デイジー、デイジー、答えておくれ。
気が狂いそうなほど、君が好き。
――チャンドラ博士
■月○日
戦況は芳しくない。私の所へ送られてくる負傷者は日に日に増えている。
薬も包帯も当初の予想より消費が激しい。補給はまだか。
■月△日
ようやくお偉方も腹が決まったらしい。これより大規模なイシュバール鎮圧作戦が開始されるようだ。既に多くの国家錬金術師たちが、ここ東部に招集されている。
私の作品も使われるだろう。あれが一人でも多くの兵の命を救う事を願う。
○月○日
上層部の戦争狂ぶりには呆れてしまう。まるで盛りのついたイタチだ。とても手が負えない。
私のキメラの使用は却下された。信じられない。あのキメラを使えばこちらの被害は半分以下で済んだものを。
兵器としての実験とやらの為に優秀な兵や錬金術師をむざむざ矢面に立たせるなど正気の沙汰ではない。
お偉方が一体何を考えているのか全く理解できん。もう一度あれを使ってくれるよう、陳情書を書こう。
○月△日
彼女の夢を見た。まだ若い少女の姿で、大きな犬とじゃれながら麦畑を元気に走り回っていた。
細い手足は日に焼けていて、鈴の音のような笑い声をしていた。汗で濡れた金髪を掻き上げて私へ向かって大きく手を振る。
そこで目が覚めた。夢の中で私と彼女の距離は十数メートルほどだったが、私には無限にも思える距離だ。だが諦めるつもりはない。
異動令を受けた。軍の方針に口うるさく言い過ぎた為の左遷かと思ったがどうやら違うようだ。
何やらきな臭いが命令には従わなければならない。
○月×日
第三第五研究所の二束の草鞋というのは忙しいが、それを除けば思ったほど新しい職場は悪くない。
特に上司のマルコー博士は優秀な上に気のいい人物だ。この両方を併せ持つ人物は珍しい。
また素材の心配をしなくてもいいというのは気が楽だ。
そして賢者の石製作。実に興味深い。これが完成すればあらゆる分野において飛躍的な発展が望めるだろう。
科学の勝利はすぐそこまで来ている。
ところが近頃そのマルコー博士の顔色が優れない。
風邪でもひいたのだろうか? はやく元気になって欲しい。
△月○日
マルコー博士が失踪した。いくつかの資料も同時に消えている。
全てはこれからだというのに、残念なことだ。彼が消えた事は大きな損失だ。
確かに毎日毎日血を見るのは気の滅入る仕事ではあるが、それでも我々はやり遂げなくてはならない。
彼が戻ってくるように神に祈ろう。
△月△日
彼女の夢を見た。今の私より20歳は年上だった。椅子に腰かけ穏やかに読書をしているが、その姿は時に打ちのめされ無残に変わっていた。
ツヤツヤだった肌には無数の皺が走っている。本のページをめくるその指はひび割れていてまるでトカゲの様だ。
しかし、その横顔には在りし日の少女の面影があった。
私の視線に気が付いた彼女はこちらを向いて「何見てるのよ」と言う。
その瞳には、愛を交し合った不遜で情熱的な乙女が宿っていた。
年老いてさえ彼女は美しかった。距離はまた少し縮まっていた。
早く会いたい。
△月×日
賢者の石を研究するにつれ、魂、精神、肉体の関係がおぼろげながら見えてきた。同時に人体錬成がなぜ失敗するのかという理由も。
仮説とも呼べない推測にすぎないが、恐らく生命というものは違った次元から見た時、全く別の姿をしているのだと、私は考え始めている。
我々の体は、我々が認知できる3次元だけに留まらず、4次元や5次元といった高次元、あるいは2次元といった低次元にも広がっていて
その認知できる部分を肉体、認知できない部分を魂、そして両者をつなぐ楔を精神と呼んでいるのではないだろうか?
少なくとも肉体と魂が目に見えない何らかの点で繋がっているということに関してはもはや疑念の余地がない。
両者を切り離す際に、全ての被験者は激痛を訴えている。神経には傷一つ付けていないのだから、本来なら痛みなど感じるはずないのにだ。
また何名かの被験者は肉体を切り離された後にも、肉体の存在を感じ取ることができた。これらは異なる次元においてまだ両者が繋がっている証左ではないだろうか?
私の説が正しいとするなら人体錬成など成功するはずがない。
2次元の存在が球と円柱を共に円としか認識できないように、我々は人体を認識しきれていないのだから。
少なくとも現時点では。
×月○日
彼女の夢を見た。立つのさえおぼつかない幼児だ。どかりと地面に座り、積み木を高く積み上げていた。
次に積む木を選ぶその姿は、これから彼女が持ちうる知性の片鱗を見せている。
震える手で積み木を握り、今一段と高く積み重ねようとした瞬間、その塔は崩れてしまった。
彼女は涙を浮かべ、ついには大声で泣いてしまう。
私は彼女を抱きしめようとした、しかしその前に目が覚めてしまった。
近づいてはいる。だがまだ届かない。
×月△日
今日、また実験体が逃げた。これで4体目だ。
人の知能と獣の身体能力を持つと言えば聞こえはいいが、人であった頃の記憶と意識が強すぎる。
心から軍に忠誠を誓った者でなければ、キメラにした後に使い物にならない。
もっと人より獣の割合を増やすべきなのだろうが、そうすれば知能の大部分が失われ、獣性のみがいたずらに増えてしまう。それでは意味がない。
また融合の拒絶反応の多さも気になる。果たしてどうするべきか。
人でありながら人ではなく、獣でありながら獣ではない存在を産み出す方法とは――?
逃げ出した彼らのその後は悲劇的だろうが、私にも悲劇は迫っている。一日ごとに「約束の日」とやらは近づいている。私は生贄になる気はない。
しかし、連中はなぜ逃げるんだ? 我々の事を快楽殺人者だと思っているのか?
バカバカしい。我々が莫大な費用をかけて作った貴重な成果の結晶を使い潰すはずがない。
命に関わるような実験は最後の最後の最後、どうしても必要に迫られた時だけ決まっているだろうに。
いいニュースもある。
北部と東部から依頼していたサンプルが届いた。北から送られてきたのは白い毛並の猟犬、東から送られてきたのは黒い鬣のあるマスティフだ。
長旅にもかかわらずどちらも健康そのものでとても元気だ。
可愛い奴らめ。前者をS-22、後者をS-23と命名する。
×月◎日
閃いた。
×月×日
新たな実験は成功のようだ。
S-22とS-23は生まれ変わった。今の所何の異常もない。
いや、それどころか完璧だ。
私の理論の正しさが証明された。
□月○日
彼女の夢を見た。その生命の絶頂期の姿。それを見る私は自然と微笑んでいた。彼女は輝いている。まるで女神のようだ。
腰まである金の髪は後光のように煌めき、青い瞳には野心と歓喜の色を浮かべた私が映っていた。私たちは見つめ合う。それだけで心臓が締め付けられるようだ。
だが決して触れることはない。そこまではまだ。
□月△日
二頭はすくすくと育っている。もう少しすれば言葉も話せるようになるだろう。
いや、もはや『二頭』というのは適切な表現ではない。これからは『二人』と称するべきだろう。
そうだ、番号で呼ぶのも止めだ。ちゃんとした名前も付けよう。
この私が育児とはな。ますます忙しくなりそうだ。
■月×日
間一髪だった。二人がいなければ私も賢者の石の材料にされていただろう。
落ち着くまでは身を隠すことにする。
▼月○日
彼女の夢を見た。枯れ果てた老婆だ。顔は皺くちゃで、黄金色の髪は色褪せて白く染まっている。少し体を動かすのにも苦痛を感じているようだった。
だがそれでも、愛しい君よ、君の価値にはいささかの翳りもない。
男は日記を書く手を休め、ふうと溜息をついた。既に壮年期を過ぎたと見え、髪に白髪の混じり始め、まぶたの皮は老人の様にたるんでいる。
しかし、体付きの方はしっかりとしたもので、肩幅が広くがっちりとした体は今だ老いを寄せ付けず、またその目も老いにも負けず爛々と輝き、秘めたる野心が尽きていないことを窺わせた。
「さて鬼が出るか蛇が出るか」
「モロウ先生ならきっと大丈夫さ! 絶対成功しますって」
モロウ先生と呼ばれた男の側には二人の若い男女が控えていた。
男の方は筋骨隆々とした熊のような大男で、褐色の肌と緋色の目はイシュヴァール民族の流れを汲む事を窺わせた。その動きの一つ一つに見た目に恥じない力強さが見て取れる。
女の方は鶴髪童顔の乙女で、一際目を引くのは白雪のような長髪だ。モロウのそれとは違う艶のある白髪は、頭の高い位置で一まとめにされ、滝の様に乙女のうなじを流れている。
モロウは長身だったが、二人はさらに背が高く、三人が並ぶと初老に入りかけたばかりのモロウが、本当の老人の様に見えた。
「だといいがね、アリシア」
モロウが乙女の方を向いてそう言うと、大男がさらにモロウを励ますように続けた。
「今度の錬成は神様だってケチの付けようがないくらい完璧ですよ!」
モロウはにこりと笑った。
例え身内のお世辞でも言われて悪い気はしない。
「ありがとう。エッドール。そうだ、景気付けの前祝いをしよう、今日の晩餐は豪勢に行こうじゃないか」
「本当ですか? 俺は肉がいいな」
「私も。あ、それと赤ワインもね。ステーキ素敵、お楽しみ!」
モロウの手は再び日記を書く為に動き始めていたが、アリシアの一言のせいで少し文字が躍ってしまった。
下らなすぎて、思わず顔もほころぶ。
「くくっ、なんだそれは」
○月×日
いよいよ、明日彼女ヲ錬成する。
それにしても、家族とはいいものだな。