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[38619] 樹治名将言行録 ~鐘山環伝~【戦国時代風ファンタジー】 完結作品
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:34
 広大なその大地は、後に製図した者達が、
「まるで正面を向いた牛のような」
 と筆を走らせるほどに奇妙な形をしていた。
 両端は南へ下がって海に面し、中央は顔のように大きく広がり口を象るかの如くその南部には大河が流れ込む。

 これは、その左角、
 最西端に位置する半島、
(じゅん)
(もん)
()
を司る
(かな)
(やま)
家における、骨肉の争いの、始まりの物語である。





※こちらは、オリジナルの軍記物となっております。登場人物・世界観等々は完全にフィクションです。ご了承ください。

※どこかで見たような名前も出てきてあくどいことやってますが、どうか笑って流してもらえると助かります。ホントに。

11/29
なろうの方に章構成を合わせ、信守伝は分離させました。
ご迷惑をおかけいたしますが、ご了承ください。



[38619] 第一章:開花 ~大渡瀬の脱出~ プロローグ:黒衣の記憶
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:29
 ――その人を、祖父の死を通じて見知った。

 祖父の葬式の日、彼は母にしがみついていた。
 どうして祖父は寝たまま何日も目覚めないのか、どうして皆が嘆いているのか。

 身内を初めて喪った彼には、何故皆が嘆くのか、理解できぬ光景だった。並んで渋面を作る父や叔父を見て、「そういうものか」となんとなく流れを掴んで押し黙っていた。

 瞬間、彼の目に、彼女が留まった。
 祖父に手を合わせた後か、参列する人々とは逆方向を行く黒衣長髪の美女。微笑んでいた。彼の黒瞳には、群れのなか、逆行する雁のような異分子に映った。

 ――その人のことを、憶えていた。

 その朝まで壮健だった父の横死。家臣に突然刺殺された。
 揺れる百万石の領内。混乱する城中。
 茫然と自分を見失う彼の、青く染まった双眸が彼女を捉えたのは、そんな最中だった。

 百官入り乱れる中、粛々と別方向を歩く、黒衣長髪の美女。
 微笑んでいた。
 それは、時間が止まった中で動く特異点だった。死者の中、一人佇む生者だった。
そしてあの時と同じく、誰もが異質で異物に異を唱えることなく、その横を素通りして行く。

 ――見間違え様がない。

 あれは、十数年前、出会ったあの女だ。
 あの時と一寸たがわぬ美貌を保ち、己の前を横切った。
 たまらず、声をかけた。

「おい、あんた!」

 目が合った。

 高い鼻、薄く朱を差した頬。
 涼やかな美しい両眼が、ほんのわずかに見開かれる。
 顔立ちは若く、施した化粧は、己を歳下に見せるためではなく、まるでませた子が親の道具を拝借して塗布したようだった。

 それから、少女のごときそのいきものが、自分に優雅に笑んで、止める間もなく去って行った。

 父は、呆気なく息絶えた。自らの配下の刃によって。
 その犯人は、その場にて誅殺されたという。

 だが、それが陰謀の一端であることを、彼、鐘山(かなやま)環(たまき)は己の身を以て知ることになる。



[38619] 第一話:黒衣の尼僧(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:30
 草鞋も、袴の裾も、赤い泥にまみれていた。

「はぁ、はぁっ! はぁっ」

 息を切らして、環は山中を駆けていた。

 順門府百数十万石、最大の動員兵力は三万。その次の主と目されていたこの青年の供は、長年連れ添った老僕一人だけだった。

 そんな二人の前に、険しい勾配が立ちはだかる。
 強行すれば進めないこともないだろうが、蓄積された疲労と、いずれ追いつかれるという推測がそれを許さなかった。

 思わず立ち止まり、忌々しげに舌打ちする。
 彼らの背後で、風音。

「若!」

 え、と振り返る。
 瞬間、環の視界には虚ろな老爺の顔があった。
 突っ伏した後頭部から、矢が生えていた。
 別れの言葉も死別の余韻もなく、幼少より自分を世話したその人は、呆気なく主を残して死んだ。
 そして追ってくる刺客は、涙を流す時さえ与えてくれなかった。

 馬蹄が地を鳴らした。
 騎馬武者は二、三。後に続くのは彼らの家臣数十名。

 闇の中で蠢くそれらを、環は険しい眼光を失わずに睨み返した。

「環殿」

 闇の中で馬から降りた男は、主筋に対する敬意を感じさせない冷えた声を発した。

「お父上のことはご無念でありましょう。しかし、かの御仁は外部においては敵を作り、内においては混乱を作った暴君。そしてこの度の弥七郎(やしちろう)の凶刃は、御仁の悪政が招いたもの。そしてその科(とが)はその子たる貴殿にも及ぶものでござる」

「科? 科だと? じゃあ聞くが、その罪科(つみとが)はその男の弟には及ばないのか? 佐咲(ささき)、渥美(あつみ)」

 叔父の差し向けた二人を睨む。
 家中でも歴戦の豪の者たちだった。
 闇夜からぼんやりと浮かび上がる両名の相貌は、暗殺者には似つかわしくない、堂々たるものだった。

「宗善(むねよし)公はこの国に秩序をもたらす英傑。あの方なくして順門府の平穏はなりませぬ」

「いちいち白々しい。親父殿を殺した下手人は、あの叔父にそそのかされたんだろ。じゃなければこうも素早い行動ができるものか」

 だが彼らの弁にも、表情にも、揺らぎはない。
 本気で、謀反方にこそ正当性が存在するのだと、彼らは確信している。
 いや、むしろ被害者である環親子に対する、積年の恨みさえ感じられた。

「もはや言葉は無用。腹を召されるというのであれば、介錯つかまつる」
「いやだね」
 べっと唾を吐いて、環は拒絶する。
「情の欠片もない奴らに、俺の首を任せられるか」
「ならば、無理にでもその首級、頂戴する。やれぃ!」

 佐咲の怒号に背を押されるように、足軽が二人、槍を構えて突きかかる。
 環は腰に差さった家宝の脇差ではなくその裏に隠された二本一対の手鎌を取り出した。

 『蟹鋏(かにばさみ)』と銘打たれている。
 反りの浅い鎌で、一つに重ねると蟹のハサミを思わせる姿になるのが名の由来である。

 彼はその刃を、突き出された銀穂の付け根にがっちり食い込ませた。
 もう片方の手を振り下ろし、その持ち手を断つ。
 ぎゃっと悲鳴が起きた。
 その大きさと生々しさに顔をしかめつつ、返す刀でもう一人の腹にそれを突き立てた。
 胴を貫き、足で押すようにして引き抜いた。
 内臓が確実に損傷したであろう彼が、くぐもったうめき声と共に崩れた。

 それを見ていた二人の猛将は、ぬぅと唸った。

 だてにお坊ちゃんしてたわけじゃないんだぞ、と環は二人に言いたかった。

 ――自分を守る武技ぐらい、教わっている。荒事にだって慣れている。

 だが、それがなんだというのだろう?
 と、次から次に迫り来る敵に苦労し、無力さを痛感する。

 人より殺しの術が二手三手長けているというだけで。
 人より二人三人多く殺せるというだけで。
 単騎で数十倍の敵を相手どらなければならない現状では、なんの意味もなかった。

 自然追い詰められ、包囲は狭まる。
 逃避行に続き、矢継ぎ早に攻め立てられては、身体が保たない。

「ぬぅん!」

 包囲の外から、飛び出てきた佐咲。その手には大身長柄の槍が握られていた。
たくましい上腕から繰り出された一撃を、辛うじて両手の双鎌で受け止める。
だが、その瞬間、醜い金属音が耳を衝いた。後頭部を、鈍い衝撃が貫いた。
 ひとりでに翻った身体。自分の背後に、もう一方の刺客が手にした金砕棒が見えた。

 土の柔らかく、濡れた感触が頬に接している。
 傍に、無残な老人の屍肉があった。
 遠からず、そうなる己の姿を想像し、身をよじる。

「渥美、お主が決めたのだ。見事討ち取り手柄とせよ」
「何をいうか。佐咲、一番槍を仕掛けたのはお主の組下であろう。その仇を討ってこそ、彼らも本望であろう」

 死傷者を前に和気藹々と会話をする彼らの影。環はそこに、武士といういきものの業、狂気を見出した気がした。

 ――ともあれ、見栄を切ってこのザマか。この結果は予測し得ただろうに。必要のない片意地を張る俺も、所詮はオヤジ殿と同じく、酔狂者の血縁ということか。

 親子二代にわたって朝廷に背き続けた祖父と父の姿を思い、彼は心で吐き捨てた。

 痛みも感じず、ただ血が冷えていく。
 鼓動が弱まって行く。
 薄れる視界に、無数の影が蠕動していた。

 彼の時間は緩慢に推移していく。
 そのせいで、己の意識が正しく機能しているのか、環には確証が持てなかった。

 まして、その緩やかな動きの中、ごく普通の歩速で横切る黒衣の女の、くっきり浮かび上がる姿を見ては。

 ――あぁ、そうか……。

 と、環は悟る。
 死に瀕した自分のみに認識され、誰もがその存在に気づかない。
 とあればそれは、死神であろう。

 だから父や祖父の死に際、変わらぬ姿でそこにいたのだろう。

 ――それでも救いは、迎えにきたのが地獄の鬼じゃなく、美女だってことかな。

「では約束通り、その首頂戴する」
 そんな男の低音も、どこか遠い。



「それは困ります」



 幻影の女が、口を開いた。
 ……本当に、幼い。
 舌っ足らずな、幼女のような、飴のような、蜜のような、甘やかな清音。

 彼女のほっそりとした指先には、黄金の杖が握られていた。
 歩くたびに、先端に取り付けられた、鳥の羽をあしらった金属片が、

 しゃらん

 と、鈴のように鳴る。

「切り離すにはもったいなきお顔。濁らせるにはもったいなき青き目。止めてしまうにはあまりにもったいなき、その命の脈動」

 むさい男たちの間に並ぶ女に、佐咲と渥美はギョッと顔を歪めた。

「要らぬと言うのであれば、残さずわたしが頂きましょう」

「な、なんだ貴様は!?」
 どうやら、死霊の類ではなく、この女はれっきとしてこの世に存在しているらしい。
吠えた佐咲に、

 しゃらんと、音を立てて杖が迫る。

 佐咲が、空中を舞った。

 ――あれ? 人間って、あんな風に回るものだっけか?

 ぼんやりと、思ったのも束の間。

「ぬうぉ!」
 裂帛の気合を発しながら、女の杖の倍の太さの鉄棒が彼女に向けて振るわれる。

 しゃらんと金が鳴る。
 ギィィィィィ、という残響が、木々と葉を揺らすようだった。

 渥美文之進(ぶんのしん)。
 先年、隣国桜尾(さくらお)家との一戦で敵先鋒、桜尾元隆(もとたか)を討ち取り、勝利を決定づけている。

 剛勇で名を馳せた男の攻めは、同様に女の首を吹き飛ばすこと、能わず。
 涼やかな顔で、防ぎ止められた。

「その黒服、その妖力、貴様……いや貴殿はまさか!?」

 しゃらん

 女の腕が、猛威の一撃をはね返す。
 退いた渥美の顔は、夜の闇、樹木の影に隠されている。表情はうかがい知ることができない。
 それでも、自らの剛力が通用しないという事実と、女の正体に対する衝撃が、ありありとわかった。

「貴殿は……勝川(かちがわ)舞鶴(まいづる)殿か!?」
「はい。いかにその舞鶴に」

 最高級の遊女のごとき艶やかな名は、いかにもこの妖しげな女に似つかわしい。

「おのれ! 世捨て人が何を迷うたかっ!?」

 いきり立つ渥美が再度武器を振り上げるのと、女の空の左手が持ち上げられるのは、ほぼ同時だった。

 瞬間、夜天から矢と、光と、爆発音が降り注いだ。

「て、敵襲!」

 と誰かが叫んだ。

「矢だけではない、鉄砲!?」
「しかもこの音、十や二十ではありません!」

 部下の悲鳴、報告を聞き、渥美は苦い顔をする。
 樹上から飛来する矢の一本を弾き返すと、昏倒した朋友の肩を担いで、
「退け!」
 と鋭く命じた。

~~~

 事は、済んだ。
 追っ手が遠ざかって行く。

 残されたのは舞鶴なる女と、いくぶんかの死傷者と、そして頭の鈍痛だけだった。

 意識をなんとか繋ぎ止めている。
 だが、横たわった彼の世界はじんわりと、時間が経つほどに歪んでいった。

 その中で、黒衣から伸びた白い左手だけは、くっきりしていた。

「鐘山環どの。お祖父様、お父上の死に目にお目にかかりましたが、覚えておいでですね」

 こくりと、頷く。

 ――やはりあれは、この女だった。
 それも、向こうもこちらを見知っていた。
 そのことに、環は奇妙な感動を覚えて、胸を震わせた。

「さぁ、お手を」

 誘われるまま、捨て犬のようにその手に縋る。

 ふふっ、と。
 くすぐったげに笑う。
 転がるようなその笑声と、

「これで貴方は、わたしの君主(モノ)です」

 その後の契りの言葉が、強烈に響いた。



[38619] 第一話:黒衣の尼僧(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:30
 人が各派閥に分かれてそれぞれと権利や正当性を主張する。

 それを他集団に認知させる。

 法的手段で、あるいは直接的手段で、その道理の下に相手を屈服させようとする。

 それらは世の常、それらは人の常。

 大小さまざまな諸侯が王号を名乗り、自らが世界の統治者たらんとした王争期は三百年続き、現王朝が成立してからさらに六十余年。

 藤丘(ふじおか)家が全土を平定し、各王号を廃して府公とし、年号も『樹治(じゅち)』と改め、自らは帝として統一王朝を開く。

 ――そしてその正当性、権利が永久に続くものではないのも、また当然の理であった。

 組織は、中央政府の監視が届かぬ末端より腐敗し、それが最西端に位置する順門府公、鐘山宗円(そうえん)の反乱を招いた。

 樹治三十二年のことである。

 当時の帝は他の府公、直属の禁軍を糾合してこれを攻めるも大敗。

 この敗戦と、それを補填するための増税政策は順門府のみならず他の諸侯の独立、自治を許すことになる。

 再度の、群雄割拠である。

 以後数十年、鐘山家と朝廷は互いに睨み合いながら生きてきたと言っていい。



「だが、それも今日までよ」

 と、旧勢力を駆逐した鐘山宗善は、居城である板形(いたがた)城にて、言い放った。

 居並ぶ諸将は強く頷いた。

 三戸野(みとの)城主、三戸野五郎光角(みつがど)。
 天狗(てんぐ)城主、位町(くらいまち)京法(きょうほう)。
 狼(おおかみ)谷(だに)城主、新組(あらくみ)勇蔵(ゆうぞう)。
 龍馬(たつま)城主、亀山(かめやま)柔(やわら)。
 平松(ひらまつ)城主、鐘山貞寛(さだひろ)。
 店保(てんぽ)城主、鐘山国但(くにただ)。
 日月(ひづき)城代、背側(せがわ)改太(あらた)。
 歴(こよみ)城代、佐奈立(さなだて)百枝《ももえ》。

 これら集められた者以下の国人衆、村役、ことごとくが宗善に同調したのだった。

 四角く角張った頬を動かしながら、宗善は上座より、鷹揚に続けた。

「兄も父も道を誤った。そのために我が国は秩序乱れし混沌の中にあり、昨日まで順門府はまさに修羅の国であった。だが諸君らの活躍より秩序は取り戻され、これよりは正しき国へと生まれ変わることだろう。新たな法度、方針は我が腹心、砂臼(すなうす)大陸(ひろおか)と協議のうえ追って沙汰する」

 応、と勢い良く諸将が相槌を打つ。

「しかし」
 とそこ異議が上がった。

 発言者は一門衆の年長者、国但である。

「嫡子の環が逃亡したとか。あの者を討ち、後の禍根を絶つべきでは?」

 その言に、順門府の新たな当主は重々しく応えた。

「もっともである。既に光角麾下の佐咲、渥美が追討に向けられている」
 宗善がその光角へ視線を配ると、その老将はアゴの白髭をしごいてニヤリと笑った。

「おぉ!」
「あの二枚看板を……っ」

 と、しきりに感嘆が漏れ聞こえる中、同じく一門衆の貞寛が質問をかぶせた。

「ではその各城に籠もるその異母弟たちには如何に処するおつもりか」
「そちらも手は打ってある。じき戻るであろう」

 ――いったい、どういう意味か。

 新たな主の意図を掴み兼ねて、諸将が顔を見合わせた。

 その意図は、すぐに分かった。

「父上、お待たせいたしました」

 凛と響く、琴線の如き少女の声音にて。

 軍議行う室内に爽風が舞い込んだようだった。

 数人の、息を呑む音があった。

 銀色の細やかな髪がたなびく。
 それに見合った白い肌、真紅の瞳。
 いかなる花さえ恥じて俯くとされる秀でた容姿は、女神のような慈愛と、それを上回る強い矜恃を感じさせた。
 薄手の鎧に包んだ背はすらりと高く、同年代の並の男以上はあった。

 鐘山銀夜(ぎんや)。

 齢十七。
 十五にして、五倍の敵勢に奇襲を仕掛けて武勲を立て、初陣を飾る。
 以後二年間、大小の戦闘で無敗であり、一個人の武勇においても、智の応酬においても、千万の兵の進退においても並ぶ者がいないとされる若き名将である。

「姫将さま」
「月夜の戦乙女」
「順門の麒麟児」
「神の寵児」
「聖騎士」
「救世の天女」
「永遠の神童」
「天道の女神」

 めいめいが口にした称号こそが、この俊英に向けられた期待と信頼がいかに絶大なものかを知らしめていた。

 そしてそれは、彼女が鐘山宗善の娘であるという出自を差し引いても余りある称号であった。

「銀夜よ。首尾はどうであった」

 はい、と父の声に応じて、彼女は姿勢を正し、彼から見て最奥に、向かい合うようにして正座した。
 わずかな衣擦れの音の後、与えられた任務の結果を報ずる。

「既に従兄弟たちが集結し、反撃の軍を起こそうとしていました。よって整うまでにこれを討ち、『反乱』に加担した主だった者らを粛清しました。残党がそれぞれ居城に立て篭もりましたが、既に我が手勢が包囲しています。城番も調略済み。じき門扉は開き、我らは容易に入城できましょう」

 滔々と続く名将の言に、感嘆や安堵の吐息が漏れた。

「なんと!?」
「いつの間にかような」
「しかも姫様とて態勢が万全ではなかっただろうに。それでもなお、勝利するとは……やはり天才」
「では、これにて落着、と」

「いや、まだだ」

 と、諸将の楽観を戒めたのは、一番の功労者である銀夜本人だった。
 口元にわずかな微笑を称えた女神は、まさしく常勝将軍の威光を背に負っていた。

「この義戦は未だ周辺地域にとって、鐘山家の内紛程度にしか捉えられていないだろう。よって、朝廷に使者を派遣し、恭順を示すべし。この世に天子様がおわし、その臣下として各府公がいる。今こそ逆賊の汚名を返上し、正しき形に戻し、我らの政権こそ正当なものであると認めさせるべきだ」

「しかし、今更朝廷に降伏しても、認めてもらえるでしょうか?」
「認める。そうせざるを得ない」
 と、一将の反論にも、あらかじめ用意していたかのように、淀みなく答えた。

「この戦国乱世、野心溢れる府公は数あれど、朝廷と直接的に敵対を表明している勢力は二つ。すなわち南部の任海(とうみ)是正(これまさ)、水樹(みずき)陶次(すえつぐ)らによる連合軍。そして我らの鐘山家だ。最近前者の動きが活性化してきたとか。父上、となれば我らの恭順は朝廷の方々にとっては歓喜すべき事柄であり、また和平の条件も良きものとなるでしょう」

 しばし、それぞれその内容を吟味する無言の時間があった。
 彼女の献策に対する諾否を問うべく各城主・城代より注がれた視線に対し、

「その言こそ、我が意に沿うものである」
 と宗善は首肯した。

「いつの間に、かような大局眼を……ッ!?」

 と、驚きの声が何処かからか漏れ、

 ――これは、次期当主は銀夜さまか!?

 という予測を、その場にいる誰もが想起した。
 いかに女の身とは言え、他の庶子らと比べ才気あふれるその言動を間近で見てきた彼らが、そう考えるのも無理らしからぬことだった。

 だが宗善はそれについては言及することはなかった。

「ではその使者は銀夜、お前に一任する」
「はっ」
「他の者も、秩序ある行動をもっぱらとすべし。良いか。秩序、秩序こそ肝要よ」

 新しい国主がそう宣言した瞬間、弟が兄を殺し、甥を追放せしめて正当ならざる『代替わり』は、ほとんど完了したと言って良かった。



[38619] 第一話:黒衣の尼僧(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:31
 鐘山環は、目を覚ました。
 立ち上がろうとするも、思うままにその身は動かなかった。
 混乱を起こす間もなく、自らの手足がくくりつけられていることに気がついた。

 ……そもそも己の身体は、横になっていないことを知り、彼の意識は完全に覚醒した。

 磔。
 それが、己の現状を物語っていた。
 今まで自分たちにかしづいてきた父の家臣達は、新たな主を仰いでいる。
 その叔父の視線が、じっとこちらに注いでいる。
 そこに喜びも、後ろめたさもなく、ただ路傍の虫を見る目だった。

 男の傍らで、銀髪の娘、鐘山銀夜が書を開いて、優等生らしく滔々と読み上げた。
「この者の父、鐘山宗流はもっぱら暗愚にして、先々代の悪習ばかりを継ぎ、朝廷をないがしろにすること明白。それに義憤を抱きし我が父の妙策によりこれを討ちしも、その息子は今こうして健在。その悪習の命脈、断つべし」

 異口同音。
 皆が「断つべし」と繰り返した。

「ちょっ……待」
 制止の声を遮るように、ギラリと槍先が二本、己の喉下へと押し当てられる。
 冷たい槍先がかすかに肌をかすめ、熱い血潮がそこを伝った。

「よってこの者を、磔刑に処す」

 そして処刑人は二人同時に、その槍を両側から突き立てた。
 ためらいも、儀式的な過程もなかった。
 痛みはなく、虚無感だけが残った。

「千秋万歳」
 と、野太い声で叔父宗善は言った。
「千秋万歳」
 と、合わせて一同が唱える。

 薄れ行く意識、遠のく声。

 ――それも、良いのかもしれない。

 今際に、ふと思った。

 ――それで皆が喜ぶのであれば……死ぬの、も……

~~~

「……っ!」
 今度こそ、環は悪夢から目を覚ました。
 手にはムシロのささくれた感触。背には硬い布団の感触。
 じわじわと現実を取り戻していく視界の片隅に、黒い塊のようなものが見えた。
 それがあの、黒衣の女であるということは、彼女が発した「あ」という声で知れた。

「お目覚めでしたか、殿」

 女、勝川舞鶴は、環のことをそう呼んだ。
 慣れない呼称に戸惑う環は、視線を泳がせ周囲を見渡した。
 どこかのあばら屋だった。
 銛や投網が壁に立て掛けられている。そのわずかな吹きさらしの隙間から、磯の香りが運ばれてくる。つまり自分は匿われていて、ここはどこかの漁師町で……そして、まだ生きている。
 この、謎の女に救われて。

 女は少年に歩み寄る。
 その袖口を環にそっと寄せて、
「大丈夫ですか? ずいぶんうなされていたご様子ですが」
 と汗と涙を丹念にぬぐい取る。
 屈んで近づく、顔と、女性らしさを体現した身体つき。それを包んで浮かび上がらせる、上品なツヤを持つ黒衣、焚き込めた香が、海の臭いを突き抜けて鼻孔をくすぐった。
 ビクリと、大きく揺れる肩が、彼自身の狼狽を教えてくれる。

「あ、あぁ……」
 その首肯を見て安堵したか、音もなく身を引いて、黒衣の女は満足げに、艶然と笑んだ。
「それは何よりです。……ささ、こちらを」
 薄緑の液体が注がれた飯盛り茶碗を差し出す。
 訝しげにそれを見つめる環に、
「毒ではありませんよ。薬酒です」
 と舞鶴は無言の疑問に答える。確かに、魅力的な発酵臭は、酒類のものだ。
 何日眠っていたかはしれないが、体中の水分は汗と涙で抜けていて、喉も渇いていた。
「ささ、ぐぐっと」
 手をかざして飲酒を勧める美女を。環は完全に信頼したわけではなかった。
 が、命をとろうと言うのであれば、あのまま放置すれば済んだ話だ。それに、今は身体が目の前のものを望んでいた。

 杯を手に取る。
 そのまま一気に呷る。

「……ぐ……え……っ!」

 瞬間、喉が拒絶反応を起こした。

「……はっ! ……がはぁ……っ!」

 たまらず吐き出し、倒れ、えづき、床と布団の上を往来し、のたうち回る。
 苦痛は言葉にならず、治まることのない手足の痙攣が代弁をする。

 ――毒!

 ……ではなかった。
 むしろ、少量しか肉体に取り入れなかったにもかかわらず、すっと身体に溜まった淀みのようなものが、除かれる心地だった。
 だが、何故そんなものを拒んでしまったかと言えば、

「まっず! まっず! 何コレ超まずい!」

 それに、尽きる。
 良薬口に苦し、とはどこぞの誰かの格言だったか。出所不明の神話であったか。
 だがこの味は、そんな名言を吹き飛ばす、ケタ外れのものだった。

「アシタバを漬け込んだ、秘伝の薬酒です。アシタバは《明日葉》とも申しまして、今日摘んでも明日には葉が生えるほどに、生命力が強い薬草。疲労を取り、気血を整えますが……どうやらお口に合わぬご様子で」

 舞鶴がその薬効の解説をしたが、悶える環の耳には、ほとんど入らなかった。
「み、水……水をくれ!」
 ふぅとため息をつくと、薬酒の処方者は転がる空の杯に、鉄瓶から薄茶色の液体を注いだ。
 環は反射的に起き上がると、それを手に取り、再び口に含む。
 ……だが彼は、その中身が何であるかをまず問うべきだった。
 期待していた麦茶の類ではなく、

「ぶはっ!」

 先ほどの劇物を遙かに上回る苦さが、彼の全身を駆け巡った。

「おごぉぉぉぉ! ぐぇえぇぇぇ……!」

「まぁ。山芋酒もお気に召さないと? 滋養強壮あとは精力増強の効力があるというのに……ぽっ」
 何を考えたか、いかにもわざとらしく赤らめた頬に、舞鶴は両手を添える。
 いい加減、この女の正体を悟りかけた環だったが、それでも現在進行形の苦痛から逃れるべく、「助けてくれ」と、救いを求めて手を差し出した。

「仕方ありませんね。では、そんな子ども舌な殿には、コレ、蜜柑を煮詰めた果実酒を……」

 中身が何であるか、教えられれば怖くはない。

「ぐえーっ!」

 ……そう、信じた環は自分の愚かさをなんべんも呪った。

「……まぁ、他にも山ウド、松の実、竹の葉、シソ、菊花、シイタケ、あとはなんかそのへんのを適当にザラッと入れましたけど」
「殺す気かッッッ!」

 失敬な、と依然として謎の女は、さながら童女のように口を尖らせた。
「むしろ舞鶴は殿を想い、身を捨ててまでお救いしたというのに」
「さっきまでその『殿』で遊んでただろうがッ! っていうかなんだあんたは!? 舞鶴と言ったが、鐘山の家臣か!? それとも順門府のいずれかの土豪か!? 国衆か!? あるいは僧兵か!? 他国の手引きか!? なんで俺に荷担する!? 主君と仰ぐ? じいさまと親父殿の死の際にいたあんたは、どうして歳をとらない!?」

 一気にまくしたてる環とは対照的に、まぁまぁと、おっとりと、盛り上がった胸の前で手を重ね、舞鶴は目を細めた。

「それだけお元気になれば、大丈夫ですね。舞鶴の薬酒もお役に立てたようで何よりです」
「答えろ!」

 彼女の遁辞にはぐらかされることなく、環はまっすぐ問いをぶつけた。
 まるで少女のようなその生物は、目を細めたまま紅を引いた口元を引き締め、裾を払ってすっくと立ち上がった。
 たったそれだけで、美しさは質を変えて、ぞっとするようなものへと変わる。

「申し遅れました。わたしは介勝山(かいしょうざん)の住人にして、そこにある古寺の主をしております、勝川舞鶴と申します」

「介勝山……?」
 その名は知っている。板形城の北にそびえる大山で、気温の高い西国の中で、唯一雪の積もる名峰として知られる。
 そこに立ち入ることは余人はおろか、支配者たる鐘山一族の中でも現当主しか踏み入ることの許されない土地であった。
 ……何故入山が禁じられているか、環は疑問を抱いたこともなく、ただ漠然とそういう規則なのだと受け入れてきたが。

「この身は不死ではありませんが、不老の体質を帯びておりますので、この外見を保っております。それゆえ、人はわたしのことをこう呼びます」

 十年前より変わらず娘の姿を保つ黒衣の魔性。
 老化も成長もしない魑魅魍魎の存在を、人はどう呼称するのか……?

「そう……美しすぎる黒衣の宰相!」

「………………」

「もしくは……可愛すぎる尼僧!」

「………………」

 恥ずかしげもなく自称する『美しすぎる黒衣の宰相』兼『可愛すぎる尼僧』は、沈黙を守る環の反応を引き出すかのように、手を頭に当て腰に当て、あるいは長い黒髪をなびかせ、得意げな顔を作る。
 その絶対的な自信に満ちた表情からは、どこからともなく「どやぁ……」という音が聞こえてきそうだった。

 どう答えたら良いか。
 それが見いだせないまま、彼の口からは自然と言葉がこぼれていた。
「……あんたが、何者かなんて今の話聞いてもピンとこないし、正直あんまり知りたくもないけど、あんたがどんな人間かは、分かった気がする」

 そして思った。

 ――黒い尼僧が仕えるんだが、もう俺はダメかもしれない。

「……ともかくっ!」
 と、環はようやく己を取り戻した。
 これ以上主導権を握られてなるものかと、躍起になって声と力を振り絞り、足に力を入れて身体を支えた。

「世話になった。だけどこれ以上の援助は要らない。あんたがどういう理由で俺を助けたかは知らないが、叔父御……新しい順門府の当主様は宗教とか慣習だとか、そういう不確かなものが嫌いなお人だ。こんなところを見られたら、あんたの寺とやらも即刻潰される。だから……ここからは一人で良い」
 返答は待たず、彼は布団の枕元にあった朱色の長羽織を打ちかけた。
 戸口に帳のようにかかった麻布を手で払いのけて、外に出る。

 瞬間、目映い光が、先ほどまで意識の闇の底にいた環の眼を鋭く突いた。
 それは太陽の輝きではない。目の前の集落が放つ、家々の灯りだった。
 規模はそれほどでもない。環のいる浜から、この町の全容は見て取れた。
 所々で飯を炊く煙があがる。喧噪や雑音が数町離れたこの外れにまで聞こえてくる。遠目からでも、今この夕暮れ時を昼に戻さんばかりの賑わいが、そこにはあった。

「ここがどこか、おわかりで?」

 先の突っぱね方などまるで気にした様子もなく、勝川舞鶴は環の耳元で囁くように尋ねた。
「……大渡瀬(おおわたせ)。板方城東の港町だ」
 ということは、未だ順門府領内。しかも国境からはまだ遠い位置だ。
 ……ふるさとであり、敵地の真っ直中。
 かつて王同士が争っていた時代、ここから水運で様々な国と交流していたという。
 こんな小さな場所に、いろんなものが入り込んでくる。
 こんな小さな場所なのに、いろんなものを容れてくれる。
 技術も、品も、人も。
 ……清濁混じり合った形で。

 農耕、操船、軍学、輸入品、献上品、流浪の民や他国の使節……亡命者、荒くれ船乗り、流れ者、遊女、あるいは戦場からかっぱらった戦利品。他国の機密。
 そして城を追い落とされた、旧主のご落胤。
 銭や娯楽になるものは、必ずここを通るとさえ言われている。

 競うように建てられた家屋の構造の無秩序さが、その悪性を証明しているかのようだった。

「……たく、こんな時間にガンガン、ガンガンと……」

 そう悪態をつく環の口の端には自然、笑みがこぼれていた。

 ――久々に、生きてるって感じがする。

 軽い感動さえ覚えていた彼の横で、にこにこ、楽しそうに黒衣の尼僧は控えている。

「やはり、先代、先々代の血ですねぇ」
「……は?」
「お二人も、人間の不条理、非合理、情欲を愛でる性質の方でした」
 まるで己が人間でないかのような、超越的な物言いで、この不老の悪女は声を弾ませた。
「……冗談じゃない」
 環はブスっとして言い返した。
「確かにあの二人はとんだ放蕩者で、酔狂を好んだが、そんなのに振り回された俺はいたってマジメな人間だよ。むしろ、秩序や静謐を求める叔父御に近い性質を持っているんだがな!」
「その叔父上は、殿を殺そうとなさいましたが?」
「それは! ……なりゆき、だろ……っ」
 着物の袷をきゅっと掴む。心が軋むような音を立てている。その痛みから、環は唇を噛みしめることで耐えていた。
「俺がいると、せっかく立ち直りつつある順門の治世の邪魔になる! 国中の皆が、俺の死を望んでる! そうじゃないのか!?」
 舞鶴を突き放すように、環は腕で大きく横一文字を切った。
 しかしそこに手応えはなく、孫を見る老婆のように眼を細めた彼女の、若々しい顔の前を横切っただけだった。

「……かもしれないですねぇ」
 のんびりと、しかし残酷に、彼女は主の言葉を否定しなかった。
 ただし、その肯定の次に、「それでも」と付け加えた。
「舞鶴は、惜しいと思いました。……環殿には、鐘山宗善の命だけでなく、天下を獲るほどの力があるというのに」

 ――惜しい? 惜しいだって?
 自然、口元から笑みがこぼれた。
 だがそれは先ほどの同質のものではなく、女の吹飯物の意見に対する、そしておのれに対する嘲りのものだった。

「一国どころか一城の主でもなく、今この瞬間にも殺されるかもしれない、この俺がか?」
「……では、逆におたずねします。殿はこの先、どうされるおつもりで?」
 にわかに、現実に戻された気がした。
 その温度差が環の頭を冷やした。今まで耳に入らなかった潮騒の音が、よく聞こえてくるほどには、落ち着きを取り戻すことができた。

「それは……考えてなかった。けど、むざむざ死ぬつもりはない。ここから海を渡り、どこぞに草庵でも結んで、そこでひっそり暮らすさ。天下なんて道……」
「なるほど。それもまた良いかもしれませんね」
 そう言い切っても彼女の切れ長の瞳には、失望の色はなかった。
 むしろどこか楽しげに、そんな言葉を交わすことにさえ、娯楽を感じているような様子だった。

「ですが、貴方はきっと、道ならぬ道を選ぶ」
「なんで、そう言い切れる?」
「その、きゅっと握りしめた健気な手ゆえに」
 ふふっと、鼻にかかる艶笑と共に、黒衣の女は環の脇をすり抜けた。
 すれ違いざま、彼女の指摘した、袷を掴んだままの手に指を這わせながら。

 ――魔女め。

 環は苦々しさを隠さず表情に出し切り、心の底で毒づく。
 そうはなるものかという意地と、そうなるかもしれないという恐怖が、胸の内に生まれると同時にせめぎ合っていた。

「それに、叔父上の統治とは、果たして万民が望む形なのでしょうか? ……現にほら」

 舞鶴が袂を持ち上げ指で示した先で、白い砂埃が巻き上がっていた。
 海沿いに十騎前後、軽装の武士たちが駆けてくるのが分かった。
 追っ手かと身構える環だったが、土煙が薄れて晴れていき、その正体が分かるや構えを解き、憂いを払った。

 ――あれは!

 彼らの先駆けとなっているのは、幡豆(はず)由基(ゆうき)。
 幼少の頃から長年連れ添う、竹馬の友。
 それ以降に続く連中も、酸いも甘きも共にしてきた、胞輩たちだ。

 ――あいつら、俺を心配してこんなところまで……っ

 感涙を目尻に浮かべながら、環自身も、その騎馬団に歩み寄った。
「ユキ!」
 声を張り上げる環は、つくづく思った。
 そうだ。これだったのだ。自分が本当に求めていた助けとは。

 ――こんな妖しげな女じゃない。気心の知れた親友こそ……俺は待っていたんだ!

 下馬した幡豆由基は、いつものように仏頂面だった。
 そして環の姿を認めるや、形の良い眉根を寄せて、



「お前バッカじゃねーの!?」



 ……開口一番、そう言い放った。



[38619] 第二話:異形の才花(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:32
 バッカじゃねーの
 バッカじゃねーの
 ばっかじゃねーの

 …………

 聞き間違いではなく、この親友はそう言った。
 そのままの勢いで詰め寄ると、いきなり胸ぐらを掴んでくる。

「なんで板形を出た?」
「なんでって……そりゃいきなり襲われたら逃げるだろ!」
「それでも屋敷なり城の一郭なりに立てこもって宗善討伐の号令を呼びかけてりゃ、去就を決めかねてた連中はお前になびいたのに。さっさとケツまくって逃げるもんだから、みんな宗善派になびいちまった。ったく、その程度の勘定もできねーから、国も盗られる。お前のオヤジも、冥府の門をくぐる前に息子の教育に本腰を入れなかったことを後悔してるだろうさ」
「だぁぁ! やかましい!」
 友人の容赦ない批判を振り払うようにバタバタと大手を振り、環は指を突きつけた。
「お前な、あの状況でそこまで頭が回るわけないだろ! そういうのは当人じゃないから言えることなんだよ!」
「当たり前だろ」
 ケロリとした顔で、由基は胸を張った。
「でなきゃこんな無責任なこと、言えるもんか」

「……っ……っ!」
 環は、突きつけた指を震わせた。
 絶句する口は金魚のようにパクパクと上下する。

 そんな彼の姿を見て他の朋友たちはゲラゲラと笑い、黒衣の美女はクスリとこぼす。

 ……幡豆由基がこういう人間であると、環は我が身の情けなさとともに思い出した。

 幡豆家は鐘山家の被官の家柄であるとともに、戦と水の神とされる盤龍神(ばんりゅうしん)を祀る宮、そのもっとも外郭に位置する五ノ宮を司る神官の家系である。
 この由基はその第四子として生まれた。

 歳は、環より三つ年下。
 本人はすっかり忘れたような顔つきでいるが、赤子の頃よりの付き合いである。

 いかにも神職らしい、気品に満ちた凛とした顔立ちと、射抜くような眼光の強さに、初対面の相手は気圧されることが多い。
 だがそれに反した粗暴さが、なおさら人を寄せ付けない。

 長い髪が動くのに面倒という理由で、バッサリ切り落とされている。
 その牡丹の如き色の唇から漏れるのは、一割が直言、正論。九割がそれが可愛いと思える大暴言である。

 そんな輩が、爪弾き者同士で徒党を組み、市井を闊歩するのは、自然な流れと言えた。
 落ち着いた色合いながら上等な絹織物を瀟洒に着こなしつつ、背に骨太の強弓を背負う姿は、常に一団の中でも一際目を惹く存在だった。

「ああハイハイ! どうせ俺は出来損ないで無能な三代目ですよ! で、そんな野郎のところに、わざわざ馬駆ってきたお前はなんなんだよっ!?」
「仕方ねーだろ」
 と、由基は腕組み嘆息して言った、
「他ならぬ、勝川舞鶴殿、直々の頼みだ。断れねー」

 まるで、知っているかもような口ぶりだった。

 ――追っ手の奴らも知っていた。

 波打ち際、童女のように一人戯れる、あの女を。

「なぁ、おい……おい」
 にわかに友人に詰め寄った環は、その肩を抱いて、顔を近づけ声をひそめた。

「なんだよ」
「で、あの女は何者なんだ?」
「お前……」
 と、由基は少し身を引いて、目を見張って環を見つめた。
 呆れたように睨み、嘆息し、
「彼女がどんな人間かも知らず家臣にしたってわけか。ったく、こんな情報弱者が一丁前に天下を狙おうってんだから世はまさに大荒れの大乱世だよな」
「あの女がお前らへの知らせになんて書いたか、そんなことはどうでも良いけど、俺は天下に望みなんてない。でも、あれは一体何なんだ? 本人に聞いても、自分は不老だなんだのと、ふざけたことしか言わない」
「聞いてるじゃないか」
 と、由基は大儀そうに息を吐いた。

「言葉のとおり、あの人は不老。それも凡人が経験する天寿の、二倍三倍という時間を、それこそ王争時代より生きているという順門府の最長老。『百年史』曰く、彼女の活躍あればこそ現朝廷の統治が百年遅れたとも、逆に百年早まったとも言われる、生きる伝説だ」

 ――その伝説とやらが、俺なんぞに力を?
 どうにも眉唾な話に、またも口の端には、自然と皮肉な笑みが浮かび上がった。

「はっ、それってアレだろ? 一人で生きてるって生きてるって言いながら、実は一族内で代替わりしてるってオチだろ?」
「そう思うか? あの御仁、お前とは旧知と言っていた。てことは既に一度、あるいはそれ以上、どこかで顔を合わせているはずだ。そこで会った彼女と今のあの女は、お前の言うように別人なのか?」

 斬りかかるような鋭さで言を継ぐ由基にたじろぎながら彼は思い返したあの日の姿を、今の彼女と照らし合わせた。
 やはり幼き日、亡母に繋がれて見た立ち姿は、今この時と寸分違わない。

 そしてそれは、この短時間で何度も繰り返した疑問だった。
 それでも、毎度出た解答は「甲と乙は同一人物である」という解であり、その度に、

「ありえない」

 と繰り返してきた。
「妖狐や仙人じゃあるまいし」
「いるんじゃないか。そういうのは。お前を追いかけてる宗善の娘は、銀髪紅瞳ってウワサだ。……そして齢十にして、突如目が青く変異する奴もいる」

 無二の友は、空色の双眸を覗き込みながら言った。
 それが妙にこそばゆくて、環は視線を外した。

「舞鶴のこともよろしゅうございますが」
 と、

 ふと振り向けば、至近にその舞鶴のにこやかな笑みがあった。
 うおっ、とのけぞる二人に今度は話題の人物が問い返す番だった。

「舞鶴は、殿と由基殿の関係こそ気になります」
「関係って、知ってるからこそこいつを呼んだんじゃないのか?」
「えぇ。ご昵懇とは風の噂には聞いていましたが、実際にはどのような仲なので?」
「ゴジッコン?」
聞き捨てならないことを耳にした、と言わんばかりに、由基の人相が悪くなっていく。
「ただの腐れ縁スよ」
「ですので、それを具体的に」
「なんでもない。ほんとうになんでもない」

「……流天組(りゅうてんぐみ)」

 ボソリと呟いたのは、一団の中で一番年若い良吉(りょうきち)だった。

 懐かしい言葉を聞いた瞬間、環の総身は、ビクリと無意識に揺れた。

「はて、なんでしょうか? それは」
「我々が結成した義賊の集まりさ」
「民を泣かせる腐れ役人を叩きのめし!」
「がめつい商人の証文を焼き払い!」
「市井を歩いて悪を挫く、義理と人情、伊達と酔狂の命知らずども!」
「と、そこの環が言ってただけで、要するに不良の集まりだ」

 ぎゃあああ、と。
 悲鳴をあげたのは、ほかならぬ環だった。
「やめろぉ! それ以上言うんじゃない!」

「……あらあら、うふふ」
 身悶える主人を横目で見ながら、舞鶴は思わせぶりな笑みを浮かべていた。

「鐘山環様は、実直な方とうかがっていましたが」
「は? 誰スか? そんなこと言ったバカは? こいつほどの悪たれ、順門百万石の中でもそうそういねーっすよ?」

 環の後頭部を無遠慮にベシベシとはたいて、由基は言った。うんうんと、他の朋友も同調した。

「毎回集まりに参加してたし」
「さっき言ってたことにも積極的に参加してたよなぁ?」
「おまけに旗とか歌も自作してたし」
「双鎌術なんて誰もやってないような奇特な武術をかじり始めたのもその辺りだったか?」
「……合言葉は……『天』」

「ぎゃあああああ! やめろ、やめてくれぇっ!」
 という環の懇願も虚しく、暴露されていく忌まわしき記憶。
 その事実が明らかになって行くたびに
「ふーん、へーぇ、なるほど」
 と、舞鶴はしきりに頷いた。
 転げ回る環のほうを見て、にやにやしながら。

「それで、殿は鐘山家の公子ですし、当然その頭目だったのですね?」
「いや、下っ端」
「ぶふっ!」

 由基のあっさりとした解答に、堪えきれなくなって舞鶴は吹き出した。

「だぁぁ! もう良いだろ! あんなのは忘れたい記憶なの! 否定したい過去なの! 完治した病なの!」
「完治したと言えば、できてもいない古傷はどうした? 今でも突然痛むのか?」
「もう許してくれよ!?」

 由基がトドメを刺すと、他の五人もゲラゲラと笑う。
 それに混じって舞鶴も笑う。
 一人ふてくされている環の肩を、事の始まりである由基が小突く。

「ま、この手の話題で夜通し語り尽くすこともやぶさかじゃねーけど」
「こっちはやぶさかだよ!」
「軍議だ」
「は?」
「まず宗善から逃げなきゃ天下取りどころか仇討ちもできゃしねーだろ。ほら行くぞ、未来の天下人どの」

 揶揄するような響きに、環は苦い顔をした。

 あの女の姿が見えてから、自分の感知しない領域で事が運ばれている。
 それも、自分が予想だにしない方向で。

~~~

「じゃ、軍議を始める」
 口火を切ったのは、元流天組の中でも口が達者な色市(いろいち)始(はじめ)だった。
「まずは、さっきまで寝てたって言うそこのマヌケ面に合わせて状況を改めて振り返る。事の発端は三日前、我らが大殿、鐘山宗流(そうりゅう)様が家臣の弥七郎に討たれたことから始まる。そしてその直後、まるでその隙を見計らうかのように公弟宗善殿が家中の統制を名目に各軍を率いて本城を占拠。いやはやその神速たるや、普段の凡愚の名を返上する勢いだったという。その後、娘御の銀夜殿が反発する勢力を次々に駆逐していった。で、おわかりか? 我らがご主君?」
 熱を込めて嬉々として弁舌をふるう始に対し、環はぶすっとふくれて、きゅっと長羽織の袖口をつかむ。
「……なんだか、鏡餅の上の橙になった気分だ。それとも餅は餅屋と言うべきかな。頭を無視して、勝手に話が進んで行ってる」
「ご自身の立場をようおわかりなようで、結構」
「お前はただのお飾り。オレらみたいな跳ねっ返りどもは宗善の治世だと弾かれるしな。だから舞鶴殿の誘いに乗ってお前をてっぺんに載せて、一旗あげようってわけだ」
「……お前らの方がよっぽど無謀だよ」

 ――しかし
 と。
 幡豆由基の吹聴はともかく、舞鶴の目的が未だ見えない。
 会って数日、そのほとんどは環は昏睡状態にあったから、たった一夜の付き合いとも言えるが、彼女は参謀のように、あるいは侍女のように、姉のように、母のように付き従う。だが、この会合においてはニコニコしたまま、未だ沈黙を貫いている。

 ……この、騒がしき酒場での、語り合いでは。
 逃亡者がこんなところで油を売って、いや酒を買っていて、なおかつ国の大事をツマミに飲んでいる。
 空になっていく徳利を横目で見ながら、環は呆れかえっていた。

「まぁこういう店のほうが、酔いどれの戯れ言と思われて、かえって人目を避けることもできる、ってもんさ」
 とは発案者の豊房の弁。普段の彼らしくもないこの浮かれようは、一大事に関わらんとしている自分たちに状況か、でなければ酒に酔っているに相違ない。

 前髪を、くしゃっと手で包む。
 ――まぁ良い。橙は橙らしく、無言で載っかってれば良いんだろ。どうせ一度死んだ身で、何かの間違いで俺は生きている。自分の死体がどう使われようと、死霊は口出しできんというわけか。

「……では当面の目標としては」

 集団の中で、舞鶴を除けば一番年嵩の地田(じた)豊房(とよふさ)が重い口を開いた。
 祖父が朝臣の近従であったというが、その祖父の代、朝廷と鐘山家の戦いで捕虜となり、そのまま降伏して配下となったという外様の家柄だった。
 そういう事情が彼をそうさせたのか、環や由基ら不良連中の中では、もっとも成熟した人格者と言って良い。それ故に信頼され、由基に次ぐ二番手として活躍している。

「未だ抵抗を続けているどこぞの城……例えば笑(えみ)城や連賀(れんが)城の軍と合流して再起すべきではないかな。舞鶴どののお考えは、いかに」

 と、空気を読んだ結果か、話題を振られた不老の最年長者に対し、周囲の関心が一気に集まった。
 舞鶴は微笑を浮かべて小首を傾げ、主人に発言の機会を求めた。
 主人は憮然としたまま手を振り、やる気もなくそれを許した。

「……ムダでしょうね」

「ムダ?」
「先日我が手勢より一報がありました。その二城および積木(つみき)城はすでに破られ、流方様の御次男虎千代(とらちよ)様、御三男有千代(ゆうちよ)さま、ともに最期を迎えられたとか」

 瞬間、思考が凍り付く。
 頭の中にカッと熱いものが流れ込んで、真っ白になった。

 気がつけば、掌を激しく卓上に叩きつけて、店内の耳目を一斉に集めていた。
「……死んだのか、あいつら」
 震える唇で、かろうじてそれだけ言った。
「…………はい」
 舞鶴は口だけに微笑を残して、ここまでで一番低い声で肯定した。

 ワンワンと、環の耳鳴りは激しくなっていく。
「二人とも?」
「はい」
 そして、耳鳴りが大きくなって形になって、その音がどういうものかを思い出す。
 ……在りし日の弟たち、その朗らかな笑い声だった。

 美貌の従姉妹の才能に嫉妬したこともある。立ち振る舞いに劣等感を覚えたこともある。
 それでも、殺意を覚えたのはこれが初めてだった。

 ――あれは、殺す。

「城にいた者は?」
「それは……」
「はっきり言え! この店内だけじゃない! 町中に響き渡らせろっ!」

 由基らも舞鶴も、
 環のその指示にギョッと瞳孔を開いた。
「落ち着けって、こんなところで騒いだって、正体がバレるだけだぞ」
「構うもんかっ! どうせバレる!」
「…………錯乱したか」

 舌打ちまじりに、幼なじみは吐き捨てた。
 他の五名も同様の感情をもって、環を睨んでいた。

 だが、勝川舞鶴だけは……
 彼女だけは、静かに目の中に笑みを取り戻していた。

「城内のご親族、宗流さまの妻、妾、家臣、老僕、投降を拒んだ者合わせて数百名、ことごとく粛正の対象となりました」
「あいつら、まだ十代にもなってないんだぞ……っ」
「はい」
「楓は……妹はどうした?」
「兄君たちと等しく首を並べられたそうです」
「……乳飲み子だぞ!? まだ!」
「はい」
「それでも……死ななきゃならなかったのか!?」
「はい」
「あいつら、そんなものを討って武功を誇ってるのか!? どんなツラして晴れがましく秩序がどうとか言ってるんだ!?」

 思わぬ凶報に対する民衆のざわめきと同情を背に受けて、吐けるだけの思いを吐き出した環。少年は頭痛と耳鳴りに小さく喘ぎながら、姿勢を正した。

「……この感情の爆発が、お前の死期を早めるかもしれねーな」
 由基は呆れと共に一気に濁酒を呷る。
「…………いや」
 環は前髪をクシャクシャとしながら、低い声で呟いた。


「これで、良い」


「……は?」
「まぁそれより、頼りの勢力が潰されたな。どうすれば良いのか、冷静じゃない俺には判断もつかない。流天組の頭領殿に、判断を任せる」


 それだけ言って、覚束ない足取りで彼は酒場を退出した。
 傷心の貴種に対する憐憫と、奇異の視線、紛糾する怒号。それらを甘受しながら、環は新鮮な外気を吸いに入り口へ。
 そこには、いつの間にか回り込んだ黒衣の美女が、さながら護衛のように待ち構えていた。無邪気な満面の笑みを浮かべて。

 それを無視してのれんをくぐろうとする環に、
「殿」
 と呼びかけ、
「……ご心痛お察しします。それと」
 囁く。


「お見事でございました」


 ……環は、尖らせた青い瞳に、黒い憎悪を混ぜて女を睨みつけた。

 しかしその憎悪が己自身に向けたものだということだけは、環の傷だらけの心の中で、はっきりとしていた。



[38619] 第二話:異形の才花(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:33
「…………ふぅ」
 一刻半後、
 町中の市をぶらつきながら、環は深々とため息をついた。
 その数歩後をぴったりと、ずっとニコニコしたまま舞鶴はついてくる。
 はや夜深くだというのに、まるで昼間のように各国の珍品がやりとりが行われ、銭が回る。
 環自身、格子窓より娼婦の小袖に袂を引かれること数度、鼻を伸ばしかければ、

「にこにこ」
「……口で言うなよ」

 満面の笑みの黒衣の尼僧が傍に控えていれば、萎えるというものだ。
「……だぁあ! なんなんだよ!」
「殿のお守りは家臣の努めですので」
「お守り、お守りって言ったか!? 余計なお世話なんだよっ!」
「それと舞鶴には、一つお聞きしたいことがあります」

 ――本題はそっちだろう。
 その回りくどさにうんざりしながら、アゴでしゃくって問いを促す。

「……何故、流天組の主導権を委ねたのですか? その気になれば、奪えたはずであるのに」

 市の声が遠くなった気がした。
 嫌そうに顔をしかめた環は、前髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
 深々とため息をつきながら「仕方ないだろ」と己を納得させるように言った。

「だって相手は幡豆由基だぞ? 弓の腕においてはあの佐咲らにも引けをとらない剛の者、さっき見たとおり、頭も切れるし、実はあれでも神家だから教養もある。今さら俺が取って替わる! なんて言ったら、眉間に矢が突き立つぞ」
「しかし殿は……あの一瞬、確かに他の者を呑んでいました。あの、酒場での啖呵にて」
 舞鶴は細めた眼の奥、長い睫の下、ほんのわずかな陰を潜ませて言った。
「もう一度お尋ねします。何故、その器量がありながら人の上に立とうとしないのですか?」
「……それってアレか? 『実は本気出せば俺はすごいんだけどぉ、ふだんはめんどくさいからやらないんですぅ』って、怠け者の常套文句か? ……冗談じゃない。俺はせいぜいこの程度の小器さ。人から嘲られて、見下されて、ヘコヘコしながらそれに甘んじて、ただ流されるだけの、な」

 おどけて見せても、舞鶴はニコニコ笑っているだけで、特別感想を漏らすことはなかった。
 つまらない、と思いつつ、フンと鼻で嗤って、環はきびすを返す。

~~~

 それぞれの通りの交差点にあたる広場に出た。
 露店が立ち並び、トウガラシや油、瓜や大根を売り、行商人が陶器や薬効定かならぬ怪しげな薬を売る。
 その中に、ぽつねんと浮かび上がる小さな人影があった。
 広げられたムシロの上には布きれや小皿や、あるいはかんざしが並べられている。
 だが、客がそこに立ち寄らないのは、そこ店主の若さゆえだろう。

 歳は十二、三と見た。
 表情はぼんやりとしているが、眼光はそれに反して強く、顔立ちも悪くない。
 粗末な衣にくるまれた肌は、日に焼けているが黒絹のようになめらかで、体はやせ細っている。
 丁寧に結い上げられた豊かな黒髪は、通行人の目には入らないのか。
 もう二、三年もすれば、イヤでも人の目を惹き付けることは明らかだった。

「よぉ」
 なんとなく興味が沸いて、環は少女に気軽に声をかけた。
 じっと見上げる瞳は大きく、吸い込まれるようだった。
「お店ごっこか」
「ごっこじゃない。あたいのお店」
 拗ねたように抱えた膝に口元を埋める少女に、環は苦笑してみせた。
「しかし商売っ気がないようにも見えるが……盗品か?」
「違う。拾った」
「拾った?」
「合戦場とか、盗賊の逃げた後とか」
「あぁ」
 と、環は納得した。
 つまり、合戦の後、死体や敗残兵が散らかしたもの、あるいは盗賊が手当たり次第かっぱらったおこぼれ、それらを少女は拾っているのだ。
 孤児か、あるいは貧困な両親に生まれたゆえか。
 無論、環にはそれを咎める気はなかった。
 所有者のなくなったそれが、生者が生きるために使われたとしても、なんら問題はないだろうと考えているからだ。

「買うの? 買わないの?」
 正体不明の馴れ馴れしい客に、少女はうさんくさげに不審の目を向けた。
 歯切れ良く、心地良い声の響きが、環の耳には気持ちが良かった。
「じゃあ買おうか。……そこの帽子」
 竿だけに立て掛けられた鍔つきの丸帽子が、少女への憐憫を抜きにして環の感性の琴線にひっかかった。

 赤い布地に、薄く格子状の模様が入っている。
 帽子のでっぱりの付け根に黒い帯。
 少女に断って手にとってみると、これまた奇妙に柔らかい手触りだった。
 ――襲われた商人の、都からの仕入れの品か。
 この辺りの流行ではまず見たことのない意匠である。
 あるいは時折海に流れ着くという、未知の品か。
 どんな出自にせよ、彼が一目惚れしたのは事実だった。

「うん。気に入った。これくれ」
「銀五粒」
「はいはい」
 その程度は安いものだ、と懐から銭を相応の金銭を支払う。
 この交換により、所有権は誰ぞと知らない人物から、この色黒の少女に、少女から、環へと推移していった。

 いそいそと、彼は頭にかぶってみる。
「……へへっ、どうだ?」
 くるりと回ってみせても、少女は無関心そうに、じっと唇を引き結んだまま、対価となる銀貨を手元のビクの中へと放り入れた。

「……あのなぁ。そういうときは、世辞でも言っておくんだ」
「そうなの?」
 邪気もなく目を丸くする少女の前に座り込み、彼はコクコクと、何度も頷いて見せた。
「商売の基本だな。お前、名前は?」
「鈴鹿(すずか)」
「鈴鹿。こいつは商売のみならず、人との付き合い方の基本だ。人は歓ばせれば気前が良くなる。おだてるんじゃなく、媚びるんじゃなく、相手が必要な時、必要なもの、必要な言葉によって応える。そうすれば人は動く。例えその見返りが、利や理に合わないことでも、な」
 未だ合点がいかない、と少女、鈴鹿は首を傾げる。
 秘めたる鬱屈ゆえか、ちょっとした気の緩みか、環は口を滑らせた。

「例えば……俺の友人に幡豆由基というのがいる。育ちの良いせいか賢く、誇り高く、反骨精神旺盛で、特に自分の領域に踏み込まれると強い反発を覚える。だが、決して度量が狭いわけじゃない。むしろ目下に対しては面倒見がよく、懐が深い。……だったら、いっそ目下になれば良い」

 自分があの場で流天組の主導権を握ろうとしていたら、賢い友人は自らの既得権益が侵されることを悟るだろう。

 ――今は仲間内で争っている場合じゃない。

「安いもんだ。ガキ大将の座と五、六の家来であいつの戦力が買えるなら」

 ふとこぼれた己の言葉に、環は苦いものを感じた。
 ごまかすように手をやった頭に帽子があって、目深にかぶり直した。

「どうにも波乱の世に放り出されたせいか、性格も口も悪くなって困る」

 苦笑交じりにそう言って、不思議そうに覗き込む少女の頭を撫でる。
 まるでネコのように、彼女がくすぐったげに目を細めた時、流天組の一人、色市始がその広場にやってきた。
 無人の台座にのぼる。
 この見慣れぬ若者が、オホン! とわざとらしく咳払いしたので、民衆の耳目は東部の道にいる彼へと向けられる。

「えー、皆! 聞いてもらいたい! 我は順門は城西の住人、色市家庶子の始だ! 既に聞き及んでいるとは思うが、先日鐘山の殿様が非業の死を遂げ、その黒幕である弟の宗善が城を奪い、嫡子環殿を逐った! かような非道の御仁に、国を委ねてよいものだろうか!? 秘事ゆえ多くは言えんが、現在、環の若殿は我々が保護させてもらっている! そこで諸君らの義心に期待する! すなわち食料、武具を貸してもらいたい! あるいは我こそはと思う者は義戦に参戦されたい! さすれば我らは大敵を討ち、皆の義援に必ず報いるべし! 詳細は北の通りの高札にある! ぜひともご覧いただきたい!」

「……何やってんだ、あれは」
 突然始まった胞輩の演説会に、当事者でありながら何故か蚊帳の外の環は、呆れつつ遠巻きに眺めていた。

「お聞きのとおり、皆から有志で食料や資材、人員を集めようとしているようですね。向こうに高札も立てられてましたし、おそらくはここで挙兵する腹かと」
「だぁっ!?」
 気づけば隣に、黒衣の美女が座っている。
 驚く環をよそに「あ、これくださいな」などと、鈴鹿の品を漁っている。
「資材、人材って……あんたが俺を救った時の兵はどうしたんだよ? あの時は鉄砲が鳴り響いて……」
「あぁ、それ。ただのおふざけ、ですよ」
 と、彼女が黒い袂から取り出したのは、筒のようなものの集合体だった。そこから導火線が数本伸びていて、顔を寄せるとかすかに火薬の臭いがした。
「これに火をつけると、中の火薬が破裂して音を出すんです。実際私の一党の戦力は二十人、それと鉄砲が五挺。いかに私が可愛すぎる伝説の名将! ……と言っても、今度まともにやりあえば、太刀打ちできません」
「…………」
 言うべき言葉は特に見つからず、客の反応の薄い演説を、環は黙ってじっと見ていた。我こそはと名乗り出る投資家は、今もなお現れない。
「……もう少しやり方があるってもんだ。このままだと、何年経っても集まらないぞ」
「では、殿ならばどうします?」
 若き主は舞鶴を見た。
 美しい貝殻を目にした少女のように、何かを期待するかのように、彼女は輝く黒曜石の瞳を環に向けていた。

 一瞬強く顔をしかめた環だったが、観念して、大きく息をつく。
 それから、表情の乏しい鈴鹿という少女の方へと向き直り、
「なぁ鈴鹿。お駄賃やるから、ちょっとおつかい行ってきてくれないか?」
「良いよ。何買ってくれば良いの?」
「できるだけ大きい紙と、それから筆を」
 不思議そうに小首を傾げる彼女たちに、環はそれ以上は説明せず、無言で首をすくめただけだった。

~~~

 糊と米とで貼り合わせた広い紙面の上に、筆を走らせる。
 描いているのは文字ではなく、絵図。
「上手いね」
 と鈴鹿がイヤミもなく褒め称え、
「忘れたい過去の時代の名残でしょうか?」
 と舞鶴がイヤミたっぷりに尋ね、
「……次言ったら女でもぶん殴るからな」
 と、環の眉間にシワが寄る。

 その険しさが和らいだのは、環の全身ほどはある面積の紙を、その図で埋めた時だった。
「っし、できた」
 と筆を下ろした時には、巨大な紙面に描かれたものは何かと、既に多くの民の興味を惹いていた。
 対照的に、長時間、長広舌で語り続ける色市の周囲の人々は嘲笑、あるいは冷笑を浮かべて、彼ら六人衆の要求に応じることなく、

「……あちらさんそろそろ助け頃だな」

 色市の表情には焦りと陰りが見える。誇りはすでに折れかけている。ここで救いの手を差し伸べたところで、平素のごとく、邪険に扱われたり、あるいは嫉妬を買うこともないだろう。
 そう打算した環は、帽子を目深にかぶり直しながら、二人の女を振り返り、
「それ、持ってきてくれ」
 と、簡単に命じた。
「承知しました。……鈴鹿殿、でしたか。さぁさぁ、お運びしましょうね」
「うん」

 それは、奇妙な一団だった。
 可憐な少女と妖艶な美女とが捧げるような慎重さで紙を運び、その前を赤色の長羽織と奇妙な帽子を身につけた、青眼の少年が立って歩く。
 それに導かれるかのように、何が始まるのか半ば期待している十数人が、ぞろぞろと連れ立っている。

「……で、あるからして!」
 もはや声が裏返ってかすれた色市始の肩を、背後に回った環がそっと押さえた。そして取って代わるかの如く彼の前に立つと、

「やっ」

 と、ゆるやかな笑みと共に、軽く手を挙げた。
 それだけで、彼が兵糧や武具の代わりに買っていた冷笑は、ピタリと止んだ。
 台座の上に立つのではなく、どっかりと腰を下ろして人々に目線を揃える。

「俺が鐘山環だ。さっきから、俺の仲間が騒がせたようだが、商売の邪魔をして悪かった」

 横槍を入れた少年の背後、見せ場をとられた色市が口を開きかけたが、それは舞鶴の肘に小突かれて妨げられた。

「まぁ、ベラベラと喋っていたが、要約するとこうだ。『俺たちは腹が減ってる。オマケに長話するもんだから喉も渇くし、追っ手が怖いから対抗するモノが要る。だから、助けてくれ』」

 環は帽子をとった。短い黒髪をさらし、しずしずと下ろしていった。
 気づけば彼らの前には数十人の人だかりがいて、自分たちの『元殿様のご子息』が頭を下げる、という珍妙なるも哀れな姿を、ざわめきと共に見物していた。

「もちろん、ただとは言わない。それぞれの相応の報酬を支払うつもりだ」
「つもりだ、とは……そこのお坊ちゃんみたいに証文でも書くんですかい?」
 悪相の男が一人、そこに異を挟んで前に出る。揶揄するような凶悪な笑みに、いやいやと環は首を振る。

「紙切れ一枚と米俵一俵じゃ釣り合いもしないだろ。大体、あんた方も薄々感づいてるだろうが、殿様とか天子様とかなんて信用しちゃいけない。宗善を見ろ。あいつは親類縁者まで殺しておきながら、それが正しいと説いて回ってる。朝廷を見ろ。帝は天下万民を想うとか言ってたらしいが、あいつの顔見たヤツ、この中にいるか? 俺だって、紙切れ一枚、口先三寸で米俵がもらえるなら、苦労しないさ」

 道義的にあまりな言いように、不謹慎な笑いがところどころで起きた。

「だから俺はここにいる皆と取引したいんだ。今、この場でな」

 環の後の家屋の塀に、例の大きな紙が貼られる。
 そこに鮮やかに描かれた俵の絵と、刀の絵は、周囲のどよめきを呼んだ。

「米俵一俵、いの一番にくれたヤツに、この家宝の守刀をくれてやる!」

 ゴトリ、と。
 絢爛な装飾が施された朱鞘の短刀が、音を立てて環の足下に転がった。

「んなっ!」
 まず反応を見せたのは、身近にいた始だった。
「気は確かか環!? それは、父祖伝来の王争期の品で、常ならば家一つ建つ値だ! それをたかが米と交換だと!?」

 ――良いぞ、こういう時に色市の饒舌は輝く。

「そうだ! 殿様の宝なんて、めったに手に入るもんじゃないぞっ! それが今ならたかが米と取り替えられるんだ! 売って換金するも良し、武具として使うも、家伝の誇りにするのも良い! 二番目、三番目に持参した人にも、量に応じ、こちらの持ち金が尽きるまでは相応の金額は支払う!」

 環は帽子を目深にかぶり直した環は、自分でも、最高に意地の悪い笑みを浮かべていることを自覚していた。

「あとは、鐘山環の事業の第一歩を陰で支えたなんて名誉も、オマケでついてくる! こいつは良いぞ? 孫やガキ、女房への自慢になる。誰も殺さず、誰にも殺されず、鐘山の功臣になれるんだ! おい、そこのおっちゃん。見たところツラで損してるって感じだが、美談の一つさえあれば女もなびくだろ!」
「よ、余計なお世話じゃ!」
 と、指さしされた男が、赤ら顔をさらに紅潮されると、どっと賑わいだ。

「さぁ、速い者勝ちだ! 買った、買った!」
 鐘山環のその号令を合図に、常灯の町に、さらに活気の炎が宿る。


「よぅし、次は分厚い布、浅だろうが縮緬だろうがなんでも良い! まだ味噌、塩も受け付けてるぞ! あと馬草! 馬草が足りん」
「よう大将、魚は持ってくかい?」
「ったく、夕餉の材料買いにきたわけじゃないんだぞ! あっという間に腐っちまうって! 敵の前に自分の腹が下るなんて笑い事にもならない!」
「若殿さん、刀の代わりはいるかーぁ? 数打ちだけど」
「まぁ包丁がわりにはなるだろうな! 一つくれ! ……いやもう予算はない。すまん、そこの尼の乳揉ませてやるからそれでカンベンしてくれ」
「舞鶴はいやでーす。殿のお尻でも貸したらどうです?」
「……お前、主の貞操質に出すんじゃないよ」
「環、お皿、要る?」
「鈴鹿か、おいそこの黒いの、紅皿として買ってやれよ」
「あらそういうものは、殿方に買っていただけるものでしょう?」
「その通りだが、お前にはどうにもそんな気がおきなくてな」

 ……やりとりの度に、津々浦々の品は、節操なしに環の前に積まれていった。
 環が要求したもの以外にも、民は自分で考えて商品を売りにくる。
 それにてきぱきと対処しながら、時に道化となって笑いを誘い、時にその商談に応じたりした。
 換金し、あるいは交換し、交換した品をまた交換し、彼のいる場所が一夜を経ずして、町の流通の中心になっていた。

 馬のいななきが間近で聞こえ、「だぁっ」と環はのけぞった。
 台座から転げ落ちて見れば背の低い老爺が、自らの身の丈の倍はある、鹿毛の馬を連れて前に出ていた。
 農耕馬の筋肉や毛皮のツヤではない。紛れもなく、どこかの武家から連れ出されたものだった。歳もまだ若そうだ。
 老爺の身なりも、馬丁や農夫のそれではなく、商家のご隠居や好事家のそれだった。
「どうぞ、若殿さま。この覚王(かくおう)を供にしてくだされ」
「馬、か……さすがにそれに釣り合う金品は……」
「いえいえ、そのようなものは要りませぬ。知り合いから譲り受けたものの、この老体ではあぶみに足をかけることもできんで、若殿さまのお役に立てれば、この子も本望でしょう」
「……しかし爺さん……」
「それに良いものを見せていただいた。亡き宗円公、宗流公を思い出させる啖呵でしたぞ」
 からからと、上品に老人は目を細めて笑った。顔にシワがやると、細かい傷がかいかに浮き彫りになって、この老人の壮絶な半生を想起させた。

「……どうやら断る流れじゃないようだな。わかった。ありがたく頂戴する」
 帽子を握りしめるように掴み、環は深々と頭を下げた。
 老人の姿が、人波に揉まれて完全に見えなくなるまで。

「……さて、これからよろしく頼む……覚王」
 そして彼は愛馬となるであろうその名馬の額に触れようと手を伸ばし、

 がぷり

 噛まれた。
 きれいに生えそろった歯が、環の頭部を挟み込んだ。
 掴んだままの帽子が、脱力した手からはらりと滑り落ちた。
 生々しい感触にまみれながら、彼は怒って良いのか、自らの情けなさを嘆いて良いのか、分からなかった。

 だが、
「…………ぷっ」
 と噴き出した黒衣の女神を皮切りに、爆笑に包まれた。
「……ま、足蹴にされなかったから主と認められた、ということにしておこう」
 強引に顔を引き抜いた環は、涼しい顔をして強がった。
 その声は、震えていた。

 ――あの爺さん、単純に暴れ馬の扱いに困って押しつけただけなんじゃないだろうな?

 という恩人に対して半ば失礼な勘ぐりを向けつつ、環は鈴鹿の差し出した麻布で顔をぬぐった。
 未だ引かない笑いの潮の中、唯一表情を曇らせる男に近づいた。
 他でもなく、演説にしくじった色市始だった。

「……すまん」

 と、己の非と、その失敗を挽回した環の力量を認め、胞輩は素直に頭を下げた。
「気にするな。相性の善し悪しもあるだろ」
 と、落とした肩に手を置いて慰める。

 ――高僧や講談の英雄は、人間は利益や感情だけじゃないと言う。だけど、道理や道徳で腹は膨れない。

 というのが、この青眼の少年の思考の根本にある。

「それで、殿は」
 色市の背後には、いつの間にか舞鶴が、鈴鹿を伴って立っている。
「ここで挙兵すべきとお考えですか?」

 ――考えてたら、武具や人員も募集している。金も温存している。
 こちらが損をしてまで食料や生活品を買ったのは、迅速に量を集めてここから離脱するためだ。
 金を残したところで宗善の配下には賄賂も通じまい。

 徒手空拳の者が短刀をにわかに手にしたところで、その刃が敵の心臓に届くことはない。

 だがそんな考えを押し殺し、環はややしめった髪をくしゃくしゃと直しつつ、肩をすくめた。
「我らが頭領さまの考え次第だな。色市、喉も渇いてるところ悪いがユキに繋ぎをつけてくれ。『できる限り集めたが、これが限界でした』とな。……組で一番口と頭が回るお前の仕事ってことにしておけば、あいつも咎めないだろ」
「しかしこれはあんたの…………っ……承知した」
 きびすを返し走り去っていく饒舌家の背に、環はかぶり物を拾って頭の上から抑え込む。
 声なき言葉の続きを投げかける。

 ――それに、ユキもバカじゃない。兵が集まらなかったら、流石に凶行を断念するだろう。となれば……

「順門府を出てどこかの府公家を頼り、兵を借りる」

 ……続きを声にして軽やかに代弁したのは、他でもなく、黒衣の女だった。
「そしてそれこそが殿の本望、と考えましたので、既に我が手勢を心当たりのある各地へとに派遣しております。……あ、もちろん殿を警護するだけの余力は残してありますので、ご安心を」
「……ち」

 にこにこと、ぬけぬけと。
 こちらの意向を当てて先回りする女の気遣いに舌を巻く。反面、「お前がやれば良いのに」と、全部投げ出したくなる。

 だが弟妹の死を聞いた時から、彼は決断していた。
 自らの裁量で、宗善に、銀夜に、彼らを是とする重臣達に、
 しかるべき報いをくれてやるのだ、と。

 佐咲、渥美ら百騎の馬蹄が、荒々しく夜の町に踏み込んだのは、それからすぐのことだった。



[38619] 第二話:異形の才花(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:34
 百の精兵はそのまま市中に乗り込むと、瞬く間に環たちいる区画も制圧した。
 先頭に佐咲、渥美両名が精悍な顔つきで周囲を睥睨していた。
「拙者は三戸野家臣、佐咲助角(すけかど)!」
「同じく、渥美文之進」

 まぁ、緘口令も布かずに天下往来で呼ばわってれば、突き止められるわな。
 その事態を環はある程度覚悟していた。

 ――だから急がせてたってのに、一手遅れたな。

「……こちらへ」
 と舞鶴が主の背を押す。
 主は鈴鹿の手を引いて、物陰に身を隠した。

 積まれたその荷を、両名は訝しげに睨んでいたが、やがて背の高い悍馬、覚王に目が留まり、その表情に明るみが出てきた。

「ほぉ、これは見事な……」
「うむ」
「我らがご老公が乗るに相応しい名馬とも思わんか? 助さん」
「うむ。戻り次第手土産として、殿に献上するとしよう」
「その鞍に環の首級でもくくりつければ、さぞ映えることだろうなぁ」

 ハッハッハハハ、と。
 快男児然として豪快に笑いながら、馬の手綱に手をかけようとした時、
「お待ちあれ」
 ぴしゃりと、たしなめるような声が市場に静寂を取り戻した。
「その覚王はさるお方に私が差し上げたもの。略奪されては困る」
「……ほう」と、佐咲の右眉がキリリとつり上がった。
「ご老体、何か勘違いをされているが、我らは賊の類ではなく、真に国を想って、このようなやむを得ない手段に出ている」
「それに、名馬とは、しかるべき乗り手が持つべきものではないかな。我らはその手引きをしているに過ぎぬ」

「なるほど」と、老人は重なる年輪のように、シワを目元に集めながら言った。

「国を盗む人は、馬を盗めど気にも留めぬか」

 首を振って背を向けた老人に、つかつかと、騎乗したまま近づいた佐咲は、

「っ!」

 刀を抜き打ちざま、老人の胴に斬りつけた。

「爺さん!」

 という環の叫びは、周囲の悲鳴にかき消された。
 今にも飛びかかりそうな彼を、背後から抱きかかえるように身体を密着させた舞鶴が引き留める。

 彼は理解している。
 地面に倒れ伏し、自らの血溜まりに沈む老人が、すでに事切れていること。
 例え自ら飛び出したところで、たどり着く前に、老人の小柄な身体は両断されていたこと。


「静まれぃ!」
「えぇい静まれい!」

 ざわめき、戸惑い、狂乱の渦にある民衆を、二人の猛将が恫喝する。
 だが実際にその動きをとめさせたのは、彼らを包囲する武装兵だった。

「この旗印が目に入らぬか!?」

 渥美が胴間声を張り上げて突きつけた指先に、兵が手にした旗がある。
 紺地の旗に縫われた鳥籠の金刺繍が大きくたなびいていた。

「この旗は恐れ多くも、先に順門府公となった鐘山宗善公の御旗! 逆賊討伐の命を受け、直々に頂戴したものである! 我らに逆らう者は、宗善公の正道を阻むと心得よ!」
「控えおろう!」

 と、脅しつけるが、それで膝を屈する者は、この場にはいない。眉間を険しくさせたまま「まぁ良い」と渥美は鼻を鳴らした。

「我らは朝廷とお家に仇なす賊、鐘山環の追討の任を仰せつかった。この界隈でその者が見つかったという報せを受け、参った」
「が、よもやその悪逆非道の奸物にたぶらかされ、助力しようという者はおるまいな?」
 本来環が手にするはずだった荷の山をジロリ、横目で睨む。
 花崗岩を思わせる強面に凄まれては、たじろぐ者も少なくなかった。

 だが、その環の存在を訴え出る者はいなかった。
 それもそうだろう。
 市中に集められた品々は、環が交換した物以外にも、数多く寄せられている。
 ここで環がその競り市を主催したことが分かれば、この二人はそれにかこつけ、その全てを押収し、砂金一粒支払うことはないだろう。
 それどころか、逆徒に加担した共犯者として捕縛されることもありうる。
 そんな状況下で、まして好意を持てないような輩に同調する者は、いなかった。

 ある者が言った。
「そ、それは何かのお間違いでしょう? そのような者はここにはおりませんよ」
 嘘をつくにも勇気がいる。
 足を小刻みに震えさせる若者を隠れ見ながら、他人事のように環は思う。
 まして相手が、自分たちの生殺与奪を握っているなら、なおのこと。

「この期におよんでまだ白を切るかっ!」
 佐咲が目をいからせて言った。
 彼ほどの激情を示していないものの、確たる怒気を含ませて渥美も凄んだ。
「こちらには証人もいるのだ! おいっ」
 渥美の背後から、ずんぐりとした体躯の男が現れた。
 先ほどの演説の際、野次を飛ばした輩よりさらに輪をかけて極悪な面相だったが、彼よりも一回りほど若かった。

 ――ん?
 環の胸に、ふと引っかかるものがあった。男の凶相に、既視感を覚えたからだ。

「間違いねぇ、さっきまでここにお目当てのヤツはいましたぜ? へへっ、偉そうにくっちゃべってやがった」

 密告者の言に、一同は顔を青くする。
 そうか、と男の方を振り向いた佐咲の手には、血濡れの刃が握られている。

「へへ、ではご褒美を」
 と言った彼は、

「……痴れ者めが!」

 佐咲によって肩口から斬られた。
 無作法に両手を差し出した格好のまま、返す刀で首が飛ばされる。

 どちゃっと、
 濡れ俵が落下したような不快な水音と共に地面を転がる首に、甲高い悲鳴があがった。

「貴様らのような悪党と我らが取引すると思ったのか!」

 死んだ男の態度、佐咲の口ぶりから察するに、男と両名は取引でもしていたのだろう。

「もし鐘山環の居場所を教えてくれたならば、相応の報酬を与える」

 などと。
 それがどちらの側から持ちかけられた話かは知らないが、彼らは約束を反故にした。
 自分たちに都合の良い正当性を振りかざして。

「おい渥美! こいつらやはり信用ならんぞ!」
「あぁ! こうなってはゴミ共を一掃するしかあるまい! あの小僧をいぶり出してやろう!」

 渥美らの手勢は、主の命令にいささかの異を唱えずに従った。
 そして実行は、実にすみやかに、かつ暴力的にされた。

 悪徳の町と心ない者が蔑む大渡瀬。
 そしてその現状はさながら、町ぐるみで地獄に放り込まれたようであった。

 家屋が焼ける。
 それを押しとどめようとする者がいれば、兵が、あるいは彼らを指揮する大将が民を害していく。
 略奪、強姦の類は行われないが、それだけに殺傷と破壊に終始するその群れは、爆発的に被害を拡大させていく。

「船を重点的に狙え! 奴を海へ逃すな!」
 と佐咲が指示すれば、物資、人員もろともに、港は紅蓮に包まれた。

 その統制された暴漢たちは、
 ……笑っていた。
 誇らしげに、勇ましげに、自分たちの蛮行が正義だと、信じて疑おうともしていない。

 佐咲が包丁一本で立ち向かおうとする少年を一刀のもとに斬り殺し、
 下馬した渥美が老婆を裸の腕で鶏か何かのように絞め殺す。
 彼らは、目をらんらんと輝かせて、晴れやかに殺していく。

 ――あれは、なんだ?
 棒立ちしながら、環は黒い怒りの中に沈む。

 家を焼き、物資を接収し、生命を剥奪する。
 それが正しいことだと、晴れがましい表情で、人から笑顔を奪っていく。

 ――そんな権利が、あいつらにあるのか?

 武家なる支配層は、そんな行為が許されると?

「……き、たまき!」

 少女の声で、意識を戻す。
「環、逃げよう」
 しっかりとした態度で少女は、鈴鹿は袖を引いた。
「……逃げる?」
 カッ……と腹の中が熱くなった。
 それを押しとどめるが如く、彼を抱く舞鶴が耳元で囁く。
「この混乱の中で、まだ彼らはこちらの存在に気がついていません。既に流天組には繋ぎをつけています。……彼らと合流次第、この領域を離脱すべきかと」
「あ、あぁ……そう、だな」

 だが、馬のいななきが聞こえた時、彼の中でその熱が再発した。
「ほらっ! 大人しくせぬかっ!」
 旗竿を背に差した身分の高い侍が、旧主の亡骸の傍らで暴れる覚王のくつわを掴んでいる。

 ――俺があの覚王を受け取らなければ……

 あの老人は、なんのために生き、誰のせいで死んでいったのか。
 その屍を無意味な肉塊にすることは、彼の心が許さなかった。

「……っ!」
 鈴鹿と舞鶴を振り払う。
 たまらず広場に飛び込んだ彼は、二振りの鎌を携えてその敵の足下に躍り込んだ。
「なっ!?」
 探していた敵の大将の出現に、虚を突かれたその首筋に、血の線が走る。
 その傷口から大量の血液が吹き出て、馬の鞍を血で濡らした。

「覚王ッ!」

 その声に呼応するように、老人の遺した馬は、環に首を向ける。
 視線を交わしたのは、一瞬。
 覚王は、ゆっくりとその巨体を動かし始める。
 環は、それに合わせて並走し、手綱を掴んで身体を浮かせて飛び乗った。

「御印頂戴!」

 しかし登りかけたその背に、雑兵の槍が迫った。
 触れるか触れないかという、まさに刹那だった。

 ひゅう 風切りの音が鳴る。
 吸い込まれるように、陣笠の下の眉間に矢が突き立った。
 矢が向かっていった方向とは逆を見る。

 弓を携えた幡豆を筆頭に、流天組が到着していた。
「ユキ!」
「さっさとそいつら連れて逃げろ! オレが食い止める!」
 その退路、鈴鹿の前で止まる。驚いて目を見開く彼女を両手で抱え上げ、自分の前に置いた。
 舞鶴はその手前の通路で、手招きしている。
 いかなる魔術を使ったか、見れば道は開け、町の出口まで広がっている。
 もはや方向感覚などない。
 それでも、その唯一の脱出路を環は選択し、彼と、彼の殿を務める一団は悲鳴と怒号の入り交じる煉獄を後にした。

~~~

 気がつくと、一行は深い林の中にいた。
「皆、大丈夫か?」
 と、振り返れば、五人に舞鶴、鈴鹿が加わって、顔見知りに脱落者はいない。
 ……いや、その集団はむしろ、増えていた。
 町からの脱走者、鈴鹿以外の人々が、さまざまな職種、人種問わず流天組の後に続いていた。
 目算にして五十人。
 そのうち十数名ほどは、身なりこそごくありふりた衣服だが、妙に鋭い眼光を持って、当たりを警戒している。
 おそらくそれが、舞鶴の言っていた彼女の手勢だろう。
 では他の三十余名はどうか?
 女や子ども、老人もいる。荒くれ者もいれば、やんごとなき衣装をまとった者もいる。まさしく人のるつぼの如き大渡瀬を象徴する、三十名と言えた。
 彼らは馬上の環を虚ろに見ていた。
 逃げ出す自分が、脱出路を知っているものと、無条件に信頼して付き従ってきたのだろう、と環は見当をつける。
 確かにその読みは正しい。だが奴らが第一目標としているのはその環本人であって、ここまでついてきたのは彼らの失敗だった、とも考える。

 さしもの幡豆たちも、全速で駆けてきたせいで、今は呼吸を整えるのに精一杯なようだった。
「……頭領」
 呼吸にも衣服にも乱れなく、常と変わらぬ様子で立つ舞鶴に、音もなく老いた男が忍び寄る。
 耳打ちされる報告に「わかりました」と頷いた。

「皆さん、お疲れのところ申し訳ありません」
 大きめの声で断った黒衣の女。そこに、疲労した五十人近くの人間たちの目が注視した。

「現状、敵将佐咲、渥美両名は大渡瀬を完全に制圧……いえ、破壊しました。また、こちらの方向へ追跡を開始しており、すでに我々の逃走経路は敵に露見していると見て良いでしょう。距離にして約二十町(およそ二キロ)」

 先ほどのまでの軽々しさのない、調子の落ちたその声が、逃走者たちに事態の深刻さを伝えていた。
「この烏合の衆で固まって行動してりゃ、確実に捕捉されるな……」
 弓で肩を叩くようにしながら、幡豆由基はジロリと馬上の御大将を見た。すでに流天組が乗っていた馬は、混乱によって逃げたか、盗まれたか。環以外は、全員が徒歩である。
 疲労の残る幼なじみの瞳が、何を訴えているのか、環は理解しているつもりだった。

 ――こいつらを捨てて行け、か。

 普段の悪態と違い、それは言うのも憚られる非情の選択だった。
 馬首を巡らせた環は、自分の前で少女が自分の顔を覗き込んでいるのを見た。
 固く引き結ばれた唇の代わり、不安げに揺れる目の輝きが、自らの心境を如実に語っている。

 ……自然、笑みがこぼれ、腹を括る。

 この状況下、自分でもありえないほどの穏やかさをもって少女の頭をくしゃくしゃと撫で回し、手綱を彼女一人に握らせて自らは馬を下りて、土を踏む。

 決断をしない環に焦れたか、由基は環の肩を掴み、林の一木に背を叩きつけた。端正な顔立ちを、すさまじい形相に変えて近づけて、怒りを押し殺した小声で言った。
「……いい加減にしろ。さっきまで町で右往左往してた連中の寄せ集めが、なんの役に立つ? あいつらを分散させて追っ手の目をそらせ。そうすれば、オレらにも生きる目は出てくる。このままだと全員死ぬぞ」
「けど、あいつらは」
「お前が巻き込んでせいでああなった、か? だが遅かれ早かれ大渡瀬はああなってた。宗善の治世の障りとしてな」

 環は顔を伏せた。
 確かに、由基の言葉は、激しくも正しい。
 大将として考えるのならば、妥当な判断かもしれない。

 それでも、

「……ここで彼らを見捨てるぐらいなら……」
「あ?」
「俺はここで死んでやる」

 由基の怪力からするりと抜け出た環は、
「皆、聞いてくれ!」
 一町先にいる敵にも聞こえるかの如き、大音声を放った。

「舞鶴の報告によれば、お前らの町を焼いた連中が俺たちに迫ってきている! このままノロノロと逃げ回っていれば、いずれ追いつかれ、俺たちも大渡瀬と同じ運命を辿ることになるだろう! だから!」

 環は一度流天組を見た。舞鶴を見、鈴鹿を見た。そして最後に民衆へと視線を戻し、拳を握りしめて、言い放った。

「だから俺は今から奴らにケンカを売る!」

 一同は、環の宣戦布告にあからさまに困惑し、動揺していた。今にもその場から逃げだそうというものも、その意図が分からずに足を止めた。
「そのためには、お前らの力を借りたい! さっきの市と同じだ。このケンカ、俺と一緒に売ってくれたら、それ相応の報酬をやる!」
 幡豆由基が驚愕の表情で見ていた。

 彼らを犠牲にして追っ手から逃れる、というのが由基の意見。
 彼らを犠牲にしない、というのが、環の言葉。
 だが今この空色の眼の大将が選んだのは、彼らを犠牲にしつつ、追っ手を迎撃するという、最悪の選択肢だった。

「……なんだそりゃ?」

 彼らの中でも、質の悪い一団が冷ややかな声をあげた。
「また豪華な刀とか金でもくれるってのか? けど今のアンタ、どう見てもスカンピンなんだがなぁ!」
 揶揄するように吐き捨てられた情けのない言葉に、

「あぁそうだ」

 環は、大まじめに頷いた。
「見ての通り、俺にはもう何もない。けど、一つだけ保証できるものはある」
「それは?」
「お前らの命」
「……は?」
「今から俺に従ってくれれば、ここにいる全員の生命を救う!」

 ……途端、
 その一団で爆笑が起こった。
 だがそれは捨て鉢気味の、多分に怒りと混乱を孕んだ、笑声だった。

「頭イカれたのかアンタ? ここにいる連中を死に場所に送り出そうとしておきながら、そいつらの命を助けようってか? 矛盾してるぜッ!」

 ――そんなことは指摘されなくても分かる。

 自分でも、この判断が正しいのかも、分かっていない。
 それでも、これに、彼女に賭けるしか、道はない。

「その矛盾を解決できる人間が、ただ一人ここにいる! ……そうだろう、勝川舞鶴」

 自らの傍らに控えている生ける伝説を、身を翻して顧みた。
「……お前は、俺が天下人の器と言ったな?」
「はい」と女は首肯した。
「じゃあお前は、俺を天下人にしてくれるのか?」
「はい」と、彼女は肯定して、付け加えた。
「用いられるかどうかはともかく、私には、それだけの才があります」
「だったら、その才能でもって、今俺が言ったことを実現してみろ」
 怒りをぶつけるように、あるいはすがるように、環は両手で勝川舞鶴の肩を掴んだ。
 思いの外、華奢で、骨は細く、肉は軟らかく、温かだった。

「この一瞬だけで良いんだ! 俺に、彼ら全て救うことのできる力をくれ! 彼らの屍の先に、俺の天下はないっ……!」

「…………かしこまりました、我が君」
 艶然と、あるいは陶然と目を細め、舞鶴はそっと環の右手に己の手を重ねて添わせた。
 黒衣の美女は、若き主君の代わりに前に出て、月明かりの下に立つ。
「皆様、ご紹介にあずかりました勝川舞鶴と申します」
 その名前の価値を知る者がいるのか、どよめきの中に微量の歓喜と困惑が入り交じっていた。

「先ほどの言、我が主、鐘山環の大ボラと考えている方も多いことでしょう。しかしご安心をば。殿は既に舞鶴が建てた策を聞き入れており、勝利を確信したためそう言ったのです!」

「……とてもそうは見えなかったけどな」
 木の幹にもたれて呟いた色市の小声は、歓声の中に溶けて消え、環だけが苦笑とともに甘受していた。

「大丈夫。舞鶴の策は皆さんに直接戦わせることはしません。……さぁ皆さん、考えてください。このまま闇夜に逃げ込み、獣と追っ手に怯えながら命の危機に晒されつづけるか、あるいは月夜の下、敵を破り仇をとり、堂々と転身するか!」

 甘やかで、涼やかな水飴のごとき声が、夜の帳に染み込んでいくようだった。
「……はっ、そうやって口当たりの良いことばかり言って、そもそもあんたが本当にあの生ける伝説だって理由には……っ!」
 彼女を嗤う声は、途中で遮られた。

「その策、乗った。このケンカ、一緒に売ってやる」

 見れば、矮躯の男の口を、大男がふさいでいた。そのまま彼を突き飛ばすように前に出た彼は、猛禽類の如き鋭い瞳で、遠慮なく舞鶴の肢体を眺めていた。
 自らの無精ひげを不作法に撫でさすり、ダンビラを携えた男の姿は、どう見ても悪党足軽。だが顔立ちを凝視すれば、実はそれなりに若さと品と愛嬌があることを、環は見抜いていた。
 そしてその顔を見て、環は先ほどの密告者が誰だったのかを思い出した。

「お前……魁(さきがけ)組の亥改(いかい)大州(だいしゅう)か」

 由基が露骨に嫌悪感を示したのも、無理らしからぬ話だった。
 魁組。
 簡単に言ってしまえば、流天組と同系列の集まりである。
 だがその出自は大きく異なっている。
 基本、良家の次男坊、三男坊の不良で構成される流天組とは異なり、魁組は亥改兄弟を主軸とした、農民、半農民、足軽雑兵で形作られた集団である。
 数もほぼ同数であり、ナワバリ争いで何度も衝突したことがあり、不倶戴天の敵だった。

「さっき斬られたマヌケがいただろ。あれは俺の兄貴でな。……仇をとらなきゃ、気が済まねぇ。お前らがその気だって言うなら、手ぇ貸してやるよ」
「……ってことは、お前らか。オレらの居場所をタレ込んだのは」
「あれは兄貴が勝手にやったことだ。俺や組の考えとは関係ない」
「信用ならねーな」

 由基と大州。
 一瞬後には刃先と矢先が向き合っているであろう緊迫感が、二人の間に張られている中で、環が咳払いした。

「今、内輪モメしてる場合じゃない。……舞鶴、兵の数は多い方が良いんだろ?」
「多すぎるのも困りものですが、今は少なすぎるのが難点ですから」
 わざとらしく迂遠な言い方をする軍師に顔をしかめながら、次は名乗り出てきた大州をじっと見、言った。
「大州。聞いたとおり味方が少ない以上、あんたら魁組を頼むほかない。前線に置く。……それで良いな? ユキも」
 別に環には、あの密告したという兄も死んだことだし、まして無関係の弟を恨む気持ちもなかった。最前線に彼らを配置しようとするのは、そうすることで彼ら以外の集団を納得させるためだ。

 ――しかし、出過ぎたマネかな?

 この土壇場になって、主導権を主張する幡豆由基でもないとは思うが、自然その視線は気難しい友人たちへと向けられた。
 他の流天組のメンバーは、流れに呑まれ、納得している様子だ。その頭領も、ムスッと膨れているが、あからさまな反意は持っておらず、納得している。
 ……その納得の頭には、「渋々」とか「不承不承」とかつくのだろうが。

 ――あとで肩なり腰なり揉んでやるか。

 軽く首を上下させた環は、そのまま薄青の瞳を舞鶴に向けた。
「それじゃ時間もない。舞鶴、策の説明を」
 はい、と傅いた舞鶴は、まず状況の説明から始めた。


「まず敵の追っ手は百名ばかり。いずれも騎兵で、その大将は佐咲助平、渥美文之進の二猛将。対する私たちは流天組、魁組、そして私の緋鶴(ひづる)党。戦闘員をかき集めてもせいぜい三十名程度でしょう」
「まともにやり合えば、勝ち目はねぇな」
 土を蝋塗りの黒鞘で小突きながら、大州が言った。
「そこで民は二組に分けて先行し、安全な街道沿いに逃します。彼らの誘導は」
「オレらの組から地田と色市を出す。……魁組にやらせると、何やらかすか分かったもんじゃねーし」
 不信感をぶつけるような由基の視線に、大州はフンと鼻を鳴らした。
 だが異を唱えないあたり、その人選を受け入れたのだろう。
「で、肝心なのはその後のことだ。その百騎の敵から民をどうやって保護するか」
 環が提示したしごくもっともな、かつ無理な難題に対しても、黒衣の女参謀はにこやかに答えた。

「かんたんに言えば、こちらを二手に分けて、敵を奇襲し、分断し、かつ敵将をほぼ同時に討ち取ります」

「……は?」
「はぁ?」
「はは、は…………できるわけないだろ!?」

 主君の怒号にも、黒衣の女参謀はにこやかに応えた。
「佐咲、渥美、どちらかを討ち漏らせば、先回りされる恐れがあります。そうなれば民にも被害が出るばかりでなく、こちらも挟撃されるおそれもあり、それは絶対に避けなければなりません」
「かと言ってただでさえ少数の兵力を分散させりゃ各個撃破がオチだろ!」
「それに、佐咲も渥美も歴戦の猛将っスよ。伏兵も奇襲も、読まれるっしょ」
 環と由基の当然の反論に、

「そう、まさにこの作戦のミソはそれ、それです!」

 多少ウキウキしながら、舞鶴は言った。
「ご両名ともに戦の経験も豊富で、勇有り才有り……でも」
 そこから続く美しい言葉の響きが、この野外での軍議の空気を、ゾクリと凍り付かせた。

「だからこそ、彼らは死ぬ。積み重ねた殺人の経験が、彼らを殺す」

「……」
「……」
「……」

 鐘山家の公子も、流天組の頭領も、魁組の当主も、
 鮮烈な言葉に、返す句はなかった。

「では、さっそく取りかかりましょう。詳細は順次説明していきます。……それでは」
 舞鶴は流れるような手の動きで、環に何かを伝えようとしている。
 顧みれば、民。
 その不安げな視線は、一心に彼に注がれていた。

 ため息をつき、帽子を目深にかぶり直す。
「聞いてのとおりだ! 町の仇は俺らがとる! だからみんなは安心して、舞鶴の方針に従って動いてくれ!」

「……あんたは」
 第一の返答を放ったのは、商人風の若者だった。
「あの市じゃ決して嘘をつかず、あたしらに胸の内を開いてくれた。だから……今回も、この約束が偽りじゃないって、信じている」
 おう、という声が上がり、重なり、やがて賛同の声が天を突くばかりに大きくなっていく。
 その声を背で受け止めて、環は帽子を上からぎゅっと押さえつける。

 ――ひどい詭弁だ。

 と我ながら思う。
 なるほど偽りは言っていない。だが、自分に都合の悪いことも言っていない。
 幡豆由基は己のせいじゃないと言ってくれたが、やはりそれを引き起こしたきっかけは自分がやってきたことだったし、それに後日同じことが起こったとしても、ここまでの惨状にはならなかっただろう。

 ――それでも……

 彼らを生かすには環自身を信じさせるしかないのだ。



[38619] 第二話:異形の才花(4)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:35
 夜の松林の中に踏み込んだとき、渥美はえも言われぬ不安感に囚われた。
 戦人の勘、とも言って良かった。
 追撃の最中、足を止めた胞輩の異変に気づいた佐咲が軍馬を止めて「どうした」と問う。
「いや、妙だと思わんか」
「妙?」

 夏、巳の月のぬるい風が頬を撫でた。
 この辺りの土地は水はけが悪く、数日前の雨の湿気が、まだ土に蓄積していた。
 ざわざわと揺れる赤松の樹により、道は二つに枝分かれしている。
 そのどちらかを敵が通ったとしても、いずれも中橋街道という大路に続く。このまま一気に突っ切れば、環を捉えることができるはずだった。
 それでも、渥美は嫌な予感を拭いきれずにいた。

 ――場所が悪すぎる。

 閉所暗所で見通しが悪く、兵を展開させる空間的余裕さえない。
 それに敵には勝川舞鶴がついているだろう。希代の軍師が、ここで何か仕掛けてこないはずがない。

「あるいは進路に兵を伏せているのやもしれん」
「……ありえるな」
 顎をつまんで佐咲は同調した。
「しかし伏兵いたとして何ほどのことやあらん。一気に突破してしまえば良いではないか」
「……それも手だが、敵には鉄砲がある。一方の我らは敵が小勢と侮り、出し惜しみしてしまった。もし舞鶴がこの隘路に鉄砲部隊を潜ませていたら」
 脳裏をよぎるのは、最初に環を取り逃がした時のこと。
 同様の光景を思い出したのか、佐咲もまた、苦い顔をしていた。
「そして何より、地面を見ろ」
「……っこれは」

 足跡を見れば逃走路は判明するはずだった。
 問題はその足跡だ。
 両方にある。

「これをただやみくもに二手に分かれたと見るべきか?」
「……いや、軌道に迷いがなさすぎる。計画されたうえでのことだろう。確実に何かを仕掛けてくる。で、佐咲。お前はどちらの道に伏兵がいると思う?」

 左の道の足跡は多く、右は少ない。
 ――ふつうに考えれば兵を動員した分足跡が多い左に兵がいて、環がそれに守られている。だが、その伏兵そのものが足止めであり、環自身はそこから分離していたとしたら、あるいは伏兵は陽動で、右の道から脱出していたら? あるいはその両方……いやそれはない。安全を期してそうするならば、両方に同数の兵を二分しているし、なにより兵力を分散させることになる。そんな下策をあの舞鶴が採るとも思えない……

 渥美の沈着な思考は続く。

 ――こうして我らを逡巡させ、時間を稼ぐことこそ本来の目的で、環自身はとうにこの林を突破しているか? ……偵騎の報告によれば、確かに二集団が先行して脱出をはかっているという報があるが……

 渥美はずぶずぶと深みにはまる思考の中、強く瞑目した。
 さっさと結論を出さなければならなかったが、慎重を期さねばならない。

 だが、その鼻先に異臭がチラついた時、瞼の裏でカッと閃光のようなものが瞬いた。
「ふ、はははは……っ、生ける伝説衰えたり! 伏兵右道にあり!」

 にわかに大笑し、確信した同朋に、佐咲は不審の目を向けた。
「わからんか? 右の道から漂ってくる火薬……火縄の臭いを」
 佐咲は鼻を動かし「確かに」と呟いた。
「銃が発する異臭にも気づかんとはな。やはり山に引きこもっていれば流行の玩具を手にしても扱いはわからないらしい。それに足跡をよく見てみろ。一見して数は少ないように思えるが、その足跡の上からさらに何度も踏みつけたようにも見える」
「だが、とすれば肝心の鐘山環はどちらの側にいるだろうか? あるいは既にこの場から離れているのではないか?」
「……いや」
 寸刻の思考のうえ、彼はそれを否定した。

「聞けば環はあの市で馬を奪うべく突出してきたという。まだまだ血気にはやる小童、民の殿軍を気取ってまだ林にいる可能性が高い。……それに、だ」
 渥美はその太い指で再び土の一点を示した。ただ一つ残った、馬の蹄の痕跡を。
「だが、確かにお主の言うことにも一理ある。万難を排しておくとしよう」
「ならば、どうする?」
「こちらも兵を二手に分ける」

 自分たちの背後、ずらりと並んだ騎兵を眺めながら、渥美は言った。
「一手は俺、一手は佐咲、お主が指揮をとれ」
「おう、承知した」
「ただしその手勢を割いてもらいたい。そうだな、お主が三、俺が七割の兵を率いる」
 剛直な佐咲の、花崗岩の如き顔の色が怒りと不満で赤く熱する。
 それをやんわりと手で制止、渥美はその理由を説いた。
「いや、我が身の命惜しさに言うのではないぞ。むしろ俺が、その伏兵に対処しようというのだ。お主はむしろ本隊として軽兵を率いて環を討つ。あるいはこちらに環がおればそのまま敵の陽動部隊なりを突破し、愚民を蹴散らしながら背後に回り込んで挟撃する。そうすれば、我らもこの隘路を十分に活かすことができるというわけだ。どうだろうか?」
「うむ。それは良い案だ。……しかし良いのか? その大功を頂いても」
「なぁに、最初に約束したではないか。『お主に環の首級を譲る』と。もっとも、もし伏兵の中に環が潜み、直にその指揮をとっていれば、そのまま俺が討ってしまうがな」
「こやつめ」

 佐咲が冗談めかしく渥美の具足を叩く。その顔色に、先刻までの不満は残ってはいなかった。
 そして彼らは頷き合い、七と三の手勢を率いて、林の闇へと立ち向かう。

~~~

 ……幡豆由基は闇と木々と土の臭いに包まれて、そこに隠れていた。
 羽虫がその周りをうろつくが、神経を研ぎ澄ます由基はまるで意に介さない。

 羽音を縫って、馬の足音が聞こえた。

 ――数から見るに、舞鶴殿の読み通り、か。

 手探りでえびらの中より、矢を抜いた。
 手にした弓は竹製ではなく、牛角、牛筋を主体とした伝来の合成弓。
 古来より順門府一帯は自生する竹が異様なまでに少なく、一部隊の弓兵の比率は他国に比べて著しく低いとされている。
 だが生産性に乏しいというだけであり、それがそのまま弓兵の脆弱さにあたるということにはならないが。

 ――もっとも、それも銃とやらに取って代わられつつあるがな。

 何しろ鉄砲に必要な上質の鉄や木材は豊富に手に入るし、射程も遙かに長い。どのみち手間がかかるということであれば、こちらに力を注ぐだろう。
 だが、物は使いようだろう、と由基は思う。
 ――特に、オレの弓はどんな名器にも勝る。

 ……瞼を開き、世界は開く。

 弓兵の見る光景は、目を閉じる前のそれとは大きく異なっていた。
 闇の中にあったその松林はさながら蛍の灯りに照らされたかのように下からぼんやりと明るく発光し、隅々まで見通せる。

 そしてその薄明かりの中を、より目映い一本の軌道が、弧を描いて目に映り込んでいる。
 それが幡豆由基だけが見ることの適う、幻想的な光景だった。

 環の目が青いように、
 舞鶴が不老であるように、
 あるいは銀夜が銀髪であるように、
 この神官の子には、それに相応しい、特殊な知覚を持っていた。

 幡豆由基には、矢の向かう先が視覚として読み取ることができた。

 弦や淵をしならせ、握力の強弱によって、目安の飛距離の長短が決まり、わずかな風向きの変動さえ、その視覚は取り入れて細かい方向修正までしてくれる。

 こうした特異な体質の持ち主は天恵人(てんけいびと)と呼ばれ、古来から異端視されるか重宝がられるかの両極端な扱いを受けてきた。
 覚醒する時期は先天的に、あるいは十歳前後に後天的に、と二つに分けられるが、この神子の場合は前者だった。

 武を司る盤龍神を崇める幡豆家においても、おそらくは歓迎されるべき体質だろう。
 だが由基はその力の存在を流天組はおろか、実家にも話してはいなかった。

 ――こんな力、人殺し以外の何に利用できるってんだ。そんなんで神様扱いされるなんて、ごめんこうむるね。

 とは内心の弁。

 ――だったら有効利用できるところで使うだけだ。例えば、こんなところでな……

 援軍がいるか、という舞鶴の申し出に対し、「一人で十分だ」と断ったのは由基自身だ。

 ――それにもしオレがしくじってここで斬り殺されたとしても、あいつが……ん?

 あいつとは、誰のことだろう?
 だが由基がその答えを見出す前に、神子の『弓矢』はすでに敵を捉えている。
 その狙いに、寸分の狂いもない。

 さながら彼らは長蛇であったが、鉄の鱗で覆われた蛇であった。
 その重量ゆえに本来機動的な陣形は、鈍重にズルズルと、地面を這って進む。
 五騎並ぶのがやっとの道幅を、神経を尖らせながらその一団は進んでいた。

 長蛇の陣と言えば聞こえは良いが、狭い道である以上は細くなって進むよりほかないがゆえの陣形であった。
 だがもし敵の伏兵が両脇から討って出てきたとしても、容易に分断できないように中心を精鋭で固めていたし、斥候を飛ばして警戒していた。
 松明を手に暗がりを照らし、敵兵の有無を探りながら

「良いか、周囲に必ず兵が伏せられている。木々の闇という闇に目を凝らし、これを見つけ次第蹴散らせ。ただし深追いをする必要はない」
「いっそ大渡瀬同様にこの林を焼いてしまうべきでは?」
 という部下の進言に、渥美は首を振った。
「そしてまた炎に紛れて環が逃げるか。……ここで逃がせば、奴を広大な大地に放つことになる。万全を期すべきだ」

 そこに、先に駆けていた早馬が隊列の隙間を逆送して戻ってきた。
 そしてそれを率いる渥美の元に参じると、馬を下りて一礼した。
「どうした?」
「はっ! 前方に妙なものを発見しました」
「敵の痕跡か!?」
「い、いえっそれが……」
「ちゃんと説明しろっ」
 にわかに視線を外し、口を濁す伝令に、やや焦れた調子で続きを促す。

「鉄砲ですっ!」
「敵方に鉄砲があることは既に先の戦闘で判明している。何を不思議がることがある?」
「それが、奇妙な置かれ方でっ!」

 要領を得ない奇怪な報に、とうとう渥美は自ら先陣に乗り出してその目で確認することにした。
 件の奇妙な鉄砲とやらがあるのは、彼のいる場所からさらに数間、少し開けた場所の中央にあった。

 それ自体は紛れもなく、何の変哲もない火縄銃だった。
 しかし、その銃身は木々の枝と縄とで繋がれて、宙に浮いたようになっていた。
 すでに発砲を行った形跡があり、銃身に触れてみると熱しており、硝煙の臭いが残っていた。
 だが暴発したようでもなく、意図的に撃たれたもののようだった。
 決して逃げ出した伏兵が放り出したものには、見えなかった。

 ただ、それが一挺。

「……っ! 急ぎ林を抜ける! 佐咲と合流せねばっ!」
「は!?」
「わからんかっ! 我らはおびき出されたのだ! 本命はあちらだ! ここに伏兵はおらんッ」

 ひゅっ

 風切り音が、彼のすぐ耳元で起こった。
 木々の間を吹き抜ける風に煽られたか、上体が大きく揺れる。
 だが次の瞬間、渥美は眼下の配下たちが惚けたように、自分に一身に視線を集中させていることに気がついた。

「……どうした?」

 だがその声は、ひゅうひゅうともの悲しい風音になるだけで、声にならなかった。
 ……おそるおそる、その手を首筋に当てる。
 ぬるりとした感触、そこから生えた硬い感触。
 生ぬるい熱の中に指をひたしているのに、その指先が、徐々に冷え込んでいき、力が失われていく。
 あっという間に馬上で全身を支える力は失い、渥美は落馬し、背を打った。
 首の中心に穿たれた穴から、呼気と血液が漏れだしていく。
 自らを呼びかけ慕う声も、どこか彼には遠く聞こえた。

 自分が首を射られたと悟ったのは、死ぬ間際のことだった。


「……とまぁ、こうして疑似餌につられた渥美を討つのはたやすい」
 と、はっきりと黒衣の尼僧は言った。

「仮にも順門きっての重鎮三戸野家の、二枚看板の片割れ。ワナにハメたとして、それを簡単に殺れますかね。すぐにこちらの意図に気づくんじゃないスか?」
「そう。そこです」
 にこやかな顔をズイと寄せられては、猛虎の如きこの神子もまた、たじろぐしか術を知らなかった。
「一度、自らが踏み込んだ場所が陽動だと気づかせるのです。そして彼は部隊に通達するはず。『伏兵などいない』と。……その彼の宣言を否定する一矢を、幡豆殿には放ってもらいたいのです。彼の注意が右道からも、そして自身からも外れる、その一瞬を突いて」
「……なるほど。で、一矢を放って、それからどうするんです?」
 その時の勝川舞鶴の笑顔は、まるで悪童が純真な幼子にイタズラを教えるようなものだった。

~~~

 闇の中、矢の続く限り由基は弓を執った。
 つがえた矢は、三本ずつ。
 凡人が真似すればあらぬ方向に飛んでいくはずのそれは、由基の超常能力の下、確実に敵の人馬の致命的な部位を貫いていく。
 それ以上の同時発射は流石に困難だし、ただでさえ短い飛距離も失われる。
 できるだけ多数に見せかける。
 それが基本方針だ。

「て、敵だァ!?」
「やっぱり伏兵はこっちにいたんだっ!」
「ええい落ち着けぃ! 敵などおらん! いたとしても小勢だ! ……ぐわっ」

 灯りが土の上に落ちる。
 その残り火を踏むことすらためらわず、馬のいななきは天を驚かせ、蹄で倒れた主を踏みにじったりした。


「幡豆殿、次は、敵を分断してもらいます」
「……単騎で、スか」
「と言っても文字通りの意味ではなく……この時点で敵は二説の派閥に分かれています。『伏兵などいない』派と、『伏兵はやっぱりいる派』とでもしましょうか。その両者に意志の統合をさせる間もなく、ひたすらに矢を撃ち続けてください。できれば間を置かず、まばらな方向へ。そうして両者の対立を煽りながら……『伏兵などいない派』を減らしていく。おそらくは彼らの大半は渥美に次ぐ権限を与えられた副将、各組頭でしょう。彼らを討つことによって指揮系統も混乱し、末は……」

 崩壊。


 その二次は、今暗中の名射手の目の前で起こっていた。
 自らの手によって。


「……そンで、その矢を射込む場所は、どこか良いでしょうかね? 大事なのは、渥美を討つまで居場所がバレないことだと思いますが」
「……幡豆殿、もしあなたが指揮官だとして、『伏兵部隊』が自分たちの頭上にいると、考えますか?」


 ――何が伏兵だ。これじゃ暗殺者じゃねーか。
 たった一人の『伏兵部隊』がいたのは、七十の敵がうごめく林、その樹上だった。

 最後の一矢が、目に見える軌道に沿って流れていき、騎馬武者の兜の下の眉間を突いた。
「っ、若木様っ!?」
「もうダメじゃあ! 逃げろっ、逃げろォ!」

 算を乱して逃げ惑う敵兵を、由基は追わなかった。
 追おうにも矢は尽き、敵にこちらの実態を晒させるような愚行だからだ。

 そして無人となった林間、自ら築き上げた屍の上に、射手は降り立つ。
 宙づりになった鉄砲を「もったいね」と取り除き、肩に担ぐ。
 そしてもう一方の、もはや何の役に立たなくなった自身の獲物を見ながら思う。

 ――これはアレか? 舞鶴殿はオレに日陰者に徹しろと、あくまでお前は鐘山環の配下なのだと、そう言いたくてこんな指令を?

 そうじゃないだろう、と由基は己の胸に沸いた疑念をかき消した。

 ――こんな芸当ができんのオレぐらいだ……今はそれに頼るしかなかったんだろう。生ける伝説に頼られたってのは、悪い気はしない。

 しかし、とも思う。

 相次ぐ府公の反乱と独立、
 誰が作ったかもしれずいつの間にか伝播していた火縄銃、
 そして生ける伝説の再臨、

 ――ただのガキのケンカの延長戦のようなものだったこの戦もそうだ。……何かが変わりつつある、いや、始まりつつある。その中でオレが担える役目とは、一体……?

 夜が白み始めた。
 さながら宝玉の欠片の如く、陽光が顔を覗かせる。
 幡豆由基は弓を強く掴み、前へと進み出す。

~~~

「むっ!?」
 遠くで聞こえた人の声のようなものに、佐咲の武士としての勘働きが反応した。
 戦いが、始まっている。

 ――やはり渥美の考えは当たっていたかっ!

 同朋の慧眼に舌を巻きながら、彼は手綱を強く握りしめ、馬腹を蹴った。
「急げっ! ここを突破し、渥美と合流するぞっ」
 猛将の号令に、近習たちが「おう」と同じる。
 彼らは昂揚と熱気を渦巻かせ、風を身体で切りながら突き進む。
 それゆえに、彼らは気づくことがなかった。

 ぬかるんだ泥の上、彼らの進路に黒い突起物が拡散していることに。

 それを踏みつけた馬が大きくのけぞり、甲高い悲鳴をあげた。
「おぉっ!?」
 一番先頭にある佐咲が、手始めにその被害に遭った。
 鞍から転がり落ち、浅黄の陣羽織に土をつけた。
「御大将!?」
 あわてて傍にいた者が駆けつけるが、彼らが左右に広がったために、進軍は妨げられ、前方は彼ら二、三人が守るのみとなってしまった。
 しかもその彼らも、
「ぐぅ!?」
 ……と、残りの障害物を足に、あるいは膝に突き刺しもんどり打った。
「な、なんだこれは!?」
「忍がよく用いる蒔き菱のようです……!」
「ええい、こしゃくな足止めを……っ」

 ざり

 土を噛む足音。
 草鞋で蒔き菱を除けながら、その男は立っていた。
 見るからに、無頼の輩と知れる風体、肩に担いだ抜き身のダンビラ。

「よぉ、御大将」

 知っている。
 あの名も知れぬ密告者と共にいた男。
 欲に駆られた小物と違い、そしてその小物を言葉を尽くして止めようとした男。

「仇、とらせてもらうぜ」

 逆さまに向けられた刀の刃先が、ためらいなく突き立てられ、佐咲はくぐもった断末魔をあげた。
 今まで誰にも与えられることのなかった、死へ至る一撃。
 いつかはこうなると覚悟して、主君のため、天下の秩序のために常在先陣の心得で戦場を巡ってきた。

 ――だがっ、だがこんな名も知れぬ雑兵に殺されるというのか!? この佐咲助角が!? 尊敬に値する猛者との一騎打ちでもなく、天下分け目の大戦でもなく、主君のためでもなく、こんな道ばたで犬のように!?

「やれ」
 また、別の男の声がした。

 ――鐘山環。

 闇から、松林の隙間から、彼らの縦列を挟み込むように銃口が伸びて、一斉に火を吹いた。

 順門府の先陣を彩った歴戦の勇者は、骸になっていく己を自覚した。ばたばたと崩れていく味方に折り重ねられて、ついにはどこにいるのか分からないままに、その命を消滅させた。

~~~

 霞の如き白い煙幕が薄らぐ、
 少数精鋭三十のうち、死者は二十名。
 残る数名は逃亡し、残る一名は……仲間の死を背に、平伏して助命を乞うていた。

 敵の首魁、鐘山環を前にして。
「な、なにとぞ……命だけは……っ」
「お前らは俺の命を奪うことが使命だったようだが、俺の使命はお前らの命をとることじゃない」
 と、彼は膝を折る。
 それこそ刀に手を伸ばせば届きそうなぐらいの至近で、鐘山環は尋ねた。

「お前、名は?」
「へ、へい! 卯狩(うがり)の甚兵衛(じんべえ)と申します!」
「知っている。前の戦で雑兵首二つ、まずまずの手柄だったそうじゃないか」
「へ!? あ、あっしをご存じなんで?」
「……いやまぁ、酒のツマミに聞いた話ってだけさ」
 何かをごまかすように頭を掻きつつ、環は言った。
 若者らしさを感じさせる純朴な振る舞いに、甚兵衛は

 ――本当に、自分たちの殲滅指示を下した人物と同じなんだろうか?
 とさえ思った。

「そうか。それじゃあ、近くにいるお前の味方と合流しろ」
「お、お許しいただけるんで?」
「許すも何も、戦は終わった。もうお前を殺す意味がない。俺の後味が悪くなるだけだ」

 それだけ言い放つと立ち上がり、さっさと身を翻し去っていく。
 甚兵衛は、呆然と、仰ぐように見送るしかなかった。


 亥改大州と、彼と共に伏兵として働いた魁組、いつの間にかひょっこり戻ってきた勝川舞鶴を連れて、危機のなくなった林を抜け出る。
 その途上、「ほらっ」と、懐から袋を取り出し、環はそれを大州に投げ渡した。
 それを紐解き、中にあった公基銭(こうきせん)(朝廷が規定した硬貨の一種)と、その枚数を確かめた後、彼は無言で疑念を環にぶつけてきた。

「売買で金はなくなったはずじゃないのか」
「どうしてこんな大金を自分に?」

 という、声なき二点の質問に対し、環は口答した。
「ドサクサに紛れて奴らからかっぱらってきた。俺を殺す前金か、それともお前の兄貴に払うつもりで惜しくなった金か。とにかく命を張らせた駄賃だ。由基に見つかるとうるさいから、受け取ってくれ」
 やや、じっとその金袋に目を落としていた大州だったが、

「……つまりこの銭を褒美として受け取りゃあ、俺らの働きは『協力』ではなくなり、結果として俺はあんたの下風に立つってわけか」

 という一言が、周囲を凍り付かせた。
 鬼の如き形相で、魁組十数名が環に向けた目をいからせた。
 ゆっくりと刀を鞘走らせる者さえいる始末だった。

「ちょっと待った! 俺はそんなつもりじゃっ……」
「気に入った」
「な……え!?」
「あんたと一緒に行ってやる」

 思いがけないその答えと共に、魁組の要人は懐に賃金をしまい込んだ。
「あんた、気前が良い。人の清濁って奴を、腹と頭でちゃんと分かってる人だ」
「だ、大州さん、良いんですかい!? いくら殿様の息子だからって、何も流天組の下っ端に」
 彼の兄の部下が吐いた言葉は正論だ。
 今まで自分たちの組と敵対していた相手、かつその中の三下相手の組下に入ると、この男は言っているのだ。
 正体の知れない凶悪な笑みを浮かべて、ダンビラを担いで詰め寄る。
 視線が外せない。いや目を逸らしてなるものかと、環は睨み返す。
 すると男は不敵に鼻を鳴らして、環の肩胛骨の辺りを拳で叩いた。

「この面構え、流天組に収まる器かよ。奴らにはついぞそれが分からなかった。だが、俺には分かる」
「……大した自信だな」
「そう褒めるな」
「皮肉で言ってんだよっ!」

「大した自信ですが、確かな眼識をお持ちですよ」
 そう口を挟んだのは、笑顔で成り行きを見守っていた舞鶴だった。
「何しろ、この美しすぎる伝説! ……のお墨付きですので」
「…………色々混ざってるぞ、お前」
「それにほら、彼らも」
 袂を持ち上げて指さした先、この林の出口、黒い塊のようなものが、太陽の逆行を浴びて近づいてくる。
 敵かと身構える一同だったが、すぐに警戒を解いた。
 おぉい、おぅいという憚りのない声、ばらばらと秩序のない足音。
 とても宗善配下の兵のそれでは、なかった。
 既に先行していた民の集団、その一部だった。

「お前ら……どうして」
「増援」
 彼らと共に離脱していた流天組の良吉が、無表情に、淡々と、歯切れ良くそれだけ言った。

 ――増援?

 確かに、彼らの大半は大の男が占めていて、手には包丁やどこかで拾った木の棒、あるいは鍋や石ころさえ携えていた。
「舞鶴の作戦は伝えたはずだろ!? なんで」
「んー……まぁ確かにそうすりゃ命が助かるって話だったけど、なぁ?」
「そだ! だからって全部あんたに任せるってのも後味悪いし、第一なんか頼りねぇ! 俺らが助けてやんなきゃって思っただ!」

 ……という身も蓋もない答えに、環は喜んで良いのやら怒って良いのやら呆れて良いのやら、その全部か……とにかく微妙な表情をしている。
 そんな自分を見て、大州も、舞鶴も、ニヤニヤ笑っている。

 たく、と毒づく彼を「殿」と呼ぶ舞鶴。
「覚悟は、お決まりですね?」
 相も変わらず、一方的な決めつけ。
 だが今の環には、それを否定する気持ちも、根拠もなかった。
 自分が生きるため、あるいは民を生かすため、
 彼が弁舌を振るい、彼らを扇動したのは事実なのだから。

「……大渡瀬の惨劇を見たでしょう? 宗善殿の治世は、秩序は、あくまで彼と、彼を取り巻く武家の自己満足でしかないのです。正しさだけが残る国、それは、朝廷に背いた貴方のお祖父様やお父上が望んだ在りようでしょうか?」

「親父は関係ない。祖父宗円公も」
 帽子を上から強く握りしめる。
 強く、もっと強く、頭の中が真っ白になるぐらいに、強く押さえつける。

「だが、俺が胸クソ悪くなっのは、確かだ」

 鐘山環は正面を、民の後で輝く旭日を見た。

 ――何かが終わろうとしている。
 理屈でなく、感性が環に叫んでいる。

 それは順門本家の消滅か、大渡瀬か、あるいは反朝廷の体制か、……己か、
 あるいは宗善か、銀夜か、彼らを含めた、順門府の現在か、あるいは……

 自然、首が南東に向いた。
 半島と入り江、そして桜尾家の桃李(とうり)府を隔てた先、朝廷の有する巨大な領土が存在している。

 ――とすれば、それを終わらせるのは、俺か、舞鶴か、宗善か……? それとももっと、大きな、別の何かか?

 ……沈みかけた顔を上げる。
 昏睡していた時間がどれほどのものかは知らないが、久しぶりの、日の光だった。
「俺を突き動かすのが何であれ、舞鶴、お前であれ、とにかく生き抜いてみようって気にはなった。俺に生きて、戦って欲しいと、そう願う人のためにも」

 闇の続く林を抜けて、一歩、土を足で掴む。
 道の見えないほどの、輝きの向こう側へと。



[38619] 第二章:鬼謀 ~順門府よりの亡命~ プロローグ:玉衣の戦姫
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:36
 中央に位置する二百六十万石の広大な土地。そこが朝廷の直轄領であり、今生の帝の座す宮城は、都は、その中心にある。

 その周囲四方を数十城と険阻な土地と、初代皇帝の布武(ふぶ)帝以来の家臣団が鎮護している。 彼らはそれぞれ五千から一万の直属精兵を抱え、有事には召集され、あるいは直接国境の防備に向かう。
 また都自体にも高い防御性と、最大にして三万五千の親衛軍、すなわち禁軍が配備されており、境界にて戦力を討ち減らされた敵がかろうじて宮城にたどり着いても、決して陥落させることはできないとされていた。

 巳の月十四日。
 その堅城東に位置する御殿で、ある珍客が皇帝に謁見していた。

「……以上の経緯より、忘恩の逆徒は、ことごとく誅しており、二度と我ら鐘山家、陛下の御心をわずらわせるようなことはございませぬ。つきましては、引き続き我らに順門府をお任せいただきますよう。必ずや、かの土地に平穏と安寧と秩序を取り戻してご覧に入れましょう」

 流れるような上奏が、耳に気持ちの良い声音に乗せて運ばれる。
 自分たちの家紋の縫い込まれた錦の帯の前に居並ぶ朝臣らは、まずその声に聞き惚れ、次にその姿に見惚れた。

 座れば牡丹、とは誰の言葉だったか。
 たった今、帝と対する銀髪の女神、鐘山銀夜は、確かに大輪の白牡丹のような堂々しさと誇りに満ちていた。
 御簾に隠れた帝が、軽く上体を揺すったのが、末席の上社(かみやしろ)信守(のぶもり)からも見えた。

 天下の諸侯に陛下よ帝よと崇められる少年は歳にして十五。
 幼少を理由に政務を宰相たる星井(ほしい)文双(ぶんそう)に全面的に委任している彼は、これこれという偉業を成したとか、どう法を制定したとか、そう言ったものを残していない。平々凡々とした治世。
 このように美しい姫が自らに臣従する光景に、その純心をくすぐられて少なからぬ感動を覚えたのだろう。

 ――自分の威徳が届いたのだ、等と下らぬお心得違いをされているのであろうな。

 言えばその場で首の落ちる暴言を、信守は胸の内に秘めた。
 相手が四代目の帝ということを差し引いても、年若い少年相手に酷な感想だと思わないでもない。

 だが
「皆の者、これぞ義士だ。彼らのような者たちこそ、我が王朝の宝だ」
 と無邪気にはしゃぐ彼に対し、末席に端座する信守はなおさら皮肉な気分を募らせた。

 ――主人や肉親を弑して喜ぶ殺人者を、天下の主様が義士と褒めはやすか。なんとも馬鹿馬鹿しい。

 あるいは陛下の言うとおり孝心よりも忠義を選ぶほどに、滅私奉公を旨とする正義の徒なのかもしれない。
 だが信条などという形のない何かのために、肉親を嬉々として殺す。そのような輩が、赤の他人を裏切らないとでも考えているのだろうか?

 ――これは、流石に底意地の悪すぎる想像だな。

 自らの悪性に微苦笑し、信守は無心で退屈きわまる儀式を見届けることにした。

「よかろう。鐘山銀夜とやら、汝の父宗善を、正式に順門府公として認める。引き続き統治を申しつける。それと……」
 すると少年皇帝は自ら御簾から出た。
 最奥で対峙している鐘山銀夜の前に立つと、自ら打ちかけていた藤色の上衣をそのまま少女にかけた。
「銀夜、朕は汝が気に入った。以後、順門府に、いや海内に未だ不忠の輩あらば、朕の名代としてこれを討て」

 それは、破格の待遇であった。
 ――破格の待遇が、破格の安さで切り売りされている。

 諸臣の驚きと感嘆が入り交じる中、信守は冷めた目でそれを見ていた。
「かたじけなく存じます……」
 消え入るような声と共に顔を伏せ、感涙にむせぶ少女に対しても、彼は同様だった。
 別に鐘山の娘の落涙が、虚妄の類だとは思ってはいない。

 ただ先日の乱で、彼女らが討った者たちが流した涙を想えば、どうしても素直に感動する気にはなれなかったからだ。

 ――さらに今朝の密偵からの報告によれば……

 彼女の胞輩が先日、一個の町を焼いた。しかも他国を略奪するのではなく、自領土で、ただ旧権力者の親族をあぶり出すためだけに殺戮したのだという。
 要するにこんな暴挙に出る狂人どもを、陛下は蝶よ花よと愛でるつもりらしい。
 またむくむくともたげた悪心を胸の内で持て余しつつ、

 ――その情報を、

 おそらくは彼女すら知らないこの凶報を、今この場で暴露したらどうなるか。そう考えた。
 心ない讒言と見なされるだろうか?
 それとも公然とその行いが肯定されるのだろうか?

 なんにせよ、自分の実利に絡むわけでもない。彼は口を歪に閉じたままにすることにした。

~~~

 帝との謁見もこのうえもない上首尾に終わり、意気揚々と凱旋した銀夜を待っていたのは、意外な凶報だった。

「そうか、あの両名が、な」
 その帰途にて、敗走してきた兵を見咎めて事情を聞き出した彼女は、すぐさま敗兵をまとめ上げた。と同時に板方城の宗善にその朗報と凶報とを同時に報ずるべく早馬を飛ばす。

「それで」
 焼け落ちた大渡瀬、銀夜は朝日をまとい燦然と長髪を輝かせながら、白馬の上で敗残兵たちに問うた。

「佐咲、渥美ほどの将が、どのように負けたのか?」

 と。
 彼らの麾下は疲労とススと乾いた血痕で彩られた顔を突き合わせた。
が、互いに囁き合うだけで、明確な返答はもらえなかった。
 それどころか彼ら自身、どのように負けたのか、いやそもそも自分たちが負けたのかさえ理解していない様子で、銀夜は気分を害していた。

「あのぅ……」
 と、そこにおずおずと声をあげる小兵がいた。
「あっしは、敵大将の率いる部隊とかち合いました」
「仔細を言え」
「あ、あっしは卯狩の」
「名は聞いていない。詳細な、かつ正確な報告だけを私は必要としている」

 若干落胆し、若干不満げなその男が語る、順門府屈指の猛将が死に至るまでの経緯。

 それを自分の頭の中で吟味し終えた銀夜は「なるほど」と短く呟いた。

「へ、へぇ。それで町が、大渡瀬がこんな有様に」
「町など後から再建できる。問題はその戦いだ。大方、舞鶴の仕掛けた罠であろうが、攻め手にしてもあまりに拙い。そもそも相手の小細工に合わせる必要などないだろうに」
「ですが、指揮をとってたのは環でした」
「引き金を引くぐらい、あいつにもできるだろう。だが策を組み立てたのは間違いなく舞鶴だ」
「だけど、あの大将もあっしにゃ大したお方に見えました」
 妙に食い下がるその雑兵の前で、少女は馬の蹄をカツ、と鳴らした。
大仰に怯える男たちの前で、

「私は、お前よりあの男を知っている」
と言った。

「私が師である光角翁より兵学を教わっていた頃、あの少年は城を抜け出て私が初陣の頃には、彼は山野で獣と、市井で悪友や女郎と戯れる毎日だった。その私と彼との差は、事跡、実績を見れば明らかだ。あれは自ら求めて何かをしたこともなく、ただ他人に流されるまま生きている。今もな」

 誇るように高らかに言う彼女の双肩には、薄紫の上衣が覆いかぶさる。
 その背には銀糸の藤花が円を描くように咲き乱れている。

 巴藤。
 現王朝皇族、すなわち藤丘家本家の家紋である。

 帝からの下賜を、銀夜は己の陣羽織としていた。
 そう扱うことがあの方の本望であり、また戦場においてもこの上衣を決して汚させない。それだけの自信が、彼女にはあった。

「世を乱す者あらば、これを名代として討て」

 その御命を、噛み締める。
 まさか、早くもこんな機会が巡ってくるとは、彼女さえ想像していなかった。
 予想外の反発だったが、これ以上予想を覆されてはならない。
 身内の汚濁を除くことは、自分にとってただの通過点に過ぎない。

「国境と港を封鎖せよ!」

 絶美なる姫将は即座に背を翻し、控える麾下に命じた。
「敵は民を扇動して盾として連れ歩いている。実に唾棄すべき卑劣漢どもだ。だがそれにより移動速度は確実に落ちているはずだ。東に位置する他の領主らにも協力を仰ぎ、その進路を先回りして閉鎖しつつ、右往左往するこれを捕捉する」

 高らかにそう宣言した馬上の戦姫は、黒く焦げた大地には目を向けない。
 ただ、無窮の天を仰ぎ、その広大さに想いを馳せる。



[38619] 第一話:悪の契り(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:37
 初夏の陽光が、木々の葉と幕布を抜け、瞼を透かし、少年の目に入り込んでくる。
「……っ」
 差し込む鈍い痛みにゆっくりと意識と頭をもたげさせていき、鐘山環は覚醒した。
「……良かった……」
 無意識のうち、安堵の言葉が漏れた。

 ――今度は、闇夜に目覚めるのではなく、ちゃんと朝に起きられた。

 ただ、こうして寝起きを繰り返す度、こうして見るものが移り変わり、自分さえ、別の何かに変わりつつある。そんな恐怖が、夏を間近に控えた時節に、彼の肌を薄ら寒くさせる。

 枝に幕を引っかけただけの、陣幕というにはほど遠いものをかいくぐる。
 笹ヶ岳(ささがたけ)。
 笹とは言っても竹が生えているわけではない。
 朝廷に従属していた頃、竹の子をもらったことがある。
 それを植えたが竹は生えず、結局伸びきる前にそれが枯れた。
 よほど環境条件に恵まれなかったのか、あるいは主人同様、土地もヘソ曲がりなのか。

 とは言え、府国の中央に位置するこの小高い土地に、四十人近い男女が仮に、三日近く居住している。
 家屋らしいものはないが、そこだけがまるで大きな匙でくり抜いたように、開けた場所になっている。
 元は朝廷との最初の戦いの際、補給基地として木々を切り倒して陣を張っていた場所である。
 一時は敵将、上社信守らの夜襲により陥落し、焼き払われたがその後の停戦の条件により土地ごと奪還した。
 その古戦場は一定期間、集団が身を隠すには最適だった。

 ――とは言え、長期間にわたって逗留できる避暑地でもない。

 幸いにして川水は豊富だが、火を焚けば煙が昇るし周囲は照らされ、居場所は露見する。すなわち調理が出来ない。
 今は持ってきた干し魚や麓の町に下りて小銭で調理済みのものを買っているが、いつまでも出来ることでもない。日を追うにつれ出入りも厳しくなっていると聞く。
 ついで言えば、敵を退けたといえ追撃任務を引き継いだ者らはその逃げ場所にあたりをつけてくるはずだ。
 現に、海上封鎖が諸処で行われつつあると聞く。港から国を出る、という一団の発想は水泡に帰したと言って良い。
 既にこんな状況に、またそれを率いる環の将来に見切りをつけて、密に逃走をはかる者も多い。
 それを止めることもなかったが、四十人。
 その数を保っているのが不思議なほどだった。脱走した者たちも行く当てもなくトンボ帰りに戻ってきたり、あるいは新たに流れ着いた者もいる。
 密告者が出ないのは、行った大州の兄の末路を知っているからか。
 いや、それも時間の問題だろう。
 衣食住すべてが不足している。そろそろ限界だろう。

「しっかし……」

 周囲を見渡す。
 ある者は食料を賭けに博打に励み、ある者は息をするのも労力の無駄と言わんばかりに木陰で熟睡している。そしてその無秩序な集団を守るのが、流天組、魁組らの武装集団だった。

「鞍(くら)、車屋(くるまや)、哨戒に回れ。北には作った鳴子を設置、かつ麓の川には空になった壺を設置し、その旨を中にいる連中に知らせ、決して中瀬に踏み入らないように気をつけろ。ガキが間違いを起こす可能性だってある。念のため、流天のバカどもから二人ほど出せ。幡豆のに直接言うんじゃねぇ。ちゃんと大将を通せ。……ウチのは何故だか嫌われてるみたいでな」
「へい! あの、ですが何でツボなんて?」
「バカか。浅瀬なんて兵が攻め来りゃ簡単に渡れる。そういうのに足取らせて躓かせて、少しでも時間を稼ぐんだよ」

「……普段の素行不良ぶりがウソみたいに働くな、あいつら」
 指示を各所に飛ばす大州始め魁組の活躍を見ながら、樹の枝に引っかけていた帽子をかぶり直す。
「あぁ」と彼の呟きに応じたのは、地田豊房だった。
 角張った頬を撫でながら、毒もない言葉使いで、ゆったりと続ける。
「それに、鉄砲だって扱いに慣れてた。最初はどう共存すべきか心を砕いたが、まぁなんとかなってるじゃないか。大将殿」
「……『駆けて良し、組ませて良し、撃たせてよしの順門兵』……てな。そういう器用さは、むしろ俺たちみたいなボンボンより、足軽たちの方に分があるんだろうよ」
「それに亥改大州、あの男にも驚かされる。魁組の副長に収まっていた時はいまいち精彩を欠く男だったが、いざ自分が頭になると、一介の部将もかくやという活躍ぶりではないか」
「ま、やる気と能があるのなら、やらせときゃ良い」
「しかし頭領がなんて思うか……」
「あのジャジャ馬の気性は、俺らがなんとかするしかない」

 あるいは、と思う。
 自分と大州の立場が逆で、向こうが順門府の後嗣として生まれ、自分が名もない足軽の子だったらと想像する。
 今回のような反乱にあっても後嗣大州は見事に混乱を収拾して、宗善や銀夜と対等に渡り合っていたかもしれないし、自分は大渡瀬のような騒動に巻き込まれて雑兵として死んでいたかもしれない。
 そして何より、大渡瀬は誰も殺されることなく……

 ――いや、こういうのは良くないな。

 過ぎてしまったことは過ぎたこと。こぼれた水は椀には戻らない。
 それに、自分にしかできないこと、成せないことが、亥改大州、幡豆由基のような曲者、異才を使う己にしか出来ないことが、あるはずだった。
 もう、決断を、してしまったのだ。

「おい、寝坊助大将」
 ぶしつけな物言いに、環は顔を上げた。
 しぼんだ枇杷をまずそうにかじりながら、ダンビラを担いで、件の魁組の主が大股で歩み寄ってきた。

「聞いてただろ。そこの四角いのでも良いから、人数貸してくれるよう頼んでくれ」
「悪かったな。酷使させて」
「出世払いで頼むぜ。あの幡豆の下風に立たされてとやかく言われるのは、シャクでな」
 その幡豆の下にいる環と地田は顔を見合わせた。
 本人が聞いたら矢の三本でも飛んでくるところだが、温厚な二人の間で、苦笑を交えて肩をすくめるだけだった。

「それより、大将のとこの黒いのが呼んでいた」
「黒いの……あぁ舞鶴な。何の用だって?」
「知らねぇ。ただあんたにしか頼めない、重要な任務だそうだ」

~~~

「さぁさぁ鈴鹿殿ー、ちゃんと髪も洗いましょうねー」
「洗ったよー」
「いーえー、まだまだ。土がついてますよ。また野山を駆け回って遊んでたんですか?」

 下流に近い川瀬。
 ばちゃばちゃと、
 色気も節操もなく聞こえてくる水音を背に、あぐらをかいて環は、ぶすっと頬杖をついていた。
 他にも、色鮮やかな女たちのはしゃぐ声が、幕の奥から聞こえてくる。

「……で、女の行水の見張りの、どこが俺にしか頼めない重要な任務なんだ?」
「まぁ、殿は私ども乙女の柔肌が、性欲をもてあます益荒男たちの目に触れても良いとお考えですか?」
 ことさら驚くような舞鶴の声が、なおのこと腹立たしかった。

「乙女って、どの口が言いやがる!? じゃあ俺なら良いのかよ?」
「仮に殿がそうした劣情を催されたとして、女たちをお手つきになられたとしても、それはそれでよろしいでしょう。将来の公子殿が、この場で誕生するのですから!」
「……主の理性をまるで信用してないな、お前」

 環とて、そうした生理的欲求がないわけでもないし、女を知らないわけでもない。
 まして舞鶴は美形だし、他の女たちも色々とため込んだこの若き公子にとっては魅力的に映った。

 ――にしたって、どうにもあの女が絡むとそう言った欲がどこかへ失せる。あざといも度を越すと、始末に負えない。

 と、失礼なこと考える環の心を読んだかの如く、
「余計なことは考えず、監視に専念してくださいな」
 と幕内から当人の声がかかる。
「……はいはい悪うござんした」
 一体自分は偉くなったのか、卑しくなったのか、時折環には分からなくなってくる。

 不満顔で風呂番を買って出ている環のところに、
「殿」
 と、耳打ちされる。
「だぁっ!?」
 思わぬ不意打ちにのけぞる彼の間近には、舞鶴の配下、緋鶴党とおぼしき男が控えていた。
「おい、殿、呼んでるぞ!?」
「環様、殿は貴方です」
「あ、あぁそうだった」

 差し出された文を呆然としたままに受け取り、
「見ても良いのか」
 と、舞鶴に許可を求める。
「まぁ! 浮気を疑われるとは心外ですっ。どうぞ中をご覧になってくださいな。もちろん中というのは幕の中の花園ではなく、文の内の字ですよ」
 ……もはや、そこに突っ込む努力すら惜しまれた。

 言われるがまま、文面を読み進める。だがその内容は、環の心に霜を降らせるのに十分な情報だった。

 ――朝廷が叔父御を順門府公に!?

 これで、環達は名実ともに、朝廷の意に逆らう立派な逆賊になってしまったということになる。

 ――いやまぁ、元から逆賊なんだけどな。

 だが手を打つのが早すぎる。
 それを様子見もせずあっさり決めた帝や重臣らもそうだが、宗善の節操のなさ……いや転じて決断の早さも並ではない。

 さらにその文面には使者としてつかわされた銀夜が目通りを許され、かつ大層気に入られた旨がある。

 ――あの銀夜が、ねぇ。

 自分が幼い頃より天才よ、神童よと褒め称えられた秀才である。
 それと同じに容姿も兼ね備え、舞鶴を除けば今まで会った誰よりも美しい女だったが、いまいち面白みがなかった。薄い一枚の紙に描いた典型的な美人絵のよう、という奇妙な印象が、歳を重ねる度に強くなっていった。

「まずはユキに一番に相談だな。これで奴の機嫌も治るだろう」
 その伝令を下がらせて、帽子を強く押さえつけながら立ち上がる。
「舞鶴、この場は任せて良いよな? お前なら暴漢の五人ぐらい殴り殺せるだろ」
「……そのおっしゃりようはあまりに心外ですが、幡豆殿に報せるのなれば早い方が良いでしょう」
「で、あいつはどこにいるんだ?」
「さらにこの上流で、私たちとは別に行水しているようです」
「あいつもかよ……仕方ない。行ってくる」
「よろしいのですか?」
「何が?」
 と返した環に、幕内の女達の嬌声は一瞬、消えた。
 その溜めの後、どっと笑い声となって波のように押し寄せる。
 笑いの意図がくみ取れず、環は首を傾げて幡豆由基の下へと向かう。

~~~

「おーい、ユキー。タイヘンだー」

 のんびりゆったり、鐘山本家の公子は友人の名を呼ばわった。
 別に状況を楽観視しているわけではない。もはや驚きもしないほどに、自ら置かれた状況が最悪だからだ。

「ユキー、聞こえてるかー? 入るぞー」
「ちょっ!? おまっ……」

 何をうろたえるのか。
 女たちは自分の何を笑ったのか。
 ……自分が忘れていたのは、なんだったのか。
 麻布の裏に踏み込んだとき、ようやく環は全てを悟り、思い出した。

 幕の内には、一人の乙女がいた。
 下半身は川水に浸かったまま、白い裸身をさらしている。突然の乱入者にさして大きくもない乳房を掻き集めるように抱いて隠して、谷間を作る。おびえではなく、怒りによって身を震わせている。目を白黒、顔を朱色に変じさせて。
 そして川の中から隆起した大岩の上に、自慢の合成弓と矢があった。

「……あー……」
 意外に綺麗な肌をしている。
 ……などと、呑気なことを思いつつ彼は自らの迂闊さを嘆き、次に来るであろう復讐を予期する。
 それでもせめて、言うべきことぐらいは言ってやろうと開き直り、帽子を強く押さえつける。

「生娘は生娘らしく普段からそうやって慎ましくしてろって。だから時々俺はお前が女であることを忘れ……だぁっ!?」

 鼻先に飛んできた矢をかわしたが、二撃目の石つぶては避けそこねた。
 側頭部に結構大きめな一石を喰らい、この集団の名目上の総大将は、地面に昏倒した。



[38619] 第一話:悪の契り(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:37
「では、軍議を始める」
 集落から少し外れた場所に、各一団の代表者たちが直立して一同に会している。
 と言っても、流天組の面子と、魁組の亥改大州とその護衛役らしき巨漢。
 その険悪な両派閥の間に挟まれて、居心地の悪そうにしている環と、平然と笑みを保っている舞鶴。
 ……そしてその環の頭の横は、今も腫れていたし、その加害者は今もなお、機嫌が悪かった。

 ――その八つ当たりが俺自身に来るのはまだ良い。だが、

「……で、警護役殿が何故現場をほっぽり出してこんな場に出てるんだかね」
 と、幡豆由基は乾きかけた前髪をかき上げて亥改大州を睨んだ。
「ちゃんと周囲は見張らせてるし、敵を発見した場合の対処ももう言い渡してある。それにこの高所からなら敵の動きなんて簡単に見て取れる。……何か問題が?」
「ふん」

 ――だと思った。
 環は内心うんざりしたように幡豆家の巫女を見た。
 もっぱら敵視しているのは由基ばかりで、大州自身が流天組を悪し様に言ったことはない。だが、こうもいちいち突っかかられて面白いわけもないだろう。

 咳払いして両者の気を散らすと、緋鶴党から渡された文を回し読むよう促した。
 その文面を説明したのは、事前に報告さればかりの由基だった。

「ご覧の通りだ。朝廷は兄殺しを正当化し、その被害者を悪者と見なした。朝廷だか帝だかのえこひいきは今に始まったことじゃねーけど、よそ様の評判は悪くなり、特に各府公がオレらを正直に受け入れることは難しくなっただろう」

 その報せを初めて知った同志たちが、色めきたつ。
「……くそっ、だったらこの檄文も無意味になっちまったな」
 色市は悔しげに取り出した紙をくしゃくしゃと丸め、草の上に投げ捨てた。

「……何やってるんだ。紙も筆も墨も、無尽蔵にあるわけじゃないんだぞ」
「好きで無駄にしたわけじゃない! ……おれだって考えてるんだ」

 座ったまま身を屈めて拾い上げた環が、その文章を見る。
 諸流派を修めたという色市の書の腕は、独特ながらも字体そのものは美しい。
 そして文面には、宗善らの主張とは逆に、自分たちこそ朝廷に降伏するので、父の仇を討って欲しいという話が、麗句を多分に交えてびっしりと、みっちりと記されていた。
 ……鐘山環の名で。
「……お前な」
「だがこうして見てみると確かにこいつは駄文だな。本人の汚点を美点にすり替えたうえ、三割増し、とくりゃあこれじゃ別人だ。良吉、鼻紙に使って良いぞ」
 彼らの反応を楽しむかのように、意地の悪い微笑を浮かべて、舞鶴が進み出た。

 だが彼女の唇から、発せられたのは、さらに現在進行形でひどくなっていく事態についてだった。
 凱旋した銀夜が素早く各逃走路を封鎖にかかっていることが伝えられたのである。
 彼我の速度を鑑みれば、今はまだ警戒網へ向かっても着いた時には既に封鎖されていることも考えられた。

 ――そもそも、境界線を抜けたところで、容易に追撃を諦めるとも思えないが。

「そこでこの苦境、どのようにして脱するべきか、各々の存念あれば、是非とも忌憚なく言っていただきたいと思います」

 ――何を白々しい。
 自分の頭の中では既に煮詰まった腹案があるだろうに。
 舞鶴の言葉にそっぽを向いたが、積極的に拒絶することもなく、環は終始無言で、餅の上の橙となっていた。

 まず手始めに挙手したのが、色市始だった。
「どうぞ」とにこやかに黒衣の女に促され、弁筆達者なこの若者はまず咳払いした。
「海上封鎖と言っても、全てしらみつぶしに行えるわけじゃない。それぞれ分散して船に乗り、海を渡って境界を抜ける」
「渡ってどーするよ?」
「無論、朝廷に我々が拒まれている以上、それと公然と彼らと剣を交える相手と合力するほかない。すなわち、任海、水樹たちの反乱軍に合流する」
「……どんな海路で、最短距離はどれぐらいになる? 渡航に必要な食料は、人員は? 寄港地があるとして、それが位置するのは朝廷か、もしくは桃李府の領ということになるが?」
 ずばずばと、容赦なく指摘を浴びせたのは、対面に座る大州だった。
 そして色市を擁護する人間は、味方であるはずの流天組の中にさえいない。むしろ、

「それに肝心なのは国を抜け出るまでの流れだ。そこにアラが多すぎる」
 と、地田豊房も大州の反対意見に同調した。

 悔しげに唇を噛みしめる弁士の隣で、幡豆由基が手を挙げた。
「はい、幡豆殿」
「関所を無理矢理突破すれば済むという問題じゃねーってんなら、変装して抜ける。例えば、巡礼中の神官を装うとか。その受け答えはオレがすりゃ良い。仮にも神仕えだからな。口上ぐらいは諳んじることができる」
「……にしたって環の人相は敵も分かっているだろう。それを指摘されたらどうする?」
「そんなもの、コレを役人の前でブン殴れば済む話だろ」
「!?」
「まさか連中も大将がそんな扱いを受けるとは思わねーって」
「……どこかで聞いたことある話のうえに、俺、普段も相当ひどい扱いを受けてるんだけど」

「……では、僭越ながら」
 と、次に地田が発案した。
「関守と言っても、全員が潔白というわけではあるまい。賄賂が通用する相手も、必ずいるはずだ」
「賄賂? そんな金があると思ってんのか?」
「そこは、亥改、貴殿の手勢に盗みに長けた者はいないか? そういう人間に城にある蔵なりを襲わせて……」
「てめぇ……うちの組は盗賊団だってのか!?」
 席を蹴り、気色ばむ護衛役を、大州は座ったまま引き戻した。
「そんなのがいたら、とうに持ち金を増やしてる」
「そうだったな。……すまない、気を悪くさせた」
 わだかまりもなく素直に地田は失言を詫びた。
「では亥改殿は、何か妙案がお有りですか?」
 魁組の頭領は切り株にどっかり腰をつけたまま、ニヤリと笑った。

「なぁ、軍師殿。茶番はもう良いだろう? いい加減、あんたの頭の中のこと話してもらっても」

 ――どうやら、この男も気づいていたな。

 舞鶴が自分たちの意見を求めたのは、案が出尽くしたところに自分の策を披露し、その採用をより確実のものとするため。

「あらまぁお気の早い」と微笑み、彼女は木に立てかけた黄金の杖を手に取り鳴らした。

 しゃらん

「皆様の意見には多々聞くべき点がありました。しかし惜しむらくはそれが通用するする人間と、しない人間とがいることです。銀夜殿は恐らく我々の行く先に見当をつけ、その要所に無駄なく精兵を配置するでしょう。そうなれば、ちょっとした細工は通じません」
「だったら、どうしろと?」
「絶対に来ないだろう。行く意味がない。そんな場所こそ、油断も生じる。そこが狙い目です」
「その場所、とは?」
「この西に位置する、御槍(おやり)城の城下町」
 ……環は、重ねて問うた己の愚を呪った。

 要するにそこは、敵の主力、鐘山銀夜の本拠だった。

「無茶だっ!」

 まず反対したのは、常識人枠の地田だった。
「敵の城を乗っ取ろうと言われるか!? いかに彼女が出ていたとしても、我らに倍する将兵が詰めているだろう!」
 例えば十六人で堅城を落とした智将の講談があるが、それは相手が暗愚なお殿様であるから成立するお話であって、敵は一流の将帥、鐘山銀夜とその家臣たちだ。
 攻めあぐねて増援に挟撃されるのがオチだ。
 だが……

「第一戦略的にも悪手だ! 仮に城を落とせたとして、来襲する宗善本隊に包囲され、味方が来ることもなくそのまま揉み潰される! どうかそのあたりを」
「もう良いだろ。地田さん」
 と、珍しく激昂する年長者を、環はそっとたしなめ、それから舞鶴を睨み見た。
「この女が俺らが危惧していることに気づいてないわけがない。やたらと迂遠な言い回しはいつものことだ。……危険を冒して城下に侵入するのは、別の目的から。そうだな? 舞鶴」
「ご明察、恐れ入ります」
 深々と頭を下げて、それから勢いよく上がる舞鶴の顔は、とても晴れやかだった。

 しゃらん

「実は銀夜殿に、出国許可をもらえるよう、お願いに行くのです!」

「…………今度ははしょり過ぎだ。もっと具体的に言え」
 環組んだ腕に怒りを込めて、できるだけ感情を押し殺した。 
「具体的と言いましても、これが一番核心を突いた言い方ですので。……亡き宗円公に、力添えいただいて、ね」

 どうして、今の話に故人が出てくるのか。
 環を始め、その場にいた全員が当惑し、あるいは呆れた。
 この黒衣の軍師の言わんとすることを探るべく、皆口を閉ざして思案した。

「……つまり、この方はオレらに死ねと言っているらしい。確かに死んで魂だけになれば国境なんて関係なく飛んでいけるからな」

 由基が面白くもないうえに笑えない冗談を飛ばし、静まり返った場がさらに白ける。

 死人、御槍城下、許し、力添え……

 ――まさか……

 てんでバラバラなその四言、それらが環の頭の中で、解きようもないほどに鎖で繋がれた。
 理解、してしまった。

 黒衣黒髪の女を見る。
 少女にも見えるそれは、環が導き出した解答が正しいのだと、強く、頷いた。


 瞬間、


「…………くく……くくくく……ははははは! あははははははっ!」
 少年は、笑った。
 タガが外れたように、
 まるで自分が生きて呼吸することが、滑稽だとでも言うように。

 その狂笑が少女の冗談によってこみ上げたものではないことは、誰の目にも明らかだった。

「あはははは! なるほどな! その手があったかっ! だがそれほどか!? そうまでして俺は生きなきゃならないのか!? そんなことまでして生きる意義が、必要が、権利が! 俺にあるのか!?」

 彼は帽子を上から押さえつける。
 自らの頭蓋をそのまま割ってしまいそうなほどに、強く、激しく。

 だが、方法は、それしかない。
 この場にいる誰も死なせることなく、この国より出るには。

 舞鶴の肩を叩く。
 それは彼女の悪事に加担するという彼なりの意思表示だった。

「……ロクな死に方しないぞ、お前……っ!」
「それが、殿の王道のためとあらば」

 流浪の公子の笑みは、鬼女と契る高僧のようだった。



[38619] 第二話:霊にて脅す(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:38
「さぁ! 今まで我慢させて悪かった! 肉も魚も、好きなだけ獲って好きなだけ焼け!」

 もうもうと煙はあがり、ごうごうと人の声が華やぐ。
 その饗宴の中で、環は自らも猪肉にかぶりつき、上下隔てなく接しながら歩き回る。
 そして、人知れず盛りの場を抜け、切り株に腰掛けた。

「よう大将、あんたもこういう場は苦手な口か」

 しかしその場には、亥改大州がすでにいて、握り飯を頬張っていた。

「別にそういうわけじゃないけどな」
 今は素直に楽しむことができない。

「だけどよ、最後の最後まで揉めたな」
 呟くような大州の言葉に、態度にも言葉にも出さないで同意する。

「特に、あれ」

 遠巻きに衆を見据える彼らには、仏頂面の巫女が見える。
 剣呑な気配は他者が近寄りがたい空気を作り、彼女に接近しているのは、機嫌を直してもらおうと悪戦苦闘する流天組ぐらいなものだ。

 今回の作戦を舞鶴の口から明らかにされた後、最後までそれに抵抗したのは、あの幡豆由基だった。
 人道にもとる、と。
 死者の御霊を冒涜する行為だと非難し、黒衣の女の策謀に同調しようとする連中を、環含めて片っ端から罵っていった。
 それを宥めたのは最終的には環自身で、

「舞鶴の策はこの場にいる全員を無事渡航させることのできるこの場で唯一の方法だ。それを否定する以上は、上回る対案は持っているんだろうな? 誰かの生命と、己の矜持、それを天秤にかけてみたか?」

 という問いかけの後、由基は無言で引き下がった。

「意外だったな。ヤッコさん、冷めた人間だと思ってたぜ」
「あぁ見えて神官の子だからな。本人が口でどう言おうと、根っこにある信心ってやつが納得してくれないんだろう」

 それで、と。
 握り飯を食い終えた悪相の青年に、少年君主は改めて問うた。

「少女の信仰心を踏みにじったこの策は、お前から見て成功すると思うか? 大州」

 環は自らの口から発せられたその言葉の端々から、トゲのようなものを感じ、自分でもその策が人の道ならざる手だと憤っていることを知った。
 だが彼はあの直情の少女とは違い、そうした自分の感情を受け流すことができた。

「するさ」
 ためらいもなく、浮ついた様子もなく、取って投げるような軽さで、
「何しろあんた、運も度量も知恵もある。だからこんなとこで死なねぇって」
 大州は、言い切った。

「運と度量と頭って、今までの俺のどこにそんなものを見出したんだ」
「俺を見出せた幸運。俺を起用した頭。俺の才能を活かせる度量」
 恥ずかしげもなく答えた大州に、彼の新たな主は閉口して無言だった。

 と、そこに一人、由基の近くには侍っていなかった良吉が、足早に駆けてきた。
 無口な彼が説得に向かないというのもあるが、魁組と周囲の警戒を行っていたからだ。

 そして環と大州が
「来たか」
 と腰を上げ、良吉は強く頷いた。
「気は乗らないが、始めるぞ」
「おう。宴は終わりだが、芝居が始まる」

~~~

「笹ヶ岳に煙が上がっている」

 という報を受けた巡回中の代官の御手洗は、確かに己の目でそれを見た。

 ――もしや現在逃亡中の環一党と関わりがあるのか?

 という彼の疑念は、果たして現実のものとなった。
 ……ただし、手勢をまとめて丘に向かった代官が見たのは、予想だにしなかった光景。

「…………」

 環らが縄で繋がれた姿であった。

 その縄の尾を手ずから持っているのは、その武士集団の頭領と思しき、悪相の青年である。

「失礼、代官の御手洗様とお見受けしました」
「ウム。いかにもその御手洗であるが、して、そこもとらは?」
「我らは地元の土豪、小林家の手の者です」
 人相と若さに見合わぬ丁寧な口調で、男は名乗り、事情を説明した。

 曰く、鐘山本家が逆賊、環の行方を追っているとのことで、自分たちも協力しようと独自に探索していたとのこと。

 すると、丘に不審な煙が立っているのを発見し、登ってみたところ、飢えに耐えかねたのか民が飯を炊いて食べていた。

 そしてその中心には同じく飯を貪る環がいて、彼らを取り巻くと、あっさりお縄についたという。

 その顛末を聞いた御手洗代官は、あまりの呆気なさに、しばし唖然とした。

「ご理解いただけたか」
「だ、だがにわかには信じられぬ。第一、何故その者は抵抗せぬのだ?」
「信じる信じぬは勝手だが『素性怪しき者は男女問わず召し捕るように』との仰せに従ったまで。それに無抵抗と言われたが」

 ダム! と。
 男は、ためらいなくその青年の爪先を踏みつけた。

「だぁっ!?」
 奇妙な悲鳴をあげて仰け反る環は、恨みのこもった目つきで、男を睨んでいた。

 その様子に満足したように軽く首を上下させた男が、
「とまぁこのような具合にまだ反抗する気に満ちており、我々としても手を焼いておる次第」
「そ、そうか……」
「この者が本物かどうかの裁定は銀夜様に委ねれば良いでしょう。お疑いならば御槍城までご同道いただけるとありがたい」
「っ、承知した。だが」
 事が事ゆえに疑り深くなっている御手洗は、環から視線を外し、捕縛されている集団の中でも一際目を惹く黒衣の女へ向けられた。

「して、その尼僧は一体?」
 対する小林の者は、繋がれてなお、にこやかに笑んでいる女に、丸くした目を向けた。

「ご存知ないのか」
「知らぬ! 我らは逆賊鐘山環の捕縛せよとのみ受けておる!」
「なるほど」
 悪相の青年は、不敵に笑う。
 その笑みに本能的に嫌悪感を覚えた御手洗は、「何か?」と低い声で聞き返した。

「いや、別に。こちらも正体が知れぬのでお尋ねしたまで。さて、行きましょう」

 頷く彼が、黒衣の美女の正体、その名を聞いていたのならば、今の倍、その罠を警戒していただろう。
 あるいは、銀夜本人にひそかに繋ぎをつけて判断を仰いだだろう。

 だが、
 ――いくらこの男が環の家臣だとしても、主君の足を踏むことはないだろう。
 ――脱出を図るならまだしも、自ら望んで虎口に踏み入る理由はないだろう。

 という二点の要素が、彼を凡手に踏み切らせた。

 その判断が、御槍城下、ひいては順門府全土を巻き込む事件の鍵となるとは、役人は考えていなかった。

~~~

 鐘山銀夜の石高は、推定五千石とされている。
 その中心にある御槍は元々彼女にあてがわれた土地だが、その後中小規模の戦闘で武勲を重ね、地道に加増されつつあった。
 とりわけ今回の『義戦』に対する彼女の働きは内外ともに目を瞠るものであるものとして、その領地はさらに増えるものと目されていた。

「山手代官、御手洗。および小林家臣の……」
「亥改大州」
「……そう、亥改大州。彼と共に叛徒の頭目を連行して参った。銀夜殿にお目通り願いたい」
「……! うむ! 通れ!」

 難なく関所を抜けた環は、腹の前で手を結ばれたまま、肩をすくめた。
 彼の前を、覚王にまたがった亥改大州が行く。

「本名を堂々と名乗るとはな」
 別に繋いでいる本人に言ったつもりはなかったのだが、かすれたその囁きに、目もくれずに悪相の男は答えた。

「別段困ることにもならねぇよ。顔を見た奴らはとうに逃げおおせたし、黒いのの例もさっき見ただろう。奴らにとっちゃ、環に連なる者は、すべて木っ端のようなものでいて欲しいらしい。あまり大層な名が叛徒に連なると、他の忠誠心が揺らぐからな。俺なんかせいぜい、犬を繋ぐ首輪といった所だ。犬そのものに名前はあっても、首輪が何色で、どんな名前だったのか、そこまで問う変人はいねぇさ」
「……そういうものかね」

 ふぅ、とため息をつき、周囲を見渡す。
 予想通り、罪人である環と、その一行は奇異の目で見られている。
 だが予想に反し、その反応はあまりに薄い。

 というよりも、まるで町そのものが、静かだった。
 掃き清められた路地、静々と、足音一つ立てるのを恐れるかのような歩き方をする人々。
 商店は大渡瀬とは打って変わり、通行人に呼び止めなどせず、ただ品を並べ、あらかじめ買う物の決まった客が来れば、必要に応じて、二言三言、最低限の会話を交わすだけだった。

「……」
「どうした大将? 国を出もしないうちから郷愁か?」

 ――郷愁?

 環は、内心で即座に否定した。
 そんな温かな響きの感情ではない。もっと底冷えするような、虚しい寂寥感の中に、彼は立っていた。

 ――まるで、ガキの頃遊び場に使っていた空き地に、どこぞの誰かの屋敷でも建てられたかのような。昔の女が良家に嫁いで、後日貞淑な人妻としてすれ違ったような……

「そんなんじゃない。ただ」
「ただ、なんだ?」
「ひたすら面白くない」

 大州は主の答えに、思わず噴き出した。
 先頭を行く馬上の代官に軽く睨まれ、環は慌てて、彼に表情を戻すよう目で訴えた。

「なるほど、確かにこれはつまらん箱庭だな。だがこのお嬢様の箱庭を規範として、新法度が布告されるようだ」
「娘の手遊びを真似て国作りか。さぞかし牧歌的な府になりそうだな」
 大州の皮肉に負けないぐらいの辛辣さで、同じく農兵に扮した魁組に繋がれた由基も毒を吐く。
 実はお前ら仲良いんじゃないか、と環は思わないでもなかったが、この巫女が凶悪な殺意を大州に一心に注ぐため、それを口にするのをためらわせた。

「……というか、ユキをなんで縛られる側に回したんだ。確かにお前に人選は任せるって言ったのは、俺だけど」
「理由その一、一番作戦に反抗的で、途中暴れられても困る。その二、これから褒美を頂こうって連中が、ギラギラ殺意を向けてたら不自然だろ。むしろ、そうして捕まった相手が屈辱に歯ぎしりする方が正しい反応ってもんだ。その三、気位の高い女に反抗を向けられつつそれを意のままに縛る。なかなか乙なもんじゃねぇか大将」
「…………一、二に関しては否定できない。三に関してはほんのちょっとだけわか……だぁっ!?」

 横合いの由基から思いっきり足を踏みつけられて、環は再度の絶叫を喉から放つ。
 それを不審げに振り返る御手洗だったが、その前方から駆け来る者に、気づき首を戻す。

 ――そろそろだな。

 それを察する環の横には、町内でもっとも巨大な寺がある。

 方略寺(ほうりゃくじ)。
 環の親族、その譜代の家臣の系譜が眠る菩提寺である。

 前からやってきた平服の武士は、そのまま御手洗の下で止まり、背を反らした。

「申し上げます。殿にお伺いを立てたところ、こちらの方略寺にて待機するように、とのこと!」
「寺に?」
 御手洗は訝しげに顔をしかめた。

「御城に伺うものと考えていたが」
「はい。殿はそのおつもりでしたが、御身を罪人の前に晒す危険性を周囲の者らが説き、また城内に素性の知れぬ者を入れることの反発もあり、こちらへ留め置くとのことです。城以外でこの人数を押し込めるのは、この寺しかありませぬので」
「……なるほど」
 もっともらしく理解して、いや理解したフリをして、御手洗は頷く。

 ――こんなデタラメを真に受けるとはな。

 環は苦渋の表情の裏で、わずかに笑みをこぼす。
 とは言え、理にかなった口上であるのは確かだから、納得するのも無理らしからぬことだろう。

「では、御手洗様にはそのままご登城いただきたい」
「承知したが」
 御手洗代官はチラリと環たち、正確には環を捕らえる大州らへと向けられた。
 その目には、そのまま罪人たちを全面的に小林家臣とやらに預ける危惧が、ありありと滲み出ている。

 対する疑惑の本人はニヤニヤ笑いながら
「お疑いであれば、貴殿の手勢もこちらでお待ちすれば良いのでは?」
 と、挑発的に提案する。

 相手に向けた悪感情を看破されていたことによる焦り、意地、それが

「そ、そのつもりだ!」

 と、御手洗に言わしめた。
 ……かくして彼の三十余名の部下が、環の監視に加えられた。

~~~

 胸の中の引っかかりをとりあえず御手洗は無視し、御槍城へ意気揚々と上がった。

 城下の全体を見渡すことのできる山城で、その縄張りは彼女の師である三戸野五郎によるものである。
 だがその城主の居住地はその山頂にはなく、山裾の御殿であった。
 ……そして、そこで待ち受けていた反応は、彼の予想と期待とを大きく裏切るものだった。

「して、環を捕らえたと言うが、奴めはいずこに?」

 というごく素朴な疑問が、姫将の家臣より上がり、それがしばらく御手洗の言語能力を奪うこととなった。

「……っ、方略寺に押し込めよと御使者に言い含めたのはそちらではないかっ」

 だが、その使者という者が現在どこにいるのか? 役職どころか名前さえ知らない。
 彼がその事実に気づいた瞬間、周囲が気の毒な目を向けるほどに、この小役人の表情は醜く強ばった。
 一瞬の後、紅の瞳をつり上げた鐘山銀夜に向けて、居並ぶ家臣たちが半身を乗り出した。

「殿! これはやはり舞鶴とやらの策でしょうか!?」
「ならばその目的はっ!?」
「やはりこの御槍城が狙いかッ」
「とすれば城を空けぬ方が良いのでは?」
「いや、あるいは既に離脱しているやもしれぬ! すぐに寺へ向かうべきだ!」
「そもそも手引きした不届き者が領内や城中にいる可能性が高い! それらを洗い出して粛正すべきではないのか!?」
「手引きと言えば、むざむざ敵を招き寄せた御手洗殿の責任は如何!?」

 ……思案、独語、発言、反論、一喝、怒号、転嫁、追及……

 さながら嵐のように、ごうごうと、人の声が暴れ狂う。

 その狂乱の場に、

 ……す

 と、わずかな衣擦れの音だけ立てて、少女の手が持ち上がった。

「秩序、乱す、なかれ」

 そのわずか一言が、まるで荒れ波に落とされた雫のように、そしてそれが嵐を鎮める秘薬のように、彼女の言どおりの静謐さを人々に取り戻させた。

「敵の魂胆は読めている。みだりに騒ぎ立てることこそ、敵の思う壺だ」
「では、敵の狙いとやらは!」
「うむ」と、姫姿の若き名将は、掲げたその手を下ろして言った。

「まずは諸将の疑心を理により払おう。敵の狙いは城や領地、あるいは将兵の首ではない。これは、先だって佐咲、渥美両氏が討たれた際に分かっていたことだ。それが彼らの限界であるのだからな」
「と、おっしゃいますと」
「確かに舞鶴の才知は未知数であり、脅威だ。が、もしあの隠者に想像を絶する奇策があれば、とうに夜陰の混乱に乗じて離脱するか、他国の援護の及ぶ領地を切り取る、あるいは我らを皆殺しにすることもできたはずだ。にも関わらず、白昼堂々我が懐に忍び込んできた」
「で、ではその目的は!? 無策に飛び込んできたわけではありますまい」

 ある家臣の問いかけに、銀夜は「その通りだ」と首肯した。

「敵の思惑は、我らとの和睦にあると思われる」
「和睦!? 圧倒的な戦力の開きがある我々と、和睦ですと!?」
 一人のみならず、大半の者が少女の考えに当惑し、再び室内は騒ぎに満ちかけた。

「考えても見るがいい。環、いや舞鶴らが二人の猛将を討った時、そして今領地に侵入した時、貴殿らは何かしら狙いがあるのではないか、と疑い混乱した。そこに和議を持ちかければ、少なくとも自分たちの助命ぐらいは通るのではないか、と踏んだのだろう。つまり舞鶴はありもしない手駒をさもどこかに伏せたように見せかけ、それをもって我らを脅そうとしているのだ」

 諸君、連中の幻に惑うなかれ。
 秩序と規律を以て、厳然と当たるべし。

 以上のような言葉で、姫将は自らの部下を鎮めた。
 御槍城主の部将たちは、まるで旭日を仰ぎ見るように、自分たちの指導者を見たのだった。

~~~

 そして彼女と、その旗下の手勢五百名はすぐさま自らの領地の方略寺を囲んだ。
 さらにその周囲を何事かと遠巻きに眺める人々、さらにその町の外周を、要請を受けて参陣した隣地の亀山、新組の手勢が固める。

 そして、方略寺の門前、包囲軍の大将、鐘山銀夜は屹立した。
 弓をつがえた短髪の女と、悪相のダンビラ持ち、および彼女たち不貞の輩の配下らしき数名がその出入り口を守護するように立ち、睨むようにこちらを見返している。

 まるで、野の獣を見るような心地で、彼女は悪党共の顔を眺めていた。
「……貴公らでは話にならぬ」
 自らの家臣を諭したのと同じ仕草で片手を持ち上げる。
「首魁たる勝川舞鶴に会わせるが良い」

「……ご指名だ。首魁殿」

 初対面の銀夜でも分かるほどにあからさまな不機嫌さで、その弓手の女は目だけを寺の口へと向けた。

「あらあらあら」
 と、まるで突然の来訪を受けた妻女のような軽い態度で、生ける伝説はひょっこりと、寺の中より姿を現した。
 流れるような黒髪、美しい肢体を包んだ黒衣、化粧の濃さの割には幼い顔立ち。
 風聞で耳にする勝川舞鶴と、寸分違わぬ姿形であった。

「困りましたねぇ。首魁とは私ではなく、殿ですのに」
「ふざけるな。貴殿があの者をそそのかしたのだろう」
「貴方は……えぇと、そう。鐘山銀夜殿! またの名を順門の麒麟児! 姫将! あとはー……」

 とても二名の将を策を用いて討ち取ったとは思えない、のんびりとした振る舞いに銀夜は眉をひそめた。

 ――いや、表面上の態度に惑わされることもない。古来、真の知者は愚者の真似を好むという……

 付け入る隙を作ってなるものか、とより態度を硬化させ、銀夜は地面を鞘で小突いた。
「お惚けもそこまでにして頂こう。そちらの魂胆は分かっている。我と賊とに交渉の余地などない。すぐさま寺より出でて沙汰を待つが良い」

 背後の数名が驚いたように目を見開き、その表情の変化を彼女はつぶさに感じ取り、そして確信していた。

 ――自分の考えは、まさしく正鵠を射ていたのだ、と。

 誇らしげな勝利の余韻を胸に、背をそらして舞鶴を再度見た。
 一方、手下の動揺など知ったことではないと言わんばかりに、それこそ、真剣さや実直さを母親の腹の中に置いてきたかのような、気の抜ける態度で、

「あらあら困りました。幡豆殿、亥改殿。どうやら舞鶴の浅はかな目論見など、順門最強の名将には、とうにお見通しだったようです」

 なんとも人を小馬鹿にした態度だったが、呆れや脱力の方が先に来る。
 ……だが、

「ならば、仕方ありませんねぇ」

 この黒衣の軍師の次の一言が、銀夜を始め、諸将を凍りつかせた。


「ならば方略寺……鐘山一族とその重臣の菩提寺が灰燼に帰すとも、抵抗させていただく所存です」


 ――自分たちの祖霊が、人質にとられたのだ、と理解した瞬間に。



[38619] 第二話:霊にて脅す(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:39
「一体これはどういうことなのだ!?」

 寺を以前包囲下に置いている銀夜の陣営は、再び騒乱の渦中にあった。

「逆賊どもの数倍、いや数十倍、いや百倍の戦力を持つ我らが、何故このような所で手をこまねいておるのか!?」

 もっとも、騒ぎ立てているのは、たった一人であった。
 外周の包囲軍、その北側の指揮を受け持っている新組勇蔵である。

 歳は三十中頃、家中きっての武闘派として知られている。
 もっともその武勇というものは外ではなく、内に向いていることが多い、という評判がある。

「戦場で討った敵の数より、粛正した味方の数の方が多い」

 とは、彼の評価でもっとも当てはまる言葉であろう。
 そんな彼を、他の諸将は白い目で見ていた。

「……見て分からんのか。迂闊に突入すれば、方略寺が危うい」
「寺一つがなんだと言うのだ!? 些末に囚われることなく、例え一面焼け野原にしても、奴らことごとく根絶やしにすべきではないか!?」

 激する新組に対し、冷ややかな目を向けたのは、隣席の亀山である。
 新組と違い、文治派の人物であるが、その吝嗇さゆえに領土問題で何度も新組相手に訴訟を起こしていた。

「そんなことをしてみろ。先祖の霊を蔑ろにした者として、銀夜殿の威光は一瞬で地に堕ちることになるぞ。儂らとしても、先代の御霊を騒がせる真似はしたくはない……っ」
「何故だ!? 卑劣な手に出ているのは奴らではないか!? そのような悪名など連中が負うべきものではないか!?」
「周囲からしてみればどちらに非があるかなど分からん。まして銀夜殿は後々鐘山宗家を継ぐやもしれぬお方。このようなところで瑕瑾を残すわけにはいかんのだ」
「ならば殿にお許しをもらえば良い! うむ、それが良い! 姫様、早速早馬を飛ばし……」

「ならぬ」

 と、制止の声を発したのは、今まで沈黙を貫いていた大将、鐘山銀夜その人であった。
 腕組みし、瞑目し、首を微動だにさせず、それでも唇だけが動いていた。

「父上のお心を、秩序を乱すこと、ならぬ」

「……しかしっ……」
 なお食い下がる武将に対し、彼女は淡々と言葉を継いだ。
「この程度の、旧世代の残滓ごときに、何故府公御自らがご出馬せねばならぬのか。我々だけで事を収めてみせる。それに寺の食料などたかが知れている……腹を空かせた賊どもが内部で分裂すれば、簡単に離散するだろう」

 重量感に満ちたその一言が、列席した諸将に抗弁を許さない。

「秩序、秩序こそ肝要なのだ……」

 藤色の外套に身を包み、父の言葉を、少女は念仏のように繰り返していた。

~~~

 一方で、寺の中は平穏そのものだった。
 外の喧騒さは知らず、大人数がひしめく大広間で、

「公子様、お師匠様、それにお連れの方も、ご無事で何より」
「まぁ和尚様。師匠と言われても、私は貴方に教えたことなんて一度もありませんよ」
「いえいえ、拙僧の師梅弦(ばいげん)僧正が、貴女の直弟子でございまして。つまりは拙僧は又弟子ということになりまする」
「あらまぁ。あの鼻垂れ小僧がねぇ」
 などと、世間話に花を咲かせていた。

「……しかし、驚きました」
 老人二人の、外見上はそうでなくとも形式上は、その会話に口を挟んだのは、寺内の警護を任せられた豊房だった。

「拙僧と舞鶴御前のことですかな」
「いえ、まぁそれもありますが、御坊が我らに協力的であることが」

 豊房がチラと見た部屋の隅、そこでは野菜か何かのように、無造作に人間が転がされていた。

 他ならぬ代官、御手洗の残した兵たちである。

「あぁぁ……」
「ううっ……」

 彼らは死んではいなかったし、命に別条もなかったが、現状それに相当する状態で放置されている。

「まさか、坊主からの差し入れの茶に一服盛られるとは、彼らも思っていなかったでしょうな」
「とんだ生臭坊主もいたもんだ」

 舞鶴の傍ら、皮肉っぽく環が呟くと、和尚はわざとらしく合掌して見せた。

「いえいえ。これは武器の持てない我々の、護身の智恵というものでしてな。府公やその配下の中には、僧形にて法号を名乗り、国や人の命を奪る者もおりますが、そう言った方々に比すれば、我らのいたずらなど可愛いものでございましょう」

 笑むことで寄るシワのなかに、今まで蓄積した年波を感じさせた。

「そうだなぁ」

 環は傍らに控えるその好例を、軽く睨みながら相槌を打った。
 だが主人の無言の非難にも、舞鶴はどこ吹く風である。

「……で、外の状況はどうなっている?」

 半ば肩透かしを食らった気分で環は黒衣の軍師に尋ねた。
「亥改殿と幡豆殿が外で警備に当たっています。お二人の険しい形相に敵兵も緊張! まさに一触即発の雰囲気ですねぇ。となれば、こちらの思うツボなわけですけど」
「……言っておくがあの二人を捨て駒に使うようなら、俺は即刻この茶番から下りて死んでやるからな」
「とんでもない! お二人とも、殿の王道には必要な駒。使いどころはわきまえておりますとも」
 舞鶴の言葉の中にあった『王道』。どうにも環には馴染めない言葉だった。
「ただまぁ、駆け引きの場に銀夜殿を引き込むには、あと障子をもう一蹴り、と言ったところですねぇ」
 口元にうきうきと、堪えきれない愉しみを滲ませつつ、黒衣の女は策謀を巡らせる。
 その裏で、色市始が既に和議状を書くべく、筆を執っている。

「まぁその辺りの機微は、亥改殿にお任せしましょう。いやぁ、本当に足軽にしておくには、もったいないお方です」

~~~

 ……そして再び、銀夜陣営は内外の騒動に悩まされることになった。

「何事だ!?」

 道に張った陣幕を荒々しくまくり上げ、銀夜は自ら外で起こった怒声の発信源へと向かった。

「勝手な行動は慎めと言ったばかりではないか!」
「と、殿! しかしこやつらがけしからぬ言動を……」

 まるでいじめられた童のように、銀夜配下の兵が指で示した先には、ニヤニヤと笑う悪相の賊たちが立っていた。
 そして兵達が訴えるように、聞くに堪えない罵詈雑言を、ためらいもなく浴びせてくる。

「しかし、なんでこいつら攻めてこないんだろうな?」
「バカかオメーは。不忠者は不孝者。先祖の墓がどうなってもこいつら痛くも痒くもねぇのさ」
「そうだよなぁ。何しろ、お殿様や兄貴を殺してもなんとも思わねぇ連中だしなぁ」
「あれぇ? そっちの御仁は、新組家の当主様じゃないですかい? ……はてさて、どうしてご先祖様を助けないんで?」
「そりゃあオレらが怖くて身動きとれねぇのさ」
「つか、そもそもお家代々の墓も苔まるけだったしのぅ。今生きてる自分の身より可愛いわけがねぇさ」
「へへっ……なるほど。どれどれ、じゃあおいらがションベンでも引っかけて墓をきれいにしてやるか」

「…………おのれっ……おのれぇっ!」
 兵たちだけではない。愚弄された一部の大将まで、刀に手をかける始末だ。

 だがその頭目らしき男のダンビラと、隣の若者が狙い定めた矢先が、容易に突破させない構えを見せている。

「殿! 奴らを斬るお許しを!」
「ならん! 説明しただろう。長期戦に持ち込めば……」
「銀夜殿! そもそも貴殿と貴殿の組下がこやつらに御領内への侵入を許さなければかかる屈辱を受けることもなかったのだ!」
「そうだ! 今からでも遅くはない! 大殿にお窺いを立てるべきだ!」
「いや報告など騒動が収まってからでも良い! 今はとにかくこの俗物どもを……」
「貴様ら黙れ! 殿のおっしゃるように、秩序をもって」

「あらあらあら」
 ……再び場に静けさが戻ったのは、あの女の声によるものだった。

「私は不思議でならないのですが、あなた方の謳う秩序やら義心とは一体なんなのでしょうか。この光景からはちょっと、想像がつかないですねぇ」
 場違いに、底抜けに明るい童女の如き甘やかな声。
 再び現れた黒衣の美女に、敵意と殺意と害意が一斉に注がれていた。

「おお怖」と、わざとらしく肩をすぼめる女、勝川舞鶴に、銀夜もまた鋭い紅の眼光で射るように見た。
「舞鶴殿。貴殿の配下の、品性のない挑発を止めさせろ」
「止めさせろ、とは簡単におっしゃいますが、何しろ寄せ集めの我々にそうしたお上品さを期待されても困ります。おまけにこう長引いては食料もなくなっていく始末で、心も荒んでいくのも無理らしからぬこと。不安を他人にぶつけることで気を紛らわせようとするのも、人情と言えましょう」

 ですが、と。
 彼女は己の袂に手を差込むと、重ね折られた一通の書状を取り出した。

 和議状

 目にしたその三文字が、銀夜の頭の内を泳いで暴れ回り、胸に達して食らいつく心地であった。

「貴方にただ一言、この場で諾と言って頂ければ、それで終わり」
「舞鶴……っ!」
「ただ一言で、ご城下に静謐が取り戻される。さぁ秩序を唱える者として、ご決断を」

 突きつけられる、白い紙。
 反射的にそれに伸ばしかけた手が、ビクリで揺れ、やがて小刻みな震えに変わる。
 秩序と規律の奥底に遅れていた、銀夜の激しい怒りが、ほんのわずか、一瞬だけ、激しく醜い表情として、表に顔を出した。



[38619] 第二話:霊にて脅す(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:39
 名月というにはいささか色も淡い、そして小さい。
 それでも、満月だった。

 酔い潰れた民たちが大広間に寝転ぶのを背に、環は一人遅れて酒を飲んでいた。

 都で流行しているという濃いめの焼酎。仏僧がこんなものを秘薬と称して蔵しているのだから、まったく度し難い。
 ちびちびと、一口一口、慎重に運びながら、若き公子は考える。

 ――銀夜は和睦を受け入れるだろう。

 秩序秩序と唱える彼女の根底には、いつだって父に対する畏敬があった。
 失敗する。父から失望の目を向けられる。それを恐れて彼女は、無難な道を選ぶだろう。

 ――そうやって失敗をしないうちに、いや失敗を失敗と思わないうちに、やがて取り返しのつかないことになるんだろう。そしてその引導を渡すのは、おそらく俺になる。

 自らが圧倒的な敗者であるという立場をあえて無視して、環は神童の従姉妹を評した。

 立ち上がると彼は、盃を手にしたまま墓場へと歩き出した。

 物言わぬ『人質』たちは、今自分たたちの目前で行われている事態を、どう思っているのか。

 自分たちの尽力をふいにした宗善に対する怒りか。
 あるいは、私的に国を二分する環への憎悪か。

 いずれにせよ、客観視しても面白い事態ではない。

 ――あれは、通るだろうか?

 環が直筆で足した、和睦の条件の一つ。
 上手いこと紛れ込ませたはずのそれが、相手に承諾してもらえるかは、五分五分といったところだ。

 ――銀夜があれを受けないならそれでも良い。だけど、通って欲しいな。

 帽子を深くかぶり直した環は、中でも一際大きな墓石に行き当たった。

 祖父、宗円の墓標であった。

 他は知らず、ここだけはとりわけ手入れが行き届いていた。供えられた花も、まだ新しい。

 乱世の呼び水、梟雄、大悪党、大逆の徒。

 内外で轟く悪名と反する、故人の実像が浮かんでくるようだった。

「よう、じじ様」
 気安く呼びかけるも返事はない。
 環は苦笑し、酒盃を故人に捧げた。

「ごめんな。こんな形で利用してさ」

 だが、あの祖父ならば「自分の墓石まで余さず使い尽くせ!」とでも言うだろうか?

 ――いや、それは己に都合の良い妄想だ。

 仮にそうだとしても、そこに甘えることは許されない。

 ――この行いも、これから行っていくことも、みんな生涯許されることのない、俺だけの罪だ。俺が『これ』になるまで、背負い続ける。

 かつて祖父が、そうであったように。

 きびすを返した環は、一人の少女が立っていたことにようやく気がついた。

 鈴鹿である。

 闇の中、ぼんやりと浮かび上がる痩躯が、環の胸に飛び込んできた。
ぎゅうっと抱きしめられる強さに思わず、笑みがこぼれる。

「おいおい。どうした? 迷ったのか?」
「環がお墓に行くのが見えた」
 だから、追いかけてきたのだという。

 少女らしい繊細さについ微笑ましさを覚えて、公子は少女の頭に手を添えた。
「バカだな。怖がるぐらいならわざわざ追いかけてこなきゃ良いのに」
「んーん」
 と、少女は恐怖など微塵も感じさせない笑みを向けて言った。

「環が怖くないように、一緒にいたげるの!」
「…………あ、そうっすか」

~~~

「今、なんと申された?」

 いつもは常人の倍以上の声量を発する新組が、この時ばかりは感情を押し殺したような、低い声だった。
 それがかえって、場の緊迫感を高めた。

「連中の提案を受け入れる、とそう言ったのだ。奴らの邪道は先人たちを踏みにじった先にしかないが、我らの正道はその先にはない。わざわざ奴らと同じ次元まで自ら貶めることもあるまい」
「承服いたしかねるッッッ!」

 溜めに溜めた怒りが、日頃の三倍する大音声が、銀夜の陣営内に響く。
 顔をしかめた彼女に対して、さらに詰め寄った。

「何の面目あって、奸賊どもと和解し、あまつさえ国外に出すと言われるのか!?」
 彼ほどに激してはいなかったが、他の者も、その勇に励まされるかの如く同調した。
普段は新組と反目している亀山でさえ、この時ばかりは、

「奴らの提案を受け入れる体を示すのはまだ良いでしょう。ですが、奴らの条件を素直に受け入れることもありますまい。受けたと見せかけ奴らがのこのこと寺を出たら、一網打尽にする。これが上策かと」

 と、全面的な受け入れに難色を示した。

「無論、その可能性も踏まえての受け入れだ。隙あらば環や舞鶴を討つ。だが、例え討てずとも、我らが手を汚す必要もあるまい」
「何を言われるか!?」

 舞鶴が出した和議状、そこに記された文字は、その文面は、癖こそあるが、流麗そのものだった。

 だが、内容自体はあまりに図々しく、大胆不敵、傍若無人。

 一、包囲側はこちらが国外まで退去するまでの間、身の安全を保障すること。
 一、包囲側はそれまでに必要な食料を提供すること。
 一、また各豪族、海賊衆等に、退去の道中、手出ししないように通達を出しておくこと。

 ……等々、怒りを通り越して呆れるほどの恥知らずな厚遇を、寺に籠った連中は要求しているのだ。

 これを受け入れることは恥辱以外の何者でもなく、明らかな利敵行為であり、後日の災いとなることは明白。

 そう、諸将は危惧し、訴えているのだ。

 ――貴殿らを暴走させぬよう決断を急がねばならなかったというのに、なんだその言い草は?

 と、銀夜はそこで初めて反感を覚えた。
 だが、それを表出させるほど、彼女の人格は未熟ではない。

 城内と同じく、片手で騒ぎを制した領主は、床几に腰掛けたまま深々と頷いた。

「皆の不審はもっともだ。そう、私自身も、つい先刻まで考えていなかった。まさか、環を逃すことが我らにとって得かもしれぬ、とはな」

 ……一体、それはどういうことか?
 口にはしないまでも、皆困惑した顔つきで、その意の説明を求めていた。

 恥知らずの和議状を指で叩きながら、

「視野を広く持つことだ」
 と銀夜は前置きした。

「いかに環と残党が騒いだとしても、既に国内の暴動は終息に向かっている。内憂を取り払った後は、外患に当たらねばならん。とすれば、当面の敵は誰か」
「……それは……隣国、桃李府、桜尾家……」

 後ろを西盤海さいばんかいに守られている順門府にとって、もはや敵らしい敵と言えば、武の名門、桜尾家ぐらいなものだ。
 順門が逆賊であるということを大義名分とし、今まで大小の侵攻を行ってきた。今その汚名が晴れたとして、今まで殺し合いを続けてきた相手同士が、仲良く手を携えることができるだろうか。
 まして、桜尾家は財政難を理由に、朝廷への献金も滞らせ、あまつさえその東方で風祭(かざまつり)家の風祭(ふうさい)府、すなわち皇族とも戦端を開いているのだから。

「だが今この場合、我らにとって都合が良い。先刻、勝川舞鶴は退去先の候補としていくつかの寄港地を挙げた。すなわてち同じ逆賊である任海らの領地に当たる中水(ちゅうすい)府内の港と、西方随一の商業都市、名津(なつ)だ。そこで私は中水府案は、その道程の長さ、物資提供をする我らの負担を理由に却下し、名津案を勧めた」
「し、しかし名津は我々と桜尾家への国境にある中立都市! かの地の商家に借財している者は我が陣営にも多く、うかつに攻め入ることは出来ませぬ! そのようなところに環を置くのは……」

 その懸念も少女は、楚々とした挙手と、理路整然とした論説で封じた。

「だが形式上、あの地は桃李府の領地。環自身は小者だが、順門府『元』公子という肩書きは大きい。桜尾家としては、そのまま捨て置くこともできまい」
「……っでは! 桜尾家に攻め込む名分を与えることになるではないかッ! 環を擁した桜尾の大軍が攻め込んできたらなんとされる!?」
「果たしてそう上手くゆくかな?」

 未だ大将の本意をはかりかねる諸将が、皆顔を見合わせた。
 その互いに向き合った顔が、少女のかんばせに一気に集中し、そしてそれから、彼女はその答えを出した。

「環という不純物を桜尾家に食い込ませることで、かの府の国論を二分させる。すなわち、環派、反環派とにだ」

 ざわめく諸将に聞かせるように大きめに、順門最強と舞鶴に言わしめた名将は、言葉を継ぎ足した。

「現状でも、桜尾家には我らが府への侵攻に反対する者は多いと聞く。ましてこの度、逆賊の汚名が晴れたのだ。その声はさらに大きなものとなろう。その者らが環らを捕らえ処断するも良し。あるいは環の出現により息を吹き返す順門侵攻派に対抗すべく、我らに助力を求める者が出るかもしれぬ。それこそ我らが好機。桃李府内部、風祭、朝廷、そして我らとで連携し、一気に桃李を攻め取ることもかなおう」

 無論、銀夜としてもそれほど上手い具合に事が運ぶとは信じていなかった。

 ――だが……

 諸勢力による大規模包囲殲滅作戦。
 それに心躍らぬ武人はあるまい。
 事実、今まで暗闇に沈んでいた益荒男たちの瞳は、爛々とその輝きを取り戻していた。

「姫様の深謀、とても拙者らの及ぶところではございませぬ!」
「古今東西、銀夜殿の才覚を超える者は現れますまい!」

 まず声をあげたのは、亀山だった。
 憎き彼に対抗するかのように、あるいは先の不用意な発言を挽回するかのような大声で、新組も同調と賞賛を唱えた。

 それをさほどの喜びもなく、淡々と受けた銀夜はふと表情を曇らせた。

 ――だが、なんだこれは。

 他とは明らかに自体が違う、独特な筆字が和議の条件最後尾に付け足されている。

 ――それ自体は難しい話ではないが、このようなものに何の意味がある?

 困惑する銀夜の真紅の輝きは、その一文にのみ釘付けになる。

「我が弟妹の遺骸を要求する」

 少女の頭上、その陣営の真上には、彼女の名に相応しい、銀色の月が輝いている。
 しかしその輝きの一部を、黒々とした雲が、覆おうとしていた。



[38619] 第三話:陰る円月(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:40
 ……和は、成った。

 鐘山環らの脱出団の食糧は城の備蓄から供出されることとなり、その輸送隊の物々しい行軍風景を、周囲の民衆はこぞって見にきていた。

 だが、その最後尾で一際異彩と異臭を放つ一団が、何より衆目を集めていた。

 それは、首桶の列であった。

 決して清潔とは言えない人足たちに担がれて揺られ、運ばれて行くそれを見て、人々は囁き合った。
 ただでさえ、長話、深夜の徘徊、深酒、色街、華美な衣装や祭りが禁じられている町である。娯楽に餓えた人々にとっては、一見おぞましそれでさえ、好奇の対象となった。

「なんなんじゃろう、あれは」
「米櫃、ではないなぁ」
「もしや誰ぞ、人死にが出たか?」
「あの寺で?」
「いや、だとしても出てくるのではなく、食いもんと一緒に入っていくのは妙な話ではないか。その、『中身』も入っているようだし」

 上下の身分関係なく囁き合っているところに、「いやいや」と割って入る者がいた。

 この頃、六番屋という商家に奉公している太兵衛(たへえ)という若い男だった。

 口さがない男で、嘘か真かという噂をどこからともなく拾ってきては、得意げに披歴するのが常であった。

 ニヤニヤとだらしなく顔を歪めて、揉み手で近寄った。
 そして唇をすぼめるようにして、普段どおり、噂話を披露する。

「別に、おかしな話じゃございませんよ。仏さまがお寺に入っていくのは」
「ということは、葬式でもするってのかい!? あのたま、い、いや逆賊が立てこもる方略寺で?」
「へへっ、だからこその方略寺、ってね。何せ喪主ってのが、その環様なんですから」
「公子様が!?」
「へい。なんでもあの首桶の中身は、そこの外れの辻で晒されていた弟君妹君って話で」

 なんとも荒唐無稽な話で、常ならば

「また太兵衛のホラが始まった」

 と衆人は鼻白んだことだろう。
 だが、彼の勤める六番屋こそ、名津に本店を構える大店にして、環が退去するための船舶を銀夜の依頼で用意したのだから、そうした話が彼の耳に入るのも、ありえる話だ。

 人々の興味を煽るだけ煽った彼だが、ヒョイと己の頭のてっぺんに手を載せた。

「そいじゃ、あたしは他の方にこの話をしに行きますので、これにて失礼」

 足早に去って行く彼に取り残されて、人々は、互いに顔を見合わせた。
 それからぞろぞろと、事の真偽を確かめるために移動を始めた。

~~~

 太兵衛というその男は、首桶の由来と正体を方々に触れ回った後、路地の裏手で待ち合わせていた。
 黒衣をまとったその女の前で膝を屈した彼は、前とは一転して無機質な声と表情とで、

「頭領」

 と彼女を呼んだ。

「町での喧伝、大方終えました。既に一部の民が、方略寺に向け移動を開始しています」
「ご苦労様」
 緋鶴党首勝川舞鶴は、太兵衛と名乗ったその党員を短くねぎらい、

「では次は別働隊と合流、町の内外に潜伏する刺客の洗い出しをお願いします」
 と次なる指示を下した。

 承知、と小さく首肯した彼が去っていくのを、

「呆れたな」

 と少女が見届けながら呟いた。

「どっからどこまで貴女の掌の上なんスかね」

 幡豆由基だった。そしてこの巫女の傍らには、流天組最年少の良吉の姿もあった。

 その二人の女と一人の少年は、寺僧の手引きにより、密かに寺を抜け出ていたのである。
 彼女らだけではなかった。
 緋鶴党の人数も既に多くがこの町とその周囲の軍に潜入し、情報収拾や警護に当たっている。

 やや皮肉の混じる由基の言葉に、尼僧は、その輝くばかりの魅力をたっぷり含ませた極上の笑みで応じた。

「兵も物もない我々にとって、風聞と情報こそ最大の武器。と思うからこそ、要所に既に人数を配置していただけですよ」

 最初は生ける伝説として尊敬の念を抱いていた由基だったが、いい加減、この女の実像に見るにつれ、おぞましささえ感じるようになっていた。

 ――いったいこいつは、オレたちをどこに引き込もうとしているのか……

 神仏の違いこそあれ、宗教家である二人だったが、その性質はまるで対照的なものだった。

「……で、この宣伝活動を環のバカ殿は知ってるんスか?」
「さて、感づいてはいると思いますが、それをあえて問い質そうとはしないでしょう。……ですが、まさかあんな条件を書き足されていたとは、この舞鶴も存じ上げませんでした。おかげで殿を守るために、こうして日陰で、貴女の忌み嫌う姑息な策を練らねばならない始末です。そうして苦心する舞鶴の心中も、どうかお察し頂けないでしょうか」
「ふん、どーだかな」

 合成弓を担ぎ直し、良吉の背を叩いて出発を促す。
 歩き出した彼女の背に、「幡豆殿」と声がかかる。
 それに振り返らず、
「分かっていますよ。守りゃ良いんでしょ守りゃ。ったく世話の焼ける」

 遠のきつつある黒衣の尼僧は「この計画を環は知っている」と言った。
 そして、あえてそれを言わないのだと。

 空の上は、いつの間にかどんよりとした雲に覆われていた。
 じき、雨も降り出すことだろう。
 雨は、彼女と、その実家が信奉する神によってもたらされる恩寵だとされてきたが、この場合、この巫女の心を陰鬱にさせた。
 環、とちいさく口にしてみる。

「弟妹の死体の返還を要求する」

 それがあの総大将の提示した条件だ。

「あいつらを、ちゃんと墓に入れてやりたいんだ」

 と言った公子は、帽子を強く握りしめながら、ほんの少しだけ顔を歪めた。

 ――けどお前……それだけじゃないんだろ?

 弔いたいという思いは本心かもしれない。
 だがそこに、必ず打算があるのは明らかだった。
 でなければ、あえて取引相手を刺激し、周囲を危険にさらすような真似はすまい。
 その弔いが後日、自分たちのためになることを知っているのだ。

 だがそんな己を誰よりも軽蔑しているのが、鐘山環という男だった。
 立ち止まり、方略寺のある方角を振り返る。

 ――そしてお前の行いが結局のところ、オレたちを救うんだろう。

 だが、と。
 心中での言の葉を継いだ形で、思わず口から突いて出た。

「……そうして擦りきれるお前の魂は、一体誰が救うんだろうな……?」

 そして、そんな心の闇を想える人間が少なからずいることを、環自身は知っているのだろうか……?

~~~

 長谷部(はせべ)平歳(ひらとし)という男がいる。
 新組旗下の侍大将、というのがこの荒武者の肩書きだったが、

「拷問官」
「処刑人」
「殺し屋」

 と言うのが、その陰口で囁かれる真の二つ名だった。
 新組勇蔵の下で血が流れるとすれば、そのほとんどがこの男の手によって引き起こされたものだったと言って良い。

 そして今、この男が方略寺の周辺で人知れず暗躍していたのである。
「おい、鉄砲隊の配置はどうなっている?」
「……は。突然の雨で火薬や火縄がしけってしまった銃が何丁かありましたが、ほとんどが屋内に配置しておりましたので、大した問題にはなりませぬ」
 そろそろと小雨が降り始めた午後のことだった。
 人知れず占拠した宿にて、彼の組頭がそう報告し、長谷部は大きく頷いた。

「しかしながら」
 と、その組頭は表情を曇らせた。
「よろしいのですか? ご重臣の方々の許しもなく、このような」
「構わん! 確かに軍議では受諾と決まったようだが、それも『隙あらば殺しても良い』という話だったそうだからな。よって我らがその任に就くだけのことよ。……奴らめ、あれだけの暴言を好き放題吐きおって……ただで国から出られると思うなよ……っ!」

 苦々しげに低い声を絞り出すその背後で、部下が慌ただしく音を立てて宿に転がり込んできた。

「もも、申し上げます!」
「何だ!?」

「環が、環が寺を出ました!」

 その報せは、その場にいた将兵に余さず衝撃を与え、
「何ィ!? 奴ら、何を企んでいる!?」
 と、狙撃集団を率いる長谷部は烈火の如く激した。

「それで率いている兵の数は!? 舞鶴はいるのか!? どこを目指している!?」
 二階へ続く階段を踏み鳴らし、長谷部は仔細を尋ねる。急報を告げたその斥候は少し口ごもった後、呼気を震わせて一言だけ告げた。

「一人、です……」

「は!? たわけたことを申すな! 仮にも大将たる男が単身で出てきたというのか!?」
「その通りです!」
 やや捨て鉢気味に伝令は言い返した。

「お疑いならばご自分の目でご覧ください!」

 と、大通り全体を見渡せる部屋、その小窓から身を乗り出して、それが誤報ではないのだと訴えた。
 だがかえって彼自身の身体が視界を遮り、
「どけっ!」
 焦れた長谷部は伝令を突き飛ばした。

 だが真実、部下の言うとおりの光景が、半身を外に出した長谷部の目には映っていた。

 環は単騎、大通りを駆けていた。

 刀も佩かず、配下も従えず、馬にも乗らず。
 和睦したとは言え、敵であるはずの銀夜の領地、兵がひしめくただ中を、一人、雨に肩を濡らしながら駆けて抜けていた。

「弟は!? 妹の首が届いたというのは本当か!? どこだ!? どこにある!?」
 と、気が触れたかの如く、声高に叫びながら

 正気の沙汰とは思えぬ蛮行に、屋内にいる長谷部と、その兵でさえ一瞬、呑まれかけた。
 だが、そこは長谷部も歴戦の人であった。
 すぐさま我を取り戻すと、

 ――だがこれこそ討ち取る好機ではないか!

 と、思い始めた。
「鉄砲と兵を二階に! ここから奴めを狙い撃つ!」
 その猛者の下知に従い、すぐさま兵は配置についた。長谷部自身も、自ら火縄に点火した銃を手にした。
 窓の格子を鉄砲狭間代わりに、その銃身だけを雨天へと突き出した。
 まさしくそれは、首を長くして機を待つ亀そのものであった。

 じりじりと、五名ばかりの名手たちが、各々、敵大将へと狙いを定め始めた。

 まさに、その時だった。

「さぁさぁ! 民の皆さま、環さまはこちらですよー」

 ……まるで旅の案内人かのように、あの舞鶴の、気の抜けた声が聞こえてきたのは。
 それに続くように、ぞろぞろと、不揃いな足音も、長谷部らの耳に届いた。

「な、なんだ!?」
「民です! 領民が、どうやら環の姿を見物しにやって来たようです」

 確かに、行列と環の両脇を挟み込むように、商人や諸分野の職人、農民、あるいはそれに準ずる足軽たちまでもが、ひしめいていた。

「舞鶴殿!? これは一体……っ!」

 階下より、行列を取り仕切っていたらしい武士の声が聞こえてきた。
 それに応じたのは、いつになく間延びした、あの黒衣の女の声だった。
「えーと、ですねぇ。皆さんが見たいとおっしゃるので、それならばと連れてきてしまいましたー」
「……俺は何も聞いてないがな」
 と、非難がましく言ったのは、おそらく環だろう。

「こ、困る。これでは行列の邪魔になる!」
「そうですか? 一見して難なく通ることできると思いますが。それにこれは殿と銀夜殿の和平の証。そして、銀夜殿の『度量がどれほどか』、皆さんに知らしめる良い機会かと思いまして」
「……仕方ないな。奉行殿、面倒をかけるが、彼らと俺の同行を許してもらえないだろうか」
「し、しかし……」
「頼む。一時でも早く、俺は楓たちに逢いたい……」
「殿、ご姉弟の御首はこの最後尾です」
「そうか! では、頼むぞ!」

 ……と、半ば強引なやり口で、環自身は行列の中に飛び込んでいった。

「い、如何いたしましょう!? この衆人環視の中、狙撃されるのですか!?」
「構わん! 後で殿が如何様にも揉み消してくださるわ!」

 ――だが、
 狙撃しようにも、さらに別の問題が彼らを妨害していた。

 傘。

 雨が本格的に降り始め、民がそれぞれ傘、あるいは笠を用い始めたのだ。
 環の周囲でも、地味な色をしたそれらがぱっと広がり、射手たちの視界を塞いでいく。

 ――こ、これでは環自身を狙うことなど到底できぬではないかッ!

 それどころか、味方に当たる危険まである。
 焦れる長谷部に「やはり中止すべきです!」との声がどこからともなくあがった。
「黙れ! こうなれば何人死のうと構わん! 全ては大義と秩序のための犠牲だっ! 弾尽きるまで撃ち尽くせ!」

 そう命じ、大仰に振りかざされた彼の手が、

 ひゅっ

 一筋の風により、格子に縫い付けられた。

「は……っ?」

 瞬時にして矢に貫かれた手の甲は、痛痒すら忘れてしまったようだった。
「な、なっ!?」
 ばたりとこぼれ落ちる鉄砲。
 他の兵も、二の矢、三の矢、そして次いでやってきた少年の、投擲された小刀によって、無力化されていった。

「き、貴様、ら……っ」

 その若者らに続き十名弱の増援が足音なく現れた。瞬く間に取りこぼされた銃を持参してきた水桶の中に放り込み、そして負傷した長谷部たちを拘束した。
 長谷部は、その指揮者らしき、細身の弓手を見た。
 見覚えはあった。
 包囲していた方略寺に、一歩たりとも自分たちを突入させなかった、あの番人の片割れだ。

「今から上がる舞台は、とんでもない茶番だが。バカが命と魂を賭けた茶番だ。上がる前に台無しにする裏方があるか」

 確かその名を、幡豆、と言った。



[38619] 第三話:陰る円月(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:40
 寺の門前、銀夜がそのに呼び出したのは、行列の責任者たる奉行、そして環本人だった。

「……一体、これは何の真似か」

 方略寺の前には既に百名近い見物客が来ており、それが宿や家屋を借りて二階からこちらの様子を窺っていたり、あるいは警備する雑兵らから仔細を聞き出そうと躍起になっていたりする。

 ――これが秩序を旨とする順門の民か!? 兵か!? この中に他国の草の者がいたらなんとする!?

 銀夜はそう怒鳴りたい思いに駆られたが、そうした無秩序さこそ今までの順門の性質であったのだと、すぐに思い直した。

 そして彼らを正しく教導することこそ、自分たちに課さられた使命なのだ、と。

 彼女は次に、環を見た。
 かれこれ数年来会っていなかった。が、変わらない。
 以前と同じく、凡庸で鈍重な男だった。

 従容として首桶を抱えている従兄弟には、王者の風格とか、覇気というものは感じられず、悪童たちの後ろをついて回っていた頃となんら変わりはない。

 佐咲らを討ち、先祖を質に悪辣な駆け引きを持ちかけた集団の頭目とは、どう見ても分からない。

 ――なんのことはない。この男自身に意志などなく、所詮舞鶴の傀儡でしかないのだ。

 銀夜はそう安堵した。
 いや、そう安堵せよと、自分に言い聞かせた。

「……」

 その油断ゆえか、ぼそぼそと独り言のように呟いた言葉を、彼女は聞き漏らした。

「? 何か言ったか」
「胴体が、ないんだが」
「? あぁ。見せしめに首は必要だったが、そこから下は必要あるまい。適当に埋めさせたから、掘り出そうにも掘り出せるわけがないだろう」
「たわけ者め! 命だけは助けてやろうというのに、その上重ねて温情をかけてやるというのだ! 厚かましいにもほどがある!」
「まったく親も親なら子も子よな!」

 ここぞとばかりに、鬱憤を溜め込んでいた諸将が反撃に出る。
 そう面罵されても、反論せずにじっと岩のように黙っている環はいかにも気弱げで、やはり王者の器とはなり得ない。

「……そうだな。……そうだよな」
 少しだけ寂しげに笑った青年は、「じゃあ」と言葉を継いで、

「首の確認を、してもらえるかな」
 と、その蓋を開いた。

 瞬間、場の嘲笑は一瞬で凍りついた。
 そして銀髪の少女は、それを直視してしまった。

 幼い娘、だったものの、一片の肉塊。

 ところどころの肉は鴉に剥ぎ取られたらしく、乱暴に引きちぎられていた。その傷口からは蛆が湧いているうえに、一部白骨が覗き見えた。
 その表情は泣いたままに硬直し、
 昔日の愛らしさはもはやなく、腐肉と、生乾きの腐汁と腐臭のみで形作られた、世のありとあらゆる醜悪さの凝縮物さった。

 普段自他の死を厭わぬ、と本人たちは謳っている武士たちが、口を手を覆い、あるいは顔を背けたりするほどに、その死体は見るに堪えないものであった。

 銀夜は、それと、目が合ってしまった。
 いや、目が合う、という表現は妥当ではない。そもそもそれには、眼球はない。
 それと繋がっていたらしい肉の糸が、その空洞からダラリと垂れている。
 さながら、血の涙のようだった。
 ぽっかりと空いた眼窩の中に、銀夜は吸い込まれていきそうな恐怖に囚われた。

「……どうしたお前ら……見慣れているはずだろう?」
「ど、ど、どうしただと!? 貴様のほうがどうかしている!? そのようなおぞましいものを……うぷっ……我々に見せつけて、なんとするッ!?」

 まず亀山が悲鳴のような声をあげた。
 対して環は、やはり寂しげな笑みを称えたまま、言った。

「不甲斐ないことに、俺にはもうこれが楓だったかどうか、区別がつかないんだ。だが、当時の様子を知るお前たちならば、少しは見覚えがあるはずだ」

 ざり、と。
 首を抱えた環は、半歩、銀夜へとにじり寄った。
 びくり、と反射的に銀夜は一歩下がった。

「なぁ、教えてくれよ。楓は、虎千代は、有千代は、どんな服を着て死んだ? どんな言葉を遺して死んだ? どんな顔をして、死んだ?」

 ざり、ざり、ざり。

 一歩寄られれば二本下がり、二歩寄られれば三歩下がる。

 皆、誰もが、動けずにいた。
 青年の淡々とした狂気に、誰もが呑まれていた。
 誰か止めろと銀夜も念じたが、わななく唇からその命令が出てこない。

「なぁ、そうだろう? ……銀夜」

 銀夜は更に、更にと下がろうとして、石に蹴躓いた。尻餅をついた少女の前で、環は身を屈め、

「どうした、銀夜殿。何故逃げる?」

 青年は、低く耳元で囁いた。

 銀夜の視界からは、桶の中の首が見えた。
 自らの義戦の、副産物。

 そして、彼女らの怨念を吸い上げたかの如く燃え上がる、青い双眸があった。


「まさかお前、殺しておいて、覚えがないわけじゃあるまい」


 ……それらを受け止める精神的な強度と容量を、鐘山銀夜は持ち合わせていなかった。

「うあああああああああああぁぁぁぁぁッッ!?」

 力任せに振った腕が、環の手の桶に当たった。
 大きく揺れた桶から、鞠ほどの大きさの塊が、こぼれ落ちた。

 ぐちゃり、と音を立てて転がり、同時に近くの観衆から甲高い悲鳴が漏れた。

 それをきっかけにして銀夜は我に返る。
 雨の音、濡れる泥土の冷たさ、感覚が蘇ってくると同時に、違和感を覚えた。

 ……彼女の見ている世界は、一変していた。

 ――なんだ? なんだ、これは?

 領民が、将兵が、今まで見たこともないような目つきで彼女を見下ろしていた。
 雨音の間隙を縫うようにして、

「……なんだよ、あれ……」
「お姫様が、尻餅ついてる……」
「……別になにかされたわけでもないよなぁ……?」
「しかも、あんな赤ん坊の首をはじき飛ばすなんて……」
「……あの方がほんとに順門の麒麟児なのかよ……?」

 ひそひそとした囁きが漏れてくる。民の話題に上がっているのが自分だと、銀夜は最初、気がつかなかった。

 ――なんなんだこれは!? これでは、まるで……っ!

 自分が、死体と環に恐怖したようではないか。

 だが直面していない輩に、何が分かるのか。

「……っ! 散れっ! 貴様ら、なにを見ているのだ!? 散れっ、散れぇっ!」

 感情を爆発させた銀夜は、そうわめき立てたが、もはやその命に従う者は、いなかった。

 その脇を、しずしずと環が横切った。
 桶を置き、転がった首の前に両膝をつく。
 睫を震わせながら目を伏せ、首をじっと見つめていた。

 ――何を賢しげに……貴様とて、本心では触れたくもないと思っているのだろう!?

 だが、銀夜の思惑、期待とは裏腹に、
 彼は、ためらいなく両腕を妹に伸ばした。

 雨に打たれてふやけて、どろどろとドス黒い液を垂れ流すそれを、己の胸に、形を崩さぬよう慎重に、ぎゅっと、抱え込む。

「……ごめんな……」

 背後でへたり込む敵将に対する恨み言ではなく、呟いた言葉は、ただそれだけ。
 そのまま立ち上がると、
「舞鶴、他の子も頼む……」
 と、消え入るような声で言った。
 のろのろと歩き出した元公子が、寺の中に入ろうとすると、自然と人垣が割れて道が開いた。

 彼らの表情に忌避感はなく、本来敵であるはずの青年に対する、同情と畏敬の念が、はっきりと見て取れた。

「姫将さま」
「月夜の戦乙女」
「順門の麒麟児」
「神の寵児」
「聖騎士」
「救世の天女」
「永遠の神童」
「天道の女神」

 彼女は、己の春秋をかけて積み上げてきたその名声が、足下から崩れ去る音を聞いた。
 一人で立ち上がろうとしてくずおれる小娘に、天は手を差し伸べることはなかった。

 ~~~

 寺に戻った環はそのまま首を僧侶に預け、自らは葬儀を仕切るべく用意をしていた。
 清水の入った桶で手を浸していると、すかさず鈴鹿が進み出てきた。爪の間まで清めるような細やかさで、洗ってくれる。
 紫色の汚物が剥がれ落ち、溶けて汚し、汚しては水を替え、新しくなった水にさえ、生死不明の蛆が三匹ほど、ぷかぷかと浮かぶ。
 それでも、目の前の気丈な少女の瞳に、嫌悪はなかった。

「……確かに多くに見せびらかしたな……『銀夜殿の器量』を、な」
 皮肉以外何者でもない言葉を、大黒柱を背に負った幡豆が吐き捨てた。
 弔文の筆を走らせながら、色市は調子を合わせた。
「これで、鐘山銀夜の声望は地に堕ちた。……よりにもよって自領で。大した名演だ」
「だがなぁ……生者も、死者も、ここまで貶める必要があったのか? 大将……」
 普段は穏健派の地田から、消極的にではあるものの、批判的な問いが投げつけられる。
 だがそれに応じたのは、環本人ではなく、その傍らに腰を下ろした亥改大州だった。

「じゃあ、あんたらに大将と同じことが出来たか?」
「……出来るかどうかの問題ではない」
「だが、実際あの小娘にはそれができなかった。銀夜に出来ないことを、そこのお人はしてのけたのさ。多くの証人の目の前でな。人物の優劣は自ずと明らかになった。文字通りに『役者が違う』」

 この時、擁護者である大州の方に、環は軽い反感を覚えた。
 覚えつつも、そうした自分の心理が滑稽で、つい歪な笑みが漏れた。
 長年下っ端の労苦を舐めさせられたせいか、銀夜と違い彼は、自らの感情の抑圧の方法ではなく、受け流すコツに長けていた。

「そして今日得た人心の推移は、我らの明日に大いに役立つはず」
 舞鶴が大州の言葉を当然のように受け継いで、主君の肩に手を置いて、主君の頭頂に顎を置く。
 それにこそ環は顔をしかめたが、当の軍師からは見えない表情だ。

「さぁ殿。喪服のお支度ができました。どうぞ奥間でお着替えを」
 と、手を取られそうになるのを環は振り払った。

「良いよ。ガキじゃあるまいし、それぐらいは自分で出来る」
 環はそう断っておいて自分が、まるで母親の世話を拒む息子のように思えて、なんだか情けなくなってきた。

「あと、しばらく人払いを頼む。俺の部屋に、しばらく近づくなよ」

~~~

 ……そう、断って、物音も人の気配もしなくなった後、
 きっちりと折りたたまれた純白の喪服を前にぼんやりと環は立っていた。

 軽く肩を上下させる。

 ……感情を、受け流すことは出来る。
 だが、押し殺すにせよ、受け流すにせよ、その時の感情はどこへ行くのか? 消えるのか?

 否。
 巡り巡って、最終的には、自分の胸中へと帰ってくる。

「う……っ! お……え……っ」

 途端にこみ上げる吐瀉物。
 這うようにして庭に出て、縁側に倒れ込むようにして苔にぶちまける。

「あぁ……うあぁぁ……あぁぁぁぁ……っ!」

 顔のありとあらゆる穴から体液が溢れて止まることをしらない。

 ――畜生。
 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

 腹を裂かれた猫のように、背を丸める。
 左手で板縁を、右手で落ちた帽子を、それぞれ引きちぎらんばかりに強く握りしめた。
 歯を食いしばり、必要以上に声が漏れないよう、嗚咽を噛み殺す。
 むき出しの口腔に容赦なく涙が浸入し、呼吸をできなくする。

 狂わんばかりに心が高ぶっていたし、荒んでいた。憤っていた。嘆いていた。悲しんでいた。

 運命に、境遇に。それ以上に、自分自身に、腹を立てていた。

 彼は自分に許される限り、泣き続けた。

 それでも、環は日が昇れば己が立ち上がれることを知っていた。
 彼が立ち上がらなければ、誰も立ち上がれなくなるのだから。



[38619] 第四話:小舟の旅立ち
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:41
 それからの御槍城下の気候は、平穏そのものだった。

 事態が事態だけに急いで、しかし最低限の形式は整えて行われた葬儀は、環らとその即席家臣団だけが参列し、また銀夜側の人物からは長谷部平歳なる人物が、苦悶と屈辱に顔を歪ませながら同伴していた。

 当初は銀夜本人が出席することになっていたのだが、病と称して出ず、代わりに舞鶴が要求したのが、「何故か」手に傷を負った、重臣でもない彼であった。

 ……もっとも、彼を連れてきたのは銀夜や長谷部の主である新組ではなく、幡豆由基であった。情けなく連行されてきたその『人質兼暗殺の証拠』を、新組勇蔵は苦虫を噛み潰したような表情で睨んだという。

 葬儀も終わり、着替えた環は一人、自らの近親者の墓の前に百合の花を添えた。
 墓地の片隅の小さな墓石に碑銘はない。だが、『反逆者一族の末路』とでも刻まれるよりは、遙かにマシだと環は考えた。

 父宗流の首は、すでに朝廷に送られており回収は不可能だった。そのことに思うことがないと言えばウソになるが、それでも、この国で出来ることはひとまずし終えた、と思った。

 じゃあな、と軽く別辞を述べた環の背後には、いつの間にか寺の主が立っていた。

「和尚か。世話になった」
「いえいえ、拙僧は何も。これも御仏のご加護によるものでしょう」

 と手を合わせるも、相も変わらずどこか白々しい。
 微苦笑しながら、環は尋ねた。

「ところであんた、何で俺たちに協力してくれたんだ?」
 銀夜の支配下にあるという、立場もあるだろうに。

「それは、これ」
 和尚は自らが仏であるような極上の笑みを称えながらも、杯を手で模してみせた。

「『かの妙薬』は、一人で飲むとひたすら陰鬱な気分にさせますが、他者と酌み交わせばそれは大層陽気になれるものでしてな。他も同様。禁じても人は生きるに必要とあらばその禁を破るもの。……この国からは、生きるに必要なものさえ、不実不要なものと見なされ排除はつつある」

 と、ますます苦みの比率を増させる環の前で、平然と述べてみせる生臭坊主は、最後にこう付け足した。

「公子殿。不実とも言え、どうか楽しき地を作られよ」

~~~

 御槍城下の港湾。
 城砦にも見えるほどに巨大な輸送船二隻を見上げ、環は「おぉ」と軽く感嘆を発した。

「流石に天下屈指の豪商だ。凡百の府公の水軍でも、こう見事な代物は持ってないだろ」
「しかし、いかに豪商とは言え、逆賊であった領内に支店を構えているとは」

 半ば呆れたように色市が言うと、由基が桟橋で荷をまとめながら言った。

「武家の国境なんぞ、商家の販路には関係ねーからな。それに今のご時世、商人と寺社仏閣にデカイ顔できる侍なんぞいねーだろ」
「それでもここまで大胆な場所に出店ができることこそ、六番屋の権勢を物語っている」
 豊房がマメにその荷を帳簿に照らし合わせている。

 彼に頷きを見せてから、環は改めて港に集まる人々を見た。
 流天組残存八名、緋鶴党残存十五名、魁組残存十一名およびその他大渡瀬からの逃散民十三名。
 ここに至るまでの離脱者は数知れず。
 それでも、未だ死傷者は確認できず。

 ――よくぞ、ここまで……

 環は感慨深く彼らの顔を見守った。
 土地も持たず、兵も、武器も、知勇も将器も持たない己に、これほどの人数がついてきたものだ、と。

 ――例え将来、何かの間違いで俺が天下万民を従えることになったとしても……今この百人足らずを救えた喜びには勝ることはないだろう……

「……皆、よくここまでがんばってくれた。改めて礼を言う」

 それは決して大きな声ではなかった。が、彼の謝辞を受けて、その場にいた全員が環に顔を向けた。

「佐咲らのような暴走する者がいないとは言い切れないが、和睦が成った以上、咎めもないだろ。先方ともそう確約している。銀夜とて、これ以上恥を上塗りするようなマネはしないだろう。今この国を出れば、再び帰れる保証はない。……咎めはしない。順門に残るならばそれでも」

「……大将、あの、大将」
 おずおずと、挙手をして進み出た魁組の一人に、「なんだ」と聞き返した。

「逃げるつもりのヤツは、とっくにみんな逃げちまいましたが」
「えっ…………そうなの?」

 改めて見渡せば確かに、この場に集まっている者の中で、昨日の晩まではいた者の顔がちらほらと見えない。
 キョトンと空色の瞳を丸くする環に、くすくすと皆が笑う。

「おめーが気づくことに、気づかねーバカはいねーよ」
 旅荷をまとめた幡豆由基が、すたすたと環の背後を通って乗船する。
「人望があるんだかないんだか……」
 地田豊房は自分の身ほどにある大荷物を軽々と担いで、その後に続く。
 色市、覚王を牽引する良吉が船に乗り、武士、民、武士の順番で割り振られた船に入り、その差配と殿を務めたのが亥改大州。
 ぼうっと突っ立つ主の肩を気安く叩き、自らはダンビラを担いでゆうゆうと上った。
 そして最後に、

「環、行こ」

 鈴鹿が、環の上衣の袖を引く。
「いや、鈴鹿お前……っ、今以上に危ないことになるぞ多分! それでも良いのか!? このまま六番屋に雇ってもらえるよう口添えしても……」
「だって一緒にいてあげるって約束したもの。それにそんな危ないとこに行く環を放っておけないよ」
 二度と帰れぬかもしれぬ旅路、その始まりにも関わらず、鈴鹿の面立ちと声音とは、相変わらず感情の起伏に乏しい。

「大体今がこれからだって時じゃないすか」
「これじゃ女の着物を剥いでおいて抱かないようなモンですわ」
 と、品のないヤジを飛ばすのは、大州麾下の魁組だ。

「だあぁ! お前ら女子がいるってのにそんな冗談を言うんじゃない!」
 そう怒鳴り散らす環に、ずいと少女は顔を寄せる。
 長い睫は微動だにしないが、それでも、目には野性のカモシカを思わせるみなぎるばかりの力強さがあった。

 ――今は乱世。本当の意味での安全地帯なんぞどこにもないか。

 そう折れた環は、帽子を目深にかぶり直して、もう片方の手でクセっけの強い鈴鹿の黒髪をくしゃくしゃと混ぜ返した。

「……船に乗れ」

 ん、と短く首肯した彼女は、そのまま未練や戸惑いも見せずに足早に船に乗った。

 さて、残された者と言えば、

「……おい、何してる?」

 荷物らしい荷物を持たず、黄金の杖を腕に抱えた勝川舞鶴だった。
 何かが納得いかないように、というよりそうした態度をあからさまに見せつけるように、小首を傾げてうんうん唸っていた。

「いえね、私はどうしましょうと思いまして」
「……は?」
「嗚呼百年暮らした我が故郷、順門! 無論殿への敬愛を放棄したわけではないのですが、それでもなお、故郷忘れがたし! 行くべきか、行かざるべきか!?」
 わざわざ芝居がかった身振り手振りで、大げさに身もだえする尼僧にその主君は苛立ちを隠せない。
 そして、彼女が一体何を、どういう言葉を待っているのかは、彼にはすぐ分かった。
 何しろそれこそ、この黒衣の軍師が、流浪の元公子を王君として仰ぐ所以なのだから。

 環は力尽くで鳥飾りの杖を取り上げ、船の甲板へと放り投げた。
「あぁっ、何をご無体なっ!」
「やかましい! 人を焚きつけ煽って梯子を外したババァが、今さら虫の良い悩み事するんじゃない!」
 少女の如くむくれる舞鶴に、環はまっすぐ手を差し伸べた。


「来い、軍師。俺の道には、お前が必要だ」
「かしこまりました、我が君。舞鶴の才は、殿の描く楽土のために」


~~~


 そして船は港を出た。
 口ではどう言おうとやはりめいめいに未練は残るのか、皆は船縁にしがみつくようにして、離れていく陸地が豆のようになるまで見つめていた。
 環とて、それは例外ではなかった。
 もっとも彼が見ているのは土地そのものではなく、岸辺にて下げた頭を無数に並べる、御槍城下の民の姿だった。

「まったく、ひどい扇動家だよ」

 と、彼の真情を射貫くかのような強烈な皮肉を、幡豆由基は背後から投げかけた。
 環が振り返るよりも先に、どっかりとその隣に尻をつけ、御槍の民が献じた大根の腹をかじる。
 不作法ながらも、その誰に憚ることのないたくましさが、環には美しく思えた。

「仕掛けられた方も、仕掛けた方も、たまったもんじゃねーな」

 環はそれに対して、肩をすくめただけだった。

「おい」

 まだ何か言い募ろうというのか。
 顔をわずかに曇らせた環に、幼なじみの横顔は「そんな顔すんな」と言っていた。

「辛くなったら言え。オレが代わってやる」

 そして実際に紅の唇から出た言葉は、意外なほどに優しいものであった。

 ――こりゃ雨どころか矢が降るな。

 その一言を、環は余計なものとして飲み込んだ。言ってしまえば由基の手により本当に降り注ぎかねない。
「心配すんな、俺は御輿に乗ってるだけだ。走ってるのはもっぱら下の奴らだろう。一歩も歩いてもいない俺が、どうして疲れただの辛いだのと言えるんだ?」
「別に心配しちゃいねーよ。順門府公幡豆由基、その誕生がいつになることやら、今から楽しみなだけだ」
 照れ隠しでもなく、かと言って本音にしては突拍子もないことを言って、由基はお茶を濁した。

「なんだなんだ、こんなところで逢い引きか?」

 彼らの背後から、色市、地田、良吉ら流天組の主要人物がぞろぞろとやってきた。
 亥改大州はもう一隻の船に乗り込んでいたため、その場にはいない。
 珍しく、魁組との離れての行動だった。

 それはそれとして流天組。
 彼らは背の後ろに、なにやら大きなものを隠しているた

「……とてつもなく嫌な予感がするがいちおう聞いておく。なんだそれ?」
「いやなに、ここに至るまでの間に、ちょっとお前さんのお宝を回収してね。目的地まで余暇もできたことだし、返しておこうかな、と」
 と、嫌な余韻たっぷりにそう言ってのけた色市の指示で、それが全員の目に晒された。

「げぇっ! そ、それは……っ!」

 それは、一旒の旗であった。
 環が流天組時代、組の旗印として図案化させ、実際に手ずから刺繍で編み上げたもの。
 浅黄の下地に、黒糸で円を描中心に、高々としぶきをあげる波と龍とが縫い込まれている。
 だが結局それは旗印そのものの必要性のなさと、意匠の不評さから、文字通りお蔵入りとなっていたはずなのだが、どこからか掘り返してきたらしい。

「どうよ大将? 改めてお前さんの旗にでもするかい?」

 わざわざそうして忘れがたき過去を蒸し返し、環を煽ってみるのが、ニヤニヤ笑う色市と地田の狙いなのだろう。
 だが、そうした彼らの期待とは裏腹に、

「……コレ、こうして今見てもやっぱいい出来だなぁ」
 強がりでもなく、現実逃避でもなく、その考案者はきらきらと目を輝かせて好反応を見せた。

「は?」
「……は?」
「はて?」

 予測を裏切られて呆然とする由基、地田、色市を尻目に、環はまじまじと浅黄の旗をまじまじと、真剣そのもので見つめていた。
「うん。そうだな。使ってみるのも一興だな。よーし、じゃあ今後はこれが俺の家紋にする!」
 ノリ気になってしまった本人に対して、むしろ提案者たちの方が、

「ねーよ」
「ないって」
「ない」

 ……と、理解を拒絶した。

「なっ!? お前らが勧めたんだろうが!」
「ねーよ」
「マトモな感性してたらそんなもの家紋にしようとは言い出さんだろうが!」
「そんなことないよなぁ良吉、鈴鹿、コレ、格好良いよなぁ?」
「いい」
「……イイ……」
「ほらなー? お前らの方が間違ってるんだ。……オーイ大州! コレ、アリだよなー!?」
「やめろ! 恥をさらすなっ!」

 未だ陸地は遠く、船は大きく波に揺さぶられる。
 もみくちゃにされながらも環は、それでもこの旅が賑やかになること



 樹治六十年、巳の月二十三日。
 鐘山環、その叔父宗善に逐われる。

 その中で起きた幾多の謀略、幾多の過程は後世の史書には記されず、
 ただ、一文のみで片付けられている。
 その実情を知るのは、当世でも限られた人数のみであった。

~~~

 番場(ばんば)城。
 桃李府と風祭府の中間に位置するこの平山城は、元は風祭家に属していたのだが、この年、桜尾家に鞍替えする。

 風祭府、現府公の弟である親永ちかながはこれを討つべく六千の手勢を率いて進発。
 対して桜尾家でも、増援として八千の主力を率いてある男がその目前に布陣していた。

 ――鐘山環、その叔父宗善に逐われる。

 遠く千里を隔てて彼の下にその報がもたらされたのは、ちょうどその陣中でのことだった。

「ほぅ、『誅された』のではなく、『逐われた』のか」
 男は、その報告の文にざっと目を通し、翻して傍らの青年に手渡した。
「となれば、それは公子殿は見事脱出に成功した、ということになるな。圭輔殿」

 男の佐将を務めるのは、桜尾家当主の五男にして男の娘婿である羽黒(はぐろ)圭輔(けいすけ)である。
 未だ三十にも満たない若き俊英は、眉間に険しさを見せながら文を返した。

「厄介なことになりましたね。おそらくその脱走者が亡命してくる先は……」
「我らが桃李府、ということだ。名津になるかな」
「そうなるかと。……如何取りはからいましょう」
「老臣連中に先に確保されては面倒だ。急行して公子を保護してさしあげろ」
「はい。ではさっそく」
「だが、今向かっても間に合うまい」
「心得ています。国内で留守を預かる義弟を向かわせましょう」

「……さて、では目の前のお客人には早々にお引き取り願うとしよう。圭輔殿」
「はい」
「貴殿は手勢を率いて敵左翼に当たられよ。その後、わさと退いて敵をおびき寄せ、伸びた鎌首は我ら本隊が断つ。中軍は本林(ほんばやし)、右翼は釜口(かまぐち)、相沢(あいざわ)に抑えさせ、左翼を切り崩し次第これらを叩く。後方に控えた風祭武徒(たけと)はあらかじめ伏せておいた別働隊二千に後背を突かせる。だが妨害に徹し、決して直接当たろうとしないように、と」
「承知しました」
 圭輔はまるで自らが執事であるかのように、恭しく一礼した。

「けどこれ、貴殿の口から命じた方が良いかもしれんよ。成り上がり者に大きな顔されると、皆は良い顔しないだろう」
「ご冗談でしょう」
 からかう男に、圭輔は匂い立つような美笑を見せる。

 本来主家筋にあたるこの副将は、親類でもないこの総大将に対し、何ら敵対意識、差別意識を持っていなかった。
 それどころか、敬意と好意を持って、男に接していた。

「この場のみならず、既に天下の誰もが貴方の将才を認めていますよ。桃李府筆頭家老、器所(きそ)実氏(さねうじ)殿」

 賞賛を苦笑と共に受け流し、その男、実氏は再び文に目を落とした。

 ――順門公子、鐘山環……はてさて、あの気まぐれ隠者が認めた器量、いかほどのものかな……

~~~

 過去はその一因にしか過ぎない。後世がどう求めようと、既に起きたことは変革しようがない。
 それでも、当世の万民が、その上に立つ支配者が、望む望まぬに関わらず、時代は波乱と混沌の中へと突き進む。

 鐘山環という小舟は、時代の激動の流れに、未だ身を任せているのみである。



[38619] 第三章:桃李 ~乱世の将星たち~ プロローグ:麻布、帰る
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:43
「……ふわぁ……!」

 船から半身を乗り出した鈴鹿は、彼女にしては珍しく、子供らしい未知への好奇心で目を輝かせていた。

 彼女の目の前には、西国一の港湾都市が広がっている。

 名津。

 一日稼げば家が買える。
 五日稼げば城が買える。
 十日稼げば国が買える。

 ……とは、いかにこの町の金回りが良いかを讃えた唄であり、

 上布とて、一日着て歩けばボロになる

 ……とは、その人通りの多さと激しさを示した言葉である。
 いずれも誇張ではあるが、まったくの虚構ではない。

 それは、海を隔てて広がる壮大華麗な光景によって、異邦人である環一行らにも証明された。

 皆、大なり小なり郷愁はあったが、大都市の華麗さが一瞬、それを忘れさせたほどである。

 だが郷愁とも、憧憬とも無関係、無感動、無関心。
 そんな者がいなかったわけでもない。

 一人、黙々と弓弦をいじる幡豆由基。
 彼女とは違う船に乗って、泰然と昼寝する夷改大州。
 そして……

「……はへえええぇ……あへぇぇぇ……」

 私室に閉じこもって、船酔いで潰れた、鐘山環その人である。

~~~

 中水府の府都(政令都市)|李洋宮《りようぐう》。
 元は風祭府と同様、皇帝の親族が治めていた土地であったが、その府公が尊大な無能、血族だけで威張り散らした人物であったことが、民に、そして後日の彼自身に悲劇をもたらした。

 樹治四十五年、任海是正、乱を起こす。

 それによってかの貴人は蜂起した民兵に頭蓋を叩き割られ、以来、乱は未だ平定されない。

 環らの着港に前後して、ある客人が、彼らの倍する航路を経てこの反乱勢力の本拠にたどり着いていた。
 その客人の要望に応えるべきかどうか、連日話し合いが行われてきた。

「我らの戦いは朝廷などと称して天下を乱す藤丘を打倒するための戦いである。順門府の内紛になど構ってられぬ」

 そう発言したのがその会議の主であり、反朝廷勢力の盟主、任海是正なのだから、自然、

「鐘山環を客将として迎え入れる」

 という案件は、否決へと傾いていた。

「大体、順門は反朝廷とは申しても、時に停戦、時に開戦と、これまでも節操がなかったではないか。不純である。ましてその公子と名乗る浪人には兵もなく、順門府への道も遠い。迎え入れたところで利があるわけではあるまい」

 だが、盟主に対し、異を唱える唱えた人物がいた。

 水樹陶次

 是正の盟友であり、元は彼と同じく朝廷から左遷された一役人に過ぎなかった。
 以後は彼の副将に甘んじている。
 今日までにこの府が未だ反朝の旗を掲げていられるのも、彼の政戦における才腕と人徳によるところが大きかった。

「故にこそ、迎え入れるべきだ。さして利のない相手であるからこそ、保護すれば『任海是正は情義に厚い人物』との風聞が立ち、今は朝廷に面従腹背している者たちもこぞって立ち、庇護を求めることだろう」
「……」
「第二に、鐘山環自身の風聞。脱走の経緯を調べさせたが、その振る舞いから彼は順門府内で非常に高い人気を得たという。そうした彼が我々に助けを求めにきた、という話も加われば、一層に我らの信望も高まるというもの」

 南方の荒れた雰囲気に当てられたか、任官当時は涼やかな風貌を持っていた彼であったが、今は粗野粗衣に甘んじている。
 葡萄酒を思わせる赤茶けた長髪は乱暴に束ね、洗いざらしの着物に、獣の毛皮を腰布代わりに使っている。
 あたかも山賊を思わせる風体だが、それに似つかわしくない、理路整然とした口調が、この陶次の最大の特徴とも言って良い。

 そしてそんな彼の外見を軽んじるわけではないが、是正はなおも首を横に振った。

「いや。俺はそのように民を欺くような策は取らん。他人の威徳を借りるようなマネもしない。そもそもその公子は、風聞によれば祖先の墓地に立てこもったとも聞く。とすれば唾棄すべき卑怯者である。そのように不義を働く輩は、我らの正義の戦いには必要ではない。違うか?」
「しかし是正……」
「それと」
 ぴしゃり、襖を閉じるような排他的な言い方で、盟主は上座より申し伝える。

「言葉は改めてもらおう。俺もまた中水府公なのだぞ。水樹」
「……申し訳ありません。出過ぎたことを申しました。府公様」

 陶次はそれ以上食い下がろうとはしなかった。

~~~

 陶次は自らの屋敷に戻ると、そこに逗留している客人に、ひとまず頭を下げた。

「上首尾とはいかなかったようですね、水樹さま」
「遠路はるばる頼って頂いたのに、お力になれず申し訳ない。響庭殿」

 |響庭《ひびきば》|村忠《むらただ》。
 順門公子、鐘山環の馴染みという流天組なる不良組織の一人ということだ。
 大渡瀬での事件に紛れて、かの勝川舞鶴の命を受けて別行動を、すなわち鐘山環の受け入れ先の選定を行っていたという。

 歳は未だ二十そこそこということだが、実際よりも若く見える童顔に小柄で華奢な身の丈、細い瞳とちらりと見える八重歯が、小動物的だった。

「いえ、ご無理を言ったのはこちらですので。軍師も貴国が受け入れる可能性は低いと申しておりました。しかし……」
「何か?」
「いえ、是正公は清廉潔白な方だと思いまして」
「……ありがたきお言葉。それを聞けば我が主君もさぞお喜びに」
「褒めていないと分かっておりましょう? 副盟主さま」

 水樹陶次は涼やかな微笑を残したまま、床の木目に視線を落とした。

「碁石の色は白か黒か。どちらか多く盤に残ったが勝ちだと言うのに、汚れていたり傷物であるなら白石ではないと? それでは勝ちようもありますまい。あの手の御仁は、いかな才能を持っていようと、どのような時代に生まれてどのような役割を与えられてもひたすら生きにくい。そしてその下に属す者たちはもっと不幸でしょうな」

 とても使節とは思えない不遜な物言い。
 しかしそれに対して陶次は、反論の材料を持ってはいない。それゆえの無言であった。
 それゆえの、話題転換を図った。

「……では、響庭殿におかれては、その手駒をいかに使うべきか、用途がお分かりかな」
「公のお考えまでは存じません。と言うよりも、分かっていますが言うまでもありませんな。ですが、水樹さまのお考えは察することが出来ましょう」
「私の考えを私が尋ねるというのも滑稽なことだが……伺おう、響庭殿」
「はい」
 姿勢を正した響庭村忠は、まるで眠り猫のように切れ長の目を細め、口を開けた。

「水樹様はおそらく、朝廷との全面戦争は望んでおりますまい。各勢力を糾合し朝廷周囲に揺さぶりをかけつつ、講和を求め、自治を認めさせる」
「……そう考える根拠は?」

 小間使いが彼らの座に茶を運ぶ。
 これから振るう長広舌を、村忠は茶で湿らせ、ゆったり呼吸を整えた。

「反乱以来の貴国を動きを見ればわかります。反朝廷を謳いつつ、軍事においては府内の反乱鎮圧と国防に重きを置き、内部においては殖産や新田開発に力を入れておられる。これは反乱直後、騎虎の勢いで迂闊に攻め込み、禁軍に大敗した傷を癒すため、という見方がありますが、実際は一反乱分子に過ぎぬ小国を、朝廷の権威を必要としない自立した国家とするため」
「……なるほど。貴国もかつて、似たような経験をお持ちだったな」
「えぇ。似てはいます」
 似ては、という部分を強調して、彼は言った。

「だが、我らの祖、宗円公が自治を最終目的としたのに対し、貴国の究極とするところは朝廷の打倒。そうして和平を成立させておきながら、両国の差は広がる。まだ伸びしろがある中水府に比べ、朝廷の資源も人材も、もはや払底している。その差が明らかになった時はもう手遅れ。どちらが勝者かは明らかです」
「どうだろうな。禁軍にはまだ信守卿という希代の名将がいる」
「上社信守に勝てる者はおりますまい。しかし彼は帝や他の重臣らに疎まれ、無役に等しい。彼自身、朝廷そのものに愛想が尽きている。書生時代、貴方は彼の下で厄介になっていたと聞きます。そのことを、もっとも理解しているはずでしょう」

 ――図らずも、懐かしいお名前が出てきたものだ……

 陶次は煎茶を口に運びながら、軽く瞼を下ろした。
 昔日の、ヘソ曲がりのひねくれ者ながら、まるで父兄のように自らに接してくれた恩人を、思い出していた。

「……しかし驚いた。そこまで調べ上げていたのか」
「いえまぁ、これはあの黒い軍師からもらった情報でして。見解と冗談はそれがしの会心の出来だと思うのですが、如何?」

 まるで自らの答案の採点を求める弟子の如く、若者の目は覇気と自身に満ちていた。

 ――かつての私も、信守卿にこのように教えを乞うていたのかな。

 だが今は、感傷に浸る余裕も、その資格もない。

 望郷の念を目元の優しさに変えて、水樹陶次は多弁なる若者をじっと見つめた。
「この天下に、私の構想を察し、理解してもらえる御仁がいる。それだけでも、嬉しいことだ。……ありがとう」
「は? ……は、はい」
 困惑したような、照れたような反応を村忠は見せた。ようやく見せてくれた青年らしい感触に好意を覚え、陶次はつい、こんなことを口走らせた。

「舞鶴殿の意を受けたと言えど、これほど見事に受け答えし、見識豊かな者もいない。どうかな? このまま中水府に留まってはもらえないだろうか? 私が口添えすれば、それなりの待遇も約束されるだろうが」

「……お誘いはありがたいのですが」
 それほど時間をかけず、村忠は首を振った。

「そうだな。主命を放棄したとなれば、君も後味が悪いか」
「……それもあるのですがね」

 青年使節がふっと目をそらした瞬間、彼が断った本当の理由が陶次にも分かった。

 ――大船とは言え、傾きかけた船には乗れぬ、ということか。

 そしてその大船を立て直すためには、今回環を受け入れる必要があったのだ。
 偽りとも言え、他人のものとも言え、名望を得る最大の好機を、逃しては。

「由ないことを申し上げた。許して欲しい」
 陶次は深々と低頭し、顔を上げてから手を叩いた。

 彼の暗黙の意を受けた家臣達が、次から次へと客間に現れては、荷箱を五つほど、村忠の前に積んでいく。
「……これは……」
「君も手ぶらでは帰りづらいだろう。火縄銃五十丁。それと我が領の金穀一部。道中も、我らに協力する海賊衆に保証させよう。せめてもの土産だ。環公子には『後日、どうか我らをお見捨てなきように』と」
「よろしいのですか?」

 地を持たぬ小集団に、破格の手土産と言って良い。
 村忠の目には、感謝よりも驚きと疑念の方が強かった。

「構わないよ。我々にはこれそのものよりも、これを運用できる人物こそ、欲しかった」
 陶次はそう言って、己の未練に苦笑した。

~~~

 再び、遙かな海路についた。
 村忠は帆船の船縁にヒジをかけながら、

 ――環どのも、今頃は船の上かな。

 などと、物思いにふけっていた。

「しかし気前の良い人だな、水樹陶次という方は」
 彼の付き人として従っていた流天組二名のうちの一人が、村忠に軽やかな声をかけた。

「かわいそうな人だ」

 しかし村忠はその意見に対し、そう答えた。
 顔を見合わせる二名に対し、苦み走った顔を横に振る。

「せっかく百年の大計を描こうとも、それを取り上げぬクソバカが盟主ではな。才能と忠誠心と友情の無駄遣いだ」
「お、おい!」

 副使たちは狼狽を見せ、周囲を右顧左眄した。
 何しろ自分たちと積荷が乗っているのは荒くれ者の海賊たちの所有船で、しかも彼らは中水府に協力する身なのだ。
 そのような暴言が彼らの耳に入れば、いつフカの餌にされるか分かったものではない。
 彼らは、そう言いたいのだろう。

「その点、こちらは恵まれている。少なくとも鐘山環という人は、人を見る目と用いる術は心得た人だ。ようやく、僕の才能を発揮できるってものさ」
「……大した自信だな」

 ズケズケとした物言いは、不良時代から他者にあまり好かれることはない。
 同伴者の視線にトゲがあることを自覚しながら、彼自身はそれを今さら改める気にはなれなかった。

「自信? 勘違いされては困る。僕は色市のようなうぬぼれ屋でもないし、環殿のように自他ともに過小評価しているわけでもない。才能においても、幡豆や舞鶴どののような突出した才能があるわけでもない。せいぜい副将、二番手三番手どまりさ。それが偉そうに見えるのは、陰険な性格で口が悪いというだけだ」

 開いた口が塞がらぬ。
 言葉ではなく、態度で示す二人を背に、西海の荒ぶる波濤を見下ろした。

「だが、麻布が絹地に劣ると言っても、その着物を毎日着続けるわけにもいくまい。それより劣っても必要とされる機会は何度でも巡ってくる。一流の二流。必要不可欠の器用貧乏。僕の位置づけはそんなところだ」

 さて、と。
 腕を縁から外した村忠は、組んだ手を後に回し、天を見上げた。

「そろそろ、この悪質な布が必要とされる時が来そうだな」



[38619] 第一話:羽黒の弟(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:43
 いかに栄えた町といえど、その中にも『格』というものは存在する。
 富裕層は名津の中でも北の、奥まった場所に寄り集まっており、『北御殿』と通称されるほどであった。
 六番屋本店は、その一角の中でも屈指の規模であった。

「まぁ、六番屋と申しましても、先代建てた倉が手前から六番にあったからでして。威勢の良さと扱う品数は一番を自負しておりますよ」

 と、福々しい丸顔に似合わず強気な言を発したのは、六番屋の店主本人であった。

「既にご承知のこととは存じますが、あたしは六番屋の主人、史(ふみ)と申します」

 ニコニコと愛想笑いを浮かべる女が、膝を揃えてちょこんと座る姿は、まるでどこぞの郷土土産の陶器人形のようでもある。

「世話になる……女将」
 と、環は直々に頭を下げた。
 ヘロヘロと、船酔いの抜けきらない頭がまだ重い。
 その背後で、随伴した地田豊房は意外そうに 目を見開いていた。

「……? お連れの方は、どうかなさいましたか?」
「いえ、あの……まさか当代きっての豪商が、まさかこんなお若い女性とは……」
「まぁお上手なこと。今年三十になりますわ。それに、亡夫の遺産を引き継いだだけのことで、あたし自身はそれを守るのが精一杯」
「って割には代替わりしてから、蔵が三つ建ったという。どこぞの公子は城一つ守れなかったっていうのになぁ」
 同じく随伴者である幡豆由基が、キツい目と言葉で自分たちの御輿を責めた。
「……なんでそこで俺をなじる必要があるの?」

 うふふ、と付き合うように笑い声を立てる史に対し、地田が訝しげな顔をした。
 その視線に気がついて笑顔を少し引かせた女店主に対して、彼は首を傾げながら言った。

「ただ解せんのは、貴女と環……いえ大将殿が知り合いであったということでして」
 支店があったとは言え、逆賊の公子と天下の豪商。二人に接点などないはずだ、とこの陣営きっての常識人は言いたいらしい。

「あぁ、それ。それはですね、環様は常連なのですよ。ただ、ツケの方も常連でして、あたしが時折直々に取り立てに出なければいけない始末でございました」
「ツケ?」
 由基が訝しげに顔をしかめ、環がギョッと慌てた、開こうとした口は地田に妨げられ、

「大将殿は借金するほどに何を買われていたのですか? この方には耽溺するような趣味はなかったはずだが……」

「借金ってほどじゃなかっただろ! ただ……ちょっと立て込んでただけで、賭けに勝てば払っただろ!」
「負けた時はお召し物まで質に入れて」
 ふふふ、と笑みを含ませる彼女に、しかめっ面の巫女はずいと身を乗り出した。

「……で、何を買い求めたんで、コレは」

 取りしましたような微笑を称える史は、少し口にするのをためらうそぶりを見せた。
 環とて、それはなるべく明かして欲しくない。
 だが彼の無言の懇願とは逆に、史は少し照れたように言った。

「……まぁ、亡夫が始めた仕事でして。これがまた重要な資金源となっていることも事実ですので……」

 そう口を濁し、要領を得ない随伴者二人は、その真意を考える。
 じっと幡豆由基に、意味ありげに注がれる視線によって豊房が気がついたらしく、「あ」と小さく声を立てた。

「女か」

 転瞬、
 ギッ! ……と、巫女が尖らせた目を環に向けた。

「…………ナンノコトカナ」

 往生際悪くふっと視線を反らす公子を、面前にも関わらず由基は掴みにかかった。
「お前なぁ! 順門公子とあろう人間が、いー年こいて嫁も娶らず娼館で遊んでんじゃねーよ!? あぁ!?」
「わ、若気のいたり、若気のいたりなんだ!」
「ごく最近まで足繁く通ってらっしゃって」
「若気の至り現在進行中じゃねーか!」

 襟をねじり上げられガクガクと揺さぶられる上客を庇うべく、史はまぁまぁと少女を宥める。

「お食事のご用意ができております。腹が減っては戦も商売もできません。まずは、腹ごしらえをなさいませ」

~~~

 六番屋が営む宿の一室を借り受け、鐘山環は饗応を受けることとなった。
 そこには二人以外の、勝川舞鶴、亥改大州を筆頭とする各主要人物たちが在籍している。

「環様におかれては、お体の調子が優れぬと舞鶴様より伺いました。よって、特別に豆腐粥と香の物をご用意いたしました」
「おぉ、これは……ありがたい。しかし代金の方は……」
「いえいえ、元はとれるようになっておりますので、大丈夫ですよ」
「?」

 とまれ、まるで脳みそをかき混ぜられたような心地だった。
 もっともそれは船酔いだけに限らず、先ほどまで由基に揺さぶられ続けてきた故の不調だ。
 箸で豆腐を細かく崩し、米と一緒にゆっくりと流し込む。
 そうすると、薄味ながらも滋味が胃の腑にすんなりと入っていった。

 ほぅ、と救われた気分で充足の吐息を漏らす。
 その横で、

「舞鶴殿には当宿自慢、地酒と四季の懐石料理です」
「わーい」
「ババァァッッッッ!」

 膳に箸を叩き置き、舞鶴に食ってかかる。
「お前粗食に甘んじている主君の横で何で躊躇なく高そうなもの食ってんの!?」
「あらあら、史殿のおられる前で失礼ですよ、殿。それに舞鶴だけではありませんよ」

 ほら、と指と目で示す先、確かに他の幹部連中も鯛の造りやら、鮑の煮染めなどを、美味そうに食っている。

「お前ら……」
「急に慣れないもの食べると腹下すぞ」
 と、由基は横目でジロリ、環を睨み、慣れた手つきで箸を運んでいく。

「えへー、このおさ……飲むと不思議とぽーっとするお水、美味しいですねぇ」
「さっき酒って説明されてただろうがクソ尼! 貸せ、俺が余さず飲んでやる!」
「ああっ、何をなさいますっ! 人間五十年、短い一生の楽しみを奪うおつもりですか!?」
「百年以上生きといて何言ってんだお前!」

 ……などと、主従が見苦しい争いをしている中に、

「公子さま! おくつろぎ中のところ申し訳ありませんっ!」

 六番屋の番頭が、躍り込んできた。
 だがその彼が見たのは、黒衣の美人を、その公子が押し倒している様子だった。

「……お楽しみ中、でしたか」
「これが楽しんでいるように見えるか!? 楽しいことなんて何もないっ!」

 史は、その部下の乱入に
「なんですか、騒々しい」
 と、白い目を向けた。
 だが息を荒げた番頭の報告は、その場にいた人間を沈黙させ、瞠目させた。

「そ、それが……桜尾家より、公子様のお迎えが……それも羽黒圭馬(けいま)様、直々にお見えです!」



[38619] 第一話:羽黒の弟(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:44
「いやぁ! どうも、どうも!」

 軽い、とまず使者を由基は見て感じた。

 羽黒圭馬。

 だが軽薄な感じではなく、程よい軽快さ、快男児と言えた。
 黒々とした蓬髪と、程よく日に焼けた肌、棗の実をくりぬいてそのまま眼下にはめ込んだような、大きな瞳、それぞれが彼自身と快活な内面を引き立てるために存在しているかのようだった。

「大徳の御仁、鐘山環公子とかの名軍師勝川舞鶴様、そしてそのご一党ですな。拙者、羽黒圭馬と申します。兄圭輔の指示により、お迎えにあがりました!」

 二十代前半から半ばほどに見える若武者。
 しかし羽黒の門跡と圭馬自身の武勲は、辺境の一巫女とて知るところだ。

 羽黒家は王争期より続く桃李府桜尾家の中でも有数の武門の家柄である。
 そしてその脈々と流れる武の血統を継いだ圭馬は、攻勢に出ては常に最前線に、撤退戦においては常に殿軍に在る、と称される勇将である。

 だが、羽黒家の家長は、彼ではない。

 羽黒圭輔。

 桜尾家よりの養子である。
 年長者には違いないのだが、本家の謀略によるものか、それとも羽黒家が斟酌した結果か、現在この男が本来継承権を持っていたはずの圭馬を差し置き、家督を継いで、正式な当主に収まっていた。

 そうした陰鬱なの背景を持ちながら、この男は、軽い、のである。

 ――そして、速い。

 未だ着いて間もないというところに、精兵三十騎の手勢を率い、店を囲むようにして現れた。そしてそれは、それより以前にこちらの動向を余さず掴んでいたという証左であった。

「なんです? 圭馬様。連絡もなしに見えられるとは。環様も驚いておられるではありませんか」
「いや申し訳ない! かの環公子と一刻も早く会いたいと兄が申してまして」
 武家相手にも怯まず応対する史の脇で、当の環は事態の急転に、ぽかん、と口を半開きにしていた。
 もう少し体裁を整えろよ、と由基は舌打ちしたかった。

「それに、兵法書の写しの代金もまだですよ!」
「いやそれも申し訳ない。今日はそちらのお支払いと……あと、お客人を一時お預かり頂いた代金です」

 まるで史の息子か何かのように萎縮したかと思えば、ジャラジャラと、小気味よい音を鳴らす麻袋を、彼女に握らせた。
 その手の上下する振れ幅で、中の代金の多さを知ると同時に、由基は納得していた。

 ――『もとがとれる』とは、こういうことか。

 だがそれは、意地の悪い見方をすれば、『自分たちは売られた』と言うこともできた。

 巫女は、軍師を見る。

「……ずいぶん、お早い到着ですねぇ」
 と漏らされた一言が、彼らの速度が舞鶴の予想さえも超えていたことを明かしていた。
 そしてさらに意外だったのか、この世の全てが己が掌上と思っているのではないかというこの女が、ほんの少しだけ、面白くなさそうな横顔を作ったことだった。

~~~

 名津からさらに三日、陸路を経て向かった先は、桜尾家の本拠、蓮花はすばな城である。
 王争期時代に築かれた城だったが、規模自体はそれほど大きくはない。
 北を流れる川がそのまま水堀とした、丘陵地帯にある城砦は、内部にいくつもの空堀、曲輪、櫓を抱え込み、俯瞰すればあたかも水上に咲く蓮の花のようであろう。

「……というわけで、あぁいうものはみーんなこの腹黒いのの策略でして! 実情以上に噂が大きくなって、こちらとしても辟易しているんですよ」
「いやいや何をおっしゃいます。命ぜられたとしても、なかなか出来ることではないでしょうよ。それに策を採るか採らぬかこそ大将の才能が発揮される部分でしょうに」

 北にあるという羽黒屋敷、すなわち羽黒家の別邸に案内される中、圭馬と環は息が合ったように談笑している。

 息が合った、ように。

 だが実際は環と由基ら即席家臣団は引きはがされ、五名に対し一騎ずつといった感じで護送されている。

 ……由基は借りた馬の上で軽く瞑目し、一気に開いた。
 彼女の視界に、誰も見ることのできない蛍火の世界が映っている。

 圭馬の背に向けて、曲線の光が注ぎ込まれているが、その手前でプッツリと、途切れていた。

 由基は首を振った。
 これはおそらく、弓を取り出し、放った矢が届くその前に、自分の運命が尽きることを示しているのだろう。
 その場合彼女の命を奪うのは、背後に控えた騎兵の槍だ。

「ところで圭馬殿」
 己の殺気を悟られまいと、由基は話題を転じた。

「羽黒家のご当主は貴方じゃなくて圭輔殿だと聞きました。知勇兼備の良将をして脇役にせしめるとは、相当な人物なんですね」

 ことさら煽るような物言いに、圭馬本人ではなく、その話し相手である環が覚王の上で振り返った。苦々しい顔をする青年を、由基は鼻で嗤った。

「そうですな。弟の分をわきまえず私見を申し上げると、怖い人、です」
「怖い……」
「それに幡豆殿には拙者を知勇兼備の良将とお褒めいただいたが、それも兄者の打ち立てる戦略政略あっての武勲。拙者など足下にも及びません。兄者あればこそ、今日の羽黒家の繁栄があるのです。屋敷に着く前に一つご助言しよう。……兄者を怒らせぬこと、失望させぬこと。それが大事です」

 彼の言葉には、義兄に対する畏敬が確かに内包されていた。
 ではこの男を、そう言わしめる羽黒圭輔とはどういう男なのか?

 十年前、風祭家との戦いで大敗した桜尾晋輔(しんすけ)が、その戦の後、羽黒家へ養子縁組され、姓名を羽黒圭輔と改めた。これは外聞によれば、桜尾家の跡目相続から脱落したのでは、という考え方もあるようだ。
 だがその後、内部においては羽黒家が分裂したとは聞かず、外部においては対風祭府の戦線を維持し続けたばかりか、器所実氏と合力して逆にその領土を切り取っている。

 以後、圭輔は東部司令官であり、全軍の副将を兼務する形だ。
 その権力は、領地経営や戦にて失敗を続ける実兄らを凌駕するとさえ言われている。
 大した出世劇だ、と由基は言葉にせず苦笑した。

 ――舐めさせられた辛苦が、お坊ちゃんを覚醒させたのか、眠っていた才能を開花させたか。ただの偶然か。圭馬が一歩退いて尽力した成果か。

 それも、いずれ分かることだ。
 何しろ、自分たちを呼びだしたのは、その男なのだから。

~~~

 蓮花城内、羽黒屋敷。
 羽黒家本城、岩群いわむろ城は敵の攻撃にさらされる危険があり、環らの安全のためにこちらに移送されたのだという。

「……兄者が前線より戻ってくるのに、日数を要します。御用があれば、何なりと近侍にお申し付けください。では、どうぞおくつろぎを」

 懇ろにそう言って恭しく一礼すると、圭馬はようやく姿を消した。
 ようやく一息をついて腰を下ろした環は、帽子を脱いでぱたぱたと扇代わりにした。

「さてさて、落ち着けたところで現状を確認しましょう」
 しゃらん、と。
 舞鶴が金の杖飾りを鳴らしたので、一団の耳目は彼女へと集中した。

「予定通り、我々の受け入れ先は桜尾家、桃李府となりました」
「では……最初から中水府は候補にさえなかったと?」
 地田豊房の質問に、舞鶴は顎を上下させた。

「中水府の一将となって現王朝打倒を目指すのならば、それも良いでしょう。ですが、殿には民衆の記憶が新しいうちに再び順門府に戻り、天下に覇を唱えて頂かなくてはなりません。そのためには、順門府の敵対国であり、隣国であり、大きな兵力を有するこの国の助力か不可欠です」
「じゃ、なんで響庭らを中水府へ使者として送った?」
「おや、お気づきでしたか」
 環の質問を、舞鶴の笑みで受け止めた。
 環は忌々しい気分になりながら、
「それぐらいは分かる。と言うか、あれだけ口の悪い男が近くにいなけりゃ、イヤでも気づく」
 と言った。

「……任海殿は絶対に受け入れません。ですが、その配下の水樹殿は反逆者に似合わず律儀な御仁と聞いています。なんらかの支援を頂けることは、確実。いずれ武器なり食料なりを引っさげて、響庭殿は戻ってきましょう」
「つまり、投資を引き出させたわけだ」
 今さらながら、環は自分たちが口先三寸で金品をかすめ取る悪党のような錯覚に陥った。

「だけどさ……もし、響庭のヤツが戻って来なかったら……?」
 色市が口にした懸念が、ほんの少しだけ場の空気を重くさせた。
「だってそうだろ? まだ安全とは言えない俺たちの下に戻ってくるよりはそのまま中水府の将になった方が……」

「あいつは、戻ってくる」

 環の確信が、色市の目を見開かせた。
「いい加減なこと言うな!」
「いい加減か? 俺たちを受け入れなかった中水府公に、あの毒舌家を受け入れる器量があるとは思えないんだが」
「……っ」
「私も、殿の意見に賛同しますねぇ。そもそも戻ってこなくとも、我々が損をするわけでもないでしょうに」
「でも……っ」
「それよりも、響庭って野郎が戻ってくるかどうかより、もっと気にしなきゃいけねぇこと、あるんじゃねぇか?」
 ダンビラを片腕に抱いた大州の発言が、食い下がろうとする色市始の気を削いだ。

「つまり、オレらをこの国が受け入れ、かつ思惑通りに兵を貸してくれるか……」
 由基は舞鶴の横顔をじっと睨み、懸念をぶつけたが、それに対して楽観を見せたのは、先ほどまで懸念を示していた色市だった。
「まぁその点の心配はいらないんじゃないか。俺たちをこうしてお招きくださったのだし、招き入れたからには意味があるはずだ。つまり、俺たちを大義名分に、順門府に攻め込む腹ではないか」
「……だと良いのだがなぁ」
 地田豊房は、むっつり腕組みしてぼやいた。

「ではここで、この桃李府の情勢について軽く説明させて頂きます」
 舞鶴が杖を、真新しい畳の上に置く。

「現状桃李府には我々に出現に対し二つの派閥が現れました。殿を戴き順門攻めるべしという一派と、むしろ排して順門と和睦すべしという一派」
 かたや安全と成就、かたや殺害を意味する両極端な分岐。
 それを改めて自覚し、環は背に汗をかいた。

「幸いなことに現状、優勢なのは前者。これは、先における佐咲、渥美両名を討った武勇談と、危急においても弟妹の弔いを忘れなかったという美談により、桃李府内でも『悲劇の英雄鐘山環』の名声が高まったからに他なりません」
 当の悲劇の英雄は、皮肉げに顔を歪め、帽子を強くかぶり直した。
「ただ問題は、反対派も未だ抵抗を続けているということ。ましてや桜尾家現当主典種のりたね公は病弱で、未だ決議を得られない様子。どう転ぶか分かりません。まして反対派の首魁が、器所、羽黒の二名となると……」

 ――ん?

 環は、聞き捨てならぬことがさらりと流された気がした。

 ――今、なんか変なこと言わなかったか……?

 環の疑念が、そのまま「待った」と声に出た。
「はい」
「お前さ……今、なんか変なこと口走らなかった?」
「?」
 豊かに盛り上がる胸の前で腕組みし、舞鶴はあどけない面立ちで首を傾げた。
 お前らこそ分かっていないのか、という視線が周囲から突き刺さり、環の焦燥はますます募る。

「……舞鶴、お前……今、羽黒殿が反対派って言わなかったか?」
「はいッ!」

 いっそすがすがしいほどの笑顔で、その恐ろしい予感は現実のものとなった。
 環は引きつった笑みを浮かべ、弾かれるようにして窓から外を窺った。
 屋敷の出入り口は兵によって固められ、そこに至るまでの要所を守る武士たちも戦時の如く甲冑を着込み、その厳重な固めようは、警護というよりは……

「つ、つまり……圭馬殿が俺たちをこの屋敷に連れてきた意味って……」
 環の声は、すでに震えていた。


「お察しのとおりです! 私たち、拉致監禁されちゃいました♪」



[38619] 第二話:羽黒の義兄(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:44
 由基は冷ややかな目で、慌てふためく男たち、環と色市の二人を眺めていた。

 と言うか、そんな予備知識がなくても、武人ならば自分たちを囲む敵意と殺気で分かるようなものだが、とかく危機回避に欠如している。

 ため息を露骨についた由基とて、明確な打開策が存在するわけではなかった。

「どうしてそういうことを早く言わないんだよっ!?」
 とにじり寄る環を、由基は冷たくあしらった。
「六番屋に圭馬が来た時点で詰んでる。それより前にとっとと退散すべきだったな、舞鶴殿」
 そうですねぇ、と。
 黒衣の軍師は緊張感に欠けるあどけない声で同調した。

「しかし桜尾家の力を借りるためには、あの方々の協力は不可欠。何しろ器所殿も羽黒殿も、この家きっての封地、兵力、そして能の持ち主ですから。……とはいえ、面白くありませんねぇ」
 と、この悪辣な尼僧にしては珍しい反応を見せたことが、環には少しだけ意外だった。

「あんたの予測が外れたんだから、そりゃ面白くないでしょうよ、舞鶴殿」
 由基は彼女の方を振り向かず、番兵を窓越しに睨んでいた。
 彼女の視覚には、無数の曲線が飛び交っている。
 だが一人に狙いを絞ろうとすると、他の線はたちまちに消えた。

 それは彼女の腕をもってしても、一人以上は殺せないことを示していた。

 ――佐咲らの隊伍とはまるで違う。圭輔本人の馬廻り衆(親衛隊)は彼と共に前線に在るだろうに、留守役でこの強さか……矢を放ったところで巨龍のウロコを一枚剥ぎ取るようなもんだな。

「私も人間ですから。百年以上生きていると、しくじることもありますよ」
「……それは果たして人間なんだろうかね」
「およよ。殿ぉ~、幡豆殿が舞鶴をイジメますぅ」

 舞鶴はわざとらしく主にもたれかかって、その胸に顔を埋めた。
 環自身はそのぶしつけな仕草に対して、迷惑そうにしながらも拒絶はしなかった。

「……やっぱり女には甘いんだな」
「ウソ泣きだぞ、それ」
 地田の揶揄と色市の断言に、その御輿男は緩やかに首を振った。

「分かりきったことを言うな。いちいち追っ払うのもバカらしいだけだ」
 と言いつつ彼は、どこか久方ぶりに触れる女の感触に、少しだけ目尻が下がっていた。
 なんとなくそれが気に食わず、後ろ足で環の腰を蹴った。

「だあっ!」
 と、自らを抱きすくめる舞鶴もろとも崩れる環に、その彼女がのしかかるような形になる。顔を間近に近づけたまま、舞鶴は甘く舌っ足らずな声音で囁くように言い放った。

「ですが舞鶴の失策も無理らしからぬこと。何しろ相手は『天下五弓』の一人、器所実氏殿と、そしてその弟子ともっぱらの噂の羽黒圭輔殿。出し抜かれることもありましょう」

 その上からさらに、
「どーん」
 と、鈴鹿が飛び乗り、
「ぐえぇ!?」
 と、増加した重みに環が悲鳴をあげた。

「ね、ごきゅう? って、なに?」
「す、鈴鹿!? お前こっちに来てたのか?」
 幹部以外の随伴者は別の兵舎か離れに押し込まれたはずだが、どこからか猫のように紛れ込んだらしい。
 顔を青くさせる環に、
「ね、ね」
 と、珍しい好奇心を見せた。

 呼吸困難に陥っている彼の代わりに答えたのは、元朝廷の役人の一族という出自柄、諸国の事情に通じている地田豊房だった。
 一度咳払いし、

「天下五弓、というのは当代において五指に入るすぐれた弓取りのことだ」
 と答えた。
 少女はあどけなく首を傾げ、
「弓? ユキも弓、得意だよ?」
 環を真似て愛称で呼び捨てにされ、由基は露骨に眉をひそめた。
 だがこの巫女は乱暴ではあっても狭量ではない。
 幼子一人の失言など、水に流すことはできたし、弓が上手いと言われて嫌な気分ではない。
 だがここで言う弓取りというのは、そのまま射手を意味する言葉ではない。

「あー、弓取りというのは、だ。将器……武士としての器量を意味するもので、弓等の武芸の他にも、軍略、機知に長け、政務の処理能力、構想力、それらを実行に移す実行力と統率能力、それらの要素を全て兼ね備えた人物のことを指す」
「……? ? ?」
 豊房としては言葉を選んだつもりなのだろうが、それでもやはり十代に入ったばかりの少女に説明するには、堅苦しいし、難解すぎる。

「……つまり、力や戦が強いのはもちろんだけど、頭も良くて、みんなから慕われてて、みんなを幸せに出来る人のことだ」
 息を吹き返した環が噛み砕いて、というよりはざっくばらんに説明する。
「ふーん。で、その五人は誰が決めたの?」
「誰でもない。勝手に、いつの間にかみんなが決めてるんだ。その五人にしても、場所によって二、三人食い違ってることあるしな」

~~~

 ……だが、一般的にはこの五人のことを言う。

 一人は鐘山宗円。すなわち環の祖父である。
 大局と現実を見据えた政戦の柔軟さが評価されている、樹治王朝の開闢以前からの名将である。
 いや、名将と言うよりは名君という向きが強く、とくに内治の才においては五人の中でも白眉とされており、朝廷と争った後も、彼の在位中は米の相場が朝廷よりも順門府内の方が安定していたとされているほどだ。

 一人は上社信守。
 わずか十八歳で順門府での初陣を経験し、負傷した父の代わりに自ら殿を務めて味方の軍を撤退させている。
 それ以降滅多に戦線に赴くことはなくなったが、中水府での反乱、天童(てんどう)雪新(せっしん)の乱など、あわや朝廷の存亡の秋か、という際になって起用される。
 そのほとんどは圧倒的多数の敵勢に奇策でもって勝利する、というものであるが、それは単に彼がそうした策を好むのではなく、朝廷が彼を冷遇するが故に、頼らざるを得ない状況に追い込まれるせいだ、と風聞が立っている。
 だが今のところ、圧倒的優勢をもって彼に勝利を収めた者は、いない。

 一人は風祭康徒(やすと)。
 現風祭府公の叔父にあたる人物で、外交の達者とされる。
 ありとあらゆる手管を遣い、桜尾家を後方からかき回し、自身は万全の戦略でもって前面から押し出す、という方策を得意とする。
 羽黒圭輔に至っては討ち死に、落城寸前まで追い込まれたことさえあった。
 また芸や美、音曲にも精通しており、彼が自ら設計した城や庭園は、雄大にして華麗。都人でさえ感銘を受けて模倣するとも言われている。

 そして一人は……

「ちらっ、ちらっ」

 環にのしかかったまましきりに由基の横顔を覗き見る女、勝川舞鶴。
 この女が何をしたか、それは人の噂を聞くよりは、史書をひもといた方が早い。

 彼女の名は、突然にして年表上に現れる。
 ある時は五ヶ国五万の軍を統率する総大将として軍馬を駆り、あるときは諸国間で盟約を締結させ、十年の平和を築き上げた。その後、その盟を自ら破った。
 ある府国の正史では名宰相として褒め称えられ、またある国では傾国の魔女として、名を持ち出すことさえ忌避される。

 評価は二極化する。
 かつての由基ならば前者を信じただろう。
 今の由基は、後者を推したい気持ちだった。

 そして当の器所実氏。
 好敵手である風祭康徒と共に、五人の中では智勇と政戦の均衡がとれた人物として知られている。戦略では康徒に分があり、戦術では実氏に分があるという。
 足軽身分の卑賤の出自。
 でありながら君主にその才を見出され、よくその信頼に応えた。
 言わば叩き上げの人物で、康徒戦における敗戦処理を任されることが多かった。
 彼はその敵手と十度交戦し、ただ一度のみしか勝利できなかった。
 だがそのただ一勝で、風祭康徒を討死せしめていることが、彼が天下五弓に選ばれた所以だろう。

 だがその内の二名が現在鬼籍に入っている。
 宗円は周知の通り天寿を全うし、風祭康徒は実氏との戦で敗死。

 その空席に座る資格がある者は誰か、巷では口さがなく物議されている。
 羽黒圭輔と言う者もいる。
 響庭村忠が面会しに行った水樹陶次とも。
 康徒の子の武徒は、一戦場における駆け引きは父にも勝ると評され、甥の親永は、抜きん出た部分はないものの、地田が言った条件を十分に満たしていると言えた。

 いずれも一方ならぬ英傑たちである。

 ――それに比べて、うちの大将は……

 女子どもに潰されている。
 由基は呆れた。その場にいた皆の胸中にも、同様の感想が過ぎったことだろう。

 だが当人は、まるで他人事のようにふるまっている。
 へろへろと手を伸ばして帽子を掴み、自分の顔に押し当てる。

「まぁ弓だけじゃどうにもならないことが、あるってことだ」

 環があてつけがましい呟きは、正論だ。
 正論だからこそ、腹が立った。

 舌打ちし、窓の方へと向き直った由基だったが、次に放たれた幼なじみの言が、彼女の心の緒を引いた。

「だけど天下五弓でも、この乱世はどうしようもなかったんだよな」



[38619] 第二話:羽黒の義兄(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:45
 結局羽黒圭輔本人が帰陣したのは、三日後のことだった。

「兄は普段、戦いの余熱を冷ましたり、思案をする時など射場で弓を射るのです。今はそちらにいるとのことなので、ご案内しましょう」

 という圭馬に、環は従った。
 同行者は良吉と、大州である。

 ――この二人、なんだかんだよく組むよな。

 もっとも良吉は非常時における戦闘の達人で、大州は策にハメたと言えど、猛将佐咲助平を討ち取った武人だ。
 そして何より、二人ともとっさの機転が利く。
 由基や地田にはない柔軟さが、彼らの中にはあった。

 彼ら三人と、羽黒圭馬、護衛と称する羽黒の監視役五名は城の東に位置する射場にまで向かった。

そこに入った圭馬は、

「兄者、公子殿をお連れしました!」

 と明朗に用向きを伝えた。

 ひゅっ

 と、風切り音が場に鳴り響いたのは、それとほど等しい時だった。
 引き絞られ、放たれた矢は弧を描くことなく、鉛弾のように直線に矢道を抜け、的の中心に見事に突き立った。
 的を二つにしかねないほどの、強弓だった。
 由基の弓は正確無比ではあるものの、あれほどの膂力はない。

「……」

 残心を示してゆっくり姿勢を直した射手は、環らへと首だけ向けた。

 途端、環の全身を雷撃のようなものが貫いた。

 ――なんだ、この男……?

 枯れ草色の髪、長いまつげに二重まぶた。鼻は高く、引き締められた唇は赤い。
 美男ではあるが、片肌を剥き出しにした肉体は、間違いなく戦国武将のそれだった。鋼を折り畳んだように屈強で、岩盤のように大きい。

 何よりその両目は、左右で色が微妙に食い違っている。
 左目は黒、右は胡桃色。
 放つ光はまるでむき出しの太陽のようであり、何も音を立てず、ただ激しく燃えているようでもある。

 その目だけが、笑っている。

 身の丈は八尺あろうかという大男が、圧倒的存在感を以て、足音も立てずにゆっくり近づいてきて、環は後ずさりたくのを必死にこらえた。

 ――斬られる。

 彼が持っているのは弓であっても、刀槍の類ではない。
 にも関わらず、環は本能的にそう感じてしまった。

 だが、意外にも彼は、その客人の手前で膝を屈し、長弓を置いた。

「鐘山環殿。見苦しい姿をお見せした非礼、どうかお許しいただきたい」
「い、いや……」

 口調は丁寧。慇懃ではあっても、無礼でもない。
 本心で、片肌脱ぎの姿をさらしたことに対する謝意、それが込められている。

 だが、環には、今まで相応の苦難を経てきた順門公子には直感で分かった。

 強すぎる。
 この男は、ひたすらに強すぎるのだ。
 そう思った所以が自分でも上手く説明できないが、鍛え抜かれた全身をみなぎる男の覇気が、環を戦慄させたのは確かだった。

「圭馬」
「は、はい。兄者」
「このような様を、お客人を連れ出してまで見せるとは……礼がなっていないにもほどがあります」
「い、いやぁ申し訳ない! 一時でも早く兄者と引き合わせねばと焦りすぎました!」
 ことさら明るく圭馬は詫びるが、後頭部に当てるその手が、じんわりと汗ばんでいる。
 それは、夏の日差しのせいではなく、環自身と同じ気分を味わうが故だろう。

 ――これでは、さぞ大変だろうな。

 仕える方も、仕えられる方も。

~~~

「なにぶん戦の直後ですので満足な食材も調達できず……何とぞ辛抱いただけないだろうか?」

 膳には湯漬けと、香の物が一、二切れ。
 六番屋とは対照的な質素な食事に、一同は閉口した。
 ――もっとも環にとっては似たような食事には違いなかったが。

 圭馬がいちいち謝意を示してくれたうちは良かったが、それが五日、十食続くと、流石に不満が漏れ始めた。

「これが客を遇する道か? 外出も禁じられる、監視はつけられ、こうも冷遇される。これでは虜囚ではないか」

 と、普段温厚な豊房でさえ苦言を呈したのだから、いわんや他の連中は、と言ったところだ。

「番兵どもが炊きたての握り飯に味噌汁食ってたの、オレは見たぜ」
「奴ら飢え死にさせる気か!?」
「あるいは、殺されるかもしれぬ」
「だ、脱出をはかるべきじゃないのか!?」

 慌てふためき、あるいは怒り、そんな様子の同胞たちとは打って変わって、環は冷静になりゆきを見守っていた。

「……くっくくく……くくくくく」

 ふいに聞こえてきた忍び笑い、それを発した当人に、一同の注目が寄せられた。

 広間の片隅で肩を震わせる大州は、ニタニタ笑いながら由基らを見ていた。

「……何かおかしいか?」
 由基の語調と視線自体が、矢のような鋭さを持っていた。

 だがこの悪相は、揺らぎさえしない。
 ゴロリと畳に寝そべったまま、不敵に放言する。

「あぁ。武人たるもの兵糧尽きても砂を食え、石を齧れと大言を吐くお武家がたが、タダ飯食える身分で選り好みしてやがる。これが滑稽でなくてなんだって言うんだ?」

「なにィ!?」

 いきり立つ色市を細めたその目で品定め、大州はなお笑いを深めていく。

「同時に安心もしたね。どれだけお高くとまろうと、生き物はみんな畜生ってな。腹が空けば吠え立てるし、死を前にしちゃ泣き喚く」

[もう一度言ってみろよ……」
 ゆらり、と由基が弓を携え立ち上がる。
 殺気立つ彼女を手で抑えながら、自身も感情を押し殺した声で豊房が言った。

「そうか確かに思慮が足りなかった。だが、この扱いが不当であることに変わりはあるまいっ!?」
「そうだよ! あいつら俺らをナメてるんだっ!」

「そりゃ。ナメるだろ」

 思わず口からついて出た言葉に、流天組と大州双方の耳目が向けられた。

 まずったか、と思ったのは、発言者である鐘山環だった。
 それでも舌は止まらない。

「そりゃ、ナメるとも。こんな見苦しく騒いでたら、物笑いにもしたくなる。と言うか、ナメない理由がないだろ」

 世評はどうあれ、その実態は国の実権を奪われ追放された公子と寄せ集めの家臣団だ。
それを見抜けぬ羽黒圭輔でもあるまい。

「で、誰かが暴発して俺たちを処分する大義名分を作ってくれる。それをあの男は待ってるんじゃないのか?」

 帽子を拾い、強く、目深にかぶる。
 環は舞鶴を見る。
 何も発言しない代わりに、慈母のような微笑を見せていた。

「だから、お行儀良くとは言わない。普段どおりでいろ。いつか奴らがこんな仕打ちをしたことを後悔する、その時まで」
 明言こそしなかったものの、それは鐘山環が皆の前で表明した野心だった。

~~~

 その晩のことだった。

「とは言ったものの……」

 ぐぅ、
 ぐぅ、ぐぅ

 鳴り止まぬ腹の虫に、環本人が辟易していた。
 何しろかれこれ十日以上、船酔いやら今回の拉致監禁やらで、まともな食事にありつけていない。
 布団に潜り込んでも、高いびきを立てる他の連中と違い、眠れそうにない。
 これでは本当に、身体を壊してしまいそうだった。

 ぐぅ

 ひとりでに鳴り響く腹の声に、

「……ふふ……口では偉そうなこと言っても、身体は正直じゃないか」

 などと一人口走ったりしてみると、
「うるせぇバカ!」
 男女を隔てるついたての下、即座に伸びた由基の足が、環の枕を蹴り飛ばした。
「ふざけたこと言ってねーで、布団の端でもかじってとっとと寝ろ!」

 そうは言うものの、今の一撃で完全に覚醒してしまった。
「……厠でも行ってくるか」
 のろのろと起き上がり、寝間着ひとつ、帽子も刀も双鎌も持たずに、公子は縁側に出た。

 ――しかし……

 と、環はある事実に気がついた。
 見張りが減っている。
 気のせいや闇による見間違いではない。
 篝火は焚かれているものの、それにより浮き彫りになった人影の数は、間違いなく昼より少ない。
 あげく、座り込んだ寝入りそうになっている輩さえいる始末だ。

 ――今なら、抜けられるのではないか?

 本気でそう思ったわけではなかったが、ふと、そんな期待が頭をよぎる。

 ――だけど、本気でそう考える奴らがいるかもしれないな。

 気をつけなければ。
 首を振って厠に向かおうとした矢先、背後から聞こえてきた物音で、足を止めた。
 ゴソゴソと、絶え間なく聞こえてくるその小さな音の連続が、環に

 ――まさかホントに誰か出ようとしてないだろうなっ?

 という危機感を募らせた。
「……っ!」
 環は踵を返し、その音がする台所、そしてそこから続く裏口の方へ向けた。

 物音が、違う色のものへと変わる。
 カラカラと、金属の底を引っかき回すような感じのものへと変わり、それに伴いかすかに、魅惑的な匂いが鼻をくすぐる。

「……」
 そっと中の様子を窺おうとした矢先、

「お」

 台所から顔を出した彼と、鉢合わせた。
 中年の男だ。
 それも、まったく見覚えがない。

「お、おぉ!」

 と、にこやかに、ややぎこちなく手を挙げた男は「まぁ入りなされ」と環を手招いた。

「は? あ、俺は」
「言わぬでもわかる! 腹が減ったのだろう? さもあらん、かく言うオレもな、どうにも我慢できんでな」

 台所に置かれた小さめ燭に照らされた男は、やや痩せ気味の、素朴な顔立ちだった。
 身なりはそれなりのもののようだったが、色合いも簡素なもので、凝視すると所々擦り切れているのがわかる。

 顎には針金のようなヒゲをたくわえ、べったりと張り付くような人の好さそうな笑みは初対面だというのについ気を許してしまいそうになった。

 抗うこともできず、招かれるままに台所へと入った環の鼻先へ、ほい、と飯茶碗が突きつけられる。

「残り物しかなかった」

 彼の言どおり、器の中身は冷えた味噌汁に、冷や飯と大根の漬物をぶち込んだものだった。

 だが、今の環にはそんなものさえ美食に見える。
 つい反射的に伸びた己の手に気がついて、ハッと引き戻した彼に、男は目を細めた。

「心配なされるな。毒は入っておらん」
「いえそうではなく」

 環はほんの少し言い淀む。
 待望した飯を前に、自分が感じている後ろめたさ。それをどう言葉に昇華しようか黙考する。

 暫時の逡巡の後に、彼は恐る恐る口を開いた。

「どうせ腹を満たすなら」
「うん?」
「ツレと笑いながらあったかい飯食いたいんで」

 男は、きょとんと目を丸くした。
 だが、

「ふ……ふふふ…………はっはっはっは!」

 次の瞬間には、笑い始めていた。
 手にした椀を大きく揺らし、肩を揺すり、箸を掴むと大口でそれをかき込んだ。

 見惚れるばかりの食いっぷりに唖然とする環の肩を、男は無遠慮に何度も叩く。

「然りだ環殿! よしよし、オレが皆に馳走するように圭輔殿に取り計らって進ぜよう」

 どうやら、こちらの正体を知っていたらしい。

 ――もっとも、この空色の両目は隠しようもないか。だがしかし……

 羽黒圭輔を親しげに呼ぶこの男は、一体……?

「なんだ今の馬鹿笑いは!?」
 と、朱槍を担いだ羽黒圭馬が飛び込んできたのは、その思考の最中だった。

「おう、オレだ。圭馬殿」
 と、男は義兄のみならず、その弟にも気安く呼ばわる。

「貴様何者!?」
 圭馬の後から続いた家臣が、誰何の声を鋭く放つ。

 だが、圭馬本人は違った。
 大きく目を剥き、顔を青ざめさせ、指と口は小刻みに震えている。

「き、き、き、さ、さささ、さま」
「……貴様?」
 言葉にならぬ彼の呟きを拾い上げ、思わず反復した環に弾かれたように、圭馬ははっきりと、男の名を呼んだ。

「器所実氏様ァ!?」

 聞いたことのある名だった。
 きそさねうじ、
 きそさねうじ、
 きそ……

 桃李府筆頭家老、天下五弓が一人、器所実氏。

「…………なにぃィィィ!?」
 予想を遥かに超える大物の出現に、環の叫びが城内にこだまする。



[38619] 第三話:環と村忠(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:46
 はっはっは、と。
 呵々大笑して器所実氏は対面所の上座に腰を下ろした。

「やーすまんすまん。驚かせてしまったかな」

 羽黒圭輔は左右色違いの両目で軽く睨み返し、彼の対面へと座った。
「突然の来訪でしたね、実氏殿」
「あぁ。風祭戦の事後処理も終わって戻ってみれば夜でな。大殿への復命は明朝にするとして、とかく件の客人を見たくてな。つい夜襲を仕掛けてしまった」
「それはそれとして、事前におっしゃっていただけたならば、それなりのおもてなしも出来ましたものを」
「ほほぅ? こちらのお客人には、そういったもてなしは出来ているのかな? 圭輔殿」
「……意地悪いことをおっしゃいますな」

 圭輔はため息を深々とついたが、口の端には笑みが宿っている。
 まるで親友に対するかのごとく、遠慮なくも好意的な視線。それが実氏へ向けられていた。

「しかし、環殿は何故あのような場に?」
「オレが共につまみ食いをと誘ったのだ。な? 環殿」
「……え、えぇまぁ」
「そうでしたか。言っていただけたら馳走させていただいたものを」

 細めたその目が、環の方へと向けられる。それは、実氏に向けられたものとは、形は同じであっても色合いはまったく違っている。確かな殺気が、孕んでいる。

 ――やはり、あの警備の隙は罠か。抜け出たらそれを口実に暗殺するつもりだったか。
 背筋に冷たいものを感じつつ、環は笑顔を繕い崩さない。

「ほーぅ? オレらには偉そうなことを言っておきながら、自分はつまみ食いですかァ、……タイショー殿?」

 そして背後から矢のように突き刺さる、幡豆由基の視線。
 気の毒そうに彼を見やる、圭馬の視線。
 四者四様の視線が、彼の肌膚に突き刺さっていた。

 ――それにしても……

 内治の鐘山宗円
 奇策の上社信守
 謀略の勝川舞鶴
 外交の風祭康徒
 戦術の器所実氏

 天下五弓の中では主に軍事面を代表する人物にしては、この器所実氏には武張ったところがなく、また圭輔ほどに鋭利な雰囲気も持っていない。
 元来こういう成り上がり者は、極端に傲慢に変貌するか、あるいは卑屈になるかのどちらかだが、彼は豪快であっても傲慢ではなく、偉ぶらないが卑屈でもない。
 初対面だが、好意を以て接することのできる人物だった。

「……気を許すなよ。あの男も反対派の一人なんだぞ」
 そうした気の緩みが伝わったのか、ぼそぼそと、背後の由基が三人に聞こえぬように耳語する。
 そんなことは言われるまでもなかったが、それでもこの当代きっての傑物が、直接手を下すようには思えなかった。

「環殿」

 圭輔が、切れ長の目を環にまっすぐ向けた。

「食事の件はこちらの手違いが色々あったようで申し訳ありませんでした」
「……いえ、こちらこそお見苦しい姿を」
「ところで、近々ある催しを行おうと考えております。そろそろ身体もなまってきたことでしょう。よろしければ、ご参加しては如何か」

 ……それが、ただの催し物ではないことは、その場にいた誰にとっても明らかなことだった。

~~~

 環とその護衛の弓手が退出した後、その場に残されたのは羽黒兄弟と器所実氏のみとなった。
 依然、圭輔は笑みこそ崩さないものの、滲み出る雰囲気は恐ろしく剣呑なものだった。
「そう腐るな圭輔殿。オレが台所に忍び込んだのが悪かったのだ」
「えぇ。そして圭馬が驚き叫び、実氏殿の来訪は近隣に伝わったことでしょう。羽黒屋敷に器所実氏が訪れた際、鐘山環が横死したとなれば、不届きな邪推をする者も現れましょう」

 ――それは邪推ではなく、兄者が本当に企んだことではないか。

 と、圭馬はひそかに苦笑した。
 苦笑するほか、なかった。

 そしてこの筆頭家老は、兄がそういう強硬手段に訴える前に、釘を刺しにやって来たのだろう。
 剣先にも似た圭輔の才気に触れ、笑顔でいなすことが出来るのは家中、いや天下でもこの人傑以外ないだろう。圭馬はそう本気で考えていた。

「……環を討つことに、実氏殿は反対ですか」

 やや撫で肩気味の上半身をそびやかし、家老は苦笑する。
 まるで自分こそこの男の忠臣であるかのような真摯さで、桃李府公の五男はなお進言する。

「僕は彼を排除すべきと考えます。そもそも彼を立てようとする兄らは、真に客人に憐憫を抱いてのことではなく、我々に武勲で遅れをとっていることへの焦りから順門府への出兵を考えています。……冗談じゃない。いたずらに戦線を伸ばされてはかないませんよ。鐘山家に引き渡すか、でなければ排除すべきです」

 兄の言うことももっともだ、とは圭馬も思う。
 現当主の叔父である康徒を討ったことで、風祭家にとっては桜尾家は不倶戴天の敵となっている。和睦を求めたところで、とても応じるとは思えない。
 一方で鐘山家は近頃朝廷に接近し、朝敵扱いも解かれたと聞く。元々西方での戦いは朝廷の要請により行われていたものだ。その依頼主が許したとあれば、こちらからも停戦を求めることもできそうだった。

 ――もっとも、朝廷の勝手な都合や判断に振り回されるこちらの立場はどうなることやら……

 何にせよ、いつまでも、ズルズルと二方面作戦を展開しているよりは、西と和睦し、余裕が出来たところで本格的に風祭府征伐に赴けば良い。

 ……そう、思わぬこともない。

「で、圭馬殿はどう思われる?」
「えっ」
 突然話題を振られ、圭馬の心身は硬直した。

「い、いやーぁ……拙者、未だ若輩にして兄に異見することなど」
「つまり、お前も反対なのですね。圭馬」

 低い声が隣から聞こえ、羽黒の勇将はヒッと小さく悲鳴をあげた。
 だが、恐る恐る窺う義兄の横顔には、愛嬌ある微苦笑が浮かんでいた。

「別に怒ってなどいませんよ。お前は兄を狭量な人間にしたいのですか?」
「と、とんでもない! ……では、改めて意見を述べさせていただきます」

 居住まいを正して咳払いし、地に足の着いた調子で、詠うようにゆっくりと、圭馬は己の思いを圭輔にぶつけた。

「兄者。なにとぞ鐘山環公子を殺さぬよう、お願い申し上げます」

 圭輔はふっと笑みを漏らして、
「情でも湧きましたか?」
 身も蓋もないことをきっぱりと尋ねる。
 義弟は一瞬、言葉を詰まらせた。
 違うと否定することもできるが、

 ――この兄に、嘘は通用しない。

 そのことを、彼は知っていた。
「はい。沸きました。何しろ、環公子は騒がしくも愉しい方ですから」
「うんうん。面白い青年だったな、彼は」
 実氏の相槌に応じて頷きつつ、圭馬は義兄から視線を外さなかった。

「ですが、それだけではありません。兄者を慮っての諫止です」
「僕の、ね」
「はい。この圭馬、愚弟なれど兄者のお心はよく分かるつもりです。兄者は、ご自分だけが泥をかぶる覚悟で我々の禍根となりうる環殿を除こうとされている。兄者はまだお若いではありませんか。そのような強引な手段に訴えて、ご自分の道を閉ざされますな」
「…………」

 無言で顔を背けた圭輔に代わり、実氏が呵々大笑する。
「で、圭輔殿はあの公子殿という人物をどう考えている?」
「……それは先ほども申しました」
「除く除かぬは別として、オレは圭輔殿の評価が知りたい」

 圭輔は黒と茶の瞳を閉じて、じっと腕組みした。
 三人の息づかいが聞こえるほどに静まりかえった室内。わずかな光源だけで照らされた中、圭輔はおもむろに口を開いた。

「ここ数日の経過を観察してみますと、その家臣らは皆とるに足らぬ人物ばかりです。幡豆由基、地田豊房、色市始。彼らは論ずるに値しません」
「ほう? いずれも一芸に秀でた人物だと、六番屋殿からは聞いているが」
「確かにそうです。ですが、彼らの我はそれ以上に強い。自分たちが環よりも優秀だと信じて疑わない。それこそが彼らを貶めています。今は良いとしても、彼らが臣下の分と、自らが環に才器において劣ることを理解しなければ、主従ともに先はないでしょう。亥改大州はそのこと自体は理解していますが、なんともふてぶてしい。もし環が彼の意にそぐわない言動をとれば、即座に裏切る。そうした可能性を秘めているのではないでしょうか。二人の子どもたちは流されているだけ。まだこれからと言ったところでしょう」
「では、肝心の環公子についてはどうだね?」
 そこで、圭輔の長演説が一端止まった。

 トン
 トン
 トン

 指で畳の縁を三度叩き、思案をまとめるようなそぶりを見せながらも、

「…………正直なところ、掴みかねています」

 と、正直な言葉が出てきた。

「最初は慌てふためく俗人かと思いましたが、突然聖人君子の如くふるまう。家臣らに嘲弄されるかと思いきや、一瞬にして我の強い彼らを統率することもできる。実態の読めない若者です。へたをすると、勝川舞鶴以上に、読みにくいかもしれません」
 圭馬も、実氏も、何度も頷いて同意を示した。

 勝川舞鶴の人格を悪し様に否定する者は、確かにいる。
 だが、才覚まで否定する人間はいない。

 対して鐘山環の将器は未知数だ。
 彼が有能か、無能か。
 現段階ではその振れ幅が大きすぎた。

「そこで『例の催し』というわけかな」
「えぇ」
 実氏の言葉に首肯して、圭輔はおもむろに右手を掲げた。
 その手が圭馬に伸びたかと思えば、おもむろに肩が叩かれた。

 ビクリと震える義弟に、ニコリと圭輔は微笑みかける。

「近々お前に働いてもらうことになりますよ。圭馬」



[38619] 第三話:環と村忠(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:46
「試し合戦?」

 以前よりは遙かに豪華になった朝食を前に、相伴に預かる圭馬から聞かされた環は、にわかに表情を曇らせた。
 にわかに活気づく胞輩たちに横目を向けつつ、「説明していただけるのか」と言外に促す。

 頬を指で掻きながら、圭馬は頷いた。
「実は近々羽黒家中で将兵の訓練の一環として模擬戦をすることになりまして。つきましては、無聊の慰めとして是非とも環殿らにも参加していただきたいと、その、兄が申してましてね。お客人にこのような手荒なことをさせるのは気が引けるのですが……どうでしょうか?」

 どうでしょうか? と問う圭馬の表情には、明らかに「受けてください」という懇願が含まれている。
 自分では兄の意向を拒みきれなかったのか。

 ――あるいは、自分たちの利用価値をそこで示せと言ってくれているのか……

 受けるべきか、受けざるべきか。
 思案する環の両脇から、

「ぜひ!」
「お受けしましょう」

 色市と豊房が身を乗り出した。

「お、おい!」
 慌てる環の後ろ、圭馬の死角から由基が蹴って反論を遮った。
 痛がる環に気がついていないのか、あるいは強引に話をまとめようとしたのか、圭馬はほっと顔をほころばせて、嬉しそうな声を発した。

「いやぁありがたい!」
「で、勝負の条件は……」

 由基の質問に対する圭馬の返答は、あらかじめ決まっていたかのように明朗なものだった。

 場所は城の東に広がる大三原(おおみはら)。
 鐘山陣営、羽黒陣営、それぞれ選出した将兵で争い、背につけた旗印が奪われるか、あるいは気絶させられたら討死扱いとし、以後戦闘には参加できないものとする。
 最終的に全滅、あるいは総大将が『討死』、互いの陣の最奥にある旗が奪われたら負けとなる。
 武器は真剣の代わりに木刀を用い、槍、矢は布を丸めて留めた偽物を使用。当然鉄砲の使用は禁止である。
 大将のみ騎乗が許可され、他は徒歩。ただしその他陣立ては互いの範疇で自由に行える、ということだった。

「もっとも、戦に臨んでは何かと不足なものもありましょう。兵、具足、馬等お申し出いただければ、なんなりと手配させていただきます」
 ありがたい申し出に、環は一応頭を下げてから、自らの懸念を尋ねた。

「それで、そちらの大将は圭輔殿ですか」
「あー……それが、ですな」

 山菜をまずそうにかじり、圭馬は箸を置いた。

「兄は出ません」
「へ?」
「先日、敵に大勝したと言え岩群城の守備をいつまでも離れる訳にもいきません。試合日にはこちらに来られるということですが、それ以外は参加できぬ、とのこと」
「……では、そちらの大将は」
「はい。身に余ることながら拙者が。……なにとぞ、お手柔らかに」

 圭馬は、いかにも気弱げな苦笑を見せて言った。

~~~

 圭馬が退出した後、「よしっ」と言う意気込みが環の脇で聞こえてきた。

「ようやくらしくなってきたなっ! 羽黒の勇将に勝ち、我々の武名を天下に轟かせるぞ!」
「あぁ、連中相手に鬱憤も溜まってたしな」

 良吉と由基は黙々と武器を取り出し、豊房はようやく出入りが自由になった兵舎に駆け出し、色市は軍令を書くべく紙を取り出したりしていた。

「……お前ら、やたらと乗り気だな」
 環が呆れた声を出すと、「当たり前だろ?」と色市が返した。

「おれたちには舞鶴殿が、天下五弓がいる。それに相手は圭輔殿本人でなく圭馬殿だ。勝ちは見えているし、勝てば武名だけじゃない。待遇も良くなるはずだ」

 ――お気楽な奴め。
 環は苦笑と共に、畳の上に寝そべった。その目の前で、

「うーん」
 勝川舞鶴は、悩んでいた。
 腕組みしつつ、小首を傾げ、それでもまったく真剣には見えないのは本人の人格ゆえか。

「……どうした? あんた、戦に参加するんだろ?」
「いえ、それがですねぇ」

 困り顔の軍師が告白したことは、その場にいた人間、特に色市にとって一大事であった。

~~~

「はぁ!? 参戦できない!?」

 顔を青ざめさせた色市の、大音声が部屋を震えさせた。

「はい。羽黒のご家中と協議のうえ、試し合戦の準備と運営にかかってもらいたい、と実氏殿より直々のご依頼がありまして。当日はもとより、連日忙しくなりそうです」

 ――やっぱり俺らの参戦受諾は織り込み済みか。
 そして、舞鶴を自分から引き離す謀も抜かりなく行っていた。

 ――そりゃ不利を承知で自分から提案するわけがない。
 環は寝そべったまま、意外に沈着な自身に驚いていた。

「ここのとこ、あんたにとって不都合なことばかり起こるじゃねーっすか。いよいよその智の泉が涸渇したんじゃないスか?」
 由基が棘で突くような調子で食ってかかると、舞鶴は嫣然と笑みを浮かべながら、
「えぇまったく、困ったものですねぇ」
 他人事のように、受け流す。

 暖簾に腕押し。

 そもそも彼女の謀才が衰えたとして困るのは由基はじめ全員なのだ。
 迂遠にそれを指摘されて思い出したか、由基は忌々しげに舌を打った。

「地田さんと合流するぞ、始、良吉。調練だ」
「ま、待てよっ! おれらだけで圭馬殿に勝てるのか!?」
「泣き言言うんじゃねーよ。その女がいなくたって、オレらだけでやれる」

 彼女は柱にもたれる大州には声をかけず、一瞥もくれず、自分の子分を引き連れて部屋を出て行った。

「いっそ清々しいほどの始の小物っぷりよ」
 それでも、あの饒舌家に嫌悪感を抱けないのは、一種の才能であろうか。

 環はゴロリと寝返りを打って、大州を見た。
 ダンビラ抱いて片膝をつく様は、見飽きたものだが堂に入っている。部下一万人を超える大盗賊の大親分の如き風格を有していた。

「で、お前は行かないの?」
「あんたが行けと言うなら、やぶさかじゃないがね」
「言っても聞かないだろ。お前は」

 ニヤニヤと不敵に笑いかけ、少しも動こうという気配を見せない。

 ため息一つこぼし「で」と、視線を軍師に投げやった。

「せめて今日一日で何かしら策を巡らせることはできないのか? 舞鶴」
「一日で考えた小手先の策など気休めにもなりますまい。それよりもこの余暇を使って、城下の見聞に行きたいのですが、お許しいただけますか?」
「何故?」
「この桜尾家は押しも押されもしない大大名。この城にしても、町の縄張りや法度にしても、見るべき点は多々あります。後日我らの国を築く際、少しでも参考になれば、と」
「なるほど。…………で、本音は?」
「やっと自由だ遊ぶぞワッショイワッショイ!」
「人生楽しんでるなぁババァッッッ!?」

 この女、本当に脳がスッカラカンとなってしまったのではないか。
 それを確かめるためにも、一度ひっぱたいておこう、と環が決意して起き上がり、平手が伸び切るよりも前に、その手は舞鶴に握られた。

「それに、舞鶴のお役目は、殿を凶刃よりお救いした時点で半ば果たしたと思っております。これからは殿お一人で戦うことになろうとも、さして問題はないでしょう。……大丈夫。殿には、それを成せる才徳がお有りです」

 それは、最上の絹でくるまれるような、えもいわれぬ柔らかさだった。
 亡き母親の手が、ちょうどこんな感じであったような気がするが、遠い記憶の果てにあるその感触を完全に思い出すことはできなかった。

 とまれ、実に女性らしい気品に満ちたこの女は、先ほどのあのはしゃいでいた女と同一人物なのだろうか?

 ――士は三日会わざればなんとやら、と言うが、女は一瞬後にコロコロと変わる。なかなかどうして。

「ではでは! 私は鈴鹿殿と見聞に行ってまいります!」

 鈴鹿の手を引き、軽い足取りで出て行く舞鶴を、その主は苦笑とともに見送った。

「あ、そうそう」
 と、母娘のようなその二名は、入り口の手前で足を止めた。

「羽黒圭馬は若いながら歴戦の良将。全体的には兄に及ばずとも、その両眼はあまねく戦場を見渡すだけの力を持っています。彼に勝ちたければ、彼の見る世界以上の広さを見ることです。…………本当に勝ちたければ、ね」

~~~

「さて、俺もそろそろ行くとすっかね」

 大儀そうに腰を上げた大州に、環は視線を投げた。

「お前も訓練か? それとも、遊びに行く気か?」
「いや、俺の指示なく魁組が動くわけがねぇ。大概怠けているだろうから、奴らと賭けでもしてるさ」
「何の賭けだ?」
「そうだな、この試し合戦の勝ち負けなんてのはどうよ?」
「どっちに賭ける?」
「勝つ方、と言いたいところだがね。まぁ負けだろうよ」

 ニヤニヤ不敵に笑いながら、大州もまた広間から退出した。

 ――あいつめ、一体どこまで読んでやがる?

 だが舞鶴の欠けた今、環の考え、悩みに理解を示すのは、あの悪党をおいて他にない。

 それでも、容易く胸襟を開くことは出来ない。
 苦悩を打ち明けたところでそれを弄ぶが如き悪辣さが、あの男にはあった。
 そのことを疎ましくも憎くも思ったことはないが、応じてくれる真摯さがない以上、気軽に話すことはできない。

 ――はてさて、どうすべきか?
 ふてくされるように、再び横になる。

「おやおや。どうやら、僕の力が必要なようで。環殿」

 苦悶する環に、待ち侘びた、待ち望んだその男の声が、天啓の如く頭に落ちてきた。

 旧友は、小動物の如き細い瞳をさらに細めた。
 環は彼の微笑に応えて、にっと笑い返す。

「本当に、ここぞという時にお前は頼りになるよ。村忠」

 一流の二流と自称する副将、響庭村忠の登場に、環は千騎の味方を得た思いだった。



[38619] 第三話:環と村忠(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:47
「なるほど。水樹という人はそういう人か」
「はい。名将と言っても差し支えないですが、盟主がアレじゃ、そう永くはないでしょうよ」

 ぱちん

 その水樹からの贈り物の一つ。
 特産のカヤで作られた蒔絵の碁盤で、友人であり、主従である二人は対局していた。

 逆賊となった今、例え一級の木材であっても容易に売り捌くことはできないだろうし、容易に流通もしないだろう。
 そうしたモノの上で碁石を打つのは、持ってきた当事者としても何だか贅沢な気分になった。

「だがな、水樹陶次殿の人生にとって、その是正殿の愚直さは恩人とも呼べるのかもな」

 ぱちん

 村忠が蒔いた餌に環は食いつき、まっすぐそれを取りにかかる。

「ほう、それは?」
「是正が反旗を翻さなければ、そういう人物は反乱などしないで社稷の内より改革を目指しただろうさ。そして、朝廷にその才を見出す力量があれば、今の衰退はない。自他ともにその秘めたる将略に気づかず、凡百の官吏の中に埋れていて、今こうして俺たちの話題にあがることもなかったはずだ」

 ――おや?

 今までの攻勢から一転、村忠の一手で覆されつつある盤上。
 しかし、環の空色の両眼は、そんな苦境をまるで意介さないほどに涼やかなものだ。

 ――しばらく見ないうちに、この人は、変わったか?

 昔はもう少し、ねじけていじけていたし、自分の言葉で語ることは少なく、今のように鋭い見識を、持つことも、持っていてもそれを見せることもなかった。

 ――父御の死が、あるいは舞鶴殿との出会いが、あるいは大渡瀬の惨状が、今まで赤児同然に流され続けた環殿に、自我を確立させたのか。

 意識がそれそうになるのに気がついて、村忠は慌てて自分の手を打った。

「それはそれとして、試し合戦という目前の課題があるでしょ。『羽黒圭馬に勝つには、彼以上の世界を見るしかない』、でしたか。軍師の言葉の通り、広き視野は持てましたか?」
「腹案がないわけじゃない」

 無茶な攻めのうえで、ようやく村忠方の一石の奪取に成功した環は、トンと、碁盤の脇にそれを置いた。
 そして何を思ったか。手元の碁器を逆さまにし、その上から自らの黒石をぶちまける。

「なるほど」
 村忠は腕を組んで嘆息した。
 自らが主君と仰ぐ青年、その策戦、その狙い、それを汲んだがゆえに。

「……で、どうかな。この策は」
「成ることは成るでしょうな。ですが、夜道は気をつけた方がよろしいでしょう。さぞ、恨まれることでしょうよ。敵にも、味方にも」

 村忠は鬼の形相を浮かべる幡豆由基を想像し、引きつった微苦笑を絞り出した。

「分かっている。これはあくまで陽動。戦場できっちりケリつけるさ」
「それでも卑怯だなんだのとのたまう輩は出ますよ」
「それも織り込み済みだ。そもそも俺は人に好かれたいなんて思っちゃいない。ただ何かと都合が良いからそういう振る舞いをしているだけだ。俺は」

 続けようとしたその口が、歪に止まる。

「ちっ」
 苦虫を三、四匹まとめて口中に放り込んで噛み潰したような、渋面を作った。

 俺はみんなの命を助けられれば、それで良いんだ。

 おそらく環はこう続けよう、あるいはこれに類することを言おうとしたのだろう。
そして、

 ――どの口が、

 それを言うのか。
 皆を蔑ろにし、欺くその身で。
 そう、思ったのだろう。

 彼自身の呵責が、そういう薄ら寒い言葉を紡ぐことをためらわせたのだろう。
 帽子を目深にかぶり直した主君は心を閉ざし、口をも閉ざす。

 ――まったくこの方は、

 放っておけぬ御仁だ、と村忠は苦笑した。
 陰気な冷血漢と自他ともに認める己でさえこう思うのだから、いわんや余人は、言ったところである。

「よろしい。ではこの策は、僕の発案ということにしましょう。軍議の場で、僕が名乗り出て献策する。そうすれば、対外的にはともかく、内部においては多少風当たりが弱まるでしょうから」

 環はその青い瞳を丸くさせた。
 しばらく、じっと時間をかけた見つめ合いが続いた。

「助かる」

 ようやく続いた言葉は、わずか一言だけだった。

 悪い、とか、言い訳じみた弁解や、わざとらしいためらいは一切なく。
 ただ村忠の忠節に対する感謝を、まっすぐ向けてきたのだった。

「ですから、環殿はいつもの通り阿呆でいてくださいね」

 およそ臣下の口から出るはずがない暴言。だがその侮辱の中に、村忠は「これで貸し借りはなしですよ」という念を込めていた。
 環もまた、そうした彼の意図を汲んで、苦笑して聞き流した。

「でもな、村忠」

 と、次に主君から発せられた疑問は、村忠にとって予想し得ないものであった。

「この戦、勝つべきだと思うか?」

~~~

 策、定まれり。

 翌日、大三原に出張った環は覚王にまたがって周囲を駆けていた。

 だが、
「お、お、おぉ!?」
 環はそのじゃじゃ馬に揺さぶられて、御するどころではない。
 今まで主人を乗せる機会が巡ってこなかった覚王は、いよいよ巡ってきたその時に心身を躍らせたようだった。

 環とて武家の子である。
 多少の馬術の心得はあったが、目を爛々と輝かせてはしゃぐ悍馬は「多少」では御しきれぬ。

 猛進する覚王の前に、張られた綱があった。
 それも目に入らないのか、彼はその蹄を留まらせない。

「うおぃ!? 待った、止まれっ!」

 環は手綱を引き、制止をかける。
 だが、その手綱を引かれるよりも早く、覚王は自らの肉体をくんっと曲げて急停止した。

 しかし主は、

「だぁっ!?」

 大きく揺さぶられ、振り落とされた。
 虚空を回転し、背中をしたたかに打つ。

「こンの……駄馬っ!」

 環の罵声もどこ吹く風、文字通りの馬耳東風。満足したかのように、覚王は生い茂った草を食む。
 そんな人馬のやりとりは、羽黒兵からは嘲笑を、鐘山陣営からは呆れと落胆を買った。

「ちょっとはしっかりしろよ」

 通りがかりの由基の、冷たい視線と言葉が、なんともこたえる。
 そんな彼らは、一つところで調練している。

「次っ! 弓勢前へ!」

 馬上の羽黒圭馬には、普段兄に振り回される情けない様子はなく、羽黒の副将に相応しい、堂々たる貫禄があった。

 彼が指揮する将兵は、もっぱら彼と共に留守を預かっており、戦陣に加われない鬱屈を払うかのごとく、熱意に溢れ、かつ苦楽を共にした彼の言うことによく従った。

 一方で、鐘山軍はと言うと、魁組はまともに参加していないわ、借り受けた一部の羽黒家の兵と緋鶴党連携は上手く行っておらず、由基はそれを意にもかけずに率先して突っ込んだりしている。

 そも、戦に勝つためには五つの要素が求められる。

 君臣いずれが密なるや。
 現場を見れば羽黒と分かる。

 天の利いずれにあるや。
 それは羽黒の決めたこと。

 地の利はいずれにあるや。
 言わずもがな、ここは彼らの国である。

 士卒いずれが精強なるや。
 見るまでもなく羽黒である。

 由基ならば羽黒の精兵とも渡り合うだろうが、それは彼女個人の力量であって、突出した武をちゃんと運用できなければ、それはかえって足手まといになる。

 軍令いずれが明らかなるや。
 これも羽黒。

「百戦して百勝は最善にあらず、とは言うものの、これだけ差がありゃ正攻法で勝ちようもないだろ」

 流天組も、そこを理解してくれれば動かしようがあるものを。

 だが、既に大州と魁組の理解は得られた。俺の策なら、五の内の三は得られる。

 すなわち、天の利、地の利と、軍令。

 羽黒圭輔のいる時に、羽黒圭輔の観戦する戦場であるからこそ、己の策謀は意味があるのだ。

 そして水樹陶次よりの金品の一部を魁組に分け与え、水面下で兵を増やし、士気を高め、かつ諸所に金を配り、当日の席の配置も知れた。
 ……策の成否はともかく、準備に怠りはない。

 規則の上で、兵数に上限はない、そもそも相手からそれを借り受けるほど貧窮した者らに、大した兵力が集められるとも考えてもいないだろう。
 むしろ、羽黒圭馬の方がそれを慮り、人数を合わせてくれている。

「今回ばかりは、その人の好さに突け込むしかない」
「ほう?」

 己の独語に背後から反応した男へと、環は反射的に振り向いた。
 見れば、痩身の中年、もとい筆頭家老器所実氏が「や」とにこやかに手を挙げている。

「こ、これは実氏様!」
「ははっ、様付けなどご無用。公子と卒族、世が平時であればこちらが平伏しなければならん身分だ」

 底抜けに明るい声で言うので、環も釣られて、口の端に笑みを浮かべる。

 その実氏の手が、馬の背に伸びた。
 この暴れ馬が大人しく撫でられている、という一事だけで、実氏という人物の偉大さもわかるというものだ。

「ははぁ、これが宗善公が町一つ焼き尽くしても欲したという名馬、覚王かな」
「なんでそんな話になってるんですか!?」
 噂に尾ひれどころか背びれまで生えている。

「あぁ、貴公を擁しようと言う方々が、そのように吹聴して回っておられてな」
「……主人ともども、過大評価されているんですよ」

 環は起き上がり、土のついた帽子を払って拾い上げた。

「そうかね? オレが見立てでは、いずれの武家のそれに劣らぬ駿馬だと思うが」
「脚が速いだけですよ」
「だが、この馬はよくその脚を止めた。あの速度では本来ならば横転し、貴公はその馬体に潰されていただろう。何より、繋がれていないにも関わらず、主人から離れようともしない。……何故かな?」
「……さぁ。心底俺をナメてるんじゃないですか」

 と、なおざりな反応をしてみせる一方で、環は背に冷汗をかく。

 ――どうにもこの御仁には全てを見透かされていそうだ。

 今更ながらに、羽黒圭輔とは別種の危機感を痛感するとともに、あの峻厳な才人が、冷徹さを見せない男の下風に立っている理由を実感した。

「ところで、実氏殿はどうしてこちらに?」
 と、笑みを取り繕って、話題を切り替える。

「いやなに、舞鶴殿が張り切りすぎるゆえにオレの出る幕がなくてな。政務も一区切りついて、こうしてブラリと見物しているというわけだ」
「ともかく良かった。実氏殿にお尋ねしたいことがありましたので」
「何かな?」
「この戦場、どこまでが戦場でしょうか?」

 ためらわずに発せられた問いが、軽く実氏の瞳を開いた。
 彼は深々と俯いたかと思えば、肩を揺らし、いつものような呵々大笑で環を怯ませた。

 だが、その後の実氏の返答は、環の問いに対する答えではなく、質問の核心を突くが如き答えだった。

「心配されるな。圭輔殿は好悪は激しいが、公明正大。圭馬殿もご承知どおり貴公には好意的だ。オレから言質をとらずとも、よもや事が終わった後に貴公らに『不正あり』とは訴えまい」

 環は、思わず声が出そうになるのを押し殺した。

 ――この人は、見抜いている

 ただ三、四言、会話しただけだというのに。
 戦の強さではない。
 智略政略でもない。
 この洞察力と、相手にそれを不快と思わせぬ配慮と人柄こそが、この男を草莽の身よりかくの如き大身にまで引き上げたのだ。

 ――できることなら、この人のようになりたい。
 環は畏敬をもって天下の五指に入る男を仰ぎ見た。

 ――だが、

 同時に、一抹の不安が脳裏をよぎった。


 この人は、臣下のその身で、あまりに聡すぎた。



[38619] 第四話:試し合戦(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:47
 当日。
 大三原にて対するは、総計百名のもののふ達。

 鐘山陣営。
 前軍、幡豆由基率いる混成部隊、三十名。
 次いで地田豊房率いる十数名。
 色市始、良吉、響庭村忠ほか数名の緋鶴党が旗本として大将鐘山環を守護する。

 数町隔てて布陣する羽黒軍、一丸となって魚鱗を形作る。
 総勢五十余名。
 先頭には総大将、羽黒圭馬。
 タンポ槍を水車の如く大きく回す彼の背後の兵の発する戦意は、まるでその倍はいるかのような存在感を持っている。
 いや、事実それらの兵は他家の雑兵の倍する戦力を持っているのだろう。

 その周囲に、城の内外より観客が詰める。

 戦場一帯の差配をするのは、勝川舞鶴、器所実氏。互いに有利不利にならぬよう、公平に取り計らう。

 かくて役者は並びけり。
 鐘山環は床几の上、腕組みしながらせわしなく視線を動かしている。

~~~

 半刻前、軍議の場。
 鐘山首脳陣はそこに座していた。
 軽重は好みによるが、それぞれ身の丈にあった甲冑にくるまれている。
 だが、空気は重く、陣幕を抜けて流れる風は、肌にぴりぴりと痛い。

「……というのが、僕の策だが、如何」

 久しぶりに現れたその男がしゃしゃり出てきて、卑劣極まる策を献ずる。一同の白眼視を受けてもまだ、その青年、響庭村忠は泰然と大将の側で腰を落ち着けていた。

「まぁなんだ、その……やりたいことは分かるが」
 と豊房が理解だけは示し、

「死ね」

 由基が皆の気持ちを一言でまとめて代弁した。

「おや、お気に召さないようで」
「当たり前だろ!」
 色市は怒りで固めた握り拳を、目の前の長机に叩き込んだ。
「そんな下策を採るぐらいなら、潔く全滅し、敗北した方がマシだ!」

 村忠は蔑むように鼻を鳴らすと、挑発的な冷笑を浮かべた。
「もう少し言葉の使い方を学ぶんだな論者気取り。下策というのは、味方を窮地に陥れ、犠牲相応の成果も得られない策のことを言う。ちょうどおたくらみたいなのだ」
「なにぃ!?」

 座を蹴り、いきり立つ色市。それでも村忠は傲然として動じない。

 ――今までよく一緒にやってこられたな、こいつら。
 置物となって鎮座する環は、そんな他人事のような感想を抱いた。

 ――村忠もやり過ぎだ。いくら泥を被ると言っても、それ以上に煽ってどうする?
 そもそも、二人の考えの中では、策の実行まで流天組には知らせない、という案もあったのだ。
 だが、秘匿していれば事終わって後の反発がさらに激しくなるだろう。そうなっては意味がない。

「ごほん……あのー」
 頃合いを見計らって、咳払いをし、環は皆の注意を村忠からそらした。
 由基ら始め、激しい対立意識がそのまま環の方へ向けられ、順門公子は軽く怯んだ。

「も、もう大州が所定の位置にいて所定の位置についているんだろ? 今さら行って作戦中止なんて伝えられない。そんなことをすれば敵にもバレるし、さ」
「じゃあ、こんな作戦に大人しく従えってのか」

 順門きっての美形とも言える少女に睨まれては、並の大人ならばそれだけで青ざめただろう。しかし、環は表面上はともかく、内面ではそれほど恐怖しなかった。

 ――そう言えば、何かにつけてずっと頭が上がらなかったこいつも、いつの間にか怖くなくなったな……

 自分の変化に内心驚きつつ、まぁまぁまぁと巫女を宥める。
「だからさ、お前らが勝てば良いだけの話だろ」
「なに?」
「良吉と村忠と、あと二、三名くらいは残してさ。俺の旗本全部持ってって良いから。覚王は規則上俺しか乗れないからともかくとして、指揮、武具、兵。そんなものお飾りの俺が持っても意味ないだろ。俺は自衛できる程度で良いんだ」
 注がれていた敵意が、一瞬揺らめき、和らぐ。それを環は見逃さず、さらに押した。

 気安く少女の両肩に手を置き、にこにこと笑いかける。
「大丈夫だって! このために精一杯訓練だってして来ただろ? 勝てるよ。仮に負けたとして羽黒殿を落胆させることにもならないだろう。それに乱戦になれば大州だって割り込む時機を見失って断念する。だろ?」
 な、と念押しすると、少女は少しの逡巡の後、大仰にため息をついた。

「……お前、本当にやる気ないんだな」
 呆れたようにそう言うと、環の両手を振り払い「行くぞ」と促し、退出した。
 環は手を振りながら、にこやかに一行を見送った。

~~~

「……ま、圭馬殿とユキたちの乱戦なんて、大州には関係ないんだけどな」
「ひどい人だ」
 残された村忠は苦み走った顔だった。かろうじて、目だけが笑っていた。

「ご自分は勝てないと考えているのに、幡豆には勝てると言い、前線の兵権を与えてしまった。それで良いんですかね?」
「俺が兵とか武器持っててもしょうがないのは事実だろ」

 それに、と付け足す環は確かに、軽装だった。
 いつもの朱色の上衣を陣羽織に、下に胴丸を一枚着込んだだけ。
 頭を保護するのは兜ではなく、どこからともなく流れ着いたというあの帽子。
 まるで自身は総大将ではなく、物見遊山ついでに戦場見物にやって来ましたと言わんばかりの楽な格好をしている。

「ユキには出来うる限り、少なくともあいつの納得できる万全の態勢で存分に戦ってもらった方が良い。それが俺たちの実りとなり、奴らには……良い薬になる」
 眇められた空色の瞳、睫の奥のその深淵を覗き込むようにして、副官は問い質した。

「天狗の鼻を叩き折るつもりですか」
 すなわち、自分たちが天下においてどれほどに非力か、それを思い知らせるために。

「思い上がったまま死地に立てば、命を落とす。だったら死なないこの場で徹底的に叩かれた方が、本人たちにとっても為になるだろ」
「けどヘタをすりゃあ逆恨みされますよ。『環が前線に出てちゃんと指揮していれば、こんなことにはならなかった!』……なーんて」
「失敗をどう見るか、それは本人次第だ。人は誰に見せたい姿を見せられるわけじゃない。人は自分が見たいものをそこに見出す。そして真価が求められるのはその時なんだ。奴らが自分たちの戦いに満足するも良し。教訓とするのも良し。あるいはお前の言うとおり、非を認めずに俺をなじるも良し。もしそうならば」

 勝手に、死ね。

 環の目は言外にそう告げていた。
 だが、村忠の表情の変化に気がついたのか、ハッと息を呑むや、目を伏せ、目深に帽子をかぶり直した。

「……自分でも腹が立つ。友人達に対し平然とこんな言葉が吐けるようになった自分がな」
「環殿」
「分かってる。今さら愚痴っても仕方ない。これは、俺が決めたことだ。何に巻き込まれたとしても、これが俺が決めた道だ。背を刺される覚悟は、できている」

 そして自らの頭部から手を放すと、良吉が口を取る覚王に飛び乗った。

「ただあいつらには俺を刺し殺して屍を乗り越えてでも、この乱世を生き抜く力を得て欲しい。今さらきれい事を言ってもどうしようもないが……本当に……そう思うんだ」

~~~

 仮の戦場を十重二十重に取り囲む千人弱の人々の中心に、彼はいた。
 羽黒圭輔。
 わずかな供回りのみを引き連れて、腕組みして両軍の様子をじっと観察している。
 その様子が尋常ならざるものであったため、自然見物人は、自身で意識しないうちに距離をとって、そこだけぽっかり間ができていた。

「羽黒殿ではありませんか!」

 そんな異質な空間に、ひょっこりと、顔を覗かせた者がいた。
「これは釜口殿」
 床几より腰を上げて頭を下げた圭輔は、老人にしては背筋のしゃんとした男へ悠然と笑みを向けた。
 今年六十になるこの老爺は、桜尾家においては珍しく、微妙な立場にある羽黒圭輔に好意的な人物として知られる。
 本来ならば政争をおそれて近づかぬか、あるいは桜尾家の嫡子たる長兄、桜尾義種よしたねらにすり寄るかというのが常なのだが、こうして憚ることなく気軽に寄ってくる辺りに、この老人の硬骨な気質が垣間見える。

 自らの供回りに床几を持ってこさせ、どっかりと腰を落とす。
「まさか釜口殿に来て頂けるとは、いやお恥ずかしい次第です」
「くくく。いやなに、貴殿らが風祭をたたきのめしてしもうたせいで、わしらもやることがなくてのぅ。弟御の成長ぶりを拝見したくもあるしな」
 圭輔はニコリともせず首を振った。
「歴戦の貴殿に比すれば、愚弟など赤子同然の未熟者です。見るべきほどのこともありますまい」
「いやいや、なんのなんの。……しかし、見るべきほどのことがないのは確かやものぅ」

 そう呟いた唇の先には馬上の鐘山環がいて、その前方には彼の組下たちが多数存在している。
「……戦を知らぬ公子殿と言え奇妙な陣形をとるものよ。あれでは圭馬殿の鋭鋒にあっけなく破られることであろう」
「おそらくは環は指揮権を幡豆由基なる勇者に委ねたのでしょう。そして自身は口出しせず、裏方に徹する腹かと」
「にしても、旗本が手薄過ぎぬか?」
 釜口の不審はもっともなことと圭輔も思う。

 ――大州がいない……

 その一事を以てしても、それは圭輔からしても奇異に見えた。
 何を企むにしても、この数日間は舞鶴は泊まりがけで支度に従事し、環とは一度も顔を合わせなかったという。彼女の直属の部下である兵たちも、今は幡豆由基の先陣に軒並み組み込まれている。

 ――とすれば、何を企むにしてもそれは、環自身の謀略ということになる。

「公子殿……いやさその幡豆とやらはどう出るかの?」
 顎をなぞりながら思案顔の胞輩に、圭輔はよどみなく答えた。
「いくら戦を知らぬ若者と言え、真正面から当たれば必ず負けると知っておりましょう。おそらくは圭馬が先頭に来るであろうことを見越しての陣。幡豆由基自身の勇武でもって圭馬と当たり、動きを封じている間に、その後方を別働隊として動かし、横腹なり本陣なりを突かせる腹でしょう」
 ほうほう、と圭輔の見識に舌を巻く釜口だったが、当の兄は渋面で首を振り「しかし」と苦言を付け加えた。

「本来羽黒家を継ぐはずであった男が、己が大将たる戦で、矢面に立って戦おうとは……軽率にも程がある」
「まぁまぁ。しかしその大将の差も、自ずと明らかでしょうに。見られよ」

 釜口の枯れた指先が、環と圭馬、交互に示してみせた。

「流石は圭馬殿、視線を微動だにさせずに集中しておられる。しかし公子は落ち着かぬ様子で、しきりに視線を左右させている。まるでお上りさんじゃ」

 そう言ってせせら笑う老将とは反対に、圭輔の胸裏に形容しがたい危機感が過ぎった。
 確かに鐘山環は、せわしなく目を動かしている。
 頭を戦場からそむけたことさえあった。

 ――だがあれは、迷った者の目か?

 圭輔はその視線の先を入念に、かつ執拗に辿っていった。
 途中、環本人と目が合った。

 慌てて視線を外した公子の様子で、悟る。

 違和感の正体に、相手の思惑に。
 あの一見して頼りないと、誰しも侮る公子の策、その全容。

 ――そういうことか。

 瞬時に理解した圭輔はそれとなく視線を戻し、圭馬へ向けた。
 変わらず、彼は視線を一直線に定め、今にも突きかからんほどに戦意をたぎらせていた。

 腕組みし、嘆息し、深く項垂れる。

「? どうなされた、羽黒殿」
「……いえ。それよりも、いま少し僕と距離をとった方が良いでしょう。……思わぬ災難に遭わぬように」
「…………ハッハッハ! 気になさるな! 貴殿といただけでは誰も咎めようとは考えますまい!」

 一人勝手に心得違いをしている釜口はさておいて、圭輔は口元に手を当て義弟を冷視した。

 羽黒圭馬。
 性実直にして、謀略を好まず。
 戦においても並々ならぬ集中力で戦場の変化を看破し、幾たびも勝利に貢献してきた勇将。

 ――お前の人となりは、この戦国においても賞されるべきものなのでしょう。ですが、今回はその性質に足をすくわれることになりますよ、圭馬。そして……

 僕も、死ぬかもしれませんよ。

 その呟きは本人以外の誰に聞かれることもなく、試合開始の歓声にかき消された。



[38619] 第四話:試し合戦(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:48
 試し合戦は、最初ごく平凡な矢合戦から始まった。

 矢をつがえ、放ち、相手の反撃を木盾を押し出し防ぎ、再び矢を射返して前進する。

 その繰り返しで南北に分かたれた敵味方の軍は、じりじりと間を詰めていく。

 だが、その中でも幡豆由基は当然と言わんばかりの活躍を見せた。
 矢を三本、指の間に挟み込むと、ギリギリと引き絞る。
 そして、

 ひゅっ

 弦から離れた三本の矢は、さながら雀蜂のように、流線を描いて中空を馳せた。

 風切り音は一つ。それでも、向こう側から聞こえてきた悲鳴は、三つ。

 矢継ぎ早、とは良く言ったもので、射る時同様、精密な所作で二の矢、三の矢とつがえて放つ。

「羽黒方、一、討死!」
「同じく三! 討死!」
「六!」
「八、それまで!」

 各所に配された中立の目付から報ぜられ、観客よりどよめきと感嘆が漏れる。

「見たか!」

 と、誇らしげに胸を張ったのは、当人よりも幕僚として環の脇に控える色市始だった。

「舞鶴や大州なんぞいなくとも、我らには由基あり! 小賢しく卑劣な策など無用なのだ!」

 ――確かに。
 と、環は首肯する。
 一人が百人に相当する働き、と言っても過言ではない活躍だった。
 昔から見知った通り、彼女の弓の腕は百発百中。
 あるいは彼女には、あらかじめ矢の向かう先が見えているのではないか、と何度疑ったかしれない。

 これが一対一の尋常な立会いであれば、圭馬相手に後れを取ることもないだろう。

 だがこれは、戦だった。

「放てっ!」
 圭馬の号令の下、反撃の矢の雨が降り注ぐ。

「鐘山の六討死!」
「同じく一討死!」
「七」
「十ッッ!」
「鐘山十三!」
「九! 十六!」
「五、八、三!」

 由基の挙げた戦果に報復するが如く、倍する敗報に、色市は表情はそのままに、顔色だけを青白くさせる。

「あーらら」
 やや平たい村忠の嘆きが、空疎に本陣営に響く。
 依然、馬上にある環はいまにも飛び出しそうな様子の覚王を、

「動くな」
 言葉で戒める。

「心配するなよ。お前の駆ける機会は、後で必ずある」
 たてがみを撫でつつ、彼は眼前の光景をじっと見守る。
 そんな主にもはや反意を見せることもなく、馬は激情をよく抑えていた。

「突き進め! 穿った敵の綻びに、一気に切り込め!」
 圭馬軍が軍鼓を鳴らして、前進を始める。
 既に、白兵戦に及ぼうとしていた。
「受けて立て!」
 まるで自身が総大将かの如く、そう叫んだ始の声に反応したわけではないだろうが、幡豆由基、地田豊房の隊が雄叫びをあげて進軍する。

 衝突。
 槍を合わせ、刀を合わせ、取っ組み合い、組み敷き、互いの旗へと手を伸ばす。
 今までまともな軍隊のぶつかり合いを見たことのない環にとって、目の前で起こる単純な暴力の応酬は、肌の粟立つ光景だった。

 特に混戦の中、先頭を切ってぶつかった幡豆由基と羽黒圭馬が繰り広げた一騎打ちは、環はしばしば己の構想を忘れて見入るほどに鮮やかだった。

 弓の名手が刀槍の名手であることは稀なことだ。あの戦巫女もまた一通り武芸を習得していたが、いずれも弓術ほどの神妙には至っていない。
 対して羽黒圭馬の槍術は、人馬一体とでも言おうか。安定させづらい馬の上に在ってなお、自在に、かつ縦横無尽に槍を振るう。
 旋回する駒のごとく穂先は宙を踊り、一振りごとに、うかつに飛び込んだ兵の旗を数本飛ばす。
 堅実な強さ、と言って良いだろう。
 そしてことさら隙を作って見せて、相手を誘い込んで打つ。そんな老獪な手管も見せる辺り、一辺倒な武人ではないことは明らかだ。

 だが、幡豆由基は、彼とよく渡り合った。

 しごいて突き出される槍を紙一重でかわし、間合いをとって矢を射放つ。
 圭馬がそれを弾き飛ばす隙に間合いを取る。

 射。

 眉間を打った矢が落ちるよりも早く、圭馬の騎乗する愛馬は竿立ちとなり、主人を振り落とした。
 だが圭馬もさして苦もなく、ひらりと飛び降りて、改めて由基と対峙する。

 ――凄まじい女だ。
 そんな幼馴染を持ったことは、己にとっては幸か不幸か。
 そう考えざるをえない環だったが、

「いけっ、そこだ、やれっ!」
 ……などという色市の野次が、その興を覚まし、現実へと引き戻した。

 由基の後方で動きがあった。
 豊房率いる十名余が、前線を大きく迂回しようと図ったのである。

 狙いは、本陣か。

 それは環にもわかる。
 環にも分かるのであれば、村忠にもわかるだろう。
 どこかで観戦している舞鶴や実氏、圭輔にもわかっただろう。
 そして、敵である圭馬にも。

「上手く行くかな?」
 と、念のため環は村忠に尋ねた。
「連中にしては賢明な判断でしょうよ。圭馬に直接当たるのではなく、一人でも敵陣を突破し、旗を取ればいいという考え方自体は合っている」
 だが、と不敵な副将は主君の背後、ぞんざいに足を投げ出して言った。

「敵が対策を講じると、想像しない辺り、救えない」

 辛辣な断言のすぐ後に、それは形となって現れた。

「雁!」

 由基と対する圭馬が、大音声で短く号令する。布の穂先は、由基の喉に傾けたまま、微動だにしていない。

それでも彼の一言で、四十名の集団が一斉に動き始めた。

 中心の圭馬本人を起点に、左翼は下がり、右翼は上がる。
 遠目にも、いや遠目だからこそ、圭馬の指示が一兵一兵に余さず浸透していくのが見て取れた。
 鉦が鳴らされ、乱戦の只中でも兵は陣形を組み立てる。

 ――雁行陣。

 その両翼が、大きく広げられた。
 回り込もうと迂回した地田の別働隊は、その左翼に捕捉された。

 この別働隊が駆逐される様は、それこそ雁に食われる小魚のようにも見えた。

「鐘山方の四! 討死ィッ!」

 相次ぐ凶報の中に、豊房の背負った旗の番号があったのを、色市は青白い顔で聞いていた。

 それを横目で眺める環も、表面上ほど泰然としているわけではない。

 彼もまた、前線の者たちと同様の焦燥を抱いている。
 一矢も報いることなく敗北することは、許されない。

 別働隊が全滅した。
 押しに押された由基の本隊は、とうとう鐘山の本陣近くまで退く。
 誰に命じられたわけでもない後退が、鐘山軍の士気の低さを物語っていた。

 ……勝勢敗勢に関わらず、そもそも軍隊としての練度と戦意の差は歴然だったのだ。
 猛将圭馬に率いられた羽黒の精兵たちは、先の戦では彼と共に留守居を任せられた者たちが大半で、前線に出られず溜め込んでいた鬱屈を晴らさんばかりに、一人一人、敬愛すべき主将の指揮の下、果敢に戦っている。

 対して、鐘山軍の構成と言えば、
 常に平常心を失わないが、それ故に熱意と高揚感に欠ける緋鶴党。
 そもそも調練にさえ参加しておらず野盗悪党同然の魁組。
 技量は相手と同程度だろうが、模擬戦と言え主家に弓引くことを内心快く思わないだろう羽黒兵。

 人としての種が違う彼らを統御する器量は、少なくとも今の由基にはない。

「環殿!」

 村忠に呼びかけられて、顔を上げる。
 見れば中空を、流れ矢がこちら目がけて飛来していた。

 そこに今まで影のごとくじっと控えていた良吉が、陣内より進み出る。
 決して長いとは言えない彼の徒手空拳が、鮮やかに虚空を舞った。
 身体を大きく旋回させて地から両足を離し、そして手足で打ち落とした矢と共に着地した。

 環はそんな彼の活躍に無言の賞賛を目で送り、その目を村忠に注いだ。
 もう十分でしょう、と副将の瞳は返答した。
 色市には決して悟られないようわずかにアゴを引いた環は、胴丸の内より取り出した黒い碁石を、天高く放り投げた。


 ……事態は、劇的に動き始めようとしていた。

~~~

 策は破れた。
 すでに周囲では追撃戦が始まっていて、由基と圭馬の一騎打ちは、人の奔流の中に取り残される形となっていた。

 ――ならば。
 せめて一矢報いる。
 相手は敵軍の総大将だが、こちらの大将は名目上は環だった。
 敵が鐘山の本陣に踊り込む前に自分がせめて相打ちとなれば、いかな状況でも逆転勝利には違いない。

 ――だけど、そう上手くいくか?
 槍の突きに限りはないが、弓には矢という限りがあった。
 もはやその矢は、彼女の手元から失われつつあった。

「見事」
 と彼女を褒める圭馬は、呼吸を乱さない。
「あと五年、いや三年早く貴殿が生まれていれば、結果は変わっていただろうに」
「お褒めに預かり、どーも」
 しかし、今は、今だ。
 若干の痺れと疲労が苛む一身でもって、この勇将と対峙せねばならぬ。
 相打つ覚悟で、挑まねばならぬ。

 ギリギリと、千切らんばかりに弦を絞る。
 つがえられた矢は、一気に五本。
 視界に映る軌道を、圭馬ただ一人へと集中させる。

 そして最後の、そして渾身の力を込めて指を離した。

「むっ!?」

 圭馬の表情が驚愕に歪む。
 四本はかわされた。
 だが身を引き、振るった槍の持ち手に、一本の矢が当たる。

 槍が、彼の手からこぼれ落ちた。
 彼女は、それを見逃さなかった。

 残りの一矢。
 震える指先で取り出し、ためらわず狙い定めて狙撃する。

 だが圭馬は、槍を拾うことなくそのまま向かってきた。
 地面すれすれまで頭を低くしながらも、速度を少しも緩めることなく矢をくぐる。
 既に飛び立った矢の軌道を操る異能は、彼女にはなかった。

 懐に飛び込まれた。

 圭馬はそのまま腰の短小な木刀を抜き放つと

 するり、

 脇腹を木刀の刃でなぞり、横に抜けた。

 痛みはなかった。

 これが真剣であったとしても、痛痒を感じることなく臓物を溢れさせて、静かに絶命していたことだろう。
 そして圭馬は返す刀で、彼女の背負う二の旗竿を叩き折った。

 幡豆由基は、彼の一太刀で二度死んだ。

「本当に、後々恐ろしい娘御だ。貴殿は」

 慰めるようでいて、少し調子を落とした圭馬の言葉は、もはや由基には届かない。そのまま膝を落として

「っ!」

 悔しさで固めた拳を、地面に打ちつける。
 微苦笑と共に圭馬は身体の向きを変えて、槍を拾う。
 瞬間、

「なっ……!?」

 その圭馬が、素っ頓狂な声をあげて固まった。
 彼の視線の先、外野である観客たちの狂乱が、先ほどまでのものと違う。
 そのことに、由基は彼より二呼吸遅れて気がついた。

~~~

 ……その変化は、羽黒圭輔の席からも目視することができた。

 彼より東の席では、大金が落ちていると誰かが叫び、騒ぎになった。
 北の席では、女房の尻を触っただのと喧嘩が起き、西の席では子供がかどわかされたと母親が泣いている。
 南の席ではなんの前触れもなく、猿面をかぶり踊り狂う一団が現れ、周囲を困惑させた。

 喜怒哀楽、様々な騒動が彼の四方八方取り囲んでいた。
 そして憮然と見渡す圭輔は、それらが環公子のけしかけた陽動だと看破していた。

「戦もそろそろ終局と言うに、いやに騒がしいのぅ」

 まだ現状を危機とは捉え切れていない釜口老人が、腕組みしたまま首を傾げている。
 巡らせたその顔が、にわかに引き締まった。

 木刀を引っさげた集団が、騒動の合間を縫うようにして、こちらに駆けてくる。
 数にして十名弱。
 皆いずれも面貌を覆面で覆い隠しているが、先頭を切って走る男の双眸には、圭輔は見覚えがあった。

 この世に恐るるものなど何もないと言わんばかりの、不敵な眼差し。

 ――亥改、大州

「ぬっ! 曲者!?」

 釜口はいきり立つ。彼の配下が、その乱入者を迎え撃った。
 他の十名が彼らを阻む。その脇をすり抜け、大州は圭輔へと向かってくる。

「慮外者めが!」
 と、釜口自身が圭輔の壁となって、大太刀を振り下ろした。

 大州はその一斬をかわした。そして高く跳躍したかと思えば、あろうことか、釜口老人の幅広の肩に足をかけ、踏み台に使ったのである。

 高々と舞い上がった大州と、未だ床几に座した圭輔の間には、もはや何の障壁も存在しなかった。

 人を殺傷するのに十分な威力を伴って、大州の剣は、圭輔の上半身に叩きつけられた。



[38619] 第四話:試し合戦(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:49
 ……それはさながら、鉄塊にぶつけたかのような手応えだった。

 自らの主の指示通り、無頼の輩を扇動し、場を撹乱した。その隙を見計らい、丸腰同然の圭輔に一撃を見舞った。

 だが、肝心要のその最後で、大州は失敗した。
 外したのではない。かわされたのではない。現に彼の木太刀は、圭輔に直撃していた。

 彼は刀を抜かなかった。
 抜くまでもない、と言っていた。


 抜くほどのことでもない、と木刀を受け止めた右手が語っていた。


 突き出した掌は攻撃力を完全に相殺した。骨折どころか、一滴の出血もしなかった。
 そのまま握り締められた刀身は、引き抜こうとしても、微動もしない。
 大岩に深々と突き刺さってしまったかのようだった。

 圭輔は、大州本人をまともに見てもいなかった。
 顔は動かさず、ただ茶色い方の目だけが、ぞっとするような光沢を宿して大州らを睥睨していた。

 凍土を思わせる異色の瞳が、白皙が、普段は優美にして物腰柔らかな、それでもなお覆い切れぬ、彼の素顔なのだろう。
 凡人なら一見するだけで恐懼してしまうだろう。
 さながら、異形の神とでも対している心持ちだった。

 木刀に対して、強い力が跳ね返ってくるのが手に伝わってくる。

 ――あぁ、やべぇ。こりゃ

 腕ごと、もがれる。

 本能的にそう察知した大州は、ためらうことなく自らの武器を放棄した。
 地に飛び降りた彼の目の前で、ゆらりと圭輔が腰を上げた。操られた人形の如く、緩慢で、どこか不自然な動作で。
 奪取された得物は、大州に見せつけるように

 めきり

 音を立てて、彼の手の中で微塵に握りつぶされた。
 さして力を入れたふうには見えない。今まで手にあったものが、突如朽ちたわけがない。
 にも関わらず赤樫で出来たそれが、まるで焼き菓子か何かのように、面白い具合に二つにひしゃげて、折られて、造作もなく地に打ち捨てられる。

 その破壊劇を見せられては、さしもの大州でも、汗でその背を冷たくさせるというものだ。

『圭馬は武事では兄をも凌ぐ』

 そんな風評をしたり顔で流布し出した連中を、片っ端からぶっ飛ばしてやりたかった。

 ――武では? 冗談じゃねぇ。
 羽黒圭輔は、全てにおいて羽黒圭馬を凌駕しているのだ。

 ――羽黒家がこいつに呑まれて私兵と化したのも納得がいく。

 藪を突ついて蛇の頭でも出してみるか、と企んで浴びせた一太刀だったが、覗き見たのは巨龍の片鱗。

 ――面白ぇ。
 こみ上げる愉悦に、たまらず覆面の下の頬が吊り上がる。
 環に従い国を出て良かったと、心底思う。
 順なる門より外の世界は、かくも広く、讃うべき敵手には事欠かぬ。

 背後に、戦場を移動した圭馬が迫っているのとに気づく。
 そろそろ潮だ。そう断じると大州とその直属の組員たちの動きは疾かった。

 大州の手の動きを合図に、同様の装束を着込んだ者らはばっと四散した。蜘蛛の子を散らすように、と言う例えが似合う逃げっぷりに、圭馬を始め、釜口なる老将も、圭輔も追う術を持たなかった。

~~~

 ――しくじったっ!

 試し合戦を中止し、騒民かき分けながら圭馬は悔恨した。

 そも、兄は家の内外に敵を持つ身なのだ。そのような身でわずかな供回りも連れず、出自も知れぬ者たちの中に飛び込めばどうなることか。
 そんなことは自明の理ではないか。

 兄であれば単身で刺客の十人、二十人は容易に片付けるだろう。
 だが、万一があるやもしれぬ。
 そしてその万一は、あってはならぬものなのだ。

 決して長くはない道程の合間、圭馬は深く考える。
 ……そも、これは誰の企てか、と。
 一番怪しいのは兄を快く思わぬ、兄の実家、桜尾本家の嫡男らの差し金。

 ――おかしなものだ。
 と圭馬は思う。
 本来、羽黒圭輔を名乗る桜尾晋輔を狙う理由があるのは、羽黒家当主の座を逐われた、血の繋がらない己であるはずなのだ。

 ――それが、実の兄君は妬心に駆られて害意を抱き、血の繋がらぬはずの俺が、簒奪者であるあの方を守ろうとする。

 これを皮肉と言わずして、なんと言おうか。

 考えが逸れた。

 次いで怪しいのは、今、羽黒圭輔が死んで得をする人物。それは
 赤帽朱羽織の公子の幻影を、圭馬は振り払う。
 それこそあってはならない。

 例え順門府侵攻の障害となると言っても、それで風祭府方面の司令官を暗殺すれば、その隙を突いて風祭軍が侵攻してくるのは必定。となれば他国に介入するどころではなくなるだろう。

 ――意図はどうあれ、公子暗殺を兄者に諫止した手前もある。
 その彼に兄が殺されるようなことになれば、目も当てられない。

 刺客の姿が明瞭になってきた。
 首謀者と思しき男が、圭輔と対峙している。
 その男は圭馬の接近に気がつくや、自らの朋輩に合図を送る。それだけで、今まで釜口配下と争っていた者らも含めて、ばっと逃散した。
 その逃げ際、敵が覆面越し見せた不敵な微笑は、見覚えのあるものであった。

「兄者、釜口様、ご無事か!?」

 圭馬は追おうとする兵たちを押し留めた。両名の安全を確保することこそ第一であったし、追って、捕らえて、正体を知って……それで、どうなる?

 その後に続く想像が、圭馬に追うことをためらわせた。
「圭馬」
 兄に名を呼ばれて、振り返る。
 だが背後にあった兄の顔は、喜びも、感謝も示してはいなかった。
 蔑むとはいかずとも、咎めるような鋭さが、左右非対称の両眼に宿っている。

「……兄者?」
 いぶかしむ圭馬が、不機嫌そうな兄の真意を知ったのは、それから間も無く。

 喊声をあげて、鐘山環らの部隊が、ガラ空きになった自らの本陣に突っ込んで行くのが見えた時だった。

「……っ!?」
 圭馬は、引きつる己の顔から、軋む音を聞いた気がした。

 ――狙いは、これかッ!
 幡豆由基にわざと前線で圭馬と斬り結ばせつつ、戦場の外にある圭輔をわざと狙い、釣られた圭馬とその兵が戦場を離脱した隙を突いて、残兵をまとめ上げて、攻め上がる。

 覚王なる名馬にまたがり突出する環の後を、彼の手持ちの数名が慕う。

 今まで逃げ惑っていた敗残兵は、突如周囲で沸き立った騒動と、突如駆け出した主将の姿に、呆然としていた。
 だが、主に遅れてなるものかと、あるいは主を守らねばと奮起し、雄叫びを発しながら後に続く。
 明らかに兵は消耗していた。それでも、立ち上る気炎は最初のぶつかり合いよりも倍ほど激しい。

 ――いや、戦場の『外』などと、俺は……一体何をそう考え違いをしていたのだ!?
 圭馬と他の者が
「縄が張ってあるここからここまでが戦場なのだろう」
 と勝手に錯覚しただけに過ぎない。
「戦場は大三原」
 そう発言し、それより細かい取り決めをしていなかったのは、自らの失態だ。

 ――どうする?
 ここから、環を狙撃するか。
 ……いや、あの名馬の足に追いつく矢など存在しまい。
 だがこのまま一兵でも、無人の羽黒本陣に入れてしまえばそこで負けだ。
 自分のみならず、義兄までもが物笑いの種となる。
 このような大事な時期に、それはまずい。

 とは言えこれと言った手立てが寸刻で思いつくはずもなく、本能的に駆け出そうとする圭馬の肩を、圭輔が引き留めた。
「あ、兄者?」
 圭馬、と平坦な声で弟を呼び、その女のように白い指が、ツイと持ち上がり、

「あれを、狙いなさい」

 と、圭馬が狙うべき場所を差し示した。

「……っ! しかし兄者! ……それは、あまりにっ……!」
「主命ですよ」

 ためらわれず発せられたその言葉が、圭馬から否も応も奪い去った。
 抗弁を涙ながらに飲み込んだ圭馬は、後ろに伸びる日よけの松を見た。
 意を決し、そこへ駆け出す。太い幹に足裏をつけ、脚力だけで半ばまでのぼる。

 圭馬は、その高さから、足を離して、跳んだ。

 今まで騒ぎに騒いだ観客が、一時唖然とし、瞠目するほどの跳躍力だった。
 その、最も高い位置であろうそこから、手にしている槍を投擲した。

 さながら古代の弩から発せられた矢の如く、一の字を引くかの如く、槍は風を切って、 観客らの頭上を抜ける。飛んでいく。

 それは、馬上の環に向けられることはなかった。
 それは、既に敗退し、道半ば、その場にへたり込んだ、幡豆由基を狙いとしたものだったのだから。



[38619] 第五話:篩
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:49
 由基は、無念さと、無力さとを抱きかかえるようにうずくまった。
 既に戦況は、彼女を差し置いて、いつの間にか好転している。彼女らが原因で生み出された敗色は、村忠の、いや環の一手で塗り替えられた。

 颯爽と己の横を通り過ぎる環の姿を見た瞬間、由基の腹がカッと熱くなった。

 ――お前はオレ達を隠れ蓑にしたのか!?

 と。
 環の行動は明らかに、由基らの失敗を見越してのものだった。
でなければ、あれほどの迅速さは出すことができない。こうもなめらかに、事の運ぶものか。
「お前なら勝てる」
 そう言って、送り出しておきながら。

 ――どこまでオレたちをバカにすれば気が済むんだ!? ここまで蔑ろにする権利が、お前にはあるってのか!?

 たぎる激情が、環に一身に向けられたこの瞬間、この戦巫女は外に対してまったくの無防備となった。
 すでに敗退した己に危害を加える者などいない、そう油断した。

 そしてその一瞬の心気の偏りが、飛び来たる槍の接近を許した。

 最初それは、点のように見えた。
 黄色がかった白色のその点が、瞬く間もなく円と呼べる程度に大きくなって、次第に大きく、いや接近してくるそれが投げ槍だと気づいた時には、もう目と鼻の先に迫っていた。

 ――あ……

 不意を突かれた彼女の心は、虚だった。
 ただ矢も精も根も尽き果てた己に、それを除ける術はなく、顔は一瞬後に潰されるだろうと予感した。

 だが、その一瞬後。
 彼女の身体は大きな何かにくるまれて、宙へと浮いた。

 ――何故?

 という疑問が始めに突いて出た。
 それは、叫びたくなるほどの衝撃だった。

 ――何故?

 と、自らの体躯を抱く男の腕に、繰り返し問う。

 ――何故ッ!
 あと一歩、もう一押しで勝利が得られるというのに、鐘山環はその馬首を返し、飛び込むようにして己をかばうのか?

「ぐぅっ!?」

 由基を抱きすくめた環は、そのまま地を転がる。背に指した大将旗は彼の身を離れた。

「いったたた……」
 ぶつけたらしい後頭部を撫でさすりながら、由基ごと起き上がった主将。その周りを、大人数が囲った。
「……あ」
 言われずとも、それは戦場に急ぎ戻ってきた、羽黒軍の兵であった。
 皆が皆、恐ろしい形相で、今にもタコ殴りにするかのように殺気立っていた。

 その囲いの中から圭馬がツイと抜き出て、環の旗竿を拾い上げた。

「犬槍、死人に鞭打ち。いずれも俺の忌避するところなのですが」

 苦々しさと安堵が融合した面持ちで、普段よりもいくぶんか砕けた調子で、

「ま、これでお互い様ということで」

 と言って旗を手折り、周囲の殺意を緩和せしめた。
 それから圭馬は、

「軍目付」

 忘我し、突っ立つ男に、己の役割を思い出すよう、声をかけて暗に促す。
 ハッとした目付役は、反り返りような大音声で

「そっれまでェ! 勝者、羽黒方ァァ!」

 と、試合終了と勝者を周囲に知らしめる。

~~~

 場は、にわかに沸き立った。
 歓声が場外より聞こえ、喊声が場内、主に羽黒方より聞こえる。

 そんな勝者の喜びを前にした敗者ほど惨めな者はない。
 地に伏したまま、痛みと疲労と苦悶とで動けぬ者の、なんと多いことか。

 だが、対して、
 敗軍の将たる鐘山環、最も己の責任と無力さを痛感しなければならないはずのこの男は、ケロリとした様子で立ち上がると、転がり落ちた帽子を拾い上げて、自らの黒髪の上に戴いた。

 それから由基の下へと立ち戻り、
「ほら」
 と手を差し出す。

 苦い思いと共にその手を払いのけ、由基はその勢いを駆ったままに環の襟口に食いかかった。

「……なんでお前、オレを助けた?」

 環は弁明をしなかった。
 帽子を目深にかぶり直し、表情を押し隠す。そんな態度に、由基の怒りはますます積み重なっていく。

「『大切な仲間だからだ』とか冗談でも言えるぐらいならまだ可愛げもあったんだがな。それだけじゃねーだろ、お前」

 環はぐっと唇を噛み締めた。
 貝のように閉ざした口が、ややあって開かれる。

「あぁ。…………それだけじゃ、ない」
 辛そうに絞り出した、その言葉と共に。

 由基は鼻を鳴らして旧友を突き飛ばした。
 彼女は歩き始め、彼は立ち止まる。
 そのすれ違いざま、幡豆由基は

「もうお前のことが、分からない」

 率直で、残酷な言葉を、鐘山環に吐き捨てた。

~~~

 勝川舞鶴は、幡豆由基が離れた頃合を見計らい、主に接近した。

「お疲れ様です。殿。ご敗北、執着至極に存じます」
 そんな風にからかうと殿は決まって忌々しげに渋面を作る。
 そんな暴言を面と向かって放たれれば、誰だって良い顔をしないのは当たり前だが、主のそれはどこか愛嬌というか、構わずにはいられない、いじらしさがある。
 それがなんだかたまらなくて、舞鶴はついわざと、そんな言い回しをしてしまうのだった。

「お前、今の見てたのか」
「幡豆殿との痴話喧嘩ですか? はいそれはもう、バッチリと」
「だったら止めろよな。……いや良い。口を挟んだら挟んだでややこしいことになりそうだ」
 と言って唇を尖らせる公子。舞鶴はくすくすと笑い声を転がした。

「まぁそれはそれとして、殿」
「ん?」
「もう少し気の利いた答え方はできなかったのですか? ご経験豊かな殿のこと、そんな手はいくらでも考え得たでしょうに。例え考えつかずとも、あくまで『お前のためだ』と言い続けていれば良かったのです。本人も内心そんな言葉を期待してたんじゃありません?」

 そしてそれが悟れないほど、察しの悪い君主でもあるまいに。

 だが環は、

「本人が望むことと、本人にとって必要なことは、違う」

 そう言っただけで、再び口を閉ざしてしまう。
 舞鶴は苦笑し、環の手を取った。
 鏡のように澄んで美しい少年の双眸を覗き込む。

「なんとも不器用なことですねぇ。折角の名誉の負傷が、台無しじゃありませんか」

 そう言って、血の滴る傷口、破れた皮膚に手ぬぐいを当てる。
 由基を庇った際、手を擦り切ったらしい。べろりと剥かれた肌は、見るも痛ましい。

「別に誰彼のための傷を負ったから、偉いってわけじゃないだろ」

 どこか拗ねたように悪態をつく環だったが、舞鶴の手当てに対しては、まるで幼子のように従順だった。

 舞鶴には、己の主君の虫の居所が分かっている。

 あれは真実、友人を守るための行動だったのだろう。
 そのために己の身体を顧みず、勝敗も忘れ、救おうとしたのだろう。

 だが実際に行動に移そうとする前か、あるいはその後にか。

 ふと、打算が頭を過ぎった。
「負けるには、よい潮ではないか」
 と。

「ある程度の結果を見せたうえで、あえて敗北してみせる」という方針でいた、彼にとっては。

 つまり彼の行動は、情と打算、両面のきっかけを持っている。

 しかしその、友人さえ利用してしまおうという打算こそが、環自身にとって堪え難いほどおぞましいものであったのだろう。

 それ故の、苦渋の表情であった。自らが悪いと感じるからこその、無返答であった。

 割合短い付き合いの舞鶴でさえわかるのである。
 由基とて、それが分からないはずはないのだが……

 ――ほんとうに、不器用な方々であること。

 だが、

 ――故にこそ、殿は、鐘山環は

「なんだよ? ニコニコ笑って」
「いえいえ。ただ殿は世慣れている割に、時折妙に意固地と言いますか。子供っぽいというか、童貞くさい反応を見せるものだなーって」
「やかましいっ!」

~~~

「兄者、造作をおかけしました」
 城内の一室。
 蓮花深々と頭を下げる弟の正面で、圭輔はじっと黙って腕組みしていた。

 義兄が次に行う言動を、あれこれ予想しては戦々恐々とする圭馬だが、こうして沈黙が続いても、それはそれで緊張感がある。

「圭馬」
「はい」
「見事な勝利でした」

 え、と。
 耳慣れぬ賛辞に、思わず圭馬は顔を上げた。
 正面には、圭輔らしからぬにこやかな笑顔があり、さらに圭馬の虚を突いた。

「ただ眼前の敵を討とうとする一本気。相手の先鋒との一騎打ちに最後まで応じる律儀さ。この兄の危機に全兵引き連れて急行する思い切りの良さ。どれをとっても一級のもののふと呼べましょう」
「兄者……っ!」

 ゆったりとした兄の語調が、圭馬の心に春を呼び込んだ。
 内においては鬼よ、外を向いては蛇よと沙汰される兄が、今自分を、褒めてくれている。
そのことに圭馬の胸は震え、思わず涙ぐみそうになった。

「いやぁ! 兄者にそこまで評価されるとは、拙者も粉骨砕身、頑張った甲斐が」

 と、無邪気に示した喜びを、



 何言ってんだオメー、と
 イヤミに決まってんだろオウコラ、と



 ……一転して不機嫌さを露わにした圭輔の、無言の非難がその表情ごと凍りつかせた。

「かっ……」

 そろそろと、ぬか喜びを少しずつ退かせ、両手で三角を作ると、

「数々の不手際、申し訳ございませんでしたアッ!」

 畳に額を叩きつけるように、深々と頭を下げた。
 それに毒気を抜かれた兄は、頭を垂れてため息をつき、首を振る。

「まぁそれは良い。お前に一切を任せた僕にも責はあります。しかし」
 と、圭輔が懐から取り出した帳面には、人の名が記されていた。
 促されるまま圭馬はそれを一読し、列挙されているのはこの度の試し合戦で、鐘山方として参加した一部の羽黒家臣である。

「この者らが、どうかなさいましたか」
「処罰なさい」

 ずいぶんと、あっさり言ってくれたものである。
 兄の真意を図りかねて、不興を買う覚悟で、圭馬は逆に問い返した。

「それはこの者らが、鐘山方として参加した故ですか?」

 さにあらず、と圭輔は首を振った。
「この者らはあの戦いの際、自ら求めて崩れたように見えました。それが結果、幡豆由基の手勢の死期を早めた。賢しい真似には相応の報いをくれてやらねばなりません」
「ですが、それは主家弓引くをためらったゆえでしょう。むしろ、その忠心は評価に値するのでは」
「僕が彼らに命じたのは公平な戦いとなるよう目前の戦いに最善を尽くすこと。その命を曲げて行う忠誠など、不要です。ゆえに」
「譴責で済ませます」
「なに?」
「譴責で済ませるべきです、兄者。証拠もないことですし、勝つには勝ちました。その勝ちをもって、彼らの減罪を求めます」

 極寒を想起させる男の険しい視線を、圭馬は真正面から受け止めた。
 いや、受けて立たなければいけなかったというべきか。
 ここで目をそらせば兄は己に失望するのではないか、あるいはこの帳面上の者たちごと、処断されるのではないか。そんな直感が彼の中にあった。

 無論、それでも兄の金銀両眼に、何も動じないというわけにもいかない。
 夏場だというのに氷塊を置かれたように、腹から下はひとりでに震え、逆に顔は火照り、知らず汗が玉と浮かぶ。

 どれほど見合っていただろうか。
 とにかく長い体感時間の後、圭輔が嘆息し、

「圭馬の良きように」

 その答えが、羽黒圭馬をようやく呪縛から解放した。

 ホッと胸を撫で下ろす傍ら、圭馬は兄のことを考える。

 ――恐らくは兄者とて、ご自分の処罰が厳に過ぎる、八つ当たり同然とは感じられていたのだろう。

 いつに増して不機嫌な義兄の様子を見て、彼の発した厳令が、形となる前に正せて良かったとも思う。

 一方で、兄の心をそこまで害している物とは何か、考える。

 いや、問うまでもない。
 既にそれは、隣室で取り沙汰されていた。


「だからっ! あれは事実上鐘山殿の勝利だったのだ! もしあの者を庇わなければ旗竿を折られているのは圭馬殿の方だ!」
「故にこそ、鐘山環は大将の器量ではないと言っている! 目前の勝利を捨てるがごとき軽挙妄動、実戦では許されるものではないっ!」
「いやいや、それこそ環公子の篤実さを示すものであろうよ。あのような方こそ、存外天下に覇を唱える大身となるのだ」
「にしても、彼自身は己の家臣団にさえ軽んじられるというぞ」
「いや、そうして見る目のない家臣を持ったのは、鐘山殿の不幸であろうよ」
「否、わずか十代にして圭馬殿と渡り合うとは見事なものではないか」
「笑止な! 弓取りとは武勇のみによるものではないわっ」
「それに圭馬殿が世評ほどには大した御仁ではなかっただけやもしれぬ」
「ははは、では、お主が圭馬殿の槍なり、幡豆の弓なりを受けてみるかね?」
「話は逸れたが、結局鐘山環に才ありか、なきか?」
「だからっ」
「それはっ!」


 ……等と、隣室に当事者たちが控えていることにも気づかず、白熱している議論に、圭馬は苦笑を漏らして、眉間にしわ寄せる兄を宥めすかす。

「賛否両論だが、大した人気ですな。環公子殿」
「お前は先ほど、あの試し合戦を『勝ち』と称しましたが」

 だが兄が反応を示し、発した言葉は、既に締めくくられた話題。
 ――何故、そこに転じるのか。
 訝しむ圭馬に、圭輔は薄く目を開いて、

「あれは、正確には『勝ちを譲ってもらった』というのですよ。他ならぬ、鐘山環の手引きによって」
 と言った。

「……冗談でしょう?」
 圭馬は、自らの顔の半分が歪んでいることを自覚していた。
「一体何をもって、そのような……」
「お前、戦っていて何か感じるものはありませんでしたか?」
「それはっ」

 確かに、と圭馬は心の隅で思い当たる。
 あの槍を由基に投じ、そして彼女を環が庇った瞬間、何かしら引っかかるものがあった。違和感が、胸にしこりとして残っている。

 それは例えようもない疑問だが、ありのままの言葉で表現してみると、

「大事な場面で、転ぶ必要のないものが、わざと落馬し、地面を転がってみせた」
「身体から離れるはずのない旗を、あっさり手放した」

 肩すかしをくらったような、奇妙な虚脱感。

「他にも例えば、あの亥改大州がこの兄を人質にとったらどうします?」
「……まかり間違って身の丈九尺の鬼がやってきても、それはありえないと思いますが」
「…………たとえば、の話です」

 この羽黒圭輔が虜にされる。
 確かに万一そんなことが起これば、そんな存在がいれば、

 ――手出しができないな。いろんな意味で

 圭馬は苦笑し、両手を挙げる。
「だが、大州はそれをしなかった。何故ですか?」
「さぁ。兄者に勝てないと感じて作戦を変更したとか」
「お前たちが戦場を離脱した瞬間から、環は動き始めていた。機転が利くといっても、事を運ぶには滑らかすぎます」

 兄の淡々とした口調が、まるで周囲から温熱を奪うが如く、圭馬の耳には隣の雑音が聞こえなくなっていく。
 身を引き締め、背筋を伸ばし、息を殺す。

「……環殿がそう仕向けたとします。ですが、なんのために? 何故そんな小芝居を、自分たちの価値が示せるかどうかの瀬戸際に?」
「勝てば、どうなりますか?」
「え?」
「鐘山環が勝利するには、ああいう議論を呼ぶやり方しか残されてはいなかった。ですが、そういった方法で勝ったら、どうなります?」
「……」

 兄に促されるまま、圭馬は想像する。
 鐘山環が勝った場合のことを。

 環が勝てばそれは、そのまま彼らの武名に繋がる?
 そのために順門府侵攻と決議される?

 ……否、そうではないだろう。

 武でもって鳴る羽黒家中では、それを卑怯と見なす者もいるだろう。
 己とて、現在ほどに平静でいられるかどうか、怪しいものである。
 同時に明らかに力量が下の相手に敗北すれば、羽黒家の武名は地に堕ちただろう。

 ――そして一度でも、それらに対する不満が爆発すれば……

 鐘山家が圭輔の指示や制止を待たず暗殺される可能性だってある。

「だが負かした相手にもう一度刀を振り下ろすことは、できない。矜持を持つ真っ当な武士であればあるほど、そんなことはできない」

 その兄の言葉に、圭馬は沈みかけた顔をハッと持ち上げた。

「そして持て余した怒りの感情は、土壇場で失敗した鐘山環への嘲笑という形へ変化し、拡散される。加え、こうして議論が二つに割れることで、自らの扱いを困らせるように仕向けた。知恵者や知識人というものは、相手の理解の及ばぬ所に、己の見識を開けかすことが好みですからね。なまじ完勝するより、そうして考察の余地を残した方が、よっぽど激するでしょうし」
「ですが、幡豆由基を狙ったのは兄者の指図です。それさえも、予測していたと?」

 ……この言い方は、まるでその命令が不服だったように聞こえるだろうか?
 それとなく義兄の顔色を窺いながら、圭馬はつとめて平静に振る舞う。

「予測はしていなかった、いや、どのみち負ける気だったのですから、何が来ようとその足を止めたことでしょう。我々としても、敵が通過するのを手をこまねいて見ていられるはずがないのですから、選択の余地はすでにあの時喪われていた。何も来なければ、石にけつまずいてでも転べば良い。……演習の中、環は馬を持て余して何度か落馬したそうですが、あれは『どんくさい人物』と、故意に周囲に印象づけるものではなかったのか」

 続けば続くほど、圭輔の言葉は弟にではなく、彼自身に向けられるものへと移り変わっていく。
 その傍らに控えながらも圭馬は、背筋に寒いものが過ぎるのを感じていた。

 ――環殿も、兄者も、俺よりはるか上の場所で戦っている……

 それを、今さらにして痛感し、かつ己の不見識を恥じた。
 膝の上で固める両の拳にも、つい力が入った。

 その悔しさも手伝ってか。
 圭馬は自ら膝を進ませ、再び兄を正視した。

「ですが、そんなことをあの幡豆殿が承伏していたとも思えません。ともすれば、主従の間の信義が失われるおそれもありますし、直後に何やら諍いをしていたとも聞き及んでおります。……環殿は、それさえも考慮しておられると」
「あるいは、それが本命かもしれません」
「…………は?」

 圭輔が何を言わんとしているのか、もはや圭馬には理解できなかった。
 ただでさえ少ない味方を、さらに自分から引きはがすことが、環が本当に望んだことだと、この兄は言うのか?
 枯れ草色の前髪をかきあげるようにしながら、圭輔は夏の日に目を向けた。
 その横顔は、涼やかな微笑を孕ませていた。

「鐘山環は、臣下を篩いにかけている」
「ふるい?」
「勝川舞鶴、亥改大州、良吉、そして新たに加わりし響庭村忠。この者らは鐘山環の近くにあって、その器量を認め、己の立つべき場所を自覚しています。……だが、他の者は? かつて彼を下に置いていたという流天組は? 今回のことは、取り残された者たちに、去就を迫っています。すなわち、主の力量を認めて頭を垂れるか。その手段に反発し離脱するか……あるいは……」

 反発した先にある行動は、口にすることさえためらわれる。
 ――鐘山環は、それをあえて待っている、と?

 決めるのはお前らだ。好きに選ぶが良い。俺はそれを尊重する。

 表面上とは裏腹に自信に満ちた公子の言葉が、兄の一言一言の合間から、風が囁くが如くに、漏れ聞こえてくる。

「……僕自身、環の正体は掴みかねていた。しかし今は、はっきりと分かる。鐘山環、大器の持ち主です。それも、この桜尾家を覆しかねないほどに、危うい才気を持っている。まったく、困ったものです」
「ははっ、まさか……そこまでは言い過ぎでは。……っ!?」

 羽黒圭馬は瞬間的に全身を凍てつかせた。
「困ったものだ」
 そう口の中で呟いた羽黒圭輔は、笑みを浮かべている。
 両目には燃えるような光輝を宿し、明らかな憎悪を住まわせて、なお口の端には隠しても隠しきれぬという、えも言われぬ歓喜が華やいでいる。

 圭馬とて初めて目にする、兄の表情であった。
 だがその胸中は、不思議と直感として納得し、共感できる部分があった。

 ――兄者は、敵手を得られたのだ……

 桜尾本家の実兄らなどさして脅威ともなり得ない。
 器所実氏は信ずるに足る後援者であるし、幼少時より幾度となく苦悩させられていた風祭康徒も、もう亡い。
 その後継の風祭親永には敗北したことなく、武徒には戦場において度々苦しめられるが、彼は圭馬と同じく、戦場の外を見ることができない質の人間である。

 世に聞こえる鐘山銀夜、水樹陶次は、矛と交わさぬ限りは未知数だ。

 ――つまり俺の知る限りで、兄にこんな貌をさせられるのは、あの御仁のみということか。

 自分では、到底させられない。
「……悔しいな……」
 そのこと自体が。
 反面、安堵している、己が。

「何か言いましたか?」
 聞こえぬよう、ぽつりと呟いたつもりだったが、圭輔は耳ざとくそれを拾い上げた。
 圭馬は慨嘆しつつ「いいえ何も」と首を振る。

「それより、せっかく蓮花に戻られたのです。お父上に、大殿にお会いになるべきでしょう」
「そうですね。近頃はご体調も良いといいますし」

 そうして兄弟並んで立ち上がる。
 弟が先を譲り、兄は遠慮することなく前を進む。

 羽黒圭馬は、その羽黒圭輔の背を追って、先へと進む。


 その五日後、
 午の月の七日。
 桃李府公、桜尾典種、回復す。
 局面は、新たな方向へと転じつつあった。



[38619] 第四章:光陰 ~出陣前夜~ プロローグ:落朝の闇
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:53
「なんとも情けないこと」
「死者を前にして、怖気づくとは」
「腰を抜かすとは」
「それが順門の姫の姿か?」
「秩序をもたらす者の姿か?」
「帝より玉衣を下賜された者か?」
「宗善の娘か?」

「……あぁぁぁぁぁァァァァッ!!」

 頭の中で永劫続くかと思われる呪詛は、彼女の悲鳴と覚醒によって途切れた。

「はっ……、はぁっ……、はぁ」

 もはや日常茶飯事となったその一連の流れに、慌てて駆けてくる家臣はいない。

 彼女、鐘山銀夜自身がそう望んだことであったが、これでは真に危機が迫った時でさえ誰も来てくれないのではないか。
 あの雨の日、従兄弟である環との対峙以来、どことなくよそよそしい家臣たちの態度もまた、一層孤独感を強くさせた。
 父以外に唯一態度を変えぬ者がいるとすれば、それは……

「誰かっ、誰かいるか!? ……朝心斎(ちょうしんさい)っ!」

 呼び声に応じて襖を開けた、老臣である。
「はっ! 朝心斎これに。やはり、お休みになられませぬか?」
「あぁ、まただ! また誰かが城下で私を嘲弄している! 秩序を乱しているのだ! 至急 巡察に赴き、見つけ次第誅殺して来いッ! 新たな法度も設けなければならぬ!」

 かつては美貌の一翼を担っていた銀髪は、不眠と神経の衰弱によって輝きを喪い、老人の白髪の如く痩せ衰えている。
 目の下にどす黒いクマを作った少女には、幽鬼にも似た気迫、死相さえ見える。

 だがこの老臣は、それに対して何の異も唱えることなく、

「かしこまりました」

 と、頭を垂れた。

~~~

 夜の市中に繰り出した朝心斎は、供回りを連れて無明の闇の中に身を任せ、酔いしれた。

 ――この静寂さこそ真の調和。

 夜遊びに興じることさえなければ、町の明かりも、室内の光さえ必要がなく、我らが巡察の灯のみが闇を払う。
 世とは、かくあるべきなのだ。
 帝が、藤丘朝のみが、我らを導く輝きなのだ。

 ……だが、そんな美しさに水を差す、無粋な輩もいた。

 曲がり角の辻。
 そこにたむろしていた男たちを、目にした瞬間、朝心斎は二歩で接近して、無言で斬り捨てた。
 彼らの足元には、今まで飲んでいたと思われる酒の徳利が転がっていて、清浄な空気を乱す発酵臭に彼は顔をしかめた。

「またぞろ、禁酒令を破る輩が増えましたな」

 と言う家臣に頷き、
「この者らの親類縁者もひっ捕らえ、明朝までに共に梟首と処せ」
 命じる。
「し、しかしそれはあまりに酷では?」
「構わん。それぐらいしなければ順門の民は真の正義に目覚めぬ」

 朝心斎は、普段は表には現れることのない鐘山家臣である。
 その存在は家中においても知る者は少なく、その主な任は、

「頭領」

 暗躍。

 この男は宗善の中に眠っていた叛意に気づいた瞬間より接近を開始。
 巧みに彼を煽りながら、朝廷と宗善の橋渡しとなっていたのである。
 そして見事反乱へと導き、今は銀夜の近臣となっている。

 音もなく現れた忍に、老人は振り返り、尋ねた。

「『あやつ』はいかがしておる?」
「は。無事環の陣営に紛れ込み、疑いを抱かれずその信任を得ているとか」
「その割りには、報告が遅れたな」
「はい。魁組、緋鶴党、それと桃李の羽黒衆の警戒が厳しく、流天組の保護下でしか自由に動き回れない模様」

 そうか、と主人は呟く。
 しかし、と家来は付け足した。

「お喜び下さい。我らの正義に同調し、組員より一人味方につけたとのこと。すぐにでも環の寝首をかくこともできましょう」

 ――いや、と。

 その案に対して老臣は否定を示す。
「奴は銀夜殿の前に引っ立てなければならぬ。雪辱を果たさなければ、姫の汚名は晴らせまい」
「承知。ではかの御仁には桜尾家に開戦をさせるようにとお伝えいたします。それと、こちらは御仁より、経緯の報告です」

 と、その密偵は矢を取り出した。
 やや黒味を帯びた鉄の鏃は、提灯のわずかな灯りさえも、飲んでしまうそうであった。



[38619] 第一話「表裏の議」
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:54
「ああ、あぁ、あぁ! 綴り紐がほどけておりますよ、殿」
「髪も整ってない」
「それに、色合いもよろしくありませんわ。桜尾公とその群臣にお会いするのですから、同心を示唆するためにも、桜色にした方が良いのでは?」
「いえいえ、むしろ葉桜を思わせる萌黄が」

「だぁぁ! うっさい! 節句の人形か俺は!?」

 控えの間にて。
 環は舞鶴、鈴鹿らといった女性に囲まれ、着飾られていた。

 キャーキャーとつんざく声に辟易しながら、部屋の片隅に鎮座する幡豆由基に

「おい、お前が見立ててくれよー」

 と助け舟を求めるも、ジロリ、凄まじい形相で睨み返され、空気が凍る。
 やがて無言で立ち上がると、警護役の任を放棄するかのように、部屋を出て行った。

 不機嫌さも、不遜さも、彼女を彼女たらしめる要素ではあったが、そこに言い知れない違和感があるのは、環も感づいていた。

「最近のユキ、怖いね」
「えぇ。なんだか近寄りがたい雰囲気になってしまって」
「ここのところずっと夜抜け出して、出歩いているみたいだわ」

 そしてそれは今日ばかりのことではない。
 彼女の変質の契機となったのは、大三原での試し合戦。
 そこから彼女の心境にどんな変化が起こったのか。
 察することはできたが、完全に把握できるはずがない。あるいは本人とて、言葉で言い表せない感情なのかもしれない。

「そんなことより、そろそろ刻限ですよ。この度は今まで以上の真剣さで挑まねば」

 舞鶴の促しの言葉に「真剣さなんてどの口が言うんだ」と思いつつ、素直に頷く。

 確かに今この場においては、悪友の心よりも、ようやく面会のかなう桜尾府公の心根こそを知りたいものだ。

 そして友人よりも己の都合を優先する己を、環は嫌悪するのだった。

~~~

「鐘山殿、参られましたーァ」

 やや間延びした声に導かれて、 侍烏帽子に直垂姿の環は大評定の間に参上した。
 所定の座につくや、数夜かけて舞鶴に教え込まれた礼儀にのっとり、頭を下げる。

「環公子、面を上げられよ」

 声が、頭の上に降ってきた。
 つい、聞き漏らしそうになるほどに、弱い。

 府公は長く病臥していたというから、その声こそが桃李府公桜尾典種のものであろう。

 とは言え、祖父や父の他に初めて見る、大国の王である。

 相応の緊張感に身を強張らせながら、環は恐る恐る首を上げた。
 今環の視界に広がった光景にこそ、桜尾家百二十万石の、真の姿があった。

 主君を護るかの如き群臣は、環から見て左手に器所実氏、羽黒圭輔ほか、釜口、本林、相沢。
 対する方面には嫡子義種、次男重種(しげたね)、三男西種(にしたね)、野波(のなみ)、千田(せんた)、曲輪道(くるわみち)などがいる。

 この対峙がどういう関係を示しているのか、ほとんどが初対面の環にも分かりきったことであった。

 転じて、目の前に腰を下ろす老人を環は熟々と見つめた。
 かつて、帝と宗円との戦い……いわゆる『順門崩れ』において官軍に身を置いた府公。脱落者相次ぐなか最後まで戦場に身を留め置いた猛将。自分の父や祖父、そして叔父と戦ったという、不屈の宿敵。

 だが……

 ――あれ?

 それが、恐ろしいとは感じられなかったのだ。
 年老いてなお肌には白く光輝が残っている。眼光は鋭く、重ねた戦いと経験の数を知らしめるに十分。

 にも関わらず、環の心には覚悟していた衝撃はなく、恐怖心さえ感じない。
 その白い肌には、人を惹き付ける神秘性が存在したのだろう。だが今は、黄斑とシワに侵されている。
 鋭い眼には、周囲に威武を与える力があったのだろう。だが、白濁した黒目の周囲には、紫がかったクマができていた。

 枯渇した川底から川の水量を読むように、あるいは根本から折れた樹木の太さから、大木であることを推測するように、往年「あった」ものを「あった」と示すだけの記号でしかない。

 脇息にもたれ、座るのもやっとというその老公よりもむしろ、環は……

 と、そこで何気なく視線を向けた先、羽黒圭輔の茶色の方の目と目が合った。
 慌てて面を伏せる環は、我に返って口上を述べた。

「ご尊顔拝し恐悦至極。順門公子、鐘山環にございます。この度は我らのような寄る辺も持たぬ者を受け入れていただき、感謝に堪えません」
「気になさるな。遠路はるばる、よう参られた。……余はもう目が利かなくなってしまってな。どれ、も少し近くに寄って、お顔を見せていただけぬか」

 そう言って手招きする典種に応じ、環は膝を進めようとした。
 だが、そこにすかさず派手なしわぶきが座に響いた。

「あ、失礼」

 詫びたのは、器所実氏である。
 一瞬、群臣同様訝しんだ環だったが、彼の意を理解するのは誰よりも早かった。

 すぐさま脇差しを外し、丸腰となってから身を近づける。
 同じく脇差しに指をかけていた圭輔は軽く実氏を睨み、実氏は笑って肩をすぼませた。
 そのやりとりを見て、確信に至った環は背を凍らせた。

 自分は今、死ぬところだったのだ、と。

 ――ホント怖いな……この人。

 あのまま武器を携帯したまま自らの父に接近していれば、その非を鳴らして圭輔に斬られていたに相違ない。

 強ばる笑顔を近づける。
 また近くに来るよう招かれて、さらに前進する。
 やがて互いの息遣いが聞こえるまでの間合いに達し、外野にいる桜尾家臣団がざわめいた。

 だが間近でよく見ても、桜尾典種は老将ではなく、ただの老人であった。
 祖父宗円や、あるいは三戸野の翁が持つ何かが足りない。何かが抜けてしまった。誰のせいでもなく。何が原因というわけでもなく。
 あるいはそれを覇気と言う。あるいはそれを、天命と言うのかもしれない。

 ――ならば、その天命はどこに消えたのか?


「余より圭輔が恐ろしいか?」


 声が、ふいに聞こえた。
 息を呑んで、環は老君を見返した。
 他の誰も聞こえてはいない。自分にだけ、桜尾典種は囁いたのだった。
 以前その瞳は濁っていたが、大国の君主たる風格を、環は感じることができた。

「もう良い。下がられよ。環公子」

 そう言ったのは、嫡男義種である。
 慌てて引き下がり、再礼する。

 ゆっくりと、時間をかけて頷いた典種は、自らの配下をぐるりと見渡した。
「さて……環公子が加わったところで、先日の議にて余の決心は既に固まっておる」

 最終的な決定権を持つこの男がそう宣言したため、環は固唾を呑んで見守った。

「……我らは、かつて順門府において散々に苦杯を舐めさせられながらも、最後まで朝廷に付き従った。この中には釜口、器所をはじめ、余と共にその戦陣におった者もおろう」

 何故、突然昔語りをするのか?

 ――それは未だ、『我の心は朝廷にあり』と示しているのか?

 環はそう感じたが、それにしては妙だとも思う。
 当の圭輔が、喜色を発していない。
 むしろ即座に斬りかかろうとしたほどの不機嫌さから察するに、むしろ、それは……


「我らは、環公子を順門府へ送り返すべく、近日中に西進する」

 羽黒圭輔と鐘山環の息を飲む音は、ピッタリと重なった。
 顔を上げる順門公子に、老君は体力の許す限りの、最上の笑みを見せて言った。
「敵味方を入れ替えることとなるが、桜尾は共に轡を並べる者を最後まで見捨てぬ。無論、全面的な援助はできぬが、どうか環公子も、出陣までに準備していただくよう……」

 余りある温情に、環は喜びを露わにした。
「あ、ありがとうございます!」
 圭輔の無言の圧力をいなし、環は再び額を木床につける。

 誰からも顔が見られなくなったと察した時から、環の顔から表情は消えていた。

~~~

「桜尾家が開戦を決めた経緯を調べろ!」

 略礼服を荒々しく脱ぎ捨てる環に、
「かしこまりました」と舞鶴が応じる。
 一方で、響庭村忠はいまいち容量を得ない様子だった。

「環殿の案の通りとなったじゃないですか。いったい何が不満なんです?」

 烏帽子を剥ぎ、いつもの朱羽織にその身を包んでから、環は村忠を顧みた。
「だからなんの悶着も起きずそうなったのがおかしいんだ!」

 ……そもそも鐘山家はこの数十年、桜尾家と一進一退の戦闘を繰り広げてきた。
 鐘山家にとって桃李府は朝廷に通じる唯一の陸路であるがゆえ。桜尾家は勅命に強制されて。
 道義的に見ても、その不倶戴天の両者が朝廷の意向に背いてまで手を結ぶわけがなく、実際は反戦を唱える圭輔が正論なのである。
 考えるまでもないはずの国論が二つに割れているのは、圭輔の躍進を快く思わぬ一派がこれ幸いと乗じただけに過ぎない。

 さらにそこにつけ込んだ環に言えた義理ではないが、圭輔に正当性があった。
 老いたといえその父典種も、そのことが分からないはずがない。

 そもそもここまで早期の出兵は、環の望むところではない。
 兵も装備も未だに不足。それに桜尾家を完全に後ろ盾とするには、圭輔の了承が不可欠だ。
 彼の意思を無視した出陣は、危険をともなう。

「……必ず理由があるはずだ。桜尾家だけじゃない。圭輔でさえ予想できなかった方面からの介入があったはず。おそらくそこには叔父御の息のかかったヤツがいる。そいつを炙り出せ。舞鶴は圭馬殿との面会を取り付けてくれ。彼を通じて圭輔に釈明する」
「承知」と、村忠が理解と納得、両方を示した。

「ですが、良いんですか?」
「何が?」
「これが出過ぎた忠心ゆえのただの愚行か、あるいは貴方の言うとおり内通者の謀略か。どちらにせよ、こちらの準備が整わない出陣を誘導するからには、こちらの準備不足を知っている人間。つまり……」

 ……環陣営の事情に精通した、ごく身近な人間、ということになる。

 そんなことは、村忠に指摘されるまでもなく分かっている。
 彼はあえて口にすることで、自らの主に喚起を促していた。

「篩に揺さぶられた砂利どもが、うるさく鳴り始めたようですな」

 環は答えず、いつもの帽子を目深に被り直した。

~~~

 結局羽黒圭馬との面会がかなったのは、親環派、もとい反羽黒派への挨拶回りが済んだ五日後のことだった。

 会見の場所は城下の外れ。舞鶴と所縁がある小さな山寺。人目を避けて行われることとなった。

「本当に護衛もつけず、お一人で大丈夫でしょうか?」

 山門まで見送りに来た舞鶴は、そう言って懸念してみせた。
 いつになく不安げな尼僧に対して首を振り、

「かえって兵を増やせば疑われるだろ。羽黒にも、『敵』にも」
 耳慣れぬ『敵』なる語句を、環は苦味とともに噛み潰した。

 その可能性はある、という覚悟はずっとしてきた。己自身でそれを煽った自覚もある。
 それでも実際に数年来の友人の中に潜在的な危機、己より宗善を選んだ者がいるという事実には、軽い衝撃と脱力感を覚える。
 環が首を振ったのは、そういう雑念を振り払うためでもあった。

 逆に、舞鶴へ問い返した。

「と言うか、お前らしくないな? 羽黒方に何か動きでもあるのか?」
「うーん、動きと言いますか、なんと言いますか?」

 持ち前の緊張感のなさを存分に発揮しながら、舞鶴は胸の盛り上がりの下で腕組み、うにゃうにゃと唸る。
 と、思いきや、

「ま、いっか」

 アッサリその懸念を放棄した。
 ……時として、このあっけらかんとした雑さが、怖い。

 そんな不老生物の言動に首をひねった環であったが、何はともあれ、会談である。
 羽黒屋敷から義種の居館に身を移し移て以来の顔合わせだった。

「……にしても」

 二畳ほどの小部屋の中、特に暇を潰せる娯楽も友人もなく、時間が経つのが遅く感じるということもあるが、それでも圭馬が来るのは遅いとも思う。
もう黄昏時で、小腹も空いてきた。

 我慢しきれず、足を投げ出した時だった。部屋の外から足音が聞こえて、慌てて姿勢を正す。

 木戸が開けられるのと同時に、満面の笑顔を作って
「やぁどうも圭馬ど」

 その笑顔が、固まった。



「やぁどうも環殿。羽黒圭輔です」



 羽黒圭輔と名乗って現れたその男は、枯れ草色の髪を、金銀両眼を持っている。

 何故か右手でキジの首根っこを引っつかんでいるが、どこからどう見ても羽黒圭輔だった。

 環は視線を正面に戻した。
 わずかに間を置いて後、改めて戸の方を向き直る。

 どう見ても、羽黒圭輔である。

 次に、環は自分の気のせいだと思うことにした。
 目をこすったり、タップリ時間をかけて瞑目したりして、とかくソレが視界に入らないようにした。

 そして改めて戸を見た。

 何度見ても、羽黒圭輔である。

 次にこれは白昼夢だと信じることにした。
 木戸を閉じてばたんと倒れ、ほんの少しの間、突っ伏せて、心が落ち着きを取り戻すのを待つ。

 やがて不自然な動悸が治まって後、一気に戸を引くと、やっぱりそこには羽黒圭輔。
 多分ここまで来たら、何百回見てもソレは羽黒圭輔なのだろう。

「…………あれーぇ?」
「弟の名代としてやって来ました、羽黒圭輔です。どうもよろしく」

 聞き慣れた声で男がそう名乗った時、ようやく環はソレが羽黒圭輔だと認めた。



[38619] 第二話「公子二人」
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:54
 慣れた手つきで羽をむしり、皮を削ぎ、肉に切れ込みを入れていく。
 分解された鳥の肉と、あと野菜が鍋に放り込まれていくのを、環は無言で、と言うよりかは呆気にとられて傍観していた。

 台所に立つその料理人は、チラリと環の方を見やると、
「……毒をお疑いか、それとも斬りかかる機でも窺っているのですか」
 と、答えた。
 いやいや、と環は首を振る。
 毒とか暗殺うんぬんよりも、人払いのされたこの寺内で、見るもの、ヒマを潰せるものと言えばその男、羽黒圭輔の手料理の手腕のみだった。

~~~

 そして出来上がった鍋を見て、環はしばし閉口した。
 あからさまに毒が入っているとか、まずそうとかそういう話ではない。
 事実、ここ最近はずっと貧食に甘んじてきた環にとってそれは、ご馳走以外の何物でもない。
 味噌で仕立てた汁の中に、水菜、山菜、そして
「本日は良いキジが手に入りましたので手土産に」
 といって圭輔が持参してきた鳥の肉がまんべんなく煮られている。
 野性味あふれる男料理ながらも、それゆえに直接食欲を刺激した。

 だが……中々容易には手がつけられない。

「……ここからすくって食べるんですか」
「同じ器ならば、毒を盛られる必要もないでしょう」

 平然とそう言い放つ金銀妖眼の料理人は、二人分を均等に椀に盛った。

「っていうか、料理なんてできたんですね」
「……むしろ、生きていくうえで必要な術を持たぬ方がおかしいと思いますがね。常に身の回りの世話をしてくれる人間がいるわけではないでしょうに」
「…………あの、圭馬殿は」
「アレは今、留守中です。国元で水分けの訴え事が起こりましたので」
「り、立派な弟御をお持ちで」
「至らぬ点ばかりですよ。まぁそれ故に僕が羽黒家を継ぐことができたのですがね」
「………………」

 会話が弾まないので、仕方なく箸を進めることにする。
「あ、これ美味いわ」
「下味に味醂なる新酒を使いました。近頃都にて話題になっておりましたので、取り寄せました。

 ――美味い。確かに美味い。
 柔らかく煮込まれた鳥肉を噛みながら、しかし鼓動が鳴り止まない。

 鍋を直接つつき合うという、武家にあるまじき不作法。
 白い湯気をのぼらせて煮えたぎる汁。
 無人ではあるが御仏の膝元でよりにもよって生臭を食わせる愚行。
 ……逆賊相手にわざわざ都の酒を取り寄せるということ。

 ――間違いない。この人……堪忍袋の緒が、ブチ切れてるッ!

 この挑発的な饗応に、わずかにでも不快感を示せば、それが一触即発となりかねない。
 桜尾家中もっとも恐ろしい男の、この不機嫌さから、逃げるように国元の裁きに向かった圭馬の様子がハッキリと見てとれるようだった。

 この客人の入れ替わりこそが舞鶴が言うべきか思い悩み、かつ
「ま、いっか」
 ……の、一言で済ませた変事であり、

 ――あのババァ、生きてここから出られたらブン殴ってやる……っ!

 と、環にそう決心させた。

 かいた汗は、もはや暑気払いから生じたものなのか、冷汗なのかさえ分からない。
 ――早々に言うべきことだけ言って退散しよう。
 と思い、

「で、あのぅ……今回の出兵の件ですが」

 と、本題を切り出した。

 羽黒圭輔は色違いの両目をカッと見開いた。
 すぐさま箸を置いた。
 手元の刀に指を這わせ、鍔の辺りに滑らせて、

「……どうぞ……」

 ドン底まで低い声で、話を促す。

「……言えるかァァァァ!」
 さしもの環も、逆上するほかなかった。

 敬意も敬語も忘れ、そしてそれが死ぬ可能性もあることさえ忘れ、大声で言い返す。
「話聞く態度じゃないってそれ、わかり合おうとする姿勢じゃないってそれ! 桜尾公が会戦に傾いたきっかけは俺の策謀じゃないんだって!」
「……では、これにさえ見覚えはないとシラを切るつまりですか?」

 刀に手をかけたまま、左手は懐に突っ込んだ。
 鍋を挟んで手渡された紙を受け取り、環はそれを一読した。

 連署の写しのようだった。
 名津を差配する商人たちの寄り合いの衆。その主立った者たちの名が末尾に書き記されたそれは、環を擁護する内容と、同時に順門府侵攻を示唆する内容であった。

 ……そしてそこには、環も良く知る人物の名も、当たり前のように挙げられていた。
「六番屋の史!? どうしてあの人の名が?」
「……本当にご存じなかったのですか?」
 圭輔はようやく刀の柄から手を外し、意外そうに聞き返した。
 むしろ、そのことを意外に思ったのは環の側である。

「信じて、もらえるのか?」
 何を白々しい、と一刀両断されるかと思いきや、この天敵は存外物わかりの良いところを見せてくれた。

「目の前の人物が嘘をついているかどうかぐらい、僕にだって分かりますよ」
 不本意だ、と眉間にシワを寄せる圭輔に聞こえぬよう、

「どうせなら、もう少し早くその洞察力を発揮してもらいたかったもんだ……」
 と呟き、
「何か言いましたか?」
 と、当人の地獄耳に拾われて、あわてて「いえいえなんでも!」と、つくろった。

 本人はいたってきまじめな性分なのだろうが、実際付き合ってみると茶目っけのある人なんだな、と環はわずかに頬を緩めた。

~~~

 ようやく落ち着きを取り戻した座。
 改めて夕闇と燭の中で、環はそれを透かして眺めた。

「……でも、どういうことなんですかね、これは」
「商人衆の動機は理解できます。戦が起きることによる利潤の拡大。それと、いっそどちらかに商圏を一統して欲しいという考えもあるのではないでしょうか? 関所等で一番に割を食っているのは、彼らでしょうから」

 ――と言うことは裏で糸を引いていたのは商人たち?
 とも思うが、そうではないだろうと言う推測が未だ環の胸中では強い。
 六番屋とはかれこれ数ヶ月来顔を合わせていない。まして他の商人らとも、格別な交流があるわけでもなかった。
 そんな彼らに、今自分たちの勢力がどれほどのものか、知られているはずがない。

 ――にも関わらず、彼らは一致団結して会戦を促している。

 しかも、鐘山宗善にとって都合の良い時機を選んで。
 そこもまた妙な話だった。

 商人のための港湾であった大渡瀬の一件からも分かるように、宗善とその一味は商人という職を、しかも己の意のままにならぬ者を毛嫌いしている。
 そうした悪感情を、流行に敏感な商人らが察し得ぬはずがない。協力するはずがない。

 ――とすれば……

 やはりいる。
 それが環の意だと六番屋らを欺き、説き伏せ、実際は宗善の利となるよう動かしている者が、己と近しい位置に。

 頭の中で大体の状況を整理した環は、改めて圭輔と向き直った。
「圭輔殿、俺の手勢の中に、俺の意に背いて動いている者がいます」
 自らの口にすることで、ようやくその事実を本心から認められたような気がした。

 ほう? と興をそそられたように反応を示した圭輔の横顔を、灯りが照らして揺らめいた。
「それと、僕に何の関わりが?」

 鍋から二杯目をよそって互いに鳥をむしる。
 小骨を椀の中に捨て、環は口を拭った。

「その者は明らかに、俺たち、桜尾家に不利な条件で戦いに引きずり込もうと画策してます。桜尾家は表面化では貴方を始め、主張が二つに割れた状態。まして俺は、内通者を内に抱えた状態で、しかも明らかに準備不足の段階で出陣を余儀なくされている」
「実で以て虚を討つ、ということですか」

 一応の理解を示した圭輔に頷き、続ける。

「そしてそうなるまでに俺でさえ気がつかなかった。ヤツが表向きはどう振る舞っているかはしれませんが、その実相当に周到で、用心深い。……だが、こちらが感づいたことにはまだ気づいてはいないはず。そこに付け入る目があります」
「目?」
「……あえて敵の策略に乗ったフリをして、敵の動きを誘導するんです。そこで圭輔殿には、ひとまずこの一戦だけは、俺たちに手を貸してもらいたいんです」

 やや機嫌を改めかけていた圭輔が、またその顔色を変じた。
 柳のような眉を寄せる圭輔の顔は「やはりそういう筋書きか?」という疑念が浮かび上がっていた。
 環は一度そこで句を切り、慎重に言葉を選ぼうとした。
 しかし、いっそ素直にぶっちゃけた方がこの男の『好み』に合うだろう、という判断から、環は自分の言葉をありのままぶつけることにした。

「……その方があんたにとっては得だと思うんだがね? 桃李府公子殿?」
「なに?」
「じゃあ、俺を宗善に売ってみたらどうなる? 順門が完全に反乱の芽を摘み、一統されたとする。だが、それでも近いうちにあの男は桃李府に攻め込むぞ」

 領土拡大するにはもはやそれしかないだろう。何より桃李府は無理難題とは言え、朝廷の命令に幾たびも背き、その不信を買っている。彼らが手出しできないのは、ひとえにその領地の広大さと、軍事力によってだ。
 だから、忠誠を誓った順門に攻めさせる。
 朝廷と、順門府と、あと東国の風祭府の三方向、あるいは桃李府内に内通者を作り四方内外から攻められる可能性だってある。
 結果としてそれによって足をとられるのは、東征を望む羽黒、器所両名ということになる。
 それが分からない圭輔ではないはずだ。

「だがもし、俺たちが奴らの企みを逆に利用し、宗善に大勝し、一国なり一城なり切り取ることができたら、間違いなく再び順門は割れる。その混沌、長く続くはずだ。……この間、あんたは手に入れれば良い。風祭府と…………それと、桃李府を」

 府公典種亡き後の桃李府。
 このまま行けば、暗愚で、自らの弟を妬む義種が継ぐことになろう北の大国。

 そこに思いを馳せれば羽黒圭輔が、荒野を舞う鷹の如く誇り高い男がどう考え、どう行動するのか。
 火を見るより明らかではないか。

 ……いつから、そうであったのか。
 圭輔は、おおよそ己の父や義弟にさえ見せていないのではないか、という凄まじい笑みを浮かべていた。
 何かに餓えながらも気高さは消えることがない。それが野心というものなのかもしれないし、夢と呼ぶのかもしれない。あるいは実父がついに手に入れられなかった、覇者としての風格か。

 ゾクゾクと、背筋を駆け上がる小刻みな震えは、やはりこの金銀妖眼の野心家に対する恐怖か?
 あるいは……茶と黒の瞳に映る己の表情もまた、同様のものであったのかもしれない。

「しかし、環殿。まだ一つ懸念があるのですが」
 圭輔の表情が幻のように隠れた時、問うた。
「それは?」
「貴方の貌が見えない」
 思いがけない言葉に虚を突かれ、声を詰まらせる環に、圭輔はもっと噛み砕いた言い方で、あらためて問いを叩きつけた。

「親族に殺意を向け、自国を混乱に陥れ、かつての友人を欺き……それで貴方は何がしたいのです? 天下に、何を為したいのですか?」

~~~

 ――流石は、羽黒圭輔と言ったところか。

 本人は無自覚であったのかもしれなかったが、環の核心、考えていなかったこと、あえて考えないようにしていたことを、本能的に見抜いていた。

 ……その核となる部分が、まるで空洞であったことに。

 圭輔とは別、裏手の山門をくぐり抜け急な階段を下りていく。
 しっかりと道が続いているようでいて、足下は覚束なくいつ転ぶやもしれず、進めば進むほどに闇の沼に身を沈めていく愚行にも似ていた。

 ――そもそも俺はこれまでの戦いは、仲間たちを守るということに終始していた。

 だが今回の件は違う。
 内においてはかつての旧友を内通者としてあぶり出し、おそらくは……殺す、だろう。
 外においては、せっかく国論が統一された順門府を、長期にわたるであろう混乱をもたらそうとしている。その過程で、大勢の人間が死ぬだろう。

 表面上は、実に単純な理由なのだ。
 父や弟妹の仇をとるべく、怨敵鐘山宗善、銀夜親子とその家臣団を滅する。
 だが、それは己の本望なのか? 仇をとったその先、どう生きるのか?

 ――そう言えば、久しく銀夜の顔を思い出していなかったな。
 弟妹が殺されたと聞いた時はあれほど激しく、憎悪していたにも関わらず。
 今でも憎い、死した肉親に報いなければと思うことはある。

 ――だが今になっても俺は、叔父御を憎み切れていない。
 あの男にもあの男の理と、それを悟りうるまでの苦悩の日々があったのだろう。
 家族として付き合っていた頃、時折胸に病でも抱えているように、苦い表情をしていたのを思い返す。
 おそらくはその病と、治す術を同時に得たのは、三十年前、順門崩れか。
 ずっと、意に沿わぬことに従い続けていたのだろう。
 それを、祖父宗円はともかく、父宗流が汲んでいたとは、とても思えない。

 鐘山宗流は太陽の王の如き男だった。
 天性の明るさと激しさは、皆を振り回しながらも自らの突き進む先へと導く力強さがあった。

 だが、いつまでも陽光が照りつけていては人は安らぐことはできない。夢さえ見ることはできない。

 宗円の後を冒した宗流は朝廷打倒を掲げ度重なる侵攻を行ったが、いずれも桜尾典種、器所実氏に阻まれて失敗。王都の土を踏むことさえ許されなかった。
 晩年はその攻勢にさえ衰えを見せ、家臣たちの財力を逼迫させた。
 その死後大半が去就を決めかねたり、ためらいもなく宗善についたりしたのは、その辺りが最大の原因である。
 正義は、あちらにある。
 非は、父にある。

 ――だったら俺は、なんのために……? このまま誰ともしれぬ思惑に振り回され続けるのか?

 改めて、羽黒圭輔の問いを思い返す。


 貴方は何がしたいのです? 天下に、何を為したいのですか?


「そんなの、俺が知りたいよ……」
 樹治六十年、午の月の十五日。
 環は、無明の中にいた。



[38619] 第三話「無明の問答」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:59
「圭輔殿と公子殿はいったい今、どうしているでしょうな?」
「さぁ? まぁ、上手くやってるんじゃないでしょうか?」
「ハッハ、『あとは若い二人同士』というやつですか」

 器所実氏は、勝川舞鶴の盃に酒を注いだ。
 それを受け取る白い指先が、器を弾いて鳴らす所作が、夜光に照らされ艶めかしい。
 蓮花城下の器所邸は、我ながら無骨の極みともいうべき構えだが、今の時期は庭先の虫が美しい音色を奏でてその無粋さを和らげる。

「……こうして、向かい合って酒を酌み交わすのは、初めてですな。舞鶴殿」
「えぇ、『順門崩れ』で出会って以来」
「覚えておいででしたか」

 三十年近くも前の、和議での話である。
 その頃実氏は未だ二十歳、新進気鋭の小物で、舞鶴とは確かに言葉を交わしたことがあるが、それもわずかな会話とわずかな時間でのことである。
 軽く驚きを込める実氏に、舞鶴はニッコリと頷いた。

「……なにやら、気恥ずかしいですなぁ。ははは」

 まるで童に帰るような心地がして、実氏は頭を掻いた。
 対して無言で笑みを向けるだけの美女に、つい世辞なども言ってみたくなった。

「にしても相変わらずお美しい。あの頃のオレなど、貴方が勝川舞鶴でなければつい求婚していたやもしれませんな」
「まぁ、では今は?」
「ハッハハ、家内がおそろしゅうておそろしゅうて、とても言えません」
「あらあらあら」

 口元に手を当て、童女のように笑みを弾けさせる。
 だが、その笑顔はどこか遠いもののように、遠くへと向けられるような感じさえした。

「ですが」と。
 わずかな衣擦れの音と共に、舞鶴は裾を払い膝を揃え直す。

「奥向きのことはともかく、かつての貴方であれば、仕えても良かったと思いましたよ」
 まるで初恋の相手にかつての慕情を告白するように、はにかみながら舞鶴は言った。
 だがそんな表情とは裏腹に、その言葉はよく考えずとも辛辣だ。

「……では、今は?」
「ダメですねぇ。いかんせん、歳をとりすぎています」
「はっはっは、これは手厳しい!」

 おのれの髪の生え際をぴしゃりとはたきながら、実氏は快笑する。

「まっ、家臣としては望み以上の地位をいただいておりますからな。舞鶴殿がおらねども、良い人生と言えましょう」
「そ、最大の原因は、それ」

 舞鶴は男の着物の袷、実氏の胸板に指をやる。
 間合いか開いているというのに、それだけで直接撫でられているような微妙な気分に陥らされる。

「だって貴方、才能はあるのに天下に望みなどないでしょう」
「…………酔っておいでかな、舞鶴殿」
「病弱な典種公を除いてでも先へ進もうという意志がない」
「酔っておいでだ。舞鶴殿、でなければそのような戯れ言、吐けようはずがない」

 軽く怒気を発する実氏にも、舞鶴は動じた様子はない。
 一人酒のように手酌で酒を汲み、濁酒を喉へと嚥下していく。

「まったく、困ったものですね。貴方にせよ、信守卿にせよ、残りの『天下五弓』ことごとくが、天下を求めていない。典種坊やの尽きかけた天命など、軽く超える大才を持っているというのに。風祭康徒にはその野心があったようですが、最期の最期で策を弄したツケが回ってきましたねぇ」
「……では、貴方は? 残りの一人たる貴方には、それがあると?」
「私は、ダメですねぇ。いかんせん、この手を汚しすぎました」
「ゆえに、公子殿を担がれたのかな? 貴殿であれば、主が誰であれ容易く天下をとれそうなものだがね」

 勝川舞鶴は、うっすらとその目を細めた。
 人の無知を嘲笑うようであり、余人の知り得ぬ遠き時代に、想いを馳せているようにも見える。

「若気の至りですね。そう考えていた時期もありました。主を必要としない国づくり、それを目指したことが」
「ほう?」


「そう……例えば仏陀という『この世界には』いない聖人をでっち上げ、君主ではなく仏法にて世を支配しようともしましたよ」


 …………何か、とんでもないことを、サラリと言われた気がする。


「……は?」
 世の根底を覆す発言を己では気に留めず、目の前のおぞましき尼僧はしみじみと酒を呷る。

「ですが、ダメでしたねぇ。諸王に弾圧されて、一部の文化と風俗が定着したぐらい。全ての人に信仰を植え付けるどころか、一国さえ保てませんでした。いやぁ、蓮如上人がどれほど苦心し、どれほどの僥倖に恵まれていたか、骨身に染みましたよ」

 いけませんね。
 自分で信じていない教えを他人に押し付けては。

 ソレは、おおよそ僧形の身とは思えないような大暴言を、酩酊の呼気と共に吐きだした。

「ただまぁアレはアレで面白かったですよ。会えるはずもないのにその直弟子が現れたり、格言が作られ法が作られ、経典が作られ寺が作られ……宗派には微妙な異なりを見せども、みるみるうちに、私の知る形へと変わっていったのは」

 ――何を……言っているのだ。この、女は……
 悪い酒でも飲んでいるようだ。

 実氏とて、自身の功名が神仏のご加護と感じたことはいくらでもある。
 それに縋り、それを心の助けとして日々邁進する者も、貴賤を問わず、少なからずいる。

 それが全部、この女の作り話と?
 奇跡や瑞兆、天命が全て……己らの気のせいだと?

 都の門跡あたりが聞けば、狂死しかねない。
 そしておそらくそれは真実だろう。
 皮肉にも今まで経験で培ってきた洞察力が、この女が虚言を吐いているわけがないと、本能的に認めているのだった。
 舞鶴はそれを、宴の戯れとして暴露したのだった。

 ――こんな恐ろしい女を、

 今の順門府は敵に回してしまった。
 その不幸を当面の敵ながら哀れんだ。

「で、悟ったのですが」
 聞くに堪えぬ話。こちらの気分が分からぬでもないだろうに、舞鶴はニコニコしながら続けた。

「結局のところ、国家も、秩序も、所詮は人を容れる器でしかなく、人がその盛衰を決める、ということです。名君が運用すれば国は富み、悪臣があい諮れば妙法も悪法へと変わる。藤丘朝がその好例でしょう。永遠は国家にも人にもない。絶対の秩序などない。一株の樹に付けられる花実など、数が知れています」

 ならば、何故人は国など作る?
 何故この人は、無意味と知りつつ鐘山環を主と仰ぐ?

 暗黙の問いに対する、舞鶴の解答はと言えば、

「かくれんぼ」

 という、五字だった。

「彼の祖父、宗円公が亡くなられた時、戯れに隠形の術にて忍び歩いたことがありましてね。誰もが私を見ても認識できない中、あの幼い君だけが、私を見つめていた。見つかった鬼は、見つけた彼のモノになるのが道理、というわけです」
「ただ、それだけの理由で……?」

 それだけの理由で仕えたというのか。
 それだけの理由で、あの少年を修羅道に招き入れたというのか。

「あぁもろろん、私の術を破った眼力を見込み、主を仰ぐことに決めたのですが。でも……まぁ全ては戯れ。私が見つけたその種子が根を張り、育つさまを観察して愛でたいのです。実をつけぬ徒花であるかもしれませんが、それも一興、一興……長生きついでのヒマ潰しですよ」

 ほぼ、悪夢でも見ているような気分で、不老の女を実氏は見つめる。
 ――何故オレはこんな女を招いたのか……?
 と、今さらながらに後悔する。
 だが、酔いにうるむ客人の黒目に、雨下の野良犬の如き自身を見た時、実氏は苦笑と共に頬を叩いた。

 ――いかんいかん。

 『天下五弓』の五将のうち、自分が他の四名より劣っている、言わば『後付けの一将』であるという自覚はある。
 その四名に負けないものがあるとすれば、笑顔の出来であり、それこそが実氏の最大の武器であったと言って良い。

 今までも、これからも。

 舞鶴に酒の徳利を突き出すと、彼女もニッコリ笑って杯を差し出した。
「貴殿が環公子に仕える理由は分かりました。ですが、仕え続ける理由は?」
「ん?」
「先ほど言ったではありませんか? 天下への望みがないのが、オレたちの欠点である、と。ならば公子殿には、それがあると?」

 くすり、と。
 舞鶴は、さも面白げに顔をほころばせた。
 実氏もややぎこちなく笑み返し、「何か?」と問い返す。

「いえねぇ……だって、先ほどから実氏殿はまるで子どものように、どうして? 何故? などと問うばかり。……この世に解のある問いなど、ほとんどないというのに」
「それでもなお、答えを求めて問わねばならぬのもまた、人情というものでしょう」

 結局、勝川舞鶴は酒を一口飲んだきり答えてはくれなかった。
 二人の沈黙をコオロギの澄んだ音色が癒しながら、夜は穏やかに過ぎていく。

~~~

 男は、羽黒圭輔と主鐘山環が密会していることを知っている。
 器所実氏と、勝川舞鶴が酒を飲み交わしていることを知っている。

 ――だが連中は、おれがこうして暗躍していることは知るまい!

 男はそう誇りたくなった。
 碁石金の前にてだらしなく頬を緩める桜尾義種に、叫んでやりたくなった。
 城下の料亭、公子なじみという芸妓が奏でる琴の音と自らの功績に、しばし酔いしれた。

「……確かに、受け取った。六番屋殿にも確かにお伝えしよう」
「ははっ」
「この金さえあれば今後の展開もやりやすくなる。特にあの口うるさい愚弟がおっては、貴殿らもやりにくいだろう」
「はい。ですがそれにつきましては我らに秘策がございます。義種様にはご懸念なきよう、軍備に励んでいただきたいと思います」
「期待しよう」

 悠然と、泰然と、かつ気品に満ちたそぶりで、公子は頷いた。その辺りを見ると、最低限とは言え、大国の主の息子としての所作は持ち合わせているように見える。環にはないものである。
 だが酒によってたるんだ顔の肌膚と、腹周りの贅肉は怠惰で凡愚な正体を透かして見せているようだった。

 ――それでも、この男には利用価値がある。

 舌先によって貴種が意のままに動く快感を味わえるのは、天下広しと言えど自分ぐらいだろう、という自負さえも生まれた。
 もはや何も怖くないというような気さえする。

「ところで……これは環殿もご承知のことであったかな? 軍議の場で妙な顔をされていたが」
「ご安心を。承知のうえでございます」
「そうか。いやそうであったか……ま、どちらでもいいことだがな」

 ――知るわけがない。
 男はひそやかに二人の公子を嗤った。

 そもそも己がこうして活動していることも、その才も見抜けないような愚物である。この旅の中で、小才らしきものは見えたがそれだけのことだった。
 圭輔には良いようにやられ、実氏には翻弄され、模擬戦では家臣団に恥をかかせた。

 ――自らの命運をあのような愚将に託すのは危うい。

 そう察したのはまず自分が一番早かったはずだ。

 同じ流天組内にて同志を得た男は、すぐさま行動を開始する。
 こうして根回しはもちろんのこと、雑多な任務に東奔西走した。
 それがいよいよ形になりつつある。

 ――順門に帰れる日は近い。
 立ち上がり、夜風に我が身を当てながら、義種は謀主の名を呼んだ。


「では、今後もよしなにな。……色市始殿」
「お任せ下さい」

 弁士は不敵な笑みを見せた。



[38619] 第三話「無明の問答」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:59
「環、遅いなぁ」

 部屋の広さを持て余しながら、少女は自らを拾った者を待っている。
 しばらく環と話をしていないと思い、忍び込んだのだが当の本人が留守中だった。

「お前は卑賤の出ながら武家の、しかも公子に仕えるのだから。作法はともかく、自分なりに礼節をわきまえなければならないぞ」

 などと、地田綱房あたりがくどくど言っているが、そもそもその綱房たち自体が環にそれほど敬意を払っていない気もするから、別に深く考えなくても良いのだろう。

 鈴鹿にはそう思えてならなかった。
いつもは旧友に弄られながら笑っているが、時折一人寂しそうに遠くを見つめていることがある。

 まして友だちと隔たりができて、環自身もなんだか忙しく駆け回るようになってからは、ふと気を抜いた瞬間には表情を曇らせるようになった。

 ――これじゃ環はダメになる。
 本能的に、そう思い立ったが吉日。
 警備の目を抜け、公子の寝所に潜り込んだのだった。
 もっとも、女子がそんなことをすれば『どんなこと』と捉えられるのか、彼女は理解していなかったが。

 環の話は彼女というよりは己に向けられた問いであることが多く、内容はわけが分からない。
 それでも、環の話を聞いてみたいというふしぎさがある。
 話す時の環の顔はいつも以上に真剣であり、辛そうでもあり、でも穏やかで優しげで、安心しているように見える。
 それは、傷口に膏薬を塗布するような面持ちにも見える。

 その複雑な表情につい惹き込まれて、鈴鹿は眠くなりそうな話をつい最後まで聞いてしまうのだった。

 いつの間にか夜の気配に当てられて眠っていたらしい。

 気がつけば布団に顔を埋めていた。
 起き上がって見てみれば、周囲の夜灯も消えて、完全な宵闇が訪れていた。

 環らと出会う前は、冬の野宿も珍しくなかった鈴鹿にしてみればそれは恵まれすぎた環境であった。

 だが、彼女の夜目が、暗黒の中に立つ男を見つけた。
ひょろりとした背丈からすれば、その黒い影は部屋の主のものであった」

「たまき?」

 何も声をかけてくれない。
 身じろぎせず直立する人影に、恐る恐る声をかけた。

 その小さな声に反応して、影が獣のように敏捷に動いた。

 少女の肩を押し、再び布団に後頭部を沈めさせる。
 結わえてもいない黒髪がばらりと散って、細い首に絡んだ。
 環の赤い帽子が、宙を舞い、一拍子遅れて落ちた。

 背にはいつの間にか環の手が差し入れられていて、腕の中に鈴鹿の肢体を閉じ込めるようにして、自身も布団に倒れこんでくる。

「んっ」

 成熟した男の身体に圧迫され、鈴鹿は僅かに声を漏らした。
 甘ちゃんだ坊ちゃんだと陰口を叩かれる割に、戦乱という名の荒野を駆け巡った肉体は十分に引き締まっている。

 胸元からは酒の匂いがする。
 鈴鹿の知らない酒の薫り。
 鈴鹿の知らない環の臭い。
 未知の感覚に鈴鹿の頭はくらくらした。

 少女からは顔は見えない。でも恐怖はない。
 環の肌が、その下を流れる血が熱い。
 高鳴る鼓動は環のものか、自分のものか。それすらわからないほどに絡み合う男女は一体となっていた。

 持て余した彼女の手は、自然、男に合わせてその背へと回った。
 緊張の強ばりを撫でて、ほぐすようにしていると、 腕にこもる力はかえって強まった。

 苦しい。
 だが、何故だかそれが、心地よい。

 何かに縋りたい。何かを頼りたい。
 そうした環の想いを、全身で受け止めているのを感じる。

 心がぽかぽかとしている。
 その周りを、ふわふわとしたものがくるんでいる。
 だがそのもっと奥には熱い刃のような感情が隠れていて今にでも突き破って姿を現してしまいそうだった。

 そしてその一瞬後、
 その時が、来た。

「た」

 彼の名を呼ぶ、まさにその時。

「だぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」

 環の奇声が、彼女の心を遮った。
 正体定かでなかったその少年はいつもの鐘山環に戻った。戻ってしまった。

「どいつこいつも猫も杓子も! 勝手に期待して勝手に怒って勝手に尊敬して勝手に従って勝手に敵視して勝手に裏切って! 俺はただ流されてるだけなんだつーの! 高尚な志なんぞあるわけがないってーの! 天下に望みなんぞあるわけないっつーのぉ! あぁー、やめたいやめたいやめたいッ! 全部投げ出して逃げ出してしまいたいいッ!」

 溜まりかねた鬱憤を鈴鹿の耳元で一気に吐き出した後、環は深呼吸して息を整え、

「あー、スッキリした!」

 ……実に爽やかな笑顔と共に鈴鹿の身体から離れた瞬間、鈴鹿の心も冷たく固くなっていった。

「……」
「……なんだよ?」

 ジト、と軽く睨む鈴鹿が、やっと口にした言葉らしい言葉。
 それは、

「いや、環って……色々残念だよね」
「子どもの率直な意見は傷つくなぁ!」

 と、ありのままの呆れだった。
 起き上がった彼の許可は得ないままに、その膝に腰を落とす。
 環は拒みもせず、ボサボサとした少女の黒髪を指で梳く。

「なんか悪いな。子どもの体温てなんか落ち着くから、つい抱いちまった」
「……その言い方はビミョウだけど」
 後ろ手を頬に回し、空色の目に己を映し込む。
 優しいその目は人とは違うけれども、それでも鐘山環は鈴鹿にとっては、ごくフツウの、だからこそ、悪漢にまみれたこの世には珍しい、気の良いお兄ちゃんだった。

「あたい、環に触れられるのは好き、話はよく分からないけど、聞くのも好きよ」
「そっか」
 環は神妙に頷いた。
「だったら、もう少し愚痴言わせてくれ」
 と指の動きを止め、代わり、鈴鹿の頭頂を撫で始める。

「……道は、一本道だ。戻ることは許されない。味方にとっても、そして死んでいった敵にとっても、それは許されざる行為だ」
「逃げることも?」
 もちろん、という風に環は頷き、

「まっ、たまにこうして荷を下ろして労苦を嘆くぐらいは許してくれよな?」
 と、茶目っ気まじりに片目をつぶってみせる。

「ただ、そろそろ決めないとな。進む先じゃなく、どう進むのか。何が目的なのか? ……それが俺には、とんと分からない」

 困ったもんだ、と肩をすくめておどけて見せる環には、やはり笑みはない。
 顔の陰りには、いつもの孤独があった。
 何百人、何千人周囲にいようと、きっとその顔は変わらない。誰にも変えられないと思う。
 それが鈴鹿には、ふしぎでならなかった。

「? わかんなかったら、聞けば良いのに」

 ふと漏らした一言が、環の目の色を変えさせた。
 慰めるような彼の手つきが、ピタリと止まった。

「聞く? 誰に?」
「舞鶴とか、ユキとか」
「……ロクな連中がいないな……」
「それがダメだったら、もっと別のひと。それもダメだったら、もっと他のひと」
「その人もダメだったら?」
「じゃ、みんなで考えれば良いよ」
「……そうか、そういうのも……あるんだよな」

 環の身体に、わずかな揺れを感じる。
 怒ったのか、悲しんだのか。

 ――ううん、笑っている。

 それはやがて目に見えるほどに露わになって、彼は気安く少女の頭を撫で、もう片方の手が腹を抱えていた。

「そうだなぁっ! 答えが出なけりゃいっそ人に訊いちゃうか! なぁ!?」

 鈴鹿には、順門公子が何を煩っていたのか、何を考え、どうして大勝を得ることができたのか。
 終始流れを共にしていても、よく分からなかった。
 それでも、環の手が与えてくれる安らぎに幸福を感じ、何より彼が自分の答えに喜びを見出し、
「ありがとう、鈴鹿」
 と名を呼び、強く抱擁してくれたことが何より誇らしかった。


「急報だ、入るぞ!」


 ……だなんて、無粋者が断る間もなく入ってくるまでは。
 開きっぱなしだった襖から現れた地田豊房が目にしたのは、自らの御輿がいたいけな少女を手籠めにしているかのような、そんな光景だったに違いない。

 環の空色の目と、豊房の見開かれた瞳がかち合った。
 険しい彼の表情から、なにやら気まずいものを感じ取ったらしい。環も環でややぎこちなく手を挙げ、

「……どうも」
 と一言。

「…………破廉恥漢ッッッ!」

 いくつかの問答と間を省いて、流天組の副頭目の鉄拳が飛んだ。
「だぁぶっ!」
 かつての下っ端兼鐘山家の総大将は避ける暇もなく、横っ面にその拳骨をめり込ませた。 衝撃で突き放された鈴鹿は、彼の身体の感触が消えていくのを、ほんの少し惜しく思っていた。

 環がかわいそうだとは、それほど思えなかったけれど。

「こんな時にいたいけな娘をもてあそぶとは……恥を知れッ!」
「だからこんな時ってどんな時だ!? まずそれを言えって!」

 綱房の態度から、環もまた彼の急報が普通ではないことを察したようだ。
 でなければ、普段は品行方正なこの男が、ここまで荒ぶることもないだろう、と。

 綱房は環の両肩を押さえつける。
「いいか……心穏やかに聞けよ!」
「あんたこそ冷静になれって! いったい、何がどうしたよ?」
 環の指摘を受け、綱房は己の持ち前をやや取り戻す。
 それでも浅く肩を上下させながら、低い声を震わせて、伝える。


「……響庭村忠が、襲われた……」


「…………は?」
 環の瞳孔と口が、大きく開かれる。
「毒矢を射られ、下手をすれば明日をも知れぬ命ということだ。……最悪の事態だけは、覚悟しておけ……」

 ――また環の顔から、笑みが消えた。
 鈴鹿には二人のやりとりが良くわからない。
 状況が飲み込めないということもあった。彼女は二人ほどには、あの新参者とは馴染みが薄いということもあった。

 それでも、察することはできる。
 彼が荷を下ろしていた休息の時は終わる。
 そしてまた、背負い、歩き始めるということだった。



[38619] 第四話「黎明への糸口」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:59
 環、舞鶴がそれぞれの相手と相伴していた頃、響庭村忠もまた、ひそかに行動を起こしていた。
 城の郊外にある桃の木。花見の時期も過ぎ、虫が湧くゆえ誰も近寄らなくなったそこで、村忠は、その根本を睨んでいた。
「……やはりな」
 膝をつき、掘り起こされた土の痕を見、一人呟く。

 以前、ここに主君、鐘山環と協議のうえであるものを埋めていた。
 彼が正使として訪問した中水府、その副盟主である水樹陶次からの手土産の一部。
 亥改大州の策と褒賞として使い切れなかった金穀の残り。

 浪人衆を再び集める、軍備を整える、その一助とするために、蓄えていたはずのものがない。
 土の色は濃く、新しく、誰かが立ち寄って盗みとったことは明白だった。

 ――犯人が単なる野党の群れであればまだ良いけどな……

 時機からして見ても、内通者が桜尾義種らの手に賄賂として渡し、ひそかにその謀略の後援をしていた可能性が高い。

 ――そしてこの隠し場所は環殿、僕ら流天組や魁組の幹部連中、それと舞鶴殿でしか知らなかったことだ。

 と言うことは盗人はやはり、この中にいる。

「……ともかく、この辺で良いかな」

 立ち上がろうとした、まさにその刹那だった。
 ……殺意が、矢の形をして彼の肩口に飛来してきたのは。

「ぐっ……っ!?」

 鉄の鏃は彼の肩ではなく、それを庇おうとした左腕に食い込んだ。
 その柄を腕から生やしたまま立ち上がると、周囲を黒覆面で隠した男たちが、十数人、音もなく歩み寄った。

 木々の間の月光に、彼らの手にある白刃が凶暴なきらめきを見せる。

 ――いつの間に……

 その気配の消しよう、直前まで気づけなかった足の運びに、相当の修練を感じさせる。
 流天組、魁組にはない、陰々滅々とした独特の雰囲気。
 強いて言うなれば、舞鶴の緋鶴党や忍びに近い。

 だがその質はどうも違うような気がする。
 覆面越しにしかその顔が窺えないが、もはや彼らは老兵の域に差しかかっている。

「大義のため……」
「朝廷の御為……」
「帝のご恩に報いるため……死すべし」

 木石の如く冷淡な緋鶴党員と違う。強烈な個の意志、くぐもった低音にはそれを感じさせられる。

「きエェェエい!」

 猿のような叫び声を張り上げて、そのうちの一人が飛びかかった。
 村忠は刀を右手一本で抜くと、そのまま敵の胴を払う。振り抜きざま蹴り飛ばし、その勢いを借りて大きく転身した。逆方向から二番手の肩口に返した刀を押し当て、一気に切り下ろす。

 だが、己の身がどうにも重いことに気がついた。
 決して負傷の痛みのみが原因とも思えない、身体の鈍さ。
 一刀、一刀と撃ち合うごとに、妙な疲労感が蓄積していった。
 矢傷が、不自然なまでに熱を帯びている。

 ――毒か。

 その傷口に気をとられた一瞬、鈍麻した彼の感覚が、別方向から飛んでくる矢を見逃した。
 正確無比とも言えるその一射に気がついた時には、手遅れ。
 睫に触れるのではないかという、至近にあった。

 かつ、と。

 乾いた音を立てて、矢は落ちた。

 片目の一個は覚悟していた村忠であったが、その彼を、一本の小太刀と一人の少年によって救われた。

「良吉……ッ!」

 思わず少年の名を呼んだ瞬間、外野より

 パン、パン

 という破裂音が聞こえてくる。
 動揺を見せる刺客の一人の胸から、
「ぐぅ……おッ!?」
 と、大太刀の刃が生えてくる。

 半ば死体を背後から蹴り、姿を見せたのは亥改大州であった。
 不敵な笑みを見せる悪相の青年に、誰かが甲高く叫んだ。

「気にかけるな! どうせ舞鶴の百雷筒だ!」

 大州は己の小細工が露見したにも関わらず、なお嘲笑を保つ。
 葡萄のように吊し出したそれを見せびらかしながら「そうとも」と頷いてみせた。

「だが武門でなる桜尾家のご城下でこんなもん鳴らしゃ、すぐ誰か駆けつけてくるぜ? あんたらにしても、桜尾家中にバレるとマズイんじゃねぇのか?」

 対する答えは、言葉としてはなかった。
 だが、村忠たちの間合いの外、赤い火矢が矢天へ向けて飛翔した瞬間、男達は四散した。

 後に残った三名の死体が放置されている。良吉が後へ追おうとするのを、
「追わなくて良い……っ」
 と制止する。
 だが、その大声が決定的だった。
 今まで緊張と戦意でなんとか保っていた体勢は大きく崩れ、刀が手からこぼれ落ちた。

「お前ら……なんで……」
「俺は黒いのから。そいつは大将から指示されて、あんたの護衛に来たってところだ。て言うか、一人で出歩くなって通達あったはずだがね」
「それは」
「まぁその矢傷は、勉強代だと思っておけよ」

 大州は負傷者を労る様子もなく、嘲るように見下ろしている。
 草に頬をつけながら、村忠は苦い唇を噛みしめる。

 確かに、この負傷は自分の手落ちだ。
 おそらく連中はこの掘り起こした後を餌に、環派の誰かを討つべく潜伏していたのだろう。
 そうとは知らず、うかうかと近寄ったせいで、こんなハメにも陥ったというわけだ。

 ――まさか内通者がこんな兵力を隠し持っていたとも思えなかったし。

 知恵者を気取りながら、敵の力量も読み間違えるとはなんとも間の抜けた話だ。

 ――だが、このままでは終わらせない。毒には毒でもって罪をあがなわせてやる……

 そう決意し、毒が脳内に回るよりも先に、策を講じる。
 村忠は、辛うじて動く指で以て、近くの二人を招き寄せる。
 近づいてきた二人に耳打ちし、村忠は達成感と安心感により、力尽きて倒れた。

~~~

 村忠が運ばれた、城下の薬師宅。
 その奥の間で眠る村忠は、大州により担ぎ込まれ、良吉によってそれぞれに伝えられた。
 幸いにして彼は一命をとりとめることができた。それは、良吉の応急処置が的確であったからで、

「やれやれ。わたくしにこれ以上できることなど、ほとんどありませんぞ」
「いつもはそうは見えんが、流石は医師の息子だな」
 と、本業と豊房に言わしめるだけの手腕であったという。
 今は薬の効力により眠っているが、しばらく後を引きそうというのが良吉と、その薬師の一致した見立てであった。

 その薬師が看病をしている間、その玄関口にて一同は立ち往生しているしかなかった。

「『村忠が矢で射られた』。そう俺たちに伝えるよう言われたんだな?」
 どことなく誇らしげな良吉は、環の質問に顎を引いた。
 彼が切開して取り出した矢は、欠損することなくほぼそのままの状態で摘出されていた。

「はあ、ハアッ……村忠が死んだってのはほんとなのか!?」
 色市始が息を弾ませてやってきたのは、環から遅れること半刻。
 途端、その不謹慎な発言に、その場にいた全員の険しい視線を浴びる。

 ――ハイ。バカ一人発見。

 わずか一言で己が内通者だと告白してくれるとは、なんとも気の利いたことだ。
 こんな口の軽い輩が今まで秘密を隠しおおせていたというのは信じがたい。
 何より、色市の弓の技能は知っている。能ある鷹は云々という例えもあるが、自分の見込み違いでさえなければその可能性も低い。

 ――もう一人、この中にいる。

「まだ生きてるっつーの」
「あ、え、と……」
 不謹慎を咎めるその険しい視線のうちの一つが、おそらくは彼の不用心をたしなめるものであったのだろう。
 各人の目、戸惑う始の視線を環は順に追っていったが、流石に内通者両名とも、この時視線を交わらせるまで迂闊ではないようだった。

「あぁ。こいつで射られたが、なんとか助かったみたいだ」

 と、環が鏃の方を向けて手渡す。つい反射的に手を伸ばした色市を、豊房が
「おい!」
 と制して止めた。

「言ったはずだぞ。それは毒矢だって」
「げっ!?」
 と。
 慌てて取り落としそうとなる始から矢を取り戻し、由基を見た。
 彼女の表情が、わずかに、だが確実に歪んだことを、彼女の幼なじみとして見逃さない。

「冗談だって。ちゃんと洗い流してあるよ」
 と環は笑いながら、内心鋭く矢を観察する。

 毒の種類までは不明だが、スズランの毒の症状に似ている、というのが薬師の見解であった。
 そして『順門崩れ』の際、そうした毒矢を順門の土豪らが好んで用い、官軍を大いに苦しめたとも伝えられている。

 ――それにこの鏃の返し……魚骨にも似た独特の形状は、順門府、南沿岸部特有の……

 と、思考するうちに、少女の手が環の手から凶器を奪い取った。
 環には断ることも、拒むこともできなかった。

「誰だか知らねーが、ナメたマネしやがる」

 と、由基は口では言いつつ悔しさのようなものは見せない。
 逆に、敵の正体に至るための貴重な証拠を、か細いその手で叩き折ってしまった。

「だが、自業自得でもあるんじゃねーか?」
「なんだと?」
「村忠は、あんな場所で何してた? お前、何をあいつに吹き込んだんだ? 何で襲われた?」
「そ、そうだっ! 妙ではないか!?」

 由基の質問攻めに、劣勢であった始も便乗した。
 どちらを嗤ったものか。時折大州の喉奥から忍び笑いが漏れ聞こえ、それがますます少女の怒りの炎を盛んにさせた。
「だから、それは」
 説明しかけて、環は止めた。
 この幡豆由基が、環の弁解を求めているわけではないと察したからだった。
「そうか……そうだったな。俺のことが信じられないんだったよな? お前」
 意図して険しく言ったわけではなかった。
 だがこの言いぐさこそが、今の二人の、冷え切った関係を象徴するものだった。

「やめろ。死地を脱した同朋の前だぞ」
 豊房のたしなめによって、その場は事なきを得たが、由基の両目には不満の残り火がくすぶっている。

 鼻を鳴らすと、弓を担ぎ直して踵を返す。
 その後ろに色市がすがさず従い、豊房も遠慮がちについていく。
 彼らにかける言葉を、今の環は持ち合わせてはいなかった。

~~~

 響庭村忠は、三日三晩眠り続けた。

 意識を取り戻したと聞いて、薬師宅へ単身駆けつけた環を出迎えたのは、
「……ヒマな人だなぁ」
 布団に潜り込んだ村忠本人と、普段どおりの彼の悪態だった。

「お前な。ふつうは主の見舞いに対する礼とか、独断専行の詫びとか、そういうのを口にするもんじゃないのか?」
「まぁ確かに。今回ばかりは才走り過ぎましたね」
 等と、悪びれもせず平然と言って、主の頭を悩ませた。

 薬草の帳をくぐった環はその傍らに腰掛け、ふっとため息をつく。
 濃厚な草花の香りが、容赦なく辺りを侵している。
 挨拶にやってきた薬師に対し、相応の謝礼に上乗せ分を足して、しばしの人払いを依頼した。
 邸宅から、自分たち以外の気配が消えたのを確認してから、問う。

「で、どうだ経過は?」
「んー、舞鶴殿の薬酒のおかげもあって、だいぶ楽になりましたよ」
「あれをか!?」
 薬酒と聞くと、滋養が舌と口と胃の腑で大暴れした苦い経験しかない。

「ただ戦に出られるかどうかは、微妙ですね」
 己の副将を自負する青年は、そう言ってほんの少し悔しげに顔をしかめた。
 傷に障らないよう、優しくその手を村忠に添えた。

「気にするな。まぁ今回お前は鈴鹿と同様、桃李府に対する人質だ。その中でできることをすれば良い」
 それに、と居住まいを正し村忠に口を近づけて、低く囁いた。

「お前の策は、もう既に役に立った」

 村忠は、大州を想起させる悪漢の笑みを浮かべた。
 ただ小動物的な顔の作りからすれば、それは賊と言うよりかは民話や戯画のタヌキや狐に近い。

「僕の毒が効きましたか?」
「一人は色市のバカタレ。もう一人はまだ確証が持てないが、あいつ一人に諜報を絞れば、遠からずその素性もハッキリしてくるはずだ。お前には出陣中、緋鶴党十名ばかり預ける。上手いこと使ってそれを洗い出して欲しい」
「分かりました。あぁ、それと進言を」
「ん?」
「色市も、そいつも、しばらく踊らせておきましょう。ヘタに動けば気取られます。色市の粗忽者は自信過剰。放っておいても、協力者を巻き込んで自滅しますよ」
「俺もそう思う。舞鶴も同意見だった」

 くすくすと、二人して笑い合った。
 その笑いの切れ目、環の胸にふと、暗い影が過ぎった。

「どうしました?」
「村忠。少し気になることがある」
「それは?」
「お前の貌が見えない」
「はぁ?」
「村忠はどうしてこんな死にかけてまで俺と共に在ろうとする? さっきにしてもそうだ。お前の物言いは、俺から憎悪をそらすために振る舞っている部分もあるんだろ? どうしてそこまでする?」

 帽子を深くかぶり直して、いつぞや、圭輔に問われた時と同様の問いを、改めてぶつけた。
 それに対する返答と言えば。

 一、冷視。
 二、露骨なため息。
 三、「貴方ほんと残念な人ですね」

「……また、残念て言われた」
 主君に向けられたと思えない悪口に、環が気落ちしなかったと言えばウソになる。

「それ、どこぞの二枚目の受け売りでしょ。どうせ。そういうことは言ってみる前にまず自分に合うか考えてからにしてくださいよ」
 どうせ自分でも分かってないくせに、と、陰険な副将は締めくくり、環の頭を限界まで落ち込ませた。

「だいたい、僕は貴方のために戦ってるわけじゃない。自分のためですよ。何を勘違いしたのやら」

 他人を必要以上に煽るその言動、おおよその者は逆上したり、刀を抜いたりしただろう。
 だが環は付き合い始めた頃から、それほど腹を立てたおぼえはない。

 公子と言うだけでもてはやされ、おべんちゃらを言われ、そして薄っぺらい笑いの裏にある打算を本質的に見抜いてしまう。
 そんな環にとって、歯に衣着せぬ男の物言いは、むしろ親しみさえ感じられたのだ。

 由基とは違う。彼女は必要以上に他者に噛みつきすぎる。尊大で、偏見に満ちている。
 貴きも卑しきも、強きも弱きも平等に貶め、自分さえも上には置かない。
 そんな姿は、呆れを通り越して尊敬に値する。

「て言うか、誰だってそうでしょ。よく真っ当な家臣が口にする忠義のため、大義のためだとか、そんなことを口にする自分に喜びを見出してるんです」
「ずいぶんな言いぐさだが、お前は違うと?」
 当たり前でしょう、と不本意げに口を尖らせて村忠は答えた。

「知ってるでしょうが響庭家は祖父の代、戦で大失態やらかしましてね。戦には勝ったことですし、移封され加増されたんですが、実態は僻地へ左遷ですよ。そんな没落武家の次男坊として生まれたところで、将来は決まり切っている。だから僕は変化を求めたんですよ」
 語ると熱が入るのだろう。寝巻きの袷をしきりと指でもてあそんでいる。
「賭けに勝って栄達を手にしても良い。負けて急転直下の地獄を味わっても良い。善悪は言うに及ばず。何であれ、知れきった末よりも、心躍る冒険が欲しかった。生きるにせよ死ぬにせよ、己の才知で決定づけたかった」
「だけど、変化と言うなら叔父御もそうだろ。あの人も、改革を求めて謀反に及んだはずだ」
「宗善公が求めたのは改革じゃない。現在、そして先々まで決まり切った永久の秩序。……順門の民は、なんの面白みもない一生を終えるでしょうよ。居残った彼らも、そして天下の民も、僕と同じ思いを少なからず望んでいるんじゃないですかね」
 どことなく挑発的な物言いに、環は帽子を目深にかぶり直し、舌を鳴らした。

「僕にさえ分かるんです。大渡瀬を見た貴方なら、それが分かると思いましたが?」

 ――知っている。決まっている。
 かつて、黒衣の尼僧にも、似たようなことを尋ねられたことがある。

 ――その時の俺は、なんと答えたっけか?



[38619] 第四話「黎明への糸口」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:59
「公子殿、暇そうでうらやましい限りです」
「……何故、どいつもこいつも俺が暇そうに見えるのか……」

 荒れ寺の山門で再会した羽黒圭輔は、開口一番、自分の臣下とまったく同じ印象を口にした。
 両者とも慇懃無礼という点では似通っているが、この圭輔には村忠にはある愛嬌もかわいげもない。

「違うのですか?」
「違いますよっ! ってか、むしろ多忙を極めてますよっ! 与力衆への挨拶回りとかっ、新たに雇い入れる将兵の面談とかっ!」

 それは、見栄ではなく事実であった。
 自らの増援として割り当てられた近隣の土豪に、自ら足を運ばせるのはもちろんのこと。
 浪人衆、環らとは別の順門からの亡命集団、祖父の盟友であった赤池(あかいけ)氏の旧臣など、環の名声、大州のツテ、家そのものの縁故を頼って。
 戦の予感を感じ取ってか、募るよりも前に、環の下には多くの者が陣借り、仕官を望んでやってきた。

 亡命公子に将来性を見出し接近してくる者など、よほど無計画な愚か者か、環の人格を正当に評価してのことか、あるいは環本人にも知り得ぬ打算の持ち主か。

 それら玉石混交の無頼者を、環は自身の眼で見極めなければならない。
 集団行動によほど問題がない以上は量がほしいからそのまま受け入れるつもりだ。
 だがこの戦が終わった後、なお与するに足る質を持っているか。それを測るためにも、環は観察しなければならない。

 そんな多忙な中、呼び出したのは他ならぬ圭輔だ。
 そこにケチをつけられたのだから、面白くないわけがない。

「で、今日は暇人を呼んでいかなご用で?」
内心はさておき、いやさておき切れずに皮肉を込めて、環は圭輔に問うた。
「今日蓮花を出て岩群へ戻ります。別れの挨拶をしたかっただけです」

 環はこの時点では特別驚かない。
 圭輔の旅装姿を見ればそれは一目で分かることだった。
 問題は、自身の居城へ帰る理由である。

「東の国境がまた騒がしくなりましてね。遠からず風祭家が動き出します」
「それは、つまり」
「こちらの出陣を見越して順門府が裏で手を回したのでしょう。貴方の読み通りに」

 貴方の、をことさら強調して圭輔は言った。
 苦笑する環に、階段を下りた圭輔が振り返った。色違いの瞳と、玉の如き肌の輝きが、環を射抜く。

「その顔」
「は?」
「先日の答えは、見つかったようですね」

 環は、頬をつるりと撫ぜた。
「見つけたかどうかは分かりませんが、覚悟はできました」
「覚悟、とは」
「……あんたと天下を賭けて張り合うだけの、覚悟」

 ジワジワと、例の笑みが圭輔に宿る。
 環も同様の笑みを浮かべるが、それは自然に出たものではなく、半ば意地のようなものだった。

「まぁ、及第点ですね」
 と言って、圭輔は歩を進めた。
「ところで、近ごろ羽黒にも陣借りを求めて来た者がいましてね」
「? は、はぁ」
「とは言え、僕はすぐ出立する身。とても召し抱える余裕はない。この裏辻で待たせていますので、そちらで預かってはいただけませんか? 兵は、必要でしょう?」
「……その御仁の名は」
「皆鳥(みなどり)なすび斎」

 ――なすびって。
 聞いたことのない名だ。
 聞けば絶対忘れそうにない名だ。

 本心の読めぬ男から、素性定かならぬ男を素直に預けられる謂れはない。
 探るような目つきで睨む環に、

「実力と素性は保証しますよ」
 圭輔はしれっと言った。

「待った」
 と環は声をかけたが、羽黒圭輔は足を止めなかった。
 だが、

「そう言えば、逆にあんたからは聞いてなかった。あんたの望みこそなんなんだ?」
 ……という問いが、階段を下り切った圭輔の足を止めた。

「どういう国を作る? 天下に何を求めている。人に聞くぐらいだ。自分なりの形をちゃんと持ってるんだろ?」
 ややあって、異色の茶目のみが細められ、階上の環を見返した。
 しばらく、緊張感のある時が流れた。
 だがふしぎと、満たされているという実感があった。

「力の世」

 静かな宣言は、その五字より始まった。

「才の有無、家紋の貴賎に関わらず、それぞれの者たちが己の力量を高めるべく精励し、求めるもの、守るもののために力を最善の方法で使い尽くす。それが僕の理想です。今は具体性と実力の伴わない虚ろな夢なれど、いずれは実現してみせる」

 当てられた者の十人に九人は身をすくませるであろう強烈な意志を、異彩の男は放っている。

 だが同時に、思わず身を抛つほどの言い知れぬ魔力を帯びてもいた。

 人を破滅に導きながらも、抗しがたい求心力。
 人はそれを英雄の気質とでも呼ぶのかもしれない。
 かつて笹ヶ岳を焼いた上社信守や、往年の桜尾典種、祖父宗円、父宗流……彼らも、それを携え、天下に挑んだのだろうか?

 環がそれを若干引いた笑みと共に受け流すことができるのは、その笑みの中に、彼の語る世の理に、強い反発心を感じていたからだ。

 人はそこまで強くはない。
 人は己の生にさえ勤勉にはなれない。
 時に折れ、特に腰を下ろして蜜を求めるのもまた、人の性である。

 環があえてそう否定しなかったのは、そう説破するだけの経験も実績もなかったからだ。

~~~

 はたして、圭輔に紹介された浪人とやらは、裏の山辻にて待機していた。

 なすび斎と言ったか。
 緑の鉢金より下、濃紫の武具で身を固めた姿は、なるほど遠目に見れば痩せ茄子にも見える。

 だが環が近づき、その姿がはっきりと見えてくると、嫌が上でもその正体が知れた。

「……えーと……皆鳥なすび斎殿?」
「はい!」
「……あの、ぶっちゃけ羽黒圭馬殿じゃ」
「なすび斎です!」
「羽黒圭」
「なすび斎です!!」
「羽黒」
「なすび斎ですっ!」
「…………って言うか、その名前恥ずかしくないんですか?」
「圭輔様のつけたお名前ですから、ケチはつけられませぬ!」
「あ、やっぱイヤなんだ!」

 丁々発止、気心の知れた若者同士のやりとり。
 それを楽しんだ環となすび斎、もとい羽黒圭馬は、改めて向き直った。

「改めて、兄圭輔より命を受け、環公子を補佐させていただきます。この圭馬の武、微弱ながら存分にお使いください」

 散々罵倒し、いじり倒し、変な偽名までつけた。だが圭輔にとっては頼れる腹心であり、羽黒家全体にとっては重鎮であり、その軍にとっては主力であろう。

「実力と素性は保証しますよ」

 という、圭輔の去り際の言葉からも、普段は表に出ない、出せない圭馬への信頼を感じさせられた。

 そんな隠れもなき士を、名を偽らせてまで他人の手に委ねるということはどういうことか。
 今までの経緯から、そこには何らかの、意味がある。


「兄者の思惑は、凡人たる俺には分かりません。ですが、すでに『己の信じるままに動け』とのお言葉も頂戴しています。故に、俺は俺の信じた貴殿を信じます」

 圭馬の言葉に、環も頷いた。

「なので、公子殿もどうか、他の何者を信じられずとも、俺だけはお信じくだされ。この愚直さだけは、貴殿も良くご承知のはず」

 試し合戦では、それを利用したのだから。
 確かにそんなことを言っても嫌味と感じさせないあたりが圭馬の美徳であり、信頼に足る所以だ。

 そして彼の背後に、義兄の思慮を感じ取る。

 一つは、この羽黒の支柱を借りずに風祭家と相対する備えができているということ。
 それで処理できるほどに、規模の大きな挙兵ではないだろう、ということ。

 そしてもう一つ。
 環の陣営における、決定的な欠落の指摘。
 信頼に足る腹心の不在。
 そうして圭輔に見抜かれ、助言されるほどに、己はその敵手としては力不足なのだ。

 ――いや、単に自慢の義弟を見せびらかしたかったのかね?

「公子殿? 何かおかしいことでも?」
「あぁ。いや。やっぱりなすび斎殿とお呼びすれば良いですかね?」
「……せめて二人きりの時は避けていただきたい……」

 環は低く笑って歩く。
 意識は、真逆へ向かった羽黒圭輔へと向けられていた。

 環は確かな足取りで西へと赴く。
 圭輔は軍馬を駆って東へ馳せるだろう。

 二人の進む場所は真逆だが、いずれ巡り巡って一つ同じ場所にたどり着くのは知っている。
 それぞれの因縁を超えた後、その一点にてぶつかり合うであろうこともまた、環は知っていた。



[38619] 第五話「旭日の出立」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 16:59
「こうして挨拶するのは初めてでしたかな。桜尾義種と申す。後の桃李府公である」

 ――あ、これ桃李府終わったわ。

 名津。
 六番屋の屋敷で肥満な公子と面会した時、環が第一に浮かべた言葉が、それだった。

 少なくとも、桜尾家としての桃李府は終わる、と予感した。
 彼が酒屋の一店主であれば、まぁ子に継がせる程度の才覚はあるだろう。
 だが、百万の民と、羽黒圭輔という最大の政敵を抱え、天下に名だたる大国を相手どるには、器量が及ばない。
 所作にせよ雰囲気にせよ、それを物語っている。

 初見でそこまで見下すのはどうかとは思うが、舞鶴、実氏、圭輔など多くの人物と比べれば、見劣りしてしまう。

 ――目が肥えてきたな。良くも悪くも。

 だが、そうした軽侮を表に出すわけにもいかない。
「はは。義種様のお口添え、感謝のきわみ」
 世辞を言って頭を下げて、恐懼を示す。

 義種の許しを得てから顔を上げると「ついては」と彼が顔を近づけ、耳打ちする。
 だらしなく緩んだ口元から、酒の発酵臭が漂ってきた。
 やや距離を置いて座る由基でさえ顔をしかめたのだから、客人を待つ間に相当な酒量を飲んだことがうかがえる。

「順門府討伐において、我に秘策がある。是非ともお聞きいただきたい」

 こんな場で素面でもなく語る計画など、秘策もへったくれもないだろう。
 そう思わないでもないが、環は表面だけはニッコリ笑い「拝聴いたします」と、聞きたくもない続きを促す。

「うむ。かつて朝廷が順門を攻めた際のことだ。貴殿の祖父は国境ではなく、御槍城を起点に防衛線を築いた。
これは官軍の兵站線を伸びきったところを叩くためであった。だが、今回敵と我々の戦力差はさほどないであろう。ゆえに、今回も例年どおり国境を挟んでの戦いとなるだろう」

 その予測は正しい、と思うし常識はずれなことは、この公子は言っていない。
 問題があるとすれば、常識的な意見をさも得意げに誇るあたりだろう。

「だが正攻法で争っても、貴殿を祖国にお送りすることはできぬと思う」
「それで、先ほどの奇策ということでしょうか」
「そう。そこで、貴殿の助力を頼みたい」

 膝をにじり寄せた義種は、手を畳の上にさまよわせた。
 おそらくは仮想する戦場を図示しているのだと思われるが、興奮と酔いとで小刻みに震えるそれでは、理解するには難がある。

 環は彼の言わんとしているところを断片的に拾い上げ、己のうちで整理するしかなかった。

 曰く、敵はどうしても環を討ちたいはずであり、戦場ともなれば真っ先に環目がけて攻めくるだろう。

 そこであえて環が前線に出ることで敵の攻勢と布陣の綻びを誘う。

 その間に、自ら率いる本隊は一挙に敵の側背を叩き、周辺の城を制圧しつつ、敵の本拠板方を落とすというものだった。

「まさに! 往年の典種公を思わせる豪胆にして勇壮、かつ完璧な作戦ですな!」

 示し合わせたように、色市始がおべっかを使う。

 ――俺らが死ぬことに目を瞑ればな。
 と、環は心の中で密かに言い足した。

「なに、環公子が崩れるより先に、空城など瞬く間に落とし、返す刀で敵軍の後背を突いてみせるぞ!」

 と、義種は豪語するが、桃李府公子が順門府公子を見る眼差しは、囮か捨て駒に対するそれだった。

 この男の狙いとしては、環たちが敵を引き受けている間に城や領地をできるだけ切り取り、やがて来るであろう環の討ち死に、あるいは自刃を落とし所に宗善方に矢留め(停戦)を求める。

 ――そうまでして、弟に勝ちたいか。

 環とて木石ではない。
 己はともかく、己に付き従う者たちを危地に陥れる策に、無心でいられるはずがない。
 だが正面からそれを突っぱねるほどの力がないのが、我が身の悲しさだ。

「で、どうであろうか」
「まことに壮大な軍略。しかし私のごとき愚鈍なものでは、公子様の策の成否など分かるはずもございません。つきましては後日、舞鶴をともない、然るべき密議を重ねるべきかと」
と遁辞をかまえるほかない。

「いや。それには及ばん」
「は?」
 しかし、環の予想し得ない答えが返ってきた。
「舞鶴殿は環殿のご家中ではあるが、天下に名高き『五弓』の一人。それを他の家臣と同列に扱えば、桜尾家は礼儀を知らぬと他家より謗られよう。羽黒家がどうしたかはともかく、な。ともあれ舞鶴殿のお知恵を借りるまでもない戦となろう。名津にゆっくりくつろいでもらおうと思う」

「…………承知しました」
 なるほどそういうことか、と環は小さく呟いた。
 だがその呟きは、目の前の公子にではなく、背後の家臣たちへと向けられていた。
 村忠の抜けた今、こうした宴に同席できるのは由基、始を始め、居並ぶ家臣は皆反環派といったところだろうか。

 義種としては、環を見殺しにすること前提なのだから、自らの奸計を見抜くような人物が環の側にいてもらっては困るのだろう。
 ……もっとも、彼の計は舞鶴どころか、環にさえ看破されているのだが。

 そして、背後の色市と例の一人が反論しない辺り、これは義種の発想ではなく、彼らから為された違いない。

 自分たちを桜尾家臣にしろ、とでも要求したのだろうか。
 だが彼らが本心から桃李府に腰を落ち着けるつもりとは思えない。
 そう見返りを要求しつつこの桜尾府公子の警戒を解きつつ、実際は宗善のために働いているに相違ない。

 ――となれば、こいつの戦略なんぞとうに筒抜けだろうよ。

 そのことに対しては、憐憫を覚える。
 だが、それを義種に告げ口する気は毛頭ない。

 もし義種が己が謀られたことを知れば、内通者のみならず無関係の人間にまで害を及ぼしかねない。
 順門出兵自体が取りやめになっても困る。

 ――何より。

 騙せていると思い込んだ人間ほど、騙しやすい人間はいない。

~~~

「本当に、鳩ですね」
「はい。鳩が来ましたな」

 皆鳥なすび斎こと羽黒圭馬は、普段は他の者らとは顔を合わせない。
 由基たちには面が割れているというのもある。
 戦になるまで存在を明かせないこの客将には、別に頼みたいこともあった。

 軍師、勝川舞鶴へのつなぎである。

 準備もへったくれもなく、有無を言わさず強引に連れて行かれた舞鶴は、今は六番屋の本店にて厄介になっているらしい。
 女店主の史は環らとは顔見知りだが、彼女は宗善についた可能性がある。油断はできない。

 舞鶴本人は連れ去られる間際もニコニコしていた。
 それらしいことを伝えなくとも、この女はこちらの事情を正しく理解し、それを打開す る腹案を持っている。
 そう直感したからこそ、環は圭馬をそれとなく遣わしたのだが、

~~~

「危ういですねぇ」
「は?」
「むやみに人を遣わすことが、です。秋茄子殿もふふ……武人ならば……ぷっひ! ククク、周りの、気配にお気づきでしょうに! ファー!」
「秋茄子ではなくなすび斎です! あと話の途中で吹き出さないでいただきたい!」

 とまれ、店にも監視の目があるのは確かである。
 舞鶴の笑いが必要以上に注意を引き寄せたのは否めないが、勝手知ったる店である。山伏姿に変装こそしているが、いずれその正体も割れるだろう。
 それを承知で、圭馬は舞鶴と一度会わなければならなかった。

「何しろ私は蛇蝎のようにしつこい年増の未亡人に見張られている身。うかうか秘策を話すことなどできませんね」

 聞こえよがしに煽りに煽る舞鶴を、圭馬は慌てて止めた。
 下手をすれば己まで出入り禁止にされかねない。

「『鳩』」
 そのどさくさに紛れて呟いたのが、その一言だった。
「! ……それは」
「殿にはそれだけお伝えすれば分かります」

~~~

 そう言われ、勇んで報告してきた圭馬に対する環の答えは、
「……知らんよ、そんなもん」
 というものだった。

「いや、知らぬと言われた時にはいささか戸惑いましたが、まさか本当に鳩が使者として来るとは。盗み聞きしていた連中は、隠語と勘違いしておりましょう」

 苦笑を浮かべた環の脳裏には、正体不明の密偵や、鳩にまつわる土地を探し回る内通者の姿が、見て取れるようだった。

「随分人懐こい鳩ですな。鷹はともかく、訓練された鳩というのは聞いたことがない」
「まぁそれはそれとして、圭馬殿」
「はい」
「なんでこいつは俺の帽子から離れないのか」

 帽子ぐるみ頭を掴む鳩を指差し、環は尋ねた。
 この鳩は羽黒屋敷、圭馬との密談中に唐突に屋外から飛び込み、環の頭上に留まったのだ。
 圭馬は曖昧な笑みを浮かべて首を傾げ、

「フン落とされるよりは、マシではありませんか?」

 と、毒にも薬にもならない慰め方をする。
「ご主人ともども……ったく、俺ナメられてるよな」
 深々と嘆息した環は、圭馬に鳩を引き剥がすのを手伝ってくれるよう依頼した。

「いだだだだだだ! 食い込んでる! 爪食い込んでる!」
「あーあーあー、これ出血もやむなしかもしれません」

 二人で四苦八苦してなんとか鳩を取り外そうとしたが、この鳥は置物にでもすり替わったかのように微動だにしない。
 小動物とも言え、禽獣の力強さを思い知らされた気分だった。

 仕方なく帽子ごと離すと、その足首に小さな筒がくくりつけられているのを発見する。
 蓋を外すと小さな紙片が出てきた。細かい文字でびっしりと書かれたその内容を、肩をぶつけ額を突き合わせながら、二人は苦心して読んでいく。

 そしてその内容に一通り目を通した二人は、微妙な顔を突き合わせた。
「……どう思います? コレ」
「さて、あまりに大がかりな戦略に過ぎ、にわかには判断できませぬが」
「が?」
「その成否を分けるのは、環殿ご自身。この策が成るまでの間、義種様の無謀な目論見に沿って、前線で持ちこたえねばなりません」

 環は圭馬の意見に頷いた。
 少年らしい快活さと、武家の御曹司としての気品あるこの若武者とは、身内を含めても最も気が合うであろう、と環は思う。
 由基がこの男を超えたいと真に望むのであれば、まずこういう素直さや実直さを見習うべきではないのか、とも。

 ふと、その男の視線が東の側へと逸れたのを見、環は苦笑を滲ませた。
「……やはり、東の戦線が気になりますか」

 羽黒圭輔率いる三千が、前線の番場城の守備についたという報がもたらされたのは、つい数日前。と、同時に風祭家の大軍が国境を侵し、城への攻撃を開始したとも聞く。
 予想を超える敵の兵数を危惧し、器所実氏がさらなる増援を率いて東進すべきと説いているという。
 家臣の中には、戦力の逐次投入を嗤う声もあった。
 おそらくそれも背後で手を回しているのは、内通者と鐘山宗善だろう。器所実氏、羽黒圭輔という桜尾家の双璧を、環から引き離すために。

「あ、いえいえ」
 相手に気遣わせてしまったか、と圭馬は表情を曇らせた。
「敵の総大将は風祭親永。あの者も大した人物ではあるそうですが、兄者はこの程度の危機、何度も乗り越えております。……ただ、問題は後詰めを率いている風祭武徒」

 その名は環でも知っている。
 康徒亡き今、外交の手腕はともかくとして、戦であればその父をも凌ぐとされる名手。
 羽黒圭輔とて、何度苦杯を舐めさせられたか知れない男。

 不安を拭えない様子のその義弟に、環はふと思ったことを率直に尋ねてみることにした。
「しかし、圭馬殿」
「はい?」
「今更こう踏み入ったことを聞くのもあれなんですが、どうしてそこまで圭輔殿のことを信頼なさるんで?」

 家督まで奪われたどころか、そんなヘンテコな偽名まで与えられて。

 という言葉を環は辛うじて飲み込んだが、圭馬にはその言わんとしていることが伝わったようだ。
 ほろ苦く笑う若武者を、帽子に留まったままの鳩が赤い瞳で見つめている。

「では逆にお尋ねしますが、環殿は何故、そこまで俺を信用するのですか?」
「信じろ、と言ったのはそちらですよ」
「ですが、バカ正直に、あいえ褒め言葉です。こうして秘策までご披瀝いただけるとは、並の信じ方ではありますまい」

 随分失礼な物言いだが、圭馬は正しいことを言っている。
 頭に手をやってから、帽子が奪われていることを思い出す。
 代わり黒髪を手で押さえつけて、圭馬の疑問に答えた。

「そりゃあ、圭馬殿もバカ正直だからですよ。あいえ褒め言葉でね。実直で気遣いもできるし、つまらない拘りも見せない。だからです」
 圭馬は自分の納得のいく答えを得た、とばかりに強く頷いた。

「俺も、それが理由です」

 どういうことか、と眉をひそめる環に、圭馬は言った。
「確かに、桜尾家からの養子が家督を継ぐことに、多くの家臣が反対したことは確か。俺の妬みも否定しません。ですが、そうした反発を丸め込み、結果桜尾晋輔が羽黒家に隆盛をもたらしたこともまた、事実。己よりもあの方が当主に相応しいと悟った瞬間、心のゴタゴタがすいりと片付きました」

 すなわち、と一度句を切って圭馬は兄の如き優しい眼差しを環へ向けた。

「信頼とは、相手を認め、頼ってこそはじめて生まれるもの……などと、俺の如き小者は思うのですが」

「……頼るべきところは頼っている、つもりなんですがねぇ」
「一部の方は、でしょう? ……貴殿の言葉を、待っている方もいるかと思いますが」

 もうお前のことが、わからない。
 由基にそう言われてから、関係に深い溝ができてから、どれぐらいの月日が経っただろうか?

「舞鶴にも同じことを言われました。今さら声をかけたところで、理解されるとは思えませんが」
「別に理解してもらう必要などないのではありませんか? 意味は分からずとも、本音であることを示す」
「あのひねくれ者がそれを受け止めてくれるかなぁ」
「むしろまっすぐぶつけた方が、ひねくれ者には効くことがありますから」
「……それは」

 貴方の兄のことですか、と。
 ついつい尋ねたくなるが、聞かぬが華、ということもあるだろう。

 なんだか恋の相談でもしているかのような気恥ずかしさに頭を掻いて
「ご忠告、痛み入る」
 と頭を下げる。
 それは、感謝のものであるとの同時に、もう一つの願いに対する低頭だった。

「……あと一人、俺の言葉が必要な人間がいる気がします。そのために、圭馬殿にお借りしたいものがあります」

 鳩がようやく帽子を解放し、天空へと舞い上がる。
 環は帽子をかぶり直し、じっと相手を見据える。



[38619] 第五話「旭日の出立」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:00
 申の月五日。
 農繁期も無事終えた桜尾軍が十分な兵糧を蓄えて西へ出立した。
「順門府公子、鐘山環殿を正式な順門府後継者と認め、それをお送りするべくその叛徒どもを討つ」
 そうした題目を背負う軍、一万二千の総大将は、桜尾義種。
 彼は馬には乗れず、輿を用いていた。
 別にそのことが悪いとは環は思わなかった。古来、馬は操れずとも数万の軍を操った名将などいくらでもいる。

 ――だが、この女は白馬を好んで用いたという。

 件の女を前に、鐘山環は歴史を振り返った。
「あらあら殿! お久しぶりでございます!」
 監禁の労苦などおくびにも出さず、もしろその生活を満喫するかのように、勝川舞鶴は従軍中のある早朝、名津に立ち寄った主を出迎えた。

 環はひそかに軍を抜けて、わずかな緋鶴党員を護衛にやってきたのだった。
「おぅ。お前も元気そうで。……必要以上に」
「そのおっしゃいようは心外ですが、そうですねぇ。鈴鹿殿もこうして侍女として側に置くこともできましたし、不自由はしておりませんよ」

 自らの腰にしがみつくように再会を喜ぶ鈴鹿を、環は苦笑と共に撫でている。
「殿。言うまでもありませんが、この戦は天下分け目の決戦とお心得くださいませ」
「分かっている」
「それと策は既にお伝えしたとおり変更はありませんよ。あとは殿の器量次第」
「それも、分かってる」

 そもそもこんなことを店の前で話して無事であること自体が、ここまでの準備が滞りなく行われている証左だった。
 だがそれが面白くもないのか、まぁと童女のように口をとがらせ、不老の尼僧はふてくされた。

「それでは、何のためにこのようなところに? ……はっ、まさかたまりに溜まった鬱憤やらなにやらを、この私と鈴鹿殿で解消しようと……!」
「だぁ! 違うわ色ボケッ! だったらもっとマシな相手見繕うわっ!」
 途端、女性二人からじっと睨みつけられる。
 自分が昼間の往来で公子らしからぬ失言をしたことに気づき、気まずさから目をそらし、鈴鹿を除けた。

「まぁアレだ。なんだかんだ言っても、この策を考えたのはお前自身だ」
「……はて、なにやら話が見えてきませんが」
 舞鶴の言葉は正しいと思う。
 自分でもなにやら、よく分かっていないうちにここに足を運んでしまったような、そんな気がする。
 だが、言わねばならないことまで見失ってはいなかった。

「だから、お前を信じなきゃ先に進めない」
「あれまぁ驚いた。殿は舞鶴のことを信じてなかったのですか?」
「信じてたよ。っていうか、信じざるをえなかった」

 彼女が環に手を差し出して以来、その言動に振り回され、策を頼らざるを得ない状況に何度も陥り、そして今もなお自分は彼女の大計の歯車の一つに過ぎない。

「でもお前はさっき言っただろ。ここからは俺の戦いだ。だから、信じるなら盲進じゃなく、俺の確たる意志で命運を託したい。そのための、準備をしてきてな」

 環は懐から、一切の本を取り出した。
 薄く黄ばんだ表紙には『百年史』と銘打たれている。
 王争期の流れを知ることのできる代表的な史書である。
当然そこに書かれていることには、目の前の不老の尼僧の名もあった。
 自分も同じ資料で勉強していたはずだった。が、順門府の『百年史』には、舞鶴の名はなかった。特に自分が読む物に対しては、舞鶴の名は意図的に伏せられていたようだ。

「圭馬殿に借りた。他にも、いろいろ。あと、実氏殿からも出陣前に話を聞くことができた。お前がやらかしたことについても、何故俺に仕えたのかも」

 舞鶴の顔には、さほど同様はなかった。
 架空の人物、架空の宗教で世を支配しようと企んだ悪女は、空とぼけた面持ちで髪を梳き「あらあらあら」とわざとらしく嘆いてみせる。

「舞鶴の恥ずかしい過去まで聞き出して、いったいどうなさりたいので? 字面に人のウワサでは、本当に人の本性が分かると?」
「だが、事実だろ?」
「はい」

 なんの臆面もなく、舞鶴は頷いた。
 そのことに若干の肩すかしと、その半分ほどの憤りを感じる。

「それでどうでございました? 舞鶴が行いの数々は?」
「ぶっちゃけた話、引いたわ。長生きと言えども、よくもここまでできるもんだと、な」

 だが、と。
 環はそこで一度言葉を切った。
 できるだけ慎重に、一語一語に気を遣いながら、舞鶴に伝える。
 これだけを伝えるためだけに、自分はここまで忍んでやってきたのだから。



「だからお前は……人の世に絶望したんだろ」



 一瞬、ただの一瞬だった。
 彼女の表情から喜怒哀楽すべての表情も、暖かみも冷たさも抜け落ちて、人形のように変じたのは。
 それが、刹那的に彼女が見せた素顔であったのかもしれない。
 すかさず、語を重ねた。

「お前がいつ、どこの国で生まれ、どういう経緯でここに渡ったのかは知らない。だけど、お前は真実、己の信じる教えを、混沌としたこの世に広め、己のいた遠き国で為しえなかった世を作ろうとしたんだろ」

 だが、できなかった。
 あるいはその教えに従えば、人々ことごとく救済されたのかもしれない。
 魂を救う真理であったのかもしれない。

 だが、いずれの王者も、己以外のものによる世の統一を拒んだ。
 民は、半ばそこに陶酔しながらも、半ばは信じず目前の食をこそ求めた。

 やがて、純粋な気持ちから生じたはずの御仏の教えは、エセ坊主どもに横取りされた。民から搾取して、君主に取り入り、彼らの腹を満たす手段へと成りかわった。

 そして彼女も……あるいは自らのこの国に行き着いたことこそ、仏の導きと信じた彼女もまた、人々の浅ましさに絶望して、策謀と軍略を振りかざし、現実的な王朝の完成を求めた。

 だがいつまで経っても少女の姿の天才軍師は、さぞ王に嫉まれただろう。同輩にはさぞ、畏怖されたことだろう。当代の名君に愛されても、次代の王にはその存在の大きさを疎まれただろう。

 だから彼女は国を転々とした。だから何度も手段を変えた。
 だがそうして平和のために尽力すればするほどに戦乱は昏迷を極めた。
 血みどろの果てに彼女が得た悟りとは、変化のない人々に対する絶望だった。

 舞鶴は目を細めている。
 懐かしむように。あるいは、そのまま永遠の眠りについてしまいたいと願うかのように。
 その反応を窺いながら、環は肩をすくめた。

「……ま、実際お前がどう考えたかなんて読めるはずがない。ただの当て推量だよ。だが、もし本当にその通りというなら」

 環は己の帽子を掴み、むしり取った。
 己の素顔で、軍師と対峙した。


「俺はお前を失望させたりしない」


 舞鶴の表情はそのままだった。
 だが、わずかに息を嚥下する音が聞こえた気がする。

「俺は、お前が手を差し伸べた俺で居続ける。それがあの時、『鐘山環に天下を統べる器量がある』と言い放った、お前を信じるという証になるから」

 そこで、言葉は区切れた。
 これ以上なにも口にすることはできなかったし、何より、舞鶴の伸ばした両腕が、環の首の裏に回ったからだった。

 ポトリ、と。
 動揺するあまり、帽子が手からこぼれ落ちた。

「お、おい!」
 鈴鹿の手前、慌てふためく環に対し、歳を重ねないその女は、

「嬉しゅう、ございます」

 か細い声で、心に染みる甘やかな声音で、告げた。

「嬉しゅうございます。殿。……そのお言葉だけで、舞鶴はあと五百年は生きていけます」
「……まだ生きる気か、お前」

 何を意地を張っているのか、鈴鹿までが再び背から環に飛びつき、挟み込まれる。
 彼女らの抱擁は、心地よさよりも圧迫感の方が勝った。だが、ふしぎと悪い気はしなかった。

 帽子のない環が見上げた空は、いつもより広く見えた。



[38619] 第五章:問答 ~干原の謀攻と番場城の攻防~ プロローグ:天下の答え
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:01
 笹ヶ岳。
 国外へ脱出した環ら一党の居住の跡を、銀夜麾下の武者たちが見聞していた。
 調査が出遅れたのは、彼らの主が長らく不調であったこともあるが、その姫君も本調子とはいかずともいくらかの容色を取り戻し、陣頭に立っていた。

 そんな折に、ふらりと一人の武士が立ち寄った。
 長めの二本を腰に差し、深編み笠をかぶった男は、残暑にじりじりと照らされている。

「……おい、そこの者」

 それを認めた武士の一人が、男に近寄った。
 続いてその組下たちが動き、五人がかりで男を取り巻いた。

「この場は今、立ち入りを禁ずるという触れが出ているのを知らぬか」
「笠を解き、姓名を明かされたし」

 男は名乗らなかったが、首肯し、笠を解くことには同意した。
 それが、己の正体を明らかにする、手っ取り早い方法だと知っていたからだ。

 太陽の下、男の張った頬骨が露わになると、武士は息を呑み、ただちにひれ伏し、己の無礼を詫びた。
 何がどうなっていることやら、ぽかんと大口を開ける配下を叱り、自分と同じく地に手をつかさせせ。

「お、大殿じゃ! 順門府公、鐘山宗善様、お成りじゃ!」

 かつてその小山の城塞を堅守した男が、再び足を踏み入れた瞬間だった。

~~~

 その男、鐘山宗善がやって来てから数刻後には、娘の銀夜の指揮の下、見事な営所が出来上がっていた。

 砦自体はとうの昔に棄却されていたが、それでもその整然とした陣割りは、当時の面影を思い起こさせる。
 と同時に、この砦を上社に奪われて、自身も奸計によって焼き払われそうになった苦い記憶も蘇った。
 とは言え、娘の指揮と無駄のない動きには、満足していた。

「病と聞いていたが、急な来訪にも動じず、中々に見事な統率ぶりではないか」
「父上にもご心配をおかけいたしました」

 だが、久方ぶりに見た娘の姿は、大きく変じて見えた。
 政変の直後の堂々たる威光は薄れ、疲弊した白鳥のような惨めさがあった。
 病んでいた直後の様子を知らない宗善であったが、これより酷いとはどれほどのものであったのか、想像がつかない。

「それよりも父上、文にてお知らせするつもりでしたが、近々桃李府の出兵が行われるとのこと」
「汝の読みどおりに、か」
「いえ、本来ならば派閥争いに巻き込まれ、環が討たれることこそ最善でした。 この結果は中の下というところでしょう」

 悔しげな本人以上に不満を残していたのが、宗善であった。

 ――何故、銀夜ともあろう者が勝手な真似を……

 周囲には改めて表明したこともなかったが、彼のもっとも嫌う行為は、独断専行である。
 結果が自分の企図していたことと一致すれば良い。違っていても、良い成果を生めばまぁ許そう。
 だが、勝手に動かれた挙句に自分の足を引っ張られると、激しい怒りに駆られる。

 『順門崩れ』の際も、宗善は配下の突出が原因で敵の逆襲を受け、それによって砦を失陥したのだ。
 あるいはそれが起因して、独断を憎むようになったのかもしれない。

 ――寺など、坊主など、宗円の墓など灰燼に帰せば良かったのだ。いや、朝廷のご心証を思えば、そうすべきであった。
 つまらぬ体面にこだわって大魚を逃したものだ、と内心で思った。
 当事者でしか汲めない事情があるだろうから、あえて口にはしないが。

 娘を始め、失敗を失敗として報告しないばかりか、それを繕おうと勝手に動く。
 思い出しただけでも、当時の腹立ちがぶり返してきそうだった。

 ――朝心斎がついていながら、何をしていた?
 いや、おそらくはそもそもの発案が朝心斎なのかもしれない。

 二十年以上の付き合いでようやくわかったことだが、あの老人と自分の思想には隔たりがある。

 朝心斎は秩序や朝廷のために命を賭ければ、それが必ず成果に繋がると考えている。
 兄宗流暗殺の件は、彼の息のかかった者の挺身により功を奏したが、生命を対価とした賭けがいつも成功するとは限るまい。

「……父上? 本題に入ってもよろしいですか?」

 と娘の声に我に返り、無言で頷く。
 銀夜もまた姿勢を改めて整えた。

「近く行われる桃李府との戦、願わくば私に采配を任せていただきたい」

 宗善は、しばし沈黙していた。
 それを、逡巡と捉えたのだろう。銀夜は膝を擦って近づき、己の理と利を解いた。

「朝心斎の密偵によらば、敵は大軍と言えど率いるのは暗愚な義種。猛将典種は病床。羽黒圭輔は風祭軍の防戦に手一杯。また最も危惧すべき実氏もまた、その援護の準備に忙しく、西進の余裕はないとのこと。一方我ら、未だ桃李府内の調略こそ難航しているものの、すでに朝心斎のツテにて朝廷と連絡を密にし、約定どおり風祭府も動きました。また今年は自領は豊作、動員兵力は二万を超えましょう」

 常と変わらぬ、理路整然とした長広舌。
 うちかけた薄紫の玉衣は、その受け答えの見事さゆえに下賜されたものであるという。

「……もとより不服などない」

 だが、気にかかることはある。
 ――環の名が出ぬのは、何故か?
 朝心斎の策の標的であり、今回の桃李府の大義名分となっている。
 確かにその実兵力は微弱であるだろうが、無視をするには無理がある。
 当人としては、あえて名を出さぬことで己が歯牙にも掛けていないと表明したかったのだろうが、それがかえって違和感を浮き彫りにしていた。

 ――いや……考え過ぎか。
 優位が揺るがぬのは、事実である。それを信じようとした。

「笹ヶ岳が、そうさせるのやもな」
「は?」
「ここに立つと、『順門崩れ』を思い出す、胸が鳴る」

 一瞬怪訝な表情を見せた銀夜だったが、自信と誇りに満ちた笑顔を取り戻した。
 居並ぶ精鋭達を背にして、強く頷く。

「承知しております。かつての父上らと同様、この地を侵す者らをたちまち壊滅してご覧に入れましょう」

 そう答えた娘に対し、一応の肯定を示しつつ、景色を望見する。
 かつて眼下の山野を埋め尽くしていた無数の敵は、官軍であった。

 ――今この胸の高鳴りは、勝利者たる昂揚ゆえか? あるいは敗北者としての悪寒か? 鐘山家の長としてかつての大勝に思いを馳せるゆえか? 朝臣として大敗の再現を危惧しているのか?

 一体、どういう立ち位置で、どういう予感を案じているのか?
 この曖昧な感情に対する結論だけは、容易にできるものではなかった。

~~~

「宗善殿」

 山を下る際、そう声をかける者がいた。
 朝廷より正式に府公として認められた宗善を、そのように呼べる者など順門府内で、あの老人以外にいなかった。

「……何用か? 朝心斎」

 振り返ると、老僕に扮した銀夜の近臣は相応の礼を行ってから、口上を述べた。

「この戦に勝利すれば、主上の順門府に対するおぼえもめでたいことでしょう。加えて、国内における宗善殿の方針転換こそ正しかったのだと、未だ去就を決めかねる輩も骨身に染みて理解することでしょう」

 取り残されたように、蝉の生き残りがジワジワとか弱く鳴いている。

「……まさか、それだけ言うために呼び止めたのではなかろうな?」
「は、無論それだけではありませぬ」

 だがそこから続く言葉も、今さら言うべきほどもない利得や、宗善の決断に対する賛辞であり、まるで中身のない空虚なものだった。
 暑さのせいか、頭痛がひどくなる。
 だが、それとなく流されるはずだった、

「そして次期府公たる銀夜殿の立ち位置も、より盤石なものに」

 という一言が、宗善の意識を確たるものとし、汗を引かせた。

「……誰が」
「は?」
「誰が、そのようなことを明言したっ……?」
「そのようなこと、とは?」
「余は、娘を府公にするとは、言ってはおらぬ」

 怒気を孕んだ低声に、老臣の顔は、さっと青白くなった。
 己の失言に、ようやく気づいたための、顔色の変化だった。

 身を翻して再び下山を始めた宗善を、朝心斎が追った。

「し、しかしこの度の大戦の総大将を任せるということは、そうしたことを示唆すると」
「銀夜めがそう申したのか?」
「言われはしませぬが」
「態度には、出たか」

 袴の裾に縋るが如く飛びつく老臣を、彼は振り払った。

 そもそも、宗善とて男子がいないわけではない。銀夜には二人の弟が存在している。
 いずれも年少で将器としては銀夜に遠く及ばないが、それでも彼らを差し置いて女を武家の当主にすることなどあろうはずがないではないか。
 そんなことまでわざわざ声明としなければならないのか?

 銀夜を此度の総大将に任命したのは、その才能を買ってのことである。
 本来ならば自身で出向きたいところだが、国内は未だ安定したとは言い難い。旗幟を鮮明にしない輩は、十把ひとからげに存在している。本拠板形城を空にするわけにはいかなかった。
 不安定な状況下にあるのは、桃李府のみならず自分たちも同様だったのだ。
 だと言うのに、目先に囚われ失敗を言いつくろうため無用な出兵を招いた銀夜に、強い嫌悪感を抱いたのは確かだった。
 彼女に連なる家臣達にも。

 ――銀夜や家臣だけではない。この朝心斎も、環も、舞鶴や諸士ことごとく……

 これと正しい道がある。
 そうすべきだという筋道が、先人たちによって示されている。
 だと言うのに、何故誰も彼もそれに従おうとしない?

「答えなど、とうに出ている」

 百万石の順門府公の呟きを拾う者はいなかった。
 それに是非を問える者も、いなかった。



[38619] 第一話「色市始の答」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:01
 半手、という村がある。
 二国の国境間にて中立の立場を表明している村落の形式だ。
 それぞれの国へ分割して納めることで、彼らはそうした立場を許されている。

 土地の武士や豪族にしても、背信行為と見なして攻めたところで、敵国の介入と合戦を招き、彼らからの収入が得られないだろう。と言うわけで、黙認されるか、あるいは両国協議のうえで公認するかのどちらかが常である。

 桃李府軍、侵攻。
 その報を事前に察知していたのは確かに順門府だったが、実際最初にその大軍を目にしたのは、そうした村々だった。

 だが……
 西南の平野、干原(かんばら)。
 そこにある村落は、彼ら半手の者らよりもその噂に接するよりも早かった。
 彼らよりも早く、接近してくるその軍勢の一部を発見した。

 馬印が東からの順風を受けてなびく。
 浅黄の下地に、黒糸で円を描中心に、高々としぶきをあげる波と龍とが縫い込まれている。

 その旗の下にある兵は、総勢五百。
 大将は、赤帽子に朱羽織、黒髪に空色の目を持つ青年だった。

 別働隊を率いるその大将が、かつての領主の子息であることは、じきに明らかになった。

~~~

 件の牧島(まきしま)村では、騒然となっていた。
 それもそのはず、五百人規模とは言え、大軍である。
 殺戮を生業とする他国人の集団が、その意図も分からぬままに接近しようとしているのである。

 仮に害意がなかったとして、戦に巻き込まれれば被害は出る。両軍の兵が掠奪に奔ることだってある。

 南海沿いにあるこの村は潮風や塩の影響を受けやすく、規模と村人の多さに比して作物の育たない、貧しい村でもあった。

 ――こんな村に、何故わざわざ向かってくるんじゃ!?

 もっとも、彼らがまず危惧したのは、財産よりも彼ら自身の生命だ。

 ある者は山へと逃散し、ある者は秘蔵の刀槍を引っ張り出した。

 村内でも比較的裕福な者は、禁制を求めた。
 これは、権力のある階級の武士が持ち主に対して配下が掠奪等の蛮行を禁じる旨を示す保証書のようなものである。基本的には、立て札や書状のような形式をとる。
 とは言え、無料でそれを配るのではなく、相応の礼金が必要となるのが常であった。
 また、その敵の暴力まで禁じるものではない。

 しかし鐘山、桜尾両軍の禁制を買い入れる余裕などは流石になく、領民たちは選ばなければならなかった。

 すなわち、確実にその契約を履行してくれる側の禁制を。
 すなわち、桃李府、鐘山環の連合軍か。それとも順門府軍か。
 この戦いの勝者が、いずれなのかを読んで。

~~~

 ……その、はずであった。

「はい、次は西の辻だ。それが終わったら寺の裏手」

 赤帽子朱羽織の大将は、そう言ってテキパキと指示を出していく。
 彼の指先が動く度に、その意を受けた配下の武者たちが禁制の木札を背負って村々を回り、打ち立てていく。

 抵抗しようにも兵力では遠く及ばぬ。
 直接的な危害は加えられていないから、呆気にとられて見守るしかない。

 ――もしや、禁制の押し売りでもしようというのではないじゃろうな?

 老いた村番頭、庄七は金窪眼に疑惑の光を宿らせた。
 平伏する皆に代わり、従軍した経験も豊富なこの老人が、進み出た。
「あのう、環さま。これはいったい……?」

 振り返った青年は、明るい瞳をしている。
 色が特殊、というのが理由ではあるまい。
 ともすれば童にさえ見えるほどに、美しく、純度の高い瞳を持っていた。

 ――父御より、亡き宗円公に似ておる……

 と、遠目ながら両君を見た庄七は、そういった感想を抱いた。

「あの寺は」
 と、青年大将は指を小高い山に向けた。
 まるでそれに吸い寄せられたかのように、老人の視線も移動した。

「俺の軍師、舞鶴ゆかりの地だそうだが?」
「はい。御前様よりは多額の寄進をいただいたことがございます」
「あの女の好意をわざわざ俺が踏みにじることもないだろうと思ってな。……寺とその一帯は、略奪しないことを約束する。禁制はタダにしとく。俺の分浮いた金で、叔父や銀夜の禁制を買い求めるのも良いだろう」
「……環さまのご慈悲、感謝の言葉もありませぬ」
 そう言って、庄七はおだててみせるも、環は奇妙な形の帽子を目深にかぶり直し、居心地悪そうに苦笑を漏らすだけだった。

「遠慮はいらない。何か言いたいことがあるなら、問うてみるがいい」
「さらば」と、その言葉に甘え、さらに進み出る。

「言葉のみで村内に屯営を設けられては、皆が不安がりまする。お留まりになるのであれば、願わくば、村の外にて野営していただきたく」

 瞬間、環の近臣たちがざわめいた。

「なっ、無礼な……っ」
「我らがせっかく禁制を貸し出してやったというに、それを信用せぬのか!?」

 だが、そうした不平不満を止めたのが、環の脇に控えたなすび色の出で立ちの若武者の咳払いだった。
 手にした槍の石突きで、ドンで強く地を叩くと、シンと場が静まりかえる。

「胆の太いとっつぁんだな。嫌いじゃない」
「恐れ入りまする」

 環にはせっかく褒めてもらったが、緊迫感に満ちた一触即発の空気の中、庄七とて胃の腑が縮む思いだった。
 だがこの若者には、そう言っても良いのだという奇妙な信頼感があったのは確かだ。
 父や祖父のような、千里を隔てて圧倒する威はなくとも、千里先の相手をふらふらと引き寄せる、蜜のような心地良さがある。

「良いだろう。と言うより、元よりそのつもりだ。俺たちは、あの場所に布陣する」

 と、鐘山環が指さした先、村からさらに西南に、位置する小高い岳が控えていた。
 一年中、クチナシの樹が緑を絶やさぬゆえ、その名を
 緑岳(みどりたけ)
 と言った。

~~~

「環め……っ! 義種どころか村役ごときに踊らされやがって……!」

 草木を分け入り、重荷を背負って、小山を丘陵をのぼる。
 その労苦に喘ぎ喘ぎ、色市始ははばかることなく悪態をついた。

 ――だがまぁ良い。そうして好き放題指示できるのも今のうちだ。

 と、山上を目指す主君を目で追い、そして嗤う。
 振り返り、汗一つかかずに登山する少女を見て、強く頷いた。

 ――そうとも。ここまでは面白いぐらい、おれたちの計画通りに進んでいる……

 その始に、

「おい」

 と、乱暴に少女……幡豆由基が呼ばわった。

「後がつかえてる」
「あ、あぁスマン!」

 それにしても、環もわざわざこのような不便な場所を選ばなくても良いものを。
 やはり将兵の心も汲めない、戦を知らぬ奴。
 露骨なため息の中に隠したその言葉を見抜くが如く、由基はジロリ、険しい眼差しを向けた。

「……味方が入りにくい場所は、敵も攻め入りにくい」
「は」
「寡兵で戦わなきゃならない俺たちにとって、絶好の場所というか。これしか術がないだろ。この場所が間違いだったら、羽黒圭馬が止めてンだろ」
「……あいつか」

 確かに、羽黒圭馬の存在は考えれば厄介なものである。
 いったいどういう経緯で身分を偽って参陣したのかは知らないが、戦巧者であるという評判と、それに裏付けされた実力は、己らもよく知るところだ。

 ――だが、村忠の策ごときに引っかかる単純なヤツ。それに環には謀られた恨みこそあれ、そこまで尽くす恩義もないはずだ。簡単に籠絡できるだろう?

 と、目で眼下の協力者に目で訴える。
 幡豆由基は、忌々しげに始から目を逸らした。

「……どうした? 頭目?」
「なぜ環は、禁制を無償で与えた?」
「あぁ、そんなの簡単さ」

 と、確かな自信と共に、弁舌家は自論を展開した。

「ヤツは、ああやって村人を抱き込もうと画策した。ところがあいつの目論見は外れたばかりか逆に不信を買い入村さえ拒まれた。そんなところだろ?」
「じゃあ、どうしてあいつは全滅を承知で、義種のクソ戦略にのっとって行動する?」
「何も考えてないんだよ」

 何を今さら、そんなことを聞くのか。
 そもそもこれは、このまま環を担いでいても自分たちの将来が知れていると、環を見限っての画策ではなかったのか?

 環が暗君でないはずが、ないではないか。

 由基はため息をついた。
「先に行くぞ」
 己の荷と、弓矢を担いで色市の脇をすり抜けていった。
 彼女は足を止める始を尻目に、高さに関わらず困難な坂道を、彼女は文句も言わずに環を睨み、ついていく。


「……そんなんだから、お前は……」
 嘆きとも呆れともつかない巫女の呟きは、色市始の耳には聞こえることはなかった。



[38619] 第二話「諸将の議決」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:02
 鐘山銀夜の率いる軍勢は、御槍城を発した。
 平伏した民たちの横を素通りし、軍馬は戦場へと向かう。

 民がひれ伏して自分たちを見送るのは当然のこと。そして、度を過ぎた見送りや歓待無用、各自の職務に精励すべしと命じたのも、銀夜自身であった。
 だが彼らのまとう空気には、当たり前のことを当たり前にこなせば、後はどうでも良い、というような冷淡さがある。
 地に向けた顔は、あざ笑っているに違いない。

 そう考えると銀夜は、むかむかと腹が立った。
 だがその衝動を抑える。
 病床の恩師、三戸野光角を除く順門府の諸侯を父に代わって統べる大役だ。軽挙妄動は慎まなければならなかった。

~~~

 樹を切り、開けてきた山道を、大きく伸びて遠望する。
 牧島村の家々や、田で働く人々の動きなどが、事細かに見える。

「大将、裏手の縄張り終わったぜ」

 亥改大州がそう言って持参した簡略図に、環はざっと目を通す。
「ただ、コレは本当に作る気なら時間かかるぜ?」
「いや、ガワだけで良い。どうせ使わない」
 何度も軽く頷いた大州は、自らの大将の肩に肘を置く。薄笑いを浮かべた悪相を、環の顔の横につけ、耳打ちした。

「それと、土地の人足の二、三人、逃がした」
「逃がした、な」

 なんとも微妙な言い回しだと思うが、ふてぶてしい賊の顔つきが、それが確信犯だと告げている。

「あの密偵どもは、今頃息せき切ってこちらの所在を本陣に報せるだろうさ。俺らの位置も、この砦の普請も、禁制のことも」
「……また勝手なことを」
「だが、やらんとしていたことだろう?」
「……そういうふうに、独断で行動するところがあるから、お前は信用ならないんだ」

 ぶつくさと腐る環に、大州は得意げに鼻を鳴らし、ダンビラを担ぎ直す。

「『信用ならない』なんて、面と向かって言うところにこそ信頼を感じるぜ? 大将」
「……言ってろ」

 えへん、と。
 咳払いしたなすび斎、こと羽黒圭馬の方へと、二人は振り返った。
 大州にいたっては「なんだこいついたのか」というような目つきで、この客将を見ていた。

「しかし、わざと逃すことなどなくとも……むしろこちらの狙いまで掴まれるおそれがありますが」
「情報において恐ろしいのは漏れること自体じゃなく、漏れていることをこちらが知らないということです。相手にわざとこちらの都合の良い情報を流し、締めるところはキッチリ締める。それに、今の銀夜にそれを容れて行動する器量があるか……」
「まぁ、開いたからくり箱にも、喋り過ぎる女にも魅力はないわな」

 冗談を交えて口を挟む大州に、環と圭馬は顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。

「では、環殿。我らがのみが知る、新しい情報は?」

 そう尋ねる圭馬に、環は並べた書簡を披瀝して語らった。

 一、蓮花城下にあって響庭村忠は、緋鶴党を使い、例の内通者の背後関係を洗い出した。その過程で、持ち去られた環陣営の金銭の隠匿先を掴んだということ。
 一、『六番屋の史』から頼りが届いた。
『こちらに留めた彼女はよろしくやっている。だから安心して戦に専念しなさい』とのこと。
 一、赤池家の遺児、赤池束仲(つかなか)が帰順を申し出た。さっそく彼を頭に各地に分散させたその旧臣らに命じて各地にて諜報に当たらせている。

「しかし、赤池勢は元朝廷の禁軍の家柄。はたして本心からこちらに忠誠を誓っているやら」
「だが、朝廷を裏切った彼らを、朝廷やそれに従う今の順門が許すとも思えない」
「……なるほど」

 ともかく今は、情報によって時間をはかり、虚報と虚勢を用いて敵陣を混乱せしめて、時間を稼ぐ。

 ――そうすれば、義種の言うとおりに引き返してきた『こちらの主力』はやってくる。

 立ち上がった環は、大きく伸びをした。
「さって、飯とするか! 圭馬殿、皆にも休憩と伝えてくれ」
「承知」
 と、なすび色の若武者が去ってから、、環も大州を伴って歩き始めた。
 だが、下り坂に足をかけようとした瞬間に、その足先を止めて振り向いた。

「お前も一緒にどうだ!? ユキッ!」

 環が鋭く発した大音声に、答える者はいなかった。

「コソコソとどっからかは見てるみてぇだな。……どうする? 良吉あたりに引きずり出させるか?」
「ほっとけ」

 大州の耳打ちに、環は首を振った。
 どのみち、色よい返答を期待しての招きではなかった。

 ――今はまだ、だが。

 いつか、向かい合う時はくるはずだった。
 たとえそのとき向けられたものが、真意ではなく、弓矢であったとしても。



[38619] 第二話「諸将の議決」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:03
 御槍城東、乃木先(のぎさき)という場所にて駐留した順門府軍一万八千は、この時点で既に彼らは、内通者と斥候からもたらされた情報によって、桜尾義種軍の進路を割り出している。
 囮である環を差し置き、一挙にこれを討つことが、当面の目標と決められた。
 また、その環側にしても、普請作業に潜伏していた密偵から、彼らの所在は伝え聞いている。

「大方、緑岳に籠もり防戦し、その隙に本隊に背後を突かせる胆でしょう」
「かと言って捨て置いて、砦を完成させられても、後日の掃討戦において面倒にはなりますまいか」
「懸念には及ばない」

 その一将の異見を否定したのは、銀夜の近臣である朝心斎である。
 今日に至るまで日陰者で居続けた老人にとっては、順門府の将としての初めての出陣である。
 それは、この老人の、この戦いに対する意気込み、表舞台に戻る意志の強さを物語っていた。
 だが、長年鐘山家仕えた家臣らでも、老人の存在を知る者は少ない。
 そのため彼らの中では

「突然降って湧いた謎の老人が我が物顔で軍議に口を出してきた」

 という思いが強かった。
 だが彼らの警戒や不信感など意にも介さず、むしろ読み取ることさえできないのは、一種の才能と言えるだろう。
 久々の戦場に興奮した様子で、老臣は続けた。

「また、既に我が手勢の者が環の郎党を籠絡している。労せずして攻め取れるものを、あえて攻める必要などあるまい」

 名のとおりの白銀の髪を持つ姫将は、その意見に頷いてみせ、その句を補填した。

「それに縄張りも把握している。この者らが、その縄張りも写し終えた。万一力攻めと相成っても、数と地の利はこちらにある。容易に落とせよう」

 だが、皆にその証左として見せた件の地図が、一部の将に波紋を呼んだ。

 殊に反応を示したのは、陣中でも年長者である響庭宗忠である。

「笹ヶ岳……」

 そろそろ六十になるかというこの老人の呟きが、他の老将の呻きを招いた。

「そうかこの作り、どこかで見たと思ったら……」
「笹ヶ岳じゃ……」

 それがさらに若い将の動揺を招き、やがて陣中全体が騒然となった。
 環らが建設しているという砦の設計図は、かつての朝廷との戦いの際、要所となり、かつ今の府公である宗善が死守していた砦と酷似していたのである。
 だが、その要害を設けたのは当時の宗善ではなく、その父、宗円である。
 それが、攻守を入れ替え再現されてようとしている。
 ゆえに、陣中の将の中には、

「宗円公が、帰って来られた……?」
「あるいは、自らこそが順門府の正当な後継だという意思表示では?」

 と呟く者さえ現れる始末だった。
 それに厳しく反論したのは、大将鐘山銀夜である。

「うろたえるな! 守りに徹しようと企図するならば、砦などおのずとこのような形になる!」
「し、しかし敵の禁制の数、近隣の村では我らのそれより勝るとの報せがあり……」
「なにっ?」
「何か勝算あってのことやもしれぬ、と……」
 亀山柔の懸念は、銀夜の冷静さを取り戻すことはなかった。
 むしろ気遣いのない事実は、彼女の矜持を傷つけ、火に油を注ぐ結果となった。

「愚民どもはこの私より、あの男の方が優れているとでも考えたのか!? 良かろうっ! それならば進路変更! 環を先に叩き潰し、連中の幻惑を払ってくれようッ」

 だがそれに、諸将が慌てて待ったをかけた。

「お待ちくださいませ!」
「この砦を攻めるは、三十年前、足止めを食らった官軍の二の轍を踏むこととなりまする!」
「それに、禁制のことにせよ、砦にせよ、敵にも何らかの備えがあっての挑発と存ずる」
「むざむざ相手の都合の良い戦略転換をなさいますな!」
「また、方略寺でのように相手に乗せられ失敗しては」



「…………失敗だとッッッ!?」



 長髪を振り乱した姫将は、写しの紙を拳で叩き、諸将を一喝する。

「いつ私が失敗した!? いつ奴に謀られた!? いつあの男に負けたと言うのだ!? そもそも方略寺など、貴様らが幾度もわめき散らして私を阻害しなければ……っ」

 そこで常勝の姫将、順門の麒麟児は、口を閉ざした。

 場が、シンと静まりかえっていた。
 秩序や冷静さではない。むしろそれとは無縁の、白けた雰囲気が充満していたのだった。

「……議論が白熱したようだ……わかった。当初の予定どおり、また貴殿らの希望どおり、まず義種勢に当たる。それで良いな?」

 と、一方的に言い渡した総大将は、そのまま陣幕から引き払った。

 だが、依然として彼女のはらわたは煮えくりかえったままだった。

 ――臆病者どもがッ

 落ち着きを欠いた銀夜にも、しきりに義種勢への攻撃を示唆する諸将の魂胆は理解できる。
 要するに、この将たちはそれぞれの兵の損傷を恐れ、怪しげな行動をしている環一党よりも、確実に勝算がある義種と当たりたいのだ。
 だが、思惑はどうあれ、味方の意志を無視するわけにはいかなかった。
 それこそ、順門府での二の舞となるし、何より諸将の了解を得られないままの独断専行は、彼女と尊父が掲げる秩序と規律に反することだ。憎むべき伯父宗流の行いそのままではないか。

「ですが父上……上がここまで譲歩しなければならない秩序とは、規律とは……いったい何なのでしょうか?」

 その問いに答えられる者は、苦悩する彼女を救える者は、その場にはいなかった。

~~~

「伏兵? 奇襲? そんなものしないですよ」
 掘り出した大岩の上、弁当を食べながらしれっとそう言う環の反応は、圭馬にとっても少し意外だった。

「ここまで挑発するからには、何か備えあってのことかと思いましたが」
「ないない。ただの見せかけですよ」
「……しかし、ここまでやるとあるいは、本当に敵の侵攻を招くおそれがあるのでは?」
 率直にぶつけた圭馬の懸念は、環の口端に、笑みを浮かべさせた。
「それは、ないです」

 ――義兄が環殿を語る時と、同じ笑みだ。

 ぞっとするもどこか魅力ある、悪党の微笑。
 戦国武将としての、業の象徴。

「銀夜は知らず、他の諸将にはためらいと後ろめたさがある。彼らをそうさせるのは、兵の損傷だけじゃない。かつての主が考案し、若かりし頃の今の主が守った笹ヶ岳。それとそっくりの場所を攻めるということに」
「なるほど」
「ただ心情としての話じゃない。もし攻め落としたとして、心証はどうなるか? 不興を買わないか? そうした打算が彼らを縛る」

 まして、と。
 そこで一息吐いて、環は圭馬に振り返った。

「今回は義種公という格好の相手がいる。人間、易い方へと流れたがる。よくわからない相手より、単純な相手をこそ狙うはず」

「それでも」
「ん?」
「銀夜姫があえてそれを無視した強行に及んだ場合は?」
「アレは既に、順門府での失敗と失態で、臣民からの信を失っている。そんな輩に、ハイそーですがと将が従うはずもない。是非はともかく銀夜の即決と翻意に嫌悪感と危機感を抱くはず」
「俺が問題にしているのは、銀夜殿です」
「そう。あいつもバカじゃない。だからこそ、そんな状況下で独断専行なんてできないことは、自分で知ってるはずです。何より『環も義種も自分にとっては小事。問題は次のこと』と、内心はともかくそういう姿勢を見せたいはず。だから独断での勝利より、諸将を結束させたうえでの勝利を選ぶはず」

 鐘山環は百里向こうの敵将の心の動きを読み切り、かつ意のままに操縦している。
 そのことに、羽黒圭馬は人知れず肌を粟立たせた。

 ――しかし。

 と、圭馬は思う。
 何故そこまで敵を知りながら、貴殿は味方の想いを掴むことができないのですか、と。
 気がつけば、相手をじっと見ている己がいて、それを微苦笑混じりで見返す環がいた。

 まぁ言わんとしていることは分かります、と。

 そこに、人足が慌てて近づいてくるのが見えた。
「大将、まァた吉次のヤツ、桜尾の連中とケンカですっ」
「なにぃ? 今度は何が原因だ!?」
「飯の量が向こうの方が多いとかで」
「だぁぁ! もうっ!」

 彼のそれは少数とも言え、自分たちを率いる御大将に接する態度でも、また頼むようなことでもない。

 大変ですな、と圭馬は彼を慰めた。
「どんなに虚勢を張ったところで、俺の実態なんてこんなもんですよ」
 と、帽子を目深にかぶり直し、彼は肩をすくめた。

「ははっ、お惚けを。今はともかくですが、いずれは皆、貴殿の器の大きさを知るでしょう」
「『三年鳴かず飛ばず』ってヤツですかね」

 環は架空の故事を引き合いに出し、人足に引きずられる形で、環は先へと進む。
「環公子殿」と名を呼び止める。振り返る主将に、圭馬は目を細めた。

「その大鵬の鳴き声、知りたいと願う者は数多くいる。恥じることなく、卑下することなく、彼らのみならず、天下に向けてその音声を発されますよう」



[38619] 第三話「桜尾家宿将の決定」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:04
「殿、敵領内に難なく入ることができましたなぁ」
「うむうむ」

 ――どうやら、主人の人格とは家臣にも伝播するものらしい。
 順門府進行軍の主力部隊、副将格に当たる相沢(あいざわ)城申(じょうしん)は、険しい目で主将を見ていた。
 策の成否、是非はともかく、彼らの語るとおりにすでに戦地だった。

 ――にも関わらず、この悠長さと楽観はなんだ?

 相沢は釜口と同い年となる老将である。羽黒圭輔の義父、圭道(けいどう)存命時は桜尾の三宿将と呼ばれた存在でもあった。その経験の豊かさを買われ、今回義種の補佐と当てられたのだが、その彼が重用しているのは、自らの近臣である賀来(かく)洞包(ほらかね)であった。
 年長者としての余裕で不平を覆い隠し、やんわりと懸念を発した。

「しかし、早うこの戦に目処をつけなければ、環公子の御身が危ういかと」
「ふん、環など……」

 皮肉げに鼻を鳴らし、目の形を歪め、公子は公子を嘲笑う。

「これから順門の東半分は我らの領土となる。統治もわし自らが執り行う約定を父上よりいただいておる。となればあの公子の存在は邪魔となろう」
「さよう。此度の戦であの御仁に死んでいただければ、我らにとっても好都合。悲運の公子殿の敵討ちという大義名分を持ち、兵達の士気も高まる」
「それでは……っ、公子殿とのお約束はなんだったのでございますか!? いくらなんでも不義の限りではございませぬかッ」
「黙らっしゃい相沢殿! 総大将になんたる口の利き方!」
「そうじゃそうじゃっ!」
 賀来の糾弾に、義種自身が同調した。

「だいたい公子公子と言うが、わしが貴様の仕える国の公子よ! 環でもなければ圭輔でもないわっ」
「桜尾家の公子たろうとされるのであれば、それに相応のお振る舞いをなされよ……このような罪に手を染めることは」
「では貴様も同罪よな! これが罪だと申すのならば、その軍に属す貴様は!」
「それは……」

 相沢は言葉に窮した。
 武人ならば、武家の臣ならば、当然その意に沿わぬことも手がけねばならない。
 今回のことも、桜尾のためを思えばこそ、東に行きたいのを堪えてこちらに参陣したのだ。

 そも、武士とは修羅の道である。
 士道とは、非道、畜生道に通ずる。

 それを糾弾されては、己らは返す辞を持たぬのだ。
 ……たとえ、それが誰の発言であったとしても。

 ――だが、そうして他者の揚げ足取りで得意げになっておられるのも今のうちですぞ。

 大言壮語を吐きながら、義種はやはり周辺の敵の動向が気にかかるらしい。偵騎を一里進むごとに放っている。
 数多くの情報を取り入れるため、と言えば聞こえは良い。だが、そうして斥候の数を増やせば増やすほど、彼らが接敵して本隊の位置が割り出される可能性も高くなるのである。

 ――斥候とは、情報とは、自らを安心させるためにあるのではない。
 正確に敵味方を把握し、確たる対策を立てるための手段である。

 ……そして一日と待たずして、
 老将の諦観と憶測は現実のものとなる。
 度重なる諌言は無為に終わる。
 桃李府公子桜尾義種は敗残者となり、
 彼に付き従ってきた賀来以下一万超の将兵は、急行してきた順門府の大軍の贄となった。

~~~

 ――なんたる神速、なんたる采配ッ!

 疲れて汗さえ出尽くした馬の上、歯がみしながら相沢城申は呻いた。
 わずか二十歳足らずと大将と言うが、あれほど無作為に放っていたいずれの偵察にも引っかかることなく、監視の目をかいくぐってこちらの側背を突いてくるその手腕は、天下五弓にさえ劣らぬものではないのか。

 四散した桜尾軍の一部を預かり、まとめあげた副将は、深夜の林を駆けていた。
 そのうちに、頼りとしていた愛馬の四脚ももつれ、ついには道半ばで横転した。

「……ぐっ……!」
「父上、やむを得ませぬ。馬は捨て置いてでも、義種様との合流を急ぎましょう」
 そう献言したのは、嫡子、相沢城建(じょうけん)である。

 息子の言葉に対し知らず漏れたのは、自虐と嘲笑の混ざり合ったものであった。
「ふっ、ふふふ……兵を見捨て真っ先に逃げ出す大将など、一緒になったところで末は見えていよう。あの愚将にはせいぜい遠くまで逃げおおせてもらい、一人でも多く追っ手を引きつけてもらおうではないか」
「……さすれば、我らはいずれに落ち延びれば」

 ぬかるみより助け起こしてもらい、老人は首を振った。

「孤立無援ではない。一方の軍が敗れたのであれば、もう一方に赴くまでよ」
「で、では環殿の囮部隊へ!? 危険です、追撃に区切りをつけて、敵は返す刀であの御仁を狙いましょう」
「ゆえにこそだ。あの公子殿に危機をお伝えし、しかる後退避してもらわねば」
「……それでは、我らが彼らを捨て駒としようとしたことも露見するのではっ?」
「覚悟のうえよ」
 痛々しい吐息をこぼし、相沢は四十になる息子を見返した。
「この老いぼれの首一つ、代償に捧げる覚悟はできておる」
 と、悲痛な覚悟を示した。

 その直後だった。
 前方で、数人の、草木を踏み分ける音が聞こえた。
 驚き前方を見つめ直す彼らの前、ぼんやりと無数の炬火が浮かび上がる。

 ――すわ、敵か。
 と、一同に緊張が奔る。城建が刀に手をかけた。
 もはや武器を手にする体力気力があるのは、彼だけであった。

「……何者か」
 と、誰何の声をあげる城建に「いやいやいや」と、あっけらかんとした声が聞こえてきた。

「俺は味方ですよ。そうですよね、相沢殿」

 闇の中、浮かび上がる黒髪と、空色の瞳。
 顔合わせはしたことがある。当初は風聞どおりのその奇異なる容姿に、いささか驚いたものだった。だが、その顔見知りの登場は、当時よりもさらに、相沢老人を驚愕させた。

「た、環公子……? それに羽黒の……」

 東へ赴いているはずの男の義弟を伴って、この国の公子が現れたのだった。
 薄青色の瞳を活力の輝きで満たして、彼はまっすぐ、

「よくぞ我らを頼ってくれました。……ご無事で何よりです」

 と言った。

~~~

 帰陣する環に伴われた相沢親子以下桜尾兵三千は、目の前に広がる光景にしばし絶句した。

 ――なんだ? この賑わいようは?
 と、当惑する。

 緑岳の砦を基点として広がる陣屋は、さながら市のようであり、行きかう人々はせわしなく往来を繰り返す。その様は兵や人足というよりも、飛脚や馬借にも似ている。
 何よりその陣屋の数は、環に与えられた五百の兵を容れるには多すぎる。あらかじめ自分たちの割り当て分まで用意されていたのではないかと勘ぐりたくなるほどだった。

 自分たち本隊が時間差をつけて出陣し、敗走してここに至るまで十数日。
 その期間で、まるで何もなかった干原という平野に、これほどの規模の陣地を形成するとは、老将の思いもよらぬことだった。

 ――これではまるで

 一つの村、一つの城とその城下町ではないか、と。

 活気に溢れた彼らからしてみれば、沈痛な面持ちの自分たちの姿は奇異に映ったことだろう。
 不審な目で見られて恥じて、顔を伏せる彼らの前に、環とその愛馬、覚王が庇うように立った。
 鞍から腰を離した環は、エヘンと咳払いを一つ。
 それだけで、周囲一帯の注目を惹きつけた。

 ――しかし

 敗残兵を迎え入れて、こちらの隊の士気に関わるのではないだろうか?
 そもそも環自身、自分たちが敗北した経緯とその秘められた思惑を知っているのだろうか?

 だが、相沢城申の懸念と不安は、次の瞬間には吹き飛んでいた。

「皆、喜べ! 桜尾からの増援がやってこられた!」

 ……などと言う、衝撃的な発言によって、思考もろともに。
 絶句する親子の手前で「あぁ」と、環は一度大きく頷き、

「彼らは道中、敵の別働隊と遭遇した。この相沢殿の自らの馬を喪うほどの奮戦の末、なんとか突破されてここまでやってこられたというわけだ」

 おおっ、と。
 疑惑の視線は一転して尊敬のものへと変わり、ヘタに邪険に扱われるよりも、居心地を悪くさせた。
 当事者からしてみれば、なんとも荒唐無稽な虚言だが、この公子の口は、それを真実として言いくるめることのできる不思議な魔力があるようだった。

「なッ、違っ……我らは」

 誤解を晴らそうと前に出ようとした息子の足を、環の手が制した。
 その手が、ちらりと向けられた目が「分かっています」と語っていた。
 自分たちの企みも、その経過も。

 軽い悪寒を覚える相沢老人に振り返り、
「さて、お疲れでしょう。どうぞ熱い粥でもすすっておくつろぎを」
 と、あどけない笑貌を見せた。
 もっとも、と面はゆげに頬を掻き、
「砦の建設は未だ遅々として進まない有様で。申し訳ないのですが、仮の営所でお休みください」
 土地の者も雇い入れてはいるのですが……
 言い訳のようにそう足した環の顔を、老人はじっと見つめた。

 ――近隣の村人を取り込んだか。

 かつての領民であるが、今や彼は桜尾の客将であり、侵略者である。
 その彼が、いかなる手管か、金銭によるものか。村々と共存し、徐々にその生活に浸食していき、かつ彼らにそうと思わせないうちに協力を強いている。

 ――だが、気になるのは……
 鐘山環は桜尾義種の動きを看破していたとするならば、なにゆえ先に退避しない?
 何故、この場にて留まる?
 これではまるで、長期戦の構え……いやまるでここに己の国でも作ろうというような挙動ではないか?

「鐘山殿」
「はい」
 ――まさか今さら、言えまい。
 衆人環視の中、自分たちが負け犬だ、お前達を騙した、だから共に退いてくれ、とは公言できまい。
 ゆえに城建は言葉を濁し、

「お気持ちはありがたい。しかし、我らは貴殿の家臣ではなく、貴殿は客分。進むにせよ退くにせよ、我らの庇護下に入って行動されたし」

 と、言った。
 つまり従うのはお前の方だ、我々ではないと。我が子のなけなしの矜持が、そう言わせたのだろう。

 対する環の返答は、承諾でも拒絶でもない。
 彼の少年従者が持ってきた、一通の書簡だった。
 それを相沢の手に直接手渡し、ご覧あれと手で促す。

 言われたとおりに開いた書状に目を通した瞬間、老いたその手は震えた。
「こ、これはっ……」
 言葉を喪失した相沢老人に、奇怪な帽子を目深にかぶりながら曖昧に笑み返し、
「……そういうわけですので、しばらくは」
 と、これまた曖昧な言い方をする。
 呆然とする父からもぎ取るように書を受け取った城建も、内容を一読するなり大きく両目を見開いた。

 しばらくは、ご内密に。
 しばらくは、こちらの指示に従ってもらう。

 しばらくは、という青年の言葉には、二重の意味が込められている。

「……っ、承知した。この『策』が成るまでは、我らの身柄、環公子にお預けいたす」
 相沢は、奇妙な敗北感と共に頭を下げた。

 ――これでは、いかな大軍を擁していようと義種に勝ち目などなかったのだ。
 自らよりも勝る兵力と将才を持つ鐘山銀夜にも。
 自らよりも劣る兵力と、自らよりも遙かに勝る器量を持つ鐘山環にも。

~~~

「なに? 計画を早める?」
 『提案者』からの申し出に、その宿舎の主、色々始は振り返った訝しんだ。
 すぐに、その怯懦を嘲笑った。
「おいおい……組の中でも勇敢だったあんたが、弱気になってるんだ?」

 確かに、相沢の三千が加わったことは脅威だが、それでも彼から真実を告げられたとは色市には思えなかった。
 でなければ、なおここに留まり続ける理由がない。
 ここに銀夜の軍が急行していることにも、気づいてはいない。

「それに、見たかよ? あの連中の無様な姿を」
 環は何を勘違いしたかはしらないが、どう見てもあれは、敗残兵の寄せ集めではないか?
 いずれ流れくるであろう風聞は、環の戯れ言を払い、その実態を白日の下に晒すだろう。

 つまり、放っておいてもいずれ瓦解する連中だ。

「それに砦の建築もまったく手つかず。完成したのは正面、搦め手の壁二層ぐらいなもんだ。なのに当の環は方々を出歩き、やってることと言えば書類の整理とおしゃべりだけ。あれはやはり君主の器じゃなかった。……俺たちのお飾りで居続ければ良かったものを」

 と、得意げに語るその最後、色市の表情が一瞬苦み走ったのを見逃さなかった。
 やはり口でどれほど言っても、こうした計画に賛同していたとしても、旧友としての情は残っているらしい。

 だが『提案者』は気がかりがあった。

 ――この異様なまでの人の広がりはなんだ?

 理ではなく、利のみではなく。
 善悪も仁も徳も差別もなく。
 環が人を呼び、その人のつながりがさらに人を呼び寄せていき、さらに広がっていく。

 ――あの大渡瀬での競り市でも、そうだった。

 鐘山環が何かを持っているのは間違いない。
 宗善、朝心斎、そして銀夜が本能的に、あるいは無自覚に危機を感じ、こうして手段を選ばず排除に乗り出るほどに。

「まぁ良い。俺の才は時を選ばない」

 墨を、筆を白紙の上に走らせながら、弁の才子は得意げに笑った。

「俺の千言万字は、一朝一夕にして環の虚像を引っぺがす! 大衆の心を、大いに動かすだろうッ!」



[38619] 第四話「環と始の決着」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:05
 御槍城下の港に、その大型船が着いたのは、実に二度目のことであった。

 その船の主は、大きく伸びをしたが、出迎えがやって来ると慌てて態勢を整えて、貞淑な未亡人の顔になった。

「これはこれは。ご使者どの。毎度ご贔屓にさせていただいております。六番屋の史でございます」

 そう名乗る彼女に「ウム」と、武士団の頭目は頷いた。
 口にはしないが、商人など、まして女の分際で店主など、見るのも汚らわしい。そういう徹底的にこちらを蔑んだ態度が見え隠れしている。

 この熊井(くまい)は傲岸で我の強い男である。
 相手を見下し、偉ぶることで城代である己の体面を守ることができると本気で考えている。
 どう考えても折衝には不向きの男なのだが、城の留守が彼なのだから、致し方もないことだろう。
 軒並みの者は軍に従い出ていったし、御槍城下が何かと不穏な空気に満ちた昨今、この男の高圧的な態度こそ頼りになると、城主の銀夜は判断したのだろう。

「それが姫がご所望であった鳥銃五百丁か」
「さようで」
「納期より大分遅れているぞ。すでに姫様は御出立された」
「そ、それではお代金は?」
 にわかに慌てた様子で尋ねる女に、彼は鼻で嗤い、返答をした。

「約定を違えたのはそちら。支払うわけがなかろう」
「確かに納期に遅れが生じたのは事実でございます。ですが、元々無理のあるご注文ゆえ、銀夜様にはあらかじめその可能性がある旨お伝えしておりました」
「そのようなことは知らぬ。異論があれば御槍を発した姫様に相談すれば良かろう」

 そう突き放し「ではな」と踵を返す。
 だが、

「お待ちください。それではこちらの大損ではありませんか。そちらがそのような態度をされるのであれば、この商品のお渡し先を、考えねばなりません」

 と彼女が言うと、ひどい頭痛でも抱えているかのような渋面で、彼は振り返った。

「環に売るとでも言うのか?」
「不本意ながら、丸損こうむるよりは、あちらへ薄利でお売りいたしますわ」

 ほう、と。

「それは、よいことを聞いた」

 低い声でせせら笑い、熊井は片手を持ち上げた。
「こやつらを捕らえよ!」
 見る見るうちに彼の郎党十数名が商人や人足、随行した私兵らを囲い込み、青白くなった彼らに、刃を向けた。

「何をなさいます!」
「黙れ! そのような生意気な態度、環に対して安く武器を提供するという発言! どれをとっても我らへの叛意は明白! よって貴様らを捕縛する!」
「乱暴なっ」
「安寧たる秩序のためだ! 我らが勝ち、環らの首が挙げられるまで、この城にご逗留いただこうか!」

 と、彼女たちが縄で縛られている間、熊井はニタリと笑って、重量感のある荷箱手をかけた。

「これは我々が有効に活用させていただこう。……すぐさま輜重隊を繰り出し、これを送り届けよ!」

~~~

 決行の日。

 色市が久しぶりに足を運んでみると、相も変わらず、陣地の中は慌ただしかった。
汗水垂らして節操なく縦横を駆けずり回る将兵や人足たちを、憐れに思い、と同時にその愚直さを鼻で嗤う。

 既にこちらに銀夜の本隊が向かっている。おそらくは三日のうちには、ここにたどり着くものというのが、彼の盟友の目算だった。
 それまでに砦などできそうにもない。
 これでは周囲の森や岳を切り拓いただけで、笹ヶ岳の野営地とさほど変わらないではないか。

 本来の計画では、環と銀夜が対陣した際、こうして自分たちが内部から切り崩し、その混乱に乗じて銀夜が攻め取る手はずになっていた。
 その予定が早まった。

「到着前に将兵を説得し、自分たち自身の手で環を討ち取り、その首級と兵力を手土産に順門府へと帰参する」

 と言う趣旨へと変わった。
 だが、彼のやることは変わらない。

 環の虚言から人々解放し、ともに祖国に帰る。

 ――あの桜尾の重臣とて、満身創痍。さほど抵抗も義理立てもせずに逃げ帰るだろう。

 という見立ての下、彼は目で高台を探した。
 やがて、現場を監督する見張り台らしきところに目をつけると、その階に足をかけた。

 環は人を引き付ける術を持っている。それは認めよう。だが、それは小手先の小細工のようなものだ。
 たとえば大渡瀬が良い例だろう。
 察するにあれは、巨大な絵札を用意することにより、人の耳目を引き込んだだけのことだ。

 ――だが今日はその詐術をこちらが利用させてもらおう。

 彼が握りしめ、背で負うものは、身の丈はある巨大な木札だった。
 ふうふうと、汗みずくになって担ぐそれには、文言がビッシリと、さながら祝詞や経典のように書かれている。

 高所を確保し、木札を突き立てた彼は、その目論見通りに作業をする者の手を止めた。

「皆、聞けぇい!」
 大音声の前置きから続く色市の弁舌は、その自負と自惚れに見合った、確かなものであったと言ってよかった。

 彼が今日に至るまで自室に引きこもり、練りに練った文言は、環の弁の矛盾の論破から始まり、その軌跡、その過失を徹底的に非難するものだった。
 一語を十の美辞で修飾するほど練磨されたそれは、製作者の確かな滑舌により淀みなく秋空の下を過ぎていく。
 世が世であれば、それは千軍万馬動かす檄文となっただろう。そして彼は、偉業を成した希代の縦横家になれたことだろう。

 まさに色市始の人間の中で、会心の出来栄えであった。

「……つまりっ! 援軍など環という詐欺師が諸君らに見せている幻に過ぎないっ! この戦には千に万に億中に、一勝もありえない! ……さぁ、今こそ魔のしがらみより解き放たれて、ともに祖国へと帰る道を歩もうではないかっ」

 演説の余韻に、しばし色市始は身を震わせ、ジン、と心を震わせていた。
 呼吸を整え、興奮を静めるが、己の弁才に対する酩酊は、今なお澱のように心の奥底に沈んでいる。

 ……だが……

 我に返り、見開いた目の先に待っていたものは、彼の期待した反応ではなかった。

 確かに動揺はしている。
 それが続いてもいる。
 だが、一部だけ、ほんのわずかな者たちだけで、他の者は始めこそ注視していたが、飽きたのか、やれやれと離散していく者が大半だった。
 律儀に居残った者は、珍妙な獣でも見るかのように色市始を見ていたが、その両目に感動の輝きは見当たらず、戸惑っているばかりだった。

「ど、どうした……? 何故話を聞こうともしないっ!?」

 乾いた舌を使い、枯れた声を絞り出す色市の眼下で、人足たちは目語した。
 そして、その内の素朴な顔つきの男が放った問いかけが、色市の胸に早い寒風を到来させた。
 そこに悪意はなかった。おずおずと、申し訳なさげな気遣いがあった。





「っていうかアンタ…………誰?」



[38619] 第四話「環と始の決着」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:07
 目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂しているようで、大筒の砲声に驚く城主が如し。

 その時の色市始の顔を、そっと環は評した。

 ――まぁ、そうなるだろうな。
 という予測はあった。
 陰謀に明け暮れ表向きの仕事をおろそかにしていた男が、陽の下で働いてきた者たちに顔を覚えられているはずがあるまい。
 それがにわかに現れ長広舌を振るったところで、信じる信じぬ以前にまず、呆気にとられる者が大半だろう。
 だからこそ、自分も友人の怠惰を咎めず、好きなだけ自室に引きこもらせたわけだが。

 ――第一あの木札は俺の真似事か?
 だとするならば、始は何も分かっていない。
 確かに大渡瀬では人の注目を引き寄せるために、環と鈴鹿と舞鶴は大きな紙を用意した。
 ……『絵』の描かれた、大きな紙をだ。

 学問を全ての民が修めているはずがない。
 全ての人間が字を、まして細々とした文章の羅列を読めるはずがない。
 確かに彼の弁と文字とは、完成された美しさを持っていたのかもしれない。

 ――それでも、美しさが分かる人などまれなこと。美や感性というものは人それぞれ、全員に理解されるということはない。

 だから万人に分かりやすいように、ウケが良いように、自分は絵という手段を用いたのに。

 もはや語は尽き、孤立する色市はもはや一本の棒のようになっていた。
 共感はない。批判も、嘲笑さえ向けられない。
 ――ここまで道化に成らなければ、実態が分からなかったのか? ……哀れなもんだな。
 気味悪げに遠巻きに見ている人々の、そのまた外周。そこで環は、静かに一人、旧友を憐れんでいた。

 未だ掘り起こされていないクチナシの幹にもたれかかる環を、彼より年若とおぼしき少年兵が見つけた。
 次の瞬間、彼は、笑みを弾けさせ、自らの雇い主に指を突きつけた。
「環様じゃっ!」
 対する環はその無礼にやや苦み走った笑みを浮かべ、
「ん」
 と、右手を挙げただけだった。
 だが振り向いた人々の反応は、その百倍は激しかった。

~~~

 色市始は、唖然として、流れの逆転を見守っていた。
 停滞した空気が、自分とは真逆の方へと向いていくのを、止める術を持たなかった。

「環様! 飯はまだですかい?」
「さっき食ったばっかだろ?」
「んじゃまた、飲み比べでも」
「だぁぁっ、こんな真っ昼間から飲むな! 仕事しろ仕事!」

 ――まただ。

「んじゃ、賭け事でも」
「また裸にされるのはごめんだ」

 ――また、こいつだ。

「あのぅ、こないだはありがとごぜーました……おかげで腹の調子もスッカリ良くなって」
「そりゃ良かった。いやウチの家臣が薬師の世話になっててな。そんでちょっと習ったんだよ」
「いやぁ、良かったです! 何しろ環様は何やらせても不器用ですから」
「そうそう、逆に殺されねぇもんかと」
「ちったぁ信じろや!」
「はははははっ!」

 ――また、環だ。
 大渡瀬でもそうだった。
 自分が千の言葉を紡いでも、万の辞を連ねても、そこにヒョイと現れた鐘山環の一挙一動が、それをたちまち超越し、ひっくり返してしまう。

 ――そうだ。あの時から既に俺は……

 歯噛みし、手すりに拳を叩きつけ、
「環ィィィィィッ!」
 ただ、自分の主を気取る男に向け、吠える。

 色市始の声音により、再び静寂が下りてきた。
 雑談は止まり、しわぶき一つ聞こえなくなる。
 今まで作業も続けていた者も、何事かと、彼ら二人の対峙を振り返った。

 環は眉一つ動かさず、無邪気な表情のままで、歩いてくる。
 その足音だけが、やたらと大きく、重く聞こえた。
 まるで、何かとてつもない荷でも、担いでいるように。
 自分にだけ、そう聞こえるのだろうか?

 やがて、流天組が駆けつけてきた。
 幡豆由基、地田豊房とほか数人は、色市始を庇うような立ち位置に、
 良吉だけは、環を守護するように回り込む。そして始には、響庭村忠の幻影を、環が背に負っているように見えた。

 かつてはぐれ者として市井を遊び歩いた同士が、今は殺気をぶつけ合っている。

 亥改大州は外野からニヤニヤと、凶相をいやらしい笑みで歪ませ、自らの組員を取り巻きに、観戦の構え。
 二人の争いに裁定を下すかのごとく、中立の位置で羽黒圭馬、相沢親子が緊迫した様子を見守っていた。

 明らかに陣営内が、三者三様に分かたれていた。それこそが、自分たちが求め、かつ環の恐れていた構図ではなかったのか?

 にも関わらず環は、常と変わらぬ、友人に対する気軽さで、
「なんだよ?」
 そう、尋ねた。

「……っ! どこかでほくそ笑みながら聞いてたんだろ!? だったら、今言ったことに答えやがれっ!」
「今言ったこと、とは? 長いうえに回りくどいから、途中で飽きた」

 周囲から、どっと笑い声が拡散する。
 ――そうやってまた俺をバカに!
 カッと腹底を熱させつつ、認めるしかない。
 この爆笑こそが、そして環の批判こそが、自分の弁に対する、辛辣ながらも的を射た批判であったのだ、と。

「じゃあ簡単に言ってやるよ! 今から問う三つがウソだと認めろ!」
「聞こう」
「一つ、桜尾家は俺たちを見殺しにする気だ! なのにお前は援軍が来ると言い続けて、俺たちに無駄働きをさせている! 一つ、だが桜尾の目論見はとうに外れて、本隊は銀夜殿によりとうに大敗している! そこな相沢殿は、その敗残兵に過ぎない! にも関わらず、お前は彼らを増援だと皆に紹介し、欺いている! そして最後! この戦に勝ち目などないッ! だがお前は、この戦が勝ち戦であるかのように楽観して振る舞い、あえて我らを死地に留めおこうとしている!」

 外野から笑いが消えた。
 途端、ざわめきに変わり、不安げな声や視線が、環に集まった。
 皮肉にも、当の本人がこの場に参加したことにより、事態は真剣味を増して、人々へと浸透したのだった。

 もはや、計画も、順門府への帰参も、己の生命さえどうでも良かった。
 この環に、衆人環視の中、自分がかいた以上の大恥をかかせてやりたかった。

 ――いや……違う! 違うのだ、色市始よ!

 本音では、ずっとこの男の器量を認めていたのではなかったのか。
 自分たちの後ろをずっとくっついて、ヘラヘラ笑っていた少年。
 その男が、ヘラヘラとしたままに、変わらないままにいつの間にか、自分を追い抜いていた。

 それが、悔しくてならなかった。
 それから、ずっと目をそらしていたのではなかったのか。

 一人の男として、一才でもって、この男を超え返してやりたかった。
 それさえかなわないのであれば、一矢を報いてやりたかった。

 ――その機会を、この答を得るための場を……環は与えてくれたのではないのか?

 色市始の視界には、もはやただ一人、鐘山環しか映っていない。
 環もまた、始の健闘を褒め称えるが如く、優しく目を細めてじっと見上げていた。

 ――思えば、俺は、こうして面と向かって見ていたのは、この環ぐらいなものだった。

「一つだけだ」

 ――もはや、悔いも……

 思考の最中割り込んだ環の、返答。
 へ? と間の抜けた調子で聞き返す始に、
「その中でウソは一つだけだ。始」
 環はより明確な答えを供した。

「確かに、桃李府公子の義種殿は俺たちを犠牲にしようとした。相沢殿はその配下として従軍していた。そして俺はそれを知りつつ彼らを庇うようなウソをついた」

 ヘタをすれば、己を囲む人々に袋だたきに遭うような立ち位置にも関わらず、環は平然と騙していたという事実を認めた。
 それも、顔色一つ変えることなく。

「そうしないと、満身創痍の客人に危害が及ぶと考えたからだ。相沢殿は、そうした己の身の上を覚悟して、我々を頼ってこられた。俺は桃李府への恩返しで彼らを守る義務があるし、彼らの率いた三千が、現状、作事等で大いに役に立っているのは事実でな。……ずっと引きこもってたお前には、見えていなかったろうがな」
「ぐっ!」

 まだだ。
 せめて一矢、せめて一勝。
 それを求めて、始は「だったらっ」と、話題を転じ、次なる瑕瑾を突く。

「主力は壊滅、戦略もとうに破綻! それでも勝てるはずがない!」
「……」
「勝てるというのなら、確たる論拠を見せるが良いッ」

 対する環は、そこで初めて押し黙った。
 不安がる皆をよそに、腕組みし、じっと瞑目する。

 だが、怖じた様子も、戸惑う風も見せない。
 思案しているようにも見えなかった。
 むしろ、何か……確実に来る「何か」をじっと待っているような。小石が転がる程度のわずかな異音も聞き逃さない。そんな決意の滲む、強さを秘めた沈黙だった。
 思わず己も倣ってそうしてしまうかのような、奇妙な魅力に包まれている。

「桜尾義種は見捨てたが、桜尾家は、桃李府は俺たちを見捨ててはいない。それが、根拠だ」

 二つの瞼が、うっすらと開く。再び蒼天色をした両目の輝きが露わになる。
 刹那、その場に居並んだ兵たちが、変化を露わにした。

 まず、羽黒圭馬が、戦場の全てを見渡すと称された戦巧者が、東に目を向けた。
 次いで、幡豆由基が、亥改大州と良吉が、相沢らが。
 それぞれに目をいっぱいに見開き、途端、笑顔になった圭馬と同じ東を視線を注ぐ。

「しょ、正体不明の大軍が東よりこの緑岳に来襲!」

 鉦と共に見張り番の大音声が、一帯に響き渡る。
 だが、環や圭馬、亥改大州は動じなかった。
 むしろ口の両端を吊り上げて、嬉しがっているようにも見えた。

「開けてやれ」
 と環は命じる。防戦の命が下されると思われた将兵に、ありありと動揺が見て取れた。
 背後に回り退路を断った、敵の別働隊ではないのか? と彼らの視線は告げていた。

「始。ちょうど良く高いところにいるから、よく見えるだろう? たまには口だけじゃなく目も動かせ。……先頭を行く家紋は、一体誰のものだ?」

 そう示唆されて、始はおそるおそる、他者と同じく東へと目を向けた。
 なびくは紺地に白い角餅二つの紋。
 一見して地味なその意匠が、多くの者の心に、少なからざる衝撃を与えた。
 とりわけ色市と、その協力者が混乱した。

「……ば、ばかなっ!」
 思わず手すりより腕を滑らせ、立て掛けていた木札に当たった。
 均衡を失ったそれが、自失状態の始目がけて倒れかかり、押しつぶす。

 そんな彼に代わり報告したのは、その先頭の将を良く知る、羽黒圭馬だった。



「あれは、紛れもなく器所実氏様の御紋。……予備兵力の八千、無事到着したようですな」



 その一旒の軍旗は、潰された色市始に決定的な敗北感を刻みつけた。
 己らが、超越者たちの掌上で踊っていた猿に過ぎないことを悟らせたのだった。



[38619] 第五話「羽黒と風祭の決戦」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:08
 ――バカな!?

 潰れた色市の傍らにいるその者は、『天下五弓』と称されし男の到来に狼狽した。

 平素は陽気で、笑みを絶やさぬ人当たりの良い男。その有り様は馬上の人となっても変わらない。

 だがそこには、将の風格が備わっている。後続の八千余名を率いるだけの威風に満ちていた。
 親しみやすさはあるが、容易に近づける雰囲気でない。

 凛と張った清浄な空気は、聖人を想起させる『格』というものがあった。
 ……おおよそ武士の所業など、その真反対のものだろうに。

「おう、環殿。ご無事で何より」
「寝床は用意しておきましたよ、実氏殿」
「ハッハ! それはありがたい!」

 と、和やかに笑い合うその陰で、『内通者』は必死に「何故!?」と問うていた。

 ――何故器所実氏が動く!? 何故東へ向かったはずのこの男がこの西の戦線に来る!? 風祭家は、羽黒圭輔はどうした!?

 だが、その逡巡は別として、認めなければならなかった。
 東の戦線は、実氏の援軍を必要とする前に、既に落着したのだと。

~~~

 時はさかのぼる。

 自家に弓引いた番場家を討伐すべく再度軍を動かした風祭家は、増援の第一陣である羽黒圭輔と一戦を交えた。
 小規模な衝突の後、番場城へと退いた圭輔らを、風祭勢は追った。城を囲んだ。

 以前の戦ではいつも野戦にて敗退を繰り返していた風祭家が、康徒の戦死以降、初めて圭輔を籠城まで追い込んだのである。

 その快挙に浮き立つ陣中において、表情を翳らせた者は二人、いた。

「またか……」
 一人は風祭親永。
 現風祭府公の弟にして、康徒の再来との呼び声も高い筆頭家老。
 この包囲軍の、名目上の、総大将。

 来訪者を告げる使番に、痛ましげに顔を覆った。

 名目上の総大将、と人は揶揄する。
 だが、親永は無能ではない。むしろ他国の将帥と十分に渡り合うには十分な力量を持っていたと言って良い。

 彼の堅実な手腕がなければ、風祭府などとうに内外から切り崩され、本拠清楯には桜の家紋が翻っていたことだろう。

 それでもなお、彼を「名目上」たらしめる要因が、その来訪者であった。

「お通しせよ」
 と許可する親永の前に、身の丈六尺半の偉丈夫はのっそりと歩いて現れた。

 凛々しい眉も、固く引き締まった頬も、一切の喜色を発してはいなかった。
 そもそも親永は、十年にも及ぶ付き合いの中、この男が他者に親しむところを見たことがない。いわんや笑ったところなど。

 それが、従兄弟、風祭武徒であった。
 尊敬すべき先人、康徒の嫡男にあたる。その血筋と言い、自身の武威と言い、強い存在感を発揮する名将である。

 ……で、あるが故に、目の上のタンコブでもあった。

 時に偉大な父さえ凌ぐとされるその武略、亡父より譲り受けた精鋭家臣団は、風祭府にはなくてはならぬもの。

「親永殿、そろそろ総攻めにかかるべきかと」

 その自負もあるだろう。
 普段は無口なこの男は、戦の方針に対しては饒舌であった。
 確かにそれに見合った実力はある。

 ――だが、叔父上とは異なり、この男には戦だけしか見えていない。
 それがあくまで政の手段の一つであるという認識に欠けている。

「まぁ、待たれよ」
 猛牛を宥めるような手つきで従兄弟に制止をかけると、机上の文書を指で示した。

「確かに我らが一丸となって攻めかかれば、城は落とせよう。だが、目先の一城に固執して大局を見誤られるな。今この有利な情勢下で、近隣の国人衆を揺さぶり、こちらに引き込まなければならぬ」
「奴らとの起請文など、いくら重ねたところで、こちらが不利と見なせば再び背こう。禍根は根より絶たねばならぬと存ずる。悠長に勝勢を誇っている余裕があるのであれば、実氏の増援が到着する前にとっとと城を落として、地固めすべきであろう」
「……さて、それよ」

 いちいち癇に障る言い方をする、という心中の忌々しさを押し隠す。
 大将としての構えを崩さないよう心がける。

「本来であるならば実氏はとう動いてしかるべきだが、未だ動かぬ。武徒殿はどう見られる?」
「桜尾公か、実氏本人が病との風聞あり」
「まこと、その風聞を信じておられるわけはあるまい」

 従兄弟は答えず、ただつまらなさげに鼻を鳴らしただけだった。
 ムッとしつつも、親永はさらに言葉を続けた。

「おそらくは見捨てる算段でもしておるのだろう。義種の順門府侵攻は、無謀の極み。その失策を警戒せねばならぬ故、うかつに動けぬのだ」
「だが番場城には既に羽黒圭輔が入っている。あの男を無為に見殺しにする実氏でもないし、素直に犬死にする圭輔でもない。いずれかが何らかの策を講じていることだろう」
「そのようなことは分かっておる。ゆえに、軽挙は慎まねばならぬ。ゆえに周辺の動きや反応を伺い、奴らの狙いを探り出さねばならぬのだよ」
「総大将はあなただ。これ以上は申すまいが……で、その首尾は如何?」

 ――この男に、政務外交を説いてもしかたあるまい。
 にも関わらず、本能的とも言うべき鋭い嗅覚でか。こちらの痛いところを突いてくる。

「かんばしくはない。各所に鼻薬を効かせてはいるのだが……」
 そう言って嘆息する親永に。
「……なるほど、人とは難儀なものだな」
「難儀とは?」
「嗅いだ薬の中身は同じでも、銘が違えばたちまちに効力を失うとは」

 ――つまり声望で劣る私が、叔父上のマネをしても無駄と言いたいのか。
 舌打ちをこらえて睨む親永に対し、無表情のまま武徒は肩をそびやかした。

「他意などない。それはそうと、鉄砲での威嚇は続行させていただく。よろしいな?」
「……威嚇のみに留められよ」
「承知」

 挨拶もなく、くるりと武徒は踵を返し、己の部署へと戻っていく。
 そのたくましい背が消えるまで目が離せない己が、憎くてならない。
 怒りに任せた拳は文書の上に振り下ろされて、周囲の者を瞠目させた。

~~~

 断続的に続く東側からの射撃音に、
「おう、おう、おう」
 と、声を張りながらその城主は武者走りを駆けていた。
 他者が聞けば気の抜けるような調子であったのかもしれないが、この番場城主、番場伴満(ともみつ)にとっては真剣そのものの疾走であった。

 ――何故、自分がいちいち走り回らなければならないのか?
 それに対する苛立ちもあった。

 何しろ、奥の間には、まるで自分こそがこの城の主だと言わんばかりに、あの金銀妖眼の若造が居座っているのだから、面白いはずもない。

 一度その間の手前で呼吸と感情を整える。
 つとめて冷静に、しかし急事を報せるだけの緊張感を伴って。

「御免」

 と、開けた先には、新畳いっぱいに敷き詰められた無数の文と、その中央に鎮座する、枯れ草色の頭髪が見えた。
 この戦時、いつ髭を剃っているのやら。平素変わらぬ好青年の風体で、異色の男は己が居城で政務を仕切るが如く、書類を読んでは整理していく。

 蟻一匹出る隙さえないこの包囲下で、いったいこの男はどれだけの文書と情報を仕入れているのか? それをこの男、羽黒圭輔に尋ねるのさえ恐ろしかった。

「一大事ですぞ。また、風祭武徒めが仕掛けてまいりました」
「親永は?」
「未だ本陣に居る模様」
「ならば威嚇でしょう。心配など無用。……そうか。やはり親永は連動しないか」
「しかしっ」
「それと、城主たる御仁がうろちょろと動かないでいただきたい。文が飛び散りますし、何より見ていて見苦しい」

 一瞥もくれずに文書に視線を注いだまま、桃李府公子は言った。
 一見して無防備ともとれるその背を、その肉を、

 ――斬るか

 と。

 ――斬って、風祭府に寝返る手土産にでもするか。

 ……そう、思わない伴満ではない。
 そも、この要所を守る城主が風祭家や桜尾家に背いたことは、今回に限ったことではなかった。

 ある時は風祭として、ある時は桜尾として。
 裏切り、自らに利なしと見なせばまた表返った。
 番場城は山原に面した王争期以来の堅城である。
 その地の利を売り込み、大国の間でそうして延命し続けてきた。

 風見鶏と、人は揶揄する。
 だが、それが桜尾の武名と風祭の威名、親永と武徒、圭輔と実氏に対抗しうる術であった。
 非難する者は、いっそ立場を取り替えても同じことが言えるのか、試してみたいほどである。

 だが、老獪な伴満は、幾度となく智勇をぶつけ合ったが故に知っている。
 この男がこちらを信頼していないことも。それを承知で自らの警戒心の緩みを見せかけていることも。
 ――やれ、やれ。この男を城に招けば何かと都合が良いかと思ったが、かえって行動が制限されてしもうた。

 このうえは、桜尾家に属して戦うしかあるまい。
 ――少なくとも、この戦は、な。

 ことさら慌てて見せて、
「それどころではありませんぞ! 敵は意気軒昂。仮にこれが威嚇だとしても、万が一武徒が本腰を入れる気になれば、落城のおそれさえあります! 是非とも圭輔殿には陣頭に立っていただき、武徒に当たっていただきたい!」
「……現状は貴殿のみで対処できるはずですが?」
「……やはり康徒殿の遺児遺臣を見ると、圭輔殿とて恐怖が蘇り、足でも竦みますかな? 実氏殿なくしては、康徒殿の亡霊と戦うこともできませぬか?」
 等と煽る。



 一瞬後。
 番場伴満は己の軽口に対する後悔を、総身で味わうこととなった。



 羽黒圭輔は、そこでようやく、伴満へと振り返った。
 その棗の色をした瞳に、怒りが宿っていればそこに付け入る隙があった。
 笑いで韜晦すれば、頼むに足らずと侮ることもできた。

 だが、羽黒圭輔の横顔からは、ありとあらゆる感情が排斥されていた。
 まるで店先、己が用いぬ品物でも見るが如く、振り返りはしたものの、この城に対する主への敬意も、憎悪もない。

 ただ、無情さが在った。

 理屈ではない。
 どれほど挑発しても、虚勢を張ろうと向後一切、この男に並び立つことなどできない。重用もされない。
 一城の主として、今まで両陣営において、繊細に、かつ丁重に扱われる側に立っていたはずだった。そんな東方の雄にとってこの冷視は、未知の感覚だった。
 それが、全身から冷汗を吹き出させた。

「そうですね……」
 貴公子は膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。その衣擦れの音にさえ、敏感になった伴満の肌膚はビク、と反応してしまう。

 かしこまって、失言に頭を下げる。
 そんな老将に、圭輔は一転して美笑を称えて言い添えた。

「確かに頃合いでしょうか?」
「では……っ?」
「えぇ。緒戦で捕らえた捕虜を、曲輪に引き立ててください」

~~~

 縄と木片で縛り付けられた数名の男達は、皆いずれも前線にて見たことのある顔ぶればかりだった。
 だが中には意気が折れて、縋るような目をする者もいた。対照的に、未だ反抗の気骨を見せる者もいた。
 十人十色の反応に対し、圭輔はぞっとするほど感情のない目で、一緒くたに見返しただけだった。

 そして番場伴満は、わざわざこのような場に彼らを引っ立てた理由が、未だに掴めずにいる。
 また、その周囲の羽黒、番場両陣営の家臣たちもまた、

 ――今まさに鉄砲を撃ちかけられているのに……
 ――なぜこの緊急時に、捕虜の引見など、

 と、戸惑いの言葉を耳語し合っていた。

 だが、
「……呪われろっ! 羽黒めっ! 裏切り者の番場め!」
 という一人の捕虜の喝が、その当惑から彼らを解放し、視線を集めた。
「天朝の意向を無視する桜尾めっ! 天に唾吐く逆賊めっ! たとえこの風祭親永が臣、篤泰! 死しても鬼となって貴様らを呪い殺してくれんッ!」

 そう豪語する左端の虜囚に、圭輔は歩を進めた。
 今なお、敵愾心を剥き出しにする彼に、その弁の是非にも触れず、圭輔はただ一言、

「貴方は、風祭親永の家中の者ですか?」

 そう、問うた。
 予想外の質問に、篤泰と名乗った男は一瞬唖然とし、息の仕方を忘れたようだった。
 伴満も、妙な質問だと思う。
 緒戦とて、交戦らしい交戦はなく、むしろ風祭武徒勢とは一戦たりとも交えた記憶はない。
 すなわちここにいる捕虜たちは皆、風祭親永家中の者たちばかりであるはず。
 それを、わざわざ確認するまでもないはずだった。

 だが、その程度の意外さで、消える篤泰の気炎でもない。すぐに怒りを再燃させて、

「だったらなん」

 斬った。
 羽黒圭輔は、言い終えるよりも先に、抜いた刀で彼の生命を断った。
 胴から離れた首は、隣の捕虜の足下に転がり、死者の代わりに軽く悲鳴があがった。

 戦慄したのは彼らだけではなく、味方もだった。
 歴戦の伴満とて、刀を抜く瞬間が見えなかった。反りの浅い刃が、鞭のようにしなったようにしか見えなかった。
 片手で抜き放たれたそれが、イノシシの如きその太首を両断するまで、我に返ることさえ許さなかった。

 肌に粟が立つ。

 倒れ伏しながらも痙攣と止まらぬ骸を乗り越え、圭輔は右へと足を進めた。
「……っ、羽黒様!」
 目の前で足を止められた四十ばかりの武者が、震えた声で、自らの生殺与奪を握る者の名を呼ぶ。

「せ、拙者は今更命を惜しむこともありませんが、一人の母を持っています。歳は七十余り……明日の身の知れない拙者以外に養う兄弟もいなければ、今ここで討たれてしまえば、老母は明日より飢え死にしてしまいまする! もし、拙者を解放していただけるのならば、今後は心を入れ替え羽黒様にお仕えする所存でございます!」

 申し状はともかく、明らかな命乞いであった。
 ある者の同情を、またある者の軽蔑を買ったこの男に対し、羽黒圭輔はそのどちらも与えなかった。
 微笑し、見下ろし、

「貴方は、風祭武徒殿のご家中ですか?」

 と、尋ねる。
 意図を掴みかねているふうではあったが、
「正直に答えなさい」
 と圭輔に促される。
 彼の言うとおりにした方が良いと判断したのだろう。
 媚びるような薄笑いを顔いっぱいに張り付かせて、

「いえ……拙者は風祭親永めの」

 その媚態ごと、彼の首と胴とは分断された。
 野菜でも切るようにして、情なく、圭輔は彼を処断した。
 そしてそれゆえに苦痛もなかったろうが、ここにいたって残された三名ばかりの捕虜たちは、これから来たりうる運命と、生き残るための明確な解答を悟った。

 圭輔は、さらに右へと身を移動させた。
 全身を震えさせる男に、真の東方の雄は、美しい笑みで尋ねた。



「貴方は、風祭武徒殿のご家中ですか?」



 その笑みは、番場の城主に向けたものと同じ。
 ただただ美しいが、相手に何の感慨も与えない。そんなもの与えようもないと言わんばかりの冷厳な笑顔。

 ゆえにこそ無心の聖人のそれに、近いものであった。



[38619] 第五話「羽黒と風祭の決戦」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:09
「わ、我々はその……風祭武徒の家臣でございます」

 同輩の死体の傍らで、震える声を揃え、残された捕虜たちはそう答えた。
対する圭輔の反応は、真偽を問うことはせず、うっすらと、微妙に表情を崩して、
「そうですか」
 というものだった。

 自分たちの答えが意に沿っていたのかを分かるよりも先に、圭輔の対応は迅速だった。

 部下に命じて捕虜たちに拘束を解いた彼は、今までの不当な扱いをまず謝した。
当惑する彼らにそれなりの駄賃を手渡し、

「では、武徒殿には『三日後の夜に』と、よろしくお伝えください」

 と伝言を頼んだ。
「……それは、いかな意で?」
 とは、彼らは尋ねることはできなかった。

 彼らは武徒の配下と騙ったが、実際は親永の臣である。
 圭輔より言い含められたことが、自分たちの知らぬことであっても、それを知らないことが露呈し、不審に思われてはことだった。
 故に、訊きたくとも、訊けない。

 たとえそれが、怪しげな密約を示唆するものであったとしても。

~~~

 無論、解放された彼らが向かった先は、風祭武徒の陣取る東の野営地ではない。
 それとは真反対、自分たちの本来の主である親永の包囲網西陣だった。

「……三日後の夜?」
「は。そのように、申しておりました」

 息も絶え絶え、という体で自らが受けた労苦を語る家臣達に、親永は首を傾げた。

「さらに、城中は物々しい様子でございました」
「敵は籠城しておるのだ。当たり前であろうさ」
「しかし、ただならぬ戦意に満ちており……今にも討って出そうな雰囲気でございました」
「君は」

 近郊の清水で点てた茶を机に置き、親永はそこで一度言葉を切った。

「何か、違うことを危惧しているのではないか?」

 言いよどむ彼が、よほど穏やかならざる意見を申し述べようとしているのは、親永にも分かった。
 そしてそれはおそらく、ここまでの始終を聞いた自分の懸念と合致しているのではないか、という予感があった。

「武徒殿は、圭輔めと内通しているのではないでしょうか?」

「……つまりこれは三日後、夜襲を仕掛ける合図であると? 武徒殿がそれに呼応すると?」
 こめかみに拳を押し当てる親永に、その家臣はなお言い募った。
「ここまでの戦で、あの好戦的な武徒殿が少数の敵に挑もうともしていない。妙ではございませんか?」
「緒戦の戦では彼が後詰めであったからだ。そして今回は私が交戦を控えるように通達を出しているからだ」
「しかし殿の家臣と告白した捕虜は斬られ、武徒殿の臣だと名乗った我らは助けられたばかりか厚遇された! 理不尽ではありませんか?」

 ――その理不尽で生き残ったのはどこのどいつだ?
 親永は眉をひそめたくなったが、問題とせねばならないのはそこではない。
 あくまで風祭武徒に敵との密約があるか否か、彼は信に足るかそうでないか?
 それのみである。

「……もし万一夜襲があるようであれば、武徒殿にもご注意せねばならぬ」
「殿!」
「……案ずるな。文でのやりとりに留め置く。だがあえて伝えることで、あの御仁の反応も知ることができるはずだ」

~~~

 東の陣地にて、従兄弟よりの書状を受け取った風祭武徒もまた、首を傾げていた。

「……直接言いに来れば良いものを」
「総大将というお立場だから、動きたくないとか、かな?」

 彼のぼやきに答えたのが、年若い被官、旭(あさひ)瞬午(しゅんご)だった。
 父親が先の戦で死に、弱冠十代でその当主の座をついだ彼は、その目の利きにより武徒の腹心に抜擢されている。
 どことなくあどけなく、甘みと憂いと色気を含んだ美貌。
 それゆえに「武徒の寵童ではないか」「だから策が採り上げられるのではないか」と陰口を叩かれることも少なくない。

 だが傍目から見れば、それほど昵懇でもないことがわかるだろう。
 それどころか、お互いに進んで接近しようという気配もない。
 武徒がぼやき、それをこの少年が拾って私見を事務的に言う。そしてその意見が自然と取り上げられることが多かった。
 それだけの、間柄であった。
 お互いに毒のある陰気者ゆえ、気が合う部分もあるだろう。

「夜襲は、三日後に行われるか?」
「ここは元は風祭府の土地。また番場の古狸が圭輔のような他所者をむざむざ案内するはずがない。慣れない土地での夜駆けなんてもってのほか」
「それでも、羽黒圭輔は仕掛けてくる」

 武徒も、瞬午も、お互い顔も向けない。ただ己の中で言葉を反芻させるが如く、俯きがちにブツブツと呟くのみだった。

「親永様はどうして三日後と断定したのか、どこからその情報を持ってきたのか。それが分からないね」
 無教養と弁護することもできない無礼さが、そのへつらいの無さが、かえって武徒には心地良く響く。
 そこで、風祭武徒は美少年の横顔を覗き見た。
「では、警戒を促すとしよう」
 腰を上げた主君を、黒目がちの、幼さ残る瞳が一瞥した。
 ここで初めて、この主従は顔を見合ったのである。
「……よした方が良い。文には文で十分」
 普段はちぎっては捨てるような口ぶりの副将らしからぬ、言葉の濁りがあった。

~~~

 ――御大将の見立てに異議あり。
 夜襲のおそれなど、露ほどもなし。
 余計な気合いを入れることなく、泰然と構えられるように。
 有事の際は、当初の打ち合わせ通りに。

 武徒の文は、そのような旨を、簡潔に記していた。
 実際に筆をとったであろう右筆が、文面に手を加えただろうから、実際の口上はもっと辛辣かつ味気ないものであったに違いない。

 文を一読した親永は、やや眉から口元にかけてやや苦みを走らせて、

「……三日後の夜は篝火を倍にせよ。夜通し警戒を怠らないように。……それと、武徒の陣の動きにも目を光らせておくように」

 と、鋭く低い声で諸将に命じた。

~~~

「……ふわーぁ」

 夜が明ける。朝日がのぼる。
 結局手ぐすね引いて万全の態勢で待ち構えていたものの、羽黒勢は影さえ見えず、無為に不眠の時を過ごしただけであった。

 そのことを嘆く者。連戦における疲労に、寝不足に、体調を崩す者。
 風祭の将兵の反応はまちまちだったが、己が健常であることを示すものは稀だった。
特に顕著だったのは、末端である見張り番であったと言って良い。

 何しろ彼らは、一晩中、いつ、どこから来るかもしれぬ敵の来襲を警戒していたのだから。

 当然その中で交代もした。仮眠もとった。それでも、自分たちの目が風祭全軍の生死を握っているという重圧と、一瞬後には命のやりとりが行われるかもしれないという恐怖が、彼らの心身を平常より倍する速度で疲弊させた。

 あるいはそこに、本当に敵が急襲してきていれば、その苦痛からは解放されたのかもしれない。

 だが、羽黒圭輔は現れなかった。
 兵らの中には切れてだらしなく垂れる緊張の糸と、徒労感だけが沈んで残った。
 ゆえに、誰が別の誰かを、咎めることはできなかった。

 朝日を背に進む、黒い影のの塊に、その出現に、進撃に、その存在に、ほんのわずか、反応が遅れたということに。

 たなびく軍旗は、銀刺繍の蜂。
 並ぶ銀穂は、乱れもない。
 銀色にきらめく胴を身につけた将が、先陣を自ら切り、采を躍らせる。

 左右の瞳が、微妙に色違いであるとある兵は気づいた。
 何者であるかが分かった。
 だがそれは、彼の死期がすぐそこまで近づいたことの証明でもあった。

「てきっ……」
 告げるより先に、その将、羽黒圭輔の逆手で抜きはなった刀が、彼の脇腹を刳り抜いた。

 血と臓腑を散らし、倒れ伏す彼を顧みず、二千名の軍勢は、止まることなく突き進む。

 彼らがつい先頃まで警戒していた奇襲は、たった今、四日後の日の出とともに行われた。


「貫け」


 桜尾晋輔と名乗りし頃以来の、羽黒圭輔の旗本衆。
 それが中核を成す精鋭軍が、研ぎ澄ましていた牙を突き立てた瞬間だった。



[38619] 第五話「羽黒と風祭の決戦」(3)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:09
 ……結果として風祭親永は名将である武徒の忠告を退けた。
 しかしこの包囲軍の総大将とて、なにも武徒に対する私情や、疑心から却下したわけではなかった。

 変化を起こさず、起こさせず、あくまで優位を保ち続ける。そうして流れが完全に此方に傾くのを待つ。
 そういう方針をとっていたからに他ならない。
 ゆえに危険は冒さず、かつ万全の警戒態勢で臨まば、敵がつけこむ隙は生じない。
 そのため当初の捕虜言葉どおりに三日後の夜襲に備えたのである。
 たとえ武徒が敵に内通し、『あえて』夜襲説を否定したとしても、そうでなくとも、己さえがしっかりしていれば問題なく対処できる。
 そう、信じた。

 だが、人は毎日毎時、気を張り詰めていることはできない。
 そのように心がけていたとしても、いずれは心に綻びは生じる。

 ――だが、あえてその綻びが生じる時期を、敵が望むように誘導できたとしたら?

「敵襲、敵襲!」

 早鐘が連続して鳴り響いた時にはすでに、五段構えの包囲網は三段まで突き破られて、親永の旗本まで迫ろうとしていた。

 それほどに、羽黒圭輔の軍勢は疾かった。
 それほどに、緒戦で損傷を避け、籠城時も矢面に立たず英気を養った羽黒家は強かった。
 退く味方も、追いすがる敵も、皆風祭軍の屍を踏みしめてこちらに向かってくる。

 ――脆すぎるっ! 我が軍勢は、連戦と包囲と徹夜とで、こうも憔悴していたかッ

 もし敵が来たらば、敵の鋭鋒を避け、その懐に誘い込んで各軍と連携して覆い包み、殲滅する。

 ある意味現状は、その体現と言って良かった。

 ただ違うのは、敵が本当の意味でこちらを各個撃破しているということと、味方の動きが思った以上に遅く、拙いということ。
 羽黒勢の神速は、包囲が完遂する前に親永の本陣を突くだろう。

 その焦慮とは別のところで、親永には懸念があった。

 ――なぜ、朝に仕掛けてくる!?

 敵がこちらの油断を突くべく、あえて夜という時節を外したのは分かる。
 だが奇襲とは、自らの正体を悟らせず敵の不意を打ち、疑心を煽り、混乱に陥れる攻めである。
 だがこの『奇襲部隊』は、自身の軍勢の実態を旭日の下に晒している。
 今は各軍動揺しているが、このまま持ちこたえていれば、いずれ味方は秩序を取り戻し、改めて覆い囲むことも可能である。

 ――だが、そのような無謀に、あの謀多き羽黒圭輔が出るはずがないっ!

 そこには、何らかの勝算が、自分が未だ察し得ない確信があるはずった。
 おおよそ博打を好まない、絶対にしない風祭親永にとっては、そうとしか思えない、理解のしようのない蛮行であった。

 刹那、親永の脳裏をよぎったのは、未だ静観している従兄弟の虚像であった。

 ――もし、真に武徒が圭輔と密約を交わしていたのならば……

 そして内外から挟撃されたのならば?
 考えられる最悪の事態であり、あるいはそれをこそ敵は待っているのではないか?
 だから、武徒は動かないのではないのか?
 だから……敵はこちらが待ち構えている時期を計り知れたのではないのか?

「敵軍、こちらに真っ直ぐ向かってきます!」
「……退け」
「は?」
「退け! 撤退するよう伝えろっ!」
「し、しかし」
「良いから、陣貝を吹くんだ!」

 あくまで風祭府筆頭家老は慎重な智将であった。
 乾坤一擲の大勝負に挑むぐらいなら、凡手に留まる。
 虎児の牙を警戒し、虎穴に入らず。
 そういう男だった。

 だがこの時ばかりは、慎重ではあっても冷静ではなかったかもしれない。

 馬首を祖国の方角へと翻しながら、風祭親永は歯を食いしばった。

~~~

 一方で風祭武徒は、苦境にあった。
 彼は望んで動かなかったわけではなく、城方の兵に牽制され、援護をすることができなかっただけであった。

 あるいは、強引に突破すればそれも適ったかもしれない。
 だが、あからさまに味方の忠言を疑ってかかる布陣をとった男を、被害を増やしてまで助けようという気がなかったのも確かであった。

 まして、持ちこたえる姿勢も見せず、こちらに何の指図もなく、自分たちのみがさっさと離脱する。
 そんな者を、助けようがなかった。

 結果として孤軍として取り残された武徒勢は、城を守る兵と反転した羽黒勢とに、側背を痛打された。

 武徒は近習の森崎なにがし以下、五十超の戦死者を出したが、武徒自らが両刀を引っさげて突破口を開くことで、離脱することができた。

 そうして追撃を振り切って東へ数里。
 逃げ延びた武徒勢は、奇しくもそこで風祭親永の本隊と合流を果たした。

 ただし、両将がそこで再会したのは、当然の帰結と言って良かった。
 良将の描いた退路は、名将の選定した退路と合致した。
 東盤海沿いは未だ彼らに味方する海賊、国人衆も多く、再戦を期するにも、そのまま退却するにも、彼らの助力は不可欠であったからだ。
 彼らがお互いを意識したわけではなかったが。

 両軍の兵たちは頼りとすべき味方を得たことで、ようやく人心地ついた思いだった。

 ……だが、彼らの意に反し、すんなりと和解し、協力して離脱、とはいかない。

 親永らは、「風祭武徒が裏切っている可能性がある」と警戒し、武徒と以下の部将たちは「自分たちを見殺しにした臆病者ども」と彼らを白眼視した。

 疑心は暗鬼となって駆け巡り、瞬く間に両陣営の空気は悪化した。
 あたかも遭遇戦の如き構えを見せる二つの風祭軍の間で嘆息したのは、風祭武徒の帷幄の臣、旭瞬午であった。

 美貌の少年はまず主君武徒を言葉少なに説得すると、次いで中立地点に立って親永陣営に会談を持ちかけた。

 親永本人ではないものの、その代理たる家臣を招くことに成功し、そこで両陣営の言い分をまとめ、誤解を説いた。
 そして両首脳を引きずり出し、直接の対面をさせたのである。

「回りくどいことを」
 話し合いに出る直前、武徒はそう言いたげな目をしたが、本当にそうぼやきたかったのは武徒でも親永でもなく、瞬午であったのは言うまでもない。

 ――面倒を、かけさせられる。

 だが、彼はあくまで風祭武徒の臣である。
 比較的己が冷静であるという自信はあったが、それでもどこか主君に心を寄せた考え方をしてしまう。
 今回の敗戦の責は、大半が親永に帰するものだと考えている。

「知恵者って時に面倒なものだよな」

 その場よりの去り際、少年はため息をついていった。

「あれやこれやと理屈を考えて、本質が見えてない。あの不器用な武徒殿が、お父上の仇とつるむわけがない。……例えそうでなかったとしても、裏切る機会は、そうすべき時機は、今までにいくらでもあったんだよ」

 この話し合いで、兵力、士気練度、そして将器、いずれも勝る風祭武徒が殿軍を受け持つこととなった。

~~~

 物見の報告によれば、追撃部隊の先鋒は番場、追いつく時期は一刻後だと言う。

「それまでに、陣立ては能う」
 我らであれば、という言葉を裏に隠し、武徒は殿を務める麾下の諸将にそう告げた。

「瞬午には手勢に加え我が旗本と鉄砲三百を預ける。本隊は渡河。汝はこの場に留まり、亡霊となれ」
 一聞すればそれは、捨て駒にするという意味に思える。

 瞬午は主の言葉を聞くや、チラと川面の方へと目を投げやった。
 向こう岸までの川幅は、三十間といったところ。
 途中に中洲のようなものは一つも見当たらず、五人ほどの大人が並列することのできる橋が一本、架けられているだけだ。他に渡河できるような地点もなさそうに見える。

 鬱蒼とした森林地帯であるそこは、夕刻でも十分に暗く、深さをはかるには実際に入って見なければ分からなさそうだった。
 何よりそのせせらぎのせわしなさが、川幅の割にそこが激しい急流であることを示していた。

「わかったよ」
 嘆息まじりにそう言う少年被官に、生け贄としての悲壮感はない。
 いつも通りの「また面倒を押し付けられた」と言いたげな顔つきだった。
 正しく、武徒の意図するところを呼んだ男の顔だった。

 軽く頷いた武徒は、
「上手く行くな」
 と、独り言のように呟いた。
 意見を求めたわけではなかったが、いつも通りに瞬午は視線も向けずに
「上手く行くよ。でないとボクが死ぬ。だけどね武徒殿」

 と、武徒が意外であったのは、黒目がちの黒曜石の瞳が、武徒を見返したことだった。

「そもそも貴方がこの戦の総指揮を執っていれば、こんな無様な負けはなかった」
「……何が言いたい?」
「もし貴方が公弟親永様から実権を奪い、名実ともに三軍の総大将となっていれば、今日における風祭府の苦境も、貴方自身の苦悶もなかったんだ。それを」

 瞬午は、いつになく熱している己に気づき、我に返ったのだろう。
 羞恥と興奮とで、その白い素肌が朱に染まる。

 と同時にそこで、武徒の向ける鋭い視線に気がついたようで、わずかに身をすくませた。

「瞬午」
 武徒は、抑揚なく家臣の名を呼んだ。
「我は汝の才を買っている。だが」

 武徒の腕が素早く伸びて、瞬午の細首を掴んだ。
 両脚を浮き上がらせてもがき悶える少年を締め上げ、冷たい声音を夕暮れの川縁に響かせた。

「だが、貴様の言い分や思想まで認めたつもりはない」
「……っ! ……!」
「下らぬことに頭と舌を使う前に、今なすべきことをしろ。他の者もだ」

 今までに固唾を呑んでなりゆきを見守っていた将たちは、畏敬に値する主将の厳命に頭を垂れた。

 武徒は軽く睨む瞬午を解放した。
 背を向けて己の作業に取り掛かり、家臣らの顔を見ることはなかった。

 彼にとっては、誰が敵で、誰が味方なのかなど、どうでも良いことであった。
 権力や大軍を指揮する権威に魅力を感じたことはなかった。
 その辺りを、瞬午も、親永も思い違いしている。

 ――我は我の戦をするのみよ。

 自由にできる限りの材料で最大限、仕事を仕上げる。
 それが彼の矜恃であり、生きがいであった。



[38619] 第六話「羽黒圭輔の問答」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:10
「……圭輔め、態勢を整えるなど見え透いた嘘を。我らに露払いをさせようというのは、目に見えているではありませんか、父上」

 追撃中、番場伴満は随行する倅の言葉に呵呵、と快勝した。

「そう言うな。我らとて未だこちらについて日の浅い身。ここいらで武功の一つでも立てねばな」
「しかし、下手に追い詰めれば風祭方の恨みを買います。となれば後日、面倒なことになりますまいか」

 伴満が兵を進ませながら顧みると、息子は切れ長の目に、理知の輝きを宿していた。
彼の言う後日、とはもしもの時。
 再び風祭府に寝返る、まさにその機のことを示唆していた。

 父は笑い声を遊ばせて、息子の肩を叩いた。

「心配せんで良い。我らに番場の地の利がある限り、誰と与したところで、何度敵したところで、羽黒も風祭も強くは出られんよ!」

 我が子の意見を否定しつつ、その成長を嬉しく思う。

 ――かつては義理だの忠だのと青臭いことを抜かしておったのに。やはり子が出来ると違うようだな。

 己が護るべきものが、目に見える形となって生まれ、そして愛情が芽生えた。
 そのことが、乱世を生き抜くために必要なしたたかさを我が子に与えた気がする。

 思わず緩みそうになる頬を、わずかに感じる殺気が引き締めた。

 ――いるな。

 間違いなく兵の、戦の気配がする。
 火薬の匂い。立ち上る黒煙がそれを教えてくれる。
 一度制止を命じ、態勢を整えた後にその先の敵に迫った彼らは、少々意外の念に囚われた。

 川を挟んで対する敵は、風祭武徒。
 だが、風祭の両翼と謳われた武神の傍らには、わずか百騎ばかりの武者と、左右に広がる竹束しか存在していなかった。

 ――影武者ではない……

 何度か顔を合わせた仲である。
 一見して好青年に見えなくもない端正で精悍な顔立ちに反し、まるで死者や隠者であるかのような、深い闇を抱えた双眸。
 極度な華美を好んだ先代と違い、黒一色に塗り固められた鎧の上に、浅黄色の陣羽織。
 青毛の悍馬の上、太い腕を傲然と組んだ、不遜な態度。

 紛れもなく、その姿こそ大首級、風祭武徒そのものであった。
 その像が、彼らの間の陽炎にて、大きく揺らめいている。
 その出所は、焼かれ、轟音と共に激しく燃えさかる板橋であった。

 さしもの老将もこれには
「……フム」
 とたじろぐ。

「……いかがなさいます? 父上。あるいはあの竹束の影に伏兵が潜んでいるやもしれませぬが」
「いや、それはない。あれは偽装よ」
 息子の言葉に、今度は断固とした態度で否定をする。
 その理由と根拠を問われるよりも先に、彼は燃えさかる橋に鞭を突きつけて、答えた。

「奴に他の兵がいれば、このような小細工はせず、橋を焼かずにそこを活かし我々を待ち伏せておれば良いはず。さすれば少ない兵力で我らを受け止め、しかる後に余剰の兵力で側面から矢玉を撃ちかければそれで済むはず。橋を焼いたは、その余裕すらないことの証左だのぅ」
「なるほど……」

 倅は己の自論よりも、経験に基づく尊父の推測を優先した。

「では、奴らは知らぬということになりますな……この季節、この川は水量が減るということを」

 我が子の言う通りだった。
 実はこの河川は、この節になると、山の気の変化ゆえか水かさが減る。
 そして橋や船に頼らずとも容易に渡ることが能うのである。
 まして時刻は黄昏時。その水深を錯覚したとて、無理らしからぬことであった。

「いかがなさいますか? 番場勢七百がこのまま力攻めすれば、武徒とて逃げ切れるものではないでしょう」
「そうさなぁ……小僧の芝居に付き合って大人しく退いても良いが」

 と逡巡するそぶりを見せた伴満は、

 ぞくり、と。

 背に冷たい視線のようなものを感じた。
 慌てて振り返り、その出所を目で探っても、そこにいるのは主君の挙動に当惑する将兵たちである。

「……」

 だが、見られている。
 彼の戦場における日々の積み重ねが、それを確かに伝えている。
 身に覚えのある、恐怖。
 つい先頃、総身で感じたばかりのもの。

 ――羽黒圭輔が、わしの言動を観察しとる。

 自分にとって有用か、無用か。
 それを品定めするために。

 実態も見えぬその視線自体も不愉快だったが、彼にとっては、あの色違いの両目に無用者と断じられることこそ、耐えられなかった。

「……攻める」
「は? ……ははっ!」

 父の急な心境の変化に、子はほんの少し意外の念を覚えたに違いない。
 だが大将が一度放った決断の一言を、たやすく翻せるわけもない。
 この勢いに乗るのが上策、と本当に思える気がした。

「上流より勢いを借りて押し渡れ! マヌケに正面で待っておる敵を、側面より叩くのだ!」

 振りかざしたその手に導かれ、番場勢七百名が一気に渡河を決行する。
 彼の子の言う通りに、彼自身の案の通りに、水量の減った川は膝下ほどしかない。
 そこに足を取られながらも流されることなく、川水を足で切り、しぶきをあげながら武徒の本隊へと迫っていた。

 大将親子を含めた全員が、その川に足を浸からせた。
 まさに半ば渡りし、その時であった。

 武徒は動揺もせず、馬首を番場勢に向けたのは。
 おもむろに右手を挙げたのは。
 その手に反応した武者が一人、火箭を天へと射放ったのは。

 武徒の両脇の竹束が、内側より倒れた。
 露わになったのは、潜んでいた鉄砲衆。武徒の左右に五十ずつ配置されている。
 琴でもつまびく指先のように、銃口はなめらかに、波打ってこちらへと狙い定められている。

「父上っ!」
 判断の誤りに舌打ちし、老将は馬の脇腹を蹴った。
「怯むな、寡兵ぞっ」
 止まりそうになる兵たちを叱咤すべく、太刀を抜いて自ら前へと躍り出る。
 前進し、被害を出し、たとえ後日愚将の誹りを受けようとも、この川で足を止めることこそ最も愚策。
 流れに逆らい、止まり、あるいは退けば、かえって被害が増すばかり。それを知るがゆえに。

 だが、知っていても、なお……



「は、背後より敵ッ!」
「!?」



 絶望と衝撃を前にしては、そうした理屈も泡となって消えた。

 先ほど自分たちが立っていたはずの川縁。いつの間にか、そこには五百ほどの鉄砲が結集していた。

 ――退路が、断たれた。

 活力が、川水の冷たさに溶ける。
 燃えさかる橋の熱が、心身を焦がす。
 将兵の足が止まり、思考も打算もまた、白紙に還る。

「放て」

 あの陰気な男の号令は不思議と、番場勢まで達した。
 そして、川向かいの奇襲部隊の一兵卒に至るまで、またたく間に浸透していった。

 轟音が地を揺さぶり、三方から発せられたおよそ五百の弾は、交錯しながら水上の番場勢を撃ち抜いていった。
 瞬時に倒れる味方の中に在って、番場伴満はすべてを悟った。

 ――何故、敵は橋を焼いたのか?

 一つ、伏兵がいないとこちらに錯覚させるため。
 一つ、まさか味方を残したままその退路を潰すはずがないという思い込みを誘うため。
 一つ、密かに寄せる伏兵の存在から注意をそらすため。
 一つ、準備していた火縄の白煙と弾薬の異臭を、炎と煙で覆い隠すため。

 そして、こちらの進路を限定し、かつ退路を遮断するため。
 もはや進んでも勝利は得られない。水流に逆らって退路へ転身するのは、至難であった。
 それでも、退くしか生存の道はない。
 翻しざま、伴満は武徒の手がゆっくりと持ち上がるのを見た。

「退……ッ」
「遅い。第二射放て」

 無数に聞こえる轟音は、ひとかたまりに寄り集まって、さながら龍の咆吼の如きものであった。
 雷火が番場勢に降り注ぎ、番場勢を破滅の底へと叩き落とす。

 常識では考えられない装填速度である。
 あらかじめ、一人二挺備えていたに相違ない。

「ぎィッ……」と、伴満は歯を食いしばる。

「羽黒勢は!? 後続の追っ手はまだかぁっ!?」
 と、指示を忘れて声を張り上げた時、

 ぞくり、と。
 ふとした予感が、かの『若造』の冷酷な視線となった肌身に突き立った。

 ――まさか……そういうこと、なのか……っ

 あの男が何を待っていたのかが分かった。
 どういう結果を期待していたのか分かった。

 ……己が、もはや何の望みも持たれていないと分かった。
 思えば自らの城にて、声を荒げ奴に当たり、騒ぎまくっていた、あの時点で。

 愛馬は主の呆然を理解するかのように、赤い水をかきわけるその足を止めた。
 そしてその眉間に、一発の弾丸が飛来していたことに、主従ともども気づかなかった。

「ぐぅお!」
 のけぞる馬に振り落とされて、伴満は背から着水した。
「父上っ!」
 混乱する味方を踏み分けるように、倅が馬上、父に手を差し伸べる。
 その背後に、死神の像がポツリと一つ、浮かび上がって静かに銃口を向けていた。

「違うっ! 寄るでない! わしは囮じゃ!」

 声は届く前に、いや届いて理解されるよりも先に、放たれた弾丸に越された。
 右耳から左耳に、弾が貫通して血が爆ぜた。

「あ、ああぁ……」

 骸となって手元に墜ちた我が子を、老人はただ無心でかき抱いた。
 林の中、こちらに目当てをつける死神は、見目麗しい少年の姿をしている。
 小母衣を優雅に着こなす様は戦場の様相ではなく、構えた銃は骨太なつくりになっていて、持ち主にとても似つかわしくない代物であった。

 それでも、冷え冷えとした殺気は確かに、川向かいの陰なる名将に勝るとも劣らぬものであった。

「小童めがァ……!」

 失意の淵、川面に吐き捨てた呪言は、果たして少年に向けられたものだったのか。武徒に向けられたものだったのか。あるいは羽黒圭輔にか。

 己でさえも分からないままに、番場伴満は郎党と共に、その六十年あまりの生涯を閉ざすこととなった。

~~~

 番場伴満および一族郎党、ことごとく討ち死に。
 その朗報は撤退中の風祭家を大いに盛り上げることとなった。

「離反した番場城に対する誅罰」

 それを名分として始められたこの戦は、皮肉にも、攻略に失敗し、敗走の最中に達成されたのであった。

「案の如く、川は渡れるようだ。連中がそれを証明してくれた」

 ちぎって投げるような口調で言い捨てた武徒の武名は、否が応にも高まることとなった。
 彼の指揮下で戦いに加わった者らはその采配を神の如く称え、親永配下として撤退の道中にあった将兵も皆、凱旋した将であるかのように彼らを迎え入れた。
 それは、緒戦で勝利を飾った際に勝るとも劣らぬ、盛り上がりぶりであった。

 ……そして、冷ややかな顔を、対となる大将二人がしているのも、同様であった、
 武徒の方は為すべき任務を為したというだけで、とりわけ勝利に喜んでいるわけではなかったからだ。
 親永の方は、

「……討ってしまったのか。番場父子を」

 今にも舌打ちしそうになるほどの忌々しさを、隠そうともしなかった。

~~~

 ――大将が前線に出張るの愚を、圭馬に嘆いてみせたばかりというのに……これでは示しがつきませんね……
 遠く僻地に差し向けた義弟の顔を思い出し、羽黒圭輔は行軍中、苦笑を漏らした。

 軍勢をたっぷり時間をかけて羽を休めた羽黒勢は、先行した番場勢より遅れること二刻後、ゆるやかな速度で進軍を開始していた。
 峻厳さと神速でもって鳴る自家らしからぬ手ぬるさに、その旗本でさえも首を傾げていた。が、とかく無理をしないことは良いことだと考えているのか、皆あえて異論を唱えようとはしなかった。

 しかし、東より来た斥候が一騎、旗竿を揺さぶってはせ参じた時、流石に彼らの楽観は解かれたようだった。

「……ば、番場勢……敵伏兵により、壊滅いたしましたっ!」
「なんですって!? 伴満殿とそのご一党は!?」
 圭輔でさえその凶報には大きく目を剥いた。転げ落ちるように馬から下りると、報せてきた武者に掴みかかった。
「ことごとく、討ち死にした模様……」
「そんな……」
 勝利に沸き立つその中にて、まさかの逆撃。
 その事実は羽黒圭輔に多大な衝撃を与えた。





 …………という、フリをした。





「なんということ……っ」
 と嘆く『フリ』をした。
 ――余力を残す風祭武徒が、大人しく退くわけがないでしょうに……

「この羽黒圭輔、勝利に浮かれて油断していました! まさに痛恨の極み、言い逃れできない大失態です!」
 己を責める『フリ』をした。
 ――僕でしたらあんな化け物とマトモに戦おうとはしませんがね。

「こうしてはいられない! 勢いに乗じた風祭勢が、反転して城攻めを再開するやもしれません! いや、こうしているうちに我らが捕捉されるやも……」
 そう、極端に怯える『フリ』をした。

 常の冷静な主君らしくもない、と訝る家臣団に「で?」と、圭輔は逆に問うた。

「番場殿のご親族は、未だ城に?」

「は……? は! ご子息は伴満殿と共に討ち死になされましたが、さらにその子……すなわち伴満殿のお孫とその母らが数人残っております」
「そうですか。……それは……僥倖でした」
 そして圭輔が笑顔で下した命令が、瞬く間に、士卒らのどよめきを止めさせた。



「全軍番場城へ反転。番場殿の一族を一人残らず岩群に『護送』せよ」



 静寂は、一瞬であった。
「事は急を要します。多少手段は強引でも構いません。……その間の城ならびに一帯の守備は、我ら羽黒家中より代理の者を立てるとしましょう」
という補足が、また別種のざわめきを生んだ。

「ま、まさかそれは……」
 人質として奪え、ということか。
 混乱に乗じて番場城を乗っ取れということか。

 直接的な言葉に訳そうとする家臣を、圭輔は細めた目を向けた。
 底冷えするような氷の眼差しに、発言者はビクリと身を震わせ、口をつぐんだ。

 ――これで、この方面の支配は一気に強まる。……ご老人はとても良い時機に死んでくれた。

 順門公子の策略に便乗するのはシャクではあるが、この戦いで得たものは多い。
 実益だけではない。
 風祭家の現状、その実態を知ることができた。

 武徒の武略の足を親永の慎重さが引っ張り、逆に親永の守成と冷静さを、武徒の武勲がかき乱す。だが、両者の兵力の動員がなければ羽黒にさえ太刀打ちできぬ。
 ――何より救いがたきは、両者の間には決定的な亀裂があるということ。戯れ言一つに惑わされるほどに。
 そして彼らを統御し、互いを引き立てるだけの器量が、今の風祭家府公には欠けている。

 ――放って置いてもいずれ自滅する。

 問題は、西である。
「それと実氏殿にもご報告を。『もはや東に援軍無用、心置きなく西に赴かれるべし』と。……まぁあの御仁のことですから、とうに動き出しておりましょうが」

 己も再び馬上の人のなり、その身を西へと翻らせる。
 先ほどの倍速で軍を進めながら、その頭の内で独語する。

 ――さて……環殿。貴方との盟約は果たしましたよ。今度はそちらが天下に己が器量を問う番です。



[38619] 第七話「選択の前夜」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:11
「やぁ! お待たせした」

 環より兵権を委譲された本来の総大将、器所実氏はほがらかに、陣中にてそう挨拶した。
 居並ぶ将は彼の引き連れた釜口ら桜尾の諸将と、元々着陣していた環、欠席の由基に代わり代理の介添人である地田豊房、それに相沢親子である。

「いやいや、まさか間一髪というところ。東方の戦乱が落着したかと思えば、義種様が敗走なされたと聞いてな。それで大殿とはかり、環殿らの救援に駆けつけたというわけだ。いやー、間に合って良かった!」

 特別ふざけた風でもないというのに、身振り手振り道中の労苦を語る実氏の姿に、将は皆ふっと表情を和らげた。
 無論、この時もっとも解放感に浸っていたのは、命運の危機にさらされていた鐘山環当人なのだが、と同時に実氏の将器に、新たな戦慄を感じていた。

 ――本当に言葉の通りなら、ここに来るのが速すぎる。そんなことはみんな分かっている。だが……

 それを、信じ込ませている。
 あるいは、勝利のために一万の将兵を見殺しにした事実から、注意をそらしている。
 それも環のように言葉巧みに誘導するのではなく、理屈抜きで人々の感情を操作することに成功している。

 戦地において改めてその偉大さを肌身に感じている矢先「公子殿」と実氏に呼ばれ、慌てて反応する。

「詳しく現状を知りたい。おそらくは貴殿がもっとも把握しておられるであろうから、ご説明いただきたい」
「……はい。それじゃ、説明させてもらいます」

 彼らが布陣しているのは、緑岳および干原の一帯である。
 義種勢の敗残兵、そして増援含めておよそ一万弱。
 南には海やそこから流れ込む海水によって形成される潟や泥地。北東には村落があり、逆に背後には丘陵地帯がある。これが退却する際には邪魔になるようだった。

 大州、圭馬の尽力と差配により、陣屋は人数分の数と宿割りが出来上がっている。
 加え、いずれ敵が来るであろう西方に向けての防壁は出来上がっていた。

 搦め手こそ無防備ではあるが、大手の門には狭間、櫓、横矢の構えが形成され、さらにその外周を空堀が保護をする。
 後背に比して完成度の高いそれは、『城砦』と言うよりかはあらかじめ未完成であることを前提にした『防壁』であるようだった。

「内に関しては、そういう案配になっています」
「お見事」

 と実氏より認められた時、安堵と喜悦で環の胸は満ちた。
 だが浮かれている場合でもなく、かつ他人を立てるのも忘れてはならない。

「ただ実際に槍を合わされた相沢殿の方が、外の、つまり敵軍の動きに詳しいかと」

 と、説明を譲る。
 その配慮に感謝する意を横目で示した老将は、一礼してから実氏に向けて口を開いた。
「は。我らの侵攻を予期していた敵将、鐘山銀夜はこちらに速攻を仕掛けてまいりました。とても二万近くを動かしたとも思えぬ速度で、お恥ずかしながら太刀打ちできませんでな。虚しく敗退いたしました。義種様の逃げ足……いえその神速による陽動は中々のもので、敵はこれを執拗に追撃中とのこと。それでも体勢を整えこちらに到着するまでに三日も要しますまい」
「うむ。城申殿は、敵はどの方角より攻めくるとお考えか」
「あるいは義種様を完全に駆逐した後に、こちらの背後に回ることもありうるかもしれませぬが」
 実氏は一回、首を上下させて視線を再び環へ注いだ。
 それに同調する形で、桜尾家中の古強者たちもまた、同じく彼へと目を向けた。
 父の如き実氏の目つきとは違う。疑わしげで、訝しげで、険しく、厳しい。

「環殿……貴殿の同族である敵将、鐘山銀夜殿は名将と聞き及んでいる。では彼女をよく知るだろう貴殿に問いたいが、その可能性はあるだろうか?」

 ――試されている。いや諸将に納得させようとしているのか?
 その見識をこの場で披露させることで、この軍議の場に出席することを名実ともに許される存在なのだと教えてやれ。実氏は、示唆しているように思えた。

「そのおそれは、十分あると言うんだ」
 袖を引いて耳打ちしたのは、暫定的な副将格の地田豊房だった。
「彼らはお前のでまかせの通じる相手じゃない。実戦経験の豊富な猛者たちだ。ここは素直にそのように打ち明け、すべての判断を名将たる実氏殿に仰ぐのが良い」
「……豊房殿、と言ったか。オレは環殿に聞いているのだがね」
 静かに釘を刺した実氏に、豊房は慌てて頭を下げて差し出口を詫びた。
 そして環自身も、今回ばかりは自陣きっての良識人の言葉に、首を振るのだった。

「その可能性は、ありません」

「……なっ!?」
「ほう? で、その根拠は?」
 戸惑う諸将、唖然とする豊房、そして満足げに頷く実氏。環の一言に対する反応は、三者三様であった。

「まず、第一に桃李府の動き。実氏殿の大軍がこの場に着陣している時点で、あの聡い銀夜のこと。東方の戦いが終わったことを悟るでしょう。とすれば彼女が警戒しなければならないのは俺たちだけじゃなく、圭輔殿の増援と、本国の援軍も、です。ヘタに背後に回り込めば、挟撃を受ける可能性がある。それが分からない銀夜じゃないでしょう。そして何より神速で以て動いたとして……相沢殿、敵は義種公子の度重なる偵騎にも引っかかることがなかった。そうですよね?」
「……うむ」
「であれば、その速さはある程度の補給、輜重を無視した強行軍であった可能性が高い。俺たちは実氏殿の軍勢を待つ間、あえて敵を挑発するようなマネをしてましたけど、それでも銀夜とその麾下は破りやすい義種殿を目標に定めた。そこまで慎重だった銀夜は、無理に兵站線を伸ばしてまで攻めてくることはない。追撃に見切りをつけ、軍勢を戻すはず。それと」
「まだあるのかね?」
 意地悪く目を細める実氏。環は浅く呼吸する。
 わずかな唇の震えを誰にも気取られないままに押し殺し、答えた。

「背後には、牧島村がある。さらにその後ろには、半手の村がある。その間で戦や物資の徴発なんて行えば、それこそ周囲の反発を招く結果になる」
 だが、と環がひそかに想起するのは、燃え落ちる大渡瀬。
 今も忘れられない、あの惨劇の光景。
「……万一そうなったとして、思い通りにはさせない」
 帽子を目深にかぶり直した環の言葉は、自らを納得し、説得させる向きがあった。
「俺一人であったとしても、村を守り、皆さんの退路を確保してみせる」

 環が見せた決意のほどに、シンと場が静まり返った。
 その静寂を破ったのは、器所実氏の快勝だった。

「いやいや、お見事な覚悟。我らも見習わなければならぬようだ」

 過程を取り仕切ったのが自分であっても、結局はその一言で環に対する視線の色が変わったように、彼には思えた。

 ――とは言え、危なかった。

 衆人環視の中でなければ、袖口で汗でも拭いたいところだった。
 環が今まで語っていたことは、実のところ論拠などというものはない。ただそうあって欲しいという願望であった。

 それでも、舞鶴の策を聞いた時に生まれた疑問点を整理し、導き出した自分なりの解答であることには違いなかった。
 それがある程度の説得力を持っていたことに対しては、自信を持つ結果となった。

「……よし。では我らは、この場にて敵を待ち受け、まずその神速と鋭鋒を挫く」

 そう言って結論を導いた実氏は、その場で手早く諸将の部署を発表した。
 まず前面にて敵を待ち受けるのは、相沢親子および義種勢の残兵。
 これは雪辱を果たし、挽回の機会を与えるためという意味合いも大きく、城申、城建の父子は勇んでこれを快諾した。
 ついで中軍を固めるのは器所実氏の本陣、両翼を担うのは彼が伴ってきた釜口、本林。

「で、環殿はこれまで最前線においてよく敵を翻弄していただいた。その心労は察するにあまりある。後衛にあってどうかおくつろぎいただきたい」
「……、承知しました」
「だが、貴殿らはこの戦こそが実際の初陣となるだろう。色々不安なところもあることと存ずる。どうかこの場に残り、この中年の助言に耳をお貸しいただけないだろうか?」

 環は実氏の瞳の奥に底光りするものを感じ取っていた。だがその場では感づいた様子は微塵も見せず、にこやかに笑って承諾する。

~~~

 環は最後まで付き添おうと言う地田豊房の申し出を断った。
 結局は実氏と環、二人きりでの会談ということになった。流石にこの桃李府の重鎮は護衛の一人や二人はついてくるものだと思っていたら、単身だったので面食らう。
 逆に気を揉んでしまったのは、環の側だった。

 ――だけど……

 と、思い出す。
 羽黒屋敷での初対面の際も、実氏は単身屋敷にこっそり忍んでやってきたのだった。
 あの時無造作に差し出された雑炊のことを思い出し、思わず噴き出した。

「? なにか?」
「あ、いえ何も」

 フウム? とやや得心のいかぬ風に首を傾げた実氏ではあったが、その口の端には相も変わらぬ微笑が浮かんでいた。

 話す前から話題がそれそうになったので、環は慌てて自分から切り出した。

「で、実氏殿。何か言いたいことがあった俺を呼び止めたんじゃないですか?」
「……そうだな。事前説明と根回しは必要かと思ってな」
「それは」
 わずかに言いよどんでから、環は実氏をまっすぐ見据えた。

「俺らが受け持つこの緑岳の後背が、おそらくこの戦いでもっと激戦となりうる、という点ですかね?」

 ……話が早い、と言いたげに、実氏は二度三度、首をコクコクと動かした。
「やはり、気づいておられたか」
「……まぁ」
「確かに戦略的に敵方がこちらの後背に出ることはないのかもしれない。だが、実際に交戦となれば思うように動くとは限らんよ。と言うより十中八九は、防備の未完成な搦め手より攻め上がるだろう」
「ましてそこを守るのは、弱卒率いる怨敵、順門府争乱の火種ともなれば、ですか」
 器所実氏は、あえてそうなるような布陣に割り振ったということになる。

 その意図は、いちいち遠くの尼僧に意見を求めるまでもなく明らかなことだった。
 こちらの基本的な戦略はここ緑岳で敵を待ち受け、敵の攻めを凌いで長期戦に持ち込むことである。
 が、それだけでは終わらない。未だ実氏と環と舞鶴の胸中にのみで共有している秘中の一手。それが成った後では、戦は速やかに終わらせなければならない。この時、相手も同様に考えることだろう。そうせざるを得なくなる。
 となれば、交戦は不可避のもののように思える。
 そこであえて敵の攻めを誘引し、限定させ、視野を狭めさせ主導権を握った方が、全体的には有利に運ぶだろうし、対応も容易となりうる。

 そして環もまた、そうすることが逆に被害を最小限に留めることができると信じ、承諾したのだった。

「無論、これには現状抱えている問題を解決しなかればならない。一つ、兵の、特に貴殿の軍勢の士気と意志の統一。……そして、内通者のあぶり出し。もし貴殿の手に余るようであれば、オレの手勢のお貸ししようと思うが」
「ありがたい申し出ですけど」

 環は一考もせずに速答した。
 それらはずっと後回しにしてきた問題。
 自分たちがなんとかするべき問題。
 なんとかできると、信じている問題だった。

 ハッハ、と。
 実氏は好意を蹴られたことをむしろ喜ぶように、青年の身に大きな手を置いた。

「なるほど圭輔殿の言われるとおり、公子殿は天に挑む覚悟をされたようだ!」
「い、いーやぁー……そんな大それたもんじゃなくて」

「…………主とは」
 え、と。
 実氏の声の変調に気づいた環は、改めてその顔を正視する。
 あの桃李府きっての快活な男の笑みは、苦み走った、痛ましげな微笑へと変じていた。
「一国であれ一城であれ、自分が守るべき者たちに死ねと命じなくてはならない。かつての胞輩に裏切られ、死を強いても、為さねばならないことがある」
「……」
「すまないな」
 実氏は舞台を締めくくるように、深々と頭を垂れた。

「我らにもう少しの展望がなかったばかりにかえって世の昏迷を深めてしまった。そのために次の世代、貴殿や圭輔殿には、その重荷を背負わせてしまったな。……今さら言ったところで詮無きことだが、申し訳ない」

 ――我ら、とは誰のことなのだろう……?
 桃李府桜尾家か、あるいは『天下五弓』か、あるいはもっと広義、前の時代を背に負って実氏が、あるいは旧時代を生きた者らが実氏一人の口を借りて、そう詫びさせるのか。

 だが、ふしぎと胸に熱いものがこみ上げてくる。
 かつて、記憶に残らないほどの、かつてどこかで耳にした気がした。ひどく懐かしい、子守歌のように聞こえた。

 肩に、旧世代の英傑の力と熱を感じる。
 環はじっと瞼を下ろし、未だ伐られぬ草木に鳴く獣や虫の声に、耳を澄ませた。

~~~

 環が戻ってきた時には既に日は暮れて、自陣の移動準備に奔走する家中一同の姿が見えた。
 だがその中に流天組構成員の姿は見えず、大半の采配は圭馬と大州が執っているようだった。

「よう大将、面白い話、聞きたくないか」
 開口一番、傲然と言い放って接近してきたのは、他ならぬ亥改大州だった。

 憮然と振り返った環に、不敵な笑みを浮かべた魁組頭目は、隣に並んで主君の肩を抱いた。無礼を咎めようにも、今に始まったことでもない。
「……お前の面白い話は、たいがい面白くないだろ」
「じゃ、聞くのやめるかい?」
「面白くもないから、聞きたいんだよ」
「色市のバカが逃げた」

 そしてそれは、環が可能性の一つとして考慮に入れていた事案であった。
 案の内であったとしてもなお、足を止めて、苦い顔で振り返らざるを得ないことでもあった。

「まぁ良坊に追わせてるから万一はないだろうが、とっとと追った方が良いな。で、あんたどうする?」
「一緒に行く」
「じゃ、ついてきな」

 大州に先導されるままに、環は牧島村へ続く林と丘陵を下った。
 環の握る提灯が、早歩きに進む度に大きく揺れる。
 供は、派手に連れ歩けば目立つということで
「そう言えば、かつて笹ヶ岳で攻防した上社信守率いる禁軍にも、裏切り者が出たそうだ」
 大州がふと前触れもなく言った。
「……よく知ってるな」
「俺の家は元々はチンケな海賊でな。……ま、その縁で色々ツテがあったのさ」
 不遜とか傲慢とか言う二文字を抜いたら何も残らないのではないか、というこの男にしては、妙な感傷的な表情で答えた。
「で、上社信守は、奴らの裏切り行為を骨の髄まで利用したあげく、鐘山方に逆撃を仕掛けた。……さて、もう一つの笹ヶ岳を作った大将殿は、裏切り者どもをどう処すのか。なかなか見物じゃねぇか?」
「……なぜ、今さらそんなことを話す?」
 逆に問い返した環に、悪相の男はフンと鼻を鳴らした。

「やっぱこういうことは鈍いな、あんた」

 環は殺気を背に感じた。足を止めた。
 その先では、腰を深く沈めた大州が振り返り、ギラリ、こちらを睨み据えたままに、ダンビラに手をかけていた。
 鞘から走る白刃が、環のかざす提灯を輪切りにした。
 彼らを照らしていた光源が消えると同時に、二人の間を闇が埋めた。
 風が空を斬る。一度振り下ろされた太刀筋は、円弧を描くように翻る。

 カツ、と。

 乾いた音を立てて、環の耳元でそれは、彼をかばった大州の一振りではじき飛ばされる。
 目印となる明かりを見失い、威力を失いながらもなお、飛来したその矢を、大州とて完全に叩き折ることはできなかったらしい。
 環たちの向かいの樹木の幹に、魚骨を思わせる鏃が、突き立った。
 もし大州の剣がそれを妨げなければ、頭蓋を貫通していたに違いない。

「環、お前に色市始は討たせない」

 環は、小さく嘆息した。
 命が助かった安堵と、草根を分けて現れた射手の正体が、自分が半ば予感していたものであったために。

「正気の沙汰とも思えないが、狂気に取り付かれた凶行というわけでもなさそうだな。……ユキ」

 覚悟を決めた環は大州より半歩前に進み出て、微苦笑と共に旧友を出迎えた。
 こちらの心臓をえぐり抜くような彼女の眼光は、この無明の夜にあってもなお、力強い光を放っていた。



[38619] 第八話「環の問い、由基の答え」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:11
 ……その戦巫女に対しては、夜は余人と異なる貌を見せる。

 さながら地面いっぱいに蛍火を敷き詰めたように、薄緑の輝きに照らされ、男たちの陰影を色濃く浮き彫りにさせる。

 そしてより強い輝きを放つ二条の光線は、円弧となって伸びて、彼らの眉間にまで届いている。
 否、届いてなどいない。
 途中でふっつりと途切れたそれが示唆する運命の通りに、射放つその矢は大州に防がれ、まるで彼女に見えた光線が己にも見えていると言わんげに、鐘山環は落ち着き払っていた。

 それが、気に食わなかったし、疑うことなく大州の剣に己の命運を委ねる悪友が、それにも増して苛立たせる。

 そこに至って幡豆由基は、そうした暗躍や暗殺の類が己らしからぬ行動であったことに気がついた。
 羞恥を敵愾心にすり替えて姿を見せた彼女に対して、少年は、普段通りの様子で彼女を出迎えた。

 いつも通り。だがそれは、少女の知る友の姿ではない。
 幡豆由基と誼を結び、市井を歩き回った鐘山環とは、彼女の一睨みにわたわたと怯え、青臭い格好つけでそれ故に仲間に小馬鹿にされ、周囲の事情に振り回され、だからこそ由基の親愛と庇護を受けるに足る少年であったはずだった。

「偉くなったもんだな」

 ぽつりと呟いた言葉に、環は眉をひそめた。
「……裏切りの見せしめとして色市をさらし者にして、お次はオレたちを前線送りか?」
「配置されるのは後方だ」
「ナメんな。銀夜の小娘が躍起になってオレたちに回り込む可能性が高い。それぐらいは分かるんだよ」
「小娘って、お前の方が年下だろ」
 微苦笑と共に話をはぐらかそうとする自らの大将に対し、変わらぬ鋭い視線を彼女は送り続けた。

「それでお前の将兵だけで手柄を総取りにすりゃ、お前の武名も天下に轟くってもんか。一将の功のために、胞輩の万骨が枯れようともなんとも思わないってか? 気づかないうちに、ずいぶん戦国武将らしい考え方ができるようになったもんだ」

 これは、掛け値無しの賛辞だったのだろうか? あるいは痛烈な皮肉だったのだろうか?
 その言葉の真意は、発した彼女自身にさえ分からないものだった。

「で、その先はどうする? そんなものを得てなんになる? 目的はなんだ? 板方城に帰ることか? 弟妹や父親の仇討ちか? 栄達か、名誉か? 女か、富か権勢か? あるいは本当に天下取りでも始める気か?」

 だがどれも、環らしくない答えばかりだった。そう感じてしまったのは他でもない、幡豆由基本人だった。答えもなく、目深に帽子をかぶってうつむく少年に、彼女は弓を捨てて、露骨な苛立ちをぶつけた。

「答えろよっ! ここまでかき回して、はぐらかしておいてっ! ただ騙されて、目先の利に泳がされたまま訳も知らずに犬死にしろってのか!? ……その罪が、業が、お前一人に背負えるのかっ!? その覚悟ができたってのか、あぁ!?」

 肩肉に爪を食い込ませ、歯は今にも喉笛を食い千切りそうで、手にした矢は脇腹に突き立てる覚悟と間合いができている。
 だが、そうさせたのは鐘山環だった。彼の持つ空気によるものだった。
 他人の好意や思慕だけではない。憎悪や激しさ、怒りまでも、併せて呑んで受け入れる。その懐の深さを、器の差を、ここに至るまで自分たちは何度味わわされてきたことだろうか?

 さざなみのように静かに揺れる、美しい青の双眸が、すっと細まりやがて閉じる。
 それから二人は、虫の鳴き声に耳を澄ませ、時を共有していた。
 一種の睦み合いともとれる時間が悠然と、流れた後のことだった。

「……大渡瀬でもそうだった」

 するりと持ち上がった指先が、環自身の胸板に押し当てられる。
 それは間違いなく友人の声調ではあったものの、聞いたこともないような環の声でもあった。

「父親が死んだ時もそうで、ここに至るまでの道程も、似たようなもんだった」
「何を、言っている?」
「俺が良かれと思って動いたことが、あるいは何も動かなかったことで、周囲を巻き込み、大きくなっていく。……あるいは、それを天命とでも言うのかもしれないけどな」
「自分の行動を、お天道様が正当化してくれるとでも?」

 未だ、この順門府公子が何を言わんとしているのか、由基には見えてこない。独語にも似た彼の手近な一言に、批判的な意見をぶつけるだけだ。
 それでも、一つ分かっていることはある。
 今まで韜晦し続けることで秘匿してきた鐘山環の本心が、彼なりに言葉を選んで、語られようとしている。
 そのため、外面の荒々しさ、刺々しさとは対照的に、巫女の心中は穏やかだった。

「……別に、そういうわけじゃない。ただ、己の存在の大きさは、もはや縮小させることができない。このままじゃ、振り回されて誰も彼もを暗黒へと引きずり込んでしまう。だから、御するためには指針が必要だった。俺自身が、目的を持たずにはいられなくなった。……本当に死ねば、その思い煩いからも解放されるのかもしれないけど、」
「その大義名分が、見つかったのか?」

 少年は、己の心の臓をえぐるかのように、強く、着物の袷を引き掴む。
 環の顔は決して美しくない。その美男でもない顔が、激しく歪み、肺病をわずらうかの如く、大きく喘ぐ。

「……大渡瀬が、始まりだった」

 だが、そうした彼の姿そのものが、悲恋の絵巻を見るような心地で、美しく見えてしまう。
 おそらくは鐘山環に特別な意図はないのだろう。演技でなく、真実この公子は、命と精神を削って、朴訥と言霊を紡いでいる。だから、人は無自覚に彼に引き寄せられていく。彼に親愛を求める者も、憎悪を抱く者も。

「何故、町を焼く必要があった? 何故、民は、世は、その暴虐を甘受する? 異を唱えない? こんなものが宗善の解なのか? こんなものを宗流は望んだのか? こんな結果が宗円の求めた理想だったのか? それを是とする朝廷とは、国とは、なんだ?」

 問い続ける環の声は、彼自身の心に感応して震える。

「この旅路で得た思いは、問いは、忘れちゃいけない。なかったことにはできないんだ」

 見開いたその目に、剣にも似た鋭い輝きが宿っている。
 久しぶりに、環に正視された気がする。
 初めて、鐘山環という人間の本心を、ぶつけられた気もした。

「だから俺はっ、この問いそのものをこそ、天下への標榜とする!」
「……問い、だ?」
「疑問も抱かず意識もなく従い続ける人々に、このままで良いのかと、改めて問うために戦う。俺の命と存在をまっとうすることが、世を揺すり動かす問いになるのなら! 俺が戦い続けることが民草の目覚めに繋がるのなら! それでも」
「それでも……なんだ!」
 幡豆由基は、矢を捨てる。拳で環の頬を打った。
 環がようやく、己の真意を打ち明けた。
 にも関わらず、少女の溜飲は下がらない。
 こうも苛立つのは、焦れったいのは……本当に聞きたかった言葉は……

「……不条理なのも理不尽なのも分かってる! それでも……俺は……っ、お前らが大切で……殺すことも、利用することもしたくはなくて……っ」
「今さら泣き言ってんじゃねぇッ!」

 環を押し倒す。その喉元に手がかかり、草むらに背を叩きつける。
 躙られた雑草の匂いが、二人を包んだ。

「お前はもう選んじまったんだろうが、道を知ったんだろうが! じゃあ進めよ! だがな、お前が守ろうとしている奴らも、大切だなんだのとほざいた奴らも、結局のところお前の理想になんぞ興味はねぇ! 分かりもしない! ただオレ達は、お前の一言を待っているんだよっ!」
「……っ」
「最初からだ! ずっと前からだ! ……なんでただ一言……『助けてくれ』が言えないんだっ、お前は!?」

 環の、蒼天の色をした瞳孔から、一筋、涙が浮きこぼれた。
 由基の知る、少年の顔だった。

「ずっと苦しかったくせに、凡人が格好をつけて英雄のマネなんかするからこんなことになるんだろうが! 大から小まで、善から悪までなんでも背負い込みやがって!」

 戦巫女は力を抜いて深く呼吸する。立ち上がり、身なりを整える。
 ずいぶん、長い道のりを歩んできたような心地がした。そして同じほどの道のりを、並行して環も進んできたのだろう。

「……いつだったか言ったよな? 『辛くなったら言え』って。『オレがとってかわってやる』って」
「……あぁ」
「代わってやるよ。半分な」

 幡豆由基は、未だ誕生し得ない天下人を掴んだ。
 今度は上半身ではなく、言葉の代わりに伸ばされた腕を掴み上げる。

「お前ができなくなったことは、オレが継いでやる。お前が今持つ理想も情もなくした時は、オレが討つ。だからお前は、お前にしか描けない天下を描け」

 感情に任せてそう宣言した瞬間、戦巫女は、己の弓の使い道を悟った。



[38619] 第九話「真実を問う」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:12
「乳繰り合いは終わったか?」

 ガサガサとうるさく草の根を鳴らして現れた亥改大州は、悪童の笑みを滲ませている。
 そこで環たちは、途中で大州が姿を消していたことにはじめて気がついたのだった。

「っていうかお前どこにいたんだ?」
「どこにも何も、色市をとっ捕まえるための夜歩きだろうが。痴話喧嘩はどうでも良いから、さっさと仕事を終わらせようと思ってな」
「お前……主君が矢で射られて押し倒されてぶん殴られたのに。いや、まぁ良いけど」

 どうにも気にしているのは環だけらしく、由基の方はと言えば、いつもの傲岸な顔つきに戻っている。先ほどまで見せていた情熱はなりを潜め「で」と、大州を睨む。

「あのバカ見つかったのか?」
「おや、そいつはあんたが一番ご存知じゃないのかい」
「あ?」
「あんたがあのガキを唆した黒幕じゃなかったのか?」
「バカ言え」

 由基は挑発的なカマかけにも動じず、つまらなさそうに

「オレが本当に裏切る気なら、真っ正面からお前らを殺してる」

 身も蓋もなく吐き捨てた。
 苦く笑いながら「だ、そうだ」と環は肩をすくめ、目で大州に経過報告を促す。
 大州がアゴでしゃくった先、暗闇の中から、大きな人間の塊が現れた。

「放せ、放せコラ!」

 無表情の良吉少年と、彼に腕を極められたままにジタバタともがく、色市始。
 彼が暴れたところで、武の心得もなく良吉の拘束が解けることはない。もがく都度、脱走者の旅荷から筆やら硯やらがこぼれ落ちる。
 環はため息混じりにそれらを拾い上げながら、呟いた。

「その三人に勝てるわけないだろ」
「馬鹿野郎お前俺は勝つぞお前!」

 ……と、暴れまくっていたのもつかの間のこと。由基の威圧、良吉の技量、そして大州の冷笑にと囲まれ、脱力し、沈黙する。
 やがて目の前に座り込んだ環に気がつき、不敵に笑んだ。

「ふ、ふふふふふ! そうだよっ! おれこそが、銀夜殿の誘いを受けていた埋伏の毒だったんだ! 桜尾義種を舌先三寸でもって影で操り、桃李府の千軍万馬を思うがままに操った張本人! 我が大計が成れば、一軍を崩壊せしめ、一国を沈ませる大波乱をもたらしたことだろうッ! まさか自分たちの親友に敵が紛れ込んでいたとは、夢にも思わなかっただろう!?」

「いや、全然。最初から気付いてた」
「バレバレだっつの」
「うん」

 一世一代の大暴露、のつもりだったのだろう。流天組三人から冷酷な反応を与えられ、弁士は白眼を剥いた。

「ついでに、お前がいっぱしの大悪人ぶって、誰を庇おうとしているのかも分かっている」

 胸の痛みを伴った環の一言は、色市始から道化の仮面を剥ぎ取った。
 小さく声を漏らした彼は、うつむき、前髪を垂らし、唇をわななかせている。
 彼の口から発せられる呼気が、同様の内容が繰り返されている呟きだと知った。次の瞬間、それは大音声となって環の耳を突いた。

「あんたがいけないんだッ!」

 キッと両目を鋭くさせて、叫ぶ。修辞を用いない分、その非難はされる側の心を波立たせた。
 良吉が匕首を色市の喉元に当てようとするが、環が手で制した。
 かざした手を振り下ろすと、主君の意向を汲んで、少年は虜囚を解放した。
 色市始はドッカリと地上に腰を据えると、人さし指を何度も環の方へと前後させた。

「誰のおかげでここまで来られたと思ってやがるっ! 最初、苦境にあったあんたを救いに来たのは魁組だったか!? 羽黒圭馬だったか!? 違うだろ、おれ達流天組だったろ!? じゃあ相応の遇し方をしたらどうだ!? 鐘山環の言動は不忠の種であり、友を遇する術を持たざるはこれ不仁なり! そして今同族と相対するのは不孝の所業である! この色市始においては未だ無名の処士に過ぎんが、それら三の毒を肯定するほど落ちぶれてはいない! ……確かにおれは一時は友を裏切るようなマネはしたが、あんたは信義を軽んじたばかりか、国を盗ろうとしている! その罪に比べたらおれの行いなど大したことではないっ!」

 そう、一気にまくしたてた彼は、腕組みし、きっと環を睨み上げ、

「言うことは言った! さぁ殺せ! 殺してまた罪を重ねるが良いさ!」

 おそらく人生で一番勇ましいことを言ったのではないか、と思わせる強固な態度に出た。
 まぁこれから死ぬことを覚悟し、今まで出し惜しみしていた勇気の一つでも出してみようという気にもなったらしい。
 そう環が思い直した矢先に良吉が匕首の角度をわずかに変えると「ひぃ」と情けない悲鳴をあげて頭を抱えて膝を曲げた。

「あくまで色市始は色市始か。それでも、今の演説は普請場でのものと違って、芯が通ってはいたか」

 微苦笑をなんとか押しとどめ、あくまで冷厳な処刑者として順門府公子は色市の前に立った。
 そしてその彼の判断を裁定するかの如く、幡豆由基は傍にいて屹立している。

「……確かに、お前達に対する言動に対して非礼があったのも事実だよ。だけど、俺の非はお前が裏切ることに対する理由にはなっても、それを正当化する理由にはならない」
「っ!」
「一歩間違えたらお前の弁舌で逃散兵、敗残兵が各地に飛び散り、村々が略奪されていたかもしれない。あるいは銀夜への手土産に俺やお前の暗殺をはかるかもしれない。計画を練ったのは『あいつ』だとして、お前、そこまで考えていたか?」
「今さら、説教か……っ、とっとと斬れよ!」

 怒りが恐怖を上回り、胆も練れたらしい。
 今度こそ本当に落ち着きを取り戻した始に、環は首を振った。膝を折って彼の前に座った。

「赦す」

 彼を、赦免した。
「……へ?」
 目をぱちくりとさせる弁士の、半開きの口が理由と説明を求めている。

「赦すよ、お前を赦すことができるのは、名目上とは言えお前の大将である、俺だけだ。だから赦す。俺の危機に駆けつけてくれた一騎としたの功と、俺自身の罪。その二つに免じて、今回の謀反の罪を帳消しとする」
「だ、だがそれは……それを受けてしまえばおれは……っ」

 あるいは、環の突きつけたことは、矜持高いこの弁舌家にとってはむごい仕打ちであったかもしれない。
 彼の罪を免ずることができるのは、大将であるおのれのみ。
 そう、環は始に告げた。
 ともすれば、それは始が家臣であらねばならない、ということの突きつけでもあった。

 素直に、環の、今までの半生、小馬鹿にして侮ってきた少年の器量を認め、己の才能の限界を認め、かつ目の前の勝利者に屈しなければ自分の生きる道はないのだと、そう認めるか?
 ……そう、環は少ない言葉と蒼天色の双眸でもって、問うて、いた。

「……これで、これまでお前が頼っていた縁故や才能は、もうない。今後はあぐらをかくことなく、奢りを捨てて邁進しろ」

 唇を噛みしめ、めいっぱいに開かれた両眼が、環を見返していた。
「……なんだよ、急に……聖人ぶりやがって」
 口は閉じたままに、ただその端からは悔しげな涙声が漏れてくる。

 ――すまん。

 環は内心で詫びた。こうして主人ぶるしか彼を救えない己を、恨んだ。
 それでも外見上は心中のひどさを出さずにいることはできた。
 始は、大きく息をついた。深く、長かった。
 今まで海中にずっとさまよっていた者が、水面で行う呼吸にも聞こえた。

「……承知いたしました。色市始、向後は性根を入れ替え、鐘山環殿にお仕えいたします」

 威儀を正し、旧知の『投降者』は堂々たる礼儀と節度でもって、深々と頭を下げた。
 それに対して慣れない相応の礼で報い、環は内心でほっと安堵の息をこぼした。
 同様の気配が、背の幡豆由基からもひしひしと感じる。
 ちょっとしたイタズラ心から振り返ると、戦巫女は常と変わらない武張った雰囲気と、美鬼のしかめっ面で睨み返し、直立しているだけだった。
 その隣で亥改大州がニヤニヤしながら横目で彼女を眺めているのから察するに……実は本当に笑っていたんじゃないだろうかとも思う。

 肩をすくめる環だったが、すぐに表情を改め、立ち上がった。
 ――まだ、なんにも片付いちゃいないんだからな。

「……それでも、最初から俺たちを利用する気で接近し、破滅に追い込むためだけに仲間面したヤツまで、無条件に許す気にはなれないな」

 それを聞いて、始も慌てて腰を上げた。
 何か言いかける彼を目で制して好意と弁解を封じ、環は夜の虚空に声を放った。

「見ているんだろう!? ここで!」

 環の一言で、良吉、大州、由基が臨戦の態勢に入った。
 彼らの武でもっても見破れない、隠身の術。環は幼い頃から、それを肌で感じる体質を持っている。

 反応はない。草の葉擦れの音一つさえ立たない。
 森全体が死んでしまったかのような、不気味で不自然な静寂だった。

 ――それでも、いる。
 直感だけではなく、理屈でもそれが分かる。
 色市始は、『あいつ』と場所を決めて待ち合わせていたのだろう。時刻と道をお互いずらしてそこへ向かう道中、色市が捕まる様か、あるいは由基が己を追い、襲撃するところを目撃したのだろう。

 そして思ったのだろう。
 ――同士討ちになれば、これ幸い。生き残った方も始末してやろう。
 とでも。

「もうとっくにお前の正体は割れてるんだ、大人しく姿を見せろ!」

 第二の音声にも、反応はまったくなかった。
 四人の警戒は、環自身への不審へと変わりつつあった。
 しかし響庭村忠を襲った隠密集団の頭目だろう。彼ら精兵たちの索敵をかいくぐるだけの力量が、奴……この一件の黒幕には備わっているはずだった。

「これはハッタリなんかじゃない。分からないのか? あんたは村忠が襲われた晩、あいつの仕掛けた罠に引っかかったんだよ」

 反応はない。ぬるい風が頬と汗を撫でた。
 環が視線を由基の弓矢へと投げた。それが良吉へと移った瞬間、ふと、幽霊か何かが浮かび上がる気配を、背より感じる。

 それが、この暗躍者がはじめて見せた動揺だった。
 三人もまた、そのかすかな困惑を瞬時に察知し、環と同時に西の方角へと振り向いた。

「ようやく気づいたな……そうだ。『響庭村忠が矢で射られた』。この無口な良吉が村忠にそう言われた以上のことを伝えるはずもない。だから」

 高鳴る動悸。真実はとうに少年の胸の内に収まっている。
 にも関わらず、糾弾しようという彼の咽喉は、震えていた。

「それが毒矢だなんて一言も漏らすはずがない。加担していた始にさえも、それは伝わってはいなかった。……にも関わらず、なんであんた、最初からそれが毒矢だって分かってたんだ?」

 由基でさえ、その時点で分かっていたはずだったがあえて見守っていた風さえある。事が露見した色市でさえその名を告白するのをためらい、そして真実が見慣れた男の姿をして現れた今、大州の悪相からさえ不敵な笑みがかき消えた。

 なんで、という一語の響きには、別の色が混じっている。
 なんで、裏切った?
 なんで、平然と自分たちを裏切れるんだ?

 これまで、ずっと、何年も一緒に生きてきたというのに。
 どんなに無茶して、バカして、こうして死に目に遭っても、ずっと柔和な笑みで守ってくれていたはずだったのに。

「あんたが自身で教えてくれたんだ。俺と鈴鹿の前でな」

 感傷的な己を殺し、環は帽子を目深にかぶる。
 刀に手をかけて現れた黒装束の青年に、鋭い敵意をぶつける。





「そうだろう? 元禁軍第六軍大将、地田綱房(つなふさ)改め朝心斎の子、地田豊房よ」



[38619] 第九話「真実を問う」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:13
 地田豊房。
 彼らの中では言わずと知れた、流天組の副頭目。
 常に温和で個性の強い組の内にて調停役を買って出ることが多かった。
 環自身、下っ端時代にこの男にだけは蔑視された記憶がないし、この旅の中でも、大州や魁組の力量を素直に認めていたこともある。
 中立的で、仲間意識が強く、自身は常識人ではあるが、環や舞鶴の突飛な言動に対しても理解のある人物。

 それが、彼の姿をしたその男が、真の謀反人だった。

「ちょ、ちょっと待って、くださいよ! 地田綱房って言えば」
「あぁ」
 始の声に、環はアゴを上下させた。
「『順門崩れ』の十年後に、病死している。公にはな。当時幼かった豊房は、父の早逝を哀れに思った父宗流に、近臣として召し抱えられた」

 だが、その元禁軍の大将は死んでなどいなかった。地下に潜伏していた。
 そして宗善とひそかに連絡をとりつつ、順門府内で反宗流体制の動きを扇動した。
 元々暴君の下で酷使されていた諸将だ。それに宗善のお墨付きという正当性があれば、説き伏せるのは容易かっただろう。

 朝廷ともつながりがあったに違いない。
 でなければここまで早期に、叔父の順門府公就任の印可は下りなかっただろう。

「大州、覚えてるか? 俺が出会ったはじめ、お前に何を与えたか?」
「銭だろ。公基銭」
 朝廷が流通せしめている公的な硬貨、それが公基銭。
 と、そこでこの受取人は「あぁ」とちいさな声を漏らした。

「なんでそんなものが逆賊の順門府にある? 佐咲らが持っていた? あの時点じゃ、まだ順門府内の内紛でしかなかったはずだろ」

 すでにその時点で、環は朝廷の暗躍を悟った。
 と、同時に朝廷をつなぎをつけられる人物に疑念を持った。

 海運でもって各勢力につながる幡豆家をはじめとした盤龍神宮、商家。そして元朝廷の家柄。海賊の残党。
 だから誰が敵で誰が味方か判別がつかなかったあの当時は、極力それを見せたくなかった。

 そこまでじっと聞いていた豊房は、穏やかな目をしていた。
「あぁ」と天を仰ぐ。
 やや厚みの欠けた唇からは、常に一般論や常識を聞かされてきた。仲間を気遣う言葉、「俺たちは仲間だ」と、臆面もなく聞いたこともある。

 それと同じ口から彼は、

「もう少し、早く殺しておけば良かったよ」

 平然と、そんな言葉を吐き出した。

「もう、止めよう。地田さん」
 長く続く痛ましい沈黙を、色市始が破った。
「これまでずっと一緒にやってきたじゃないか!? だからっ」

 だが、始のすがるような説得に対する豊房の返答は、
「黙れ文弱の徒が」
 一転し、ぞっと底冷えするような、十年近い付き合いの中で、今まで見たこともない顔だった。

「貴様を仲間に引き入れたのは、失敗だった。まさかここまで足を引っ張ってくれるとはな……っ」

 おおよそ仲間に対するものではない罵声を浴びせると、他の者は皆一様に顔をしかめた。豊房はせせら笑うように彼ら一人一人の顔を見回した。

「物心ついた頃から、朝廷を敬え、逆賊順門を憎めと父から呪詛の如く教えられてきた。その首魁や息子の面倒を忠臣面で見守り、監視させられた。……言っておくがな。私は最初からお前らのことがヘドが出るほど嫌いだったよ。薄汚い逆賊の糞虫どもが」

「地田ァッ!」

 環は吠えた。
 己だけを罵るのであればまだ耐えられた。だが地田豊房は、彼が付き合ってきた友人たちをも否定した。
 その認識が、環の感情を増幅させて突き動かした。

 それを自覚した瞬間、環は冷静になるように努めた。
 自分の心をなだめ、呼吸を整える。

「始の言うとおり、もう終わりだ。お前の正体は露見した。銀夜は実氏殿の増援さえ知らない」
「そうだな」
 と、この状況に対してだけは、環と豊房の見解が一致していた。
 ……表面上、だけは。

「だから、もう銀夜姫の雪辱など関係ない。環、お前は王朝のために、今ここで死ね」

 豊房はそう言って右手を挙げた。
 彼ら五人の樹上から、十数人の男たちが音もなく地上に降り立ち、刀を手に環たちに襲いかかる。

 瞬く間に数人単位に分かれると、その攻めを遮ろうとする由基、良吉、大州、始らを取り囲む。
 いや、色市はすぐにへたれて背を丸めてしまったから、彼の受け持ち分を他の三人が背負うことになった。

 自然、環と豊房を繋ぐ一本の道が出来上がった。ためらわず漆黒の刺客はその第一歩を踏み出した。

「死ねぇ!」

 豊房の剣は鋭く、その気炎は激しかった。
 戯れに剣術ごっこやケンカでしていた棒振りとはまるで別。殺人の剣。
 常人の二歩の距離を半歩で越えて、大上段に刀を振り上げた。

 環は唇を噛みしめる。
 逃げることは念頭にない。背を向けることこそ死を意味することだと知っていた。

 彼の腰には守刀はとうにない。そんなものはとうに大渡瀬で二束三文で買い叩かれた。

 そんな因果がめぐりにめぐって、悪友であったはずの男の凶刃を、徒手空拳にて迎えうたなくてはならなかった。

 二人の影が重なった。
 環の帽子が、散った葉の褥に落ちた。

 肉の音がする。

 口の中に血が溢れ、鉄の味が満たした。

 身体が熱い。
 ぶつかってきた豊房の身体が重かった。二人の間で弾けた血潮が、頬にかかって燃えるようだった。
 遅れて、由基の環を呼ぶ声が聞こえた。どこか遠く感じた。

 ――自分を守る武技ぐらい、教わっている。荒事にだって慣れている。

 だが、それがなんだというのだろう?
無力さを痛感する。

 人より殺しの術が二手三手長けているというだけで。
 人より二人三人多く殺せるというだけで。


 ――旧友を、一人殺めるというだけで。


 なんの意味もなかった。
 左手の鎌が、豊房の長刀に食い込む非音曲的な残響が、耳にこびりついたままだ。

 ――臓腑に達した。もう助からない。
 腹に突き立てたの逆の鎌から、豊房の絶望と無念が伝わってきた。

「双鎌術……『蟹鋏』……っ。……ふん、とんと、忘れていたな。まだ持っていたのか、そんなもの」
「忘れたと言いながら、こいつらが目に入った一瞬、あんたの太刀筋は鈍った」
 かつて流天組の下っ端として、格好をつけて振り回していたもの。
 それで皆の苦笑や嘲笑を買いながらも、それでも満ち足りていた青春。
 もう戻れないあの時代にあって、目の前の男も、笑ってくれていた。
 その関係が遠からず破綻することを知りながら、なお。

 そしてその一瞬生じるであろう隙に、自分は活路を見出したのだ。

 悪く言えば、相手の感傷につけ込んだ。
 呆れるほどに身勝手かつ好意的な解釈をすれば……信じていた。

 地田豊房にとって、流天組で過ごした日々は、憎悪と嫌悪の対象であったのかもしれない。
 それでも、そこは彼の居場所ではあったのだと。

「舐めるな。クソガキ」
 次第に力を失いつつある声音を、豊房は振り絞る。
「この私にも、秘したままに冥府へ持って行きたいものが、ある。何もかも貴様の思い通りにされて、たまるか」

 ――わかっている。わかっているから、もう何も言うな。
 彼ら凶器は、主の脱力に伴って互いに絡み合い、もつれ合ってこぼれ落ちた。
 諸々に言葉に尽くせない思いと共に、鐘山環は友を抱きしめた。

 鮮血に濡れたその背に回した指の震えを、豊房は嗤う。
「呆れるほど、業腹な男だ。死に行く者さえも……籠絡する気か、貴様」
「……それが俺の選んだことだ」

 ――相手がどう受け取ろうと、どんな謀略を生もうと関係ない。それで、俺が俺の言葉を表せるのなら。

 そして今、一身にその思いを受ける豊房は、くつくつと喉を震わせた。
 その声が枯れ果てて聞こえなくなるまで、彼は笑い続けた。

~~~

 おのれを含めた、この世のすべてをあざ笑うかのような死に顔だった。

 だが、環がそのまぶたを下ろしてやると、いつもの地田豊房の微笑があった。
 環が彼の身体を横たえさせた時にはもう、周囲でも由基たちが敵の始末をつけた後だった。

 勝利ではあったものの、素直に互いの無事を喜べるはずもなかった。
 あの亥改大州の悪相でさえ、わずかに歪んでいた。

「地田さん」と震える始の呼び声が、環の心を苛んだ。

 複雑な思いを抱いて、遺体をじっと見下ろしながら、

 あるいは

 と環は思った。
 あるいは、この人は俺たちを始末するためではなく、死を覚悟し、清算するために、ここに来たのではなかったのか、と。

 表沙汰にできない計画が露見したばかりか、逆用された。銀夜の暗部として、その証を自身もろとも葬る気だったのか。

 おのれが朝臣であるという自負が、逆賊の首魁たる環に挑んで倒れるという栄誉と自滅の道を選ばせたのか。

 あるいは、もしかしたら、流天組の裏切り者として、彼は処断を望んでいたのだろうか。
 自ら進んでその責めを負うことで、共犯者である始に類が及ばないようにしたのではないだろうか?

 環は首を振る。
 すべては闇の中だった。
 真実は、今わの際の言葉どおりに、秘したままに豊房自身が持って行った。

「最期まで、世話かけちゃったな。地田さん」

 ポツリともらした環の一言が、止まっていた周囲の時間をも動かした。

「どうする、地田の遺体? 銀夜に引き渡すか? それとも首を切って曝すか?」

 大州が示した選択肢は、いずれも、受け入れがたいものだった。あえてそう言って、汚れ役を負った気もするし、環の器量と裁定をあえて試しているようにも思えた。
 由基もそれを承知しているだろう。厳しく睨めつけながらも、いつものように激しく食ってかかることはしなかった。

 環はそれに対して、はっきり否と表明した。
 銀夜は豊房の名どころかその存在さえ知らないかもしれない。
 朝心斎こと綱房は、そんな無垢で無知な主に憚って、我が子の死と存在を伏せるかもしれなかった。
 どのみち、まっとうな人の弔われ方をされるとは思えなかった。それに彼に死を招き入れた者としての責任が、環にはあった。

「牧島村の寺に。あそこなら、静かに眠ることもできるだろ」

 そう言って改めて担ぎあげた豊房の身体は、自らを支える力を失った分、重い。
 その重荷を、誰に委ねるまでもなく、環は一人で背負っていた。

「意地っ張りめ」
 戦巫女は重なる二人の背へ、吐き捨てるように言った。

「重くなったらお前らに泣きつくさ」
 と少年は答えた。

 結局彼は、誰に背負わせることなく一人で行った。

~~~

 その後、同宗の小寺にて菩提を弔われた彼は、ひっそりとした墓地の下に眠らされた。

 その亡骸を持ってきた少年たちの意向によって、彼の頭は南東へと向けられた。
 まだ見ぬ都の方角へと。

 一度も王都に足を踏み入れることのなかった無名の朝臣の魂が、飛んでいけるように。

 自然、足は西へと向けられる。
 だがそこには、いつか気が向いたら再びこの地に帰ってこられるようにという、友人たちの祈りが込められていた。



[38619] 最終章:順問 ~干原の戦い~ プロローグ:忠臣立つ
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:15
 早朝、陣屋の中で目を覚ました瞬間、「今日」だとわかった。
「……っ」
 ゆっくりと意識と頭をもたげさせていき、鐘山環は覚醒した。

 枕元の帽子をかぶり直す。大きくのびをして凝り固まった筋肉をほぐし、首を左右に振る。

 陣屋を出ると、笹ヶ岳を模した緑岳砦はすでに霧の中で慌ただしく将兵が動き、口から口へと報告が飛び交っている。

 環はその中で、落ち着き払っていた。
 来るべきものが来た。戦うしかない相手が、予想の範囲内の時期に現れた。
 彼にとってはただそれだけだった。衝撃はなかった。

 そして自分のところにも一拍子遅れて使い走りがやってきた。次いで近づいてきた羽黒圭馬が、乳の色をした霧の奥、黒々とした扇状の塊を指さし、それの到来を告げた。

 味方の混乱は少ない。見晴らしは悪いが、それはじき晴れる。自陣を上回る大軍だが、事前に来ると知れていた軍勢である。

 そして気がつけば彼の友であり、仲間であり、同志とは言えないまでも正しく彼という人柄に、理解を示す者たちがいた。

 幡豆由基。
 亥改大州。
 良吉。
 色市始。
 羽黒圭馬。

 彼らと一人一人視線を交わし合い、うなずき合って、環は改めて霧の奥深くへと目を凝らした。

 まぁなんとかなってるじゃないか。大将殿。

 一層、また一層と薄くなっていく霧の中で、ふとそんな声が聞こえてきた気がした。
 朝日の中に溶けていく幻影が一つ。見覚えがある影に苦笑を漏らし、頷き一つ。

 やがて明らかになった両軍。
 一里半を隔てた先にある鐘山銀夜、そして彼女の率いるおよそ二万の軍の動揺が、環にも伝わってくるようだった。

~~~

 兵たちのざわめきをよそに、銀夜陣営の首脳部は沈黙していた。

 理由としては、予想外の増援の出現に対応する術を彼らが考えていなかったためである。
 また、彼らの大将が不機嫌さを隠さず、腕組みしながらこめかみを引きつらせていたためであった。

「我らが」
 と、開口一番の声を震わせたのは、亀山柔であった。
 何か策を思いついたか、と期待する人々は、沈みかけたおのれの頭を持ち上げた。

「義種を追撃中に、それと入れ違う形で実氏が進攻してきたのでしょう。とすれば、風祭家との戦いは勝敗定かならずともすでについた、ということかと……」

 だが、彼の口から出たのは誰もが想像のつくようなただの状況分析であり、諸将の落胆と侮蔑を買っただけだった。

 そして彼らの意思を集約させたかのように、大将である銀夜が亀山を睨み据えた。熱風を思わせる眼光を注がれ、彼女より十も年上の武将は萎縮した。

「だからっ、だから言ったではないか! 環を放置せず優先して叩くべきだと! その私の意見を無視して、貴様らはっ」

 今更そのようなことを蒸し返す姫に、群臣たちは皆、鼻白んだ。
 彼らからしてみれば、あの時の姫大将がそうした合理的な判断から環打倒を主張していたとは到底思えなかった。
 そもそもその案を結果的に取り下げたのは、彼女自身の決定だ。
 となれば今の事態の陥ったのは、彼女の責任ではないのか。

 彼らはそう考えていたが、府公の娘相手にわざわざそれを声明にする蛮勇はなかった。

「では、どうなさるおつもりで?」
「少数の環勢相手ならともかく、一万超の実氏勢が砦に籠っておるのです。生半に攻めれば手痛い反撃を受けまする」

 ただ、そうして意見する彼らの声は、針先のように鋭く攻撃的だった。
 その含むところを察したのか、結果としてますます少女の眉間の険は強くなっていく。

「だからっ! そうなる前に環を殺すべきだったっ!」
「わ、分かりました……分かりましたから」

 まるでだだっ子のように自論を繰り返す少女を、目前の敵陣より先にどうにかしなければならなかった。
 その徒労感ただよう目線を彼らの内で交わし合い、今度は悟られないようにそっとため息をつく。

とは言え、撤退論を唱えようと今冷静さを失った銀夜が容れるようにも思えず、また正面にすでに陣を構えてしまった以上、ある程度の犠牲は必要となってしまった。
 その「ある程度の犠牲」とやらに、自分が、もっと狭めて言えば自らの手勢が含まれないようにするにはどうすべきか。諸将の懸念はそこにあった。

「……確かに。このままでは埒があきませぬ。今は静観するがよろしかろう」

 ふと、席の端より声が漏れた。
 樫の枝を杖に寄りかかる、陰気そうな老人が、存在感を感じさせないままに立ち上がった。
 それは、朝心斎なる銀夜の老臣であった。
 銀夜は真紅の瞳に敬慕の色をわずかに匂わせ、いくばくかの落ち着きを取り戻した。

「では、どうする? このまま敵陣に何かが起こるのを待つか?」
「起こるのではなく、起こすのです。我が子息がすでにその陣中に入り込んでおります。いずれ、鐘山環の首級を引っさげ、内より切り崩しましょう。ちょうど先の政変における銀夜様の手腕の如く、環はその弟妹と同じ運命を辿るというわけです」

 この策に対する対する皆の反応は、半信半疑……いや半ば成功を期待し、半ば失敗を疑っていた。
 中でも直情的な新組、背側などは、突然現れたこの謎の老人に、未だ疑念の感を拭いきれてはいなかった。

「では、それさえ失敗となったらどうする?」
「それに乗じて敵が攻勢に転じたら」

 老人は彼ら両人の、内に押し隠した怯懦を笑うが如く、鼻にシワを寄せた。

「それはそれで現状の硬直の打破をする糸口となるではありませぬか。それに、わしが用意いたしたはそれのみにあらず、風祭が敗れたとて、二の矢があり申す」
「ほう? それは」
「朝廷か」

 老臣が持っていた答を、銀夜が汲んで言葉とした。
 理知の光を取り戻した彼女には、かつて方略寺にて自らの戦略を語っていた頃と同じ光輝があった。
 主将の答えに朝心斎は満足げに頷いた。

「さよう。すでに朝廷には宗善様直々に援軍の要請が来ており、色よい返事を受けております。現に、禁軍のうち二の軍がすでに勅命により空となった桃李府へ進軍を開始したこととのこと」

 おおっ、と一瞬にして喜色と安堵の雰囲気に転じる陣中。だが彼らとは対照的に、禁軍と口にした瞬間、老軍師の顔には、にわかに陰が差し込んでいた。

「どうした、朝心斎」
「……ただ一つ懸念があるとすれば、おそらくこの禁軍は予備兵力、遊軍である禁軍第五、第六軍であると思われます、他は中水府への牽制に割り当てられることでしょう」
「つまり、朝廷よりの援軍は寄せ集めの弱兵であると?」
「いえ……かつての我が手勢、第六軍を率いているのは上社一守(かずもり)。これは、近年まれにみる清廉潔白な義将、護国の忠臣と聞き及んでおります」

 この説明でようやく、居並ぶ鐘山軍の将は、それがかつての地田綱房だと知った。
 あるいは顔見知りもいたかもしれないが、元より記憶にも留まっておらず、加えてその老化と変貌ぶりに誰しも気がつかなかったのである。

「……問題はその父。禁軍第五軍を率いる上社信守」

 そしてその名が出た時の反応は、地田朝心斎の正体が明らかになった際よりも激しかった。

「宗円公、舞鶴、実氏と同じ『天下五弓』の一人ではないか!」
「巷説では、隠居してしまったとのことだったが」
「ならば将器としては問題あるまい!? 何を憂う必要があろうか?」

 自分よりも大きな声望を持つ男への嫉妬か。過去における因縁からか。
 苦虫を歯を噛み潰し、するつぶしたような激しい形相で、老人は切歯した。総白髪となった髷がほつれるほどに、首を振った。

「皆、あの男のことをまるで知らんのだ。あれは悪鬼だ……人の皮をかぶりながら人の心を持たない獣なのだ……」

 朝心斎はそう呟くと、弾かれたように頭を持ち上げた。

「銀夜様、どうか愚老を禁軍のところへお使わしくだされ。行軍を早めるよう伝え……そして今の奴の心底を確かめて参ります」



[38619] 第一話「鼠の末路」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:16
 桃李府国境の一歩手前。
 晴れた時にはその関所さえ視認することのできるという位置に、禁軍の五、六軍は進みつつあった。

 総勢五千。
 かつて始祖である布武帝が自ら執筆した『陣中式目』にて禁軍の兵数は、一軍を五千と定められていた。
 今や、その半数さえ揃えておくのが困難であった。
 それでも東西に軍勢を振り分けた桜尾家にとっては、五千とて十分な脅威になるはずだった。

 その半数が、突如として進軍を停止した。
 残る半数を率いる二名が、転じてその理由を問いに来た。
 老人が来たのはまさに、その時であった。

「地田朝心斎と申す。かつては綱房と名乗り、貴殿と同じ第六軍を主上よりお預かりしていた」
「それは、どうも」

 それ以上の言葉が見当たらず、上社一守は曖昧に頭を下げた。

「別に恨んではおらぬ。それよりも貴殿の忠勤ぶりは遠き順門府にも伝わってくるほどじゃ。貴殿のような士が未だ朝廷におること、嬉しく思う」

 と、手放しに褒められては、一守とて悪い気はしない。
 親愛と軽侮を込めて「姫若子」と称される一守は、今年で二十五になる男子だが、なるほどその容姿は、深窓の清楚な姫君のようだった。
 肌の色は真珠のように淡く陽光を照り返す。切れ長の涼やかな目と朱を引いたような唇は、いわゆる「その気」のない男でもたちまちに魅了するという。
 黒髪をゆるやかに後ろに束ねた後ろ姿は、後宮の寵姫たちよりも美麗だと沙汰されるほどであった。
 ちょうど、彼の亡母を三割増しに美しくし、肌から色を抜けば彼になる。父信守の要素はどこにも見当たらない。

 そうした容姿は好感を持たれつつも、それと同量の嫉妬や侮蔑を買っていた。
 だが、目の前の老人の視線からは、そうしたわずらわしい感触はなかった。
 等身大の自身を見てくれているという実感があった。

 ――朝廷を裏切った密告者と聞いていたが、けっこう良い人だな。

 地田綱房。
 『順門崩れ』と呼ばれる戦いの際に、彼は若き日の上社信守と反目した。
 そしてついに敵の宗善陣中に奔った。信守を討つように進言し、自ら手引きを行った。
 ところがそうした思惑は信守の掌中であり、逆用されて火攻にあった。あわや、宗善もろとも焼死するところであったという。

 そうせざるを得なかったほどに追い込まれたといういきさつは、彼も知っていた。と言うより信守自身がそう高言してはばからない。

 息子はともかく、その当人を前にしては、虚心ではいられないのだろう。
 一守の隣に位置する父信守を、かつての地田綱房は冷ややかに見つめていた。

「鐘山銀夜は、今正面に実氏めの率いる大軍を抱えておる。苦境にあると言って良い」
「そうでしたか。では、行軍を早め、敵の背後をとりましょう。……よろしいですね、父上」

 信守は我が子の答えに、信守はそっぽを向いたままだった顔をようやくかつての同僚へと向けた。

「で」と頬杖をついて、他国の賓客相手とも思えぬ不遜な態度で改めて接した。

「桃李府を攻め、実氏に揺さぶりをかけるとする。羽黒圭輔が転身して向かって来たとして勝てる見込みと自信はある。が、そうまでして銀夜のお嬢様を救うことに我らになんの得がある?」

 それは、朝命で動いている男の発言ではなかったが、地田朝心斎には動じた様子はない。
 すっと目をすがめて、
「助ける必要などない。貴殿は宗善や銀夜が敵の主力を引きつけている間に、桃李府を存分に切り取ればよかろう」
 と、答えた。
「それで、奴らが今まで溜め込んでいた負債を帳消しにできるほどの利が生まれるであろう。上社家にとっても、これ以ない武勲であるはずだ。こうした雑役からも解放され、栄達もかなおう」
「それは」

 一守は苦笑した。
 朝臣として、また一個の雄としては、首肯したいところだ。が、何事にも建前というものがある。
 順門府を見捨て、朝廷の利益を優先しろ、と示唆するような提案を、鵜呑みにするわけにはいかなかった。

「かつての貴様ならば、唾棄するであろう提案だな、綱房」

 父信守は、そこでようやくかつての仲間に関心を抱いたようだった。
 対する朝心斎は、フッとわずかに口だけを歪ませ、答えた。

「いかにも。わしは変わった。もはや貴殿に良いように利用されていたわしではない。わしは、闇となったのだ」
「闇?」
「左様。かつてのわしが自らが潔白であろうとするあまり、結果として朝廷や貴殿の父御を苦境に追い込む羽目になってしまった」

 一守の祖父、信守の父である上社鹿信。
 王朝の成立からその成り行きを見守ってきた初代禁軍第五軍の老将は、『順門崩れ』により戦死している。
 その原因を作ったのが、この地田綱房だった。少なくとも信守はそう考えていた。
 過去を本気で悔いているように、老人はそらした横顔をしかめ、痛ましげに瞑目する。

「だが今は違う。朝廷のために、おのれが朝臣としてなすべきことのため、賊軍の客に甘んじている。自らの手が汚れようとも、闇にこの身が堕ちようとも、それが朝廷のためとなるならば、それを喜びとしよう」
「なるほど、そのためなら順門府の帰趨など関係ないか」
「朝廷のための礎となるのであれば、あの親子は例え滅びても本望だろう」

 やや大仰な身振り手振りで、自らの信念を語る朝心斎。一守が驚愕したのは、彼自身でなく、

 ――この男が他人と会話するとはな。

 という一事に対してだった。
 常日頃何かを尋ねたり対話を求めても、この信守は鼻で笑うか皮肉や嫌味を飛ばすかのどちらかで、まともな話し合いにもならない。

 息子である一守に対してさえそれなのだから、いわんや他人は、といったところだ。

 流行病によって妻に先立たれ、友誼を結んだ水樹陶次が上社家を出て行ってから、ますますその狷介さは強まったような気がする。
 その父が自分の意見をぶつけて、他人の言葉を求めるというのは、常ならぬ珍事だ。

 だが、妙なざわつきが一守の胸中にはあった。

 父が父らしからぬ言動をしている。この男にとっては親の仇に等しい相手に対して。
 ゆえに、違和感があるのは当然だ。
 だがその奥底で、上社信守はまた、いかにも彼らしい良からぬことを思案しているように思った。
 それでも表面上は、和やかな、それこそ長年の因縁を断ち切るが如く、お互いに和解しようという気配さえ見受けられた。

 ……内容こそ物騒なものだったが。

 とまれ、胸騒ぎを理由に部外者である一守が口を差し挟むわけにもいかない。
 不自然なまでに引きつる笑みを表に、ことの成り行きを見守るほかない。

「それで、貴殿は今後どうされるおつもりかな、朝心斎殿」

 信守はその口調に一応の礼儀を上乗せした。
 朝心斎は首を振り、「どうもしない」と答えた。

「復職や名誉など今更求めぬよ。わしは朝廷と先帝ならびに主上の御恩に報いるため、今後も闇の者として生きていく」
「立派だな」

 感心した風な顔で拳を横顔に当て、信守は何度も頷いた。

 だが一守は気がついた。
 微笑む父の口端に、いつもの悪性の信守が住まっている。
「父上っ、あの、そろそろ進発を……っ」
 なりふり構わず制止の声をかける子の横で、信守は、その父はその笑みの種を変じさせた。


「お話はそれで終わりかな? 鐘山家臣、地田朝心斎殿」


 鐘山家臣。
 その一言は、その四字は、その呼び名は、元禁軍第六の将、地田綱房を貶めるに十分な威力を持っていた。
 彼の苦痛に満ちた半生を嗤い、今まで語っていた矜持を踏みにじり、存在意義を全否定するものであった。

 場が凍りついた。
 居並ぶ幕僚の声は聞こえず、外周の兵馬のざわめきさえも、聞こえなくなったように一守は錯覚する。
 その場にて、老人の何かを押し殺すような浅い息遣いだけが大きく反響しているようだった。

「どうした? 順門府家臣、地田朝心斎。急に黙ったが、本当に話はそれだけだったのか? 鐘山宗善親子の老僕、地田朝心斎」
「き、貴様……はっ!」

 さっと顔を赤黒く染め上げた老将は、席を蹴って立ち上がった。

「どこまでわしを愚弄すれば気が済むというのだ!? わしは宗善などと主従の契りなど結んではおらぬ! わしは今でもなお朝臣なのだ!」
「笑わせるな」

 口の端は吊り上げたままに、ぞっとするよう低い声と視線を、信守は朝心斎へとぶつけた。

「貴様は誰の禄を食んで無駄に三十年も生きていた? 誰の命と後援を受けて下らん策謀にその年月を費やし、それは誰の夢を実現したと思っている? 朝廷からそんな密勅が来たか? 一度でもたよりはあったか? 幼帝は貴様の顔どころか存在さえ知らん。自分が生まれる前、そんな馬鹿な裏切り者がいたことを記憶しているだけだ」

 せせら笑いの声にて句を切った信守に、一守は耳を塞ぎたくなった。
 だが、この場からもっとも逃げたかったのは、面罵され続ける地田綱房だろう。
 喘ぎ喘ぎ、みるみる内に打ちのめされ、消耗していくのが分かった。それでも、魔性に当てられたかのごとく、老人はかつての同僚から視線を外すことができないでいた。

「貴様はな、自らの立場をわきまえず、三十年も仕えた主君を見殺しにするよう持ちかけ、そうして身内を売った功績によって媚を売ろうとしているに過ぎん」
「信……も、りィ……ッ」
「闇となっただと? 貴様はただ人の目に怯え、地下にひそみ、こそこそと這い出て身内の屍肉をついばんで肥えるドブネズミよ。……なぁ知っているか、綱房?」
「父上っ!」
 一守は老人の代わりに咎めようとした。もう言うなと、制しようとした。
 だが、信守の極めつけの一言は、それよりも早く、老臣の胸へと突き刺さった。


「そういう奴をな、売国奴と言うのよ」


 ……もはや、老人の声も鼓動も、聞こえなくなっていた。
 代わりに、ドサリと、重い音がした。

一守がハッとした時には、目の前には胸を押さえたままにうずくまる、生死不明の肉塊があった。

「我聞(がもん)、お客人が御帰りだ。『元』同僚のよしみで、順門府の忠臣殿を丁重に送り返してさしあげろ」
「父上ッ……!」

 いち早く老人を助け起こしたのは、彼を追い詰めた男の倅であった。
 わずかに胸が上下しているのを、冷ややかに見下ろしながら、信守は彼ら二人の前に膝を置いた。

「聞こえているかどうかは知らぬが、最後に一つ、最新の情報を貴様にくれてやろう。……貴様の息子、死んだぞ?」
「……っ!」
「敵大将、鐘山環に斬りかかり、逆にその手にかかったそうだ。……『元』禁軍の息子の名に恥じぬ、お見事な戦いぶりだったそうだな。死後もその活躍は千里にまで轟こう。その着物の端を守り袋として、自分も武運を願いたいものだ」

 文言だけをたどれば、毒にも薬にもならない、無意味な賞賛と慰めであった。
 だがその肉声を聞いた一守は、理解していた。
 これは、毒だと。
 この男には、一片の心のよりどころさえ残してなるものかという、上社信守の凄まじい憎悪が込められていた。

~~~

 ……その後の話である。
 長い間前後不覚に陥っていた地田朝心斎が目を覚ましたのは、順門へ帰還する途上、船でのことだったという。

 彼は目を覚ますなり、童のように奇声をあげて海に身を投げ入れようとした。諸人が懸命に押しとどめたことにより、その入水は未遂に終わった。

 狂わんばかりに振りかざしたその手は、離れゆく都の方角へと向けられていたが、むなしく空を切るばかりであった。

 助けたかいなく、やがて熱病を発し、船上にてあっけなく死んだ。
 自死したとの巷説もある。

 ――いずれにせよ、綱房殿は最期に意地を貫かれたのだろう。自分は朝臣であると、死に場所は都であって、順門府ではないのだ、と。

 その訃報に触れた一守は、静かに瞑目した。
 父の非情さを憤り、そして無名無冠のままに死んだ朝臣を悼んだ。



[38619] 第一話「鼠の末路」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:17
 ……時は前後する。
 我聞の手配の下、引きずられるように担ぎ出されていった朝心斎の姿が消えた後、一守は父を睨み据えた。

「父上……っ、これが、これがかつての胞輩に、憂国の忠臣に対する仕打ちですかっ」

 静かに、そして鋭く尋ねる若武者に、彼ら父子の家臣たちは動揺こそすれ驚きはしなかった。

 上社家の若殿の、父とは対照的の生真面目さは皆が承知していることだったし、何より二人の確執は今に始まったことではなかった。

 だが、食ってかかる嫡男を無視した信守は、ふと陣幕の裏へと目をやり、
「おい、追い出してやったぞ」
 そう、声をかけた。

「ありがとうございます」と一礼、身を屈めるように現れたのは、筆のようにひょろりと細長い男であった。
 何者かと目で問う一守に対し、その筆男はうっすらと目を細めて再度の礼を行った。

「桃李府公子、桜尾西種と申します。以後お見知りおきを」

 まさか、と一守は息を呑んだ。
 今から攻め入ろうという国の、最高権力者の三男がわざわざその敵陣のただ中を訪れるとは、いかな了見か。だが、考えられる来訪の理由はそれほど多くはなかった。そして、考える間もなかった。

「それでは、お約束のものを献上させていただきます。ご自身の目でご確認をば」

 そう言って彼が小枝ほどの細さしかない指を叩いて鳴らすと、陣中に木箱が持ち込まれた。開けると、黄金のまばゆさがさっと広がって、辺りの動揺を誘った。一領主である親子にとっても。見たこともない金がぎっしりと詰め込まれている。

 信守はその中に湯水をすくうように手を差し入れると、フンと鼻を鳴らして、蓋を閉じた。

「確かに受け取った。では、これより禁軍は撤収を開始する」
「なっ!?」

 ……さては、賄賂に吊られたか。
 そう悟った瞬間、一守は心底父を蔑んだ。激しく憎悪をぶつける。信守は心外そうに冷めた目で我が子を睨み返した。
 懐中に右手を突っ込むや、折り畳まれた文書を一守に投げ渡された。

「読め」
 口にされずに促されて、一守は不承不承、それに従い、文面を目で追った。

 だが、その内容に一驚した。末尾にある星井文双らの連署を見た時、全身を雷が駆け巡った。
 そして父がぞんざいに投げ渡したこれが勅書だと知った時には、開いた口がふさがらなかった。

「桃李府より今まで滞納した朝廷への献上金とその利息分を受け取り、すみやかに都へと帰還すべし」

 その内容の馬鹿馬鹿しさと、父が嫌味のひとつも発さずにその命を受け入れたことに。

 剣呑な父子の雰囲気を肌で感じたのだろう。使者の任を果たした桜尾家の三男坊は、あいさつもそこそこ、その場を退出した。

「見てのとおりだ。我ら禁軍五千人は、敵からの施しの受取人よ。順門府の戦いは静観するべし、とさ」
「副将たる俺は何も聞いてはいませんが!?」
「言おうとはした。だがそれより早く地田が来た。まさか敵対する者同士を鉢合わせさせるわけにいかないから、西種殿にはお隠れいただいた。で、どのみち綱房の提案など受け入れられるものではないから、丁重にお帰りいただいた。……何か問題が?」

 両手を挙げ、挑発的におどけて見せる信守を前に、一守は固まった空気を飲み込んだ。

「……おおかた、かの宰相殿が桃李府よりこの申し出を受けこう考えたのだろうよ。『一万八千の軍勢が、一万ちょっとの軍勢に負けるはずがない。戦ったとしても、五千の軍勢が残って勝利するはず。とすれば無駄な戦闘などしなければ、一兵も損ずることなく大金が手に入る』」
「まさかっ」

 子どもの算術手習いでもあるまいに、そんな単純な数の理屈が兵学に通るものか。
 そんなことにさえ想像が及ばない人がいるはずがない……と言えないところに、今の朝廷のむなしさがある。

「桃李府を占領したところで、煩雑な情報、権利の処理には時間がかかり、利益につながるにはさらに時が必要となる。それよりかは目の前の利益を優先し、それを元手に朝廷の財政を立て直す。廷臣のバカ共の目論見としてはまぁそんな所だろうよ」
「馬鹿な!? そのために、せっかく帰順した順門府をはした金欲しさに見捨てれば、今度こそ朝廷は声望を失う! 地方の争いを調停し、干渉して統括するという本来の役割さえ果たせないという証明ではないですか!?」
「……先帝の時代ならば、国内の強化こそが正しかった。今さら主義を転じたところでもはや遅い。それにこの大規模な出兵、いったいこの金の中からどれほど差し引かれることやら」

 呆れるというよりは、むしろその愚かさを愛で、楽しむかのように、朝廷随一の弓取りは語る。
 口端をいびつな形に結ぶ父に、一守は再び怒りを蘇らせた。
「……そこまで」
 未だ驚愕と呆れに震えを残す声で、

「そこまで理解しておきながら、なんであなたは諌言しないんですか!? 父上っ!」

 自らの床几を父へと向けて蹴り飛ばし、それを難なくかわした父の肩に食ってかかる。

「あなたはいつだってそうだ! 世を席巻する才能があるくせに、それを行使することなく自らの悪趣味のために振りかざし、汚名と悪名を重ねて、世の中を小馬鹿にして、振り回して! ……将たる者、王命にも従えない時があるッ! そんな金など突き返し、桃李府を突けば良い! そうすれば、それだけで天下万民を安んじることができることができるんだッ!」

 信守は、我が子に視線さえ向けなかった。
 そむけた彼の眼差しは、氷室から切り出した薄氷のように冷ややかであり、口の端は未だ、世の中の何もかもをも嘲弄するが如く曲がっている。

 やがて懐より一枚、さらに折りたたまれた紙を取り出した。一通目と同じく、無言で差しのばされる。「読め」と、その目が伝えてくる。
 父を突き飛ばすようにもぎとると、一守は自らの詰問に対する答え、

 ――何故、我々がなすすべなく退かなければならないのか。

 その解を、知った。

「中水府勢一万が北上。しかも率いているのは陶次で、すでに禁軍三軍が敗れた。それと、佐朝府(さちょうふ)の佐古(さこ)直成(なおなり)が挙兵した。我らは中水府の軍勢の牽制をしつつ、その後逆賊となった佐朝府討伐に動くように、との無茶ぶりよ」
 その内容にわざとらしいほど己の嘆息を織り交ぜつつ、信守は文面を諳んじる。
 読み上げられた書状を握りしめながら、一守は切歯する。

「陶次殿、直成様……っ、何故、この時に!?」
「この時だから、に決まっているだろう」

 地田綱房に向けたものと同じ、揶揄の目をしていた。
 他人の運命を玩弄するような目、宿命や意志を無価値なものだと決めつける、その眼光。

「なるほど確かに、このまま北進して桃李を突けば、まぁ天下は安んじるだろうさ。……だなどと、貴様のような若造が思い描く展望を、あの陶次と佐古直成に読めないはずがないだろう。奴らは今立ち、鐘山環を援護することが、自分たちの生き残る道だと知っているのさ」
「ぐ!」
「上社一守。王城一の義将、一守殿。さぁ己が率いる将兵に言って見るが良い。『我らの故国が戦火にさらされている。だがこれも天下万民のためだ。たとえ国元の家が焼かれ、家族が殺され妻子が犯されようとも、我らは前進して栄光を求めようではないか。天下万民のためならば、諸君の犠牲は大したことないのだ』とでもな。……やりたければ、一人でやれ」
「……退けば……良いんでしょうが……っ!」

 その白い歯が割れんばかりに食いしばり、血涙を流さんばかりに父に無言の呪詛を送り、一守は一軍の将としての判断を下した。

 信守はそれ以上は、我が子に声をかけなかった。
 にわかに立ち上がると、居並ぶ諸将に目線を配る。

「高針(たかばり)神内(じんない)」
「はいっ!」
「お前は手勢五十騎を率いて南下。先の戦で調達した水樹の旗を『子石屋(こいしや)』に預けてある。それを見せびらかすように、あたかも水樹陶次が禁軍を手引きしたかの如く、盤龍河を渡れ。潔癖な任海はおそらくこの策戦に乗り気ではあるまいし、陶次も深入りする気はなかろう。ちょっとの不審の種で、陶次は中水府へと召還されるはずだ」
「合点で」

「壬岡(みおか)は未だ府内にあって佐古勢に抗戦する歌崎(かざき)の照姫(てるひめ)へつなぎを。十日は保たせるように伝えろ」
「十日!? で、ですがここから佐朝府へは一月は必要ですが」
「朝廷に帰ってればな。故に、我らは帰らん。このまま名津を経て佐朝を強襲揚陸、歌崎勢と合流する」
「名津!? 桃李府の領内ですぞ?」
「おや? 桃李府と朝廷とは、健全な君臣の間柄ではなかったのか? この金がその証明ではなかったのか? だったら逆賊を討つために奴らの港と船を利用しても問題あるまい。……西種を連れてくれば色々『役に立つ』だろう。まだその辺りをうろついているはずだ。捕まえてこい。朝廷との折衝と復命は、我聞に一任する。……あとそこの愚か者を連れて行け。都で頭を冷やさせろ」
「……御意」

 ひとしきりの指示と飛ばした上社信守は、そのまま陣中を退出した。
 その麾下の部将たちも撤退の準備に入るべく、やや気の毒そうに一守を見やり、一瞬後に出て行った。
 残されたのは、一守自身と、老人一人だけ。

「……我聞殿……我聞殿ッッッ!」
「分かっております! お腹立ち、重々承知しております!」

 父の出て行った陣幕の口に、一守はよろよろと寄りかかった。
 指を食い込ませる。爪が薄い布地と皮膚を突き破る。
 紅い血が染みるほどに握りしめた禁軍第六の将を、その副将である貴船(きふね)我聞は宥めた。

「されど……その言動はともかくとして、今回はお父上が、そして今下したあなたのご判断こそが正しいのです。どうかこの場は退かれて、再戦の機をお待ちください」

 ――正しければ、何をしても良いのか!? 何者を貶めても良いと言うのかっ!?

 本当はそう怒鳴り返したかったが、我聞は父より預けられた上社家の宿老。信守の亡妻の養父にあたり、すなわち一守にとっても祖父である。
 一見して穏やかな好々爺、だが才能豊かな良識家である。その発言には千金の価値と重さがある。

 恨みは、父の理屈と将才と、己の動揺と非才さを認めることで飲み込んだ。
 それでも、悔しさは残った。

「……クソ親父め……っ」

 信守の幻影に汚い罵声を浴びせ、上社一守は深く呼吸を整える。



[38619] 第二話「新風緑岳」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:18
 ――地田綱房は失敗した。

 諸将は三重の意味でそう呟き合った。
 一つの意味では、彼の息子やら配下による環の暗殺は失敗したということ。
 一つの意味では、朝廷の説得の失敗。
 一つの意味では、この軍議の場を離れたこと。

 彼という理解者であり、心のよりどころを喪った鐘山銀夜は、さらに心の均衡を失ったと言って良い。
 あからさまに苛立つことが多くなり、わけもなく、あるいはちょっとした失言やつまずきで周囲に当たり散らしていた。
「自重すべし」という綱房の禁さえ破り、配下に命じ攻勢に出ること連日。
 ところが外側だけと言えども緑岳砦の威容は兵士たちの士気を折り、そこに詰めた大軍は、実氏らの指揮の下、攻守剛柔を自在に入れ替えて巧みに攻め手を翻弄し、確実に兵力差を埋めてくる。

 ――かつて『順門崩れ』にて大敗した先々帝と、その陣中はこのような状況だったのではなかろうか……

 主将の怒号に辟易しながら、諸臣にはふとそんな空想が去来した。

「……もう、良いッ! 下がれ!」

 五度目の突入に失敗し、それに伴う五度目の叱責を受けた新組勇蔵が、すごすごと己の席へと戻っていく。
 その彼の着座と同時に、少女はいかり気味であった肩を持ち直す。
 一定の神秘性を持つ白銀の長髪を翻し、いつものような調子で高らかに宣言するのだった。

「三日だ! あと三日で朝心斎が戻らなければ、わたし自ら指揮を執り、総攻めにかかる! 各々その準備をするべし!」

 ……ただし、それに応じる将士の声は、かつての陶酔の熱を失っていた。
 秋風のように粛々とした承諾がかさなり、いかにも活気というものが感じられなかった。

~~~

 陣幕から出てきた大将たちは、老いも若きも皆嘆息した。

「銀夜様も終わりじゃのう」
「大殿も姫に継がせることはない、と言い放ったとの噂もある」
「嗚呼、いかに被害を少なく撤退できるか」

 そして皆、最後に調子の低い声を揃えるのだった。
「我らが何をした? これほどの報いを受けるほどのことなのか?」

「……何も、してこなかった故でしょうなぁ」

 その最後尾から、しがわれた声が、彼らの背を刺した。
 一同が振り返ると、例の響庭宗忠がぼんやりと夜天を見上げていた。
「これは聞き捨てならぬことを」
「我らは国を憂えて宗流公を討った」
「今また銀夜様のために身を砕いている」
「その我らが、何もしておらぬと!?」

 詰め寄られる老将は、未だ六十そこそこである。
 現在は隠居の身であったが、当主が病床にあり、その嫡子も意志薄弱ゆえ、自ら老体を押して家中を取り仕切り、そして今自ら兵を率いての出陣という。

「では、逆にお尋ねするが」

 と、好々爺然とした老将は、柔和な笑みを浮かべて、かつ往年の秀才の理知さをその目に宿し、鋭く問い返した。

「この中で宗流公存命時、あの方へ諫言した方はおられるのですかな? 現状、対環へ対策を講じましたか?」

 反応は、まちまちであった。
 露骨に口を噤む者。そんな彼らに、暗い安堵もしくは嘲笑の表情を浮かべる者。
 だが皆、老人に対して確たる返答ができなかったのは、共通していた。

「……そう。結局は、何も考えていなかった。このわしも、過去に失敗し、大殿よりご勘気を賜って以降は、失敗をしない生き方をしてきました」

 いやいやと、自らの言葉を宗忠は即座に否定した。

「正しくは、過失を見て見ぬふり、ということでしょうなぁ」

 遠い目をし、押し黙る諸将に、憐れむが如き微笑を返す。
 いや、嗤っているのは、己自身に対してか。

「ただ多きにつき、強きに従い、主の命に諾々と従っておれば、誰か別の者がその業を負ってくれるものと。そのうち何処かなりの英傑とやらが世を平らげて、気がついたら平穏無事になっておるのだと。そんな甘い夢を見ておったのです。だが、いつかは夢は醒める。醒めた時に顧みれば、後回しにしてきた負債は誰かが立て替えてくれるはずもなく、因果は己に巡る。マ、今がその時なのでしょうな」

 老人は、穏やかな目で再び夜を見上げた。
 天高くきらめく星々に嘆息を吐きかけて、鼻白む人々の先を行く。

「幸いなのは、この咎が我らが次代に及ぶまでもなく、我らの身に降りかかったことなのでしょう。それで良しとしませんかな」

 この演説を聞いた者は、皆老人も戯言と嘲り、あるいは不忠者と面罵した。
 彼の孫、響庭村忠が環陣営についたことをなじる者さえいた。

 だが、これが鐘山銀夜率いる順門府軍首脳部の結束力と戦意を削ったのもまた、確かなことであった。

 ~~~

 彼女や群臣は期待こそしていなかったが、予想はしていなかった。

 ――まさか本当に、伝令が来るとは。

 何の益にもならない軍議の中、飛び込んできた早馬に誰よりも驚き、誰よりも早く反応したのは他ならない大将、鐘山銀夜だった。
 白昼、汗馬から母衣武者が飛び降りる。しかし彼の膝は疲労と動揺で笑って、立つことさえままならない。

 仕方なく兵の二人に抱えられるようにして陣中に駆け込んだ伝令は、彼の発した短い急報が、確かに停滞していた銀夜たちに新風をもたらした。
 姫の鬱憤を頭から吹き飛ばした。彼女らに事実と方針をと与え、すべてを悟らせた。





「……御槍城、敵別働隊の奇襲を受け、陥落いたしました」





 凶なる逆風が吹き荒れる。
 姫に鬱屈を感じさせる心理的余裕を完全に取り払う。
 彼女らに、目の前の大軍が陽動であった事実を与え、自分たちの策などとうに看破されていたことを教えた。

 ――すでに、敗北していたことを、鐘山銀夜たちに悟らせたのだった。



[38619] 第三話「月の大器」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:19
 『六番屋の史』は空となった城の御殿、大きく伸びをした。

 天守から見える景色はさらに絶景だろう。だが御槍城自体が小高い丘の上にそびえ立っているので、そこからでも城下の、秋の燃えるような樹々の赤さは言葉にはし尽くせぬほどに美しい。

「というわけで、この城は私たちがいただいちゃいました、とよろしく宗善公なり銀夜姫なりにお伝えください」

 極上の笑顔で振り返った彼女の視線の先、畳に転がされている人間大の芋虫が、一匹。
 否、芋虫の如き扱いを受ける虜将、熊井が、唯一自由に動かせる胴を揺らしていた。
 憤怒と苦しみにジタンバタンと身体を跳ねさせる彼は、虫と言うよりは陸に上がった小魚であった。

「そうですかそうですか。私も銀夜どのへお返しするのが一番だと思います。彼女の硬くて鋭い心はポッキリ折っちゃいましょう! ……ね」

 などと、適当な解釈をつけると、

「では、丁重にお送りしますねー」

 緋鶴党員扮する六番屋の人足へと命じて、外へと担ぎ出した。

 さて、と『六番屋の史』は、向き直る。

「どうにも動向が怪しいと思えば、まさか本当に宗善公と通じているとはねぇ……お史どの」

 『六番屋の史』は水飴のような、舌ったらずの甘やかな声音で、そう言った。

 彼女の足元には、彼女と同じ顔の……否、彼女がその顔を真似た、本物の女主人が転がっていた。

~~~

 その『六番屋の史』を本物と信じて、意気揚々と拉致した熊井は、そのまま城へと入れてしまった。
 それが、彼にとっての驚天動地の始まりだった。

 牢に至る前、人ならざる力を突如として発揮した彼女は、瞬く間に一転攻勢。
 緊縛を破って熊井を打ち倒すと、彼を人質にとった。
 突然の出来事に、彼の郎党が呆然としているうちに、どこからともなく侵入した人足、および荷に潜んでいた草の者、合計十六名がなだれ込んだ。

 三戸野翁がその経験と戦歴を総動員して苦心して作り上げた防御施設、御槍城。
 その陥落は呆気なく、寡兵にて、ほぼ無血にて行われた。

~~~

 『六番屋の史』はその小袖の口で、顔を拭う。
 袷にほっそりとした白い手を差し入れて、身体につけた詰め物をはたり、またはたりと落としていく。
 部下の差し出した着物を手に取ると、帯を解いて豊満な裸身をさらし、改めてその黒衣を身につける。
 カツラを外し、中にまとめるように結っていた髪を、一度バサリと広げ散らして整える。

 そこに金の錫杖が加われば、他の誰でもない、勝川舞鶴。
 不老の尼僧が、そこにいた。

「……しくじりましたわ。まさか、うちの番頭以下、ことごとく貴女に与していたとは」

 薄い唇を噛んで悔しがる女主人に、ニコニコと舞鶴は笑っている。

「そもそも、商人を規制しようという宗善に従う者こそ異常でしょう。そのカラクリを曝露すれば、それは誰だって裏切りたくなりますよ。……器量もないのに、本心を偽り他人を欺くから、そういう歪みも生じるんですよ。そういうお史どのこそ、何故宗善と通じて、昵懇であった我が殿を除こうと?」

 女神の笑みを称えながらもなお、軍師舞鶴の追及は辛辣であった。
 口は固く閉じたままに俯いた史は、環らを饗した時とは打って変わり、般若の如き形相で美しい尼僧を睨んでいた。

 牙でも突き出るのではないか、というほどに激しく歪んだ口端より、呪詛が漏れ出るのに、さほど時は必要としなかった。

「昔から、嫌いでしたわ……」

 彼女の呟きに、舞鶴は微妙な笑みを浮かべたまま小首を傾けた。

「女を道具として扱う卑しい商いも、それにうつつを抜かす愚かな公子も……けれども、もし宗善公が府内を平定し、新たな法度にてそれを規制してくだされば、六番屋も含め、商人たちは皆それに納得して従う。せめて順門府一国でも清潔となるのであれば、遊女と蔑まれる彼女たちが地獄の苦しみより解放されるのであれば、あたしは手を汚すことだって厭いませんよ!」

 思いの丈を高らかと宣言する史の両目には、決意の輝きが宿っていた。
 しゃがみ込み、鼻先まで顔を近づけた舞鶴は、その輝きの価値でも値踏みするかのごとく、じぃっと見つめていた。

 やがて、
「ふ、ふふふふはははは……」
 けたたましく、鶴は鳴いた。
 おかしむが如く、嘲るが如く、憐れむが如く……あどけなく。
 化粧を落とし、少女の姿そのままの勝川舞鶴は、嗤った。

「……なにが、おかしいのですか」
「いえいえ、いかにも貴女らしい。衣食住不自由せず今日まで至る、良家の子女らしい、甘ったれた発想。いや理想、イヤ妄想? でしょうか」
「旦那に先立たれ、今まで大商をきりもりしてきたあたしが、苦労知らずと?」
「その旦那様だって、潔癖な貴女が事故と偽り謀殺したんでしょうが!」

 まるで子どもが他人の恋慕をその相手に暴露する残酷さと無邪気さで、舞鶴は史が秘中の秘としていた真実を、あっさりと言い当てた。

「人間の欲求には需要があり、それを売り物としたものを、法外ともいえ商人たちが手放すはずがない。それは闇に紛れるだけで、決して消え去ることがない。水面下で、したたかに生きていくもの。宗善公も貴女も、それが分かっていない」
「……貴女、本当に尼僧なのですか?」

 黒衣を身に纏った軍師は、くるりくるりと辺りを巡る。

「そもそも、歌を詠み、身体を売ることしかできない遊女たちに、身銭を渡して解放するだけで、貴女が願う清く正しくまっとうな職につけるとでも? ……いずれ、今と同じ、いやおそらくは今以下の生活が待っている」
「田畑を耕し、米や野菜を育てれば良い! 地獄に戻ることなど、誰が望むものですかっ」
「く! ふふふふふ……あぁ、お史殿! なんというかお史殿……! 本当に、貴女という人は」

 舞鶴はくるりくるり、身悶えしながら舞っている。
 言い尽くせぬ罵声を笑いに溶かして含む。



「恥を知れ。血泥の味さえ知らぬ者が、僧侶相手に地獄を語るとはおこがましいわ」



 刹那に発せられた女の言葉は、人の声ではなかった。

 世を統べるのは、己の恥を恥と、罪を罪とも思わず、己の論の歪みと矛盾に気づかず、すべてを白日にさらけ出した愚者ではない。あってはならぬ。
 照らし出された汚物になど人は惹かれない。
 闇の底でわずかに光放つ宝玉にこそ、人は希望を求める。
 世を統べるのは、自らがその光となって闇を照らしながらも、裏で世の闇と人の闇とを正しく理解し、それらに己の闇をねじ込み、取り込むことができる者。
 そしてその矛盾を抱える己に苦しみ、喘ぎ苦しみ悶えながらもなお、前へと進まずにはいられないもの。
 ……永劫、その罪悪感を切り捨てることができない、弱いモノ。
 彼自身の心の闇こそが、何より人を惹き付ける。

 陰陽清濁ことごとく飲み込んだ、大徳の器。
 さながらそれは、満ちることのない月のような……

 ――嗚呼それこそが、我が殿、慈しむべき我が君、鐘山環の才能!

~~~

 恍惚の境地に至っていた舞鶴は、己の手と手の感触とぬくもりとで我に返った。
 気がつけば、東の方角を向いて、手を合わせている自分がいる。
 そのことを自覚し、

 ――この私が合掌だなんて……いつ以来でしょうか?

 と苦笑する。
 信じているのは神仏ではない。
 鐘山環の大器。それが今、翼を伸ばして飛翔しようとしているのが分かる。
 彼自身の武運と成功を、我自身が祈る。
 それがための、一礼だった。

 ――殿、舞鶴の方は万端準備整っております。どうぞ天下を揺るがす第一声を、心置きなく解き放ちください。

「申し上げます」と。
 持て余し気味の大広間。舞鶴一人が取り残されたそこに、緋鶴党員の太兵衛が音もなく忍びより、手を合わせて瞑目する彼女の耳元に、ある一事を囁いた。

「……おやおや、無粋なこと」

 木張りの壁に立て掛けた黄金の杖を手に取る。
 黒く艶めく僧衣を翻し、西へと顔を向ける。

「鐘山宗善率いる五千、一両日中にこちらへ到着。なお先鋒は……」

 あまりに早すぎる宗善勢の出動と、あらかじめ読んでいたかのようなその動き。
 そしておそらく舞鶴の動きを看破し、宗善に忠言したであろう、先鋒の将の名前。
 それらは、彼女に軍師の目をさせるに十分過ぎる報せだった。


「さすが、幡豆由有(よしあり)殿」


 先鋒を率いるのは、盤龍宮五ノ宮当主、幡豆由有。
 幡豆由基の父であり、先代府公、鐘山宗流の直属であった。



[38619] 第四話「すべては、過ぎたこと」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:20
 幡豆家は水の武の神、盤龍神を奉る宮司家の一家であり、鐘山家が布武帝の命により順門府に赴任する以前より、その土地にあった名家である。
 それ故に各府公に厚く遇されていた。特に、当代の由有においては計数の才に秀でていて、その財によって他の宮司家四家を凌駕しその支配権を強めた。
 初代府公、鐘山宗円の代より若くして重用されてきた傑物であったし、宗流の右腕として外交や内政に大きく貢献した人物でもあった。

 順門府の初夏である。
 その日、幡豆家当主である由有も、板方城を訪れていた。

 腰には宗円公より頂戴した古刀を佩き、若緑の着物に、黒の裃を身につけていた。
 末の娘に受け継がれた端麗な容貌は、壮年を超えた今となっても衰えることはなく、むしろ枯れた男の魅力は、一部の女たちに熱狂的な支持をされていた。

「これは、由有様」

 と、板方城南に位置するの黒金門に差しかかったあたりで、地田豊房と出くわした。
 互いに目礼すると、並び立って歩くことになる。

「地田殿か。……どうかね、公子様とウチのじゃじゃ馬の様子は」
「相変わらずですね」
「そうか、相変わらずか」

 微妙な笑みと共に肩を持ち上げる青年と、これまた微妙な笑みをたたえる中年とは、登城の道を行く。

「それで、本日の評定はどのような議題になるでしょうか?」
「器所実氏の居城との対の城の建築についてだろうね。いやあるいは桃李府を無視し、王土を大水軍を直撃しようという計画のことか。……まったく次から次へと手を考えつくものだ」
「……」
 何が言わんとして口を半開きにする豊房に、由有は何度も首を振った。
「いや、褒めてはいるのさ。……その資金をどこから捻出するのか、度外視していなければな」
「由有様」
 それとなく顔を近づけ、豊房は耳元にて囁いた。

「その計画のために、多くを幡豆家始め盤龍宮五家が負担。ご心中察しいたします。まして、その既得権益まで剥奪されようという風聞も」
「豊房」
 同朋の名を呼ぶことで、それ以上鋭く尖ろうとする口吻を、封じる。
 男の魅力を多分に秘めた気品ある微笑と共に、幡豆家当主は

「もう、過ぎた話さ」

 とだけ告げた。

~~~

 結局その日の評議は由有が予測、いや危惧したとおりの話がお題目であった。
 主君の横暴さはいつに始まったことではないが、それに必要な木材は、資金は? ……という根本的な点から暗礁に乗り上げた。
 我がと名乗り出る者などいようはずもなく、先に堪忍袋の緒を切った順門府公、鐘山宗流が、

「……もう、良いッ!」

 と席を立ち、自らの鉄扇を由有に突きつけた。

「貴様がやれ」
「……は?」
「貴様の家にはまだ余裕があろう。私財を蓄えていること、知っておるぞ」
「そ、それは……」

 その光景は、この手の無茶の言われるのは、由有にとってはいつものことであった。
 従来ならば、それを諫め、かつ言い分を弁護してくれる公弟宗善がいるのだが、その日は病と称して出席していなかった。

 故にまともにその恫喝に当てられ、返答に窮す。
 そんな由有に代わり、

「明日植える種籾さえも、刈り取ろうってか」

 はっきりとそう申した人間がいることに群臣はまず驚き、その直言の主の正体に、驚愕した。
 翻った親獅子の怒りは、平素軟弱者と陰口をたたかれている子獅子へと向けられた。
「いい加減にしろ。あんた自分の父親から何学んできたんだ。いい加減当主らしく振る舞ったらどうだ?」
 それは、この場にいた誰もが思っていたであろう、当たり前の言葉であり、この放蕩息子が、鐘山環が特別なことを言ったとは、思っていなかった。

 ただ家臣たちは、「この馬鹿息子にそんなことを言える常識と胆力があったのか」と、目と目で囁き合っていた。
 そもそもこの時まで、珍しく出席していたことにも気づいていなかった者までいる様子だった。

 だがその無言のやりとりも凍り付く。
 彼らの目の前で、順門府公の怒気は膨らみ続けていた。

「……この父に、王座の座り心地も知らん者が、王道を説こうてか?」

 殺気ともとれるこの怒りに際して、環公子は、どのような言葉と感情を顕すのか? それとも臆病に弁解を言いつくろうのか?
 一同がそれを見る前に、宗流の足が我が子の腹に叩きつけられていた。

 苦悶の声と共に床を滑った環に、父は、つかつかと近寄った。そして絢爛な装飾の施された朱鞘を握りしめる。守刀を、鞘走らせる。
 地田豊房が思わず腰を上げた。
 幡豆由有が、なけなし勇を振り絞ったのはまさにこの時だと言って良かった。

「若の直言に、お父上が御刀を下さるとのこと! いやめでたい!」

 彼の機転に、主君は忌々しげに振り返る。舌打ち一つでその場は事なきで済んだ。
 やがて場も白けながらも穏やかさを取り戻し、評定は平行したままに終わりとなった。

 ――だが我が身の情けなさとどうにもならなさを持て余しておられるのは他でもない、殿ご自身なのだろうな……

 低頭し、宗流の不機嫌面を上目でうかがいながら、由有は確信に近いものを抱いていた。
 すべては、過ぎたことだった。

~~~

「由有殿……あのぅ……」
 その終わりがけに、おずおずと話かけてきたのは、環公子の方だった。
 自分の命を助けてくれたこと、父親の横暴に対する申し訳なさ。語らずとも分かるさまざまな理由から伏し目がちになった空色の瞳。その両目の浮つきように、強ばりを残していた顔の筋が、ふと和らぐ。

「若殿には危ういところを助けられました。感謝いたします」
「あぁ! いえいえ、そんな!」

 慌てて手を振る公子はいかにも腰低く気弱げで、
 ――いま少し、このお方が宗円公の英邁さと、宗流公の胆力を分けてもらっていたならば……
 などと無礼を承知で惜しむ。そしてそんなおのれに、幡豆由有は自嘲を向け、首を振った。

 ――すべて、過ぎたことだった。

 彼の娘への愚痴の言い合いもそこそこ、由有は環とは渡り廊下にて分かれた。
「腹も痛むでしょう。今日ははやくお屋敷に戻りなさい」
 そう、言い置いて。

 そして踵を返し、介勝山の青々とした新緑を狭間越しに眺めつつ、南へと向かった。
 曲がり角に差しかかった時、主君宗流公の後ろ姿が見えた。
 新参の家臣、弥七郎が後に続く。この陰険そうな近臣は、由有の視線に気づくや主に気取られることなくしずしずと振り返り、由有に向けて一礼を返した。

 反射的にそれに応じながらも、由有は自信の動悸の激しさに戸惑っていた。

 ――なにか、いやな予感がする。

 そう思った刹那、主の背が消えた角の向こうから、くぐもったうめき声が聞こえた。
 かすかな声ではあったが、異常を知らせ、由有の背筋を本能的に凍らせるには、十分すぎるほどであった。

 爪先で走るようにして、主君の後を馳せる。
「と、の……ッ!」
 鮫肌の柄に手をかけ、角を曲がった彼の目に飛び込んだのは、紅色に染まった、主の胴回りであった。
 直立する鐘山宗流の前に、弥七郎が密着している。その手には、小刀が握りしめられていた。
 周囲には、まるで意図的に人払いをしたかの如く、何者も介在していなかった。

「殿ッ!」
 矢も盾もたまらず主に近寄る由有の鼻を、濃厚な血臭が刺激した。

 ずるり、と。
 米俵でも落ちるような重い音がした。
 目の前で、人の形をしたものが、崩れて倒れる。
 そして、




「おう、幡豆!」




 ……鐘山宗流は、そんな家臣に笑顔で振り返った。

 三歩の距離で立ち止まる由有の目の前で、弥七郎は無念の表情のままに、倒れていた。
 彼の肩口から、見事な両断の傷から、おびただしい出血が、止まることをしらない。

「慮外者め。汝の如き小者の殺気を気取れぬほど、この宗流は衰えてはおらん」

 遺体に唾を吐きかけ、返り血を浴びたままの装束で、鐘山宗流は、壮健であった。
「ご無事、でございましたか……」
「おう。……環に長刀の方をくれてやらんで良かったわ」

 そう言って、朱と脂とを絡ませる刀身を、いたずらっこよろしく見せびらかす。
 よく見ると、その根本には、わずがな歪曲が生じていた。
 やや脱力気味にそれを注視する由有に、ばつが悪そうな顔で、

「いや、言い過ぎた。……流石に動揺したわ」
 と、素直に言い直し、鞘に入らなくなった刀を乱暴に床に捨てる。

 幡豆由有の胸中で、相反する感情が同居している。
 右の肺腑を安堵感でいっぱいにしながら、右の胸では心の高鳴りが止まない。
 だが、不思議と頭は冷めていた。

「どうしたどうした心配性が」
 主君、鐘山宗流はそう言って笑った。
 久々に見る、主の笑顔だった。それに振り回されながらも、自分はいつまで経ってもガキ大将な、この快勝のために働いてきたのだと思い返される。

「が……お主は真っ先に駆けつけてくれるな。嬉しく思う」
 肩を気安げに叩く宗流の手の熱さと力強さが、由有の身の震えを止めた。

「それはそれとして、この大逆、裏で糸を引く者があろうな。……だいたい察しはつくが。乱に与した者はことごとく誅さねばならぬ」

 震えは、止まって、しまった。
 すべて、過ぎた、ことだった。

「……それには及びませぬよ。鐘山宗流公」

 彼の発言を訝しむ間は、鐘山宗流には与えられなかった。
 己の手と、己の信を置いた目の前の相手、幡豆由有。





「弥七郎がし損じた時のために、私が来たのですから」





 その彼の刀が、同朋が刺し損ねた主君の腹部を貫いたのだから。
 幡豆由有が身につけた新緑に、季節外れの紅葉が咲いた。

~~~

 ――すべて、過ぎたことであった。手遅れであったのだ。幡豆由有。

 長きにわたる鐘山本家との悶着も。
 公子、鐘山環の器量の萌芽も。
 鐘山宗流から受けた温情と信頼も。
 彼の不器用さを理解していた己自身も。

 今目の前に転がる鐘山宗流の横死によって、無に帰した。

 ――だが、まだやり残したことは、ある。
 それまでこの膝は、屈してはならない。

 ――私がやらねば、誰もしなかった。故に、誰にも私を罰することなどできようはずもない。

 それができるのは、ただの一人。



[38619] 第四話「すべては、過ぎたこと」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:21
 順門府公、鐘山宗善自らが率いる、昼夜問わぬ急行軍は、あと一日という距離のところで風聞によって御槍城陥落の報に触れることになった。

 急ぎ救援に向かわなければならなかった軍は、その目的が達せられずに一時消沈した。
急ぎ奪還せねばならないことには違いなかったが、一度折れた士気のままに進めば、かえってその足をとられる。
 そう判断した宗善は、大渡瀬跡の東、佐藤口なる山あいにてで野営を行うことになった。

「やれやれ、手遅れになるところでございましたな。幡豆殿の諜報網により、舞鶴の動きを察知できたのが功を奏した」

 営所を築き、一席を設け、そこにて第一声を放ったのは、三戸野五郎光角であった。
 無言で頭を下げる幡豆由有の手前、己の凝り固まった肩や腰を叩いてほぐしながら安堵の息をつく。

 病を得て銀夜との同行がかなわなかった彼は、国の一大事に、病の癒えたばかりの老体を引きずるようにして参陣したのである。
 彼と共に留守を守っていた子弟に、千の手勢。
 この老将に加え、幡豆由有の兵が千。
 鐘山宗流に直接手を下した男の長男から四男は、国元にあって盤龍宮四家を差配し、後方を固める。
 そして宗善、旗本馬廻り衆ならびに近隣の豪族より駆り出した合計三千名を率い、中軍を成していた。

 その宗善は上座にて、憮然としたまま、組んだ両腕を解かなかった。
「……何が、手遅れにならずにか。居城をとられ、しかも退却もせぬ。前代未聞の醜態である」
 眠るように閉じられた、彼の両目。その間にあるシワを数えるように、ジロジロと三戸野は見返している。
 田夫や、あるいはネズミのような野卑で粗野な外見によらず、深い思慮と経験を持つ老将は、主君の次の言葉とその激しさを予測し、覚悟してそれを待っているようであった。

「銀夜の方にも、報せは届いているはずであろう。後退や撤退を指示した気配は?」
「いえ。むしろ、いよいよ総攻撃の準備を整えつつあるとか」
 その老人の言いかけたことを代弁したのは、幡豆由有であった。
 言を先取りされて唇をすぼませる老人相手に、目礼し、そこから続く言葉を無言で促した。

「まぁまぁ。舞鶴の手勢自体は少数。環陣営の実数が増えるわけでもなし、率いていられるのはせいぜい二十名足らずかと。五千で攻めれば一日と要さず落とせましょう。銀夜様にしても、正面からの退却はかえって剣呑。半数は犠牲となりましょう。ここは敵に大打撃を与え、しかる後に軍を全うして退却するおつもりかと」
「……兵を要所に一人も差し向けぬのと、半数でも送り込むのとでは、どちらが正しい? そんな簡単なことさえ分からぬのか、あの娘はっ。何故あれの尻ぬぐいを、余がしなければならぬのかっ!?」

 さしもの順門府公も、苛立ちを隠しきれない様子で手の甲を長机に叩きつける。
 割れんばかりのその衝撃音と大音声に、由有は顔をしかめながら主将の判断を仰ぐ。

「……すぐに早馬を飛ばし、呼び戻せ」
「残念ながら、先日より舞鶴ゆかりの門徒が挙兵。各所の連絡網を寸断しておりますわ」
 と、陸での連絡法は三戸野によって否定され、

「ならば、海だっ! 海路よりつなぎをつけろ!」
「赤池家遺児の仲束が緑岳、干原付近の岸に逆茂木と船団を配置。進入は困難ではありませんが、時間を要します」
 順門府の水運を知り尽くす由有自身は、淡々と事実を伝え、諦めさせた。

 宗善は一瞬、髪の生え際から角張った頬に至るまで、顔面を赤一色にした。
 いかんともしがたい現状に対する憤怒、それが彼の腰を浮き上がらせたが、即座に冷静さ取り戻し、座に居直る。

「恩知らずどもがっ、だから宗円などという愚物は誤っておったのだ。寺社仏閣に元朝廷よりの投降者に愚民ども……奴らを必要以上に優遇しておきながら、こうして肝心な時に、余を、鐘山家を、主君を裏切ったではないかっ! 汝もそうだっ! 由有」

 宗善に指を突きつけられた瞬間、苦い思いが由有の胸中よりわき上がってきた。

「……何か……?」
「忘れたとは言わせぬ。宗流を討つ前、奴が環を殺そうとするのを止めさえしなければ、今頃はもっと上手く事は運んでいたはずよ。今もそうだ。何故汝の娘は環の近くにありながら、奴を討とうとしないのか? 地田を見習わぬのか」
「あれは、わたしの言葉になど耳を貸しますまい。己の行く先をその目で見定められる娘です」
「くだらぬ。万民の行く末は天子様お一人が決められるのだ。王朝のために何と敵するべきか。そんなことは分かりきっているはずだっ」
「民は何も考えず、そのために命を投げ出せと?」

 元より、それほど気心が知れた仲ではなかった。宗流ならいざ知らず、ほぼ他人とも言うべき宗善の言動は、盤龍宮の支配者の心に、わずかに波を立たせた。
 敬愛と忠誠に値した旧主を罵られ、思い出したくもないおのれの過去を蒸し返され、娘の意志と生命さえも犠牲にせよと言う。民は思考と思想を棄て、朝廷のために死力を尽くせばそれで良いと、公然と言い放った。

 ――この男が、順門府公でなかったら、わたしが選んでしまった主君でなかったら、一発殴っているところだったな。

「……だがすべては、過ぎたことだ……」

 彼らの問答を断ち切るような由有の呟きは、宗善に怪訝な表情をさせた。
 三戸野から野卑な笑みを取り払って歴戦の猛者の貌へと転じさせ、諸将を動揺させた。

 由有は直後、おもむろに立ち上がった。
 山を駆け上る馬蹄の音に気がついたからであった。
 それが西からの伝令で、彼が何を報せに来たのか、前もって知っていて、覚悟を決めたからであった。



「は……幡豆家嫡男由覧(ゆうらん)以下、五百名が国元にて挙兵っ! 盤龍宮を占拠した後、板方へと向かっております!」


 この時、目を閉じた由有を除くすべての諸将は、みな表情を凍り付かせた。
 我に返った時、彼らが案じたのは自らの所領であっただろうか? 国の帰趨であっただろうか? 前線の銀夜であったろうか? 目の前にいる宗善の危機であっただろうか?

「由有」
 今まで聞いたことのないような声が、上座から飛んでくる。
 かつて上社信守に大敗した時でも、この男は今ほどに狼狽してはいなかったはずだ。
 死を覚悟している由有もまた、今さら怖じてはいなかった。

「……娘御をどうこう言えませぬな、殿」

 静かにそれだけを言った由有は、一斉に周囲の敵視を浴びた。
「由有を、捕らえよ」
 そう言われるよりも前に、三戸野一族が動いた。
 元より抵抗する気もない由有は甘んじて拘束され、自ら進んでその身を投げ出した。

「何故だ」
 訳を問う虚しい声音が、幡豆由有に過去を、鐘山宗流を殺めた直後のことを回顧させた。

~~~

 自らの手を鮮血で染めた。
 百数十万石の大国の主にして、天下随一猛将として知られる男の血は、雑兵のそれと何ら変わらない。
 死は理不尽なもので、貧富貴賤を問わず、誰の身にも降りかかること。それを他人事のように思い出させくれた。

 ――すべてが終わった。己の事業も、この方と過ごした青春の日々も。

 それを伝えようと、来た道を顧みる。傍に控えて監視しているであろう第三の刺客、地田豊房を呼ぼうとした。

 刹那、

「なぜだ」

 殺したはずの男から、咎めるような掠れ声が漏れ聞こえた時、由有の全身を痺れのようなものが襲った。
 足が止まる。

 ――まだ、生きておられた……
 確実にもろもろの臓腑を貫通したというのに、常人ならば死に至る血量が、抜け出たというのに。
 なんという、剛体か。

「……」
 由有は呼吸を整える。
 若い頃ならいざ知らず。戦を重ね、政に奔走し、あらゆる道を修めた今は、精神を律し、無心の境地に達する術を知っている。

「何故、と問われますか宗流公。こうでもしなければ、貴方は止まらなかったでしょうに」

 自己弁護ではなく、正論で以て答える。
 だが、宗流はそれに見事な体躯を血の海に沈めたまま、
「何故」
 と再び問う。

「……わたしが裏切ったことは、それほどまでに意外だったというなら、それこそ貴方が殺される所以ですよ。わたしだけではない。その悪政が、どれほどの怨嗟を買っていると思っておられる? 若の言われる通り、宗円公が大切になさっていたことを、貴方は踏みにじった」

 鐘山宗流は、それでもなお、
「何故」
 と尋ねた。
「何故裏切ったか」
 という問いではなかった。



「何故、それならそうと、言ってくれなかった? 止めて、くれなかったのだ……? 幡豆由有」


 かち、かちかち、と異質な音。
 自らの奥歯が打ち鳴らされる音であった。

「お前で、あれば、おれはそれに従ったであろう。お前の言ならば……諌言ならば、改めることができただろう。だのに……お前は言うてはくれなんだではないか、幡豆……」

 宗流の首だけが、力なく忠臣の方へと傾けられる。
 力と光を失っていくその両目と視線が合った瞬間、由有の膝は崩れ落ちた。

 自分が今、なすべき事をなす前に諦めて、見切りをつけて、やり直せる段階で、取り返しのつかないことをしてしまった。それを、知ったために。

 国内に動乱を招いた巨魁、鐘山宗流は、それ以上の言を発さなかった。
 ただ死の間際、すべての終わりを悟ったか、彼の双眸は往年のおおらかさを取り戻して、由有をじっと見守っていた。

「由有様」
 ふ、と背後で気配が浮かび上がる。
 身体を持ち上げ、いつの間にか接近していた地田豊房へと振り返ると、かえって彼の方が面食らったようだった。

「……弥七郎がし損じ、由有様にはお手数をおかけしてしまいました」
「いや、わたしの方こそ、このお方の力量を見誤っていた。要らぬ人死にを出してしまったな」
「貴方様が逃げ帰れば、事情を知らぬ者にかえって不審がられます。ここは一端、弥七郎の乱心ということで口裏を合わせましょう。その後、治安維持を名目として宗善様にご入城いただくということで。由有様はその場で待機を」
「……あぁ」

 では、と一礼して立ち去ろうとする青年を、由有はその名を口にして呼び止めた。

「豊房、君は……なにか聞いたか?」
 豊房は口と瞳とを、半分ほど開いた。
 やがて首を振って、

「いえ。私は何も聞きませんでした」
 よどみなく、そう答えた。

 その彼が改めて立ち去った後、謀反人の一人は、改めて自らが死に追いやった男の骸へと視線を投げた。

「貴方こそ……何故もっと早く言って下さらなかったのですか、殿」

 青く変色するほどに唇を噛みしめ、辛うじて由有は言葉を紡いだ。

 ――すべて、過ぎたことであった。手遅れであったのだ。幡豆由有。

~~~

「ふ、ははは……」
 そのことを思い出し、自然、かわいた笑いが喉の奥から漏れ出でる。
 別段、鐘山宗善の浅慮を嘲笑う意図があったわけではなかったが、相手はそうは捉えなかったらしい。鬼瓦の如きしかめっ面の中の、唇だけが動いた。

「何が可笑しい? 我らは同志だったはずだ。悪漢をその手で討ち滅ぼした男が、今になって何を血迷った?」
「左様。たしかにわたしは良かれと思い、宗流公の命をお縮めした。だが貴方に敬服したわけではない。まして、貴方がた親子の振るまいを見れば、到底鐘山家の役割を果たしているとは、思えない」

 三戸野の老人からの圧迫が、厳しいものとなる。だが上からの力に屈するものかと、捕らえられたままの由有は背を反らした。

「鐘山家は、順門の民の代弁者でなければならない! 宗円公は、そのことを知っておられた。故に、民を慈しみ、彼らが理不尽に虐げられた時には、起ち上がったお方だった」
「……そういう父上の甘ったるさが、結局愚民どもをつけあがらせ、無用に戦乱を深めたのだ。国は荒れた、美しき自然は焼かれた。貴様はそれを是とするか」

 苦み走った順門府公の面を直視する。決して視線を外さず、対面したままに大音声を放つ。

「それでも宗善殿のなさりようは、治世は、民から自然を美しいと思えるゆとりも、国を愛する想いも、それらを守ろうとする誇りさえも、なべて殺すものだ」
「くだらんっ! 清き水に住めぬ悪魚どもなど、その愚考もろとも残らず死に絶えれば良い!」
「いかに清水とは言え、己だけの桶に封じ込めて流れを止めれば、腐るだけだ。だがいつかは濁水は桶から漏れる。鬱屈や怨嗟という名の汚染を広げていく。わたしは鐘山の家臣として、それを容認するわけにはいかない! まして民は、貴方にではなく鐘山環に光明を見出している。ならば幡豆家はそれに従うだけだ!」

 場は、寸時激化したかと思えば、次の瞬間には静けさを取り戻していた。
 二人の論に、諸将は呑まれた結果とも言って良かった。

「言いたいことは、それだけか」
「えぇ。論議はこれまでで、我らが折り合えぬことなど事のはじまりから分かっていた。……どのみち、貴方には退却するほか道はない。銀夜姫の二の舞となりたくなければ」
「……監禁しておけ」
 幡豆由有はその場での処断をまぬがれた。

 無論、彼は行き当たりばったりに幡豆党の決起を指示しておいたわけではなかった。
 最初から裏切る腹であったのに、あえて舞鶴の動きを報せたのは、本拠を空とするため。
 参陣したのは、宗善の警戒心を解くためであり、容易に殺されない自信があったからだ。
 人質としての価値があり、彼が率いて生きた幡豆家の手勢と事を構える時など、今の鐘山宗流にはないのだから。

 だが、
「ご温情、ありがたく存じます」
 ぬけぬけとそう言った由有が、諸将の怒りの火に油を注いだことは否めない。
 だが、これは彼の、本心よりの感謝の言葉であった。

 ――まだ、死ねない……この身は、あのお方に処されるまでに、残しておかなければ……

 鐘山環。
 自分が見損なっていた器量が、時を経て、大器となって戻ってくる。
 それを見届け、かつ父親の仇を討たせてやるために。



[38619] 第五話「その手に掴むもの」
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:22
 秩序や静寂というよりも、それは完全な沈黙と言った方が正しかった。
 その中で、かりかりかりかり、という異音とただ一人の独語が、粘性を持って陣中の誰もの耳に入っていた。

 立てた片膝を右腕で抱えるようにし、逆の手の爪を口元に運び、小刻みに震える白い歯がそれと当たる音が、奇妙な音の正体であった。
 ……それが、居城陥落の方に消沈し、混乱する二万近い軍勢を、叱咤激励しなければならない姫将の、今の姿であった。

「……背後に回らせるか。いや罠だそうに違いない……ではどこに、どこが攻め口だ? どうすれば勝てる? いや、私は負けない。兵力でも統率力でも将器でも私は勝っている。環になど負けない。ずっとそうだった。これよりももっとすごいいくさばを、わたしはわたしはわたしは……」

 誰に意見を求めるでもない、己の内に閉じこめるが如き独語が、いやでも諸将の耳に入ってくる。
 そういう所作が許されていたのならば、彼らは迷わず耳を塞いだだろう。

 その時、流れを傍観していた老人は、音なく起立した。
 他の臣の注目を浴びる中で、ヒビ割れた唇を開いた。

「姫様、もうよろしいでしょう」

 腰をゆっくりと伸ばしながら、ほんの少しだけ枯れた顔に申し訳なさそうな表情を宿し、老将は意見を述べる。

「もはや計は破れました。朝心斎殿の設けられた策はことごとく打破され、その彼も、戻っては参りません。当初の予定であった『環の打倒』など夢のまた夢。幾たびの失敗がそれを証明しております。それに大殿への連絡網も断絶され、背後の状態も定かならず。ここはある程度の犠牲を覚悟で退き、大殿に不首尾を報告して再度策を練るのが肝要かと思われます」

 今まで沈黙と静観を貫いていた男から、意外な諌言であった。
 唖然とする将士はもとより、一番の衝撃を受けたのは、鐘山銀夜であったように思われる。まるで父親に頬を打たれたような面を持ち上げ、紅の両目をいっぱいに開けて、

「…………なんだ、それは」

 と、今まで誰も聞いたことのない、低い調子で聞き返した。
 だが彼女の右半分の表情には、笑みさえ浮かんでいて、それがかえって諸将を不気味がらせた。

「わたしが、実氏に、環ごときに、負けるだと……?」
「すでに、負けておるのです、銀夜様」
「ふざけるなァァッ!!」

 名将たる者の殺気と一喝とが、思わず他の家臣達を立ち上がらせた。
 総毛立たせるばかりにわななく彼らとは対照的に、その咆吼をまともに浴びる響庭老人の顔は、巌のようにむっつり固まったまま動かない。
 その彼に、鐘山銀夜は早口でまくし立てる。

「わたしがいつ負けた!? わたしは不敗だ! 不敗であり、常勝なのだ! 今までも、これからもッ! 実氏など、風祭康徒に負けに負けに負け……最後にまぐれ勝ちしただけで『天下五弓』などと大層に祭り上げられている男ではないか! 環など、どれ一つとして他人に勝ることのない屑ではないか!? そんな奴らに、一度も負けたことのないわたしが負けるはずがないッ!」

 老人は、眠りにつくかのようにじっと瞑目していた。
 むしろ責めていた姫の方こそが、その沈黙に気圧されるように、薄く呼吸を繰り返していた。

「……左様。貴女は勝ち続けた。だが、勝つべきではなかった」
「なんだとっ!?」
「最初の勝利は、まぎれもなく貴女の武功。だが、それ以降は小規模な一揆勢の鎮圧。今のように、少数の敵、愚かきわまりない敵将との戦いの繰り返し。……それで何が得られました?」
「宗忠殿っ」

 隣席の位町京法が袖を引くのを振り払う。厳とした輝きを双眸に灯らせて、常日頃ない鋭い口調で、総大将を糾弾した。

「実氏、そして環は、強敵を相手に後手をとられ敗北を重ね、逃亡と敗走を繰り返した。だが生きている。故に痛みを、喪うことへの恐怖を、そして負け方、負けぬ方法を学び積み重ねていったのでしょう。……弱者相手に常勝を誇っていた鐘山銀夜は、負け方も退き際も学ばなかった。それどころか」

 色を失った唇が、言葉を紡げずに蠢いている。
 宗忠は、順門府の誰も慕ってやまない姫将の実態を正論にて暴く。滔々と説かれる事実が、彼女と、彼女の信奉者の心を苛んでいった。



「貴女は、勝ち方さえも知らない。戦う術さえも分からぬ」



 やがて、陣中に底冷えするような狂声が響く。
 秋風の流れを乱すその笑い声が、自分たちの大将から聞こえてきたものだと知った時、諸将は慄然とした。

 老将はその中で、非礼と失言を頭一つ下げて詫びた。
 陣羽織の端を踊らせて、踵を返し、その場を退出しようとした。

「あッ」

 声が背後から漏れる。それに反応して振り返った彼のまなこは、大きく見開かれたが、全てを悟ってゆっくりと閉じられた。



 響庭宗忠が最期に見た光景は、人物は。
 ……それは、叫声を放ち、おのれ目がけて凶器を掴んで振り上げる、白髪の鬼女の姿であった。

~~~

 鐘山環は遠く隔てた敵陣の変化を、肌に感じ取っていた。
 彼のみならず、その場にいた歴戦の猛者ならば、もう間もなく日が傾きかける頃合いに、総力戦に入るだろうことは予想がついた。
 敵陣の狂乱まじりの喧噪が、やたら捨て鉢気味な咆吼が、それを教えてくれる。

 だが、そのきっかけを、かの敵将の心情までを察したのは、おのれだけだったのではないかとも思う。

「……焼き切れたか、鐘山銀夜」

 彼の呟きに戸惑い、訝る圭馬と由基へと振り返る。
 そして、彼らの背後に整列する千人もの将兵一人一人の顔を見た。

「間もなく、敵が来る」
 彼は、短くそう前置きした。唇をうっすらと開き、深く風を吸った。
 秋空の雲を仰いで目を閉じ、頭の中で散在する記憶を整理する。浮かぶ語の一句一句をつなぎ合わせ、とりまとめようと試みるが、いつものように上手くいかない。
 だが、このまま心情を吐露するのも悪くない。いやむしろその方が自分らしいんじゃないか、などと。

 ――生きるにせよ、果てるにせよ。勝つにせよ負けるにせよ。
 成すべきことはしてきた。打てる布石は全て打ってきた。負けるべくを負け、勝機を見出し、戦うべき潮はここと定めた。

 後は、伝えるべきことを伝えるだけだ。
「壊れても、いや壊れているからこそ、銀夜は今までにない苛烈さでこちらへと攻めてくるだろう。おそらく、いやきっと、死人が出る」

 それによって、命を落とすかもしれない者たちに。その瞬間に至る前に。

「それでも、もう俺たちが生き残るには勝つしかない。勝てば、順門府の者は念願の帰国がかなうだろう。それぞれの戦功、今に至るまでの働きにも、厚く報いる。桜尾家ご家中は、順門府は俺たちに任せて、風祭攻めに専念できることだろう」

 いや、違うな、と。
 環の本能が、伝えたかったことはこんな利害ではないと訴えている。
 本当の答えを模索する環に、矢のような視線が飛んでくる。

 その、幡豆由基の美しい獣の目に射貫かれたとき、彼女がかつて張り上げたその言葉が、耳に蘇る。

 ――そうだ。そうだったな。ここであの一言を言わなけりゃあ、それで鐘山環は終いだ。王だか君主だかという肩書きの、ただの『からくり』になってしまう。それでは駄目だ。

「……だから……この一戦だけは」

 黒髪をばさばさと掻く。
 帽子を置く。膝を折って土につけ、羽織を手で払って礼を正し、背を伸ばしきる。
 そして環は、両手で大地を掴み、頭を倒した。

「俺を助けてくれ」

 どよめきを頭の後ろで受け止めた。

「後で恨んでくれても、呪ってくれてもかまわない。だから、今この時だけは、損得をすべて忘れて、どうか俺に力を貸して欲しい。……それぞれが、生きるために。それぞれが、己の答えを見つけるために」

 環がその姿勢で皆の動きを待った。
 内心では怯えながら、どれほどが経っただろうか。

「おい、顔上げろ」

 乱暴な由基の声が、その停止した時を再び進めた。
「顔上げて、オレらを見ろ」
 促され、恐々として持ち上げたその視界に入るのは、自分と同じく地に手足をつけた多くの人々。
 亥改大州、色市始、良吉はじめ、自らの組下ではない羽黒圭馬、相沢父子までもが、深く彼に礼をした。
 あるいは忠と呼べるものを、あるいは敬意を、あるいは親愛を、環に表現してみせるために。

 その先頭に立っていた幡豆由基もまた、上物の袴が汚れるのも厭わずに膝を屈し、弓を置く。細くしなやかな三つ指の先がそっと地に接し、切れるような所作で、環へと拝礼した。

「よく、打ち明けてくれました。……この人々の在りようが、己が心身の汚れを厭わず、ひとり心の鬼と戦い、我らに道を示したあなたの旅路の答えでございます。我が王、我が友、鐘山環殿」

 由基の言葉は、いつになく改まった丁寧なものではあった。
 だが、媚びるような甘さのない、凛と張った美しい声音だった。
 その目に浮かべた女の微笑が、清風となって環の胸を通り過ぎて、一抹の曇りを払った。



 樹治六十年、申の月二十四日。
 干原の戦いは、黄昏より始まった。



[38619] 第六話「血戦、干原」(1)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:24
 ふむん? と、器所実氏は奇妙な唸り声を発した。

「奇襲でも夜駆けでもなく微妙な時節に、真っ向から仕掛けてくるか」
「名将鐘山銀夜らしからぬ、拙劣な攻め。あるいは何らかの奇策の前準備では?」
応じたのは相沢城申であるが、実氏はその意見を否とした。
「うーむ、あれはヤケではないですかな?」

 とは言え、実氏には確証があるわけではない。
 彼は長年の経験と、そこで養われた戦機における嗅覚で、罠がないことを察知していた。
 戦はすべて理屈どおりに行われるわけではない。その不安定さを知っているが故に。

「ですが、未だ動かぬ敵の後ろ備えが気になりますぞ。あれは、響庭の旗印ですが……」
「だが、まるで葬式のような陰気をまとっている」

 もしかしたら敵将に変事が起きた。
 で、急な総攻めを余儀なくされた。
 実情はそんな程度のものかもしれない。

「敵勢、我ら本隊を大きく迂回! 山岳の搦め手に一直線に向かっております!」

 物見よりの報告に「おやおや」と実氏は目に微苦笑を浮かべ、口の右端を吊り上げた。

 ――オレたちには脇目もふらず、味方が死に絶えようとも、環殿お一人を討ち取ろうというのか? 戦略の負けに対する挽回を、一戦の中の、そのまた一縷の光明に託そうと言うのか。……かつては、それで通じていたのだろうが。

 明らかに敵の攻撃は常軌を逸している。
 だがそれゆえに、死兵と化しているだろう。

「その鋭鋒を真っ向から受けるのは、愚策だな。当初の予定通りの対応でお頼みします、相沢殿」
「……環公子に、銀夜の攻めが凌ぎ切れるでしょうか」
「なに、すでに対応は通達しています。圭馬殿もおられる。それに」
「それに?」
「この程度の危機を超えられるかどうか、それによって順門府の主として、桃李府の盟友としての器量が試される」

 相沢城申は深刻な顔のままに頷き、視線を背後へと向けた。
 それに倣って実氏も首を後ろへ翻す。

「気張れよ、若人」

 という言葉をそっと風に乗せる。
 それから背後に振り返り、『かの若者』に改まった顔つきで尋ねた。

「で、どうかね? 合戦の混乱に紛れれば……いけると思うが?」
 具体性もなく、短く問われた彼は、
「やってみる価値はあるでしょう」
 実氏の意を巧みに察し、低く答えた。

~~~

 目を閉じた環の、その瞼の裏には夜が訪れていた。
 本物の夜ではない。過去の月夜だ。
 傍らには祖父が一人でいて、その夜が、かの老公、鐘山宗円との今生の別れだった。

 おのれの髪を撫でつけながら、老人は己の人生を振り返る。

「……ずいぶん、長引いてしもうたなぁ」

 当時は何が? と、聞きたかった。
 今となっては、わざわざ聞く必要もなかった、と思った。

「のう、坊よ。聞いとくれ。わしは、朝廷を討ち滅ぼす気など、もともとなかった。天下を取れたとして、治めるだけの器量がないことは、わしが一番良く知っておった。そして今では、周知の事実よ」

 冬の澄んだ空を見上げる。
 天に満ちる星々を統べるかのように、黄金色の満月がのぼっている。

 そう、例えるならば己の描いた世界のありようとは、あれこそが理想であった。
 老人は、想いの丈をそういう言葉から紡ぎ始めた。

「……わしは、順門一国の自治を認めていただければそれで良かったのじゃ。朝廷という目映い白日から逃げた先の受け皿。彼らの朝廷の、帝に対する怒り、不平不満を癒し、生産に昇華させるための、月の都。それこそが、順門府のあるべき姿だと、考えておった」

 だが、夢は破れた。

「要するに、結局わしには人を受け入れる仕組みを作ることはできても、人の情を解し、欲をくみ取り、かつ受け流すだけの力さえ備わってはおらなかったのだ」

 そう言って彼は、孫をかき抱く。
 すまぬ、すまぬ……という呟きが、自然と、そして繰り返し、口から漏れていた。

「そなたらには、辛い道を歩ませる、苦しい時代を生きさせることとなってしまった」

 ――大丈夫だ、じじ様。
 鐘山環は閉じた瞳で、過去の自分と祖父との抱擁の様を、じっと見つめていた。

 ――人が必要とするならば、その受け皿はおのずと生まれる。その人の想いを継ぎたい者があれば、いつかは……それは実現される。

~~~

 土のめくれ上がる臭いが、風に運ばれて環の鼻腔に届く。
 地を駆ける殺意の群れが、もう間もなく環たちに襲いかかるという、その兆しを嗅いだ。
 環がうっすらと目を開け、深く呼吸した。

 ――こっちが風下……風向き悪し、か。

 だが、いつか風向きが変わる。
 その刹那、その潮目まで、手練手管を尽くして耐え忍べば、こちらの勝ちだった。
 陣鉦が鳴り響く。それに突き飛ばされたかのような動作で、母衣武者が一騎、彼の足下に膝を屈した。

「ぜ、て……っ、敵のほぼ全軍が我らに向かってきております! 先鋒は熊手の紋!」
「新組勇蔵」
 その第一報に、傍に控えていた良吉がぼそり呟き、
「やっぱ身内殺しはあいつの務めってか」
 と由基が皮肉な笑みを目に浮かべて立ち上がった。
「環公子」
 と客将羽黒圭馬。その眼差しを受け止め、床机から我が身を押し上げた。

「旗本含める隊の半数を、退却させる。下山の準備を」

~~~

 ――ほら、見たことかッ!

 鐘山軍一万八千の先鋒、新組勇蔵は自らの鬱屈した数々の感情を、疾駆によって振り払い、剛胆さによって振り切り、嘲笑を大にして吹き飛ばした。

「なんのことはないッ! 奴らの陣構えなど、環の器量など所詮幻影に過ぎん! 見よ、その証拠に奴らは狼狽し、裏崩れしているではないかッ、実氏も動かん!」

 下山し、後退をしている備えは、何を偽ることができよう、鐘山家嫡流にのみ許された旗印。その人数の最後列に、伸ばし放題にした黒髪と、その背に打ちかけた朱の陣羽織のたなびく様子が見て取れる。

「ははっ、見ろ! 奴め、お好みの帽子を忘れるほどに狼狽しているではないか。それに、あれっ!」

 陣立ては、煩雑。
 本来ならば殿に大将など置くまい。騎馬武者に保護されることなく、弓鉄砲がいるのはともかく、後陣に長柄の足軽など障りになって、まず配置などしない。

 進む方角には緑岳より派生するなだらかな丘。
 慌てふためく彼らでは、高所にのぼるのに速度を落とさねばならないのだろう。
 やがてその足並みは、みるみる内に停止していった。

「好機到来! 一気に距離を詰めるぞ!」

 天を揺さぶるほどの彼の号令に各奉行、組頭が応じ、使い武者が馳せ巡る。
「なんたる無様な敵陣よ! これではまるで!」

 あらかじめ、先陣と後陣とを、入れ替えた、ような……?

 葦毛の馬に乗った敵将が、その朱羽織を翻す。
 彼が手にした朱槍に促されるように、槍が立てられ、兵はその身を後ろから前へ方向を転じる。
 それ以上の動作は、必要なかった。
 前衛と後衛を入れ替える動作などは。
 最初から、そのための陣立てであったのだから。

 すぐに弓は引き絞られて、既に鉄砲には火縄がついていて。
 真っ先に逃げていたはずの旗持ちが、丸めるように抱えていた軍旗を、高々と掲げる。環の本陣になびいていた波の旗ではなく、銀蜂の紋所。

「は、はぐろ……け……?」

 ……算を乱して逃げていたはずの敵備えは、正しく高所にてこちらを迎え撃つ構えを整えていた。

 先頭にてそれを指揮するのは、鐘山環ではない。
 緑の鉢金を額に巻いた、勇壮な若武者。

「指矢がかり!」

 その彼の一喝の下で、鉄砲が火を吹いた。
 矢が一方的に飛び、足並みが乱れたままの鐘山方の前衛を、瞬く間に制圧していく。
 こちらが崩れるよりも先に、敵将が足軽を率いて坂落としを仕掛けてくる。

「今だ! 突入っ」

 間に合わぬ。潰される。
 鉄の衝突する音が、ぞわりと肌を粟立たせた。
 桜尾家中、器所家と一、二を争う武力集団の名ぐらい、遠く領地を隔てた新組の耳にも入っている。
 まずその風聞が、彼の戦意と覇気をたちまち叩き折ってしまった。

 ――は、羽黒家が奴らについただと!? あの朱槍、羽黒圭馬か! とすれば、かの羽黒圭輔が、すぐに、いやもうこの戦場に到着しているのか!? もしや、我らの背後に回り込んだのではないか!? いや別働隊として我らの領地が切り取られて……

 我を見失った新組に、潰走する味方を押しとどめる術はない。
 何度呼びかけられ、指示を求められようとも、血しぶきあげて味方が切り取られようとも、棒立ちに目の前の惨劇を眺めているほかなかった。

「貴殿は、武人にあらず」
 若い男の声と共に繰り出された槍が、雑念まみれの彼の脳髄を眉間より射貫いた



[38619] 第六話「血戦、干原」(2)
Name: 瀬戸内弁慶◆2fe1b272 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:26
「新組め。見事に敵の陽動に引っかかってくれたな」

 順門府軍第二手、亀山柔は予想よりはるか東で開かれた戦端を、鼻で嗤った。
 敵の演技の見事さに思わず亀山もまた思わず彼もまた釣られそうになったが、互いが傍にいるのも鼻持ちならぬ、という険悪ぶりが、新組を孤立させ、亀山を救った。

「おそらくあれは、本陣などではなく、環に加わった与力衆だろう。……が」
 なればこそ、戦上手の強兵はみなあちらに振り分けられ、山に籠もるのは環とその素人集団であろう。
 なるほど慌てる馬鹿はもうけが少ない、と亀山は鼻に皮肉なシワを寄せた。

「功名今なお緑岳にあり。我らはじわじわと奴らを追い込めば良い」
 彼の沈着な理屈に従い、兵がのぼり始めた。

 ……が、それが机上の空論に過ぎなかったことを、彼は間もなく痛感した。
 半ば要塞と化した緑岳の構造は、あたかも堅城の如し。
 その道筋に従って攻めた寄せ手は、その側面からの銃撃にさらされた。その間断を埋めるかのごとく、矢が弧を描いて飛来して、敵の首筋を射貫いていく。

 虎口、枡型にも似たつくり。かつての傑物、鐘山宗円が築いた砦よりも遙かに発展し、かつ鉄砲戦を意識したものとなっている。

 櫓にて、それを指揮するのはあの方略寺にて長谷部を捕らえたという、幡豆由基なる弓手である。
 その者自身も神技とも呼べる弓の手並みで、こちらの小頭を、小隊を指揮する部将を殺していく。

 ――まるで、狙える将、殺せる敵を、確実に見極められるかのような……

 妄想じみたその予想が、現実のものであるとするならば……

 ――ど、どうする? どうすれば良い? 被害が甚大になる前に退くか?

 逡巡する彼の下に、

「亀山は何をやっておるかぁ!? 何故五百の小勢如き打ち破れんのだぁ!?」

 兵たちの喊声を突き破るほどの、女の金切り声が甲高く響き渡る。
 そしてその声の主が、今のような壊れた奇声と共に老将響庭を斬殺した光景が、亀山の脳裏に蘇った。

「せ、攻めい! 攻めるのだ! わ、わしは死にたくない! あんな死に方はしたくないぞぉ! 皆わしのために死ねぇ!」

 だがその声を振り絞ったところで、答える将兵は誰も存在しなかった。

~~~

 狂気に突き動かされたかのような、あるいは絶望の果ての自殺にも近い攻勢は、環を恐怖させるよりも呆れさせた。

「……これのどこが秩序だ」

 だが、もはや道筋に従わず、ばらばらとした無軌道無作為な攻撃に対しては鉄砲も弓でも応戦し切れない。
 やがて杭や柵に敵の手がかかるようになり、環自身も前線に出て応戦しなければならなくなった。

 二本の鎌を手にして、覚王にまたがった環の柵は堅守されたが、やがて数で押し切ろうとする寄せ手の一集団が、一穴を穿つ。
 そこから進入を試みる敵兵を防がんと、味方の兵が自ら壁になる。

「……っ!」

 歯がみして、顧みる。しかしこちらも手一杯だった。

 刹那、矢が二筋環の頭上を通過していった。
 環の持ち場より遠く離れたその一穴。そこからぐわっ、と野太い断末魔があがり、 敵の攻勢が和らいだ。

「惑わされんな! 取り決め通り一人じゃなくて一組になって戦え。取りこぼし分はオレがやる!」

 櫓の上よりそう檄と矢を飛ばす少女、幡豆由基と視線が合った。

 彼女の目つきは咎めるような厳しさを孕んでいたが、その裏にあるものが、今の環には分かる。

「お前の手からこぼれ落ちるものは、オレが拾ってやる。だから迷わず前を見てろ」

 環は声なき由基の言葉に強く頷いた。
 決意を新たにした大将の傍には、その矢面に、珍しく色市始が立っていた。

「簡単な話だっ、この砦を作ったのは誰だ? 何度この一帯を往来したと思ってる? 地の利は我らにある!」

 高らかにそう宣言する始に、環はやや呆れたような苦笑を浮かべた。
「……お前がそれを言うのかい」
「事実は事実ですから」
 ふてぶてしくも胸を誇らしげに反らして、始はすかさず答えた。
「それに、嘘は武士の軍略、そうでしょう?」
 違いない、と肩をすくめ、一皮剥けたこの旧友を、生まれて初めて頼もしく思えた。
 嘘であれなんであれ、今は使える物は乏しく、そのことごとくは使い切る覚悟で、耐えなければならない。

 ――なんせ、今の俺らは奴らの目算より、数が少ない。
 鐘山環は自らの背後にある案山子とその背の指物を顧みて、嘆息する。

 ――だが、この激しい攻勢こそが、俺らの勝ちの証だ。

 風が、その向きをゆっくりとだが変え始めている。

~~~

「本隊および左右の三隊、これより、中央の森を突破して『中丸』を奇襲する! これを落として敵を分断する!」
 馬上の人となった戦場の姫は、高らかに宣言した。

「し、しかしその……ともすれば環勢と桜尾勢に挟撃されるおそれが」
「さよう、あくまで勇将新組殿が敵陽動を蹴散らし、亀山殿が搦め手を陥れてから、時間をかけて……」
「黙れぇ! 亀山の名の通り亀の如き、山の如き鈍重さに、神速でもってなるこの銀夜の足を取られてたまるか! それに見よ! 奴らは互いに協力しようともせんではないか! あれこそ、実氏、環の両者の出来合いの共闘が上手くいっておらぬ証なのだ!」

 銀夜が馬鞭で示し、わめき立てた通り、岳上の敵兵はそれぞれの持ち場を守ることで手一杯のようであった。
 次いで風音鳴らして示した、鬱蒼とした森にも人の気配はなく、そこから続く緑岳の中間の先の兵は、どちらにつくこともできず、右往左往、右顧左眄。あからさまな遊兵となって彼ら自身の立ち位置さえ持て余しているようであった。

 だが、彼女の言葉には、自らの見識、将器を信じよう、否信じたいという強い願望が見え隠れしているように、左右の臣には思えた。それが、彼らに突入を戸惑わせる最大の理由であった。

 だが、
「もう一度怠惰な口を開いてみせろ……宗忠のようになりたいか」

 その恐喝が、良くも悪くも最大限の効果を発揮して、それ以上の抗弁を封じたのだった。

 なるほど銀夜の観察眼は、発狂してもなお曇ることはなかった。
 自らの中軍先鋒に見立て、両翼である亀山と位町を敵の抑えに専念させる。
 森に伏兵の類はなく、むしろ彼女たちの姿を敵より隠し、進路を眩ませる一助となっただろう。

「朝廷の御為、御家の御為、そして規律と秩序のため、突っ込めぇ!」

 そう指示しながら、自ら手本を示して先行した。
 その馬廻り衆も、大将を見殺しにはできぬとばかりに彼女に続く。
 あるいは片手で刀槍を振りかざしながら、もう一方の手を柵にかけてよじのぼる。またあるいは鉤縄を懸けて、力任せに引き倒そうと試みる。

 そして木々を突っ切って出現した銀夜勢に、環と実氏の弱兵らは逃げ惑い、奥へと引っ込んでいく。そうして崩した一角から、銀夜は自らの白馬にまたがって吶喊した。

 だが、突入した先には、何もなかった。
 物資が散乱するばかりで人員の影はなく、板張りの薄い壁が三方を囲う。
 その壁には窓の如く人の目線の高さでくり抜かれた小さな穴があった。
 方形に、あるいは三角形に作られたその穴が、銀夜たちを戸惑わせた。

 ふと、人の気配が浮かび上がる。
 首を反らした白髪の鬼女の目に飛び込んできたのは、嘲るように見下ろす、若き悪相の下郎。

 猿の如くに壁の上に足をつけていた男は、不敵な笑みを浮かべたままに、その裏へとヒラリ、飛び降りた。
 それが、合図であったかのようだった。

 穴……いや矢狭間、鉄砲狭間から矢弾が撃ちかけられたのは、次の瞬間であった。

 ――なんだ、これは。

 ばたばたと倒れていく顔なじみの近臣たち。
 遺言らしい遺言も、自分のことをどう思っていたのかさえ表明しないまま、屍となり、山となっていく彼らの中心で、姫はかえって逆上した。

「おのれぇ卑劣な罠を! 環を出せぇっ、あの卑怯者め顔を見せろォ! 一騎打ちだ!」

 そんな彼女の叫びに応じるが如く、敵陣には動きがあった。
 ……いや、敵陣が、動いた。
 彼女を三方より囲っていた壁が、突入した銀夜本隊の方向へ、内へと倒れ込む。
 何人かの兵が下敷きになり、悲鳴があがる。さらにその上から、軽装の伏兵が身を乗り出して切り込んでくる。

「魁組、突っ込め。奴らの高そうな武具、ひん剥いてやれ」

 品のないかけ声と共に、その羅刹どもを指揮しているのは、先刻の悪相の青年。刀身の厚いダンビラ片手に向かってくる彼の背後に、彼女は鐘山環の影を見た。
 あと数間、駆ければたどり着けるような距離に、かの宿敵は名馬にまたがり屹立していた。

「環ィア!」
 少女は甲高く声を張り上げてその敵将の興味をこちらへ寄せようと、我を見よやと叫んだ。
 その声に反応したか、環は一対の鎌を手にしたままに、横顔だけをそちらに向けた。
 が、空色の瞳には、仇を見る憎悪も、同族を討つ煩悶もなかった。
 笑うでもなく、そして嗤うでもなく細められた二つの瞳は、憐れみの色があり、やがて自らの戦場へと視線を戻した。

「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁ!」

 恐慌状態に陥った麾下を指揮、叱咤もせず、単騎で銀夜は敵兵の群れへと突入した。
 その前に立ちはだかる悪相の青年を、奥歯を噛みしめて迎え撃つ。

「おのれ、おのれ! 下郎がわたしを誰だと!? 姫将月夜の戦乙女順門の麒麟児神の寵児聖騎士救世の天女永遠の神童天道の女神」

 壊れたように己の肩書きを繰り返す彼女は、大上段に自らの愛刀を振り下ろす。
 だが、その男の背後から小さな獣のような影が飛び出した。

 少年、と呼ぶのもためらわれる幼い男の子。彼は腰と頭を低くして蛇行しながら、銀夜の懐へと潜り込む。
 逆手に取った小刀が、銀夜の刃に食い込んだ。
 火花を散らし、受け止められたその刀を、男の足が蹴り飛ばした。
 宙に浮いた銀夜の刀を、男の片手が難なく奪い去る。
 脇差を緊急的に抜き取る間もなく、その男は両刀を鋏のように交差させ、銀夜の細首へと沿わせた。

「能書きは終わったかい?」

 ――何故、こうなった? なんで、わたしが、勝てない。
 ずっと努力してきたはずだ。皆の信望に足る戦歴を重ねてきたはずだ。
 ……誰もそのことには、異を唱えてこなかったはずだ。
 なのに、最後の最後に、しかも自分よりも弱いはずの相手に負けるのか?

 もしかしたらそれを問える人間は、いたのかもしれない。
 彼女の挙動を横暴だ、無謀だと諫める者がいたのかもしれない。

 だが、その機会は永久に失われた。
 彼女がその手で、言える人物を永久に目覚めなくしたのだから。

~~~

 自らの後方が良い意味で安定したのを、実氏は肌で実感し、経験にて確信する。

「鐘山勢、中丸の伏兵にて突出した銀夜本隊を痛打! 大将銀夜を就縛いたしました!」
「羽黒勢は、先鋒を敗走させた後、敵包囲の背後に打って出ました!」

 その二報で自軍の勝利を実際に確かなものとした時、実氏は即断した。
「釜口殿」
「はっ」
「環勢の側面につき、援護を。戦局が安定した後は、総大将を喪った敵の掃討をお願いいたします」
「承知!」
「相沢殿は山を下り、背後より敵を襲っていただきたい」
「ありがたい! ご厚情痛み入る!」

 ――これで、敵の分断は成る。
 これは諸将への気配り諸々を考慮に入れた動きであり、武将らの動きや返答には淀みはない。
 だが、そんな予定された行動にも、一種の痛快さを実氏は感じていた。

 ――良い。すこぶる良い。
 自らの指揮の案配もそうだが、羽黒圭馬を始め、士卒ことごとくが己の才を発揮させ、躍動しているようにも見える。
 鐘山環を押し上げようとする追い風の如き天運。それを実感する。

 ――それに乗らねば、かえってたたられるな。

 苦笑する実氏を訝りながら、命を受けた相沢がさらに進言する。
「敵の後陣も牽制しておくべきでは?」
「ふむ」と唸った連合軍の総帥は、しかし『かの若者』の成功を信じていた。後は成るのを待つだけ、という心地でもある。
 部外者であるおのれでさえ、鐘山環の順風を感じ取ったのだ。
 となれば、いちはやく、誰よりも迅速にその風の予兆を感じ取っていたあの『彼』が、負傷も癒えぬままでも強いて自分との随行を望んだ彼ならば、必ず成す。

 強く頷いた実氏の視線の向こう。東の敵本陣で、ぼっ、と火の手が上がる。

~~~

「退くな、ええい退くな!」

 順門府軍の後詰めとして、件の『味方』の警戒に当たっていた同門衆、鐘山貞寛の軍勢は突如の奇襲に混乱していた。

 彼とて、無為無策に漠然と構えていたわけではなかった。
 が、前線における戦闘の激化が注意をそらした。

 ……その隙を突いて、『かの若者』は、敵対している自らの家の陣へと潜入した。

 潜在的な危険要素、響庭勢の変わり身の早さと侵攻の速さが、その予想を上回った。

 ……響庭陣中の内情は薄々彼が感づいていた通りのものであり、軽蔑していようとも親しんでいた祖父への弔意を胸に、彼はその残兵たちを言葉巧みに調略し、丸め込んだ。

 ――まさか、大将を喪ってもこれほど統率のとれた動きができるとはっ!

 合戦が始まる前には、実際に狼狽し、右往左往してばかりであったはずだ。
 今にも離脱してしまいそうな弱気さえ感じられたはずだ。
 だというのに、一転して攻勢に移り、瞬く間に、的確に要所を制圧していった。

「お、おのれ。響庭め、この土壇場に謀反などと! 鐘山から受けた恩を忘れたかっ、不忠者め!」

 糧秣や陣幕を焼かれ、盛る火炎が沈んだ夕陽に代わるように赤々と夜の陣を照らす。
 たちまちに手勢は打ち減らされ、あるいは逃散し、狭まる包囲の中で、貞寛が吠えた。

「恩よりも、仇の方が人の心には刻まれる」

 轟々と音と声とが立つ中で、背の低い若者がすっと前に出た。
 左の腕を具足の上より吊り、もう一方の手が長刀を握る。
 聞き慣れない陰気な声だが、不思議と喧騒を縫って染み渡るような、ふてぶてしいまでの力強さがあった。

「な、なんだ貴様は!?」
「響庭村忠。あんたらが殺した宗忠の孫さ」
「時流も読めず真っ先に環についたという、例の放蕩息子か!」

 そうがなり立てる貞寛に、彼はややわずらわしげに眉をひそめた。
「……たしかに。その村忠には違いない。だが時流が読めないってのは、今この状況下で言えたことか?」
 村忠は、ついと刀を持ち上げる。
 彼と共に主将の復仇を企図する響庭勢の刃は、孤立した貞寛を囲う。

「無様な降伏か、惨めな玉砕か。宗善親子に盲従した結果、もうその二つしか選べなくなった連中よりかは、僕はよっぽどか恵まれている。栄達も、破滅も、自分の裁量で手にできるんだからな」

~~~

 順門府軍一万八千。
 それは鳥瞰すれば、はじめ緑岳に寄り添う大蛇の如く見えただろう。
 かの蛇の、研ぎ澄まされた牙が正しく一撃を加えていれば、その山岳はもろく砕けていただろう。
 だが、理屈とはその通りに行うことこそが難しい。まして、一個人の感情の暴発が、何ら勝算も立てないままに戦端を開いたのだから、成否で言えば否の可能性の方がはるかに高いことは言うまでもなかった。

 ――実際には、その牙は羽黒圭馬の槍先にて脆くも飛散した。
 順門府軍一番手、新組勇蔵討死。
次いで副将、長谷部平歳も討たれたのを契機に潰走。

 ――その頭部は、鐘山環らに上から押さえつけられ、身動きがとれなくなった。
 順門府次鋒、亀山柔は一度は攻勢に出るも、ことごとく阻まれて疲弊。
 無茶攻めの結果が表面化した時にはもう遅く、羽黒勢に横槍を突かれ敗走した。

 ――上手く運用していれば双頭の蛇の片割れとして、桜尾勢の牽制に当てることもできたその尾には、響庭村忠により火がかけられた。
 背後を預かる鐘山貞寛は、自身と居残った将兵の助命を条件に投降。
 その兵を吸収した響庭勢は、敵の後背を遮断。帰路さえも断った。

 ――さて、残されたのは無防備に晒されて、退くも進むもできなくなった胴体部のみであった。
 実氏はこの直後に攻勢に転じる。
 老練な将釜口を環の援護に当てると共に、響庭勢により後ろの安全が確保された相沢勢がさらに敵を背より襲う。
 実氏自らも中軍を叩き、敵を二分、三分と輪切りにしていった。

 そしてその心の臓……総大将、鐘山銀夜は、環の麾下である亥改大州、良吉らによりあっけなく捕縛された。

 伏兵として海を守護していた赤池仲束の船団が、分断された各隊に焙烙火箭を射たことにより、もはや順門府は組織的な抵抗を諦めた。

 あるいは降り、あるいは包囲をかいくぐって強行突破して、散り散りになって総崩れとなった。

 桜尾家とその客将、鐘山環の完勝と言ってよかった。

~~~

 ――退き鐘。

 遠く聞こえる半鐘の調べを、覚王のたてがみにつっ伏せながら環は聞いていた。

 ――どっちが勝ったんだっけか? ……いや、まぁ俺らの勝ちか。桜尾家の退きの合図は……貝だものな。
 と、順を追って、ゆっくりと状況を飲み込んでいく。

 だがそれを理解してもなお、環には喜びは去来しなかった。
 現実感がいまいちなくて、駆けずり回った初陣の余韻が、足に沈んで麻痺している。あぶみに掛けた爪先に感覚はない。あるいは自分はとうに死んでいて、今見ているのは夢なのではないか、という気さえした。
 そんな青年の意識を現に繋ぎ止めているのが、馬体のぬくもりだった。

「ユキ、被害状況は……」
「成し遂げたな、環公子殿」
「!」

 愛馬にまたがり供回りを連れて現れた実氏に、環は同じく馬上にて頭を下げた。実氏も騎乗したままに深々と答礼する。

「おっ、そのじゃじゃ馬、今日はいつになくしおらしいではないか」
「じゃじゃ馬?」

 環は戦塵にまみれた幡豆由基を顧みた。途端、厳しく睨み返されて膝を拳で叩かれる。

「あ、あぁ! 覚王のこと」

 痛みと共に、一拍子遅れて気がついた環に、実氏は愉快げに目を細め、少年っぽく歯を見せた。
 思えばこうして談笑した機会が、試し合戦の折にもあった気がする。
 あの際にはこのじゃじゃ馬には振り落とされ、もう一方のじゃじゃ馬にはそっぽを向かれていた有様だった。
 その辺りの頃から比べると、ずいぶんと彼女らとの関係も改善されたように思える。

「オレらが夜が明けると同時に追撃に移る。響庭殿もさらなる調略のため、既に発たれた」
「あんにゃろめ」
 環は実氏に同伴し、いつの間にか参陣していた副将を思い浮かべ、苦み九割愉快さ一割という具合の笑みを浮かべた。

「で、環殿はどうされる?」
「俺らは、周囲の安全を確保できるまでは留まります。村々に約束しちゃいましたしね」
「ほう、とするならば、我らが順門府領を切り取ってしまうかもしれんぞ?」

 ずいぶんと、意地の悪い質問をする。
 環は苦笑交じりに首を振った。

「実氏殿がそれをするとは思えませんよ」
「ずいぶん買いかぶられているようだな」
「そもそもこの戦は、実氏殿たちにとっては、攻略対象を風祭府に一極化するための戦。深入りしちゃ元も子もない。それに」
「それに?」
「いずれにつくか、判断するのは諸氏百姓です。臣従を強いても態度を硬化させるだけ。そして、俺らはこの地で彼らに訴えるだけですよ」

 信義と誠意は我らにあり。
 汝らそれに背き、いずこに顔を向けるや? と。

 実氏はうつむきがちに肩を揺すった。しばらくしてから、それは含み笑いとなり、豪快な呵々大笑へと変じていった。

「成長したな。環殿。それも、オレと出会った時のかたちのままに」
「そう言ってくれますか?」
「あぁ。だから自信をお持ちなさい」

 ――仮にも他国の人間に、なんとまぁ。
 と、環は苦笑した。
 これより労苦を重ねることになるのは、環のみではない。この桃李府筆頭家老にも、同程度の重圧がかかることだろう。
 この成功を妬む者もいるだろう。
 桜尾義種は命からがら国に逃げおおせた。自業自得と言え、あの公子はきっと実氏を逆恨みするに違いない。
 ただでさえ羽黒圭輔の後援者として不興を買ってきた。義種と実氏の決裂は、この一件を機に表面化することだろう。……実氏の本心など、関係なく。

 仮にあの男が桃李府を継げば、 その権勢と才気と善良さが、かえって実氏自身を苦しめるのではないか。
 そんな、予感がある。

 ――その間際にも、実氏殿は笑みと気遣いを忘れない……

 本当に、異邦人ながらも尊敬と規範に値する人物だ。
 ではな、と右手をかざして馬首をめぐらせた実氏は「あ」と小さく声を漏らし、挙手したままにくるり、向き直る。

「そう言えば、貴殿らの勝鬨を聞いてないな」
「あ……」

 と、環もまた小さく声を漏らした。

「皆と喜ぶべき時は素直に喜ぶ。これも大将の器量だと思うがね」
 死者を憂うのも、他人の行く末を不安がるのも、まずはその後で良かろう、と。

 ――かなわないな、この人には。

 下馬した環は、苦く緩む目元を、深く覆いかぶせた帽子で隠す。
 放した右手を握り拳にして、自分と共に歩んでここまでやってきた士らを見渡した。
 シンと静まり、自分の右拳を目で追う彼らを前に、環は一度咳払いしてから

「えいっ、えいっ」

 やや迫力に乏しい、掛け声と共に、拳を天に突き出した。

 瞬く間に、天に様々な色の声が重なり合って轟いた。
 控えめだった本人の予想とは裏腹に、雷にも似た咆哮が、環の耳を突き、肌を痺れさせ、魂を揺さぶる。

 激情とも言うべき歓喜の嵐の渦中において、環は頭をはたかれ、帽子をむしり取られて尻を蹴られ、その横暴を咎める前に、誰かの太い腕に首を引っ掴まれる。抱かれる。持ち上げられ、胴上げなる儀式を受けたかと思いきや、その身柄は人へ人へと渡る。
 最終的に幡豆由基の番になって時には彼女は受け取らず、「だぁっ」と環は地面に落ちた。
 刀槍も飛び、烏帽子や兜も飛び、あげく、奪い取られた環の帽子やら羽織やらも、高く天へと舞い上がる。
 環を苛めながらも感涙にむせぶ者もいた、爆笑する者たちがいた。その両方を同時にこなす人々が、いた。
 それら暴力的な祝福を受けながら、環の口元もまた、緩んでいる。

 ――あぁ、くそ。まったく俺は。

 ちょっとの火付け役になるつもりが、思いがけない大火を招く。
 だがそれでも、不実とも言え不義とも言え不忠とも言え、

 ――どれだけ理屈を並べたところで、俺は根っこのところでこいつらのことが好きなんだろう。

 環はその夜、心の底より笑った。



[38619] 第七話「変わらぬ者と、変わる者」
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:26
 鐘山宗善の許へ実際にその報告が届いたのは、決戦の三日後のことであった。
 その日、順門府公は監禁した盤龍宮の支配者へ再度の説得を試みていた。
 その幡豆由有への待遇は日に日に悪化しており、その時の段階では、近くの古くからある石牢に幽閉していた。
 腐臭のする溜まり水に膝下の半ばを浸からせながらも、彼はさもそれが天罰であるかのように甘受をしていた。

 その、最中のことであった。
 遠慮がちに主君を呼ぶ伝令に、宗善は構わず近くまで来るように指示した。
 その使者が顔をしかめているのは、漂う悪臭ゆえか、それとも……

「大殿……銀夜様と桜尾家との戦いの報告がその、入って、おりますが……」

 使者はそう言ってためらいがちに格子の向こうの男を見遣った。
「構わん、この場で話せ」
「しかし」
「もう良い」

 宗善は重い呼気と共に、繰り返し促した。
 仮にそれが吉報であれば、聞こえよがし大声を放ち、自らの不利をこの謀反人に分からせたことであろう。
 ……そうではないことが、既にもたらされたものが凶報であることを、饒舌に物語っている。

「……鐘山銀夜様は敵勢の一点突破を図られました。そして、敵砦の中央の一角を占拠することには成功いたしました。しかし敵の防戦も激しく、乱戦の最中に勇戦していた新組様が武運つたなく討ち死にされました。それを契機に優勢は崩れ、姫様は自ら殿となって敵大軍に突入し……行方知れず。惜敗と相成りました」

 宗善は低い岩肌を見上げた。
 その額に露が落ちて、それを拭うと鈍い痛みが内よりこみ上げた。

「……使い番に、美辞麗句を並べて戦果をごまかす役目など、入っていなかったはずだが? 負けたのだろう。しかも、ひどく」
「大殿ッ!」
「知れきった大敗をひた隠せば、余は末代までの笑い者となろう。公正さなくして、秩序はあり得ぬ」

 そう告げて使者を下がらせた宗善は、改めて由有と向き直った。
「……貴様の願いどおりとなったわけだ。さぞ痛快であろうな」
「これも、日々の信心の賜でしょうか」
 相変わらずぬけぬけとうそぶける由有に、宗善は顔をしかめた。
 だが、ここまで直言できる臣下は、彼の直属の配下にはいない。いわんや、外様や各領主などは。

「だが、余はまだ敗北したわけではない」
 由有は顔を上げて背を可能な限り伸ばし、かつての共謀者を正視した。

「余の論は正しい。余の道は間違ってはおらぬ。正しい国の在りよう、その答えは既に出ており、余はそれに従ったに過ぎぬ。いずれ、この秩序の正しさを誰もが思い知ろう」
 野太い声が滔々と語り、岩に張り付く水滴ひとつひとつに、染み渡るかのようだった。

「……たしかに、貴方の論には真理がある。それを貫けるだけの強さがある。いずれの時代にか、国家に奉仕し、規律の枠組みに従って生きることこそ、平等な幸福をもたらすのだという主義が通る世が、あるのかもしれませぬな」
 由有は素直にそれを認め、しかしなお、彼を強く批判した。

「だが、それは今、ここではない」

 鐘山宗善は鼻を鳴らす。
 彼らを隔てる古木の格子に手をかけると、その錠前に鍵を差込み、解いた。

 あっ、と思わず起ち上がろうとするが、長い間、まともに立てない環境下で拘束されていた由有の膝が、急な直立を許さなかった。
 腐った水に両手をつく由有を見下ろしながら、
「行くが良い」
 そう、吐き捨てた。

「環の下へ行き、無様に許しを乞え。そして死ね。怒りにまかせて環が貴様を殺せば、国元で騒ぐ貴様の愚息らは、仁君鐘山環など所詮は幻影だと知るであろう。冥府で盤龍神に喰われ、おのれの所業を後悔するが良い」

 宗善が牢から出た時、旭日が目の前に輝いていた。
 その覆いとなるように彼を待ち受けていた三戸野翁を伴い、山を下る。

「まずは国元の愚者どもを追い散らす。しかる後、体勢を整える。多少の出血はやむを得ぬし、それはそれで敵味方を、信の置ける者とそうでない者とを判別する分水嶺となるだろう」

 はいはい、と唯々諾々従う老将は、相変わらず好々爺然とした、だらしない笑みでシワを作っている。
 忠義を疑ったことは、一度もない。それでもふとこの老人の本心が知りたく思い、立ち止まり、横顔だけを向けた。

「無論、爺は最後まで供をしてくれるであろうな」
「はいな」
「それは、余が正しいゆえであろう」

 彼が発した最後の問いに対しては、三戸野五郎光角は曖昧な表情のまま返答を控えた。
 代わり、こう言った。

「……この固まった頭には、物事の是非はよう分かりませんわ。それでも、爺には殿が、不器用なれど良き世を目指そうとしていることが伝わります。爺は、殿が悩まれ、そして私心なく苦労を重ねられたことを、誰よりも知っております。それ故に、信と忠に足る御仁と思っており申す。それ故に……我が子同然に、愛しゅうございまする」

 老人の答えは、決して宗善の望んだものではなかった。
 だが、不思議と胸に染みる、解答ではあった。父存命時に、何度対話しても得られなかった想いが、そこにはあった。

 だが、その念に染まりきらずに、血まみれの重荷を背負い、己の正義と秩序へ向けて邁進する。
 それこそが、彼の選んだ道であり、天へと向けた答えであった。

~~~

 三割近い戦死者を出しながら敗走する銀夜の残党を実氏と赤池船団と、そして響庭村忠は追い立てた。
 あるいは船からの攻撃で、あるいは陸上よりの猛追で、あるいは調略によって。

 落ち武者狩りにより村の安全を確保した環らもまた、動く。
 要所を点として占拠していた鐘山環派の勢力は活発化する。

 盟友である大国、桃李府。
 実は宗善派であった史を放逐し、その幼児を傀儡に要した六番屋が大勢を占める名津。
 環勢の大勝と、その前後の穏健な振る舞いを間近で見た、緑岳周辺の諸氏。
 宗忠の死とその顛末を知った響庭家の、正式な投降を受け入れ、笹ヶ岳古戦場周辺を取り込む。
 軍師、勝川舞鶴が奪取し、その城代をつとめる御槍城。
 宗善の来襲を受けて即座に撤退するも、幡豆家の盤龍宮はなお健在。
 そして、大渡瀬近辺も彼らに同調の動きを見せる。

 それらを線としてつなげると、順門府東南部一円を支配する大勢力と相成った。
 自らが一朝一夕にして大勢力の主となったことに、未だ実感が持てないままに、その道中、環は珍客と出くわした。
 それは偶然か、その客の意志か、笹ヶ岳南の狭い街道。
 『順門崩れ』における父、宗流の陣所跡でのことだった。

~~~

「……オヤジ」

 最初にその客の正体に気がついたのは、目鼻がきくため先陣を任せられていた幡豆由基だった。
 娘である彼女は、父と、その手勢との再会を喜ぶよりも先に、その奇異なる格好に顔をしかめた。
 だがその姿、白装束は幡豆由有の肉体より発せられる神性には、合っていると言えば合っている。

 手勢はそのまま待機させ、単身での面会を求める由基の父に、環は素直に応じた。
 自らも由基をはじめわずかな気心の知れた友人たちのみを引き連れて。

「……大きゅう、なられましたな。若」
「いやー……つっても、半年も経ってないと思います」

 開口一番成長を喜ぶ由有に、環ははにかみながら、彼なりに言葉を選んだ。
 それでも、彼の善性は父の死より続く受難にも折れることも腐ることもなく、むしろそれを土壌として成長したように思える。由有の偽らざる本心からの感嘆だった。

 沐浴により己の身の穢れを払い、清めた。由有はその自身をにじり寄らせ、深く頭を垂れた。額を土につけながら、自らの罪を詫びる。

「愚かにもこの由有、曲事に荷担いたしました。それが御身を危険に曝す結果となり申した。願わくば、これ以上は何も聞かずにこの場にて首を刎ねていただきたく存じます」

 多くは語らない。意図的に伏せた詳細は、環一人に察して欲しかった。あの事件の真相を、自らが主君を弑したことを語れば、由基に類が及び、彼女自身も苦悶しかねないだろう。それは彼女自身が知り、悟り、かつ納得しなければならないものだ。
 歯がゆくも、この一件に関しては父としてしてやれることは、何もない。

「オヤジ、あんた一体何を」
「何とぞ。麾下の兵や一門には『お恨み申すな』と言い聞かせてありまする。この娘も、いずれは理非を受け入れましょう。……どうか」

 娘の言葉を遮り、一族の安泰を図るために盤龍宮の支配者は頭を下げた。
 傾けられる痩身を前に、環はわずかに息を詰まらせたようだった。

「……環」

 なんとかしてくれ、と。
 面倒がるようで、縋るような響きで、由基は自らの友人に意見と決定を求めた。
 環は帽子を目深にかぶり直すと、口の端から少しずつ息を吐き出していった。
 そして、

「何を言ってるのかさっぱり分からない! よって罰しようがないっ! よってお咎めなしっ!」
 ……と、意図的に軽い態度を言ってのけた。

「若ッ、わたしは! 貴方のお父上をッ」

 予想だにしていなかった返事が、由有の頭を弾かれるようにして持ち上げた。
 気がつけば膝を屈した環の顔が間近にあって、その表情からは笑みは残っていても、軽さは消えていた。貴公子たりえる気品と、尊厳とがあった。

「だから、許す」

 そして彼の双眸には、彼の言わんとしていることへの深い理解が込められているようだった。

 ――父を、宗流公を殺めたわたしを、許されると!?

 いったい何故か、と問いたくなる己の口を封じ、その由有同様に少ない言葉の裏を探る。
 宗善に与した諸将の間でも、 それなりに知れ渡ったことであった。

 その己を、「だから、許す」という。
 許せば、どうなるか? どういう効果を、生むか?
「下手人本人が許されたのだから、ひょっとしたら己らも許されるのではないか」

 彼らはそう考えるのではないだろうか?
 それすなわち、宗善から環へ鞍替えできない理由。罪の意識と罰されることへの恐怖というタガが外れることを示していた。
 もし彼らが環派に転じた際は、その負い目が彼らを縛る鎖となるであろう。
 そうした彼らを誘引するのは、当事者であり種を蒔いた己ではないのか。

 ――この方は……いったいどこまで……
 清濁を併せ呑んで、大きくなった?

「とまぁ、建前はこんなところでさ」
 え、と再び声が漏れる。
「俺は、貴方に生きて欲しいんです。もし『それ』に過ちを感じているのなら、どうか生まれ変わって欲しいと思うんです」

 目の前の公子は由有の肩に両手を置いた。宗円に、宗流。二人にも同じような接し方をされたことを、由有は自らの春秋を回顧して思い出す。
 この若者の手には祖父ほどの威も、父ほどの力強さも、まして叔父ほどの頼もしさもなかったが、それでも手を置かれるだけで安らぎを覚える、神通力にも似た魅力があった。

「国一つを変えようとした男が、自分一人変えられずに終わるなんて、そんなのイヤじゃないか」

 何も言葉にできずに項垂れた男の胸に時間差をつけて去来したのは、予想以上の名君を新たに得られた喜び、そして、旧主に対する詫びであった。

 ――お許しください、宗流公貴方の後を追うのは、まだ先になりそうです。貴方の子らと、我らの国の行く末を、今しばらくはこの目で見届けたく存じます。……今度は決して、早まらぬように。

 抜けるような青空に、幡豆由有は確かに豪放な笑声を聴いた。



[38619] 第八話「嵐晴れて」
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:27
 禁中では、久しくなかったなごやかな朝議が、帝の御前にて行われていた。

「……かくして桃李府は前非を詫びて恭順と忠誠を改めて誓った」
「中水府も我らの意に屈して尻尾を巻いて逃げたと見る」
「国庫も潤い、いやぁ天下安泰とはこのことですなぁ」
「佐朝府の不届き者もいずれ消え去ることでしょう」

 ――なるほど物は言いようだな。

 父親の言いざまではないが、末席の上社一守は心の中で呟いた。
 彼は『卿』には叙せられていないものの、禁軍第六軍の大将として朝議への参加と、その中での発言の権限を持っていた。
 ……もっとも、それらが正しく行使できているとは思えないが。

 ――まさか『佐朝府の不届き者』とは、直成様でなく彼に抗戦する父のことじゃないだろうな?

 だが楽観視している朝臣らと、それに満足げに頷く帝を前にしては、序列云々で気兼ねしている場合ではない。

「……しかし、宗善勢が桃李府に敗北。順門府は二分され、主上がお目にかけておられた銀夜姫も、行方知れずと聞いております」

 群臣らには、直面している問題を、あえて場を明るくしようという目論見でもあったのだろうか?
 途端に場は夢から現実に立ち返ったかのように、静寂に包まれた。酔客が氷水でも浴びせられたような、白けた雰囲気で、彼らは一守を白眼視していた。

 だが、次に玉座より発せられし下問は、若干の居心地悪さに耐える美貌の若武者も、彼に対して鼻白む朝臣たちも、皆一緒くたに閉口させた。

 上座に在る若き帝は、哀れなほどに澄んだ目をパチクリとさせて、


「カナヤマギンヤ、とは何者ぞ?」


 ……と。
 かつて、興奮と感動のあまり自らの玉衣までも下賜した天下人の発言なのだから、皆その忘却をたしなめることができずにいる。

 一守とて、当時はその場にいて、順門府の心変わりを喜びつつも、隣で忍び笑いする父信守を疎ましく思ったものだ。
 その歴史的瞬間、転換期とも言うべき刹那を、帝自身が忘れていた。
 開いた口が塞がらないという一点に関しては、一守は自分を冷視していた者らと感性を共有していた。

 そんな彼らに助け舟を出したのが、大相国と呼ばれ、人臣として位を極めた宰相星井文双であった。

「主上が以前お会いされた順門府の姫君でございます。銀髪をお持ちでした」

 何に動じることもない鉄面皮は、平然とその記憶の補填をした。
 その彼を、自らの手記か帳簿かなんかだと思っているのだろうか。
 帝は不快さを見せるわけでもなく「あぁ」と無邪気に声をあげた。

「そう言えば、そのような者もいたか。あの時は思い余って美しい絹衣をくれてやったが……ううむ、惜しいことをしたぞ! 文双!」

 ――惜しく思っておられるのは、姫か、着物か。
 そう問うだに恐ろしく、一守はそれ以上は口を噤んだままに退出した。

~~~

 宮城から退出した一守を待っていたのは義祖父、貴船我聞であった。

「一守様、評定は如何でしたか?」
「どうしたも、こうしたも」

 一守は片頬に引きつった笑みを浮かべて言葉を濁した。
 語ろうにも、語るだけの内容がない。
 皆、偽りの安寧に耽溺し、千秋万歳と諸手を挙げる。それをどう説明せよというのか。

「我聞殿、俺が宮中でどう評されているかご存知か? ……王城一の義将、だそうで」

 突如として話題をすり替えた若殿に、我聞はやや面食らったように目を見開いた。
 曖昧な笑みを称えて「愚老も名誉に思います」と賛辞を唱える彼に、一守は低く呻いた。

「何が名誉なものか。つまりこの一守には生真面目さ以外に何の取り柄もないと、名将上社信守の子が、ただそれ以外は何も持たないということだ」
「……あまりご自身を卑下なさいますな」
「俺だって! あんな男に似たくもないっ! あんな奴を父親に持ちたくなんてなかったさ! なんで俺が朝廷を想い忠勤に励んだのにあんな茶番に付き合わなきゃいけなくて、あんな好き勝手やってる男が『天下五弓』なんてもてはやされてんだ!?」

 自身のどうしようもない不甲斐なさや力不足を棚に上げて、さらにどうしようもないことに勝手に憤っている。
 それを自覚しつつも、彼は激情を持て余していた。

 対する母の義父は、それこそ孫の駄々を見るような目つきでいた。
 縁者言えども家来筋に生暖かく見守られて、愉快であるわけがない。一守は、羞恥頬を染め、屈辱で目と口を鋭く染める。

「よろしいではありませぬか、それで」
「なに?」
「お父上がご自分の悪性にて貫けぬ忠節、耐えられぬ醜悪さ。それに立ち向かうだけの器量こそ、貴方の強さです」
「……」
「耐えて生き延び、力を蓄えた先に、上社信守を超えた貴方がいる。拙者は、そう信じております」

 我聞の、針で布を縫うが如き、ゆったりと、丁寧な口ぶりは、一守の力みと熱と険と、そして毒とを抜いていく。
 頭が冷えて我に返った一守の胸中に残ったのは、空しさだけだった。だが口の端には、かすかな一笑が宿っていた。

「なるほど、物は言いようだな」
 朝議の間に去来した言葉を、今度は口にした。しかしその意味合いは、まったく違っている。

 こくりと頷いた老臣は、「それはそれとして」とさりげなく話題を変えた。
「佐古直成殿であれば、さすがに殿でも苦戦なされましょう。救援軍の勅許は、当然いただいたのですな?」
「うん、第四、第七軍と共同で佐朝府討伐のための正規軍を編成する」

 ……ひとまずは忠勤に励むとするか。
 この世でもっとも嫌いな男をダシに、奴を超える武功を立ててやる。

 そうした熱意は言葉にせず、内に秘めたままにする。
 次代の勇将は熱気を孕ませ、再び西へと歩む。

~~~

 器所実氏と羽黒圭馬が、帰国したのは、客将鐘山環と合同で順門府の仕置を行った後、冬の訪れを感じさせる、霧の深い朝早くであった。

 彼らとその手勢を向かえるように、西の丸に立つ人影は、すぐに圭馬にその正体を悟らせ、笑顔にした。

「兄者!」

 馬を降りて手を挙げる圭馬に、その義兄、羽黒圭輔はニコリともせず近づいた。

「やぁ圭輔殿、貴殿もお父上に復命かな」
 実氏と朗らかな声に、圭輔の眉間の険もようやくとれて、親しみを眼差しに込めた。

「実氏殿、ご無事で何よりでした。圭馬も、ずいぶん活躍したと聞いていますよ」
 物事を順序立てて説明するような、一語一句に使う時間を定めているかのようなきっちりとした口ぶり。いつもの兄には違いなく、圭馬は顔を綻ばせた。

「そうそう、まさに縦横無尽、無人の野を行くが如し、とは圭馬殿の用兵と武勇を言うのだろうな」

 圭輔よりも未だ器量が上の実氏からのお墨付きつきをもらい、圭馬は背中からむず痒いものが全身を巡るのを感じた。
 いやいや、と頭の後ろを掻く圭馬に、実氏の笑みは、ニヤリという怪しさを含んだものへと変じた。

「そう、とりわけの功は、戦勝の宴席における、鮎すくい踊りだな」
「はぅあぁ実氏様!?」
「環公子と組んでの手練手管はまさに最上の肴だった。確かに両人の手の中には若鮎が踊っていたよ。あれこそ名人芸というものだ」
 持ち上げられてから一気に落とされて、圭馬は酒が入った自身の醜態を思い出して動転した。

「……ほう」

 という低い声に、ギシギシとぎこちなく振り返る。凍りついた顔の先に、鬼が見えた。
 うっすらと張り付いた笑みは微動だにしないが、地を揺らさんばかりに怒気を発する義兄がいた。

「まさか武門羽黒の血縁が、そんな浅ましい曲芸を披露するとは、にわかには信じられませんね」
「なっ……なすび斎! あの時の俺はなすび斎でした! 一介の素浪人であれば問題ないでしょう!?」

 と必死の弁解をしてみると、圭輔の殺気じみた黒い気配は、とりあえずは収束を見せた。
 言うだけ言ってみるものだ、と安堵する圭馬の前で、ため息を吐きながら圭輔の首は実氏へと方向を変えた。

「愚弟への説教は後として、鮎すくいの片割れはどうでしたか?」
「うん? 環殿か。……貴殿によろしく、と言付かっているよ。後はまぁ、すこぶる壮健だ」

 あの公子を向後の宿敵と目する圭輔に対し、実氏は言葉を選んでいるような気がする。
 だが、圭輔の色違いの双眸は、目ざとく実氏のごまかしを看破したのだろう。鋭く研ぎ澄まされた輝きが、二人の帰還者を射貫いた。

「そう怖い顔をするな。環殿が今回で得た地は、長細ーい二十万石。確かに一夜にして得たにしては広大な領地ではあるが、彼が元は百万石の後継者であったことを鑑みれば、はるかに少ない」
「だが、商都名津の物産を盤龍宮と赤池水軍の海運が循環させれば、その富は石高以上のものとなりますよ。……せめて一部でも割譲を要求し、有事の牽制としておくべきだったのでは?」

 剣呑な圭輔の意見と見識に、弟は密かに息を呑んだ。
 ――盤龍宮神官、幡豆由有殿を取り込んだことまですでにご承知か。……この方の耳目はいったいどこまで届くのか。
 対する実氏はと言うと、とぼけたようにゴツン、拳固で己のこめかみを叩き、
「オレもそうせぬではなかったが、先回りされてしまったよ。『風祭との戦いを控えて、こんなところに深入りしているヒマなどあるか』とな。要らんちょっかいをかけると、かえって足下をすくわれるぞ」

 圭輔はやや肉の薄い唇を噛んで、うつむいた。
「どうなってもしりませんよ」と言いたげな雰囲気に、さしもの実氏も大仰にため息をついた。騎乗したまま屈み、婿の肩を叩く。
 その去り際、実氏は優しく目を細めたままにこう言った。

「確かに、殺せば容易く片付くのかもしれない。だがそれは易き道だ。一方で、人を活かし、我を活かそうとすることは至難だ。だがそれゆえに、得られるものも大きいはずだ。……違うかね」
「そうかもしれませんが、いずれ障害となることが分かりきっているのです。徒花を咲かすと知れた芽は、摘むべきではないですか。……環のみに、言えたことではありませんが」

 ――まさか、実兄義種様のことか。
 いや、それ以外にも実氏の栄達を危惧し、圭輔を敵とする者は数多い。

 それだけではない。
 彼が長年悩まされてきた番場伴満が戦死した。その死に、黒い噂が立っていることを圭馬も実氏も帰途で耳にした。

 そしておそらくそれは事実であろう。
 表面上、風祭府軍は千載一遇の好機に寡兵相手に大敗し、圭輔も後詰めをした属将である番場父子をむざむざ死なせた。
 だが実情としては圭輔はほぼ無傷で番場城を手にし、一帯を支配下に収めた。
 紛れもなく兄の一人勝ちであり、それが偶然だ幸運だと、彼をよく知る圭馬に思えるはずがない。
 羽黒圭輔は己の才腕で以てして幸運を引っ捕まえ、謀略によって必然を偶然のように演出した。

「……」
 朽ちた桜木に背を預ける、自分と実氏の姿が見える。
 その朽木を隔てて、二人の若い男が立っている。
 西に立つのは、人を活かし、彼らと共に広大な道を拓く者。
 東で駆けるのは、人の死の度にそれを糧とし、その凋落に付け入り、強大になっていく男。

 今は正反対の方角を進む二人だが、いずれ巡り巡って世の果てに、衝突する。
 そんな、予感があった。

「分かっていないのは、貴方ですよ。義父上」

 遠ざかっていく舅に、圭輔がそう呟いた時、圭馬もまた我に返った。

「で」と義兄が振り返れば、弟はしつけられた犬のように背筋を伸ばす。

「お前は、どうします?」
「どうする、とは?」
「来る『その時』、羽黒圭馬は羽黒圭輔と鐘山環、いずれにつくのですか?」
「ははっ、その際はこの圭馬が死力を尽くしてご両所の仲立ちとなりますので、ご安心を」
「……」

 畏敬か、友誼か。
 家か、友か。
 お為ごかしはさておき、どちらをとるのか、と兄の金銀両眼は無言で冷たく問うていた。

 圭馬は迷い、鞘に納めた朱槍を見つめた。己の半身とも呼べる羽黒家の武の象徴に、己の本心を問う。

 環への友情も偽りではない。
 圭輔への敬意もまた、真である。
 だが、この両者いずれかを超えたい、超えねば先に進めない、という強い気持ちもまた、圭馬の中には存在していた。

 圭馬は表情をほろ苦いものにして、首を振る。
 そうした彼の仕草を訝しむ兄に、圭馬は先ほどの問いを答えた。

「俺の武の道は未だ半ば。ゆえに、今の時点ではいずれが正しいのか、見極められません」

 愚直なまでに正直な前置きにも、圭輔は真剣に耳を傾けてくれている。

「されど、その時が来たら……環公子と兄者いずれかの道に歪みや誤りが生じたにならば、この圭馬の槍がそれを正させていただきます。それが、お二人のためであると、この俺が二人を超える瞬間である、と信じておりますゆえ。なのでせめてその時までは、兄者の傍らにて、その技量を我が物としたく存じます」

 腕組みして圭馬の言を聞き届けた義兄は、やがていつものようにため息をこぼした。
 だが兄は、

「十年早い」

 ……非常に稀なる、心底からの破顔一笑を見せた。

「僕らを超えたいのであれば、まずは腹芸の一つでも覚えたらどうです?」
「腹芸……腹踊りとかあダァッ!?」

 圭馬の脇腹に前触れなく一発、拳を見舞った圭輔は、片手で馬、もう一方の手で弟の耳を引っぱった。

「……どうして今の流れで宴会芸の話に戻るのか、僕には理解に苦しみますね」
「冗談、冗談ですってば! だから耳はやめください兄者っ!」

 兄弟二人を覆い包む霧は、次第に薄れつつある。
 その中天にのぼる日輪は、淡く浮かび出る虹の光輪に、守られているかのようであった。



[38619] 第九話「見えない足跡」
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:29
 酉の月のはじめ。
 鐘山環、御槍城へ入城。
 今後自らの居城となるその城下で、環は城代、勝川舞鶴と自らの民となった者たちの歓迎を受けた。
 そこで何度とも知れず杯を重ね、皆で手を取り笑い合う。
 彼らに何種類もの笑みを使い分けて接する環は「だが」とその裏で首を振った。

 ――程度の深さ、本物か偽りかの違いさえあれ、彼らは支配者には笑顔を向け、こうして歓待するんだろう。

 環や、その子々孫々が悪政に奔れば、それを打倒した新政権の支配者に。
 それがまた都合が悪くなれば、さらにその破壊者に。

 それで、良いと思う。
 民が統治者に仁愛や公平さ、あるいは完璧さや英雄的器量を求めるのは、古くから今日に至るまでの性と言って良い。それはどんな世になっても変わることはないだろう。
 だが、統治者が民に『それ』を求めてはいけない。
 『それ』を求めた時、君と民との間には齟齬が生まれ、やがて軋轢へと変ずる。
 君は暴君へと変貌し、民は一揆や暴徒と化す。

 ――俺と叔父御を隔てる壁があるとするならば、方針や思考なんかじゃなく、その辺りを認識しているかどうかかもしれない。

 そして、と環は帽子を目深にかぶる。
 夜宴の中で一度、星を覆い隠すほどに見事な三日月を見つめる。その後、視線を方略寺の方角へと移動させた。

 ――銀夜は、この宴の席をどういう想いで見ている? 目の前の彼らは彼女のことを、どう思っているのだろうか……?

 まるで、初恋の相手をとられた童貞の未練だ。
 環は肩をすくめる。そして空の酒杯を、『六番屋』より返してもらった鈴鹿に差し出すのだった。

~~~

 対面の場は、方略寺であった。
 かつては雨の中、その門前でやり合った二人が、今は雲ひとつない夕焼け、寺内の大広間にて、一対一の話し合いをすることになった。
 互いに供はない。
 銀夜はもう身内がいなかったが、環の方はかなり無理を押し通して単騎、そこで敵に面している。
 それでも、障子の裏にはやはり護衛はいるだろう。

「痩せたな」
 部屋に入って開口一番、環はそう言って腰掛けた。

「飯、食ってないんだって?」
「……」
「もったいないな。俺なんて、ここを出る時までマトモなもの食ったことないぞ。……あ、それとも毒だと思ってるか? わざわざ、そんな回りくどい殺し方すると思うか?」
「能書きは良い」
 環の精一杯の諧謔を、銀夜は突き放すように妨げた。

「弟妹の仇を討ちにきたのだろう。斬るが良い。斬って、お前の私怨を晴らすが良い」

 捕縛されて三日ほどは、手負いの獣のように激しく抵抗したそうだ。が、今少女は落ち着いている、というよりも憑き物が落ちたように大人しくなっていた。
 それは食事を拒み、生気が衰えたせいかもしれなかったが、気力で言えば、発狂していた時よりも安定しているように思えた。
 帝より賜った藤色の玉衣は、戦塵にまみれて色褪せている戦火によって焦げ付き、乱戦に巻きこまれて引き裂かれ、かろうじて肩に引っかかっている有様だった。
 ……それでも、片時も手放さなかったという。

 環は帽子を手に取った。
「……ま、最初はそう思ってた。憎んでいたさ」
 長い旅路を経て、だいぶくたびれたそれを、労わるようにしてシワを伸ばす。

「だけど、頭が冷えたのか、視野が広まったのか。お前の立場になって、振り返ってみた」
「私の?」
 片目を歪める従姉に、彼は深く頷いた。

「お前はなすべきことをした。そしてその業に相応するだけの地獄を味わった。今さら俺がくれてやるものは、何もない」

 その地獄を見せたおのれが言うのもまた、滑稽に思えた。
 それでも勝者の声の響きは、我ながら無慈悲なもののように聞こえる。

「鐘山銀夜、お前は解放する。どこへ行くのも自由だ」

 銀夜の真紅の瞳が軽く見開かれるのに合わせるようにして、環は顔を持ち上げた。

「村忠はじめ響庭家は、お前の死を望んだ。……ほんっと奴らを説得するのには時間がかかったよ」
 だが、村忠は合理的な男だ。領有しようとする土地の、旧権力者を直接手にかけることへの危険を説くと、制止した環の方が呆れるほどに、あっさりと承諾した。
 その彼を介して響庭家を納得せしめた。
 元々、響庭家には父宗流の殺害に加担したという後ろめたさがある。
 その辺りを村忠がほのめかせば、説得自体は容易だった。

 問題はここからだ。
 少なくとも、彼女にとっては。

「……だが忠告はしておく。お前、父親の下へ戻ったら殺されるぞ」

 鐘山宗善は、己の理によって肉親の情を排し、司法に照らして彼女を処断する。
 環にさえ分かることだ。より濃く血でつながり、その父の間近でその志を信奉してきた聡明な娘には、瞬時に悟り得たことだろう。

 彼女は、鐘山銀夜は眉一つ動かさない。
 その態度と表情こそが、銀夜が既に死を覚悟のうえで、そこへ赴く心構えができていることを物語っていた。

「お前が望むなら、別の場所へ放逐する準備もできてるんだがな。俺はお前を許すことができないけど、桃李府を介して朝廷へ引き渡すことも」
「断る。自分の身の処し方は一番よく分かっている」

 ぴしゃりと、荘厳な舞台の幕を下ろすかのような、峻厳な拒絶だった。

「そして勝者気取りの温情も大概にしろ。お前が私に勝ったわけではないし、その言い分が正しかったわけではない」

 そう言い切ってから、銀夜は長い睫毛を震わせ、伏せた。



「私が、自らの規律と秩序を保てなかったからだ」
……己の弱さを、噛み締めるように。



「私はその禁を破り、己が獣性を剥き出しにした。そのために負けたのだ。私から見る限り、お前はかつてと変わらぬ。悪たれの弱き凡人だ」

 環は帽子をいじる手をピタリと止めた。
「意外と、見てるじゃないか」
 目深にそれをかぶって、口元の苦笑をごまかす。

「私が処される? 軍紀に照らさば当然のことだ。秩序破りし者の末路としての見せしめとあらば、私は喜んでこの命を捧げよう」

 虜囚の身でありながら、曇りなき眼ではっきり物を言う。
 確かに身の肉は衰え、骨はやせ細ったが、それでも心の骨子は強く、丈夫になった。
 美人絵の如き薄っぺらな綺麗さが、時と試練を経て、ようやく血肉と色を得た。環にはそう見えた。
 そして惜しんだ。

「……承知した。翌朝、馬を渡す。早々に父の下へと赴くが良い」
「感謝する」

 それ以上の話は無用。銀夜が背に負う気配が、そう語っているのを感じ取り、環は立ち上がった。

 踵を返し、半歩進んだ環の背が、「あ」と漏れる小さな声を捉えた。
 くるりと向き直った環に、声をこぼした銀夜は恥じ入るように五指を唇に当て、頰を染めた。

「もう一つだけ、お前に感謝しておくことがあった」

 やや上擦った声で前置きする。だが指を離した直後には、彼女は一人の姫としての気品を取り戻し、居住まいを正した。
 藤色のボロ布は、今の鐘山銀夜が身にまとい、ようやくにして本来の、神さえ宿るような清らかさを取り戻したような気さえする。

「我が身の獣と業とを残らず吐き出し、全てを失った今、この胸に残るのは清らかなる秩序への憧憬のみ。その境地へと至ることができたのは、図らずもお前の所業により、だ。……その一点には、心底よりお礼申し上げる。鐘山環殿」

 この従姉妹より土地と城とを譲り受けた少年は帽子の鍔にそっと手を当てた。

「……まったく、惜しいな」
 もう少し生き永らえる気になれば、あるいはもう少し早くに悟っていれば、また行く末も違っただろうに。

 環は再び腰を下ろして、一人の人間として銀夜に対面する。
 淡く微笑を浮かべる少女をじっと正視したままに、頭を垂れた。

「その礼、ありがたく頂戴する。御槍の民も、決して泣かさないと約束しよう。……良き船出を。来世あらば、幸多からんことを。……順門府公子、鐘山銀夜殿」

~~~

 冴え冴えとした朝の寒風が、骨身に針を刺すようだった。
 夜明け前に身を清めた銀夜の肌は、未だ冷水の露を残したままであったために、ことさら冷たく感じられる。
 だが銀夜には、それさえも己の罰であるかのように思えたし、かえってすがすがしくも感じられた。

 てっきり敵に殺害ないし鹵獲されたものと思っていた愛馬を返還してもらった銀夜は、その鐙へと片足を上げようとして、大地へと視線を落とし……固まった。
 やがて彼女の双肩は小刻みに震え、それが大笑に変わるのに時は必要としなかった。

「……あ、はは……!」

 唐突に笑い出した彼女に、馬の世話の任せられていた馬丁が「……何か?」と訝しむ。

「……いや。別に。何もない」
 笑いを切った銀夜は、高貴さを取り戻した白銀の髪をたなびかせ、自らの旧領に別れを告げる。

 ――そう、何もない。
 夜通し宴会をしていたにも関わらず、自分がいた大路には、すでに残飯一つ落ちていなかった。見事に、掃き清められていた。

 ――定法第三十六。臣民は早朝には自らの居住前の往来を、清潔とすべし。
 己が定め、自ら筆を執って認めた国法の条文。その表題と仔細を、馬上の少女は今でも諳んじることができる。

 ――他でもない。足跡一つなく続くこの死途こそが、私の足跡だった。

 御槍城主、鐘山環よ。我が地を引き継ぎし者よ。……同朋よ。
 そう彼女は城も振り返らず、歩みも止めずに語りかける。

 ――お前は気づいているか? たとえ統治者が変わろうとも、その行いは、その想いは目に見えずとも民草に根づいていく。たとえそれが一片の花弁の如きものであったとしても、次へと進む土壌となっていく。

 そして自分は、とうとう答えを得た。見るべきほどのものは見た。
 銀髪の姫は馬鞭の一打を当てる。速度を上げた馬の上で、めいっぱいに新風を吸い込み、肺腑を満たす。

 そして朝の光に溶けていき、何者も見ることのかなわない先へと征った。





 酉の月末日。
 鐘山銀夜、父宗善より白扇を賜り、自刃と謂う。



[38619] エピローグ:そして門は開かれた
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/29 17:30
「この度の敗戦は、我が不徳と娘の暴走によるものである。よって汝らに罪はない」

 順門府公、鐘山宗善はそう言って敗軍を迎え入れ、大将鐘山銀夜以外の家臣たちを咎めることはしなかった。
 それどころか、板方城の倉を開いて金銭を貸してその損失分を賄わせ、それでも不足であれば自らの太刀やその他祖父伝来の骨董を売り払い、その補填に当てた。
 ある者はその厚情と公平な裁きに感謝し、改めて忠誠を誓い、あるいは実の娘さえ法に照らして処断した主君の厳正さに自らを引き締めた。

「……結果として、宗善側の勢力に大きな動揺は見られず、むしろ優柔不断な者らが先んじて抜けたことにより、彼らの結束は固まったように思えます」
「そうか……やっぱりやるな、叔父御」

 各地の調略に当たっていた幡豆由有、響庭村忠、勝川舞鶴の報告を聞き、新年、鐘山環陣営初の評定の場には、軽い落胆の吐息が漏れた。

「まぁ一事が万事、上手くは運ばないもんでしょう。潮の目が変わるまで、気長にやりましょうや」

 正式に家臣の列に加わった赤池衆の頭目、赤池束仲がことさら明るく振る舞い、沈みかけた場の雰囲気を和ませた。それに乗じる形で、環の傍らに座す勝川舞鶴は発言した。

「それでも、宗善公の国作りについて行けない者はいます。時間が経てば経つほどに、一時の感謝と情熱は薄れ、やがては我に返る」

 脇息を腹の前に回して上半身を預けながら、環は目を薄く閉じている。だが耳は確かに軍師の言葉へ向けられていて、咀嚼し、吟味していた。

 ――それは、俺にも言えることだ。……というか今回の叔父御の処置は、銀夜を罰したことを除けば俺のそれに近いものを感じる。

 膠着した情勢どうこうは、予測どおりで、覚悟の上だった。それでも、今までになかった柔軟さを見せた宗善は、実は成長しているのではないか。

 ――戦いを経て、学んでいっているのは俺らだけじゃない。叔父御だってまだ府公としては雛みたいなもんなんだ。……今は未熟でも経験を重ねれば、いずれはコツを掴んでいく。

「しかし……これはこれで、世にそれぞれの有り様を『問う』という我らの姿勢には、もっとも則した形ではありませんか?」

 環は耳元で熱の籠もった息使いと共に囁かれる。
 ビクリと身を起こし、脇息を手放した環の間近に、「ねー」と微笑む舞鶴の白皙があった。

「宗善公と規律と秩序か。殿の仁と自由か。世がどちらを認めるのか。この対立は、より明確な返答が得られることでしょう」

 ――別に、好きで拮抗も対立もしてるわけじゃない。
 そう言いたくなったが、流石にそれを慎むだけの辛抱強さはある。
 今まで以上に、発言や気遣いに心を砕かなくてはならない立場にある。

 ――立場、か。
 という環の心中での呟きが聞こえたかどうかは知らないが、舞鶴とは対面する形で左に正座する幡豆由基が「で」と話題を転じた。

「お前の立ち位置はどうなんだ、環? 朝廷からの官位爵位も望めない以上、その辺りもハッキリさせておくべきだろ」
「由基、お前自分の主君になんて言いざまをっ!」
「いや、良いんだ由有殿。……どうせ言っても聞かないし。その言い分も一理ある」

 正月早々親子喧嘩を始めそうになる幡豆一家を宥めすかして、環は脇息を自らの脇へとずらして、姿勢を改めた。

「そうですねぇ……いっそ、王を名乗られたら如何です」
「王?」
 穏やかならざる舞鶴の提案に、一同の目の色が変わった。
 中腰になって、さながら猫のように主君に迫る尼僧も、環から見ても傍から見ても、由基に負けず劣らずたいがいだ。

「そうすることにより臣民は、朝廷との完全な決別を意識して自立と愛国心に芽生えます。殿の望む位と役割を生み出し、望む人物に授けることができますよ。そうすることで、自分にも家臣達にも、今日に至るまでの労苦に報いることができる。……どうです? 王、名乗ってみません?」

 覆い被さるが如き姿勢のまま、舞鶴は妖しく提言する。
 黒目がちな両眼に宿る、どこか挑発的な輝きを、環はまっすぐと見上げた。
 思考するまでもなく、

「やだね」

 ……と、尼僧の妖気もろともに突っぱねた。
「というか、府公のままで良いだろ。王だとか爵位だとか、そんなのいちいち変えてたら俺がこんがらがるし、みんなも混乱する。第一、二十万石で王号名乗ったところで滑稽だろ。ここよりはるかにでかい中水府でも名乗ってないだろ」
「もっと小規模の土地と器量で王を名乗った人もいますよ。その時代の生き証人が言うんです。貴方一人が名乗ったことで問題ないでしょう」

 と、いやに強気で勧める舞鶴に、環は再び首を振った。

「それに俺は、府公という響きは気に入ってる。皆の意志による代表者として、ここに座っている。人を統べる『王』になる気はない」

 舞鶴はしぼむようにして自分の席へと退いた。その去り際の曰くありげな視線の先に、他の家臣たちの姿があった。その一部が、やや落胆気味であることに、環も気づく。

 ――やっぱり、そういう流れもあるみたいだな。

 自分を人ならざる身分まで押し上げて、甘い汁を吸おうという流れ。
 舞鶴はその甘えを断ち切るように、あえて煽り、環がそう公言できず場を作ってくれた。
 無論、彼女の身を挺した献身に感謝はしている。だがこうした謝意は表に出すことはできないし、

 ――あの、いかにも『感謝しろよ』的な顔さえなけりゃな。

 得意げな顔で胸をそらす彼女に、礼を言う気がなくなるのも確かだった。

「じゃあ」
 と、次いで質問したのは亥改大州だった。
 行儀もへったくれもなく片膝を立てる悪相の青年は、ニヤニヤと笑って尋ねた。

「あんたは一体どこの府の、府公様になる気かね?」
「確かに、あちらの順門府はすでに使われているわけだからな」

 その追及に村忠が同乗する。右筆として筆を手にしていた色市始が、彼らに口を挟んだ。

「じゃあ、『東順門府』とか!」
「却下します。……東とか西とか分裂させられるの大嫌いなんですよねー……」
「お前は一体何を言ってるんだ」

 珍しく感情を露わにした黒衣の尼僧の戯言はさておき、環も東西で分けるのは反対だった。向こうが『西』を名乗るわけではないのだから、、こっちが一方的に東を名乗ったところで、世間からはたかが僭称ととられるのが関の山だった。

 他にも『元祖』『新』『正当』など、一体どこの飲み屋ののれん分けか、と言いたくなるような案が飛び出したが、どれも環の琴線には触れなかった。

 ――こいつら、国の名前一つに良くもまぁポンポン出てくるもんだ。

 と呆れ半分、楽しむ。
 こういう身分の貴賤を問わない闊達な討論は、やはり嫌いになれなかった。

~~~

 ぽん
 ぽん
 ぽん

 ……と、鞠の弾む音が、虚しく大きな部屋の中に響く。

 鈴鹿が貰い受けた御殿の一室は、まだ家具類が何も運ばれていない。
 彼女が三十人いようと、まだ持て余すような広さだった。
 不満や鬱屈を込めて思いっきり、投げたこの鞠は、「綺麗なおべべ」に手をとられて力が出し切れず、壁にさえ届かない。

 力なくその場にへたり込む鈴鹿は、唇をきゅっと噛んだ。

「ふふふふふー、さびしんぼうですねぇ。鈴鹿殿」

 ふと、そんな声が聞こえてくる。いや降ってくる。
 その音声を発した人間ごと、落下してきた。
「うわ」とのけぞる少女を抱きすくめ、声の主、勝川舞鶴はニコリと笑んだ。

「舞鶴……お話は良いの?」
「んー、国分けの議はさっさとやっちゃいましたしねー。美人のお姉さんがいると、緊張してみんな話せなくなるみたいですし? ……殿は立場上、簡単に中座できないですけど」

 頭の中に思い描いていた人をズバリと言い当てられて 、鈴鹿は舞鶴の腕の中で身を震わせた。
 瘧のようなその震えがやや治まり、喋れるようになってから、舞鶴に声をかける。

「こないだまでは、ユキに近づけなかったけど、今は環に近づけない」
「殿は変わっていませんよ。我が主ながら呆れるほど鐘山環です。だから、鈴鹿殿が話したいと言えば付き合ってくれますし、遊びに誘えば時間を作ってくれますよ」

 母のように、姉のように、あるいは正真正銘他者を教え導く尼僧のように、優しい光を目いっぱいに称えて舞鶴は諭す。
 ぶんぶんと、頑なに鈴鹿はかぶりを振る。

「それでも、遠い。迷惑かかるのもわかってる。でも、あそこがほんとに環がいる場所なんだよね。あたいにとっては、ほんとうに遠い場所」
「このまま、ではねぇ」

 含みのある舞鶴の言い回しが、自分に何を伝えようとしているのか。
 口数は少ないけれども物分かりの良い少女には、それがハッキリと分かった。

「あそこに近づくためには、環に甘えてちゃダメなんだよね。こういう衣の着方だけじゃなくて、文字の読み書きとか、お行儀とか、もっと、もっと……」

 舞鶴は、鈴鹿が導き出した答えに、満足げに頷き、抱擁を解いた。

「貴方は、聡明な娘です。本気になれば人よりも多くのものを学べますよ」
「ほんと?」
「ほんとにほんと」

 回り込んだ尼僧は、それこそ菩薩の笑みを浮かべた。
 ふっくらとした唇を動かし、ゆっくりと頷き、

「じゃ! まずは房中術から始めましょうか! 多聞山陥落のみぎり、弾正の奴からくすねた書がですねぇ」

 ガチン、と。
 そんな彼女の頭の後ろに、蹴り飛ばされた鞠が激突した。

「あいたぁ!? ご無体な、殿!」
「ご無体はお前だよっ!? 年端もいかん小娘になんてこと教えようとしてるんだ色呆けババァ!」

 鈴鹿は鞠が飛んできた出元を、鈴鹿は凝視する。
「たまき……」
 軍師からこの場には来られないとハッキリ断言されたその青年は、空色の両目を三角にして、大股で近づいてきた。

「評定はよろしいんですか?」
「どいつもこいつも俺そっちのけで名前ひとつに白熱してやがる。喋り疲れるまでそのままにしておくよ。……で、良吉から様子がおかしいと聞いてみりゃ、お前そんなことを考えてたのか?」

 苦笑と共に視線の高さを合わせてくれる「気のいいお兄ちゃん」は、人気と距離とがなくなれば、やっぱり鐘山環そのものだった。
 彼と一緒にいる時は、何にも代えられない、譲りたくない幸福なものだ。
 だからこそ、甘え続ければいつかその幸せさえなくしてしまう。

「ま、そこの尼僧の言う通りではあるよ。お前との時間だったら、できるだけ作ってやるから」
「でも、もっと近づくためには、そーゆーのも、必要だと思うし、それに」
「それに?」
「環のこと、悩んでることとかも含めてもっと知りたいから。だから多くのことを知りたいの」

 それを聞いた環は、口を穴のように形作った。青い目を伏せて、

「……それはそれで、俺の嫌なところも見えてくるんだけどな……」

 ポツリとそう言った。
 だがその二つの目に映し出された鈴鹿の鏡像は、迷いもなくじっと環を見返していた。

 そんな少女の揺るがない決意を見たのだろう。観念したように苦く笑い、

「俺のことはともかく、それでお前の視野が広がるのなら、俺は止めないよ」

 そっと伸ばした指が、彼女の前髪の生え際に押し当てられる。
 ぎゅっと腹の奥まで掴まれるような、それでいて奇妙な心地よい満足感を覚えながら少女は熱っぽく環を見つめ返していた。

「まずは、どうしたら良い? お花? それとも反物の見分け?」
「そうだなぁ。んじゃ、まずは」

 環はそっと鈴鹿の手を取った。
 彼女の手の中に小さくて硬い物を握らせた。
 何かと恐る恐る見てみると、小銭があった。

「筆、買ってきてくれるか」

 筆、という言葉が鈴鹿にあの日のことを色鮮やかに思い出させた。
 初めて二人が出会った大渡瀬のこと。その時も、目の前の人は自分と目と目を合わせて、手で手を取って、一人の人間と認めて仕事を頼んでくれた。

 何かに弾かれるように、首ったけにかじりつく。
 環の顔は見えないけれど、穏やかな心音が伝わってきて、背中や肩を叩いたり撫でたりしてくれる手つきが、少女の苦しみも悩みも溶かしてくれるようだった。


「……幼い少女を抱きながらこの時、我が君鐘山環は内心で小躍りしておられたのです。『将来の幼妻、獲得だぜ!』……と!」
「お前もう本気で口縫い合わせるぞ」

~~~

 お使いにやった鈴鹿が、久々の上機嫌で戻ってくると、環はいつぞやのように、舞鶴、鈴鹿という両輪の花、そして大ぶりの紙と筆とを携えて、人々の前に立った。

 既に評定の場は盛りを過ぎて、余熱のようなものは残っているが、倦怠が大部分を占めていた。
 そこに脱走者二人が部外者の小娘一人を伴い戻ってきたものだから、幡豆由基などは軽く横目で睨んできた。

「だいぶ意見は出尽くしたみたいだな。……奏者、色市始」
「は!」
「で、今候補ってどうなってるの」

 その役職に見合うように胸と背を反らして、始はまだ張りのある声を朗々と響かせた。

「色々と意見は出ましたけど、特定のものには集中されず分散してしまっている感じです。……中には『宇宙大順門府』ってのもありましたが」
「誰だよ……そんなの頭の悪い案出したの」
「あ、それ舞鶴です」

 傍らの軍師が挙手をしたので、環はこのうえなく渋い面を作って彼女を睨んだ。

「なんでか、とてつもなく不吉というか、縁起が悪い気がする」
「人の考えにケチつける以上、未来の府公殿には、さぞや名案がおありなんでしょーね」

 咎めるような目つきと言葉尻で環を刺してくる由基に、環は

「ジュンモン府で良いだろう」

 ……ごく自然に、そう言った。
 自分自身の何気ない一言が着火点となる。それを自覚していながら、諸臣が騒ぎ出したのを環は一歩遅れて後悔した。

 ある者が問うて曰く、それはこちらの正当性を謳うが故か?
 あるいは、正々堂々叔父と雌雄を決する心意気の表れか。
 もしくは、早期決戦になるために改名無用ということか。
 いずれにせよ、ご再考あるべし。同名の国が二つ並べば、諸国がかえって混乱し申す……と。

 ――別に、そこまで深読みされることでもないんだけどな。

 ゴウゴウと鳴る意見を甘受し、環は帽子を目深にかぶり自ら持参した紙を後ろへと立て掛けた。

 順門

 目に慣れた二字が、堂々とした肉太の書体で表されている。
 他ならぬ、環自身の手によるものだ。
「もちろん、俺たちが正当性を訴えるためでもある。第一、ポンポン改名しちゃあ民が混乱するだろ。判物だって他の書類だって、いちいち書き直さなきゃならない」

 主が鈴鹿から筆を受け取ったのを機敏に捉え、色市始はすぐさま墨を練る。
 差し出される墨汁に、筆先をたっぷりとひたし、持ち上げた。

「だから、文字の形と響きは残す。残しつつも、俺はこの新たな府国への願いを、独自に一字……いや、ほんと一筆、書き加えようと思う」

 環はくるりと皆に背を向けた。
 墨がこぼれ落ちる間もなく、紙面に筆を叩きつける。

「かつて、この国は人の心を仁愛によって宥め、暴によって押し殺し、規律によって従『順』に閉じ込めた『門』だった。……かの祖父、鐘山宗円でさえもそうだった」

 息を呑む家臣たちの前で、環は筆を走らせる。

「だから、『門』の中に『口』を書く。それぞれが、己の内にある『問』に、『順』う。問いを投げかけ、言葉を交わし、争いながらも次第に心を通わせていけるように。不条理なのは分かってる。国家としての実現が難しいのも承知のうえだ。……だからせめて、願わせてくれ」

 再び同朋たちを顧みた時、彼らの顔には拒絶はなかった。
 幡豆由有は思慮深く頷き、響庭村忠は肩をすくめながらも同意と親愛を示す。
 良吉は童心そのものを露わに目を輝かせ、亥改大州は悪相を愉快げにくしゃっとさせている。
 色市始は知恵者ぶって神妙に頷き、幡豆由基はむっつり腕組みしながらも、口元は綻んでいる。
 勝川舞鶴は、艶然と傅いて見せ、鈴鹿は大輪の笑みを咲かせている。

 環は彼ら一人一人の顔を見、去っていった者たちを思い浮かべ、それらをいっしょくたにして己の胸に飲み込んで……そして、自身が背負う『順問』の二字を強く心に刻みつけた。

「それでは、これよりこの府を『順問府』と名付ける!」

~~~

 ……かくして、初代順問府公、鐘山環の宣言は、全土へあまねく発信された。
 それが天下にどういう心証を与え、伝播し、作用していったかは、未知数である。

 だが、ここまで三十年続いていた群雄割拠は、これ以降急激にその展開を加速させていく。
 後に『激動の五年』と称される戦いは、さらに混沌へと陥れた、と見る向きもある。
 また一方で、再度の天下一統。その収束へと向かっていくかのようであった。

 『天下五弓』に代わる次の世代、『終戦(しゅうせん)六公(ろっこう)』。
 羽黒圭輔、風祭晴火(せいか)、旭瞬悟、佐古直倉(なおくら)、上社一守
 そして、彼らの中でも年若ながら、その筆頭に挙げられる鐘山環。

 今この一時は、昂揚と幸福、そして安寧と、人の声に包まれていた。



[38619] あとがき
Name: 瀬戸内弁慶◆9f1ec830 ID:6844227a
Date: 2014/11/20 00:02
 これにて「樹治名将言行録 ~鐘山環伝~」は完結と相成ります。
 シリーズはまだ続くと思いますが、鐘山環の話は、これにて筆を置かせていただきます
 ……そういう表現をすると、なにやら物寂しい気もしますが、未練ですね。

 いつものように後日談や番外編も考えないではなかったですが、蛇足になってしまった前例があるのと、「これ以上鐘山環たちの何を書くのか?」という声が、私の中にはあったからです。それほどまでに、手前味噌ながらきれいにまとめることができました。ビックリです。
 もちろん、やり残したこと、やりきれなかったことは数多くありますが、当初私が危惧していたようなひどさはありませんでしたし、むしろ見切り発車状態からよくもここまで持ち直せたと思います。

 すでに割烹等で何度もお伝えしていることですが、悪役、敵役、仇役は嫌な奴のまま割り切って終わらせる気でしたし、なので私自身それほど愛情をもって接したわけではありませんでした。
 ですが、彼らの内面にも接して書いているうちに、自然と愛着も湧きましたし、彼らのファンもできて、あげくその死後拾ってくださる方がおられたというのは、非常に嬉しかったです。

 そして作品に関わった私自身の心境にも、変化は生じました。
 当初はハッキリ言って「評価されたい」「ポイントもらいたい」「感想もらいたい」「本出したい」と煩悩まみれでございました。その本質は、今でも変わってないと思います。
 でも、それだけじゃなくなった。
 作品の完成度自体を高めたい、もっと面白く話を作りたい、かわいくキャラを描きたい、真に迫りたい。
 という欲求が生まれました。

 これが、私がこの作品を経て得た最大の収穫だと思います。

 何より、根強く応援していただいた読者の皆様の声や反応あったからこそ、ここまで来られたと思っております。
 理想郷の読者様、なろうの読者様、この場をお貸しいただいたそれぞれの運営様、そして鐘山環ほか、私のキャラクター達。
 改めて、心よりお礼申し上げます。
 ここで得たものを、今後の創作活動にて活かしていけたらと思っております。

 しんみりこ、となっちゃいましたが、どうせ近いうちに復活します。
 それでは、またお会いできる日を心よりお待ち申し上げます!


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