ウチの猿もすぐ人様に牙ァ剥いて困るわ」

 部屋の中央のソファに、二人だけゆったりと腰を掛けたあやめと仮痴不癲が、自分勝手な話題で歓談している。
 あの後通されたこの部屋は、どうやら仮痴不癲の私室らしい。キャッチボール程度は難儀しない広さ。組部屋(スイート)で、寝室に続くドアらしいものも向こうに見える。クリーム色の壁紙を貼った外周にぬいぐるみを並べた、菓子箱めいた内装。絢爛豪華な大ホールも馴染まなかったが、同じ程度に頭の痛む風景である。

「けど、猿の言う事も分かるなァ。シャワー試さしたろか言うたやん。希少な未来的で実は過去道具……言っててややこしいわぁ、この呼び方……を体験する機会を棒に振るとは、モノの価値を知らん男やで」
「敵地で気を抜く程間抜けじゃないんでね」

 線引きするようないなきの物言いに、仮痴不癲は面白がるように目を細めて、

「敵地、ね。――ま、弁えとるな。見下してかかってきたり、馴れ合うつもりやったらつけ込んどったわ」
「……そこの女は随分と違う見解のようだがな」

 ちゃっかりと黒いイブニングドレスに着替えたあやめに、満腔の皮肉を込めて言う。

「何よ。こんな西洋情緒溢れる場所でいつまでも和服っていうのもおかしいでしょう?わたしはドレスコードを踏まえてるの」
「同じように空気の方も踏まえてくれると助かるんだがな」
「嫌よ」

 あやめはあっさりと拒否した。

「空気のような存在、それがわたしなのだから……」
「どうも文脈を考えると、存在感が薄いという一般的な用法ではなく、自分が場のルールそのものであるみたいな意味のようだが……」
「人々はわたしを読んで生きればいいと思う」
「……ドレスを着てみたかっただけか?」
「そう、そんな感じで」
「そうか。正気なんだな……」

 正気に狂っている女に戦慄を覚えていると、〝き〟が袖を引いてくる。

「わ、わたしはいなき様の味方ですよっ」

 確かに彼女は再三要請されてもドレスに着替えなかった。だからどうしたという程度の話だが。

「そうそう。それそれ」

 思わぬ方向から食いつきがあった。仮痴不癲は繊細な細工のティースプーンを〝き〟の面に向けて、

「口惜しいわァ。未那元宗家の血筋に備わる神域の美貌……是非とも拝んでみたかったわ」

 蛇めいた舌使いで唇を舐める。

「いや――張り合(お)うてみたかったわ。見目で人誑かす、業深い女同士」

 次の瞬間、いなきは男装の忍を床に組み敷いていた。
 彼の殺意に反応した猿丸が、今度は鏢の投擲を躊躇わなかったからだ。
 指先に奪った鏢を挟んだ手で、弓のように細いがしなやかな腕を捻り上げながら、いなきは歪んだ微笑みを浮かべたままの仮痴不癲へ告げる。

「言ったろう。敵地で気は抜かない――手緩くもしない」
「かっかっ。ひりつくわァ。命を握られとる感覚……股ァ濡らしてまうで」

 女は怯えてなどいない。むしろ目の前に差し出された死を、愉悦を込めて鑑賞している。

「冗談、冗談やて……草創期の六孫王一族が、自分らの美貌使うて朝廷で生き残った歴史を踏まえたアカデミックなジョーク。アンタとそこの姫様の間に何があろうと関係無い諧謔や」
「……平和が無いわね」

 体感的には氷点下まで冷え込んだ空気を踏まえずに、あやめはぼやいた。

「それとも、とりあえず尖ってみないと対話が出来ないってお約束が成立してる点では、物凄く仲が良いと言えるのかしら」

 ねぇ? と後方の〝き〟へ声をかける。彼女だけはその場から動かず、立ち尽くしていた。

「――はなせよっ! このくそ狗! 腕が痛いだろ!」
「……ちっ」

 わめく猿丸を解放する。そして起き上がろうとした彼女の鼻先に奪った鏢を投げ刺して、その場に釘付けにした。

「本当にこれが要人警護の頂点三十六歌仙の一人かよ。お粗末にも程がある」

 侮蔑を込めて言葉を投げつけると、猿丸は固まっていた顔を崩して泣き始めた。
 さすがにばつの悪い気分を覚えた所に、主がフォローを入れた。

「ま、当代三十六歌仙・猿丸もウチと同じなりたての新人やしなァ。豪商三十六人衆と護衛三十六歌仙は一蓮托生。主が死ねば後を追うのが掟やし、そもそも主より先に死なんかった例なんてほとんど無い。要するに、まだソイツは拝領機関も満足に使えん、ちょっと刃物の扱いが上手いだけの街のゴロツキや――愚連隊、って言うたやろ?」

 あまりフォローになってないかも知れない。実際、女忍者は泣き止まなかった。

「脆弱な渡来人の寄合所帯が、分不相応な地位についとる。それが、仮痴不癲の現状や」
「あんたの呪いによってか? 青いダイヤ」
「……ちぇっ。ほんに兄ちゃん、チンピラ臭いナリに似合わず学持っとるやん」

 苦い薬を飲み込んだように唇を歪めて、仮痴不癲は言う。

「持ち主を尽く殺してきた、呪いの青きホープダイヤ……つまり、そういう事やな。ウチの最後の持ち主、先代仮痴不癲も……大商人の業かて、運の尽きはどうとも出来んかったっちうワケや」
「見え透いた事を抜かすなよ、この毒ダヌキ」
「かっかっ。ええやん、こういうのは言わぬが華や……ま、呪い過ぎたせいで、先代からの優秀なスタッフもほとんど排除してもうたから、昔馴染みで周りを固めるしか無いんやけど」

 そう言って仮痴不癲は、ティーススプーンでカップを弾いた。
 ちぃん、と硬く冷えた音が響く。

「その昔馴染みを、よう殺(バラ)してくれたわ」

 無機質な声音だった。先程までの何事も愉しむかのようではなく、かと言って恨みが籠ってるでもなかったが、そうしたものよりも雄弁にその危険性を示す平坦さ。

「ウチの部下は殺さん、て言葉。あれは嘘か?」
「……こちらは殺そうとしたくせに、温情を求めるつもりですか?」

 溜まりかねた〝き〟が口を挟んでくる。
 それを目線一つで封殺するだけの力が、大商人の瞳には宿っていた。

「契約の問題や。言葉を容易く翻す奴は、それだけで価値を落とす事を知っとけ。……さぁ殺し屋、納得の行く弁明、してもらおか」

 逃げ道を塞ぐような響きで、彼女は問い糾す。
 それを受けて、

「……歌仙拵」

 猿丸が腰に下げる佩刀を見つめつつ、いなきは応じた。

「その原型は、細川三斎の所有する和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)。彼が生涯その脇差で手打ちにした配下の人数三十六人に因み、後に名を〝歌仙〟と変え、同型の刀剣外装を歌仙拵と呼んだ。――部下を処断する剣を渡す。象徴的だな。あんたはどうも、俺には分からない価値を、この猿女に見出してるらしい」

 次いで、仮痴不癲に目線をやって、

「仮痴不癲は救いようの無い程の実利の徒、と言ったな。過程はどうあれ、その座に付けている以上、あんたは数奇者では決してない。全ての行為に意味と実利を求める……俺が殺したあの男と、他を含めて十六人。奴らに偽の儀仗を渡した意図はなんだ?今日俺たちを騙す為にわざわざ用意した訳が無い。そもそも、何故あんたの私兵全員に渡されていなかったんだ?」

 無言のまま、彼女は回答を待っている。

「兵法三十六計〝仮痴不癲〟は、現実史における大陸の名君、楚国・荘王の若年期の故事に由来する。彼は暗愚を装う事で奸臣をあぶり出して処断した……同じ事を、あんたはしたんじゃないか?」

 空想を口の中で転がして、形になった所で言葉にする。

「あんたは、あの十六人に偽の信頼を手渡したんだ。粛正する頃合いまで、油断させる為に」
「――ひっ」

 漏れ出るような笑い声と共に、少女は獣(けだもの)のような顔つきをした。

「どォも――ホンマの正しい資質(ライトスタツフ)を持っとるらしいな、兄ちゃん。蘇従の役を務めてみんか? ギャラははずむで? どうもアンタもウチらと同じ外れモンのようやし、よろしくやろうや」
「……遠慮しておく。伍挙に後ろから刺されそうなんでね」

 そんな顔つきのまま手渡される賞賛は、まともに受け取るには余りに毒々しかった。冗談めかして辞退する。

「さよか。ま、外れモンってだけで人は繋がらんわなァ。無条件で信頼出来る相手なんて、生涯一人でもおればそりゃあ奇跡やで」

 さして残念そうでも無い風に言った後、仮痴不癲は紅茶で口を湿らせてから解答を明かす。

「兄ちゃんの言う通り、あの十六人は裏切りモンや。九重府、六孫王府、他の三十六人衆、それ以下の商家……外部の勢力と通じとった。つまり、アンタはウチの部下は一人も殺しとらん。鮮やかな答え、魅せてもろたわ」

「光栄だな」

 言葉と裏腹に、どぶ川を覗く顔つきでいなきは応じた。この可憐な少女にしか見えない怪物が、どういう顔をしてその十六人に儀仗を渡したか想像してしまったからだ。
 仮痴不癲は、一つ手を打ち鳴らして、

「ええわ。アンタらを一世一代の博打を打つのにこれ以上ないコマやと認めたる。仮痴不癲はアンタらの六孫王暗殺を最大限支援する」
「商談成立、と言えばいいのか?」
「いいや。商談っちうんは詰めが大事やで。――条件を一つ、こちらは提示する」

 指を一本立てて、彼女は言った。

「とゆーより、オプションやな。こちらのスタッフを一人付けたる。永代島での潜伏の援助やら、現地の協力者との折衝の繋ぎが要るしな」
「待て。密航船の手配だけで十分だ。それ以上は、」
「あかん。ウチらとしてもアンタらの仕事には絶対成功してもらわなならん。金と人は出し惜しみせんよ」

 商人らしい圧迫感のある語気に、いなきは一瞬瞑目して、

「……分かった。なら、付き人はこちらで選ばせろ」

 答えた途端に、責めるような気配を今まで発言の無かった〝き〟の方から感じる。彼女にとっては過剰な干渉は耐え難いだろう。
 それに、付き人と言ってもつまり体の良い監視員だ。旗色次第で裏切りかねない。一つも油断できない敵地で、敵になり得る人間を連れ歩くなど危ういにも程がある。

 しかし、協力の条件として提示された以上、この場では受けない訳には行かなかった。かくなる上は、いつでも捨て駒に出来るようなやりやすい相手を選んで、永代島に着けば頃合いを見計らって切り捨てる手だ。いなきは仮痴不癲が返し手を打ってくる前に、斬り合った五十人程から、条件に見合った人間を連想して――

「あ、じゃあわたし、あの役者さんがいいわ」

 必死で即興した計画を、あやめの一言でぶち壊された。

「ちゃんばら担当はうちの子二人で足りてるもの。幇間(太鼓持ち)がいればいいなー、って思ってた所だったのよ」
「お前、何勝手な事言って――」
「だって、捨て駒にならなそうなのって、彼だけだったし」

 見透かした発言で、いなきは反論を封じられた。
 確かに、あの男は戦闘中ずっと悲鳴を上げて逃げ回っていた。あそこまで露骨な無能では、捨て駒にも使えない。
 あやめは仮痴不癲をぼんやりと見つめながら、

「看板役者さんって話だけれど、お高いのかしら?」
「え、そりゃあ、まぁ」
「やったわねいなき君。お高い役者さんをタダで雇えたみたいよ」

 しれっと仮痴不癲を――この世界で最も交渉が上手い人間の一人をやり込めて、平然とした顔をこちらに向けるあやめ。
 仮痴不癲は、毒気を抜かれた風に肩をすくめた。

「ちぇっ。しゃあない、持ってけどろぼう。――これで本当に交渉成立。猿、手配したりや」

 主の命に、猿丸は目元を真っ赤に腫らしつつ、ものすごくがんばって立ち上がった。涙声でづいでごいと言って、いなき達を先導する。哀れな姿である。
 こちらとしても、この部屋の甘ったるい空気には辟易していた所だった。即座に立ち去ろうとした所に、不意打つような声がかかる。

「サミュエル」

 その名前を述べた仮痴不癲は、目を伏せるようにテーブルへ落としている。カップの内の揺らめく液体を眺めながら、ぽつぽつと語り始めた。

「アンタが殺した男の名や。ええヤツやったで。嫌な仕事を率先してやる男でな、昔馴染みはみんなヤツを慕っとった。ヨメさんとガキを人質にされなけりゃ、裏切る事も無かったろーな。……ほんまに、ええヤツやった」
「ああ。分かっている」

 嫌な仕事を率先してやる男だから、あの時、誰よりも先にいなきの側に立った。
 誰もが慕っていたからこそ、残された連中を狂騒に駆り立てる事が出来た。
 いなきは観察の上でその事実を知り――
 彼を、家族が見れば狂う程の死体に変えたのだ。



   /

「……よかったの?」

 行為の後に、可愛い可愛い女が自分の胸に抱かれてそう言った。

「何が?」

 黒髪を指で梳きながら、仮痴不癲は問いかける。指先に絡み付くような面白い癖のある髪の毛は猿丸の性格を現わしているようで、触れていて楽しいものだ。
 ちょうど運行の予定があった密輸船にあの三人と役者一人を詰め込んで送り出した頃には、明け方近くになっていた。どうせ眠れる訳もなく、彼女は余った時間を寝室の中での愉しみに当てた。肉を存分に感じる時を過ごした後も、ベッドの上で語らう暇が残ってしまった。

「セッコクの事? まぁ、アレはアレで具合の良い愛人やったけど……オマエは煙たがっとったやろ。手放すにはええ機会と違う?」
「ち、ちがうよ……あいつらの事」

 猿丸は、予言のように言った。

「あいつら、絶対死んじゃうよ?」
「せやな」

 仮痴不癲は、手慣れた相場師のようにそれを肯定する。予言に興味は無いが、予測の方は馴染みの深い飼い猫のようなものだ。手懐ける事は造作も無い。

「あの兄ちゃん、確かに武芸者として一流や。洗練された技術、修羅場で活路を見出す知見、何より職業殺人者に不可欠な、己を殺す覚悟……」

 賞賛を一通り並べる。積み木を組み立てるような感触。崩す時に快感を得る前触れ。

「そして、それだけや。世界を動かす器や無いなァ。ただの殺し屋風情が大業を為すのを、運命は決して許さんよ」
「あたしには、そういう人を見る目は無いけど……あいつは〝御門八葉(ごもんはちよう)〟みたいに怖くないから。目を合わせただけで自分の命を諦めてしまう……あんな、人の形をした災害みたいな連中に勝てるわけ無い」

 当代六孫王がまだ公務に耐え得る身体であった時、二人は彼とその周囲に侍る怪物どもを見た事がある。触れる肌の熱が、鮮明な恐怖に冷めるのを感じる。慰めるように仮痴不癲は声を掛けた。

「ま、ええやん? ヤツらが失敗しても保険はかけとるし。十重二十重(とえはたえ)の策の内の一つでしか無い」
「でも、――は、あいつを手元に置きたかったよね?」

 原初の、掃きだめで暮らしていた頃の名前で追求されては嘘は付けない。「まぁな」と仮痴不癲は応じて、

「ウチはな、人を値踏みする才に関しては天下一を自負しとる。これで、身売りする相手を見定めて生き残って来たワケやしな。ヤツそのものは〝平凡な一級品〟、そこそこの値打ちしかあらへん……」

 あの男――いや、未だ少年でしかない者の目の奥に潜む空虚と絶望の根拠を思う。

「けど、ヤツの負債は、人間の身一つでは到底背負い切れん程に高値やった。それを知りながらヤツは、破産する事を決して自分に許さない……なんて救われない、哀れな魂」

 うっとりと、飴玉を口の中で転がすように仮痴不癲は囁いた。

「是非、弄んでみたかったわ」

 最後のやり取りで味を見た時も、好い反応を示してくれたものだ。反吐を催す程の罪の意識を感じつつ、それを表に出す事を恥じて必死で凍結させた、ひどく雄弁な鉄面皮。
 サミュエルはとうに行き詰まった男でしか無かった。彼の家族は既に始末されている。調べるまでもない。彼の踏み込んだ――彼女の踏み込ませた世界はそういうものだ。

 それも彼は察していただろう。その上で、あれだけ馬鹿丁寧に彼の命を扱うとは――なんと良質の道化である事か。
 あの男は、手元に置いて愛でるに値する玩具だった。

「……そうしたって良かったのに」

 微かな嫉妬を含ませながらも、猿丸はそう言った。
 確かに、仮痴不癲は自分の楽しみを理由も無く我慢はしない。その為の手練手管を惜しみもしない。

「……あの女のせい?」

 彼女の理解者は、明敏に理由を察してみせた。
 触れる肌が、また一つ冷める。

「もしかしたらあいつも、怖いのかも知れない」

 猿丸が胸の中で漏らした言葉を、仮痴不癲は咀嚼する。
 彼女がどちらの事を言っているのかを考え、それが自分の中の解答と違っている事を察する。
 予測とは、仮痴不癲にとって馴染みの深い飼い猫のようなものだ。手懐けるのは容易で――時に裏切られる。

「ヤツらが生き残るってコトも、あるやも知れんなァ」

 不意に股座から立ち上る熱を覚えて、彼女は夜明けまでの時間をもう一度愉しむ事にした。猿丸を下に敷いて、自分の顔を見せないようにする。

「ちぇっ。……値が定まらんかったなんて、生まれて初めてや」

 悔しげに顔を歪め――最高の屈辱をどうにかそのレベルに落とし込んで、彼女は呟く。
 確かに、あの男を手放すにはいい機会だったのだろう。
 それでも――手持ちの男では最も高かったのに。




[36842] 1f/契約再認
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:30
「左右田石斛斎(そうだせっこくさい)。もちろん芸名。本名を教える気は無いかな」

 揺れる船縁にもたれかかって、男はそう名乗った。

「別に花好きだから付けた名じゃ無いんだけどね。まぁ、嫌いでもないよ。年は最近数えて無いなぁ。好きな食べ物は色々あるよ。嫌いな食べ物も色々だけど。趣味も多い方かな。特技については、そういうのって自己申告するもんじゃないって僕は思うよ」
「なぁ……今の自己紹介、意味あったのか? 何一つ分からなかったんだが」
「あはは」

 軽薄な笑い声一つ上げて――どうもそれ以上何も語る気が無いらしい。石斛斎とやらは金箔を貼った扇子を、右手だけで器用に広げて顔を扇ぐ。
「それにしても、さすが三十六人衆だねぇ。犯罪の規模が違うよ」

 彼は周囲の、単横陣を組んで航行する艦隊を眺めやって感嘆した風に言った。
 艦隊の構成はほぼ中型艦(関船)で、いなきらが乗艦している旗艦だけが大型艦(安宅船)だった。既に蒸気機関は解放されているので、櫂の代わりに外輪(パドル)が回り、船尾には煙突が突き立っている。ファンネルマークは笹竜胆――六孫王軍所属の艦船である事を表わしている。

 偽装船ではなく、れっきとした六孫王府に登録されている軍艦である。不審な回船や商船は臨検・逮捕の対象ではあるが、それが軍船なら問答無用で撃沈されるし政治問題にも発展する。そんなリスクは冒していないだろう。艦船、政府に提出される演習計画、全て本物を用いているはずだ。

 ただ、品川港付近の海域で商船と接触して密輸品を積み込み、哨戒線を抜けた所で別の商船にそれを受け渡すという過程が記録されないだけだ。

「まぁ、この抜け荷のシステムのせいで、六孫王軍自らテロリストの駕籠かきをやる羽目になったわけだけど。まったく、因果応報というか、人を呪わば穴二つというか」

 皮肉めかして、石斛斎はいなき達を眺めやり、

「テロリストは大げさかな。かわいい女の子が二人とちょっと背伸びした男の子が一人。ねぇ、提案だけど、旅の目的を観光に変えるってのはどう? 八幡宮、永代寺、欣厭大路(ごえんおおじ)、龍頭焼き……深川は良い所だよ」
「余計な世話だ。そもそも誰がちょっと背伸びしてるってんだよコラ。少しデカいからって見下ろしてんじゃねえぞオッサン」

 懐に近寄って睨め上げるように脅しつける。

「ねぇ、いなき君のちんぴら度が突然急上昇。あれはなぜかしら」
「今はそうでもないですけど……昔は身長にコンプレックスを持ってらしたので、その名残ではないかと」
「おい、後ろの二人、聞こえてるぞ」

 ひそひそ話をするあやめと〝き〟の方に首を向けて、

「俺はな、この手のユルくてカルいオッサンが大嫌いなんだよ。適当にだらだら世渡りしてるって全身で主張してるじゃねえか。そういう姑息な生き様は、人生における大罪だぞ大罪。少しはそのゆるゆる垂れた目つきを引き上げて過ごしてみろってんだ」
「――ん?」

 不意に〝き〟が、どこか遠くを眺めるように面を海岸線に向けだした。
「どうしたんだ?」問いかけると彼女は首を傾げて、

「あ、いえ。今、かなり遠くの方で妙な音が聞こえたような」
「鯨の身じろぎか何かか?」
「そういうのとは違って……なにか、重要な事柄を棚上げしたみたいな……」
「? なんだそれ」
「すいません。たぶん気のせいです」
「そうか? ならいいんだが」

 不思議にひっかかる彼女の物言いに、自分自身でも首を傾げつつ、いなきは石斛斎の方に向き直る。あれだけこき下ろされておきながら、へらへらとした表情には何ら変化が無い。癇に障る態度だ。

「とにかく、あんたは成り行きでついてきただけの男だ。出過ぎた真似は止めてもらおう」
「そうは言うけどね」

 どうもまだ何かを言い足りないらしい男。いなきの目つきが険悪さを増していくのを見て、

「ねぇ、僕はこうして剣をぶら下げてるけど、刃を潰した踊りの小道具だよ。非武装で、喧嘩一つ出来ない踊り屋に本職の殺し屋が暴力で脅しをかけるって、随分と格好悪いんじゃないかな」

 詭弁めいた言葉で石斛斎は牽制した。そして、いなきの一瞬の躊躇いの間を盗むように、彼は語りを続ける。

「……そりゃあね、一言言いたくもなるよ。この旅の無意味さにはね。――当代六孫王は何もせずともこのまま自分で命を絶つ。政治的な意味も価値も存在しない暗殺に、たった三人で赴くなんて、大人には理解しがたい事だよ。蛮勇? 功を焦ってる?」
「おい、いい加減に――」
「それとも、復讐かな。斎姫」

 いつの間にか閉じた扇子を〝き〟に向けて、石斛斎は告げた。

「……仮痴不癲に聞いたか?」
「いいや? 彼女は言葉をけちる方だからね……きみの声が、僕を忘れがたい郷愁に誘ったんだよ」

 彼の物言いは、わざとらしいほど芝居めかした調子だった。間を取るように緩く嘆息して、

「僕はね、きみの母親に会った事がある。後に〝今静〟と謳われる六孫王大樹の御愛妾〝ふう〟と言えば、僕の世代じゃ知られた深川芸妓(辰巳芸者)だった。彼女の歌舞は荒武者のように人を斬り、天女のように極楽に導く……本物の魅力を持った芸人だったよ。当時の王太子に見初められ、歳城(としじょう)入りした時は深川の誰もが惜しんだものさ。――きみの声は、あの人にそっくりだった。二つと無いはずのものだ。答えは一つしか思い浮かばなかったよ」

 目を閉じ、そこに過去の風景が見えるように語った後、彼は言った。

「芸人のはしくれとして、彼女の子であるきみが踊れない身体である事は至宝を失った心地さ。でも、それがこの無謀な復讐を認める理由にはならない。未那元宗家における第一王女斎姫の〝役割〟は聞き及んでいるし、それを哀れだとも思うけど、せっかく拾った命を擲とうだなんて馬鹿げているよ。若者は未来を考えるべきだ。娘が幸せな青春を謳歌する事を彼女も望んで――」

 金色の扇の上半分が、真っ黒な海に落ちてその輝きを消した。

「首を落としても良かった」

 見せつけるようにゆっくりと、抜いた太刀を納刀しつつ、いなきは言った。

「失せろ」



「剣呑よねぇ」

 石斛斎がすごすごと船内へ引っ込んでいった後に、あやめが呆れたようにコメントする。

「その手の恫喝外交は、もっと使用頻度が低くて然るべきだと思うわよわたし」
「うっせぇな。この業界じゃ一般的な交渉術なんだよ」
「そう? いつきちゃんも船室に戻っちゃったけど。引いてるのではないかしら」
「……」

 確かに、〝き〟もあのまま何も言わずに船室へ戻っていった。客観的に見ればそう取れないでもない。
 はぐらかす訳では無かったが、いなきは話題を変えて口にする。

「あのな、あいつをその名で呼ぶなって前々から言ってるだろう。あれは覚悟して名前を捨て、獲得したんだ」
「わたし、その事に思う所が無いわけじゃないのよね。だから、ささやかな反抗みたいなものよ」
「……ちっ」

 舌打ちして、黒々とした海面の方へ顔を逸らす。いなきには、この女の主張を曲げられたためしが無い。
 この旅の同行も結局制止できなかった。

「そもそも、なんでついて来たんだよお前。目的があるなんて言ってたけど、貴族の箱入り娘がわざわざ城の外に出る理由、俺には思いつかないぞ」
「あら、まだそんな事を気にしていたの? ……ふむ、そうね」

 ぼんやりと呟きながら、あやめは船縁に手をかけ海岸線を見つめる。危ないとは思ったが、落ちる前に手なり足なり首根っこなりを掴める位置ではある。彼女の語る言葉には興味があったので、黙っている事にした。
 潮風にはためく髪を細い指で押え込みつつ、彼女は静かに――どんな仕草にも音の薄さを感じさせるのだ、この女は――口を開き、話し始めた。

「もうれんやっさ、もうれんやっさ、いなが貸せ……次郎吉(じろきち)どんは水面から伸びる、無数の枯木の如き手を怖ろしげに見やり、底の空いた柄杓を投げ渡すのじゃった……」
「なんで船幽霊の話をするんだ?」
「海の怪談がそれくらいしか思い浮かばなくて」
「海の怪談をする流れだったか? 今」
「誰も質問に答えるとは言ってないでしょう?」
「いや、それはそうだが……」
「それに、少しは涼しくなったんじゃないかしら」
「冷めはしたが」
「ところで、重大な事に気付いてしまったわ、いなき君。もしかしたら……この船は底の空いた柄杓を用意していないのではないかしら。大変危険よ」
「……安心しろ。船幽霊とかいないから」
「なんですって? 妖怪を信じていないの?」
「信じていないというか……」
「無明時代(ジャーヒリーヤ)の申し子というやつね……嘆かわしいわ。各地の仲間(ムジャーヒディーン)を募って聖戦(ジハード)に踏み切る必要があるようね。ユニフォームは、虎縞のちゃんちゃんこに飛行する下駄、あるいは着流しに指貫(ゆびぬき)グローブで」
「おい、色んな方面に危ない発言をするな……っていうか、仲間とかいるのお前」
「ねぇいなき君、軍艦に勝負を挑む船幽霊って、ものすごく強そうだけれど、逆に怖くは無くなってしまったというか、ジャンルが違う気がしない?」
「ああ、いないんだな……」

 要するに、質問に答える気はさらさら無いらしい。
 げんなりと嘆息していると、あやめは気の抜けたいなきの隙を突くようにして呟いた。

「海って、こういう匂いと見た目と肌触りと音と味なのね」

 味――どうも潮風を口に含んだらしい。それが海の味なのかと言えば疑問ではあるが。

「欲に限りはないものね。それだけ知れば良いと思っていたのに、もう別の事が気にかかっているわ。……ねぇいなき君、この海の向こうはどうなっていると思う?」
「さぁな。地上への色々な影響を考えると、地球の環境が完全再現されているかも知れないが、逆に省略されていても不思議じゃない。いわゆるTO図のような世界であっても、おかしいとは思わないよ」
「あら、確かめた人はいないの?」
「魍胡は外洋からやってくる……あんなバケモノを相手にしながら冒険するのはぞっとしないな。同じ事を政府の連中も思ってるんだろうさ。九重府、六孫王府で遠征計画が立った事は無いし、外洋渡航の可能な民間船の建造は禁止されている」
「わたしは、違う理由があると思うのだけれど」

 などと、彼女は反論してみせた。

「あの仮痴不癲を見て、お城の貴族たちと似ていると思ったわ。多分、六孫王府の人たちを見ても同じ感想を持つのでしょうね。前向きな思いつきが出来ない心境……どこか投げやりというか、物事を軽く見ているというか……命も、含めてね」
「俺たちへの批判か?」
「ええ、そうね、多分」

 言葉通りに怒りらしきものが、この女の顔に表れるでも無かったが。あやめは何を考えているかどうしても分からないその顔を、海岸線の遥か遠くへ向けている。
 こうした視界の広い――情報量の多い場所では、目を凝らすと世界を描画(レンダリング)する基礎単位の格子(グリッド)が露出する事がある。一般には一色虹、翡翠弓、虹の網などという名で知られる現象だ。

 その正体を知る人間は、彼女の言う通り総じて物事を軽んじる。生命を含めて。
 心中に生まれる虚無感を根拠に――

「わたしは、それだけは許したくないと思っているのよ」



 海岸線が払暁の色合いに染まり始めた頃に、鉄の義足と杖が甲板を叩く音がした。振り仰ぐと、〝き〟が船室の入り口から出て来る所だった。

「仮眠、取っておけよ。次にいつ寝れるか分からないぞ」
「無理ですよ。わたしたちにあてがわれた部屋、ものすごく狭いんです。わたしがいると、あやめ様が眠る余地がありません」

 恨めしげな声を上げて、彼女は海に――確か品川の方角だ――狐の面を向ける。
 心の中で誰を殴り飛ばしているか察したが、それは無視していなきは問いかける。

「じゃあ、今はあやめと石斛斎が二人きりで船室にいるって事か?」
「いいえ。あそこは一人横になったら満杯です」

 つじつまが合わない〝き〟の受け答えに不審がっていると、彼女は何故か物凄く誇らしげに、不可解な発言をしてくる。

「心配はいらないのです、いなき様。あのちゃら男は廊下でのびているので、ふらちな真似は不可能ですよ」

 そのまま続けて報告する。やはり誇らしげに。

「あの後、ちゃんとしめときましたからっ」
「……えっ?」
「顔は殴りませんでしたよ?」

 それが非常に重要な事のように語る。しかも、「役者の顔だから」ではなく「ばれないように」というニュアンスに感じられる。気のせいだと祈りたいが。
 ふと胸に生まれた感情を喜怒哀楽に当てはめる事は難しいが、無理に言葉を選ぶなら――いなきは引いた。

「そもそも、いなき様が不寝番をなさっているのにわたしだけ寝ているわけにはいきません」

 健気っぽい物言いを聞きつつ、気に食わない発言をした男をわざわざリンチにしに行くわけにはいくのだろうか、といなきは胸の内でつっこんだ。耳に心地良い返答をもらえる気が何故か全くしなかったので、口には出さなかったが。
 気分を切り替えるまじないに、鼻の頭をかきながら言う。

「不寝番、なんてかしこまったものじゃない」

 甲板上で作業する監視員などがこちらに目を留める事は無い。むしろ、あえて無視するかのような態度だった。人は表面的な理屈がついていればそれ以上の追求をしない。内側は自分の空想で埋めてしまう。いつもの密輸品と一緒に分かりやすく同業者――しかも自分たちより更に薄ら暗く、血生臭い世界にいそうな――がいても、雇いの殺し屋と察するのがせいぜいだろう。職業軍人が関わる必要は無いと、若干の怯えと共に思い込もうとする。

 危険は無い――という確率が極めて高い。
 極小のケース。例えば、これまでの過程のどこかで自分たちの行動が諜報の網に引っかかり、現在捕縛の命を受けた憲兵を乗せた軍船がこちらに近付いている……密偵は専門では無いが、彼らの耳は各所にあるものだとは理解している。例えば武ヶ具三十六形を遺した絵師は、描画を遠くの紙に映す蠱業で情報を伝達したと言うが、そんな常識外の能力で行われたスパイ活動も察知されてしまうのだ。

 万難を排してなお、その裏をかかれる可能性が存在する。この世界はそういうものだ。
 幸い、いなきは若年の兵士が抱きがちな愚かしい全能感を信じずにいられた。彼にとっての全能者が、自身の全能を信じてなどいなかったからだ。
 こうして形にもならない「不測の事態」に備えて待機しているのは、その不信の表れに過ぎない。

「ただ単に、気を抜きたくないんだ」
「それならわたしだって同じですよ」

〝き〟の語調には珍しく、責めるような気配があった。

「わたしももう、あなたと同じ忌役の武官です。いなき様が警戒しているならわたしだって警戒しているんです。わたしは、あなたと同じ目線に立っているんです。だから、保護の対象みたいに扱うのは止めて下さい」
「……悪かった」

 傷付けた誇りの償いにはならなかっただろうが、謝罪する。
 それを胸の内でどう受け取ったかはともかく、彼女は、いいんです、と微笑んだような色を面の内からも分かるように浮かべた。

「そもそも、船員を全て叩きのめして船を奪取、哨戒線付近で自爆させて巡視船の注目を集めている隙に小舟で上陸する、なんて手間のかかる作戦の準備は、いなき様一人じゃ手に余るでしょう?」
「……いや、そんなえげつないシージャック計画を立てた覚えは無いんだが」
「あ、あのちゃら男は途中で海に捨てていきましょうね」
「同じ、目線……?」

 理解出来ない言葉を――かつ早急に理解しないと危険な言葉を――聞いたように、いなきは戦慄を込めたうめき声を上げ、妹を見つめる。

「というか、そんなにあいつが不愉快だったのか?」
「ちゃらいですから」

 ばっさりだった。

「茶坊主にも使えない、臈次(らっし)も無い、いらっとする、略してちゃらい」
「形容詞一つじゃ足りなかったのか……」
「しかも、なんか過ぎ去った青春をわたしに投影してる感じでしたよあの人。セクハラおやじですよ、きもちわるい……やっぱり鎖骨を折っておけば良かったかも……」

 口惜しげな物言いの、怖ろしい後半部分を無視するのにいなきが全力を注いでいると、〝き〟は気持ちを切り替えるように嘆息して、

「まぁ、母さまの事を知っている人に会えたのは好かったですけど」
「……なんだ、本命はそっちか」

 石斛斎に会いに行った本当の目的は、母親について聞く事だったのだろう。子供というのは両親の過去を意外に知らないもので、知りたがるものだ。相手がとうに死んでいるとなれば尚更のはずだ。

「話、聞けたか?」
「ええ。たっぷり吐かせました」
「吐かせ」

 不審な物言いに引っかかりを覚えている間に、〝き〟は言葉を続ける。
 声は、心地よさに浸る響きを持っていた。

「わたしを通して母さまを見ようとする、っていうのは辟易ですけど。それだけ母さまが愛されていたって事ですものね。その点は、悪い気はしませんでしたよ」
「……そうか」

 ――声色に違和感が現れない事を祈りながら、どうにか呟く。
 羨望の感情を、表情のみに留めていた。
 彼女に視力が無い事を感謝する、というのはいかにも下劣ではあったが、この気持ちを知られるよりはいくらか上等だろう。
 彼女の母親を知る者がいる。思い出を共有出来る。
 それは不死ではないにせよ、不滅に近い世界の営みだった。

 過去すら失せて、世界から外された故郷。
 死よりも空虚でおぞましい消滅を、本当の意味で知る人間は、もう自分しかいない。
 己の抱える孤独感を悟られてはならない。その時、この少女もまた孤独に落ちるからだ――

「あと、この面についても聞きました」

 そう言って〝き〟は、懐から龍面を取り出した。鎚蜘蛛姫から餞別に貰ったものだ。

「蘭陵王だろ?」

 いなきは先回りして答える。いなきは左右田という芸名について、左楽、右楽、田楽から取ったものと予測していたので、ならばこれも石斛斎にとっては専門の範囲内だろうと思っていた。

「雅楽〝蘭陵王〟の面……蘭陵王っていうのは北斉の武将高長恭の異称だ。美貌が過ぎた為に、兵卒の戦意が落ちるのを恐れて龍を模した鉄仮面を付けていた……なんて、これは後世の誇張表現だけどな。それが何故皮肉なのかは分からんが」
「九代目六孫王の弟と関係しているそうですよ」

 聞いたばかりの知識である事が分かる、あやふやとした口調で〝き〟は答えた。

「彼の若い頃に名乗った名前が蘭陵王なのだそうです。原典の方に倣って、戦時には龍の面を被っていたのだとか」
「九郎判官義経(くろうはんがんよしつね)が? 初めて聞いたな」

〝軍神〟未那元義経。
 九代目六孫王頼朝の異母弟で、六孫王一族の中興に最も貢献した軍事的指導者だ。あまりにその軍才が神懸かり的であった為、天狗に兵法の手解きを受けたなどと伝説的な逸話も多い(この仮想世界には憑人という妖怪じみた人間が実在するので、単に伝説とは言い切れないが)。

 彼の少年期について、いなきは知らなかった。現実史の源義経は平治の乱の後寺院に預けられていて、稚児時代には遮那王と名乗ったらしいが、仮想世界史での未那元義経については九重府の記録に残っていない。現寇以前の史料については損失が少なくないのだ。
 もっとも、九重府と三十六人衆、六孫王府の保有するデータベースはそれぞれ異なっているので、いなきが知り得ない史実など山ほど存在するのだが。
 仮痴不癲の側近であった石斛斎が、その穴を埋める情報を持っていてもおかしくは無い。

「なるほどな。それで皮肉という訳だ」

 未那元義経の末路は、現実史とほぼ同一である。彼はその軍事的才能、カリスマ性を忌避されて兄である六孫王頼朝に排除された。
 その最期は自害によるもの――蘭陵王・高長恭とも一致する死に様だ。
 非業の死を遂げた弟が、自らを裏切り、破滅に追いやった兄の一族を呪う。龍面の示す意志とはそういうものだろう。

「悪趣味な諧謔だと思うが……どうするんだ?」
「付けておきましょうか。今回、敵勢はほとんど未那元の旧家に属する貴族ですから、こういう脅しはありかと思います。上手くいけばパニックに陥ってくれるかも知れません」

 この手の場面ではどこまでも実利主義の〝き〟は、単純な戦術的観点からその悪趣味を受け入れた。「ちょっと持ってて下さい」と龍面をこちらに渡し、狐面の結び目に手を掛け――
 面を外した。

「素顔になるの、久々ですね」

 などと言って、朝焼けの海を背景に、はにかむようにしてみせる。
 それがなんでも無い事と思っているのは、本人だけだろう。
 ――未那元宗家に備わる神域の美貌。
 それが誇張でも冗談でも無い事は、昔から知っている。仮痴不癲は確かに希少な――魔性めいた空気を纏う美少女であったが、あくまで人を誘い、狂わせる傾城の相に過ぎない。人の美しさについて解答を知っているいなきには、そう映ってしまった。

 極めた美貌は人を従えるのだ。その持ち主の支配を望むのではなく、かしづき、涙を流しながら側にある事の許しを求め、その代償に何を捧げても構わないと思わせる――神を信じ、支配されるとはそういう事なのだろう。
 この相を一族全員で持ち合わせているのなら、王座につくのは必然だったのだろう。

「潮風って、割と傷に染みますね」

 宝玉めいた美貌には瑕疵があった。右目の目尻に古い裂傷。上手く抉られた左目とは違って、こちらは痕になってしまっている。

「あの、義眼の配置おかしくありません? 寄り目とかにはならないって言われてるんですけど、いまいち信じられなくて……」

 近寄って、見上げるようにしながら〝き〟は問いかける。両目に填め込まれた義眼は、鎚蜘蛛姫が仕立てたものだ。武器以外に何も興味のないあの妖姫が、一月かけ、百近い失敗作を出した後に、妥協してしまったとぼやきつつ渡してきた模造眼球。どういう仕掛けか、義眼であるのに見られているという印象がある。
 女神が、自分を視て――

「どうせこれ被るんだ、どうでもいーだろ」

 手にした龍面を〝き〟の顔面に押しつける。「ちょ、やめてくださいよぅ」と抗議しながら彼女は結び目を掴んで、髪を巻き込みながらきつく結ぶ。こうすると激しい運動でも外れないのだそうだ。
 いい機会か、と思いつつ。龍面に手を当てたままいなきは言った。波音に消えないように強く。

「……あのな、俺はお前に誑かされた訳じゃない」

 仮痴不癲との対話の時、彼女の口数は少なかった。先程噛みついてきたのも、同じ根から来ているものなのだろう。
 否定しなければならない事だ。彼女と家族である為には。

「さっきのは俺の落ち度だ。重ねて詫びる。……俺は、お前を信頼しているよ。命を預けるに足る相棒だ。俺は、お前の保護者じゃない。従者じゃない。駒でもない」
「……っ」

 動揺を面に触れた手から悟る。

「どうせ、そんな事を考えてやがると思ってたよ」

 面を叩くように突き放して、いなきは告げた。

「勘違いをするな。俺が矢面に立つのは、それが一番成算の高い戦略だからだ。きっと、万全のお前でないと、六孫王とは勝負にならないだろう。――厳命する。奴の前に立つまで絶対にその太刀を抜くな。代わりに俺が、それ以外を殺してやる」
「……はい」

 誓いを受けるように、〝き〟は応じた。
 本当に誓いじみている。無数の人命を生贄とする、女神への誓い。――後半については、いなきは断じて受け入れる訳にはいかない。
 前半については、心に刻まねばならない。
〝き〟が海岸線の一点に面を向ける。見やれば、商船らしき影がやって来る所だった。
 穴の無い仮面でそれに向かいながら、彼女は言った。これもまた、誓いのように。

「殺しましょう。屍(かばね)が水漬(みずつ)く程に――それが叶わぬ時に、死にましょう」
「ああ」

 ――それだけは許したくないと思っているのよ
 答えた己を、浄(きよ)い言葉が責め苛む。
 夏季の熱に腐れて崩れた屍を築く道、それを自分と妹は征く。
 草生(くさむ)す屍の一つに自分の首の紛れる様を想像して、空虚を胸に落とす。
 莫逆の友のように、それは親しみ深い感覚だった。



[36842] 2a/芙蓉局
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:31
 方丈梢継(ほうじょうすえつぐ)は、庭園の苔むした岩を眺めながら、部下の語る言葉を半分以上聞き流していた。彼は聞き取るべき言葉は決して聞き逃さない。つまり、半分以上中身の無い追従と無駄言であったという事だ。

「いやはや、弾正忠様、まこと絶景にございますな」

 政治の表舞台に立った頃から自称している官職名を呼ばわりながら、部下の――なんという名だったか。少し考えれば思い出せるのだが――裃(かみしも)を着込んだ男はそう言った。梢継と同じように露地の飛石に立ち、同じように庭園を望み、そして全く違った感想を抱いている。

「城中から深山幽谷を眺める贅沢は、この歳城でしか味わえませぬ。それがし公用で紫垣城に参った事がござるが、あのような大陸の様式には華はあっても、こうしたわびがございませぬ……」
「左様。武人の心の荒みを解くという元羅(もとあみ)公の御配慮により、この庭は設えられた。我らは今、その心尽くしを踏み締めている事、忘れてはならぬ」

 自分もまた無駄言を返しながら、飛び石を一つ踏み越える。今の発言はあまり良い表現とは言えないだろうか? この男には、主家の遺物を足蹴にしているように聞こえたか? そう解釈した男が梢継の不敬を周囲に漏らすだろうか? 馬鹿馬鹿しいが、その程度の失言をきっかけに失脚した家臣を梢継は何人も知っている――己で手を降したのだから当然だが。
 たかだか一つの家の威光を縁(よすが)に存在しているのが、この歳城であり、深川六孫王府だ。

「まさに、まさに」

 無邪気に同意の頷きを返してくる部下に、無駄な心配をしたと梢継は胸をむかつかせる。もちろん表情には出さなかったが。
 梢継の直垂(ひたたれ)に、葉の影に切り取られた陽光が注ぐ。二の丸内に設けられたこの庭園は、渡六分景四分の素朴な造りであったが、四季ごとに庭師が工夫を凝らす。夏場は吹き抜けの天井に蔓が張り巡らされる。立ち止って見上げれば、熊柳、凌霄花(のうぜんかずら)の花が所々に覗けた。
 地上の人間を嗤っているように見える。

「――俊秋(としとき)、襟を正せ」

 襟ぐりで胸元を扇ぎだした部下を見もせずに嗜め、梢継は歩みを再開する。

「は、これは……失礼をば」

 身を縮こまらせて恐縮する部下(そうだ、夜摩名(やまな)俊秋という名だった)は、上役の機嫌を取る為に知恵を絞り、ようやく思いついた言葉を述べた。

「しかし、かの雌狐もとうとう往生際を悟ったようでございますな。不還庵(ふげんあん)にて茶を進ぜたい、などと。よほど我らが怖いと見えます」

 いよいよもって決定的に悪化した内心をどうにか自制し、梢継は言った。

「戯(たわ)け」
「……は?」
「奉公衆の憑人(つきびと)でも指折りの遣い手である貴様を供にしたのだ。覚悟しておけ。事の雲行き次第では、局を殺す」
「は……で、ですが、ここは、刃傷法度の不還庵」
「貴様と俺が腹を切れば済む。貴様の細君に類が及ばぬよう計らってもやろう。――万一の話だ。あの局が、そのような緩い手を打ってくれるのであれば、余程安心なのだがな……」

 この男だけが格別浮ついているのではない。誰の目から見ても、梢継は歳城での権勢を極めつつある。玉を――次代六孫王の後見役を押さえた以上、彼の勝利は揺るぎない。己の敵味方を表情の浮き沈みだけで色分けできる程だった。
 不安を拭えないのは梢継だけだ。
 庭園の大岩をもう一度見つめる。岩にこびりついた苔、あれを取ってしまいたいと思う。岩肌を綺麗にするには、それが必要なのだ。
 しかし、あそこにはまだ手が届かない。



 茶入の銘は灘鶚(なだみさご)、そこから抹茶をすくい上げた茶杓は山之口(やまのくち)、抹茶を放り込まれた茶碗は垂乳根(たらちね)、風炉にかけられた茶釜は八意思兼(はちいおもいかね)……
 全て武州名物帳――今は消滅した国のさる武将が見聞した茶道具の目録。その内で最高位である宝物に分類されるものだ。

 無論、市場価値の観点で言えば、千両箱を山と積んでも欲しいという者がそれこそ山のようにいるだろうが、六孫王府の人間にとってはこれらの名物は別の意味を持つ。
 それらを入手した人物が、歴代の六孫王であるという事だ。
 言わば主家の遺産、即ち権威の象徴であり、これらを血で汚す事は、六孫王府の武士にはどのような理由であっても許されない。そういった器物が、ただこの庵でのみ実用を許可される。

 刃傷法度の不還庵――現在も神君と謳われる未那元元羅が、政治的談合の場として建てさせた庵である。
 そして今、余人が手にする事も恐れる器を、白く細い指が軽々と操っている。飽きの来る程扱い慣れたかのような手つきで茶筅を使い、抹茶を練る。さらさらと、三畳の小間を占める、きめの細かい砂が落ちるような音。
 ――実際に、扱い慣れているのだろう。この女は、ここに何度となく訪れ、飽きる程茶を点てているはずだ。

 白い女だった。着物の色も、肌の色も、髪色すらも。夫が死んだ五十年前から、この女は喪に服し続けている。
 そして、変わらず美しかった――髪色の白は老化の証ではなく、初雪の如く色艶を保っている。
 芙蓉局(ふようのつぼね)。
 九重府五摂家の一流たる二条家の出自である彼女は、かつて先々代六孫王・覚樹(さとしげ)公の正室として輿入れした。彼の死後も紫垣城に帰参はせず、むしろ彼らに敵対した。落飾しないまま名乗り続けているこの名は、ある時期に九重府より送りつけられた芙蓉の花に由来する。
 芙蓉の如く容易く色を変える、変節の女――

「どうぞ」

 涼やかな声と共に差し出された椀を受け取り、茶を服す。添えられた葛焼も躊躇わず口にした。毒殺を警戒する必要は無い。ここでの殺人は、お互いが実際の生命より重視している政治的命脈の断絶を意味するのだから。
 しかしながら、心境は安堵とは正反対だった。
 ――俺は、こうした味を好いていたのか。

 その自覚は、戦慄と共にあった。芙蓉局が供した茶と菓子は、普段茶坊主に仕立てさせる好みの味では無かった。そして、その味より好ましかった。
 自分自身が知らぬ性向をこの女は探り当てたのだ。
 不倶戴天の敵として六孫王府に迎えられ、今は紛う事なき女帝として君臨する女の、魔性めいた人心掌握術の一端。今梢継は、それに触れたのだ。

「……茶花は、西王母にでもすれば良かったのではないか?」

 怖気を振り払うように、梢継は作法を無視して皮肉を刺した。花入には岡虎尾が生けられていた。先端がやや重いのか、頭を垂れている。

「あなたの為の席にございますれば」

 にこり、と慈母のように微笑みながら、芙蓉局は言った。

「ただひとえにあなたの事を思って仕立てるのが、当然でございましょう?」
「実ればこそ頭を垂れろ……三つ子の魂百までとは良く言ったものよ。その婉曲な嫌味だけは宮廷に捨ててこなかったと見える」

 自身が虎に例えられている事は聞き知っている。下らぬ虚仮威しだが、使い所を間違えなければ有用でもあるので、放置していたのだ。

「ふふ、いけずな事を仰いますな……」

 決して口の中を見せずに笑うこの女も、そうであったに違いない。西王母――虎の牙を持つ仙女の名を、彼女に苦杯を嘗めさせられた深川の武士は密かに使う。

「和敬清寂。禅の道、茶の湯の道、人を治むる道は全て同じものだと、あなたにも知って貰いたいだけ……」
「禅に目覚めたなら、疾く尼にでもなるがいい。――韜晦(はぐらかし)も大概にしろ、局。今日俺は、貴様の首を獲りに来たのだ」
「――こわいな」

 女は、口調を一変させて呟いた。

「まぁ、茶席での茶番など、駄洒落としても粗末だがな。そもそも、私は茶など好まん。濁酒の方がまし、という奴だ」

 密偵に探らせた芙蓉局の情報の内、名酒の収集癖があるという噂を梢継は思い出した。その無駄な知識を頭の片隅に追いやりながら告げる。

「俺は下戸だ。本性を現わしたとしても、気が合う訳でも無いらしいな」
「馬鹿者。女の本性を知りたければ閨で身体に問え。……私は、構わんぞ?」

 芙蓉局が述べる不倫を材料に、糾弾する事は不可能だった――彼女は幾度となく交渉材料に、宝物めいた己の身体を使ったが、絶対に証拠を残さなかった。
 口にするのも無意味な言葉の代わりに、梢継は言った。

「断る。俺が内実を知るべき女は、一人だけで良い」
「はん。端女上がりの妾に、随分と入れあげるものだな。――良いのか? 私の前で、そのような弱みを晒して」
「――見くびるな、雌狐」

 氷塊を胃の腑に落としたような声音で、梢継は告げた。

「あれは、俺の為にいつでも死ねる女だ」
「そうか」

 脈が無いと見ると、芙蓉局はあっさりと恫喝を引っ込めた。庵の壁に遮られ、しわしわと小さく蝉の鳴き声が聞こえる。それを梢継が意識する頃合いに、彼女は口を開いた。虎の牙が、見えた訳でも無かったが。

「さて、首を獲るなどと抜かす割りに、見た所、懐剣一つも呑んでいないようだが?」

 戯れ言を無視して、梢継は要求を口にする。

「――執権の座を寄越せ、局」

 現時点で、六孫王府の宰相位である執権の座は、方丈本家・方丈幹時が付いている。梢継は警察組織にあたる侍所の長官である別当で、地位としては下になる。ただし、常備軍の奉公衆の支持を背景に、実質執権以上の発言権を持ってはいる。執権に次ぐ位である連署の地位に就いている者も、梢継の息がかかっていた。
 内政に限っては、その理屈が通用する。

「幹時は、良い子だ」

 はぐらかすように言った芙蓉局の口を封じるように、梢継は告げた。

「貴様は余程紫垣城の貴族の不信を買っている。その傀儡が頭では、九重府との交渉もできん」
「……その台詞、外にいる貴様の部下に聞かせてやりたいな」
「この場を活用するのは貴様だけの特権ではあるまい」

 連子窓の向こうを眺める芙蓉局に、皮肉めかした言葉で梢継は応じる。実際、梢継派とも言うべき集団に致命的な亀裂を与える情報を彼は漏らしたのだ。表向き彼は、九重府との紛争に強硬派としての姿勢を見せる事で支持を得ている。

「戦費、兵站の問題もあるが――何より、勝てる訳が無い。大粛正の権限は奴らが保持しているのだ。いつでも盤面を引っ繰り返す事ができる」
「……恭順するつもりか? 六孫王府五千騎は、一人として納得すまい」
「俺を馬鹿だと言いたいのか? ――まずは浮島を増設する」
「二十年も昔に凍結された計画だぞ?」
「九重府の動揺を恐れて。なにより資材不足ゆえにな。今は、あの時に切れなかった札がある。――武州乱で入り込んだ厄介者の捌け口を用意してやると言えば、奴らも聞かざるを得ん。資材も、奴らの不可知領域から供出させる。九年前の失態をここで挽回するのだ」
「武州乱、ね」
「便法だ。俺とて本庄左近の叛心など信じておらぬ」

 武州の最西端、本庄領の領主に反意ありとして九重府が挙兵したのは九年前。武神・蠱部尚武の指揮した官軍は、たった一週間で武州各地の抵抗を鎮圧し、領主・本庄左近を討ち果たした。
 その後本庄領はパージされ、武州の他の領地は民衆の認識から排除された。この不可知領域では、三十六人衆の手で工業生産体制が構築されており、八百八町に物資を供給している。
 至極、唐突に始まり、速やかに集結した事件だった。六孫王府は介入する暇も無く、武州での利権を失い、生産力において九重府と大きな格差を付けられた形になる。

「……だが、経済上の理由とも考えられん。たとえ武州を丸ごと手に入れたとしても、余りに割に合わん。この千年の衰退は、つまりはあのいかにも扱い易そうに見える機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)の為ではないか。それを奴らも悟っていたはずだ」

 梢継の言葉は、八洲国以来の仮想世界史を知る立場の人間であればごく常識的な意見だった。
 戦乱の混迷が猖獗(しょうけつ)を極めると、九重府は大粛正を決意する。その際必然的に亡命、難民が多発する。
 特に問題となるのが前者にあたる、貴族や武士などの特権階級であった。彼らの大部分は、当然の如く己が国を売る前に持ち得ていた栄華の保全を要求する。

 九重府、六孫王府双方共に、幾ばくかの妥協を求めても最終的には彼らを受け入れざるを得ない。彼らが第三勢力として糾合、蜂起すれば、更に混乱は加速する為だ。
 そして、その譲歩があっても何もかもが上手く行くわけでもない。増えすぎた特権階級を養う為に国庫は悲鳴を上げ、既存の勢力と亡命者らの間に軋轢が生まれる。粛正(本来の、政治的修辞である所の)の嵐を前に、足場の弱いものから弾き出されていく。浪人となって巷に溢れた下級武士が治安を悪化させ、暴力の価値は絶え間なく高騰を続けている。いずれ、この狭すぎる箱庭ですら割った因業な二つの体制も含めて、何もかもを焼き尽くすまでそれは続いていくだろう。

 切り札を独占している立場の九重府の中で、武闘派の連中ですらその手札を切る事を主張するのがまれである理由だ。

「何にせよ、これ以上あのようなものに頼れば、舞台そのものが御破算になる。――既に、歯止めを掛ける頃合いなのだ」

 断ち割るように、梢継は告げた。

「大地を継ぎ足す。それ以外に衰退を止める方法は無い。海上に浮島を造り、その上に産業を構築する。武士は、妖魅に対する洋上の防衛力として機能させる。より大きな外敵(エサ)を与えている以上、下の兵共は内に目が向かぬようになる。上の、よからぬ事を企むような暇を持て余した連中には、浮島の利権を分配してやれば良い。九重府の貴族どもも含めてな。いずれ、この経済圏なる構造から誰もが抜け出せなくなるまで」

 一言一句を切り取り、相手に押しつけるかのように構想を明かす。
 返ってきたのは、
 ――くすり。
 嘲笑であった。

「かくして王子様とお姫様は幸せに暮らしました、ぱちぱちぱち……と。うぶな田舎娘しか口説けぬ絵空事よな」

 梢継があからさまな侮蔑に鼻白んでいる間にも、芙蓉局は続ける。

「松平の小倅や取り巻きの老中共辺りなら、耳を傾けもするだろうがな。星の位(高級貴族)ども、とりわけ摂家の中枢を占めている連中は、己が失ったと信じているものを全て取り返すまで戦うつもりでいるよ」

 身体が白色で構成された女は、目の色だけが違っていた。暗く濁った池を見続け、その色を写し撮ったような色彩。

「下賤の内に産まれた憑物こそ、全ての負債の〝みなもと〟なのだと。神に見離されたのもその為だと。世界を平(たいら)かにすれば、主は再び来ませり、と」

 ――六孫王府でキリスト教禁止令が発布されたのは、十二次大粛正の直後。主君の上位に神を置く武士が増える事を恐れた為だが、紫垣城の貴族の間ではそのまま受け入れられ、少なくない信徒を得たと聞く。

「……精神まで現実の近代以前に戻したとでも言うのか。まじないや祈祷を現実の国家運営に持ち込むなど、狂気としか言えん」

 くすり、くすり、と二つ。芙蓉局はややもすれば少女とも見紛う無邪気で、残忍な微笑を浮かべた。

「ここも、似たり寄ったりではないか。悪果の全てを敵に押しつけ、ぼろを出し始めた屋台骨をまじないと祈祷で粉飾する……極めつけは、あの醜悪な〝斎(とき)の儀〟よ」
「……だが、あれは事実効果があったではないか。俺とてはじめは信じてなどいなかったが、娘を喰らい損ねた大樹公が、あそこまで、」
「効用が実証されたとしても、その本質には全く影響が無い。それがオカルティズムというものだ。人はそれの産む幻想にのみ価値を見出す」
「それは、人の悪性だ」
「青二才が。貴様が先程ほざいた絵図面も、未来という幻想だ。何ら区別が存在せぬ。誰の心根も、大半を占めるものはそれだ。心の本質がそれだからだ。この一時、この肉体の外側を自我によって定める能、これが強大であったが故に脆弱な人間が万物の霊長たり得たのだ。人は幻想を根拠に現(うつつ)の行動を規定する。人の集まりである所の国家もまた、幻想によって運用される」

 そして、芙蓉局はちくりと、陰茎を畳針で軽く突くような声音で言った。

「現に貴様は、幻想を大いに活用しているではないか」
「……未那元元羅か」

 敬意のひとかけらすら排除した声音で、梢継はうめいた。忌むべき名だった。
 芙蓉局の言う所の幻想を剥いでみれば――百年余の昔に王座に就いた未那元元羅は、暴君としか言いようのない存在だった。この男は、自身の持ちうる権威・権力の全てを、人に倍する虚無感、あるいは暴力の嗜好を満たす事に傾けた。

 この不還庵は、その象徴とも言える。
 ――本来は、殿中全てに刃傷沙汰を禁ずる法度が出されるはずだったのだ。
 それが、未那元元羅の先回りにより、このあまりに狭い庵に限定された。家中の紛糾を装った謀殺が横行する事になり、重臣が武闘派で占められるようになると、元羅は九重府との紛争に乗り出した。

 その後も、あえて戦乱を長引かせる意図があったとしか思えない行動を取っている。――当時の王弟の指揮により彼を弑逆(しいぎゃく)せねば、十三次大粛正は本庄領でなく深川で起こっていたはずだ。
 何も知らぬ幸せなものたちは、それまで腰の引けていた六孫王府に再び武威を取り戻した神君として、この男を讃えている。

「だからこそ、だ。あの暗君の為にもつれた混沌を解かねばならん。その為ならば奴の権威だろうが、使えるものは使わせて貰う」
「幻想を支配できると抜かすか? 梢継」
「必要とあらば、その通りだ。紫垣城の貴族もそうだ。邪魔ならば排除する」
「御自慢の乱破(しのび)を使うか?」
「まさか。――松平宗翅らにクーデターを起こさせる。元より、貴族の肥え太った身体を支える事に不満を覚えている連中だ。談合は可能だろう」
「貴様の言っている事は、かつてのどこかの誰ぞが企んで失敗した事ばかりだが?」

 人の悪そうに囁いてくる女に、突き放すように梢継は告げた。

「要は、力だろうが。俺に不足があったならば、どこぞで屍を晒すのみだ。――どこかの誰ぞのように、世を恨みつつ永らえるような醜態を晒すつもりは無い」
「貴様に従うものどもは、その自儘に付き合わされるわけか」
「知った事ではない。俺に張り駒した以上は、負け分もその連中の責任だ」

 これで腹案は全て明かしたと、梢継は茶碗を芙蓉局の元に突き返した。彼女はしばし考え込む素振りを見せて、

「……まぁ、及第点ではある。全て舞台裏で始末がつく以上、何もかもが裏目に出ても大損するのは貴様の側だけだ」

 彼女なりの表現で、梢継の構想を認め、執権位を譲渡する事を承諾した。
 そして直後、しかし――と差し出された茶碗を指先で撫でる。梢継の唇が触れた箇所をなぞり、

「私の首を獲る、と言った以上、宰相の椅子を貴様に移した程度でその腹は膨れまい」
「その通り」
「御寝所番か」
「そうだ」

 内心の緊張を隠すように凝然と女を睨み据えて、梢継は言った。
 御寝所番。
 元は大奥、つまり後宮に近侍する奥女中を監査する組織であった。内外より流入する女たちの経歴を洗い、君主に害を及ぼさぬよう計らう。
 芙蓉局が手を加えてより、それは全く別種の存在となった。

 王の寵愛から漏れた女たちは、いずれは後宮から離れ、別個の嫁ぎ先を用意される。彼女らは豪商、武家などの社会的地位の高い男どもにとって望ましい存在だった。家柄が保証されており、あらゆる礼式作法に通じている為公事の補佐も十二分にこなす。――もちろん、下世話な意味での作法までも熟知している事も彼らの要求に適っていた。

 女たちは御寝所番により密偵として教育されており、男から得た情報は芙蓉局の手に渡っていく。芙蓉局は夫の存命中既にこの組織を自家薬籠中のものとしており、得た情報を元に六孫王府を己の思い通りに動かしてきた。敵対者の醜聞を流し失脚させ、味方を引き立てる事で更に自分に依存させる。梢継が元服した頃には、方丈本家は彼女によって骨抜きにされていた。

 要は、この政治的怪物の抱える私的な間諜が御寝所番であり、彼女の命脈そのものである。
 喉元に刃を――本物の白刃よりも危うい言葉を突きつけられ、しかし芙蓉はそれを愉(たの)しむように目を細めた。

「梅軒(ばいけん)は、貴様には馴れんよ」
「そこまでは期待しておらん。……奴の場合は本物の首を貰うぞ、局。男を捨ててまで貴様への忠義を示した者だ。野に下れば俺の首を狙いかねん。他の連中は見逃してやる」
「そして、醜聞書きは己の懐に収める、か?」
「悪銭も銭には違いない」

 冗談めかしながらも、それに楽しみを欠片も覚えず梢継は言った。

「だが、後宮政治めいた真似ももう終わりだ。いい加減尼にでもなって、覚樹公の菩提を弔って暮らせ」
「今更……仏とて私にそっぽを向いておるだろうよ」

 あくまでものらりくらりとした口調で、芙蓉局は要求を断った。当然、聞き入れられるなどと思ってはいなかったが。
 とは言え、押し通さねばならない事だった。むしろ執権位などどうでも良く、この女の手足をもぐ事が会談の目的なのだから。

「この場で事を収めねば、俺は貴様の命を獲るしか無い。既に大勢は決していると分からぬ訳でもあるまい。貧弱な方丈本家と、寝床で股を開くのが得意の忍に何ができる?」
「さてな……ただ、何もかもを当然の如き顔をして持っていくような男に、好きにさせたくもないものだ」
「戯(ざ)れるな……!」

 茶室の静寂を破るように、梢継は恫喝する。

「……貴様は、老いたのだ。たとえ、見目がどうあっても。ここ数年の失態、かつての西王母・芙蓉局であれば考えられぬ事だった」

 どうした訳か、その事実を突きつける事なく済ませておきたい、という気分が梢継にはあった。威を誇った虎が、病んだ雌狐として扱われるのは、耐え難いものがあった。

(いっそ、殺してしまえば良いのではないか? この女も、それを望むのかも知れない)

 ――何やら頑是無い感傷を弄んでいる事に気付いた梢継は、軽く手を振り気を反らしてから、別の言葉を吐いた。

「旧弊は、取り払われねばならん。今は、進歩する時機なのだ」

 芙蓉局は、再び連子窓の向こうに顔を逸らした。網目に切り取られた陽光は白く、その中に人工の庭園、その緑が埋まっている。

「梢継よ、進歩とはなんだ?」
「?」
「我らはデータベースより、過去の体制の変化を知っている。獣と変わらぬ群れであったヒトはやがて邑を作り、膨脹した邑は国となった。国家というシステムを運用する根拠はまず、神に求められた。神権政治だ。やがてそれは王という個人に移譲され、封建制となり、生産力の高まりと共に民が力をつけると、次は彼らに権力が渡っていく……当然の流れではある。技術と、それのもたらす利益は、増大していけばやがて寡頭制の限界を超える。人が増える、ものが増える、人とものの間を取り持つ為に効率的な装置、つまり貨幣が生まれる。増大に合わせて世界が変化していく……」

 この女にしては珍しく、寝言のようにとりとめなく言葉を浮かべる。梢継には、彼女が何を言っているのか計りかねた。

「だが、増大とは進歩か?」
「……当然、そうだ」
「本当に? 私には、人は常に増大と等量の歪みも生んできたように見える。全てに帳尻を合わせるかのように。その象徴が、この醜悪な箱庭だろうが? 思考する機械をかりそめの国に押し込めて遊ばせるなど、ある時点の人では考えもしなかった事だ。どこの誰が何の為にこのような無体を考えついたのかは知らんが、私は憎悪せずにはいられんよ。いや、憐憫かも知れないが。
 どうして、貴様らは、そんなにも歪んでしまったのか……」

 芙蓉局の美しい横顔には、何ら変化が無い。ただ、きし、と静寂の中に奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

「……下らん。あまりに下らん」

 梢継は、吐き捨てるように面罵した。

「立ち止り、世を嘆いていれば何かが手に入るのか? 俺は力を掴み取った。そして、更に手に入れてみせる。思うままに生きる事が俺の全てだ。そのような世迷言、考慮に値せん」

 傲然と立ち、そしてか弱くなってしまった女に背を向ける。

「大殯が終れば、貴様の首を獲りに行く。その白首、存分に清めておくがいい」

 その言葉が比喩でない事は、言うまでも無い事だった。付け足す言葉も無く茶室の躙り口まで歩み行く。
 背中に、涼やかな声がかかった。

「貴様は、好(い)い男になったよ」

 梢継は振り向きもしなかったが、彼女は構わず続ける。

「覚えているか? 方丈の……あの頃は、幹崇(みきたか)の上屋敷だった」
「止せ……昔話など」

 元服する以前、十にもならぬ頃に梢継は本庄本家の奉公に出ていた。その時に芙蓉局と一度遭っている。
 他愛もない末流の分家筋の跡継ぎに過ぎなかった彼は、そこで恨みと敵愾心について存分に薫陶を受けた。何事にも扱い所を見出す彼は、決して受けた教育を無駄にせず、返礼も怠らなかったが。――当時の本家嫡男とその取り巻きは、墓穴で恨みを骨身に浸みさせている。

(……腹が、空いていた)

 雑務に駆け回り、日は中天にあった。朝食も取らせて貰えてはいなかった。
 方丈本家の庭先で、太陽が真上に昇った空を見上げれば、熟れた夏柑が成っていた。もちろん梢継はそちらに注目した。
 地上には、気が向かなかった。

 ――取って欲しいか?
 女の美貌はその頃と変わらなかった。変化があったのは梢継の目利きだ。年若い彼は、女の顔が輝いているようにすら見えて直視も出来なかった。慌てて平伏して、薄汚れた着物を更に汚しただけだった。
 ――ご、御無礼を致しました。
 ――よい。それで? あれを取って欲しいか?

 このような、内に持つ傲慢さをさらすが如き言葉を、芙蓉局は滅多に使わない。おそらくは方丈本家の当主を籠絡する為におとなった彼女は、それらしい甘い仮面を被っていたはずだ。子供と侮っていたのか。
 あるいは、何かに嫌気が差していたのか。
 梢継はそれに、こう応じた。
 ――いいえ。取って欲しくはありません。

 当時受けていた教育の程度から考えても、無礼で、率直な言葉だったように思う。しかしなぜか、正直に答える事を彼女が求めていたように感じていたのだ。
 ――なぜだ?
 当然の疑問であった。最も近い位置に実る果実であっても、梢継の手には届かない。何か知恵を絞る必要があった。おそらくは客人である彼女が取るなら、人の失態には猛禽のように目敏い本家の連中をごまかす必要も無い。

 彼女に頼れば簡単だったはずだ。餓えた子供だ、そうしていて別段間違いなどない。
 しかし、梢継は答えた。
 ――今この時に知恵を使えば、あなた様がおらぬ時でも夏柑が取れます。
 ――それに、
 ――己が腕で取るのだから、旨いのであると思います。
 そうか、とだけ呟き、それきり芙蓉局は立ち去ってしまったので、平伏したままの梢継には彼女がどういった顔をしていたか分からない。去り際に何かを言っていたようにも思うが、遠すぎて聞き取れなかった。
 他愛のない、昔話だ。

「……貴様は、」

 芙蓉局は、海中から水面に泡を浮かべるような自然さで言った。

「取ったものに、実感を覚えているか? 虚無に囚われていないか?」

 ――思わず立ち止り、振り返ってしまいそうになった。

「……御免」

 躙り口の戸を開き、梢継は庭先に出て行く。薄暗い茶室の外に出てみれば、ひどく晴れ晴れしい、胸の内の暗さを浮き彫りにするような木漏れ日が降り注いでくる。
 勝者は己のはずだ。十分ではないが奪い取ったものがあり、そして失ったものは一つも無い。

(それがなぜ……敗北したような気分ではないか? これは)

 梢継が権力を志向したのは、それが自分の手の内には無かったからだ。味わった事の無い夏柑をもぎ取るように、餓えと好奇心を根拠にあれから三十年近くを走り続けていた。
 夢見るほど求めた権力の中枢に辿り着いたその時に、世界の真実を知った。
 それからは何を食らっても、砂を噛むような無味乾燥としたものばかりが、胸の内に落ちてくる。

 あの時、芙蓉局に聞いてしまいそうになった。あまりにも軟弱な、唾棄(だき)すべき問いかけを。
 ――貴様は、どうしてそれに、今まで耐えてこれられたのだ。



 連子窓から降り注ぐ光の中で、芙蓉局は方丈梢継が立ち去った影を見つめている。

「……さて、この盤、いかがするものか」

 侍従が来るまでに、どうにか動く頭のみを働かせていた。萎えた足では、梢継がしたように立つ事は出来ない。
 ――貴様は、老いたのだ。
 言われるまでもない。引け時である事も、あの男以上に悟っている。
 とはいえ、だがしかし。

「この老醜に満ちた媼(おうな)が、舞台に未練を持たぬわけがあるまいよ、若造」



[36842] 2b/深川永代島
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:31
「涙多きは扇流しよ、永代女、深し川……誰もが水音を聞いているのがここ、深川永代島さ」

 数刻程度のやり取りですっかり慣れた(というより聞き流すのを覚えた)芝居めかした調子で、石斛斎は言った。切り落としたはずの扇子を一本のみ残った右手で広げて――予備を持っていたようだ。

 彼の言う通り、埠頭を出てからかなり歩いてきたはずだが、水音は聞こえたままだった。それもそのはずで、今いなき達が歩いている二手に分かれた大路の間には、海から入り込んだ河が流れているのだ。永代島を南北に貫通する本流は各所で東西の支流に分かれ、深川一帯を網羅する。移動に猪牙船などの小船を利用する為だ。水の都、という意味では九重府の支配する本土も同じだが、深川はよりその性格が強い。もちろん軍事面にもそれは反映されており、陸軍より海軍の方が増強傾向にある。

 雨期に浸水しないよう、地上はかなり高く造られている。深川という地名の由来だ。

「人工島構想を最初にぶち上げたのは多意良の方……多意良清盛(たいらのきよもり)の〝経が島〟で、幕府が鎌倉にあった時代に造られた最初の永代島も、それにならった埋立式のものだった」

 石斛斎は広げた扇を目の前でぶら下げて見せた。島の形を示したつもりなのだろう。

「その後、深川を六孫王府の拠点にする為の大浮島建造計画は、もちろん三十六人衆が参画した。現行の技術じゃ不可能だからね。九重府も文句を付けなかった。時は十二次大粛正直後。京すら失ってしまった。貴族だって、取り返しの付かない所まで領地が摩耗して頭が麻痺していたんだろうね。浮島を増設していけば国土の回復もできるんじゃないか、って皮算用もあっただろう。……その場合、主導権を握るのが六孫王府である事に気付いてからは外圧を掛け、掣肘を加えるようになったわけだけど」

 そう言って、懐からもう一本扇子を出して(いくつ持ってるんだよ、といなきは思ったが、話の腰を折らない為に我慢した)、下に向けたそれを二つ繋げた。

「ともあれ、新永代島だけは真っ当に完成した。元の永代島は地名を台場に変えて、新永代島の一部って事にした。あ、ちなみに台場の意味合いは本土の方と同じだよ」

 つまりは、前線の要塞という訳だ。両者の紛争状況を考えれば、あえて口にする必要も無い事だった。

「こちらの道は欣求浄路(ごんぐじょうじ)、あっち側は厭離穢路(えんりえじ)、合わせて欣厭大路。一方通行の決まりだよ。理由は分かるね?」
「ああ、身に染みて理解した」

 いなきは答えつつ、ふらふらと、何やら得体の知れない古道具を売る屋台に向かおうとしたあやめの襟首を掴んで止めた。何度繰り返したかは五回目から数えていない。〝き〟の方はいなきの腰帯を全力で握りしめて離れまいとしている。この人混みの中ではぐれたら、河原を散歩して砂金を拾う程度の幸運が無ければ二人とは再会出来なくなるのではなかろうか。

「元の永代島と比べたらさすがに大きいけど、八百八町本土との面積の差はおよそ五対一。そして人口の差はほとんど無いんだ。人口密度の増加はかなり前から問題視されてるけど、浮島増設が実質宣戦布告に等しい扱いを受けてる以上、にっちもさっちも行かない。ま、深川のこのごちゃつき具合は、僕は好きだけどね」

 言葉の端々、そして人混みをするすると淀みなく歩くその挙動からも、彼が深川に慣れている事は伺えた。もしかしたらここが出身地なのかも知れない。
 水を得た魚、とは言い過ぎだろうが、浮かれた様子で彼は閉じ直した扇子を使いあちこちを指し示す。

「北東に永代寺、南西に多田神宮、二つの門前町もここに負けず劣らずの……」
「俺たちは、ここに観光に来たわけじゃない」

 水を差す言葉をいなきは吐いた。辻舞台の前で立ち止りかけたあやめを引きずりながら。

「水先案内がしたいなら、俺たちの目的に適うようにしてもらおうか」
「……はぁ」

 あからさまに気落ちして、扇子の先が河の流れを示す。

「河の名前は大樹江(たいじゅこう)。当代六孫王の御名を冠するのが慣習でね……そして、その先にあるのが彼の御所、歳城だ。きみらが会うべき人はあそこにいる」

 やや背筋を伸ばせば、巨大な平城、その天守閣がここからでも見える。

「六孫王大樹は、あそこにはいないはずです」

 前屈みで腰帯から手を離さないまま、〝き〟が口を挟んだ。いなきも同意の頷きを見せる。

「大殯の儀はもう始まっている。六孫王は殯宮で潔斎しているはずだ」
「きみらは鉄砲玉かなにかなのかい?」

 露骨に馬鹿にして、石斛斎は詳細を補足した。

「きみたちは深川では右も左も分からない。まず、われらが仮痴不癲サマが仲立ちした現地協力者に会いに行くんだよ」
「……待て。わざわざ城に侵入する必要も無いだろう。どこか密談向けの場所を用意しろ」

 当然の警戒ゆえの言葉だったが、それを石斛斎は首を横に振って返す。

「それが無理なんだよね。彼女は、城から容易に出られない立場だ」

 怪訝に眉をしかめたいなきに、石斛斎は告げた。
「先々代六孫王・覚樹公が御台所、芙蓉局。きみたちにとっては、有名人だろ?」
「……ああ」

 それは、紫垣城で、特に老人の貴族が未だに苦々しく呼ぶ名前だった。
 乙未の変後、危険なまでに開戦の気配が高まった時期が二度あった。その二度目の頃に在位していたのが未那元覚樹で、緊張緩和策(デタント)の一貫として彼に差し出された贄が彼女だった。
 ――というのは表向きの話で、積極的だったのは九重府側というのが事実と聞く。その本意も真逆だった。

 当時の貴族は主戦派、つまりは最終的な深川の大粛正を企図していた派閥に牛耳られており、局の輿入れは計略の一部だった。彼女は公然と送り込まれた間諜であり、これをはね除ければ和平の意志無しとして九重府は侵攻の大義名分を得る仕組みだ。
 覚樹は彼女を妻として受け入れた。主戦派貴族はいささかの失望はあったにせよ、敵の心臓にくさびを差し込んだと浮き足立つ。

 そして、芙蓉局にその足をすくわれる事になる。彼女の偽計に踊りに踊った彼らは権勢を別の派閥に奪い取られる羽目に陥り、今も宮城の隅で己の不遇をかこち、芙蓉局に恨み言を述べ続けている。彼らが歳城大奥に大量の芙蓉を贈った事が、彼女の今の名の由来となっているが、要は嫌がらせしかできる事が無い程に彼らは弱体化している。
 いなきら若い連中から見れば、自業自得以外に評価のしようのない話だった。そりゃあ、いかにも政治の道具然として身売りさせられれば、恨まないわけがないだろうよ、と。
 それだけの複雑な背景を持つ大人物が、ただ二人の暗殺者による要人暗殺を手助けする。

「胡散臭いかい?」

 目敏くこちらの顔色をうかがった石斛斎が言う。

「ああ。そもそも、芙蓉局は九重府と袂を分かったはずだ」
「仮痴不癲のともだちだからねぇ、そりゃあ思惑は複雑怪奇、一筋縄で行くわけ無いさ。きみらが彼女にお目通りしたって、鬼か蛇しか出てこないだろうけど……どうする?」
「行くさ」

 目の奥を覗くように聞いてきた石斛斎に答える。その点については迷いが無かった。

「元より大博打だ。鬼と蛇を飼い慣らすくらいの事は必要だろ」
「大した勇気だ、大いに見習いたいね」

 言葉と真逆の感想を表情で示して、石斛斎は言う。

「じゃあ、さっそくその勇気を示してもらうとするかな」
「?」
「いや、ほら、あまりに当然の事なんだけどさ、」

 言葉を転がす石斛斎の目には、逆襲を愉しむような色が宿っていた。

「大奥って、男子禁制だし」



「厭だ」

 勇気とかいうものを大気圏の外側まで放り投げるように、いなきは言った。
 大樹江からやや脇に逸れた所にある出会茶屋(※男女が密会する為の施設。つまりラブホテルの事)の一軒、その一室であった。港まで戻ればもう少しいかがわしさを薄めた宿もあるが、船夫たちの宿泊地であるのでいささかやかましく、女二人が混じっている以上目立ちもする。
 何より、今ここで行われようとしている事は問答無用にいかがわしい。

「聞きわけないなぁ」

 と、石斛斎は呆れたようなため息をつく。
 その右手に抱えたものを見る。
 それは、何より警戒すべきものだった。腰の大刀をいつでも抜けるように意識する。あのアレを。まがまがしいアレをもう一寸でも自分に近づけるべきではない。

「そういう問題じゃ無い。他に良い策があるというだけだ」

 追い詰められ、不快な脂汗を背中に感じつついなきは弁明した。
 対する石斛斎はいかにも涼やかだった。この討議の勝敗の行方を示唆するように。

「例えば?」
「やはり、町中で密議すべきだ」
「あのね、彼女は今政争の真っ最中なんだよ? しかも敗色濃厚と来てる。例え密使を通じてでも、城から一歩出れば敵対派閥に監視されるさ。あちらが同意するわけないでしょ」
「なら……俺だけ、裏手から潜入する」
「歳城の〝忍殺し〟を誰よりもよく知ってるのはきみらだったはずだけど? 専門の訓練すら受けていないきみが成功する望みをどう見積もってるか聞きたいな」
「なら……なら……」
「もちろん、きみがついていかない選択肢もあるけど。もしかしてきみは、女二人だけ虎口に送り込むのを恥とも思わない卑劣漢だったのかい?」
「なら…………………………………………」

 喉に詰まって出てこない言葉の代わりに、じりじりと後退する。ささくれた畳が足裏にこすれて痒みを覚える。
 すぐに、壁に背中を付ける羽目になった。
 石斛斎は再び嘆息して攻め手を変えた。

「僕の腕、信用してない? この手の小技も役者の領分なんだけどな」
「……そういう事じゃない」
「自分に自信がないのかな? 大丈夫だって。この手の目利きは慣れてる――十分及第点だよ。むしろ興味をそそられるね」
「気色の悪い事を抜かすなぁっ!!」
「大声出さないでよ……こっちはたった一本だけの手も塞がってるんだから」

 そう言って石斛斎は、右手に抱えた女物の着物と化粧箱を示す。

「まったく、呆れるね。女装くらいでこうもぐだぐだ渋るとは」
「渋るわ! 渋り果てるわ!」

 我慢しきれずいなきはわめいた。石斛斎は左肩も含めてすくめてみせつつ、

「女々しいやつだねぇ、きみは」
「……女の格好をするのが雄々しさの表明になるとでも言う気かお前は」

 と、ぎりぎり奥歯を噛みしめる。対する石斛斎は平穏そのものの顔つきで、どちらが劣勢か考えるまでも無かった。

「若いくせに硬いなぁ。やってみれば、これも中々大事な経験だと分かるよ。女のなんたるかを知れば、男のなんたるかもまた深く理解できる。車は片輪のみで走らずだよ」
「わ、わけのわからん言葉でいいくるめようとするなぁー!」
「うわー朴念仁ー」

 きな臭いものを見るかのような目をして、石斛斎は言う。
 騒がしさに隣の部屋の客が壁越しに蹴りつけてくる。刀を壁に刺してその客の鼻先に突き出し(その程度は見えずとも造作も無い)黙らせてから、いなきは今までこの部屋にいながら黙ったままの女二人に助けを求めた。

「……おい、お前らからも何か言ってくれ」
「え? 嫌よ」

 畳に座って茶を飲んでいたあやめが顔を上げ、あっさりと拒否した。

「経緯はよく分からなかったのだけれど――要は、このまま黙ってると、いなき君のわくわく女装イベントに突入するんでしょう?」
「理解せんでいい所だけしっかり把握するな!」
「人生の選択肢は不可視で、フラグやフローチャートの閲覧機能もセーブ機能も無いというあまりの高難度……だからこそわたしは、回収すべきイベントは絶対に逃さない」
「意味不明の隠語を使うんじゃない!」
「――いなき様」

 騒ぎから離れて、窓際で外を伺っていた〝き〟が冷然と口を挟んだ。
 間の抜けた空気がそれで冷却される。

「……なんだ」
「われわれは、目的の為にあらゆる手段をとると誓ったはずです。それがたかだかこの程度で、そのような頑是無い事を仰るのですか」
「ぐ」

 そう言われては、返す言葉も無い。そもそも妹は常に、年頃の少女にしては粗雑に過ぎる袴姿なのだ。そんな彼女から見れば、怯懦以前の問題と罵られても仕方が無いだろう。

「いや、しかしだな……」

 それでも、いなきは抵抗した。何か男として大事なものを失ってしまうのではないかという不安にかられていた。

「いなき様」

 もう一度、〝き〟は己の名前を呼んだ。今度は責めるものではなく、懇願する響きを含んでいた。
 仮面は二階の窓から町を見下ろしたまま、身じろぎもせず。

「どうか、わたしの為に」
「……」
「えふっ紅を差しえふふっ、白粉を塗りふっ、艶やかに着飾って下さいませふっ」
「おいお前、含み笑いが漏れてるぞコラ」
「……それは大した問題ではないれふ」
「……」
「…………」
「……………………」
「…………………………………………」

 沈黙のまま睨み付けるいなきと、顔をそらしたままの〝き〟。
 その緊張を破ったのは妹の方だった。いなきの方に向き直ると、人差し指で彼の肩のやや上の空間を示して、

「むっ、あれは……」
「あん?」

 ――そちらを向いた直後、延髄にどうしようもない衝撃を受けていなきはそのまま昏倒する。



  /

「……こりゃまたずいぶん古典的な手に引っかかるもんだねぇ」
「失敬な。いなき様は常在戦場の武人の気構えを忘れてはおりません。このように警戒心を解いたのは、妹であるわたしへの無上の信頼がゆえです」
「今きみ、その無上の信頼を堂々と裏切ったわけだけど……」
「違います。いなき様は自分からは素直になれないので、わたしに強攻策を取れ、と見えない電波を送っておりました。わたしには分かります」
「……遺憾ながら僕には電波を観測する事はできないわけだけど、きみが物凄く厄介な部類の女の子だという事には今確信を持ったよ」
「お黙りなさい。さ、初めてあなたが役に立つ時。思う存分腕を振るうがいいです」
「……いや、まぁ、いいんだけどさ」



「一番はじめは一の宮、二は日光東照宮、三は讃岐の金毘羅さん……と。これで完成」
「おお~……」
「細マッチョ体型だから結構いけるとは思ってたけれど……これは、中々悪くないわね」
「はいっ! すばらしいですっ! でも、これってあれですね」
「町奴(やくざもの)の親分の情婦? みたいな?」
「ちんぴら臭は化粧でも隠せないのねー」
「いやぁ、僕はこれくらい蓮っ葉なのが好みだねぇ。落とすかいがあるってもんだ」
「……ぇっ?」
「ふふん……どっちでもいける口だよ、僕は」
「あ、わわ」
「試してみるかい?」
「わ、はわわわ、はわ。じゃ――邪念退散ーっ!」
「へぷんっ」
「あら……窓から落ちてしまったわ」



[36842] 2c/女帝
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:32
「今日、俺は人生の真実を悟った」

 言葉の通りに、人里離れた山峡で数十年も修行した仙人のような透徹した目で天井――馬車の幌の裏側を眺めながら、いなきはぽつりと呟いた。

「人は皆、一人だ」

 あるいは、童謡にいわくの市場に荷馬車で運ばれる仔牛の如くと言うべきか。人生を諦めているという意味ではどちらも大差無いが。
 そもそも回りくどい比喩など使わず、求愛する孔雀じみて派手な女物の着物を着て胸に詰め物をし、かつらを被って化粧した当年とって十八になる男と言ってもその悲哀は十分通じるのではないだろうか。

「や、やさぐれないで下さいよぅ」
「裏切り者がなにか言っているな……」

 隣席の〝き〟を向かず、天井だけを頑なに見つめて力なく恨み言を述べる。幌の骨組みの上に蛙が乗っていたので、ただひたすらあのようなものになりたいと祈ったりもする。

「う、裏切り者だなんて、そんな……」

 こちらもやや身綺麗にした小袖姿の〝き〟は、龍の面の上から(それがある以上多少着飾っても意味は無いと思うが)口元を押さえて嘆いている。
 蛙に向かって、言った。

「じゃあ、これを着替えても「それは許しませんけど」

 妹が、蛙に語りかけたこちらの言に思い切り被せてくる。その上で一呼吸置いてから、

「それはそれとして、わたしはいつだっていなき様の味方です」
「友好的なだけの敵というんだ、それは」
「えー」

 ぼやく妹を無視して蛙を眺めていると、

「こら」

 更に向こうのあやめが、叱責してくる。こちらも普段の、地味というにも言葉の足りないような装いを改めていた。
 別に、今のやり取りに文句がある訳ではないようだ。こちらの足下を見ながら、

「そんな風に、股を開いて座ってはいけないわ。淑女としてはしたないわよ、おいねちゃん」
「誰がおいねだっ!」
「なによ、裕福な商家の次女として生まれるも、有能な兄姉の日陰にかくれる不遇な少女時代を送り、自分を変えようと一念発起して奥女中の道へ。これから先輩の陰湿ないびりに枕を濡らしつつも、出世の階段を上ったり御家人と道ならぬ恋に溺れたりする予定のしんでれらが~~~るおいねちゃん」
「勝手に安い三文芝居の主役に据えようとするなぁっ!」

 一声吼えて掴み掛かろうとして――それを自制する。
 巨大な大手門が目の前に見えていた。槍を抱えた番兵らしき若党が駆け寄って御者に誰何する。いくつかのやり取りを経て、彼らは道を開け馬車を通した。
 賄(まいない)らしきものを受け取った素振りもなく、実直な――少なくとも、自分の職責を全うする事に何ら曇りを感じていない若者なのだと感じた。

 歳は己とほぼ同じ。
 やや嫉妬めいたものを覚えながら、それを隠すように、いなきは馬車の去り際に彼へと笑顔を作ってみせた。幌の骨組みから飛び降りた蛙が、窓枠を経由して番兵の頭に乗る。
 彼はなぜか、槍を取り落としかけて隣の同僚に脇腹を肘で突かれていた。

「おいねちゃん、罪な女……」
「い、いま、わたしの人生観になにか大きな革命が起きようとしていますっ……」
「お黙りやがれ馬鹿女ども」

 窓から笑顔で顔を出したまま、後ろの声に応える。
 幌の中に向き直ると、話題の切り替えの為か、いささか語調を落としてあやめが問うてくる。

「それにしても、随分とあっさり通れたものね」
「まぁ、まだ城の入り口だからな。これが本丸の警備となればいささかケタが違う」
「本丸……曲輪って概念をいまいち理解してないのだけれど、紫垣城の入れ子構造とどう違うの?」
「もっと実用的だな……そもそも、歳城の城郭はもう曲輪とも言えない」

 見上げる位置にある、二の丸と思しき曲輪、その各所に懸崖のように突き出ている稜堡(りょうほ)を視界に納めつついなきは言った。
 稜堡式城郭、あるいは単に形状に由来して星形要塞。中世イタリアを発祥の地とする築城形式である。

 火砲の発達により城塞の堅固化志向が廃れる直前の、永久築城におけるある種の到達点だ。データベースから入手できる近代的な築城術と、現在許されている技術の妥協点を見極めて造られたものだった。
 城外の守りも堅牢そのものだ。大樹江の流れは歳城周辺に入る前に八つに分岐しており、堀を形成している。観察してみた所、番兵の詰め所や組屋敷、政所などの政務施設の配置まで計算されていた。稜堡に設置した火砲の射界は確保しやすく、侵攻する側は侵入経路を見出すのが困難になるような。

 紫垣城にこうした工夫は皆無だ。複層城壁の内側へ入っていく門はそれぞれ一つに限定されるが、ただそれだけの話である。城壁そのものも正方形で、稜堡式のような火線の集中効果を見込めるような事も無い。
 仮に、九重府九衛軍、六孫王府龍軍の双方が全力を投入して攻城戦を行った場合、紫垣城はどう楽観的に見ても三日で落ち、歳城は悪条件が重なっても三ヶ月は持ちこたえると目されている。

「あら、じゃあ九重府側の方が弱いのね」

 しごく単純な感想をあやめは述べる。いなきは首を振り、

「そうとも言えない。まぁ、紫垣城は言ってみれば貴族のワガママから有職故実と八卦読みだけで設計させたようなものだし、兵理もクソも無いんだが」
「おいねちゃん、汚い言葉を使っちゃだめよ」
「うるせぇ。……で、だ。それでも松平家とか戦慣れした連中が口を挟まなかったのは、紫垣城に戦略的価値を認めてないからだ」

 もっと正確に言えば、要塞に六孫王府ほどの価値を認めていない。
 彼らの側に立ってものを言えば――いくら堅固にした所で、城が攻囲などされた時点で大勢は決している。三ヶ月、あるいはそれ以上かかろうが必ず落ちるのだ。むしろ要人が一箇所に固まってくれれば一網打尽にできる。

 裏を返せば、彼らが守勢に立った時の戦略は〝分散〟である。港湾の防衛施設を破られた時点で各所に展開し、地の利を活かしながら市街戦を行う。そこそこ手広い島に過ぎない深川では取り得ない手法である。仮に紫垣城を奪取されたとて、前述の理由からあっさり取り返せる。
 その思考には、ある種の含みを感じざるを得ない。
 それまでに中身がどれ程荒らされても構わない、という。
 むしろ、九衞軍はそれを望んで――

「……ま、そんな事をクソ真面目に考えるような事態が来た時点で、八百八町全体がロクでもない事になる。それは誰も望みはしないさ」

 思いついた考えとは別の事を、いなきは口にした。
 自分の身を守る盾が信用できないものだなどと教えて、良い気分になる訳もない。

「要は、歳城の守りは紫垣城と比べてとても堅いって事だ。これは戦時に限った事じゃなく、身元の確かな人間以外は猫の子一匹通さないってくらいだ。――本来なら、たとえ三の丸でもこんなにあっさり入れたりはしない」

 先程のあやめの疑問が全く正しい事を告げる。別に、それで彼女が嬉しげにする訳でも無かったが。

「どういうからくりなの?」
「これは、石斛斎から聞いた話なんだが」

 と、前置きする。当の石斛斎はあっさりと登城を辞退していた。そこまで付き合う義理ないしねー、と。全くもってその通りではある。

「王の入れ替わるこの時期は、大奥の再構築(リストラ)時期でもあるんだそうだ。深川中から次代六孫王に仕える奥女中の候補がやってくる」
「あ、確かに、そのような事を門番が言ってました」

 常識外の耳敏さを持つ〝き〟が口を挟んでくる。

「これで今日は九十三組目、とか」
「ま、歳城の後宮教育を修了すれば、つまり花嫁修業免許皆伝。玉の輿が群れ為して迫ってくるくらいだしな。人気職業なんだよ。――そんな大勢の身元をいちいち洗ってたんじゃ本業に差し支えるってわけで、奥女中候補の監督は大奥に一任されている。俺たちは先行審査に合格した事になってるから、あそこまではフリーパスだ」

 馬車の窓からいなきが指差した先。
 歳城西の丸。
 件の、芙蓉局の根城である。



 金箔で覆った鋳銅の釈迦如来がこちらを威圧するように見下ろしており、いなきは頭頂に痒みめいた不快感を覚えた。
 城内の地下に設けられた仏堂は広く、季節に合わない冷めた空気を内に引き寄せている。
 いささか印象の薄い――おそらく後ろ暗い任に就く為に、そうした訓練をされた――女中の案内で通されたのがこの場所で、彼女自身は既に退席しており、そして芙蓉局は未だに現れていない。いなきらのみが床に座している。

 〝き〟を先頭に、やや背後に側仕えのようにあやめが座し、いなきは更に後方に控える。
 事前の打ち合わせに即した配置である。
 ――今回、俺は一言も口を出さない。
 そう彼女らに宣言している。老獪な女政治家と聞く芙蓉局相手では、すぐぼろが出ると思った為だ。

 別に女装を知られる事が恥ずかしいからではない(間違い無く死ぬほど恥ずかしいが)。
 女三人連れ、という印象を相手に抱かせる事が、後々活きてくるはずだからだ。

(……それにしても)

 仏像を軽く視界の端に納めながら、意外、という感想をいなきは抱いていた。
 釈迦像を祀る事は、未那元本家が中世のある時期から曹洞宗を保護優遇している事を思えばむしろ常識と言える(現実史に沿えば臨済宗のはずだが、この齟齬の理由は今となっては不明だ)。
 だが、芙蓉局は無宗教と認知されていたはずだ。そもそも、夫の死後落飾し院号を得ていないからこそこの名で通っている。

 八百八町の武家社会は現実のそれほどに仏教への帰依は深くないが、明らかに慣例を破っている。夫への不義と取られて求心力を失いかねない行為だ。
 そうした批判を退けているのは――

「――端女、その仏が気になるか?」

 堂の広さに比べて数少ない燭台に載る蝋燭のあいまいな灯りの外、影になった場所から声が上がった。
 影はゆっくりと形を成しながらこちらへ近付いてくる――真逆の色に彩られて。
 女の全身は白で構成されていた。典型的な五衣唐衣裳、いわゆる十二単。ただし、袿(うちき)から表衣まで白一色の構成など、宮廷の定める襲(かさね)の色目には存在しない。

 指先も、髪色すら白く――総身で喪に服している、とかつて余人に感激を込めて語られた通りの姿。
 芙蓉局その人である事に間違いは無い。しかし。

(若過ぎる……どういう事だ?)

 化粧気の薄いのは、女がその必要を認めていないからだと分かる。野花摘みを楽しむ乙女と言ってすら差し支えない相貌。彼女が貴族出身である以上、鎚蜘蛛姫のように人外の生命力を持っているはずが無い……

「どうした? 私は、愚鈍を憎むたちなのだがな」

 酷薄を音に移したかのような声音。それがいなきへと突きつけられていた。答えられる訳もなく、ただ座したまま平伏する。

「遅参のごまかしに人を恫喝とは……名にし負う芙蓉局にしては、随分と安い真似をします」

 そこに〝き〟の助け船が入る。こちらもまた、負けず劣らず真夏に寒気を催させる声色をしていた。
 芙蓉局は彼女を初めて認識したかのように目を細め、冷笑を浮かべてみせた。途端に、少女めいた顔に海千山千の老獪といった風味が付け足される。
 いなきは怖気を覚えていた。女というのは、こうも容易く印象を変えてみせるものなのかと。――妹についても、同じものを感じている。

 白装束の女は、〝き〟の前に立ちその頭を見下ろす。肉食獣が縄張りを侵略した同種の獣の頭を押さえつける様を連想させる仕草だった。

「なるほど、貴様が〝ふう〟の娘か。なんとも……過去に戻ったような錯覚を覚える。あの女もまた、その声で出会い頭に生意気を抜かした……」

 昔を懐かしむように呟き――唐突に、〝き〟の龍面を引き剥がしてみせた。顎を掴んで自分の方に顔を向かせる。

「顔立ちは未那元の筋よの。どうにも、嫉妬を禁じ得ぬ」

 言葉に反して、口調は愉しむかのようだった。

「――憤怒の相すら麗しいとあっては、な」

 それが、背中を伺うしかないいなきの知り得なかった妹の表情であった。彼女は冷えた敵意を瞬時に殺意へと焼け焦がしていた。

「わたしの顔を見ていいのは、家族だけです」
「家の繋がりはあったはずなのだが?」

 酒の苦みを快く感じるようになった大人のように、〝き〟から差し出された敵意を扱う芙蓉局。両者に血の繋がりは無い。彼女は子を成さなかったと聞いている。

「いや、それも無かったか。貴様はとうに廃妃されている。当然だな。役割を放棄した者を御家は決して認めぬ。……貴様は、我々と何ら関わりの無いただの孤児だ。この場で殺した所で、特に腹も痛まぬ」
「それは、こちらも同じ事です」

 両者に情の交換は一切無い。その条約を取り交した事を認め、彼女らは一時沈黙する。
 いなきには、〝き〟がこうした寸鉄めいた言葉を使うのが意外に思えた。本来は、実際の暴力でものを言う。
 さすがに城内に武器となる鉄杖を持ち込む事は出来なかったので、木製のものに替えている。武力の乏しさから自制している――わけが無い。この少女が、そんなにかわいらしいものではない事をいなきは知り尽くしている。

 理由は、芙蓉局が出てきた影の奥にあった。
 闇に目が慣れた事もあるが、何よりその大作りな輪郭は影の中でも陰影が判別しやすかった。僧形の大男。骨格も、目も鼻も口も、指先も大きい。
 光を反射するような武装は携行していないが、何らかの攻撃手段を持っている事は確実だった。

「……あなたはよほど、好き放題にしているようです」

〝き〟が殴れない代わりに皮肉を突き出せば、芙蓉局は驚いた、というような顔を作って、

「なんだ、やつに気づいたか。……あれはそうした心配がいらぬ者よ。大陸の作法にならってな」

 ――つまり、宦官(かんがん)か。
 外見からは去勢しているとは全く伺わせない強面の男の方に手のひらを向ける事で指し示し、芙蓉局は告げる。

「豪眞梅軒(ごうまばいけん)。疑わしいとあらば、見せてやっても良いぞ?」
「御方(おんかた)の仰せとあらば」
「いりません」

 印象を裏切らない太い声を〝き〟が遮る。
 芙蓉局は、人の悪い微笑みを浮かべると、ようやくいなきたちの対面に座した。

「無論、外にも人を控えさせておる。ここは六孫王の膝元、貴様らなどいつでもひねり潰せる事を知っておけ」

 何とも親切な。鼠に自分の家での振る舞い方を一々ご指導してくれるとは。つまりは、浅井長政が織田信長に両口を縛った袋を送ったようなものか――場違いなおかしさを覚えて、いなきは口の端を歪ませる。

「……それで? 今日はどういった御用向きかな?」

 問いかける芙蓉局に対して、〝き〟が応じる。

「殯宮の場所をお教え願いたい」
「……大樹を殺すか? 己の父親を?」
「はい。殺します」

 少女の声音は、神託を告げる女神(アテナ)めいた超然とした冷厳を湛えていた。
 そう思えば、対する芙蓉局は一人だけで神を嘲笑する道化のようであった。

「あの男にとっては、なんとも、救いのない話よの」

 宮廷出身の女特有の婉曲表現といなきは受け取った。少なくとも、彼女の要請を拒絶する意図はそこに含まれていなかった。
 言葉の含みを正しく受け取られたのを察したか、芙蓉局は続ける。

「危うい所であったが、世嗣は生まれた。未那元大樹にもう価値は無いのだ。奴とて、現世で行う仕事などもう遺言を書くくらいしか無い」

 路傍の石に抱くような無機質な感慨だけが、その声に乗っていた。
 いなきの胸の内に冷風が吹く。義理とは言え祖母に無価値と断じられ、娘に殺意を抱かれている。なるほど、全く救いが無い。

「是非もあるまいよ――あの男とて、実兄を殺して王座についたのだから」

 音程を一段落として、彼女は秘事を明かした。

「王太子、未那元森羅……十七年前、大樹は兄を手に掛けて、奴のものであった地位も、女も奪いとった獣よ。今となっては私しか知らぬ話だ。御家騒動など起きてはならなかったのだ。暗殺で御家が絶えたとて貴族や親王を後釜にできた現実世界の鎌倉幕府とは違う。未那元宗家の存続は、深川六孫王府のそれと直結している。その血筋を絶やさぬ為には、如何なる手段も肯定される」

 芙蓉局に目に見える変化は無かった。しかし、背後の大男の肩がやや強張る。何かを思いだしたかのように。
 おそらくは、今し方彼女が述べた事を隠蔽する為に骨を折った人物なのだろう。今となっては私しか知らぬ――そのような状況を作った事も含めて。

「奴には苦労をさせられた……その後の勤めで借りを精算したとも言えるが、元より泥を被って得たものだ。泥中に返すのが相応ではないか?」
「……つまり、ただで教える気は無いと?」
「当然だ。貴様にも泥を被って貰う。雷穢忌役……あの泥の中で駆け回る狗になったのだろう。まったく似合いの仕事ではないか?」

 暗殺。彼女は、それを示唆している。

「ちょうど、始末する塵が手元にある事だしな。……侍所所司代、足影秀郷。敵の派閥に潜り込ませていた男だが、どうやらあちらに寝返ったらしい。二重スパイ、というやつだな。どうやら、少しはものの見える男のようだ」

 自らが敗勢にある事を諧謔を込めて語りながら、その直後に。

「この男を殺せ」

 ――何事かを言いかけた〝き〟を、いなきは制止した。彼女に意志を伝えるには、唇を動かすだけで良い。
 次いでの受け答えを彼女に指示する。その通りの文言で彼女は述べた。

「必要なものが、いくつか」

 そう前置きして、いなきが提示した事柄を〝き〟は挙げていく。

「整えさせよう」

 芙蓉局の返答に、後方の豪眞梅軒が頷く仕草をする。

「では、仕遂げた時に再びここに来ます」

〝き〟がそう告げて、立ち上がろうとする。それもいなきの指示だ。これ以上芙蓉局に何かを言わせても益は無い。
 ――老獪な女は、そうした呼吸を読むのに長けていた。

「待て」

 一言、それでこの場の全員を制止させると、芙蓉局は一人舞台を演じるように語る。

「駄賃に、棚上げしていた事を教えてやる。……あの仏だがな」

 と、仏堂に座す巨像を示す。

「作は蓮済(れんぜい)……済派(さいは)という流派に属する仏師であった。私の娘時分に、そこそこの名で通っていた男だよ。数年前に老衰で死んだと聞いている。流派そのものもこの時絶えた」

 彼女が何を伝えようとしているのか、計りかねた。しかし意味がある事なのだ。女が酔狂でこの話をしているのであれば、その瞳にこぼれる程充満する情念は説明がつかない。

「かつて、この男を招いた事がある。最初に奴の手がけたものを目にした時より、気にかかっていたのだ――なぜこの仏は、人を銅に溶かし込んで仕立ててあるのかと」

 思わず、仏像の方を振り返ってしまった。女はその様を可笑しげに見やりながら言葉を続ける。

「流派の教えにございますれば、と蓮済は答えた。済派は、三百年前までは京の五山の仏をも造った名門だったのだぞ? それが連綿と人身御供を相伝し続けていたのだ。私は唖然としていた。蓮済個人の狂気と見込んでいたからだ。当然ではないか? 狂は、教え伝える事はできぬ」

 そこで女は、軋むように笑った。自嘲の笑みだった。

「と、考えて自分の馬鹿さ加減に気づいた。われらもまた、同じ狂習を連綿と伝え続けてきたではないかと」

 ――〝き〟の指先だけが、その言葉に反応を示した。

「その代の六孫王の種より生まれた初の姫、これを〝斎姫〟と名付け、穢れから遠ざけるべし。言葉を教えず、肉食を禁じ、日の当たらぬ場所で潔斎させよ。――齢十を迎えるまで」

 朗々と、祝詞を語るがごとく言葉を吟ずる芙蓉局。実際、彼女はある種の祭事を語っているのだ。
 ある種の祭事を――その贄に。

「陰の気を極めた浄き娘、これを王に喰らわせるべし。王の身のうちに狂う憑物を鎮める為に。斎とは〝食すべき時〟の意である」

 そこで言葉を句切ると、彼女は〝き〟へと語りかける。

「蓮済は言った。造仏の道、未だ途上ゆえ、然らば正道邪道、外道の区別も無し。然れども御仏の現身(うつせみ)を世に象る事には是非も無し。――人が、救いを欲しているのだから」

 石を積み上げて城壁を作るように、芙蓉局は言葉を紡いでいく。
 そして、断罪するように問いかけた。

「なぜ、貴様はここにいる?」

 卑しい鼠を見るかのような軽蔑が、そこに潜んでいた。

「あの大義も解さぬ流浪の遊女が、全てを御破算にしかけた。情に駆られて貴様を逃がした。大樹があの時〝ふう〟を手に掛けていなければ、私が殺していた所だ。奴の為に御家は、この千年で最も危機に瀕した。あれから致命的に大樹の憑物は進行したのだ……かろうじて六弁丸(ろくべんまる)が間に合ってくれた……未那元宗家も、深川六孫王府そのものも滅んでいた所だったのだ……」

 滲むような言葉に、初めていなきは女の老いを、疲れを感じた。
 しかしそれは一瞬だけの事だった。芙蓉局は老いを強固さで覆い隠し糾弾を続ける。

「それで、貴様はなんだ? 母親と不具にされた己の仇と、御家に弓引くか。小人の極みよ。貴様は死ぬのが道理であったのだ。それが生き恥をさらしただけでなく、狗に堕ちて、醜悪な怨念を向けるなど。このような、虚仮威しまで用いて」

〝き〟から剥ぎ取った龍面を汚らわしげに弄びつつ、軽蔑もあらわに彼女は言った。

「生き延びる為に、どれほど卑しい真似をした? 自儘に振る舞う為に誰に取り入った?誰にその肉を貪らせた? その美貌で、美声で、誰に甘えてみせたのだ?」
「……ッ!」

 奥歯が軋む。いなき自身のものだった。
〝き〟の顔は、こちらからは見えない。
 自制心を絞り出すようにして、いなきは伝えた。

(挑発だ)

 この女は、自分たちの頭を押さえようとしている。主導権を握りたがっている。
 暴力に馴れた狗に首輪をつける方法など、一つしかない。
 己も、暴れてみせる事だ。

(奴は、事によっては俺たちのうち誰かを殺すつもりでいる)

 芙蓉局の立ち位置に立ってみれば、至極容易な想像だった。こちらが提示できた彼女にとっての利益など、無いよりはましという程度のものに過ぎない。手綱を緩めて御せなくなれば厄介、多少過激な手法を採っても自分の腹は痛まない。
 こちらが圧倒的に不利――戦力的にもそうだ。仮痴不癲の時とは違う。豪眞梅軒には未熟な猿丸と違って隙が無い。仏堂の外に待機しているはずの手勢が駆け込むまで、芙蓉局を守りきるだろう。その後、非武装で非戦闘員まで抱えたいなき達がこの場を切り抜ける望みなど、富くじの突留を引き当てるより薄い。

 芙蓉局に暴力の行使を決意させてはならない。この場は耐えなければならない。
 耐えなければ――

(糞……ッ)

 俺の家族が、辱められている。妹が恥を耐えているのに、何も出来ない。
 俺のせいで刻まれた恥だというのに、何も――
 薄い足音が、すぐ近くでした。
 注目していなかった人間が急に動き出せば、誰であれ咄嗟に反応などできない。この場の全ての者に生まれた隙をついて、その女は自分の庭を歩くように白装束の女の前に立ち、
 無造作に、頬を張った。

「なっ……」

 思わず、声が出た。
 蠱部あやめが振り抜いた手を下ろす。その目には平素と同じ、とらえどころの無い感情しか浮かんでいなかった。声もまた、寝言のように自然だった。

「彼女にも、誇りがあります」

 そっと、誰も気づかぬ程の動きで芙蓉局から龍面を奪うと、それを〝き〟の顔に被せてから言った。

「それをあなたが傷付けるのであれば、許すわけにはいきません。わたしは、この子の姉ですから」

 いなきは、膝を浮かせかけていた。手のひらを、彼女の背中に向けて開き、閉じ――胸の内に沸いた熱を持て余し、扱いかねている。
 それを誤魔化す為に、別の事を思う。

(……どうする)

 今、芙蓉局にはあやめが手頃な贄に見えているだろう。影の奥の豪眞梅軒は主への攻撃に、明らかに戦闘態勢を取っていた。梅軒の、彼女への暴力を妨害すればこの場は致命的に荒れる。目的の達成は絶望的になる。

(俺には、為さねばならない事がある)

 蠱部あやめの父、蠱部尚武を殺す。その為にこの九年間があった。
 仇の娘を守る為に、それを無とする事などあってはならない。それは己に許された命の使い道ではない。

(為さねば、ならない事が……)

 豪眞梅軒が、決定的な前進、その一歩目を踏み出そうとする。

(……畜生!)

 いなきが、合理とかけ離れた思考に基づいて肉体を駆動させようとした時。

「――梅軒、待て」

 芙蓉局が、影の中の従者に灯りの下に出る事を禁じた。
 彼女は頬を張られた事実など無いかのように、白い肌の赤に染まった箇所に触れもせず、あやめの顔を見ている。
 あやめは既に、芙蓉局の前に座り直していた。この幼馴染は、礼儀にうるさい訳でもない癖にそれを自分が固守する事にはこだわっている。人を見下ろすような不作法は、彼女の好むところでは無い。

 彼女がいなきに背を向けて座った事で、その表情を伺う事はできなくなったが、それでもどういう顔つきをしているかは分かる。老獪な芙蓉局ですら、あの女の顔から意味のある心の動きを掴む事は難しいだろう。
 それでも、白装束の女はしばし観察を続けた。
 その後、呆けたように呟く。

「そなた、待雪(まつゆき)の娘か……?」
「ええ」

 ごく淡白に、あやめは答える。

「つくづく、懐かしい事の起きる夜だ……」

 そこでようやく、思い出したかのように芙蓉局は頬を押さえた。

「あれもずいぶんと生意気な娘だった。まったく、面憎い親子よ」
「そうでしょうか」
「基実(もとざね)殿は息災か? 存命であるとは知っているが」
「よく分かりません。顔を合わせたのは、三年も昔ですから」
「そうか。あの哀れな男らしい仕様ではある……あれは、ずいぶんと悪い時期に貧乏籤を引いてしまったのだ……無論、そなたに同情すべき由など無いが」
「祖父の事はあまり考えません。面倒なので」
「はん。食えぬ奴だ……そうか、あの蠱部尚武の娘でもあったのだったな、そなたは」

 昔話めいた事を語り、場の空気が弛緩してしまったのに気づいたのか、芙蓉局は空気の淀みを振り払うように手を動かしてみせた。

「言うべき事も、言いたい事も言った。もう貴様らに用など無い」

 計略を取りやめ、この場からの無傷の生還を許す――政治的動物そのものである彼女にとって、最大限の謝罪であった。



「帰して、良かったのですか」

 三人が去った後の仏堂で、咎めるように梅軒が問うてきた。
 ――いや、この男が己を咎める事などありえない。この気後れは、芙蓉局自身が、己の行動に咎めるべき事を感じている証だ。
 はぐらかすように、彼女は応じる。

「構わぬ。……別に、昔馴染みの孫を殺す事を躊躇ったのではないぞ」

 九衛基実(このえもとざね)は幼少の頃からの付き合いであったし、その後の政変で不遇をかこった者同士としての同情めいたものも感じている。その娘については共感すら覚える。それでも、たとえ彼ら自身であったとしても謀略に組み込む事に抵抗はない。いわんや見知らぬ血縁者など、だ。
 だが、と芙蓉局は前置きして述べる。

「筋書きを壊す即興(アドリブ)を、他の役者が見せていたのでな」
「最後尾の者ですか? 確かに、よほど動揺していたようですが」
「あの者だけではないよ」
「斎姫も? まさか」

 梅軒は意外げな風に言った。当然だろう。梅軒もまた、芙蓉局と同じく斎姫の表情を見ていたのだ。冷徹を体現したような鉄面皮を。
 あの娘は、目的に必要とあらば肉親でも切り捨てる。その覚悟を固めていた。たとえ梅軒がこの場であの娘を八つ裂きにしても、指一本動かす気も無かったはずだ。
 頭の中では、そうだったろう。

「分からぬ……だが、実際に事を起こせば、動いていたかも知れん。兆候、とも言えない。かすかな……しかし無視できなかった」
「御方の深慮とあらば、是非も無し」

 忠犬じみた仕草で梅軒は、芙蓉局の曖昧な不安に応じた。そして、無思考の奴隷ではない事も示す。

「此度の仕掛けは、〝計略の要〟に御座いますれば、まず過誤の無き事が大事」
「その通りだ。あの狗共には、私の書いた脚本通りに演じてもらわねばならん」

 梢継との政争に逆転し、再び権勢を得る為には。

「御意」

 それだけ言って、梅軒は闇の奥に消えた。
 仏堂には、芙蓉局が一人きりになった。いや、釈迦像の中に押し込められた死人を含めれば二人か。
 慈愛ばかりを示す古拙の微笑を見上げて、彼女は蓮済の最後の言葉を思い出した。
 ――この仏に溶け込んでいるのは、我が娘です。
 蓮済はその後弟子も取らず、己の冥土の旅路に数百年続いた流派を道連れとした。

「……貴様は、臆病者だ」

 仏に向けて、唾棄するように告げる。鋳銅の仏像はそれに報復してくる事も無かったが。
 打たれた頬を押さえる。

(……それにしても)

 侍従が駕籠を担ぎ現れるまでの間、芙蓉局の思考を占めていたのはある一つの事柄のみだった。

(あの娘は、生かしておいてよかったのか? 殺すべきだったのか?)

 その思案は、ことによると、これから骨を折らねばならない陰謀よりも深いものだったかも知れなかった。



「………………………………………………寿命が縮んだぞ」

 帰りの馬車の中で、いなきはうめいた。鏡が前にあれば、数日絶食したかのようなやつれた顔が見られたはずだ(この時彼は、自分が化粧している事を忘れている)。
 女二人は平然としているのが、いささか情けなくもあったが。

「申し訳なかったわね。勝手に動いて」
「いや……」

 珍しくも素直に謝罪するあやめに、いなきは口ごもる。確かに彼女の行動は理性で考えれば状況をひどく悪くしただけのものだ。それでも責める気分にはなれない。どうしても。
 ため息をついて、話題を変えた。

「あの手の若作りした妖怪婆の厄介さは知ってるだろ? そんなのとやり合って無事だったんだ。善哉、善哉、ってやつだよ」

 すると、あやめがいなきの方を向いて言った。

「いなき君、彼女は蜘蛛のおばさまとは違うわ。言葉を慎みなさい」
「……あん?」

 この場で芙蓉局を庇う発言が出て来る事は意外で、いなきはぽかんとした。
 あやめは、平素通りのつかみ所の無い表情のまま言った。

「黄金が寄ってくる人間は、黄金では幸せになれない人間よ。不老もまた然りでしょうね」
「……あの女は、」

 ぼそり、とあやめの隣で〝き〟が呟いた。がさついた声音だった。

「おそらく自己改竄(コードハッキング)で代謝を制限しています。髪色の変化もその影響でしょう」

 代謝を制限――それは、つまり。

「わたしたちの逆です。運動機能は著しく低下しています。日常生活すら苦痛に感じているはず。立って歩くのも困難でしょう」

 身近に立てば人の体内まで把握する〝き〟であるからこそ察せた事であった。芙蓉局の傲岸不遜そのものといった表情に、そうした翳りは皆無だった。

「つまりは、人並み以上の覚悟でああしているという事……彼女の誇りよ。侮辱してはいけません」

 たしなめる響きで、あやめは言う。

「でも……わたしは、嫌いです」

 対して、〝き〟が着物の縁を握りしめつつ漏らした。

「若さを維持するのは、見目で人の心を奪うため、力を持つ人間に媚びるため……女を使って、人に取り入ってるのはあいつじゃないですかっ……」

 絞り出すように、妹は憤激している。
 彼女が仮痴不癲や石斛斎に冷酷な理由が分かった。仮痴不癲については彼女の公言した通り。おそらく石斛斎も、芸人ならではの古式ゆかしい陰間(※男娼)で身を立てている事が伺えた。
 彼らとて生存の為の行いであり、彼女の潔癖に過ぎる評価は理不尽ですらある――しかし、この娘はまだ十五の少女なのだ。

 仮面で覆ってもなお顔を隠すように首を竦める妹に、いなきは掛けるべき言葉を持たない。彼であるからこそ、できない事だった。
 代わりに、あやめが彼女の肩を抱いた。
 馬の蹄の音、車輪が石畳を削る音、ばねの軋む音、虫の鳴き声。
 そうした音だけがしばし、夏の夜を占めていた。



[36842] 2d/暗躍の方程式
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:33
 雪ノ下町は大樹江を挟んだ深川の東側、その外れにある町人のねぐらである。そこで寝起きする男の半分が漁師で、三割が港の雑役夫で、一割が店持ちの商人で、残りが得体の知れないろくでなしの群れ。女たちは朝早くに夫を蹴り出して、適当に家事と内職を切り上げ晩飯の内容を考える。そうして一日を終えるのがここの連中の常であった。あら汁と浅蜊の飯には飽き飽きしており、暇潰しにやる事をやれば嫁が孕んで食い扶持に悩む。餓鬼の遊びは大概釣りだ。

 誰もがお定まりの日々に倦んでいて、変化には敏感だった。
 三日前に古着屋の裏店に住み着いた若夫婦についても、彼らは物見高かった。
 旦那は浪人者のようだ。このご時世浪人が町人の生活圏に流れ着くなどよくある話で、別段珍しくもない。若い身空で家禄を失い町に放り出されたのは哀れだったが、持つべき感想なぞその程度。髪と目の色が一見風変わりで、子供にしつこく言い募られては嫌そうな顔をしている。近頃の子供たちの流行り遊びは、この若者に纏わりついて食うぞコラと脅かされて逃げる事だった。実際に食われた子供はまだいない。

 女たちの流行りは、この若侍とその嫁との仲を推察する事だった。
 この夫婦、妙に仲が悪い。というより、夫が一方的につんけんしている。
 例えば――



 若者が朝早くに逃げ出すように(そう見えるのだ)長屋を出ようとして、嫁に呼び止められる。

「だ~り~ん」
「誰がダーリンだこのドアホウ!」
「行ってきますのちゅーがまだよだーりん」
「するか馬鹿!」
「さ、このキス三十種早見表を参照した上でコンボを決めるのよ。一〇ヒット以上でBP(※バカップルポイント)一万点、爆発の特殊効果と共に特になにも起きないわ」
「聞けよ! つーかなにも起きないのかよ!」
「……わたしたちは夫婦、なのでしょう?」
「ぐっ……」
「疑われると~、色々と~、まずい事になってしまうのではないかしら~」
「……この、十六番なら」
「髪ね。なかなかフェティッシュなのかしら、だーりんは」
「屈辱……っ」

 若者が羞恥心に顔を歪めながら妻の髪に口づけている様子は、裏店の女二十三人全てが目撃した。



 なんだか夫に虐げられている嫁という構図とも違う気もするが、同姓ゆえに女たちは彼の若妻に同情的だった。いかにも良家の生まれ然とした彼女であったが、嫉妬めいたものも挟まず色々と手を焼いた。海を相手に生きる人間は大らかであるべきというのが、深川町民の美風だった。若妻も、面こそにこりともさせないが、冷たい人間では無いようだった。
 おそらくは、数ヶ月もすればこの若夫婦も日常の中に溶けて、退屈で、そしてかけがえのないものとして町民に扱われるようになるのだろう。

 懸念を一つ、挙げるとすれば。
 あの夫は毎日、朝から晩まで、どこで何をしているのだろう?



   /

 楓座(おかつらざ)は多田神宮門前町である十二所町を拠点とする一座で、大樹江沿いの公許を得た芝居小屋と比べるといささか煤けた風情ではあるが、人の入りはそこそこだった。
 いなきは表口から聞こえる喝采の数でそれを把握すると、そのまま回り込んで裏手から楽屋へ入った。顔見世は済んでいるので咎められる事は無いが、裏方、役者の目はいささか煙たげだった。洒落気の世界に、いなきのような無骨者の入る余地は無い。そういう事なのだろう。

 左右田石斛斎は逆に、ここで生まれたかのように馴染んでいた。通路の端で、模造刀の束を抱えた小道具の男と歓談などしている。
 彼はいなきを見つけると、話相手と愛想笑いして別れ、こちらに近寄ってくる。

「やぁ、新婚さん」

 にやにやと笑う男のすねを蹴りつけて黙らせる。

「兄妹揃って粗暴だなぁ……照れなくてもいいのに」
「照れてねーよ!」

 香油を塗った長髪を引っ張って耳元でがなる。石斛斎は今度はため息一つして、

「まったく、元服前の小僧じゃあるまいし……幼馴染なんでしょ? 気楽なもんじゃない。どーして更に目つき悪くしてんのさ」

 不可解そうな顔の男に、ぼそりといなきは一言。

「……嫁入り前の女だ」
「うっ……わー……天然記念物だ」

 石斛斎は、本気で唖然として呟いた。

「違う。……あいつは貴族の娘なんだよ。この旅は記録に残る。将来に影響が」
「余計なお世話ね」

 役者らしい声真似で、堂に入った女声を作る石斛斎。

「この話が決まった時、あの子はそれくらい織り込んでたと思うけど?」
「……〝き〟とあやめの二人暮らしでよかった」
「無理無理。きみに貼り付かれるのはなかなか鬱陶しそうだし、ぼろも出る。魚と山犬くらい暮らしぶりが違うもの」

 朗らかにずけずけと言う役者に、けっ、と吐き捨てる。確かにその通りだった。――それでもこの男の動向を監視する役が必要な以上、消去法で妹しかいない。
 ――深川の滞在にあたって、最初の方針として定められたのが、二手に分かれる事だった。
 芙蓉局との対面で女三人組という印象を植え付けたのは、この為だった。深川は彼女の御膝元。その情報網から漏れる為の工夫が必要だった。

 仮痴不癲側にもこちらの動きをある程度隠蔽する必要がある。所詮彼女も味方ではない。
 彼女の斡旋する滞在先を選ばず、人の出入りの激しい長屋に隠遁したのはその為で(石斛斎にはどこに住んでいるか教えていない)、また石斛斎に余計な真似をさせないよう監視もしなくてはならなかった。
 もっとも、なぜか石斛斎自身が深川に着いてより、仮痴不癲と距離を置く方針を示していた。この芝居小屋も彼女とは関わりの無い昔気質の座主の運営で、彼は飛び込みでここの役者として職を得た。

 ――なにかと美味しい愛人稼業だったけど、潮時っぽかったしねー。あのおっかない子のそばにこれ以上いると、命がいくつあっても足りない。
 なんとも無頼漢らしい物言いだが、真っ向から信用する訳にもいかない。結局、石斛斎の身内という形で〝き〟も一座の厄介になっている。

「この手の人間がいておかしくないのも、この業界くらいだしね」

 欠けた左腕の根本を軽く叩いて、石斛斎は言った。
 十二次大粛正前の戦乱の時代には、奇形者好みの数奇者(フリークス・オブ・フリークス)を相手にした見世物小屋が存在したと聞くが、その名残か、この世界の芸能業界ははぐれ者に対する間口が広い。渡来人である仮痴不癲もそうだろうし、未那元元羅の治世以降加熱した深川と本土の小競り合いで生まれた戦災被害者についても同じ事が言える。――先程の小道具の男にしろ、顔半分が焼けただれ、潰れていた。

 ふと、空想を弄ぶ。
 ごく普通の戦争で焼け出されたのなら、己の居場所もこうした所であったはずだ。ここならではの苦労もあっただろうが、少なくとも刀を持つ必要は無かっただろう。どこにいても怯えの目で迎えられるような凶手でない何かになれた。そのはずだ。
 ――許されざる妄想だ。

「四日程度で、ずいぶん馴染んでるな。水が合うのか?」

 先程の物言いに引っ掛ける程度のささやかな洒落気を示し、いなきは聞く。

「オトナの処世術、ってやつさ」

 嫌味たらしく抜かす石斛斎。いなきは嫌そうな顔をして、

「看板に名前が無かったな。あんたの腕なら、即花形になっても良いだろうに」
「おや? そこまで買ってくれてたとは、意外だね」
「……別に。腕を披露したから、人望を得たんじゃないのかと思っただけだ」
「逆さ。舞台裏で拍手を浴びるのは斬られ役」

 石斛斎はからかうような軽さで言って、

「オトナの処世術、だよ」

 警句じみた物言いに、いなきはうんざりと顔を逸らす。しかし、もっともではあった。いなき自身、忌役の大人の武官を叩きのめす度に孤立が深くなっていった気がする。特に気にもならなかったが。

「かわいいかわいい愛妹のこと、聞かないんだ?」

 隙をつくような、ぼそりとした一言。

「なんか気持ち悪いぞ、その言い方」
「若者に言われるだけで傷つき具合がひと味違うねぇ、その言葉」

 悲しげに言う石斛斎を放っておいて、いなきは軽くうめいた。

「……どうにも、嫌な予感しかしない」
「はっはー、大当たり」

 青空と同じくらいに晴れやかで、そして晴れやか以外に特筆する所の無い笑顔を浮かべる石斛斎。よく観察すれば、頬に一滴雨が降っていたりもする。
 折良くなのか、悪くなのか。

「――おじ」

 いなきの入ってきたのと同じ経路で、芝居小屋の廊下を、杖と義足と生身の三本足が歩いてくる。裏口の軒先で、あきらかに堅気でない男三人ほどが「お嬢、お疲れさんです!」と頭を下げていた。

「……」
「聞きたい? あの子の、ここの座主への借金取り立てから始まった地元ヤクザとの一大活劇」
「いや、いい……」

 頭の端で人目を忍ぶ隠密活動という標語が浮かび、ひび割れて崩れていくのを見届けながら、いなきは答える。

「おじ。新参者がこのような所で油を売ってどうします。一座の皆さまにへいこらと茶の一つでも淹れてきてはどうですか」

 そばまでやって来て理不尽に手厳しい事を言う〝き〟。仮面だけは狐の面に戻し、一応身元を隠す配慮はしているようだ。

「いなき様、よくお越しになりました」

 立ち居振る舞いも、打ち合わせた通りにはなっている。まずは〝身内〟の石斛斎で、次は〝知人〟の若侍。声の響きも、同じ呼び方ではあるがいささか突き放したものを感じる。
 ――夫婦役は、あやめ様となさって下さい。
 胸に小針が刺さったような気分を覚えつつ、いなきは周囲に聞き咎める人がいないのを確かめてから言った。

「おじ?」
「汚仁、つまり加齢による汚らしい脂分が至極不快なひと、という意味です」
「いや、俺は、「おじさん」「おじさま」と呼んだ方が適切なのではないかという意味で言ったんだが……」
「それより僕は今、壮絶ながっかり感を覚えてるよ。正味な話、その呼び方にきゅんと来てたからね。この四日間の浮かれ気分をどうしてくれるのさ」
「知るか……いや、すまん。なんか、その、悪い」

 本気でショックを受けている様子の石斛斎に、妙な責任感からいなきは言いかけた悪態を撤回する。
〝き〟は素知らぬ顔で、その傍らに立った。石斛斎から見えぬ位置で背中に触る。

「……構わない」

 合図に口頭で返答してから、いなきは言った。

「情報は揃った。明日、仕事をする」



 蝋燭の炎が、割れた板壁から吹き込む嘆息めいた外気に揺れる。その時、炎の形作るいなきと〝き〟、石斛斎の影も化物じみた形に膨れた。
 多田神宮からやや離れた場所にある分社である。本社がそばにあるので、参る者も少なく廃れてしまった。深夜となればなおさら人気に乏しい。密談には都合の良い場所だった。

「標的……名は、足影秀郷」

 車座の入り口側に腰掛けているいなきは、そう前置いて語り始める。

「姓の示す通り、御門葉の出自だ」

 ――御門葉家。
 未那元頼朝の時代、彼が幕府を開くにあたって最も功績を認められた未那元一門の眷属にのみ許された称号である。夜摩名(やまな)家、大宇智(おおうち)家、足影(あしかが)家、鏡(かがみ)家、八州田(やすだ)家、比良賀(ひらが)家、摂州(せっしゅう)未那元家、奥州(おうしゅう)未那元家。この八つの名家から成る。

 家格の高さ、それに相応する権力の程は言うまでも無いが、いなきはそれに言及する意図でこの称号を持ち出したのではない。
 彼らは未那元の血筋のごく近縁の連なり、つまりほとんどが、強力な憑人である。

「真っ当に戦うには困難な相手だ。憑人の身体能力は、コードハッキングで身体能力を高めた雷穢忌役と比べても驚異的。憑物は血筋と関連が深いから、同族交配でその純度を高めた御門葉の眷属ともなれば、絶望的な開きがある」

 いささかの含みを持たせていなきは語る。それを察して、石斛斎が口を挟んでくる。

「つまり、真っ当には戦わないんでしょ?」
「まぁ、そうだ。それについては策がある……」

 と、いなきは足影秀郷の暗殺計画、その草案を明かしていく。
 それを最後まで聞き終えてから、〝き〟が問うてくる。

「その策を実現するには、彼が夜間、人通りの無い道を歩いている必要があります。どのようにして彼をおびき出すんですか?」
「おびき出す必要なんか無いさ」

 いなきはいかにも簡潔に答えた。

「この男自身が、それを望んで行う。間諜で、しかも二股をかけているとあらば後ろ暗さも一際だからな」

 芙蓉局陣営はもとより、方丈梢継陣営相手の謀議に参加する時の時刻、道行き、符牒の類まで御寝所番の密偵は把握していた。釈迦の手のひらの上の孫悟空、という言葉がはまり過ぎていて、度の過ぎた諧謔に胸が悪くなる。

「明日、当代六孫王の兄とやらの年忌法要――神道行事だから年祭か――があるが、その後に芙蓉局側が秀郷へ誘いをかける手はずになっている。謀議の場に来るまでの道で殺す」
「芙蓉局陣営の談合である理由は、なにかあるのかい?」

 物見遊山じみた顔で、石斛斎が問うて来る。いなきはそれをうさん臭そうに眺める――男が、今の話の急所を的確に突いてきたからだ。
 この時機を指定してきたのは、芙蓉局側の方だった。
 足影秀郷の動向をこれだけ把握している以上、逆の事を行うのも容易のはずだ。彼の好みそうな情報(エサ)を与えて、喜び勇んで密談に向かう所を仕留める。梢継陣営に脅しをかけるつもりなら、そちらの方が適切だろう。
 いなきは、それなりに自信のある推察を解答として述べる。

「おそらく、方丈梢継側の刺客を装わせる為だ」
「なぜ?」
「芙蓉局の陣営の方が遥かに劣勢だからだ。梢継陣営の談合に向かう途中で秀郷が死ねば、彼が二重スパイである事が知れてしまう。その時の動揺が無視できないほど、芙蓉局側の屋台骨は揺らいでいる……加えて、」

 政治の生臭さを間近で嗅いだ気分を覚えつつ、いなきは言葉を続けた。

「いぶりだしだろうな」
「……なるほど」

 石斛斎もまた表情を翳らせ、いなきと心境を同期させる。〝き〟も察していない訳ではないはずだが、こちらは呼吸に揺らぎすら無い。

「芙蓉局の側で足影秀郷の死の本当の意味を知るのは、方丈梢継と通じている人間だけだからな。秀郷の死は、こいつらのその後の動きを抑制する効果がある」
「おっかない事だねぇ……けど、おっかないだけだ」
「ああ。どうやらあの女は、裏切り者をそのまま使い続ける以外無い程に、力が不足しているようだ。仮痴不癲の立場が気楽にすら思えてくるな」
「どうだろうね。危険な毒虫を手の中でもてあそぶつもりなだけかも。権力って玩具を扱い馴れた人種には時折、そういう悪癖持ちがいるからねぇ」

 皮肉を愉しむように語るこの男が言うべき筋ではないと思うが、どちらにせよ臨時雇いの殺し屋が気にかけるような事ではない。いなきは傍らに置いていた巻物を広げ、灯りの下にさらす。

「これが、足影秀郷の進行経路周辺の地図だ。ここ……この路地に罠を張り、待ち伏せる」
「ねぇ」

 隻腕の役者が、口の端を底意地悪そうに吊り上げていなきの言葉を留めた。

「まさか、臨時雇いの殺し屋になりきってるわけ?」
「まさか、だな」

 淡白に応じて、いなきは入り口に置いていた木箱を担いで車座の中に戻ってくる。木箱の中には、先程の巻物が束になって、溢れる程に突っ込まれていた。

「永代島造成以来の深川各所の地図、寺社の建立計画の図面だ」

 余裕めかした石斛斎の目が、この時ばかりは驚きに見開かれた。

「これ、全部?」
「ああ」
「どうやって手に入れたのさ。帯出禁止でしょ、こういうの」
「政所(まんどころ)の小役人を装って奉行所の蔵をはしごした。芙蓉局に便宜を図らせたんだ。最初に出したこの地図を閲覧する為、という名目で。その場で書き写す訳にもいかなかったんでな、少し時間がかかったが……」
「まさか、そらで写し取ったの? 三百年分の絵図面を全て? 四日で?」
「漏れがあったら意味が無い。時間との勝負でもある」

 草を噛んで吐き出したような味気の無さでいなきは言った。目の下には不眠を重ねた為の隈が浮かんでいる。
 石斛斎が唖然としている理由は分かる。この仕事がある種の代え難い能力の証明である事も。しかしそれについて優越感を楽しむゆとりなど無い。前言通りに時間は限られており、語るべき言葉は別にある。

「これが指標になる。六孫王の殯宮を探す為の」



 四日前。芙蓉局との会談から元の出会茶屋に帰り着いてすぐ、いなきは化粧を落として女装を着替えた。元のひたすら地味で無骨で丈夫な布を使っている以外なんら特徴の無い黒装束に身を包むと、幸福そうにため息をつく。

「落ち着く……」
「あぁ~、もうちょっと鑑賞したかったのに~……」

 さめざめと嘆く〝き〟を無視して、畳にあぐらで腰掛ける。

「案の定、殯宮は歳城内には無かったな」
「はい」

 無理矢理話題を本題に修正して問いかけると、さすがに妹は気を締めて応じる。
 彼女の隣に座るあやめが口を挟んでくる。

「何度か耳にしたけれど、その、殯宮というのは何なのかしら? 字義を考えれば、意味する所は察しがつくのだけれど」

 殯――本来は、本葬前に遺体を仮の御所に安置して一定期間過ごすという、古代の習慣である。
 六孫王府では、六孫王の自死を粉飾する政治的欺瞞として、この言葉を用いている。

「大殯の儀で、六孫王が滞在し、潔斎する場が殯宮だ。六孫王大樹は十一日前にここに入っている。その後は二十八日間かけて潔斎……断食し、肉体を痛めつけ、衰弱していく」
「……一つ、いえ、二つ質問があるわ」

 口に上しかけた人間的な感想を留めて(そうしたものは、いなきにしてもここに来る前に考え尽くしている)、違う内容の疑問を掲げるあやめ。

「城の中にその殯宮が無い、と思う理由は何なのかしら。今回、わたしたちは西の丸のごく一部にしか足を踏み入れていない。それに、探索みたいな事もしていないわ」
「必要無い。あそこに六孫王がいない事だけは確実だ」

 確信に満ちた返答に首をかしげるあやめに、隣の〝き〟が言った。

「現在、六孫王の障気は制御できない程に高じているはずです。それ故の大殯の儀なのですから。怪異、病魔の蔓延……周囲にもたらす悪影響は計り知れません」
「そう、六孫王が歳城にいたなら、忌役のようにコードハッキングで耐性を付けた訳でもない一般人にとって、あそこは魔界に等しい。政府機能も麻痺するだろう。城内が平穏そのもの――狐狸の化かし合いじみた争いはしていても――である以上、歳城内に殯宮がある可能性は考えられない」

 と、いなきは結論付けた。
 ――会話の流れが自然と、芙蓉局の情報を待たずに殯宮の探索を行うものになっている点について、誰も疑問を挟まない。傍観者の石斛斎ですらそうだ。
 言うまでも無い事だからだ。餌を貰う事に甘んじるならただの飼い犬で、主導権は飼い主に握られてしまう。この場合は、大殯の儀が終わるまで芙蓉局の政敵を抹殺する為に走らされ、手頃な時期に抹殺される羽目になるだろう。

 走狗に馴れたいなきは狡兎を狩った後に煮殺されない為の勘所を学んでいるし、武官になったばかりの〝き〟にそれを教え込んでいる。あやめは走狗の頂点である男の娘で、石斛斎も八百八町の後ろ暗い場所で生き残ってきた男だ。
 彼女が味方でない事を忘れるような人間は、一人もいない。

「もう一つの疑問は?」

 続けて問いかける。

「十一日前から二十八日間、と言ったわね。――旧暦の七月の間、という事になるわ。これに何か意味はあるの?」

 十二次大粛正以降の八百八町では、公式な暦法に太陽暦を採用している。そして、それ以前の太陰太陽暦の暦を旧暦としており、この刷新を図っている。四季の区分がはっきりとしたこの国では、暦状の季節感と実際のそれが明らかに食い違う大陸由来の暦法では不具合があったからだ。
 しかし、その目論見はうまくいっているとは言い難い。

 祭事の基準が未だ旧暦であり――それは、多くの儀式が同じく大陸に由来してこの国に深く根付いた陰陽五行思想と切り離せないからだ。
 首をしゃくって、〝き〟に説明を引き継がせる。この手の話題は、彼女の方が専門である。

「この月は、庚(かのえ)……金の陽気が最も高まります。五行相剋によれば金剋木。木気に強く適合する未那元宗家の人間が最も弱体化する時期です。歴代六孫王の大殯の儀もこの月に行われました」

 人前で長く喋る事に慣れていない妹は、一呼吸して舌の回りを確認してから、言葉を続ける。

「この考えは、殯宮の場所を特定する際にも適応できます。金気の強い場所である庚の方角、つまり南西に殯宮があると考えられます」
「ちょっといいかな?」

 今まで会話から離れていた石斛斎が、口を挟んでくる。〝き〟は露骨に嫌そうな空気を発した。
 隻腕の役者は、悲しい風な顔を作ってみせてから、それでも構わず疑問を述べる。

「所詮迷信でしょ? そこまで教条主義的に守るものかな? 安全を考えれば、別の場所に置くものだと思うけど……」
「いや、六孫王府はこの点については儀礼を最重視する」

 どうもこの男を嫌い抜いているらしい〝き〟が無駄に攻撃する前に(いなきにとっても相性が良いとは全く言えない種類の人間だが)、いなきは解説を継いだ。

「そもそも、御所の歳城自体が兵理を無視して北東に建築して、正門を北に開いている。あれだけ守備をがちがちに固めておいて、城の配置は本土に近づけ、門の方向もそっちに向けるなんて不自然にも程があるだろ? あれは、北東の木気の強い場所に立ち、北方の水気を招く為のものだ。木比和と、水生木の考えだな」
「北東は鬼門でもありますから、鬼の力を取り込む、という彼ら独特の考えもあります。彼らは六孫王の血統の維持を願う反面、その強大化について努力を投じています。これは迷信ではなく、事実六孫王、そして周囲の血族の能力は代を重ねるごとに高まっています」

 言葉の最後に無視できない刺々しさを付け足し、〝き〟は石斛斎に言った。

「この二つの教義を両立する為に、斎姫という存在が作られました。……彼女らがただの迷信を守る為に喰われて死んだのだとすれば、その死には、いったい何の意味があったのですか?」
「……悪かったよ」

 目をすがめ、肩をすくめて石斛斎は謝意を示す。〝き〟はそれに答える事無く、彼への感心を切り離した。

「人知れぬ秘事であっても、彼らが儀礼の様式に忠実である事はわたしが保証します。斎姫の斎宮(いつきのみや)は東……木の陰気が留まる乙(きのと)の方角にありました。それに、」

 そこで彼女は口ごもる。
 いなきは次の句を止めようとしたが、結局彼女は逡巡(しゆんじゆん)したのみで言葉を続けた。

「わたしは、十年間地下に閉じ込められていましたから。光を遮断して潔斎するのは、奥州諏訪の巫女である風祝(かぜのはふり)にならったものと考えられます。八州国時代の方丈家の所領には諏訪信仰が浸透していたので、その影響でしょう」
「……以上の理由から、六孫王の殯宮が南西にある見込みは相当高い」

 部外者の石斛斎の目を逸らす意味で、いなきは話題を打ち切った。彼の目の色に、好奇心めいたものが宿った訳でも無かったが。

「これで大まかな見当はついた。後は、細かく詰めていく事になるわけだが……」



「で、その細かい詰めってやつがこれになるわけだ」

 四日前の記憶を継ぎつつ、いなきは言った。

「実際の情報と、紙面の情報を照らし合わせて齟齬を探す。隠し部屋なり通路なりの痕跡が、そこに現れるはずだ。つまり、これからは足で回る必要がある……」
「一つ、聞いても良い?」

 石斛斎が問いかけてくる。いなきは首をしゃくるだけで発言を促した。第三者の視点を得る事には意味があるように思えたからだ。

「六孫王の御所に怪異と病魔が蔓延するって事なら、それが目印になるんじゃないの?」
「それは難しいでしょう。殯宮は、彼の障気を減衰させる場ですから。悪影響は最小限に抑えられるはずです。大殯の儀は何度も繰り返されてきましたので、そうした手抜かりがあるのでしたら今頃九重府側にも知れています」

 横合いから〝き〟が口を挟んでくる。四日間の内にいくらか慣れたのか、語りかける声音も未だ棘はあるが、自然にはなってきている。生来が人見知りする娘なので、離れた場所にやる事に不安はあったのだが、杞憂のようだった。
 内心の安堵はさておいて、いなきは会話に参加する。

「小さな変化はあるんじゃないのか? その一帯だけ風邪が流行っているだとか。それに、殯宮への移動の時はどうなんだ?」
「その間くらいなら、障気の制御ができるのではないでしょうか」
「それでも、トラブルの一つくらいはあったかも知れない。その辺りも念頭に、聞き込みをしておこう」

 あちこちを嗅ぎ回っても目立たないような工夫を考えねばならないな、と頭の裏で考えつついなきは言う。
 再び、石斛斎が問うてくる。

「殯宮の探索の算段はついてるようだけど……なら、なんで芙蓉局から受けた仕事をやるつもりなのかな? もう彼女に用は無いんでしょ?」

 ――強いて、断言するようにいなきは答えた。

「この仕事が一つの楔になるからだ」
「楔?」
「もし、足影秀郷を殺さなかったとしたら、芙蓉局は俺たちへの追手を手配するだろう。雷穢忌役相手なら、奉公衆の〝零番方〟……御寝所番とは比べ物にならない戦闘的な忍を使う口実として十分だ」

 芙蓉局の私兵とも言える御寝所番と違い、奉公衆はあくまで深川六孫王府所属の軍事組織だ。方丈梢継を支持しているとは言え、正式な軍令には従うほかない。

「彼の暗殺後は、事情が変わってくる。俺の描いた絵図は、六孫王府の事情に深く通じていないと実行できないと誰の目にも分かるよう整えてある。連中は内通者の存在を確信して動くだろう。芙蓉局は俺たちの存在を隠蔽するか、自ら抹殺するかしか選びようが無くなる」

 つまり、この暗殺で彼女の弱味を作る事になる訳だ。
 芙蓉局が自分たちの制御を諦め、後者の選択を決意するのには時間がかかるだろう。実行には更に時が必要だ。殯宮を探索する為の猶予期間を稼げる事になる。

「なるほど、なるほど」

 石斛斎は、幼児が満点の答案を差し出してきた時のような微笑みを浮かべる。

「まったくの君の都合で、この男は殺される訳だね」
「――そうだ。俺の都合だ」

 その皮肉を正面から受けて、いなきは応じた。

「わたしたちの都合です」

 横から、冷酷な声で〝き〟が言った。
 石斛斎は肩をすくめて、

「どちらでも良いさ。その仕様は、まさしくこの町の侍だよ。大した狗っぷりだ……」

 彼の発した言葉は、第三者の視点としてまさに正しく、有益であった。いなきは己がどれほど穢れた存在か、あらためて再確認した。



   /

 識与二五六年、深川に起きる最大の政変。それに関わる全ての人間にとっての契機となる八月七日は、焼けつくような酷暑だった。

「暑いねぇ」

 扇子で顔を扇ぎながら、石斛斎が言う。熱気に溶けたように、たれ気味の眦が更に下がっている。
 それを無視しつついなきは欣厭大路を少し東に逸れた支道の一つを歩いてゆく。大小は長屋に置いてきており、装束も町人風に着替えている。出かける前にあやめは「不機嫌なやくざね。近寄りたくないわ」と彼の変装の出来を評した。どうも、この険の深さは取れる事は無いらしい。この顔を真っ当な奥女中候補に見えるよう仕立ててみせた石斛斎の化粧の腕は、かなりのものだったのだろう。

 当の彼女は普段と変わらぬ黒い小袖姿で、隻腕の役者が口に上した言葉をやまびこのように「暑いわね」と返している。その横顔には汗のひとしずくも浮いていない。
〝き〟は、いなきと同じく無言のまま、彼のやや後方を杖突きながら歩いている。

「この真夏日で、よくがんばるものだわ」

 あやめが道を見渡しつつ呟いた。各所にやぐらや演台の骨組みが組まれており、町人が忙しなく動き回っている。一つの茶屋が軒先に「祭」と書いたのぼりを立てかけていた。

「八幡祭が近いからねぇ」

 この場で最も町に溶け込んで見える石斛斎が、物見遊山そのものの調子で説明した。
 本通りである欣厭大路から外れている以上、いくらか見劣りするものである事は間違いないのだが、それでも面喰らうほどに賑わっている。喧噪の中、四人はいささか声を大きくして会話しなければならなかった。

「町人は、気を使わないのかしら?」

 かつての政府要人の法要がたった今進行中であり、なおかつ首長の死が間近である事を考慮してのあやめの疑問に、石斛斎はにへらと笑って答える。

「お上の事情なんて、知ったこっちゃないのさ。高い税を取り立てて、見返りと言えばどんぱちの火の粉をこっちに飛ばしてくるばかり。気を使う理由なんてどこにもない。武家の連中にしても、この程度は黙認するしかないんだ。民衆のガス抜きは必要だからね。本土だってそうでしょ?」
「そうなの?」

 いなきの方を向いて確認してくるあやめ。いなきはその言葉を受け、片眉を上げて怪訝そうにした。

「なんだよ、祭に行った事が無いのかお前」

 貴族だろうと忍びで祭の見物くらいはできる。外出しなくても、紫垣城の外側の城壁から高みの見物を決め込む連中は少なくないし、この時期はそうした子女たちが数多いはずだ。深川と本土の共通の事情とやらを確かめる機会は事欠かない。

「ったく、引きこもりも大概にしろよ」

 呆れた響きの言葉をもらす。
 ――ふいに、〝き〟がこちらの姿に目線(というより面の瞳)を合わせた。何かを言いたそうにしている。

「分かってるさ。これは遊びじゃない」

 彼女の気分を察して、雑談に参加した事を詫びると、妹は「いえ、あの……」と口ごもった。

「?」
「……そ、そうですね。われわれは祭を楽しみに来たわけじゃないこと、忘れないでください」

 内容のとげとげしさの割に力なく言うと、〝き〟はそれきり狐面を正面に向けた。遊び人そのものといった風情の石斛斎を除けば、この中で一番祭を楽しみに来た子供に見える。
 やがて目的の場所に辿り着く。――白い裃を着込んだ若い武士が二人、道を塞いでいるのが目印だった。
 祭の準備に加わらない野次馬もそこそこおり、彼らに混じるように四人は立った。武士たちは野次馬が増えていく事に露骨に嫌そうな顔をした。彼らの塞ぐ道の向こうには、広い通りが見える。

 奥大道という名で、石斛斎の話では、数百人規模の人数で歳城から法要の行われる八幡宮に向かうにはここを通過する以外無いのだそうだ。

「……来ましたね」

〝き〟が言った。それから行進の音が聞こえてくるのに、しばらく時間がかかった。
 彼女の知覚が広いのと――行進する武士の一団が、あまりに静かだった為だ。
 先頭の神職が大幣を振るい、足踏みをする魔除けの音を除けばそら寒い程に静謐である。この道だけが世界から切り離されているとすら思った。しかし、幽鬼の類では無い。列を形作る人々の目は意志の輝きがあった。儀礼を機械的にこなす怠惰な人間には、決して表れない色が。
 上層の人間の思惑は擦れ違っていても、彼らが未那元という一つの家に対して本物の忠誠を抱いている事が分かる。体制を維持する為の方便ではなく、尽くすべき主君として扱っている。
 その誠心は畏怖に値した。彼らの信奉の対象を殺す人間として、怯えを催す程に。

「宮司の後ろの男が、方丈梢継だな」

 内心で抱いた感想を棚上げして、いなきは言った。祭の喧噪はほど近く、衛視役の武士が、自分たちの組織の大幹部を呼び捨てられた事に気付いた様子は無い。
 白蛇の鼻先の位置、と言えばいいのか。後続からやや間を空けて、明らかに上位者である事を周囲に示しつつ行進する男。

 兵団の強固な支持を得て分家からのし上がった男にしては、意外な程に平凡な体格をしていた。後方の武士があからさまに屈強な偉丈夫である為に、余計その点が強調される。容貌にしても、後ろで祭の準備をする町人に似た顔立ちのものは数多くいるだろう。
 それでいて、不思議な程に目を引いた。彼は、後方の屈強な武士より遥かに目立っていた。

(……力だ)

 言い換えれば、確信だろうか。歩む動作一つをとっても、方丈梢継は確たるイメージを持って行っているのではないかとすら思える。彼はおそらく、何に対しても決して曖昧な感情を抱かないのだろう。己の間違いや、能力の欠点を自覚した時であっても誤魔化す事が無い。そして彼の抱く確信は周囲に伝播し、揺るがぬ自信を燃え立たせる。
 月並みな言葉だが、カリスマの持ち主なのだ。そしてそれは、才覚よりも、彼の意志の強固さによる所が大きい。

 ――芙蓉局は勝てないだろう、といなきは確信めいた思いを抱いた。彼女の人心掌握術は一度の邂逅でも怖ろしい程に理解できたが、彼女個人の能力に恃んだ体制は彼女固有の欠点から免れ得ない。そして、欠点の無い人間は存在しない。更に、老いと共にそれは拡大していく。

「……あの人は、哀れね」

 歳城の方角を向いて、そう言ったのはあやめだった。どうやら、偶然にも似たような感想を抱いていたらしい。
 その言葉の真意は推し量れた。あの老政治家は孤独であり、老い衰えた自分を助けるものも無く、時勢に乗った若者に敗れ去るのだ。

「判官贔屓もたいがいにしろよ」

 いなきは感傷も棚上げして毒づいた。通り過ぎていく梢継から目を逸らし、そこから三十列以上後方にいる中年男を向く。

「俺たちが気にするのは、あれだ。人相書きで見たのと同じ顔……足影秀郷だ」

 四十を過ぎた頃合いだろうが、肉体は頑健そうだった。そして、あの男にも時勢から見離された衰えが見えた。御門葉の一族に連なり、侍所所司代という要職に就く人間にしては、そのまま六孫王府内の序列を表わすのであろう法要の列の位置も下がりすぎている。眉間に刻まれた皺は深く、人生に敗北しており、それを受け入れる事に耐え難い苦痛を抱いている男という印象を強くした。

 政治家としてはそうであっても、武術家としてはまた違った見解が必要な男だった。精強な憑人である事はもとより、武芸に優れた才能を示した男である事は芙蓉局からの情報で知らされている。公式試合では多くの入賞暦があり、外洋での非公式戦――妖魅との戦闘で、現時点までに歩兵級(ポーンクラス)を八機撃破。不可知領域で戦う雷穢忌役の一等武官たちと比べても見劣りしない戦績だった。

(変異する前にカタを付けるべきだろうな)

 歩行の安定から彼の武力の充実を確かめて、いなきはそう結論づけた。憑人は、その能力を完全に発揮する為には形態を変異させる必要がある。獣人(セリアンスロープ)の名の通り、彼らは他の動植物の因子を取り込む事で、人外の能力を発揮しているのだ。負傷を最低限に抑えるには、人間態の時を叩くべきだった。

「行くぞ」

 いなきは踵を返した。この場で見ておくべきものは全て見た。後は、計画実行の為の準備を行うだけだ。

(まるで、祭の支度だな)

 いなきは、後ろ暗い仕事に従事する人間特有の諧謔を弄ぶ。顔つきは面白みとは真逆の強張りに支配されていたが。
 剣呑極まる感情をかなりの努力を払って緩め、あやめの方を向いた。帰宅を促そうとしたのだ。
 彼女はなぜか「んー」とうなって武士の列を眺めている。

「なんだよ」
「いえ……五日前からそれとなく気づいていたような、それでも気のせいにしたかったような」

 要領を得ない呟きを続けて、

「ねぇいなき君、あなた、自分が生まれてこの方の勘違いを発見した時、どうする?」
「あん?」

 不可解な質問にいなきは怪訝に首を傾げる。

「そりゃあ……正しい方に変えるんじゃないか?」
「それは正論だけれど、これはこれで気に入っているというか……たぶん、似合わないのよね」
「……何が言いたいんだ? お前」
「こっちの話よ。気にしなくてもいいわ」

 結局、何について考えているのか明かさずにあやめは話題を打ち切った。
 そうした事はこの女にはよくあるので、いなきも追求はせず、置いておいた自分の用件を持ち出す。

「お前、もう帰れよ。駕籠を呼んでやるから」
「え、嫌よ?」

 あっさりと、あやめは答えた。

「今回のあなたの仕事には、わたしもついていくわ」



 そして――

「お前の前に立つ奴は全て俺が殺す。俺は、お前の仇討ちを遂げさせる――お前に必ず、父親を殺させてやる」

 全ての仕事を終えた後、死体のそばでいなきは妹に誓いの言葉を述べた。
 深川へ向かう船上で既に交わしたものを繰り返したのは、己の背を無感動そうに見ている女への当てつけの為だった。
 その内心は、苦渋に満ちていた。

(なぜ、関わろうとする)

 見ろ。これが俺だ。人に牙を食い込ませる事しか出来ない狗だ。自分の為に人を地獄に落とす恥知らずだ。血の臭いが染み付いた殺人者だ。
 なぜ、触れようとする。
 人を殺めた事のないお前が、なぜ。



[36842] 2e/御門八葉
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:33
 暗闇の中で、男は目覚めた。
 何やら怖ろしい夢を見たような気もするが、忘れてしまった。どちらにせよ、夢は夢でしか無いのだから、起き上がった以上現実に戻り、仕事にかからねばならない。彼の給金を払う主人はいかにも気難しく、寝床でぐだぐだと怠けているのを見れば癇癪を起こしかねなかった。

(……あれ?)

 その男は先日、死んだような気がする。路上で首を斬られて。いや、毒を盛られたのだったか。寝惚けているのか、状況をうまく把握できない。
 何にせよ、ここから出れば全てが分かるはずだ。起きている連中に色々と聞けば良い。男は濃密な暗がりの中で転びそうになりながら、どうにか立ち上がり、歩き始めた。
 どうにも、暗い。
 夏には光と熱気の侵略を気軽に許す古い屋敷に、このような場所があっただろうか。踏み締める床は石造りで、冷えた感触を足裏に伝える。吹き込む風も冷たい。

(寒い……)

 そう思う。しかし、不可思議な事に身体は震えない。感覚がひどく曖昧だった。歩くたびにつまずきそうになる。
 壁に手をつきながら、男はどうにか道を進んでいく。
 暗い道は歩く事に飽き飽きしそうな程に長かった。あの屋敷は、ここまで広かっただろうか?

 休みたい、と思う。
 しかし、身体は歩き続けようとする。
 おそらくは、誰かに会うまで止まりたくないとどこかで考えているのだろう、と男は結論づけた。身体の自由が利かないと思い込んでいるだけなのだ。自分で自分の動きを制御できないなんて事、あるはずがないではないか。

 それに、道は永遠に続く訳でも無かった。やがて扉が見えてきた。脇にかがり火を焚いている。寒気を感じているからか、男の脚は早まる。
 安堵の笑みを浮かべて、木戸を無造作に開ける。
 中で出会ったのは、〝誰か〟ではなかった。

「……ヒぃッ、あっ、ぎ」

 男の口から、かすれた悲鳴が上がる。
 そこそこの広さの石室に、血臭が充満している。
 一目で、弄ばれたと分かる死体が散乱していた。床に落ちている胴体には、手足と首のついているものは一つとして無い。他にも、針の生えた鉄柱を抱かされた男、逆に身体中から針を生やした老人。穴の空いた臼のようなものに頭を埋め倒れている女もいる。その中身が無事であるはずのない事は、臼の継ぎ目から漏れる血流と、裸体の股間から漏れる糞尿があからさまに教えている。

 頭上から、ぎし、という音が鳴り、男はそちらを向いた。
 天井から吊り下げられた鉤を頭に突き刺した子供。
 鉤に貫かれ、無くなった顔がこちらを見下ろし――男の理性は決壊した。

「ひぃアああアアアアァアアアああぁアアッ!?」

 男は拷問場から背を向け駆け出した。

(夢だ)

 そうでない訳が無い。

(夢だ、夢だ、夢だ、夢だ、夢だ、夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ)

 なぜって、身体の感触が未だに寝惚けたようになっているから。
 このまま走り続けていれば、本当の目覚めがやってくる。尿の一つも漏らしているかも知れない。布団の染みを中間仲間が笑って、自分はしょぼくれた朝を迎える。そうであるに決まっているじゃないか。
 丁字路に差し掛かって、男は右に曲がろうとした。
 そして、身体は左に曲がった。

「あれっ、あれあれあれっ? あレ? アれ?」

 不思議だ。やっぱり、身体が勝手に動いている。
 そもそも、なぜこうも走りづらいのか。この身体が、自分のものでないかのようだった。何度も転びそうになり、起き上がり小法師のように不自然に姿勢を回復して走らされる。

「ありっ? ありりりっ?」

 恐慌のあまり滑稽な響きの笑い声を発しながら、男は立ち止ろうとする。それでも身体は前に進む。
 そして男はようやく、誰かと会った。
 暗がりに隠れて、顔しか分からない。女の顔だった。涙と鼻水にまみれて表情も歪み、ひどく醜かった。
 ――ふいに、ぽん、と男と女の間に火が点った。
 松明や灯籠の類ではない。何も無い空間が燃えている。男はしばし、その不可思議に我を忘れ、

「ギャアあアアああああああああああああああっ!?」

 女の絶叫に、現実へと引き戻される。
 女は自分の身体を――手を見ていた。
 女のように、細い腕を。

「わ、わたひのっ、うでっ、うでがっ……なんれ、あんたに」

 ろれつの回らない声で、女は言った。
 その、身体。
 ひどく、奇っ怪だった。
 裸体の胴は老婆のようにしなびていて、左手は毛深く太い。右手は逆に子供のようだった。
 そして、その脚。
 見覚えがあるように思えて、仕方が無かった。何度見てもその印象は変わらなかった。
 脚の持ち主が誰であるか悟って――男は、女と同じ質の悲鳴を上げた。

『――アア、残念』

 唐突に。耳元で、人間のものとは思えない、楽器の音を人の言葉に無理に変えたような声が聞こえてきた。

『人ギョウ劇ハ、コレデオシマイ』

 目の前の女の身体が、声の言うように糸の切れた人形じみて落下した。ばらばらの手足、胴体、首がごろりと床に落ちる。
 己も同じ有り様なのだろうと直感したのを最後に、男の命も消える。



 徽子(きし)が太歳宮(たいさいきゅう)――外では殯宮とのみ呼ばれる祭殿に訪れた時にちょうど、その悪趣味な演芸が行われていた。どうにも、タイミングが悪いですわねぇ、と内心で思いつつも、上品に形作られた顔立ちに表向き変化は無かった。この怪物どもと付き合うには、一欠片も弱味を見せてはならなかったからだ。

「日数(ひかず)さまぁ? 随分と、楽しく遊んでいらっしゃいますねぇ」

 皮肉を込めて、眼下の継ぎ接ぎの解けた死体を眺める、ぼろ布で全身を覆い隠した男に告げた。他の連中であれば腕を抱きかかえる小芝居を交えても良かったが、徽子と言えどもこの男だけは厭だった。
 あの哀れな犠牲者たちは、通路の頭上が吹き抜けになっており、こうして上空に渡された橋から見物されている事には最後まで気付かなかっただろう。首だけの状態で、視界も誤魔化されていた以上は、知る由もなかっただろうが。

『ウン、楽シイ、ヨ……』

 男の感情は、声でしか計りようがない。子供のような笑い声なのだから、子供のように楽しんでいるのだろう。

「――付き合わされる儂は、良い迷惑じゃったがな」

 対照的に不機嫌そうな声が、橋の逆側の欄干から聞こえてくる。

「月数(つきかず)さまもぉ、相変わらず、お若くいらっしゃってぇ」

 朗らかに応答しながら、徽子は内心で思いきり罵っている。芙蓉局と言いこの女と言い、深川の怪女どもはいとも簡単に老いから解放されている。

「本音が透けておるぞ、歌仙。……見境無く嫉妬するな、鬱陶しい。儂は元服した時の十五の身体のまま、変わらんのが厭わしいわ。かと言って、主の如き淫売の頭目じみた下品な身体になるのは願い下げじゃがの。まぁ、この八百八町には、そのような苦悩を超越する程に長生きしておる腐れ婆もいるが」

 本人の言う通り、欄干に背を預けて立つ彼女はどこか人形めいた娘の容姿をしている。ただ表情だけが老獪に歪んでいた。

「いい加減楽隠居といきたいものよ。儂は元来怠け者なのじゃ。同期の西王母めとも気が合わんのは、その為よ。翠書院(すいしょいん)で恥をかかされて以来恨んでおるなどと言われておるが、政であの女に一敗地にまみれて恥に思う程儂はうぬぼれておらんしの」
「そうなされば、よろしいじゃないですのぉ」

 面と向かって肉体を揶揄された復讐に、徽子はあてこすりを返す。月数と呼ばれた女は舌打ちして、

「そうもゆかぬわ。比良賀の種はここ数代不作で、八葉に連なるに足る力を持つものがおらぬ。……大宇智家に嫁に出した娘の胎からこの者が生まれるとは、人の生とはまことうまくゆかぬものよ。ま、ひどく趣味の悪い孫に育ったものじゃが」

 鼠を使う実験を思い出すような迷路の中で散らばる死体を見下ろしながら、月数は吐き捨てた。
 徽子は艶やかな笑みのまま問うた。

「趣味の悪い?」
「そうじゃ。儂はもっと、玩具を大事に扱うわ。この無駄遣いをたしなめぬとは、儂も孫には甘いという事かの」

 吝嗇めいたうめきをもらす彼女。それ以外の人間的な感情はどこにも見えなかった。
 結局の所、この女も孫と同じ狂人でしかない。この、深川の武門の頂点に位置する八人の全てに言える事だが。

(……おっと、)

 もう少しで、自分の有り様に自覚の無い馬鹿女になる所だったと、徽子は自嘲めいた気分に浸る。

(怪物に寄り添うものはなんとやら……あら? 怪物と闘うものは、でしたっけ)

 老若男女の肉体の断片を接合されて弄ばれた死体の成れの果て。ああしたものに情欲を誘うものがある事を徽子は認めざるを得なかった。いつの間にか、口紅の味が口内に広がっている。舌が自然とこぼれて唇を嘗めていたのだ。股座にも、ねばついた熱さを感じている。
 だが、ここの連中のように欲望に溺れる気は毛頭無かった。徽子はここに仕事で来ているのだから。

「ところでぇ、月数さま? あたくしがここに来る理由、分かっておりますわよねぇ?」

 微笑みを浮かべたままの徽子に張り合うかの如く不機嫌さを保って、月数は舌打ちした。

「承知しておるわ。来るのが遅いとすら思うておった。貴様は我ら〝御門八葉〟の監督役。此度の我らの仕様に文句の一つも言いたいだろうて。八葉全員揃えて待たせておる。ま、詫びの意味も込めての」

 言葉と反対に悪びれる風など欠片も無く、月数は言った。
 無論、一つや二つの文句で済ませるつもりなど徽子には無い。



 徽子とて太歳宮の全容を把握している訳では無いが、通された広間が祭殿の中心部にほど近い場所であるとは察する事が出来た。先程の拷問部屋と同じく床は石造りだが、青みがかった光に満たされていて隅々まで見渡せる。一周を回れば軽い運動になる程の広さの中央に、荘厳な鎧姿の、巨大な武者像が置かれていた。彼女の趣味には合わないが、宝物である事は間違い無い。

 徽子と共に入ってきた二人を含め、広間の思い思いの場所に計八人が散らばっている。――武者像の足下に立つ青年だけ、彼女の知らぬ人間だった。
 白昼夢を見ているかのような焦点の合わぬ瞳を像に向けて、ああ、うう、とうめいている。口の端から涎が垂れ落ち、薄く緑がかった一枚布の白衣を汚しても気づく様子は無い。自我と呼ぶべきものがどこかに消し飛んでしまっているかのようだった。

「彼を、卑しい好奇心で穢すのであれば……貴女は我らの友人ではありませんよ、徽子殿」

 気品を体現したかのような音色の声が、横合いからかかってくる。振り返った先にある男の容姿も、声音の示すものを裏切る事は無かった。
 身を包む装束は、鎧直垂の類というより西洋のサーコートめいた改造がされていた。瀟洒な金色の縁飾りの施された織物に位負けしない典雅な顔立ちの男。分家といえど、未那元の相であった。

「産衣(うぶぎぬ)さまぁ、あたくしがそのような不作法な女に見えましたのなら、心外ですわ」

 この男もまた、日数とは違う意味で色仕掛けをする気になれない相手だった。御門八葉の取り纏めを行う摂州未那元家当主は、腹の底を容易には見せない。口数の多い月数が「同族嫌悪よ」と茶化した事がある。おそらくはその通りなのだろう。

「いえ、私も女性に恫喝めいたものを述べるのは心苦しいのですが。……最も親しい友なのです、彼は。海魔との長き戦で我らが欠けずに生を全うできたのも、彼の働きなのです」

 と、産衣は心底の悲嘆を息に乗せて、口から吐いてみせた。

「それゆえ、彼は傷ついてしまった」
「では、この方があの鎮西八郎(ちんぜいはちろう)さま、ですか」

 思わず、八葉としての称号ではなく通称の方を漏らしてしまった。
 ――八龍(はちりょう)こと、鎮西八郎。本名を未那元為朝(みなもとのためとも)。
 未那元家が開府をした時から御門八葉を務めてきた伝説の武者。基本的に血筋の下るごとに能力を高めていく憑人の中で数人しかいない例外的存在であり、未だに最強と讃えられる。妖魅(産衣の言うように、海戦を主戦場とする深川武士には海魔と呼ぶものも多い)の女王級(クイーンクラス)――旅団ないし師団の旗機(フラッグユニット)を撃破したのは、当代六孫王大樹の他には彼だけだ。つまり、先代までは六孫王そのものより強力な憑人だった事になる。

 奥州未那元家――兄と袂を分かった未那元義経の開いた家に養子として(八龍の方が年上であるので、猶子、つまり手続き上の関係だが)迎えられ、彼の死後も歴代の六孫王に仕え続けている。
 確かに、人間性の失せたその顔はよく見れば、産衣すら霞む程の神像めいた相。未那元宗家のものであった(血筋の面では、奥州未那元家は宗家である河州未那元家とほとんど同じものだ)。
 七百年も戦い続けたのであれば、精神の摩耗も道理だろう。

「我らは、彼をこのまま太歳宮で安らかに過ごさせてやりたいと思っております。それが報恩というものですから」
「素晴らしい心がけですわぁ」

 心底感心したような顔を作って、徽子は産衣を褒め称えた。彼も典雅な微笑を崩さない。やや後方で月数が呆れかえった嘆息を漏らしていた。

「無論彼への恩義とは別に、王の宸襟を安んじ奉る責務も、息絶える時まで忘れる事はありませんが」
「側仕えの同輩として、その誠心を学ばせていただきたいものだと、常々思っておりますのよぉ、あたくしは」

 付け加えるような産衣の言葉の内に含まれるものと同じものを声に添えて、徽子は応じた。

「ただぁ……外の方々は必ずしも同意見ではありませんのよぉ」
「仕方が無かったのです」

 全く疑いようもなく、その言葉を信じているかのように産衣は即答した。

「暗殺されたかの足影秀郷は太歳宮の警護担当でありました。この場所は秘匿されておりますが、それゆえに我らが表立って警護する事も出来ません。周囲の不穏な動きを秘密裏に取り締まるのが、あの男の御役目でした。それが無い今、太歳宮は裸も同然」

 積み木を組んで城を建てるかのように理論を構築して、仕上げに天守閣を置くように産衣は結論を述べた。

「それを意図した暗殺である事は明らかです。これはつまり、我らへの攻撃なのです」

 三十六人衆の情報網から得た足影秀郷の背景を考えると、必ずしもそうと断言できないが、彼らの立場からすればそう間違いとも出来ない解釈ではある。
 とは言え。

「その報復がぁ、彼の関係者総計四十九人を手当たり次第誘拐して拷問する、というのはちょっとやりすぎじゃありませんの?」

 事が終った後、彼らの遊び道具として殺すのも含めて、とは言わなかった。
 産衣は貴族そのものの顔を優雅に横に振った。

「心外です。報復でなく、防諜と捉えていただきたかった」
「はぁ、防諜。……ですが、深川武士も中には含まれておりますけれどもぉ」

 犠牲者の中に、とも言えなかったので曖昧な言い方になってしまった。六孫王府の連中はそこに大いに刺激されて徽子に文句を付けてきたのだが。――何しろ、秀郷暗殺の調査を行っていた零番が犠牲者に含まれている。虎の子の忍を殺され、奉公衆たちは蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。

「便衣の忍をそうと区別する事は難しい」

 産衣の答えは、簡潔だった。

「それに、この件に関して、彼らは全く信用に値しません。足影秀郷の暗殺は、彼の政治的背景、行動様式の知悉を前提条件としなければ成立しないものでした。……我らが王を害する意図のあるものが、六孫王府にいる。やりきれない思いです」

 悲しげに目を細める産衣。

「しかし今、心痛にかかずらう暇はありません。内患であるなら尚のこと、排除せねば。その為の諜報活動です」

 その表情のまま告げられた言葉に、徽子の内心は全く穏やかでない。
 彼らの意志は、六孫王府が最も望まない方向に向かっている。彼らは今後も、内患の排除とやらを目的に積極的に暴力を行使する事を宣言しているのだ。
 徽子が反論する事を察している上で、産衣はそれを封じる弁を振るった。

「現在、六孫王府は六弁丸さまの御命守護を第一としております。その点に関して、私どもの申し述べるべき事は御座いません。しかし、我らはあくまで当代六孫王大樹公の近習。奉公衆の守護から王が離れ遊ばされた以上は、むしろその責務は重くなったと考えます。務めを果たす事のみが、深川武士の意義でありますれば、此度の仕儀は当然の事なのです。奉公衆の追求を受ける道理はありません」

 彼の政治上の立場を表明したような文言だった。大樹の子である六弁丸は大殯の儀の後すぐに元服し〝龍樹(たつしげ)〟と改名、三年経って喪が明ければそのまま即位する手はずになっている。奉公衆の人間は既にこの名で呼んでいるものも多い。
 幼名をあえて使うのは、自分たちが名目上は未だ存続する当代六孫王大樹体制の下に属しており、たとえ龍樹体制を害したとしても六孫王府への叛逆には当たらないと主張する意図があった。

「でもぉ……」

 なおも食い下がろうとする徽子。――その直後、彼女の見る産衣の背後に、彼を大きく上回る巨体が現れた。

「貴公ら、腹芸も大概にしろ」

 中央の武者像より二回り小さい程度の巨漢は、野太い胴間声を苛立たしげに振るわせた。

「掲げる旗で、義の在処が異なるのは論ずるまでもない常識であろうが。意図が食い違えば後は血を流すのみよ。奉公衆の乱破があの下らぬ拷問部屋にて果てたのは、ひとえに連中が他の者と同じく、我らより弱かっただけの事。弱者が強者の思う通りになるのは当然。我らの仕様が気に喰わぬのなら、なぜ奉公衆は我らを討伐する兵を挙げないのだ。女一人遣わして文句を言うだけとは。それでも武士か!」

 最後の方は、むしろ文句に近くなっていた。

「要は、弱いのが悪いのだろうが! 死にたくなければ強くなれ! 後進が我が首を獲る程に精強であればむしろ武人の本懐。冥土の旅路に後顧の憂え無しと、歓喜を以てあの世へ進撃するものである! 以上! 連中に伝えておけい!」
(脳筋ですわぁ)
(脳筋ですね)

 なぜか、目の前の産衣とこれ以上なく通じ合ったような気がした。お互い言葉を交わすでもなく、表情に変化も無かったが。
 まどろっこしい言い合いになったのが鬱陶しいだけなのだ、この男――足影家当主、沢瀉(おもだか)は。
 自分の程近い係累であるはずの足影秀郷が死んでいる事について一言も無いのは、彼が負けて死んだから、それだけなのだろう。

「一応、」

 助け船というより、場の混乱を収めるつもりで月数が口を出した。

「儂らは拷問……この際、取り繕いは省くが……以外にも調査を行っており、一定の成果は上げておる」
「成果?」
「下手人の見当がついた。というより、その所属が明らかになった」

 楽しむようでいて、粘ついたものも感じさせる声色だった。

「足影秀郷を解剖したが……当然じゃろう? ありゃただの死体じゃ……この殺しの手際は実に繊細よ。憑人の力業ではありえぬ。変異前に殺す事に念を入れている点から、我らの性質についても知り尽くしておる。条件に合致するものなど、奴らしかおらぬ」

 そこまで聞いて、徽子も月数の言わんとする事を察した。声音に潜む感情の理由も――先代六孫王の御門八葉の内三人は〝彼ら〟の頭領の手にかかっている。八龍を除けば、唯一彼女は当時から八葉の一員だった。

「雷穢忌役が、深川に来ていると?」

 先回りして徽子が問う。
 月数の答える前に、それは遮られた――大気の軋みによって。

「いぃい忌みみみみやゃやや役ぅうううう……」

 それまでは武者像と徽子たちに背を向け、中空を睨んでいただけの初老の男がばね仕掛けの――壊れたばね仕掛けの――玩具のように振り向き、そして一瞬で彼女らの前に降り立った。既に変異しかけている。左足の先が、蹄の形に変わっていた。
 彼の跳躍で砕けた後浮遊したままだった石床の破片が、障気の影響を離れて落ちる。

「ききききゃつめらはははぁっ、どこだ、どこだどこだどこだおおお女、おおおお教えろ、教えろろろろろ」

 涎を撒き散らしながら接近する男に、徽子は拝領機関の使用を決意して――
 巨大な拳が眼前を通り過ぎて男のいた床に突き立つのを見て、矛を納める。

「ご、ごご、ごめん、膝丸(ひざまる)さん……で、でも、命令、だから」

 拳が戻っていく先を見れば、小柄な少年が背を屈めて、後方に飛び退いた初老の男を見ている。卑屈な色で瞳は満たされていた。

「ゆ、許して……ぼくが悪かったんです、ぜ、ぜんぶぼくのせいなんです。先々月鴉の糞に当てられたのも先月犬に小便引っ掛けられたのも今朝のごはんが嫌いな昆布だったのも世界が平和じゃないのもぜんぶぜんぶぼくが悪いんです……」

 ぶつぶつぶつぶつと、いつまでも弁解なのやら何なのやら分からない呟きを漏らしながら、少年はずりずりと後退していく。やがて、日の当たらない場所おおお、などと言って広間の端に逃げ込む。

「――うかつだぜェ、産衣の旦那」

 からかうように、今まで広間のいかにもどっちつかずといった位置であぐらをかき、事態を静観していた男が言った。

「忌役の話題が絡むと膝丸の爺様がどうなるか、分かってんだろうよ? 客人にもしもの事があっちゃあいけねェだろ? 個人的にも、好い女に傷が付くのはつまらんしねェ」
「あらあら、薄金(うすかね)さまったらぁ」
「なぁに、礼はいらねぇ。……でも、後でその乳、揉ませてくれてもいいんだぜ?」
「うふふ」

 徽子は男の要請に鉄壁の艶笑で応じる。ちぇっ、と薄金と呼ばれた男はおどけてみせた。
 産衣が嘆息して言う。

「薄金。貴方自身が動けばいいでしょう。楯無(たてなし)に命じて自分は横着する悪癖を直せと、何度も言ったはずです」
「悪いね旦那。俺ぁ大地に根を張るように生きたい男なのよ。それに、俺、確実に〝心中組〟だしよォ。短い余生は好きにやらせてくれや」

 剽げて応じてみせると、薄金はその場で寝転がって歌い始めた。「箱根八里はァ馬でも越すが……越すに越されぬ大井川ァ……」
 まったく、と呆れたように嘆息を重ねると、産衣は徽子の方に向き直った。

「話が逸れてしまい申し訳ありません。……ですが、お分かりになりましたでしょう?我らが王を害さんとする君側の奸は、事もあろうに六孫王府の大敵と手を組んでいるのです。そのような佞奸が今後六弁丸さまの側に侍る事は、深川六孫王府の未来に禍根ともなりましょう。断じて、撃滅すべきです」
「必ずしもぉ、そうとは言えないのではありませんか?」

 徽子の言葉は、事実を根拠にしていた。九重府自体はともかくとして、その麾下にある暗殺者の集団である雷穢忌役については、六孫王府の敵対者と断言するのは難しい。
 あくまで彼らの目的は仮想世界の安定維持であり、時には貴族の思惑と明らかに逆行する事もある。

 明確な事例は、事情を知るものの間では暴君そのものである未那元元羅暗殺である。当時、深川の大粛正まで決意していた貴族たちを出し抜くようにして、元羅の弟双樹(ふたしげ)公と結託して元羅を暗殺している。当然、事態は秘密裏に処理された為に彼らに見返りは無い。貴族に恨まれ、少なからぬ損害を背負いすらした。

「深川では何かしらの深謀遠慮がぁ、働いているのかも」
「考慮に値しない発言です」

 産衣は一言で切って捨てた。

「確かに、元羅公の例など、非常の時に彼らを利用する事もありましたが、大樹公の治世に過誤はありませんでした。走狗を遣わされる覚えなどありません」
「ええ、もちろん、もちろんですわぁ。かの御方が賢君である事に疑いを持つわけではありませんのよぉ」

 お為ごかしであった。確かに六孫王大樹は悪政の類は敷かなかったが、特に善い君主であった訳でもない。そもそも、本来六孫王府の政務はほとんど方丈家をはじめとした評定衆が行っているのだ。元羅の暴走以降、その傾向は更に強くなっている。大樹の実権など無いに等しい。
 深川にとっての六孫王の存在意義は、権威の象徴――そして、妖魅に対抗する兵器の二つでしかない。
 産衣の目が鋭く細められた。徽子は失態を悟る。世辞と現実が、さすがに解離しすぎていた。
 尖った声音で、産衣は告げる。

「我らは、己が主君がそうした粉飾のもと、道具として使い潰される様を間近で見てきました。……その最期まで穢すのであれば、深川永代島の全てを我らは敵として扱うでしょう」

 気品で満たされた表情の奥に見えたもの、それは正しく怨念であった。
 産衣もまた、まさしく仮想世界・八百八町の虚無に触れたものだった。生の実感を他者に求め、依存し、その守護にのみ全身全霊を尽くす。その過程でどれ程の犠牲を払っても一顧だにしない。
 彼は、空虚な己を忠義のみで埋め尽くしたのだ。
 主君への害意を受けた今、彼はその忠義を怨念として周囲へ振り向けている。

(これはぁ……ムダですわねぇ)

 元より勝算の薄いと見込んでいた説得を、徽子は今完全に切り上げた。彼は己の意志を断固として曲げないだろう。他の七人も(魂が半ば以上現世から離れている八龍はともかく)同じだ。
 認めたくは無いが、沢瀉が口にした単純な理屈に状況が支配されている。御門八葉の暴走を止めるには、彼らを討伐するしかない。

 しかし、少なくとも現時点での挙兵は不可能だ。騒ぎが大きくなり過ぎるし、下手をすれば九衛軍との膠着状態の維持と妖魅侵略への防衛という本来の意義に影響する程に、兵団が損耗する可能性がある。対妖魅の決戦兵力である御門葉家当主、御門八葉の武力はそれ程のものだ。
 次代の御門八葉の養成も済んではおらず、月数など大殯の儀完遂後の〝生き残り組〟と目される者は、今は大樹の側についている。何より、前述の理由で彼らは決して損耗してはならない。
 彼らを止める手段は存在しない。

(まぁ、主のご命令を全うする事には、不都合はありませんけどぉ)

 それでも、彼女は事の成り行きを憂えずにはいられない程には常識的だった。この説得に失敗する事が何を意味するか、察しているのだ。
 ――日数が何も発言していないのは、既にこの場にいない為である。
 沢瀉と膝丸もまた、広間から出て行こうとしている。太歳宮の出口の方向だった。

「儂は行かんぞ。この場で大樹公を守護するのが本来の役目だからの」
「俺ぁめんどいから」
「薄金、少しは言葉を取り繕わんか、馬鹿もんめ」

 月数と薄金が軽口をたたき合ってそれぞれ別の方向へ出ていく。楯無は広間の隅にうずくまったまま動かない。八龍はふらふらと夢遊病じみた足取りで、どこかへ消えていこうとしていた。

「やれやれ」

 産衣は苛烈な怨念を、再び高貴な表情で覆い隠していた。自分の望む通りの展開になったのだから、そんなものを晒す必要は無くなったという事だろう。
 誰の目線からも外れ、徽子は初めて表情を翳らせた。

(町に出たのは日数、沢瀉、膝丸の三人……奉公衆が重い腰を上げるまでに、一体何人死ぬのかしらね)

 どう言葉で取り繕っても、彼らの意図する所は一つだ。
 御門八葉は、永代島に死と破壊を撒き散らすつもりなのだ。



[36842] 2f/好々爺
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:34
 日が中天に上る頃にようやく、いなきは蝉の鳴き声に乗ってくるかのように押し寄せる熱気に敗北した。ため息をついたのだ。
 路上の端に止めた台車の縁に腰掛けて、水筒の水を飲み干す。とうにぬるくなっており、竹の青臭さばかりが際立ちひどく不味かった。日傘を付けてはいるが、酷暑の熱気は影の中にも侵入してくる。
 日傘は、買ったのではない。一昨日の売れ残りだった。

(商売ってのは、難しいもんなんだな)

 今日の売れ残りは木彫りの人形だった。台車に飾り台と共に五十体ほど積み込まれており、二体が路上に落ちている。関節は一応可動式であるが、逆にそのせいで惨殺死体のような不気味な倒れ方をしていた。

(それなりに力作だったんだが)

 日傘も人形も、いなきが自前で拵えたものだった。実用品が売れなければ玩具を、という考えが安直だったのか、結局こちらでも一銭のもうけすら出ていない。
 偵察の為の偽装なのだから、行商人になりきる必要は無いとは言え、ここまで実が出ないと気落ちもする。それに、

(聞き込みの方には、不都合が出る)

 こうして偽装の上で、永代島南西の各所、特に寺社を見分していってはいるが、外側から観察するくらいしか出来ていない。侵入したとしてもばれれば騒ぎになるし、時間もかかる。周囲の住民の生の声を聞けば、調査は効率よく進むはずなのだ。
 この点で〝き〟を頼る事は、魚に空を飛べと言うようなものだった。石斛斎が芝居小屋での彼女の有り様を実に美事な演技で再現してくれた。

『厠はどこですか、おじ』
『……駄目だよ君、女の子がそういう事、男に聞いちゃ』
『なにを勘違いしているのですか、この変態』
『あだだだだっ、この子僕の鎖骨を本気でへし折ろうとしているううっ』
『まったく、いやらしい』
『うぅ……じゃあなんなのさ』
『わたしはいま、おなかが空いているのです』
『?』
『察しの悪い人ですね。見知らぬ土地で、見知らぬ人間しかいないのです。落ち着いて食事できるのはそこくらいのものじゃありませんか』
『堂々と情けない事を言わないでよ』
『ふん。初対面の人間に「こんにちわ」と挨拶できるあなたには理解できないでしょうね。あんな恐ろしい真似を平然とするなんて。もし世間話を切り出されたら、殴り倒して逃走する他ないじゃないですか』
『ごめん。君のその思考回路は確かに理解できない』
『持てる者とはそういうものです。嫉妬のあまり殺意すら覚えます』
『……なんか、暴力だけがコミュニケーション手段として突出した人間って、物凄く迷惑だなぁ』

 まぁ、予想できた事ではある。紫垣城でも、彼女の話相手などあやめと自分くらいしかいなかった。十歳からここまで足かけ五年。リハビリ期間を除くとたった四年で憑人に対抗する力を練成する事に成功はしたが、おかげで妹は武術ぼけとでも言うべき病気に罹患してしまったような気がする。
 とは言え、自分にも町にうまく溶け込む能力は無かったようだったが。落ちた人形を眺めて、今し方起きた事件を反芻(はんすう)しつつそれを自覚する。
 しかし、こんな間抜けな理由で目的を諦めるわけにはいかない。

(どうにかしないとな……)
「――ご苦労さまです」

 老人が一人近付いてくる事には気付いていた。しかし、声をかけてくるとは思わなかった。
 日傘を取って、軽く会釈をする。相手は簡素な着流し姿ながら姿勢は良く、明らかに武家の楽隠居らしい風情で、礼儀にうるさそうな印象があったからだ。――二度も揉めてはさすがに目立ちすぎる。

「いえ。売れ行きはいささか芳しくなく」

 丁重に受け答えると、老人は微笑みながら首を振って、

「あの、やくざ者を追い払った事にですよ」
(見られていたのか)

 彼はつい数分前、縄張りを主張し、見かじめを求めてきた侠客をいささか乱暴にあしらった事を言っているようだった。

「下らぬ喧嘩です。ねぎらっていただく必要など」
「子供を守ったのです。十分、ねぎらうに値する。一度目に脅かされた時は頭を下げ、争いを避けていたのを見れば、尚の事」

 どうやらこの老人、暇を持て余していたらしい。事の成り行きを全て見ていたようだ。
 最初の客となるはずだった子供二人を相手にしていた時、再びあの侠客が現れた。祭も間近になるとよくいる手合いで、昼間から酒気を帯びていた。癇癪を起こして子供に殴りかかろうとしたので、叩きのめす羽目になった。派手な行動は慎みたかったというのに。

「それにしても、あの子たちには困ったものだ。救った相手に怯えて逃げ出すとは」

 路上に落ちた人形を見て、憤慨しつつ彼は言った。

「暴力の本質ですよ。突き詰めれば、大判小判を手に焼野が原に佇む羽目になる」
「一介の若武者が、儚い事を仰る」

 いなきはその言葉を聞いて、老人に対する警戒の度を強めた。町人の偽装をしている以上、表道具は持ち込んでいない。台車の奥に隠しておく事も考えたが、咎められれば言い訳が利かないので諦めた。
 もしこの男が芙蓉局なり奉公衆なりの遣わした密偵なら、素手で倒さねばならない。

「おや、違いましたか? あの身のこなしは、名の知れた流派にて学んだものとお見受けしましたが」

 いなきの内心に反し、老人が好好爺然として問うてくるので、抱いた警戒をやや弱めつつ答えた。

「町人かも知れませんよ。分かるでしょう? 市井にも玄人はだしの武芸を遣うものが多い」
「ええ。武士が身内の争いにかまけて役目を果たしていない証です。嘆かわしい事だ」

 九重府、六孫王府ともに警察力にさほど力を入れていない事を皮肉りつつ、彼は言った。

「それはそれとして。市井の武術は護身、娯楽といったもの。そこもとの技は、正真正銘、戦場に立つ為のもの。老体ながら、目は見えるのです」
「お見それしました。……ただの素浪人です。主家の改易を受けて町に住み処を得ました」

 こうした場合に詐称する経歴を使って、老人へ応じた。本土、深川の区別無く、権力闘争の結果生まれる浪人たちは八百八町が慢性的に抱える病だ。どこにでもある話を、わざわざ疑ったりはしない。
 現に、老人は自身も似た記憶がある事を思い出すように、首を頷かせた。

「お若いのに、哀れな事だ」
「まぁ、身体は動きますので。どのようにでも暮らしてゆけます。妻にはまだ子もありませんし」
「奥方がおわすのか……」

 余計な事を言ったかも知れない。老人は黙り込んで、何事かを思案しだした。

「ふむ、ふむ……ん?」

 こちらを無遠慮に観察して、老人が最後に目を止めたのはいなき自身ではなく、その腰掛ける台車。正確にはそこに立てかけられたのぼりだった。

「この字は、そこもとが?」
「ええ」

 こちらの答えを待たず、老人はのぼりに近寄り、人形売りますといった平凡な文句を食い入るように見つめている。

「御家流(※公式書体)とは、違いますな」
「主が考えました。まぁ、形見のようなもので」
「そうですか……いや、これは、中々面白い。味のある字だ」

 最後にそう言うと、のぼりからようやく身体を離して老人は言った。

「仕事を紹介しましょう」

 唐突な提案に、いなきは面喰らう。

「は?」
「大小差しで歩く事を憚る事も無く、特に今の時期はそれなりの儲けになる……どうだろうか」
「申し訳ありません……どうも急な話で、よく飲み込めず」
「おお、これは失礼した」

 慌てて老人は詫びる。

「某(それがし)は、榊原と申す者。致仕(※退官)してここに根付いてより長いもので、この辺りの町人には鶴翁(かくおう)とのみ呼ばれております。……ほら、そこもとと同じ」

 鶴という徒名の理由は分かりやすかった。頭頂部の毛だけが赤毛なのだ。彼の言葉は毛髪の色合いが一風変わっているもの同士、という意味なのだろう。
 それがとっておきの冗談であるかのように笑うと、鶴翁は次の句を継いだ。

「寺子屋を営んでおります。そこもとが救ったのは、某の筆子(※生徒)です。改めて礼を言わせて戴きたい」
「……いえ、大した事では」

 そういう事か、と得心しつついなきは答えた。

「謙遜なさるな。某は、借りを返したいのです。まずは話だけでも聞いてもらえぬか」

 礼というより、要請のような口調だった。それなりに強引な老人のようだ。
 いなきは折れて、「分かりました」と答える。鶴翁は破顔してついてくるよう促し、歩き出した。武家の者らしく、矍鑠(かくしゃく)とした足取りだった。
 その足をふと止めて、彼は聞いてきた。

「そこもとの名を教えてはもらえぬか」
「立花です」

 事実を一部まじえていなきは詐称した。いなき自身は百姓の出だったが、祖父の代に帰農するまでは武士だったのだと言う。立花とは、その頃の祖父の姓だった。
 鶴翁は、続けて問うた。

「よろしければ、主の名も教えてもらえるだろうか。これでも顔が広かったのだ。知人かも知れぬ」

 ほがらかで、何のてらいも無い老人の顔を見て、いなきは答える。

「――本庄左近……咲耶(さくや)様です」

 老人はしばし考え込む仕草をして、

「すまぬが、寡聞にして存じ上げぬ」
「いえ。分かっていた事ですので」



「それで、のぼりの字書きというわけね」

 囲炉裏の中の鍋の具合を見つつ、あやめは言った。

「ああ。……なんだか、渡りに船って感じがし過ぎて釈然としないが」

 鍋座の彼女の右側、横座に腰掛けたいなきは答える。
 実際、鶴翁の提案はいなきの窮状に見事に合致するものだった。
 八幡祭の規模は永代島全土に及ぶもので、出店は各所に存在する。当然それは、寺社内とその門前町に集中している。出店ののぼり書きというのは、情報を得るのにうってつけだ。神職、僧侶と会話する機会もあるだろう。浪人という事で話がついているので、帯刀していても不自然が無い。

 鶴翁の顔の広さは、さっそく午後から始まった仕事で十分に理解している。寺小屋の師匠の癖に、彼は的屋の類とも繋がりがあった。一言二言で仕事の契約を取り付け、日が暮れるまで働かされた。その上明後日まで予約を入れられている。

「明日は早朝から行く事になった」
「そう。お弁当は腕によりをかけるから楽しみにしていてね、だーりん」
「そのいかがわしい新妻キャラをやめてくれればとても良い提案なんだが……」

 鍋の匂いを嗅ぎながらいなきは言う。夕食は魚のあらと味噌と、いくらかの野菜で仕立てた汁物と、浅蜊を加えて炊き込んだ飯。深川町人の普段の献立そのもので、この長屋に滞在して以来こればかり食わされているが飽きが来ない。味付けを毎回変えているのだ。

 この女は普段より、なぜか貴族のくせに奉公人一人雇わず、家事の全てを自分で行っていた。他に趣味として室内庭園を持っているが、こちらの草花の世話にしても人の手を借りない(いなきや〝き〟は何度か手伝わされたが)。彼女の好みではあるのだろうが、普通は好む好まぬに関わらず下人に任せるものだ。貴顕の常識に明らかに反している。貴族とは、人を使う事で内外に己の貴さを示すものだ。
 おかげで夫婦の偽装に役立っているとは言え、不可解だった。

「なぁ、お前――」
「良いこと、だと思うわ」

 菜箸で鍋をかき混ぜながら、あやめはふと漏らした。

「あなたの字、わたしも好きだもの」
「……何も出ないぞ」

 あぐらをかいた膝を揺すりながら、いなきは顔を逸らした。あやめはこちらを見もせずに言ってくる。

「行商とか向いてなさそうだったし。……その話のやくざ者に絡まれたとき、あなたなんて言われたのかしら」
「……知らん」
「てめぇどこのシマのもんだ、とかかしら」

 いなきは沈黙した。一言一句違わなかった。

「眉間に皺が寄ってるからよ。寝顔は可愛いのに」
「気色の悪い事を言うな。俺は男だぞ」
「あなたって、妙な所で古臭いわね」

 呆れたように漏らすと、あやめは椀にあら汁を注ぎ、飯の椀と共に盆に載せて差し出してくる。
 受け取って、箸を付ける――
 ふと、気づく。
 今のやり取りが、あまりにも自然であった事に。まるで本物の夫婦であるかのようだった。
 ――裏切りだ。

「全て、偽物だ」

 椀と箸を置いて、いなきは言った。

「得た仕事も、お前とこうしている事も、全てが虚構だ」

 線を引かねばならなかった。自分と、彼女の距離を知らしめねばならなかった。
 あやめは一言。

「そうね」

 彼女が、いなきの言い分にすぐ同意するのは、珍しい事だった。
 手を動かすついでのように、彼女は会話する。囲炉裏に砂をかけ火を消しつつ、

「所詮は期限つきのお芝居。夢にはいつか終わりが来る。忘れないように、しなければね」



「おい、義助が日に当てられた! 日陰に運ぶぞ!」

 深川熊野神社の境内では、祭の準備も佳境に入った所だった。金槌の音や怒号の飛び交う中だとこちらも声を張らねばならなかった。
 担架を呼んでは時間がかかりすぎる。ぐったりとした大男を火消担ぎ(ファイヤーマンズキャリー)で社殿の影に運んで下ろす。男の的屋仲間から冷や水を受け取って、ゆっくり飲めと指図しいなきはその場から離れた。

「さっすがお武家さんだ。鍛え方が違わぁな」
「うるせぇ一守、字書きに手汗をかかせんなってんだよ」

 櫓の側に設えた足場から声を掛けてくる鳶の男に、大声で返す。
 男はかっか、と笑ってから近場の弟子をひっぱたく。木材を地面に落として割ったからだ。

「てめぇ! 深川で木ぃ割るってなぁてめぇのドタマかち割るのと同じって、何度言やぁ分かんだ!」

 頭領の癇癪に、細い足場で器用に土下座する弟子。
 あの男の言い草はいささか大げさだが、全くの嘘でもない。そこそこ手広な島に過ぎない深川では、木材を自前で調達する手段が無い。植林するには領地が不足しすぎている。
 九重府とは敵対しているので、中立の品川から輸入するしかないのだが、彼らは商人である以上算盤勘定に容赦が無い。深川の材木の価格は本土より遥かに高騰している。

 ――軍事政権の常で、六孫王府はこうした時常に、町人の困窮に追い打ちをかける。
 彼らが希少な材木を軍船の資材として独占した為に、民間で手に入れるには更に金を積まねばならなくなった。
 そんな状況下、深川の材木問屋が細々と買い込んだ木材をこの時期に放出する事で、この祭典は成り立っていた。それでも資材は毎年不足し、自分の家を解体して屋台や櫓を組むような連中すらいる。
 それを不可解と思ってしまうのは、いなきがよそ者だからなのだろう。

(大した盛況っぷりだ)

 参道の端に佇んで、手ぬぐいで汗を拭いつつ周囲を見回す。人いきれで夏の熱気に拍車がかかったかのように暑かった。そんな中、男も女も汗みずくになりながら働いている。

「――いささか、面喰らうでしょう」

 声を掛けてきたのは、鶴翁だった。周囲に彼の生徒らしい子供たちがまとわりついている。

「ええ、少し」

 会釈を返しつつ答えれば、老人は若返ったように笑い、

「年に一度きりの楽しみなのです。思い切りやらねばつまらない」
「そういうものですか」
「そういうものです。仕事は、お済みのようですな」

 周囲ののぼりを数旗見て、鶴翁は言った。二割ほどがいなきの書いたものだった。残りは古株の書家の師匠が書いている。
 かじっただけのにわか書道家にしては上出来、というより本職の人間に申し訳ない気分になるくらいだった。

「すぐ、次の仕事にかかれます」
「お若いからか、そこもとはややせっかちですな」

 催促のつもりで言った言葉を、やんわりと非難する鶴翁。
 彼の言う通り、いなきは焦っていた。そしてそれは、彼の思慮の範囲外の理由によるものだった。
 ――殯宮の探索はいっこうに進まなかった。
 既にこの仕事に就いて三日が経過しているが、訪問した場所で実のある情報は得られていない。予想された、周辺の町人の体調不良なども確認出来なかった。
 永代島南西部の探索を、早く終える必要があるといなきは感じ始めている。

(当初の推理が外れていたとしたら……計画を練り直さないと)

 いつぞや石斛斎の言っていた事が、正解だったのかも知れない。残り一月足らずと余命が定められているとは言え、六孫王は国家元首だ。祭礼の規則より警護の利便性を優先していたとしても、全く不思議ではない。

(一から出直すとしたら、もう猶予は無い)

 大殯の儀の期限だけでなく、芙蓉局の忍耐力も考慮しなければならない。彼女が指定した会合は既に放置している。暴走の意図を感じ取ったはずだ。彼女が自分たちの暗殺を決断するのが明日でも、今この瞬間であってもおかしくないだろう。既に背後にいるかも知れない――

「痛っ」

 後頭部にちくりと刺さる感触に、我に返る。

「しけたツラしてんなよ、兄ちゃん」

 鶴翁の連れの子供の一人がいつの間にか背後に回り込んでおり、手に持った風車を振り回している。他にも帯に数本差し込んでおり、その内一本を投げつけたのだろう。

「これ、蒲(がま)」

 たしなめる鶴翁に舌打ちで返し、蒲と呼ばれた子供は本殿の方へ逃げていった。

「申し訳ない」
「いえ……」

 頭を下げる鶴翁へ、そぞろげに返す。いささか自虐的な気分だった。子供に背後を取られるとは、よほど余裕を無くしていたらしい。

「あの子には、祭で思い切り遊ばせてやると、毎日の粗食を我慢させていたもので」
「……耳が痛いですね」

 実際には皮肉として差し出された言葉に、苦笑しながらいなきは答えた。そして、その背景にあるものに気づく。

「あなたが養っているのですか?」

 あの子供が鶴翁の子でない事は明白だった。年が離れすぎているし、何より渡来人らしい彫りの深い顔立ちをしており、髪の色も明るかった。
 ええ、と老人は頷く。

「数少ない自慢だが、某はそこそこに顔が広い。あの子の両親とも知己だった」

 彼が過去形を用いた理由は、問うまでも無かった。

「父親が渡来人として差別を受け、ろくな職を得られなかった。母親は病を患っていた。六孫王府が重税を取り立てた。……そのどれかが無かったら、父親が武家の蔵に盗みに入った咎で刑死する事も無く、あの子は今も両親の側にいただろう。この町には、不幸が多すぎる」

 過去を中空に写して鑑賞するような目つきで、鶴翁は語る。
 そして、下らぬ不幸自慢です、などとおどけるように前置きして、

「某の息子は十年ほど前、海で死にました。武功を挙げれば再び仕官させてやる、と言われて。馬鹿な男でした。死に様も間抜けなもので、海魔ではなく、王の鬼の力に祟られたのだそうです」

 鬼の力とは、障気という毒気の一般に流布された表現だ。特に六孫王の出陣した戦の情報は九重府には隠蔽されているが、隠しようもない――深川武士の死者数については知れている。
 彼らのほとんどが生き残らない。妖魅の攻撃はもとより、鶴翁の言ったように、六孫王の障気に中てられて死ぬ事も多い。

 歳城の武士たちが命を惜しんでいる訳では無いのだろう、無いのだろうが――彼らが死にすぎては六孫王府が機能しなくなる。
 結果として、六孫王の近習は障気に耐えうる憑人か、正式な武士以外の傭兵で構成される。彼の息子も、その一人だったのだろう。

「何をそれほどに焦っていたのかは分からぬが」

 老人が主語を抜いて発言した理由は、察する事が出来る。

「耐えよ――その一言だけ教えてやれば良かった。今でも某は、悔やんでおる」

 老人は半ば、こちらに語りかけていた。
 刃向かうように、いなきは答える。

「耐えて……事が都合良く回るわけでもありませんよ」
「左様。しかし、若者は時に地獄を前にしても進もうとする」

 老人が最後に口にした言葉は、やはりいなきには受け入れがたいものだった。

「その後ろ姿は、人が見れば哀しみしか催さないのだ」



[36842] 2g/仇敵(師匠)
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:34
 半壊した道場のそこかしこから漏れてくる陽光を浴びつつ、いなきは呼吸を整える。
 懐から一文銭を六つ取り出して、中空に放った。
 初太刀――抜刀。
 逆袈裟に振るわれた一刀が銭の一枚を擦るように弾き、近くの銭を打ち上げる。陰刀も背後で同じように銭を弾いている。

 今回の型稽古の基本は無外流を選んだ。陽刀は五応の野送りから五箇の響返しに続いて、五応玉光に戻る。陰刀は両車、胸尽し、本腰。銅銭と刀刃の触れあう音ばかりが道場を満たす。足音と呼吸はそれらより遥かに薄い。
 陰中陽、陽中陰で両刀を交叉させ――型から独立する。真・行・草の順序のみを決めて太刀筋は筋肉の動きと相対する敵のイメージに任せた。強大な敵、身体を人外の異形へと変じる憑人。奇襲で仕留めた足影秀郷を想定していた。あの男は百足の憑人だった。強固な皮膚を持ち、斬撃を恐れず膨脹した筋肉を思うさま使って斬りつけてくる。

 数合の太刀打ちの後、真っ向唐竹割に斬り込む秀郷の頭上へ飛んだ。
 走り高跳びの要領だ。膝を屈めずに強く地面を蹴りつけ、筋力の伸張反射で高い跳躍力を確保する。跳蚤(ハノミ)――師の考案した歩法。
 中空で身を翻し頭上を取ったいなきは、秀郷の皮膚の隙間の首筋に陰刀を刺して消えた。止めの陽刀は、地面を這うように進みつつ足下から腹を斬りつける横薙ぎの太刀。
 手の内の締めで、中空の思い通りの位置に静止した黒刃の上に、六枚の一文銭が直立している。

(最後、左手を斬られたな)

 攻撃のみを念頭に置いた太刀は勢いがある。その速度に対して回避が間に合わなかった。憑人の膂力では切断されたかも知れない。手早く縫合すれば、蠱業遣いのコードハッキングで元に戻る公算は高かったが、回復までの時間はハンデを背負う。一人で闘わなければならない以上は、見過ごせるリスクではなかった。

(……あの男は、真っ当に戦って死にたかっただろうか)

 常在戦場などとは言うが、そんなものは不意を打って勝利を盗んだ者の為の理屈でしかない。敗死した者が怨念を抱くとしても、不当とは言えないだろう。全力の太刀打ちの末の死であれば、武人としては納得の上の――

(……いや、)

 自分を慰めようとしている事に、いなきは気づいた。

(あの男は、死にたくは無かった。そうに決まっているだろうが)

 ちぃん、と一文銭が六枚、床に落ちて倒れる。



 その後いなきは、納刀したまま四半刻も動かなかった。目の前には蜘蛛が一匹、天井から垂れる糸にぶら下がっていた。

「居合の利とは、なんだろう」

 平ら、という印象の声が聞こえてきた。師の、蠱部尚武の声だった。
 蜘蛛の糸を挟んだ先に、半年ほど前の彼の幻を想定する。おそらくは八百八町最強の武人であろう男の外見には、武力を仄めかすものを一片も見出す事ができない。娘が図書館の主なら、この男は司書のような風貌だった。どこにでもいる、特徴の無い男。

 この男を非凡たらしめているのは、実績のみだった。どこの誰にも、決して敗北しない。忌役の同輩であろうと憑人であろうと妖魅であろうと、確実に勝利する。
 だから、闘争の場以外では、ただの男にしか見えなかった。

「本来この技法は、平時、屋内という限定状況でのみ活用されるものだった。考案したものがそう想定していたのだ。小刀で暗殺を企図するものに太刀を手早く抜き放って対抗する為に」

 講釈するように弁を振るう尚武。そしてその声は、どこか生徒を退屈させる響きがあった。

「つまり、互いに闘争を合意した状況での使用は考えられていない。どうしても不利になってしまう。出所が鞘内に限定されれば太刀筋も限られてくる。一般に、鞘の左側が弱点とも言われる。……まぁ、それは工夫をつければどうにでもなるのだが」

 その工夫とやらについては、何年も前に教えられている。そもそも、いなきが居合を表技として用いる事を決めた時に、彼は似たような事を語っていたはずだ。
 それきり、尚武は沈黙した。何か言い出すのをいなきが待っていると、彼はふとぼんやりした声で訪ねてくる。

「いなき君、質問に答えてくれまいか」

 どうやら、最初の話は質問だったらしい。どうも話の組み立てが曖昧な所が、この男にはあった。弟子らしい顔を作って、いなきは答える。

「……先程師が述べた通り、暗殺の対抗手段です。好例は荊軻(けいか)による秦の始皇帝暗殺未遂」

 荊軻という刺客は、匕首を凶器として殿上で始皇帝に斬り掛かった。護衛は殿上に上がる事が許されていなかった為、始皇帝自身が彼に対処せねばならないが、彼の帯剣していた剣は鞘に引っかかって抜けなかった。
 始皇帝は周囲の助言により剣を背負ってようやく抜刀できた。匕首と剣の間合いの差の為に、荊軻はあえなく斬殺されたという。

「これは、間合いの有利不利以外にも、一人だけ凶器を使う自由を得た荊軻の油断があったと考えられます。どうにも皮肉な話ですが、刺客というのはその気の緩みを中々捨てられません。こうした隙を奇襲するのが、居合術の利点です」

 非戦闘態勢の人間を見て、自分が負ける可能性を考えられる人間はそうはいない。古今東西数々の暗殺作戦が失敗に終った原因のほとんどが、そこに帰している。
 いなきの解答を聞いて、「うん、うん」と全く師匠らしくなく尚武は頷いた。

「模範解答だ。……だが、君は戦時にこれを用いている」
「蠱業の特性上、そうせざるを得ません」

 相生剣華は、納刀状態からでないと重ね合わせを発動出来ない。他者の観測から離れていないと刀刃の座標が固定されてしまうのだ。それは蠱部尚武、〝き〟の使う量子化刀法全般に言える。〝き〟は人の目で判別できない極めて微細な変化を基本単位としてあの〝刹那生滅〟を使うし、蠱部尚武の〝蜉蝣(カギロヒ)ノ揺(ユラギ)〟にしても同じだ。

「では、君は、使えない道具と思いつつそれを使っているのか」
「使い勝手をよくする工夫は常に考えていますが」

 当人には皮肉のつもりでないだろう文句に、素っ気なく答えた。蠱部尚武は首を振って、

「探求心を忘れてはいけない。術理なるものの鉱脈が掘り尽くされているという誤解が、現実史における古武術の衰退を招いたのだから」
「はぁ」
「とは言え、私一人ではこの謎に解答する事は難しい。完成された数理に別解を求めるようなものなのだから」
「こと武術に関して、師に解けない謎があるとも思えませんが」
「買いかぶりだ。私は武術なるものを未だ半分ほどしか理解していない。他の者が、一割も理解していないからそう見えるだけだ」

 当人にとっては自慢のつもりではないのであろう、あっさりした口調で尚武は言った。一割未満の連中の一人としては、文句の一つも言いたい所だが。

「あらゆる道において、極みに達したと思うような事はおよそ錯覚に過ぎない。肝に銘じておくといい」
「はっ」
「なので、私は同じ事を娘に聞いてみた」
「師よ」

 いなきは手を上げて蠱部尚武を制止した。

「あやめは素人ですが」
「だが、娘は色んな事を知っている。この稽古着のどうしても落ちない染みも、彼女がどうにかしてくれた。私が彼女とトランプで遊ぼうとした時も、「トランプは一年三六五日を表わしたもので、ジョーカーの二枚目は閏を意味するのよ、お父さん」と教えてくれた」
「その後あいつはトランプ遊びに付き合ってくれましたか」
「いいや」

 首を振って、尚武は答えた。信じがたい事に、体よく煙に巻かれて袖にされた事には気づいていないようだった。

「ともかく、娘は博識だ。われわれのような専門家は固定観念に陥っているかも知れない。素人の意見と、蔑ろにするのはいけない」
「そうですね」

 いなきの棒読みの返事に、「うん」と尚武は頷き、

「彼女が言うには、鞘の内で滑らせる事で斬撃が加速するとの事だった」
「師よ」

 いなきは再び制止した。

「それは……おそらくあいつの読んでいた漫画の話です」
「そうなのか? 鈞天垣の書庫にはそういうものもあるのだな……」

 今の話を理解していないのか、尚武の感心しきったような顔には翳り一つ無かった。むしろより深まったようにすら見えた。

「ともかく、私はその理論を試してみた」
「試したのかよ」

 思わず敬語を忘れて突っ込んだ。

「うん。摩擦が物体の運動に利するという理屈がどうにも不可解だったが……何しろ娘が「かっこいい」と評価していたのだ。私はそのような簡潔でかつ美しい言葉を彼女から貰った事は無い。家では「飯、風呂、寝る」ばかりしか言ってくれないのだ」
「……普通、それは父親の言う台詞のように思えますが」
「五年ほど前までは「お父さん、食事を取りなさい」「お父さん、入浴しなさい」「お父さん、就寝をするといいわ」と言ってくれたのだが、近頃それも短縮気味で」
「同情したくなるような事を言わないでください」

 別段悲しげでもない尚武の表情がむしろ哀れだった。
 彼は拳を握りしめ、振るわせる。この男も娘と同じように、こうして感情を表に出す事は少ないのだが。
 力を込めて、言った。

「私は、娘にかっこいいと言われたかったのだ……」
「それで、結局どうなりました」
「鞘を駄目にした。気に入っていたのだが」
「馬鹿じゃねぇのかあんた」

 つい反射的にそう言ってしまった。

「ともあれ、私はその後しばらく居合術の理合を考察するようになった。娘の言葉をきっかけとして」

 何があっても娘を褒めそやしたいらしい八百八町最強の男は、そう言って腰の刀に手を掛け、
 一瞬後には、いなきの視界から消えてみせた。
 全身の震えを抑えつつ右に向き直ると、彼が鼻先に刀を突きつけているのが見える。

「跳蚤や飛蝗(ヒコウ)といった足技を君はよく使う。このように、視界から脱出すれば容易く奇襲できるからだ。視力に長じている君ならではの発想だな。居合術との相性も良い。納刀のままの方が刀を手で持っている状態よりも運動の自由が利き、速度も確保できる」

 やはり生徒を退屈にさせる講師のように語りながら、尚武は納刀した。

「だが、これはある種の憑人など、知覚に優れたものには通用しない。身近な例では君の妹だ。そして、この戦術に嵌り易いのが君と同じ視覚恃みの武術家だ。一眼二足三胆四力……安直な理屈だ。容易に崩せる」

 隔絶した実力を持つものに許された無自覚な傲慢さを見せてから、尚武は次の句を継ぐ。

「この戦型には欠点がある事を、君は自覚しておきなさい。使用を禁じはしない。だが万能ではなく、有能とも言い難い」
「俺は今、あっさりと奇襲を受けましたが。しかもフェイクも交えない、単純な飛蝗でした。俺個人の欠点のみが理由であるとは考えがたいです」

 挑戦的な口調でいなきは反駁する。

「それに、師の武術は虚を突く事が全ての技法の根幹にあります。俺の戦い方はそれに則っている」

 跳蚤や飛蝗などの緩急をつけた移動の他にも、切っ先で目線を誘導し、自身は視界の外に逃れる誘蛾刀、腹筋を操作して見かけの歩行から予測される方向とは逆に移動する水馬(スイバ)など。力頼みの荒武者にはいかにも影の者らしい卑劣な技、と評される技術を、いなきは尚武から教わった。いなきは抵抗を覚えなかった。そうした力頼みの荒武者を、尚武が埃を払う程の労力で仕留めるのを見ているからだ。

「児戯だ」

 それを今、尚武本人が切って捨てた。

「ふむ……これは私の失敗だな。まずは生存を第一の目的とした為に、表面的な技術の伝授に終始してしまった……このような誤解を招いてしまうとは」

 ぶつぶつと、独り言のように述べる。見下されている、と感じていなきは歯噛みする。しかもそれは、尚武の感情に由来する優越感ではなく、いなきの能力が彼の要求に達していないという、ただの事実によるものだった。
 尚武は言った。

「誤解、誤解なのだ。君は、虚を突くという事について、誤った認識を抱いている」

 地球が回転している、というような事を無知な子供に教えるような口調だった。

「虚実、とは意識に生じた1と0なのだ。それは、視覚の内外といった狭い概念ではない。もっと、広範に適応される」

 例えば、と彼は切り出した。

「たった今私の頭上に隕石が降ってきたとしたら、私はあっさりと死ぬだろう。たとえ、ふと思い立ってそちらの方角を見ていたとしてもだ。そのような事象を想定していないのだから」
「……からかってるのですか?」
「そう受け取るのか? しかし、それは度外視しても良い程低確率とは言え、起こりうるのだ。運命の裏切りを考慮しなければ、不慮の死を免れ得ない」
「しかし、そこまで考えていたらキリがありません」
「そうだ。人はそこまで考えない。脳神経の処理能力の限界なのだ。その縛りは、この仮想世界における人間の再現度が完全である以上、われわれにも当然適用される。全ての事象に対して実感し得ない。刀刃を携えて敵と対峙した時も」
「戦いの際に人は集中を高めます」
「それでも不可能だ。外界を完全に認識する為の情報量に対して、意識という資源(リソース)はひどく小さい。虚は無数に存在する。力の想定、速度の想定、間合いの想定、技術の想定、運命の想定……それらに存在する虚を突かれた時、誰であれ確実に敗北する。逆に言えば、勝利とは全て、虚を突くという事なのだ」
「つまりは、哲理の一種ですか」
「うん、そうだな。技術をうんぬんする前に、それを教えておくべきだった」

 頭の裏をかきながら、本気でばつの悪そうにして尚武は言った。

「その考えに立ってみれば、こうしたものも正解の一つと分かる」

 ――と、彼はいなきの真正面、一丈(3メートル)程の間を空けて対峙した。
 そして、あまりにも真っ正直な正眼(※中段)に構えてみせる。
 ぽつり、と告げた。

「これから君に斬り掛かる。ごく普通の斬り下ろしだ」

 いなきは反射的に腰を落とし、要撃を決意して尚武の全身を観察する。
 ――そして、気づけば彼の額に刃が据えられていた。薄紙一枚ほどの近さだった。
 断じて、尚武から目を放した覚えは無い。

「君は警戒していた。それでも真正面から斬られるのはなぜだろう」

 やはり、退屈な講師めいた口調で尚武は語る。今し方斬殺されかけたいなきは、心を鎮めるのが精一杯だった。

「君が、そして武術的な〝警戒〟〝眼付〟というものが想定しているのは、静が動になる瞬間だからだ。それが無ければ、人は攻撃を察知できない」
「……禅問答のように聞こえますが」
「そうだな。実際には私は動いている。……なぁいなき君、私が最初に教えた全ての術の要諦を復唱してはくれまいか」
「眠るように立ち、立つように歩み、歩むように斬る」
「そうだ。太極拳の言葉で言えば、動静合一だな。全ての運動に要する力を均一化すれば、静と動の区別は消える。……これは可能なのだ。完全な効率の運動を求める、それだけなのだから」
(……軽々しく言ってくれる)

 この男の言う事が余人に実践できるなら、彼の不敗は無かっただろうに。
 だが、いなきはやってみせなければならない。才能の限界という言い訳は、己には決して許されない事だ。
 俺は絶対に、この男を殺さなければならないのだから。
 ――尚武はこちらの目を見て、軽く頷いてから、

「どうやら、諦めてはいないようで何よりだ。力を循環させ、淀みを作らない事、それを心がけなさい」
「……はい」

 ――私の殺し方をいっしょに考えよう。そんなものがあるかどうかは、分からないのだが。
 彼が最初に言った事だった。それがこの二人の間に結ばれた、師弟の契約であった。

「話を戻そう。居合の利について、私は考察してみた」

 ようやくいなきの額から刃を放して、納刀する尚武。

「価値は……あったように思える。武術というものの解の一つが、私の見出していない理がこの技法にある事を予感した」

 何も無い中空に向けて抜刀し、納刀する。瞬き一つぶんの時間すら掛けていなかった。さりげない手遊びですら神業であった。理不尽を感じざるを得なかった。

「抜刀、納刀……1と0だ。今の話と符合しているだろう。虚実、というものに対して私の知り得ぬ領域に至る為の、手掛かりになるかも知れない」

 尚武は武道の師として、いなきに語りかけていた。

「これを、極めなさい。錯覚ではなく、真実この業(システム)の頂点に達するのだ。そうでなければ、君に私を殺す事など永遠に出来はしない」



 ――師の幻は消え、目の前にあるのは天井から垂れ下がった蜘蛛だけになる。

(斬る)

 蜘蛛を、ではない。その糸疣から伸びる糸を、縦に斬る。数ミクロンの糸を切断せずに、中心に裂け目のみ作る。
 そして、蜘蛛自身には糸が斬られた事を気づかせない。
 子供の空想でもありえないような事だ。人が聞けば笑うだろう。

(それでも、できる)

 条件は整っている。あの妖姫の鍛えた刃だ、先端部分はおそらくこの糸より細い。切っ先を正確に把握して刃筋を立てれば不可能ではない。理想的な身体の、その延長としての刀刃の操作ができれば、あるいは。
 四半刻迷い、そしてようやく――起動する。
 最初に、万有引力の力を借りる。全身を脱力させ、下方に落ちる。自重の分の力が発生する。

(力を、循環させる)

 それをどこかに留めてはならない。留まれば淀みとなり、最適効率の運動という理想を容易に破綻させる。それは関節で生じやすい。だが骨でも、筋肉でも同じく発生する。
 運動の起点は腰だ。ここを入り口として、得た自重をまず下がる力に変換する。抜刀術の精度を決めるのは斬り手の精妙さよりも、それ以前の過程、鞘引きだ。
 手で鞘を引く必要は無い。左手は添えるだけで良く、腰を切り、鞘尻を地面に近づける。それはまた、次の過程に繋がっている。

 後退の力を左足に集約させ、地面を蹴る。大地の反発を加えて、更に力を増加させ右の足で踏み込む。右半身を突出させ、斬り手を推進する。斬撃の軌道に沿うように鞘を置けば、その存在は無いも同じだ。気がつけば――刀は抜けている。
 後は、これを振り下ろすだけで良い。理想の軌道を寸分違わず、切っ先はなぞっている。

(完璧だ)

 この精度の斬撃ならば、鋼鉄も易々と両断できる。いわんや蜘蛛の糸をなど。

(完成された、俺の抜刀術だ)

 ――そしてそれは、あの男には通用しない。
 十人並みの達人の領域は、あの男の爪先ほどの位置にある。蠱部尚武はこれと同じ事が出来て、そしてあっさりとそれを捨ててしまう。
 あの男は強者である事に拘らない。強さを、勝利の必須条件と捉えていない。時に彼は弱くなる。詐術の類ではなく、本当に、幼児並に心技体を弱体化させる。

 そして、勝つ。人が見れば、不可解としか言えない結果を導き出す。
 蠱部尚武の武術理論は、勝利へ至る方程式は人間の理解の外側にある。
 次元が違う。
 こと武術に関する限り、あの男の存在は別次元にある。ただの人間が空間までしか観測できないのを、時間まで把握しているようなものだ。

 武の、神。
 人に、倒せる相手では無い――
 ぽとり、と、蜘蛛が道場の床板に落ちて、近場の破れた穴から床下に逃げていった。

「惜しかったわね」

 振り返れば、道場の入り口に女が佇んでいた。今し方幻想であってすらいなきに敗北感を味わわせた男の娘。
 納刀して、壁の裂け目に引っ掛けていた手ぬぐいを取り上げ汗を拭いつつ、毒づく。

「見てんなよ、馬鹿」
「滴る汗、上気した顔、乱れた襟から覗く鎖骨と贅肉の無い大胸筋」
「視てんじゃねーよ馬鹿!」
「この間女装させた時も思ったけれど、あなたの身体はとてもわたし好み」
「こっ、この助平!」
「腹筋をもっと見せて頂戴」
「俺に近寄るなぁっ!」
「ふふふ生娘じゃああるまいに」
「ひぃっ!」

 すたすたと気軽に近寄ってくるあやめに、本気の逃走を決意する。
 そして彼女は、荒れた道場の床板の腐った部分を踏み抜いて腰まで埋まった。

「……」
「……」
「おい、大丈夫か」

 近寄って手を貸すが、彼女は無表情のまま、

「今のは決して、わたしの質量があなたのそれよりも重力加速度の縛りに囚われている、というわけではないという事を承伏しなければ、あなたに助けられてあげる事はできないわ」
「いや、そんな事は思ってないが……床板があちこち腐ってんだよ。ここ、潰れてから結構経ってるらしいし」

 雪ノ下からやや離れた位置にあるこの道場は、主家が取りつぶされて浪人になった連中が数人、金を出し合って建てたものとの事だった。一時期そこそこの盛況さであったそうだが(八百八町の治安の悪さ故に、町人は常に護身に熱心だ)、師範たちに不幸が続いて廃れていき、最後の者が権利書を本土の知人に譲って死んで以来、その知人はここを放置している。
 やはり、よくある話である。
 引き上げたあやめが、服についた砂を払いながら言う。

「わざわざ道場を探してまで稽古するだなんて、」
「……別に、当然の事だ」
「マゾなの?」
「違うわ!」

 一瞬でも照れくさい気分になった自分が愚かだった。

「三野さん三野さん、聞いて下さい。夫がちゃんばら遊びに夢中でわたしに構ってくれません」
「妙な小芝居をするな!」

 耳に何かを当てるような手真似でどこかに話しかけるあやめに怒鳴りつける。

「なによ。わたし今、架空の御意見番三野文太(さんのぶんた)さんに冷め切った夫婦生活の愚痴を聞いてもらっていて忙しいのよ」
「有閑マダムそのものじゃねーか!」
「三野さん三野さん、夫の無理解が悲しいです。井戸端会議も習い事もお昼寝も主婦にとっては大事な仕事なのに、お前は暇人だな、という心ない言葉にいつも傷付けられて」
「いや……それは、完璧な暇人じゃないか?」
「浅薄ね。時間の過ごし方の評価なんて、曖昧なものよ。わたしにはあなたやお父さんのやってる事が、ただのちゃんばら遊びに見えるもの」
「無理矢理話を戻したな……」

 ようやく小芝居を切り上げて、あやめがこちらに向き直る。湖面じみたその眼を見て、いなきは言った。

「遊びじゃあない。これで斬れば、実際に人は死ぬ」
「遊びでも人は死ぬわよ。そんなの、意識の違いでしかないじゃない」

 結局、彼女はいなきの言う事に屁理屈で返す。それに反論して言い争いになるのが常である。
 しかし、今回は違った。

「あなた、楽しそうだったわよ」
「……っ」

 呼吸が止まるような警句だった。

「身につけた技術を振るう事に、喜びを伴わないわけが無いわ。たとえそれが、人殺しの業でも」
「……自制は、するさ」
「そういう事が言いたかったわけじゃないのだけれど……まぁ、いいわ」

 どうでもよさそうにあやめは、口にしかけた言葉をあっさり捨てた。隔絶した武人の娘であるこの女は、武術には全く興味を覚えていないようだった。

「言いたい事は、別にあるのよ」

 その予感はしていた。その武術に全く興味の無い彼女が、こんな所に用も無いのに来る訳もない。

「なんだよ」

 いなきが促すと、あやめは静かに切り出した。

「迷ったのだけれど、一度は聞いておかなければならない事だから」

 その言葉に、いなきはやや驚いた。迷う、というような事のほとんど無い女だと思っていたのだ。
 しかし、実際に逡巡が見て取れる。身体の重心が変わって、床板がきしむ音がすると、ようやく彼女は口を開く。

「わたしと暮らすのは、やっぱり、おかしい事なのではないかしら」
「……何を言ってる? 夫婦の芝居は必要だって、お前も同意して」
「わたしとなら、芝居だとしても」

 被せるように声を上げる。

「いつきちゃんとなら、芝居にせずとも良かったのではないかしら、という意味だったのだけれど」

 さりげない言葉だったが、切り込むような響きがあった。何事かを切り崩し、解体するような。
 あやめは、その事には物怖じを感じてはいないようだった。

「したんでしょう? あの子と」
「……そういうの、口に出すなよ」

 顔を逸らして、いなきはうめいた。思い出すまいとしていた率直的な、肉の感触が手の中に蘇ってくる。下腹部にも、自分が穢れた生物である証拠に思えてくるような熱が生じる。

「……契約みたいなもんなんだよ。別に、そういう仲になったわけじゃ」
「あやめパンチ!」
「いってぇっ!」

 ひ弱なこの女らしからぬ、なんというか人類の半分の重みを乗せたような拳に一撃されていなきは転倒した。
 生ごみを見るような目をして、あやめは言った。

「知らぬ間に、都合の良い体だけの関係を構築するような小賢しい男に成り下がったようね、いなき君。見下げ果てたわ」
「そういう意味じゃねぇ!」
「まったく……わたしは、道中あなたとあの子がいちゃこらしている間のイラつきを解消する為に、こんなものまで用意していたのに」

 と、懐から人形を取り出す。細工は丁寧なのに、造形は極めて地味な男の人形。

「お父さん人形。彼の枕元から採取した髪の毛が数十本ほど折り込まれているわ。これに虐待の限りを尽くすと、とてもすかっとした気分になれます」
「お前、最低の娘だな」
「ちなみにわたし、彼の寝所には一日しか侵入していないわ。……一日で数十本の髪の毛が枕元に落ちていた事には、さすがに哀れを催したわね」
「……それは、その、言ってやるな」
「あなたといつきちゃんがいちゃこらしないなら、これも不要よ。あげるわ」

 あやめは、父親を模した人形をあまりにぞんざいにこちらへ投げ渡した。

「ちなみに、それへの攻撃はお父さんに効果があるわよ」
「……いやいや、そんなわけないだろう」
「本当よ。あの人を間近で観察しながら、人形のお腹に針を刺しつつ「お父さんのお腹が痛くなりますように」とお祈りしてみたけれど、実際に腹痛を感じているようだったし」
「それは全く別の原因から来る腹痛だ」

 この女と会話していると、蠱部尚武への同情心が梅雨時の水溜まりのように募ってくる。それを狙っているのかと思う時もある。
 嘆息して、立ち上がる。

「本当に、そういうのじゃないんだ……お前には分からねぇよ」

 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
 ――弱くて、すいません……
 妹の恥は、人に口にできる事ではない。いなきが口ごもっていると、あやめが言葉を先んじてくる。

「あの子、最近あなたの事を名前で呼ぶようになったわ。そう思っているのは、あなただけなのではないかしら」
「馬鹿な事を言うな」
「馬鹿なこと、かしら」
「そうだ」

 いなきはそう断じて、

「俺とあいつがそういう楽しみを持つ事に、意味なんか無い。あいつだって、それを分かってる」
「意味が、無い?」
「だってそうだろうが」

 あやめの問いかけに頭をかき、顔を逸らして告げる。

「俺がお前の父親を殺した後、俺は忌役の連中に報復で殺される。奴と戦った後に、連中と戦う余力が残っているはずが無い。……俺は、それで終わりだ」

 この、滅んだ国から一人生き残った孤児の物語はそこまでだ。〝き〟にしても、同じようなものだろう。目的を果たした後、生きる事を考えていない。
 母親を殺され生き残った彼女の物語も、六孫王大樹を殺した時点で終わる。

「だから……」

 いなきは言いかけた言葉を封じられる。胸ぐらを、強い力で掴まれ引き寄せられた。
 刃めいて尖った眼差しが、間近にあった。

「許さないわ」

 女の恫喝に何ら効力の無い事は知っている。蠱部あやめは、父親と違い武力など持っていない。
 それでも、いなきは心底から怯えた。

「……何を」
「あの人と殺し合う事について、わたしは口を挾まない。それはあなたと彼の契約であるし、何よりわたしは武門の娘なのだから」

 まさしく武家の子女らしく、冷厳に彼女は告げる。

「それでも、あなたが彼から何も受け取らずに死んで行くというのであれば、許せる事ではないわ」
「黙れ……」
「たとえ憎悪で繋がっていたとしても、あなたは彼の弟子なのだから。責任がある。彼を、後継する責任が」
「黙れ……!」

 あやめの手を掴み、振りほどく。
 ――責任など、負えるか。
 あのような男の全てを受け継ぐなど、俺に耐えられはしない。

「俺は、奴を殺すだけだ。その為にこの町に遣わされたただの狗だ」
「その手綱を握ってるのは、誰なの」
「……どうせお前は、知りはしない。かつて知っていたとしても、覚えてはいない」

 吐き捨てて、いなきは踵を返そうとした。
 ――それを振り返ってしまったのは、背後で重たげな音が聞こえたからだ。何かが、抵抗感無く落ちるような音。

「……馬鹿、この暑さで出歩くからだ」

 軽口めいて聞こえるよう意識しながら言い、貧血で倒れたあやめを抱え上げる。彼女は振り払おうとしたが、手に力が無い。
 ――古馴染だ。この女の身体が強くは無い事は知っている。毎年、冬場には咳き込んでいた。
 夏場は、強い日差しの下で姿を見た記憶は少なかった。

「一時休戦だ。家まで送る」
「……いい。それより、聞きなさい」

 呼吸を荒くして――熱中症の類も心配しなくてはならないようだ――それでも彼女はいなきの襟を握りしめている。そこだけに集中させたように、力がこもっていた。

「あの人を倒したとしたら、忌役の頭領にでもなりなさい。いつきちゃんも娶って」
「夢物語だ。そんな都合良く行くか」
「そうよ。都合の良い夢想を実現するつもりで、あの人と戦いなさい。わたしからも、何か……一つだけ、なんでも言う事を聞いてあげるから」

 くすり、と薄く、非常に薄く彼女は微笑んでみせた。

「本当は、妾にでもなって仕えるのが相応なのでしょうけど……そこまでするわけにもいかないわ。わたしはこれでも、父を愛しているのよ」
「知ってるよ。だからこそ始末が悪くもあるが」
「なんの事か分からないわ」
「いや、お前は父親への愛情表現を本気で考え直した方がいいからな」
「とにかく」

 あやめは一言、強く声を上げて、

「……だから、一つだけ。それを楽しみにして、生きなさい」

 彼女の言葉には応えず、いなきはその身体を抱えて道場を抜け出した。
 まさしく蠱部あやめは蠱部尚武の娘だと悟る。いなきの抱く劣等感は、彼に抱くものと厭になるほど似ていた。



[36842] 2h/迷走
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:34
 心のままに書け、というのが書の師匠の教えだった。
 精神を統一して泰然自若と筆を振るうべし、などというのはそれが一番格好良く聞こえるからだ、根拠などない、と、身も蓋もへったくれも無い発言をしていた。それではつまらない。せかせかした気分の時、ぐだぐだした気分の時、いらいらした気分の時、その時々の気分そのままで筆を取ってみよ。新しい発見があって、とても面白い。

 別にいなきは、その教えに同意している訳ではない。むしろ大雑把過ぎて頷きたくなかった。ただ、習い覚えた書道の心得がそれだけだから踏襲しているだけだ。
 せかせか、ぐだぐだ、いらいらとした気分で書いた「氷白玉売ります」の字にどれほどの出来かは判別が付かない。集客効果が見込めるかも不明だ。ただ、店主は納得したらしく、金を払って礼を言ってきた。

 二百文ぶんの銭を懐に収めてその場を立ち去る。
 ――今日の仕事場は布瑠部(ふるべ)という名の神社だった。多田や熊野と比べて遥かに規模は小さく、立地も島の隅のような場所で海岸に程近く、潮の香りすらする。賑わいも相応だった(こんな辺境にまで祭りの空気が侵入しているとも言えるが)。
 殯宮のめぼしい候補地はあらかた探し尽くしてしまい、こうした小さい神社を当たる傍ら、祭礼と関連性に乏しい政府施設にも探索の手を広げているが、未だに手掛かりひとつ掴めていない。

「……クソッ」

 苛立ちをあらわに、地面を蹴りつける。
 ――似たタイミングで先日現れたのは鶴翁だったが、今回は別の人間に声を掛けられた。

「いなき様」

 妹がこちらの姿に気づき、杖をついて歩み寄ってくる。夜中の密談では連日顔を合わせるが、日の下で見るのは七日ぶりの事だった。
 ――あの子、最近あなたの事を名前で呼ぶようになったわ。

(……そういう、事なのか?)

 内心でそこそこに動揺しつつ、そんな下世話な気分になっている事が申し訳なくもあり――要は、複雑な気持ちでいなきは彼女に話しかけた。今筆を取ればどんな字になるだろう、と思いかけ、数日で職業病じみたものを患ったのかと自嘲もしている。

「どうしてここにいるんだ?」
「楓座がここで勧進興行をするのだそうで」

 と、〝き〟は答えた。

「こんな僻地でかよ」

 無遠慮にいなきは言った。楓座の役者の程度が低いのか、座主の営業努力が足りないのか。

「昔は欣厭大路で芝居するような大店だったそうですけど、看板役者がいなくなって急速に廃れていったらしいですよ。わたし的にはすっごく眉唾なんですけど」

 こちらも遠慮なく言う妹。こちらは、同じ釜の飯を食っているのだから多少加減すべきではないかといなきは思う。

「だってだって、うちの座主、ものすごくうさんくさいです。特に口ヒゲ。怪しすぎて、一座のひとたちには変凹君とか呼ばれてます」
「個人的には、おいそれと小馬鹿にできないあだ名に聞こえるが」

 由来不明の気後れ感が沸いてきて、いなきは眉間に皺を寄せる。

「……ここも、外れだった」

 砂を噛むように、いなきは報告した。
 推理に瑕疵があると感じながらも代案を用意できず、時間も無いのに細い希望に縋って動くだけという有り様。合わせる顔が無かった。
 ――狐面が、左右に振れた。

「いなき様は、がんばってます」
「そんな言葉で、事態は何も好転しない」
「それでも、わたしは感謝しています」

 首のかすかな動きで、彼女が微笑んだ事が分かる。

「あののぼり、いなき様が書いたんですよね?」

 先程書いた氷白玉の出店の方を指して、〝き〟は言った。そちらへ向かって歩いて行く。のぼりの前に立つと、筆跡を指先でなぞり出す。
 店主は義足、仮面という彼女の風体にあからさまに迷惑げな視線を送っていた。

「俺の妹だ」

 いなきはそう告げて、店主に金を渡した。大きな氷塊と水につけた白玉、糖蜜、そして〝き〟を順に指差す。祭の開催まであと二日だが、神主や的屋の親分などに、挨拶代わりに渡すつもりでいたのだろう。
 二百文という氷白玉一杯の値段にしては破格の報酬が効いたのか、店主はしぶしぶ氷を割って白玉と一緒に椀に放り込み、糖蜜をかけて彼女に渡した。職人としての信念からか、手を抜いた様子は無かった。
 冷えた椀を両手で包むように持ちながら、妹は「つめたいです」と当たり前の事を言った。

「冷たくなきゃ不味い食いもんだ。早く食え」
「でも……」

〝き〟は口ごもる。何を遠慮してるのか、と思ったが、ふと気づいた。祭の空気がそよ風ほどに薄まった辺境とは言え、人の数はやはり多い。彼女は周囲の目をはばかっているのだ。
 ――わたしの顔を見ていいのは、家族だけです。
 いなきは頭をかいて、

「近くに寄れ。人除け代わりになってやる」

 その提案に、彼女は椀を取り落としかけた。「ぅ。あぅ」などと、なにやら肩を硬直させてうめく妹にいなきは言った。

「お前が隠れるくらいには、俺はでかくなったんだよ」
「……ぅ。で、では、失礼をば」

〝き〟はよろよろと寄ってきて、いなきの胸元辺りで止まると狐面を頭頂部にまでずらした。いなきがその面を右腕で覆って影にすると、そのまましゃくしゃくと無言で椀の中身を食べ始める。白玉を食う甘味なのに、氷を食っている。

「うまいか?」
「……あ、あまあまです」
「お前は、あんまり背、伸びないよな」
「それ、言わないでください……気にしてるんですよぅ」
「悪かったよ」
「いっそ巨人のようにおっきくなりたかったです」
「……そうだな」
「いなき様は、素晴らしいラインの腹筋に成長なさいました」
「……あやめもそうだが、お前らは俺の腹しか見ていないのか」
「いえ、鎖骨と骨盤の形も好みです」
「いや、別の部位にも言及しろと言った訳じゃないんだが」
「ちなみにあやめ様は、首筋と手の指が好きみたいです」
「言わんでいい言わんでいい」
「あやめ様とわたしの趣味は程よく合いますので。何度あの方とフェチトークで夜を明かしたことか」
「……物凄く踏み入りたくない領域だな」
「いなき様の身体のパーツを分割して分け合えたらなぁ、という妄想話が一番盛り上がりました」
「俺は今ここ数年で一番盛り下がったぞ。恐怖で」

 それに、預かり知らぬ所で見知った女二人が自分の話をしている、というのは相当恥ずかしい。

「……字」

 ぽつり、と〝き〟は言った。

「いつだか、あやめ様と、いなき様の字についても語り合いました。ものすごく素直な字。いつも仏頂面だけれど、書く字を見れば気分がわかると」
「そういう教え方、されてたんだよ」

 すねたように答えれば、上を向いた狐面が呟く。

「だから……」
「?」
「おいしかったです」

 文脈の繋がらない発言の後、〝き〟は面を被り直していなきから離れた。椀を店主に返して、そのまま「お芝居の準備を手伝わねば」と立ち去っていく。
 横目で見れば、店主は舌打ちして、椀に半分以上残った白玉をかきこんでいた。

「――はは、貧乏臭いねぇ。ただでさえしまらない素人演芸にオチがついて、笑い話になっちゃった」

 いなきの背後で、店主の様子を人の悪そうな風に笑いながら石斛斎は言った。

「なんで、話に加わらなかったんだ?」
「……君、本気で朴念仁だね」

 呆れきった風に、隻腕の役者は肩をすくめる。
 いなきは正面を向いたまま反論する。

「俺とあいつに、そういう感情を楽しむゆとりは無い」
「どんな人間も、人生を楽しんでいけない理由なんて無いさ」
「お前との問答は面倒だ」
「お互い興味が無いからねぇ」

 あっさりと本音を明かすと、石斛斎はいなきの隣に並ぶ。

「……これだけは伝えておかないと、と思ったんでね」

 そう前置きして、

「彼女、暴発しかけてるよ」
「……どういう事だ」
「表向きはおとなしいけどね……たぶん、この探索が失敗したら、単身で歳城に乗り込んで芙蓉局をつるし上げて殯宮の場所を聞き出すつもりでいる」
「……無茶だ」

 いなきは尖った目尻を更に攻撃的に細めて、その暴挙を評価した。あの少女の武力であっても、六孫王府五千騎を真正面から敵に回して生き残れるはずがない。

「それは、確かなのか?」
「確かめようは、ないかな。でも、君も今の会話で何かしら感づく事があったんじゃないの?」
「……」

 雄弁な沈黙で、いなきは応じた。
 そもそも、彼女が無茶や無謀を恐れて引き下がるような人間だったら今この場に立ってすらいない。

「……くそ」

 腹の中に煮えた鉛を流し込んだような気分で、いなきは毒づいた。
 やめろ、と言って聞く訳がない。そうであるから、自分は彼女の進む道を示さねばならなかったのだ。それを果たせずにこのような場所でくすぶっている。度し難い無能だった。
 単身、歳城に乗り込んで――いなきには、その協力を持ちかけるそぶりすら見せていない。
 妹自身にその意識は無かっただろうが、見限られたようなものだ。

「元から無理があったんだよ」
「言い訳にもならない」

 他人事らしい熱の低さでの石斛斎の物言いに、いなきは冷えた言葉を返す。
 更に返ってくる言葉は、やはりそよ風のように心地良く演出されていた。あくまで甘く、涼しげに。

「違うよ」

 計算し尽くされた、鉄壁の仮面。

「諦めて深川から立ち去れって事。僕の意見は変わらない。君が斎姫を説得してくれて、三人で紫垣城に帰るなら、それが一番良いんだ。その為だったら、僕は協力を惜しまないよ」
「お前に、何ができるってんだよ」
「これでも、深川には自前のコネがあるんだ。仮痴不癲や芙蓉局が面子を潰されたのを根に持って追手を出したとしても、君たちを無事に脱出させてあげられる」
「……話にならねぇよ」

 吐き捨てるように、いなきは言った。

「僕が、信用できないかい?」
「当たり前だ。だが、そんなものは問題じゃない」

 覗き込むような石斛斎に対して、いなきは正面から向き合った。

「俺たちは、目的を遂げる為に生かされたんだ。それを諦める事は、許されていない」
「思い込みだよ、それは」

 微笑みながら、容赦の無い言葉を石斛斎は使った。

「君たちに使命なんてものは無い。錯覚だ。君たちのあきらめを責める人間は、誰もいない」
「いるさ」

 男の無理解に侮蔑を滲ませつつ、いなきは告げた。

「夢の中、ふとした日常。どこででも連中は現れて、俺たちのような人間の足を掴んでくる」

 石斛斎は蔑みを意に介さず、食い下がってくる。

「やはり、思い込みだ。君も彼女も、死者の方だけを向いて生きている訳じゃない」
「……うるせぇ」

 男との会話の煩わしさが限界に達し、いなきは無造作に彼を殴りつけた。頬から血を流しながら、参道に倒れ込む。

「やっぱり、お前との問答は面倒だったな」

 周囲の荒っぽい男たちは喧嘩を期待した目線を送ってくる。それを睨み付けて黙らせると、いなきは立ち去っていく。

「蠱部あやめを巻き込みたくない。斎姫には生き残って欲しい。それが、君の本心だ」

 手酷く殴られておきながら、男の仮面は微動だにしていない。演出であると、虚構であると理解してはいたが、いなきにはその仮面から発せられた言葉を嘲笑う事はできなかった。



   /

 最後の一画を書いて、息をついた。
 赤地に「でめきん」という至極単純な文句が書かれたのぼりが、晴れ空の下に掲げられる。
 海岸そばの、ただの民家である。祭の中心に入っていくにはいささか老いすぎた老婆が、それでも祭典の気分だけは味わおうと設けたものとの事だった。紹介する時、去年まではうまい田楽を食わせたのに、と鶴翁はぼやいていた。

 最後の仕事だった。永代島南西部の調査も、この日終った。
 殯宮は、見つからなかった。
 石斛斎に〝き〟の意志を聞いて以来、永代島全域に調査の手を伸ばしたが、それでも成果は得られなかった。夜を徹し、警備をやり過ごしながら政府の主要施設にも目を向けたが――穴がある事は認めるしかない。所詮、一人で行った仕事だ。

 高い堤防を見上げながら(永代島の海面に接する箇所には全て、堤防が築かれている。無論、水害対策というより防衛計画の一環だった)、いなきはあらためてその結果を直視する。表情に苦悩めいたものは無い。そうしたものは、昨夜までに絞り尽くしている。
 憑き物が落ちたような顔をしていた。

(……仕方ないな)

〝き〟の強襲計画に乗る。勝算など真夏に霜が降りるくらいのものだったが、万策尽きた以上は是非もない。

「ご苦労様です」

 結局、始終いなきの仕事の監督役のような立ち位置に納まっていた鶴翁が声を掛けてきた。

「いえ」

 微笑みながら、いなきは応じる。取り繕いをする余裕すら出てきていた。刑死を待つ罪人の気分そのものだと、諧謔じみた気分に更に笑みが深くなる。

「明日の八幡祭に、なんとか間に合った。まぁ、その後は秋への準備をせねばなりませんが」

 慣れ親しんだ一年の過ごし方を思い出しつつ、鶴翁は言う。
 深川の八幡祭は三日かけて行われる。八幡宮から出発した大御輿が、各所の寺社仏閣を練り歩いて三日後に戻ってくる。神道、仏教の区分があまりにいい加減に思えるが、その点については八幡祭が宗教的な祭典というより、民衆のガス抜きに過ぎないという実態に沿ったものなのだろう。
 この祭の最終日に、大殯の儀は完遂するのだ。

「なに、のぼり書きの口は無くなろうとも、そこもとは十分に顔を売った。看板、品書き、仕事はいくらでもありましょう。某も、若い書人を売り込むのは楽しい」

 鶴翁は気軽そうに胸を叩いてみせる。面倒見の良い老人だった。彼の寺小屋の生徒は蒲という少年のみならず、両親を失って商家で奉公する子供ばかりだ。高潔で閉鎖的な武家社会ではつまはじきにされたであろう、率直に過ぎる優しさだが、純粋な武士ではないいなきには好ましかった。
 羨ましくも、あった。
 そうした内心を一度も見せる事なく、いなきは彼に別れを告げようとしていた。

「申し訳ありませんが、字書きの仕事はこれきりです」
「そうなのですか?」
「本土の方へ。妻の親類の仕事を手伝う事になっているのです」
「……残念だ。本当に」

 念を押さずとも、本当に残念がっていると分かる気落ちした表情で、鶴翁は呟く。

「……その、申し訳ない。立花殿にとっては、より望ましい道なのでしょうに」
「いえ。……主の形見に使い所を見つけられた。それは俺にとって、得がたい事でした」
「そう言ってくれるのであれば、某も救われる」

 老人は、好好爺然とした、しかしそれだけでない味のある微笑みを浮かべる。
 ――その顔が、いなきの背後の方へ向いて、きょとんとしたものに変わった。

「ご婦人、いかがされた」

 釣られて、いなきも背後を見る。
 蠱部あやめが、そこに佇んでいた。

「……お前」
「おお。立花殿の御新造か」

 単に呼びかけただけなのだが、それを勘違いして(夫婦を偽装している以上、全く勘違いでもないのがややこしいが)、鶴翁が声をあげた。
 あやめは鶴翁に向けて頭を下げる。静かな、そして周囲に自分の持つ静けさを与えるような仕草だった。波音が強まって聞こえてくるようにすら思えた。

「長らくご挨拶もせず、申し訳ありませんでした。主人が、大変お世話になりました」
「いや、いやいや、頭を上げてくだされ」

 あわてたように手振りする鶴翁。
 ――あやめには、今日で仕事を辞める事など言ってはいない。

(……本当に、厭になるほど鋭い女だよお前は)

 老人の背後で、いなきは顔をしかめる。悟りの境地めいた気分に、冷や水を浴びせかけられたような気がしていた。それは、ただの自暴自棄に過ぎないのだと。

(他に、どうしようがあるってんだよ)

 そう思えば、内心は荒れに荒れた。
 耐えろ、とある者は言った。
 諦めろ、とある者は言った。
 いなきには無理な話だった。〝き〟もそうだろう。
 いなきの背後には、人の記憶からすら消失した故郷がある。
 妹もまた、失った母親を忘れられない。刻まれた傷を消す事も。
 目的を果たさなければ、自分に生きる価値などない。その使命だけが、孤児として出会った二人を兄妹として結びつける縁だった。
 そして、その使命とは人間の行いうる最も醜悪な手段で遂行される。

(なぜ、こんな人殺しに関わろうとする)

 何より、いなきが殺そうとしているのは、彼女が愛している父親だというのに。
 ――だから、一つだけ。それを楽しみにして、生きなさい。
 そんな言葉をかける価値など、俺にありはしない。
 癇癪を起こし、叫び出したくなる。不眠を重ねたからか、焦燥からか、理性の堤がひどくもろくなっているのを感じていた。
 堤防に罅が入るのを自覚して――

「あなた」

 静かな声に、呼びかけられる。
 蠱部あやめは、いなきの、墨に汚れた手を取って胸元に引き寄せて、
 朗らかに微笑んだ。

「がんばりましたね」

 ――芝居だ。
 この女と自分は夫婦ではない。虚飾にまみれた偽りの関係だ。あやめはいなきの偽装に付き合って、人前でそれらしい演技をしているに過ぎない。それも、石斛斎のような完成された仮面ではなく、感情を表に出すのが苦手なこの女らしいぎこちない笑顔だった。
 それがなぜ、こうも抗いがたく感じてしまうのだろう。

「……ああ。家に帰ろう、お前」

 いなきは引き寄せられるように、甘やかな嘘で応じた。
 自分に帰る家などもう、無いはずなのに。



 ――いや、先日は説教めいたことを申して、今は恥ずかしい思いだ。
 ――良き奥方だ。この方がいれば、某が爺臭い繰り言を抜かすなど差し出がましくござった。
 そう言って、鶴翁は二人を送り出した。

「ねぇ、いなき君、気づいていたかしら。あのお爺さん鼻の右側の穴に長い鼻毛がいっぽん出ていたわよ。わたし、笑いを堪えるのが大変だったわ。もう我慢しなくてもいいわよね。ぷーくすくす」
「台無しだなお前」

 老人から遠く離れた所で、負ぶわれながら耳元で語りかけてくる声にうんざりと答えるいなき。

「だって、茶化さない事には、この有り様は中々恥ずかしいわ」
「無理をするからだ」

 ――鶴翁から別れた途端に、あやめは危うく倒れかけた。雪ノ下から永代島の南西の端まで、どこにいるとも分からないいなきを探し歩いたのだ。その無理は先日よりも更に、ひ弱い身体に祟るだろう。

「だって、」

 もう一度、同じように言い訳がましい前置きをするあやめ。

「わたしたちが夫婦である事は、あくまで演技に過ぎないけれど……この町では、本当の事なのよ。信じている人がいる。嘘を突き通すのが、責任というものではないかしら」
「……くそ真面目な女だ」
「渡世とは、そういうものなのでしょう?」
「俺の知ってる世の連中ってのは、もっと手前勝手にやってるさ」

 聞くまでも無い事をなぜか問い糾してくるあやめに、素っ気なくいなきは言った。「そうなの……」などと彼女は独り言らしく声を漏らす。
 ――この町では、自分たちが夫婦である事は真実。
 いなきはそれを、不快には思えなかった。
 使命という首輪に繋がれた狗ではなく、ただの人であれたなら。このような事が、日常であったなら。それはなんと幸せな事だろうか。
 故郷に、そして妹に負うべき責任を放棄して――

「それにしても、この辺りには漁師がいないのね」

 あまりに手前勝手な方向へ傾きかけた思考を、あやめの言葉が留めた。軒先に網も釣り竿も、船も置かれていないい民家の群れを不思議そうに眺めている。
 取り繕うように、いなきは気軽そうに聞こえるよう応じる。

「……そりゃそうだ。東側と違って、九衛軍の軍船に攻撃される可能性がある方角だからな。漁の利便よりも、軍事上の都合が優先されるさ」

 威圧感を覚える程に高い堤防を、首をしゃくって示す。一般の立ち入りを禁じた入り口を通してしかその上に昇る事は不可能で、梯子をかければ罪に問われるので釣りもできない。
 あやめはそれでも納得しないようだった。

「でも、さっきの所では出目金を売るのでしょう?」
「馬鹿かお前。金魚は淡水魚だ。濾過された深川の水路でしか……」

 ――自分で口にした言葉に、かすかな違和感。
 それをたぐり寄せて――殴りつけられたような閃きに、大声を上げた。

「馬鹿は、俺だ」

 突然の豹変に面喰らうあやめを路上に降ろし、堤防に触れる。壁面の手触りを確かめながら、

「現実の知識に囚われていた。出目金――琉金の突然変異種なんてものは、八百八町には存在しない」

 鶴翁が、最後の客である老婆を紹介した時の発言を思い出す。
 ――でめきん、というものを売るのだそうで。目玉の飛び出た珍しい金魚です。
 あの老人だけが出目金という種の金魚が存在するのを知らなかったのではない。老婆が、元から存在する名前でその金魚を呼んでいたのではない。
 彼女は、その珍しい形の魚を、見たままに名付けたのだ。
 畸形に変異した魚を。

「水、水、水だ……」

 興奮して、言葉を繰り返しながらいなきは壁面の観察を続ける。――指をかけられる窪みが、堤防の頂上まで続いている箇所を見つけると、そこから昇り始める。

「南西――その、方位の条件さえ合っていれば良かったんだ。永代島の外であっても」

 登攀をやり遂げて、堤防の頂上に立ち――予想を裏付ける光景を見た。

「白潮だ」

 八町(※約八五〇メートル)程先からの海面が、白みがかった色合いに変色している。半径五町ほどの真円の形であった。
 海中の過剰な富栄養化により、プランクトンが大量に死亡し、その死骸が滞留しているのだ。

「見つけた。……あれが、六孫王の殯宮だ」



[36842] 2i/劫火
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:35
「死者を祀る海中の国……どうにも、間抜けなくらい古典に忠実なんだね、六孫王府は」

 いなきが入手した水路図を眺めながら、石斛斎は呆れたような嘆息をする。
 同意見ではある。日本神話の黄泉国、琉球神話のニライカナイ、西洋ではケルトの神々の楽園ティル・ナ・ノーグと、それに起源を持つアーサー王伝説のアヴァロン。海中に存在するとされる隠り世というのは枚挙に暇が無い。
 殯宮発見の翌日、四人が集まっているのは出会茶屋の二階にある一室だった(当然ながら深川滞在初日とは別の店を選んだ)。一刻ほど前に集まって、突貫で用意した情報を元に裏付けを行っている。

「あの白潮の辺りの海中に殯宮がある可能性は、極めて高い」

 評議に結論が出たのを確認する意味で、いなきは言った。

「歳城からあの近辺に流れていく水路を調査したが、水質に障気の痕跡が見られた。水草の生長も異常で、魚の突然変異も発生している」

 おそらく、潜水艇のようなものを用いて移動したのではないだろうか。そうであれば、地上での目撃証言が存在しないのも道理だ。

「その水路が、海に続いているのも確認した。その近辺に、地上から海中へ向かう隠し通路も発見している……ここだ」

 と、地図の一点を指差す。六孫王以外の人間がそこから出入りしているのだろう。

「明日の払暁と共に、ここから侵入する。住居はもう放棄しよう。この……稲村ヶ崎に手頃な廃墟を見つけた。これからここに移動して、行動開始まで身を潜める」

 隠し通路の場所とした点の、やや北を示していなきは告げる。
 ――場所については嘘だ。この場の一人に向けての。

「石斛斎、あんたにはなんだかんだで世話になったが、ここでお別れだ。一応義理から言うが、今日の内に深川から出ろ」
「そうだね、拷問超怖いし……本当の足取りを知らないのに、ともなれば馬鹿らしくもある」

 いなきの嘘をあっさり見破って、石斛斎は嘆息する。
 その顔を、窓の外に向けて、

「あーあ、でも、せっかくの祭を楽しみたくはあったね」

 八幡祭初日の熱気は、密議の場にも侵入してきている。夜になったというのに灯りは煌々と点り、道を埋める人々を照らしている。威勢良く騒ぐ町人、迷子になり泣く子供、啖呵売の口上……
 そうした外界とくっきりと色分けされた部屋の中で、いなきは言った。

「こんな場所に足を突っ込むから悪い。あの中に入っていきたいなら、中途半端に関わらずに足を洗うんだな」
「それも義理かい?」

 人の良さそうな笑みを浮かべる隻腕の役者。その職業を改めて意識する。その気になれば、嘲笑もごまかせる人間だ。

「人の世話を焼くより先に、自分の面倒を見るんだね。君たちがやろうとしている事、分かってるかな」
「ああ、あれを見ればな」

 いなきはそう言って――賑わう路上を見下ろす。
 その中の数人に注目していた。商人、職人と各々違った背景を伺わせる服装をしているが、歩き方に見られるものは同一だった。

「とうとう、来たわけか」

 猟犬、という背景を彼らの背後に認めて、いなきは呟く。己の背後にいる〝き〟が補足した。

「あの豪眞梅軒と同じ鍛錬法です。芙蓉局の手先でしょう」
「零番方よりはやりやすいな」
「いえ……逆の方向を見て下さい」

 妹が窓から顔を見せないようにしつつ指示する方向を、目線だけ振り向けて確認していなきはうめいた。
 別の種類の、やはり歩行から鍛え上げられた肉体を伺わせる男女がこの出会茶屋に向かってきている。両者の立ち居振る舞いから練度の程を比べて、こちら側に軍配を上げる。

「さすがに有能だ。事前の情報についてハンデがあるのに、御寝所番と時間差無しに辿り着きやがった」

 これが名にし負う奉公衆の密偵零番方の実力、という事か。

「中々、焦げ付いて来たな」

 腰帯に差した大小の感触を確認しながらつまらなそうに言い、いなきは立ち上がる。

「俺が行く。〝き〟、打ち合わせ通りの場所に逃げろ。嘘でない方にな。あやめも連れて行け。……石斛斎は、」
「こうなっちゃうと、保身を考えちゃうなぁ」
「……分かった。二人についていけ」

 軽口を叩く石斛斎に舌打ちをしてから、〝き〟に指示をする。妹は厭そうにしたが、文句は言わなかった。気が合わないとは言っても、深川にいる間は一番世話になった男だ。

「あやめ、」
「分かっているわよ。いつきちゃんの指示に従うわ」

 うるさそうに返してくるあやめに、軽い頷きをよこす。
 ――芝居も、これで終わりだな。
 胸の奥から上って来た言葉を、務めて意識から外し、いなきは三人から背を向けた。
 無言のまま、振り向きもせずに部屋を出ると、三つ程奥の部屋に入る。
 悲鳴を上げる裸の男女を無視して、いなきは窓に足をかけ、飛び降りた。
 着地ざまに零番方の男を一人殴り倒す。〝き〟の方はあやめや石斛斎など足手纏いを抱えている。手練れの追手を優先的に減らしていく必要があった。

「……ッ!」

 不意の奇襲に、精鋭の忍と言えど驚きを隠しきれなかった。近場の、声を上げかけた女の顎を蹴り抜いて昏倒させる。
 周囲に喧噪が溢れる前に、いなきは駄目押しの揺さぶりをかけた。

「御寝所番の連中までお出ましとは、俺の首は大した人気のようだ!」

 この場の、影働きを行うものたちが揃って驚愕の仕草を表わした。
 ――敵と町人の色分けは済んだ。そして、

(零番方には、てきめんに効いたろう)

 足影秀郷の暗殺の主犯を探ってみれば、六孫王府の実質上の首脳が独自に持つ忍に出くわしたのだ。芙蓉局と対立する方丈梢継の勢力下ゆえ、彼らと即座に敵対する――といった安直な人間に、密偵など務まらないだろう。彼らは政治の暗部に関わっているからこそ、その複雑怪奇さも知り尽くしている。
 事態は零番方の裁量の及ぶ範囲を大きく逸脱していた。

 彼らは迷う。
 そして、万金でも購えない希少な時間を空費する。
 ――いなきは零番方の忍たちを観察する。
 一人を除いて、目線は一方向を向いていた。除外された一人に。
 ようやく町人が騒ぎ始める。大概が「喧嘩か!」と囃し立てるようにして、物見高い目線をいなきたちに送っている。
 その間を最短距離ですり抜けて、いなきの誘導で零番方らが示した、現場指揮官らしき男の前に立った。

「……ッ!」

 さすがに手練れである。虚を突かれた驚愕からすぐさま立ち直り、男はこちらに裸拳で打ちかかってきた。
 体ごと左に回り込むようにして、拳打をフェイクとして放ってきた本命の膝も含めて躱し、肝臓に肘を叩き込む。肋骨を数本へし折られて、男はその場にもんどり打って悶絶する。
 時間にして十秒にも満たない間に指揮系統を完膚無きまでに破壊され、混迷の極みにある忍たち。

 彼らの内、進路上にあるものを三人ほど片付けてから、いなきは路上を駆け抜ける。
 町人たちはそうした有り様を、狂乱に近い程の歓喜で迎えた。真性の暴力ですら見世物とする好奇心がそこにあった。
 それに舌打ちを返しつつ、いなきは走り続けた。




「なん……たるザマだッ!」

 一時接収した民家の二階の一室にて。今回深川に侵入したとされる雷穢忌役武官の捕縛作戦を任命された零番方陸番組、その組頭は、路上に散り散りに倒れ伏す部下を痛罵した。ただ一人の男(しかも、一見して子供のような若造)にまんまと出し抜かれるとは、言い訳しようのない失態だった。
 ――しかし、その後連絡役の部下が届けてきた情報に、彼はいくらか理性を取り戻す。冷や水を被せられたような効果があった。

「なぜ、御寝所番がいる……」

 彼は自問を口にする。自己の思考に没頭しかけて――我に返り、部下に下問する。

「連中は抑えているか」
「いえ。彼らもまた捕縛対象を追跡しました。松永、吉岡、聖、鴻上の四名がそれに追従しております」
「御寝所番が対象から離れた時は、聖に尾行させろ。それと、喜瀬、城島は対象の出てきた茶屋を調査。仲間がいるはずだ。……阿波野、大槻、姫島、貴崎、荒木、月島は放っておけ。今日は八幡祭だ。町医が各所に控えている」
「はっ」

 命令を聞き届けて部屋から退出する部下から目を逸らし、彼は思考を再開した。
 といっても、さして時をかけた訳でもない。奉公衆は縁故の絡む場面が無いとも言えないが、零番方に関しては全くの実力主義であった。その中で一つの隊を任される彼の頭脳は、それなりに明晰である。

(これは……かの雌狐の命脈も途絶えたか?)

 推察を元に今後の歳城の動向を予想し、彼はそう結論づけた。
 芙蓉局と忌役の繋がりを証明できれば、今し方の失態も補って余りある。意気込みを新たに、彼はまず待機所を変える事を思いつき、立ち上がる――

『ダァメ』

 その背後で、不気味な声がかかる。

『アイツトハボクガ遊ブンダカラ、キミラハ、邪魔ダヨ』

 耳元で破裂音のようなものが聞こえ、その正体を確かめる前に彼は床に倒れた。そのまま、起き上がる事は永久に無くなった。
 自分の意志では。



 祭囃子が聞こえる。
 いなきは裏路地に潜みつつ、その楽を聞いていた。
 あれから数人追手を片付けつつ、逃走を続けた。〝き〟やあやめ、石斛斎は殯宮の方角に向かっている為、逆の北東方面へ向かった。欣厭大路から離れ、今は永代寺にほど近い場所であると、彼は記憶にある地図を呼び起こして推測する。
 路地裏から抜けて、周囲を警戒しながら歩き出す。人混みにまぎれて追手を撒く事には成功したはずだが、逆に人混みから奇襲される事も考えられる。いなきの容姿、特に髪色についてはひどく人目につく。

(笠を手に入れるか。いや、服も替えた方が。……無理か。今日、日用品を売りに出す店は無いはずだ。服も……浴衣を着る訳にも行かないしな)

 思案を視界の隅に置くように行いながら、永代寺の方角へ歩いて行く。あれだけ大きい寺院なら、警察組織である侍所の役人が控えているはずだ。騒ぎを嫌う密偵達をやり過ごせるかも知れない。
 永代島の門前町に向かう行列に紛れて、足を進める。
 大立ち回りを演じた場所から離れると、何事も無かったように、町人たちが祭の風景の中にいるばかりだった。

 感傷に浸る暇などないと思いつつも、場違いな自分を意識せざるを得なかった。暴力の余韻が急速に冷めていく。
 ハレの日を楽しむ彼らの中で、ただ一人、己だけが血生臭く穢れ、外れている。

(……ちっ)

 舌打ちして、後ろ暗さを誤魔化す。
 すると、

「立花どのではないか」

 偽名で呼ばれる。その相手は、いなきの敵では無かった。
 鶴翁が数人ほど間に挟んだ雑踏の中で、こちらを見ていた。蒲や、他の寺小屋の生徒らしき子を連れている。
 いなきが彼の足下の子供たちを見たのに気づくと、鶴翁は照れくさそうに微笑む。

「この子たちの奉公先から、引率を頼まれたのだ。暇な爺と便利使いされておる次第で」

 決してそれを嫌がっている訳では無いと、子供に目線を送る事で教える。彼らも商家の丁稚奉公から一時だけでも解放した相手を嫌う訳が無く、微笑みを返した。

「奥方は、いらっしゃらぬのか」

 と、いなきの周辺を探す鶴翁。

「あ、いえ……」

 いなきは、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 ――演技は、終わりのはずだった。
 そのはずが、十日ばかりの虚飾の残滓と今対面している。暴力を行使し、どうしようもなく本来の自分に戻ってしまった自分の前に、残酷なまでに己の嘘を信じている老人が現れた。
 全てをぶちまけてしまいそうになった。
 ――俺は、人殺しなのです。
 暗がりで、獲物を追うだけの狗なのです。
 どうか、蔑んで下さい。
 自分には、その場所は遠すぎるのだと、諦めさせて下さい。

(……嘘は、突き通す責任がある、だったな)

 騙された人間を慮って弱い身体を鞭打った女の言葉を思い出す事で、いなきは弱きに傾いた思考を切り捨てた。

「妻は、家におります。彼女に土産を頼まれたので」
「左様か。髙良屋の竜頭焼きを御賞味した事がありますかな? 今日、あそこが竜一頭なる特別の菓子を売るのだそうで」
「鶴じい、もう行こうよ。そんなシケた面の兄ちゃんほっといてさ」
「これ、蒲」

 袖を引く少年をたしなめると、鶴翁はすまなそうにこちらに頭を下げた。それに緩く首を振って返す。

「いえ、良い話を聞きました。これから、探しに行くとします」
「そうなさるといい」

 次は軽く会釈をすると、鶴翁とその一行は、そのまま永代寺の方角へ向かっていった。
 それを見送っていると――ふと鶴翁が振り返る。

「立花どの、笑うのだ。祭の輪に入るには、それだけでいい」
「……ありがとうございます」

 こちらは深く一礼して、彼が去って行くまでその場に立ち尽くした。

(これで、良いんだよな)

 深川の、人並みの不幸と幸福のなか余生を送る老人に、いっとき知遇を得た浪人として記憶に残る。

(良いんだ)

 いなきもまた、彼から受け取ったものがあった。かつて持っていたはずの、今は無い穏やかな日常の記憶。

(忘れない)

 老人がそれを忘れたとしても構わない。己にとってそれが掛け替えのないものである事は、疑いようが無いのだから。

(ありがとうございます)

 もう一度、演技でない礼を胸の内で告げて、いなきは踵を返した。
 ――祭囃子の楽の中に、不協和音が生まれた。
 永代寺の方角から、逆進してくる一団がある。
 彼らはそれぞれ楽器を持ち、あるいは歌いながら行進してくる。邦楽の類でない旋律。彼らがそれぞれ演奏する楽器も、ヴァイオリンや金管などだった。その奏でる音は演奏者の腕のせいで、原型を留めながらも奇妙に不快感を催すような質に変じている。

(これは……確か、)

 メンデルスゾーン、真夏の夜の夢より「妖精の行進」
 うろ覚えの知識で曲目を思い出す。八百八町にはクラシックの類が舶来音楽として少数ながら流入する。祭の路上演芸としてありえないとは言い切れないが。
 不協和音は、それだけでは無かった。
 楽団の行進が通り過ぎた後に、それを見ていた町人が悲鳴を上げるのだ。祭の熱狂すら冷ます、本物の恐怖が彼らの顔に刻まれている。

 曲が切り替わる。「妖精の行進」の次は声楽「舌先裂けた斑蛇」
 ろれつの回らない、子供のように舌足らずな歌声で、楽団の男女が合唱する。
 ――舌の裂けた斑の蛇。来れば厄介針鼠。
 ――井守や蝙蝠、足なし蜥蜴よ、悪戯をするな。
 ――王様に近付くな。

『――アハッ』

 子供のように、朗らかな笑い声が聞こえた。どこか人の声として不自然な音程の。
 その声と共に、楽団が崩れ落ちる。

「……っ」

 倒れ伏し、動かない彼らを見て、いなきの肩が強張った。
 後頭部に、大きな空洞を穿たれた死体を見て。

『コノ玩具ハ、モウイラナーイ』

 仮面をつけた、小男だった。奇矯な声色では判別が付きづらいが、少年かも知れない。
 全身を道化(クラウン)の衣装に包んでいる。首まで襟で隠れており、生身の部分が見えない。

「なんだ、お前は」

 枯れた声で、いなきは問うた。
 この男は、異質だ。御寝所番や零番方のような密偵ではありえない。彼らのような存在に厳然としてある統制のようなものが感じられない。
 それに――死体のいくつかに、見覚えがある。
 特にうち六人は、自分の手で先程殴り倒したのだ、忘れる訳が無い。
 死体の楽団は、零番方と、おそらくは御寝所番と思われる忍たちで構成されていた。

「六孫王府の者じゃ、無いのか……?」
『ツマンナイ。ナニ、ソノりあくしょん』

 戯画的な仕草で、小男は肩をすくめてその場で一回転して見せた。

『ネェ、面白イデショ? ソウナンダヨネ? キミハボクタチノ、トモダチナンダカラサ? 雷穢忌役ノ狗ハソウナンダッテ、オバアサマガ教エテクレタ……』

 ――いなきはその瞬間に抜刀していた。
 即座に接近して、袈裟懸けに小男に切り込む。
 敵と伺わせるものが一欠片でもあればそれで、この男に斬り掛かるには十分だった。その存在感は余りに異質で、危険であった。理性と本能がもろともに蟻の形を取って脳髄に集るような、たまらぬ不快感で警告している。
 するり、と抵抗無く刀刃は男の肩口から入って抜けた。

「……ッ!」

 即座にいなきはその場から飛び退く。斬撃に手応えが存在しなかった。水を斬ったような感触。

『アア~、セッカクノ服ガ台無シ……』

 やはり戯画的な仕草でしょげかえる男。今の攻撃に痛痒すら感じていない。

『ガッカリダヨ。楽シンデクレルト思ッテ、催シモノヲタクサン用意シテイタノニ。ホラ、コンナモノダッテ……』
「――貴様ァッ!!」

 男が何かを懐から出そうとした時に、後方から叫び声が上がった。
 ――誰だ、この男は。
 現れた老人を見て、一瞬、そう思った。
 狂気を起こす一歩手前まで憤怒に汚染されたその表情を、あの朗らかな老人が浮かべる事が、いなきの発想には無かったからだ。
 鶴翁は、抜き身の刀を下げて小男に近寄っていこうとしていた。半身を鮮血に染めている。老人の歩みは確かで、それ程の出血をしたとは考えられなかった。
 ――なぜ。
 なぜ、子供を一人も連れていないのだ。

『アレ、サッキノ爺サンジャナイカ』
「貴様、よくも、よくも……!」
『アンタノ萎ビタ首ハ、見栄エガシナイカライラナイヨ?』

 と、小男は言って、
 懐に入れた手を抜き取って見せた。
 男の手に乗るのは、やや歪な球体。
 頬の、ふっくらとした、子供の――

『コンナ風ニスルニモ、大キスギルシサ』

 男は取り出した首を宙に放り投げる。軽々とした手さばきのトスジャグリングだった。それをただの物体としてしか見ていないと分かる軽やかさ。
 子供の首を使って中空に輪の軌道を描き、血管に残った血をびちゃびちゃと浴びながら、男は。
 決壊した。

『アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!』
「ああァァアっぁぁあああああああああああああああっ!!」

 男の哄笑に釣られたように、鶴翁も理性の箍を叩き壊して突進する。

「――止めろ! そいつに近寄るな!」

 鶴翁は、いなきの制止を聞かなかった。老体に力を満たして、突撃の勢いで男の胸を突き刺す。衣装の背から切っ先が生える。気優しい老人が発揮した武力の、もしかしたら生涯最良のものではないかと思えるような一撃。
 そして、それには何の意味も価値も存在しなかった。
 子供たちの生首が、男の手から離れてぼとぼとと鶴翁の周囲に落ちて転がる。

『ナカナカ、面白カッタヨ、オジイチャン――バイバイ』

 男が囁きかけ、そして紅蓮が踊った。
 地面から吹き出した火焔が、鶴翁の全身を呑み込む。

「ぐぉおおおおおおおお――」
 断末魔の悲鳴すら、一瞬のみの事であった。
 炎が風に吹き消された後に、全身を炭化させた老人が自重で足を砕き、崩れていくのを、いなきの目は確と見る。
 その時、町人たちの理性も破壊された。押し合い、へし合い、少しでもこの怪人から離れようと駆けていく。踏み潰された人間が数人、その中に見られた。

『セッカクノオ祭リナノニ、花火ガ足リナイヨ』

 男の声音に、絶望的な程の悪寒を感じた。
 周囲へ警告しようとしても間に合わない。この密集ぶりでは意味も無い。いなきは再び男に接近し、今度は首を狙って斬撃を放つ。
 仮面が空に舞い、

『バーン』

 首から上の消失した男が、言葉を発した。
 どこからともなく現れた黒い霧のようなものが、逃げ惑う民衆に纏わり付いて――爆ぜた。
 炎が吹き上がり、烈風が荒れ狂う。吹き飛んだ無数の焼死体が民家に叩き付けられて、鶴翁と同じような末路を辿る。

『キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!』

 その有り様を見て腹を抱えて笑い転げる男。
 思い出したように仮面を拾って被ると、こちらを向く。

『ネェ、ナンデキミハ笑ワナイノ?』
「黙れ……」
『笑ッテクレレバ、ボクノトモダチニナレルノニ』
「黙れ!」

 叫んで、一歩退く。感情とは真逆の所作だが、習性と化す程に根付いた戦況の考察が、男の不可解な攻撃手段、防御手段の謎を解くまで、己の攻撃は何の意味も無いと教えている。
 ――立花どの、笑うのだ。祭の輪に入るには、それだけでいい。
 あの老人と酷似した言葉を男が言ったのが、不愉快で仕方が無かった。
 納刀し、いなきは吼えた。

「貴様は、殺す」

 焦げ付いた殺意を向けられた男は、それをため息一つで応える。

『ツマンナイ。キミハヤッパリ玩具ッテコトニスル。人形ニシテ、キミノトモダチトノ遊ビ道具ニナッテモラウヨ』

 男の声には殺意が一欠片も感じられない。ただ、命を玩弄(がんろう)するという意志だけがある。
 怖気のするような虚無が、人の形を取ってそこにいる。

『御門八葉ガ一、大宇智家当主、日数。来ナヨ、ニンゲン』



 御門八葉――
 六孫王府黎明期の激戦にて王を守護した八つの氏族である御門葉家。その頭領であり、各自の家から当代最強の憑人が選出される。
 名家でありながら、血筋でなくただ能力のみを当主の資格とする理由は、王の近衛たる事が彼らの存在理由だからだった。その証として、彼らは現実史における源氏の所持していた八領の甲冑の銘を称号として受け継いでいる。

 日数、月数、沢瀉、膝丸、薄金、楯無、八龍、産衣。
 歴代の八葉と雷穢忌役は数度矛を交えている。彼らを幾度か討ち果たした事も記録されていた――一人の殺害につき数十人の精鋭を損耗した、という記録が。
 彼らの能力への畏怖からか、忌役の武官は彼らを他の憑人と区別してこう呼んでいる。
 魔人、と。
 記録された戦死者には、不可知領域に駐留経験のある一等武官も含まれている事を思いだして、いなきは指先に震えを催した。妖魅との戦闘をこなした掛け値無しの最精鋭。その一人のみと相対しても、いなきは必勝できると言い切れない。

(……だから、なんだ)

 指先の震えを、止まらねば切り落とすと念じて静める。
 六孫王の近衛たる彼らと戦う事は、避けて通れないと知っていたはずだ。町中でこのような野放図な攻撃を受けるとは思わなかったにせよ、その点だけは予定の範疇だ。
 目の前に敵がいる。戦わねば死ぬ。

(なら、殺す)

 それだけだ。
 いなきは考察する。日数の物言いから、もう自分を殺すのに何ら躊躇いを覚えないだろう事が察せられる。この男は化物気取りで人間を見下しているようだ。いなきを楽に殺せると考えている。常套の手段を用いるはずだ。常套の手段とは何か。散乱する死者はどうやって殺されている――
 いなきは即座に前進する。後方で、爆発音と共に熱風が吹き寄せる。

『アハッ』

 日数は、犬猫が仕込んだ芸をやり果せた時のような歓声を上げる。その脇腹を切り抜ける進路でいなきは駆けて――
 視界の右端で生じた黒い霧を見て、左に飛び退く。吹上げる猛火の余熱が、頬を炙った。

(この、霧だ)

 これを爆発させるのが、日数の主要な攻撃手段だ。黒い色彩から火薬の類を想像させたが、黒色火薬に中空で自在に発生し狙い通りに発火する性能など無い。

(奴は憑人だ。この発破術も、その能力に由来する)

 日数が何の憑人であるか分かれば、能力も判明する――

『ソォラ、踊レ、踊レェ~』

 愉悦に満ちた声で、日数はいなきの周囲に黒霧を次々と生んでいく。以前までの爆発から、黒霧の爆発半径は理解していた。その間を縫うように移動していく。

(なんだこの匂いは……)

 度重なる爆発で生じた煙の匂いは、硝煙のものとは違っていた。色も火薬の発火したものとは異なる。この色は――

(石油、か?)

 八百八町では軍船のみに見られる石炭を用いた蒸気機関、これの発する黒煙に酷似していた。

(石油を発生させる生物なんて、いるのか?)

 爆発を回避しながら、推測に手詰まりが起こった事を自覚する。日数の攻撃だけでは推理の材料は乏しい。
 ――虎穴に入るか。
 いなきは決意し、機を待つ。
 黒霧の形作る爆発の範囲。上空から俯瞰すれば虫食い穴じみて見えるであろう歪な円の隙間に、日数へと辿り着くか細い道を見出して突進した。
 抜刀し、左側から斬り込む。

『オ気ニ入リノ服ヲマタ刻マレルノハ御免ダヨ』

 その眼前に黒霧が生じ――爆発の前に、いなきの姿はかき消えた。

『――ア?』

 右側から斬り掛かる陽刀が、道化の衣装の背中から入って腹から抜ける。
 裂け目の奥に、黒霧が見えた。
 斬撃に手応えの無い理由は判明した。この男の身体を構成するものもまた、爆発物と同一の黒霧なのだ。日数は、身体の一部を爆破している。
 能力の異常さは理解したが――それでも、正体は判明していない。むしろますます分からなくなった。霧状の動植物などといった、博物学者を発狂させるような代物に心当たりは存在しない。
 反撃を警戒して飛び退いたところで、日数がせせら笑う。

『ムダムダ、ボクハ、不死身ナンダカラ』
(……つまり、殺す手段はあるって事か)

 憑人が口にした失策に、いなきは匙一杯ぶん程度の安堵を覚える。本当に不死ならそれをわざわざ強調する必要は無い。そして、この状況でそれを言ったという事は――

(あの身体への攻撃には、効果があるという事か?)

 日数はそれを危惧しているのだ。

(今の攻撃で被害が無かったのは確かなんだ……それは思い込みか? 霧状の生命体に痛覚があるとも限らない……いや、どちらにせよ、決定的なものでは無かった……それが覆る条件があるのか? 部位? それとも手段? ……くそ、情報が足りない)

 何にしても、必要なのはそれだ。いなきはまだ、虎穴に飛び込む必要があった。

「こちらも変わりはしないさ」

 いなきは自信を演出した声で憑人に告げる。

「言っちゃなんだが、お前、狙撃が下手だぜ。一晩費やしても俺を捉える事はできないだろうな」

 事実ではある。憑人は忌役の蠱業遣いと比べても高い基礎能力故に、慢心からか動きが雑になる傾向がある。その最高峰である日数の発破術には、それに由来する精度の不足が見られる。そうでなければ彼に接近する事すら不可能だったはずだ。

「奉公衆が討伐隊を出してくるまで、俺と遊ぶか? いくら御門八葉とは言え、ここまでやった以上は連中も許しちゃくれんだろうな……」

 背後で家屋を焼く猛火に背を炙られつつ、いなきは挑発する。
 日数は、けたけたとそれに応じる。

『アンナ連中ニ、玩具ヲトラレルノハヤダナァ~、スゴクイヤダヨ』

 ダカラ、と日数は虫の羽音を言葉にしたような声で告げた。

『少シ早イケド、フィナーレト行コウカナ』

 再び正面に黒霧が複数発生する。
 いなきは前言を証明するように、爆発の安全地帯を即座に見出してそちらへ駆ける――
 足首を掴まれ、挙動を封じられた。

「……ッ!」

 焦燥と共に足下を見やり、戦慄する。
 半身の炭化した、明らかに致死の火傷を負った人間が両手でこちらの足首を抑えている。

「く……そっ!」

 その場に倒れ込み、死体の顔面を蹴りつけて引き剥がし、転がって逃れる。
 ――脱出が遅すぎた。
 耳元で鳴り響く轟音。

「ぐ……がっ、あっ!」

 間近で爆炎に晒され、衝撃に耐える。地面を転がり身体についた火を消し立ち上がる。
 目眩に霞んだ視界の彼方、先程日数が爆破した地点で未だに猛る火焔の奥から、安物の悪夢じみた光景が出現する。
 焼けた死体が、こちらに向かって走ってくる。

『D~aaaawn of the Deeeeeeeead……』

 指揮者がタクトを振る真似か、緩やかに手振りをしながら日数が言った。

(クソッ、俺は大間抜けだ……こいつには、死体を操る能力もあった!)

 飛びかかってくる焼死体の胴体を両断しつつ、いなきは自分を痛罵する。移動しながら今し方負った火傷の程度を知る事は難しかったが、少なくとも手足に問題は無いようだった。
 休む間もなく側面に発生した黒霧から離れる。これで黒霧と走る死者、その二種の攻撃に対処せねばならなくなった。
 相生剣華の行の型で前方、後方から迫る死者を斬り払いながら、いなきは焦燥にうめいた。

(憑人の〝因子〟は一種が原則……死体の操作も、発破術と同じあの黒い霧によるものだ)

 どのような生物が、そんな芸当を可能にする?
 解けぬ難問。一息つくのも許さぬ猛攻に晒されながら、それを考える事はいなきの集中を加速度的に磨り減らしていく。
 不可避の隙を突き、とうとう死者の一人がいなきの手を掴んだ。
 いなきはそちらを向き――瞳の奥に、絶望を宿した。
 彼の腕を握る死体。眼球が炭になって崩れた跡の眼窩が、死体の行く末に通じているかのように暗い。
 その焼け残った頭皮の一部に、覚えがある。
 鶴のように、白髪頭の頂点だけが赤毛の――

『バイバーイ』

 けたけたと愉しげな日数の言葉の直後、老人の頭は黒い霧に覆われ――爆ぜた。



 ――立て。
 大編成のオーケストラじみて五月蠅く鳴り響く耳鳴りの中、声が聞こえる。懐かしい、厳しさを含む声。
 彼女がそうした声音を使うのは、叱咤の時のみだった。近場に近習のいない時は、武将らしからぬ甘い声をかけてくれたのに。

(咲耶様……俺は)

 ――主(ぬし)は、敗北してはならぬ。
 鈍痛の中、力なく伝えようとした言葉を、口から放つ前に否定された。
 声音が、醜く歪んでいく。
 ――主にそれは許されぬ。
 ――ほぉら、
 夢の中で伸ばされた指が、いなきの腕を差した。それを掴んでいた、半ば炭化した手は肘から先が切り離されている。
 ――不当に巻き込んだ恩人を斬り刻んでも贖わねばならぬ負債が、主にはあるのだから。

「……っ、ぎ」

 完全に目覚めてみれば、指の幻覚は綺麗に消え失せた。周囲を見渡せば、半焼した民家の中に倒れ込んでいるのだと分かる。爆破の衝撃で、吹き飛ばされたのだ。
 いなきは鉛を皮膚に貼り付けたように重い上半身を引き起こし、傷の具合を確認する。頬に引き攣れた痛みを覚えて触れてみれば、黒い炭の粉が指につく。顔面が焼けただれている事を想像して恐怖に震えるが、そこまでの激痛は無かった。神経まで焼けるほど重度の火傷なら、既に死んでいるはずだ。

 目に映る身体の各所の火傷も、動作に支障の無い範囲に収まっている。
 爆破の瞬間、鶴翁の腕を切断して飛び退いた為に。
 とうとう力尽きて剥がれた鶴翁の腕を見つめて、いなきは内心で告げる。

(……俺は、死ぬ訳には行かない)

 死肉を喰らう悪食の狗となっても、目的を果たすまでは死ねない。
 だから、

(俺は殺し続ける……俺の敵を)

 お前もその一人だ、日数。
 ――いなきは、頬を拭った指先を再び見つめる。

(お前の謎を、解いたぞ)



 民家から潔く出てきた忌役の少年を認めて、日数は愉悦を深くする。あともう少しで、建物ごと爆破するというつまらない殺し方をする所だったのだ。
 火の粉を踏み潰して歩み寄りつつ、忌役は言ってくる。

「聞いた、事がある……」

 その足取りはダメージのせいか重い。口調もまたその重さに引きずられたようなものになっている。

「御門八葉たる資格の一つに、〝障気の制御〟があるのだと……本来は周囲の事象を散漫に歪めるのみの障気を操作し、指向性を持たせる……」

 と、彼は自分の指先をこちらに見せた。〝日数そのもの〟、その死骸がこびりついている。

「水棲微生物(プランクトン)の集合体……本来なら脆弱な存在を、その技術が強化した。微生物を障気により急速に化学変化させ、炭化水素へと変質、爆破する。人体操作は、脳や神経系に取り憑いたお前の分身が生体電流で操っているのだろう。……それが、お前の能力の正体だ」
『アハッ』

 少年の開陳した推理に、日数は感情をこぼすように笑った。
 自分を理解された事が、日数には喜ばしかった。やはり雷穢忌役というのはお祖母様の言う通り、他の玩具とはひと味違うようだった。

『スゴイスゴイ、大正解ダヨ。景品ヲ進呈スルヨ』

 手振りして、少年の周囲に待機させていた焼死体の操作を開始する。発破の準備も並行して行う。黒霧の操作は中々に困難で、彼の指摘した通り死体操作も発破術も精度に欠けている。練達の武芸者であれば、回避はさほど難しくも無い。だが、物量で押せば問題無く仕留められるだろう――
 突進してくる彼らを、忌役は見向きもしなかった。
 彼らの間を通り過ぎて、日数と焼死体の間の地面を斬りつけただけだった。
 それだけで、死体は操作から離れて自然のままの骸へと還る。

『……エ?』
「お前の能力は理解した。その制約も」

 そう言う間にも、少年は爆発寸前の黒霧と日数の間の地面を同じように叩き斬る。霧散して、周囲の火焔にその身を焼け焦がしながら大気を舞う日数の一部たち。

「お前は、どのような方法で知性を保持しているのか? 一定量のプランクトンの配列で〝回路〟を構築しているのだと、俺は推測した。なら発破術と人体操作を行うお前の分身も、同じように思考しているのか? 答えは否だ。これらは攻撃手段である以上流動的で、回路と同一のパッケージングは困難だ。余分に分身を消耗もする。お前は指令を送って、これらを動作させているんだ。回線はこのように、地面に配置している」

 少年の冷徹な声を聞き、日数の愉悦が凍る。

「司令塔たるお前と、攻撃を行う分身を分断すれば、お前は無力になる」
『――ヒ』

 嗜虐心から反転した恐慌に全身――身体を構築する微生物を振動させ、日数は後じさった。
 無力、という言葉が、絶望の色をした電流として全身を駆け巡っていく。
 もう自分は無力などでは無くなったはずなのに。
 生来の病ゆえに寝所から一歩も出られなかった少年時代。周囲に配置された玩具に、手を伸ばす事すら出来なかった。
 ――力の制御を覚えよ。さすればお主は、その身の脆弱から解放される。それ以上に、最強にもなれるやも知れぬぞ?

 祖母の甘い言葉を思い出す。父も母もとうに日数を捨てていて、他家から時折訪れる彼女のみが自分の肉親だった。意趣返しに両親を殺す手助けも、彼女がしてくれた。
 かつての無力さを思い出し、全ての自信が瓦解する。寄る辺となるのは彼女だけだった。

『オバアサマ、オバアサマァッ!!』

 恐怖の対象でしか無くなった少年から背を向け、日数は逃走する。
 ――日数が最初の場所からほとんど動いていないのは、この身体が移動に不向きである為だ。
 健脚の武人から逃げおおせるはずもなく、日数が振り返れば忌役の少年はほぼ間近に迫っていた。

『ヒィアァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』

 日数は奥の手を遣う。左手を切り離して、少年に投げつけ――爆破した。
 吹き上がる猛火。少年が紅蓮に包まれて影すら消える。

『ヒッ、ヒハハッ、ヤッタァ!』
「――市井と縁の無い武家のお前に、一つ教えてやる」

 その声は、炎の奥からから聞こえてくる。
 火焔を突き抜けて飛び出してきた少年は、身体の前面を暗緑色の布で覆っていた。それを投げ捨てつつ、

「民家にはこうしたものが、必ず数枚ある。難燃繊維製の防火布だ」
『……ア、ア』
「そこの、それによる事故の対策だな」

 少年は指差した。日数の頭上を。
 既に彼が投げつけていた、灯明の油を納めた壷がそこにある。
 ――少年は無造作に鞘から刀身を抜き放ち、壷を叩き割った。
 ぶちまけられた油が日数に降り注ぎ、瞬く間に、周囲の火の粉により着火する。

『ピギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』

 瞬時に全身を侵食する熱感に、日数は絶叫した。
 斬撃は良い。打撃も効かない。銃撃もそうだ。
 だが、これだけは。
 全身を隈無く焼き尽くされれば、日数の思考を構築する回路が維持出来なくなる!

『焼ケル、焼ケルヨォッ! 分カラナクナル、ボクガ、分カラナクナル! 消エルケルるるルるルルるるルるるるRRRるるるるるRるぅ!』
「俺は、貴様を殺すと言った」

 焚き火を眺めるような無感動な目で、のたうつ日数を見送る忌役の少年。

「だがこれは、仇討ちなどではない。ましてや断罪などでも……貴様は正しかった。俺とお前は、まさに同類だ」

 彼はそう告げて、日数に背を向け立ち去っていく。

『ウ……Gu……Rう……オバァ……サマ……』

 日数は最期の思考を終えて、少年と逆の方角へ吹く風に溶け、流されていった。



 戦いを終えてみれば、周囲の家屋のほとんどが全焼していた。更に火の手が外側へ広がろうとしている。逃げていった町人を追い掛けるように。
 火傷の痛みと、軽い酸欠に喘ぎながら、いなきは炎の広がり行く南西の方角へと歩き出し――不意に、後方を向く。
 あそこのどこかに、鶴翁の欠片があるのだろう。無残に殺された子供たちがいるのだろう。顔も知らぬ無数の死人が落ちているのだろう。

 いなきを追ってきた猟犬に、ついでのように噛み殺された人々。
 ――何よりもおまえの道は、無関係の人間をゴミのように殺し尽くす屍山血河よ。
 かつて妖姫の言っていた通りになった。さすがは八百八町最長老。騙すつもりがなければ、おおむね正しい。
 笑い出したくなりながら、それを奥歯を噛みしめる事で自制して、いなきは歩みを再開する。



[36842] 2j/剛刀介者
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/02/28 20:35
 欣厭大路の二つの道を結ぶ最大の橋梁たる永世橋。
 そこに辿り着いたいなきを、橋の中央で待つ男がいた。

「日数を倒したか」

 それが歓喜に満ちて迎えるべき事柄のように、大造りの顔を笑みへと歪ませつつ、巨大な男は言った。僧兵頭巾を被り、着物の内に帷子(かたびら)を着込んで、手には薙刀を持っている。

「かか。なんとも幸運な男よのォ、儂は。大殯に入り、後は退屈な余生を送るのみと諦めておった所に、このような良き兵(つわもの)とまみえる栄を得るとは。善哉、善哉なり」

 くはっはっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
 快活に天へと哄笑を放つ男に、いなきは問うた。表情は強張り、その声音はすり切れている。

「これは、なんだ」
「あん?」
「これはなんだと聞いている!」

 八幡祭の最中でありながら、目抜き通りであるはずの欣厭大路はかつてない程に空疎であった。
 永世橋の橋板には、刺又や突棒、刀槍の類が折られ、あるいは砕かれ散乱している。
 その持ち主である武士たち、そしてそれ以外の橋板に痕跡を残す事のできない、非武装の町人たち――彼らは、橋の下にいた。
 大樹江に浮かぶ小船の間に、本来あるべき隙間は今、存在しない。刻まれ、あるいは砕かれた五体がそれを埋め尽くしている。
 この川は、死体で充満していた。

「おお、これか!」

 男の快活さには、揺らぎ一つ無かった。役者のように良く通る胴間声を使い、男は告げる。

「こうも人が多くては、貴公を見逃すかも知れなかった! それではつまらぬ! ゆえに儂は決めた! 今宵は何人たりともこの橋を通さぬと! ならばここを抜けんとするもの全て我が敵である! 奴ばらめは儂と相対して敗れたものどもよ!」
「お前は……深川の武士ではないのか! 永代島の民を守護するのが役目では」

 いなきは、怖じ気から逃げるように罵声を張り上げる。この男に対してではない。橋の下の死者たちに、痛烈な恐怖を覚えていた。

「青臭い事を申すな、若武者よ」

 対する男の声音には、太陽の如き明朗さしか存在しない。

「そのような下らぬ虚飾に毒されるな。武士の役目とはただ一つ、敵を殺す事のみよ。そうした理屈は、弱者どもが我らの戦の尻馬に乗って利益を得る為に弄した甘言に過ぎぬ。儂らはただ、殺し殺されに耽っているだけで善いのだ」

 平然と言い放った男の瞳の示すものは、あまりに明快だった。そこには、否定、疑念といった類の感情が存在していない。
 この男は真っ直ぐに、己を全肯定しているのだ。
 自分を、信じているのだ。
 ――怪物、であった。

「っ……い」

 そうしたものとは遥か縁遠い苦痛にうめいて、いなきは腰を落として刀の柄に手を掛ける。
 ――何よりもおまえの道は、無関係の人間をゴミのように殺し尽くす屍山血河よ。
 蜘蛛姫の毒に満ちた警句が再び脳裏に反響する。
 ――殺しましょう。屍が水漬く程に――それが叶わぬ時に、死にましょう。
 妹の言葉が、自分の覚悟の不足を責め立てる。実際に水面に浮遊する死者たちを見て、いまさら自分の道の業深さに怯えるなど、なんたる惰弱さかと。
 それでも、問わずにはいられなかった。
 まだ……死ぬのか? どれだけ俺は殺すのだ?
 男はいなきの煩悶など想像すらしていないとばかりの鷹揚さで、薙刀を構えて言い放つ。

「御門八葉が一、足影家当主、沢瀉なり! 若武者よ、参られい!」



   /

 山嶺からの暴風の吹き下ろしじみた薙刀の一撃を、すんでの所で回避する。
 ――現実史では、江戸時代の時点で既に槍の後塵を拝し、婦女の嫁入り道具とまでに形骸化したその武装は、八百八町においては比較的高い地位を得ている。この兵器に価値を見出した未那元家体制が存続しているからでもあるが、何より徒戦にある種の利点を持っているからである(戦闘の様式が都市戦と海戦に限られる八百八町では、騎馬の介入する余地が無い)。
 その利が、いなきの側面から襲い掛かってくる。

「ぬぅあっ!」

 気合いと共に沢瀉が繰り出したのは、薙刀の柄――石突きに装着した小ぶりな刃であった。側面から斬り込もうとしたいなきは、後退を余儀なくされる。
 そこに、果敢に追撃をかける沢瀉。柄の回転の運動力を利用した素早い切り返しで、再び斬撃を繰り出してくる。身体ごと屈めたいなきの頭上すれすれを、ぎらついた刀刃が行き過ぎる。
 古今東西の数々の歩兵武器においても希な攻撃の多彩さを有する薙刀、そしてその性能を活かす男の技術。日数とは真逆の、正攻法の強敵であった。

(近寄れない……!)

 男の構築する刃圏の中に、入っていけない。
 理由は、薙刀の刃部と柄を交互に使う事によるリカバーの早さだけではない。刀剣と長柄が相対した時に、前者が確実に被る不利。

(間合いが、広すぎる!)

 沢瀉は自分の巨体と薙刀の長さを掛け合わせた広大な攻撃範囲を正確に把握しており、有効射程の境界でいなきをあしらっている。
 相生剣華を使っても出遅れてしまう程に、彼我の距離は遠かった。

「くっかかかかかかっ! 小兵めが、もっと知恵を絞らんか!」
「小さくは……ねぇよッ!」

 球形の嵐のように薙刀を振り回しつつ叫ぶ沢瀉に、回避を続けつついなきは叫び返す。
 会話で生じた隙に、攻め手を変える。この斬撃を、自由にしては駄目だ。
 薙刀の払いの軌道に、刀刃を差し出して受ける。打点を外しても、大波を全身で浴びたような衝撃が骨身に浸みた。靱性の高いダマスカス刀でなければ折られていたかも知れない。

「ほぉっ!」

 歓声を上げる沢瀉。

「意外な剛力――されど悪手ッ!」

 そう言って男が放ってきたのは、薙刀ではない。
 丸太を引き抜いて取り付けたような太い脚が、払いの方向の逆側から襲い掛かってくる。
 背筋に感じた戦慄を全力で無視して、いなきは蹴撃をしゃがんで避ける。

「もォう一本!」

 気合いと共に、頭上から強襲する薙刀の石突。

「がっ!!」

 こちらも打点を外したが、男の膂力は想像以上だった。背中を痛撃され、そのまま橋板に叩き付けられバウンドする。
 中空でバランスを取ってどうにか足場を確保し、いなきは後退した。

(力技じゃ、勝負にならない……)

 胸の内で、彼我の格差を認める。
 勝利を諦める言葉では無い。十歳になる前から武術に没頭してきたのだ。力で勝てる相手など、今までほとんどいなかった。観察、考察。経験に優れる大人たちと張り合うに必要なものは、思考を絶えず続ける事。
 そして、思考の導き出した戦術のリスクを、受け入れる事。

(小兵と言ったな。なら、その勝ち口に嵌って貰う)

 そう胸中で宣言して、いなきは再び沢瀉の攻撃圏内に侵入する。第一印象に似合わぬ多彩な攻めを回避し続ける。予定調和的な膠着状態であり、それは沢瀉の思い通りの展開だろう。日数との戦闘を経たいなきと、体格に恵まれた沢瀉のスタミナの差は明白であった。動きを鈍らせて被撃するのはいなきの方だ。
 無論、彼はそれを待つつもりなど無い。

(来た!)

 回避の方向によって誘い込んだ、狙い通りの攻撃にいなきは歓声を上げる。狙いは一点、勝機は一瞬、そこに踏み込む。
 下方から斬り上げられる薙刀の石突。その切っ先の根本に足を置き――宙へ飛び上がる。

「……ッ!?」

 沢瀉は困惑の極みにあるのだろう。彼はいなきの姿を捉えられていない。いなきは、ただ男の斬り上げの力を利用して跳躍しただけではないのだ。
 インパクトの瞬間、いなきは己の体内を操作した。
 全身の筋肉、特に深層筋を動作させる事で重心を上昇させ、一瞬、下方にかかる力をゼロにする。
 斬り上げの力を全く殺さず、急加速で上昇する。沢瀉の感じた手応えはほとんど無かったはずだ。

 ゆえに――彼は完全に、いなきの姿を見失う。
 大陸の拳法における、化勁(かけい)、軽功(けいこう)。

(お前たちに憑人の能力があるように、俺たちにもアドバンテージはある)

 沢瀉の無防備な背後に落下する最中、いなきは声に出さず告げる。

(忌役の保有するデータベースに蓄積された武術理論は、お前たちのそれより遥かに広く緻密だ)

 少なくとも武術家として相対したならば、いなきは深川武士の誰にも遅れを取るつもりは無かった。
 ――沢瀉の背を斬りつける事で、いなきは自身の位置を彼に教える。
 分厚い岩のような背筋に、深々と切っ先が潜り込んだ。駄目押しに、相生剣華・草ノ行――峰を陰刀で押し込む事で更に傷を抉る。
 胸腔奥深くの肺に斬り込んだ手応えを感じ、いなきはその場から飛び退く。鼬の最後っ屁よろしくの一撃を喰らっては面白くない。
 それは、勝敗が決した事を確信した思考である。
 ――そして、その想定は直後に裏切られる。

「くはっ」

 巨漢は背を向けたまま、

「ぐあっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!」

 濁った哄笑を上げた。
 明らかに呼吸器に損傷を受けたと分かる声でありながら、そこに苦痛の色は一欠片も存在していない。
 沢瀉がこちらを振り向く。口の端には、やはり血の泡が浮かんでいる。

「好い、やはり好い。強者との血沸く戦は愉しい。海魔の率直な強さも素晴らしいが、こういう搦手も有りだのォ。致命傷を受けたのも、初めてである! 痛い! とんでもなく痛い! おぉ、痛快という言葉はこういう事を言うのか!」

 冗談めかして言い放ち、更に哄笑を重ねる。
 いなきの内心は、彼の剛胆とは程遠い所にあった。

「効いて、いないのか……?」

 戦慄を込めて思わず口にすると、沢瀉はそれを聞き咎めて、

「いいや? 申したであろう。間違い無く貴公の太刀は我が命に届いておる……ふむ。あと一刻もすれば絶命するか」

 まるで他人事のようだった。いなきの一撃は、巨漢の肉体を傷付けてもその精神には何ら損傷を与えていない。
 口元から赤黒い血の筋を流しつつも、これまでと変化の無い快活さで沢瀉は言った。

「貴公と決着を付けるには、十分よ」

 ――ぎぢり、と。
 巨漢の筋肉が、更に膨れた。
 内に着込んだ帷子ごと僧兵の衣が破れ、そこから覗くのは深緑の外皮。
 武術家として相対したならば、深川武士の誰ともいなきは負けるつもりは無い。
 そして、深川武士の頂点たる御門八葉は、武術家などといった脆弱な存在ではない。

「愚げっ、ゲ臥ッ、がががガGAGAGAGAAA阿亜AAあAAAAAAAAッ!!」

 その音は人のものとはかけ離れた怪奇を示しながらも、どこか赤子の産声に似ていた。
 変異を遂げた沢瀉――巨大な、人型の甲殻生物の、漆黒の眼球がいなきを捉える。
 感性の奥底から発してきた警告が、いなきを後方へ飛ばせた。橋の欄干を超えて、川を眼下にする中空へと。
 遠く離れて沢瀉の全容を見定め、その脅威の姿を知る。
 高々と掲げられた、右腕の倍ほどにも肥大化した左腕の鎌。

『斬ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!』

 裂帛の叫声――その瞬間、それ以外には何の音も存在しなかった。
 遥か天空に構えられた鎌は、そこから消失していたというのに。
 いなきはその理由を知る――音より先に推進する斬撃の発した衝撃波(ソニックブーム)を受け、吹き飛ばされる事で。

「があっ!」

 悲鳴を発しながらも、いなきは全力で体感覚の把握に集中する。衝撃波の威力ゆえに、滞空時間が長かったのが幸いした。天地の位置を把握し、落下点を見定める。最適の受け身の体勢を取り――後は、全てを覚悟するしかない。
 大樹江に滞留する小船の一つに着地、というより墜落し、船ごと一丈(3メートル)も押し流されてようやく止まる。
 身体の発する信号を全て無視して即座に立つ。直後、肋骨に激痛を覚えたが、それについて考えるのは後回しだ。

 沢瀉の周囲は、惨憺たるものだった。
 いなきの落下した地点より十丈(30メートル)も離れたそこでは、攻撃の余波で永世橋が破壊され、橋板の破片を川の中に散乱させている。
 それらの中央にあって、水中に半身を沈めた巨大な甲殻生物。

(青竜蝦(シャコ)……か!)

 今し方受けた攻撃を考えても、疑いようが無い。青竜蝦という海棲生物は鎌状の補脚を持っており、これを叩き付ける事で貝を割り、捕食する。
 その際、補脚の速度は音速に達するとされる。
 御門八葉の怪人、沢瀉の場合はそれだけではないと、いなきはその全身を観察して理解する。
 通常の青竜蝦とは違い一本のみの、補脚の役をこなす左腕。それが変異を続けている。
 いなきが注目したのはその逆側、右腕だった。

 左腕の肥大化が進むとともに、右腕の体積が減少している。左腕が、右腕の肉を吸収しているのだ。
 障気で自分の肉体を歪ませ、その組成を変化させている。
 右腕を喰らって、更に強大になっていく左腕。特に、関節が増殖している。
 運動の速度を決定する要因の一つに、柔軟性がある。関節の増加はそれに寄与する。今、それが百節にも達した左腕が保持する速度は、先程と比べても桁違いだろう。
 厳然と、理解する。
 ――俺には、勝てない。

 状況の本質は、先程までと同じだった。沢瀉が保有する広い間合いを、いなきが攻略するという。
 ただ、彼我の能力差が格段に開いており、いなきの勝利の可能性をゼロにしている。
 沢瀉の攻撃範囲は三倍ほどにも伸張し、何より、速度が人間の知覚に捉えられる領分を大きく逸脱している。
 猛禽とほぼ同性能のいなきの視力であっても不可能だった。
 相手はただ、間合いに入ったものを自身の最大の武装で攻撃するだけで良い。単純明快で、強力無比の剛剣。

 ――〝き〟と、同一の戦型。
 それが彼女より遥かに劣るとしても、いなきに対処出来る範囲を超えている以上は同じ事だった。
 逃げる、という選択肢は存在しない。川は、水棲生物たる青竜蝦の領域だった。この場で逃走を始めても追いつかれる公算が大きい。
 倒すしかない。
 そして、沢瀉の能力がいなきを超越している以上は――自身の能力の、限界を超える必要がある。
 その手段を、いなきは教わっている。
 それを教えたのは師では無かった。

(同一の戦型……それでいて、この男があいつより劣るのは……あいつが、絶対的な知覚圏を持っているからだ)

 ――瞑想の効果とは、意識の変容です。世界そのものが変質する訳ではありません。ただ、流入する情報の入り口が広くなる為に、世界の観え方が変わるのです。空間も、そして時間も、あるいは言葉にすらできぬ観念も。
 妹はそう言った。
 ――わたしは、それを修得する事のみを目的とする環境で育てられました……だからこれだけは、あなたに教えられます。けれど、
 戦闘に不要な回想は切り捨てて、いなきは習い覚えた技を行使する。

(〝巫術〟――鏡花水月)

 呪文(コマンド)を自身に入力する。戦闘中に瞑想状態に入るには、こうして意識にスイッチを作る必要があった。パッケージングされた瞑想の工程を解凍して、処理をRUNする。
 未那元宗家第一王女・斎姫が修得している瞑想術は、一般的な通説である思考からの解放とは真逆のものだ。目的を設定し、過程を明確にイメージする事で完成される。存思、と彼女は呼んでいた。

 いなきの場合は、鏡花水月――鏡に映る花、水に映る月を掌握する事を空想する。その為に即した精神を構築する事で、己の心を超人の領域に引き上げる。
 五感の概念を捨てる。
 思考の基幹は脳髄ではない。
 皮膚、毛髪、眼球、筋肉、骨格、内臓、全てが思考し、全てが感覚する。

(速く)最大倍率の顕微鏡で覗くように(疾く)イメージの花と月を観測する(もっと)花の細胞、月の鉱物の組成を寸刻みで解体し、情報を喰らい尽くす(遅い)人の感覚でフィルタリングされていた美しいそれらの実相を把握すれば(鈍い)吐き気を催す程に醜かった(はやく)捕食をする。ガスがある。萎れる。滅びる(はヤク)それを無視して更に深く深く深く深く深く観測を続ける(は)完全にその存在を理解する(や)そうすれば人の手に触れ得ぬものを握り潰したのと同じ事(く)己の精神は、人間を超える――
 そして、内観世界から帰還する。

『※%##@――』

 十丈ほどの近くで、青竜蝦の発声器官らしき箇所から何か音が聞こえている。違うといなきは思う。感覚が加速している時の、言葉の捉え方はこうじゃない。早く修正しろ。まだ間に合う。相手は実際にはまだひと文字ぶんも発声を終えてない。

『この姿には正直なりとう無かったのだが……』

 などと沢瀉は身じろぎしながら、

『あ』
「あまりに早く終ってしまうのでな、愉しめぬ」

 遅すぎる言葉に、先回りする。沢瀉の発言を予知するのは簡単だった。憑人の筋肉のゆるみがその倦怠を教えている。声帯と舌の動きを観察すれば口調まで真似が出来る。

「よく分からぬが、面白い。――まだ、興ずる価値はあるようだ!」

 沢瀉の発しようとした次の言葉を完全に盗み取って――いなきは疾駆した。
 船の縁を蹴って、次の船へ飛び移る。沢瀉へ至る道筋を最短距離で踏破する。

『くはっ!』
「八艘跳とは、洒落が利いておるわッ!」

 加速した知覚の中での、自分の動きのあまりの鈍さに、いなきは焦燥感すら抱いた。体内を感覚し、修正を繰り返し、動作を最適化させる。鍛錬を尽くしたと思っていたが、運動の無駄は手の付け所に迷う程に多かった。
 五艘目の船の縁を蹴った時、船は反動で揺れなくなった。
 軽功の精度が、自重を消すまでに向上したのだ。
 あと〇.五〇七一秒で八艘目――沢瀉の攻撃射程に到達する。
 速くはなった。しかし、超音速には程遠い。あくまでいなきは、人間の肉体が発揮できる性能の限界に到達したに過ぎないのだから。

 ――八艘目の縁に、左足の爪先が、触れる。
 既に鯉口は切られ(沢瀉はまだいなきの、自分の射程内への侵入を知覚していない)
 自重を再び地に落とし(まだ気づかない)
 不安定な足場を崩さぬ、最小の力加減で踏み込む(今、感知した)
 発生した反動を体内で循環させる(補脚の筋肉が駆動する)
 切っ先が鞘から抜ける(補脚が推進を始める)
 ――振り下ろされた補脚の関節の内、半ばにある一つに切っ先が一寸、潜り込んだ。
 それが斬撃を、小さく押した。沢瀉の〝鎌〟はいなきの頭上遠くを通過し、水面に叩き付けられる。

 だが、それだけでは不足。
 鎌より遥かに広い攻撃範囲を持つ、超音速の恩恵である衝撃波。
 ――巫術による超感覚は、自然現象も知覚の範疇に納めている。
 粘った空気の塊を、相生剣華で具象化した陰刀が切り裂いた。
 吹き荒れる乱流。だが、肉体を破壊する程ではない。
 足場から、強い力が発生する。沢瀉の斬撃による衝撃で水面が盛り上がり始めている。いなきは再び軽功を使い、水面の爆発に乗って跳躍した。
 そこで、集中が切れる。

「……っ!」

 情報量の減少にパニックを起しかけつつも、摩耗した精神を更に酷使してそれを押し止め、姿勢を立て直す。落ち着け! どちらにせよここからはもう感覚の増幅は必要無い!
 沢瀉の首にしがみついて、甲殻の隙間から首を刺した。

『ごあ……っ!』

 口から吐き出された血泡が、いなきの頬を濡らした。
 それだけでは足りぬと、いなきは貫手を沢瀉の眼球に突き刺す。水晶体を押し潰した不快な感触を無視して更に深く手を潜らせ、脳を探す。今仕留め切らなければ、自分は負ける!
 柔く生暖かい手応えを指先に感じ、それを掻き回した。

『ごあAAAアァあAああああああああああああああああああああああっ!!』

 沢瀉は絶叫を上げて身体を振り回す。いなきは吹き飛ばされて、川の対岸に落ちた。

「……ぐっ」

 既に折られていた肋骨に衝撃を受けて、苦痛にうめきながら、それでもいなきは動き続ける。地虫のように這って、逃げようとしていた。万策尽きた。戦う力が残っていない。その上、すぐにでも反動がやってくる。そこを襲われたら確実に死ぬ――

『待てい! 若武者よ!』

 その背に、声がかかった。振り向けば、川に立ち尽くしたまま沢瀉が静かにこちらを視ている。

『逃げずとも良い。貴公の勝ちだ。間も無く儂は死ぬ。……勝者の背中を、儂の末期の風景とせんでくれ』

 青竜蝦の魔人の声は、どこまでも安らいでいた。

『九千百五十八』

 沢瀉は一言、その数字を告げる。

『戦を、儂は人の数で覚える。勝ちもした。負けもした。強者もいた。弱者もいた。愉しくもあった。つまらなくもあった。何にせよ、儂は戦しか知らず、他の事を覚えてもおらん。当然、戦で死ぬものと思うていた』

 不意に、沢瀉はうめき声を上げる。命の終わりを示すそれすらも、今は小さかった。
 あるいは、耐えたのかも知れない。雄々しく、あくまで武士らしく。

『だから、大殯まで生き残ってしまったのは、我が一生の不覚であったのだ。倦怠に満ちた死を迎えるはずだったのを、この大樹江にて貴公とまみえた縁。儂は御仏の加護とも思うておる。このような仮初の庭にも、そんなものがあったのだな』

 怪物の面相に表情の判別などつきようも無かったが、それでも、男が笑っている事はどうしようもなく理解できる。
 一言、沢瀉は言った。

『ありがとう』

 それきり、魔人は沈黙した。立ったまま、絶命したのだ。
 その足下には、砕かれて死んだ人々がいる。
 水面に浮遊する肉塊――それに、雨がひとしずく落ちた。
 ぽつ、ぽつ、と。やがて本降りになるまで、いなきはその場に倒れ伏し、

「ふざ……けるなッ!」

 地面を掴んで、叫んだ。

「笑って死ねるような奴がッ! 礼を言って死ぬような奴がッ! どうして殺すんだ!こんな……なんで」

 頬が雨に濡れる。涙などではない。断じて。
 泣いて自分を慰める資格など――

「お前には、無いよな」

 水面から、声が聞こえた。

「……っ」

 浮かぶ死者が一人、立ち上がってこちらを見ている。それをきっかけに、一人、また一人と死者が水面に立ってこちらを見定める。
 その死者の群れには、ここで死んだのではない鶴翁の姿も混じっていた。

「ヒっ」

 幻覚と分かっていても、悲鳴を上げてしまう。

(……反動だ)

 巫術の反動。精神の酷使は当然、精神に負荷をかける。幻視、幻聴、妄想。思考の混乱。〝き〟は巫病と古風な呼び方でそれを呼んだが、病理学上は違った名がついている。
 統合失調症(スキゾフレニア)と。
 ――鶴翁が、自分を見ている。眼球が焼け落ちて窪んだ眼で。

「そこもとの戦いに、某は巻き込まれた。この無垢な子供たちまで」

 その周囲に、自分の首を抱えた子供たちが現れる。

「貴様に何の資格があって、そんな真似ができるというのだ」

 死者の問いかけに、いなきは答える言葉を何も持たなかった。事実、自分にそんな特別さなど、資格など、ありはしないのだから。

「なら、なぜ続ける?」

 幻覚ゆえに、自分の思考そのままに鶴翁は問いかけた。

「これ以上そこもとの為の死者を増やしたくはないのなら、貴様はここで朽ち果てるべきだ。そうではないのか?」

 その通りなのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。
 そう思考した瞬間に、堰き止められていた疲労が雨と共に降りかかってきた。
 暗幕のように落ちてくる眠りに、いなきは感謝した。己が無数に重ねた罪の姿を、これで見る事はなくなるのだから。



[36842] 2k/復讐鬼
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/03 17:54
 目を開けると、道場の床にぽたぽたと汗を垂らしながらも必死に木剣を素振りしている子供の姿があった。
 いなきは自分が目覚めた訳ではなく、夢の中にいる事を悟る。子供がいる場所は町道場の類ではなく、百人単位で人を収容する雷穢忌役の練兵場であり、その子供は平均的な八百八町人の特徴とはかけ離れていながら、渡来人の類とも異なる――金髪、金の眼をしていた。

 自分の幼少時代、なのだと思う。
 ひたむきに修錬に励む子供の顔を、そうだと確信する事がいなきには出来なかった。
 子供の表情には、輝きしか、自分を肯定するものしか存在しなかったからだ。
 故郷を滅ぼされた怨恨は、今自分の顔を覆っているものほどの影をあの子供に落としてはいなかった。明確な仇敵の存在があり、それを倒す為に鍛錬を続けている。そこに疑いは一欠片もありはしなかった。

 ――だって蠱部尚武はおれの村をなくした。みんなをころした軍の大将で、それに、さくやさまをころした悪いやつだ。
 あいつをころすことは、正しいことなんだ。
 ――当時の自分の思考の多くを占めていたものを思い出し、衝動的にあの子供をくびり殺したくなる。
 自分を正しく愛せるのは自分だけ、という意見も世にはある。美徳を、努力を、功績を誰より知っているのは自分なのだと。

 それならば逆の事も言えるのではないか。
 自分を正しく憎めるのは。醜悪、愚劣、罪科の実際を知る事ができるのは、それも自分だけなのだ。
 だからいなきは、自分を嫌悪している。
 ――遠い、と感じる。あの子供と自分との距離がひどくかけ離れたものに見える。
 それは、今の自分がどうしようもなく抱える歪みに起因するものだ。

 どうしてこうなってしまったのか。
 武州の滅亡ですら与えなかった歪みを、あの子供に与えてしまった日はいつか。
 はっきりと思い出せる。
 十三になる前の、ぬるい雨が降り注ぐ夏の日――



 唐突に脇腹を襲った痛みに、眠りの世界から釣り出されるようにして、いなきは跳ね起きた。

「あ、ご、ごめん兄ちゃん」

 頭上から申し訳なさそうな声が降りかかってくる。何を謝っているのか分からない。視界が悪く、状況が把握できていない。砂嵐が吹いている。真っ白な嵐がざぁざぁと眼前で荒れ狂っている。自分は、砂漠にでもいるのか。
 あれ?
 さばくって、なんだっけ?

「……がっ!」

 脇腹の痛みより増して神経に障る頭痛に悲鳴をあげる。脳髄を内側から金槌で殴られ続けているような痛み。

(はんどう……はん動……これは、反動だ)

 何の、とは思い出せないが。ともかく耐え続けていればこれはいずれ収まる。あれをやった後は、ただひたすら嵐が過ぎるのを待つようにしろと、誰かが言っていた。兄さま、と。なぜか懐かしい響きのする声が聞こえてくる。
 ――けれど、兄さま。覚えておいて下さい。
 巫術は、あなたに適合しない。

 おそらくは精神の在り方の問題なのでしょう。あなたは、本来〝専心〟する事にまるで向いていないのです。……あの時見た兄さまの本質は、おそらくそれとは真逆の、
 ……すいません。なんでもありません。
 ともあれ、巫術を使うリスクは、わたし以外の誰であっても発生します。
 しかし、あなたは誰よりもそれを大きく被ってしまう。
 精神を摩耗させ続ければ、いずれ、還ってこれなくなる。
 兄さま、わたしは、

「兄ちゃん! 大丈夫か!」
「……死にそうだ」

 耳元で怒鳴りつけてくる子供の声に、幻聴がかき消される。幻聴、と自覚すれば全ての幻覚が消えていく。周囲には吹き荒れる砂嵐など無く、どこぞの廃屋と分かる、壁板のあちこちが剥げた部屋に自分は横たわっていた。
 隣にいるのは妹ではなく、更に年若い少年だった。明るい、日なたにある土のような髪色をした――

「し、死ぬとかそんな弱気な事言ってんなよ! おれ、脇腹ふんづけただけだぞ!」

 確か、蒲といった――鶴翁の養っている、いや、養っていた子供。

「お前、生きて……」
「うん」

 こくり、と蒲は頷いた。

「おれ、鶴じいたちを置いて、ひとりで先に出店に行って……飴を買って戻って来たら……文汰も、なみも、河次も……鶴じいも」

 泣き明かした後と分かるかすれた声音が、段々と湿っていく。表情も、一夜を泣いて過ごした為に力が入らず無表情とすら取れるものになっていた。
 二度も親を失った子供は、哀しみにくれていた。かつての自分と、同じように。

「でも」

 どう声をかけるか迷っていると、蒲はふいにそう声を上げた。かすかな、明るさを交えた声音だった。
 そう言えば――といなきは今更に疑問を覚える。この、自分に反感を覚えていた子供がなぜこんな友好的な態度で自分に接するのか。しかも状況からして、蒲は気絶した自分をこの廃屋に運んで面倒を見たようだった。
 どうして。そんな道理は、全く存在しないはずなのに。
 半ば寝惚けた頭で子供を見つめていると、その口が笑みの形になって言葉を吐いた。

「兄ちゃんが鶴じいの仇を取ってくれたから」
「……え?」

 いなきは、ぼやけた頭に不協和音めいたものが響くのを聞いた。想像だにしていなかった言葉を耳にしたような気がする。
 この子供は、何を言っているのか。
 まとまらない思考に、蒲は次の言葉を差し込んでくる。

「それに、橋で人をいっぱい殺したバケモンも倒して――みんなを守ってくれた。すっげぇ強い侍なんだな、兄ちゃん」

 ……?
 ……………………………………………………………………………………?
 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………?
 仇を、取った?
 みんなを、守った?
 何を、言っているのか。
 そんな、事実とは真逆の事を。
 俺は――

(……そうか)

 子供の顔を見て、ようやくいなきは蒲が何を思っているのか気づく。その表情には、あまりに見覚えがあったからだ。
 この子供が今、示しているものは、
 憧れだ。
 ――すごいですね、林座(りんざ)さん。
 ――おれも、林座さんみたいに強く、
 ゆるんだ精神の隙間を縫うようにして、過去の言葉がにじり寄ってくる。
 それに触れて、現在のいなきは反応を返した。顔を歪ませたのだ。子供が率直に示す愚かさへの、嫌悪に満ちていた。

「……馬鹿餓鬼が」

 侮蔑を極めたような一言が、自然と口から漏れる。蒲は、それを察する事もできずに首を傾げた。
 そこに、叩き付けるように叫んだ。

「奴らは、俺を追ってきたんだ!」

 実際に殴られたように、蒲の顔に驚きが浮かぶ。いつもの、敵を倒す時のようにその隙を突いた。

「俺は九重府の殺し屋で、奴らは六孫王の近衛だ……俺は、俺の敵と戦っただけだ! あの爺さんは、それに巻き込まれて死んだ!」

 それが事実だ。いなきは何も守っていない、救っていない。ただ、殺し合っただけだ。
 八葉といなき、そのどちらかが欠けれていれば、今夜は誰も死ななかった。この両者は全く同質であり、つまり。
 ――いなきは腰の小刀を疲労で震える手で抜き付けて、切っ先を蒲に差し出して告げる。

「俺は、お前の仇だ」

 人殺しの向ける敵意にただの子供が抗えるはずもなく、ひぅと小動物めいた悲鳴をあげて蒲は逃げていった。壊れて開け放しの扉の向こう、さらさらと雨の降る、明け方の町中へと消えていく。
 小さい背中がいなくなると、いなきは床に叩き付けられるように転倒する。疲労しきった精神と肉体の両方が今し方の無理に抗議している。休息の必要があった。

(……駄目だ)

 悲鳴を上げる身体に活を入れようとするも、震えるくらいの事しかできない。立ち上がる為の気力が巫術で摩耗しているのだ。
 それでも、立たねばならない。

(早く……合流して、殯宮へ入らないと)

 追手がかかっている。〝き〟ならば対処は可能だろうが、足手纏いも抱えている現状では楽観視も出来ない。それに、妹の能力の源泉は特殊で、ひとたび消耗すれば大殯の儀の間では回復しない。だから、自分が矢面に立つと約束したのだ。
 何より、

(御門八葉とこれ以上、深川で戦うわけには……)

 連中の能力は強大で、その上それを制御する気が無い。町中で戦闘を始めれば確実に犠牲が増えていく。
 気力が磨り減っているなら、殺意を身体に叩き込んで――いなきは立ち上がった。刀を杖にする訳にもいかないので、廃屋にあった木切れを掴んで歩いて行く。
 扉を抜け、外に出る時に、ふと声が漏れる。

「生きてた……」

 自分が脅しつけた子供の事を思っていた。喉の奥に、つまるものを感じる。
 泣き出さないよう目尻に力を入れつつも、いなきは呟く。

「生きてた……生きてた……生きててくれた……」

 蒲が生き残ったのは自分の働きなどでは決してない。己の為の、慰めにしてはいけない。
 それでも、感謝すべき事だった。たった一人でも、自分の為に死ななかった人間がいた。それも、恩人が愛した子供が。

「ありがとう、ございます……ありがとうございます……」

 神か、仏か、それ以外か。なんでも良かった。あの子供に生存する運命を与えた何かに、満身から感謝を捧げたかった。
 町の雑踏は、昨日の大事件で祭りとは違ったざわめきに溢れている。その中でもいなきを認めて、気味悪そうにする者もいた。それでも構わず、いなきはありがとうと呟きながら杖をつき、歩き続けた。



     /

 惨事の翌朝の永世橋は、人で賑わっていた。
 破壊された橋の入り口付近には人払いの立哨がおり、川には十数艘の小船が浮かび、船上の人足が遺体の収容と検分を行っている。
 数多くの人間に目撃された青竜蝦の怪物の死体は、もう無くなっている。未明の内に、六孫王府に属する、憑人が起こす事件を専門に始末する連中が片付けたのだ。

 町人に聞こえぬ場所で、現場を監督する武士の一人が苦々しくうめいている。目付の職に就くものであった。
 惨事の現場はここだけではないと、事件の対処に当たった深川武士らは報告を受けている。永代寺門前町付近の一郭でも多くの人間が焼き殺されており(不幸中の幸いか、火災は雨のおかげで広がらなかった)、橋も他に三基破壊されている。長久橋、八千代橋、磐長橋――下手人は、深川南方の人通りを堰き止めようとしていたらしい。

 下手人が深川武士――それも、六孫王府中枢に属する名家の当主である事は、あらゆる手段を用いて隠蔽しなくてはならないと、彼らは決意を固めている。
 事件の影響で、八幡祭は中止している。普段鞭打つかの如く使っている民衆の不満の捌け口であるこの催しが中座した今、彼らの悪感情は容易に六孫王府に傾くだろう。暴動が起き、経済活動が停止する。
 たとえそれを抑止できたとしても、その為に強いられた消耗は、九重府にとって格好のつけ込み所となるはずだ(現在、方丈梢継の扇動により深川武士の大半は、九重府との戦争を現実的なものとして意識していた)。

 いま永世橋にいる、多くが中級以下の武家出身者である深川武士たちは、上層の御門葉家すべてを心から憎みつつ、仕事に従事していた。
 彼らの周囲では、民衆が群れを為して様子をうかがっている。野次馬がほとんどだが、一部悲愴な顔つきの者もいた。一夜経っても家族の安否を確認出来ない人々であった。
 彼らの一部は立哨に飛びついて、悪し様に蹴り出されている。それを何度か繰り返して諦めると、次は周囲の野次馬たちに声を掛ける。息子を知らないか、母親を知らないか、兄を知らないか。友を知らないか。その内の何人かは、川縁に敷かれた白布の上に横たわる、水ぶくれした遺体の中に家族を見つける。

 泣きじゃくる彼らは、ある意味では幸運だっただろう。沢瀉の剛力で破壊された人間は、その多くが原型を留めていない。海へ流された死体もある。町人の一部は、見つけ出す事の叶わぬ家族を、疲れ果てるまで探し続ける事になる。
 ――ある初老の男に話しかけられた町人たちは、彼をその一人だと思った。
 気弱そうな、背筋をやや屈めて歩くその男は、丁寧な言葉遣いで手当たり次第に町人らへ声をかけている。すいません、申し訳ありません、よろしいでしょうか――必ずそうした言葉を前置きする男は、色よい答えを得られずとも、一時も休まず動き続けている。

 人々が、彼はこの場にいる全ての人間に同じ事を聞くつもりなのだとすら思うような必死さだった。
 二九一人目に話しかけられた女は、男が一心に失せ人を探す様子を見かけていたので、朗らかにその問いかけに応じた。彼の探している人間が生きている事を知っていたのだ。
 男は彼女の説明を聞いて、何度もありがとうと言ってから永世橋を離れた。
 今宵誰も家族や友人の死ななかった女は、自分の善行を楽しむゆとりすらあった。あの目立つ若者の事を覚えていたおかげで、人助けができたのだと。
 あの、金色の髪をした若者が、渡来人の子供に負ぶわれて去って行く方角を、教えられて良かったと。



    /

 雑踏をかき分けて行く最中に、ふと男は立ち止った。いつもの発作に襲われたのだ。
 傘を取り落として、雨にさらされながらぼんやりと雨空を眺め続ける彼は、彼を邪魔に思った町人に小突かれてもその場に立ち尽くしている。周囲の人間が数人、気味悪げに彼を遠巻きするが、気づいてすらいない。
 男は、その魂を置いてきた場所へと還っていた。



 ――振次郎さま、湯の支度ができておりますわよ。
 妻の声だった。彼は、二人きりの時は自分を名で呼ばせるようにしていた。お互い中年と呼べる歳になって久しく、彼女はそうした茶目っ気を恥ずかしがるようにもなったので、頼み込むのは大変だった。それでも、そう呼ばれる事を彼は好んでいた。
 千代田振次郎という偽名が、本家に与えられた名よりも、押しつけられた役目の記号でしかない称号よりも身に馴染んでいくような気がして、嬉しかったからだ。

 十代の内に深川から本土に移り住んで、もう三十年近くにもなるのだ。わざわざ言い聞かせるようにせずとも、今の身分こそが自分そのものである事に疑いは無いはずなのだが。
 きっと自分が幸福過ぎるから、どこかに落ち度を探してしまうのだろう。
 欲しくもなかった才能ゆえに家に押しつけられた役目を嫌い、そこから逃げ出した彼は、武家の身分すら明かせずに商人の奉公人から出発した。苦労は多かった。武家の、しかも分家とは言え名家の係累だったのだ。商いの方法は元より、食うに困るという事すら理解してはいなかった。

 ただ、彼の世話をした商人は人の良さを売りにした男だった。彼自身も、泥に塗れて生きる民衆にてらい無く敬意を抱けるほど素直だった(水の合わなかった武家階級に対する嫌悪の反動が、多少含まれてはいたが)。主人への忠義は、愛情で返ってきた。それもまた身内の間ですら打算が蠢く上流階級には存在しない美徳だった。
 汗水を垂らして働き、友と語らい――そして恋をした。
 茶屋の娘だった。奉公人を始めた頃に、腹を空かした彼に手ずからの飯を食わせてくれた。十人並の容姿ではあったが、彼は天上の美姫と信じた。

 手代になったのをきっかけに求婚し、それが受け入れられた時は天に引き上げられるような心地だった。感涙する彼に微笑みかけ、初めての夜に全てを捧げてくれた彼女を、必ず幸福にすると誓った。
 職責が増え、苦労も多くなったが彼に笑いは絶えなかった。共に重荷を背負ってくれるひとが側にいるのだ。哀しみの入る余地などどこにも無い。
 それどころか、喜びは増えるばかりだった。
 子供が産まれた。初めての出産でおろおろするばかりの彼に、がんばりますからと妻は笑いかけてくれた。女とは、こうまでも強いのかと思った。

 主人と彼の友人であった番頭が老いて引退するのを機に、最も良く働いた彼は番頭の地位を譲られる。がんばれ、と肩を叩かれた時に自分は男として確固たるものを得たのだと思う。
 周囲の人々に愛され、それに奉仕で返礼し、更に良いものを受け取る。素晴らしい循環だった。人の世とは、これほどに輝かしかったのか。そう思うと共に、彼らを時折傷付け、搾取する武士や貴族、支配者たちが憎らしくなる。
 子は三人産まれた。子供たちが言葉を理解する歳になると必ず、彼は自分の膝に置いて語りかけた。

 ――父さんはな、昔、侍だったんだ。
 ――身体に、病のようなものを持っていてな……大丈夫、死ぬようなものじゃないんだよ。
 ――それの為にな、多分、あのままでいればすごい出世ができたんだと思う。
 子供の三人ともが、もったいないと言った。自分が性根から商人になったのだと自覚する瞬間で、それに苦笑しながら彼は子供の頭を撫でる。三人ともにそうした。
 ――いいんだよ。
 ――お前たちと、母さん。
 ――父さんが得た宝物に比べたら、侍である事の価値なんて無いようなものさ。
 ――愛しているよ。

 彼らには、与えねばならなかった。周囲の人々が自分にくれたように、価値のあるものを。そして彼らはそれに応えてくれた。
 知己の商家に勉強に出した長男が、逞しくなり帰ってきた。彼だけの女を連れて。
 出産を控えた妻と共に自分の手を取り、ありがとうと声をかけてくれた息子。生涯何度目かの感涙の落ちた手は、いつの間にか年老いて皺が寄っていた。
 その手に彼は、疑いなく価値を見出せる。
 働いた手だ。
 妻を抱いた手だ。
 子供を撫でた手だ。
 ――鎗を捨てた手で、これだけの事を為した。
 御仏よ、私は、幸福な男です――



 数年後、嬲り殺した本家の当主に聞いた話だ。周囲に〝膝丸〟の襲名を伝聞した直後に逐電した分家の若者の為に、夜摩名家は大いに面目を失い、独自に討手を出したものの彼を完全に見失ったのだそうだ。特権意識に凝り固まった彼らは、その当主候補が町人如きに頭を下げて生きる商人に堕ちている事など想像すらしていなかった。
 本土に逃げ込んだ事も、捜索の困難を増した。六孫王府は本土に諜報網を持ってはいるが、九重府の苛烈な防諜工作をやり過ごして職務を遂行する精鋭を私用する事は、いくら御門葉家の一つと言えど難しい。何より身内の恥を喧伝して回るような真似をしては本末転倒だった。

 裏切り者一人殺す価値と、それに支払うべき代償を天秤にかけた結果、討伐計画は一時中断する。
 状況が変わったのは、本家から代理で御門八葉になる人間が決まってからだった。
 彼は周囲の人間が密やかに、それでも聞こえよがしに囁く分家の男の代理という肩書きを、大いに憎んだ。彼を殺す事こそが惨めさからの脱却の手段と信じて疑わなかった。再び、彼の討伐が取り沙汰される事になる。
 以前の討伐計画と違うのは、その首謀者が追い詰められており、恥も外聞も捨てるのを厭わなかった事。

 本土を縄張りとする猟犬を利用するのを、躊躇わなかった事。



 あの時も雨が降っていたと彼は思い出す。彼はあの夜の情景を数百、数千、何度となく繰り返して再生していた。
 彼は急いで帰路についていた。臨時の商談があって、家を離れていたのだ。息子たちの祝言を数日後に控えていて、家族は準備に忙しかった。そこから自分だけ離れるのを躊躇う彼に、妻は男の出番などありませんと軽口叩いて追い出したのだ。

 ――ばか、お前、いるだけでもその、家長としてだな。
 ――仲間はずれが寂しいだけなのでしょう、あなたは。まったく。歳を取っても変わらないこと。
 ――うぅ。
 ――なら、土産の一つも買って来て下さいまし。くたびれた子守道具をお下がりにしては、嫁御がかわいそうです。

 その通りだと彼は思った。気づかない自分の迂闊さにしょげかえって家を出た。おかげで土産を選ぶのに気合いが入り、更に帰宅を遅くした。

(……あいつは、怒るだろうな)

 そう思えば頬が苦笑に引きつる。あれは気遣いの細やかな女だから。怒って、頭のひとつも引っぱたく事で自分を家族の輪に引き込むのだ。息子に嫁を迎えて、関係を構築するのに難しい時期だ。妻は気を揉んでいる事だろう。
 それでも、それゆえに。すぐに彼女も家族だと心から受け入れられるようになる。良い嫁だと思う。彼女を捕まえた息子を褒めてやりたくなる。なんだか、かつての自分を自画自賛するかのようで気恥ずかしく、口にした事は無いのだが。

 いずれ、言ってやろう。長い時間を共に過ごす女と、うまくやっていく秘訣も教えてやろう。
 子が産まれたら、息子はどのように接するのだろう。おそらくは自分とは違う。けれど、自分から学んだものがそこにあるはずだ。
 そのようにして、人は繋がり、世界は続いていく。
 世界が仮初である事を聞かされた時は絶望もしたが、幸福の実感を前にしてはそれも霞んだ。この手で抱いた妻子が虚構であるなど、彼には受け入れられない言葉だった。
 産まれる子を見て、それが電子の情報に過ぎないなどとどうして思えるのか。あの神秘に、奇跡に触れてどうしてそれを否定できるのか。

 もうすぐ、己の子がその奇跡の当事者になる。
 あの子はその時、どんな顔をするのだろう。
 私のように、泣いてしまうのかな――――――――――――――――――――――――――――――――ざざ―――――――――――――――ざざ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ざ――――――――――――――――――――――――――――シーンが切り替わる。

 家の戸口に立つ彼は、懐かしい香りを鼻に吸った。若者の時分に何度か嗅いだような気がするそれの正体を、彼はしばし思い出せなかった。
 思い出す事を、脳が拒んだのかも知れない。
 築き上げた幸福の瓦解を、受け入れられなかったのかも知れない。
 ふらふらと土間に踏み込み、異変を悟ると駆け出した。途端に濃くなった香りの為に、慣れ親しんだ我が家が別の世界のように感じられた。狼藉者に犯された少女のような無残な変化と思えた。
 まずは居間で、次男と長女の死体を見つけた。

「……え?」

 寝ているかのように穏やかな死相。背後から気づかれぬ内に、喉首を掻き切られたのだ。
 庭で腸をはみ出させて絶命する長男は、侵入者に気づいたのだろう。争ったが、勝ち目などなく殺された。

「あ……え……あぃ」

 感情に蓋をして、それが漏れているようなうめき声を彼は上げる。おぼつかぬ足取りで、鼻孔に突き刺さる血臭を嗅ぎ分けて進む。もう彼の鼻は、その香りに個人差がある事を覚えてしまった。
 妻が死んでいるのは、彼女が生涯の多くを過ごした台所だった。
 長熨斗(ながのし)や鰹節の香りが、血臭に混じっている。その場所で彼女は首を割かれて座り込んでいた。温厚な彼女が見せた事の無い烈しい表情で、絶命している。
 背後には、守るべきものがあったからなのだろう。

 二人の、新しい家族。赤子を胎に宿した女が、妻の背の後ろに隠れている。
 彼女も死んでいる事は、見ずとも知れた。妻以外の血の臭いがしていたから。
 どさり、と音がする。買ったばかりの子守道具を、今まで抱えて歩いていたのだ。真新しい玩具やゆりかごが、床を流れる血液に浸る。

「みつ」

 息子とその妻が名付けようとしていた、命の名を呼んだ。

「振太、小春、冬次」

 返事が返ってこない事を確認するように、息子たちの名を呼び、最後に。

「千秋」

 妻の名を、呼んだ。
 万力に押し潰されるような静寂に苛まれ、そして彼は、
 破壊された。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 家のどこかでその声帯を潰す程の絶叫を聞き届けた猟犬は、彼に声をかける事もなく襲い掛かってくる。
 その体臭を嗅ぎ取っていた彼は、不意打ちという認識すらしていない。
 無造作に妻の握っていた包丁を取り上げて振り返り、首を刺した。腹を刺した。眼球を刺した。二つめも刺した。口蓋を刺した。女陰を刺した。子宮を抜き出して刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。人間の形を失うほど、細かくなるまで。

 刺し続ける間、彼は変異を続けていた。幸福の代償に捨てた能力が、その喪失と共にあっさりと戻っている。

(これの為か)

 皺が失せ、茶黒い体毛に覆われた手の甲を眺めつつ思う。これを受け継がせない為に、お前たちは私の子も、孫を宿した女までも皆殺しにしたのか。

(鬼畜の所行……なり)

 猟犬の――若い女だった――の帰属は知れている。鍛え上げられた肉体、その増強に用いた薬物の香り。ここまで徹底した鍛錬を行うものは奴らしかあり得ない。
 雷穢忌役。
 世界の虚構を知り、その維持に努めるものども。世界への愛でなく、ただ義務としてそれを行う。感情を挟まず、機械的に殺人をこなす、人間性を欠落させた奴ばら。

 彼の憎悪する武士そのものだった。
 なぜ、一人しかいないのかと彼は不満に思う。逐電して三十年も経った男とその家族を殺すには十分と考えたのだろうが、彼にとってはまるで物足りなかった。
 なぜもっと、敵がいないのか。

(許さぬ)

 老境に差し掛かった彼の、残り少ない生涯を定める言葉だった。

(人道を穢す仏敵なり。誅すべし)

 残された人生全てを賭けて、奴らを呪う。殺す。根絶やしにする。
 ――彼は、吼えた。その声は既に、獣そのものであった。



 その後彼は深川に帰り、陰口を叩かれるに相応しい脆弱な当主を殺して御門八葉に復帰し、この場に立っている。

(まだ、足りぬ)

 殺し足りない。奴らはこの世界から消え去っていない。奴らを殲滅せねばならないのに。己の生はその為にあるのに。

(圧殺する。縊殺する。磔殺する。禁殺する。搏殺する。殴殺する。撃殺する。絞殺する。格殺する。残殺する。刺殺する。斬殺する。射殺する。磔殺する。轢殺する。爆殺する。焚殺する。撲殺する。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す我が身魂の全てを投じて奴らを鏖殺する)

 空想から現世に回帰した男の精神は、殺意に満ちていた。
 彼は、殺す事しか考えていないのだ。八葉の誰よりも暴走の危険のある彼を制御していた六孫王大樹は、もう彼の側にはいない。
 さながら鎖から放たれた猟犬のように、彼は活動する。
 彼は既に、雨に混じって流れてくる無数の人体の老廃物から、独特の匂いを探り当てている。日数や沢瀉との戦闘で負傷し、疲労したのだろう。忌役が用いる栄養剤と造血剤、傷薬の匂いだった。それを追っていけば奴に辿り着く。

 ――匂いの道を遡って、歩いてくるものがあった。
 涙の匂いだ。ひと嗅ぎして子供と分かる、乳臭い肌の匂いもある。
 衣服に、子供自身のものでない血の香りもしていた。
 ――確か忌役は、子供に連れられて逃げたのだった。
 狂を発した人間特有の短絡さで結論に至り、男は口を割くように笑った。

「奴の、子?」

 面白い。愉しい殺し方ができそうだ。
 殺意と、興趣を燃料にして男は再び稼働する。雑踏に溢れる人間どもが邪魔だった。

「のけ」

 そう命じても、連中は訝しむばかりで言う通りにしない。

「儂は、のけと言ったぞ」

 既にその脚は、蹄の形に変わっていた。



     /

 道に捨てられた笠を被って、いなきは街路を歩いている。
 肋の痛みも、だいぶ癒えてきた。
 コードハッキングにより治癒力を増強させると共に、忌役が秘伝としている薬剤を用いた為に肋骨の骨折はほぼ治癒していた。街路を歩きながら、薄茶の粉末を練り固めた球形の携帯食もかじる。薬臭く、食える味とは程遠い味覚に吐きそうになる。そのざまは正直情けなかったが、背に腹は替えられない。

 おかげで、復調とはほど遠いものの、永代島南西部に辿り着くまでには杖を捨てられそうだった。
 ゆっくりとしか歩けない為に、町の様子は厭でも耳に入る。深川は混迷の極みにあった。
 六孫王府から弾き出された浪人衆の起こしたテロリズム、という噂が立てば、直後に九重府の侵攻が始まったという噂にすり替わる。かと思えば花火の暴発という間抜け話も持ち上がった。

 鬼兵(深川町人向けに流布された憑人の異名)の暴走、という事実も数多くの脚色はされているが、町人の口の端には上っている。この通説が主流になった時の民衆の暴発を考えると、いなきはおぞましさに震える。その責任の大部分が自分に帰していると彼は信じていた。
 おそらくは六孫王府がそうならぬよう手を打つのだろうが、今のところ都合の良い虚偽報道を考えあぐねているのか、真実に近いその話を口にする町人は多い。

 ――死体よ死体。大きなエビ? のばけもんが川で立ち往生してやがった。
 ――そりゃあ、間違い無く鬼兵じゃあねぇか。クソっ、歳城の侍連中、俺たちを皆殺しにでもする気なのか?
 ――さてのォ。
 ――鉄砲の一丁でもありゃあなぁ。
 ――馬ぁ鹿、鬼兵が素人の鉄砲撃ちに仕留められるわけねぇわ。大砲持ち出したとしてもあっさり返り討ちよ。
 ――ちょうど王様の入れ替わりで連中は慌てふためいてんだ、やりようによっちゃあ……
 ――大次、てめぇの無茶に俺ら巻き込むんじゃねぇ。
 ――こりゃあ本物の無鉄砲ってぇ奴だぁな。
 ――(笑い声)
 ――茶化すんじゃねぇ。そんじゃ、このまま殺されんのを待ってろってのかよ。
 ――そいつも早とちりかも知んねぇ。とにかく、落ち着け。様子を見ろ。……鬼兵ってのは怖ぇもんだ。一度海魔との戦に駆り出されて、見た事がある。武士ってなぁ俺たち町衆には及びの付かんもんだと思った。下手に突けば、火傷じゃ済まねぇ。
 ――……
 ――……じゃあ、その鬼兵のエビを殺した奴ってなぁ、どこのどいつなんだよ。
 ――おォ、そいつぁ俺も気になってた。
 ――ダチのツレの知り合いに聞いた話じゃあ、鬼兵の同士討ちたぁ違う、人間がやったってぇ話だ。
 ――そういう切り出しならただの噂話に決まってんだが……本当だったら、どえれぇ話だ。
 ――俺が見た大エビは、並の鬼兵とは比べもんになんねぇでかさだったぞ。
 ――もっとどえれぇ話って事じゃねぇか。
 ――何にせよ、そいつが鬼兵をやってくれたおかげで、人死にが減った。良い事だろうさ。
 ――おぉ、その通りだ。俺もゆうべ、あの橋通ろうとしてたんだよ。くわばらくわばら。
 ――名も無き志士に万歳、ってぇ奴だぁな。

 事実に近い場所から始まって、全く遠い場所に逸れていく噂話を耳にするのは、甚だ不快だった。なぜこの連中は、揃って純粋で、都合の良いように物を捉えようとするのか。
 嫌悪すら覚えつつ、いなきは歩みを続ける。
 ――ふと、異変を感じる。町人の噂話を語る口調に、一部異質なものを感じた。娯楽に興じる他愛なさでなく、本物の焦燥と恐怖が混じっている。
 その異端は瞬く間に周囲に伝播し、いなきの耳にも届いた。

「また鬼兵が出た! 御成町で……何人も死んでる!」

 いなきは、永代島の地理を完全に頭に叩き込んでいる。御成町、という名前にも聞き覚えがあった。
 先程いなきが匿われた廃屋のあった場所に、ほど近かった。
 いなきは杖を放り投げて、元来た方向へ駆け出していく。
 ――道理が、その行動に落第点を付けている。完調に程遠い状態でまた御門八葉と戦えるほど、貴様は強いのかと。早く〝き〟らと合流して殯宮に入らねば、目的が遂げられなくなる。貴様にそれが、許されるのかと。
 それを無視して、いなきは身体に鞭を打ち据えるように速度を上げた。

(だめだ、だめだ……だめだ!)

 あの子供は、死んではいけない。いなきに一時の平和を与えてくれた恩人が、あの優しい老人が育て、健やかに大人になる事を願った子供なのだ。せめて、それだけでも救われねばならない。
 そうでなければ、救われない。償えない。

(だから……!)

 世界よ、ほんの少しでも。仮想の、虚構であったとしても。
 ただ一欠片でもいい、優しくあって下さい。
 奇跡を、俺に下さい――
 血臭が近くなる。逃げ出していく町人をかき分けながら進みつつ、彼らを擦り抜けてそれが嗅ぎ取れる事に絶望が深くなる。焦燥に突き出されるようにして走る。何度か転びかけ、町人に殴られもした。それでも構わず走る。

「兄ちゃん……!」

 その言葉を聞いた時、安堵で足の力が抜けそうになった。

「蒲……!」

 初めて子供の名を呼ぶ。恐怖に震えて、返り血を浴びながらも無傷だった。しがみついてくる子供を抱き上げると、襟を握り潰すほどの力が返ってくる。

「こわ……かった」

 蒲の恐怖は当然だった。街路は虐殺の場と化している。家屋の軒先に叩き付けられ、潰された男。五体をばらばらにされて屋根の上に散らばる老婆……死体の数を数え上げれば、きりがなかった。
 それを行った憑人は、その場にいなかった。

「奴はどこに行った?」
「分かんない……出たり、消えたりして……あいつ……」

 泣きじゃくりながらも、言葉を返してくる蒲。この体勢では、襲われれば対応できない。すぐにでも逃げるか、蒲を下ろして戦わねばならなかった。
 その事を、告げようとすると――

「ごめん……兄ちゃん」

 不可解な謝罪と同時に、胸に熱感を覚える。そしてそれは、急速に冷却されていった。血液の流出によって。
 何度か感じた事のある、刃物で刺された痛みだった。

「お、まえ……」

 いなきを突き飛ばして、蒲は後じさった。その震える手には、匕首が握られている。

「あいつ……兄ちゃんを殺さないと、おれを殺すって! どこからでもおれを見て、狙っているって! だから……だから……」

 声もまた、震えていた。匕首の柄を握る手は力を込めすぎて、紙のように白い。
 蒲は罪悪感に潰されそうになっているのだと、いなきには分かる。
 自分も、同じだったから。
 血を失い、立っているのが辛かった。その場にへたり込み、いなきは言った。

「……いいんだ」
 蒲は、跳ねるように肩を揺らす。
 死ぬ前に、この子供の罪悪感を取り除かねばならなかった。死んでしまえばそれは出来なくなる。機会は一度きりだ。
 自分で自分を許す事はできない。それはただの欺瞞だから。自分への嫌悪は圧倒的に正しく、か弱い欺瞞を挟む余地が無い。それに晒されれば、人は容易に歪んでしまう。
 正しく、許されねばならない。

「俺は、お前の仇だと言った……これでいいんだ」

 殺される相手にしか、それはできなかった。

(咲耶様……すいません)

 自分はもう、目的を果たせない。間違えてしまった。いや、間違いに耐える強さを維持できなかった。

(いつきにも、申し訳ない事をした)

 久々に字でない妹の名を呼ぶ。彼女は強い。武力も、精神も。己のたどり着けぬ領域に達している。きっと彼女は目的を遂げるだろう。己が心配するのは、おこがましくすらあった。
 一つだけ気がかりなのは。

(あやめ)

 彼女には、最後まで謝罪をすればいいのか、感謝すればいいのか分からない。あの女はいつまでも理解の外側にいるから、自分も何を言えばいいか答えを見つけられない。最後までにあいつの何かを分かってやれれば良かったのだが、と悔しく思う。
 いつまでも迷っているわけにはいかない。どうも胸の傷は内臓から逸れており、失血死するにも時間がかかりそうだった。

「首を刺せ。そいつに、見えるように……」
「……っ」

 命じられて、よろよろと蒲はこちらに歩いてくる。
 匕首を振りかぶり――
 覚悟した痛みは、いつまでもやって来なかった。

「できない……っ」

 泣きじゃくりながら、蒲は言った。

「鶴じい、知ってたよ……あの男はただの浪人じゃないって。たぶん、後ろ暗い事をやって生きる人間なんだって……だからおれ、鶴じいを守りたくて……兄ちゃんを遠ざけようとして……」

 匕首を地に落として、

「でも、鶴じいはおれを叱ったんだ……兄ちゃんは、悲しい人間なんだって……おれ、鶴じいの言ってた事が昨日、やっと分かった。兄ちゃん、泣いてたから……」

 泣いてなどいない。自分はそんな正しい人間ではない。

「だから、ごめん、ごめん……」

 それでも、この子供は正しい人間だった。優しい人間が育てた、正しい人間だ。
 かつてのいなきがしたような、一方通行の愚劣な憧れでなく、相手を憐れむ事もできる子供だった。

「ありが、とう……」

 感謝が浮かんで、口から出てきた。頬に触れようと、手を伸ばした。
 ――子供の身体が跳ねて、胸から象牙色の突起が生える。

『狗の、人がましい猿芝居、甚だ不快なり』

 その時まで、この場に無かった声が侮蔑を告げた。
 心臓を貫かれて即死した蒲は、そのまま無造作に放り投げられた。家屋の柱に叩き付けられて、地に落ちる。雨が、血を洗い流してその命を曖昧にする。
 七尺(二百十メートル)程の、二脚で立つ羚羊(レイヨウ)がいなきを見下ろしている。その手には、蒲を貫いた鎗が握られている。

 いなきはようやく放心から還り――直後、羚羊の刺突が襲い掛かる。
 横転して逃げ、その先で蒲の死体に触れる。体温の低下や瞳孔の散大などそれと分かる記号はまだ現れない。それでも、命の途切れは明らかに理解できた。
 もう、何も言わない。
 正しく、健やかにあれたはずの子供は、ここで終ってしまった。
 どうしようもなく悟り――いなきは立ち上がった。傷の痛みも疲労も忘れていた。

「貴様」
『外道が子など持つからよ。天罰なり』

 ――何を、言っているのか、この男は。
 そんな勘違いで、この男は蒲を殺したのか。
 脳髄が発火したと錯覚するほどの怒りが、総身を巡った。

「貴様ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
『狗めが! その憤激、道理にあたらじ!』

 羚羊の魔人は槍を回転させ、穂先をいなきの心臓に向かう軌道に突き出し大喝した。

『御門八葉が一、夜摩名家当主、膝丸なり! 之より、仏敵を誅殺する!』



 ――君にとっての悪と戦う時が、いずれ来るだろう。
 師の声が、突進しかけた足を留める。
 ――だが、怒りをもって敵に当たる事ほど愚かな事は無い。武術における心(しん)とは善悪とほど遠い、無機質なものだ。慈愛も憎悪も、戦いに悪影響しか与えない不純物だ。
 ――どうも、普通の人間には理解できない事のようだから、言い換えよう。
 ――義心ゆえに必ず敵を殺さねばならないのであれば、まずその義心を捨てるのだ。他者の為に、無私を貫く。本当の義侠ならばそれくらい容易いだろう?

(……糞)

 舌打ちして、頭を冷やす意味でも一端距離を取る。
 もどかしいが、蠱部尚武の言う通りだ。膝丸が冷静さを欠けば一瞬で心臓を抉ってくる相手である事は、間違いない。

(あの時、まったく気配が無かった)

 そうでなければ対処の出来ないはずが無い。
 膝丸は羚羊の憑人だ。憑人の因子は原則一種のみだが、この種族の場合は分けて考えねばならない。
 羚羊、という名称が示す生物群は恐ろしく広範に及ぶ。健脚なウシ科の生物全般の呼称なのだ。インパラ、ヌー、スプリングボック、ハーテビースト……
 その内の、エランドという種は体温を低下させて体内の水分を節約する。――その特質は、戦闘では気配の遮断として寄与するのではないか。

(エランドの特性が濃い憑人なのか……?)

 予測するが、裏付けに乏しい。やはり実際に太刀を交えて探るしかない。
 膝丸の持つ、異様な形状の槍を見る。
 穂先は螺旋のなりそこないのように捩れ曲り、色合いは象牙色に近い。
 その正体は、膝丸の頭部を見れば明らかだった。左側の角が欠損している。折り取ったそれを柄に装着しているのだ。

 間合いは一丈(三メートル)を優に超えている。
 鎗――銃火器登場以前の世界観における、歩兵武器の完成形。
 現実史においては南北朝時代に登場し、その後の戦闘を一変させ、戦国時代の時点では「鎗を止める剣無し」とまで言わしめる程、刀剣に対する優位を示し続けた武装。
 斬・打の技法も多彩で、古流の香取神道流などには接近戦の技術まで存在するが――最も恐るべきは、

『KYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY――ッ!』

 金属質な響きの咆吼と共に、膝丸の全身が肥大化した――そう錯覚させる程の突進。
 三丈もあった距離が、一瞬で零になる。

「ぢッ!」

 真っ直ぐに心臓を狙ってきた刺突を、必死に横飛びして躱す。
 この単純な突撃こそが鎗使いの最も強力で、何より確実な技だ。視界に映るのは切っ先の点でしかなく、受けはおろか見切りも並の眼力では許さない。このように大きく回避する程度しか、為す術が無い。
 加えて、

(なんて脚力だ……!)

 いなきの側面を通り過ぎていった膝丸は、既に路地の遥か遠くに辿り着いている。
 羚羊の多くが発達した脚を持ち、その恩恵を受けた速度を誇る。
 走行に特化した種は時速九〇キロメートルにも達すると言われる。最速の動物と言われるチーターに迫り、かつチーターには無い持久力がある。総合力の観点で言えば、地上で最も優秀な運動能力を持つ生物の一つだった。

 膝丸の速度は沢瀉の持つ超音速には程遠いが、彼が音速を超えた運動を行えるのは斬撃のみだった。膝丸は身体ごと高速で移動する。
 今いる街路は広く、鎗の間合いと羚羊の脚力を存分に活かせる。膝丸は突撃を繰り返すだけで、いなきに攻撃の余地を与えない。そのまま命中するのを待てば良い。
 完成された敗北への道筋を思い描いて、いなきは。
 その場で柄を掌握し、抜刀の構えを取ったまま――停止した。

『愚か! おおお愚か愚かか愚かかかかか! 愚かなりィイイイ!』

 膝丸は自身が最も望む愚策を差し出され、狂乱しつつ突撃を敢行する。破れかぶれの受け太刀で刺突を止めようなど、生存を放棄するようなものだった。羚羊の脚が実現する人外の突撃衝力を人間の腕力で受け止める手段など無い――

(馬鹿が! 速さに溺れやがって!)

 無造作に突進する魔人を心中で痛罵し、いなきは太刀を抜いた。
 猛禽を捕捉するいなきの視力なら――この突撃に対応するのは、不可能ではない。
 迫る切っ先の点から速度を概算、それが間合いに侵入する機を見極めて先端部に叩き付けるような斬撃を落とす。
 インパクトの瞬間、全身の筋肉を締める。
 接触の際に手の内を締め、衝撃を殺さずに対象に伝えるのは剣術の基本だが、琉球唐手の教えでは身体全体にそれを適用する。チンクチ、と呼ばれる技法だった。

 体重と速度を全て載せた太刀を受け、穂先が地に沈む。
 加えて、駄目押しの陰刀を同じ箇所に叩き込む。――相生剣華・草ノ真。
 二刀で押し込まれた鎗は、軌道を下方にねじ曲げられていなきの足下に突き刺さった。

『ぐぬゥッ!?』

(慢心に眩んだまま、死ね!)

 柄に伝わる衝撃に手を痺れさせ立ち止った膝丸に、憎悪を込めて通告していなきは飛びかかった。
 横薙ぎの斬撃が首筋に触れ、そのまま抜けて――

(……何!?)

 異様な手応えに、いなきは驚愕する。膝丸の首を落とすはずの太刀は、その体毛に接触して滑っていった。
 飛び退いて退避し、黒刃の状態を確認して、その現象の理由を知る。
 刃は、油に濡れていた。
 ――ウォーターバックと呼ばれる種は、水辺で生息する為に、発達した汗腺から油を分泌する事で水に浸るのを防いでいるという。

(体表の油で、摩擦を減殺しているのか……!?)

 物体の切断とは、刃部と対象の摩擦により破壊を起こす現象である。その摩擦が無ければ、斬撃の威力は無きに等しくなる。
 この敵は、斬れないのだ。

(剣術家の天敵か……!)

 苦々しく、いなきはうめいた。

『小賢し。かつ汚らわし』

 膝丸は悠々と地に突き立つ鎗を引き抜くと、侮蔑しながら唾を吐いた。変異した姿で行われる人間的な仕草は、冗談のような異様さがあった。

『殺しの手管に、かくも精通するとは。五徳を捨て、生命を無価値と断じ、噛み殺す事になんら罪悪感を覚えぬ狗の証なり』
「貴様が、それを言うのか……! 子供を殺した貴様が!」
『――正義なり』

 膝丸は、あっさりと、あまりに簡単に。
 そんな言葉を、言った。

『忌役の子となれば、その穢れた業をいずれ受け継ぐのであろう。罪無き民がその毒牙にかかるとあれば、若い芽といえど摘むより他無し』
「蒲は、俺の子などではない……! 貴様が殺したのは、その罪無き民とやらだ!」

 悲鳴のように言葉を叩き付ける。
 膝丸はその言葉に、何ら痛痒を感じていなかった。感情の見えない獣の相であるのに、それだけは厭でも理解できる。

『否。罪人なり。貴様の子でないのなら、悪を前にして正義を断行せぬ事こそが罪なり。忌役を前にして、その狗の獣臭、牙に染み付く血の臭いを嗅ぎ取れぬ事、嫌悪を惹起(じやつき)せぬ事、殺意を抱かぬ事、甚だ罪なり。仏罰の執行者たる儂の道を塞ぐ事、罪なり。全て全て全て、死罪に値する咎なり』

 ――断絶、していた。
 話の通じない事においては日数、沢瀉も同じであったが、この男は更に一段と、常人とかけ離れた場所にその精神を置いている。
 別世界にいるかのような遠さを覚える。

『狗と語らう事に価値など無し。耳が腐れる、舌が穢れる』

 そう告げて、膝丸は身を屈めた。筋肉の軋みがこちらに聞こえる程の力の圧縮。

『その血で以て、清めるより他無し』

 その姿が、消失した。

「……ッ!」

 全身を走った悪寒に引き摺りだされるように、いなきは横に飛ぶ。
 離脱した後の地面に、鎗が突き刺さり――再び消える。
 直感からいなきは上空を見た。雨雲から、明らかに雨滴でない巨大な塊が落ちてくる。
 戦慄しつつ身を躱し、膝丸の攻めをやり過ごそうと――
 二度目の着地は、跳躍へ繋がらなかった。

『ぐるぅっ!』

 膝丸は着地の衝撃を強靱な筋肉で殺し、うなり声と共に鎗を払って来る。いなきはかろうじて後方へ飛び退いて躱す。
 ――今膝丸が披露しているように、羚羊の本領は走行ではなく、跳躍だ。
 滞空の隙を、追撃された。

「がぁっ!?」

 砲弾じみた体当たりに弾き飛ばされて、いなきは街路に転がる。倒れ伏している暇などなく、転倒の勢いで立ち上がって走る。
 今や、一瞬たりとも止まる訳に行かなくなった。
 気配を薄弱にして、地上と空中を行き来する三次元的な攻撃を仕掛けてくる膝丸。これではいなきが視力に優れていようと意味が無かった。相手は〝視界〟に収まらないのだから。
 勘だけで回避行動を続けるも、当てずっぽうがいつまでも通用するはずが無い。

 事実、十数も膝丸の攻撃を受ける内に、被撃し始める。直撃こそないものの裂傷と打撲は更に動きを鈍くする。全力疾走の疲労の影響も無視できなくなっていた。
 殺されるのは時間の問題だ。

(死ぬ、のか……?)

 実体を持つかのような確かな予感を呟く。

(このまま、何も出来ずに……この男は蒲を、あの老人が健やかに育つ事を願った子供を、殺したのに)

 仇すら討てずに、不様に死ぬのか。

(いやだ)

 子供の駄々に似た心境でそれを拒絶し――すがりつくように、容易で、危険な術に依存する。
 ――精神を摩耗させ続ければ、いずれ、還ってこれなくなる。
 妹の忠告が耳朶を打ち、それを背後の遠くへと放り捨てる。
 いなきは再び、巫術の起動処理を精神に叩き込んだ。
 ――雨が、静止する。
 視覚の機能を皮膚感覚が代行し、全方位を感覚の支配下に置く。

 羚羊の魔人は、いなきの背後から襲い掛かってきていた。
 その影から離れて斬りつける事を選択しない。あえてその場から動かず、突き出された鎗を紙一重で回避する。それと交換するように、振り抜かないまま肩越しに太刀を突上げる。

『――ごッ』

 胸に刀を差し込まれて、膝丸は鮮血を吐き出しいなきの顔を汚した。
 体幹に沿った重心を捉えて突きを放てば、摩擦の減殺に意味は無い。
 いなきはそのまま、膝丸を串刺しにした太刀を投げるように振り、その身体を地に叩き付けた。傷付けられた胸を大地に痛打された膝丸は、咳き込みながらのたうち回る。
 致命的な隙だった。巫術の反動が現れ始め、ふらつく足をもどかしく叱咤して倒れ伏す膝丸に駆け寄る。

(殺す)

 確実に殺す。なんとしても、この男だけは殺さねばならない。
 悪を為した自覚すら無く、ただ利己によって子供を殺したこの男だけは、許す訳にはいかない。
 震える指で太刀を逆手に持ち替え、突き下ろす構えを取り、いなきは殺意を囁いた。

「死……ね」

 ――みつ。
 涙に震える声が、その耳朶を打つ。
 既に膝丸は致命傷を負っていた。一秒ごとに喪失していく命を前にして、どこか遠くを見るように、震えながら何かを言っている。
 命乞いでは、無かった。

『嫁御……振太……小春……冬次――千秋』

 ここにいない誰かに呼びかけながら、最後に。

『すまない……私は、仇を、討てなかった……』

 足下をすくい取られたように、膝から力が抜けていった。

「な……にを、言っている」

 いなきの問いかけに、膝丸は一言も応えなかった。彼は、どこか別の世界を見つめているのだ。
 消えてしまった、どこかを。
 膝丸の狂気の源泉を理解し、いなきから殺意が霧散した。

(忌役に、家族を殺されたのか……?)

 なら、それならば。
 己の殺意に、道理があるのか?
 罪無き、ただ憑物という病を得ただけの人間を殺した事のある自分に。
 ――仇は、どちらだ?
 いなきの逡巡は、その敵対者に戦意を回復させる程に長かった。

『がぁああああああああああああああああああッ!!』

 脇に取り落としていた鎗を掴むと、立ち上がった勢いで突進してくる。
 いなきもその時には己の失策に気付き、飛び退いて撃墜の構えを取る。胸から大量の出血をしている膝丸の速度は、大幅に減衰している。腕力も同じのはずだ。巫術はおろか、相生剣華を使用するまでもなく防御は可能――

『夜摩劫心流鎗術、奥伝』

 膝丸の巨躯が、瞬間歪んだ。

『振魂(ふるみたま)』

 低い姿勢から一直線に突き出された鎗の穂先が、真上から襲撃してきた。

「な……ッ!」

 驚愕の間も無く、左肩を突き刺される。激痛を感じる前に弾き飛ばされ、いなきは街路に転がった。
 俯せに倒れながら、膝丸の姿を見る。陽炎の向こう側にいるような曖昧な像を。

(障気で……刺突の軌道を歪ませたのか!)

 柄のしなりを利用して同等の効果をもたらす鎗術は存在するが――膝丸のそれは桁が違った。刺突の始動点から予測される攻撃範囲を大きく逸脱している。

『オ……アァ』

 いなきの隙を前にしても、膝丸は即座に追撃してはこなかった。出来なかったのだ。この男の殺意は、攻撃が可能であればそれを決して躊躇わない。
 胸の中心を突き刺された膝丸は、その穴から生命を漏出させていた。失血死を間近にして、身動きを取れずにいる。
 それでも、といなきは確信を胸に抱く。

(それでも、止めを刺しにくる。絶対に)
『儂は……殺す』

 確信を裏付けるように、膝丸の足が一歩、こちらに動いた。

『命ある……限り。貴様らを、許さぬ。殺す……殺すのだ……』

 醸成された怨念を口にして、残った右側の角を根本から折り、口金付近に接続する。
 二叉鎗――あれはおそらく、それぞれが独自の軌道を描く。膝丸の能力を考えると、その可能性が最も高い。似たような二方同時攻撃の術を持ついなきであるからこそ、そう直感した。
 その優位も理解している。あの業は、一対一の対人戦ならばほぼ確実に命中する。一箇所を防御する事で狭窄した意識の隙を突くのがこの技術の要訣だ。人は意識を分割できない。
 神経系の機能限界の外側を突く攻撃だ、当たらぬ訳が無い。
 軌道の読めない刺突に、そんな駄目押しまでされては。

(勝ち目が……無い)

 認めるしかない。万全ですら防御の困難な攻撃を前にして、自分は満身創痍。蒲に刺された傷から血を失い過ぎ、そして今刺された左肩は感触が失せている。倒れ伏したまま、立ち上がる事すら出来ない。
 何より、

(俺は、敗北を受け入れてしまっている)

 膝丸はまさしく、狂っていた。周囲に死を振りまく事になんら躊躇いを覚えぬ、憎悪のみを満身に満たした怪物だった。家族を皆殺しにされた恨みゆえとしても、許される行いではない。討伐する権利は、誰にもある。
 いなきにだけ、それが無い。
 膝丸を狂わせた行いと同質、同価値の殺人を経験している自分にだけは、あの男を憎む権利が存在しなかった。
 前進を続ける、羚羊の魔人。それに抗う資格が、己には――

「資格は無くとも、義務はある」

 怖気のする声が、背後からした。

(咲耶……様)

 巫術の反動による幻覚だ。実体ではない。主は既に死に、それどころか、

「消滅している。記録からも、記憶からも」

 目の前に殺気に満ちた敵がありながら、いなきは後方を振り向く事にこそ怯えた。彼女がどのような表情をしているのか、確かめたくなかった。
 雨よりも冷えた声音が降り注ぐ。

「私だけではない。主を除く武州の民すべてが、存在した痕跡すらも抹消された。今や我らは亡霊ですらない。我らはいない。どこにもいない……どこかに、確かに、いたはずなのに」

 怨念を込めて、背後の主は言った。

「主は、敗北を許されぬ。主の戦いは、主個人の仇討ちではないのだから」

 そうだ。
 ただ恨んでいたなら。膝丸のように故郷を滅ぼした雷穢忌役を憎んでいたなら、その全てを殺す為に戦っていた。そして、そのおぞましさに耐えられず諦めていただろう。初めての殺人に、あれ程に苛まれたのだから。
 怯える子供を突き動かしたものは。

「証」

 主は一言で、解答を述べた。

「我らが存在した証を立てよ。誰もが主の全てを、その出自、背景すらも無視できぬような大業を為せ。――この世界最強の武人を、討ち果たすのだ。あの、私を殺した蠱部尚武を。なれば主には、このような敵に敗れる事は、絶対に許されない」
「……けれど」
「許されぬ」

 主は再び言葉を繰り返して、いなきの反駁を止めた。

「それが悪であったとしても、主は進まねばならぬ。殺さねばならぬ。主ただ一人の罪科を代償に、我ら全ての実在を証明せよ。それが、主の義務だ」

 主の言葉をきっかけに、亡者は増殖した。水溜まりから這い出るようにして、肉の腐れて崩れた人々が現れ、いなきに近寄ってくる。

「……ヒッ」

 怯えて、悲鳴を上げる。
 許されぬ。
 許されぬ。
 許されぬ。
 戦え。
 戦え。
 ――戦え!!

「ヒアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 喉を引き裂くような絶叫を放って立ち上がり、いなきは膝丸に向かって突撃する。

『振m%$$#$&&&!』

 膝丸の気合いは途中から間延びし、聞き取れなくなった。巫術を起動したのだ。二度続けての鏡花水月の使用が己の精神にどういう影響をもたらすか明らかだったが、そうしなければ倒せない。倒さなければ、義務を果たせない。
 下方から股下を抉ろうとする刺突。その根本に右手のみで抜いた小刀を叩き込んで、切断する。
 後方から頭部を砕こうとする二つ目の鎗を、疾走を加速する事で逸らした。
 そして両者は激突する。

『……ごぷっ』

 膝丸が濁ったうめきを漏らす。いなきの背中には、彼が吐いた血液が降りかかっていた。
 小太刀を使った相生剣華、その陽刀が膝丸の胸に空いた穴を塞ぎ、さらに抉っている。
 心臓を貫いた手応えに、縋り付くように力を込める。無駄な力だ。震える指が、その刺突の不様さを示している。
 倒れ込む膝丸に巻き込まれて、いなきはその巨躯に被さるようにして転んだ。それでもなお、口の端から悲鳴のなり損ないを漏らしながら切っ先を握る。
 その耳元に、囁き声が聞こえた。幻聴ではない、実感を伴った呪言。

『この……人殺しめ』

 言葉を吐くと共に、膝丸の身体から力が抜けた。変異が解けて、現れたのはどこにでもいる初老の男の死体だった。遠い昔の平温を伺わせる、温厚な顔立ちの男。
 どこか、鶴翁に似ていた。



 ――最初の殺人を思い出す。
 十三歳になる直前に、雷穢忌役の男が一人自分に声をかけてきた。林座という男の取り巻きだった。林座は強く、周囲の人間に慕われていたから、こうした連中が多くいたのだ。
 いなきもまた、その一人だった。

『お前もそろそろ、元服が近い。仕事の一つもしてもらわねばな』

 その要請を一人前と認められた証とすら思った。愚かだった。
 男には、悪気は無かったのだろう。己の思い込みに近い事を考えてすらいたのかも知れない。
 いなきは、自分の腕を試す機会を得たと喜んだ。相手はどんな憑人なのだろう。きっと手強い相手なのだろうが、自分は負けない。
 その愚かな慢心に、林座は取り合わなかった。若い犬に狩りを覚えさせる為に、仕留めやすい獲物を選んだ。

 深川から流れてきたその憑人は、老いた女だった。既に戦う力はおろか、戦意すら存在していなかった。敵を見定めるためと近寄ったいなきの頭を撫で、菓子をくれすらした。
 ――林座さん、あの人は悪人ではありません。
 林座にそう申し開きしたいなきを殴り、彼は冷ややかに告げる。

『ならばもう、お前は必要無い』

 憧れが瓦解した瞬間だった。
 しかし、失望だけ抱いてその場から逃げる事は、自分には許されなかった。
 雷穢忌役から追放されたら、蠱部尚武と接触する機会は無くなる。
 義務を、果たせなくなる。
 いなきは林座に土下座をして、老婆の家に戻った。
 返り血を浴びて帰還した少年を、仲間たちは歓待で迎えてくれた。最初に声をかけてきた男が言った。

 ――大人になったな。
 いなきには、その言葉が理解できなかった。渇いた声で、だまれと返して彼らから去った。その後二度と彼らとは馴れ合わなかった。
 温い雨の降る夏の日。
 歪んだ狗に成り果てた時のこと。



 いなきはあの日と似たぬるい雨と、ぬるい血を浴びながら空を見上げる。
 ――あの人を倒したとしたら、忌役の頭領にでもなりなさい。いつきちゃんも娶って。
 あやめの言葉を思い出す。
 そんな事は許されない。これ程の罪を抱えて、幸福を得るなど。
 使命を果たした時、己は死なねばならない。

「だから、その時までは……」

 そう呟いて、いなきは膝丸の死体から小太刀を抜いて鞘に納め、歩き出した。



[36842] 3a/心の分解
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/01 20:17
 長い旅の終着点を前にして、少女は川の縁に立っている。
 狐を模した面の向かう先にはこの町を血管のように巡る水路があり、水草や停泊する小船によって隠蔽された中に地下へと続く入り口がある。王家の長年秘匿されてきた領域に至る門にしては、あまりにみすぼらしい。

 それでも、彼女はそこが終着点へと繋がる門だと確信していた。両目を捨てて獲得した知覚が微かな兆しを嗅ぎ取っている。
 病。この、どこかの誰かが計算機の中に創造した仮想世界に特有の。周囲も、己も歪ませて滅ぼしてしまう疫病(えやみ)。その深さ、重さを示すように遠く、広く届いてくる。

 己はここにいる、と訴えているようだった。
 五年間、自分の手で殺す事を願い続けた――父親が。
 それを思うと少女の気は逸る。すぐにでも駆け出したかった。それができないのは、進むべき脚が一本欠けているからではない。
 背後には二人の人間がいる。男と女だ。

 女の方は少女の斜め後ろに立ち、傘を差して少女が雨に濡れぬよう覆っている。初めて会った頃、あの病室でただ本を読みながらいつまでもそこにいた時と同じように、薄くて、代え難いやさしさ。
 少女の内心を明かせば――彼女はそのやさしさに苛立っていた。
 やめて。そんな風に気づかわないで。姉さま……あやめ様。なんでそんな事をするの。なんであなたはそうなの。せっかく、せっかくわたしが、あのひととあなたを――

 癇癪を起こす一歩手前で心を留めて、少女は無言であり続けている。
 もう一人は、男だった。
 言うべき事は無い。二週間以上共にいて、常に自分を偽り続けていた男について語るべき事などありはしない。
 いつもの通り男は飄々と、何事にも柔らかく甘い断絶を示しながら川に背を向け立っている。
 男の本心は結局分からなかった。人間の心理状態まで把握するほど鋭敏な〝五〟感を持つ彼女からすら逃れる程の、完全な演技力。

 だが、もしかしたら。
 これは単純な事なのではないか。自分の能力に頼りすぎて、とても単純な解答を難しくしてしまっているのではないか。
 男の、本当に向きたい場所は。
 どうでもいい。この男に対する少女の関心は、どこまでも薄い。
 ――この、二人だけ。

 もう一人足りない。五年前の少女が兄妹になると約束を交わした少年は、まだ現れていない。
 少女がその身体と、左目を捧げたひとが。
 少女が捧げた以上のものを、別の重責を抱えながらも返し続けてきたひとが。
 だから、きっとやって来る。少女の願いに逆らって。
 やがて雲に晴れ間が覗き、川沿いの道の果てに稲穂に似た黄金が映る。

 少年は、一夜の激闘を明らかにする傷をそこかしこに負っていた。顔色は死人のように青ざめて、足取りは重い。それでも立ち止まりはしない。
 これから出会う敵に対しても覚えないであろう恐怖を痛烈に感じ、少女は逃げ出したくなる。
 それを鋼鉄よりも硬い自制心で押え込み、彼女は少年に告げた。

「行きます」
「ああ」

 感情をなんら交えない言葉に、男は満身創痍を取り繕うように強く応える。
 少女は決して、男の方を向かなかった。
 そして彼女は狐の面を取る。
 未だ成熟しきってはいないというのに、現世の女神という言葉が相応しいほどに少女の美貌は極まっていた。それは少女に流れる血筋によるものだけではない。

 何があっても意志を貫徹する。その心の強さが少女の美しさに芯を入れているのだ。
 少女は腰に吊っていた龍の面を新たに被り直す。元の狐の面は川に捨てた。彼女は二度とあの面を被る事は無いと決めている。
 再びその美貌は隠されたが、狐の面よりも彼女が彼女たるべきとして示すものは損なわれない。
 人を化かす狐よりも、彼女の在り方には相応しかった。
 人を生贄として、人を滅ぼす獣が。


   /


「きれいね」

 頭上に蓋をする青を見てあやめが漏らした感想は、その程度のものだった。いなきの方はと言えば、内心驚きに満ちている。
 先程侵入した地下水路は海まで続かなかった。それはこの経路が当初の推理に反して、殯宮へ至るものと違う事を示しているのではない。
 地下水路は、続かなかった。人の手からなる建造物は。

 海水が大きなトンネルの形にくり抜かれて、地下水路の終端から続いていた。
 天井から屈曲した陽光が降り注ぐ。壁から潮の香りがして、その向こうでは魚が遊泳している。

「おそらくは、六孫王の障気によるものです」

 先頭を杖を突きつつ歩く〝き〟が言った。

「海流を歪めて、道を作っている」

 事も無げに妹が口にした事実に、いなきは率直に恐怖を抱いた。これまで決死で倒してきた御門八葉と比べてすらケタが二つ、三つ違う力の強大さではないか。
〝き〟はその気後れを敏感に察した。

「これは勝機なのです、いなき様。大殯の儀も終盤、その上こうして殯宮の維持も行っている。彼の弱体化には拍車がかかっています」

 慰めるかのような口調であったが、いなきにとっては弱気を詰られたような気分だった。
 何より、妹はその言葉を本気で信じている。今なら、弱体化してすらこれ程の力を持つ魔王に勝てるのだと。
 いなきは自分の敵に対して、それほどの確信を抱けた事は――

「いなき君いなき君、猫に牛乳をやろうとしたら娘にひしゃげたダイオウグソクムシと罵られた。仲を取り持ってくれまいか。土下座。土下座をするから」

 この場にいない男の声が阿呆な事を言った。
 聞こえた方を向こうとするが――その声がどこで聞こえたか、思い出せない。

(クソッ……)

 幻聴が常態化し始めている。巫術の連続行使の影響で、精神のダメージは無視できないほどに大きくなっていた。いなきが妹の言葉に応じず、会話を最小限に留めようとしているのは、自分の思考を正しく言語化できる自信が無かったからだ。そうなれば彼女は自分の異常に気づく。この後の全ての敵と自ら戦おうとして消耗する。
 まだ、いなきが戦わねばならない。彼女を勝たせるには。

 その為に、自分の状態を把握する。コードハッキングでは精神を改変できない。肉体の傷は治癒しかけているが、最も重要な幻覚の解消の見込みはまるで無かった。
 この上四度目の巫術を使ったら、おそらく。

(それでも……)

 日数を除けば巫術の恩恵無しに勝利出来なかった。素の自分の能力では、御門八葉には及ばない。

「いなき君。また、あの拙(つたな)い、借り物の業(わざ)に頼ったか」

 蠱部尚武の声の幻聴が再び囁きかけてきた。今度は、憐れむような声音で。
 過去にも言われた覚えのある言葉。あの時、自分は地べたに這いつくばっていた。深い外傷はなく――相手が、いなきが感覚を増幅して戦ってすら加減して制した事を示している。

「巫術なるものは、君の妹……あの、精神を制御する事にかけて奇跡的な――あるいは悲劇的な――適正を持つ彼女だからこそ強力無比たり得るものだ。〝真逆〟の性質を持つ君は、彼女の一割未満の力を得る為に、瀕死のリスクを負うだろう」

 屈辱と絶望に溺れていたあの時の自分は、それを聞く気力も沸かなかった。

「君はそんなにも、速さを求めているのか? なら、その解答、解法すらもが落第点だ」

 尚武の言葉にはいつも棘が無い。ただ、事実を列挙するだけのもの。そして弱者は誤魔化しようのない事実を前に挫折する。
 こと武術に関する限り、この男は無自覚に弱者を抹殺している。
 殺されない為には強くなるしかない。そして、いなきに対する限り尚武はその道を用意している。彼は自分を仇と狙う少年を本気で弟子として扱っている。

「超越した知覚を持たない私に敗れた理由が、分かるだろうか。――私は今、速度において君より遥かに勝っていた」

 彼が超人である為に、凡人に理解しがたい半ば禅問答じみた教訓ではあったが。蠱部尚武は常にいなきへ何かを伝えようとしていた。

「時間すらも超える速さだ。それは、誰にも獲得できる……」
「どうかしたのかい?」

 実際にこの場にいる人間の声で、幻覚は吹き散らされた。

「いや……」

 どうにかそう答えて、相手の方を見る。
 左右田石斛斎は虎口も天国に思えるような場に立っているのを自覚していないのか、へらへらと散歩でもするように気軽に歩いている。

「ふぅん。いや、顔色が悪いように見えたからね」

 そうは言いつつも、特にいなきに興味を覚えている訳でもない口調。いなきがうるさがっていると、

「なんであなたまでついてくるんですか、石斛斎」

〝き〟が口を挟んできた。指摘された隻腕の役者は右肩だけをすくめて、

「成り行き上ね。ここまで巻き込まれた以上は、ひとりで歩けば余計に危ない。いくらなんでも、見殺しにしたら気分悪いでしょ?」
「え? 別に……」
「いやほら、ちょっとアレだよ、人情とかさ。あるでしょ? さすがに。君にも」
「ごっとんっ」
「え、なに、その擬音」
「わたしがあなたに抱いているうざさと人情を秤に掛けて、前者が傾いた音です」
「少し……大きくない? 大きくなーい?」

 などとしょげ返りつつも石斛斎の同行の意志は変わらないようなので、〝き〟は途中で舌打ちを挟んだりもした。かつ、かつと彼女の歩みに合わせて、鉄の義足と杖が生身の薄い足音よりも際だって聞こえる。
 そして二人の姿が消失した。

「――え?」

 一瞬の出来事に、間抜けな声をいなきは上げた。周囲を見回して二人の姿を探すが、十人ほどの幅のトンネルのどこを見ても石斛斎と〝き〟を見つける事は出来ない。
 背中に、ただ一人存在する他人が声を掛けてきた。

「あら、二人とはぐれてしまったわね」

 緊張感の無いあやめの口調で、事態を理解してしまった。
 自分たちは、敵地で分断された。



 もう一度全方位三六〇度、上空(※海上)と地面(※海底)を睨むように見渡しても、人影は後方で佇むあやめのみだった。
 いなきはしばし硬直する。あまりに早々のトラブルに頭は混沌の極みにあった。巫術の使用で疲弊した脳髄に叩き込まれた混乱は、やたらめったらに無茶苦茶で有耶無耶な化学変化を起こし、
 そして、いなきの口から妄言となって上ってくる。

「シューメーカー・レヴィ第9彗星人だ」

 頬から汗をたらし、真剣味溢れる表情だったが、よく見ればその瞳はぐるぐると渦を巻いている。

「奴らの銀色トラクター光線Ωで二人は拉致されたんだ。アブダクションの魔の手はここまで迫っていたのか……! クソッ!」
「なんですって!?」

 などと驚愕の表情っぽいものを浮かべるあやめ。

「木星に拠点を構えた彼らが人類との接触を図ろうとしている事は予測されていた事としても、こんな場所にまで現れるなんて……まさかいなき君、彼らはレティキュリアンと結託して世にも恐ろしい人間プラントを作る野望を?」

 こちらの眼球の動きは(恐るべき事に)正気を示していた。
 いなきはくっきりはっきり、明々白々とその意見に頷いて、

「かもな。二人がキャトられる(※キャトルミューティレーションされる)前に反物質ワープ航法を完成させなければ……」
「微力ながら手助けするわ、いなき君!」
「ああ、ありがとう……」
「それにしても、今日のあなたはとても良い感じね。これほどあなたと話が合うと感じたのは初めてよ」
「……え? 話が……合う? お前と?」

 そこでいなきは冷却された。数十秒フリーズして、思考を分解して再構築する。
 頬の汗を拭って、うめいた。

「どうやら俺は、尋常でないレベルでとち狂っていたようだな……」
「……あら? 今、どういうきっかけで自分が正気を失っている事に気付いたのかしら」

 不思議そうに首を傾げるあやめを無視して、いなきは自分の頬を平手ではたく。その程度で揺らぎやすくなっている自我を制御できるとは思わないが、事態は逼迫を極めている。再び世迷言を口にするゆとりなどない。早く〝き〟を捜し出さないと……
 視界の端から、嘆息が上がった。

「……幻覚に切り替わったのは、三分ほど前よ」

 あやめが言った。

「幻覚だと?」
「おそらくはね。その時に、いつきちゃんと役者さんの後ろ姿に違和感を感じ始めたわ」

 指先を顎にあてて思い出すような仕草をしつつ、解説する彼女。
 それを聞いて、いなきは頭痛を感じたように頭を押さえた。
 その苦悩の理由をあやめは言葉にする。

「素人のわたしに分かる程度の違和感に、あなたは気づかなかった」
「……なんてミスだ」

 歯を軋らせて悔恨に浸るいなき。その脇で再び嘆息が上がる。

「あなたの失態は、それではないでしょう?」
「……どういう事だ?」
「不調を申告しなかった事よ」

 あやめの声音は、冷淡を示していた。この女は無感動そうにしている事を時折冷たさと誤解されるが、実際は普段の言葉にはそうした色も存在しない。不可解で、曖昧。それが蠱部あやめの常態なのだ。
 彼女は、自分を責めているのだ。

「あなたがそれを隠さなければ、いつきちゃんがフォローに回っていたわ」
「……それじゃあ、意味が無いんだよ。まだ六孫王の他に敵が、少なくとも五人いる……ここであいつが戦い始めたら、消耗が大きくなりすぎる」
「それで今、どうなっているのかしら? あなたといつきちゃんは分断された。彼女は、一人で戦う事になるのではないかしら」
「……っ」

 いなきがひるんだ隙を突くように、あやめは告げる。

「自分の能力の限界を、認めなさい」
「それじゃあ、目的は果たせないんだよ!」

 叫ぶ。みっともなく癇癪を起こしている事は分かっていたが、言葉を押さえつけていた箍が外れてしまった。

「自分の限界なんてとうの昔に気づいている……俺は、弱い……蠱部尚武には到底及ばない……! あいつのような、超越した武人とは違う! それでも限界を自覚して、諦めるなんて許されない……」

 叩き付けるように言った。
 あやめは再三嘆息する。そして、彼女が示していた冷淡さを消すと、

「今、口論している暇はないでしょう。……あなたの身体、いえ、精神の状態を教えなさい。わたしは、昨夜からのあなたの行動を知らない」

 いなきの不調の原因を正しく推察して、聞いてくる。渋っていると、言い聞かせるように言葉を重ねてきた。

「素人の女の助勢も必要なほど弱っている事を自覚しなさい。あなたは今、外界の認識が不安定になっているのでしょう。わたしが気づいた事は指摘してあげる……本当は、さっきもそうすべきだったのだけれど。これはわたしのミスね」
「……違う。俺の不調を知らなかったから発言を控えたんだろう。俺のミスだ」
「……お互い、鬱陶しい自戒合戦はやめにしましょう。きりが無いわ」
「ああ……」

 いなきは同意して、先へと歩き出した。何にせよ、この場に留まっていても益は無い。
 一歩目を踏み出した後で、「この先は道が続いているように見えるか?」と問いかける。あやめは「ええ」と返した。

 でこぼこした海底の道を歩きながら、いなきは自分の現状を説明した。巫術という技術を使って御門八葉に対抗した事、これには統合失調症に酷似した精神の失調のリスクがある事、過剰にそれを使用した為に幻覚が常態化しつつある事。
 一通り話を聞き終えると、あやめは言った。

「今後金輪際、その技を使うのを止めなさい」
「……けれど、それじゃ」
「おそらく、次の巫術の使用であなたは廃人になるわよ。……お父さんを倒すまで死ねないんでしょう、あなたは」

 ある意味で意地の悪いあやめの説得に、いなきは喉をつまらせたようになる。

「……正直、この件に関してはいつきちゃんにも責任はあるわ。あの子だけにしか扱えない技術を人に教えるなんて」
「……俺が、無理に聞いたんだよ」
「それでも、伝えるべきではなかったわ。精神の変容を制御するという事は、特殊な才能を持ち、訓練を受けた女性にしか本来できないものなのよ」
「女にしか、って……どういう事だ?」

 問いかけるいなきに、あやめは横合いから顔を覗くように答えた。

「歴史が実証しているわよ。日本もそうだけれど、ヨーロッパでもデルポイの神殿で託宣を受けるのもまた巫女。ある時代から、シャーマンとしての能力を持つ人間はほとんど女になっているわ」
「それは……政治を男が担当し始めたからだろう。中世以前の宿命的な男女の分業制だ」
「理由の一つではあると思うわ。けれど、根本的な原因ではない。別に男と女のどっちが優れているとか、そんなくだらない話をしている訳じゃないの。ある時期以降の男性は、巫(かんなぎ)としての能力を女性に比べて大きく損失してしまった……」
「……なんだか、随分と断言するな。ある時代、ある時期、とかも……何か、根拠があるという事か?」

 いなきが問うと、あやめは「ええ」と頷いた。

「ある変化が起こるより前は、男女ともに〝神の声〟を聞いていたのよ」
「……ちょっと待て、いつものお前のオカルト話にかまけてる暇は無いんだが」
「失敬ね。……言い換えるわ。〝出所の不明な声〟を、ある時代の人類は日常的に耳にしていたの」
「全人類が幻覚症状に罹患していた?」

 同じく幻覚を患い、そのうえ正体不明の幻術に惑わされつつある中で、いなきは言った。
 あやめは首を振る。

「幻覚、というと誤解になるわね。一番適当なのが神の声なのよ。実際にそう扱われていたのだから」

 などと言うと、中空に向けて静かに何事かそらんじて見せた。
 ――そもそも二人を争わせたのは、いかなる神であったのか。
 詩、のようであった。聞き覚えがある。

「……イリアス?」
「そうね。美姫ヘレネーの奪い合いに端を発するトロイア戦争、神々の助勢を受けた英雄の戦いを描いた叙事詩。読んだ事はあるようね?」
「ざっと、流し読み程度だ」

 知性と知識の欠落した人間は、一定の水準以上の戦いには確実に負けるというのが蠱部尚武の持論だった。紫垣城のデータベース〝啓示の森林(アーラニヤカ)〟から採集した知識の写本を収めた書庫。いなきがあそこに通う頻度はトップであるあやめに次いでいる。だから、このように現実の知識を前提とした会話も行えはする。

「そう。ならいいわ。あれを読んで、不思議に思わなかったかしら。なぜこの話の登場人物は、神さまの言う事をこうもすんなり受け入れてしまうのかって」
「……まぁな」
「それはそうよね。そもそもの発端であるヘレネーのかどわかしだって、よそで女神が勝手に決めた事なのに、無数の求婚者の中で一番の男のメネラーオスと結婚して不満の無い所を、見ず知らずのパリス王子に唯々諾々とついていったのよ」
「でも、それは信仰心ってやつだろ?」
「現代的な解釈ね。ある時期以前の人類にとっては、神とは信じるものじゃなくて、事実として、何ら疑いなく実在するものだったのよ」

「超常的な存在が、本当にいたってのか?」
「物理的な実体を持つ神、という意味なら、今はその話をしているのではないわ。いえ、むしろそういう意味の神の不在を示唆するものなのでしょうね……だって、そんなものがいたら競合してしまうもの」
「競合?」
「この話の神と、よ。人間の代わりに思考を行っていた存在」

 と、あやめは言った。

「……その時代では、人間が思考していなかったとでも言うつもりか?」
「その通りよ。――これは、ある時期で行われた人間の心についての想像。その後、人間の心を創造できてしまった為に、忘れ去られた古い話よ」
「……何を言っている?」
「今のは理解しなくてもいいわ。結局の所、わたしの推論でしか無いのだもの」

 さぁ、話を続けましょう、とあやめは手を打ち鳴らす。

「神という名の思考の代行者(エージェント)に、人々は意志決定を委ねていた。――さていなき君、この場合の神の正体はなんなのかしら」
「……自分だ」
「模範解答ね。そう、合理的に考えればそういう風に結論せざるを得ないわね。精神、という神。この仮説では、かつての人類は心を分裂させて、片割れを神とした事になっている。分裂した神は幻覚として人間に干渉し、行動の決定権を握った」

 重ねて問題よ、と彼女は魚の躍る海水を背景に問いかけてきた。

「統合失調症という病名は、かつてなんと呼ばれていたのかしら」
「……精神分裂病」
「正解(コレクト)。神代の時代というべき時期。全人類の精神は、統合失調症に近い状態にあったのよ。幻覚症状に罹患していた、というあなたの話も十分ではないけれど正しい」

 あやめの含みのある物言いはさておいて、いなきは疑問を口にした。

「だが、今はそうじゃない。神代とそれ以降の差はなんだ? 人間はどこから自分で意志決定をするようになった?」
「言語の獲得」

 端的に、あやめは告げた。

「今の人を、人たらしめるものはそれよ。体系立った言語を習得する事で、人間は思考を可能とした。過去、現在、未来。異なる世界。別個の人々。等身大の自己を超えた思索が、人類を他の動物と隔絶した存在にした……神の声を聞く能力と、引替えにしてね」
「たかだか幻覚だろう? 正しい進化じゃないのか」
「その言葉はいただけないわね、いなき君。あまりに都合の良すぎる解釈よ。進化なるものは、ただの変化でしかないわ。そしてすべての変化にはマイナスが存在する。――人類が失ったものは、厳密には幻覚に似た何か。そして、それによる恩恵があったと、わたしは考えるわ」
「……その恩恵ってのは?」
「強力さ」

 いなきの問いかけに、あやめは一言で応じる。

「未来を予知する巫女、海を割る預言者、不死に近い戦士……はたして、神代の英雄の能力は物語的な誇張だったのかしら? その時期の人間は、本当にそうした力を持っていたとしたら?」
「そんな事、ある訳がないだろう?」
「既に失われた時代よ。わたしたちの常識の範疇で予測する以外にない。……いつきちゃんを見ては、眉唾と言い切るのは難しいわね」

 そうあやめは言って、

「あの子が斎姫(ときのひめ)として受けていた訓練は、まさしく神代の巫女の能力を会得する為のものよ。言語が存在せず、視覚も制限された環境で成育する事で、神代の脳の状態を構築し、幻覚を知覚して、これを制御する……今のあの子の能力は、この経験を元にアレンジしたものよ」

〝き〟の能力。架空の臓器を仮定し、そして〝幻覚する〟という仙術による、物理的な限界を超えた怪力と、巫術による超人的な知覚。そしてその異能とコードハッキングを掛け合わせた蠱業、あの恐るべき〝刹那生滅〟。
 まさしく、あの娘の力は人の範囲を逸脱している。

「……あいつのような力を、神代の人間は持っていたというのか?」
「んー……厳密には違うわね」
「あん? 話の流れからして、そうなるだろ普通」
「仕方ないのよ。ただあの子が今やっている事は、神代の人間の能力に由来するものだから、本来の力も人智を超えたものだと推察するしかないの」

 釈然としない気分のいなきを軽く眇(すが)め見て、フォローの意味かあやめは付け加える。

「ただ、斎姫というシステムを考えた人間はこれを考慮していたはずよ。女性のみを対象にする点は元より、全ての儀礼に明確な目的がある」
「話が戻ったな。女だけが巫覡(ふげき)の能力を会得できる……理由はなんだ?」
「単純な話。脳の器質的な違いよ」

 つん、つん、とあやめは人差し指で自分のと、いなきのこめかみを交互につついてみせた。

「左脳、右脳の機能分化の話は分かるわね? 右脳が左半身、左脳が右半身と互い違いの箇所を制御するとか、右脳がイメージ、左脳が言語を司るとか」
「ああ」
「女性の場合、この機能の分化は明確ではないのよ。左右の脳を繋ぐ脳梁、つまり回線が太いの。だから、左脳側から右脳を支配する適正がある」

 あやめはいなきの後ろに立って、左右のこめかみを指でつつく。中々鬱陶しいので止めて欲しかった。
 再び彼女はいなきの左隣に戻ると、

「幻覚を感じる部分は右脳とされているわ。左半身を司る箇所。いなき君、わたしの周りに幻覚は見えている?」
「見えてない。お前自身が幻でなければ」
「そう? わたしは、ここにいるわよ。信じるかどうかはお好きになさい」

 などと冗談めいた事を言うあやめ。

「ともかく、言語の獲得によって人間の精神は神代のそれとは変容してしまった。意識、思考なるものが人間の精神の主座につくようになった。けれどいなき君、神代の能力の代わりに得たこの演算器は、実はとてもロースペックなのよ」
「お前の親父も、確かそんな事を言ってたよ」
「そう? あの人なら実感としてそれを知る事もできるでしょうね……わたしは知識としてよ。思考する人間は、実像そのものとはかけ離れた、極めて低い精度で世界を認識している」

 と、あやめは壁面の海水を見る。それがどのように見えているか確認しているのか。

「そもそも、思考は後天的に得たものゆえに、実は人間の精神の核心とは遠い所で機能しているの」
「? どういう事だ」
「現実史のどこかで行われたある実験では、人間の意識は行動に遅れて発生している事が証明されたわ」
「……俺たちは、動いた後に考えている?」
「そう。この考えに立脚すれば、意識というのはあくまで、後天的で、ロースペックな、付属品なのよ。そうでないものの方が遥かに強力なの」
「……無意識」

「そうね。これを高く評価していたのはユングかしら。彼は人間の心の根源にある無意識を自己(ゼルプスト)と名付けていた。これは、人が神になる為に必要なものだと。……それもまた、人工知能の完成と共に廃れていった求道ね」
「どっちにしろ、人間が神になれる訳が無い」
「そうかしら? 人間そのものの思考をする機械を創造した時点で、神の定義の範疇に入っているような気もするけれど」
「……あんまり、認めたくねぇよ」

 自分が人造物であるという認識は、八百八町の暗部に関わる以上避けて通れない。そして大抵の人間がそこに劣等感を覚える。創造主、という意味であれば確かに現実の人間は神と言えるが、彼らは崇拝の対象などではない。断じて。

「神に幻想を持ち過ぎよ、いなき君」

 それを、この女は軽々しく切って捨てた。

「完全無欠の善なるものなど、この世に存在しない。それどころか、比較的善なるものですらもね」
「お前って、性悪説論者だったっけ?」
「いいえ。……全き悪なるもの、比較的悪なるものもこの世に存在しないわ」
「……よく分からん」
「いいのよ。さ、話を戻しましょうか」

 と、あやめは二度目の手拍子をする。

「つまり意識の排除は、肉体をハイスペックな処理装置に預けるという事ね。それでもしかしたらESPの類を獲得するかも知れない、というのが神代の人間の超人説の根拠よ。別に、そんな眉唾な話でなくとも運動性能は確実に向上するわ。……確か、あなたたちの使う言葉に適当なものがあったのではないかしら?」
「……無想」

 それは武術におけるある種の理想、あるいは駄法螺(だぼら)だ。
 武士なる職業に禅の思想が浸透する事で唱えられた信仰。思考を無くして戦う事が武術家の理想型であるという――当の武術家たちですら妄想として一笑に付すものが多かっただろう。そして、それが正しいといなきも考え続けてきた。

「無想は、可能なのか?」
「おそらくは。まだ、誰もそれを実践した事は無いけれど」
「だから、〝き〟がそうなんじゃないのか?」
「違うと言ってるじゃない。……そもそも、あの子が自我の無い人間に見える?」
「……いや」
「というより、真逆に、見えるのではないかしら?」

 真逆。
 確かに〝き〟の自己を貫徹する精神力は並のものではない。彼女はただの少女、しかも重傷を負った状態の頃から、八百八町最強の憑人の殺害が可能である事を決して疑わなかった。実現出来る願望として訓練を続けていた。そしてたった五年程度で六孫王に対抗する手段を見出して、修得している。
 自我の塊。

「あの子の行っている事は無想の逆なのよ」

 あやめはそう前置きして、言葉を続けようとする。
 それを、いなきは押し止めた。

「待て、話は後だ。……俺の見えているものは正しいか、あやめ。道の向こうに、」
「女性が一人いるわ」

 巫術の後遺症の幻覚でない事を確かめて、いなきは改めて水中通路の奥に立つ女を見つめた。
 女、というよりは少女というべき歳頃だろう。濃紺の着物を着付けて、赤い唐傘を差している。あどけなさの残る顔立ちが、こちらに向いていた。

「女性が、一人いると言ったわよ、いなき君」

 こちらの内心を見透かして、釘を刺すような口調であやめが囁く。

「たぶん見た目通りの年齢じゃないわ。型にはまりすぎてる」
「……?」
「年頃そのものに見えるよう取り繕ってる、って事よ。そこまで自分を客観視するのは、あの仮痴不癲(かちふてん)さんでも出来ていなかったわね。まぁ、年の功ってやつよ」
「分かった。油断はしない」

 歩きながらも腰に下げた刀の具合を確かめ、即座に抜き打てるよう用意をする。
 まだ距離がかなり開いている時に、女がこちらに声を掛けてきた。

「どうやら、勘の良い女を連れとるようじゃのぉ」

 微笑む。それだけで少女の印象はがらりと変わる。鎚蜘蛛姫や芙蓉局あたりの示していたものと同じような老獪さ。

「儂に戦る気は無いよ。ただの案内人じゃ。……それに、この儂に触れる事はできんよ」

 と、少女は自分の顔面に手で触れる。彼女の像が、ぐにゃりと歪んだ。

「貴様らと斎姫を分断したのは儂の幻術じゃ。……御門八葉が一、比良賀(ひらが)家当主、月数(つきかず)。短い間ながら、よしなに」
(……幻術)

 少女の語る言葉を無視して、いなきは思考に没頭した。戦意が無いなど嘘に決まっているし、ならば能力を考察する事は無意味ではない。
 敵勢を引き離す事が可能な点から、その幻術とやらが広範に及ぶものである事は推察できる。憑人としてのいかなる特性がそのような技術を実現するのか。
 視力の無い〝き〟をはめた事から、視覚に訴えかける類のものではないはずだが。
 ――くつくつと、笑い声がした。

「おうおう、やはり雷穢忌役よのぉ」

 どこか、数年来会わなかった知己に偶然遭遇したかのような懐かしさ――そんなものを感じさせる笑みを浮かべ、月数は歩きだした。その後をついていく間にも、彼女は語る。

「まずは敵味方。そして敵と区分けすればその全てを疑ってかかる。判を押したように似たり寄ったりの連中じゃ」
「……当たり前だ。そもそもお前は、六孫王の近衛だろう」

 ぴりつきながら、いなきは応じる。
 月数はつまらなそうに嘆息した。

「くだらん。……大樹は既に柩に入っておる。このような、大仰でかび臭い柩にの。あと一日二日で死ぬと分かっておるものを守る理由がどこにある?」

 と、言ってから肩をすくめて、

「同じく、いちいち殺しに来る理由も無い。……主らは藪を突いて蛇を出したのじゃよ。主らの争いに巻き込まれて死んだ人間は百を下らぬそうだ。全く、無益な死よ」
「……」

 いなきは奥歯を噛みしめる。死者の側に立てば、まさしくこの女の言葉は正しい。彼らは単なるとばっちりで人生を終えた。

「それと。町人以外の、突き殺した蛇についても考えてもらいたいものじゃ。――主が最初に殺した日数、あれは儂の孫よ」
「……そうなのか」
「比良賀家と大宇智(おおうち)家は御門葉の中でも繋がりが深くての。あれは嫁に出した娘が産んだ子じゃ。紛れもない外道に育ったが、不憫な男でもあった。近親婚を繰り返したせいで生来の障害を抱えておって、憑人の力を御する事ができるまで寝たきりじゃった。……娘は箱入りだからの、そんな日数を扱いかねるとあっさり捨てた」
「……だからって、人を殺して良い理由には」

 言いかけて、その思い違いに気付き慌てて止める。月数は見逃さなかったが。

「それを殺し屋の主が言うのか? くく、ひひ……冗談にしても――悪質じゃのぉ」

 的確に、老獪に、少女にしか見えない憑人はいなきの精神を抉ってくる。

「その通り。人を殺して良い理由などない。大量虐殺を行った人間であれの。殺人が悪、という標語を信ずるのであれば、刑罰による殺害も許されぬ。大昔のお偉い人間は悪人一人を殺して万の善人を救う事を活人剣(かつにんけん)などと嘯(うそぶ)きおったが、そんなもん欺瞞よ。違うか?」
「……違わない」

 断じて、違わない。
 死が。ある日唐突に未来を遮断される事がどういうものか、いなきは九年前に知った。
 それを人に強いる事は、許されてはならない。
 だから、自分は。

「本来なら儂は、日数を殺した主を仇と恨み、戦わねばならん立場よ。……そうした時、主はどうするのかね?」
「俺は……」
「うちの子をいじめるのは、止めていただけないかしら?」

 あやめが、口を挟んできた。

「あなた、知り合いの憑人にとてもよく似ているわ。――とうに人間が死んでも何も感じなくなってる癖に、気まぐれだけで人のふりをしている。そんな気まぐれで、彼を振り回さないでちょうだい」
「人のふり、ねぇ……儂は人間ではないのかね?」

 面白そうに問いかけてくる月数に、あやめは「ええ」と断言した。

「その女性と同じ。人間を俯瞰でしか見れないような存在は、神か悪魔のどちらかよ。あなたは、どっちかしらね」
「悪魔の方が好みじゃのぉ。……その婆も、そう言うとったのではないかね?」
「やっぱり、蜘蛛のおばさま……鎚蜘蛛姫を御存知なのね?」
「おうよ。娘時分に師事しておった。幻術も奴の手解きじゃ。……気が合わなくなって、袂を分かったがの」
「人を化かす所は、そっくりに見えるが」

 いなきは言う。彼の方も、あやめの言葉でようやく気づいた。自分が弄ばれた事を。

「日数は、最期にあんたの事を呼んでたよ」

 彼女が孫の死に哀しみを覚えていない事を。

「く、ひひ」

 にたぁり、と。老獪を通り越して化物のように月数は笑む。

「本当に、珍しい程に初心な男よ」

 結局、彼女は日数の死に様については何も興味を示さなかった。

「おいおい、勘違いをするなよ。儂はそれなりにあの男を可愛がっておった。憑物の制御術を教授してもやったし。活動できるようになってからも……奴は両親を恨んどったからの、復讐に手を貸してやりもした」
「……あんたの娘でもあるだろうが」
「人を殺して悪い理由など無い」

 などと、月数は最初持ち出した意見をあっさり翻した。

「善悪なんてもんは、所詮社会をほどほどに維持する為の皮よ。容易に裏返るし、裏もかける。善人、悪人などと大雑把な区分には必ずつっこみどころが出来るものよ。裏側の無い物体が存在しないように、表側の無い物体が存在しないように。自分の全き正しさ、あるいは自分の全き悪しきを信じている人間――前者が数多いのは知れた事じゃが、こういう人間も意外といる。どこぞの誰かのようにな――はただの馬鹿じゃな」
「……似たような事を言う奴が、どこかにいたな」

 皮肉は無視して、隣を歩くあやめを意識しつつ答える。
 彼女が月数のような無慈悲な――いや、虚無的な人間であるとは思えないが。

「……ま、儂は日数で遊ぶのは面白がっておったが、もう死んでしもうた人間の仇討ちに熱を入れるなどまっぴら。そういう事じゃ」

 月数は無情極まる言葉を平然と用いて、それきり日数の話題を切り捨てた。別口で語りを続ける。

「大樹の護衛にしてもそうじゃ。仲間の手前、幻術による消極的な援助はするがそれ以上の事は面倒じゃの。危うくもある。儂は蜃(シン)の憑人……戦闘力に見るべき所が無い。積極的に戦いに参加すれば討ち取られる可能性もある。儂は〝生き残り組〟じゃから無茶をして死ぬ気など無いよ」
「……生き残り組?」
「この太歳宮(たいさいきゅう)……主らは多分殯宮と呼んでおるこの御所は、大樹の障気によって維持されておる。奴が死ねばここは即座に水没する。御門八葉には三十六歌仙のような一蓮托生の義務などないが、近衛である以上最期の瞬間まで王を護衛せねばならん。結果的に、水中で活動できる特殊な憑人……日数や沢瀉、儂のような水気の憑物持ちしか生き残れん」
「……確か、沢瀉は大殯の儀の完遂と共に死ぬみたいな事を言っていたが」
「あやつは馬鹿じゃからのぉ。この話を理解してたかどうか分からん。……いや、普通に殉死する気でいたのかも知れんが」

 個人的には前者の説の信憑性が高いと、沢瀉と直に戦ったいなきは思う。まぁ、武人としてイメージされる像そのものであったような男だ。後者でも不思議は無いが。
 ――それにしても、この女は本当に戦う気が無いようだ。
 自分が何の憑人か明かしてしまっている。
 蜃――大蛤の妖怪と言われている。
 吐き出す気が空中に楼閣を作り出す――蜃気楼の語源となった存在である。

 おそらくは、大気中に何かしらの化学物質を散布して幻覚にはめる能力なのではないか。作用する場所は嗅覚の可能性が高い。視覚の存在しない〝き〟が幻術にかかっているし、五感の中で最もダイレクトに脳神経に作用するのが「匂い」なのだ。嗅覚情報は大脳辺縁系に直接届く。ここは人間の記憶や自律神経、感情を司る箇所である。
 能力の手掛かりを簡単に教える。この女は、

「熱意が無いのね、あなたは」

 いなきの内心を代弁するように、あやめが言った。
 へらへらと、月数は応じる。

「そうじゃ。鎚蜘蛛姫と気の合わん所はそこよ。芙蓉局とも会うたであろう? あやつも同じじゃ。人生を賭した求道? この世界の未来? なんでそんな下らんもんに入れあげるのやら、儂にはさっぱりじゃ。命を擲つような大望を持たず、ほどほどに悪事を楽しみ、時折善行を為して生きる……おい小娘、主は人のふりと言うておったが、これこそ真っ当な人間の在り方じゃろうが?」
「必要なものが欠けているわ」
「……必要なもの?」
「答える必要を感じないわね。あなたはもう、人間を止めてしまってるのだから」

 あやめは普段見せない、冷徹な声で月数へ告げる。
 彼女の倦怠に満ちた風情は、その程度で変化する事は無かったが。

「ま、相互理解は諦める事とするかの。……ともあれ儂は、ちょっとした幻術で他の連中の都合の良いよう場を整えるだけじゃ。――斎姫は先行させたからの、今頃戦端を開いておる事じゃろうて」

 その語る内容にいなきは違和感を感じたが、それを追求するのを迷う内に、月数が言葉を被せてきた。

「主らには、しばしこの辺りをうろついてもらうぞ。儂の本体は太歳宮の中じゃから、殺して幻術を解く事もできん。なに、四半刻もかからんだろうて。……斎姫が死体になるには」

 舌先で傷を弄くるような言葉を使う月数に、いなきは感じた違和感をさておいて問いかけた。

「あいつと戦っている憑人は、御門八葉か?」
「そうじゃ。八葉が一人。もう一人、余計者がついておるがの」
「もう一つ。そいつは、俺の殺した連中より強いか? 奴らは格下の先遣隊だから永代島に現れたのか?」
「……? いいや。当主の寄合所帯だからの。便宜上の取り纏め役は存在するが、序列の類や命令系統などは存在せん」
「そうか。――ならいい」

 確かに、この女の言う通り嗅覚に作用する(と思われる)幻覚を防御する事は困難だ。〝き〟の元に駆けつける事は出来ないだろう。
 だからいなきは、妥協をせざるを得ない。
 日数、沢瀉、膝丸――あの程度の連中と同格なら、〝き〟は力を温存して戦える。
 不安材料を述べたつもりが、相手が安堵しているという不可解に顔をしかめる月数に、いなきは告げた。

「あいつは、けた違いだ」



[36842] 3b/戦姫
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/02 21:55
「やっぱりぃ、気乗りはしませんわねぇ」

 開口一番、そんな間延びした声で宮殿の門前に立つ女は言った。
 臭う程に女を主張するかのような容姿をしていた。だらしなく――理路整然とした計算の上で――暗い赤の着物を着崩し、はだけた胸元から白い豊満な乳房を覗かせる。濡れたように輝く髪が緩く波打って、一房谷間に潜り込んでいた。
 その有り様に男は獣欲を抱き、女は嫌悪するのだろう。そして彼女の実体を見落とす。
〝き〟は、女の冷徹さを示すかのように静かに鼓動する心音を聞いている。

「こんな子供を殺すなんて。ああ、気が乗りませんわぁ」

 などと言いつつも、内心では毛ほども動揺を感じていない。こういう時自分の知覚力が面倒なものに思える。無駄な茶番である事が分かってしまっているのに、それに付き合うのはひどく億劫だった。

「わたしは別に。……あなたのような、色んな意味ででかい女は妬ましいですし」
「女の子のくせに、正直ですのねぇ。……でも、後悔しますわよぉ、後々。具体的には十年くらい経った頃に」
「……?」
「わたくし、占い、得意なんですのよぉ」

 と、女は袖からタロットカード、筮竹(ぜいちく)、水晶玉などを出したり消したりする。

「手品師の方が向いていそうです」
「そう仰らず……実際、スゴイんですのよぉ、わたくし」

 たたたたた、とトランプを空中でシャッフルするという妙技を披露しつつ、女は言った。やはり占い師というより手品師のスキルに見える。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦などという事は申しませんわぁ。……まぁ」
「次にあなたは、『今回は、当てないつもりでいますけどぉ。占いの示す未来の来る前に死んでいただくわけですし』と言います」
「……」
「え? あれ?」
「どうしましたのぉ?」
「……言わないんですか?」
「いぃえぇ、言おうとした事を一言一句違わず当てられてびっくりしてましたのぉ。スゴイんですのねぇ」
「くぅ……っ!」

 殴られたように膝をつき、〝き〟はうめいた。

「様式美が崩れました……確かにアレって、当てられた方が付き合ってくれでもしないと成立しない会話芸のような気がします……」
(一度やってみたかっただけのに……だけなのに!)

〝き〟は内心で後悔の海に溺れた。
 全力の自制心を燃料に恥辱からリカバーすると、立ち上がって話題を逸らす。女の足下でうずくまっている者を指差して、

「そ、そこのそれは、(手品の)助手かなにかですか」

 急に自分に言及された、その丸まった塊はひぃと悲鳴を上げて女の影に隠れる。自分と同い年くらいの少年のようだった。彼は震える声で言う。

「ななな、なんでぼくみたいなゴミムシを気にするんだよぉぉおぅ……隠れてたのに、話しかけるなオーラを出していたのにぃい……」
「ふっ、甘いですね」

 あらん限りの上から目線で〝き〟は少年に告げた。くるぶしまでの長い後ろ髪をかき上げて、格好を付けつつ、

「なんか色々充実してる妬ましい連中は、オーラなどという婉曲な防御手段は易々と通り抜けて「どうしたの?」「怖くないよ?」「愛と勇気だけじゃなくて僕とも友達になろう」とか言ってくるのです。あのうざいやつらを黙らせるのは己が拳のみ。身体を鍛えなさい、少年」
「最底辺のコミュニケーション能力保持者の間で優位に立ったからって、浴びる程の優越感に浸る様……もの悲しいですわぁ」

 女が呆れた風に口を挟んでくる。空中シャッフルは手遊びのように続けてはいるが。

「……で? いったいあなたたちは何なんですか? 芸人ならこの二週間余りでお腹いっぱいなので、ご退場願いたいのですが」

 分かりきってはいたが、茶番に幕を引く意味で〝き〟は問いかけた。
 女はシャッフルしたカードを空中にバラ撒く。絵柄は全てスペードのエースに変わっていた。最後まで手品師じみた振る舞いをして、女は答える。

「三十六人衆、瞞天過海(まんてんかかい)の歌仙、徽子(きし)……出張警備ですわぁ。ふふ、騎士と徽子をかけたんじゃありませんのよぉ」
「……そっちは?」

 くだらない事を抜かす女を無視して、再び少年を指差す。ひぃ、とうずくまったまま悲鳴を上げ、意味のある言葉を発する事は無かったが。
 代わりに徽子が答えた。

「御門八葉が一、鏡家の当主、楯無(たてなし)さまですのぉ」
「そうですか。わたしは、ただの殺し屋です。その門の向こうにいる男を殺しに来ました。――互いの立場も了解した所で、戦いましょうか」

 早口に述べると、〝き〟は今まで自分の身体を支えていた鉄の杖を肩に担いだ。

「あら、せっかちさんですのねぇ。わたくしは未だに躊躇いを覚えておりますのにぃ」
「申し訳ありませんが、わたし、あなたたちに興味がありません」
「……傲慢な子供」

 小さく、〝き〟の聴覚でしか捉えられない程の声で徽子は罵った。冷笑家で、冷徹で、冷厳。それが地金なのだろう。
 すぐに剥げる仮面。どうしてそんなものを取り繕うのか、〝き〟には不可解で仕方が無い。

「最後に聞きますが、道を譲る気はありませんか?」
「良い、と言った所で信じますのぉ? あなたは。後ろから刺されると考えません?」
「分かりますよ。本当にその気なら」
「ふぅん……なら、わたくしがどう答えるかも分かりますわよねぇ?」
「ええ、そうですね」

 自分も茶番に付き合ってしまった事を悔やむ間、〝き〟は空中に飛び出していた。
 彼女の義足は膝関節にバネを内臓している。それを強く踏みつけて、反動で跳ね上がったのだ。そこに仙術により強化された筋力と、巫術による体内の知覚がもたらす精密な軽功が加わる事で跳躍の距離は四丈(十二メートル)を遥かに超える。
 徽子の無防備な背中を打撃しようと杖を振り上げ――
 唐突な脱力感に襲われた。

「……っ?」

 そして体内で起きた変調よりも、危険な異変が地上にあった――いや、無かった。
 女の背後で怯えていた子供の姿が、そこに無い。

「ご、ごごごごめんなさい」

 空中高くに飛び上がった〝き〟の背後で、その声は聞こえた。

「――でも、命令だからァ♪」

 唐突に愉悦の色合いに染め上げられた声と共に、少年は左腕を巨大な石と化して彼女の背を殴打した。



「慢心、ですわぁ」

 地べたに叩き付けられ、今は楯無の手で押え込まれる〝き〟に、殴りつけるように徽子は告げる。

「自分の能力を絶対視しておりましたのねぇ……確かにそれは、人に軽々しく万能感を覚えさせる技術ですものねぇ。子供がそれを得たのなら、ことさらそれも大きいでしょう」

 かつ、かつ、と女が履く、和装に似合わないピンヒールが地面を叩く音がする。遠く、遠くに離れていく。

「だからこそ、子供の玩具を取り上げるようで、気が引けますけれど……内丹に気を練る事で力を得る仙術――わたくしには、それを無効化できますのよ」

 ぴくり、と女の言葉に〝き〟の指先が震える。楯無に押え込まれているので、それ以上の動きは許されなかった。

「わたくしたちは、似た物同士ですのよぉ――斎姫」

 と、徽子は海底に突き出た岩の一つに腰掛けた。気楽な振る舞い。勝利を確信したような。
 それはそうだろう。この状況は明らかに彼女が王手を掛けている。
 だからこそ、種明かしをする余裕もあるのだろう。

「現実史における三十六歌仙、徽子の別名は斎宮女御……その名の示す通り、巫女であった女性ですわぁ。わたくしもまた、巫女としての訓練を受けましたの。主、瞞天過海の商いは〝神域の構築〟……神殿、寺院に魔術的な価値を作る事ですからぁ、それに合った人材として大抜擢されましたのよぉ」

 自慢のようで――女はそれをつまらないものと捉えているのが〝き〟には分かる。
 それでも、そうしたもので飾るのが女のやり方なのだろう。
 女の内面は、どこまでも事務的で、空虚だった。人がそれに触れればおののいてしまう程に。
 空虚を飾り立てる言葉を、徽子は並べ続ける。

「と言っても、あなたのようなバカ力はありませんけれどぉ……あなたの専門が、己の内側に神域を作るなら、わたくしは外側」
「……方位、地勢。気の流れですか」
「その通り。……ふふ、取り乱すものと思ってましたのに、お強いんですのねぇ。あるいは鈍いのかしらぁ」
「……続けなさい」
「あら、まぁ。……そうですわよねぇ、お姫様ですもの。謙虚など持ち合わせて産まれてくるはず、ありませんわよねぇ」

 くつくつと演技で笑いつつ、徽子は内心の冷気をさらに冷ややかにした。敗北し、組み敷かれた娘の処遇を決定したのだろう。

「方位と場により、存在する気の質、量は変化する……良き流れ、悪き流れ……それを見定める方法論を現実史の古代から人類は考察してきました。風水、気学、九星術、奇門遁甲……」

 講釈するように述べる徽子。

「ある時点で、それは完全に解明されたようです。空想と軽んじられた魔術が、科学的に再現されて実体化したわけですわぁ」
「その靴と――眼ですか」
「ご明察。……ふふ、本当に、気持ちの悪い子」

 微笑みながら、徽子は左手で着物の裾を捲り、右目にかかる髪をかき上げてみせた。その程度の仕草ですら妖艶に感じられるよう演出されている。
 和装に似合わぬ黒色の、内側に電子部品を充満させた靴、それと。

「簡単に光を捨ててしまうところまで、わたくしとそっくりで……本当に気持ち悪い」
「片目は、残っているようですが」

 徽子の瞳で機械化されているのは右目だけだ。左目は生身であると分かる。

「ほとんど見えておりませんわよ。分かりますでしょう? 巫女という存在は、概して視力を失っていく傾向にある」

 彼女の言う通りではあった。恐山のイタコには盲人あるいは弱視が多い。斎姫というシステムのモデルとなった諏訪の風祝(かぜのはふり)は地下に籠り、光を遠ざけて身を清める。理由は判明していない。
 自分の身をモデルケースとして考えれば――巫女の証である幻覚は、聴覚を介して起こりやすいからではないかと思う。

「ともあれ……この靴と義眼が三十六歌仙、徽子の拝領機関、〝一番〟こと〝奇回廊渡天女(くしきみちわたりしおとめ)〟ですわぁ。機能は、この義眼により気の流れを見極め、靴で掻き回す。それで〝極端に良い流れ〟と〝極端に悪い流れ〟を構築する事ができますのよぉ」

 かつん、と尖ったヒールが地面に小さな穴を穿つ。
 確かに、それでこの場を構成する〝何か〟が、一瞬で変化した。

「今この時は、未那元宗家の人間が保有する属性である、木気を殺す気の流れを構築しておりますの。あなたの仙術の源泉は封印され、機能しておりませんわぁ。……逆に」

 長い指先、紅を塗った爪で、徽子は〝き〟を地面に押しつける少年を示した。

「土気で構成された鉱物の憑人である楯無さまは、強化されるように致しました。調子はいかがですかぁ?」
「す、すすす、スゴぉぅク好いぃいいよ……」

 喜悦に浸りながら漏らす楯無。その口の端からはよだれが垂れ流されている。
 触れられていれば、その体内も感覚できる〝き〟は、少年が薬物を常習している事を知った。弱気に見える彼の、実際の生活をほんの少し空想し、すぐにつまらないものだと悟って止める。
 女の声を集中して聞く事にした。

「この機能は、猿丸の〝二十七番〟とはいささか格が違いますわぁ。あの未熟でがさつな猿女の手にあるものの〝原典〟は〝絶叫するもの(アウルゲルミル)〟……現実史の戦争で、電子機器を停止させる電磁波を放出する兵器として使われていたものですのよぉ。そんなもの元から存在しない八百八町の拝領機関の中では、最も改悪された部類ですわぁ……わたくしの〝一番〟は〝九重天上九天瓊台(きゅうちょうてんじょうきゆうてんけいだい)〟という広域の運勢操作兵器を、ただ個人用にダウンサイジングしただけ。性能をほとんどフルに発揮できますの。よって、」

 と、内面の冷ややかさを微笑で塗り潰しながら、女は告げた。

「わたくしと対峙する限り、あなたはただの子供……つまり、わたくし、あなたの天敵ですのよぉ」

 そこで言葉でなぶるのに飽きたのか、帯から紙巻き煙草の束を抜き、一本咥えて燐寸(マッチ)で火を付ける。

「年端もいかない子供をあの世に送るのは、やはり気が引けますけれどぉ……大きな力に逆らう馬鹿に情けをかける程、わたくし、お優しくはありませんの」

 半分ほど煙草を灰にした所で、紫煙と共に吐き捨てて告げた。

「楯無さま――好きにしてよろしいですわ」

 その言葉が、少年が自身に課したルールにおいて己の本性を解放する言葉だという事は、彼の心臓が躍るように跳ねた事から理解できた。女がそれを理解した上で言ったのだという事も。

「ヒハッ」

 嬌声じみたものを漏らして、少年は〝き〟の背中に拳を叩き付けた。

「……っ」

 彼女の小さな身体がバウンドする。玉遊びをするように楯無はその背を殴り続けた。

「がつん、がつん♪」

 歌うように、楽しげに少年は拳を振るう。

「がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪」

 げらげら、げらげらと嗤いながら、

「キャハっ、キャハはハっ、ごめんねぇ! でも命令だから! 命令だからさァ! オレは悪くないんだよねェ! でしょォ! 徽子さァん! きィ~しぃさァ~ん? 聞いてんのかよそこのエロババアッ!」
「……はいはい、聞いてますわよ」

 少年の本性をうんざりする程知っているからか、面倒そうに答える徽子。
 楯無は会話する間も〝き〟を殴打する手を休めない。最後に後頭部を一撃してから、その首根を掴んで持ち上げる。
 再び目にした少年の顔面の左半分は、既に岩石に覆われていた。変異はそれで収まらず、めりめりと音を立てながら岩石は彼の身体を侵食していく。体格も岩石によって増大して、体長は一丈程にもなっていた。

 瞳だけが生身で、獲物を捉えた獣の色合いがそこに宿っている。いや、獣の方がよほど誠実だろう。彼らは獲物で遊ぼうとはしない。

『だいじょうぶ。だいじょォ~ぶ。いきなり背骨を折ったりとか、内臓潰したりとかつまんないコト、しないからさァ。まだ、まだねェ』
「……」

 喉首を抑えられて、声が出ない。
〝き〟を遊び道具としてしか見ていないと分かる、嬉々とした声で楯無は言葉を続けた。

『それにしてもよォ、ホぉ~ント馬鹿だよねェ、きみさぁ。あのババアの言った通りさぁ』

 温く、そして病的な甘い匂いのする吐息が肌にかかる程の近さで、

『ウマい事逃げられたんだから、そのまま隠れてりゃいいのに。自分の身体の復讐? せっかく残った片目潰してまでする事なの? 本末転倒じゃない? それとも、』

 結びの言葉を彩る感情は、傷口を見出したかのように、深い喜悦に染め上げられていた。

『お母さんのォ~、かたきィ~、ってやつぅ?』

 岩肌の切れ目から、赤い舌が伸びる。

『お母さん、お母さん、お母さんねぇ……〝あんなの〟の為に、健気な事だねェ』
「……」
『あいつ、昔はスゴぉイ芸者だったんだってねぇ。オレが見た時は影も形もなくなっちゃってたけどォ』
「……」
『だってさぁ、ただの人間がガキ孕むくらいあの腐れバケモンとF×××♪ したんだぜぇ? その間ずっとアイツの障気漬け。身体は結構もってたんだけどさぁ、中身はブッ壊れちゃって当然じゃん? 赤ん坊みたいにさァ、所構わず糞尿垂れ流してあーうーあーうーうっせェ~の。あんなイカれて座敷牢にぶち込まれた廃人ババアの仇取る為に毎日毎日がんばって修行して、目ん玉までえぐってさぁ~。ホントバカ♪ バカ丸出し♪ひは、ひははははははは! キャハハハハハッ! ――で、ここでオレの玩具になってオシマイなわけだけど』

 ――と、
 楯無は巨大化した指先で無造作に、〝き〟の着物の帯を袴ごと引きずり下ろした。胸元から股座にかけて、少女の身体が露になる。
 赤い舌が、白い裸身の腹をちろりと舐めた。

『実はさぁ、一回未那元のオンナ犯ってみたかったんだよォ。アイツら揃いも揃ってすこぶるつきじゃんか。ブチ込んで、コワして、ヨゴして、ダメにしてやりたかったんだよォ~。きひひひひひひひひひひひひ……ほぉら、お顔を見せてくだちゃいねぇ』

 と、楯無は愉悦に歪んだ声を上げつつ、岩の指を〝き〟の龍面に掛ける――



(くだらない……)

 その有り様を冷淡に見つつ、徽子は呟く。
 もちろん楯無の幼稚な残虐性についてもそうだが、わざわざこんな所まで殺されにやってきた斎姫の幼稚な傲慢さもくだらない、無益なものとしか彼女には思えない。

 勝てるとでも思ったのか? たかだがか数人の子供の集まりが、小さく、その上仮想のものとは言え国家を二分する人間の一人を相手取って。六孫王自身の力はともかく、その周囲に侍る権力、システム、いわゆる社会といったもの。個人を容易く蹂躙する存在に逆らうなど、愚かとしか言い様が無い。
 現に、彼らは良いように操られてしまっている。後は用済みのものとして、始末されるだけだ。

(……子供だわ)

 くだらない、愚かな、弱いものでしかない。
 煙草の二本目を出して、咥え――彼らから目を離した。
 直後、徽子の眼前に地面に、楯無の巨体が叩き付けられた。

「……え?」

 咥えた煙草を吐き落とした徽子に、楯無の上に立つ裸身の少女が告げる。

「裸はともかく、顔を見る事は許しません。――あなたたちは、わたしにとってどうでも良い、有象無象ですので」
『う、が……テメぇ』

 それを挑発と勘違いしたか、楯無はうつぶせの姿勢から拳を振り回して当てずっぽうに斎姫を攻撃しようとする。
 運良く、それは少女の顔面に真っ直ぐに伸びていった。
 そして彼女の細い指一本に押されただけですかされた。

「身体を鍛えていればよかったですね、少年。生来の力に頼ったあなたの動きは無駄だらけです。いかなる激流も流れをずらし、その外側に立てば意味が無い。――少し大人しくしてなさい」

 そう言って彼女は、左足を地に残し、右足の義足を振り上げた。
 ざくん、と蹴りを受けたとは思えない音と共に楯無の拳が切り離される。

『ひぎぁあああああああああああああああっ!!』

 激痛にのたうち回ろうとしても、楯無の巨体は身じろぎ一つしない。少女の足一本で押さえつけられた結果、それを出来ずにいるのだ。
 ――斎姫の仙術は、復活している。

「なぜ……あなたの力は封じたはず!」
「機械に頼った未熟な技術しか持たないのに、早合点するものではありません」

 優越感、などは交えず。ただ事実を羅列するという調子で彼女は告げる。

「まぁ……実際窮地ではありました。確かに、仙術を無効化される事をわたしは想定していなかった。〝再構築〟の完了までに止めを刺されればわたしの負けでしたよ。あなたの敗因は、このような馬鹿を尖兵にした事です」
「再……構築?」
「仙術というシステムを無効化されるなら、別のシステムで作り替えれば良い」

 あまりに端的な斎姫の説明は、素人には理解できなかっただろう。だが専門家である徽子には、少女の行った行為が、その途方も無さと共に悟る事ができた。
 斎姫は語る。

「内丹に気を練るという方法論は大陸の道教に由来するもの。あなたが仙術を無効化できるのは、同一起源の風水の方法論で気の流れを操るからでしょう。だから、わたしは今仙術と異なる方法論で己を強化しています。体内に八つの気門(チャクラ)を仮定し、それを開く事で力を獲得する……ヨーガという煉気法です」
「馬鹿な……こんな、即席で!」
「そう思うのは、あなたが機械の力を借りねば気の流れも見えないような凡才だからです。魔術の類で異なっているのは表現法でしかありません。骨子を理解できれば、大陸、印度は元より東西の区別も容易く取り払える」
「……っ」

 やはり、少女の語る言葉には優越感は含まれていない。ただ、事実を事実として語る淡白さだけがある。
 だが、それに劣等感を覚える人間については全く考慮していない。
 超越者、王者の精神。

 少女は裸身を人に見られているのに羞恥の一つも抱いていない。徽子と楯無を自分と同格の人間と認めていないのだ。有象無象、という言葉のまま彼女は自分たちを認識している。
 棄てられた姫でありながら、彼女はその尊さを失っていない。
 王者に逆らった凡俗の末路は、一つしかない。

(……巨大なものに逆らったのは、私の方だったようね)

 ――彼女の主の命は、斎姫を殺せというものだった。しかし、あの狂人の命令は字義通りに受け取って良いものでは無い。

(遊ばれた)

 心から悔恨しつつ、徽子はうめく。
 瞞天過海の目的は、楯無――いや、御門八葉の誰かと斎姫を戦わせる事だったのだ。補助的な能力しか持たない徽子は、八葉を随行するしか無い。
 斎姫がここまで強力であるなど、瞞天過海は漏らさなかった。知らぬ訳が無かっただろうに。
 こうした結末を、瞞天過海は予測していたはずだ。

 自分は何かヘマをやらかしただろうか? 裏切りを予感させるような行動を取っただろうか? あの主の不興を買い、見捨てられるような何かを。

(……いいえ)

 それなりに主の人格を知悉している彼女は、その予想を否定した。瞞天過海がそんな真っ当な理由で部下を処断するはずが無い。
 あの女は、他者の命などどうでも良い。
 自分が歌仙拵の儀仗刀を持っていないのは、瞞天過海がその脇差を喰って処分したからだ。――信頼すべき部下など、あの女は必要としていない。

 強いて彼女に落ち度があるならば、そんな人物に従った事だろう。
 どうしようもない敗北感にまみれつつ、しかし徽子は凄絶に笑った。

(とは言え、大人は恥を気安く捨てる事ができるのよ!)

 内心で吐き捨てて、徽子は岩を蹴って逃走を始め――
 足が、動かなかった。
 楯無から切り出した尖った岩石が、彼女の両足を拝領機関ごと貫いて地面に突き刺さっている。

「……あっ! ああっ!」
「許しません。わたしの望む以外の全ての行動を。逃走、闘争の区別なく、あなたたちの自由をわたしは許しません」

 激痛に悲鳴を上げる徽子に、威厳すら感じさせる声で斎姫は告げた。

「そして、生存の自由も。……あの幻術にわざとかかって、兄さまと別れてみましたが、見込み通りの成果が得られそうです。あの人は不可視の攻撃や刀剣の通用しない防御には為す術が無いでしょうから……良かった、この場で減らせて」
『ヒッ、ヒィッ!』

 剣呑な言葉に、楯無が怯える。徽子は別の印象をその言葉に抱いていた。
 冷淡さや殺意を持たない、安堵に満ちた声音。
 この娘は、殺す時ですら私たちの方を向いていない。

「とは言え、刀を抜くなと兄さまに厳命されていますので」
『そ、そうなの? なら、』
「だから――撲(なぐ)り殺しますね」
『はへ?』

 間の抜けた声を上げた楯無の顔面に、斎姫は小さな拳を叩き付けた。
 柔な、少女の手にしか見えないそれは削岩機の如く楯無の身体を削り取った。

『ごっ』

 濁った声を上げる楯無、その巨体にのし掛かって斎姫は拳を振るい続けた。先程と真逆の光景――その動機ですら逆。嗜虐心、言い換えれば愛情に似たものを込めていた楯無に対し、少女は彼に何ら興味を抱いていない。ひたすら作業的に撲り続ける。刻一刻と楯無の身体は損失して、小さくなっていく。

『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』

 やがて海底に彼女の拳が届いた。
 砂塵と化した楯無の残骸が、その周囲にばら撒かれている。

「さて、次はあなたです」

 即座に楯無の存在を忘却したかのように、斎姫はこちらに向き直った。

「わたしの知りたい事を話してくれれば、あなたは助けましょう」
「知りたい事? いったい……」

 誤魔化そうとした徽子の身体の、一番斎姫に近い部分――右手の指先が彼女の義足で蹴り飛ばされた。

「ぎっ! いぃいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」

 砕けて関節がでたらめに増えた指を抱えて、狂う程の激痛に乱れる徽子に何ら配慮せず、斎姫は詰問を続ける。

「あなたのような冷静な人間が気づいていない訳がないでしょう。……あなたは、わたしを殺せるものとして余計な事を喋り過ぎた」

 首根を握り込んで、斎姫は告げる。

「わたしが斎姫である事、能力の詳細、仮痴不癲と接触している事……ほぼ全ての情報を把握している。出所はどこです? この件の絵図を引いているのは、一体誰ですか?」
「……」
「黙秘しますか。……そんな事に、意味は無いのに」

 無機質な龍面の奥で、ぽつり、と彼女は囁く。

「あの子供が下衆である事や、あなたが冷徹な人間である事は、いくら誤魔化してもすぐに分かる。顔を見るだけで」

 少女は、不可解を覚えていた。それは、彼女がこちらに初めて向けた生身の感情だった。

「なんでみんな、素顔を晒して生きられるのですか? 表情筋が、呼吸が、目線が、全てがあなたたちの心を外に示しているのに。それを晒して生きるのが、怖くないんですか? わたしは怖くてたまらないのに」

 それもまた、少女が強くなる為の代償なのか。武術の鍛錬に費やした時間、眼球――そして超越した知覚による、人の心がひどくあけすけであるという錯覚。理屈で否定したとしても、どうしようもなく囚われてしまう心の楔。
 同情めいたものも覚えたが、復讐心が勝った。

「あなたの主、瞞天過海とは、おそらく――」
「あなたのような人間にも、心を見せたくない相手がおりますのねぇ」

 少女を制止するには、それで十分だった。

「恥ずかしい、醜い、卑しい心を見せて……嫌われたくない相手が」
「……ッ!」

 ほら、子供を怒らせるのは、こんなにも簡単だ。
 首をへし折られながらも、徽子の微笑は損なわれなかった。

(私の……勝ちねぇ)



 生命が消失して、醸し出す妖艶さも曖昧になった女。地面に倒れてもなお嗤う彼女を見下ろして、〝き〟は悔しげに呟く。

「わたしとあなたは、似てなんかいない」

 羨望が、その声には含まれていた。

「わたしが光を捨てた時は、怖くて、怖くて……人に頼らないと、できやしなかった」




[36842] 3c/少年の矛盾
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/03 18:08


「……なんと」

 月数が唐突にうめいた。状況を管制できる場所に待機しているのか、それとも遠距離を感知する知覚を持っているのか、どちらにせよ〝き〟の戦いを目撃したのだろう。

「斎姫の能力を封じる相手を付けたのに、あっさりと敗れた。……あれは、本当に人間か?」

 畏怖すら交えた表情で、月数は聞いてくる。
 いなきはそれに取り合わず、問い返した。

「鎚蜘蛛姫に奴の弱点でも聞いたのか? なら見当外れだ。そんなものを知っていたら、奴は自分であいつを殺している」
「……ちぃと、お喋りが過ぎたか」
「元から気づいてはいたさ。永代島に現れた御門八葉は俺の事を知っていた。奴らは密偵連中とは連携していなかったから……別口で情報が漏れたんだ」

 となれば、情報の出所は三つしかない。鎚蜘蛛姫、仮痴不癲、芙蓉局。
〝き〟の能力の詳細まで知っているのは、鎚蜘蛛姫だけだ。
 だが、他の二人が全く関知していないという事は無いだろう――

「そもそも奴は、どうして仮痴不癲と渡りをつけられたんだ? 奴の張り巡らした蜘蛛の糸(ネットワーク)はなんなんだろう……」

 疑問を述べる風にして、いなきは語り始める。

「この殯宮は、太歳宮という名前だったな。歳城の対称の位置にある御所としては、適当な名だ」

 太歳とは歳星――木星の鏡像として道教が定めた架空の星の名だ。六孫王の二つの御所は、大陸の占術の理論に基づいて名付けられた事になる。
 紫垣城と同様に。

「城塞としての質は全く違うが、魔術的には紫垣城、歳城のどちらも似たりよったりの理屈に従っている。こうしたものを取り扱う三十六人衆は〝瞞天過海〟と聞いている。――九重府、六孫王府の両方の間で暗躍できそうなのは俺の知る限りあの蜘蛛女しかいないな。紫垣城を根城にした憑人なんてのは奴くらいだ」

 鎚蜘蛛姫は、三十六人衆のコネクションを使って仮痴不癲との連絡を取ったのだ。

「おそらくは、芙蓉局とも奴は繋がってる……この三人は結託していたんだ」
「正解。……それにしても、あまり、しょっくを受けたようには見えんの?」
「あ、いなき君いなき君、今この人横文字をひらがなで読んだわ。見た目少女の老婆という時点で十二分にあざといのに、更にあざとさを重ねるなんて。恐ろしい女ね、そう思うでしょういなき君。応答しなさいいなき君。まさか萌えてしまっているのいなき君。これは罠よ、騙されないでいなき君」
「うっせぇな。話の腰を折るなよ」

 耳元で鬱陶しく囁いてくるあやめを押しのけて、会話を続ける。

「まぁ、そのくらいは覚悟していたさ。大きな思惑に従いながら隙を探すくらいの事をしなけりゃ、六孫王暗殺なんて大事、出来やしないだろう」
「かっ、青臭」

 うざったそうに月数は吐き捨てる。

「連中の目的はなんだ?」
「この儂が、そんな暑苦しい陰謀に進んで関わろうとするか。こりゃ韜晦じゃなく、本当の事じゃぞ? 先日、徽子――瞞天過海の歌仙じゃ。もう死んだから覚えんでよい――が主らの情報を送ってよこした。それだけじゃ」

 問いかけた言葉を億劫げに返す月数。嘘をついているようには見えない。もっとも、〝き〟のような超知覚を持っていないのだから、虚言の類を見破れる訳では無いが。

「主らと儂らが戦う事で、なにかめりっとでもあるのじゃろうて。仮痴不癲なる小娘はよく知らんし、鎚蜘蛛姫は作刀以外の世事に大概ぞんざいじゃが……芙蓉局は別じゃ。あれはうまみが無ければ指先一つ動かさん女よ」
「あ、また」

 口を挟もうとしたあやめの顔面を掴んで黙らせる。

「どちらにせよ、俺たちは戦うしかない」
「そうじゃな。……最初に想定しておったわんさいどげーむとは、全く逆の展開になってしまっておるが」

 現時点で八葉の半分までも減らされている事を言っているのか。敗勢にありながらも、それに焦りを覚えているようには見えない。本当にこの女にとって、自分たちの戦いはどうでも良いのだ。

「特に意外……いや、規格外なのはあの斎姫よ。儂ら六孫王府の人間ですら、奴があのような異常な能力を獲得するとは思うておらなんだ。今までは、十をもって食われ死にしておったからの」

 月数はぽつりと、一言漏らした。

「奴は、人間か?」

 二度目の、同じ疑問。次は話題を逸らさせるつもりは無いようだった。

「蠱業遣いと儂ら憑人では、力の総量に絶対的な格差がある。ゆえに主らは武術を鍛え、その格差を埋めようとする。正面から力押しで、憑人の、しかもその頂点たる御門八葉をあっさりと打ち負かす蠱業遣いなど理屈に合わん」

 そこでいなきは、彼女がこの議論をどういう方向へ持っていこうとしているか気づく。
 月数は言った。

「仙術などごまかしではないのか? あれは憑人と同格の力じゃ」
「……それは違う。あいつの周囲には障気が発生しない。九重府はその点に関しては調べ尽くしている。姿形も変異しない」

 憑人の特徴であるその二つが発現しない以上、彼女は憑人ではありえない。
 その点について反論する余地は無く、月数にしても口をつぐんでしまう。
 ――ふと、左手の方を見る。そう言えばあやめの顔面を鷲掴みにして黙らせたままだ。
 手を放して、聞いてみる。別に何かを期待している訳では無いが。

「……何か知ってるのか?」
「つーん」

 あやめは、魚の泳ぐ海中を見つめて、とにかく不機嫌な事だけは分かる擬音語を吐いた。

「聞きたい事が出来た時だけ喋れというような理不尽な男に、説明する義理などありません」
「本当にそうじゃな。女の口を塞ぐなどでーぶいの極み。そんな悪逆非道な暴行を顔色一つ変えずに行うような男は万死に値するぞ」
「あら、あらためて聞いてみれば萌えるわね、その口調」
「? もえとはなんじゃ?」
「惚れてしまいそうなくらいあざといわ。素晴らしいわねつっきー」
「うぅむ、そう言われると照れるのぅ」

 唐突に結託しだした女二人に、胃痛を感じながらいなきは弁解した。

「いや、悪かったから……」
「……まぁ、状況はそれなりに逼迫しているものね、この程度でかんべんしてあげるわ」

 と、仕返しを切り上げる意味かぽん、と再び手拍子をする。これで三度目だ。

「と言っても、ただの推測よ。お父さんから聞き出した憑人のデータから仮説を打ち立てただけ。今回、あなたの話を聞いて補強はしたつもりだけれどね」
「仮説? 補強?」
「蠱業遣いと、憑人の――同一起源説」

 いなきと、月数の双方を指差して。そんな事を、確かに。
 あやめは言った。

「……本気か?」
「冗談のつもりで言ったのではないのだけれど」

 平然とあやめは、最後の逃げ道も塞いだ。

「さっきまでの話は覚えているわね? 要は、無意識の領域を源泉とする力で人間が超人化する、という事なのだけれど……」
「ああ」
「うむ」

 なぜか月数までが頷いた。やはり、遠方の様子を知覚する能力を持っていて、それでいなきたちの様子を覗いていたのだろう。

「よろしい。では、再びいなき君に聞くわ。……あなたが戦った三人、日数、沢瀉、膝丸について」
「……ああ」
「例えば沢瀉。その人は、人間の時は右構えで薙刀を使っていたのに、変異後は左手を武器にしていたのね?」
「ああ」

 先程、永代島での戦いを説明した時に、なぜか詳しく問い糾された部分だった。

「膝丸もそう。右利きなのに、左側の角を折って鎗にしていた。……日数についてはどう? 左半身に特徴が無かったかしら?」
「そう言えば……左側の手足がやや、大きかったような」
「間違ってはおらんぞ。あやつの身体を構築するぷらんくとんは左側に偏重しておった」

 日常的に日数を観察する機会のあった月数が、いなきの記憶を捕捉する。
 そして、何かに感づいたか言葉を続けた。

「憑人の、特に男は左半身に変異が集中する傾向にある」
「それを聞きたかったのよ」

 我が意を得たりと月数を指差すあやめ。

「先に述べた通り、男性は、右脳の幻覚をもたらす領域を制御する能力が弱い。――左半身を司る箇所がね」
「憑人を変異させる器官は、右脳にあるってのか?」
「それと、蠱業遣いの能力の根源もね」

 と、あやめは付け加える。
 いなきは反論した。

「俺たちには左半身偏重なんて出ていない。障気も発生しない」
「力が弱いからよ。蠱業遣いと憑人の差異はそこ。制御できる程度の小さな力か、制御できない程に大きな力か。どちらも、基本的に自分の肉体を改変する能力である点は同じよ」

 確かに、そうだ。
 蠱業、つまりコードハッキングはその名の通り自己を改変し強化する能力である。いなきや〝き〟のように刀剣にまで能力を作用させる事は不可能ではないが、忌役の中でも希少だ。
 肉体以外への蠱業の適用は、才能と、何より鍛錬が必要になる。
 その対象を、自分の一部と思える程に理解し、掌握しなければならない。

 それはつまり、結局の所、蠱業が自己と認識できるものの範疇にしか作用しないという事ではないか。

「蜘蛛のおばさまだけじゃモデルケースとして不足と思ってたけれど、そこに月数さんを加えさせてもらうわね。……長寿の憑人は概して女性よ。安定した力の運用が出来ているからではないかしら」
「一応、八龍という、男の憑人がいる。……ただ、あれの延命法はいささか特殊じゃから主の仮説を覆すには足りんの」
「特殊?」
「そこまでさーびすはせんわい。儂はあくまで主らの敵である事、忘れるなよ」

 口を挟んだいなきに釘を刺すように告げてから、しかし、と月数は前置きして、

「その話、いささか興味がある。不都合の起きん範囲で情報を提供してやろう。……確かに不老長寿を会得する憑人は、その八龍を除いて全て女じゃった」
「ありがとう。……さて、女性が無意識からやってくる力を制御する才能を持つのはある程度確定したけれど――その才能を訓練で向上させられるとしたら? その視点から作り出されたのが、斎姫というシステムだとわたしは思うわ」
「ちょっと待て。お前、もしかして」
「いつきちゃんは憑人よ」

 あっさりと、彼女はその決定的な言葉を持ち出した。

「そうに決まっているじゃない。憑物が遺伝するなら、未那元宗家の、長女一人だけが例外になるはずがないでしょう」
「お前……お前が、あいつを憑物持ちと言うのかよ」

 思わず、掴み掛かりそうになるのを抑えつつ、いなきは抗議する。あやめは彼を真っ直ぐに見返して、

「憑人はただの人間よ。紫垣城の貴族が言うような化物じゃないわ。あなたは、そんな事を信じているの? そんな事を言い訳にして、彼らを殺していたの?」

 その問いかけは一欠片の、切実めいたものを含んでいた。

「……違う、と思う。悪かった」

 謝罪する。
 そのやり取りに興味なさそうに、月数が先を促してくる。

「んな青臭い話はどーでもいいわ。続けんか」
「……蠱業遣いの〝小さな力〟、そして憑人の〝大きな力〟の素養は脳にあるのよ。憑人の一族が近親婚を行うのは、それが発現しやすくなるから。だから、斎姫も同じく憑物を発現している事はほぼ確実だわ」
「じゃあ〝き〟が、憑人に変異しない理由はなんだ?」
「斎姫の巫女の訓練が、憑物を押え込むものだからよ。いつきちゃんは言語の獲得と共に一時力を失ったけれど、別のやり方で憑物の制御を行っている」
「さっきの話か。……真逆のやり方とか」
「そう。真逆。意識の処理能力が低いという話はしたわね?」

 問いかけるあやめに、いなきは頷く。

「スペックの低いCPUなら、より高い性能のものに改造してしまえば良い」

 あやめはそう言って、再び自分のこめかみをつついた。

「思考の強化。精神の変容に指向性を持たせて、処理能力を向上させる。無想の逆……極想(きょくそう)、とでも言うべきかしら?」

 想いを極める――確かに、あの少女の生き方にはこれ程当てはまるものは無いであろう言葉だった。

 彼女はもう一度、いなきのこめかみにも指先で触れて、

「これは、あなたが行った巫術とは格が違うわよ。あなたのは言わばオーバークロック。様々な負荷をかけながら一時的に性能を上げたに過ぎない」
「……悪かったな、遥か格下で」
「違うわ」

 すねたようないなきの答えを、あやめは一言で断ち切る。

「あなたは、やり方を間違えている」
「何を間違えているっていうんだ?」
「……さてね」

 などと、あやめははぐらかした。
 明らかなごまかしに、追求しようとした所に彼女は言葉を重ねてくる。

「いつきちゃんに、憑人の特徴である障気と別種の生物の形質が発現しない理由はそれよ。無意識を支配する程の自我が、憑物の完全制御を可能にしている。彼女は要は、憑人並の力を蠱業遣い並の安定性で使えてしまうの。憑人が憑依とすれば、彼女は神懸かりと言える。強いわよ。――降参したら? 月数さん」
「余計な世話じゃな」

 肩をすくめて、月数は答える。

「斎姫の強力さは理解したが、まだこちらの優位は崩れておらん。……こっちには、本物の化物が二人おるからの」

 人を噛み殺すような笑みを、月数は浮かべた。

「八龍、そして六孫王大樹。あの二人には斎姫でさえ勝てやせんよ。そして小僧」

 と、獰猛な表情のままに、彼女はいなきの方を向いた。

「主はこの先に待つ男も倒せん。あれは分家とは言え、未那元の憑人だからの」
「……このまま時間稼ぎをされるかと思ってたぜ」
「まさか。その男は自分の手で主を始末したがっておるし……そろそろ幻術の打開策の一つも考えついておるだろうよ」
「まぁな」

〝き〟が先行している以上、会話があのまま長引くのであれば脱出しなければならなかった。幻術の対策は先程からずっと考えていた。
 月数は表情から攻撃性を消すと、面白がるような色に入れ替える。

「やはり、忌役よの。……いや、あの男の弟子ゆえか」
「蠱部尚武を知っているのか?」
「儂は先代の伽羅(とぎあみ)様からの八葉じゃった。二十年以上も昔、きゃつめは儂らを軽くあしらい、あの方に謁見を求めた。……その話は、ついぞ伽羅様は漏らす事は無かったが、何か奴にしか分からぬ目的があったのじゃろう」

 ――何か。
 符合のようなものを覚えた。
 いなきの感じる不可解をさて置いて、月数は語り続ける。

「痛烈な敗北以上に痛感したのは……この世界の核心に触れ得るのは、あのような異常な存在だけである事。そこは儂の如き凡人には届かぬ領域なのだと。……思えば、あの頃からじゃ。何もかもに倦んでしもうたのは」

 と、自分の手のひらをかざし、見つめる。その先にどこかを透視するように。
 その仕草は一瞬だけの事だった。再び、いなきの方を見つめる月数。
 彼女の顔は、血の味を覚えた獣のように歪む。

「主は、あの男を仇としているそうじゃの。武州の戦で唯一生き残った男……主以外の全てが誰の記憶からも消し去られたのじゃ。無理もあるまいて」
「……何が言いたい」
「いや、なに――お前まさか、あの男に武術で勝利できるとでも思うておるのか?」
「……っ」

 挑発、ではない。彼女は根拠のない戯れ言で自分を嬲っているのではない。
 月数自身が実感した事を、述べているに過ぎない。

「八葉の三人までも殺した主じゃが……やはり蠱部尚武とは比べ物にならん。きゃつの身近におるのであれば、あの隔絶が、異質が、別次元が理解できぬ訳がなかろう。あれはどんな相手にも絶対に勝利する男じゃ。いくら努力しようとも、いくら願っても――主の使命は絶対に達成できない」
「……」

 言い返せない。それは、ただの事実だから。
 いつの間にか立ち止っていた。いなきのひるんだ隙を攻めるように、月数は。
 小さく、囁いた。

「蠱部尚武を殺す方法は、あるではないか。奴を武力で制するなどと不可能な手段でなく、もっと簡単な方法が」
「……黙れ」
「気づいておるのじゃろう? 余りに身近に、すぐ側に、手で触れられる位置にある主の勝利に」
「黙れ――!!」

 怒鳴りつける程度では、月数は止まらなかった。ただの一声ぶんも。
 果たして、彼女は宣告する。



「そこの、蠱部あやめを利用する。それだけが唯一あの男を殺す方法よ」



 言葉で止まらぬのなら、暴力で黙らせる。
 いなきは即座に抜刀して女の首と胴体を切り離した。――それが全くの無駄である事すら忘れていた。

 くひ、くひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。

 趣味の悪い事に、首を切り離したままに宙に浮かせ、幻の月数は大笑する。そして蜃気楼らしく背景の海中に混じって消えていった。

「……っ、ぅ」

 呼吸を乱している。今の自分はどんな顔をしている。見られたくない、見られたくない……

「――いなき君」

 背後で、声がかかる。普段となんら違わない、感情の読めない声が。

「行きましょう」
「俺は……」
「いつきちゃんが待っているわ」

 言い訳を押さえつけるように、あやめは言葉を重ねた。そして、いなきを置いていくように歩き出す。
 その後をついていきながら、彼女の背中を見る。
 いかにも簡単に、刺してしまえそうな――

「……」

 胸を押さえつけるようにして、思い浮かんだ言葉を殺し、いなきは歩いて行く。




[36842] 3d/食人貴人
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/03 18:12
「みすぼらしい。王の寝所を荒らす賊に相応しい下賤とも言えますが」

 太歳宮の正面口らしき巨大な門。その中央に立つ男が、侮蔑もあらわにそう言った。
 色気じみたものすら感じさせる美丈夫。更紗(さらさ)の帯で纏めた高級な仕立ての装束、身体のそこかしこを飾り立てる宝石を散りばめた装飾品が、男の位を上げるのでなく、男の格に付き従うかのように適合している。高貴を体現したかのような男。
 後方であやめが耳打ちしてくる。

(……初対面でいきなり見た目に言及する。たぶんナルシストよあの人)
(それは見りゃ分かる。……下がってろ)

 緊張感の抜ける物言いに、険悪に返す。
 内心では、安堵めいたものを感じていた。少なくとも表面上は、あやめに月数の刺してきた言葉が影響しているように見えない。

(影響しているとすれば……俺か)

 敵と対峙している時に考えるべき事ではない。男に集中する意味で、悪態をついてみる。

「そっちは随分ぎんぎらときらびやかじゃねぇか。たかが番兵風情の癖に」
「……安い挑発をする。狗に相応の卑しさです」
「の割には、けっこう効いてるようじゃねぇか? 青筋立ってるぜオッサン」
(まぁ、あっちの言う事も的を射てる感じね)

 後ろでしつこくつっこみを囁いてくるあやめ。
 男はその様子を見てふん、と鼻で笑い、

「御門八葉が一、摂州未那元(せっしゅうみなも)家当主、産衣(うぶぎぬ)。……下種ながら日数、沢瀉、膝丸を倒した実力を認めるがゆえ、近衛筆頭たる私が自ら迎撃する事と相成りました」

 やはり安い挑発にプライドを刺激されているのか、男は余計な事まで喋ってきた。
 とは言え、人間としての迂闊(うかつ)さが武人としての強弱を決める訳でも無い。少なくとも今まで戦った八葉と同格の怪物である事は確かだ。その相手と、精神を失調し、巫術による強化をこれ以上行えない状態で戦わなければならない。
 敗北は許されない。それは元より同じ事だが、今回はそれ以上の重圧がある。
 自分の死は背後の女の命脈を絶つ事に繋がる。

(あの女の揺さぶりにはかからない……)

 いなきは月数の言葉を、そう決めつけた。そう、思い込む事にした。精神面で崩しにかかる攻撃だったのだと、それ以上考える事をやめた。心に蓋をするように。

「〝き〟はもう、中にいるのか?」

 戦端を開く前に問い糾す。産衣は微笑を浮かべながら、

「ええ。ただ、斎姫は月数の幻術で搦手門(裏門)に回り込ませましたから合流は困難ですよ。……まぁ、そのような心配をする必要は、もう貴方にはありませんが」
「気取り屋の遠回しな物言いは鬱陶しいな。……俺は、お前を殺してそこに入る」

 刀の柄に手をかけて、抜刀の姿勢を作り告げる。

「……野蛮人が」

 嫌悪もあらわに、産衣は吐き捨てた。帯刀していた、荘厳な拵えの大刀を抜き出す。

(……変異しない? なぜだ?)

 胸の内の不可解をさて置き、産衣の動きに集中する。
 彼は剣を胸元で縦に立てて――運動性を損なう、全く意味のない構えだ――刃文を眺めてうっとりと呟いた。

「美しいでしょう……銘は髭切。獅子の子とも言います。摂州未那元家が主家より第一の家臣の証として下賜された宝刀です。麗しい、まるで処女雪の色彩を写し取ったような白銀。なんと美々たる鍛え……」

 自分に没頭するように語ると、柄に納めたままのいなきの刀を見やり、冷笑する。

「この名刀と比較されるのが嫌なのですか? 無理もない。下賤はただ、高貴を畏れるのが相応……」
「……確かに、俺の刀はそんなお高く止まって良いもんじゃないがな」

 下らない事をのべつまくなしに喋る男に付き合って、いなきは言った。

「こいつを鍛えた妖怪婆はこう言うだろうよ。――こんなの、斬れりゃあいいんだよ」

 それだけ吐いて、低い姿勢のまま産衣の間合いに接近する。

「下劣、下賤、下等ぉッ!」

 一声吼えて、産衣は太刀を肩に担ぎ直し、斬り下ろす。
 見え透いた動き。いなきは左側に半身回り込むように足を送り、陽刀で産衣の斬撃を押し込む。軌道をずらされた刃はいなきの肩を一寸ほど外して空を切った。
 そして相生剣華による陰刀が、産衣の首を断つ――

 その一瞬に、いなきは見た。男の首が白い岩に覆われていくのを。
 岩の肌に防がれた刃を引き、その場を飛び退く。

(鉱物の憑人? ……いや、それ以前に――何かが)

 何かが、おかしい。
 皮膚の岩石化が男の防御手段なのは明白だ。不可解なのはそこではない。

(問題は、機(タイミング)だ)

 産衣は斬撃を受けるほんの一瞬ほど前に岩石化を開始したように見えた。――気づいてから、防御したのだ。
 いなきの蠱業である相生剣華、その内の対個人用の技術である真の型は、片方の斬撃を受け太刀させる事を戦術の基軸とする。

 攻撃の際には誰であれ、意識は狭窄する。その外側から奇襲を加えるのが業の骨子なのだ。
 ほぼ確実に成功する攻撃。例えばここ数日で真の型を使った相手の膝丸は、体表の摩擦を殺して防御したが、それは常時身体を覆う油によるもの。彼は攻撃そのものには気づかなかった。今の産衣の防御は、攻撃を事前に察知しなければ出来ないものだ。

(どうやって、陰刀に気づいた?)
「ただの一合で臆したか、狗め!」

 雄々しく猛り、産衣は追撃してくる。構えは、左足を踏み足にして側頭部付近で柄を握り切っ先を突き出す――

(……雄牛(オクス)!?)

 一直線の突きを横飛びして躱し、更に退く。

(西洋剣術だと?)

 現実世界の、八百八町のモデルとなった国家とは全く別の風土を元に発達した技術体系。

 ある時代では東洋人、あるいはその担い手の子孫である西洋人ですら多くが誤解していたが、中世ヨーロッパの剣戟は斬れ味の無い大剣を使った殴り合いじみたものでは無い。甲冑の打撃を主眼に置いたものとは別に切断力に優れた剣も存在するし、それらを扱う技術は合理性に富み、洗練されている。特にドイツで流通した剣術は平時の決闘用に、日本で言う素肌剣法に似た技術が存在する。

 産衣が使ったのはその一つだ。練度も高いようで、堂に入った攻撃だった。貴族じみた容姿の男には似合いのものだが――

「逃げずに戦え!」

 喝破し、再び雄牛の構えで突き込んでくる産衣。
 一度見れば十分だった。彼の目測からやや左にずれて、手首を一撃する。

「ぐぁっ」

 打たれた箇所を抑えて、産衣は飛び退いた。

(こいつ、実は…………………………………………………………馬鹿なのか?)

 戦闘中だというのに、ついそう思ってしまった。
 いなきが今使ったのは〝弧の斬撃(クランプハウ)〟という技術だ。雄牛をいなす為の太刀筋。――ドイツ流剣術の基礎である四つの攻撃には、全て返し技が存在する。

 そもそも、ドイツに限らず西洋剣術の技法は基本的に両刃剣を想定している。他にもキヨンという特殊な形状の鐔が必要であるし、バインドという受け太刀から入る技法も折れ易い日本刀では難しい。
 戦闘技術とは武器に合わせて構築されていくもの。
 日本刀で使う西洋剣術は、その本来の利点を半分も発揮できない。

(……だが)

 この程度の理屈も分からない馬鹿が、自分の攻撃を二度も防いだ。
 手の内に残る硬質の手応えに痺れながら、感じ続けていた不可解を更に深くする。
 理由は不明だが、産衣はいなきの攻撃を察知している。自分の攻撃に意識を集中させた状態であっても。

(……不可能だ)

 理屈の上では、そう断言する以外ない。左手で本を読みながら右手で工作を行うようなものだ。構える、振る、手の内を絞る――斬撃という作業は肉体全体の精密な操作が必要だ。防御も同じ。一つだけで神経系というシステムの資源を使い切ってしまう。いなきはその理論に立脚して自身の蠱業、相生剣華を編み出した。

 この男は今、それに反証を提示するような行為を当然のように行っている。
 産衣には、相生剣華が通用しない?
 あの、蠱部尚武と同じように――

(……クソ)

 嫌な連想が脳裏に浮かび、胸の内で唾棄する。背後にいる女を意識しないよう、心を押し殺す。

(奴は、完全に俺の蠱業を破ったわけじゃない!)

 今度はいなきから飛びかかる。産衣は構えを変えていた。八相に似た、右肩に太刀を立てるような――屋根(フォム・ダッハ)の構え。
 それを見て、いなきは身体を沈める。膝に力を圧縮し、前進する力に変換する。蠱部尚武の扱う歩法の一つ、飛蝗(ヒコウ)と呼ばれるものだ。
 産衣の予測より一瞬早く、その間合いに侵入する。

(防御ごと斬り飛ばす!)

 抜打ちの軌道は産衣の手首を終着点とする。陰陽、どちらの斬撃も。――重撃刀法、相生剣華・草ノ真。
 肌を岩石と化そうが、この刀で二重に斬りつければ切断は可能だ。鎚蜘蛛姫が悪辣な魔女だとしても、その鍛えた刀の斬れ味だけは信頼に値する。
 ――瞬間、二つの声が聞こえた。
 一つは、後方から。あやめが彼女らしからぬ切迫した声で「駄目よいなき君!」と叫んでいる。
 もう一つは、間近。小さく、そして短い。

「※”#$$」

 それが言葉である事を、いなきは自分の経験から知っている。
 加速された知覚に引き摺られた声である事を。
 だから、産衣が何を言っているかかろうじて聞き取れた。
 彼は、「これは防げないな。避けておくか」と言ったのだ――

「……ッ」

 二刀が斬りつけるはずの腕が、消失した。
 産衣は斬り下ろしに急制動をかけて腕を持ち上げ、いなきの斬撃を回避したのだ。
 刀を振り抜いた無防備な姿勢のいなきの胸を、再び振り下ろした産衣の白刃が切り裂いた――



「……っ、は」

 大きく産衣から距離を取り、いなきは乱した呼吸を整える。
 切り裂かれたのは皮一枚。とは言え、精神的な衝撃はそれ以上だった。

(こいつ……巫術を)

 知覚の加速を発動させる事が出来るのか。
 ならば、今までの不可解な超反応も理解できる。彼の時間の進みだけが遅いのであれば、思考のリソースに余裕も生まれる。刀の操作をしつつも、筋肉の動きを観察しながら攻め手を読み、備える事は可能だ。

(しかも)

 いなきが巫術を発動できるのはせいぜい数秒。更に連続使用には途方もないリスクがある。目前の敵の顔色に、精神を失調したような風は少しも見て取れない。

(〝き〟に近いか、あるいは……同じレベルで巫術を使えるのか、)
「落ち着きなさい! いなき君」

 後方からあやめの声がする。さっきはこの声を聞いて身を引かなければ、皮一枚以上の重傷を負っていたはずだ。
 彼女は続けて言ってくる。

「さっきの話を忘れたの? 巫術をノーリスクで常時発動できるのは、いつきちゃんだけよ……」
「お前の仮説に過ぎないだろう! 現にこいつは……」
「相手をよく観察しなさい! あなたの視力なら見えるはず――」

 苛立たしげに返すいなきに、あやめは声を重ねる。これほど大きな声を彼女が上げるのは、今まで無かった事だった。何よりそこに驚いて、思わず従う。
 産衣は明らかな勝勢にありながら、追撃もせず余裕めかして立っていた。腹立たしい程の慢心だが――それが無ければ終っていた。

(何を見ろって……)

 敗勢にある人間として焦りつつ、男の姿を見つめる。同姓としては腹の立つ程の美男……
 その美貌に、欠点がある。対面した時には存在しなかったものが。
 産衣の顔面の各所に薄く、白い筋が浮かんでいる。

(あれは……まさか、神経? あんなに太く……)

 そこで、気づいた。彼の超反応をもたらすものを。

「大王烏賊(だいおういか)……」

 深海に棲む巨大な無脊椎動物である。この生物の神経の軸索は規格外に太く、他の生物を圧倒する反射速度を持つと言われている。
 いなきの漏らした言葉に、ぢぃ、と産衣は歯ぎしりする。

「やはり戦えば、変異は抑えきれないか……このような醜い姿を、下賤の者に……」

 悔しげにうめく彼に、いなきは大声を上げた。

「馬鹿な! 鉱物と海棲生物……憑人が二つ以上の特質を持つはずが無い!」

 憑人の因子は原則一種だ。膝丸のように近縁の生物間ならともかく、そこまで異質な生物――いや、非生物と生物の混合した憑人などあるものか。

「下劣、下賤、下等……そして不勉強」

 露骨に侮蔑し、産衣は告げる。

「我ら未那元一族は、他の憑人を喰らって己の力と出来る。これこそが未那元の貴顕たる所以」
「……な、に」

 平然と、男は、誇らしげにすらして。
 自分が人喰いである事を明かした。
 いなきの驚愕の理由を察したか、産衣はそれを鼻で笑う。

「全ての他者に対して捕食者である。これ以上に明確な上位者の証があるのですか? 人間は喰われない事をもって万物の霊長を名乗るではありませんか」
「本気で……言ってるのか」
「ええ。もちろん。……お前はまともな人間ではない、などと月並みな事を言うつもりのようですから、月並みな答えを返しましょう。――我ら未那元一族は、人間以上なのですよ」

 増強された知覚から自分の心理を読み取って告げる産衣。
 八葉全てに感じる、隔絶した精神。今回産衣が見せたそれは他の者より生々しく、粘ついたものだった。
 会話の無駄を悟り、戦闘態勢を取る。だが、どのように戦えば良いのか。

(結局、巫術と変わらないだろうが)

 後方のあやめを意識して毒づく。別に彼女の責任という訳では無いが。
 単に魔術的な作用でなく、生物的な特性であるだけだ。人間以上の知覚を持っている事に違いは無い。
 加えて、大王烏賊とは視神経の発達した生物でもある。深海を生息する為に少ない光量でものを見る為だ。

 巫術、視力。
 いなきの持っていたアドバンテージを、それ以上のレベルで保持しているのだ、この相手は。

(クソ……どう攻略する?)

 飛車角落ちで将棋を打っているような気分だった。相手が悪手を重ねるから、なんとか生き残っているに過ぎない。

「今、お前のアドバイス結局何の役にも立ってねーじゃねーか、とか思ったでしょう」
(なんて勘の良い女だ……!)

 背中にちくちくと刺すように告げてくるあやめに、怖気すら覚える。
 そして彼女は次に、背中を押すように告げてきた。

「いなき君は、結局巫術を使ってもお父さんに勝てなかったのでしょう?」
「今そんな話をしてる場合じゃ、」
「いいから!」
「ああ、その通りだよ畜生!」
「なら、彼のように戦いなさい!」
「馬――」

 馬鹿、と言おうとした。
 出来るか、そんな事が。蠱部尚武のような異次元の兵法を、自分如きが真似など出来るものか。
 あの男の戦い方は誰にも――

「誰にも、出来るはずなのだが」

 なんとも都合良く、あるいは悪く、蠱部尚武の幻聴が復活する。この幻聴がかつて神の声と呼ばれていたなどと聞いた後では、趣味の悪い諧謔に笑い出したくもなってくる。
 いなきの混乱を差し置いて、横で囁きかける武神の声。

「私の兵法は、何ら特別なものではない」
(それは、あんたの勘違いだ。俺みたいな凡人には、)
「それだ」

 幻聴が、刺すように告げる。

「その思い込みは意志によるものではないか。意志とは確かに、か弱いかも知れない。しかしそれだけが唯一、等身大の自分の外に及ぶ力だ。己に克つなどという途方も無い行為は意志無くしては不可能なのだ。己に負ける事すら、意志というか弱く、広大な力が無くては出来はしない」
(認められるか! 実際にあんたとの実力差は計りきれないくらいにあるんだ……それがただ、自分の心一つで覆るなんて)

 要は自分に都合の良い助言を、自分が最も強いと信じている人間の口を使って語りかけているだけなのだ、この幻聴は。単なる自作自演だ――

「づっ!?」

 などと考えている脳を、衝撃が揺さぶった。蚊帳の外に飽きた産衣のものでは無い。あやめが投げつけた石が後頭部に命中したのだ。

「この石頭! 頑固者! いいから――一度くらい、馬鹿みたいに自分を信じなさい!」
「そうだ。娘の言う通りだ」

 幻聴ですら娘の言葉を全肯定する蠱部尚武が、あやめに追従する。

「こんの……馬鹿親子!」

 産衣に聞こえる事も構わず罵声を張り上げて――いなきはその場で刀を抜いた。
 抜刀術を基礎とする、己の戦術を捨てた。
 あやめと、尚武の助言を受け入れている。

 不思議とどうにかなってしまうような気がしていた。普段の自分からすれば考えられない、自暴自棄にも似た心境にあった。今からでも遅くない、馬鹿な真似はやめて自分の信ずる合理性に従えと、そう警告する自分が頭の片隅にいる。
 それを押しのけて、いなきは思考に没頭した。

 飛車角落ちで将棋を指す心地――蠱部尚武であれば、その程度のハンデはものともしない。
 あの男の、武術の他に見るべき所があるとすればそこだった。盤上遊戯の類でも無類の強さを誇る。棋界の有段者にも鼻歌交じりで勝利していた。
 武術と同じだ、とあの男は言うのだ。

 相手の力、自分の力を元に未来を予測する。終着手まで読み切るだけで、勝利は容易く手に入る。どんな速さも及ばない未来に自分はいるのだから――などと。

(……そんなレベルまで読み切らなくてもいい)

 それはやはり、蠱部尚武だけに許された異質のスキルだ。いなきには相手の心技体を本人以上に見透かすなどと、桁外れの深さの読みは出来ない。
 だが、勝率を五分にする程度の事は可能なはずだ。

(相手は……生物的な特性として人間以上の知覚、反応速度を持っている)

 まず、それが一つ。
 そしてもう一つ――この産衣という男は過剰に慢心している。

「お喋りはすんだのですか?」

 などとせせら笑いながら、余裕めかして立っている。心理的優位にありながら追撃を行わなかった。ただの人間に対して圧倒的なアドバンテージを持っているのだから無根拠の自惚れとも言えないだろう。事実、地力で勝てる相手ではない。他の八葉、例えば沢瀉のような攻撃速度や強力さは無いが、この男は常に相手に対して先に占位するのだ。自分が沢瀉を倒した時と同じ敗北を再現する羽目になる。それを知るからこその余裕だ。

 だから、そこにつけ込む。
 いなきは、切っ先を地面に向けた下段構えを取る。――ほう、と産衣の眉が跳ね上がった。
 西洋剣術の構えの一つ。愚者(アルバー)と呼ばれるものだ。
 興を覚えたと分かる表情を確かめて、いなきは産衣に告げる。

「騎士侯(グラーフ)――決闘(ジョスト)と行こうぜ」



(……どうやら、ただ愚劣な狗ではないようですね)

 相手の構えを見て、興趣に浸りながら産衣はそう感想する。自分の習い覚えた勇壮かつ剛胆な西洋剣術をあの若者は知っているようだ。

(とはいえ、芸に長じた利口な狗に変わった程度ですが)

 とあらば上位者である己がすべき事は、ただ一つ。その芸に付き合うのだ。
 それを軽くあしらって遊んでやり、飽きてしまえば――飼い主に飽きられた愛玩動物の末路などただ一つだ。
 相手は先程の突撃とは変わって、静かに接近してきている。間合いを精密に支配する為だろう。摺り足で、じりじりと迫る。

 涙ぐましい努力に、吹き出しそうになる。
 対照的に、産衣は無造作に敵に歩み寄っていった。散歩でもするかのように、気軽に。
 そして相手より先に攻撃可能距離に入った事を察し、最適な位置に踏み足を付ける。――時間の感覚が只人とはまるで違う彼であるからこそ可能な業。

 産衣が取った構えは再び上段。王者のように高みから愚者をたたき落とす、彼の好む構図であった。
 忌役の狗は、産衣にやや遅れて、しかしただの人間にしては上出来な反応速度によって太刀を振り上げた。
 黒と白の刃が絡む。

 敵の刃を滑るようにして逸らし、産衣は斬撃を突きに変じる。相手は産衣の斬撃の力を使って、押し出されるように横にずれ、それを躱(かわ)す。そして上段に取って斬り下ろしてくる。
 産衣はそれを刃で受け、太刀を回した。今度は柄を、相手の顔面に向けて突き出す。敵は一合目に産衣が行った技法を使い、受けられた斬撃を突きに変化させ彼の胸元に突き出す事で産衣の柄突きを止めた。

 ――予定調和のような剣の舞(ソードダンス)。太刀技の巧者が織りなす剣戟のタペストリー。

(おお……)

 人の限界に迫る鍛錬を己に課す、雷穢忌役の技術の精緻さは産衣の琴線に触れるものがあった。反射速度に決定的な格差がありながらも、未だに食らいついている。
 致死の斬撃を交換しながらも産衣は陶酔に浸る。――最終的に自分が勝つ事を知っているからこその余裕であった。

(私の速さはまだ上がるぞ、狗!)

 胸中で吼えて、集中を更に深くする。彼の世界だけが時の進みを遅くし、敵対者に対する先手を常に保証する。
 敵手は歯噛みして明らかに焦燥しながらも、ギアを上げた産衣の斬撃を更に受け続けた。並の相手ならもう、察知の出来ない程産衣の間合いの占有は早いというのに。

 とは言え、ぼろが出始めてはいる。相手は防戦一方だ。
 当然の成り行きである。〝必ず当たる位置〟に立つ事は未だ出来ていないにせよ、産衣は常に〝最も斬りやすい位置〟に先に立っている。対して敵は力学的なエネルギーの確保が不十分なまま、産衣の全力の攻撃を受けなくてはならない。
 いずれ決定的な崩壊が訪れる。その未来を産衣は嗜虐に満ち足りながら待つだけで良いのだ。

(くふ)

 あくまで上品に微笑を作る。貴顕は常に取り乱さない。暴力であっても優雅に楽しむ。
 ――予測された瞬間がやってくる。その一合の衝撃で、敵の握力が無視できない程に麻痺した。次の一撃はどうあっても受けられない。
 相手の繰り出すのは上段からの斬り下ろし。己は下段から迎え撃つ。

(その下品な剣を弾き飛ばして、絶望させながら喉を突くことにしましょう……!)

 果たして産衣の斬り上げに敵の斬撃は押し負けて、刀はその手から離れ――
 黒い光沢の無い刃が、産衣の視界を塞いだ。

(……!?)

 超人的な視覚を持ち、それに知覚のほとんどを依存した産衣は初めて焦燥を抱き、屈んで相手の姿を視界に収めようとして。
 そして、その視力を永遠に失った。



「ぐぁああああああああああああああっ!! ああっ!」

 両目を切り裂かれて後退する産衣から距離を取り、いなきは苛烈な剣戟で乱れた呼吸を整える。その右手には、抜き放った小太刀が握られていた。

(なんとか……上手くいったか)

 蠱部尚武が得意とする戦況の読解――そして、操作に。
 最初いなきが愚者の構えを取った実際の意図は、産衣を〝型にはめる〟事にあった。西洋剣術という共通のコミュニケーションを提示する事で、予定調和の、半ば型稽古的な応酬を誘い出した。

 騎士候、決闘――この敵が好みそうな語彙を用いる事で、彼の取り得る選択肢から他のものを排除もしている。
 攻め手、受け手に意外性が無い以上、受けに徹すれば数分は攻防を続ける事が可能だ。
 その時間が、産衣の思考を更に限定的なものにする。

 この戦いの勝敗が、いなきの防御の崩壊をもって決するのだと。
 相手が最も油断する瞬間。いなきは彼が予想していない行動を取る。

「きっ……さまァッ! それでも武士か! 刀を捨てるとは!」

 さすがに勘付いた産衣が、憤怒に彩られた声音で叫び散らす。顔面を手のひらで押さえ、隙間から血液と房水を指の隙間からこぼしながら。
 最後の一合。そのインパクトの瞬間、いなきは受け手を柔くした。丁度跳ね上がった太刀が産衣の視界を塞ぐように。

 この男の知覚は視力恃みだ。いくら処理速度に優れていようと、インプットさえ無ければ意味が無い。超人的な視力に頼り切っていた産衣は、視野の消失に混乱し――その復旧を第一に考える。
 この場合は視界を埋める刃から逃れる事だ。
 いなきはそれを、迎え撃ってやれば良い。

(……アドバイス、役に立っちまったじゃねぇか)

 後方の女を意識しながら胸中で呟く。彼女の助言で、相手の特性を事前に知ったからこその戦術だった。

(完成された巫術の遣い手なら……この手にははまらなかった)

〝き〟がその強さを手に入れる為にまず行った事は、視覚の放棄だった。
 人間が受け取る外界の情報の大部分を占めるそれを捨てる事で、彼女はまず体内の掌握を行ったのだ。その上で残りの感覚器官を増幅し、多角的な情報の取得を可能とした。今では彼女は、健常者以上に物が〝観える〟。不可視の電磁波ですら。
 あるいは、微細な化学物質ですら。

(つまり……あいつ、わざと幻術にかかったんだ)

 いなきの不調など既に見通していて、その負担を軽減する為に。自分が矢面に立つといういなきの宣言を守るには、彼のそばを離れなくてはならなかった。

(……気に食わねぇ)

 そのような婉曲な気の使い方をされる程に、弱い自分が。
 視覚に依存した相手を突き崩す戦法にしても、いなきが蠱部尚武にやられた事を再現したに過ぎない。そして、度重なる攻撃に耐えた己の刀。それを鍛えたのはあの悪質な妖姫、鎚蜘蛛姫だ。
 周囲の人間に力を借りて、ようやく勝てたのだ。

(……ちっ)

 舌打ちして、苛立ちをぶつけるように産衣の顎を蹴り抜いた。彼の強靱さの根幹であった視力を失った今、産衣は容易く攻撃を受けて昏倒する。
 それだけで済ませるべきではない。戦力のあらかたを失ったにせよこの男は御門八葉だ。生かしておいて予想外の反撃をされれば、いなきは負けるかも知れない。

 この場で、とどめを刺すべきだ。
 いなきは落ちた自分の太刀を拾い上げて、眠る男の延髄を狙って構える。
 ――後方の女の、視線を感じた。

「……」

 いなきは胸の奥に溜まったものを息として吐き出し、力を抜くと振り上げた刀を納刀する。あやめの方へ振り返り、

「行くぞ」

 と声をかけ、太歳宮の入り口に向かって歩いて行く。

「――なんで、殺さねーのよ?」

 刀の強度が勝利の一因になった、などと思ったからか、次の幻聴は鎚蜘蛛姫の声で語りかけてきた。
 それを無視して、いなきは進む。しつこく、子供のように甲高い声が問い詰めてくる。

「こいつ、紛れもねー人喰いの悪党だぜ? この場で殺した方が世の為人の為ってぇやつじゃん? ほぉらぁ、〝悪党〟っつー都合の良ぃ~い言葉で心理的な枷を取っ払ってやったんだぜ? ぶっ殺しちゃおうぜー? キルしちゃおうぜー? 一人殺すも二人殺すも百人殺すも一緒じゃんよー? くかか」

 記憶から生まれた妖姫の再現度は、中々のものだった。実際にあの女が言いそうな、人を惑わす毒に満ちた言葉。

「蠱部あやめに、責任が生まれる事を考えたんだろ?」

 獲物を痺れさせ、捕食する為の言葉。

「実質、あいつの助言がお前を勝たせたようなモンだからにゃー。あのまま産衣を殺したら、お嬢にも責任があるかも知れない。おめーはそれを考えた」

 くけけ、と人間味を含まない笑い声を漏らして、鎚蜘蛛姫の幻聴は言う。

「あいつだけは、手を血で汚して欲しくねーってか? 相変わらず初心なぼーやで……悪質だよなぁ?」

 糸で絡め取るように、彼女は告げる。

「斎姫……未那元いつきは、キッチリ殺し屋の〝き〟に仕立てたのによ」

 ぎり、と。いなきの奥歯がこすれる。わめき散らすのを自制する為に、歯を軽く磨り減らす程に噛みしめていた。

「かえーそーによー。よりにもよっておめーが手ぇ差し伸べなけりゃ、あのお姫様はこんな屍山血河の道に踏み込む事も無かったろーに。親殺しなんて因業な願いを諦めて、平和に暮らせてたはずだよなー? ……あいつが人殺しになんのは良くて、蠱部あやめは嫌。なんとも――悪質な、差別だよなー?」

 ふひひひひひ……と嘲笑を残して、鎚蜘蛛姫の幻影は霞のように消えていった。
 自分の心には、どんなごまかしも通用しない。無視できない痛苦に顔を歪ませながら――それでもいなきは、足を止めなかった。
 なればこそ、だからこそ。
 自分は、妹に責任を負わねばならないのだ。



[36842] 3e/隠棲射手
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/03 18:23
「なんとも豪華絢爛……だったのでしょうね」

 太歳宮内部に入ってすぐ、あやめはそう漏らした。
 その目線は頭上――海面に向いている。
 この建物の天井は、ほとんど破れていた。それだけではない。外壁は砕け、柱は何を支えるでもなく立つのみで、床石は剥がれている。廃墟という他に表現のしようのない荒れ果てた風情だった。

 月数の言っていた事を思い出す――大殯の儀の完遂と共に、六孫王の障気によって支えられたこの海中の空間は無くなり、太歳宮は水没するのだ。最長で三百年は使われていた御所は、むしろ原型を留めているのが奇跡なのかも知れない。

「海面の障気から判断するに……一〇〇ヘクタール強ってとこか? 入り組んでるし……こりゃマッピングに苦労するな」

 ぶつぶつと呟きながら、いなきは帳面に筆を走らせる。分岐路に差し掛かれば手近な石を拾い上げて、柱に傷を付けて目印とする。真っ正直に考えれば中央部分に六孫王はいるはずなので、中心に向かう道を選んでいく。

「相変わらずあなたって、分かりやすい器用貧乏よねぇ」
「うるせぇ」

 それなりにさくさくと迷宮じみた宮殿を攻略していくいなきを見て漏らすあやめに、毒を含めて返す。

「実はわたし、あの産衣って人を拷問でもして道を聞くのかと思ってたわよ」
「意味はないな。あんなのでも近衛だ。殺されても口は割らないだろう。……月数みたいのは例外中の例外だ」
「……まぁ、同意見ね」

 筆を走らせながら会話する。

「ところでいなき君、気づいていた? ……地面に」
「ああ。草が生えている」

 床板の裂け目から植生が発生している。水草や藻類の類でなく、地上で生まれる類の――花まで生えていた。
 大殯の儀に入り、六孫王が太歳宮に入城するまでは海水に浸っていた場所だ。一月程度でこれほど植生が発達する訳が無い。そもそもマングローブやハマボウフウなど耐塩性の強い植物ならまだしも、現在ここに咲く草花の多くは塩害で発育しないはずだ。

「ちなみに……こんなものを拾ったわよ」

 と、あやめは言って、手に持った花をいなきに差し出す。
 青い薔薇だった。

「……頭の痛くなるふしぎ現象だな、おい」
「まぁ、石橋を叩いて叩いて叩いた挙げ句に渡るのを諦める系男子のあなたにしては、この手のでたらめはストレスでしょうけど」
「不当な人格攻撃を……でもまぁ、お前は好きそうだよな、こういうの」
「ふふーん」

 無表情のまま面白そうな声を出すという、特に意味のない顔芸をするあやめ。
 いなきは言った。

「六孫王の障気の影響だな」
「名称を付けて分かった気になる。安易よ、いなき君」

 興味なさげにまとめたいなきに、あやめは噛みついてきた。

「? 何が言いたいんだよ」
「気にはならないの? そもそも障気というのが何なのか? 周囲の物理現象、生物の突発的な変異をもたらす……」
「AI存在のバグだろう? 現象を再現するエンジンにエラーが起きる事によって、それらは発生している」
「と、大昔のどこかの誰かが言ったのよね。今では誰もそれを、根拠も無しに信じ込んでいる……」

 どこか棘のある調子で、あやめはいなきの呈したこの仮想世界における定説に、反旗を翻す。

「なんか反証があるのかよ、あやめセンセイ」
「別に無いわよ」
「無いのかよ」
「だってわたし、憑人って今回深川に来て初めて見たのだもの。やっぱり、データが不足しているわ」

 特に恥じる事もなく、確たる根拠も無しに常識に逆らった事を明かすあやめ。いつもの事なので、いなきは肩をすくめるだけで返す。

「でも、」

 と、あやめは終わるはずの会話を続行した。手にした青い薔薇を眺めながら、

「ここに来て、手掛かりのようなものは得られたかも知れないわね」
「手掛かり?」
「あの産衣って人は、なんで憑人を食べるとその性質を獲得できるのかしら」
「……む」
「斎姫という存在にしてもそうよ。六孫王は、彼女たちを取り込む事でその憑物に対する制御を獲得する。……そもそも、六孫王という存在は何なのかしら。どうして他の憑人と比べて、こうも別次元の力を備えているの? なぜ代が重なるごとに、その力は大きくなるの?」
「……正直、あまり考えた事が無かったな」

 確かにこの女の言う通り、六孫王という存在には不可解な点が多い。斎姫というシステムについてあやめが仮説を立て、産衣の能力を知った今ではその謎は更に深まった。
 あやめは、一言告げる。

「未那元」

 それは産衣、斎姫、六孫王が共有する記号。彼らの起源を示す姓だ。

「未那(まな)の元……ねぇいなき君、唯識論というものを知っている?」
「一応な」

 仏教哲学における、ある種先鋭的な論説である――人間の感じている諸現象は、実体の無い個人のイメージでしかないという。
 この説の特徴は、人間の認識を八つに分けた事にある。それぞれ五感に対応する眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜっしき)、身識(しんしき)、自覚的な意識は、そのまま意識とする。

 残りの二識。これらは無意識の領分である。
 無自覚な意識である未那識。そして、その更に下層にある阿頼耶識(あらやしき)。
 阿頼耶という名称は蔵を意味するサンスクリット語から来ており、そこには個々人が感じる世界を形成する〝種〟が収まっているのだという。

「そして、一見して人類共通の世界が成立しているのは、阿頼耶識が過去から現在に至るまでの全人類の間で共有されているから、というのがこの話の骨子よ。いわゆる、集合的無意識ね」

 再度ユングを引用して、あやめは話をまとめる。

「未那元とは未那識の元……阿頼耶識を象徴しているとしたら? 未那元一族は、他者の無意識から来る力を取り込み、引き出せるとしたら?」
「その能力の為に、産衣は他の憑人の力を、六孫王は斎姫の憑物制御を獲得できる?」
「そして、六孫王は過去の未那元一族の無意識までも引き出している……だから、ここまで途方も無い力を得た」
「……ふむ」
「そして、」

 と、あやめは更に言葉を重ねた。周囲をぐるり、と見渡して、

「無意識というのが、世界の諸現象全てに存在するとしたら?」
「……それは、突飛過ぎやしないか?」
「あなたが無意識という言葉を、思考の無自覚な部分として定義しているからでしょう?先程言った通り、思考は後天的な能力よ。無意識とは単に、意識の対義語に過ぎない。思考とは全く異なる形の事象として考え得る……こう言った方が、分かりやすいかしら?」

 ――魂、と。
 あやめは言った。

「植物、鉱物、ありとあらゆるものに魂が宿りうる……八百万の神、って考え方をするわたしたちには馴染みが深いでしょう?」
「アニミズム、って奴だな」
「そうね。つまり無意識=魂に干渉できるのが憑人の能力で、未那元一族はその最先端にいる」
「……あくまで、仮説に過ぎない」
「ま、その通りね」

 あやめは自説を固持しなかった。あっさりと翻して――それがこの女の、よく分からない所なのだが――てくてくと歩いて行く。いなきはそれを慌てて追い越し、先頭を歩く。
 やがて、通路を抜けて開けた場所に出た。それなりに手広い庭園だった。やはり海底には決して存在しないはずの植生が発生している。
 思い出すような風に、いなきは彼女に言う。

「どっちにしろ、俺たちはその六孫王と戦うしかない」
「あなたたちはね。わたしはただ……知る必要があった」
「……何を?」
「世界を変革する、二つの要素。その一つを」

 と。
 あやめは、そんな言葉を言った。
 それは、そもそも彼女はなぜ、この旅についてきたのだろうという疑問を再び呼び起こす。何度目かの問いを再び投げかけようと、いなきは口を開き――

『待ヂヤガレェッデメェッ!!』

 後方から生じた濁った叫び声に反応し、あやめを押しのけて間に立った。
 怪物(クリーチャー)――現れたのは、そうとしか言い様のない生物だった。
 足はこの場で目視できる限り五本あり、手は三本目が背中から生えている。それらは全て人間のものではなく、虎、猿、象、海棲生物の触手……臀部からは鰐の尾が生え、地面をびたびたと叩いている。

 顔面は、どこにあるのか分からなかった。増殖した鼻、口、目が身体のそこかしこで蠢いている。
 複数の口が、涎を撒き散らしながら罵声を吐く。

『グゾ……暴走ガ抑エラレナイ……ゴンナ、醜イ……見ラレタグナイ……厭ダ……厭ダ……』

 肥大化した身体をよろめかせながら、怪物は慟哭(どうこく)めいた声を漏らした。

『シカジ……ワダジハ御門八葉……近衛ノ筆トウ……アノオ片ニハ下賤ノ目ニ触レサゼラレナイ……』
「産衣……なのか?」

 あやめを下がらせ、柄に手を掛けながらいなきは戦慄に背筋を震わす。――暴走? どういう事だ?

「……おそらく、」

 背にしたあやめが囁いてくる。

「取り込んだ他の憑人の因子が、制御出来なくなっているのよ。……あの人が戦闘中、二種の憑人の形質しか発現しなかったのはこの為だわ」
「多数の能力を発揮しようとすると、こうなるからか」

 産衣という男の美意識からすれば、この姿は耐え難いものだろう。それに今の彼はむしろ弱体化している。手足の動きに統一感が無い。複雑な運動はあれでは不可能だ。
 それを分かっていて――

『殺ズ……アノオ方ニ近ヅグ夷狄(イテキ)ハ、ワダジガ、必ズ。ドンナ姿ニ成リ果テテモ……』

 あの男は、忠義を尽くそうとしていた。

「あやめ、下がってろよ」

 いなきは、後方のあやめに更に後退するよう指示する。
 産衣の殺害を決意していた。

「来いよ。お前の敵はここだ……殺してやる、騎士候」
『ぐAッ! GIAッ! アアアアアアアアアアアアッ!!』

 鈍く、不様に突撃してくる産衣を確実に仕留める急所を、いなきは観察し――
 その位置を、〝何か〟が抉った。

『ガッ……!?』

 複数箇所を同時に、不可解な攻撃が襲う。――小さな風切り音を、いなきの耳は捉えていた。

(……ッ!)

 敵の攻撃の正体を知り、いなきは半ば恐慌に囚われながらあやめの身体を抱え、その場から全力で逃走した。遮蔽物を探して、庭園の柱の陰に潜り込む。

(……銃撃だと!)

 一点の破壊、弓矢と違う目視不可能の速度。あれはまさしく銃弾によるものだった。
 その弾雨に晒された産衣は、身体に無数の穴を穿ってその場に倒れ込む。

『マザカッ……薄金、ギザマ……ッ』

 それだけの言葉を漏らして、彼は絶命する。
 哀れと思わぬでも無かったが、いなきはそれを差し置かざるを得なかった。この攻撃が、いなきの味方によるものであるはずが無い。考え得る唯一の味方である〝き〟は、この攻撃手段を持っていない。
 銃撃。
 八百八町の銃とは基本的に前装式の滑腔銃(スムースボア)だ。数十メートルも離れれば命中精度は激減し、速射性も期待できない。

 産衣を襲った銃撃は、同時に複数命中した上に――今、いなきの視界の範疇に狙撃手の姿が無い。
 そして、何よりも不可解なのは――聞こえるはずのものが聞こえなかった。
 銃声がしなかったのだ。

(どういう事だ……!)
『あーあ……仲間、撃っちまったよ』

 その声は、空から聞こえた。
 反射的にそちらへ振り向くが、当然ながら誰もいない。揺れる海中が見えるだけだ。

『旦那もいきなり乱入するから……俺の感覚は、細かい識別に向かないんだよ……あ~あ……気が重てぇ……ああ、忌役の兄ちゃん、お約束の名乗りは上げておくぜ。俺ぁ御門八葉、八州田(やすだ)家当主、薄金(うすかね)だ』

 男の声はいかにも気怠げで、空気のように軽かった。

『ああ、この声はな、月数のばあさまの幻術で伝えてもらってる。一応断っとくけど、それ以上の事はさせてねぇぜぇ。あのばあさま、本気であんたらと敵対する気が無いみてぇだわ。特に斎姫にはびびっちまって……この程度の協力をさせんのも、大変だったのよ。っつーわけで、どっかに隠れてるばあさまを探して殺しても意味ねぇからさぁ。一応言ったぜ?』

 軽口めかして、薄金と名乗った声は言ってくる。
 いなきは会話を聞いている間にも、狙撃手の姿を探している。しかし庭園に男の影すら見当たらなかった。

『ま、俺もばあさまを見習って、あんたらをやり過ごしたって良かったんだがねぇ――』

 薄金の、軽薄な声。
 その音に混じって、風切り音が聞こえた。

「……ッ!!」

 いなきはあやめの頭を押さえつけるようにして、その場に伏せる。飛来する銃弾が頭上を掠めて、柱に穴を穿った。

『あらら、さすがに……この程度じゃ気は散らねぇよなぁ』

 などと、気軽な声音で悔しがってみせる薄金。
 対していなきは焦燥に駆られつつ、追い立てられるように柱から飛び出した。両手であやめを抱えている。
 しかし好機だ。狙撃の方角は柱の弾痕から明らか。その方向に薄金の姿が――
 そちらを向いても、庭園の粗雑に生える草花しか無い。

(どういう、事だ……ッ!?)

 猛禽並みの視力を持ついなきであれば、たとえ即座に逃走しても、あるいは狙撃手の常套手段としてギリースーツなどを着込み、カモフラージュしていても、この距離なら判別が出来たはずだ。

『小諸で抜けりゃ浅間の山に、今朝も三筋の煙立つぅ……』

 余裕めかして唄などを歌いつつ、予測の出来ない狙撃を薄金は繰り返してくる。走り続けていなければ回避出来ない。

「……っ」
「いなき君! わたしを置いていきなさい!」

 呼吸を乱し始めたいなきに、あやめが胸元で叫んでくる。確かに彼女を抱えたまま走り続ければ、体力もすぐに尽きてしまう。何より両手が塞がり攻撃が出来ない。
 手近な茂みの影を探し、あやめをそこに隠そうと――

『浅間根腰の焼野の中にぃ……菖蒲(あやめ)咲くとはしおらしやぁ』

 その茂みを、薄金の銃弾が弾き散らした。

「……ッ!」
(この、男……!)
『兄ちゃん、あらかじめ言っとくがよぉ……兄ちゃんとそこの嬢ちゃんが分かれれば、俺ぁまず嬢ちゃんを殺す』

 軽薄に――冷酷な地金をほのめかせた声で、薄金は告げた。

『八葉の半分までも倒したアンタを、俺ぁ軽視しねぇ。最も確実な手段で仕留めさせてもらわぁ』

 食えない――薄金の本質に、いなきはようやく気づいた。
 憑人という超越的な存在でありながら、産衣や日数のように慢心していない。沢瀉のように戦いを楽しんでいない。膝丸のように狂ってはいない。戦闘を義務として処理し、常に最適な手法を採る。

(一番……強敵だぞ、こいつ)

 この男には、心理的な隙が無い。産衣の時のような戦況の支配を許すとは思えなかった。

「いなき君、」

 もう一度、あやめは自分の名を呼んだ。そして、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「わたしを置いて、いきなさい」

 二度目のそれは、意味が全く違っていた。疾走しながら、反射的に怒鳴りつける。

「うるせぇ!」

 その背後の芝生を銃弾が抉った。命中精度が向上している。
 どこから狙撃しているか――既にその疑問に意味は無かった。薄金は、あらゆる方角から攻撃してくる。前方と思えば後方。左方かと思えば右方。

(射手は複数いるのか……? なら、狙撃の方角が特定できないのも、この速射性も説明がつくが)

 いや、それならば多方面から同時に狙撃をすれば良いだけの話だ。銃弾は複数だが、一回の攻撃では必ず同じ方角から飛来している。今敵対している相手は薄金一人だ。
 そして彼の射撃の不可解さは、憑人としての能力に由来するのだろう。
 だから、その謎を解けば倒せるはずだ。

(それが先か……俺の体力が尽きるのが先か)

 廃墟の庭園を疾走しながら、いなきはそう結論づける。人間一人を抱えて走っている今、体力が消耗しきるのはかなり近い。その時までに薄金の攻撃手段を解明しなければ、自分は敗北する――
 その見通しの甘さを、敵手は的確に狙ってきた。
 いなきの走る進路を、宮殿の倒壊した箇所、柱や壁の残骸が塞いでいた。
 誘われたのだ。

(……ッ! 奴には、地の利もあった!)

 自分のうかつさを痛罵する。一度地面に伏せて射撃を避けた以上、相手はそれを見越して打ち下ろすような銃撃を加えてくるはずだ。その回避手段は採れない。
 いなきは咄嗟に、地面を強く蹴った。
 飛び上がって、突き出た柱の一本に到達するとそれを蹴りつけ、中空で一回転する。地面が頭の上になっている瞬間に、薄金の弾丸は眼下の地面を抉っていた。
 着地して、再び走る。肩に激痛を覚えていた。

(躱しきれなかったか……!)

 弾丸が一つ、肩口に命中している。腕力が自覚できるほどに落ちていっている。あやめを取り落とさないように、抱え込むようにしなければならなかった。
「い、なき君……!」
「なんだ! 文句なら後で言え!」
「違うわ……弾丸を」

 圧迫され、苦しげにしながらもあやめは言葉を吐いた。

「弾丸を、見なさい」

 と、いなきの肩に触れる。傷口を刺激されて痛みに顔をしかめるが、あやめはそれに構わずその肩から何かをつまみ上げていなきに見せた。
 弾丸の破片。何かの、皮のようだった。棘の生えた――

「……!」

 いなきは薄金の狙撃の正体を悟った。走りながら周囲を見渡す。植物に囲まれた庭園。なぜ彼は、ここを戦場に選んだのか。狙撃のしやすい開けた空間だから? それもあるだろうが。

(木を隠すには森の中……って事か)

 いなきは逃走の進路を変えた。庭園の出口。彼らが入ってきた通路に戻ろうとしている。

(薄金は……植物の憑人だ)

 そして、彼の射撃で発射される弾丸は――花粉だ。

(風媒花……いや、それだけじゃない。障気も使って、弾丸の軌道を補正している)

 例えば桑の一種はその花粉を、音速の半分ほどの速度で射出する事が出来るという。憑人として誇張された能力であれば、十分人間を銃殺するに足る威力が実現する。
 ならば、この庭園は薄金の必勝を確約する殺傷領域(キルゾーン)だ。木を隠すには森の中。ここで彼を発見する事は極めて困難だ。

(まずはここから撤退する……)

 薄金の姿を視認できる状態で暗殺する。その隙は必ずあるはずだ。
 自分が逃走しようとしている事を悟らせないよう、迂回しながら出口に向かい――それは成功する。
 開かれた門を潜り抜けて、確実に薄金の射界から逃れた――

『鳥が、籠に入ったねぇ』

 風切り音が、壁に遮られた空間で甲高く響き、
 薄金の銃弾は、いなきの足に命中した。



「がっ、あ……!」

 腿を撃ち抜かれた。いなきはその場に倒れ込み、激痛にうめく。

「いなき君!」

 転倒する間際に地面に下ろしたあやめが、いなきに駆け寄ろうとする。

「馬鹿! 来るんじゃない!」

 罵声を上げて押し止めようとするが、彼女は耳を貸さずいなきの側に寄ってきて屈み込んだ。予測された、彼女への銃撃は無かった。

(いつでも仕留められるから、余裕ぶってるのか……)

 戦闘の最中に感じた男の冷徹さからすれば考えがたい事だったが、それ以外に何かあるとも思えない。
 いつ狙撃されるとも分からない恐怖の中、訪れたのは銃弾でなく言葉だった。

『推理を誤ったねぇ。……俺ぁ、あの庭園にいた訳じゃあないんだわ、これが』
「どういう……事だ」
『たぶん、俺が植物の憑人である事は見抜いたんだろうがねぇ……俺が、植物と交信できる事までは見破れなかったようだぁな』
「植物と、交信……」

 薄金の漏らした言葉と――彼がどうやら、月数と離れた場所で情報をやり取りしている事。
 二つの要素を繋ぐ推測を組み上げて、いなきは喉の奥でうなった。

「化学物質……インフォケミカルか」

 植物とはその場から動く事は出来ないが、それゆえに遠隔の生物に干渉する能力を多く持つ。花粉はその代表として――他に、化学物質の散布がある。
 殺菌作用のあるフィトンチッドや、他の植物の生育を阻害したり、昆虫を誘因するアレロケミカルなど。
 後者は、同種個体間に作用するフェロモンと合わせて生化学的信号物質、インフォケミカルと呼ばれる。

 それを介して、植物の感覚した事柄を薄金は受信出来る。
 ならば、庭園のみを彼のテリトリーと考えたのは間違いだった。この太歳宮にはあちこちに草花が生えている。

『そーそー。いやぁ、あんた博学だぁなぁ。俺にゃあ、びびっと来る? ってだけの話なんだがねぇ』
「……なら、お前の本体は」
『ああ。太歳宮の、丁度あんたらのいる所の反対側だね。――悪いね、最初からあんたにゃ勝ち目無かったんだわ』
「……畜生」

 歯噛みする。実際、最初から彼の能力を知っていたとしても、銃撃を避けながら薄金を探索するのは不可能だっただろう。いざとなれば巫術の行使も考えていたが、数秒しか保たない裏技はこの場で意味のあるものでは無かった。そして機動力を殺された今となっては、あらゆる反攻を封じられている。
 状況は既に詰んでいた。
 だから、言葉を弄する余裕もあるのだろう。

『……敵をなぶるのは、俺ぁ好かないんだけどねぇ。他の連中と違って、力、強くねぇからさ。油断してる余裕無ぇんだわ』

 薄金はそう言って――苦い物を口にしたような声を上げる。

『けどよ……未練だねぇ。俺ぁ自分で思ってる程達観出来てないらしいや』
「……?」
『おめぇさんは、半端者だってんだよ』

 男は声に、初めて棘を含めた。

『目的があるってんなら、なぜその娘を切り捨てねぇ? その嬢ちゃんを抱えてたら絶対に勝てないって分かってただろうがよ』
「……っ」
『そんだけじゃねぇ。なぜ関係の無い斎姫の仇討ちに手を貸す? たぶんあんたはもっともらしい言い訳を用意してんだろうけどよ。……そりゃあ単に、あんたが斎姫を切り捨てられねぇのを誤魔化してるだけだ』

 薄金の詰りに、抵抗が出来ない。六孫王暗殺の実績をもって不可知領域の蠱部尚武に近付く――確かに自分の使命のみを考えたらもっと他にリスクの低い、確実な手段があったはずだ。
 いなきはそれに、無自覚に目をつぶった――いや。
 自覚は、していたのだろう。

『意志が弱ぇんだよ、あんた。小者なんだ』

 唾棄するように、薄金は宣告する。

『小者にゃ大業は為せねぇ。その程度の道理にいつまでも気づかないで駆けずり回って、結果どうなったよ? 周りの人間山ほど巻き添えにして、もうすぐ俺の弾丸でくたばる。……それとも、そのお嬢ちゃんを殺してあんたを生かせば、自分の馬鹿さ加減を思い知って、ちったぁマトモに生きていくのかね?』
「やめろ……っ!」
『……はん。その程度の奴が、しゃしゃり出て来るんじゃねぇよ』

 侮蔑に声を尖らせる薄金。いなきは、何も言い返す事が出来なかった。

「……逃げろ」

 敗北感に喘ぎながら、かろうじて、いなきはあやめにそう告げる。
 彼女一人を逃がす成算すら絶望的だろうが、やらないよりはましだ。
 その言葉を受けて、彼女は。

「黙りなさい」

 と、いなきの脇に手を絡めて、引き摺っていこうとする。男一人を動かすにはあまりにか細い力だった。

「死にたいのか! 俺を置いていけと言ってるんだ!」
「うるさい」
「たまには俺の言う事を聞けよ!」
「同意見、ね……いつもいつも、あなたはわたしの言う事を聞かない」

 苦しげに呼吸し、顔をしかめながら彼女は言った。

「全く、あなたとは気が合わないわ」

 などと、悪態をつく。

「けれど、そんなものは、家族を助けない理由にはならないのよ」

 引く手に必死の力を込めながら、彼女はそう言った。
 そして、中空を睨み付けて薄金に逆らう言葉を吐いた。

「関係無くなんて、ない……あの子はわたしたちの妹だから」
『家族ごっこだ』
「理解して、もらう気はないわ……でも」

 耳元で聞くあやめの声は、怒りを含んでいた。

「あなたの自己嫌悪を、彼に押しつけないで」
『……』
「さっきの言葉、自分に言ってるようだったわよ。意志の弱い小者……それはあなたも同じなのではないかしら」
『……女を殺す趣味は、無かったんだがねぇ』

 薄金の声音が殺意を帯びる。いなきは反射的にあやめを引き倒して、上に被さる。
 弾丸が飛来し、いなきの生命を弾き散らす――
 確実に起こるはずの未来までの猶予である一瞬は、数秒になり、数分を超えて。

「……?」

 いつまで経っても銃撃の風切り音がせず、目を開く。
 眼前には、左右田石斛斎が呆れた風に二人を見下ろす姿があった。

「いや、いくらなんでも君ら、こんな所で……節操なさ過ぎなんじゃない?」

 何を勘違いしているのか、軽薄な男はそう言った。



[36842] 3f/転がる石たち
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/03 18:22

 これから描写される三つの殺人は、ほとんど同時刻に起きている。



    /



 ――薄金の声を中継する月数の幻術が消えて、彼は戸惑っていた。

 変異したその姿は人の形をした植物そのもので、左手は変形し、長銃身のライフルに似た形を取っている。銃口は葯(やく)であり、銃身は花糸である。

(まさか……やられちまったのか? いや、そんなはずは)

 太歳宮の破れた天井に向けてその銃を構えたまま――今までの彼の狙撃は、上空に撃ち出された弾丸がその弾道を歪めてあの庭園に飛来していた――うずくまりながら、薄金は思考に没頭する。銃撃を一時中止せざるをえない程の困惑に囚われていた。

 月数の居所は薄金にも知らされていないが(いかにも小者の彼女らしい臆病ぶりだ)、少なくとも彼とは離れた場所のはずだ。
 斎姫の知覚はどうやら、自分たちが交信に使う化学物質も察知する。彼女が本気を出せば幻術も通用しないし、月数の居所も知れてしまうだろう。だからこそ月数は、戦局に大いに貢献するはずの幻術をロクに使わず、彼らに対して脅威を示していない。最優先で仕留めるべきは薄金なのだと強調して、彼の方に敵意が向くよう誘導している。

 ――今、実際に斎姫が薄金の背後に立っているのだから、その目論見は成功したというのに、誰が彼女を殺したのだ?

『……もちっと、猶予があると思ったんだがねぇ』

 自分に差し迫った脅威を後ろにして、薄金は月数の消息についての疑問を諦めた。
 斎姫との距離は三丈(九メートル)ほど。得物は四尺(百二十センチ)程度の鉄杖。自らもまた視覚に頼らない知覚を持つ薄金は、背を向けたままそうした情報を得る事が出来た。
 こちらの獲物は銃。攻撃の実体は花粉の散布である為に、近い間合いならば散弾銃に似た広い殺傷範囲を持つ。義足の娘は機動力に欠ける。勝算はある。

 二人の間に、言葉は交わされなかった。斎姫は薄金を敵としてしか認識していなかったし、薄金は彼女の声を聞けば情に囚われると分かっていた。自分はただの端役であったとしても、大樹と森羅、そして〝ふう〟、自分の青春は彼らと共にあったのだ。
 ただ無造作に薄金は彼女へ銃を向け、弾丸を発射し――同時に心臓を貫かれた。

 最期の光景に、彼は己の弾丸の行方を見た。斎姫の得物は鉄杖。そしてそれは、右足の義足に内蔵された鎖に接続されている。
 彼女はその鎖を操って、総計十三の弾丸を絡め取って防いだのだ。同時に鉄杖を投げつけて薄金の急所を的確に破壊した。

(……ったく)

 馬鹿らしい程の武力の差に、むしろ納得してしまう。

(……ま、いいか)

 月数が死んだのなら、自分もこの場で死んだとして不都合は無い。〝自分の仕事〟の余計な手間を省いてくれた誰かに、感謝すら覚える。
 心残りはと言えば、あの生意気な娘を殺せなかった事か。自分の心をあっさり見透かした彼女を。

(なぁクソガキよ。俺らみてぇのはいくら頑張ったってよぉ、ろくな事が無ぇのさ……それでも人と関わりたきゃ……誰かに従って生きるしか、無いだろうよ)

 ごぶり、と吐血して。最後に自分が人間である事を思い出しながら薄金は絶命した。



   /



 方丈梢継は歳城の廊下を歩いていた。走りはしない。彼はいかなる時もそのような、取り乱していると分かるような有り様は見せない。ただ、走るより早く歩いていた。参謀役の武士数人が着いていくのに困難を覚える程に。

「あの墓守どもは、なぜ今更深川に現れた」

 怒鳴りつけたくなるのを自制しつつ、梢継は言った。評議の場まで待ちきれなかったのだ。
 答えを期待していた訳では無いが、下問された形の部下は応じるしか無かった。

「……おそらくは、足影秀郷、あの男の殺害を曲解したのでしょう。あれは太歳宮周辺の警護役でありました。大樹公への害意ありと彼らは誤解を」

 曲解、誤解、と部下の女は言った。仕事が出来るからこそ側近にいるのだろうが、常識に囚われすぎている。確かに政治的価値が無いからこそ大殯の儀に入った六孫王は軽視されている。より意味のある、例えば二重スパイである彼の殺害による(梢継は既に足影秀郷の行状を洗い尽くしている)芙蓉局陣営への、彼女自身の牽制などといった分かりやすい解釈に傾くのは自然ではある。
 しかし、

「ならば、八葉を実際に殺したのは誰だ。下手人は一人と分かっている……奉公衆の憑人に、単身であの怪物めらを倒せる者などおらぬぞ」
「……それは、」
「事実、大樹公は暗殺の脅威に晒されておられるのだ」

 口ごもる部下に、表向きの気を配った口調で梢継は告げる。

(ならば……あの女はどこでその利益を得る?)

 裏で糸を引いているのが芙蓉局である事を、梢継は疑いすらしなかった。何も証拠が無かったとしても、確信するのに躊躇いは無い。ほぼ梢継の勝勢にある政局。あの女がここで逆転の手を打って来ない訳が無い。

(あと一日か二日もすれば死ぬ男だぞ? ……大樹公に残された仕事など、遺言を残すくらいしか、)
「……ッ!」

 閃きは、雷鳴に似た衝撃として梢継を刺した。見苦しい焦燥を晒すのを覚悟して、叫ぶ。

「兵を出せ!! 太歳宮に向かう!」
「だ、弾正忠様! それは……」
「無論衆目に晒されない程度の、最小限の編制でだ! 伝令! 走れ!」

 言うまでもない事を述べようとした取り巻きの一人を殴りつけて、急かす。既に体制の移行が完成しかけているとは言え、主の御所に向けた挙兵――彼らの危惧している事態は梢継も承知していたが、時間が惜しい。既に間に合わないのかも知れなかった。
 御門八葉全員が殺害されていたら、自分は終わりだ。

「遺言だ」

 軍勢に指図の出来る侍大将を叩き出した後、残された取り巻きに向けて梢継は説明した。

「大殯の儀の最中、六孫王陛下は遺言を揮毫(きごう)なされる」

 そして、と梢継は告げる。

「それは、六孫王府にとって最優先の下知となる」

 周囲が自分の身近な側近に限られているのを確認すると、梢継は便宜上お為ごかしを排除した。

「陛下がその崩御の時まで重んじられている事を示す為の、形式上の措置だ。今では形骸化している……歴代の六孫王がこの時期に正気を保っていた事などないからだ。言葉をろくに理解してすらいない……万一意味のある言葉を遺せたとしても、政治的に問題があれば握りつぶせる」
「それは……露骨過ぎはしませんか?」

 疑問を呈した部下の一人への評価を、梢継は下げなかった。その通りだ。六孫王の下命、それも最期に遺したものを無視するなど、この六孫王府で出来るはずが無い。
 だから、全ては秘密裏に処理される。

「遺言は六孫王陛下の側近、その序列における最上位者が管理する。……つまり、御門八葉だ。太歳宮の崩壊で生き残った者から遺言は発布される。その前に奴らと交渉すれば、問題は解消されるのだ」
「……なるほど」
「なら、御門八葉が全て死んでいたら?」

 梢継は彼らに問いかけた。有能な部下たちだ。その一言だけで彼の意図を読み取って、そして露骨に恐怖に震えた。

「側近の序列の、最上位者……」

 六孫王府におけるそれは、議事堂である翠書院の座列で示されている為にこの場の誰もが知っている。六孫王の側に御門八葉が侍り、そのすぐ外側に座る人物。

「芙蓉局だ」

 思わず笑い出したくなるような気分で、梢継は言わずもがなの事を捕捉する。

「あの女は、どれだけ自分に都合の良いように遺言を書き換えるだろうな」

 それだけ言うと、部下を再び走らせる。事態を飲み込んだ為に彼らの足の進みは、野犬に追い立てられた野兎そのものの速さだった。
 それを追い越しながら――上役とは、いかなる時も部下に先んじていなければならない――梢継は思う。

(このような魔手を打ってくるとは)

 痛快な気分だった。やはりあの女だ。あの女こそが自分の敵だ。抱く感情は愛情にすら似ていたが、決してそうではない。あの女を自分のものにしたいとは決して思わない。
 断じて、殺し合うのだ。

(貴様と戦っている時だけだ。それだけが生の真実を、実感を掴んだ確信を……)
「――梢継様!」

 戦いに向かう人の流れに逆らって、一人の部下が息を切らして駆け寄ってくる。
 その顔は歓喜に満ちている。
 梢継は、その事に悪寒めいたものすら覚えていた。

「芙蓉局が――」



    /



 歳城西の丸の一室に籠って、ロックチェアの肘掛けにもたれつつ。芙蓉局は酒に満たされたグラスを弄んでいた。祝杯の類ではない事は、表情に満ちる憂いが示していた。
 この洋室はあの商人、仮痴不癲という少女が自分の計画に一枚噛むにあたって寄越してきたものだ。調度品、高価な酒、この部屋はまるごと彼女の寄贈品である。――彼女の住む世界にとっては端金だ。賄賂にすら当たらない。友好の証、などと彼女は言ったがそれも不適当だろう。社交辞令とでも言った方が良い。

 放漫な散財は芙蓉局の好みではなかったが、いつの間にかここに入り浸るようになってしまった。内装は落ち着いた色彩でまとめられており、時間が停滞したような気分になる。それが好ましかった。――数度のやり取りで、自分をこうも把握したか。

(若い芽が、出て来ているのだな……)

 この数年、人を見てそう感じる事が多くなった。今では自分に勝利するまでになった方丈梢継。仮痴不癲、斎姫。そしてあの、得体の知れない九衛待雪の娘。
 自分が全力で戦っても敗北を予感させる、彼女の老いを突きつけてくる若者たち。

 ――八葉全員ぶっ殺せる暗殺者、欲しくねー?
 あの軽薄な妖姫、鎚蜘蛛姫がそう持ちかけてきたのは数ヶ月ほど前。その一言をきっかけにして計画は即座に組み上がった。彼女のつてで仮痴不癲が参入し、お膳立てを整え、斎姫らを待った。

 彼女らの能力は疑わしくすらあったが。永代島で三人まで殺し、今太歳宮に入っているのだから、さすがはあの妖姫のお眼鏡に適った武人という所か。
 薄金。あの虚無に取り憑かれてしまった男を取り込んで念を押した以上、計画の完遂は確実だろう。外敵に気が向いている今なら、あの男であれば他の連中の背中を刺せるはずだ。

 例外と言えばあの規格外。八龍であろうか。
 しかしあの男が外部に殺意以外の意志を伝える事などありえない。計画に支障は発生しない。
 もう勝利に手を掛けているように思える――

(私は、それに戸惑いを覚えているのか?)

 他人を掌握する事に慣れきった自分が、自己評価について自信を持てなかった。飲めない酒を手の内で転がすような意味のない真似は、普段の彼女はしない事だ。
 老化を誤魔化す為に内臓は退化しており、ろくにものも食べられない。ましてやアルコールなど、今の自分にとっては劇薬でしかない。若い時分は趣味であったが、今ではこうして眺める事くらいしか出来ない。酒の側としても、不本意なのだろうと思う。

 そうまでして、この深川を維持してきた。上級武士の一族による硬直した体制を、御寝所番を使った内部工作で健全化し、出自による差別をいくらか軽減した。その結果台頭してきた方丈梢継に自分は追い詰められているのだが。
 ならば彼らに敗北して、後進に後を譲り退場する? 自分はそこまで聞き分けの良い人間ではない。

(……私が排除した連中も、そう思っていたのだろうな)

 この計略の犠牲になった深川の町人たちは、それを考える事すら出来なかったのだろう。何も知らずに死んでいったのだ。
 それでも自分は、計画を止める事などしなかっただろうが。
 芙蓉局は誰もいない部屋の中で、孤独に独白する。

「発展、成長なるものは、正義ではない」

 彼女が若者たちと全力で戦う事に疑問を持たないのは、その為だ。

「断っておくが、それが悪と言いたい訳ではない。……ただ、全ての変化には犠牲が発生するのだ。私はそれが、変化により獲得できるものと等価なのだと思う」

 発達した技術と引替えに、このような仮初の世界を作って己を慰める程に、心のどこかを弱体化させてしまった現実世界の人類のように。

「世界の発展という願いは、どれ程言葉を飾り立てても、その本質は現在を悪と断じ、実現すべき未来を善と定義するものだ。でなければ、実現すべき、などという言葉を用いたりはしない。……切り捨てられた現在は過去に追いやられ、顧みられずに暗がりでわだかまる……そんな行為が、正しくあるはずがない」

 ならば、世界は変化してはいけないのか?

「違う、と私は信ずる」

 それだけは確信を込めて、芙蓉局は言った。

「現在過去未来の人間がそれぞれ、停滞を望まず、力を尽くすからこそ世界は成立している。それが無ければ人は滅びる……赤の女王仮説というものだったか」

 過去に読んだ書物を記憶から呼び起こして――老化しつつある脳では、昔より思い出すのが遅かったが――芙蓉局は独白を続ける。

「ただ、盲信してはならないのだ。成長という美しい言葉で、自分の行為を善であるなどと思い込んでは……犠牲を忘れてはいけない。変化を推進する自分の罪を、責任を。そして、それらは償えない事を」

 罪は償えるという誤解は、やはり犠牲を軽んじさせる。

「それを軽んじて、忘れてしまえば、人は虚無に囚われる……だから」

 結論づけるように、芙蓉局は言った。

「私を殺すという変化を求めるならば、それを忘れないで欲しい――森羅」

 薄暗い部屋の隅、目視できない空間に向けて。
 既に命は諦めていた。豪眞梅軒は計画の為に走らせていてこの場におらず、自分を守る事が出来ない。

「お前が来ると思っていた……お前は、大樹を道具にする私を許さないだろうから」

 まだ少しの猶予をくれるらしく、その間に芙蓉局は伝えるべき言葉を並べた。

「すまんな。梢継の独裁を許す訳にもいかなかったのだ」

 野心の強い男だ。成り行き次第では、六孫王に成り代わって自分が主導者になろうとするかも知れない。自分はそれを防ぐ力を持たねばならなかった。

「奴では不足なのだ。……近い内に、この世界は決定的な変化を迎える。九年前、あの不可解な武州の争いから予感はしていたが……あの娘に会って確信した」

 世界を変革する因子、その二つの内の一つの実在を。
 ならば我々は、もう一つの因子を育てなければならない。

「変化に戸惑い、絶望する人々を救う者が必要なのだ。利害を超えて人を導く程の存在……王が。未那元一族は途絶えてはならない。彼らの辿る道が、やがてそこに到達する」

 だから、と芙蓉局は語り始める。政治に生きてきた彼女の、最後の交渉だった。

「お前が私の後を継げ、森羅。梢継を牽制しろ。龍を支えるには、虎は二頭必要なのだ。……なに、お前であってもあれは手こずるさ」

 あの男は決定的な所で虚無を拒める者だから。彼の子供の時に対面して以来、それを確信して育ててきた彼女であるからこそ分かる。

「あれは自分の歩む道に絶望したとしても進む事を止めない。何を犠牲にして戦い続けてきたか、決して忘れないからだ。自己を否定しながらも自己を貫徹する事を疑わない男だ……はは、まるで、惚気のようじゃないか。私が惚れたのは、生涯でたった一人だと言うのに」

 自嘲しながらも思う。なんだ。あれやこれやと言っていても、自分はあの男を後継者と認めていたのではないか。
 だからこそ、あの時自分は「いつか私を殺しに来い。それが出来たら、私の全てをくれてやる」などと言ってしまったのだ。
 そして今、梢継は間に合わず自分は森羅に殺される。落第点だ、馬鹿者め。

「ま……頑張りやぁ」

 その言葉を最後に、芙蓉局は心臓を貫かれた。
 絶命する間際に見た夢は、幸福なものだった。――あのひと、覚樹(さとしげ)さまと再会できたのだから。

 ――すまない。私は化物なのだ。君に女としての幸せをやる事はできない。
 紫垣城の貴族に追いやられて、親子ほども年の離れた男に差し出された。それでも彼らの言う通り間諜として振る舞うしかなかった弱い少女に、彼はそう言ったのだ。

 娘を喰らい、そして彼女を産んだ側室を障気で病ませて殺した後の事だった。そうまでして永らえた命も、もう少しで終ろうとしている。
 ――私に出来るのは、君の世界をほんの少しだけ変える手助けをするくらいの事だ。
 あの、孫そっくりに不器用で哀れな人は、彼女に自由だけを差し出した。それまでのがんじがらめの自分には存在しなかったものを。

 けれど、それを与えられるだけだったなら、好きになりはしなかったのだろうが。
 妻子を自ら殺して、絶望だけを抱いて死んでいく男。そんなに悲しい人間を見た事が無かったから。
 芙蓉局、という名前を持たなかった頃の彼女は、初めて与えられた自由を使って、不自由になる事を選んだ。

 ――なら、わたしは、あなたの世界をほんの少しだけ変えていきます。……あなたがいなくなっても、ずっと。
 小娘の他愛ない言葉を聞いて、彼は。
 ――そうか。ありがとう。
 薄く微笑んで、そう言ったのだった。

 そんな口約束を守って生きてきた自分は、きっと愚かだったのだろう。当時の姿のまま、心ばかりが老いていって。過ちを為した。罪も犯した。
 けれど、幻想の彼はやはり薄く微笑んでいたから。
 彼女はこう言ったのだ。

「覚樹さま。わたしはちゃんと、がんばりましたよ」



[36842] 3g/遭遇
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/05 11:48
「いやぁ、君らがいきなり消えちゃった時は焦ったよ~……ここ迷路みたいに入り組んでるからさ、合流出来ずにやばい方々と鉢合わせ、とか考えてびくびくしてたねぇ、いやホント」

 べらべらと軽薄にのべつまくなしに喋る左右田石斛斎を黙らせる事も、離れる事も出来なかった。この男が、足を撃たれて動けないいなきを担いで運んでいたからだ。

「うるせぇ」

 隻腕の男の右肩に米袋の如く扱われながら、可能な限りの反抗を示す。

「はぁ、ホント君って人のありがたみを考慮しない男だよね。……どうしてもって言うから、刀持たせたまま運んであげてるってのに」
「今この場で戦えるのは俺だけだ。武器を手放せる訳ないだろう」
「耳元でがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ、うるさいんだよねぇ」
「我慢しろ。俺たち忌役は傷の治癒が早いんだ。あと四半刻もすれば歩けるようになる」
「自分の都合ばっかりだなぁ」

 面倒臭そうに漏らす石斛斎。
 がっちゃがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ、と。確かに彼の言う通り、歩くたびに刀の金具がうるさくがなり立てている。太歳宮の天井が破れていなければ、残響してもっと不愉快な音響になっていたかも知れない。

「……あやめ、あんまり先を歩くな」

 いささか先行して、周囲を観察などしているあやめに警告する。彼女はそれをしばしの間無視してから、

「……いなき君、これを見て」

 と、言ってくる。
 石斛斎に肩を借りて床に立ち、痛苦が顔に出ないよう自制しつつそちらへ歩き、彼女の指差す地面を見て、

「……っ」

 突発的な嘔吐感に身を竦めた。
 おそらくは頭上の海中から落ちてきた魚なのだろう。断言できなかったのは、その形質があまりに魚とかけ離れたものに変異しているからだ。

 エラにあたる部分が口になっている。唇がある。歯がある。舌がある。生臭い呼気がある。そして、声を上げている。
 ――ぉぁぁあっ、……ぉぉぅうう……ぉおぁぅ……
 恨めしげな声、と聞こえてしまうのは嫌悪感による思い込みか。

「障気による……突然変異か?」
「そうでしょうね。……なぜ口なの? 地上に落ちたから……呼吸が出来なかったから?」

 ぶつぶつと述べて、あやめは唐突に床石の破片を拾い上げて魚の解剖を始めた。脳髄を突き刺して止めを刺し、外皮を切り裂いて開きにして中身を観察する。

「やっぱり。肺が増えている……」
「……ねぇ君、この子って実はとんでもなく異常なんじゃない?」
「……なんだ。今更気付いたのか、お前」

 顔色を真っ青にして今にも吐きそうな様子で言う石斛斎に、似たような表情でいなきは返す。

「失敬ね」

 血のついた指先を手ぬぐいで拭きながら、あやめは抗議する。男二人は揃って目を逸らした。

(……まぁ、こいつのアレなのは今に始まった事じゃないんだが)

 などと思いつつ、しかし、と引っかかりも覚えている。
 ――わたしには、知る必要があった。

(それがこいつの目的なのか? ……何を知る必要があるってんだ?)

 いくら脳裏で疑問を浮かべても、答えは出ない。この女はどこか決定的な所で余人の理解の及ばない所がある。父親と同じように。
 諦めていなきは、実際的な言葉を持ち出した。

「怪異の度が深まった。……つまり、この道の奥に」

 障気の元、六孫王がいる。

「〝き〟もそこに向かっているはずだ。急ごう」
「とか言いつつ僕を足に使うんだよね。他力本願この上ないよね」
「早く歩けよ」
「イラっとするなぁ……」

 ぼやきながら石斛斎は足を前に進めようとして、ふと止まる。

「ちょっと疑問なんだけど」
「あん?」
「この催畸性(さいきせい)、まさか人間に影響したりしないよね?」
「……ぅ」

 それは考えていなかった。
 ――障気が周囲の人間を病ませる事は知られている。精神の失調、内臓機能の退化を起こす憑人の家族は数多い。六孫王の正室、側室などはほぼ例外なく早死にしているのだ。
 そうした病魔とは違うが、この突然変異が人間に起こらないとは言い切れない。手足から触手の生えた自分たちを想像して目眩を覚えていると、

「それは無いでしょうね」

 あやめがそう応じた。

「障気というのが実際は諸事象の精神に及ぶものである事は、今ではある程度確信を持っているわ。……この魚は、息苦しくて呼吸をしたかったから変異したのよ」
「魚の意志が原因、って言いたいのかい?」
「そうよ。障気は精神が肉体に及ぼす影響を拡大……いえ、ルールを取り払ったのかしら? 陸上で呼吸をしたいと思えば、それが実現するように」

「理解しがたい話だが……それが俺たちに影響しないという根拠は?」
「そうね……では、いなき君に確認。蠱業遣いが障気の影響を軽減できるってあなた、前に言っていたわね。これは本当?」
「……本当だ。忌役で障気による健康被害を受けた人間はいない。……これについては、確か明らかな実例があった気がするな」
「芙蓉局さんね」

 それだけでいなきの意図を察して、答えを述べてくるあやめ。
 六孫王の正室、側室などはほぼ例外なく早死にしている――彼女だけが例外なのだ。長年六孫王の側にいながら生存している。

「コードハッキングとは、つまるところ精神制御よ。自身をAIであると自覚し、その精神を操作可能であるという意識から自己を変革して、異能を発現させる……精神制御に長けた蠱業遣いは、精神を歪める障気に耐性がある」
「じゃあ、お前らは?」
「あまり心配いらないでしょうね。こういう言い方は人間賛美みたいで鼻につくけれど……人間の精神活動は高度だもの。自分の形を、相当強固に定めているという事。それに干渉できる程、六孫王の力は強くない。ここまで変化させる事は不可能でしょうね」

 解剖された魚を見下ろして、あやめは言う。
 いなきはその語尾に、何かを付け足されたのを聞いた気がした。
 彼女は「今は、まだ」と言ったような――

「念の為、気を確かに持っておきなさいな、役者さん」
「そうだねぇ」

 二人はそうやり取りして、先に進み始める。
 進むごとに周囲の怪異が異常性を増していくのが、目に見えて分かるようになってくる。硝子化した外壁、壁から生える樹木、空中を遊泳する海月……異界に迷い込んだ気分になる。
 事実、異界なのだろう。一人の男の作り上げた別世界。その中に自分たちは侵入している。
 そして、三人はそこに辿り着いた。

 広い、ドーム状の空間である。地面は雑草の緑に覆われており、破れた屋根から降り注ぐ光に照らされ青々と輝いている。その光には海の青が含まれていない。
 海面が割れて、夏の日差しが降り注いでいるのだ。

「深度が障気の範囲より低い……障気の中心か……」

 その意味する所を考えれば感慨に耽る事など出来ない。いなきは石斛斎の肩から降りて、地面に立つ。傷の治癒はほとんど完了している。
 周囲を見渡せば――ドームの外壁に貼り付くようにして佇む無数の憑人の群れがあった。

「……っ」

 戦慄し、身構える。しかし、

「……いや、あれは」

 異形の怪物に変異した彼らは、外皮がささくれ立ち、ひび割れていた。外敵である自分たちを見つけても身じろぎ一つ――そもそも、見てもいない。
 死んでいる。それもとうの昔に。

「歴代の御門八葉って所かしら」

 あやめが推察する。月数の言っていた、太歳宮の水没によって生き残れなかった〝心中組〟とやらなのか。

「つまり、やっぱりここが」

 目的の場所である、という事なのだろう。そして――それは探すまでもなく、ドームの中央にあった。
 柩。
 一つの体制の首長を祀るものにしては、簡素な木柩だった。飾りと言えば蓋に翡翠をはめ込んで象られる、笹竜胆の家紋くらいだ。
 ドームの中には、三人と八葉の死体を除けば人間はいない――あの中にいる可能性が高い。

「墓守に守られて眠っている訳か。……いいご身分だな」

 緊張を隠すように、悪態をつく。
 すると、あやめが横から言葉を漏らす。

「……当人は、見張られていると感じているのかも」
「?」
「生まれた瞬間に生き方が――死に方まで決まっているって、どういう気分かしらね」

 などと、感傷めいた事を言う。

「同情なんてする筋じゃない」

 いなきは冷たく返す。

「俺とあいつは、その男を殺しにきたんだ」

 今までやってきた事と変わらない。ある一人の人間の未来を永久に遮断する。たとえそれが、あと数日しか保たないものであっても、本質は決して変化しない。

「……行く」

 ドームの中央まで足を進め、柩に手を掛ける。最強の憑人、魔王を封じた筺に触れている事を思って、怖気が指先の動きを狂わせる。それを押し殺して、
 柩を。
 開いた。

「……いない」

 木柩の中身は空だった。

「……どういう事かしら」

 後方のやや離れた所で待機していたあやめが疑問を浮かべる。いなきはそれに解答を持ってはいなかったが。

「さてな。メシでも食ってるのかね」

 などと、軽口めいた無意味な発言しか出来なかった。ともあれ、この場に六孫王はいない。ここが障気の中心である事を考えれば、かなり近い所にはいるのだろうが。
 もう一度周囲を見渡しても、人の姿は無かった。
 なら、

(……機会、って事か)

 いなきは二人の元に戻り――石斛斎とあやめの間に立った。

「……何かな?」

 問いかけはしても、察しているのだろう。面白がるように石斛斎は口の端を歪める。
 意を決して、いなきは決定的な言葉を吐いた。

「お前は、何者だ」
「……今更、仮痴不癲のスパイだなんて言いたい訳じゃあ、ないんだろうね」
「そうだな。正直、分からん。お前が誰で、何を目的にしているのか」
「ただの役者。ここには巻き込まれて来ただけさ」
「確かに、そうとしか思えない」

 それ程までにこの男の韜晦は完璧だった。今でもいなきは何ら確信を持てない。証拠など何一つ無い。
 それでも。

「たぶん、月数は死んでいる。殺したのはお前だ」

 あの、憑人の魔女はこの男が殺した。いなきはそう考えている。

「薄金の銃撃の止んだ理由は簡単だ。あいつが死んだからだ。殺したのは〝き〟だ。あいつは裏門から入ったから、薄金の位置と近かった」

 役者の作る、表情に富んだ無表情とでも言うべきものに少しも変化の無いのを観察しつつ、いなきは推理の組み立てを続ける。

「月数が死んでいる、という根拠は……〝き〟がここに俺たちより早く着いていない事」
「どういう事かな?」
「あの女は必ず、薄金が倒されれば〝き〟を六孫王の居所まで案内するからだ。月数は自分の生き残りを第一に考えている……〝き〟と戦う八葉がいなくなれば、主君を売るのに躊躇いは無いだろう」

 現時点で残っている八葉はまだ見ぬ八龍のみ。一人だけでは、二手に分かれたいなきたちを引き付けられない。
 月数が死んでいるのなら、似たような事が言える。
 薄金を殺したのが〝き〟なら、彼女を殺したのは、誰だ?

「……ふむ」

 男は、飄々と隻腕で顎を撫でながら、

「月数と薄金が一緒にいたって可能性は? 斎姫は二人を同時に殺した」
「ありえない。月数は必ず薄金から身を離そうとする」
「なぜ?」
「薄金が、御門八葉の抹殺を意図していたからだ」

 いなきはそう、断言した。

「産衣の射殺が誤射なワケあるか。明らかに体格が人間からかけ離れたあいつの急所を、薄金は正確に狙撃していた。……御門八葉と俺たちが戦う事で、芙蓉局たちにメリットがあると月数は言っていた。俺たちに政治的価値は無い。なら、あの女どもにとって死んで都合の良いのは御門八葉の方だ。その都合とやらは知らないが……薄金はあっちに付いたんだ。……ほんの少し会話した程度の俺が気づけたんだ、月数が察していないって事は無いだろう」

 言葉を並べ立て、そして結論づける。

「月数を殺したのは〝き〟じゃあない……消去法で考えると、お前しかいない」
「ちょっと、強引過ぎるんじゃないかなぁ。それって第四の人物の存在を仮定すると、すぐに崩れる推理だよね」
「まぁ、そうだな。どうも探偵役には向いていないらしい」

 自嘲しつつ、いなきは言った。

「根拠なんてない。ただ、一番の不可解は……お前が今ここにいる事だ。それが、偶然の積み重ねの成り行きだなんて、俺には信じられない」
「……ま、君のような人なら、そうなんだろうけどね」

 呆れたような、あるいはばつの悪そうな風に石斛斎は頭を掻いた。
 いなきは刀の鯉口を切った。結局の所、官憲の目の届かない所では推理に意味などない。解決手段は野蛮な暴力以外にありえない。
 その行使に踏み切ろうと、というよりそれを仄めかそうとした時。

「――僕にかまけてる暇、あるのかな」

 石斛斎がそれに先んじた。

「大樹と戦う気なら、一つだけ、教えてあげるよ」

 その語る内容に潜むものを感じ取るより先に、彼は続けて述べた。

「六孫王の力を常識で計らない方が良い」

 彼の言葉に反応した――のではない。いなきは、それを彼の声より先に耳にした。

「……ぅ、ああ、ぅ」

 か細く、弱々しいうめき声、それは上空から聞こえた。

「……っ!」

 即座にそちらにいなきは振り向く。
 ――男が、一人。
 空を、歩いていた。
 まるでそこに硝子の階段があるかのように、軽々しく、何でもないかのように中空を歩行している。夢遊病患者のような曖昧な足取りだった。

 薄く緑がかった白の、一枚布の衣だけ着込んだ男。
 男の正体は、疑うべくも無かった。
 彼の神々しい程の美しさは、娘が持つそれと全く同じであったから。



 ――当代六孫王・未那元大樹。



[36842] 3h/鵺(キマイラ)
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/18 01:32
 男が、地に降り立つ。

「ああ、う。ぅあああ」

 ――そして、足を滑らせて転び、うめきながらうずくまった。美しい顔の、口の端から涎がぼたぼたとこぼれて地面に落ちていく。
 表情は嬰児、あるいは胎児のように曖昧で、感情と呼ぶべきものが存在しなかった。
 魂が、消え失せたかのようだった。

(……こいつ、)

 その有り様で、ある程度の確信が持てた。
 六孫王大樹は既に廃人同然だ。その精神まで障気で歪めてしまっている。これが累代(るいだい)の魔王全員が避けられなかった末路という事らしい。

 ――死に方まで決まっているって、どういう気分なのかしらね。
 あやめの漏らした言葉が背筋を撫でた。それを払い落とす為に首を振る。

(……どうする)

 六孫王大樹が目の前にいる。〝き〟はまだやって来ない。
 一つの考えを、いなきは抱いていた。それを行うべきか否か。

(どう、すれば……)

 ――逡巡に囚われた、その最中に。
 六孫王大樹の美貌が、こちらに向いた。幼児が飽きた人形を扱うような加減の無い動きだった。
 そして、彼は告げる。

「この男を自分が殺そう」

 いなきが考えていた事を。いや。
 いなきが数秒後の未来に決断しようとしていた事を。

「……ッ!」

 自分の考えであるからこそ分かる。六孫王大樹を殺害する方向に、己の意志は傾きかけていた。
 魔王が声を上げる。いなきの未来の意志を代弁する。

「彼女は自分を許さないだろうが。それでも彼女は、自分を恨みながら生きていくだろう。親殺しの罪を抱えて死んで行くよりは……それならば」
「……」
「それならば――ぐげ」

 男の声が、唐突に濁り、そして。

「ぐぎ、げ、げが、あががががが、う」

 ――地面が爆発した。
 地面を埋める雑草の群れが急速に発達し、変異し――樹木へと変じた。木々が空を覆い、日を翳らせ、暗き森へと遷移していく。

『許されぬ』

 魔王の声は、六孫王大樹の口からは語られなかった。
 木々が一斉に口を開き、言葉を述べている。

『汝、夷狄に屈する事まかり成らぬ』
「う、が」
『進撃すべし。侵略者を断じて撃滅すべし。鏖殺すべし』
「あ、ぅあ、ああ」
『汝が名は六孫王、征夷者の頭領なり。万軍傅く者なり。八幡……神の依り代なり』
「や、ぐ、お……」

『汝は王、即ち国家なり』
「ぃ、ぎぃいいい」
『王とは勝利するものである』
「ぅ、ううううううううううう」
『王とは征服するものである』
「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」

『王よ』
『王よ』
『王よ』
『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』
「……う、げ」

 黒い、風が吹いた。

『わ、レ』

 黒風は男の周囲に取り巻き、小型の嵐となる。

『我、征きテ、降シ、伏(お)ろすベシ』

 嵐が弾けて――怪物が現出する。
 身丈は一丈(三メートル)を超えた程度だろうか。様々な憑人の因子が混じっているであろう点は産衣と同じだが、こちらは人の形態を保っている。
 というより――次元が違う。

 外見から、憑人の因子を特定できない。巨人という鋳型に詰め込まれた動植物の形質は、あまりに膨大だった。一つの世界――いみじくも〝森〟が述べたように、国家だった。
 そしてその国家には思想があった。
 より強く。
 より速く。
 より狂おしく。
 外敵を抹殺する為の形に、最適化されている。
 国家の名は。

「……鵺(キマイラ)」

 自然と、畏怖を滲ませた声がいなきの口からついて出る。
 鵺がその左手を振るう。めりめりと音を立てて、腕が変形していく。
 手のひらと柄を一体化させたまま、巨大な太刀が発現する。
 いや、それを太刀と呼んで良いものか。

 ねじくれ、狂い、歪んだただの鉄板に等しい形状は、刀剣に分類する事がそれに関わるものへの冒涜とすら言えるのかも知れない。剣という概念を陵辱し、泥を塗るかのような悪意がそこに含まれていた。

「非刀・獅子王」

 背後の石斛斎が、声を上げる。

「ある代の六孫王が、都に跋扈する鵺を退治した恩賞として下賜された刀剣を取り込んだものだ。鉱物型の憑人の因子により補強されているので、原形を留めてなどいないが」
「お前は……」
「戯(たわ)けが。二度も似たような事を言わすな。――気を逸らすな。即死するぞ」
「……っ!」

 正面の鵺が、飛んだ。森の枝を弾き飛ばしながら跳躍し、こちらへ墜落するかのように突撃してくる。
 鵺の斬撃は、一撃で地面に大穴を穿った。怪物そのものの膂力。
 回避するくらいしか考えが及ばなかった。鵺の作ったクレーターを境に、あやめ、石斛斎と分断されてしまった。

「この娘の事は俺が預かる。――大樹と戦え」

 豹変した隻腕の役者が述べたのは、脅迫に等しい。彼の言うとおりにしなければ、あやめの安全を保証しないと暗に示していた。

「……っ、クソ!」

 舌打ちして、正面の敵に集中する。どちらにせよ六孫王はこちらに狙いを定めている。――敵意を感覚しているのだ。

(受け太刀は言語道断、小さい動作で躱すのも駄目だ。足場を崩される)

 小兵の戦いに専念する。小回りを生かして死角から斬りつけ――
 距離を取って、思考に没頭していた所に。
 二丈(六メートル)を超えた間合いで、六孫王大樹が腕を振るった。
 太刀を持つ巨人の左腕が、伸張する。

「……ッ!」

 即座に屈んだいなきの頭上を、致死の暴風が通り過ぎていく。

(畜生……実際、常識外れだぞコイツ!)

 石斛斎の忠告が身に染みる。他にどんなカードを隠しているか、知れた物ではない。

(気を張れ……とにかく、攻撃を躱し続けろ)

 活路を見出すまで――
 六孫王大樹の右腕が無数の棘に覆われ、更に三本に増殖して伸び、いなきの伏せる地面に叩き付けられる。かろうじて回避したが、それら右腕は間髪容れず攻撃を仕掛けてくる。先端を付き合わせて回転を始める――回転錐(ドリル)のような形態を取って、突き出された。

 必死で横飛びした脇を回転錐は突き抜けて、その先に生える大木の幹を木っ端微塵に削り取って倒壊させた。

(活路を見出す……それまで保つのかよ!)

 怖気を催しつつ、うめく。
 これまでの憑人とは引き出しのケタが違う。鵺の繰り出す攻撃が予測出来ない。

「小僧! 一つ教えてやろう!」

 森の奥で、石斛斎は姿を見せずに声を上げた。

「大樹はそろそろ本腰を入れてかかってくるだろう……六孫王は、障気で間合いを狂わす能力を持っている!」
「……?」

 端的に過ぎる助言に怪訝を覚えていると、六孫王大樹は再び攻撃を開始してくる。足を変異、増殖させると乱立する樹木に飛び移り、幹を蹴って移動する。
 上空から太刀を握った触手が振り下ろされるのを、かろうじて目視し、回避を――
 十歩ぶん、飛び退いたはずだった。
 それが三歩程度しか、距離が伸びなかった。

「……っ!?」

 恐慌を来しながらも、一瞬の間に可能な限りの策を打つ。身を竦めた上で身体を操作、軽功を発揮する。
 六孫王大樹の斬撃で砕け、爆発する地面の勢いに乗って自ら吹き飛ばされる事で、ダメージを緩和する。

 紙細工のように軽々と弾き出され、地面を転がりながらもどうにか立ち上がる。砕けた岩石を総身に受け、各所に裂傷の痛みを感じているが、それにかまける暇など無かった。

「空間を……歪ませたのか!」

 御門八葉・膝丸と似たような能力だが、ケタが違う。彼が自身にのみ業を適用させていたのを、六孫王大樹は周囲の空間にまで広げている。
 間合いは戦闘における最重要のファクターの一つだ。これを自在に操るという能力の価値は計り知れない。

 間髪容れず、追撃が飛んでくる。今では六孫王大樹の腕は十を超えていた。それらが上空の木々から雨のように降り注いでくる。
 空間歪曲に対応する為、大幅なマージンを取って回避を続けていくも、それは動作に無駄を作る。攻撃が重なる度に姿勢が崩れ、回避のタイミングはシビアになっていく。

「いなき君!」

 次に森の奥から聞こえてきたのは、あやめの声だった。

「逃げなさい! あなたじゃ勝ち目が無い、いつきちゃんを……」

 言葉が、唐突に途切れた。その事が示す意味を考え、背筋に恐怖が駆ける。

「石斛斎! お前、あやめに何を……」
「口を塞いだだけだ。……逃走は許さぬ。このまま奴と戦い続けろ」

 首輪を付けた野犬を扱うような強制力を持つ声音で、石斛斎は告げてくる。なんたる失態だ。この男の正体をもっと早く暴いておくべきだった――!
 頭上に意識を振り向ける。樹木を経由して四方八方に移動し、太刀の間合いの遥か遠くから襲撃してくる敵。

(……まずこの状況を覆さなけりゃ、話にならない)

 その為に必要な戦術は思いついている。しかし、

(俺に出来るか……?)

 要求される技術の精密性は、本来いなきの手に余るものだ。賽の目を十度繰り返し思い通りにするのに等しい博打だ。

(だが、出来なければ死ぬ……)

 石斛斎に掌握されているあやめの命も、どうなるか分からない。奴の目的が判明していないのだから。
 いなきは呼吸を整え、決意を固めた。
 十数合は回避に徹した。それだけでも神経を削る作業だ。雨のように降り注いでくる鵺の触手。しかも回避行動を常に空間湾曲によって狂わされる。直撃こそ受けないものの、攻撃の余波で体中に裂傷が刻まれる。

 やがて限界が身近に感じられるようになってくる。失血が進み、体力が寸刻みで削られていく。賭を打つ為の余力が無くなろうとしていた。
 まだ、まだだ。準備が終わっていない。まだ――

(……今!)

 いなきはその好機に、一際巨大な木の幹に背を預けた。背後からの攻撃を六孫王大樹の選択肢より除外する為だ。
 正面を見据え、備える――
 飛来する鵺の触手は、五本。

 いなきの目が視認しようとしているのは、それでは無い。
 鵺の移動で吹き散らされ、宙を舞う木の葉。
 風にのってゆるゆると落下するそれらが、触手の周囲で歪む。
 それは、気流とは異なる流れを観測させた。

 いなきは眼球の毛細血管が破れる程にそれらを注視し、六孫王大樹の空間湾曲を読み切った。
 ただ、一歩。それだけの回避行動。
 予感していた被弾は無く、紙一重で鵺の触手はいなきの身体を捉えず空を切る。
 最小限の回避は、いなきに初めて、六孫王大樹への全力の反撃を許した。
 陽刀、陰刀。斬り下ろしと斬り上げの二重斬撃が鵺の触手の一本を、その身体から切り離す。

『みぎゅいいいいいイイイイイイEeEイイイEイイ――っ!!』

 甲高い、声帯すらも人外のそれへと変異した怪物の悲鳴が上がる。

(……成功!)

 心中で歓声を上げながら、いなきはその場から離脱する。綱渡りにも程がある手段だが、今の攻撃でコツは掴んだ。同じ事を繰り返すのは、不可能ではない。

(このまま何度か削れるか……? いや、)

 ――いなきの予感した通りに、頭上からの一方的な強襲を諦めた六孫王大樹は地面に降り立った。

(それでも一歩、進みはしたか……)

 安堵とはかけ離れた心境で、いなきは呟く。六孫王大樹が陸上に位置取りした事でこちらの攻撃の届く可能性は生まれたが、逆に相手の攻撃精度も向上するはずだ。序盤の地上戦とその後の木の幹からの攻撃では、前者がより多彩であった。後者が移動に意識を割いていたからだろう。

 それをかいくぐり、己の間合いに入らねばならない。先程よりも増して確率の低い博打に身を投じる事を思い、背筋が震える。
 ――そう、いなきは想定した。
 しかし、六孫王大樹は。

『……』

 十本程に増えた触手で長大な太刀の刃を直に掴み、天高く掲げ、腰を落とした。

「……ッ!」

 いなきは、六孫王大樹の次の攻撃手段を悟った。それは奇しくも、というより運命的な合致をしていたからだ。
 娘と、同一起源の術理。

(示現流……蜻蛉)

 六孫王大樹の取った構えは、そう呼ばれるものだ。現実史のある時代、ある南方の国で考案されたあまりに単純にして野蛮――そして、至極合理的な技術。
 八相に似た、頭の横で柄を握り、太刀を垂直に掲げた構えから、猿叫と呼ばれる奇声を発して突撃し全力で斬り伏せる〝掛り〟という攻撃を流派の基礎にして奥義とする。

 古代の蛮族そのものの振る舞いとして忌避された業は、その価値を近代、幕末の時代に示した。戦乱が銃砲火器の投入が必要な程に深まるより以前、京都という古都の都市戦において、それを扱う凶手の要人暗殺が多数の成功を収めた事実をもって。

 その後彼らを要する薩摩藩が倒幕に成功、国家の支配者に成り代わった点を考えれば――勝利者の剣と呼ぶべきものだ。

(決着(ケリ)を付ける気か……)

 史的価値を考慮せずとも、必殺の技術である。その基本思想はたった二つの言葉で語り尽くせるものだ。
 敵を崩し、我を通す。
 猿叫と突撃によって敵を恐れさせ、正確な判断を封じ、かつ自分は恐れの裏返し、即ち狂気に乗る形で己の限界を引き出す。戦慣れした人間ならではの、恐怖の価値を知り尽くした刀法だ。

 相手は身の丈三メートルの巨人で、魔王と恐れられる存在である。その惹起する恐れは尋常なものではない。

(……そして、)

 それだけではない、といなきは確信している。六孫王の障気が高ぶり熱に変化して、周囲に陽炎を生んでいる。これから使う技は、間違い無くこの魔王の奥義だ。
 妖魅と長年渡り合ってきた憑人の王の秘太刀が、その程度のタネしか持たない訳が無い。
 心理的な作用のみならぬ、物理的な裏付けがあるはずだ。それはおそらく、

(……縮地)

 六孫王大樹の特性である空間湾曲を考慮して、技術の本質を予測し適切な名称を引き出した。
 名前の通り、地を縮めたが如き速度の疾走、という武術的な誇張表現。
 しかしこの鵺に限っては、誇張でなく実際に地面を縮める事が出来る。空間を歪めながら移動し、物理的な制約を遥かに超えた速度を引き出せる。

 それがおそらく、鵺・六孫王大樹の奥義。
 一方的な勝利を得る事が出来ぬと見るや、全力で仕留めにかかる。果断であった。
 こちらも、決断をしなければならない。

(……巫術)

 常識外の速度の突撃を見切り、反撃するには知覚を増幅するしかない。
 ――次の巫術の使用で、廃人になる。
 あやめの忠告が背筋を震わせる。しかし、それ無しでこの敵には対抗出来ない。
 いなきは内心の底の部分で、はっきりと、確かに、己の生還を諦めた。

「……来い」

 柄に手を掛け、致死の瞬間を待つ――



 いなきの予測は、正鵠(せいこく)を得ていた。
 歴代六孫王の奥義「鬼一口(おにひとくち)」は示現流の掛りを原型とした秘術。突撃を空間湾曲の作用で加速する縮地法である。ある代の六孫王が現実史の武術に手を染め、それに改変を加えたものだった。

 だが、しかし。
 六孫王はこの世界における機械知性、その進化の最先端に位置する存在である。
 未那元大樹。
 歴史は、彼によって塗り潰されていた。彼固有の才覚でなく、一つの一族の千年に及ぶ思いの累積によって。

 その思いとは、希望か、絶望か、愛情か、怨念か。
 否――既に定義する事すら叶わない混沌なのだろう。
 そして六孫王大樹は、己の身に秘める混沌を世界に表出する――


 
 鵺の全身に口が生まれた。
 いなきが正体不明の怖気に反応するよりも先に、
 口が、一斉に。



『きょ    
                                            
 脳髄にイメージが叩き込まれる【ざざ】。
 誕生直前に煮殺【呪】された死胎蛋(バロット)。四肢をもがれ【呪呪】た赤子。巣の中の幼虫を喰らって主に成り代わるジ【呪呪%呪’】ガバチ。脳髄を寄生虫に操られ鳥に食われる【呪呪呪****呪呪呪呪**呪】蝸牛。蟷螂の孵化。百立方メートルの筺の中に人間が七千三百十九人【呪呪ノロ呪呪呪呪呪呪呪呪%$%$呪呪】、小さく圧縮されて詰め込まれた【のろい】。同じ筺が三百一万二千三百十一個。死体はいくつ?【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】実は誰も死んでません【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】ぎしぎしぐしゃぐしゃ痛い痛い【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】マダラハサミウサギとチョコレートオオワシが交尾しました【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】人間が生まれました。【呪呪】。【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】???【呪呪呪呪呪呪呪】??????????????????????????【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに?

                                死ね。

(がっ、ぎ、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ――ッッッ!!)
 ざざ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ざ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――呪い(ノイズ)が全身を駆け巡る。
 いなきは既に、受けた攻撃を理解する為の理性を砕かれていた。

「ごぼっ」

 全身の穴から血液を吐き出して、そのまま卒倒する。



   /



「……ッ!」

 大樹の「百鬼冶業(ひゃっきやぎょう)」をまともに喰らった忌役の小僧が倒れるのを見て、押さえつけた娘の身体が小さく跳ねた。
 石斛斎と名乗っていた男は、彼女から手を離す。彼女が自分の手に噛みついてでも脱出しようとしているのに気付いたからだ。残った右腕は大事にしなければならない。彼の左腕を切断した男が目の前にいるのだから、よりその戒めは強く感じられた。

 少年の元に駆け寄ろうとしている娘に、親切心に近い心境で声をかける。

「無駄だぞ、娘」

 確定された未来を、彼は予告した。

「小僧は死ぬ。……あの猿叫は本来攻撃の前段階に過ぎぬが、大樹の代で特大の呪詛にまで昇華している。蠱業遣いであろうと全身を病魔に冒される」

 というより、蠱業遣いだからこそ即死せずにいられるのだ。
 とは言え、恩恵はそれきりだ。あの少年は呪詛の作用で多臓器不全(MOF)に陥っているはずだ。生命維持に必要な器官が機能していない以上、半刻ももたないだろう。
 この娘が死者を前に泣き喚きたいのであれば、それを止めるつもりは彼には無いが――
 娘は、そのような感傷を抱いていないようだった。こちらを強く睨み付け、告げる。

「彼を助けて」
「そんな義理は無い」

 あの小僧の働きで、大樹は瀕死の状態に重ねて消耗の烈しい業(わざ)を用いたのだから、助けにはなったが。
 ――大樹は少年に止めを刺す事はしなかった。というより、出来なかった。

『うう……ぉ、ぁあ』

 鵺はか細くうめいて、太刀を地面に突き立てその場に膝をついている。呪詛の放出によって、残り少ない生命が更に削られたのだ。
 彼の見立てでは、あと半日もしない内に大樹は死ぬ。

 狙い通り、というよりそれ以上の働きをあの少年はしてくれたが、だからと言って彼が下賤の子供に手を貸す事は無い。

「何より、意味が無い。……貴様は俺の話を聞いていなかったのか? 奴はもう助からない」
「助かる」

 強く告げる娘。しかし、直後その顔を翳らせる。

「……いえ、正直に言えば博打よ。でも五分の見込みくらいはあるわ」

 ならば希望的観測を差し引いて、三割という所か。その程度の確率でも彼には信じがたかった。あの致命の呪言を聞いて生き残った人間を、未だに彼は知らない。救う術があるなどと、世迷言にしか聞こえない。

「その為には、彼を安全な所に運びたいの。手を貸して」
「義理は無いと言っている」

 貴重な右腕をそのような些末事に使えはしない。

「別に、あの子に本気で憎まれたい訳じゃないでしょう?」
「……ち」

 やはり、恐ろしく勘の良い女だ。彼の急所に気付いている。

「……この場で決着を付ければ、その煩悶(はんもん)に意味は無い」

 瀕死の大樹が目の前にいるのだ。今なら自分でも殺せる。十七年前に始まった全ての禍根を始末できる。

「そうはならないわ」

 不可思議な程確信的に、その娘は言った。彼がそれを問い糾そうとした、瞬間。
 大気が、鳴動した。

『守護対象ノばいたる低下ヲ確認』

 忘れられるはずのない無機質な声に、ぎぃ、と彼は歯噛みした。その間にも声は語り続ける。

『起動ふらぐON。休眠もーどOFF……起動過程(ぶーとしーくえんす)実行開始……ぷらいまりぶーとろーだRUN……くりあ……せかんだりぶーとろーだRUN……くりあ』
「やはり、アレが立ちはだかるか……」

 憑人の歴史の中でも最大の異端、あの最強の魔人が。

『おぺれーてぃんぐしすてむ起動……王権防衛しすてむ〝八龍〟、戦闘行動ニ移行シマス』

 結びの言葉を告げた瞬間、彼の後方の森が爆ぜた。
 現れたのは巨大な鎧姿の武者像。
 御門八葉最後の魔人、奥州未那元家当主、八龍。
 ――身体を構成する鉱物を操作し、自身を機械化させた憑人だ。

『脅威査定処理開始……最優先抹殺対象ヲ確認シマシタ』

 と、武者像の兜の奥の眼光が、こちらをにらみ据える。
 鎧の四肢の部分が開閉し、内側から刃を突出させる。
 全身凶器と言うべき姿に変化した八龍を前に、彼は舌打ちした。この男と大樹を同時に相手にする力は無い。

「……お願い」

 一人で逃走をしようとした所を、隣の娘は刺すように言葉を挟んでくる。本当に勘が働く。
 ――いや。

(……何者だ?)

 この娘は、八龍の妨害を予見していた。それが勘などという月並みなものだろうか。
 それだけではない。彼女が仮痴不癲と交渉し、自分の同行を認めさせた時の事を、彼は自分の能力で盗聴している。
 ――捨て駒にならなそうなのって、彼だけだったし。

 捨て駒にも使えない無能、という文脈であの小僧は読み取ったようだが、この場に至っては、違った意味に感じられてくる。

(どこまで知っている……いや、読んでいるのだ?)

 武術的な素養の無い事は確認している。ただの、無力な小娘。それが何故。
 今考えるべき事では無い。八龍の攻撃が始まる前に、足の遅い娘を背負って彼は走り出した。右手であの小僧を抱え込めば二人分。こんなどうでも良い連中を救う為に、この己が走らねばならないとは。

(大樹……俺は戻ってきた)

 広間から脱出する前に、うずくまる魔王に向けて宣告する。

(お前を、殺す為に)





[36842] 3i/家族
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/09 00:42
 蟻が、山に登るようなものだった。
 誰かがそう言っていたし、彼女自身もそうだと理解していた。
 彼女が紫垣城に収容されて、既に三年弱。右目と右足はもう戻らないにせよ、傷は治癒し、リハビリを終えた彼女は武術の鍛錬を開始した。

 木剣を頭上のやや右寄りに突き出すように構える。
 左腕は動かさず、右腕を投げ出すようにして打つ。
 目標に命中する直前に握りを絞って衝撃を逃さずに伝える。
 それだけ。

 その、一つだけを繰り返した。
 兄が教えたのはそれだけだったから。
 彼自身にも、ただの少女が魔王に、右目と右足まで失った上で勝利する手段を見出せなかったから。

 稽古相手の丸太を打ち続ける彼女を、人々は嘲笑した。およそ良心的な人間であっても同情した。あるいは怒り、侮蔑した。それらは兄にも向けられた。
 ――諦めさせろ。
 ――不可能だという事が分からないのか。
 ――貴様の愚劣さを人に押しつけて、恥と思わぬのか。

 兄はそれらに言い返さなかった。当時既に、彼は周囲から孤立した狂犬として扱われていたが、そうした罵倒にだけは牙を剥かなかった。
 それが正しい批判であると思っていたからだろう。
 兄を詰る事で己の正義感を満足させていた連中の中で、一人言葉だけでなく行動を示したものがいた。

『君に現実を教えてあげよう。それが君の為だから』

 ある男がそう言って、彼女を〝指導〟した。道場での練習試合という形で、彼は彼女を幾度となく打ちのめし、床に這いつくばらせる。

『私にすら勝てないのに、あの魔王に勝つなど夢の又夢。蟻が山に登れば、途中で風雨か餓えで死ぬか、運が良くとも寿命で力尽きる。徒労だよ。君の容姿ならば真っ当な幸福を掴む手段なんていくらでもあるじゃないか』

 この男はどこかで、いつも面を被っている彼女の素顔を覗き見たようだ。彼女は少女らしい感性で、男が何を望んでいるか気付いた。紫垣城に収容された時点でも持ち上がっていた話だ。自分を養子として引き取って、いずれは息子、あるいは自分の慰み者とする事を望む貴族は数多くいたらしい。

 姉が、父親に頭を下げて彼女の身柄を彼の預かりにしてくれた事で、そうした結末にはならなかったが。
 自分が美しい貌を持つ事を彼女は自覚していた。それは血筋に纏わり付く業のようなものだった。
 彼女はそれを嫌悪していた。ただ、嘆き悲しむだけであるつもりも無かったが。

『わたしが欲しいなら、そのような気持ち悪い偽善者面をしないで、力で組み敷けばいい』

 地面に這いつくばりながら、彼女は男に告げた。
 父を殺すと決めた時点で、力が最大の価値であるこの世界の法則を彼女は受け入れている。弱いのならば、強者の思い通りになるしかない。

『けれど』

 彼女は既にひるみを覚えていた男に、宣告する。

『それをしている時ならば、わたしにだってお前を殺せる』

 ――結局その場は男が退散した。
 彼女はその事を、兄には伝えなかった。


 この直後の事である。
 彼女が、初めて人を殺したのは。
 相手はこのような小者ではなかった。
 六孫王府のある要人が、敵の根城に逃げ込んだ未那元宗家の息女という存在を忌避したのだ。彼女が深川に不利益をもたらす情報を持っている訳では無かったが、何か政治的な取引に使われるかも知れないと。

 憑人の暗殺者が九重府の本拠地に派遣される可能性は、早い段階で察知されたが――貴族たちはそれを黙認した。内に抱えた敵の姫など、彼らにとっては厄介者でしか無かった。
 だから――兄は数ヶ月、紫垣城外部への派遣が命じられた。
 拒否すれば、彼は忌役を放逐される。彼の目的が果たせない。

 苦悩する彼に、彼女は一つの事を願った。
 自分を守って欲しい、などというものではなく。
 自分が魔王に抗しうる程に強くなる、唯一の道。
 それを彼女は、知っていたのだ。



    /



『じぇねれーたー出力低下……さすぺんどもーどニ移行シマス……』

 鎧武者が全身から蒸気を発して放熱し、活動を停止するのを確認して彼はようやく警戒を解いた。
 彼と八龍の戦闘の舞台となったのは、太歳宮で最も道幅が広く装飾が華美(「かつて」、「だった」、と捕捉すべきだが)な一直線の長い通路で、その為伊賦夜殿廊(いぶやでんろう)などと勿体ぶった名も付けられていたが、今では面影めいたものすら破壊され尽くしていた。

 外壁、地面のそこかしこに大穴が穿たれ、天井は砕かれて骨組が露出している。惨状としか言い様の無い有り様。
 もっとも、遥か以前からここは手入れする事も無駄とされて廃墟同然ではあったのだが。

(どうにか……消耗を抑えられたか)

 胸中で彼は安堵する。奥の手をここで使ってしまっては、大樹と戦えない。
 ただ、奥の手を使い渋ったのは八龍も同じだ。あの伝説の魔技を持ち出されては、力の節約どころか、この場で廃墟に似合いの骸に成り果てていた可能性もあり得る。
 この戦闘機械が自分との戦いに本気を出さず、今は力の回復に努めている理由を彼は考える。

(貴様も……あの娘の接近を感じ取ったか)

 今この太歳宮において、彼よりも大樹にとっての脅威である少女に。

(たった五年で、ここまで……)

 寒気すら覚えるが、一方で納得もしていた。
 自分は運命に背を向け、逃げた男でしか無い。立ち向かう事を選んだあの二人の娘と差があるのは当然なのだろう。
 あの娘なら、どんな手段を使っても大樹の前に立つ。それはあの五年前、右の目と足を食われた直後の彼女を見た瞬間から予感していた事だったではないか。

(……だが、させる訳には行かぬ)

 彼はよろめく身体を奮い立たせ、歩み始める。己も体力を消耗した。どこかで身体を休めねばならない。忌役の小僧はあの奇妙な娘に担がれて通路の奥へと逃げていった。これ以上の義理を果たす理由は無い。
 斎姫と接触する気も無かった。仮面が剥がれ落ちた、今となっては。



    /


 
 彼女が仮面を付ける事を、兄は人見知りから、あるいは自分の容姿が招くトラブルを予防する為と解釈していたが。
 彼女は物心ついた頃から、仮面で視界を制限していた。彼女にとってそれが自然だったから、という理由が大きかったのだ。

 あの、地下の斎宮で仮面の着用を強いられていたのは、他の人間が訪問する時に彼らの為の光源が必要だったからだ。彼女自身は、光から遠ざけられていなくてはならなかった(姉はそれを、意識変容(アルタード・ステイツ)を常態化する為の措置と推察していた)。

 斎宮に人が訪れるのは、彼女に〝舞〟を指導する為だ。未那元宗家に相伝される、太刀を用いた神楽舞。その修得もまた、斎姫としての祭礼の一部だった。
 言葉を用いる事が出来ぬ為に、指導は犬の躾よりも苛烈な体罰を伴った。
 視界を封じられたまま、肌を鞭で打たれ、痣(あざ)を各所に作りながら半日近く踊り続ける。
 生まれた時からそれを日常としていた彼女は、苦痛とも思わなかった。というより、苦痛の概念を理解していなかった。

 今思い返せば、それがどれ程過酷であったかも知れる。
 ただ、後に知った事は、それだけではない。
 あの〝舞〟は、常人には到底実行不可能な運動で構成されていた。
 彼女はそれを、八歳の時点で完全に習得していたのに。



    /



 そして、家族は再会する。

「いつきちゃん……」

 伊賦夜殿廊と呼ばれる通路。その向こうから歩いてくる妹の名を、姉は呼んだ。彼女の肩には瀕死の兄が担がれており、姉の弱い身体では支えきれず、時折よろめく。それでも彼を手放す事はしなかった。
 義足の妹は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確実な歩みで通路を進んで行く。
 ――そして、姉と傷ついた兄を通り過ぎていった。

「……」

 姉は、抗議を一つも漏らさなかった。この先に妹の父親がいる。血縁で結びついた、殺すべき相手が。彼女は彼を斬殺する為に生きてきたのだ。人生の全てを、捧げてきたのだ。
 止められるはずが無い。
 止まるはずが無い、と妹自身も思っている。
 三者の座標が交叉し、離れて行こうとした――しかし。

『最優先抹殺対象、きるぞーんニ侵入。さすぺんどもーど解除』

 妹の知覚は、数百メートルは先の巨大な鎧武者が発した音声を聞き取っていた。

『最大攻撃〝艘崩(ふねくずし)〟ヲ発動シマス。一時的ニ人格ヲ復旧、自己暗示こまんどヲ解凍シマス……』

 鎧武者の言葉は妹には理解出来なかったが、その意図する攻撃は理解出来た。鎧武者の内部で動作する機構が、それを示している。
 弓による、射撃。
 ――八龍、あるいは未那元為朝。
 仮想世界史における数々の怪物的な逸話を持つこの男の、最も有名な伝説は割腹自殺を図る直前に行ったものだろう。

 氏族の政争に端を発した闘争に敗れ、手の腱を切られて遠島に流された彼は、当然の如く回復し再び蜂起した。しかしそれは即座に朝廷の知る所となる。
 討伐軍が編制され、彼の元へ殺到した。

 島の海岸から、海上を埋め尽くすが如く立ち並ぶ軍船を見て、彼は――一矢で報いた。
 ただ、一矢。
 それが一つの船を打ち砕き、船員ごと海の藻屑と変えた。
 伝説の魔技・艘崩。その正体は――

『帝釈天ノ加護ヲ以テ仏敵ニ一矢献上ス……』

 奥義を行使する為に、一時的に精神を人間であった頃の状態に引き戻した八龍。機械的な音声でなく、生物的な声音で言葉を語り、形態を変異させていく。下半身が無数の根と化して地面に突き刺さり身体を固定、左腕が二丈まで伸張、そして二叉に開閉する。

 根から地電流を吸い上げ、体内で精製される琥珀、電気石(トルマリン)により魔術的な増幅を施される。膨大な電力供給の余波のアーク放電が発生し、大気中に伝播(でんぱ)する。
 二叉に分かれた砲身が、通電する。
 ――未那元宗家の魔術的な属性は木気、つまり雷を象徴とする。
 その特性に最も忠実なのが、御門八葉、八龍の奥義。
 電磁気力により発射される一矢。
 電磁投射飛箭(レールガン)・艘崩。

『中ラザルハ死』
『貫カザルハ死』
『久シカラズハ死』

 致死の宣告を並べる八龍。
 妹は、己が取るべき行動を知っている。
 このまま逃走するのだ。あの攻撃は巨大な目標を狙うには適切だろうが、人間一人を倒すには過剰で、無駄が多すぎる。義足の自分でも十分に回避出来る。
 そして、兄と姉は避けられずに死ぬだろう。

 断じてそうすべきだ。彼女の目的は、この先にいる血の繋がった父親、同じく血縁で結びついた母親を殺した男を殺す事。血の繋がらない家族ごっこの兄姉を守護する事では決して無い。
 彼女はその為に生きてきた。
 人生を、捧げてきた。

 自分だけでなく、この兄も生贄とした。彼女はそういう人間なのだ。今更彼らを使い潰す事に、何の躊躇いがあろうか。

『射殺サザルハ死……之、弓箭ノ道也』

 呪言が完成する。鎧武者の内奥の力が最高潮に達する。
 致命的な瞬間の中で、妹は、失神した兄の言葉を聞いた。

「いつき……」

 自分を強化する為にまず捨てた、人としての名前。
 斎姫、〝き〟などという役割でない、家族だけが呼ぶ自分の名前。三十六人衆、歌仙、御門八葉、六孫王。彼らのようなこの町の奥深くに蠢く怪物になる為に、彼らと同じく捨てなければならなかったもの。
 それを、兄は呼んだ。

「俺が、なんとかしてやる……から……だから」

 瀕死の最中での、か細い言葉。彼女はそれを聞き取った。
 ――もう、泣くな。

「……っ」

 妹は、即座に動いた。
 身体の支えとしていた鉄杖の両端を掴み、開くように引き摺り出す。
 白く輝く大太刀の刀身を。
 柄を両手で握り、彼女は天空に向けて突き出した。兄が、奇しくも、運命的と評価した父親と同一起源の構え。――野太刀自顕流、右蜻蛉。

 彼女の秘術の、起点となる姿勢である。
 六孫王大樹の百鬼冶業が動とすれば、彼女のそれは静。その場で腰を落とし、静止する。侵略を迎撃する防衛の術。
 そして、兄の相生剣華に対しても彼女の秘術は対照的であった。

 全身を運動させる抜刀術を使う事は、義足の彼女には叶わない。その為重ね合わせを長く維持する事に、意味は無かった。そもそも重ね合わせを長く、広範に維持するなどという真似は〝兄のような存在〟にしか許されない理不尽なのだ。
 彼女は極めて短く、狭く異能を発現させる。
 ただ、刹那。

 七十五分の一秒ほどの重ね合わせ。
 距離もまた、刹那(アトメートル)単位となる。天頂に掲げた太刀の座標を、極めて微細な――一アトメートル程度の距離にずらすように。
 それが斬撃に相当する移動として成立する為には、同じ動作を、刹那の間に、無限に近い数繰り返す必要がある。

 さながら蟻が、山頂に到達するが如く。
 両目を潰して視界を捨て、完全な巫術を会得した彼女にしか実行不可能のプロセスを経て、完成された斬撃は――雷速に至る。
 それが、彼女の秘術。
 量子転換刀(フリップフロップ)・刹那生滅。

 ――八龍の雷箭(らいせん)が射出される。弾体が融解しかける程の速度。人類に知覚する事を許さない神速の一矢。
 それを彼女は、斬り、弾いた。
 極超音速の飛箭の持つ莫大な運動エネルギーを殺す為に、仙術により限界まで筋力を強化している。弾き飛ばされた弾体が太歳宮の破れた天井を飛び越えて海中に突入、海水を蒸発させながら空に突き抜けて弾体自身も解け崩れた。

 それだけの威力を封殺した代償は、彼女に重くのしかかる。
 彼女が意識下に蓄積した能力の源泉が、大きく削り取られる。
 ――消耗したのは鎧武者も同じだった。
〝艘崩〟の弾体は彼の身体を構成する鉱物。つまり鎧武者は、自分の身体を矢に変えて撃ち出しているのだ。

 しかし、鎧武者は止まらない。地電流を取り込み充電を開始、再度身体から矢を精製し砲身に装填する。
 彼女もまた止まらなかった。限られた力を躊躇い無く注ぎ込んで自身を強化、次の攻撃に備える。

 無惨な消耗戦が始まった。身体を削り取って攻撃する鎧武者と、自分の心を消費して迎撃する彼女。一瞬として休む事無く、一方が決定的な手段を打つ事の無いまま攻防は繰り返される。それ故に、両者は摩耗し続けていく。
 ――二人の怪物の力は、互角だった。
 勝敗を分ける差があるとすれば。

『お……おォ』

 鎧武者は数百年の戦いを経て、とうに老いていた事か。
 十七射目を迎撃した時点で、鎧武者の体勢が崩れる。それでも射線は維持していた。驚嘆すべき執念。
 しかしそれは、二十一射目で完全に崩壊した。大地に突き刺さった根が生命力を失い渇いて崩れ、鎧武者は倒れ伏す。
 決着――

「あぁあああああああああああ――っ!!」

 余力を振り絞って、彼女は太刀を正面に向かって投げつけた。高熱の雷箭が通過した余熱で生まれた陽炎を切り裂いて、それは――鎧武者の、倒れ伏す前の位置に向けて直進していた。
 鎧武者が立ち上がる事を、彼女は予見していた。鎧武者は白刃を胸に受けて、ごぼりと濁った声を漏らす。

 ただ一矢、撃ち放つ余力を彼は残していた。彼女が勝利を確信し、気を抜く瞬間に攻撃を加えるつもりでいた。返し手を見越して、それを封ずる一手を彼女は放ったのだ。
 最強の魔人である自身を完全に敗北せしめた士(さむらい)を見据え、彼は生前の心のまま告げた。

『……美事、なり』

 そして、中身が完全に空洞化したただの鎧と成り果てて、その場に崩れ、絶命する。
 彼女は刀の鞘でどうにか自身を支え、立っている。
 鎧武者を打倒した代償は、彼女が目的の為に蓄積していた能力の全てであった。仙術は使えず、鉛のように身体が重い。

 姉は既に、兄を連れて立ち去っている。彼女は自身の為すべき事を間違えない。だから、兄も助かるのだろう。手遅れであったならとうに墓穴を掘っている。姉はそういう女だ。
 とりあえずは心配の必要が無い事を確かめて、彼女はその場に倒れ伏した。




[36842] 3j/最終戦、開始
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/15 21:46
 自分が誕生を望まれていなかった事は早い内に知らされていた。
 ――あやめ、か。……待雪は余程あの男を恨んでいたようだ。
 祖父と初めて対面したのは四歳の頃だったか。彼の自分を見る目は、好意とはかけ離れていた。悔恨、憎悪、忌避。そんなものに満ちていた。

 ――お前さえ生まれて来なければ。
 祖父は孫娘にそう言ったのだった。
 それからずっと、彼女は考え続けていた。自分の名の持つ意味。それの示す事柄について。
 考察する暇はいくらでもあった。彼女はあの城の外に出る事を許されなかったから。父はほとんど家におらず、背景のような女中が数人彼女の世話をする以外人との接触も無い。それらも、家事を一人でこなせるようになってからは追い出した。

 城の抱える広大な書庫に入り浸った。この世界の内、そして外側について記述された書物を読み続ける事で彼女は時を過ごした。
 仮説、考証、反証、正解、誤解、誤謬、止揚、再考、迂回……
 七歳の時点で既に、書庫の蔵書は読み尽くしていた。得た知識を並べ、組み上げ、考察を続けるも、答えは出ない。

 答えを出さなければ、どう生きていかねばならないか分からないのに。
 あと一、二年も考察を続けて芽が出ないのであれば、望みは無いだろう。手頃な自殺の手段を考えるようになった頃、
 ――あなた、泣いているの?
 ――うるせぇ。泣いてなんかない。
 彼と出会った。



   /



 いなきが六孫王大樹の放った致死の凶風を躱す為に飛び上がろうとした瞬間、身体の下で「きゃっ」と軽く悲鳴が上がった。
 裸の蠱部あやめが、仰向けになってこちらを向いている。いなき自身も何も着ていない。
 手狭な小部屋の床に敷かれた、白い敷布の上に二人はいた。

「………………………………………………どういう状況だ、これは」

 寝惚けていた事を自覚し、いなきは眉間を摘んで顔をしかめた。
 あやめは無表情のまま、右手を握り込み、人差し指と薬指の間から親指を突き出して言った。

「あらだーりん、さっきまで獣のようにわたしを求めてきたのを忘れてしまったというの。なかなかの鬼畜ぶりね」
「ななな……」

 なんだとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
 いなきは力の限り絶叫した。

(え、なぜ? なんで? いつの間に? どうしてこうなった?)

 混乱の極みにある中、あやめが言葉を差し込んでくる。

「いやはや、わたしの××を○○して△△する手並みはとても鮮やかなものだったわ」
「……がっ」
「いえほんと、女の扱いについては、さすが非童貞と言うべきものだったわね」
「……あわわわ」
「いいえ。あの白馬の王子様を夢見る処女の幻想を完膚無きに打ち砕くかのような、暴君的振る舞い。さしづめ非道帝とでも呼ぶべきかしら」
「す、すみませぇん……」

「あらあら、このあなたの性奴めに何を謝罪する必要があるというのご主人様」
「既に倒錯的な関係が構築されているー!?」
「ふふふのふ。さてさて、既に話も佳境に入り、他の人間が真顔でシリアスしてるのを全力でうっちゃって、義理の妹だけでは飽きたらず、九歳からの付き合いがある幼馴染を取って食って玩具にして淫欲を教え込んで性的な奴隷に貶めるという仏国書院クラスの外道を働いた感想を迅速に知りたいわねご主人様。ねぇどんな気持ち? ねぇどんな気持ち?」
「即刻死にてぇー!」

 なぜか腹筋を撫でさすりながら顔を上気させて言ってくるあやめに、顔面を両手で覆って自己嫌悪にまみれながらいなきは返す。

「ま、死なれては困るわね。ここまでして助けたのだから」

 と、あやめは急に冷めて言った。

「あなた、死にかけてたのよ。役者さん……元役者さん曰く、六孫王の特大の呪詛とかいうので」
「……」

 いなきは失神する直前の事を思い返す。鵺の絶叫と共に、全身に毒素が駆け巡ったかのような悪寒を感じた。呪い、という表現は確かに図に当たっている。
 しかし、現在身体の失調は瀕死という程では無かった。感覚は鈍重で、だと言うのに節々の痛みは鮮烈に押し寄せてくるが。

「どうして俺は助かった? お前、何をしたんだ?」
「呪詛によるダメージは、精神に与えられるの」

 口をついて出た疑問に、あやめは応じる。

「障気は全ての存在の無意識に作用する……あなたが叩き込まれた呪いは、無意識を歪めて上層の肉体を変調させるもの……なら、救う方法は」

 そこであやめは大きく、息を吐く。

「無意識は、共有されている。世界の全ては繋がっている……なら、ネットワークを構築して、データのやり取りをする事も可能よ。あなたの受けた、病魔を」

 あやめは、寝転がったまま首を上げる事すらしない。今更ながらいなきは気付いた。彼女の顔色が、紙のように白くなっている。

「わたしが、いくらか引き受けた……性交がネットワークを構築する手段としては最適だったのよ。房中術、立川流……まぁ、いささか古風なやり方だけれど、男女間で精神を共有する手段としてこれ以上のものは無いもの」
「……っ」

 あやめの語る言葉を理解して、いなきは怯んだ。
 それを誤魔化すように憤激し、怒鳴りつける。

「なぜっ……! なぜ俺を助ける為に、そんな事をするんだ! 俺は、」
「人殺しだから?」

 言葉を先取りして封じるように、あやめは告げてくる。

「そうだ……! お前のような人間が、俺を助けるなんて……」

 恐怖を振り払うように、いなきは言う。自分を助ける為に、この女が犠牲になるなど許されてはいけない。自分と彼女を、引き替えてはいけない。
 価値が釣り合わない。

「なんだか、あなたには気恥ずかしい程に高く買われていたのね」

 あやめは見透かしたように――いや、既知の事柄を述べるように言った。

「呪いを共有する時に、ほんの少しあなたの記憶が見えたわ。武州での事……あなたを保護していた女性の事……仇討ちの理由……そしてあなたが、自分を許せない事」
「……そうだ。俺は人殺しで、そして、これからも殺し続ける」

 死なない限りは決してそれを止められない。それは、自分の負債だから。
 だから。

「あなたは無自覚に、死のうとしている。……いえ、自覚はしているはずよ。あなたは進んで、死地に飛び込もうとしている」
「……っ」
「下らないとか、逃げなんて言わないわ……それほどあなたは傷ついている」
「やめろ……」

 それは、単なる自慰でしか無い。そんなものに逃げ込む資格など、自分には無いのだ。

「でも、わたしはあなたに死んで欲しくない」
「なんでだよ……」

 顔を歪め、悲嘆するいなきの頭を白い指が抱えた。弱った力で自分の顔まで引き寄せて、口付けする。

「言葉にするのは恥ずかしいから、これで理解しなさい」

 あやめは、薄く微笑む。

「なんで……俺に、そんな価値は、」
「あるのよ。わたしには……」

 疲労か、あるいは病魔の影響で呼吸を荒くしつつ、あやめは言った。

「人を殺す事の意味を、あなたはわたしに教えてくれた」
「……?」
「あなたの幻想を、崩すようで怖い……わたしを、嫌わないで。お願いだから」

 懇願するように言う。それはこの女が述べた、初めての弱音では無かったか。
 あやめは、一言告げる。

「わたしは、人を殺めている」



 わたしの祖父は、九衛基実と言うの。……そうね、いわゆる大貴族よ。あなた前に、お父さんの蔭位(おんい)で位階を貰う事を不自然に思っていたけれど、つまりこういう事。わたしの叙位は、祖父への配慮なのよ。
 でも、あの人が大貴族でない時代……失脚した時があったの。

 彼は、失点を取り戻す為に身を切る必要があった。
 当時、どこからともなく現れた怪物……蠱部尚武を自分の子飼いにする為に、娘を彼に差し出した。
 不本意だったでしょうね。あの人は、娘を愛していたようだから。それでも、当時の彼には彼女しか手持ちの財産と呼ぶべきものが無かった。

 復権して、質に入れた彼女を買い戻す事が出来るようになった時には、もう遅かったわ。
 彼女……九衛待雪は蠱部尚武の子を身ごもっていた。けれど彼女は、身体が弱かった。出産に耐えられる体力が無かった。
 堕胎しなかったのは……なぜかしらね。彼女はクリスチャンだったらしいから、そのせいかしら。

 お父さんと近衛待雪の間に愛情は無かった、とあの人は言っていたわね。終始自分は憎まれていたと。
 それでも彼女は出産を断行して、産褥(さんじよく)で死んだわ。
 子供の名前は、彼女が考えたものよ。自分を殺して生まれてくる子供に、彼女はこう名付けた。
 殺め、と。


 
「菖蒲(しょうぶ)に菖蒲(あやめ)、なんて駄洒落だと思っていたでしょう?」

 冗談めかして言う彼女に、いなきは強い口調で言った。

「それは……お前のせいじゃないだろう! お前は人を殺してなんて」
「いいえ。……あなたなら、分かるはずよ」

 欺瞞は許されない、と含みを込めてあやめは告げる。

「わたしの誕生と引替えに、近衛待雪……お母さんは死んだの。それは正しく、わたしによる殺人」

 あなたなら分かる、と彼女は言った。殺人者の自分ならばと。
 いなきは、自分が彼女の立場だったならばどう思うか仮定し――彼女の言の正しさを認めるしか無かった。
 責任の所在は確かに、彼女の周囲にあるのかも知れない。九衛基実が失脚しなければ、蠱部尚武が九衛待雪を受け取らなければ、九衛待雪があやめを身籠もらなければ――九衛待雪は死ぬ事は無かっただろう。

 しかし、行為者は。
 殺人を実行した人間は、誤魔化しようもない。
 蠱部あやめは、生まれ出る為に母親を殺したのだ。

「運命、なんて理屈は生者を慰める欺瞞に過ぎないわ。自覚の無い、無垢な赤子である事も関係無い。わたしの殺人という事実は厳然として存在する」

 そして、と彼女は言葉を続ける。

「殺人という現象が周囲に与える影響を、わたしは知った」

 あやめの物言いは、あえて無機的な表現を選んでいるようだった。

「祖父は娘を殺したわたしを恨み続けている。……自身の失態で娘を失った悔恨も、大きいのでしょうね。蠱部尚武という本来貴族でない人間との間に生まれたわたしを、一族の恥部として扱った。わたしは城からの外出を禁じられているの……今、初めて外の世界を見ているのよ、わたしは」
「……っ」

 なぜ九年も身近にいて、彼女が軟禁に近い状態にある事に気付かなかったのか。自分の察しの悪さに怒りを覚え、いなきは歯噛みする。

「馬鹿ね。知られたくなかったから、隠していたのよ」

 それを見透かして、彼女は言う。

「一つ、あなたに問うわ。お母さんを殺さなければ、わたしは生まれる事は無かった。どちらか、一つの命しか選択できなかった」

 ――ならば殺人は、悪か否や。

「……っ」
「あなた自身の事なら簡単に決められるのにね。あなたらしいわ」

 頬に軽く手を触れて、あやめは言う。

「けれどわたしも、それの答えを決められずに考え続けてきたわ。顔も知らない母親を殺したという事実について……」

 今更ながら、この女が黒衣を身に纏う理由が推察できた。
 蠱部あやめは、紫垣城から出られずに、現実世界の知識を貯蔵した書庫を糧に生活していた。
 彼女は、知らなかったのだ。
 喪服の色彩が黒であるのは、近代以降の習慣である事を。

 文明の程度が近世に近い八百八町では、芙蓉局のように白衣を纏う事が喪に服する事を示しているのだと。
 彼女自身も気付いていないのかも知れないが、あやめはずっと母親を悼(いた)んでいる。
 それを、殺人についての考察でしか表現出来ないのだ。

「殺人という忌まわしい現象ですら、救われる人間がいる。逆に、慈愛に満ちた行為ですら何かを犠牲にしている。……正義、悪などという単純な概念に頼れば、人はその瑕疵(きず)を忘れてしまう」
「……けれど、それは」
「まぁ、ひとまずは聞いてちょうだい。……これは、とても大事な話なの」

 そう言って、あやめはいなきの反論を封じた。

「続いての問答。あなた、〝管理された楽園(ディストピア)〟は何故生まれると思う?」

 それは、現実史のある時代のフィクションで隆盛した概念だ。楽園――世界平和、全人類の幸福という願望を皮肉る寓話として語られる社会。技術がある水準に達すると、社会の在り方に手を加えられるようになる。その結果、理想の実現と引き替えに個人を殺す牢獄に変化してしまうという。

「あなただって、考えた事はあるでしょう? わたしたちのような存在を作り出すような社会なら、きっと歪んでいるのではないかと」
「……それは、そうだ」
「正しい形で社会が発展すれば、こんな病巣は生まれない……そう思ってはいないかしら」

 反意を促す意図で、あやめは言った。

「残念だけれど、正しい発展なんてものは存在しないわ。技術の進歩は、社会を絶対にディストピア化させる。そもそも、ディストピアの対義語であるユートピアの語意は〝あるはずのない場所〟よ。理想郷の追求は、どこまでもそれらしい、歪みを内包した、近似のものにしかなりえない。歪みの拡大を避けたいのであれば、技術の使用を、理想の実現を放棄するしかない」
「……老荘思想か」
「そうね。老子曰くの無何有郷(むかゆうきょう)。技術を活用しない世界。まぁ、これもまた、歪んだ理想郷のいち形態に過ぎないように思えるけれど」
「……なぜ、人間は理想を実現出来ないんだ」
「人の抱く理想が全て、本質的には〝苦悩の排除〟だから」

 と、あやめは言った。

「世界平和、全人類の幸福……つまり、誰も苦しまない世界よ」
「それの、どこが悪い」

 いなきは反射的に反駁(はんばく)した。誰も死ななければ、幸福に生きられれば。武州の崩壊なんて起こらず、自分の負債も生まれる事は無かった。この苦悩は、存在しなかった。
 その思考を留めるようにいなきの手を握り、あやめは告げた。

「苦悩が、心の基幹だからよ。それを失うというのはつまり、心を失う事」

 そして、うわごとのように続ける。

「わたしは何度も、何度もシミュレートした……この、シミュレーターの箱庭の中で。誰も死なない世界。苦悩の排除された世界……わたしは、それについて考えなくてはならなかったから。……特に、あなたの行く末を観察したわ」

 彼女はいなきの顔を、両手で触れる。存在を確かめるように。

「苦悩の排除された世界で、あなたは、あなたではなくなっていた」

 それは、とあやめは続けて言った。
 ――虚無に囚われた世界。

「苦悩とは、自己否定だから。それは、自分の信義を否定しうる存在を、他者を認めるという事よ。自分に疑念を抱かなくなった瞬間、人は他者の存在を忘れる。それが、心を失い、虚無に取り憑かれるという事……そうなれば人は、他者を目的の為に無感動に、いいえ、無自覚に殺す存在になってしまう」
「それは……」
「機械よ」

 あやめは、断定した。

「それは、ただの機械」
「俺たちは、最初から」
「いいえ」

 言いさした言葉を、あやめは強く封じる。

「あなたは機械なんかじゃない。決して」

 いなきの胸に冷えた手を当てて、告げる。

「この世界に生きる人々も、機械なんかじゃない。人造品であったとしても、人間の定義の範疇にある。――だから、機械になってしまってはいけない。苦悩を排除した時……自分を信じて疑わなくなってしまった瞬間、人は機械になる。あの鎚蜘蛛姫や、月数……あるいは、外の世界の人類のように。疑い、苦悩し続けて生きなさい、いなき君。あなたが自分を許す事が出来なくても、わたしはそんなあなたが好きよ」
「……結局、言ってるじゃねぇか」
「あら、そうね」
「俺は……」

 その先の言葉を、いなきは言えなかった。
 自分は、この女の父親を殺さなければならないのだ。
 故郷の実在を証明する。
 それはいなき個人の意志を封殺して存在する、使命だ。命を、使う理由。
 いなきが彼女をどう思っていようと、それを諦める事は許されない。

 ――あなた、泣いているの?
 九年前、そう語りかけて来た彼女について何を思っているかなど。

「それで良いわよ」

 と、あやめはいなきの胸に当てた手を、軽く押した。衰弱している為に酷く弱い。

「もう、行きなさい。いつきちゃんを迎えに。三人で一緒に帰りましょう」
「あいつは、ここで死ぬつもりでいる。……家族に殉じて」
「わたしたちだって、家族よ。わたしは絶対に自分の家族を守る。死なせてなんかあげない」
「……そうかよ」

 強硬に言ってくるあやめの手を握り返して、いなきは応じる。たまには素直に、この女の言う通りにしてやって良いだろう、そんな気分になっていた。
 立ち上がって小屋に脱ぎ散らかされた衣類を着込み、大小を帯に差す。身体は未だ不調を訴えているが、動けない程では無かった。

「行ってくる」
「行ってらっしゃい」

 その簡素なやり取りは、永代島で夫婦を演じた時を思い出すものだった。



 いなきが立ち去った後、入れ替わりに小部屋に侵入してくる存在を見て、あやめは安堵した。どうにか、彼を先に送り出す事が出来た。

「……焦って探さずとも、彼はあなたと戦う事になるわよ。元役者さん」

 自分の目的はそれだけではないと、彼は告げる。無論、あやめはそれを理解している。

「いいわ。やりなさい。……彼へ言うべき事は言いました」

 いや、本当は、一つだけ。言わなかった事がある。とても重要な事を。
 この男に彼が勝利する為の、唯一の道を。
 蠱部尚武と近似の存在になり得る方法を。
 ――彼は気付いていない。あるいは、無意識にその思考のプロセスを辿る事に封印をかけているのか。

 彼の蠱業、並列起動抜刀術(デュアル・ブート)、相生剣華。
 自分を分割して存在させるという事がどういう意味か。その異質さが、何を示しているのか。

「……わたしにも、決められない事はあるのね」

 自嘲めいて、間近の男を無視しひとりごちる。

(人類はそれを失う事と引替えに、自立する為の道に乗った。……だから、その状態に回帰したならば、彼の運命は歪んでしまう)

 それは彼に、死よりも辛い苦痛を強いてしまうかも知れない。

(けれど、そうならざるを得ない)

 この男が確実に彼を殺す力を持っている以上、彼はどうあっても自身の心の特性を引き出されてしまう。それは、彼の意識の外側に存在する強制力だからだ。

「……?」

 いつまでも自分が思索を続けられる事に、あやめは疑問を覚えた。この男が自分の殺害を躊躇う理由など、無いはずなのだが。
 彼は、あやめの目線に反応して疑問を伝えてくる。
 ――お前は、何者だ。

 なぜ、武力を一つも持たないのにあの小僧を勝たせる事が出来た。
 なぜ、あの小僧を治癒する方法を知っている。
 なぜ、そこまで全てを見通している。
 お前は、何者なのだ。
 もしや。
〝唯一の人〟なのか?

「さてね」

 と、あやめははぐらかした。

「そんな下らない事を聞くよりも、あなたのすべき事をしたらどうかしら?」

 その助言に、男はそうだなと肯定して、鋭い刃をあやめの首元に送り込んだ。



   /


 
 女の命を刈り取って、彼はつまらなそうに嘆息する。
 刃を振るった場所とは遥かに離れた場所で、崩れた瓦礫の上に腰掛けて人を待つ。待ち人もまた、つまらない少年だ。運命を変える程の力を持たず、それを認める事が出来ないまま、叶わぬ目的にあがく若者。

(そして)

 彼は短い付き合いで、少年の表情に滲む無自覚な疲労を見抜いていた。あの若者は、長い努力に軋み、疲れている。弱者が身に過ぎた大望を持つ為の、当然の代償。
 やがては耐えられず、全てから逃げ出すのだろう。人生から落伍し、世を捨てて、無為に日々を過ごすただの男になる。

 そんな、つまらない少年だ。
 ――自身が少年についてそこまで嫌悪を覚える理由について、彼は深く考えない。気分の良い答えを導き出せる気がしなかった。
 どちらにせよ、考察に大した意味は無い。少年の、救われない、無益な人生はここで終わる。この深い海の底で藻屑となって朽ち果てる。

 己がそうする。
 ――待ち人よりも先に、招かれざる客がやってくる。その正体を知覚している彼は皮肉に苦笑する。王を守護する藩屏(はんぺい)であるはずの彼らの足音は、寝所を荒らす強盗じみて荒々しく無粋だ。
 彼らがようやく、自分に気付く。

「誰だッ!」
「奉公衆か。……梢継め、芙蓉局の計略は既に意味をなさぬというのに、派兵の中断を怠ったか」

 誰何の声を完全に無視して、彼は八十人程の武装した兵団を見下ろす。

「それ程に宿敵を失ったのが痛手か。……まぁ、分からぬでも無いが」

 遠く離れた城で失意に沈む男について、軽い共感を覚える。彼は、二人の間に巡る感情を男女としてのものなどと安い邪推をしなかった。その程度には、人間の心の機微を理解している。それはあの城にいた頃でなく、現在までの十七年間で覚えたものが多くはあったが。
 殺意と愛情は、時に区別がつかない程に似通ってしまう事も知っている。

「……だが」

 あくまで近き軍勢ではなく遠き男に、彼は語りかける。戦慣れした奉公衆は、戦場で遭遇した不可解な男への対応を即座に決めている。武器を構えて、彼の周囲に展開していた。それでもなお、彼は軍勢に何ら感慨を覚えなかった。
 遠くへ、告げる。

「失策の代償は高くつく。精兵を失い、痛みから学ぶがよい」

 そして、彼は地上に降り立った。
 その着地には、音が一切生まれなかった。
 初めて彼は、軍勢に視線を振り向ける。

「貴様らは即刻、不敬の罪科を贖(あがな)え」



   /



 いなきが辿り着いたのは、六孫王大樹がいたのと同じように広大な半球状の広間だった。

「境元之間(きょうげんのま)……などと、この部屋は名付けられている」

 静かな声が、風の流れに乗って届いてくる。

「由来は記紀神話だ。境(さか)は坂(さか)。死者と生者を分かつ境目。黄泉路である黄泉比良坂の出入口。……いや、出口であろうな。人生は一方通行であり、死という変化は不可逆だ。死者の復活など、幻想に過ぎない」

 物語るように声を流してくる、広間の中央に佇む人物。

「それもまた戯言か。我らにとって意味のある事は、ここが根堅州之間(ねのかたすのま)――大樹のいるあの広間の目前であり、程近くに斎姫もいるという事だ」
「……石斛斎……なのか?」

 彼を見て、確信を持てずにいなきは問いかけた。孔雀と蛇の性交を模した傾いた装束、刃を潰した使い物にならない太刀。何より、左腕の欠落。
 だが、顔だけがこれまでの彼とは違っていた――かけ離れていた。
 美しい、男だった。

 ただの美しさではない。人と隔絶した美貌。他者を陶酔させ、跪く事を心から望んでしまうような神域の相。それはただ、端正なのではない。人相の示す運命によるもの。あらかじめ磁性を持つ鉱物のようなものだ。
 ある一族の抱える、美しさという銘の業(カルマ)を、今の彼は示していた。

「化粧も役者の技の内、とかつて貴様に言ったはずだが」

 美しい男は、共通の過去を引合いにして答えとした。

「無論、それだけでこの未那元の相を誤魔化せる訳では無い。……この貌が人の心理に与える影響は、我らの精神に起因するものだ。心までも演じきれば、人相も封印出来る。左右田石斛斎という人格を仮定する事で、俺は別の人生を手に入れた。だから、そうだな、貴様の問いかけには否と答えるのが相応だろう。俺は、左右田石斛斎ではない」

 隻腕の男は、そう言って。
 静謐な、そして威厳を含んだ声音で名乗る。

「未那元森羅(みなもとのしげあみ)。この奥で眠る六孫王大樹の兄、そして斎姫の伯父だ」
「……死んだんじゃ、無かったのかよ」
「死者が復活する事など無いが、死者が死者のままこの街を徘徊する事などありふれている。AI存在に生命の定義が適応されるのか? という疑念とはまた、別の話として」

 戯れのように告げて、石斛斎――未那元森羅は地面に横たわる物体を足蹴にした。比喩などではない、実際の死者を。
 広間は死体に溢れていた。鼻孔に馴れた血臭が香る。
 全てが武装しており、数は七十から八十ほど。彼らの携える鎗や剣が床に散乱している。憑人も含まれており、人外の形態に変異したままの死体もある。

「お前が……やったのか」

 信じがたかった。これだけの人数を、一人も逃さず仕留めるなどと。――彼ら兵団が逃走していないのは明らかだ。森羅は六孫王の御所を塞ぐように立っている。退路は今し方、いなきがやってきた入り口にしか無い。そしていなきは兵士の一人とも遭遇しなかった。

 森羅の身体に、欠落した左腕以外の傷は見当たらなかった。この男は武装した兵団を、無傷のまま、短期間で鏖殺したのだ。
 怖気を催している間に、森羅は問いかけに応じてくる。

「六孫王府にとって既に俺は死人だ。矛を向けてくる以上、敵でしかない」
「こいつらは、深川の武士なのか……」
「そうだ。歳城の陰謀家どもの走狗よ。敵である以前に、下らぬ計略に王家を利用している時点で万死に値する」

 苛烈な言葉だった。この男は全てに韜晦するかつての役者とは真逆。全てに、明快な解答を用意し、実行する。
 王者の精神。

「お前の目的は、なんだ」

 ならば、未那元森羅への問いかけは意味があるのかも知れない。そう考えていなきは質問を重ねた。
 再び彼は、明確に解答する。

「大樹を殺す」
「……なぜ」
「俺の左腕を奪ったのは、あの男だ。唯一愛した女も、奴に奪われた。彼女は知性を失い、堕ち果てた挙げ句に大樹に殺された」

 殺す理由として、これ以上のものはあるまい、と。森羅は言った。

「だが、それだけが理由ならこんな場所には来なかっただろう。俺の憎悪はとうに色褪せていた。石斛斎としての人生は、それなりに満足行くものだったからな」

 と、森羅は前置きする。いなきが抱いた疑念をおそらく先取りして。
 この男はなぜ、仇を前にしてここに佇んでいるのか?

「斎姫……彼女の忘れ形見を止めるのが、一番の理由だ。あれが父殺しをするのを、彼女は望むまい。しかしあの娘の意志は強靱すぎる。何があろうとも、大樹の前に立つだろう」

 森羅はそう言って、そして即座に言葉を翻す。

「そう思っていたのだが」
「……?」
「小僧。貴様だ。貴様の為に、あの娘は目的を一時切り捨てた。あれはこの五年で、黄泉で待つ両親よりも強固な繋がりを築いていたらしい」
「……なんだと」
「貴様を守る為に、斎姫は最強の八葉と戦い、完全に消耗した」
「……っ!」

 心臓を刺されたような罪悪感を、いなきは抱いた。妹が超人としての力を振るう為の源泉を、自分の為に消費し尽くした。そうさせない為の戦いであったのに、最後の最後で自分はしくじってしまった。
 そして、そうであっても。

「そうであっても、あの娘は大樹と戦おうとしている。ただの娘に成り下がっても、まだ」

 そうだ。
 力の有無は、彼女の意志に何ら影響しない。どれだけ弱っても、勝ち目が無くても、戦おうとする。
 だからこそ、自分は妹の戦う力を失わせてはいけなかったのに。

「俺が力であれを止める事は容易に思える。しかし、出来ないかも知れない。道理を超えて、あれは目的を果たしてしまうかも知れない。……だから、貴様だ」

 悔恨に浸るいなきを現世に返す、森羅の言葉。

「貴様を殺す。あの娘の憎悪の対象をこちらに向ける。それが唯一、あの娘に父殺しを忘れさせる方法だ。小僧、お前は、俺に殺されろ」
「……断る。退け」

 妄言を切り捨てて、いなきは足を進めた。〝き〟はこの向こうにいるのだろう。止められないのであれば共に戦う。
 この男の武力は計り知れないが、だからこそかかずらっている暇は無い。逃走すべく、男の肉体を注視して攻撃の兆候を探る――

「そう来ると思っていた。……だから俺は、あの娘を殺した」

 何――か。
 聞き逃してはならない(聞いてはならない)言葉を、聞いた。

「……何と、言った」

 思わず足を止めて、問いかける。
 未那元森羅は、明確に答える。

「蠱部あやめを、俺が殺した」

 彼の解答は、言葉のみではなかった。
 男は広い袖の中に何かを抱えていた。芝居の幕を開けるように、右腕の中に抱えたものを開陳する。
 女の、頭部。

 ――あれ――は――違う――そんなはずは――嘘だ――だってどうやって――嘘だ嘘だ嘘だ――
 狂乱の一歩手前で、否定する。しかし。
 その長い黒髪には、覚えがあった。夜のように、暗く、静かな。
 ――あなた、泣いているの?
 九年前に、そう語りかけてきた。
 それからずっと、付かず離れず過ごしてきた。
 家族のように――

「憎悪を、俺に向け「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!!」

 男の戯言を最後までいなきは聞かなかった。永代島で遭遇した殺人とは、明らかに違った反応。怒り? そんな人間的な情動ではあり得ない。
 知性ある人間からかけ離れ、獣よりもなお下等に堕ちた咆吼を上げながら突貫する。
 最速、最短、必殺。

 それ以外の全てが意味を失い奈落の底へ廃棄される。
 躊躇い無く最後の巫術を起動し、知覚を加速させた。生存本能、使命、義務は殺意の前に塵芥と化している。
 極限の軽功で、一秒も待たず森羅の前に到達。
 抜刀し――

「哀れな、獣よ」

 首筋に激痛が出現した。
 巫術により増幅された知覚の中に、予期すら許さず差し込まれた森羅の手刀。
 打ち倒されて地面を大きく転がり、いなきは即座に立ち上がった。
 首根から吹き出し、肌を温く暖める血流。それとは逆に、身体の奥は失血で冷え込み始める。
 それでもいなきの心は、一色に染まっている。

 未那元森羅を殺す。
 それ以外に、自分の存在理由を認めない。その道義を、理非を、功罪を考えない。ただ殺す。

「貴様をここで、終わらせてやる」

 王の威風を纏って宣告する未那元森羅を、常人には触れ得ぬ尊きものを。
 殺す為の機械となる。



[36842] 3k/貴種流離
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/16 06:40

 二度目の突撃から、その違和感は顕在化していた。
 確実に裸拳の範囲外から繰り出された斬撃。しかし、刀は目標を逸れて空を切り、森羅はいなきの間合いを侵略している。
 必中のタイミングで、心臓を狙って打ち出された縦拳。それを受けつつも、後方に重心を投げ出すようにして衝撃を殺す。再び地面に転がされて、どうにか距離を離した。

「能(よ)く避ける」

 冷徹に述べる森羅。
 巫術の反動と憎悪で分解されつつある理性が、その精緻極まる武芸に恐れを成していた。

 武術家としての練度において、九重府の暗部、雷穢忌役に勝る存在はあり得ない。彼らの保有する古今東西の武術、運動力学についての知識の質と量は他の追随を許さないものだ。近世レベルに留まる他の勢力とは隔絶した、未来の理論に基づいた術理により彼らは憑人や妖魅などの怪物と戦い得る。――それが八百八町の裏社会における常識であったはずだ。
 それが今、子供扱いされているのは忌役のいなきの方だ。

「舞踏は武闘に通ず、などと――駄洒落じみているが」

 と、口遊びを述べる余裕すら見せる森羅。

「武術の型は舞踊として伝承される事もある。応用する才覚さえあれば、舞と武の鍛錬にはさして違いが無い。小僧と俺では、経験の格差もある」

 大陸の拳法に由来する化勁や軽功を操るいなきをすら超越する、体術。
 初めていなきは、この永代島で自分より優れた武術を行使する存在に遭遇している。

「……獣に言葉を用いたのが、愚かか」

 森羅は嘲笑する。迷わず三度目の進撃を開始したいなきを見て。
 彼の言語能力は既に欠損している。崩壊した精神を殺意で取り繕っているだけだ。問答に意味などない。あるいは対話できる精神があったとしても、その必要を認めなかっただろう。
 しかし、無意味な攻撃を繰り返す獣になった訳では無い。単一機能を果たす機械として、いなきは三度目も同じ無策を用いるつもりは無かった。

 初手の斬撃を、森羅は掌で軽く押すだけで逸らした。
 その残像を消すように、いなきの実体がコンマ数秒遅れて森羅の間合いに突入する。相生剣華、真ノ草。

 森羅の唯一の攻撃手段である右腕は、陰刀を防ぐのに用いられた。無条件に命中する――
 下方から打ち出された蹴りが、いなきの喉を狙った。
 それを回避して、泳いだ身体の前に――銃口が突き出される。

 森羅は鏖殺した奉公衆の武装から、短筒を一つ奪っていた。袖口に暗器として隠し、今引き出したのだ。
 いなきは、自ら足を滑らせた。勢いをつけて転倒する事で、射線から逃れる。
 銃声を間近に聞き、聴覚を麻痺させつつ――皮膚感覚で周囲を知覚し、攻撃目標を定める。

 両手だけで身体を支え、蹴りを森羅の足に打ち付ける。
 鋼鉄のような感触が、返ってきた。

「時に暴風に晒されながら寸毫(すんごう)も動かぬ剛力も、美しい舞には必要だ」

 インパクトの瞬間に筋肉を固めて蹴りを弾くという力技をやってのけた森羅は、そのまま銃を逆さに持ち替えて銃把で殴りかかってくる。
 首をねじって躱し、突き出された右腕を抱え込む。捻り折ろうと力を込めて――

「無論、柳の如き撓(しな)やかさも」

 加えられた力に逆らわず、森羅は地面に転がった。するり、と。風に舞う紙のようにいなきの身体の下に潜り込む。そして、触れた背中が爆発的な衝撃を生み、いなきを弾き飛ばした。
 全身を発条(ばね)として打ち出す投技。右腕を掴む手を引き剥がされ、三丈も吹き飛ばされる。
 起き上がった直後の眼前に、投げつけられた太刀の切っ先があった。

「……ッ!」

 咄嗟に両手を打ち合わせて、〝黒刃〟取りをする。百度に一度しか成功しないような曲芸で、辛くも致命傷を免れた。
 かつて掌に負った傷に再び創傷を重ね、黒い刃を血に染める。

「そのまま、そこにいろ」

 と、未那元森羅がゆるりとした足取りで前進を始めた。真っ直ぐ。一直線の進路を定め、接近してくる。
 それには付き合わない。いなきも太刀を納刀し前進するが、歩法を用いて左右に進路を歪めつつ進む。間合いに侵入した際は、側面に回り込む意図がある。
 ――その時、不可思議が再び生じた。

 どれ程進路をずらしても、未那元森羅はその中心にいる。
 不可解を覚え、後退する――

「悪手」

 眼前に出現した森羅が、そういなきを詰った。
 顔面を握り、地面に叩き付ける。

「……がぁっ!」

 衝撃に悲鳴を上げつつも、間髪容れず手探りに地面を転倒して逃げ出す。
 予測された追撃は無かった。いくらか離れた間合いで、森羅はまごついている。

「……」

 いなきの精神が真っ当に機能していれば、不可解を覚えた場面だ。確実な隙に、未那元森羅は止めを刺さなかった。

「……貴様の技術は、雷穢忌役の格付けでは上の下といった所だろう」

 交戦した感触を確かめるように、彼は自分の手を掲げて眺めている。

「その歳にしては、これ以上ない練度だ。だが、傑出している訳でも無い。怪人の巣窟である不可知領域で戦う武官と比べれば、一枚落ちる……」

 だが、と森羅は拳を握りしめる。眉根を寄せて、疑念を述べる。

「貴様は現に、ただ一人で深川最強の憑人である御門八葉の半数を打倒している。……本来、ありえない事だ。八葉がそれ程弱かったのなら、九重府、妖魅らとの力の均衡を取れはしない」

 意図の見えない、無駄言だった。いなきには、そうとしか感じられない。

「なるほど――貴様は、ただの小僧では無いのか」

 やはり不可解としか受け取りようのない言葉に、いなきは取り合わなかった。敵が意図の見えない疑念にかかずらっている間に、今の攻撃の正体を考察している。
 正中線を完璧に維持した前進。

 森羅の技術の根幹はそれだ。こちらの動作を支配下に置いて、自在に操り自分の進路上に捕えている。目線、筋肉の動き、あるいはもっと根本的な存在感。それらを使って、いなきの動きを掌握しているのだ。
 その途方も無い技術がもたらす恩恵は、完全な占位。

 自分の最大威力を発揮できる姿勢を常に維持したまま、攻撃出来る。そして、敵手には常に不利な位置取りを強いる。
 それだけではなく――どうやら森羅は、いなきに〝意識の隙間〟を作り、そこを攻めている。

 芸能の極意に、〝離見の見〟というものがある。遥か昔、中世日本を虜にした一芸の開祖たる親子。その内、子の方が述べた言葉だ。
 演技における理想的な視点は、完全な客観である。見所(客席)の視点を持つ事で、自身の演技を常に補正し、見所の求めるものと合致させる。

 動作を掌握されている――つまり、森羅は相手の視点を盗んでいる。ずば抜けた観察眼によって。
 後は占位術と同じ要領で、敵の集中に欠点を作る。生じた意識の隙間に、攻撃を滑り込ませるのだ。
 瞬間移動に近い間合いの侵略の正体が、それだ。

 防御は不可能だ。自己を偽装でもしない限り、打破しようが無い。
 ……自己を、偽装。
 ――一度だけ、打てる博打がある。
 いなきは、その場に踏みとどまった。自然体に近い体勢で、佇む。



「慧眼(けいがん)だ」

 それだけ述べて、森羅は再接近する。いなきの意図を読んでいたのだ。動きの推察が困難な脱力した姿勢で、距離の把握に集中する。森羅の歩法の対抗策はそれだけだ。ならばいなきは、森羅の歩法を看破した事になる。生きている内に彼の〝所作〟の秘密を見抜いた敵は、数える程しかいない。
 だが――

「俺の極意を、廉(やす)く見るなよ小僧」

 力を抜いていようと、関係が無かった。生きている人間ならば、眠っていても操作出来る自信が森羅にはある。
 やはり森羅は無傷で攻撃し、今度こそ敵手を殺傷するだろう。

 相手が正確に把握していた森羅の位置を、演技により狂わせ、曖昧にする。崩れた領域を盗人のように容易に侵入する。
 掌が、敵の心臓を皮膚越しに触る。
 しかし、その触感から得た筋肉の情報で、森羅は気付く。

 相手は自分を見失っていない。
 腕の欠落した左側から、刃の気配。



 いなきは、虚像の己を実体に重ねていた。
 ほんの少し、一寸にも満たない距離を離して。 
 その上で陰刀を使う虚像を、森羅に見せつける。虚像は森羅の歩法に操られ、彼の意図通りの動作をする。それに隠された陽刀を使う実体が、森羅の接近を読み切った。

 二度同じ手が通用する相手では無い。いなきは唯一の好機に、確実な攻撃を放った。
 柄を捻り、鯉口を右側に突き出す。
 そして左腕で抜刀する。
 斬撃の軌道は、陽刀、陰刀共に右に向かって弧を描き――森羅の左半身に向かって伸びる。
 防ぎようのない一手。なぜなら、
 森羅の左腕は、欠けているのだから――



 一瞬の間に、男の唄をいなきは聞いた。

「ただ闇中に埋木の。さらば埋もれも果てずして」

 森羅の左腕の根本から、黒い影が膨れあがった。
 左、である。
 ある女の遺した助言。
 男の憑人は、左半身に変異が集中する。
 ある憑人が弄ぶように告げた言葉。
 ――欠落には、神性が宿る。

「亡心何に残るらん」

 黒い影が、いなきの放った黒刃に噛み合い――
 刀を粉々に砕いて、荒れ狂った。



   /



 満ちていた、時代。
 家臣に傅かれ、死んだ父を後継し次代の王となる事を全く疑っていなかった十七年前。
 彼には弟がいた。
 ――兄さん。

 気優しい男だった。草花を愛し、鳥を慈しむ。城に居座る武人たちには、なよやかで王家に相応しくないと蔑まれる気質を持っていた。だが、彼は――そんな弟が好きだった。
 弟は、草花にも、鳥にも手を触れようとしなかった。未那元宗家の障気は全ての生命を蝕み、歪ませる。触れ得ないものを遠くから眺めて、優しげに微笑む。そんな男が愛しくない訳が無かった。

 弟の慈愛は、彼にも向けられていた。鬼の巣窟じみた城の中で、家族と呼べる人間は彼しかいなかった。
 いや、もう一人。
 家族である事を望んだ女がいた。

 城の舞台で踊る女に、ひと目で惚れた。生まれついての無頼ゆえに、〝ふう〟という字しか持たなかった女。
 彼女は王家に敬意を一欠片も持っていなかったが、だからこそ気兼ねなく語らう事が出来た。言葉を交わす度に、抱く愛情は深まっていった。

 やがて、俺のものに――情愛を交わした男女の、当然の帰結を思い、そして。
 彼は、怖気に震える。
 この一族の抱える業は、愛した女を必ず殺す。
 ああ、それでも、それでも――なお。

 求めて、しまった。
 その時に彼は、自分が抱く強い渇望の正体に気付いてしまった。
 彼は、満ちていたのだ――満たされては、いなかった。
 地位、財、責務、運命。

 自分の生まれる前に存在したものだけだ。彼の人生には自分の望むものを埋めるだけの、隙間が存在しなかったのだ。



 そして彼は、全てを失う。優しかった弟が彼に牙を剥き、奪っていった。地位も、女も。
 左腕も。
 未那元森羅でない、ただの男に成り果てて最初に行った事は、舞踊の鍛錬だった。
 ――森羅君は、すごく筋が良いよ。いつか、僕と一緒に踊ろう。

〝ふう〟が最初に、自分に微笑みを見せた時に言った言葉だった。過去に縋り付くようにして、身体を動かし続ける。
 かつて持っていた六孫王の憑人の力は、あらかた大樹に奪い取られていた。あれは王座に就くものに取り憑く力だ。未那元宗家の精神の集合。あのおぞましく強力な泉に接続する事で、人智を超えた能力を引き出せる。

 森羅はその資格を失ってしまったが――幾ばくかのリンクは残っていた。
 能力を行使する事は出来ず、しかし自分の身体と精神をいつ喰らい尽くすか分からない憑物(バグ)。
 差し迫った危機を忘れて、踊り続けた。欠けてしまったものを、埋めるように。

 ――芸能を行う人間は、かつて〝ワザオキ〟と呼ばれていた。
 その意は、〝神の業を招(お)く〟である。
 神代。岩戸に隠れた天照大神を招いた天鈿女を発祥とする、シャーマニズムの原点。
 彼は計らずとも、解答に到達していた事になる。
 神を制御する、方法論に。


 
    /



 未那元森羅の行使する〝鬼手(きしゅ)〟は、鵺・六孫王大樹と同じく無数の憑物の集合体である。黒色の影に見えるのは、限界まで圧縮されているからだ。
 本来の体積は、彼らの戦う境元之間とほぼ同等。

 形態は自在に変化し、それを引き延ばす事で得られる最大射程は、この場から歳城にいた芙蓉局に届く程度。
 また、森羅は自身を憑物と切り離す事で心身のダメージを軽減している。故に、鬼手の精神は森羅から独立している。彼にとってはやっかいな同居人と言うべき存在だった。

 使い続ければ侵食は避けられず、命令は聞くが完全に支配下に置ける訳でもない。
 だが逆に、恩恵もある。森羅自身の知覚に縛られない〝鬼手〟は、人間の領分を遥かに超えた攻撃速度を持ち、森羅自身の動作とは関わりなく推進する。
 森羅と相対する敵は、達人・未那元森羅と憑物・鬼手を同時に攻略しなければならない。

「……詰みだ」

 大刀を折られ、自身は吹き飛ばされて地面に倒れ伏す少年に向けて森羅は告げる。

「俺の左腕は凶暴だ。すぐにでも貴様の首を刎ねようとする。あるいは、俺が手ずから貴様を殺しても良い」

 無傷の森羅に対して、少年は満身創痍であった。大刀を微塵に砕かれ、首を抉った傷から未だ血液は溢れる。
 ――その状態で、己の必殺の攻撃を二度も防いだのは不可解だったが。
 初回の接触で仕留めるつもりが、あの少年は致命打を紙一重で躱している。二度目の追撃は、少年固有の技術、蠱業による陰刀により防御された。森羅の〝所作〟は敵手の意識に間隙を作る芸だ。反応出来るはずは、無かったのだが。

 それでも、〝鬼手〟まで用いて攻撃するのだ。もう奇跡は起こり得ない。
 そもそも放っておいても、少年は自滅を間近にしている。巫術なる精神を消耗する技術の反動で、その思考は崩壊していた。今では、まともに対話も出来ない。
 つまらない、と思う。
 問答が出来たのであれば、森羅の抱える憤怒を叩き付けながら殺してやれただろうに。

「なぜ……ここに斎姫を連れて来た」

 無駄と分かっている詰問を、森羅は口にした。

「貴様があれを怪物に鍛え上げた為に、斎姫は父殺しの業を背負おうとしている。俺は、そんな事をさせる為にあの娘を逃がしたのではない」

 ――森羅君、たった一つだけ、お願いを聞いて。こんな事を君に頼むのは恥知らずだと分かってる。君に、聞く義理は無い事も。けれど。
 ――娘を、助けて。
 未だ人としての知性を残していた頃の、〝ふう〟の言葉。森羅はそれを遺言と受け取った。聞き入れる事に、躊躇いは無かった。

 未那元の最も重要な祭礼に介入する為には長い準備を要した。斎姫を救った時には既に、彼女は深く傷ついており、〝ふう〟も大樹に殺されていた。
 ――全ては終わったんだ。

 彼は遁走する船の中で、そう呟いていた。終わりにすべきだった。愛情も、喜びも、希望も。快いものは全て砕け散り、残骸の向こうには憎悪と悲嘆と絶望だけがある。そんなものに、この娘を関わらせる訳には行かなかった。だから、自分からも離した。森羅もまた、過去の残骸の一つでしかなかったからだ。
 だと、言うのに。

「愚昧で、未熟な、小僧が」

 この少年が彼女の目を、過去の残骸に振り向けた。幸福を、光までもを捨てさせて、己と同類の仇討ちのみに生きる哀れな獣に堕とした。
 両目を義眼とした少女を思えば、それを為した人間はいくら憎んでも足りない存在だった。
 断じて、殺す。
 殺意に満ちた一歩を、森羅が踏み出した、その時。
 瀕死の少年が、立ち上がる。




[36842] 3l/決着
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/16 20:31

 ――思考は分解されている。

(それで良い)(今までの発想が間違いだった)(【統合(インテグレーション)】によるオーバースペック化はこの知性体の在り方にそぐわない)(纏めてはならない、統一してはならない、合同であってはならない)(その逆)(【分散(ディスターブド)】されていて良い)(されてなくてはならない)(独立独歩で)(並列処理の)(ネットワークを構築せよ)(あなたの処理能力には限界がある)(隔たっている)(超えられない)(不可能)(ならば)(大規模な演算を行うものと)(接続すればいい)(あなたは要らない)(不要物)(最低限の機能を残して)(消失を)(自己を抹消する)

(あなたは)
(意の無き)
(――【空(くう)】になる)



 周囲には無数の武装がある。近世レベルの銃火器、歩兵鎗、大刀、弓。失った刀の代用に、更に高威力の武具を――【誤謬(エラー)】
 自身を強化する必要は無い。むしろ強力な武装はこの知性体の攻撃衝動を喚起し、自我を復旧させてしまう。最小限の攻撃手段で良い。
 手元の小太刀が理想的である。

「まだ足掻くか、小僧」

 音声。
 敵対知性の存在を確認する。【最深情報領域〝アマラ〟にアクセス】【問(クエリ)】【該当一件】【未那元奉奠王(ほうてんのう)森羅】【アノマリーAI〝δ(デルタ)カテゴリー〟に属する】【脅威査定】【攻撃能力判定】【δカテゴリー固有属性〝疑似・阿頼耶識〟のデータ共有により発現した自律型戦闘義肢〝鬼手〟】【実体世界の古流武術〝御殿手(ウドゥンデイ)〟に類似の格闘術】【〝離見の見〟なる戦況支配能力】

 対して、【空】が操作する肉体の機能を確認する。【問(クエリ)】【該当二件】【立花稲生】【太智華意無】【アノマリーAI〝φ(ファイ)カテゴリー〟に属する】【戦力査定】【攻撃能力判定】【〝並列起動抜刀術・相生剣華〟】【古流剣術を基礎とした総合格闘術】【φカテゴリー固有属性〝無想〟による全世界再現システム【空】への処理機能の一時移譲】

【戦闘シミュレーション】【98.7%の確率で当知性体の敗北】【サポートの必要有り】
【処理機能を代行】【身体掌握】【運動効率最適化】

「……ッ!?」

 未那元森羅は驚愕する。瀕死の少年が、軽やかに飛び上がり頭上から強襲してきたからだ。
 羽毛の如き軽功。巫術を行使した時よりもなお高い精度であった。
 抜刀。まず陽刀が脳天を狙う。
 そして陰刀は、森羅の足下を切り払う。その瞬間いなきが行ったのは軽功の逆。重心を引き下げる事で落下速度を加速し、虚像を実体に先んじて着地させた。

「ぢぃッ!」

 歯から軋る音を立てながら、森羅は〝鬼手〟を二つに分割した。空中から襲う実体の首を狙う針、そして足下を防ぐ楯に変化させる。
 首を逸らして〝鬼手〟を避け、体勢を崩して着地したいなきの実体に、手刀を突き出す。
 一寸、頭を下げる事でいなきは攻撃を回避した。――いや。
 頬を掠め、削る程近くで手刀を受け、頭部と左腕で固定する。飛び上がり、森羅のこめかみに蹴りを見舞う。

 薄い紙ほどの楯に変化した〝鬼手〟が、それを防御する。そこまで質量を落として速度を上げねば間に合わない一撃だった。
 安堵するだけの猶予は無い。
 身体を中空で回転させ、足下から頭上へ向けて弧を描く斬撃をいなきは繰り出す。森羅は飛び退いて回避するも、胸を浅く切り裂かれた。

「なんとッ!」

 唐突に運動精度が向上した相手に、驚愕する森羅――しかし、彼はすべき事を間違わない。
 距離を取った。未那元森羅の止められぬ前進を実行するだけの距離を。
 一歩を踏み出す。敵手の動きを読み切り、自分の意図に乗せる――

【〝離見の見〟発動確認。模倣を開始】

 相手の意識の隙間に差し込んだ二つの攻撃。〝鬼手〟による斬撃と、掌打。
 必中の攻撃を、いなきは防いだ。〝鬼手〟は根本を小太刀で絡め取って抑え、掌打は左腕を楯にして。
 交換に繰り出した陰刀の斬り下ろしが、森羅の胸を更に深く抉る。

「がッ……!」

 鮮血を噴出させ、森羅は後退する――王者の二度目の逃避。しかも今回は、必殺の突進を破られている。
 いなきも無傷ではない。左腕はへし折られ、だらりと垂れ下がる。
 森羅は一合で悟る。どうやらこの敵は、運動精度の向上のみならず己と同等の客観視を手に入れたらしい。自己の〝所作〟を偽装して、意識に隙を作る事を防いだのだ。

「大した理不尽……だが、」

 胸を親指でなぞり、指の腹についた血液を舐め取りながら、森羅は嗤う。

「殺し甲斐が出て来たぞ、小僧」

 彼は〝鬼手〟を、己の支配から完全に解放した。暴風じみて荒れ狂う黒い影。細かい刃が彼の皮膚を傷付けるが、意に介さない。その程度ならまだましだ。〝鬼手〟は機嫌によっては森羅の首を刎ねようとする。

『おぉおお……UAあ……ぎぃiIIいいいっ!』

 自我を現世に表出する事を許され、怨嗟じみたうめきを上げる〝鬼手〟。それを聞き、森羅は喜悦に微笑む。
 彼の笑みは、己の命を天秤に乗せた恐怖(スリル)によるものだ。この時森羅は、一方的な殺害ではなく二匹の雄の命のやり取りを自覚した。

 ――両者は申し合わせたように同時に前進する。
 筋肉、目線、呼吸、存在感。己の全てを用いて相手を操作し、あるいは自分を偽装する。
 やがて会敵の瞬間が訪れる。

「ぬぅんッ!!」
「……ッ!」

 まずは〝鬼手〟が狂乱した。影の刃を一、二、三……二十七本に展開し、無差別に放出される。呪詛の塊であるそれは、主ですら攻撃の的にする。
 物理法則を超えて推進する刃は、人間の知覚を許さない。
 しかし両者はそれらを回避する。人体の限界を極めた二人。関節の可動域を正確に見切って刃の届かない場所に己の身体を置く。

 いなきは外部からの処理能力の補助を受け、知覚を増大させて回避している。森羅は〝鬼手〟と接触した左肩の触感で、狂乱する左腕の意図を読み切っている。聴勁と呼ばれる技術だ。
 黒い暴風の中で――コンマ数秒、先に。
 いなきが、必中の占位を成立させた。左腕は砕けている。引手を省略、右手のみで抜刀し、二刀に分裂した刃が森羅の知覚の外から襲う。

 しかし。
〝鬼手〟の影の刃が、その前に立ちふさがった。
 生じた隙に、森羅は反撃を打つ。

「殺!!」

 胸に押し当てた掌に、腰を起点として生じた力を浸透させる。
 骨を砕いた手応え。
 弾き飛ばされたいなきに止めを刺さんと森羅は突進し。
 暴走する〝鬼手〟に進路を阻まれた。

「……ち」

 舌打ちし、一度退避する。勝負を焦らない程の余裕が、今の彼に生まれていた。
 勝機の天秤は、森羅に傾いている。
〝離見の見〟による間合いの支配力はどうやら相手が上を行っている。まるで自我が無いかのように、いなきの客観視の精度は並外れていた。意識の隙間を森羅に先んじてこじ開け、そこに攻撃を加えてくる。

 だが、それは森羅の敗北を意味しない。
〝鬼手〟
 森羅の意識から独立した奥の手(ジョーカー)は、彼の無意識、そこからリンクされている未那元宗家の魂に根ざしたものだ。
 いなきが森羅の無意識をついてきたとしても、そこは〝鬼手〟の支配領域。〝鬼手〟は確実に迎撃しようとする。

 意識と無意識。
 表と裏。
 1と0。
 両面に防衛圏を持つ未那元森羅の虚を突く事は、不可能。
 次の会敵で、確実に止めを刺せる――


 
【シミュレート】【同一の方法論による攻防は必敗を確約する】【別種の方法論を】
【新手を】
【問(クエリ)】
【当知性体の発揮しうる限界】【このシステムが実現し得る最高峰の攻撃手段を】
【奥義を、創出せよ】



 ――少年の武術における活路は、ただ一人の男の導きによって生み出される。
 蠱部尚武。
 殺すべき、師だ。
 彼がかつて述べた言葉を検索し、考察し、回答し、誤謬し、止揚し、試行し。
 解に、辿り着く。

『抜刀、納刀……1と0だ』
『虚実、というものに対して私の知り得ぬ領域に至る為の、手掛かりになるかも知れない』
『真実この業(システム)の頂点に達するのだ』

 1と0。
 有と無。
 世界には、その二つの概念しか存在し得ない。
 ならば、存在しないものを。
 1(陽)でも0(陰)でもないものを。
 この世界に、あってはならない剣を抜き出せば良い。



 最後の攻防である事を、双方自覚する。
 森羅は、右手の甲を上に向け、ゆるり、と前方に差し出した。扇を持つかのように、緩く。――能の所作、差扇。
 いなきは、砕けた左腕を鞘に添え、鞘に付随する下緒で固定した。この時に至ってなお、抜刀の構を取る。

 森羅の前進は、差扇を維持したまま行われた。しかし速度は以前と遜色無く、更に緩急で幻惑する。彼の〝歩法(ハコビ)〟の奥義たる歩みだった。
 いなきの歩法も同一の、緩急を付けて敵手を幻惑するもの。体内を操作して重心を絶えず置き換え、動作を読ませぬ体術〝水馬〟。

 間合いの読みを、森羅は経験と才覚で。
 いなきはシステムの補助を受けた知覚で実行している。
 そして〝鬼手〟が先んじて、状況を惑乱する。十数本に枝分かれした影の刃がいなきを狙って伸びた。それぞれが、個別の軌道を描いている。

 いなきは急所に命中する刃以外を無視した。皮を削られ、あるいは骨身に届くものもあった。それらを予期しても、回避しない。この前進で全て決着が付く以上、それを止める攻めを除けば無いも同じと判断する。
 紙一重で命に届かなかった事に〝鬼手〟は苛立ったのか、刃の数本を森羅に向ける。肩口に触れる〝鬼手〟の微動から反抗を察知していた森羅は、やはり命に届くものを除いて躱さない。

 両者は、最速、最短、最適の軌道を求めていた。
 刹那。
 生死を分かつ機が、その僅かな時間にしか存在し得ないと二人は悟っていた。
 森羅は極限の集中により、いなきは自意識の排除により、演算の限りを尽くし最良の占位を求める。

 ――故に、やはり。双方の時間差は予期の通り、刹那であった。
 先んじて、いなきが抜刀を繰り出す。肩口から大地へ抜け、森羅の身体を両断する軌道。
 そこに森羅は、右腕を差し込んだ。
 完全に無駄を廃した身体操作により、人間の出せる限界速度に向上した斬撃に介入する。鎬(しのぎ)に掌の腹を当て、捻り、軌道を逸らす。

 その防御は、予測されていた。
 相生剣華による陰刀は、いなきの繰り出した陽刀の軌道をなぞって放たれていた。防御すべき腕は泳いでいる。何より、森羅の意識は防御という行為に振り向けられた。
 必中の一撃。
 しかし、森羅にはまだ手がある。

 意識の外であるからこそ、〝鬼手〟はその領域を支配する。そこに繰り出された陰刀を、影の腕は知覚している。
〝鬼手〟はその身を刃と化して、敵の繰り出した黒刃と絡み合い静止する。
 静止から何よりも先んじて復帰したのは、森羅自身の腕。
 差扇の構は、森羅の最速の打撃を実行する為のものだ。防ぎ手であり、攻め手。打撃の軌道を維持しながら、敵の攻撃を防御する。

 狙うは敵手の眼窩上部。頭蓋の内で最も脆い箇所を砕き、そのまま脳髄を破壊する。
 必勝に至るまでの、一瞬の時間。
 ――だが。
 森羅は、敵を見失う。

「……ッ!!」

 それは刹那にすら満たない間だった。そこにいたはずの敵が、消失した。相生剣華による虚像ではない。虚像の攻撃は防いだ。何よりあの蠱業が作る虚像には、気配があるのだ。アレは、存在しうるもの、世界の可能性を重ね合わせ、発現する技術だ。
 それが、無い。

 目でも、耳でも、鼻でも、皮膚でも、舌でも、意識でも、無意識でも。
 観測出来ない。
 存在しない――
 森羅の背後に、気配が出現した。

「……【虚数刀】」

 いなきがその言葉を口にする。

「がっ……!」

 その時、十七年前に味わったのと同じ喪失感に気付き、森羅は苦悶の声を上げる。
 観測不可能の斬撃に森羅の〝鬼手〟は切り離され、地面に堕ちていた。
 かくして、二人の闘争は決着する。




 身体を支えるだけの力を確保するのも、困難だった。すぐにでも膝をつき、眠って――そのまま目覚めなくなりそうだった。
 何がどうなったか全く分からなかった。最後の巫術を行使して自我が残った理由も不明だが、ここで倒れる訳にはいかない。
 いなきは、後方を振り返る。

「……グッ」

 未那元森羅が左腕の根本を右手で押さえ、歯噛みしている。苦痛を堪えているのだ。
 待っていろ、すぐに苦痛すら感じられないようにしてやる。
 憎悪を燃料に、いなきは前進する。まだ戦う。この男は死んでいない。この男の存在を許さない。殺す。それ以外の目的を、考えない――

『それは、』

 唐突に復活し、介入してくる幻聴。
 うるさい。黙ってろ。それ以上言うんじゃない。
 幻の中であってもその女は、いなきの思い通りにならなかった。いなきが今、最も聞きたくない言葉を告げる。

『機械よ。――あなたは、人間でありなさい』
「……っ」

 奥歯を砕きかねない程に、咬合に力を込める。いやだ、いやだ。俺はお前を殺したこの男を許せない。――そして、お前を守れなかった俺を許せない。ここで諸共に殺す。

『聞き分けのないひと』

 慈しむように、声は語りかけてくる。

『なら、もうしばらくは、生きていてあげるわ』
「……?」
「――待て。降参だ。俺は死ぬ訳にはいかん」

 などと、あっさり未那元森羅は無事な右の掌をこちらに向けて、命乞いをしてきた。

「何を――」
「蠱部あやめは生きている」

 進みかけた足が、止まる。
 森羅は広間を見渡し、死体だらけの床から何かを探し始めた。やがて、一つの生首を拾い上げる。
 女の、あやめの、

「彫物だ。――おい月数、幻術を解け」

 何も無い中空に向けて高圧的に命じると、生首は木彫りの人形に成り代わった――髪の毛だけが、生の人間のものだ。

「細かいものを再現するのは苦労だと抜かすから、毛髪だけ本物を使った」
「……待て、色々と待て」

 こめかみを抑え、妙に弛緩した空気に緊張した身体を慣らしながら、問い糺す。

「月数は、生きているのか?」
「ああ。親父にあの女の扱い方は教わっている。クズでゲスで小者で色々どうしようもない女だが、強い人間にとことん弱いからある程度虐めておけば問題無いそうだ。特に殺す必要も無い」
「……散々な評価だな」
「事実だ」
「俺を……謀りやがったな」
「それが大人というものだ」
「……ち」

 舌打ちして、死体のいない床を狙って唾を吐く。どこか内臓から出血しているのか、赤い物が混じっている。重傷ではあるが、大人しくしていればコードハッキングの治癒力でどうにかなる程度だ。
 業腹ではあったが、安堵せざるを得ない。この男は実際にあやめを殺す事も出来たのだ。髪に向ける刃を、首に向け直すだけで良い。

「なんで、殺さなかった」
「一人この手にかけて分かった。女を殺すのはどうにも、不快だ」
「……欺瞞だ」
「大人だからな。色々と諦めている。そうやって、自分の悪性を直視するのは苦痛で、疲れる」
「……うるせぇよ」

 納得が行かず、いなきは森羅の目線から顔を逸らした。

「お前も、いずれそうなる。老獪で、巧みになると同時に、卑劣にもなる。俺が殺した女はあらゆる変化には犠牲が不可欠と言っていたが、つまりはそういう事なのだろう」
「……説教かよ。こんな所でする事か」
「いや、自戒だ。……俺は過去から、目を逸らした」

 言う通り、自嘲めいた嘆息を漏らす森羅。

「お前が斎姫をここに連れて来たのではない。あの娘が、それを望んだのだ。巻き込まれたのは、お前の方なのだろう」
「……違う、俺は」
「俺は、十年前に知っていた。あの娘ならきっとそうすると」

 いなきの反駁を無視して、森羅は過去に目を向けた。

「全ては終わった――そう言った俺を、あの娘は睨み付けた。満身で否定するように。そして、」

 疲労を覚えたのか、森羅は近場の瓦礫に腰を下ろす。右の手の平を見つめて、

「いつき、と。あれは自分の名を何度も呟いていた。言葉の存在しない環境で生きてきたはずなのに。……それは、つまり」
「?」

 森羅は、色褪せた過去を遠巻きにするように、決して届かない場所に離されてしまったのを惜しむように、呟く。

「あの娘は、仇を討つ為に大樹の前に立つのではないという事だ」






[36842] 3m/鬼哭啾々
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/17 18:20

 時折やって来るあのひとは、何も言わずに手を引いて、いつきを部屋から連れ出した。
 いつき、いつき。
 頭の横から入ってきてその奥に染み込む何かを、言葉というものだと知ったのはしばし後。今はただ、心地良い感触だとしか分かっていない。棒で打たれ、踊らされる苦痛に満ちた日常で、唯一のうれしいこと。

 それを言ったのは、このひとではない。
 連れられた先の部屋にいる、女のひと。
 白い着物を着た、赤子のような表情をした女のひと。

 あのひとは女のひとを見ると、ほんの少し、きれいな顔に皺を寄せた。面で覆われた目では見る事は出来なかったけれど、指で触れて理解する。それがどういう意味か、あの頃のいつきにはよく分からなかったけれど。
 あのひとに背中を押されて、女のひとの腕の中に抱かれる。

 ――いつき。
 女のひとは、その言葉だけを繰り返した。
 あたたかな、三人の時間。



 失神していたらしい。御門八葉・八龍との戦いで体力を消耗し尽くした身体を、どうにか引き摺って歩くのも限界が近い。
 それでも、急がなければならなかった。力強く感じられた障気が今はそよ風じみて希薄でか弱い。気を失っている暇など無かった。

 少女は、杖を支えに立ち上がり、再び歩き始める。
 夏の森は、雪化粧されたように白く染まっていた。無論それは、自然により施される風景ではない。障気で生まれた森は、その主の弱体化によって腐れ、崩壊を間近にしている。
 完全に消えて無くなるまでに、辿り着く。

 ただ、一撃。
 たった一撃ぶんの力を、少女はまだ残していた。
 この一撃を打つまでは、止まる事は出来ない。
 木の根に何度もつまずき、転びながら、それでも足を止めない。
 ――やがて、森の中心に辿り着く。

『お……あぁ、ぅ』

 殺すべき怪物は、あらゆる怪異を従え敵を討ち滅ぼす魔王は。見る影もなく衰え、うずくまり、うめき声を上げていた。
 森が、少女の侵入に悲鳴を上げる。

『侵略者である』
『殺せ』
『殺せ』
『殺せ』

 魔王の力の源泉、一族の意志が最期まで断じて王であれと怪物を縛る。堕ちた鵺は、立ち上がり少女に向けてよろぼい歩く。左腕には、巨大な刃。
 振り上げられたそれを、少女は、手を広げて。
 受け入れようと、した。
 ――刃が地面を叩き、そして砕ける。
 怪物がその身を支配してきた無数の意志に逆らって、言葉を口にする。

『……いつ、き』

 少女が、応える。

「はい……父さま」

 声の色彩は、温かく、柔らかな感情に――愛情に満ちていた。

「やっと、あなたに逢えた」
『ぅ、あ……ああ』

 怪物の声は、絶望に彩られていた。十三に増えた眼球が全て、少女の右足を見ている。
 自分が喰らった、娘の右足。
 恐れるように怪物は、少女の仮面に手をかけた。龍面が障気に触れ、形を歪めて大きな手の中に落ちた。

 そして、少女の美しい貌が露になる。
 生きた瞳を失った貌を。

『……あああ、うあああああああっ、ああっ!』

 怪物は面を抱えて、悲嘆に満ちた声を上げる。
 慟哭は深く、悲痛だった。怪物の心が音に乗って伝わってくるかのようだった。
 この慟哭を、怪物は死ぬまで――死してなお続けるのだろう。
 少女はそれを聞きながら顔を伏せて、諦めるように言った。

「やはり、自分を許せませんか」
『……』
「ならば、わたしが、父さまを殺してあげます。あなたを罰する事が出来るのは、わたしだけだから」

 ――それだけを願って、少女は生きてきた。
 因習に支配され、愛した女と、娘の一部を喰らってしまった罪に苛まれ、絶望に満ちた死を迎えようとしている父。
 彼の罪を罰して、許してあげる事が出来るのは、自分だけだった。そうしなければ、彼の死にはただ、悲しみしか存在しない。

 母は死んでいる。自分にしか出来ない。
 家族の責務を果たす事は、自分にしか。
 杖から刃を引き出して、高く掲げる。

「父さま」

 かつて父母と共に過ごした僅かな時間を思い出し、眼球の無い目から落涙して少女は告げた。



「さようなら」

       



[36842] エピローグa/離別
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/17 07:24
「……以上が、永代島での事件についての全てだろうか」

 紫垣城の内に設けられた狭苦しい小部屋の中。そう問い糾す査問役の文官の表情は、迷惑と軽蔑、そして無論、恐怖に溢れていた。深川永代島の頂点にある怪物のほとんどを自らの手で抹殺し、あまつさえ王まで手にかけた人間だ。いくら小柄な少女にしか見えなかろうと、やはり同等の怪物と感じられるだろう。
 ――いや。

「はい」

 文官と、簡素な机を挟んだ向こうで短く応じたいつきは、見目も怪物じみていた。かつて龍を模していた面は、あの日父の障気に形を歪められて、確たるモチーフを持たない無名の怪物の貌と化している。

 正体不明、未知なる化物。
 今後、〝き〟という字は怪物の代名詞として畏れを以て語られるようになるのだろう。
 文官が、ため息をついた。何かを切り替えるように。

「正直な所、貴官の扱いは難しい。ここで拘束して六孫王府に引き渡すのが至当と、私は個人的に考えている」

 ほんの少し、いつきは彼の評価を引き上げた。恐れを抱きながらも信義を忘れない。なるほど、九重府の人材の程度は悪くないようだ。

「そう思うのは結構。わたしは、好きにしますが」

 ちょっとした意地悪をしてみるが、文官は内心はさておき表面上は実務家らしき風を取り繕う事に成功した。

「……政治的な心配は――これを率直に幸運と思うべきか迷ってしまうが――存在しない。伯父君に感謝したまえ」

 父を殺し、崩壊する太歳宮から脱出した後で、石斛斎は自分が未那元森羅、父の兄である事を明かした。
 ――俺は政治に復帰する。芙蓉局の後釜に付く。
 そう宣言して、

 ――お前を六孫王府に招きたい所だが、無理だ。今回の件で、お前は深川に敵を作りすぎた。
 ――余計なお世話ですよ、おじ。
 ――わたしは、未那元の人間ではありません。ただの殺し屋です。狗のねぐらに帰ります。
 ――……そうか。だが、今回の件で被る危険を避けるように計らいはする。それ以上の事を出来ないのを、歯がゆく思う。お前は、俺たちの禍根に一人で決着を付けたと言うのに。

 ――お節介焼きも程々に。……さらばです、伯父。
 ――……あまり、優しくするな。お前の声は、俺を袖にしたあの女にそっくりだ。
 ――さらばだ、いつき。達者で暮らせ。出来れば、唄を覚えろ。最後まで俺のものにならなかった女だが、あの唄だけは未だ愛しくてならない。

 蛇足じみた言葉を残して、彼は十七年空けていた故郷へ帰っていった。
 伯父は約束を守り、九重府に介入して三人への追求を和らげたようだ。復帰したばかりで不安定な政治基盤に立ちながらの行為だ。少なくない犠牲を払ったのだろう。

「未那元森羅と我々の利益は合致している。君が行った永代島で暴走した御門八葉の殺害も含めて、全ては藪の中だ」

 工作、交渉、水面下の仕事で疲労した表情で、文官は告げる。

「だが、疑問が残る。蠱部あやめと貴官と、あの少年の証言が食い違っている」
「彼は、功名心ばかり強い小者です。それだけに、扱い易くはありましたけど」

 一拍も間を置かず、平然と、いつきは応じた。
 軽い同情心、強い軽蔑、そんなものを表情に貼り付かせて、文官は言う。

「悪い女に引っかかったな。自業自得ではあるが」
「彼の処遇は?」
「小者は、小者なりにだ。五摂家の高い視界には、謀られた子供の姿など入らない」

 諧謔を込めて応じる文官。いつきは、安堵を覚えるのを全力で自制する。

「自分の心配はしないのか、斎姫」
「……」
「ああ、そうだったな。〝き〟」

 怒りの気配めいたものを微かに臭わせれば、明らかに怯えて文官は前言を訂正した。他人は、その二つの称号でしか自分の名を呼ばない。今後は後者ばかりを耳にするようになるのだろう。
 いつき、と呼んでくれる数少ない家族とは、もう離れて行く。

「我の強い曲者。なぜか、あそこに集うのはそうした連中ばかりだ。……不可知領域に着任する最年少の人間だぞ、君は」



 小部屋を出た途端、兄の姿があった。扉越しの気配で、分かってはいた事だが。
 宮殿の広い廊下の中央に佇む彼の表情は、怒り、困惑、そんなものに歪んでいた。

「……何故だ」

 軋るようにうめく兄。

「何故、虚偽の報告をした」
「あなたと離れる為です」

 冷徹を極めた声音で、いつきは応じた。

「わたしは、目的を果たしました。もう演技の必要は無い。あなたは用済みです、いなき様」
「……ぁ」

 裏切りを突きつけられ、追求を重ねようとする兄の身体が震える。
 追い打ちをかけるように、いつきは告げた。

「あなたは最後まで、扱い易い馬鹿な男でしたよ。一回抱かせてやった程度で、何でもしてくれた」
「……っ」

 若い男を傷付けるのに最適な言葉に、羞恥を覚えて、兄は奥歯を噛みしめいつきから目を逸らす。

「家族ごっこはもうおしまい」

 いつきは鼻を鳴らして、

「さようなら」

 捨て台詞にそんな言葉を吐いて、彼女は廊下を歩みだした。杖と、義足と、肉の足。三本の足が床を叩き、断絶を表わすような硬質の音を返す。
 後方で、柱を殴りつける音がしても、彼女は振り返らない。

 ――忘れようのない場所に辿り着いて足を止めた。
 二人が出会った場所。
 兄と、妹になった場所。
 手の平から落ちた血は、もう痕すら残ってはいない。

「……あやめ様」

 今日そこには、姉がいた。兄を救う過程で病み付き、更に身体を弱らせたようだ。柱に寄り掛かって身体を支え、ようやくの事で立っている。長い綺麗な髪も失って、肩にかかる程度になってしまったのが惜しく思う。

「いなき様の元に行ってあげて下さい。あの人は、傷ついているでしょうから」
「どうして、こんな事をするの」
「分かっているでしょう。わたしと、あの人は違う。わたしは目的を遂げても、その後の人生を生きる余地はあった。けれど、あの人はたとえ蠱部尚武を殺しても……いえ、殺そうとしている限り決して救われない。だからあなたも、口裏を合わせてくれたのではないですか」
「違う。そうじゃない」

 姉は、いつきの述べた言葉を否定しているのではなかった。

「なんで、彼と離れようとするの。あんな嘘を、つくの」
「嘘なんかじゃ、ありませんよ」

 喉から上る声はかすれていた。
 嘘ではない。彼を騙した事は決して、偽りなどではない。
 懺悔するのにこれ以上ない場所で、いつきは言った。

「わたしはあの時、ここで待っていたんですよ。哀れに、か弱く地面を這いずって。誰かが助けてくれるのを。助けてくれる人間なら、誰でも良かった」

 一人だけでは、目的を果たせなかったから。十歳の、言葉をろくに知らない少女はそれだけの事を計算していた。
 そして一人の少年が、それに騙された。

「たったひとり手を差し伸べてくれた、優しくて、ひとりぼっちの人。だから、わたしは」

 ――これで、わたしたちは〝きょうだい〟です――にいさま。
 そんな甘やかで、悪質な言葉で、彼を縛り付けた。

「あんながんじがらめで、かわいそうな人に、重荷を背負わせたんです。それから何度も何度も頼って、依存して。あの時だって」

 ――わたしの右目を、奪って下さい。
 ――ひとりじゃ、怖くて出来ない……
 ――左目を奪ったのは、父。だから。
 ――同等の絆を、結んで……
 ――こんなに弱くて、ごめんなさい……

 光を失うのに怯えて、彼に行為を肩代わりさせた。更に深い責任を背負わせて、強く自分に縛り付けた。

「わたしは、醜い」

 この怪物の仮面よりもなお。隠さなければ、自分で耐えられない程の醜悪さ。

「嫌われてもいい。でも、こんな素顔をあのひとに知られたくない……」
「……それは」

 姉は、顔を苦悩に歪ませた。彼女が表情に色をつけるのは酷く稀で、だから、こんな時に感情を露にする彼女と家族であると、信じる事が出来る。
 彼女は絞り出すように告げた。

「あなたにとって、彼はもう、誰でも良い人では無いからよ」
「はい」

 五年間、依(よ)り掛かって過ごした歪な時間であっても、育まれるものはあった。
 ある時は、父母への情よりもなお強くあったものが。
 恋をしていた。――いや。これからもずっと、この気持ちを抱き続けるだろう。

「……でも、わたしはこの気持ちを永遠に、あのひとに伝えない。もう二度と、あのひとの重荷にならない。それがわたしの犯した罪への罰です」
「……それで良いの?」
「はい」

 強く、心を制御して。縛り付けて。
 いつきはそう告げる。恋心を、封じ込める。
 姉はそれを間違いとしなかった。己の決断をその歪さも含め、認めてくれた。だからいつきは、彼女を姉と敬愛している。

「さようなら、姉さま。兄さまを、よろしくお願いします」

 姉はそれに応えてはくれなかったけれど。
 彼女の、兄へ抱く気持ちを知っていたから、いつきは躊躇わず道を進んだ。
 家族から、離別する道だった。





[36842] エピローグb/黄金の季節
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/17 14:53


                        【一年後 識与二五七年 十月】

 大地を、黄金が覆っていた。

 あのひとの故郷、かつて武州と呼ばれていた不可知領域で任務に就いて、一年余経つ。一年前は新しいねぐらと、何よりあの強力無比な妖魅(ヴァイラス)との戦いに慣れるのに手一杯だったが、今は非番に外出し、景観を楽しむ余裕も出て来た。

 十年前に住民が退去した村は取り潰され、今では大規模な耕作地帯となっている。農作業を行っているのは機械だ。八百八町市民の目から離れた不可知領域では、近世のままの科学技術で我慢する必要が無い。ここで行われ、八百八町本土を支える産業は完全にオートメーション化されている。武州に常駐するのは、侵略者と戦う兵士だけだ。

 ごうん、ごうんと一定のリズムで動作する無人のトラクターの他に人の姿は無く、いつきはただ、周囲を稲穂に囲まれている。視る事が出来なくても、その黄金の気配は感じられた。匂いがする。風が肌に触れ、耳に残響する。もう少ししたら、味を楽しむ事も出来るだろう。

 あのひとが住んでいた本庄領は存在すら抹消されたが、近隣のこの場所でなら空想する余地はある。この素朴で、ささやかな黄金の色彩はあのひとの髪の色そのものだった。佇めば景観に溶けてしまいそうな程に。
 懐かしさに、ほんの少し涙が出る。

 妖魅の侵攻は今小康状態で、兵士は暇を持て余すしかない。ほとんどが宿舎から出て無目的に散策している。しかしいつきの道行きには、目指す場所があった。
 人目に触れない所。普段から時間を潰している、あの丘の上が良い。



 農地を程近くに見下ろす丘に腰掛け、面を外して杖と一緒に脇に置く。いつきは届いた手紙に指で触れ、墨の配置から文字を読み取る。

『実は手紙を書くのは初めてで、四苦八苦、あるいは七転八倒しながら文面を考えています。笑ってもいいけれど、それは秘密にしていてね』

 姉は、そんな書き出しで手紙を書き連ねていた。表情からは分からない彼女の不器用さは、文面からなら明らかに露出するようだ。

『あなたの活躍は聞き及んでいます。でも、わたしにとってはあなたが無事である事が何より嬉しい。あ、父の事はどうでもいいので知りません。わたしがそう言っていたと彼に伝えておいて下さい』
「それは、それは」

 さぞかし蠱部尚武は苦しむ事だろう。最強の武神の苦心惨憺ぶりを空想しつつ独りごちて、いつきは笑う。
 半年前、いつきの口から姉と兄が祝言を挙げると(その当日に、との彼女の指示に従って)聞かされた際も、哀れに全力疾走して駆けつけていたものだ。

『半年前は、人づてにしか伝えられなくてごめんなさい。そちらへの文書の送付は難しく……いいえ、これは言い訳です。わたしは、誰よりも先にあなたにこの事を伝えたかったけれど、あなたに知られる事だけ、後ろめたかった。わたし自身の言葉を伝えた結果、あなたがどう思うかを考えて躊躇ってしまいました』
「はい」

 応える。この場所ですっかり彼女は、独り言が多くなってしまった。

『こうしていくらか積極的な事をしようと、決意したのにはきっかけがあります。その……先日、妊娠したとお医者様に言われました』
「……おめでとう、ございます」

 予想していた事だ。ほんの少しの苦みはあった、けれど。
 祝福の気持ちも、間違い無くあった。

『家族が一人増える。でも、だから。わたしと彼と、子供の作る輪の外側に、あなたを置いておきたくない』
「……」
『強欲で、恥知らずなお願いかも知れない。あなたに、苦しみを強いてしまうのでしょう。けれど、子供が産まれた時に、あなたが家族の輪の内にあって欲しい。六年前、それぞれひとりぼっちだったわたしたちが繋がれたように、もう一度。わたしと――彼は、それを望んでいる』

 その時には、気付いていた。姉が自分の抱える罪悪感を、遠回しに表現している理由も。彼女は一年前の自分の誓いを、未だに重んじてくれている。
 字に触れる指が震える。紙面に、涙が落ちてにじむ。
 素朴で、素直な筆遣い。文字を見れば、仏頂面の内の心が分かる。
 兄の字だった。

「――はい」

 黄金の風に包まれて、子供のように泣き笑いの顔で、いつきは手紙に応えた。



[36842] そして
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/17 14:54


 そして今、いつきの手の内に血染めの刀がある。足下に、畳を血で汚して倒れ伏す姉の身体があった。

「……っ、どう、して、こんな事に」

 夕暮れの日が血液を醜悪に染める、書院造の簡素な部屋の中。絶望にうめきながら、いつきは刃の腹をこちらに向ける。血に濡れて何も照り返さない。怪物の面は映らない。
 そんなものを確かめて、何になるのか。刀剣の扱いに慣れた自分が初めて、それを他人のもののようによそよそしく感じている。

 脳裏を混乱の風が渦巻く最中に、足音を聞いた。兄の足音。
 襖を開け放って、彼は硬直する。

「な、ぁ……え?」

 困惑した表情は、一瞬の後に空白になる。理解を超えた絶望を前にして、人の感情は虚ろに閉ざされる。
 これは――これは――兄さま、違う――わたしは――
 無駄言を口に上しかけて、いつきはそれを決死と言える程の力で封じた。面は被ったまま。中の表情がどれほど荒れ狂っていても、彼には悟られない。
 語るべき事を、口にする。

「危急でした」

 理解出来ない、と彼の表情が弛緩する。続けて、言葉を並べる。

「雷に穢れた子だけを摘出する暇は、ありませんでした」

 彼にとって親しんだ、おぞましい言葉を聞いて、理解の光が点る。その光は見るべきでないものを暴く、残酷な照明となる。
 愛する男の運命を破壊する言葉を、いつきは告げる。

「母体は……助からないかと」




[36842] 後書き
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0
Date: 2013/03/18 01:24
というわけで、完了となります。読んでくれた皆様、ありがとうございます。

本作は自分が非才であり、本当の意味での作家であるに足る能力のないまま
出版の権利だけ得て失敗し、それ故に真っ当な終わらせ方をさせてやれなかった作品です。
誰よりも、作品世界に生きるキャラクターに申し訳無い、現実的で情けない結果でした。
次こそはこんな結末にならないよう精進したくありますが、首尾良く「本当の作家」になれたとしても
本作のキャラ達は今後誰にも見向きもされずに、終われすらせずに停滞する。
それは作者の罪だと思います。
本作であるキャラが、罪は購えないと述べました。彼女はそれを自覚してもなお生き方を変えずに死にました。
自分で作ったキャラながら、彼女のように強靱ではあれず、単に生き方を変えられないという理由で
自分はこれからも、おそらくは同じ罪を重ねながら書き続けていくと思います。
ご縁があればまたお会いしましょう。



感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.094666004180908