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[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2014/02/10 04:01
もともと某所で細々と書いていてエタったものですが、今回改訂して再投稿することにしました。
改訂版の投稿が終了した後は、月に一話ぐらいのペースで書いていこうと思います。

以下、注意事項です。

本作の各話冒頭にたびたび登場しているのは、elonaのシナリオ部分から引用した文章です。ゲームの雰囲気を引き継ぐために引用しましたが、直接この作品に関係しているものではないので、読み飛ばしていただいてかまいません。

本作はelonaのゲームシステムを超越したり、仕様を独自解釈している部分があります。ご了承ください。

本家の要素以外に、ヴァリアント(有志の方々が製作した拡張版)の内容が含まれる可能性があります。

elonaというゲームの性質上、本作にはかなり過激な表現が登場します。読んでいて不快感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、何とぞご理解いただけますよう、よろしくお願いします。

筆者はユーモアのセンスを持たないので、本作ではギャグ要素がなく、ひたすらシリアスな展開になります。elonaのユニークなゲームシステムから考えると、かなり異様な作品となりますが、温かい目で見守ってください。


追記 
テスト投稿もせず板汚しをして申し訳ありませんでした。指摘してくださった方、ありがとうございました。

4話までで書きためが尽きたので、これからは月一の更新になります。

ちょっと周りでゴタゴタがありまして、先月は更新できませんでした。待っていた方、大変申し訳ありませんでした。エタらない目安になるよう、今回から最新話の冒頭に次回の更新予定日を入れていこうと思います。

11/2 4話の展開に合わせて3話を微修正
12/9 序章1を微修正



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 序章1
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/12/09 06:06
今はもう忘れられた昔
イルヴァの地に十の文明の残骸が埋もれ
レム・イドの傷跡が癒えぬまま迎えた十一紀、
最も多くを破壊し生み出したと語られる時代
シエラ・テールの物語。

ひと月の雨が降り終えた後
辺境の地カルーンの森が姿を変えた。
奇妙な光の霧に覆われた森は急速に根を広げ
人の住めない生態を作り出した。

東の大陸、ヴィンデールの森から始まったこの異変は
すぐにカルーンの民の生きる土地を奪い
多くの難民がノースティリスに流れ込んだ。

西方国の皇子は、この現象をレム・イドの災厄であると説き
異形の森とその民の根絶を唱えた。

ヴィンデールの民エレアは、やがて憎しみを避けるように
人間の土地から離れていったが、対立の溝はうまらず
掃討戦は、今にも始まろうとしていた。


(517年8月3日 夜)

 薄闇の中、フィンは目を覚ました。体を起こそうとすると、体の節々が痛んだ。無理もない。固い床で寝起きすることなど、生まれて初めてのことだった。彼はそっと身を起こすと、ゆっくりと伸びをして体をほぐした。

 夜明けはまだのようで、月明かりが窓から差し込んでいた。フィンは耳を澄ました。北アセリア海の寂しい波音も、この薄汚れた貨物室までは届かない。傍らの少女のかすかな寝息が聞こえてくるだけだった。彼は隣で眠る少女に目をやった。昼間の騒ぎに疲れてしまったのか、彼女はぐっすりと眠っている。彼は手を伸ばし、毛織のクロークを彼女の肩にかけ直した。少女はかすかに身じろぎしたが、起きた様子はない。フィンはその様子に微笑み、自分の腕を枕に、再び浅い眠りに落ちていった。


「フィンさん、起きてください。船員の方が朝ご飯をもってきてくれました」
 控えめに体をゆさぶられる感触に、フィンは目を開けた。少女が彼の顔を覗き込んでいる。彼と目が合うと、彼女は顔を赤らめて彼のそばから離れた。

「ああ、ありがとう」
 その初々しい反応に新鮮なものを感じながら、フィンは起きあがった。すると、茶色いクロークが彼の体から滑り落ちた。昨日寝具代わりに少女にかけてやった外套だ。フィンは黙ってそれを折りたたむと、バックパックの中にしまい込んだ。

 フィンがそうしている間、少女は彼から三歩の距離にじっと立っていた。そして、彼が彼女の方を見上げたときに、深々と頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
 少女の見事な金髪が、朝の光の中でふわりと広がった。

「何、お礼を言う必要はない。私が君を奴らから買っただけだ」
「でも、あのままだったら、私――」
「まあ、済んだことだ。忘れた方がいい。それより、朝飯にしよう。君、昨日はほとんど何も食べてないだろう?」
「あの、エレンです」
「?」
「その……私の名前です。エレン。昨日は、名乗りそびれちゃいましたから」
「そっか、エレン、これからはよろしく」
 フィンは立ち上がり、エレンに右手を差し出した。少女はびっくりしたようだったが、
「ええ、こちらこそ、よろしくお願いします」
と、にこりと笑って彼の握手に答えた。

 朝食に用意されていたのはガチガチのパン二つと、小さな革の水筒一つだった。フィンはパンの固さに手を焼きつつ、エレンと名乗った少女を眺めた。彼女は腰まで届く豊かな金髪を指でいじりながら、床に座ってパンをかじっていた。辛抱強く固パンを咀嚼し、この部屋の積み荷をもの珍しそうに眺めている。年は十五、六といったところだろうか。随分と痩せていて、貧困に疲れた様子が全身からにじみでている。おおかた、エーテルと飢えとに耐えられなくなって、一か八かこの商船に密航したのだろう。身につけている白いシャツと、青地に赤い線の入ったスカートも、洗いざらしでボロボロになってしまっている。だが、彼女の両目は、清貧につとめてきた善良な人間に見られる、類い希な美しさで輝いていた。

「エレン、ちょっと水をくれないか」
フィンはエレンから水筒を受け取ると、一口飲んだ。まずい。思わず吐き出しそうになった。塩気が多く、革の嫌な臭いが水に移ってしまっている。(客じゃなくなったら、とたんにこの扱いか)フィンは渋い顔をして少女に水筒を返し、そのまま黙々と固パンを平らげた。

「よお、いるかあ、色男」
ちょうどその時、貨物室の扉を乱暴に開けて、船員が二人入ってきた。一人はこめかみに傷のある優男で、もう一人はひげを生やした大柄な男だった。二人とも白地に薄青の水夫服を身につけ、ニタニタと笑っている。海と酒と女の他には暴力しか知らない単純な人種だ。フィンは眉をぴくりとさせたが、男たちを無視して手のパンクズを払った。

「へへ、そこの女の具合はどうだったんだあ? 昨日は散々楽しんだんだろ?」
「本当なら、俺たちのモンだったのによう」
 男たちは下卑た笑い声をあげながら近寄ってきた。フィンはエレンに下がっているよう手で合図して立ち上がった。

「何の用ですか?」
「はぁ?用もクソもあるか、どけよ!」
 ひげ面の男が乱暴にフィンを押しのけた。フィンはよろめいて壁に手をついた。船員二人はそのままエレンに近づき、かがんで彼女の顔をのぞき込んだ。エレンはおびえきって、手元のパンをギュッと胸に抱え込んだ。

「え? 嬢ちゃん、よかったなあ。優しい優しい旦那様に買い取ってもらえて」
「ばか言え、あのまま俺たちのモンになってた方が何倍もイイ思いが出来たぜ。何たって俺たち海の男は優しいからよう、念入りに、こう、しっぽりと…」
 大柄な水夫は、ふざけた調子で少女を抱きしめようとした。
「……!」
 エレンは恐怖の余り口をきくことも出来ず、右手を顔の前に出して弱々しく拒絶の身振りをとった。

「やめろ。怯えてるじゃないか」
 フィンは体勢を立て直すと、ひげ面の巨漢と少女の間に割って入った。
「あ? 色男のくせに、えらく紳士的じゃないか、え?」
 ひげ面の水夫は相変わらずニタニタ笑っていた。いざ荒事となっても、腕っ節に自身があるのだろう。フィンは人並み程度の上背だったが、男は彼よりも頭一つ大きく、体はビア樽のように膨らんでいた。

「あんたも馬鹿だよな。密航者を助けるなんてよ」
 水夫の巨体の後ろで、優男がそう言った。
「そうそう。密航者なんてのは身ぐるみはいで海に放り込む。それが海の掟ってもんだ。もちろん、女は別だがよう」

 大男はひげ面を歪め、豪快に高笑いをした。男の黄色い歯の隙間からは、赤い舌がのぞいていて、自分の下卑た想像に舌なめずりをするかのように、淫猥に動いていた。
「下衆が」
 フィンはそう吐き捨てると、目の前のにやけ面を全力で殴りつけた。不意をつかれた大男はよろよろと崩れ、壁際の木箱にしたたか背中を打ち付けた。そのはずみに箱が壊れ、中のリンゴが勢いよくゴロゴロとこぼれだしてきた。

「てめえ、何しやがる!」
 殴られた水夫は怒りで顔をゆがめたが、フィンの一撃が思いのほか重く、足下に広がったリンゴの海から立ち上がることができなかった。
「おいおい、あんたさあ、ふざけてんの?」
 細身の水夫は明らかに戸惑った様子だったが、折りたたみ式のナイフを抜くとニヤリと笑った。

「海の上で船員に手を出して、ただで済むと思ってんのか!!」
 水夫はそう叫ぶと、フィンに突っ込んでいった。恐怖のあまり頭がぼうっとしていたエレンは、ナイフの刃の鈍い輝きを見て、初めて我に返った。
「だめ!やめてください!!」
 エレンは丸腰のフィンを案じてそう叫ぶと、これから起こるであろう凶行に対し、ギュッと目をつぶって顔を背けた。

 フィンの反応は素早かった。彼は水夫の片割れがナイフを抜いたのを見ると、身をかがめて足元のリンゴを一つ拾い、向かってくる優男の顔に投げつけた。男はとっさに手で顔をかばい、その右腕にリンゴが直撃した。薄赤い果実は粉々に砕け、むっとした匂いのこもった貨物室に、甘いさわやかな香りが広がった。

 フィンはその隙に水夫との距離を縮め、手刀でナイフをたたき落とすと、男の腹に拳をたたき込んだ。
「ぐぇ」
 カエルが潰れたような悲鳴をあげて、細身の水夫は床に崩れ落ちた。フィンは床に転がったナイフを片足で制し、壁際の大柄な水夫を鋭く一瞥した。

「すごい…」
 おそるおそる目を開けた少女は、優男の水夫が床に転がっているのを見て、思わずそうつぶやいた。
「野郎……」
 ひげ面の水夫は、自らの巨体を揺らしながら立ち上がった。だが、足が言うことを聞かず、壁にもたれた体勢を維持するのが精一杯だった。フィンの方もそれ以上手を出さず、注意深くかがみ込んで足下のナイフを拾った。フィンも水夫もそのまま動かず、しばらく睨み合いが続いた。

「おい、俺の船で一体何をやってるんだ?」
 騒ぎを聞きつけたのか、船員を二人伴って船長があらわれた。船長は針金のようなあごひげを生やした細面の男だった。服は水夫たちと同じだが、派手な飾りのついた濃紺の帽子をかぶっていた。

「あ、船長!この野郎、いきなり俺たちを殴りやがったんで」
 ひげ面の水夫がここぞとばかりにそう叫んだ。
「おい、ディゴ。俺はフィンさんを呼んで来いって言っただけだぜ。またいらんちょっかいを出したんだろう?」
「いえ、その……」
 ディゴという名の水夫は、目の前の銀髪の若者をなんとか悪者に仕立て上げようとしたが、うまい言葉が見つからず、そのまま黙り込んでしまった。

「まあいい。そこで寝てるヴィトーを連れて、さっさといけ」
「チッ……了解です。おい、ラル。ヴィトーを運ぶから手伝ってくれ」
 ひげ面の水夫は、リンゴを蹴散らしながらよろよろと壁際から離れた。彼は船長の連れてきた船員の一人と協力して、床に転がったヴィトーと呼ばれた水夫を抱え、貨物室から出て行った。

「あいつらにも困ったもんだ」
 船長はそう言うと、床に座り込んだ。彼はフィンにも座るように促し、フィンはそれに従って腰を下ろした。
「おい、パイプ」
 一人残った船員がパイプに火をつけ、船長に差し出した。船長はそれを受け取ると、美味そうに吸い始めた。

「俺は昨日のことを話しに来たんだ。結局あの後、時間がとれなかったからな」
 船長はパイプを口から外し、ゆっくりと煙を吐き出した。
「フィンさん、あんたはタバコをやらんのか?」
「いや、あまり性に合わなくてね。――それより船長、はずみとはいえ積荷に傷をつけてしまった。船員に手を出したのもこちらが先だし、申し訳ない」
 フィンはそう言って船長に頭を下げた。

「ああ、そのことか。別にかまわんよ。血の気の多い奴らでな、ひっぱたいてもらった方がこっちのためになるぐらいだ。積み荷も箱一つ分ぐらいならどうとでもなる」
 船長はそう言って笑い、床に転がるリンゴを眺めた。
「おい、フェルグス、床のリンゴを拾って他の箱に移しておけ」
「はい、わかりました。船長」
 フェルグスと呼ばれた水夫はリンゴを拾い集め始めた。

 船長は壁にもたれ、あごひげを撫でながらフィンに話しかけた。
「なあ、フィンさん、あんたは俺のことをひどい人間だと思うか?」
「…どうだろうな」
「まあ、ひどい奴さ。言い訳はしない」
 嬢ちゃんには悪いことをしたしな、と付け加えて、船長はエレンに笑いかけた。少女は胸に抱えていた堅パンのことを思い出し、その最後の一片を食べているところだった。話しかけられた彼女は驚いて顔を上げ、少し困った様子で曖昧に笑った。

「俺の船では密航者に容赦はしないよう徹底してあるからな。――フィンさん、知ってるか?最近の密航者どもは船員の隙を見て船を乗っ取ろうとするんだぜ。こんなこと、数年前だと考えられん」
「それって、どういうことなんですか?」
 船長の話に興味を惹かれたのか、エレンがそう尋ねた。

「厚かましい奴が増えたってことだ。どうせ危険を冒すならもう一仕事、ってところか。つい一月前にもそんな騒動があってな、俺の部下も何人かそれで死んだ」
 船長は話を切って、パイプの煙が立ちのぼる様をぼうっと眺めた。
「生き延びて金を掴むためには何でもありの時代だ。親を売り、兄弟をだまし、親友を殺す。全く、悪い時代になったもんだ」
 しばらくして、船長はぽつりとそう言った。フィンとエレンは何も言わず、遠い目をしてパイプをふかす細面の男をじっと見つめていた。

「しっかしまさか、俺の言い値で買うとはなあ」
 少しの間黙っていた船長は、不意に声を明るくしてそう言った。昨日のことを思い出したのか、煙を口から吐いて、へへっ、と笑った。

 密航して捕まったエレンを買い取りたいと申し出たフィンに対し、船長は少女に金貨十五万枚の値をつけた。これは相場の倍近い値段だった。ふつう若い女なら金貨七万五千枚から八万枚といったところだろうか。彼はフィンに手を引かせるつもりで値段をつけたのだが、フィンは何も言わずに金貨で十二万枚支払い、不足分はイェルスの上級市民証も渡したのだった。

「そういやフィンさん、買っちまった俺が言うのもなんだが、あんた市民証なしでこれから大丈夫なのか?」
 各国の市民証は裏で非常な高値で取引されている。一般的な市民証だと金貨三万枚、上級市民証ともなれば金貨五万枚はくだらない。イルヴァでは市民証は命そのものだからである。この小さなカードがないと、社会的に人間として認められない。市民証のない者は、一切が自己責任なのであり、たとえ殺されてしまったとしても、加害者には何のお咎めもないのである。

「いや、問題ない。もともとティリスでは冒険者登録をして暮らしていく予定だった。ポート・カプールには戦士ギルドもあるというし、ティリスの市民証を手に入れるのはそんなに難しいことじゃないさ」
「それができなくて何人の人間が苦しんでると思ってるんだ?まあ、あんたなら大丈夫なんだろうな。ヴィトーはともかく、ディゴまでぶちのめしたんだからな」
 船長は心底愉快そうに笑った。

「ディゴって、さっきの大男のことか」
「ああ、図体のでかい奴さ。人一倍食うが、この船じゃ一番の腕っ節だな。――なあ、どうだい、フィンさん。あんた、この船で働かないか。どうやら腕も立つようだし、何より女のために惜しまずポンと金を出すのが気に入った。なあに、船員どもには俺がうまくとりなしてやるよ。明日のことも分からない冒険者稼業よりはずっと安定してるぜ」

「いや、遠慮しておく。昨日今日とこんなことが続いたのに、連中と上手くやっていけるはずがないからな」
 フィンはエレンの方を見ながらそう言った。彼女は話を聞くのをやめ、一人残った大人しそうな水夫を助けてリンゴを拾い集めていた。

「まあ、そうだろうな。すまん、言ってみただけだ。忘れてくれ」
 船長はそう言って立ち上がると、拾ったリンゴを他の木箱に押し込んでいる船員に声をかけた。
「おい、フェルグス。片付けが終わったらとっとと持ち場に戻れよ」
「はい、船長。了解です」
 船長はそのまま貨物室を出て行きかけたが、立ち止まってフィンの方を振り返った。

「ああ、そうそう。しばらくはこの部屋で我慢しててくれ。他の船員共の手前、これ以上客扱いをするわけにもいかん。今のあいつらはお預けを食らってる獣と同じだし、この一件で相当気が立ってるだろうからな。奴らは俺が適当に押さえておくから、とりあえず大人しくしていてくれ」
「ああ、別にかまわない。ただ、簡単な寝具でいいから、何か分けてくれないか」
「分かった。後でそこにいるフェルグスに届けさせる」

 船長はそう言うと、貨物室を出て行った。一人残った水夫も、部屋の片づけが済むと、フィンにぺこりと一礼して部屋を出て行こうとした。
「あ、ちょっと待ってくれないか」
 フィンは水夫を呼び止めた。
「なんでしょうか?」
「このナイフをさっき運ばれていった水夫に返してほしいんだが」
 フィンは細身の水夫の持っていたナイフをフェルグスに渡した。
「ヴィトーさんにですね。分かりました」
 彼はフィンに微笑し、では、失礼します、と頭を下げて部屋を出て行った。

「フィンさん、これ、見てください」
 水夫が出て行った後、エレンが嬉しそうにフィンの元に戻ってきた。彼女の両手にはリンゴが三つかかえてあった。
「さっきの人、フェルグスさんでしたっけ、あの人からもらったんです。木箱に入りきらないからって。一つ、どうですか?」
「ありがとう、いただくよ。エレン、バックパックをとってくれないか。中にダガーが入っているはずだから」

 エレンはバックパックから短剣を取り出すと、リンゴの皮をむき始めた。その合間にカルーン地方の有名な歌を口ずさんでいる。フィンはリンゴの皮がむけるショリ、ショリという音と、少女の歌う素朴な民謡調の歌とに耳を傾けながら、今後の身の振り方について思案を巡らせ始めた。カルーンからポート・カプールに辿り着くまでは、ティリス東に広がる大氷河をぐるりと回り込まなければならない。長い船旅になりそうだった。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 序章2
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/10/03 21:57
(517年8月10日 朝)

まもなく夜の明ける頃だった。
ノースティリスに向かう商船クイーン・セドナの
貨物にまぎれ込み眠っていたあなたは
突然、悲鳴のような轟音に起こされた。

木材の裂ける音、船体をゆさぶる波の振動
帆を食い千切る風の唸り
まるで悪魔がもたらしたような突風の中で
年老いた水夫が神を呪ってつぶやいた。

「エーテルの風だ」

…そして、船が二度目の悲鳴をあげた。
波の重壁が何もかもを押しつぶし、人々が祈る間もなく
クイーン・セドナは夜の海にのまれていった。


 航海は順調だった。天気は良好、風に恵まれ、波も平穏だった。夏の時期で水の消費は早かったが、それもたいした問題ではなかった。ポート・カプールまではあと二日ほど。これほど順調な船旅も珍しかった。

「失礼します。朝食をお持ちしました」
 その日の朝、貨物室のドアが二度、控えめにノックされた。
「どうぞ」
 エレンが明るい声で答えた。すると、扉を開けてフェルグスが入ってきた。この水夫は貨物室での一件以来、フィンたちの世話を任されていた。手には朝食をのせたプレートを持っている。今日は塩漬けの魚をパンに挟んだものだった。船長が計らっているのか、フェルグスが気をきかせてくれているのか、食事は船員たちと同じものが出てくるようになった。フィンとしては水がまともになったのが一番ありがたかった。

「フェルグスさん、おはようございます」
「おはようございます。エレンさん、フィンさん」
「おはよう、フェルグス」
 フィンも防具の手入れをする手を休め、彼に挨拶した。フェルグスは三人分の朝食がのったプレートを床に置き、腰を下ろした。最初彼は二人分の食事を置いていくだけだったが、エレンに誘われてからは、彼も一緒に朝食をとるようになった。

三人は朝食を食べ始めた。柔らかな白パンが嬉しいのか、エレンはこの一週間、食事の時はいつも上機嫌だった。故郷カルーンの歌を口ずさんだり、この船旅で見聞きしたこと、気づいたことを二人に話したりした。帆の張り方や水夫の掛け声、船の揺れや積み荷のリンゴなど、彼女の話はとりとめなく多岐にわたった。

 フィンはエレンのみずみずしい感性に心が洗われる思いだった。彼女の話に盛んに相槌を打ち、少女が話に詰まったときは優しく助け船を出した。また、一度故郷の話題になったとき、彼はエレンに請われて故郷イェルスの話をした。機械文明が全盛を迎えているイェルスでも、彼の生まれたような田舎では、豊かな自然の中で昔ながらの生活が行われていた。

 フェルグスもまたエレンの話を興味深そうに聞いていた。彼は自分の生まれについては何も語らなかったが、その代わりに水夫たちに伝わる海の物語を話した。海底に眠る財宝、島ほどの大きさがあるという海の主、メロウと人間の恋などだった。どの海にもあるありふれた話もあれば、フィンが初めて耳にするものもあった。エレンはこれまでそういった海の話に触れたことがなく、物語の展開に一喜一憂しながら聞き入っていた。

 フェルグスは今日、恋人と死に別れた水夫の話をした。愛する人と死別した男が、夜ごと恋人の夢に悩まされる。水夫はついに海に繰り出し、海の果ての冥界から恋人を連れ帰ってくる、という筋立ての物語だった。これまでのたわいないものとは違った、どこか影のある話だった。

 水夫は(この話の主人公には名前がなく、単に水夫と呼ばれていた)海岸で生け贄の羊を殺し、漆黒に輝く波間をすり抜け、岩だらけの寂しい荒野に上陸した。死者の国である。水夫はこの国で、膨大な数の住人の中から恋人を見つけ出し、連れ帰らなければならない。水夫の心には期待と不安とが渦巻いていた。水夫は愛する人の名前を呼んだ。一度目は小声で、二度目は声を大にし、三度目はあらん限りの大声を張り上げた。その声は灰色の空に吸い込まれていったが、誰一人として答えるものは現れなかった……

 フィンはフェルグスが話している間、彼の様子をじっと眺めていた。フェルグスは物語る仕草一つとってみても上品だった。賢そうに輝く青灰色の目は、彼が陽気で荒っぽい海の男たちとは明らかに異なる存在であることを示していた。実際彼は羊のようにおとなしい男で、物腰も柔らか、船員としてはまだ新米のようで、始終雑用を押しつけられていた。フィンは最初、この無害な青年を気にすることもなかった。しかし、三日前にある場面を目にしてからは、彼に対する認識を改めた。


 それはフィンたちが朝食をとっていたときのことだった。複数人の大きな足音が聞こえたかと思うと、貨物室のドアが乱暴に開かれ、水夫たちが血相を変えて飛び込んできた。
「フェルグス!いるか!?」
 男たちは担架に血まみれの若い水夫を一人のせていた。

「見張りのやつがハーピーに襲われたんだ!」
 海の魔物の中には船を襲うものも多い。ハーピーは陸のモンスターだが、海辺に巣を作る種族で、航海途中の船を狙うことは珍しくなかった。彼らはどう猛で野蛮、時には群れで狩りをすることもある。

 フィンたちと談笑していたフェルグスは、急に真剣な顔になると、床から立ち上がった。
「落ち着いて。まず、傷を見せてください」
「ああ、できる限りのことはしたんだが、血が止まらないんだ!頼む、見てやってくれ!」
 担架を担いでいたディゴが吠えるようにそう言った。

 水夫たちはそっと担架を床に降ろした。フェルグスはかがみ込んで、怪我人の状態を確かめた。顔と手のひっかき傷は浅かったが、右の脇腹が深くえぐられていた。止血に当てられた白いぼろ切れには、大きな赤黒い染みができていて、それは今も少しずつ広がっていた。

「ひどい傷ですね。それで、ハーピーはまだ暴れているんですか?怪我人は他に?」
「いや、怪我したのはこいつ一人だけだ。ハーピーの方は俺が投げ槍でうち落としてやった。今頃は海の底だろうよ」
 ディゴが彼に似合わぬ神妙な顔つきでそう言った。
「そうですか。それは不幸中の幸いというものですね」

 フェルグスはそうつぶやくと、懐から小さな杖を取り出した。一見ただの棒きれだったが、彼が跪いて呪文の詠唱を始めると、それに呼応して鮮やかなマナの光を放ち始めた。その光は詠唱が進むにしたがって、徐々に治癒魔法独特の黄色っぽい光に変化していった。

 呪文が結びに入ると、そのクリーム色の光は、フェルグスが水夫にかざしている左手に収束していった。担架に横たわった水夫の傷口を、治癒の光が柔らかに照らし、慰撫し、縫合していった。

 それは癒しの手、中級治癒魔法だった。魔法自体は決して難しくはないが、フェルグスのそれは非常に高度なものだった。普通重傷を負った患者が病院に運び込まれたときには、腕利きの癒し手が数人がかりで、何時間もかけて治療にあたる。彼のように、たった一人きりで、それも目で見て分かるほどの速さで傷を癒やすとなると、これは規格外の才能といえた。

 魔法大国のエウダーナでも、これほどの癒やし手は数人といないように思えるほどだった。独自の魔法体系を持つエレアは、彼らの住む森の外の魔法を馬鹿にして、くだらない魔法はヴィンデールの森のリスでも使える、などと放言するのが常だが、彼の癒しの技の前では沈黙を守るほかないだろう。

「これでよし。傷はふさぎましたが、しばらくは安静が必要ですね」
 怪我人の治療を終えると、フェルグスは懐に杖をしまって立ち上がった。さすがに疲れ切ってしまったようだが、彼は満足そうな笑顔を浮かべ、額に浮かんだ汗を拭いた。

「それに、運が悪いと熱が出るかもしれません。傷口の消毒をする暇がありませんでしたし、体力も失われているでしょうから。持ち回りで看病するとして、当番をどうするか決めないと」
「そいつは後で船長の所に相談しにいこう。――ありがとな、フェルグス。お前がいてくれて、本当に助かるぜ」
 水夫は職業柄、仲間意識が強い。安堵した彼らは、口々にフェルグスのことをほめながら、彼の肩を叩いた。


 この一件以来、フィンはフェルグスに注意を向けるようになった。船に魔法使いが乗っているのは珍しいことではないが、それがイェルスお抱えの宮廷魔術師よりも腕がいいならば話は別だった。望めばどこの国の魔術師ギルドでも幹部になれそうな男が、なぜ辺境の貿易船でリンゴを運んでいるのだろうか。どうやら彼は船長に借りがあるらしいことまでは分かったが、フィンが探り出せたのはそれだけだった。

 フェルグスはフィンたちに対して、ほとんど給仕のような態度をとっていたが、自分の過去については何も語らなかった。この一週間、フィンやエレンに何度か水を向けられたが、その度に陰鬱な表情で黙りこんでしまい、まるで墓石のようだった。貝ならば口のこじ開けようもあるのだろうが、墓石ではどうしようもなかった。

 フィンたちが朝食を食べ終わると、フェルグスは物語を中断して立ち上がった。
「エレンさん、今日の話はここまで、ということでいいですか。そろそろ戻らないと皆さんにどやされるんで」
「はい、フェルグスさん。今日のお話もすごくおもしろかったです。何かこう、不思議な話でしたね」
「いつもすまないな。フェルグス。だが、さっきのも海の伝承なのか?今まで聞いたことのない話だったが」
「いえ、あれは僕が今即興で作った話ですよ。僕が知ってる海の話はもう全部話してしまいましたからね。これからどんな話にしていくのか、実のところ、何も考えてないんですよ。まあ、明日までにはいい考えが思いつくでしょうから」
 フェルグスはそう言って笑うと、プレートを持って貨物室から出ていった。

 フィンとエレンは今も一日の多くを貨物室で過ごしていた。先日の一件のせいか、水夫たちはフェルグスを除いて誰もこの部屋に寄りつこうとはしなかった。航海の間、フィンは淡々と体を鍛え、武器と防具の手入れをしてすごしていた。

 エレンはフィンの替えのシャツを繕ったり、窓から海を眺めたり、部屋の掃除をしたりして過ごしていた。文字は分かるようで、フィンが持っていたイェルスの軍事教本をパラパラと流し読みしていることもあった。今はフェルグスにわけてもらった糸で編み物を始めていた。

 フィンはバックパックの中から愛剣をとりだし、鞘から抜いて手入れを始めた。簡易のやすりを用いて、剣の表面の汚れや錆を慎重に落としていく。船上では潮風にさらされるし、湿気も多い。彼は普段以上に装備品の状態に気をつかっていた。

☆鉄塊と呼ばれる長剣『唯一の飛躍』 (2d10+2)(5) 4.2s

それは運勢を維持する
それは速度を維持する
それは火炎への耐性を授ける [****]
それは習得を10上げる
それは器用を5上げる
それは異物の体内への侵入を防ぐ
それはクリティカルヒットの機会を増やす [*****+]

 彼の剣は、火に対する護りもついた、なかなかの品だった。作業の合間に、フィンはエレンにフェルグスについて尋ねた。
「なあ、エレン。フェルグスのことだが、どう思う?」

 少女は編み物の手を止めてフィンの方を見た。
「いい人ですよね。優しい人。他の水夫さんはちょっと怖いですけど、あの人は一緒にいると安心します」
 ただ…、とエレンは言い淀んだ。
「今日はいつもと違ってましたよね」
 彼女は編み物を置いて、首をかしげた。

「違ったって、どのあたりが?」
「なんか悲しいような、達観しちゃったような。今日の話のせいですかね?」
「なるほどな。まあ、色々とあるんだろう。長い人生なんだ、話したくないことの一つや二つ、誰にだってあるさ……」
 フィンはそうつぶやくと、剣の手入れを再開した。エレンはそんな彼の表情が、先ほどのフェルグスのそれと驚くほど似通っていることに気がついたが、口に出しては何も言わなかった。


(517年8月11日 夜明け)

明け方、フィンは外から聞こえてくる喧噪で目が覚めた。一瞬船員が酔って騒いでいるのかと思ったが、どうやら違うようだった。遠くに海の咆吼が聞こえ、時折ガクンと船全体が上下に揺れる。積み荷もガタガタと音をたて、木箱の一つがローリングして他の箱とぶつかった。

(嵐だ。だが、眠る前は何事もなかったはずだ。何より窓から差し込んでくる光……)
「いや、そんなはずはない。今はまだ八月だ」
 フィンは不吉な考えを声に出して追い払うと、寝袋から這い出した。

「フィンさん、どうしました?」
 隣で眠るエレンも起きたようだった。
「ああ、エレン。目が覚めたのか。どうやら、嵐が来たみたいだ」
「え?でも、あんなにいい天気だったのに」
「海の天気は変わりやすいからな。ちょっと外の様子を見てくる」
「私も行きます」
「エレン、寝てていいから」
「こんなところに一人っきりじゃ、怖いですからね」

 エレンは寝袋を抜け出すと、薄明かりの中でにこりと微笑んだ。乱れた髪を手櫛で素早く整え、髪を後ろ手に束ねて結んだ。フィンは念のため愛剣を腰に吊った。

 二人は貨物室を後にした。船内では水夫たちが鬼気迫る表情で走り回っていた。そして飛び交う『エーテルの風』という言葉。エレンはそれを耳にした途端、びくりと体を震わせ、ぽつりとつぶやいた。
「そんな、せっかくカルーンから逃げてきたのに…」

 フィンは自分のいやな予感が的中したことを認めざるを得なかった。エレンの腕ほどもある太さのロープの束を抱えたディゴが、その巨体を揺すりながら急ぎ足で通り過ぎていった。

「フィンさん!エレンさん!」
 二人は甲板に通じる扉のところで、青い顔をしたフェルグスに出会った。
「大変ですよ!エーテルです!エーテルの風が!」
 フェルグスもいつものように落ち着いてはいられないようで、慌てた様子で二人の方に走り寄ってきた。

「船は大丈夫なのか?」
 フィンは短くそう尋ねた。
「今、船長たちが甲板で最善を尽くしています。僕はあなたたちの様子を見てくるようにと言われまして」
 エーテルの風が吹き荒れるこの状況では、魔法など何の役にも立たない。自分の無力を恥じているのか、フェルグスはうつむいてしまった。
「人手は?」
「正直なところ……足りているとはとても……」
「チッ……、フェルグス、エレンを頼む!!」

 フィンはそう言い残すと甲板に飛び出していった。太陽はまだ薄もやの向こうだというのに、辺りは昼間のように明るかった。かすかに光を帯びたエーテルの粒子が、荒れ狂う風に乗って無数に飛び交っていた。カルーンで何度も見てきた、悪夢のような光景だった。轟音が鳴り響き、今にも帆が食いちぎられそうになっている。波と風でまともに立っているのも困難だった。

 甲板では船長が船員に大声で指示を飛ばしていた。船に流れ込んでくる海水を汲み出す者、舵をとろうとする者、帆を降ろすためにマストに上る者、帆綱を支える者、皆必死だった。

「船長!!何か手伝うことはないか!?」
 フィンは嵐に負けないよう、大声で叫んだ。
「フィンか!!素人は引っ込んでな!!これは海の男の戦いだ!!」
 船長はフィンの方をちらりと見るなり、そう怒鳴り返した。

「ヴィトー、帆の方はどうにかならんか!?」
「駄目です船長!この風じゃ!」
「ロープを切っちまえ、切り落とすんだ!このままだと、マストごと折れちまうぞ!」
 船長はいらだたしげにそう指示したが、荒れ狂う嵐の下、作業は思ったようには進まなかった。

 フェルグスはフィンが飛び出していった後、風に手こずりながらも、無理矢理扉を閉めた。扉は蝶番がきしみ、今にも風に負けて吹き飛んでしまいそうだった。それを背中で支えながら、彼は言った。
「さあ、エレンさん、貨物室に戻ってください」
「そんな、でも……」
 エレンは極度の緊張と恐怖とで青ざめ、今にも倒れてしまいそうな様子だった。

「大丈夫、フィンさんはきっと無事に戻ってきますよ。あの人はエーテルの風の下でだって、そう簡単に死ぬような人じゃないですからね」
 フィルグスはエレンを安心させようと笑ったつもりだったが、血の気のない彼の唇が奇妙に歪んだだけだった。
「フェルグスさん……」
「ダメです。部屋に戻ってください。こんなことを言いたくはないんですが、あなたが今甲板に出て行っても、何の役にも立ちませんよ。風に吹き飛ばされてしまうだけです」

 エレンは震える手でスカートの裾を握りしめ、うつむいた。
「――そうだ、エレンさん、船倉の方に行って、浸水していないかどうか確かめてきましょう。何もしていないよりは気が紛れますよ。向こうに行って、戻ってくる頃にはフィンさんも帰ってきてるでしょうから」

 エレンはうつむいたままで、返事をしなかった。その沈黙を肯定として受け取り、フェルグスは少女の手を取ろうとした。すると、彼女は顔を上げ、手を引っ込めた。顔は相変わらず青ざめていたが、きっぱりと何かを決意した表情だった。

「フェルグスさん、どいてください。私、フィンさんを連れ戻してきます」
「エレンさん、あのですね」
 フェルグスは少し声を荒げて少女に呼びかけた。
「いい加減僕の言うことを……」

「ごめんなさい!」
 エレンはそう言うと、いきなりフェルグスに体当たりして突き飛ばした。細身の体からは信じられないような力だった。フェルグスは壁に背中をぶつけ、あっけにとられた様子で彼女の方を見つめた。
「本当にごめんなさい!」
 エレンはフェルグスにもう一度謝ると、扉を開けて甲板に走り出ていった。


 状況は刻一刻と悪化していた。エーテルの風はやむ気配がなく、ますます強まっていた。船の乗組員たちは、エーテル病の危険におびえながら、船が沈まないよう懸命に作業していた。

 フィンは船に流れ込んだ海水の汲み出しを手伝うことにした。この非常時には、先に起こった事件によるわだかまりなど忘れ去られてしまっていた。水夫たちは彼の助力に礼を言い、木製の桶を手渡して作業の概要を説明した。

 後から後から海水が流れ込んできて、この作業は全く終わりが見えなかった。フィンは船員たちと共に、全身ずぶ濡れになりながら水をくみ出し続けた。

 そして、彼らの努力をあざ笑うかのように、一際強い風が船に吹き付けた。船のマストがメリメリと嫌な音を立て、根元から折れてしまった。マストに上っていた水夫は、耳をつんざくような悲鳴をあげて、折れた柱ごと沸き立つ波間に消えていった。帆綱を支えていた水夫たちも、もんどりうって倒れ、運の悪い者が一人、波にさらわれていった。

「畜生!!」
 船長はマストの折れ口を蹴り飛ばした。帽子は風に飛ばされ、波しぶきで全身ずぶ濡れになっていたが、その背中は不思議な威厳と迫力とに満ちていた。

 ちょうどその時、エレンが扉を開けて甲板に出てきた。彼女は吹きつける突風に顔をしかめ、手で風よけを作って辺りを見回した。彼女はフィンの姿を見つけることが出来ず、海水で滑りやすくなっている甲板を危なっかしい足取りで進んだ。

「おい、あれ、お前の女じゃないのか!?」
 フィンの隣で水を汲み出していた水夫が、彼の肩を叩いてエレンを指さした。
「エレン!?フェルグスの奴、一体何やってるんだ!」
 フィンはエレンに気がつくと、桶を放り出して少女の方に近づいていった。彼女も彼に気がついたようで、顔を輝かせて彼の方へ足を速めた。

「エレン、なんで出てきたんだ!早く船の中に戻れ!」
 フィンは激しい身振りでエレンが出てきた扉を指さした。エレンは叱られた子犬のようにびくりとしたが、すぐにギュッと口元を結ぶと、大声で叫んだ。
「フィンさん、お願いですから船の中に戻ってきてください!」
「エレン!この嵐が終わったらな!今は人手が足りないんだ!」
「じゃあ、私もてつだ…」

 少女が言い終わらない内に、船がグン、と急激に沈みこんだ。大波が目前に迫っていたのだった。この船を丸ごと飲み込んでしまいそうな、大きな波だった。
「きゃあ!!」
 エレンはバランスを崩し、船の壁面にたたきつけられた。フィンも転倒し、甲板の上を滑っていって、マストの折れ跡に背中をぶつけた。

「ぐっ……エレン!!」
「フィンさん!!」
 フィンとエレンはお互いに手を伸ばし、互いの名を叫んだが、その声もむなしく響いた。次の瞬間、クイーン・セドナ号は波にのまれ、フィンはエレン共々、海に放り出された。


フィンは朦朧とした意識の中で、過去の幻影を見た。懐かしい記憶だった。今のフィンよりも一回り若い青年が、イェルスの士官学校の制服に身を包み、船に乗り込むところだった。見送りは母親一人だった。彼は素晴らしく晴れやかな顔つきだったが、母親は対称的に暗く沈んだ表情だった。

「じゃあ、行ってくるね。母さん」
 青年は母親に笑いかけた。波止場の風も爽やかな五月のことで、日差しが千々に分かれて波間に輝いていた。
「大丈夫かい、フィン。カルーンなんかに…」
「心配いらないって」
 彼は鷲の文様に金色の縫い取りがしてある学帽をかぶり直した。

「留学生だなんて、随分と勝手だね、国も。別にお前が行かなくたって…」
 母親は哀れっぽくため息をついて、手をこすり合わせた。
「母さん、またその話?そりゃ、向こうじゃ学べることも少ないだろうけど、何よりお金が出るからね」
 願ってもない話だよ、と付け加え、彼は自分の乗り込む客船を眺めた。立派な作りの船で、イェルスの王有であることを示す紋章が、その帆に大きく刻まれていた。

「カルーンは野蛮なところだよ。私のひいおじいさんも異形の森に出かけていって、エレアの魔法使いに食べられたんだから」
「ああ、分かってる、何度も聞いたよ、その話」
 彼はじれったそうにそう言った。母親は彼を説得しようとするたびに、いつも同じ話を持ち出すのだった。彼はもうそれに飽き飽きしてしまっていた。新しい世代の人々によくあるように、彼はこういった迷信やおとぎ話が、イェルスの人々の内にもまだ強く残っていることを不思議がっていた。

「でもね、私はあんたが心配なんだよ。こんなことを言って、また怒るかもしれないけれど、やっぱりやめておいた方がいいんじゃないのかい?今からだって……」
「あのねえ、母さん……」
 彼はイライラしてそう言ったが、母親が今にも泣き出しそうな様子であるのを見て、表情を和らげた。そして、彼女を安心させようと笑いかけた。彼の母親は、優しいが優柔不断で、涙もろく、いつも夫の影に隠れているような女だった。世の母親の多くと同様、お節介焼きで、心配性で、少し口うるさいところもあったが、彼は母を愛していた。

「手紙を書くから、安心して。それに、冬の休暇にはこっちに帰ってくるから。なにせ、あちらは随分と寒いらしいからね。雪がたくさん降るらしいよ。たくさんね…」
 彼は母親を抱きしめ、子供をなだめるように、優しく背中を撫でさすった。彼女はこらえきれずにとうとう泣き出してしまったが、彼は母が泣き止むまで、ずっとそのままの姿勢でいた。

 だが、約束とは裏腹に、彼が再びイェルスの地を踏むことはなかったのである。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第1話
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/10/06 20:37
第一話

(517年8月12日 深夜)

フィンは意識を取り戻した。最初に聞こえてきたのは、たき火の燃えるパチパチという音だった。炎は小枝を焦がしながらチロチロと踊り、洞窟の天井をほの赤く照らし出していた。フィンは気怠そうに右手を持ち上げ、自分の目の前にかざした。マメだらけの、無骨な、見慣れた自分の手だった。

「生きている…」
 フィンのつぶやきを聞き取って、たき火の前に座っていた男が振り向き、彼の方を見た。
「…意識が…もう戻ったのか?驚いたな」
 男は立ち上がって、フィンの方に近寄ってきた。緑の髪に青い目。エレアだった。彼らは辺境の地カルーンに広がる異形の森に住む種族で、森の外の人々とわずかに交易を行う以外は、完全に世間と没交渉だった。その性質は排他的で傲慢。長い生涯のほとんどを森の中で送るせいで、イルヴァに生きる多くの人々は、彼らを実際に見たことがなかった。フィンも何度かその姿を遠くから見かけた程度で、間近に見るのは初めてだった。

「君の回復を待つために、我々の急を要する旅がいつまで中断されるのか、気を揉んでいたのだが」
 その心配も無用のようだな、と、男はニヤリと笑った。
「君は重傷を負い倒れていた。癒し手の力を持つ我々に発見されたのは、全くよく出来た偶然だ」
「そうか、助けてくれたのか。ありがとう」
 フィンはこの男が何となく気にくわなかったが、起き上がって礼を言った。人好きのしない男だが、とにかく恩人であることには変わりない。

「ところで、私の他には誰か見なかったか?連れがいたんだ」
「いや、知らないな。どちらにせよ、君一人でも十分な重荷だ。その上、もう一人抱え込むとなると……」
 男は肩をすくめ、小馬鹿にしたような調子で鼻を鳴らした。フィンも小さなため息をついた。洞窟にはこの男と自分だけしか見当たらない。覚悟はしていたが、やはりショックだった。

 その時、洞窟の入り口の方からもう一人のエレアが姿を見せた。
「あら、目を覚ましたのね。無事に意識が戻って良かったわ。あなたを最初に見たときは、もう手遅れかと思ったほどだもの」
 彼女は腕に抱えていた山菜や木の実などをたき火の脇に置くと、フィンの顔をのぞき込んだ。

 ――美しい。フィンは雷に打たれたような衝撃を感じながらそう思った。彼女を初めて見た時に、老若男女を問わず、誰もがおぼえる感情だった。エレアは肌が白く、美男美女が多いが、彼女は特別際だって美しかった。水色の髪に青い目が映え、口元は凛々しく結ばれている。鼻筋もきれいに通り、眉も柳の葉のように細く形の良いものだった。

 これまで散々同じ反応を見てきたのだろう。ロミアスはフィンの心の中を見透かしたのか、あざけるように口の端をつり上げた。
「そんな物珍しげな顔をするな。君の察するとおり、我々は異形の森の民だ。エレアは……シエラ・テールの高潔なる異端者は、他種族の詮索に付き合う無駄な時間をあいにく持ち合わせていないが、君は、我々に拾われた幸運をもっと素直に喜ぶべきだな。瀕死の君を回復させることは、ここにいるラーネイレ以外の何者にも不可能だっただろう。何せ彼女はエレアの……」

「ロミアス、喋りすぎよ。相手は怪我人なんだから」
「…そうだな。私の悪い癖だ、わかってはいる」
 ロミアスは舞台役者のような仕草で二、三度首を振り、口を閉ざした。しかし、すぐさま彼は思い出したようにフィンに質問をした。

「そういえば、君の名前は何という?まあ、命の恩人の我々に名乗る名がないというなら、それでもかまわない」
「フィンだ。フィン・マック-ル。よろしく」
「なるほどな、フィン。私はロミアスだ。といっても、もう会うことはないだろうが」
「フィン。いい名前ね。私はラーネイレ。よろしくね」
 ラーネイレはそう言ってにこりと笑うと、握手のために手を差し出した。フィンは差し出された彼女の手を前にして狼狽し、まるで十五の青年に戻ったような心地で彼女の手を握った。

「…さて、フィン、見たところ君はノースティリスの人間ではないようだが、一体どういう事情でここに流れ着いたのか、教えてくれないか?」
 ロミアスはもう一度たき火の前に座り込み、そう尋ねた。
「カルーン発の船に乗ってポート・カプールを目指していたんだが、生憎季節外れのエーテルの風が吹いて、海に放り出されたんだ。……後のことは覚えていない」

「季節外れのエーテルの風、か。確かにあれは妙だった」
「そうね。ヴィンデールの森の力が強まっているのかもしれないわ」
「いや、そうとも限らないだろう。我々エレアにとって――」
 ロミアスとラーネイレは、しばらく先日のエーテル風について議論していたが、どうやら結論は出なかったようだった。

「……議論はこれぐらいにしておこう、ラーネイレ。我々がどれだけ詮索しようとも、結局は推測の域を出ないのだから。ところで、フィン」
 ロミアスはフィンの方を向いて言った。
「君はこれからどうするつもりだ?」
「ここで冒険者になろうと思っている。ノースティリスは古代の遺跡群が多いと聞く。剣には心得があるし、食うには困らないだろう」

「なるほど、そうか」
 ロミアスは、無謀な男は一月も経たないうちにのたれ死ぬだろうな、と言わんばかりに、冷ややかに笑った。
「それならば、余計な世話でなければ、我々の旅を再開する前に、この土地での生活の知恵を授ける程度の時間は割けるのだが」
「ああ、よろしくお願いする」

「賢明な判断だな。…そうだ、まずこれを食べるといい」
 ロミアスはたき火にかざしている焼き串の一本を抜き取ると、フィンに差し出した。
「あら、それ、ここで亡くなっていた人の死体でしょう。悪趣味よ、ロミアス」
 ラーネイレは顔をしかめた。串の先には人間の手だったものが刺さっていた。皮がキツネ色になり、水分が抜けて若干縮んでしまっているが、見間違えようもない形だった。

「ラーネイレ、君ほどの狩猟と採集の腕を持っていたとしても、万一ということもある。不作の時には飢えるだけ。備えは常に必要なのさ」
 ロミアスはニヤリと笑った。
「悪い人ね」
 ラーネイレは素っ気なくそう言うと、顔を背けた。
「これを食べろというのか?」

 フィンが生まれたイェルスでは人肉食は異端だった。宗教の影響が薄い国であり、神に死体を捧げる習慣も無いので、なおさらのことだった。そういった人の道に外れた行為は忌み嫌われ、法によって固く禁じられていた。
「もちろんだ。病人は食べて力をつけるべきだしな。それにここティリスでは、人肉食は悪食ではあるが…特に問題ない行為だ」

 フィンは渋々串を受け取り、かなり躊躇してから一口かじった。筋っぽく、皮を噛み切るのに苦労する。味など分かったものではなかった。
「本当に食べてしまったのか?」
 目をつぶり、何かをこらえるように咀嚼しているフィンを見て、ロミアスは楽しげにそう言った。フィンは思わず口の中の肉片を吐き出し、ロミアスを睨みつけた。

「冗談だよ、冗談」
 ハハハハハ、と声を上げてロミアスは笑った。
「フィン、私が何か作ってあげるから、そんなもの食べるのはよしなさい。ロミアス、本当にあなたって人は、人をからかうのが大好きなのね」
 ラーネイレはあきれた様子でそう言うと、採集してきたもので料理を始めた。フィンは、焼き串を忌まわしげにたき火の中に放り込んだ。肉の焼けるにおいが強まり、白い煙が洞窟に立ち上った……。


 こうした野営に慣れているのだろう、ラーネイレは採集物の中から手際よく山菜をより分けた。そして折りたたみ式のフライパンを組み立ると、山菜に塩で下味をつけ、たき火の上で炒め物を始めた。

「フィン、あなた、魚は好き?」
 料理をしながら、ラーネイレはそう尋ねた。たき火の赤い光が、彼女の白い肌を紅に照らしていた。
「ああ。好きだな。肉より好みだ」
「そう、ならよかった。体が弱ってるんだから、ちゃんと食べないとね。――ロミアス、あなたは魚の方の調理をお願いできるかしら」
「了解した」
 ロミアスはラーネイレが一匹だけとってきた魚を串に通すと、たき火のそばの地面に刺した。

「ねえ、ロミアス。あなたが焼いてるあれ、どうするの?」
「ああ、気にしなくてもかまわない。あの死体は私の今晩の夕食だからな。私はこれだけでいい」
「ロミアス、あなた…」
「言わなくても分かっているさ、ラーネイレ。これについては君ともう何度議論したか分からないくらいだ。考え方の違い、見解の相違というものさ。我々は死ねば肉塊であって、その点動物と何ら変わらない。その証拠に、イルヴァの神々だって人と動物の死体を区別しないだろう。人肉を食べられずに餓死するよりは、食べて生きながらえる方がずっといいというものだ」

「…もういいわ。あなたとこんなことを話していたら、果てが見えずに夜が明けてしまうものね」
 ラーネイレはやれやれといった様子で首を振った。
 料理が完成すると、ラーネイレは山菜の炒め物を皿に二等分し、片方をフィンに差し出した。
「はい、これがフィンの分ね。ロミアス、魚の方はどう?」
「ああ、もう十分火が通ったようだな」
「そう。じゃあ、夕食にしましょうか」
 ラーネイレはにこりと笑ってそう言った。

 夕食の間、フィンは専らラーネイレと話をした。
「ラーネイレ、私が乗っていた船が沈んだ話について、何か知らないか?連れが一人あったんだ」
「いえ、ごめんなさい。何も知らないわ。船が沈没したという話も、あなたから初めて聞いたもの」
「そうか…」
 フィンはしばらく手元の皿に目を落としていたが、やがて顔を上げて言った。

「そういえば、二人はどうしてティリスに?」
「私たちはヴィンデールの森の使者よ。森とエレアに降りかかる嫌疑を晴らすために、王都パルミアに向かっているの」
「パルミアの王はジャビ王だったな。賢王として名高いが」
 ラーネイレはフィンの言葉に軽い懐疑の響き、実際に自分の目で確かめるまでは判断を保留しておこう、というニュアンスを感じ取った。

「あの人は信頼できるわ。上辺だけの人じゃないもの。公正な人よ」
「随分と詳しいんだな」
「ええ、私がまだ小さかった頃、一度会ったことがあるの。忙しい人だったけど、公務の合間を見つけては私と遊んでくれたわ」
 ラーネイレはそう言って、白い歯を見せて笑った。

 それからしばらく会話が途切れたが、食事が済んでしまう頃、ラーネイレが口を開いた。
「ねえ、フィン。あなたは、こんな話を聞いたことがあるかしら。あるところに、魔法によって醜い獣のような姿に変えられた王子がいた……。彼は自分の姿に絶望し、国を捨て森の中の小屋で暮らしたの。ある日、狼に襲われ傷ついた女が、小屋に駆け込み倒れ込んだ。王子は迷いながらも女を介抱した。

 彼女はもちろん男の姿におびえて泣いたわ。でも、何日もたち彼女は男の優しさに気付いた。彼の誠実さに、抱える葛藤に、心を打たれたの。怪我の癒えた女は、男の支えとなり共に暮らすことを決心した……二人は様々な困難を乗り越えて、最後は王子にかけられた呪いがとけ、二人が結婚して幸せな結末を迎えるの」

「ああ、その話か。細部は違うが、よく似た話は私の故郷イェルスにもあったな」
「そうね。どこにでもある物語だもの。でも、わたしは小さい頃聞かされたこのおとぎ話が、どうしても好きになれなかった。きっと、醜い姿の男に対する愛が、どこかに置き去りにされた気がしたのね……」

 フィンは思わずラーネイレの顔をまじまじと見つめた。彼女は輝くような美貌を少し曇らせ、パチパチと音を立てているたき火をぼんやりと眺めていた。フィンはラーネイレが美しいのは、外見はもちろん、その内面も美しいからであることに気がついた。

 ラーネイレが語った物語にしても、通常めでたしめでたし、で済んでしまうだろう。だが、心優しいこのエレアの狩人には、獣の姿をした醜い王子が、物語から取り除かれてしまったように感じられるのだ。物語のあるべき姿、美しい結末に不都合な存在として。
 ラーネイレの考え方は、目の前にあるもの全てを損得抜きで救おうとする、高潔な、英雄的なものだった。だが、この殺伐とした時代では、どこか危ういものだった。

 フィンは命の恩人から上記のようなことを感じ取ったが、それについて彼女には話さなかった。そういった批評は自分が一段高いところに立っているかのような不遜な感じがしたし、何より彼自身がそうした彼女の善意で助けてもらったのだった。

「…優しいんだな」
 フィンはただ一言そう言った。
「そうかしら?」
 ラーネイレはフィンの言葉の調子に何かを感じたようで、優しく落ち着いた笑顔を見せて、自分の皿に残った山菜を口に運んだ。


 食事が終わってからしばらくして、ロミアスはフィンに言った。
「さて、フィン、腹ごしらえも済んだことだし、君に冒険者として最低限心得ておくべきことを教えておこう」
 ロミアスは洞窟の壁に立てかけてあったツルハシを手に取った。
「フィン、壁は掘れるか?君がこれから冒険者となり、レシマスをはじめとする遺跡群、ネフィアに潜るためには是非とも必要な技術だ。ネフィアには罠も多いが、通路が壁にふさがれていたり、隠されていることも多いからな」

「……ああ」
 フィンは無愛想にそう言った。彼はロミアスからツルハシを受け取ると、壁に叩きつけた。壁はもろく、あっさりと崩れた。彼は崩れた壁の残骸の中に、きらりと光るものを見つけた。フィンは屈んでそれを拾い上げた。
「これは…」
 それはインゴットに加工された金だった。なぜ洞窟の壁にこういったものが埋め込まれているのかは疑問だったが、フィンは途方もない価値を持つその輝きに見入った。

「どれ、何か掘り当てたようだな。私に貸してみるといい」
 フィンは躊躇したが、掘り当てた金塊をロミアスに渡した。
「ああ、これは…」
 ロミアスはそうつぶやくと、ニヤリと笑いながら、金塊と一緒に古びた巻物を彼に差し出した。
「この洞窟の前の住人の品か。このようなものを隠すなど、全く、酔狂な人間もいたことだ。この鑑定の巻物を読んで、それが何か調べてみたまえ」

 フィンは彼の言葉に従って、巻物に記されている呪文を唱えた。巻物は一度光を放つと消えてしまった。同時に、フィンの頭の中に、この金塊についての知識が流れ込んできた。模造品、金の代用、子供だましの品。つまりこれは金塊ではなく、途方もなく価値のない錆びた偽物の金塊なのだ。

 フィンは驚いて、もう一度手元の金塊と思っていたものを見直した。答えが分かってしまえば簡単なもので、鉱物の鑑定眼がない彼にも、それが偽物の金塊であることが分かった。端のところが錆びて変色しているし、重さも金にしては妙に軽いものだった。

「まあ、分かっただろう?金塊と偽金塊も見抜けないようでは、冒険者はつとまらない」
ロミアスはそう言って、また声を上げて笑った。フィンは内心面白くなかったが、彼の言うことがもっともなので、反論しなかった。

「手に入れたものは鑑定すべし。冒険者の鉄則だ。未鑑定の怪しい品は、店で売る場合も二束三文に買いたたかれる。それに、アイテムが呪われている場合もあるからな。呪われた装備は対象を蝕むし、ポーションや巻物の中には危険な効果を持つものも多い」

 ロミアスはそこで言葉を切ると、腕組みをしてフィンを眺めた。
「さて、次に戦闘だが……君は生憎、武器防具を何も持ち合わせていないようだな」
 フィンはそう言われて、腰に手をやった。鞘だけはまだついていたが、愛剣は海に放り出された際に失われてしまっていた。バックパックも海の底で、彼の持ち物は身につけているものしか残っていなかった。その衣服にしても、海水が乾いてゴワゴワしていた。

「ふむ、まあ、私の予備の弓でも使え」
 ロミアスは自分のバックパックから弓と矢束を取り出し、フィンに差し出した。だがその弓矢は禍々しい異様な気配を放っていて、フィンは受け取るのをためらった。

「ああ、忘れていた。これは呪われているんだったな。仕方がない、解呪の巻物を使うか」
 ロミアスはバックパックからぼろぼろになった巻物を取り出し、読み上げた。巻物は発光して消え、弓矢も白い光に包まれた。その光が消えると、フィンは弓矢から先ほどの禍々しい気配が消えていることに気がついた。

「では戦闘訓練といこう」
 ロミアスはフィンに弓矢を渡すと、洞窟の奥に入っていった。フィンは弓矢を装備した。彼は元々イェルスの軍人であり、銃器の心得はあったが、弓矢というものをほとんど使ったことがなかった。ロミアスは丸くて薄青い生物を抱え、すぐに戻ってきた。

「この洞窟に住み着いていたプチだ。肩慣らしには十分だろう」
 ロミアスはかがみ込むと、プチを三体解き放った。フィンは弓の撃ち方でまごついたものの、二十秒とかからずプチ三体を仕留めた。本調子ではないとはいえ、プチ程度では相手にならなかった。

「上出来だ。だが弓の打ち方がなっていないな。まあいい、次はこれだ」
 ロミアスは洞窟の壁際にあった宝箱を叩いた。
「おそらくこれも、この洞窟に住んでいた人間のものだろう。ダンジョンの宝箱には鍵がかかっていることがほとんどだ。解錠にはロックッピックを使え」
 ロミアスは先端が曲がった細い金属の棒をフィンに放ってよこした。フィンはそれを鍵穴に突っ込んで、解錠を試みた。でたらめに動かしてみると、何か手応えのようなものを感じたが、ロックピックは折れて使い物にならなくなった。

「まあ、最初はそんなところだろう。君の技量ではその箱を解錠するのは無理のようだな。宝箱はダンジョンに落ちているが、生憎そのほとんどが重い代物だ。解錠が無理ならあきらめるしかないだろう。気をつけろ……宝箱に押し潰されて無様な死をさらした冒険者を私は何度となく見ている」

 さて、一通り冒険者として必要なのはこれぐらいか、とロミアスはつぶやいた。
「よくやった。これでノースティリスで生活するための、基本的な知識は身についたわけだ。自分の状態を把握し、慎重に行動すれば、瀕死の状態を傲慢なエレアに拾われ、講釈をたれられることも、もうないだろう」
 ロミアスはニヤリと笑った。
「まだ目的が定まっていないのなら、南のヴェルニースを訪れるといい。ネフィアの迷宮群を巡るのも、貴重な経験になるだろう。この世界で何を見て、如何な足跡を残すか決めるのは君自身だ」

 ロミアスはそう言ってしまうと、外の空気を吸いに洞窟を出て行った。フィンはたき火の脇にどっとへたり込んだ。まだ熱があったし、その状態で色々と動き回ったせいか、ひどく疲れていた。そんな彼のそばにラーネイレが寄ってきた。

「ごめんなさいね。まだ具合が悪いのに、つらかったでしょう。でも、今彼があなたに話したことは、どれ一つとして冒険者になる上では無くてはならないものよ。ロミアスも彼なりにあなたのことを心配しているの。彼のやり方はどうかと思うけど、それをどうか忘ないでいてあげて」
 ラーネイレはそう言って微笑んだ。

「ねえ、フィン、あなたは知っているかしら。この世界は今、大きく変わろうとしているの。ここであなたと会ったのにも何か意味があるのかもしれないわ。――そうだ、あなたにこれをあげる」
 ラーネイレは古ぼけた銀細工のお守りを首から外した。彼女はフィンのそばにかがみ込むと、彼の首元に手を回してその首飾りをかけた。
「もうすっかり古くなって、ほとんど何の力も残っていないお守りだけど」

 フィンは熱と疲れで頭に霞がかかったようにぼうっとしていて、なすがままになっていた。彼はとにかく眠りたかった。ラーネイレにうわごとのようにお礼を言い、彼はたき火のそばで横になった。

「明日の朝、私たちはこの洞窟を去るわ。あなたとはもう会うことがないかもしれないけれど、幸運を祈っているわ、フィン。願わくば、この動乱の時代をあなたが生き抜けますよう」
 ラーネイレは眠ってしまったフィンを見てにこりと笑うと、たき火のそばにかがみ込んだ。彼女は小さくなった火に枯れ枝を足し、息を吹き込んだ。炎はまるで生き物のように息づき、パチパチと音を立てて燃え上がった。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第2話
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/10/12 01:42
第二話

ヴェルニースに入ろうとしたあなたを
ザナンの紋章をつけた兵士が呼び止めた。

入念な尋問の後、あなたの怪訝な目に気付いた兵士は
ザナンの皇子が遊説に来ているのだと答えた。

街の広場には人だかりができ、
供の腕に弱々しくもたれた白子の皇子の言葉に
皆が耳を傾けていた。

(517年8月12日 早朝)

 フィンは目を覚ました。体の熱っぽさは無くなり、調子は随分と良くなっていた。彼は起き上がって辺りを見回したが、エレアの二人組の姿はもうなかった。彼の寝床の脇には、数日分の食料と、水の詰まった革袋、軽症治癒のポーションが二本、新しいバックパックに、茶ばんだ巻物が一つ置いてあった。

 これらは全てエレアの二人組の置き土産だった。一番手近にあった巻物を紐解いてみると、それはノースティリスの簡易の地図だった。おそらくはラーネイレが自分のものを書き写してくれたのだろう。地図によると、ここから一番近い街は南方のヴェルニースのようで、子供の足でも一日とかからないぐらいの距離にあるらしかった。

 フィンは地図を眺めながら、ラーネイレとロミアスのことを考えた。エレアについては彼も様々な話を耳にしていた。美しく、賢く、傲慢で、他種族を見下し、しかもそれを隠そうともしない種族だ。暇さえあれば毒をはくロミアスなどは、典型的なエレアと言えるだろう。

 ――だが、ラーネイレは違っていたな、と彼は考えた。彼女は物腰柔らかで、情も細かく、話の分かる聡明なエレアだった。大体、この時代に行き倒れの人間を介抱する者がどれだけいるものだろうか。ロミアスの一人旅だったならば、今頃彼は海辺に屍をさらしていたに違いない。フィンは昨日ラーネイレから貰ったお守りを、懐から出して眺めた。光にかざすと、彼には読めない文字が細かく刻まれてあった。

 首飾りを懐に戻すと、フィンは洞窟の中を見回した。簡単な家具や寝床が整えてあって、少し前まで人が生活していたような形跡があった。しばらくはここを拠点に活動するのもいいかもしれない。彼はそう思いながら、たき火の跡に置いてある鍋の蓋を開けた。中には薬草とアピの実のスープが入っていた。これもラーネイレたちからの心付けということなのだろう。たき火の余熱でまだ暖かいそれを、彼はゆっくりと飲み干した。薬草の苦みがアピの実のほのかな甘みで和らげてあって、とても飲みやすい味だった。

 フィンは三日間洞窟で体を休め、十五日の昼になってから、南にあるというヴェルニースを目指して出発した。大きな街に行けば沈没したクイーン・セドナ号について何か分かるかもしれない。エレンが助かったのかどうか心配だし、フェルグスに船長、その他の水夫たちのことも気になっていた。

 フィンが滞在した洞窟は、山の中腹にあった。そのすぐ近くに小川が流れていた。彼が水を汲みにいくと、水場にいたウサギが二羽、驚いて逃げていった。彼は新鮮な清水で顔を洗い、ラーネイレにもらった革袋に水を詰めた。

 洞窟を出た頃は天気が良く、気温も高かったが、山を下って街道に出たあたりで空が陰り始めた。フィンは雨に降られないよう足を速めた。夕立の気配を感じ取って我が家に戻る農夫と何度かすれ違った。彼らは道沿いの小さな集落や村の人々だった。

 道中は何事もなく、フィンはどうにか雨が降る前にヴェルニースに到着した。埃っぽい鉱山の街で、仕事帰りの鉱夫の姿が目立っていた。

「そこの者、止まれ」
 フィンが街に入ろうとすると、武装した二人の兵士に呼び止められた。どうやらこの町のガードではないようで、彼らはザナンの紋章を身につけていた。

「どこから来た。ティリスの市民証を見せてもらおう」
「カルーンからです。ポート・カプールを目指していたのですが、先日のエーテルの風で船が沈んでしまいまして、ここに流れ着いたのです」
 パルミアの地にザナンの兵士がいることを不思議に思いながら、フィンはそう答えた。
「ふむ、難民か。災難だったな」
 兵士たちはお互いに目配せしてうなずきあった。
「…ちょっとこっちに来い」

 フィンは二人の兵士に両脇を挟まれて、門の横にあるザナン兵の詰め所に連れて行かれた。詰め所は石造りで、むさ苦しく、陰気な場所だった。演習用の刃を潰した剣が無造作に置かれており、非番の兵士はカードに興じていた。

 上官の目がないことを幸いに、こっそり酒を飲んでいる下士官もいた。この男は詰め所の扉が開く音に驚き、危うく手元の瓶を落としかけた。だが、入ってきたのが門番の兵士だと分かると、安堵の表情でため息をついた。彼は自分の醜態を見られた恥ずかしさで真っ赤になり、精一杯威厳を保とうとフィンを睨みつけた。

 フィンは多くの訝しげな視線に晒されながら、狭い部屋に連れていかれた。その部屋は痛んだ木製の机が一つあるだけで、はめ殺しの窓も手伝って、まるで牢獄のような雰囲気だった。兵士はフィンのバックパックを押収し、中身を一つずつ机の上に並べた。

「革袋にポーションが二つ、それにこれは…地図か。あとは武器として弓矢を一式。随分と少ない荷物だな」
「嵐に遭ったとき、全部流されてしまいましたから。今ここにあるものは助けてくれた方々にわけていただいたものです」
 フィンがそう言うと、二人の内、年長の方の兵士が思案顔でほおひげを撫でた。

「ふむ…まあ、いいだろう。それで、名前は」
 年かさの兵士は質問の際に語尾を上げず、一本調子にそう言った。
「フィンです。フィン・マックール」
「生まれはどこだ」
「イェルスです」
「ふむ、イェルス人か。それで、船に乗船していたことを証明するものを何か持ち合わせていないか」
「生憎何も…先ほども言いましたが、船が沈んだときに持ち物は全部流されてしまったのですから」
「沈んだ船の名前は分かるか?」
「クイーン・セドナ号です。リンゴ商船でした」
「おい、確認頼む」
「了解です」
 年配の兵士がそう言うと、若い方の兵士が部屋から出て行った。

 フィンはその後も根掘り葉掘り様々なことを質問されたが、これは明らかに時間潰しに過ぎず、老兵士の好奇心を満たすためだけに行われた。フィンがいい加減うんざりしてきた頃に、先ほどの若い兵士が戻ってきた。

「裏がとれました。先日沈んだ船の名前は、クイーン・セドナ号で間違いないようです」
「そうか…ならまあ、いいだろう。よし、フィンといったな、もう行っていいぞ」
 老いた兵士は立ち上がりもせず、手振りでフィンに部屋の出口を示した。

「すいません。ちょっとよろしいですか。船の乗組員はどうなったのでしょうか。何人か助かった人もいるかと思いますが」
「残念ながら海難事故は我々の管轄ではない。何か知りたいのならば、この町の酒場か冒険者ギルドに行け」
 ひげを生やした兵士は素っ気なくそう答えた。

「そうですか、分かりました。では、最後にもう一つだけ質問してもよろしいでしょうか」
 フィンがそう言うと、老兵士はうるさいやつだ、という目で彼の方を睨んだ。
「ここはパルミア国のはずですが、なぜあなた方ザナンの軍人が滞在しているのですか」
「……今はザナンの皇子サイモア様が、遊説のためにこの街を訪れていらっしゃるのだ。殿下のお命を狙う不届きな輩がいないとも限らないからな」

 年取った兵士はそう言うと、不機嫌そうに黙ってしまった。
「そうですか。分かりました」
 フィンは相手の露骨に冷淡な反応に苛立ったが、大人しく荷物をまとめ、二人の兵士に丁寧に一礼して詰め所を後にした。


 フィンが街の広場の方に向かって歩いて行くと、そこには大きな人だかりができていた。先ほど兵士が言っていたように、ザナンの皇子が演説しているのだった。鉱夫や商売女、浮浪者や使用人など、様々な境遇の人々が集まり、ザナンの皇太子を少しでも近くで見ようと押し合いへし合いしていた。

 サイモア皇子は木製の段に登っているため、集団の最後尾にいるフィンにも皇子の姿が見えた。彼は白子で、供の腕に弱々しくもたれていたが、その赤い目は生気に満ち、煌々と輝いていた。
「…そして深い悲しみが私を襲う。ザナンが新王国との戦に敗れ、指導者を失った大陸が二大国間の戦火の舞台となり、幾多の歳月が過ぎよう。
 今は亡きクレイン皇子のあとを継ぎ和平に模索しても、二国の対立の溝はうまらず、未だ緊張の糸は張り詰められたままだ。

 戦争……シエラ・テールを襲うかつてない危機に、血と炎に身を染めた国々は気付かないのだろうか?
 災いの風が我らの森をむしばみ、今この時にも多くの同胞が命を落とし、その土地を奪われているというのに。

 異形の森と、異端の民エレアが、レム・イドの悪夢の残骸≪メシェーラ≫を呼び覚まそうとしているのに。
 イルヴァに遣わされた大いなる試練は、同時に結束の機会である。もし我々が互いに争うことをやめ、他者を理解することを学び、共に手を取り立ち向かうならば、腐った森と異端児をこの地から一掃し、災厄に打ち勝つことも可能なのだ。

 今日のザナンに大国を動かすかつての影響力はない。然るに、私が成せる事は、諸君らに知ってもらうだけだ。二大国に迎合せず確固たる地位を築いたパルミア、そしてその忠実な民の決意こそが、シエラ・テールの希望であるということを」

 サイモアが一端そこで演説を切ると、広場は水を打ったように静まった。そして、誰かが「サイモア殿下、万歳!!」と叫んだのを皮切りに、大きな喝采が広場に響きわたった。サイモアの演説はまだ続いていたが、演説は無数の拍手と熱狂的な歓声でかき消され、最後列のフィンの所にまでは届かなかった。

 フィンは白子の皇子に対して興味を抱くのと同時に、彼の理論に違和感を覚えた。彼の脳裏にはラーネイレの痺れるほど美しい横顔が浮かんでいた。隣人愛を旨とする彼女は、エレアの中では珍しい存在だったのだろうが、彼の内にあるエレアへの偏見を解きほぐすのに十分な存在だった。

 そういえば、彼女は異形の森とエレアに降りかかる嫌疑を晴らすために旅をしていると言っていたのだった……。

 フィンは今もなおサイモアを称える歓声で満たされている広場に背を向け、沈没したクイーン・セドナ号の情報を得るため、酒場を探すことにした。


 フィンはたまたま通りかかったガードに酒場への道を尋ねた。そのガードは活発な印象の若者で、彼によると一番大きな酒場は東通りにあるそうだった。フィンが教わった道順をたどっていくと、途中で雨が降りはじめた。

 最初はぽつぽつと思い出したように雨粒が落ちてくるだけだったが、すぐに大粒の雨が街の石畳を激しく打ちつけた。先ほどまでほの白かった空が急速に光を失い、街灯がともり始めた。客足に見切りをつけたのか、商売っ気の無い商店や露店等は、次々と店じまいを始めた。そんな中、商魂たくましい屋台商人が一人、足早に家路を急ぐ人たちに声をかけていた。

「なあ、そこのお兄さん。ウイスキーはどうだい。雨で冷えた体が暖まるよ。なあに、ウチの屋根の下で雨宿りしていけば、夕立なんてじきにやむさ」
 男は浅黒いやせ形の男で、見たところ南方の出身のようだった。快活な人なつっこい目をくるくるさせて、陽気に呼びかけている。ほとんどの人は男を無視して素通りしているが、男は気にする様子も無かった。彼は雨音激しい鉱山の街には不釣り合いなほど明るい声で客を呼び込んでいた。

 商人の屋台のひさしは通りに長く張り出し、その下にテーブルとイスが一式取りそろえてあった。そこでは、自分がなぜここに座っているのか分からないような、当惑した顔つきの老人が一人、飲み物をすすっていた。

 フィンは一瞬ここで雨をしのいでいこうかとも思ったが、足を止めることなく通り過ぎていった。そもそも今の彼は文無しだったし、少しでも興味を示して足を止めると、強引に店先へ引き込まれるに違いなかった。

 クロークを雨よけにして家路を急ぐ人たちをかわし、石畳のくぼみに出来た水を跳ね上げながら、フィンは酒場を目指した。目当ての店を示す看板が見えてきたときには、彼はもうすっかりずぶ濡れになっていた。店はまだ開いて間もないようだった。

 フィンが入り口の扉を開けると、ドアに取り付けてある鐘がカラン、コロンと鳴って来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
 奥からウエイトレスの格好をした少女が、乾いたタオルの入ったカゴを持ってパタパタと出てきた。エレンだった。エプロンを着けて髪を結い、三角巾をかぶっていたが、フィンはすぐ彼女だと分かった。

「エレン!無事だったのか。良かった」
フィンはこの偶然に驚きながら、入口の暗がりから一歩前に出た。エレンは突然のことに戸惑い、自分でもよく分からないままぽつりとつぶやいた。
「フィンさん…?」
「ああ、私だ。エレン、また会えて嬉しいよ」

 フィンがそう言うと、少女はカゴを放り出し、彼がずぶ濡れになっているのにもかまわず抱きついた。
「フィンさん…!――良かったあ、無事だったんですね」
 エレンはそう言うと、感極まってフィンの腕の中で泣き始めた。フィンは少女の華奢で柔らかな体の感触に戸惑いながら、そっと腕に力を込めて抱きしめ、彼女が落ち着くのを待った。

 エレンの泣き声を聞きつけて、奥からまた一人ウエイトレスが出てきた。彼女もエレンと同様、濃い茶色のエプロンに白い三角巾を身につけていた。おそらくは二十代半ばなのだろうが、茶色の目にしろ、少し上向き加減の鼻にしろ、子供っぽい口元にしろ、こぼれるような愛嬌をたたえていた。

「あらあら、お客さん、その子と知り合いなんですか?」
 愛想のいいウエイトレスは、入口にいる二人のもとに近づいてきた。そして少しの間、二人の様子をじっと見ていた。やがて、彼女は床に落ちているカゴから、特別大きなタオルを拾うと、いたずらっぽく笑った。

「ほらほら、エレンちゃん。拭いてあげなさいな。お客さん、雨でビショビショに濡れてるんだから」
 酒場の女はタオルを広げて、二人の頭の上からかぶせ、そう言いながらも二人をもみくちゃにした。

 エレンはそうなってから初めて、自分がフィンに抱きついていることに気がつき、真っ赤になって彼から離れようとしたが、ウエイトレスに邪魔されて上手くいかなかった。フィンもエレンに抱きつかれている状況では何も出来なかった。

「うりゃ、うりゃうりゃ」
 女は嬉しそうにタオルを動かして、二人の体をでたらめに拭いていった。フィンはもう抜け出すことをあきらめ、同じタオルの下でバタバタしているエレンに声をかけた。

「エレン」
 少女は抵抗するのをやめて、フィンの方を見た。エレンの顔はまだ赤く、目も潤んでいた。間近で見る彼女は素晴らしく愛らしかった。フィンは今度は自分からエレンを抱きしめた。

「良かった…また会えて、本当に良かった」
 少女はこれ以上ないほど真っ赤になったが、彼のつぶやきに答えた。
「…はい、フィンさん。私もです」
 二人は体を離すと、タオルの下を幸いに微笑みあった。


 入口での騒動が一段落した後に、エレンはフィンにウエイトレスを紹介した。女はシーナと名乗り、営業用の愛らしい笑顔を見せた。彼女は挨拶もそこそこに、ずぶ濡れのフィンに服を貸すと申し出た。

 フィンはシーナの後に従って、店の奥に入っていった。シーナの後ろ姿で特徴的なのは、彼女の豊かに張り出した尻だった。その形は服の上から分かるほど美しく、フィンは目のやり場に困ってしまった。

 フィンが着替えて奥から出てくると、シーナに預けた服は暖炉で乾かされていた。雨は相変わらず降り続いていて、その活発な雨音が窓越しに響いていた。エレンは船で聞き覚えた船乗りの歌を口ずさみながら、テーブルを拭いていた。少女はフィンが出てきたことに気がついて、彼の方を向いた。

「フィンさん、着替え終わったんですね」
「ああ。服はあれ以外海の底だからな、助かった。シーナはどうしたんだ?」
「裏の酒蔵を見にいったみたいです。雨漏りがしていないか心配だそうで」
「そうか。――ところでエレン、どうしてこの酒場にいるんだ?」
 フィンは先ほどからの疑問をエレンにぶつけた。

「私、船が沈んじゃった後、海沿いの村の人に助けてもらったんです。すごくいい人たちばかりでしたけど、とっても貧しくって。私一人増えるってことは、それだけ食い扶持が増えるってことでしょう。これからどうしようかって考えていたところに、偶然シーナさんがお魚の買い出しに来まして」

「それで、シーナと一緒にここまで来たのか?」
「そうです。あの人、とっても優しい人で、私のこと放っておけないって。それに、お茶目な人ですよね。さっきも…」
 エレンは口ごもって顔を赤らめた。
「ああ、確かにそうだな」
 フィンは苦笑してそう言った。

「――それで、シーナさんにここへ連れてきてもらったんです。この店のマスターは、シーナさんのお父さんで、フィンさんが見つかるまで、ずっとここで働いたらいいって言ってくれました。女の子が増えると華やかでいい、とのことで……」
 少女はそう言って、はにかんだ様に笑った。

「エレン、君の他に助かった人たちは?」
 それを尋ねられると、エレンは一転して暗い表情になった。
「いえ、私の他には誰も……でも、フィンさんみたいに、私とは別の所に流れ着いたのかもしれませんしね。みんな無事だといいんですけど」

「……」
「……」
 しばらくの間沈黙が続き、窓の外から忍び込んでくる雨音が、いっそう強いものに感じられた。フィンは暖炉が燃える様を眺め、エレンは手元の布巾に目を落とした。
「なんだか、しんみりしちゃいましたね。フィンさん、何か飲み物でもどうですか?」
「そうだな、ウイスキーがあるならもらおうか。夏とはいえ、雨に打たれて体が冷えてしまった。暖かくして頼むよ」
「はい、分かりました」

 エレンは酒をとりにカウンターの方へ歩いて行った。フィンは少女を送り出してから、自分が一銭も持っていないことを思い出した。だが、今更彼女を呼び戻すわけにもいかず、居心地の悪い様子で座っていた。

 しばらくして、エレンは酒の入ったカップを持って戻ってきた。温めたウイスキーに夏みかんの果汁を入れて飲みやすくしたものだった。北方の国々では、体を芯から温めるこの飲み物が、盛んに消費されていた。

「はい、どうぞ」
 エレンはフィンのテーブルにカップを置いた。茶褐色のカップからは湯気が立ち上っていた。フィンはそれを一口飲んだ。熱いものが食道を通って胃の中に滑り降りていく。彼は満足げにふぅっと息をついた。少女もテーブルについて、そんな彼の様子をニコニコしながら眺めていた。

「あっちゃあ、やられた」
 その時、裏の酒蔵を見に行っていたシーナが戻ってきた。彼女は苦笑いしながら戸を閉めると、頭の三角巾を外した。

「シーナさん、どうしたんですか?」
「ああ、エレンちゃん。いやあ、父さんが今朝知り合いの所に出かけていったでしょう?その隙に、お酒の樽がいくつか盗まれちゃったのよ。一週間は向こうにいるから平気だけど、帰ってきたら怒られちゃう」

「それはひどいな。ガードに被害届けを出しに行こう」
「ガードなんてあてにならないわ。明日冒険者ギルドの方に盗賊討伐の依頼を出しにいくつもりよ。まったく、やくざ者が多いったらありゃしない」
 シーナはひとしきり愚痴ってしまうと、先ほどまでとはうってかわって、明るい調子でフィンに話しかけた。

「ところで、フィン、今日はここに泊まっていくんでしょ?」
「いや、ありがたい申し出なんだが、持ち合わせが無いんだ」
「いいえ、お代は結構。海の事故の後じゃあ、お金がなくても仕方ないわ。それに、困ったときはお互い様、っていうじゃない」
 シーナはフィンの向かいの席に座り、抱えていたクリムエールの栓を抜くと、一息で半分飲み干した。

「あーあ、酒でも飲まなきゃやってられないわ。エレンちゃんも飲む?」
「いえ、私はお酒飲んだことないんで…」
「だめよ、そんなんじゃ。ほら、ぐっと一杯、ね」
「はあ、分かりました」
 エレンは気が進まない様子でクリムエールの瓶を受け取ると、シーナを真似て、残りを一息で飲み干してしまった。

「あら、すごいじゃない。すごいすごい!」
 シーナは手を叩いてはしゃぐと、カウンターの奥に次のクリムエールを取りにいった。エレンは酒気にあてられたのか、口に手を当てたまま、少しも動かなくなった。
「大丈夫か、エレン?気分が悪いならトイレにでも……」
 心配したフィンがそう尋ねた。

「あ、大丈夫です……大丈夫」
 そうは言うものの、エレンは半ば放心状態で、顔だけでなく、耳や首元まで赤くなっていった。シーナがクリムエールのケースを丸々一つ担いで戻ってくる頃には、彼女はテーブルに突っ伏し、静かな寝息を立て始めた。

「あら、眠っちゃった?」
 シーナはクリムエールの瓶を一本テーブルの上に置き、寝入ってしまったエレンの頬を楽しそうにつついた。
「無理もない。酒を飲んだことがないのに、いきなりあれを飲み干したんだからな。エレンの部屋は奥なのか?寝かせてくる」
「うーん、場所が分からないでしょ。私が行くわ」
 シーナは手慣れた動作でエレンを背中に担いだ。少女は口から小さな声を漏らしたが、起きる様子はなかった。

 シーナは奥に行く途中で、フィンの方を振り返った。
「フィン、あなたはお酒大丈夫なんでしょ?宿賃がわりに付き合ってもらうから、そこの所よろしく」
 にこやかにそう言って、シーナは奥に消えていった。たいした女だ、フィンはそう思いながら、彼女が戻ってくる前に、ウイスキーの残りを胃に流し込んだ。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第3話
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/11/02 22:34
第三話

(517年8月16日 朝)

 翌朝、フィンは酒場のホールで朝食をとっていた。食事を作ってくれたシーナによると、エレンはまだぐっすりと眠っているそうだった。シーナはそれをいいことに、少女に色々といたずらをしたようで、フィンにその内容を楽しげに語った。

 朝食のメニューは、新鮮なミルク、炒り卵、レタスとトマトのサラダだった。テーブルの上のバスケットにはパンが入れてあったが、そのどれもがふすまの多い黒パンだった。フィンはそれをかじって初めて、カルーンの食糧事情がいかに豊かであったかをしみじみと感じた。あの辺境の農業国では、パンといえば常に白パンのことを指し、黒パンは粗末なものとして扱われていた。

 また、フィンが飲み物に水を頼むと、シーナは怪訝な顔をしてミルクを持ってきた。シーナによると、鉱山開発の影響で、この街の水質はかなり悪いようだった。水分補給には酒や果物のジュース、羊の乳などが好まれているそうだった。

 フィンは朝食を済ませた後、シーナに頼まれて酒場の模様替えを手伝った。彼らは店の装いを次々と新しいものに変えていった。テーブルやイスを涼しげな白木細工のものと入れ替え、ガラスの花瓶に花を生けていく。カーテンを白いレースのものに変え、入り口のベルに青いリボンを取り付けた。

「さあ、急いでこの机を運んじゃいましょ。ぐずぐずしてるとエレンちゃんが起きちゃう」
「エレンが起きてくると、どうしていけないんだ?」
「あら、中途半端な仕上がりの時に起きてこられたら、エレンちゃんをびっくりさせられ
ないじゃない」

 そう言ってシーナは茶目っ気たっぷりにウインクした。
 フィンとシーナが作業を終わらせ、すっかり様変わりしたホールで休んでいると、奥からエレンが出てきた。シーナの仕業なのだろう、少女の見事な金髪は三つ編みになっていた。それが慣れないのか、彼女は肩口にかかる金色の房をしきりと触っていた。

「うわあ、すごい……」
 酒場の変わりように目を白黒させているエレンに、シーナは嬉々として近寄っていき、自分が施した三つ編みの感想を尋ね、少女をからかい始めた。エレンは恥ずかしそうにしていたが、酔いは抜けきったようで、さっぱりとした顔をしていた。

「おはよう、エレン」
「あ、おはようございます、フィンさん」
 エレンはにこやかに頭を下げた。
「昨日はどうなることかと思ったが、元気そうでよかった」
「ええ、心なしか、いつもよりぐっすり眠れたような気がします。……ところで、これ、すごいですね、フィンさんとシーナさんで模様替えしたんですか?カーテンが雪みたいに真っ白で、なんだかおしゃれなカフェみたいですね」
 エレンは白を基調とした、涼しげな趣の店内を見回した。

「ああ、そうだ。シーナに頼まれてな」
「すいません、手伝えなくって」
「いや、もともとシーナがエレンを驚かすために始めたようなものだからな」
「そうよ、エレンちゃん。別に気にしなくっていいんだから。あ、そうだ、卵の焼き加減
はどれくらいがいい?」
 シーナはそう言って、エレンの朝食を作るために席から立ち上がった。

「あ、自分で作りますよ」
「いいのよ。座ってなさい。フィンさんと一緒にね」
 シーナがそう言って意味ありげに笑った。
「それで、結局卵はどうしたらいい?」
「あ、半熟でお願いします」
「分かったわ。ちょっと待っててね」
 シーナは厨房へ行き朝食を作り始めた。卵を割る小気味のいい音に続いて、フライパンの中から食欲をそそる音が店の中に響いた。
 エレンが朝食を食べ終わった後、フィンはシーナに冒険者ギルドの場所を尋ねた。
「シーナ、冒険者登録をしたいんだが、この街のギルドはどこにあるんだ?」
「中央広場の外れにあるわ。石造りですごく目立つ大きさだから、すぐに分かると思う。あと、私の盗賊討伐の依頼も出しておいてね」
「いや、その必要は無い。色々と世話になったことだし、私が犯人を見つけて懲らしめておこう」
「ありがとう。でも、フィンが冒険者として生きていくつもりなら、やっぱりこの件は依頼として出すことにするわ。この依頼をあなたが受けて解決したなら、それがギルドでの実績になるし」

 シーナはそう言うと、末尾に自分のサインをした依頼書をフィンに手渡した。
「確かにそうだな。ならその書類は預かろう。それで、エレンはどうする?今からギルドに行ってくるが、着いてくるか?」
「はい。一緒に行きます」
 残っていたリンゴジュースをおいしそうに飲み干しながら、少女はこくりと頷いた。


フィンとエレンはシーナに見送られて酒場を出た。鉱山で栄える都市なだけあって、石畳の上を多くの人が歩いていた。平日の昼間なので、この街の主要な働き手である鉱夫の姿はなかった。退役した老軍人や、年格好も様々な女中たち、それに加えて子供の姿をよく目にした。

 道ばたには乞食が座り込み、気長に慈悲を待っている。魔法帽をかぶった賢そうな男がコウモリを従えて歩いていたが、これは明らかに冒険者だった。通りに店を構える商店は、往来の人々にむけて盛んに声をかけていた。

「お休みでもないのに、すごい人ですね。まるでお祭りの日みたいです」
「そうだな。やっぱり栄えている街は違う」
「あ、馬車ですよ。ほら、あそこ」
 エレンが指さした先には、鹿毛の馬に引かれた馬車が走っていた。往来に馬車は少なかったが、これは街の衛生を守るため、個人の馬車を市街に乗り入れるのが禁止されているためだった。

 ただし、商業上の理由から、商店の馬車は許可されていて、貴族や名のある地主たちはこの抜け道を利用していた。商店を一つ抱えておくか、自分たち専用の馬車を商店名義で都合してもらうのが、この地の有力者のたしなみだった。商店の方も心得たもので、荷物に空きのあるときは、金を取って客を運ぶこともあった。

 フィンとエレンは広場を抜けていって、冒険者ギルドにたどり着いた。石造りの頑丈そうな建物で、見栄えこそしなかったが、実用本位のつくりだった。
「ここが冒険者ギルドか。シーナの言っていたとおり、随分大きな建物だな」
「そうですね。なんだか緊張します」

 二人は彫り物のない滑らかな石扉を開けて、中に入っていった。中は調度品が少なくさっぱりとしていたが、冒険者たちの出入りのせいで、床が泥で汚れていた。

 ギルドに入ってまずフィンの目を引いたのは、精悍な顔つきの大男と金髪の女だった。二人は入口脇の談話室の一席に、隣りあって座っていた。彼らの周りには取り巻きができ、若い男の方が上機嫌で語る話に耳を傾けていた。

 男は自分の話に夢中だったが、金髪の女の方はその緑色の目を、訪れた二人に向けた。そしてエレンと目が合うと、女は少女に対して笑いかけた。エレンもそれに気がついて、少し戸惑いながらもほほえみ返した。

 フィンはエレンと一緒に受付の方へ歩いていった。受付嬢は先述の大柄な冒険者に関心を奪われている様子だったが、フィンたちに気がつくと、笑顔を見せて愛想の良い挨拶をした。

「はい、おはようございます。冒険者ギルドにようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「新規で冒険者登録をしたいんだが」
「そちらのお連れの方と、お二人ですね」
 受付の女はフィンとエレンを交互に手で示した。
「いや、登録するのは私一人だ」
「なるほど、失礼いたしました。では、こちらが登録用紙となります」

 受付嬢はフィンに一枚の書類を渡した。彼はペンを借りて、必要最低限の項目だけを順番に埋めていき、書類が完成すると彼女に渡した。
「ありがとうございます。フィン様は市民証など、何かしら身元を示すものはお持ちでしょうか?」
「いや、何も。少し前に沈没したクイーン・セドナ号に乗っていたんだが、嵐で何もかも流されてしまった」
「そうですか…それはお気の毒に。――では、他の手続きもありますので、こちらに来ていただけますでしょうか」
「了解した。すまないが、エレン、ちょっとの間だけ待っててくれ」
「はい、フィンさん、頑張ってきてくださいね」

 エレンは手を振って奥の部屋に消えていくフィンを見送った。フィンが受付嬢と一緒に行ってしまうと、少女は冒険者たちが騒がしい談話室に立ち入った。鉄と汗の独特の臭いが混じりあって、彼女の鼻にまで届いた。初めての場所にエレンは辺りを見回し、一番端の目立たないテーブルについた。

 フィンを案内しながら、受付嬢は冒険者登録のプロセスについて説明し始めた。恐らく彼女はこの説明を、これまで数え切れないほど行ってきているのだろう。だが、彼女はそれに飽くことはなく、むしろ回数を重ねるごとに自分の説明が洗練されていくのに喜びを覚えているのだった。

「今からフィンさんには冒険者の実力をはかるテストを受けていただきます。テスト、といっても、このギルドのマスターと軽く手合わせしていただくだけです。出来不出来を心配する必要はありません。来るものは拒まず、去る者は追わずが冒険者ギルドのモットーですから」

 ギルドの受付の女は誇らしげにコホンと空咳をした。
「思うように結果が出なくても、ちゃんと冒険者にはなれますのでご安心ください。ただ、当協会の方といたしましても、新しく冒険者になられる方の実力を調査させていただいて、その方の力量にあった仕事を回していきたいのです。その点、なにとぞご理解の方、よろしくお願いします」

 受付嬢はそこで言葉を切ると、鍛錬場のプレートが下がっている部屋の前で立ち止まった。小柄な女は少し緊張した面持ちで、扉を二回ノックした。彼女は首をかしげ、耳をそばだてて待ったが、何の返事もなかった。そしてもう一度同じことを繰り返したが、徒労に終わった。

「はあ、いつもながら困ったものですね」
 受付嬢は小さく頭を振ってため息をつき、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、彼女は扉を開けて中に入っていった。フィンもそれに続き、部屋の中に足を踏み入れた。


 一方その頃、エレンはギルドの談話室の片隅に、居心地が悪そうに座っていた。部屋にいる冒険者たちは、見慣れない少女に時々好奇の視線を送ったが、話しかける者は誰もいなかった。大男の隣に座っている金髪の女は、そんな少女を見かねて、席からするりと抜け出した。女はエレンと同じぐらいの長さの、腰にまで届く金髪を揺らしながら、少女のテーブルに近づいていった。

「ねえ、ここ、あいてるかしら?」
 女冒険者の声にエレンはゆっくりと顔を上げた。エレンと目が合うと、女は少女を安心させるような優しい笑顔を向けた。エレンはほっと息をつくと、こくりと頷いた。

「ありがとう。私も暇なのよ。もしよかったら、話し相手になってくれないかしら」
 女はエレンの向かいの席に座ってそう言った。彼女はエレンよりも金髪の色が濃く、その緑色の瞳は、青を基調とした服と素晴らしい対比を見せていた。口元の柔らかい線が印象的な、落ち着いた雰囲気の美人で、テーブルの上で軽く手を組み、ゆったりと腰掛けていた。

「え、でも、あの人が…」
 エレンは弁舌爽やかに自分の冒険譚を語っている大柄な青年の方を見た。
「ああ、マスターは放っておいていいの。ああなったら処置無しで、当分どうしようもないんだから」

 女冒険者は肩をすくめ、困ったものね、と言って苦笑した。
「ええ、それならかまいません」
「敬語」
 女は人差し指を突き立てて左右に振った。
「え…?」
「敬語はお互い使わないことにしましょう。どっちが偉いってわけでもなし」
「はい……あっ、うん、分かった」
 女は赤くなりながら言い直す少女の様子が微笑ましくなり、心もち身を乗り出して問いかけた。

「それで、あなた、名前は?」
「エレンです。――エレン。それで、あなたは?」
「私?私はルーシー。偉大な大地の守護者、オパートス様からファーディア様のもとに遣わされた、黄金の騎士よ」

 ルーシーと名乗った冒険者は、真実強者である者のみに許される、静かな自負をにじませながらそう言った。窓から日の光を受け、彼女の豊かな髪は、黄金の騎士の名に恥じず、まばゆい輝きを放っていた。


 フィンと受付嬢が入っていった部屋は、薄暗く、窓に鎧戸が下ろされていた。明かりとしては、壁に取り付けられたランタンが、二つ灯されているだけだった。その乏しい光の下で、一人の老人が端座し、瞑想していた。貧弱な光源のためはっきりとはしなかったが、老人はかなりの高齢のようだった。

 受付嬢は慣れた様子で窓の方まで歩いていき、鎧戸を開けた。窓から明るい日差しが差し込み、部屋一面を照らした。部屋は大きく、板敷きで、巻藁がずらりと並んでいた。鍛錬用の模造剣や、それに取り付ける重り、穴だらけになった弓の的などが、用途別に木箱に収めてあった。

「アラウンさん、お願いですから、いるんだったらちゃんと返事をしてください」
 受付嬢は傍目から見ても緊張しきっていて、その注意は相手に遠慮した形だけのものだった。老人はゆっくりと目を開け、部屋に差し込んでくる日差しに目を細めた。

「すまんかったな、プイスちゃん」
 老人は立ち上がって、フィンたちの方にやってきた。彼は小柄で、受付嬢よりも背が低かった。髪は雪のように真っ白で、痩せた色黒の顔に立派な鷲鼻が目立っていた。

 だが、フィンにとって何よりも印象的だったのは、老人の洗練された身のこなしだった。彼の所作には一分の隙も無く、その細部に神が宿っていると言っても決して誇張ではなかった。

「新しい冒険者の方か、よく来なさった」
 老人はフィンの顔を見上げると、そう言った。
「ええ、久しぶりの新人の方なんです。彼の実力を確かめていただけますか」
「よかろう。それで、君の名前は?」
「フィン・マックールといいます。どうぞよろしくお願いします」
 フィンは老人に軍隊式の一礼をした。
「ああ、別にそこまでかしこまらんでもかまわんのに」
 老人はそう言うと、人の良さそうな笑顔をみせた。

「儂はアラウンという。ここで無駄メシを食わせてもらっとる爺だ。プイスちゃんから説明を受けたと思うが、今から儂と手合わせしてもらう。――君は何の武器が得意かね」
「剣は少し使えます」
「そうか、剣か。……どれ、じゃあこの中から選んでもらおうか」

 老人は子供のように無邪気に笑うと、フィンを伴って模擬戦用の武器を紹介し始めた。ここにはたくさんの種類の剣がとりそろえられてあった。スタンダードな長剣、異国の技術を用いた刀、刃の歪曲した海賊刀、両手でなければとても扱えないような大剣などが、それぞれ数十本ずつあった。

「どれも同じに見えるかもしれんが、一本一本微妙に違っとる。例えばこの二本の海賊刀でも、材質や見た目は同じだが…ほれ、持ってみるといい」
 アラウンはフィンに二本の武器を手渡した。若者はそれを慎重に持ち比べた。

「どうもこちらの剣の方が重いように感じられます」
 フィンはアラウンに二本の内の一本を差し出した。
「ふむ、よろしい。正しくは重さではなく重心の位置の違いだな。剣自体の重さは変わらんが、君が差し出した方の海賊刀は、刃の先端に重心が寄っておる。この方が斬りつけたときに威力は出やすいが、その分命中が安定しないという訳だ」
「なるほど、そういうことなのですね」

 それを皮切りに、二人の間で剣の重さ、材質、刃渡り、重心の位置など、専門的な会話が始まった。自分には縁の薄い会話に退屈しているのか、受付嬢のプイスは壁にもたれ、手で口元を押さえてあくびをかみ殺していた。


 エレンはその頃、ルーシーと名乗った黄金の騎士と話をしていた。
「ということは、ルーシーは神様の使いなの?」
「うんと、まあ、そういうことになるわ。オパートス様のもとで、敬虔な信者の力となれるよう、随分と長い間修行を積んできたの。私の場合は……」
 ルーシーは石造りの天井を見上げて考え込んだ。

「――百五十年くらいかしらね」
「すごい、百五十年も……」
「でも、私はまだ新米の方よ。一番年長のお姉様たちは、まだ神々の盟約が結ばれていなかった頃、オパートス様の手足となって他の神々と争ったそうよ。だから大体六百歳ぐらいかしら」

 実際は怖くて聞いてみたことがないんだけどね、と付け足して、ルーシーは笑った。エレンはあまりに彼女の話のスケールが大きいため、相槌も打たずにただただ感心してしまうばかりだった。

「でも、どうしてルーシーは私なんかに、その、話しかけようと思ったの?」
「どうしてって、それはエレンがここでひとりぼっちになってた……ってこともあるけど、やっぱり一番は、あなたがローランだからよ」
「ローラン?」
「あら、知らない?」
 ルーシーは意外そうにそう言った。

「ローランっていうのは、このノースティリスに住んでいる少数民族よ。といっても、ここパルミア国じゃなくてもっと北、大氷河のあたりなんだけどね。以前、一度だけ集落を訪れたことがあるわ。みんなエレンみたいな金髪碧眼の女の子たちでね、それであなたを見た時、あ、ローランの子だなって分かったのよ」

「でも、私カルーン出身なんだけど」
「あら、そう?私てっきりこの大陸の生まれかと思ってた。あなたの言葉のアクセントも、カルーンっていうよりは、むしろこの大陸のものに近い感じだし。――エレン、あなたのお母さんは、あなたと同じ金の髪で、青い目なんでしょう?」

「うん、そうだった。お母さんは私よりもっと色が薄くてね、本当、日の光に溶けちゃいそうなくらいきれいな金髪だった」
 エレンは懐かしそうに目を細めてそう言った。ルーシーは彼女の様子から、その母親がもうこの世にいないことを感じ取った。

「……なるほどね。ローランの女の子たちは生まれつき力が強いから、あなたもきっと優秀な戦士になれるわ。それこそ、さっき一緒だった男の人に頼りにされるぐらいにね」
 エレンはルーシーの言葉を聞いて顔を真っ赤にした。

「え、そ、そんなこと……」
「あれ?あの人、あなたの恋人なんでしょう?違うの?」
 エレンは口ごもり、小さい声で何かつぶやいたが、ルーシーはそれが聞こえず、きょとんとして首をかしげた。


 フィンとアラウンは剣を選び終わって、互いに向かい合った。フィンは使い慣れた長剣を、アラウンは刀を選んでいた。
「さ、どこからでもかかってきなさい」

 そう言ってアラウンは刀をかまえた。ギルドの長の言葉は穏やかなものだったが、フィンは向かい合うだけで、自分が圧倒的に格下だと思い知らされた。老人の放つ圧倒的な剣気に、フィンは体を思うように動かせなくなった。まるで網にでも絡め取られたかのようだった。まだ一合も打ち合っていないのに、勝ち筋はみるみるうちに細くなっていく。それが分かっていながら、彼は動くことができなかった。

 アラウンがゆっくりと一歩前に出た。一歩、また一歩間合いを詰めてくる。残り五歩の距離になった時、フィンは矢も楯もたまらず老人に打ちかかった。ギルドの主は銀髪の若者の攻撃を軽くいなし、続けざまに三度の斬撃を放った。

 フィンは最初の一撃を半身になってかわし、次の攻撃を剣で受け止めた。火花が舞い散り、金属の焼ける独特の臭いが漂った。最後の斬撃は一段と鋭く、狡知に長けた蛇のように彼の手元を襲った。

 フィンは脂汗を浮かべ、後ろに倒れ込むようにして身をよじった。なりふり構ってはいられなかった。先ほどまで彼がいた空間を、老人の剣が閃光のように通り抜けていった。フィンは辛くもこの一撃から逃れたが、その際にできた大きな隙を老人が見逃すはずもなかった。

 紫電一閃、フィンが気付いた時にはもう、彼の剣が床にたたき落とされていた。手には痺れさえ残らず、フィンは剣が手から離れる事実だけが与えられたような、不思議な感覚に陥った。

「うむ、なかなかの腕前だった。新人でこれだけできるのはファーディア以来だな」
 老人はフィンの取り落とした剣を拾うと、そう言った。
「ええ!ファーディアさんと同じぐらいの強さなんですか!?」
 壁にもたれて二人の試合を見物していた受付嬢が、驚いてそう叫んだ。

「まあちょいと甘いかもしれんが、駆け出しの頃のファーディアと同等の腕前だろう」
「ありがとうございました。自分の未熟さがよく分かりました」
 フィンはアラウンに丁重に一礼した。

「なに、そう謙遜することはない。フィンだったかな、君はもっと強くなれる。修練を怠らないようにな」
 そう言って、アラウンは孫の成長を見守る好々爺のような笑顔を浮かべた。
「気が向いたら、またここにおいで。いつでも稽古をつけてあげよう」
 フィンは老人にもう一度深々と頭を下げ、プイスと共に鍛錬場を後にした。

 フィンと受付嬢は鍛錬場を後にし、次の部屋に向かった。彼女は営業用の慇懃さを引っ込めて、彼の方を不思議そうにじろじろと見ていた。
「それにしても、新人の頃のファーディアさんと同じぐらい強いんですか…」
 彼女は感心したようにそうつぶやいた。

「さっきから聞こうと思っていたんだが、ファーディアというのは誰のことなんだ?」
「先ほどフィンさんがいらした時に、談話室で話していた大きな男の人です。オパートス神への信仰が厚く、黄金の騎士のルーシーさんをお供にしていますね。今朝になって、一年ぶりにこの街に帰ってきたんですよ。

 お話を伺う限り、どうやら他の冒険者と協力して、迷宮ベロンを攻略したそうですね。そして、ネフィアの主である炎の巨人を捕らえたとか。……おとぎ話にも出てくる、あの巨人をですよ。――本当に、ヴェルニース、いや、ティリス一の冒険者です。私自身はイルヴァで一番すごい冒険者だと思ってるんですけどね」

 受付嬢は恍惚した様子でそう言ったが、次の部屋にたどり着いた時には、元の調子に戻っていた。
「では、次にこちらの部屋で冒険者として必要な知識の講習を行います。講師は僭越ながら私プイスが務めさせていただきます。では、第一に……」

 基礎講習の内容はロミアスのそれとあまり変わり映えのしないもので、新しい内容といえば、罠の解除法が簡単に説明されたぐらいだった。講習が終わると、受付嬢は冒険者手帳をフィンに渡して、冒険者ギルドの規則について話し始めた。

「ご存じかと思いますが、ここパルミア国では、冒険者ギルドが国営となっています。我々の国にはネフィアが豊富で、特にその活動が活発ですからね。冒険者関連はパルミアが特に力を入れている制度でして、国によって保護されています。その一例として、駆け出しの冒険者は最初の一ヶ月間、納税の義務はありません。それに加え、ギルド内での働きに応じて、わずかながら給料が振り込まれます」

 プイスは一端話を切ると、お分かりいただけましたか?と言いたげな様子で、フィンの方を見た。
「かまわない。続けてくれ」
「失礼しました。それでは、これが冒険者にとって一番重要なことなのですが、ネフィアを探索する際は、必ずギルドにその旨を申請してください。探索で得た戦利品は自由にしていただいてもかまいません。

 しかし、探索後に、ネフィアの位置、内部の地形、遭遇した罠や敵、見つかった財宝の四点についての報告義務が生じます。ネフィア探索に必要なものは、当ギルドでも販売しておりますし、有料になりますが、当ギルドの方で戦利品の鑑定も行っておりますので、よろしければご利用ください。――これまでの説明で、何か質問はありますでしょうか?」

「では、ひとつだけ。それだけ冒険者に有利な制度があるのなら、皆形だけでも冒険者になるのではないか?ほとんど誰でも冒険者になれる。給料も支払われる、税金は一定期間免除といいことずくめのように思えるが」

「いい質問ですね。確かにそういう人は一定数存在します。ですが、そのための対策もいくらか設けてあるんですよ。免税はあくまで個人単位の所得にしか適用されず、自分が所有している商店の売り上げや、家や牧場にかかる資産税はなどは免税の対象外ですしね。

 それに、冒険者登録だけしたとしても、一定期間目立った業績のない人は冒険者の資格を剥奪されます。それだけなら大したことはないのですが、場合によってはペナルティとしてかなりの額の罰金が課せられたり、最悪監獄送りになることもありますからね」

「そういった罰則があるのは初耳だな」
「形だけのものですよ。何も働きがないのに給料だけせしめる悪質な連中を取り締まるための制度です。不的確と判断されても、普通は資格を剥奪するだけですからね。かなり特殊な例なので、説明からは省きましたが」

「……」
 フィンは受付嬢の顔を訝しげに一瞥し、受け取った手帳をパラパラとめくったが、それ以上は何も質問しなかった。


 その後、行われた手続きがすべて終了すると、フィンは受付の所に戻ってきた。彼が再び姿を見せたとき、エレンは談話室の端のテーブルで、ルーシーと仲良く談笑していた。フィンが帰ってくるのを見て、少女は顔を赤らめ、黄金の騎士に別れの挨拶をして立ち上がった。

「あ、待って、エレン。これを」
 ルーシーはエレンに小さな紙切れを差し出した。
「これが私たちの宿の場所よ。何日かこの街に滞在するつもりだから、何かあったら気軽に連絡してちょうだい」

 エレンは紙片を受け取り、折りたたんでスカートのポケットにしまった。
「ありがとう、ルーシー。……あなたに会えて本当に良かった。それじゃあ、またね」
 二人は別れの抱擁を交わすと、お互いに笑顔を見せた。

「じゃあ、エレン、そろそろ帰るとするか」
「はい、フィンさん」
 エレンはそう言うと、振り返ってルーシーに手を振った。黄金の騎士もそれに応え、少女に励ましの言葉をかけた。彼女は長い金髪を揺らしながら、冒険者の輪の中に戻っていき、今なお冒険譚を語る彼女の主人の隣に座った。

 フィンとエレンは並んで歩き出し、冒険者ギルドを後にした。
「フィンさん、冒険者の登録の方は上手くいきました?」
「ああ。明日には冒険者証が発行されて、依頼を受けられるようになるらしい。シーナの依頼は向こうに預けておいたから、そのときに改めて受けることになるな」
「じゃ、明日もまたあそこに行くんですね」
 エレンはまたルーシーに会えるかもしれないという期待に、胸をわくわくさせながらそう言った。

「そういえば、さっきの人は誰だったんだ?」
「ああ、あの人はルーシーといいまして、ファーディアさんって方の従者さんなんですよ。何でもオパートス様から遣わされた黄金の騎士だとか――
 二人はそういった何でもない会話を交わしながら、昼下がりのヴェルニースの大通りを歩いていった。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第4話
Name: オスカー◆08bccff1 ID:8dfffe97
Date: 2013/11/02 22:40
第四話

(517年8月16日 昼)

 フィンとエレンはまっすぐシーナの所に戻らず、ヴェルニースを気ままに散策することにした。広場を抜けて、露店の多い中央通りを歩いていく。昼過ぎの暑い時間帯で、どの店でも冷たい飲み物が飛ぶように売れていた。店の軒先や、日よけのパラソルをさしたテーブルで、多くの人々が冷えたグラスを傾けていた。

 束の間の涼気を求める人々は、至る所にいた。木陰では若い男女が、大きなシャーベットの塊を仲良く分け合っていた。井戸の端の休憩所では、中年の婦人たちが水桶を脇に置いて世間話をしていた。彼女たちは、色とりどりの頭巾をかぶっていたり、日よけの帽子を身につけていた。

 お金がない二人は、ぶらぶらと露店を見て回った後、路上で様々な趣向を凝らす大道芸人たちを見物した。季節がら火吹き芸などは人気薄で、剣舞やジャグリング、魔法を用いた目くらましなどに人が集まっていた。また、石畳に鮮やかな風景画を描いている者もいた。その出来映えに心を動かされた通行人が、路上に置かれたカゴに金貨を投じていた。

 エレンが特に喜んだのは辻音楽師たちによる歌や演奏だった。楽士たちの多くは単独だったが、一つだけジューアの民の楽団もあった。奏者の腕前はまちまちで、客がつかない不遇な楽士たちもいたが、彼らは皆辛抱強く実入りを待っていた。

 多くの音楽家、数ある楽器の中で、エレンが一番心を奪われたのは、真鍮細工の手回しオルガンだった。この楽器はノースティリス特有のもので、エレンも実物を見るのはこれが初めてだった。

 エレンが目にした手回しオルガンは、滑車のついた大型のものだった。教会のパイプオルガンをモチーフにした彫刻が刻まれていて、夏の日差しを受けて金色に輝いている。その細長い箱形の楽器は、かわいらしい、どこかのんびりとした音色を奏でていた。オルガン奏者である初老の男は、興味津々な様子のエレンに笑顔で話しかけ、彼女もにこにこと笑いながらそれに応じた。

 フィンはエレンから少し離れた所で、剣を飲み込む芸を鑑賞した。芸をするのは小太りの男で、慣れた様子で前口上を述べていた。
「ここに何度かいらっしゃったことのある方は既にご存じでしょうが、私、本当は火吹き芸が専門なんですよ。でも、こう暑いと見ていてうっとおしいですよね、火吹き芸。まあ、火を吹く当の私が一番熱い思いをするんですが、その割に懐は暖かくならないんですよ。不思議ですね」

 男がおどけた仕草で肩をすくめると、常連らしい観客が何人か笑い声を上げた。
「…そこで、今日はですね、趣向を変えることにしました。なるべく皆さんが涼しくなるような芸をね、お見せしたいと思います」

 大道芸人は長剣を抜いた。芸人は二、三度裏表をひっくり返して、剣に何の仕掛けもないことを観客にアピールした。男は上を向いて、慎重に剣の先端を口に含んだ。観客が息を潜めて見守る中、男は剣身をゆっくりと自分の喉に沈めていき、刃の部分をすっかり飲み込んでしまった。彼は観衆のどよめきを笑顔で受け止め、剣を口から引き抜くと、観客の拍手に対して両手を広げてこたえた。

 ちょうどその時、エレンがフィンの隣に戻ってきた。楽士達の音楽に刺激を受けて、少女の青い目には喜びの光が宿っていた。
「すごいですね、あの人。剣を飲み込んじゃうなんて」
 エレンも遠くから見ていたのか、男の芸に感心した様子でそう言った。

「日頃の鍛錬のたまものだろうな。それに加えて、ああいう芸では、喉を傷つけないよう、柔らかい生もの製の剣を使うらしい」
「生もの製の剣ってなんですか?」
 エレンは首をかしげてそう尋ねた。

「ああ、ティリスには食べられる剣や家具を作る技術があるんだ。カルーンの港町で一度だけ現物を見たことがある。私が見たのは盾だったな。見た目は普通のものと全く変わらなかったが、商人がそれにかじりついて平らげていったんだ。あれには驚いたな」

「おもしろいですね。童話のお菓子の家みたい」
「そうだな。確かによく似ている」
 フィンはそう言って笑顔をみせた。
「ところで、エレン、音楽の方は楽しかったか?」
「ええ、とっても」
 エレンはそう言うと、額の汗をぬぐってにこりと笑った。本人は上機嫌で気づいていないが、炎天下で体が少し参っているようだった。

「昼になってからは特別暑いな…。エレン、ちょっと涼める場所を探しにいこうか」
 フィンはそう言って、エレンの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。日は少し傾き始めていたが、やりきれない暑さは相変わらずだった。しばらく歩いていくと、二人は休憩に丁度いい木陰を見つけた。フィンは少女をそこで休ませ、自分は何か冷たいものを探しにいった。

 そこから少し歩いていった所で、昨日陽気に客寄せをしていた屋台商人が店を開いていた。酷暑で飲み物の売り上げがよいのか、男はニヤニヤと笑いながら、もみ手をしていた。店先のテーブルもすべて埋まっていて、今日は客の応対に忙しく、人を呼び込む暇もないようだった。

 フィンが商人に近づいていくと、男はよく動く黒い目を彼に向けて、愛想良く話しかけてきた。
「はい、いらっしゃい。何にする?」
「申し訳ないんだが、このポーションを夏みかんジュース二杯分と交換してもらえないだろうか」

 フィンはバックパックから軽症治癒のポーションを一本取り出した。
「おや、ポーションかい?…どれ、失礼して」
 痩せた男は人好きのする笑顔を見せて、フィンからポーションを受け取った。彼は商人らしい慎重な手つきでポーションの瓶を検分した。

「軽症治癒か…お客さん、持ってるのはこの一本だけかい?」
「いや、同じものならもう一本持っている」
 屋台商人は顎の所に手を当てて考え込んだ。
「うーん、ジュース二杯なら、軽症治癒二本が妥当なところだな」
「そうか、それならもう一本出そう」
 フィンはもう一本のポーションも取り出し、男に渡した。

「はい、まいど。それでもって、これがウチの自慢の夏みかんジュースだ」
 浅黒い肌の商人は、持ち帰り用のボトルに手際よくジュースを注ぎ、フィンに渡した。男はその際身を乗り出し、彼の耳元でこうささやいた。
「甲斐性がないといけませんぜ、旦那」
 先ほどエレンを連れていたのを見ていたのだろう。フィンが商人を見ると、男はウインクをして口元をすぼめ、口笛を吹くまねをした。

 フィンは手に入れた飲み物を持って エレンのもとに戻った。少女は木にもたれて座っていて、遠くの方で無邪気に遊んでいる子供たちを眺めていた。フィンは少女に飲み物を渡し、その隣に腰を下ろした。彼女はフィンにお礼を言って、飲み物を一口飲んだ。

「わあ、おいしい」
 エレンはジュースをもう一口飲み、ボトルを頬に当ててその冷たさを楽んだ。木陰にはなかなかいい風が吹いてきていて、日なたとは段違いの快適さだった。フィンも汗をぬぐって飲み物に口をつけた。それは男の売り文句通り、非常に味が良いものだった。彼は思わずボトルを口から離して、交換したジュースをしげしげと眺めた。

「…この町って、すてきな町ですね」
 エレンは風に舞い上がる長い金髪をおさえ、子供たちの無邪気なやりとりを眺めながらそう言った。フィンはそれに対して何も答えなかったが、少女は彼が同意したことが分かったし、彼もそれが彼女に伝わっているのを感じた。

 二人は特に何をするでもなく、ぼんやりとそのまま時間を過ごした。エレンはしばらくの間ぽつり、ぽつりと話をしていたが、知らず知らずのうちにうとうとし始め、フィンに頭を預けて眠ってしまった。


 エレンが目をさましたのは夕方になってからだった。少女は身じろぎをして、ゆっくりと起き上がった。彼女は寝ぼけ眼のまま二、三度髪を梳った。
「エレン、起きたのか」
「あ、フィンさん、ごめんなさい、私、眠っちゃって…その、退屈だったでしょう?」
「いや、エレンの可愛い寝顔が見られたからな。それで満足だ」
「あ…そうですか」

 少女はスカートの縁を握りしめ、恥ずかしそうに視線を落とした。フィンはそんな彼女を不思議そうに見つめていたが、自分の言葉に原因があることに気がつくと、決まり悪そうに立ち上がった。

「――じゃあ、エレン、そろそろシーナの所に戻るとするか」
 エレンはこくりと頷き、フィンに従って歩き出した。
 二人はヴェルニースの中央通りを歩いていった。太陽は夕暮れの最後の光を残して西の空に消え、町は夜の装いを見せ始めていく。街灯がともり、酒場が営業を始め、仕事帰りの鉱夫がさかんに酒をあおっていた。

 二人が広場近くの酒場の前を通りかかった時、一騒動起こった。将校の肩章をつけた赤髪の男が、むっつりした顔つきで酒場から出てきた。彼は朱色の帽子をかぶった吟遊詩人の首根っこをつかんでいた。

 赤毛の将校は、片手で詩人を軽々と放り投げた。酒場の入り口は広場から数段高いところにある。宙を舞った楽士は石畳に叩きつけられ、口から悲痛な声を漏らして動かなくなった。赤毛の将校は、広場に崩れ落ちた男を冷たい目で見下ろすと、酒場の扉をバタンと閉めた。

 それと入れ替わるように、酒場の入り口から一人の小さな子供が這い出てきた。その子供は、路上に吟遊詩人が倒れているのを見ると、石段を三段飛ばしで駆け下りた。そして、楽士にすがりつくと、大声で泣き、周りの人々に助けを求めた。通行人たちはあっけにとられた様子で、詩人と子供を遠巻きに見ているだけだった。

 フィンはいち早く石畳に横たわった青年に近づき、彼を助けおこした。エレンは泣き叫ぶ子供を抱きしめた。子供の様子が落ち着くと、少女は詩人の頭から飛んだ帽子を子供と一緒に拾いにいった。

 男は華奢な体つきで、髪は柔らかい茶色、胸にハープを抱え込んで気を失っていた。フィンはぐったりとした男を担いだ。手近なベンチの所まで運んで、彼を横たえた。

「マイスターさん、大丈夫?」
 子供は羽根飾りのついた帽子を手に、心配そうな様子でそう言った。言葉のアクセントは独特で、異国情緒を感じさせる。その子供は黒髪で、見たところ十歳ぐらいの華奢な背格好をしていた。短いズボンと粗い目のシャツを身につけていて、男の子か女の子なのか、にわかには判別が尽きかねた。

「きっと大丈夫です。ところであなた、お名前はなんていうんですか」
 エレンは少しかがみ込んで、中性的な子供と目線を合わせてそう尋ねた。
「ミニヨン」
 異国の子供はそう名乗ると、少女の名前は聞かず、詩人の頭の横に座った。ミニヨンは彼の顔をのぞき込んでキスをした。

「見たところ外傷はないようだが、頭を打ったかもしれないからな。しばらく様子を見て、意識が戻らないようなら癒やし手の所に運んだ方がいいだろう」
 フィンは青年の体のあちこちを調べてそう言った。

 三人が注意深く詩人の様子を見守っていると、彼は小さなうめき声を上げて目を開けた。
「マイスターさん!」
 子供は嬉しそうにそう呼びかけると、青年に抱きついた。
「あれ、ここは…?」
 吟遊詩人の男は起き上がって、頭に手をやって顔をしかめた。

「広場のベンチだ。君が酒場から放り出された後、私たちがここまで運んできた」
「なるほど。ご丁寧に、どうもありがとう。ミニヨンも無事みたいで何より」
 楽士は気さくな様子でフィンに一礼し、胸に抱え込んだ楽器が傷ついていないかどうか確かめた。

「マイスターさん、はい、帽子」
 ミニヨンは拾った赤い帽子を男に差し出した。
「おや、ありがとう、ミニヨン。これで万事元通り、ってね」
 詩人は子供から帽子を受け取り、にこりと笑って頭にのせた。

「ところで、君はどうして酒場から放り出されたんだ?」
「ああ、それは聞くも涙、語るも涙の物語さ」
 フィンの問いかけに対し、男はそう言ってハープを悲しげにかき鳴らした。

「僕はヴィルヘルム、見ての通り吟遊詩人さ。もっとも、ミニヨンはこの発音が難しくて、僕のことを名字で呼ぶけどね。出身はザナンだけど、育ちは麗しの都ルミエストなんだ。水と魔法、そして芸術の町だね。僕もそこで栄光を夢見る若き詩人の一人なんだ。師に就いて一通りの歌を学んだ後、ティリス全土を放浪、今はこの町に腰を落ち着けているのさ」

 ヴィルヘルムと名乗った青年は、そこでまたハープを優美な音色で奏で、ミニヨンの頭に手を置いた。
「つまり、ヴィルヘルムさんは弾き語りの音楽家なんですか?」
 エレンが小首をかしげてそう言った。
「そうそう、そういうこと。といっても、辻音楽師じゃなくて、酒場で演奏してるんだけどね。でも、今日はそれがあだとなったのさ」
「というと?」

「ザナンの連中だよ。今この町にはサイモアが来てるだろう。その護衛でザナンの軍人たちがヴェルニースに駐屯してるのさ。そりゃあ彼らも立派な人たちには違いないんだろう。でも、そろいもそろって音楽のおの字も知らないカボチャ頭でね。酒場に来ては僕の演奏にケチをつけるんだ。昨日はちょっとばかり、おひねりのかわりにお小言を頂戴しただけだったがね。今日は演奏をしくじったから、たたきのめされて酒場から放り出されたというわけさ」

 青年は自分が受けた屈辱を、何気ないもののように語ることで、かえって相手の非を強調することに成功していた。
「乱暴な人たちですね」
 エレンはヴィルヘルムの受けた仕打ちを聞いて、義憤に駆られてそう言った。

「まあ、確かにそうだね。酒場の客は彼らだけじゃなくて、僕の音楽を毎日楽しみにしている人もいるっていうのに。それに、他国でも自国同様、我がもの顔にふるまうのはどうかと思うね。ああいった振る舞いは感心しないよ…」
 青年は、今度はハープの一音一音を確かめるように弾いた。

「マイスターさん、明日も、あそこに、行く?」
 ミニヨンはただたどしい発音で、一語一語区切るようにしてヴィルヘルムに問いかけた。
「ああ、そうだよ。なあに、大丈夫。怖いならお前は家で待ってるといいさ」
「いや。私も、ついていく。心配、だから」
 ミニヨンはそう言って彼の服に顔を埋めた。

「そのミニヨンという子は、あなたのお子さんですか?」
「ああ、ミニヨンかい。彼女は私の子じゃないよ。旅の途中、成り行きで僕と一緒になったのさ。元々は旅芸人の子でね、歌が得意で踊りも上手なんだ」

 フィンは例によって、エレンとヴィルヘルムが話している間はほとんど口をきかなかった。彼はこの吟遊詩人の青年をじっと観察していた。青年はいかにも文化人といった、洗練された話しぶりだった。常に何か夢見ているような、眠たげな目をしている。その双眸は、彼が詩と歌の世界に囚われやすい、想像力豊かな人間であることを示していた。

「さてと、助けてもらった手前、何か二人にお礼をしなきゃいけないね」
 ヴィルヘルムはベンチから立ち上がると、そう言って彼らに笑いかけた。
「いえ、お礼なんてそんな」
「でも、親切にしてもらったのに何もしないのもね。二人はもう夕食を済ませた?僕がご馳走するよ。ミニヨンもそれでいいだろう?」
「うん……別にいいよ」
 ミニヨンは戸惑った様子だったが、ヴィルヘルムの言葉に頷いた。

「あ、夕ご飯はまだなんですけど……」
 エレンは、どうします、といった様子でフィンの方を見た。
「いいじゃないか、お言葉に甘えるとしよう」
 フィンは青年が危険な存在ではないと判断して、エレンに笑顔を見せた。

「じゃあ、お願いします」
 エレンはヴィルヘルムにぺこりと頭を下げた。
「きまりだね。じゃあ、僕の家に案内するよ。ここからすぐなんだ」
 ヴィルヘルムは上機嫌にそう言って、フィンの右隣に回った。ミニヨンはエレンと手をつなぎ、落ち着いた光を宿した茶色の目をローランの少女に向けた。

「ところで、僕はもう名乗ったけど、二人の名前はまだ聞いてなかったね」
「ああ、失礼。私はフィンだ。先日ここに流れ着いた新米の冒険者だ」
「私はエレンといいます。フィンさんの従者です」
「なるほど、冒険者か。うらやましいね。僕も武器の心得があれば、ネフィアに潜って心躍るような冒険をしてみたかったのにな」
 フィンとエレンは、気さくな青年と男装の少女に案内されて、夜の町を歩いていった。


 ヴィルヘルムは広場近くにある、庭付きの大きな家の前で立ち止まった。
「さあ、着いた。ここが僕の根城だよ」
「へえ、立派な家ですね」
 エレンはそう言って、獅子の飾りがついている門構えを感心した様子で眺めた。

「うん、そうだろう。まあ、僕は四階の屋根裏部屋を間借りさせてもらってるだけなんだけどね。こっちの階段から上がるのさ。暗いし、段差がちょっと大きいから、登る時は注意してね」

 四人は庭先に回り込んで、タイル張りの頑丈そうな階段を上っていった。ヴィルヘルムが先頭をいき、続いてエレンとミニヨン。フィンは最後尾で、エレンが危なっかしくよろけるたびに、少女の肩を支えた。

 階段を上った先の狭い踊り場で、ヴィルヘルムは自分の懐から鍵を取り出して、扉を開けた。
「明かりをつけるから、ちょっと待っててね」
 ヴィルヘルムは慣れた様子で暗い部屋の中に入っていき、壁際のランプを灯した。部屋は狭いが、きれいに掃除されていた。

 家具はイスやテーブル、ベッドなど最低限のものしかなく、譜面台やハープの調弦の道具などが大きく場所をとっていた。テーブルの上には、紙包みにくるまれたチーズの塊が四分の一残っていた。

「生憎来客用の席がなくてね、申し訳ないんだけど床にそのまま座ってくれるかい」
 ヴィルヘルムはハープを棚の上に置き、音楽の道具をなるべく壁の所に押しやって、四人分のスペースを作った。ミニヨンはカーテンと窓を開け、部屋に残った昼の熱い空気を追い出し、夜の涼しげな風を取り入れた。

「なかなかいい眺めじゃないか」
 フィンは窓から景色を見てそう言った。窓の外には明かりのついた家々が広がり、色に統一性のある屋根が幾何学的に続いていた。

「そうだね。教会の尖塔の上、とまではいかないけど、ここはこの町でも結構高い位置だからね。おかげで日当たりもいいのさ」
 ヴィルヘルムはそう言って陽気に笑い、棚からパンやハムの塊、煎ったクルミ、そして深緑のボトルを取り出して、テーブルの上に並べた。

「さあ、夕食にしようか」
 吟遊詩人は上機嫌にそう言って、床に腰を下ろした。ミニヨンはヴィルヘルムの隣に、フィンとエレンは彼の向かいに座った。
「ヴィルヘルムさん、その緑色のボトル、何ですか?」
「ああ、これ?僕のとっておきの品、ブドウ酒だよ。ノースティリスだとちょっと気温が足りなくて、いいブドウが育たないからね。これは旅先で譲ってもらったサウスティリスのやつさ」

 ヴィルヘルムは棚からグラスを四つ出してきて、濃い赤紫色の液体を順々に注いでいった。ミニヨンのグラスにはワインを少しだけに留め、それを水で割って飲みやすくした。
「エレンも水で割った方がいいかい?」
 吟遊詩人は少女のグラスにブドウ酒を注ぐ前にそう尋ねた。
「あ、少しだけお願いします」
 エレンは自分のグラスとヴィルヘルムの顔を交互に見てそう言った。

 グラスの準備が全部整うと、ヴィルヘルムは乾杯の音頭をとった。
「それじゃあ、今宵の月を祝して、乾杯」
 四人はグラスを目の高さまで引き上げ、ワインに口をつけた。昨日のこともあって、フィンはエレンの方をそれとなく見ていたが、少女は四分の一ほど飲んだところでグラスを置いた。

「うぅ、渋いですね」
 エレンは顔をしかめて口のまわりをぬぐった。
「ハハハ、エレンのはミニヨンのぐらいまで薄めれば良かったね」
 ヴィルヘルムは楽しそうに笑って、空になった自分のグラスにワインを注いだ。

「エレン、大丈夫?ハチミツ、入れる?」
「ううん、平気です。ありがとう、ミニヨン」
「ヴィルヘルム、私にも、もう一杯。――ああ、かまわない。自分で注ぐから、ボトルを貸してくれたらいい」
 フィンは詩人からボトルを受け取った。

「ありがとう。こんなに美味いブドウ酒は初めてだ」
「うん、そう言ってもらえると僕も嬉しいよ。ここノースティリスだとブドウ酒は人気薄だからね。なかなかその良さをわかり合える人がいないのさ」
「そういえばさっき、ヴィルヘルムさん、月を祝して、なんてこと言ってましたけど、今日は何か特別な日なんですか?」

 エレンは口直しにナイフで薄く切ったパンをかじりながらそう尋ねた。
「うん?いや、そういうわけじゃないんだよ。ただ、僕にとって月は特別な存在なのさ。旅に出たばかりの頃は、誰も知り合いが無く、ただ月だけが僕の友達だったからね」
 ヴィルヘルムは肩越しに振り返って、闇に輝く真円の月を眺めた。

「夜一人で野営している時なんかは、彼女を見上げて心細さと寂しさを紛らわせたものさ。こうしてミニヨンがいて、友人が増えた今でも、彼女は僕の無二の親友だからね」
 ヴィルヘルムは詩的な気分が高まったのか、背後の棚にもたれた。彼は夢見るような目をして、夜空の中原にあって白銀に輝く月を眺めた。

「旅を続ける僕を、月だけは変わらず見守ってくれていたんだからね。こんないい月の晩には一曲奏でたくなるのさ。」
 ヴィルヘルムはそう言ってワインを飲み干すと、立てかけてある竪琴を手に取った。ミニヨンはそんな詩人に反応して立ち上がった。

「マイスターさん、曲は、何?」
「そうだね。『月に寄せて』にしようか」
 吟遊詩人はハープの音を調整し、ミニヨンを見た。異国の少女は音楽への期待に目を潤ませ、こくりと頷いた。ヴィルヘルムが奏でる落ち着いた旋律に合わせて、詩人の生まれたザナンの言葉を、流暢な発音で繰り返した。

私の心は感じ取る       Jeden Nachklang fühlt mein Herz
悲楽の時の味わいを      Froh und trüber Zeit,
歓喜と苦痛に挟まれて     Wandle zwischen Freud und Schmerz
孤独の中で歩き行く      In der Einsamkeit.

An den Mond Johann Wolfgang von Goethe
(月に寄せて ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)

 曲が終わると、一瞬静まりかえった後、エレンとフィンが賞賛の拍手を送った。
「いい歌ですね。感動しました」
 エレンはしみじみと感じ入った様子でそう言った。彼女は耳で覚えた異国の言葉を繰り返し、ミニヨンにその発音の誤りを優しく直された。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ミニヨンも良い歌声をありがとう」
 ヴィルヘルムはそう言ってミニヨンの頭を撫でた。異国の少女は幸福な様子で、気持ちよさそうになすがままになっていた。


 食事が終わり、ヴィルヘルムとミニヨンと別れを済ませると、二人は帰路についた。
「すっかり遅くなってしまったな」
 フィンは質の良い葡萄酒を味わえたため、機嫌が良く、にこやかにそう言った。

「そうですね。シーナさん、心配してるでしょうね。早く帰らないと。――それにしても、ヴィルヘルムさん、面白い人でしたね。同じことを言うのでも、鈴を転がすような響きのいい言葉を使っていて、私、ああ、詩人さんってこういう人なんだなあって思いました」

 エレンも慣れない葡萄酒に頬がほてっていた。少女はヴィルヘルムが奏で、ミニヨンが歌った歌を繰り返してニコニコとしていた。
「そうだな、少し変わってるが、いい男だな。ミニヨンはちょっと人見知りの気があるが、エレンにはよくなついてる」

 フィンはそう言って夜空の月を眺めた。ヴィルヘルムが賛美した雄大な夜の女王は、今宵一際美しく、その銀色の光は彼らの道を優しく照らしていた。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第5話
Name: オスカー◆607ff4fb ID:4c894751
Date: 2013/12/09 06:03
第五話

粗忽なザナンの下級兵士が交わす杯の音で
ヴェルニースの酒場は久々の活気を取り戻していた。

酒に酔い力をもてあました若い兵士が
一人のみすぼらしい男に因縁をつけ
時々、威嚇するような大声をあげ拳をふるう。

部下の騒ぎに気づいた赤毛の士官は
あふれんばかりのクリムエールの杯を乾すと
静かに席を立った。

何事だ?
これは隊長。なに、たいした騒ぎではありません。このボロ布をまとった不審な男を尋問
していただけのことで。なにしろ皇子直々のご遊説、警護を申しつかった我々としては、
例え酒に興じている最中でも、怪しいものを見過ごすわけにはいきませんからな!…おい、
お前のことだぞ。聞こえているのか?

この男は…
ご覧のとおり、ふてぶてしい野郎です。もう少し痛い目に合わせて追い返して見せましょう。危害はないにせよ、目に付くだけで我らの飲む酒がまずくなりますからな。
やめておけ。
しかしね、隊長、足の一本でも折れていたほうが、むしろ物乞いに箔が付くってもんです。
誰のために言ったと思っている?ザナンの白き鷹、それがお前の目の前にいる男だ。…し
ばし二人だけにさせてもらおう。

こんな所に骨を埋めていたとはな。そのなりはなんだ、世捨て人にでもなったつもりか。

人は変わるものだ。国中の誰もがその才能を羨み、功績を讃え、貴族の特権まで与えられ
た白き鷹が、小汚い酒場の隅に隠れ、死人の目で空を見つめている。貴様がザナンを出て
からは、何事も張り合う相手がいなくて困る。

ふっ、憎まれ口の一つでも叩いたらどうだ。仮の自分にうんざりだと、昔俺に言ったのを
覚えているか。富と名声を脱ぎ捨てた、その薄汚い乞食のような姿がありのままの姿だと
吹くのなら、とんだ笑い種だ。あるいは、欲望を捨て、罪人のように暮らすことがあの娘
の供養になるとでも?
その話は聞きたくない。
エレアの小娘…エリシェといったな、貴様の言葉を借りれば、あの娘さえも己の仮面の一
部だったのではないか?
問答に付き合うつもりはない。あのまま殴られ牢に入っていたほうが、まだ静かでいい。
では、望みどおり身柄を拘束させてもらおう、ヴェセル・ランフォード。ザナンを出た貴
様以上の危険分子は他に居まい。


(517年8月17日 朝)

 翌日の早朝、フィン、エレン、シーナの三人は朝の食卓を囲んでいた。今朝の献立はカボチのスープとはじけ魚のフライ、それとヴェルニースの黒パンだった。
「二人とも、味の方はどう?」
 シーナは二人の同居人に料理のできばえを尋ねた。

「あ、おいしいです。はじけ魚って小さな骨が多いですけど、こうやってカリカリに揚げてあると、丸ごと食べられていいですね」
 エレンはそう言ってシーナの料理を褒めた。今朝の少女は髪を後ろで束ねている。彼女が身動きする度に、その金色の尻尾が椅子の背に戯れていた。

「スープも美味いな。カボチのワタも種もきれいに取ってあるから食べやすい。これだけ柔らかく煮込むのは大変だろう。私が調理するといつも芯が残るんだ」
 フィンは緑色に染まった狩猟用のベストを身につけていた。これはシーナからの借り物で、彼女の父親のものだった。動きやすい割に丈夫で、ナイフの刃ぐらいならば十分に受け止める品物だった。

「あら、ありがと。そう言ってもらえると料理の作りがいがあるってものよ。今日は酒泥棒を捕まえてもらわなくちゃいけないから、ちゃんと栄養をつけていってね。フィン、おかわりはどう?」
「いや、もう結構。腹が重いと動きが悪くなるからな。――すっかり聞くのを忘れていたんだが、シーナ、今回の泥棒について、何か心当たりはないか?」
「心当たり、ねえ」
 それまで明るい様子で愛想を振りまいていたシーナは、眉を寄せて考え込んだ。

「……お酒が盗まれたタイミングからすると、連中はおそらく私のお父さんが出かけていったのを知ってたんでしょうね。だから、この町を根城にしてる、こそどろとかごろつきの仕業だと思う。まっとうな盗賊なら、重たい酒樽よりはお金や宝石を狙うだろうし」
「なるほどな。そういう連中が集まるような場所についても教えてくれないか」

「うーん、ひとつは冒険者ギルドね。アラウンさんが睨みをきかせてるっていっても、基本的に誰でも冒険者になれるもの。荒っぽい連中は集まってるわ」
「昨日冒険者になった身としては、肩身が狭いな」
 フィンはそう言って苦笑いをした。

「あら、そういえばフィン、あなたも新米の冒険者だったわね」
 シーナの言葉の調子には、それを今思い出したという響きは感じられなかった。彼女はそのことを十分周知の上で、場を華やがせる害のない当てこすりを行ったのだった。エレンはその様子に口元を抑えて笑いを堪えた。その拍子に少女のさじが皿に当たって、澄んだ高い音が響いた。先輩のウエイトレスは、愛嬌のあるしかめっ面を作って、ローランの少女の方を見た。

「――他に私が知ってるのは賭博場ぐらいかしらね。私は実際に行ったことがないけど、ギルドから南に下ったところに小さなやつがあるらしいわ。でも、あまりいい噂は聞かない場所だから、あそこに行くなら気をつけてね」
「ああ、もちろんだ。ありがとう、シーナ」
 フィンはそう言うと、スープの残りを飲み干して立ち上がった。彼は慌てて朝食の残りを食べてしまおうとするエレンに、急がなくていいと身振りで示した。そして、依頼の準備を整えるために自分の部屋に戻っていった。


 フィンとエレンが酒場を出たのは、まだ朝の風が心地よい頃だった。町にはツルハシを担いだ屈強そうな鉱夫の姿が見える。商店のほとんどはまだ店を開けていないが、鉱夫たちに軽食を売る店がいくつか営業していた。エレンは小さなあくびを一つして、その様子を眺めていた。

「カルーンでもああいったお店がありましたよね。小さい頃、お母さんが働きに出るときに、乗り合い馬車の停留所までお見送りに行ってたんです。そのときちょっとしたものを買ってもらうのが楽しみでした。夏だとリンゴのシロップをたらした氷のかけらを買ってもらって、冬は温かいミルクをお母さんと分け合ったりして」
 カルーン出身の少女は、懐かしそうに目を細めた。

「そうだな。士官学校に通っていたときは私もよく利用していた。寮の食事が今ひとつだったからな。おかげでいつも金欠だった」
 二人が前を通ったのはこぢんまりとした店舗だった。中年を過ぎた細身の女性がカウンターに座っている。彼女は客に対して素っ気ない態度をとり、常連らしい男が支払いの際に軽口を叩くと口元を緩めるだけだった。客足は並といったところで、今も二人ほど商品の受け渡しを待っていた。

 二人は昨日と同様、石造りの冒険者ギルドを訪れた。早朝のためギルドには人が乏しく、何人かの冒険者が酔いつぶれて談話室の床で眠っていた。受付嬢のプイスが、昨日と変わらない様子で、その小さな体を席に収めていた。
「お待ちしておりました」
 プイスは二人に気がつくと、笑顔で頭を下げた。彼女はフィンにギルドの紋章が刻まれた手のひら大のカードを差し出した。

「こちらが冒険者証になります。ある程度の社会保障が受けられる他、銃器を含む武器の所持、さらには危険区域の立ち入りが認められる優れものです。武器屋はもちろん、町のガードにも提示を求められることがありますので、常に携帯しておいてください」
「了解した。それで、早速昨日の依頼を受けたいんだが」
 フィンは冒険者証を懐にしまってそう言った。

「かしこまりました。確か、シーナさんからの依頼を受けられるんでしたね。では、依頼書をどうぞ。今回は私の方から書類をお渡ししましたが、普段はあちらの掲示板に依頼が張り出されます。その中から自分に合ったものを選んでください」
 一応昨日の講習で説明しましたが、念のため、とプイスは付け加えて、彼女の右側にある大きな掲示板を示した。それは表に柔らかい皮を張った木製のボードで、大きさも色も様々な依頼書がピンで貼り付けてあった。

「また、今回の依頼はフィンさんが初めて受けるものなので、他の冒険者の方のつきそいを受けていただきます。こちらは昨日説明し忘れていましたね。申し訳ありません」
 プイスはそう言ってペコリと頭を下げた。
「つきそい?」
「依頼をこなすコツなどを先輩冒険者から学べるように、そういった慣例があるんです。今週の担当はアルノーさんなんですが、あなたの場合は特別に、あのファーディアさんが引き受けて下さりました。昨日この町に戻られたばかりですが、アラウンさんが直接話をつけたそうで。うらやましい限り――いや、その、滅多にない機会ですからね、頑張って下さい」

 受付嬢はコホン、と空咳をした。彼女は自分の言葉をかき消すように二、三度宙を払う動作をして、ばつが悪そうに笑った。
「ファーディアさんは朝食を召し上がった後にいらっしゃるとのことなので、それまでの間にアラウンさんに挨拶していかれたらどうでしょう」
「それもそうだな。エレン、君はどうする?」
「あ、一緒に行きます」
「そうか、なら行こう」

 フィンは受付嬢に見送られて、エレンと共に鍛錬場を訪れた。部屋の光は昨日のように制限されてはおらず、窓から差し込む朝の日差しが、武器の手入れをする老人の髪を銀色に輝かせていた。
「フィンか、よく来た」
 ギルドの長は二人がやってきたことに気がつくと、顔を上げて穏やかにそう言った。

「おはようございます、アラウンさん」
 フィンは深々と頭を下げた。エレンは緊張に体が硬くなっていたが、彼にならってお辞儀をした。
「この子は私の従者のエレンです」
 頭を上げると、フィンは少女をギルドの長に紹介した。

「エレンです。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
 エレンはスカートの前で両手を合わせ、もう一度丁寧に頭を下げた。それまで老人は、昨日と同様落ち着いた神仙のような雰囲気を漂わせていた。しかし、顔を起こした少女と目が合うと、姿勢を崩して身を乗り出し、彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。

「……いやはや驚いた。エレンちゃん、君はローランの里の出かね」
「え?いえ、私はカルーン出身です」
 少女は突然の質問に戸惑いながらもそう答えた。彼女は昨日も黄金の騎士のルーシーに似たような質問をされたことを思い出した。

「エレンがどうかなさったんですか?アラウンさん」
「――いや、すまんな。昔の友人によく似ていたものだから、つい取り乱してしまった。……そうか、カルーンの出なら人違いだろう」
 アラウンはそう言って穏やかに微笑んだが、視線はエレンの方に向けたままだった。

 老人は少しの間何事か思案していたが、フィンの方を見てこう言った。
「フィン、君は今日が初依頼だが、武器の方はちゃんと用意してあるかね?」
「弓は持っていますが、他はなにも。乗っていた船が難破したので、全部海の底です」
「そうか……ならこの剣をやろう。少し前に手に入れた品だが、その辺のなまくらよりはずっといいだろう」
 アラウンはそう言って、先ほどまで手入れしていた剣をフィンに差し出した。

☆祝福された由緒ある長剣『乱心した来世』 (2d14+4)(7) 4.0s
細い刀身の剣だ
それはスティールで作られている
それは炎では燃えない
それは武器として扱うことができる (2d14 貫通 5%)
それは両手持ちに適している
それは攻撃修正に7を加え、ダメージを4増加させる
それは意思を維持する
それは器用を維持する
それは料理の腕を上げる [*]
それは魔法の知識の忘却を防ぐ [*]
それは死体を残しやすくする [*]
それは戦術の理解を深める [*]

「すいません、わざわざありがとうございます」
 青年は礼を言って剣を受け取り、試しに何度か振ってみた。その剣は名のある品ではあったが、目立った能力は付与されていないようだった。両手で持つのに丁度良い重さで、彼の手によく馴染んだ。

「いい剣ですね。手にしっくりきて、扱いやすい。本当にありがとうございます」
 フィンは老人に剣の感想を伝え、もう一度お礼を言った。
「そう言ってもらえると儂も嬉しいよ」
 剣を振るフィンの姿を目を細めて眺めていたアラウンは、自分の見立てに狂いがなかったことに満足して笑顔を見せた。

「エレンちゃん、君は何か戦いの心得があるのかね?」
「いえ、私は特に何も……」
「ふむ、しかし護身用の武器は持っておいた方がいいだろう」
 ギルドの長は部屋に置いてある木箱の方に歩いて行って、一本の短剣を見繕って持ってきた。それは白銀製の美しい短剣で、柄の部分には太陽の結晶が象眼してあった。

輝く白銀の短剣 (2d5+2)(16) [5,0] 1.5s
小型の剣だ
それは白銀で作られている
それは酸では傷つかない
それは炎では燃えない
それは武器として扱うことができる (2d5 貫通 10%)
それは攻撃修正に16を加え、ダメージを2増加させる
それはDVを5上昇させ、PVを0上昇させる
それは耐久を6上げる
それは採掘の技能を下げる[*]
それは暗黒への耐性を授ける [**]

「これをあげよう。このご時世、最低限自分の身は自分で守れんとな」
「わあ、きれいな短剣ですね。こんなに立派なもの、本当に頂いて良いんですか?」
「うむ、かまわんよ。儂が持っていてもどうせ使わんからな」
 アラウンは人の良さそうな笑顔を見せてそう言った。

「ありがとうございます」
 エレンは老人から短剣を受け取ると、可憐な花のような笑顔で彼に頭を下げた。ギルドの長は少女に短剣の持ち方と簡単な構えを伝授し、二人を鍛錬場から送り出した。

「良かったですね。こんなにいい武器がもらえて」
少女は廊下を歩きながら、白銀の短剣に朝の光が戯れる様を、様々な角度に傾けて観察していた。
「ああ、親切な人だな」
 フィンは腰に吊った新しい剣に目を落としてそう言った。

「期待されているのかもしれませんよ。ファーディアさん、でしたよね、有名な冒険者の方が今日は指導して下さるんでしょう?」
 エレンは無邪気に笑って、信頼に満ちた目で彼女の主人の方を見た。
「あんまり持ち上げられても困るな」
 フィンは剣の柄の位置を直して、首の後ろをこすりながらそう言った。

 ギルドのホールに戻ると、受付の前にファーディアとルーシーの姿があった。ルーシーはエレンに気がつくと、笑顔で手を振り、エレンも嬉しそうにそれに応じた。ファーディアは非常に大柄な青年で、鋼色の目をした男だった。エラの張った頑丈そうな顔立ちをしていて、その口元には自信が満ちあふれていた。

「よお、お前がフィンか。俺はファーディア。よろしくな」
 ファーディアはフィンの返答も待たず、後輩の手を掴んで強引に握手をした。大きな力強い手だった。万力のように締め上げてくる彼の手を、フィンは戸惑いながらもしっかりと握り返した。

「そちらのお嬢さんがエレンだったか。なんでもルーシーの友達になってくれたそうじゃないか。この女はこう見えて結構えり好みが激しいからな。そのせいでなかなか友達を作ろうとしない。まあ、友人として仲良くしてやってくれ」
 男はそう言って豪快に笑った。少女は男の勢いに圧倒されて、「はい」と「はあ」の中間のような言葉で返事をした。

「さて、自己紹介も済んだことだし、早速依頼に向かうとしよう。ルーシー、昨日言った通りお前は留守番だ。エレンと仲良くやれよ」
「了解、マスター。私がいないんだから、いつもみたいに無茶しないでね」
 ルーシーは大柄な男の保護者のような微笑を浮かべてそう言った。あっけにとられたエレンを残し、ファーディアに半ば引きずられるようにして、フィンは冒険者ギルドを後にした。

 冒険者として名高いファーディアを、町の人は次々に呼び止めた。乳飲み子を連れた母親はオパートス信仰のしきたりに従って挨拶し、子供に祝福をせがんだ。新米の冒険者は彼の冒険譚を聞きたがり、初老の店の主人は商品のトマトを放ってよこした。彼はそれらに機嫌良く、しかし手短に応えた。ヴェルニース一の冒険者は、子供を祝福し、冒険者には後日ギルドに来るよう言い、受け取ったトマトに豪快にかぶりついて平らげた。

 こういった高名な人間の責務を果たしながら、ファーディアは歩みを緩めることもなく、大股に進んでいった。
「フィン、依頼の方は俺も目を通したぞ。東通りの酒場に泥棒が入ったそうだな。そしてその犯人を捕縛ないしは退治してほしい、と。さて、この状況、お前ならどうする?」
 ファーディアは鋼色の目をフィンに向けてそう言った。
 
「とりあえずは情報収集ですね、ファーディアさん。依頼人は酒場の事情に詳しいコソ泥やごろつきの仕業と考えているので、この町の賭博場に行ってみるつもりです」
「ああ、敬語もさん付けも結構。まだるっこしいだけだからな。しかし賭博場か。悪くはないが、あそこは確か夕方にならないと営業が始まらんはずだ。ここからは少し遠いが、西通りの外れにいる情報屋にあたってみよう」
 大股に歩くファーディアに連れられて、フィンは速足で歩き出した。移動中もファーディアが話題を主導し、彼が町を離れていた間の冒険を後輩に語って聞かせた。


 情報屋は西通りの一角のスラム街に住んでいた。過密化し雑然としている区画で、道は舗装されておらず、辺りには生ゴミと酒の臭いが混じりあって漂っている。立ち並ぶ家は種々の板を使ってつぎはぎのように補強されていて、軒先に吊られている服は種類も色もバラバラだった。

 ファーディアが一軒のみすぼらしい住宅の戸を二度叩き、間を置いてから三度叩くと、中から醜悪な老人が出てきた。老いた情報屋は片目が不自由なようで、腰が曲がって背が低かった。彼の後ろには息子らしい中年の男が無表情で立っていた。

「ファーディアか。よう生きて帰ったな。迷宮ベロンの主を捕らえに行ったと聞いたもんじゃから、エボンに消し炭にされたかと思ったわい」
 老人はそう言って黄色い乱ぐい歯をむき出しにして笑った。

「フン、じいさん、俺を見くびってもらっちゃあ困る」
「相変わらず威勢のいい男じゃて。さて、今日はどういう用件かの?あの別嬪さんの代わりに見慣れん男なぞ連れて」
 老人は中に入るか、と身振りでファーディアに問いかけた。

「いや、大した用件じゃないからここで構わん。この男が受けた依頼に関係する情報が欲しいんだ。東通りの酒場でおととい酒が盗まれたんだが、その犯人を懲らしめなきゃならん」
「ほう、お主、名前は?」
 老人はファーディアの言葉を半ば聞き流し、残った片目で銀髪の青年を値踏みするように眺めた。

「フィン・マックール」
 フィンは一瞬ためらったが、情報屋の老人に自分の名前を名乗った。
「なるほど、ゴドウィルの酒場の新しい居候じゃったか。大方娘のシーナがお節介を焼いておるんじゃろ?」
 まばらに生えたあご髭を撫で、老人は好色そうに口元を歪めた。
「じいさん、そんな話はどうでもいい。フィンの受けた依頼はおとといその酒場に入った泥棒退治だ。泥棒の居場所をとっとと教えな」
「せっかちな所も変わっとらんの」
「じいさん」
 ファーディアがイライラとした調子でもう一度老人にそう呼びかけた。

「酒泥棒の情報なら確かに持っとるぞ。もっとも、わざわざ儂の所にまで聞きに来るようなものでもなかったがの。連中がそもそも盗んだことを自慢して吹聴しとるようじゃ。根城は墓場に近い場所にある地下倉庫らしいの」
「地下倉庫というと、数年前に持ち主が死んだあそこか?」
「ああ、そこであっとるよ。盗賊ギルドにも入れん若造どもの考えそうなことじゃ」
 老人は何が面白いのか、ニタニタと笑いながらそう言った。

「墓場近くの地下倉庫か。ありがとな、じいさん。また今度美味い酒でも持ってきてやるよ」
「フェフェフェ、それまでは死ぬんじゃないぞ、ファーディア」
 ファーディアは目標が定まった狩人のように笑うと、フィンを促して老人のもとを後にした。


 その頃、エレンとルーシーは開店したばかりのカフェを訪れていた。二人は向かい合って席についている。飲み物はもう注文済みで、ウエイターがそれを運んでくるのを待っている状態だった。お金を持っていないエレンは、ギルドから離れるのを渋ったが、ルーシーが少女を説得して連れてきたのだった。店内では彼女たちの他に、上等な身なりをした紳士が数人で歓談していた。

「それで、この街にはもう慣れた?」
 黄金の騎士はテーブルの上で手を組んで、ローランの少女にそう問いかけた。
「うん、大分。活気があっていい街だね」
「良かった。この町はオパートス様の庇護下だから、エレンにそう言ってもらえると私も嬉しいわ」
 黄金の騎士はそう言って微笑を浮かべた。

「ふうん、ヴェルニースってオパートス様の庇護下なんだ」
「そうよ。採掘される鉱石は大地の神オパートス様のお力があってのものだしね。――そういえば、エレンは誰を信仰しているの?」
 そう質問されると、エレンは首をかしげ、視線をルーシーから壁に掛かった絵の方に移してこう言った。

「特に誰も信仰してないってことになるのかな。明日は何かいいことがありますように、って毎晩寝る前にエヘカトル様にお祈りはするけど」
「あら、それなら立派なエヘカトル様の信者じゃない。祭壇で捧げものをしなくたって、エレンの気持ちはエヘカトル様に通じてるわ」
 ルーシーはエレンの少女らしい習慣を微笑ましく感じてそう言った。
「そういうものなの?」
「そういうものよ。あの方々は多分エレンが思っている以上に、地上の多くのことを見通していらっしゃるわ」
 自らも神の使徒であるルーシーは、そう言ってローランの少女に微笑みかけた。

 その時、カフェの外から悲鳴が聞こえた。エレンはびくりとして身を固くし、ルーシーは厳しい表情を浮かべた。男性客たちはそれほど気にする様子もなく話を続けていた。興味本位に外を見たウエイターは、大声でこう叫んだ。
「モンスターだ!モンスターが出たぞ!」

 それを聞いて、エレンはますます青ざめた。
「町中にモンスターだなんて……」
「誰かが召喚したのかしら。事故かもしれないけど。――うかつだったわ。私の大槌、宿泊先に預けたままなの」
「それじゃあルーシー、これを使って。私が持ってるよりずっといいだろうから」
 エレンはアラウンからもらった短剣を黄金の騎士に渡した。

「ありがとう、エレン。じゃあ、少し外の様子を見てくるわ」
「待って、私も行く」
 心細くなったエレンは、思わずそう言った。
「来てもいいけど、私の後ろからは離れないでね」
 ルーシーはそう言って苦笑いすると、エレンを後に従えて外へ飛び出していった。

 カフェから外に出た黄金の騎士は、通行人が逃げてしまった往来の真中に、白い大理石で作られた駒のようなモンスターの一群を発見した。彼女は戸口にいるエレンを振り返ってこう叫んだ。
「エレン、中に戻って!!!」
 ルーシーはエレンを半ば強引に店内へ押し戻すと、扉を勢いよく閉めて駒の一群に向き直った。
「まさか〈キング〉が現れるだなんてね……」
 ルーシーの手には使い慣れていない短剣が一本。オパートスの使徒は、この難局に際して、眉間にしわを寄せてそう呟いた。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第6話
Name: オスカー◆08bccff1 ID:06b5f2eb
Date: 2014/02/10 04:05
次回の更新は3/10の予定です。遅れそうなら3月に入ってからアナウンスをします。

第六話

(517年8月17日 朝)

 黄金の騎士は険しい顔をして敵の数を把握した。一群の構成は、〈ポーン〉が八体、〈ナイト〉が一体、〈キング〉が一体。まだ駒の方は戦力が整っていないようだった。逃げていった市民とは違い、ルーシーが強い戦意を持っているのを見て取ると、〈キング〉の号令で駒達が守りの体勢に入った。

 〈ポーン〉は〈キング〉の前で二列の横隊を組み、〈ナイト〉は剣と盾を構えて彼の主の左隣を固めた。配下の駒たちは、〈キング〉が新しい駒を召還する時間を稼ぐつもりのようだった。襲ってくる気配がないのを感じ取って、ルーシーはカフェの扉にもたれた。そして、ドア越しにエレンに話しかけた。

「エレン、店の人に裏口の場所を聞いて、冒険者ギルドから助けを呼んできて。私だけじゃ、どうにもならないかもしれないから」
 ルーシの声は固く鋭い。扉一枚隔てても、エレンには彼女の張りつめた様子が感じ取れた。少女に向けた言葉も、友への依頼というよりは、戦場で上官が命令するときのような調子だった。

「うん、分かった」
 エレンはそう答えた後、扉に額をつけて、ささやくようにこう言った。
「ルーシー、気をつけてね。あなたがいなくなったら、私……」
 黄金の騎士は少女の言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた。
「大丈夫よ、私は負けないから。――じゃあ、お願いね」

 扉を挟んで、エレンもまた微笑んだ。彼女は青い顔をしているウエイターから、裏口の場所を聞きだした。ここからギルドまではそれほどの距離もない。男客たちの好奇の視線に見送られながら、彼女は店の外に飛び出していった。

 ルーシーは駒たちの方に向き直ると、厳しい顔つきで敵を睨んだ。右手に短剣を構え、駒の群れに全力で突っ込んでいく。配下の駒を際限なく召還する〈キング〉を相手とするには、短期決戦が一番望ましい。深い色をした金髪をなびかせて、数十メートルの間合いを一気に詰めていった。

 黄金の騎士は壁となっている〈ポーン〉の一群に斬りかかった。素手で攻撃しようとする下級兵たちの反撃は許さない。その一体に短剣を突き立てる。慣れない刃物の扱いに苦労し、刃はモンスターの肩に食い込んで止まってしまった。

 ルーシーは刃を受け止めた駒に足をかけた。蹴り飛ばしながら短剣を引き抜く。吹き飛ばされた〈ポーン〉が後列の同胞に衝突する。駒たちの陣形が乱れるが、〈ナイト〉は微動だにしない。その傍らで、〈キング〉は一心に呪文を唱えていた。

 前列の〈ポーン〉の拳を避けて、オパートスの使徒は間合いを取った。一対多では囲まれるのが一番危険だ。一度包囲されたが最後、袋だたきにされてしまう。
「借り物だからって、遠慮はしてられないわね」

 黄金の騎士はため息ともつかない、長い息を吐いた。彼女は銀色に輝く短剣をひと撫でした。刀身についた白い粉が通りにこぼれ落ちる。駒の群れにはもう秩序が戻り始めていた。斬りつけられた〈ポーン〉は、大理石のかけらをこぼしながら前列に復帰し、陣形が組み直されていた。

 敵が体勢を立て直す前に、ルーシーは再度駒の集団に肉薄した。先ほど攻撃した〈ポーン〉の首を力任せに刎ね飛ばす。返す刀でもう一体も破壊する。下級の駒は白い粉を派手に巻き上げながら崩れ落ちた。彼女は右から拳を繰り出す〈ポーン〉を短剣の柄で殴りつけた。瓦礫の山を踏み砕いて、残る前列の一体を蹴り飛ばした。

 短剣一本で駒を破壊し、軽々と石像を蹴り飛ばす。自分たちの相手の強さを目の当たりにして、血の通わない駒たちにも動揺が走った。対峙しているルーシーもその様子を感じ取った。相手の弱みに乗じて後列の壁を一掃する。彼女はそう決断して、短剣をかまえ直した。

 その時、舞い上がった白煙の向こうから、二本の魔法の矢が飛来した。かわすこともかなわず、それはルーシーの左足と腹に直撃する。
「グッ……! ゲホッ、ゴホッ」

 黄金の騎士は顔を歪めて咳き込んだが、痛みを堪えて後ろに飛び退いた。戦いの場では、足が止まった瞬間に、ただの的に成り下がってしまう。この場に戦闘員が彼女しかいない以上、それだけは避けなくてはならなかった。

 煙の向こうから姿を現したのは、二体の〈ビショップ〉だった。〈キング〉が新しく召還した駒だ。同時に〈ポーン〉も二体召還されていて、前列の欠員を埋めた。殴りつけ、蹴り飛ばした歩兵も戦列に復帰しようとしている。白い僧正は錫杖をルーシーの方に向け、次の魔法の詠唱に入った。

 黄金の騎士はそれに気がつくと、素早く枝道に飛び込み、敵の射線から逃れた。彼女は痛む腹と足を押さえてうずくまった。駒たちが追撃してくる様子はない。まだ戦力が十分ではないし、彼女の力を警戒しているのだろう。

「やっかいなのが出てきたわね……大槌を置いてくるんじゃなかった」
 ルーシーはそうつぶやくと、額に浮かぶ汗をぬぐった。〈ビショップ〉は遠距離攻撃の魔法の矢を使うだけでなく、ショートテレポートや鈍足の魔法も使いこなす。彼女のような近接特化の戦士には相性が良くない敵だった。

 味方の増援は来る様子がない。ザナンの警備兵たちは街の西側に集中している。ガードが有事の時に役に立たないのはいつものことだ。それでも、もう少しすれば、エレンが冒険者ギルドにたどり着くことだろう。主人であるファーディアと離れてしまった以上、期待できるのはギルドからの援軍だけだった。

「助けが来るまでに、少しでも数を減らしておかないと」
 ルーシーは致命傷治癒の魔法を詠唱し、傷に応急処置を施した。マナの光が黄色っぽい燐光となって彼女の体を包む。長い時間はかけず、痛みが薄れたところで詠唱をやめた。こうしている間にも、〈キング〉が駒召還の詠唱を行っている。

「さてと、どうしたものかしら……」
 オパートスの使徒は、大通りの方を油断なく窺いながら、駒攻略の手段を模索し始めた。敵の数は増え、自身は負傷していたが、彼女の戦意が衰えることはなかった。


 フィンとファーディアは、墓場近くの地下倉庫を目指し、西通りを北上していた。墓場は町の北東にある。ルーシーが交戦している場所からは遠く、彼らはこの騒動について、まだ何も知らなかった。ファーディアの従者は、中央広場から南に少し下った通りで戦っていた。

 ファーディアがこの道を選んだのは、フィンにこの町の工業を見せるためなのだろう。この辺りには鉱石の鍛錬所があって、鉱山へとつながるトロッコの線路が通っていた。赤茶けた色をした鉄鉱石のほか、ほのかに緑色を放つミスリルの鉱石が、金属製の貯蔵箱に山積みにされている。貴金属もいくらかはとれるようで、ある箱の岩は日の光にキラキラと輝いていた。ヴェルニースは、イルヴァでも指折りの鉱山都市だった。

 ここに集められた鉱石は、粉砕機にかけられ、選鉱された後、製錬されて金属となる。そして、首都パルミアをはじめとした、ノースティリスの諸都市の生活を潤すのだった。最近では国外にも輸出が始まっていて、サウスティリスや、さらに南方のカルディア大陸にまで商品が運ばれていた。

 おりしも一台のトロッコが到着した。腕に緑色の布をまいた男がブレーキを操作し、トロッコが減速していく。車両が完全に停止する前に、三人の屈強そうな鉱夫が身軽に飛び降りた。

 トロッコには山のように盛り上がった鉄鉱石が積まれていた。彼らは積み荷を固定している金具を外した。手を鉄鉱石の箱の下に差し込み、陽気なかけ声と共にそれを降ろす。荷物の到着を待っていた鉱夫の一人が、野太い歓声を上げた。自分たちの労働の産物に満足している表情が、男たちには見て取れた。

 黄色い帽子をかぶった鉱夫たちが、鉱石の見張りをしていた。体を動かすのはともかく、こういった根気強い作業は彼の好むところではないのだろう。一番手前の見張り番は、黒々とした口ひげを生やしていて、三十代半ばと見て取れた。

 見張りの鉱夫は右足をステッキがわりにピンと伸ばし、左足は折り曲げていた。鉱夫は右手につるはしを持ち、その頭部に浮いた錆を指で擦っていた。男は通りがかった二人の冒険者を見て、その片割れがファーディアであることに気がついた。彼は低い口笛を吹いて左を向き、同じ見張りに話しかけた。そして彼らはヴェルニース第一の冒険者を指さして噂話を始めた。

「なあ、フィン、大したもんだろう。ノースティリスで使われている金属の半分は、ここヴェルニースでとれるんだ」
 ファーディアは大股で歩きながら、鉱山都市の生業についてフィンに説明した。
「活気があるな。鉱夫たちが生き生きとしている。この世の中、金属はいくらあっても困らないといった様子だ」

 ファーディアに言われたことを思い出して、フィンは敬語を使わずそう答えた。
「そりゃあそうだとも。こいつらは自分たちの価値を知っていて、鉱夫としての誇りを持って働く。だから俺はこの町が好きなんだ」
 ファーディアは活力に満ちた働き場を見渡すと、人目をはばからない大きな笑い声をあげた。

 二人が少し歩いて行くと、精錬の燃料となる木材が山積みにされていた。枝打ちされて葉が残っていなかったが、その幹の様子から、フィンはそれがトネリコの木であると判別した。この木は非常に固く、様々な家具に用いられる。また、燃料にも適していて、このあたりではその用途で積極的に植えられていた。

 彼らは鉱山施設の一帯を通り過ぎ、東の方向へと曲がった。この辺りは人がおらず、荒れた土地が広がっている。木々は木材として伐採され尽くし、鉱業で生まれた汚染水が土地を痛めているのだった。力ないトネリコの枯れ木が立ち並んでいるばかりで、緑といえばその木の根元に息づくわずかな草花だけだった。

「まあ、といっても問題は尽きんな。俺が小さい頃、ここいらは緑にあふれていた。それが今ではこのザマだ」
 ファーディアはそう言って、足下に転がっている黄色い土の塊を踏みつぶした。
「森の開発もやっているんだが、魔物が多くてな。森の清浄化の依頼は、いずれお前も受けることになるだろう」

「石炭の買い付けはやらないのか?伐採も植林も限界があるだろう」
 フィンは先輩冒険者にそう尋ねた。
「いくらかは買っているが、大した量じゃない。ダルフィのドブネズミどもが売り惜しみをしているからな。あんな奴ら、虫けら同然だ。こちらが弱みを見せるとすぐに値をつり上げる」
 ファーディアは苦虫を噛み潰したような顔をして、そう吐き捨てた。

 墓場が近づいてきたところで、二人は異様な風体の男と出会った。大柄で立派な体つきをしているが、身にはボロ布をまとっている。貧相な身なりであるにも関わらず、男は腰に剣を帯びていた。顔立ちは整っていたが、金髪が薄汚れて茶色っぽい色になっていた。退廃的な生活で肌が痛み、随分と老け込んで見えた。

 浮浪者のような男は、墓場の門柱の土台に腰掛けていた。二人の冒険者に関心を払わず、何も映さない瞳でじっと虚空を眺めていた。そこには一切の希望がなく、ただただ暗黒である。ファーディアは男につかつかと歩み寄っていって、こう問いかけた。

「お前、一日中ここに座っているんだろう?この近くにこそ泥のアジトがあるらしいが、それらしい人間を見たことがあるか?」
「…………」
 廃人のような男は、問いかけに対し沈黙を続けた。ファーディアが同じ質問をもう一度繰り返しても反応がなかった。短気な冒険者がじれてしまう頃、男はぽつりと答えた。

「よそへいってくれ……」
 墓場の男があてにならないことを知って、ファーディアは大げさにため息をついた。彼はイライラした様子を全面に出し、威圧的な態度でもう一度問いかけた。脅しが通じている様子もなく、男からは返事がなかった。フィンも男に質問したが、壁に話しかけているようなもので、徒労に終わった。

 ファーディアはなおもしばらく待ったが、ついにあきらめてしまった。彼はフィンを連れてその場を立ち去った。
「あれは重度の薬中だな」
 フィンは左手に続く墓場を眺めながら、先ほどの男をそう評した。彼の故郷イェルスにもそういった人間は一定数存在していた。無気力で、染みついた独特の臭気を発し、日がな一日ぼんやりと座り込んでいる。ファーディアも同意見のようで、フィンの言葉に一度頷いた。

「まあいい。ここいらに人は少ないが、もう少しすれば墓守の小屋が見えてくる。爺さんの情報が正しければ、盗賊の根城は、その近くだからな。そこで何かしら情報も手に入るだろう」
「墓守は信用できるのか?こそ泥に加担していることはないとしても、ごろつきに脅されて協力させられているかもしれない」
「大いにあり得る。フィン、その姿勢は大事だぞ。何事も疑ってかからんと冒険者はつとまらんからな」
 ファーディアは豪快に笑うと、肩で風を切るように、威勢良く歩みを進めた。


 モンスター出現の一報は、瞬く間に中央広場に広まっていった。エレンはその混乱のさなか、冒険者ギルドに向かって一心に走っていた。町民から報告を受けたガードは、慌てて詰め所に引っ込み、扉を固く閉じてしまった。

石造りのギルドが見えてくると、エレンはもう一息と、一層足を速めた。石造りの扉を勢いよく押し開け、彼女はギルドの中に駆け込んだ。

 朝一番の時よりも、ギルドに人が増えていた。黒髪の剣士と魔術師風の女が、プイスと何やら話をしていた。弓兵らしい着飾った男を交えた一団が、この時間から談話室で酒瓶を傾けていた。早朝には床で寝ていたごろつき風の大男は、フードをかぶった女と並んで依頼の掲示板を眺めていた。

「あなたは、フィンさんの従者の方ですね。そんな慌てた様子で、どうかなさいましたか?」
 笑顔で談笑していた受付嬢は、駆け込んできた少女を不思議そうに眺めた。
少女は切れ切れの息を整えて、こう答えた。

「町にモンスターが……ハアハア……広場を抜けて……ここから南に下っていった通りに……白い駒みたいなモンスターが現れました」
「ええっ! モンスターですか!?」
 少女の報告を聞いて、プイスは目を丸くして驚いた。二人のやりとりを聞いた冒険者たちは、談話室の一団を除いて彼女のそばに集まってきた。

「今はファーディアさんの従者の、ルーシーが一人で戦っています。お願いです、助けにいってあげて下さい」
 エレンはそう言い終えると、冒険者たちに深々と頭を下げた。連れの魔術師風の女とちらりと目を見合わせて、黒髪の剣士が口を開いた。

「ルーシーが一人で? ファーディアさんはどうしたんだ?」
「ああ、ファーディアさんでしたら、そこにいる彼女の主人のつきそいで、依頼をこなしにいきましたよ」
 プイスが少女の代わりにそう答えた。
「最悪のタイミングね」
 フードをかぶった女が、冷ややかな調子でつぶやいた。

「もし現れた駒が〈キング〉なら、厄介だわ。もっとも、ルーシーが助けを必要とするぐらいなんだから、十中八九そうなんでしょうけど。……プイス、あんたは急いでアラウンさんのところに報告しにいって。私たちはすぐ加勢しにいくわ」
 魔術師風の女は腕組みをしてそう言った。プイスは「了解しました」と応じて、ギルドの奥の部屋へと走っていった。

「場所は広場を抜けた南通りでいいんだな?」
 ごろつき風の大男は、少女の顔を覗き込んで念押しをした。
「ええ、案内します」
 エレンはその問いにこくりと頷いた。
「あなた、武器も持っていないようだけど、戦えるの?」
 フードの女は少女の華奢な体を上から下まで見下ろした。

「いえ……えっと、その……」
 口ごもるエレンに対して、フードの女は呆れたように長いため息をついた。
「たとえ道案内になるとしても、戦えない人間は連れて行けないわ。足手まといだもの。リアの言う通り〈キング〉が出てきたとなると、あなたを守ってる余裕なんてない」

 女冒険者の言葉が、エレンの胸に突き刺さった。確かに自分は、力がないのに出しゃばりすぎているのではないだろうか。その思いは少女の中で急速に成長していった。彼女はクイーン・セドナ号で甲板に顔を出し、フィンに叱られた一件を思い出した。そして、つい先ほどもルーシーについていこうとしたのだった。

 他の冒険者たちも、言葉には出さないものの、エレンを連れて行く気はないようだった。彼らは自分の装備を点検すると、お互いに顔を見合わせて頷いた。一団がギルドから出て行く時に、ごろつき風の男は最後尾を歩いていた。沈痛そうな様子でうつむいているエレンに、彼は案外と優しい声でこう言った。

「まあそうクヨクヨするなよ。アンタが伝えてくれなきゃ、俺たちの行動はもっと遅れていただろうよ。アンタは自分が今できることをちゃんとやったんだ。後は戦えるやつが戦えばいい」

 エレンは顔を上げた。少女の悩みはまだ解決していなかったし、こういった男は彼女の苦手なタイプだった。しかし、大男の笑顔にはどこか人の良さが感じられた。ぎこちなく、おずおずとした様子だったが、とにかく笑顔を見せて、彼女は冒険者たちを見送った。



[38631] 【elona】ノースティリスに吹く風 第7話 (前)
Name: オスカー◆08bccff1 ID:06b5f2eb
Date: 2014/03/11 01:08
思ったよりルーシーと駒の戦いが長くなり、後半部分を見直す必要が出てきたのでいったん前半部分で投稿します。一週間後の17日には後半を書きたいと思います。
第8話の更新は4月10日の予定です。


第七話

(517年8月17日 朝)


 枝道に身を隠して思案するルーシーに、一つの案が思い浮かんだ。彼女は大通りに立ち並ぶものとは違った、小ぶりな街灯を見つめた。――これを武器にできないだろうか。ナイフは使い慣れていないが、重量のある鉄棒ならば、彼女の大槌とそれほど勝手が変わらない。大きな鉄の棒をへし折るのは、怪力の彼女でもまず不可能だったが、石畳から引き抜くことはできるかもしれなかった。

 黄金の騎士は白銀の短剣を懐にしまい、近くにある街灯に手をかけた。彼女の背丈の倍ほどもあるそれを、力を込めて引き抜こうとする。灰色の石畳がぐらつくが、それ以上の変化はなかった。オパートス神への祈りの言葉を口にして、彼女は渾身の力を振り絞った。

 力を加えているうちに、ルーシーの手にぐらりとした手応えが感じられた。石畳がくぐもった音を立てて持ち上がり、湿った土の匂いが辺りに漂う。その結果に勇気づけられて、彼女は一層強く街灯を握りしめた。

 そしてついに、大きな音を立てて石畳がめくれ上がり、街灯が引き抜かれた。オパートスの使徒はその拍子によろめいて、めくれあがった石畳に手をついた。
「オパートス様、ありがとうございます」
 こぼれ出た黒っぽい土塊を握りしめ、彼女は自らの主に短い感謝の祈りをささげた。

 ルーシーは手の汚れを払うと、土で滑らないように、元々は根本だった部分をしっかりと握りしめた。ずっしりとした頼もしい重量が、彼女の手に伝わってきた。
「よし、これならいけそうね」
 難敵を相手にしているのにもかかわらず、彼女は晴れ晴れとした気分でそうつぶやいた。

 黄金の騎士は路地から飛び出していった。駒たちは、彼女が抱えているものを見て度肝を抜かれたようだった。魔法の矢を左足に受け、巨大な鉄棒を抱えているが、彼女の足並みが鈍ることはなかった。二体の〈ビショップ〉が魔法の矢を飛ばすが、いずれも街灯でなぎ払われて消滅してしまった。

「はあああああああっ!」
 裂帛の気合いを込めて、ルーシーは前列の〈ポーン〉を力任せになぎ払った。その際に、街灯の先端のランプが涼やかな音を立てて砕け散った。四体いた歩兵の内、三体が破壊される。一番左にいた駒は片腕を失うだけですんだが、石畳に打ちつけられてそのまま動かなくなった。瓦礫が飛び散り、白煙がもうもうと立ちこめた。

 金髪の戦士はその勢いのまま、〈ポーン〉の残骸を踏み砕いて後列に豪腕を振るった。面白いように歩兵がなぎ倒されていく。次の瞬間には、後列の兵士は全て破壊され、後には白い瓦礫が残るばかりだった。

 自分たちを守る壁を失った〈ビショップ〉の内、一体が前に出た。僧正はルーシーに魔法の矢を飛ばすが、彼女は器用にそれをかわしてしまう。次の詠唱に入る間もなく、彼もまた歩兵と同じ運命を辿った。

 〈ナイト〉はあくまで不動の姿勢を貫き、主の〈キング〉を守護していた。その反面、もう一体の〈ビショップ〉は、鈍足の魔法の詠唱を止め、後ずさりしてテレポートの魔法の詠唱に入った。

「このかたつむりが! 私と戦え!」
 駒の動きを察したルーシーは、すさまじい剣幕で残った〈ビショップ〉を罵倒した。僧正は彼女の言葉にひるんでしまい、詠唱が乱れた。その隙を逃さず、彼女は鉄棒を〈ビショップ〉の頭に振り下ろした。――砕けた石材が散らばった後、通りには一瞬の静寂が漂った。

 〈キング〉は既に召還の魔法の詠唱を終えていた。中空に魔方陣が形成され、駒の長は両腕を広げて最後の動作に入っている。そうはさせまいと、黄金の騎士は直接〈キング〉に打ちかかった。しかし、近衛兵の〈ナイト〉が盾で彼女の一撃を受け止めた。街灯が悲鳴をあげてたわみ、騎士の手からひしゃげた盾が吹き飛んだ。

 〈ナイト〉はその際に、剣を振るってルーシーの右手に傷を負わせた。彼女の青い服が三インチほど裂け、その周りに血の染みが浮かび上がる。ルーシーはそれにかまわず、もう一度〈ナイト〉に鉄棒を叩きつけた。

 駒の戦士が無数の白い石片となって崩れ落ちる。武器にしている街灯はもう限界が近づいていたが、〈キング〉を守るものは全て片付けた。もっとも、これから召喚される駒を除いての話だったが。

 小さな光が生じ、魔方陣が消えると、ルーシーの前に四体の新たな駒が立ちふさがった。大きな体躯の〈ルーク〉が三体と、優美な姿をした〈クィーン〉が一体だった。

 押すか引くかの選択。オパートスの使徒は迷うこと無く押す方を選んだ。駒たちが召還されたばかりで、規律や隊列が十分ではないと彼女は判断したのだった。新たな駒が出現したとみるやいなや、彼女は重たい鉄棒を駒たちに投擲した。街灯は一体の〈ルーク〉の右腹に直撃した。

 身軽になったルーシーは、意表をつかれて当惑する駒たちの間を素早くすり抜け、〈キング〉に肉薄した。〈キング〉は不意を打たれた形で、新しい召喚をあきらめて杖を繰り出した。

 黄金の騎士はその一撃をかわし、懐から取り出した白銀の短剣を〈キング〉の左胸に突き刺した。駒の主の表情が歪む。(彼らにも苦痛や感情といったものがあるのだろうか?)頭の片隅でそういったことを考えながらも、彼女は短い刃先で右の腰下のあたりまで切り落とした。刃はそこで食い込んでしまったが、〈キング〉はもう活動を停止していた。

「仕留めた…!」
 ルーシーは小さな勝利宣言をすると、体に食い込んだ刃先を引き抜こうとした。しかし、それは彼女にしては小さくない失点だった。無事に難敵の大本を倒した安堵に加え、この短剣がエレンからの借り物だという意識が、彼女の中で影響していたのだろう。

 〈ルーク〉の一体が大きな腕を振りかぶって、彼女の背中に手痛い一撃を加えた。
「グッ……! しまった……」
 ルーシーは短剣の柄から手を離してしまい、瓦礫まみれの路面に倒れ込んだ。敵が残っている以上、ダガーを放棄してその場を離脱するか、向き直って応戦するべきだった。彼女は自分のうかつさを呪った。

 〈クィーン〉が追撃として黒い光弾を黄金の騎士に命中させる。地獄の吐息の魔法だった。彼女は生命力を相手に奪われるのを感じたが、もはやどうしようもなかった。身を起こそうとしたが、〈ルーク〉に殴りつけられて、また石畳の上に転がった。

 ルーシーは既に駒の残党に取り囲まれていた。致命傷治癒の魔法を詠唱する余裕があるはずもなかった。彼女に出来ることといえば、駒たちの容赦ない攻撃に対して、身をよじって急所を外すぐらいのものだった。〈ルーク〉の重い打撃と〈クィーン〉の魔法が何度も彼女に降り注ぐ。体を丸め、頭をかばいながら反撃のチャンスを窺うが、敵の一方的な攻撃が途絶えることはなかった。

 しだいに黄金の騎士の動きは鈍くなっていき、とうとう〈ルーク〉の拳が彼女の腹をとらえた。激しい痛みに彼女は咳き込み、身動きがとれなくなった。城塞の駒は一段と自分の腕を持ち上げ、彼女にとどめの一撃を見舞おうとした。

 その時、一つの青い光弾が飛来して、腕を振りかぶった〈ルーク〉に命中した。城塞の駒は、構わずルーシーに打撃を加えようとしたが、体が意のままに動かなかった。
「無駄よ。麻痺の矢だもの」

 魔術師の女が得意そうにそう言った。通りに姿を見せたのは、ギルドから出動してきた四人の冒険者だった。フードをかぶった女は沈黙の霧を詠唱し、〈クィーン〉の魔法を封じた。

「ルーシー、大丈夫か!?」
 黒髪の剣士と素手の大男が駒を目指して突っ込んでいった。女魔術師は麻痺の矢をさらに一体の〈ルーク〉に打ち込んだ。フードの女は鈍足の魔法を詠唱し、残った〈ルーク〉の行動を制限させた。

 冒険者たちが上手く先手をとったこともあって、駒の掃討はあっさりと終わった。黒髪の剣士は機能停止した〈クイーン〉と〈ビショップ〉の首をはね飛ばした。素手の大男は〈ビショップ〉を二体正拳突きで破壊した。

「うぅ……ありがとう、アーベル、グラント……」
 瓦礫の山から助け出されたルーシーは、咳き込みながら弱々しい声で二人の男に礼を言った。
「無理に喋るなよ、ルーシー。ほら、肩を貸そう」
 剣士はそう言って膝を路面につけると、彼女の方に手を伸ばした。

「あ……待って、短剣がどこかに埋もれてるから……」
「短剣が埋もれてるって?」
 黒髪の男は彼女の言葉を用いて問い返した。
「私の友達のものなの……銀色の」
「――ふうん、分かった。僕が探そう。グラント、ルーシーのことを頼む」

 大男はポーションのボトルの栓を抜いて、彼女の方にかがみ込んだ。
「体力回復のポーションだ。飲むか?」
「ありがとう……(彼女は咳き込んだ)……相変わらず優しいのね、グラント」
 ルーシーはそう言って微笑むと、瓶の中身を少しずつ飲んだ。ルーシーがポーションを飲み干してしまうと、グラントは彼女を背負って歩き出した。

「油断したわね、ルーシー。見たところ〈キング〉は倒してあるのに、その手下にやられるなんて」
 女魔術師がそう言ってからかうように笑った。
「……返す言葉も無いわ、リル。……私もまだまだね。重量武器以外もうまく扱えるようにならないと……」

「ギルドに戻りましょう。野次馬が集まってきた」
 フードの女が辺りに目線を送ってそう言った。
 戦闘の音が途切れたのをきっかけに、散り散りになっていた人々が遠巻きに続々と集まってきていた。扉を閉ざしていた建物からも、同様に人の頭が鈴なりに覗いていた。

「エウェルの言う通りだ。リル、とっとと行くぞ。アーベルは短剣が見つかったら戻ってくるだろう」
 冒険者たちは負傷したルーシーを連れて、ギルドに戻っていった。現場には遅れてガードが到着し、残っていた黒髪の剣士をうんざりするほど質問責めにした。


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