週末、藤堂夏樹(とうどう・なつき)は両親と共に親戚家へと遊びに行った。
父は元々東京の出だが、父のお兄さんが田舎暮らしに憧れて、ちょっとした田舎へと移り住み今は農業を営んでいる。
昔から兄弟仲はよく、偶にはこういうのもいいだろうとその田舎に連れてこられたのだ。
叔父は夏樹に優しく、近所には従妹も住んでいるので夏樹自身も十分に楽しんだ。
一日が終わり、早めの夕食をとってから夏樹達は家に帰ろうと車を出した。自宅までは車で二時間程度。人寝入りして起きた頃には付いているだろうと夏樹は目を瞑り、どこかから聞こえてくる奇妙な音に車の外を見た。
「ぽぽ、ぽぽっぽ、ぽ、ぽっ…」
窓の向こうは夜の闇が広がるばかり。音を発するようなものは目に映らない。
しかし確かに聞こえる。無機質で、なのに音ではなく声だと理解する。スピーカ越しのようなぼやけた声がずっと耳にまとわりついている。
「父さん、なんか変な音聞こえない?」
「え?いや、特には別に」
そっか、と夏樹は不思議に思いながらもそれ以上話は続けなかった。
ただの気のせいだったのだろうと思い、もう一度眠りに就こうとする。
最後に横目で窓の外を眺める。
一瞬だけ映り、景色と共に消え去ったものが何故か脳裏に焼き付く。
それは、壊された地蔵だった。
◆
「なっき、それやばいって……」
休み明け。
昨日眠る時になんとなく寒気を感じたくらいで特に異変はなかった為、夏樹はいつも通り幼馴染の根来音久美子(ねくね・くみこ)と共に登校した。
久美子とは七歳の頃からの付き合いで、夏樹は「みこ」、彼女の方は「なっき」と愛称で呼び合うくらいには仲がいい。同じ高校に入学しで同じクラスになり、その上隣の席になるという快挙を為しとげたのだから、お互い縁があるのだろう。
更に言うなら高校二年生に上がった現在も同じクラス、隣同士だった。ここまで来るとなんか神憑っている、いやいや悪魔に憑かれている、などと二人で笑ったのをよく覚えている。
そういう経緯もあり、夏樹にとっては性別関係なく久美子が一番の親友で、一番頼りになる相手だ。だから何かあれば彼女に必ず話すようにしていた。
そして昨日の夜のことを話した結果が最初の反応である。
「……え、冗談だよね?」
「いや、掛け値なしに本当」
「うわ、うわぁ……」
二人はいつも一緒に昼食をとっている。今日も教室で周りの視線など気にせず、幼馴染特有の気安さを周囲に見せつけながら食事をしていたのだが、雑談をしている途中に久美子が真っ青になった。
理由は勿論夏樹が話した「ぽぽぽ」という声である。
大方の予測は付いていたが、彼女も心当たりがあるらしく、かたかたと小刻みに振るえながら、やばいやばいと繰り返していた。
「なあ、みこ。やっぱりさ、“八尺様”だよな?」
「だよ、ねぇ。なっきてば、相変わらずの都市伝説運だなぁもう」
「都市伝説運ってなんだ」
八尺様とは、ネット上の某オカルト掲示板を賑わせた、非常に有名な都市伝説である。
“ぽぽぽ……”という無機質な音のような声を発しながら現れる女性の怪異。
病的に肌は白く、目は血のように赤い。
黒の帽子と黒の衣装、人並み外れた高い身長が特徴で、その容姿は美しいとされる場合も多い。
元々は山にいる怪異らしく、地蔵に括られたとある土地に封印されていたらしい。
しかし地蔵が壊されたことにより彼女は山から放たれ、全国に出没するようになった。そして数年から十数年に一度目を付けた子供を取り殺すという。
「……あー、俺さぁ、もしかして目ぇ付けられた?」
「まず、間違いなく」
既にアウトである。
どうすればいいのよそれ。
「取り敢えず今日は絶対、何があっても一緒に帰るからね、なっき」
「いやいや、何だよいきなり」
「お話では八尺様は気に入った“男の子”を攫うらしいし。私がいたら来ないかもしんないじゃん」
怯えてるくせにさらっとそんなことを言ってしまう。
だから夏樹は久美子のことが大好きで。
だから、こう返した。
「いや、一人で帰るよ」
もしも本当に、八尺様が自分に目を付けたと言うのなら、久美子を巻き込むことはできない。
しばらくは一人でいた方がいいだろう。何も起こらなかったらそれでよし。起こったとしても一人でいれば久美子に被害は行かない。夏樹は彼女のことを大切な親友だと思っている。つまり、一人で解決する以外の選択肢など最初からなかった。
「なにいってんの? いい、私はね」
「はい、話はここで終わり! 俺ちょっと図書室行って来るから!」
「なっき!?」
残った弁当を無理矢理口に詰め込み、片付けもそこそこに廊下へと飛び出す。
後ろから叫び声が聞こえたような気はしたが、知らないふりをして一気に駈け出した。
図書室に行く、というのは別に嘘ではなかった。八尺様についてもう少し詳しく調べておこう。何か、対抗策があるかもしれない。
◆
そして放課後。
またも夏樹は速攻で姿をくらませ、久美子とかち合わないように帰路へついた。
昼休みと五限目の授業時間を使い、図書室でパソコンやら怖い話の本、果ては遠野物語なんてものまで読み耽り、八尺様についての情報はある程度得られた。
しかし肝心の解決策はなく、陰鬱な心持での下校となってしまった。
「はぁ、なんかやな気分……」
怖い話なんて大抵がフィクション。実際には何にも起こらない。
そう言い聞かせても気持ちは晴れない。せめてさっさと帰ろうと夏樹の足取りは次第に速くなっていく。
彼の通う戻川高校、校門前の銀杏並木を抜け、戻川を渡り、市街地へと入る。
小さい頃久美子とよく遊んだ御崎公園を通り抜け、もうちょっとで家まで辿り着くと言う所で。
ぽ、ぽぽ、ぽぽぽぽぽぽ……。
残念ながら、あと一歩足らなかった。
「やべっ……!」
咄嗟に帰路から外れ、声から遠ざかるように走り出す。
走って、走って、走って。
しかし意味はなかった。
彼の向かう先、その塀の向こうには女性の姿がある。
黒い帽子をかぶった、尋常ではない巨躯。黒のロングドレスも合わせて、まるで地面から影が生えているように見える。
「ぽっ、ぽぽ、ぽぽぽぽ」
でも逃げる。
夏樹は背を向け、
ぽぽ。
一歩を踏み出し、
ぽぽぽ。
かの怪異を置き去りに駆け───
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。
───抜けた筈なのに。
耳元で聞こえる声。駄目だ。見てはいけない。分かっている、そっちを向くな。
頭ではそう考え、しかし夏樹は誘われるように横を向いてしまった。
「ぽぽ、ぽぽぽぽぽぽ」
吐息のかかる距離に、怪異はある。
八尺様は、既に夏樹の体を掴み、壊れた笑いを浮かべていた。
「あ────」
叫び声を上げることも出来ず、夏樹は体勢を崩し路上にそのまま倒れ込んだ。
仰向けになり、けれど空は見えず。見上げた先には、八尺様の顔だ。
ああ、多分自分はここで死ぬんだろう。
そう思うと途端恐怖は薄れていく。
すると、ちゃんと目の前の彼女の顔が見えてきた。
病的に白い肌、異形の証明たる赤の目。なのに、八尺様の顔は端正と言ってもいいくらい整っていて。
それが歪むほどの壊れた笑みは。
何故だろう、泣くのを堪えているように見えた。
「ああ、そっか……」
違う、寂しそうなんだ。
夏樹は八尺様の都市伝説を調べ、確かに怖いと思ったが、それ以上に寂しいと思った。
八尺様が広く世に知られるようになったのは、言うまでもなくとある掲示板に投稿されたからである。
その実在に関しては長らく議論されているが、八尺様を作り話とする者達は根拠の最たるものとして『遠野物語』をあげる。
八尺様は遠野物語などに登場する山姫・山女をモチーフに作られた創作である、というのが主張である。
其処に興味を持ち、山女についても夏樹は調べた。
山に封ぜられた女性の怪異。八尺様が持つ特性から、そのルーツを山姫・山女に求めることは確かに多い。
各伝承により性質に差異はあるものの、多くは長い髪を持つ色白の美女とされる
そして一番気になったのは、『遠野物語』に登場する山女が、しばしば山男によってさらわれ元の場所に戻る事を許されない単なる村娘として描かれている点だ。
山女というのはそもそも怪異ではなく、普通の人間。それが山男にさらわれ、山に囚われることによって山女という化生へと落ちてしまう。
もはや故郷に戻ることは叶わない。既に彼女は人でなくなってしまっていたから。
おそらく山女と八尺様の最大の共通点は此処だろう。
地蔵によって山へ封ぜられた八尺様。
山男によって山へ攫われた山女。
彼女らは自らの意思を持って山から出る手段を持たない。
即ち山女にしろ八尺様にしろ、帰る場所を持たぬ女なのだ。
だから、もしも八尺様のルーツが山女ならば、それはとても寂しいことだ。
もし八尺様=山女ならば、“彼女”は山に囚われ、帰ることも出来ず、化生となってからは人から山に封ぜられたということになる。
その上で、単なる恐怖の対象と見られ、果てには単なる創作物でしかないと言われる。
人として生まれ、怪異に攫われ、あやかしに身を落とし、都市伝説と為り、最後には架空の存在と見做された哀れな女。
それが八尺様という怪異だ。
「……それじゃ、寂しくて当然だよな」
死の前の感傷が自然に夏樹の体を動かした。
すっと手を伸ばし、八尺様の頬を撫でる。彼女に反応はなく、けれど構わず夏樹は語り掛ける。
「あんたが若い男ばかり攫うのって、もしかして伴侶が欲しいからか?」
長い長い歳月を一緒に越えてくれる、片時も離れぬ誰か。
彼女が全国を流離うのは、或いは寂しさを埋めてくれる誰かを探していたからなのかもしれない。
いや、それは発想が乙女すぎるだろうか。
そんなことを思いながら、夏樹は目を閉じた。
どうせ逃げられない。なら無様は晒したくない。男の子の意地を最大限に発揮して、だらんと両手を放り出す。
これで終わりだ。ああ、最後に、みこに会いたかったなぁ。
そうして彼は自身の死を受け入れ。
「……あれ?」
死を覚悟してから実に一分。
未だに夏樹は生きていた。何故だろうと薄ら目を開ける。
其処に八尺様はもういなかった。
◆
「ほんとよかったぁ。あんま心配させないでよ」
無事再び学校に来ることの出来た夏樹は、今日も今日とて久美子と一緒に下校している。
結局八尺様に命を奪われることはなかった。だからと言って彼女が消えた訳ではない。相変わらずネット上では八尺に届く巨大な女の怪異譚は語られている。
夏樹は自分が助かった理由を考える。
それはきっと、あの時彼女の頬を撫でたからなんだろう。
そんな話を久美子にしてみれば、その程度のことで助かるなんて有り得ない、と言われてしまった。
多分、多くの人も同じ意見だろう。
けれど、本当は“逆”だったのだと思う。
『その程度で助かった』のではなくて、『その程度で救われてしまうほど、彼女は寂しかった』のだ。
まあ、本当の所はよく分からないが、夏樹はそう思うことにした。
だってその方が、救いがある。怪異へと落ちてしまった名もなき少女の心が、八尺様に残されているのだと信じていたかった。
「ところでさぁ、なっき」
「ん?」
「あれ、どうにかなんないの?」
振り返ることなく久美子が後ろの方を指差す。
そちらに視線を向ければ、
「ぽぽ、ぽぽぽぽ……」
塀からひょっこりと顔を出す八尺様の姿があった。
「ああ……どうにもなんないなぁ」
結局夏樹が八尺様に殺されることはなかった
しかし全てが今迄通り、とはいかなかった。
時折塀を超える背丈の女がこちらを見ていることがある。とは言え、本当に見ているだけ。攫う気もなく、迷惑をかけるような真似もしない。だから放っておくことにしたのである。
「おかしくない? 慌てようよ。私もなんか感覚麻痺してきたけどさ」
「いやでも、別に危害加えようって訳じゃないし」
最初は夏樹も怯えていたが、転んだらそっと絆創膏を差し出してくれたり、雨の日は後ろで傘を差してくれたりと案外優しい所もあった。
夏樹を付けては来ているが、ちょっと振り返ってみると、電柱に体を隠してやりすごそうとしていた。案外あほの子である。
この前など、乱暴な運転をして夏樹にぶつかりそうになった車を「ぽぽぽぽぽぽぉぉぉぉぉぉぉお!」とか叫びながら短距離走者みたいな走り方で追っかけて行った。
その姿を見た時に夏樹は怯えるのは止めた。ぶっちゃけ結構ファンキーだった。
「まあいいじゃん。特に問題ないしさ」
「あ、分かった。あんた狂ってるんだ」
「ひでーなおい」
そんなやりとりをしながら、二人は家路を辿る。
後ろからは八尺様がついてくる。まあ少しばかり奇妙ではあるが、これも平和の肖像というヤツだ、多分きっと。
これで八尺様の話はおしまい。
怪異は打ち倒された訳ではなく、紐解かれることもなく、黒衣の大女は相変わらず世間を騒がせている。
彼女が恐怖の都市伝説の一角であることに変わりはない。
まあ、ただ強いて変わった所を上げるのならば。
「なぁ、聞いてくれよ。みこのヤツが酷いんだ」
夏樹は振り返って、八尺様に笑い掛ける。
ぽっ
そう、強いて変わった所を上げるのならば。
口を開いていないのに「ぽっ」という音が聞こえるようになったくらい。
彼女の顔が真っ赤に染まっているのは、言うまでもないことだろう。