第四話
(517年8月16日 昼)
フィンとエレンはまっすぐシーナの所に戻らず、ヴェルニースを気ままに散策することにした。広場を抜けて、露店の多い中央通りを歩いていく。昼過ぎの暑い時間帯で、どの店でも冷たい飲み物が飛ぶように売れていた。店の軒先や、日よけのパラソルをさしたテーブルで、多くの人々が冷えたグラスを傾けていた。
束の間の涼気を求める人々は、至る所にいた。木陰では若い男女が、大きなシャーベットの塊を仲良く分け合っていた。井戸の端の休憩所では、中年の婦人たちが水桶を脇に置いて世間話をしていた。彼女たちは、色とりどりの頭巾をかぶっていたり、日よけの帽子を身につけていた。
お金がない二人は、ぶらぶらと露店を見て回った後、路上で様々な趣向を凝らす大道芸人たちを見物した。季節がら火吹き芸などは人気薄で、剣舞やジャグリング、魔法を用いた目くらましなどに人が集まっていた。また、石畳に鮮やかな風景画を描いている者もいた。その出来映えに心を動かされた通行人が、路上に置かれたカゴに金貨を投じていた。
エレンが特に喜んだのは辻音楽師たちによる歌や演奏だった。楽士たちの多くは単独だったが、一つだけジューアの民の楽団もあった。奏者の腕前はまちまちで、客がつかない不遇な楽士たちもいたが、彼らは皆辛抱強く実入りを待っていた。
多くの音楽家、数ある楽器の中で、エレンが一番心を奪われたのは、真鍮細工の手回しオルガンだった。この楽器はノースティリス特有のもので、エレンも実物を見るのはこれが初めてだった。
エレンが目にした手回しオルガンは、滑車のついた大型のものだった。教会のパイプオルガンをモチーフにした彫刻が刻まれていて、夏の日差しを受けて金色に輝いている。その細長い箱形の楽器は、かわいらしい、どこかのんびりとした音色を奏でていた。オルガン奏者である初老の男は、興味津々な様子のエレンに笑顔で話しかけ、彼女もにこにこと笑いながらそれに応じた。
フィンはエレンから少し離れた所で、剣を飲み込む芸を鑑賞した。芸をするのは小太りの男で、慣れた様子で前口上を述べていた。
「ここに何度かいらっしゃったことのある方は既にご存じでしょうが、私、本当は火吹き芸が専門なんですよ。でも、こう暑いと見ていてうっとおしいですよね、火吹き芸。まあ、火を吹く当の私が一番熱い思いをするんですが、その割に懐は暖かくならないんですよ。不思議ですね」
男がおどけた仕草で肩をすくめると、常連らしい観客が何人か笑い声を上げた。
「…そこで、今日はですね、趣向を変えることにしました。なるべく皆さんが涼しくなるような芸をね、お見せしたいと思います」
大道芸人は長剣を抜いた。芸人は二、三度裏表をひっくり返して、剣に何の仕掛けもないことを観客にアピールした。男は上を向いて、慎重に剣の先端を口に含んだ。観客が息を潜めて見守る中、男は剣身をゆっくりと自分の喉に沈めていき、刃の部分をすっかり飲み込んでしまった。彼は観衆のどよめきを笑顔で受け止め、剣を口から引き抜くと、観客の拍手に対して両手を広げてこたえた。
ちょうどその時、エレンがフィンの隣に戻ってきた。楽士達の音楽に刺激を受けて、少女の青い目には喜びの光が宿っていた。
「すごいですね、あの人。剣を飲み込んじゃうなんて」
エレンも遠くから見ていたのか、男の芸に感心した様子でそう言った。
「日頃の鍛錬のたまものだろうな。それに加えて、ああいう芸では、喉を傷つけないよう、柔らかい生もの製の剣を使うらしい」
「生もの製の剣ってなんですか?」
エレンは首をかしげてそう尋ねた。
「ああ、ティリスには食べられる剣や家具を作る技術があるんだ。カルーンの港町で一度だけ現物を見たことがある。私が見たのは盾だったな。見た目は普通のものと全く変わらなかったが、商人がそれにかじりついて平らげていったんだ。あれには驚いたな」
「おもしろいですね。童話のお菓子の家みたい」
「そうだな。確かによく似ている」
フィンはそう言って笑顔をみせた。
「ところで、エレン、音楽の方は楽しかったか?」
「ええ、とっても」
エレンはそう言うと、額の汗をぬぐってにこりと笑った。本人は上機嫌で気づいていないが、炎天下で体が少し参っているようだった。
「昼になってからは特別暑いな…。エレン、ちょっと涼める場所を探しにいこうか」
フィンはそう言って、エレンの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。日は少し傾き始めていたが、やりきれない暑さは相変わらずだった。しばらく歩いていくと、二人は休憩に丁度いい木陰を見つけた。フィンは少女をそこで休ませ、自分は何か冷たいものを探しにいった。
そこから少し歩いていった所で、昨日陽気に客寄せをしていた屋台商人が店を開いていた。酷暑で飲み物の売り上げがよいのか、男はニヤニヤと笑いながら、もみ手をしていた。店先のテーブルもすべて埋まっていて、今日は客の応対に忙しく、人を呼び込む暇もないようだった。
フィンが商人に近づいていくと、男はよく動く黒い目を彼に向けて、愛想良く話しかけてきた。
「はい、いらっしゃい。何にする?」
「申し訳ないんだが、このポーションを夏みかんジュース二杯分と交換してもらえないだろうか」
フィンはバックパックから軽症治癒のポーションを一本取り出した。
「おや、ポーションかい?…どれ、失礼して」
痩せた男は人好きのする笑顔を見せて、フィンからポーションを受け取った。彼は商人らしい慎重な手つきでポーションの瓶を検分した。
「軽症治癒か…お客さん、持ってるのはこの一本だけかい?」
「いや、同じものならもう一本持っている」
屋台商人は顎の所に手を当てて考え込んだ。
「うーん、ジュース二杯なら、軽症治癒二本が妥当なところだな」
「そうか、それならもう一本出そう」
フィンはもう一本のポーションも取り出し、男に渡した。
「はい、まいど。それでもって、これがウチの自慢の夏みかんジュースだ」
浅黒い肌の商人は、持ち帰り用のボトルに手際よくジュースを注ぎ、フィンに渡した。男はその際身を乗り出し、彼の耳元でこうささやいた。
「甲斐性がないといけませんぜ、旦那」
先ほどエレンを連れていたのを見ていたのだろう。フィンが商人を見ると、男はウインクをして口元をすぼめ、口笛を吹くまねをした。
フィンは手に入れた飲み物を持って エレンのもとに戻った。少女は木にもたれて座っていて、遠くの方で無邪気に遊んでいる子供たちを眺めていた。フィンは少女に飲み物を渡し、その隣に腰を下ろした。彼女はフィンにお礼を言って、飲み物を一口飲んだ。
「わあ、おいしい」
エレンはジュースをもう一口飲み、ボトルを頬に当ててその冷たさを楽んだ。木陰にはなかなかいい風が吹いてきていて、日なたとは段違いの快適さだった。フィンも汗をぬぐって飲み物に口をつけた。それは男の売り文句通り、非常に味が良いものだった。彼は思わずボトルを口から離して、交換したジュースをしげしげと眺めた。
「…この町って、すてきな町ですね」
エレンは風に舞い上がる長い金髪をおさえ、子供たちの無邪気なやりとりを眺めながらそう言った。フィンはそれに対して何も答えなかったが、少女は彼が同意したことが分かったし、彼もそれが彼女に伝わっているのを感じた。
二人は特に何をするでもなく、ぼんやりとそのまま時間を過ごした。エレンはしばらくの間ぽつり、ぽつりと話をしていたが、知らず知らずのうちにうとうとし始め、フィンに頭を預けて眠ってしまった。
エレンが目をさましたのは夕方になってからだった。少女は身じろぎをして、ゆっくりと起き上がった。彼女は寝ぼけ眼のまま二、三度髪を梳った。
「エレン、起きたのか」
「あ、フィンさん、ごめんなさい、私、眠っちゃって…その、退屈だったでしょう?」
「いや、エレンの可愛い寝顔が見られたからな。それで満足だ」
「あ…そうですか」
少女はスカートの縁を握りしめ、恥ずかしそうに視線を落とした。フィンはそんな彼女を不思議そうに見つめていたが、自分の言葉に原因があることに気がつくと、決まり悪そうに立ち上がった。
「――じゃあ、エレン、そろそろシーナの所に戻るとするか」
エレンはこくりと頷き、フィンに従って歩き出した。
二人はヴェルニースの中央通りを歩いていった。太陽は夕暮れの最後の光を残して西の空に消え、町は夜の装いを見せ始めていく。街灯がともり、酒場が営業を始め、仕事帰りの鉱夫がさかんに酒をあおっていた。
二人が広場近くの酒場の前を通りかかった時、一騒動起こった。将校の肩章をつけた赤髪の男が、むっつりした顔つきで酒場から出てきた。彼は朱色の帽子をかぶった吟遊詩人の首根っこをつかんでいた。
赤毛の将校は、片手で詩人を軽々と放り投げた。酒場の入り口は広場から数段高いところにある。宙を舞った楽士は石畳に叩きつけられ、口から悲痛な声を漏らして動かなくなった。赤毛の将校は、広場に崩れ落ちた男を冷たい目で見下ろすと、酒場の扉をバタンと閉めた。
それと入れ替わるように、酒場の入り口から一人の小さな子供が這い出てきた。その子供は、路上に吟遊詩人が倒れているのを見ると、石段を三段飛ばしで駆け下りた。そして、楽士にすがりつくと、大声で泣き、周りの人々に助けを求めた。通行人たちはあっけにとられた様子で、詩人と子供を遠巻きに見ているだけだった。
フィンはいち早く石畳に横たわった青年に近づき、彼を助けおこした。エレンは泣き叫ぶ子供を抱きしめた。子供の様子が落ち着くと、少女は詩人の頭から飛んだ帽子を子供と一緒に拾いにいった。
男は華奢な体つきで、髪は柔らかい茶色、胸にハープを抱え込んで気を失っていた。フィンはぐったりとした男を担いだ。手近なベンチの所まで運んで、彼を横たえた。
「マイスターさん、大丈夫?」
子供は羽根飾りのついた帽子を手に、心配そうな様子でそう言った。言葉のアクセントは独特で、異国情緒を感じさせる。その子供は黒髪で、見たところ十歳ぐらいの華奢な背格好をしていた。短いズボンと粗い目のシャツを身につけていて、男の子か女の子なのか、にわかには判別が尽きかねた。
「きっと大丈夫です。ところであなた、お名前はなんていうんですか」
エレンは少しかがみ込んで、中性的な子供と目線を合わせてそう尋ねた。
「ミニヨン」
異国の子供はそう名乗ると、少女の名前は聞かず、詩人の頭の横に座った。ミニヨンは彼の顔をのぞき込んでキスをした。
「見たところ外傷はないようだが、頭を打ったかもしれないからな。しばらく様子を見て、意識が戻らないようなら癒やし手の所に運んだ方がいいだろう」
フィンは青年の体のあちこちを調べてそう言った。
三人が注意深く詩人の様子を見守っていると、彼は小さなうめき声を上げて目を開けた。
「マイスターさん!」
子供は嬉しそうにそう呼びかけると、青年に抱きついた。
「あれ、ここは…?」
吟遊詩人の男は起き上がって、頭に手をやって顔をしかめた。
「広場のベンチだ。君が酒場から放り出された後、私たちがここまで運んできた」
「なるほど。ご丁寧に、どうもありがとう。ミニヨンも無事みたいで何より」
楽士は気さくな様子でフィンに一礼し、胸に抱え込んだ楽器が傷ついていないかどうか確かめた。
「マイスターさん、はい、帽子」
ミニヨンは拾った赤い帽子を男に差し出した。
「おや、ありがとう、ミニヨン。これで万事元通り、ってね」
詩人は子供から帽子を受け取り、にこりと笑って頭にのせた。
「ところで、君はどうして酒場から放り出されたんだ?」
「ああ、それは聞くも涙、語るも涙の物語さ」
フィンの問いかけに対し、男はそう言ってハープを悲しげにかき鳴らした。
「僕はヴィルヘルム、見ての通り吟遊詩人さ。もっとも、ミニヨンはこの発音が難しくて、僕のことを名字で呼ぶけどね。出身はザナンだけど、育ちは麗しの都ルミエストなんだ。水と魔法、そして芸術の町だね。僕もそこで栄光を夢見る若き詩人の一人なんだ。師に就いて一通りの歌を学んだ後、ティリス全土を放浪、今はこの町に腰を落ち着けているのさ」
ヴィルヘルムと名乗った青年は、そこでまたハープを優美な音色で奏で、ミニヨンの頭に手を置いた。
「つまり、ヴィルヘルムさんは弾き語りの音楽家なんですか?」
エレンが小首をかしげてそう言った。
「そうそう、そういうこと。といっても、辻音楽師じゃなくて、酒場で演奏してるんだけどね。でも、今日はそれがあだとなったのさ」
「というと?」
「ザナンの連中だよ。今この町にはサイモアが来てるだろう。その護衛でザナンの軍人たちがヴェルニースに駐屯してるのさ。そりゃあ彼らも立派な人たちには違いないんだろう。でも、そろいもそろって音楽のおの字も知らないカボチャ頭でね。酒場に来ては僕の演奏にケチをつけるんだ。昨日はちょっとばかり、おひねりのかわりにお小言を頂戴しただけだったがね。今日は演奏をしくじったから、たたきのめされて酒場から放り出されたというわけさ」
青年は自分が受けた屈辱を、何気ないもののように語ることで、かえって相手の非を強調することに成功していた。
「乱暴な人たちですね」
エレンはヴィルヘルムの受けた仕打ちを聞いて、義憤に駆られてそう言った。
「まあ、確かにそうだね。酒場の客は彼らだけじゃなくて、僕の音楽を毎日楽しみにしている人もいるっていうのに。それに、他国でも自国同様、我がもの顔にふるまうのはどうかと思うね。ああいった振る舞いは感心しないよ…」
青年は、今度はハープの一音一音を確かめるように弾いた。
「マイスターさん、明日も、あそこに、行く?」
ミニヨンはただたどしい発音で、一語一語区切るようにしてヴィルヘルムに問いかけた。
「ああ、そうだよ。なあに、大丈夫。怖いならお前は家で待ってるといいさ」
「いや。私も、ついていく。心配、だから」
ミニヨンはそう言って彼の服に顔を埋めた。
「そのミニヨンという子は、あなたのお子さんですか?」
「ああ、ミニヨンかい。彼女は私の子じゃないよ。旅の途中、成り行きで僕と一緒になったのさ。元々は旅芸人の子でね、歌が得意で踊りも上手なんだ」
フィンは例によって、エレンとヴィルヘルムが話している間はほとんど口をきかなかった。彼はこの吟遊詩人の青年をじっと観察していた。青年はいかにも文化人といった、洗練された話しぶりだった。常に何か夢見ているような、眠たげな目をしている。その双眸は、彼が詩と歌の世界に囚われやすい、想像力豊かな人間であることを示していた。
「さてと、助けてもらった手前、何か二人にお礼をしなきゃいけないね」
ヴィルヘルムはベンチから立ち上がると、そう言って彼らに笑いかけた。
「いえ、お礼なんてそんな」
「でも、親切にしてもらったのに何もしないのもね。二人はもう夕食を済ませた?僕がご馳走するよ。ミニヨンもそれでいいだろう?」
「うん……別にいいよ」
ミニヨンは戸惑った様子だったが、ヴィルヘルムの言葉に頷いた。
「あ、夕ご飯はまだなんですけど……」
エレンは、どうします、といった様子でフィンの方を見た。
「いいじゃないか、お言葉に甘えるとしよう」
フィンは青年が危険な存在ではないと判断して、エレンに笑顔を見せた。
「じゃあ、お願いします」
エレンはヴィルヘルムにぺこりと頭を下げた。
「きまりだね。じゃあ、僕の家に案内するよ。ここからすぐなんだ」
ヴィルヘルムは上機嫌にそう言って、フィンの右隣に回った。ミニヨンはエレンと手をつなぎ、落ち着いた光を宿した茶色の目をローランの少女に向けた。
「ところで、僕はもう名乗ったけど、二人の名前はまだ聞いてなかったね」
「ああ、失礼。私はフィンだ。先日ここに流れ着いた新米の冒険者だ」
「私はエレンといいます。フィンさんの従者です」
「なるほど、冒険者か。うらやましいね。僕も武器の心得があれば、ネフィアに潜って心躍るような冒険をしてみたかったのにな」
フィンとエレンは、気さくな青年と男装の少女に案内されて、夜の町を歩いていった。
ヴィルヘルムは広場近くにある、庭付きの大きな家の前で立ち止まった。
「さあ、着いた。ここが僕の根城だよ」
「へえ、立派な家ですね」
エレンはそう言って、獅子の飾りがついている門構えを感心した様子で眺めた。
「うん、そうだろう。まあ、僕は四階の屋根裏部屋を間借りさせてもらってるだけなんだけどね。こっちの階段から上がるのさ。暗いし、段差がちょっと大きいから、登る時は注意してね」
四人は庭先に回り込んで、タイル張りの頑丈そうな階段を上っていった。ヴィルヘルムが先頭をいき、続いてエレンとミニヨン。フィンは最後尾で、エレンが危なっかしくよろけるたびに、少女の肩を支えた。
階段を上った先の狭い踊り場で、ヴィルヘルムは自分の懐から鍵を取り出して、扉を開けた。
「明かりをつけるから、ちょっと待っててね」
ヴィルヘルムは慣れた様子で暗い部屋の中に入っていき、壁際のランプを灯した。部屋は狭いが、きれいに掃除されていた。
家具はイスやテーブル、ベッドなど最低限のものしかなく、譜面台やハープの調弦の道具などが大きく場所をとっていた。テーブルの上には、紙包みにくるまれたチーズの塊が四分の一残っていた。
「生憎来客用の席がなくてね、申し訳ないんだけど床にそのまま座ってくれるかい」
ヴィルヘルムはハープを棚の上に置き、音楽の道具をなるべく壁の所に押しやって、四人分のスペースを作った。ミニヨンはカーテンと窓を開け、部屋に残った昼の熱い空気を追い出し、夜の涼しげな風を取り入れた。
「なかなかいい眺めじゃないか」
フィンは窓から景色を見てそう言った。窓の外には明かりのついた家々が広がり、色に統一性のある屋根が幾何学的に続いていた。
「そうだね。教会の尖塔の上、とまではいかないけど、ここはこの町でも結構高い位置だからね。おかげで日当たりもいいのさ」
ヴィルヘルムはそう言って陽気に笑い、棚からパンやハムの塊、煎ったクルミ、そして深緑のボトルを取り出して、テーブルの上に並べた。
「さあ、夕食にしようか」
吟遊詩人は上機嫌にそう言って、床に腰を下ろした。ミニヨンはヴィルヘルムの隣に、フィンとエレンは彼の向かいに座った。
「ヴィルヘルムさん、その緑色のボトル、何ですか?」
「ああ、これ?僕のとっておきの品、ブドウ酒だよ。ノースティリスだとちょっと気温が足りなくて、いいブドウが育たないからね。これは旅先で譲ってもらったサウスティリスのやつさ」
ヴィルヘルムは棚からグラスを四つ出してきて、濃い赤紫色の液体を順々に注いでいった。ミニヨンのグラスにはワインを少しだけに留め、それを水で割って飲みやすくした。
「エレンも水で割った方がいいかい?」
吟遊詩人は少女のグラスにブドウ酒を注ぐ前にそう尋ねた。
「あ、少しだけお願いします」
エレンは自分のグラスとヴィルヘルムの顔を交互に見てそう言った。
グラスの準備が全部整うと、ヴィルヘルムは乾杯の音頭をとった。
「それじゃあ、今宵の月を祝して、乾杯」
四人はグラスを目の高さまで引き上げ、ワインに口をつけた。昨日のこともあって、フィンはエレンの方をそれとなく見ていたが、少女は四分の一ほど飲んだところでグラスを置いた。
「うぅ、渋いですね」
エレンは顔をしかめて口のまわりをぬぐった。
「ハハハ、エレンのはミニヨンのぐらいまで薄めれば良かったね」
ヴィルヘルムは楽しそうに笑って、空になった自分のグラスにワインを注いだ。
「エレン、大丈夫?ハチミツ、入れる?」
「ううん、平気です。ありがとう、ミニヨン」
「ヴィルヘルム、私にも、もう一杯。――ああ、かまわない。自分で注ぐから、ボトルを貸してくれたらいい」
フィンは詩人からボトルを受け取った。
「ありがとう。こんなに美味いブドウ酒は初めてだ」
「うん、そう言ってもらえると僕も嬉しいよ。ここノースティリスだとブドウ酒は人気薄だからね。なかなかその良さをわかり合える人がいないのさ」
「そういえばさっき、ヴィルヘルムさん、月を祝して、なんてこと言ってましたけど、今日は何か特別な日なんですか?」
エレンは口直しにナイフで薄く切ったパンをかじりながらそう尋ねた。
「うん?いや、そういうわけじゃないんだよ。ただ、僕にとって月は特別な存在なのさ。旅に出たばかりの頃は、誰も知り合いが無く、ただ月だけが僕の友達だったからね」
ヴィルヘルムは肩越しに振り返って、闇に輝く真円の月を眺めた。
「夜一人で野営している時なんかは、彼女を見上げて心細さと寂しさを紛らわせたものさ。こうしてミニヨンがいて、友人が増えた今でも、彼女は僕の無二の親友だからね」
ヴィルヘルムは詩的な気分が高まったのか、背後の棚にもたれた。彼は夢見るような目をして、夜空の中原にあって白銀に輝く月を眺めた。
「旅を続ける僕を、月だけは変わらず見守ってくれていたんだからね。こんないい月の晩には一曲奏でたくなるのさ。」
ヴィルヘルムはそう言ってワインを飲み干すと、立てかけてある竪琴を手に取った。ミニヨンはそんな詩人に反応して立ち上がった。
「マイスターさん、曲は、何?」
「そうだね。『月に寄せて』にしようか」
吟遊詩人はハープの音を調整し、ミニヨンを見た。異国の少女は音楽への期待に目を潤ませ、こくりと頷いた。ヴィルヘルムが奏でる落ち着いた旋律に合わせて、詩人の生まれたザナンの言葉を、流暢な発音で繰り返した。
私の心は感じ取る Jeden Nachklang fühlt mein Herz
悲楽の時の味わいを Froh und trüber Zeit,
歓喜と苦痛に挟まれて Wandle zwischen Freud und Schmerz
孤独の中で歩き行く In der Einsamkeit.
An den Mond Johann Wolfgang von Goethe
(月に寄せて ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
曲が終わると、一瞬静まりかえった後、エレンとフィンが賞賛の拍手を送った。
「いい歌ですね。感動しました」
エレンはしみじみと感じ入った様子でそう言った。彼女は耳で覚えた異国の言葉を繰り返し、ミニヨンにその発音の誤りを優しく直された。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ミニヨンも良い歌声をありがとう」
ヴィルヘルムはそう言ってミニヨンの頭を撫でた。異国の少女は幸福な様子で、気持ちよさそうになすがままになっていた。
食事が終わり、ヴィルヘルムとミニヨンと別れを済ませると、二人は帰路についた。
「すっかり遅くなってしまったな」
フィンは質の良い葡萄酒を味わえたため、機嫌が良く、にこやかにそう言った。
「そうですね。シーナさん、心配してるでしょうね。早く帰らないと。――それにしても、ヴィルヘルムさん、面白い人でしたね。同じことを言うのでも、鈴を転がすような響きのいい言葉を使っていて、私、ああ、詩人さんってこういう人なんだなあって思いました」
エレンも慣れない葡萄酒に頬がほてっていた。少女はヴィルヘルムが奏で、ミニヨンが歌った歌を繰り返してニコニコとしていた。
「そうだな、少し変わってるが、いい男だな。ミニヨンはちょっと人見知りの気があるが、エレンにはよくなついてる」
フィンはそう言って夜空の月を眺めた。ヴィルヘルムが賛美した雄大な夜の女王は、今宵一際美しく、その銀色の光は彼らの道を優しく照らしていた。