<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[39807] 【習作】夢で異世界、現は地獄 ~システムメニューの使い方~(R-15/異世界/チート)
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2016/11/10 16:46
 R-15 暴力的・グロテスク・下品な表現あり 異世界トリップ 学園モノ チート 展開激遅(異世界で初めて人と出会うのが8話目) とりあえず完結 とりあえず再開


あらすじ
 主人公、高城 隆(たかぎ たかし)はベッドで眠りに就いた直後、夢の中に居た。
 夢の中の圧倒的な現実感を前に、己の常識を曲げられてしまった彼は「ここってやっぱり異世界なの?」とたわけた事を考えてしまう。
 その後、空を飛ぶドラゴンを見て、そこが楽園でない事を知った彼は「異世界トリップなのに神様に会ってチート貰ってないよ」と泣き言を抜かす。
 そして、なんやかんやですったもんだした挙句、彼はついに【システムメニュー】を開いてしまうのだった。

 冒険者ギルドとかレベルとかそういったゲーム的な要素の無いファンタジー世界を、システムメニューという思いっきりゲーム的な要素に侵食させる物語です。
 主タイトルの後半、現は地獄に関しては読んでからのおたのしみということで。

 注意1:現在作者はネット環境に半月から一月に一回程度、しかも短時間しか接続できないので更新頻度もその程度で、また感想などへの対応も難しいです。
 注意2:作者の筆は遅いです。
 注意3:作中の登場人物等は全てフィクションです。万一空手部の顧問に似た人物に思い当たる節があってもフィクションです。


履歴
4/12
 1話-24話、挿話1を投稿。

5/08
 25話-31話、挿話2、挿話3を投稿。2話、5話(日付を4月17日→4月16日と変更)、10話、11話、13話、15話、18話、19話、22話、23話、24話を修正および一部追加(ただし読み直さなくても良いレベル)。

5/28
 32話-37話を投稿。5話、6話、12話、18話、23話、30話(追加と一部名称違い修正、鈴村→鈴中。他)、31話。

6/24
 38話-46話を投稿。修正箇所が分からなくなったので、全話再投稿(誤字や、表現の変更なので読み直す必要は全くありません)

7/22
 47話-51話を投稿。10話、19話、26話、34話、40話、44話を修正および一部追加(ただし読み直さなくても良いレベル)。

9/02
 51話(本編)-53話を投稿。51話(仮)を修正。

9/30
 第54-57話を投稿。10話、53話を修正および一部追加。

10/26
 第57-62話を投稿。5話、43話、54話、55話を修正および一部追加。

11/26
 第63話-68話を投稿。

12/30
 第69話-77話を投稿。5話、7話、14話、18話、19話、29話、30話、41話、54話、60話、61話、62話、66話、68話を修正および一部追加。(前回、修正した部分を再投稿忘れしていました)

2/15
 第78話-81話を投稿。53話、59話、75話、77話を修正および一部追加。

3/17
 第82話-83話を投稿。14話、70話、78話、80話、81話を修正および一部追加。

4/27
 第84話-86話を投稿。14話、49話、57話、60話、70話、78話、80話、81話、82話、83話を修正および一部追加。

6/15
 第87話-88話を投稿。20話、29話、67話、77話、78話、82話、挿話1を修正および一部追加。
 記事番号の抜けと、一部作者名が全角になっていたものを修正。

7/19
 第89話-90話を投稿。23話、47話、58話、67話、71話、72話、80話、85話、87話を修正および一部追加。

8/25
 第91話-92話を投稿。修正履歴を間違って消してしまったため今回は修正分の再投稿はありません。

9/23
 第93話-94話、挿話5を投稿。19話を修正および一部追加。

11/17
 第95話-96話を投稿、90話、93話、94話を修正および一部追加。

01/01
 第97話を投稿。52話、94話を修正および一部追加。

11/10
 第98話-101話を投稿。67話、71話、82話、85話、94話、97話を修正および一部追加。



[39807] 第1話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:52
 気がついたら森の中に立っていた。
 確か俺はベッドに入り、寝転がって……ベッド脇のスタンドライトの明かりで小説を読んでいて、そのまま眠気に襲われて瞼が閉じていき、体感的にはその直後森の中に居る自分に気付いた。
 辺りは見た事も無い深い森の中。
 見たことも無い森。普通の人は自宅から最寄の森の中の景色にさえ見覚えを感じないだろうから、何を当たり前の事を言っているんだろうと自分でも思うだろうが、だが俺が見ている森の景色を見れば誰でもそう思うはずだ。
「す、凄く大きいです……」
 ごく自然に感嘆の言葉が口を突いて出る。
 風の強い日本海側の海岸沿いに時折見かける発電用の巨大な風車。あれは回転するブレードの先端が一番高くなる場所では120mくらいになるのだが、今見上げている木々の高さはそれにも負けているようには見えない。
 100mを優に超える木々が立ち並ぶ森である。地球上では絶対にありえない景色であり、見覚えがあると言う奴は悪い事は言わないから病院に行け……というか誰か俺を病院に連れて行ってください!

「もしかして異世界? これが異世界転生? いや異世界トリップと言う奴なのか? いやいや、そんなことより……あれ? えっ? 死んだの俺? 何でぇぇぇっ!?」
 俺はまだ14歳の中学3年生で、勉強もスポーツも人並み以上に出来る。女の子には全くもてない。むしろ全校の女子から避けられている事以外は現実や社会に絶望したつもりもない……泣いても良いよね?
 むしろ現実世界には色々と未練がたっぷりあるし、それ以前にファンタジーな異世界なんてNo thank you!な人なのだ。何故なら……
「俺は枕が変わっただけで寝られないんだよ! 毎日風呂に入らないと駄目駄目になるんだよ!!」
 本当にどうしようもない魂の叫びだった。

「落ち着け。冷静になれ俺。そうだ夢だ。これは夢に違いない。異世界トリップなんて非現実的な事が起きるよりも、ちょっと見た目が総天然色で草木の匂いして、降り注ぐ日差しの温かさに、そよぐ風の肌触りも感じられる夢と考える方が……」
 いかん。全感覚器官を通じて押し寄せる圧倒的な現実感の前に本気で泣けてきた。自分の頬を張ってみるとやはり痛い。
 流れ落ちる涙を拭った指先を口に運ぶと舌に塩辛さを覚えて、味覚よお前までぇぇぇっとますます泣ける。
 やはり此処は異世界なんだろうか? そして異世界だというならば来る前に、神様に会うのが基本じゃないのか? そして挨拶ついでにチートの1つも貰うのが筋というものじゃないだろうか?
 いや待て違うぞ。基本も糞も異世界モノの小説は数多あるが所詮は全て創作だ。
 現実的に考えてみろ、異世界トリップなんて空前絶後、多分……きっと人類の歴史上俺が初めてだろう。つまり俺が異世界トリップのパイオニアでありグローバル・スタンダード。だから神様にも会わなければ、チートが貰えなくても当然という訳だ……あれ? でも神様はともかく、本当にチートは無いのか? 試してもみずにそう結論付けるのは早いだろ。

 その場で両足を肩幅の広さに開き軽く腰を落として構えを取ると、左右の正拳突きを繰り出す。腰の入った鋭い突きは風を切り「フォン、フォン」と音を立てる。
 それから空手の型を一通り流し終えると、興が乗り自分の前に身長185cmの敵が居るとイメージして、相手の首元を貫くように正面からほぼ予備動作無しの右蹴りを放ち、蹴り終えた右足が地面を突くと同時に相手のガードごとこめかみを打つイメージで左回し蹴りを放つ。
 空振り──当然イメージなのだから当たるはずが無い──になった左脚の勢いで生まれた体のねじりを利用して、そのまま右の後ろ回し蹴りを相手の胸元を狙って放ち、続いて振り返りながらの左ハイの回し蹴りは相手のガードの上を抜けて頭頂部を越える直前でベクトルを変えて左鎖骨を襲う踵落としへと変化させる。
 最後に、仮想敵のイメージを身長185cmから一体誰だよこの大男は? と突っ込みたくなる230cmに変更し、もはや空手の技でもなんでもない旋風脚を繰り出す。高く跳躍した俺の左足が仮想敵のこめかみの辺り2m20cm程の空間を真横から鞭のようにしなやかに切り裂いた。

「ふぅ……いつもと変わらん」
 一連の動きを精査した結論として身体的チートは全く無かった。
 しかしチートまでとは言わなくても、空手部の顧問(37歳 男 空手ッぽい何か5段 身長185cm)のように、空気をはらみ易い空手着をあえて脱いで上半身裸の状態で繰り出された正拳突きが空気の壁を貫き「ボッ、ボッ」という音を体育館中に響き渡らせたり、何十年も前の卒業生が植樹した高さ15m以上で幹の付け根の直径が40cmはあるだろう大きな樹を回し蹴り一発で震わせ、春先の青々とした若葉を落とさせたり、旋風脚ではないが3mの高さに吊るした水入りのペットボトルを飛び蹴りで爆発させるような、辛うじて人類と呼んでも、もしかしたら許されるかもしれない位の身体能力が、せっかくの異世界なんだし、俺に与えられても良かったんじゃないだろうかと思う。
「つか異世界なら、あいつを行かせろよ」
 あいつとは勿論、空手部の顧問の教師である。仮にも師に向かってあいつ呼ばわりは酷いのかも知れないが、練習と言うより特訓。特訓と言うよりしごき。しごきと言うより相撲部屋的な可愛がりという部活風景を思い出すと、あいつ呼ばわりさえも生温い。奴には感謝どころか恨みの気持ちしか湧いてこない。
「ちくしょう! どう考えても俺よりも異世界向きだろ!」
 そう叫ぶと、空手部の顧問がドラゴンを蹴り殺し、その死体の上で高笑いする姿を想像したがまるで違和感を感じない……やはりあいつは異世界向きだ。
 ちなみに何故、想像の中にドラゴンが出てきたかというと、叫んだ直後に遙か上空から何かの鳴き声らしき音が響き渡り、鳥のモノとは思えない重低音に慌てて頭上を見上げると、そびえ立つ木々の切れ間から覗く蒼い空に、イモリの干物に羽根が生えたような生き物の姿が、逆光のシルエットとして映っていたからである。
「……ウン十メ~トルはあるよな」
 衝撃的光景にメートルの伸びるところでヤギの鳴き声のように声が震えてしまった。
 どれほど上空を飛んでいるか距離感が掴めないが、周囲に立ち並ぶ木々の高さが100mを超えるのだから、見た感じでは200m以上の高さは飛んでいるように思える。其処から推定するドラゴンの体長は10mやそこらとは思えない。最低でもその倍はあるだろう。俺は文字通り空いた口がふさがらないので、ぼーっと口を空けたままドラゴンが飛び去るのを眺めるしか出来なかった。

「………………うん、よし受け入れた。確かに異世界だ。異世界としか言い様が無いほど異世界だ」
 ドラゴンが飛び去ってから暫くして思考能力を取り戻した俺はあえてそう声に出す。声に出して自分に言い聞かせないと目の前の状況が辛すぎて現実を受け入れられそうに無い。
 そんな悲しみを噛み締めつつ、とりあえず現状確認を始める。
 服装。ベッドにはTシャツとトランクス姿で入ったはずだが、現在の俺は、足先を金属の板で補強してある無骨な編み上げの皮のブーツに、分厚い麻の様な余り肌触りの良くない生地作られた生成りのパンツと言うよりズボンを履き、上半身はズボンと同じ素材の服。その上に何の皮か分からないが革鎧らしきモノを着込んでいた。革鎧は兄貴が高一の夏休みのバイト代をつぎ込んで買った自慢の牛皮の革ジャンの倍以上は厚く、そしてずっと硬かったが、意外に軽く間接などの体の動きを妨げない。
 腕には手首の下から肘の上までを覆うような革製の篭手に革製の手袋。篭手は鎧と同じ材質のようだが手袋は、ホームセンターで売ってる作業用の分厚い革手袋といった感じだ。
 そして濃紺色に染色されたウール系の分厚い素材で作られたマント。素材の毛は脱脂されておらず独特の臭いを放っているが、その代わりに防水効果があり頭から被れば雨具にもなるのだろう。
 どう見てもファンタジー系のRPGに登場する冒険者みたいな出で立ちだが、何故か武器は持っていない。ついでに元の世界の物も何一つ持っていなかった。
「どうせ空手部の俺には武器なんて使いこなせないよ! はっはっはっはっはっ……ゲホッゲホッ」
 ヤケクソで大声を出して笑ってみたが、思いっきり咽た。
 格技の授業で剣道はやってるけど、所詮は週2時間の授業程度。それに剣道は日本刀で人間同士が戦う事を想定にしたスポーツだから、ファンタジー風な西洋剣で魔物──ドラゴンが居る位だから、当然その手の魔物は居るのだろう──と戦う場合には、やってないよりはやっていた方がマシ程度にしか期待出来ない。
 だからといって素手で何とかなるとは全く思わない。野生動物の強靭さ頑丈さは人間──ただし空手部顧問は除く、奴は自分と体重が同じであるなら地球上のどんな野生動物が相手でも素手で勝つだろう──とは比較にならない。ましてや異世界の魔物が相手だ。魔物が現実世界の野生動物に劣るなんて楽観的な希望を持つほどはおめでたくない。
 そういう訳で、死にたくないなら早急に武器になりそうな物を調達する必要があるのだった。

 しかし半ば予想通り、そんなに簡単に武器なりそうなものが都合よく森の中に転がっているわけも無い。
 森の中なら棒として使えそうな、折れた木の枝とかありそうなものだが、何せ現実世界とは樹のスケールが違う、地面に落ちている枯れ枝が俺の感覚的には巨木と呼べるサイズであり、幹から直接生えていただろう枝から更に別れた枝でも、武器にする以前に、持ち歩くと言うより引きずって運ぶサイズだった。
 しかも、そこから更に別れた枝は若すぎて、弾力に富むが硬さが足りず、棒というより鞭みたいなものだ。もっとも先端速度が音速を突破するような本格的な鞭ならともかく……いや、どのみちそんなのは使いこなせない。とにかく魔物相手に良く撓る木の枝を振り回すくらいなら、徒手空拳の方がずっとマシだろう。

「異世界生活終了のお知らせ。いや~異世界生活さん短い命だったな」
 結局、武器になりそうな物が見つからないまま時間は過ぎ、探し始めて30分後には俺はすっかり投げ遣りになっていた。
 チートは無いし武器も無い。愛用の枕も無ければ風呂も無い。異世界は俺に厳しすぎた。
 勇者と持ち上げられ、僅かな金とみすぼらしい装備で世界を救う旅へと追いやられる昔の名作RPGの主役達に比べると情けない限りだが、俺は空手部で地獄を見てちょっと色々と逞しく育ってしまっただけの現代っ子にすぎない。
「もっと俺を甘やかせてくれ~。ベリーイジーモードで再スタートぷり~ず」
 その場にひっくり返ると泣き言を漏らす。
「リセットだリセット!」
 駄々っ子の様な現実逃避は続く。
「リセットが無いなら、スタートボタンでシステムメニューひら……えっ?」
 俺が「システムメニュー」と口にした途端、目の前にゲームなどで良く見るウィンドウ画面が現れた。
「異世界生活再起動…… やれば出来る子だな異世界生活!」
 一瞬呆然としたが、次いで込み上げて来る喜びに声を出して叫ぶ。画面を見ると書かれている言語は紛れも無く日本語だった。
 視界全体はサングラスでもかけたように黒に覆われていて、目を凝らせば本来視界に映る景色も透かして見えるが、黒地に浮かぶ文字なども問題なく視認できる透過率で、目の前の白い大枠で囲まれたメニュー画面は首を振っても常に視界の正面に固定されて見える。
 大枠の中の左側には各種メニュー項目が縦に並び、左側には現在の俺の姿と思われるものが映っている。
 俺が真っ先にチェックしたのは【装備品】や【所持アイテム】【パラメーター】でもはなく、【オプションメニュー】だった。そう、難易度変更が可能か真っ先に確認したのである。
 【オプションメニュー】の項目に視線を向けて「開け」と念じると下の階層の項目が現れた。多分、システムメニューを開くのも声に出さなくても念じるだけで可能なのだろう。
「ベリーイージーモードは無しか……」
 ベリーイージーどころかイージーもノーマルも無い。そもそも難易度設定なんて項目は存在しなかった。期待が大きかっただけに落ち込む。
 モード変更の次に探したゲーム終了の項目も存在しない。
 だが落ち込みながら適当にメニューの項目を眺めていると【セーブ&ロード】を見つけることが出来た。この世界に来て初めてテンションが上がっていくのが自分でも分かる。
「死んでもセーブした状況から始められるのか……いや、そもそもタイトル画面に戻るとかも無いし、タイトル画面にアクセスできないとするなら死んでからどうやってロードするんだ?」
 とりあえず試しに死んでみてロードして再スタートが……出来るか!
 だがセーブとロードは使い方次第、そして使える範囲によっては、そんじゅそこらのチートを超える凄い力になる。
 まず試しにセーブしてみる事にした。
 【セーブ&ロード】を選択して、其処から【セーブ】を選択すると、セーブ箇所が複数ある訳では無い様で、そのままセーブが実行される。
『セーブ処理が終了しました』
 ポーンという効果音の後に、女性の声と文字でアナウンスされたので、一旦システムメニューを終了させて、今の自分の立っている場所と周りの木々との位置関係を確認すると、30mほど移動してから再びシステムメニューを開く。
 そして【セーブ&ロード】を選択して、【ロード】を選ぶとロード箇所の選択など無くロードが実行され、セーブ時と同じくポーンという効果音と共にロードの処理終了がアナウンスされる。
 システムメニューを抜けると、俺の目にはセーブを行った場所の風景が映った。
 これは使えると呟くと同時に、堪えきれず笑みが浮かぶ。
 試しに、全力疾走して樹に激突する寸前でシステムメニューを開きロードし、システムメニューを抜けて周囲を確認すると、やはりセーブした場所に戻っていた。
「よし、動いていても、たぶん戦闘中でもやばいと思えばロードが使えるわけだ……あれ?」
 今の行動で俺は1つ気付いた。全力で樹に向かって走り、ぶつかる寸前でシステムメニューを開いたのだが、システムメニューを開いてからロード開始する間の時間に樹に激突しなかった。
 これはつまり、システムメニューを開いている間は時間が経過しないということである。
「オフゲー仕様か」
 今時主流となりつつあるオンラインゲームはシステムメニューを開いていてもリアルタイムで時間が進行するが、このシステムメニューは時間が経過しない。これは強力な武器になる。
 戦闘などの一瞬の判断が求められる状況でシステムメニューを開けば無限の時間が与えられる。さらに【セーブ&ロード】と組み合わせれば……
「チートきたーーーーっ!!!」
 俺は胸底から湧き上がる熱い想いに任せて、人生最大の大音声で叫んだ。
 ……まあ、これが良くなかったんだ。



[39807] 第2話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:53
 システムメニューを更に確認していと、【オプションメニュー】の中に【時計機能】と言う項目があった。
 選択してみると、【表示】【アラーム】【時刻合わせ】【タイマー機能】の項目があり、表示は時計を視界の好きな場所に表示できる機能で、とりあえずテレビのように視界の左上に配置した。
 アラームは設定した時刻に俺だけに聞こえる音で時刻を知らせてくれる。
 時刻合わせは、【ワールドクロックアジャスト】という、何を基準か分からないが、この世界で基準となる時刻に合わせる機能と、【手動設定】とがあった。
 手動設定の方はいらないと思ったが、試しに選択してみると、ウィンドウズの【日時と時刻合わせ】と同じような画面が開いたので、確認してみると1年が12ヶ月365日で、1日は24時間。1時間は60分間3600秒間。さらに4年周期でうるう年がある様で、現実世界と変わりは無かった。
「システムメニューが日本語表示と言う段階で、元の現実と完全に切り離された世界だとは思わなかったけどさ」
 この異世界と現実世界との関係について考えていた俺は、うっかり【タイマー機能】に関してスルーしてしまったことに気付かなかった。

 他にも便利な機能が見つかった。【マップ機能】である。
 【周辺マップ】【広域マップ】【ワールドマップ】の三種類と【時計機能】と同じく【表示】があった。
 周辺マップをONにすると自分を中心に周囲100mの範囲の地形などを表示してくれる。
 広域マップも同じく、ONにすると自分を中心に周囲3kmの範囲の地形などを表示してくれるようだが、現在はマップの俺を中心とした100mの範囲以外は何も表示されていない。どうやら自分が周辺マップに表示された事のある範囲。もしくは自分の目で見たことのある範囲だけが広域マップには表示されるようだ。試しに広域マップを表示したまま歩くと、100mの円が俺の歩いた方向へと表示範囲を広げるように移動していく。
 どうやら、OFFにしている間はオートマッピングはされないようなので、これらは常時ONにしておくべきなようだ。
「それにしても単位がメートルとかどういうことよ? この手抜き感は……」
 そんな疑問はさておき、ワールドマップは大陸や大きな島の海岸線だけを表示している。
 三つのマップで共通しているのは自分を示すカーソルが矢印になっていて、現在自分が見ている方向を示しているようで、ワールドマップの中の自分を示すカーソルの部分に視線を向けると、その部分がどんどんと拡大されて、広域マップと同じ状況が表示されたので、ワールドマップも自分自身が世界の各地を巡ることで次第に表示範囲を広げると言う事が分かった。
 そして最後の表示だが、これは時計機能と同じようにマップを視界の何処に表示する。または表示しないを選ぶ機能の他に、マップ内に何を表示するのかも選択する事が出来た。
 たとえば自分自身。これはデフォルトで表示になっているが、非表示も選択できる。他にもパーティーメンバーの表示や、それ以外の生命体──全長30cm以上の生物。または毒などを持った脅威度の高い生物と設定──。更に戦闘態勢にある生命体をそれぞれ色を指定して表示する事が出来たので、自分自身は青。パーティーメンバー──居ないけど──や友好的生命体は緑。その他の生命体は基本黄色で戦闘態勢に移行した場合は赤で表示するように設定した。

「なんか異世界というより、ゲームの世界になってきた気がする」
 というか、ゲームの世界そのものなんだけどと自分の独り言に突っ込みを入れると、次にいよいよ【装備品】の確認する事にした。
 何故なら、システムメニューを開いた状態だと視界の右上に表示している時間は停止したままだが、左上に表示した周辺マップの表示範囲ギリギリの位置に赤のカーソルが2つ並んでいたからである。
 【装備品】を選択すると【頭】【顔】【耳】【首】【胸】【右肩】【左肩】【右上腕】【左上腕】【右肘】【左肘】【右前腕】【左前腕】…………とずらりと身体の部位が表示され、それぞれに何か武器や防具を装備するのか選ぶようだが、とりあえず俺は利き腕である【右手】を選択し、装備可能な武器を表示させる。
 ナイフ・剣・長剣・槍・弓の5種類の武器が現れる。それぞれの武器には特別な名前は無い。例えばナイフなら『狩猟ナイフ』としか表示されず、攻撃力+10のような表記は無い。
 そして各武器の名称を選択しても武器の大きさ、重さ、簡単な説明が表示されるだけだった。
「確かに打撃力+なんぼはあり得ないよな」
 もし打撃力を数値で表現できたとしても、突くにしても斬るにしても同じなんて事は無いだろう。剣の類の打撃力なんてものは多少の刃の鋭さなどよりも形状と重さで決まるし、それ以上に相手に与えるダメージを決定するのは武器そのものよりも何処をどのように攻撃するか、使い手の技量が大きな比重を占める。
 とはいえ異世界に飛ばされたとか、セーブ・ロードができますとか、システムメニューを開いている間は時間が経過しませんとか、これだけあり得ない事だらけなんだから、打撃力+なんぼがあっても良かったんじゃない? と考えない事も無い。
 だが今は、そんなこと考える前にどの武器を使うかを決めなければならない。
「まあ、弓は無理だな」
 アーチェリータイプの弓は和弓に比べたら使いやすいのだろうが、そもそも触った事さえ無い俺にはつかいこなせるはずもないし、無理して使ってもろくな事にならないだろう。
「威力なら長剣なんだろうけど……」
 所謂ロングソードと呼ばれる長剣とは、普通想像するようなちょっと長めの剣などではない。剣先から柄頭までの全長は大きいものでは180cmを超えるような超重量級の両手剣のカテゴリーに属する化物である。剣道などとは全く異なる身体運用技術を用いなければ満足に振ることすら出来ない代物だった。実際武器リストに存在する長剣は180cmとまではいかないが160cmを超えるので試すまでも無く俺には使いこなせそうには無い。どう考えても剣を振り回す前に自分の身体が振り回されてしまう。
「一番使いこなしやすいのはナイフだろうけど……」
 全長38cmで刃渡りだけでも25cmはありそうな大型のナイフだが、相手がどんな魔物か分からない今はどうにも心許無い。
「となれば剣か槍か……」
 試しに剣を装備してみる。すると俺の右手に剣が出現する。なるほどそういうシステムか。
 装備してみた剣は、全長100cm重量3.5kg。反りの無い両刃の直刀で、柄と刀身の境に左右に一本ずつナックルガード代わりにもなるハンドルが取り付けられている。多少重たいが鉄の棒として振り回してもある程度の打撃力を期待できそうだ。
 次いで槍を装備してみる。全長200cm重量4.2kg。硬い木製の長柄の先に刃渡り20cmくらいの金属製の鋭い両刃の矛先。そして反対の柄尻には先端のとがった金属製の石突が取り付けられていた。
「どちらかを選ぶのは相手次第か」
 動きの遅いもの、または猪のように真っ直ぐこちらに突進してくる相手なら槍でも十分に攻撃を当てられそうだが、的が小さく素早く上下左右に動くようなのが相手の場合は剣、またはナイフの方が当てやすい。とはいえ当たった時により確実に大きなダメージを与えられるのは槍だが……

 周辺マップの中を赤いシンボルがかなりの勢いで接近してくるのを、俺は両手に槍を構えながら待ち受ける。
 周辺マップには、俺の居る場所を中心点として20mごとに同心円が配置してあるので、それを目安に導き出されるおよその速さは秒速5mほど。潅木や下草の生い茂る森の中を移動するには速過ぎる速度だ。
「……来たっ」
 藪を突き抜けて姿を現したそれは、2頭の緑色の狼。
 緑色は無いんじゃない? と一瞬あっけにとられたが、そこは異世界だ何があっても、そう何があっても仕方ないだ。
 視界の片隅に『森林狼が2頭現れました』というメッセージが表示される。う~んゲームだ。
 システムメニューを開いた状態で森林狼の姿を確認する。しかしまだ10mくらいの距離がある上にシステムメニューに表示されている情報や透過性のある黒地のせいで見づらく邪魔だった。
 そう思っていると、メニュー画面の右下に赤く小さな×印が現れて点滅する。まるで此処を押せと言わんばかりの状況に、思わず×印に視線を向けて「決定」と念じる。
 するとメニュー画面と黒地が小さくなり視界の左下に移動した……便利だ。ゲームのタイトル画面のフォーカスのデフォルトを『ロード』ではなく『ニューゲーム』にする様な馬鹿ゲームデザイナーに見習って欲しいくらいだ。
「でかいな」
 視界がクリアになり、狼との距離感もつかめるようになるとその大きさに驚く。
 この目で狼を見たことなんて無いので、目の前の2頭が狼として大きいのかどうかは分からないが、家で飼ってるシベリアンハスキーや近所で飼われているシェパードなんかより遥かに大きい。現在疾走の体勢のままシステムメニューの時間停止で止まっているが、それでも頭の位置が俺の腰ほどまでもあり、普通に四本足で立てば俺の臍よりも上に余裕で頭が来るだろうし、後ろ足で立ち上がれば2mを余裕で超えるだろう……やべぇ、ちびりそうなほど怖い。

 メニュー画面を表示させると武器を槍から剣に持ち換える。猪に負けないほど大きいが、狼である以上は猪よりも左右のフットワークは素早いだろう。とりあえず当てる事を考えた結果の選択だ。
『システムメニューON システムメニューOFF システムメニューON システムメニューOFF システムメニューON システムメニューOFF システムメニューON システムメニューOFF……』
 そう素早く念じると、こちらへと突進する2頭の森林狼は、ビデオのコマ送り再生のよう──システムメニューOFF状態の時の動きが速過ぎて停止状態から、次の停止状態までの間がコマ送りのように一瞬で動いているように見えるため──にカクカクとした動きで接近してくる。
 5mくらい手前の位置で2頭は別れ、1頭はそのままこちらへ突進。もう1頭は右に回り込む……連携まで取れているのかよ!
 俺は連携した2頭の襲撃のタイミングを少しでもずらすために、右に回りこんだ狼から距離をとるように正面の狼に意識を集中したまま左へと一歩身体を移動させた。
 次の瞬間。正面の狼が地面を蹴ると跳躍する。奴の狙いはその灰色の瞳で見据える俺の首筋。重力を無視したかのような跳躍による高速の攻撃に、本来なら気付いた瞬間には首元に食いつかれていただろうが、このコマ送り状態なら反応する余裕があった。
 右手で持っていた剣の切っ先を上に向けつつ、左手で刀身と柄の境にあるハンドルをしっかりと握り締める。
 そして、狼の動きがそうであるように、コマ送りの動きの中で狼の下顎の辺りに剣先を合わせて上へと突き上げた。
「ギャッ!」
 狼が上げた短い悲鳴と同時に、顎に食い込んだ剣先は突進してくる狼の動きに従い喉から胸へと切り裂きながら走る。柔らかい下顎から喉までの布を裁つ様な軽い手ごたえとはうって変わり、胸は肋骨が食い込む剣先を弾こうとするが、俺は更に力を込めて剣を突き上げた。
 すると肋骨の部分を過ぎた瞬間に剣先は沈み込むように狼の腹に深く突き刺さり致命傷を与える。
 だが、剣で突き上げられた事により跳躍の軌道を大きく上へとずらされ俺の左頭上を飛び越えようとする狼の身体に、深く刺ささってしまた剣が押されて、握り込んだ左手ごとハンドルの先が俺の額に向かって突っ込んできた。
 一旦、システムメニューONの状態で、状況を確認するもハンドルの先端が頭に当たるのは避けられない事が分かった。だが気付いていたら当たっていたのと気付いていて当たるのとでは、そのダメージもダメージを受けたショックからの回復の早さも全く違ってくる。
 かなり勢いの乗った一撃を受けることを覚悟を決めると、システムメニューを解除する。同時に顎を引き首の筋肉に力を込め、当たる角度を少しでも浅くするために体重を右へと傾けた瞬間、強い衝撃が額の左に加わった。
 一瞬、意識が真っ白になり後ろへと2歩よろけるが、ダメージは最低限に抑えられ剣も放すことなくしっかりと握られていた。
 そう思った瞬間、左足首に鋭い痛みと強く掴まれる圧迫感を感じる。下に目を向けると視界の隅でもう一匹の狼が噛み付いていた。
 拙いと思った瞬間に、足を咥えたままのでの狼の首の一振りで俺はバランスを失い、足首の間接を強く捻られた痛みと共に身体が後ろへと倒れていく。
 せめて倒れる前に一撃だけでもダメージを与えようと、倒れ様に剣を振るが狼は俺の足首を離すと素早く後ろへと飛びのいた。
「くっ!」
 踏み固められていない柔らかい腐葉土と革鎧のおかげで、仰向けに倒れた時の衝撃はたいした事は無かったが、飛びのいた狼から視線が切れてその位置を見失ってしまった。
 次の瞬間、右耳に聞こえる奴の息遣いに反射的に剣を手放し頭と首を庇うように右腕を上げると同時に狼のアギトが篭手ごと右腕に喰らいついた。
「ガゥガゥ、ガガッ、ガゥガァッ!」
 万力のような強い咬合力で締め上げられ、振り回される右腕。しかもかなり丈夫なはずの篭手を貫いが牙の先端が皮膚に突き刺さってくる。
 痛みを堪えながら、システムメニューを開くと【装備品】から【左手】を開いてナイフを装備する。
 ナイフを逆手に持ち変えると右腕に喰らいつく狼の右の首元を狙い振りかぶる。
 その瞬間、何者かが俺の篭手の無い左手首から先に喰らいついた……腹を切り裂いた方の狼はまだ死んではいなかったみたいだ。周辺マップに視線を走らせると確かに自分の左右に赤いシンボルが2つ残っている。
 奴は最後の死力を振り絞り喰らい付いた左手首を首の力だけで振り回す、その度に激痛が襲う。
 両腕を封じられた状態で、背筋に力を込めて背を反らせて反動をつけて左蹴りを放つ、ブーツの先端を補強する金具が頭部を捉えると、ついに狼は力尽きて左手首を放すと地面に倒れ伏し赤のシンボルの1つが消えた。
 だが既に左手首はずたずたに切り裂かれ、筋や神経をやられたのであろう左手には力が入らず、ナイフも既に何処かへと飛ばされていた。
 そして反撃の手段を失った俺の右腕を振り回す狼の口元で「バキッ」という音が聞こえ、右腕にも力が入らなくなる。ついに顎の力で骨を折られたようだが、左腕の傷の痛みで既に俺の痛覚は飽和してしまっていて骨折の痛みは感じられなかった。
 狼は抵抗する力を失った俺の右腕を解放すると、俺の首元に喰らいつこうとゆっくりと大きく口を開き…………


『ロード処理が終了しました』
 聞きなれた女性の声のアナウンスが聞こえる。
 気付くと血塗れで地面に倒れていたはずの俺は、二本の脚でしっかりと立っていた。
 顔の前に持ってきて左の手首を確認しても傷一つ、血の汚れも無い元通りの状態で、折れているはずの右腕も問題なく動かせるし痛みも無い。表示されている時間もセーブした直後の時間だった。
 全ては時間と共に巻き戻されているのに、俺の記憶だけは残されている。
「ロードに救われたのか……」
 奴に喉を食い破られる直前に俺はシステムメニューからロードを実行していた。
 膝から力が抜けて倒れ込みたいが、システムメニューの間は頭や腕、上半身を捻ることも出来るが、何故か両の足は地面から動かす事は出来ない。
「くそっ……最初のスライムに殺される勇者か、俺は!」
 ゲームなら「ゲームバランスしっかり調整しろよクソゲーがっ!」で済む話だが、この場合糞なのは紛れも無く俺だ。我ながら糞過ぎる。
「どんなに凄いチートだって、使い手が馬鹿じゃ意味ねえ……」
 まず時間が経過しないシステムメニューが使えるのだから、焦って戦いに持ち込まないで、もっとしっかりシステムを確認し利用すればこんな状況にならなかったかもしれない。
 次に戦闘中、ただ単純にシステムメニューのON/OFFを繰り返すのではなく、要所要所でONの状態で常に周囲の状況をきちんと把握しながら戦っていれば、剣のハンドルが額に当たって隙を作る事も無かったはず。
 更に周辺マップも使いこなせていなかった。最初の狼を殺したと勝手に思い込んで、マップの中に赤のシンボルが消えずに残っていたのに無視してしまった。
 自分の愚かさに死にたくなる。悔しくて情けなくて涙が溢れて零れ落ちた。どうせならこんな思いも記憶ごと巻き戻してくれればよかったのに……


 久しぶりに泣いた。ぼろぼろと涙を流して泣いた。
 だが一頻り泣くと、少し気分が落ち着いたのが分かる。そして冷静になった頭で考え出した答えは……
「……リベンジだ」
 この悔しさは、奴らを倒す事でしか晴らせそうに無い。
 俺はデフォルト状態に戻ったマップなどの機能のシステムの設定を済ませると状況をセーブした。
 武器以外の装備の見直しも、所持しているアイテムの確認も、他に便利なシステム機能もチェックしない。
 馬鹿は馬鹿なりに今の状態で奴らに勝つ。何度負けても必ず勝つ。今の条件で勝てなければ、目の前に立ち塞がる壁に正面から挑み乗り越えなければ、俺にはこの先、この世界で生きていける可能性が無いということになる。そして何より、そうしなければ俺の傷ついたちっさい誇りが癒されない……まるで冷静になっていなかった。

「来やがれ、こんちくしょうっ!!!!」
 狼たちを再び引き寄せるために、俺はあらん限りの力を込めて咆哮を上げる。



[39807] 第3話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:54
 辺りには血の匂いが立ち込め、目の前には2頭の狼が倒れていた。血塗れで臓物をぶちまけた惨たらしい死体と化している。
 経緯を詳しく話すと滅茶苦茶長くなるから結果だけを言うと、俺は狼たちに勝った。それも無傷の完勝だ……ただし、何回ロードし直したかは絶対に秘密だ。
 しかし疲れた。ロードし直すたびに、怪我も疲労も元通り回復するのだが、精神的疲労が半端じゃない。まるで丸一日戦い続けたような疲労感……いやそんなに戦ってないよ。
 だが、おかげで随分と経験をつむ事が出来た。戦うという生々しいまでに純粋な行為を俺は少しだけ理解できたような気がする。思えばあの2頭の狼たちこそがそれを教えてくれた本当の師なのかもしれない……空手部顧問? 俺の人間としての成長には全く関係の無い存在だ。

 ところで話は変わるが、狼との戦闘終了直後に『森林狼2頭を倒しました』というアナウンスに続き『てきぃぃぃん』という効果音が響き『レベルが上がりました』とアナウンスされた。
 やっぱりレベルアップはあるんだと思いつつ、現在のパラメーター値とログデータ──恐ろしい事に、タイムテーブルに沿って、俺に何があったか、俺が何をしたか、俺が知覚している範囲で周囲で何が起きたかが詳しく記されている──からのレベルアップ情報を確認する──といってもパラメーターの全てを確認したわけではない。項目が馬鹿みたいに多いのだ。【筋力】をチェックすると『全筋力 平均値:xx』と平均値が数値で表示されるが、更に詳しく下の階層を確認すると『上半身 平均値:xx』『下半身 平均値:xx』と表示され、更に下の階層には『右上腕部 平均値:xx』の様に各身体の部位ごとに分類され、またまた下の階層には、上腕部にある筋肉一つ一つに筋力数値が設定してあった。このシステムを作った人間はパラノイアだと思う。しかも【筋力】の項目を選ぶと、ステータス画面の右側に表示されている俺の全身像が、真っ裸になり選択した筋肉が赤く表示される、とても勉強になる仕様だが、股間でプランプランしてる自分の一物が目障りで「チンポは隠せチンポは!」と叫ぶとそこだけモザイクが入る……袋は出しっぱなしだった。とにかく全てのパラメータをチェックする気にはなれなかった──とチェックした範囲ではレベルアップ前に比べると最低でも2割以上上昇していた。まあレベル1の時のパラメーターが笑ってしまうほど低いせいだが。

 そして実際に身体を動かしてみると身体能力の上昇が強く実感できる。後2・3回レベルアップしたら俺の中学生生活の最終目的である空手部顧問にお礼参りが叶いそうな気がする。
「というか、もっと弱い敵と戦ってレベルアップしていた後に、あの狼たちと出会っていたら楽勝で勝てたんじゃない? ……何が『チートきたーーーーっ!!!』だよ」
 ともかくレベルアップによるパラメーター上昇がある以上は、この異世界で生き残るにはレベルアップして殴って倒し、またレベルアップが正解のような気がしてきた。
 また、パラメーター確認して気付いたのだが【魔力】とかいう項目があったんだけど、それも他のパラメーターに比べてかなり高かった。
 それで現在どんな魔法を使えるのか確認してみたが、個人スキルの【魔術】を選択してみたら、全部空白で『現在使用可能な魔術はありません』だった。
「今後に期待か……」
 気になるのは【HP】とか【MP】は存在しなかった事。流石に自分の身体の状況をHPとか数値で表現するには無理があったのだろう。
 それに戦闘終了後に、RPGなら当たり前の金が手に入らなかった。これはログを確認したのだが、金だけではなくドロップアイテムも手に入らなかった。確かに狼が金や何かアイテムを持ってるはずが無いのだから当然とは思うが、リアルなファンタジーな世界に無理やりRPGのシステムを押し込んで、噛合わない不都合な部分に関してはシステム側が折れている。そんな感じがしてならない。

 それから6時間後、俺は一つの真理にたどり着いていた。
「レベルアップしている場合じゃない」
 俺はこの異世界で生き残るには、レベルアップして殴って倒して、またレベルアップは決して正解ではなかったことに気付く。
 森の中を歩き回り、遭遇した敵対的な生き物たちと戦いレベルを順調に4まで上げてしまったのだが、特に敵を求めて動き回っていた訳じゃなく、出来るだけ戦いを避けるように物音を立てないように慎重に動き回っていたのだが、この森の動物達はともかく人間に対して好戦的で、こちらに気付くとすぐに周辺マップ内で黄色から赤へと変わって襲い掛かってくる。
 狼や猪のように、現実世界でも人間を襲うようなタイプはともかく、どう見ても草食獣で鹿の仲間にしか見えない──とはいえ、1本の角が額の中心辺りから生え、そこから左右に枝分かれしている──までも、目を血走らせながら、襲い掛かってくるのは納得できない。
 おかげで、パラメーターによってはレベル1の時と比較すると倍以上に成長していて、狼なんて怖くない状態ではあるが、決して絶対的強者になったわけでもなく、日が暮れる前に人里──こんな森の中にちゃんとした町や村があるとは思わない──にたどり着かなければセーブ・ロードも関係なく死ぬ事になると分かってしまった。
 一応【所持アイテム】の中には夜営の備えはあるのだが、俺を発見したらすぐに襲い掛かってくるような動物だらけの森では夜営は無理だ。もし寝ているところを襲われたならロードする暇もなく一撃で殺される可能性も高い。
 寝ずに一晩を明かすにしても、夜の暗がりを問題としない夜行性の獣を相手に闇の中で戦うのはコマ送り戦法を使っても勝ち目は薄いだろう。かといって火を起せば、森の愉快な住民達が挙って押し寄せて物騒なパーティーが始まってしまうのは想像に難くない。
 しかし目的地である人里は一向に見つからない。今は川沿いに下っているのだが、人間が通るような道すらも周辺マップの端にすら引っかからない。
 多分、あと3時間ほどで日が落ちるだろうし、陽光の届きづらい深い森の中は既に暗くなり始めていて、人里探しよりも、森を脱出する事を優先させなければ、あと1時間もしない内に森は闇に閉ざされてしまうだろう。
 そうなれば移動するためには明かりで視界を確保する必要がある。所持品にランタンはあるが、前述のとおり明かりを点けて歩いていたら10分後には死体になっているだろう。
「仕方ない。セーブは止めだ。今行ける所まで行ってから駄目ならロードで戻るしかない」
 現在セーブしてあるポイントは、前回の戦闘終了後である30分程前のことだが、一番捜索範囲を広げられるのはそこを起点として様々な方向へ可能な限り直進し、日が落ちる、もしくは戦闘になり怪我をした場合はロードして戻るのを、人里、もしくは安全に一夜が過ごせそうな場所を見つけるまで続けること。
 勿論、現在のセーブしてある場所を中心とした捜索範囲には人里も一晩過ごせる安全な場所も存在しない可能性も少なくは無い。だが生き残る事を最後まで諦める気は無い。自暴自棄になったらお仕舞いだ。
 極限状態で生き残る事に必要なのは直感の類ではなく、冷静により高い生存への可能性を積み重ねる事だと、空手部の顧問も言っていた……べ、別にあいつの言葉をまともに受け止めてるわけじゃないんだから!

 川沿いに藪を剣で薙ぎ払いながら進むような面倒は止めて、革鎧などの装備品をシステムメニューの【装備品】を使って外すと、それほど流れが急ではない水の中に踏み入ると泳ぎながら川を下る事にした。
 どうせ日が暮れたらロードで状況を巻き戻すのだから、身体がずぶ濡れになろうが構わない。長くても1時間くらいの我慢だし、身体を冷やして体調を崩したとしてもロードすれば時間と共に体調すらも全ては巻き戻る。
 川は岩肌の渓流ではなく、緩やかな傾斜に沿って水の流れが土を削って出来た、緩やかな蛇行を繰り返す穏やかな川なので、泳ぎが別段得意でもない俺でも苦労する事は無かった。
 それどころか、川の流れに乗っている事に加えてレベルアップによる身体能力の上昇もあり、衣服を着たままというハンデをものともせず、かなりな速度で川を下っていくことが出来た。
 途中何度か周辺マップに狼や鹿もどきらしき反応があったが、泳ぐのを止めて水の流れに身を任せて進めば、藪の中を進んでいた頃と違って、それらを示す黄色いシンボルが赤になることは無くやり過ごすことが出来た。
「最初から泳いでれば良かったな」
 藪の中を歩いていた時とは比べもののならない速度と次第に暗くなっていく森の様子に、もっと早くに川に入らなかったことを後悔するが、ロードして戻ったら今度は出来るだけ早く川に入れば捜索範囲を広げる事が出来る。
 川に入ってから50分近くが経過し、森が夜の暗闇に染まろうとし始める。これ以上進むのは諦めてロードして戻ろうかと考えていると手前で川が右に大きく曲がった場所の川面がキラキラと光を反射させている。
「まさか?」
 それまでの平泳ぎからクロールに切り替えると、俺は全力で川の先を目指して泳いでいく。
 カーブを抜けた先で俺の目に飛び込んできたのは、森が切れた先から飛び込んでくる陽光が光の柱のようにそびえ立つ姿だった。


 森を脱出した俺だが、その後ロードして森の中に戻った。
 やり直して、すぐに川の中を泳いで移動すれば、先程よりも早い時間で森を脱出し、その後の町や村の捜索に時間が取れるという判断と、何より服とズボンが濡れたままの状態でセーブして、それを起点に何度もロードしなおしながら捜索を続けるのはきついと判断したからだ。
 今回は川までたどり着いた段階で、鎧などの装備だけでなく服やズボンも脱いでから収納し、前に垂らす布の無い褌のような腰布一枚の姿で水の中に入り泳ぎ始める。
 前回はもしも森の動物に襲われた時に、せめて服やズボンを身につけていないと水から上がって戦おうにも藪の中には結構鋭い棘のようなものを持つ植物もあるので、それを恐れて服を身につけたまま川に入ったが、先程まで川を移動している間、一度も戦闘になることが無かったので大丈夫だと判断した。
 その結果、前回は一時間半近く掛かったロード地点から森の外までの行程を1時間足らずで移動することが出来た。

 森の外は草原が広がっており、俺は水から上がると身体に付いた水を厚手の手拭──タオルと呼ぶにはパイル地ではない──で拭い取り、すぐに服を身につけ、その上に装備一式を装着する。と言ってもシステムメニューに任せれば一瞬に完了する。おかげで自分では鎧を着ることも脱ぐことも出来ない。
 そのまま地面に腰を下ろすと、ゆっくり深呼吸をして息を整える。そして【所持アイテム】の中から水筒と保存食を取り出すと、食事を兼ねて休憩を取った。
 保存食は、刻んだ野菜や肉などを水で溶いた小麦粉と合わせて練り、それを焼き固めた上で乾燥させたものらしい。大して美味くも無いが空腹は満たされた。
「日が落ちるまで2時間と少しってところか……」
 水筒を仕舞うと立ち上がりセーブを実行した。

 腰の高さほどの草が生えた草原は、森の中の藪と違ってズボンの上から突き刺さってくるような茨や足を取る蔦の類はほとんど無く、一々剣などを使って切り払い進む必要は無くブーツの底で草の根元を押し倒すようにして踏めば問題なく進むことが出来た。
 また、草原でも他の生き物の反応はあるが、森の中と違って積極的にこちらを襲ってくる動物は居なかった。やはりあの森の中の動物が異常なのだろう……本当にそうあって欲しい。
 一番有力な選択肢である川沿いのルートを1時間ほど進むと、大地を見下ろす断崖へと出てしまった。川は崖から数十mを落下して滝壺へと注ぎ込み、そこから再び川となって南西へと向かって流れ、やがて大きな川に合流した後は西へと流れる川は、数十km以上は離れた此処からでも目視出来る巨大な湖まで続いていた。
 こちらが隆起したのか、それとも向こうが沈降したのかは知らないが、隆起にしても沈降にしてもかなりな大規模の自然現象の結果であり、左右をどちらを見渡しても絶壁が果てしなく続いていており、幾つもの川が断崖から滝となって下の大地へと注ぎ、やがてこの川と同じく1本の大きな川へと流れ込んでいる。
 そんな雄大すぎる景色を眺めながら、下へ降りるのは無理だろうなと溜息を漏らす。
 所持品にはロープもあったが精々十数メートルの長さしかなく、崖の高さはその4倍以上はありそうだ。いかにレベルアップによる身体能力のあろうとも無事に飛び降りられるか賭けてみるには分が悪いだろう。ついでに言うと俺は高いところが苦手だ。子供の頃、すいすいと10mはある木の天辺まで登ったは良いが降りられなくなり、救出にはしご車が出動する騒ぎになって以来自覚している。今でも「○○映像100連発」みたいな番組で、高い所に登って降りられなくなった子猫を救出するほのぼのとした場面がテレビに映ると赤面してチャンネルを変えてしまうほどだ。だから今後幾らレベルアップを重ねて身体能力的には可能になったとしても絶対に俺は飛び降りない。

「……まいったな」
 森の中とは違い草原は見晴らしが良いので、ざっと周囲を見渡しただけでかなり広い範囲で人が住んでいるような場所が無いことが分かる。
 森を出てほぼ真っ直ぐ西へと森から離れるように移動してきたこのルートが駄目だとすると、他はルートを捜索しても人里を見つかる見込みは薄い。
 芸能人をテレビ局の前で出待ちするファンのように、人間を見つけたらまっしぐらに突っ込んでくるような危険動物が住む森の近くに住もうと考える馬鹿がいるとは思えない。
 そしてこの草原は森と断崖に挟まれている……ヤバイ! 詰んでないか?
 いやまだだ。セーブポイントから北か南のルートを進めば、何時か開けた場所に出て、そして街道なんかに出られて、偶然通りかかった商人の馬車なんかと出会えて「これから町に行くんだけど乗ってくか?」なんて誘われて、町の宿に一泊して、明日は冒険者ギルドに登録しに行って、美人の受付のお姉さんに「あら坊や、可愛いわね。期待しているわ、頑張りなさいよ」なんて言われて……いかん! 辛くても現実から目をそむけるな。
「どうする俺?」
 システムメニューを開いた状態なら悩んでる時間は幾らでもあるが、現実逃避には意味がない。現状の選択肢はこの断崖を降りる方法を探すか、ロードして戻るかの二択。
 膝をカクカクさせながら腰がひけた状態で崖っぷちまで行って下を覗き見る。
 吸い込まれるような光景に眩暈を覚え、よろけて足を踏み外しそうになるが、咄嗟に後ろに尻餅をついて何とか助かる。
「無理だ……俺には無理だ。ここから降りるなんて無理だ……一瞬、丸太にでもしがみ付いて滝から水と一緒に落ちれば助かるかなんて考えた俺が馬鹿だった……死ぬよ。墜落死じゃなく墜落中に心臓麻痺で死ぬよ」
 落ちそうだと感じただけで、心臓が異常な速度でバクバクと鳴っているんだ。こんな状態で、このほぼ垂直に立ち上がる断崖をどうやって降りられるというんだ?
「……もう森に帰ろう」
 森に帰って、ひたすらレベルアップし森の王者となって森の動物達に君臨し楽しく愉快に暮らすんだ。馬鹿な妄想だけど、この断崖を降りる事を考えるのに比べたら遥かにマシだ。
 そう思った瞬間、滝の方からピシピシと何かが割れるような音がして振り返ると、岩の崩落が始まりガラガラと音を立てながら岩塊が滝壺へと落ちていく。
 氷河にしろビルにしろ、今回の断崖にしろ何故崩落という現象は、こうも人間の目を惹き付けるのだろう。この時ばかりは高所恐怖症も何処へやら、這いつくばった状態で崖っぷちから顔を突き出して次々と落ちていく岩塊の様子を目で追い続けていた……自分の身体の下から『ピシッ』と音がする時まで。
「あっ!」と叫んだ時には、重力から切り離された浮遊感と共に俺の身体は宙に投げ出されていた。

 その瞬間、システムメニューを呼び出して、ロードを実行すれば問題なかったのだろうが、既に落下の恐怖でパニックに陥っていた俺は「ここでまさかの強制進行イベント!?!?!」と意味不明なことを叫んだ後、あっさりと意識を手放してしまった。



[39807] 第4話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:54
 目覚めるとベッドの中だった。見上げる天井はとてもよく見慣れた自分の部屋の天井だった。
「………………夢?」
 そりゃあそうだ。異世界トリップなんてあるはずが無い。ただの夢に決まっている。夢の中で必死になっていた自分が可笑しくて、堪えきれず口を突いて笑い声が溢れ出す。
 一頻り笑った後、時計を確認するとまだ5時半前。今日までは空手部の朝練が無いからもう少しゆっくり寝ていたかったのだが、目覚めてしまったものは仕方ない。
 中学に入って以来、ほぼ毎日朝練なために早起きが身に付き、二度寝するという習慣が無いため、諦めてベッドを降りると自分の部屋を出た。

「母さん、おはよう」
 階段を下りて廊下とリビングをつなぐドアを開け、台所に立つ母、史緒(ふみお)に声を掛ける。
「おはよう。今日も早いわね、朝練は明日からよね?」
 母さんは流し台で米を研いでいた手を止めて、こちらを振り返り挨拶を返してくれた。
「うん朝練は明日からだけど、夢見が悪くていつもより早く目が覚めちゃったんだよね」
 そう答えながらソファーの上に新聞を手にする。
「あら、どんな夢を見たの?」
「……知らない場所で苦労する夢だよ」
「それは……大変そうね」
「うん、大変だったよ」
 俺が答えにと母はクスクスと笑いながら「でも、ご飯はまだ出来てないけど、簡単なので済ませても良いなら少し待ってば……」と言いかけたのを「これからマルと散歩ついでにランニングしてくるから、ご飯は皆と一緒でいいよ」と遮る。
 手にした新聞の一面をざっと目を通してから居間を出て部屋に戻りトレーニングウェアに着替えた。
 そして居間と廊下をつなぐドアから「マル。散歩行くよ」と声を掛けると、奥からマルことマルガリータ(母命名 シベリアンハスキー 生後8ヶ月 ♀)が嬉しそうに尻尾をブンブンと駆け寄ってくる。ここ暫くは朝練が無いために時間がある俺が散歩に連れて行っているので、散歩に連れて行ってもらえると分かっているのだ。
 マルガリータ。お嬢さんと呼ぶには、シベリアンハスキーのドスの利いた顔で身体も既に成犬並に大きくがっしりとしているが、その仕草にはまだ仔犬の頃の面影があり愛嬌たっぷりで可愛らしい。
 期待感一杯といった感情を体中で表現するマルの頭を一撫でしてから、玄関で吊り棚からリードと糞始末の道具などのお散歩セットの入ったポウチを取り出す。そこへ自分から進んで「リード付けて」と言わんばかりに、頭を持ち上げ首元を見せながら擦り寄ってくるマルの首輪にリードを取り付けて、ポウチを肩から掛けると準備は整う。
「行ってらっしゃい。車に気をつけるのよ」と送り出す母の声を背に受けて「行ってきます」とだけ返事をすると家を出た。

「何だかやけにくっきりと見えるな」
 川の堤防の上の散歩道をマルと一緒に走っていると、遠く前方に見えるいつもの山々が妙にはっきりと、そう山の頂上にある鉄塔の鉄筋までもはっきりと見え、随分と今日は空気が澄んでるんだと思った。
 空気が澄んでるおかげか身体もいつもより調子が良く感じる。ランニングのペースをあげても息が切れる様子も無い。
 俺がペースを上げたことに軽い興奮状態になったマルがはしゃぎだし、俺よりも前に出ようとするがリードを持つ者として、躾けの為にもそれを許すわけには行かない。
「うりゃぁぁぁぁぁっ」
 俺が更に速度を上げてリードを広げると、マルも「ワンワン!」と吼えながら速度を上げてくらいついてくる。

 20分後。
 流石に息が切れて一休み。
 マルにはお散歩セットから取り出した、水飲み用の皿にペットボトルから水を注ぎ、自分には自動販売機でスポーツドリンクを買って一気に飲み干す。
 ペットボトルをゴミ箱に捨てて、戻って来てもマルはまだ、時折ハァハァと息を継ぎながら水を飲んでいた。
 犬のマルの息がまだ乱れているのに、自分の呼吸は既に整っていることに疑問を感じながらマルが水を飲む様子を眺めていると、俺の視線に気付いたマルが水を飲むのを止めて俺を見上げてくる。
 やはりシベリアンハスキーはアレだ。顔にも及ぶ毛皮の模様が陰影の様で顔の彫りを深く感じさせる上に青い瞳のせいでバタ臭くパンチの効いた外人顔に見える。
「お前って狼の血が入ってるんだよな」
「わう?」
 だが昨夜の夢の中の狼たちとは違って、俺の言葉に首を傾げる様子は愛嬌がある。もしかして夢の中の狼はマルをイメージで作り出したものかと思ったが、どうやら俺の気のし過ぎのようだ。はっきり言って家の子は多少ごっつい顔をしてても可愛い。

 帰りはペースを落としてゆっくりと帰る事にして、マルに「さあ帰るぞ」と声を掛けるが、普段の散歩ではこんな遠くまで来たこと無いマルは一瞬辺りを見渡し、困ったような顔で俺を見つめてきた……こいつ、家の方向が分からないのか?
 友人が飼ってるマルチーズと散歩に行った時、時間があったので犬の好きなように走り回らせたら、普段行ったこと無いところまで走った挙句に、突然道の辻で辺りの匂いを嗅ぎながら何度もグルグルと回った挙句に、「助けて」というような表情で友人を見上げた事があったそうだが、お前もか? 小型犬並か? つうか一本道だろ迷うなよ!……後で知った事だが、シベリアンハスキーは帰巣本能が弱いらしい。犬の癖に。

「こっちだ行くぞ」
 俺がリードを引っ張るとマルは着いて来る。だがその様子は不安そうで尻尾が力なく垂れ、「何処に連れて行くの」と言わんばかりにおどおどとした視線を時折こちらに向けてくる。
 20分ほどジョギングよりは早い程度の速度で来た道を戻ってくると、いつもの散歩──ロングバージョン──の折り返し地点に出た。その途端、マルは見慣れた場所に元気を取り戻す。
「現金な奴だな」
 嬉しそうに俺の膝の辺りに額を擦り付けてくるマルを、改めて「馬鹿だけど可愛い奴」と思った。


 家に帰りつくと玄関でマルの足元を濡れた雑巾で拭うとリードを外してやる。
 すると、母が台所に用意してあるだろう餌を目指して一目散に走り出した。
 俺は回収してきたマルの糞をトイレに流して始末すると居間に入る。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえり隆(たかし)。マルの散歩ご苦労さん」
 料理をしていた母は振り返り、ソファーで新聞を読んでいた父、英(はなぶさ)は自分の代わりにマルを散歩に連れて行った俺への労いの言葉を、背中を向けたまま口にした。
「ご飯はもう少し掛かるからシャワーを浴びなさい」
「そうする」
 母の言葉に頷くと、台所の隅で凄い勢いで餌を食べるマルの後ろを通って風呂場に向かった。

 シャワーを浴び終えて出てくると、ダイニングテーブルには俺以外の家族全員が席に着いていた。
「おはよう兄貴」
 まだ眠たそうな顔をしている3歳上で高校3年生の兄、大(まさる)に挨拶をする。
「ああ、おはよう……」
 受験勉強で大変なのかやはり返事も眠たそうだった。
 俺が席に着いて家族4人全員揃うと、父の「いただきます」の声と共に食事が始まる。朝から家族全員が揃って食事とは今時珍しい家族だと自分でも思う。
 我が家の食卓は朝からしっかりとした和食で、玉子焼きに塩鮭の切り身の焼きと、蕪の一夜漬けに胡瓜とニンジンとたけのこの細切りの酢の物。そしてご飯と、わかめと豆腐の味噌汁。更に俺と兄貴には茹でたソーセージとマスタードが追加されている。
「大。勉強は進んでいるか?」
「志望校は大丈夫だと思うよ」
 俺も成績は悪くないが、兄貴は県でもトップクラスの進学校に通っていて、志望校とは東京の国立大学だ。
「そうか……隆。空手の方はどうだ?」
 父の言葉に、俺と兄貴の箸の動きが同時に止まる。
「そ、そうだね部活の引退までには、顧問の先生に一発入れるくらいにはなりたいな……なれるといいな……」
 そう答える俺の横で、兄は顔を伏せ「すまん。すまん隆……」と肩を震わせながら呟くのが聞こえる。

 俺が所属する空手部は、学校では別名「地獄部」と呼ばれ恐れられていて、一度入部すると強くなるか死ぬしかないとまで言われている。
 おかげで空手部部員というだけで全校の女子から怯えられる始末だ。
 うちの学校の在校生および卒業生は自分の兄弟や知り合いが入学する際には「空手部だけには入ってはいけない」と申し送りするのが不文律となっているのだが、同じ中学の卒業生である兄は、元々俺が「中学に入ったらバスケ部に入る」と表明していたため、そのことを俺に伝えていなかったのだ。
 学校では生徒は全員部活動に参加するのが規則で、俺はバスケ部を見学に体育館へ行ったのだが、その時ステージの上で練習している空手部の先輩達を目にしてしまった。空手部が強いという噂は小学生の頃から聞いていたが、その素人目にも一目で分かる実力に、俺の中の強くなりたいという秘めた想いに火が着き、今にして思えば何を血迷ったのかと言いたくなるような、その日の内に空手部への入部希望を出すという暴挙をなした。
 その日の晩御飯の時間に「母さん。空手部に入ったから、空手着とか買うのにお金ちょうだい」と言った途端。兄貴の手から茶碗が滑り落ちてテーブルの上でひっくり返りご飯を撒き散らした。
「た、隆、お前……バスケ部に入るんじゃなかったのか?」
 目を見開き、憮然とした表情で搾り出すようにそう口にした。
「えっ……うん、そう思ってたんだけど、空手部ってレベル高そうでしょ。おもしろそうだから……」
 兄貴のただならぬ様子に緊張感を覚えつつ答えると、兄貴はいきなり土下座した。
 目の前で土下座されるという初体験に呆然とする俺に「ごめん。ごめんな隆。俺が、俺が勝手にお前がバスケ部にはいると思い込んで、お前に大事な事を伝えなかったせいで、ごめんなぁぁぁぁ」と泣きながら床に何度も頭を叩きつける。
「な、な、何これ? 俺何か大変な事しちゃったの……もしかして命に関わる?」
 俺の言葉に、兄貴は背中をビクリと震わせると、顔を上げて俺をじっと見つめて、一拍置き「関わる」一言で答えると再び床に頭を叩きつけた。
 ちなみに兄貴は『仲の良くない弟を地獄部に売ったぐう畜(ぐうの音も出ないほど鬼畜)』と同窓生や先輩達にレッテルを張られた。高校でも彼等から陰口を叩かれ、3年生になった現在も散々な学校生活を送っているそうだ。
 そんな空手部で俺は、地獄の獄卒たる空手部顧問を何時かボッコボッコにして恨みを晴らすという希望だけを胸に、地獄で自らの牙を研ぎ澄ましているのだった。

 いつもの通りに家を出て、いつもの通りに学校に向かう。いつも通りに教室でクラスの連中に挨拶をして、昨日のテレビの話をしたり宿題の話なんてして、いつも通りの生活が始まるはずだった。
 1時間目の英語の授業を受けていて、あることに気付く。
 不思議と授業内容が頭に入ってくる……いや、不思議というよりは明らかにおかしい。
 アメリカ育ちでネイティブな発音が自慢の帰国子女の英語教師(32歳 男)のネイティブすぎて聞き取れない発音が、一つ一つきちんと英単語として聞き取れるし、その単語の意味もすっと記憶の引き出しの中から取り出すことが出来た。

 その後の数学の授業でも、やはりおかしかった。
 担任でもある北條先生(25歳 女 美人←大事)が黒板に書く因数分解の式が、書き終わらないうちに一瞬で解けていく。
 しかも、普通に組み合わせから導き出される答えと、同時に今まで何百問と解かされてきた答えの記憶の中から、今の問題と同じ問題の答えを思い出すことが出来るのだ。
 頭がキレ過ぎている。俺の頭がこんなに良いはずが無い。そう考えると散歩の時の体調も良すぎた。まるで自分の身体とは思えないほどの体力だった。
 そしてその原因に思い当たる節が無い訳でもない。勿論、そんなはずはないという思いがある。あってはいけないという思いがある。だけどそれしか思い当たらない。
 俺は心の中で一言呟いた『システムメニュー』と……

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 昨夜の夢の中で見飽きるほど目にしたシステムメニューが目の前に現れた瞬間、断末摩の如き悲鳴を上げた。
 当たり前だと思って生きてきた日常が、今その根底から覆されてしまったという事実が受け入れがたい。
 夢だけど夢じゃないとか言いながら傘を頭の上にかざして踊りだしたくなった。

 ちなみに俺の叫びは現実の時間が停止したシステムメニュー内のことだったので、授業中に突然叫び声を上げたりする問題生徒と内申書に書かれることは無かった。
 何よりもこの学校の中で唯一空手部部員である俺達を恐れずに普通に接してくれる女性である北條先生に、おかしな奴と思われるのだけは絶対に避けたかった。
 彼女のためなら、俺達空手部部員は大島と戦って果てる事すら厭わないだろう……そういえば1人例外がいたな。



[39807] 第5話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/12/30 18:30
「確かに、身体能力だけでなく知能関係の項目もレベルアップで上がっていた……でも……」
 混乱から回復した俺は、冷静になって考える、そして考えれば考えるほど頭は混乱し、また時間を置いて冷静になるというのを繰り返していた。
 システムメニューの中で体感時間にして3、4時間悩み続けただろうか、やっと色々と頭の中で折り合いをつける。
 良く分からない現象ではあるが、この状況はある一点を除き俺にとっては問題どころか、プラスになるということだけははっきりした。
 レベルアップのシステムにより、自分の能力を高める事ができるなら、今後の俺の人生に大きな福をもたらすだろう……まずは空手部顧問を退治して、この学校に平和をもたらし学校中から感謝されて、あわよくば彼女を作る! そんな夢のような事が実現するかもしれない。
 そして問題である一点とは、俺が異世界というか夢の中で死んだ場合。やはり現実世界の俺も死んでしまうかもしれないということ。そして深刻なことに俺は夢の中で意識を失う直前、断崖を崩落に巻き込まれて落ち、命の危険にあるということだ。
 現実世界で眠る→夢の世界→墜落死→現実世界の俺も終了!
「まずいなんてもんじゃないけど……これはどうしようもない」
 こればっかりは折り合いのつけようが無く、諦めるしか無いというのも事実だった。家に帰ったら寝るまでに遺書を書いて机の中にでも入れておく。それしか俺に出来る事はないのだから、これ以上悩むのも考えるのも無駄である……ああ、どうしよう。

 授業を受けていると、授業が面白くて仕方ない。スポンジが水を吸うように知識を身につけられるというのは快感といえた。
 3時間目の社会科の授業が自習になったので、暇潰しに教科書──今日は4月16日でまだ使い始めたばかりの新しい教科書──に目を通していく、見開きの2頁につき10秒ほどのペースの斜め読みだが内容がどんどん頭に入ってくる。
 レベル4でこれなら、もっとレベルアップしたらどうなるんだ? と自分でも末恐ろしく思う。
 試しに内容を思い出してみると、一字一句正確にとかページを写真のように思い出すとかは『まだ』出来ないが、合法的カンニングのようなもので教科書の中から出題されるなら、何処から問題を出されても凡ミスさえ無ければ満点を取れるような気がする。
 そして最後まで読み終わると『中学3年生用 社会科教科書をファイリングしました』とアナウンスされる。
 システムメニューを確認すると【ログデータ】の下の階層に【文書ファイル閲覧】と言う項目が新たに追加されていて【中学3年生用 社会科教科書】が存在した。
 某有名ゾンビゲームシリーズにも、読んだ文書をファイリングする機能があったなと思い出す。思わずそのシリーズで使われるBGMが頭の中で再生され……『音楽情報を取得しました BGMのリストから再生してください』……もう何でもありの状況に眩暈を覚える。
 その後、【中学3年生用 社会科教科書】をチェックすると文字列検索からページ指定のジャンプ機能など便利機能満載で、しかも自分の記憶の中と違い、一字一句正確に、しかも口絵の写真なども全て表示されていた……もう驚かない。
「待てよ、実際に読んで頭に入れなくても、手当たり次第に本を所持アイテムの中に放り込んでおいて、それを必要に応じてシステムメニュー内で読めれば……」
 そう気付き、システムメニューを開いて手に持っている教科書を見ながら『収納』と念じると、教科書は手から消える。
 そして【所持アイテム】を確認すると、確かに教科書があった。そして教科書しかなかった。【装備品】を確認しても装備可能な物は一切存在しない。夢の世界で所持していたアイテムや装備は全て消えていることに驚くと同時に凄く納得する。
 【所持アイテム】から教科書をチェックすると、思った通りに収納した状態のままで内容を読む事が出来てしまった。
 そしてまだ凄い事があった。システムメニューを開いた状態で、試しに自分が触れていない机の上にある筆箱に対して『収納』を試してみるとすると問題なく収納できた。どうやら俺を中心とした半径1mのシステムメニューの範囲内に存在するものは、触れずとも全て収納可能……ヤバイ。ヤバ過ぎる。自重しないと犯罪者一直線だよ。でも待てよ、これなら手品師としても食っていけるんじゃない?

 全ての授業を終えた放課後、俺は部活に出るため格技場へと向かう。今日は格技場で新入部員の歓迎会……今年も手荒い歓迎会になるだろう。2年前の自分を思い出して「逃げて!」と言いたくなる。
 今年の新入部員は6人。彼等は元々この空手部の事を知っている空手経験者の物好き達で、俺のように知らないで入ってしまった憐れな奴は1人もいない。
 どちらにしても彼等に訪れるのは等しく無残な運命。地獄の底で自らの思い上がりと愚かさを呪うことになる。
 彼等が今まで体験入部などで見てきた、空手部の練習風景などは全て偽り。入学式以来、わが空手部は新入部員という名の犠牲者を1人でも多く獲得するために、まるで獲物をじっと待つ捕食者の様に普通の部であるかのごとく擬態していたのだ。
 彼等が部活の様子を見学しながら「噂ほど厳しい練習じゃない」とか漏らしていたのを心から憐れに思った。騙してごめんねと心が痛んだ。
 当然、この10日間ほどは朝練も中止していた。そして明日からは毎日朝錬だ。土日の朝練は自由参加だが、そんなのはただの建前。完全に朝練がないのは盆とその後の1週間──顧問の都合でその間は部活自体が無い──と正月。そして校則で明確に部活動が禁じられている試験前の1週間と試験期間だけだ。厳密言うと夏休みなどの土日も長期休暇中も朝練はないが、いつも通りに朝の6時から練習が始まり夕方までみっちりと1日しごかれるので、もはや朝練とは呼べないだけの話だ。

 部室で空手着に着替えて格技場に出る。
 2年と3年は既にストレッチなどを始めているが、新入部員達は所在無さ気に格技場の隅でかたまって突っ立っていた。
「主将! おはようございます」
 俺に気付いた2年生の7人が一斉に立ち上がり一礼する。空手部では午後だろうが夜中だろうが挨拶は「おはよう」だと決まっている。
「おはよう。今日からは部活もいつも通りだ気を引き締めていくぞ」
「オッス!」
 2年生達は一拍の乱れも無い返事と共に頭を下げた。
 そう。俺は空手部の主将になっていた。俺が入学した年の新入部員の中で未経験者の所謂『憐れ者』は俺だけで、他の4人全ては『物好き』だった。
 さらに俺には卒業したばかりの兄が居ると知った顧問は、何を誤解したのか俺を熱心に可愛がってくれた……相撲部屋的意味で徹底的に。
 俺には強くなるしかなかった。そして気付けば部員の中で一番強くなっていたのだった。

 新入部員達は俺と2年生達の様子に呆気に取られている。
 昨日までの上級生も下級生も関係ない和やかでフレンドリーな空手部の空気は何処にも無く、絶対的な鉄の上下関係を肌で感じて「おいおい聞いてないよ」とでも思っているのだろう。
「新入部員! お前等もぼさっとしてないで準備運動をして身体をほぐしておけ」
 そう。お前等が今日を生き残りたいなら念入りにしておくんだ……頼むから。

「集合!」
 格技場に入ってきた空手部顧問こと大島(37歳 男 空手5段 技術科教師)は竹刀を片手に、ドスの利いた声を張り上げる。その様は教師ではなくヤクザそのものである。
 2年生と3年生は素早く立ち上がると、大島の前に直立不動で横に整列するが、まだ良く状況が分かっていない新入生は取り合えず立ち上がると、大島の前に集まるが自分達の立ち位置がわからずおろおろとしている。
「何だその様は!」
 パーンと床を叩く竹刀の音と共に響く大島の怒声に新入部員達は萎縮しその場に立ちすくむ。
「高城ぃぃぃっ!」
「はい!」
 自分の名前を呼ばれて俺は即座に返事を返す。ちょっとでもタイミングが遅いと殴られるのだ。
「貴様。主将として新入部員の指導がなってない。説諭っ!」
 いや、そもそもアンタが昨日までは「練習は穏便に、新入生には優しくな」と言ってたから、「ヤクザみたいな顧問に怒鳴られてもびびるんじゃないぞ」なんて指導なんてしてないわ。と思いつつ首を右に傾けると耳の傍で『バシーン!』と音がはじけ左肩に痛みが走る。大島が鋭く振り抜いた竹刀で打たれたのだった。
 説諭という言葉には竹刀で打つという意味は何処の辞書にも書いてない。だが空手部においてはこれが説諭なのだ。しかし、そんなことを知らない新入部員達からは「ひっ!」と言う悲鳴が漏れる。
 驚いておきなさい。これからはこれが君達の日常なんだから、だから今の内に驚いておきなさい。これからは驚くとか、泣くとか、笑うとか人間らしい感情の発露が余り得意じゃなくなってしまうんだからと、肩の痛みよりも新入部員たちへの同情で涙が出そうになるのを堪えた。

「まずは体力だな。体力が無いと何も出来ない。お前ら外に出て校門に集合」
 そう言い残すと、さっさと格技場を出て行く。せっかく空手部で放課後に格技場を使える日──格技場は柔道部、剣道部、そして空手部の三つの部で共有して使用しているが、比較的練習場所を問わない空手部は平日の5日間の中で1日しか割り当てられてない。ただし朝練をやっているのは基本的に空手部だけなので、朝は空手部専用状態──なのに勝手すぎる、流石フリーダム大島。
 とはいえ新入部員を迎えての最初の練習というか暫くは毎年ランニングをやらされるのだ。
「新入部員。早く玄関に言って靴を履いて校門に行け」
 追い立てる俺の声に新入部員達は慌てて格技場を出て行く。あいつ等がぐずぐずしていたらまた俺が打たれる。
「大丈夫ですか?」
 2年の香藤が声を掛けてきた。
「ああ大丈夫だ」と言いながら右肩を回して見せる。
「打たれたのは左肩ですよ」
「ばれたか」
 などと冗談半分に答えているが、真面目で2年のまとめ役でもある香藤は俺の次の主将にほぼ決定で、来年には俺と同じ目に遭うのだから深刻な素振りは見せたくない。

「よ~し、これからランニングに出る。死ぬ気でついて来い」
 集まった空手部部員にそれだけを告げると走り出す。
「あ、あの先生。どれだけ走るんですか?」
 新入部員の1人が、俺達にとっては聞くまでもない事を質問する。そうこれは彼等が大島という人間を理解していくための大事なプロセス。通過儀礼なのだ。
「どれだけ? 俺が良いって言うまではお前等は死ぬまで走り続けるんだよ!」
 新入生は大島の竹刀の洗礼を浴びる。だが1発ではすまないのが大島流。奴は相手が痛がったり悲鳴を上げる内は絶対に『笑顔』で竹刀を振るうのを止めないドSなのだ。
 奴が、どれくらいドSかと言うと、普段の奴は仮の姿である技術科教師として授業を受け持っているのだが、俺が1年になって初めての授業の時に大島は「次から忘れ物をしたら椅子の上に正座して授業を受けて貰う」と説明した。
 技術教室の椅子は、背もたれも無い無骨な四角い木製の作業椅子であり、その座面もまっ平らな四角い合板が取り付けられているだけなので、2時間続きの技術科の授業でそんな酷い事はさせないだろうと、生徒の多くは冗談だと受け止めてしまった。全くもって救いがたい馬鹿どもだ。大島の顔を見て冗談を言う人間かどうか分からないなんてハムスター並みに生存本能が無い。
 結果的に次の授業では馬鹿な奴ら数名が忘れ物をした。
 当然大島が冗談など言うはずも無く、奴は忘れ物をした生徒に椅子の上に正座するように命令する。当然、抵抗する馬鹿がいて「ふざけんな」などと騒ぎ出すが、その瞬間大島は生徒6人で使う大きな作業机が反動で浮き上がるほどの勢いで天板を拳で殴りつける。そして驚きに固まる生徒達をゆっくり見渡すと、その凶相に笑みを浮かばせながら優しく「座りなさい」と命じる。馬鹿者達にも少しは大島という生き物のことが理解出来たようで逆らう者は1人もいなかった。
 だが椅子の座面の上に正座すると、どうしても高くなりすぎてノートへ黒板の板書を書き写すのにも背中を丸めなければならない上に、他の生徒もそいつ等が邪魔で黒板が見づらい。
 すると大島は教壇を離れ正座している生徒の元に行く。奴に怯え顔面を蒼白にし脂汗を浮かべて震える生徒の肩に手を乗せると「ノートが取りづらそうだな。立て」と声を掛ける。
 それまで張り詰めていた教室の空気は「やっぱりちょっとした脅しだったんだ」という思いで解れていく。次の大島の所業を目にするまでは……
 大島は立ち上がった生徒の椅子を横に倒すと、心底嬉しそうな笑顔に気持ち悪いほど優しい口調で「さあ、ここにお座りなさい」と告げる……怖かった。今まで感じたことの無い。これが本当に怖いという事なんだと、その時初めて思い知った。
 椅子の横には当然座面などあるはずもなく、四角い木製の脚が2本平行に渡されているだけで、江戸時代の牢獄での拷問に比べれば石地蔵を抱かされないだけマシだが、マシならば救いがあるのかといえばNOとしか言い様が無い。

 そんなドSな大島の取扱説明書など持たない新入部員には滅多打ちに遭う以外の道は無かった。
 新入生が10発ほどなぐられたのを見計らい、大島と新入部員の間に入り俺が竹刀を身体で受ける。痛いがこれが主将の役目だった。
「まだ初日です、これくらいで勘弁してやってください」
「……ああ、そうだな」
 幸い今日の大島は機嫌が良いのか、あっさりと竹刀を引くと再び走り出す。
 泣きながら、俺に「ありがとうございます。ありがとうございます」と礼を繰り返す新入生へ「黙って早く走れ」と命令する。
 彼に続いて新入生達は「こんなはずじゃなかったのに」「何でこんなことが許されるんだ?」「ひどすぎる」「ここは本当に現代の日本なのか?」「違うここは地獄だ……」などと泣き言を漏らしながら走り始める。
 確かに空手部は地獄かもしれない。だがお前達が今いるのはまだ地獄の一丁目ではない。精々、地獄の近隣市町村くらいなんだよ。
 そう思いながら俺は彼等を見守るように最後尾を走る。脱落者を出さないように遅れた奴の尻を蹴り飛ばすために、座り込んでもう走れないと泣き言を抜かす奴の胸倉を掴み上げて立たせ、引きずってでも走らせるために……だって、こいつ等にリタイヤされたら俺たち3年生が背中に背負って走る事になるのだから……

 だが結局、新入生6名は8kmを過ぎた辺りまでに全員リタイヤしてしまった……ふざけんな1年坊主どもっ! たった8kmを30分近くも掛けてゆっくり走った程度で何倒れてるの? 君達、42度くらいの熱でも出ててたの? 体力無さ過ぎるだろう。虚弱ちゃんなのか?
 そんな心の叫びはさておき、地面に横たわり死んだ魚のような目で虚空の一点を見つめ続ける最後の新入部員に、もう蹴ろうが殴ろうが立ち上がる力も気力も残されてないのは、悲しい事だが経験者として理解出来てしまった。
 だが俺たち3年生は5人しかいないため、既に俺たちの背中は先に倒れた新入部員達でふさがってしまっている。
 そこで俺は、この惨状の原因であり、世に蔓延る諸悪の根源たる大島に、お前が一番無駄に体力余してるんだからなんなら2、3人まとめて背負えよという思いを込めて「先生も1人どうですか?」と冗談めいた風に振ってみる。すると大島は「あぁ?」と振り返り凄んだ。俺は生まれて初めて「あぁ?」という発音に「殺すぞ」と言う意味がある事を知り、慌てて心の中の大島取扱説明書の注意事項に目立つ赤い文字で追記する。
 そんな嫌な緊迫感溢れる状況で空気を読んだ2年の香藤が、何も言わずに余った新入生を負ぶってくれた。やっぱり香藤は良い奴だ。こんな地獄で人間らしい心遣いに触れて思わず目頭が熱くなる。部活の帰りにアイスでも奢ってやろうぜと、俺を含めた3年生達は目で合図しあうのであった。

 こんな風に新入部員達は洗礼を受けて、正式に空手部の一員となったのだ……それが彼等にとって幸せかといえばNOと断言できるけど。

 帰宅後。普通に家族と会話しながら晩飯を食べて、風呂に入った後、両親と兄への遺書を書き机の引き出しの中にしまうと、新しいトランクスを卸して履くとベッドに入る……昔の侍も、腹を切るときは新しいまっさらの褌を締めたと言うのだから。
 眠ったら二度と目覚められないかもしれないという恐怖はあるが、寝ずにいられる人間はいない。結局は夢の中に活路を見出す以外に方法は無いならば、俺が今するべきことは寝る事だけだ。
 ゆっくりと瞼を閉じ心を落ち着ける。部活の疲労もあり心地好い眠気が訪れてくる……俺はふと思い出して、【時計機能】の【アラーム】を5:20にセットした。
「アブネェェ、朝練に寝坊して遅れたら殺される」
 ……生き残る気は満々だった。



[39807] 第6話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:56
 身体を包み込むような寒さというか冷たさと共に目を覚ます。
 やはり、自分の部屋のベッドの中ではない。俺は再び夢の中の世界に来たのだ。
 それにしても、またも眠った感が全く無い。
 今までにも何回か、ベッドに入ってすぐにうとうとする間もなく寝入ってしまい。起きた時もまどろむ間もなくシャキッと目が覚めてしまい寝たと思ったら朝だったという経験はあるが、
 この感覚はそれとも違って、本当に寝た瞬間に目覚めたとしか思えない……理不尽というか納得できないというか、生理現象としての睡眠欲とは別の睡眠欲が満たされないというか不思議な感覚だ。
 俺は川原の石を枕に川の流れを布団にしていた。冷たくて当然だ。
 崖から落ちた時、地面ではなく滝壺へと落ちたのだろう。さもなければ幾らレベルアップで上昇した強靭な肉体でも生き残るのは不可能なはずだ。
 ゆっくりと手足を動かしてみる。長時間、変な体勢で水の中に居たせいか、動かすと関節が痛むが、怪我による痛みとは違うし骨が折れている様子も無い。
 そこであることに気付いて、システムメニューを呼び出して、【パラメーター】の下の【現在の体調】をチェックする。
 【疲労度】は空腹と多少の疲れ。【傷病情報】の【怪我】の項目には水面への落下による、背から腰に掛けてのかる打撲。その後の長時間水に浸かったことによる体温低下とあるが、【病気】や【毒】などのバッドステータスは無かった。
 昨日の夕方から朝の……時計機能を確認すると5:18だった。昨日の夕方からと考えるとほぼ半日も水に浸かっていて風邪もひいていないとはレベルアップの……いや、空手部の冬の合宿で滝行だとかいわれて、凍りつくような冷たい滝に何十分も打たれていた俺ならレベルアップも関係ないのかもしれない。いかん、思い出しただけで風邪をひきそうだ。

「よいしょっと」
 掛け声を出して冷えきって強張る関節を酷使して立ち上がり、水から上がる。
 川の上流に目をやると、多分俺が落ちた傍の滝が見える。どうやら5・6kmほど下流に流されたようだ。
「さて……」
 どうやって生き残るか、決死の覚悟を決めて眠りに就いた割には余りに拍子抜けな結果だが、当初の目的通りに俺は生き残る事が出来てまずは一安心ということだ。

 しかし早く濡れ鼠で冷え切った身体を何とかしなければ本当に風邪をひきそうだ。まずは鎧などの防具を脱ごうと思ったのだが鎧の脱ぎ方が分からずいきなり躓いてしまう。
「どうしたものか」
 紐とかもあるのでそれらを解いていけば脱げると思ったのだが、1箇所目の結び目と3分間1ラウンドを戦うも水を吸った革紐は膨張してしまい全く解ける様子もなくKOされてしまった。
 仕方なくシステムメニューの【装備品】から【収納】使い鎧などの装備品を全て外した……濡れたままで収納したら、他の荷物も濡れたりカビが生えたりしそうで嫌だったのだが他に方法が無いので諦めるしかなかった。
 そして【装備品】からではなく【所持アイテム】から鎧を出す。すると身体に装備されていない状態で鎧が現れる……よしよし。
 まず服を脱ぎ、濡れたマントと共に絞って水を切り、【所持アイテム】から取り出した厚手の手拭で身体を拭く。水を絞った服やマントを川辺の木の枝に掛ける。ちなみに川の周辺や遠くに見える森などの木々は普通のサイズだった。やはりあの森が異常なだけなのだろう。木のサイズも動物も絶対におかしい、可笑しいくらいにおかしい。
 そして換えの服が無い俺は褌に似た腰布一枚の姿で、朝の寒さを堪えながら鎧やブーツ、篭手などの水を丁寧に拭き取っていくが、既に染み込んでしまった水分はどうしようもない。風通しの良い所に置いてゆっくり陰干ししなければならない。これが革モノの宿命だった。
 だが時刻はまだ朝の6時にもなっていないが、乾くのを待っていたら1日潰れてしまうだろう。だが今日こそは野中の一軒家でも構わないから人の居る所にたどり着きたい。別にベッドで寝られる所に泊まれなくても構わない。もっともベッドで眠れるならそれに越した事は無いが、目的は誰か言葉の通じる相手に出会う事だ。
 別に誰かとの会話に飢えているという意味ではない。この世界に言葉の通じる相手が存在するという事を確認したいのだ。
 これからの人生の時間の半分をこちらの世界で過ごす事になるのならば、こちらに文明社会の存在しない場合は、ひたすら襲い掛かる魔物や動物達と過酷なサバイバル生活を送ることになる、システムメニューの恩恵によるプラス面をもってしても、それでは赤字決算になる。
 どうせ2つの世界で2つの人生を送るのならば、どちらの世界も楽しみたい。それだけに今の状況に焦りを感じる。
 だがもしも、この夢の世界に文明が無いならば代わりを都合できるあての無い装備品は絶対に失うような事になってはならない。
 俺には【ロード】という切り札があるが、もし一撃で命を刈り取られるような事になれば何の役にも立たない。自分の意識の外からの思いがけない攻撃での死亡を避ける為の保険として、特に防具は失うわけにはいかなかった。
 今後、現実世界で動物の皮のなめし方。加工の仕方などを調べ……場合によっては実践して。こちらの世界で防具を自分で作る事もあるかもしれないが、現実問題として今、俺が持っている防具は濡れてしまったこれらだけであり駄目にするわけにはいかない。

 川原に漂着している枯れ枝などを集めて焚き火する。火は【所持アイテム】の中にあった生活道具の魔法の火口箱を使った。
 焚き火の傍に枯れ枝を組んで作った物干し台で服とマントを乾かしながら、毛布に包まり保存食を口にしている。
 やはり美味くないが水と一緒に──そもそも水と一緒じゃないと飲み込めない──食べると胃の中で膨らみ短時間で空腹感が抑えられるが、ビタミン摂取の面では偏りがありそうなので【所持アイテム】のサーチ機能で食品を探すと、ナグの実という果実がヒットした。
 チェックすると甘酸っぱく生食に適すとあったので取り出した。一言で表現するなら赤いミカン。大きさはLサイズのミカン並、表面の皮のブツブツ具合もミカン。蔕の部分に親指を差し入れて割ってみる……キュウイフルーツのような緑。恐る恐る一房を口に入れてみる。すると味はミカン。
「だったら最初から黄色い普通のミカンで良いだろ! どうなってるんだ俺の夢は!!」と叫んだのがいけなかったのだろう。余り気にしていなかった周辺マップで中立的生命体を表わす黄色いシンボルの幾つかが戦闘態勢の生命体を表わす赤へと変化した。

「ヤバイ! 馬鹿か俺は……セーブしていない」
 自分でも反省するポイントがずれているとは思うが、実際のところ大声を出してしまった事よりも目覚めてから今まで一度もセーブしていないのが一番のミスだ。
 今からセーブした後では、戦いは避けられない。そのまま防具無しで戦う事になる。逃げるという選択肢もあるが、その場合は腰布以外の着る物を全て失う事になるので選ぶ事は出来ない。
 かといってロードを実行して、先日の崖から落ちる前に戻るというのもありえない。俺には再びあの崖から落ちるという選択肢はありえない……他の事なら何でもしますから本当に勘弁してください。
「セーブ!」
 自分を奮い立たせるためにも声に出して叫ぶ。結局はこれしか道は無いのだから。

 そろそろ服は乾いていて、多少の湿り気を我慢すれば着れない事も無いが着ている暇が無い。鎧のような装備品と違い服やズボンはシステムメニューの【所持アイテム】に入っていて、装備で着ることが出来ないため腰布一枚で戦う事になる。つまりパンツ一丁。P-1スタイルだ。
 装備した剣を右手にP-1スタイルで待ち構える……あまりに変態的過ぎて死にたくなる。いや知人に見られたならば確実に切腹するだろう。
 すると、土手の草むらの向こうから「きぃきぃ」と甲高く不快な鳴き声が聞こえ、ついで草むらを飛び出してきたのは、身長1m強ほどの……『ゴブリンが4匹現れました』……親切にありがとう。

「ゴブリンかよ。ついにファンタジーだな。やるな俺の夢」
 そんな軽口を叩きながらも実際は緊張している。初めて人型の生き物と殺し合うのだ。
 ゴブリンどもは赤く血走った目でこちらを睨む。肌の色は汚れまくっていて何色か分からんし、産まれてから一度も切った事も櫛を通した事もなさそうな髪、口角からは涎が垂れ、鼻の下には鼻水が乾いてこびリ付いている。
「うん大丈夫。猿以下だ」
 人どころか、サルに感じる程度のシンパシーすら感じない。殺してもセーフだ。
 ゴブリンどもは赤錆びた短剣を片手に、4匹で俺を取り囲むように動きながら距離をじりじりと詰めてくる。
 戦いにおいて体重や身長の多寡は戦力の大きなウェイトを占めるが、身体が大きい事がプラスに働かない場合がある。
 それは武器の介在。1m程度という極端に低いゴブリンの身長は、俺からは的が遠くなってしまう反面、ゴブリンから見ると俺の下半身、特に重心を掛けるために前に出ることの多い脚は的として手ごろな位置にある。これが互いに素手ならば俺は蹴ると言う選択をすれば良いのだが、ゴブリンどもは剣を持っている。赤錆が浮いて切れ味は悪そうだが、刃物としての切れ味以前に、あんなので斬りつけられたら破傷風に掛かりそうで怖い。ましてや今の俺は身を庇うものを身につけていないP-1スタイルであり、相手の隙でも突かない限り蹴りは使えない。
 P-1スタイルといえば、奇しくもゴブリンどもの姿も薄汚れた腰煮にまきつけた布一枚という同じP-1スタイル。つまりP-1対決。ある意味面白くなってきてしまいニヤリと笑みを浮かべてしまう。
 その笑みを威嚇と判断したのか一匹のゴブリンが、包囲が完成する前に短剣を振りかざし突っ込んでくる。その狙いは大きく前に出され重心の乗った俺の左脚の膝下。
 だがその動きは、狼の攻撃とは比べ物にならないほど遅い。システムメニューのON/OFFの連続によるコマ送り戦法を使わなくてもたやすく見切ることが出来る程度だ。
 攻撃が当たる直前に俺は重心が乗った左足で地面を蹴り、脚を引いて短剣の一撃をかわす、そして引いた左足を右脚の膝の内側にぶつけると、その反動で左足を蹴り出すと、攻撃を空振りバランスを崩して前のめりになったゴブリンの顔に突き刺さる。
「ギュッ!」
 短く悲鳴を上げて後ろにぶっ飛ぶゴブリンに、残りの3匹は驚きつつも一斉に切りかかろうと距離を詰めようとする。
 それに対して俺は剣を持つ右腕の脇を締め、肘を大きく後ろに引き、柄を握る手を右わき腹の横に置き、左手を刀身の左側にそっと添える。そして切っ先を正面のゴブリンに向ける。
 その構えが何を意味するのかわからないゴブリンどもが警戒し足を緩めた瞬間。システムメニューから装備を剣から槍に切り替えて、システムメニューを抜けた。
「ギギッ!」
 目の前の獲物が剣を変な形で構えたと思ったら、次の瞬間には槍を構えていた。そんな超高速とかでは説明の付かない現象に何が何だか分からなくなってしまい呆然と立ち尽くすゴブリンの胸に、俺は容赦なく全力で槍を突き刺した。
 驚いた表情のまま声を上げる事も出来ずに絶命したゴブリンだったが、槍なんて使ったことの無い俺は槍を無駄に深く刺しすぎてしまい、槍を引いても抜けない。
 そこに勝機を見出した残りのゴブリン2匹が攻撃に移ろうとするが、俺は慌てず槍を収納し、今度は剣も持たない無手の状態でゴブリンに槍の切っ先を向けるように構えて、システムメニューから槍を装備する……

 あっさりと残りの3匹のゴブリンを仕留めると、最初に蹴り飛ばしたゴブリンにも止めも刺した。
 するとゴブリン討伐のアナウンスの直後に4度目の『てきぃぃぃん』という響きの後に『レベルが上がりました』というアナウンスがあり、俺はレベル5になった。
 しかも『魔術:水属性Ⅰ/土属性Ⅰ取得』とアナウンスがあったので「ついに魔法きたよ!」と喜んで、システムメニューの【魔術】の項目を調べると、水・土属性にそれぞれ1つ魔術が登録されていた。しかし水属性の術は直径10cm程度の水の球を中に浮かべるだけで、意識を集中すると多少動かす事は出来たが、集中を切らすと暫くして落ちて地面を濡らした。土属性の術は攻撃魔法だが石礫を1つ飛ばすだけのしょぼさだった。しかも石礫は自分で投げた方が早く飛ばせるという悲しい結果だったので魔法の事は忘れる事にした……俺が魔法使いになるには、まだ15年以上早かったんだ。

「やっぱり金は無しか……」
 ゲームと違い、戦闘終了後に経験値と金とドロップアイテムが勝手に手に入るという訳にはいかないだろうから、一応ゴブリンの死体を調べてみたのだが、唯一身につけている腰布の中身は小さな男根とふぐりの1セットのみ。
 狼だの鹿だの猪という動物が金を持っていないのは分かる。だが一応亜人であるゴブリンは金を持っていても良いんじゃないか?……あれ、でもゴブリンって亜人ではなく、元々は妖精の類だよな。なら金を持って無くても良いのかな? だがエルフの事を森の妖精とか呼ぶし、一応あいつ等も貨幣経済くらい導入してるのではないだろうか? 考えても答えは出ない。

「しかし、金が手に入らないのは拙いな」
 一応、システムメニューには【所持金】という項目もある。通貨の単位はネアで、1543ネア持っている。金貨2枚に銀貨5枚、銅貨43枚なので金貨=500ネア、銀貨=100ネア、銅貨=1ネアだと思うのだが、1ネアにどの程度の価値があるのか分からない。
 まあ現実世界ではないので──機械化による大量生産が導入されていなければ、現代社会に比べると大量生産される工業製品は食費などに比べると格段に高くなってしまう。そもそもそんな理屈が通用するかどうかすら分からないのがファンタジー世界である──1ネア=何円とかいう単純な比較は出来るわけが無いが、飯屋で普通に飯を食うのにどの位かかるか、宿で一泊するのにどの位掛かるかという目安すら無く不安なので、少しでも所持金は増やしておきたいところだ……だが待てよ金があると言う事は、貨幣経済を持つ知的生命体が存在すると言う証拠だ。滅んでなければね。
 とりあえず、最低でもくず鉄として引き取り手のあるだろう錆び塗れの短剣を戦果として収納すると、焚き火を消して服を着る……やっぱりまだ湿気ってるな。
 服や鎧などを乾かす事に拘って、ゴブリンが出現するような川原で一夜を明かす気にはなれないので、仕方なく防具は濡れたまま収納し、足元には【所持アイテム】にあったサンダルみたいな履物を履く、厚手のマントは当然だがまだ濡れているので槍に縛りつけて、槍を肩に担ぐと川の下流を目指し川原を歩き出す。
 川原は砂利──隆起か沈降かは分からないが、上流の崖の付近には大量の瓦礫があり、それが流されてきたのだろう──で、また頻繁に増水して川の底になるのだろう、余り長い草は生えていないために歩きやすかった。

 マントをたなびかせながら肩に担いだ槍は甲子園の優勝旗みたいだが、濡れているのでレベル5になった身体能力をもってしても……意外に重く感じなかった。すごいなレベル5。
 移動中、時折兎のような動物を見かけるので捕まえて食料にしたいところだなのだが、弓はあるけど使えないし、針金を使った罠なら作れるが針金が無い。それ以前に罠を仕掛けて獲物が掛かるのを待ってる暇が無い。
 兎を〆て捌くのは、何故か空手部の夏合宿で経験させられている。
 ちなみに野生動物の肉は不味いという話を良く聞くが、それは肉の処理の仕方に問題があるためだ。
 仕留めたら直ぐに血を抜き、内臓を適切に処理すれば普通に美味い肉が食べられる。勿論、プロの手によって美味しい肉になるように大切に育てられて、プロの手によって屠殺され処理された肉に比べたら劣るかもしれないが、決して不味いという事は無い。
 不味いというのは、仕留めた獲物を直ぐに処理せずに車の荷台に放り込んでおく様な、撃つ事が目的のレジャーハンターの獲物を食ったからだ。
 空手部の合宿とはそんな薀蓄が身についてしまうような変な合宿である。何処かに宿を取るのではなく、山の中でテントも無しにサバイバル生活、しかも期間中に空手の練習をするのではなくひたすらサバイバルの技術を学ぶのみ。毎日風呂に入らなければ駄目になる俺にとって、普通のキャンプでさえ苦痛なのに、地獄としか言い様の無いイベントだ。今年もやるのかと想像するだけで気が遠くなる。
 そういえば去年の合宿の時に「勝手に狩をしても良いんですか?」と責任者である大島に尋ねたが「罠での狩猟免許は持ってる」と言い張る。たしか狩猟期間とか狩猟区とかがあるはずだから免許があれば何時でも何処でも好きに狩をしても良いってもんじゃないと思うんだが、大島相手にその辺を追求しても碌な目に遭わないのは明白なので流した……本当に教育委員会には人類の平和のためにもきちんと仕事してもらいたいものだ。奴が教師で居続けられるという事が、生徒の間では怪談より怖い学校の不思議として語り継がれているくらいだから。

 まだ正午には間があるが、そろそろ腹が減ってきた。保存食は胃で水を吸って膨張しすぐに腹が一杯になるが、その分腹持ちが良くなかった。
 だが【所持アイテム】の中には、他に口に出来そうなものはナグの実と、塩と水くらいしか無い。
「また保存食か、そろそろ別の物……あれ? ……橋?」
 前方に明らかに人の手が入った小さな橋が川に掛かっているのが見えた。

「橋! そして道! 道の行き着く先は人間が住む場所!」
 橋の上に立つと自分でも抑えきれないほどテンション上がる。
 川の下流100mほど先で、昨日断崖の上から見た湖に流れ込み、橋の両端はどちらも道に繋がっており、道には馬車の車輪の轍の跡が残っている。
「ど~っちに行こうかな?」
 浮かれきっている自分を第三者的視線で観察する冷静なはずの、もう1人の自分すらも浮かれきるほどの超浮かれっぷり。
 鼻歌を歌いながら、進む方向を決めようと拾った棒を橋の中央で立てて手を離す。
 倒れた棒の先が今まで歩いてきた川の上流の方に向いただけで笑える。腹を抱えての大爆笑だ。ついには「よ~し、パパ湖一周しちゃうぞ!」と右回りで湖を一周するべく俺は全力で走り出すのであった。



[39807] 第7話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/12/30 18:31
「つ、疲れた……死ぬ」
 流石に全力疾走は拙かった。
 幾らレベルアップにより超人的ともいえるほどの身体能力の向上があるにしても、馬じゃないんだから100mを9秒を切りそうな勢いで10分間も走れば死ねる。
 肉体の限界が精神の絶頂を打ち破った結果である。
「……に、人間は、孤独で居ると……だめだ……お、おかしくなる……」
 人と人の間に居ると書いて人間。そうですよね金八先生? 自分の行動を反省しつつ、そう心の中で呟くと力尽きて地面にへたり込んだ。

 やっと乾いたはずの服も、汗でじっとりと重たくなってしまった。まあ日も高くなり気温も上がってきたのですぐに乾くだろう。
 残り少なくなってきた水筒を煽ると、大きく深呼吸し立ち上がり今度は普通に歩き始める。
「長閑だねぇ~」
 人が居る痕跡である橋と道を見つけた事で、景色を眺めながら歩く心の余裕が出来た。
 左手には対岸の景色が少しかすんで見えるようなスケールの大きな湖が広がっている。広域マップで確認しても範囲の3kmよりも先に対岸はあるようで映っていない。
 ちなみに広域マップに表示される範囲は周辺マップの100m範囲に表示された範囲だけかと思っていたが、それは森の中のような見通しの利かない場所だけで、先日の崖から見渡した範囲。勿論全てではなく半径10km程度だろうかは表示されている。また今見ている湖なども見通しが利くので広域マップの範囲の先にも表示可能範囲が広がっているようだ。そのことに今更ながらに気付いたのは、広域マップは使い勝手の悪さから使ってなかったためである。

 それにしても綺麗な景色だ。穏やかに揺れる水面に揺らぐ光、その上を滑るように優雅に飛ぶ水鳥の影。そしてそれを襲う首長竜に似た──額には1本の長くて鋭い角があり、首から背中にかけては鮫の背びれの様な三角の突起物が幾つも縦に並んでいる──巨大なモンスター。
「……い、いや~さすがファンタジーさん、本当に良い仕事してるな~アハッハッハッハッハッハッハァ~」
 乾いた笑いが口を突いて出る。
 水面下から勢い良く飛び出した首長竜はその巨躯を宙に泳がせて、飛んでいた水鳥をその牙にかける。そして着水前に暴れる水鳥を咥えたまま自分の首ごと水面に叩きつけ、止めを刺すと水面下に消えていった。その様子を呆然と見送りながら、異世界→水辺→超コエェェ!と心に刻み付けるのであった。
 そういえばこの世界はドラゴンも出るのだ。油断なら無い異世界で浮かれている場合などではなかったのである。
 それにしてもデカかった。現在位置から湖岸の距離を広域マップで確認すると訳200m弱。それから湖面に残された波紋の中心の位置は目測で300m程度。学校の敷地の長い方の1辺と同じなので首の長さだけでも、部活のランニング中に嫌というほど良く見る2階建ての民家の屋根の高さと同じくらいあったことが分かる。

 しばらく進むと道は森へと入っていく。
 昨日の森の事もあるので周辺マップを注視しながらゆっくりと中に入って行く。だが森の中に多くの動物の存在は確認できるが、いきなり赤シンボルに変わる個体は居ない。
 それでも注意深く辺りに気を配りながら森の中を更に進むと、道の真ん中に1頭の鹿、昨日森で襲ってきたのと同じ、額の中央から1本の角が生え、その根元近くから左右2本に分かれ、そこから何度か枝分かれして現実の鹿と同じような角になっている鹿モドキだが、既に20m位の距離になっているにも関わらず襲ってくる様子は無くこっちをじっと見つめていて、システムメニューも敵との遭遇アナウンスをしない。
 しばし見つめ合うが、やがて鹿モドキはすっと視線を外すと森の中に消えていった。
「……種として凶暴という訳ではなく、昨日の森の個体が特別に凶暴だった……もしくはあの森に動物を凶暴にさせる何かがあったのか?」
 そういえば、木々が異常に大きかっただけでなく、昨日見た鹿モドキはもっとずっと大きかった。もしかして今見たのが小鹿だったのか? いや、あの角は立派な大人のものだし……
 俺は答えを出せぬまま、再び先へと進み始める。

 周辺マップの表示範囲ギリギリに赤いシンボルが現れた。
 位置は前方で俺が前に進むほどに次々と赤いシンボルが現れる。その数はおよそ、およそ、動くなよ……システムメニューを開いて、時間を止めた状況で確認すると6体。
 一度遭遇した事のある動物や魔物と同種ならば、そのシンボルが何の種なのか分かるのだが、今回の赤シンボルは全て不確定と表示されている。
 だが、赤シンボルなのにこちらに向かってくる様子は無い。それどころか道なりに俺が進むのと同じ方向へと進んでいる。
「俺以外の何者かに対して戦闘態勢に……」
 俺に対する敵対者だけではなく、マップ内の闘争状態……一定の興奮状態にある生き物が赤で表示されるのか。
 身軽になるためにマントを収納する。そしてセーブを実行すると敵の集団を目指して走り出した。別に無謀な勇敢さに駆られての行動ではない。とりあえず突撃して赤シンボルの正体と目的を確認。その後ロードして戻り今後について考えるための判断材料とするという我が身を大事にが基本方針に沿った行動だ。

 一歩一歩地面を蹴るごとにどんどん赤シンボルの数は増えていく、そしてその姿をついに目視する。
「豚人間……オーク?」
 食用豚を誰得か知らんがリアル志向で擬人化したとしか言い様が無い姿。
 納得がいかん。オークは豚人間じゃなく猪人間だろ。もしオークが豚人間なら、猪を人間が家畜化して豚になったように、オークの進化には人間の手が関わっているとでも言うのか?
 そんなことを考えつつも一気に距離を詰めていく。そして俺の接近に気付いたオークが腰から曲刀を引き抜きながら振り返ろうとした首元へ「美味そうじゃねぇかブタァァァァァァァッ!」と剣の切っ先を突き入れる。
 そして剣を収納すると、次の瞬間首から吹き上がる大量の血液をかわして前へと踏み込むと、次の標的の首を目掛けて剣を構えるように右手を差し伸べ、システムメニューから剣を装備し直す。
 その瞬間身体のバランスが崩れた。自分の腕の中に現れた剣の重さに引っ張られたのだ、それは剣が静止状態で現れたような……というかその通りなのだろう。ゴブリンの時は俺は足を止めた状態で突っ込んでくるゴブリンに対して槍を出現させてから突いていた。だが、今は動きながら出現させたから静止状態の剣に身体が引っ張られた。
 咄嗟に剣を収納しながらオーク横殴りの一撃を身を屈めて潜り抜ける。
「拙いな」
 そう呟いた時、俺の頭の中で「自分の手で突かなくても、剣を持たずに剣が在ったら刺さるであろう位置で構えて、システムメニューで剣を装備したら、刺さるという過程をぶっ飛ばし、刺さったという結果だけが残る!」と誰かが囁いた……まあ誰って自分なんだけどね。

 試してみると考えた通りの結果が出た。
 今までの刺さった得物を引き抜くという動作に加えて、突き刺すと言う動作も省略が出来るようになった。
 戦いにおいてこの2つの動作を省く事が出来るという事で反則としか言い様の無いアドバンテージを得る。まさにチート。戦闘系チートの誕生である。
 しかし多勢に無勢。数の暴力にはチートですら抗うのは難しい。一歩一歩前へと踏み込むごとに嵐の中で向かい風に立ち向かうかの様に圧力が増してゆく。
 システムメニューによる時間停止の状態で行う敵の位置把握と状況整理。そしてシステムメニューのON/OFFによるコマ送りが俺の闘争の継続を支える。
 背後からの斬撃を上体を前に倒してかわしつつの後ろ蹴りで往なす。それと同時に目の前のオークの心臓に右手の剣の剣先を送り込む。
 同時に複数の敵に対応するアクロバティックな動きで既に十数体のオークを屠り、このままいけるのでは? と希望を抱いた時。絶望が目の前に現れた。

 オーク達の向こうから現れる巨大な人影。
「あれはオ──『オーガが現れました』……本当にご親切にありがとう」
 俺の倍以上。4mはあろうかという巨体の頭部では2本の角がねじれながら天を突いている。その姿に金玉が身体の中に入り込もうとしてキュッとするほどの恐怖感を覚える。
 瞬間的に逃げるという選択肢が頭に浮かぶが、それはすれに俺の周囲を取り囲んでいるオークどもを排除しなければ不可能であり、俺はオークとの戦いを続行せざるを得ない。
 オーガは巨大な……巨大過ぎて棍棒と呼んで良いのかすら分からない代物を振りかぶる。
「遠い」
 思わずそう口にした様に、幾らオーガの腕が長くても、棍棒が長くても、踏み込みが大きくとも、その位置からは俺には届かないと判断すると、オーガを無視して手薄な右側のオークを剣で刺し殺した。そして出来た包囲の隙間から逃げ出そうと踏み出しながらオーガの方を振り返った──次の瞬間、周囲の空気が、いや空間が震えた。
 その巨体からは、その巨大な棍棒からは想像も出来ない速さの一撃が放たれると「ゴッ」という音が身体の中に飛び込み臓腑を震わせると、俺とオーガの間に立っていたオーク達がまるで軽い卓球の球のように弾き飛ばされる。
 弾き飛ばされた一体が真っ直ぐ俺を目掛けて飛んでくる。オークの体長は160cm程度と俺よりも15cmは小さいが、その骨太の骨格と分厚い筋肉で形作られる樽のような胴体で、体重は俺を大きく上回るはずだ。しかし、その重たい身体を乱回転させながら地面とほぼ平行に飛んでくるという出鱈目な光景。
 俺はオークの包囲から逃げ出すために既に一歩大きく踏み出していて、そのオークを避ける方向へと身体を逃がす事が出来ない。何とか身体を捻ってオークの樽の様な胴体部分は避ける事が出来たが、次の瞬間、乱回転する胴体の向こうから現れたオークの脚が俺の胸を捉えた。
 肋骨がまとめて数本へし折られる音が響き、一瞬遅れて激痛が襲う。その痛みに意識が刈り取られる直前「ロード」と念じる事が出来たのは奇跡だったのかも知れない。


「なんだありゃ!」
 本当に何なんだろう?
「出鱈目過ぎる!」
 常識が信じられなくなりそうだ。
「理不尽だ!」
 我ながら尤もだ。
 正直勝てる気が全くしない。何か色々と次元が違っている。単に身体のサイズの違いだけではなくパワーウェイトレシオがオーガの方がレベルアップの恩恵を受けて人外レベルに達しつつある俺よりも遥かに上と考えるべきだ。
「だけど、戦闘態勢の奴等が向かう先は多分、村か町」
 あの数で襲うのだ、規模の大きな町の可能性もある。町か……宿もあるのだろう。保存食じゃなくちゃんとした飯も食べられる。そう考えるだけで堪らない。

「いや待て。だがオーガと戦うのは……」
 オーガとの戦いは避けたいが、もう保存食のすぐに腹が膨れるだけの食事はうんざりだった。今までそんなに「美味しくない」と自分で自分を騙してきたが、保存食ははっきり言って不味い。食感は固くて堅くて硬く、噛み砕いた後はボッソボソ。味もうっすい塩味のみで、中の具は小麦粉と混ぜる前に既に乾しているのだろう。カラッカラに乾いていてちょっとやそっと噛み締めただけでは何の旨味お出してくれない。その上に匂いも良くないのだ。正直なところ好きでなかったカロリーメイト系のブロック食品が今では滅茶苦茶美味そうに思える。
 ただ栄養を摂取するためだけ食う事ではなくきちんとした食事への欲望。似ているようでこの差はとても大きい。
「も、もう一度だけ……そうだ、もう一度だけ挑戦して、駄目なら諦める……」
 オーガへの恐怖は異世界のまだ見ぬ食事の誘惑に屈した。簡単に屈した。犬ならお腹見せて「く~ん、く~ん」と鳴くぐらい屈した。

 だが、先ほどと同じように何も考えずに突っ込んでも同じ目に遭うだけだ。オーガと戦う前にオークを排除する必要がある。
 それにはオークを少数ずつ群れから切り離して始末していくしかない。その方法は……
「まあ、出たとこ勝負か、失敗したらロードすれば良いし」
 ぶっちゃけてしまった。

 気付かれないように慎重に奴らに接近していく。
 最後尾に居るオークとの距離は15mほど、俺は手頃な大きさの石を探して道端に目をやるが見つからない。こんなことなら川原で石を拾って収納して置けばよかったと思うが、こんなことになるとは想像もしていなかったので後の祭りである。
「仕方ない」
 手頃というか手に余るというべき大きさの石を拾うと、木の陰から最後尾のオーク目掛けて投げつける。
 当たって振り返ったオークに俺の姿を晒して見せてから逃げ、追ってきた数匹を始末する……予定だったが、石はオークの後頭部を見事に捉えると、声を上げさせる事無くその意識を刈り取った。いや周辺マップから赤いシンボルが消え『奇襲でオーク1匹をたおしました』とアナウンスが流れる……当たり所以前に石が大きすぎた。
 突然倒れた仲間に周囲のオーク5匹が駆け寄り集まる。
 俺は木の陰から出て身体を晒し道の真ん中に立つ……お~い、気づけよ。手を振ってみるがオークは「フゴフゴ」と話していて俺には一向に気付かない。
 仕方が無いので再び石を手にするとオーク目掛けて投げつける。その石は先ほどのに比べても大きい。自分の拳よりも大きく本来ならそのサイズになると砲丸投げのような投げ方をするべきなのだろうが、レベルアップの効果で何の問題も無くオーバースローで投げる事が出来た。
 石は放物線を描くこともなく一直線に飛んで1匹のオーガの額を捉えると、またもやその命を奪う。
「すげーな」
 オーク討伐のアナウンスを聞き流しながら、投石最強伝説。思わずそんな言葉が頭に過ぎる。

「プギィィッ!」
 流石にオークどもも俺に気付くと、甲高い鳴き声を上げながらこちらへと走ってくる。顔に、いや身体に似合わず滅茶苦茶速い。レベル1の頃なら、短距離・中距離・長距離全てにおいて陸上部の代表選手より遅い者がいないといわれる空手部。その主将たる俺でも振り切るのは難しい程の俊足だ……ちくしょう豚の癖に。
 しかし今なら、スキップをしながら「捕まえてごらんなさ~い」と走るくらいがちょうど良い感じだ。そして100mほど走った後で俺は逆襲に転じる。
 奴等が抵抗する間も与えず、すれ違い様に首や胸を剣で貫き命を奪う。単なるレベルアップによる身体能力向上だけでは不可能な、システムメニューを用いたチートが為しえる所業だ。
 そして『オーク4体を倒しました』のアナウンスの後にレベルアップした。
「あれ?」
 ロード前に、オークを10体以上倒した時にはレベルアップしなかったのに、奇襲で倒した2体を含めて6体を倒しただけで何故レベルアップしたのだろう?
 疑問に思い、システムメニューの【オプション】-【HELP】-【良くある質問】を選択して調べる。『レベルアップのタイミングは?』という項目があったので確認すると、戦闘終了後に討伐のアナウンスが行われた後にレベルアップ処理は行われるとあった……どこまでゲームなんだよ?

 システムメニューを解除するとすぐに『オークが5頭現れました』とアナウンスされる。周辺マップを確認すると、それとは別に7体ほどの集団が追ってきているが全てオークであり、この場合オーガを示す不確定──マップ機能で一度遭遇した敵と同じ種族は、シンボルに種族名が表示されるが、ロード後にはその情報も巻き戻されるので、ロード後にも戦っているオークの種族名は表示されるがオーガは不確定としか表示されない──のシンボルはなかった。

 その後、立て続けの2度の戦闘で12体のオークを倒した俺は、レベルを更に1つ上げてレベル7に達していた。
 短時間でのレベルアップで身体に力が漲るのが実感できる。
 それにしてもこれほどレベルアップが早いということは、本来オークはこのレベル帯では戦って勝てる相手ではないのかもしれない。
 そんな事を考えていると、ついに周辺マップに不確定と記された赤いシンボルが現れた。

「まだ早い」
 不意に口を突いて出た言葉に、何が早いのだろうかと自分で問う。
 まだオークの数を十分に減らしきっていないのか? それともまだオーガと戦うレベルに達していないのか?
 どちらにしてもロードを実行するべきなのだろう。だが接近してくるオーガをマップで捉えながらも俺はロードを実行しない。いや、したくなかった。
 レベルアップで手にした力を失いたくない。それもあるだろう。
 しかし、俺を戦いに突き動かさんとするのは「戦いたい」という想いだった。
 やられたまま引き下がれるような性格なら、2年間も空手部なんて続けていない。
 いくら学校の規則で退部が認められないとしても、弁護士を立てて教育委員会や学校を訴える方法だってあるはずだ、はっきりいって大島という存在自体教師を続けている事が謎なのだし、もし大島を排除できなかったとしても、俺が転校するという方法もある。空手部の実体を知れば暢気な両親だって認めてくれるだろう。
 だが俺は2年間空手部に所属し続け、部員の誰よりも強くなった。
 それは全て強くなって大島をぶっ飛ばす。それだけのために地獄のようなしごきに耐え続けてきたのだ。
 恩は倍返し、仇は5倍返し、裏切りは10倍返し。それが俺の信条であり座右の銘なのだ。
「セーブ!」
 俺は自らを背水の陣へと追い込んだ。



[39807] 第8話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:57
 周辺マップの中、不確定の赤いシンボルがこちらへと向かってくる。オークを示す赤いシンボルを文字通り蹴散らしながら……蹴散らされたオークたちのシンボルは消えていく。
 やがてオークたちのシンボルは赤から黄色に変わると、森の中へと散らばって去っていく。
 良く分からないが、オーガに殺されないように逃げ出したのだろう。想定外だが結果的にオークを排除するという目的は達成された。
「いけ……」
 いけると呟きかけた言葉は、もう1つの不確定の赤シンボルの出現によって遮られる。
 俺は早くもセーブした事を後悔し始める。

「でかいな……本当にでかいな!」
 地響きを立てながら迫り来るオーガを『オーガが現れました』というアナウンスを聞きながら、道の真ん中に立ち剣を片手に待ち構える……セーブ実行。
 10mの距離を立ったの3歩で消し去ると、オーガは勢いに乗ったそのままに右脚で前蹴りを放つ。
 オークどもを一撃で蹴散らし死に至らしめた蹴りを、俺は身を低くし左前へと踏み込みながらかわす……ロード実行。
 オークどもを一撃で蹴散らし死に至らしめた蹴りを、俺は身を低くし左前へと踏み込みながらかわす……ロード実行。
 オークどもを一撃で蹴散らし死に至らしめた蹴りを、目で捉えるのは諦めタイミングだけで俺は身を低くし左前へと踏み込みながらかわした……セーブ実行。
 蹴り足が伸びきった一瞬に合わせて身体を伸び上がりさせながら、オーガのアキレス腱を狙い剣を振るう……ロード実行。
 蹴り足が伸びきった一瞬に合わせて身体を伸び上がりさせながら、オーガのアキレス腱を狙い剣を振るう……ロード実行。
 蹴り足が伸びきった一瞬に合わせて身体を伸び上がりさせながら、オーガのアキレス腱を狙い剣を振るう……ロード実行。
 蹴り足が伸びきった一瞬に合わせて身体を伸び上がりさせながら、オーガのアキレス腱を狙い剣を振るう。
 硬い弾力に押し返されそうになりながら剣を押し込むと「ブツッ!」という何かが切れる音と共に抵抗が消える。
 剣を振り切った勢いのままに左側へと転がりながら身を投げ出すと、オーガは右足を地面に突くもそのままバランスを崩して派手に転倒した……セーブ実行。
 うつ伏せに倒れるオーガの足元へと回り込み剣を振り上げると、オーガは起き上がろうと上体を起すが構わずに左足首へと剣を振り下ろす。アキレス腱を断ち切った刃が骨に食い込む。剣を収納……セーブ実行。
 倒れたオーガから距離をとるために、もう一体のオーガの方へと走りながら剣を収納すると、左手に弓。背中に矢筒を装備する。
 オーガとの距離が40mで足を止めると、見よう見まねの素人技で弓を構えて、背中の矢筒から引き抜いた矢を番える……セーブ実行。
 狙っても無駄と知っているので適当に矢を射る。当然外れる。その時、周辺マップにもう3体目のオーガを示す赤いシンボルが現れる。
 舌打ちをして「何匹居るんだよ?」と吐き捨てる……ロード実行。
 何度もロードを繰り返しながら矢を射続ける。何度も弦で指を切り、左腕を打ちながら矢を射続けていると、ロード回数が50回目位には明後日の方向に飛ぶことは少なくなってくる。
 100回を超えると3回に1回は矢がオーガの顔を捉えるようになってきた。
 ちょうど150回目に放たれた矢は、標的であるオーガの右目の僅か数cmの場所に突き立った。
 そして200回を超えて12射目に射た矢は、ほぼ偶然で下手な鉄砲数撃ちゃあたるだが、見事にオーガの右の眼球を貫いた……セーブ実行。
 足を止め右目を抑えて苦しむオーガに対して、引き続き左目を狙って矢を射る。ロードを繰り返す事で弓を射るという動作や感覚の経験はリセットされているのだが、記憶だけは残っている。
 どんな風に胸を張り、肩を固めて、腕を上げ、弓を引くか身体が憶えていなくても頭が憶えている。記憶に従い作られた構えから射掛けられた矢は、左目の10cmほど下に突き立つ……ロード実行。
 そしてロード回数49回目にして左目を射抜く……セーブ実行。

 2体目のオーガは潰された両目を両手で押さえている。その右側を3体目のオーガが走り抜ける時刻を確認。後ろのアキレス腱を切ったオーガは立ち上がろうとしては転びもがいている状況……ロード実行。
 視界左上の時計を確認しながら、両目を潰され顔を両手で押さえているオーガ左耳を狙い矢を射る……ロード実行。
 視界左上の時計を確認しながら、両目を潰され顔を両手で押さえているオーガ左耳を狙い矢を射る……ロード実行。
 目と違って、ギリギリのところを外れるような惜しい矢でも、その半分以上がそのまま飛んでいってしまうので微調整がしづらい。
 それでもロード35回目で矢が先端の尖った耳朶を貫くと、オーガは反射的に左腕を振り、それが後ろから来た鼻っ面に当ると2体はもつれ合って倒れる……セーブ実行。

 倒れた2体は興奮して互いに攻撃しあう。
 3体目のオーガは、目の見えないオーガに馬乗りになり殴りつける。だが目の見えない方のオーガは自分を殴り続ける腕を掴むと、顎の間接がどうなっているのか疑問なほど口を開き噛り付き、そのまま骨を噛み砕き前腕の1/4ほど先を食いちぎった。
「グォオオオオオオオッ!!」
 悲鳴という名の耳をつんざくような轟音。耳を塞ぎたいのを堪えて背後に回りこむと、弓と矢筒を収納して、槍をオーガの背中越しに心臓を貫くようにイメージした構えを取る。
「」
 そしてシステムメニューから装備すると槍はオーガの背中から胸を貫通する形で出現した。だが周辺マップではオーガを示すシンボルはまだ3つとも健在だった。
 次の攻撃のために槍を収納する。次の瞬間吹き出した血が俺の全身を赤く染める。
「くっせぇ~!」
 口の中に入った血を吐き捨て、顔を拭いながら再び槍を装備する。それを5回ほど繰り返し、奴の背中と胸を穴だらけにしてやると周辺マップからオーガを表わすシンボルが一つ消えた。
 それを確認し終えると槍を収納し死体となったオーガの背中から離れる。
 次に自分の上に倒れ込んできた死体となったオーガの首筋に噛り付いている奴の頭にも同様に槍を2発食らわせてやる。
 オーガはビックビックと二度痙攣すると、また1つ周辺マップからオーガのシンボルが消えた。

「さてと、ラス前にセーブ!」
 セーブを実行し、アキレス腱を切ったオーガへと向かう。
 先ほどまで立ち上がろうともがいていたオーガだが、多少知恵が回ったようで肘と膝を使い身体を地面から持ち上げると、理性も知性も沸騰して蒸発したような目で真っ直ぐに俺を見据えたまま変な匍匐前進で這いよってくる。
「逃げれば良いのに……逃がす気は無いけどな」
 そう言いながら剣を装備する。
 右の肘と掌で上体を支えて起しながら、俺を掴もうと左手を伸ばしてくるので、剣を一閃し人差し指から小指までの4本をまとめて斬り飛ばす……大分、剣の使い方が分かってきた。
 オーガは痛みに左手を右手で掴んでバランスを崩すと、ごろんと形容する程可愛らしくない音を立てて半回転し仰向けになる。俺はそのままオーガに歩み寄ると、剣を一旦収納し、2本の角の間に右手を差し伸ばすと再び装備した。

 周辺マップから全てに赤いシンボルが居なくなったのと同時に『オーガ3体を倒しました』のアナウンスの後『てきぃぃぃん』というレベルアップ感の無い効果音が響き『レベルが5上がりました』とアナウンスされる。
「マジ?」
 レベル5アップと聞き慌ててシステムメニューを確認すると、確かにレベルは12になっていた。
 この短時間に合計7レベル。どれだけ格上だったんだよ? 改めてシステムメニューのチートの恐ろしさを思い知る。

 魔法というか魔術の属性も増えていた。水と土に続き、火だの風だの光だ闇だと、得意分野って無いのと言いたくなるほど○○属性Ⅰが増えていくが、どうせしょうもない魔法だろう。属性は何でも良いからⅡとかⅢに早く上げて使えそうな魔法を憶えさせてくれ。
 だがパラメーターは順調に伸び、正直人間離れしてきた気がする。その一方で、やはり金は手に入らず段々不安になってくる。

 とりあえずオーク達が使っていた分厚い刀身の曲刀を収納していく。鉄屑としてしか利用価値のなさそうなゴブリンの錆びた短剣と違って、売ればそこそこの値段がつくだろう。
 ついでにオーガに使った矢を回収するが、耳に当たった矢は耳朶を貫いて何処かに飛んでいってしまっており、目に刺さった矢はどちらも引き抜くと途中で折れていた。だが鏃と矢羽は再利用できそうなのでそのまま収納する。
 しかし今の俺の血塗れの格好は拙い。この先に町や村があっても入れてもらえるのは牢屋くらいだろう。正直、人前に出ることが躊躇われる。
 傍に湖があるから入って血を洗い流すという選択は、先ほど見た首長竜の存在によりありえない。町や村を見つける前に身体を洗えそうな水場があれば良いのだが……

 ある男がこう言った「神は望む者には決して与えず、望む事を諦めた者に与える」と、すると別の男が「神なんて奴は望もうが望むまいが思ってるだけじゃ何も与えてくれない」と反論し、そして通りがかりの男が「神が与えるのは、そいつが与えて欲しくないものだけだ」と吐き捨てた。
 一体誰の言葉が正解なのだろう……水場が見つからないまま10分ほど歩き森を越えた先に町の姿が見えてきてしまった。

「と、とまれ!」
 町の入り口の門は硬く閉ざされ、門の前には武装した男達が20人ほど。その中の1人が叫んだ。
 おいおいどうする人間が居たよ。喋ってるよ、しかも言葉通じちゃってるよ。何か少し違和感を感じるが間違いなく言葉の意味が分かる……緊張感たっぷりの相手に対して、俺が抱いた感情はこんなもんだった。
 とりあえず言葉に従って止まってみる。
「そ、そ、その格好は何だ? お前は魔物の類か?」
 そう裏返った声で詰問してくる。1人だけ他より少し立派な兜を被った隊長らしき年長の髭男。しかしこの場に居る男達──兵士なのだろう持っている槍や着ている鎧、それに兜はお揃いだ──も皆髭男だった。日本なら髭だけで十分に特徴といえるのに、この世界では髭は没個性の象徴となってしまうわけである。
 ともかく隊長格の男を含めて全員腰が退けていた。
 そんな兵達の様子に『こいつ怯えてやがる』と独断専行した上に初陣の少年に返り討ちに遭いそうな事を考え、思わずニヤリと口元が崩れる。
 ……まあ、全身血塗れで槍を担いだ男の姿は、俺だって真昼間からでも見たらびびる。それが出会い頭なら、思わず「きゃー」と悲鳴を上げながら回し蹴りを喰らわす自信がある。
「こ、答えろ。さ、さ、さもなく──」
 俺の笑みを侮りと受け取ったのか怒りに目の周りを真っ赤にして叫ぶ。
「俺はた……リュウ、人間だ」
 名前は隆をリュウと咄嗟に読みを変えた。異世界で母音がはっきりと発音する「タカシ」は目立つような気がしたからだった……この世界の人間の名前なんて聞いた事無いんだけどな。
「この血はオークとオーガを倒した時の返り血だ」
 沸点ギリギリといった様子の男が激発してしまわないように答える。舐められないように口調はハードボイルドっぽく声は渋く低くした。別に厨二病が爆発したわけではない多分。
「……オーガをお前が? な、仲間はどうした? やられたのか?」
 彼等の常識的判断では1人でオーガみたいな化け物を倒せるとは思えない……ん? ということは、この世界における兵士のレベルは俺よりも下なのかもしれない。
「仲間はいない。俺1人で倒した。何なら森の中を確認しろ。走ればすぐの場所だ」
 親指を立てた拳を肩の上で軽く前後に振って後ろを指し示す。
「一人でだと? お、おい、確認して来い」
 隊長格の男が、背後の部下に命じる。
「了解しました」
 確認のために森へと向かって走り出した兵達に声を掛ける。
「おい、オーガ3匹は倒したが──」
「3匹!!!」
 兵達は見事なまでにハモった。
「ああ3匹だ。それからオーガが率いてたオークは20匹近く倒したが、まだ半分くらいが森の中に逃げ込んだ。戻って来てるかもしれないから気をつけろ」
「…………そ、そうなのか……わかっ……えっ20匹のオーク?」
 兵士達はオーガ以前にオークにも一対一では勝てないレベルのようで、20匹のオークという言葉に恐れをなして俺に一緒に来るように要求してきた。
「嫌だ」
 だが俺は即答で断る。
「い、嫌だとかじゃなく」
「普通この格好を見たら、大変でしたね。大丈夫でしたか? 身体を洗う水を用意しますとかいう気遣いが先だろ! どうするの服に血の染みが出来たら! 一張羅なんだよ!」
「血の染みって、もう手遅れのような……」
 そう言いながら苦笑いを浮かべる隊長格の男が気に障った。
「じゃあお前も手遅れにしてやるよ」
 そう言うなり、俺は彼に抱きつくと血塗れの全身を擦り付ける。
 激しく抵抗するが力ずくで押さえ込むと、特に顔には念入りに頬擦りをかましてやる。
 硬い髭の感触が気持ち悪いが奴も「く、くっさい! 止めろ。止めないか、止めてくれ! 臭いぃぃぃっ! お願いだから止めて、止めてください。助けてください!」といい歳して半泣きでもがいているので俺の判定勝ちだ。
 彼の部下達は俺を止めて助けるべきなのだろうが、触れるのが嫌で止められずにいる。
 満足して話してやると地面に力なく崩れ落ちた隊長は「汚されちゃった……」と俯いて呟く、それを一瞥し「思い知ったか」と吐き捨てると、他の兵達を睨みつけて「俺はこれからお前達を抱きしめる。それから皆で森へ確認しに行こうじゃないか」と宣言する。兵達は一斉に退いた。

 それから数分後、何故か俺の前には幾つもの水の張った桶と綺麗な手拭。そして着替えが用意されていた。
 服とズボンを脱いで裸になると、脱いだ服を桶の1つに漬け込む。そして別の桶を持ち上げて頭から水を被った。それを何度も繰り返してから絞った手拭で身体を擦り、こびりついた血を落として満足すると、乾いた手拭で身体を拭き、新しい服に着替える。
「ふぅ、すっきりした」
 人心地がつくとはこのことだろう、清潔な身体とはこれほど素晴らしいものかと再確認する。
「まだ、子供じゃないか」
 謎の全身血塗れ男の正体が、まだ大人になりきれていない紅顔の美少年だと知った兵達から驚きの声を上がる……いわれなくても自分が美少年じゃない事くらい知ってるよ。



[39807] 第9話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 18:58
「本当にこの先で?」
 隊長……先ほどの町ネハヘロの自警団隊長──彼等は兵ではなく、町の人達が運営する自警団だった。しかし自警団なのに団長ではないのが謎──がこちらの顔色を伺いながら話しかけてくる。
「オーガが3匹とオークが40匹くらいの群れがいた」
 もう既に隊長と俺の間で互いの格付けは終了している。先ほどの一件で完全に心が折られたようだ。彼は俺よりずっと年上だろうが、俺からの彼への扱いは空手部の後輩程度、ただし香藤よりは下だ。
 隊長たちを見ていて気づいた事だが、彼等は背中には背嚢。腰には物入れがある。システムメニューがあるなら【所持アイテム】に収納すれば持つ必要の無いものなので、彼等はシステムメニューの恩恵を受けていない。もしくはシステムメニューの恩恵を受けているのはごく一部の人間ということになる。

 前方から風と共に濃厚な血の匂いが流れてくる。咽返る様な臭いに顔を顰める兵士達に囲まれて俺1人だけがとっくに鼻が馬鹿になっていて平気だった。
「こ、これは凄い」
 大量のオークの死体に興奮する隊長。
 道すがら聞いた話では、オークやオーガなどの魔物の肉・皮・骨は全て使いみちがあり、特にオーガ角は価値が高いらしい。
「本当にオーガが、しかも3匹も……」
「まだ信じてなかったのかよ」
「…………おい、町に戻って人手と荷馬車を手配しろ」
 隊長は俺から目を逸らし、部下に指示を出して誤魔化した。

 自警団と町の人間が、荷馬車に、オークとオーガの死体を積み込む作業をしている間、俺はまだ森の中でこちらの隙をうかがっているオーク達を狩っている。
 まだ20匹位のオークが町の近くの道に出現するのは見過ごせないそうで、既に倒してあるオークとオーガの分も含めて報奨金を出すと言われたので二つ返事で引き受けた。嫌だな最初から金の話をしてくれたら俺の態度も違ってたのに。
 自分のシステムメニューの武器の収納と装備を用いた戦いを他人に見せる気は全く無いが、視界の遮られる森の中なら見られる心配も無いので、周辺マップを見つけたオークを次々と屠り、その度に自警団の団員を呼んで死体を回収させた。

 周辺マップに映るオークを全て駆除するまでに14体を倒した。まだ数体のオークが居るはずだが既に逃げたのだろう。
 ちなみに今回はレベルアップはしなかった。ログデータを確認するとオーク14体分の経験値はオーガ1体分よりも少なく、レベル13にはまだ届かなかった。
 流石に疲れて、気に寄りかかって一息ついていると「あんた本当に強いな。一体何者なんだ?」と死体を回収に来た40絡みの団員──ただしこの世界の人間のほとんどが30代や40代で死んでいくのならば20代の可能性もある。また男達のほとんどが立派な髭を蓄えていて老けて見える──が次々とオークを倒した俺に呆れたように尋ねてくる。
 嫌な事を聞いてくる奴だ。そんなプロフィールなんてまだ考えてないよ。
 仕方ないのでシステムメニューを呼び出し、時間を停止させて向上した知力で考えてみる。
プロフィール1:近くの町の出身。
 近くも糞も、この周辺に町があるかどうかすら知らないよ。
プロフィール2:他国の出身。
 この国の名前すら知らないのに、どの国の出身を騙れば良いんだよ?
プロフィール3:流離の旅人。
 言い方は格好良いが単なる不審者だよ。こんな中世の頃の様な社会だと、村や町に定住しないで目的も無く旅するのはアウトロー、つまり無法者だ。タイホだよタイホ。
プロフィール4:正直に異世界人。
 それじゃ可哀想な人あつかいされちゃう。
プロフィール5:記憶喪失。
 何でもかんでも記憶喪失さんのせいにして、風が吹くのもポストが赤いのもみんな記憶喪失さんのせいか? ……まあとりあえず保留。記憶喪失さんマジ万能。
プロフィール6:魔法の失敗で遠い場所から飛ばされた。
 自分で言ってて何だが魔法に期待をかけすぎだ。人を何処かに移動させる○ーラみたいな魔法があるかどうかすら分からないので迂闊な嘘を吐くのは止めるべき。
プロフィール……言わずに誤魔化す。やっぱりこれかな、面倒な事には関わらず人付き合いも避けて町から町へと移動しつつ、少しずつこの世界での常識を身につけていく。何処かの町に落ち着いて人付き合いをするのはそれからでもいい気がする。
 それにしても向上しても自分の頭がこの程度なのかと思うと辛い……多分まだ使いこなせてないだけなんだよと自分を慰めてみる。

「1人で自由気ままに旅をするにはこれくらい出来なきゃな」
 馬鹿か俺は? 誤魔化すつもりが、これじゃプロフィール3の不審者の設定だよ。
「そうか、自由な一人旅か~憧れないでもないな。でもあんたの腕なら領主様の軍でも出世し放題だろうに」
「それほど大した腕じゃないさ。強い奴は幾らでも居る……ところで此処の領主様ってどんな人なんだ?」
 強引に話題を変える。それにしてもこの口調はいい加減自分でも鼻についてウザイんだけど、今更唐突に改めるのも周囲の反応が怖い。基本的に俺は小心者なんだよ
「領主様か? 領主様はここいら一帯のミガヤ領を治める伯爵様で、グレイドス・ミガヤ・カプリウル様で、まあ過酷な税や賦役を課したりもしない。その代わりに大きな声じゃ言えないが、この領は貧乏だから大した事もしてくれなかった。それでも……」
 苦笑いを浮かべながらそう話すが、含むところがまだあるようで何か言葉を飲み込んだ。
 彼の話によると町や周辺を荒らす魔物に対して兵を派遣してくれるわけでもなく、自警団は領主から装備などは提供は受けているが団員の給金が支給されるわけでもない。自警団は町の有志が集まり、魔物を倒すと領主が払う僅かな報奨金──普段彼等が戦うのは精々ゴブリン程度で報奨金も安い──と倒した魔物の死体からとれた肉や皮から得た金、そして寄付で運営されている。団員達はそれぞれ本職は別に持っていて、団員として貰える運営費から捻出される僅かな給金は小遣い稼ぎ程度にしかならないそうだ。

「それでミガヤ領ってどの辺までが領地なんだ?」
「このネーリエ湖周辺だな。まあ西のリトクド領以外は東も北も南も閉ざされた辺境だな」
「閉ざされたとは?」
「東は断崖で先に進めないし、北と南はほとんど開発の手が入ってない魔物だらけの森が広がる土地だ。まあ、一応南にはあんたが通ってきたクスラ領と繋がる道があるが、滅多にそこを通る奴は居ない。ドンずまりの田舎だよ……」
 そう言って笑う男の顔には自虐の色は無かった。既にそういうものだと受け入れているのだ。しかしまた何か言いたそうに言葉を飲み込んだ。俺に聞いて欲しいのだろうが俺はあえて聞かない。危険な空気だけはしっかり読める男なのだ。
 ともかく俺が南の道を通ってミガヤ領に来たものだと勝手に勘違いしてくれたのはありがたい。都合が良いのでその設定は頂きだ。しかしクスラ領についての情報が無いので迂闊に「クスラ領から来ました」なんて言って「クスラ領の何処の町の出身?」返されたらアウトだから、この設定を使うのはある程度クスラ領についての情報を手に入れてからだな。
 その後も男と話を続けて、色々と探りを入れてみる。
 明確に尋ねたわけではないが、この世界の人間にはステータスメニューなんてものは無いらしい。そしてレベルが無い。レベルという概念を知らないだけではなく、魔物を倒していて突然自分の身体能力が上昇するという感覚に憶えが無いそうだ……つまりシステムメニューについて秘匿する必要があるようだ。

「さてと、この辺にはもうオークは居ないみたいだな」
「わかるのか?」
「ああ、何となく分かるのさ。分からなければ一人で旅は出来ないからな……まだ何匹かはいたんだが逃げてしまったみたいだな」
「オーガさえ居なければ、奴らは大きな群れは作らないから、それだけでも大助かりだ。感謝するよ」
 今朝町を出たばかりの商人が、1時間もしない内に慌てた様子で戻ってきて「オーガが出た!」と門番に告げて大騒ぎになり、招集された時は全団員共々死ぬ覚悟を決めていたらしい。
「あんたが居なければ、俺達は全員死んでいた。それでも町を守れるなら良いと思っていたんだが、オーガが3匹じゃ町も全滅していただろうさ。だから今晩は俺達に酒でも奢らせてくれ」
 そう言って手を差し出してくる。握手と思い一瞬手を出しかけて固まる。本当に握手なのだろうか? 互いの掌を勢い良くぶつけ合うとかがこちらの世界の共通だったら? 常識が無いということはこんなにも一々小さいことで困難に突き当たらせるものかと苛立ちすら覚える。
 しかし、無視するのもなんなので俺もゆっくりと手を差し出した。すると男は俺の手を掴み普通に握手した。ほっとする反面、この世界での常識の無さを何とかしなければと思いを新たにしつつ「悪い。俺酒飲めないんだ」と言った。未成年だから飲めないという法律的な意味ではなく体質的に無理なのだ。
「そうか、それは残念だな」
 本当に残念そうにしているので申し訳なくなる。

 それから道まで戻ると、積み込み作業を行っている団員の1人に「ちょっと忘れ物を取りに行ってくる」と告げて森の奥の方へと道を進み、周囲に誰もいないことを確認してから水に濡れままの防具一式を取り出して担いで戻る。
「その鎧はどうした?」
 尋ねてくる団員に「装備したまま川に落ちて、この有様さ。まあ脱いでたおかげでオーガの血に塗れることがなかったんだが」と答えると「臭くないだけ水の方がマシだな。大体オーガ相手に鎧なんて重いだけで役に立たないから脱いでいて良かったんじゃない?」と言われて笑い合った。

 4台の荷馬車に積まれた死体と一生に町へと向かう。
 俺が倒したオーガ3体に、オーク22体──追加で倒したオーク14体は積み切れずもう一度馬車をまわして回収するそうだ。そしてオーガに蹴散らされて死んだオーク4体の重さに荷車を引く馬も苦しそうなので、自警団や町の人間達も荷車を押すが、まだ死体から流れ出ている血が荷台から流れ落ちて、後ろから押す人達の足元を滑らせるせいで転倒が続出し、全員血と土が混ざり合った泥にまみれている。
 例外は周囲の警戒という名目で押し役を免れた俺と隊長。そして自警団団員3名だけだった。

 町の門を通り抜けると、門前の広場に待ち受けていた町の人々の歓声に迎えられた。
 人々の顔には喜びと安堵の表情が浮かんでいる。
「皆聞いてくれ! この町を襲おうとしていた魔物は全て、ここに居るリューが倒してくれた。皆、この若き英雄を讃えてくれ!」
 タカシがリュウにそしてリューになってしまった。
「さあ皆に応えてやってくれ。町の皆がこうして笑顔で居られるのもあんたのおかげなんだから」
 促されて俺は町の人たちに手を振ってみると割れんばかりの歓声が巻き起こる。
 人々の「ありがとう」という感謝の言葉に胸に熱い物がこみ上げる。「すげぇぞ英雄だ!」と男達の賞賛の声に誇らしくて顔が紅潮する。「赤くなって可愛い!」という女性達の黄色い声がかけられたときには、未だ嘗て無いくすぐったい様な胸の疼きを覚える。
 良いものだ。特に女性達の黄色い声は……こんな英雄扱いも悪くない。と思った途端、のぼせ上がっていた頭の奥が急に冷えていく。俺は「英雄」なんてものに憧れるような性格だっただろうか? いやむしろ面倒に感じる性格で、英雄なんてものになりたがるのは、余程奇特な人だと醒めた考えを持っていたはずだ。
 この状況は危険だ。中毒性すらある。もっと賞賛の声を浴びたい。もっと羨望の眼差しで見つめられたい。まだ俺の中にそんな風な思いがあり油断すると簡単に踊らされてしまいそうだ。
 歴史上、英雄と祭り上げられ非業の最期を遂げた者達はお調子モノの馬鹿だったのだろうか? 以前ならあっさりと「そうだろう」と答えたはずだが、今ならば人々の賞賛に背中を推されて、期待に応えようと道を踏み外してしまった可哀想な人達。そんな風に思えるほどだ。
 スポーツ競技において、ホームで戦う個人やチームの勝率が高くなるのはこの為なのだと納得する。
 一応体育会系の部活に分類される空手部だが、基本的に空手とは流派ごとにルールも異なり他の体育会系の部活のような華々しい大会での活躍という場は無い。
 空手という世界的に名の知れた大看板の割には学校の部活動としては超マイナーであり自分が応援されるという経験は一度も無く、今までは応援の力というものを感じる機会は無かった。
 ちなみに一部のメジャーな流派では中学生同士の大会のようなものもあるようだが、生憎顧問の大島が所属している流派は鬼剋(きこく)流という、黒い空手着を着て最後は主人公にやられる敵役が修めていそうな名前の、明治時代に古流武術と琉球唐手が融合して出来た流派で全国にも幾つも支部のあるそうだからマイナー流派というほどではないようだが、マスメディアなどへの露出はほとんど無くトーナメント的なものは行っていない。
 門下生は他流派のオープントーナメントでは活躍しているみたいだが、俺達空手部部員はそもそも鬼剋流の正式な門下生ではない。中学卒業後、大島から推薦状を貰い鬼剋流の門を叩き、試練を受けて認められれば黒帯──実力が認められて初めて入門が許される鬼剋流には黒帯以外の帯は存在しない──を与えられ門下生となれるそうだが、正直なところ中学卒業した後も大島とつながりを持つというのは御免だった。
 ともかく、英雄という幻想から我に帰った俺だが、それまで通りに笑顔で手を振りその場を取り繕う事が出来た。



[39807] 第10話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/10/01 00:04
「オーク1匹辺り70ネアだから26匹で……1840かの?」
 年老いた役人が目を細めながら書類に書かれた数字と格闘している。
 ちなみに最終的に俺が倒したオークの数は36体でオーガが倒した分も俺の取り分となるが、まだ回収にいってるのでこの段階では計算に入らない。
「1820だ」
 もしかして十進法じゃないのかとも疑ったが、単なる間違いだと気付いて突っ込む。
「そうか、オーガ1匹辺り780ネアだから──」
 町の表通りにある小さな役場。この町には領主が派遣した代官の他には、目の前で報奨金を計算している年老いたのと、書類を作成している若い役人を除けば、後は雇われている町の住民が2人ほどいるだけだった。この人数で税の徴収はどうしているのだろうかと思って尋ねたら、巡回税賦務官という役職の徴税を専門とする役人が領軍護衛の下に領内各地を回って集めていくそうだ。
 ちなみにこの世界には、ファンタジー小説では半ば常識となっている世界を股にかける謎の巨大NGO。冒険者ギルドが存在しない。魔物などの討伐の報奨金は各町や村の役場を通じて領主が払うという事になっている。テレビで見た沖縄でハブやマングースを捕獲して役所に持って行けばお金が貰えるというのと同じなのだろうと自分を納得させた。

「3匹で2340。合計して4160ネア」
 俺の報奨金を計算している老役人だがボケがはじまっているのか計算が怪しいので、正しい計算結果を先に伝える。以前の俺にもこの程度の計算は出来ないわけじゃなかったが、計算機みたいに一瞬で計算過程を意識する事もなく答えが出てしまう感覚が不思議すぎて怖い。
 それより不思議なのが、この世界の文字が全く問題なく読めるということ。言葉が通じているのだからそれほど不思議ではないのかもしれないが、実は会話に使われている言語は日本語じゃないようだ。
 最初に声を掛けられたときに感じた違和感は、彼等が話しかけてくる言葉、そして俺が応える言葉、全て日本語ではない別の言葉であることに起因していた。
 余りに自然に言葉の意味が頭に入ってきて、俺自身普通に話していたために気付かなかったが、文字を見てひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットではなく、ましてやアラビア文字でもギリシャ文字でもキリル文字でもないのに、書かれている意味が分かった事で初めて気付いた。
「うん? いやそれだと儂の計算より70ネアも少なくなって──」
 計算のズレが拡大している……金を扱う立場にある役人がこんなので大丈夫なのか本気で不安だ。
「少なくても良いから4160ネアだ」
「ふむ、少なくても良いとは変わった奴だの」
 不思議そうに首を捻りながら、老役人は金庫から金を取り出すと金貨8枚に銀貨1枚、そして銅貨80枚を渡してきた。
 一瞬、こちらから銅貨20枚を渡して、金貨8枚に銀貨2枚にしてもらおうかと思ったが、また説明が面倒になりそうな上にシステムメニューに収納すれば小銭が沢山あっても困らないので黙って受け取りポケットに入れる振りをしながら、金貨1枚と銅貨20枚を残して収納した。
「それから魔物の買取金じゃが、これから競に入るから、そうだな夕方頃取りに来てくれ」
「じゃあまた夕方にくる。ところで宿を取りたいんだが、この町のお勧めの宿を教えてくれないか?」
「宿か……3軒あるが湖月亭じゃな。部屋は掃除が行き届いていてシーツも綺麗で飯も美味いと評判じゃ。宿代も一番高いがな」
「へぇ、一泊どれくらい」
「何せ3年前に儂がこの町に来た日に一泊しただけだから……たしか40ネアくらいじゃった」
「そうか、ありがとう助かったよ」
「なに、お前さんのおかげでこの爺も死なずにすんだのじゃ、気にするな」
 そう言って呵々(かか)と笑う老役人に挨拶すると役場を出た。
 それにしても身分照明とかはしなくて良いのだろうかとも思ったが、良く考えれば町とか村の単位で戸籍のようなものを管理してはいるだろうが、目的は税金を取るためにあるものなので、その写しは他の町や村にあるとは思えないし、この領地を治める領主の手元にも存在しないだろう。犯罪者は各地に手配書が送られており、手配書に似た人物でもない限りは、旅人の身分は問われないようだった。
 自警団の人間に俺が旅をしていると言ったときに、不審がる様子もなかったことから推測すると旅人の存在自体もさほど珍しくも無いようだった。
 解せない。俺の頭の中では、町の外に魔物が生息するファンタジー世界において一般人が町の外に出る=死というイメージで、放浪者=アウトローだった……もっとこの世界の常識を身につけなければならない。


 最初から持っていた1543ネアと今回の報奨金を合わせて5723ネア……以前までならざっくり計算し6000弱で済ませていただろうが今では下一桁まですぐに計算できる。凄いなと思う反面、金に細かいセコイ男になってしまったような気もする。
 この金で買い物をする必要がある。幾ら収納のおかげで手ぶらでOKとはいえ人前で使うわけにはいかない。とりあえず背嚢と財布。それに着替えを予備を含めて3着程度は用意したい。
 町で一番高い宿が一泊40ネアということから、幾ら現代の日本に比べて服などが割高だったとしても予算の範囲に収まるだろうと思う。

 町の通りを歩いていると、店先に果物や野菜を並べた八百屋と思われる店を見つけた。
 商品の中にナグの実を見つけたので1つ手に取り、店番のおばちゃんに値段を聞くと1つ18セネといわれる。セネはネアに対する補助通貨単位で、ドルに対するセントのようなもので1ネアが100セネとなる。
 おれはもう1つナグの実を手にして銅貨で支払うと、なにやら紋様が刻印された1辺が1cm位の正方形で厚さが2mm位の銅板1枚と、同じく刻印を施された1辺が5mm位で厚さが1mm以下の銅片が32枚お釣りとして渡された……どういう計算になるんだろう? 疑問に思ったので質問してみた。
「あの、これは?」
「ああ、もう1つはおまけにしといたよ。しがない店番の私に出来るのはこの程度だけど、感謝してるんだよ」
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちさ。ありがとうさんよ」
 頭を下げて立ち去ろうとする俺に笑顔で手を振ってくれた。

 ナグの実を食べながら通りを歩いていると、すれ違う町の人たちが笑顔で挨拶をしていく。
 英雄になる気は無いが、やはり人々に感謝されるというのは気持ちが良い。
 それにこの笑顔が自分に向けられたのではないとしても、人々が笑顔であるというのは良い事だ……おかしい。一体俺は何を考えている?
 空手部の部員はリアリストだ。修業で身につけた力を人の役に立てたいとかいう子供じみた正義感など、とうに捨て去っている。
 もしも俺達が正義の拳を振るうならば、まずは世のため人のため、自分のために大島を誅すべきである。それが出来ない無力な己という惨めな現実を飲み込み擦れ枯らしの大人になるしか道がなかった。
 それ故に、自分の胸裏に湧き上がる感情が気持ち悪い。もしやと思い【ログデータ】を確認するとレベルアップの度に【パラメーター】-【精神】の下の階層の【慈愛】【公共心】【仁徳】【公正】などの良い人系のパラメーターが上昇し、一方で【自己愛】【独占欲】【奸智】【怯懦】などの駄目系のパラメーターが下降している。
 俺は今自分がシステムメニューを開いている事を確認してから断末摩の如く「ぎゃーーーーーーーっ!!!」と叫んだ。

 【良くある質問】『レベルアップで性格が変わった気がするのですが』:デフォルトでレベルアップでユーザーの善性が向上するように設定されています。【パラメーター】の各項目の【特殊設定】から【レベルアップ時の数値変動】を固定とすると性格の変化は防げます。ただし一度変化した値は元には戻りません。
 そこまで読んだ俺は、馬鹿みたいに沢山ある項目を一つ一つ設定する気になれず【精神】という上位の階層で【レベルアップ時の数値変動】を固定と設定した後で、息を大きく吸い込むともう一度断末摩の如く「ぎゃーーーーーーーっ!!!」と叫んだ。


 その後、雑貨屋に入って大き目の背嚢、財布代わりに小さくて紐を引っ張れば口を閉じられる丈夫な袋、ついでに腰に取り付けられるポウチを購入した。
 財布には銀貨1枚と銅貨、銅版、銅片を全て入れて腰のポウチに入れておき、普段はそこから買い物する事にした。
 雑貨屋を出て、道すがら人に尋ねながら衣料品を扱う店を探し当てた。
 現代日本と違って、衣料品店はオーダーメイドが基本という発想を持っていなかった俺は頭を抱えることになる。
「この服は借り物で、この町まで着て来た服も頭から血を被って、一応洗濯はしてもらっているけど元が生成りで、もう着るのは難しいので、直ぐにでも欲しいのですが」
 こう切り出す俺に、店主は申し訳なさそうに「身体の寸法をとって、それから作り始めるので急いでも3日はみて欲しい」と答えた。
 明日にでも次の町を目指そうと考えていた俺の困った様子に、店主は「もしよろしければ古着はいかがでしょう?」と提案してきた。
「品揃えは限られますし、品質は古着なりとしかいえませんが、この先の店で扱っています」
 そう言って、古着屋の場所を教えてくれた。
「助かります」
 俺は例の褌に似た腰布を3枚と靴下というか薄い足袋──ただし親指は独立していない──を5足、そして肌触りの良い木綿製と思しき手拭を4本購入すると、店主に礼を述べて店を後にした。

 古着屋では上下それぞれ20着ほどの中から、生成りではなく汚れが目立たない色に染色された比較的程度の良いズボンと服を3着ずつを選んで購入し、その足で湖月亭に向かい一泊で一部屋を取った。
「お部屋にご案内します」
 先払いで料金を払うと、女将さん……というか着物を着てるわけでもなくイメージと違う。どちらかといえば女主人? ともかく女主人の案内で部屋に向かう。階段を上がった2階の奥の部屋が今夜の俺の寝床だった。
「こちらになります」
 そう言って女主人が開いた扉の先は、4畳程度の広さでベッドと小さなテーブルと椅子が置かれた小さな部屋があった。
 役場で役人が言っていたように、掃除が行き届いているようで小さな窓から差し込む光の中には埃が舞っておらず、また窓からはネーリエ湖の眺望が広がっていた。
「良い部屋ですね」
「恐れ入ります」
 俺が満足して部屋を褒めると、女主人はニッコリと笑顔で頭を下げると部屋の鍵を渡すと「ごゆっくりどうぞ」といって扉を閉めた。
 とりあえず買ってきた荷物を開く。といっても日本の様に紙袋や箱、包装紙に包まれているわけではない。背嚢やポウチはむき出しで渡されたし、腰布や靴下は手拭に包んで紐で縛ってあるし、服もまとめて縛ってあった。
 今回買ってきた衣服類は背嚢の中では濡れる可能性があるので手拭を1本ポウチにしまった以外は全て【所持アイテム】の中に収納してしまうと背嚢に入れるものがなく困る。空で潰れている背嚢では偽装にもならない。
 まずは、濡れた防具とマントを出し、防具は直射日光の当たらない場所で陰干しに、マントは紐で結んで窓から吊るす作業をしつつ【所持アイテム】リストで、嵩張りつつも軽く、そして水で濡れても困らないものを探す。
「……無いな。日本なら新聞紙を適当に丸めたものを突っ込んでけば……待てよ、籠なら良いんじゃないか?」
 リストで検索をかけると、山菜取りにでも使うような背負い籠があったので取り出して、背嚢の中に入れてみると多少余裕を持って収まった。少し離れて見てみても荷物で膨らんだ感が出ていて良さそうだった。

 これまでに使ったお金は、背嚢が200ネアでポウチが120ネア。ズボンと服は3着まとめて600ネア。腰布と靴下と手拭は全部まとめて400ネア。宿代が40ネア。此処まで端数が無いのは店が値引いてくれたおかげだった。そしてナグの実が18セネ。1360ネアと18セネ。最初の所持金が1543ネアでもしも値引きが無かったとすれば宿にもう2泊して飯を食えば無くなるはずだった……偶然の符合だろうか? 俺は何か意図的なものを感じずにはいられない。
 そんなことを考えながら視界の端の時計を確認すると16:08を示していた。
「役場が閉まる前に行くか……」
 荷物は残し腰にポウチだけをつけて部屋を出て鍵をかけ、一階で女主人に鍵を渡しながら「出掛けてくる」と告げて宿を出た。

「おうやっと来たか。もう帰ろうかと思ってたところじゃ」
 まだ4時半にもなってないのだが、これが異世界。ファンターな世界の標準というやつなんだろう。だが4時半で遅いなら夕方って何時なんだ? 太陽は大分傾いてはいるがまだ空は赤焼けていない。そんな思いを全て飲み込んで「すまなかったな」と応える。理不尽だと思うが郷に入れば郷に従えである。
「それでは、まずはオーク14匹分の報奨金が980ネア。渡しておくぞ」
 今回は計算違いなく渡された。老役人の後ろで作業している若い役人が一瞬こちらを振り返りドヤ顔を決めたので彼が計算したのは明白だ。
「それでじゃ、まずは明細を読み上げるぞ……」
 老役人は目を細めながら紙片に書き込まれた内容を読んでいく。
 まずはオークから、誰がどの部位を幾らで競り落としたのかを一つ一つ読み上げていく、オークの肉は宿や食堂なんかが買い上げているようで湖月亭の名前もあった。つまりこの後宿に戻って飯を頼むとオーク肉の料理が出るわけだ……ちょっと思うところが無いわけではないが、これが異世界の洗礼というやつなのだろう。先に覚悟する機会が与えられた事を感謝しよう。
 オークの肉は人気が高いらしいが、それでもそんなに高い値段で競り落とされたわけではない。買い物の途中で肉屋を見つけたがかなり安い値段で売られていた。ナグの実もそうだったが食材全般の物価は低めなのだろう。
 その後、皮や骨と競の結果が読み上げられ、そしてオーガの競の結果に入る。オーガの肉は同じ重さのオーク肉に比べると1/3くらいにしかならなかったが、皮は3体分で15156ネア。骨は同じく3体分で9690ネア。そして6本の角は29466ネアと高額な値がつき、オークの分を含めた総額は80179ネアとなり2割の手数料を引かれて64143ネアと20セネが俺の取り分となった。
 金貨128枚と銀貨1枚と銅貨16枚と銅片20枚を渡されたが、銀貨の手持ちが少なくなっていたので金貨2枚を銀貨10枚に替えてもらい、財布に入れる振りをしながら銀貨5枚を残して収納した。
 これで俺の所持金は68505ネアと102セネで、確認のためにシステムメニューの【所持金】を確認すると、68505ネアとのみ表示されていて102セネはない。100セネ=1ネアなので6850602セネでも良いような気もするが補助通貨のセネの分はシステムメニューの対応外のようだった。
 ともかく所持金に不安を感じていた状況が一変し、食う寝る分だけの生活費なら3年分以上は溜まったわけだ……3年分以上。多分宿暮らしではなく家を借りて自炊すれば10年分位の生活費になるだろう金を1日で稼いだと考えると凄い事だな。多分1ヶ月後には一生涯分の生活費を稼ぎ終えてニート生活に突入しそうな勢いだが、こんなテレビも本もネットもゲームも無い世界での引きこもり生活は監獄生活と差して違いが無いのは簡単に想像が出来る。何か目的を持たなければ生きていくのが詰まらなくなりそうだ。だが今は毎日風呂に入れる生活を送れるようにするのが目的だった。
「随分と儲けたようじゃが……こう言ってはなんだが、この町は田舎だ折角の金も使いみちも無いだろうて。領主様の住まうタケンビ二の街に向かうがいい」
「タケンビ二か、良い町なのか?」
「此処よりはずっと大きな町だが、良い町かどうかはお前さん次第だの。西の門から出て、道なりに真っ直ぐ進めば……そうじゃな夜明けと共に町を出て、かなり頑張れば日が暮れる前に着けるかもしれないのう」
 それは1日じゃ着かないってことだろ。
「わかった。ありがとうな」
 役場を出ると町は既に夕暮れに染まっていた。

 その晩、宿で出された晩飯は、ポークジンジャーの様なオークジンジャーと呼ぶべき料理だった。しかも想像を遥かに超えて美味かった。赤身は豚肉と似ていながら独特の、そう野趣を感じさせてくれる。そしてその脂身は舌の上で甘くとろける……美味かったのだが何故かめちゃ悔しい。

 夕食の後、部屋に戻った俺はシステムメニューを開き【魔術】について調べてみた。
 水と土の属性がⅠになった時に、身につけた魔術……直径10cm程度の大きさの水の球を生み出すのと、精々キャッチボールより速い程度の速度で小さな石礫を飛ばすだけのしょうもない魔術は確認したが、その後にレベルアップして身につけた水や土の魔術。それに火・風・光・闇の属性の魔術は確認していなかった。
 水属性の魔術は、直径10cm大の水の球を生み出し操作する事が出来る【水球】とは別に、直径1m程度の水の球を生み出し操作する事が出来る【水塊】があった。この【水球】から【水塊】の流れを考えた奴は馬鹿だと断言しよう。
 土属性の魔術は、小石を飛ばす【飛礫】とは別に、土の地面に直径30cmで深さ30cm程度の円柱の穴を開ける【坑】だった。これは使い方・状況次第では役に立つだろう。
 火属性の魔術は、ライターくらいの小さな火を起す【火口】と、対象を温めたり冷やす【操熱】だった。火の属性でありながら冷やせるのには疑問を憶えたが、【操熱】をチェックしてあった『熱量を操る』という説明に一応納得した。まあどちらも火という攻撃的な印象の属性でありながら戦闘以外で役に立ちそうだ。
 風属性の魔術は、声を大きくし広い範囲に届かせる【拡声】と、弱い風を起す【微風】の2つ。拡声もそうだが微風も正直意味がある魔術とは思えなかった……スカート捲りとかそんな不埒な事は考えて無い。第一微風じゃスカートは捲れん。せめて旋風と呼ばれるくらいの風なら……
 光属性の魔術は、一瞬だけ強い光を放つ【閃光】のみ。普通ここは杖の先を光らせたりして明かりに使える魔術だろうと思うが、もしかすると持続的に光らせるより下ということなのかもしれない。まあ目晦まし程度には使えるだろう。
 闇属性の魔術は、対象の視界を闇で塞ぐ【無明】のみ。これはかなり使える。今まで魔術の中では一番というか唯一まともに使えると断言できる気がする。



[39807] 第11話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:12
 目覚めるとやはり自分の部屋のベッドの中。
 ベッド脇のチェストの上では目覚まし時計が耳障りな電子音を鳴らしていた。
「疲労感は無いのに、寝た。という満足感が全く無い……」
 納得いかないものを感じつつ、俺は布団を避けて身体を起すとベッドを降りた。
「クゥ~ン」
 ドアの向こうからマルが鼻を鳴らしながら爪でドアを掻く音が聞こえる。
 ドアを開けた途端、開いた隙間からマルが滑り込んでくると尻尾を勢い良く振りながら、青い瞳で俺を見上げる。
「マル。今日からは朝練があるから散歩は父さんにしてもらってね」
 朝練が中止されていたため、ここのところ俺が散歩に連れて行くことが多かったので、散歩のおねだりに来たのだろうが残念ながらこれから暫くは無理なんだよ。
 そんな謝罪の意味も込めて、マルの頭を優しく撫でる。
「クゥン」
 俺が何を言ってるかなんて分からないマルは、撫でられてただ気持ち良さそうに目を細めた。

「母さん、おはよう」
 いつもの様に台所に立つ母に声を掛ける。
 まだ5時半前だというのに、母は起きて俺の弁当を作ってくれている。弁当は昼食のためのものではない。学校ではちゃんと給食があり、これは朝練の後に食べるためのものだ。
「おはよう。今日から朝練頑張ってね」
 そう言いながら差し出してくるジョッキに入ったグレープジュースを受け取ると立ったままで一気に飲み干す。そして手早く顔を洗い歯を磨くと、自分の部屋に戻り制服のブレザーに着替えると荷物を持って階段を降り、玄関で母から弁当を受け取り靴を履いてドアを開ける。
「クゥ~ン」
 マルが散歩に連れて行ってもらえないことを悲しむように尻尾を垂らして鳴く。
「それじゃあマルガリータちゃんは今日はお母さんとお散歩に行きましょう」
「ワン!」
 そういえばマルは母さんが貰ってきたのだった。なのに普段は毎朝父さんが散歩に連れて行っているのである。
 マルの首を抱きしめる母さんと抱きしめられて嬉しそうなマルに見送られながら俺は家を出たのは、目覚めてから15分も経ってはいなかった。


 朝練前の準備運動代わりに、ゆっくりとしたペースで走ると五分ほどで学校の校門にたどり着く。
 大会前とかでもないのに毎朝6時から朝練をやってるのは空手部だけなので、辺りの人影は空手部の部員だけだ。
「おはよう」
 中学3年生にしてすでに180cmを優に超える長身の紫村に声を掛ける。
「ああ高城君、おはよう」
 軽く手を挙げて爽やかに挨拶を返してきた。
 この無駄にイケメンの男。紫村はクラスは違うが同じ空手部部員として2年間を過ごしてきた仲間だ。仲間だが俺からは最も遠い処にいる男で、一緒に並んで歩ける相手ではなかった。

「よし、全員揃っているな!」
 空手着に着替えた俺は、既に全員揃っている1年生に声をかけると慌てて集まってくる。
「とりあえず、準備運動をしながら話を聞け」
 目の前に横一列に整列した一年生に、俺は床に座り柔軟を始めながら話す。
「昨日の練習でお前等も気付いたと思うが空手部とは……地獄だ。これはお前達が卒業するまで変わる事は無い。むしろこれから厳しくなる一方だろう。しかも退部することも出来ない。どうしても空手部を辞めたいなら親を説得して転校するのがお勧めだ」
 俺の言葉に1年生どもは息を飲む。
「言っておくが冗談でも何でもないぞ。なあ?」
 他の3年生や2年生が俺の言葉に無言で頷く……田辺(2年生)泣くんじゃない。1年が怯えるだろ!
「………………」
 1年生の顔が驚愕に歪む。まあそうだろう。こんな理不尽な事を告げられて驚かない中学生がいたら怖い。
「色々と諦めることだ。最初にこれからの3年間の中学生活を楽しもう何て考えは今この瞬間に諦めろ。お前達に普通の中学生が味わうだろう楽しい3年間などは決してやってこない。希望を持ち続けていればとか諦めなければとかそんな言葉は忘れろ。それは単に努力する事を諦めなければもしかしたら目標に届くかもしれないという可能性に言及しただけだ。にもかかわらず必ず目標を達成するなんて事を言う奴がいたら、それはお前等を騙そうとする詐欺師だ。いいかもう一度言うぞ。お前達には普通の中学生としての生活は決してやってこない。朝は早くから練習。放課後もどの部よりも遅くまで練習。家に帰れば勉強だ。テストで成績が悪ければ本当の地獄を見るぞ。見てみろお前等の先輩がトラウマを抉り出された姿を」
 俺が指差す先では2年生の仲元が床の上で膝を抱えて項垂れると、涙で空手着の膝を濡らしながらドナドナを低く小さく歌い始めた。
「アレは辛い。日々心が壊れていく仲元の姿を見てるだけで辛かった。お前達にはそんな経験はして欲しくない。だから勉強だけは必死にやれ。頼むからあんなモノを二度と俺達に見せてくれるな」
「い、一体何が」
 おずおずと尋ねてくる1年生を「言わせるな!!」と一喝する。思い出すだけでも恐ろしい。
「いいから勉強して成績は平均以上を必ずキープしろ。そうすれば何とかなる」
 そう断言すると「なんとかって……」と不安そうに呟き、救いを求める目を向けてくる1年生達に、俺は決して目を合わせない。
「ともかく勉強すれば後は寝る以外の時間は無い。お前達には友達と過ごす楽しい休日なんてファンタジーは存在しないからな」
 そう俺にも小学生の頃には、そんな日々があった。今はもう思い出の中にしかない幻想だけど。
「じゃ、じゃ、じゃあ彼女とかは?」
「……カノジョ? カノジョとは何だ、香藤。お前は聞いた事があるか?」
「いえ、カノジョなる言葉など寡聞にして知りません」
 いかん。小芝居をする俺と香藤。そして紫村を除く2・3年生達が死んだ魚の目をして体育座りになりブツブツ言い始めているではないか。俺だって奴らと一緒に死んだ魚の目をしたいくらいだ。
「い、いえあの……仲良くなった女の子の──」
 分かりきってる事を抜かして先輩達のトラウマを掘り返そうとする馬鹿な1年生に怒りを覚え、その言葉を遮り「この学校にお前達と仲良くどころか普通に接してくれる女子さえ存在しない!」と斬り捨てる。
「えぇぇぇぇぇぇっ!」
 絶望の声が上がる……何故か2年生の方からも聞こえたような気がする。馬鹿め。まだ諦めていなかったのか?
「学校の女子どもは空手部というだけで決して近寄って来ないし声を掛けてもこない。はっきり言って我々は女子からはケダモノ扱いだ。例えお前達がジャニーズ顔であったとしても、来月の陸上記録会で大記録を打ちたてをようとも、球技大会で大活躍してクラスを優勝に導こうとも、テストで学年一番になっても女子は寄って来ない。絶対に寄って来ないんだよ! 俺なんて女子から避けられ過ぎて、もうクラスの女子と目を合わせるのも怖いくらいだ!」
 血を吐くような俺の叫びに、2・3年生が体育座りのまま手を挙げて「分かります!」「俺もだ」「女子が怖いです」と次々に答えると、ついに希望を失った1年生達が一斉にシクシクと泣き崩れた……泣きたいのは俺もだ。
「いいかお前等。諦めろ。諦めが肝心だ。そして全てを諦めたどん底の中で見つけるだろう何か、その何かこそがお前達の心の支えとなり中学生生活の救いとなるはずだ。以上、時間だ整列!」
 泣きながら立ち上がった部員達が整列を終えると、時計の針はちょうど6時を指そうとしていた。ちなみに俺を含む部員達の多くが見つけたのは大島への復讐心だ。それしか俺達の絶望の淵には転がってなかった。

「よし、全員集まっているな」
「オッス!」
 俺達の一糸乱れぬ声に満足そうにニヤリと悪党面で微笑む大島。
「1年ども!」
「はい!」
「昨日はお前達の無様さに大いに笑わせてもらった。ご苦労!」
 酷過ぎる。こいつのどSは酷過ぎる。
「は、はい!」
「そこでお前達に頼みがある」
「……はい!」
「今日もこれから俺を笑わせてくれ」
「……はい?」
 大島の言葉に戸惑う1年生達……察しが悪い。
「泡吹いてぶっ倒れるまで走れと言ってるんだ!!」
 大島の怒号と共に竹刀が床を打つ。
「はぃぃぃぃっ!!」
 1年生達は転び蹴躓きながら格技場を飛び出していく。
「おいお前等」
 残った2・3年生に大島が声を掛ける。
「リタイヤした1年は昨日背負わなかった2年が背負え。残りはそのまま此処に戻り、普段通りに練習。高城。サボらせるなよ」
「はい!」
 大島の目を逃れてサボる? そんな恐ろしい事を考える奴は2・3年生にはいねえよ。

 40分後、昨日と同じ惨状が目の前に展開していた。昨日と同じく最後まで頑張った新居(あらい)という名の1年生が自分で吐いたゲロの上に突っ伏して倒れこんでいる。
 香藤を除く2年性達が1年生を背中に負ぶっていく。新入部員が先輩の背に身を任せることで強い上下の絆が生まれる。それは良いのだが時折、強すぎる絆が生まれて困った事になる……紫村だ。
 1年生の時に当時3年生の先輩相手に目覚めてしまった紫村は、1年生を負ぶっている2年生を羨ましそうに見ている……本当に、本当に空手部は地獄だぜ。縦横前後上下斜め何処を見ても地獄以外の景色を見せてくれない。泣いてないよ。俺は泣いてなんていないよ。1年の3学期に忘れ物を取りに戻ったら誰も居ないはずの部室の中から紫村が攻め立てて先輩を喘がせる生々しい声を聞いてしまった事を思い出して泣いてなんていないよ。心がちょっと汗を流しただけなんだ。
 背後から「しゅ、主将が泣いている」「馬鹿、少し情緒不安定になられているだけだ」「無理も無い……空手部の主将なんて人に耐えられる重責じゃない」「俺達の力が足りないばかりに……」という2年生の声がする。
 頼むから同情は止めてくれ。また辛くなってしまうから……

 先に戻った俺達は、まずは型の練習を始める。一挙一動の全てに気を配り、その動きに意味を見出しながらゆっくりとしたペースで始める。
 ゆっくりした動きの中でも、素早い動きの時と同じように筋肉の緊張状態を保つ、そうでなければ練習にならない。その為にむしろゆっくりとしたペースで繰り返す型の方が疲労がかなり大きく、僅かな間に汗が玉となって額に浮かぶ。
 次に次第にペースを上げていく、どの間接にどの筋肉にどのタイミングで力を込め力を抜くのか、その一つ一つの選択が技のキレを大きく変えていく。毎日毎日気の遠くなるほどの繰り返しで、頭と身体にそれを刻み込んでいく。
 俺はレベルアップで身体能力が向上したことで、この繊細な感覚を1から再構築する事になるものと思っていたが心配は杞憂で終わった。
 見た目こそ筋肉量は全く変わっていないが筋力は以前の数倍に上昇しているにもかかわらず、空手部の練習だけでなく日常生活の動作で差し支えを感じることはほとんど無かった。
 力を出すという感覚は基本的に以前と同じで、漫画のようにサイボーグ化でパワーアップした主人公が指先だけで卵を割らずに持ち上げようとする。そんな訓練は必要が無くてありがたかった。
 違うのは以前は限界以上に力を振り絞ろうとしても出なかった力が出るようになったということ。テレビの音量のボリュウムが最大50までだったのが100とか200まで出るようになってもボリュウムの目盛りを10に合わせたなら、以前通りの10の音量しか出ないといった感じだ。
 しかし、やはり以前の限界と感じる辺りでの加減が分かりづらい。そもそも限界まで全ての力を振り絞ろうとする時には加減なんて存在しない。またテレビの音量の例えになるがボリュウムが最大になってもボタンを連打し続けている状態と同じであるため、元から全力を出すという感覚は曖昧だったのだ。その為に以前の100%の力を出そうとすると瞬間的に120-130%くらいの力が出てしまうのだった。

「腕を上げたな」
 型の後、組手をやっていた相手。3年生の田村が汗を拭いながら褒めてきた。
「そうか?」
 お前がそう感じているのは腕が上がった分ではなく、俺が手加減にしくじった分だとは思っても言わない。
「ああ、一つ一つの技のキレも速さも上がっている。この2週間どこかで修行してきたんだろ」
 とぼける俺に田村は「俺にも教えろよ」と脇を肘で突いてくる。こいつも「強くなるか死ぬだけ」と言われる空手部部員だけあって強くなる事に人一倍貪欲だ。
 しかし異世界でレベルアップしましたなんて教えられ訳もなく「色々とな」と誤魔化す。

「戻ったぞ!」
 流石に1年生を負ぶって息を切らせている2年生を引き連れて魔王が帰還した。こいつは当然のように息が上がるどころか汗すらかいてない。
「オッス!」
 俺達は組手を止めて大島に礼をする。
「お前達は手は休めるな、そのまま続けろ。2年は1年をその辺に転がして型を始めろ」
 大島の言葉に、1年生達は転がすというよりも床の上に投げ出されて痛みに呻くが2年生は目もくれず、無駄にした時間を取り戻そうと自分の練習に没頭する。
 相手を変えて香藤と組手をする。香藤も2年生の中では頭1つ飛びぬけた存在ではあるが、3年生とでは実力に差がある。
 勿論、香藤には才能がある。もしからしたら3年生の誰よりも才能があるのかもしれない。しかし才能は経験に及ばない。少なくともこの空手部の中では……
 2年生と3年生の経験の差は僅か1年だが、空手部での経験の濃度は途轍もなく濃い。コッテコテだ。その経験を覆すには天から惜しみなく与えられる溢れんばかりの才が必要となる。
 香藤の放つ胸への右の突きを受けずに左へと流す。それと同時に香藤の右前蹴りが跳ね上がるが、一瞬早く踏み込んで右掌で膝を抑えて勢いのつく前の初動を殺す。
 香藤は右手が塞がり無防備に晒された俺の顔に左の拳を繰り出そうと左足を下ろそうとするが、まだ掴んでいる奴の左膝を右手で右方向へ動かす事でその動きを封じ込めた。
 香藤はバランスを崩しながら堪らず後ろへと下がるが、同時に俺も前へと踏み込んで香藤に距離を取らせず、そのまま腹へと体重の乗った左突きを放ち、空手着に当たった位で止めた。
「ありがとうございました」
 香藤が頭を下げたところで、大島の「よし時間だ。練習はここまで」という声が掛かった。

 朝練が終了したのはいつも通りの7時50分。
 俺たちは走って部室に戻ると空手着を備え付けの物干しに掛ける。そしてタオルを手にパンツ一枚で部室を出て、部室横に角材とブルーシートで作られたシャワールームと呼ぶにはおこがましい場所でホースで頭から水を被り汗を流す。
 4月中旬の朝の空気と水はまだ冷たいが1月2月の寒さに比べたら天国だ。俺たち3年生に続き2年生、そして今は1年生が入っているが中からは悲鳴が上がる……気持ちは分かる。慣れなければ辛いよな。
 1年生達の悲鳴を聞きながら俺たちはそれぞれの弁当を食べる。今日の俺は普通に食べているが日直の奴などは必死に飯を掻き込んでいる。そして多分1年生には飯を食う余裕は無いだろう。時間的な問題では無く体力的な問題で。



[39807] 挿話1
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2015/06/15 23:24
「面白い事になってきやがった」
 大島は朝の職員会議のために職員室へと向かう廊下で小さく呟く。その顔に浮かぶのは獲物を見つけた肉食獣のような凶相。とても教師が学校内で浮かべて良いものではなかった。
 面白いと彼が感じているのは空手部の主将である高城のことだ。
 昨日の部活の時間に竹刀で彼の肩を打った時に違和感が生まれた。僧房筋に竹刀が当たった感触が今までより重かった。その時は暫く緩い部活動が続いたために運動不足で肩こりでもしたのかと思ったのだが、自分の教えている部員達が部活が緩いからといって自己鍛錬を怠るとも大島には思えなかった。
 そしてランニングの時、大島の中で違和感が疑問に変わる。
 高城の様子が今までとは明らかに違っていた。新入部員に合わせて多少ペースを落としているにしても彼は息ひとつ切らしていなかった。
 この2週間、余程走りこんできたのだろうと、自分が特に目を掛けてきた高城の成長に大島の機嫌も良くなっていた。

 大島にとって高城は特別な存在である。
 この中学校には、在校生・卒業生が自分の身内が入学する際には空手部だけには入部しないようにと警告をするという風習がある事を大島自身も知っていた。
 その為に、空手部に入部するのは空手の経験者で自分ならどんな厳しい練笑って耐えられるはずと勘違いした人間ばかり。後は空手部の風聞を全く知らないで入部希望してしまった新入生がたまに現れるだけ。
 そんな中、前年度に卒業したばかりの兄を持ち、空手未経験者の高城が入部してきた。

 大島は久しぶりに骨のある奴が現れたと大いに喜び。彼のことを特に目を掛けて『可愛がってきた』のである。
 しかし空手部顧問としては高城だけにかまける訳にはいかないため、彼の『可愛がり』はその年の新入部員全体に及び、更には2・3年生の練習にも影響は波及する。
 そのおかげで、いきなり厳しさを増した練習に生命の危機を覚えた2・3年生のそれぞれ1名が『家庭の事情』で転校する事になってしまったくらいだった。
 だが大島にとって悪い事ばかりではなかった。高城を始めとする新入部員はその厳しい練習についてきたので、最初から厳しく接しておけば、例え中学生でも人間は慣れる事の出来る生き物だと大島は確信を得る事が出来たのだ。『最初が肝心』昔の人間は良い事を言うと感心したほどであった。
 結果、今年の3年生は近年まれに見る豊漁であり、教師生活で初めて全員鬼剋流の門下生として推薦しても問題が無いと確信出来るほどだった。それに2年生も3年生同様に最初から厳しく接しているので良い感じに成長している。大島としては正に『高城様様』といった心境である。

 更に高城に感じていた疑問は先ほどの朝練での香藤との組手で確信に変わった。
 技一つ一つの速さ、力強さ。そしてキレ。全てが2週間前までの高城とは違っている。一皮向けたというよりも『化けた』とも言うべき技量の向上。
 終盤の攻防においては、高城は香藤が右拳を突く前から全てを読みきり演出した。
 香藤の右の突きを受ける事で反動を与えず、そのまま流して奴の上体を僅かに崩す事で、突きに連携していた蹴りの出を遅らせて踏み込んでて止め、更にわざと見せた隙に香藤が攻撃に入る呼吸を読んで、右膝を5cm右にずらしてやることで止めた。
 確かに2年生の香藤は高城にとって格下だが、香藤を掌の上で躍らせられるほどの差は無かったはずだ。
 そして最後の左の逆突き。
 鬼剋流の組手及び試合は寸止め形式である。空手部でも当然寸止めで練習させている。しかしその為にどうしても踏み込みが浅くなっているのが事実であった。
 拳が相手に当たる瞬間、腰や肩や肘を固めて止めるだけ。だが大島はそれでも良いと考えていた。部員は鬼剋流の門下生ではなくただの中学生である。
 中学の部活中の練習で寸止めをしそこない鼻血出しただの打ち身だ額を切って流血だのくらいなら何の問題も無い──それがおかしい──が骨折やそれ以上の怪我を負う事故が起これば、流石の大島も管理責任者として重い処罰は免れる事は出来ないからである。
 そして何より、中学を卒業して彼等が正式に鬼剋流門下生となった時には、彼等が今までに積み上げてきた『空手』をぶっ壊してやり『鬼剋流』を叩き込めば良い。そしてその時の彼等の絶望に歪む顔を見たいと大島は考えている。根っからのドSである。
 だが、高城の突きは最後まで身体の回転や体重移動を持続しながらも、当たる瞬間に腕自体を引く事で拳を止めて見せた。しかも踏み込みが拳1つ半は深い。これは大島が今まで部活で教えてきた相手を一撃でノックアウトする事を目的とした一撃必倒ではなく、二度と立ち上がれないように壊す一撃必壊。または文字通り死に至らしめる一撃必殺の打撃であった。
 大島は高城がそんな命のやり取りを必要とする戦いの経験を済ませたことに気付いた。

 では何時、何処で、誰を相手にし高城はそれを経験したのか?
 『可愛い』教え子に一体誰が、自分に断りも無く勝手に教えてしまったのか?
 俺の楽しみを奪った馬鹿野郎には、必ずこの手で思い知らせてやらなければならない。一体誰に喧嘩を売ったのかを……そう考えると大島は「面白い事になってきやがった」と嗤わずにはいられなかった。

 そして、その大島の顔を見てしまった女子生徒が失神して倒れるという騒ぎが起きたのは必然といえるだろう。



[39807] 第12話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:30
 ホームルームの前に2年の女子が廊下で倒れるという騒ぎがあったが、担任の北條先生はその事に関するコメントを一切しなかった。
 この学校では時折似たようなことが起き、その度に教師は口を閉ざす。思い当たる節が無いわけではない。それが真実を突いているからこそ、誰もそれに触れようとはしないのだろう。
 まあ、その原因の手下と思われている我々空手部部員が、全女子から思いっきり避けられるのは当然なのだろう……だから、決して俺達自身に問題があるわけじゃない。そうに決まっている!
 成績は良い。運動も控えめに言っても出来る方だ。身長は175cmを超えてまだ成長は止まっていない。身体は細マッチョで手足も長い。顔だって、顔だって空手部に入る前は、こんな女子どころか不良さえも避けていく『厳しく険しい』という、何処の山の難所だ? と言いたくなるよな例えが似合う目つきはしていなかった。むしろ可愛い系の甘いマスクだった……嘘じゃないんだ。信じられないだろうけど嘘じゃないんだ。俺だってこれが他人のことなら「この2年間で彼の身に一体何が?」と思うくらいだし、実の母さえも小学校の頃の家族旅行の写真を眺めている所に声を掛けたら、俺の顔を見て顔色を変え、視線を俺の顔と写真の間を何度も往復させながら「えっ? えっ? えぇぇぇっ?」と驚きの声を上げていたくらいだ。

「高城ぃ~英語の訳を写させてくれよぅ~」
 2時間目後の休憩時間に毎度の事だが後ろの席の前田が悪びれた様子も無く教科書片手にせがんでくる。こいつが自力で宿題や予習を済ませているのを俺は見たことが無い。
 そういえば3時間目の英語の授業で、鈴木(英語教師)が気まぐれでも起さない限りは俺達の列が当てられる日だった。
「悪い。今日はやってないんだ」
 昨日は死ぬかもしれないという覚悟で遺書まで書いて寝たのだ。予習までやってる場合でも心境でもなかった。
「えっ? お前が?」
 前田は驚きの声を上げる。それほどまでに空手部の俺が宿題や予習を欠かすというのはありえない事なのだ。
 教師として色々と問題の有りすぎる大島だが、空手部部員が平均点を大きく超える成績を維持している事があいつの立場を強めているのも事実であり、そのために俺達は好成績の維持を強要されている。
 大島からは平均点以上と言われているのだが、平均点を割り込んだ場合の罰が恐ろしすぎて「平均点ギリギリで良いや」なんて冒険じみた事を考える奴は……あまり居ない。
 故に俺達は教師からは基本的に優等生と評価されている。俺だって成績ではクラスで3番目くらいだが予習復習課題の提出に関してはクラスで一番真面目だ。そう俺達は大島に飼いならされた優秀で憐れな犬なのである。
「昨日は調子が悪くて早目に寝たからやってないんだ」
「えぇぇぇ~、じゃあ俺はどうすれば?」
 正直知った事じゃないが、俺としてもこいつが気軽に話しかけてくれることが、クラスの中でも浮く俺としてはありがたいのは事実であり無碍にも出来ない。
 今日の授業でやりそうな範囲をざっと眺めると、辞書を使わなくても訳せそうだった。昨日よりレベルが上がっている分だけ効果が現れていた。
 単に物覚えが良くなっただけではなく記憶を思い出す能力も向上している。以前に一度だけ英和辞書で調べた事のあるだけの、既に忘れていたはずの単語が思い出すことが出来るようになっていた。
「わかった。俺が今から口で訳していくから書き写せ」
「で、出来るのか?」
 今の俺なら問題ない。
「出来ないと思うか?」
「……頼む!」
 そう言うと前田は俺に手を合わせながら笑う。全く良い性格しているものだ。
「仕方ないな」
「……ん?」
 前田は不思議そうな顔をした事で気付いた。何俺はあっさりと教えてやろうとしてるんだ? 普段はもっと奴を弄ってから教えてやるのに……これも性格が良い人方向にレベルアップしてしまったせいなのか? 厄介だな気をつけないと。

「あの……高城?」
「何だ?」
 俺が英文を黙読しながらリアルタイムで訳した内容を読み上げていると、前田が言い辛そうにしながら話しかけてきた。
「ちょっとさ……幾らなんでも、訳がおかしくないか? 俺だって"I love you"くらいは分かるぞ。どうして『愛してる』的な言葉が出てこないんだ?」
 俺の素晴らしい訳に文句をつけるとは……ちっ気付いたか。
「いいか、昔の映画翻訳家はこう言った『"I love you"を愛してると訳す者はプロとは呼べない』と」
「いや、俺はプロになる気は無いし、中学校の授業レベルで良いんだけ──」
「まあ待て、その言葉を聞いて俺はこう思った『元の英語の台詞だってプロの脚本家が考えぬいた上で、気の利いた言い回しではなくあえて”I love you”と書いたんだから、そのまま翻訳するのがプロの仕事じゃないか』とな」
「……だったら何で"I love you"が愛してるじゃないんだ?」
「決まってるだろ。鈴木(英語教師)にお前が自分で訳してない事を気付かせるためだよ」
 やはりこれくらい弄っておかないと俺らしくない。
「この…………と、ところでその映画翻訳家は"I love you"を何て訳したんだ?」
 前田は爆発しかけた怒りを飲み込むと、冷静に必要な情報を引き出そうとする。
「確か『死んじゃうから……』だったかな? しかも照れながら。自分で言ってて照れてたら世話無いよな」
 いい加減な質問ははぐらかし適切な質問には正しい答えを与える。これも俺の流儀だ。
「……あるよ『死んじゃうから』が……何かおかしいとは思ったんだ。前後と話が噛み合ってないってさ」
 前田は教科書に書き込んだ訳を確認して肩を落とす。
 確かに教科書の文章はそんなシチュエーションでの"I love you"ではないからな。
「わざとだから」
「他は大丈夫なんだよな?」
「大丈夫も何も、俺は英語のテストで100点を取れてる訳じゃない。つい間違う事だってあるさ」
「……信じてるぞ」
「誰かを信じるというのは、相手の裏切りさえも受け入れるという自分自身の覚悟のことだ」
「それも何かの映画の台詞だろ」
「正解!」
「なあ、俺達って友達だよな」
「……多分、お前がそう思っている間は」
「人でなし」
「友達になんて事を言う……良いのか休み時間が終わるぞ」
「ちゃんと教えてくださいお願いします」
 前田はいつも通りに頭を下げた。

 昼休み、給食を食べ終えた俺は教室から廊下へ出る。
 これからは昼休みを自由に動ける……なんて素晴らしい事なんだろう。
 以前は食べ終わったら即昼寝をし、放課後の部活までに僅かでも体力と気力の回復を図っていたのだが、今は身体能力向上のおかげで疲れがたまっていない。
 トイレに寄ってから図書室に行くと、古い紙が乾いた独特の匂いが俺を迎えてくれた。前に図書室を利用したのは何時の事だろう……記憶に無い。正確には入学したての頃に一度覗いて見たことはあるのだが、空手部に入部した後はここを利用するような機会は一度も無かった。
 俺が一歩中に踏み入ると部屋の空気が変わる。混雑とは真逆と言って良いほど利用者数は少ないが、彼等の発する緊張感が日差しの差し込む暖かな空間を凍りつかせる。「何で空手部の高城が此処に?」という空気を無視して中に入ると本棚に取り付けられた本の分類を表すプレートを見ながら歩く。すると俺の進む先にいる生徒達は皆逃げる……正直傷つく。ゴジラか俺は?

 だが目当ての異世界で役に立ちそうな知識が書かれた本は見つからない。図書室は広いといっても普通の教室の2.5倍で半端な0.5は司書室。蔵書は分厚い名作全集の類がそれぞれ2・3セット、広辞苑などの辞書の類が同じものが10冊程度、現代用語の基礎知識の類も各年度版ごとに2冊ずつ。それらの撲殺にも用いられそうな本達が場所塞がりで蔵書数は1万冊に及ばない。
 俺の必要とするのは異世界で役に立つ知識。その内容に関係するタイトルの本もあったが、所詮中学生向けの本であり実用と呼べるレベルの内容ではなかった。
 ネットで調べるべきだろうか? そう考えないでもないが、今の俺にはネットより本の方が圧倒的に利便性がはるかに上。本を手にしてシステムメニューを開き、収納して【所持アイテム】の中から本を選択してチェックすれば、収納した状態のままで内容を読むことが出来るので、本を手にして戻す作業以外に時間が掛からない。
 それに対してネットで検索する場合は、ページ送りする度にシステムメニューを解除してPCの操作を行う必要があるので、ちょっとした調べものならともかく様々な分野の知識を大量に手に入れる用途としては向いていなかった。
「図書館か……」
 バスで30分ほどの場所に大きな市立図書館があるので、そこを利用すれば必要な知識をまとめて手に入れることが出来るのだが、俺には図書館に行く時間がない。
 土日も関係なく行われる部活が終了する頃には図書館は閉まっている……今まであまり疑問に感じていなかったが、良く考えるとひどい話だ。中学生が図書館にも行けない部活動なんて教育委員会は文科省は何をしてるの?
「……それとも本屋だな」
 近所の小さな本屋では頼りにならない。
 郊外に出れば書籍数40万冊以上が謳い文句の大型書店があり、夜の10時か11時までやっているので部活が終わった後でも行けなくは無いがちょっと遠い。バスと電車を乗り継がなければならない。乗り継ぎの時間も考えれば片道1時間半は掛かるだろう。
 今晩にでも父さんに、近い内に晩飯の後にでも車で連れて行ってもらえるように頼んでみるか。車なら40分ぐらいだし……いや結構かかるぞ。父さん渋るだろうな。
 取りあえず図書室では、異世界で夜営する事も考えて料理本とボーイスカウトの本を読んで記憶した。食事のレシピとは別にマヨネーズやバター・ジャムの作り方などあったが、醤油や味噌に鰹節などの製法は無かった。
 別に異世界でこちらの料理を食べられなくても、毎日行き来するのだから異世界では異世界の料理を楽しめば良いのだが、やはり異世界トリッパーの端くれとしては異世界を現実世界の食文化で侵食してやるのが義務だと思う。
 ボーイスカウトの本は、石などの自然物を使った彼等固有のサインなどは役に立たないし、火の起し方や飲み水の確保の方法は道具や魔術があるから必要ないかもしれないが、図解で説明しているロープワークは役立つ。緩まない縛り方とか異世界ではなく雑誌を縛って捨てる時にも役に立ちそうだ。

 音楽の授業時間に俺は生まれて初めて楽譜というものを理解した。
 今まで俺にとって楽譜とは、メロディーを憶えた上でどの音を出すかを示すための記号の書かれた紙に過ぎず、書かれた音符に縦棒が付いていようが、その棒になで肩が付いていようが、なで肩が2重だろうが何であれ一番下に着いている潰れた●がどの位置にあるかだけしか見ていなかった。
 だが今は楽曲を聴きながら楽譜を目で追うだけで、それまで気にも留めていなかった音符の示す音の長さなどが分かる。それが分かると楽譜には音程だけでなくメロディーもちゃんと表記されている事が理解する事が出来き、教本に載っている知らない曲も楽譜を読めばメロディーが分かる。音符以外の他の記号の意味は分からないのだが、それでも大体は分かるようになった。
 楽譜を読めるようになった。ただそれだけの事が大きな壁を乗り越えたような清々しさをもたらす。うん、今まで人生損してきた気分だ。
 しかし音楽の授業にも問題ある。小学校の時もそうだったが音符の意味を最初の授業時間にさらっと教えただけで、後は課題の楽曲もCDで曲を聞かせてから練習するので楽譜からメロディーを読み取るという能力が必要にならない。だから能力が身につかない。

 これは音楽だけではなく他の教科にもいえる。国語や英語の教科書なんかも単に古い小説などの一部を抜き出して教材としているが、生徒の立場にしてみれば一部分だけ読まされても全く面白くない。面白くないから興味も持てない。学年ごとに生徒が憶えるべき単語や言い回しを含んだ面白い小説……英語の教科書なら短編小説を人気作家にでも書き下ろしてもらい、それを教材として1年間を通して授業を進めれば生徒の食いつきも違ってくるはずだ。
 数学にいたっては数学が何に役に立つのかが全く教えられないのが致命的だ。学ぶ目的も無くただの数字パズルをやらされているようなものだ。
 ある時、競馬を趣味としている父さんが各出走馬の過去の出走データーを高校で習う三次方程式などを使い計算しグラフ化し比較して予想をたてながら「俺の人生で数学が役に立ったのはこれくらいだ」と言っていた。一応国立大学の経済学部を卒業して地元に戻り公務員となり、市役所の税務課で働いている45歳の立派な社会人が数学が趣味以外で役に立たなかったと言っているのである。当時中学1年生であった俺にとって、これから自分が数学と付き合う事になるだろう長い期間を思えば衝撃的であり切なくなる話だった。
 社会科は常識教養レベルの知識を蓄えるだけの授業だから必要といえば必要で、憶えて置くべき知識が教科書に書かれていればどうでも良い。理科は好きだから文句は無い。

 俺が、その存在意義自体を疑う授業が創作ダンスだ。
 こんなモノを義務教育の授業として行う意味が分からない。これが国民の義務だというのか? やりたい奴だけが勝手にやれば良いモノだろ……そう思っていた頃が俺にもありました。
 元々、空手などの格闘技には相手の呼吸と自分の呼吸を読むためにリズム感が必要であり、俺もリズム感には自信がある。また身体を自分のイメージ通りに動かすという能力も当然備わっている。だが羞恥心が先立ちダンスに対して苦手というよりも嫌悪感があった。
 しかし、レベルアップにより向上してしまった【精神】関連のパラメーターだが、【心理的耐性】の下の階層にある【羞恥心】【緊張感】などが軒並み上昇していた。
 つまり足を引っ張る羞恥心がなくなってしまい、結果「ヤッベェ~楽しいわ」とテンションが上がりまくってしまう。
 そしてクラスメイトや教師が「あの高城が楽しそうにダンスを……怖い」と退いていたのを見て我に返るのだった。

 放課後の部活はまたもやランニング。
 今回は1年生は全員リタイヤ。1年生を負ぶる番だった俺は、トレーニング用の重石だと思い背中に担いで走っていたところ、突如背中から「ウェレレレレレェェェ~」というおぞましき呪詛を喰らう事になった。
「……まあ仕方ないな」
 鼻孔を突き上げる臭いの中、色々と思うところはあるが1年生を責めても仕方がない。俺も2年前はこうだったんだ。練習についていこうと必死で限界まで走って倒れた。そう思うと可愛いもんじゃないか? 可愛い後輩のゲロの1つや2つ被ってやるのも先輩としての……「仕方ない事あるか馬鹿野郎っ!」叫びながら肩越しに腕を背中に回し1年生の襟を掴むと真下に落とす背負い投げを食らわせた。
 馬鹿野郎とは俺のことである。何故ゲロを吐きかけられて怒らない。仏さんか俺は? 性格が……俺の性格がエライ事になってやがる。何が可愛い後輩だホモ臭い! そんなのは紫村にやらせておけ。
 博愛精神溢れる人格者とか俺はそういうタイプの生き物じゃないんだ。小さな幸せを一つ一つ必死に拾い集めてちっぽけで平和な人生をセコく送る。そんな小市民で良い、いやそんな自分が好きなんだよ。
 そんなことを考えて、目の前で痛みにエビ反りのたうつ1年生をどうしたものか考えるのを放棄していた。

 その日の晩飯の時間に、父さんに郊外の大型書店に連れて行ってくれるように頼むと、明日の金曜日になら大丈夫と約束してくれた。マルの夜の散歩を5日間と引き換えという条件だったが、俺としては部活でそれほど疲れなくなったためにマルの散歩を代わるくらいは体力的に問題なく、後何回かは連れて行って貰いたいので「これからはマルの夜の散歩は俺がやるよ」と言ってご機嫌をとる。
「まさか隆。お前、父さんのささやかな小遣いを狙っているのか?」
「貴方。お小遣いに何か不満でも?」
「いや史緒、そんなことはないよ」
「それじゃあ隆、たまにはお父さんにおねだりしてみたら?」
「おい!」
「大も何か欲しいものは無いの?」
「う~ん、新しい問題集と試験問題の赤本の最新版が欲しいな」
「おーい史緒さん。学費関連は家計からじゃ──」
「良かったわね。お父さんが買ってくれるわよ」
「だからそれは家計から」
「だったら俺も一緒に明日本屋に行くから父さんよろしく」
「家族が、家族が誰も、一家の大黒柱である私の話を聞いてくれない……」
 そんなアットホームな会話の後、力なく呟く父の情けない姿に家庭を持つのは大変だな~俺って次男だし無理に結婚しなくて良いんじゃない? などと考えるのであった。



[39807] 第13話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:31
 目を覚ますと俺のじゃないベッドの中。前日泊まった宿の部屋だった。
 相変わらず体調は完璧だが眠ったという実感が湧かない。
 そして悔しい事に俺は枕が替わったにもかかわらずぐっすりと眠ってしまった……かどうかは分からないが、簡単に寝入ってしまったようだ。
「疲れてたから仕方ないよな……」
 旅行だけならともかくあの地獄のような部活の合宿の時にも、中々眠れず寝不足に苦しんでいた俺としては納得が出来る理由にはならないが、それ以外に説明が付かない……いや、またレベルアップのパラメーターの変動が何か影響を与えてるような気がする。するのだが考えないようにした。

 時計を確認するとまだ5時前で下の食堂もまだやってないだろう。
 さすがファンタジーな異世界だけあって、夜遅くまで明かりが灯されるような場所は酒場くらいで、酒の飲めない俺は晩飯を食い終わったら部屋に戻るとさっさと寝るしかなかったので、いつも以上に早起きだった。

 とりあえず服を着て部屋を出た俺は、1階のロビー兼食堂兼酒場向かった。
「おはよう。昨晩はゆっくりと休めたかい?」
 朝食の仕込と準備を行っていたのだろう。食堂では女主人とその娘だろうか、小学3・4年生くらいの女の子が食堂内の清掃作業し、厨房の方からは包丁がまな板を叩く音も聞こえる。
「おかげさんで」
「それはよかった。食堂が開くにはまだ間があるから、お茶でも飲んでいくかい?」
「いや、少し外で時間を潰してくるよ」
 そう言って鍵を渡して宿を出た。

 町の周りを走ってみようと思ったが、まだ町の門は開いておらず自警団の若者2人が眠たそうに欠伸を漏らしながら立っていた。
「……あっ、リューさんおはよう!」
 大きな欠伸を終えて俺に気付いた団員が声を掛けてくる。リュウではなくリューが定着してしまったようだ。しかし俺は相手の名前を知らない。
「ああ、おはよう」
「どうしたんですかこんな朝早くに?」
 もう1人も声を掛けてくるが名前は知らない。聞いた事すらない。
「少し走ってこようと思って──」
「走る? またまた隊長みたいな事言って」
「兵士は走るのが仕事だとか? やめてくださいよ」
 俺の言葉を遮り2人は笑い出す。どうやらこの世界では身体を鍛えるためにランニングをするという考えは一般的ではないようだ。
 門は閉鎖されているし、街中を走って奇異の念を抱かれるのも有り難くないのでランニングは中止にする。どうせこの町を出て次の町までの間は人目が無ければ走るつもりだ。

 暇になってしまったので、余った時間で朝市を見て回る事にした。
 保存食はまだ十分な在庫が【所持アイテム】の中にあるが、止むを得ない場合以外は食べたくは無いので何かもう少しマシなものを仕入れておきたい。
 肉は多少の風味などの違いがあったとしても肉だろうし、野菜だって昨日宿で食べたオークジンジャーのように、生姜と同じような匂いや味の食材があることだし、それに俺が美味しいと感じられるくらい味覚が似てるなら食材の味自体だってそんなに大きく違ってはいないはずだ。
 そうであるならば、これから俺がこの世界の様々な食材の味を把握すれば、昨日図書室で仕入れた料理レシピの数々がが役に立つ日も来るだろう。
 ひとつ問題があるとするなら、俺が包丁を満足に握った事が無いということだけだ。確かに夏の合宿で大島が罠で捕らえた猪などを絞めて血抜きし内臓抜いて皮剥いで捌いた経験はあるけど、あれは包丁というよりサバイバルナイフでの作業だった……懐かしいなあの阿鼻叫喚の日々──空手部の夏合宿はテントも無しの山中でのサバイバル生活が10日間にも及ぶ──が、おかげで血とか全然怖くなくなったし、何だろう涙が出てくる。

 野菜や果物を中心とした様々な食材、そして調味料、香辛料を買い、途中で買った袋に詰め込んで、いや実際は袋に入る分の3倍以上が収納で【所持アイテム】の中に入っているのだが、何食わぬ顔で買い物を済ませて宿へと戻ると食堂が開店していた。
「おかえり。朝ご飯食べていくかい?」
「ああ先に注文だけ頼むよ。部屋に荷物を置いてくるから鍵を頼む」
「あいよ。朝定食一丁」
 鍵を受け取ると荷物を持って部屋に戻り、その場で袋ごと収納すると食堂へと戻ると見覚えのある髭がいた。

「おはようございますリュー殿」
 平兵士が普通に『リューさん』呼ばわりなのに、隊長である彼はかしこまって俺に殿をつける。血塗れのスキンシップという薬が効きすぎたせいだろうか?
「おはよう」
 俺は挨拶を返し料理が置かれたテーブルに着きながら嫌な予感がした。彼の表情の中に恐れ以外に阿るような臭いを嗅ぎ取ったのだ。
 出来るだけ彼に視線を合わさぬように目の前の料理に視線を向ける。一口大に乱切りされた野菜たちが煮込まれたとろみの付いたスープだろう。その具の中に野菜ではない何かが入っているのを見つけた。
「ちょっといいかい?
 注文を取りでテーブルの間を忙しそうに動き回っている女の子に声を掛けてみた。
「はい。何か御用でしょうか?」
 忙しい中で嫌な顔一つ見せずに笑顔で対応してくれた。
「この料理は何だい?」
「はい。今日の朝の定食は野菜たっぷりオークのタンシチューです。タンは口の中でほろりと解けるくらい柔らかく煮込まれている当宿の自慢の一品です」
 こんなに小さいながらも彼女はプロなのだ。明るく明快な対応に感心する。
「それはおいしそうだ。ありがとう」
「いいえ、ごゆっくりどうぞ」
 ざっくばらんな女主人とは対比的に、何処に出しても恥ずかしくない素晴らしい接客態度だ。
「うん、美味い!」
 口にした瞬間に分かる美味さ。野菜から出た味もあるのだろうが、料理の旨味の中心となっているのはタンから出た肉の旨味だ。何であんな豚人間如きの肉がこうまでも美味いのか……異世界はおかしい。
「……それで何時まで私を無視すれば気が済むのかな?」
「……黙ってくれ。折角の飯が不味くなる」
 俺は隊長に一瞥も与えず飯を食べ続ける。調理の技法は現実世界に比べれば劣っているだろうし調味料も塩くらいしか使われてないようだ。しかし食材が美味い。オーク肉は言うまでもないが他の野菜たちも美味い。
 人類のより美味いものを食べたいという欲望を進歩してきた土壌改良・品種改良などの農業技術。それを超えてこの世界の農産物は美味い。さすが100mを超えるような木の生える異常な世界。略して異世界だ。
「あ、あのぅ~」
 俺が敢えて目の前の料理に没頭しているというのに空気を読まない男が話しかけてくる。
「何の用だ?」
「リュー殿に頼みたい事があるのですが」
 俺が大嫌いな「TA・NO・MI・GO・TO」とな? 今の俺にその言葉を口にして良いのは家族と友人と美少女と美女だけだ。こんな名前も知らない髭隊長の口から聞かされるなど不愉快でしかなかった……何故なら、つい「良いよ」と答えてしまいたくなる内なる敵が居るのだ。
「頼まれたくない」
 我ながら清々しいほどはっきりと応えたやった。
「いや、話くらい──」
「そんな頼みづらそうな頼み事など聞くまでもなくNOだ。話だけでも聞いてもらいたいならもっと楽しそうに言うんだったな」
「……じゃあさリュー、ちょ~と頼みが──」
「黙れ!」
 口調が砕けただけで楽しそうになるわけもなければ、そもそも手遅れだ。俺は手早く飯をかき込むと「ご馳走様。美味しかったよ」と少女に声を掛け席を立った。
「ま、待ってくださいリュー殿! どうか、どうか水龍を退治していただきたいのです」

 水流を退治……灌漑工事でもしろと?……いや分かってはいる。敢えて俺は水龍の2文字を頭の中から追い出したかっただけだ。
 最初からこうなることは予想していた。昨日と今朝、町の中を見て回ったが店にも朝市にもほとんど魚は並んでいなかった。宿の飯も朝晩続けて肉料理。こんなに広いネーリエ湖の傍の町だというのに不自然過ぎた。そこから水龍の事を思い出すのは簡単だった。
 多分、あの水龍のせいで町の人間は湖で漁が出来なくなり、そして湖沿いにあるという他の2つの町との水上での行き来も出来なくなっているのだろう。
 だがそんな事情があったとしても、そんなイベントは要らんとです。あんな化け物には勝てるはずが無い。人間にどうにか出来る相手じゃないことくらい幼稚園児にだって理解できる。下手をすれば初日に空を飛んでいるのを見たドラゴンよりもでかい。いや重さだけなら確実にドラゴン以上だろう。
 はっきり言ってオーガと腕相撲に勝てるくらいにならないと戦ってみようかと検討する気も起き無いレベルの化け物なので俺の答えは決まっていた。
「無理」
 一言そう口にするとそそくさと階段へと向かう。
 そもそも俺に頼むのが間違っている。常識的に考えれば分かるはずだ。こいつの頭の中では俺はどんだけ化け物扱いなんだ?
 まず、どうしようもない問題は、奴がいるのが水の中だという事だ。相手が水の中ではどうしようもない。もし水龍が俺と同じくらいの体長だったとしても水の中では勝てる気がしない。
 もし水龍と陸の上で戦う事が出来たとしても問題はある……サイズだ。俺が奴に致命傷を与える方法は比較的小さな頭部と繋がる首の一番細い部分への攻撃だけだろう。だが水龍の首を狙える状況があるとしたら水鳥に止めを刺した時の様に首を振り回して攻撃してきた時だ。しかしその場合は俺が首に斬り付ける事が出来たとして、そして万一切断する事が出来たとしても、一度与えられた運動エネルギーは水龍が死んだとしても失われる事なく斬った次の瞬間俺に襲い掛かる。
 水龍が口に咥えた水鳥ごと自分の頭を水面に叩き付けた時の勢いはキャッチボールの肘から先の動きに近かった。つまり60km/h程度の球を投げられる速さで終端速度は球の速さに等しい。人間の肘から指の先までの長さが50-60cm程度に対して水龍の頭を含む首の長さはおよそ10倍でありその終端速度は600km/h程度と推測される。はじき出された出鱈目な数値に思わず笑いがこみ上げてくる。さすがファンタジーだよ。どう考えても死ぬ。半音速であんなにでかい頭や太い首が当たったら文字通り消し飛ぶしかない。
 首を攻撃するのを諦めて少しずつ奴にダメージを蓄積させる作戦を採った場合にも同じく首の攻撃が問題になる。水龍の首の長さからして攻撃範囲は5m以上でありそれほど広い範囲を薙ぎ払うような攻撃を避ける方法は無い。背後に回り込んだら今度は尻尾の攻撃があるだろう。
 まだ、装備と収納を利用した戦い方が出来るなら、攻撃の範囲ギリギリで攻撃誘い、下がってかわしつつ頭部へ一撃で致命傷を与える方法も無い事は無い。出来るという自信は無いが可能性はゼロでは無い。しかし俺が水龍と戦うのを誰も見ていないという事は無いだろうから、人前で装備と収納を使う事は出来ない。
 もし軍が派遣された場合。水龍を陸に上げる方法、そして湖へと逃がさない方法があるならば、水龍へ大勢でロープの付いた銛を何本も打ち込んで、木や杭にロープを縛り動きを封じて、長期戦で少しずつ体力を奪っていけば犠牲も多く出るだろうが十分に倒す事が出来るはずだ。
 当然、この程度の事はこの町の人間だって気付いているはずだ。つまり水龍を陸に上げる・上がらせる方法はない。または水龍を陸の上に留まらせる方法が無い。もしくは軍を派遣して貰えないの何れかだろう。
「貴方にしか貴方にしか頼めないんです」
 隊長は立ち去ろうとする俺にそう訴えかけてきた。
 俺にしかということは、領主に頼んでも軍は派遣して貰えないということだろう。そういえばこの領は貧しいと他の団員も言っていた。
「昨日この目で水龍がどんな化け物か見ている。その上で勝ち目が無いから無理だと言ってるんだ」
 俺の中で既に答えが出ている以上、幾ら頼まれても仕方が無い。
「だが──」
 しつこく食い下がろうとする態度に俺は苛立ちを覚える。
「これ以上は、俺を自分の実力も測れないほどのぼせ上がった馬鹿と言ってるのか、もしくは倒せなくても構わないから戦って死んでこいと言ってるのと同じだ。お前が頭を下げる事は俺の命よりも価値があると言うのか?」
 相手をやり込めるのはコミュニケーションの方法としては最低。しかし俺は自分がはっきりとした態度で断った事に対してしつこく食い下がられると嫌悪感を覚える。その手の事を平気でする奴は頼むという態度を取りつつも相手の事を自分より下に見ていると思うからだ。
「違うんだ。作戦はあるんだ。貴方の力を借りられるなら成功する方法が」
 状況が変わった。勝てる目があるなら水龍は倒したい。町のためとかではなく自分のレベルアップのために……べ、別に俺の中のウザイくらいに善良な部分が先ほどからずっと「困ってる町の皆を助けてあげようよ」と訴えてるせいではない。
 それにまともに戦って勝てない相手に勝つために策を講じるのは好きだ。実行するかどうかは別として大好きなのだ。暇さえあれば大島をどうやって罠にはめて倒すか考えずにはいられないほど……これは空手部部員全員に当てはまる心の病である。勿論そんなことを考えてる暇があれば少しでも強くなるように自らを鍛えろと思わないでもないが、鍛えに鍛えて10年後、20年後に復讐を果たしても意味が無い。俺達が欲しいのは手っ取り早い明日の平穏なのだ。
「話を聞こう」
 話を聞くだけなら損は無い。
 それにもし水龍を倒して名を上げても、それが問題になる前にさっさと遠くへ移動してしまえば良いだけだ。現実世界と違ってテレビもラジオもネットも電話も、郵便というシステムも無い。アメリカで行われた、無作為に選ばれた東海岸の住人と西海岸の住人が、何人の友人知人を間に挟めば間接的に知り合いになるかという実験の結果は、僅かに4・5人だったが、それは高度な情報伝達システムが発達した世界だからだ。メインとなるのは商人のネットワークによる情報伝達の世界だ。後は精々早馬に伝書鳩のような連絡手段、異世界なのでもしかしたら竜に乗って移動なんて手段もあるかもしれないが、ピンポイントに俺の情報を収集しようとしているのならともかく、噂話の拡散手段としては細すぎる。他の国にまで逃げた俺に風聞が追いつくには時間も掛かる。しかも追いついてくる頃には内容も色々と改変され──A町からB町を経てC町に噂が伝わる場合、A町を出てB町に来た商人が知っている噂は、そのままC町には伝わらず、B町の中で様々な人の口と耳を経て、C町に噂を伝える商人の耳に届く、その間に噂の内容は詳細な部分の情報ほど曖昧、もしくは省略され、足りなくなった情報は誇張と付け足しという脚色の水増しを経て改変される──て噂の人物が俺だと特定する事も難しいだろう。



[39807] 第14話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2015/04/27 12:36
「酒?」
「そうです水龍は無類の酒好きなんです」
 まるで大蛇退治ようだが引っかかる。
「しかし、何故そんなことを知っている?」
「今回の水龍がネーリエ湖に現れたのは3年前ですが、今から200年以上前、我々のご先祖様がこの町に入植する以前にはネーリエ湖には水龍が棲んでいたのです」
 水龍はかなり凶暴な性格をしていて、舟などは簡単に沈めて乗っていた漁師は食い殺されたため入植は失敗に終わりそうになったそうだ。
「……つまり、その水龍を倒してこの町を作ったと?」
「はい」
「その時に酒を使っておびき寄せて倒したと?」
「いいえ。酒を使って陸におびき寄せて、水龍が酒に酔ったところを一斉に攻撃を仕掛けたのですが止めを刺しきれずに失敗し、結局は軍が多大な犠牲を払い退治したそうです」
「つまり反撃の余地も与えず一撃で水龍を屠れと……この俺に」
「はい。オーガ3匹を相手にして倒せるリュー殿の力があれば、隙を突けば水龍といえども……」
 一斉に攻撃を仕掛けたとは数人でという事では無いだろう。それでも失敗した事を俺1人で成功させろと……はっきり言って無茶な頼みだ。

「ちょっと待ってくれシスム。あんた酒って蔵の酒の事じゃないだろうな?」
 どう返答するべきか考えていると、飯を食っていた男の1人が隊長に詰め寄る……隊長の名前はシムスか、初めて知ったよ。
「その通りだ」
「馬鹿な。蔵の酒はあんたの一存でどうにかできるものじゃないだろう」
「今ならネスレインの奴は町に居ない。町長を説得すれば蔵を開けることが出来る」
「馬鹿代官が居ない? どういうことだ」
「奴はオーガ出現の話を聞いて町を捨てて逃げたんだよ」
「何だって!」
 隊長の言葉に食堂が騒然となる。
「代官の癖に逃げた?」
「そういえば、あの騒ぎの中であいつは何の指示も出してなかったな」
「あの糞野郎が!」
 ネスレインこと代官は余程嫌われていたのだろう、ここぞとばかりに容赦ない非難の声が上がる。
 それにしても町を領主に代わり治める立場にある代官が逃げるとは呆れるを通り越して笑える。そんな上司の下にいる役場の年老いのと若いの2人の役人が淡々と仕事をこなしていたのとは対照的だ。
 その他にもネスレインは代官の立場にありながら3年間にも渡り、水龍退治のための領主への軍派遣の嘆願を握りつぶていた。
 そのためにネーリエ湖の水産資源と、周囲の豊富な森林資源が命綱だったネハヘロは、漁業は水龍が上がってこない川での僅かな漁獲高に留まり、林業もネーリエ湖の水運を利用していたために出荷高は激減した。
 当然、税収も落ち込むはずだったが、ネスレインは領主へ納める税額を維持するために増税を行い町を困窮させていたいう。現代の日本人からすれば笑ってしまうほどの暴挙。このネスレインという男は俺を笑わせるためだけにこんなことをしてるんじゃないかと疑ってしまう。
 いや待てよ。水運という事は湖を使って運ぶ先に町があるってことだろ。そこの町だってネハヘロからの木材が運ばれなくなれば、製材などの加工業か単なる木材問屋か知らないが仕事に影響があるはずだ。それにこの町と同様に漁業だって営んでいただろうから、その町からも水龍討伐のために軍の派遣が要請されてなければおかしい。それが3年間放置されているならば……このミガヤ領って終わってるだろ。ネスレインという代官だけの問題じゃなく全体が腐ってる可能性が高い。
 それに増税というのもおかしい。確か巡回税賦務官とかいう税務署の役人の様な奴が別にいるはずなのに、どうして代官に増税が可能なのか……凄く嫌な予感がする。このままだと色々とフラグを立てまくった挙句、厄介ごとに巻き込まれるような気がしてならない。水流と戦わずに逃げたい。しかしどうやればこの状況から逃げるか実に悩ましい。

「よし分かった。やってやろうじゃないか!」
 男達がそう叫ぶ……あれ、何時の間に話がまとまったの?
「じゃあ今晩決行だ。それまでに準備を終わらせるぞ!」
 そこまで具体的に決まてしまってるんだ……へぇ~そうなんだ。
「ではリュー殿よろしくお願いします」
 俺、引き受けてないよね?
 ログを確認すると確かに考え事しながら「ああ」とか適当に答えてたよ俺。一体何してくれてるの? だから考え事はシステムメニューを開いてやれとあれほど……冗談抜きにシステムメニューのおかげでどんな状況でもじっくり考える時間がとれるが、必ずシステムメニューを開いた状態か確認してから考え込む習慣をつけないと状況次第では死ぬな。


 日が暮れて夜の帳に包まれた湖岸。その近くに酒蔵から運び出されたワイン樽が幾つも並べられているのを見ると、やっぱり水龍と戦わなければならないんだなぁと思う。
 昼間に、戦いに備えてゲーム的な回復薬の類は無いのかと町を探してみたが、飲むだけ傷や消耗した体力が復活するような薬は存在しなかった。
 当然だが、MP回復薬なんて物も無い。それ以前にMPって何? という感じの世界なのだった。全く中途半端に現実的な世界だ。もう少しファンタジーさんには頑張って欲しい。

 まあ回復薬とか便利なアイテムは手に入らなかったが状況は悪くない。今は夜。夜の暗闇は俺の味方になってくれるはずだ。俺の眼はレベルアップの恩恵で通常の視力だけではなく動体視力や明暗順応能力、そして暗視能力が上昇している。明暗順応能力の上昇がなければ日常生活への影響も想像に難くないほどだ。光感度を数千倍に高めて文字通り星の明かりで視野を確保できるスターライトスコープには遥かに劣るだろうが、新月でもなければ月さえ出ていれば十分な視界が確保できる。そして今宵の月は新月でも満月でもなくその半分ほどで雲は掛かっていない。
「ちょうど良い……」
 満月ならば明るすぎて、俺がシステムメニューの装備と収納を使えば、周囲で待機している自警団の団員達に気付かれてしまうだろうが、この程度の明るさなら俺が手にしている斧──槍では首は落とせないという事で、自警団が樵から借りてきた長柄の大斧を柄まで黒く塗って貰った──が、一瞬消えたとしても気取られる事は無いだろう。もし気付いたとしても見間違いじゃないのか? と言えば反論は出来ないはずだ。
 湖岸からもっとも離れた50mほどの距離に並べられた100樽の蓋が、次々と斧で割られていく。次に湖岸から30mの位置に置かれた10樽の蓋が割られ、その次に湖岸から10mの位置に置かれた2樽の蓋、そして最後に水際に置かれた2樽の蓋が割られ、その2樽は湖へと向かって蹴り倒されて中のワインが湖へと流れ込んでいく。

 辺りにはワインから立ち上るアルコールの匂いが立ち込める。
「戻れ!」
 隊長の短い命令に、斧を手にした団員や町の男達が湖岸から離れていく。
 それを確認した俺は、湖岸に引き上げられている3年前までは猟師が使っていたのだろう小さな舟の脇に詰まれた網の中で身を潜める。防具武器だけではなく露出した肌もすべて消し炭で真っ黒に塗られた黒ずくめの姿。これは水龍に接近する際に見つからないようにと俺が主張した結果だが、本当の目的は大斧を収納した時に、周囲の連中に気付かれないように予め視認性を落としておくためだ。
 湖岸から50m離れた位置にあるワイン樽100樽からは20mほどの距離。此処で水龍が酔いつぶれるのを待って奇襲をかける予定だ。
 俺以外の人員は、ワイン樽の置かれた場所から60m離れた場所に土嚢を積み上げ、その後ろに弓を持った猟師達が8人隠れている。彼等の役目は俺が一撃で仕留められなかった場合に、水龍が町へと向かうのを阻止する事だ。
 そして、湖岸近くの舟の陰には銛を持った漁師達が10人が隠れている。彼等は俺が水龍を殺しきれなかったがある程度ダメージを与えた場合に、湖に逃げようとする水龍に銛を打ち込み、銛に付いたロープを湖岸に深く打ち込まれた杭に取り付けられた鉄環に結び付けて、水龍が動きを封じる役割を担う。そして身動きが取れない水龍を自警団員達が投槍で止めを刺す作戦だ。
 細かい作戦はともかく、俺がやるべき事は酔いつぶれた水龍の首を斧で刎ねることだ。水龍の首は一番細い部分でも40cmはあるそうだが、この斧ならば収納した状態から装備して出現させれば完全に首を切断とまではいかなくても頚椎は楽勝で断つ事が出来るだろう。

 俺はじっと網の下に身を潜めて待ち続ける。3年間も漁が行われていなかっただけに網には魚臭さが残っていなくて幸いだった。
 何事もなく30分が過ぎた頃、湖の方からザザーッと波が押し寄せたような音がした。しかしこの位置からは舟が邪魔で湖は見えない。
 ジャバジャバと水際で音を立てながら何かが陸へと上がってきた気配がする。かなり大きい。もしこれが水龍ではなく他の巨大生物だとするなら俺はこの町を見捨てて逃げる。そこまで面倒は見てられない。

 ズルズルと重たい何かを引きずる様な音がゆっくりとこちらへと近づいてくるが途中で音の主の動きは止まる。場所は多分最初の樽の置いてある辺り。網の下から顔を出して確認したいのをじっと我慢すること2分。40リットルくらいしか入らない小型の樽とはいえ2樽も飲み干してしまったのか再び動き始める。
「ウワバミが……」
 そう小さく呟いたが、ふと気付いて考え直す。
 水龍のフォルムを思い出す。昨日見た時は後ろヒレまでは確認できたが尻尾は見えなかったが、尻尾の長さを首と同じと考えると水龍の全長は20mくらい。そのスケールを全長20cm程度にしてイメージしよう。
 その全長の半分は首と尻尾になり胴体の形も胸の辺りにはボリュームがあるが、腰の方は細くなっているので体積的にはそれほど大きくない。それが肉の塊だとして重さは100g強くらいだろうか? それを20mのスケールに戻すとすると100の3乗倍で。逆にグラムをトンに換算すると1000の2乗分の1なので100t強となる。考えただけで帰りたくなる。一体象何匹分だ? 成人男性に換算すると1400人以上となる。そりゃあ80リットル程度のワインなんて1口分だ。むしろ2分も掛かったのは身体に比べれば小さい頭と細い首がボトルネックになったからだろう。

 次のワイン樽のある場所で水龍の姿を捉える事が出来た。正にネーリエ湖の魔物ネッシーだ……本家のネッシーのように誰かが自分の捏造ですと名乗り出たら無かった事にならないだろうか?
 水龍は周囲を注意する様子もなく樽の中に細い口先を差し入れるとジュージューと余り上品ではない音を立てながらワインを吸い上げていく。そのペースは落ちるどころか倍になり僅か5分で飲み干してしまうと、首を上げて辺りを見回すようにしながらに左右にゆっくり振り最後の100樽が置かれた場所を見つけると、何処か滑稽な動きで必死に向かっていく。
 今までのワイン樽は水龍を陸上深く導くための餌に過ぎない。本命である残りの100樽は正にバーレル、ドラム缶と同等のサイズであり100樽で15000リットルはある。水龍の体重が100tだとして体重の15%である。体重60kgの人間が9リットル。つまりワインボトル12本以上に匹敵する。飲めるものなら飲み干してみるが良い!

「……飲み干しやがった」
 水龍は頭ごと突っ込める大樽だと飲みやすかったのだろう100樽全てを1時間もかからずに空けてしまった……そういえば何かの酒飲み大会で小柄な女性が日本酒が1升入った大きな杯を一気に飲み干すのをテレビで見たことがある。特殊な部類に入るとはいえ人間にそのくらいの事が出来るなら、水龍にこれくらいの事は出来ても不思議は無い。何処の馬鹿だよ。祝杯用に蔵の中の最後の2樽は残しておけと言ったのは?
「どうするか?」
 酔いつぶれてはいないが明らかに酔ってはいて首はふらふらと頼りなく揺れている。これならもう少し待てばそのまま寝入る可能性もある。一方で時間が経つとファンタジーな不思議肝臓がフルパワーで血中のアルコールを処理してしまう可能性も十分にありえる。
 飛び出して攻撃するか待つかの判断が出来ない。俺に出来るのは水龍の挙動を1つ残らず観察し隙を待つだけだ。
 しかし俺が待ちに入ったことを他の連中がどう捉えるかが問題だ。焦って攻撃を始める……十分にありえる。
 完全に想定外だ。とにかく酔い潰す事が大前提の作戦であり、ワイン全てを飲みつくして寝入らないという発想は無かったので、この状況で連絡を取り合う手段を考えていなかった。
 このまま俺がアクションを起さなければ、一部の連中がしびれを切らせて、俺に打つ手無しと判断し勝手に動き出すだろう。そうなれば作戦も糞も無く無秩序に突っ込んで大勢の犠牲を出した挙句に俺が攻撃するチャンスも失うだろう。
「……仕方が無い」
 俺は網を被ったまま水龍に向かってゆっくりと匍匐全身を始めた。

 一動作一動作少しずつ、水龍の隙を見ては奴の胴体の左側へと向かって進む。
 奴はご機嫌な様子で湖に戻るでもなく、空になった樽の傍でふらふらと宙に首を泳がせている。頭にネクタイを巻いてやりたくなる様な姿だ。
 既に水龍との距離は10mを切り、俺の攻撃範囲にはまだまだ入らないが、奴の攻撃範囲にはもう数mで入ってしまう。
 身体を支える前ヒレ、後ろヒレ共に力が入っている様子が無く首だけでなく身体全体で舟を漕いでいる状態だ。熊が死んだ振りをする時は、身体を地面に横たえていても手足は必ず踏ん張れるようにしていると、とても空手に関係があるとは思えないアドバイスを大島からされた事があるが、こんなところで役に立つとは人生分からないものだ……分かったら怖い。
 山の中で合宿していた時の話なので熊に遭った時の対処法なら分かるが、熊が死んだ振りをする状況というのが理解しがたく、奴は俺達に何をさせたいのだろう?
 ……というか、実は心当たりが無いわけではない。大島の背中、右の肩甲骨の辺りに大きく3条の傷跡が走っている。それに気付いたのが1年生の頃で、俺は嫌な予感がして聞かなかったのだが、止せば良いのに誰かが「その傷はどうしたんですか?」と聞いた。
 それに対する大島の答えは「熊とやりあった時に付けられた名誉の負傷だ」だった。鬼剋流の5段昇格には熊と戦うという馬鹿げた掟があるらしい。
 非常にふざけた話だが「毎年何回か新聞で誰々が山菜取り中に熊に襲われ撃退した、みたいな記事があるだろ。あの内の1件は鬼剋流の関係者だ」とも言っていた。その後大島は笑みを浮かべながら「鬼剋流でも俺みたいに北海道まで行ってヒグマとやりあった奴は珍しいんだぞ」とキモいドヤ顔を決めた。
 その時、中学を卒業したら大島にも鬼剋流にも関わらない平穏な人生を送るという誓いを立てること通産10回目を達成したのだった。

『セーブ処理が終了しました』
 水龍の攻撃範囲に入る1歩、いや安全を考えて3歩くらい手前でセーブを実行した。
 このセーブは気休めというかお守り程度しか意味が無い。オーガの一撃にはギリギリ耐える事が出来たが水龍の攻撃を受けたなら皮鎧を装備していてもロードをしようという意識も命も残らない。
 システムメニューのON/OFFを行いつつ、ONの状態の度に水龍の首と尻尾の動きを確認して、その初動を見逃さない事が重要だ。もしも初動を見逃して加速する事に気付かずにシステムメニューをOFFにすれば、MAX600km/hの首のスイングは次のONが実行される前に確実に俺の命を奪うだろう。

 俺はゆっくりと下がりながら網の下から抜け出た。まだ網が壁になって俺の姿は水龍の視界に入ってないだろう。
 網越しに見える水龍の首が右に振れた瞬間、刃から柄まで全て黒く塗った大斧を両手で右肩に担ぐと網の陰から地面を蹴りつけて飛び出す。疾走は3歩目の右足が地面を強く踏みしめた瞬間で終わる。
 足が止まった事によって全身の運動エネルギーは腰から上体へと伝わり、そして頭上に掲げられた大斧に集約する。地震の時にビルの高層階が大きく揺れるのと同じ原理だ。そしてその勢いのままに足元にある水龍の左前ヒレの付け根に渾身の力で大斧を振り下ろす。
 ヒレを切断するまでに至ったか分からないが、骨を断った感触を手に覚えた瞬間にシステムメニューを開いた状態で大斧を収納。そして水龍の尻尾へ視線を向ける。尻尾は攻撃できる体勢には無い。次いで首の動きを追うが胴に阻まれて確認できない。
 俺はシステムメニューを解除すると、水龍の胴を回り込むように胸の前へと移動したが期待した攻撃は行われなかった。
 多分、今の水龍は俺の姿を捉えていない上に、酔いのせいで前ヒレに攻撃を受けた痛みにすらまだ気付いていない可能性がある。
 奴が反射的に首を振って闇雲に攻撃してくれていれば、それを避けた段階で決着が付いたはずだった。左前ヒレを失った状態で身体の左側に首で攻撃を仕掛けたら、確実にバランスを崩して左へと横転するしかない。俺はその時を狙って首を攻撃すれば決着がつくはずだった。

 長すぎる数秒間の後、違和感を感じたのだろう左前ヒレを確認するために水龍は背中越しに首を左側へと移動させる。その動きに合わせて俺は奴の左側へと回り込むと、右前ヒレに向けて手を構えて、システムメニューを操作すると、ヒレを切断する形で大斧が出現した。
「ガァァァァァァァァァッァッァァァァッァァァッ!」
 水龍が咆哮を上げる。それは自分の左前ヒレの状態を見た怒りの叫びか、それとも右前ヒレの痛みによる叫びか、確かな事はこれで奴の移動能力を奪ったということだ。

「来やがれ大型爬虫類!」
 俺は素早く水龍の右前方へと移動して叫んだ。この位置なら尻尾の攻撃は届かないので首の攻撃だけに集中すれば良い。それに正面なら尻尾を含む身体全体で踏ん張って全力で首の攻撃を一度なら繰り出せるが、右に寄っていれば左右の前ヒレを失った奴には全力での攻撃は出来ない。その上一度攻撃して体勢を崩せば二度と体勢は整えられない。後は首を刎ねれば良いだけのはず、完全に勝負はついたと確信した。
 だが水龍は怒りに狂った目を俺に向けると口を開き、額の角が青白く光り──
「ヤバイ!」
 背筋に冷たいものを感じ、そう叫ぶと同時に右足で地面を蹴ると身体を奴の口の正面から逃──次の瞬間「ブーン」という低い音が響くと同時に痛みを感じる間もなく俺の右脚と右腕が宙を舞っていた。
 ドラゴン・ブレスという名の糸の様に細く収束された超高圧力ジェット水流が上から下へと通過した結果だ。そうだ奴は水龍、龍種だったのだ。現実の生き物とは違うファンタジー生命体だったのだ。そんなことを忘れていたとは………………仕方ないだろう。水龍がブレスを使う事に関しては誰も触れてない。200年前の水龍討伐に関する書物にも記されてないのだから、元々ファンタジー世界の住人じゃないんだよ。

『ロード処理が終了しました』

 ロード後に先ほどと同じように行動し、水龍の左前ヒレ。右前ヒレを順に斬る。
 そして水龍がブレスを放つ直前に水龍の頭の前に【水塊】を使って直径1mほどの水の塊を浮かせた。
 水龍のブレスは塊にぶつかると貫通した……ただの水の飛沫として。
 ウォーターカッターは同じ流体である水の層にぶつかると、自らの流れに周囲の水を巻き込んでしまう性質がある。そうなればウォーターカッターもただの勢いの強い水流となってしまう。同様の理由で水龍のブレスも【水塊】の盾の前に無力化されてしまった……というのは勿論嘘だ。俺も最初はそう考えたのだが、ウォーターカッターは水龍のブレスのように10m近い距離を飛んで人間の手足を切断するような真似は絶対に出来ない。空気もまた流体であり10mの空気の層を貫く前に、勢いの強い水飛沫となるはずだ。
 水龍のブレスがそれを可能とするのは何か? 考えるまでも無いファンタジーのテンプレである魔力だ。魔力の二文字でポストが赤いのも消防車が赤いのも全て説明が着くほどだ。
 そこで俺は仮説を立てた。ブレスが水龍の魔力により空気などの流体の層を通過する場合に、巻き込みを起さないように制御されているとするなら、それは非常に精密な操作が施されているはずだと。ならば【水塊】によって作られる直径1mの水の固まりもまた俺の魔力によって制御されている。そこで2つの魔力が干渉し合う事でブレスに施された精密な操作が乱されればブレスもただの水飛沫へと変わるはずだと。
 そして結果を見ての通り作戦は完璧だった。自分が怖い。さすがシステムメニューを開いた状態で何時間も何時間も考え抜いただけのことはある……ちゃ、ちゃうねん。僕一瞬で閃いたし、この間に何度も試行錯誤をしてロードを繰り返したりはしていないよ。
 立て続けに【水塊】を5回発動させたのに続いて【無明】で水龍の目の前に闇を生み出す。見た目は水龍がサングラスしたみたいだった。【無明】の優れたところは対象に対して直接働きかけずに目と瞼を闇で覆うことで視界を奪うこと。対象に直接魔術で状態異常をひき起す場合は相手の抵抗力によって効果が発揮されない場合があるが【無明】にはそれが無いと説明にあった。
 もっとも【閃光】などの光属性の魔術一発で相殺されるが、俺のようにシステムメニューを開いて魔術を発動出来ない者にとっては、相殺するまでの僅かな時間が生死を分かつ事になるだろう。

 必死にブレスを連続的に放つも、自分の顔の前に浮かぶ水塊により単に水を撒き散らすだけの状況にすっかり冷静さを失ったところを、いきなり視界を奪われた事で水龍は混乱をきたしていた。
 そこへ俺は一気に距離をつめると踏み切り跳躍する。身体を突き上げるような想像以上の上昇感。俺は4mほどの高さにある水龍の頭に大斧が届くくらいの高さまで跳躍できるつもりだったのだが、元々の俺の跳躍の限界よりも高い位置への跳躍だったために力加減を大きく間違う。俺の身体は水龍の頭の左側を通り過ぎる軌道を描いていた。
「畜生!」
 何とかすれ違いざまに装備を実行し水龍の首に突き刺さるように大斧を出現させると、突然俺の身体は大斧を中心に自らの運動エネルギーで右に振り回される。単に大斧が水龍の首に食い込んでいるためだけではなく、装備で出現した大斧が俺自身の運動エネルギーとは関係なく運動エネルギー0の静止状態だからだ。

『水龍を倒しました』
 水龍の首に食い込んだままの大斧の柄から手を放しブーメランのようにクルクルと宙を回転しながら、討伐アナウンスを聞き達成感に浸る。
『レベルが10上がりました』……はいはい、さくっとレベル22達成。多分水龍の推奨レベルは50くらいだったのかな? 随分無茶したね俺。頑張った頑張った偉いよ隆君! まあ一番偉いのはシステムメニューさんだけどね。
 その後の着地に失敗し地面を転がりつつ聞こえてくるレベルアップ時のパラメーターなどの情報に『魔術:水属性Ⅱ/土属性Ⅱ/火属性Ⅱ/風属性Ⅱ取得』のアナウンスがあった。
「俺の時代がついに来たぁぁぁっ!」
 地面に仰向けで倒れた俺は、雨のように降りかかる水龍の血を全身に浴びながら右腕を突き上げて吼えた。
 使えないと断じていた属性レベルⅠの魔術にも意外に使いみちがあった。レベルⅡには大いに期待が出来るだろう……それから【水球】から【水塊】の流れを考えた人。馬鹿とか言って本当にごめんね。

 水龍の死骸は、いつの間にか集まった町の人間達によって解体されていく。スケール的にはバッタの死骸に群がる蟻だね。
 町に戻ると門の中はお祭り騒ぎで、もう夜の8時を過ぎているのに通りには子供達の姿さえある。
 町の広場では酒──これも水龍に飲ませておけばもっと楽に倒せたかもしれない──が振舞われて、肉、多分オークの肉がバーベキューのように串で刺されて網で焼かれていて、これも無料で振舞われている。
 人々は杯を掲げて勝利の歌を高らかに唄う。
 だが俺は、そんな町の喧騒を無視して宿に戻るとお湯を頼んで裏庭でお湯を浴びて身体の汚れを落としていた。
「石鹸が必要だ」
 シャンプーとか贅沢は言わない。石鹸無しにお湯を浴びて身体を拭いても油っぽさが抜けない。中学生男子の油っぽさを舐めてもらっては困る……それ以前に昨日に続き今日も血塗れなんだよ。お湯で流して拭いた程度で何とかなるかい!
 大体、ここの連中が洗濯に使っているのは、ジャガイモに良く似たロフという作物をすりおろし水を加えて攪拌し沈殿させた上澄みらしい。
 それはサポニンだよサポニン。『サポート職 忍者』の略ではなくシャボンの語源にもなったサポニンだよ。
 掃除大好き主婦芸能人がジャガイモの皮を剥いたら、その皮で台所のシンクを擦って磨きなさいって言う、ジャガイモに含まれるサポニンだよ。
 うっかり者が焚き火の中に焼いた肉を落として、肉から出た油と薪の灰が混ざって鹸化反応が発見され、後に界面活性剤による洗剤が発明されるまでは、洗剤の代名詞でもあったサポニンだよ。
 人類の歴史における三大洗剤。小便・サポニン・界面活性剤のサポニンだよ。
 つまり、この町には石鹸が無い。風呂が無いことを必死に我慢している俺に、更なるこの追い討ち。
 俺、明日この町を出たら都会に出て、風呂と石鹸のある生活をするんだ……と変なフラグを立てたのも仕方の無いことだろう。



[39807] 第15話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:32
 目覚めるとすぐに自分の身体の臭いを嗅ぐ……良かった血の臭いはしない。やはり異世界と現実とではその辺はきっちりと区別されているようだ。
 しかしシステムメニューの目覚ましは便利だ。セットした時間になったら【アラーム】という割にはアラームが鳴るわけでもないのに自動的に目が覚めるというのが凄い。
 ベッドを出て制服に着替えるためワイシャツに袖を通そうとして、ふと気付いてワイシャツ・ネクタイ・制服の上下・靴下を全て収納し【所持アイテム】からそれらを【装備品】へと移動させてみた。
「移動できた」
 そして装備を実行する。
「……実に惜しい」
 ネクタイが何故か頭に結ばれていた。だがそれ以外は完全に着る事が出来ていた。頭のネクタイを緩めて首まで下ろしワイシャツの襟下のポジションで締める。手間的にはそれほど悪くは無いが何か納得できないので、もう一度ネクタイを収納し装備し直してみると襟下のポジションにネクタイが現れた。
 これはもしかして、酔った水龍の頭にネクタイを締めるイメージをしたせいだろうか?

「おはよう」
「あら、今日はちょっと早いのね」
 台所の母さんと朝の挨拶を交わす。ちょっと早いのは人類最速の早着替えに挑戦したからだよ。
「ワァウ」
 マルが俺の足元にまとわり付くように動きながら、良く振れている尻尾でバシバシと俺の脚を叩く。
 しゃがみ込むと両手でマルの顎と頭を挟んで撫でてやる。マルは「クゥン」と鼻を鳴らし気持ちよさ気に目を細める……ごめんねマル。朝の散歩には連れて行ってあげられないんだよ。
 そんな謝罪の意味も込めて念入りに撫でまくること2分で、マルはすっかり床の上でお腹をみせて横たわり息を切らせていた。

 朝練では今日もランニングになる。
 1年生の体力づくりのために彼等が大島のペース──とはいってもかなり手加減をした──について来られるようになるまで、大体10日から2週間くらい行われる。
「しかし、何なんだ……」
 大島の目が俺をロックオンしている。1年の頃から俺が奴に特別目を掛けられていたが未だ嘗て無いロックオンぶりに不安と気持ち悪さが相乗効果で襲い掛かり吐き気を覚えるほどだ。
 2年や3年達もこの不穏な空気に緊張感を高めている。おい田村、屠殺場に送られる家畜を見送るような目で人を見るな。本気で怖くなる。

 数学の時間。俺にとってこの学校生活で唯一の潤いである北條先生の授業である。
 眼鏡の奥の美しい切れ長の目がとてもクールだ。板書する後姿。170cm近い均整の取れたモデルと言っても通用するスタイルと腰まで流れるような艶やかな黒髪に見惚れずにはいられない。解答を読み上げていく玲瓏とした声もたまらない。
 などと入れあげているが、彼女は特別に優しくしてくれるわけでも俺個人に笑顔を向けてくれるわけでもない。それに凄い美人だと思うがとても厳格な性格で常に背筋がぴっと伸び、女性としての隙を一切感じさせない。そういえば彼女が笑うのを見たことさえ無い……あれ? 何で俺は彼女に潤いを感じているんだろう。潤いを感じる要素がまるでない。
 今はっきりと気付いた。部活の後に部室で着替えながら「今日北條先生に問題を当てられたんだ」「やったなお前!」「それで?」「良く予習をしてきていますねって言われた」「おおおおおっ!」「先生ぃ~俺のことも褒めて!」とか騒いでる俺達って完全な馬鹿だったんだと……どんだけ俺達の思春期は乾いちゃってるの?
 ちなみに学年の違う2年生達には北條先生と直接的な接点は無く、俺達の話を聞いて思いを積もらせた挙句、彼らの中では憧れを通り越して既に神格化されてるほどだ。

 美術の時間。
 恐ろしい事に自分が、目で見たことを写真のように完全に記憶する能力に目覚めていた事に気付いた。
 授業の課題である静物画のデッサンで、台の上に置かれた花瓶と花をしっかりと確認すると、それだけで目の前の白いキャンバスの上に花瓶と花のイメージを再現する事が出来た。
 まあ美術部部員でもない俺に技術的に大したものは無いので芸術性を感じるようなことも無いイマイチな出来だったが、輪郭や陰影の強さなんかは気持ち悪いくらいに正確で、なにより描く時に線に迷いが無いので10分も掛からずに書き上げてしまった。
 教師の評価も首を傾げながら「いや、授業の課題作品としては十分に良い出来だよ。良いんだけど……何なんだろうこれは? 愛が無いのかな?」という微妙なものだった。愛って何だよ?

 部活のランニングも3日目となり、1年生達がリタイヤするまでの距離が大分長くなってきた。そのことを彼等自身が一番感じているのだろう。走る彼等の顔付きにももっと頑張れば必ず走りきることが出来るという気迫が表れている。大島が大好きなのはその気迫をぶっ壊す事だと知りもせず……神様。彼等を救ってあげて! せめてその魂だけでも安らぎを。

 今日は格技場の使用権が無いので、ランニングから帰ってきた俺達は部室近くの校庭の脇で練習を行う。
 1年生を背負った2年生達と大島も俺達3年生と香藤に遅れること10分ほどで戻ってきた。だが朝から続く大島の視線がウザイくて練習に気が入らない。非常に迷惑だ。
「高城! 気合が入ってないぞ」
 大島から檄が飛ぶが、お前が原因だよとは思っても言わない。

 1時間ほどして1年生の新居が起き上がり、ふらつきながらも健気に練習に参加しようとした時。
「よし。1年生全員起きろ!」
 大島の馬鹿でかい声が校庭中に響き渡った。フライの処理の練習をしていた野球部の外野が声に驚き落球する。近所の犬がワンワンと吠え出す……本当に迷惑な生き物だ。
 1年生達はゾンビの様にぎこちない動きで起き上がる。だがその目にはどんなしごきにも耐えてやるという気迫が満ちていた。
「じゃあ、これからもう一回ランニングに行くぞ」
 1年生達の気迫が一瞬で希薄になる。冗談でも言って無いと1年生達が可哀想過ぎてやってられない……2年前の自分達の姿が重なって。
 大島は本当に良い笑顔をしている。奴にしてみたら大好物ご馳走様といったところだろう。やはりこの男の本性は邪悪。生かしておけば必ず人類のためにならない……誰か倒してくれないかな国連軍とかで。

 2回の計20kmを超えるランニングを終えて、1年生達は言うに及ばず2年生達までも地面に座り込んでしまっている。3年生達は流石に座り込みはしないが流石に疲れた様子だ。息を荒げていないのは俺と大島だけだ。
 流石レベル22になり人類の枠を超えてしまっている俺だが、大島は本当に人の類なのか疑問だ。
 こいつはランニング中に、先頭から一番後ろまでダッシュで戻り、遅れている1年生の尻を嬉しそうに笑いながら竹刀でビシバシと打ち、またダッシュで先頭に戻ると1年生を慮り微妙にペースを落としていた櫛木田に「ちんたら走ってるんじゃねぇ!」と首が306度回転しそうな勢いのビンタを食らわす。そんな事をずっと繰り返しつつの20kmを越えるランニングだ。こいつが実質走った距離が30kmを越えていても不思議じゃない。

「ところで明日の土曜日だが、俺は学校には来られない」
 大島の言葉に部員達の顔に生気が蘇る。大島が学校に来られない……何て素敵な響きの言葉だろう。出来れば毎日聞かせてもらいたい程だ。
「明日の練習はいつも通り、櫛木田。お前が練習を見てやれ」
「俺ですか?」
 櫛木田も驚いているが、俺も驚く。ここはどう考えても主将である俺だろ。ということは明日の練習は大島が居ない。そして何故か俺も居ないという訳だ……どうにも嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
「高城。お前はちょっと残れ、話がある」
 嫌だ。絶対に嫌だ。お前の話なんて聞きたくない。大体お前と2人っきりということは俺がお前の話とやらを断ったら殺す気で、目撃者を出さないために他の部員達を先に帰すんだろう……俺は大島という生き物をこれっぽちも信用していなかった。
 誰も俺に目を合わさず部室へと消えていく。最後に部室に入りドアを閉める時の櫛木田の目は炉の扉を閉める火葬場の職員の様だった。
 辺りを振り返るが周りには誰も居ない。他の部の連中はとっくに練習を終えて帰宅している……万事休す。
「高城。明日連れて行きたい場所がある。朝の7時に迎えに行く、朝飯は食わんで良い。動きやすい格好をしておけ」
 そう言い残すとあっさり背中を向けて去っていく。だが立ち去り際にニヤリと笑ったのが不吉だ。
 大体、朝飯は食わないで良いって何? あれか兵士が腹を撃たれた時に飯が胃に入っていると、腹腔内で飛び散って腐り命に関わるとか言うやつか? 明日は俺の命日かもしれない……いや黙って殺されてやる道理は無い。レベルアップだ。レベルアップして奴を返り討ちにする。どれくらいまでレベルを上げれば勝てるだろうか? 身体能力だけなら今でも奴に勝ってるだろう。だが強さはそんな単純なものじゃない、技量と経験が圧倒的に劣っている。せめて身体能力くらいは奴を圧倒する高みに達していなければならない。レベル40か? 50か? 糞っ、忙しい事になりそうだ。

 晩飯前にマルの散歩を終えるために急いで家に帰る。
 玄関を開け「ただいま」と大きな声で上げると階段を駆け上がり、制服を収納して取り出してベッドの上に置くと、トレーニングウェアを収納し装備する。
 そして部屋を飛び出しリビングのドアを開ける「マル散歩行くぞ!」と声を掛けた。
「ワンワン!」
 マルは嬉しそうに尻尾を振りながら俺の後ろを駆ける。
 流石に母さんや父さんでは、こんな速さでマルを散歩させる事は無理だ。だから俺との散歩の時のマルは元気一杯だ。
 だが元気があれば何でも出来るという訳ではない。何事にも限界はある。俺は立ち上がれないほどに疲れ果てたマルを前に、息1つ切れない自分の体力がどうなっているのか怖くなっていた。
 地面に伏してしまったマルが息を切らせてヒューヒューとか細く喉を鳴らしている……何処かで見たことがある状況で、何故かマルの考え無しの疾走を責める気になれない。
 責める気は無いが、携帯に母から『そろそろご飯よ。帰ってきなさい』とメールが入った。晩飯の後で本屋に行く予定もあり俺は焦りを感じていた。
「マル。家に帰ってご飯だよ」
「くぅ~ん」
 普段は食い意地の張った子だというのに「ご飯」に反応しない。はしゃぎすぎてトコトン限界まで走ったようだ。
「仕方ない奴だ」
 伏せの状態のマルを横に寝転がらせ、尻の方から背中に手を回して抱き上げる。犬相手にお姫様抱っこをする事になろうとは……
「ワゥ」
 マルは小さく吼えると、俺の顔をペロペロと舐め始める。耳は伏せているので自分の情けない状態を申しかけないとでも思っているのだろうか?
 10分後に下ろして水を飲ませると元気を取り戻し家へと走り出したので、申し訳ないと思っていたわけじゃなく、仔犬の頃に良くこうして抱き上げられてのを思い出して甘えただけだったのだろう……本当に仕方の無い奴だ。だがそれ故にいとおしい。馬鹿な子ほど可愛いというが、親になったことの無い中学生にそんな感情を抱かせるとは、お前よっぽどだぞマル。


「じゃあ行くぞ」
 食事の後に、上着を着込んできた父の声に俺と兄貴は頷いて席を立つ。
「母さんは行かないの?」
「マルガリータちゃんがいるから母さんはお留守番するわ」
 兄貴の問いに、母さんは自分の膝の上に頭を乗せるマルを撫でながら答える。家でマルの事を略さずに呼ぶのは母さんだけなんだよな。
「じゃあ、お父さん運転気をつけてくださいね」
「ああ」
「それとお土産をお願いね。最新作が出てるの」
 そう言って、超難解ミステリーシリーズとして有名な洋物の小説を見せる。おっとりとした母さんだが、何故か人が死にまくるミステリー物が大好きなのだ。
「……ああ」
 父さんは肩を落としながら答えた。

 道中、男だけの車内となれば父として息子達に聞いておくべきだろうと思ったのだろう「そういえばお前達、彼女とかは出来たのか?」と切り出すが、俺と兄貴が作り出す圧倒的沈黙の前に「まあ何だ。学生は勉強が本分だ……」と言葉を濁した。
 俺は今更説明する事も無いが、兄貴はやはり俺が空手部に入ってしまった事で立てられた『仲の良くない弟を地獄部に売ったぐう畜』という噂のせいで、彼女どころか友達も出来ない有様だった。
 ちなみに俺の中学校の空手部は県内中に、その逸話が広く知られていて兄貴の学校でも地獄部で通じるらしく泣ける。
 そんな空手部の逸話の中でも特に有名なのは『こうやの7人』と呼ばれる話であろう。
 北関東に位置する我がS県(埼玉県にあらず)には、S県県立男塾と渾名される不良の巣窟として、また昭和の残照、生きた化石として有名な工業高校があった。
 始まりは、そこの生徒とその年卒業したばかりの空手部のOBとの間で起きた揉め事。OBの同級生を工業高校の連中がカツアゲしたところを止めに入ったのが原因だった。
 OBは工業高校の連中4人を怪我を負わせることもなく軽くひねってやっただけだったのだが、逆恨みした連中は後日仲間を10人ほど集めてOBに襲撃をかけて敢え無く返り討ちに遭う……阿呆の末路である。
 さすがにその時は、OBも手加減せず全員叩きのめした上で警察へ通報した。全員木刀やナイフなどの武器を所持していたため凶器準備集合罪で全員逮捕され大問題へと発展する。
 また、そのOBは鬼剋流に入門していないため、ただの白帯の空手経験者に過ぎず、相手の人数と武器の所持から完全な正当防衛として咎められるどころか逆に表彰された……連中の評判が悪すぎたのである。
 だが馬鹿者どもは更に逆恨みを募らせてOBに決闘状という名の脅迫状を送りつけてくる。
 内容は、日時を指定した上での『光野公園』への呼び出しで、来なかった場合はOBの周辺の人たちへの危害を臭わせ、警察に通報した場合も同様にするとの事だった。
 光野公園は郊外に位置する休日などには野外イベントに使われる大型の公園だが、周囲には民家はなく平日はほとんど人の居ない場所だったのだが、OBが公園に着くと百数十人の工業高校の生徒達が待ち受けていた。
 OBを包囲して襲い掛かる連中だが、実は包囲されているのは彼等の方だった。百数十人を包囲するのは僅かに6人。だがそのいずれもOBの同期の元空手部部員達であった。
 終わってみれば、空手部OB達は切り傷打撲などの軽症を負っていたが、100人を超す工業高生が倒れていた。数十人は逃げたが後に全員逮捕され、工業高校は不祥事とともに多くの生徒を失った事で3年後の廃校が県議会で決定される。この事は一部の市民・県民からやりすぎとの批判もあったが、大多数から強く支持された……本当に評判の悪い連中だったのだ。
 その後、空手部OBの7人は『光野公園(ひかりのこうえん)』の『光野』を『こうや』と読み変えて『こうやの7人』としてS県において伝説として語り継がれている。
 まるで前世紀の不良映画のクライマックスの様な話で、とても俺の僅か5学年上の先輩の話とは思えない。さすが我がS県。日本の他の何処でも起こらないような時代遅れのことが平気で起きる。
 ちなみにそのOB達はいずれも鬼剋流への推薦を受けておらず、大島曰くハズレの年といわれる先輩達であった。

 気まずい空気の中、車は郊外を走り大型書店へと到着した。
 場所が郊外なため自動車での来客をメインと捉えているので駐車場が広い。そして書店の建物は2階建てだがフロアがまた広い。
 棚を敢えて高くせず160cmくらいに抑えて通路を広く取っているので、圧迫感がなく本屋らしくない雰囲気だ。
 1階は雑誌・小説・漫画・地図・旅行関係で、2階が技術書・専門書・学習書籍・海外原書などとなっている。俺と兄貴が用があるのは2階なのでフロア中心に位置する大階段を使って2階に向かう。
 俺が後数段で、階段中ほどの踊り場にたどり着く状況で、階段の上の方が騒がしくなる。「どけ!」と叫びながら男が凄い勢いで駆け下りて来た。そして踊り場を駆け抜ける途中で女性を背後から突き飛ばした。
「きゃぁっ」
 短い悲鳴を上げて、女性はバランスを崩して踊り場から階段へとダイブするのを素早く下から抱き支える。
 その拍子に女性の手から書店の袋が飛んで階段の上を転がり、男がその袋を蹴散らしながら階段を駆け下りて行く。
「兄貴!」
「任せろ!」
 俺の声に兄貴は素早く男の前に颯爽と立ち塞がる。まるで映画のワンシーンのようだと思った瞬間、兄貴は突き飛ばされて階段を転がり落ちて行った。
「あ゛っ……」
 兄貴は俺と違って肉体派では無い。むしろ運動は出来ないし身体も身長こそ俺と変わらないがヒョロい。咄嗟に声を掛けてしまった俺が言うのもなんだが、彼は何を考えて男の前に立ち塞がったのだろう? 一瞬でも兄貴の事を格好良いと思ってしまった自分が残念でならない。
 兄貴を突き飛ばして階段を下り終えた男の逃走はそこで終了する。階段の上り口にいた父さんが男の足を引っ掛けて転倒させた。そして起き上がろうとした男に歩み寄ると、その肩に蹴りを浴びせ転がし、足を取るとそのまま流れるようにヒール・ホールドを極めると顔に憤怒を露にして「俺の息子に何するんだ!」と叫んだ……凄いよ父さん。格好いい!

 その一部始終を眺めながら俺は女性を抱き支えたままだった。何故なら頬に感じる文字通りボイ~ンな感触が気持ち良すぎたのだ。この感触……半年は戦える!
「あ、あの……」
 頭の上から女性の声がする。何処か聞き覚えのある耳に心地好い響きと共に、この素晴らしい時間は終わりを迎えたのだ。俺は名残惜しいが彼女からそっと手を離した。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「いいえ、当然の事をしたま……」
 女性の顔にも見覚えがあった。長い黒髪を下ろしているが、これをアップにして、かける人によっては少し野暮ったい感じがするだろう黒縁の眼鏡をかけて、春らしいライトグリーンのワンピースではなく紺色のスーツを着れば……
「……北條先生?」
「えっ? 高城君!」
 呆然と俺と北條先生は見詰め合う。いつもの張り詰めたような美貌とは違う、こんな風に力の抜けた顔も良いな~と思うと自然に顔が火照っていくのが分かる。北條先生の胸と俺の頬が触れ合っていたのだから仕方が無いのだ。いやむしろ当然。ここで童貞の俺が顔色一つ変えないなど、おっぱい様に対して失礼にあたる。
「いや、あの~そうだ。本を拾わないと」
 そうとはいえ、紅くなった顔を見られるのは恥ずかしい。俺は顔を見られないように逸らすと階段に落ちた本を拾おうと身を屈める。
「あっ! いいの高城君。それは私が拾うから!」
 北條先生の声には慌てたような響きがあったはずだが、その時俺にはそんなことに気付く余裕はなかった。
「いえ、僕が拾いますから」
 そう言って、破れた紙袋から飛び出してしまった本を拾い上げる。
 1冊目は『調和する数字』という、全世界で100冊も売れなさそうなタイトルの数学の本だった。しかし数学教師が買うに相応しい本と言えるだろう。
 そしてもう1冊は『女子禁制 いけない男子空手部。先輩と僕』という背筋が凍るようなおぞましいタイトルで、上半身裸の刺さりそうなほど鋭い顎と目尻の少年と女の子みたいな顔の少年がキスせんばかりの近距離で見詰め合う、如何わしさムンムンのイラストが表紙の本だった……
「あっ! それは駄目!」
 真っ赤になった北條先生が硬直した俺の手から本を奪い取り「ごめんなさい」と言い残して風のように立ち去るのをただ黙って見送った。見送る事しか出来なかった。ショックの余りに……
 なんて事だろう……あの北條先生が……いつも凛々しく、厳しく、そして正しい彼女が……腐女子だったなんて……腐っていたなんて……手遅れだ……遅すぎたんだ……
 俺達空手部部員にも他の生徒と平等に接してくれていた、その心の底で、彼女が俺達空手部で如何わしい妄想に耽っていたなんて……取り澄ました彼女の顔の下にそんなドロドロとした欲望が渦巻いていなんて…………いや待て、どうせ妄想の対象は無駄にイケメンな本ホモの紫村 啓。地獄に咲く妖しき一輪の華「パープル・ゲイ」と呼ばれて校内の生徒、教師を問わず男性陣から大島と並んで恐れられる彼と下級生辺りの絡みがメインだろう。つまり俺は気軽な第三者の立場だ。そう考えれば空手部の部員(紫村と後輩)のBLを妄想し自分を慰める北條先生は……………………とっても有りだと思います! 想像力と右手だけが友達の童貞少年のエロ妄想力は∞なのだっ!

 普段から空手部でギリギリのストレスをかけられた上に、異世界トリップに加えて大島の呼び出し。そして駄目押しに精神的支柱とも言うべき存在の北條先生のキャラ崩壊で、レベルアップにより強化されたストレス耐性をも振り切ってしまい正気を失ってるわけじゃないよ……多分。

 結局、今回の件は警察沙汰になった……もちろん北條先生が腐女子であった件ではない。
 万引き犯の男は止めようとした男性店員を殴って逃走。更に北條先生や兄貴以外にも、女性客を突き飛ばし右腕の尺骨にひびが入る怪我を負わせていたので、強盗罪ではないが窃盗罪+傷害罪になるのだろう。
 犯人の男を取り押さえた父さんと、突き飛ばされて肩と肘を打撲した兄は警察の事情聴取を受けることとなったが、俺は突き飛ばされた北條先生を助けただけで、しかも北條先生は既にこの場を立ち去っていたので事情聴取を受けないですんだため、2人の事情聴取を終わるのを待つ間に本を読むことにした。
 その気になれば、この店にある全ての本をシステムメニューの文書ファイルの中に詰め込むことが出来たのだが、幾ら時間がシステムメニューを使えば、収納した本を開いて表示し、自分が内容を記憶したと認識すると自動で先のページが表示されるので楽な上に、本に手を伸ばして触れる以外の時間の経過は無いとしても、俺自身の体感時間は確実に経過する。機械的に情報を収集する作業が何十時間と続いても肉体的・精神的疲労は無い。眠気も空腹感も無いが『心』が疲れる。ひたすら読んでいくという行動がどうしても飽きが生まれる。しかも同じカテゴリーの本が幾つもあるので内容が被る様ことが多く気力が萎えてきてしまう。
 とりあえず工業史の本から、興味ある分野の技術に関する本をどんどん読み拾っていったので、頭の中で工業関連のwkiが構築されてしまった。
 その後も、閉店時間が過ぎても事情聴取が終わらない──店側も多くの店員が残っていたため、俺が閉店後も店内の本を読むこと特別に許可してくれた──ために、尽き果てそうになる気力を振り絞るも化学、薬学、農業などの分野の本を読み尽くした辺りで切り上げた……脳みそがパンクしそうだよ。

 父さんと兄貴が解放されて車に乗って帰途に着き、ふと気付けば日付が変わっていた。
「ところでお前達、本は買ったのか?」
 運転しながら父さんが聞いてくる。
「あっ!」
 そもそも買う暇が無かった兄貴とは違い、俺はシステムメニューのおかげで本を買う必要は無いがカモフラージュのために一冊買っておくつもりだった。その事をすっかり忘れていた。
「父さんも、母さんに頼まれてた本を買い損なったよ……怒られるな……迷惑賃代わりに図書券ももらえたし来週また来るか?」
「……そうだね」
 肩を落とす父さんには申し訳ないが、俺にとっては願っても無い機会だった……父さん。ドンマイ!



[39807] 第16話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:33
 目覚めると昨日と同じ宿の一室だった。
「どうしてこの枕なら寝られるのだろう?」
 起きて真っ先に考えたのは枕のことだった。枕に関しては異常なほど神経質な俺がさくっと眠りに落ちる……まさかマジックアイテム? 便利なことに一度手にしてから収納し【所持アイテム】のリストから枕を選択すれば、マジックアイテムかどうか位は確認出来るのだが、調べるまでも無く普通の枕だろう。
 ならば答えは1つ。お馴染みの【精神】のパラメーターだ。【強心臓】【平常心】【鈍感力】なども上昇していた……現在は精神関連パラメーターの最上位である【精神】の項目でまとめて【レベルアップ時の数値変動】を固定にしてあるが、上げるべきパラメーターと固定するべきパラメーターをリストアップして、個別に設定しなければならないだろう。
 だが今はしない。【筋力】など比べ物にならないほどパラメーター項目が多すぎて、朝っぱらから行う気分になれないからだ。それに今日は忙しい。現実で死なないためにレベルアップしなければならない。
 あの大島と決着をつけることになる。正直、考えただけで恐ろしい。この2年余りの間に身体に、いや魂に染み込むほど恐怖がすり込まれていて、レベル12までの【精神】のパラメーターの上昇程度では恐怖を打ち消す事が出来ないのだった……やっぱり【心理的耐性】関連のパラメーターだけでも上昇するように設定しておかなければ拙い。このままでは大島を前に飲まれて一方的にやられるかもしれない。
 とりあえず自分の性格や人間性に関わるパラメーターを固定にし、【心理的耐性】で問題のなさそうな部分だけはレベルアップで上昇するように設定した……【孤立感】【孤独感】特に【羞恥】【被虐】の耐性が上昇したら自分が何処へ向かってしまうのか怖い。
 後は、問題を感じたら調整していくという事で納得した……まあ、問題を感じた段階で手遅れという説もあるが。

 次いで確認するのは魔術だ。
 昨日は湯浴みした後に、鎧の清掃と衣服の洗濯を頼んだ後、飯を食って寝たので投げっぱなしになっていた。
 システムメニューから確認すると、新しい魔術が各属性Ⅰに1つずつ。水・土・火・風の属性Ⅱに1つずつ増えていて便利そうな魔術はあったものの、俺の期待するような戦闘時に活躍してくれる強い打撃力を持つ攻撃魔術は存在しなかった。
 期待が大きかっただけに絶望も深い。本日のレベルアップ大作戦は早くも暗礁に乗り上げてしまった。
 前から思っていたのだが、戦闘による経験値でレベルアップして憶える魔術の割には生活に便利そうなモノが多い。今回憶えた中で戦闘に役に立ちそうなものといえば光属性Ⅰの【傷癒】という刺身が食いたくなるような名前の魔術で、小さな傷を治す事が出来た……本当に小さな傷しか直せなくてびっくりしたぐらいだ。多分、そこそこの刀傷でも5・6回は掛ける必要があるだろう。

 朝食の後、鎧と服を受け取ると宿をひきはらい役場へと向かう。
 役場の扉を潜ると既に顔なじみの老役人が「よう来た」と受付カウンターの向こうから愛想の無い声で迎えてくれた。
 受付カウンターに着くと一枚の羊皮紙に書かれた書面を渡してきた。
「これは?」
「水龍討伐の証明書じゃよ。これを持ってタケンビニの役場に持って行けば水龍討伐の報奨金が支払われる。この町の予算で決算できる額じゃないからのぅ」
「そうか」
「20万ネアになるはずじゃからな」
 現在の所持金の約3倍以上。大金といえば大金だが、本来は領軍を派遣してまで討伐しなければ化け物相手の報奨金としては幾らなんでも安すぎるじゃないだろうか?
 兵士が2・3人死ねば、その補償金等で吹っ飛んでしまう額だろう……もしかすると、いや、もしかしなくても死んだ兵士の遺族に補償金を払うなんて発想自体無いのだろう。
「……安いな」
 思わず口に出る。
「儂もそう思うぞ……これが他所の領なら少なくとも倍以上になるじゃろうな。これがミガヤ領の現実という奴じゃ」
「本当にこいつを持って行ったら金を受け取れるのか?」
「どうかのう……ネスレインはカプリウル伯爵家の重臣の一族出身。上には顔が利くであろうから、今回の失態もこれまでの不正も全てもみ消すのは難しい事ではないだろうて」
 奴が勝手に税率を上げて住民を不当に苦しめたという事実を無かった事にするために、水龍なんて最初からいなかったという事にされる訳だ。
 つまり、俺はこの爺さんや町の連中にただ働きさせられたという事か……まあ良いさ。最大の目的であるレベルアップも果たしたし、現状で金に困っているわけでもない。
 良い様に使われた自分自身を鼻で笑うと、書面を老役人の方へ押し返す。
「待つんじゃ」
 老役人は俺を止め、筒を差し出してくる。
「それを、これと一緒に領主様に直接渡す事が出来たらなら20万ネアが手に入るはずじゃ」
「……中は代官を告発する手紙か? 死ぬぞ爺さん」
 代官一族の報復。いや、そもそも領主がまともなら、こんな事にはなっていないだろう。
「そうかものう……だが、もう十分生きた。このミガヤ領に最後のご奉公と思えば」
 領主ではなくミガヤ領への最後の奉公か、爺さんの中では既に自分の雇い主に対する忠誠は死んでしまっているのだろう。
「盛り上がってるところ申し訳ないが、俺には面倒ごとばかりでメリットが少ない」
 そう言って報奨金の書面を爺さんに押し付ける。
 領主もまともじゃない場合は、そんな行動自体意味がなく。もし家臣が糞でも領主はまともだったしても、領主に直接告発文を手渡しなんて事が出来るわけが無い。そんなことが簡単に出来るならとっくに不正役人は告発されてミガヤ領はもう少しまともになっているはずだ。
 領主の館に忍び込んで枕元にでも置いて立ち去る……そんな忍者か怪盗のような真似が俺に出来るわけもないし、物語の主人公のような冒険譚に興味も無い。そんなイベントなんて欲しくない。
 20万ネアは大金だが、今すぐに必要なわけでもないし、これからレベルアップを重ねれば稼ぐのが難しい額でもない。
 今なら、腕相撲はともかくオーガにはそれほど苦労せずとも倒せるだろう。もっとも都合よくオーガが何体も現れてくれるとは思えないが……リアルラックには自信が無い上にシステムメニューのパラメーターにも【運】などという項目は存在しないのだ。
 それでも、この件は困難な上に成功の確率が低く、得るべき報酬に魅力が無い。そして成功しても失敗しても俺が面倒に巻き込まれる可能性が高い。応じるべき理由は見つからなかった。
「このままだとシスムが責任を負わされる。どうか曲げて頼まれてはくれぬか?」
 確かに隊長の一存で酒蔵を空にしたのだ。水龍討伐など最初から無かったとしたら単なる横領として責任が問われるだろう。
「空になった酒樽も全部蔵に戻して、蔵ごと燃やしちまって、後は町の人間全員で口裏を合わせれば良いんじゃないか?」
「ふむ……それも悪くないのぅ。どうせなら酒蔵が燃えたのもオーガどものせいにすれば良いか……となるとお前さんに支払った報奨金の支払日なども辻褄を合わせて…………」
 俺の言葉に何か閃いた爺さんは悪巧みに現を抜かして暫く戻ってこなかった。
「……だが1つ問題があるのじゃ」
「何だ?」
 ようやく現に戻ってきた爺さんは言い辛そうに切り出してきた。
「水龍討伐自体が無かった事になるのでのう、水龍の肉や皮などをこの町から持ち出して売却することができないのじゃ。この町で買い取るにも何せあれだけの巨体だ肉など人口1000人ほどのこの町では消費しきれない上に、そもそも水龍の肉も皮も高級素材で買い取り手もつかんじゃろうて……まともに売れれば肉と皮で50万ネアを下る事は無いじゃろう、その倍もありえるほどじゃが……」
「俺の取り分はいらない。肉は町の皆で食えるだけ食って残りは干し肉にでもしろ。皮はなめして取っておけば腐るわけでもない。代官に見つからないように隠しておいて、何かあったら売って金にして町のために使えば良いさ」
 流石にそれほどの金は魅力的だ。しかし『損して得取れ』というように、人生には損をする事でより多くの損を避ける事が必要になる。
「それは助かるのう……ではこれを渡しておこう」
 そう言って爺さんはカウンターの下から布に包まれた60cm位の棒状の物を取り出すと俺に差し出す。
「これは?」
「水龍の角じゃよ」
 爺さんが包んでいた布の一部を解くと中から美しい水晶細工の様な、緩やかな螺旋の入った深い蒼の角の姿が現れた。
 美しいが、それだけではなく底知れない強い魔力が宿っている事が俺にでも分かる。
「見事じゃろう。売ればどれほどの価値がつくか儂には分からん。これだけならもって行けよう。さあ受け取ってくれ」
「良いのか?」
「元々お前さんが獲物じゃろう」
「分かった。貰っていく」
 爺さんの手から角を受け取ると背嚢にしまった。

「これから町を出るのかのぅ?」
「ああ」
「ならばこれも持っていくがいい」
「……?」
 とりあえず受け取ってみたが、先ほどのとは違う筒で軽い中に何か入っているのだろうか?
「お前さんの身分証明書じゃ。この町の人間として手続きしておいた……お前さんにも色々事情があるのだろう?」
 そう言って爺さんは楽しそうに笑う……食えない爺さんだ。これを用意していたという事はこの結果をある程度予想していたのだろう。
「感謝する」
 一言そう告げて立ち去る背中を「気をつけてな若いの」と爺さんの声が送り出してくれた。


 西門からネハヘロの町を出た。
 西へと向かう道を真っ直ぐ行けばタケンビニにたどり着くと言われたが、正確には西北西の道が真っ直ぐ地平線の向こうまで伸びている。
「真っ直ぐすぎて気持ちが悪い」
 幅は2mと現代日本人の感覚からすると細いが、この中世もどきのファンタジー世界では十分に広い立派な道と呼べるだろう。それが見渡す限りの草原の中を果てしなく真っ直ぐに続いている様子は俺の目には珍しさを通り越して不吉さすら感じた。
 小学校の頃に家族で北海道旅行をした時に、親戚のいる遠別から最北の稚内へと続く日本海側の道をレンタカーで走った時。1時間以上も左手には海。右手には草原が広がるだけで家も信号もない荒涼とした風景に、もしかしたら家族全員交通事故で既に死んでいるのでは? と感じた感覚に似ている。ちなみに稚内では家族全員でウニイクラ丼を食べた。父は涙目で財布を握り締めていた。
 タケンビニに続く道は、途中でネーリエ湖西岸のフーリズールの町へと続く左への分かれ道と、更に先でコードアの村に続く右への分かれ道がある。
 重要なのはタケンビニへの道とフーリズールの町への道はほとんど魔物が出ない安全な道で、一方コードアへの道は時折オークの群れが出現する危険な道。
「今日はオーク祭りだ!」という事に決定した。

 20km程を一気に西へと走りぬけるとコードアへと向かう分かれ道に到着した。
「40分足らずか……また世界を縮めてしまった」
 ネットで憶えた一度言ってみたかった台詞を口にする。そして周囲を見渡し誰もいないのを確認してほっとする小心さに、これが自分なのだと安心する。
 それにしてもこれほどのペースで走っても息切れ一つ起さない。レベル22の今ならもしかすると既に大島に勝てる領域に達している……無理だな。ありえない。

 北へと向かう右への道を進む。
 道は小さな荷馬車がどうにか通れそうな1.2mほどの幅の緩やかに右に曲がり続けていて、更に進むに連れて脇に生える草も背が高くなり視界が塞がれていく。
「良い感じだ……」
 今にも魔物が出てきそうな雰囲気に期待が高まる。
 周辺マップにも幾つもの生き物を示す黄色いシンボルがある。そしてそれらは道や道の周辺上には表示されていない。盗賊の類が草むらの中に隠れている可能性は無い。盗賊が魔物に襲われる危険が高く、人の通りの少ない道で態々待ち伏せするわけが無いので、マップ上にある黄色いシンボルは全て人間以外の生き物だ。
 俺は手を両の手の人差し指から小指までを指の付け根から90度に折り曲げて右手を外にし、両手の中に水を溜められるような形で隙間無く重ね合わせ、最後に2本の親指で蓋をしてその際に両の親指の間に僅かな隙間を作り、そこへ唇を寄せて45度の角度で鋭く息を吹き込んだ。
「フォンッ!」
 自分でやっておきながら思わず耳を塞ぎたくなるような大きな音が鳴り響くと、多くのシンボルは黄色のまま逃走を始める。しかし俺の右60mほどの距離のシンボル3つが黄色から赤に変化した。
 本来は両手の人差し指から小指までを互い違いに左右の手の指の間に隙間無く差し込んで親指で蓋をする。ハンド+楽器名──幾ら思い出す能力が向上しても、そもそも憶えていない記憶は思い出しようが無かった──で、その演奏がネット動画にアップされていたのだが、幾ら真似をしようとしても鳴らすことが出来なく、考えた末に出た結論が空手で節ばった俺の手では手の中の空間に隙間が多すぎて吹き込んだ空気がそこから抜けてしまうために音が鳴らないと分かり、それではと試しに考え付いたのがこの形だった。しかしどうやっても音階を作る事はできなかった。だが大きな音を鳴らすことだけは出来たので、もし山で遭難して救助を求める時にはこれを使おうと思っていたのが初めて役に立ったのである……山での遭難は俺達空手部部員にとってしゃれにならないくらいありえる事だった。

 襲って来た3体はオークで、今の俺にはシステムメニューのON/OFFも武器の収納・装備を使うまでも無い相手で、瞬く間に切り捨てた。
 戦闘時に意識を集中するだけで動きはスローモーションのようにはっきりと捉える事が出来て、自分の動きだけは等倍速に見える。強いて言うなら自分の速度が上がった分だけ動態視力などの感覚が向上して、自分以外だけがゆっくり動いているよう感じるという状況だった……正確には違うが他に上手い例えが思いつかない。
 そのためオークの攻撃を受けずにかわして、体勢を崩して出来た隙を突き、ナイフで頚動脈を、しかも返り血を浴びないように切り裂くのは難しい事ではなかった。

 オーク達が絶命しているのを確認すると1体のオークの死体に触れて収納と念じてみる。
「収納できた!」
 細胞が死んでいるわけでもない果物や野菜は収納できるのに、生きている鶏──似ているが、鶏冠を持たないルッフワという鳥──は収納できなかった。しかし今オークの死骸は収納できた。
「意識があるかどうかか……」
 死んだばかりのオークの身体だがその細胞はまだ死んでいないのだから、そうである可能性が高い。もしかしたら寝ている動物なら収納が可能なのかもしれない……今度試してみよう。

 その後、順調にオーク狩りを続けて31体目を倒した時に、待ちに待ったアナウンスが流れ、俺はレベル23へとレベルアップを果たした。
「これじゃ無理だ……」
 今日中にレベル40とか50どころか、30にさえ届かないだろう。このままではオーク狩尽くしても無理だ。その前に資源保護のためにオーク狩りが国際的に禁止が叫ばれキチガイ動物保護団体に嫌がらせされてしまう勢いだ。
 オーク以外の獲物を狙わなければならない……でもオーク以外の獲物って何? そもそもこの辺にはどんな魔物が存在するのかも俺知らないよ。
 唯一オークより強くて、他にいそうな魔物はオーガだが、オーガ1匹が目撃されただけで人口1000人からの町で、住人が町を捨てて避難するかどうかの騒ぎになり、挙句に代官が全てを投げ出して逃げてしまうのだ。オーガなら3体くらい倒せばレベル30を超えることが出来るかもしれないが、オーガが30体も簡単に現れるなら、ミガヤ領の町や村はとっくに全滅しているだろう。
「詰んだな……俺」



[39807] 第17話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:33
 その後、オークを狩りながら先を進むと日暮れ前にはコードアの村が見えてきた。
 結局狩ったオークの数は80体に達して、本気で村までの小道を縄張りとするオークが全滅していても不思議が無い。だがレベルはもう一つ上がって24になっただけだった……明日どうなってしまうんだ?
 救いといえるのは、レベルアップでついに『魔術:光属性Ⅱ』の【軽傷癒】という回復系の魔術を取得していた。表面上の小さな傷を癒す【傷癒】と違い、内出血や打撲などの内部の損傷を狭い範囲だが癒す事が出来る様だ。
「これだよ。これが回復魔法って奴だろう」
 正直なところ【傷癒】は傷の治りやすい絆創膏の凄いやつ程度の認識だった。

 全てのオークの死体は収納してあるが、とりあえず2体のオークの死体を取り出す……オークの身長は160cm位だと思っていたが、こうして仰向けに横たえると背筋が伸びて俺と同じくらいの身長がありそうだった。
「しかし、まだ温かいな」
 最初に倒した3体の中から2体を取り出したのだが、どれもまだ死にたての様に身体が温かく血も固まるどころか流れ出る血が止まっていない。
「まさか……」
 もしも、システムメニューの【所持アイテム】の中に収納されている物体の時間経過が無いという良くあるご都合主義がまかり通るなら、流通における革命としか言い様が無い……もっともそれを役立てる術が、こっちにも現実の世界にも無いんだけどな。
 精々、俺個人が便利に使えるだけで勝手に商業用の物資を町から町へと移動させて商売したら抜け荷の罪で御用だな。

 2体のオークはいずれも首を切っているので、両の足首の内側からアキレス腱の辺りに掛けて切込みを入れて血管を切断すると憶えたばかりの水属性Ⅰに属する【操水】を使ってオークの身体から血を抜き取っていく。
 【操水】は【水球】【水塊】のように水を生み出す事は出来ないが、既に存在する液体を自在に操作る事が出来る。自在といっても俺がイメージでき範囲でしか動かせないが、今回は足首の方から絞り出すイメージで血を抜き、草むらの向こうへと飛ばして始末を終える。
 まずは道脇に生えている背の高い草を大量に切り取ると、根元を紐で結んで束ねて地面に置き、その上にオークの死体を載せる。そしてロープを死体に両方の脇を通して結び、草をソリにして2体とまとめて引きずってコードアの村に向かって進む。血を抜いたといえどもそれぞれ100kgはあるので計200kgを引っ張るのは以前の俺にはきつかっただろうが、今ならスキップしながらでも進める。
 そういえば、この先にあるコードアと更に奥にあるアギは村なので、町と違って役場が無く魔物を倒しても報奨金は出ないというか、役場が多くても魔物が多すぎて報奨金を出す気も無いというのが領主側の意向らしいが、まあいいさ、手ぶらで行くよりは獲物を持ってた方が村の人間と話のきっかけにもなると思ったからで、目的は金じゃない……『目的は金じゃない』格好良い言葉だ。是非とも現実世界で、この言葉を一生に一度くらい使える大人になろう。

 村に近づくと何やら独特の臭いが鼻につく。別に不快に感じるほど臭いという訳でもないが気になる臭いだ……おっと武器を持たずに村に入ったら、どうやってオークを仕留めたのかと不審に思われるな。とりあえず周囲を見渡して誰も居ないのを確認し、ついでに周辺マップを確認して……OK。それじゃ槍を装備っと。
 村の周りは柵に囲まれているが、入り口は門というほどの構えではなく単に柵の切れ目といった感じで外界から閉ざすための扉も無ければ門番も居ないので、誰にも咎められることなく普通に入って行けた。
「おう坊主。外の人間か? オークを2匹も狩ったのか中々やるな」
 右手に弓を持ち、それで仕留めたのだろう5・6羽の鳥や兎のような小動物の足を紐で結んで左肩に担いだ、多分30歳くらいの男が声を掛けてきた……この世界の男どもは皆髭面で歳が分からん。
「どういたしまして。ところでおじさん。こいつは何処で買い取ってもらえるのか教えてよ」
 いい加減、あのウザイ口調は止めた。今度は馬鹿な子供の口調だ。自分でも何故? と思わないでもないが、折角の異世界だから現実とは違う自分を演じたいという気持ちが先立った……まあ、どうせ直ぐに後悔するんだろうけど、その頃には別の場所に行ってるから気にしたら負けだ。
「おじさん、だぁ?」
 坊主扱いにはテンプレ的な返しのはずだがお気に召さなかったようだ。まあ挑発のテンプレだから仕方ないけど。
「俺が坊主なら、そっちはおじさんだろ?」
「そこはお前。『坊主じゃねえよ!』だろ」
 思ったよりも良い人だな。からかい甲斐がありそうだ。
「いやいや、現実を受け止めて認めた方が良いよ。おじさん」
「なんて口の達者な奴だ。くそ、肉屋はこっちだぞ坊主!」
「ありがとう。お・じ・さ・ん」
 舌打ちして歩き出す彼の後を追いながらそう答えた。
「……やっぱり、おじさんは止めてくれない? えっとあの……なんだ……お坊ちゃん?」
 お坊ちゃんじゃ、どのみちあんたはおっさん扱いだろ。と思ったが、本気で困っている様なのでからかうのは止めておこう。
「俺はリューだよ」
 何時の間にか俺自身もリュウは諦めてリューになっていた。
「俺はムカルタだ。もうおじさん言うなよ」
「了解。了解」
 そう応えながら、もうこのキャラクターがウザくなってきた自分の飽きっぽさに驚くしかなかった。

 ムカルタの後をオークを引きずりながら歩く俺の後ろから、何かを引きずる音が迫ってくる。振り向いてみるとそこには異様な光景があった。
 俺の草ソリとは違う、木製のちゃんとしたソリの上に猪に似た巨大な生き物の死体が載せられている。大きさは牛サイズで重さは多分500kgくらいはあるんじゃ無いだろうか、そこまでは良いのだが問題は、それを曳く人物がまだ8歳くらいの女の子だという事だ。
 一瞬、これが話しに聞くファンタジー生物の怪力自慢のドワーフなのだろうと納得しかけたが、それ以前に物理的におかしい。女の子は身長が1mを少し超えた程度で、しかも細身なので体重はどんなに多く見積もっても30kgには届かないだろう。彼女にとっては自分の体重の20倍近い重さの物体である。舗装された道で車輪がついたものを曳くなら可能だろうが、こんな凸凹のある土の道をソリに載せてでは無理だ。推すのなら自分より何百倍の重さだろうが力さえあれば動かす事が出来る。斜め上に押し上げるようにして推せばいい。しかし曳くのは力の強弱の問題だけではなく、曳く側が重たくなければ地面と足との摩擦力の問題で発揮できる力が制限される。
 明るい栗色の髪に緑の瞳で顔立ちは可愛らしくすらある女の子が感情を外に表さず、これほどの大荷物を曳きながら力む様子もなく無表情で。驚きのあまり足を止めてしまった俺を追い越していく。
「おうお疲れさん。おっ、今日はドンハクッバの大物じゃねえか。やるな!」
 ドンハクッバ……別に猪とか猪モドキで良いだろうと思うが、ゴブリンだのオークだの龍は現実世界と同じ呼び名な割に動物関係は独自の名前を使う面倒臭さに納得が出来ない。
「うん、今日は良い狩が出来た」
 この異常な状況を普通に受け入れちゃうの? ファンタジー的には日常の風景に過ぎないのかムカルタは驚く様子も無く普通に女の子と言葉を交わす。
「おいリュー。何突っ立ってるんだよ。置いてくぞ」
「あっ、ああ」
 俺はムカルタの言葉に反射的に返事を返すと彼等の後を追いかけた

「首の血管を一裂き。良い腕している」
 女の子は俺の獲物を一瞥すると、素っ気無い様子で褒めてくれた。
「おおっ、確かに後は血抜きの時の足首の傷だけか、スゲーなオーク相手に一撃かよ。リュー、今までお前の事を口先ばっかり達者な奴と思っててごめんな」
 女の子の言葉に、オークの身体を確認したムカルタが驚きの声を上げる。しかしこいつひでぇな。
「気にしなくて良いよ。俺は今でもムカルタの事をからかい甲斐のある奴だと思ってるから」
「ひでぇなおい!」
 性格では俺もいい勝負だった。
「ムカルタ。口でも狩りでも負けてる」
「本当にひでぇな。お前等!」
 女の子の止めの一言にムカルタの泣きが入る。
「君も凄いね」
 女の子に話しかけてみる。これくらい歳の離れた女の子ならやっぱり平気だ。同級生とか自分と同じ歳くらいより上の女性が苦手なんだ。北條先生を除く女性教師たちも露骨に俺達を犬猿しているせいだ。おかげで年上の女性でも平気なのは母さんや親戚関連と北條先生とくらい。テレビに出演している女優とかグラビアアイドルとか……まあ、後はネットで見るAVとかの女優は平気なんだけど実際に目の前に居られると緊張感が半端じゃない……このままじゃロリコンしか俺には道が無いような気がしてきた。
「ルーセ」
 俺を見上げながら女の子はそう口にした。
「えっ?」
「私の名前」
「ああ、俺の名前はリューだよ。よろしくねルーセ」
 そう言って右手を差し出すと、彼女も手を出して握ってくれる。本当に小さな手だ。この手であの大物を仕留めたのかと思うと不思議だ。
 武器はソリに槍が括りつけられている。長さは俺の槍と同じくらいで2mほど。彼女の身長からするとかなり長いといえる。
「ルーセは精霊様の御加護を受けているからな」
「精霊様の御加護?」
 いきなりファンタジー来ました。ファンタジー来ちゃいました! こんちくしょう!
「だから凄い力を持ってるんだ」
「うん」
 いやいや君達。力だけで説明はつかないんだよ。
「でも。ルーセちょっと良い?」
「うん?」
 肯定の『うん』ではないことくらい分かるが分からない振りをして、ルーセの脇の下に手を差し入れると、そのまま彼女の身体を持ち上げた。もしかしたらとも思ったが、やっぱり軽い30kgどころか25kgあるかないか。
 持ち上げられている彼女は首を傾げて俺を見下ろしているが、別に嫌がる様子も見せない。
「だってこんなに軽いんだよ。幾ら力があったってあんな大物を引っ張れるはずが無いよ」
「そりゃあ、ルーセに御加護を与えたの大地の精霊様だから、大地に足が着いている状態ならどんな状況でも凄い力を発揮できるんだ」
 何故こいつが自慢気なのか分からんが、そんな事はどうでも良い。
「……ファ、ファンタジーって奴は」
 はいはい、思考停止思考停止……幾ら考えても答えが出るはずが無いので、俺は考えるのを止めた。
 そして2人の「ファンタジー?」という声を無視して、ゆっくりとルーセを地面に下ろした。

「おっ? これは見事な血抜きだな」
 肉屋というか肉の卸問屋の親父がオーク肉の状態を確認し絶賛した。ここで解体処理を施して、加工肉製造を営む店に出荷されそうで、そもそも住民の多くが猟師であるこの村に肉屋は無い。
「それに戦いを長引かせる事無くただ一撃で首の血管を切り裂いてるから血生臭さは全く残ってないはずだ。それに鮮度も驚くほど良い。こいつは高く買い取らせてもらおう」
 親父が提示した数字は2体で1000ネア。ネハヘロでの買い取り価格より安いが、ここは供給過多の小さな村。加工のための原材料と考えれば十分な高値と言えるだろう。
「それで頼むよ」と応じると、親父は笑顔で「まいどあり」と返してきた。
「その調子で俺の獲物にも色を付けてくれ」
「ルーセのも」
 その様子を見ていた2人が俺に便乗して強請るが、親父は「はっ」と鼻を鳴らし軽くあしらった。

「ところでムカルタ。この村の宿を教えて欲しいんだけど?」
 もう良い時間だ。レベルアップも諦めた。夜の娯楽が酒と女しかないような世界において、日が暮れたら飯を食って身体を拭いたら大人しく寝るだけだ。そして当然寝るには宿が必要だった。
「宿? この村には無いぞ」
「えっ?」
 いきなり俺の人生の必要条件が吹っ飛んだ……野宿か? ここにきて野宿なのか? こんなことなら、レベルも2しか上がらなかったし、さっさとタケンビニに行ってしまえば良かった。
「この村に来る人間なんて、村の誰かの知り合いか、食料や雑貨を持ってきて肉を仕入れていく商人くらいだ。商人は村長の家に泊まるし、それ以外は村の誰かの家で泊まるぞ……お前、知り合いもいないのに何しにこんな田舎まで来たんだ?」
 今更そこを指摘するのか? もう忘れてスルーしておけよ。理由はな『レベルアップ』が目的だよ『経験値』が欲しいんだよって意味わかんないだろう? だから言えないんだよ。
「…………面白い獲物がいるって聞いたからだ」
 取りあえず言い逃れを口にしたがあまりに苦しい。もしこの言い訳をされたのが俺なら「どんな獲物で、誰から聞いた」と3秒で追い込んでみせる。
「お前、それって──」
「家に泊まれば良い」
 ムカルタの言葉を遮って割り込んできたルーセが爆弾を投げ込んできた。
「いや、ルーセが良いと言ってもお父さんやお母さんが何て言うか──」
 むしろ泊まるならムカルタの家だ。こいつからベッドを奪い取って寝たい。
「お父さんもお母さんも、もう居ない……」
 俺の言葉に傷ついたルーセは俯きながら答えた。
 爆弾を処理しようと思ったら、そこは地雷原だった。何かの小説の冒頭でそう書いたのは川端康成だっただろうか?

「……だから大丈夫。泊まっても良い」
 俯いた状態から少し顔を上げて上目遣いで見つめてくる。その視線には可愛いとか色っぽいとかでは無く、何らかの強い意志を込められている。
 断らなければ碌な目に遭いそうも無いが、断れば確実に禄でもない目に遭う。予感などではなく確信を抱かせる怖い視線だった。
「しかしなぁルーセ。一人暮らしの家にいきなり知らない男を泊めるのはどうなんだ?」
 ムカルタがナイスフォローを入れる。
「リューはもう知らない人じゃない」
 いや君は俺の名前(偽名)とオークの死体から推測出来る狩りの腕くらいだよね。人として信頼に値するかとかの重要な情報は何一つ知らないよね。
「…………そうだね」
 ふざけんな。いい歳してこんな小娘に口で一蹴されてるんじゃないよ……いや違う。ムカルタは目で殺されたんだ。小学校の頃に体育の授業でバスケをやっていた時に担任が「ディフェンスは目で殺す」と発言し、クラスの皆から「意味ワカンネエヨ!」「殺すってキモイ」「何故ゴリラ顔」と総突っ込みされて「ジェネレーション・ギャップが……」と言いながら涙目になっていたのを思い出した。

 結局、俺はルーセの家に一晩厄介になる事になった。
 狭くも無いが広くも無い。家族3人が暮らす程度には十分な一軒家だが、今そこに住むのはルーセ1人で、どこか寂寥感を感じさせる佇まいだった。
「こっちがお父さんとお母さんの部屋だから、寝る時はここを使って」
「分かった。ありがとうね」
 家の中を案内してくれる彼女に礼を述べながらも、時折彼女が向けてくる鋭く強い視線を感じて怖い。そして何故彼女がそんな視線を向けてくる理由に全く思い当たらず、その不気味さが恐怖を倍増させる。

 晩飯作りのためにかまどに火を入れようと火打石を使うルーセだが、火打石を打ち付けて火花が飛ぶ度にビクッと身を強張らせてしまい上手く使いこなせていないようだ。
 その様子を見ている俺に気付きばつが悪そうに「火花、ちょっと苦手」と口にする。
 そんな歳相応の女の子らしい一面に微笑ましさを覚えつつ背嚢からと見せかけてシステムメニューを通じて魔法の火口箱を取り出す。
「これをあげるよ」
 既に魔法の火口箱と同じ効果を持つ【火口】を憶えた俺には余り意味のない道具だ。一夜の宿の礼に上げてしまっても惜しくは無い……だから怖い目で俺を見ないでください。もし年下の女の子にまで苦手意識を持ってしまったらホモに走るしか道がなくなってしまう。紫村が手をこっちに来いと手招きしてる姿が脳裏に浮かぶ。
「いいの?」
 仮にも魔法道具だから、買えばそこそこするはずなので遠慮しているのだろうが、こちらとしてもご機嫌取りに貰って欲しいのだ。
「こっちの方が使いやすいはずだから、貰ってくれる?」
 魔法の火口箱は言ってみれば大き目の卓上ライターといった感じで、手に持って『火よ起これ』と念じるだけでライター程度の小さな火が生まれるので、彼女の苦手な火花は飛ばない。
「ありがとう」
 例の視線を差し引いても余り感情を表に出さないルーセの笑顔に可愛いな……マルの方がもっと可愛いけど。と失礼な事を考えてしまった。
 ちなみにこの時点で俺はまだ【精神】の【嗜好性】のカテゴリーは一切チェックしていなかった。自分が何が好きか嫌いかなんて大した問題じゃないと甘く見ていた……【可愛いもの好き】が急上昇しているなんて。

「面白い獲物って何?」
 食事が始まって、胸の奥で『わ~い。女お子の手料理だ!』と無理やりテンションを上げていたところに、ルーセは言葉の刺客を送り込んできた。
「……何だと思う?」
 質問に質問で返すなと言われるかもしれないが、雄弁は銀、沈黙は金とも言う。こちらから何も情報を出さないというのは最高のレトリックだ。
 ともかく隠し事が多いというか隠し事しかない不審人物である俺にとって、話の主導権を握ると言う事は絶対的に必要な事だ。相手に主導権なんて握られようものならボロを出しま来る事になるだろう。
「リューはどんな獲物を狩ってきたことがある?」
 質問を変えてきたか。1日早くこの質問をされたなら「眼鏡が似合う綺麗な黒髪の美人教師」と見栄の一つも張りたいと思っただろうが、そもそも腐女子の恋愛観ってどうなってるんだろう? 年齢とか立場を抜きにして男性と付き合いたいと思うんだろうか? ……僕まだ中学生(こども)だから良く分かんないや。
「魔物なら、ゴブリンにオーク。オーガ」
 オーガという言葉に彼女の表情に小さな反応が表れた。
「それから……」
「それから?」
「聞きたい?」
 彼女から少しでも情報を引き出すために、俺は鬱陶しいくらいもったいぶる。
「聞きたい」
 ここまでで掴んだのは、彼女は俺の言った『面白い獲物』の正体と『俺の強さ』を知りたい。そして俺が無謀な敵に挑もうとしているのを心配しているわけでもない。
 つまり彼女は特定の獲物を……かなり強い魔物で間違いないだろう。それを俺に狩る能力があるのかを知りたいということだ。
 ここから考えられるのは、彼女が自分で狩りたいと思っている獲物を俺に横取りされるのを心配しているか、俺にその獲物を狩って欲しいと思っているかだろう。そして答えは多分後者だ。もったいぶった俺から答えを引き出する彼女の表情には期待を示す色が混ざっていた。
 ここまで分かって、やっと安心する自分の小心さ。8歳くらいの女の子に何をそこまで警戒しているのかとも思わないでもないが、そんな油断する気を起させない気迫が彼女にはある。

「ところで何故それを知りたいの?」
 主導権を握るためにこちらから話の流れを作る。
「……お父さんと、お母さんを殺した奴を倒したいから」
 想像が当たった事を喜べない。またもや地雷を踏み抜き、こんな小さな子を傷つけてしまった事に後悔の念が募る。
 俯き小さな肩を震わせる彼女の姿が、俺の心に大量の罪悪感を着払いで送りつけてくる。それに耐えられず音を上げてしまった俺は、彼女の頭をそっと撫でると「力を貸す」と言ってしまった。
 言った瞬間に自分で自分を「大馬鹿野郎っ!」と罵ってやりたくなったが、もう言葉は口から出てしまっている。今更取り消すなんて度胸は小心な俺にあるはずも無い。
「本当に?」
 涙に濡れた彼女の目に、ますます「嘘」とは言えずに黙って頷いた。
 もうやけだ、やってやるよ。彼女にたっぷり恩を着せて俺のシステムメニューに関する事は口外無用と約束させれば良いんだろう。だったら包み隠さず全力全開でやってやるよ。
 糞っ! こんな事になるなら今日中にその獲物とやらを倒せれば良かったのに、明日以降じゃレベルアップの意味も半減だ。
「でも……倒せるの」
 相手が何かも知らないくせにもうすっかりと倒す気になっていた俺に当然の質問をする。おれは自分の実力を照明するためにステムメニューから水龍の角を取り出した。
「今の何?」
 布に包まれた棒状の物が突然俺の手の中に現れた事にルーセは目を見開いて驚きを露にした。
「俺の特別な能力だよ。力を貸して欲しければ誰にも言わないでくれよ」
 声を低くして話す俺に、ルーセはこくこくと首を何度も縦に振って同意した。
「昨日倒したばかりの水龍の角だ」
 包みを解いて、中の角をテーブルの上に置く。
 朝受け取った時には気付かなかったが、包んでいた布は特別製の様で布から出すと同時に角から魔力の波動が周囲に広がっている……やってくれる。本当に喰えない爺さんだな。
「水龍の角……これが……」
「ネハヘロの町の皆の力を借りたけど、実際に水龍と戦ったのは俺1人だよ」
「奴を、奴を倒せる? お父さんとお母さんの仇の……火龍を」
 後頭部をガーンと殴られたような衝撃を受けつつも一切表情に出さなかった俺は凄いと思う。
 火龍かよ。龍2連戦かよ。水、火と来たら次は月曜日の月龍かよ。なんか厨二っぽくて格好良いじゃないか……ヤバイ。現実逃避が止まらない。

「つまり両親の仇である火龍を討つために俺の力を借りたいという事だね」
 黙って頷いて返すルーセの瞳には強い決意の光が宿っていた。
「最初に断っておくけど、俺が力を貸したとしても火龍に必ず勝てるわけじゃないよ」
 水龍相手に勝てたのは酒を飲ませて酔わせたところに襲い掛かるという、どこか性犯罪めいた響きのある作戦のおかげだ。
「簡単じゃないのは分かってる。だけど必ず倒す」
 ルーセは迷いの無い表情でそう言い切る、立派な覚悟だ。棚ぼたチートの小心坊やの俺なんかよりもよほどしっかりしている。
 いやいや、俺よりずっと年下なのに自分ひとりで生活し、親の仇まで討とうするなんて、俺なんかと比べようとする事自体おこがましい。これからはルーセさんとお呼びするべきかもしれない。


「ルーセはその火龍を見たことがあるの?」
「遠くを飛んでいる姿なら」
 俺の問いに頷きながらそう答えた。
「大体の大きさは分かる?」
「大体21m」
 ……21m? なんて中途半端な数字に「大体」が付くのだろう? そう疑問に思ったが、その理由は俺が耳にし話している言葉が日本語ではないことを思い出した。
 余りに自然に俺の頭の中で言語の入出力が変換されてしまっているので普段は全く意識することはなく忘れがちであるが、今俺が使っているのは異世界の言葉なのだ。
 そしてその変換は度量衡にも及び、多分彼女が使っている度量衡においては10とか20の様な切りの良い数字なのだろうが、耳を通じて俺の頭に入ると同時に自動的にメートル法に変換され21mになってしまっているだけなのだった。
 こうなると便利なのか不便なのか良く分からない。
「21mか……」
「猟師は獲物との距離と大きさは間違えない」
 俺に疑われたのかと思ったのか少し眦を上げてそう言い切った。
「ルーセを信用していないわけじゃないんだ。ただちょっとでかいなと思っただけだよ」
「大きいと無理?」
「無理とは言わない。ただ少し準備に時間が掛かるかもしれない」
 やはりレベルアップだ。暫くはここを拠点にしてオークを狩りまくってレベル30を目指すべきだな。いや明日、あわよくば大島を倒して大幅レベルアップという方法も……幾らなんでも殺しちゃ拙いな。法律上の問題だけだけど。
「わかった。でも少しでも早く倒すのに何でも協力する」
 もう少しごねるかと思ったがさすがルーセさんは大人だ。素直に頷いてくれた。



[39807] 第18話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/12/30 18:33
「忌まわしい朝が来た。希望も尽きた♪」
 どんよりとした気分でラジオ体操の曲でそう口ずさむ。
 今日は、何の因果かあの大島と一緒にお出かけという素敵なイベントの日だ……巨大な小惑星が地球に衝突して世界が滅んでしまえば良いのに。
 昨晩は万引き犯の事件のせいで帰るのが遅くなって就寝時間もいつもより大幅に遅かったが、それでも目覚まし無しで目覚めたのはいつもと変わらぬ5時半前で疲れも一切残っていないのが唯一の救いだ。
「……マルと散歩に行こう」
 ただ黙って大島が来るのを待つのは耐えられそうに無かった。

 空手部の朝練中止期間以来、俺と散歩する機会が多かったためマルの甘えっぷりは小さな仔犬の時以来の凄さだ。マルを自分の妹のように可愛がっていたが、毎日朝早くから居なくなり夕方の遅い時間に帰ってきても、飯食って風呂入って勉強して寝る時間しか取れない俺は甘えてくれば10分ぐらいなら身体中撫でまくって可愛がってやれたが、次第に活動範囲が広がり散歩が一番の娯楽になってしまったマルに対して、散歩に連れて行って上げられないために少しずつ溝が広がっていて、マルの好きな家族ランキングでは不動の3位をキープする事になっていた……ビリはまあ、兄貴なんじゃないだろうか。
 最近では父さんを抜いて2位にランクアップしているのだと良いが……そんな事を考えながら、ペースを押さえ気味にして30分ほど一緒に走る。
 時折「もっと早く走らないの?」と言いたそうな目で俺を見るが思いっきり走るのは帰りだ。
 本日の折り返し地点でマルに水を与える。
 ピチャピチャと音を立てながらマルの顔は、自分ではねた水で水滴だらけになっていた。
水を飲み終えるのを待って「マル」と声を掛けて、こちらを振り返ったところで首を捕まえて顔をタオル拭いてやる。嫌がる様子は無いが負けじと俺の顔を舐めて来るのは勘弁してほしい。だが「こら」と一言でも声を発した途端、口の中まで舐めて来るので、しっかりと口を閉じたまま顔を拭いていたタオルで頭を押しやろうとすると、遊んでもらってると思ったのだろう更に夢中になって俺の顔を舐めようとするのだった。
「ふぅ……」」
 胡坐を書いた状態でマルの首を右の脇に挟みこんで一息吐く。まだ興奮しているのか尻尾が左の膝にバシバシと当たる。
 マルによって涎塗れになってしまった顔を首に掛けていたスポーツタオルで拭う。これは帰ったらシャワーを浴びないと駄目だろう。
「よし帰るぞマル」
「ワン!」
 満足したのだろう良い返事で吼えた。


 午前7時。家の前に国産SUVで乗りつけた大島が、最初に口したのは「……気合入りすぎだろう」だった。
 空手着を着込み玄関前で待っていた俺を見た奴の顔に浮かんでいたのは紛れも無い苦笑い。
「取りあえず今は動きやすい普段着に着替えろ、そいつの出番は後だ。脱いだらちゃんと持ってこいよ」
 どうやら大島の考えていたTPOに空手着は相応しくなかったようだ。
 自分の部屋に戻り着替えるといっても、俺の普段外出する時に履くのはジーンズで、普通に動く分には差し支えないが決して動きやすいといえる服装ではない。となると選択肢が狭すぎて困る。
何せ普段は休みの無い生活を強いられているので、外出という機会自体が余り無い。
 普通の中学生のようにおしゃれしてどこか遊びに行くなんていうのは、遠い別世界の出来事に等しい。
 俺が空手着から着替える選択肢なんて、学校の制服。学校指定ジャージ。散歩用のトレーニングウェア。近所へ買い物に出掛ける時用のジーンズ・Tシャツ・ジャケット・パーカー・ダウンジャケット。そして去年親戚の結婚式に着て行ったスーツのみ。改めて悲しい中学校生活を送ってきたなと泣けてくる。

 結局トレーニングウェアに着替えて階段を下りてきた俺が目にしたのは、玄関で大島と話す母さんの姿。
「態々迎えに来ていただき。本当に申し訳ありません」
 母さん。こんな奴に頭下げる必要は無いよ。
「先生。よろしくお願いしますね」
 それは死刑執行のGOサインだよ。
「それでは隆君をお預かりします」
 俺にとっては誘拐犯の台詞にしか聞こえないよ。
 そんなやり取りの後、俺を乗せて車は走り出してしまった……ドナドナド~ナド~ナ~

「何処へ向かってるんですか?」
 走り出して5分ほど過ぎ、無言の車内の空気に先に折れた俺は尋ねた。
「着けば分かる」
 分かってからじゃ遅いんだよ! もしやこの野郎、目的地を聞いて拙いと思ったら走行中に、こいつのシートベルトを外した後にハンドルを横から切って事故を起して亡き者にしてやろうという企みに気付いたのか? 恐ろしい奴だ。

 車は暫く走り高速に乗り日本海側へと向かい1時間半ほど走った後、高速を降りる。
 そろそろ目的地の近くかと思えば、大きな公園の駐車場へと車を乗り入れる。
「トイレですか?」
 大島は図体のでかいSUVを慣れた様子で駐車スペースにバックで入れると「朝飯を食うぞ」と答え、サイドブレーキを引いて、キーを抜き「降りろ」と言って、自分はさっさと車を降りた。
 車を降りて奴の後ろを追いながら、これが逃げる最後のチャンスなのではないかと思わずにはいられない。警察に駆け込んで大島の所業と学校側の不可解な対応について洗いざらいぶちまける……悪くは無い。悪くは無いが、今まで空手部の先輩が1人もこれを思いつかなかったとは思わない。そして誰か1人くらい実行していたとしてもおかしくない。むしろ実行して当然だろう。だが奴はまだ教師として学校にいる。奴のせいで学校を転向するために引越しした家もあるのだ。弁護士を立て行動を起したとしてもおかしくない。それでも奴は教師でい続けている。
 ありえない。それとも俺の常識による理解の範疇にある社会とは全く異なる別の構造がこの社会には存在するのだろうか? ……言い知れぬ恐怖を覚える。

「ここだ」
 大島は公園の駐車場入り口から出て、道を挟んだ向かいにある何か分からないが小さな食い物屋らしき店へと行くと暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
 カウンター奥の調理場から店主らしき小柄な男性が愛想良く迎え入れてくれた。
 店内はフローリングの床は艶が出るほど磨き上げられて清潔ではあるが、カウンター席とテーブル席。そして畳の小上がり。小上がりには黒く上の部分の格子に障子紙を張った仕切りの置かれたごく和風テイストのレイアウトで、どう見ても普通の蕎麦屋かうどん屋といった佇まいだった。
 大島はカウンター席に座ると「いつもの」と注文する。すると店主は「あいよ。ほうとう大盛り一丁」と応えて調理に取り掛かる・……畜生、連れの一見さんを前に自分は常連気取りか。糞、格好良いじゃないか。
「おごりだ。好きなのを頼め」
 好きなものといっても他の客の食っているものを見る限りうどん屋じゃないか。俺は蕎麦派の人間だし、大体ほうとうって何だよ。俺のボキャブラリーの中では放蕩息子くらいしかヒットしないぞ。
「じゃあ蕎麦──」
「ここはほうとう屋だ」
 俺の注文は間髪を入れずドスの効いた声で遮られた。
「いや、うちは蕎麦もありま──」
「ダ・マ・レ」
 店主の言葉も間髪を入れずドスの効いた声で遮られた。

「……そもそも、ほうとうって何ですか?」
「!」
 その時、大島の顔に浮かんだのは『そんな』『まさか』『どうして』『何で?』の全てをひっくるめた『衝撃』の二文字。
「し、知らないのか? ほうとうを」
「知りませんよ。どういう漢字で書くんですか?」
「!…………」
 虚を突かれた顔をした大島は、視線を宙に彷徨わせた挙句に店主に向けた。それに対して店主は肩をすくめて首を横に振った。
「まあ何だ……基本的に平仮名だ」
 誤魔化すようにそう答えられた俺としても「はぁ」としか応えようが無かった。

 結局、俺もほうとうを頼むことになったが、正直朝飯とはいえ9時過ぎまで引っ張られて腹を空かせた中学3年生にとっては味や量はともかくパンチに欠けている……肉が入ってなかったのだ。
 どうやら肉の入ったメニューもあったようだが、何を頼めば良いのか分からなかった俺は大島と同じものを頼んだのだが、太く平たい麺とたっぷりの野菜の具と、野菜から出汁の出た味噌ベースのスープ。しかし肉は欠片も入っていない。奴も30代も半ばを過ぎて朝から肉を食う食欲は無かったのだろう……老いたな大島。霜降り肉をおかずに赤身肉を食らうような──あくまでもイメージ──男であったのに寄る年波には勝てぬか、愉快愉快。
「どうだ美味かっただろう?」
 そんな俺の思いに気付かず、自信満々に尋ねてくる。「美味い」と答えが返ってくることをこれっぽっちも疑っていない顔だ。
「美味しかったですよ。でも先生には良いのかもしれないけど、若い俺には肉無しは物足りないです」
 そうはっきり言ってやった。どうせ拳で語り合う事になるならば、口で言いたい事を言っても俺の立場は何ら変わりようが無い。ならば言わないのは損だ。
「な、何を言う。俺は朝っぱらからでも焼肉だってドンと来いの男だ」
「無理をしなくて良いですよ。ほうとうを食べて『野菜から出た優しい味が30代も半ば過ぎの身体に染み渡る』と思ったでしょう」
「…………上等だ。これから焼肉を食いに行くぞ」
 今俺の前にはメロン熊がいる。しかも赤いメロン熊だ。どんなに笑顔を浮かべても、こめかみから額に浮き出た血管がピクピクと皮膚の下で動いて気持ち悪い。だが恐ろしくは無かった……既に開き直っていたのだから。
「もうお腹は十分一杯になってますよ。朝飯をはしごしてどうするんですか?」
 それにどうせ安い食い放題の焼肉だろう。そういう気分じゃないんだよ。
「くっ!」
 拙いな怒らせすぎたか、目が赤い警戒色を放ち、大気が怒りに震えている……どなたか、どなたか蒼き衣を身に纏った方はいらっしゃいませんか?

 ともかく無事に朝食を食べ終わると、俺を乗せた車は走り続ける。
「先生。いい加減何処に行くのか教えてくれませんか? 泊まりになるくらい遠くに行くなら、親には泊まりになるとは言ってないので一度連絡する必要がありますから」
「今日中には家に帰れるようにするから心配するな」
 何? 生かして帰すつもりだと! しまった怒らせるんじゃなかった……迂闊なり、高城 隆。
「しかしお前。性格変わったな」
「……性格は全く変わっていませんよ」
 気付かれた? この全く空気を読めない強引にマイウェイ男に、俺の性格の変化が気付かれたなんて……超意外。
「以前なら、俺にあんな口を叩く事は無かっただろ」
「そりゃあ猫を被ってましたから」
「ほう……それじゃあ、もう猫を被る必要は無くなった訳か?」
「いきなり先生に、部活を休んでまで付き合えと言われれば覚悟しましたから。もう言いたい事を言った方が得だと思いましたよ」
「ああ、それであの格好だったのか。なるほどな」
 そう言って再び苦笑いを浮かべる。
「今日のところは、そんなに大変な目──事をさせる気は無い。気楽に構えておけ」
 ちょっとお前何を言いかけた? 大変な目に遭わせるつもりなの? しかも今日のところはって、何時か大変な目に遭わせるって事だろ。
 普通の人間とは持つ感覚が違う生き物だ。骨折なんて大事じゃなく笑い事にしてしまうようなこいつが言う大変な目って何なの?

「着いたぞ」
 大島にそう言われるまで、俺はもしかしたら此処が目的地ではなく、ちょっとトイレを借りに立ち寄っただけという可能性を諦めていなかった。
 アスファルトで舗装された広い駐車スペースの先には、歴史を感じさせる木造の巨大な門が立ち塞がっていた。それだけなら良いのだが、門の右側の柱に「鬼剋流 甲信越支部 本道場」という看板があるのがどうしても受け入れがたかった。
「どうして?」
 色んな意味を込めてそう尋ねた。
「まあいいだろう。行くぞ」
 うわぁ~、無視しやがった。こいつの都合の悪い事は恐ろしいほど強引に無視する態度が大嫌いだ。人の話を聞け! ……と思っても口にはしない。だって今日のところは安全を保証されてるんだから。

 門脇の通用口を通り中へと入る。
 一見神社のようで、門から真っ直ぐに伸びた石畳の道の先には門と同じように重厚さを感じさせる大きな木造の建物がある。まあ、あれが俺にとって面倒なことになるであろう道場なのだろうことは想像に難くない。



[39807] 第19話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2015/09/23 21:32
 道場の建物の入り口に立つと、中から気合や号令など喧騒が響いて来る。
 大島は入り口脇の事務所の受付に顔を出して「大島だ。本部から連絡が入ってるはずだ。支部幹部を道場に遣せ」と偉そうに命令を口にした。こいつは鬼剋流の中でも傍若無人な男なのだと初めて知った。そうだよな大島が普通として扱われる集団なんてこの世界の何処にもあるはずが無い。あってはいけないものだ。あったら世界が滅んでしまう。
「左が更衣室だ。着替えるぞ」
「……何をさせる気ですか?」
 俺の質問に大島は肉食獣が獲物を前にしたかのような禍々しい笑みを浮かべると「面白い事だ」と声を低めて答える。これはどう転んでも大島以外の人間にとって碌な事にはならないと確信した。

 空手着に着替えて更衣室を出ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように収まっていた。
 その静けさに不気味なものを感じながら、先を行く大島の背中を追ってロビーを抜けて道場への扉をくぐる。
 中は一般的な学校の体育館の2倍ほどという馬鹿でかい空間だった。そこに二百名を超す人間が、大島の着ている空手着とも柔道着とも少し違う鬼剋流の道着を着て左右に正座して控えており、その奥には7人が立っていた。

 大島はこちらを睨むように見つめる左右の連中の目を全く気にした様子も無く歩を進め、奥の7人の前まで歩く。
「関東支部の大島です。今日は私の教え子に胸を貸していただけるとのこと。誠に感謝します」
 そう言って頭を下げる大島だが、その背中は頭を下げてもなお『傲岸不遜』の四文字が刻まれているようにしか見えなかった。それはこの道場にいる全ての人間にもはっきりと伝わったのだろう。大島を見るどの目にも怒りの炎が宿っている……それはさておき、何で俺が胸を借りないといけないんだ? こいつ等全員鬼剋流の門下生だろ。つまり大島はこいつ等に俺を叩きのめさせるつもりなの?
「教え子? 弟子ではないのか」
 正面に立つ7人の中で右端に立つ、一番下っ端風の男──といっても年齢は50絡みなんだけど──が妙にねちっこい声で詰問する。
「私が中学校で教えている空手部の生徒です」
「中学生? 鬼剋流の門下生でもない餓鬼を此処に連れてきたというのか!」
 この雑魚臭のプンプンとするおっさんがは駄目だな。いい歳して簡単に激高するなよ。こんな自分の感情も満足にコントロールも出来ないカスが偉そうに幹部面してる鬼剋流って実は大した事無いんじゃない?」
 んっ? 殺気立った視線が俺の身体にブスブス突き刺さる……おっとヤベェ。つい声に出してしまった。
「この餓鬼が!」
 顔面を真っ赤に染め、踵で床を踏み鳴らしながら俺に迫ってくるおっさん……本当に駄目だわ。大島の1/100も脅威を感じない。
「その安っぽい激高が駄目だと言ってるのに……」
 そう呟きながら大きくため息を吐いて挑発する余裕もある。やっぱり鬼剋流が凄いのではなく大島という個人が人間離れしているだけなのか?
 いや違うな。鬼剋流で大島の先輩に当たる早乙女さん。女性的な響きの苗字の割には、子供が大好きなお面ドライバーシリーズで活躍するお母さん達が熱狂するイケメンヒーローを2・3人は墓場送りにしていそうな悪人面だが大島の百倍は常識人であり、俺達の夏冬の合宿の舞台となる山を貸してくれている山林地主でもある彼は強かった。俺の知る限り大島が敬意を示す唯一の人だけあって、大島相手に一歩も引かない猛者だった。
 おっさんは俺との間に立つ大島を突き飛ばそうとして、身をかわされてバランスを崩し、たたらを踏みつつも俺に掴みかかろうとする。その時一瞬大島と目が合う。その目は雄弁に「ヤレ!」と言っていた。
 俺の左襟を掴もうとする手を弾くと、右手をおっさんの顔に伸ばして鼻を人差し指の第一間接と第二間接の間の部分と親指で挟み込み、鼻梁に親指の先を突き立てるようにしながら右回りに捻る。
 大島が空手部の部員相手に、たまに使う空手の技でも何でもない通称「鼻輪捻り」という奴のオリジナル技だ。
 鼻輪というのは牛の鼻に取り付けられる鉄の輪で、それを掴んで捻る事でどんな暴れ牛も女子供の力でも地面に転がして大人しくさせることが出来る。それは人間も同じで鼻を掴まれて180度も捻られれば、それに従って身体を床に転がすしかなかった。
 床の上に転がったおっさんを見下ろし「未熟」と思わざるを得ない。俺はシステムメニューのコマ送り戦法を使ったわけでもなければ、レベルアップによる身体能力の上昇に頼ったわけでもない。馬鹿が勝手に激高し冷静さを失ったことと、大島にかわされて勝手にバランスを崩した事を勘案しても、一番貰うべきではなく、そして避けやすい鼻への攻撃を貰うようでは空手部の3年生の誰にも勝てないレベルとしか言い様がない……何か聞いていた鬼剋流と話が違うんですが?
 まあとにかく、相手が自分より格下と分かれば気が大きくなるのが小心者の常。俺は今、かつて無いほど調子に乗っている。

「ざまあねえなぁ~」
 大島が堪らないと言った表情で抑えきれない笑みを溢す。
 悪巧みをした挙句に最後に桃太郎侍に斬られそうな、その顔を見て俺はわかってしまった。今日俺が大島に対して挑発的な言動をしても『説諭』が飛び出さなかったのは、この状況を作り出すために五体満足のままの俺を此処に連れてくる必要があったからだと。さもなくば今頃俺は……恐怖に身震いが起きた。
「そんな中学生の餓鬼相手に恥を晒してなぁ…………お前、腹切れ」
 いきなり真顔になった大島の口から物騒な言葉が飛び出る。おいおい此処は江戸時代か?
「な、何おうっ!」
 おっさんは立ち上がると、大島に掴みかかろうとする。馬鹿だ。俺にさえ簡単にあしらわれる程度の奴が大島に掴みかかるって勇者様過ぎるにも程がある。
 案の定、大島から本家本元「鼻輪捻り」を喰らって床の上に転がる。手加減した俺のとは違って鼻から大量の鼻血を噴き出しながら苦しみ悶えている……鼻筋が曲がっている。あれって鼻折れてるだろう。他人の鼻を折って笑顔を浮かべる大島のメンタリティーが恐ろしい。
「わかんねえ奴だな。腹を切るか鬼剋流の破門のどっちか好きな方を選ばせてやるって言ってるんだよ。お前等全員な」
 正面に立つ幹部達を指差しながらそうのたまう大島……言ってなかっただろ。お前は教師の癖にどうしてそうも言葉が足りないんだ?
「馬鹿なことを言うな! お前に一体何の権限があってそんな事を」
 1人欠けて6人になってしまった幹部達の中で一番偉そうな男が大島に噛み付く。
「本部でもお前らの事は問題になってるんだよ。鬼剋流の看板で金儲けしてるってな」
「金儲けの何が悪い。我々は慈善団体じゃないんだ」
「確かに慈善団体じゃないな。だがなお前等のやってるダンスごっこでもない。鬼剋流は武術だ。文字通り鬼に勝つために磨き上げられた武術だ。だから限られたものにしか入門は許されない。それが何だこの有象無象は?」
 甲信越支部の本道場とはいえ、特別な日という訳でもなさそうなのにこの人数が集まっているという事は、甲信越支部全体では鬼剋流派の門下生は1000人を超えるのではないだろうか?
 大島に鬼剋流への推薦を受けられなかった──まあ推薦を受けたとしても辞退するだろうけど──空手部の先輩達でも『こうやの7人』の逸話の様に20倍の武闘派で知られる不良どもを相手に圧勝するほどだ。そんな彼等よりも強い「はずの」人間が1000人ね……何となく問題点が見えてきた。

「ダンスごっこだと? 無礼にも程があるぞ大島! 優秀な人間を沢山集めたんだ。それは我々の功績であって本部から感謝されこそすれ文句を言われる筋合いは無い!」
 二流映画の小悪党の開き直りみたいだ。つまり先人が積み上げてきた鬼剋流の名声──悪名の方がしっくり来る──という看板を使って人を集めて金儲けしたってだけな訳だ。
 そしてそれが本部でも問題になって大島が送り込まれた。何か面倒な話だな。普通に本部から人を送ってこいつ等を解任すれば良かったんじゃないの? これじゃ映画のマフィアか何かの粛清劇だろ……というか何故俺は「鬼剋流≠マフィア」と思い込んでいるのだろうか? むしろその手の団体と同じようなものと考えた方が自然の様な気がする。
「ダンスじゃなければ何だと言う気だ? 仮にも鬼剋流五段が中学生に軽く捻られるなんて、俺は悪い夢でも見てたのか?」
「くっ」
 大島の皮肉に言葉も無いようだ。そうだよな仮にも熊殺しの試練を乗り越えているのだろう鬼剋流の五段とやらは、それに対して先程のおっさんは余りにお粗末。余程若くして五段を取得した後、不摂生を重ねて折角の身体能力や技量を腐らしたのか、それともその試練とやらを誤魔化して潜り抜けたのか……まあ、どうでも良いさ、鬼剋流の事情など俺には関係の無いことだ。
「そうだな、この餓鬼に勝てたら本部にとりなしてやっても良いぞ。俺が鬼剋流でなく空手だけを教えたただの中学生だけどな」
 だから俺には関係の無いことだろに、朝飯にほうとうを奢ったくらいで何をさせる気だ! あんまりなめた事を言いやがると俺がこの手で……ダイヤルして自衛隊呼ぶぞ!
「高城、徹底的に奴等の面子を潰してやれ。本気で、お前の本当の本気でな……上手くやったら食い放題じゃない焼肉屋で何でも自由に食い放題だぞ」
 大島が耳元でそう呟く。く、食い放題じゃない焼肉屋で何でも自由に食い放題だと。何だその成長期の肉体にぐっと来る魅惑的なフレーズは、こんな素敵な言葉は今まで一度だって聞いた事が無い。
 だが、何が悲しくて大島なんかと一緒に飯を食わなければならないんだ……自然に足が前に出る……大島の言葉なんて聞きたくないのに身体が……身体が勝手にビクンビクン……気付けば幹部達の前に俺は立っていた……さあ美味しい焼肉ども。掛かって来るが良い!

「餓鬼の相手など出来るか。原田。お前が相手をしてやれ」
 幹部の1人が、向かって左側に正座する者達の列に命じると、1人の男が立ち上がった。
 その身体は俺とほぼ同じ体型で、一見、長髪のイケメン風だが顔立ちはクドくどこか気持ち悪い。年齢は20代半ばと言ったところか、身体のたるんだA5ランクの幹部達よりは遥かに動きは良さそうだ。
 原田は俺の前に立つと、開始の合図も無くいきなり腰を落とすと滑るように俺の下半身にタックルを仕掛ける。鬼剋流には打撃だけではなく投げや関節、締め技もある事は知っていたので驚く事も無く、腰を落としながら膝を取られつつも奴の後頭部の無駄に長い髪の毛を握り込むと一気に引きちぎった。
「ぎゃぁぁぁぁっぁぁぁっぁっ!!」
 女の様な悲鳴を上げながら後頭部を抑えてのた打ち回る原田に歩み寄ると、その顎を横から蹴り飛ばして失神させた。

 後頭部を両手で押さえた状態で仰向けに寝転び白目を剥いて気絶している原田を見て湧き上がる思いは「アホの末路」の一言のみ。
 百歩譲って打撃技に特化した空手とかならともかく、投げ・間接・締め技という相手と身体が密着した状態が多くある技も使う鬼剋流をやっていて髪を長くする意味が分からん。
「は、反則だ!」
 そもそも空手対鬼剋流という異種格闘技戦で、ルールも決めずに先手を取って攻撃を仕掛けておいて反則も糞も無いだろう。
「そうだ。髪を引っ張るなど女の喧嘩の様な真似は認められない」
 問題は実戦派武術と名乗る鬼剋流で引っ張られるような長髪をしてる奴がいることだろう。
 そんなことも分からない馬鹿どもの女々しさが面白く思えてきてニヤニヤが止まらない……もしかしてこれがSっ気の萌芽? あぶないあぶない。
「先生。やっぱりこいつ等お遊戯気分でやってますよ」
「う、うむ」
 俺は連中を挑発するために声を掛けたのだが、大島は想像を幹部達の愚かさに頭痛を覚えたのか頭を抱えている。やはり身内の恥というものは大島にとってさえ頭の痛いものであるようだった……携帯を持ってたら写真にとって学校中にばら撒いてやりたい光景だ。
「何だと貴様!」
「僕って何か難しい事言ったかなぁ~。単にお前達のお遊戯は幼稚園の発表会でも顰蹙を買う低レベルだって言っただけだよぅ~」
 勿論、そんな事は一度も言ってない。これじゃ大島と同レベルだ。
「ふざけるなっ!」
「ああもう、口ばっかりギャーギャーと五月蝿いなぁ~。これから焼肉食いに行くんだからさ~、さっさと終わらせようよぅ~」
 我ながらイラッと来るキャラだが、挑発が効いた様で先程原田が座っていた辺りから指導員と思わしき男達が10人ほど一斉に立ち上がる。
「高城。俺も手を貸そうか?」
 大島の言葉を聞いた瞬間、男達が一斉に腰を下ろそうとする。おいおい折角挑発したのに何してくれてるの! それにどんだけ恐れられてるんだ。悪名高すぎだろ。
「………………」
「…………悪い」
 俺が無言で責める続けると流石に悪いと思ったのか珍しく素直に謝罪の言葉を口にした。

 再び男達は立ち上がり、1人が俺の前に立つ。
「俺は──」
「ああ興味ないから名前はいいよ。それより時間が勿体無いからまとめて掛かって来てくれない?」
 我ながら大きく出たものだ。先程の原田と言うアホもそうだが、こいつ等は弱くは無いだろう。多分技量、そして身体能力もレベルアップの恩恵を受ける前の俺よりも多少は上だろう……だが、俺も単にレベルアップだけではなく、命を賭けた戦いを潜り抜けて死ぬような目にも遭い成長している。
 俺の舐めきった言葉に男達が殺気を放つがそんなものに飲まれるほど柔ではない。
「吐いた唾は飲み込めないぞ」
 男は目に凄みを利かせて言い放つ。
「別にぃ~、お前等の吐いた唾は、お前等を地に這い蹲らせて舌で舐め取らせればいいだけだしぃ~」
 俺のしつこい挑発に男達はついにキレ、一斉に襲い掛かってくる。
『セーブ処理が終了しました』
 単に倒すだけならセーブの必要は無かったが、可能な限り異常な身体能力を隠して、相手に致命傷を与えず、尚且つ舐めきった態度で倒すためには保険が必要だった。

 囲まれて背後を取られないように移動しながら、襲い掛かってくる男の拳をじっくり引き付ける。異世界で最初に戦った森林狼に比べたら欠伸の出るほどの遅い。相手の攻撃を冷静に最後までじっくり見つめ続けられる胆力を身につけた俺には、コマ送りを使うどころか、レベルアップした【動体視力】に頼る必要も無く見切ることが出来るレベルだ。その拳の軌道を見定めて右の肘で受ける。嫌な音を立てて男の拳が砕けた。
 拳を押さえて悲鳴を上げる男に「だからあれほど小魚を取りなさいとお母さんが言ってたのに」と勝手なお母さん像を押し付ける。
 俺の左の視界の隅から隙を突いて頭部への回し蹴りを放つ、良いタイミングだがレベルアップで周辺視野の範囲も拡大している俺には不意打ち足りえないし、それ以前に不意打ちに「きぃえぇぇぇぇっ!」とか気合は要らないだろ。もしかしてそれで俺が驚いて怯むとでも?
 正確に俺のこめかみを狙って飛んでくる足刀を、しっかりと肩を筋肉で固定した左腕の肘で受ける。また折れた。
 2人の重傷者を出した段階で大島に視線を送る。返答は爽やかなゲス顔で拳を軽く突き出すジェスチャーを繰り返す……それを行け行けGO!GO! 骨折くらいは問題ないぞと解読した。

 瞬く間に2人が戦線を離脱したのを見て、男達は憮然とした表情を浮かべるが、直ぐに仲間同士で目配せすると包囲するために距離をおいて回り込もうとする。
 それに対する俺の選択は、折角ばらけてくれたご好意に甘えての一点突破。左に回り込もうと動く相手に対して一気に距離を詰める。
 俺が狙いを定めた対象は、足を止めると俺に身体の正面を向けて両手を前に出す。どうやら打撃技は諦めたようだ。少しは考えているようだが打撃が通用しない相手に組討に持ち込めば何とかなると考えるのは浅はかだ。それが通用するなら空手と柔道の異種格闘技において空手は必敗を喫することになる。打撃対打撃での勝敗が個人の技量に因るように、打撃対組討での勝敗もまた個人の技量に因る。そして彼等は自らの打撃が通用しない段階で、個人で戦うという選択肢を捨て、一斉に襲い掛かるべきだったのだ。

 組み付きに来た腕を、捻りを入れて突き出した掌底で弾くと同時に両足の膝を抜いてスライディングで相手の脇を滑り抜けながら両足を脇に挟んで刈る。
 倒れながらも両手を突いて身体を庇おうとするが、抱え込んだ足ごと身体を捻って阻止してやると、まず「ドン!」と肩から床にぶつかり、次いで「ゴン!」といい音を立てて側頭部を床に打ち付けた。
 この戦いにおいて広がって包囲することには何の意味もない。元々俺は逃げる獲物役ではなく狩る側だ。俺が誰を標的に定めようとも、常に俺に複数で当たれるように範囲を狭めて密度を上げた状態で俺との距離を詰めるのが、一対一では抵抗する間もなく狩られる弱者が選択すべき唯一の方法。背後を取ろうと欲をかくから一人ずつ狩られることになる。

「3人目」
 良い感じにアドレナリンが分泌される。
 武術って奴は相手を打倒する手段だ。何を勘違いしたのか「戈を止めると書いて武」とか得意気に言ってる奴がいるがあれは実に恥ずかしい。武という字を分解しても戈と止にはならないことさえ分かっていない小学生からやり直すべき阿呆どもだ。
 武術は文字通り戦う術であり、それをどう使うかは個人の資質の問題。そして力をどう使うかに関係なく、蓄え磨き上げた己の力を発揮する一瞬にこそ武の本懐がある……と大島が言っていた。
 では異世界で龍と戦う事に武の本懐があるのだろうか?
 答えは否だ。ティッシュペーバーの箱はどんなに使い勝手が良くてもカップ麺の蓋の重石に使われるために存在するのではない様に、龍と戦うために人間は存在するわけじゃない。
 俺が空手を通して身につけた戦うための術は、異世界で魔物相手に使うものではなく現実で人間相手に使われるモノだ。今俺は本来あるべき戦いの中で「やっぱり戦いって、こういうモノだよな」と実感している。

 3人目を倒し相手の包囲を突破すると、その外側に回り込む。
 その時、周辺マップで俺の背後に正座する者のシンボルが黄色から赤へと変化する。次の瞬間、振り返りながら放たれた蹴りは、今立ち上がろうとしていた男の鳩尾に突き刺さる。
 後方へと吹っ飛んだ男には目もくれず「死にたくなければ座ってろボケ!」と叫ぶ……何か今の俺ってかなり大島っぽくない? そう気がついて背筋がぞっとする。

「高城ぃっ! そろそろ本気を出せ」
 何を言い出すんだこの男。俺は十分に本気だ。これ以上力を出せば俺が普通の身体で無いことがバレてしまうだろう……もしかして、既にバレてる?
 そういえば、焼肉の話を持ち出して俺を炊きつけた時「本気で、お前の本当の本気でな」とか言ってた。バレてる……よな。一番知られたく無い奴にバレてるよ。拙いどうしよう?
 呆然とする俺の隙を突いて、いい加減にしろと思うが「きぃえぇぇぇぇいっ!」とか叫びながら、飛び込みながらの同足突きを打ち込んでくるのを、反射的に裏拳による薙ぎ払いで顎を打ち抜く。
 踏み込んだ足が床に着く前に、お花畑の向こう側へと意識が飛んでしまった男が床の上を滑っていく……今のはヤバイなかなり強く入ってしまった。後遺症が残るような怪我は拙い。後で【軽傷癒】で治療しておこう、人体実験的な意味も込めて。

「4人目」
 残り6人。そろそろペース上げていかないと大島の気が変わりかねない。
 俺は自重を止めてレベル1の頃と同程度に抑えていた身体能力を1.5倍程度まで開放する……といえば格好良いが、単に手加減の度合いを下げるだけだ。
 1.5倍の筋力があれば1.5倍の速度で動けるわけではないが1割程度の向上はある。それほど大きな能力差の無い者同士の戦いの中で自分の速度が1割上がれば、戦いは戦いではなく一方的な狩りと化す。
 冷静さを失い喧嘩の様に大振りに振り回される拳を優しく受け流し、胸板に左右の3連打……を打ち込んだら殺してしまいかねないので、フルパワーのデコピンを額に打ち込む。
 インパクトの瞬間、デコピンによるものとはとても思えない音を立てると、男の首は反動で反り返りそのまま後ろに倒れた……うん、分かってるんだ自分でも、既に空手でも何でも無いって事は。

「5人目」
 どうしようネタが切れた。面倒臭いから普通に殴ってしまいたい。大怪我を負わせることになるかもしれないが殴りたい。面子を潰すか……恥ずかしくて人前に顔を出せないような負け方をさせれば良いのだろうが、そんな風に勝つことを考えて空手に打ち込んできた訳でもない。
 残り5人もどうすれば…………

 結局4連続でデコピンにしてしまった。大島が目で「他にレパートリーは無かったのか? 芸無しめ」と責めてくるが知った事か。
 最後の1人は、帯を解いて上着を剥ぎ取り、パンツごと下をおろして素っ裸にしケツが真っ赤になるまで蹴りまくってやった。四つんばいになり泣きながら逃げる男の醜態に大島は大喜びだ……このドSめ!

「貴様、こんな真似をしてただで済むと思ってるのか!」
「有段者が、白帯の中学生に10人がかりで叩きのめされて警察に泣きつくと? 例え試合と言い訳をしても多人数で襲い掛かった段階で捕まるのはこいつらと、それを止めずに容認した責任者のお前達だろ」
 思いっきり鼻で笑って見せるが、本当に大丈夫なんだろうな大島? お前がやらせたんだからな。今更知らん顔したら、そりゃもう俺は出るとこ出てお前を訴えてやるからな!
 そんな思いを押し殺して、幹部達を指差しながら大島に尋ねる。
「こいつ等もやってしまって良いんですか?」
「録画するからちょっと待て」
 そう言いながら大島は隠し持っていた携帯電話を取り出すと、操作をしてカメラかビデオモードか知らないが設定するとファインダーを覗きながら構えた。
「よし良いぞ。構わないから全員ひん剥いて、ケツの皮がずる剥けになるまで蹴りまくってやれ!」
 やはり最後の男への仕打ちが大いに気に入ったようだ。悪魔のような笑みを浮かべてやがる。
 正直、何でこんな汚い爺どもの尻を蹴らなきゃならないのか分からない。俺の足だって「どうせ蹴るなら可愛い女の子お尻を優しくソフトにポヨンっと蹴り上げたい」と思ってるに違いない。
「了解です!」
 だが焼肉のためにそう答える。それと同時に幹部達は逃げた。全力で逃げた。たるんだ身体の何処にそれほどの走力を秘めていたのか不思議なほどの勢いで逃げた。道場を走りぬけ、廊下を渡り、階段を登り、そして捕まる……魔王(大島)から逃げられるはずが無いのだ。
 成金趣味丸出しの毛足の長い赤いじゅうたんを敷き詰めた2階の廊下で、下半身を丸出しにした爺どもが豚の様な鳴き声を上げながらたるんだケツを俺に蹴りまくられる様子を、大島がゲラゲラと大声で笑いながら撮影する。正に阿鼻叫喚。地獄の如き光景が繰り広げられた。
 その後、幹部どもは支部長室に連れ込まれて、先程撮影した画像データーをネタに大島に脅されて、何やら念書を書かされていた……どう見ても勧善懲悪ではなく、小悪党を食い物にする大悪党と言った様相だった。

「よし。いい仕事だった」
 大島は本当に満足気だ。こんなに機嫌の良い大島を見たのは初めてだ。帰りの車の中でも終始ご機嫌で、約束通りに焼肉屋に俺を連れて行き、予想を遥かに超える高級店に俺が気後れするのにも構わず、俺の肩を叩きながら「良くやった。さあ食え。好きなだけ食え」と言いながら嬉しそうに笑っていた……怖い。この反動がとても怖い。
 しかも、その後も車中で「よし空手部の連中を連れて焼肉をはしごだ」と言い出す始末。

「戻ったぞ!」
 学校近くの大島の住むアパートに車を停めると、その足で学校に向かい格技場に踏み込んでいく。
 部員達からの「お帰りなさい!」と挨拶を受けながら辺りの様子を見渡している。全員額に汗を浮かべ呼吸を整えているのでサボっていた様子ではない。それに大島も満足した様子だ。
「練習ご苦労。お前ら今日の練習はこれまでだ。これから焼肉を食いに行くからさっさと着替えて来い」
 呆然とする部員達。大島が練習を早目に切り上げるなんて俺にとっても前代未聞だ……櫛木田よ疑うのも無理もないが偽者じゃないから安心しろ。
「心配するな。俺のおごりだぞ」
 皆の呆然とした顔を金の心配したのかと間違って空気を読んだ大島がそう付け加える……むしろそんな大島の様子に皆は心配してるんだよ。

 2軒目は1軒目に比べれば庶民的な、学校からバスで3つ目の終点の駅前にある焼肉屋だった……無論、バスなんて使わせてもらえないが毎日走らされてる俺達には散歩にもならない距離だ。
 俺も家族で何回か食べに来たことのある店──無論、普段は外食で焼肉を食う場合は食い放題の店だ──で、お値段もそこそこする。
「よしお前ら、どんどん好きなものを注文して食え」
 先ほどの店でも2人で5万円以上の支払いをし、ここは高級店と言うほどではないが3年生が5人、2年生が7人、1年生が6人。それに大島を入れて19人である。そんな事を言ったらここの支払いは10万を超えるだろう。
「先生。支払いは大丈夫なんですか?」
「な~に構わんさ。途中のコンビニで金はおろして来たし、後で鬼剋流本部に経費で請求する」
 そう答えて笑みを浮かべた……逃げて! 経理の人逃げて!

「注文したのは揃ったな。まず1年生。良く練習についてきている。このまま先輩達に遅れぬようにしっかりとついて来い。2年生。この1年間良くがんばった。お前達も自分で気づいていると思うが1年前とは別人と言っていいほどお前らは強くなっている。より高みを目指してこれからも日々練習に励んでくれ。3年生。お前達は最上級生として自分だけではなくしっかり後輩の面倒も見ている。後輩を指導する事で、ひたすら己を鍛えるだけでは決して分からないモノをお前達は身に着けるだろう。これからも励め……そして紫村。お前は少し自重しろ。それから連絡事項だ。俺は明日鬼剋流の本部に顔を出さなければならなくなった。だから明日はお前達の練習も休みとする。1年生はしっかり身体を休めておけ。以上だ。今日は胃袋がはじけるまで食え」
 部員達が泣いている。大島の『人間の』指導者らしい言葉に涙を流しているのだ。かつてこれほどまでに部員達からの大島の株が上がったことがあるだろうか? ……いや無い。



[39807] 第20話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2015/06/15 23:17
 朝、目覚めると隣に女の子が寝ていた。
 字面的にはとても素敵なイベントだが、幾ら同世代以上の女性達から敬遠されていても、まだロリコンに走るつもりのない俺にとっては、相手が8歳くらいのルーセでは煩悩も開店休業状態だ。
 それどころか小さな身体で俺の腕にしがみ付いた彼女が「お父さん……」と悲しそうに呟くのを見て「あーっ、もう俺がお父さんになってやるよ!」と暴走しかけるほどだ……あれ、これって、また?
 またもやレベルアップの性格変化の影響だと気付いてガリガリと頭を掻き毟りながらシステムメニューをチェックする。すると【父性愛】だけならまだしも【母性愛】までも上昇していた。これも【レベルアップ時の数値変動】で固定にしないと……だが待て、固定にしたパラメーターはその後変化しなくなるのか? だとすると拙い。俺がもしも、万一にも結婚出来たとして子供が出来て【父性愛】などが成長しなければ子供に対して愛情を抱けなくなったりする……のか?
 気になったので困った時の【良くある質問】を確認してみる……すると、うってつけな質問があった。
 『【レベルアップ時の数値変動】を固定にした際のデメリットとは?』:身体能力などのパラメーターを固定にするとレベルアップによる成長の恩恵を受けられなくなります。また【レベルアップ時の数値変動】はあくまでもレベルアップ時の変動についてであり、それ以外の環境やプレイヤーの言動による変化などとは一切関係ありません。
 俺は安心して【心理的耐性】関連を除く、【精神】関連のパラメーターの【レベルアップ時の数値変動】を固定にした。

 だが一度、心に抱いてしまったルーセに対する父性愛は消えるわけではない。
 困ったものだと思いつつも、それが嫌ではない自分が居る。本当に困ったものである。
 そうこうしている内にルーセが目を覚ます。
「おはよう。ルーセ」
 優しく声を掛けてみた。
「ん…………お父さん?」
 半ば寝ぼけて目を擦りながらそう尋ねてくる。
「お父さんじゃなくてごめんね」
「あっ……」
 相手が俺だと気付いて、わたわたと慌てる姿が可愛くて、慈愛の眼差し投げかけてしまった……決してロリコンじゃないからね。つかロリコンの語源になった小説って、確か第二次性徴を迎えて子供から女性へと変化する過程にある女の子に夢中になってしまったオッサンの話だろ。ルーセはロリ以前の存在だよ。
「いつもは平気なのに、寂しくなった……ごめんなさい」
 要らん事を考えていると、ルーセはベッドを降りると頭を下げた。
「謝らなくていい。いつも我慢してたんだろ。偉いぞルーセ」
 俺は身体を起してベッドに腰掛けると手を伸ばして彼女の頭を優しく撫でる……猫の毛のように柔らかい。この撫で心地はマルを上回る。
 ルーセは一瞬身体を強張らせると、次の瞬間俺の膝にしがみ付いて顔を伏せる。
「どうした──」
「……撫でて……もっと頭撫でて……」
 消え入りそうなその声に、俺は黙って彼女の頭を撫で続けながらも「どうしたものだろう?」と小さく呟くのだった。

「ルーセ。これから大事な話があるから聞いてくれかな?」
 朝食を終えて、おもむろに話を切り出した。
「何?」
「火龍を倒すために試しておきたい事があるんだ。それが成功すれば短期間で火龍を倒せるようになるはずなんだ」
 先程【良くある質問】を調べている時に『パーティー加入者のシステムメニュー利用範囲』という質問項目を見つけていた。
 その質問への回答は、『レベルアップ時のステータス向上。視界へのマップ等の表示。加入者専用の【装備品】【所持アイテム】の使用権などプレイヤーとほぼ同等に使用可能。ただし【システムメニュー】の操作を行う際、プレイヤーの様な時間停止空間ではなく通常空間での操作となります。また【セーブ&ロード】は使用できず、【BGM】はプレイヤーが再生したものを聴く事のみ可能』だった。
 つまり彼女とパーティーを組めば彼女の力を強化する事が出来る。それは火龍を倒した後の彼女にとって生きていくための力になるはずだ。
 俺の中で高まりきったルーセへの【父性愛】が火龍を倒した後に、そのまま何もせずに彼女を1人残して旅に出ることを、彼女の口から情報が漏れる可能性を考えてた上でも善しとする事が出来なかった……本当に困ったもんだよ!
「何を試すの?」
「その前に、それが成功しても失敗しても、これからすることを誰にも言わないと誓って欲しいんだ」
「?……分からないけど、リューがそう言うなら約束する」
「それじゃあ、まず俺と手を握って」
「わかった」
 俺が差し出した手をルーセはしっかりと握り込む……強い。強すぎるよ。手の骨が軋む様な力だ。だがここは男として痛みを顔に出さず続けた。
「そして、俺の目をしっかりと見つめて」
「うん」
 真剣な目で俺の目をじっと見つめてくる。
「最後に、これから俺が言う言葉に『はい』と答えて欲しい」
「はい!」
「……いや、そうじゃなく今から言う言葉ね」
「……わかった」
 少し顔を赤らめて頷く。
「俺とパーティーを組み一緒に戦ってくれますか?」
「はい」
 ルーセがそう答えた瞬間『ルーセがパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』というウィンドウが目の前に現れる。
 勿論YESを選択すると、どこか聞き覚えのある優しいメロディーと共に『ルーセがパーティーに参加しました』とアナウンスが流れる。
「今の何? 何が起きたの?」
 アナウンスは彼女にも聞こえていたようだ。
「とりあえず成功したみたいだよ。まず頭の中で『システムメニュー』って思ってみて」
「……わかった」
 その直後、ルーセの前に見慣れたシステムメニュー画面が浮かび上がった……これは拙くないだろうか? 他の人に見えたら情報の秘匿も糞もあったもんじゃない。
 驚きのあまりに呆然としているルーセを無視して、システムメニューを開くと【良くある質問】先生に教えてもらう。
『パーティー加入者のシステムメニュー画面について』
 えっと……プレイヤー及び、パーティーに加入しているメンバー以外には見えません……よしOKだ!
「……これは何?」
 我に返ったルーセが当然の言葉を口にするが、それを無視して説明を始める。
「まず【パラメーター】と書かれた場所に意識を集中してみて」
 俺の言葉に黙って頷くと、画面が切り替わり【パラメーター】の下の階層が表示される。
「これが今のルーセの力を数字で表したものだよ……ブッ!」
 思わず吹いてしまった。この子……レベル1なのに、レベル1なのに【筋力】に表示されてる平均値が俺より高いよ。レベル24だよ俺……しかも年上なのに……死にたい。
「リューどうした?」
 力なく床に崩れ落ちて跪いた俺を不思議そうに見つめるルーセ。
「い、いや何でもないよ。ルーセが想像以上に強くてびっくりしただけだよ」
 そう誤魔化したが、びっくりして失神ならともかく跪く奴なんていねぇよ。
「ルーセが強いのは、加護のおかげ」
 そ、そうだよね。そうじゃなければ、俺の鳩尾くらいの身長しかない彼女に力で負けているなんてないよな……俺は一瞬で復活した。
「このシステムメニューを使えるようになると、魔物などを倒す事で自分を成長させて強くする事が出来るんだ」
「……狩をしていても、十分身体が鍛えられて強くなる」
 何を言ってるんだという風に、不審そうに見つめられると心が乾いちゃうよ。
「違うんだ。システムメニューでの成長は普通に狩などで身体が鍛えられる以上に力がつくんだよ」
 そう説明したが、何か納得できないといった感じだ。
 テレビゲームをした事の無い人間に、いきなりRPGのメニュー画面を説明しても簡単に理解出来ないよな。俺自身説明しようにも下地となる知識が全く無い相手にどう説明したものか分からない。
「これから一緒に狩りに行って、実際に試してみれば分かるよ」
「うん。リューと一緒に狩りに行く」
 どこか嬉しそうにそう答えてくれた。

 森の中を先導して歩くルーセ。その背中の背負われた弓は、彼女の筋力を活かしきれると思えないほど小さく、作りも拙く、もしかしたら彼女の手作りではないだろうか?
 これを使うなら【装備品】の中の弓の方がずっと良いだろう。そう思った俺は【装備品】から弓と矢筒を取り出した。
「これを使ってみてくれないかな?」
 そう言って弓と矢筒を差し出した。俺だって弓が使えないわけではない。セーブした後、何度もロードし直せば百発百中ではあるが……何百回もロードし直すのはもううんざりなんだ。
「良いの?」
「俺って弓が何というか上手く無くてね……多分ルーセが使ってくれた方が弓も喜ぶよ」
「お母さんの弓よりも立派」
 目を輝かせて弓を受け取ると、構えて弦を弾いたり引いたりしている。今まで気にした事も無かったが、最初から【装備品】に入っていた武器は結構良いものなのかもしれない。
「気に入ってくれた?」
「うん。ありがとう」
 そう答えたルーセの顔は、普通の子供の様な笑顔だった。
「じゃあ、その背中の弓に意識を集中した状態で『収納』と念じてみて」
「?」
 また不思議そうな顔をされてしまった。仕方が無いので左肩に担いでいた槍を彼女に差し出すと、敢えて「収納」と声に出す。
「……き、消えた」
 驚いてる驚いてる。目を見開いて驚いている。システムメニューが目の前に現れた時以上に驚いてる。新鮮だ。あまり感情を面に出さないルーセのレアな表情。これはじっくり鑑賞して完全記憶でお宝画像フォルダーに保存しておかなければ。
「昨日の夜、水龍の角を出すのを見ただろ。あれと同じだよ」
「!」
 首を上下させて頷き素直に感心してくれるとちょっと嬉しくなるのが自分でも分かる。
「じゃあ今度は剣を出すよ。装備!」
 次の瞬間俺の手に剣が握られているのを見て「おおっ!」と感嘆の声を上げる彼女に「これはルーセにも出来るんだよ」と教える。
「本当!」
 被り気味のリアクションの速さに一瞬退くが、期待に満ちたお子様の顔になっているルーセに自分の顔から思わず笑みがこぼれるのが分かる。
「本当だよ。だからさっき言ったみたいに背中の弓に意識を集中した状態で『収納』と念じてみて」
「やってみる! …………収納!」
 だから口で言わなくても念じるだけで良いんだよと思ったが、彼女の背中の弓が消える。成功だ。
「出来た! ルーセにも出来た!」
 興奮する彼女の頭に手をのせて「良く出来ました」と褒めてあげると、ルーセは少し不機嫌な顔をして「子供扱いはやめて」と言って睨んできた。

 その後、収納と装備の練習をするとルーセは直ぐに使いこなせるようになった。やはり小さな子供は頭が柔らかい。
「それじゃあ上級編に行ってみよう」
「上級編?」
「と言っても全然難しくないから安心してね」
 そう告げると辺りを見渡し一番大きな木に近寄ると、手にしている剣を収納した。
 そして「こっちに来て近くで見て」とルーセを呼び寄せる。
「いいかい、こうやって何も手に持たない状態で、手は剣を握る形にして、装備!」
 太さ50cmはあろう木を貫通した形で剣が手の中に出現する。
「!」
 無言で目を丸くして木を貫く剣を見つめる。木の後ろ側に回り込んで貫通して抜けた部分も確認してから初めて「凄い!」と言葉を発した。
 その言葉に気を良くした俺は剣を収納すると、立て続けに3度木を刺し貫いた。
 それに対するルーセの感想は「凄いけど、やりすぎ良くない」だった……反省。



[39807] 第21話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:36
 森の奥深くまで踏み入った俺達は、広域マップで周囲を確認する。
 この森はルーセにとって庭の様なものであり、彼女とパーティーを組んでる俺のマップ機能にも彼女の知識が反映されているために、広域マップの未表示部分は全体の2割程度だった。
「中心に見える青がルーセ自身。その隣に居る緑が俺。他の黄色いのが森の生き物達。そして今は居ないけど赤いのが興奮状態にある生き物を示すんだ」
「興奮状態?」
「戦っているのか戦うおうとしているのかどっちかだね」
「分かった。これ便利。気に入った」
 そう答えたルーセは直ぐにマップ機能を俺以上に使いこなす。俺と何が違うかと言うと広域マップ上にも生物のシンボルが表示されるが種族名などの表示は周辺マップだけだったのだが、彼女は広域マップ上の三角形の矢印のシンボルを見ただけで、それがどんな動物や魔物なのかを見極めてしまう、さすが猟師としか言い様がなかった。

 そこからはルーセの独壇場で、彼女は広域マップ上の獲物をどの順番に仕留めていくかを決めると「先に行くから後からついて来て」と言い残すと森の藪の中へと音も立てずに消えて行く。
 音を立てないように気をつけながら彼女の後を追うが、音を立てずとは行かない上にどんどんと引き離され、マップで確認しなければ見失うほど距離が開いた。
 やっと追いついた時には既に2頭の鹿もどきが倒されていて、ちょうど群れの最後の1頭目掛けて矢が放たれた。

『アピラティ3頭を倒しました』との討伐アナウンスに続き『ルーセのレベルが上がりました』とレベルアップのアナウンスが流れた。
「レベルアップしたけど、どう変わったかわからない」
「もう幾つかレベルを上げれば実感できるようになるはずだよ。とりあえずシステムメニューを出して【パラメーター】を表示してくれる」
 ルーセの前に現れたシステムメニュー画面を覗き込む。【筋力】の平均値の伸びが、俺がレベル1から2になった時よりも倍近く伸びている。つまり俺は一生、力でこの子に追いつく事は出来ないというわけだ。こんな小さな女の子に……欝だ死のう。
 つかもう要らなくない俺? この調子じゃ狩りでも力になれないし、このまま彼女が1人で狩をしてレベルアップを重ねれば一週間もかからずに火龍なんて一撃で殺せるようなるからさ。
「……うん。ちゃんと力は上がってるよ。伸びもかなり良い。それに他にも目なんかも良くなっているから今日一日狩をすれば、強くなった自分を実感できるよ」
 心で泣きながら面は笑顔。
「本当?」
「火龍を倒せる日もそう遠くないと思うよ」
 ルーセはもう2年近くも両親の仇を取るためにたった一人で自らの牙を砥いできたのだ。倒すべき仇の背中がはっきりと見えるところまで来たのだ感慨も深いだろう。
「そう……」
 しかし、そう小さく頷くルーセの顔には儚げな笑みだけが浮かんでいた。もう少し喜んでも良いんじゃないだろうか? ……何かが俺の胸の奥に引っかかる。

 その後、順調に狩が進んで俺のレベルは上がらないが、ルーセのレベルが5まで上がった。
「確かに強くなった気がする」
 弓を引きながら自分の筋力の上昇を確認する。
「遠くがよく見えるようにもなった」
 そう言って矢を番えると頭上に向けて弓を構えると、狙いをつける間もなく放たれた矢は高く飛ぶ鳥の群れの先頭を飛ぶ一羽の首を貫いた……何これ? 弓ってそういう武器じゃないよね? 動く標的へ狙いもつけずに射掛けて当たるものじゃないよね?
「でも弓だけじゃ火龍には勝てない」
 うん、その通りだね。まずは隙を突いて弓で目を射てもらう。普通なら片目を射るので精一杯だけどゴルゴさんの化身であるルーセさんなら一呼吸に二射し皆中させるのも難しくない。はっきり言って自分でもおかしな事を考えていると思うが、それ以上におかしいのは彼女の弓の腕だ。
 そして火龍の目を潰すと同時に俺が斬り込んで翼を奪い空へと逃げられないようにするとして、その後は接近しての打撃戦となる。だが彼女の得物は弓と解体用の短刀くらいだ。
「何か武器ちょうだい」
 うわっ! 図々しい。いきなり遠慮がなくなっているよ。だがそれは俺に対して心を開いてくれているということで、そんなルーセに「ちょうだい」と両手を差し出されては……
「……ではこれを」
 剣を鞘ごとルーセの両手の上に乗せと、彼女は鞘を払うと片手でブンブンと剣を上下に振る……弓は凄いが剣の扱いは、単に棒っきれを振り回しているようなもので微笑ましい。もっとも片手剣といえども全長は1mを超えるのでシュールといえばシュールな光景である。
「これ軽くて頼りない」
 剣を鞘に納めるとそのままつき返される……頼りないって、あんた何を言ってるんですか?
「もっと大きいのが良い」
 子供がおもちゃを強請るみたいに言われても、そこで俺は振れるものなら振ってみろと、半ば自棄になって長剣を取り出して彼女に渡す。
「ん、立派!」
 満足気に目を細める。そして長剣を右手一本で持つと、両足を肩の幅に開き、右肘を肩の高さまで上げて自分の目の前に長剣を寝せて構える……様になっているというか、剣先がピクリとも動かないってどういう事? 筋力の問題じゃなく、むしろ筋肉の性質上重たいものを持ったら必ず揺れるだろ。今まで自分が空手を通して身に着けてきた肉体への理解が崩壊しそうだ。
 そんな俺の苦悩などに気づく様子もなくルーセは剣を寝せたままに自分の頭の後ろに構え直す。
「ふんっ!」
 気合と同時に右足を剣先の方へと踏み出しながら長剣を薙ぐ、剣刃が空を斬り裂けば大気が轟と啼く……小さな身体の体幹を剣の重みに寸毫たりとも乱さぬまま行われた仕儀に、俺の心の中で物理法則が悲鳴を上げた。ファンタジーめ!
「気に入った。これちょうだい」
「ん……えっと、良いよ……好きにして……」
「ありがとうリュー」
 無邪気に笑いながら礼を言うルーセ……何とか兄貴とか隆と呼び捨てではなく、一度で良いからお兄ちゃんと呼んでくれないものだろう? などと思い始める自分が怖かった。

 その後、それまでの動物ではなく魔物を狙った狩りを始める。
「北東300m先に居るのは……スライム」
 スライム。ファンタジーの定番だ。ついに来たか奴らを倒す日が……だけど何で分かるんだ? マップ上では動かずにじっとしているだけだろ。
「どうやって判断したの?」
「このスライムの近くに居る5匹はゴブリンで、スライムに接近しても攻撃せずにすぐに逃げた。しかもゆっくり。だからスライム」
 つまり近くに居たゴブリンが襲わなかった段階で、ゴブリンが獲物にする生き物じゃない。そしてすぐに逃げたということはゴブリンにとって脅威だった。そしてゆっくり逃げたということは動きが遅い。この地域でそれに合致する生き物はスライムだと判断したわけだ。
「頭良いなルーセ」
「当然!」
 俺に頭を撫でられながら得意気に笑う。
「スライムの弱点は?」
「火か魔術。どちらも無いと苦労するので狩らない」
 そうか駄目か。間違っても「俺魔術を使えるよ」なんていう気はない。使えるのはどれも微妙すぎて言ったら恥をかくに決まっている。

「あっオーガ。しかも6匹」
 ルーセが新たなる獲物候補を発見した。
「周りに居るのはオークで良いのかな?」
「うん。オーガは大抵オークの群れを率いてる」
「でも何のために?」
「餌。お腹が空いたら食べる」
「じゃあ、オークは何のためにオーガに率いられてるんだろう」
「知らない。リュー質問ばかり」
 怒られた。
「他の獲物を探す」
 ルーセはあっさりとオーガを倒すのを諦めたみたいだ。
「オーが倒さないの?」
「オーガは弓じゃ倒せない」
「そのための長剣でしょ」
「!! そうだった」
「じゃ狩っちゃう?」
 ルーセは装備で右手に出現させた長剣を見つめながら「この子を使いこなせるかな?」と少し不安そうだ。
「じゃあ、俺一人で狩っちゃおうかな?」
「リューには無理」
 そう切り捨てられた。やっぱりこの子は俺のこと下に見てるよ。ちょっと便利な機能を与えてくれた駄目な兄ちゃん程度しか思ってないよ……さすがに俺も怒ったよ。見せてやろうじゃないか漢の戦いっぷりを!

「はっはっはっは、何を言う。このスーパーでグレイトなリュウ様がオーガ如きを倒せないなんて事はない!」
「無理。リューはヘタレ。狩り下手糞。音を立てるし遅い」
 この餓鬼やっぱり俺を舐めくさってやがる。
「まあいいさ。オーガは俺がちゃっちゃと倒してくるから、口先ばかりのビビリなルーセちゃんは物陰でブルブル震えてていたまえ。あっくれぐれもチビったりしないで──うぉ!」
 いきなり矢を射掛けてきた。久々の必殺コマ送りを使いながら飛んできた矢を人差し指と中指の間を通るようにしながら手を出来るだけ身体から遠ざけるように伸ばすと、矢が指の間を通る瞬間に手首を90度ひねる。某伝説的バイオレンス漫画の暗殺拳の使い手の様に飛んできた矢を相手に送り返すような真似は出来ないが、矢は狙いをそれて俺の右側を飛んでいく……いかん、挑発しすぎた。どうにも昨日の道場での感覚を引きずってしまった。
「そんなへな猪口な矢は当たらないよ」
 だが挑発はやめない。俺に当てる気で矢を放った。明らかなやりすぎだ。ここは一発ガツーンと教育的指導を食らわせてやらなければならない。
「うぉ! とか言ってビビってた」
「ビビッてませ~ん。矢がハエが止まりそうな程遅くてびっくりしただけで~す」
「その減らず口……叩き潰す!」
「泣かしたる!」
 そう言いながら俺はしっかりセーブした。

 ルーセは先ほどと同じように、右手一本で長剣を自分の頭の後ろで寝せて構える。
 俺は彼女の踏み込みを考慮したうえで判断した攻撃範囲のぎりぎり、生と死を分かつボーダーライン上をラテン系のボクサーのような軽やかなステップで舞う。
「ヘイヘイ! こっちは素手だよ。ビビッてるのかいお嬢ちゃ~ん」
 そう挑発すると同時に攻撃範囲の内側へと一歩踏み入る。
 その瞬間、鋭い気合と共に暴風の如き殺気の塊が飛んでくる。
「甘いな」
 俺は踏み入れた一歩でそのまま地面を蹴りヒョイと剣先をかわす。そんな大物を全力で振り切って外した時のリスクを教えてや──
「はっ!」
 ルーセは気合と共にもう一歩踏み込みながら振り切った長剣を持つ右腕の向きを返すと、柄を握る右手の上に左手を重ねるとそのまま力ずくで慣性を打ち消す。普通ならルーセの体重ではその力を支えきることは出来ずに体勢を崩して転倒するはずだが精霊の加護とやらで、そのまま振り切り斬撃を俺へと送り込もうとする──
 だがそれよりも早く彼女の懐に飛び込んでいた。
 所詮、飛び道具以外の武器による攻撃は遅い。これは動かしがたい事実だ。もちろん武器による攻撃の終速は無手の攻撃を大きく超える。故に武器による攻撃は強力なのだ。
 だが速く強力な打撃を生み出すためには多くの時間を要する。大きな予備動作。ため。始動から打ち込まれるまでの時間は、その攻撃が強力であればあるほど多く必要とする。
 故にルーセの圧倒的な身体能力と特殊能力によって初めて可能となった長剣による連撃さえも、その威圧に耐えられる精神力と一気に間合いを詰められる速さを持つ俺にとっては隙だらけだった。
「テイッ!」
 俺は気合と共に全身全霊のデコピンを放った。
 一撃で頭を仰け反らせて白目を剥いたルーセの手から長剣が飛んでいく……ホームラン。これは探しに行くのが大変な飛距離ですねぇ。まあ他人事だ。



[39807] 第22話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:36
「んっ!」
 ルーセが目を覚ました。
「えっ何?」
 だが彼女の両手首は後ろでロープで縛られていて、さらに両足首も縛られてそのロープの先は手首を縛るロープに結ばれていた。
「さてルーセ君。何か俺に言うことは無いかな?」
「…………変態」
「うっ!」
 俺のガラスのハートに突き刺さる言葉の刃。
 確かに人気の無い森の中で少女を縛り上げた男……まごう事無き変態である。俺が見かけたなら市民の義務として警察に通報するね。
「変態。変態。変態。変態。変態。変態。変態…………」
「違うでしょ! まずはごめんなさいでしょ! 何いきなり矢を射掛けてるの? 殺す気なの」
 今は心の方が先に死にそうだよ。
「むっ……だまれ変態!」
「ごめんなさいは?」
 俺に言葉にルーセはぷいっと顔を背け「リューが悪い」と呟く。
「よろしい。ならば……お仕置きだ」
「お仕置き?」
 ルーセは逃げようともがくが、常人の10倍以上の腕力があろうとも漫画じゃあるまいし丈夫なロープは引っ張ったり捻ったりするだけでは千切れる訳も無い。
「ふっふっふっふっふ……」
 笑いながら一歩一歩近づいていくとルーセの顔に怯えの表情が浮かぶ。
「謝るのなら今の内だよ」
「いや!」
 目尻に涙を滲ませながらも気丈に拒絶する。ここで怯んではいけない。俺は『大島。大島。大島。邪悪なるドSの神よ。我にSの心を宿した給え!』と胸の中で祈りを捧げる……よし、何か漲って来た気がする。
「俺もこんなことはしたくはないのだよ」
「ならやめればいい。今なら許してやる」
 この期に及んで上から目線。だがSの心を宿した今の俺にその挑発は命取りだ。
「……わかった」
「なら解いて」
「お仕置き執行!」
「や、やめてぇぇぇっ!」

 眼下には息も絶え絶えなルーセ。顔中を涙、鼻水、よだれで汚し、身体からは完全に力が抜けて時折ピクピクと痙攣させて無残な姿を晒している。
「やっちまった……」
 俺のお仕置き、2分間連続くすぐり無呼吸の刑の結果だ……ヘタレでごめんね。
「はぁ、はぁ……うぅ、変態」
 息を吸う事も出来ないほどの極上のくすぐりテクニックのせいで、まだ呼吸が荒い。
「謝りなさい」
「……ルーセ悪くない」
「そうか……」
 そう呟きながら両手の人差し指から小指を、某国民的アニメの超巨大虫の爆走時の脚部の様に動かす。
「ひっ!」
 自分で見ても気持ち悪い動きだ。彼女にとってどれほど気持ち悪いか想像に難くない。
「あやまりなさい。そしてからかわれた位で人に怪我を負わせるような暴力を振るわないと約束しなさい」
 ここはしっかり教育しなければならない。このままでは彼女は大島の様な人間にになってしまう……まあ、俺も他人のことは言えないが。
「……いや! ルーセは臆病じゃないのにビビり呼ばわりしたリューが悪い!」
「その前にルーセは俺をヘタレ呼ばわりしだろ」
「リューはヘタレ」
「そのヘタレに負けたルーセは、三国一のヘタレだ」
「くっ……リューは変態」
「……やっぱりお仕置き続行!」
「いやぁぁぁぁぁっ!」

「うぅぅぅ……ごめんなさい。もう暴力は振るわない」
 心が折られ泣きながら謝るルーセの姿に、正直やりすぎたと反省している……さすがにお漏らしさせたのは拙かった。
「分かったならもういいから、泣くんじゃない」
 ロープを解きながら慰める。
「もうヘタレって言わないから許して」
 ロープから自由になったルーセは泣きながらしがみ付いて来る……ああ、君ね。お漏らししたまましがみ付いたら……
「許す許す」
 ひざの上辺りに広がる生ぬるい感触に泣きたくなりながらも、そう言いながら頭を撫でてやる。するとすぐに落ち着いてきた。
「俺達は一緒に火龍を倒す仲間だろ。自分の相棒をあまり甘く見るなよ」
「うん」
「よし、それじゃこれからもよろしくな。相棒」
「うん……でも、やっぱりリューは変態」
 俺がまた両手の指を気持ち悪く動かすと、顔色を変えて飛びのく。
「ふぅ……もう変態でも良いから、早くこれに着替えなさい」
 そう言って【所持アイテム】の中から着替え用のズボンを取り出してルーセに差し出す。
「あっ!」
 ルーセはお漏らししていた事を思い出して顔を赤らめる。
「本当に変態」
 頬を膨らましてそう言いながらズボンを奪い取った。

 俺はもう一本ズボンを取り出すと、履いてるズボンを脱いで【水塊】を発動させる。
 水で手を濡らすとルーセの小水で汚れたひざを濡らして脱いだズボンの尻の辺りでふき取る。
 そして新しいズボンを履くと、汚れたズボンを水塊の中に放り込む。
 【水塊】や【水球】は球状の形を保つために中の水は回転しているので、その中に洗濯物を入れて回転速度を上げてやればちょっとした洗濯機だ。
「ああっ凄い! ルーセのも、ルーセのズボンも洗って!」
「はいはい。ズボンを渡しなさい」
 お母さんのように答えて、ルーセが差し出すズボンを受け取る……だが、彼女のもう一方の手には俺が渡したズボンがあった。視線を下に向けるとその下半身には何も身につけられておらず、毛も生えていない股間には縦筋が一本走ってるだけだった。
「早くズボンを履きなさい!」
 焦って、大きな声を上げてしまった。
「?」
 ルーセは不思議そうに首を傾げる……いや、そんな不思議そうな顔をされても困るんですけど。俺って何かおかしな事言ったの?
「いいから、はやく、ズボンを、はく」
 噛んで含むように言い聞かせると、納得した様でもないが「分かった」と答える。しかしすぐにズボンを履こうとはしない。
「どうしたの?」
「ルーセも洗いたいから水出して」
 そう言いながら自分の股間を指差す……思わずまた見ちゃったよ。
 俺はため息を吐いて【水球】を彼女が洗い易い高さに出して後ろを向いた。
 くすぐったら変態なのに、裸の下半身を見られるのは平気って、年頃の女の子の考えることなんてまったく分からない俺だが、年頃前の女の子の考えることもさっぱり分からん。

 ズボンを入れて10分間ほど回した後、中からズボンを取り出すと【水塊】を解除し、もう一度【水塊】を発動してズボンを放り込む。濯ぎの工程だ。
 濯ぎを終えると【操水】でズボンに含まれる水分を取り除き、わずかに残った湿り気はズボンを木の枝にかけて火属性の魔術である【操熱】でズボンの温度を80度ほどに熱して、風属性の魔術【微風】で風を送るとあっという間に洗濯が終了する。
 本当に俺の使える魔術って驚くほど日常生活向けだよな……戦闘にはそれほど役立たないのに。

「うう、大変だった」
 藪の中から長剣を担いだルーセが出てくる。俺にデコピンを食らって気絶した時に振り抜こうとして手から離れて飛んで行った長剣を回収してきたのだ。
 ルーセにはあえて「あっちの方へ飛んで行った」としか教えてなかったので、俺が洗濯している間ずっと探していたのだ。
「ところでルーセ。システムメニューを開いてみて」
「うん?」
 何故といった顔をしながらも素直にシステムメニューを開いた。
「【オプション】の【マップ機能】の【周辺マップ】の【検索】を開いて」
 システムメニュー画面を指差しながら指示していく。
「この検索項目という欄に注目して長剣と思ってみて……そうしたら今度は周辺マップを見る」
「あっ!」
 俺からは確認できないが、彼女の周辺マップには『長剣』という文字とその場所を示す矢印が表示されているはずだ。具体的に言うと彼女自身を指す矢印が。
「システムメニューって便利だろう。ちゃんと使いこなさないと勿体無い勿体無い」
 そう言いながら洗い終えた彼女のズボンを畳んだ状態でその頭の上に乗せた。
「うぅっぅぅぅっ、リューの馬鹿! バーカ! ヴァーカー!」
 睨み付けながら罵声を飛ばすが、今度は矢を射掛けてくることは無かった。


「じゃあ俺はオーガを倒しに行くけど。ルーセは見学してるんだよ」
「分かった。気をつけて」
 やはりルーセはまだ長剣の扱いにはまだ自信が無いようだ。それに彼女にはオーガ→矢では倒せない→強敵という長年の苦手意識もある。しかも先ほど長剣を使って無手の俺にあっさり負けているのでなおさらだ。

 まだ広域マップ内に止まっているオーガとオークの群れに向かって森の中を走る。いや進むと言うべきだろう。自重も糞も無く本気になった俺は、木の幹を蹴り木から木へと飛び、枝を掴み枝から枝へと渡る。
 まるで漫画の中の忍者のような人外の移動を続ける俺だが、地面を走りながらも俺の後をぴったりとついて来るルーセの方が人外という言葉がふさわしいだろう。何せ走る彼女の前にある下生えの草や潅木がまるで意思があるかのように避けて道を譲ってるのだ。
 そりゃあ音も立てずに俺より早く森の中を移動できるはずだ……つか、それインチキだろ! 精霊の加護かなんか知らんがインチキだよ。あの餓鬼、こんなインチキ使っておいて人を「狩り下手糞」と扱下ろしてくれてたのか?
 大体、一緒に行けば俺もあの恩恵を受けれたんじゃないのか? それをしないで俺には藪の中を走らせて棘とかで引っかき傷を作らせておいて自分だけ楽に移動していたのか……いい度胸だ後でもういっぺんお仕置きしてやる!

『セーブ処理が終了しました』

 群れの外周に位置するオーク達に狙いをつける。
 深い藪の中に潜むオーク達を、周辺マップは丸裸にしてくれる。枝を利用して上に跳び、上空から襲い掛かる。
 いきなり自分の真上に現れた俺の影に、驚き固まるオークの首筋めがけて槍を装備する。オークの首を貫き地面に突き刺さる形で出現した槍に肩、肘、手首を折り曲げた状態で体重をかけ、次の瞬間に槍を突き出すように各関節を伸ばしていき、伸び切る瞬間に槍を収納して反動で宙に飛び、次の獲物へと襲い掛かる。
 瞬く間に6体のオークを屠ると次の狩場へと移動して狩りを続ける。

「この深い森はオーガにとっては命取りだな」
 既に周辺のオークの半数は討ち取っている。その戦いの中でオーガとも接敵しているが簡単に引き離すことが出来る。
 前回オーガと戦った時は同じ森の中とはいえ馬車の通れる道があった。道の上の移動ならオーガはその長いストロークと圧倒的な筋力で今の俺よりも速く走れるだろう。
 しかし、ここではその大きな身体が仇となり足場が悪く木々が邪魔をして直線的に走れないために移動能力が著しく制限される。
 他のオーガから距離がある1体に狙いをつけると一気に距離を詰めた。
 木々の幹の間を跳躍しながら接近する俺に気づいたオーガはその武器である巨大な棍棒を右肩の斜め上に構える。
 だが俺は構わず正面から突っ込む。
 飛んで火に居る夏の虫とでも思ったのだろうか、オーガはにやりと獣じみた笑みを浮かべると空中であり軌道の変えようの無い俺に向かって棍棒を斜めに振り下ろす。
 それを待っていた俺はシステムメニューを経由して【所持アイテム】からあるものを取り出す。
 次の瞬間俺の目の前に現れたのは一番短い径でも1mはある岩だった。それを足場にして蹴るとオーガ目掛けて加速する。一瞬送れて棍棒は岩を打つと粉々に砕け散った。
「ウガァ!?」
 目の前で起きた事が理解出来ずに、迫る俺を呆然と見つめるオーガの額を目掛けて槍を装備する。
「まず一体!」
 そう呟くと脳を破壊されて崩れ落ちるオーガの頭を踏み台にして、更に高く俺は跳躍した。

 オーガとオークの討伐アナウンスとレベルアップのアナウンスを聞きながらルーセの待つ場所へと戻る。
 ちなみに俺は3レベル上がってレベル27で、ルーセにいたってはレベル15まで上がっていた。
「こんな短時間に6体のオーガとオークの群れを、しかもあんな戦い方で倒す。やっぱりリューは変た──」
 出迎えてくれたルーセに最後まで言わせず、その頬を左右から摘んで引っ張る。
「いひゃい!」
 抗議するルーセに対して、俺はにこやかに話しかけた。
「ルーセ君。ルーセ君。君ねさっき俺を追いかけてた時、君の前に何故か道が開けてたよね?」
「あふ……」
 拙いものを見られたと言わんばかりに彼女の視線が宙を泳ぐ。
「そう言えば、俺が移動する時に音を立ててうるさいとか遅いとか言ってなかった?」
 微笑みながっら語りかける俺にルーセは硬直した。
「だったら酷い話だよね。自分はあんなズルしながら移動してたのに、普通に藪を掻き分けて一生懸命移動してた俺にそんなことを言うなんて?」
 そう言って彼女の頬から手を離す。
「ごめんなさい…………お仕置きするの?」
 謝った後、泣きそうな目で下から見上げてくる……それだけで怒りが引いていく。
「はぁ……まあ、良いから、倒したオーガとオークを回収してきて。触って収納と思えばしまえるから」
「分かった」
 俺の怒りが収まったのが分かったのか笑顔を浮かべると元気に走って森の中へと入っていった。



[39807] 第23話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2015/07/19 22:03
 朝、目覚めると隣に女の子は寝ていないが、目の前に犬の顔があった。
「おはようマル」
「わぅん」
 甘えるように鳴くと顔を舐めてくる。おかげで朝っぱらから犬臭いよ。
 ベッドの上に上がっていたマルを抱き上げて床に下ろす。
「いいかマル。ベッドの上に上ったら駄目だぞ」
 そう諭すも、効き目があるとは思えない。何を言われてるのさっぱり分かっていない様子で俺の膝に頭をこすり付けている。
「こらっ」
 マルの頭を軽く叩くと「きゅ~ん」と鼻を鳴らして床の上で服従のポーズをとる……確か、服従のポーズをすぐにしてしまう犬って自分に自信がないとか動物番組で言ってたような。でもマルは尻尾をパタパタと振り、期待に満ちた目で俺を見つめている。まるで「ご主人様。怒らないで、あたしのお腹でも撫でてご機嫌を直してください」と言ってるような気がする。
「はいはい。わかりましたよ」
 基本的にマルには甘い俺は、お腹を撫でてやる気持ち良さそうに目を細め、更に首を伸ばしてそこも撫でろと要求する始末だった……自信がないのではなく単なる甘えん坊だと思いながら首も撫でてやるのであった。

 マルと散歩から帰って来ると、家の前に車が無かった。
「ただいま。こんな早くから父さんどこかに出かけたの?」
 玄関でマルの首輪を外しながら、出迎えてくれた母さんにそう尋ねる。
「涼(すず)とリーヤちゃんを駅まで迎えに行ったの」
「……えっ? 今なんと」
「だから涼がこっちに用があって家に来るのよ。来月からの柔道の大会で海外遠征がどうのとかで保護者の署名と判子が必要だって、それにリーヤちゃんも実家が北海道でしょ、学校への保証人はお父さんだから……それで始発の電車でこっちに来るから駅まで迎えに来てって電話があったの」
「じゃあ──」
「じゃあ母さん、俺は今日は図書館行って勉強してくるから」
 そう言って俺の横を通り過ぎようとする兄貴の肩を掴んだ。
「待てや」
「放せ、隆!」
「こんな時間から図書館は開いてないだろ」
 今は7時を過ぎたばかりだ。
「市立図書館に歩いて行くんだ。少し身体を動かした方が勉強もはかどるんだよ。だから放せ。放してくれ」
 確かに時間的には丁度良いのかもしれない。理由も正当だ。そして言葉通りに市立図書館まで歩いて行き、閉館まで勉強してから帰ってくるのだろう……兄貴には遊ぶ友達が居ないからな。
 だが嘘だ。勉強するために図書館に行くのではなく我が家の末っ子である涼に会うのが嫌で逃げるのだ。
「俺も行く!」
 はっきり言って俺も嫌だった。
「よし40秒で支度しろ!」

 俺達兄弟の妹である涼(すず)は武闘派である。しかも俺のような空手部に入部したという後天的な原因ではなく、生まれついての武闘派だ。
 生後数日にして、妹との初対面に喜び、その頬を触ろうとした兄貴の指を赤ん坊とは思えない握力で掴むと捻って脱臼させると言う惨劇を引き起こしたことを初めとし、その手の話題には事欠かない奴である。
 ともかく物事を力による解決する性質で、しかも無駄に正義感が強い。兄貴も俺も涼の将来を危ぶみ、その性格を改めようと色々と試みたが悉く失敗に終わった挙句に、俺達が2人でグルになって自分を責めると思い込んでしまった涼は俺達を嫌うようになってしまった。
 更に幼稚園の頃から柔道を始めると余程向いていたのか、めきめきと腕を上げて小学校に上がる頃には3年生の俺と6年生の兄貴では手に負えない状態になってしまった。
 その結果、妹と俺達兄の間には深い溝が出来てしまい。俺達の方も腕ずくでも勝てず、理を尽くしても通用しない──残念ながら典型的脳筋だった──涼を持て余し、やがて敬遠するようになっていた。
 今にして思えば、力も理も駄目なら情に訴えるという手段もあったのではと後悔しないでもないが、当時小学生で頭でっかちだった兄貴と俺には無理な話だった。そして今となっては感情の拗れが大き過ぎていて関係修復も難しい。
 そして先月、涼が東京の柔道の名門校の付属中学にスカウトされて家を出た時、正直ほっとしている自分が居た。

 自分の部屋に戻り、ジーンズにTシャツに着替え、パーカーを手にしたところで家の前から車のエンジン音が聞こえてくる。
「マジ!?」
 窓から左手の玄関側を見下ろすと父さんの車が車庫入れ体制に入っている。
「隆。すまんな先に行かせてもらう」
 右手の庭の方には兄貴が居て、そう言うと庭の垣根の隙間を通って隣の家の庭を抜けて走り去って行った。
「すまんじゃねぇよ……」
 窓際に崩れ落ちると窓の向こうから涼の声が聞こえる。
「母さんただいま!」
 男親である父さんは涼に甘いし、母さんも一人娘を可愛がっていてるので両親とは仲が良いのだ。
「おっマルじゃないか。こっち来い!」
 そう呼びかけるが、マルも決して自分をいじめる訳ではないが粗忽で気分屋の涼を苦手としている……というか涼が居なくなって明らかに生き生きとしている。
「こらマル。逃げるな」
 玄関からチャカチャカと床を爪で鳴らしながら走ってきたマルが、部屋へと走り込んできて俺の後ろに隠れる。それから数秒遅れて涼が部屋に飛び込んできた。
「……何だ隆、居たのか」
 途端に不機嫌そうに表情を変える。
「マルをいじめるな」
「ふん、一ヶ月ぶりだというのに挨拶も無しにそれか」
 履き捨てるような言葉にまるでチンピラを相手にしているような錯覚を起こす。
 見た目は決して悪くは無い。小柄だが引き締まった身体で、顔立ちも母親譲りの可愛い系だ。だがそんなベースとなる顔立ちも精悍というよりは粗暴さ感じさせるな目付き、俺を皮肉るために歪められた唇が全て台無しにしていた。
「そういうのは自分から挨拶してから言うものだ」
 そう返す俺の声も冷え込む。
「くぅ~ん」
 そして2人の間に流れる冷たい空気にマルは怯えた。

「出かけるならさっさと行けよ」
 俺が手にしているパーカーを一瞥して涼が言う。
「ああ、折角の休みだそうさせて貰う」
 出入り口の前に立つ涼の横を通って部屋を出る……マルもこっそり俺に続く。
「はっ、逃げるのかよ」
「お前がどう思うおうが、俺の知ったことじゃない」
 そう吐き捨てると財布をジーンズの後ろポケットにねじ込み、その場を立ち去る。どうして妹と話してるだけで、こんなに心がささくれ立たなければならないのだろう……

「あっ! リューちゃんだ。オイーッス! 久しぶりだね」
 制服姿の明るい栗色の髪をポニーテールにした少女が話しかけてくる。彼女は長家 イスカリーヤ(おさいえ いすかりーや)。その名前と色素が抜け落ちたような白い肌と明るい鳶色の瞳。そして日本人離れしながらも日本的な匂いを残した異国情緒を感じさせる美しい顔立ちが示す通り、母方の伯父とロシア人の母の間に生まれたハーフ。つまり俺の従妹だ。
 涼と同じ東京の中学校に進学し、同じく柔道部に所属している。そして女子柔道ジュニアの日本代表で、同じく日本代表である涼のライバルで親友だ。
「久しぶりだなイーシャ」
 母さん達は彼女の事をリーヤと呼ぶが、俺はイーシャと呼んでいる。ちなみにイーシャは俺のことは隆をリュウと読んでリューちゃんであり、兄貴は大(まさる)を普通にダイと読んでダイちゃん。涼(すず)もりょうと読んでリョーちゃんである。
「リューちゃんまた大きくなってる!」
「イーシャもな」
「へへ~、胸も大きくなってるよ」
「いらない情報だな」
「何お~! 82のCだよ。耳寄り情報だよ」
「あぁぁぁぁぁ聞こえない。親戚のそんな話は聞きたくない」
「こんな美少女のバストをそんな呼ばわりするなんて、この草食系め!」
「俺は肉食どころか草すら食ってないよ」
「うわぁぁ……」
 さすがにイーシャもドン引き。父さんは息子が不憫すぎて泣いてるよ。
「ま、まさかの断食系……んにゃ光合成する水耕栽培トマト?」
 ……失礼すぎる、事実だけに。
「じゃあトマトは南米の高地に帰るから後はよろしく」
「えぇぇぇぇっ! 出かけちゃうの? 久しぶりなんだよ一緒に遊びに行こうよ。デートだよデート。サービスしますから~ぁ」
「用事があって来たんじゃないのか?」
「あっ、そうだ」
 イーシャはカバンから書類を取り出すと母さんに渡して「よろしくお願いしま~す」と頭を下げて戻ってきた。
「よし行こう!」
「……はい、はい?」
 イーシャに腕を引かれながら家を出た。

「ところで遊びに行くって、こんな時間じゃ何も無いだろ」
「朝ごはんまだだからハンバーガー! モーニングセット食べたい! リューちゃんおごってね」
「しゃあないな……」
 俺も朝飯はまだだし丁度良いタイミングだった。
「寮だと栄養管理された決められたメニューしか食べられないの。学食だって柔道部は専用のメニューしか出してもらい無いの。可哀想でしょう? ジャンクフードに飢えても仕方ないよね」
 イーシャは俺の肘の辺りに腕を絡めると「たべるぞ!」と叫んでぐいぐいと引っ張って行く。
「おい、胸当たってるぞ」
「えへへ~、サービスサービス!」と言いつつ、顔が赤い。恥ずかしいならやめてくれ。恥ずかしくなくてもやめてくれ。俺が恥ずかしいんだ。

「わーい。アメリカ帝国主義の堕落した食べ物だ!」
「お前はいつの生まれだよ?」
「ママがそう言ってたよ」
 そう言えば伯母さんはソ連崩壊時には確か十代半ばか……ある意味歴史の生き証人だね。そんな本人の前では決して口に出来ないことを考えてしまった。
「う~ん、大して美味しくないのに堪らないな~。これがジャンクフードの魔法だね」
 うれしそうに頬張る。ああケチャップが顎に付いて。思わず手を伸ばして紙ナプキンで拭いてやる。
「全く子供だな。たっぷりの脂質に過度にエッジの効いた味付け。ジャンクフード効果に踊らされて」
 思わず手が伸びてしまった自分の行動が気恥ずかしく感じて、そんな事を言って誤魔化す。
「何? ジャンクフード効果って」
「塩分や香辛料が多く含まれた食べ物を口にして舌に強い刺激が加わると、脳は痛みを覚えたと判断して、痛みを中和させるために脳内麻薬を分泌するんだけど、これには麻薬にも負けない強力な快楽物質も含むんだよ。ところが脂質つまり油が口の中に広がると味を感じる味蕾という感覚細胞を被ってしまい、舌への刺激を遮断してしまうんだ。すると痛みが継続するものとして分泌された脳内麻薬の量が実際の痛みに対して過剰となり、気持ち良さを感じるんだ。だからイーシャはジャンクフードは大して美味しくないのに堪らないと感じたわけだ」
「う~ん。良く分からない」
 そうだろうね! 俺だって脳内麻薬と言う単語が出た段階で、この脳筋娘には理解出来ないだろうなと思ったよ。
「うん、リューちゃんは理屈っぽすぎるよ。もう少し単純に生きればリョーちゃんとも仲良く出来るのにな~」
 さらっと重たい事を言いやがって。そんな事は俺だって分かってる。だけどさ……
「簡単に自分を変えられたら苦労しないよ」
「だよね~」
 一緒にため息を漏らす。
「涼との仲を取り持つために誘ったのか?」
「ち、違うよ。単に私がリューちゃんと一緒に居たかっただけ」
「そうか……」
「そうよ……」

「ありがとうな」
「……うん」
 イーシャは照れたように笑う。良い子に育ったもんだ。
 それに比べて俺は……昨晩異世界の森の中で8歳位の女の子をロープで縛り上げて、その子がお漏らしするまでくすぐり続けたんだぜ。
 死んだ方が良いよな? つか誰か殺してくれ!



[39807] 第24話
Name: TKZ◆504ce643 ID:6ed73f8b
Date: 2014/06/24 19:38
「学校生活はどうなんだ?」
 自己嫌悪から逃れるために話題を変えた。
「柔道をやるには良い環境。それ以外は全てが窮屈かな」
「窮屈……か」
「生活の全てが柔道の腕を磨くためにあるって感じ。その事が常に意識させられるの」
「それは凄いな」
 俺達も必死に空手の技を磨き続けてきた。だが常に意識していたのはどうやって大島を倒すかという一点のみ、その方法は空手である必要は無く手段は一切問わない。
 故に俺達の戦い方は普通の空手という括りからは逸脱している。さすがに目を突いたり金的を潰すような相手を壊す真似はしないが、隙があれば相手を掴んで投げるし関節技も使えば、打撃も掌底や裏拳から身体の中の硬い部位ならどこでも相手に叩きつけることを躊躇しない。
 更には相手の足の甲を踏みつけて動きを封じ、ついでに足の親指で相手の足の小指を蹴るセコイ技など、普通の空手のルールなら反則のオンパレードだった……あれ? もしかして俺達が得意なのは喧嘩であって空手ではないのかもしれない。
「リョーちゃんは、そんな生活に不満は無いみたいだけど……」
「まあ、あいつはなぁ」
 5歳の幼稚園児が、親から勧められた等ではなく自分の意思で「柔道をやりたい」と言い出したのだ。
 それからは一意専心。正直に言って「この子頭おかしいんじゃないのだろうか?」と不安に感じるほど柔道に打ち込んできた。
 今にして思ってみても、幼い涼に耐え切れるとは思えないほどの厳しい練習を自分に課し、それを苦と思っていた様子も無い。
 柔道の申し子。柔道というモノが涼という人間の何処かぴたりとはまり込み、柔道を得て人間として完成したとしか思えない。それほどまでの成長を遂げる。
 それは小学校に進み、歳を重ねても変わらなかった。彼女が柔道で強くなるためのいかなる試練や努力を疎むことは無いだろう。
「リョーちゃんは本当に柔道が好きだからね」
「イーシャは違うの?」
「私は……私はママに勧められて始めただけだから……」
 伯母さんは若い頃は柔道でロシアの代表にも入る程の腕前だったと聞いたことがある。確か国際試合で日本に来て、伯父さんと知り合ったとか……詳しい話は知らないんだけどな。
「柔道をするのは楽しかったし、私に向いてはいたんだろうけど、このままずっと柔道だけをやっていて良いのかなって思わなくも無いんだよ」
「何かやりたい事がみつかったのか?」
「ううん、でも何かやりたいことを自分で見つけたいって時々思うの」
 何処か遠くを見るような目で、心の中の思いを口にするイーシャは俺が思っていた以上に……
「とりあえず恋がしたい! リューちゃん私と一緒に恋をしようよ」
 ……馬鹿な子だった。
「恋ってそういうもんじゃないだろ」
 恋もした事の無い童貞坊やが分かったようなことを言ってみる。
「私は昔からリューちゃんの事好きだよ。分かってるの?」
 さっぱり分からんかったよ! えっ、何で? そんなサインが何処かであった? 何かを見逃してたの?
「どうせ気づいてなかったんでしょ。鈍感」
 ため息混じりに睨まれる。
「はい。すいません」
「それで……どうするの?」
 そう言うとドリンクに付いていたストローを口にくわえて、こちらに袋を飛ばしてくる。
「?」
 それでと言われても……顔に飛んできたストローの袋を指で摘んで首を傾げる。
「不思議そうな顔しないでよ! だ、だから、私と……えっと……ほら、付き合うとか……ね」
 
「良く分からないんだ……イーシャの事は嫌いじゃない。むしろ可愛いと思ってる。だけど恋とか、やっぱり良く分からないんだ」
「この、ぼく……捻転?」
「……多分、朴念仁なんだろうけど、むしろ朴念仁は無愛想とかの意味で、男女の情に鈍いのは木石とかじゃない?」
「くっ……に、ニホンゴムズカシイネ!」
「おめえは生まれも育ちも日本だよ。悔しかったらロシア語で話してみろ」
「……ボルシチ、ピロシキ、イクラ」
「全部食い物じゃないか!」
「良いじゃない! ママだって日本のテレビを見ながら『やっぱり私は日本に生まれてくるべきだった』と言うぐらい日本贔屓で、家ではロシア語なんて全然使わないんだから」
 そう言えば、背が高くて肩幅もあり、胸も大きく足も長い伯母さんは、どうしても着物が似合わないと愚痴るほど、どっぷり日本文化に浸っていたな。
「あっ! 大体リューちゃんだって『恋ってそういうもんじゃない』とか言ったじゃないの」
 余計な事を思い出すんじゃない。
「男の子には張らなきゃならない見栄があるんだよ。察して頂戴!」
「じゃあ私の気持ちも察してね」
「うっ……だけどさ、俺は何かお前のそういう素振りとか見逃してきたか?」
「馬鹿……サービスしたじゃない」
「サービス?」
「腕を組んであげたし、胸も押し付けてあげた。それに胸のサイズも教えてあげた」
「あのな……普通、胸のサイズは好きな男には教えないだろ」
 どう考えても子供の無邪気さか、それとも気を使わずにすむ気安い相手にとしか思ってない場合だろ。
「また見栄張ってる」
「これは一般論だよ。常識の範囲。童貞にだって分かる話だ」
「……そうなんだ」
 いきなりイーシャがニヤニヤし始めた。
「何だよ?」
「リューちゃん童貞なんだ」
 べ、別に中学3年生が童貞でも全く不思議じゃないだろ。むしろ童貞じゃない方が少数だろ……だよね?
「……悪いかよ」
「全然。リューちゃんが未だなら、私もゆっくり女を磨いて待っててあげる。最終的に私がリューちゃんの初めてを貰えれば良いんだし……」
 何だ? この恐怖感は……まるでジャングルで巨大な虎と至近で遭遇してしまった豆鹿のような気分は?

「よう高城。ずいぶんと楽しそうじゃないか?」
 いきなり肩に手を置かれる。
 驚いて振り向いた先には櫛木田と伴尾、そして田村の空手部の3年生が立っていた。
「おう、どうした3人揃って?」
 そう尋ねた瞬間、3人から殺気が叩きつけられる。
「可愛い外人の女の子と楽しそうにモーニングセットを囲うような高城大先生からしたら、男3人でモーニングセットを食べる俺達なんて不思議で哀れでみっともない存在だよな」
 伴尾が暗い笑みを浮かべている。
「何を言ってるんだ?」
「ちょっと面貸してくれないか?」
「いや、未だ食べ終わってないし──」
 俺の肩に置かれた手に力が入る。普通なら痛みに声を上げるの程の力が加わっているのだろうが肩に力を入れながら肘を上げると、体積の増した筋肉により厚みを増した肩は掴めなくなる。
「そこは空気を読んで素直にYesかハイで答えろよ」
 伴尾と田村が理不尽なことをいいながら、俺の脇の下を通して肩を掴み引っ張り上げて強制的に立たせると、そのまま店外へと引きずり出された。

「こんな所で何だよ?」
 路地裏まで連れてこられた俺は櫛木田達に問いかける……まあ理由は大体察しはついているけどな。
「俺は、俺はお前を殴らにゃならん!」
「俺もだ!」
「俺もそうだ!」
「……だが、出来るのか? 男3人でモーニングセットを侘しく突っつくようなお前らに」
 あっ、一斉に膝から崩れ落ちた。脆いな……豆腐メンタル。
「裏切り者ぉ~、何でだよぅ、空手部の主将、モテナイズのリーダーの癖してぇ~」
 田村が半泣きで怨嗟の声を上げる。
「そんなチームを結成した記憶は無い!」
「ずるいぞ高城ぃ~俺にも女の子紹介しろ」
 伴尾。昔の見合いじゃないんだ。紹介されても相手には断る権利があるんだぞ。俺達の打率を考えてみろバッターボックスに立つだけ無駄ってもんじゃないのか?
「何で高城なんかにあんな可愛い子がぁ~」
 高城なんかと言われても、俺はお前と違ってちょっとワイルド過ぎるけどイケメンの範疇だろ……そうだよな?

「言っておくがイーシャは従妹だぞ」
 鬱陶しく面倒くさいのでネタ晴らしをした。
「な、なんだってぇぇぇぇっ!」
 重力を無視したかのように勢い良く立ち上がる3人。
「イーシャさんって言うのか……詳しく!」
 気持ち悪いほど顔を近づけ、気持ち悪いほど声を揃える。
「俺の伯父さんがロシア人の奥さんをもらって生まれたのがイスカリーヤだ。気安くイーシャと呼ぶな」
「そうか、イスカリーヤか……まるでロマノフ王朝華やかかりし時代。王宮の華と謳われる美しき貴族の令嬢を想像させる美しい名前だ」
 櫛木田。お前、何を言ってるんだ? ……友人が遠くへ行ってしまったような気がする。
「ロシア語か? やっぱりロシア語で話さないと駄目なのか? くそ~っ言葉の壁が」
「あのな田村、イーシャは日本生まれの日本育ち日本語がネイティブな、コテコテの日本人だぞ」
「それは素晴らしい! 高城ぃ、紹介してくれ、是非とも紹介してくれ、紹介してくれないと呪うぞ!」
 血走った目で俺に迫る伴尾。こんな女に飢えて必死過ぎる奴が近寄っただけでイーシャが妊娠するわ。
「お前みたいなケダモノに、可愛い従妹を紹介できるか。さっさと男3人で寂しく映画でも観に行け」
「よ、よくも図星を言い当ててくれたな……それを言ったらもう戦争だろう。覚悟は出来てるんだろうな?」
「ふん、お前ら如きの行動を読めない俺と思うか? ……大体、俺だってイーシャが家に来なかったら1人で図書館に行くつもりだったんだからな」
 ……俺達モテナイズ4人は肩を抱き合い泣いた。



[39807] 第25話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 19:43
「リューちゃん用事はすんだ?」
 自分の腹をさすりながら満足気な顔でイーシャが現れる……こいつ食ったな。自分の分だけではなく未だドリンクを一口しか手を着けてなかった俺のモーニングセットも食いやがった。
「……ご馳走様でした~」
 俺の食い物の恨みを込めた視線から言いたいことを察したのだろう。にっこりと笑顔でそう付け加えた。
「それで……こんなところで何してるの?」
「ああ、こいつらが──」
「高城の『友人』で同じ空手部の田村です」
「同じく高城君の『友達』の伴尾です」
「僕は隆君の『親友』で空手部の副主将をしている櫛木田と言います。どうぞよろしく」
 俺を押し退けて前に出る3人……友達まではともかく親友は無い。それに必死すぎる満面の笑みが気持ち悪いわ。
「えっと……よろしくね」
 イーシャは3歩下がって挨拶した。あまり人見知りするような子ではないのだが、こいつらに対しては人見知りして正解だ。

「リューちゃん、この人達って?」
 俺の耳元に小声で話しかけてくる。
 言いたいことは分かる。確かにイーシャは美少女と呼んでも誰からも異論は出ないほど顔立ちは整っているが、ほんの少し前までは小学生だった彼女は余り男に言い寄られると言う経験はしていないはず。何故なら日本人離れした容貌と既に170cm位はある彼女は男子児童には手に余る存在だった。
「女にもてなさすぎて必死なんだよ」
「必死です!」
「命がけで必死です!」
「だから、どうかチャンスを」
 俺の言葉に3人は思いっきり同意した。
 こいつらにとっては、逆に彼女の日本人離れした容貌が、空手部ということだけで自分達に怯え敬遠する女子達の態度によって植え付けられたトラウマを余り刺激しないのもあるだろうし、しかも同じ学校では無いと言うことは無条件に嫌われることも無いと言うのも大きい。だから必死にもなる。その気持ちは分かるがはっきり言って気持ち悪い。
「でも……そんなに見た目とか悪くないよね……うん、普通かちょっと良いくらい?」
 そう言いながら眉を顰める──眉は顰(ひそ)めて、顔は顰(しか)める、同じ漢字で意味もほぼ同じなのに日本語ってやつは難しい──多分、誤解してるな。こいつらの内面に何か女性に持てない重大な欠陥を抱えているのでは無いかと……
「こいつらの名誉のために言わせてもらえば、性格もおおむね普通だし、変な趣味も無いぞ」
 同じ十字架を背負うものとして一応フォローだけはしておいてやる。実際変な趣味を持っているのは、今この場には居ない紫村だけだし。
「じゃあ、どうして?」
「……何が悪かったのかなぁ。どうして中学で空手部になんか入ったんだろう」
「そもそも、小学校の頃に空手をやったのが拙かった」
「他にも部活は沢山あったのに……」
「初志貫徹でバスケ部に入っておけば……」
 俺達4人の心の傷が疼いた。

「へぇ~空手部ってそんなにすごいの?」
 空手部の話を聞いたイーシャの感想には胡散臭いという思いが込められていた。
「でも『こうやの7人』とか話を盛ってない? 幾らなんでも武器を持った20倍の敵を相手に素手でじゃ勝てないよ」
 そうだよな、普通は信じられる話じゃない。でもS県外の人間なら当然の反応だ。
「じゃあイーシャ。試しにこいつを投げてみてくれ」
 俺は伴尾を指差す。
「俺か? まあ、俺が一番弱いし妥当か……」
 伴尾は俺の意図を察した上で、全く気にした様子も無く冷静に認めた。
「リューちゃん。私は一応柔道の日本代表だよ」
「大丈夫。イーシャには絶対怪我をさせないから……つかさせたら今日がこいつの命日だ」
「そうだな」
「確かに」
 俺の言葉に櫛木田と田村が同意する。
「お前らな」
 余りの友情の篤さに伴尾が感激している。皆まで言うな。お前の気持ちは俺達がちゃんと理解している。

「違うわよ。怪我をさせたら私が困るの。そんな不祥事を起こしたら来月の大会には出られないし、それどころか学校を退学になるかも──」
 だがイーシャは納得できないようだ。
「大丈夫。万一伴尾が投げられて骨でも折ったら、俺がその上から複雑骨折させてイーシャは無関係ってことにするから」
 打撲・捻挫は怪我の内には入らない。これ空手部の常識……うん実に嫌な常識だ。
「いや待て、普通にお前が俺を骨折させたことにすれば良いだろう。何で複雑骨折まで──」
「1年生の女子に投げられて骨折しましたなんて大島に知られたら……どうなる?」
「主将。複雑骨折でお願いします。ぜひお願いします」
 伴尾は即答し深々と頭を下げた。

「……どうやら私舐められてるみたいね」
 イーシャの声色が変わった。今までの街中にいる軽い女の子のような雰囲気は消えて殺気すら漂わせている。
 自分を完全に格下扱いする俺達に日本代表としてのプライドが傷つけられたのだろう。
「リューちゃん、私、本気で行くけど良いのね?」
「いつでもどうぞ」
 構えも取らず伴尾がイーシャを挑発する。
 次の瞬間、イーシャは滑る様に『田村』の懐に飛び込んで、彼の着ているジャケットの襟へと両手を伸ばす。
 完全な不意打ちだった。田村は「うぉっ?」と声を上げて驚きの表情を浮かべ、逆にイーシャは勝利の笑みを浮かべる。
 だがイーシャの笑みはすぐに凍りつく。彼女の腕はまるでワイパーに取り除かれる雨粒の様に、田村の左腕に右上から払われて、同時に右腕で右下から払われる。しかも田村の右手の親指は右腕の手首の内側を押さえ、残りの4本の指が甲を掴み、そのまま捻ってイーシャの右腕の手首を内側に返して固めている。田村は意表を突かれながらも難なくイーシャの攻撃をさばいたのだ。
 田村はそのまま掴んだ腕を引いてイーシャの体勢を崩す。そこから右手の方へと左足を踏み込んで投げに入る。もし低い位置で手首を固めたまま投げれば彼女は自ら飛んで地面に転がることになるだろうが、田村は高い位置で投げに入った。
 イーシャが柔道の日本代表だと知っての判断だろう。イーシャならば重心が高い位置で投げたら、自ら飛んで前転宙返りをして足から着地することも出来るはずだと考えたのだろう……紳士だな田村。
 ふわりとイーシャの身体が自らの跳躍で宙に飛び、両足を抱え込んで身体を回転させ足を地面に向ける。そして彼女の短いスカートの裾がふわりと浮き上がり、白い下着に包まれた中学1年生とは思えない形の良いヒップを全て晒し出しながら綺麗に着地を決めた。
「白だ!」
「純白だ!」
「まぶしい程に白!」
 誰が紳士だ? 変態だよこいつらは!
 ガッツポーズを取る田村の向こう側で、イーシャが顔を真っ赤にして自分のスカートの裾を押さえ、を泣きそうな目で俺を見た。
 その瞬間、俺の頭は真っ白になる。
 手加減なしに動いた俺は、一瞬で喜び浮かれれる3人へと間合いを詰めると懐に飛び込み腹へ一撃を加えた。
 さすがに殴る力は加減している。精々小学校低学年の児童が頭を叩かれて「痛いよぅ、オカァーサンッ!」と泣き叫ぶ程度の威力だ。しかしガードするどころか腹筋を締めるという最低限の防御すら間に合わないタイミングで攻撃を加えられたことで、空手部の基準で言うと「優しく撫でる」というレベルの打撃でも、拳は柔らかなままの腹部に簡単に、そして深々と突き刺さり甚大なダメージを与えた……意識して腹筋に力を入れない状態で軽く腹を殴ってみれば、想像できない程にあっさりと拳が腹にめり込む感触に恐怖すら覚え、決して強くない打撃が内臓に衝撃を送り込む。ただし1度試せば身体が痛みを憶えてしまい、その後どんなに意識して腹筋の力を抜いても、腹に拳がめり込んだ瞬間に腹筋に力が入り2度と成功することは無いはず。
 路上で蹲り、朝飯前で胃袋が空なためゲェーゲェーと胃液を吐く3人を見下ろす。
「おい下種ども、何が白いって?」
「……な、なんでもありません」
「な……なんにも……見てません」
「調子……こきました。も、申し訳ありません」
「謝るならイーシャに謝れ!」
 余りにもあっさりと一蹴された事で心を折られた3人は痛みに呻きながらも素直に謝った。

「う~ぅ、見られた」
 未だ立ち上がれない3人を放置して路地裏を出たが、肝心のイーシャの機嫌は未だ直らない。
「……ごめんな」
 俺もしっかり見てしまったので謝罪する。
「あぅ……べ、別にいいのよリューちゃんになら」
 真っ赤になって恥ずかしそうに、そんな事を言われても罪悪感が増すだけだよ。
「ありがとうな」
「どういたしまして」
 やっとイーシャは笑ってくれた。

「でも本当に凄いんだね」
「うん?」
「リューちゃんの空手部のこと。タイミング的にも完全に掴めると思ったのに組みに行った手を一瞬で切られて投げられるなんて……あれって、確か合気道の小手投げとかいう技に近かった気がするんだけど?」
「さあな、俺達は空手部だから合気道とか柔道のことはあんまり知らないんだ」
「ちょっと、知らないで私を投げられるはず無いよ」
「いやぁ、うちの部の顧問がね……」
 大島は俺達が組み手や型の練習をしていると、突然「隙あり!」とふざけた事を叫びながら襲ってきて空手とは関係の無い技を掛けてくる。ほとんどが締め技や関節技で、極められて苦しむ俺達を笑いながらからかい、タップしても1分くらいはそのまま技を掛け続ける。次に多いのは投げ技で、やる気の無い時は打撃を加える……やる気が無いならするなよ。
 そんな訳で俺達は、大島が掛けてくる技を身をもって体験し自分のものにしている。技を理解して習得しなければ大島が掛けて来る技に対応できないという理由で止むを得なくだが……
 だから俺達はそれらの技を正式に習った訳ではなく、当然技の名前もどんな武術の技なのかも知らない。そう説明するしかなかった。
「空手部なのに、何で関係ない技を教えてるの?」
「いや教えてはいない。奴は単に自分の楽しみとして部員へ技を掛けているだけのドSだ」
「……なんか色々と大変な部活なのね」
「分かってくれるか?」
「うん。でもリューちゃんも強くなったから良いんじゃない? 私を投げた、た……何とかさんも凄かったけど、リューちゃんの動きは人間の動きとは思えないほど速かったよ」
 拙い、本気を出しすぎてしまった。ここは何とか誤魔化さないと……ちなみに田村だからね。
「それな──」
「格好良かったな……ますます惚れちゃったよ。優しいリューちゃんも良いけど、どうせなら私より強くなって欲しかったんだから」
 イーシャに何か別のスイッチが入った。本気で拙い、話題を変えないと。

「……だけど、イーシャのスカートは短すぎると思うんだけど、だから投げられて中が……」
 イーシャの中学校の制服はさすが東京の学校だけあっておしゃれで、うちの学校の中途半端で野暮ったいブレザーとスカートの制服とは違っている。だが一番の違いはスカートの短さだろう。しかもそれが生足なのだから、俺も思わず目が行ってしまうのを時々抑えられないことがある。
「でも皆……リョーちゃんだってこんな感じだったでしょ」
 そう言いながらスカートの裾を摘んで見せるが……はて?
「涼のスカート……スカート?」
 そもそもスカートだったのかさえも印象に残ってない……でも制服姿だったからスカートのはずなんだが……?
「もっとリョーちゃんに関心を持ってあげてよ。これじゃリョーちゃん可哀想だよ」
「可哀想なのかどうかは分からないけど、確かに今のままってのは拙いよな……しかし、スカート?」
 首を傾げながらイーシャのスカートに視線を送るが、どうにも涼がこのスカートをはいているイメージが思い浮かばない。完全記憶さえも涼は対象外なのかと思うと自分の心の問題の根深さに呆れ返る。
「もうリューちゃん。さっきからチラチラと……見たいなら見たいとはっきり言えば見せてあげるから」
 見たくないと言えば嘘になるが、見たいと言ってしまった時のことを考えると怖い」
「失礼だよ」
 しまった。またもや考えてることを口にしてしまった。これは間違いなくシステムメニューの弊害だ。システムメニューを展開中は人前で踊ろうが叫ぼうが時間停止中なので、調子に乗って思いついた事を口にしながら考える癖がついてしまっている……独り言を言いながらの方が考えがまとまるんだよ。
「……どこから口に出していた?」
「見たくないと言えば嘘になるからだけど」
 考えている内に思わずじゃなく、最初から独り言かよ……ある意味凄いな俺。
「見たいならいつでも言ってね。リューちゃんにならスカートの中くらい見せてあげるから」
 罠だ。これは孔明の罠だ。この世の中に魅惑的に見えない罠なんて存在しない。つまり俺は今、完全に魅惑されてしまっているのだ……思わず唾を飲み込み、ゴキュリと喉が鳴る。
 その音を聞いたイーシャは、中学1年生の女子が決してするべきではない色っぽい目付きで俺を一瞥し、口元に笑みを湛える。
「……どうせ、将来もっと凄いものを見せてあげるんだから」
 それは少し前まで小学生だった君が言って良い台詞じゃないでしょう!
「……ちょっと引くわ。さすがに無理」
 胸の高さで両の掌をイーシャに向けて首を左右に振る。
「どうしてぇ?」
「がつがつし過ぎだよ」
「あれ~? ママが言ってたのと違うよ」
「何を言われたんだ?」
「引かば押せ。押さば押し返せ!」
「色んな意味で間違ってる……はぁ」
 そう言いながら、もうゴールインしちゃえば良いじゃないか? そんな風に考える自分が脳内会議の中に一定議席を確保している。だけど親戚の、しかも年下の女の子に口説かれてなし崩し的に受け入れるというのは男の子としてのプライドに関わる。
 俺にも恋愛というものには憧れがある。恋とは自らが追いかけるものでありたい。探して見つけ出すものでありたい。大切に育て上げるものでありたい。そして破れてもなお、心から好きだと叫べるものでありたい。そんな心を強く震わせるような激しい恋をしてみたい。
 好きだと言われてOKして成就? そんなのは恋じゃない。恋愛じゃないだろう。自分で何一つ行動すら起こしていないのだから。
 ……うん。自分でも分かってるよ。恋愛に幻想を抱きすぎてるって。実際に恋をした事も無いからそんなことを考えるのだと、全部分かってるよ。だが現実を気づかされるにしても、自分自身で体験してその事に気づきたい。ぶっちゃけると夢から覚めるまでの間くらい夢を見させてくれ! ってことだ。

「でもさ……どうして俺なの?」
 そうだ仲の良い従兄妹同士だとは思うが、ここまで真剣に童貞を狙われるほど好かれている理由が分からない。
「えっ……そんな事いわれたら照れちゃうよ」
「だって、今日会ったのだって2年ぶりだよね。その前までだって1年に1回会うくらいで……」
 俺が中学に上がった年のお盆の時期に墓参りついでに、伯父さんの家というか母の実家に遊びに行ったきりで、その当時まだ5年生だったイーシャにとっては恋愛感情とかは未だ早いと思う──
「私がね、リューちゃんの事を好きになったのは6歳の時だよ」
「ろ、6歳……?」
 その発言に衝撃を受ける。俺が6歳の頃なんて、まだ恋という概念すら理解していなかったはずだ。家族以外に対しては、好きとか嫌いとか好悪の感情しか人間関係には存在しなかった猿に毛の生えたような精神構造だったはず。つまり俺が人類に進化する前にイーシャは既に恋愛感情に目覚めていた……なんという圧倒的な敗北感。
「うん。私ってリューちゃんやダイちゃんに会うまで、他の子供から女の子扱いされたこと無かったの。ほら子供って自分と違ってる相手を排除したりするでしょ。私は見た目がこんなんだし、それに昔から背が高くて……だからリューちゃん達に可愛がってもらって凄い嬉しかったんだ」
 イーシャを可愛がったという件には心当たりがある。当時、柔道を始めてますます好戦的になった涼に手を焼いていた俺は、初めて会った従妹に行き場の無い妹愛をぶつけて力の限り可愛がったのだった。
「ダイちゃんは歳が離れてて、少し距離感があったけどリューちゃんは本当に優しくて……乙女心が舞い上がっちゃった?」
「舞い上がったのかよ」
「うん。すぐにママに『私リューちゃんと結婚する』って言っちゃったし」
「………………」
 言いたいことは沢山あったのに、何故か言葉が出ず口だけがパクパクと動く。
「ママも応援するって言ってくれたんだ」
「……………………」
 子供の戯言と流したんだ。多分……
「だからほとんど毎年、リューちゃんたちを家に呼んでたでしょう」
 全然流してない!
 確かに関東──と呼んで良いのか微妙だが──と北海道である。普通なら母の実家とはいえ毎年のように顔を合わせに行くには、余りに距離がありすぎるはずだ。実際、俺とイーシャは俺が3歳の時に一度あって以来、再会したのは5年後だった。ちなみに最初に会った時のことはイーシャどころか俺もよく憶えていない。

 背中の背骨の窪んだ溝を冷たい汗が流れて落ちる。彼女は狩人だ。己の半生を掛けて慎重に俺に狙いをつけ追い込んできた狩人だ。そしてじっと時を待ち続けていた彼女がついに動きを見せた。つまり仕留められるという絶対的な自信の元に狩りの仕上げに入ったのだ。
 オラ何だか怖くなってきたぞ。どうする俺? インターネットの掲示板で相談するか? 【相談】俺、ハーフで可愛い従妹に童貞を狙われてるんだけど【助けて】……うん。一瞬で「死ね!」で埋め尽くされるな。これが他人事なら俺だって「もげろ!」と呪いの言葉を吐くだろう。
 もう少しイーシャが、その肉食獣的な部分を抑えて控えめに可愛くアプローチしてくれれば、速攻で陥れられる自信がある。むしろ俺の方からアプローチを掛けたかもしれないぐらいに可愛いし、従妹であるという部分を差し引いても好意を持っているのだから。
 それが俺にとっての幸せなのかもしれない。
 しかし、そのもう少しがままならないのが人生という奴なんだろう。

「でも今までは、そんな素振りは見せてなかっただろう。どうして今日、いきなりなんだ?」
「えっ……えっとね……」
 いきなり俯いて口ごもる。耳や首筋が真っ赤に紅潮してきて両手を胸の前でもじもじとさせている。これは完全に照れているな。
 あれだけ恥ずかしいことを平気で口にしていたイーシャが可愛らしく照れる姿に湧き上がる感情……これが萌えというヤツなのだろうか?
「2年近く会ってなかったから……久しぶりに見たら背も伸びて肩幅も広くて……か、格好良くなってて」
「格好良い?」
 この数年、女子からは怖いとしか言われたことの無い俺だ。自分の外見をそんな風に言われるとは既に夢想することさえなかったので、嬉しいよりも驚く。そしてイーシャの目は大丈夫なのかと心配にすら思う。
「うん……顔も、前よりもずっと引き締まってワイルドって感じで、ますます好みになって……」
 自分のコンプレックスが肯定され、涙が出るほど嬉しいのだが、単にイーシャの感覚が普通の日本人の女の子とは少しずれているだけなのではとも思う。
「思わず……抑えが効かなくなっちゃった」
 そこは抑えようよ、人として……本当に恋愛に関して、この子は肉食獣なんだと実感した。



[39807] 挿話2
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 19:48
 午前中いっぱい隆とのデートを楽しんだイスカリーヤは隆の家へと戻った。
 夕方までには寮に戻らなければならない彼女にとってはそれがタイムリミットだった。
「リョーちゃんただいま!」
 居間のソファーで尻尾を丸めて小さくなっているマルにちょっかいを掛けている涼へと声を掛ける。
「……おかえり」
 不貞腐れたようにイスカリーヤを睨みつける。
「叔父さんや叔母さんに甘えてたんでしょう。何を怒ってるの?」
 イスカリーヤはそんな涼の態度を無視して彼女の隣に腰を下ろすと耳打ちした。
「べ、別に甘えてなんていない!」
 思わず、そう叫んだ後でばつが悪そうに俯いた。
「へぇ~、書類は郵送でも良いのに態々直接家まで来たのに?」
「うるさいな。リーヤだって勝手について来たくせに」
「私はリューちゃんに会いに来たんだもん」
「何で隆なんて……」
「だって優しいんだもん」
「私には全然優しくないけどな」
「それに関してはリョーちゃんも悪いと思うよ。ダイちゃんもリューちゃんも、もう少し女の子らしい優しい子になって欲しかっただけだし」
「私は私なりに女の子らしくて優しいと思ってる」
「…………………………ごめん、ちょっと眩暈がしたわ」
 ソファーの背もたれに後頭部を埋めて、そう口にするのがイスカリーヤの限界だった。

「あいつらが私に求めるのは私を辞めて、他の私になれって事だ」
「はい嘘」
「嘘じゃない」
「リョーちゃんが、リューちゃんたちに反発し始めたのって3歳か4歳くらいだよね」
「ああ」
「そんな子供の頃にしっかりとした自我なんて確立してなかったでしょ」
「じ、自我?」
「世界と自分の境界線の事よ。『我思う、故に我在り』って言うでしょ。全てを内包する世界の中から自分という個を切り離すための意識……こういう話は師範とかは話してくれてなかったの?」
 イスカリーヤは隆の前では可愛いお馬鹿を演じているが、実は学校の成績もかなり良い。つくづく恐ろしい中学1年生である。
「あ、ああ」
 柔道とは「道」を示すもの。その指導者ともなれば、人としての道を説くために道徳や哲学に付いて話をする事もあるのだが、涼にはつまらない話としか感じられなかった。
 そのため小学校の頃に通っていた道場で聞いた事があるような気もするが、全く憶えていない。
「さすが脳筋の王と書いて脳キング……まあ良いわ。リョーちゃんの言う『私を辞めて、他の私になれ』とか言うのは、ある程度大きくなったリョーちゃんが作り上げたリューちゃんたちへのイメージで、小さい頃のリョーちゃんはそんな事を考えていたんじゃないって事よ」
 ちなみに脳キングの称号は、3月下旬から部活に合流していた彼女がわずか1ヵ月足らずの間に勝ち取ったものだった。
「じゃあ、昔の私はどう考えていたって言うんだ?」
 勝手に決め付けられたことに反発を覚えた涼の声には険しさが表れていた。
「多分ね……大好きなお兄ちゃん達が涼の事を叱るの。涼はがんばってお兄ちゃん達のいう通りにしようとするけど出来なくて、お兄ちゃん達は涼にがっかりするの。それが辛くて悲しくて、お兄ちゃんの期待に応えられないなら、もう涼はお兄ちゃん達の妹を辞めるの。そうすればお兄ちゃん達をがっかりさせなくて済むの……てところじゃないの?」
「だ、だ、誰がそんなこと! か、勝手な事を言うな!!」
 図星を突かれたかのように冷静さを失い大声を上げる。ついでにマルも怯えて吠える。
「どうしたの涼。そんな大声を出して?」
「べ、別に何でもないよ母さん」
「喧嘩しちゃ駄目よ」
「はい!」

「叔母さんや叔父さんには良い子なのにね」
「いいだろ別に……」
 学校では男前少女で通っており、年下どころか同級生や上級生にすらファンがいる涼だが、実は甘えん坊な部分を多分に持っていた。
「リューちゃんもダイちゃんもリョーちゃんのことは嫌ってなんか無いのにね」
「嘘だ。隆も大も私のことが嫌いだ」
「本当よ。だって2人が私のことを可愛がってくれるのは、リョーちゃんの身代わりだもん」
「身代わり?」
「そうよ。2人はリョーちゃんのことを可愛がってあげたくて仕方ないのに、リョーちゃんが海栗みたいに刺々しい態度を取るせいで出来ない代わりに私のことを可愛がってくれたんだよ」
「隆や大が、私のことを可愛がりたい……馬鹿なことを」
 そう言いながらも涼の視線がきょろきょろと動く。明らかに動揺していた。
「リョーちゃんが『ごめんね。本当はお兄ちゃんのことが大好きなのに、素直になれなくってごめんなさい』なんて泣きながら言ったら、2人は喜びの余り昇天するんじゃない?」
「私が……私が……そんなこと言えるか!!!」
 マルが全力で暴れて自分の身体を押さえつける涼の手から逃げ出し、史緒のいる台所へと逃げ込んだ。
「涼っ!」
 台所から史緒の叱責の声が飛ぶ。
「うっ……ごめんなさい」
 史緒に叱られてしゅんとなる涼の姿に、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべずにはいられないイスカリーヤだった。

「でもリーヤは兄貴達に可愛がってもらえて嬉しかったんじゃないのか?」
「うん、とっても嬉しかったよ。凄い幸せだった。ダイちゃんとリューちゃんは私が欲しいと思っていた理想のお兄ちゃんだったよ」
「だったら私が兄貴達と仲直りしたら困るのはリーヤだろ」
「私はもういいの。妹はもう卒業して、これからは女の子としてリューちゃんとお付き合いしていくの、そしていずれは……もう何言わすのよ」
「……何も言ってない」
 そう応じながらも涼は、こいつはヤバイ。隆も大変だなぁ~と思わず同情してしまう。。

「リューちゃんさ、強くなってて格好良かったんだよ。私が高校生になるまではリューちゃんには我慢してもらおうと思ってたんだけど、私が我慢できないみたいな?」
「何言ってるんだ? ……本当に色んな意味で何を言ってるんだ!」
 前半は隆≠強いが常識となってる涼の頭の中でイスカリーヤの言葉が上手く日本語に変換されないのだったが、後半は単なるエロトークに対する抗議だ。
「リューちゃんが強いのが不思議なの? 空手もやってるのに?」
「馬鹿いえ、所詮中学の部活レベルだろ」
「……それを言うなら私達の柔道も中学の部活だよ」
「一緒にするな」
 涼としても親元を離れて、寮生活までして柔道に打ち込んでいるので、普通の部活と一緒にされることは我慢ならなかった。
「でもリューちゃんと同じ空手部の人に不意打ちまでして割と本気で仕掛けたんだけど、逆に投げられたよ」
「リーヤ、何を言ってるんだ?」
「ちゃんとありのままに言ってるよ~」
「仮にも日本代表の癖に。何で空手部の人間に投げられてるんだ」
「何でって言われても、そういう空手部らしいとしか……」
「たるんでる」
「たるんでないよ。むしろメリハリボディーだよ。リョーちゃんの棒体型とは違うんだから」
「そういうことじゃない。大体、誰が棒体型だと!」
 そう抗議するが、まるで少年の様とその気のある同級生から持て囃されている涼の身体は凹凸に欠けているのは事実だった。
 しかし、それを指摘して追い込むほどイスカリーヤは鬼ではない。生温い視線を送りつつもその件に関してはノーコメントを貫く。
「顧問だって外部から指導者を招いたわけでもないただの中学教師がやってるような部で、しかもそんな顧問にすら勝てない隆が強いなんて、何の冗談だ?」

「はいはい。話はそこまでにしてお昼ご飯が出来たわよ」
 史緒がサラダの入ったボウルをキッチンテーブルに置きながら声を掛けて来る。
「分かったよ」
「涼は食器出して。ねぇ、女の子なんだから料理を手伝ってくれてもいいのよ。リーヤちゃんは隆を呼んできてね」
 小言を言われる涼を見捨てて、イスカリーヤはさっさと隆を呼びに廊下へと逃げた。
「お母さんね。涼と2人で台所に立って料理するのが夢なのよ」
「そ、それは……」
 人間には出来る事と出来ないことがあると思ったが、自分の一番の味方であり理解者である史緒にそれを言うことは憚られた。
「それから話は変わるんだけど、のうきんぐって何のこと?」
 とても自分の口からは説明出来ないと泣きたくなる涼。
 まさか送り出した娘が1月足らずで、そんな不名誉な称号を与えられたと知ったら母として悲しむだろう。
 そう思うと実家に顔を出した事を後悔せずにはいられなかったのである。



[39807] 挿話3
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 19:50
 鬼剋流総本部会議室。
 30畳ほどの広さの会議室の真ん中に据えられら大きな長テーブルに13人の男女が就いていた。
「これが先日大島が甲信越支部の元幹部達から取ってきた念書だ」
 長テーブルの上座に座る男が、念書を上座の人間に回す。
「まず梶尾達は全員破門。支部の本道場の建物と土地はこちらで接収。門下生とやらに関しては連中自身に責任を取って受け入れてもらい。今後一切鬼剋流との関係は口にしないとの事だ」
「甲信越支部の早急な建て直しが必要ですな」
「この中から支部長を出す必要がありますね」
「面倒な仕事だ。ここは若い者に……」
「こういう難しい仕事は経験豊富な長老方に……」
 誰もやりたくないのだろう、押し付け合いで険悪な空気が会議場を包み込む。
 彼等は鬼剋流という組織の幹部でありながら、出来れば組織経営には関わりたくない脳筋バトル野郎集団であり、甲信越支部の幹部達とは180度違った方向に間違っているのであった。
 それゆえに支部長であった梶尾以下の幹部達によって鬼剋流を逸脱しながら、妙に発展してしまった甲信越支部の建て直しという面倒な仕事は誰も引き受けたくなかった。
「それにしても大島君は仕事が速いですね」
 50前くらいの眼鏡をかけた上品なご婦人と言った様子の女性が話題を変える。
「今回は大事に成らなくて良かった。あいつはどうにもやる事が大雑把だからな」
「そう言えば教え子を連れて行って、そやつに任せたそうだ」
「教え子? 関東支部の人間か……いや、今奴が教えている門下生など……はて?」
「ほら、彼が中学で教えている空手部の生徒ですよ」
「ああ……っておい。中学生は拙いだろ。しかも部外者じゃないか!」
「その子が、梶尾たち幹部7人と彼等の部下の指導員11人を叩きのめしたそうよ。しかも無傷で」
「な、なんだって!」
 13人中11人が立ち上がってそう叫んだ。
「情けない。仮にも連中は鬼剋流の幹部だぞ。それが雁首そろえて中学生に……」
「他の支部の五段以上の幹部達の実力も一度再確認した方が良いな」
「しかしなぁ、中学生に叩きのめされる幹部に指導員か……もう甲信越支部要らなくないか?」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか! そんなこと総本部の事務局長として認められませんよ!」
 2mはあろう巨漢に、この中で一番若い男が噛み付いた。
「だったら井上。お前がやれよ!」
 巨漢は立ち上がって叫び返す。
「良いですよ。その代わり貴方が事務局長を代わってくれるんですね?」
「………………冗談に決まってんだろう」
 巨漢は何事もなかったかのようにそっと席に着く。周りの人間は「弱っ!」と思ったが、自分にお鉢が回ってくるのが嫌だったので誰一人口を挟もうとはしなかった。
「……それにしても、幾ら連中の腕が腐ってたにしても18人抜きか……是非とも卒業後には鬼剋流に欲しいものだ」
「確かに将来が楽しみな若者だな」
「……正確には18人抜きじゃなく、1対1で戦ったのは幹部と指導員のそれぞれ1人ずつで、後は幹部6人。指導員10人をそれぞれまとめて片付けたそうよ」
「な、なんだって!」
 再び13人中11人が立ち上がってそう叫んだ。
「…………ふぅ。意識が遠のきかけたぜ」
 巨漢の男が椅子に腰を下ろすと脱力して背もたれに身を預ける。
「同感だ。連中……死ねばよかったのに」
「むしろ、あの大島が恥さらしどもを生かしておいたのが腑に落ちぬ」
 やはり鬼剋流とは、隆が考えたようにマフィアと同列に扱うべき組織なのかもしれない。

「しかし、大島の教え子にそんな奴が居たとは……いや~しびれるな。俺もそんな弟子を持ってみたいものだ」
「大島君の教えてる空手部の子達って粒ぞろいよ。ほら2年前門下生になった倉田君とか」
「ん、そういえば関東支部に倉田という若くて腕の立つ奴が居ると聞いたな」
「俺も聞いたことがある。将来有望らしいな」
「大島には若い才能を育てる力があるのかもしれないな」
「いや違う」
 突然、上座に座る男が否定した。
「何が違うのですか総帥?」
「一昨年の事だが、大島は今年の空手部の3年生は今までで一番良いのが揃ってると自慢していたが、結局うちに入門したのは倉田1人だけだった」
「えっ?」
「そして去年も同じように自慢していたが、誰1人として入門しなかった」
「ええっ?」
「そして今年は、この念書を持ってきた時に、今年の3年生は群を抜いて今まで最高と自慢していったが、今年もどうなる事やら……」
 総帥と呼ばれた男はテーブルに両肘を突くと頭を抱えた。
「総帥。どうなる事やらじゃなく、どうにかしましょうよ!」
「一応、大島には言い聞かせた……」
 大島は「厳しく鍛えすぎたから、入門は嫌がるだろな」と答えた。「じゃあ何でそんなに鍛えてるんだ」と総帥も突込むが、「自分の楽しみの為です。中学卒業後も鬼剋流でしごくのも面白いとは思うが、別に鬼剋流に入門させるために鍛えあげてる訳じゃない」と、とても自分の師匠に対するものとは思えない態度で突き放したのだ。
 総帥が自分の指導力というものに自信をなくしたのは仕方の無い事である。

「一応じゃ駄目ですよ。本部としても何か策を講じなければ」
「そうですよ。今時熊殺しをしてまで五段になりたいという気概のある若者なんて早々居ません。若い才能の確保は急務です」
「儂もそう思った。だから去年、入門を希望しなかった大島の教え子の1人に会ってきたのだが」
「どうなったのです」
「強く入門を勧めると『もう大島とは係わりあいたくない』と泣かれた……良い目をした少年だったが、大島の名前が出た途端に目が死ぬのだ」
「あぁ~」
 全員が肩を落としながらも納得の表情で頷く。大島に指導力なんて立派なものが備わっていると期待した方が馬鹿を見るのだった。
「……で、でも、今回連れて行った3年生の子って大島君がかなり気に入ってるみたいだし、期待できるんじゃないかしら?」
「そうだと良いが……どうなる事やら」
 期待している様子が全く感じられない。諦観の2文字が幹部達の頭によぎる。だが1人だけ諦めないものが居た。
「ここは私に任せてください。次世代の人材を集めるのも事務局長の仕事です」
 と彼は言うが、この組織の幹部達は事務局長の彼以外は禄に幹部としての仕事をしないで修業に明け暮れているために、事務局長である彼の仕事の範囲は果てしなく広かった。
「井上。どうするつもりだ」
「私に考えがあります。どうか許可を」
「……うむ。いいだろう任せる」
 総帥はそう答えつつ、成功したら儲けものだと呟いた。


 会議終了後、他の幹部が立ち去る中で事務局長の井上が総帥の元へと歩み寄る。
「ところで総帥。経理からこんなものが上がってきているのですが?」
 差し出された1枚の紙を受け取る総帥。
「何だ領収書か…………こ、これは!」
 そこに書かれた数字に総帥は目を剥く。
「甲信越支部の件での経費だと大島が言って……しかし、これでは余りに」
 業務内容と出費の関連性が無さ過ぎて経費と認められるはずが無かった。いや、そもそも支部の幹部に対する粛清なぞ業務として認められないだろう。
「わ、分かった。これは私個人が何とかしよう……」
「そうですか。よろしくお願いします」
 項垂れながら答える総帥に一礼すると井上も会議室を立ち去る。

「ぅおおおしぃぃっまぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 直後、会議室からそんな叫び声が発せられた。
「お労しや……」
 井上はそっと涙した。



[39807] 第26話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/07/22 21:36
 朝、目覚めると隣にルーセが寝ていたが、予想はしていたので驚きはしなかった。
 ルーセの小さな手はしっかりと俺の右腕を掴み、顔を寄せている俺の肩は彼女の涙に濡れていた……鼻水や涎もだ。
 濡れた肩の冷たさに顔を顰めながら反対側の手でルーセの頬を摘むと、引っ張られて開いた唇の端から大量の涎が俺の肩へと零れ落ちた……藪蛇だった。
「おはよう。ルーセ」
 流石に声を掛けて起こしにかかる。
「んっ……おはよぅ」
 昨日は隣にいる俺に気づいてうろたえていたのだが、2日目ともなると実に堂々としていて、そのまま俺の肩に顔を摺り寄せた。
「……冷たいよぅ」
 むずがるように抗議の声を上げる。
「それはルーセの涎だよ」
「うぅ……ぃやぁ~」
 涎と聞いて俺の腕を押し退けるようにして顔を肩から遠ざける……嫌なのは俺の方だと思ったが我慢した。

 右腕を解放された俺はベッドから身体を起こす。
「寒い」
 めくれ上がった布団の隙間から入り込む朝の空気から逃げるように、布団の足元の方へと逃げ込んで行く。
「こら! ちょっとそこは駄目だから」
 止めろ! そこはデリケートなんだ。いい加減にしないと俺のビッグマグナム黒岩先生が火を噴くぜ! …………見栄くらい張らせてくれ。
 何とか下半身にしがみつくルーセの捕獲に成功する。
「もう少し……ちょっとだけ」
 まるで子供のように駄々をこねる。いや子供なんだよな……こうして甘えてくれるようになったから気づいただけでさ。
 こんな小さい子が、この家でたった一人で寝起きし、自分で狩りをして生計をたてる毎日。駄々をこねる相手も甘える相手もいない生活。
 そう考えた途端に湧き上がった強い感情のままに、俺はルーセを抱きしめた。
「ルーセは頑張ってきたんだ。少しくらい甘えても良いさ」
「うん。ルーセ甘える」
 膝の上で俺の胸に顔を寄せる彼女の背中を赤子をあやすように優しく叩き続けた。


 狩りに出かける前にステータスメニューで現状を確認する。
 ルーセはレベル15まで上がったが、魔術に関しては彼女は未だにどんな属性の魔術も身に着けていない。だがそれは何の問題も無い。とはいえ余り問題は無い。彼女より魔術に関しては適正のある俺でさえ戦闘に使うには微妙な魔術しか身につけていないのだから。
 特筆すべきは筋力をはじめとする身体能力の上昇。レベル1の段階で俺よりも高い身体能力を持っていた彼女は倍近くまで数値を上昇──俺のレベルアップ時よりも上昇幅が大きいが、それでもレベル1時の能力が高すぎて、倍には届かなかった──させており、今の彼女ならオーガと腕相撲しても勝てるのではないかと思う。
 俺も昨日はレベルを3上げてレベル27になり身体能力も上昇した。以前なら上昇した数値を見て心強さと共に恐れさえ覚えたが、ルーセの数値を見て以来心許なく感じている。
 もちろん弓で戦えといわれなければ、実際に戦ってルーセに負けるとは思わないが、そもそも相手は火龍であり、攻撃力は装備による急所への打撃力や貫通力を無視した攻撃があるので問題を感じないが、ブレス攻撃を回避するための速度に不安を覚える。
「火龍のブレス攻撃って知ってる」
 俺の質問にルーセは頷く。
「ブレス攻撃? ……火龍は火を吐く」
 一瞬の間は、どうやら『ブレス攻撃』が上手くこちらの言葉に変換されなかったのかもしれない。
「どんな風に吐くの?」
「火の玉。自分の口よりも大きな火の玉を吐く」
「自分の口よりも大きな火の玉を吐く?」
 どういう理屈だ? いや待て、またファンタジーだ。しかもどうせ大した意味も無いのに過剰な演出の都合なんだろう?
 可燃性の液体を分泌する器官と喉の辺りに噴出用の器官があって、そこで送り込まれた液体を噴出と同時に魔術で発火のような、生物学的にはともかく物理的にありえる方法ならば、今使える魔術のみでとれる対応手段も無い事は無いが、どうせ火の精霊が云々というファンタジーなんだろう。
「そう、それがぶつかると爆発して、周囲の物が燃え上がる」
 うん、よく分からん。現実の兵器で例えるなら油脂焼夷弾に近い攻撃手段だが……
「火の玉が飛んでくる速度はどれくらい?」
「かなり速い。でも今のルーセやリューなら攻撃されてからでも、安全な距離をとって逃げられる……けど」
「けど?」
「火龍の巣の傍には避ける場所が無い」
「そうか……ところでルーセ」
「何?」
「俺に嘘を吐いてたよね」
 俺の言葉にルーセの顔が一瞬にして強張る。
「な、何の事か、分からない」
「へぇ~何の嘘の事を言われてるのか分からないんだ。そんなに沢山の嘘を吐いてたんだね」
「違う。嘘は一つ……あぅ」
「おとなしく白状する?」
 俺の言葉にルーセは何度も首を振ってうなずいた……お仕置きが堪えている様だ。

 俺はルーセが火龍について、空を飛んでいるところしか見たことが無いと言ったのを憶えていた。
「ごめんなさい。ルーセ火龍と戦ったことがある……お父さん、お母さんと一緒に居たところを襲われて……」
 なるほど、その話に触れたくなかったから言わなかったのか。
「悪かった。でも火龍を倒すためにはどんな些細なことでも知っておきたいんだ」
「うぅ……分かった。2年前、ルーセはお父さん、お母さんと一緒に狩りに出た……と言うのは嘘で、こっそり後をつけた」
 2年前のルーセなら現実では幼稚園児程度の年齢だろう。幾らなんでも親も狩りには連れて行かないだろうと思い、じっとルーセの目を見つめたら白状した。
「加護のあるルーセならお父さん達も気づかなくてもしかたないか」
「違う、その時は未だ加護を受けてなかった……ルーセは天才!」
 確かに天才なのかもしれない。しかしこの子は時々調子に乗るな。
「はいはい。天才、天才」
「むう」
 軽く流された事に対して、怒ったルーセは俺の膝の上に乗ってしがみつくと脇腹を掴んで揉んでくる。彼女としてはお仕置きの積もりなのかも知れないが、俺は空手部の連中から不感症と呼ばれるほどくすぐったがらない体質で、脇の下をくすぐられても気持ち悪さを感じるだけだ。
「?」
 何の反応も示さない俺に驚きの表情を浮かべると、手を脇腹から脇下へと移動させてくすぐりを開始する。
「うう……何故?」
 一向にくすぐったがらない俺に、悔しそうに上目遣いで睨み付けてくる。
「それはルーセがテクニシャンじゃないからだよ」
「テクニシャン? ……それ何?」
「知りたい?」
「うん」
 言質を取った俺は、容赦無くくすぐりのテクニックというものをルーセの身体に教えてやったのだった。
「……変態」
 1分後、紅潮した顔に汗を浮かべ、息を乱したルーセに変態呼ばわりされる。特殊な趣味を持った人間には大変なご褒美なのかもしれないが、あいにく俺は変態では……少なくとも俺は認めてない。

 ともかくだ。俺は力尽きて大人しくなったルーセから火龍についての情報を聞き出した。
 森の奥深くまで分け入ったところでルーセの尾行がばれて、両親に村へと連れて行かれることになる……無論、説教された挙句にだ。
 だが、ルーセを連れての帰り道だけに出来るだけ魔物に遭遇しないように、魔物の生息地帯を避けて、普段は通らない魔物が少ないルートを進んだことが命取りになった。
 魔物が少ないルート。それは火龍の縄張り故に他の魔物が立ち入ることを避けていたのであった。気づかずに火龍の縄張りに足を踏み入れてしまったルーセ達だが、そこは縄張りの外周にあたる場所であり、たまに他の狩人が入り込んでも火龍に襲われることは無かった。いや火龍がその周辺を根城にしている事さえ誰にも知られていなかった。
 運が悪かった。そうとしか言い様が無い。ルーセ達は火龍に襲われてしまう。
 突如、上空から叩きつけられるような咆哮が3人を襲い。見上げた先には全身を覆う赤い鱗を陽光に輝かせて浮かぶ火龍の姿があった……ルーセは恐怖よりもその美しさに圧倒されたそうだ。
 母がルーセの手を引いて走り出すと、父が弓に矢を番えて構えて「逃げろ!」と叫ぶ。そしてそれがルーセが耳にした最後の父の言葉になった。
 ルーセの手を引き必死に走る母の様子に、やっと只ならぬ状況に立たされていることに気づいた瞬間、背後から衝撃と共に爆発音が響き、更に熱風が2人を追い越していく。
 振り返ろうとするルーセに母は「振り返らず走りなさい」と叱り付けると、手を離して立ち止まる。思わずルーセが振り返ると自分達が走ってきた道の向こうから火龍の紅き双眸がこちらをじっと見つめている。「走りなさいルーセ!」母の叫びと共にルーセの背は押し出され、走り始める彼女の背中に「生きて、ルーセ」と母の最期の言葉が発せられた。
 ルーセは涙をこらえて必死に走る。だが再び衝撃と爆音、熱風。そしてそして死がルーセの背中に追いついた。
 背中を襲った衝撃にルーセの身体は跳ね飛ばされて木に叩きつけられて気を失った。

 ルーセが気づくと周囲に火龍の姿は無く、見上げると頭上に光り輝く球状の何かが浮かんでいた。
 光の玉は大地の精霊を名乗り、ルーセに加護を与えたと告げ消える……何故か大地の精霊に関しては、ルーセも記憶がはっきりしないらしく詳しい話は聞けなかった。
 大怪我を負ったはずのルーセの身体は傷一つ無く、それどころか今までとは比較にもならない強い力が身体中にみなぎっていた。
 両親を探さなければとルーセが思った瞬間、森の中生き物の気配が感じられるようにもなった。しかし両親の気配だけは決して感じることが出来なかった。
 俺の膝の上で、胸に顔を埋めてルーセは語った。

「火龍の気配が無かったから、道を引き返してお父さんとお母さんを探した……」
 ルーセが見つけたのは黒焦げになった2人の姿。火龍は捕食のためにルーセ達に襲い掛かったのではなかった。自分の縄張りに踏み込んだ不届き者に制裁を加えたのか、単に楽しみのために狩ったのかのどちらかだった。
 ルーセは力はともかく小さな身体では、2人の遺体を村まで運んで帰ることは出来なかったので、近くの丘の上に穴を掘るとそこに2人を埋め墓を作った。
 それからルーセは毎日のように森に入り、狩人としての腕を磨きながら復讐を果たすべく火龍の巣を探し始めた。
 火龍の気配を探り、居ないのを確認しながら奴の縄張りを捜索すること半年をかけて、ついにルーセは火龍の巣を見つけ出した。
 その巣は、岩肌がむき出しになった崖に、融けて固まったチーズの様に滑らかさのある穴が63mほど続いた先に開けた空間の広がる洞窟で、更に上へと伸びて外に出られる縦穴があるそうだ。
 融けて固まったチーズの様って、岩を火龍が溶かしたってことだろう。ルーセの知っているブレス攻撃とは別の何かを用いたとしか思えない。というよりもルーセが知っている火龍の攻撃手段が氷山の一角に過ぎなかったと考えるべきだろう。
 それにしても岩をも融かす攻撃か、食らったらロードを実行する前に死ねるな……一撃食らって確認という訳にはいかないな。
 水龍以上の厄介さに頭が痛かった。



[39807] 第27話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 20:00
「今日もレベルアップ!」
 狩りに向かうルーセのテンションは高い。長剣を装備して無駄にぶんぶんと振り回している。
 以前の俺にも彼女のようにレベルアップに燃えている時期があったが、今ではレベルアップ欲はかなり下がってしまっている。
 システムメニューというチートを得てもなお及ばないルーセの様に、この世界には理不尽な能力を持つ強者が少なからず居るのだろう。
 確かに今後レベルアップを重ねていけば、直に身体能力でレベル1の段階のルーセを超えるだろう。
 だが10年後にレベル1の状態で肉体のピークを迎えたルーセの身体能力を超えるために俺は何レベルに達している必要があるのだろう?
 ルーセは特別なトレーニングを行わずに、単に加齢による身体の成長だけで現在の3倍以上の身体能力を得るだろう。
 一方俺は加齢だけでの身体能力の向上の余地は精々2割程度だろう。それを加味して今までレベルアップ時のパラメーターの上昇率から考えると軽く100レベル以上は必要だ。
 ちなみにトレーニングによる身体能力の向上を加味しないのは、レベルアップ時のステータス上昇で負けているのにトレーニング分の能力向上を加えると更に差が広がると判断したからだ……考えただけで凹むわ。
 そもそも、このシステムメニューのレベル上限が幾つなのかは不明だ。親切丁寧、痒いところに手の届くがモットーの【良くある質問】先生にも記されていない。
 ゲーム的に考えるなら上限は99とか100なのではないだろうか?
 つまり俺はレベルアップによる身体能力の向上以外で強くなる道を探さなければ、最強という存在になることは出来ないと突きつけられてしまったのだ。
 短い夢だった。努力したわけでもなく棚ぼたというか何となく手に入れてしまったに過ぎないチートだが、そのチートをもってしてもチートとしか言い様のないチートがこんなにも早く俺の前に現れるとは想像もしていなかった……異世界って本当に怖いわ。

 『世界最強』実に格好良い看板だ。格闘技をやっている者なら必ずあこがれるだろうし、妄想レベルでも最強を夢見たことが無いと言える奴はめったに居ないだろう。
 だが現実世界においても、俺が空手を始めてスタート地点立ったと思ったら、そこには生涯絶対に勝てそうに無い奴が、イラっとくるドヤ顔で立ちふさがっていたのだ。俺には最強への夢を抱く機会さえ与えられなかった。

 今の俺なら現実世界で世界最強の座を手に入れるのは難しくないどころか、確実に手に入れられる。
 身体能力だけが強さの全てではない。多分、今の俺では大島に勝てるとは思えない。
 だが戦うための技術を身につけるのに必要なのは努力だ。そして努力は誰にも均等に与えら得れているのだから、最強の身体能力を持っていて最強の座に手が届かないなんて甘えたことは俺が俺自身に許すことは無い。
 ……でもインチキなんだよ。自分が最強になったとしても自分自身に誇ることが出来ない。
 異世界なら良いのかといえば、俺にとって異世界とシステムメニューはセットの存在なので余り気にならない。
 14年間過ごしてきた現実世界と違って、所詮は異世界と何処か俺の中での重みが違う。
 異世界においては俺のシステムメニューというチートが、大したチートでは無いという悲しい事実はあったが、そもそも最強と呼ばれた者達にも、どんな局面でも相手を圧倒できるような超人は存在しない。
 勝負とは、互いのストロングポイントをぶつけ合うものでは無い。相手の長所を殺し自分の長所を活かす。そして相手の短所を攻めるのが基本だ。
 そう考えると俺のシステムメニューというチートは、かなりの優れものなのかも知れない。レベルアップによって自分の能力を全面的に向上させることが出来る。つまり闘いにおいて広く選択肢を持つということだ。
 よし! テンションが上がってきた。俺は俺なりに弱者の勝ち方を突き詰めれば良い。最強の弱者となろう。弱くても勝て……ゲフンゲフン。

「今日はトロールを狩る!」
 ルーセが高らかに宣言した。
 この森で最強と恐れられるのが緑色の憎い奴。日本のアニメを代表する超有名アニメ映画で、小さな頃の俺を含め数多くの子供達のハートを鷲掴みにしたモンスターの元ネタとしても有名なアレである。
 もっとも異世界におけるトロールは森の精霊的な存在ではなくRPGに登場するモンスターと同じく存在。オーガに匹敵する巨体と力を持つ。だが奴らがオーガ以上に恐れられる原因は半ば不死ともいえる強力な肉体再生能力。
 その肉体再生能力は腕を斬りおとしても短時間に再生し、首を落としても死なず傷口を合わせればすぐにつながってしまう程だ。しかし頭部を完全に破壊すれば復活は出来ず、また傷口は火で炙るなり酸で焼けば再生能力は発揮されないので完全なる不死ではないというルーセの説明だが。
 だがそれが何の慰めになるのだろう、頭部の完全破壊はともかくとしても、傷口を火で炙るとか酸で焼くとか戦闘中にどうしろと? 厄介な敵だよ。

 ちなみにこの森でトロールを狩る狩人は存在しない。
 倒すのが困難な上に、肉は食用にはならず皮も素材として需要が無いためだ。
 トロールが増えすぎると狩りの獲物となる生き物がトロールに捕食されるだけでなく、狩人がトロールに襲われる事故も増えるため問題にはなっているが、討伐による領主からの報奨金も無いコードアでは対策の立て様が無い。だが最大の問題は狩りの手段が弓と罠である狩人にはトロールを狩ることが出来ないという事である。そして最近では狩りの途中でトロールに襲われて命を落とす狩人が幾人も出ているそうだ。

「ルーセは優しいな」
「ち、違う。トロールを倒してレベルアップしたいだけ」
 現在コードアでトロールを狩れるのは俺とルーセだけだ。だから村人達を守るためにもトロールを狩ると言い出したのだろう。
 ルーセの頭をポンポンと叩く。
「リューは勘違いしてる!」
「はいはい。ルーセは良い子だ」
「それは当たり前!」
 そんなやり取りをしながら、俺達は1週間ほど前から何人もの村の狩人がトロールを見たというコードギアの北西にある村アギとの中間地点へと向かう。

「剣の使い方教えて」
 移動の途中で、歩きながらルーセは持っていた弓を収納し長剣を装備するとそう切り出してきた。
「俺も長剣の使い方なんて余り知らないよ。だけどシステムメニューの使い方なら教えてあげるよ」
 昨日のルーセは長剣を普通に使おうとしていた。もっともあんな使い方は普通じゃないが……
「昨日、俺が槍を使って見せたように相手の身体に突き刺さるように構えて、装備すれば相手に突き刺す動作無しに槍は突き刺さる。それは長剣でも同じなんだ」
「でも振り回さないと剣を使った気になれない」
「……た、確かにそういう意見もあるかもね。稀に」
 ここにも脳筋少女が……
「良い方法教えて」
「……それじゃあ、昨日ルーセがやった右左の二連撃をやってみて……だから俺に向けない!」
 やってみてと言われた瞬間に俺に向かって構えた……バイオレンスの不当廉売は止めて欲しい。
「ちっ」
 ルーセは鋭く舌打ちすると、自分の身長よりもかなり大きい長剣を軽々と、いや全く重さを感じさせずに担ぐ。
 今の舌打ちって、昨日俺に負けたことを根に持っているのか?
 そんな俺の疑問を無視するかのように「はっ!」と気合を上げ、右足を大きく前へ踏み出しながら長剣を右から左へと薙ぎ払う。
 振り終わりの直前に手首を180度返したところへ、左の掌を右手に添えるようにして両腕の力で長剣の運動エネルギーを相殺し更に押し返した。
「これがどうした?」
 若干ドヤ顔で俺に向き直る。
「まずは最初に斬りつけた後に柄を両手で押し返して勢いを殺したけど。その場合は長剣を一度収納してすぐに装備すれば1撃目の剣の勢いはなくなってるから、2撃目に移る隙が半分以下になるはずだよ」
 ルーセはすぐに試して、その効果に「おおっ!」と関心の声を上げる。
「次に、ルーセは長剣の使い方として間違っている。普通、長剣を使って連続で斬りつける場合は、最初に斬りつけた時の勢いを殺さないように、そう今の場合なら剣は勢いに任せてそのまま一回転させて、踏み込んでもう一度右からの振り出すのが正解だよ。本来長剣はぶんぶんと左右に振り回す武器じゃないんだ」
 そう、長剣とは人類が使うために作られた武器であって、ルーセが使う事なんて想定してないんだ。

 俺の言葉を聞いたルーセは、最初は無理に回ろうとして失敗するものの、試すこと3回目には素人の俺が見ても思わず唸るほど美しい剣筋で鋭い2撃目を放つと、そのまま調子に乗って3撃目、4撃目と独楽のように回りながら前へ前へと進みながら斬撃を放ち続け、20撃目に目を回して倒れた……いや、あの~身体ごと回転じゃなく長剣を頭上でぐるりと回転させて斬りつけるんだけどさ。
「大丈夫か?」
「あぅ、目がグルグルまわるぅ~」
 駆け寄って確認する俺に、地面に仰向けに倒れたままルーセは応えた。
 どうやら精霊の加護は三半規管の能力向上には寄与しないようだった。

 倒れているルーセに身体ごと回転するものじゃないと説明したのだが返ってきた答えは「回りながら斬るのが気に入った」だった。
 起き上がれるようになるとルーセは更に「目が回るのを何とかして」と要求してくる……他力本願かよ。
 とりあえずフィギュアスケートの選手がスピンの時に行う、身体の動きとは反対に首を動かして可能な限り一点を見つめる方法を教えたのだが余り上手くいかなかった。
「後はレベルアップすれば何とかなる……はず」
 そもそも、あんな勢いで20回転も出来たのはレベルアップの恩恵だろう。
「レベルアップ……トロールを一杯倒さないと」
 小さな拳をギュッと握り締める。トロールが絶滅してしまいそうな気がした。


「トロールの気配は分かる?」
「……分からない」
 そんな困ったような目で見られても俺の方が困るが、実のところルーセはトロールとは遭遇したことが無いそうだ。
 現地点はコードギアから北西に位置するが、火龍の巣がある場所は北東でルーセの行動範囲は村の東方向に集中していて、ルーセがここまで来たのは今回を含めて3度目に過ぎ無いとの事だった。
 流石に精霊の加護による気配を読む能力も、未知の相手では発揮しようが無かった。
「広域マップに映っている中にトロールはいる?」
「分からない」
 そりゃあそうだな。気配と同様にシンボルマークの動きだけを見て判断するための情報が無いのだから。
「じゃあ、広域マップの中にルーセが判断できないシンボルは存在する?」
「?」
「いや、ルーセはシンボルを見ただけでどんな獲物かほとんど判別がつくんだろ。だったらルーセが分からないシンボルがトロールの可能性が高いだろ。それにトロールがこの周辺で火龍を除けば一番強い存在なら、」
「おお!」
 ルーセが感心して声をあげる……いや、なんだもっと尊敬してくれても構わないんだよ。君は普段から俺に対する尊敬が足り無いんだから。

 ルーセと一緒に──行く手の草木が避けてくれる精霊の加護の恩恵が受けられる近い距離で──トロールと思わしき獲物がいる場所へと森の中を進んでいく。
「今度は当たり」
 一発的中だが、実は2回目でもある。当然セーブ&ロードを使ったためである。ちなみに間違った相手はヒル・ジャイアント、比較的小型の巨人だが知恵もあり、そもそも狩りの対象ではなく向こうも人間を襲ったりはしない。
 そしてロード時に俺だけではなくルーセの記憶も巻き戻しの影響を受けず、セーブ時点からロード実行までの記憶が残る事が分かった。
 流石パーティーメンバーという事なのだが一つ問題がある。
 もし火龍との戦いでルーセが命を落とすようなことがあればロードを実行すれば助けることが出来ると思っていたのだが、その確信が持てなくなった。
 それだけではなく、俺が死んだ時にどうなるのか分からないように、パーティーメンバーのルーセの死亡時に"GAME OVER"という可能性もありえるのだ。
 そしてそれは逆も同じで、俺が死ねばルーセも巻き込んでしまう可能性もある……嫌だな、自分が死ぬ事さえ覚悟出来てないのに、自分より小さな女の子の命の責任まで負うなんて荷が重過ぎる。
 人生なんて適当に生きて、適当に楽しんで、適当に苦労して、適当なところで満足して終えれば良いのに、異世界の人生は大変だよ。
 そんな思いを胸にしまいこんでルーセに提案する。
「とりあえずは、しばらくはトロールを観察だね」
「観察?」
「次からトロールだと特定出来た方が楽でしょう?」
「うん。分かった」

 10分間ほど実際のトロールの動きとマップ内のトロールのシンボルの動き、そして他の森の生き物の動きと比較して見た結果分かったのは、まずはシンボルで示される向いている方向の変化だ。
 森の中には沢山の生き物の気配があるので、捕食される側の弱い生き物の場合はシンボルが常に細かく方向を変えていて、しかも動きが鋭い。
 それに対して捕食する側の強者は、他の生き物の気配にいちいち反応を示さないので、シンボルが向きを変える時もゆっくりと動く。
 そしてもう一つが移動。シンボルの移動は、捕食される側の弱い生き物は木などの遮蔽物を縫うように動くために細かくジグザグに動くが、捕食する側は直進する距離が長く、方向を変える時も大きく弧を描くいて移動する。
 そしてこの2つの傾向は弱い生き物ほど、強い生き物ほどより顕著なようだ。だがそれだけではトロールとオーガの区別はつけられない。
「分からない?」
 ルーセは3分も掛からずに見抜く条件を見極めたようで、余裕の表情で聞いてきた。
「まだ分からないのか……リュー駄目駄目だ」
 くそぉ~この小娘め。
「ヒントください」
 怒りを抑え、屈辱に塗れながらも頭を下げる。
「……長年の経験」
 熟練の職人の台詞をお子ちゃまが抜かしやがった。しかも全く役にたたねぇヒントにがっくりと膝から崩れ落ちる。

「今日はルーセが倒すからリューは黙って見てる」
「ほう、昨日はオーガには尻尾を巻いた癖に……」
 ボソッと呟くと、それを耳聡く聞いたルーセが睨んでくるが最初の頃の様なプレッシャーは感じないので、年相応に可愛いものである。
 思わず頭に手を伸ばして撫でてやろうと思ったら、手首を掴まれて唸り声と共に噛み付かれた。
「痛いがな」
「リューが意地悪ばかり言うから悪い」
 甘えるだけなら可愛いものだが、すっかり反抗期も患ってしまっているようだ。そして、それもまた可愛いものだと思ってしまえる俺にも問題がある……かなりある。将来もしも俺が親になったら子供をスポイルしてしまう気がしてならない。

 発見したトロールは4体。奴らは家族単位で行動するので群れは両親と思われる大きな成体が2体に、その2体より若干小柄な個体と、更にその半分程度、といっても俺と同じくらいの身長のある個体で構成されている。ちなみに雄と雌の区別は全くつかない。

「家族か……殺せるのかい?」
 余計な事かとも思ったが、尋ねずにはいられなかった。
 ルーセが自分の家族と重ね合わせてしまって戦えないというなら俺が戦えば良いだけの事だ。
「殺せる。何人も村の人が殺されている」
 コードアは人口200人程度の小さな村だ、村の人間は皆顔見知りのご近所さんともいえる。
 トロールの家族を殺すことと村の狩人仲間の命。ルーセはこの歳にして既にどちらを優先すべきか自分の中でケリをつけているようだ。痺れるほどクールだ。だが無理していなければいいのだが……
 ちなみに俺自体は、トロールなどの魔物の類を倒すのに余り忌避感は無い。最初にゴブリンに出会った時には多少の躊躇いはあったものの所詮獣の類だ。
しかも出会ったら殺し合うしかない相容れぬ存在。
 俺にとっては金と経験値稼ぎのお客さんでしかないオークさえも、多くの狩人にとっても一つ間違えば命を落としかねない危険な存在であり、増えれば群れとなって村や町を襲う。人という種にとっては明確な敵対種であり、しかも生活圏をある程度共有してしまっているのだ。
 他者の命を奪うという行為に全く恐れを抱かない訳でもない。そして俺が命懸けてまで駆除しなければならない義務がある訳でもないが、容易く狩れるならば見逃して良い対象ではない。
 正義の味方を気取る気はない──【精神】関連のパラメーター変動で危うくそうなりかけたが──が、人の役に立って、十分な稼ぎにもなり、自分の成長にもつながる……ある意味理想の仕事とも言えるのではないだろうか?

 ルーセはマップ機能を利用し自分とトロールの群れとの間に常に木などの遮蔽物を置くように移動しながら音も無く距離を詰めていく。
 もし自分がマップ機能を持たずに、今のルーセに狙われたらと思うだけで背筋に冷たいものが走る。
 トロールの眼は暗視能力の一種である赤外線視を持つので、こんな木漏れ日のみが差し込む薄暗い森の中ならば藪の中に潜んでいても自らの体熱を発見されてしまうだろうが、木の幹などの遮蔽物を挟んでいては赤外線視も役には立たない。
 ルーセはゆっくりとトロールの群れの進行方向へと回り込み、一本の大樹の陰に隠れて待ち伏せた。
 俺も黙って見てろと言われたものの、気づかれないように出来るだけ距離をつめると、何時でも飛び出せるように身を構える。

 トロールの群れがルーセの隠れる大樹の横を通り過ぎる。
 ルーセはトロールの動きに合わせて大樹を回り込みながらやり過ごして後ろを取ると襲い掛かる。
 ルーセから一番手前にいる、一番小さな個体の背中に振りかぶった長剣を全力で叩きつける。
 腰に刃が走ると、トロールは声を上げる間もなく腰斬され上と下に真っ二つ──と思った次の瞬間、一回転して戻ってきた刃が胸の辺りで更に両断すると、斬り飛ばされた子供のトロールの腕が親トロールの背中に当たった。
「ごぅおおおおおおおっ!!」
 振り返り我が子の無残な姿に気づいた親が怒号を上げる。しかし死の旋風と化したルーセは構わずに踏み込む……その踏み込みの一歩が大きく、そして速い。一瞬で親トロールとの距離を詰めると、その重心の乗った左ひざを両断した。
 そしてバランスを失い後ろへと崩れ落ちる親トロールの首を、3回目の周回で刎ね飛ばした。
 余りの惨劇に俺が思わず口を押さえて固まっている間に、旋風は竜巻と化し残りの2体を飲み込み噛み砕くと血風と共に吹き飛ばしてしまった。
「うっ!」
 抑えていた声が口を突いて出る。まさに凄惨の2文字でしか表現のしようがない。更にバラバラの輪切りになって飛び散ってなお死に切れず蠢くトロール達の肉塊が凄惨さに拍車をかける。
 次の瞬間、思いっきり吐いた。胃の中の物を全て出し切る勢いで吐き続ける……ルーセが……調子に乗って回り過ぎて気分が悪くなったのだ。
 レベルアップ時のアナウンスがこんなにも空しく聞こえたのは初めての経験だった。
 ちなみに回転による酔いは今回のレベルアップでかなり改善した。いや改善してしまった。改善しなければ良かったのに。

「リュー。早く止めを刺す」
 言われるままに、バラバラになっても未だ生きているトロール達に止めを刺していく。咽返るような血の臭いだけではなく、ぶちまけた腸から立ち上るえもいわれぬ悪臭に、こみ上げてくる胃酸を何とか飲み下しながら……ここまで無残な死と言うものは初めてだ。死に様に上等も下等も無いと思っていたが考えが甘かったようだ。
「死体の始末は?」
「このままで良い。身体は他の生き物の餌になりやがて森に還る。それに1セネの価値も無い」
 前半は良い事を言っているのに、後半が身も蓋も無い。
 この殺伐した空気をどうにかしようと「トッ○ロトッ○~ロ~♪」とトロール達の冥福を祈り某有名アニソンを口ずさむと、いきなり強く袖を引っ張られる。
「何それ?」
 ルーセのお子様のEyeがキラキラと輝いていて眩しさすら感じる。
「う、歌だよ」
「うた? たまに村に来る吟遊詩人はそんな風に楽しそうには詠わない」
 吟遊詩人って曲に合わせて歌うというのではなく、単調なリズムに無理やり合わせて物語を語る奴のことか? どうやらこの異世界は余り音楽は発展していないようだ。
 それでも娯楽の少ないコードアでは有難いらしく、年に2度吟遊詩人が村を訪れる3日間は村の酒場に収まりきらない程の人数が押し寄せるために、広場にテーブルと椅子を並べて夜通し宴が催されるそうだ。
「良いかルーセ。これも歌だと理解してくれ」
 他に説明のしようが無かったので無理やり納得させた。
「分かった。だから続きを聞かせて」
 断る理由も無いので教えてしまったが、これは大いなる間違いだった。

 俺は歌を教えた事を直ぐに後悔する事になった。
 トロールを発見するたびに、聞きなれた明るく楽しいメロディーを口ずさみながら、笑顔で突撃しては次々とトロールの命を刈り取っていくルーセの姿に、この曲が流れる度に、地獄の様なこの凄惨な光景が頭に蘇ると思うと本当に、本当に教えた事を後悔した。
 俺、今度『本当にあった天空のお城』を観ながらバル○と叫ぶんだ……と現実逃避したものしかたの無い事だと思う。


「おう。ルーセにリューじゃないか?」
 2日前、この村に来て最初に知り合った猟師のムカルタが声を掛けてきた。
「ずいぶんと大物だな……」
 そう言いながら、俺が後ろから押し、ルーセが引っ張る獲物運搬用のソリ──ルーセ愛用のソリで、森の中の移動中は【所持アイテム】に収納してあった──の上に掛けられた布をめくって中を確認する。
「お、おい! オーガじゃないか?」
 今日はトロールしか狩っていないが、ルーセが狩人としてのプライドから「ボウズで帰るのは嫌だ」と強く主張したために、村の近くで先日狩ったオーガを2体とソリを取り出して載せて引っ張ってきたのだった。
 ちなみに今日の狩りでレベルを23まで上げたルーセは2体で1tを超えるオーガを載せたソリを鼻歌を歌いながら楽々と引きずって行く。おかげで俺は押してる振りをしていれば良かった。
 ちなみに俺のレベルは31まで伸びたが、俺1人では引っ張るのは足の裏の摩擦係数が不足しすぎて端から無理であり、後ろから押すのも過積載すぎてソリの足が地面に食い込んでいて、押せないことは無いが鼻歌を歌いながらとはいかない。
 本当に精霊の加護とやらはチートは出鱈目だ。初めてルーセと会った日にルーセが捕まえた獲物である巨大なドンハ……猪モドキでいいや、大木の枝にぶら下げて血抜きをしたというのだが、滑車を使うなどして引き上げるための運動量を倍にすることで引き上げる力を半分にする様な工夫は一切なしに、ロープを枝に渡して一方の端を猪モドキの足に縛り付け、もう一方の端をただ引っ張って猪モドキの巨体を吊るし上げたという。ニュートンが聞いたら吐血して生死をさまようレベルの暴挙である。

「どうやって、こんな大物を倒した?」
「ルーセが足元にロープを渡して引っ張り倒して、俺が槍で急所を一突き」
 ルーセが余計なことを言う前に、さっさと嘘の結論を告げた。こんなとっさの時こそシステムメニューの時間停止が威力を発揮するのだ。
「むぅ」
 出番を奪われてむっとするルーセ。また要らん見栄を張ろうと思ったのだろうと放置する。
「急所を一突きか、やるものだ」
「ルーセが馬鹿力でオーガを引き倒してくれたおかげだ」
「ああルーセの馬鹿力ならオーガを引き倒すくらい楽勝だし、それなら狩るのも無理じゃないな」
「ルーセ馬鹿力じゃない!」
 俺とムカルタの馬鹿力発言にルーセが怒って怒鳴り声を上げた。
「…………いや、馬鹿力だし」
「…………うん、そうだよな」
 別にルーセを馬鹿にするつもりもからかうつもりも無い。俺もムカルタも純粋にそう思っただけなんだ。
「謝れ。謝らないと誓って必ず後悔させる」
 涙目でルーセは俺達を睨み付けてくる。しかし怖さよりも可愛らしさの方が勝っていて、俺もムカルタ思わず笑みをこぼしてしまう。
「謝るといっても……なあ?」
「ああ、ルーセの馬鹿力は皆もとうに知ってるしな」
 それが引き金になってしまった。
「ううううううううう……もう、お前達絶対に許さない」
 ルーセが激しく唸り声を上げた後、そう宣言する。
「何をするの?」
「何だ?」
 2人で首を傾げあった次の瞬間──
「ぅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん! リューとムカルタがぁぁぁっ! リューとムカルタがルーセを苛めるぅぅぅっ!」
 突然大声を上げて泣き始めた。
「ちょっと待て! マジ泣きはズルイだろ!」
「汚ねぇ! 子供の特権を利用しやがった!」
「あぁぁぁぁぁぁっ! ぅわぁぁぁぁぁぁん!! うえぇぇぇぇぇぇっん!!!」
 おろおろとしながら抗議の声を上げる俺達を無視してルーセは更に大声を上げて泣き続ける。
「どうした?」
「何があったんだ!」
 耳を劈く泣き声に村人達が次々と集まってくる。
「こ、これは……」
「拙いな。これじゃ俺達、悪もんだろ」
「リューとムカルタがぁぁぁぁぁっ!」
 止めにルーセは俺達を指差して、また泣き始める……有罪確定だよ。

「てめぇら何しやがった!」
「こんな小さな女の子を泣かせて恥ずかしくねえのか!」
「ルーセちゃん苛めやがって!!」
 詰め寄る集団からの理不尽な吊るし上げを食らいながら俺は思った……子供ズルイよ。ズルイよ子供。



[39807] 第28話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 20:02
 月曜日の朝は犬臭さと共に訪れた。
「今日は朝の散歩は父さんと行ってくれよ、マル」
 そうは言ってみたものの、ペロペロと俺の顔を舐めるマルには通じるはずも無い。マルはベッドから抱きかかえて下ろした後も、嬉しそうに俺の後を着いてまわる。だが俺が散歩ではなく学校に行くと分かると悲しげに鳴き、玄関で母さんに押さえ込まれながら泣きそうな目で俺を見送るのだった……そんなマルも実にラブリーだ。

 校門から体育館横を抜けてグランドを横切れば、古いプレハブ小屋の部室にたどり着く。
 少し立て付けの悪い部室のドアを開けると、すえた汗の臭いがムワっと流れ出てくる……別に見られて恥ずかしい身体はしてないから、ドアは開けておけよ。
「おはよう。昨日はちゃんと身体を休ませたか?」
 部室に入ると着替え中の下級生達に声を掛ける。
「はい。休ませてもらいました」
 1年生の澤田が応える。そう言えばこいつって俺の背中で吐いた奴だ。
「じゃあ二度と吐くなよ」
「は、はい!」
 澤田は全身を緊張させながらそう応えた。

「ところで主将。土曜日は先生と一緒に何処へ行ったのでしょうか?」
 着替え始めた俺の横に来た香藤が相変わらずの真面目な口調で尋ねてきた。
「香籐は卒業後に鬼剋流に入門するつもりか?」
「えっ……あ、いいえ」
「なら聞かない方が良い。関わったら負けだ」
「じゃ、じゃあ主将は鬼剋流に入も──」
「絶対に嫌だ! だから土曜日のことは忘れたい。分かったか?」
「は、はい。失礼しました」
 頭を下げて引き下がる香籐だが、代わりに1年生の新居(あらい)が話掛けて来た。
「ところで先輩。大島先生って一体どういう人なんですか?」
 まあ、そろそろその辺の事が気になってくるのも仕方のない事だ。どう考えても存在自体がおかしな男だ不審に思わない方がおかしい。だが俺に言えるのは……
「良く分からんだろ? だがそれが良いんだ。知れば知るほどお前の人生は幸せから縁遠くなる。そういう類の人間だと思え」
「もう十分縁遠い気がするのですが……」
「余計な事に頭を突っ込んだら、今の自分を思い出して幸せだったと思うことになる……まあ、本当かどうかは分からんが試してみるか?」
「い、いいえ。そこまで覚悟しての興味ではないですから……」
 当たり前だ、そこまで覚悟されたら怖いわ。
「はっきりしてるのは奴が理不尽なほど強いということだ。そして存在自体が理不尽だ。人は決して力で奴には勝てない」
 人間の枠を超えなければ勝てない。今の俺は十分超えてる気がするが、未だ勝てる気がしない。奴が俺達に見せている力は氷山の一角に過ぎない。そんな強迫観念にも似た思いが俺を縛っている。
「でも、大島先生はそこまで強いんでしょうか?」
 大島の強さを疑う? 俺達にとって斬新過ぎる新機軸の発想であり、隣で香籐がおやおやといった風の呆れ顔をしている。
「……香籐、空のペットボトル無いか?」
「あれですか……ちょっと待ってください」
 そう言いながらゴミ箱の中を覗きに行く。
 俺は部室の入り口横にある何本もの壊れた竹刀──全部大島の仕業だ──が挿してあるバケツの中から、1本の棒を取り出す。
 長さ50cm弱。折れてバラけて完全に壊れた竹刀の残骸だ。
「ありました」
 香籐はゴミ箱から500mlの空のペットボトルを取り出すと部室の中央にある長机の上にそのまま立てて置いた。
 竹の棒を右手に持って右脇に挟んでペットボトルに近寄ると、新居に「よく見てろ」と言うなり竹の棒を脇から抜いて横に一閃する。
 棒の先がペットボトルの首に当たると、ペットボトルは回転しながら斜め上に跳ね上がるが、同時に飲み口の部分が千切れ飛び、開いていた部室の入り口から外へと飛んで行く。
「危ないじゃないか……気をつけてくれ高城君」
 飛んできたペットボトルの飲み口を何気ない素振りで受け止めた紫村が、俺に投げ返しながら部室に入ってくる。
「ああ悪い」
 紫村は何をやっても一々様になる男だ。これでホモでなければ空手部部員であっても、学校中の女が放っておかないだろう……羨ましいとかは一切思わない。ただ純粋に勿体無いと思う。
「せ、先輩。今のは一体?」
 驚きから我に返った新居が掴みかからんばかりの勢いで迫ってくる。
「見ての通り、棒で叩いてペットボトルの首をぶっ飛ばしただけだ」
「でもペットボトルですよ。しかも中は空で固定もしてないのに……こんな簡単に壊れるようなものじゃないですよ」
「まあ、コツがあるからそれが分かれば誰にでも出来る」
 実際、2年生、3年生なら誰でも出来る。飲み口の付け根の部分は適度に厚くて、厚すぎないので衝撃を与えると割れやすい。そして棒を振る際もあらかじめ棒は脇に押し付けるようにして力を加えておけば、脇から抜くと同時に最高速度に加速する。そして親指と人差し指の付け根を支点とし、小指の第一間接を作用点として一気に小指を握りこみ、棒を180度回転させて飲み口の付け根へと打ち込むだけだ。1時間も練習すれば誰でも出来るようになる程度で決して難しくは無い一発芸だ。
 だが……
「大島はこれを素手でやる」
「それは幾らなんでも冗談………………えっ?」
 思わず笑ってしまった新居だが、先輩達が誰一人笑っていないことに気づき、その笑顔が凍りつく。
「まあ、そう思うだろうな。俺は実際に見ても信じられなかった」
 空手特有の種も仕掛けもある隠し芸で手刀によるビール瓶の首飛ばしは有名だが、それとは全く次元が異なる。既に人外と化した俺が言うのもなんだが人間業ではない。
 当時、俺も大島の真似をして右手で手刀をつくり、親指の第一、第二間接をほぼ90度に曲げて、右腕に力を込めながら左手で抑えた状況から一気に力を解放し、当たる直前に手首を振り切り親指の爪の先端をペットボトルの首の一点に打ち込んでみた。
 確かな手ごたえがあった、腕のスイング速度が後2倍ほどあれば成功しただろうという手ごたえが……
「つまり大島を人間だと思うのは止めておけって事だ。奴は我々に似ているが根本的に異なるおぞましい何かだと……だから命を賭ける覚悟が出来ないなら奴に正面を切て逆らうな。奴は真性のドSだが俺達の命をどうこうしようとは基本的に考えていない。たった3年の我慢だ。俺達は若い、わずか3年のために命を捨てるなよ」
「は、はい」
 新居は白茶けた顔で力なく頷く。分かってくれて良かった。空手部は地獄だ出来るだけ早く絶望しておいて損は無いのだよ。
 だが心を折られて絶望しても、いつか大島を倒すという意思だけは捨ててくれるな。正面から闘わなければ良いんだ。セコく汚く手段さえ選ばなければもしかしたら倒すチャンスがある可能性はゼロではない。もしそれさえも捨ててしまったらきっと心が壊れてしまうから……ということをいつか話してあげたいものだと思う俺だった。


 朝練を終えて教室に向かう。
「おはよう高城」
「おはよう前田」
 背後からの挨拶だが、振り返り確認する必要もなくクラスメイトの前田だ……俺に挨拶をするのは空手部の人間とこいつくらいだから。
「それで今日の数学の宿題なんだけど」
「……本当にお前は一年の時から変わらないな」
 認めたくないが前田とは1年、2年、3年と同じクラスだ……こんな時に、可愛い女子の顔を思い浮かべて前田じゃなくその子と一緒なら良かったのにと思える様な相手すら居ない自分に、男として生きている意味があるのかと本気で考えざるを得ない。
「変わらないさ。お前が居る限りはな」
 こんなしょうもない事を格好つけて言える男が、自分にとってクラスで唯一の友達かと思うと悲しくなってしまった。
「じゃあ来年から変わるお前を見れなくて残念だ」
 俺は兄貴と同じ進学校を志望校にするつもりだ。そして兄貴の悪評を晴らしてやりたい……まあ、兄貴は卒業してしまっているけどな。
 そんな俺に対して前田は成績があまり……かなりよろしくないので来年、学校は別になるのは決定的だ。実にめでたい……いや彼にとっては俺が居ない方がいいって意味で、腐れ縁が切れるのでめでたいという意味じゃないよ……多分。

 教室に入り前田に宿題を見せてやりながら駄弁っていると予鈴の鐘が鳴り、担任の北條先生が教室に入ってくる。
 彼女と目が合った瞬間、ほんの一瞬だが表情を曇らせ視線をわずかに下にそらす……普段、他の女の生徒や教師からやられ慣れている態度で、彼女がそうする理由も分かっているのだが、北條先生からそんな態度をとられた思うとマジでダメージが大きい。

「なぁ、ちょっとおかしくないか? 先生が一度もこっちを見ないんだけど」
 前田も北條先生の異変に気づき始めた。
「気のせいじゃないか」
「いや、こうやって俺とお前が話をしてるのにこっちを見ようともしない」
 無駄に観察力がありやがる。
 確かに普段の北條先生は厳しく私語など一切許さない毅然とした態度で授業を進める。
「お前を泳がせておいて、後でまとめて説教するつもりだろ。俺を巻き込むな」
 そう言って、後は前田を無視した。

 1時間目終業の鐘が鳴り、北條先生は教材を片付けて「では授業を終わります。それと高城君。昼休みに数学準備室に来てください」と言い残すと教室を出て行った。
「何だ狙われてるのは俺じゃなくお前じゃないか」
 前田が嬉しそうに俺の背中を叩く。
「ずいぶんと嬉しそうだな?」
「別にお前が呼び出されたことが嬉しいんじゃなく、俺が呼び出しを喰らわなかった事が嬉しいだけだよ……心の友よ」
「心の友とやらに対する配慮はないのか?」
「いや、あの堅物の北條先生からの説教は俺には無理だけど、ドSの大島に慣れたお前なら楽勝だろ」
「お前さ、今の台詞を大島の前で言えるの?」
 前田の顔が一瞬で強張る。
「えっ何? お前、それを持ち出すの? 冗談は止めろよ前田陽一君が絶滅しちゃうよ」
「別に前田陽一なんて名前の奴なら日本中に沢山いるから安心して成仏しろ」
「違う。断じて違うから。お前の目の前に居る前田陽一君は、世界にたった一人だけの特別な前田陽一だよ」
「希少であれば価値があるって訳じゃない……さてと次は国語だな」
 俺は次の授業に備えて教科書を取り出す……北條先生からの呼び出しか、まあ当然アノ事の口止めだろうが、そもそも俺が吹聴したところで誰が信じるというのだろう? 正直なところ俺自身、何かの間違いじゃないのかと思わずには居られないほど、彼女のイメージにはそぐわない出来事だった。
 もし誰か、例えば前田が「北條先生はBL小説を愛読する腐女子」と言ったとする……うん、俺なら間違いなく鼻で笑っておしまいだ。全く信じるに値しない。やっぱり前田は馬鹿だなぁ~と思うだけだ。

「言うなよ。絶対に言うなよ」
 まさかシミュレーションの中でも馬鹿と思われているとは知らず必死に口止めしようとする前田。
「何という露骨な前振り」
「いや全然振ってないからな。本当に頼みます!」
 そんな前田に俺は生暖かな目で微笑むだけで、何か言葉を掛ける必要を全く感じなかった。



[39807] 第29話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2015/06/15 23:18
「では高城君。数学準備室に来てください」
 給食の時間を終えると北條先生はそう促して教室を出て行く。俺もその後を追って廊下に出て、前を歩く彼女の背中を見ながら歩く。
 数学準備室まで俺と北條先生は一言も口を利くことなく歩く。微妙な緊張感が2人を包み、数学準備室のドアの前にたどり着いてほっとした。
「入ってください」
 言われるままに中に入ると北條先生はドアを閉じて鍵をかけた。
 女性教師と男子生徒が2人っきりで密室というのは拙い気がしてならない。
 普通なら10歳以上も年下の中学生など男として意識するまでもないと判断したとも考えられるが、紫村辺りを性的妄想の対象にしている疑いのある彼女だから、単にてんぱった挙句に誰にも聞かれたくない一心で鍵をかけてしまったのが正解だろうと思う。
「鍵は開けておいた方が良いと思いますよ」
 気を使って声を掛けると、ビクっと身体を震わせる。そして顔に緊張の色を浮かべながら「そうね」と慌てて鍵を開けた……そんな先生の様子が、俺の中のS専用琴線が震えさせる。だからやばいって。
 でも本当に美人だわ、いつもの凛とした表情も美人だがけど今の表情も良い。普段は真面目過ぎて全く潤いを感じないのに、こんな顔を見せられたら惚れざるを得ないだろう。
 惚れるといっても恋愛感情という訳ではない……と思う。彼女が幸せなら俺が知らない男と結婚したとしても祝福できるだろう。まあ多少呪うのはご愛嬌というものだろう。
 これがもしルーセが嫁に行くとなれば「お父さん許しませんよ」的な感情が爆発しそうで怖い。

 先生に勧められて、向かい合って椅子に座る。
「呼び立ててごめんなさい」
「いえ」
「金曜の夜のことなんだけど……」
 躊躇いがちに話を切り出してきた。
「あの……あの時、助けてくれた高城君にお礼も言わずに立ち去って申し訳ありませんでした」
 項が覗けるほど深々と頭を下げる……脳内RECスタート!
「いいえ、気にしないでくださいよ」
 極めて紳士的に対応する。まあ中身は10歳に満たない女の子に変態と連呼されるような下種なんですがね。
「そ、それで……あの……本の事なんです」
 やっぱりこうなるよな。出来ればあの件に関しては全て忘れて、何事も無かったかのようにしてくれるのが俺にとっても一番助かる選択だったのだが、堅苦しいほどに生真面目な北條先生にとって、そんな誤魔化しめいた選択は無かったのだろう。
「個人的な嗜好についてとやかく言えるほど僕自身は清廉潔白な人間ではありません。それにあの件は誰に迷惑をかける趣味でもないと思うので気になさらないでください」
 これは俺の本心だ。人間は公的には建前に従って振る舞い。私的には本音に従って振舞えば良い。そしてその両者の破綻させずに両立させられる人間が立派な人間であると言うのが俺の持論だ。
 時々「建前とかそんな風に自分を飾るのが苦手なんです」とか言う人間が居るが、そいつらは馬鹿か嘘吐き、さもなければ薄っぺらでつまらない人間のどれかだ。

 人は醜い本性を持つからこそ恥じる。そして恥じるからこそ美しくあろうとする。だから美しくなれる。だが恥じる事を知らない者はただ醜いままにあり続けるしかない。
 建前で上辺を取り繕うのは恥じているからに他ならない。建前とは斯くの如くありたいと願う自分のあり方。今は違っていても目標が見えているなら、建前を何度も口にしている内に自然とそこに近づいていけるはずだ。
 だが建前で上辺すら取り繕う事をしない者には理想が無い。ただ人は皆醜いと厭世的に哂うか、理想すら持たないちっぽけな自分に気づいてないだけだ。そんな人間に何の意味があるのだろう?

「違うの……あれは、あの本は……」
 状況が変わった。本音だ建前だなんてくだらない事を考えてる場合じゃない。
 北條先生が違うと言うなら違うに決まっている。そうだよ先生が腐ってるなんてそんな馬鹿な事があるはずが無い……まあ、昨夜は……あれだ……例の本を読みながら自分を慰める北條先生を想像しながら、右手を酷使させてしまった訳だ! えぇいっ自重はせぬ、自重はせぬ、自重はせぬぞっ!
 北條先生が腐ってない可能性があると思っただけでテンションが上がるのが止められない。

「何か事情が?」
 そんなくだらない事を考えている事などおくびにも出さず、前のめりで聞き返す。
「あれは……し、信じてもらえないかもしれないけど……」
「信じます!」
 信じないはずが無い。信じるなと言われても信じるよ。信じたいものを信じる。それが人間だから。
「……あれは妹に頼まれたの」
 妹? 言い訳としたら余りにもベタな話だが、俺が突っ込みたいのはそこではない。
「妹さんがいるのですか?」
 さすが俺。やはりそこに食いつかずにはいられないのだった。
 先生の妹か、やはり先生に似てるのかな? 似ていて欲しい。何なら可愛い系でも許す! ……ああ妄想が宇宙の膨張をも超えて膨らんでいく。
「ええ、二つ年下なんですけど、そっちの趣味があって……あの日も本屋に買い物に行くって出て行って直ぐに、階段で転んだと言って帰ってきて、足を挫いて歩けないから代わりに買い物に行って欲しいと頼まれたの。私も買いたい本があったから引き受けたんだけど、まさか……」
 2歳下……23歳のドジっ娘か、アリって言えばアリなんだけど、腐女子属性は邪魔だよな。そもそも男女間の交際を必要としているのか、生態自体が不明だしな。
 それでも一度チェックしなければならないと心に誓った。
「まさかあんな本だとは思わなかったと? でもどうしてネット通販で買わなかったんでしょう?」
 余計な事を考えながらも、真面目に聞いていたかのようにきちん会話をこなす自分を流石だと思う。
 ネット通販なら自宅に居なくてもコンビニで受け取れるようにしておけば、発売日には確実に入手できるだろうに……俺はネット通販自体使った事は無いけどね。
「クレジット決済だと、もしも情報漏洩があったら我々マイノリティーは社会的信用を失うから駄目だと、それに今日中にどうしても読みたいと泣いて駄々をこねるから……」
 マイノリティー。ああ、サイレント魔女リティー(要グーグル先生)の中の人ね……違うわ!
 確かにここしばらくは聞かないけど、何年か前は良くハッキングによる顧客データの流出とかニュースになってたよな。
 それにしても、そこまで病的に自分の趣味の露呈を恐れる完全隠密型の隠れオタの上に、23歳にして泣いて駄々をこねるとは駄目人間だな。
 でも北條先生に似たクールビューティー風の駄目人間……それはそれでぐっと来るものがある。
「でも社会的信用……あるんですか?」
「一応、あんな子でも銀行員だから。それで私も恥ずかしいから変装して遠いあの本屋まで行て……」
「あの騒動に巻き込まれたんですよね」
 一応筋は通っているし、細部まで話が出来ている。今咄嗟に思いついたとしたら情報漏洩の件は出てこないだろう。だがそんな理屈なんて関係なく俺の中では無罪だ。
「信じてもらえないだろうけど──」
「先生が言うなら何でも信じます」
「──本当なの……えっ?」
 俺が間髪いれずに答えると、北條先生が驚いた表情で固まる。
「……どうして? 私なら信じられないわ。都合が良すぎるもの」
 どう説明したら良いものやら……

「先生は、幽霊を信じますか?」
「幽霊ですか? ……いいえ信じません」
 唐突な俺の言葉に怪訝な表情を浮かべながら答えてくれた。
「それは良かった。信じてると言われたら困ったところです。それでですね。人間が幽霊だのUFOだのを証明できないものを信じるには2つの場合があるという話を聞いた事があるんです。一つは自分自身で見たり体験した場合。これは自分の正常を疑うか信じるかの二者択一です。信じる者もいて当然でしょう。そしてもう一つが『こいつが言うなら間違いなく存在するんだろう』と確信を抱けるような人物がそれらを肯定した場合です。まあ詐欺師に騙され易いタイプなのかもしれません」
「それは……」
「僕は先生が言うなら間違いないだろうと信じます」
「何故、そこまで私を?」
「先生が、先生だけが俺達空手部の部員を他の生徒と同じように公平に扱ってくれたからです」
 これは本当に嬉しかったし恩に着ている。
「ありがとう。でも生徒を平等に扱うのは当然のことです。その当然の事がこの学校で成されていないは、私の力が及ばなかったせいです」
 当然ね。じゃあ当然の事が出来ない教師どもは何なのだろう。
 それにしても力が足りないのは仕方が無いだろう。教師になって4年目に入ったばかりで、教師陣の中でも若手である彼女に他の教師を動かす影響力があるとは思えない。問題なのは大島の暴走を止められない──端から止められるとは思わない──のはともかく、俺達空手部部員達への隔意を持った態度を改めない他の教師達だろう。大島の存在自体問題だと思うが、俺達部員が何をしたと言うのだ。
「生徒を平等に扱う。確かに普通ですよね。でも普通にすら扱ってもらえない俺達には、その普通はとても嬉しいことだったんです。学校生活を送るための力を与えてくれたんです」
 北條先生が居なかったら、俺達の学校生活は癒しのない殺伐としたものになり、登校拒否も十分にあり得た……今でも十分殺伐としているし、ちょっとした切欠で登校拒否に追い込まれかねないけど。
 2年の時から担任──2年から3年はクラスはそのままで持ち上がる──で、俺は櫛木田、田村、伴尾からかなり妬まれた。それくらい彼女の授業は奴等にとって救いになっていたのは事実だ。
「あ、ありがとう高城君……そんな風に言って貰えて、嬉しい……とても嬉しいです」
 うん? どうして感極まったかの様に泣くんだ。そんな風に言って貰えてだって? 俺の知る限りにおいて彼女は立派な教師だ。それなのに今までそんな風に言って貰えなかったって事なのか……おかしい。俺の北條先生像とは食い違う。
「ちょっと待ってください。先生は自分が立派な教師じゃないと思ってるんですか?」
 俺の言葉に北條先生は少し悩んだ後で口を開いた。
「私は融通が利かないところがあって、生徒の皆にも厳しい思われて敬遠されていて……それに女子剣道部の皆にも鬼顧問と呼ばれていて……」
 いつもの常に凛とした北條先生の姿とは違い、俯き自信なさ気に話す……それはともかく何処かで聞いたことのある様な話だが、あれで鬼呼ばわりなら大島は魔王だな。
「それに……いえ、何でもないわ……」
 何かを言いかけて止める。引っかかるし、そもそも何でもないなら何故そんなに辛そうな顔をする。
 北條先生が教師として自信を失うような何か大きな問題が他にあると考えるべきだな。
 生徒からは恐れられるのとは別の理由。教師間の問題の可能性が高い……大島に聞いてみるか。空気を読まない男だから、その手の話に精通しているとは思えないが、俺にとって話を聞けるような教師は、大島以外には北條先生だけだから仕方が無い。

「そんな私に普通に接してくれたのが空手部の皆で……良く話し掛けてくれて……」
 ああ、確かにそういうものの捉え方もある……よね?
 でも北條先生は俺達の態度に感謝しつつも特別扱いはせずに、他の生徒と同じように平等に扱ってくれた。もしも俺達に特別に目を掛けてくれていたとしたら、俺達はここまで彼女を慕いはしなかっただろう。プラスであろうとマイナスであろうと差別は差別であり、俺達はその手の態度にナーバスだった。
 はっきりと言えるのは、彼女の俺達への態度は公正公平であろうとする気高い精神の所産であり、俺達の態度は単に餌を貰った野良犬や野良猫が懐いてしまったに過ぎないという事だ……申し訳なさに心が痛む。
「とても嬉しかったのに……それなのに力になってあげられず」
「でも何とかしようとしてくれたんですよね」
「はい。職員会議で問題にしたのですが……全く相手にされなかったから」
「大島……先生は何と?」
 本人の前以外で大島に先生を付けて呼ぶのは久しぶり過ぎて違和感しか感じない。
「全く興味が無いようでした。どうしてでしょう……」
 やっぱりあいつは三度殺す。社会的に殺し、雄として殺し、生物的に殺す! ……今は無理だけど。
 それにしても、職員会議で全く相手にされないとは……やはり教師達に何か原因がありそうだ。調べておく必要があるな。
 そして『俺の』北條先生を悲しませた糞共には必ず制裁を加えてやる……俺の北條先生か素晴らしいフレーズだ日記につけておこう……日記なんて付けてないけどな! 自分でも分かるほどテンションが変だ。


「ありがとう高城君。おかげで気持ちが楽になったわ」
 眼鏡を外しハンカチで涙を拭いながら、そう言うと小さく微笑んでくれた。
 しまったここは俺がハンカチを差し出して先生のハートをがっちり掴むシチュエーションだろ……分かってる、分かってるよ。どう転んでも先生の心が俺に傾くはずは無い事くらい分かってるよ。
 しかし、本屋で見た時も思ったが眼鏡を取ると本当に美人だよ。眼鏡美人という言葉があるが所詮は眼鏡の力を借りての美人。本当の美人は素が一番美しい。しかも普段は決して見せない微笑……癒されるわ~ますます惚れるね。
 だからこの人の笑顔を曇らさせるような真似を決して許す気は無い。



[39807] 第30話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/12/30 18:35
 数学準備室を出た俺は、その足で技術科準備室へと向かった。
 担任を持たない大島が昼休みの全てをそこで過ごす事は知っていた。
 もし大島が職員室に居座ったら、他の教師が寄り付かず職員室としての体を成さなくなるだろう。これは大島が空気を読んで職員室を避けたと言うよりは自分個人の空間として使える準備室を好んだ結果だった。
 30年ほど昔、最盛期を迎えた頃のこの中学校は想定された収容数である1学年10クラスの1クラス40人。1200名の生徒数を大幅に超える総生徒数が1300名以上だった頃には技術科の教師も2名体制だったが、現在は1学年6クラス。1クラスあたりの生徒数30名程度で総生徒数が500名を切る現在、技術科の教師は大島1人だけである。

 準備室のドアをノックし「3年2組の高城です」と名乗る。ちなみに以前「高城です」と言ったら「何処の高城様だ馬鹿野郎」と怒鳴られた事がある……体育会系って面倒臭い。
 一拍おいて中から野太い声で「入れ」と許可が下りる。
「失礼します」
 ドアを開けて中に入ると、大島は授業で使う鉋の手入れをしていた手を止めて、こちらを振り返る。
「どうした?」
「先生に質問があってきました」
「空手部のことか?」
「いいえ、僕の担任の北條先生の事なんですが」
「ん? ああ、数学の北條か……彼女がどうかしたか?」
「北條先生と他の教職員の間で何か問題があったと聞いたんですが、本当でしょうか?」
「……本当だな」
 あっさりと答えた。普通この手の話は生徒には教えないのだろうが、大島は普通の教師ではなく、元々異常な教師なのだから全くおかしくは無い。
「詳しく終えしえてくれませんか?」
「何故そんな事を知りたがる?」
「北條先生には恩がありますから」
 言外にお前には無いけどなと含みを持たせる。
「恩?」
「この学校の教師の中で、俺達空手部の部員を他の生徒と平等に扱ってくれたのは北條先生だけですから」
「……俺は違うのか?」
「大島先生は、俺達を含めて生徒全員を等しく虫けらのように扱ってくれただけですから……」
「褒めるなよ」
 褒めてねぇっ! そして照れるな! ……こいつは本気でドSである自分に誇りすら持っているのかもしれない。言い知れぬ恐怖を覚える。

「それで聞かせてはくれませんか?」
「まあ良いか、2年少し前、お前達が入学する前の事だが北條の良くない噂が流れた事がある。いわゆる人格批判と言われる汚い噂で全く根拠も無いが、北條の立場を拙くしたのは確かだ。特に女どもの間では評判が悪くなったな」
「それはどんな……いえ、噂の内容は良いですが、噂の出所はご存知ですか?」
 どうせ不愉快な話だろう。そんな与太話なんかよりも問題は噂の出所だ。そいつの突き止めて己の愚かさを思い知らせてやれば良い。
「流石に職場内で同僚の中傷する噂を、出所がはっきり分かるようにばら撒く奴はいねえよ」
「つまり、はっきりとした証拠は無いけど出所は分かるってことですよね」
「ああ、要は証拠をつかまれさえしなければ出所は分かった方が相手にダメージを与えられるからな」
 大島はニヤリと哂う。思わずぶちのめしたくなる様な嫌な顔だ。ドSとして犯人に共感出来るものを感じているのだろう。
「そいつの名前を教えて貰えませんか?」
「……北條の噂が流れる1週間ほど前に、体育の鈴中が北條と剣道の試合をして一蹴されたと聞いた事がある。それにあいつは北條にしつこく付き纏っていたからな。まあだから鈴中が噂をばら撒いたって証拠は無いがな。それをどう思うかはお前の自由って奴だ」
 明らかに状況を楽しんでいるな。
「……ありがとうございました」
「いやなに、単なる与太話だ…………面白い結果を楽しみにしてるぞ」
 頭を下げる俺に、最後に小さな声でそう囁いた。大島がどんな顔をしているかは頭を下げている俺には見えないが想像はつく。こいつはやはり悪魔の類で、ケツから黒い尻尾を生やしているに違いない。
 だが俺も黒い尻尾くらい何本でも生やしてやる。誰を悲しませ、誰を怒らせたのか分からせてやるなら悪魔にもなろう。


「教師の間で北條先生を貶めるような噂が流されている」
 部活終了後の部室の中で2年生と3年生を集めるて打ち明けた。ちなみに1年生はグランド脇で倒れている。
「それは本当ですか?」
 2年生の仲元が詰め寄ってくる。
 こいつらにとっては既に北條先生への思いは信仰の域に達している。
「高城。どういうことなんだ?」
 田村も冷静さを失い、怒りで人殺しでもしそうな怖い顔になっている……やめろよ。チビッたらどうする。
「まあ、落ち着け。俺は昼休みに北條先生に数学準備室に呼び出された」
「抜け駆けか? 抜け駆けなんだな!」
「呼び出されるためにわざと問題を起こしたな。汚いぞ高城!」
 そう思うのもしかたの無い事だ。俺達は基本的に優等生だ教師達の覚えはめでたくないが優等生なのである。俺が入学して以来、空手部の部員が呼び出しを喰らったという話は聞いたことが無い。
「ずるいですよ先輩!」
 伴尾に櫛木田だけでなく田辺まで俺を非難し始める……ふっ、持たざるものの僻み。心地好いわ!
 だが悦に浸っていても仕方が無いので事情を説明する。
「全ては先週の金曜日の夜に始まった。俺は父親の車で郊外の大型書店に行ったのだが、万引きをやらかした馬鹿が逃走中に階段を下りる途中で、女性客を突き飛ばしたのを咄嗟に助けたんだ」
「まさか、それが……」
「ああ北條先生だったんだ」
「な、なんだってーっ!」
 流石ノリが良い。お約束な突っ込みありがとう。

「羨ましい。羨ましすぎるシチュエーションだ」
「いやむしろ妬ましいだろ」
「何で俺はその場にいなかったんだよ!」
「本当に美味しすぎますよね」
「そんな都合の良い事が……まさか、これは主将の陰謀!?」
「そんな格好良い状況で先生が、お前に惚れてしまったらどうする気だ!」
 などと口々に俺を攻撃し始めるが無視する。
「ちなみにその時の先生は、いつもの格好とは違って髪を下ろして可愛い感じのワンピースを着て……」
 そこで一呼吸間を取る。
「ワンピースを着て?」
 櫛木田がゴクリと喉を鳴らして先を促す。
「……コンタクトをして眼鏡をしていなかった」
 その一言に部室内は興奮に湧き上がる。
「眼鏡をしていない……どうなんだ。どうだったんだ? 眼鏡をしていない北条先生のお顔は?」
「羨ましすぎて、主将を殺してしまいたいと右腕が疼く」
「俺、今日から毎晩その本屋で張り込む。閉店時間まで張り込むよ」
「ああ、想像の中の北條先生が素敵過ぎて怖い!」
「当然、そのお姿は撮影したんだよな? メールで送ってくれ。頼む。今月の小遣い全部出すから!」
 これは、先生を抱き支えた時に胸が俺の頬にしっかりと触れた事は言わない方がいいだろう。
 奴らの羨ましがる様子を見て楽しむ前に俺の命が危ない。数を揃えて襲い掛かるとか奇襲ならともかく、こいつらはいざとなったら毒でも盛りかねない。
 【傷癒】の上の【軽傷癒】という打ち身や捻挫くらいなら治せる魔術は憶えたし、【病癒】という軽い頭痛程度を即座に完治させるものや、その上の【軽病癒】も憶えたが、ちょっとした風邪を一晩で完治させるという、思わず「ちょっとした風邪は一晩寝れば治るわ!」と叫んでしまうよな微妙過ぎる回復系の魔術ばかりで、毒物による中毒症状を治す魔術は憶えていないのだ……こいつらを本気で怒らせるのはまだ早い。


「まあ、そんな訳で、その場では碌に礼もいえなかったということで、昼休みに改めて礼を言うと事で俺を呼び出したって事だ」
「事情はわかったけど、本題の噂ってどういうことなんだい?」
 紫村が話の先を促す。確かにこいつは女性には興味は無いが、それでも自分達に普通に接してくれる北條先生へはに人としての尊敬の念を持っているので気になるようだ。
「お礼を言ってもらった後、少し話をしたんだけど、北條先生が他の教師からいじめと言うか、軽んじられてるみたいな話が出たんだ。それが気になったんで大島に聞いてみたら。確かに先生を中傷するような噂が2年ほど前から流されているみたいなんだ」
「へぇ、ふざけた事をする馬鹿がいるものだね」
 紫村が怒っている。いつもは冷静で爽やかなホモが抑えてはいるが怒りの片鱗を隠し切れずにいる。
「どいつがそんな噂を流したんだ?」
 田村ははっきりと怒りを露にしている。
「聞いてどうする? これから殴りにでも行くのか?」
「当たり前だろう!」
 やっぱりそうだろうね。だけどな……
「迷惑だからやめろ」
「どういう意味だ!」
「北條先生に迷惑が掛かると言ってるんだよ。暴力沙汰にでもなろうものなら、殴ったお前が処罰されても相手に対しては然したる証拠も無いのでお咎め無しだろう。更にお前が余計な事を口走ったら間違いなく北條先生の立場が悪くなる」
「だったら何にもしないつもりか!」
 直情的に怒りを叫びに変える彼が可愛くすら思えてくる。
 だけど今、俺の頭の中で渦巻く怒り熱は、そんな風に叫んだところで少しも醒ますことが出来そうに無い。

「馬鹿だな田村は、そんなわけ無いじゃないか。殴っておしまいなんて甘っちょろい事を俺が考えると思うのか? 駄目だな田村。駄目駄目だ。やる以上は徹底的だ。最低でも教師生命は絶たなきゃ駄目だろ。別の学校に転任してのうのうと教師を続けようなんて事は絶対に許さないよ。残りの人生泣きながら暮らすような目に遭わせなきゃさ……駄目だと思わないか田村君?」
 顔を近づけて瞳を覗き込むようにして話し掛けてやると田村は怯えたように頷く。どうやら他の連中も一気に怒りが退いたみたいだ……結構結構。
「それでどうするんだい高城君?」
 1人だけ紫村が楽しそうに尋ねてくる。
「まずこの噂が流されたのが2年前。人の噂も75日と言うのに効果が長すぎるだろ」
「つまり定期的に噂の効果をリフレッシュさせているって事だね」
 さすが学力だけなら空手部一で学年全体でも一、二を争う優等生だ察しが良い……素行に関しては大島が退くほど問題があるけどな。
「大島が怪しいと名前を挙げた鈴中の動向を皆で手分けをして見張ってほしい。後は櫛木田が先輩に当たって俺達が入学する少し前に、鈴中が北條先生と剣道で試合をした経緯を調べてくれ」
「それで高城君は何を?」
「俺は、奴の弱みを調べるよ。洗いざらいね」
 ニヤリと笑みを浮かべてしまった俺に、紫村はあくまでも爽やかに微笑を浮かべて頷く。
 自重をする気は無い。徹底的に調べてやるさ。戦闘用としてはイマイチ使い勝手の悪い魔術だが、今回の件で役に立ちそうなのが幾つかある。現実世界でも使える事は確認済みだが、【闇手】『3m以内にある目に見える物を自在に動かす黒い手を顕現させる。ただし最大出力はスプーンを曲げられる程度』という余りに使い道の限られた……役に立たないとも言う魔術も使い時が来たのだ。

 帰宅後に俺はマルと一緒に夜の散歩に出た。
 今晩はいつもの川沿いの散歩道ではなく住宅地を歩いて、鈴中の住んでる4階建てのアパートの前に来ている。
 鈴中の住所を大島から聞こうと思ったが、2年生の小林が1年の時の担任が鈴中だったので聞いてみたら簡単に入手出来き、大島に借りを作らず済んでほっとした。

 アパートを見上げながら、明日から忙しくなるなと呟いた。
 北條先生を悲しませたような奴に掛ける情けなど全く無い。むしろ喜びを持って狩ってやると心に決めたのだから。



[39807] 第31話
Name: TKZ◆504ce643 ID:43cd01a6
Date: 2014/06/24 20:04
 朝目覚めると腕ひしぎ固めが極まっていた。
 説明するまでもなくルーセが俺に技を掛けている。このお嬢ちゃん昨日からのご機嫌斜めが直っていないようだ。
「ルーセ痛いよ」
 特に技を掛けられている右腕の肘がベッドの外に飛び出している状態でルーセの上半身がぶら下がる形になっているので、流石に人外を誇る俺の身体でも堪える。唯一の救いは上半身は空中で下半身はベッドの上という状況なので精霊の加護も働いていない事で、もし加護が有効なら俺の右の肩と肘は既に破壊されている。
「がぅ!」
 ルーセの答えは俺の掌への噛付きだった。
「痛ったぁぁっ!」
 悲鳴を上げると噛むのを止めて俺を睨む。
「ルーセは怒っている」
「まだ機嫌直してないの? 馬鹿力と言った事は謝ったでしょ」
 本当に散々謝らせられた。まずは集まってきた村人達の前でムカルタと2人して土下座して謝らせられた。
 それで腹が収まらなかったのムカルタで、彼は自分以外にもルーセの馬鹿力の事を笑った事のある奴を名指しで批判するという余計な事を口にした。
 そのせいで名指しで批判された奴を含めて、俺達は再び土下座をさせられる。
 そうなると、ムカルタのせいで土下座をさせられた奴も他の奴らの名前を挙げる……憎しみの連鎖とは止まらないものなのだ。
 結局、その場に集まった村人達の大半が土下座で謝る事になり、俺とムカルタは10回以上土下座させられる事になったのだが、それは村人のほとんどがルーセを馬鹿力と言っていた事に他ならず、ルーセの怒りを解きほぐすどころか火に油を注ぐ事にしかならなかった……
「違う。リューは昨日の夜、ルーセと遊んでくれなかった。ルーセを放っておいてさっさと寝た」
 どうやら違ったみたいだ。
「だってルーセ機嫌悪かっただろ」
 家に帰ってきた後もルーセの怒りは収まっておらず、晩飯の料理も手抜きだったし食事中もずっと無口だったので、俺は触らぬ神に祟り無しと昨夜はさっさとベッドに潜り込んでしまったのだ。
「そういう時こそルーセの機嫌を取らないと駄目!」
 ……納得のいく理屈ではあるが、それは俺には少しハイレベル過ぎる対応なのではないだろうか? ……だが、俺のこういうところが妹の涼を怒らせていたのかもしれないとも思う。
「はいはい了解です」
 技を掛けられたままの右腕を持ち上げる。精霊の加護さえ効かなければルーセは力は年相応であり体重も30kgにも足りない程なので、その気になれば簡単に持ち上がる。その気にならなかったのは抵抗すればルーセの機嫌がなおさら悪くなると思ったからだ。
 ルーセ付きの右腕を自分の身体の上に持ち上げるて、左手で胸を叩くいて見せるとルーセは俺の右腕を解放すると胸の上に降りてきてしがみつく。
「甘えん坊だな」
「うん。ルーセ甘えん坊。リューはもっと甘やかさないと駄目」
 俺はまだ痺れる右腕を背中に回すと赤ちゃんをあやすようにゆっくりと優しく背中を叩き続けた……毎朝似た様な事をしている気がする。


「今日もトロールを狩る!」
 すっかりご機嫌になったルーセは高らかにそう宣言した。そして俺はトラウマを抉られて胸を押さえる。
「トロールはもう良いんじゃない?」
「駄目、もっと減らさないと危険」
 ルーセと俺の視線が絡むが俺が先に目を逸らす。歌いながらトロールを狩るルーセが怖いからとは口に出来なかった。
「分かった。だったら今日は俺が戦う」
「むぅ、ルーセが戦う」
「昨日十分戦ったでしょう。今日は俺の番だよ」
 今の俺には火属性Ⅱの【炎纏】がある。これは武器などに炎を纏わせて、ゴースト系などの通常の武器での攻撃でダメージを与えられない魔物へのダメージと、その他の魔物に対する熱での追加ダメージおよび、切れ味自体の向上もある。
 実にファンタジーっぽく、剣と魔法の世界に相応しい魔術である。今日から魔法剣士デビューなのである。
「まだ足りない。もっと戦ってこれの使いこなせるようにする」
 一刀両断で断られる。
 ルーセは長剣を右手に装備すると、物差しを手にしているかのように右手一本で軽々と振り回す。その非常識さは常識人である俺には辛いものがある……常識人だろ?
「……随分と気に入ったんだな」
「うん。これなら火龍の首に手が届く」
 惚れ惚れといった様子で胸の前に掲げた長剣を見つめる。気持ちは分からないでも無いが傍から見たら辻斬りの類の逝っちゃった目だよ。

 結局、俺達は交互にトロールの群れを倒す事になった。
 協力し合うのがパーティーだとも思うのだが、基本的に武器を持った状態で他人と協力し合って戦うのはしっかりと訓練していなければ無理だ。
 特に長剣を振り回すルーセは間合いに入った者はトロールだろうが俺だろうが関係なく斬ってしまうだろう……トロールと一緒に輪切りにされる自分が容易に想像できる。
 火龍を除けば、この森で最強であるトロールを相手にしても個人で圧倒できる現状において、まずはレベルアップによる個々の能力の向上を優先して、火龍との戦いの前に作戦を立てて、作戦に沿って想定される状況に必要な連携だけに絞って訓練をするという俺の提案にルーセも同意した結果だ。

 5体のトロールに正面から近づいていく。
 俺にはルーセの様に気配を殺し、遮蔽物を利用して気づかれないように接近する技術は無い。
「ぐぉぉぉぉぉぉわぁぁぁぁぁっ!!」
 俺に気づいたトロール達は一斉に威嚇の咆哮を上げ、震えた空気がビリビリと皮膚を叩く。
 耳が馬鹿になりそうな音に顔を顰めるのを堪え、トロール達を真っ直ぐ見つめながら笑う。
 それに警戒したのか「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ!」と喉を鳴らすと、1体のトロールが転がっている倒木を担ぎ上げると両手で投げつけてきた。
 比較的小さな倒木だが幹の直径は20cmはあり長さも3mはあるので、当たれば俺でも致命傷になりかねない。
 だが俺は回転しながら飛んでくる倒木を無視して前へと歩く。トロール達は俺が避ける事も出来ず倒木にはね飛ばされる姿を想像しただろう。
 しかし当たる直前に右手を前に突き出して倒木に触れた瞬間に収納した。
 トロールからするといきなり倒木が消失した様にしか見えなかっただろう。
「何それぇっ!!!」
 ルーセも同様だったらしく背後から驚きの声が上がり、次の瞬間には俺の横で腕を掴んで引っ張っていた。
「今の何? ルーセ知りたい!」
 瞳の奥にネオン街があるかの様にきらきらと輝く目。
「ちょっと待って。トロールが近くに──」
「じゃあ、ルーセがすぐに倒す!」
 そういい残すと長剣を装備しダッシュでトロールへと突っ込んでいく。
「ま、待て! それは俺のえも…………ああ、トルネードがトルネードが全てを……全てを……俺の活躍も……」
 先日の惨劇の再来。
 ルーセの口からは楽しげなメロディーが、そして彼女の繰り出す長剣からは死の竜巻が……俺は呆然とそれを見る続ける事しか出来なかった。

「倒した。教えて」
 たっぷりと返り血を浴びたルーセが嬉しそうに戻ってくる。
 とりあえず【操水】で浴びた血を身体や衣服から取り除くが、既に染み付いた臭いは取れないので後で洗ってやる必要がある。
「……別に難しい事じゃないぞ。飛んできた物に手で触れて収納と念じるだけだし」
 【所持アイテム】や【装備品】の恐ろしさは、収納した時に持っている運動エネルギーは装備などで取り出した時は0になっている事である。
 しかも、星の自転や公転。更には銀河の回転に宇宙自体の膨張などの影響、物体の原子や自由電子などの運動も一切無視というご都合主義である。
 ファンタジーな異世界だからありなのかとも思ったが、現実でも同様なのでシステムメニューとは本当の意味でチートである。
「うん?」
 理解出来なかったみたいで首を傾げる。
「……実際にやってみよう」
 辺りを見渡して見つけた拳くらいの大きさの石を拾い上げて「これを投げるからやってみて」と言って、アンダースローでゆっくりと投げる。
 ルーセは飛んで来た石を掴んで受け止めてから収納して、納得のいかない表情を浮かべる……ちゃうねん。

「……そうだな。さっきの石をこっちに投げて」
「分かった」
 ルーセは取り出した石を握り締めると全力で投げ返してきた……時速150kmくらいで。
「うぉっ!」
 そんなも喰らったら死ぬわ! と思いながら、唸りを上げて飛んでくる石に咄嗟に手を差し出し、触れた瞬間に収納した……言っても、0.01秒ほどは触れていたはずだ。収納したのは顔の10cm前と言うぎりぎりのタイミングで、もう少し油断していれば頭が吹っ飛んでいたはずだ。
「殺す気か!」
 流石に怒りを抑えられずに怒りの声を上げるが、ルーセは「リューは死なない大丈夫」と視線を逸らしながら答える……まあ何て信頼なんでしょう……なんて言うか、この糞餓鬼!
 ルーセに歩み寄ると思いっきり頭に拳骨を落とす。
「あぐっ!」
 痛みに頭を抑えるが無視して膝と腰を曲げて彼女と視線の高さを同じにするとその両の頬を左右から引っ張る。
 空手部と言う異常な環境に2年もどっぷりと漬かり込んだ俺は、こんな小さな子にすら体罰を辞さない。第一この程度は撫でたと呼ぶのである。
「死ぬ時は死ぬの! 危ない事をしたら駄目だと言ったでしょ……」
 長々と説教をしてしまった。説教が長くなるのは説教が下手糞だからだ……大島の言葉だが、あいつは体罰で言いたい事の95%以上は消化するので自然と短くなるだけだ。
「ごめんなさい」
 自分でも悪いと思っていたのだろうが、素直に謝れない頑なな性格のルーセが謝ったので俺も許す。
「相棒は大事に使えば一生持つからもっと大切にしろよ」
 俺の言葉に何か感銘を受けたのか、目を閉じて少し考えてから頷いた。
「分かった。リューの事もう少し大事にする」
 もう少しって……全然、分かってないよ。

「あっ、結局さっきの良く分からない」
「……そういえば、そんな話をしてたね」
 俺は【所持アイテム】から取り出した石を右手に持って高く掲げてから手を離した。
 そして落ちてくる石の横に左手で軽く触れて収納する。
「おおっ!」
「石を収納した時に左手には石の重さは伝わっていなかった。つまり自分の力じゃ受け止められないような大きな物も収納をうまく使えば自分を守る事が出来るって事だよ」
「分かった!」
「でも生き物は収納できないから、魔物が突っ込んで来た時に収納しようとしたら怪我するからちゃんと避けるようにね」
「むぅ……魔物は駄目か、残念」
 いやいや、それが出来たら火龍だって隙を突いて触れる事さえ出来れば収納して、冬になったら結氷した湖の氷に穴を開けて腕を突っ込み、氷の下に出して溺死させれば良いんだから簡単に倒せてしまうだろ。そこまでチートだったら流石に退くよ。

 新たなトロールの群れを見つけると、真っ先にルーセに釘を刺す。
「今度こそ俺の番だからね」
「分かった」
 決まり悪気に頷くルーセを後に、俺はトロールの群れへと向かう。今度は3体と小さな群れだが俺の魔法剣士デビューの相手としては手頃だと思う事にした。
 前方から接近してくる俺に気づいたトロールの群れが足を速めてこちらに向かってくる。
「炎纏。炎の剣!」
 【炎纏】の発動と同時に右手に持つ剣は紅の炎を纏う……つい心の奥底からこみ上げてくる言葉を口にしてしまった。魔法剣士デビューを前にして、厨二病を発症してしまったのだ。

「何それぇぇぇっ!!!」
 またか? またなのか? 俺の格好良い炎の剣が、ルーセの子供心を鷲掴みしてしまったのか、フッ……無理も無い。無理も無いのは分かってるから、俺にトロールを狩らせてくれないか?
「格好良い! ルーセもそれやりたい! やりたいよ! リューお願いだからルーセにやらせてよ!」
 ……ルーセの勢いを見る限りそれは無理な相談というものだった。


 午前中だけでも俺のレベルは33に達している。ルーセはレベル27と4レベル上げたが、そろそろ伸びが鈍化している。
 俺が火龍を倒す目安として考えているレベル40になる頃には、ルーセのレベルも38か39とさほど差がなくなっているだろう。
 そのレベルに達したルーセは控えめに言っても無敵と呼んでも良い存在だ。
 元々レベル1の俺自身、並みの成人男性を圧倒する身体能力を持っていて握力や背筋力などの数値で分かるような筋力は倍以上もあった。空手部とは人間の肉体を否応無く作り変えてしまう場所なのだ。
 レベル33の現在の俺は、筋力の全体の平均値でレベル1当時の俺の13倍程度であり、胸にSのマークを付けたエイリアンとでは比較にならないだろうが、蜘蛛人間くらいとなら互角以上に戦える超人と言っていいだろう……改めて、人類から遠く離れたところまで来たものだと思わずにはいられない。
 それに対して現在のルーセの筋力の平均値は現在の俺の3倍以上で、レベル38なら4倍以上になるだろう……はっきり言って火龍が気の毒に思えてくる数字だ。彼女を倒すためにはガ○ダ○を用意する必要があるだろう。
 レベルアップと精霊の加護と言う2つのチートを得たルーセに対して、火龍が戦闘時に持ちえる優位性は飛行能力とブレスのみになっているはずだ。
 そして俺がやるべきはその2つの能力を奪う事だ。

 その為の策は現状で幾つかあるが、どれも確実とは言えない。
 期待すべきは魔術なのだが、全くどいつもこいつもとしか言いようが無い。例えば、昨日憶えたの中の1つ【大水塊】は、直径3mくらいの水の球を生み出し操作する事が出来る……こんなのばっかりだ。どうしてシステムメニューを作った奴は、こんなにも水の球を浮かべるのに必死なの? やっぱり馬鹿なんでしょ?
 いかん興奮してしまった。
 俺が目的を果たすためには奇襲しかないだろう。問題はどうやって気づかれずに接近するかだが、今日の午前中に憶えた魔術に光属性の【結界】というものがある。
 実に魔法っぽく期待が持てる名前だ。そしてその効果は『直径5mほどの空間と外部との光・振動・臭いの伝達を絶つ』だ。素晴らしい即採用! と叫びそうになったくらいだが、説明はまだ続きがあった。『野営用。使用中は光の伝達も絶つため、昼間は結界がある場所が黒く丸見えのため暗くなった夜にしか効果が無い』……火龍は、日が落ちる前に巣穴に戻って朝まで動かないらしい。あらかじめ巣穴に入って結界を張っていても見つかるだろうし、夜明けに巣穴を出るところを襲うために結界を張って潜んでいても見つかる。使えない! 使えないぞ、魔術!

「リュー。ご飯も食べずに変な顔」
 俯いて考え込んでいると、下から顔を覗き込んでくるルーセに気づく。
「失礼な。俺は何時だってハンサムだ」
 考え事をしてた俺はかなり微妙な表情を浮かべていたのだろう。それを指摘された俺は誤魔化すため、咄嗟に見栄を張ったのだがルーセは「はっ」と鼻で笑う。
 自分でも分かっているだけに腹立つわ。しかもルーセはこんな小さい内から態度が柄が悪すぎる。普通これくらいの年の女の子が「はっ」なんて鼻で笑うだろうか? ……涼はそんな感じだった。
 この村の住人達がムカルタを始め比較的若い一人身の狩人が多く、ルーセの年頃の女の子も数が少ない。しかも狩人は別に悪いと言うつもりはないが決して上品な人種ではない。環境が悪いのだ。何とかして女の子らしく躾けなければ涼の二の舞二なってしまう……今でも十分手遅れっぽいけど。
「また変な顔。笑って」
 そう言って俺の口の両端に指を引っ掛けて引っ張りあげる。余りに自由すぎて抵抗する気力も無くなる。
「……やっぱり変な顔」
 そう言っていきなり笑い始めるルーセに俺は脱力してしまった。
 まだ時間はある。何か良い考えが浮かぶ事も、使える魔術を憶えて問題を突破する事もあるだろう。俺は手にしていたホットドックモドキにかぶりついた。
「美味いなルーセの作ったのは」
 これはお世辞でもなんでもない。
「当然」
 平然と答えながらもルーセの口元は上に持ち上がり、緩んだ口元を引き締めようとする表情筋によりピクピクと頬が震えている。
 今では俺に心を開いてくれているが、未だに表情を抑えて殺す癖が抜けない。しかし良く観察していると、彼女が取り繕う心理的防壁は結構隙だらけなのが分かる。
「本当に美味しいぞ」
 ルーセの頭に手を伸ばして撫でると、堪え切れずに「えへへ」と笑みをこぼす。
 色々と問題の多い子だが、ルーセとこうしているの時間が好きなんだと自覚せずにはいられない。
 火龍を倒した後、俺はこの村を出るつもりだがルーセが望んでくれるなら、彼女にも一緒に村を出てもらいたいと思っている。
 両親の墓のある村から彼女が離れると決断するかどうかは分からないが、駄目だったとしてもたまにはこの村に戻ってきてルーセの成長していく様子を見守ろう……うん、完全にレベルアップで向上した【父性愛】にやられている。やられているが嫌ではない。それが問題の深刻さに拍車を掛けているのだが、今となっては俺自身全く気にしていなかった。

 ゆったりとした時間の中、ルーセとたわいの無い話をしながら食事を楽しんだ。
 そして午後の狩りを再開したが、ルーセは俺に出番を譲らない。それどころか自分の長剣に【炎纏】を掛けろと強引に強請る始末だ。
「だから俺の番だといってるでしょう」
「ルーセも炎の剣をもっと振り回したい!」
 ルーセは頑固に譲らない。
 ええい、ルーセもと言っても、俺はまだ一度も振り回してないぞ。俺の魔法剣士デビューはどうなる!
 しかし、このお子様め全く話が通じないぞ。どうするんだ? こんな時にどうすれば良い? 涼が我儘を言った時に俺はどう対処したんだ? 思いだせ、思い出すんだ…………俺は何も出来ない本当に無力で情けない兄でした。

 マップ機能とルーセの気配察知能力で、トロールの群れを見つける度にルーセは俺に【炎纏】を使わせると、炎を纏った長剣を担いで群れに突撃していく。
 最初の頃の様に気配を殺して背後から襲うなんて事は「面倒だから良い」の一言で完全に過去の事となってしまっている。

 ルーセが炎の長剣を振り回しながらトロール達を輪切りにしていくのを見ながらトラウマに心を抉られる。
 トロール達の絶叫と絶叫の間に聞こえてくる、彼女が唄うあの歌は俺にとって子供の頃に夢中になった歌ではなく、もう悪魔の手毬唄にしか聞こえない。
 ちなみにルーセからは他の歌も教えてと強請られ、これ以上トラウマを増やしたくない俺は、悩んだ末に世紀末救世主伝説のアニメの主題歌を幾つか教えた。
 正直、これほどビジュアル的に一致する歌は無いという完璧なチョイスだった。しかし残念ながら彼女の好みには合わなかった……気に入れよ。お前のためにある歌と言っても過言じゃないぞ!
 しかも最悪な事に、俺が世紀末救世主伝説の主題歌を教えた事によってルーセはまだ沢山の歌がある事に気づいてしまい要求の圧力が増してしまった。
 そうだ。今日中にトロールを狩りつくしてしまえば良いのだ。その後になら歌を教えても……何の解決にもなってない!
 落ち着け、ルーセの歌に惑わされずに冷静になれ。そうだ童謡……学校唱歌なら普段別に耳にする機会も少ないからトラウマになってもかまわない。
 多分、俺は投げやりになっていたのだろう。
 炎を纏った長剣をぶん回す様はまさに火災旋風。その姿に恐慌に陥り逃げ出すトロールを歌いながら追い、草を刈り取るがごとく命を狩っていくルーセを見れば、そんな気分になっても仕方ないさと自分を慰めるしか出来なかった。

 結局、日が暮れ始めて狩りを終えるまでに俺の出番が来る事は無かった。
 だが観客状態でもレベルは上がる。レベル34……俺、この2日間ほとんど戦ってないのに随分と上がってしまったよ。
 ルーセのレベルのレベルも30になり、トロール狩りの最初の頃はトロールの膝の辺りに斬り付け──ルーセとトロールの身長差ではそこしか狙いが付けられない──て、脚を切り取られバランスを失って倒れるトロールの首が間合いに入るまでに、もう1度斬り付け3周目で首を刎ねていたが、今では膝への1撃目から首を刎ねるまでの間に3度斬り付ける事が出来るほど回転数が上がっているが。彼女はまだ不満そうでもっと回転数を上げることに熱中している。
 別に何度も斬り付ける事には意味が無い。首を刎ねられて混乱している間に頭部を破壊すれば良いので、1撃目の膝への斬撃で行動の自由を奪い2撃目で首を刎ねてしまえば良いので他は無駄と言っても過言ではない。
 それでもルーセは「あの踏み込みの時に回転を殺してしまっている……」とか呟き、回転数を上げることに夢中だ。

 魔術もまた新しいのを憶える事が出来た。
 【探熱】10分間(途中で解除可能)視界が熱の分布によって表示される。精度はガラガラヘビのピット器官に匹敵する……しかしガラガラヘビのピット器官がどれくらい凄いのか俺は知らない。
 【粉塵】非常に細かい土の塵を舞わせて視界を奪う。ただし自分も視界を奪われる……なんじゃそりゃ!
 ともかく微妙としか言えないものばかりが増える。ドカーンと爽快に敵を吹っ飛ばすような攻撃用の魔術は無いのだろうか?



[39807] 第32話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:05
「マル可愛いよ。可愛いよマル」
 朝目覚めた瞬間、俺の目の前で今にも顔を嘗め回そうとしているマルの首に腕を回して抱きつくと、もう一方の手で腹を撫でる事で、寝起きに顔中が犬臭くなるのを回避した。
 現在、確実に父さんを抜いてマルの好きな人ランキングで第2位に輝く俺としては、露骨にマルの朝の挨拶を下手に避けて機嫌を損ねるわけにはいかない。序列2位の座は父さんには渡さないよ。

 登校中に校門の前で櫛木田と出会うと、挨拶もそこそこに昨日の成果を報告してきた。
「高城。昨日の西城先輩に電話で例の件を聞いてみたんだ」
 西城先輩は俺達の1学年上の空手部の先輩で前の主将である。
「何か聞けたか?」
「ああ、俺達が入学する少し前に北條先生と鈴中が剣道の試合をして、鈴中がかなり一方的に負けたみたいだ。それにそれまでは鈴中は北條先生に言い寄ってたという話は噂として時々耳にしていたとも言ってた。それから身の程知らずがざまあ見ろとな。だけど噂に関しては知らなかったみたいだ」
 ちなみに西城先輩は現在は空手を辞めてバスケットボールを始めて県内強豪校ですでにレギュラー入りを決めたらしい。確かに185cm近い長身で運動神経の塊の様な人だったが、幾らなんでも早いだろうとも思ったが、元々バスケットボールが好きだったらしく昼休みには体育館でクラスメイトと一緒にバスケをやっていたらしい……そんなクラスメイトがいるなんて妬ましい。
「それで野口先輩にも話を聞いたんだが、野口先輩が直接知った内容じゃないが、上の先輩達から聞いたことがあったそうだ」
 野口先輩は俺達の2学年上の先輩で、同じく空手部の元主将で面倒見の良い先輩だったと記憶している。
「何でも試合の後に北條先生の悪い噂が立った事をその先輩が担任から聞いたらしいんだが、誰が流した噂か分からなくて立ち消えになったらしい」
「……そうか」
「それで他の先輩達にも話を聞いてくれるって事になった。ちなみに北條先生は赴任直後からすぐに空手部では大人気だったらしいぞ」
「まあ当然だな。あれだけの美人でしかも俺達に対しても分け隔てなくしてくれるんだから」
「後、階段で突き飛ばされた北條先生をお前が抱き止めて助けたとか、しかもその時眼鏡を掛けて無い素顔を見た事も伝えたら、『後で殺す』と言われたぞ」
「何してくれてるのお前!」
 胸倉を掴んで、そのまま吊るし上げる。
「つ、つい悔しくて、その悔しさを先輩達にも共感して欲しかっただけだ」
「嘘を吐け、先輩達の力を借りて俺を亡き者にするつもりだろう!」
「悪かった……こ、このままじゃ死ぬから早く手を──」
 落ちる直前で手を放してやった。やはり俺が今一番警戒すべきは、こいつと田村、伴尾の三人なのかもしれない。嫉妬に狂った男は見苦しい……これも1度は言ってみたい台詞ではあるが、単に抱きとめたとか素顔を見たぐらいで嫉妬とかレベルが低い。せめて北條先生と付き合うようになった時に言わせて欲しいものだ……無理だけどさ。

「おはよう」
「おう」
 俺が挨拶をしながら部室に入ると、田村と伴尾が重々しい声で応じる。
「どうした?」
「これを見てみろ」
 田村が自分のスマートフォンの画面を俺に向けて差し出してきた。
「鈴中の奴、もう尻尾を出したのか?」
「いいから見ろ」
 受け取って画面を覗き込むと、校内の廊下で北條先生の行く手を遮って顔を近づけて話しかける鈴中の2人が映っていた。
 俺の携帯と違って撮影側の解像度も表示画面の解像度も高いだけあって、10mほどの距離からの隠し撮りにも関わらず両者の顔の表情が見て取れる。
 下卑た態度で絡む鈴中の表情には嘲笑が浮かんでいて苛っとする。
「野郎を去勢してくる!」
 そう言って出口に向かう俺の肩を田村が掴んで止める。
「放せ、ちょっと奴の金玉蹴り潰して男を引退させて新宿2町目の住人にしてやるだけだから!」
 抵抗する俺に伴尾と二人掛で俺を抑える。
「お前、昨日と言ってる事が違うだろう!」
「そうだ。俺達がこれを撮影しながら、どんな気持ちで我慢したと思ってるんだ?」
 本気で怒られる。
「……すまん。つい理性が遠くに旅に出てしまって」
「頼りにならない理性だな!」
 返す言葉が見つからない。

 その後、鈴中が何か紙を取り出して北條先生に見せている。その間もずっと汚い笑いを浮かべてやがる。
 北條先生はそれを奪い取ると破って握りつぶした。
「なあ、北條先生は怒っている顔も美しいが、こんな悔しそうな顔は見ていて辛いな」
「全くだ。ここは俺が奴を去勢しに!」
 今度は田村が立ち上がるのを伴尾と俺が止める。
 画面の中では鈴中が自分のスマートフォンの画面を北條先生に見せて、次の瞬間彼女の表情が凍りついた。
 その後、薄ら笑いを浮かべながら立ち去る鈴中と、悄然とした様子で紙をゴミ箱に捨てる北條先生の姿があった。
「そしてゴミ箱から回収してきたのがこれだ」
 伴尾が差し出す破られた跡を十字にセロハンテープで止めてある紙を受け取った。
『北條 弥生は教師としてあるまじき趣味の持ち主である』
 あれの事だ。金曜日の夜に本屋で北條先生があの本を買う様子をストーキングしていた鈴中が撮影したのだろう。
「これはどういう事だと思う?」
 伴尾がそう尋ねてくるが、事情を説明せずに全てを隠して俺が1人で決着を図るというのが一番楽だろう。
「どうせでっち上げだろう。北條先生が教師に相応しくないような変な趣味を持っていると思うか?」
「い、いや、そんな事は思わないけど、思わないけど……もしもだ、もし北條先生が俺たちの様な年下の男が趣味だとすると……夢広がらない?」
 惜しい。惜しすぎる。何故そこまで真実に寄せられるんだ? 俺は伴尾の妄想力の超高性能さに言葉も出ない。
 だが他の面子は違った。
「北條先生をお前の邪な感情で汚すな。説諭!」
 田村が伴尾を殴る。
「万一、先生にそんな趣味があっても、お前だけは別の意味で趣味じゃないに決まってる。説諭!」
 櫛木田が伴尾を殴る。
「馬鹿を言うんじゃないよ。説諭!」
 紫村が伴尾を殴る。
 その後、2年生にまで殴られて伴尾は床に沈んだ。

 伴尾を無視して話を続ける。
「でっち上げだろうが、多分北條先生の立場を危うくしかねないモノだろう。ともかく鈴中が犯人だというのは確定的だ。今晩俺が動く」
「どうするつもりだ?」
「まず奴の家に忍び込む」
「犯罪じゃないか!」
「それから奴を縛り上げる」
「完全に犯罪だよ!」
 だから犯罪なんだよ。盗撮、ストーキング、脅迫、名誉毀損を犯すような相手に正攻法で行って北條先生の立場を悪くするくらいなら非合法上等だ。もっとも証拠は一切残さずに完全犯罪にしてやるけどな。
「そして奴のパソコンのDドライブを漁る」
「Dドラ……やめてぇぇぇっ!」
 同じくDドライブを誰にも触れさせることの出来ない聖域としているのだろう者達から悲鳴が上がる……俺もだけどな。
「アドレスに登録されている全ての相手に、厳選された恥ずかしいデータや犯罪に関わるデータをメールに添付して送信」
「しゅ、主将は鬼だ」
 この程度の事で鬼だなんて人聞きの悪い事を言うものじゃないよ香籐。
「その後、奴のスマートフォンとパソコンのデータを全て消去。特にHDDは完全に破壊。メモリカード類も全て破壊して退出。どうせ下種だ。さぞかし素敵なデータを溜め込んでいるだろう。社会的に死んだも同然だな」
 そう言って笑う俺に皆は怯えていた。

「でも君1人で出来るのかい?」
「出来る。それにこの手の事は人数を増やすとミスが増える」
 まあ別にミスしたらロードすれば良いだけだが、同行者がいたらチートを使うわけにもいかないので、鍵開けとか技術を持ってるわけでもないから侵入自体が不可能だよ。
「サポートは必要かい?」
「もし警察沙汰になった場合、お前達が現場の近くにいるのが見られたら拙い。それに鈴中以外にも北條先生にちょっかいを掛けている馬鹿が居るかもしれないから、交代で見張ってくれるとありがたい」
「そうさせて貰うよ。だけど君1人で全ての責任を被るのは止めてくれ。僕達は仲間だろ?」
 胸にぐっと来る台詞だ。こいつはホモじゃなければ、俺はこいつを生涯の友として熱望するだろう……本当どうしてこれほどの男がホモに……勿体無い。

 朝練はいつも通りにランニングから始まる。
 今日はついに新居が今年の1年生として初めて倒れずに完走することが出来た。それを見て大島は詰まらなそうにしている。教え子の成長を喜べよ……ちなみに澤田は定位置の俺の背中にいる。救いは吐かなくなった事である。
 放課後の練習では、新居がぶっ倒れるまでペースをあげる事になるだろう。去年も一昨年もそうだったのだから……


 朝のHR。北條先生はいつもの様な何処から見ても全く隙の無い凛とした佇まい。だがクラス全体を見渡す時に俺と目が合う一瞬だけ、ほんの僅か目元に優しげな表情が浮かんだ……そんな気がしただけどな。
「何か一瞬、こっちを睨んだ様な気がするんだけど……」
 後ろの席から前田が声を殺して話しかけてくる。
 睨んだだと? 馬鹿な少なくとも、そんな類の表情ではなかった。俺の希望が不断に盛り込まれているが、あれは目元だけだが笑っていた……だと良いな。
「お前が昨日余計な事を言うから目を付けられたじゃないか」
 昨日北條先生の呼び出しから戻ってきた俺は、こいつに「何で呼ばれたんだ?」と尋ねられて、本当の事を話す訳にはいかず「誰かさんが課題などはきちんとこなしている割にはテストの成績が悪くて、他の教科担任から誰かの課題を丸写ししてるのでは? と苦情が出ているが、その誰かとは俺じゃないのかと聞かれた」と答えた。
 前田は「何て答えた?」と必死に聞いてきたが、笑顔で無視してやったのだ。
「もしそうだったとしても自業自得だ。それに、もし俺とお前が逆の立場だったらどう答えた?」
「………………まあ、何だ。これからも宿題よろしくって事かな?」
 態度を改める気は無いようだ。

 それにしても確かに生徒達も北條先生への感情は余り良くない。
 どんな糞な教師にも、1人や2人は必ずいるティーチャーズペットが北條先生には1人も居ない。
 多少厳格で融通が利かないところのある北條先生だが、人懐っこく懲りない性格な前田なら気安く接しても良さそうなのに、ちょっと視線が合っただけで拒否反応を示すなんておかしい気がする。
 余り感情を表に出さないのでとっつき難い印象もあるだろう。だが成績が振るわない生徒には親身に補習もしてくれる良い教師だと思う……2年生の仲元が1年の2学期に成績を落とした時には大島が親身に指導して成績を上げた事を思い出してしまった。奴は大島の家に1週間泊まり込みで勉強を教えられたんだよな。24時間大島と一緒に過ごすというストレスからどんどん精神崩壊を起こしていく姿は見ているだけでも辛かった。確かに親身であれば良いという訳ではない。
 だが相手は大島じゃなく北條先生だぞ。はっきり言って俺が補習を受けたいくらいだ。だがもし北條先生の補習を受けるほど成績を落とせば仲元の二の舞は避けられない……なんてジレンマだ。

 ともかくクラスメイトというか空手部以外の生徒達はおかしい。明らかに北條先生に対して一線を引いた態度を取っている。
 そして授業中やHRで北條先生が、ここまで担当しているクラスの生徒達から距離を置かれるような原因は見受けられない。
 何か俺達空手部の部員には分からない北條先生が嫌われる理由がある。
 ……ならば部活だ。俺達と他の生徒達の違いはまさに部活。それしかない。
 うちの学校では生徒は全員部活に入るのが規則だ。そして部活で顧問から余計な事を吹き込まれているとしたら……しかし鈴中が他の教師達に?
 鈴中にそれほどの影響力があるとは思えない。奴だってまだ30前で教師の中では若い方だ。奴が流す噂だけでは状況をここまでコントロールする事は出来ないだろう。つまり状況をコントロールしている別の人間が居る……職員室の中に。
 面倒な事になってきた。現状では俺には職員室の中で起こっている事を把握する方法は無い。今の俺なら夜にでも学校に忍び込んで盗聴器を仕掛けるのも難しくは無いだろう。だが盗聴器なんて持っていない。金は小遣いがかなり溜まっている──俺には金を使うような趣味を持つ暇も無いので溜まる一方だ──で買う金は有るが、鈴中の奴は今日中にも何かを仕掛けてくる可能性があるので時間が無い。
 つまり今日も大島に聞いてみるしかないって事か……奴は騒動が起きる事を楽しみにしているようなので教えてはくれるだろう。だが高い借りになるのは間違いない。


「また北條のことか?」
 それが昼休みに技術科準備室を尋ねた俺に対する大島の第一声だった。
「はい」
「何が聞きたいんだ?」
「鈴中が北條先生にちょっかいを掛けているのは確認できたんですが、鈴中の力だけでは今の状況を作り出すのは無理だと気づきました。誰か居るはずです校長、教頭、学年主任やベテラン教師の中で発言力のある鈴中に協力している奴が……」
「そこまでは当然、思いつくだろうな」
 この野郎、俺を試してやがったのか?
「ヒントが欲しいか?」
「いえ、答えを下さい」
「…………」
 即答した俺の言葉に大島が虚を突かれて言葉を失う。しかしすぐに精神的に立ち直るとニヤニヤと笑みを浮かべる。
「教頭の中島だ」
 随分と簡単に答えた。ちょっと不気味だ。
「教頭が何故?」
 確かに候補に教頭を上げたのは俺だが、今ひとつ納得が出来ない。教頭の地位にはあるが威厳も存在感も全く感じられないくたびれたオッサンだ。
 俺は鈴中に協力している人間が、主犯だと思っていたのだが、鈴中が主犯で教頭が共犯という関係なのだろうか?
「理由は知らん。だが何の根拠も無く他人を見下す事に慣れ切った糞餓鬼が、この学校の中で唯一恐れているのがあの禿げ親父だ」
 確かに鈴中の人間像は大島の言う通りで、奴は自分を大した人間だと勘違いしている痛い男だ。そして周囲に舐めた態度を取る馬鹿でもある。そんな奴があの教頭を恐れる? 全くイメージが湧かない……それはともかく、唯一は無いだろ、お前を恐れない人間はこの学校にいないから。
「恐れるか……でも、どうして教えてくれたんです?」
 土曜日の件を持ち出しても聞かせてもらうつもりだったが、あっさり教えてくれたので、はっきり言って肩透かしだ。
「大して興味もねえから放っておいたが、お前達が騒ぎを起こせば面白い事になりそうだから教えただけだ……一応、貸しにしておくぞ」
「面白い事って……」
 本当にこの男は教師か? 明らか人間として大事なモノが色々足りてない。。
「別に問題が明るみになって騒ぎになっても膿が搾り出されるだけで学校が無くなるわけじゃない。俺は高みの見物で膿が搾り出される様を眺めさせてもらう。だから精々俺を楽しませてくれ」
 うん、大島という生き物はこういう生き物なんだ……なんて嫌な生き物なんだろう。
「ありがとうございました」
 そう言って退室しようとする俺の背中へ「警察に捕まるような真似をするなとは言わんが、警察に捕まるようなドジは踏むなよ」とありがたい言葉を掛けてくれた……やっぱりこいつは存在自体が非合法だよ。
 去り際に「土曜日の件は貸しだと思ってますから」と言ってドアを閉めた。背後から「焼肉」とか言ってる気がしたが気のせいだ俺は何も聞いてない。振り返らずにダッシュで逃げたのは、太陽が眩しかったからだ。



[39807] 第33話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:06
 部活を終えて家に帰り、マルと散歩をして心を癒され、晩飯を食べ風呂にも入った。
 ……父さん。母さん。貴方達の息子はこれより犯罪に手を染めます。

 午後10時を回り、こんな時間に玄関から家を出かける訳にもいかない。
 俺はクローゼットの奥からボロボロのスニーカーを取り出すと古雑誌の上で履く。2年前に履いていたお気に入りのスニーカーで捨てられずに取っておいた奴だ。
 これならば足跡から俺を突き止めるのは難しいだろうし、万一疑われても収納してしまえば証拠隠滅にもなる。
 手にはホームセンターで買った作業用の皮手袋。皮手袋にも特有の表面のパターンがあるが、これも収納してしまえば確認の取りようが無い。
 更に慎重を期して、髪の毛が落ちないようにヘアスプレーでしっかりと固めてある。まあDNA検査なんてされるような大事にはする気はないけどさ。
 自分の装備を確認してから、俺は窓を開けると飛び出して、家の塀の上に猫の様に音も立てずに着地し、そこから道へと降りる。
 周囲の状況は周辺マップで確認してあり、マップに映る範囲半径100m以内の全ての人間と監視カメラを表示させてあり、飛び降りる前にはこちらに視線を向けている人間もカメラも無い事は確認してある。
 俺が住む町は人口30万人クラスの地方都市だが、町中には結構な数の監視カメラがある事がマップ機能のおかげで気づかされた。
 だが先日マルと一緒に散歩がてらに鈴中のアパートに向かった時に監視カメラの位置と向きは確認してあり、奴のアパートまで監視カメラに写らないルートを通って行く。

 30分足らずの道のりを歩くと鈴中の住むアパートの前に着いた。
 奴の部屋は4階のアパートの西端の部屋である事は、既に昨晩マップ機能を使って検索して奴の場所は調べてある。
 窓から漏れる明かりを見ながら、検索対象を鈴中にするがマップに表示されるアパート内には奴のシンボルは無い。しかし誰か分からないが他の人物が居るようだ。
 その者は俺が気づいた時点から部屋の中でじっと動かずに居たが、10分少し後に移動して奴の部屋を出た。
 アパートの入り口が見える位置に移動して出てくるのを待っていると現れたのは若い女性……というより俺と同じ年頃の少女だった。
「見覚えがあるな……」
 暗くてレベルアップの恩恵を受けた俺の目でも良く見えなかったが、【暗視】『眼の光感度を約10倍に高める。太陽を直視しないようご注意をお願いします』の力を借りて特徴のある大きな黒目がちの目が俺の記憶を刺激した。
 確か、俺より1つ上の学年で女子剣道部に居た……名前は憶えていないというか、そもそも聞いたことも無い。その程度の相手を思い出せるのもレベルアップのお陰だ。
 だが何故彼女は奴の部屋から? 分からないし分かるはずも無い。ともかく奴の部屋に入って奴の持つデータを消去しておかなければならない。

 俺は人目を避けてアパートの裏に回り込んだ。アパートの前には誰か知らないが人が居たし、階段を4階まで上がれば外出する住人と出会う可能性もある。住人の多くない独身者向けのアパートだ見知らぬ人間と遭えば強く印象に残ってしまうだろう。
 奴の部屋のベランダの下に来ると、セーブを実行してから4階にあるベランダの手摺を目掛けてジャンプする。手摺を掴んだら大きな音を立てそうな位飛び過ぎたり、高さが足りなかったりしながら3回目のロードの後に、丁度最高到達点で手摺を掴める高さのジャンプに成功すると、ベランダの中に入り込んだ。
 部屋のカーテンは閉めておらず中の様子が見える。
 俺は【闇手】を発動させて窓の鍵を解除する……最大出力がスプーンを曲げる程度なので不安だったが何とかなった。
 ベランダの広い窓から中に入ると、そこは居間で男の1人暮らしとは思えないほど綺麗に片付けられていた。
 隣は寝室。奥がキッチンで、その先が玄関だ。
 入ってきた窓の横にはデスクトップのパソコンが置かれている。
「この位置は、あの女が居た場所か……」
 まずカーテンを閉めて外部からの視線を遮るとパソコンの電源を入れる。
 ログイン認証は何も設定していないようでEnterキーを叩くだけですんなりOSは起動した。
 まずは【最近使ったファイル】をチェックする。消されているかと思ったがあっさりと履歴が表示される。
 一番上に表示されている画像ファイルをクリックするが既に消されているようだ。まさかとは思ったが念のために【ゴミ箱】を開いてみると大当たり。
「マジかよ」
 そう呟きながらもお目当てのファイルもあったので【元に戻す】でゴミ箱内の全てのファイルを元の位置に移動させて、再び【最近使ったファイル】から先程のファイルをクリックする。
「おいおい……」
 画面に表われた画像には先程の少女の姿があった……しかも全裸で、いわゆるハメ撮りって奴だ。
 確認すると鈴中と絡み合ってる動画もあった。
 その画像や動画があるフォルダの名前は【西村】で多分、それが彼女の苗字。それを見た瞬間に浮かんだ考えの通りに、【西村】フォルダと同階層のフォルダ名は全て人物の苗字だった。
 全部でフォルダは13個で中を開くと画像ファイルと動画ファイルのフォルダがあり、その中はそれぞれ別の少女との性行為を撮影したもので、中には俺の同級生や下級生の顔もあった。
 気になってフォルダ内の一番日付の古い動画を確認してみると、案の定だが内容はレイプ以外の何物でもなかった。
 気分が悪くなる。基本的にAV関係はソフトSMまでしか受け付けない俺としては、リアルなレイプ物は完全に守備範囲だ。
「参ったな……想像以上、それ以上の糞野郎だ」
 流石に途方に暮れる。
 奴のDドライブ内の厳選データをメールに添付して送りつけて社会的に抹殺するつもりだったが、これは無理だ。これを世間に流したら鈴中に喰われた被害者である女の子達が可哀想だ。

 とりあえず奴のパソコンの中の北條先生に関するファイルを検索すると幾つものファイルがヒットした。
 ついでにメールを確認すると、教頭の中島からのメールが数十件も残されている。
「後で確認するか……」
 HDDごと回収して家で確認する事に決めた。
 しかし先程の動画ファイルにしても自分にとって致命的であるデータを保存している割にはOSのログイン認証といい何の対策も施していない。
 部屋が綺麗に片付いている事から神経質な性格なのかと思ったが、むしろ大雑把というかずぼらにすら感じる。
 試しにパソコンが置かれた机の引き出しを開けてみると中は雑然と物が詰め込まれている。
 つまり、部屋が綺麗なのは汚い部屋で暮らす自分を許す事が出来ないというナルシズムに基づく努力の所産であり、また他人から見えない場所に手を抜けるが人目に付く場所は手を抜けない事から、この部屋には定期的に尋ねてくる人が居ると言う事に他ならない。ならば……
 隣の寝室に入ってみると、先程見た画像や動画が撮影されたのはこの部屋で間違いない。しかも確認すると部屋の各所にはビデオカメラが隠すように設置されている。
「どうしたものだ……」
 もはや奴を野放しにする気は無い。教職を失わせて社会的に葬るとかそんな生易しい処分ではなく、2度とこのような真似が出来ない状態に奴を追い込まなければならない。
 だが警察に通報して逮捕させるにしても、奴の所業が知られる事は被害者の女の子達からしたら迷惑どころの騒ぎではない……よな。それじゃセカンドレイプだ。

「……殺すか」
 自然にその言葉が口を突いて出た。
 俺の中では、もはや鈴中をこの世に存在させておく理由が見つからない。
 単に嫌な奴なら、二度と会わずに済む遠い何処かで幸せになって貰いたいだけだが、俺にとって奴は既に同じ天の下で同じ空気を吸う事すら許容できない。不倶戴天という存在に成り果てている。
 問題は俺が直接手を下し、殺人のリスクを背負う意味があるのかだけだった。
 奴が人知れず誰にも迷惑が掛からない状況で死んでくれるというなら万々歳だ。その日を記念日として生涯祝い続けるのも吝かではない。
 どう考えても奴がこのまま居なくなってしまう事が、奴以外の誰かにとっての不幸につながるとは思えない。そもそも奴が生きていて幸せになる人間が居るのだろうか?
 このまま奴がのうのうと生きていて被害者を出し続ける不幸と、奴が死ぬ不幸……ちっとも不幸とは思えないが、どちらの不幸が大きいかなど比べるまでも無い。
 新たな14人目以降の被害者を生み出して、女の子達の人生を狂わせる不幸を生み出してまで奴を生かしておく意味など絶対にない。

「やはり殺すしか……ちょっと待てよ」
 鈴中を殺さない。警察にも突き出さない。その上で2度と被害者を出さない方法は無いだろうか?
 奴を改心させる……人の心ほど改めさせるのが難しいものは無いだろう。ロボトミー手術の様に物理的な処置を施さない限り確実性が無い。
 恥ずかしくも無く人権派などと名乗ってる弁護士ども──つまり自分がそう名乗る事が、異なる意見の持ち主は人権の敵であると公に誹謗し、意見を封じるのと同じであると気づく事も出来ない幼稚な連中──ならともかく、もしかしたら改心するかもしれないから、新たな被害者が出るまで経過を確認しましょうなんて馬鹿げた発想は俺には無い。被害者の人権を回復するためならば加害者の人権が抑制されるのは当然の事だと俺は思っている。
 レベルアップして、例えば【洗脳】みたいな使えそうな魔術を憶える事が出来たら良いのだが……ラインナップが微妙すぎる魔術に期待するくらいなら、鈴中が自ら改心する可能性にかけた方がましだろう。
 次に思い浮かぶのは、奴を監禁して社会から物理的に引き離す事だ。
 昔の刑事ドラマで無人島にある非公式の監獄に法で裁けない犯罪者を送り込むなんてのがあったが、中学生にそんな事が出来るはずが無い。
 そこで以前思いついた可能性だが、植物なら生きたまま収納できるが、生きたままの動物は収納できない。この結果を分ける原因は意識の有無ではないかと考え至った時、動物でも意識の無い状態なら生きたまま収納可能なのではないだろうかという疑問だが、もしこれが可能なら、鈴中を気絶させて収納し生きたまま社会から切り離す事が出来る。収納中の物は時間経過の影響を受けないようだから、入れっぱなしにしておけば食事を与えるとかの面倒を見る必要も無いので、誰にも気づかれずに監禁を続ける事が出来る。
 だが、これにも問題がある。俺が死んでシステムメニューという機能を維持できなくなった場合だ。
 まだ俺の死と共に【所持アイテム】の中の物も一緒に消えてくれるなら良いのだが、俺の死と同時に中のものが辺りに撒き散らされる結果になる場合は拙い。数十年後に俺の寿命が尽きた時……天寿を全うするつもりだよ。奴は今と同じ肉体のまま解放される事になる。その後しばらくは色々と大騒ぎになるだろうが、普通の生活を始めた奴は再び害悪を垂れ流し始める……何の解決にもなっていない。

 次のアイデアが浮かばない……物理的に去勢して両手両足を2度と使えないようにし、眼球と声帯も破壊……これでは殺すのと大して違いが無いし、何よりも、そこまでするなら一思いに殺してしまった方が俺も精神的に楽だ。基本的に俺のSッ気は、精々が言葉攻めくらいまでしか機能しない。
「殺すしかないのかな……」
 やはり幾ら考えても結局は其処にたどり着いてしまう。
 殺人か……ちょっとハードルが高い。鈴中が稀にみる糞であると言うのを差し引いても躊躇われる高さだ。
 冷静に考えてみて、奴がゴブリンやオーク、オーガ、トロールに比べて上等な存在だとは思えない。森林狼や鹿モドキ、猪モドキだって奴に比べたら尊敬できる存在だろう。
 それにも関わらず踏ん切りがつかないのは、俺が自分が思っていた以上にモラリストだからなのだろう……いかん自分で笑ってしまったよ。

 とりあえずだがパソコンは収納してしまう。最悪奴を警察に突き出すことになった時、この中のデータが必要となる。
 そしてマップ内で『SDカード』『USBメモリー』などの外部記憶媒体を検索して居間や寝室にある全てを回収する。念のために『スマートメディア』や『MO』などの既に使われているとは思えない記録メディアも執拗にチェックしていく。そして『DVD』『CD』などのライターで書き込んだものも内容を確認せず全て収納。それから寝室のビデオカメラの類も忘れず全て収納した。

 居間と寝室の何故かマップの中でスマートフォントとSDカードがトイレの中に表示されている。
 嫌な予感がしたが中を覗いてみると洋式の便器を抱え込むように倒れた鈴中が居た。
 トイレの中で背後から何か硬い物で後頭部を殴られたのだろう。頭部から流れた血液が便器の中に流れ落ちている。
「何て急展開だ……」
 1度キッチンに戻りゴミ箱の中をあさってコンビニ袋を取り出すと、再びトイレに戻り手袋を外してコンビニ袋の中に手を入れて、袋越しに奴の頚動脈の辺りを触れてみる。
「脈が無い……か」
 当然だ、鈴中はマップ機能で表示対象に指定しているのに表示されていないと言う事は、倒した魔物が表示から消えるように死んでいると言う事だ。
 それでも何度か場所を変えて確認するが脈は取れなかったので死んでいると結論付ける。一瞬躊躇ったが、あえて人工呼吸とか心臓マッサージなどの救命行為はしない。
 犯人は疑う事無く西村って先輩だろう。壁に飛び散った血痕はまだ乾ききってはいないのだから……レイプされた挙句に、その状況を撮影されて、それをネタに脅されてその後も関係を強要された挙句の犯行と考えるのが自然だ。
 そんな目に遭わされた挙句に殺人の罪まで負わされる……はっきり言って理不尽だ彼女に対しては同情の念しか浮かばない。むしろ、どうしてもう1日早く動いて、俺の手で鈴中を殺しておかなかった事をと申し訳ないとすら思う。

 だから俺は彼女の罪自体を無かった事にする。鈴中には突然の原因不明の失踪を遂げて貰う事にした。
 奴を救命しなかったのも万一奴が蘇生して西村先輩が殺人未遂の罪に問われるのが納得できなかったからだ。
 失踪して2度と世の中に現れる事が無い。それが鈴中に相応しい人生の幕引きだろう。

 鈴中の遺体を収納し、マップ機能で血液を検索して飛び散った血痕や便器の中の血の混じった水も【操水】で全て集めてゴミ回収袋に入れて収納する。
 それからは部屋の中の物を一切合財、塵一つ残さずに回収する作業を続けた。
 失踪事件として片付けるのに、警察が奴の失踪と誰かを繋げてしまいかねない様な証拠になる物を何一つ残す気は無い。
 収納作業は実際の時間では2-3分で終了した。システムメニューを開いた状態での収納は、半径1m以内なら手で触れずとも対象を意識するだけで収納が可能な上、にその間は時間が経過しない為だ。

 部屋に何もなくなった状態で、掃除道具を取り出して床や壁、スイッチや蛇口の栓など人が手で触れていそうな物は全て拭き取って指紋を消していく。
 1時間半ほど掛けて掃除を終えると、掃除道具を再び収納し、最後にトイレの水を流して排水溝へと流れ込んだはずの血液も洗い流す。
 死体が無い以上は、殺人事件ではなく失踪事件としてしか扱われない。
 なので、もし警察が事件性を見出して調べるにしても、この部屋の中、しかもトイレで鈴中が殺されたという確信は無いのだから、排水溝の中まで調べないだろう。だが少しでも可能性が残るなら消しておくに越した事は無い。

 玄関の鍵を掛けて、部屋の明かりを消してカーテンを開けると、窓からベランダへと出る。窓を閉めて、再び【闇手】を使って窓の鍵を掛けて密室を作り上げる。意味は無いが何となくそれが形式美の様な気がしただけで、そうした方が鈴中自身が家財道具全てを引き払って失踪したと思われそうだとか考えた訳ではなかった。
 ベランダから降りて外に出ると既に深夜1時を過ぎている。
 周囲に人影は少ないが監視カメラは24時間体制で、それに今の時間なら警察に職質を掛けられたら補導される可能性もあるのでマップ機能で周囲を警戒しながら慎重に家路をたどる。

 それにしても鈴中が手を出したのは全て教え子で、普通に考えたなら奴はロリコン教師以外何者でもない。ならば何故、ロリコンの分際で北條先生にしつこく付き纏っていたのか疑問が残る。

 ほとんど音も立てずに自分の部屋に忍び込んだが、何に気づいたマルが2階の廊下で吠えて叱られていたのを、俺は無視して眠った。そうせずにはいられないほど心が疲れた……ごめんなマル。



[39807] 第34話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/07/22 21:37
 胸の苦しさを覚えながら目覚めると、目の前にルーセの寝顔があった。
 まるで猫の様に胸の上に乗って寝いる姿に最悪な気分が少し癒されるのが分かる。
 それが有難くて、両腕をルーセの背中に回して抱きしめて、ついで頬擦りもしてやった。
「ううっ」
 顔を真っ赤にしたルーセが唸り声を上げる。やはり寝た振りをしていて俺の過剰なスキンシップに耐えられなくなった様だ。
「おはよう」
「むぅ、おはよう」
 不機嫌そうに睨みつけてくるが口元は緩んでいる。素直じゃないけど涼に比べたら可愛いものだ……いや両者を比較する事自体が間違っていた。何がどう間違っていたのかはノーコメントだ。
 左手で背中を抱いたまま、右手を伸ばして頭を撫でてやるとすぐに目元も緩んでデレてしまう……これだ。こんな風に妹と戯れたかったのだよ俺は!
 まだ赤ん坊だった涼を、こんな風に抱きしめてやりたかっただけなのに……小さな可愛い手で眼を突いてくるんだぜあいつ。偶然なんかじゃなく的確に狙ってさ。
 ベッドに横たわり隣で寝ている涼を自分の身体の上で抱き上げて、頭を撫でようとしたら生後1年の赤ん坊のする目ではなく獲物を狙う無慈悲なるハンターの目で、俺の眼を突いてくる。恐怖の余り投げ出したら泣かれて母さんに叱られた。

「今日もトロールを狩りたいけど、狩場のトロールが居なくなった。リュー何とかして」
 朝食を終えるなり、早速の本日の無茶振りだ……日々益々傍若無人になっていくよ。
 確かに昨日は日暮れの1時間くらい前からトロールの姿が見つからなくなってしまった。乱獲によるトロール資源枯渇だな。この村としては決して悪い事じゃないのだが……それにしても何とかって何だよ!
「トロールはもういいだろう」
 俺は全然トロールを倒してないけど、もうお腹いっぱいだよ。
 それに、いい加減俺も狩りをしてシステムメニューのレベルアップではない部分をレベルアップしたいのだ。
「一番レベルを上げやすい」
「レベルアップすれば手っ取り早く強くはなれるけど、この2日間ルーセがしたのは、ただ力任せに長剣を振り回していただけでしょ。それで何か自分の中で腕が上達したと感じるものはあったの? それに強くなった身体の力を使いこなせているの?」
「あぅ……」
 図星だったようで気まずそうに視線を下げる。
「あの戦い方じゃ火龍と戦う時には役に立たないよね?」
「分かった」
 自覚はあったのだろう素直に認めた。
「今日はレベルアップは控えて、動きの速く小さな獲物を狙っていくよ。そうすれば長剣の使い方ももっと上達するし、強くなった身体を使いこなせるようになる」
「うぅ……」
 何か不満そうだ。
「どうかしたの?」
「後5日で火龍を倒したい」
「……なんで?」
「6日後がルーセの誕生日……お父さんとお母さんの命日。だから火龍を倒した事を報告してあげたい」
 そういう事情か……しかし、5日後か何とかなるか?
「……駄目?」
 目を潤ませて上目遣いに見つめてくる……何たるおねだり上手! 実の妹からおねだりされた事すら無く免疫を持たない心を攻められて『何とかなるかじゃなく、何とかするんだ!』と言う指令がDNAから発せられる。
 理性が『それ言うたらあきまへん!』と何故か京都弁で止めようとするが、それよりも早く「分かった」の一言が口を突いて出てしまった。
 ……うん、わかってるんだ。後悔するまでの所要時間は僅か0.3秒だった。どこの凄腕のガンマンだよ。

 5日……いや、実際に準備に取れるのは今日を入れて4日間のみだ。そして戦う前に1度は火龍の巣をこの目で確認しておきたいし、その後で火龍戦の作戦を考えて、それから連携の訓練……無理だ。絶対に無理だ。
 簡単に安請け合いして後悔するのは前にもやったばかりだ。俺には学習能力ってものは備わってないのか?
 何か良い方法は無いだろうか……いっそのことロードして「分かった」と言う前に戻りたいのだが……ちょっと待てよ。
 ロード……そうだロードだ。巻き戻しにおいて俺自身とパーティーのメンバーであるルーセの頭の中だけは巻き戻され無いのだから、訓練はロードのを繰り返せば何度でも経験を積む事が出来る。無論体力の向上など身体的な訓練は不可能だが、少なくともイメージトレーニング以上に効果がある練習が、実際の時間のロス無しに行う事が出来る。巻き戻される身体能力の類はレベルアップで補う事が出来るので気にする必要は無い。
 ならば今日1日あれば、長剣や身体の使い方の習得は十分に可能だ。というか十分に習得するまで何度でもやり直せば良い。もちろん鬼教官モードでな。
 そして目標であるレベル40は2日間オーガなどの大型の魔物を狩ればぎりぎり届くか? いや、獲物を探すための時間もセーブ&ロードで無駄足になった時間を巻き戻せば効率的に狩れるから時間的には十分だろう。余った時間で火龍の巣を調査する事も可能かもしれない。
 4日目は、火龍の巣の調査の予備としておき、火龍戦の作戦を立てて、それに沿った連携の訓練をするのだが、これもセーブ&ロードを使えば時間は必要としないだろう。
 可能だ。このスケジュールに多少の齟齬があっても、4日目はほぼ予備日なので対応は可能だろう。うん、完全にシステムメニュー頼り。システムメニュー万歳である。

「おおっ!」
 火龍討伐までのスケジュールを告げると、ルーセは感嘆の声を上げる。
 目が輝いてる。ふっふっふっ、もっと尊敬しても良いんだぞ?
「という訳で、今日は特訓だ。びしばしいくから覚悟しておくように」
「ぶぅー」
 えーっ、いきなりのブーイング?

 ウサギを見つけた。しかし、アレをウサギと呼んで良いのだろうか? 家庭用ゲームの某有名RPGに出てくるウサギ形の魔物に角が生えているせいか、その手のウサギ型モンスターは良くファンタジー小説では見かけるが、こいつには背中に羽が生えていて、接近していくとシステムメニューのエンカウントと判定で名前が表示される前に、跳んでではなく飛んで逃げてしまった。
「あれは弓じゃないと無理」
 森の木々よりも高く飛んでいくウサギモドキを見送りながら、そう言えばウサギって1羽2羽で数えるから納得だな……納得できるか!

『ロード処理が終了しました』

「これは練習にならない」
 頭から胴体の半分までを真っ二つに切り裂かれた猪モドキを前にルーセが呟く。
 ルーセへと真っ直ぐに突っ込んできた猪モドキは彼女の頭上から振り下ろされた長剣の一撃により地面に半ば叩きつけられるようにして絶命した。
 いつもの横回転の攻撃が単に縦の振り下ろしなっただけの力技だった。
 相手も真っ直ぐ突っ込んでくるだけなので注文も付けづらかった。

『ロード処理が終了しました』

「ルーセ。そいつの両腕を斬り落としてから首を刎ねるんだ」
「……面倒」
 身長が110cmにも届かないルーセと向かい合って立つののは上背が2mを大きく超えるレスネプシィドこと熊モドキだった。
 どの辺がモドキかというと、口元から剣歯虎の様に長い牙をむき出しにしている事だ。
 ちなみに剣歯虎は『虎』よりも『猫』に近い生き物である事が最近の研究で分かってきているそうだが、はっきり言って既に絶滅した動物がどの分類に含まれるかなんて、その道の専門家以外にとってはどうでもいい情報だ。それよりも遺伝子検査の結果、隼がインコやオームの仲間だと分かった事の方がはるかに衝撃的だ。前から怪しいとは思っていた。隼のクリッとした目の愛らしさはどうみても愛玩動物向きだと。

 ルーセは歩いて無造作に距離を詰める。
 熊モドキは仁王立ちで両腕を広げて構える。熊の腕による攻撃は外から内へと向かう打撃。人間のパンチの様に内から外へと向かう攻撃は無い……これは大島の教えだが、中学生に何を教えてるのだろう? 各地の小学校を回って子供達に「ヒマラヤでは生ゴミを捨てても地上と違って分解されないから、絶対に捨てたら駄目なんだよ」と啓蒙活動してますとか言ってる奴と同じだ。何万人の小学生にその話を聞かせたか知らないが、その中にヒマラヤに登る事になる小学生が1人でも居る確率は1/100程度だ。啓蒙するなら小学生に無駄な時間を使わせずに、山を汚すお前の仲間内でやれと思ったのと同じく、情報はそれを知っておく必要のある人間に与えないと意味が無いのだと当時は思った。それがこんな事になるなんて……人生先が読めなさ過ぎて笑える。もちろん乾いた笑いだ。
 ちなみに熊の腕の攻撃の事をルーセに教えたら「そんなの知ってる」で即終了でした。

 ルーセが長剣を振り下ろしたのに反応して熊モドキも腕を振って攻撃を叩き落そうとする。
 だが熊モドキにとってルーセの長剣は速すぎて、ルーセにとっては熊モドキの反応は早すぎた。
 両者はぶつかり、長剣は軌道を逸らされて地面を打ち、腕は骨を折られて熊モドキが痛みに吠えた。
 ルーセに掛けられた精霊の加護は彼女の持つ武器にも影響を与え、その馬鹿力にも耐えられる頑強さを持つ事になる──そうでもなければ、武器が壊れて仕方ない──ため折れることは無かった。一方で刃筋が完全にそれて刀身で殴りつけただけでも熊モドキの腕の骨を折るだけのダメージを与えたのだ。
「難しい」
 こちらを振り返り文句を言ってくるルーセに、熊モドキは残った腕で振り下ろす「分かってた」……ルーセが上へと振り抜いた長剣の刃は振り下ろされる腕を正面から捉え、熊モドキの腕は宙を舞った。
「これで3戦2勝!」
 そう言いながらルーセは片腕を無くしてバランスを失い体勢を崩した熊モドキの首を刎ね飛ばす。

 ドヤ顔で振り返るルーセに俺は首を横に振ってみせる。
「3戦3勝じゃないと駄目だよ」
「うぅっ!」
「長剣はいかにルーセの馬鹿ぢ……もとい、精霊の加護を受けた力をもってしても振るためには大きな予備動作と初動の遅さが付き纏う」
 危ない危ない『馬鹿力』と言いかけた瞬間、空気が変わりかけた。
「だから漠然と攻撃をしても駄目なんだ」
「……?」
 そうだよな。小さな子供には難しいよな。俺だって空手を始める前にはこんなこと言われても「はぁ?」だっただろう。
「攻撃には主導権が必要になる……ちゃんと説明するから首を傾げないで。熊モドキ──レスネプシィドはルーセが攻撃する前に身構えていた。だからルーセの攻撃に対してそれを打ち払おうとした。分かるね?」
「うん」
「だとしたら、ルーセの攻撃に対して前もって身構える事の出来ない状況を作る。身構えた態勢を崩す。身構えた事を無効化する。これが攻撃時に主導権を握るって事だよ」
「……で?」
 そうだよな……以下同文。
「例えば、あらかじめ相手を縛り付けて身動き出来ないようにして攻撃する」
「リュー。頭大丈夫?」
 本当にこの子は毒舌だ。と言うより思った事をそのまま口にしてしまうようだ。少しは考えてから口にして欲しい。
「た・と・え・ば! 例えばの話ね。どうやってそれを実行するかは良いんだ。目的を達成するためにどんな条件が必要なのかの話なんだから。ルーセも自分でどんな手段がを使えば、主導権を握ることが出来るか考えてみて」
 そう促されてルーセは一人前に腕を組みながら顎に左手を添えて考え込む。
「……隠れて相手をやり過ごして背後から襲いかかる」
「惜しいけど不正解」
「何故?」
「この場合は『背後から襲い掛かる』が正解で、『隠れて相手をやり過ごす』は必要ないんだよ。どうやって背後から襲い掛かるかは後で考える事で、この段階ではむしろ考えてはいけない」
「何故?」
 何故が被るが、今回のは明らかに不機嫌な何故だった。
「目的に至るまでの手順を分割して考える事で物事を簡単にする。一度に全ての手順を考えようとすれば物事が複雑になり、もしかしたら最適かもしれない可能性をも、そこに至る道筋が複雑なら自ら無理だと判断して潰してしまう事になりかねないからだよ」
 これはブレーンストーミングと同様に可能性を潰す議論ではなく、あらゆる可能性を発想する手法だ……だけど分かんないだろうな。実際、首を傾げて不思議そうな顔をしてる。
 理解させた上で考えさせるのが一番良いやり方なのだが、押し付けるしかないのかな? 強くなると言う事に強い動機を持っているから、そのやり方でも付いて来るだろうけど、やはり出来るなら……
「もし山に登るとしたら、山の麓からいきなり山頂を指差されて『あそこに登る』と言われるより、二合目辺りを指差されて『まずはあそこまで登る』と言われた方が気も楽だろ」
 例えとしては本来のトップダウンからボトムアップのアプローチになってしまっているが、全体としての難易度を分割して、個々に低い難易度を提示するという部分では同じだ。
「ルーセは山に登らない。登るのは登る必要がある時だけ。必要ならどんな事があっても山頂まで登る。気が楽とか関係ない」
 うん無理。今は絶対に無理だ。これからの長い彼女の人生において成長する中で自分自身で身に着けていけば良いんだ。その時に手助けしていけば良いんだ。

 俺は手っ取り早くフェイントの基礎を教える事にした。
 ルーセは狩人として、あらかじめ伏せておき背後から奇襲をする事を理解しているのと同様に罠を仕掛けたりする、戦う前に勝つ為の主導権を確立する戦略的な思想の必要性は理解していたので今回はパスする。
 フェイントは、何の準備もなく戦わなければならない場合に攻撃の主導権を握る方法としては、もっとも簡単で効果も高い……即興で心理戦を仕掛けるとかは俺にも無理だし、熊だの龍だの相手に心理戦も糞も無い。
「ルーセが長剣を初めて手にして俺と戦ってデコピン一発で気絶した時があっただろう?」
「リューは変態だった」
「もうそれはいいから、ホントやめて……その時、ルーセは自分の方の間合いの方が広いから、俺が攻撃するために自分の間合いに踏み込んできたら攻撃しようと身構えていたよね」
「うん」
「でも俺がルーセの間合いに入って直ぐに逃げた事で、咄嗟に攻撃してしまい空振りをして、その隙に飛び込んだ俺が自分の間合いにルーセを入れてデコピンで気絶させた」
「……ずるい。あれは無効」
「そんな戯言は寝てから言いなさい……俺がやったのと同じ事をレスネプシィドにやってみるとしたらどうなる?」
「……1度踏み込んでから、飛びのいたらこっちにも隙ができる」
 ちゃんとそこには気づいたか。素手の俺とは違って長剣を振るのにはルーセの力をもってしてもきちんとした構えが必要だ。飛び退いて熊モドキの攻撃をかわしてから素早く踏み込んで一撃という訳にはいかない。でも飛び退いてから踏み込む。この動作を攻撃の動作の中に組み込めば出来ない事も無いのだが、今言ってすぐやれとは俺には言えない……大島なら平気で言うけど。
「別に相手の間合いに踏み入れる必要は無いよ。例えば一踏み出す様に見せかけて元の場所を強く踏みしめて音を出すとか」
「おおっ!」
 今までの説明の中で初めて納得の表情が浮かんで俺もほっとした。これで駄目ならもうお手上げだったよ。

 1度ロードを実行して、再びエンカウントした熊モドキと対峙するルーセは先程と同様に無造作に間合いを詰めるとぎりぎりの距離で睨み合う。
 張り詰めた緊張感の中でゆっくり時間だけが流れる。両者の間に満ちる濃密な殺意が限界に達したその瞬間。ルーセが先手を取る。
「ゴラァァァァァァァァァァァッ!!!!」
 とてつもない大声に俺は思わず耳を塞ぎ、熊モドキさえも雷に撃たれたかのように仰け反った。
 次の瞬間ルーセは踏み込みながら長剣を一閃。見事熊モドキの左腕を絶ち斬ると、返す斬り上げた一刀で右腕をも両断する。
「そ、それ違う!」
 思わず口を突いて出た俺の声を無視して、ルーセは右上へと振り抜いた長剣を引き戻し大八双に似た構えにすると、その態勢のまま鋭く前蹴りを熊モドキの下腹部へと入れ、衝撃で前のめりになった熊モドキの首へと長剣を振り下ろす……ポーンと首が跳んだよ。

 ドヤ顔で振り返るルーセに、俺は頭を抱えるしかなかった。
「それフェイントじゃなく、音波攻撃だよ……」
「えーーーっ」
 不満そうに声を上げる彼女に俺は力なく首を横に振った。

『ロード処理が終了しました』

 本日のメインである森林狼。連携が取れた群れで行動する生粋の狩人。そして俺にとっての戦いの先生でもある。
 ちなみに猪モドキや熊モドキと違って「狼」である森林狼だが、実は山猪とか赤熊などの「猪」や「熊」もちゃんと存在する。それらは大きさや色が違うが現実世界の猪や熊と少なくともシルエットは同じである。
 第1戦。3体の森林狼の素早い動きと連携に翻弄されて、大降りの一撃を空振りバランスを崩したところを足首をとられて転倒したところをロード。
 第2戦。3体の森林狼の素早い動きと連携に翻弄されて、大降りの一撃を空振りバランスを崩したところを足首をとられて転倒したところをロード……まるで成長していない!?
 軽く説教を入れた後に第3戦。今度は慎重に3体と距離取るように動きながら構えを取るが、緊張を切らして得意の竜巻モードを始めるが、空振りして背中を向けたところを襲い掛かれて倒されてロード。

「ルーセ。負けても心が折れないのは評価するが、まず周辺マップを使いこなそう」
「そんな余裕が無い」
「余裕は作るの! 一瞬だけ視界の隅のマップに目をやって周辺の状況を確認すれば、背後とか見えない場所を確認しようとする手間が減る分余裕が出来るだろ。大体、何時も周辺マップを見ながら森の中を移動しているんだからやれば出来る」
 そうは言っても火龍と戦うには余り関係の無いの技能なんだよ。まああって損は無いだろう。
「後は体捌きだ」
「解体?」
「違う。自分の身体をどう動かすかで、特に脚の使い方を指す。まず後ろを向いて」
「後ろ?」
 疑問に思っているのだろうが黙って後ろを向くが、その際左右の足を2度踏み変えた。
「ちがーう!」
「何が?」
 明らかにウザそうな顔でこちらを振り返る。確かに鬼教官モードはウザい。俺がやられてもウザい思うだろうし、やっていてウザい。
「振り返る時はこうする」
 剣を装備して剣道の基本である中段に構えると、前出ている右足を左足より30cmほど後ろに引きながら剣を上段に振りかぶり、身体を右に回転させて180度向きを変え、そこから右足を一歩踏み込みながら剣を振り下ろす。いわゆる回れ右に剣道の動きを加えただけだ。
「凄い! 何やったの?」
 むしろ凄いのは君の食い付きだよ。初めてシステムメニューが目の前に現れた時ですらこんなに喰い付かなかっただろう。例の歌を聞いた時以来じゃない?

 やり方を間単に教える。元々簡単なので簡単にしか教えようが無い。左回転の場合。前にある足を引く時に内側斜め後ろに引くことで、相手の突進を交わしながら右側面へと攻撃を加えられる位置取りをする方法。また右足を左後ろに引いて身体を右回転させながら左足を右前に出して、小さな脚の動きで回転を続ける方法も、ルーセはあっという間に習得してしまった。
「こ、これでルーセは無敵かもしれない」
 それは違うが、もの凄く興奮しているのだけは分かった。
「それはともかく、マップで位置を確認して体捌きで小さな動きで相手に対応できるようになったはずだ」
「リューはずるい。もっと早く教えてくれれば良かった」
「ぐるぐる回りながら長剣を振り回すのに夢中になって俺の言う事を聞かなかったのはルーセだろ」
「……そうとも言う」
「そうとしか言わないよ!」

 第4戦。ルーセは自らの小さな身体の1.5倍ほどの長大な長剣を両手に持ち頭上で左回りに回転させながら、ゆっくりと森林狼の群れに接近していく。その姿には全く気負いすら感じられない。多分、体捌きを身に着けて無敵になったつもりになった余裕なのだろう。
 森林狼達はルーセを取り囲むように一定の距離を開けて、その周囲をゆっくりと隙を伺いながら回り始る。波立つ事も揺らぐ事も無い水面の様な静かな緊張感の中、ルーセの背後に回り込んだ森林狼が足を止める。
 次の瞬間、ルーセは左足を後ろに大きく引き身体を左に回転させた勢いのままに頭上の長剣を薙ぎ払うと、一瞬の跳躍前の隙を突かれた森林狼は避ける間もなく、襲い掛かってきた刃を頭部に受ける。
 文字通りに粉砕された頭骨、脳漿、眼球を撒き散らす長剣を翻しながら、左足を後ろに引くと身体を180度左に回転させながら、次の森林狼の身体ごと地面に長剣を振り下ろす。左前足の後ろから斜めに胴体を半ば両断しつつ地面に食い込んだ長剣に、好機を得たと判断した最後の森林狼が飛び掛ってくる。
 しかしルーセは顔色一つ変えることなく、長剣を真っ直ぐに引き抜くと柄頭を、自分の喉元に牙を突き立てようとするその鼻先に叩き込むと、痛みにのたうつ森林狼を蹴り飛ばし、とどめの一撃をお見舞いした。
 完勝である。たったあれだけの事を僅かな時間教えただけで、先程までとは別人の様な戦いっぷり。その戦いの才能に嫉妬すら覚える。

 この子の加護は大地の精霊じゃなく、戦いの神の加護じゃないかと疑っているとルーセは俺を振り返りニッコリと笑みを浮かべると「勝った!」と叫ぶ。
 その姿は年相応の子供そのものだった。


 本日のレベルアップは俺が1upでレベル35。ルーセは2upのレベル32だった。
 レベルアップする予定は無かったのだが、訓練用の獲物を探す途中で遭遇したオーガは残らず倒した上でセーブしておいた結果で、おかげで明日以降のスケジュールに余裕が出来た。



[39807] 第35話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:08
 今日は目覚める前にマルに顔中を犬臭くされてしまった……まだまだだな俺も。
 システムメニューで学校の制服を装備して早着替えすると、最初に見たときは驚いて飛びのいたマルだがもう慣れた様子で普通に尻尾を振っている。
 こちらをじっと見つめるマルに、いっそこいつとパーティーを組むのはどうだろうと考えてしまう。レベルアップして、言葉を理解できるくらい頭が良くなってくれればと妄想したが、こちらではレベルアップの当てもないし、それ以前に言葉が通じないのにどうやってパーティー加入の同意を取るのかが問題だった。
「残念」
 そう呟いてポンとマルの頭に手を載せると優しく撫でながら部屋を出た。

「おはよう」
「昨日はどうなった?」
 部室に入ると櫛木田が詰め寄ってくる……全く挨拶くらい返せよ。
「困った事が起きた」
「バレたのか?」
「いや、鈴中が居なかった。というよりも奴の部屋はき例さっぱり何も残っていない。もぬけの殻ってやつだった」
 もぬけの殻にしたのは俺だけどな。
「……お前、部屋を間違えたんじゃないのか?」
「一昨日の晩に、奴がその部屋に入るのをちゃんと確認してある」
 嘘だけどな。システムメニューのマップ機能に頼っただけで、張り込むなんてリスクを冒す真似はしない。。
「じゃあ、元々引越しする予定だったんじゃないのか?」
「その可能性も無い。一昨日の夜に確認した時は、窓辺に机が置いてあって上にはデスクトップPCがおいてあったし、他にも戸棚とかあった」
「そんなの、どうやって調べたんだ?」
「奴はカーテンを閉めないから、近くの公園の遊具の上に登って双眼鏡で確認した。ちなみに最大望遠で80倍だ」
 倍率が高すぎて腹立つほど使い辛い欠陥品だ。20-80倍の間で倍率を調整出来るが、対眼レンズと対物レンズの距離が近すぎる小型双眼鏡に20倍では見たい場所へ正確に向けるのは至難の業だ。
「そうか、一昨日の晩には家具があったのに、昨日の晩にはもう家具が無かった……あいつ、昨日は学校に居たよな?」
「居たぞ。うちのクラスは昨日の5-6時限が剣道だったから」
 伴尾が答える。
「おかしいな……」
「だろう?」
 抜け抜けとそう答える俺は本当に嘘吐きだ。だが正直に話しても誰も幸せにはなれないなら、幾らでも喜んで嘘を吐こう……何よりも自分の幸せのために。
「何か事件に巻き込まれて死んでてくれないかな?」
 田村君。ドキッとする事は言わないでくれ!
「……今日は鈴中に張り付いて、奴が北條先生を脅した後に身柄を押さえる。間違いなく脅迫のネタを持ってるはずだから逆にこちらが脅迫してやるさ」
 そう言いながら、ポケットの中からMP3プレイヤーを取り出す。メモリは内蔵のみで外部との接続はデータの入出力と充電様のUSBコネクターがあるだけで液晶画面もかなり小さいが、ワインのコルク栓を縦に半分にしたような形とサイズで、かなり小型の部類に入るだろう。
 MP3プレイヤーの再生ボタンを押すと、今まで部室内での会話が再生される……余り明瞭では無いが話の内容が分からないほどではない。
 櫛木田に渡して音質を確認させた上で「こいつを鈴中のジャージの襟の裏に貼り付ける」と告げた。
「そんな事が出来るのか?」
 そう言いながら返してきたMP3プレイヤーを受け取ると、システムメニューを開いた状態で、取り出した強力両面テープを切り取ってプレイヤーに貼り付けると、俺の右側に居る背中を向けていた1年生である斉藤の空手着の後ろ襟に貼り付けるとシステムメニューを解除した。
「えっ、何処にやった?」
 櫛木田達にすれば、俺の手の中に会ったMP3プレイヤーが突然消えたように見えたはずだ。
「チャチャーン!」
 自前で効果音を鳴らしながら斉藤を両手で指差す。
「えっ? マジ!」
 斉藤の後ろ襟に貼り付けられたMP3プレイヤーを目にして驚きの声を上げる3人の顔を見るのは面白いが、別に凄い技術を使った訳でないから空しい。
「まあ、そういう事だから、俺に任せてくれ」
 そう告げて、さっさと着替えを始める。
「ちょっと待って、どうやった?」
「教えろよ!」
「あれか? 斉藤もグルなんだろ?」
 3人が食い下がってくるが「手品のネタを教える手品師なんているか!」と一喝した。
「結構居るだろ。大体、手品はネタじゃなくタネだし」
 ……ご尤もです。

 空手部の本格的な練習が始まってから、今日の朝練で丁度1週間だ。だから……
「よし、今朝の練習はこの1週間の総仕上げだ。時間一杯ひたすら走れ!」
 そう来ると思ったよ。去年も一昨年もそうだったしな。

 1時間後、学校の敷地周辺には空手部1年生達の死骸──もとい、行き倒れ5体が転がっていた。
 人間性がちょっと歪んでしまうほどの特訓を受けた上級生達と違って、小学校の頃から陸上の長距離をやっていたわけでもなく、まだ普通の元気な中学1年生に過ぎない彼らが1時間で14-15km程度も走れるのはかなり凄い事だろう……追い込まれ死ぬ気になり120%の力を搾り出す事が出来ればこんなものなのかもしれない。普通の体育の授業どころか陸上部の部員が競技大会に出場した時でさえ、彼らほど自分を追い込んでいるとは思えない。
「よ~し、お前ら1年生を立たせて走らせるぞ。バケツに水を汲んで来い!」
 ドSの悪魔が本領を発揮した。
 今日までのランニングは、目標地点で折り返して戻ってくる──潰れた1年生を背負わせて走らせる俺達への訓練だった──コースをたどっていたが、今日は学校の敷地の周りをひたすら周回するだけだったのは、バケツに水を汲んで来るのが難しいからに過ぎない。

「小林! 馬鹿かお前は。勢い良く水をぶっ掛けてどうする? ゆっくりと口と鼻に掛けてやれ!」
 ちょっと待て、そんな事をしたら! ドSだよ。本当にこの男はドSだよ。超弩級Sだよ。こんなのと引き合いに出されて戦艦ドレッドノートとロイヤルネイビーに対して申し訳なくなるほどのSだ。
「よ~し仲元、ゆっくりだ……馬鹿、もう少し右だ……そうだ良いぞ」
 バケツに水を汲みに戻った小林を尻目に、丁度汲んで来たばかりの仲元の隣に立つと、その凶相に喜悦を浮かべながら細かく指示する。
 1年生は荒く呼吸をしているところに口や鼻に水をかけられて激しく咳き込む。
 仲元は後輩を相手にこんな事をさせられて、すまなさと悔しさに涙を浮かべている。
 だが仲元よ、お前のその表情すら大島にとっては大好物なんだよ。奴は人間の負の感情を糧として喰らう悪魔なのだから。

 朝練を終えて、シャワーと言う名の水浴びを済ませ、手早く朝飯の弁当を掻っ込むと職員室に向かった。
「失礼します」
 別に用は無いのだが、何食わぬ顔で中に入り辺りを見渡す。
「どうかしたのかね?」
 禿げ上がった頭部に撫肩で鳥の骨のように細く、そして短躯でどこか宇宙人のグレイを思わせるシルエットの教頭──中島が声を掛けてくる。そうなるようにこいつが入り口近くに来るタイミングを周辺マップで確認して入室したのだから当然だ。
「北條先生はいらっしゃいませんか?」
 そう尋ねながら教頭に歩み寄って1m以内の範囲に入れる。ちなみに北條先生が職員室に居ない事も周辺マップで確認済みだ。
「北條君か、彼女は……どうやらいないようだな。何か用かね?」
「クラスの事でちょっと」
 そう言いながらシステムメニューを開く。まずはセーブしてから今朝台所から失敬しておいたゴム手袋をはめる。そしてMP3プレイヤーを取り出すとハンカチで拭いて指紋を拭うと教頭のスーツの胸ポケットに落とし込む。
 そうMP3プレイヤーを死んだ鈴中相手に盗聴するために持って来るはずが無い。教頭を盗聴するために持ってきたのだ。
 奴は胸ポケットにペンを挿すわけでも、ハンカチを飾るわけでもなく使っている様子が無いうえに、極端な細身で吊るしのスーツでは胸や胴回りに余裕があるので圧迫感で気づかれる可能性も低いはずだ。
「ではHRの後は、それほど時間が無いから昼休みか放課後にでも話を聞いてもらいます。ありがとうごいました」
「そうか、ご苦労様」
 頭を下げて出口に向かう途中の棚の中に職員名簿を見つけ、システムメニューを開いて収納すると、【所持アイテム】から取り出し名簿の中の教頭の住所と電話番号を記憶する。
 職員名簿を棚に戻すとシステムメニューを閉じて職員室を出る。思わずこぼれてくる笑みに口元を押さえて隠さなければならなかった。

 HRの時間。一瞬北條先生がこちらを見た。もしかしたら教頭から俺が職員室に行った事を聞いたのかもしれない。
「……そして5時間目と6時間目の男子の格技の時間ですが、鈴中先生が体調不良で休まれた為に自習になりました。6時間目は私も授業が無いので、数学で分からない事や授業内容に疑問があれば受け付けます」
 体調不良ね。まあ無断欠勤で連絡がつかないとは生徒には言えないよな。

 昼休みの時間。
 職員室のある2階の階段脇で待機する。周辺マップで教頭の動きを監視し、奴が職員室を出たのを確認すると接近する。丁度奴の後ろから追う形になったので、爪先から着地して踵を床に着けずに蹴り出すようにして足音を殺して接近してシステムメニューを開いて、ゴム手袋をすると奴の胸ポケットからMP3プレイヤーを回収して、録音状態のままになっている事を確認する。
 ちなみにインターネットへの接続はシステムメニューの時間停止空間での使用は不可能だった──時間が停止している外部のサーバーとのデータのやり取りが出来ないためだ──が、電源を外部に頼らないバッテリー使用でオフラインで動く機器なら、この時間停止空間でも使用は出来た。
 録音内容の確認をしないのは、無駄にバッテリーを消費させないためと録音時間が途切れさせて、発見時に学校で昼休みに仕掛けられたと見破られない為だ。

 MP3プレイヤーを胸ポケットに再び忍ばせると、スーツの内ポケットから教頭の携帯電話を取り出す。いわゆるガラケーだが俺のもガラケーだから馬鹿にする気は無い。家の親の方針はスマホは高校生になってかららしい。
 まだ、鈴中のスマホやパソコンの中を確認していないので、ついでだから教頭の携帯のメールを確認するがロックが掛かっていた。しかも指紋認証機能付きの機種だ。鈴中と違ってセキュリティーには細心の注意を払っている。余程後ろ暗い事があるのだろうと決め付ける一方で、どんなに注意を払っても、俺になら破る方法はある事に気付いた……今は無理だけど。
 だが俺の手元にはセキュリティーが杜撰な鈴中のスマホがあるのでメールの中を確認してみる。

「この糞爺が!」
 思わず叫ぶ。システムメニューを開いているので遠慮なく怒りを爆発させて叫ぶ。
 北條先生に付き纏っていたのは鈴中だが、奴が北條先生に興味を持っていた訳ではないようだ。やはりロリコンが大人な魅力を持つ北條先生に興味を持つ事自体がおかしかったのだ。
 メールの文面には明確に書かれていないが、教頭は北條先生への恨みを持っているようだ。多分セクハラでもして拒絶されての逆恨みだろう。
 狒々爺が北條先生にセクハラしていると考えるだけで脳みそが吹っ飛びそうなほど怒りがこみあげる。
 教頭は教え子に手を出している鈴中を脅し、自分の手足として使っていたというのが真実のようで、弱みを握られていたから鈴中は教頭を恐れていた……そういう事なのか?
 動機はともかく鈴中の犯行を知りながら、放置して自分の利益にしていた教頭は鈴中と同罪と言っていいだろう。
 殺すとまでは言わないが、死んで欲しくないとは思わない……懲戒免職に持ち込むように誘導しよう。50代も半ばで教師を懲戒免職では、さぞかし素敵な老後の生活が待っているはずだ。
 本人はともかく家族が可哀想だという気持ちが無い訳ではないが、そもそも懲戒免職に価するどころか逮捕されて有罪になるだけの事はしているのだ。
 事が事だけに警察沙汰にしないだけでも感謝して欲しいくらいだ。

 また鈴中の被害者達のメールアドレスを確認してみたが西村の名前は無い。だがローマ字で表記された女性の下の名前らしいものが13名分あった。多分これが被害者達の名前なのだろうが、西村先輩の下の名前が分からないので、どれが彼女のアドレスかは分からなかった。
 携帯電話を胸の内ポケットに戻し、システムメニューは解除する。
 時間が動き出すと同時に俺は歩を緩めて教頭を先に歩かせると、トイレに入る奴の横を通り抜けて立ち去った。

 教室に戻ると、紫村を始めとする空手部の3年生が来ていた。
「やあ。高城君待ってたよ」
 何処までも爽やかに声を掛けてくるイケメン紫村にクラスの女子達がざわめき、半数が頬を赤らめて、目を潤ませている……腐ってやがる。
 紫村がそっちの人間である事は密かに有名だ……うん、日本語として変なのは分かってるけど、他に上手い表現が思い浮かばない。
 ある意味近寄りがたいのは、他の空手部部員とは同じなのだが、明らかに態度の質が違う……羨ましくないから俺とのカップリングで薄い本出すなよ。
「ちょっと付き合ってもらえるかな?」
「ああ」
 俺がそう答えると背後で「きゃー」と小さい悲鳴が起こる。レベルアップで向上した聴力は「ケイxタカ……アリね」「何言ってるのタカxケイでしょ」「その2人の仲に嫉妬した3人の部員が罠を卑劣な仕掛けるの」「今年の夏は行ける!」という不穏な発言をしっかりと捉えていた……こいつらの企みは闇に葬らなければ。何としても……それにしてもタカxケイとケイxタカの違いって何なの? 名前の順番でもめるような事なの?



[39807] 第36話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:08
 空手部の部室に入りドアを閉める。一応周辺マップで部室のプレハブ小屋の近くの人物を確認してある。
 青春の汗の臭いが立ち込める中に、僅かなりとも紫村と先輩の……げふん、げふん。何でも無い。何でも無いんだ。
「どうやら、鈴中先生は無断欠勤で連絡も取れないみたいだね」
 紫村は『先生』の発音に嘲笑の響きを持たせたが、それですら優雅に感じさせるのが怖い。
「そうか」
「驚かないみたいだね。何か知ってるんじゃないかい?」
 試すような目でじっと俺を見つめる。女子が見たら、また悲鳴でも上がりそうな状況だ。
「いや、朝のHRで北條先生から奴が休みだと聞いて、やっぱり奴は何らかの事件に巻き込まれて失踪したかもしれないと考えていたからな」
「そうだね……」
 溜息を吐きながら、意味ありげな視線をこちらに向けてくる……上手くかわしたね。とでも言いたいのか? 何を疑っている? ともかく俺をそんな目で見るのはやめろ。俺にはそんな趣味は無いんだ。

「だけど奴が事件に巻き込まれて失踪したとして北条先生のことはどうなる?」
 田村の心配は尤もだが、実行犯の鈴中が消えて、手足をもがれた状態の教頭には北條先生に何もする事は出来ないだろう。鈴中のメールには北條先生の弱みを握った言う報告があったが、その証拠になりそうな写真などが添付された様子は無かったので、問題はほぼ解決しており後は教頭に報いを喰らわせてやるだけだ。
「多分、事件に巻き込まれての失踪なら、自分で失踪したにしても拉致されての失踪でも、北條先生にちょっかいを掛ける余裕なんて無いだろう」
「でもよ。その事件に関係する奴が北條先生の弱みの知ったらさ」
「人一人が失踪するような事件を起こす奴が、一教師の弱みを握って何かすると思うか?」
「そうだね。下手に小さい事件を起こして大きな事件の事が明るみに成るのを恐れる。そう僕も思うよ」
 俺と紫村の意見が一致した事で田村も納得した。

 紫村達が立ち去った後も、考え事がしたいと言って部室に残った。
「よう高城」
 俺は大島が近くに居る事を知っていたからここに残ったのだ。
「上手い事話をまとめたな。だけどお前が鈴中の失踪とやらに一枚噛んでるんだろう」
 プレハブの壁一枚だ。壁に耳を押し付けて聞き耳を立てれば内容は全部聞こえるだろう。
「奴が無断で休んだと聞いた時から、お前が絡んでるとは思ったが失踪とは穏やかじゃないな。何処から失踪なんて話が出てきたんだ?」
 大島は失踪に付いて知らない。まあ知ってるはずも無いのだが、それが確認できてほっとしている。正直なところ奴が何を知っていても俺は不思議には思わない。奴の存在自体が不思議なのだから。

「なるほど、昨日お前が鈴中の部屋に侵入したらもぬけの殻だったと。完全に犯罪じゃないか……やるな高城」
 俺は昨日、一昨日の事を大島に話した。勿論、部員達にも伝えた嘘の方の話なので、大島に知られても何の問題も無い。
 それにしても「やるな高城」は無いだろう。奴からは犯罪に対する嫌悪感が全く感じられない。奴にとっては不法侵入など「この程度」扱いなのだろう……怖えよ! どうか神様。こいつを逮捕してください。警察には無理だろうから。
「じゃあ、お前がやってないとして誰がやったんだ? 中島の爺か?」
「さあ? 何せ鈴中の部屋には埃一つ残さず綺麗にされてましたから」
 がんばれ俺。ここで大島を煙に巻けば楽になる。
「ところで高城。お前、昨日何時に鈴中の家に行った?」
 エマージェンシーコール! 緊急事態発令! 緊急事態発令!
 即座にシステムメニューを開いて、セーブ実行。焦りすぎて3連続でセーブしてしまった。
 時間停止された大島の顔には、獲物を嬲るような猫の様な表情が浮かんでいる。こいつは何かを知っている。知った上で俺の反応を確かめようとしているのだ。
 何を知っている? そして何を知ろうとしている? 全く分からない。折角セーブしたんだ。奴の反応からこちらも情報を引き出そう。

「昨夜の8時過ぎに行きました」
 システムメニューを解除して嘘を答えた。
「そうか8時過ぎか……」
「はい」
「おかしいな」
「はい?」
「おかしいじゃないか、鈴中のアパートには見張りを付けていてな、8時には若い女が奴の部屋に来ていたはずなんだ」
 畜生、そう言えば高みの見物とか言ってたはずだ。そのためには見張りまで用意するのかよ。
 だが、おかげで西村先輩は、8時にはもう来ていた事が分かった。
「本当ですか? 女性は何時来たと言ってました?」
「8時少し前だと言っていたな。どうしてお前が──」

『ロード処理が終了しました』

 聞きたい事を聞いた俺は容赦なくロードした。
 システムメニューを開いて考える。
 西村先輩は20:00少し前に鈴中の部屋を訪れて、鈴中を殺害後に自分が部屋に来た痕跡を消し、パソコンの中のデータも始末して──したつもりで──立ち去ったのが22:40位だ。
 俺が侵入したのはその直後で、まあ20:40として、部屋を出たのが23:00過ぎ。
 問題は大島が手配した見張りが何時まで鈴中のアパートを張っていたかだ……見張りってアパートの前に居た奴か? 帰りは裏からそのままアパートを離れたから、その時にまだアパート前に居たか確認してない。この状況で俺が口にするべき時刻は……
 システムメニューを解除する。

「深夜の1時前に家を出たので、侵入したのは1時半前くらいだと思います」
 再び嘘で探りを入れる。幾ら大島でもこんな方法で探りを入れられてるとは思いもしないだろう……多分、きっと……ええいっ! 大島を恐れ過ぎだ。
「その時、部屋に明かりは点いていたか?」
「いいえ、点いていませんでした」
「そうか……確かに辻褄は合う。お前が侵入したのに気づかなかったのは、どうせベランダ伝いに上ったんだろう?」
「はい」
「だとするなら、若い女は2時間半以上も鈴中も居ない。家具も何も無い部屋に居たわけだ。そんな長時間も何を……分からんな」
「さあ? もしかすると、鈴中と待ち合わせしていたのでは──」
「おい!」
 いきなり言葉を遮られる。そしてカナリヤを咥えた猫の様な嬉しそうな表情を浮かべた大島……ヤバイ。何かミスした?
「何でお前が若い女が居た事を疑問に思わな──」

『ロード処理が終了しました』

 折角、俺の尻尾を捕まえて嬉しそうな大島だが容赦なく、むしろ喜びを持ってロードした。
 再びシステムメニューを開いて考える。
 この野郎。俺に鎌を掛けやがった。つまりかなり強く俺を疑っていると言う事だ。「生徒も信じられない教師ってサイテー!」と女子生徒に罵られて貰いたいものだ。もっとも怖いもの知らずの今時の女子にも、大島にそんな口を利ける勇者は居ないだろう。

 システムメニューを解除して、先程までの会話の流れをたどる。
「だとするなら、若い女は2時間半以上も鈴中も居ない。家具も何も無い部屋に居たわけだ。そんな長時間も……分からんな」
 大島の掛けた罠に対して「若い女とは?」と華麗にスルーしてやる。システムメニュー最高!

「ちっ、8時前から10時半過ぎまで若い女が奴の部屋に居たんだ。変だと思わないか? お前の言う通りに奴の部屋がもぬけの殻なら、家具も無ければ鈴中もいない部屋でそんな長時間何をしてたのかよ」
「鈴中と部屋で落ち合うはずだったのでは? 待っていたけど来ないので帰った。それとも鈴中から連絡があって近くで待ち合わせしてどこかに行ったとか……ところで何で舌打ちしたんです?」
「別に何でもない。だが女の事はお前の言う通りかもしれないな」
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら同意する。
 そんな顔を見て笑いたくなったが我慢する。顔色一つ変えずにスルーした。
「ところで何時から見張りをつけていたんですか?」
「7時だ。お前が一昨日の夜に奴の部屋の中を確認してから、昨日の夜の7時までに奴の部屋はもぬけの殻になったって事だ」
「時間としては十分ですね」
「まあ、お前が言う一昨日の夜には部屋の中に家具があって、昨日の深夜にお前が侵入した時には無くなっていたと言うのが本当だとしてだがな」
「信用してくださいよ。僕ほど正直な人間はそうそう居ませんよ」
「嘘ひと~つ!」
 野太い声でそう断言された。

 大島の追及を逃れた俺は図書室へと向かった。
 休み時間も残り少ないが、何としても今のうちに確認しておかなければならない事が出来た。
 図書室に入り、貸し出しカウンターの横にある卒業アルバムのコーナーに近寄ると、システムメニューを開いた状態で去年の卒業アルバムを取り出すと、クラスごとの集合写真を確認していき、3組の集合写真に目的の顔を発見する。西村 薫。ロリコン教師が好みそうな可愛い顔立ち、間違いなく彼女だ。
 これで確証が取れたので、トイレに駆け込むと個室に入り鈴中のスマフォを取り出して受信メールを取得して、システムメニューを開く。
 受信したメールの中に教頭からのものが1通。内容は当たり障り文面で、至急連絡を求めていた。まだ失踪したとは思ってないようだ。
 そしてアドレスを確認すると【kaoru】という名前があった。これが彼女のアドレスだと確信した俺は自分のリスクはあるが自分の携帯からメールを出す事にした。流石に下手に鈴中のスマホからメールしては、奴の失踪を警察が事件とした時に重大な証拠となってしまう。
 しかも出来るだけ早くに連絡を取らなければ拙い事になるかもしれない。
『私は、先日の20:00前から22:40頃に貴女がいた場所を知る者です。昨夜貴女がした事が公になって困る事になる人間は、貴女の他に12名もいる事はご理解いただけると思います。私はその中の誰かの依頼で私は動いています。事件に繋がるような物は一切に2度と表に出ないように完全に処分したので、大事件にはならずに処理されるでしょうが、私以外にもう1人、現場から立ち去る貴女を目撃している者がいました。その人間は警察でも何でもないので貴女の事が知られる事は無いと思いますが、念のため現場と【彼】の職場には2度と近寄らないようにお願いします。そして万一昨夜の貴女のアリバイを確認しに来た者がいたら出来るだけ普通に接して家に居たと告げてください。
 また、このメールは読み終わり次第削除してください』
 システムメニューを解除すると送信ボタンを押した。
 今日、彼女が学校を休んで鈴中のアパートに行ってたならばアウトだ。見張りが彼女を見つければ顔を撮影し、尾行して家まで突き止めるだろう。
 自分の携帯でのメールは拙かったんじゃないかと早くも後悔するが、それでも格好をつけたい年頃なんだ……例え誰に見せる格好ではなくても自分自身に対して格好良くありたい。



[39807] 第37話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:09
 時間ぎりぎりで教室に駆け込む。
「高城早く席に着け」
 保健体育の渡辺が教壇に立っていた。
 格技の授業の穴埋めで渡辺が自習監督に来たのだろう。
 俺が席に着くのを待ってたかのように授業開始のベルが鳴った。
「よし俺は体育準備室に居るから何かあったら呼びに来い。各自静かに自習してるんだぞ。くけぐれも騒ぐなよ」
 そう釘を刺してから教室を出て行くが、そこは中学生だ。最初の1分間ほどは静かにしていたが、すぐに席を立ち友達同士で雑談を始め、真面目に自習をしているのは5人ほどだ。
 俺としても、教科書はおろか英和辞書と国語辞書も既に完全に頭に入っているので、自習と言われても何もする事が無い。図書室に行けるなら何かしら頭に入れておくべき本があっただろうが、流石に教室を出たのを見つかったら説教だ。
 誰にも見つからず図書室に行くのは可能だが、問題はこの教室に俺が居ない事を隠すのは不可能だ。敬遠されてクラスに友達が前田くらいしか居ない俺だが存在感が無いわけではない。
 考え事をしながら時間を潰すというのも可能だが、この1週間で考え事はシステムメニューを開いてからというのが身に付いてしまい、普通の状態で考え事をするなんてとんでもなく贅沢に思える。

 ふと思ったのだが、今寝たらどうなるんだろう? やはり意識が向こうの世界に飛ばされて、異世界での深夜に目覚めるのだろうか?
 興味が出てきたので寝てみる事にした……寝られない。昨日はベッドに入ったのが2時近くで、起きたのが5時半前と3時間半くらいしか寝てないのに眠くない。
 そういえば午前中も1度も眠気をおぼえなかった。
 もしかしたら異世界では寝る時間が早くて、現実世界での生活以上に多くの睡眠を取っているせいで、多少こちらで夜更かししても堪えないのだろうか?
 そんな結論の出ない考証をだらだらと続けていると5時間目終了のベルが鳴った。久しぶりに勿体無い時間の使い方をした気がする。

 6時間目は北條先生が自習監督になった。
 北條先生+自習は素晴らしい事だ。授業中と違って1時間自由に見つめる事に集中出来る。よし部活に行ったら自慢してやろう。
「高城君。どうかしましたか?」
 北條先生を見つめていたら、少し怒ったような目でそう言われてしまった。
 そうだ授業と違って、先生ずっと見てたらおかしいよな……待てピンチをチャンスに変えるんだ。考えろ、考えろ時間はシステムメニューを使えば幾らでもある。
「何か授業ではやらない数学の話をして貰えませんか?」
 ナイスだぞ俺。これで面白い話が出れば、先生の株も上がるじゃないか。
「数学の話ですか、そうですね少し違うけれどインド式の計算方法はどうでしょう? 話題になったのが7・8年前だから皆には新鮮かと思うんだけど」
 確か足し算引き算は小学校の担任の先生が教えてくれたのだが、教科書通りの計算方法と違うので学校側の方針としてはインド式計算法は教えないという方針だったのでさわりしか教わっていない。
 北條先生の説明に他の生徒達も興味を示し、なかなか良い雰囲気で授業が進んでいく。
 四則計算の内の加減は、いくつかのコツを掴めば確かに計算は速くなる。加減の混じった5つの2桁の数字の計算ならレベル1の頃の俺でも筆算を必要としないで計算が出来る位に便利なやり方だ。
 ただし乗除はそれぞれコツが使える範囲が狭いのがネックになる。
 狭い範囲だが役に立つ計算方法があると感じるか、狭い範囲にしか適用できない計算方法を憶えるのが面倒だと感じるかによって取り組む姿勢は180度違ってくる。
 前者は成績優秀者の中でもガリ勉タイプが多く、成績向上を至上命題とする彼らにとって、1度憶えてしまえば試験での計算時間を短縮出来る可能性があるなら憶える意味があると思ったのだろう。
 後者はそれ以外のほぼ全てだ。試験に出題されるかどうかすら分からない問題を、しかも10秒、20秒短縮出来る程度のコツを憶える意味を感じる事は出来ない。
 結果、加減計算では自習時間にクラスの半分以上が食いついたのに対して、乗除計算ではほとんどが各自の自習に戻ってしまった。
 インド式計算法の根底にあるのは、単なる算数レベルの計算に数学的アプローチを施すという事であり、計算時間の短縮以上に数学的思考を身に着ける事に意味があるのだが、まあそれでも北條先生は満足しているようなので良かったとしよう。

「では6時間目を終えます。この続きは、また次の機会があれば──」
「えっ? もっと教えてくださいよ」
 ……前田。何故お前がインド式計算法に前のめりになる?
「僕ももっと知りたいです。何とか時間をとってもらえませんか?」
「私もお願いします」
 前田に続いてガリ勉君達が食いつくのは分からないでもない。だが前田はおかしい。何が狙いだ? まさかこれまでの一連の事件にこいつが……無いわ。
「では放課後、部活の後は……みんな塾があるから無理ね。土曜日にでも学校にこられるなら特別補習という形で学校に申請しておくけどどう?」
 北條先生の提案にガリ勉君達と前田が賛成する。先生も嬉しそうだ。
 良かった。このままこいつ等が先生と打ち解けてくれれば、少しは状況が変わっていくだろう。良かった。本当に良かった……良くねえ!
 俺は前田の後ろ襟を掴むと、教室から引きずり出す。
「前田。お前キャラが違うだろ。偽者なのか?」
「な、何をいきなり」
「何故お前がインド式計算法にハマる? ありえないだろう」
「ありえないとか。意味わかんねぇよ。大体さ、インド式計算法って素敵だろ」
「素敵?」
 こいつやっぱり偽者に間違いない。本当の前田は既に殺されているパターンだ。
「だってさ、面倒くさい計算が楽に出来るようになるんだぞ。2桁同士の掛け算が暗算で出来るんだぞ素敵としか言いようが無いぞ」
 ……面倒と楽。そういえばこういう奴だった。楽をするためには手を抜かないんだ。
「疑ってすまなかった。実にお前らしい動機だ。納得した」
「えっ、何が?」

 これが後に数学の世界的権威となる前田 陽一が数学への志を持った最初にして大きな一歩だった……嘘だけど。


 帰りのHRを終えて再び教頭の動きを探る。
 部活の開始は40分後だ。着替えと準備体操の時間を含めると30分も無い。今日が掃除当番の日でなくて良かった。
 周辺マップでは3階の廊下を歩いている教頭が確認できた。奴はこの清掃時間の間、校内を良く見回っている……しかし、細かい事にうるさく文句をつけるので生徒達からは不評だ。
 階段を上がり奴の背後へと早歩きで近寄る。やはり後姿にあは『珍しく1人で散歩するグレイ』というタイトルが似合う。そして御付のMIBが何処でサボってるのかが気になって仕方が無い。
 半径1m以内に奴を捕捉してシステムメニューを開いて、スーツの胸ポケットからMP3プレイヤーを回収し録音内容を確認しようとしたが、バッテリーの残りがかなり少なくなっている。ここで内容を確認して更にバッテリー残量を減らすか……いや、このまま録音を続行して部活終了後に回収だな。
 そのまま奴の胸ポケットに戻したが明日以降も盗聴を続けるなら何か手を考えないとならないが、この中途半端な地方都市という立地と中学生という立場が選択肢を狭める。
「また不法侵入か……」
 そう呟くと、システムメニューを解除し、その場を立ち去った。

「主将。鈴中は結局学校には来なかったようですね」
 部室で空手着にきがえていると香籐が話しかけてきた。そうだね、鈴中は明日も明後日も、ずっと学校には来ないよ。
「無断欠勤しているようだし、いきなりの荷物を引き払った事と良い。何らかの問題を抱えて失踪した可能性があるな」
 やったのは全部俺だけどな。明日になっても連絡が取れなければ、教頭辺りが奴のアパートに出向くだろう。是非ともその時の顔を見てみたいものだ。
「どうなるか心配ですね」
「ああ」
 勿論、この心配の対象は北條先生で鈴中のことなど、空手部一の人格者である香籐でさえ鼻糞ほども心配していないだろう。
「鈴中の事はさておき……1年共は大丈夫か?」
「一応、我々でフォローはしておいたので大丈夫だとは思います」
 毎年の事だが、今朝のアレで大島に嫌気が差す奴が現れるのだ。俺もそうだったしな……
「そうか、今朝のと1週間後のアレを乗り越えれば1年共も落ち着くだろうから、フォローを頼むな」
 基本的に1年生のフォローは2年生の仕事だ。普通の体育会系の部活では2年生が1年生をいびる事が多いが、我が空手部にはそんあ悪しき習慣は無い。
 部員が一致協力しないと生き残れないのが悪魔の箱庭である空手部の絶対的法則だからだ。
 また3年生が1年生のフォローを積極的に行わないのは、継続的に強固な上下関係を維持するには、来年には居なくなる俺達を新2年生が頼りにするのは問題があるからであり、別に俺達が1年生を可愛がる気が無いという事ではない。

「よ~し、集合!」
 一糸の乱れも無く整列した部員達を前に大島は顔を歪める。これは説諭する理由を見出せなかった時の残念さを表している。
「1年。今朝のランニングだが、まああんなものだろう」
 分かりづらいと思うが、これは大島的には最大の賛辞だ。中学1年生なら1500mを5分程度で走る事が出来れば上出来と言えるだろう。つまり、そのペースを余り落とすことなく1500m走を10本近く休み無く続けた様なものだ。
 そう良く考えると1年生達もかなりスペックが高い。この1週間で毎日ゲロを何度も吐きながら走り続けた成果があったと言うしかない。確かに大島は負荷を掛けるぎりぎりを見極めるのが上手い。だから部員達は猛特訓の割には故障が少ない。だがそれもドSの為せる業と思えば感謝の念は全く湧いて来ない。
「そうだな。3ヶ月後の夏合宿までには、あの程度の距離はスキップしながらでも付いて来られるようにしてやるから安心しろ」
 安心する要素が何処にも無い。俺がおかしいのか? いや、それ以前に合宿の事を口にするなんて余計な事を!
「夏合宿ですか? そんなのあったんですか?」
 あえて1年生達には伝えていなかったのに、知れば1週間後の難関を突破する前に心が折れかねない。
 どうやって彼らに合宿の事を説明すれば良いんだ?
 俺が1年生の時に「合宿とは言うけど、『宿』なんて無いしテントも無いけどね。おかしいな。あはははははっ!」と狂ったように笑った野口先輩を思い出す。去年の西城先輩も似たようなものだった。俺はどうすべきなのだろう?
「ああ、楽しい合宿だ。お前達も楽しみにしておけ」
 誰にとって楽しいのか、1週間も大島に接していれば1年生達にも分かっているので俯き肩を震わせている……頼むから折れるな心。

 ランニングによる体力向上週間は後1週間続くので、練習後の部室の前には漁港の市場のマグロの様に1年生達が並べられている。
 シャワー室という名のブルーシートに囲われた水浴び場から俺が出ると、マグロの一匹──もとい、新居がゾンビの様にムクリと上半身を起こす。
「主将。合宿って本当なのでしょうか?」
「本当だ。合宿は本当にあるんだ」
「ど、どんな合宿なんですか?」
 まだお前達に伝える心の準備が出来てないのに畜生。
「合宿地は、避暑をかねて山で行われる。合宿中は空手の練習はしない。今やっているようなランニングも無い」
 取りあえず嘘は吐いていない。ものは言い様だ。
「ほ、本当ですか主将!」
 俺の言葉に、ゾンビ達が次々に蘇る。
「でも、山なら滝に打たれたりとか理不尽な目に遭うんですよね?」
「夏に滝に打たれるくらい何が理不尽だ! 滝に打たれるのは冬だ馬鹿野郎! ……あっ」
 言っちゃった。1年ボウズの甘ったれた発言につい我慢の緒が切れた。夏の滝に打たれるくらいは油断すると心臓が止まりそうな冷たさで、ちょっと勢いのあるシャワーじゃないか……そうだよね?
 俺の大失言に1年生達は再びマグロと化し声を殺して涙を流す。
 香籐は沈痛な様子でこめかみを押さえている。この後どうフォローすべきか頭が痛いのだろう……ごめんな。もう黙るから許してくれ。

「夏の滝行なんてシャワーだろ。10日間も風呂無しなんだから、むしろご褒美だ」
 田村が俺が考えているのと同じ意見を口にしている。
 だけど頼むからそれ以上は言うな。もう少しソフトに伝えないと1年生の心が、心が……
「言っておくが、合宿だけど宿には泊まらないしテントも無しで、地面にシートを敷いて、その上に寝袋で寝るだけだからな」
 ああっ櫛木田までもが、どんどん合宿の全貌を暴露し始める。
「飯は自分達が取った山菜や魚。罠で獲ったウサギは自分達で捌いて食うんだからな」
 伴尾。それは言うたらあかん事や!
 1年生達が流す涙の量も一気に大増量で、流石に拙いと気付いた3人は「ほ、ほら風呂嫌いにはぴったり?」とか「星空を天井にして寝るのってロマンティックだろ?」とか「自分で捌いたウサギは美味かったぞ」とフォローを入れていたが……良いからお前らは黙れ。俺と一緒に黙ってろ。

 着替えを終えると、教頭からMP3プレイヤーを回収しに行く。幸い教頭はまだ校内に居た。
 階段の踊り場にたって何かをしている教頭の後ろにそっと気配を殺して忍び寄るとシステムメニューを起動。
 肩越しに胸ポケットからMP3プレイヤーを抜き取ろうとして、奴の手に携帯電話が握られている事に気づく。
 チャンスだ。これを待っていたんだ。奴がどんなに携帯のセキュリティーに気を使っていても、奴が使用中の携帯は、データの消去やセキュリティー関連の設定などを除けばほぼ無防備な状態で、指紋認証など関係ない。
 まずはMP3プレイヤーを回収してから、奴の携帯に手を伸ばして収納する。そして自分の携帯を取り出して挿してあるSDカードのデータを確認する……うん見事に空だ。契約時にただで貰った2Gのカードでそのまま挿してあったが一度も使っていない。写真も動画もメールアドレスのバックアップも無い。実にぼっち仕様の携帯ならではで泣けてくる。
 とりあえずSDカードを引き抜くと、教頭の携帯のカードと自分のカードを交換して、フォーマットを掛けると、メール内容とメールアドレスや電話帳を次々とコピーしていく。勿論、それらのデータには全て目を通してシステムメニューの【ログデータ】-【文書ファイル閲覧】の中にフォルダを作って保存する事も忘れない。
 メールの中には鈴中への具体的な指示などが残されており、このメールを表に出すだけで破滅させられるだろう。だが公には出来ない。
 別の方法で奴を追い込む。そして必ず破滅させてやる。
 北條先生にセクハラ──それは違うか、ともかく鈴中を使って嫌がらせを続けただけではない。
 完全無欠の性犯罪者である鈴中を処分するどころか、それをネタに脅して自分の手足にするために問題を放置し、結果としてうちの学校の生徒達が犠牲になるのを見過ごしてきたのは絶対に許すわけにはいかない。
 このつるっ禿げで白熱電球の様な頭を捻って外し、LED電球に取り替えて省エネに協力してやりたいくらいだ。

 SDカードを元に戻して、操作画面も元の状態に戻して携帯を奴の手の中に押し込むとシステムメニューを解除する。
「教頭先生。朝はありがとうございました。これから北條先生に話を聞いて貰いに行きます」
 いきなり俺に背後から声を掛けられて驚いた教頭は慌てて、携帯を取り落とす。
 俺が素早く拾って差し出すと慌てて奪い取る。
「あっ、ああすまない。北條先生にはよろしく」
 挙動不審といった様子で、慌しく教頭は立ち去る。犯罪の証拠が詰まった携帯を他人に触られるのが嫌なのは分かるが、あんなあからさまな態度じゃ、他人の嫌がる事が大好きな大島に奪われても知らないぞ。

 数学準備室の前に来た。
 中に北條先生が1人で居るのは既に周辺マップで確認済みで、更には隠しカメラや盗聴器の類は念入りに検索を掛けて存在しない事も確認済みである。
 だが一つ問題がある。北條先生には教頭から「クラスの事で話がある」と伝わっているはずだが、当然クラスの事で話など無い。
 いっそ教頭のセクハラに付いて聞いてみるべきだろうか?
 嫌だろうな~自分がされてるセクハラについて生徒に聞かれるなんて。女心なんて全く分からないが、いじめを受けている奴が「いじめられてるの?」と聞かれるくらい嫌だという事くらいは想像出来る。

 とりあえず中に入らなければ先には進まない。考えるなら実際に北條先生と顔を合わせた上でシステムメニューを開き長考に入れば良い。
 ノックすると中から「どうぞ」と返事があり、ええ声だわぁ~とうっとりしながら「高城です」と名乗り、ドアを開けて中に入る。
「高城君。先程はありがとう」
 勧められて椅子に座ると、いきなり感謝の言葉を貰った。
「御蔭で、久しぶりに生徒達と打ち解けられた気がするの」
「いえ、別に俺は……」
 そんな嬉しそうな顔でじっと見つめられたら何も言えねぇ! フラグ立ったの? ついに立ったの? 立った、立ったフラグが立った? と踊りだしたい気分だ。
「私は先生なのに、生徒の貴方にこんなに気を使わせて。本当に頼りにならない先生でごめんなさい」
 ……先生と生徒。うん。ちゃんと分かってたんだよ。でもちょっと浮かれてみたかったんだ。
「俺達にとってこの学校で尊敬できる先生は北條先生だけです。これくらいの事なら幾らでも力になります」
「でも……」
「誰かの為に力になれる。ましてや尊敬する大切な相手の力になれるなら、人としてこれ以上の喜びはないと思います。だから先生が1人でどうにも出来ないと思うような壁にぶち当たったなら、どうか俺達を頼ってください」
「も、もう……凄い殺し文句だわ。俺達の『達』が無かったら、まるで口説かれてるみたい」
 頬を染めながら冗談めいて答える……すいません。半ば本気で口説いてます。先程からの台詞の中の「俺達」は「俺(達)」です。
「あっごめんなさい。自分の話ばかりで……クラスの事で話があったのよね?」
 やっぱり伝わっていたか、さてどうしたものか、やはりセクハラの事は聞いておいた方が良いとは思うんだ……悩んだ末に口を開く。
「実はクラスの事じゃないんですが、先生って教頭先生と何かトラブルがありましたか?」
 少しオブラートに包んでみた。
「教頭先生とですか? いえ何もありませんよ」
 ……あれ? 確かにこの答えは予想範囲だが、問題なのは顔色や口調から全く嘘をついている様子が感じられないという事だ。何でこんな事を聞かれたのか分からないといった様子で、もしこれで北條先生が嘘を吐いて惚けていたのだとしたら女性不信に陥る。
 つまり、セクハラ云々は俺の勝手な思い込みだという事。そして別の理由で教頭は北條先生を深く恨んでいるという事になる。
 これは拙いな。セクハラを拒絶されての逆恨みなら、鈴中が居なくなった事で嫌がらせも出来なくなると思っていたが、理由の分からない恨みを持っているなら鈴中が居なくなった事で直接的な方法での攻撃に変わる可能性がある……まあ空手部の部員が交代で見張ってるから余り心配はしていないけど。
「そうですか、変な事を聞いてすいません。そんな噂を聞いたんで気になっただけです」
 俺は動揺を抑えつつ、笑顔で話を終わらせた。


 家に帰り、バッテリーの切れたMP3プレイヤーを充電器に接続するとマルを連れて散歩に出る。
 まずはいつもの川沿いの散歩コースを走る。
「どうにも北條先生を前にすると冷静で居られない。自分が何をするべきか、何をしたいのかが分からなくなってくる……」
「わぅ?」
 走りながら思わず呟きが漏れてしまい。マルがどうした? 言わんばかりにこちらを見る。まるで俺の言葉が分かっているみたいだ。

 いつもの折り返し地点からの復路は別の道を選択する。
 監視カメラの死角を縫って、川沿いから2kmほど離れて併走する県道沿いに教員名簿で確認した教頭の家を目指す。
 目的地まで200mほどから俺は監視カメラ以外に人間の動きにも注意を払う。
 検索対象は屋外に居て、一定範囲から動かずに、視線の方向が頻繁に変化する者。それが大島が手配しただろう見張り。そして多分鬼剋流の人間だ。
 昨夜の失敗を踏まえて、見張りは1人ではなく数人──3人前後でチームを編成するはずだ。俺ならそうする……勿論、可能であれば。
 まだ人通りのある時間帯の町中で、周囲から不審に思われないように見張るためには双眼鏡の様な道具は使えないはずだ。
 肉眼のみで数名で見張る事の出来る範囲は最大半径100m程度だろう。しかも半径100m内でカバーできる範囲も極一部に限られる。
 つまり、対象である教頭の家の傍に1人。そこにつながる道の辻に残りの1人から3人程度を配置する……大島のたくらみはゴリッとお見通しだ!

 まずはセーブ。そして先程の検索条件にヒットした前方の怪しい20代前半の男に接近する。
「すいません道を聞きたいのですが?」
 犬を連れて散歩中に道を聞きたいも無いもんだ。
「あっああ、何処に行きたいんだ?」
 白々しさは相手も負けていない。大島から俺の顔写真でも見せられているのだろう一目で顔色を変えつつも、平静を装い答えようとする……やはり素人だ。探偵などを雇ったわけでなく鬼剋流の門下生だろう。
 システムメニューを開いて、相手のパンツや上着のポケットを探り財布を抜き取る。
 中に有った免許証から名前が分かった。田中 真(たなか まこと)23歳。住所は──東京だ。大島に呼び出されたのだろうわざわざ東京からご苦労な事だ。

『ロード処理が終了しました』

 ロード処理を繰り返しながら、大島が手配したと思われる4人の顔、名前、年齢、住所を憶えた。自分の記憶以外は巻き戻るからマップの検索項目に設定も巻き戻ってしまうので、改めて自分の記憶の情報で設定する。これで見張りの人間の動きは周辺マップどころかワールドマップにも表示可能だ……流石に広すぎてワールドマップは意味無いけど、広域マップとワールドマップの間に、もう1段階、いや2段階くらい範囲の違うマップが有った方がいい気がする。ゲームの様に運営に要望が出せたら良いのだが……
 その日は何もせずに、大島の動きの上を行った事に満足しながら家に帰った。

 部屋で鈴中のパソコンを【所持アイテム】内から取り出すと、奴のメールを確認していく。
 教頭とのメールのやり取りを確認すると、時折具体的な内容について踏み込んでいるが、スマホのメールだけでも教頭を犯罪者とするには十分である。
 しかし、俺が今一番欲しいと思っている。鈴中と犯罪に関係せずまた北條先生へ迷惑の掛からない範囲で奴を犯罪者にするための証拠は無かった。
 またMP3プレイヤーで録音した音声データの中にも犯罪に関わるような発言は無かった……まあ、精神的に余程追い詰めなければ校内で不用意な発言はしないだろう。

--------------------------------------------------------------------------
……やってしまったものは仕方ない。また来月お目にかかれれば幸いです



[39807] 第38話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:10
 いつもの様に異世界での朝が始まる。
 俺の隣には大人しくルーセが寝ている。毎朝こうだと楽なんだけどな。しかし何時もは俺が寝た後に忍び込んできたのに昨日は普通に一緒にベッドの中に入ってきて寝たよな……余りに自然な態度だったので咎める事も無く一緒に寝てしまったのだが、俺ってロリコンどころかペドへの道を順調に進んでない?
 だがルーセの無垢な寝顔を見ていると癒される。本当に寝ているときは天使だね。
 ここ数日、現実世界では汚いものを見せられすぎた。
 ロリコンの鈴中。ロリコン教師が世間を騒がせる事は多いが、ロリコンが教師になるのではなく、教師と言う職業が人間をロリコンに変えるという説を俺は信じている。自分の周りに居る女性の多くが、本来対象外の中学生ばかりだったとしたら「まあ、女子中学生でも良いか」と妥協して道を誤る教師も出るのも仕方ないのではないだろうか? ともかく学校や文部科学省は教師が過ちを犯さないように出来るだけ若い内に結婚させるよう圧力を掛ける職場環境を作るべきだと思う。
 そして中島。若くて美人である北條先生に薄汚い獣欲を抱いたのなら理解出来る。むしろ変な噂を流されたくらいで彼女を敬遠する男性教師達や男子生徒達にチンポが付いているのか疑問を感じるくらいだ。
 だがセクハラが原因じゃないとするなら、鈴中を使ってまで北條先生の悪い噂を流して校内で孤立させようとする奴の執拗さは何処から来ているのだろう?
 この件には何か大きな謎が隠されている気がする。そして俺はより汚い現実をみる事になるのだろう……というと何処かのハードボイルドな探偵みたいで俺の厨二心をくすぐる。

「おはよう」
 目覚めたルーセが子猫の様に細めた目をこすりながら挨拶をする。
「おはよう」
 俺も朝の挨拶を返しながら、彼女の明るい栗毛の髪の中に指を挿し入れて撫でるように梳る。
「今日はレベルアップ?」
「うん。そうだよ……昨日の練習を生かした戦い方をしてね」
「わかった。ルーセ頑張る」
 火龍討伐までのスケジュールが決まったことで前向きになっているのが助かる。
「じゃあ、今日も頑張っていくか」
 ルーセを抱き起こしてからベッドを降りると、背中に飛び乗ってくる重みがずしり。
 そのまま上へと登ってくるのを放っておくと両肩の上にしっかり座って頭の上に両手を置かれる。
「出発しますよお嬢様」
「うん!」
 裏庭の水場まで肩車でルーセを運ぶ……なんて事は無いが、ほっと心の安らぐ時間だった。

 朝食を終えた俺達は、村を出ると森の奥深くまで入った。
 長剣を振り回して大型の獲物をぶった斬る様子を見られるのも色々と問題かと思うが、それ以上にルーセの長剣が何処から持ってきたのかと聞かれるのが困る。
 俺がこの村に来た時は、2体のオークの死体を草のソリで引っ張り槍を担いでいた。長剣など持ち込めるはずもない。それにこんな小さな狩人達の村で長剣なんて売っているはずも無いのだ。
「今日はルーセの大好きなレベルアップです。オーガなどの大型の獲物を中心に狩りますが、先程も言ったように力技にならないように注意して狩りを行ってください」
「分かりました!」
 今日の目的がレベルアップのためテンションの高いルーセは、長剣を頭上に掲げて元気の良い返事が返えす……本当だろうな。イマイチ信用出来ない。
 ふとルーセの長剣に目をやると、全く刃毀れが無い事に気付く。オーガ、トロールさえも骨ごと両断にするルーセの蛮用をもってしても刃毀れしないとは、俺の初期装備って本当は凄いものだったのかもしれない。
 【装備品】や【所持アイテム】での物品の説明も切れ味がいいとか、とても丈夫とか品質に対する説明があっても良いのに、何処か不親切と言うよりは、そこまで親切にしてやる義理はないよと突き放している感じがする。
「じゃあ、行くか?」
「おう!」

 既に森のかなり奥まで踏み入れているので、何度もオーガに遭遇して倒しているが、やはりトロールは狩り尽くしたのかもしれないと思うほど出会わない。
「ところで気になったんだけど?」
「何?」
「この森ってオーガが多いよね。オーガが何匹も来たらコードアの皆はやはり避難するの」
 オーガはネハヘロでは現れたという情報が入っただけで代官が逃げ出す騒ぎになったほどの魔物だ。
 コードアの住人達の多くは屈強な狩人達だが、彼らの獲物は弓であり頑強な肉体を持ち、戦闘意欲の高いオーガに対しては無力とは言わないが、有効な武器とはいえない。
「村は臭いから大丈夫」
「臭い?」
「むぅ。リューは鼻が悪い」
「……もしかして、あの変な臭いのこと?」
 確かに最初に村に入った時に、何と表現するべきか、甘いようなすっぱいような香ばしいよなともかく奇妙な臭いがしたのは憶えている。
「そう。エルピトルムの実の臭い。砕いて潰して巻くと魔物は嫌がって寄って来ない」
「寄って来ないって、臭いを嗅いだら苦しむとか?」
「そこまで効かない。嫌がるだけ」
 一瞬、火龍の巣にぶち撒けたらどうなるかと思ったが、それじゃあ単に巣に寄り付かなくなるだけで火龍の居場所が分からなくなるだけでメリットが無い。
「そうか……どうやらお客さんが来たみたいだ」
 此処まで森の奥に入ると、広域マップも6割以上が未表示になっているが、逆にルーセはオーガが多数生息する森の奥まで弓一つを武器に狩りに来ていたという事だ。狩人としてのルーセの腕と経験は凄まじいものだと改めて実感する。
「リュー行こう」
「はいはい」
「はいは一回!」
 ……それって異世界でも言うんだね。

「ここから北は行ったことが無い」
 ルーセの言葉通りに、広域マップでは北より上は全て未表示状態になっている。
「この先は駄目。村ではそう言われている。でもルーセはリューと一緒なら行けると思う」
 常人である村人達が危険と判断する場所でも、異常人である俺とルーセなら何とかなる可能性は高い。勿論、火龍クラスの魔物が出てこない事が前提だけどな。
「一つ聞きたいんだけど、この先には何が生息してるの?」
「グリフォンにワイバーン」
 両方とも俺もゲームとかで知っているメジャーな魔物だ。
 グリフォン……確か鷲だか鷹の頭と翼を持つ獅子だったよな。尻尾が蛇だっけ? ……それはキマイラ?
 ワイバーンはあれだ。実際の翼竜と同じく腕が翼に進化した小型のドラゴンだな。
「そいつら空飛ぶでしょ?」
「うん、飛ぶ」
「俺飛び道具もって無いんだけど? ……持ってても使えないし」
 いざとなったら矢が当たるまでセーブ&ロードという方法もあるが、俺自身でさえ面倒な上に、今はルーセを繰り返しに巻き込む事になるから、グリフォンやワイバーンに矢が当たる前に、我慢の限界を超えたルーセに俺が殺される可能性が高い。
「ルーセが射落とす。リューが止めを刺す。何の問題も無い」
 そう断言するルーセからは何の迷いも感じられない。相変わらず男前過ぎる。
「分かった。だが無理はしないよ」
「うん!」

「……つか無理じゃない?」
 山肌から崩れた瓦礫によって森が開かれた場所で、上空を舞うワイバーンの5体の群れに思わずそう呟く。
 上空50mを超える程度の高さを体長5-8mほどの巨体が旋回する様子は戦意を喪失させるには十分だった。
「やる!」
 俺の言葉を無視すると、ルーセは気合を込めて矢を放つ。
 矢は吸い込まれるように、1頭のワイバーンの右翼の羽を支える3本の翼枝──指が変化したものの真ん中の1本を射抜いた……相変わらずの女ゴルゴ。いや大幅なレベルアップもあり、もはや神の領域に達した感もある。
 翼の膜が捲くれ上がり飛行姿勢を保てなくなったワイバーン錐揉みしながら落下を始め、俺はその落下点を目掛けて走る。
 そのまま落下すれば致命傷だろうが、ワイバーンはもがく様に翼を操り落下速度を落とす。
「畜生!」
 俺は走りながら足元の瓦礫をすくい上げるとワイバーン目掛けて投げる。
 砲丸並みの重さはある瓦礫は真っ直ぐワイバーンに向かって飛ぶと、首の付け根の辺りぶつかりバランスを崩して再び落下した。
 僅か3-4mほどの高さだったが、着地と墜落の違いは大きい。瓦礫の上に倒れ、翼を不器用に使いながら起き上がろうともがくワイバーンに走り寄るとそのまま首に斬りつけて刎ねた。
 かなり丈夫な鱗に守られた直径50cmを超える首を一刀両断か我ながら凄い事になったものだと考え、戦いへの集中が逸れていた。

「リューっ!」
 ルーセの叫びとシステムメニューのエンカウントアナウンスに上を見上げると、2体のワイバーンが絡み合って俺の上に堕ちて来る。
 システムメニューを開くが、俺に頭上3mくらいで全力で避けても間に合いそうも無い。しかも起きてから1度もセーブしていない……俺の馬鹿野郎!
 こんな状況でも落ち着いて考え状況を整理出来るのはシステムメニューの最大の利点かもしれない。
 絡まり合って堕ちてくる2体のワイバーンを観察する。
 50mほどの高さからの落下する……そうだな翼竜なので体重は軽いとしても2体で1tは軽く超えるだろう。約50mの高さからの自由落下による加速状態だったとすれば10m/s弱に加速しているはずだから3mなら0.3秒足らずで俺の頭に直撃する。ワイバーン同士の衝突によるロスやその形状による空気抵抗の大きさを考えればある程度の減速を期待できるが0.4秒あれば御の字だ。
今の身体能力を持ってしても棒立ちの今の姿勢からでは避ける事は無理であり、激突されて生き残るのは無理だ。
 だが俺にはまだ選択肢がある。
 ロードだ。うん間違いなくセーブしていなかった事を、俺と同じく巻き戻し時に記憶を引き継いでしまうルーセから叱られるだろう。戦いの途中で集中を切らした事と合わせて滅茶苦茶叱られるだろう。だからパスだ。
 そして俺が選択したのは【大水塊】だった。直径3mくらいの水の球を生み出す魔術で、俺は【水球】【水塊】からのつながりに対して、水の球を浮かべるのに必死と批判したが、またもや頼りにしてしまった。
 堕ちてくるワイバーンを包み込むように【大水塊】を発動。
 直径3mの巨大な水の球が顕現と同時に破裂して飛び散るが構わず再び【大水塊】を発動。
 同様に水の球は顕現と同時に破裂する。そして耳を塞いで目を閉じ、口を開いた状態で三度発動させた【大水塊】は僅か1mに接近した俺とワイバーンの間。両者を包むように顕現し、次の瞬間には弾け飛ぶ水に押されて俺の身体は吹っ飛んだ。

 一瞬の意識が飛んだが、2つの【大水塊】に衝突した事による大幅な減速と、最後の【大水塊】が直接的な衝突を防いだ事によって身体へのダメージはそれほど大きくは無かった。
 すぐさま立ち上がると墜落した2体のワイバーンに向かうが、まだ周辺マップ上に赤いシンボルマークこそ残っているが、既に戦闘能力を失っているのは一目瞭然だった。
 走りながら口元に堪えきれずに笑みが浮かぶ。己の命を危機に晒したあの瞬間、俺は悦楽に溺れた。その余韻が身体から抜けないのだ……我ながら狂っている。大島という異常かつ強力すぎる存在に影響を受けざるを得なかったと言う事にしておこう。俺は安全第一の小心で慎重な男なのに、こんな風になってしまったのはみんな大島が悪いんだよ。

 上空を見上げると残り2体のワイバーンは、まだ上空で旋回を続けている。
「リュー! 残りまとめて落とす」
「分かった」
 俺が返事を返すと矢継ぎ早ってこういう事なんだと思わず呆れるほど短い間隔で矢を2本放ち、翼にダメージを与えると墜落させる……なんかもう火龍もこれで倒せるんじゃないだろうかと思えてきた。

 墜落した4体のワイバーンの首を落とすと『ワイバーン5体を倒しました』『レベルが2上がりました』と討伐とレベルアップのアナウンスが立て続けにやってきた。
 これでレベルは37で目標までは3レベルか……
「リュー!」
 いきなりルーセが飛びついてきた。
「馬鹿! 油断しちゃ駄目!」
 左腕を俺の首に回し、右手で背中を掴んでしがみつくルーセの背中に手を回す。
「ごめん。心配か──いたぁぁぁたぁっ!」
 首筋に思いっきり噛み付かれた。
「ごめんじゃない。反省が足りない」
 一旦首から口を離して、そう言うと再びガブリと噛み付く。
「いたぁぁぁぁいっ! 痛いの! 本当に痛いから止めて! ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
 俺は首筋を齧られながら謝り続け、最終的には土下座する羽目になった。ちなみに土下座は「こっちが申し訳なく感じるから嫌」との事だった。

 この日の成果によって俺はレベル39でルーセはレベル37となり、レベルアップの目標はほぼ達成したと言って良い状況になった……あくまでもレベル40は目安であり、レベル40になれば強力な魔術を憶えるとか、特別なスキルが身につくという事で目指していたわけではない。
 だが、レベル38になった時についに『魔術:水属性Ⅲ/土属性Ⅲ取得』のアナウンスを聞くことが出来た。
 もっとも憶えたのは【浄水】広範囲にわたる汚染された水を浄化する。浄化後の水は名水百選の上位に食い込む美味さ……名水百選って何処の何処の百選だよ! と叫んでルーセをびっくりさせる程度のもので、相変わらず戦闘時に余り役に立つ魔術は憶えられない。
 どうせなら【巨水塊】とか出して【水球】シリーズを極めさせてくれよ……すっかり【水球】シリーズにはまってしまった自分がいる。



[39807] 第39話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:10
 マルは俺の脳が覚醒を開始するタイミングを掴み、俺が目覚める直前に顔を嘗め回すようになってしまった……これでは回避しようが無い。
 散々に嘗め回されて顔中をベタベタにした状態でマルの首を抱きしめて背中を叩いて落ち着かせる。
 やっと理解できた事なのだが、マルが毎朝俺の部屋に来て顔を嘗め回すのは、朝の散歩に連れて行って欲しくてやっているのではなく、朝の挨拶のようだ。
 俺が家を出る時も玄関まで見送りに来てくれたが月曜日の時の様に、一緒に外に出ようとしたり鳴いたりはしなかった。
 ……つまり、もしかすると……マルの人気ランキングで俺は1位になったのかもしれない。
 どうだろう。流石にご飯を用意して、一日中面倒を見てくれる母さんに勝てているだろう? まだ無理だ。まだ無理だが、夜の散歩の後で念入りにブラッシングしてご機嫌を取ってやるぞ。

「おはよう」
 声を掛けながら部室に入ると空気がどんよりと重い。今朝の空は快晴だというのに……その原因は1年生達だ。昨日の合宿の話で心が折れ掛けてしまっている。
「おはようございます」
 香籐が挨拶をしてくるが、その顔色は優れない。
「主将。何か1年達に言葉を掛けてあげは貰えませんか? このままではこいつら……」
 潰れてしまうという事だ。でもなぁ、こいつらまだ諦めて無いんだよ。諦めれば楽なのになぁ~、俺から諦めとと言っても……いや、もう言ったな。でも納得は出来ない訳だ。
「聞け1年生。お前達はそんなに合宿が嫌か?」
「は、はい……」
「申し訳ありません……」
 俺の問いに頷きながら答える。
「俺も嫌だ。凄く嫌だ。嫌で嫌でたまらない! 学校を爆破する程度で合宿が中止になるなら喜んで爆破したいくらい嫌だ!」
「しゅ、主将……」
「そ、それは幾らなんでも」
 驚く1年生達と慌てる香籐。
「俺はな、アンデルセンの童話に出てくる超神経質なお姫様並に枕が替わったら眠れない神経質な男だ。おかげで毎年合宿では酷い寝不足に苦しんでいる。そんな状態でハードなサバイバル訓練をこなす苦しみは、お前達には理解できないだろう」
「お前が悪いんだろう」
「バーカ」
「このヘタレが」
 俺の事情を知っているゲイ以外の3人が野次を飛ばす……後で〆る。
「そんな俺でも耐えられたんだ。お前達に耐えられない訳が無い。耐えた分だけ強くなる。お前達は強くなるために、態々こんな空手部を選んだのだろう」
 まあ、合宿で鍛えられるのはサバイバル技術と忍耐力だけで、空手に関する練習は何一つしないから、1年生達が望む強さは身につかないと思うけど……今は内緒だ。合宿中は何も考える余裕が無く、家に帰って一息吐いてから「あれ?」と気付くくらいで良いんだ。
「常識的な練習では常識的な力しか身につかない。ここは非常識で理不尽な場所だ。だからお前達は理不尽を乗り越えて己を鍛え、非常識なほど強くなれ」
「はい……強くなります」
「俺は強くなるために空手部に入りました……だからきっと強くなります」
「俺も、俺も強くなります」
 1年生達は決意を新たにしたようだが、どのみち空手部は簡単には辞められないし、空手部に居る以上は強くなるしかない。そこにはお前達の決意は余り関係なくオートマチックに未来が待ち受けているだけなのだ。と言ったらやっぱり駄目だよな。自分で気付かないとさ。

 話が一段落ついたところで後は香籐に任せる事にした。
 そして着替えを始めた俺に紫村が話しかけてくる。
「高城君は、今日は鈴中が現れると思うかな?」
「……どうだろう。失踪しているとするなら学校には来ないだろうし」
「僕はね、彼の失踪に君が関係してるんじゃないかと思っているんだけどな」
「……冗談は性癖だけにしておけよ」
 お、俺の心臓を貫くかにような、し、紫村の鋭い指摘をか、顔色一つ変えず、か、華麗にかわす事が出来た……ふぅ、全く油断の出来ない男だよ。切れすぎる。
「まあ、僕は君の敵じゃないから、そういうことにしておくよ」
 こいつは苦手だ。その性癖を除いたとしても苦手だ。本当に敵じゃないのが唯一の救いだと思うよ。

 朝練終了後、またマグロが部室の前に並べられている。
「俺……本当に強くなれるのかな?」
「強くなる前に死ぬのかな?」
「生き残りたい……生き残りたい……」
 そんな絶望の声が上がるが……お前達が死ぬ事は無い。ぎりぎりを生きる者達の必死な様を愛でる。それが大島なのだから、その匙加減は芸術的ですらある。

 着替えを終えて部室を出て校舎玄関に向かう途中で大島が待っていた。。
 システムメニューが『大島がが現れました』とエンカウントアナウンスをしないのが不思議で堪らない。どう考えても俺にとっては重大な脅威だから仕事をしろよ。
「高城。お前昨日の夜何をしていた?」
「昨日の夜ですか? 犬の散歩して、それから飯食って風呂入って寝ましたけど何か?」
 事実だ、もし大島が俺の心を読めたとしても嘘は吐いていないと判断するしかないだろう。
「散歩か……何処を散歩したのか聞かせてもらうぞ」
 顔を近づけて凄みを利かせる。ちっ! そう来たか──『セーブ処理が終了しました』──これで良しと。

「川の堤防上の散歩道を往復しました」
 万一の為にセーブをしたが、これが正解だと思っている。
 昨日俺を尾行する者は居なかった。そもそもただの鬼剋流の門下生ではマップ機能が無くても、俺に気付かれずに尾行なんて真似が出来るわけが無い。だからこそ大島は俺にプレッシャーを掛けて綻びを見つけようとしたのだ。
「ふん、そうか……今はそういう事にしておいてやる」
 諦めて大島は立ち去る。だが去り際にニヤリと笑った。
「絶対、今度は尾行をつけてくるな……」
 鬼剋流の門下生には、警察官や自衛官などの人間も居るだろう。そして興信所の人間も……だから奴は、俺に尾行をつけるはずだ。
 ちなみに、じゃんけんで一方が「俺は次にグーを出す」と言った時に「じゃあ俺はチョキを出す」と相手が出すと言った手に負ける手を敢えて宣言する奴は、かなりの確率で宣言通りにチョキを出す。
 それは自分の宣言で相手を翻意させ、自分は宣言を変えずに相手を負かすと言う最高の勝ち方をする自分の姿をイメージし、それに酔ってしまうからだ。
 大島も同じく、この件に関して高みの見物を決め込む一方で、俺を出し抜き弱みの一つでも握る最高のシナリオを思い描いているはずだ。
 貸し借りはともかく、奴にだけは弱みは握られたくない……あんなアウトロー気質のドS男に弱みを握られたら人生終了ですよ。絶対に出し抜いてやる。

 取りあえずMP3プレイヤーを仕掛けるために教頭を探す。
 正直なところ、もうMP3プレイヤーで何か重要な発言を拾う事は余り期待してはいない。今の最大の目的はMP3プレイヤーを発見させる事だった。
 鈴中が失踪するという想定外の状況に警戒する中、身に覚えの無い録音状態のMP3プレイヤーが胸ポケットから見つかり、しかも何時仕掛けられたのかすら分からないとなれば、奴にとってかなりのプレッシャーになるはずだ。
 追い込まれて北條先生に直接的な手段をとる可能性もあるが、北條先生には放課後は空手部の部員で、そして深夜の時間帯はOB達が交代で見張りに付いているとの事であり、教頭本人が金でそこらのチンピラを雇ったとしても、北條先生に危害を加えるのは絶対に無理だ。大島クラスの化け物でも雇わない限り……
 校内で直接暴力に訴えようとしても人目が多い。それに俺がマップ機能で北條先生と教頭を常にマークしているので、教頭が攻撃態勢を取ればすぐにシンボルマークが赤に変わるので、その場合は何をおいても全力で駆けつければ良い……本当に良いのか、いきなり不安になってきた。
 下手な真似はせずに今晩一気に決着を付けるのが良いんじゃないか? いや今晩決着を付けるなら、敢えて教頭にMP3の存在を気付かせてもいきなり今日中に北條先生に襲い掛かるような真似はしないだろうから……うん、やっぱり止めておこう安全第一だ。金で動く大島クラスの化け物が居ないとも限らない……あのクラスの生き物が何体も存在したら世界のピンチな気もするが、北條先生の安全を脅かすようなリスクを冒す必要は無い。

 HRの時間、連絡事項を伝える北條先生の表情が何時もより和らいでいる。昨日の事で少しでも気分が楽になれたならば幸いだ。
「なんか北條さん機嫌良さそうだな」
「そう思うか?」
「何時もあんな顔してたら良いのにな……ほら、折角美人なんだし」
 良い傾向だ。良い傾向だがイラっとする。この感情が嫉妬である事くらい分かる。だが圧し殺す事は出来ない。出来ないなりに付き合っていくしかない感情だ。
「ほう。今までそんな事言った事なかったじゃないか?」
「別に前から美人だとは思ってたよ」
 俺は前を向いているので顔が見えないが、多分前田は顔を赤らめているだろう。
 クラス全体の雰囲気も、何時もの奇妙な緊張感はほぐれている。これを良しとしないのは北條先生へ自分の気持ちを裏切る事に他ならない。俺は涙を堪えつつ嫉妬の念を胸の内にしまいこんだ。
 もっとも北條先生のオーソリティーの座は絶対に譲らない。何がオーソリティーかは知らないがな!

 昼休みになると、俺のクラスに顔を出した紫村達と連れ立って部室に向かう……相変わらず女子達のテンションは高い。もう嫌だこんなクラス。
「鈴村は今日も無断欠席だそうだ。本気で失踪を疑った方が良いかもな」
 田村の言葉に「そうだな」と頷く。
「ところで、いい加減高城君が何をしているのか教えてくれないかい?」
「そうだな旗振り役のお前が1人でこそこそと何かやってるのに、俺達には秘密と言う事は無いだろう」
 確かにそうだ、こいつらには北條先生の見張りもやって貰っているんだ……だが。
 俺は人差し指を自分の唇の前で真っ直ぐ立てる。それだけで何の疑問も発さずに口をつぐんで頷く、こういうところが、こいつらもただの中学生ではない証だ。
 周辺マップで室内に盗聴・盗撮の虞は無いことはあらかじめ確認しているが、部室の外に大島が居る。距離と奴の向きから部室の壁に耳を当てているのだろう。
 俺は大島が張り付いている壁の方を指差すと、口の前で5本の指を開いたり閉じたりを繰り返して何か喋れと指示すると壁へとゆっくり忍び寄る。
「そうだ。さっさと話せよ!」
 伴尾が態と大きく声を荒げて俺をサポートする。俺が伴尾に親指を立ててやると奴はニヤリと笑う。さすが2年間共に地獄を潜り抜けてきたわけではない。
「何とか言えよ高城!」
 俺を責め立てるような声を背に受けながら、【探熱】を使い壁の熱分布から大島の頭の位置を確認すると、壁を壊さないように加減しつつ殴りつける。
 本来なら壁を通した衝撃が奴の鼓膜を破壊するはずだった。だが俺が殴った向こうから同じタイミングで大島は殴り返した……壁越の熱分布の変化では急な動きは掴めなかった。
 戻ってきた衝撃が手首を抜けて肘を押し返しバランスを崩す。次の瞬間、周辺マップの中の大島のシンボルマークは校舎玄関へと向かって逃走して行った。

「今のは一体なんだ?」
「大島だよ。あの状態で俺が殴る気配を察して同じタイミングで同じ位置を殴れるような真似が出来る人類など、他に思い当たらない」
 櫛木田の当然の質問に答えると返ってきたのは「化け物め!」の一言。
 本当に化け物だよ。俺の様にマップ機能や魔術を使えるわけでもない奴が、純粋に気配だけを頼りに俺の動きを読み切ったのだ。とても俺の身に着けた武の延長の先に在るとは思えない隔絶した技。
 やはりまだ大島とは戦って勝てるとは思えない。システムメニューがあいつの身に着けた武に劣るとは思わないが、一部分においては凌駕しているのは確かだ。さもなければ先程の様な真似は出来ない。
 しかも、システムメニューと言うチートを俺は借り物レベルにしか使えていないのに対して、奴の武は自らが血反吐を吐くまで修練し獲得したものであり、奴の血と肉にも等しい存在だ。
 もし攻守の立場が逆だったら、俺には大島の攻撃を同じように返す事は出来ないだろう……つまり、俺はまだ奴と同じ土俵にすら立てていない。

「大島先生は、この件に深く関わっているのかな?」
「関わっているというか、元々俺のニュースソースは大島による部分が大きい」
「馬鹿な。奴に借りを作ったのか?」
「お前、そこまで北条先生の事を…………本当に愛しているのんだな?」
 櫛木田。何を負けたって顔してるんだ? そこまで深刻になるなよ。怖くなるじゃないか。
「いや、俺も土曜日に大島に貸しを作った。奴が何と言おうとそれで相殺にさせる」
「高城君。もし借りを相殺出来なくて鬼剋流に入門する事になったとしても僕も一緒だよ」
「お前、鬼剋流に入るつもりなのか?」
 紫村の突然の発言に俺達は驚きの声を抑えられなかった。ホモを除いたとしても、時々こいつは分からない奴だ。
「そうだよ。鬼剋流には倉田先輩も居るから……」
 そう言って紫村は頬を薄く染めながら微笑む。倉田先輩と言えば1年の3学期。部室で紫村と……俺のトラウマを作り出したあの先輩である。
「……倉田先輩と高城君。楽しみだな」
 そんな事を楽しみに思うな!
「高城。人生が掛かってるんだ。頑張れ!」
「頑張るんだ! 絶対に相殺にしろ」
「本当に頑張ってくれ!」
 櫛木田・田村・伴尾が俺の肩を叩いて励ましてくれる。3人は俺を見ずに涙がこぼれないように上を向いていた。

「と言うわけで、本来この件に対して興味を持って居なかった大島だが、俺が動くと言う事で興味を持ち始めてしまったんだ……残念な事に」
「迷惑だ。本当に迷惑な奴だ」
「奴は俺に見張りを付けているから、それで皆と一緒に動くわけにはいかない」
「つまり、この件はまだ奥に何かが有るって事だね」
「その通りだ」
「奥って何だ?」
「秘密に出来ると言うなら話す。だが先程の事で大島はお前達から情報を引き出そうとするぞ。それでも秘密を守れると言うなら──」
「無理だな。俺には荷が重過ぎる」
 櫛木田は即答だった……賢明だが賢明過ぎるだろ。もう少し悩めよ大島の下僕め。
「俺も聞かないでおく」
「俺もだ。すまない」
 田村と伴尾も続くが紫村の答えは違った。
「僕は聞かせてもらうよ。高城君と一蓮托生というのも悪くないと思うんだ」
 俺にとっては悪いんだよ! と突っ込みを入れる前に再び肩が叩かれる。
「お前と一緒にした下ネタ談義……楽しかったぞ」
 何で過去形? またしようよ下ネタ談義。
「もう北條先生の話でお前と盛り上がれないと思うと、寂しいよ」
 何でもう盛り上がれないの? 俺は何時だって北條先生の話なら大盛り上がりさせるよ。
「知ってるか? 紫村からは逃げられないって……残念だ」
 何処の魔王様の話だよ? つかこいつはそんな沢山のノンケを喰らってきたのか? 駄目だろ。紫村こそ抹殺すべきじゃないの?
 3人は上を見上げて涙を堪える。だが涙は隠せても声が潤んでいるのだ。や~め~ろ~変な雰囲気を作るな。俺にはそんな趣味は無いんだよ。



[39807] 第40話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/07/22 21:39
 櫛木田達3人は部室の外に出て、誰も部室に近寄らないように警戒してくれている。
「聞かせてもらえるかい?」
「俺は自分に恥じ入るところは何も無いが、既に犯罪に手を染めている。それでも聞くか?」
 紫村の目をじっと見つめる。彼も俺の視線を受けて逸らさず見つめ返して「必要なら共犯者にもなるよ」と言った。
 畜生。本当に紫村は俺の欲しいと思う言葉を返してくれる。
「全ては話せない。でも話す事に嘘だけは無い。それでも良いか?」
「いまはそれで良いよ。何時か君の方から話したいと思わせてみせるよ」
 ゾクっとするような色気があった……これはノンケでも転ぶ可能性は十分にある。気をつけなければならない。

 システムメニュー関係の事は秘密にして、矛盾の無いように話をする。
「火曜日の夜の10時40分くらいに、鈴中のアパートの部屋から1人の女性が出てきた。俺も知っている去年の卒業生だった。その後ベランダ伝いに4階の奴の部屋のベランダ間で登り窓から中に侵入した。奴の部屋の中には人の居る気配が無かったので、奴のパソコンを立ち上げて中を確認した。そして【最近使ったファイル】の中の画像データを開こうとしたら消されていたが【ゴミ箱】の中に残されていた」
「うかつだね」
「そうだな。それでそのファイルを元に戻して確認したんだが……レイプ画像って奴だった。しかもアパートの前で見た先輩のな」
「レイプ?」
 紫村は端正な顔を歪ませて強い嫌悪感を示す……良かった。性癖以外はモラリストで。
「ああ、部屋に女子生徒を招いて、そのままレイプ。その様子を撮影して……下種のやりそうな事だ」
「酷いね」
「奴のパソコンの中には他に12名の被害者の画像や動画があった」
「なんて事だ……」
「その中には俺の知る限り同級生、下級生を含めて2人の在校生も居た」
 俺も全ての女子生徒の顔を憶えている訳ではないので他にも居るかもしれない。
「……高城君。鈴中は生きているのかい?」
「何故そんな事を聞く?」
「僕なら奴を生かしてはおかないからだよ。被害者の事を考えると警察に任せるよりそうした方が良い」
 怖いな。俺よりも殺すと言う判断がずっと早く迷いが無い。
「鈴中は死んでいるよ」
「君が?」
 鈴中の死に驚く様子も無く質問をかぶせてくる。
「いや俺じゃない。奴が残したデーターの類を回収するために家捜しをしたらトイレで跪いて便座に抱きつくような形で頭から血を流して死んでいた」
「つまり、その先輩がやったと言う事で間違い無いのかい?」
「トイレの壁に飛び散った血痕はまだ乾ききっていなかった事と、彼女の画像や動画ファイルの入ったフォルダを消去しようとしてあった事から、名探偵が登場するような難解なミステリーのどんでん返しでも無い限り間違いないだろう。ちなみに大島からの情報では彼女は8時少し前から鈴中の部屋に居たらしい」
「それで鈴中の死体はまだ部屋に──」
「既に始末した。奴の死体が見つかる事は無い。部屋の中の家具も血痕も指紋も全て始末したから単なる失踪としか警察も扱わないだろう」
「どうやって?」
「それはノーコメントだ。被害者の名前も言えない。これは俺が墓まで持っていく気だ」
「……分かった聞かないよ。でもまだこの件の真相に関しては聞かせてもらってないよ」
「言うほど大した事じゃないぞ……俺は最初、鈴中が北條先生にセクハラまがいで迫った挙句に振られて逆恨みしたと思っていた。だけど奴の立場と影響力で、教師からも生徒からも北條先生を孤立させるのは無理だと気付いた。そこで大島に校長・教頭・各学年主任クラスの古株で鈴中とつるんでそうな奴は居ないか聞いて出て来たのが教頭の中島だった」
「随分と大島先生に借りを作ったようだけど大丈夫なのかい?」
 紫村も空手部部員として大島の恐ろしさは身をもって知っているので、流石に心配になったようだ。
「まあ、大島には土曜日の件で大いに貸しを作ったから大丈夫だろう」
「何をさせられたんだい?」
「マフィアの粛清劇みたいなものだった」
「随分、穏やかじゃないね」
「要するに鬼剋流のある支部が本部の意向に逆らい設け主義に走って幹部が私服を肥やしたので、幹部・指導員を中学生にボッコボコにさせて、二度と格闘技界に関わる事が出来ないような恥をかかせた上で破門にしたって訳だ」
「君が鬼剋流の幹部や指導員を?」
 呆気にとられる紫村。こいつにこんな顔をさせられるのは大島くらいなものだと思っていたが、俺もついに大島レベルになったか……冗談としてもキツイな。
「奴らは鬼剋流と呼ぶには問題があるくらい弱いから粛清されたんだ。指導員達は技や身体能力だけなら俺達以上だが戦えば弱かった。何せルール無用の状態でいきなりタックルを仕掛けておいて長髪だったんだ。反射的に掴んで引きちぎったのは仕方ないよな」
「……それは仕方ないね」
 引きちぎった事ではなく、相手の間抜けさに呆れているみたいだ。空手部で一番見た目に気を配る伊達男である紫村でさえ髪は短い野田kら当然だろう。
「幹部にいたっては腕がさび付いたと言うレベルの問題じゃなかった。うちの2年生でも相手にもならない。大島に腹を斬れと言われても仕方ないと思ったよ」
 俺達にとって鬼剋流とは大島や早乙女さんのような恐ろしく強い奴らの集団と言うイメージなのだから、俺の話に紫村が言葉をなくしてもしかたの無い事だ。
「そんな面倒な事に付き合わされたのに、大島の貸しは職員室で見聞きした事をリークしただけだ。どちらの貸しが大きいかは一目瞭然だろう」
「そうだね。そうだけど、常識が通用しないのが大島先生だからそれは忘れない方が良いよ」
 敢えて俺が意識しないようにしていた事を……
「まあ、それはともかく、鈴中のパソコンを調べて教頭とのメールのやり取りを調べて分かったのが、教頭が鈴中が起こした犯罪をネタに脅迫して、北條先生への嫌がらせに協力させていたって事で、教頭が何故そんな事をしたかはまだ分かっていない」
「脅迫って……それでは教頭は、鈴中のやってた事を見逃したと言うのかい?」
「メールを読む限りはそうとしか思えないな」
「そして、そんな事をした理由はまだ分からないと……」
「そうだ」
「分かったよ。僕の方で教頭に関して情報を集めてみるよ」
「何か当てがあるのか?」
「それはノーコメントで……大丈夫。君の足を引っ張るような真似はしないよ」
 そう言いながら悪戯っぽく笑う。そんなさりげない表情すら様になる。恐ろしい男だよ。1年生辺りがやられなければ良いのだが……無理かもしれないね。

 今日も楽しい部活の時間。
 大島が俺を見る眼が険しい。昼休みの事を根に持っているのかもしれない。自分は盗み聞きしておいて盗人猛々しいとはこの事だ。
 1年生達は日々体力、そして精神面で大きな成長を続けている。
 最初の頃の様に体力が限界に来ても目が死なない。彼らは強くなっている。次なる段階に耐え得るように……大島の訓練計画は完璧だ。力をつけて壁を一つ乗り越えれば、更に新しい壁を高くして用意する。
 彼らが大島が認めるだけの十分な体力と精神力を身につけたなら、その体力と精神力を限界まで振り絞らなければならない実践的練習が待っている。
 俺達は運動用の回し車を走るネズミの様に延々と走り続けなければならないのだ。

 ランニングのペース、距離がともに増えたにも関わらず新居が最後まで走り切る。彼はたった1日で2週間目のランニングに適応したのだ。
「人間やれば出来るものですね」
 へとへと疲れ果て、地面に座り込みながらも何処か誇らし気な彼に、君は何かをやり遂げたのではない。地獄へ門を開いたに過ぎないんだよとは言えなかった。
 言ったら面白いかな? なんて事は考えてない。大島じゃないんだから……いや本当に。

「高城君」
 部活を終えて、校門を出ると背後から紫村が声を掛けてきた。
「教頭について調べてみたんだけど、5年前に離婚して今は1人暮らしをしているみたいだよ」
「随分と仕事が速いな」
「これくらいは、すぐに分かる事だよ。もう少し詳しく調べてみるけど……今晩君は動くのかい?」
「そのつもりだ」
「それなら、もう少し詳しく調べてメールで君の携帯に送るから、アドレスを教えてくれないかな?」
「……わかった」
 紫村に携帯のアドレスを教えるにはためらいがあったが仕方が無い。だが、西村先輩にメールした件もあるので、出来るだけ早く番号引継ぎ無しで新しい携帯にしたいものだが高校に入学したらスマホに乗り換える予定なので流石に無理だな。

「それでは高城君が出かける10時までに分かった事をまとめてメールしておくよ」
「頼む。期待している」
「君にそう言われたら頑張りたくなるよ」
 あーあー聞こえない聞こえないったら聞こえない。そんな流し目で艶っぽく言われたら、俺には何も聞こえなくなるんだからな!


 家に帰り着くと、着替えてマルと散歩に出かける。
「やはり尾行がついているか……」
 散歩道までの狭い生活道路をゆっくりと歩いていると背後20mくらいの距離を維持しながら誰かが付けて来る。
 俺の呟きに尻尾を振りながら前を歩いているマルが振り返ったので、それに乗じて「どうしたマル?」と言いながら足を止めて後ろを振り返ってみた。
 尾行者は30絡みの中肉中背の男。これと言って特徴の無い容姿で、周囲に溶け込み尾行や張り込みをするのにもってこいな逸材だろう。
 そのまま、しゃがみこんで「何か気になるのか?」などと言いながらマルの頭や顎の下を撫でていると、男は俺を追い抜かずに俺のすぐ後ろのT字路を曲がって行く……だが曲がった先で足を止め身を隠してこちらの様子を伺っている。
 システムメニュー的には5m以内に入った尾行者は既にエンカウント済みであり、広域マップでも個体識別されているので表示可能だ。ついでに奴のシンボルを赤表示に設定すると再び散歩を始める。
 尾行者は俺の歩く道の一本向こう側の平行の道を走って移動している。その必死さに思わず笑みが浮かぶ。何故ならその先は一見通り抜けられそうで行き止まりだからだ……予定外に俺が足を止めた事で尾行者は自爆したのだ。
 足を速めて先に進む。尾行者が行き止まりに気付いて引き返すと、すぐに周辺マップから外れたので広域マップに切り替える。
 広域マップの中をかなりの勢いで移動する尾行者のシンボルだが、俺とマルは川沿いの散歩道にたどり着いて走り始めると、その距離は一気に広がった。

 尾行も振り切ったので、教頭の家を見張っている陣容に変化は無いか確認しようと思ったが広域マップの中の教頭宅の傍に思いがけない人物を発見する……言うまでもなく大島である。
「尾行者だ……」
 尾行者は俺に振り切られて連絡を入れたのだろう。それで大島が来てしまった。
「まいったな」
 先日と同じく、セーブ&ロードを使えば大島を出し抜く事は可能だろう。だが相手は大島だ。大島に同じ手は通用しないと言うのは俺達にとって常識となっている。
 直接対峙し何度も出し抜かれれば大島は不審に思うだろう。そしてその秘密を探ろうとするはずだ。まさかシステムメニューと言う存在にまでは奴の動物的本能による推理──あてずっぽう──も届かないと思うが、奴にはあらゆる意味で常識が通用しない事は嫌というほど思い知らされているので、その不気味さが俺に二の足を踏ませる。
 嫌な予感は当たる。それは単に失敗時の印象が強いだけで、予感とは範囲が限定された未来なので予感にある状況が発生しない確率の方が遥かに高い筈だ。だが悲観的な俺の様な人間は良い予感自体を感じる事がほとんど無いので、良い予感が当たるという経験自体が全くと言って良いほど記憶に無い。つまり良い予感が当たった経験が無いのに悪い予感が当たった経験が何度もあれば、悪い予感は当たるという先入観を持つようになるのも必然といえる……自分で考えていて死にたくなるような悲しい事実だな。
 また、やらずに後悔するくらいなら、やって後悔したいという台詞があるが、それはやらなければ自動失敗で、やっても成功する望みが無いという場合使われる場合が多い。そりゃ僅かでも可能性があるならやってみた方が良いだろう。だがやって失敗した時の損害が、やらずに自動失敗した時の損害より遥かに大きければ話が変わる。
 やった場合とやらなかった場合に、それぞれもたらされると想像出来る幸福量と不幸量。それに予想される成功確率を掛け合わせて出た結果が判断の基準……つまり一言でまとめるなら、何もせずに家に帰った。

 家へ帰る途中。散歩道に置かれたベンチに疲れ果てて座り込む尾行者を見つけたので、奴の前を通るときに財布と携帯を収納した。財布の中には東海エージェンシー 須長という名刺を見つけた。そして携帯の通話やメールの履歴を確認してから、それぞれ別の方行の草むらに投げ込んだのは、他人の後をつけ回す職業的ストーカーへの被害者からの制裁であって、大島に連絡されたのが悔しかったからではない……マル。取って来いじゃ無いから拾いに行かなくて良いよ。

 家に戻り晩御飯を食べ終わると、予定通りにマルのブラッシングを始める。
 気持ち良さそうに目を細めながら、ブラッシングして欲しい場所を俺に差し出そうと床の上で転がる。興奮してハァハァと息を荒げながらも時折きゅ~んと鼻を鳴らす愛らしさ。これは最初から可愛らしさ満点の小型犬には出せない愛らしさだ……とマルに癒されつつ、この後の教頭宅への侵入に付いて考える。
 紫村の情報通りに1人暮らしなら侵入時や侵入後の対応が断然楽になる。
 侵入時に俺の身元が分かるような証拠を残さなければ、物を取るわけでも、危害を加えるのが目的では無いので、彼1人の証言では警察も動けないだろう。脅迫はするつもりだが俺が突きつける脅迫のネタについて奴が自分で警察に証言出来るわけも無いのだから。
 だが最悪の場合は奴の口を永遠に封じる必要がある。その為にも大島を完全に出し抜かなければならない。


 11時50分。鈴中のアパートに侵入した時とおなじ身支度を済ませる紫村からのメールを待っていると、マナーモードにしてある携帯が振動しメールの着信を知らせた。
『遅れてすまない。調べる事の出来た教頭の情報を送る。中島 聡史(なかじま さとし) 1959年生まれ55歳──』
 その辺はスクロールさせて飛ばす。
『2006年11月 離婚。2009年9月 長男、高大(こうだい)死亡(自殺)。2010年4月 教頭として赴任──』
 3年前に赴任なのか、意外にうちの学校にいる期間は短いな。いや北條先生が教師になってうちの学校に来たのも3年前だろ偶然だろうか? 離婚に長男の自殺か……まあ、その辺はどうでもいいか。
 それにしても北條先生を中傷する噂が出回り始めたのは2年前だが、そのかなり前から鈴中が北條先生にしつこく付き纏っていたという話だから、その前に鈴中の犯罪を見破り脅迫して手下にするための時間を考えるとかなりタイトなスケジュールになる。
 全くの偶然という可能性も無いでもないが、最初から北條先生をターゲットにして行動していたと考えた方が良さそうだ。
 もしかすると鈴中の事も赴任前に調べてあり、全ての準備を整え終えてから教員採用された北條先生の赴任に合わせて自分も移動を希望した?
 いや無理だろう。余程の無茶をしない限りそんな事が出来るとは思えない。北條先生が教員採用されどの学校に赴任するのか何て、一教員に知る事が出来るだろうか? 知ったとしてもそれに合わせて自分も転任するなんて事が……もし出来たと仮定しよう。そこまでして、更に鈴中を脅迫してまでやらせたのが嫌がらせだと? しかも2年以上に渡って? そんな馬鹿な事をする奴がいるなんて想像も出来ない。つまり教頭の目的は単位北條先生に嫌がらせをする事ではなく、もっと決定的な結果を用意しているはずに違いない。

 紫村に『ありがとう参考になった。だが3年前に北條先生とうちの学校で出会った教頭が、鈴中の犯罪行為を知り、それをネタに脅して北條先生への嫌がらせをさせるまでの時間が短すぎる。教頭は3年前よりもっと先で北條先生の事を知っていた可能性を疑う』とメールした。

 家の外には先程の須長という名の興信所の所員が1人。そして大島が1人……最悪だ。
 しかもマップ機能で検索するとカメラが存在し2階の俺の部屋の窓に向けられている。多分須長が先程の尾行の後も家を見張り、俺の部屋を特定したのだろう……財布はともかく携帯は誰かに鳴らしてもらって回収したのだろうが、草むらではなく川に投げ込んでやれば良かった。
 一応『赤外線カメラ』でも検索を掛けたが幸い反応は無かった。
 カメラは多分三脚で固定されているのだろうピクリとも向いている方向が変わらない。
「2階のトイレからでも出るか……」
 そう思って部屋のドアをそっと開けるとマルが居た。俺が起きている気配を察知してドアの前で待っていたのだろう。
 僅かに開いたドアの隙間に鼻先を押し込むと無理やり中に入ってきてしまった。
 だがこんな時のために闇属性Ⅱの【催眠】がある。その効果は『対象を眠りに落とす。文字通り眠りを催すであり対象を操ったりは出来ない。対象が興奮状態にある場合は効果が無い』であるので、喜んで軽い興奮状態にあるマルを落ち着かせなければならない。
 カーテン越しに差し込む月明かりの中で、マルの目をじっと見つめて頭から首、そして背中とゆっくりと撫で続ける事10分。やっと落ち着いてきたマルを【催眠】で眠りに落とした。
 眠っているマルを抱いて1階に下りると居間の隅に置かれたマル専用の敷物の上に寝せてから、家の敷地外からは死角になるトイレの窓を使って外に出た。
 外にさえ出てしまえばこちらのものだ。カメラの死角で大島と須長の視線が外れている場所を移動して家から離れた。
 大島め、明日になって全てが終わった事を後で知って、悔しさに泣き濡れて蟹と戯れると良い。

 急いで教頭の家に向かう。時間を掛けすぎれば動きの無い俺に痺れを切らした大島が、教頭の家の方を見に行ってみようと気まぐれを起こす可能性もある。
 既に12時を回っていて路上には人の姿はほとんど無い。監視カメラの無い様な道は特に人影が無く、俺は自重することなく全力で走った。
 そして教頭の家を周辺マップの隅に確認すると同時に、地面を蹴り、次の一歩で塀の上を蹴り、そして家の屋根を蹴り宙に舞った。
 目的までの距離は100m。最高速度は100km/hを遥かに凌駕する俺の跳躍でもまともに届く距離ではない。だが俺には飛ぶための翼の代わりに魔術があった。
 風属性Ⅱの【真空】は直径5mの対象範囲に真空の空間を作るという使いどころの分からない魔術の中でもトップクラスに意味不明だった。射程が長ければ相手を窒息させるなどの使い方があるのだろうが、精々自分と真空空間の間が2m程度の距離しか取れ無いので、使い道が無いと諦めていたこいつの出番がやっと来た。
 ちなみに良くある真空の刃で相手を真っ二つというのがあるが、それは真空というものに幻想を抱き過ぎとしかいえない。単純に真空の状態の空間に身体が触れても人間の皮膚は真空と通常の大気圧の差である1気圧程度で裂ける様な柔なものではない。
 以前観た科学番組で人体の皮膚は真空空間にも耐える機能を持つ宇宙服のようなものだと言っていた。つまり人間は真空空間に放り出されても眼球は飛び出さないし、血が沸騰するとかいう話もあるが、空気ボンベを使っての10mの深度から減圧を無視して一気に浮上するのと同じで潜水病と同じ症状を起こすだろうが、確実に致命的症状を起こすような深刻なレベルにはならない。真空により直接的に命を奪うのは窒息だ。
 ……だがそれゆえに悔しい。魔法なんだからもっと融通を利かせろよ! 【真空】も派手にズバーンのチュドーンでいいだろ? 何故それが出来ない? 使えないぞ馬鹿野郎が……【水球】シリーズのパワーアップバージョン、どうかお願いします。

 自分の進行方向に次々と【真空】を発動する、問題は目的地の教頭宅にたどり着くのが早いか、俺の魔力が尽きるのが早いかだ。
 虚空に浮かぶ真空の道を飛ぶ俺は、空気抵抗を受けないために弾道曲線ではなくきれいな放物線を描くのだろう。呼吸が出来ないのが玉に瑕だが、この浮遊感が最高に爽快だ。
 だが教頭宅まで50mを切ってもまだ俺の身体は上昇を続けている。慌てて【真空】の使用をやめると、空気の抵抗が突然身体に襲い掛かり身体の姿勢が崩れるが何とか身体の上昇は終わり下降に入る。だが、まだ飛距離が出過ぎている。
 それも想定の範囲内だった。俺は両手に5kgの鉄アレイを装備する。運動エネルギー0の状態で出現した2つの5kgの物体が俺の身体を減速させ、ついでに両手が後ろに引っ張られるために身体の姿勢も回復できた。ちなみに鉄アレイを使ったのは、異世界で使っていたような岩は現実世界の町には転がっていないからだ。
 収納し装備し直す度に身体は減速し高度も下がり、最終的には装備して出現した鉄アレイを持つ両手を前に振る事で完全に前へと進む力を打ち消し、最後に収納した鉄アレイを装備して真下に引き下げる事で、落下するエネルギーも打ち消し、ほとんど音を立てることなく教頭宅の狭い庭に着地した。

 周辺マップで見張りの人間の動きを確認する。4人ともこちらに視線を向ける様子も無いことから、庭に侵入した事には気付いていないようだ。
 教頭宅の様子を伺うと中に居るのは教頭1人のみ。家の窓からは光は漏れておらず、教頭が1階の西側の部屋で動かずにじっとしている事から既に就寝していると判断する。
 居間の窓に近寄ると【闇手】を使って鍵を鍵を開けると、ゆっくりと窓を開け中に入り閉める。
 教頭が寝ていると思われる部屋に向かう。周辺マップの中の教頭は先程から全く動いていない。
 部屋の前にたどり着く、ドアの向こうは8畳ほどの正方形の部屋だ。
 ドアを開いて中に入ると【結界】を使用する。直径5mの範囲を外部への光・振動・臭いの伝達を絶つのでこれで教頭が幾ら暴れても外には一切伝わらない。
 念を入れて既に寝ている教頭に【催眠】を使用し、更に深い眠りに落としてから両腕を後ろ手に縛り両足も拘束してベッドの上に転がした。
 しかし、今日はかつて無いほど魔術を連発しているが、後どれ位使えるのだろう? 正直なところ疲労感とか倦怠感は無い。自覚症状がでるほど【魔力】を消耗していないなら良いのだが、もしも消耗の具合が自覚症状に現れないなら面倒だな。
 久しぶりに【良くある質問】をチェックする。『【魔力】の消耗状態の確認法は?』:魔力の消耗が大きい場合は視界の左下に警告表示が黄色で表示されます。また更に消耗が深刻な状態になると赤色で点滅します。その場合は魔術の使用を控えてください。またこの表示はあくまでも目安でありプレイヤーの精神状態によっては、警告が黄色表示の状態でも魔術の使用が危険な場合。または赤色表示の場合でも問題なく使用できる場合があります……なんかいい加減だな。俺のテンションで【魔力】の容量が一時的に上がったり下がったりするって事か。だが何も表示されていないからOKとしておこう。

 【無明】を使って教頭の視界を塞ぐと鼻を摘む。
「うぅぅっぅうっ……!」
 息苦しさにもがき始めた。
「何だ眼が……腕が……」
「大人しくしろ」
 普段よりオクターブ下げ、押し殺した野太い声で話しかける。
「誰だ!」
「質問するのは俺だ。お前が口にしていいのは質問に対する答えだけだ」
「何を──」
 反論しようとした教頭の首を掴み締め上げる。
「お前が口にしていいのは俺の質問に対する答えだけだ。分かったか?」
 感情を込めずに、淡々と繰り返して伝える。しかしまだ暴れようとするので、締め上げる力を強めてもう1度同じ言葉を繰り返すと「分かった」と答えた。

「お前は、中島 聡史は、部下である鈴中を脅迫していたな」
「……」
 今度は沈黙か、これが奴なりの学習能力だとするなら余りにも幼稚だ。こっちは言葉遊びをしているわけじゃない。
「随分と細い首だな……何かあったらすぐに折れてしまいそうだ……どんな音が鳴ると思う?」
 脅しではあるが脅しだけとも言い切れない。最善の手ではないがこいつを殺して死体を収納し発見できないようにするのが次善の手だと思っているのだから。
「……み、認める。脅迫していた事を認める」
 意外にあっさりと認めた。ドラマや映画では中々認めないものだが、実際は暴力に対する慣れが無い人間の反応なんて、こんなものなのかも知れない。
「次の質問だ。脅迫までしてお前は鈴中に何をやらせていたんだ?」
「…………」
「まただんまりか? これは単なる確認作業でお前が何をやっていたのかは知っている。ただお前が正直に話すなら……ってだけの話だ」
「……北條を……北條 弥生を学校に居られないようにするために鈴中を利用した」
「学校に居られないようにね……随分と迂遠な話だ。そんなことをするために鈴中を泳がせていたと?」
「そんな事? お前に何が分かる! あの女は、あの女は! あの女のせいで!」
 いきなり激高してしまった。何と言うか悪の黒幕感を感じさせない小者っぷりに少しうんざりしている。
「お前の恨み言には興味なんて無い。どうせちっぽけな爺のセコイ恨みだろ。一文の価値も無い」
 俺は敢えて突き放す。冷静さを失うほど激した奴にとって最もされたくないのは肯定でも否定でもなく無関心だ。
「あの女のせいで息子は。私の息子は!」
「興味ないと言ったはずだ」
「黙って聞け! あの女が私の息子を高大をストーカーだと言って警察に通報したせいで。高大は自殺したんだ。それなのにあの女はのうのうと教師になって私の前に現れた。あの女の顔を見た私がどんな──」
「自業自得じゃねぇか馬鹿野郎!」
 聞きたい事は聞けたが、その内容の低レベルさに俺の怒りが爆発した。
「じ、自業自得だと!」
 縛り上げられているのも忘れて俺に殴りかかるつもりなのだろうが、単にベッドの上でのた打ち回るだけだった。
「お前の息子がストーカーだったのは北條 弥生の誤解だったとでも言うのか?」
 ストーカー被害では警察は中々動いてくれないのはニュースなどで良く知られている事だ。それが警告程度といえども行動に移したとなれば、ほぼ真実だったのだろう。
「それは……確かに息子はあの女に惚れて、交際を申し込んだのかもしれない。それがストーカーだなんて」
 少なくとも交際を申し込んだという事実があるなら本物だろう。そして何度もしつこく付き纏い、相手が警察に相談するレベルならストーカー以外何者でもない。
 昔は百回以上も相手に告白する男のドラマがヒットしたらしいが、今ならフェミニスト達が顔を顰め、犯罪行為を助長するとして訴えるレベルでは無いだろうか? ……まあ、そんな古いドラマは観たこと無いんだけどな。
 とにかく下らない動機だ。逆恨み以外何物でもない。

「お前が馬鹿息子の愚行を取り繕う前に、お前は自分がどれほど他人から恨まれる事をしてきたのか分かっているのか?」
「あの女が私を恨む? ふざけるな!」
「誰が北條 弥生の事を言った? お前が鈴中の犯罪を見逃してきた事だ。お前も知っているのだろう奴の犯罪行為を?」
「犯罪行為? 確かに彼は教え子との不適切な関係を──」
「不適切な関係だ? ふざけてるるのか! あれはレイプだ!」
「レイプ? 一体、何の事だ」
「……鈴中は教え子の少女を自宅のアパートに呼び出してレイプし、その一部始終を写真やビデオに撮り、それをネタに脅迫し口封じをして、その後の性関係の継続を強要していた」
「ば、馬鹿な……そんな……そんな」
 本当に知らなかったみたいだな。だが……
「知らなかったで済む問題じゃない。奴の被害者は確認できているだけで13人だ」
「……じ、じゅぅさんにん。ほ、本当なのか? それは本当のことなのか?」
「息子のストーカー行為すら受け入れられないお前が信じようが信じまいが、動かしがたい事実だ……いいか被害者の中には在校生も含まれている。お前が鈴中を脅迫なんてせずに処分していれば、少なくとも彼女達まで被害者になる事は無かったんだぞ!」
「鈴中がそんな……教師として奴は何を考えて……」
「責任は教頭であり部下の教師達を管理する立場のお前にある。しかもお前は全容を知らなかったにせよ、少なくとも鈴中に問題があるのを知っていた。知っておきながら放置して、被害を拡大させたお前に他人を恨む資格があると思っているのか?」
 北條先生に対する教頭のたくらみは余りにもくだらなさ過ぎて、奴を過大評価していた自分が恥ずかしいくらいだ。しかし鈴中を放置した件に関してはくだらないで済まされる問題ではない。
「私は……私は……?」
「私、私とやかましい。自分を憐れんでるつもりか? 被害者達はお前の教え子だぞ。可哀想なのはお前のせいで被害にあって人生を狂わされた教え子だ。ふざけた事を考えてるんじゃあねぇぞ!」
「責任……教え子、どうすれば……どうすれば良いんだ?」
「知るか自分で考えろ! 鈴中は殺された……被害者の1人にな。奴に身体を弄ばれ続けて思い悩んだ挙句の犯行だ。分かってるいるのか、お前の生徒がそこまで追い詰められていたのにお前は何してたんだ? つまらない逆恨みの復讐に酔ってたんだろうが、そのツケは必ず払ってもらうぞ」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ……私が馬鹿だった。そんな生徒の苦しみや、悲しみに気付く事も無く復讐に酔いしれて……鈴中を見逃し続けていたなんて。私さえ……私さえ馬鹿なことを考えなければ、生徒にそんな事をさせることも無かったのに! ぅああああああああああっ!!!」
 叫びながらベッドの上をのたうち回る。

「本当に鈴中は死んだのだな?」
 落ち着きを取り戻した教頭が問いかけてきた。
「ああ間違いない」
「今鈴中の死体は? 私が彼を殺したと言う事には出来ないのか?」
 それが教頭が考えた償いと言う奴なのだろう。だがそれをさせればこの事件は殺人事件として警察は念入りに捜査する事になる。そうなれば鈴中の被害者達にも捜査の手は及ぶだろう。
「その必要は無い。奴の死体は決して見つからないように処分した。死体も凶器も出なければ殺人事件どころか傷害事件としても警察が動く事は無い。家族からの要請で失踪人としての扱われるくらいだろうから、殺人事件の様な大々的な捜査が行われる事はありえない」
 警察のマンパワーも限られている。警察が面子にかけても犯人を捕らえようとする大事件と普通の事件の捜査では割かれるリソースの量にも大きな開きが出来るのは当然の事だ。ドラマの中の刑事が「事件に大小なんて無い」と幾ら叫んだところで現実は変わらない。事件に優先順位をつけて効率的にリソースを振り分けなければ警察組織の運営は成り立たない。
 今回の件も殺人事件として警察が捜査をすれば、如何に俺が完璧に証拠を消したとしても聞き込みなどから、奴の部屋に出入りしていただろう被害者の少女達に警察は行き着いてしまう。
 だが、失踪事件として扱われるならば、もし捜査が行われたとしても本人の勤務・生活態度と表向きの交友関係を洗い適当な失踪理由を見つけ出して終了だろう。

「証拠も全部処分したんだな? 彼女達がこれ以上の被害を受ける事は無いんだな?」
「彼女達はこれからも受けた傷の痛みに苦しみ続けるだろう。だが彼女達がされた事が公になり、彼女達を更に傷つけるような事にはならない」
「そうか……ならば私が法で裁かれる訳にはいかないな……教師は明日にでも辞職願いを出す。途中退職で一括給付となると大した金にはならないが、それでも数百万にはなるだろう。それからに土地と家を処分すればある程度まとまった金になるはずだ。せめてそれを被害に遭った子達に渡すようにしては貰えないか?」
 面倒な話だ。だがそれで被害者が少しでも救われるなら……う~ん、どうだろう? 誰からの物とも知れない怪しげな金が、しかもまとまった額を送りつけられて喜ぶだろうか?
 事情を説明して……それも拙いし、どう嘘をついて丸め込んで金を受け取らせるか……面倒だ。本当に面倒だ。
 幾ら頭が良くなっても、能力が向上したのはハードウェアだけだ。この手の事は経験によって育てられたソフトウェアの力が必要で、中学生に過ぎない俺にはそれが不足している。

「分かった。それであんたはどうするんだ?」
 だが俺はそう答えた。彼女達が親元から独立して1人暮らしでも始めたら渡るようにすれば良い……しかし、それは彼女達の追跡調査をして居場所を掴んでおく必要があるということだ。だが本当に面倒くさいのは、どうやってやはり金を受け取らせるかだ、もし失敗したら……ああ憂鬱だ。
「私には……私がした事を彼女達に会って謝罪する資格すらない……せめて事件の関係者が居なくなった方が彼女達のためだろう」
「ああ、あんたが自分の罪を謝罪しても、彼女達の傷を抉る事にしかならない。そっと記憶を風化させるしか方法はないだろう」
「わかった……」
 憑物が落ちた様に教頭の声から力が抜ける。居なくなる……つまり自らの命を絶つ事を覚悟したのだろう。
 止める気にはなれない。俺の個人的感情はともかくとして、教頭の立場として本気で後悔したとしても法的に裁かれる事も出来ない。彼女達に償うにしてもどう償えば良いのかすら分からないのだから、せめて金だけでも残して命を絶つ。多分俺でもそう判断するだろう。
 教頭は息子の事で血迷って道を踏み外さなければ、真面目で責任感のある教師と評価しても言い奴だったのだろう。
 だから、何の方法も示さずにただ「償いをさせてくれ」などとほざく事も出来ないのだろう。もっとも俺の前でそんな事を抜かしたら裸電球をLEDに交換してやる事になるだけだが。

「……けじめは理解できるが、あんたが死んだところで彼女達の救いになるわけじゃないぞ」
 教頭が生きていようが死んでいようが、彼女達の人生にはもう何の影響も与えられない。それが出来たのは鈴中の教師としての資質に疑問を抱いた時だけだ。そして鈴中を調査して処分を下して教職から追放していれば少しは状況が変わっていた。
 既に奴の毒牙に掛かっていた被害者達はともかく、俺の同級生や下級生は無事だっただろうし、多分上級生の一部も救われただろう。そして何より西村先輩は殺人を犯す事にはならなかったかもしれない。だからこそ教頭の罪は重い。
「分かっている。だが生きていたところで何も出来ない。それがつらい……苦しむ姿を見せる事も償いになるかもしれないが、それさえも出来ない。かといって何食わぬ顔で教師として彼女達に手を差し伸べるなどという恥知らずな真似も出来ない……もう何も出来ないのだよ」
 全く何も出来ない訳でもない。被害者達を見守り彼女達に何かあれば力になる。そんな生き方も残っているのかもしれないが、俺は被害者の名前を教頭に伝える気は無い。そして彼も自分が知るべきではないと思っているのだろう。

「出来るだけ早く金の用意して、そうだな……庭の桜の木の傍の石の下に埋めて置く。新聞の死亡欄で私の名前を見たら回収してくれ」
「分かった。ところで北條 弥生への復讐はもう良いのか?」
「最初から分かっていたんだ。高大が悪かったという事も、彼女だって好きで警察に通報したわけじゃない事も……頭では分かっていても、どうしても認められず。そして赴任した先で新任の教師として将来に夢や希望を抱いている彼女を見て、私の中で悪魔が目覚めた。私の息子は死んだのにと……彼女には酷い事をした。高大も私も私達親子は間違っていたんだ……」
 自分に言い聞かせる彼の話を聞きながら、教頭を縛ったな紐を解いて回収すると家を出る。そして塀を超えて隣の庭に侵入した所で【結界】と【無明】を解除した。

 そして一息ついた途端。ポケットの中の携帯が振動する……心臓止まるかと思ったよ。
 また紫村からのメールだった。
『教頭の方だけでなく北條先生の方からも探りを入れてみたら2人の接点が見つかったよ。北條先生は大学時代にストーカー被害を受けていて、その犯人が教頭の息子である高大で、彼は逮捕こそ免れたが警察から厳重注意を受けた事を周囲に知られて自殺。多分その逆恨みが原因みたいだね』
 残念。少し遅かったよ。
 だが、紫村の奴はどうやってこれを調べたんだ? あいつも謎の多い男だ。だが奴にそんな事を言ったら「良い男には謎が多いものだよ」とふざけた答えをかえすだろう……その時、俺は奴を殴らない自信は無い。
 とりあえず『情報感謝する。こちらは無事に全ては終了した。詳細は明日早目に部室に来てくれ』と返信した。

 それにしても竜頭蛇尾としか言いようが無い事件だった。衝撃的な鈴中の糞ったれな本性と死という開幕の御蔭で、教頭を黒幕として巨大な悪であると見誤った自分が恥ずかしい。
 名探偵が登場する必要のある難解な謎を擁する事件なんて、早々あるもんじゃないって事だな……いや、名探偵には、是非とも大島が教師を続けていられる謎を解明してもらいたい。
 さて大島といえば、まだ俺には奴とその愉快な仲間達とのかくれんぼ兼鬼ごっこが残っている。それに勝たなければ今夜は眠れない……ハードだ。



[39807] 第41話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/12/30 18:37
 い、息が……く、首が絞まっている。
 何故か俺の身体はベッドの下に落ちていて、更にルーセが俺の首に抱きついて……いや、そんな生易しいものじゃない首に回した右腕の手首を左手でクラッチしてぐいぐいと締め上げている。
 クラッチしている左手の小指と薬指の間に自分の右手の小指と薬指を差し込んで、小指を握りこんでへし折るのが正しい対応──指と指の間を閉じる力は弱く、大人相手に子供でも小指を取るのは可能──だが、はっきり言って現在のルーセと俺の筋力の差は、大人と子供どころではないので、彼女の右手の肘をタップしながら「もう駄目ぇぇぇぇっ! 死んじゃうぅぅ! 助けてぇぇぇっ!」と懇願する事しか出来なかった。
「……寝ぼけた。リューごめんなさい」
 危うく命を落としかけた俺に、流石にルーセも素直に謝る。
「うぅ、夢の中で母さんが連れ去られそうになって、止めようと必死にしがみついてたら……」
 思わず目頭が熱くなる。そんな事情なら俺の首くらい幾らでも絞めても良いんだ。俺の首なんて……死ぬわ! 何を考えているんだ俺は?

「いただきます」
 朝食の前に、そう言って手を合わせる。
 我が家では、この手の習慣はきちんと守るように躾けられているためだ。
 こちらの世界でも食事の前に糧となった獲物や作物などの生命。それを育んだ畑や森へ、そして精霊や神などに感謝の祈りを捧げる行為は当然の様にあったが、こちらとはやり方が違うために、最初ルーセには不思議そうな顔をされたが「こっちの方が簡単でいい」と今ではルーセも「いただきます」で済ませるようになってしまった……それで良いのか精霊の加護持ち?

「今日も美味しいな」
 この村でルーセと暮らすようになってから、俺は一度も料理をしていない。つまり全部ルーセに食事の世話を頼っているのだ……いや、一度はやろうとしたんだけど、身長差による上目遣いでありながら見下すような蔑みの目で「センスが無い」と切り捨てられた。もし俺にM属性があるならば確実に目覚めたかもしれない位の冷たい目だったので、それ以来料理をしようなんて気は全く起きなくなってしまった。
 合宿の時に何事にも大雑把な大島からすら、お前は下拵え以外は料理に手を出すなと言われるくらい下拵えには定評があるというのに、それすらも手を出すなといわれたら、流石の俺も凹むわ。
「もっと褒めても良い」
 ルーセはツルペタな胸を張って小鼻をピクピクと動かす。
 まあルーセの腕も悪くは無いのだろうが、この世界の食材がともかく美味い。悔しい事に俺は既にオーク肉の虜だ。ミノタウルスの肉はオーク肉とはまた違った味わいだが人によってはオーク肉以上に美味いと聞いて、必ず狩ってやると心に誓わずにはいられない。
 和牛最高峰でいわれ100gで数万円の値がつく大田○牛よりも美味しいんじゃないだろうか? 勿論大田○牛なんて口にしたこと無いけど、夢を膨らまさずにはいられない。
「ルーセの料理を食べられて幸せだな」
 褒めて持ち上げる。料理に関わる事を許されない俺に出来る仕事は、美味しく食べて料理を褒めるだけだ。仕事はするぜ!
「うぅっ」
 だが仕事が過ぎたようでルーセが顔を真っ赤にして唸る。自分で偉そうに言っておきながら照れるところが、この子の可愛いところである。
 そして椅子を降りて俺の背に回り込むとバンバンと背中を手のひらで叩く。可愛らしい……つか痛いわ! 衝撃が背中から胸に抜けて胸板が手のひらの形に盛り上がるんじゃないかと思うくらいの強さだ。
 このままでは肩甲骨が砕けてしまいそうなので、椅子に座ったまま振り返るとルーセの両の脇に手を差し込むと、そのまま持ち上げて自分の膝の上に載せて、落ち着かせるように優しく彼女の背中をポンポンと叩く。
「リューに逢えて良かった。ルーセは今幸せ」
 俺の胸に自分の顔を埋めるようにしながら呟いた。


 そんな訳で今日もやって来た森の危険地域。
 森というよりは、木々がぽっかりと穴を開けた開けた場所で俺達2人は上を見上げていた。
「あれは……まずい」
 ルーセの顔色が悪い。実のところルーセさんは一見、戦いに関してはイケイケな性格に見えるが結構ビビリである。苦手意識を持つものにはヘタレる。
 それは長剣を使いこなせる様になる前の頃はオーガとも積極的に戦おうとしなかった事からも伺える。
 つまり彼女は、俺だけではなく彼女にとっても初お目見えのグリフォンと相性が良くない。
 グリフォンは大きな翼を広げて宙を駆ける……文字通り駆けるのだ。
 その四肢にて、まるで目に見えない空気の足場を蹴るようにして、翼による動きを遥かに凌駕する鋭い動きで自在に空を駆け回る。その姿はまさに天空の覇者。
 体長20mを超える龍でさえも、その1/4の体長しかないグリフォンには空では決して敵わないだろう事は容易に想像がつく。
「翼なんて飾りですよ……」
 その出鱈目さに思わずこんな台詞がこぼれ出た。

「当たらない!」
 ルーセが悲鳴の様に高い声で叫ぶ。
 彼女の神懸り的な弓の腕を持ってしても、左右の翼の向きを変えて錐揉み回転をしながらの急降下中に、360度自在に飛び跳ねられれば動く的を射るために必要な未来位置予測が追いつくはずが無い。
「リューっ!!」
 迫り来るグリフォンに対して、タイミング的に最後である二の矢を外したルーセが助けを求める声に俺は応じる。
 感情表現が下手で慣れるとデレるが甘えてくるだけでなく遠慮も無くなり、更に反抗期も患っていて結構扱いが面倒臭い。そんなルーセの助けを求める声に俺は全力で駆け出す。

 どんなに空間を自由に動き回れたとしても奴は重力からまでも自由でいられる訳ではない。
 ルーセの身体にその爪をかける前に減速しなければ、グリフォン自身がその降下速度のまま地面に叩きつけられる。5m以上はある巨体では翼による減速だけではどうあがいても足りない。地面に達する前に必ず足で空気の足場を蹴る必要がある。
 生物は身体が大きく、そして重いほど落下時の衝撃には弱い。同じ形で体長が2倍なら体重は2の3乗で8倍になる。それに対して衝撃に耐えるための骨の強度や衝撃を吸収するための筋力は、それぞれの断面積に比例するので4倍にしかならない。つまり4倍の耐久力で8倍の落下時の衝撃に耐える必要がある。飛行機の墜落事故では子供の方が墜落時の衝撃に対する生存率が高いといわれる所以である。
 そしてグリフォンは案の定、攻撃の直前に一度前足で空気の足場を蹴ると減速する……そこへ弾丸のように加速した俺が飛び込むと、グリフォンの首へ横から蹴り入れへし折った。

「助かった……」
 間一髪で命を救われたルーセは、骸となって地面に横たわるグリフォンを前に弓を取り落とし膝から地面に崩れ落ち、両手を突いて身体を支える。
 俺は彼女の元に歩み寄ると、膝を突いてその背中に手を置く。
「ルーセ。戦いにおいて決してしてはならない事の一つが、相手の土俵で戦うことだ」
 正直、土俵がどう翻訳されているのか分からないけどな。
「相手の土俵?」
 顔だけをこちらに向けて聞いてくる。顔色はまだ悪い。
 どういう意味だ土俵の意味が通じなかったのか、それとも俺の発言の趣旨が理解されなかったか……とりあえず土俵の意味は通じたという事で話を進めよう。
「相手が有利になるような戦い方をしてはいけないって事だよ。グリフォンは空にいてこそ強いのだろう」
「……うん」
「だけど空にいては地上にいるルーセに対して奴は攻撃する手段を持たないから、結局は長剣で届く範囲に降りてこなければならないんだ」
「あっ」
「分かったみたいだね」
「うん、弓で戦っては駄目だった」
「そうだね奴にとって有利な状況下で弓で張り合う必要は無かった。戦いは力比べじゃないんだから、相手の弱点を突く。自分にとって有利な状況で戦うのは卑怯でも何でもなく当然の事だよ。俺達は狩りを楽しんでいるわけじゃないんだから出来るだけ安全に楽をして勝てば良い」
 肉を切らせて骨を断つ。それは目の前の敵を倒せば良いという試合の心構えだ。本来戦いは1対1とは限らない。目の前の敵に自分を切らせて相手に致命傷を与えたとしても、次の瞬間、他の敵に殺されるという可能性がまるで考慮されていない。命を懸けた戦いに生と死以外の何かを求めるロマンティストの考えそうな事だ。
 ロマンのかけらも持ち合わせていない大島の元で、俺が叩き込まれたのは徹底した現実主義に基づく戦いの意識だった。
 常に自分の戦力を維持したまま戦い続けなければ意味が無い。戦場然り、森の中での狩りも然り、大怪我を負って戦う事が出来なくなれば俺達はコードアの村に戻る事も出来なくなってしまう。
 だから怪我を負わないように安全に、体力を無駄に消耗しないように楽に勝たなければならない。
 そうは言っても本質的な部分で、戦いにロマンを持ち込むのは嫌いじゃないんだよ。俺も馬鹿な男の一人だからな。
 だけどルーセにはお勧めしない。それだけの事だ。

「安全に楽をして勝つ……」
 神の啓示でも受けたかのように目を輝かせて言葉を繰り返す。彼女の両親の教育方針は求道的であったのだろうか? いや多分、そのような現実的な話をする前に可能な限り正攻法で鍛えようと判断しただけだろう。おかげで俺の言葉はとてもエポック・メイキングな言葉となってしまった様だ。
「安全に楽して勝つ……安全に楽して勝つ……安全に楽して勝つ!」
 何か拙いスイッチを入った?

「はっ!」
 上空を飛ぶグリフォンにルーセは正確に矢を射掛ける。
 矢羽の風を切る音を聞き取ったのか、それともファンタジー的な特殊能力で危険を察知したのか、矢が当たる直前にグリフォンは空気を蹴って飛び上がり避けた。
「ぎゃぅるるるぅぅっ!」
 鳥なのか獣なのか良く分からない甲高く吠えると、両足で見えない空気の足場を蹴って加速し急降下をルーセに仕掛ける。
 ジグザグに漫画的な稲妻の様な軌道を描きながら落ちてくるグリフォンに、ルーセはニヤリと笑みを浮かべる……うん、明らかに意識して作った表情だ。この村にはルーセと同じ年頃の子供がいないため、少しでも表情に演技が入ると途端におっさん臭くなるのだ。
 手にした弓を収納してグリフォンを見据える。グリフォンも攻撃を仕掛けてこないので動き回るのが無駄と判断したのか真っ直ぐに降下してくる。
 攻撃の直前、グリフォンの前足が空気の蹴ったと同時にルーセは長剣を装備して下からすくい上げるようにして切りつける。だがそのスイング速度は何時もより遅く、グリフォンの右前足の鉤爪にがっちりと掴み取られる。
 そして次の瞬間、グリフォンは左前足と後ろ足で空気を蹴ると、ルーセが柄から手を離す前に上昇して上空高く吊り上げようとして地面に叩きつけられた。
 何を言っているのか分から……ゲフンゲフン。
 文章としておかしい事は分かっているのだが、何よりおかしいのは現実に目の前で起きている事がおかしいのだ。
 大地の精霊の加護を受けたルーセは、自ら意思で飛び上がったりしようと思わない限り地面から両足が離れる事は無いチート小娘なので、グリフォンにはルーセを長剣ごと吊り上げる事は出来ない。
 そうなると後は単純な力比べの勝負だった。そして今や小さなその身体に常人の100倍以上のパワーを秘めたルーセにとってはグリフォン付きの長剣を振り下ろすことなど容易い事である。
「ビターン! って鳴ったよ。今地面がビターン! って」
 衝撃的な光景に俺は少し馬鹿になってしまったのは仕方の無い事だろう。体長5mの象と比べてもそれほど劣らない巨体が、まるでハエ叩きを振り下ろすかのように軽々と地面に叩きつけられたのだ……いかん夢に見ちゃいそうだ。もっとも寝ると異世界と現実を行き来するようになってからは夢は見て無いけどな。
「安全に楽して勝った」
 ……安全に楽して勝ったというよりは、単にイーブンな状況に持ち込み最後はチートによる力ずくで、強引に勝利をもぎ取った様にしか思えないんだけど、それを彼女が理解できるように説明するには気力が残されていなかった。


 その後、主にワイバーンを標的とした狩りを続けるが分かった事がある。
 ワイバーン<<被捕食者と捕食者の壁<<グリフォンの関係だ。
 ワイバーンは群れで行動するが、グリフォンは群れで行動しないと思っていたので、個体としては機動力でワイバーンを圧倒するグリフォンが強いとは思っていたものの、体格的には優位に立ち、そして群れで行動するワイバーンに対しては敵わないとも思っていた。
 実際、俺達への襲撃も1体で行われ、更に鹿モドキの子を咥えて1体だけで飛ぶグリフォンも見た。
 だが実際、グリフォンは群れで行動する。彼らの群れは広いテリトリーを持っており、普通はその中で個々が自由に行動しているが、事あればリーダーである個体の指示で群れとして統率の取れた動きを見せる……その『事』とはワイバーン狩りである。

「あれはアカン奴だろ」
「うん、それルーセにも分かる」
 統率の取れた10体のグリフォン達が、20体以上はいる大きなワイバーンの群れを狩っていく様子に2人して呆然とする。
 あの群れを相手にしては勝ち目があるとは流石に思えない。
 群れを率いるのは一際大きなグリフォン……グリフォン? 頭に角が生えている。
「なあルーセ。あれってグリフォン?」
「……多分、グリフォンの類?」
 最後は疑問形かよ。
「この群れなら火龍だって狩れるよな? つかこの群れで無理なら勝てる気がしないんだけど……」
「火龍が飛んでるところなら……きっと」
 俺とルーセは向かい合って無言で頷きあうと、その場をこそこそと退散した。


「奴らは小物を狩る時は群れではなく1体で行動するから、俺達が2匹のグリフォンを狩った時は、奴らの最初の攻撃してきたところを一撃で倒したから、群れの仲間を呼ぶ隙が無かったから助かったんだよ。もし奴らが仲間を呼んでいたら……」
「あぅあぅ」
 ルーセは自分の肩を抱いて震える。
 無事に危険地域を脱した俺達は、危険地域は本当に危険であり、他人の忠告には耳を傾けるべきだと言う事を学んだ。

「もしあの群れと戦うとしたらリューはどうする?」
 おや……まだ顔色が悪い癖に、このお嬢さんまだ戦意を失ってないのだろうか?
「そうだね~、最初の1匹は普通に急降下してきた所を攻撃の直前の隙を突いて倒す。もしかしたらもう1匹も同じように倒せるかもしれない。だけどそれ以降は群れのリーダーのみ、もしかしたらもう1匹を上空に残して残りを地面に降ろして俺達を攻撃させると思う。上からなら地面にぶつからないように減速して隙を見せるけど地面に足をつけている状態なら、その速さを余すことなく活かして戦うだろう。
 そこで【大水塊】で三方に水の壁を作る。うかつに突っ込んできたら水の塊ごと頭をルーセが真っ二つにする……もしかしたら【真空】で空気の無い状態を作り出せば、奴らの見えない足場を蹴るという能力も封じられるかもしれない……」
「グリフォンが空中でも足場を蹴る事の出来るのは、きっと風の精霊の加護のおかげ」
「風の精霊? じゃあルーセみたいな身体能力の──」
「そこまでの加護は受けていない。受けていたらルーセは力負けしていた」
「そうかな、ルーセはレベルアップの恩恵も受けているから、精霊の加護抜きの状態でも力勝負で劣るとも思えないけど」
「ルーセは加護が無ければか弱い乙女、レベルアップだけじゃグリフォンに勝てない」
 そう言って睨まれた。馬鹿力発言をまだ根に持っているようだ。それに乙女はどうかな、どう見てもお子様だよ。
「……そうだね。それじゃあ空気が無いところでは風の精霊の加護が使えない可能性が高いね。それなら翼も使い物にならないし、真空の罠に嵌める事が出来れば、群れを混乱に陥れることが出来るから、その隙に4匹から5匹を倒す事が出来たとしよう。この段階で、最小で5匹最大で7匹を倒している事になるけど、ここは最悪の場合を想定して残り5匹として、上空には2匹が待機しているとするね」
 そうは言うものの、我ながら随分甘い見込みではある。
 上方と前方以外は【大水塊】で塞いでいるので、グリフォンが攻撃を仕掛けられ範囲は絞る事が出来る。
 昨日の夜に使った時の様に【真空】はかなりの回数を使っても問題は無い。【真空】は、自分から5m先離れた先の任意の1点を中心にして直径5mの真空の空間を作るので離れた場所には使う事が出来ないがグリフォンが数に物を言わせて、正面と頭上から一気に襲い掛かってくるなら、その通過位置は予測出来る。
 地上に降りたグリフォンの全てを上手く罠に嵌める事が出来たなら、ルーセ先生ご自慢の人間竜巻を繰り出せば全滅させられる可能性も十分にありえる。
 それを踏まえた上での4-5体と言う数字だした訳だが……まあ良いだろう、そこまで細かい話をする必要も無い。所詮は遊びだから。

「それで?」
「ルーセに地上の3匹を牽制してもらいながら、俺は【操熱】を使って水の塊を熱湯に変えて壁としての機能を強化する。そうなると膠着状態を打開するために上空で待機しているグリフォンの1匹が行動を起こすと思う……急降下は使わずに高度を落として、10m以下の低い高さで俺達の頭上を飛んで注意を引き付けようとすると思う。そこをタイミングを計って【真空】を使って奴を落とす。その時に水球を移動させて熱湯でキャッチして茹で殺す」
「失敗したら?」
「失敗する事を考慮してたら、まだグリフォンの群れは10匹まるまる残ってる可能性だってあるよ」
「……それもそうか」
 ルーセが難しい顔をして頷く。はっきり言って似合わない。
「これは細い可能性の糸を勝利につなぐためのシミュレーションだから、確率が半々位なら出来るというより成功させるつもりじゃないと……そもそも普通に考えたら勝ち目が無いのは分かってるでしょ」
 そんな事を真面目に話しながらも「シミュレーション」が彼女にどんな風に伝わっているのか? もし敢えて「シュミレーション」と言ったらどうなるのかを考えると……オラわくわくしてきたぞ!

「うっ……余計な事を言ったルーセが悪かった」
「うん、それで残りは4匹になるんだけど、この後のグリフォン達の行動は読めない。逃げるかもしれないし、一気に決着をつけようとするかもしれない。ただ今までの様にこちらの出方を伺うような事はしないはずだよ。最悪なのは援軍を呼ぶとかだね」
「援軍?」
「あの10匹が群れの全てとは限らないからね、もしかしたら群れの中にはいくつかの狩猟チームが存在して、あれはその一つに過ぎない可能性もあるから」
「それは駄目。ずるい」
「ずるいって言われてもな」
 子供らしい意見に衝動的な笑いが口を突いて出てしまう。
「むぅ、笑うな」
「笑うなと言われても、笑わずにはいられないから笑ってるんだよ」
 掌に思いっきり噛み付かれた……勿論、ルーセが本当に思いっきり噛み付いたら俺の掌なんて簡単に食いちぎられるのだが、それは何だ、今俺が感じている泣き叫びながら転げ回りたくなるような痛みから出た言葉の綾だ。
「ズルは駄目。それから逃げもしないという事で続き」
 不機嫌そうに口を尖らせながら話の続きを要求する。

「この戦いを勝利に導くためには、グリフォンの数を残り2匹にすることなんだ。そうなれば勝てる見込みが高くなる。でもそれはグリフォンにも分かっている。特にあのリーダーにはね」
 熱く熱を持った掌を口元に寄せて息を吹き付けながら涙目で答えた。
「うん。あいつ頭が良い」
 グリフォン・リーダー──便宜上そう呼ぶ──は群れを2体ずつのペアを3つと、3体の遊撃チームをつくり、遊撃チームに、その圧倒的な機動力でワイバーンの群れを混乱させて、群れから切り離した個体に2体のペアが襲い掛かり翼を引き裂いていく。きちんと統率された群れは地面に墜落したワイバーンには目もくれず己の役割を果たし続ける。
 完全な分業と、己の役割の遂行意識の高さで、まるでただの作業の様に淡々とワイバーン達の群れを破壊していく。
 そんな群れを率いるグリフォン・リーダーが部下達が倒されていく状況に何もせず手をこまねいているはずも無い……また勝手に相手を過大評価して、自分の作り上げたイメージを恐れるような真似をしているのかもしれないが、慎重過ぎれば期を逃すが、無謀であれば命を失うのだ。シミュレーションであっても慎重でありたい。自分小心者ですから……

「短期戦で一気に俺達を倒そうとして失敗したので、仕切りなおす程度の知恵はあるはずだから、残った3匹を上空にいる自分の元へ呼び寄せるか、それとも自分も地上に降りるかのどちらかだね……どっちが良い?」
 どっちが良いも何も無い。上空へ呼び寄せるのははっきり言って無い。グリフォンは上空からでは牽制するの精々であり、急降下攻撃では俺達には通じない。結局は地上に降りてくるしか方法は無いのだから考慮する必要は無い。それにルーセが気付くか──
「自分で両方ちゃんと考えて」
 想定外の返事が戻ってきたよ……大体、自分でってお前も当事者だろうが。
「上空に呼び寄せるのは無い。だから考えるのは奴は地上に降りてきて仲間と合流する」
「むぅ、また意地悪した」
「ルーセも少しは自分で考えなさい!」
 睨んできたが、その視線を真っ向から受けて叱り飛ばす。すると口笛吹きながら視線を逸らした。なんてベタな誤魔化し方を……本当にこういう態度はおっさん臭い。学習対象が村のおっさんどもばかりという環境は、彼女にとっては呪いにも等しい。

「ともかく合流させると面倒なので、こちらから攻撃を仕掛けるべきだろう。足の速いルーセが先行して地上にいるグリフォンに攻撃を仕掛ける。此処で何としても1匹は倒して欲しい」
「どうやって?」
「それはルーセに任せた。大丈夫ルーセになら出来る。ルーセさん天才」
 俺もいい加減面倒になってきていたので、ここは誤魔化して乗り切る事にした。大体、今までの話自体もグリフォンがやりそうな事とこちらが出来そうな事を並べただけの与太話だ。
 どんなに真剣に考えてシミュレーションをしたとしても1回じゃただの気休めにしかならない。百回、千回と同じ状況に付いてシミュレーションを繰り返して初めて実戦で役に立つものだ。

「……分かった。ルーセに任せろ」
 な、何? 照れながら満更でもないだと……チョロいよチョロ過ぎるよルーセさん! こんなに簡単に騙されて将来が不安だ。
「さて、残り3匹の状態で、大剣豪のルーセさんが残りの1匹に攻撃を仕掛けようとします。するとグリフォンのリーダーはどうするでしょう?」
「ルーセに攻撃をする!」
「そこを俺が横からごちそうさん! リーダーを失い、残り2匹になったグリフォンに勝ち目は無い。戦っても良し。逃げたとしても良しという事になる」
「……勝てる気がしてきた。リュー行こう!」
「違う! それ違うから! そういう話じゃないでしょ!」
 血迷ったルーセを後ろから羽交い絞めにして説得するのは大変だった。
 大体、明らかに他のグリフォンとは種族も違うようなグリフォン・リーダーが、どれほど強いのか、どんな特殊能力を持っているのかも今回のシミュレーションでは一切考慮していないよ。

 この段階でレベルは俺が41でルーセが39と目標を達成していたので、午後から火龍の巣を見に行く事にした。
 火龍の朝は遅く、洞窟の中から東へと傾きながらに伸びる縦穴から日差しが射す頃まで巣を出ないというのだから午前8時以降だろう。
 そして帰ってくるのは日が暮れるよりも1時間以上は早いらしい。
「今から急いで移動すれば奴が帰ってくる前に巣穴の中を調べられる余裕が在るかもしれない」
「それは止した方が良い。もし火龍の帰りより早くたどり着いても、中を調べたら臭いの痕跡が残る」
 そうなったら火龍は侵入者を探しに出てきて、撤収を終えていない俺達と戦闘になるという可能性が高いか……
「分かった。今日は火龍が巣穴に帰ってくる様子だけを確認する。そして明日は巣穴を出るところを確認して、どのタイミングで戦いを仕掛けるかを判断しよう」
「うん。判断はリューに任せる。リューは頭が良い」
「ありがとう。はっはっは……」
 つまり先程のやり取りは、ルーセなりに俺の能力を試したという事だ。策士だな……煽てられて簡単に騙される駄目策士だけど。

 ルーセの先導でたどり着いた火龍の巣。
 高さが40m以上はある巨大な一枚岩で出来た岩山を、火龍が自分の能力を使って自分の巣穴へと変えただけあって、正面にある入り口付近には溶け出した岩が流れたのであろうガラス状の川が森まで何十mにも渡り続いていて、更に森の奥まで伸びている。
 穴の直径は2m程度の円形だが、穴の床に当たる部分が融けた岩が固まったもので埋まり30cmほど高さが上がっている。はっきり言ってこの穴の広さで火龍が通り抜けられるとは思えない。

「……だが想像以上だな」
 岩は全て1度に融かされて流れ出たというわけでは無いだろうが、何回にも分けて少量ずつ融かした訳でも無いだろう。そうでなければ、これほどの長い距離は流れずに途中で冷えて固まっているはずだ。
 つまり数十トン単位で岩を一度に融かす方法を持つという事だ。どれほどの高温で長時間持続できるのだろう? 岩の質にもよるが融解温度は700度から1200度程度だろう……こう言うと勘違いする人間も多く、炎の温度は赤色で3000度程度で無色になると1万度を超えるので、火で簡単に融けると言い出す者もいる。
 だが炎で表面を炙った程度で、すぐに対象が炎と同じ温度まで上昇するわけではない。
 物理の基本として熱を始めとするエネルギーは逃げ易き場所へと逃げる。炎の持つ熱量の多くは放射により大気中に拡散し、熱伝導によっても周囲の空気へと逃げる。そして表面の一部を炙られた対象物も与えられた熱をより低温な他の表面部分や内部へと熱伝導によって逃すために表面だけでさえも簡単には融けだしてはくれない。
 融かす為には理科の副読本に書かれるような物体の融解温度よりも遥かに高温で長時間熱せなければならない。
 バーナーでチーズを炙ったかのように短時間で、この岩山にこれほどの穴を穿つとするならどれほどの高温が必要とされるだろう……3億度? ゼッ○ンじゃねえよ。
 ともかくこの目で見ておいて良かった。火龍の高熱の攻撃は【大水塊】では防げない事が分かった。むしろ一瞬で蒸発して大量に発生した水蒸気に巻かれ、油の落ちたヘルシーな焼肉にされるのが落ちだ。熱を通さない方法として【真空】もあるが、真空で遮断できるのは熱伝導であって放射はむしろ空気が無い分吸収されずに素通りとなるため、中から火が通り、柔らかでジューシーな美味しい焼肉になることだろう。
 絶対に御免だ。それに折角ヘルシーだったり美味しく焼かれても奴が食いもしないと思うとムカつく。

「隠れて! 北から来る」
 俺達が巣穴にたどり着いて10分ほどでルーセが火龍の気配に気付き警告を発する。
 慌てて森の中に逃げ込むと木に登ると枝葉の中に身を潜める。下生えの草木に身を隠そうとしたルーセが俺を見上げて無言で訴えかけてくるが無視した。
 木の上ではルーセは加護を力を受けられなくなるので、いざとなった時に初動の一歩が遅れる事になるからだ。
 だがガサゴソと音がするので下を見るとルーセが必死に木に登ろうとしては失敗していた。
 確かに木に登ろうと両足が地面から離れた瞬間に加護の力は得られなくなるが、レベルアップの御蔭で、枝などを掴まなくても幹に指先を食い込ませて登るくらい平気で出来るほど能力が上昇しているはずなのに、変なところで不器用になるものだ。
 俺は木から下りると、ルーセを左腕で抱き上げて右腕一本で再び木に登って隠れる。
 首と肩にしがみつくルーセを無言で睨み付けると「一緒じゃないと駄目」と笑顔で返される。
 直後、周辺マップの北側の縁に反応が出たのでその方角を見上げると、俺がこの異世界に初めて来た日に見たドラゴンと同じ姿が見えた。
 当時はまだレベル1であり視力も強化されていなかったので、はっきり形を憶えている訳ではないが同じ奴だと思った。
 周辺マップで分かる正確な距離から大きさを判断すると全長25mはある……ルーセさん、21mって聞いた気がするんだけど、それよりも2割ほど大きいね。「猟師は獲物との距離と大きさは間違えない」と格好良く言ったのは嘘だったのかな?
 そんな思いを込めてルーセに視線を向けると、彼女自身も自分の間違いに気付いたのか笑顔の表情を貼り付けたまま顔を背けた。

 大型肉食獣が生きる為に必要とするテリトリーは広大だ。北米大陸に生息する灰色熊は50平方キロメートルをテリトリーとするという。それに対してあのサイズの化け物が必要とするテリトリーは、この異世界において獲物となる生物の生息密度が北米大陸に比べて遥かに高かったとしても、火龍ならば灰色熊の100倍のテリトリーを必要とするといっても過言ではない。
 そして、そんな食糧事情によるテリトリーの範囲の推測以上に、狭い地域にこんなとんでもない化け物が2匹も3匹も生息されたら嫌だろう。俺は嫌だそんな世界では暮らしたくない。

 火龍は一瞬で岩山の上に達すると、巣の縦穴付近へとゆっくり翼を羽ばたきながら着陸した。あの翼だけでは飛べるはずもないが、飛ぶ為にはあの翼も大事な役割を持っているようだ。つまり、翼を封じれば奴の飛行能力も封じる事が出来るという事だ。
 着陸した火龍は翼を畳み込むと2本の後ろ足で不器用に歩きながら縦穴の縁に立つと頭から縦穴に入り中へと潜り込んで行った。
「やはり出入りは縦穴か……」
 すると横穴は単に融けた岩を外に流す為のものである……待てよ、奴の体が入らないような穴を作る為には、もし内側と外側から穴を開けたとしても30m離れた場所の岩までも融かしてしまうほどの熱を送り込めたとのかいよいよもって化け物だな。
 俺はちょっとだけ火龍討伐に対して自信をなくしかけた。



[39807] 第42話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:12
 マルに顔を舐められて諦める事から俺の朝は始まる。
 為されるがままになっていると鼻の穴まで舐められてしまい、耐え切れずに思いっきりくしゃみをするとマルは驚き弾けたみたいに後ろに跳躍すると、着地でフローリングの床で足を滑らせて転倒した。
「くぅ~ん」
 恥ずかしそうに床に顎をつけて上目遣いで鼻を鳴らすが、元はと言えば全てマルのせいである……あるのだが、つい可愛くて「よしよし」と言いながら撫でてしまう自分は駄目な飼い主なのだろう。

「おはよう」
 台所に立つ母さんに声を掛けて、洗面台のある脱衣所へと向かう。
「おはよう隆」
 こちらを振り返り笑顔で挨拶を返してくれた。
「あら、マルガリータちゃんはご機嫌ね。今朝は珍しく私が起きてきても寝てたのに」
 ……ごめんなさい、多分それは俺のせいです。それにしてもマルは【催眠】を受けて5時間くらい寝ていたわけか、犬と人間の差はあるにしても人間でも1時間や2時間は眠らせる事が出来そうだ。
 洗面台で顔を洗う。髪の生え際の当たりも舐められていたのでしっかりと洗う。
 ちなみに俺の髪型は左右と後ろを軽く刈り上げて、他は2-3cm程度の長さに刈り込むのだが、前回の散髪からそろそろ1ヵ月になるので5cm位といったところなので、別に整髪料などでヘアスタイルを整えるとか気を使う事はしていない。だから、顔の後タオルで髪の水気を拭い手櫛で整えて終了だ。
 まだ小学生の頃の方がお洒落に気を使ってたよな。当時は女の子達にもそこそこモテたもんな~……思い出に浸れば浸るほど空しく、今の自分が悲しくなる。


「おはよう」
 早目に家を出て走った事で、かなり早く部室に入ると既に紫村が居た。
「おはよう高城君」
 挨拶を終え、おれは改めて周辺マップで周囲に人や盗聴器などが無い事を確認する……オールクリア。
「教頭の動機は、調べてくれた通りに息子がストーカー行為で北條先生に通報されたのが原因で自殺した事への逆恨みだった」
「役に立てなかったみたいで悪かったよ」
 すまなそうに頭を下げてきた。
「いや、むしろアレだけの情報を短時間に調べ上げたお前が怖いくらいだ……それで教頭は鈴中が生徒と不適切な交際をしている事をネタに脅迫したが、鈴中が教え子をレイプして、それをネタに脅迫していた事は知らなかったみたいだ」
「そうなんだ……でも鈴中の被害者の事を考えれば教頭も許されるべきではないよ」
「ああ、学校を退職して退職金と家や土地を売った金を被害者に渡すように頼まれた」
「それで教頭本人はどうするつもりだと言うんだい?」
「死ぬ気だな」
「そう……か……」
 紫村も教頭の選択を無責任と詰る事はしなかった。教頭には他に責任を取る方法は無い事と彼も思ったのだろう。
「息子の事さえ無ければ、悪い人間ではなかったのかもしれない。この学校に転任してきた時、北條先生が新任教師としてこの学校に赴任して来るなんて偶然が起こらなければ、怒りを胸底に沈めたまま生きていけたかもしれない。だが結果は聞いての通りだ……俺達も教訓として胸に刻んでおくべきだろう」
「そうだね……」
「……しかし面倒なのは金をどうやって渡すかだ。個人を特定しないとならない。被害者が全てこの学校の卒業生だと良いんだが、他校の生徒だった場合はなぁ~」
「それじゃあ鈴中の前の赴任先の学校で鈴中が居た期間の卒業アルバムのデータを集めておくよ」
 ……軽く言いやがった。
「どうやってとは聞かないが、聞かないけど聞きたくなるよ。怖い奴だな」
「君が鈴中の部屋をどうやって『掃除』したのか教えてくれたら僕も教えるよ」
「じゃあ、聞かない」
「それがお互いのためだね」
 そう言って、爽やかでありながら色っぽい笑みを浮かべる。本気でこいつに狙われたらおかまに転んでしまいそうだという危機感すら覚える。何せ一瞬見惚れてしまったのだ。ヤバイ! ヤバイったらヤバイ! 大丈夫なんだろうな俺。

「集合だ!」
 不機嫌な大島の声が格技場内に響き渡る。昨晩俺を徹夜で見張っていたのだろう目も赤い。その目が俺を睨む……が華麗にスルー。
 俺の態度に大島の右の眉が上に跳ね上がる。
 大島の身体から立ち上る怒気に飲まれ1年生達は身体を震わせ立っているのも辛そうだ。2年生達は身体を揺らしながらもしっかりと立ち……竦んでるねこれは。
 無理も無い。大島の怒りのオーラで背後にある格技場の壁が歪んで見えるくらいだった……勿論幻覚だ。部員全員で見た幻覚に違いない。
 だが3年生ともなれば顔を強張らせながらも、何とかしろと言わんばかりに肘で俺の脇腹を突く櫛木田の様に多少の余裕はある。
「……ふん、ランニングに出るぞ」
 鼻を鳴らしながら俺を一瞥し格技場を出て行った。
「主将。今のは一体?」
 3年生達は今回の北條先生の件に関して大島が俺に見張りまでつけていた事を知っているので察しがついたのだが、下級生達には大島の態度が何を意味するのか全く分かっていないので不安なんだろう……だがその不安は正しい。
「さあ? 女のヒステリーと同じで、奴が不機嫌になる理由など理解出来ないな」
 そう誤魔化したものの、不機嫌な大島に今日の朝練は荒れるのは必然だろう。

 結局、ランニング中に1年生全員が倒れ、2年生も香籐を除く6人が倒れる大惨事となり、俺達3年生と香籐は倒れた奴らの回収を2回に分けて行う事になり、練習はそれだけで終わってしまった。

「流石に12体もマグロが並ぶと壮絶だな」
 水浴びを済ませて出て来ても、まだ倒れている1年生と2年生達を見て田村が感想を漏らす。
「お前、昨日大島に何をしたんだ?」
「奴が張り付けた見張りや尾行をかわして完璧に出し抜いてやった。奴からしたらコケにされたと怒り狂ってるんじゃない?」
 その出し抜かれた奴らの中に大島が居た事は内緒だ。
「そ、そんな恐ろしい事を」
「…………俺、転校しようかな」
「どうにかならないのか?」
「しゅ、主将謝りましょう。お願いします!」
 何時もの3人組と香籐が、自分達に迫る大島の理不尽を思いうろたえる。
「高城君の判断は正しいと思うよ。事の真相は大島先生が興味半分で手を出して良い問題じゃない。勝手に怒らせておけば良いさ」
 紫村が冷たくきっぱりと言い切った。俺が大島から隠そうとする真相を知ってる彼としては大島の興味本位な姿勢は許せるものではないのだろう。
「しかしな紫村──」
「櫛木田君。高城君は人として大切な事を守るために大島先生を敵に回した。彼自身のためではなく他者の名誉と尊厳のためにだよ」
「……それは大島を敵に回すに値する事なんだろうな」
 いきなり櫛木田の目付きが変わった。何と言うか男の顔になっている。
「当たり前だよ」
「分かった。元々奴を味方だ何て思ったことは一度も無い。潜在的な敵だ。そして潜在的だろうが敵は敵──」
「誰が敵だって?」
 皆が振り返るとそこには大島が居た。俺は周辺マップで大島が戻ってくるのを確認してはいたのだが、覚悟を決めた櫛木田が男前な雰囲気を醸し出していて止めるタイミングが掴めなかったのだ。
「何でもありません!」
 しなびた大根の様な顔になってしまった櫛木田は声を裏返して答える……おい。
「さっさとこのマグロどもを片付けたら飯食って教室に行け!」
「ひぃ、はい!」
 3年生だけでなく香籐が櫛木田を見る目までが冷たい……一瞬で、ここまで己の株を下げた奴を見たのは初めてな気がする。

 北條先生は少しだけ昨日よりも明るい顔をしている気がする。
 彼女が表情が明るければクラスの雰囲気も明るくなる。美人の明るい表情にはそれだけの力があるって事だろう。
 今まではそれが逆に働いていただけだ。美人の張り詰めた緊張感のある顔は怖い……俺にとってはそれも十分にご馳走なのだが。
 これから少しずつでもクラスの雰囲気が良くなっていき、北條先生も笑顔で生徒達と話し合えるようになれれば良い。
 そんな風に思いながらも、心の何処かで北條先生が自分達だけの先生じゃなくなるように感じている。
 自分の心の狭さが嫌になる。これじゃストーカーとなった教頭の息子の事をどうこう言える立場じゃないな。
 そう反省するものの、前田が「やっぱり北條先生って美人だよな」などと今更当たり前な事を鼻の下を伸ばしながら抜かすとイラっとするのは止められなかった。

 美術の時間。
 先週に引き続き静物画のデッサンだが、俺は先週の段階で仕上げてしまっていたので、もう1枚描くようにいわれた……2枚も描くんだから評価を上げろよ。
 この1週間で完全記憶を瞬間記憶というべきレベルまでに引き上げてしまった俺はイーゼルに備え付けられた画板の上の画用紙の上に、目で見た光景を全く同じく再現できるので、後はそれを木炭でなぞっていくだけの簡単な作業で、そこには美術だ芸術だというあやふやなものは一切含まれていない。
 彫刻なんてやらせたら、3Dプリンターに負けない精密さで対象の立体彫像を作り上げる事も出来るだろう。しかも3Dプリンターよりも圧倒的に速く。

「何だろう……何が足りないのだろう?」
 5分も掛からずに描き上げた俺のデッサン画を前にして美術教師が頭を掻き毟る。
「何かが足りない。構図に問題が……いや沢山の生徒が一つの対象を描くんだから構図云々を言える状況じゃない……ただ正確なだけで絵に何の足し算も引き算も無い。目に映るものをそのままに描き写すだけで、一体本人が見た物の何を描きたいと思ったのかが見えてこない……もしかして足りないのは人間として大事な何か?」
 とんでもない事を言い始めやがった。本人は聞こえないように小さく呟いているつもりなのだろうが俺にはまる聞こえだ。



[39807] 第43話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/10/26 21:10
 給食時間。
 父さんよると最近の給食は凄いと言うのだが、正直俺にはピンとこない。
 父さんが小学校2年までは牛乳はテトラパックだったと言われたが、テトラパックがどんなものかを説明するところから始めてもらう必要があった。
 ちなみに父さんの5歳年上の姉である伯母の世代だと、小学校に入った最初の頃は週に何回かはパンと牛乳だけの日もあったいう。しかも牛乳はテトラパックではなく壜だったらしい。父さんの世代くらいから一気に給食は今の形態に近いものに変わったらしく、その後も給食は進化を遂げて父さん世代からすると俺達の食べている給食は「何それ」と声を荒げるくらい凄いらしい……食べ物の恨みは恐ろしいとはいえいい歳して子供の給食に妬まないで欲しい。
 しかしそうは言うが、俺は余り給食が好きではない。母さんが料理上手であり、普段家で食べている食事と比べると然程美味しいとは思えない。それは前田辺りに言わせるとかなり贅沢な事らしい。「俺の母ちゃん飯マズだよ」と黄昏ていた。
 だが異世界の料理は格別に美味い。はっきり言ってルーセの料理の腕は母さんに明らかに劣る──これはルーセの年齢を考えると当然の事だ──上に、使われる調味料などのバリエーションな日本の水準からすれば比較にもならないほど貧弱だ。それでも圧倒的な食材の旨さが全てを飛び越えている。
 だから俺は悩んでいる。自分の料理の腕を磨き調味料の作り方を身に着けて、異世界で料理をしたら素晴らしい料理が出来るだろう。だがそれを食べてしまったら現実世界の料理には絶望しか覚えなくなってしまう気がする。
 一長一短を受け入れて、調理技術の優れた現実世界の料理と、食材の旨さに勝る異世界料理に満足するか、それとも現実世界で食に喜びを感じる事を諦めて、異世界で現実世界の調理技術と異世界の食材にて究極の料理を楽しむべきか……ああ実に悩ましい。
 まあ、給食も食えないほど不味いわけでは無いから食べるけどさ。

「高城はいるか?」
 給食を終えたばかりのまったりとした空気は、突然現れた大島によって一瞬で凍りついた。
「どうしました大島先生?」
 北條先生はすくっと席を立つと大島に向き直り、大島から生徒を守るように大島の前に立ちふさがる。そしてあくまでも凛とした佇まいで大島を真っ直ぐ見据える。
 普通は怪しげな人物に自分が担当するクラスの生徒が呼び出されたなら自分を通して対応するように要求するだろうが、大島は普通じゃなく怪しく、そして危険だ。奴に対して毅然とした態度で応じられるのは学校で彼女くらいなものである。
「高城に部活の事で用がありまして」
 もっともらしい嘘だ。そう言われては北條先生も反論しようが無い。
「分かりました。高城君、大島先生が用事があるようです」
 そう言いながらも北條先生からは俺が嫌だと言ったら、断固として守ると言う気概を感じる。
 心強いが大島如きのために彼女の手を煩わすなど、北條先生親衛隊隊長こと空手部主将として許される事ではない。
 席を立つと、大島の居る教壇側の出入り口へと向かい、途中で北條先生に会釈をすると、既に背を向けて歩き出した大島の後に続いて歩く。
 2人とも無言で歩き、1階の技術科教室隣の準備室へと入った。

 珍しい事に大島が椅子に座るように勧めてきたので、仕方なく椅子に座って大島と向かい合う。
「今朝、教頭が校長に辞表を提出した」
「えっ、そうなんですか?」
「…………わざとらしい」
 うん、自分でもそう思っていた。お前だって分かった上で言ってるんだろうに演技の才能なんて俺に期待するなよ。
 それにしても教頭は約束通りに辞表を出した、最短でも1ヶ月以上は職に止まり、仕事の整理や引継ぎ作業をする必要があるだろう……多分。
「何のことでしょうか?」
 俺は白々しい演技を続ける。大島に演技だと分かっていても続けなければならない。逆に続ける限りは大島には何も出来ない。
「……昨日の夜は何をしていた?」
「またそれですか?」
「いいから答えろ」
 とりあえずセーブをしておく。
「そうですね。昨日の夜は俺の家を見張っている大島先生を観察して笑っていましたよ。何してたんですか? 生徒の家を数人で取り囲んでカメラで撮影までしてましたよね? 正直警察に通報すべきかどうか迷いましたよ」
 おおぉ! またもや真っ赤なメロン熊が出現したよ。メロン熊はくまもんと違って著作権の問題があると言うのに、そんなにそっくりに真似たら危険だろうから止めてくれ。
「……な、何の事かな?」
 大島は若干引きつりながらもふてぶてしい笑みを浮かべる。
「ああ、勿論その時の様子は撮影しておきましたので……分かっているとは思いますが、これは貸しですよ……大きな」
 そんなもの撮影していないが、どのみち脅迫のネタである切り札は、俺が切り札を握っていると大島が思えばいいのだから空札で十分だ。
「俺を脅迫するつもりか?」
「先生は俺の弱みを握って脅迫する気満々でしたよね?」
「……ちっ!」
 舌打ちしやがった。だが、とりあえず予想通りに俺が証拠を握っていると思ったようだ。
「今回の事に、これ以上首を突っ込まないで貰えるなら、俺は何もする気はありませんよ」
「一体、何があった?」
「想像以上に胸糞の悪くなる話ですよ。知っても誰一人幸せにはなれないし俺から話す事は絶対にありません」
「そういうのが面白いんじゃないか」
 やっぱりこの男は純粋にまじりっけなしの人でなしだよ。
「…………さてと110番しないと」
 そう呟くと席を立つ。
「まあ待て」
 そう言いながらも、奴は俺が背を向けたら襲ってくるのではと思うほどの気迫をぶつけてくる……慌てるならともかくこの居直る図々しさ。人としてどうなんだろうと疑うほど強靭な神経をしている。
「何でしょう?」
 椅子には座らずに立ったまま答える。こちらも臨戦態勢だ。
「今回の件の事は良い。これ以上は俺も調べない……だが、お前が何をしたのか、それに興味がある」
「やっぱり110番しないと」
「てめぇ卑怯だぞ! 話が違うじゃねぇか!」
「冗談です。まあ、勝手に調べてください。でもそちらが教師の職分を超えて調べるなら、弱みをまた握られる事になりますよ。東海エージェンシー須長さんでしたっけ? 興信所を使ってまで生徒を尾行させるなんて問題ですよね」
 昨日の尾行者の素性を出して攻める。ぐいぐいと締め上げるように攻めていく。これは威力偵察。しかも偵察したらロードしなおすという都合の良い偵察。 もう俺はセーブ&ロードさん無しには生きていけないくらいに便利だ。

「……どうやってそれを知った?」
「随分と下手糞な尾行だったのですぐに気付きましたよ。途中でわざと足を止めてみたら、俺を追い越さないように慌てて道を曲がって、たぶん先回りしようとしたんだろうけど、その道は袋小路の行き止まりで笑うのを堪えるのに必死でしたよ」
「あの馬鹿が……」
「やっぱり知り合いですか、やっぱり110番かな」
「それはもういい」
 いや、俺としては全然良くないのだけど、俺がギャグで言ってると思うなら本当に110番するぞ。
「どうせいきなり呼び出して、尾行させようとしたんですよね? 尾行なんて注意を払っている相手には複数でしかも綿密に周辺の道路状況などを確認して初めて出来るものでしょう。最初から無理だったんですよ」
「どうやって須長の身元を突き止めたのかを話せ!」
「お断りしま~す……大体録音して言質を取ろうなんてやり方が古いんですよ」
 俺はこの部屋に入る前から大島が携帯電話の録音機能を使っている事は分かっていた。
 奴が何時に無く俺に椅子を勧めたのも、気遣いが出来るような生き物に進化を遂げたのではなく、音声を拾える範囲である2-3m以内に俺を収める為だろう。
「くそっ! 抜け目ねぇな……」
 俺が抜け目無いなら、お前はえげつない。よくもまあ自分を棚に上げて他人を非難できたものだと感心する。
 ついでだから身を乗り出して射程圏内に捉えると、システムメニューを開いて時間停止させ、奴の懐から携帯を取り出して録音モードを解除し、今まで録音していたでーたを消去すると携帯を奴の懐に戻した。

 ともかく、俺が隙さえ見せなければ事件の真相はともかく、システムメニューと言う俺の秘密には決して奴がたどり着く事は無い……だが俺は大島に秘密の一端を漏らすのもありだと思っている。はっきり言ってもしも大島だったら火龍とどのように戦うのかを知りたくもあった。
 ……いや大島に期待しすぎだ。奴だってただ単に強くなるとか頭の悪い事を考えているわけではない、何に勝つかというはっきりとした目的意識を持って自らを磨かなければ、あれほどの強さを身につける事は出来なかったはずだ。
 熊殺しにしても、人間相手に身につけた技や力をそのまま熊相手に使って通用するかという確認であり命懸けの遊びに過ぎない。ドラゴン相手に戦う方法なんてあるはずが無いのである……多分。

「ちなみに今までの会話は全て録音していますから……この記録は別の貸しと言う事でよろしくお願いします」
「おい! ちょっと待て!」
 この程度で大島を学校から追い出せるとは思えない。それで何とかなるならとっくにこいつは学校には居ないはずだからだ。だが面倒な事にはなるのだろう、2枚目の切り札を持ち出されて大島は慌てている。
「後、空手部で部員に八つ当たりするのは止めてください。余り酷いようだと思わずこのデータが外部に流出させてしまうかもしれませんから」
 そう言って素早く身を翻して部屋を出ると、ドアノブを【操熱】で限界の120度まで熱してから逃げる。
 背後で「ぉわちゃ!」とブルース・リーが化鳥の叫びを上げたような気もするが気のせいだ。こんなところにブルース・リーがいるはずも無いのだから。


 技術科準備室を出た俺は図書室へと向かう。卒業アルバムに載っている女子生徒の顔と名前を全て覚える必要があるからだ。
 家に帰ったら、鈴中のレイプ画像・動画をチェックし、更にフォルダ名と生徒の名前を確認して本人を特定しなければならない。
 俺は女の子は好きだしAVも好きだが、自分の性癖に合わないジャンルはただ単に醜悪にしか感じられず気が進まない作業だが、それを終わらせないとデータを消去する事が出来ない。1日でも早く鈴中が残した全てのデータを破壊してこの世から葬り去るのが俺の……ん、待てよCD-RやDVD-Rの中のデータを確認したら14人目、15人目と被害者が増える可能性もあるんだよな。ヤバイその事を全く考えていなかった。
 鈴中のPCもだが、俺のPCも父さんのお下がりのデスクトップなのでシステムメニューによる時間停止状態での使用が出来ないために、確認作業はリアルに時間が掛かる……夜遅くまで作業するのか。
 今の俺は夜更かししても、何故か異世界で目を覚ましても、更に翌日現実で目を覚ましても寝不足感は無い。しかし早寝が習慣となっている俺にとって夜更かし自体が眠くて辛い。


 その日の部活の練習は朝練程は荒れなかった。大島も俺の忠告を受け入れたようだ。その分奴のストレスは溜まり何時か大きく爆発するのだろうが、それまでに力をつければ良い。決定的事態に陥るまでに引き伸ばせた時間だけが俺の味方だ。
 ちなみに1年生達は全員伸びているけどな。
「いや~朝はどうなる事かと思ったが、大島も機嫌を直したのかな?」
 暢気な事を抜かす田村だが、実際は更に怒らせていると知ったらどんな顔をするのだろう。
「大島の顔を見てそう思えるならお前は大物だ」
「大島の顔? 何時もあんなもんだろ」
 伴尾は気づいていたみたいだし、櫛木田や香籐、それに紫村も当然気付いていたみたいで、皆は呆れた顔で田村を見ている。
 我々空手部部員とって命綱とも言える大島取扱説明書を田村は持っていなかった。それで今まで空手部の中で生き残ったというのはまさに大物の証だ。
「アレは嵐の前の静けさってやつだよ……それより高城君。一体君は何をしたんだい? このままじゃ僕達3年生はともかく2年生、1年生達が可哀想な事になると思うんだけど」
「いや、俺達も十分可哀想な事になるだろ」
「……本当に何をしたんだ高城?」
「大島の弱みを握って、今回の件に関してこれ以上首を突っ込まないように脅して、ついでに部活の練習と称して八つ当たりはするなと忠告した」
「……………………はぁ?」
 全員呆然としている。何時も周囲には染まらず飄々としている紫村さえも何処か間の抜けた顔で固まってしまった。
 紫村も空手部に入部したばかりの頃は、大島という理不尽な存在に触れる度に皆と同じようにそんな顔をしていたものだ。
「……………………えっ!」
 しばらくしてやっと俺の言葉の意味を理解し始めたみたいだ。
「そういうわけで、当面は大島の八つ当たりはない」
「ちょっと待ってくれないか? そんな事をしたら大島先生は必ず爆発するよ。常にある程度のガス抜きをするから被害は最小限に止まるんじゃないのかい?」
「奴にとっても空手部は大切な遊びの場だから、自らぶっ壊すよな真似はしないはずだ安心してくれ」
 そして、その分の怒りは俺に向かい、決着をつけなければならない時が必ず来る。
「遊び場って……お前それは」
「遊び場であり実験場だよ。伴尾、ここはそういう場なんだ。考えてもみろ奴が学校で空手部の顧問をやる事に何の意味がある?」
「…………無いな。確かに無いぞ!」
「俺達部員をいたぶって楽しむ以外に奴には顧問をやるメリットは何も無いんだ」
「ぅわぁ~、今更気付いたが酷い話だ」
「だから、これからも俺達が今まで通りに大島に接している限りは問題は起こらない。大島も自然にガス抜きされる」
 ……と良いな、は腹の中に飲み込む。


 帰宅後にマルと散歩に行った。
 今日は久しぶりに普通の散歩で、俺も気楽な気分で散歩に臨めたのでマルの機嫌も良かった。やはりマルは俺の緊張感を読み取っていたのだ。
 そして散歩を終えて食事を取った後に、父さんが本屋に行かないかと切り出してきた。そう言えば前回から1週間だった。
「ほら、史緒さんも例の新刊を待っているみたいだから」
 父さんはそう言ってこちらに目配せをしてくる。一方で母さんには視線を合わせない……1週間も待たせて責められたのだろう。
 俺も本当なら今晩は鈴中のDVD-Rなどの確認を済ませたかったのだが、知識の蓄積も急がないとはいえ、今回を逃すとしばらくは当てもなくなるので行く事に同意した。

 本屋へと向かう車中。止せばいいのに父さんは父として息子達と男同士の交流を図りたかったのだろう。「そういえば友達とはどうなんだ?」とざっくりとした質問をしてきた。
 俺にとって空手部の連中は友達というよりは仲間。正確に言うと大島被害者友の会の会員仲間であり同志だ。固い絆を持ちながらも友達といえるだけのウェットな部分に乏しい。何せ私的な交流というのがほぼ無いのだ。敢えて友達と呼べそうなのは前田だが奴との関係もかなり利害が絡んでいる。
 一方兄貴は説明するまでもなく、俺よりももっと悲惨だ。
 先週の再現の様に黙り込む俺達に「まあ何だ。学生は勉強が本分だ……」と台詞の使い回しをするのであった。

 本屋に着くと、俺と兄貴は入り口から真っ直ぐフロア中央の大階段へと向かうが、途中で偶然の出会いがあった。
「あれ北條先生じゃないですか?」
 一緒に歩いていた兄貴が北條先生を見つけた。北條先生はクラスも教科でも兄貴を担当した事は無いが、兄貴は北條先生の顔を憶えていたようだ。
 しかし声を掛けたのは髪を降ろしてコンタクトを入れて眼鏡を外した北條先生本人ではなく、隣にいる彼女にかなり良く似た眼鏡をかけた女性だった。
「えっ? ……あの」
 女性……多分彼女が北條先生の腐ってしまった妹さんなのだろう。なるほど一卵性の双子とまでは言わないが、かなり顔立ちの似た姉妹である。
 2人の姿を写真に撮って空手部の連中に売ればかなりの額が手に入るのは確実だが、流石にいきなり写真に撮らせてくださいといったら不審に思われてしまう。
「今晩は先生……兄貴、北條先生はこちらだよ」
「ん? えっ? あれ?」
 北條先生と妹さんの間を視線を行ったり来たりさせてうろたえている。そんな兄貴に北條先生は笑顔で声を掛けた。
「あなたは高城……大くんだったかしら?」
 北條先生も兄貴の事をきちんと下の名前まで憶えていたようだ。まあ一応は学年で1番成績優秀な優等生だったのだから憶えていても仕方ない……が調子こいたら兄貴といえど〆る。
「は、はい!」
 兄貴と北條先生が同じ時期に学校にいられたのは兄貴が中学3年生の1年間だけで、ちょうど北條先生が今の様に悪い噂を流されて学校内で孤立する前の時期だから、普通に美人教師というイメージしか持っていないのだろう。北條先生に名前を憶えてもらっている事に緊張しながらも喜んでやがる。
「隆君もこんばんわ。兄弟仲が良いのね」
「そういう先生もご姉妹で本屋で買い物ですか?」
「妹が新刊を買いたいというものだから私が車を出したのよ」
 それは良いのだが、おれは北條先生が重大な問題に気付いていない事が心配だ。
 腐女子趣味を他人に知られたくない妹さんは多分変装のつもりで眼鏡をかけたりしているのだろうが、それは北條先生の普段の格好にかなり近く、そして良く似た容貌と相まって兄貴が間違えたのも無理は無いと思うほどだ。
 つまり妹さんが、そんな格好でBL小説などを買い漁るというのはかなり拙いはずなのだ。
「ところで先生……」
 俺は北條先生の耳元に口を寄せるとその事を耳打ちした。
「!」
 みるみる顔色が悪くなっていく。事の重大さに今更気付いたようだ。
「ちょ、ちょっと皐月。こっちに来て」
「えっ、どうしたの?」
「いいからこっちに来て……ごめんなさい高城君と大君。ちょっと用事が出来たのでこれで失礼します」
 そう言うと、妹さんを引っ張って店の外へと消えていく。
「何だったんだ?」
 兄貴は呆然と北條姉妹の立ち去った出入り口の自動ドアを見ながら尋ねてきた。
「さあ、何だったんだろうね」
 そう答えながらもうっかりして慌てる北條先生もアリだなぁ~と馬鹿なことを考えていた。

 その後はひたすら情報収集で、片っ端から棚に並ぶ本に触れては頭の中に叩き込んでいく。
 傍から見たら並んだ本の背表紙を人差し指で左から右へ、右から左へと棚の段毎に触っていってるだけの様にしか見えないだろうが、休みなく全部読んでるんだぜ……どうだい、気が狂いそうなるような作業だと思わないか?
 幸い、1週間前に比べるとレベルが22から41へと上昇しており頭も眼も大幅に性能が向上しているので1ページを頭に叩き込む時間が短縮──あくまでも俺自身の体感時間での事で、実際に経過する時間は全く短縮されない──され、前回の1.5倍程度の速さで進む分精神的な疲労感に比べて、作業は大きく進捗するようになった。

 本屋にある技術や学術関連の本を網羅した俺が次に狙いをつけたのは武術関連の本だった。
 特に武器を用いた武術の知識が俺にはほとんど無い。はっきりいってルーセにこれ以上なにかアドバイスするのは現状では無理なのだ。
「だが……無いな」
 しかし、徒手での格闘技の本は中国拳法の流派の本など結構数があるのだが、武器を用いた武術の本は意外に少なく、収穫といえば宝蔵院流が云々とかいう槍術の本で図解の説明がとてもありがたかったが、長剣の使い方に関する本など存在しなかった。
 仕方なく和弓や競技用アーチェリーに関する本なども記憶したが、ルーセに渡した弓はそのどちらとも違っていて本当に基本的な部分しか役立てられそうもなかった……まあ、俺にはその基本的な部分すらなかった訳で勉強になりました。

 最後に購入する本を選ぶ。
 本を買いたいという理由をつけてここまで連れて来てもらっているので買わなければならない。
 一応勉強に関係ある本という事で『解説 フェルマーの定理の証明 Ⅰ』という数学の本を選んだ。本の内容は、幾ら知能が上昇しても中学レベルの数学しか知らない俺にとっては、難しいというより「はぁ?」としか言葉が出ないほど難解で、フェルマーという人物が考えた数学的仮定を、証明する方法を導き出す為の本だ。
 今世紀に入って証明が完了するまでに数学界の課題として数百年に渡って居座り続けていた最終定理を始めとして、数多くの著名な数学者達を悩ませてきただけに、今の俺なら調べて勉強しながらなら一つ一つ解いていくことが出来るのでは? という崇高なる向学心から選択したのであって、北條先生に「フェルマーの定理で分からない事があるんですが」「えっ、フェルマー? 凄いわね高城君」なんて風に2人っきりで話をしたいとか邪な考えをしたわけでは無い。信じてほしい……俺自身が全く信じてないけど。

 帰宅後に、鈴中の部屋から回収したDVD-Rを調べた結果、新しい被害者を3名発見した……頭が痛いのは決して朝の4時を寝ずに迎えてしまったからでは無い。
 レベルアップして蘇生の魔術を万一身につけることが出来たら、奴の死体に掛けて復活させ、生きている鈴中の姿を西村先輩に見せて彼女の心の中の殺人の罪悪感を取り除いた後で、改めて俺が殺してやると決意した……レベル100になってもそんな凄い魔術は絶対に憶えないと断言できるけどな。



[39807] 第44話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/07/22 21:40
 目が覚めると既にお馴染みとなったルーセの家のベッドの中だった。
 だが違和感を覚えて自分の隣に目を向けるとルーセの姿が無い。
 上体を起こして部屋を見渡すがベッドの下に落ちている様子も無く、開け放たれたドアの向こうからパンの焼ける良い匂いが香って来る。
 ……そういえば、今日は早目に家を出て火龍の巣へと向かうのだったので、ルーセは早く起きて食事の用意をしている……全く頭上がらないな。

「リュー、おはよう」
 着替えを終えて部屋を出るとルーセが朝の挨拶をくれた。
「おはようルーセ。起こしてくれれば手伝ったのに」
「それは駄目」
 即答だった。全く感情をこめずにじっとこちらを見る目が痛い……俺はそこまで拒絶されるような失敗した覚えが無いのだけど? もしかして自覚できないほど駄目ってことなのか?
「……顔洗ってくるわ」
 平静を装い何事もなかったかのように、そう切り返すのが精一杯だった。
 だけど何時の日にか俺の料理の腕で参りましたと言わせてやると誓った。

 火龍の朝は確かに遅かった。
 余裕を持って7時前には火龍の巣を見渡せる木に登って隠れていたのだが、出てきたのはそれから2時間半後の事だった。
 巣の中から物音が聞こえたので、俺の胸にしがみついて小さな寝息を立てているルーセの背中を叩いて起こす。
「うん?」
 ビクッと小さく身体を震わせて目を覚ますと下から見上げてくる。
「火龍が目を覚ましたみたいだ」
 俺が囁くような小さな声で伝えると無言で頷き、俺の腕の中で巣穴の方へと向きを変えた。
 硬いものが岩肌に当たる音がしばらく続いた後、巣穴の縁から長い鼻先がニュっと飛び出て来て臭いを嗅ぐように3度向きを変えながら息を吸い込み、それから頭全体を穴から出して周囲を見渡して納得したのか穴から這い出てくる。
 随分と慎重な性格のようだ。
「出口で陣取って、出て来た鼻先を叩き斬る」
 またこの子の病気が……
「鼻先を切った程度じゃ怒らせるだけだから、火を吐かれて死んじゃうよ」
「むぅ」
 そんなやり取りをしている間に火龍は巣穴から完全に外に出て、岩山の上で頭から尻尾までをピンと真っ直ぐに伸ばした後、翼を広げると足で蹴って飛び上がるわけでも上昇気流を捉えるわけでもなく、ましてや岩山から飛び降りて位置エネルギーを運動エネルギーに変えて翼に揚力を生むわけでもなく、翼の一羽ばたきだけでふわりと岩山からその巨体を浮き上がらせると、2度3度と羽ばたく度に加速度的に高みへと登り、空中を滑るよに飛んで行った。
 やはり翼だけでは飛んでいないが、飛ぶ為には翼が必要だという事を確信した。
 火龍を倒す為には、まずは不意打ちでブレスを封じなければならない。次に逃がさない為に翼を破壊する必要があるという事だ……その上でルーセに止めを任せればよい。これはルーセにとって両親の敵討ちだから俺が手を下すべきではない。
 はっきり言ってルーセに止めを任せなくても良いならば、楽に倒す方法は無い事も無い。火龍が巣穴に篭っているところを横穴を岩で塞いだ上で、縦穴から大量の土砂を流し込んでやれば良い。岩や土砂は【所持アイテム】の中に収納しておけばいいのだから難しい事ではない。
 火龍がどれほど流れ込んできた土砂を融かそうが構わずに、次々と縦穴に流し込み続ければ、奴は自分で生み出した溶岩の中で溺れ死ぬ事になる……幾ら火龍で熱に強くても溶岩の中で呼吸できるわけでは無いだろう。うん無理だ生き残れるはずなんて無い。でもまさか……

 火龍が飛び去った先を見つめながらそんな事を考えていると、ルーセが俺の頬を摘んで引っ張る。
「リュー、早く中を見てみよう」
「分かった分かった」
 ルーセを抱いたまま木の上から飛び降りた。以前の俺は2m以上の高さから飛び降りる事なんて出来ない筈だが、今なら何の問題も無い。
 身体能力の向上により高さを脅威と感じる必要がなくなったなんて理由ではない。この手の恐怖はトラウマに因るものであり、理屈で克服できるものではない。単に【精神】の【心理的耐性】階層の中の【高所恐怖耐性】で【レベルアップ時の数値変動】設定を非固定にしているため、レベルアップによって高所恐怖症を克服したのだった。これで俺はまた一歩完璧に近づいたのだ……道のりは果てしなく遠いけど一歩は一歩だ嘘は吐いていない。
 ルーセを地面に降ろすと「行くよ!」と言って全力で駆けて行った。
「元気だな」
 そう呟きながら彼女の後を追った。

 横穴の入り口付近を確認すると、穴の外側も広い範囲で表面が黒くガラス状に融けた痕跡が残っている。
 つまり、外側から融かされて穴が開いた……まあ当然だ。先に横穴が完成しなければ、岩山の上から縦穴を融かして作ろうにも岩が融けて出来た溶岩が流れ出さなければ時間が経って固まるだけで何の意味も無い。しかしそれを考えられる程度の知恵が火龍にはあるという事だ。
 あれ? ちょっと待て……ということはつまり、岩山の外から内側に最低でも60m以上離れた距離まで火龍は岩を融かして横穴を空けたということだ。
 化け物過ぎる。こちらの先制攻撃が届く前に奴に気付かれたら100%勝てないと確信したよ。

 俺は【光明】という光属性Ⅱに属し、対象から60w電球相当の明かりを放つようにする効果を持つ魔術を使用した。その対象とは無機物、有機物を問わず固体ならば自分の身体を一部を含めて生物の身体も含むという説明があるが、流石に自分の身体に使うのは気味が悪いので愛用の剣の先を光らせることにした。
 今までは使う場面もなく、その説明もきちんと確認していなかったのだが60w電球相当が、こちらの世界の言葉ではどういう表現をされているのか疑問に思わざるを得ない。
 大体魔術の名前もそうだ。日本語で表記される場合は実に味気ない名前になっているが、こちらの世界の言葉では厨二心をくすぐる様な格好良い名前じゃないかと思うと胸が熱くなる。
 脱線したが、頭が支える程度の高さしかないので腰を屈めて横穴へと入ると、中の黒い岩肌が闇の中で光に照らされてキラキラと輝く様は幻想的ですらあった。
 ルーセは頭が支える心配も無く、また加護の御蔭で絶対に足を滑らせることの無いので摩擦係数の少ない足元を心配することなく、周囲の壁の輝きを嬉しそうに見渡しながら歩いている……少しは緊張感を持って欲しい。

 火龍と戦う為には、まず奇襲攻撃を成功させる為の方法を見つけ出さなければならない。
 60mほど奥へと進むと突然、直径が30mほどあるドーム状の空間が現れる。
「ここが火龍の寝床か」
 ファンタジーではドラゴンは金銀財宝を己の巣に溜め込むというが火龍にはそんな習性は無いようで中は何も無い。
 単に寝るだけの空間。食事も排泄も全て外で済ませているようで、俺の感覚で表現するなら病的なまでの潔癖症が暮らす生活感の無い部屋というべきだろう。
 これほど何もなく、そして壁が全て黒い部屋なら【結界】が使えるような気がする。
 単に結界だけを使えばすぐに見つかってしまうだろうが、一つ使えそうな魔術がある。
 水属性に俺の大好きな【水球】シリーズ、光属性に【傷癒】シリーズがあるように、土属性にも【坑】シリーズが存在する。
 【坑】は土の地面に直径30cm深さ30cmの円柱状の穴を掘るだけだが、土属性Ⅱに属する上位の【大坑】は対象に直径100cmで深さ200cm程度の円柱の穴を開ける事が出来て、更に対象は土の地面以外にも有効と利便性が大いに拡がった。
 ちなみにこの魔術を憶えた時、俺の中の一つの疑問が確信に変わった。それは俺がレベルアップで憶えた魔術とはシステムメニューの恩恵を受けているものだけに使えるものではないかという疑問だが、【坑】を憶えた時は僅か直径30cm高さ30cm程度の円柱状の土の塊が何処に消えるのか気にもしなかったが、流石に【大坑】の直径100cm高さ200cmの塊が何処に消えるのかは疑問に思い、実際に使ってみて確かに消えた。目に見える範囲の何処にも土塊の山が出来たようには見えず、また開いた穴の周囲に押し固められている様子も無い。
 もしやと思い【所持アイテム】のリストで新規収納順で検索すると円柱状の土塊がリストのトップに存在した。
 つまり【坑】と【大坑】はシステムメニューの機能が前提の魔術なのである。
 しかし、この世界に他に魔法的な何かが損ざし無いわけでも無いようだ。水龍討伐の際に俺が【水塊】を使った事は村人達から驚かれはしたが不思議がられはしなかった。
 つまり、この世界には魔法使いの類が存在する。その数は少ないが一般的に認識されている存在であり、多分システムメニューの【魔術】とは別物だと考えて間違いないはずだ。

 話は戻るが、【大坑】で壁に穴を開けて、その穴の中で【結界】を使って待ち伏せしていれば、火龍が戻って来る頃には日が傾いていて、この寝床は暗くなっていて結界を発見され無い可能性が高い。
 そして火龍が寝静まるのを待ってから結界を解除して一気に襲い掛かり首を取る。
 悪い考えではないが、結界の中と外では光・振動・臭いの伝達が行われないので、中からも火龍の様子を全く窺う事が出来ない。夜が更けるまで待って実行すれば奇襲が成功する確率は悪くは無いだろうが、結界を解除するタイミングはあくまでも行き当たりばったりの賭けであり、確率より大事な確信を抱くことが出来ない。
 普段なら失敗したらロードという手段があるが、火龍の高熱の攻撃を考えれば失敗がそのまま死に直結すると考えた方が良い。
 どんなに成功率が高くても1%でも失敗の可能性があるなら命を張って賭けをするまでには、まだ追い込まれていない。
 必要なのは確信だ。自分の頭で考え抜いた結果、成功するに違いないと信じられる確信が欲しい。結果それが間違っていて代償を払う事になったとしても仕方が無いと諦める事の出来る確信が欲しいのだ。

 横穴から入って右手の天井の隅に直径5mほどの縦穴が60度ほどの傾斜で東へと延びている。縦穴の中は寝床や横穴の壁とは違い滑らかではなく、火龍が昇り降りの際に爪で傷つけたのだろう表面がガタガタに荒れている。この縦穴を昇り降りしている時に奇襲をかけて足元を崩しても底まで落下させる事は出来ないだろう。
 もしもこの縦穴で下まで叩き落すとするなら爆弾でも使わないと無理だな。そして爆弾を作る術が今は無い。黒色火薬などのいくつかの火薬の作り方は既に調べて知っているし、この世界でも材料を調達する事も可能だろう。だがそれを準備する時間が足りないので無理だ。
 パイプの中で真空を発生させて気圧差を利用してパイプの中にある物体を時速数百kmまで加速する方法もあるが、別に火龍はこの縦穴にぴったりはまる大きさというわけでもなければ、穴自体も真っ直ぐでゆがみの無い筒状というわけでもない。
 ……困った事に思い浮かんだ可能性が、浮かぶ端から次々と否定されていく。

 縦穴を実際に登ってみると、表面のガラス状の層が削られて岩肌がむき出しになり急な坂ではあるが、現在の身体能力なら登るのに全く苦労は感じない。ルーセも俺の後を平気そうに登ってくる。
 どうやら地面の上にある石や岩などの上では精霊の加護は失われないようだ。そういえばルーセの家の中も床は地面に敷かれた石畳が床になっていて、家の中でも馬鹿力は発揮されていたし、砂利だらけの河原などでも何時も通りに動けていた。
 だとするならば、火龍の寝込みに奇襲をかけて、俺が横穴から侵入しドーム状の部屋の前に岩を出して蓋をして、隙間から中へと【大水塊】を魔力が尽きるまで叩き込み続け、中を一気に水で満たして自ら逃れようとして縦穴から慌てて脱出した火龍の首が出てきたところを、待ち構えていたルーセが首を刎ねる……うん、無理だ直径30mの半球形ドーム状の部屋に対して【大水塊】は直径3mの水球。つまり部屋の中を水で満たす為には、単純計算で【大水塊】が500回必要となる。500回使える魔力があるかという問題以前に500回も一気に使うのは無理だという方が大きい。一気に中を水で溢れさせなければ、火龍はパニックに陥らず冷静に対処してしまう可能性が高い。

 縦穴を登りきって岩山の上に出る。本当に岩の塊だというのが分かる。草一本生えないというわけではないが、小さな草の群生が所々にある程度だ。
 縦穴の大きさは下は直径5m程度だったが、上の入り口は6m程と広がっている。そして横穴の入り口と同様に穴の外側も広い範囲で表面が黒くガラス状に融けた痕跡が残っていた。
「火龍が帰ってきた時に、この穴が岩で塞がれていたらどんな反応をすると思う?」
 そうルーセに尋ねてみた。
「驚き……困る……そして取り除こうとする」
「警戒して逃げる可能性は?」
「無い……臆病で慎重なら、テリトリーに入っただけの私や両親をいきなり襲ったりしないで最初に威嚇をしたはず」
「なるほど。それじゃあ岩を取り除く時はどうすると思う?」
「この穴を塞ぐほどの岩は、火龍の前足では取り除けないから後ろ足で踏み砕くか、融かす……融かすで間違いない」
 火龍の前足はティラノサウルスなどの肉食恐竜ほど小さく退化してはいないが、その巨体に対してかなり短く小さいので、前足で掴んで取り除くのは無理だろう。
 それに後ろ足で蹴り砕いても岩の残骸は下へと落ちてしまう。生活感が無いと表現しなければならないほど中を何も無い状態に保ち続けていた火龍が、それを放って置くわけが無いとなれば、結局は融かして床の一部にしてしまう事になるだろう。
 つまり融かして障害となる岩を取り除くと考えるのが合理的だ。

 それを踏まえて考え付いた作戦は、蓋となる岩の1mほど下を岩で穴を塞いで床を作り、両者の間に出来た空間に俺が潜む。火龍がブレスで蓋となってる岩を融かそうとしたところにルーセが攻撃を仕掛ける。
 周辺マップで火龍の様子を確認しておき、火龍の視線がルーセの方向を向いた瞬間に、俺は蓋となってる岩を収納しシステムメニューの時間停止で火龍の状態を確認し、穴から飛び出してブレス攻撃を阻止してから翼を破壊する手順をシミュレートして、問題なければ実行に移す。
 ルーセは火龍攻撃の後で、横穴から火龍の寝床を通り、縦穴から岩山の上に出て止めを刺すというシンプルなものだ。
 基本的に作戦とは実行段階で問題が起きないように出来るだけ単純なのが一番だ。どんなに素晴らしく緻密な作戦を立てても実行段階で難があり負担をかけるのは駄目だと思っている。
 この作戦の注意点は、俺が穴を飛び出してブレス攻撃の阻止をする際に、失敗すると少しでも感じた段階でロードする。セーブポイントは明日俺達が火龍の巣にたどり着いた時点として、その時点から次の策を練る。
 これならば最低限の安全を確保した上で火龍との距離を詰めることが出来る上に、俺が奇襲をかける瞬間の安全が保たれる。何よりルーセへの安全性が高く、そして彼女自身の手で両親の仇を打つことが出来る。
 蓋となる岩を収納した後の展開は場当たり的だが、1度距離を詰めてしまえは速さでは負けない。そして武器の届く範囲に入ってしまえば、火龍がどんなに丈夫な鱗で身体を守っていようが関係なく貫きダメージを与える事が出来るので、実行する上で不安を感じることはない。
 この作戦で唯一問題となりえるとするなら、ルーセが注意を引いて火龍のブレス攻撃を阻止出来るかであるが、ルーセならば必ずやってくれると俺は確信しているので問題だとは思わない。

「リューが考えた作戦なら大丈夫。ルーセも必ず成功させる」
 ルーセに作戦を伝えると太鼓判を押してもらえた。作戦自体の信用というよりは俺に対する信用だが、それが一番ありがたい。
「俺もルーセなら必ず作戦を成功させてくれると信じている」
「任せて!」
「おう」
 ルーセの笑顔に俺も笑顔で応えた。


 その後、俺とルーセは東の草原地帯を抜けて、初日に落ちた断崖地帯の北側を目指して移動している。
 直径6mにも達する穴を塞げるだけの大きな岩が、その辺で簡単に見つかるわけも無い。一番簡単なのは火龍の巣である巨大な一枚岩だが、それに手を着ければ火龍が異変に気付いて警戒する可能性がある。そこで確実に今日中に手に入れるために断崖まで遠征する事になった。
 ルーセと一緒だと草むらまで避けて道を作ってくれるので笑ってしまうほど楽だ。草原地帯には人を襲うような大型の動物もほとんどおらず、魔物はルーセが容赦なく殲滅し「リュー回収!」と叫んで先に進んでいく……だから俺を置いて先に行くなと、置いて行かれたら加護の無い俺は絶対に追いつけない事をすぐに忘れてしまうんだよな。

 俺とルーセはフルマラソンに匹敵する行程を1時間ほどで走りきった。
 レベル5の頃に、40km/hほどで10分間走って死にそうになった時の俺とは既に別人と言って良い超人っぷりだ。馬じゃないんだからと泣き言を抜かした俺はもういない。断言しよう俺は馬並であると……失礼、下ネタだよ。
 まあ、ルーセからは「リュー遅い」と何度も叱られる程度なんだけどね。
 ルーセの身体能力は、俺が【真空】を用いれば100m以上の跳躍が可能だが、ルーセなら【真空】の助け無しに300mは飛べるだろう。翼をつけて全力で走れば離陸するのではないかとも思う。

「リュー、良さそうな岩が無い」
「そうだね……じゃあ崖を登ろう」
 あっさりと自分の口から出た言葉だが、つい10日ほど前にはどんなにレベルアップしても絶対にこの崖からは降りないと断言した人間の言葉だとは自分の事ながら思えない。
「ルーセ登れない」
 恨めしそうにこちらを見上げてくる。
「仕方が無い。じゃあ俺が……あっ」
 ルーセに背を向けて、片膝を地面に突いたところでふと思いついたことがあった。
 俺の背中に乗っかろうとしていたルーセは、一瞬の躊躇いもなく無視して背中にしがみ付いた。
「ルーセちょっと降りて」
「嫌!」
「……成功したら面白い事になるかもしれないのに」
 ぼそっと呟く。
「何?」
 簡単に食いついた。これからはダボハゼ幼女と呼んでやろう……そう思っただけで、絶対に面倒な事になるから呼ばない。
「ちょっとこうやってみてくれる?」
 そう言いながら崖の斜面に自分の右足をつける。
「こう?」
 ルーセも真似て右足を斜面につける。
「そして左足も斜面につけてみて」
「……?」
 何をこいつは言ってるんだ? といわんばかりに気の毒そうに俺を見る。
「良いからやってみて」
「……分かった」
 仕方が無いなと肩をすくめながら頷いた……本当におっさん臭い仕草だ。見た目は幼女。中身はおっさんなんて最悪だな。
 そしてルーセは反動をつけて左足で地面を蹴って両の足の裏を斜面につけた。
「おっ、おぉぉぉぉぉ!」
 重力に引っ張られて仰け反りながらも、ルーセの両足の裏は斜面に張り付いたままだった。もしやと思ったが大地の精霊の加護は本当にすげぇな。
「そのまま歩いてみて」
「分かった!」
 ルーセは腹筋と背筋の力で身体を水平よりも上の角度にして前傾姿勢を作ると、恐る恐るといった感じで右足を斜面から離す、右足は一旦重力に引かれて下へと動いたがすぐに引き上げられて左足の位置よりも高い場所へと着地した。
 2歩以降は、もう躊躇いもなく普通に斜面を歩き始めて、5歩目からは早くも走り始めた。
「リュー楽しい!」
 そう叫んで崖の斜面を自在に走り回り、俺に手を振るルーセがちょっと羨ましかった……本当に楽しそうなのだから仕方が無い。
 俺はルーセに手を振り返すと、崖に向かって斜めに走りこんで直前で跳躍して高さ15mくらいの位置に右足から着地すると、そのまま60度くらいの角度で崖の斜面を駆け上がる。
 ルーセと違い加護等持っていない俺が斜面を駆け続けるためには、一歩進むたびに身体の重心を斜面側に近づけていく必要がある。
 背中を丸めて上体を斜面に近づけていき、次に腰を屈めていく、最後は膝も全て伸ばさずに少しずつ曲げた状態で歩幅を削り、最後の一歩を踏み出したときには額を斜面に擦り付けて、やっと崖の縁に手を伸ばす事が出来た。
 崖っぷちにぶら下りながら、下を見下ろしても恐怖を覚えないのが素晴らしい。実に素晴らしい感覚だ。
「リューも壁を走れるんだ」
「ま、まあね……」
 崖の上から俺を見下ろしながらルーセが話しかけてくる。
「怪我してる」
 そう言いながら手を差し伸べて来たので俺は崖っぷちを掴んでいない方の手を伸ばして、その手を掴んだ。

「リューも壁を走れるのは分かったけど、まだまだ下手糞。調子に乗らない方が良い」
 ルーセの調子に乗りまくった上から目線の態度にカチーンと来た。
 この餓鬼をぎゃふん言わせなければならない。俺は真剣にその方法を考える。火龍を倒す作戦を考えるのにも劣らない必死さで考える。
 俺にはルーセには出来ない空中での立体的な移動が出来る。それは【所持アイテム】内の岩などの質量の大きなものを取り出して足場にして飛ぶという方法だが、イマイチ使い勝手が良くない。
 そこで考えたのは【所持アイテム】から何かを取り出す際は手から出していたが、それは左右の手のどちらからでも意識した方から出すことが出来る。
 それならば足からも出せるのではないだろうかという発想だ。試しに地面に投げ出した右足の裏に意識を集中して保存食の入った袋を取り出してみるとあっさり足の裏の先に袋が現れた。
 収納して今度は左足の裏に意識を集中して取り出しても同様の結果が出た。

「フッフッフッフッ……ルーセ君。高々壁を走れるようになったくらいで随分調子に乗っているようではないか?」
「負け惜しみ、みっともない」
 ルーセは余裕の表情を崩さない。張ったりだとでも思っているのだろう。
「俺はグリフォンと同じように空を自由に駆けることが出来るんだよ」
「ふっ……リューは冗談が下手」
 鼻で笑うルーセを無視して立ち上がると、その場で3回軽くジャンプした後で全力で垂直に飛び上がる。そして上空10mほどで身体を捻ると右足から、ルーセをパーティーに加えてシステムメニューの事を教えた日のオーガ戦でも使った岩を出すと蹴って地面と水平に跳躍する。蹴った瞬間に岩を収納する事も忘れない。足から離れても半径1m以内なら収納は可能だ。
 次は左足から岩を出すと、また蹴って跳躍する。そんな事を繰り返しながら1分間ほど空を自由に飛びまわり十分に堪能してから着地した。
 ルーセを見ると呆然として俺を見つめている。
「はっはっはっ、壁を走るなんて、これに比べたら実に大したことではないとは思わないかな?」
 嫌みったらしく話しかける。
「うぅぅう、ルーセもやる! やり方教えて!」
 ルーセは地団駄を踏みながら図々しくも要求してくる。
「教えたくないなぁ~、ルーセの態度悪いし」
 少し意地悪をする。これくらいの意地悪は許されるべきであろう……大人気ない? 俺はまだ14歳で、都合の良い時だけ子供であると主張する権利があるのだ。
「教えて教えて! お願い教えて!」
 うん、完璧な駄々っ子だ。泣く子と地頭には勝てないので俺は諦めてコツを教えた。
 しかし、ルーセは空中に飛んだ途端に不器用になり、上手く飛び続けることが出来ない。
 レベルアップの影響もあるので筋力的には加護が無くても十分に出来るはずなのだが……
「あぅ……出来ない」
 ルーセは何度も地面に落ちて、既に半泣きになっている。
 もしかして筋力だけではなく運動神経の面でも加護は影響を与えているのだろうか?
「ルーセって加護を受ける前は身体動かすのは苦手だった?」
「そんな事無い! 失礼な事を言うの駄目!」
 嘘を吐いている様子は無く、本気で怒っているが、本人が自覚してないだけの運動音痴という可能性もある……あれ、もしかすると……
「ルーセは加護を受けた直後、それまで通りに身体を動かせた?」
「無理。いきなり力が強くなって上手く身体が動かせるはずが無い」
 そういうことか、精霊の加護はシステムメニューほど親切ではなく力の加減は本人任せでサポートはしないのだ。
 そのため加護を受けた状態に慣れてしまったルーセは、空中で加護を失うと力の加減が分からなくなり、途端に不器用になってしまう。木に登れなかったのそのせいという訳だ。

「ルーセ。今はまだ無理だよ」
「どうして!」
 むきになっているルーセに、俺は加護の影響で力加減が上手く出来ない理由を説明した。
「ぅぅぅうううぅぅぅあぁぁぁん!」
 泣き出してしまった。
「えぇぇぇぇぇん、リューが意地悪する!」
 俺は意地悪なんてしてません。
「練習すれば出来るようになるから」
「…………どれくらい?」
 俺も見つめる目が怖い。
「1月……いや、2・3週間?」
 ……こ、これくらいなら我慢できるよね?
「ぅわぁぁぁぁぁん! そんなに待てない!!」
 もうどうしたら良いのかわからないよ……俺が泣きたい。

 結局、必死になって宥め、ルーセを抱いてというか俺の胸から端にかけての部分にルーセを俺と同じ向きに皮紐で縛り付けて一緒に飛びながら帰る事に同意させられた。
 火龍の巣の縦穴を塞ぐための岩などは、崖をルーセの馬鹿力で何度か崩落させて集めた。他にも巣穴の中を完全に埋め尽くせるだけの大量の土砂も回収したのだが【所持アイテム】の中には一体どれだけ収納可能なのか正直怖くなってきた……もしかして、この星を……いやいや、流石にそれは無い……よね?



[39807] 第45話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:16
 今日もマルに顔をたっぷり嘗め回されながら目を覚ます。
 何度か注意したのでベッドの上に乗る事は駄目だと理解してくれたのだが、後ろ足が床に着いていれば前足をベッドの上に掛けて俺の顔を舐めるのはセーフだと思い込んでしまっている。

 今日は土曜日なので1日中空手三昧だ。今の大島と一日中顔をつき合わすのは憂鬱で堪らない。
「じゃあ行ってらっしゃい」
 母さんから朝の分と昼の分、2つの弁当を受け取る。朝早くから弁当を二つも用意してもらって本当に申し訳ない。しかも朝と昼では中のおかずが違っているという手の込みよう。俺だけでなく母さんにまで迷惑を掛ける大島には謝罪と賠償を請求したい。
「行ってきます。マルも行ってきます」
 マルの頭を撫でてから家を出た。

 早朝の爽やかな風の中を軽く走っていると、黒い1BOXカーが俺を追い越して行き学校の校門をくぐり学校の敷地内へと入って行った。
「何だ?」
 まだ五時半過ぎで、こんな朝早くに学校に用があるのは俺達空手部の人間だけだと思っていたのだが一体何者だ?
 普段学校の教員用駐車場に駐車している車の中には黒の1BOXは見たことが無い。つまり部外者の可能性が高い。部外者がこんな時間にか……訳が分からない。
 俺が校門までたどり着くと、1BOXは来賓用駐車場に停められていたが、既に乗っていた人間の姿は無い……また面倒な事が起こりそうな気がした。

「おはようございます」
 部室に入ると俺が挨拶するよりも先に1年生の神田に挨拶された。
「おはよう」
「主将。お話があります」
 1年生にも空手部の鉄の上下関係が分かってきたようで、すっかり軍隊口調みたくなってしまった。俺としては余り好きではないのだが、残念な事に俺自身にもそれはすっかり染み込んでしまった習性である。
「どうした?」
「栗原のことなんですが、あいつ昨日の帰りに足首を挫いて今日は走れそうも無いんですよ」
「走れないなら上半身を中心に筋トレをやらされるけど、正直お勧めできないぞ」
 大島は部員達が自分の与り知らぬ事で部活の練習に差し支えるような怪我をする事を好まない……大っ嫌いってことさ。
 そのために代替メニューはきつくなる。それは2年生のみならず3年生でも辛いと音を上げるメニューだ。大体においてランニング中心の今のメニューは1年生以外の部員にとってはかなり温いメニューなのだから、1年生が代替メニューを受けるという事は……死ぬとは言わないが、死にたくても死ねない目に遭わされると言うべきだろう。
「主将。どうしましょう?」
 香籐も栗原の事を心配して辛そうにしている。1年生の面倒を見るのは2年生であり、その2年生のリーダー格である香籐に掛かる責任は小さくは無い。
 もしも栗原が空手部を辞める事態になれば、大島から香籐がどんな仕打ちを受ける事になるかが心配だ。

「栗原。とりあえず足を見せろ」
 壁際の椅子に座っている栗原に声を掛けて、その足元で膝を突いて、裾がたくし上げられた左の足首を覗き込む。
 確かに捻挫して足首が腫れている。歩けないほど酷い捻挫というわけではないが、何十kmも走れる状況ではない。
「これはランニングは無理だな。とりあえずテーピングで固定してやるからやり方を憶えて、自分で出来るようにしておけよ」
 ロッカーの中から取り出したテープを使って栗原の足首を固定しながら、密かに【軽傷癒】を使って治療する。
 【傷癒】の次が【軽傷癒】なら、次は【中傷癒】で、その次は【重傷癒】。そして【全傷癒】となり、更に【薄口傷癒】とか【昆布傷癒】になるのだろう。
「よし完了だ。今日は足首は動かさないように気をつけろ」
 くだらないことを考えている内に処置が終わった。
「ありがとうございます。何か凄い楽になったんですけど」
 そりゃそうだ。大した効き目が無いとはいえ5回も掛けたのだ、軽い捻挫くらい完全に治っていてもおかしくは無い……本当に頼むから治っていてくれ、効果無しは切ない。
「捻挫などの関節の怪我は、患部をしっかりと固定するだけでもかなり楽になるものだ」
 嘘は言ってないが嘘なんだ。

 その後、着替えを終えて格技場へと入り、それぞれ準備運動を行う。
「栗原は軽く柔軟だけにしておけよ」
「はい」
 そんな指示を出す香籐もすっかり先輩が板に付いてるようだ。1年前は俺もあんな感じだったのだろうか? などと感慨に耽っていると時間が来た。

「全員、整列!」
 俺の掛け声に全員が整列し終えて10秒ほど経ってから入り口の扉が開いて大島が……大島と見知らぬ50歳前後の男が現れた。
 大島と比較すると背も低く──俺と同じくらいだろう──身体づきも細い。しかし肩幅は広く立ち居からもかなり鍛えられた身体をしている事が窺える。
「よし、全員揃っているな……高城何かあったか?」
 俺の顔色を読んで声を掛けてくる。空気は読めないが顔色は読める……そんなわけあるか! こいつは空気を読めないんじゃなく読まないだけだ。明確な意思に基づきあえて読まないのだ。
「1年の栗原が左足首を捻挫しているので今日のランニングは無理だと思います」
「そうか、分かった」
 本来ならここで栗原への「たるんでるからそんな事になる」とか説教と説諭が入り、下手をすれば俺や香籐にもとばっちりが来るところだが、横にいる部外者がせいか穏便に済ませてくれた。

「それでだ。お前達も気になっているだろうから紹介する。こちらは鬼剋流7段の井上さんだ。今日はお前達の指導のために本部から来てくだされた」
 部員達がざわめく、「何で鬼剋流が……」と、俺も驚いている7段って大島よりも上だろう。何でそんな奴が学校に来るんだ。今まで一度も鬼剋流の人間が空手部の練習に顔を出したことなど無い。例外は早乙女さんだが、あれはむしろこちらから彼の持ち山に合宿に行ってるだけだ。
 それに気になるのは大島の態度だ。一応は相手を立てるような話し方をしているが、声や表情から明らかに歓迎していない。奴にとっても招かれざる客なのは間違いない……ただでさえストレスを溜めた大島に、追い討ちをかけるようにストレスを掛けるタイミングが絶妙すぎて、さすが鬼剋流と唸らせられてしまう。

「皆さんはじめまして。私は鬼剋流本部で事務局長という裏方をしている井上です。今日はよろしくお願いします」
 実に穏やかで紳士的な態度に、俺達の中で鬼剋流の株が上がった。
「大島君が将来有望な若者を育てていると聞いたので、大島君に頼んで今日は皆さん練習の様子を見学させてもらう事になりました。そこで皆さんと一緒に練習に参加させる為に本部から若い門下生を2人連れきました……入りなさい」
 開いた扉の向こうから現れた2人の姿に部員達から「おおぉぉっ!」という歓声が沸きあがる。
「こちらが空知君で、そしてこちらが宗谷君です」
「はじめまして空知 祥花(そらち しょうか)です。今日は皆さんと一緒に大島先輩に稽古をつけていただけるとの事で、とても嬉しく思っています」
 長い黒髪を後ろでまとめたポニーテールで、身長は170cm弱くらいのモデルといっても通用するスタイルの良い女性で、きりっとした感じの武闘派美人だ。
「私は宗谷 美佐(そうや みさ)です。私も楽しみにしていたので、今日はよろしくお願いします」
 亜麻色のショートヘアーで、身長は160cmを超えたくらいで、可愛い感じの顔立ちで柔らかな物腰に女らしさに溢れる胸や腰のボリュームを持つが、やはり奥にピンと一本通ったものを感じさせる美人さんだ。
 しかし、何故2人とも女性なんだ……しかも2人とも美人。鬼剋流の門下生ならやはり男の比率が高いだろうに、態々彼女達を揃えた理由が分からない。

「こちこそよろしくお願いします」
 櫛木田達が鼻の下を伸ばしながら頭を下げる。分かり易すぎて可哀想になってきた。
 また強い女だ。女子県道部の顧問をしている北條先生は剣道4段の腕前だし、イーシャに涼、それにルーセだ。俺に関わる女は皆強い。どこかに儚げで守ってあげたいと思えるようなタイプの女の人はいないのだろうか?
 ……そりゃあいるだろう。俺に縁が無いだけでさ。類は友を呼ぶというように俺が全部悪いんだよ。
 などと考えつつも俺の鼻の下も伸びていた事は否定しない。仕方ないだろう男なんだからどんなにキャラが被っても美人は大好きなんだよ。

「それじゃあ、まずはいつも通りにランニングだ。栗原はトレーニングルームを開けておいたから適当に筋トレをしておけ」
 そう言って格技場を出て行く。
「良かったな栗原」
 田村が栗原の肩を叩きながら笑顔で話しかける。
 本来なら怪我をした栗原に大島がついてがっつりとキツイ筋トレメニューを課すのだが、部外の参加者がいる以上は栗原に付っきりという訳にいかなかった訳で、楽が出来て良かったなという意味にも取れるが、田村の顔に浮かぶ邪悪な笑みがそれを否定していた。
「無理せずに筋トレをするんだぞ」
 伴尾も栗原の肩を叩くと格技場を出て行く。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕もランニングに──」
「無理するな!」
 残りの部員達が声を揃える。
 多分、栗原の足はもう治っているのだろう。走っても大丈夫だろう。だけど俺は彼をおいて格技場を出て行く……笑顔で。
「主将待ってください!」
 そうは言われても待つはずが無いだろう。

 ランニングを始めて30分ほど経つと、1年生の一部が遅れ始める。
 本来ならここで、尻の一つも蹴り飛ばして先頭に追いつくように発破を掛けるのだが、今俺の目の前にある尻を蹴り飛ばすわけにはいかない……ああ、蹴りたい。蹴ってみたい。蹴らせては貰えないものだろうか? なんなら触らせて頂くだけでも結構ですから。
「本当に……いつも……こんなに走ってるの?」
「も、もう10kmくらいは……走ってるんじゃ……無いの?」
「まだ8kmも走ってませんよ。東田! ペースを上げろ」
 遅れ始めた一年生達よりも更に後ろ。俺の目の前を走っている尻……走ってるのは空知さん、宗谷さんの北海道コンビだった……いや、単に苗字が北海道の地名なだけで北海道出身でも何でもないのだろうけど。
「あ、後……どれくらい……走るの?」
 空知さんが尋ねてくるが、俺が答えられるのは彼女の望むような答えではない。
「いつもなら後5kmくらいですかね……大島先生の気分次第ですけど」
「えぇぇぇぇぇっ!」
 2人は絶望の叫びを上げる。
「今日はお客さんもいるので早目に切り上げるかもしれません」
 大島がこの2人をお客さん扱いするとは思えない。そうなるかどうかの鍵を握るのは井上と名乗った男の存在だ。

「空知君、宗谷君。中学生の彼らも走ってるのだ当流の門下生として最後までしっかり走り抜いてくださいよ」
「は、はい!」
「申し訳ありません!」
 いつの間にか後ろまで下がってきた井上さんが、全く息を乱さずに2人を注意する。
 年相応の老いを感じさせない体力は、普段から鍛錬を欠かしていない証拠だろう。先週のアレとは違い本物の鬼剋流幹部とは、決して舐めて掛かって良い相手ではないという事だ。
「そうそう、君は高城君といったね。先週は大島が無理に協力させたみたいで申し訳なかった。ありがとう」
 走りながらだけどしっかりと頭を下げてくれる。一見大島の同門とは態度だが、その目は計算高く俺の事を探るかの様に見ている。
「いえ、こちらこそご馳走になって、ありがとうございました」
 何処までも社交辞令であり、俺は感謝なんてしていない。中学生に何をさせてるんだと。あんな生き物(大島)を放し飼いにしているお前らの管理責任はどうなっているのだと問い詰めたいくらいだ。
「あ、あの件は、流石に法人という体裁をとっている以上はあれを経費と認めるわけにはいかないので……総帥が個人的に」
 つまり俺は鬼剋流には何の借りも無い。それどころかただ働きさせられたと言う訳だで、形だけの感謝ではあるが感謝しただけ損したようなものだ。
「そうですか」
「それで……君は中学を卒業後に鬼剋流に入門する気はありませんか?」
「全くありません」
 間髪いれずに否定する。この手の輩にはきっぱりすっぱりと付け入る隙を与えない態度を示す必要がある。
 甘い顔を見せて僅かでも可能性があると思えば、何処までもしつこく何時間でも粘ろうとする訪問販売の類への正しい対応が、玄関のドアを開けないことであるのと同様に僅かな取っ掛かりも与えてはいけない。余計な事を喋らせれば必ず長期戦に持ち込もうとするので喋る時間を与えてはいけない。
 大体、この世の中に時間を割いて聞くまでの価値があるほど『良い話』が自分からやってくる事は無い。
 自分の頭で必死に考え、足を棒にして探し回って、初めて自分の前にやって来るかもしれないのが『良い話』というものだ。
 これは絶対の真理であり、もしも「そんなことはない。私は本当に素晴らしいものに出会うことが出来た」という人がいたのなら、眉に唾して「それは良かったですね」と返せば良い。
 良い物には必ず人が集まる。勧誘するには勧誘しなければならない理由が必ずある。

「……考えてみてはくれないかな?」
「考える余地が在りません」
「強くなりたくは無いのですか?」
「俺達は既に十分強くなってますよ。今より強くなってどうなります?」
「君達の強さなど、まだまだだ。良いか武の高みとは──」
「素手で熊を倒せるようになることに何の意味があるんですか? 無邪気に強くなった俺最高って喜べるほど子供じゃないんですよ」
「……ひ、否定された。当流の根幹を中学生に全否定された!」
 俺の質問に対する答えをもっていなかったのだろう驚愕と絶望に顔を歪ませる……酷いな鬼剋流。想像以上に酷い。普通の武道ならば下らない精神論などで取り繕った建前の一つや二つはあるはずだろう。そんな建前すらないとは幾らなんでも実戦武術の看板に頼りっきりで経営面を何も考えてない。
 ある意味では破門された甲信越支部の幹部達の考えの方が正しい。こいつには法人としての体裁が云々などという資格は無い。
 そんなに強くなりたいなら、幹部達が山に篭ってひたすら修行に明け暮れれば良いんだ。
「中学生に否定されて反論も出来ないような大人ってどうかと思いますよ」
 そう言い残すとペースを上げてして井上と北海道コンビを置き去りにすると、東田と神田の尻を蹴り飛ばして「おらっ、速く走れ! 美人のお姉さん達の前で恥を晒したいのか!」と喝を入れた。

「おい、あいつに何て言ってやったんだ?」
 先程までの不機嫌面は何処へやら、満面に邪悪な笑みを湛えて嬉しそうだ。井上が走れなくなるほど精神的ダメージを負った事がそこまで嬉しいのだろうか、確かに大島と線が細く計算高そうな井上ではそりは合わないだろう。しかも年齢、立場ともに相手が上となれば、大島にとっては余程目障りだったのは想像に難くない。
「力を使う目的も無く強くなる事に意味は無いし、強くなった自分にうっとりするほど子供じゃないっていってやりました」
 大島に対する皮肉も込めて本当のことを伝える。
「何を言う。今よりも強くなった自分って素敵だろ!」
 馬鹿だ。皮肉の通じない馬鹿が居た。真正にして神聖なほどの馬鹿が居た。幼児退行して「怖いよパパ、ママ助けて!」と叫びたくなるほどの馬鹿だ。
「……パパママ? 何の事だ」
 やっべぇ~、冗談じゃなく本当に口にしてしまうほど俺は精神的に追い込まれていたのか。



[39807] 第46話
Name: TKZ◆504ce643 ID:ed806326
Date: 2014/06/24 20:18
 ランニング後の練習は型から始まる。大島の教える型は基本的に短い。普通の空手の様に何十も動作を組み合わせた長い型はやらない。
 実際の戦いにおいて使えるのは一呼吸で行える様な短い動作だけで、その短い動作をつなぎ合わせるのは実際の戦いの動きの中で殴り殴られながら憶えろというスタンスで、部活の練習中は型以上に組み手を重視する。何故なら型をやらせるのは部活外の自主練でちゃんと型をやっているかの確認にすぎないからだ……そう、ただでさえきつい部活の練習以外にも俺達には練習が課せられている。
 俺が一番好きなのは、相手の突きを内から外へと回し受けて、手首を返して相手の腕を押さえ込みながら自分の腰の位置まで押し下げる。その動作と同時に腰に捻りを入れながら一歩踏み込み、相手の攻撃した腕を封じつつ、封じ込めた自分の腕は正拳突きを放つ予備動作を終了させて突きへとつなぐ攻防一体の型だ。
 これで相手を一撃で倒せなければ空手を辞めるべきであり、空手とはこの形を作り出す為の武術であり、他の技はこの型につなぐ為の枝葉に過ぎないとまで確信する必殺の型だ。
 この型に出会った当時は、この型だけを毎日左右1000回ずつ繰り返した。いまでも毎日寝る前に200回ずつは繰り返している……流石にこの型につなぐ為の他の型もやらなければならないことは自覚している。

 新居を除く1年生と空知、宗谷の北海道コンビはいまだ回復せずに、床の上でマグロと化している。
 ちなみに途中で倒れた北海道コンビを背負ったのは田村と伴尾で、先導役の櫛木田は憎しみの目で2人を睨みつけていた。そして未だに幸せそうな田村と伴尾をまだ睨み続ける目には殺意が篭っている。
 たかが女性をおんぶしたしないで憎しみ合うとは実に人間が小さい。とりあえず田村と伴尾は死んだ方が良い。というか死ね……俺も私怨たっぷりである。恨みつらみから心を解き放てるなら俺はとっくに仏さんになってるよ。

 組み手は、1対1の普通の組み手から、剣道の地稽古の様に一定の位置から動かずに相手の攻撃を受けるもの、そして一対多数まで様々なバリエーションで行われる。
 大島にとって空手とは、決められたルールの中で仕合う競技でもなければ、1対1の決闘を想定した武術でもない。あらゆる状況下で戦い抜く為の戦場武術であるらしい。
 空手の構えは相手を正面に置いて足を左右に開くスタンスを取る。相手に対して急所である股間をさらけ出す実に間抜けな構えとも言える。
 現在の試合重視の空手にとっては、ルール上股間を蹴るのは反則なので蹴られない事に前提に、蹴られないならガードする必要も無いという考えもあるだろう。
 それに対して、ルール無しの1対1の決闘を想定する中国拳法などの武術においては、正面の敵に対して足を前後に開いて相手から股間を隠す。
 だが本来の空手は、1対多数を想定しているため、相手は前後左右何処にでも存在しえるので正面の相手に対して股間を隠す意味は無い。「どうだ空手の三戦立ちにはそんな意味もあるんだぞ」とドヤ顔で言う大島がウザいと思ったのを今でも憶えている……大体、お前は空手家ではなく、怪しげな鬼剋流という節操の無いちゃんぽん武術の使い手だろ。この色モノめが!

 本当に大島が空手家気取りな態度をするほど腹が立つ事は無い。
 大島って実は空手の事はほとんど知らないのではないかと言う疑問が、部員達の間で代々実しやかに囁かれている。
 何せ教わった技に付いて「これって何て名前の技なんですか?」と質問してまともに答えが返って来た事が無い。「うん? 別に名前なんてどうでも良いだろう。それともアレか? お前は技の名前を叫びながら攻撃するつもりなのか?」などと逆ギレしながら聞き返してくるのが常だ。
 そのせいで俺達は空手部の部員の癖に、技の名前はほとんど知らない。
 どうしても気になった場合にネットで空手の技の動画を検索し、頭をつき合わせて「これじゃないか?」とか「いや、反対の手の動きが違う」「それってこの人の癖なんじゃない」となどと揉めてしまうほど滑稽な空手部部員(笑)なのである。

 今俺は2年生の森口と岡本の2人を相手に組み手を行っている。
 2年生が俺を前後から挟む形から始まる。俺にとってはこの状況を変えることが目的となり、森口と岡本にとってはこの状況を維持しながら俺を追い込みながら、ついでに2・3発なぐったり蹴ったり出来れば満足といったところだろう。
 だが先輩として後輩にやられるわけにはいかない。無論、人外な身体能力を利して一方的に……なんて真似は出来ない。身体能力はレベル1当時にまで手加減する。
 いや更に抑えて7-8割程度で良い。己の技量を上げるためには身体能力に頼るべきではない。異世界において身体能力の向上は最強への道ではない事ははっきりとしている。龍を始めとする巨大な魔物たち、そして何よりルーセの存在がその事を嫌というほど教えてくれた。
 周辺マップも閉じた。身体能力も互角から少し劣る程度。しかも相手は2人で岡本は後ろを取り、森口は前で俺を自由にさせないように間合いのぎりぎり外で牽制する。
 圧倒的に不利な状況だが、1つだけ優位なことがある。そこを突けば森口は絶対に俺の想像通りの動きをとる。
 ゆっくりと前に踏み出しながら口元に笑みを浮かべる。すると森口は怯えの色を浮かべて下がる。そう俺への怖れが森口の身体を勝手に後ろに下がらせてしまう。この1年刷り込まれた俺への畏怖が、俺の口元に浮かんだ獰猛な笑みに反応して本能的ともいえるほどの強制力で彼の身体を操り、俺の踏み込みの倍以上の距離を退かせてしまった。
 逆に後ろで岡本が俺へと一歩踏み出す。耳がその音を捉えると同時に上半身の捻りだけで素早く振り返る……悪いな岡本。お前達の包囲は既に破れているんだ。森口が間合いの外に身を置きながら俺の踏み込みに対して倍以上の距離を後ろに下がってしまった時点で、この一瞬は奴は員数外であり、戦いの場にいるのは俺とお前だけなんだよ。
 そのことには岡本も気付いたのだろう。だが彼は覚悟を決めて更に一歩踏み込み互いの間合いへと踏み入れる。
 その意気や善し! 俺のは岡本への評価を一段上に上げる。ついでに森口は下げる。あいつは後で大島からの説諭は免れないだろう。
 先手は岡本にくれてやる。このまま先手をとっても俺の修練にはならないからだ、岡本は鳩尾を狙った前蹴りを繰り出す、次へとつなげる為の牽制であり、蹴り足をそのまま踏み込みに変えるために蹴りだが、決して手を抜いていない気合の入った良い蹴りだ。評価を更に一段上げる。大島に「今日の岡本は良かったので褒めてやってください」と進言しても良いくらいだが止めておこう。そんな事をすれば明日の岡本の練習は理不尽なほどきつくなるのだから。

 岡本の蹴りに対して俺は右足を左足の爪先の延長線上へと踏み出し距離を詰めながら、身体を捻って半身にする事で蹴りは脇腹を掠めて背後へと抜ける。同時に俺の右の掌は岡本の腹筋に押し当てられている。
「よくやった」
 そう声を掛けながら、左足で床を蹴った力を膝、腰、背骨、肩、肘へと順に乗せて掌を10cmほど前へ小さく、そして鋭く押し出す。
 蹴り足が床に着いても、上半身の動きが止められてバランスが後ろにあった岡本はそのまま背中から床へと飛ばされて転がる。

 その隙に背後から森口が迫る。しかし奴は自分の醜態に焦ったのかバタバタとみっともない足運びで振り返るまでも無く、奴の動きは手に取るように分かる。
 右回りに振り返り様、繰り出された奴の右腕を取ると、自分の胸元へ引き寄せつつ、左腕で肘関節を極めながら左膝の裏を蹴って片膝を跪かせると、とった右腕を俺尾両足の間に来るように奴の肩甲骨に腰を下ろした。
 そのままぐいぐいと右肩を逆関節に締め上げながら「森口、何をビビってる。お前がビビったせいで岡本は見殺しになったぞ」「主将、俺は死んでません」「とりあえず黙っててくれないか?」「はい!」と横道にそれながらも森口へと説教を続けた。

 そんな説教をしながらも、森口がビビって後ろに下がる事は最初から分かっていた。問題は下がり過ぎた事だ。五十歩百歩とは言うが、1歩と2歩では話が違う。
 1歩下がるのは反射的な行動であり仕方の無い部分もあるが、森口が2歩分以上も下がったのはメンタルの弱さが原因だ。はっきり言ってあそこまで下がるとは思っていなかった。そしてそれほどまでに後輩から恐れられていたという事実に凹む。
 ともかく、そのせいで俺の練習にもならなかった。本来は森口を員数外にする予定では無く、1対2という状況を保ちつつ一瞬の隙が出来れば良かったのだ……大島に「今日の森口は酷かったので、先生からも説教してやってください」と進言してやろうと誓った。


 やがて1年生が疲労からある程度回復して練習に参加し始めた。
 平日の朝練ならば、ここで再びランニングで1年生の体力を根こそぎ奪い尽くすのだが、今日は早目に切り上げて朝食タイムとなった。
 2年生、3年生が弁当を広げているが、1年生は弁当を広げるというよりは疲労による嘔吐感とまさに死闘を繰り広げている……頑張れ1年ども。吐いたらこの後の練習は公開処刑という名のカリキュラムに変更される事を忘れるな。

 空知さんと宗谷さんも復活して、持ってきたコンビニ弁当を口にしている。
 女子力低いなと勝手に決め付けたが、彼女達が所属する本部は愛知県にあり、この練習に参加する為に昨日の内に愛知を出発して、昨晩は駅前のビジネスホテルに一泊していたそうだ。それならコンビニ弁当というのも当然だ。それにしても折角の週末に大変だというか理不尽だ。さすが大島が所属する団体なだけはある。
「でも皆さん中学生なのに凄い体力ですね」
「鬼剋流ではランニングはしないんですか?」
 先程1年生よりも先にリタイヤしてしまった事といい、体力づくりにはそれほど力を入れていないとしか思えない。
「勿論ランニングはするけど……鬼剋流というよりも、毎日練習前のランニングで13kmもあんなペースで走る競技なんてあったとしても陸上の長距離くらいな気がするわ」
「えっ!」
 宗谷さんの言葉に一斉に大島へ振り返る。
「何だ文句があるのか?」
「いいえ!」
 一斉に大島から目を逸らせた。
 周りから1年生、2年生の「知らなかった」「おかしいと思ったんだ」「そうだよな陸上部の連中だってこんなに走りこんでないし」「こんなのを普通だと思っていたのか俺は……」と押し殺した悲しみの声が上がる。
「だから文句があるのか!」
「……ありません」
 悲しみの声はすすり泣きに変わった。
 俺達3年生はとっくに気付いて諦めていたからなんとも思わない……いや、ただちょっと悲しいだけだ。

「……何というか、凄いのですね」
 顔を強張らせながら空知さんが話しかけてきた。
「凄いんじゃなくて酷いんです」
 大島の視線が頬に刺さっているような気がするが気のせいだ。俺は絶対に大島を振り返らない振り返ってなるものか。
 彼女は俺の答えに苦笑いを浮かべる一方で、弁当の中身を箸で突っつくだけで中々、摘んで口に入れようとはしない。
「食欲がありませんか?」
「ええ、ちょっと……」
「今日は最後まで練習に参加する予定ですか?」
「……はい」
 一拍、何かを飲み込んでから答えた。気持ちは分かるがどうしようもない。俺には俺の柵(しがらみ)があるように、彼女には彼女の柵がある。人生って奴は儘ならならぬものだ……俺って中学生で、中学生ってもっと自由で気ままなものだよな。
「だったら無理にでも食べた方が良いですよ」
 今の内に食べておかないの昼や夜は頑張っても食べられなくなると思いますから……とは言わない。言ったら泣いてしまうだろうし、そうなったら完全に俺が悪者だ。悪いのは大島と井上であり冤罪で罪を問われては堪らない。
「本当に格好悪いな私は……高城君って言ったわね、心配してくれてありがとう」
「優しいな、高城君は」
 うわっ! 紫村? 後ろに立つな。お前だけは俺の後ろに立つんじゃない。怖いじゃないか!
「高城、抜け駆けか? お前まで抜け駆けするのか?」
 櫛木田はまだ僻んでいた。俺は奴の肩を叩いて顔を寄せると耳元で「午後のランニングの先導役は俺がやってやる」と告げる。
「高城っ! 高城ありがとう! 今までお前の事を嫌な奴だと誤解していたよ」
 反射的に殴ったが反省はしていない。この件に関しては最高裁まで争っても勝ってみせる。

 食事の時間を含めて1時間の休憩の後、練習は再開される。
 流石にまずはランニングとはいかない。3年生はともかく2年生まで死んでしまうから。
 休日の練習の午前の部は、筋力トレーニングが中心になる。来週の水曜日からは平日の朝と放課後の練習もランニングメニューが減って、筋力トレーニングが行われるようになる。
 まずはロープ登り、握力や腕力だけでなく上半身の筋肉がバランスよく鍛えられるメニューだが、空手では柔道ほど重視されないメニューだと思うのだが何故か大島はこれが大好きで部活でも特に時間を割く。
「高城。今日こそはお前に勝つ!」
 顔を赤く腫らした櫛木田がまるでライバルであるかのように宣言する。もっとも「今日こそ」という台詞が俺と奴の力関係をはっきりと表している。
 入学当時は櫛木田の方が空手経験者だけあって、腕力などの身体能力は上だったものの2学期の半ばには俺は追い越していた……それほどまでに俺は大島に可愛がられていた。今思い返しても地獄な日々であった。
「……はいはい」
 どうせ空知さんと宗谷さんの2人に良いところを見せたいだけだろう……だが絶対に負けてやら無い。これは狭い了見で言っているのではない。こいつが女性の気を惹くなんて世界の滅亡の前触れ以外何物でもない。そんな不吉な事を許すわけにはいかない。全人類のために!

「始め!」
 大島の指示と同時に俺と櫛木田はロープに両手で握り締めると、腕の力で身体を引き上げていく。最初は櫛木田と同じペースを保つ。
 互角の展開に櫛木田は横目で俺を見ながら「どうだ」と言わんばかりに笑みが浮かべる。だが半分を過ぎた辺りから次第にペースが落ち始める櫛木田を尻目に俺は一定のペースを保ちながら上へと登っていく。
 ロープの上端部分にタッチし折り返しで戻る途中ですれ違う時、櫛木田は限界を超えたペースに顔を真っ赤にし汗だくになりながら「空気を読め」と喘ぎながら漏らすが「土下座して頼んでから言え」と斬って捨てた。

 レベルアップの恩恵が無くても櫛木田に負けることは無いが、幾ら手加減をしていても疲労を感じないというのは手加減しようが無い。別に汗をかいている訳でも無いが壁際まで自分のタオルを取りに行き汗を拭く振りをする。
「これをどうぞ」
 宗谷さんがやって来てスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくれた。
 折角なので受け取るとぐいっと一気に飲み干す。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「…………」
「どうかした?」
「もしかして、俺達を鬼剋流に取り込むように井上さんから良い含められて無いですか?」
「…………えっ、何の事?」
 その間が分かり易すぎる。妙なサービスの良さが気になってカマを掛けてみたが大当たりか……やっぱりそんなもんだよ。俺達に見返りも無くサービスしてくれる女性なんて想像上の生き物だよ。
「そうですか……どうせリビドーを持て余した猿並の中学生なら、年上の美人のお姉さんに優しくされたら簡単になびくと考えたんでしょうね。彼は」
 そう言いながら井上に鋭く視線を向ける。
 奴は空知さんからスポーツドリンクを受け取りながら鼻の下を伸ばす櫛木田を満足そうに見ていた……男の癖に男の純情を踏みにじるような真似をした奴を俺は絶対に許さない。
「大人って汚いよね。自分だって中学生の頃はスケベな馬鹿餓鬼だったくせに、女を使って道を誤らさせようなんて……」
「あ、あのね?」
「宗谷さんも、休みを潰してまでこんなところに連れてこられて迷惑でしょう?」
 下っ端の悲哀は俺も大島の下で嫌というほど分かっている。閉鎖的な道場という場での上下関係の厳しさは封建的ですらあろう。
「えっ? ええ……あっ!……もう内緒よ」
 美人のお姉さんが「もう内緒よ」って、童貞少年を殺す気か? もう少し感情を込められたら一発で理性吹っ飛んだだろうが、奇跡的に表面上は冷静を保つ事に成功した。
「本部の偉い人達の間であなた達のことが話題になってるみたいだけど、あなたの先輩達ってほとんど鬼剋流に入門しないでしょ」
「好き好んで中学卒業後まで大島先生とのつながりを持ちたいとは誰も思いませんよ」
「そうよね……私にも想像以上だったし、まさかランニングだけで今日ここに来た事を後悔させられるとは思わなかったわ。でもそれでもどうにかしてあなた達を鬼剋流に迎えたいらしいの」
「……3年生に1人、入門希望者がいるからそれで勘弁してもらえませんか?」
「えっ、いるの? 何故?」
 おい、何故って本音が出てるよ。
「まあ……それは本人に聞いてください」
 まさかホモが愛しの先輩を追いかけてなんて説明は出来ない。北條先生の妹やうちのクラスの女子の様に腐ってるなら目を輝かすかもしれないが、どちらにしても先に在るのはデメリットのみとしかない。
 何故なら鬼剋流には紫村の性癖に関して無警戒なまま受け入れてもらいたいからだ。井上が勧誘に成功したと自らの功を誇った後で、紫村の本性に気付いて慌ててもらおうじゃないか。これが俺の井上に対する意趣返しだ。
 セコイ。自分でもはっきりと分かるほどセコイ。なのに想像するだけで胸が透く思いがする。
 がんばれ紫村。俺は生まれて初めてお前の性癖を心から応援する。鬼剋流の風紀よ思いっきり乱れるが良い。

---------------------------------------------------------------------------------------
また新キャラか?
また新キャラだ!

来月またお目にかかれれば幸いです。



[39807] 第47話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2015/07/19 22:04
 昼食を終えて、午後の練習が始まると完全に疲労から回復した空知さん、宗谷さんのコンビも組み手などに参加する。
 技などの切れは決して悪くは無い。だが2年生相手になんとか互角以上という程度であり、化け物揃いと思っていた鬼剋流門下生のレベルに失望する一方で安心する。
 これなら空手部の連中が入門したとしても酷い目に遭う事は無いどころか、空手部に比べたら腕が鈍る事を心配するレベルだろう。ただし大島が絡んで来なければの話である。奴が絡めばどこでも地獄と化す……どこか遠くで幸せになってもらえないものだろうか?
 教頭の件で、何人もの鬼剋流の人間が駆り出された様に、事ある毎に空手部出身者は優先的に大島に使われる事になるだろう。全く気の休まることが無く、俺達の高校生ライフは始まる前に試合終了だ。

「嫌になっちゃうわ。本当に彼って中学2年生なの?」
 香籐との組み手を終えて戻ってきた宗谷さんが俺に愚痴をこぼす。
 2年生の中でも頭ひとつ抜けている香籐相手に圧され気味だった事が悔しいようだ。
「香籐は強いですよ。来年は主将として俺以上に強く空手部を引っ張っていく男だから」
 間違いなく人格面では香籐に圧倒的差で負けている自信がある。はっきり言って顧問を含めた空手部の人間の中で一番の人格者は香籐だ。奴なら主将として俺以上に立派に部員達をまとめていくだろう。
 問題は常識人であるが故に大島とは俺以上に噛み合わない事だ。
 俺自身、時々櫛木田なんかに「お前って最近大島に似てきたな」といわれる。俺自身も時々「今の俺って大島みたいじゃなかった?」とゾッとする事がある。それは他の3年生達にも言えることで、櫛木田を始め、特に伴尾なんかその傾向が強く感じられる事がある。唯一大島からの影響を感じさせないのは紫村だが、奴の場合は『紫村』としての個性が『大島』に対して引けを取らないほど強すぎるからだ。むしろ大島さえも退いてしまうような事を口にすることすらある。
 そんな紫村の様な強力なキャラクターを持たず、どのように主将として大島と渡り合うのか心配でもあるが、良い意味でも期待もしている。

「私も鬼剋流2段としては普通の腕は持ってるつもりだったんだけど、伴尾君には歯が立たなかったし、自信無くすわよ」
 そう言って床の上に崩れ落ちると頭を抱える。
「本当に素晴らしい腕前だと思いますよ。特に3年生の皆さんは鬼剋流の3段クラスの腕前を持っている」
 井上が話しに入ってきた。
「じゃあ大島先生を鬼剋流の師範として迎えて、大島先生の指導の下で鬼剋流の皆さんが修行を積めば良いんじゃないですか? 中学の部活より温い事やってて鬼に勝つだなんて看板が泣きますよ」
 チェンジ! 毒舌モード……この男に甘い顔をしてやる義理などもはや無い。

「ちゅ、中学の部活より温い? いや、確かにこの有様を見れば一理あるとしか……やはりそうなのか? だが、そもそも大島が師範になったら色んな意味でお終いの様な……」
 またもや自問自答に入った井上に俺は止めを刺しに行く。
「今はっきりと分かった。あんた達鬼剋流がやってる事は中途半端なんだ。それでよくも甲信越支部の連中を粛清しようと思ったものだ。経営者としてならば奴らの方が遥かに正しい。そして強さを求めて門下生を指導するいう面では大島先生の足元にも及ばない。一体、結局何をどうしたいんだ? やってる事が中学の学園祭の出し物と同じレベルで何のビジョンも見えてこない。だから当たり前の決断すら出来ない。お前らは甲信越支部の連中を追い出した段階で、頭を下げてでも大島先生を若手指導のトップに据えて看板負けしないように質的向上を図るしか道はないんじゃないのか? それとも何か? 追い出した連中に今更頭を下げて経営を見てもらうつもりか? じゃなければ大島先生以外に若手実力の底上げを出来る人間がいるのか? いるなら本部から態々連れてきた2人がこんな有様なんて事は無いだろう? そんな決断も出来無いで、大島先生が育てた空手部の連中を取り込んでお茶を濁そうなんてたわけた事を考えているから、お前は駄目なんだ!」
「だ、駄目? 中学生からお前呼ばわりで、駄目って?」
「高城……お前はそこまで俺のことを……」
 自我崩壊寸前の井上に対して、俺の言葉を高評価と受け取った大島が珍しい事に感激している。褒められ慣れして無いんだな……でも俺も褒めた覚えは無い。
「早く大島先生を責任のある立場に据えるために教師を辞めさせろ。そして俺達に自由を、そう普通の中学生にしてくれ!」
「……高城ぃ……お前はそこまで俺のことをぉ……」
 何だろう、同じ台詞のはずなのに大島からの殺意を感じるんだけど。

「し、しかし、大島を師範にすえても奴のやり方と人望では若手が付いて来るはすが無い。大島を追い出したい君が一番、そんな事は分かってるはずじゃないか」
 そんな事は当たり前だ。大島の指導という狂気の沙汰に着いて来れる奴だけを鍛えて全体の質を上げるならば、規模は今よりずっと小さくなるだろうさ。鬼剋流という流派を立ち上げ、外部に対して門戸を開き多くの門下生を受け入れた時に、規模を大きくして『鬼剋』の名にそぐわない組織を作ってゆっくりと腐らせるか、少数精鋭で『鬼剋』の名に恥じない組織をひっそりと続けるかの二択を済ませておくべきだった事くらい気付けよ。
 人は鬼には勝てない事を分かっていて『鬼剋』と名づけた以上、そんな幻想に付いてこられる人間なんてごく限られる存在なのだから。

「だったら看板を下ろして、道場を畳めば良いんじゃないかな?」
「な、何だ君は!」
 変なおじ……いや変な性癖の持った少年、紫村だ。
「大体、営利団体の癖に『鬼に勝つ』なんて看板を上げてる方がおかしいんですよ。良い歳して厨二病ですか?」
「ちゅ、ちゅうにびょう?」
「中学生男子が掛かる精神的病を指すネット用語です。精神の高まりによって目や腕が疼くと言われています」
 紫村が口にした厨二病が分からない井上に空知さんがフォローに入り、ある意味的確ではありつつも偏った情報を教える。
「いえ正確には、小学生の無邪気なヒーロー願望に対して、中学生になってヒーロー願望から覚めた代わりに掛かるアンチヒーロー、ダークヒーロー願望とも言える病気です。更に年を重ねて高校生になると社会にも出た事の無いくせに『社会ってやつは』とか『現実ってやつは』とか空想で醒めた大人を気取る高二病に掛かるそうですよ」
 止めて、これ以上思春期の男の子の心を蔑み抉るよう事は言わないで! ……悪魔だよ宗谷って女は悪魔だよ!

「そんなものと鬼剋流の看板を一緒にするな!」
 井上は言われた内容を大体理解したのだろう激した。
「一緒ですよ。営利団体が鬼に勝ってどうする気です? それが利益につながるとでも思っていますか?」
 しかし井上の怒気などは何処吹く風とばかりに冷笑を浮かべる。
「営利団体、営利団体と当流はそんな──」
「同情経営だけではなく、国内外への警察、軍への教官としての人材派。プロ格闘家への指導など、国内より海外での儲けがずっと多いそうですね……それで脱税とか」
 最後の言葉は井上の耳元で囁くように口にした。多分、耳にする事が出来たのは井上。そしてレベルアップで聴力も向上した俺。それにもしかしたら人間離れした知覚能力を持つ大島なら聞き取ったのかもしれない。
「そ、そんなこと──」
「今時、ネットで調べれば色んな事が分かるんですよ」
 動揺しながらも声を潜めて反論しようとする井上の言葉を紫村は妖しい笑みを浮かべながら遮った。
 そうなのか? お前の情報は時々怪しいぞ。普通に調べれば分かる事と、法律を守って調べていたら分からない事の間にはとても深くて暗い溝があるんだぞ。飛び越えてないか? もしかして既に溝を飛び越えちゃってるんじゃないのか? 頼むから飛び越えてないと言ってくれ。
「ネット上に? 馬鹿な証拠など見つかるはずも無い」
 つまり厳重なセキュリティーに守られた情報があると自分で言っちゃってるよ……それよりも紫村ぁ~飛び越えちゃったんだね?
「証拠ですか、あえて言うならあなたの態度が証拠ですよ。語るに落ちましたね、まるで何処かになら証拠があるみたいではないですか」
 カマを掛けたのか。確かに井上の反応はあからさま過ぎた。知能派を気取ってる感じだが俺とのやり取りからしても、それほど頭が切れるタイプじゃない。
「そ、そんなものは無い」
「別にそんなに慌てなくても、情報をリークしようというのではないですよ」
 追い詰めた挙句に優しい口調で囁く……情報をリークってお前、やっぱり越えちゃいけないものを越えてるだろう。犯罪だよ。俺の目の前で犯罪者甲を犯罪者乙が脅迫しているよ。
 俺は紫村の話を聞かずにその場から離れた。鬼剋流の拙い話を聞いて抜き差しなら無くなるのも、これ以上面倒ごとを増やすのも御免だった。
 それにしても紫村が怖い。本当に中学生なのか疑問だ。


 筋トレメニューの後は再び組み手を行い、空知さん、宗谷さんの2人は1年生を含む全員と一度は手合わせをして、彼女達にとってのノルマを果たした。
 そういえば栗田はトレーニングルームで一人自主トレに励んでいたので除外する。今日の大島は井上に気を取られているために栗田のことを忘れている様なので良い骨休めになっただろう……という事にしておこう。
「井上さんがお前達3年生と少し手合わせをしたいとの事だ。いいか遠慮なく全力でいけよ……殺す気でな」
「はっはっはっ……大島君は相変わらず冗談が上手い」」
 全然冗談じゃないし、冗談だとしても上手くは無い……大島と井上、両者の間にはぴりぴりとした剣呑な空気が満ちていく。
 どうせならお前ら2人で殺し合ってくれないかな? 勝利するも疲労し、怪我を負ったところを俺が漁夫の利で……いかん、いかん素敵過ぎる妄想に思わず実行したくなる。
「いやいや、冗談じゃありません。それくらいの気概で行かなければ井上さんを楽しませることも出来ないじゃないですか」
 お前は無理に、慣れない笑顔を作るな。怖すぎる。
「そうですか、気遣いありがとう大島君」
「……という訳だお前ら。許可が出たから、どんな汚い手を使っても一発ずつは入れろ。入れなければどうなるか分かってるんだろうな」
 大島の非道さに、井上を含めてこの場にいる人間は言葉を失った。

 そうは言っても、大島と良い勝負が出来そうなレベルにあるだろう井上を相手に、幾ら強いとはいえ中学生が出来ることなどは余り無い。
 そもそも汚い手の引き出しは、長らく物騒な世界で生きてきた井上の方が遥かに多く、そしてその対処法も豊富だ。
 1分も経たずに引き出しを全て引き出され、追い込まれた伴尾は、俺達がいつも練習で行っている空手のスタイルに立ち返った。
 その顔には、もう一切の迷いは無く、澄み切った空の様に晴れやかだ。覚悟を決め、自分の為すべき事に気付いた目だ。
 3年生の中で一番不器用で実力的にも劣ると自身で自覚しているだろう奴は、あえて誰よりも基本を重視した。
 一意専心。奴が時折自分に言い聞かせるように口にする言葉だ。その言葉は何よりも重い……普段はいい加減な男なのだが。
 すり足で間合いを詰める。井上はあえて正面から伴尾を迎える。
 そして己の間合いに捉えた瞬間「しっ!」と鋭い呼気と同時に拳が繰り出される。肩にも腰にも余計な力の入らない流れるような力の移動、そしてその全てが拳へと集約されていく。
 一意専心の言葉通り、彼の流した汗と、費やした時間の全てを体現したかのような突きは井上の腹筋を捉える。
 その瞬間、井上は「はっ!」と鋭い気合を発すると、伴尾の突きを1歩後ずさるだけで受けきった。
「良い突きだ。君が今まで積み上げてきた全てを拳に乗せたような良い突きだ」
 そう言いながら、伴尾の肩を叩いて讃えた。人気取りとは言え、そこまでやる井上に俺は少し敬意を覚えた。
「大島君。これで文句は──」
「何をやってる伴尾! そこで両襟を取って頭突きだ!」
 ……全てが台無しだよ。

 その後、田村、櫛木田と順に井上と手合わせを行う。2人とも伴尾の戦いを見て思うところがあったのだろう。
 正面から戦いを挑み、十数手の攻防の後、己の最高の技を繰り出す。そして井上はその全てを防御することなく受けきり、そして彼らを讃えた。
 大島の酷さと対比して、この人になら一生ついて行っても良いと思っても仕方の無いだろう。女仕掛けで騙してくるならともかく、それは彼らが選ぶ道だと俺は思った。

 4番手は紫村。先の3人の中で一番実力のある櫛木田と比べても一段上の実力を持つ彼だが、それでも井上から見ればまだまだ軽くあしらえる程の実力差がある。
 そして紫村が己の持つ最高の技を繰り出した瞬間、井上は避けた。
 構わず紫村は追撃を行う。
 両毛、独鈷、風月、稲妻、明星と実にいやらしく点穴を狙いにいく。
「ちょっと……待て……なんで、君は……急所を的確に……突いて来るんだ?」
「これが……僕の……スタイルです……さあ僕の全てをこめた……一撃を受け止めてください!」
 激しい攻防……紫村の一方的な攻撃と、井上の一方的な防御をそう呼んでも良いのなら。
「そんなの受けたら、死ぬわ!」
 紫村えげつない。
「そこだ。殺ってしまえ! 今だ行け紫村!」
 大島だけは拳を握り締めて応援していた……

 そして最後を飾るのは俺……紫村? 流石に奴でも井上が本気を出したら何もさせてもらえなかった。大島が「大人気ないぞ!」と叫んでいたけれど、当の本人である紫村さえも相手にしていなかったな。
 向かい合って先ずは一礼。そのまま構えると左手を前に伸ばして指を真っ直ぐに伸ばして掌を上に向けると、4本の指を2回連続で起こす。
 ブルース・リーが映画の中でやる挑発の仕草だ。勿論顎をしゃくるのも忘れない。
 戦いの中で主導権をとるために先制攻撃というのは有効な手段だが、それ以上に有効なのは相手の先制攻撃をこちらのコントロール下に置いた状態で迎え撃つ事だ。
「挑発か、その手には乗らないよ」
 そりゃそうだ。いい歳してこんな安っぽい挑発に乗ったとしたら相当な馬鹿だ。だけど、あえて俺がこんな安っぽい挑発をした意味を考えられないのも相当な馬鹿には違いない。
「中学生の挑発にビビって慎重になっちゃうって、鬼剋流的にはどうなんですか大島先生?」
 いきなり俺に振られた大島は、一瞬の内にこちらの意図を理解すると邪悪な笑みを浮かべて答えた。
「そりゃあ、恥っ晒しのヘタレだな。俺なら生きていけねぇ、この場で腹を切って死んだ方が良い」
 井上の顔が羞恥と怒りで真っ赤に染まる……この場に大島がいることを一瞬でも忘れた己の不明を後悔しろ。
 氷の上を滑るかのような上体の全くぶれない流れるように美しい踏み込みから繰り出される井上の拳に、俺も踏み込みながら左の肘を合わせる。
 だが井上は肘と当たる瞬間に拳を掌底に切り替えるて受け止めると、人差し指と中指を肘の内側に伸ばして引っ掛けると、引き寄せて俺の体勢を崩そうとする。
 それに対して俺は肘をぐっと締めて井上の人差し指と中指を挟み込むと、そのまま肘を右回りに180度回転させて、自分の左の掌底に右の掌底を打ち込んで動きの取れない井上の2本の指に衝撃を加える。
「くっ!」
 残念ながら折るまでは行かなかったが、人差し指と右指を痛めて後退する。

「中学生にやられて下がるなんて、みっともねえな井上さんよ。机仕事ばっかりで鈍ってるんじゃないか? 色々とよ」
 大島絶好調。我が世の春とばかりに満面の笑みで井上をけなしていく。
 おい、挑発はもう止めろ馬鹿。俺はここまでしか絵図を描いて無いんだ。幾らなんでもレベルアップの恩恵を隠したまま、このクラスの相手とこれ以上戦うのは無理。いや、大島に匹敵する技量を持つと考えるなら、全力で戦っても勝てるかどうか──
「黙れ大島! 私が好きで机仕事ばかりしてると思ってるのか? 他の幹部達が幹部としての仕事をせず、私と総帥に押し付けるから仕方なくやってる事だぞ。大体他の幹部どもは仕事もせずに『久しぶりに熊とやり合いたいな』『アメリカで灰色熊でも狩るか?』『最近では北海道の羆の方がでかいらしいからな』『いや、カムチャッカの羆がでかいらしいぞ』『じゃあ井上。渡航の手続きとチケットの手配を頼む』『俺の分もよろしくな』だぞ。バッカじゃないのあいつら? あんな奴らのために私は自分の修行の時間を潰してきたんだ。そりゃあ鈍りもするだろうさ。その癖、連中は俺の腕を馬鹿にするんだ。良いんだぞ。俺は何時幹部を辞めても良いんだぞ。その代わり憶えておけよ。私の代わりにお前を幹部、事務局長に推薦してやるからな覚悟しておけ!」
 ああ、何て言うか……この人、可哀想になってきてしまった。
「なんだ……その……すまなかった井上さん」
 大島も頭を下げる。こちらは可哀想になったわけでも悪いと思ったからでもなく、事務局長に推薦されるのが嫌だったのだろう……そうか、そんなに嫌か大島。だが俺に弱みを見せて良かったのかな?

「井上さんは、幹部の座を大島先生に譲って、己の目指す武の完成を追求をするべきだと思います」
 この笑顔を抑えることなんて俺には出来ない。
「高城、てめぇ裏切っ──」
「僕もそうした方が良いと思うな」
「紫村! 貴様」
「大島先生。幹部、事務局長への昇進おめでとうございます」
「教師を辞められた後も、後進の指導に励んでください」
「今までありがとうございました」
「お、お前等──」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「おめでとう──」
「おめでとう──」
「おめでとう──」
「おめでとう──」
「おめでとう──」
「……ありがとう」
 そして全ての教え子達に……
「憶えてろよ!」

 終劇

 ……嘘だけど。



[39807] 第48話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2014/07/22 21:04
「よし。最後の仕上げにランニングをやるぞ」
 時刻はまだ3時過ぎで、これからランニングをするにしても切り上げるにはかなり早い……他の部と比べたら全然早く無いんだけどね。
「今日は井上さんが、お前らに焼肉をおごってくれるそうだから食欲がなくならない程度にランニングは抑えておいてやるから腹いっぱい食わせてもらえ」
「えっ?」
「お前ら、礼を言え」
「ありがとうございます」
 一瞬呆気に取られる井上を無視して、大島の促す声に俺達は間髪入れずに礼を言う。大切な事は機先を制し問答無用で既成事実化する事である。
 皆、笑顔だ。同じ後ろ暗さを共感し合う者同士特有の人の悪そうな笑顔だ。そこには当然のように空知さん、宗谷さんも含まれていた……焼肉の前には人情紙の如しだな。

「練習で20kmも走る事になるなんて……」
「もう駄目ぇ~!」
 今日の水揚げはマグロが2本。宣言通り食欲を無くさない程度に抑えてくれた結果だ……あの大島が練習を端折ってまで井上の財布にダメージを与えることにこだわるとは、本当に仲が悪いのだろう。それなのに態々相手の本拠地である空手部にわざわざ乗り込むとは、ドMなのかもしれない。
「体力無いですね。いつもなら25kmは走るんですよ」
 そうマグロ達に話しかける。
「体力無くない!」
「私だって、毎日朝晩に5kmずつ走ってるのよ! 大体ペースが速すぎる」
「だからジョギングじゃなくランニングなんですよ」
「だからって、あんなマラソンの世界記録でも目指すような勢いで走ることは無いでしょ」
「それは大島先生に言ってくださいよ」
「そんなこと言えるわけ無いでしょ!」
 抗議の声を上げるが、その身体は仰向けになったまま地面から1mmたりとも離れる事は無い。
「大体、5kmくらいなら毎日練習後に犬の散歩で走ってますよ」
 俺にとってはマルとの大事な癒しの時間だ。
「……高城。それは引くぞ」
「俺もだ。流石に練習の後に走るのは嫌だ」
「お前が余裕あるみたいな事を言ったら、大島が距離を伸ばすから二度と口にするな」
「そうだね。大島先生なら『そうかまだ生温かったか、すまなかった。明日からの練習メニューを考え直す』と凄く良い笑顔で謝罪するね」
 3年生達からは総突込みが入った。確かに大島の耳に入ったら……あれ?
「大島は俺が練習後に散歩してること知ってるぞ」
 教頭の件で見張られてたからな。
「何?!」
「い、何時からだ?」
 俺の言葉に激震が走った。
「水曜日からだ」
 鈴中が死んだ次の日の事だから間違いない。
「ああ、あの件の時か……という事は、結構時間が経ってるしセーフなのか?」
「セーフなんじゃない?」
「とりあえずセーフとしてだ。高城、大島がその事を思い出すような事はするなよ」
「分かった。分かったけど、飼っている犬の事を言わなければ良いのか?」
 思い出すような事の範囲が漠然として広すぎる。何を切欠に思い出すかなんて分からんよ。唯でさえ何を考えているのか分からない奴だから。
「そうだな犬の話はするな。そして散歩をしているところは絶対に見られるな」
「無茶言うな。大島が何処で見てるかなんて分からないぞ」
 俺には出来ないオーダーじゃないが、櫛木田。普通の人間には無理な事を言うな。
「主将、どうかお願いします」
 香籐……他にも後輩達がすがるような目で俺を見ている。
「分かった。いざとなったら俺が何とかするから心配するな」
 安請け合いしちゃったよ。状況に流されやすくNOといえない小心さ、実に憎めないキャラクターだ……と自分を慰めてみる。

「あの件って何? お姉さんに教えてくれない?」
 すぉーやー! 折角収まりかけた話を何故ひっくり返すの?
「何でもありませんよ」
「え~っ、何なのか教えてよぅ」
「止めなさいよ美佐」
「良いじゃない。ねぇ教えて」
 流石にイラっとしてきた。
「紫村」
「了解」
 俺の呼びかけに答えると、宗谷さんの頭の脇に片膝を突くと、何の躊躇も無く宗谷さんの首筋へと手を伸ばすと両の人差し指と中指で頚動脈を押さえる。ランニング明けでまだ脈も呼吸も荒くなっていた彼女は、頭への血流を止められると僅か3秒足らずで意識を失った。
「えっ? 何?」
 その隣で床の上のマグロこと空知さんが、阿吽の呼吸で行われた暴挙に驚きの声を上げる。
「やる?」
 紫村はまるで一緒に飯でも食わないかと誘うかのように、彼女の事も気絶させるか聞いてくる。紫村はバイセクシャルじゃない。だから女性に対しては表面上とても柔和に接し親切にもするが、実際は路傍の石程度にしか思っていはいない。
「止めておこう。気絶させたところで記憶までなくしてくれるわけじゃない。ただ大人しくして俺の話を聞いてもらえれば良いだけだから」
「そうだね……良かったねお姉さん」
 優し気な笑顔の瞳の奥に宿る何かを見てしまったのか空知さんは身震いを起こす。
「という訳で空知さん。僕達は余計な詮索をされるのが大嫌いなんだ。分かってくれるかな?」
 俺の言葉に、彼女は首を何度も縦に振る。
「分かってくれたなら、宗谷さんにも余計な興味は持たないように伝えて欲しいんだけど、良いかな?」
 再び俺の言葉に首を縦に振る。
「後はと当たり前の事だけど井上さんにも黙っていてね。そうじゃないと後で愛知まで出かけなければならなくなってしまう……分かるかな?」
 悪乗りのし過ぎとはいえ、こんな事を言ったら彼女達には嫌われてしまうな……だけど良いんだ。俺には北條先生がいるんだから、だから何にも辛くないもん。
「……分かったわ」
 僅かな怯えの表情を浮かべながらもそう答えてきた。20歳位の女性が脅迫を受けてもパニックも起こさず冷静さを失わない。彼女が属する鬼剋流という組織の異常さを改めて感じずにはいられない……俺とか紫村の方が異常? そういう説も無い事も無いのかもしれない。

 空知さんは田村に肩を借りて、いまだ気絶している宗谷さんは櫛木田に抱き上げられて職員用のシャワールームへと連れて行かれた。
「紫村はともかく高城は、お姉さん達と『触れ合い』をしなくても良かったのか?」
 田村が、羨ましそうに伴尾と櫛木田を見送りながら聞いてくる。
「別に……俺は北條先生一筋だし」
「イスカリーヤさんの事はどうなんだ?」
 ニヤニヤしながら話しかけてくる。
「イーシャは、大切な従妹だ」
「はっ」
 鼻で笑いやがった。
「お前、何か勘違いしているみたいだが、イーシャは──」
「はいはい、分かりました分かりました」
 苛立ちを抑えつつ、諭すように話し始めたのを遮ると、そう抜かしやがった。はいも分かりましたも一回だ!

「……そういえば、イーシャがお前の事を──」
「なんと?」
「服の趣味が悪くて、しかも口が臭いと言っていたな」
 田村は無言で床に崩れ落ちた……脈も無いただの屍のようだ」
「殺すな!」
 おっといかんな、そうであって欲しいという願望が口から漏れていたようだ」
「態とだろ、態と口に出してるな!」
「そんなのに態とに決まってるだろうが!」
「ぎゃ、逆切れ?」

「ちょっと良いですか主将?」
「何だ?」
 2年の仲元が揉めている俺と仲元の間に入る。この下らない口論には俺もウンザリだったので渡りに船──
「イーシャさんとは一体──」
「先輩の話に口を挟んだ挙句、いきなり女性を愛称で呼ぶな。説諭!」
 田村の突きが仲元の腹に突き刺さった……おい。
「イスカリーヤさんと呼べ、イスカリーヤさんと!」
 ……おいおい。
「あ、ありがとうございました」
 何で殴られた挙句に何で礼まで言わなきゃならないのか未だに理解出来ないが、これが空手部の掟だった。

「それでイスカリーヤさんとはどんな人ですか?」
「美人ですか?」
「可愛い系ですか?」
「外国の方なんですよね?」
 馬鹿田村のせいで2年生達が一斉に食いついてきてしまったではないか。
 そう、こいつらだって思春期の獣であり、空手部部員である為に飢えに飢えてしまった獣だ。
「え~い! お前達には10年早い。ひかえろ!」
 田村が2年生達を牽制する。
「お前こそ100万年早いわ!」
 田村の背中を蹴り飛ばす。
「何を?」
「黙れ、大体お前はイーシャのパンツを覗いて白だ白だと喜んだ変質者じゃないか!」
 改めて腹が立ってきた。よく考えたらこいつや櫛木田、伴尾を俺はまだ許した訳じゃない。
「そ、それは人聞きが悪すぎるだろう」
「そうだな人聞きの悪い事実だ……本当に性質が悪いなお前」
 そう吐き捨ててやった。
「違うんだ。アレはほら……ラッキースケベってやつで──」
「意図したラッキースケベなどこの世には存在し無い。説諭!」
「見損ないました! 説諭!」
「この変質者が! 説諭!」
「犯罪者。説諭!」
「うらやま……説諭!」
 田村は俺に一発貰った後も、立て続けに2年生達に殴られていく……どいつだ? うらやましいと言いかけた奴は。


 ディナータイム1980円の焼肉食い放題の店の看板を見て、頭の中の算盤をはじいて溜息を吐く井上だが、当然大島の足はそこをスルーして先週と同じ、ちょっとお値段高めの高級といえなくも無い焼肉レストランへと向かう。
「大島君。大島君。その店は拙いんじゃないのかな? 拙いよね!」
 井上はプルプルと首を横に振りながら必死に大島に訴えかける。
「問題ありません。俺の財布は全く傷みませんから」
 そう言うと入り口との間に立ちふさがる井上の肩を押し退けるようにして店の中に入っていく。
「終わった……終わっちゃった……女房にどう説明すれば……」
 入り口前のスロープの手摺につかまり力なく項垂れる井上の横を、俺達は目を合わせないようにして、そそくさと店内へと入っていく。手下であるはずの北海道コンビさえも彼に声すら掛けないで入店する。

 一人取り残された井上を憐れみをこめた目で見つめながら、誰に話すという風でもなく呟く。
「鬼剋流の看板を背負うに相応しく徹底的に己を鍛え上げる。他よりも少し厳しい修行で、他より少し強い門下生を沢山そろえる事で金を稼ぐ。これを一緒にしようとするから問題が起こるのであって分けて考えれば何の問題も無くなる。前者を上級道場とし、後者を下級道場とし、下級道場から選抜した才能とやる気のある門下生を上級道場へと掬い上げる事で、下級道場で数を維持しつつ上級道場で質を高めれば良いだけだ。ついでに言うならば下級道場もクラス分けして、上のクラスの修行内容は下のクラスの門下生には決して見せないでおき、それでいながら時折合同練習などで、上のクラスに上がった門下生の上達振りを、下のクラスの門下生に見せて上昇意識を高める。そうすれば上のクラスに上がった時に、厳しい修行を課せられても理不尽とは感じずに済むだろう。ともかく全員徹底的に鍛え上げようとか、いやそれじゃあ人が集まらないからそこそこの修行ですまそうとかなんてブレるから駄目なんだ」
「だ、駄目だったのか私は……」
 井上は止めを刺されたかのように崩れ落ちた……さてサービスは終わった。今日は容赦なく高い肉を腹一杯食べようと心に誓った。



[39807] 挿話4
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2014/07/22 21:04
 井上には分かったことがある……彼らは大島の弟子に他ならないと。
「危険だ。彼らを取り込むということは、第2、第3の大島を生み出すのと同じだ……だが、そんなリスクを恐れて手を拱くなど、看板に鬼に勝つと刻んだ我々にとって許されることだろうか? ……許されても良いだろう。あいつら鬼というよりも悪魔だから」
 井上は20万円を越える領収書にすっかりと心が折られていた。
 当然、こんなのが経費と認められるとは思えず、妻の激怒する顔が脳裏に浮かび身震する。

 櫛木田、田村、伴尾の3人はいい。彼等は井上にとっては確かに中学生としては桁外れに腕も立つが所詮は子供だ。助平で扱いやすいところも、まるで自分の子供の頃がそうであったかのようで共感でき好感も持てる。
 だが問題は紫村、そして高城の2人だった。
 2人の腕前は、桁外れも桁外れであり異常の2文字が似合うほどで、鬼剋流3段にも勝てる者がいるとは思えなかった。
 だがそんな事は良い。腕が立つ若者を門下生として受け入れる事は鬼剋流としても望むところである。
 問題となるのは頭の切れ。共に子供とは思えないレベルであり、鬼剋流の頭脳を自認してきた自分が良いように扱われてしまったことに恐ろしさすら井上は覚えざるを得ない。
 彼らに比べたら自分などは井の中の蛙というか、馬鹿の村の賢者だと井上は自覚する。
 そして性格は、まずは容赦が無い。そして恐ろしいほど狡猾だ。大島さえも利用し自分を挑発して状況をコントロールした高城に、鬼剋流の裏のことまで調べ上げて平然と大人を脅迫した紫村。
「本当に彼等は中学生なのか? 嫌だあんな中学生」
 井上は50歳を目前にして中学生相手に泣きが入る。
 彼は鬼剋流の幹部としては常識人過ぎた。常識人では非常識人に勝てるはずが無かったのだ。

 後日の幹部会により、井上は中学生に一泡吹かされたと笑い者になっていた。幾ら真面目とはいえそこまで委細漏らさず報告書にまとめるかと、また井上は笑われる。それが井上の罠だとも知らない者達によって。
「ならばあなた達も試しに、彼等と手合わせしてみるが良い」
 口元に挑発的な笑みを浮かべながら話す井上に、脳筋幹部ちゃん達は簡単に釣られる。
「じゃあ、来週は俺が行く!」「いや俺が」と俺が俺がと爆釣に、自分で仕掛けておきながら『この馬鹿ちんどもが』と頭が痛くなる井上。
 それからしばらくの間、空手部では毎週土曜日は焼肉の日となるのであった。
 先に犠牲となったものは井上の共犯者となり、更なる犠牲者を生み出し続けて全員が犠牲者となるまで連鎖は止まらなかったからである。

 一方、井上からの報告書にはない報告を受けた総帥は、彼等の財布が軽くなってしまったことには言わんこっちゃ無いと溜息を漏らした。
 だが鬼剋流の将来を考えると頭が痛かった。
「上級と下級の2階建ての組織運営とは……」
 面倒臭さに溜息が漏れる。昔のころの様にひたすら己の求める武のありかたを追い続けるだけの日々が懐かしいのだった。
「昔のように、一人で山に籠もって修行がしたい……」
 悲しいつぶやきが零れ落ちた。



[39807] 第49話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2015/04/27 12:37
 決行当日の朝。
 目覚めた後もルーセは俺にしがみついて離れようとはしなかった。
 ルーセも今日の戦いで命を落と事を覚悟しているのかもしれない……実際はそれほど覚悟する必要も無いと思うんだけどな。
 昨日考えた作戦に、俺は切り札を追加する事にしたと言えば格好良いが、単に断崖地帯からの帰り道にアイデアが浮かんだだけだ。
 思いついてしまえばなんて事は無いが、実に強力でえげつない戦い方である。
「ルーセ。もう起きよう」
「いや。もうちょっとだけこのまま」
 確かに火龍との戦いは奴が夕暮れ前に巣穴に戻ってくるところへの奇襲攻撃だから、コードアを昼過ぎに出ても十分に間に合う。
 だがルーセは日に日に甘えっぷりが激しくなってきている。その癖に反抗期的な態度や我儘は相変わらず直らないというか強くなってきている。これも俺への甘えと受け取れば、実の妹の100万倍は可愛いと思えるのだ。
 心配なのはもしルーセが火龍討伐後に俺と一緒に旅に出る事を受け入れた時、今以上にスキンシップが激しくなったとしたら、俺も男だ絶対に一線を踏み越えないとは言えない……獣という字を四文字読みであてるべきお年頃なんだよ。
 だけど、何年も一緒にいればルーセも成長する。その時は手を出しても決して問題ではない年齢差に収まっているはずだ。
 だが今は、こんな穴があったら入れたいと思うよな危険物な俺でも、こうまでも無邪気に身を任されては優しい気持ちになってしまうのは必然というものであり、しがみついて離れようとしないルーセに思わず目を細めてしまうはペドじゃなくても仕方の無いことだろう。

「予定よりも早目に村を出て、ルーセのお父さんとお母さんの墓に挨拶をして行かないか?」
 何時もより遅めの朝食を終えた後で、そう切り出してみた。
 ルーセが火龍との戦いに不安を覚えているのなら、気休めでも両親の墓参りをして心を落ち着かせるのもありだと思ったからだ。
「良いの?」
 珍しい反応だ。行きたいのなら俺の意見など無視しても押し通そうとするはずなのにな。
「火龍を倒す為の準備は終えた。後は今更じたばたしても始まらないさ」
「ありがとう」
 そう言うと俺のウェストの辺りに両腕を回すと抱きついてくる。今日はやけに素直じゃないかやっぱり素直が一番良い……ルーセさん。そろそろ腕の力を緩めてくれないかな……締め付けが強すぎて食べたばかりの朝飯が逆流しそうなんだ……つかするからやめてぇ~!!

 リバースの危機を何とかしのぐと、出発の準備を終えてルーセと共に家を出る。
 ルーセは村出口付近で足を止めて村の風景をじっと見詰めている。何処か慈しむような目だったので、魔物避けのエルピトルムの実の臭いが気になったが先に行こうとは切り出せなかった……実は本当に気になってはいた。別に強力な悪臭というわけではないが、嗅ぎ続けていると不快感を覚える。自分も魔物の一種じゃないかと思うくらいに、この臭いには慣れる事が出来ない。
「行こう」
 ルーセが俺の腕の袖を引っ張る。
「もう良いのか?」
「うん」
 そう答えるルーセ。こんな感傷的になった彼女の様子に、火龍を怪我をする事も無くこれといった見所も無く、あっさりと倒した後でからかってやるのも良いなと思いながら歩き始めた。

「そうだ。墓参りなら花が必要だな」
「花……何故?」
 突然の思い付きを口にした俺を不思議そうに見つめてくるルーセ……あれ、こっちの世界には墓に花を供えるという習慣は無いのか? キリスト教圏だって墓には花を供えたよな。日本における仏教と欧米のキリスト教以外の地域の宗教ではどうなのかは知らないけどさ。
「ほら、花って綺麗だろう」
 そう答えつつも、正直なところ俺には花を見て綺麗だと思う感覚は無い。色鮮やかだなとか、良い匂いがするとかはあるが、花を見て綺麗とか感じた事は無い。例えばタンポポなんて規則正しく並んだ小さな花弁の集まりが、何処か昆虫の腹の模様とか節足動物の足とかに見えてきたりして不気味に思えないこともない。こんな感受性をしているから美術教師に人間性を問われるのだろう。
 でも女の子になら、女の子ならば俺の言葉に同意してくれるはずだ。
「分からない」
「分からないのか……」
 ……ルーセが男の子なら、そうだよな花が綺麗とかそんなのわかんねぇよな! と笑いながら肩を叩き合って親友になれたかもしれない。だが彼女は女の子なのだ。これで良いのか? 良いはずねえよ! 俺の想像以上にルーセの心の女の子らしさは未発達だ、何とかしなければ、俺が何とかしなければ、涼の二の舞にだけはしてはいけない。もう手遅れにするのは嫌なんだ……我ながら酷い事を考えていると自覚はある。
 俺は道端に咲くマーガレットに似たピンクの花を摘むと、ルーセの髪の右側に挿した。
「ほら、こうするとルーセがいつも以上に可愛く見えるぞ」
 そう自分で言いつつ、確かに花一輪を挿しただけでいつもよりも可愛く見えるから不思議だ。
「本当?」
 笑顔で嬉しそうに聞いてくる彼女に冗談だと言ってみたい欲求に駆られるが、命を懸けてまで言いたいとまでは思わない。
「本当だよ。どこかのお嬢さんみたいだ」
 まあ格好はどう見てもちびっ子ハンターだけどな。
「えへへっ」
 顔を真っ赤にして照れっ照れの様子は可愛いが、ドスドスと音を立てて俺の腹筋の守りさえも脅かす拳での突っ込みはいい加減やめてもらいたい。俺にここまでダメージを通すということは、普通の成人男子相手なら一発でまとめて内臓を破裂させるだけの威力がある……ああ、リバースさんが甘酸っぱい思い出とともにやってくる。

 丁重にリバースさんにお帰りいただいた後、墓に備える花を摘みながらも墓のある丘を目指す。
 俺の前を歩くルーセがいつになく楽しそうで、年相応の子供らしさが微笑ましい……そんな風に思ってしまう自分が、庭で遊ぶ孫を縁側から見守る爺さんのようで怖い。
 まあ、それでも不安でセンシティブになっていたのが少しは良くなったのなら、いくらでも爺さん気分に浸ってやろう。
「リュー、これ綺麗?」
 幹から伸びる枝に小さな白い花が鈴生りになって咲く、カスミソウの様な花を持って聞いてくる。
「綺麗だけど、それ以上に小さくて白い花がほかの花の美しさを引き立ててくれると思うよ」
 分ったような事を言ってみる。花の美しさが理解できなくても、14年間も生きていればこんなありきたりな事くらいは口にできるようになるのだ。
「そうか、この花は偉い」
 高く掲げた花を見ながら笑った。

 ルーセの両親の墓は、火龍の巣から東へと3kmほど離れた丘の上にあった。
 丘の頂に根を張る樹の根元に墓標代わりの一抱えはある大きな石が2つ並んでいた。
「ルシル……グラバド……お父さんとお母さんの名前だね?」
「うん。ルーセが刻んだ」
 そう答えると、ルーセは2つの墓標の前で手を合わせた。俺も彼女に倣って手を合わせる……神道・仏教・キリスト教、それぞれ多少の違いはあっても手を合わせて祈るように、こちらの世界でも手を合わせるものなんだな。
『グラバドさん、ルシルさん、ルーセのことは俺に任せてください。必ず無事に火龍を倒して……ルーセの保護者の地位をゲットだぜ!』
 手を合わせながら、こんな事を考えていたなんてルーセには絶対に内緒だ。

「お父さんとお母さんにはリューの事もちゃんと話した。後は火龍を倒すだけ」
 吹っ切れたような表情のルーセに俺はほっと胸をなでおろす……あれ?
「ルーセ。これは誰の墓標なの?」
 今まで気づかなかったが彼女の両親の名を刻んだ石の横に、両手の掌を合わせた上にちょうど乗るくらいの石が置かれていた。
「それはなんでもない。お父さんを埋める穴を掘っていた時出てきた石」
「……そうか」
 俺はその石の前で手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えた。
「どうして?」
「ん? これはね、俺の故郷には『形あるものには魂が宿る』という考えがあって、ルーセのお父さんとお母さんの墓の隣に、形だけでも墓のようなものがあれば、それはこの近くで失われたもの達全てにとってのお墓となると思ったからだよ」
「それは素敵な考え。じゃあルーセが死んだら、お父さんとお母さんの隣の此処に、魂だけになっても必ず帰ってくる。そうしたらお父さんお母さんとずっと一緒」
「ルーセが死ぬのはずっと後のことだよ」
 そう言ってルーセの頭を撫でた。
「……そうだね」
 しがみついてくるルーセの頭の後ろへと手を回して引き寄せると、もう一方の手で頭を撫で続けると腹の辺りが濡れてきた……やっぱり、お父さんとお母さんの事で寂しく思っていたのだろう。

「リュー。お腹すいた」
 確かにすでに昼過ぎだ。この世界って基本的に1日は朝晩の2回の食事なんだが、普通におやつと言うか間食をする。
 だが今日は間食の用意をしていなかった。何故ならルーセが朝食を作った時点では、昼に家で何かを食べてから出かける予定であり弁当的な物を用意していないままに墓参りが決定してしまったからだ。
 つまり、何も食べ物を用意していない……【所持アイテム】の中には血抜きしただけのオークや猪モドキが何体か入っているがアカンだろう。
 他に食べ物といえば、あの糞不味い保存食くらいだ。この異世界で一番不味い食べ物として認識しているあれを食べるくらいなら俺は食わなくても構わないが、お腹をすかせた子に我慢しなさいというのも保護者を自認する者としては余りに不甲斐ない。
「……こんなものしかないけど」
 そっと保存食を取り出してルーセに見せる。
「あっ、これ知ってる!」
 ……そうか、そんなに不味くて有名か。
「これ美味しいからルーセ好き!」
「…………はぁ?」
 ちょっと聞きました奥さん。今聞き捨てならない台詞を口にしましたよこの子。
「リュー、これ嫌い?」
「好きじゃないけど……」
「変なの」
 いや変なのはむしろそっちの方だろう。試しに角を少し齧ってみる……うん、やっぱり不味い。
「……鍋とおたまを出して」
 そんな俺に対して呆れた顔で命令してきた。
「鍋?」
「早く!」
 強く急かされて【所持アイテム】の中から鍋を取り出して渡す。
「水!」
「はいはい」
 【水球】で出した水を鍋の中に入れる。
「次は沸かす。言われなくてもやる!」
 叱られた。年下の子供に叱られると本当に自分が駄目な気になる。井上もこんな気分だったのだろうか?
 一方ルーセは、保存食を角からパキパキと折りながらお湯の沸いた鍋の中へと入れていき、全て入れ終わると「お湯が冷めているから温める!」と命令してきた。
 もう一度【操熱】で沸騰させると、おたまで鍋の中をゆっくりとかき混ぜていく。すると保存食が溶け出してお湯が白くそまり、やがてとろみがついてきてシチューのようなものが出来上がった。
「味見」
 そう言って中身の入ったお玉を精一杯背伸びして差し出してくる。
「美味い!」
 おたまから口に含んだ瞬間に、こくのある味わいが口の中に広がる。これは間違いなくシチューしかもクリームシチューにかなり近い味わい……いや、近いというには遥かに美味い。別の食べ物と言って良いレベルだ。
「本当はこれに野菜や肉を加えて煮込む。そのままかじって不味いというリューは馬鹿。大馬鹿」
「くっ」
 何の反論もできない。こんな美味いものを調理もせずにガリガリと齧っては不味いと言い捨てていたのだ。例えるならカレーのブロックルウを齧ってカレーって不味いと抜かすのと同じ、もしそんな奴が目の前にいたら……うん、殴るな「ふざけるなこの馬鹿!」と怒鳴りながら殴る。そして泣いても殴るのをやめない。それはカレー様に対する冒涜なのだから。
「謝って」
「な何に?」
「この携帯保存食に謝って」
 り、理不尽な……自分なら泣いても殴るのをやめない癖に、そう思うのは人間、誰もが持つ身勝手さという奴だと全人類に罪を着せるのであった。

 ちなみに例の保存食は、保存食としては最高級品だったらしい、そういえば俺の【装備品】や【所持アイテム】の中に入っていたのはかなり良い物ばかりで、特に武器なんかはルーセの蛮用でも刃が欠けたりしないで切れ味を維持する最高級というか不思議レベルの逸品であり、保存食だけが糞マズの安物と考える方がどうかしていたのだ。
 とりあえず、自分でも料理出来るようになった方が良いという事が理解出来た。それに今時の男は料理が出来ないともてないとも聞く。もしも料理の腕が一流になれば俺もモテモテになるかもしれない……そう考えた瞬間、システムメニューを開いて「んなわけないじゃん!」と腹を抱えて自分で笑えてしまうのがとても悲しい。



[39807] 第50話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2014/07/22 21:05
 保存食で作ったシチューを食べてた後、、俺とルーセは火龍の巣穴へと向かう。
 時間的にはまだ余裕があるが、実際に準備をしつつ問題点を洗い直すことを考えればいい時間だった。

 先ずは竪穴の中で足場とする岩を設置する。
 岩山の上の入り口から中へと降りる。
 入り口から5mほど降りた先で、システムメニューの【装備品】上では投擲用の石とされている『岩』を装備する。すると穴の半分以上をふさぐ形で岩が出現した。
「これなら十分な足場になるな」
 足場としての強度を十分に持っているか慎重に確認してから岩の上に全体重を移した。
 全部を塞がないのは万一撤退する場合に、この隙間を通って巣穴のドーム上の部屋まで滑り降りて逃げることが出来るし、それにルーセからの合図をこの隙間を通して聞き取るためだ。最初は周辺マップで火龍の視界がルーセの要る方角へと振れたタイミングで、俺が攻撃を開始する予定だったが、出来るなら声で指示を出した方が良いだろうと変更したからだ。
 他にも俺が火龍に奇襲をかけてて成功した後、ルーセは横穴から巣穴に入って、そこから縦穴を登ってくる予定だったが、大地の精霊の加護により岩壁を地面のように移動できることが分かったので、外回りで岩山に登って貰う事にした。

「じゃあルーセ。予定の場所に立って大声を出してみて!」
 そう大声で呼びかけると、俺は足場の上に跪いて隙間に耳を寄せた……上の入り口の方からは聞こえてくるけど、隙間の方からはいくら耳を澄ましても何も聞こえてこない。
 一度穴から出てルーセの居る方へと歩いてみると20m足らずで急激に傾斜が強まり崖のような垂直な壁になっていた。
「これならいけるか」
 再び縦穴に入ると周辺マップでルーセの位置を確認し、そちらを向かい、更に上下角を下へと構えると【装備品】では槍とされている、全長20m以上の杉に似た真っ直ぐに伸びた針葉樹の大木の枝を切り払ったものを装備する。そして岩に食い込んだ大木を収納する。
「駄目か」
 対火龍の秘密兵器である特製の長槍も下に角度をつけた分、距離が長くなり貫通するには至らなかった訳だ……開いた穴に手を突っ込んでもう一度装備を実行する。ルーセの歓声が上がり、収納して覗き込んでみると穴の向こうに光が見えた。
「ルーセ。もう一回大声を出してみて!」
 俺の叫び声に答えるように発せられた「わぁぁぁぁぁぁっ!」という叫び声が穴の向こうから聞こえてくる……成功だな。
 俺は縦穴を飛び出すと大声で「聞こえたぞ!」と叫んで手を振る。するとルーセも大きく両手を振り替えしてきた。

 全ての準備を終え、更にセーブを実行する──失敗してロードした時に、別の手段を考えて準備する時間を確保するために、この時点をセーブポイントとした──と、もう実際に戦って火龍を倒す以外にすることが無くなった俺とルーセは、岩山の頂で寝そべって空を見ながら話をしながら時間を潰す。
 ルーセと出会ってわずか10日足らず、もっと長く一緒に居たような気もするが、出会ってからの思い出を語るために言葉にすると、それは驚くほどに少なかった。
 話題が途切れたので、俺は前々から話そうと思っていたことを口にした。
「ルーセ。火龍を倒したら村を出て、俺と一緒に旅をしないか?」
 かなり大事な話だというのに俺は上を向いたままでそう話しかける。何か照れ臭いのと、断られた時のショックを緩和したいという予防線でもある。
「……一緒に行きたい」
 俺の中で緊張の糸がほぐれていく。
「そうか、ありがとう……!」
 返事をしながら振り返ると、こちらを見つめるルーセの目からは涙が零れ落ちていた。
「ルーセ?」
「あぅ、何でもない」
 そう言いながら涙を拭う。
「火龍を倒したら、俺がルーセをおいて村を出て行くと思ってたのか?」
「べ、別にそんなこと思ってなかった……ただ」
「ただ?」
「何でもない! 楽しみだな~色んな場所に行くのが楽しみだ」
 慌てるルーセの様子に、俺はただ良かったなとしか思わなかった。


「来た!」
 広域マップに火龍らしきこちらに向かう飛行物体が映る。らしきというのは火龍とはまだ一度もシステム上ではエンカウントしていないから固体識別がされていない。だが声を上げたルーセは加護で得た気配察知により、はっきりと火龍を認識できているのだろう。
「じゃあ打ち合わせどおりにやるよ」
「わかった」
 俺の言葉に小さく肯き返すと、岩山を降りて射撃ポイントに潜む。
 それを見届けると、俺も縦穴へと入ると自分の頭上に右手を掲げると『投擲用の石』を装備する。
 縦穴の周辺の壁に縁を全てめり込ませるように『投擲用の石』は出現する。
「しかし投擲用って、こんなもん投げられるか……ルーセじゃあるまいし」
 レベル39に達し、更に精霊の加護により現在の俺の5倍に迫るというふざけた筋力を持つルーセでも、さすがに持ち上げることは出来ても投げるのは無理だろうけど……無理だよね?
 軽口を叩いている間に火龍は周辺マップの範囲内に入ってくると、わずか4秒で俺が隠れている縦穴の上空に達した。

 横方向に開けた穴から警戒するような低い唸り声が響いてくる。
「さあ降りて来い」
 火龍は上空をしばらく10周ほど旋回した後で、急に高度を下げ俺の真上へと降りてくる。岩肌に手を当て更に耳を澄ます。
 ……ドスンという小さく鈍い衝撃が掌を通して伝わってきた。
「………………」
 そっと伸ばした左手を天井に当たる岩の蓋に触れさせると息を殺して、その瞬間を待つ。

「グゥガアァッァァァァァ!!!」
 直接ではなく森の木々に反射して横穴から飛び込んできた音にも関わらず、肌をビリビリと振るわせる音というより振動が届く。
 この糞っ垂れな爆音の中で俺は耳を塞がずに澄ます。ルーセからの指示を聞き逃さないように耐える。耐える……気力が絶える。
 もう耳がもたないと思った時、ルーセの声が聞こえた。何を言ってるのか全く分からないが、ルーセが喉が張裂けんばかりに叫んでいるという事実だけで行動に移すには十分だった……まあなんだ。ちゃんと周辺マップで火龍の視界の方向を確認していたけどね。

「収納!」
 自分を奮い立たせるようにあえて声に出して発動させる。
 暗闇の中で待っていた俺には、日が傾き始めた空でさえも眩いほどに目を刺激するが、俺は眉間にしわを寄せて目を細めながらも、しっかりと正面を見上げていれば、レベルアップは恩恵は明暗順応にも影響を与えており、わずかな時間で穴の外に立ちルーセの居る方角へと首を回らせている火龍の姿を見せてくれた。
「装備!」
 その言葉が口から紡ぎ出されると同時に、丸太を担ぎ上げるような構えをした俺の肩の上に、全長20m以上、直径45cmほどの大木が姿を現して火龍の胸から背中までを貫き通す。
 火龍は自らの身体を貫く痛みに首を振って、自分の胸元を覗き見て固まる。多分これはジーパン刑事の「何じゃこりゃ!」の直前の溜めだと思ったが、容赦なく「装備!」「それから装備!」「ついでに装備!」と立て続けに4本の火龍の身体に突き刺す事に成功する。
 そしてルーセに止めを刺すように指示を出そうとして今度は俺が凍りついた。火龍は20m級の大木4本に身を貫かれたままに飛び立とうとしていた。
 体中を貫かれ、重要な臓器も破壊されて、更に4本の内1本は首の根元の部分を真ん中から貫き通し、ブレス攻撃どころか呼吸すら出来ない状況で、なお翼を羽ばたかせて、その巨体を宙へと浮かべんとする強靭な生命力と生きる意志には畏敬の念すら覚える。
 だが、黙って飛び立たせる訳にはいかない。

 足元の岩を蹴り、次に縦穴の縁を蹴ると宙に舞う。火龍は重傷を負いつつもなお戦意を失わず右の腕を鋭く振って俺を叩き落そうとするが、右足から岩を出すと蹴って左へと跳び、右腕のスイングの軌道の外へと退避すると、今度は左足から出した岩を蹴って火龍の右の翼へと跳ぶが、火龍もしつこく粘る。額から一本生えた1mほどの角で串刺しにでもする気なのか俺に目掛けて頭を振る。
 だがその攻撃には既に俺の回避能力を上回るほどの勢いが無かった。余裕を持って身体をひねって先端の切っ先をかわし角を横から蹴って距離を取る。そんな自分の動きをイメージした瞬間、背筋に冷たいものを感じて咄嗟に岩を出すと、それを蹴って角から距離を取った。
「ぐっ!」
 足の裏を焼かれる激痛に歯を食いしばりつつ何が起きたのか足の更にその先へと目を向けると、足場として蹴った岩が真っ赤に焼けていた。
「拙い!」
 叫ぶと同時にシステムメニューを開く。岩は中の水分が水蒸気となった膨張圧に耐えられず弾け、溶岩を撒き散らすだろう。
 俺は【所持アイテム】の中から大量の土砂を撒いて破裂した岩の破片を防ぎながら、溶かされたのとは別の岩を蹴って上空へと跳んでいた。
 畜生! 岩を溶かす高温の攻撃はブレスではなく角かよ。全くの想定外だ。再びシステムメニューを開いて火傷した足の状態を確認するためにブーツを脱ぐ。
 靴の底は真っ黒に焦げており、何枚も革を重ねて作られたソールは厚さの3/4ほどがボロボロと剥がれて落ちた。そして残った革を通して伝わった熱で足の裏の皮はズルリと剥がれていた……嫌なものを見てしまった。
 【水球】で患部を冷やすと【軽傷癒】で治療する。3連続で使用すると火傷の跡に薄皮が張ったのでブーツを履き直した。
「さてどうしたものか」
 角からの熱放射の攻撃が、角から直接発せられるだけとは思わない。
 熱放射のポイントは意識的に移動させることが出来なければあの巣穴が完成している訳が無い……いや待てよ指向性か? 水龍のブレス攻撃だと同じだ。本来なら短い距離で拡散して強力な切断力を失ってしまうはずの水流に10m以上の距離でも収束させたように、魔力か精霊の力か知らんがファンタジーによって本来なら全方位に放射される熱量を狙った方向にのみ絞って放射できると考えた方が良いだろう。任意の位置にあの超高温を発生させられるとしたら俺はもう帰って寝るぞ。


 下にいる火龍を見下ろす。
 時間停止状態で奴がどのような動きで今の体勢になっているかは分からないが、多分俺を見失っているはずだ。システムメニューを解除したら、即効で【無明】で視界を一時的にでも奪うべきだな。
 様子を見る限り、現在は岩を溶かしたような高熱は発していない。逃げる時にばら撒いた土砂から出た砂埃が溶けたり蒸発することなく角の周囲にただよっているのが証拠だ。
 流石にあれほどの熱量を常時放射し続けるのは無理なのだろう……無理だよね? 無理って言ってよ。
 放射による熱効率は、単純に計算すると対象までの距離にの二乗分の1で減少し、更に熱伝導によるロス等を環境による差異を物理学者的大雑把さで2割程度としよう。そして角から1m程度の距離で一瞬で岩が溶けた時の状況から推測される最低でも5桁で、多分6桁──プラズマの世界にようこそ──に達するだろう超高温が収束せずに全方位への熱放射で行われた場合に、遮蔽物が無い状況で人体への、いや既に人外ですが、俺の生命維持に支障が無い距離を計算しよう……駄目だこりゃ! 十数mしか離れていないこの状況では直ぐに死ぬという状況ではないがレンジでチンされているのと大して違いが無いし、更に攻撃を加えるために距離を詰めた時に熱放射が始まったら先ほどの岩と同じく中から弾けとぶだろう。


『ロード処理が終了しました』

「何故?」
 ルーセがじっと俺を睨む。
「作戦失敗したからだよ。火龍が巣穴を作る時に岩を溶かしたのはブレス攻撃によるものだと思ってたから、奇襲で首の根元に攻撃してブレスを封じたけど、あれって角からの攻撃みたいでさ。あのまま戦っても勝てないというか死ぬ」
「角から……非常識」
「だろう? しかも、咄嗟に出して熱を防ぐことが出来た岩さえも、あっという間に溶けて破裂するくらいだから、一番最初に角を破壊しなければならなかったって事だよ」
「良く生き残った。リューえらい」
 ルーセが感心して拍手してくれた。確かに自分の予感を信じられなかったら、いや一瞬でも判断が遅れればロードする事も出来ずに死んでいただろう。悪い予感に限って確率論を超えて良く当たるという圧倒的信頼感の悲しいジンクスに感謝する日が来るとは……
「という訳で作戦の練り直しだ」
 その言葉にルーセの表情が曇ったので補足する。
「だけど今日中に火龍を倒す予定に変更はないよ」
「分かった」
 ……露骨なまでに表情を変えたな。
「それで確認しておきたいのだけど……火龍はルーセの手で倒したいよな?」
 最悪、俺が倒してしまうというのも考えておく必要がある。
「……? 火龍を倒して村の人が襲われなければどうでもいい」
 不思議そうに首を傾げながらそう答えた……しっかりとした考えを持ったお子さんで、それに引き換え俺ときたら、恥ずかしい! 何、この空回り、とんだピエロだよ。

 俺が止めを刺していいなら、奇襲の一撃目で火龍の頭へと打ち込めば倒すことが出来るだろう。それが一番シンプルであり確実だろう。
 あくまでもルーセが止めを刺すという事に拘るならば、俺とルーセの立ち位置を交換すれば良い。だが火龍に更に奥の手があった場合に備えて現時点でのセーブポイントは保持しておきたいので、セーブ&ロードで当たるまで射るという作戦の使えない現状において俺の弓の腕では火龍の注意をそらす事すら出来ないだろう……うん、役立たずだね俺って。
 そうじゃなければ、先ほどと同じ俺が奇襲を行い最初の一撃で角を破壊し、次にブレス対策で首の付け根を潰し、それから接近戦で飛行能力を奪えば良い。だが位置的に角を破壊しようとすれば同時に頭部も一緒に破壊という可能性が高い。何せ丸太を肩に担ぐイメージで構えて装備を実行するのだから狙いをつけても正確性には欠けるのだ。
 他には、敢えて角は攻撃せずに、奇襲時に木を突き刺したままにしないで装備と収納を繰り返して、飛び立てないほど体中を穴だらけにしてから一時撤退して距離を置く、そして弱ったところを見計らい襲撃をかけて止めを刺す……余りにも醜い戦い方を想像し顔を顰める。
 それ以外に火龍を倒す方法が存在しないというならばともかく、いくらルーセの両親の仇だとしても気に入らない。それなら俺が倒してしまった方がマシだ……マシなのか。


「収納!」
 縦穴を塞ぐ、頭上の岩を収納する。
 ルーセは今回も龍の注意を惹きつけるという役目をきっちりと果たしてくれた。この抜群の安定性と信頼感はゴルゴ先生並だな。
 ならば俺もきっちりと自分の役目を果たすだけだ。火龍の頭へとつながる首の一番細い場所へと狙いをつけて装備と収納を4連続行い火龍の首を切断した。
 折角高値で売れる角を破壊するのはもったいないと思ったのと、落ちた頭を自分の手で破壊すればルーセも両親の仇を自分で討てるという考えだった、
 尾から頭の先までの長さが25mにも達する巨体が、二足歩行とまでは後ろ足で立っているのだから、その血圧は途轍もなく高い。首の切断面からは巨大な噴水の様に血が噴出すと俺の身体やあたり一面の地面に赤い花を咲かせ……えっ、何だ? ちょっと待ておい!


『ロード処理が終了しました』

「何故?」
 今回は明らかに怒りを込めて俺を睨んでいる。
「……信じられないことだが」
 そこで一旦、言葉を切る。何故なら自分の目で見たはずの俺にとっても信じられないからだ。
「何?」
 そう先を促す声や顔に険がある。
「火龍の血が発火した」
「……本当?」
 怒っていたルーセも呆気にとられる。
「本当だ。飛び散った血が突然燃え出した。俺が全身に被った血もいきなり燃え出した」
「出鱈目」
「本当に出鱈目だろう。出来るだけ血を流さないように殺さなければならないって事だよ」
「出来る?」
「難しいな。頭をふっ飛ばしても、出血量は同じくらいだろうし……やるとするなら、最初に角だけを破壊して、次は最初の時のように胴体部分に刺した木をそのままにして出血を抑えるのが正解なんだろうけど。角だけを……どうやったら?」
 2回も連続で想定外の事が起こった原因は、火龍に関する情報が少ないという事に尽きる。何せ俺のファンタジー的な知識と先入観、そしてルーセからの証言と、一昨日と昨日と今日の3日間の調査結果のみ。
 だが俺はその少ない情報を十分に精査して、絞りつくしたのだろうか? そういえば一つ引っかかっている事がある。
 最初の奇襲攻撃の時だが、俺が火龍の翼を攻撃するために跳躍した際に火龍は前足で攻撃を仕掛けて来た。
 ティラノサウルスほど極端ではないが、その巨体に比べると明らかに小さく、退化の過程にあると思われる前足までも何故攻撃に使ったのか? いやむしろ、何故角による攻撃を先に行わなかったのか? 
 2つの可能性が考えられる。1つ目は熱放射にはデメリットがありおいそれとは使えない……これはない。既に火龍は致命傷を負っていた。デメリット云々いえる立場には無く、確実かつ早く俺を倒す必要があったのに使わなかった。この事は、2つ目の理由である熱放射は咄嗟には使えない。精神集中などの溜めの間か、それとも狙いをつけるためのタイミングが必要であるという仮説を強く補強する。
 そう考えれば、前足の攻撃から即座に角の攻撃につなげたなら溜めの間は必要でない可能性が高い。それに火龍は角の攻撃をする時に首を振って角を俺へと近づけようとした……つまり狙いをつけ易くするためだ。素早く動く俺へ熱放射の攻撃を当てる事が出来ないと判断したから、出来るだけ俺に角を近づけてから攻撃した。という事は狙いをつけない全方位への攻撃も出来ないと考えて間違いない。
 いくら火龍とはいえ生き物である以上、6桁に達するだろう超高温を額に生えた角から全方位に放射されたら脳が耐えられるとは思えない。更に連続的に使用するのも不可能なのだろう。それが出来るのなら急所でもある頭部に近寄らせてまで一撃で倒そうなどとせずに乱放射で対応するはずだ。
 確信を得た。もしこれが間違いなら「そんな馬鹿な!」とお約束の言葉を口にしながら笑って死んでやろう……そんな余裕があったらロードするけどさ。

「やっぱりルーセに止めを刺して貰う」
「分かった」
「それで、もう何本か木が欲しいから宜しく」
 そう言いつつも、岩山を降りて森へと向かうルーセの後を追う。
 最初の奇襲時の4本に加えて、幾つか攻撃しておきたいポイントがある。中でも真っ先に破壊しておきたいのが心臓だ。
 心臓さえ潰すことが出来れば、たとえ首を斬り落しても先程のように噴水のごとく血が噴出すなんて事は起こらない……それでも飛び散る血は十分に危険だが、最終的には頭を潰す必要があるので
 問題は火龍の心臓が何処にあるかということだが、それは胴部分に対して大量の木を串刺しにしてやれば良い。
 1回目の奇襲の時のように余計な事を口にしたりせずに、無言でひたすら装備を実行すればより短時間で大量の木を突き刺してやる事が可能だ。

 ルーセが長剣を使って切り倒した木の枝を落して、収納していく……それにしても、その長剣はこれほどの蛮用に折れるどころか刃毀れ一つせず、切れ味も落ちないのだろうか?
「まだ斬る?」
 10本を切り倒したところで、そろそろ良いんじゃないの? という視線を此方に向けてきた。
 【所持アイテム】内にある4本と合わせれば十分な数だろう。
「もういいよ。ありがとう」
「うん。中々の斬り応えだけど、動かないので面白くない」
 まだトロールが斬り足りないというのか? そんなに俺のトラウマを悪化させたいのだろうか?

「今度こそ倒せるかな?」
 作業が終わり、ルーセは長剣を背中の鞘に収めながら──鞘といっても一方のサイドラインには全長の半分以上にわたり切れ目が入っていて抜き易いようになっていて、反対側のサイドラインは鍔の一部と組み合わさって、鞘に剣が固定されていて、剣を拳一つ分ほど抜かなければ外れないようになっている──呟いた。
「いい加減倒してしまおう」
「そうか、倒してしまうか……」
「どうしたルーセ?」
「リューと出会って、火龍を狩るために一緒に準備をして楽しかった。2年前のあの日以来一番楽しい時間だった……それが終わると思うと寂しい」
「何言ってるんだ。火龍を倒したら一緒に旅に出るんだろ。もっと楽しくなるから覚悟しておいてくれ」
「うん……期待している」
 そんな微妙な間を入れられると『うん…(精々)…期待している』としか聞こえないんだけど。


「収納!」
 右手で触れた頭上の岩を収納すると、眩しい日差しの中に立つ火龍に10本の大木を突き刺した。火龍はまだ此方を振り返ってすら居ない。
 全身を激痛に襲われながらも自分の身に何が起こったかさえも分かっていないのだろう。だがそんな事は関係ない握った主導権は最後まで手放さないのが俺の流儀だ。
 足場と縦穴の縁を蹴って火龍の視界の外へと回り込むように跳ぶと、一気に距離を詰めて角の根元に狙いを定めて構えを取ると剣を装備する。
 根元から切り離された角を蹴り飛ばして火龍から引き離すと、火龍の頭から背中へと跳ぶと、左右の翼の翼膜を引き裂いて着地。
 それと同時に残り4本の大木の槍を左右2本ずつ火龍の後ろ足に突き刺して俺の仕事は完了。
 詰め将棋のように無駄の無い完璧な仕事だ……まあ、あの後ロードを3回もすれば当然といえる。
 当然だが『2年前のあの日以来一番楽しい時間だった……それが終わると思うと寂しい』なんて可愛くも感傷的な台詞を口にしていたルーセの態度も悪化していき、最後にロードを実行した直後などは、俺が選ぶ名作ホラー映画ベスト3。その3本分に匹敵する恐怖を、まとめて2つの瞳に凝縮して此方を睨むのだ。ちびらなかった自分を誉めても良いと思う。

「ルーセ!」
 俺が呼びかけるのと同時に、一気に岩山を駆け上がり走り込んで来た勢いをそのままに長剣を振り下ろす。
 火龍の頭は一撃の下に爆砕し、振り下ろされた剣先は下の岩に深々と食い込んだ。
 最初の攻撃で心臓は潰してあるので、噴水の様と言うほどの血は飛び散らなかったが、それでも少なからず飛び散ってルーセに掛かった火龍の血肉などは【水塊】を使って即座に洗い流した……俺は、火龍の身体を盾にしてやり過ごしたので問題なかった。

『火龍を倒しました』
 そうアナウンスが流れるが、そんなのはどうでもいい。レベルアップのアナウンスも無視して俺は勝利の雄たけびを上げた。



[39807] 第51話 (仮:ルーセ編 最終話)
Name: TKZ◆504ce643 ID:c54b2420
Date: 2014/09/02 20:02
「リューありがとう!」
 【操水】でびしょ濡れになったルーセから水分を取り除く前に抱きつかれる。折角濡れずに済んだのに……諦めた俺は、ルーセの腰の辺りに両腕を回すとそのまま抱き上げた。
「お父さんとお母さんと……仇を討てた。りゅーのおかげ」
 そのまま、両手で首に抱きついてくる。
「おめでとう。これでやっと──」
「ありがとう。それからごめんね」
「ごめんって?」
 俺の問いかけにルーセはギュッと俺の頭を強く抱く。
「ルーセ嘘をついていた。ルーセ、リューと一緒に旅に行けない」
「どういうこと?」
「ごめんねリュー」
 首に回されたルーセの腕が解けて、俺と正面から見詰め合う。
「ルーセの時間はもう直ぐ終わるから……」
「どういう意味だ?」
「2年前、ルーセはお父さん、お母さんと一緒に死んだ」
「な、何を言ってるんだ?」
「この身体は大地の精霊がルーセに貸してくれたもの。火龍を倒すために……火龍を倒したからもうおしまい」
 ルーセの身体がうっすらと輝き始める。それは蛍の光のように幽かであった。
「だったら火龍を倒さなければ──」
 まだセーブをしていない今なら、ロードすれば火龍を倒したという事実も無くなる。
「駄目なの。2年間だけだから……今日でおしまい」
「そ、そんな……」
「リューに会えて良かった。リューに会えて幸せ。リューに会えなかったらルーセは笑顔で最後を迎えられなかった。リューと一緒だと楽しくて火龍を倒さなくても、時間一杯リューと一緒にいられたら良いとも思った。そんな風に思えたのもリューのおかげ……本当にありがとう」
 ルーセはにっこりと幸せそうな笑みを浮かべる。だがその笑顔は直ぐに俺の涙ににじむ。
「待て、待つんだルーセ!」
 俺の呼びかけなど何の意味も無く、ルーセの身体から光の粒が散り始める。それは春の夜風に呼ばれて散る桜の花のようで……悲しいまでに美しかった。
「大好き。ルーセはリューが大好きだよ! だからリューも笑って、大好きなリューの笑顔を見せて……お願いだからリュー!」
 俺はルーセの最後のお願いに、笑顔を作ろうと必死に口角を上げて、目じりを下げて何とか形だけは笑みを作り出す。多分酷い笑顔のはずだ。
「ありがとうリュー」
 そう言って微笑んだのだろうが見えない。涙でにじんでルーセの顔が見えない。
「ルーセ……嫌だ! こんなのは嫌だ!」
 ルーセを抱きしめながら叫ぶ。こんな結末なんて認めたくない。認められるか!
「リュー……リュー、リュー! 嫌だよ。ルーセも嫌だよ。リュートさよならしたくない! リュート一緒に旅をしたい。2人でずっと一緒に色んな場所を……ずっと、ずっとリューと──」
「ルーセ! ルゥーセッ!」
 抱きしめていた両腕から突然ルーセの手ごたえが消える。ルーセは俺の腕の中で光の粒となって散り、光の粒は花びらのようにゆっくりと舞いながら岩山の地肌に落ちて、染み込むようにして消えた。
「ぅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁっ!」
 俺は叫び声を上げながら拳を岩に叩きつける。俺の拳と引き換えに岩は砕けて大きくえぐれる。
 砕けた拳など無視して両手で砕けた岩を掘り返す。爪が剥がれようが関係ない。俺は必死に光の粒を……ルーセの欠片を探して掘り返し続ける。だが結局、何一つ見つける事は出来なかった。


 その後、自分で何をしたのかはよく憶えていない。ただ泣き叫びながらルーセを求めて、当ても無く辺りを歩き回った事を断片的に憶えているだけだ。
 気づけば目の前に丘があった。ルーセの両親の墓のある丘だ。
 無言で丘を登る。つい数時間前にルーセと一緒に上った道を辿る……そう思うだけで再び涙が零れ落ちる。
 丘の頂上のルーセの両親の墓の前に座り込む。
「ルーセは、貴方達の娘は、立派に火龍を討ち果たしました……貴方達と自分の仇を討ったんです。誉めてあげてください。良くやったと、良く頑張ったと、貴方達の元へ召されたルーセを抱きしめて上げてください。微笑みかけてください。頭を撫でてあげてください……お願いします。お願いします……お願いします……」
 墓の前で地面に額ずきながら何度も頼み続ける。結局俺は、ルーセの気持ちを何一つ気づいて上げる事が出来なかった。
 今にして思えばルーセは幾つかのシグナルを俺へと発していた。なのに全く気づけなかった。そんな様で何の保護者気取りか? 自分が自分で嫌になる。
 限られた時間と命。そんな状況でどれほど心を痛め続けて来たことか、結果彼女の命を救うことが出来なかったにしても、その気持ちに気づいて寄り添い慰める事は出来たはずだ。
 自分の未熟さが嫌になる。何故俺はこんなにも子供なのだろう。何故こうまでも他人(ひと)の心を思いやれないのだろう。
 何時もよりずっと素直に甘えてきたルーセの気持ちを、俺が旅に誘った時に一緒に行きたいと答えて涙したルーセの気持ちを、全く察することも出来ず、彼女の不安や悲しみを流してしまった……ふとルーセの両親の墓石の脇に置かれた石が目に入る。
「まさかこれは……」
 そっと手を伸ばし石に触れる。そして自分の心の底の罪を覗き込むような恐れを感じながら持ち上げて石の裏を上にする。
 地面から上がった湿気に濡れたその裏側には、小さくルーセの名前が刻まれていた。
「……ルーセっ!」
 ルーセは精霊に与えられたあの身体で、自分の亡骸も両親の墓の隣に埋めたのだ。
「そんなのってないだろう。畜生、何が加護だ……呪いだろ!」
 石を胸に抱きしめて叫んだ。


 一頻り泣いた後、ルーセの墓石を名前を上にして元の位置に戻して、その後ろにルーセの長剣を突き立てる。
 集めてきた花を墓前に供えて手を合わせると、おれはその場を立ち去った。
 俺は旅をしなければならない。ルーセと一緒に旅をする約束は叶わなかったが何時かあの世でルーセと再会した時に、世界中の色んな話を聞かせて上げるために俺は一人でも旅をしなければならない……せめて、そう思わなければ悲しみが強すぎて、心が壊れてしまいそうだった。
「じゃあ、またな……ルーセ」
 俺はそう呟くと、ただひたすらに西へと向かい歩き続ける。日が沈み夜が更けて、やがて夜が明けても俺は歩き続けた。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 目覚めると辺りは薄暗く、そして見知らぬ部屋のベッドの中にいた。
「……病院なのか?」
 個室のようだが、この部屋中に充満する独特の臭いは病院であることを疑う余地が無い。
 時刻は朝の5時半前、何時もの目覚めの時間だが、何故自分が病院にいるのかが全く理解できない。
 ベッドから身体を起こすと左腕に違和感を覚えた。
 肘の内側にガーゼがテープで止められて、そこから細いチューブが伸びていてベッド横のステンレスのスタンドに吊るされた点滴液の入った袋につながれていた。
 俺はガーゼをはがして点滴針を抜くとベッドを降りて出口へと向かう。
「……隆?」
 背後から声をかけられて振り返ると、部屋の隅のソファーから上体を起こして此方を見つめる母さんの姿があった。
「母さん?」
「隆!」
 母さんはソファーから飛び上がるように起きると、走り飛びついてきた。
「隆! 良かった意識が戻ったのね」
「意識? どうしたの俺」
「3日も意識がもどらなかったのよ」
 3日……そういえば、異世界では三日三晩、休むことなく歩き続けていた気がする。そうか向こうで寝ずに過ごせば、その間現実世界の俺の身体は目覚めない。そして現実で寝ずに過ごせば、異世界の俺の身体も目覚めないということか。
「ごめんね、母さん」
 本当に俺は自分の事しか考えていない糞餓鬼だ。自分の事を思ってくれる家族に心配をかけて何をしているんだろう。
「馬鹿ね。隆が謝ることじゃないでしょ。体調に気づいて上げられなかった母さんが悪いのよ。ごめんね隆」
 酷いよ母さん。そんな事をいわれたら、これ以上自分を責められなくなってしまう。自分を責める事だけが今の俺にとって唯一の救いだというのに……

 しばらくしてから、病院食として出された固形物感ゼロのゆるいおかゆを食べた後、再び眠りに落ちた。身体でも脳でもなく心が疲れきっていた。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 目覚めると薄暗い森の、大木の枝の上にいた。
「そうか……木の上に登ってそのまま寝たのか」
 体力が限界に達し、意識も朦朧となっていたので、詳しいことは憶えていなかったが、木に登ったような記憶だけはわずかに残っていた。

 木の上で、ブロック状の保存食を調理してシチューを作る。
 味はルーセの作ってくれたものと同じだ……不意に熱いものがこみ上げて来るが何とか抑えることが出来た。大分感情のコントロールが出来るようになってきたようだ。
 思った以上に身体が飢えていたようで、あっという間に食べつくすと更に追加でもう一度作り直した。
 3日間、何も食べずに歩き続けたのだから、身体の衰弱は現実世界の身体異常に溜まっていたはずだが、胃袋が収めた食事を拒む様子は全く無かった。
 食事を終えて【ログデータ】を確認する。火龍を倒した直後、俺のレベルは12上昇していた。レベル12で水龍を倒した時でさえ10レベルの上昇に止まっていたのに、ルーセとの共同での討伐だったのにも関わらずレベル41から一気にレベル53だ。どれだけ火龍が水龍を遥かに超える化け物だったのかが分かる数字だ。

「……無い」
 ログの中にルーセの死亡とパーティーからの脱退についての部分が見つからない。
 ルーセが2年前に死んでいたとシステムメニューが判断したのなら、死亡ログが存在しない事は理解出来るが、パーティーから居なくなったというログが存在しないのはおかしい。
 【良くある質問】をチェックしてみると『パーティーからの脱退』という項目が見つかる。
 その内容は、メンバーの脱退後にセーブデータが更新されるまでは、システムメニュー上では脱退者はパーティーメンバーとして扱われるために、メンバー脱退後は可能な限り早くセーブを実行する事を推奨とあった。
「つまりロードを実行すればルーセに会える……だが数時間後に再び死なせるのか? そんな馬鹿なことが出来るか!」
 俺は即座に【セーブ】を選択する。しかし、何時もならそのまま実行されるはずのセーブ処理は行われずに、『死亡したパーティーメンバーの生存時のセーブポイントです。ロードを推奨します』とアナウンスされる。
「出来ない……出来るはずが無い。そんな事……」
 俺にはロードする事なんて出来ない。それは何の救いにもならず、ただルーセを苦しめるだけだ。そしてセーブする事も出来ない。もう一度ルーセを殺すに等しい真似を俺の手でするなんて出来る訳が無い。

 どうしてもっとルーセに優しくして上げられなかったのか、もっと甘えさせて上げられなかったのか、後悔が彼女の思い出とともに頭の中に渦巻いている。
 また自分を責めている。自分の頭で理解出来る理由を挙げて自らを責め立てることで、頭でなく感情から押し寄せてくる罪の意識から逃れようとしているだけだ……実に女々しい。こんな時ばかりは自分の小心さが許せなくなる。
 もしも過去に戻ってルーセを救うことが出来たなら、俺は許されるのだろうか? 過去に戻ってルーセを救う。過去に戻って…………もしかしたら可能性はあるのかもしれない。レベルアップの先に何か希望があるのかもしれない。それだけじゃない異世界のファンタジーって奴ならば何か手段があるかもしれない。無ければ自分で手段を作れば良い。

「……やるか」
 ルーセを救うという無理難題なクエストを俺は受ける。
 目的は3つだ。
 ルーセの新しい身体を作る方法を見つけ出す。
 そしてルーセの身体を作る時間を稼ぐために、一時的にルーセの魂を保管するための器を用意する方法を見つけ出す。
 最後に、ルーセの魂を器に移したり、器から新しい身体に移す方法も考える必要がある。

 セーブポイントからルーセの死までの時間は数時間しかない。ルーセの新しい身体を作る方法が見つかっても、そんな短時間に身体を作り上げる方法は絶対に見つからないだろう。何せゴーレムとかそんなものでごまかすつもりは無く、ルーセの元の身体と全く同じものを作り上げるつもりだから、数ヶ月から数年の時間が必要になるはずだ。
 だから一時的にルーセの魂を保管するための器を作る方法を考え出さなければならない。
 しかも、ルーセが死ぬ数時間の間に、必要な物を用意して作業を終わらせる方法だ……かなり無理な話だが、大地の精霊は死んだルーセの魂を2年間という期間にわたり保管する器をその場で作ったのだから、絶対に不可能なわけではない。
 物凄いザルな計画だが、はっきりと目標を定めることが大事だ。目標さえはっきりしていれば、途中で道に迷っても立ち止まることだけはしなくて済む。そして歩いてさえいれば必ず目標にたどり着く。

 まずはレベルアップだ。これ無しには何も話が進まない。レベルアップで力を蓄えるなければ、俺はただの子供に過ぎない。
 レベルアップで、俺個人を強化する。そしてシステムメニューが提供する魔術に出来る限界を確認する。
 魔術とは異なるこの異世界の魔法などの神秘的な力について知るためには力と金、そしてそれなりの社会的地位が必要になるだろう。
 そのためにはやはりレベルアップが必要になる。
 そして現実世界では、医療分野の研究者としての道を進むべきだろう。研究者としての俺にとっても異世界の技術や知識が必ず役に立つ。
 異世界と現実世界、両方で知識と技術を集めて磨き、初めて俺のクエストは完遂される。
 道は長く険しいだろう。多分、俺の一生を使い切っても辿り着けるかどうかは分からない。
 だが、その時はロードを実行すればいい。多分怒られるだろうがルーセに会える。そして抱きしめて必ず助けるから待っていろと言ってやるのだ……とは言ってもルーセは待つ暇も無いだろう。火龍を倒して精霊の加護を失い再び2度目の死を迎えたと思ったら、次の瞬間にはセーブ時の状況に戻されるのだから。
 明確な目標が出来た。実に希望に満ちた美しい未来を示す目標だ。この目標に向かって歩き続ける限り俺は俺でいられるだろう。


-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

『ロード処理が終了しました』

 状況が理解できずキョトンとした顔をしてこちらをじっと見つめるルーセに思わず笑みがこぼれてしまう。
「久しぶりだなルーセ」
「久しぶり?」
 加護が切れて死んだと思ってた次の瞬間にはこの有様といった状況だから仕方が無いが、俺にとっては彼女の表情や仕草が懐かしくて仕方が無い。
「俺からしたら115年と少し振りってところだな」
 俺は115年後の未来からやってきた猫型……おっと危ない。
 ともかくあの後、130歳まで生きてからロードを実行してこのセーブポイントまで戻ってきたのだ。
「115年?」
 まだ意味が分かってないみたいだ。
「そう。俺にとっては火龍を倒したのは115年も前の事だよ」
「……あっ!」
「やっと気づいたみたいだな」
 この驚く顔が見たかったんだよ。
「何で? 何でそんな……」
「ルーセに会いたかったからかな?」
 115年ぶりだ。抑えきれずに抱きしめて頭を撫でてやる。だがルーセは俺の胸板を両手で突いて博愛固めから脱出すると睨んでくる。
「何で115年振り?」
 怒るのはそこか。
「ここに戻ってくるのは何時でも出来たのに、どうして会いにこなかった!」
 放っておかれた……いや、ルーセにとっては一瞬の事で放って置かれてなんていないんだろうけど、機嫌を損ねてしまったようだ。
「まあ、やる事があったからな」
「ルーセと会うよりも大事な事?」
 俺の言葉に傷ついたかのように顔を悲しげに歪めると、力ない声で尋ねてきた。
「俺とルーセの為に大事な事だよ……もっとも時間切れで戻ってきたんだけどな」
 レベルアップの影響は俺の寿命にまでも伸ばしていた。はっきり言って150歳でも、下手をしたら200歳でも生きられそうなほど健康爺として過ごしていたが、戸籍も無い異世界ならともかく、流石に医療が発達した未来においても130歳で何の病気もせず健康で毎朝10km以上もジョギングをする俺は世間からは異常だと認識されるようになり、面倒な事になったのでロードして逃げてきたのだ。
 その点異世界の方は、戸籍すらないので20年位毎に住む町を変えれば、さほど問題は無かった。

「大事な事って何?」
「決まってるだろう。ルーセと一緒に旅をして過ごす為に必要な事だ」
「一緒に旅? ……そんなの無理。出来るはずが無い」
 ルーセは思いっきり首を横に振る。
「無理だと思うよな。俺だって何度も無理だと思ったさ。だけど今は絶対にいつか実現させられるという確信がある」
「どうやって?」
「ルーセの新しい身体を作って、それにルーセの魂を定着させる。といっても加護が切れるまでの間に身体を作るのは無理だから、まずはルーセの魂を一時的に保存できる器に移して時間を稼いで、その間にルーセの身体を作る……実はルーセの身体を作る方法については目処が立っているんだ。けど魂の器を作るのに難航していてな……それで一度仕切りなおす為に戻ってきたんだ」
 異世界にはシステムメニューが提供する【魔術】とは違った魔法と呼ばれる技術体系が存在した。決められた事しか出来ない【魔術】とは違い、魔法は自分で改良したり、新しい魔法を作り出す事が出来る。単に既存の魔法を使うだけではなく、改良し自分のオリジナルの魔法を作り上げるものを魔法使いと呼ぶ。
 俺は魔法使いの1人に弟子入りし修行の末に自分も魔法使いとなった。魔法の行使や研究には【魔術】の行使と同様に【魔力】が必要とされるのだが、レベルアップによって【魔力】も人外レベルに達していた俺は魔法研究において大きなアドバンテージをもっていた。
 また魔法は【魔術】同様に、属性が存在するが、それは単に呪文として存在する既存の魔法を分類しているだけで、魔法の基本とは魔力を介して、あらゆる事象を捉える『眼』とあらゆる事象に介入する『手』の組み合わせによる作業に過ぎない……まあ「あらゆる事象」ってのは言い過ぎであって、実際は「あらゆる事象(を頑張って目指しているので、今しばらく温かい目で見守っていてください)」と言ったところだろう。
 つまり魔法技術の進歩とは、観察と考察と実験の繰り返しであり、科学の進歩と大して変わりは無い。むしろ科学よりも遥かに優れた観察と実験手段を提供されていると言えるだろう。
 しかし感心すると同時に、魂などという概念的な存在に対して、魔法は何の効果を発揮しないということだと強い失望感を覚えたが、それは単なる早とちりだった。
 魔法には『蘇生』などの死者復活のような魂への干渉を行う呪文も存在する。もっともそれらは上級魔法と呼ばれる難解な魔法の更に上のクラスにあたり、神の創りし魔法とも呼ばれ、改良や類する魔法の作成を創り出すのは未だ誰にも成し遂げられていないのだった。
 つまり、俺は前代未聞、空前絶後、史上初の偉業に挑戦しているというわけだ……もっとも、通常の魔法使いがもたない科学的な知識とアプローチにより、既にブレイクスルーの引き金となる材料は幾つか集まっており、後もう100年もあれば何とかなるだろう。いや何とかしてみせる。

「リュー……ずっとルーセのために?」
 詳しい説明を話すと、ルーセは落ち込んでしまった。自分の為に、相手が100年以上も研究を続けていたと知ったら俺でも落ち込むからな……何と言えば良いものやら。
「まあ、そういう事になるのかな」
 軽く流してみた。
「ありがとう……それから、ごめんなさい」
「ありがとうだけで良いんだよ」
 謝って欲しくて115年間研究を続けたわけではない。ごめんなさいはないよな……あれ?
「ところでルーセ。ほかの事で俺に謝ることは無いの?」
「?」
 可愛く首を傾げても俺は許さない。
「何で俺に精霊の加護の期限の事を言わなかったんだ?」
 しまったという顔をし、言い訳を口にする。
「う……言ったら迷惑をかけると思ったから」
「言わずに突然さようならと言われた方が迷惑だ!」
「あぅ……ごめんなさい」
「今度からは、ちゃんと話してくれ……あれは無いと思うぞ」
「これからはちゃんと話す……」
 そういうと泣きながらしがみついて来た。

「さて、そろそろ火龍退治の準備をするか」
 本当に早く準備をしないと火龍が戻ってきてしまう。
「いやだ。まだルーセはリューと話したい」
「……また来るからさ。俺にとっては100年後くらいだけど、ルーセにとってはすぐだよ」
 むしろ駄々を捏ねるなら俺が捏ねるべきだ。
「リューはルーセに100年も会えなくても平気なの!」
 それは逆ギレだろ。
「さびしいけれど、本当にそろそろ木を切り出さないと──」
「ロードすれば良い」
「……おお納得」
 その後は、何度かロードを繰り返しながら俺はルーセと話をした。
 ほとんどは俺の話ばかりだった。115年分もの話題があるのだから仕方の無い事だと思う。

「レベルはどれだけ上がったの?」
「121だったな」
 意外な事にレベルの上限は99でも100でも無かった。
 もっとも年を取ってからは余り闘う事も無かったのでレベルアップはしていない。
 実際、60歳を越えてからのレベルアップはわずかに2レベルに過ぎない…と言ってもレベル119から121へのレベルアップに必要な経験は、レベル1からレベル80-90までに匹敵するほどだろう。
「そんなに……ずるい!」
「ずるいと言っても、ロードした今のレベルはルーセと大して変わらない41だよ」
 これからまたレベルアップしなおすのかと思うと、少し憂鬱になる。
「レベルが上がってなんかすごい事は無かったの?」
「……そう言えば有ったな。色々」
「どんなの?」
「レベル100を超えると……火龍クラスの魔物を倒したくらいじゃレベルが上がらない」
「……つまんない。次!」
 俺の小粋なジョークは一刀のもとに斬り捨てられた……相変わらず、剣でも口でも斬殺魔だよ。
「……すごい魔術を使えるようになったよ」
「見せて」
「無理。今はレベル41だから」
「使えない。次!」
 一本取り返して思わずニヤリと笑う実に大人気の無い俺──精神年齢130歳相当──にルーセの鋭い視線が突き刺さるが……痛痒も感じぬわ!
「それから、レベル60を越えた辺りでマップ機能が向上したな。周辺マップの範囲が半径300mになったし、広域マップが従来の3kmと100kmと2000kmの3段階になって使い勝手が良くなった」
「ふ~ん。次!」
 ルーセ的には周辺マップの範囲拡大はともかくとして、広域マップに関しては余り興味が無いのだろう。何せ生まれてからコードア周辺から離れた事がほとんど無い彼女にとっては半径100kmとか言われても、どうでも良いと思っているのかもしれない。

「それから……レベル60を越えた辺りから明らかにレベルアップ時の能力の向上の幅が大きくなったね」
「何故それを先に言わない! ……もっと詳しく」
「レベル60からはそれまでに比べて1割位伸び幅が大きくなって、レベル80からは更に1割伸びて、レベル100でもまた1割と、レベル20ごとに1割増えてたね」
「うう、レベル60に早くなりたい!」
 多分だが、新しい身体にルーセの魂を移したら、いや一時保管の魂の器に移した段階でレベルがリセットされるような気がしてならない……内緒にしておこう。こんな事を話したら絶対に「何とかしろ」と無茶振りされるだけだ。
「じゃあ、他には?」
「他には、そうだな──」


「じゃあルーセの身体ってどんなのを作るの?」
「ルーセの骨から、元通りの身体を作るから安心して」
「骨から? 何それ怖い」
 ルーセの顔が一気に青褪める……俺もいきなりそんなこと言われたら引くね。うん、俺の言い方が悪かった。
 悪かったけど遺伝子の話をしてルーセに理解してもらうのは無理だろうし、どうしたものかと考えていると、ルーセの興味は既に他へと移っていた。
「じゃあ元通りって何時の元通り?」
「当然、ルーセが火龍に襲われて一度死んだ時の身体だよ」
「嫌! それじゃあ9歳の誕生日の身体になる。ルーセは明日で11歳」
 ちなみにこちらでの年齢は生まれた瞬間に1歳とする。その辺は数え年と同じだが、元日に加齢ではなく誕生日に加齢するので数え年と満年齢の中間的な考えだ。だからルーセは満年齢で考えると8歳で死んだ事になる。
「でも精霊の加護を受けていた2年間はルーセは成長してなかっただろう」
 俺も115年間の間に精霊の加護についてルーセと同じようなケースについて文献や実例を検証する機会に恵まれている。
 死後、時間を限定されて肉体を与えられた場合は、肉体的、精神的な成長は一切無い。あるのは記憶の積み重ねだけである。
 ルーセは例外的にレベルアップで身体能力を向上させたが、それはシステムメニューの恩恵であってルーセ自身の成長とはいえない。
 そういう意味では俺も同じだ。実際身体能力が向上し筋力が10倍以上に向上しても、俺の身体は筋肉ムキムキのボディービルダー体型になったわけではない。それどころか身体のシルエットは全く変わっていない。これはレベルアップに応じてシステムメニューが元々の身体能力などをサポートし向上させているだけで、肉体的には全く変化していない可能性が高い。
 それに対して、システムメニューの精神面へのサポートは身体面へのサポートと違って精神的な変化を伴う……俺が苦しんだアレやコレだ。
 だが精霊の加護は精神的変化は受け付けない。魂自体に変化があれば、仮初の肉体との整合性が取れなくなるのだろうと俺は考えている。
 ルーセがレベルアップしても【魔術】を習得できないのも精霊の加護の影響と思われる。
 ともかくルーセは現時点で肉体的にも精神的にも満年齢8歳相当のお子ちゃまなである事は、揺るぎない事実だ。
「……ちゃんと成長していた!」
「うんうん、そうだね」
 反論しても無駄なので軽やかにスルー。
「ちゃんと成長していたから年相応の身体が欲しい!」
「はいはい、分かりました」
 分かってはいるけど、俺が予定しているルーセの身体を作る方法では、肉体年齢は精神年齢に従うんだよ。
 単に身体を作るだけなら、婆さんだろうが赤ん坊だろうが好きなように肉体年齢のいじる事が可能だが、無理なく身体と魂を重ね合わせるためには、魂の宿る肉体に相応しい年齢に落ち着いてしまう。
つまりルーセの望み通り年相応ではあるが、望み通りではない身体になるのは決定事項である。
 まあ結果は見てのお楽しみと言う事で、この事は伝える気は全く無い……伝えたら絶対に暴れるだろうから、ああ秘密ばかりが内緒事ばかりが増えていく。


「後ね……リューは結婚したの?」
 聞きづらそう話しかけてきた……俺だって話しづらい。
「してないよ」
 まさか130歳まで生きた挙句に、この俺が……
「どうして?」
「俺は此処に戻ってくると決めていたから、結婚なんて出来ないだろう」
 正確に言うならば、もし結婚して子供が出来た後に、ロードして今の時間に戻ったら、俺の子供は俺の記憶の中以外には存在しなくなってしまう。
 例えロードした後で同じ女性と結ばれて子供を成したとしても、それはロードする前の時代で生まれて育ち、共に家族として過ごしたわが子ではない。俺はわが子を永遠に失ってしまうのだ。それに自分が耐え切れないと気づいてしまった。
 きっと結婚して子供が生まれたなら、俺はこのセーブポイントへ戻るという決断は出来なくなってしまう。
 だから俺は、結婚どころか女性と親密な関係になる事さえ恐れた。もしも万一にも子供が出来たら、俺はルーセを見捨てる決断を下さなければならないと思えば……勃つものも勃たなくなってしまうのだ。
 おかげで俺はまさかの童貞だよ! 130歳で童貞って魔法使いの騒ぎではない。魔王だよ大魔王様だよ!! ……いかん、悲しすぎて自虐に走ってしまった。
「そうか……じゃ、じゃあ仕方が無い。ルーセ責任を取る!」
「責任?」
 俺が勝手に、いや、ルーセを救わないという選択を出来なかっただけの事だ。責任といわれても全ては俺自身のものだ。
「る、ルーセは責任を取る。新しい身体になったら、責任を取って……責任を取って、ルーセは、ルーセが……ルーセがリューの、リューの」
 顔を真っ赤にしながら、真っ直ぐに俺を見据えて……
「……リューをお婿さんにしてやる!」
 お嫁さんじゃないのね。

 そんなルーセの一世一代のプロポーズに俺は……
「……はっ!」
 思わず鼻で笑ってしまった。


 完

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 この作品は、あえて結末を決めずズルズルと行き当たりばったりで何処まで続けられるかを試すたの習作(完結させる事を目的としない練習作品)でした。
 なので、本来はルーセには退場いただき、少し時間を先に進め、空手部の夏合宿の10日間をメインにした『第3章 楽しい地獄の夏合宿編』を想定しており、その後は主人公の中学卒業間際に起こる『第4章 真・現は地獄編』へと展開する予定なんですが……書き始める前に考え溜め込んでいたものや書きながら思いついたエピソードを、その場の勢いで17話あたりからどんどん投入した結果、現在ネタ切れを起こして復活には時間が掛かりそうです。
 そこで、急遽ルーセ生存ルートをでっち上げて、ひとまず完結という形を取らせてもらいます。

 ここまでお付き合いして下さった皆様。ありがとうございました。



 再開するとなると第51話(本編)となりルーセは即死亡なんだけど、微笑ましく生存ルートを書いたせいで、救いの無い死亡ルートを書く気が全く起きない。
 ついでに、今回のやっちまった感の強さに感想を見る勇気が無いよ。



[39807] 第51話 (本編)
Name: TKZ◆504ce643 ID:4be827ee
Date: 2014/09/02 19:56
「リューありがとう!」
 【操水】でびしょ濡れになったルーセから水分を取り除く前に抱きつかれる。折角濡れずに済んだのに……諦めた俺は、ルーセの腰の辺りに両腕を回すとそのまま抱き上げた。
「お父さんとお母さんと……仇を討てた。りゅーのおかげ」
 そのまま、両手で首に抱きついてくる。
「おめでとう。これでやっと──
「あっ!……ちょっと用足しに行ってくる」
 いきなり表情を変えて俺の言葉を遮った。
 勝利の感動台無しだよ! ここは我慢するところでしょう。
 だがそんな俺の心の声など知ることも無くルーセは、慌てて長剣を鞘ごと置くと岩山から降りて森の茂みに消えて行った。



「まったくルーセは………………ん、ルーセ? ルーセって……何だ?」
 自分が口にしたルーセという言葉に全く思い当たる節がない。そういえば此処で誰かを待っていたような気がするが、そんな馬鹿な事があるはずがない。この火龍のテリトリーに俺以外の誰が居るというのだ?
「疲れているのか……」
 流石にあんな化け物相手だ。極度の緊張を強いられた。しかも何度もロードし直したのだから疲れないはずが無い……そうだセーブしなければ。
「セーブ実行!」
 一瞬、アナウンスが表示されたが思わず連打で読み飛ばして実行してしまった。
「あっ! ……まあ良いか」
 何があったかは知らないがもう一度火龍と戦うという選択は無いので、何か問題があったとしてもセーブするのは当然だ……何かに導かれるように俺はそう納得した。

 長剣を収納してから、火龍の体もそのまま収納する。
「そういえば角が高いんだったな……」
 俺は落ちている長剣を収納すると、角を蹴り飛ばした時の状況を思い出しながら飛んでいった方向を思い出し、そちらへ向かって歩きながら、周辺マップ内表示に「火龍の角」で検索をかけてみると40mほど先に反応があった。
「強く蹴り飛ばしすぎだ」
 十分手加減はしたつもりだったのだが、戦いの興奮の中で加減を間違えたみたいだ。
 折れてたら価値も下がりまくりだろうな……といってもすぐに現金化する予定もないし、そもそも金に困ってもいないのだが、つくづく小市民なのだ。貰った小遣いはほとんど使う機会が無いので、どんどん貯金してしまうような人間である。俺にとって自分の金とは、たまに部活帰りにみんなとアイスを買い食いしたりするくらいで、後は預金通帳を開いて眺める数字に過ぎない。
 そのせいで数字が増えていくのが次第にうれしくなってしまったのだ。ああ我ながら小さい! セコイ! みっともない! 俺はこんな中学生になりたいなんて思った事は無いのに。
 深々と木の幹に突き刺さり、まるで幹から伸びた枝の様になっている火龍の角を引き抜いて収納した。

 コードアの村に戻ると、俺は此処しばらく滞在していた空き家へと向かう。都合良く最近空き家になったばかりで生活するには困る事のない家だった。
「さてと飯は……俺に作れるはずはないから、何処で……あれ?」
 何故かこの村の飯屋の事が思い出せない。自炊なんて出来ないんだから外食しなければ飯にありつく方法なんてあるはずが無いのにだ……おかしい。そんなことがあるはずがない。俺はこの10日程の間に何度も何処かで外食しているはずだ。なのにその店を思い出せないどころか食事をした記憶が無い。幾らなんでも若年性アルツハイマーと呼ぶにも若年過ぎるだろ……ちくしょう、どうして思い出せない。
 自分の身に起こった不可解な事実に、強いストレスを覚えた次の瞬間……いきなりどうでも良い事のように感じられるようになった。
 まだ携帯用の保存食があるから、シチューを作って食べ今日はさっさと寝よう。そう決めると誰も待つ者の居ない空き家へと足を向けた……どうやって俺は保存食をシチューにする事を知ったんだ?

 その夜は、レベルアップで覚えた魔術を確認してから寝た。


-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 嬉しそうに俺の顔を舐めるマルを左腕で抱きしめ、空いた右手で頭から首筋、そして背中までを何度も往復させて撫でて落ち着かせる。
「ルーセ……」
 いきなり彼女の事が頭の中に思い浮かぶ。
 どうしてだ? 何故俺はルーセの事を忘れたんだ。
 いやそれだけではない。俺はルーセを忘れただけではなく、ルーセの存在が無い事で起こる矛盾を補うような何者かの嘘を──ルーセの家が空き家であったなどとは、俺自身が矛盾を補うために作り出した記憶の改変では無い。そのようなプロセスを踏んだ覚えが無く、いきなり俺は空き家にこの10日程滞在していたと認識していた。
 つまり、何者かが俺の記憶や意識に介入してルーセの存在を消そうとした。
 一体何者が? そしてルーセはどうなった?

 まずルーセが居なくなった原因は何だ? 彼女自身が自分の意思で姿を消したか、それとも何者かに連れ去られただ……マルが再び俺の顔を舐め始めたのでシステムメニューを開いて、時間停止状態で考え続行する。
 ルーセが自分の意思で姿を消したとすると、俺の記憶を操作したのもルーセということになるが、どう考えてもルーセに、そんな事が出来たとは思えない。
 それならばルーセは何者かに連れ去られ、その何者かが俺の記憶を操作したと言うことになる。
 つまり俺の記憶を操作したのは、その何者か? そんな真似が出来そうな存在といえば神か悪魔か宇宙人か地底人…………うん、システムメニューか大地の精霊のどちらかだな。

 俺の記憶や精神を弄れそうといえば前科があるのがシステムメニューだが、ルーセの失踪には関わる事が出来るとは思えない。もしかしたらシステムメニューを俺に適応させ与えた存在とも考えられるが、それでは今、何故俺がルーセを思い出したのか説明がつかない。
 現実世界でも俺は、こうしてシステムメニューの影響下にあるのだから……つまり、可能性が最も高いのは大地の精霊だということになる。

 俺がルーセの記憶を取り戻したのは、目覚めて現実世界に戻ったことで大地の精霊の影響力から脱したためと考えられるし、さらに俺がルーセの事を忘れる直前に、彼女がとった唐突な行動も大地の精霊に操られたと考えれば全て説明がつく……もっとも大地の精霊に俺の記憶や意識を操作する能力があればの話だが、それを否定する材料も無い。
 問題なのは、大地の精霊がこの件の原因だとするならば、俺が異世界に行った時に再びルーセの記憶を奪われる可能性が高い。そうなれば事実の追求どころかルーセを探し出して助けることも出来なくなるという事だ。
 全く面倒な。この貸しは俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶことで返してもらうぞ。無論、実の妹にも呼ばれたこと無いけどな……よし来た。悲しいながらもやる気が出てきた!


「おはよう」
 折角の気持ち良く空の晴れ渡った日曜日だというのに、朝っぱらから部活の練習という名の地獄に赴く、そんな哀れな青春を送っている者達の集う場所へと踏み入った。
「おはようございます」
 下級生達から挨拶が返ってきたので軽くうなずく。紫村が「やあ」と手を上げたので、俺も「よう」と手を軽く上げる。
 櫛木田達の姿が見えない……そう思っていると、後ろから3馬鹿が入ってきた。
「おはようさん」
 そう挨拶する櫛木田の声には覇気が無い。続く田村、伴尾の表情にも全く元気が無かった。
「おはよう……それで、あまり聞きたくも無いがどうした?」
「宗谷さんがいないから」
「空知さんがいないから」
「お姉さん達がいないから」
 やっぱり聞くんじゃなかった。
「そうか……大変だな。まあ頑張れ」
 薄ら寒いほど心のこもっていない台詞を吐いて流した。
「軽く流すなよ! 余裕か? 余裕なのか?」
「ちっ!」
 思わず舌打ちがこぼれる。
「何だよ今の舌打ちは!」
「うるさい。彼女達はお客さんとして昨日1日だけ俺達の練習に参加しただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。俺達と彼女の間には進展するような関係は何処を探しても無いからな」
 そうきっぱりと断言しておく、下手に希望を持ち続ける方が傷口を大きくする。
「そんなこと分かっているさ。俺だって彼女達と親密な仲になりたいなんて大それたことは考えていない」
 まさか分かってたなんて……成長したな櫛木田よ。
「ただ俺達の、空手部という環境に彼女達がいる。それだけが救いだったんだ……」
 分かる。分かりたくないけど俺にも分かってしまうぞ、田村。
 俺達を取り巻く環境には精神的な潤いが無い。そんな乾涸びた心を潤す一滴の雫。それが彼女達の存在だったと感じたお前の心は正常だ……正常だけど悲しすぎて涙が出てきそうだよ。
「そう。居てくれるだけでいいんだ。それだけで漂う芳しい汗の匂い。走るたびに揺れる胸。汗にぬれた項に張り付く後れ毛。そしてランニング後の激しい息遣い──げふっ」
 櫛木田が無言で伴尾の右頬を殴りつける。殴り飛ばされた伴尾を受け止めた田村がその鳩尾に膝を3発入れる。

 下級生達は伴尾に目も向けず、素早く着替えると部室を出て行った。
 俺は伴尾のバッグをあさって空手着を取り出すと「櫛木田、田村。責任を持ってその馬鹿をパンツ一枚にして格技場へ運べよ」と伝えてから格技場へと向かった。
 大島はパンツ一枚で隅に転がされている伴尾を一瞥すると何も言わずに練習を開始したが、その口元には笑みがあった。そしてその日の奴は間違いなく機嫌は良かった。気絶させられパンツ一枚で放置される伴尾の姿にドS心をくすぐられたと判断して間違いないだろう。
 問題は機嫌が良すぎて、1年生だけではなく2年生の富山と岡本の2人が倒れる大惨事となったことだ……張り切りすぎだ。全く機嫌が良くても悪くても迷惑にしかならない奴だ。
 ちなみにペースメーカー役の櫛木田も足を引きずっている。後輩達を気遣って何度もペースを落とそうとしては大島にケツを蹴られまくったためだ。
 櫛木田のこういう所が後輩達から慕われるのだろう。普段やっていることは田村、伴尾と一緒に3馬鹿なのだが櫛木田だけが後輩達からの人気が高い……勿論、俺も後輩からは慕われている。慕われているんだ。きっと……


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 目が覚めると、昨晩と同じく携帯保存食で作ったシチューを食べると、荷物をまとめて村を出た……まあ、まとめようにも荷物は全部、【所持アイテム】の中に収納して持ち歩いているのだから、実質忘れ物が無いか確認しただけだった。

 コードアからまっすぐ西へと伸びる獣道に毛の生えた程度の狭い道を進む。
 途中、オーガの群れを発見すると襲われるどころかこちらから襲い掛かって狩り、その角を収納していく。肉はともかく皮は一応は金にはなるが結構かさばるので、大型とはいえ背嚢ひとつから何枚も取り出して現金化するのは躊躇われる。それにすでに在庫が20体分ほどたまっているので回収はしなかった。
 ちなみに既に腕力だけならオーガが相手に腕相撲でも勝てるくらいの力はついたと思うが、スケールの差で腕相撲自体が成立しない。単に力があるだけでは駄目だ、それを支える体重が必要となる。もっとも大地の精霊の加護でもあれば話は別だが……大地の精霊の加護? 何で俺はそんなことを知っているんだ……まあそんな事どうでも良い、気にするようなことではない。

 オーガ狩りに時間を取られながらも、周りに人目が無かったので自重することなく怪物じみた身体能力を発揮して1時間足らずで20kmあまりの距離を踏破し、ミガヤ領最大の街であるタケンビニと最北端の村であるアギをつなぐ道への合流地点へと差し掛かる。
 そこから南南西へと向かうと6-7kmほどでタケンビニであり、全く人通りの無いので再びペースを上げると20分ほどでタケンビニの街の北門へと何事も無くたどり着いた。

 タケンビニは周囲を4mほどの高い城壁に囲まれた城塞都市であり石造りの楼門には門番として2人の兵士が立っていた。
「身分証明書を提示しろ」
 流石兵士だ。ネハヘロの自警団とは違ってかなり横柄な上からの態度だな。
 だが俺には上からの偉そうな態度には耐性がある。伊達に時代遅れなまでに上下関係のきつい空手部に居たわけではない。多少苛つくような態度をお上にとられても笑顔で対応する程度の腹芸は身につけている。
「はいどうぞ確認をお願いします」
 媚び荷なら無い程度の笑顔でネハヘロの老役人から貰った身分証明書を取り出して兵士に渡す。やっぱり明らかに媚びられたら逆に警戒されるだろう。

「うむ、確認した。毒などの危険物や禁制の品などは持っておらぬな?」
「もちろんです。荷物の確認をお願いします」
 身分証明書を受け取ると、言われる前にこちらから協力する姿勢を示して、腰に佩いた剣を除けば唯一身に着けている背嚢を地面に下ろして開けて中を見せる。
 中に入っているのは、オークのフグリで出来た巾着袋の財布に入った1000ネア足らずの金と、携帯保存食と鍋などの食事関係のものとと毛布や着替えなどの生活用品。それに村を出る前に買った。コードア特産品のオーク肉の燻製品であるベーコンとソーセージ──結構どころかかなりのお気に入りであり、他にもシステムメニューの【所持アイテム】に大量に収納してある──などだけだ。
「問題は無いようだな」
「では通ってもよろしいでしょうか?」
「うむ」
 兵士は納得したようにうなずくと、街へと入る許可をくれた。
 ベーコンやソーセージに熱い視線が注がれていたので、ファンタジーものでありがちな公権を嵩にきた強要を口にするのかとも思ったが、そんな事も無くあっさりとしたものだった……そんなベタな展開がそうそうあってたまるものか。
 役人などに不届き者が居ないわけでは無いだろうが、そんな奴ばかりでは秩序は保たれない。
 まともな奴の方が圧倒的に多いから秩序は保たれる。秩序の崩壊は1-2割程度まで秩序を無視した人間が増えると起こる。目に見えて不正で利益を得ている人間が大手を振って歩いていれば、まともな人間だって秩序を守ることが馬鹿馬鹿しく思うようになるのも仕方が無い。
 ともかくタケンビニでは一定の秩序は保たれている考えていいだろう。ネハヘロの代官の様な阿呆が入るのだから、あくまでもある一定の秩序ではあるが。


 街の中は人口3万人と田舎町の小都市程度だが、面積の狭い城塞都市での3万人は俺の感覚からはかけ離れた賑わいだ。
「ともかく道が狭い」
 狭い道を馬車や人間が動き回るから雑踏と喧騒は、区分的には地方中核都市と立派な名称を誇らしげに市役所は掲げているが、人口の割りに面積も広い田舎に過ぎず、平日の昼間など市の中心部以外は、人とすれ違うことすら余り無い。そんな場所で育った俺には異様ですらあり圧倒する。

 さて、まだ午前中であり昼飯を食うにはまだ早い。街を見て回るにしても人混みに圧倒されて目的も無く歩き回る気にはなれない。
 目的があれば良いのだが、必要な物は大体揃っている。武器関係は剣と長剣に槍は持っていて、どれもがメンテナンスフリーの謎クオリティーの逸品であり、それ以上の武器が簡単には手に入らない事ぐらいは、この異世界に関して未だ初心者クラスの俺にも分かる。
 そう言えば弓があった筈なんだが……まあ良いや、どうせ俺には使いこなせない。
 クロスボウでもあれば良いのだが……いや現実世界の方ではクロスボウの起源はかなり古く紀元前まで遡れるはずだから、こちらの世界にあっても不思議は無い。
「探してみるか」
 そう気軽に言ってみたものの、まずは店を探すことすら簡単ではなかった。辛うじて剣等を扱う店は見つかったのだが弓関連は扱う店がまた別なのだ。
 少し考えれば当たり前なのだが『武器関連全般扱ってます!』なんて看板を上げている大型店舗なんて存在しない。街角にあるのは小さな店舗+鍛冶場という店構えであり、あれもこれも取り扱うなんて事は不可能。当然品揃えは店の鍛冶職人の得意な範囲のみの商品になってしまう……勿論鍛冶職人が、得意分野以外作れないと言う訳では決して無い。しかし得意分野で勝負しなければ他の職人に勝てる訳も無いって訳だな。

 俺のクロスボウ探しに対するやる気は時間の経過とともに失われていく。この人と人がぶつかり合わずには移動できないという状況が俺には無理だ。大島を何時如何なる場合にも間合いに入れないように気を配っている俺にとって、見知らぬどころか人種や風習の異なる異世界の人間が自分の間合いを出入りするという状況は非常に堪える……そう、決して俺が田舎者だからとか言う訳じゃなく人混みが嫌いな理由がちゃんとあるんだ。」
 そんな訳で大して腹も減っていないのに、流行っていそうも無い小さな定食屋らしき店に入り一息吐く事になった。

「……ご、ご注文は決まりましたか?」
「なにか適当に肉料理を」
 テーブル席の椅子に腰掛けてうなだれていると、まだ5歳くらいの男の子が注文を取りにきたのでメニューも見ずに答えた。

 朝も具なしのシチュー──正確には細かく刻まれた肉や野菜が入っているのだが、スープと一体化しており具としての存在感を放つことは無かった──で、こちらの世界では昨日の朝からずっと具なしのシチュー続きだったので、味はともかくとして肉を食いたかった。
「え~と、今は……オークの肩肉の煮込みとコカトリスの腿肉のソテーが出来ます。う~んとオーク肉が5ネアでコカトリスが……9ネアになります」
 大変よく出来ましたと拍手してあげたい。
「じゃあコカトリスを頼むよ」
 コカトリス……水面を走るトカゲの仲間バシリスクの語源となったバジリスク。それと被りまくりで名前以外に区別がつかない超危険ファンタジー生物だ。
 メデューサ・ゴーゴン・バジリスク・コカトリスという石化界の四天王……つかそれしか知らないんだが、ともかく石化はゲームなどでは即死の次に食らってはいけない状態異常攻撃だ。
 何でそんなものが普通に、多少高目だが一般的な価格帯で、こんな閑古鳥……いやいや寂れた趣のある店で出てくるんだ? しかも何で頼んじゃってるの俺? こんなところでチャレンジャー精神発揮している場合じゃないだろ!
「分かりましたコカトリスですね……あの……その……後1ネアで野菜料理が~追加できますが?」
 ああ、受け付けられちゃったよ……今更、オーダーの変更を口に出来ない自分の性格が憎い。
「それも頼む」
「はいうかたまわりました……うけたまわらま……うぅぅ、10ネアになります」
 半泣きで差し出してきた掌の上に銅貨を10枚乗せてやる……この世界の風習にチップが無いのはネハヘロで確認済みだ。
「ありがとうございました」
 男の子は、まだ落ち込んだ様子で頭を下げると、奥に下がり厨房へと注文を告げる。
「お母さん! コカトリスのソテーと野菜料理のセットだよ!」
「は~い!」
 男の子の呼びかけに厨房から女性の返事が返ってくる。まあ普通に考えて親子なんだろう……どうでもいいけどさ。

「……う、旨い」
 何だこれは? 肉としては食感、味ともにチキン系だ。だがこんな旨い鳥肉を食ったことがあるだろうか? いや無い! ……まあ、鳥なんて鶏と合鴨くらいしか食ったことは無いけどな。
 オーク肉を食ったとき以上の衝撃だ。まさか食材自体の旨さにこれほどの衝撃を受けることがあるとは……人生は奥深い。
「それに素材の旨さだけではなく料理人の腕も見事だ。素材という塊から料理人が客に食べさせたいと思う、おもてなしの心が作り出す味の理想形がまるで美しき彫刻のように見事に削りだされている!」
 目頭が熱くなるほどの感動。なんてものを食わしてくれたんだ。なんてものを……これは料理人に一言礼を述べなければならない。
「坊や。お母さんを──」
「坊主。母ちゃんを呼びな!」
 店の入り口から発せられた濁声が俺の言葉を遮った。
 一言で言うとチンピラ。二言で言うと雑魚っぽいチンピラ。三言で言うならテンプレ雑魚チンピラが4人店の中に入ってくる……ベタな展開来たーーーーーっ!

 驚きだ。こんなベッタベタな展開がまさか自分の目の前で繰り広げられることになろうとは……やべぇフィクションの中でしか見たことの無い状況に、オラなんだか緊張してきたぞ。
 どうする隆。此処はテンプレ通りに割って入るのか? それとも人を呼ぶか? うん食事続行だ今は目の前の食事を温かい内に楽しもう。これを冷まして不味くするなんてとんでもない事は俺には出来ない。何をするにしても食べ終わってからでも十分だろう。
 そう思って気配を殺して食事を続行するが……駄目だ。美味すぎて泣けてきた。
「……美味い。美味すぎる」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 肩を震わせて感動している俺に、「おう兄ちゃん。状況が分かってねぇのか?」と、何やら豚さんが喚いているようだが構っている暇は無い。
「これと言ってスパイスは使われていないのに、この味の調和は……そうか塩梅だ。塩加減ひとつがこの奇跡的なバランスを──」
「何ごちゃごちゃ抜かしてるんだ!」
 目の前の料理が男の腕の一振りでテーブルから吹っ飛んでいく。
「あっ!」
 飛び散る料理たちを俺は目で追いかけるが、まだ2/3以上残していたコカトリスのソテーは皿ごと壁に飛び、白い壁にソースの色と同じ緑色の花を咲かせた。
 ……例え、俺の胃袋で消化され消える運命にあった料理とはいえ、こんな残酷な結末を迎えるとは……この目でそれを見ることになろうとは……
「分かったらさっさと出て行け!」
 俺の胸倉を掴みながら喚き散らす豚。その胸倉を掴む右手の人差し指と中指の間に、左手の親指を差込むと一気にへし折る。親指の方が簡単に掴めるが折りづらいので人差し指を折るのだが、良く考えれば今の俺の力なら別に手首ごとへし折るのも簡単だった。
 他人に対して力を振るう事を当たり前と考えている奴。こういう人間が俺はある意味大好きだ。何故なら俺は他人対して力を振るう事を当たり前と思ってる奴に対して力を振るう事を当たり前と思っている悪人に人権は無い派だからだ。
 大島が言っていた。所詮どう言い繕ってもお前達に教えているのは力の振るい方だ。その力が暴力になるかどうかはお前ら次第。自分が必要と思ったなら使うがいいと。当時は「それはどうなんだ?」と疑問を感じないわけでもなかったが、今は少し分かる気がする。分かってしまうほどストレスが限界だった。

 俺は食事を邪魔された怒りと最近の説明のつかない不安定な精神状態とが相まって、俺は指を折られて喚く豚の頬を容赦なく掌で張る。
 ただ叩く為ではなく、拳よりも多くのエネルギーを相手に伝えるために振るわれた掌によって、豚の口元からへし折られた歯が飛び散るのも構わず、返す手の甲でもう一撃加える。結果、豚は再び口元から歯を飛び散らせながら白目を剥いて床に崩れ落ちた。
 やりすぎたかな? 料理のあまりの美味さが俺から冷静な判断力を奪ってしまったようで、相手が豚ではなくテンプレ雑魚チンピラという人類の一種だという事に今更気づいた位だ。
 自分が引き起こした惨状にやっちまったと言う思いもある。しかし折角、穏便に済ませる方向で考えようと思わないでもなかった俺の思いを無碍にして、俺に喧嘩を売るなんて、ストレスの捌け口が欲しくて欲しくて仕方が無かった俺に喧嘩を売るなんて、そりゃあもう買うしかないだろう。
 呪え。職業選択を誤った自分の愚かさを、空気を読めず食事の邪魔をした自分の間抜けさを、そして俺が居る時に、この店に来た間の悪さと、間の悪さと、間の悪さを呪え。吹っ切れた自分の口元がきゅっと上に吊り上るのが分かった。

「な、な、な、何をするんだ!」
 バイオレンスな光景に、驚いたチンピラの一人が喚き出す。この程度の暴力に怯えるとは暴力従事者としてなっていない。
 今の段階になっても、心の何処かで面倒なことになったと思う気持ちが無いわけでもない。別に正義感に目覚めたわけでもない……例の病気は十分に押さえ込んでいる。
 匙は投げられた。毒食らわばそれまでと言うじゃないか、だから諦めて欲しい。
 暴力を生業にして生きてきたお前らにどれほどの根性があるのか教えて欲しい。当然自分が理不尽な暴力によって死ぬ覚悟くらいあるんだろう? もしも無いと言うのなら今ここで教育してやるのが親切というものだよな?

「もう一度料理を作り直してくれ」
 怯えるチンピラを華麗にスルーすると、厨房前のカウンターの上に銅貨10枚を置いて注文する。
「あの、その……でも~」
 料理人である女性──年の頃は20代前半の、結構美人さんだ──は怯えたようにその場から動けない。
「ああ、そうか……おい。おまえらさっさと帰れ。お前らが邪魔で料理が作れないだろ」
「ふ、ふざけるなこの餓鬼が!」
 固体識別する意味すら感じられないチンピラの1匹がナイフを抜きざまに斬りかかって来た。
 馬鹿だナイフで斬りかかってどうするつもりだ? ……ああ、普通の人間ならそれで正解なのか、空手部の2年生以上なら普通のナイフで斬りかかるより、拳の一撃の方がダメージが大きい。ナイフで斬りつけても肉を斬る程度だが俺達の拳は骨を砕く。しかも手加減も自在という優れた武器だ。だからもしナイフで攻撃するとなると突き一択が常識なのだ……我ながら嫌な常識だ。大島は何を考えて俺達にそんな常識を叩き込んだのだろう。

 剣ほど重たいものを振り下ろすわけでも無いのに、大きく振りかぶったナイフを持つ腕の肘を、下から蹴り上げて粉砕する。
 一生障害を負うだろうが、こんな奴らがのさばる様な未成熟な社会において、一番手っ取り早いのは二度と他人に暴力を振るう事の出来ない弱者に転落させる事が、こいつら以外の人間にとっての幸福に繋がる。
 壊れた腕を抱えて崩れ落ちる途中で、ついでに左膝も蹴り砕いておく。

 床の上でのた打ち回るチンピラの横を通り、残りのチンピラに歩み寄る。
「て、て、てめぇ!」
 完全に怯えながらもなお虚勢を張るチンピラ。その手の中の紙を奪い取る。
「何しやがる!」
 取り戻そうと手を伸ばすが、ステップを踏んでかわしながら、鋭いジャブをその鼻っ面に軽く当てると、鼻を押さえて指の間から流れ落ちる赤い血に大きな悲鳴を上げる。先の2人のやられっぷりを見ているせいで自分の鼻が修復不可能なまでに破壊されたと思ったのかもしれない。
 奪い取った紙を見てみると、それは借用書だった。
 年利20%で6000ネアを借りて、月々250ネアの返済を5年間続けるという内容だ。
 利子の繰越を月単位ではなく年毎で計算してることや、若干計算がおかしい部分もあるが、それは大した問題は無い。こちら世界での商習慣的には正しいのかもしれないと思える程度だ。
 しかし、一点だけ大きな問題があった。債務者が死亡した場合は即時に借金全額を返済するという一文が、後付のように不自然に書き込まれている。
 その一文の文字を一文字ずつ確認していく……思わず吹いた。改竄の跡が想像以上に簡単に見つかってしまったのだ。杜撰だよ。悪事を働くなら、そのリスクに見合うだけ真剣さが欲しいと見当違いな怒りさえ覚える。
 いや違うな、真剣さが足りないのはリスクが小さいからだ、つまりこんな真似が日常的に行われていて気が緩んで真剣さを維持できないのだろう……ストレス解消どころか余計にムカついてきた。

「もう一度だけ言う。さっさと帰れ。これ以上やったら怪我人の方が多くて帰れなくなるぞ」
「わ、分かった。分かったからこれ以上は止めてくれ」
 唯一無傷のチンピラは完全に怯えていた。一瞬で人間が破壊される様を2度も見せられて心が折れてしまったようだ。
「帰る前に、この馬鹿が駄目にした料理代金を払えよ」
 前歯以外の歯を全て失って気絶している男を指差しながら命じた。
「分かった」
「割った皿の分や、店への迷惑料。それから暴力を振るったことで傷ついた繊細の俺への慰謝料でお前らの財布全部置いていけ」
「そ、そんな」
「あぁ?」
 俺は知っている「あぁ?」には「殺すぞ」というニュアンスがとても多く含まれるということを嫌というほど知っている。一番最初の『あ』に濁点を加えて、やり過ぎない程度に軽く『あ゛』と発音すると効果的だ。
「わ、分かった。分かったから」
 2人のチンピラは自分達の財布を床に投げ出すと、気絶している怪我人2人の懐を探って財布を取り出して同じように床に置くと、引きずるようにして店から出て行こうとする。
「どうせ後から仲間を連れてお礼参りに来るつもりだろうが、お前達の顔を見たら最優先で殺す。お前達の仲間が運よく命拾いすることがあったとしても、お前達だけは確実に殺すから憶えておけ」
「そ、そんな……」
 チンピラ達の顔に絶望の表情が浮かぶ。まあどう考えても、こいつらが仲間に状況を伝えただけで「後は任せた」なんて事が許されるはずも無い。奴等からしたら俺の発言は処刑宣告にも等しいのだろう。
「いいか。仲間の元に戻って報告した後は怯えて泣き喚く振りをしろ。それでも駄目なら小便を流して糞も垂れろ。そこまでしたらお仲間もお前らを連れてこようとはしないだろ……それから、俺が飯を食い終わる前にお前らの仲間が踏み込んで来ても、俺の食事を邪魔した罪でお前らを殺す。何処に逃げようとも必ず見つけ出して殺す。だからゆっくりと戻れ」
「分かった。すまねえ」
 張子の赤ベコ人形の首のように上下に振るとチンピラは店を出て行った……まあ、今度似た様な状況で奴らを見かけたら殺さないまでも二度と自分の足で立てないようにするつもりだ。
 俺はこの暴力的な衝動を異世界で抑えるつもりは全く無い。力には力で応じてでも自分を推し通す。これ以上、失うのはごめんだからだ……失う? 何を? 俺は何を失ったというんだ? 俺は何も失っては居ないはずだ。分からないが何かがおかしいがこの胸にある空虚さと湧き上がる焦燥感は何だ?
 だが次の瞬間には「まあ、どうでも良いか」となってしまう。そして俺はそれを自然に受け入れてしまう。だが受け入れてしまう自分に苛立ちを覚えてしまう……何なんだこれは?


「美味いな」
 ささくれ立った精神状態だが、料理の美味さに心が洗われていくようだ。理屈じゃない美味いっていう事実の前には大抵の事は小事に過ぎない。
「ところで、どうしてこの店が流行っていないんだ?」
 カウンターの椅子に座って暇そうに脚をブラブラさせている男の子に声をかけてみた。
 そろそろ昼時であり、客で席が埋まっても良さそうなものなのに、店内には俺と男の子の2人だけしかいない。
「あいつらが──」
 想像通りであった。彼の死んだ父親がこの店舗の改修のために借りた借金の形に店と土地を奪い取ろうとし、更に客が入らないように嫌がらせを続けているという頭が痛くなるほどのベタな話だった。
 借金はチンピラどもではなく街の比較的大きな商会へと申し込みに行ったらしい。らしいというのは借金をした当日、彼女の夫は家に帰る前に何者かに襲われて借りた金と命を奪われ、しかも犯人は未だ見つかっていない……どう考えても疑惑で真っ黒だろ。

 余りにベタ過ぎて苦笑いしか出てこない。この借用書は公的なものだというのだから公証人が間に入っているはずだが、その公証人もこの借用書を正式なものと認めているらしい……こんな捏造としても欠陥品な借用書を。
 つまり、公証人もぐるって事だ。こんな人を殺してまで金を巻き上げるような真似をする連中が、まさか初犯なんて事は無いだろう。この街の治安を維持するべき役人や兵士達にも奴らの協力者がいるということだ。
 馬鹿馬鹿しすぎてだんだん楽しくなってきた。
 第1目的はこの店と親子を守ること。第2目的はこの後乗り込んでくる馬鹿どもを物理的にも社会的にも葬り去ること。第3目的は馬鹿どもに加担する悪徳公証人と警邏の人間を破滅させること。第4目的は俺がこの状況を楽しみスカッとして、溜まりに溜まったストレスを解消することだ。

 表の様子が騒がしくなってきた。
「来たな……2人は中で俺が呼ぶまで大人しくしてて」
 そう告げると、俺はテーブルの上にチンピラどもから奪……献上された財布をカウンターの上に置くと、店の入り口へと向かい、一歩通りに出た所で入り口をふさぐようにして腕組みをして立つ。
 そのまま、右手から人混みを蹴散らしながらこちらに向かってくる20人ほどのチンピラの群れを迎える。
「小僧、貴様か? 俺の舎弟に怪我させたのは!」
 このチンピラ集団の頭らしき個体が叫んだ。個体識別をするのは面倒臭いしあまり意味があるとは思えないが、とりあえずテンプレ雑魚チンピラ(頭)と頭の隅にとどめておこう。
「それが何か?」
「どう落とし前をつけてくれるんだ!」
「落とし前? 落とし前はとうにつけたはずだ」
「何を言ってやがる!」
「1人は暴力を振るい俺の食事の邪魔をし、もう1人はいきなりナイフを抜いて襲い掛かってきた。その事に関して身をもって落とし前をつけてもらったのに、けりのついた話を蒸し返して今更何を言ってるんだお前は?」
「そ、そんな御託が通用すると思ってるのか、この糞餓鬼が! おい野郎ども!」
 チンピラどもが武器を構えると通りに居た人達は一斉に逃げ出して、幅2.5mほどの路地には俺とチンピラどもと、逃げ遅れた間の悪い男達が数人という状況になった。
「武器を抜いたな。たった1人を相手に大勢で武器を抜いた。この事実はここにいる全ての人間が証人だ」
 通りからはほとんど人が居なくなったが、通りに面した建物の窓には鈴なりになった人々の顔が張り付いている。
「証人も糞も、これから死ぬテメェに何の関係がある!」
「ほう、この昼間に大勢の前で堂々と殺人予告とは、よほど役人に嗅がせた鼻薬に自信があるみたいだな」
 俺の言葉に周囲から低い声が漏れる。公然の秘密。ただしそれを堂々と口にするものが居なかった。そのタブーを俺が破ったことへの驚きの声だ。
 此処までやった以上は後には引けない。徹底的にやりぬくしかない。そう思えば吹っ切れて清々しささえ感じる。

「お前ら、やっちまえ!」
 笑ってしまうほどのテンプレな台詞だ。
 しかしこいつらとしては、例え警邏の人間を買収しようとも、公証人と結託しようとも、この場を力づくで乗り越えなければ企みは成功しないわけでもある。
 俺は入り口の前に陣取ったままで、襲い掛かってくるチンピラどもを迎え撃つ。
 どいつもこいつもナイフや短刀の類で武装しており、それを振りかざして突っ込んでくる。
 俺はまずは武器を下から掬い上げるように蹴り飛ばし、その脚で相手の膝の皿を蹴り砕く。
 整形外科の無いこの世界では、魔法の力にでも頼らなければ一生歩行に支障が出るだろうが、それは自業自得と言う事で我慢してもらうしかない。
 それにしてもせめて囲んで一斉に攻撃を仕掛けるとかいう発想は無いのだろうか? 本当にこいつらには悪事に対する真剣さがない。大人数で取り囲んで相手を怖気づかせて主導権を握り一方的に嬲る。そんな都合の良い展開でしか戦った事が無いのかもしれない。

 6人ほど地面に這い蹲らせたところで、そいつらが邪魔でチンピラどもは俺に近づけなくなった。そこで倒れているチンピラの顎の先をつま先で軽く弾いて気絶させると、そいつの身体と地面の間に右足を差し入れると、目の前に集まったチンピラ達を目掛けてすくい上げる様に蹴り飛ばした。
 ワイヤーアクションの特殊効果のように決して小柄ではない男の身体が宙を舞い、チンピラ達の壁に突っ込むと3人ほど巻き込んで吹っ飛んでいく。
 これで大体半分程度に人数が減ったが、チンピラどもの目には怯えの色が見える。拙いな逃げられたら一網打尽に出来ない。
「あれ~尻尾巻いちゃうつもり? でも良いかなぁ~、暴力による脅ししか芸が無いのに、たった1人に蹴散らされて逃げたらどうなる。お前らチンピラなんて舐められたらお終いなのにさ」
 俺の得意技、粘着質で嫌悪感を覚えるキャラによる挑発で、自分達が舐められたらお終いな存在だと思い出したのだろう。なけなし蛮勇をかき集めて、再び俺に立ち向かう覚悟を決めたようだ。
 いきなりナイフが飛んで来る。しかし俺が店の前に陣取っている以上、飛んでくるのは正面とは言わないが、死角からではなく周辺視野の範囲内だった。
 投げナイフなど、どう頑張って投げても100km/hには届かない──野球の投球のように全身を使って投げるのでもなく、肩から先を使って小さいモーションで投げるキャッチボールのような投げ方だ。さらに現実世界と違って刃がステンレスだのチタンだの軽い金属で作られているわけでもなければ、ハンドル部分がカーボン製というわけでも無いので確実に硬球の倍以上は重いはずだ──のだから、視界の範囲内ならば、後の問題は刃物への恐怖心のみ、それさえ押し殺せるならば、自分へと向かって飛んでくるナイフを横から叩き落すなんて事はリトルリーグの野球少年にも難しくは無い。そして俺なら横から柄を掴み取るのは出来て当然の芸当だった。

 掴み取ったナイフを投げた張本人へと投げ返す。狙いは相手の太ももだが、残念な事に俺には投げナイフの経験などは無く、刃ではなく柄の部分が、しかも狙いがそれて股間に当たった。
 ナイフを食らったチンピラは悲鳴を上げる事さえ叶わず、顔だけを歪ませて前のめりに倒れ地面にキスをする……ちなみに思わず俺も内股になってしまったが、結果オーライである。
 その状況に同じくナイフを投げようとしていたチンピラが顔色を変えてナイフを引っ込める……正しい選択である。誰が彼を臆病者とそしる事が出来るだろうか?

「馬鹿野郎! 一斉に投げつけろ」
 テンプレ雑魚チンピラ(頭)が叫ぶ。その声に、一旦は引っ込めたナイフを再び振りかぶって投げつけてくるが、一斉と言っても3本ならばこの場を動かなくても何とか処理は可能だ。
 右手で1本を掴み取り、左手で2本目を掴み取り、最後の1本を両手のナイフで挟み取……失敗して3本目のナイフは上へと弾かれ店の屋根を越えていった。
 失敗を隠すために、最初から最後のナイフは上に弾き飛ばすつもりでしたよ言わんばかりに、動揺を顔に出さず両手のナイフを屋根の上に放り投げた……上手く誤魔化されてくれ。

 2人が短刀を脇に構えてまっすぐ突っ込んでくる。
 いわゆるヤクザの鉄砲玉による「命(たま)取っちゃるけん!」攻撃で、殴られても斬られても撃たれても、そのまま身体ごと突っ込んで相手に匕首を突き刺すというある意味必殺技ではあるが、そもそも大島に仕込まれた空手も根底にあるのは一撃必殺である。攻撃を受けてなお突っ込んでくるなんて舐めた真似は許しはしない。
 相手の間合いの外から左の回し蹴りをこめかみに叩き込み意識を奪う。体勢を崩してあらぬ方向へと崩れ落ちるチンピラの陰から別のチンピラが時間差で突っ込んでくる。しかし、そんな事は織り込み済みで軸を右足から左足に踏み変えると一発目の回し蹴りの勢いを殺さずに右足で後ろ回し蹴りを放つ。
 右足の踵は完璧にチンピラのこめかみを捉える。その打撃は1人目よりはるかに大きく、意識のみならず運動能力も奪われ、その場に崩れ落ちた。

 これで12人。残りは……9人だ。
 無関係な人間を装っている奴が、俺が立つ位置から左手に居て隙を伺っている。
 大島やルー……誰だ? まあいい……畜生! 何がまあ良いだ。イラっとする……ともかく俺には気配を読むなんて真似は出来ない。単に周辺マップ上で敵対を示す赤でシンボルが表示されているので分かった事だ。
 つまり無関係な町民を装っている男が残って隙を伺っている間は、他の連中もまだ逃げ出さないと言う事だ。しかし、俺がこの入り口の前を離れたら中に進入し、親子を人質にする可能性もあるので入り口の前を離れることは出来ない……連中が逃げ出したら追撃を加える前にこいつを始末する必要がある。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 そんな事を考えていると、チンピラが4人がかりで樽を担ぐと俺に向かって走り出してきた……近くの酒場から持ち出してきたのでワインかエールの樽だろう。
 その意図を察すると、俺は料の脇を締めて、両手を左右の肋骨の横の位置まで引き、掌を上に向けて構える。
「くらぇ!」
 想像通りだが阿呆すぎる。俺目掛けて樽が投げ出される。重さは俺の体重の優に倍はあるので威力は凄いが避けるのは簡単だ。避けたら店舗への被害が出る事を俺が配慮すると判断した上での攻撃でも無いだろう。
 連中の攻撃の意図はともかく飛んで来る樽の後──樽を投げたチンピラたちを巻き込むように【真空】を発動させつつ樽を迎え撃つ。
 自分の倍以上の物体が、かなりの勢いで飛んでくるのだから常識的には迎え撃つのは不可能。だが俺は素早く、そして力強く一歩を踏み出すことで、樽の持つ以上の運動エネルギーを我が身に宿すと、その全てを両の掌に伝えるように諸手で掌底を突き出す。
 樽と掌底の衝突の瞬間に、俺の身体から発せられた力の半分は樽の持つ運動エネルギーを相殺し、残りの半分は樽の反対側へと突き抜け、樽の反対側をぶち破り中の赤い液体をぶちまけながら吹っ飛ぶ。
 その瞬間に【真空】を解除。飛沫となって飛び散った赤い液体──赤ワインの中でも特に小さなエアゾル状の飛沫は、気圧差によって真空の空間があった空間へと殺到し、それを浴び吸い込んだ4人は、目を押さえ、そして気管や肺に飛び込んだアルコールで粘膜を痛めて激しく咳き込み苦しみ悶える。

 残りは5人。しかも1人は無関係を装っているので、テンプレ略(頭)の周囲には3人しか残っていない。
 どう考えても残りの手下が3人で俺に挑む度胸があるとは思えない。それに度胸以前の問題だろう。
 奴らが逃げを打つ前には入り口の前から離れて距離を詰める。すると周辺マップの中で、残りの1人が店の入り口方向へと動き始めた。
 そちらを振り返りながら【無明】を発動し視界を奪う。そしてよろけた足元へ【坑】を発動して足を踏み外させる。更に転倒しながら身体を支えようと地面に突こうと手を伸ばした所へと更に【坑】を使うと、受身も取れずに頭を地面に叩きつけ失神した。

 次の瞬間、俺はかなり本気を出すと走って最後の4人との距離を一気に詰める。何せ連中は既に逃走を始めていたのだから。
 ところで走る速さが同程度の相手を追跡しながら、飛び道具を用いない有効な足止め手段は何か知っているだろうか?
 ほとんど同じ速さで走っている訳なので走るという動作以外の行動は速度低下につながり、こちらの手の届く範囲から外れてしまう。
 多分、多くの人が考えるのは後ろからのタックルだが、失敗すれば再び追いつくのが困難になる可能性が高いのであまりお勧め出来ない。
 他にも後ろから相手の服を掴んで止めるという方法もあるが、相手が1人ならともかく複数なら残りを逃がしてしまう事になる。

 答えは相手の靴の後ろ、踵の部分を後ろから踏んでやることだ。
 そうすれば相手はバランスを崩して転倒する可能性もあるし、靴が脱げてしまえば走る速度も下がるが、こちらは走る為の動作の中で仕掛けることが出来るので、その行動により走る速度が落ちることはほとんど無いので、順番に相手が転ぶか靴が脱げるまで何度も繰り返して仕掛ければ良い。
 ちなみに俺の場合は速度で相手を優越しているので、膝の後ろを蹴って転ばせるという選択をした。

 【所持アイテム】の中からロープを取り出すと、捕まえた連中を後ろ手に縛り上げてまとめて引きずりながら店の方へと戻る。
 途中、先に倒した連中もロープで縛り上げていく。とりあえず街の迷惑な仲間達を確保完了だ。
 本来ならこの後は拷問を交えた尋問を行うところだが、堅気の人たちが見守る中でそれをやったら俺が悪者になるのでやめておく。これから始まることには世論の味方が必要なのだ。

「来たな」
 街の警邏隊が団体さんでこちらに向かってくる。
 チンピラ達はその様子に怯えた様子を見せるが、ただ1人テンプレ略(頭)のみ笑みを浮かべる……そんなに喜んだら、お前と警邏の連中の癒着を告白しているようなものだぞと思いながら、俺も嬉しさを抑えきれず笑みを浮かべてしまう。

「一体、何事だ!」
 警邏隊は威嚇するように大声で叫びながら、遠巻きに見ていた町民達を押しのけてこちらにやってくる。
 態度悪いな。さすがファンタジー異世界だけあって、公僕ではなく封建時代のお役人様状態って奴だな。更に腐敗していようものならこの世でもっとも醜いモノの一つとなる。
 上からの偉そうな態度には耐えよう。上から押し付けられる理不尽にもある程度なら耐えよう。だけど醜悪って奴には耐えられる自信が無い。ましてや今の精神状態では無理だ。
 今の俺は説明がつかないほど情緒が不安定だ。まるで思春期特有の不安感と焦燥感に駆られた中学生のように……俺中学生だよ。
 ともかくだ。何かを思い出そうとすると何者かが俺の頭の中のスイッチを切り替えたかのように、その事について考えようとする気がなくなるなんて状況でこれ以上我慢なんて出来るか。
 はっきり言って、この件に関わった糞どもはまとめてぶっ殺してしまいたいくらいだ。例えるなら今の俺は切れたナイフで、ヤバイヨヤバイヨ~だ。
 それをしないのは糞どもへの寛恕の情などでは無ければ、自分の手を汚すことへの嫌悪感でもない。単に店の親子へ迷惑が掛かるという心配があるため……いや、彼女達に迷惑をかける自分が嫌なだけで、彼女達の安全を本気で考えているかなど怪しいものだ。
 もっと穏便な方法もあった筈なのに、それを選択しなかったのが証拠だ。

「貴様か、この騒ぎを起こしたのは!」
 隊長らしき男がいきなり俺を指差して犯人扱いである……いかんな、気をつけていてもニヤニヤが止まらない。
「いいえ、この者どもが狼藉を働こうとしたので取り押さえただけですが」
「五月蝿い! 貴様の言い訳など後できっちりと聞かせてもらう。ひっ捕らえろ!」
 そう部下に命じる一方で、俺がお縄にしたチンピラどもを解放しようとする。
「待ってもらおう。何故俺を捕まえ、このやくざ者どもを解放する気か?」
「黙れ!」
「いや黙らぬ。この場には多くの証人がいる。俺が先に武器を抜いたいう人間は手を挙げて欲しい」
 俺の言葉に誰一人として手を上げるものはいなかった……そりゃあそうだろう。手を挙げてまで嘘の証言を表明するには2重の精神的障壁が立ち塞がる。人間は1つの精神的障壁は乗り越えられても、一度に2つは乗り越えるのが困難な生き物である。詐欺師などは、よくそれを利用して相手の行動を縛る。
「では、このやくざ者どもが今まで暴力を振るい街の人間に被害を与えたのを見た事が無いというものは手を挙げて欲しい」
 やはり誰一人手を上げない。前回同様に手を挙げづらい質問をしているのもあるが、そもそも誰も手を挙げなければチンピラ達の報復もそれほど怖くは無いのだから。
「結果はこの通りだ。お前は何故、街の誰もが知っているやくざ者どもの肩を持つんだ? どうしてヤクザどものボスがお前の顔を見て嬉しそうな顔をしたんだ?」
 俺の言葉に、皆の視線がテンプレ略(頭)へと集まる。略(頭)は慌てて俯き顔を隠した。
「な、何だその口の利き方は? 貴様、誰にものを言っていると思ってるんだ!」
 こうまでも予想通りに受け答えしてくれる馬鹿って大好きだ。抱きしめて頬擦りして……やりたくは無い。

「金を貰ってやくざ者どもに飼われている汚職官吏。街の治安を守る役職に就きながら、やっていることはその真逆。俸給を受け取る時、恥ずかしいと思ったことは無いのか? やくざ者どもから金を受け取るとき、真面目に奉職する仲間達に合わせる顔が無いと恥じたことは無いのか? ……無いのだろう。真面目に働いてる者達より裏で余禄を得ている自分の方が賢いとでも思い見下していたのだろう。この人間の屑め!」
 やったー! はっきり言ってやったぜ! 溜まりに溜まったストレスの5%くらいは晴れたな。
「ええい! ひっ捕らえ……いや、斬れ。この者を斬り捨てろ!」
「今更口を封じようとしても無駄だ。いままで怪しいと思いつつも誰も口にしなかった事実が一度の口の端に上ってしまったのだ。お前はおしまいだよ。見てみろ自分の部下達の顔を」
 警邏隊の面々のほとんどは疑いの目を隊長へと向けている。中には隊長に同調して俺を斬ろうと剣を抜いた者もいるが同僚達によって押さえ込まれている。
 元々疑っていて事もあるのだろう。それに人々の声なき声。更に自分を賢いと思い見下していた。という俺の言葉が効いているのだろう。

「き、貴様ら命令に背いた以上は覚悟が出来ているのだろうな?」
 往生際悪く部下を脅し始めたか。でもな人目の無いところで一対一で脅すならともかく、こんな公衆の面前で脅されて、今更引き下がったら部下達もこの街で立場が無くなる事を配慮してあげないと、反感を買うばかりだな、と思ったことをそのまま大声で口にする事で、警邏隊の隊員達にプレッシャーを与えた……こういう悪知恵の働く自分が好きだ。大好きだ!

「エナポルプ! エティレッタス! 斬れ! 斬るのだ! お前達も金を受け取った以上は口封じをしなければ破滅だぞ」
 おい! 後3行程ほど踏んで追い込む予定だったのに、どうして勝手に白状しちゃうの? この素人が! お前のおかげで俺の完璧な計画は台無しだよ。
 隊長とその協力者である2人の隊員は、残りの隊員に取り押さえられ縄を打たれる。めでたしめでたしと言いたい所だが、まだ終わってしまっては困る。

「そいつらを連れて行くのはまだ待って欲しい。これはこいつらが持っていた借用書について大いに疑問がある」
「一体何が?」
 近寄ってきた隊員に借用書を見せる。
「借用書の文言の最後に書き込まれた一文を確認してくれ」
「……確かに、不自然に書き加えられたとも見えるが、これだけではおかしいとは言えない」
「不自然なほど大きく書かれた借主の署名と、最後の一文の文字の線が重なった場所が何箇所かあるはずだ。そこをじっくりとみてくれ」
「これは……署名のインクの線の上に、インクが重なっている!」
 借主であり殺された店の主は、脅されて無理やり借金をさせられたのだろう。本来きちんとした商会に借りるはずでありチンピラどもから借りたいと思う奴などいないだろう。
 最後の一文は、店の主が署名した段階では書き込まれていなかった。書いてあれば自分が殺されることを悟り、絶対に署名はしないはずだからだ。
 命の危険までは察していなかった店の主は、借用書に手が加えられないように、あえて大きく署名をして書き加える余白をつぶしたのだろう。
 だが彼の予想は裏切られ殺される。そして別の意味でも予想は裏切られて借用書には文言を追加され、チンピラどもにとって致命的証拠となっれしまった訳だ。

「しかも借用書に署名のある公証人……エシロプとやらも、この借用書を正当なものとしているそうだ」
「エシロプだと……奴は役場に勤める役人だぞ。それがこんなヤクザ者どもと結託していたというのか?」
「全ては、その借用書に示されている。それに警邏の人間なら、この借主がすでに殺されていることも知っているだろう」
「つまりは、こいつらが彼を殺してありもしない借金を負わせたというのか」
「ああ、あんたらの上司である、この男がぐるになり事件を揉み消しただろう。役人、警邏隊を買収してまで行われた犯罪だ。まさかこれが最初の悪事だと思って無いだろうな?」
 ついでに言うと、今回の件はスケールが小さいので、こいつら独自の不正だろうが、こいつらを手駒として扱いもっと大きな不正を行っている者がいるだろう。後ろ盾が無ければ隊員達から疑いを持たれるような者が隊長の地位を維持するのは難しい。
「ノインファルク。エリュバーグ。直ちにエシロプを逮捕して此処へ連れて来い」
「此処へですか……副長」
「詰め所に連れて行ってみろ。必ず余計な手出しをしてくる連中いる。この場で、人々の前で奴の罪を暴いた方が連中も後々手出しは出来ないだろう」
 こんな治安も、法すらも伸びたパンツのゴムのように緩い世界で、武器となるのは人の口の数だけ語られる噂という名の世論だけだと彼も知っているのだろう。

「心配は無用だ。私が証人になろう」
 いきなり予定外の変なのが出てきてしまった……どうしよう?
「カリル様!」
 副長と呼ばれた彼が、変なのへと駆け寄ると片膝を突いて顔を伏せる。
 変なのは、身長は俺と同じくらいで痩せ型で、柔和な笑みを浮かべた所謂イケメンだ。他の町民達と比べると上等そうな身形だが、別段貴族とかそんなイメージでもなく、ちょっと金持ちのボンボンといった感じ……まあ、俺の貴族のイメージなんて、この世界の貴族と一致するかどうかは知らないけどな。

「そこの君。君のおかげでミガヤ領の膿の一滴を搾り出すことが出来そうだ。感謝する」
「……誰?」
 大物ぶって現れた奴に、お前なんて知らないよと言ってやる。これに勝る快感などあるだろうか? ……結構あるな。
 こいつはチンピラどもが押し寄せてきた時に、逃げ遅れた間の悪い数人の男達の1人と認識した奴だ。
「だ、誰?」
 金持ちのボンボン風は、何とも言いがたい表情で副長に問いかける。
 副長の態度から、金持ちのボンボンという訳でも無い事は俺にも分かっている。ミガヤ領の領主が住まうタケンビニの警邏隊の人間が片膝を突いて頭を下げる相手といえば主家であるカプリウル家に連なる一族か、かなり地位の高い郎党。
 俺とさほど変わらない年頃を思えば一族ってところだろう。つまり一族のボンボンが変装し街中をプラプラしていて、偶然今回の事件に出くわし、良い場面で介入しようとしたがタイミングが掴めず、ずるずると時を失い、このままでは一件落着しそうなので慌てて顔を出してみたものの、俺にお前なんて知らんという態度を取られ、こういうのはお約束で暗黙の了解だから、名前を出さなくてもみんな知っているという体でやってもらわないと困ると思いながらも、今更カプリウル家の名前を出すのも野暮だよなと副長さんに確認を取っているところだよな」
「分かってるなら口に出して説明しないで!」
 一族のボンボンは先ほどまでの気取った態度を忘れたかのように叫ぶ、からかい甲斐のある奴だ。俺が弄ってやれば輝ける才能を持つかもしれないが、割とどうでもいい。
「……私が膝を折る方なのだ。少し言葉遣いを──」
「構わぬメトシィスティム」
 副長が俺に苦言を呈するが、ボンボンが遮った。あくまでも貧乏旗本の三男坊でも気取るつもりなのだろう。それはそれで弄り甲斐がある。

「……その洞察力、更に弁も立ち、また腕も立つ。どうだい君、僕に仕える気は無いかな?」
「無い」
 こんな先行きの怪しい地方領のしかも跡継ぎでもない次男に仕えてなんになる。
 俺はこの世界を自由に旅をして……旅をして……まあ、旅をするんだ。
「少しは考えようよ!」
 俺のそっけなさ過ぎる対応に怒りよりも驚きが先に出ている。
「我、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず……」
「なるほど、流浪の心を持つというのか……君は詩人だね」
「いや、適当に剽窃してみただけだ」
 元ネタは奥の細道、その作者の松尾芭蕉も李白の詩をパクった……ともかく『月日は百代の過客にして 行き交う年もまた旅人なり』なんて冒頭の部分よりも浪漫を感じる。
「身も蓋も無いね、君って人間は!」
「名乗りもしない奴を相手に、我ながら愛想の良い人間だと思ってるよ」
「うっ、そうか……僕の名前はカリル・ミガヤ・カプリウル。ミガヤ領を治めるグレイドス・ミガヤ・カプリウルの次男だ」
 納得出来ない表情で自分の名前を名乗った。いや名乗らせてやった。
「俺はリューだ」
「それでだ。リュー、僕に仕える気は無いかな?」
「無い!」
「だから少しは考えようよ!」
 だんだん面白くなってきたな。弄り甲斐がありすぎて実に馴染む。
「この高木リュー。己の主は己のみ。他人を主に戴くつもりなど毛頭無い」
「何か格好良い事言ってるけど、君は人にきちんと自己紹介させておいて、自分はフルネームで名乗ってなかったのかい?」
 細かいことに気づける良い突っ込み役だ。
「勝手に自己紹介しておいて何たる言い草だ」
「君が名乗りもせずにと言ったからだろう!」
「名乗りもせずに要件を告げてくるのは失礼だと言ったのは、そのしたり顔を凹ませるついでに指摘しただけで、別にお前の名前に興味は無い」
「ああ言えば、こう言う。全く!」
 頭をかきむしりながら地団駄を踏み出したよ。面白いけど幼児期を過ぎて、それをやったら駄目だろう。

「いい加減口では勝てない事を理解してあきらめろ……な」
「優しい口調で慰めるな!」
「……まあいい、ともかくだ。その借用書で役人の不正を暴いて、この糞っ垂れな街を少しはマシにする事が出来たことに満足して、一件落着とするのだな」
 そう言い残して立ち去ろうとするとボンボン──カリルがまた声をかけてくる。
「何故に頑なに拒む? 何故己の力を広く役立ててみたいと思わない?」
「自分が強く賢くあれば生きられる。そして自分がどれだけ強く賢いことを知っていれば、更なる高みを目指すことが出来る」
 ……それじゃ世捨て人だよ。単にこれ以上関わるのが面倒臭いから孤高を気取ってみただけで、持病の厨二病がスパークしてしまったわけじゃないよ。
「何が賢い。それは愚か者の言だ。使われぬ力や知恵に何の意味がある。役立ててこそであろう!」
「百年兵を養うは、ただ平和を守るため」
「…………そ、それは凄く良い言葉だけど、そりゃ良い言葉だけど、今の場合とは似ているようで全く意味が違うよね?」
「あぁー五月蝿い。お前と関わりたくないから、それっぽいことを言って煙に巻いて退散したいという俺の気持ちをどうして思いやれない? お前が、そんな気遣いも出来ない人間だから関わりあいたくないんだよ! 頼むから察して!」
 攻において威を発するが守に転じては威を失うといわれる俺の口撃は、今絶好調だ。
「き、気遣いの出来ない人間? この僕が? 君に? そんな馬鹿な…………分かった間違ってたんだ。言葉で理解し合おうなどと思った僕が愚かだった。後は力で語り合おうじゃないか」
「力? お前が? 拳で?」
 格好良く宣言するカリルに、縛られて地面に転がるチンピラどもを見渡しながら尋ねる。
 ここで終わらせてしまうにはもったいないほどの残念な男だが、力で語り合いたいというならば、それは空手部の専売特許だ主将として避けて通ることは出来ない。
「も、勿論剣でだ。拳なんて野蛮だろう。決闘は剣で行うものだ」
 素手では勝ち目が無いと分かっているのだろう。血相を変えて剣での勝負を口にした……ヘタレである。だが賢い判断だ。
「さあ勝負だ。飾りで無くばその腰の剣を抜いて見せろ。その増上慢をへし折ってくれる!」
 剣には自信があるのだろう。こちらを挑発しながら細剣を構える。一対一の決闘にしか役に立ちそうも無い細剣に対して、こちらは普通の剣だ。剣の差から自分の有利を確信した上でのセコイ勝負である。

 次の瞬間、出し抜けに腰の左に佩いた剣を抜刀する。
 腰の左を鞘と共に、その場に残したまま同足で大きく踏み込みながら鞘走らせる……そうですよね鈴中先生。
 なんてことは思っていない。そもそも鈴中から抜刀の方法なんて習っていないし、奴ごときから学ぶことが有ったとも思えない。
 しかし鞘から解き放たれた刃はカリルの持つ細剣の刀身を真っ二つにへし折り、更に肘と手首の返しのみで驚きの余り固まっているカリルの首筋へと突きつけられる。磨きあげられた技量ではなく全ては身体能力のなせる力業だ。
 身体能力全開の手加減なしの抜き打ちは、奴の目では何も捉えられなかっただろう。何が起きたかは少し離れた位置にいた副長さんから教えてもらうのだな。
 よく格闘漫画などで、相手の攻撃を受けた主人公だけでなく、離れた位置から見ているライバル達が「見えたか?」とかやるシチュエーションがあるが、離れた位置から見えないならライバルの資格は無いほど動体視力などが劣っていると言う事だ。上空高く飛ぶジェット機がゆっくりと飛んでいるように見えるのと一緒で、距離を開けるほど良く見えるのだ。
 だからシューティングゲームなどの動体視力を要するゲームは、画面から目を離した方が動きが良く見て取れるのである。

「勝負ありだな」
 見下しながら宣言する。
「いや待て。今のは無しだ。ずるいじゃないか? 僕はまだ準備が出来てなかった」
「先に抜いて構えまで取り、『さあ勝負だ』と抜かしておいて準備が出来ていない? 他に何の準備が必要なんだ?」
「えっ? ……えっと、心構え?」
「いいか? 俺は、冗談が、嫌いだ」
「君はさっきから笑えない冗談ばかり言ってたじゃないか!」
「俺は他人の冗談が大嫌いだ」
 我ながら凄い言葉だ。因みに引用元は大島である。
「…………」
「笑え」
「…………えっ?」
「笑え!」
 剣先を僅かに皮膚に食い込ませる。それほど突きを重視していないこの剣では、その程度では血が流れることも無いが、脅しには十分だろう。
「……はっは……ハハハハハッ……アーハッハッハッハッハッ、ヒィーおかしい!」
 たがが外れたかのように笑い出した。完全にヤケクソだな。何もそこまで自分を捨てなくても良いのではないか? と他人事のように思う。
 自分が強要したにも関わらず酷いと思わないでもない。しかし大島って日常的にこんな態度で俺達に接してるんだと改めて思い出し切なくなる。

「どうしてもやりたいというなら、もう一度剣を交えてみるか?」
「!」
 俺の提案にボンボン──カリルから降格──の目に光が宿る。
「ただし、次はその首を刎ねる」
 次の瞬間、ボンボンの目から光が消える。こいつは実力で勝てないまでも勝利以外の何かを俺から勝ち取ろうとしていたのだろう。面白い男だ。
 あんな自分を捨てたかのような馬鹿笑いをしながらも、まだ諦めずに機会を伺っていたこと、そして命懸けでは割には合わないと判断して素早く諦めることが出来る計算高さも大変よろしい。
 貧乏領主の次男が人材を求める。考えられる理由としては父親と長男を廃して自分が領主になるというのだろう。まあ分からんでもない。
 比較的税は安いとはいえ、何もしないのでは領民から見れば泥棒に等しい。税が高くても領民が安心して快適な環境を作り上げるのが領主の仕事であると俺は思う。そう意味では現在の領主は領主たる資格の無い盆暗である。
 次男であるボンボンが領主を目指すというならば、長男も親父と同レベルといったところなのだろう。
 そこで動機だが、こんな父親や兄に任せていてはミガヤ領が立ち行かなくなるから自分が変えなければという義心によるものか、それとも
ただの野心か……後者だな」
「だから声に出てるって! 大体、何だい。どうして僕が野心で父や兄を排除しようとしていることになるんだ」
「はいはい。義心から父や兄を排除しようとしているんだよな?」
「勿論だとも! …………あっ!」
「という訳でさらば。ああそうだ。借用書の件はちゃんと処理しておけよ」
 そう言い残すと、俺は全速力でその場から立ち去った……だって買い物もしなければならないし、巻き込まれたら大変だ。



[39807] 第52話
Name: TKZ◆504ce643 ID:4be827ee
Date: 2016/01/01 17:43
「クソ! 駄目か」
 異世界でルーセの事を全く思い出せなかった。いや、何度か思い出す切欠はあったのに何らかの力で強制的に忘れさせられた。
 そんな事が何度も繰り返したらストレスが溜まるのも仕方ない。しかもそのストレスは現実世界にも持ち越されている。おかげでどれだけマルを撫で回しても余り癒されない。

 どうすれば異世界でルーセの記憶を維持することが出来るのか、まずそれを解決しない限りはルーセを探すことも出来ない。
 救いは原因がかなり絞られたことだ。俺が想定していた原因のひとつであるシステムメニューの可能性は限りなく低い。現実世界だけルーセの記憶を奪わない理由がないので候補から排除しても良い筈だ。
 残った候補は大地の精霊だ。俺が想像も出来ない別の原因があるのかもしれないが、想像も出来ないモノが対象では出来ることが無いので、現状では大地の精霊が原因として考察と対策を立てれば良い。
 そこで考えるべき事は、大地の精霊という存在に何が出来るのか、そして何をしたいという動機により現状が作り出されたのかである。
 分かっているのは、ルーセのように個人に加護を与える場合と、風の精霊だがグリフォンの様に種族に加護を与える場合が確認されいている。
 その加護とは、精霊の属性に似合ったものであり、ルーセの場合は地面に足……身体が触れている状態なら、レベルアップが馬鹿らしくなるほど強力な身体能力を付与する。そしてグリフォンのように空気を足場に自在に動くような特殊な能力も付与する。
 何故精霊は加護を与えるのか? ルーセを気に入ったから? それではグリフォンはどうなんだ。種族ごと気に入ったとでもいうのだろうか……個と種族か余り信じる気にはなれないな。理屈で考えるならば、加護を与えるのは精霊にとってそれが必要なことだからと考えるべきだろう。
 必要か、一体何が必要なのだろう。ルーセには敵討ち? いや違う。火龍を退治させた。そしてグリフォンにはワイバーンを狩る力を与えている……ワイバーンは翼竜。つまり龍の類だ。龍を倒すのが精霊の目的というのだろうか?
 その理由は分からないが、ルーセの事を思い出せない状況では何も出来ないのだから、とりあえず龍を中心に狩るくらいしか方針が立てられない。龍を倒し続ければ、その内に精霊からのアプローチがあるかもしれないし、ついでにレベルも上がるだろう。


 格技場に入ってきた大島は俺達を睨回し、誰もパンツ一丁で転がっていないことに舌打ちした……本当にそうなのかは知らないけど、そうとしか思わせないのが大島の大島たる所以である。

「お前らに言っておく事がある。今週も土曜日に鬼剋流の幹部が懲りずに来る事になった。だから土曜日は焼肉だ。出来るだけ財布へダメージを与えられるように腹の加減を考えておくように……そうだな。3年生は何か策を考えて一発ぶちかませるようにしておけよ」
 流石に無策ではどうにもならないという事は分かっているようだが、一つ問題がある。
「先生。次に来る幹部の人は中学生に不意打ちで一発入れられて、良くやったと褒めてくれるような紳士でしょうか?」
「!」
 俺の質問に大島が真顔で考え込み『拙いか? 拙いよな……責任問題にして……いや、俺にも責任が……面倒は御免だな』と小さく呟くが俺にはほとんど聞こえてしまっている。
「……まあなんだ、出来るだけ正面からぶつかって一発入れろ」
 うん、井上よりはずっと大島に近いの生き物が来ることは間違いないようだ。
 嫌だな、大島みたいのが2人ってどうなのよ。大島が2人なら1+1は2ではなく200だ。10倍だぞ10倍!

 いつもの様にランニングが始まる。
 昨日みたいな下級生にとって無茶なペースではなく普通のペースに、1年生達からは安堵の溜息が漏れる。何だかんだあったが、こいつらの体力強化のためのランニングメニューが始まって、10日以上を過ぎており、いつものペースなら大丈夫と思える程度には自信というかルーティン化してきているのだろう。別に悪い意味ではないランニングによる体力向上など決まりきった日課となって当然なのだから……空手部的には。
 問題は明日だ。2週間のランニングメニューの最終日がいつも通りのペースになる訳がない。1年生達は大島という人間をまだ全然理解していない。この安心した表情が凍り付き、そして絶望と苦痛に歪み、最後には全ての表情が消え去るのだ。そして大島の邪悪な笑い声だけが高らかに響き渡る……そんなランニング祭りを明日に控え憂鬱になったとしても仕方のないことだろう。

 まだ6時を過ぎたばかりの朝の町並み。その中を一台の軽トールワゴンがゆっくりとした速度で車道を走って来て、ひとつ手前の信号のある交差点を青信号で通過しようとした時、左側から信号無視で右折しながら突っ込んできたワンボックスが軽トールワゴンの右の前タイヤとフロンドアの間に衝突する。
 軽トールワゴンはそのまま左側面を下にする形で横転し、滑りながらルーフ部分をガードレールに擦り付けるようにして停車。ワンボックスはバランスを崩して蛇行し、もう一度軽トールワゴンに接触してから立て直し、そのままこちらに向かって走ってくる。

「おい!」
 大島が掛け声一つだけで投げてきた携帯電話を慌ててキャッチする。
「救急と警察を呼んでおけ」
 そう指示を出すと、ガードレールを飛び越えて車道に出ると逃走車の前に立ち塞がる。まるで映画のワンシーンの様だが、俺の口からは「正気か?」という驚きの声が漏れ出す。
 ワンボックス……これがまた、ヤンキー車とも痛車とも違う、いや十分……思いっきり痛いのだが、いわゆる暴走族と呼ばれるような連中の乗りそうなシャコタンで変なエアロ……だったら何でワンボックスなんだと説教したくなるような車だ。
 日本全都道府県の中で唯一、未だに昭和の年号を使っている県と某深夜番組で揶揄されるS県ならではとしか言いようがない絶滅危惧種は、全くスピードを緩めないどころか加速し、大島への殺意を隠すことなく突っ込んでいく。
 だが大島はその場でふわりと跳躍すると、空中で優雅に寝そべるかのように両の膝を軽く曲げて身体を横にすると、衝突の瞬間に膝を伸ばして両足でフロントガラスを蹴り砕くと、そのまま車の中へと吸い込まれるようにして消えた。

「出鱈目だ! ……ちっ、小林と田辺はこの場に残って、大島の指示に従え」
 舌打ちをもらしつつ指示を出すと携帯電話で119をプッシュしながら横転した軽トールワゴンへと向かって歩き出す。
「……交通事故発生。場所は──寿町2-6の交差点。軽自動車の右側面にワンボックスが衝突、軽自動車は横転。ワンボックスは損傷軽微で逃走するが……とりあえず失敗。こちらは現在軽軽自動車に向かって移動中のため怪我人の数や状態はまだ不明。警察への通報を頼む」
 必要な情報だけを伝えると電話を繋いだまま軽トールワゴンに向かって急いで走る。

「主将。中には運転席と助手席に年配の男女が2人。後部座席に子供が1人です」
 先に軽トールワゴンにたどり着いていた香籐が報告を上げる。
「意識はあるか?」
「子供には意識がありますが、前部座席の2人は呼びかけても返事がありません」
 確かに子供の泣き声は聞こえるが……
「救出は可能か?」
「後部ドアは開くので子供は救出できそうですが、前部ドアは歪んでいて開きません」
 前部ドアからの救出が難しいとなると面倒臭そうだ。しかもフロントガラスはよりにもよって奇跡的に無傷という状況だ。割れてたら引っ張って取り除けるのだが……
「ガソリン漏れはあるか?」
 フェンダー周りを確認している2年生の仲元に尋ねる。
「ガソリンかオイルかわかりませんが油の臭いは僅かにしますが、車体の外には漏れている様子はありません」
 事故の衝撃で歪んで出来たボンネットの隙間に鼻を近づけて確認しながら仲元は答えた。
 僅かという程度なら普通の状態でもボンネットを開ければ匂うだろう。
「紫村。子供を助け出してくれ」
 後部ドアを開けると、紫村は上半身を車の中に入れて反対側のドアの上に座り込んでいる子供へと手を伸ばすと「大丈夫だよ」と説得力のある爽やか声をかけながら子供の頭を軽く叩く、そして見上げてきた子供に優しく微笑むと左手で掬い上げるように子供を抱き上げた……畜生。いちいち男前過ぎて腹立つな。
 後ろから紫村の腰の辺りに腕を回す。
「あぁ……出来ればもう少し下か、それとももっと上を弄るようにしてく──」
 言わせねぇよ! 無言で奴の腹筋に指を食い込ませていく。
「痛いよ。子供が……痛い、子供がいるんだから……」
 ストマッククローを止めて子供ごと奴の上体をぐいっと一気に引っ張り出す。
「ありがとう高城君……役得だったよ」
 照れるな! 薄っすらと頬を赤く染めるな! もし要救助者達がいなかったら、こいつを車内に叩き落してドアを閉めて車ごと燃やしていたかもしれない。
「高城君。この子は見た限りは骨折とか大きな怪我はしている様子はないよ」
「よし分かった。救急車が来るまでその子の面倒と電話での状況説明を頼む」
 電話を渡しながら指示を伝える。はっきり言って、まだ空手部に毒されていない1年生を除けば、紫村以外は子供受けしないというか子供が泣き出すような鋭い目つきをしたのしか居ないので、安心して子供を任せられるのは奴しか居なかった。

「大丈夫ですか! 意識があったら返事をしてください! 声が出ないなら何でも良いから反応を返してください」
 紫村が子供を助け出した後、俺は後部ドアから大きく声を掛けながら手を伸ばして、運転席の老人の右肩を叩く。
「うぅぅっ!」
 老人が呻き声を上げる。意識不明ではなくてほっとする。
「大丈夫ですか? どこか痛みはありませんか?」
 呻き声を上げるくらいだから痛くないはずもないのだろうが、何処が痛いですか? と尋ねるのも変だろうと、そう尋ねた。
「む、胸が呼吸がしづ──悠は? ま、孫はどうなったか、分かる……か?」
「後部座席の子供は既に助け出しました。泣いていますが大きな怪我はなさそうです……素人判断ですけど。それから助手席の女性の様子は分かりますか? こちらからは状態を確認できないんですが」
「し、静江、お、おい聞こえ──」
 老人は苦しそうに声を詰まらせる。胸骨か肋骨を折って呼吸に支障があるの可能性がある。だとするなら横になった車の中でシートベルトに固定されている状況は拙い。それに助手席の女性の意識も無いみたいだし──

「高城。状況はどうだ?」
 俺が判断に困っているところに大島がやってくる。良いタイミングだ。今ほどこいつが来てくれて良かったと感じたことは無いし、多分これからも無いだろう。
 とにかく今は責任をこいつに押し付けられるならそれでいい。
「車内には運転席に60代くらいの男性と助手席には同じく60代位の女性。男性には意識がありますが女性の意識がないようです。それから現在のところはガソリンの流出は無くエンジンは停止していますが、いつまでも安全かどうかは分かりません」
「じゃあ、まずはフロントガラスを割るぞ」
「……いや、中に人が居ますが?」
 フロンガラスを割ったら、いくら飛散防止効果のある合わせガラスとはいえ、衝撃で砕けると同時にガラス表面から剥離した破片は飛び散る。
 しかも丈夫なフロントガラスを割るほどの衝撃を加えるのだから、中に居る2人の要救助者へ怪我を負わせかねない。
「任せろ大丈夫だ」
 そう自信満々に答えると、俺が止める間もなくフロントガラスの右端に向けて、5cmくらい手前から無造作に拳を突き出した。
 次の瞬間、フロントガラスが砕けた……普通ならそう見えたはずだ。いや常人離れした空手部の連中、その中でも特に天賦の才に恵まれた紫村でさえも、奴の反応から見るに気づいていない様だ。
 半ば肘は伸び、手首も軽く曲げた状態からその2つの間接を伸ばしただけの様な動きで繰り出された大島の突きは、一撃でフロントガラスを打ち砕いてなどいない……2度だ。2度の打撃を加えていた。
 1度目のインパクトによりフロントガラスは水面の上の波紋のように波打った。そしてその波が打ち返されインパクトのポイントに戻ってきた瞬間、身体をビクリと小さく震わせたかのように打ち出された大島の拳はわずか1cmほどストロークで、寄せ返してきた波の中心を打ち抜いたのだ。
 唯の一撃によりフロントガラスを破壊したなら、その破片は容赦なく2人へと降り注ぐことになっただろう。
 だが大島は1発目の打撃で生み出された反発の波を2発目の打撃で迎え撃つことにより、エネルギーを相殺しつつフロントガラスを破壊したのだ。そのためフロントガラスの破片はほとんど飛び散ることなく、そのまま下へと落ちた。
 奇跡というべき大島の技量を前に、驚愕による呻き声が小さく口を突いて出る。
 自分と大島の間に存在する絶望的なまでに高い技術の壁を自覚せざるを得ない……悔しいが大島の持つ技術はまだまだ奥が深く、俺の及ぶところではない。大島を相手にレベルを上げて物理で殴ればいい、なんていう博打を実践する前に、まだしておくべき事が幾つもありそうだ。


 右の後部ドアから車の中へと入ると、汗を拭くために首に掛けていたスポーツタオルを手に巻いて砕けたフロントガラスを中から押し出すと、大島もタオルを巻いた手でフロントガラスを引っ張り剥ぎ取る。
「おい! 大丈夫か婆さん!」
 大島は声を掛けつつ女性の首に手を伸ばして頚動脈で脈を取り、そしてフロントガラスから頭を突っ込んで口元に耳を寄せて呼吸を確認する。
「脈も呼吸もある。だが意識が戻らない……頭を強く打った様子は無いが頚骨か背骨を骨折して脊髄が損書してもショックで意識が戻らない場合があるからな」
「その場合は動かせませんね」
「そうだな。だが爺さんは多分肋骨を折ってるから、この体勢のままは辛いな」
 俺の言葉に大島は頷く。
「爺さん。足や手には感覚があるか?」
「んっ……ああ……感覚もあるし、何とか……動かせる……ぞ」
「痺れとかはあるか?」
「いや……無い……ただ……呼吸が苦しい……」
 そう答えるが、次第に具合が悪くなっているのが分かる……拙いぞ。
「高城! 爺さんを引っ張り出すからお前は車の中に入って手伝え」
「そんなことして大丈夫なんですか?」
「もう時間が無い。ガソリンが漏れ始めている」
 森口を見ると大きく頷いた……やばいな。大体ガソリンが漏れて炎上の可能性もあるのに生徒を車の中に入れるかな普通。
「そいつは大変ですね」
「だからやれ!」
「分かりました」
 命じる大島が普通じゃなければ、応える俺も普通じゃないのだろう。

 車の中に入ると「両腕で爺さんの腰と脇を支えろ。これからシートベルトを外すから落とすなよ」と指示される。
 後部座席を一番後ろまで押し下げて、運転席のシートを完全に後ろに倒し、老人の左の腰と脇に腕を差し入れて慎重に身体を支える。しかし、その口からは痛みを圧し殺した息遣いが漏れ出す。
「支えたな? これからシートベルトを外すからしっかりと支えろ。それからゆっくりとこちらに爺さんを送り出せ」
「了解」

「ぐぁっ!」
 大島が手を伸ばして、運転席のシートベルトの金具のロックを外すと同時に、俺の両腕に体重がかかった瞬間、老人の口からは堪え切れなかった悲鳴が短く漏れた。
 老人の体重は60kgはあるだろう。それを支える俺の体勢は万全とは言えないが、そこはレベルアップの恩恵もあり、左足を伸ばしてフロントパネルから突き出した、シフトノブとエアコンの操作パネルが一体になった部分に引っ掛けて体重を掛けると、ゆっくりとフロントガラスの無くなった開口部の向こうに居る大島へと老人の身体を差し出した。

 老人は車から20mほど離れた場所に、本人が楽だと言う姿勢で寝かされている。表情が穏やかになっているのが遠目でも確認できる……だが助手席の奥さんの方がまだ残っている。
「高城。これを耳元で思いっ切り鳴らせ」
 ホイッスルを差し出しながら指示してきた。
 大島は部活中は、こいつを首からぶら下げているが、あまり使うことは無い。普段は怒号だったらいいきなり殴られたりと……
 ホイッスルを受け取ると……まずは口に咥える場所を空手着の裾で丁寧に何度も拭った。
 俺の行動に大島が苛立たしげにするが、大島から変な病気は絶対に貰いたくない。
 そして諦めの表情を浮かべながら、嫌々ホイッスルを咥えると、女性の耳元で思いっ切り鳴らした。

「!」
 音というよりは鼓膜への暴力というべき衝撃に、女性の身体がビクッと反応を示す。単なる反射活動の可能性もあるので、もう一度、更に気合を込めて吹き鳴らす。
「……耳が……痛い」
 女性は意識を取り戻したのを確認できた……ちなみに俺の耳も痛いよ。
「おい! 俺の声が聞こえるか? 聞こえるなら返事をしてくれ!」
「あ……は、はい」
「手は動かせるか?」
 大島の言葉に女性は手を伸ばすが、直ぐに弾かれた様に自分の胸に手をやる。
「大丈夫か?」
「いっ……胸が……」
 旦那と同じく肋骨か胸骨を骨折している場合がある。
 早くこの体勢から開放して……それ以前に漏れ出したガソリンが問題だ。
 4月の朝、まだ気温は低いとはいえ、ガソリンの引火点は-40度。既に揮発して空気と交じり合っているはずだ。そして更にガソリンの流出が続けば静電気の火花放電一つで混じりあった空気ごと燃え上がる。
 いざとなったら【真空】で周囲から空気ごと気化したガソリンも排除して逃げることも出来るが、そんなオカルト現象じみた事を引き起こすよりも、さっさとこの女性を車内から救出した方が良い。

「足はどうだ?」
「……くぅ、大丈夫……動かせま……す」
「高城、出来るか?」
 俺は首を横に傾げて応える。出来るとも出来ないとも確証は無い。
「とりあえずやってみます」
 助手席のシートを一番後ろまで引き下げて、開いたスペースに身体を滑り込ませると、右膝の内側を彼女の腰の左の下に差し入れて支え、右腕で上半身を支えると、シートベルトのロックを外し、彼女が痛みに上げた悲鳴を無視して抱き上げてフロントガラスがあった開口部から外へと出た。

「車から離れろ!」
 大島が鋭く部員たちに指示を出す。
 外の空気は、想像していた以上にガソリンの臭いが強い。確かに危ないところだったみたいだ。
 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。俺の通報からまだそれほど経っていないのに……朝の6時台で道も空いているおかげだろう。

 直ぐに救急車が駆けつけ、それに遅れる事2・3分間で消防車とパトカーが到着した。
 老夫婦とその孫は救急隊員により、確認と処置を受けた後に救急車で搬送されていく。
 小林と田辺に取り押さえられていたワンボックスの運転手と同乗者は、パトカーの中で取調べを受けている。
 そして警察の実況見分への立会いは大島に任せて、俺達は授業があるので解放された。

「しかし、今回の事で大島の立場が強まるのは拙いな」
 学校へと走って戻る戻る途中……練習が中止になったので、せめて走って戻らないと運動不足になる。そんな強迫観念に駆られた。
 櫛木田が深刻な表情で呟いた言葉に部員達は絶望に顔を歪める。大島の立場がこれ以上強化されたらどんな無茶がまかり通る事か……今でも十分まかり通っているような気もしないでもない。
「だが今回の件で、空手部が注目されたら大島も少なくても、暫くの間は学校の外では無茶が出来なくなるだろう。それに上手くいけば過去の大島の指導が問題になり……」
「問題になり?」
 俺の言葉にすがる様な顔をして先を促してくる。
「空手部が廃部に…………なんて都合の良いことが俺達の身に起きるとは思えない」
 いくら希望的な観測とはいえ、そんな夢のような事を口にするなんて事は、俺には出来なかった。
 皆が項垂れて落ち武者の集団のような力の無い足取りで学校に向かう中、1人だけ他人事のように超然と走り続ける紫村が呟く。
「子犬の時に越えられない壁に挫折すると、成犬になっても決してその壁に挑もうとはしない。諦める事を知ってしまうというのは悲しいことだね」
 俺達の心情を端的に説明してくれてありがとう! ああぁぁ苛々っとするぅっ!!

 学校に戻った俺達は、それほど汗はかいてないが、いつもの習慣で部室横のシャワールーム(笑)で水を浴び、着替えて朝食を食べる。
「明日はどうなると思います?」
 母の愛情のこもった弁当を食べていると……ご飯にハートマークは無いと思う。香籐が話しかけてきた。『どう』とは明日のランニング祭りという名の地獄についてのことだろう。
「中止……いや、延期になるんじゃないのか? 大島も暫くは大人しくしておきたいだろうし」
 大島は意味の無い無理はしない。必要とあれば耐え忍ぶ事も出来る。ただしストレスは溜まる。そして溜め込んだストレスはいずれ発散される……
「明日って何かあったんですか?」
 新居が話しに入ってくる。
「明日は、お前達1年生の体力強化のランニングメニューの締めくくりをする予定だったんだよ」
「締めくくりですか……嬉しく感じますが、でも嫌な予感がするのです、凄く」
 予感は大事だよ。地獄の闇を照らしてくれる生き残るための大切な手段だ……時々思いっきり裏切るけど。
「まあ……お前が想像したより楽なことは無いと言っておく」
 去年の自分を思い出したのだろう。香藤は目を閉じ眉間に皺を寄せながら答えた。
「そうですか……でも延期になって良かった……」
 まるで分かってない! 大島がストレスを溜めるという恐ろしさを、何故想像出来ない。それが近い将来自分に向けられると何故想像できない?
「……えっ? 良かったんですよね? ……香藤さん? ……主将?」
「ああ、今日も弁当が美味い」
「朝練の後の弁当は格別ですよね」
 俺と香藤は弁当に逃げた。
 新居、夢を見ておくんだ。夢を見ようが見まいが現実は否応無くやってくる。だからせめてその時まで、幸せな夢を見ておけ……俺は知らん。


「なあ高城。お前達が当て逃げ犯を捕まえたってのは本当か?」
 前田が興味津々と言った様子で話しかけてきた……面倒な。
「当て逃げ犯を捕まえたのは大島で、俺達は衝突されて横転した方の車から怪我人を救出しただけだ」
「凄いだろ。ヒーローじゃないか!」
「……宿題か? 数学の宿題を教えて欲しいのか?」
 こいつがストレートに俺を褒めにかかるなど宿題で無ければ、裏に世界的陰謀があると疑うしかない。
「宿題? 1時間目の数学の宿題ならやってあるからいいよ」
 ヤバイ。世界的陰謀の方だとは、第一こいつが宿題をやってくるなど天変地異の前触れだ……ごめん世界。守って上げられなくてごめんよ、俺の手には負えそうも無いんだ。
「前田が宿題をやってきた?」
 近くの席のクラスメイトも目を剥き驚きの声を上げる。他者との間に『前田は宿題をしない』という共通認識を持つことで、これは世界の約束なんだと少し安心することが出来た。
「俺が宿題やったら駄目なのかよ」
 すねた目をしてこちらを責めてくる。
「宿題をやったことじゃなく、お前が駄目だというのが皆の認識だよ」
「駄目なのか俺?」
「駄目だよお前は!」
 返事は俺だけでなく、クラスの約半分が唱和した。
 とりあえず上手いこと話を逸らすのに成功した。前田さえ黙らせればこの教室で俺に話しかけてくる奴などいない……死のう。

「それで本当に宿題はちゃんと出来たのか?」
「ちゃんとやってきたさ」
「見せてみろ」
「な、何だよ全く」
 文句を言いながらも数学のノートを取り出すと渡してきた。
 問題はきちんとやったかじゃない、きちんと問題が解けているかどうかだ。問題は結果だ。どんなに計算式を書き込もうが答えがあってなければ意味が無い──
「あってる! これも……これも? ……これもだと!」
 なんと全問正解だった。しかも難易度の高い重要問題さえも正解していた……
「どうだ?」
 ドヤ顔だった。たかが学校の宿題。本来やってきて当たり前の事で……とても痛々しいドヤ顔に胸が痛む。

「……誰から教わった?」
 そうだ何も不思議なことは無い。答えは俺以外の誰かから教わったに違いない。驚いた自分が馬鹿らしくなるほど単純な事実だ。
「自分で解いたよ!」
「……何があった? 悩み事があるなら相談にくらいはのるぞ」
 嘘だと思ったが口にするのは止めた。百歩譲って前田が宿題を自分でしてきたとするならば、余程大変な事情があったのだろう。一応友人として話くらい聞く態度を示しておこう。
「本当に何なんだよ気持ち悪い。別に悩みなんて無いぞ……ただ、最近数学が面白いって思えるようになったんだ」
「すうがくがおもしろい?」
 何を言っているんだ? 「スウガクガオモシロイ」どんな言語の言葉だ? 少なくとも英語ではないし、最近ネットで勉強してみたフランス語やドイツ語ではない。母音の占める割合の大きいといい、随分と日本語に似た発音をする言語であるようだが……はて?

 そんな俺の現実逃避を無視して前田は説明を続ける。
「先週の放課後、北條先生が時間を作ってインド式計算を教えてくれた時に、授業で何か分からないことは無い? って聞かれたけど、俺って……ほら分からないことばかりで、何が分からないのか説明できないから、一番最初につまずいたマイナスとマイナスの掛け算について聞いてみたんだ。あのマイナスの数字とマイナスの数字を掛け合わせるって意味が分からないだろ? 足し算引き算とマイナスの数字とプラスの数字の掛け算ならなら借金で例えたりするけど、マイナスとマイナスの掛け算は借金じゃ説明がつかないだろ。それを北條先生に説明してもらったら、納得できる説明をしてもらって、そうしたら数学に興味が出てきたんだ」
 確かに数学の学習において一番最初にぶち当たる大きな問題となるのは、マイナスの数字とマイナスの数字の掛け算が出てきた段階で数学と現実の事象とのすり合わせが出来なくなり、そこから興味を失い脱落する者が多いということだ。
 これは算数と数学を区別できていないのが問題だと俺個人は認識している。
 算数の延長線に数学があるのではなく、算数と数学はまったく別のものだと認識する必要がある。
 四則計算を加減乗除と呼ぶが、これは算数であって数学の概念ではない。数学において加算はあっても減算は無い。
 算数における「5-3」とは、数学においては「5+(-3)」であり全て加算で説明される。そして「-」という記号は数字の持つ正と負を反転させる意味を持ち、そのために(-5)x(-3)とは負の値である「-5」に同じく負の値である「-3」を掛けて正負を反転させることで正の値になるそれだけ。つまりただのルールとして考えている。
 要は、これを割り切って受けいられるかどうかが数学への適正の有無ともいえる。

「借金で説明してくれたんだけどさ」
「借金の例えじゃ無理だろ」
 即座に否定する。
 前田自身が言ったように、俺達も経験した学校現場で行われる良くある間違った選択だ。教師自身が中学時代に納得できる説明を受けていないため、自分の生徒に対しても適当に流してしまう悪しきスパイラル……大体、上手く説明できないなら最初から下手な例えなど出さずに、単純に「-」という記号の数学上ルールを説明して、こういうものだと押し切れば良いのに、加算減算の説明で借金を例に持ち出すせいで生徒に余計な混乱をもたらすと気づけない愚かさ──
「俺は1年の時、北條先生に借金で教わったけど、マイナス同士の掛け算は納得できたぞ」
 横からそんな言葉が飛んできたので振り返ると、クラスの半数くらいが同意した風に頷いている。
「まあ、正確には借金の返済額と時間に例えて、ある時点の累積返済額とそこから遡った時点での累積返済額を差額を求めるという説明だった」
 なるほど、借金の返済額はマイナスで表現出来るし、時間を遡るのもマイナスで表現出来る。その結果は累積返済額の減少というプラスと表現される……確かに納得できる説明だ。そして基本である2つの数字による乗算が理解出来れば、数字が増えようとも対応していくのが人間だ。逆に基本が無ければ応用も無い。
 やっぱり北條先生は良い先生だよ。

「それでさぁ~、朝の事件の話だけど──」
「その話はするな! この件で大島の株が上がって、これまで以上に奴が傍若無人に振舞うようになったらどうする気だ? 何事も無かったかのようにしろ。今朝は何の事件も起きなかった。皆がそう振舞うことだけが奴へのプレッシャーとなるんだ。皆も覚えておけ!」
 俺の剣幕にクラスの皆が無言で頷く……これでまたクラスでの孤立を深めてしまった。

 北條先生の授業は本当に俺にとっての癒しである。2年生になって担任が北條先生でなければ、俺は不登校になっていたとしてもおかしくは無かっただろう……いや、1年生の時に北條先生に出会って話をする機会が無ければ学校にも行かず、部屋に引き篭もったとしても何ら不思議は無い。むしろ普通に学校に通い続ける俺を兄貴が不思議がっていたくらいだ。
 俺がどれほどの感謝を自分へと向けているか、彼女は分かっていないだろう。前に彼女へと話した感謝の思いなどは氷山の一角に過ぎない。
 それだけの事を彼女は当たり前の様にしてくれたのだ。他のどの教師にも出来なかった事を……しかも自分自身は教頭と鈴中。そして下らない噂話に乗せられる馬鹿な同僚や生徒達に傷付きながらも。
 何と北條先生を表現すべきか、そうだなもう女神様で良いんじゃないだろうか? これは部活の後で緊急集会を開いて提案すべき案件かもしれない。

『空手部部員へ大島先生からの連絡です。本日の給食後に空手部部室へと集合すること。繰り返します──』
 3時間目の授業の後、次の体育の授業に備えて体育館へと向かっていると、校内放送で呼び出しがかかった。大体、用件は想像がつく。
「面倒くせぇ~」
 無駄だと思っても愚痴をこぼさずにはいられない。
「何の呼び出しだ? やっぱり朝の件か?」
 学習能力の無い前田が早速食いついてきた……それじゃあダボハゼだよ。
「今朝は何も無かった、起こらなかった。そんなことも忘れてしまったのか? ……まあ良い。どうせマスコミ対策だろ。S日報(S県のローカル新聞)あたりが、記事にするのに取材に来るんだろう。それで俺達が余計なことを連中の前でしゃべらないように口止めしようって事だろ」
「何というか……お前ら大変だな」
「お前が取材に来た連中にある事ある事を全部ありのままにぶちまけてくれたら感謝するぞ。精一杯感謝するぞ」
「それって大島を敵に回すって事だよね?」
「そうだな。ちなみに、もしもテレビで放送された場合に顔にモザイクかけてボイスチェンジャーで声を変えても骨格や姿勢から、この学校の生徒なら間違いなく個人を特定してくるから気をつけろ」
「嫌だよ。ヤクザの鉄砲玉をやらされるよりも性質が悪い。生き残れる目が無いじゃないか!」
 やはり本気で怯えるのか。最近大島に対して強気で応じている俺だが、レベルアップの恩恵を受ける前には、今の前田と大して違いの無い態度だったはずだ。力が強くなったのもあるだろうし、死線を何度も潜り抜けて度胸がついたのもあるだろうが、一番は【精神】関係のパラメーターが上昇してしまったのが大きい……時々、俺ってこんな人間じゃなかったよな? と疑問を覚えるほどだし、しかもその変化の方向性がかなり大島寄りな気がしてならない。
 秩序無く、ただ急速に変化をするものは、周囲で一番影響力の強いものに引きずられるのが世の常……どうせなら北條先生の影響を受けたかった。


「全員揃ったな」
 お前の呼び出しを無視出来る奴はこの学校にいねぇよと皆思っているはずだ。
「今日の部活の時間にマスコミの取材が入ることになった。それで今日の部活は柔道部から使用権を譲ってもらい格技場で行う……当然、これがどういう事で分かっているだろうなお前ら」
 やはり言質を与えない口封じ。どこのヤクザだ?
「えっ? 何の事か分からないんですけど……」
 1年生の東田がそっと手を上げて申し訳なさそうに尋ねる。良く言ったと褒めてあげたい。褒めてあげたいが褒めてあげられぬ俺達上級生の胸の内もついでに察して欲しい。
「ひぃがしだぁ~、先輩達からちゃんと聞いておくんだぞ」
 額と額が当たるほどの距離から地獄の獄卒も斯くやと睨付ける様は、ヤクザとヤクザに因縁を付けられた中学生以外何者でもない。
 東田は完全に半べそかいている。
「先生。その辺で、後はこちらで言い聞かせます」
「そうか、後は任せる」
 俺の言葉に、思い通りになったとばかりにニヤリと笑みを浮かべると大島はゆっくりと立ち去った。

「良いか大島先生は、俺達の普段の部活の様子がマスコミに知られることを恐れている。はっきりいって普通なら教員免許剥奪の上に刑務所にぶち込まれても仕方の無いことをしているのだから当然だのことだろう。本来なら自ら脅迫じみた手段で俺達の口を封じたいのだろうが、言質を与えるのを避けて俺からお前達に話が行くように小芝居をしたということだ。その気持ちを理解してあげてもらいたい」
 そう、理解してセコイ奴だと蔑んでやって貰いたい。もしくは誰か大島のことをカメラの前で告発して欲しいものだ。ただし、その結果何があっても当方は一切責任を負いかねます。
「今日の練習は極々軽いものになる。多分ランニングは最初と終わりに5kmずつ程になるだろう。後は型や組み手が中心になるが、くれぐれも組み手は、相手に当てるなよ。骨にガツンと当たらないのが寸止めという考えは今日だけは捨てろ。流血だけは絶対に避けろよ。それからマスコミからどんな質問を受けても当たり障り無い言葉と笑顔でしのげ……大島から顔が見られない位置では苦笑いでな。そして言いたい事は目で語れ……以上解散だ」

「主将。ちょっと相談したいことがあるんですが?」
 他の部員が「練習が軽くてラッキー!」「最初と終わりにランニングが5kmずつって運動不足になるよな」「じゃあ今日は晩飯は軽く済ませよう」などと一般常識と激しく食い違う話をしながら立ち去る中、小林と田辺が残って話しかけてきた。
「どうした? 練習がきついから何とかしてくれとか、空手部を辞めたいとか言われも、残念ながら俺では全く役には立てないぞ」
「そんな恐ろしいことは言いません……練習がきついなんて泣き言を言ったら、練習量を倍に増やされますから」
 田辺は顔を左右に細かく振りながら否定する。
「むしろ3倍だろ」
「ですよねぇ~」
 自分で言っておきながら、3倍の練習量は時間的には無理だろうと思うのだが、田辺は疑うことも無く受け入れる。これがどんな不思議も許容されてしまう大島マジックである。
「それでどんな話だ?」
「今朝のことなんですけど……これを」
 小林はそういいながら制服の内ポケットから何かの鍵を取り出して俺に差し出してきた。
 受け取って確認する。鍵はシリンダーキーではなく、家も防犯対策に4-5年前に取り替えたディンプルキーだった。
「これは?」
「あのワンボックスに乗っていた連中を取り押さえていたんですが、一度暴れて逃げ出そうとしたんです。すぐに取り押さえる事は出来たんですが、その時にこの鍵を近くの家の庭に投げ込もうとしたのをジャンピングキャッチで確保しました」
 まあ、陸上部の連中をスキップしながらぶち抜くと言われる空手部部員から逃げられる者などそうはいない。
 しかし、そうまでしてこの鍵を捨てて、いや隠しておきたいとはな。面倒ごとの臭いしかしないが大島に預けて、何か重大な事件の解決につながってあいつが警察から表彰されるようなことがあったら……
「……ですが、そのままポケットに入れたまま忘れてて」
「分かったこいつは俺が預かっておく。部活の後に警察に届けておくから、もう少し詳しい状況を教えてくれ」
「すいません主将──」
 小林の説明を聞きいて頷きながら、何でこんなに事件に巻き込まれるのだろう……面倒くさいと思っていた。



[39807] 第53話
Name: TKZ◆504ce643 ID:4be827ee
Date: 2015/02/15 21:07
「STV(S県テレビ放送)の瀬床 葉子です。本日は夕方ワイドの取材でお邪魔させていただきますのでよろしくお願いします」
 どうせ地元のローカル新聞の取材かと思っていたら地元のローカルテレビの取材だった。顔は知っているが名前の分からない女子アナが愛想良く話しかけてくる。勿論俺達は今時の中学生のようにローカルテレビの取材程度なんとも思ってないんだよなんて擦れた態度は取らない。
 何せ相手は採用条件に頭の出来よりも容姿が大きな影響を与えるとしか思えない今時の女子アナである。そりゃあデレデレだよ。もう一度いうがデレッデレだよ!
 弱い弱すぎる。俺達は自分に向けられた笑顔には逆らえない悲しい生き物なのだ……涙が出そうだ。こんな自分が情けなくての涙じゃない。こんな思いっきり全力の笑顔を向けられたことが嬉しくてこみ上げる涙に耐え続けているのだ。
 これは職業的作り笑いで「ちっ! 仕事とはいえ、穴があったら入れたい発情期のサルの様な中坊相手に愛想笑いとは泣けてくる」と内心毒づいている可能性も十分にあることも分かっている。分かっていても嬉しいのだから仕方が無い!
「こちらこそよろしくお願いします」
 何とか自然に挨拶を返すことが出来たが、結構ぎりぎりなので目で紫村にヘルプの合図──そんな合図はきめてないけど──を送る。
「本日はどんな取材をするのですか?」
 空気を読んだ紫村は俺の期待を裏切ることなくフォローに入ってくれた……流石だ。女子アナ相手に気後れする様子など全く無い。こいつがホモで良かったと人生で初めて思った。
「えっ……そ、そうですね。まずは今朝の事件について皆さんにインタビューを行い。それを編集にまわしている間に、部活の練習風景を撮影させてもらい6時台のニュースで放送する予定です」
 バインダーに挟まれた進行表を読みながら答える……明らかに照れている。紫村の無意味な美形ぶりに女子アナが照れている。
 く、悔しくなんて無いんだから。紫村は女子アナよりも俺に興味を持っている。どうだ全然負けていないぞ。はっはっはっはっ! ……何て嫌な三竦み。負ける負けない以前の問題だ。

 女子アナの対応を紫村に任せたことで滞りなく取材は進んでいく。櫛木田たちは紫村を妬ましそうに見ていたが、お前らじゃ感極まって何も喋れなくなるだろうと思ったが、俺も他人の事は言えないので黙っている。
「ところで知ってますか? 追突して逃げようとした車から薬物が発見されたこと」
 一通りインタビューを終えて手の空いた女子アナが、紫村にかなり極端に接近しながら話しかけるのを耳に飛び込んできた。
 紫村と俺の視線が交錯する……つまりあの鍵は非常にヤバイ物である可能性が高いということだ。
「そうなんですか。すると彼らは薬物のせいであの事故を起こしたんですか?」
「それはまだ分からないわ。多分警察は2人から尿や頭髪を採取して検査に回していると思うけど」
「もしかして暴力団関係者だったんですか?」
「それも分からないわ」
「そうですか……」
 考え込むように顎に手をやり彼女から逸らした紫村の顔に「役立たずの雌豚め」と言わんばかりの蔑んだような表情がほんの一瞬浮かんだのを俺は見逃さなかった。前半の役に立たないの件は俺自身がそう思ったので、そう感じたのかもしれないが、雌豚の件は奴の表情から読み取れた生々しい感情の発露だ。

 取材は滞ることなく終えた。
「ご協力ありがとうございました。放送は本日の6:15からのニュースのコーナーで行われるので、良ければ見て下さい」
 ディレクターは大島に頭を下げると、機材を抱えた取材クルー達とともに格技場を後にして行く。
「瀬床。社に戻るぞ!」
 紫村からメアドと携帯番号を聞こうとしていた女子アナを叱りながら……ちなみに俺は聞かれていない……全然悔しくないしぃ~。
「田村、伴尾、みっともないからメソメソと泣くんじゃない! だから言ってるでしょうが『元々縁の無い相手』に入れ込んでも仕方ないと」
「だってぇ~高城ぃ~」
「別に振り向いて欲しかった訳じゃないんだ。でもガン無視は無いよぅ~俺達って路傍の石?」
「いい加減理解しろ。人間にとって興味の無い相手など路傍の石だ。そこに在るとしか認識されないんだ。お前だってそうだろ。いちいち道ですれ違った相手の人間性に興味を持つか? 持たないだろ」
「でも~、ちゃんと挨拶してインタビューも受けたんだよ」
「女子アナにとって、それは唯の仕事であり日常だ。インタビューした相手の数が増える度に、個人への興味など薄まっていって当然だろう」

「お前ら本当に情けないな」
 大島が憐れみの目で田村と伴尾に話しかける。こいつらが異性の事でこんなに情けなくなってしまったのは、間違いなくお前のせいだよと皆が
思ったはずだ。
 それに俺達にどうこう言えるほど異性と縁があるのかと喉まで出かけたのを飲み込むが、次の大島の発言に限界が来た。
「俺がお前らくらいの頃は──」
 この後、大島が言うだろう台詞は聞かなくても分かる。だから俺はこう断じずにはいられなかった。
「嘘だ!」

「はったりだ!」
「ありえない!」
「見栄張るな!」
「この童貞が!」
「見え透いたブラフを!」
「それは人類じゃなくゴリラの話だろ?」
「──────」
「────」
「──
「」
 えっお前らまで?!

「──ふっ、持たざるものの僻み。負け犬の遠吠え……どうして、こうも耳に心地好いのだろうな?」
 俺達の非難の声に大島は余裕の笑みでそう答えた。
 ちなみに、調子に乗って「童貞」と「ゴリラ」を口にした田村と伴尾は一瞬にして意識を刈り取られ、格技場の床板の上に沈んでいる。流石に耳に心地好くは無かったようだ。
「大島先生。貴方の言葉にはまるで根拠がありません」
「根拠? 根拠な……俺が女にもてるのなんて当然じゃねぇか?」
「あぁっ?」
 大島の余りにもふざけた発言に、全員が「殺すぞ」の意味を込めて声を上げる。
「持たざるものの僻みってやつが、この俺にプレッシャーを与える程に強いとは……面白れぇじゃないか。だがはっきり言っておく。俺は女に不自由した事は一度も無い」
 何だこの余裕は? まさか本当に……いや、そんな事は無い。あるはずが無い。あってはいけない……待てよ、不自由しないという事は、必ずしも満たされていると同義ではない。そもそも需要がゼロならば、供給がゼロでも不自由はしない……つまり、そういうことなのか?
 思わず紫村を振り返る。他の部員達も同じ答えにたどり着いたのだろう紫村を振り返っている。
「違うと思うよ。大島先生からはこっちの人間の匂いはしないから」
 匂いがあるのかよ?
「多分、大島先生が女性に不自由しないって話は本当だと思うよ」
 紫村から発せられた決定的な言葉に、部員達はがっくりと崩れ落ちる。
 こいつらには何故か女性関係は紫村さんにはかなわないという固定概念が刷り込まれている。
 どうも紫村をオネェと一緒に考えているようだが、奴はオネェではなくガチホモだから女の気持ちなんで分からないどころか、そもそも思いやる気が全く無いのにな。
 だが紫村の意見は正しいのだろう。こいつは意味も無く嘘を吐く奴ではない……必要があればとんでもない嘘を平気で吐くけど。

「根拠は?」
「嘘を吐く理由が無いからね。大島先生は自分が女性にもてても、もてなくても気にするような人間じゃないから、むしろ自分の意に介さない形で女性が近寄ってきてら迷惑というか嫌悪感を覚えるタイプだよ」
「……ホモじゃないのに?」
「ホモじゃなくても。そうだね他人に興味がないというか自分が大好き過ぎて、女性に自分が少しでも束縛されると鬱陶しく感じるんだとと思うよ」
 確かにそう考えると納得できる。そして女性にもてるとカミングアウトしたのは俺達を見下し笑うためだ。
「だが何故もてる? その謎が全く解けない。結局問題はそこなんだよ」
「馬鹿だなお前は。良いか、強い男がもてる。これが人類が誕生してから変わらない真理だ」
 何を言っているんだ、この男は? そんなの今の時代に通用するはずが無いだろう。石器時代からこいつの頭の中は進歩していないのか? 強い事が女性にアピールできたのは大昔の話だ。現代社会で強さが一体何の役に立つ? 配偶者に安定した生活を提供するために必要なのは金だ。金が全てではないが90%以上は金で何とかなる。それが現代の常識だろう。
「納得出来ないようだな」
「納得出来るはずが無い!」
 憐れむ様な大島の言葉に俺は反発する。強ければもてる? じゃあ俺達は何だ? 強さだけなら中学生としては十分にあるはずだ。はっきり言って無駄に強いと言っても過言ではない。それなのにもてないどころか敬遠されるって何だ? 他の面で人間として大島に大きく劣っているというのか? 嫌だ。強さだけならともかく人間性で大島に負けるなんて、もう生きてる意味が無いじゃないか。こんな不名誉は俺個人だけの問題じゃなく高城家の面子の問題だ。もしも親が「お宅の息子さんがもてないのって、人間性で大島先生にも劣るからなんですってね」なんて近所のおばちゃん連中から言われたら……俺なら死ぬ。速攻で死ぬ。恥ずかしくて生きていけない。

「お前達がもてない理由ははっきりとしているんだよ」
 そんなの分かってるよお前の手下扱いだから恐れられてるんだよ。
「お前達が自分の強さを発揮する場所を持ってないからだ」
 何の事だ、このご時勢力を発揮する場など、試合でもなければあるはずが無い。そして俺達が参加できる試合なんて無い。
「一応、全日本中学校空手道連合というのがあって、全国大会もやってるけどな……出てみたいか?」
 何それ? 初めて聞くんだけど?
「えっ? そんなの無いって以前言ってましたよね?」
「ん? そんな事言ったか……ああ、金もかかるし面倒だから無い事にしていたな。大体出たって大して面白く無いからな」
「それにしても!」
「ついでに言うと、そこの上位組織の連中と鬼剋流って犬猿の仲だからな」
 ……それじゃ出てみたいかもくそも最初から駄目じゃないか。
「高城は知らなかったのか?」
「櫛木田。お前は知ってたのか?」
「知ってるも何も、空手をやってる奴なら常識だし……な?」
 櫛木田の問いかけに皆が頷く……知らなかったのは俺一人? 確かに空手に接した機会はこの空手部の位だし、そもそも入部した途端に空手への好意的興味など、大島に根こそぎ奪い取られたから、ネットなどで調べようという気すら起きなかった。俺は2年間も大島の嘘に騙されてつけていたのかよ。
「鬼剋流との軋轢も有名な話ですから、空手部に入部を決めた段階で全国大会なんて諦めてましたから」
 香籐くん……なんでそれを早くに教えてくれなかったんだ? ……分かってるよ。聞かれない事には答えられないよな。

「それで、もてるもてないの話はどうなったんですか? 全国大会って言っても、俺のような空手に興味がない人間が聞いた事も無なかった程度の大会じゃ、優勝しても何のアピールにもならないですよね。そんな大会があった事すら知らないんだから」
「分かってねぇな。誰にアピールするかじゃなく、アピール出来た相手にもてれば良いんだよ……それからお前は少し空手に興味を持て」
「な、何ぃ?」
「とりあえずは全国大会だ。そこに参加したり応援、観戦に来た人間の中に100人、お前に近い年頃の女がいて、その7割がお前の好みから外れて、残った30人の内、10人に1人が優勝した高城君って素敵と思ってみろ。3人の女にもてるって状況だぞ」
「いや、それでもたった3人じゃないですか? 微妙ですよ」
「馬鹿かお前は? お前は馬鹿か? 一度に10人、20人の女と付き合えると思ってるのか、お前にそれほどの器があるのか? どう考えても一度に付き合えるのは3人くらいだろ」
「3人……良いんですか? 3人と同時に付き合っても?」
「構わん。相手がそれでも良いというなら何の問題も無い。俺も今2人と同時に付き合っている!」
 大島がとんでもない事を口にした気がするが、この際、どうでも良い事だ。
「やります! 俺は全国大会で優勝して3人と同時に付き合います!」
「そうか。言っておくがうちの空手部からの参加は無理だと思うぞ」
「…………えっ?」
「だから言っただろう。運営団体と鬼剋流は犬猿の仲だと、一応空手部は鬼剋流の関係になってるからな。それにお前個人で会員登録しようにも所属の中学校の部活単位だからな……まあ諦めろや」
 囁き─詠唱─祈り─念じろ! 高城 隆は灰になった……いっそロストしてぇ。


「お疲れ様でした!」
「ちょっと待て」
 1年生達が元気に──今日は練習が軽かったので本当に元気だ──帰ろうとするのを俺は呼び止めた。
「何ですか主将?」
「お前達も聞いていたと思うが、今朝捕まった馬鹿どもは麻薬を所持していたヤバイ連中なので、もしかしたらお礼参りに来る可能性も無いともいえないので、集団下校してもらう。1年生と2年生は家が近かったり方向が一緒の奴同士に別れろ」
「分かりました」
 1年生は新居の指示で、2年生は香籐の指示でグループに分かれたので、更に1年生と2年生のグループを組み合わせると、3つに別れたのでそれぞれに1人3年生を引率に指名していく。まあ普段は馬鹿だが3年の連中ならば、体力、技量、胆力ともにヤクザごときには遅れは取らないだろう……本当に馬鹿だけど。
 田村と伴尾は元々近所なので、2人まとめて同じ方向に帰る1つのグループを任せて、櫛木田と紫村には申し訳ないが方向の違うグループの引率を頼んだ。
「高城お前はどうするんだ?」
 櫛木田の問いに、ポケットから昼休みに小林から預かった鍵を取り出して見せる。
「こいつを警察に渡しに行かないとならないから、引率は任せる」
「何だ、それ?」
「さあ、今朝の騒ぎの時に小林と田辺が見張ってた奴らが逃げようとして掴まりそうになった時に、傍の家の庭に投げ込んで証拠隠滅を図った位だ。奴らが麻薬を持っていたなら、相当やばいものが入った宝箱を開ける鍵だろうな」
「また面倒な事に……鈴中の事といい、ここ最近どうなってるんだ!」
 櫛木田は吐き捨てる。
「そう怒るな。今回の事はこの鍵を届けたら後は警察任せだから安心しろ」
「本当かな? 最近高城君はトラブルを呼び込むようなところがあるし」
 紫村が不吉な事を呟いた。

「──と言うことだから、帰るのが少し遅れるけど心配要らないから、はい、じゃあ切るよ」
 携帯電話で母さんに、落し物を警察に届けるので帰りが遅れると伝えるとマラソンランナーくらいのペースで我が町に3つある警察署の中で最寄の北警察署へと向かった。
 3km少しの距離を10分足らずで走り切ったにも関わらず、呼吸一つ乱す事の無い自分に改めてあきれる。
「お疲れ様です」
 玄関前で立ち番をしている警官に一声かけてガラス戸を押して中に入り、脇の受付の小窓のガラスを叩いて、中にいる係りの者を呼ぶ。
「何かな?」
 定年間際か60歳位の小柄な男性事務員が小窓からこちらを覗き込んでいる。
「すいません。今朝起きた──寿町2-6の交差点での事故の件で、担当の人に話があるんですが、呼んでいただけませんか?」
「君の名前は?」
「──中学の空手部の高城です」
「ああ、あの空手部の……今担当の人間を呼ぶから、ロビーに入って椅子に座って待っているといいよ」
 そう言うと、受話器を取ると内線で呼び出しをかけてくれた。

「ああ君か」
 5分ほど待っていると階段から、朝の事故現場で話をした40代の中年太りの刑事が現れる……淵東警部補とか言ったな。
「どうも」
 軽く頭を下げる。
「話があるそうだね。えっと~会議室が空いていたな。付いて来てくれ」
 彼は自動販売機で缶コーヒーを2本買うと歩き出す。俺は後を歩きながら話を振ってみる。
「会議室ですか、取調室で話すのかと思いました」
「今時、犯罪者でもない中学生から取調室で話を聞いたとマスコミが嗅ぎ付けたら大問題になるよ」
 そう言いながら笑ったので、俺も一緒に笑っておいた……場を和ませるって大事だよな。

「それで話というのは?」
 会議室に入るとテーブルを挟んで向かい合って座る。
 彼がテーブルの上に缶コーヒーを置いて「どうぞ」と促してきたので、無糖の方を手にすると「今時の子供は無糖か……」と呟き、もう一方の間を手に取ると早速一口飲むと話を切り出してきた。
「それで話というのは?」
「今朝の当て逃げ犯は麻薬を所持していたんですよね」
 俺も缶コーヒーを一口飲んでから答えた。
「ああ……それで誰から聞いたんだい?」
「ニュースソースは秘匿と言うことで」
 別に隠す義理も無いが惚けておいた。
「まあ、それは構わないか、マスコミには流している情報だ……事実だよ。今は刑事課で取締り中だが、それがどうかしたかな?」
「どうと言うことは無いんだろうけど、これがあると解決が早まると思って」
 そう言って、ポケットから鍵を取り出してテーブルの上に乗せる。
「これは?」
「奴らは、顧問の先生が救助のために離れた隙に、逃げ出そうとして……直ぐに下級生達が捕まえたんですが、その時にこれを近くの民家の庭へ塀越しに投げ込もうとしたそうなんですよ。その後、色々あったせいで鍵の事を忘れていたらしく。相談されたので持って来ました」
「そうか確かに事件解決の鍵になりそうだ……鍵だけに……まあ何だ、ありがとう。私の方から刑事課へと回しておくよ……後、事件の担当者がその下級生に事情聴取を取りに行くかもしれないのでよろしく頼むよ」
「分かりました。その場合は学校と空手部の顧問を通して連絡を入れてください」
 大島の手柄になってしまう可能性が高いが、そうしておいたほうが小林のためには無難な選択だと判断した。
「そうした方が良さそうだ。分かった伝えておこう」

 その後、10分程度だが事件の事、そして世間話を警部補としてから俺は席を立った。
「それじゃあよろしくお願いします」
「ああ、気をつけて帰るんだよ」
 会議室を出て直ぐに別れて、俺は玄関へと向かう。
 途中、受付の小窓から声を掛けられた。
「ああ君、君。丁度さっきまでテレビで君達の事をやってたよ。君も映ってたよ、ほんの少しだけどね。やけに男前の子がずっとで映ってて……」
 最後の最後でイラっとした!


-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今回は3話しかないけど、文字数的にはいつもと同じくらいです。

結局最初の予定していた内容を変更して話を作り直したので、投稿したくない病に罹り、何かもっと良い話が思いつくんじゃないかとグダグダしてましたが、結局この程度……

次回は今月中にお目にかかれれば幸いです。



[39807] 第54話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:b87201e9
Date: 2015/06/15 22:18
「もしもし田村? ああ俺は今、警察署から出てきたところだ。それで無事に1年と2年は送り……ああ無事に……分かった。それじゃあ、また明日」
 通話を切った。田村と伴尾はOKと、次は──
「…………つながらない」
 櫛木田の携帯に何度かけなおしてもつながらない……嫌な予感がする。櫛木田の家は……違うあいつは自分の家とは関係ない方向の後輩達を送りに行ったはずだ。1年生の澤田と2年生の富山だ。
 富山に電話をかける。
「もしもし冨田か? 今は家に居るのか? そうか、澤田はどうなってるか分かるか? お前より先に家に送り届けたんだな……そうかなら良い……ああ櫛木田と連絡が取れない……いやお前は家から絶対に出るな。櫛木田が遅れを取ったとするならお前には荷が重い……それじゃあ、くれぐれも家を出るな分かったな!」

 櫛木田にもう一度電話をかけるがつながらない。畜生、せめて自宅の電話が分かればいいんだが、今時自宅の固定電話にかける機会なんて無いからアドレス帳に登録していない。
「紫村? ああ俺だ。そちらの状況はどうだ? ……ああ、全員無事に送り届けたんだな……だがこっちらで問題が発生した。櫛木田と連絡が取れない……家の電話番号が分からないから……分かるのか、だったら頼む……悪いな……何か分かったら教えてくれ」
 電話を切ると、一般的な全力疾走くらいまでペースを上げて櫛木田の家を目指して走る。

 10分程で櫛木田の家の近くまで来たが、ここまで来る間に広域マップには櫛木田を示すシンボルは表示されなかった。突然、携帯がバイブレーションで着信を知らせる……紫村だ。
「もしもし……そうか、奴はまだ帰ってきてないのか……仕方が無い。大島に連絡してくれ……奴なら色々顔も効く」
 それに引き換え、俺は所詮中学生であり社会的な影響力など無きに等しい……悔しいが無力だ。これなら自重する加減が軽くて済む異世界の方がまだましだ。
「田村と伴尾には伝えなくていい。櫛木田に何かあったとするなら、奴らが動いたとしてもミイラ取りがミイラになりかねない……ああ構わない。お前も家に居てくれ、後ろで冷静に状況を判断してくれる奴が居る方がありがたい」
 通話を切ると最後に確認が取れた富山の家へと向かう。広域マップの北側の端で櫛木田の反応が映り直ぐに範囲外へと消えた。
 咄嗟にシステムメニューを開いて時間停止状態にする……ついでにセーブしておく、万一の場合、今この時点が最終分岐点……ちょっと待てロードしよう。櫛木田のために、ほぼ今日一日をやり直すと思えば業腹だが、あいつの命には代えられない……のかな?
 結局、セーブするかロードするか踏ん切りがつかなかったので、セーブせずに状況を進めてみて、駄目ならやり返すという方法を選択した……我ながら自分の友情の篤さに苦笑いだ。

 先ほどマップの端を横切って消えた速さから、移動手段は車かバイクだろうが、拉致されたらならバイクの可能性はないだろう。
 だが車やバイクに追いつける速さで走れば、新たな都市伝説を生み出してしまう。宙を飛ぶにしてもまだ空が闇に閉ざされていないこの時間帯にやれば、都市伝説どころかワイドショーで一気に全国区の怪奇現象になってしまう。
 自転車、自転車があれば良いのだが、残念ながら駅前でもなければ持ち主不明の放置自転車なんてそうそうない。
 かといってタクシーを使おうにも、学校に持ってくる財布には精々1000円程度しか金は入っていない。
 詰んでしまっている気もしないでもない。だが、どこか他人事でそれほど焦りを感じていない。ヤクザに攫われた櫛木田が殴られ蹴られ、脅される……うん、普段の部活と大して違いが無いのだから。むしろ大変なのは救出された後だ。間違いなく大島の説教が入るだろう。当然、酷い体罰付で……想像してブルっときた。

「……慌てる必要は無いな」
 我ながら人でなしな発想だが、当の櫛木田だって同意見であろう。たとえ表面上は俺を詰るとしても。
 それでも一応は、可能な限り早期発見と救出を目指そう。その為には魔術に頼る必要がある。普段から頼るに価するか非常に微妙な存在だが、役に立たないものを組み合わせて役立たせるのが人間の知恵だ。

 ここ最近で使える様になった魔術で、一番のお気に入りは光属性の【軽解毒】である。当然【解毒】も存在するのだが、その効能は「蚊など虫に刺された患部の痒みを消してくれる」だ。確かにありがたい効能だ。だがわざわざ魔術で虫刺されの痒み止めってどうなのだろう?
 ちなみに、虫刺されの痒みを止めるには、ティッシュ1枚を水に濡らして、軽く絞りレンジで20秒ほど加熱したものを患部とその周辺に押し付けて熱する。めちゃめちゃ熱いが、笑ってしまうほど痒みは消え、再び痒みが出ることはほぼ無い。
 もっとお手軽なのは、セロテープ・ガムテープ・ビニールテープ・両面テープ。何でもいいから貼り付けて患部と外気を遮断できる状況を生み出す。それだけで強い痒みが完全に無くなる訳ではないが数分の一に減少して、耐えられない痒みではなくなる……たしかNHKの情報番組が元ネタだ。

 話は脱線したが【軽解毒】は中々の効果があり、毒を持つ蛇や虫から注入された体内の毒物のみならず、二日酔いの原因であるアセトアルデヒドなど、対象に対して毒性のある物質を選択的に分解してくれるという優れもので、しかも毒物により損傷・変異した組織の回復はしないが、それらの組織へ【傷癒】系での回復効果の向上効果を付与する。確かに出血毒などは毒の成分を分解したところで、破壊された組織を回復させない限りは命は救えない場合もある……しかし、引っ込んでおけといいたくなるほど、現状ではまるで役に立たない。
 他にもやっぱり出てきた【中傷癒】や【中病癒】などの治療系の魔術が充実したのはありがたいが、今は役には立たない。
 それにしても光属性の充実が他の属性よりも進んでいるのは、俺が心正しい光の戦士だからに違いない……何人にも文句は言わせない。

 他には水属性から2つ。【水球】シリーズの最新作【超純水球】……【水球】の水が超純水になって良かったね。程度でもちろん役には立たない。つか今回の件のみならず、俺の人生の中で役に立つ機会が想像出来ない。
 そして【凝水】、水を固定して水面の上を移動する事も可能で、水中にあるものの動きを封じる事も出来る。ただし、1㎡当たりの耐荷重は300kg程度のため両足の面積で人体を支える事は不可能なため、移動は走る必要がある……今後機会があれば、河童か半漁人の格好でもして湖や海で試してとして都市伝説を作ってやろう。

 土属性からは【土棘】対象範囲の地面に長さ5cm程度の硬く鋭い棘を作る。【分解】有機物を分解して畑の肥料にする事が出来る。【調土】目的の作物に適した土壌へと畑の土の酸性・アルカリ濃度を変えることが出来る。【巨坑】対象に位置に直径3m、深さ6mの円柱形の穴を開ける。対象は土の地面以外にも有効。
 つまりシステムメニューは将来俺を農業従事者にしたいのだと理解した。【巨抗】で地下に室を作って白ウドやホワイトアスパラガスも育てれば良いと思っているのだろう。

 火属性からは【熱気】対象範囲の空気に熱を与える。(距離5m以内、半径1m、最高温度350度)と【白炎】対象の物体を高温の炎で溶かす。(距離10mジャスト、温度12000度)の2つ。ついに強力な攻撃魔法かと思ったが、距離が10mと遠距離でも接近戦でも使えない微妙さ、多分最大距離が最初から10mで、しかもそれより近くで発動すると自分が危険だという安全策なのだろうが泣けてくる。

 風属性は【強風】ちょっとした強い風を吹かせる。【弱風】と【強風】の間に【中風】が無いのは、中風が病気の症状をさす言葉だからだろう。おかげで【強風】と言う名前の割には「今日は結構風が強いな」と思う程度で精々空き缶がアスファルトの上を転がる程度、上手く使えば短いスカートくらいはめくれるだろう。だが俺はパンチラ愛好派の中でも偶発的にチラリと覗くナチュラルさを愛する派に属するので自分でめくって喜べるほど単純ではないのだ……シチュエーションとっても大事。
 いやいや、何を考えているんだ? 今大事なのは櫛木田追跡の方法を探す事だ。
 他に風属性の魔術は【風圧】対象に触れる空気の密度を操作し風圧による負荷を操る事が出来る。以前【真空】を使い空気抵抗を殺したが、【真空】の連続使用に比べたらはるかに効率が良く、更にこちらは逆に対象にかかる風の抵抗を増やして移動速度を抑えたりも出来る。【風圧】をかける対象との距離は10mで、一度かけたら効果時間中は距離が離れても問題ないが、やはり今回は使い道がない。

 そして闇属性の魔術は【闇纏】という【無明】に似た対象に張り付く闇で全身を覆いつくすものだが、正体が俺と知られなければ良いと嘯くには予想される騒ぎが大きすぎると思う。それに、拉致された櫛木田が発見され助けられた場所に向かって空を飛び跳ねるように移動する闇男と、俺の関連を大島や紫村辺りが、わずかなりとも疑いを持つ可能性もある……あの2人だけには絶対に疑いを持たれたくない。
 一度でも疑問に思ったなら、疑問を晴らすための労を厭わない奴らだ。あらゆる手段を講じて必ず突き止めようとするだろう……そう、比喩でも誇張でもなく、本当にあらゆる手段を用いて。
 次に【昏倒】対象を眠りに落とす。対象の精神状態を無視して効果を発揮するが、相手の【魔力】が自分より強い場合は抵抗される可能性がある。完全に【催眠】の上位バージョンで使い勝手が格段に向上している。問題は相手の【魔力】って奴を確認する方法がないってことだ。俺の【魔力】の数値が、他の【身体能力】などのパラメータに比べる、かなり高目であるので、自分の【魔力】が強いとは思うものの、実際の戦闘中に使ってみる前に、試してみたいが、そんな機会など簡単には無いので使った事すらない。マルに使うのも可哀想で嫌だ。

 闇属性魔術で終了と言う訳ではない。今回は新しい属性が増えている……複合属性という何だかすごそうな奴がな。
 あれ? 属性の複合であって複合を属性と言って良いのだろうか? ……分からん。元々このシステムメニューがどんな言語を基本として作られているのか知らないし、その翻訳が完璧と言うわけでもない。結構、各項目の訳語も微妙だなと思うものが多い。特に魔術名なんて酷いのが多く、全くセンスが感じられない。
 それで結局、今役に立ちそうなのは【迷彩】所謂光学迷彩である。何かが漲って来る、ついに来たって感じだよ。長かったな……俺は思ってたんだ魔術ちゃんはいつかやる子だと。

 近くの公園のトイレに飛び込み【迷彩】を使用してみる。鏡越しに自分の姿を見てみると、確かに自分が映っているはずの場所には俺の姿は無く後ろの壁が映っている。勿論着ている服や、教科書や空手着などの入った学校指定のスポーツバッグさえも見えなくなっている。
「これなら【闇纏】もダンボールも意味ねぇな」
 そう呟いたのも仕方の無い事だろう。
 しかし応答速度には若干問題があり、勢い良く一定方向に動かす場合は問題ないのだが、激しく向きを変えながら手を動かすと迷彩と背後の映像には僅かにずれが生じる。何処がどうずれているのかは俺の目でさえじっくりと見ないと分からないが、それでも違和感だけは普通の人でも覚えるだろう。それに鼻や耳の利く異世界の野生動物や魔物には通用しないのだろうけど。そう考えると【迷彩】は思っていたより利用範囲が狭いな。
 しかし既に黄昏た今の町並み、しかも人間が相手なら問題はない帰宅時間で多少人が多くても大丈夫だろう。
 トイレを出て、周囲に人影が無いのを確認してから走り出す。地面のアスファルトとを蹴り、道に面した塀の上を身体を捻りながら蹴り、道路を挟んだ反対側の電柱の上を蹴って、先の電柱へと飛ぶ……電柱は駄目だ。蹴るたびに大きな音が鳴り、しかも電線が波打つ。
 2つ目の電柱から民家の屋根に、足の指、足首、膝、股関節、腰、背骨、頚骨、それらの可動域を一杯に使って衝撃を吸収すると、屋根の上を走り3歩目で再び跳躍する。

 5kmほど屋根伝いに移動した先で、櫛木田を示すシンボルが広域マップの範囲内に現れた。
 システムメニューを開いて、マップと頭の中の地図情報と比較する……「ああ、あの工場か」
 郊外にあり自宅からも結構離れているが、俺が小学校に入った頃には既に閉鎖されていた工場の跡地で、心霊スポットとして地元では有名場所で、某有名インチキ心霊ビデオシリーズにも登場した事のある雰囲気のある廃墟で、周囲の建物も今では使われていないので、昼間でも道にも人通りも車通りもなく、唯一賑わうのは肝試しの連中が来る深夜帯という話だ。
 そういえば去年の夏にクラスの連中が肝試しに工場探検してきたと自慢していた。まあ俺はお察しのとおり朝の早い──それだけが理由じゃないが、むしろじゃない部分を察して欲しい──空手部部員なので実際に行った事はなかったが場所くらいは知っている。

「高城だ。今櫛木田の家から富山の家に向かう途中に居るが、この辺でヤクザが人間を拉致して連れ去る場所に思い当たる節がある……知ってるだろう。例の心霊スポットだ……大島には聞かれるまで知らせなくて良い……そうだ。もしかしたら程度だから、奴には最後に確認された富山の家から櫛木田の家までのルートを重点的に当たってもらいたい……じゃあ、よろしく」
 紫村に必要な事を伝えると

 目的地である廃工場の傍にたどり着く、100mほどは周囲には建物が少ないので【迷彩】を解くことなく地上を歩く事になった。
 広域マップには、工場周辺には人を示すシンボルマークは無く、最寄の住宅地は俺がここに来る途中に通った場所で500mは離れている。他には使われてない廃墟のような倉庫や、シャッターの閉まった小さな自動車修理工場や、看板だけが残った中古車販売店位だ。
 つまり、工場の敷地内以外には周囲に人が居ないと判断してもいいだろう。
 フェンスを飛び越えて敷地内に入ると周辺マップに切り替えてフェンス沿いに1周しながら周囲の状況を確認する。
 結果はやはり工場敷地外には、中を伺う者も逆に外部を警戒する者も存在しなかった。つまりこの工場敷地内に居るのは、俺と櫛木田。そしてヤクザが6人のみ。ちなみに既に工場の裏手を見張っていた1人を、背後から試しに使ってみた【昏倒】で眠らせることに成功したので、ヤクザの残りは5人。門脇に隠れて外を警戒している1人を除いた4人が、2台のワンボックスので目隠した工場入り口前で、櫛木田の周辺を取り囲んでいる。

「たかがヤー公6人に拉致されてるんじゃねえよ」
 まだ下級生が人質に取られたというなら弁解の余地もある。恐怖の大島裁きにおいても俺も弁護してやる事は出来た。だが足手まといになる下級生も居ないのに拉致されたとあっては、大島が激怒するのは間違いない。そしてその余波は部員全員に降りかかる事になるだろう。毒づきたくなっても仕方が無い。

 とりあえず周囲の確認を終えたところで、俺は工場裏手で気絶しているヤクザの元に行くと、鈴中の部屋を家捜しした時に使って以来、【所持アイテム】の中に放り込んであった作業用の皮手袋を手にはめると、ポケット中を探り財布と携帯とそれから拳銃を発見する……拳銃かよ。中学生1人拉致するには大げさすぎる。逆に拳銃で脅されたとするなら櫛木田が拉致されたのも説明がつく。
 拳銃は所謂自動拳銃。味も素っ気も無く直線で形成されたストンとしてエルゴノミクスの欠片も感じられない貧相なグリップ……間違いなくトカレフだ。しかも中国か北朝鮮から流れてきた密造品の類のせいかグリップには星のマークすらなく縦の溝が刻まれているだけである。
 更に胸の内ポケットから出てきた名刺入れを確認すると、相川興業という会社名が記された名刺が出てくる。飯島何某という同名の名刺が10数枚入っていたので、こいつの名刺に間違いないだろう。
「相川興業ね……」
 興業と言う段階でかなりの確率で暴力団と判断していいだろう。興業とは何か特定の業種を示す言葉ではないのでヤクザのような表沙汰に出来ない仕事をメインとする団体には使いやすい名称だ。
 だが相川興業という名前にはまるで聞き覚えが無い。こちとら堅気の中学生、広域指定の有名暴力団の名前ならニュースで聞き覚えがあるかもしれないが、S県ローカルな地域限定ご当地ヤクザの組名など耳に入れる機会は無い。

 生意気な事に予備弾倉まで持っているので全部回収。
 最後に首元にだらしなく巻きつけているだけのネクタイで後ろ手に縛り上げて、靴と靴下を脱がせてフェンスの向こうの草むらに投げ込む。
 これで意識を取り戻し──何せ【昏倒】を使うのは初めてなので、どの程度の時間意識を奪えるのか分からない──ても、荒廃し割れたガラスの欠片などが散乱している敷地内を走って逃げるのは不可能だろう。

 【迷彩】を使ったまま、工場脇を通って正面の広い空き地を通って門脇で警戒している男の元へと向かう。
 堂々とヤクザどもが警戒する範囲を通って歩いているのだが気づかれない。工学迷彩は素晴らしい……まあ人間相手にしか役に立たないのが玉に瑕だ。
 近づいて【昏倒】発動。倒れかける男を抱きかかえて支える。目隠しになっているワンボックの陰からこちらを見張っている男に対して、気絶した男の右手を掴んで振って大丈夫だという風にアピールすると納得したみたいだ。
 男を抱えたままワンボックすから陰になる位置に移動するとフェンス手前の草むらに隠して、工場裏手の時と同様に武装解除して縛り上げて、靴と靴下を脱がせて処分した。
「それにしてもこいつも拳銃を持ってるとは……」
 この男もトカレフを所持していた。ヤクザでも今時の大手では使わない密造の安物トカレフとはいえ、田舎ヤクザには虎の子のように大事な武器だろう。それを複数持ち出しているという事は、よほど警戒しているという事だ……一体何に?

 俺達にそれほど警戒するだろうか? 確かに空手部のOBは都市伝説級の武勇伝を打ち立てているが、仮にもヤクザが中学生相手にビビるとは思えない。もしもビビるくらいならヤクザなんてせずにサラリーマンになって善良に暮らせば良いのだ。
 だが俺達ではなく大島を恐れての事だとするならば、こいつらは大島を知らなさ過ぎる、ろくに使いこなせもしない拳銃で何とかなると思っているならお笑いだ。元特殊部隊上がりの傭兵とか本格的なプロをチーム単位で雇って襲撃する必要があるよ……それなら大島を倒せるよな? 倒せて欲しいお願いだから。

 すると考えられるのは警察か? いや、お上に力で対抗するなんて大それた考えが出来るくらいなら、こんな田舎で燻ってないで行け行けで余所のヤクザと抗争し、縄張りを広げて地元民の俺の耳に入るくらいの大きな組織を育てているはずだ。
 つまり残った可能性である別の犯罪組織を警戒してという事になる。ヤクザと決め付けなかったのは中国系のマフィアとか……まあ無いな田舎だし。
 仮に別の犯罪組織に対して警戒していると仮定する。その場合何故櫛木田……もしくは櫛木田個人ではなく空手部員を狙ったのか?
 残念ながら、ここからではヤクザが櫛木田を殴りながら尋問しているのは分かるが、その内容はレベルアップして向上した俺の聴力をもってしても聞き取れない。しかし後で櫛木田から聞けば良いだけのことだ。

「残りは4人……」
 工場の入り口の方へとゆっくりと歩く。
 櫛木田は殴られながらも、それほどビビッているようには見えない。本当にヤクザに拉致された中学生の態度とは思えない。誰かのせいで暴力耐性が馬鹿みたく高く、こんな場合にこそ冷静になってしまう習性が身についてしまっている。
 情報を聞きだすために尋問をしている間は、命は保証されれていると判断して、殴られながらも言を左右にしながら時間を引き延ばしているのだろう。
 実際、こっそり後ろに回りこんで確認すると、櫛木田は左手の親指の間接を力づくで脱臼させたのだろう後ろ手に縛られた手の自由を確保していた……当然、親指の付け根は倍以上に腫上がっている。
 俺の仲間にここまでさせやがって、再び櫛木田が顔面を殴られるのを黙って見過ごしながら、心の中で雰囲気だけは出してみた……だって当たる瞬間に顔を引いてダメージを最低限に抑えるくらいに余裕だから、ちなみに大島に殴られる場合はそんな余裕は無いからもろに食らうしかない。大怪我に繋がらない様な場所を選んで殴ってくるので大きな問題は起きていないが、感じる痛みは大きく大島に軍配があがるだろう。まったく、ヤクザに拉致されて殴られ続ける以上に酷い部活。そんな事がこの世にあっていいのだろうか?

 とりあえず、5人に順番に【無明】をかけて視界を奪う。勿論最初は櫛木田だ。誰にも正体を知られることなくヤクザどもを倒す上で、一番厄介な存在は間違いなく櫛木田だ。
「なっ!」
 突然視界を奪われて、驚きの声を漏らした櫛木田を無視して、近いところか順に目を塞いでいき、それからおもむろに殴り倒す。
 死なない程度に手加減してのボディーブロー1発で地面に転がり自分の吐いた汚物を枕に気を失う。手加減といっても感覚的なものなので4人の内何人かは、もしくは全員が暫く病院のベッドの上で流動食を堪能する事になるかもしれないが自業自得過ぎて罪悪感の欠片も感じない。
 しかし次の瞬間、突然超低空のドロップキックが俺の下腹部の辺りを狙って放たれる……櫛木田が
 両脚に縛り付けられた椅子ごとのドロップキックは避け無ければならない範囲が広く、そして狙いが身体の重心だけに避けずらい。だから脚を掴んでポイっと横に投げ捨てる。だが咄嗟だったので力加減を間違い、櫛木田はゴロゴロとアスファルトの地面を転がりながらワンボックスのタイヤに背中を打ち付けてエビゾリながら苦しんでいる……ドンマイ。

 面倒なのと苦しんでいるままにしておくのの可哀想なので【昏倒】をかけて眠らせると、【中傷癒】を背中と頭、胸部、腹部、肩、そして左手の親指にかけて傷を癒す。一応身体表面の傷だけではなく身体内部の損傷にも対応しており、しかも骨折を治すほどの効果のある本格的な治療魔術なので、何かヤバイ怪我を負っていたとしても大丈夫だろう。
 怪我が一番目立つ顔だけは治しておかなかったのは、ヤクザたちの罪に傷害罪を付け加えるため以外の何物でもない。

 先の2人と同様に所持品を没収しようとしたが、一番偉そうな格好をした奴が所持している拳銃だけは取り上げずに手に握らせてやった。何も証拠隠滅に協力して罪を軽くしてやる必要は無い。
 拳銃以外は身元の分かる名刺入れと運転免許証だけは残し没収して縛り上げるが、拳銃を握らせた男だけは縛らずにおいて【闇手】を2本使い、拳銃を持った腕を上に向けさせて引き金を3度引かせた……スプーンを曲げる程度の力しかないという説明だったが、基準となるスプーンは結構丈夫な物らしい。
 どうしてこいつは縛られてないのか? 縛ったらどうやって銃を撃ったのか? という事になったら面倒なので、とりあえず両手両脚の骨をへし折っておいた。肘、膝を折らなかった事には感謝されても良いレベルだ。

 その後、【強風】を使い周りを1周しながら工場裏手などに残した自分の足跡を消し去ると再び工場入り口に戻り【迷彩】を解除して櫛木田を起こす。
 椅子ごと起こして座らせると頬を結構強く張る。1発、2発張り、3発目と思った時に、覚醒反応を見せたがついでなのもう1発張っておいた。
「痛い……何だ?」
「何だじゃねえ、馬鹿が!」
「あれ? ……俺はヤクザに……何で高城が?」
「お前が富山を家まで送った後で、連絡がつかなくなったから探したんだよ! お前がドジ踏んでヤクザに攫われたなら、何処へ連れて行かれるか考えたら、ここが思いついたんで走って近くまで来たら銃声がしたから慌てて駆けつけたら、この有様だった」
「お前、銃声がしたのに助けに来たのか?」
「まあな、3発の銃声は聞こえたけど撃ち合いしている様子もないし、拳銃が1丁ならそんなに脅威ではないだろう」
「じゃあ、撃ち合いをしていたらどうするんだ?」
「そりゃあ、隠れて様子を伺ってるな」
 櫛木田の脚を縛るロープを解く。
「……助かったな」
「何だよ?」
「お前な銃弾飛び交う中助けにこられてみろ。惚れていしまうやろ!」
 櫛木田の下らないジョークがツボに入って笑った。
「それに俺がこいつらを伸してお前を助けたわけじゃないし」
「じゃあ、誰?」
「さあな、言っただろう。俺が来た時にはこの有様だったと」
 納得いかなそうにしながら櫛木田は頷いた。

「あれ? 何か俺の指が治ってるんだけど?」
「ん、指がどうした」
 拙い気づかれたか。
「いや、奴らに尋問されている間に、少しでも反撃の糸口を掴もうと、縛られた手首を無理やり引き抜いた時、左の親指の付け根で変な音がしてめちゃめちゃ痛かったんだけど……何とも無いんだよ」
「何とも無いなら良いだろう。気のせいだよ」
「そうか……確かに痛かったけど、見てもいないし触っても無かったからな……でも」
 だろうな、ロープの外れた左手の手首は交差させた右手首と背中の間に隠していから自分では確認していないからな。
「それより、こいつらに財布とか携帯を取られているんじゃないか? 今の内に回収しておかないと、証拠品として警察に取られて中々戻ってこないかもしれないぞ」
「そいつはヤバイ。車の中を探してくる」
「指紋がつかないように、これでも使っておけ」
 そう言って、先ほどまで使っていた作業用の皮手袋を投げて渡す。
「おっ、サンキュ~!」
 櫛木田は上手く誤魔化されてくれた……セ~フ。

「それじゃあ、紫村にお前の確保に成功したと連絡を入れるから、ヤクザどもを見張っておけ……それから死なない程度に2・3発蹴りを入れておいても、お前を助けた謎の人物がやった事にしておいてやるからな」
「おっ、サンキュー!」
 そう答える櫛木田の顔は見たことも無いほど嬉しそうで、何処か嬉しそうな大島の顔に似ていたが、可哀想なので口にする事は出来なかった。

「ああ俺だ……櫛木田は無事救助できた。場所はやはり例の心霊スポットだった……いや、俺が駆けつける前に銃声がして、駆けつけた時には既にヤクザどもは全員縛られるか気絶していた。櫛木田も気絶していたが……いや、大した怪我はしていない顔を何発か殴られたみたいだが、ちゃんと威力は殺していたみたいだ……とりあえず、今は櫛木田が見張ってるから、早く大島と警察に連絡を入れてくれ…・・・出来れば大島が先にここに来るのがベストだな……頼んだ。ありがとうな……いや貸しは俺じゃなく櫛木田に付けておいてくれ……じゃあ、そういうことだよろしく」
 通話を切ると、櫛木田がこちらを呆然と見つめていた。
「どうした?」
「何か今、俺が紫村に仮を作ったような気がしたんだけど、気のせいだよな?」
「ああ、安心しろ。お前に返してもらえそうなものに興味は無いから要らないと言ってたから」
「何だろう、この安堵と屈辱感……」
「おとなしく安心しておけよ」
「そうだな……高城……ドンマイ!」
 余計なお世話だ。

 見覚えのある国産SUVが工場の敷地内に入ってくると、スキール音を立てながら停車した。そして──
「おう。どういう事なんだ?」
 メロン熊モードほどではないが、かなりお怒りの大島がターミネーターのBGMと共に車から降りてきた……実際に流れているわけじゃないけどさ。
「拳銃を持ったヤクザに櫛木田が拉致されて、俺がヤマ勘でこの廃工場の近くまで来たら銃声が3発聞こえて、駆けつけたらヤクザと櫛木田は全員気絶していて、しかも1人を除いて縛られていたのを発見しました」
 俺の話を無言で聞きながら大島は、縛り上げられたヤクザの口元につま先を蹴り込んで上下の前歯を全てへし折った……無力化され気絶している相手に、何事も無かったかのように無表情で攻撃を加えられる大島に改めて肝が冷える。
「…………櫛木田ぁっ! お前はどうなんだ?」
 血まみれになった、無骨な皮製のトレッキングブーツのつま先を、【昏倒】から開放されて改めて失神したヤクザのスーツの裾でぬぐいながら櫛木田を睨み付ける。

「自分は富山を家まで送って言った後、いきなり横付けした黒塗りのワンボックスのドアが開いて、中の男達が拳銃を突きつけてきたので抵抗できず、言われるままに車に乗り込み、その後、後ろ手に縛られ目隠しされて、この場所に連れてこられました。遠回りするほど頻繁に曲がってはいなかったので、ほぼ最短ルートでたどり着いたと思います。車を降りてから工場内に連れ込まれたんですが、ヤクザの1人が暗くて、汚くて気持ち悪いと言い出したので、入り口前に戻り、椅子に座らせられて、椅子の脚に自分の脚を縛り付けられた後で目隠しが外され、鍵は何処だと執拗に聞かれ。分からないと答えると殴られました。その後でいきなり目の前が真っ暗になると、ヤクザが騒ぎ始めて悲鳴が幾つも聞こえたので、とりあえず気配のする方向に椅子ごとドロップキックを見舞ってやろうとしたのですが、強い力で弾き飛ばされて背中を何かにぶつけた後に気を失いました」
 暗くて汚くて気持ち悪い……確か俺が倒した奴らの中に、金髪縦ロールの我儘お嬢様って感じの奴はいなかったよな? 全員、どうしようもないほどヤクザって顔したおっさんばかりだったはずだよな。
「そうか……とりあえず高城。何故俺に鍵の事を黙っていた! 説諭っ!」
 かなり気合の入ったボディーブローが俺の腹筋に突き刺さる。あえて全力で腹筋を引き締めて抵抗するのではなく少し緩めて打撃を受け入れた。その衝撃にぶっ飛ばされて数mを地面を転がる……もう少し手加減しやがれ! あれ? こいつ致命的にならないギリギリで手加減するのが得意なはずなのに、今の一撃は普通なら、それこそ病院のベッドの上で流動食のお世話になるレベルだ。
 ……大島。もしかして俺の身体能力の上昇に気づいている?

 その時、パトカーのサイレンの音が耳に飛び込んで来た。そういえば警察が来る前に伝えておく事があったな。
「話があります」
「何だ?」
「今回の鍵の件で、鍵が我々空手部の人間の手に渡った事をヤクザ達が知っていましたが、どうやって知ったのでしょう? その事を知っているのは朝捕まった2人だけのはずですが、彼らは警察で取調べを受けていた。しかも単なる交通事故ではなく当て逃げ犯であり、逃亡の恐れもあり、また不審な様子から尿検査を受ける事になったはずの彼らが自由に外部と連絡が取れるものなのでしょうか?」
 実際警察が来た後も連中は逃亡しようと暴れていた。
「お前は警察の中に、こいつへ情報を流した奴がいると言いたいのか?」
「疑っています」
「確かに普通の交通事故ならば、ある程度自由に外部と連絡を取る事は可能だろう。だが奴らがやったのはひき逃げだ……お前は勘違いしているようだが、被害者が車に乗っていようが、怪我人を出した段階で当て逃げではなくひき逃げだ」
 それは知らなかった。しかし大島がそんな事を知っていると何回かひき逃げをした事あるんじゃないかと疑ってしまう。
「それに、薬物使用の疑いで検査する前に、朝お前達が学校に戻った後にやった車内の捜索で薬物を見つかって、奴らは薬物所持の現行犯で逮捕されている。だから外部と連絡を取れた可能性は無いな。精々警察を通じて弁護士を手配するくらいだろう。つまりお前の考えが正しい可能性が高いな」
「嬉しそうですね」
 はっきり言って嬉しそうとかそんな可愛いものではない、ドン退きするくらい邪悪で凶悪な笑み。例えるなら世界征服を目指すものの、余りに順調すぎて退屈していたところに勇者が登場した時の魔王の笑み……勇者。魔王を倒し世界を救ってくれ。

 大島は懐からスマホを取り出した……スマホって顔じゃないだろ。出所不明な飛ばし携帯がお似合いなんだよ……べ、別に自分がスマホじゃないから僻んでるわけじゃないよ。
「ちょっと電話してくるから、適当に相手をして、場の空気を暖めておけ」
 そう言い残すと大島は工場脇へと消えた……最後の言葉は、ヤクザに情報を流した奴をはめる為の準備をしておけという意味だと断言できる。
 ならば俺は場を暖めておこう。そいつがより無様で間抜けに見えるような状況を作るために。



[39807] 第55話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:b87201e9
Date: 2015/06/15 22:18
「では事情を聞かせてもらえるか?」
 既にこの場に駆けつけた警察官全員の顔と名前、そして証票番号を記憶している。この40手前位の痩せ型で身長は俺と同じくらいで、何処か爬虫類的な風貌の男の階級は、警部で名前は舟橋……船じゃなく舟だが、とりあえずフナッシーと呼称する。
 フナッシーは刑事課の課長で、どうやら北署で刑事事件の捜査を行う職員達トップらしい。本来余り現場に出てこないそうだが、略取──今回の様な事件は拉致ではな、そう呼ばれるそうだ──と傷害事件で、犯人はヤクザで麻薬がらみ、しかも被害者は中学生となれば、かなりの注目を集める大きな事件であり、上司に一生懸命仕事をしてますよ的な、分かり易いアピールには最適なのだろうと勝手に決め付けた。
 何といっても、こちらを子供相手だと思っていきなり横柄な態度で接してくるような、実にS県的で全時代的なお役人様気質のアホなので、こちらとしても好意的に接してやる必要性は全く感じない。
 警察官としての地位もキャリアも警察組織とは無関係な一般人にとっては、どうでもいいという事に気づく事の出来ない。大きくて小さな警察組織の中でしか通用しないものさししか持っていない憐れな生き物だ。学校を卒業して学校に就職してしまい社会を知らない教師によくいるタイプであり、せめて現場に出ていれば改善するのだが、生え抜きの刑事達は現場主義の人間が多く、余り昇進試験は受けないため巡査部長、所謂部長刑事どまりが多く、その為に刑事課の課長、係長などは他の部署で、昇進試験に向けて職務時間にシコシコ内職して出世したようなのが多いらしい……最後の方は淵東警部補の受け売りだけどな。

「櫛木田がまだショックを受けているようなので、私から状況を説明します」
 櫛木田が一瞬、「何で?」という視線を向けてきたが無視する。
「今朝のひき逃げ事件で、空手部の顧問の大島先生が捕まえた犯人を2年生の2人に任せて救助に向かった後で、犯人は一度逃走しようとして、その2年生たちに取り押さえられたのですが、その際に鍵を近くの家の民家に投げ込もうとしたのを2年生の1人が拾って持っていたのですが、その後の騒ぎで鍵の事をすっかり忘れていたのが事の始まりです」
「それで?」
「事件の件で取材に来たマスコミから犯人達が麻薬を所持していた事から、仲間による逆恨みで襲撃される可能性があったので、放課後の部活の後、部員達には集団で下校し、3年生が必ず家まで下級生を送り届けるように指示しました。私は鍵の事を思い出した2年生から相談を受けて、鍵を警察署まで届けるので集団下校には参加していませんでしたが、鍵を届けた後で3年生達に確認の電話を入れたところ櫛木田との連絡が取れない事が分かり、大島先生に連絡を取るように別の3年生に指示を出してから、櫛木田の家から、彼が最後に送り届けた2年生の家の間を探しましたが見つからなかったので、もしもこの時間帯に櫛木田を拉致して連れ去って監禁できる場所を想像した時に、ここが思い浮かんだので来てみたところ、銃声が3発聞こえたので駆けつけてみたら、櫛木田を含め全員気絶した状況でした」
 ちなみに、この会話は全てスピーカーフォンでの通話状態のまま、胸ポケットに入れてある携帯電話──ポケットの底にはハンカチを入れてレンズの部分がギリギリ出るようにしてある──はテレビ電話機能で紫村に繋がっているので証拠集めと、更には必要とあれば他の部員達との口裏合わせも、奴なら一晩でやってくれるに違いない。

「なるほど……ずいぶんとスラスラと話せるものだな」
「3回目ですからね。何か不満でもあるんですか?」
 厭味ったらしく絡んできたので、そう答えながら鼻で笑ってやる。すると簡単に怒りの表情を表に出した……温めてますよ。場の空気が一瞬で3度は上昇した感じがする。
「ちっ……3度目とはどういうことだ!」
「おっさん。俺はあんたの部下じゃないんだ。もっと丁寧かつ謙ってもらえないか? 警視総監とは言わない、どうせ口も利けない程度の立場なんだろう? せめて2階級は上の上司の前でいつもの様にリンゴを磨きながらゴマを擂る様に接してくれ」
 いきなり口調を変えてやる。この手の支配的な態度を取る事を好む奴にとっては、自分より下だと思っている相手から、鋭い一刺しを受ければ、容易に動揺と怒りの感情を表に出す。
 この調子で冷静さを失わせて本音を引き出し、大島が弄り易いようにしておけば、こいつが情報をヤクザに漏洩した本人かどうかは関係なく面白い結果が転がり出てきそうだ。

「この糞餓鬼が、さっさと質問に答えろ!」
 はい暴言頂きました。勿論、電話の向こうでは紫村が音声映像共にきろくしてま~す。
「だから何でお前は俺に偉そうにして暴言まで吐いてるんだ? 普通は『お願いします』だろう。例えお前が警視総監だったとしても、それが通用するのは警察組織の中だけで、警察関係者じゃない俺にとってはどうでも良い事なんだ。俺がお前に敬意を抱くかどうかはお前の人間性次第だが、既にお前の人間性は糞だと結果が出てるんだよ……ああ、部下にすら尊敬されてないな。笑われてるぞお前」
 フナッシーが弾かれたように部下を振り返る。奴と視線が合った部下は「違います」と必死に首を横に振るが、明らかに笑いを堪えてあらぬ方向に顔を背けている奴もいる……冗談のつもりだったが、本当に人望が無いようだ。

「俺の教え子に糞餓鬼呼ばわりするとは、良い度胸だ」
 丁度そこへ大島が顔を出す。その丁度が偶然と呼ぶには怪しいものだ。
 それに、こいつに「俺の教え子」と呼ばれるとゾッとする。何で自分が大島の教え子でなければならないのかと言う苦悩と、こいつにとって教え子が「虫けら」とほぼ同じ意味であるという2つの理由によって。
「何だお前は?」
 初対面で大島にお前呼ばわりしやがった。185cmの長身に服の上からでも分かる体操選手のような引き締まった筋肉。身体を見ただけで目を合わせたらいけない相手だと分かっても良さそうなのに、首の上にのってるのは老人が見たら心臓麻痺で死んでもおかしくないような凶相だ。何故、フナッシーは強気でいられるのだろうか? 警察権力がどんなに強大でも、目の前に置かれた爆発寸前の爆弾からは守ってもらえないように、今この瞬間大島が己の暴力を解放したらフナッシーは死から逃れる事の出来ないだろう……ある意味勇者としか言いようが無い。

「こいつが俺の教え子なら、俺は教師に決まってるだろう。そんな事も分からんのか? ……はっ」
 最後は鼻で笑うし、大島的にはまだ温め方が足りなかったようだ。一瞬こちらに鋭い視線を飛ばした奴の目は「もっと決定的な状況を作れ」と命じているようであった。
 それにしても大島の発言はロジックとしては正しいが、その辺のおばちゃん達が聞いたなら「一体何を教えてるのかしら?」とあからさまに顔を顰めるのは請け合いだ。
「教師だとお前が?」
「そうだ。残念ながらお前と同じ公僕だ」
 更に残念なのは、お前らが父さんと同じ公僕だという事だよ。

「餓鬼が餓鬼なら、教師も教師だな」
「安っぽい喧嘩の売り方じゃねぇか、まるで三下のチンピラだ」
 ヒートアップするフナッシーに大島の挑発は止まらない。この段階になって自分の予想が外れている事が分かった。場の空気を暖めると言うのは俺が考えてた生易しいものではなく、フナッシーに先に手を出させて決定的な弱みを握り主導権を奪うつもりなのだ。
 恐ろしい男だ。確かにフナッシーは馬鹿で嫌な男ではあるが、その人生をぶっ壊しかねない方法を、こうもたやすく選択するとは……うん? 同乗できないな。むしろありかも知れない。
 大島とフナッシーに皆の注目が集まる中、俺は気づかれないように静かに櫛木田に近寄ると「2人の様子を録画しておけ」と耳打ちする……状況に流されて大島の意を酌んでしまった結果だ。何でそんなものを酌めるようになってしまったのか後で脳内反省会だな。

「誰がチンピラだ! 俺は刑事課課長だぞ!」
「刑事課の課長でチンピラか、ずいぶんと酷い二束のワラジじゃねぇか?」
 思わず大島に同意してしまった。
「貴様っ!」
 激高したフナッシーが大島の胸元を掴み上げた。その瞬間、大島が目配せ1つで「GO!」のサインを出すのを見た。
 気はすすまないが無視すれば不幸が襲ってくるのが分かっているので、仕方なくパチパチと手を叩いてその場にいる人間の視線を自分に集めた。

「はい暴行の現行犯。警察の皆さん彼を逮捕しないと大変な事になりますよ」
 皆の視線が集まったところで、携帯で大島の胸を掴み上げるフナッシーを撮影する櫛木田を指し示す。
「今の一部始終はこの通り彼によって撮影されています。警察官が一般市民へ暴行を加えてたのに、他の警官達は身内意識で逮捕しないで見逃した動画が今日中にネットで世界に配信されてしまいますよ」
 上司の行動を黙認していた者、苦々しく思っていた者、笑っていた者。その全ての顔に「拙い!」という文字が刻まれる。
「ちなみに、その場合は皆さんの顔も無修正で晒して、それぞれの名前と階級、それに証票番号で晒す事になりますよ」
 自分達まで晒すと言われて、動揺しつつも「まさか、一目見ただけで」「はったりだ」などと疑う発言が出てきたので、適当に2人ほど指差して、名前と階級、そして認票番号を言い当ててやると、いよいよ自分達の置かれた深刻な状況を理解して固まってしまった。
「どうしました? 困ってしまいましたか? 逮捕しても逮捕せず有耶無耶にしても、どちらにしてもヤバイと思ってませんか? そりゃあ、そうでしょうね。でも逮捕した方が良いと思うな。逮捕した場合は『暴力警官が部下に逮捕される』という動画が配信されますから、貴方達の行動を世論やマスコミは肯定してくれますよ」
 俺の言葉に刑事の1人が呟きを漏らした「悪魔か?」と……いや、無言の脅迫を受けて仕方なくやってるだけですから。

「黙れこの餓鬼! お前! その携帯を寄越せ!」
 フナッシーは大島を突き飛ばすと櫛木田の携帯を奪おうと駆け寄る。そこへ俺は割って入った。
「今度は強盗未遂だな」
「うるさい! そこをどけ!」
 殴りかかってきたフナッシーの拳を敢えて避けずに受ける、しかもついでに当たる瞬間こちらから頬骨を拳頭にぶつけてやるとフナッシーの拳が折れて、痛みに拳を押さえて悲鳴を上げる。
 いくら激高しても中学生相手に自分の拳が砕けるほどの勢いで殴りかかるなんて、警察官にしておくのはもったいない立派な危険人物だ。
「おやおや、血が出てしまったから病院で診断書を書いて貰えば傷害罪になるかもしれませんねぇ~、素敵な第二の人生が待ってそうですね~」
 故滝川順平氏の声真似で更にイラっとさせてやる。
 決定的とはもうどうしようもないほどに天秤が傾く事なんだ。だから、フナッシーの左手がスーツのスーツの内側の左側に差し込まれても、そのまま好きにさせた。
 そして、やり辛そうに必死になって取り出した物がスーツから覗いた瞬間に、左手ごと蹴り飛ばした。
 フナッシーの左手に握られていた拳銃──ニューナンブ──は、手から離れると吊り紐の長さ一杯まで飛んで、その反動で戻ってくるとフナッシーの左の側頭部を直撃する。
「これで殺人未遂。お前は終わりだ」
 痛みに頭を抱え込むフナッシーにそう告げ、駆け寄ったフナッシーの部下達が奴を拘束するのを見つめながら、ここまでする必要があったのか疑問に思う。確かに尊大で嫌な奴で、激すると度を失う危険人物で警察官としての資質は無いと断言できるが。ここまで追い込んだのは大島と、そして奴の意に従った俺だ。
 奴が情報を漏洩した張本人だというならともかく、そうでないなら警察にいられなくしてやる程度で十分だった……と考えられる程度に寛大さを取り戻しているが、異世界に戻るとそんな気分にはならないだろう。多分大島並みに容赦が無くなる……嫌だな、すごい嫌だ。

「まあ待て! こいつに聞きたいことがある……櫛木田、撮影はもういいぞ」
 ついに大島が確信に迫るようだ。
「しかしですね」
 これ以上、警察の不祥事を増やしたくは無いのだろう刑事の1人が大島を制止しようとする。
「こちらの質問に素直に答えたなら、撮影した動画はネットには流れないと約束してもいい」
「それは……」
「つまり、今回の不祥事は無かった事にする事も出来るって事だ」
「ほ、本当に?」
 ここに居合わせた刑事達にとっては地獄で救いのために上から垂らされた1本の蜘蛛の糸を見つけたような心境だろう、縋るよな目で大島を見る。
「ああ、俺達3人と、お前たち警察が口を噤めばどうとでも出来るんだろう? こいつらくらいは……」
 大島はやくざどもを見下ろしながら、凶悪な笑みを口元に湛える。
 それに頷く刑事達の顔に浮かんだ表情も、負けじと嫌らしいものだった。
 本当にこれで良いのだろうか? 警察の犯罪は誰が裁けばいいのだろうか? ……とりあえず、皆死んでしまえばいいのに。と自分の事を棚に上げてみた。
「ただし、こいつが本当のことを答えたらの話だ」
 大島はフナッシーを見下ろしながら「お前にとっても最後のチャンスだ。警察を首になり刑務所送りになって残りの人生を犯罪者の汚名を背負って過ごすか?」と問いかけると、フナッシーは最初、酷くおびえた目を向けるが次第に冷静さを取り戻し、状況を理解したのだろう小さく頷いた。

「お前達の中に、このヤクザどもに情報を流した奴がいるだろう。それを吐け」
「な、何を一体? そんな事、あるはずが無いだろう!」
 刑事の1人が強く否定するが、物理的に
「それじゃあ、こいつらが俺の教え子に『鍵は何処にある?』と聞いたのは何故だ? 一体何時、こいつらは鍵が俺の教え子の手に渡った事を、先に逮捕された2人から聞いたんだ? ……答えろ」
 大島はフナッシーに命令する……何時の間にか動かしがたい上下関係が両者の間に構築されており、命令に対してボゾボソと小さな声で答え始めた。
「奴らは逮捕後に、直ぐに検察を通して接見禁止の申し立てが行われて、受理されているから外部との連絡は認めれていません……それから取調べが続いていて……昼に休憩時間を取った以外は、ずっと取調べを続けて……だから我々警察の人間としか接触していません……本当に、だから助けて」
 こ、こいつ。助かりたい一心で、ありのまま正直に部下達を大島と言う名の悪魔に売ってしまったよ……

「休憩時間中は留置所などに移動させたんですか?」
 横から質問を投げかける。
「いや、取調室で昼飯を食べさせただけだ」
 フナッシーは、俺に対してはまだ対等以上であろうと考えているようだ。
「つまり、取調べをした人間の中にしか情報を流した奴はいない訳だ」
 刑事達の空気が一気に冷え込んだ。自分の仲間達にヤクザと内通している人間がいた衝撃に互いに相手へ疑いの目を向け合う。
「何交代で取調べをやった?」
 何交代?
「3回転させた」
 3回転?
 大島とフナッシーのやり取りに分からない言葉が飛び出した。交代と言うのだから取り調べる人間を変えながら取り調べるのか? だとしたら回転とは何だ?
「つまり6人の中に1人、もしくは2人の内通者がいるわけだな」
「……はい」
 取調べは2人でやるの? 刑事ドラマでは主人公が1人で容疑者を自白させてるけど……つか何で大島はそんなに詳しい? 経験があるとしたら取り調べられる立場しかないんだけどね……凄い似合っている気がする。

「それはどいつらだ?」
 フナッシーが答えるまでも無く、刑事達の視線が容疑者達に注がれる。しかし、その人数は4人。
「残りはどうした?」
「署に残っています」
「そうか、じゃあとりあえず……」
 大島は四肢の骨を折られた……俺が折ったんだけどね……ヤクザの懐を探り携帯を取り出すと操作をし始める。
 刑事が「証拠品を」と止めに入るが「すっこんでいろ」の一言と一睨みで黙らせた。弱みを握られた者は弱く、握ったものは強い。言葉だけじゃない教訓を得た。

「おい、お前の部下の中に………」
 大島は幾つかの電話番号を順番に読み上げる。フナッシーは自分の携帯を使いづらそうに左手で操作しながら確認していく。そして3番目の電話番号を大島が読み上げた後、フナッシー、そして自分達でも携帯に登録された電話番号をチェックしていた刑事達の口から絶望の声が漏れ出る。
「……椎名ぁぁぁっ!」


 椎名と言うのは、取調べを担当した6人の1人で、署に残った2人の内の1人との事だった。
「その椎名って奴は処分されるんですか?」
 大島に話を振ってみる。
「間違いなく首は飛ぶ」
「どうして分かるんですか?」
 やけに自信満々に断定するな。
「今頃、署長に呼び出されてる頃だからな」
「何故それを?」
「そりゃあ、お前が紫村にテレビ電話で情報を送っていたように、俺もさっきまで署長に電話を繋ぎっぱなしにしておいたからな」
 畜生、お見通しかよ。確かに俺の携帯は黒で、既に日が落ちた今は濃紺のブレザーの生地の色に紛れるとはいえ、レンズ部分が存在感を主張しているので、目敏い大島を誤魔化す事は出来なかったとしても仕方が無い。
「署長? どういう関係なんですか?」
「鬼剋流の兄弟子だ……まあ腕は大した事ないんだが、昔世話になった」
 鬼剋流……1人見つけたら、その10倍はいると思えという奴か?
 それに大島が便宜をはかろうと思うほど恩義に感じる『世話』って何だろう? ちょっとやそっとの恩で、恩と感じられる感性など持ち合わせている男じゃない。
 もしも大島がこうして公務員として存在しえるのが、その署長の力によって様々な大島の犯罪を隠匿隠蔽した結果だとするなら、余計な事をする奴だとしか思えない。

「だったら、ここまでフナッシ……舟橋を追い込まなくても良かったんではないですか?」
 当然の疑問を口した。署長と面識があるなら、今回の情報漏洩に関して厳しく調査するように頼めば良いのだから、ここまでフナッシーを追い込んで話をさせる必要は無かった。
「舟橋?」
 そういえば大島は奴の名前は知らないのか。
「先生の胸倉を掴んだ奴ですよ」
「ああ、あいつ舟橋っていうのか……まあ、どうでもいい、奴を追い込んだのは何て言うか、そうだな……気に入らないから?」
 き、気に入らない? こいつは気に入らないだけで、人一人を破滅まで追い込ませたのか? しかも疑問系の動機で。
「それは、余りに……」
「ああ? お前だって乗り気だっただろう。はっきり言って、この俺が退く位に容赦なかったじゃないか」
 何処が退く位だ。お前は終始、悪魔のような笑みを浮かべて見てただろう。大体、こいつ俺に罪を擦り付けようとしていやがる。酷すぎる自分で人にやらせておいて。

「まあ、これであいつも首だな」
 フナッシーに視線を向けながら小さく呟いた。
「えっ、助けてやるんじゃないんですか?」
「馬鹿かお前は。中学生相手に拳銃を抜くような奴に警察官が勤まるわけねぇだろう。何らかの理由をでっち上げて懲戒免職だ。退職金はでねぇが、ムショにぶち込まれるよりはましだろ……十分助かってんじゃねぇか、これ以上の我儘は許さんぞ」
 我儘って、単に犯罪者にしないのは警察の不祥事って事にはしないように、あんたが署長と取引したんでしょ?
「大体、お前はあいつにそのまま警察官を続けて欲しいと思うのか?」
「……全く思いませんね」
 奴に警察官としての正しい資質があるとは無いと断言できる。

「まあ、何にせよこの件はこれでお終いだ。こいつらの組は強制捜査で潰されて終了ってところだろ」
「でも一つ、気になる事があります」
「何だ?」
「こいつらが拳銃を持ってたって事ですよ。たかだか中学生を1人拉致するのに6人がかりで拳銃まで用意するなんて普通じゃない。一体何を警戒して拳銃を持ち出したのでしょうか?」
「……こいつら、何処の組のもんだ?」
 俺の言葉に何か考え込むような仕草を見せながら沈黙した後、そう尋ねてきた。
「相川興業という名前です」
「あっ……思い当たる節があるな」
「えっ?」
「思い当たる節があるって言ったんだ。後は察しろ」
 ドスをきかせた声で話を打ち切ってきた。

 相川興業と大島の間には何らかの関係……まあ大島とヤクザの間に起こる事と聞いて暴力以外の何かを連想するなら病院に行く事をお勧めする。
 つまりそういう事なのだろう。そして相川興業が、再び大島と揉めてまででも教え子を拉致して取り戻さなければならない鍵とは……考えるまでも無い。麻薬か武器、そして表に出せない金、またはそれに類する物のどれか、もしくはそれら全てだな。
 だが、そうであれば尚更、気になるのが……
「そうまでして取り返そうとした鍵が、まだ警察署にあると思いますか?」
「……!」
 大島はスマホを取り出すと電話かける。相手は北警察署の署長で『まきしま』と言うらしい。
「はい、そうです。先ほどの鍵の件ですが──」
 うん、大島が普通の社会人のように目上の人に敬語を駆使して話しかけている。気持ちワルっ!

 いやそんな事を考えている場合じゃない。俺も紫村へ電話をかける。
「単刀直入に聞くけど、例の鍵って何処の鍵か見当はついてるんじゃないか?」
『勿論ついているよ。どうせ貸し倉庫の類だろうから調べておいたよ』
 わずかな可能性にかけて尋ねてみたのだが、あっさりと肯定されてしまった。
「マジか! どうやって?」
『話すと長くなるよ』
「分かった結論だけ教えてくれ」
『じゃあ、住所を言うよ────の田中ビルに入っている佐藤トランクルームレンタルだよ』
「流石だな紫村、感謝する!」
 紫村との話が終わるとほぼ同時に大島も署長との話を終えた。
「向こうさんは、鍵を押さえたみたいだな」
「押さえたって事は?」
「例の漏洩した奴が持ち出すところだったらしい。証拠物件の鍵の確認をさせたところ紛失していて、その事を署長室で身柄を押さえられていた2人を問いただし所持品をチェックしたら出てきたそうだ……全く何してやがるんだか、どうにも抜けてからなあの人は」
「それは良かったですね」
「それで紫村は何だって?」
 自分も電話で話しながら、俺の話す内容もチェックしていたのか。
「何処の鍵かが判明したみたいです」
「場所は?」
 紫村が告げたレンタル倉庫の会社名と住所を教える。
「なるほど、条件を上手く絞り込んだって事だな」
 紫村が特定出来たのは、まず場所を市内と限定したのだろう。警察に内通者が居るのだから事前情報を受けて荷物を運び出すにしても近場の方が対応が早いだろうし、何より利便性も高い。
 次に、安全性と保管性。安いコンテナを並べただけの貸し倉庫とは違いビルのフロアを借りて経営する貸し倉庫なら、盗難に対する安全性が高く、更に空調が入っているので温度・湿度が一定に保たれるので、荷物の中身が銃器にしても麻薬にしても品質劣化を防いでくれるだろう。
 更にサービス体制。24時間荷物の出し入れが可能で、かつスタッフが常駐していないのがありがたいだろう。
 これらの条件に、更に紫村なりの条件を幾つか付け加えて絞り込めたのが、佐藤トランクルームレンタルという会社だったというのが真相じゃないだろうか。

「……よし、とりあえずお前は帰って良いぞ。後の事は任せろ」
 普通なら夜の7時を過ぎに、こんな人気の無く市街地から大きく外れた場所で、生徒を自分の車で送ろうともしない教師に対して「人でなし」と非難の言葉が口を突いて出ても当然なのだろうが、端から人でなしにかける言葉は見つからなかった。
「櫛木田はどうするんですか?」
 ただ、このままだと警察に連れて行かれて、事件自体が無かった事になる予定の事件について事情聴取を受けるという不毛な状態に陥りそうな櫛木田の事を尋ねる程度に、俺は友情に篤い男だった。
「あいつくらい残しておかないと事情聴取とかで警察も困るだろ。善良なる一般市民としては、それくらい配慮してやるさ」
 つまり櫛木田に付き添って警察に行く気は無いのは明白。
 大島は自分後輩たち『ヘッポコ隊(俺命名)』と共に警察を出し抜き、目的の貸し倉庫周辺を見張り、やってきたヤクザどもを締め上げる気なのだろう。そんな奴が善良なる一般市民を名乗るなんて世も末だ。更にいえば櫛木田は警察へ送り込む一種の爆弾だ。とりあえず無かった事になる予定の今回の事件をいつでも蒸し返す事の出来る証人を送り込む。
 その結果、警察はこれから大島が仕出かす騒ぎに気づくと同時に、櫛木田の存在を思い出し、自分達が大島に弱みを握られている事に気づくのだ。

 大島は警察に邪魔される事なく思う存分暴れて憂さ晴らしをするつもりなのだ。いや寧ろ、図々しくも警察に感謝状や金一封を要求するかもしれない……無論、これは俺が考える最悪のケースだが、大島のやらかす事は俺の想定する最悪よりは酷い事になる傾向が強いと言っておこう。



[39807] 第56話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:b87201e9
Date: 2015/06/15 22:20
 目が覚めると同時に、何故か知らないが『龍を狩ろう』という強い思いが胸に去来する……何でだ? 本当に最近は自分の頭が心配になってきた。これが現実なら病院に行くところだが、異世界で精神科医なんて最初から期待していない。
 手早く旅装束に着替えると部屋を出た。
「おはようさん。随分と早いね」
 宿の女将が声を掛けてきた。
「おはようございます。今朝は随分と良い天気ですね」
 俺も挨拶を返す。武道をやっている人間はとりあえず挨拶だけは礼儀が良いものなのだ……ただし大島は除く。
「昨晩は雨が降ったみたいだからね。おかげで空が綺麗に晴れてるよ」
 確かに東の窓から差し込む日差しは強く、近づいて窓越しに見上げた空は吸い込まれるような蒼だった。

「もう出るのかい? 朝飯の準備はまだなんだけどね」
「今日中に先の町へと進んでおきたいんでね。朝飯がまだ出来てないなら、パンに適当に何かを挟んだ物でも出してもらえるかな?」
 そう女将に頼んだ。ちなみにパンを『麺麭』と書くことはシステムメニューの翻訳機能で初めて知った。昨夜この店のメニューを見たとき、システムメニューは俺の視覚に介入して実際に書かれている文字を麺麭と翻訳して表示してくれたのだが、残念な事に俺はその文字をパンと読む事は出来なかった。
「おや、パンかい? 昨日はシチューを頼んだのにパンを頼まなかったからパンが嫌いなのかと思ってたわ」
 良く見てやがる。頼むから忘れてくれ。
「じゃあ、適当に作ってくるからちょっと待ってるんだよ」
「は~い」
 気の無い返事をしながら、椅子に座り【所持アイテム】内の昨日の内に購入しておいた物を確認する。

 先ずはクロスボウだ。やはりクロスボウはこの世界に存在した。しかしこれをクロスボウと呼んでいいのかいささか疑問だ。
 【装備品】のリストからクロスボウをチェックして表示された説明には、取り付けられた金属製の小弓の張力は160kgを超えるとある。
 現実で寝る前に少しクロスボウについてネットで調べておいたのだが、これは所謂、三国志などで知られる弩(おおゆみが正解でいしゆみは間違い)と呼ばれる類に属し、現在市販されるクロスボウの張力の高いタイプの倍の張力を持ち、矢ではなくボルトを使いながらもロングボウにも匹敵する射程を持つ化け物だ。だが十分化け物の類に足を突っ込んでいる俺ならば、一度射た後に弦を引いてボルトをセットしなおすまでの時間は10秒以内、慣れれば5秒程度まで縮める事が出来ると思う……これが大言壮語ではなく、ほぼ事実だと確信できるのが我ながら恐ろしい。

 他には石鹸が手に入ったのがありがたい。高級品でかなり値が張ったが現代人としてこれだけは譲れないので、店頭に並んでいた香料を使っていないタイプを5個全て買い占めた。流石に魔物を相手にするのに良い匂いをさせているのは使えない。

 他はネハヘロでも購入出来た消耗品の補充。もしくは買い忘れた物の買足しで……そう、愛用の携帯食料も売っていたので補充した。本当ならば【所持アイテム】の中に入れておけば痛む事もないので、店にある全てを買い占めたかったのだが店主に断られてしまった。
 それでも最初に持っていた分よりは増えているので暫くは安心だ。これと干し肉──流石に携帯食料をお湯で溶いただけのシチューだけでは物足りないので、干し肉をちぎって放り込む事を学習した──と果物さえストックしておけば町の外で飯を食う場合に、料理の下拵えには定評のある俺でも困ることは無い。

 また所謂ファンタジー物では定番の、袋状の内部に見た目の大きさよりも遥かに多くの荷物を入れることが出来き、しかも荷物の重量もある程度軽減、または無くしてくれる魔法の袋的なマジックアイテムが無かった。
 それが手に入ったなら、倒した魔物を町の中へ無理なく持ち込んで換金出来るようになるのだが、今はそれが出来ないので【所持アイテム】の中がスプラッタな事になっている。

「お待ちどうさま。これを食べて頑張って歩くんだよ」
 女将が厨房から出てくると、片手に持った大きな葉っぱに包まれた朝飯代わりの弁当を渡してくれた。
「ありがとう。またこの町に来る事があれば寄らせて貰うよ」
「ああ、その辺は大して期待しないで待ってるから、無茶な真似して死ぬんじゃないよ」
 こちらの社交辞令を軽くスルーしておきながら、暖かい気遣いを見せる……畜生! 人間としてのランク付けに完敗したよぅ。

 敗北感に肩を震わせながら街を出るために西門へと向かった。
 入る時には簡単な荷物検査を受けたが、出る時は何事もなく通過が許される。ふと『出女、入り鉄砲』と言う2つの言葉が思い浮かび、俺が女だったら厳しく取調べを受けるのかな? と下らない事を考えていた。

「やあ、リュー!」
「…………」
 見覚えのイケメンが声をかけて来たが、俺はそのまま通り過ぎる。
「ちょっと待ってくれ」
「…………」
 待つはずが無く逆に走り出す。
「ま、待ってくれ! 頼むから!」
 背後を必死に追いかける気配を感じるが頼まれたって待つものか、振り返って一生に一度くらいは言ってみたかった「あばよとっつぁん!」と叫ぶと全力の半分ほどの力で加速し、俺は風と一つになった。


 遥か10km弱ほど後方へ置き去りにし、領境まで3kmといった場所で足を止めた。
「ボンボンめ待ち伏せするとはやってくれる」
 西門の外で俺を待ち受けていたのボンボンこと……えっと何だったっけ?
 確か名前は、貸すとか貸さないとか……駄目だ思い出せない。このどうしようもない程に高まってしまった俺の記憶力に憶える事を拒否させたという途轍もない男である。
 名前はともかくとして、この田舎臭く貧乏な領地を治める立場にありながら、実際治めていない役立たずな領主の次男坊で、親父を領主の座から、長男を後継者の立場から引きずり下ろして、自分が領主となり問題だらけの領地を立て直そうと企むが、その割には抜けている奴である。
 まあ悪い奴ではないだろうが、関わりあって良い事などありそうも無い相手だ。是非とも何処か遠く、俺とは係わり合いにならない場所で幸せになって貰いたいと切に願う。

 右腕の肘から先を上に上げて手を銃把を握りこむ形に構えてクロスボウを装備する。
 クロスボウを右手で銃把──現在の銃のように銃本体から突き出た形にはなっておらず、引き金の直ぐ後ろのクロスボウ本体に握りやすい形状の加工が施されているだけ──を握り保持したまま、左手で弦を掴み発射位置まで両腕の力で引く。更に左手にボルトを1本装備してセットするまでにかかった時間は9秒台に収まった。
 想定の範囲だが初めてとしては悪くない数字に頬が緩む。
 そのまま30mほど離れた木の幹にある瘤に狙いをつける。
 エアソフトガンや、ゲームセンターにある銃型コントローラーを使って狙いをつけたことはあるが、照門と照星を使うそれらと違って狙いをつける方法はセットしたボトルの描く直線を使って左右の狙いを定めるだけで、上下の狙いはほぼ感覚頼りだ。
 引き金を引くと文字通り弾かれたかのように飛び出した矢は、水平方向の狙いはほぼ正確だが、垂直方向は狙いに対して上向きに飛ぶと、真っ直ぐ軌道を変えることなく狙った瘤の上40cmほどの位置に突き刺さった。
 スコープのようなものとは贅沢は言わないが、調整の出来る可動式の照門が欲しいところだ。リトクド領から2つ領地を越えた先にあるという王都にでも行けば腕の良い鍛冶屋が……いや、サイズと繊細さの要求される仕事なら彫金師などに頼んだ方が良いかも知れない。
 構造は古い軍用ライフルに取り付けられていたようなタンジェント・サイト(狙う距離にあわせて照門の高さを調節出来る照準装置)の参考にして、実際の距離と狙いとの擂り合わせは、出来上がってから取り付けて射て確認してみるしかないので、格好良く距離を彫りこんでもらうことは出来ないのが残念だ。それ以前に弦を交換したらボルトの速度も全部変わってしまうだろう……だがその面倒臭さもまた楽しみなのである。

 クロスボウを持ったまま標的にした木へと近づいて、刺さったボルトを確認する。
 深く突き刺さったボルトを掴んで引き抜こうとすると、直ぐに折れて外れた。
「発射速度が速すぎて突き立った時の衝撃にボルトの軸が耐え切れないのか……」
 標的までの距離が近すぎたのと、やはりボルトが金属製でも竹製でもない事が大きいのだろう。クロスボウ購入時にボルトも50本買っておいたが余裕を持って補充しておくべきだろう。どうせ【所持アイテム】の中に入れておけば重たくも場所塞がりにもならないのだから。

 折れたボルトの軸を投げ捨てると、クロスボウの弦を引き新たなボルトをセットする。
 周辺マップの南に40mの距離にオーク1体と、更に南西へ70mの距離にオークが3体が表示されている。
 こいつらを狩るために足を止め、クロスボウの試射を行ったのである。やはり実際の狩に使ってみないと武器として使えるかどうかは分からない。
 ちなみにオークはコードアの村で全て売ってしまったのでストックが無い上に、オーガなどとは違い、一体ずつなら手軽に換金出来るので今の俺にとっては大切な現金収入源なので逃す手は無いという事情もある。

 斥候を出すほど組織だった行動が出来るのか疑問だが、群れから離れて単独行動を取っている1体が森の中から街道へ出ようとこちらに向かって来ている。
 オークが森を出てくる位置の方向にクロスボウを構え、引き金に触れるか触れないかの位置へと右の人差し指を伸ばす。
 残念ながらこのクロスボウにはストックと呼ばれる銃床が存在しない。つまり火縄銃と同じで肩に当てて銃を安定させる事が出来ない。
 更にはこれはクロスボウと呼ぶにはサイズがかなり大きく重たいので、俺の筋力でも立射では狙った位置にむけて射線を固定させるのは不可能だった。普通なら地面などの上に寝そべり身を低くした状態で獲物を待ち構えて射るための道具なのだろう。
 だが、昨晩の雨に濡れた地面に寝そべってまで狩をしたいと思うほど、俺はプロフェッショナルではなかった。

 狙いを付ければ付けるほど、細かな筋肉の動きが大きく小さく波の様にクロスボウを揺する。レベルアップの恩恵を受けてなお、俺の筋肉は人間としての束縛から逃れる事は出来ず、負荷のかかった状態での静止は不可能であり常に動き続けようとする。
 射撃競技において、固定された標的を撃つ種目の選手は筋肉ではなく骨で支えると聞いたが事があるが、この糞重たいクロスボウを2本の腕だけで支えなければならない状況では、たとえ脇を締めて身体に密着させたとしても骨で支えるというイメージには繋がらない。

 ならば素人の俺に出来る方法は一つ、静止させてから射るのではなく逆に動かしながら射るという方法だ。
 左腕でクロスボウをゆっくり持ち上げるように動かしながら射て的に当てるためには、標的までの正確な距離と、発射されたボルトの速さなのだが、このクロスボウから発射されるボルトの速さは、【装備品】の説明にもかかれてはいなかった。
 だが昨夜調べた際に、張力185ポンド(約84kg)のクロスボウから発射されたボルトの速さは100m/sというデータを見た覚えがある。
 185ポンドのクロスボウなら必ずその速度と言うわけではないだろう。ボルトの速度と張力の間には、ボルトの重さともう1つは弦を引くストロークの長さが関係する。185ポンドの張力がかかるまでに弦を引いたストロークが短いほど放たれるボルトの速さは上がる。
 しかし、流石にクロスボウの弦を引くストロークの長さまで調べる事は出来なかったので、今は仮に1.5倍の150m/sとする。時速に換算すると540km/hとなる。
 これは初期型のゼロ戦の最高速度にも匹敵する速さではあるが、音速を超える物が多い拳銃に比べると半分以下で、そう考えると結構遅い。発射された物体の速度が遅いほど、標的へ到達する時間が長いほど、発射時の手ブレ等による慣性の影響が大きくなる。
 このクロスボウで射て30m先の標的に当たるまでにかかる時間は平均速度を150m/sとしておけば0.2秒なので、30m先の標的の狙う位置を1秒間に1m上のペースで移動させながら射ると、ボルトは慣性に従い狙った位置の20cm上に当たる。

 うん、どう考えても面倒臭い。頭の回転も上がったのでいちいち計算するのは困らないし、周辺マップには方眼紙のような升目を1-10m単位で表示出来るので──現在はデフォルトで10m間隔──設定を変えればメートル単位での距離が掴める。しかし、正確に一定のペースで狙う位置を動かしながら射る練習が必要な上に、ボルトの飛ぶ速さが未だ150m/s(仮)なので、もう少し信頼性のある速さを求めたい……求めたいのだが、肝心のボルトの重さがかなりバラバラなのが問題だ。同じ木から作られていても太さがまちまちなために、細い物と太い物ではバイトまでは言わないが1.5倍以上は重さが違う。
「次の町に着いたら、銃床を取り付けられるか尋ねてみよう……そうしよう」

 とりあえず群れから離れた1体だけはクロスボウで狩ってみる事にした。
 道から外れて、茂みに入り俺の身体ほどの太さのある木を盾にして半分ほど身を隠して構える。
 その時、クロスボウの右側面で弦の動きを干渉しない場所を木の幹に当てるとクロスボウが安定する事に気づいた。
「なるほど狩人はこうしてクロスボウを使うという事か」
 良く考えたら、地面に寝そべって視線の位置を低くしてしまえば森の中では下生えの草木で視界が遮られて狙いが付けられないから、こうして使うための道具だったのだ……となると、草原では視線の位置を下げたら森の中以上に狙いが付けられないし、木も余り生えてはいないので使えないことなるな。そういう意味ではやはり銃床の取り付けや照準器の取り付けは必要だ。

 オークが姿を現した。体長は170cm程度だ。距離は35mだからおおよそ俺の狙いからは40cm強上に当たることになる。
 俺はオークの鳩尾に付近に狙いをつけて、オークがこちらの方を振り返った瞬間引き金を引いた。
 ボルトは真っ直ぐにオークの顔の中心をめがけて飛んで……消えた。
 顔面に突き刺さりもせず、貫通したとしても傷が見当たらない。頭の中にクエッションマークが飛び交う。
 オークがこちらに一歩、二歩と近づいて来る。外したのかと思った瞬間、オークはその場で崩れ落ちるように倒れた。
 倒れたオークの後頭部からは大量の血が流れている。どうやらボルトは口の中に飛び込んだようだ……そう分かって安堵の溜息を漏らした。

 まだ南東の位置のオーク3体に動きは無いので、俺は倒したオークに素早く駆け寄ると、【操水】を使いオーク死体から血液等の水分を抜き取っていく。本来生き物に対しては使えないのだが、対象が死んでいれば使えるので血抜き作業には必須の魔術だ。
 その反面、洗濯物の脱水には使えるのだが乾燥と言うレベルでは水分を取り除く事は出来ないのが残念だ。布などに浸み込んでしまった水分は精々絞った程度にしか取り除く事が出来ない。
 だがそういう意味でも血抜きには向いているのだ。乾燥レベルまで水分を取り除いたら干し肉が出来てしまう。

 抜き取った血液等の水分は球形にまとめた上で「カメハメ波ぁぁぁっ!」と叫んで森の奥へと飛ばして捨て、血抜きの終えたオークの死体を収納する。
 自分で解体すべきなのだが面倒臭いのでプロに任せるのが一番だ。ワイバーンやグリフォンなどは、その大量過ぎる血液を、その辺にポイする気にもなれず、そうかといってどう処分すれば良いのか分からないために血抜きすらせずに収納しているくらいだ……別にいいんだよ。【収納アイテム】内では時間すら経過しないみたいだし、そもそもオークと違って売りに出すあてすらない。


 先ほどの叫び声が届いたのだろう3体のオークがこちらに向かって接近して来たので、素早く近くの木に登り、枝と葉の中に身体を潜めて待ち受ける。
 そう言えば木に登るなんて、完全にトラウマだったはずなのに、今じゃ全く平気……改めてその事を思い出すとちょっと手足がプルプルしてきたのを必死に押さえ込む。
 俺の真下をオークどもがブヒブヒ言いながら通る。はっきり言って首から上は完全に豚以外の何者でもない。ゲームに登場するオークはもう少し人間寄りの風貌で口から長い牙を出していたのに……おかげで殺す事にさほど罪悪感を覚えずに済むのだから善しとする。
 通り過ぎた背後へと着地すると、腰の剣を抜刀と同時にオークの短い首の後ろに斬撃を送り込んで、首の半ば頚椎までを切り裂いた。
 腰の位置からの抜き打ちで自分の身長より多少低い程度のオークのが短くて太い首を両断しようとすれば、角度的に刃は首の付け根から入って頬の辺りへと抜ける形になるので無理だった。

 声を上げることなく絶命したオークの背中を蹴り、前を行く2体の背中へと飛ばす。
 慌てて振り返った手前の1体の目が俺を捉えた時には、俺は既に剣を構え終えており、そのまま左の耳から右の鎖骨へと抜ける一撃を繰り出して首を跳ね飛ばすと同時に【操水】で噴水のごとく吹き上がる血をまとめて前方へと押しやる。
「グフィィィッ!」
 仲間の血で視界を奪われた最後のオークが嘶く。それは驚きか、恐怖か、絶望か? だがそんな感情も全て、俺の振り下ろした一刀の下に魂ごと虚ろなる闇へと飲み込まれた……別に変なものを食べたわけではなく、ごく普通に厨二病がぶり返しただけだ。

 困った事になってしまった。
 【操水】では広く飛び散ってしまった液体を操作する事には向いていない。広い範囲でも全体として一つにまとまっている液体なら操作は簡単だが、先ほどの様に飛沫となって噴出した血液は一定方向に向かって移動させる程度なら可能だが、自在に操るとまではいかない。
 そして今は、広い範囲に飛び散ってしまった血液をどうするかという問題に直面している。
 ここは一応、領都であるタケンビニと他領へと繋がる重要な街道であり、もう暫くすれば多くの人間が行き交う場所でもある。
「それなのに、こんな道の脇に血を撒き散らして……」
 どう考えても大迷惑である。もちろん現代人の意識としての道の傍に汚物を撒き散らしてしまった罪悪感もあるが、それ以上に血の臭いに肉食獣や魔物が集まってくるという心配が強い。

 仕方がないので【大水球】を発動して、血が飛び散った木の幹や枝、下生えの草木を巻き込むように移動させながら血を水球内に取り込み洗浄を終えると、森の奥まで入って【大水球】を解除した。
 その後、街道まで戻りオークから血を抜き、先ほどと同様にカメハメ波で血の塊を森の奥深くへと飛ばすと、3体まとめて収納した。

 ふと気づくと東30mほどの距離に見知った人間の反応が周辺マップ上にあった。
「しまった時間をかけすぎたか」
 既に目が合う距離までボンボンは迫っていた。
 10km弱、9km前後の距離を、日本人の俺からすれば「街道w」といった程度の悪路を、大荷物というほどではないが荷物を背負って30分少しの時間で走り抜くとは、中々の体力と根性と褒めてやるべきであろう。
「み、見つけた……ぞ」
 しかし今のボンボンは、気取ったイケメン面は何処へやら、息も絶え絶え顔は汗まみれの、歩く姿はゾンビのように足元がおぼつかない……良い。実に良い感じになってきた。俺の中でボンボンへの好感度が鰻上りで、多少話くらいは聞いてやっても良いんじゃないかという程度には寛大な気持ちになれた。

「それで?」
「それでって、僕は君のせいで実家から勘当されて街を追われたんだよ。何か謝罪の言葉くらいあっても良いんじゃないか」
 俺のせい、俺のせい……思い当たる節がない。何を言ってるんだろうこいつは」
「また口に出してる! とぼけるのはやめてもらいたい!」
「お前が勘当になった理由って何?」
「しらばっくれるのか? 君が『義心から父や兄を排除しようとしているんだよな?』なんて言うから、僕は咄嗟に『勿論』と答えてしまったからだよ。公衆の面前でね!」
「……自業自得だろ」
 その一言で、気力だけで立っていたボンボンは崩れ落ちてしまった。
「君が、君が……君さえ……」
「大体な、俺と2度3度言葉を交わした段階で、『ああ駄目だ』とか『関わり合っても得にならない』とか思わなかったのか? 俺は一目見た瞬間に気づいたぞ『こいつは自滅するタイプだな』と」
「酷過ぎる。君は悪魔か何かか?」
「認めたくないが悪魔の様な男の弟子……なのかな?」
「もう少し強く否定してくれ!」
「まあ、落ち着け。それにしても今回の件がなかったにしても、お前の様なうっかり者に、親兄弟を廃して領主の座を奪うなんて真似はどのみち無理だったんだよ。あきらめろ……な?」
「その最後に間をおいて「な」って言うのは止めて、凄い気に障るから。大体、僕が領主にならずに誰がこのミガヤを変えるんだよ。ミガヤ領は、確かに辺境の田舎領地だったけど、他国と直接国境を接してもいないので長閑で平和な土地だったんだよ。なのに父上が、あの盆暗が佞臣どもの口車に乗せられて、連中の私腹を肥やす狩場となってしまった。兄上も兄上だ。昔から連中にちやほやされ我儘放題に育ち、あれじゃあ父上の跡を継いだら、今以上に酷い事になってしまう。だから、だから僕が何とかしなきゃ──」
 確かに気持ちはわからないでもない。だけどな……
「無理は無理だから」
 はっきり言ってやった方が本人のためだと思う。
「……そんな事は!」
「頭だけが変わったところで、実際に手足を動かす部分が腐っているなら何も出来ない。佞臣、奸臣を排除するのは良いけど、その代わりはいるのか? どうせ居ないんだろう。居ないのに連中を排除したらこの領の政(まつりごと)は長期にわたり滞り、無法地帯になるのが関の山で、今よりもずっと酷い事になるぞ。かと言って連中を排除せずにおけば、よくてサボタージュ。最悪ならお前自身が暗殺などの手段で排除される事になる」
 漫画じゃないんだから、悪い王様をぶった斬って王国は平和な良い国になりましためでたしめでたし、なんて事は絶対に無い。
 悪い王様に代わって王になった人間が、国民に対して最低限以前の生活レベル以上を保障しつつ、改革を進めてより良い将来の展望を示す必要がある。そうでなければ悪い王様を倒す意味が無い。
 そして王を打倒しなければならないほど国が乱れているならば、王だけが悪いということは無い。当然王の部下である重臣達も腐っているだろう。それらを丸ごと排除した上で、上記の条件を満たすのは非常に困難だ。所詮人間はしかるべき地位に就いて初めて、その役職をこなす為のスキルを身につけていく。
 国の中枢の首を全て挿げ替えて、その座を未経験者達で占めて新たなる統治を推し進めたら、某民主党政権の二の舞になることぐらい中学生にもわかる話だ。

「それじゃあ、一体どうすれば良いと言うんだ?」
「何もかも全部ぶっ壊して、何の柵も無く一から秩序の構築?」
 他人事だと思うと幾らでも投げやりなアイデアが浮かぶものだ。
「そ、そんな事出来るか!」
 ボンボン個人としては、そうなのかも知れないが、国家の勃興とはそういう物で、どんなに素晴らしい国を興しても、どんなに素晴らしい統治制度を作り上げても、最終的には人が全てを腐らせて時と共に国は衰え、やがては滅ぶ。そして秩序の崩壊の混乱から新たな秩序が生まれる。歴史とはそれの繰り返しに過ぎない。

「それなら頑張ってミガヤ領の中興の祖を狙うんだな」
「中興の祖?」
「既存の社会システムを破壊することなく、バランスをとりながら改革して成功するまれな存在のことだ」
 一から国を立ち上げた祖と呼ばれる人間と中興の祖の成り損ないは国と同じ数だけ存在するが、中興の祖と呼ばれる人間はそれらに比べれば遥かに少ない。
「どうすれば?」
「知るか! 俺は別にこの領地を如何こうしようなんて考えたことも無い。お前が如何こうしたいなら自分で考えろ!」
 中学生に領地経営の知識があってたまるか。俺は技術チートで異世界ライフを充実させることに興味はあっても、内政チートには興味がない。もし本屋に『初めての領地経営』なんて本があっても絶対にスルーするぞ。
 人生とは十分な金があって衣食住に困らず、嫌な奴に頭下げずに、快適な生活を送れれば良い。領地経営など余計な苦労と責任を背負い込む事に何の意味があるのだろう。
 俺にとって、異世界での内政チートというのは鬼門だ。何をするにも大量の書類がやり取りされるほどの官僚的な制度が確立されていながら、何故か全ての判断が組織のトップに集中していて、細かい事柄に関する書類までも全て自分で決済しなければならず、書類の山に囲まれてヒーヒーと泣きながら働き続ける謎の世界だろう……はっきり言って訳がわからん。
 何故きちんと組織分けして各部署に権限を持った責任者を配置しないのだろう。トップは責任者に方針だけを伝えて、後は職分の及ぶ範囲の全ての組織運営を任せて、トップは結果報告と各責任者の職分の及ばない事態などの報告だけを受けて、それを判断し処理すれば良いのに、何故合理的な組織作らない。
 古いCMのコピーに『大統領のように働き、王様のように遊ぶ』というのがあったらしいが、異世界での統治者は何故か『大統領や王様のような立場で、奴隷のように働かさせられる』だ。
 こんな状況で領主になりたいとか王になりたいとか言い出すのは、余程の無責任か聖者様だよ。

「ヒントを、せめてヒントを……」
 こいついい性格してやがるな。俺には関係ないと突き放しても良いのだが、こうやってみっともなくても粘る奴は嫌いじゃないんだよ。
「お前がやるべきは事は、自分が領主になった後にどうしたいのか具体的なビジョンを明確にすることだろ。それを持たなければ誰もお前の夢になんかついてこない。だから皆がお前の目指す夢に乗ってやっても良いと思えるくらいのビジョンを示す必要がある。それが完成するまでは具体的な行動を行うべきではない。とりあえず今は自分を磨くことだろうな」
 当たり障りのない無難な正論を吐く。目的も定まらないまま走り出してもブラスかは博打だ。俺と大して変わらない年頃だろう。まだ人生先が長いのだから焦って博打に走る必要もないはずだ。
「磨く……自分を?」
「何でもあるだろう。知性、見た目、経験、評判なんでも良い。それを磨いている内に、自分が何をすべきかを見つければ、お前に力を貸してくれる人間も現れるだろう。そこからが本当の勝負だ」
 そう、お前の戦いはまだまだこれからなのだ……第一部完! 来世でのボンボンさんの活躍にご期待ください。

「という訳で、俺はこの辺で失礼させてもらう」
 そそくさと立ち去ろうとする俺の右足首を、ボンボンの手が掴む。
「……放せ」
「嫌だ」
 次の瞬間、腰の得物に手を伸ばすと振り返りながらの抜き打ちで、自らの右足ぎりぎりの空間を切り払う。
「指が、指が、指がぁぁぁぁ掠ったぁぁっ!」
 残念、ぎりぎりのところで手を放しかわされてしまった。舌打ちを漏らしながら剣を鞘へと戻した。
「いきなり何をする?」
 何をするもなにも……なんとなくこの男を憎めない理由が分かってきた。俺のクラスの前田に似ているのだ。確かにこっちの方がずっとイケメンであるが、何というか弄り易さと他力本願な性格など前田にそっくりだ。

「なあ、前田」
 自然にその名前が口を突いて出てしまう。
「誰だい前田というのは? ……不思議そうな顔はしないで……ああ、そうだったという顔もしないでくれ……だから何で、じゃあこいつは誰だったっけ? みたいな顔をするんだ?」
 俺の表情から考えを全て読み取るとはやるな、前田と呼ぶに相応しい逸材だ。こうなった以上は認めてやらねばならないだろう『前田2号』と名乗ることを。
「昨日俺が頼んでおいた事は、ちゃんとやってから街を出たんだろうな」
「勿論だ、私にも多少の影響力というものがある……あった。きちんと不正の証拠があるなら連中を裁いてくれるまともな家臣達だってミガヤ領にはいるんだから」
 多少でもまともな家臣が残ってなければ終わってるだろう……まあ、第一段階クリアだ。
「お前、王都に伝はあるか?」
「王都? 勿論、去年まで王都の学院に通っていたのだから、そこそこ伝はあるさ」
 学院? 貴族のお坊ちゃま学校ってやつか? 何にせよ伝があるなら、それに越したことは無い……俺もその伝を使わせてもらおうじゃないか。
「じゃあ、王都までは連れて行ってやるから、王都で揉まれてもう一度自分を磨きなおせ」
「私に力を貸す言うのか! 本当に本当か?」
 勢い良く立ち上がると、目の色を変えて、両腕を伸ばすと俺の肩を掴もうとするので、嫌悪感に一歩引いて身をかわす。
「……」
「……」
 再び掴みかかってくるので、左足を右後ろに引いて重心を左足に移し、体をかわしつつも右足をその場に残して2号の足をすくう。
「な、何故……避ける?」
 地面に突っ伏した状態で2号が怨嗟の声を漏らす。
「人の身体に勝手に触ろうとするな……俺にそんな趣味はない変態め」
 不細工や普通の顔の奴に触られるならなんとも思わないが、俺の中にはイケメン=紫村のイメージがあってイケメンとの肉体的接触は互いの拳で殴り合う範囲にしておきたい。
「ぼ、僕だって……そんな趣味は……無い」
 そう言い残すと2号は意識を失った……どうすりゃ良いんだよ。流石に連れて行くと言った以上、このまま放置しておく訳にもいかない……本当に放置したら駄目なのだろうか?

 待てよ、そう言えばこの状況は……うん、そういう事情なら仕方が無いよな。これは緊急避難なのだ。別に前から疑問だった事を試してみたくて、良い実験台を見つけたとかそんなことは少しも思っていない……ただ、どうしても必要だから致し方なく、それを為す。純粋なる善意に基づいた行為なんだ。

 俺は気を失った2号に向かって、あえて声に出して……「収納」

 ……本当に仕方が無かったんだよ。



[39807] 第57話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:b87201e9
Date: 2015/06/15 22:21
 此処はリグルト領。ボストルの町である。
 俺はきちんと領境の関所を越えて「1人」ここまでやって来た。「もう1人」がどうなっていたか、いやどうなっているかはまだ俺にも分からない……出してみないと。

「連れが後から来るので部屋を2つ頼みたいのだが」
 適当に入った宿の親父にそう声をかける。
「ああ、今ならちょうど一泊60ネアで晩と朝の2食付の隣り合った2部屋が空いているから、そこにするかい?」
 ネハヘロの宿に比べるとかなり高いが、タケンビニとは同程度の値段だから、相場なのだろう。俺は同意して頷いた。
「じゃあ、今から部屋を案内させるよ……おーいターラ! お客さんを2階の5号室と6号室に案内してくれ!」

「こちらが5号室で、そちらが6号室になります。お客様はどちらの部屋をお使いになりますか?」
 俺と同じ年頃で、肩くらいまでの長さの赤毛の女の子が笑顔で案内してくれた……しかし、同じ年頃の女の子はあまり得意ではない。紫村ほどではないが、こちらも笑顔で応じるという砕けた態度は取れないのだった。
「とりあえず、両方確認して気に入った方を使わせてもらうよ」
「分かりました。ではお客様に両方の部屋の鍵をお渡ししますので、ご使用する部屋がお決まりなられたら、使わない方の部屋の鍵を後ほど受付に戻してください」
「分かった……後ほど出かける時に預けるよ」
「はい。ではごゆっくりお寛ぎください」
 立ち去る彼女の背中を見送った後、手近な5号室の鍵を開けて中に入ると【所持アイテム】の中にあるアイテムのリストを表示する。
「カリル・ミガヤ・カプリウル? ……ああ、そうそう」
 前田2号の正式名称を思い出す事が出来た。貸す貸さないじゃなく借りる借りないだったか……惜しかったな。

「ん?」
 リストの中に2号とは別に『カリルのバックパック』という表示があり、更に下の階層があるようなので開いてみると中には一つのアイテムしか存在しなかった。それは『魔法の収納袋』……いかん、つい「な なにをする きさまらー!」にしてしまいそうになった。
 とりあえず確認してみよう『魔法の収納袋』袋の外見の6倍の体積まで収納出来、かつ236kgまでの重量をゼロにする事が出来る。
 なるほど、2号は重い荷物を背負って10km弱の道を走りきったのではなく、ほぼ手ぶらで走って来たわけか……「殺してでも うばいとる」を選択しないように、どうでも良い事を考えて気を散らさずにはいられなかった。
 まあ魔法の収納袋というアイテムが存在する事が分かった事を今は喜ぼうじゃないか。

 2号をベッドの上へ……いや、2度も地面の上に倒れて、服が汚れている事を考えて床の上にアイテムを出すイメージを頭に浮かべながら【所持アイテム】の中から取り出した。
「…………うん、呼吸があるし、脈もある」
 一応、【所持アイテム】内リストでも(生存)という表示があったが、やはり実際に確認しなければ安心が出来なかった。
 ともかく実験は成功したようだ。これによって【所持アイテム】内には命あるものを収納出来ないのではなく、意識があるものを収納出来ないということが証明できた。
 つまり寝ていたり、気絶した相手は【所持アイテム】内へと収納が可能という事で、その気になれば相手を殺さず誘拐することも簡単に出来るようになった……別に使い途はないよな、今のところは。

 ともかくほっとした。もしも魂などという概念が実際に存在して、それが身体に宿っているかが収納の出来るか否かの判定基準だとすればアウトだったが、やはり魂とか幽霊なんてものは存在せず、意識の有無が判定基準だったようだ。
「後は、脳の機能が正常に働いているかだが……」
 しゃがみ込んで2号の顔を覗き込み寝ているのを確認してから、往復ビンタをプレゼントした。

「うぅっ……ここは?」
 意識を取り戻した……俺は信じていたよ。収納されている間は時間凍結されるだけで【所持アイテム】内の物品は全く劣化しなのだから、2号にも何の問題も無いはずだと……そう、白々しくも自分に言い聞かせた。
 それにしても辛そうだ。一瞬、何か問題があったのかとも考えたが、俺にとっては2号が気絶してから数時間が経過しているが、こいつにとっては、限界が来て気絶した直後に叩き起こされたようなものであり、辛くて当然だと気づいた。
「ここはボストルの宿の部屋だ」
「ボストル? 僕は気絶してたはずなのにいつの間に?」
「感謝しろ。お前が気絶している間に、ここまで連れてきてやったんだからな」
「すまなかった……」
 すごいな俺。悪びれる事も無く都合の悪い事をスルーして息を吸うが如く自然に恩を着せ、あまつさえ謝罪までさせてしまう。

 しかしそんな事をして喜んでいる場合ではない。今朝起きてから何故か頭にこびり付いている『龍を倒す』という目的の為に、この世界の常識を2号から引き出したり、2号の伝を使って魔法について調べる必要がある。
「気にするな。疲れているだろう休んでおけ」
 優しい気遣いを見せてやる……恩に着ろ。恩に着ろ。恩に着ろ。
「ああ悪い。もうかなり時間が過ぎてるはずなのに、走った時の疲労がまだ残っているみたいなので、横になって休ませてもらうよ」
 そりゃあ、残っているだろうよ。
「この部屋の鍵を渡しておくから、ちゃんと鍵をかけてから寝るんだ」
 そう告げてから部屋を出る。俺には魔法の収納袋を探しに行くという重要な仕事があるのだ。

「お出かけでしょうか?」
 先ほどの赤毛の女の子が声をかけてきた。
「ああ、6号室の鍵を返しておくから、連れが来たら渡してくれ……それから魔法の物品を扱う店は知らないか?」
「這い承りました鍵をお預かりします。それから魔法道具を扱う店でしたら────楡の木通りの西側の終わりの辺りに『道具屋 グラストの店』という名の店がございます」
 鍵を受け取りながら店の場所を教えてくれた。
「ありがとう」
「あっ、すいませんがお客様とお連れの方の名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
 そう尋ねてきたので「俺がリューで連れがカリル」と告げて宿を出た。

 ボストルの街は南北に走り、北は王都につながる街道にある街で、リトクド領の領都ではないがタケンビニ以上に栄えている。
 しかし、そのまま街道でもある街の中心を走る大通りは幅が広く、大型の馬車が余裕を持ってすれ違える道幅があるために馬車の交通量の割にはスムーズに行き交っている。

「楡の木通りね……エルム街って奴だな」
 大通りから一歩裏に入った町並みも、タケンビニに比べる道路の整備状態も上であり、この街がタケンビニ以上の経済力を持っている事が見て取れる。
 それはミガヤ領の地理的な問題による経済力の低さだけではなく、統治者の無能さが影響していないとは言い切れない気がした。
 去年まで王都で学んでいた2号の目には、それは座視し得ない問題として映ったとしてもおかしくはない。
「これだけの違いを目の当たりにしたら、そりゃあ親兄弟でも切り捨ててでも何とかしたいと思うのか……」
 声に出して噛み締めながら、自分に置き換えて考えてみる……父さんが仕事に対して熱意を失いサボタージュなんてイメージはわいて来ない。
 本当に俺と血が繋がっているのか不安になるくらい真面目で勤勉と言ったイメージが頭に浮かぶだけに、領主なんて立場になったら倒れるまで働きそうだ。多分兄貴も似たようなものだろう。

「ここか……」
 見つけた店は道具屋というよりは洞窟。通りから少し奥まった位置にある小さな入り口。何故か半分開いた扉の向こうに覗く暗く閉ざされ闇が、入るものを拒んでいるかのような雰囲気を醸し出す……いや暴力的に辺りに振り撒いている。
 この場所に留まりたくないとすら思わせる空気。例えるなら大島の居城たる技術科準備室……に比べたら全然平気だわ。
「邪魔するよ」
 暗闇に向けて一言発すると、開いている扉をくぐった。
 次の瞬間、背後で扉が閉まる。
「!」
 思わず構えを取ろうと右足を軽く右後ろに引いた瞬間。周囲が光に包まれた。
 暗闇に順応しようと瞳孔が開いたところをいきなり光で目眩ましとは用意周到だ。これはハメられたのか? するとあの宿屋の少女もグルだったのか?
 そう考えている内に、俺の眼は早くも明暗順応により明るさに適合する──

「いらっしゃいませ」
 店の奥を振り返るとカウンター代わりのテーブル越しに1人の女性の姿があった……び、美人だな。
 見た事の無いような神秘的な深く濃い青色の長い髪に縁取られた美貌は一目見ただけで心臓を鷲掴みし、深い海の底から海面を見上げたような色の瞳は、目が合うだけで呼吸を忘れてしまったかのような息苦しさすら覚える。
 その雰囲気から年齢は決して若いとはいえないだろう20代半ば……いや、その歳でこれほど強くの「女」の気を放つ事が出来るのだろうか? 幾ら穴があったら入れたい年頃とはいえ、裸でもない女がテーブル越しに座っているだけで、下半身の一部の血圧の値が危険域の線上でダンスをし始めるなど経験した事がない。
 しかし熟女と言えるような気配はない肌は滑らかなで張りがあり、俺の目にさらされたおとがいからの流れるような首筋のラインを作り上げた肌には艶やかで張りがあり皺一つ無く、10代と言われても疑問に思わないだろう……少女から熟女までのそれぞれの持つ美をより集めたかのような年齢不詳の女。魔性。傾国。そんな言葉が頭の中を過ぎった。

「お姉さんが、グラストさんかい?」
 頭の中で素数を数えながら話しかける……沈まれ、沈まれマイサン。
「お客様。私がそんな男の様な名前をしていると思いますか?」
「……そうは思えないから困ってるんだ」
「私は店の初代オーナーのグラストから数えて4代目となりますミーアと申します」
 口元を押さえてクスクスと笑う姿が、少女のようでありながらヤバイほど色っぽい……本当にヤバイ。円周率を……ボールウェインの4次……そんなの冷静に計算する事が出来る位ならテンパッてねぇよ!
「俺はリュー」
 短くそう答えるのが精一杯だった。
「リュー様ですか……本日はどのような品をお求めでしょうか?」
「魔法の収納袋を探している」
「そうですか。魔法の収納袋なら幾つか在庫がございますのでご説明させて頂きますがよろしいでしょうか?」
「是非とも頼む」
「それではしばし時間を頂きます」
 ミーアは俺に一礼するとバックヤードへと消えた。
 その瞬間、空気が物理的にすら軽くなったような気がして、ゆっくりとため息を吐いた……女に関しては草食系男子以下の光合成水耕栽培系坊やにすぎない俺には厳しすぎる。これほど視床下部にある性欲中枢をツンツンされながらも、彼女に対しては恐れすら感じているのだから、俺に対抗できる相手ではない。
 それに会話を繋げるのに必死で、入店時のわざとらしい演出について、文句を言う事すら出来なかったかったよ。

 店内に置かれた商品に見ながら時間をつぶしていると、程なくミーアが手押しのワゴンに幾つかの箱を載せて店内に戻ってきた。
「お待たせしましたリュー様……どうぞこちらへ」
 ミーアは奥のテーブルの上に5つの箱を並べると、俺にテーブルの席につくように促してきたので、断る理由も無いので……いや、立っていると先に座った彼女の服の広い襟ぐりから覗く胸の谷間のおかげで、盛り上がりを見せる下半身を隠すために席に着いた。

「こちらが当店で扱う一番小さな魔法の収納袋となります」
 小さな箱から取り出した袋を、自分の両手の上に広げて差し出してきた。
「このサイズで、外寸に対して8倍の収納が可能となっています」
「重さの軽減は殿程度ですか?」
「魔法の収納袋の重さを打ち消す能力は、袋の中に収める事の出来る水の重さに等しいと言われていますので、この商品ですと8kg程度の重さまでは何も入っていない状態の重さを維持できます」
「それでは一番週能力の大きなものを見せてもらえますか?」
「はい、こちらになります」
 そう言って彼女が箱から取り出しテーブルの上に広げたのは1辺が大体1m位の大きさの袋だった。
「こちらは外寸に対して6倍の収納能力を持ちます」
 そう言って広げられたのは1m四方の袋だった。
 これは実に面白い大きさ。
 袋状なので表と裏の表面積は合わせて2㎡だから、半径40cmの球体とほぼ等しい表面積になる。しかし袋の伸縮性などは分からないが同じ表面積の球に比べて体積は減るので、ざっくりと3/4の体積に減るとしよう。すると半径35cmの級の体積に等しくなるんだ。ここで半径35cmの球体の体積を求めるのに数学者ならきっちりと計算するだろう。しかし物理学者の僕は級の体積を半径の倍の一辺を持つ正方形の体積の半分とする。すなわち0.7mの3乗。約0.17立方メートルだ。これに魔法の効果である6倍の数字をかけてみれば、驚く事に1立方メートルの体積と、1tの重さをゼロにする能力があるということになる……つい頭の中で尊敬するローレンス・クラウス教授に説明を任せてしまった。

 ともかくだ。これならオーク程度の大きさの死体を何体も取り出しても問題は無い。更にこの魔法の収納袋の性能を高く吹聴しておけば、オーガの死体をこの収納袋から取り出す振りをしても疑われる事はないだろう。
「値段を教えてもらえますか?」
「この商品は15万ネアになります」
 ……うん全然足りない。先日クロスボウや何やらを買い込んだために手持ちの金は5万ネアを割り込んでいる。だが【所持アイテム】の中には換金可能なオーガの角が大量に入っているので、ここで換金出来なかったとしても……いや駄目か、大量のオーガの角を売りさばいたら余りにも目立つ。
 しかし、他に売れそうな物といえば水龍や火龍の角だが目立つという事に関してはオーガの比じゃないはずだ……アカン!

「残念ながら持ち合わせが足りないので──」
「足りないのならば、リュー様の魔力を売ってはいただけませんか?」
「はい?」
 突然の事に素で答えてしまった。
「はい。リュー様は強い魔力をお持ちのようですから、それをお分けいただければ代金の代わりとさせていただく事も出来ます」
「魔力を分けるとは一体?」
 意味が分からない。確かに【魔力】という項目があるが、それは【筋力】などの値と同じでレベルアップで上昇するが、分け与えて減っても戻るようなものでは無い気がする……まだMPを分けるとかなら分かるのだが、システムメニューにそんな項目は無い。
「これはとても魔力に対する親和性の高い星石と呼ばれる魔石の一種です。専用の魔法陣を通じて魔力を送り込む事でこの中に魔力を蓄積する事が可能なのです」
 つまり、ここで言う魔力は【魔力】=自分の使える魔力を数値化したものではなく、MPに等しい存在ということか。
「なるほど……しかし、どうして俺の魔力が強いと?」
 俺と同じシステムメニューを……いや、他人のステータスを覗けるならそれ以上の何かを持っている可能性もある。
「それは、今のこの店内の明るさが教えてくれています」
「明るさ?」
「はい、店内の照明となる天井に取り付けられている魔道具は、お客様の身体から僅かに流れ出る魔力に応じて光る強さを変えます。普通、魔法使いと呼ばれる方でも店内を薄暗く照らすのが精一杯ですが、リュー様がお入りになってからはまるで外の昼間の明るさの如く魔道具が輝き光を放っています」
 ミーアが口にした「魔法使い」という単語に狂喜するべきなのだろうが、俺は彼女の浮かべた無邪気な少女の様な笑顔に、背筋にゾクリと冷たい何かが走り表情を強張らせる。
「そうか……だが、俺は魔法使いでも何でも無い。魔力を送り込めなどと言われてもどうすれば良いか分からない」
 この店を早く立ち去りたいと、俺の本能が語りかけてくる。空手部入部の時にさえ仕事をしなかった俺の本能がと考えれば、余程の事だ。
 例えどんなに、魔法の収納袋が買いたくても、魔法使いに関する詳しい話を聞きたかったとしても、ここである必要は無い。早くこの店を出るべきなんだ──
「では私が、教えて差し上げます……リュー様」
 俺の意識の外からするりと伸びてきた彼女のたおやかな白い手が、テーブルの上の俺の手を握った……馬鹿な、そんな馬鹿な。俺がこうも容易く女相手に手を握られるだと?
 こんな経験は、去年の学校祭のフォークダンスの時以来……違う、そういう話ではない! 何をテンパっているんだ俺は。
 咄嗟に振り払おうとしたが、手の甲から手首に移動した彼女の手はしっかり俺の手首を捕まえて離れない。
「大丈夫です何も心配はありませんよ」
 そう言って俺の目を覗き込んでくるミーアの瞳に深淵に臨んだが如き闇を垣間見る……駄目だ。これはヤバイ。どうヤバイか説明出来ないが、俺は彼女に対して大島にすら感じた事の無い脅威を覚えている。
 落ち着け、こんな時にこそ落ちつけ。風の無い湖の鏡面の如き水面。時の止まった幽玄なる林の如く平静の心で全てを見て理解し、対処せよ。
 掴まれた手首を内から外へと捻りながら、手の甲で相手の手首の内側を押して更に捻り掴みを切ると、椅子ごと後方へととんぼを切って逃れた。

「おさわりは止めてもらおう……当方童貞なもので」
 やはり全然平静じゃないようで、情け無い啖火を切ってしまった。
「あら、素敵ですわ」
 ……こ、これは、今まで俺が感じていた恐怖感は性的に捕食される恐怖だったのか? 冗談ではない。俺の守りたくて守っていた訳ではない、大事どころか燃えないゴミの日に出したくても惜しくない童貞だが、こんな正体不明な女に……こんな美人に……こんなけしからん胸を持った美女に……ゴキュリ……違う。違うんだ。俺の……俺の童貞は、北條先生に貰ってもらえたら良いな……って、そんな素敵な妄想をしている場合じゃないわ!

「そんなに警戒なさらなくても、獲って食べたりはしませんよ」
「獲って食われなければ良いってものじゃないよ」
「そうですね……でも、まるで処女のように怯えるリュー様は可愛いですわ」
 ちなみに童貞はvirginの訳語であり、カトリックの修道女に由来する。つまり童貞も処女も同じ意味だ。童貞が処女のように怯えて何が悪い……そう怯えているんだよ俺。
「……そうですね。おさわりも我慢いたしますから試してみませんか? 魔法に関しても多少なら手ほどきもして差し上げられると思いますが」
 魔法の手ほどき……して欲しいです。でもおさわりを我慢しなきゃならないような人は信用できないんです。
 どうする? どうすればいいの俺?
「……分かった。よろしく頼む」
 頼んじゃったよ俺……だって、魔方陣じゃない魔法陣を見てみたかったんだよ。それがどんな風に働くかを知る事が出来たら現実世界始まったな状態になるんだ。俺以外に魔法が使える人間がいなくても、現実世界に魔力が存在するならこれまでの科学とは異なる技術体系が誕生する事になれば、人類はどれほどの恩恵を被る事になろう……なんて立派な事は考えていない。
 ただただ、自分が魔法が使いたいです……安西先生。

「まずは自分の中の魔力を意識してください」
「それは把握できていると思う」
 魔術を使った時に、自分の魔力の残量は何と無くだが把握出来ている。連続使用しても微妙にしか減る感覚は無いのだが、それでも感じられるくらいだ。ちなみにそれは腹の減り具合を感じるに等しい感覚だ。
「わかりました。ではその魔力を小さく丸めて一つの塊にしてみてください」
 俺の中の魔力のイメージは心臓が自分の握り拳と同じ位だというならば、その1.5倍くらいの直径を持つ球形で、その中でグリングリンと何かが高速で回転していて、場所は胃袋と同じ位置にある。
「すでに一つの塊になっている」
 ついでの詳しい状況も説明する。
「それでは、その魔力の塊を今ある場所から動かすイメージを作ってください」
「分かった」
 魔力の塊を胃の位置から心臓に重ねる。すると動脈を通して魔力が身体中に運ばれて行く感じがした。
 その事を説明する。
「まだ収束が甘いようです。もっと強く魔力を……そう一点に絞り込むようにしてみてください」
 言われるがままに意識を魔力の塊に集中して、どんどん圧縮していく。しかしすればするほど魔力の塊の抵抗が強くなる。
 それと同時に店内の明かりが暗くなっていき、最後には完全に闇に閉ざされる。
「……これ以上は無理だ」
 直径2cm程度のイメージまで圧縮する事が出来たが、これ以上は俺の意思の力では抑え込むことが出来ない。はっきりいって今の状況でも長時間維持するのは不可能だろう。
「その状況で魔力が心臓から身体中に流れ出していますか」
「……そ、それは無い」
 受け答えに意識を割くだけで圧縮して塊というよりも玉となった魔力が、反動で弾け飛びそうだ。
「苦しいようでしたら少しずつ……そうですね。魔力が流れ出さない程度にまで力を緩めてください」
 指示に従い、徐々に圧縮しようとする力を弱めていくが一向に魔力が漏れ出す気配は無い。そして魔力が漏れ出して店内に明かりが戻ったのは完全に力を抜いた最初の状態に戻った時であった。
「……つまり、常に魔力の漏れを防ぐように意識する事が大事なのです」
 ……その澄ました顔をベッコリ凹ませてやりたくなる。
「これで、魔力を操作する上での力加減がご理解いただけたと思いますが如何でしょう?」
「ああ、ありがとうな!」
 顔が引き攣り、声が震えるのは隠しようが無かった。

「では準備が出来ました」
 魔法の収納袋を片付けたテーブルの上に一枚の布が敷かれる。その中央には何と無く格好良い紋様の様なものが細かく刻まれた円陣が描かれていた。
 俺はその円陣に意識を集中し細部にわたり全てを記憶する。
「この魔法陣の上に星石を置くので、リュー様は手に移動させた魔力の塊にごく軽く力を加えつつ、一箇所だけに穴を作り搾り出すイメージで星石に魔力を注がれるようお願いします……くれぐれもゆっくりと少しずつ」
 てのひらに重なってはみ出ている魔力の塊を見えない手でゆっくり絞り込んでいくと牛の乳搾りのように細い魔力の線が星石に向かって飛んでいく。
 魔力を受けた星石はその表面に薄く伸びた魔力を纏うが、次の瞬間、下に敷かれた布の魔法陣の紋様が輝き始める。いや実際に輝いて見えているのではなく、自分の魔力が細やかな紋様に沿って力が活性化しているのを感じているのをイメージとして受け取ったのだ。
 ……分かる。分かるぞ。魔力の流れと各紋様でどんな処理が行われているか、自分の魔力の変化で理解する事が出来る。多分リアルタイムだけでは理解出来なかっただろうが、システムメニューによる時間停止により、各紋様がどんな処理が行われたのかを順番に確認し理解する事で全体の流れが理解出来た事が大きい。
 この魔法陣により基本的な魔法陣の構造というかロジックが理解出来たので、後は特殊な処理や様々な紋様を憶える事で魔法陣の作成が出来るようになるだろう。しかし問題は残っている。何でこの魔法陣を描いているのかが分からないのだ。間違いなく普通のインクじゃ駄目だろう。魔力との親和性の高い素材を胡粉にしてインクに混ぜ込み特殊な処理を加えて加工しているのだと思うが、秘術の類はそう簡単に部外者が知り得る事は叶わないだろう。

「リュー様。リュー様! そろそろ星石の容量が、駄目壊れてしまいます!」
 ミーアの声に慌てて魔力放出を止める。しかし彼女が焦るなんて場面を想像すらしていなかったので感無量だ。
「……リュー様。お身体の具合は何か問題ございませんか?」
「いえ、全くありません」
 同程度の星石を後2つ3つ立て続けに容量一杯にまで魔力を満たしても問題ないような気がする……まあ感覚的になので、実際に大丈夫か分からないが、一度自分の限界を知っておく必要も在るかもしれない。
「そうですか……リュー様は私の想像以上に大きな魔力を持っておられるようですね」
 そう言われても基準が分からないから自分の魔力がどの程度か判断できない。
「えっと、魔力の件はこれで良かったのかな?」
「はい。むしろこの石の限界まで魔力を注ぎ込まれるとは思っていなかったので、困りましたわ」
「何がです?」
「約束の魔法の収納袋では、リュー様に差し上げる対価に値しません。他に何かお求めの品はありませんか?」
 欲しい物か、物というよりは知識だなつまり書物。
「魔法や魔法陣に関する書物が欲しい。知っての通り魔力はあっても使い方を知らないから、出来る事なら使えるようになりたい」
「宜しければ私が──」
「今日、明日にも王都へと向かう予定だ……仕事でね」
 仕事でも何でも無いが、そう言っておく。
「残念ですわ……」
 中身が1000年、齢を重ねた魔女だとしても全く驚くに当たらない正体不明な美女が可愛らしくしゅんと項垂れただけで、騙されるなと理性が幾ら忠告を発しても罪悪感が沸いてきてしまうのを抑えきれない。
「そ、それでだ。本を…………ほ、本を……」
 途中でミーアが正面から真っ直ぐ見つめてきたので言葉に詰まってしまった。この程度の眼力を撥ね退けることの出来ない……これが童貞の悲哀というものなのか?
「私と一緒に魔法の勉強をしませんか?」
 勿論NOだ。NO以外ありえない。
「……い、イエ……違う! それは出来ない。男子の一言金鉄の如し。約定は決して違えん」
 俺、立派な事を言ってるけど、最初に何を口走ろうとした? 自分が信じられないって恐ろしいな。
「……そうですか、それはとても残念です。代わりの物を用意しますので暫くお待ちください」
 ガラガラとワゴンを押す音さえ物寂しげに彼女の背中がバックヤードに消えると、再びほっと胸を撫で下ろす。

「こちらを、どうぞご確認ください」
 戻って来た彼女が差し出してきたのは『基礎魔法入門』と『初めての魔法陣』の2冊。題名からして疑いようも無く初心者向けだ。
 この2冊に俺が必要とするレベルの知識が記されているかどうかは分からないが、少なくとも俺が知らない知識を前提に書かれている可能性は無いだろう。
 受け取って中流し読みで確認する。ミーアは俺がどんな内容が記されているか確認している程度だと思っているだろうが、俺はこの流し読みの段階で全ての内容を頭の中に叩き込み、更にシステムメニュー上では【文章ファイル】として何時でも閲覧可能な状態にまとめられている。
 なので「これでは簡単すぎる。もっと高度な内容の本は無いか?」と要求する事も可能かもしれないが、それでは先ほど口にした「魔力はあっても使い方を知らない」という発言と矛盾するので諦めた。

「これを頂きたい」
 いちど2冊をミーアに返してから告げる。
「ありがとうございます」
「そして、それとは別に魔法陣様のインクは買えるだろうか?」
 『初めての魔法陣』にはインクの製法も記されていたが、作り方は秘術などではなく、高度な技術なども必要なかったが必要とされる材料が多すぎて一から揃えるのは面倒だった。
「インクはこちらにペンと一緒に用意しておりますので、どうぞお持ちになってくださいませ」
 細かい気遣いにやるなと内心唸りながら「感謝する」と頭を下げて、商品を受け取ると店を後にした……もう出来れば関わりあう事が無いようにとフラグっぽい事を願いながら。

 魔道具屋を出ると、今度は宿屋に戻るために変装する必要があるので、ついでに服の予備を増やしておくために衣料品店を探す。
 大通りにまで戻ると、衣料品店は見渡す範囲にもすぐに数店見つかったが、着道楽の趣味は全く無い俺は、何も考えず一番近い店に入った。

 店内は幅広い種類のそろった古着が大体数を占め、新品は帽子やマント。スカーフやショールなどの小物類で、衣服の類は採寸してから作るオーダーメイドがメインで、店に飾れている新品はオーダーメイドを注文する客向けの見本だけだ。
 ネハヘロではオーダーメイドのみの店と古着専門店に分かれていたが、この店は両方取り扱っているので助かる。
 何が助かるのかというと、おしゃれに気を使う人間なら色んな店を幾つも見て周り、自分の気に入る一品を探し出す事を楽しめるのかもしれないが、スポーツウェアと空手着と学校の制服を除けば、ジーンズとTシャツとデニムのシャツにジャケットをそれぞれ着回すような俺にとっては、1つの店で全部揃うに越した事が無いのだから仕方ない。

 とりあえず、顔を隠すための長つばの帽子と口元を隠すためのマフラー。それから予備のマントを新品で購入し、古着の中から前田2号が着ていた服に出来るだけ近い物を探し、ついでに自分の好みの服を数点購入した。しかしローテーションに追加されるのではなく、あくまでも予備だ。何故なら選ぶ服が増えると面倒だから……分かっている自分の駄目っぷりは。このままでは拙いという事もちゃんと分かってるんだ。

 店内の試着室を借りて、変装用の衣服を身に着けて店を出て宿へと戻る。
「いらっしゃ……」
 宿の親父も長つばの帽子を深く被り、マフラーを口元まで巻いた不審人物に言葉を失う。
「連れのリューという男が部屋を取っていると思うのだが?」
「失礼だがお客さんの名前は?」
「……カリルという」
「承りました。ターラ。お客さんだ6号室まで案内してくれ」

 こうして、俺は疑われる事無く宿に泊まることが出来た。



[39807] 第58話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:e672632b
Date: 2015/07/19 22:05
 朝起きたらマルが……俺の顔を舐めに来ないだと?
 上半身を起こして部屋の中を見回すとドアの傍の部屋の隅に丸まって、こちらを上目遣いでじっと見つめている。
 いかん、完全に機嫌を損ねたままだ。昨日帰ってくるのが遅かったため、晩飯の前に父さんがマルを散歩に連れて行ってくれたのだが、俺との散歩とは違い全力疾走で存分に走るという訳にはいかなかったのと、何より時間通りに帰ってきて散歩に連れて行かなかった俺に対する裏切られた感が強かったのだろう。それで昨夜から拗ねているのだ。
「マル、おはよう」
「キュ~ン……」
 悲しげに鼻を鳴らしながら目を逸らす。あからさまなほど「私、拗ねてるんですからね」という微笑ましい態度をとる。
 何故なら、これはすなわち「早く私の機嫌を取ってくださいね」というサインでもあるからだ。

「マル、まだ拗ねてるの?」
 ベッドから降りてマルに近づくと「クン」と小さく鳴くと身体を動かして背中を向ける。
「ごめんな、マル」
 そう呼びかけながら後ろから胸と首に手を回して抱き上げながら、両手で撫でてやると、耳をピンと立てながらもこちらを無視するように振り返らないが、すぐに尻尾がパタパタと俺の両腿の内側を叩きはじめた……チョロイな。

「結局、龍を倒すという考えは否定されなかったという事か……」
 学校へと向かう道すがら、異世界での行動について考えながら呟く。
 先日の課題である龍の件はよしとしても、問題はルーセが姿を消したミガヤ領北部の森からどんどん離れているという事だが、結果論だがこれにもメリットは見出せる。
 ルーセが姿を消した事や、俺を含めて誰もルーセの事を思い出せないのが大地の精霊の影響だとするならば、その影響力を及ぼす範囲から抜け出せば記憶を取り戻す可能性は高い。大地の精霊といっても単体で世界中の大地を支配しているわけでは無いだろう。
 一度異世界で記憶を取り戻す事が出来たなら、ルーセとの記憶を事細かくメモして、更にその内容を【文書ファイル】に登録しておけば、如何に大地の精霊といえども物理的に残された情報や、世界の法則の外に存在するとしか思えないシステムメニュー無いの情報にまで影響を与える事が出来るとは思えない。
 とりあえず王都まで向かうという予定なので、そこにたどり着くまでの間に件の大地の精霊の支配地域から外れる事を今は祈るしかない。

「おはよう」
 挨拶の声をかけながら部室へ入ると、1年生の神田が「おはようございます」と返事をしながら近寄ってくる。
「主将と櫛木田先輩と紫村先輩が来たら、格技準備室に来るようにと大島先生からの伝言です」
 ああ、昨日の話か……櫛木田を加えるという事は昨日の拉致に関して、警察がダメージを負わないように作り上げた『物語』を、了承して口裏を合わせろという脅迫を交えたお話だろう。
 正直なところ、そんな話に乗っかるメリットは無いが、乗っからないデメリットがある。『まだ』大島を完全に敵に回す訳にはいかない。もしも現段階で大島を敵に回せば、確実に奴を喜ばす結果にしかならないだろう。
 当然、お礼参りは必ずしてやるが、普通お礼参りのタイムリミットは卒業式だから、それまでに何とかすれば良いんだよ。
 しかし、現段階で大島を敵に回さない事を前提に、今回の件に関してメリットをもぎ取ってやらなければ、散歩を反故にされて拗ねてしまったマルに申し訳ない……さあ、どうしたものか。

 紫村とそして少し遅れて櫛木田がやってきて全員着替え終えると格技準備室へと向かう。
「そういえば昨日はあれからどうなったんだ?」
 櫛木田に尋ねる。
「あの後か……とりあえず、俺は刑事さん2人と一緒に警察署に行って、主に拉致された時の状況や、その後にどんな事をされたかを詳しく聞かれたな。解放されたのは11時前でパトカーで家の前に乗り付けたものだから、はっきり言って近所の人間がどんな噂になってるか心配だ」
 そう言って、乾いた声で笑った……うん、それは心配だな。自分に置き換えて考えるだけで嫌な汗が浮かんでくるようだ。
 その後大した話が出来るほど準備室までの道のりは長くなかったので、俺はドアを叩いて「高木、紫村、櫛木田入ります」と告げると中へと入った……おっと、セーブ、セ~ブ。

「おう、昨日はご苦労だった」
 今日の大島の心の天気は晴れ。昨晩は素敵な暴力に恵まれたようです。
「昨晩はあれからどうなったんですか?」
 練習開始まで、それほど時間も無く、ついでに言うと面倒なので話を進めるように促した。
「あれからか……あれは良い『狩り』だった。一網打尽、逃げ惑うヤクザどもを一匹残らず叩き潰して」
 促す俺を無視して、嬉しそうに笑みを浮かべながら思い出話を続ける大島に、俺と櫛木田は顔を見合わせ「ちょっと奥さん。今この人『狩り』って言いましたわよ」「しかも、捕まえるじゃなく『叩き潰す』って怖いですわ」「それより、この人笑っていますわ。キモイ」「すごいキモイわ」とアイコンタクトを交わした。ちなみに紫村は入れない。奴はどちらかといえば大島に近い感性を持っているから。

「それで警察としては今回の件はどう扱う予定なんですか? それが分からないとこちらも口裏を合わせる事は出来ませんが」
 内心の苛立ちを押し殺して、再び話を促す。
「櫛木田が拉致された事は公表する。これは目撃者もいるから隠蔽しようが無いそうだ。そして善意の市民から匿名での通報を受けて警察が動いて、追跡して犯人の車を捕捉して工場跡に逃げ込んだ犯人に説得を行った結果、犯人は自首して櫛木田は解放されたという話にまとまった」
 まあ無難な話だ、だが……
「櫛木田がヤクザに狙われた理由はどう説明付けるつもりなんですか?」
「それは、連中の仲間が捕まった事に対する報復という事になった」
「でも、そのためにはヤクザ達も口裏を合わせる事になりますが、ヤクザに譲歩したんですか?」
「未成年者への略取は外しようがねぇが、監禁・暴行を外してさらに自首をおまけしてやると持ちかけたら、すぐに首を縦に振ったそうだ……まあそりゃあ、そうだろうな」
 犯罪者の気持ちは分かるんだな。生徒の気持ちなんてこれっぽっちも分からない癖に。
「つまりヤクザ達は口裏合わせをするのに十分な報酬を得たということですね」
「そういう事だ」
「では我々は何を頂けるんでしょうか?」
 俺は逆襲に出る。そのためのセーブだ。

「何ぃ?」
「そんな凄んだところで仕方ないでしょう。我々には口裏を合わせる義理も利も無いということです。警察は不祥事を隠し通せた。先生は自分の先輩に恩を売りつつも自分も楽しんだ……さて、我々は? 櫛木田に至っては拉致され、殴られ、警察の取調べで夜遅くまで拘束されて、夜中にパトカーで家まで送りつけられたからご近所で変な噂が立つでしょうね。俺や紫村も余計な手間をかけさせられたし」
「高城。お前……根に持っているのか?」
「そりゃあ、根に持つでしょう。生徒をそっちのけでヤクザで遊ぶ事しか頭に無いような人に殴られたんですから。どの面下げて偉そうに生徒を殴れたんでしょうね? その人は……おかげで俺の口も随分と軽くなるかも……いえ軽くなるのは口じゃなく指ですね。キーボードであることあること全部書き連ねて、最後は人差し指のクリック一つで送信……なんて事になりそうです」
「何が望みだ?」
 余裕じゃないか、まだメロン熊になっていないとは、俺に喋らせるだけ喋らせておいてから、必要とあれば力尽くで交渉のテーブルをひっくり返す心算なのだろう。
「そうですね。先生の先輩とやらからは、回らない寿司屋での食事を部員全員にしてもらいましょう」
「……まあ、それくらいは良いんじゃないか? 色々資金をプールしているみたいだしな」
 他人事だから軽く請合う……だがな。
「そして先生には……」
「待てこの野郎! まさか俺からも毟り取る気か?」
「いえ、毟り取るような真似はしません。ただ夏の……いえ、冬の合宿は今後取りやめて貰います」

 冬合宿……夏と同じ山で行われるのだが、違っているのは冬山だという事だ。
 それに夏に比べて短い冬休みのために期間も5日間と短いが、その分きつさは10倍だ。
 俺は1年生の時の冬合宿の時にそのカリキュラムを聞いて「冬山を舐めるな!」と叫んだ……胸の奥で。
 大島と早乙女さんの2人で、2年生から1人ずつスノーモービルの後ろに乗せて山奥に捨ててくる。2年生達を捨て終わると次は1年生を山の奥に捨ててくる。そして1日がかりで1年生・2年生達を山に捨て終わった後、残された3年生達が翌朝、山へ踏み入り下級生達を救助に向かうというクレイジーな真似をさせられるのだ。
 早乙女さんが所有する山林は幾つもの山にまたがるほど広大で、更に捨てた場所はスノーモービルで遠回りをして捨てるので、スノーモービルの轍を追って探せば、如何に3年生達といえども遭難するのは確実だ。
 しかも、その山は毎年冬合宿の頃は必ず吹雪くという悪条件である……どう考えても常識も法律も俺達には救いの手を差し伸べてくれていないという事だ。
 部員達にはそれぞれGPSと無線機が渡されており、山頂には中継用のアンテナまで設置されており、その設備の充実さから俺達以外にもここを合宿所として使用されているようであり、安全性には配慮されているようだが、基本的に山に不慣れな1年生達は近場で雪洞を作るのに良さそうな場所を探して、更に発見されやすいように近くに目立つ旗などを幾つも立てた上で雪洞を掘って篭り救助を待つ。
 2年生達は、1年生より更に奥の山に、しかも間隔を広くして捨てられているので、3年生の手間を省くために2年生同士で合流して集団を形成するために移動を行う。集団で協力し合えばより広い範囲での目印の設置が可能となり、更には獲物を取るための罠の設置にも便利である。
 そう2年生は罠を設置して狩りをしなければ食料が持たない。開始から翌日で救助される1年生に対して、より早い段階でより遠くに捨てられて救助も後回しにされる2年生は渡された食料だけでは生存できない。勿論、非常用食料も含めれば十分な量を与えられているが、非常用食料に手を付ければ失格とみなされて、ペナルティーとして4月1日から数日間、街から姿を消す事になるらしい……詳しい事は知らない。幸い俺の知る限りそんな事は一度も起きていないからだ。
 そして3年生は、通称犬役として手分けをして山の中に入り下級生を探す役だ。しかし3年生の持たされるGPSも発信専用であって、GPSを使って下級生を探すことは出来ない。当然無線も繋がる先は大島や早乙女さんの持つ無線機のみで、下級生どころか3年生同士の通信すら不可能だ。
 無線が使えるのは非常事態か、自分が遭難して失格になる場合か、見つけ出した下級生の情報を伝えて回収してもらう時だけだ。流石に見つける度に下級生を連れて下山していては4日の期間では達成不可能だから、連絡を受けると大島か早乙女さんのどちらかがスノーモービルでやってくるのだ。
 1年生は近場に比較的まとまって放置されているので、3年生は手分けをして1日がかりで発見する。
 そして山中で一度合流して、作戦を練って一泊した後に広大な山地に散って2年生の救助に向かうことになるが、2年生は集団を形成した後に、出来るだけ発見されやすいポイントを探して、そこで救助を待つので、3年生達は3年間の山での経験から導き出したポイントを絞り込んで、そこを手分けをして効率よく回るのだが、そこは大島。必ず1人は3年生達が予測する範囲の外に捨ててくる。
 まあ何を隠そう、その1人が去年は俺だった。そして今年は香籐がその立場におかれる予定だ……今年は何とか予定のみで終わらせてやりたい。そして悪しき風習を断ち切り、空手部という地獄に新たな風を吹かせたい。

「馬鹿野郎! 俺の楽しみを毟り取ってんじゃねぇか!」
 お前はもっと別の楽しみを見つけて己の人生を豊かにしろ。具体的に言うなら結婚して家庭を持って少しは落ち着けよ。
「では交渉は決裂と言う事ですね? 紫村頼んだ」
「分かったよ」
「まぁ待て……もし今年の冬合宿を中止したら、来年以降の冬合宿にも影響が出る。今年の2年は間違いなく来年の犬役が勤まらない」
「だからもう止めて欲しいんですよ。合宿自体を」
「た、高城!」
「高城君。君はそこまで後輩たちの事を……」
 俺の言葉に櫛木田と紫村が驚きの声を上げる。
「お前が、そこまでの決意をもっているのなら……俺も付き合うぞ。副主将として!」
 そう覚悟を決めたような事を言い出す櫛木田だが……
「櫛木田ぁ~、お前が俺に逆らう決意を示すなんて先生は驚きだなぁ~、お前がそこまでの覚悟を持っているなら、俺もとことん付き合ってやろうじゃないか、教師としてなぁぁっ?」
「ひぃっ!」
 大島に凄まれると、何時もの様に蹴られた子犬の様な悲鳴を上げる……簡単に状況に流されずに、きちんと腹を据えた上で口にしてもらいたいものだ。

 しかし、そんな脅しは俺と紫村には通じない。
 紫村はともかくとして、以前の俺なら大島の圧力に屈しただろう。
 しかしレベルアップにより勇者的『善い人』に偏った自分の心を修正して状況を改善するために、意図的に逆の方向性のキャラクターを演じてきた。その演じる役柄は人生経験の少ない中学生としては身近な人間に求めざるを得ない……すなわち大島だ。故に「最近大島に似てきてない?」と他の部員達に指摘されて「お前らだって似てきてるよ」と空しい反論しつつも胸を痛めてきた。
 だが自分が大島(仮)であるならば大島に屈することは無い。そう思い込む事で、今まで散々刷り込まれてトラウマとなった感情を押し殺す事が出来る……と思い続ける事が大事なのだ。

 一方、大島は苦々しい表情を浮かべながら、顎に手をやりながら瞼を閉じて考え込み始めたと思うと数秒で瞼を開くと、こちらの様子を探るように言葉を投げかけてきた。
「そういえばだな……高城」
「何ですか?」
「鈴中の事だが……」
 思いがけない名前に、俺は表情を変えずに聞き流す事が出来たが、システムメニューを開いて停止した時間の中で紫村と櫛木田を振り返ると、ポーカーフェイスを保つ紫村とは対照的に、顔にはっきりと「仰天」の2文字が刻まれている櫛木田にむしろ俺が驚いた。
「相川興業の連中が麻薬……正確には覚醒剤だな……を流していた顧客リストが出てきたんだが……中に奴の名前があったぞ」
 確か先々週本屋で読んだ薬学関連の本の中にあった説明では麻薬と覚醒剤は、薬物を取り締まりでも麻薬と覚醒剤で別の法律が存在するくらいに別物だそうだ。

 一方、大島は櫛木田の顔から確信を得たのだろう、カナリアを銜えた猫の様な笑みを浮かべる……大島は鈴中の失踪に俺達が関わっていると疑いを抱いていた。鈴中の失踪後も数日間は奴の家を手下の連中に見張らせていたとすれば、彼女達が呼び出しではなく決まった日にくる事を強要されていた場合は、網に引っかかるのは当然だろう……俺のミスだ。
 そうなれば彼女達と今回の覚醒剤の件を関連を結びつけるのは難しい事じゃない。そこから更に両者と俺達を結び付けたところに打開策を見出したといったところだろう……悔しいが正解だよ。
 その情報が確かなら鈴中の糞野郎は13人の女達に薬を使っているはずで、そうなれば彼女達には既に禁断症状が出ていてもおかしくは無い……事は急を要する。

「……急用が出来たので帰らせてもらいます」
 この場合「今日は」と言わないのが肝だ。明日以降にも引っ張る可能性は十分にある。
「おお、帰れ帰れ」
 自分の描いた絵図通りに事が進んで嬉しそうな大島だが、最後までお前の思惑通りには進みはしない……紫村がいる限り。
「僕も付き合った方が良いのかな?」
 唯一事情を知っている紫村が心配気に尋ねてくる。「女」という存在には驚くほど冷淡だが、相手を「人間」として捉えた場合は人一倍情が深い。全く複雑な感情を持つ男だ。
「いや、大島が余計な事をしないように見張っていて欲しい」
 あえて大島を呼び捨てにした。この件に首を突っ込んできたらただじゃ済まさないという俺の意思表示だ。
「わかったよ。君も僕の助けが必要なら何時でも連絡して欲しい」
「ちょっと待て、お前ら勝手に何を言ってるんだ? こんな面白そうな事、俺が──」
「大島先生。僕が口裏合わせに協力する事へのあなたが支払う代償は、この件に関して高城君の行動に一切介入しないという確約をする事です。もしも高城君の周辺で情報を探るような真似をしたら、昨日の件だけではなくあなたに関する情報がネットのみならず新聞やテレビに詳細な情報が送りつけられる事なるでしょう……明日の新聞の一面に顔写真が載るかもしれませんね。うらやましい事です」
「くっ! ならば高城が部活を休む事は──」
「それも介入とみなします。そもそも休日の部活への参加には義務はないのですから。それで高城君はどんな条件をだしますか?」
「そうだな……櫛木田が条件を考える際、そして条件を提示した後、その件に関して一切、脅迫や報復などの手段を用いない事を条件にしよう」
「高城てめぇ!」
「大島先生、あなたが2年間、櫛木田君との間にどれほどの信頼関係を築けたか……楽しみですよ」
「櫛木田。お前が一番迷惑を被ったんだ自分で好きに判断を下せ。紫村、後は頼んだ」
「ちょっと待て!」
 背後で大島と櫛木田が息ぴったりにハモったが、相手をしている時間が惜しいので無視して着替えるために部室へと向かった。

「主将。話って何だったんですか?」
 香籐が心配そうに尋ねてくる。
「今年の合宿についての話だ。櫛木田次第だが上手くいけば……いや、確実でも無いのに期待を持たせるのもなんだしやめておく」
 櫛木田よ。これで判断を誤ったら後輩からの評価ががた落ちだ……主将より後輩に慕われる副主将など存在しないのだ。
 あれ? でもこれで櫛木田が上手く冬合宿を中止に持ち込めれば、奴の評価は鰻上りで相対的に俺の評価は下がる訳で、しまった! これから戻って……いやそんな事をしている暇は無い。
「待ってください。一体どういう事なんですか?」
「詳しくは櫛木田に結果と一緒に聞いてくれ。悪いが今日は用事が出来たので帰る事になった」
「用事……ですか?」
「ああ大島にも話は通っている。時間が無いので着替えさせてくれ」
 そう告げて、手早く着替えると部室を飛び出した。

 鈴中の被害者の13人の中で住所が分かっているのは、鈴中を駆除した西村先輩ともう1人彼女と同期で去年の卒業生の2人だけで、在校生の3人と西村先輩より前に卒業した5人。そして鈴中の前の赴任先の中学校の卒業生の3人の住所が不明だ。
 とりあえず、在校生に関しては職員室で資料をあたり、卒業生は図書室で過去の卒業アルバムを当たれば良い。
 問題は、鈴中の以前の赴任先の学校だが、一つ救いがあるのは、我が校が県立ではなく市立であることだ。つまり管轄する自治体は県ではなく市であり、教師も市の公務員であり教員の移動は市内限定という事だ。
 しかし、その学校名をどう調べるかだ……図書館で過去の新聞の縮小版をあたって、3月末あたりに発表される教職員などの移動情報を調べるか……いや待てよ、教頭なら知っているはずだ。それに在校生の名簿のありかも知ってるだろう。

 流石に自分の携帯から教頭に電話をかける気にはなれない。それなら公衆電話か、最近見かけないよな駅には数台設置されているけど……そういえば学校の事務室の受付の横にあったな。
 周囲に誰もいない事を周辺マップで確認した上で【迷彩】を使って姿を消すと、格技準備室のそばにある昇降口から中に入ると、校舎の反対側にある事務室へと向かう。
 再び周辺マップで周囲に人がいないのを確認して、教頭の携帯へと電話をかける。
 まだ6時少し前なので、まだ寝ているかと思い10回以上コールする覚悟はあったが、5回目のコールで繋がる……流石年寄りは朝が早い。
『もしもし、どちら様ですか?』
「先週の木曜日の夜……と言ったら分かるかな?」
『君か?』
「そちらの想像通りの相手だと思ってくれて構わない。例の件で問題が発生した」
『どういうことだね?』
「昨晩、相川興業という暴力団組織が警察によって構成員が一斉検挙されたのだが、奴らは覚醒剤を扱っていて、その顧客名簿に鈴中の名前があった」
『奴は女の子達に薬を使っていたというのか!』
「その可能性はかなり高い。それで被害者達に接触するために、彼女達の住所を知りたいのだが、まず在校生の住所を記したファイルのありかと、鈴中の以前の赴任先の学校と転任してきた年を教えて貰いたい」
 教頭は俺の言葉に、息荒く声を震わせながらファイルのありかと、鈴中の前の赴任先の学校名を伝えると、更に集合写真のありかも告げてきた。
 まあ、鈴中の前の学校での情報は、紫村が調べてあるかもしれないが、鈴中の件が終わった片付いたと判断して調べるのを止めているだろうし、部活もそろそろ始まるのに聞きに行くのも抵抗があるので、こちらで調べる事にした。
「もしかしたら、他に聞きたい事があるかもしれないが、そちらは一切動かないでくれ」
 そう告げて通話を終わらせると2階の職員室へと向かう。
 職員室のドアとドアの上の窓には鍵がかかっているが、視界を遮るドアと違いガラス窓の鍵は【闇手】で解錠出来るので、後は窓から音を立てないように素早く侵入すると、教頭の机の窓側にある鍵付のキャビネットのガラスを割って中から歴代の在校生リストのファイルを取り出した。
 割ったガラスに関して俺はどうでも良いと思っていたが、教頭が明日早くに学校へと行き、自分がよろけてぶつかり割った事にすると言っていた。

 ファイルを開いて、システムメニューを開いた状態で一気に流し読みして頭の中に全員の名前と住所を叩き込む。
 そして鈴中のPCの中にあったフォルダ名である姓と、携帯電話のアドレスにあったアルファベットの名前を組み合わせて、リストの名前と照合すると2年生の『佐藤 美咲』が2人居たので、記憶と集合写真アルバムで顔を照合して本人と確認、更に他の2人も集合写真の顔を確認して本人である事を確認した。
 ファイルとアルバムを元に戻すと、入ってきた時と同様にドア上の窓から外に出て【闇手】で鍵を閉めて、4階にある図書室へと向かい、同様に本人を特定して住所を頭に叩き込む、卒業アルバムは名簿と集合写真が一冊に収まってる分助かった。

 学校を出ると時刻は6時05分とかなり良いペースだが、これから他所の学校に忍び込むので出来るだけ早い時間に済ませておきたい。
 ここからは人が多くなるまで時間との戦いになる。2つ校区を挟んだ先にある桜台中学へと、周辺マップで歩行者との遭遇を避ける以外は自重無しの超高速立体移動で、都市伝説の1つや2つ作るのは止むを得ないと判断する……次第に緩々になっていく気がするが仕方ない。

 早朝であるがゆえに散歩に出ている年寄りの数は決して少なくない。はっきり言って平日の昼間の方が路上の人口密度は下であろう。
 だから幾ら姿を消しているとはいえ全力で走るわけにはいかない。風属性の魔術である【伝声】は音の波に指向性を与えて遠くに伝える事が出来るので、伝える先を上空に向ければ足音などをある程度周囲に伝えずに済むが、今の俺は60km/hを優に超える速度で長時間走り続けることが出来るのだが、そんな速度で人間が路地を走った時の周囲に与える風圧は、無駄な風の抵抗を減らし後方乱気流まで計算され尽くされたフォルムを持つ自動車どころか、馬の様な四足歩行の動物と比べても遥かに大きいので、すれ違いの風圧で歩行者をふっ飛ばしかねない。
 また60km/h以上から先の世界は正面からぶつかってくる風の壁との戦いであり、身体の体勢や足運びを1つ間違えばそのまま身体が浮いたり、姿勢を崩して転倒するほどだ。今以上に以上にレベルアップして身体能力が上昇しても、これ以上の速度を短距離ならともかく長距離で維持して走り続ける為には、余程の修練か新たな魔術か、それとも魔法を使いこなせるようになって風圧を操作するような魔法を身につけるまでは無理だろう。

 結局、路上での走行をあきらめて他人の屋根の上を移動する事になるのだが、跳躍時には屋根を壊さない程度に力を入れて踏み切る事が出来るので、速度が速く体勢が崩れないように気をつけの姿勢で頭を進行方向に向けて飛ぶのが今のところ一番良いみたいだ。
 今後は屋根を使わずに移動出来るように空中を飛ぶ足場として使える岩が幾つか調達したい。マルの散歩に使っている河辺の散歩道を上流へと向かえば使えそうな岩も見つかるだろうが、今はそれは後回しだ。

 幾ら全身のばねを使って勢いを殺しながら静かに着地しても、足元で鳴る瓦の音は抑えきれないし、一度で50m以上は跳躍するための踏み切りは前を大型のダンプが通った程度には家を揺らす……この事がご近所ネットワークに俎上すれば都市伝説とまでは言わないだろうが噂として残る事になるだろう。そして、今後もこのような移動手段を使い続けた場合は、本当のネットの方で話題になりやがて都市伝説になる。
 うん、いっその事都市伝説にしてしまえば面白いと開き直ってしまう。なぜなら今日はこの移動手段をたくさん使う事になるのだから……



[39807] 第59話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:e672632b
Date: 2015/06/15 22:26
 市立桜台中学校。全国に100校くらいはありそうな名前の中学校である。
 姿を消したまま学校の敷地内へ入り、校舎内へ侵入するための周囲から見えずらい位置にある窓を探すのだが、この学校は桜台とあるように小高くなった丘に位置する関係かオーソドックスな校舎と体育館がくの字に配置されるのではなく、体育館と、それとは別に3つの建物が渡り廊下で繋がった複雑な構造になっていて、侵入に適した窓はいくつもあるのだが、どの建物に入れば図書室があるのか分からない。
「とりあえず、一番大きな棟に入るか……って玄関開いてるし!」
 校門から玄関へと10人程の生徒が向かって歩いている。男女比では女子が圧倒的に多く、そして持っているケースから想像するに中身は楽器だろう……つまり吹奏楽部の連中だ。
 祝日で休みだというのに朝っぱらかご苦労というか……やめておこう、自分が惨めになる。

 しかし【迷彩】の効果は自分と相手が互いに静止状態なら2-3mの距離でも気づかれないと思うが、どちらかが移動しながらの場合は身体と背景との境の部分を凝視されればすぐに不審に思われるだろう……せっかく玄関が開いているのに、ここからの侵入は無理だな。
 北側に回りこんで、一番小さな棟との間にある周囲から見通せない窓の鍵を開けて中へと入り込んだ。どうやら保健室のようだが自分の考える基準よりずっと広い。うちの中学の教室よりも広いくらいで普通の病院とは様子が違う。
 広い空間に仕切り用のカーテンを備えてはいるがベッドが10床も並んで居る様子は、一見野戦病院? と言った雰囲気だ。

 侵入した窓に施錠して、廊下へと続く引き戸の鍵を開けずに上の小窓から廊下に出て小窓にも施錠する。生徒が沢山居るなら脱出時は校舎内を移動せず、直接窓から外へと抜け出した方が良さそうだからだ。

 吹奏楽部の生徒達が上っていく玄関脇の階段ではなく西側の階段へと廊下を移動する。勿論足音を立てないように靴は脱ぎ──【収納】で外せば一瞬で済み、両手に靴を持って歩く必要も無い──、靴下を履いた状態で歩く、階段の上り口で周辺マップで周囲を確認すると、東側に人間を示すシンボルマークが30人分ほどあるが階段付近には上の階を含めて人間の反応は無い。
 勢い良く階段を登って行くと、東側のシンボルマークの多くがほぼ同じ高さを示したので、音楽室があるのは3階なのだろう。
 俺は3階をスルーしてそのまま4階にへと向かう。何か確信があった訳では無いが、俺の通った小学校もそして今の中学校も図書館は最上階にあったので何も考えずに行動した結果だが、東側の突き当たりの扉の上に『図書室』のプレートを見つけた……3階じゃなくて本当に良かった。

「困った……」
 図書室の前で、思わず弱音が飛び出る。図書室と図書室に繋がるだろう準備室兼司書室のドアには当然だが鍵がかかっており、そしてこの二つの部屋のドアの上には小窓が無い。
 更に隣の視聴覚室から窓伝いに移動して図書室へは窓から侵入すれば良いのだが、残念ながら視聴覚室のドアの上の小窓は3階と4階の間の踊り場付近で練習している吹奏楽部の生徒からは見える位置にあり、姿は【迷彩】で見えなくても窓を開ければ気づかれる可能性が高いので、侵入するとすれば視聴覚室の隣の学習室からの侵入になるのだが、視聴覚室が教室2つ分以上の広さなため、かなりの距離を窓枠伝いに移動しなければならないのだ。
「大丈夫か俺?」
 高所恐怖症はかなり改善されたが、実際先ほど屋根伝いにジャンプして移動していても、ふと集中力を欠いた拍子に高さへの恐怖が蘇り俺のおいなりさんがキュッとなってしまう位なので、窓の外を移動中にそうなった場合に落ちる可能性も無いわけではない。
 落ちた所で、怪我をするわけでは無いが4階からの落下時の音は騒ぎになるのは間違いない……多分、落下のショックでまともに受身が取れないだろうから。

 とりあえず時間が無いので学習室へと入り込むと靴を履きなおす。
 部屋の奥の外に面した壁には、中央の柱をはさんで、左右にそれぞれ上下左右に2つずつ計4つの窓枠と8枚のガラス窓で構成されている。
 学習室の部屋の一番左端の窓を開けて外に出ようとしたが、左側はすぐにコンクリートの柱が張り出していて場所が取れないので、同じ窓枠の右側の窓を開けて外に出る。
 ちらりと下を見てから「大丈夫、大丈夫。この高さなら落ちても大丈夫」と自分に言い聞かせてから、窓枠のレール部分を右手の親指と人差し指で挟み込んで身体を支えて、窓を閉めて【闇手】で外から鍵を掛ける。
 窓枠の左側の窓は窓枠の内側のレールに収まっているので、外から窓枠のレールの部分を掴む事が出来るが、左側の窓は外側のレールに収まっていて捕まる場所が無い。
 だが窓枠は校舎の壁から3cmほど壁の内側に凹んだ位置に設置されているので、上下に存在する3cm幅の凹み部分を足と手で上下に突っ張る事で身体を支える事が出来た。
 最初の一歩は慎重に、そして2歩3歩と少しずつ大胆に移動すると壁から40cmほど張り出した幅50cmくらいの柱が立ち塞がる。
 左の太腿を柱の左側面に押し当てて体重を掛けながら、右手を柱の右側面へと伸ばして、左太腿と右手で柱を挟み込み、体重は左へと掛けて身体を支える。
 その状況から左手を柱の左側面に添えてから体重を右に掛けながら右足を柱の右側に伸ばし、柱の角を膝の裏で押さえるようにして身体を支えると、左足を柱から離して重心を更に右へと掛けながら右手を伸ばして視聴覚室の窓枠のレールに指を掛け、一気に身体を柱の反対側へと移動させる。
「ふぅ……」
 第一の関門を抜けて安堵の溜め息を漏らしたが、視聴覚室の壁には3本、視聴覚室と準備室の間に1本、そして準備室と図書室の間に1本と計5本の柱が待ち受けているのだった……第一部 完。


 第二部は図書室への侵入に成功したところから始まる。
 途中、サッカー部の部員らしき集団が、ワイワイと騒ぎながら下を通って行った時は、障害物の柱を越えてる途中だったので、高所での緊張と相まって嫌な汗が止め処なく流れたが、無事にミッションをクリアした……いや、まだ目的の卒業アルバムを調べ終わってない。
 この学校で鈴中が手を出したのは残りの3人で、PC内のフォルダ名に使われていた名字は『山村』『東里』『風間』で、携帯のアドレス名に使われていた名前は『shizuku』『akane』『haruka』で、これらの組み合わせで出来る9個の姓名を、卒業アルバムの名簿から探し出す。

 流石に転任後にこの学校の生徒に手を出しているとは思えないので、4年前の卒業アルバムからチェックしていくと4年前の卒業生の中に2人、そして5年前の卒業生の中に1人見つかった。
 普通なら3年前の卒業生も含めて彼女達は高校を卒業して、地元を離れている可能性が高いが、彼女達は鈴中にハメ撮りの写真や動画、それに薬で縛られているために地元に残っているはずで、つまり実家に住んでいる可能性が高いのが不幸中の幸いと言えるだろう。

 無事に桜台中学校を脱出した俺だが、ここでまた大きな問題があることに気づいた。
 今居る桜台中学の校区にある山村 朱音、風間 雫、東里 春花の家を順番に回って治療を行うべきなのだろうが、何も接点の無い女性の家に押しかけて……いや不法侵入して、無理矢理【中解毒】での治療を行うのは俺にはハードルが高い……ちょっと前まではクラスの女子と目を合わせるのも怖いと感じる……今だって平気というわけでもないヘタレなのだ。
 ちなみに治療自体はそれほど難しいとは思っていない。
 覚醒剤からの離脱は身体から薬物が抜けてしまえば、身体的依存はほぼ無いと言われる。離脱中に襲われる身体的、精神的苦痛により離脱後の精神的依存を強めるので離脱症状が軽度であればあるほど後の精神的依存も軽くなるといわれている。
 つまり【中解毒】を使えば、一瞬で体内の薬物が分解されるので精神的依存は少なくて済み、更に薬物の再使用は患者の人間関係内における薬物調達の容易さが大きな原因とされるが、そもそも彼女達は鈴中を介して薬物に接していたので、鈴中が死んだ現状において、彼女達の人間関係には薬物を調達する伝も、使用を勧めてくる人間も存在しない……と良いな。

「仕方が無い」
 携帯を取り出して西村 薫へ『先日、家宅捜索を受けた相川興業という暴力団の薬物販売の顧客リストに鈴中の名前がありました。貴女は鈴中に薬物使用を強要されては居ませんでしたか?』という文面でメールを送り、返事が来るまでの間に彼女の家を目指して移動する。
 とりあえず接点のある相手から先に対処することで、後の展開で少しでも気が楽になれば良いなという後ろ向きな選択だった。

 屋根に着地し、棟の上を走り加速して踏み切ろうとした瞬間に懐の携帯のメール着信の振動にタイミングを外して右足が宙を切る。
 道を挟んだ向かいの家への衝突コースをたどりながら身体を捻って体勢を立て直すと、手前の塀を思いっきり蹴りつけて高さを稼いで向かいの家の屋根を越える。
 しかし、路地には犬を連れた散歩中の小母さんが、俺が塀を蹴った音に驚き固まり、犬がワンワンと吼えまくっている……やったな都市伝説の種を撒いたぞ! ……本当にやっちまったよ。

 その後、4度の跳躍で距離を取り、集合住宅の屋上にて携帯を取り出してメールを確認する。
 本文に書かれていたのは一言『たしけて』で、一瞬笑いが込み上げたが、まともにメールを打つのも厳しい状況であることに気づき、更に速度を上げて彼女の家へと向かった。


 調べた住所にあった『西村』の表札。ごく普通の一軒屋で、マップ機能で『西村 薫』を検索すると、2階の東向きの窓がある部屋に彼女のシンボルが表示された。
 塀の上から屋根の上へと跳んで準備を整えると『現在、家の傍に来ています。本人と確認するため窓を開けて外に顔を出して下さい』とメールを送る。

 そして窓が開く音を聞く同時に、屋根の上から【昏倒】を掛けて眠らせ、屋根の縁の樋に手を掛け、靴を収納して窓枠へと足を伸ばして足場に、窓枠のレールを足の指で掴むようにして後は身体のばねを利用して部屋の中へと入った。
 部屋の芳香剤の匂いが随分と強いな……覚醒剤を使用していると独特体臭がするという話だが、それを消すためなのだろうか?

 まずは速攻で、窓際に置かれたベッドの上で気を失っている西村先輩へと【中解毒】を数回に分けて身体中に掛けて体内の薬物を分解して無毒化する……正直なところどうやって分解するのかは謎だ。
 これで、薬物のからの物理的な面での離脱は終了したが、問題はすでに彼女には禁断症状が出ていたという事だ。
 鈴中は彼女達を家に呼びつけた時に、一定量の薬を渡して次の呼び出しまでの間に禁断症状が出ないようにしていたはずだ……さもなくば、禁断症状を起こした彼女達から足がついて鈴中自身も破滅するからだ。
 犠牲者である彼女達は13人。ローテーションで毎日1人ずつ呼びつけていたわけでも無いだろうからインターバルは半月以上になるので、ある程度余裕のある分量を渡していたはずだ。
 それなのに先週の火曜日からの一週間で禁断症状が起きたということは、彼女が鈴中を殺害した時には薬を受け取っていなかったのだろう。
 ある程度余裕があったとはいえ、彼女は薬の量を抑えて使用したのだろうから、短い間に何度も苦しい禁断症状に襲われ、その度に少量ずつ薬を使用して耐えてきたとすると、薬物への精神的依存を高めてしまっている可能性が高い。
 薬が切れる=つらい。薬を使う=つらさから開放される。この条件付けが頭に刻み込まれると薬の使用を止めるのが難しくなる。何らかの理由でストレスがたまり、つらいと感じると薬を求めてしまうからだ。
 西村先輩が一番、精神的依存が強くなるだろうが、他にも3-4人にはある程度の精神的依存の症状が強く現れる可能性が高い……もしかして!

 西村先輩に【無明】を使い視界を塞いだ状態にして、肩を掴んで身体を強く揺する。覚醒の兆候が見えたところで口を手で塞ぐ。
 目が覚めて、目が見えず口を押さえられるという状況に、彼女は抵抗ではなく身体を強張らせた……強く抵抗すれば鈴中に暴力を振るわれた結果、身体に染み付いた反応かと思えば居た堪れない気持ちになる。

「状況を説明するので、騒がないで貰えますか? もし騒ぐならば、私はここから立ち去り、あなたとの連絡は、二度と取りません」
 自分でも馬鹿みたいだが、あえて少し巻き舌で短く区切りながら話す。何せ深くは無いが多少ながらも接点のあった相手だから小細工は必要だ。
 彼女の自室とはいえ、騒げばすぐに家族が気づくだろう。
「了解したならば、2度頷いて下さい」
 すると彼女は小さく2度頷いたので、口を塞いでいた手を離す。
「目が見えないのは、立ち去る前に解除するので、気にしないで下さい」
「わ、わかりました」
「貴方の、身体の中にあった覚醒剤は、全て薬によって、中和されました」
 まさか魔術によって分解されましたとは言えないので、「どんな薬だよ!」と自分で突っ込みたいのを我慢しながら嘘を吐く。
「そんな、本当なんですか?」
「声を抑えて下さい」
「すいません……」
「覚醒剤が、身体から取り除かれると、身体的な薬への依存は、なくなります。しかし、精神的な依存は残ります。覚醒剤が使われていた事を、もっと早く知る事が出来たなら、症状を軽くする事が出来たのに、申し訳ありません」
 謝りながらも、何だかこの喋り方面白くなってきた。
「いいえ、貴方のせいではないと思います」
「そこで質問があります。貴方は覚醒剤を、どのような方法で、摂取していましたか? 静脈注射ですか? 経口摂取ですか? それとも炙って煙を吸引しましたか?」
「……火で炙って吸引しました」
 静脈注射じゃなかっただけでもありがたい。
「その使用法は、鈴中からの指示ですか?」
「はい。自分で使う時も必ずそうするように言われました」
 鈴中も痕跡の残る静脈注射で彼女達の覚醒剤使用が発覚するのは避けたかったのだろう。だから発覚しづらい炙りで使わせたのだろう。
 それはつまり、西村先輩以外の女性達も使用方法は炙りということでもある。
「それは良かった。貴方の、覚醒剤への精神的依存も、大分少なく済むはずです」
 アッパー系、つまり興奮を高める覚醒剤だが、炙りならば静脈注射に比べれば興奮のピークも低くなる。そして体験したピークが低ければ通常の状態との振り幅が狭くなる分、覚醒剤への欲求は多少なりとも減るはずだ……しかしその事を大げさに伝える事で彼女を勇気付ける必要があった。症状が軽いと思い込む事が出来たなら、それは精神的依存と戦うための強い味方になるからだ。
「あ、ありがとうございます」
「覚醒剤の影響で、体力なども落ちているはずなので、処置をするので、楽な姿勢で寝て下さい」
「わかりました」
 姿勢を整えてから仰向けに横たわる彼女の身体に頭から順番に【中傷癒】を掛けていく、気休めだが少しでも楽になってもらえれば幸いだ。
「すごく身体が楽になっていきますが、これは一体?」
 薬やストレスの影響で身体にダメージがあり、それを癒す事が出来たのか、それとも魔術の不思議パワーがスピリチアルでパワースポット的な胡散臭い効果を発揮したのか何らかの効果があったようだ。
「では、このまま暫く眠って貰います。目が覚めた時、貴女が、覚醒剤への依存と戦う力を、取り戻している事を祈ります」
「待って下さい! 鈴中先生は……」
「貴女が気にすることは、何もありません。彼は我々が捉えた後に、しかるべき処理を施しました。貴方の彼への暴行は、一切表に出ません」
 そう告げると【平安】で心を落ち着かせてから【催眠】で眠りに落とす。
 これで彼女が、自分は鈴中を殺していないと誤解してくれるなら、それに越したことは無い。あんな生まれてきた事自体が間違いの様な奴の事で彼女が罪悪感を覚える必要などあって良い筈が無いのだから。

 周辺マップを覚醒剤で検索して、彼女の所持していた残りの覚醒剤を覚醒剤を入れていたポーチごと回収して【所持アイテム】内に収納した。多分服などにも覚醒剤の混入した汗により付着しているだろうが、そこまで検査するためには逮捕状が必要だろう。
 もしも鈴中との関係を知られて、任意での出頭を求められたとしても協力を要請されるのは簡易尿検査くらいだろう。
 回収作業を終えると【無明】を解除すると窓から外へと出た。


 広域マップを拡大して表示する。
 流石に自分の生まれ育った街だけに、半径3km圏内の8割近くが表示される。奥まった場所にある細かい路地の多くは表示不可能範囲になっていて虫食い状態だが、システムメニューの恩恵を受ける前に通った範囲の半径20m程度はマップ上に表示されているおかげで、それが無ければ4割も表示されなかっただろう。
 そのおかげで、鈴中の犠牲者の中でも西村先輩と在校生3人はエンカウント済みとして広域マップ内に表示されている。周辺マップ内で名前と顔の分かる相手なら検索を掛けてヒットすればエンカウント済みと同様に広域マップやワールドマップに居場所が表示されるのだが、俺のワールドマップは表示不可能範囲だらけのスッカスカの地図に過ぎないので意味は無い。

「近いのは……真藤か」
 真藤 麻美。隣のクラスの女子で大人しい性格で俺と目が合うと「ヒッ!」と悲鳴を上げそうなタイプだ……自分の想像で凹むわ。
 そういえば西村先輩も性格的は大人しいタイプだな……鈴中はその手のタイプに狙いを絞っている可能性がある。大人しくて自分の状況を周囲に伝える事が出来ずに抱え込んでしまうような生徒をはめる。
 すでに死んでいる相手だというのに殺意が沸いてくる。レベルアップして死体を蘇生させる魔術を覚えたら、蘇らせてつま先から1cm単位でスライスしてやりたいくらいだ。
 そんな事を考えている間に、真藤の家に着く。真藤は2階の部屋に居るようだが……ヤバイ! シンボルの反応が赤になっている。敵対? 戦闘中? いや違う。これは興奮状態か苦しみの反応だ。
 ジャンプして2階の窓の窓枠を掴んでぶら下がった状態で【闇手】を使って鍵を解除すると、窓をスライドさせて開くと身体を引っ張り上げて中に入る。

 いきなり開いた窓に、真藤はこちらに目を向けるが、その目は興奮のためかぼんやりと視点が定まらず、まるで夢を見ているかの様なそんな目……これは離脱症状? もしかして西村先輩の後に鈴中の家に行く予定だったのは真藤だったのか?
 とりあえずこの状態では【平安】からの【催眠】へと繋がるコンボは無理だ。【昏倒】は【催眠】よりも眠りが深くなり、身体を強く揺すられるとか叩かれるなどの身体的刺激を受けないと長時間にわたり眠り続けるので使いたくなかったが、仕方が無いので【昏倒】を発動させて眠りに落とす。
 即座に、【中解毒】を掛けて体内に残っている覚醒剤を分解していく。特に頭は念入りに掛けて、髪などに残る覚醒剤も全て分解する。
 これで、もしも鈴中との関係から覚醒剤使用を疑われたとしても、全身の体毛、手足の爪。皮膚の垢に至るまで完全に覚醒剤使用の痕跡は消し去ったので警察がどれほど検査をしても陽性反応は出ないだろう。
 それから西村先輩に施したのと同じように【中傷癒】を掛けてから外へと出た。

 ちなみに彼女の部屋も芳香剤の匂いが強い。やはり覚醒剤を使うと独特の体臭がするというのは本当で、それを隠すために強い匂いの芳香剤で消しているのかもしれない。


 その後、全員の家を回り無事に処置を終了した時には時間は正午を回っていたので、公園で朝の分と昼の分の弁当を食べて弁当箱を空にすると近所の図書館に行って、閉館の時刻まで粘って本を読み漁り、何事も無かったかのように何時も通りに家に帰った。

「今後も要観察ってところか……」
 はっきり言って、彼女達がこのまま何事もなく日常生活に戻れるかと言えば疑問だ。レベルアップして【催眠】ではなく催眠術のように暗示をかけられる魔術を覚えられたら良いのだが……
 それにしても一度の同情が高くついたものだ。鈴中の死体を始末したまでは良いが、西村先輩にメールを入れたのは間違いとは言わないが、通信履歴が残るメールではなく、手紙なりで足のつかない手段を使うべきだったと思う。
 おかげで、俺は彼女達を切り捨てる事が出来なくなってしまった。
 結局、あの馬鹿が覚醒剤にまで手を出していた事と、それに気づけなかった俺が悪いのだ。実際、【所持アイテム】の中に放り込んだままになっていた鈴中の家から回収してきた荷物の中に覚醒剤は存在した。
 その日の内に、回収した荷物のチェックを行っていれば、彼女にメールを出す前に……いや、例えそれを知っていたとしても見捨てられたかといえば、難しいところだとしか言いようが無い。助ける自己満足と助けなかった罪悪感を秤に掛けて、中途半端に情に流されてしまうのが俺という小さな人間なのだから。

 この現状を変えられそうなのが覚えたばかりの魔法なのだが、まだ魔力の操作に慣れるのが第一といったところで、次の段階には進めていない。
 発動させるだけで全ての過程を意識せずに結果が現れる魔術と違って、魔法は全ての過程を自分の意識下で行う必要があるために、精密な魔力の操作を身につけた上で、魔法の目──すなわち魔眼を発動出来るようになり、魔眼を自在に使いこなせるようにならなければならない。
 魔力操作と魔眼。つまり手と目を完全に自分のものとして初めて魔法を使える状態──魔法使いへの一歩を踏み出したことになるのだが、そこから何を出来るようになるのかを一生涯探求し続けるのが魔法使いの人生という事らしい。
 確かに色々と面倒ではあるが、代わりに自由度が高いというか自分の能力という制約以外は自由しかないのが魔法だった。
 ちなみに魔法陣の方も、作成には魔力操作と魔眼の2つがある一定のレベルで使いこなせる必要がある。
 つまり今は……いや暫く……もしかしたら当分、魔法関連は全く役にはたちませ~ん。

 寝る前にベッドの上で「緊急事態は解除。詳細は明日。流石に疲れたから寝る」と紫村にメールしてから枕に沈んだ。


---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
桜台中学の保健室。変わった形の中学校が無いかネットで学校の見取り図を探してみたら、実際に「保健室?」と言いたくなる様な広い保健室を備えた学校があったので……



[39807] 第60話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:e672632b
Date: 2015/06/15 22:27
 今日は目覚めた途端に「早く王都へと向かおう」という考えが頭に強く浮かぶ。
 これは神のお告げというやつだろうか? ……駄目だ。疲れているんだな俺、病院に行った方が良いな。

 自分の部屋を出て、2号の居る隣の部屋のドアを2度叩くが、返事が無い。
「まあ、良いか今日は急いで出発する必要は無いし」
 王都への道は街道だけあって、徒歩で半日の旅程の目安である20km強の間隔で、普通の町か宿場町があるので、昼から出て普通に歩いても日が落ちる前には次の町にたどり着ける。
 本当に急ぐなら、街道を外れて森の中を、猿の様に木から木へと飛びながら進んだ方が遥かに早いが、今日は神様のお告げに、あえて逆らう事に決めた。

 1階に下りて宿の親父と挨拶を交わすと、散歩というかランニングに出かけた。
 これから暫くは2号と一緒に旅をすることになるので、間違いなく運動不足になるだろう。レベルが上がれば身体能力はアップするが実際の筋肉量が増えるとか言う事は無い。実際の身体能力xレベルアップによる補正が今の身体能力ならば、通常のトレーニングによる地力の上昇は不可欠だと思う。

 宿屋に戻ると朝飯時と重なったせいか食堂は込み合っていたが、宿屋の娘のターラが「おはようございます」と声を掛けながらやってくると唯一空いていた4人掛けのテーブルの席へと案内される。
「肉料理で頼む」
 朝飯の代金は宿代に含まれていて、肉料理に魚料理。それから宗教上の問題なのか肉、魚を使わない野菜料理の3種類から頼む事が出来た……野菜オンリーの料理は珍しいが、それ以外はこれまで泊まった宿と変わりは無い。
「わかりました。ところでお連れさんはどうしたの? ……あっ、失礼しましたお客様」
 ターラは、地で喋ってしまったことに気づいて謝罪するが、俺は笑って手を横に振りながら答える。
「まだ寝ているみたいだ」
 昨日は、あれから夕方過ぎまで寝ていたので、どうせ夜は逆に寝付けなくなって夜更かししたのだろう。
「ではお客様の分を先のお出しします」
 ごく自然な営業スマイルで一礼すると厨房へと戻って行った。

 時間潰しに【所持アイテム】内の荷物をチェックを始める。
 昨日、魔道具屋から宿屋に戻った後、俺は変装を説くと【迷彩】で姿を消すと宿を抜けてから、幾つかの店を回ってオークの死体やオーガの角を売って金に替えたり、買い物をしてから宿に戻る事で、出入りの帳尻を合わせたのだ。

 購入したのは武器屋でクロスボウ用のボルトを50本と、クロスボウに取り付ける銃床用に少し加工してもらった木材──この世界には銃床付のクロスボウは存在しなかっただけではなく、銃床というものを説明しても理解されなかったので自作するしかなかった──を買った。
 そして道具屋で木工用のナイフ──彫刻刀に近い形状で、刃から柄までが一体になった金属製の道具が存在した──とヤスリ。そして王都までの道が描かれた地図と大型の水筒を2つ購入した。今までは【水球】を使えば水は出し放題に使い方だったが、これからは2号という同行者が居るので普通の旅人と同じような水の使い方をしなければならない……実に面倒くさい。
 その後は市場を回って食料品。特に果物の類で見た事の無いものを中心に購入したのだった。

 確かに自分の体感時間は経過したが、チェックするにはシステムメニューを開く必要があるので、一瞬も経たずに終わってしまった。昨日もそうだったが時間を潰すのは何か考え事でもしていないとならないのだ。
 クロスボウの銃床の取り付け方法について──銃床自体は昨晩の内にほぼ完成している──考える始めて間もなく、入り口付近のテーブル席の客達がでざわめき始める。
 そちらへと視線を投げると、1人で店に入ってきた人物と周囲のテーブルに居る男達との間で微妙な緊張感が居心地の悪そうな空気を作っている。

 耳を澄ますと彼らの呟きの中に「エルフ……」という聞き捨てなら無い言葉が聞こえてきた。
 エルフ。それはファンタジーのファンタジーたる所以とも言うべき存在。そう、龍を倒しドラゴンスレイヤーにまでなりながら、この世界に感じていたファンタジー感の不足はエルフと出会っていなかったからではないだろうか?
 そのエルフが今、俺の目の前に居る…………うん? ……あれ? ……無いぞ。おかしいな、流れ落ちる銀の滝の様な腰まである癖の無い銀髪の中からつんと尖った長い耳が飛び出ていない。ああなるほど、扉の前に立っている人物ではなく、エルフは別の人間な訳ね……居ないぞ。エルフは何処だ? 隠し立てすると為にならんぞ! うん、テンションがおかしい。

「いらっしゃい!」
「食事をしたいのだが……満席かな?」
 声は男か女か分からないが、話し方からすると男だな。
 今更性別に気づいたのは顔も美形過ぎて男か女か区別がつかない位であり、身体は足元まである長いマントに包まれていて体形も分からなかったからである。
「そうだな……」
 宿の親父は食堂の中を見回して、俺の方で視線を止めるとニヤリと笑みを浮かべて「お客さん。相席は良いかい?」と聞いてきた。
 そう言われてしまうと嫌でもノーとは言えないのが日本人である俺は「構わない」と答えてしまった……馬鹿馬鹿! 俺の馬鹿! 何でこんな鬱陶しいほどの美形と向かい合って飯を食わなければならないんだ? 僻みしか出てこなくて自分が惨めになってしまうじゃないか。

「折角1人のところを申し訳ない。同席のの許可、ありがとう」
「どうぞ」
 俺が席を勧めると一礼してマントを外す。マントの下から現れた胸板を見て、やはり男だったかと確信する。
 そしてマントを隣の椅子の上に乗せようと上半身を屈めた拍子に、彼の髪の間から耳が慎ましくのぞいた。
 その耳は耳朶が無く細くて尖っていて、人間の耳に比べると少し長い。これはあれだ和製ファンタジーに出てくる似非エルフではなく指輪物語に出てくる本物のエルフだ……そもそも本物のエルフって何だ?

 エルフだと思って、改めて見ていると神秘的なほど美しい顔立ちだ。切れ長のアーモンド形の目はアジア系を思わせる。そういえばエルフの目はアーモンド形というの説を聞いたことがある。ともかく全体の造詣が見事に整っていて人外の美しさがでありながらも、それを人間の美的感覚に美しいと訴えかけるのだ。
 食堂の客達が彼へ向ける視線はエルフという異種族へと向ける恐れや警戒ではない。その美しさに惹かれつつ畏怖する複雑な感情がこめられているのだろうと思った。

「先日泊まった宿の食事が余り美味しくは無かったもので、食事処を探していたのだけど、この時間は中々入れる店が無くて──」
「いらっしゃいませ。現在、朝食タイムなのでメニューは肉、魚、野菜の3種類定食のみになりますがよろしいでしょうか?」
「それではとりあえず肉の定食を肉特盛りで頼みます」
 分かっている。エルフと言えば菜食主義みたいなイメージがあることを、俺も一時はそう思っていた。しかし一方でエルフと言えば弓である。現に目の前のエルフもマントの下では立派なロングボウと矢筒を背負っていた。つまりエルフはバリバリの狩猟民族なのだ。肉を食わないわけが無い。
 こう言うと、弓は森への侵入者と戦うためと言う反論もあるが、動物ならともかく人間など知恵を持つ相手に森の中で弓で戦えば、遮蔽物である木々を盾にして距離を詰められるだけである。つまりエルフにとっては弓とは狩猟を主目的にした武器以外にはあり得ない。


「お待たせしました。肉定食と肉定食の肉特盛りです」
 暫くして同時に来やがった。俺と彼の間に肉定食を注文した声は3度ほど聞いた気がするので、俺を遅らせたか、それともエルフの注文を優先したか、もしかしたらエルフの注文を早めるために、俺の注文も一緒に繰り上げたかだ……周囲を見渡すと、不満そうにこちらを睨んで居る奴が居たので3番目が正解なのだろう。
 自分も恩恵にあずかっていて何だが、イケメンもげろと妬まずにはいられない。

「君の黒髪に黒い瞳……随分と珍しいね」
 朝っぱらからのオーク肉のたっぷりの400g以上はあるステーキに梃子摺る俺に対し、その倍以上はある厚さと1.5倍以上の面積がありそうなステーキに対しても動じる素振りも見せず、己の健啖さ誇示する彼に苦笑いで応じた。
「そちらの尖った耳ほどではない」
 実際、こちらの世界に来て、髪と瞳の色の事を直接口に出して言われたのは初めてだ……もっとも口には出さないだけで、奇異な目で見られた事は1度や2度ではないが、彼ほどの露骨な注目を浴びた事は無い。
「おや? 彼らが私を注目するのはエルフだからではないと思うんだがけど」
「……そうなのか?」
「君はエルフに関して余り知識が無いみたいだね」
 そう言いながら大きく切り取られた肉の塊を口の中に詰めていく。実に旨そうに笑顔で食べる……食欲さえも俺はエルフに勝てないのか?
「どちらにしても、珍しそうに見られてるのはそっちだろう」
 反発感から出た俺の言葉に彼は周囲をゆっくりと見渡す。彼にぶしつけな視線を投げかけていた客達は慌てて目を逸らす。
「全く困ったものだよ」
「無理も無いさ、その綺麗な顔が気になるんだろ」
 認めるのは癪だが、この話の流れ的に認めないと先に進まない……くそっ誘導したんじゃないだろう? 段々僻みが酷くなっていく自分が惨めだ。

「綺麗……何をいきなり、初対面の女性に、き、綺麗などと……」
 ……じょ、じょ「女性だと?」
 また口に出してしまった。
「やはり私を男だとでも思っていたのだな……まあ良い。そう疑われるのは初めての事ではない」
 確かに、マントを身に着けて黙っていれば、男女の可能性は五分五分だが、喋れば6対4で、マントを脱いで胸板…そう、胸ではなく土台である胸板をさらした段階で、限りなく10対0となる貧乳界の期待の逸材だからな、男と思われるのも当然だろう」
 ……また思っている事を口にだしてしまった。
 次の瞬間、テーブルの向かいからフォークを握った右手が俺の首元を目掛けて飛んで来るのを、左手を伸ばして彼、もとい彼女?の手首を掴んで止めた。
 ちなみに、こちらのフォークは歯が二股で長く、そして鋭いので首を吐かれたら普通に死ねる。

「くっ!」
 顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけながら、必死に俺に突き立てようと手首から先だけでフォークを振り回すが、力勝負で俺に勝ちたいなら精霊の加護でも受けてくるんだな……精霊の加護? 何でそんな事を俺は知ってるんだ?
 俺が意識がそれた瞬間、彼女?はフォークの首あたりの背に添えていた人差し指を表側に移して、そこを支点としてフォークを180度回転させ、逆手に握り変えると俺の手首目掛けて振り下ろそうとする。
 それに気づいた俺は咄嗟に左肘を上げながら手首を返して、彼女?の手首の稼動範囲から外すと、そのまま手首ごとテーブルの上に叩きつけて握っていたフォークを吹っ飛ばす……こいつ的確に急所を突いてくるなんて。
「お前、命取りにきやがったな!」
「殺す!」
 鋭く即答されてしまった。何がここまで彼女?を思いつめさせたのだろう? どう考えたってあの胸じゃ男と勘違いされるなんて日常茶飯事だろうに、その度に刃傷沙汰を起こしていた訳でも無いだろう。何処でスイッチを入れてしまったのか自分でも分からないよ」
「貴様! まだ言うか!」
 うん、今のは態と聞かせるための独り言だ。ただの失言で、しかも客観的な事実を口にしただけで命を狙われたんだ。言いたい事くらい言わせて貰いたい。

「確かに私は胸の薄さについて同族達からも揶揄され続けてきた。ああ慣れてしまうほどな。ある時など『お前って、胸の筋肉が動くのが直接見えるだろ』などと言われもした」
 それは酷い。他の客達もざわつくほどの酷さだ。
「あの時は腸が煮えくり返る思いだった。本当のことだけに!」
 本当なのかい! ちょっと泣けてきた……ごめんよ、二度とからかったりしないよ。「彼女?」じゃなくちゃんと「彼女」って言う事にするから。
「だが我慢ってモノには何時か必ず限界がやって来る。久しぶりに普通に女として綺麗だと褒められたと思えば、単に男だと思われていただけで、更には……誰がえぐれ胸だ!」
 うわっ、俺は知らず知らずに、持ち上げて落とす事で、とんでもない地雷を踏んでしまったようだ。
「待て! 貧乳とは言ったがえぐれ胸とまでは言って無い。僅かだがお前の胸はプラスで、マイナスではないぞ」
 という必死のフォロー。
「今更だ黙れ! 我慢の限界の時に居合わせた不幸と、己の失言を呪って死ね!」
 今度は左手のテーブルナイフで突きを放ってくる。だが自分で踏んだ地雷だろうが何だろうが殺されてやる訳にはいかない。
 内から外へと右の掌を、ナイフを持つ左手の親指の上に覆い被せるようにしながら、小指で彼女の人差し指をナイフの柄ごと巻き込んで、そこを支点にし小指の付け根でナイフの柄を外へと押し出すように回転させつつ、柄が中指から小指までの3本の指から外れるように下に少し捻ってやると、梃子の原理で簡単にテーブルナイフは俺の手の中に収まった。

 ナイフを俺に奪われた次の瞬間には、肩から脇の下に吊るされたナイフへと手を伸ばしたので、システムメニューで時間を停止させて奪い取る。ついでに危険物は全部没収した。
 システムメニューを解除すると、脇の下に伸ばした手があるはずのナイフの柄を探して彷徨う。
「探してるのはこれか?」
 まるで手品のように右手にナイフを刃の方を指で摘んだ状態で出現させると、目の前で左右に振ってみせる。
「返せ!」
 手を伸ばして奪い取る。その一瞬前に収納してナイフを消した。
「ちっ!」
 大きく舌打ちすると、そのまま空いている自分の横の席の上に置かれた矢筒へと目を向けるが、当然、中の矢は全て収納済みだ。
「な、何故だ!」
 こちらを振り返る彼女の目の前に矢筒に入っていた7本の矢──システムメニューで【所持アイテム】内に入れておくことも、魔法の収納袋も持っていないなら、旅装で20本も30本も矢を持ち歩く事はありえない──を握った右手を突き出してみせながら「落ち着け」と諭す。

「落ち着けるか! 貴様を殺して私も死ぬ!」
 それなんて無理心中? まるで、浮気男とその彼女みたいな発言だけど、俺との間に何時恋愛感情が芽生えたの?
「待て百歩譲って、俺を殺したいのは分かるが、何故お前まで死ぬ?」
「お前を殺した理由が『自分のことをえぐれ胸と侮辱したから』と、生き恥を晒してまで生にしがみ付けると思うのか!」
 分かった……分かった。しかし、えぐれ胸とまでは言っていない! 冤罪だ、弁護士を呼んでくれ。
「分かったら死ね! 涼やかなる風の精霊よ、死の刃となりて──」
 物騒な言葉とともに、魔法使い見習いである俺のシックスセンスに何か魔力とは似て違う魔的な何かが集まるのを感じた……これは精霊魔法という奴か?
 とりあえず俺は、再びシステムメニューを開いて時間を止めると、自分の皿の上の残ったステーキを半分に切り分けると、フォークで彼女の口から無理矢理押し込んで、口の中を一杯にしてやってからシステムメニューを解除した。
「ムグッ……ほれふぁなひあ……」
 何を言っているのか分からないが、今がチャンスである。
「そちらの身体的な問題について、論った無礼な失言に対しては詫びさせてもらう……すまなかった」
 そう言ってテーブルの上に額が着くほど深く頭を下げる。ここまで殊勝な態度を取られたら、許せないとは言え無いだろう。俺なら絶対に言えない! 人間として言えなくて当然な──
 気配を感じて咄嗟に頭を左に振ると、次の瞬間右の耳を掠めて何かがテーブルに突き刺さる音を聞きながら、後方へと飛び退く。
 目の前には皮のブーツの踵をテーブルに食い込ませながら、口の中の肉を咀嚼する女エルフの姿……確かに身体的特徴というレベルを超えた無い乳には同情の余地もあるが、この執拗なまでの殺意には流石に俺もキレる。
「この気ぐるいのえぐれ胸め、表に出ろ!」
 そう叫んだのも仕方が無いことだと思う。


 宿を出た俺とエルフは、5mほどの距離を開けて向かい合う。
「もはや我が怒りは貴様を八つ裂きにしなければ収まる事は無い!」
 そう声を荒げるエルフに対して、俺は表に出るまでに既に冷静というか醒めていた……どうしてこんな茶番に、簡単にキレてしまった自分が恨めしい。
「胸が大きい小さいなどという理由で、殺されてやるわけにはいかない。俺の命はその胸より遥かに重い」
「まだ言うか!」
 叫びながらナイフを抜こうとするが、当然俺は返却などしていないので、彼女にとっては呼吸するのと同じくらい慣れ親しんだ動作だろうが、手は空しく宙を掴むだけだった。
「私の武器を返せ泥棒!」
「欲しければ取りに来いよ」
 ノープランで挑発を実行してしまう。いい加減言葉の通じない奴の相手をするに疲れて、考えるのが面倒になってきたのだ。

「清らかなる水の精霊よ──」
 詠唱を開始するが、そんなもの待たねばならない法は無いので、ダッシュで距離を詰める。
 エルフも慌てて後方に下がりながら詠唱を続けるが、後ろ向きでは逃れられる訳も無く、俺は2度地面を蹴っただけ手の届く範囲に彼女を捉えた。
 弦の張っていない背中のロングボウを肩越しに掴み取り右から左へと薙ぎ払ってくるが、地面すれすれに身をかがめて潜り抜けると振り切って隙の出来た彼女の右脇から背後に回りこむと、システムメニューを開き【所持アイテム】から取り出した手拭を使って後ろから口元に猿轡をかまして詠唱を止める。
 そしてシステムメニュを解除して、口元から手拭を外そうと反射的に伸ばしてきた両手を背後から掴み取り、前回しで背へと引き寄せると再びシステムメニューの時間停止中に両手を後ろ手に縛り上げた。

 口を封じられ、両手を縛られて暴れるがボーイスカウトのロープワークを参考にした縛り方なので、暴れれば暴れるほどむしろ締まるだけだ。
「俺には勝てないと分かっただろう」
 実際彼女と俺の戦力差は大きい。彼女ではレベルアップの恩恵の無い頃の俺にでも、精霊魔法を上手く使わなければ勝てない程度だろう。
 決して彼女が弱いという訳ではない。俺は元からこの世界のレベルよりも強いのだと思う。実際、体格面からしてもこの世界でもかなり大柄の方に入るだろう。去年の身体測定では175cmで、今は176cm……いや177cmくらいになっていれば良いなと思う程度の俺がである。
 町の雑踏の中を歩いていると、まるで自分が185cmを超えたんじゃないかと思うくらい周囲との身長差は大きい。
 つまり、この世界に来た段階で既にアドバンテージが与えられていたのだ……加護持ちに対してはレベルアップの恩恵があっても勝てるかどうか怪しい程度だけどさ……だから加護って何? システムメニューの何かの説明で読んだのか?

「うぅぅっ!」
 顔を怒りに赤く染め、低く唸り声を上げながら激しく身を捩る……だから、手を縛った紐がどんどん食い込んで痛くなるだけだからさ止めてよ。
 だが全然諦めそうに無い。どうする【昏倒】で眠らせて逃げるか?
 駄目だ周囲の人間が本気で起こしに掛かれば直ぐに目が覚める仕様だし、そんな短時間では2号を起こして街を離れたとしても、基本的に道はタケンビニへと東に向かう狭い道と南北に走る街道だけなので、少し聞き込みをすればどちらに逃げたかなど直ぐに分かってしまうだろう。
 すると物理的に追跡不可能にするか説得して和解するしか方法は無いのか? 物理的にというのは駄目だろう。人目が在り過ぎる……って何を犯罪者的な思考に走ってるんだ。
 それが駄目なら説得か……知性を持ち、同じ言葉を話す──俺はシステムメニューの自動翻訳だけど──者同士だ。
 言葉を尽くして語り合えばどんな問題も必ず解決出来る……小学校の頃の担任が言っていたが、はっきり言って戯言だ。その戯言が正しいなら戦争なんてこの世からとっくに無くなっているはずだと子供にも分かる理屈であり、「お前馬鹿じゃねぇの」とボビー・オロゴン風に指摘しなかったのは我ながら素晴らしい忍耐力だったと思う。

 そんな戯言が真理になるためには、互いの権利を制限しあっても争いを回避する事で、争いの結果に得るものよりも多くのモノを互いに得る事が出来るという状況を作り出して、全ての人間にそれを理解させる必要がある。
 はっきり言って無理だと断言できる。ミガヤ領の話では無いが一度全てをぶっ壊して新たな社会を構築しないと無理だ。例えば宇宙人がやってきて、全ての国家・民族の枠組みを破壊した上で、優れた科学力で地球環境・食糧問題・資源・エネルギー問題を解決した上で、新た社会を構築するとかなら可能だろうが……宇宙人、どんだけ良い人なんだよ!

 だが自分の目の前の相手を見ても、これが話して何とかなる相手とは思えない。
 大島の赤いメロン熊にも負けないほど興奮に顔を赤くして、眼はまるで本当のメロン熊……あれ? 何やら伏せ目勝ちで、何故かモジモジトとした態度……いや気のせいだ。それよりもはっきりと言ってやらなければ。
「諦めろ。これ以上やろうというのなら、全身を縛り上げて木から吊るすぞ」
 だが、俺の言葉に何かスイッチが入ったかのように、ビクッと身体を震わせると潤んだ目でこちらを見つめてくる。
 もしかして? ……いや、そんな馬鹿な。エルフだぞエルフ。誇り高い森の賢者であるエルフだぞ……でも、これは……いやいやまさか、Mのエロフなんてそんなものが実在するはずが無い。
 しかも、口に手拭で猿轡をされて両手を後ろで縛られただけでエロフに早変わりなんてドMだろ。
 信じられない。この世に自分の想像の遥か外にいるドSが存在する事を大島によって思い知らされたが、まさかドMがいるなんて……それって捜索の中にしかい存在しない空想の産物だろうとしか思ってなかった。
 それが今、俺の目の前にいるのか?

「わ、私を止めたいなら、もっと強く縛り付けなければ……必ずお前を、殺す……だからもっと……もっと縛って……猿轡ももっとしっかり……」
 本物でした!
 確かに俺はSかM化と聞かれたらSだろうが、所詮はソフトS。しかも言葉責め専用なので本物のドMが相手では荷が重いのでパスだ。
「いいか、危険だからこいつに手を出すなよ。俺は準備をしてくるから、頼むから手を出すなよ」
 勿論、準備をしたらそのまま逃走するつもりだが、わざわざ警告するまでもなく周囲の人間もその妖しげな雰囲気に思いっきり引いている……一部の人間にいたっては腰を引いてる。勃起してんじゃないよ!

 宿屋に戻ると階段を駆け上がり、自分が泊まった部屋に戻ると荷物をまとめてから【迷彩】で姿を消すと窓から外に出て、隣の窓から2号の部屋へと侵入。
 【迷彩】を解除してから、寝ている2号を容赦なく収納するとドアを開けて外に出て、そのまま鍵を2つとも返してチェックアウト。
「おい、連れはどうした?」
「連れはとっくに出て行ったみたいだ。すまないが俺も急ぐので失礼する」
 そう言って入り口のドアを開けると同時に【迷彩】で姿を消して、その場から離脱した。

 誰にも見つからないように慎重に移動して街の西、街を周囲を取り囲む城砦の如き壁を飛び越えると西の森へと飛び込んだ。
「もしタケンビニに向かう東の道を無視したとしても、これで俺が北と南のどちらへ向かったかを当てられる確率は1/2で、さらに街の中に潜伏している可能性を含めれば、初動が遅れて追跡は難しくなる……勝ったな!」
 と自信満々にフラグを立てた。



[39807] 第61話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:e672632b
Date: 2015/06/15 22:29
 街道と平行に100m以上奥に入った森の中を猿(ましら)の如く枝から枝へ、木から木へ跳躍を繰り返して移動を続ける。
 このまま一気に距離を稼げば、もしエロフが北への道を選んで追って来たとしても、王都に着くまでは追いつかれることは無いだろう。
 万一、途中で諦めずに王都まで追って来るような事があったとしても、王都と呼ばれるくらいだから広くて人口も多いだろうし、俺が目立たないように大人しくしていれば見つかる可能性は高いはずだ。
 そもそも、エロフだって暫くすれば頭に上った血も引くはずだし、何時までも執拗に追っては来ないだろう……それに他の奴にえぐれ胸をからかわれて刃傷沙汰になって御用になってる可能性も高い。是非そうなって俺の事を忘れた上に牢屋にぶち込まれて欲しいものだ。

 それでも休まずに100km以上の距離を稼いだのは、森を移動中に誰かに見られているかのような気配を感じ続けたためだ。
 それを振り切るように移動し続けた結果である。はっきり言って100kmも半日で移動した方法を2号にどう説明したら良いのか困る。
 領境を越えてクロンバス領のトリムという街に今日の宿を定めた。
 ちなみに今回は街に入る門の近くで2号を【所持アイテム】身体した後に、起こさずに肩に担いだ状況で街の中に入ったので、宿のチェックインも面倒な手続きをせずに、普通に2人部屋を借りた。

「此処は誰? 私は何処?」
 2号は混乱している。
 今いる場所がトリムの宿屋だと聞いたせいだ。
 寝て起きたと思ったら既に昼前で、しかも100kmも離れた街にいると知ったら、そうなっても無理も無いだろう。
 まあ決定打となったのは、距離的矛盾の穴を埋めるために、馬を借りて移動したと俺が適当に吐いた嘘だけど……俺は馬なんかには乗れないし、何処で誰が貸してくれるのかすら知らないけど、意外に騙せるものだな。
 そのために自分の健康状態に大きな不安を抱いた故の混乱だ。
 確かに、何時間も馬の背の上で揺られていたのに起きなかったとしたら、自らの正常を疑うだろう。
 いつか本当の事を話して上げられる日が来るかもしれない。だから、その日までそっと混乱していなさい……という訳にはいかない。
「冷静になれ!」
 2号の頬を往復で張る。
「痛いじゃないか!」
「痛くしてるんだ。お前は2日連続で寝くさって人に運んでもらって迷惑掛けて、何をボケてるんだ」
 一方的に責任を押し付ける……まさに非道。
「す、すまない」
 何だかんだ言っても育ちの良い坊ちゃんなので素直に謝ってしまう。
「それでだ、王都に関す事を教えてもらいたい」
「王都? ……今このタイミングで?」
 このタイミングもなにも、結局俺は2号から必要な情報を引き出す機会は今が初めてだし、もし、この後で問題が発生するようなら、再び2号を【所持アイテム】の中に収納して、俺は一気に王都まで出るつもりだから、これが王都に入る前の最初で最後かもしれない機会なんだ。
「良いから話せ」
「わかったよ……」

 王都レマゴープは、ラグス・ダタルナーグ王国の政治の中心……つまり経済の中心とは言えないそうだ。経済的発展では北と東にある港を備えた商都と呼ばれる街の方が上。
 しかし、それらと整備された街道で繋がっている王都の繁栄は華々しく、人口、文化面などでは商都を圧倒している。
 などと概略を教えてもらった上で、次は質問タイムだ。
「図書館のように本を閲覧する事は出来るか」
「図書館? 何それ?」
 畜生! 所詮は現実の中世レベル社会だけあって、知識の広い範囲への公開などという考えは存在しないようだ。
「それじゃあ、色々な本を閲覧できる場所は無いか?」
「僕が通っていた学院になら書庫があったけど、生徒や関係者以外は学院に入る事も出来ないよ」
「生徒、または関係者になる方法は?」
「生徒の資格は貴族または貴族の子弟だけ……たしか推薦があれば平民でも入学が可能だったと」
「推薦は誰から受けられる?」
「いわゆる大貴族、有力諸侯だよ。君のせいで勘当されてなければ父からなら推薦を貰えたかも知れないけどね!」
 既に手遅れだよ。

「関係者になる方法は?」
「関係者といっても、書庫に立ち入りが認められるのは教員や事務員、もしくは卒業生くらいだよ。入学資格以上に条件は厳しいと思うよ」
 ……まあ良い。いざとなったら無断で侵入して本を読み漁れば良い。むしろそちらの方が手間が少なくて楽だろう。
「あとは魔法について教えてくれる人物に伝は無いか?」
「僕が面識がある範囲なら、全て学院の教員になってしまうけど、王都には魔法使いの私塾が幾つかあったはずだからそちらを当たってみるといい……ところで何故魔法を?」
「一応適正があるみたいだから、何とか使えるレベルにしたいんだ」
「そうか……君は才能に溢れているんだね……それに比べて僕は……」
「駄目な子だったのか?」
「失礼な。これでも僕は学院を片手の指で数えられる優秀な成績で卒業しているんだ! ……だけどそれが何の役にも立たないんだ」
 ……ものは言いようという奴である。1位の人間なら1位というだろう。2位の人間なら主席を争ったというだろう。3位の人間なら3本の指に入ると表現するはずだ。

「なぁ……5番目なら5番目の成績で卒業したと分かりやすく伝えろ」
「放っておいてくれよ!」
 逆ギレかよ。確かに地元自慢で日本何大都市と言う言葉を口にする人間がいる。いわゆる三大都市という括りにはいろんな解釈があり東京を別格として外したり、横浜は東京の衛星都市として東京の都市圏として外したり、勝手に福岡が混じろうとしたりと様々だが、人口順に考えて東京・横浜・大阪・名古屋の順になる。
 そして二大都市と口にするのは勘違いした大阪の人間であり、三大都市というのは勘違いした名古屋の人間か、もっと勘違いした福岡の人間。
 本来、そんな括りなど無いのに四大都市と口にするのは、勘違いはして無いが地元自慢をしたい名古屋の人間であり、五大都市なら人口的にみれば札幌、歴史的には外せない京都あたりだろうか? ちなみにこの辺になると福岡の人間はもっと上だと信じているので割り込んでは来ない。ともかく必ず揉めるデリケートな話題だ。

「すまない。事実とはいえデリカシーに欠けていた」
「嫌な奴だね。本当に嫌な奴だね君は!」
「一度でも俺の事を良い人だと思った事も無い奴が、今更連呼するなよ……それでだ。一生懸命努力して優秀と呼ばれるようなり、良い成績で学院も卒業しました。さあ故郷であるミガヤ領を良くする為に頑張るぞと意気込んだものの、学んだお勉強は実際には何も役には立ってくれなくて自信喪失状態になり、ついでに俺の事が妬ましいという事だな」
「僕の半生をそんなにあっさり短くまとめないでくれ」
「要点をむき出しにしなければ物事は解決しない……確認するが優秀な成績で卒業したからといって、既に勘当されて貴族の立場を失ったお前は、今更役人として出世して権力を持つというのは不可能なんだろう?」
「いや、そうとは言えない。平民出身でも役人にはなれるし学院の卒業資格があれば、無試験で役人に採用される事が出来る。ただし出世は貴族位を持つ者に比べれば早くは無いだろう……」
「だが優秀ならば、相応に出世も早まるのだろう?」
「確かに平民でも優秀なら、出世は早い。しかし上限がある。ある一定上の役職になるためには優秀さだけではなく、属した派閥の力関係や運が大きくものをいう」
「だが突出した優秀さを示せばその限りでは無いだろう?」
「高々5番目の成績でしか卒業できなかった僕が、突出しているとでも?」

「他に……そうだな軍人として出世するという方法は無いか?」
「可能だな。南方ではリートヌルブとの戦いが続いているので軍人が功績を立てるチャンスはある……」
「だが軍人として大成するほどの力があると自分でも思えないわけだ」
 確かに、貴族としての嗜みなのかそこそこ剣の腕は立ちそうだが、戦場で剣は無いだろう。槍術・弓術・馬術が必要となる。
「槍や弓、それに馬の扱いはどうなんだ?」
「弓はともかく槍はまったく……馬は、たしなみ程度に普通に乗って走らせる事は出来るけど戦場で活躍できるというレベルではないよ」
 後は商人として大成して財力を得て……という可能性もあるが、良くも悪くも真っ直ぐなお坊ちゃん過ぎるので向いてない。
 ……このままだと本当に第一部完で、第二部来世編に突入しないとどうにもなら無い気がする。

 ……使ってみるかパーティーシステム。レベルアップで知力・体力・時の運……時の運は関係ない。更には精神面も『まるで別人』のようにタフに仕上げたら、十分いけるんじゃない? と他人事なので軽く考えた。
 ある程度レベルが上がったら、パーティーから外せば良いだけだし……いや、パーティーから外した後でもレベルアップの恩恵が残るかは分からないか、でも一度レベル10くらいまでパワーレベリングで上げてやってから一度、パーティーから外してみれば確認は出来るな。
「よし、明日試してみたい事があるから今日はしっかりと休め」
「今から寝たら、また夜眠れなくなるからさ」


 宿を出て2号と別行動を取ると、この街でも不審に思われない範囲で、オークの死体とオーガの角を現金化した。
 しかし【所持アイテム】内の在庫は増えている。今日は森の中を移動したので大猟だったためで、レベルも1つ上がって54になった。
 【所持アイテム】の容量が無限ということは無いだろう……本当に無いよね? ……なので必ず限界が来るはずだ。そうなる前に大量の魔物の死体を売却する方法を探すか、処分する方法を探す必要がある。何せあの火龍の巨体まで入ってるんだ。それらを適当に捨てたら疫病が発生しかねない。

 それはさておき懐が暖まったところで魔道具屋を探す。
 昨日購入した初心者向けの魔法や魔法陣関連の本は、既に読破し内容を全て頭の中に叩き込んだので、何なら売却してもう少し高度な内容に触れる本を買いたいし、他に良さそうな魔法道具もあれば仕入れたいからだ。

 屋台でタコスというかブリトーというか、最近のデザート系じゃない肉や野菜の入ったクレープ的なものを買うついでに聞いた魔道具屋へと食べ歩きしながら向かう。日本人、特に田舎の人間は祭りの時以外は食べ歩きをしないから、変な感じなのだが周りが普通に食べながら歩いているので、自分もやってみたのだが中々悪くない。

「この角を曲がって……」
 角を曲がって見えた看板に、反射的に飛び退いて曲がった角を戻って身を隠す。
 俺は見てしまった。店の看板に『道具屋 グラストの店』とはっきりと店名が刻まれているのを……何それ怖い!
 落ち着け、落ち着くんだ。そうだチェーン店なんだよ。そうに違いないと自分に言い聞かせつつも、不安なので周辺マップで店内にミーアがいない事を確認しようとするが……
「表示不可能領域?」
 もう一度周辺マップを確認するが、やはり店の中は『表示対象外領域』の文字以外は真っ黒に塗りつぶされている。
「表示不可能領域ではなく、表示対象外領域だと?」
 『表示対象外領域』の文字に意識を集中してみる。すると更に情報が表示される。
 『強度200オーバーの魔法障壁が張られています。レベルを60以上に上げる事でマップ機能が強化されると、強度300までの魔法障壁を無効化してマップ内での表示、検索の対象とすることが可能になります』
 驚きの新事実、マップ機能は絶対ではなかったのか。魔法でもシステムメニューの機能に影響を与える事が出来るということだ。これは厄介だな──

「やあ、また会ったね」
 考え事に気を取られて背後への接近を許しただと? しかも相手は──
「エロフ! 何故ここに?」
「エロフ? エルフだよ間違えないでくれ」
 笑顔でそう答える。しかしその笑顔には粘りつくような妖しい情念が潜んでいるように思える。

「どうしてここが分かった?」
「知り合いから君が、リューが王都を目指していると聞いてね」
 名前を知ってるだと?馬鹿な、大体俺が王都を目指しているなんて知っているのは2号だけだが、どうやって接触した? ……いや違う。ミーアも知っているはずだ。
 俺の容姿は、この世界ではかなり珍しい様だから、黒髪に黒い瞳と言えば直ぐに俺のことだとミーアには分かるだろう。
「……ミーアと知り合いなのか?」
「……ああ」
 エロフはしまったという風に口元に手をやりながら答えた。
 あのアマ、顧客の情報を簡単に流しやがって。

「しかし、この距離をどうやって?」
「ユニコーンならこの程度の距離は1時間もあれば駆け抜けてくれるよ」
 ゆ、ユニコーンだと……清らから乙女しか背に乗せないという聖獣が?
「こんなドMを乗せるなんて、どんな変態ユニコーンだ!」
 理不尽さに震える俺の怒りの声に、エロフはビクッと身体を震わせると頬を紅く染める……こ、こいつ悦んでやがる。
「い、いいね、君の罵声は心と身体の置くまで響くぅ」
 語尾を色っぽく伸ばすな変態め……そう思っても口には出さない。それは悦ばせる事にしかならないから。

「だが、俺を殺すんじゃなかったのか?」
「もう良いんだ。君になら何を言われても、だから私の薄い胸を好きなように罵倒してくれ……さあ」
 さあじゃねぇ! こ、怖い。何だこの言い知れぬ、俺の全く知らない異質な恐怖は?
「リュー様。こんなところで道草などせずにどうぞこちらへ」
 背後からミーアだと。これでは北の狼、南の虎。そう生き別れになった兄弟がそれぞれの異なる人生を送り、互いにプロ野球の選手となり……ちゃうねん。前門の虎、後門の狼だ。
 そんな現実逃避をしている間に、俺は店へと連れ込まれてしまった。

 この2人がどうやってトリムで俺を待ち構えていたのか分からない。
 エロフの方は、ミーアから俺が王都へと向かっている事を知って変態ユニコーンで先回りしたとしても、俺がこの街に今夜の宿を求めるかどうかなんて分かるはずが無い。むしろ俺の移動速度を知らなければもっと手前の街で待ち構えるべきだろうし、もしも俺の移動速度を何らかの方法で知ったとするなら、この街を越えてもっと先へと向かっている事を考えなければならない。
 ここでピンポイントで待ち構えていたという事は、俺の移動する位置をリアルタイムで知っていたと考えるべきだろう。
 すると……
「もしかして、昨日俺に何か仕掛けたのか?」
 ミーアにそう尋ねた。
「そんなお客様である貴方に、そのような失礼な行いは決していたしません」
「その割には、このエロフに俺が王都へと行こうとしている事を話したな」

 ミーアはゆっくりと俺から目を逸らすとエロフに向き直り、彼女を見つめながら少し厚めで色気に満ちた形の良い唇の口角をキュっと上に吊り上げる。
「アエラ……内緒って言ったわよね、私」
「ご、ごめん姉さん」
 ……姉さん? 2人を見る限り共通点は無いというよりも、むしろ正反対の外見をしている。髪の色、瞳の色、顔立ち。どちらも美しいが方向性がまるで違っている。もしかしたらミーアの髪に隠れた耳はエルフのものなのかもしれないが、彼女はイメージ的にダークの方のエルフだろう。特に胸などは……それ以上胸に関して触れるのは止めておく、もう懲りたから。
 多分血縁の意味での「姉さん」ではなく。年上の知り合いとか、または「姐さん」的な意味なのだろう。そうに違いない。
「でも姉さんから聞いたのだろうと言われたら、言い逃れが出来なくて」
「アエラは昔から誤魔化すのが下手よね。女は上手な嘘が吐けなければ駄目なのよ」
 あんたは何人男を騙して手玉に取ってきたのか、怖くて聞けないくらいだろ。

「そっちの都合はともかく俺の質問に答えてくれ……ただし上手な嘘とやらは止めてくれ」
「分かりました。私がリュー様にお渡しした品や、リュー様の身体に何かを仕掛けたということはございません。リュー様がそのようにお疑いになった原因は、私達エルフの特殊能力の結果です」
「特殊能力?」
「はい、私達は森の精霊達との交信を行う事が出来るので、彼等から森の中を移動するリュー様の場所を知ることが出来たのです」
 取ってつけた様でもありながらも、否定するには説得力のあり過ぎる話だ。
「分かった、そっちのエロフがこの街で待ち伏せできたのは理解できた。だが何であんたまでこの街にいる。しかも店ごと」
 そうだ店ごとだ。間違いなくこの店の中は昨日トリムにあった店の中と全く同じだった。特徴的な壁や床の木目の形と位置が一致するのはざっと見ただけでも10箇所以上はある。
「困ったわ。幾らリュー様でも、そんな大事な乙女の秘密は……」
 俺は笑わなかった。噴出さなかった。表情一つ変えずに耐えた。多分瞳孔は少しくらいは開いたかもしれない。だから、胸の奥でそっと呟かせてくれ……乙女はねぇよっ!

「それなら結構だ」
「それでも、リュー様がどうしてもお聞きになりたいとおっしゃるならば、教えて差し上げますわ……その代わり責任を──」
「結構です!」
 そう言い捨てると、エロフに向き直り「説明して」と言った。
「この店のある空間は、幾つもの町にある店舗の扉とつなげる事で、一つの店舗で幾つもの町に店を開いています」
 エロフがあっさりと答えると、ミーアの口から悲し気な溜息が漏れる……でもそれって、おフランスな香りのする、某有名アニメ映画、魔法使いの動く自宅と一緒だろ。
 それにしても遠く離れた場所と出入り口を繋げるって、魔法ってどれだけ凄いんだよ? 魔術の意味ないジャン。

「だがそれなら、ユニコーンで移動しなくても良かったんじゃないか?」
「それは──」
「アエラ。少し黙ってて欲しいのだけど?」
 答えはエロフの後ろから伸びて来た、両手によって封じられた。
「妹に言わせるなんてひどい方ですね。でも自分に惚れている女性の好意に甘えると高くつきますわよ」
 エロフの口を塞ぎ首を絞めながら、流し目をくれつつ口にしたミーアの言葉にぞっとする……確かにこのやり方は、自分の首を絞めるのに等しい。責任を取る気なんて無いんだから、もう使わないでおこう。
 ちなみにドMのエロフの方は、口を塞がれ首を絞められるという悦びそうなシチュエーションなのに、物足りなそうな表情で、視線は俺をロックオンしている。
「……了解した」
 苦い唾を飲み込みながら答える俺に、ミーアは清楚な少女の様にさえ見える面(おもて)に、男を手玉に取る娼婦の様な妖艶な笑みを浮かべて「それはよろしゅうございます」と小さく頷いた……女怖い。もう止めて。これがトラウマになってホモに転んだらどうするんだ?
「責任をとってノーマルの戻して差し上げますわ」
「!」
 いや、今回俺は何も口に出してはいない。表情に出していたのか……いや、そんな具体的かつ詳細に感情を伝える表情って何だ? という事は……
「……心を読んだのか?」
「はい、リュー様の心の水面に生まれた波紋の如き、揺れた思いの波を」
「だから、いつもこちらの動揺を誘うような言動を繰り返すのか……この魔女め」
「昔、そんな風に呼ばれていた頃もありました……」
 ミーアの美貌に影が差す。遠い悲しい思い出を思い返しているかのように……つうか昔かよ! 流石エルフ、一体何歳なんだよ?
「酷いですわ。女性に歳を問いかけるなんて」
 人の心を読むのは酷くないのかよ。
「…………」
「それはスルーか!?」
「私、魔女ですから」
 それは関係ないだろ。

「リュー様は今日は何をお求めに、こちらへ?」
「別に連れ込まれただけで、この店に用があったわけではない」
「でもリューは、魔道具屋の場所を尋ねながら歩いていたようだが?」
 このエロフめ! 口が軽過ぎる。思いついたタイムリーな話を垂れ流すな。
「別にこの店を探していた訳ではない、むしろ別の店を探していた」
「酷いです。酷いですわリュー様。もう他のお店に浮気なさるなんて……」
「この店のカラクリを知らない俺が、この街でこの店を探すと思う方がどうにかしている。それに他の店にどんな商品が並んでいるのか確認するのは、魔道具に興味を持っているなら当然の事だ。何か問題でもあるか?」
 理尽くで封殺する。これ以上ミーアのペースに乗せられて心を読まれるのは面白くない……それに今回は小芝居が入りすぎていてぐっとも来ない。
「申し訳ありません……」
 そう素直に謝られると拍子抜けな……
「今回の失敗を糧に、リュー様をもっとぐっとさせられるように研鑽いたします」
 また考えてる事を読まれてんじゃねぇかよ!

「……と、ともかくだ。今のところは冷やかし程度にしか魔道具屋には用事が無い。あるとしたら魔法や魔法陣関連のより上級の内容に触れた本があれば嬉しいって事くらいだが、それもまだ魔法操作で躓いている段階だから、急ぎで必要としているわけでもない」
「リュー様。冷やかしなら当店でも可能ですわ。むしろ品揃えに関しては何処の店にも負けないと自負しております」
 俺は店を冷やかしたいのであって、店で弄られたいわけではない。
「代金の方は先日と同じ方法でお支払いいただければ、取って置きの商品をご用意させていただきます」
 それは美味しい。俺的にはほとんどデメリットは無く、一般的な宿屋に泊まり続ける生活を10年は続けられるだけの金が手に入ってくる。本当に美味しい。美味しすぎてむしろ気に入らない。
 美味しい話を当然と受け止められるほど、自分が運命に愛されてはいない事をよく知っている。何かとんでもない裏があるのではと思うと、寝ても立ってもそれが頭から離れる事は無いだろう……何度も言うが気が小さいのだ。

「やめておこう──」
「めったに入手できない最高品質の魔法陣用のインクが用意できたのですが……残念ですわ」
 こちらの欲しいものを先回りで用意して、それを要求の代価にする。何てズルイ……だが一つ納得の出来ないことがある。めったに入手出来ないならば、何故昨日の今日で用意出来たのかだ。
 偶然……それは余りに都合が良すぎる。可能性は無いわけでは無いだろうが、はいそうですかと受け入れるには無理がある。
 ブラフ・嘘……そんなものは入手しておらず、俺を引き止めるための張ったり、もしくは入手が困難であるという事自体が嘘だという可能性だが、この魔女がそんな安っぽい真似をするだろうか?
 そして最後の可能性は──
「その最高級のインクというのは他所から仕入れたものではなく、ミーア。あんたが自分で作ったのだろう?」
 そう、昨日購入した『初めての魔法陣』にもインクの作り方が書かれており、しかも別段高度な技術を必要とするものではなく、ただの作業であり、インク作りに使う多種多様な材料を揃える事が出来るなら俺だって自分で作れる程度のものだ。
 そしてこの魔道具屋なら最初から材料は揃っていた筈だ……そう、インクのグレードを最高級にまで引き上げるための材料以外は──
「参りましたわ。リュー様がご想像の通り、その材料とは先日リュー様が魔力を込めた星石を砕き、胡粉の如き細やかな粉にしたものです」
 そこまで俺の考えはたどり着いてはいなかったのだが、まあ良しとしよう。

「つまり俺が欲しいと思ったなら、今後入手が不可能という物ではないということだな」
「はい、リュー様が星石に魔力を注ぎ込んで下さるのなら、翌日までにはご用意できます」
「ならば、俺も今すぐに魔法陣を使えるようになるという訳でも無いし、それに何とか使えるようになったとしても、暫くは練習や研究目的でしか書く事は無いだろうから普通のインクで十分だから最高級のインクとやらは今は必要ない」
「そんな事はおっしゃらずに、今日もお願いしますリュー様」
 そう言いながら、昨日のよりもずっと大きな星石をテーブルの下から取り出してきた。
 昨日の星石は握りこぶし程度だったが、今回の星石は両の手の平の上一杯に鎮座していて、重さは3倍、いや5倍はありそうだ。
「別に俺が魔力を込めなくても問題なくやってきたんだろう。今まで通りと思えば良いじゃないか?」
「単に魔力の量の問題ではなく、リュー様の魔法は本当に質が良いのです。普通の方なら魔力を込める段階でとても強い負荷をかけて押し込める為に魔力に歪みが出て劣化がありますが、リュー様のように大きな魔力の器を持つ方の場合は、ほとんど負荷をかけずに魔力を流し込むように星石に注入するため劣化が無いのです。その質の良い魔力を込められた星石こそが、様々な魔道具作成には貴重な素材となり得ます」
 何と無くだが「残念ですわ」で簡単に流してしまうのを予想していたのだが、思いがけず必死に食い下がってくる。
「当然です。リュー様の魔力が注がれた星石にはそれほどの価値があるのです。お望みならば私をリュー様のものに──」
「結構です」
 畜生。せめて童貞でさえなければ、俺は、俺は……こんな妖艶という言葉では言い足りないお色気モンスターを貰ったら必ず身持ちを崩す。セックスとセックスとセックスしか考えられないサル状態になるわ!

「それはとてもそそられる可能性ですね」
「心を読むな! 大体、14歳の子供相手に何を言っているんだ?」
「……14歳?」
 ミーアとエロフが、いやエロフ2人が口を揃えて呆然と呟く。
「ああ、俺は14歳だ。そんな子供相手に、お前達はエルフだから何倍も生きているんだろう? 恥ずかしくないのか?」
 正論をぶちかましてやった。

「14歳の少年……それは……それでありかもしれませんね」
 不穏当な事を呟くミーア。おまわりさ~ん! 変態はここです。
「私は子供に、縛られ、罵られて……ああ、濡れる……」
 駄目だ、もう俺の手にも警察の手にも自衛隊の手にも負えない。例え地球を救う力を持つヒーローだってこの変態には三舎を避けるだろう。逃げなきゃ駄目だ、逃げなきゃ駄目だ、逃げなきゃ駄目だ、逃げなきゃ駄目だ!



[39807] 第62話
Name: TKZ◆2fdd7351 ID:e672632b
Date: 2015/06/15 22:30
 脱兎の如く入り口に向かって駆け寄り扉を開けて外に出て扉を閉める。
 何か扉が開かないように……そうだ。【所持アイテム】の中から空中足場用の岩を出しては入り口の前に積み上げた。
 ストックしていた岩を全て入り口の前に積み上げて、ほっと一息つく。大切な空中足場用の岩を失ったが、この安心感には変えられなく、とりあえず1個だけでも回収しておこう何て考えすら浮かばない。
 獲得したつかの間の平穏にとりあえず喜びつつも、その場を割と本気で逃げた。

 だが冷静になって考えれば本当につかの間だ。Mエロフの機動力は100km/h以上であり、混乱から立ち直ったら店を最寄の町の店舗の扉に繋ぎ直して、そこからトリムに戻ってくるのは長く見積もっても1時間、ボストルよりも近い町にも店舗が存在した場合は、更に短縮されるだろう。
 広域マップを開いて確認すると2号の姿は映っていない。つまり俺が立ち入った事の無い表示不可能の領域にいるということだ。
「駄目だな」
 2号を回収してトリムから逃げるというのは時間的に難しい……難しいのかな?
 再び広域マップで『道具屋 グラストの店』を表示してみると、店内が『表示対象外領域』ではなく通常の表示不可能領域扱いになっている。つまり、既に別の町の店舗に繋がっているという事だ。
 俺は店の前まで戻ると、入り口を塞いだ岩を全て回収する。それから人目の無い裏路地に入ると、姿を消してから路地に面した家の屋根の上へと跳躍して、そこから更に上空へと跳ぶ。
 上昇する運動エネルギーが10mほどで全て位置エネルギーに置き換えられたところで、俺は足元に岩を出してそれを足場に更に跳躍する。
 普通なら蹴って、収納不可能な身体から1m以上離れる前に岩を収納するのだが、岩が身体から離れた瞬間に【迷彩】の効果が岩から失われるので、踏み切った足のつま先が岩の上に残っている段階で収納するため、踏み切り時の力は100%伝える事が出来ないので1回の跳躍で得られる高さは5mほどだが、それを繰り返す事で100mほどの高さを得た。そこから見渡す事の出来る360度のパノラマにより、広域マップ内の全ての範囲が表示可能領域になる。
 肉眼で視認し得る範囲ならば周辺マップの範囲を超えて『行った事のある場所』としてマップに表示されるからだ。
 この事は早い段階(第7話)から気づいていたのに、上空からマップの表示範囲を広げるという方法に気づかなかったのは我ながら間抜けだ。

 この方法を取る上での問題は、こちらの不思議一杯のファンタジーな異世界ならともかく現実世界の方で昼間からこの手段を使うと、カメラで偶然撮影されて「空に人間のように見える謎の輪郭が……」などという淡古印体の見出しが似合うホラーな都市伝説が生まれる可能性が高いという事だ。
 夜ならカメラに映ったとしてもそれに気づかれる心配はほとんど無いのだが、流石にレベルアップで向上した視力と【暗視】の魔術の効果が合わさっても、上空から見渡せるのは200-300m程度が限界だろう。
 だが、目的の2号の姿は既に捉える事が出来たので、時折足元に岩を出現させて落下の勢いを殺しつつ、2号がいる場所の近くの人影のない路地裏の未舗装の土がむき出しの地面に降り、【迷彩】を解除すると2号の元へと向かった。

「リューじゃないか?」
 2号が爽やかな笑顔で、口元からのぞく白い歯を輝かせながら軽く手を上げてきた。この貴公子然とした態度を嫌味なくこなすところが嫌味だと思う。
 問答無用で肩を掴むと路地裏に引っ張り込んだ。
「問題が発生した。どうやら追っ手が掛かったみたいだ」
 誰にとは言わないのが肝だ。
「追っ手? まさか父上は勘当だけではなく私の命までも……」
 簡単に騙されてくれてありがたいが、何を甘い事を抜かしているんだ?
「いや待て、お前の父親や兄を排除するって企みは、基本的にこの世からの排除だろうが、むしろそれがバレて殺されないと思うお前に驚きだ」
「何を言ってるんだ? そんな事はしない。父や兄には暫く不自由をかける事になるだろうが、僕の治世により領が落ち着いたならば、幽閉を解き扶持を与えて王都あたりでゆっくりと暮らしてもらう予定だった」
 アカンこの子、頭の中がお花畑パラダイスだ。
「それじゃあ、良くてお前が縛り首か、下手すりゃカプリウル家は取り潰しだろ」
「な、何を一体?」
「お前な、お前の親父は一応国王の家臣であり、建前以上は王によって任じられた領主だぞ。それを息子とはいえ勝手に軟禁して、勝手に領主を名乗ったら王への反逆だろう。この国の法は反逆者へどんな甘っちょろい刑を処すんだ?」
 まあ封建領主という存在は、実際は国の中にある独立国の王であり、自らの領地は自らの物という意識だろうが、それを認め、その立場を保障するのは王の役目であり、それを犯す事は王の権威を踏み躙ることであり決して認められる事は無いだろう。
 そして、その罪の代償は2号の命であり、さらにはそのような不祥事を起こしたカプリウル家自体に帰すると判断するはずだ。
「カプリウル家が諸侯としての地位を与えられているのはお前の親父の功績か?」
「あっ? いや違う。当時宮廷貴族であり軍人であったトループ・カプリウルがレッドネプサスとの戦いにおいて功績を挙げて昇爵し、更にはミガヤ領領主に封じられた事により我が──」
「つまり、大昔のお前の先祖の功績により、子孫が領主に納まっていたわけだ。何の役にも立たず領民を苦しめ、領地を寂れさせているだけなのにのうのうと領主の座に座り続けていた訳だ……俺が王ならこの機会に幸いとばかりに、お前ら一族を処刑か国外追放にして領地を召し上げて直轄地にして皇太子以外の王族か、功績もあり信頼できる家臣をミガヤ領に封じる。つうかそれをしない理由が想像できない」
「そ、そんな……」
「だからお前には、まずは跡継ぎの兄を事故か自殺に見せかけて殺し、自分が時期領主の立場になってから、現領主である父を暗殺する以外にお前が領主になる方法は無いと思っていたし、お前もそのつもりだと思っていたんだが、まさかそんな事も理解していなかったとは……もう諦めた方が良いんじゃないか? ミガヤの領民が苦しんだとしても、それはお前のせいって訳じゃないだろ。お前はお前で自分の器に似合った人生を生きていけば良いんだよ。無理に背伸びしたところでお前の大き過ぎる夢は沢山の人を巻き込んで大きな不幸を生み出すぞ」
「だけど、だけど領民の皆の生活を……」
 最初の、この街を出るように誘導するという趣旨とは、かなり方向性がずれてしまったが、悩んでおいて貰いたい。
 政治的権力を握りたがる奴は無責任か聖者様だと思っていたが、無知も含まれるというのは勉強になった。

 しかし余計な時間を食ってしまったので、言葉で誘導するのは諦め、2号を眠らせて収納し、この街を脱出しようと思ったところで周辺マップの南端に、映ってはいけないものが映ってしまった。エロフ……いや、今のところエロフ率100%のエルフにエロフでは伝わる気がしない。確か『アエラ』という名のドMエロフである。

「えっ! ……何で?」
 このタイミングで現れるとは完全に想定外だった。まだ店を脱出してから10分ほどしか経っていない。俺の希望的予想では最短でも30分間の余裕があると思っていたのに、近隣の宿場町にも店舗、もしくは接続可能なポイントを用意していたのだろう。そうでなくては説明がつかない。
 これは厄介な事だ。比較的大きな町にのみ店舗を用意して空間を繋いでいるものと思っていたが、店舗すら出していないような町や村にも空間を繋ぐ場所を用意しているかもしれないのだ。しかもこの国のみならず他国にまでも……そうなれば俺に逃げ場は無い。あの魔女なら空間を繋げる町や村の全てに魔法的手段で俺を探し出せる方法を確立していても全く不思議は無い。
 つまり、俺には逃げ場が無い可能性が高い……終わったな俺の貞操。

「リュー? どうしたいきなり」
 いきなり自分以上に呆然とし立ち尽くし、更には上を見上げてピクリとも動かない俺に戸惑いがちに尋ねてくる……涙が零れる前に声をかけてくれてありがとう。
 しかし、どうしたものだろう? やはり2号を失神させて収納して逃走するか? だがそれで逃げ切れるのか? 森を逃げれば流石にユニコーンといえども地面を走っている限り追いつく事は不可能だろうが、森の精霊とやらに監視されているのと同じ状況では追跡を振り切る事は不可能であり、常に逃げ続けるのは面倒すぎる。
 そして逃げるのが駄目ならば戦うか降伏するかだが、変態相手に戦うのも降伏するのも御免だ……つまり、世の中のあちらこちらに転がっている『どうにもなら無い状況』に俺は追い込まれている事を自覚させられる。
 あくまで常識の範囲内の対応で済ませたいので、ドMエロフを眠らせてから収納して居なかった事にする。という素晴らしい方法は、何度も引き寄せられそうなるが使わない……予定だ。
 幾ら長寿のエルフとはいえ、俺が死ぬまで【所持アイテム】の中に放置なんて……むしろその放置っぷりに悦んじゃったりする可能性もあるかも知れない。

「大丈夫なのか?」
 返事をしない俺に2号が声を大きくして話しかけてくる。
 ……! ふと考えが浮かんだ。実に酷い考えであり、自分の正気を疑ってしまうような悪魔的な発想だ……2号にドMエロフを押し付けちまえば良いんじゃないだろうか?
 その魅力的過ぎる発想に、俺の中で常識の範囲というものが勝手に書き換えられそうになる。変態だが長い時を生き続けている以上、2号の役に立つ知識や知恵を蓄えているだろう……本当にどうしようもない変態だけど。
 だからドMエロフ、いやアエラさんは2号にとって必要な存在だ。そしてアエラさんにとっても2号は必要な存在になるはずだ……性的な意味で。
 そんな2人の出会いを繋ぐのは決して悪い事ではない。むしろ恋のキューピットであり恥じるどころか感謝されるべきだろう……うん、無理だ自分すら騙せないような嘘は駄目だ。第一、2号が可哀想過ぎて全米が涙してしまう。


「……待たせたかな?」
 タイムアップだ……だがせめて心の中で言わせてくれ、誰も待っちゃいねぇよ!
 町の南門から走ってきたのだろう呼吸が荒く、顔が紅潮していた……性的興奮では無いと思いたい。
「いや、思ってたより早かったよ」
 平静を装い答えた。
「今回はノプオクからだから、こんなものだよ」
 やはり南から来たということはノプオクか、トリムの一個手前にあった、リトクドとの領境の傍の宿場町だ。そこからなら10分少々でたどり着くのも頷ける。だがそれは同時に『道具屋 グラストの店』はこの国──だけじゃない気もするが──において根を張り巡らせているという事でもある。
 やはり俺には逃げ場が無いということだ。もう嫌だこの異世界。

「リュー、この……人は一体誰なんだ?」
 2号は一瞬言いよどむ「この女性」と呼んで良いのか分からなかったのだろう。分かります。
 だが間違えるな2号よ。こいつの性別の不明さはマントを脱いで体形を露にした後にこそ真価を発揮するのだ。
「誰と言われても困る。一応顔は知っているが、互いに名前すら名乗りあった事の無い他人だ」
「いや、それは……そうだが……冷たく突き放される、これもまた……」
 一瞬、突き放す俺の態度に寂しそうな表情を浮かべるも、次の瞬間には、こういうプレイもありかという微妙な表情に変化する……駄目だ病状が進行している。
「? ……え~、私はカリルと申します。よろしければお名前をお聞きしても宜しいでしょうか?」
「これはご丁寧に、アエラです宜しく」
 2号に挨拶へ挨拶を返す時は、最初に同じテーブルで飯を食っていた頃のようにまともだ。もしかしてこいつの変態は俺だけにロックオンなの?
「しかしエルフ族の女性が、森を出るなんて珍しい……というか女性を見たのは初めてですよ」
 えっ? 築いていたのか、大阪城? ……違う。気付いていたのか、2号?
 どうして2号は目の前の胸なしエルフが女だと気付いていたのか? そう言えば、最初に会ったときにもエルフに関する知識が無いと言われたな。
 だけど遭遇の可能性が極端に低いエルフ女が100%の確率で厄介なエロフだったのだから興味が無い……いや待て、これ以上のエルフ害を被らないように、正しいエルフ予防の知識は必要なのかもしれない。今更聞きづらいので後でこっそり2号に聞いておこう。


「それでアエラさんとリューの関係は?」
「奴隷とご主人様」
「…………リュー?」
 そんな蔑んだ目で見られても俺は無実だ。首を横に振り否定してやると2号はエロフに向き直る……良かった分かってくれたか。
「どっちが奴隷で、どっちがご主人様?」
 全然理解していない!
「私が奴隷で、リューがご主人様だ」
「違う。断じて違うぞ。これは悪質な捏造だ!」
 何ていう名誉毀損。これは裁判で訴えて、最高裁に持ち込んででも勝たなきゃ駄目だ。

 裁判はともかくとして、2号の肩を掴んで、離れた場所まで引っ張って移動する。
「一体何が捏造なんだ?」
「俺にはエルフに関する知識が無い。だからあいつと食堂で相席した時に男だと勘違いしたんだ。さらにマントを外すと胸が全くなかったから本当に男だと確信したら。なのに女だと言われて、つい胸について言及してしまったら、激怒して襲い掛かってきたので揉めたんだ」
「それは君が悪い。黙って殴られるべきだ」
「殴って来たなら殴られても良いが、あいつはナイフやフォークで急所を刺しに来たんだよ」
「それは駄目だ。僕がミガヤ領の領主になるまで君に死なれたら困る。せめて道筋くらい付けてくれ」
「こ、この野郎……まあ、それで攻撃をいなして武器になりそうなものを取り上げてから、頭を下げて謝罪したんだが……」
「それで?」
「下げた頭の後頭部に振り上げた踵を叩きつけようとしてきた」
「うわっ……」
「流石に俺もキレて、背後に回り込んで猿轡をかましてから両手を後ろで縛り上げたんだ」
「……ある意味すごいな君は」
「そうしたらいきなり様子がおかしくなり、目を潤ませて、もっときつく縛れとか言い出して……」
「何でぇぇぇっっ!」
 そうだろう驚いてくれ。この異常性を異常だとはっきり口に出して貰えないと、自分の中の常識が揺らいでしまう。

「俺だって教えて欲しいくらいだ。変態なんだ。変態すぎて手に負えないと思った俺は、その場を逃げて宿屋に戻ってお前を回収すると、ここまで逃げてきたんだ」
「それを追ってきたのか、こんな所まで? ……ん? いや、ちょっと待ってくれ。先ほどの追っ手というのはもしかして彼女の事なのではないか?」
「ちっ、良く気付いたな」
 風向きが変わってしまった。
「騙したな!」
「騙してなんかいない。俺は追っ手が掛かったとしか言って無い。後はお前が勝手に勘違いしたのを生暖かい目で見守ってやっただけだ」
「き、君って奴は、僕がどれほど思い悩んだと思っているんだ?」
「お前さ、それは俺に騙されようが騙されまいがお前が考えなければならない、悩んで悩んで答えを出さなければならない事じゃないのか?」
「くっ、確かに」
「お前が悩むには良い機会だと思ってたんだけど、さっきまでの苦悩はもう忘れたのか?」
「すまない僕が間違っていた」
 そう言って、頭を下げる2号に「実は本当に騙していたし、別にお前を教え導こうなんて事はまったく考えていなかったんだよ」と伝えたら流石に拙いかなと考えていた。

「ああ、無視されて放置される……これはこれで……」
 簡単に2号は丸め込めたが、こいつは余りに難敵だ。どうやって戦えば良いのか想像もつかない。
「そこの変態! 結局お前は俺の後を追い掛け回して何をしたいんだ?」
「へ、変態……あぁ……ナニをしたいだなんて……」
 駄目だ脳が穢れる。僕の真っ白な純真な心が汚されちゃうよ。
「……い、一体何が目的なんだ?」
「ナニが目的です! 具体的に言うなら、縛られて叩かれて罵られて、性的な悪戯をされて焦らされて、羞恥の限りを尽くされる……そ、そんな……」
 今、俺が感じているこの感情。それが羞恥の限りって奴ですよ。
 しかし、どうしてここまで変態になってしまったんだ? 今朝会ったばかり時には、普通に凛々しい感じの青年風だったのに……怒ったことは分かる。少々理不尽な気もするが理解は出来る。執拗に俺を殺そうとした事も寛大な気持ちで許そう。
 だが背後から猿轡をかまして後ろで両手を縛り上げて、暫くもがいて抜け出そうとしている内に、猿轡は外れかけたが手の方はむしろ締め上げられた。
 この過程でドMに目覚めたというのは理由として弱い。安っぽいAVでも……いや、無いことも無い超展開である。

「分かった。分かった。そんな風に扱われたいなら、裏通りを更に奥に行って貧民窟を裸で歩けば良いだろう」
「リュー、貴方が望むならそうします。貴方が私に首輪を着けて、そして首輪に繋いだ紐を引いて、全裸で恥ずかしい場所を晒した私を散歩に連れ出し……」
「頼むから、一々変な空気を作るな。そして妄想に俺を絡めるな」
「無理です。私をこんな気持ちにさせるのは貴方だけですから、もしも貴方が居なくなったのなら私は元の私に戻る事が出来るかもしれません」
 糞、完全にロックオンじゃないか。何で頼みもしないのに専用ドMエロフが現れるんだ。
「何故そこまで俺に拘る」
 はっきり言って……まあ言って無いんだけど、意味不明すぎて気持ちが悪い。
「エルフとは理を何よりも重んじる種族だから、私達は強い感情の発露を深く戒めて生きる……」
「お前達、特にミーアを見ているとそうは思えないんだが」
「姉さんは例外中の例外です一緒にしないで欲しい。とにかく姉さんはそういうのも含めてエルフの生き方に反発し、成人として認められると同時に森を出てしまったくらいだから……」
 なるほど、ダークエルフではなかったんだ。それに「そういうのも」って何だ?
「それで貴方に対して怒りの感情を爆発させた時、抑え切れない激しい怒りと同時に、圧倒的な開放感を覚えてとても気持ちが良かったのだ」
 開放感か、それなのか? いや、それだけでは理由としては弱いだろう。
「だけどその開放感も、怒りをぶつけようにも貴方にはまるで歯が立たず、全てを封じ込められた事で鬱屈したものへと変わって──」
「うん、鬱屈は良いから俺への呼びかけをこっそり『貴方』にすり変えるのはやめて欲しい」
「──縛り上げられて悔しさと羞恥の絶頂の中で、頭の中で何かが弾けたんだ」
 弾けるなよ。そして結局、理屈を無視した飛躍かよ……ああ、そうだよ変態に理由を求めた俺が馬鹿だった。
「そして私の本能が叫んだ。この人が私のご主人様だって!」
 戦慄、そして震撼。言葉の意味は知っていたが、俺は生まれて初めてこの身にその意味を刻み込んだ。変態ならぬこの身には変態の考えなど理解出来なくて当然だったのだ……僕ちゃん、この人の考えに同調出来るような悪い事なんてしたこと無いからね!

「……だが俺にはそんな趣味は無い。迷惑なんだ。俺は誰かを好きになるなら普通の性癖の相手が良い」
「趣味が無い……? 私をこんな身体にしておいて……趣味が無い?」
「悪いな。という事で縁がなか──」
「趣味が無くても、この適正。何という恐ろしいほどの素質……流石私のご主人様だけの事はある!」
「──おいっ! 大体、誰がお前のご主人様だ。お前と間には何の契約も縁も存在しない」
「しかし運命はある」
「んなもんねぇ!」
 恐ろしいまに真っ直ぐで交じり合わない平行線。

「じゃあ、この辺で僕は……リュー、今までありがとう。君には感謝しているよ」
 そういって頭を下げると2号は背を向けると、その場を立ち去ろうとする。
「何ドサクサに紛れて部外者になろうとしている?」
 肩を掴んで引き止めた。
「僕は完全に部外者だ。君と彼女の関係には僕は一切関わっていないじゃないか!」
 俺の手を振り払い、そう叫ぶ2号の顔には「これ以上関わりあいたくない」と書いてある。気持ちは分かるが納得してやる気にはなれない。
「馬鹿野郎! 大体、お前が今朝、ちゃんと起きて俺と一緒に朝飯を食っていればこんな事にはならなかったんだ!」
 そうだよ、こいつが一緒のテーブルに着いていたら、宿屋の親父も俺達に相席は求めなかっただろう。
 だから2号にも責任の一端を背負ってもらいたい……いや、背負わせてやる。
「そんなの関係ないじゃないか!」
「お前がうっかりで勘当になったことも俺には関係ねぇよ!」
「関係無くて良いから、僕を解放してくれ」
 開き直りやがった。そこまで嫌か、そこまで嫌な状況に俺1人を置き去りにするつもりか? 殺意すら覚えるよ。
「それじゃあ、自力で故郷を救える立場に立つ方法でも思いついたんだな。おめでとう!」
「無いよ! 分かってて言ってるんだろう!」
 2号は半べそ状態である……そこまで葛藤するのかと俺が第三者なら思うだろう。そこまで葛藤するほど嫌なんだよ。
「分かってて言ってるんだよ」
 『蜚鳥尽きて良弓蔵され、狡兔死して走狗烹らる』という故事の謂れに、苦しみや痛みは共に分かち合えるが、成功と悦びは独り占めでなければならないという話があるように、苦しみや痛みはと持ち分かち合えるんだ……何か違うが細かい事はどうでも良い。

「僅かな言葉のやり取りで相手が泣くまで追い込むなんて……ハァ……ハァ」
「黙っていろ!」
 俺と2号の魂の叫びが炸裂する。

「僕がこの場にいても、何の力にもなれそうも無いぞ」
「俺だってあの変態の前では、常識がそうであるように無力だ。だから誰かが居てくれるだけでも少しは気持ちが違うんだよ……くそ、せめて俺が童貞でなければ」
「死ぬ気か? 童貞じゃなければどうにかなる相手じゃない。女に慣れるのと変態に慣れるのは全く別の事だ」
 畜生、このイケメンは童貞じゃないんだな。
「ご主人様。そろそろ昼餉には良い頃合だと思うのだが?」
 ドMエロフが背中に抱きつきながら話しかけてくる。
 自分をどうやって追い払おうかと頭を悩ませている俺達に対して、まるで「私はとっくに仲間なんですよ」というあざといアピール……メンタルが強すぎる。2号に少し分けてあげて欲しいくらいだ。

「……やめろ。硬い大胸筋と6パックの腹筋をゴリゴリと押し付けるな嫌な気分になるじゃないか」
 こいつは女の癖にボクサー並みの体脂肪率しかねぇぞ。触れただけで頬が緩んでしまうような女性的な柔らかさが無い。
「うっ……容赦の無い言葉責め……」
「言葉責めじゃねぇ、純然たる事実の指摘だ。それが責めになるならお前自身に問題がある。大体胸がねぇ事を気にしてるならもう少し太れ。もしもお前の胸に成長の余地があったとしても、その体形では絶対に育たない。水も肥料もやらずに種が芽吹くか?」
「なんと! 太れば胸が大きくなると?」
 驚きの表情でマントの上から自分の胸を触る。しかし、その指は1mmたりとも沈み込むような動きを見せなかった。
「そもそも女の胸についているのは筋肉じゃなく脂肪だ。無駄な脂肪が一切無いお前の身体には胸が大きくなるための基礎がない」
「そんな事を言われても、我々エルフにとって太るのは難しいんだが……」
「限度があるわ! 女のエルフが全員お前みたいに骨と皮と筋肉だけだったら、エルフなんて種族はとっくに滅んでいる」
「いや……その、私は食が細いので……どうしても他の女達と比べても痩せてしまうんだ」
「そうか、食が細いのか──」
 それはおかしい。こいつ朝食に何を食っていた?
「ふざけるな! 朝っぱらからオーガの掌の様なステーキを注文しておいて職が細いはずねぇだろう! 舐めてんのか?」
「他のエルフなら、あの程度のステーキなら3枚は頼むだろうが、私ではどう頑張っても精々2枚が限界だ」
「食い過ぎだ! お前らエルフはオークを食い尽くすつもりなのか?」
「そんな事を言われても、我々が使う精霊術は体力勝負だから、しっかり食べないと栄養失調で倒れてしまうから仕方が無いんだ」
 精霊術? 朝、こいつが俺に向かって使おうとしていたのは精霊魔法ではなく精霊術と呼ぶのか。
「体力? 魔力ではないのか?」
「魔力は魔法を使うためのもので、精霊に協力を求めるのには魔力は必要ない。術の行使の代償として精霊に精気を与える。その為には体力が必要となるんだよ。本当にご主人様はエルフの事を知らないの……もしかして、これもプレイの一種……お前などに興味など無いという態度で私を……クゥ……」
 殴りたい。殴りたいが殴ったら、こいつは悦び更なる変態への道を切り開いてしまうだけだと思うと怖くて手が出せない。
 大島先生! 先生の『分からん奴は殴れ。殴っても分からない奴は、分かるまで殴れ』という尊い教えが通用しない怪物がいます。

 しかし、エルフという生き物が俺の知識とは全く違う習性を持つという事が分かった。この世界は、現実世界の創作物であるファンタジーとは似ていながらも、こうまでも違うとは……あれ?
「ちょっと待て! だったら何でミーアはあんなに胸や尻が凄いんだ?」
「姉さんは私よりもずっと少食だから精霊術を使えば命に関わるんだ……だから……姉さんは誰よりも精霊に愛されていたのに……あんな胸に、あんな胸にぃぃ……裏切り者ぉぉっ!」
 先ほどの「そういうのも」っていうのはこの事で、そして精霊を使役出来ないが故に魔法に精通し『魔女』と呼ばれるまでになったという訳なのか。
「だったら、お前も精霊術とやらの使用を控えれば良いだろう? もしかしたらミーアに負けないくらい胸が育つかもしれないんじゃないか?」
「! ……そ、それだ! 凄い。流石は我がご主人様だ!」
 いや、俺はお前のご主人様じゃないし、むしろこんな事にも気づかなかったお前にビックリだよ。
「だったら、ミーアの元で魔法を教えてもらいながら胸を育てる努力をしろ。今のお前には巨乳好きの俺の奴隷になる資格は無い!」
 そうだ、どんなに胸が大きくなる素養があったとしても幾ら頑張ったとしても、虚乳が巨乳になるには数年はかかるはずだ。
 そして数年の猶予があるなら、俺は他の大陸にだって渡る事が出来る……完璧だ。
「分かった。必ずご主人様に相応しい巨乳メス奴隷になってみせる。だから待っていて欲しい」
「分かった。待っているから頑張るんだ」
 はっはっはっはっ! 怖いぞ自分が怖いぞ。ああ怖い怖い……何かとんでもないフラグを立ててしまったようで怖い。



[39807] 第63話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2014/12/30 18:44
「ヒャウン」
 俺の顔を舐めようとして伸ばした舌を摘まれたマルが情け無い声で鳴く。
 こんな状況でも噛もうとしないのが躾の成果というよりも、この子、生来の優しさなのかもしれない……馬鹿飼い主です。
 耳を伏せて困ったような顔をする様子が可愛かったので舌を離して、抱きしめてやる。
「うひゃっ!」
 お返しとばかり項の辺りをペロペロと舐めてくるマルに思わず悲鳴を上げる……馬鹿飼い主です。

 しかし自分の性格を理解していなかった自分自身に失望せざるを得ない。
 龍を倒すだの、急いで王都に向かうだのと強迫観念のように強い意思を刷り込まれても、唯でさえ記憶の齟齬により自分の頭の中に対して疑心暗鬼になっている異世界での自分が納得するはずが無いのだ。
 むしろ何者かに意識まで誘導されていると考えて反発する事を想像出来ないなんてアホ過ぎた。
 昨日は2人のエロフから逃げるために王都への移動が予定以上に進んだが、今後は何か別の方法を考える必要があるだろう。
 もしもシステムメニューの【所持アイテム】【文書ファイル閲覧】機能が現実と異世界で共通化されれば、封じられた記憶に関して伝える事が出来るのだが、【文書ファイル閲覧】の方はともかく【所持アイテム】の共通化は拙すぎる。
 もしも、現実と異世界の間で互いにとって抗体を持っていない危険な細菌やウィルス。または有害な微生物や虫などが【所持アイテム】を介して行き来する事になったとしたら……そう考えると、もし共通化が為されたとしても恐ろしくて使えない。
 現実の俺の身体と異世界の俺の身体が、同じスペックでありながらも別の肉体である事が救いだ。
 異世界で負った怪我や傷跡が、こちらの世界の身体には無いことからの推測ではあるが事実だろう。


 朝練の為に学校に向かうと、肛門で……いや校門で紫村が待っていた。
「おはよう高城君」
「おはよう。昨日はすまなかったな」
 昨日は、大島を抑えるという面倒ごとを押し付けてしまったので頭を下げて謝罪する。
「君が頭を下げることではないよ」
「俺の感傷から始まった事に巻き込んだんだ。しかも昨日の事は、処分した荷物をきちんと確認しておかなかった俺のミスだ」
「僕だって今回の件に対する義憤の念は持っているよ。だから気にしないで欲しい」
 ……本当にいい男だ。嫌味の無いところが嫌味に感じさせる2号とは格が違う。これなら今年の1年生の誰かが性的に食われてしまうかもしれない思いながらも、邪魔しないでおいてやろうなどと考えかけてしまった……いや、それは流石にそれはまずい。
「なあ紫村……」
 異世界で2号にシステムメニューについて話すくらいなら、紫村にも話しておくべきじゃないだろうか? だが現実では今まで積み上げてきた人との繋がりが強すぎる。異世界なら2号に話して問題があれば二度と会わないようにすれば良いだけだが、現実ではそうはいかない。
 まだ15年間に届かないちっぽけな人生だが、それなりに積み上げてきた人との付き合いもある。紫村との2年間も簡単に切り捨てられるような物ではない……
「高城君。無理に話さなくてもいいよ。何時か話してくれるんだろう? 待つのもまた楽しいものだよ」
 俺の中の迷いを汲み取ったかのように笑顔でフォローしてくれる……うん、やっぱり邪魔しないでおこう! 俺の尻以外は好きにして良いよ。

 部室へと向かう途中、ふと思い出して尋ねる。
「なあ、櫛木田の件なんだが……」
 だが紫村は、無言で肩をすくめて見せる……やっぱり駄目か、結果の可否はどちらについても期待していただけに、何というか微妙だな。
「まあ、なんだ……冬までには時間がある。まだ1度や2度はチャンスも来るさ」
「まだやるつもりなのかい?」
「やるさ、考えてもみろ。大人になって、この中学校の3年間を振り返って『大島を喜ばせただけの中学校生活だった』なんて嘆くのは御免だ……どの途、今更収支がプラスになることが無いなら、奴にも後で思い出して悔しくなる、後悔って二文字を奴の心にも刻み込んでやってから卒業しない道理が無いだろう」
「全く君は……」
 紫村の目には珍しく呆れの色が浮かぶ。
「それに1年の頃から、卒業までにはあいつをボコってやるって決めてたからな」
 決して受け入れる事の出来ない理不尽な状況に抗うという決意。俺はその思いだけを糧に強くなった。だが強くなればなるほど大島の途方も無い強さを思い知らされる事になり、システムメニューが無ければ揺らぐ決意ではあったが。

「おはようございます」
 そう挨拶をする香籐の目が死んでいる。続いて挨拶をしてくる他の下級生もことごとく目が死んでいた。
 櫛木田め、やはり下級生からの評価を大きく下げたな。ここで俺が起死回生の逆転で冬合宿を中止に追い込めば、頼れる主将としての評価を不動のもの、いや伝説へと昇華させることが出来る……小さい。器が小さいぞ俺!
「高城……面目ない」
 櫛木田が頭を下げる。本気で反省しているようだが、俺が考えてる事を知ったら怒るだろうな。
「俺としては五分五分かなと思ってたからな……それにしても俺はお前を脅さないように釘を刺したつもりだったんだが、どんな手でやられた?」
「……笑うんだ」
「笑う?」
「俺に顔を近づけて、凄い嬉しそうに笑うんだ……それが、それが怖くて……」
 その大島の笑顔を思い出したのか櫛木田は自分の腕を抱きしめて肩を震わせる。
 大島の笑顔のアップ……それは怖い、夢でうなされるわ。システムメニューのせいか夢見なくなったけど。
「流石に、顔を近づけて笑ってるだけだと言い張られると、僕も止めようがなくてね」
「それは暴行に値するから止めような」
 実際に暴力を受けるどころか指一本触れなくても、相手が暴力を受けると恐怖を覚えた段階でも成立するのが暴行罪だ。半径2m以内に大島が居るという事は、刃物を振り回しながら追い掛け回すのとなんら違いは無いと司法は判断すべきだ。
「己の凶相を活かして、笑顔までも武器にするとはな。そりゃあしょうがないか……冬合宿の件は、また機会があるだろうから心配するな」
 トラウマものだなと思うと櫛木田にも優しく肩を叩くことが出来た


「おう、全員そろったな!」
 ……大島の機嫌が良い。櫛木田を凹ませて俺の冬合宿中止を阻止出来ただけとは思えない。それでは単に差し引きゼロな結果に過ぎないからだ。
 何があった? 何があったにせよ大島の機嫌が良くなるという事は、この世の誰かに不幸がもたらされたという事に他ならない。
 そして、もっともその対象になりやすいのは俺達を含む大島の関係者だ……大島の目が一瞬、俺に向くと目を細めた。
「お前ら昨日の飯は旨かったか?」
 飯……一体何の事だ? 昨日も鬼剋流の幹部でも来て焼肉でも奢らせたのか?
「旨かっただろう? 回らない寿司屋の寿司はな」
 そう言いながら、俺の顔を見ながらニヤリと笑う……やりやがったな、何年ぶりの回らないお寿司だと思ってやがる!
「残念だったな高城。だけど昨日は都合が悪かったんだから仕方ないよな。おいお前ら。昨日の寿司は高城のおかげで食べられたんだ。礼を言っておけ『主将。ありがとうございました。お寿司大変美味しかったです。主将と一緒に食べられなかったのがとてもとても残念です』とな!」
 ……こ、こ、こ、殺す! 許せないんだ俺の命にかえても体にかえても、こいつだけは!

 俺は怒りに任せて【昏倒】を大島に向けて放つ……『【昏倒】は対象の気合によって無効化されました』ってなんだそりゃ! システムメニューを開いて、【ログ閲覧】で確認しなおしても気合で無効化と書かれていた。【魔力】でしょ【昏倒】にレジストするには【魔力】でしょ? ちゃんと調べたらそう書いてあったのを憶えているよ。何なの気合って? 気合って魔力なの?
 困った時にはグーグル先生にも匹敵する権威である【良くある質問】の出番だ。『魔力によらぬ魔術の無効化』:ごく一部を除くほとんどの生物には生来魔力が備わっており、その魔力にて魔術に抵抗する事が出来る。しかしある種の生物には意志の力により少ない魔力を瞬間的に高めて魔術の効果を無効にする術を持っています。ただし人類は除く……除くって、おいっ!
「感じたぞ、圧力すら伴ったお前の怒り……実に心地好いじゃないか?」
 大島は【昏倒】を受けた時に、何らかの力を感じ気合ではね退けたのだ。最早システムメニューが認める人外の化物だ。この名状し難き怪物に俺は勝てるのか? 俺が進む道の先に、こいつに勝てる可能性が存在するのか? ……怖くなって来たぞ。

 だが俺もその程度ではめげない。それならばアプローチを変えるだけだ。
「……大人気ない」
 ぎりぎり大島の耳に聞こえるように声を絞って呟く。
「何だと?」
「自分の半分も生きていない子供に、こんなせこい嫌がらせをして勝ち誇るなんて」
「くっ!」
 どうせ紫村に気付かれないように、隙をみつけて署長に連絡して、無理矢理昨日の内に寿司を奢らせる様に迫ったんだろう。
 そんな自分のやり方に、せこいの3文字が思い当たったのだろう。大島は言葉に詰まる……よし、突破口は開いた。ここを全力で攻めてやる。
「小さい。自分の師がこんなに器の小さい人間だったなんて……」
 自分のコンプレックスを相手になすり付ける。ネットの掲示板でよく使われる常套手段だが、ごく自然な流れに持ち込めたと我ながら感心する。
 大島は『男気』的な部分を否定されるのに弱いというのが、この2年間の奴を観察、研究して得た数少ない成果である。
 まあ、それ以外に弱点らしい弱点が見つからない訳だが、確かに童貞疑惑もあったのだがそれが否定された現在、攻める場所はそれ以外に方法は無かった。
「……がっかりです」
 悲しそうに俯き、頭を横に振った……おい紫村「上手いな」とか余計な事を言うのは止めろ。

「ちょっと待て、俺の器が小さい? そんな馬鹿な事は無いだろう……な?」
 大島は櫛木田や田村に同意を求めるが、2人は目を合わせなかった。
「高城! 取り消せ。俺の器は小さくない」
「……そういうところが小さくて嫌」
 嘘泣きしながら答えてやる。
 他の部員達もここぞとばかりに冷たい視線を大島に突き刺していく。
 未だ嘗てないほどに追い込まれた大島は、強張った顔の端で口元をピクピクと痙攣させると、意を決したかの様に口を開く。
「…………そうだ。今晩飯を奢ってやろうか? やっぱり寿司か? 何でも良いから言ってみろ」
 やはりそう来たか。
「……何でも良いんですか?」
「何でも構わん!」
「本当に、本当に何でも良いんですね?」
「男に二言は無い!」
「それじゃあ、冬合宿を中止して下さい」
 思ったよりもずっと早くチャンスがやって来たものだ。

「て、てめぇ、それは違うだろう!」
「何でも良いって言ったじゃないですか、今更反故にするんですか?」
「今晩の飯を奢る奢らないの話しだろ、無効だ!」
「先生。こんな言葉を知っていますか?」
「何だ?」
「何でもと言ったなら…………何でもしろ!」
「!!!」
「男に二言は無いんでしょう。今更、細かい事でグダグダ言うのは男らしく無いんじゃないですか?」
 はっきり言って、我ながら無茶苦茶な理屈だ。だが無理が通れば道理は引っ込む! この場さえ、この場さえ押し通せれば良いのだ。
「男らしくない? この俺が?」
 もしかしたら、こんな事を言われたのは大島にとって初体験なのかもしれない。
 実に男臭い奴であり、自分自身それを誇りに思っているような所があるのだ。俺の発言はある意味エポックメイキングですらあり、大島の堅固な精神の支柱に大きな傷を入れた。
「他の部員達も先生の男らしく無い態度に失望しています」
 俺がそう言った瞬間、紫村を除く部員達は瞬間的に項垂れてみせる。
「もうやめて下さい。泣いてる子もいるんですよ!」
 次の瞬間、2年生達がが一斉に泣き真似を始める。見事な連携だ。だが、この程度の小芝居を出来ないようでは空手部では生き残れないという悲しい事実でもある。

「ああ、五月蝿い! 冬合宿を中止すれば、それで良いんだろう?」
「ちなみに春の山は雪崩が怖いから嫌ですよ。それに俺達3年生は卒業して部活には参加できませんから」
 本来の悪魔のように狡猾な大島ならば、こうも容易く俺に考えを読ませたりはしなかっただろう。だが精神的な余裕を失い近視眼的に選択肢を自ら狭めてしまえば、この有様だ。
「ちっ!」
 そして普段の大島ならば、この状況からでも腹芸一つでひっくり返して見せただろうが、今は自ら認めてしまうような舌打ちしか出来ない……どうやら決着がついたみたいだ。

 不機嫌そうに「トイレに行ってくる」と言い残して、大島が格技場の外へと消えた瞬間、部員達の喜びが爆発した。
「ありがとうございました!」
「凄いです主将!」
「僕らは一生ついていきます!」
「高城。いや今は主将と呼ばせてくれ。胸がすっとしたよ主将」
 はっはっはっはっ、もっと褒めてくれても良いんだよ……でも一生ついてこられたら流石に迷惑だからね。
 そんな絶頂を味わう一方で、焦燥感がちりちりと首の辺りを焼きつける。
 これで俺が握っていた大島に対する唯一の切り札を切ってしまったという不安によるものだ。
 新たな切り札を探し出すか、それとも切り札無しで卒業式後の最終決戦(お礼参り)に臨むのか……それが問題だ。



[39807] 第64話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2014/11/26 18:45
 大島がやる気をなくしたせいか、それともマスコミの目を恐れたせいなのか微妙だが、何時ものランニングは半分程度の5kmに抑えたおかげで1年生がぶっ倒れる事もなくあっさりと終了した。
 空手部に居ると常識を失いそうになるが、サッカー部や陸上部の連中でも倒れるようなペースだというのに、僅か2週間で1年生がしっかりついて来れるようになったのは、流石は大島の生かさず殺さず……じゃなく、ぎりぎりまで限界を見切った負荷をかける練習法のおかげとも言える。

 ランニングの後の型や組み手等の練習においても大島の指導には熱が入っていない。
 1年生達は、大島の様子に俺が奴をやり込めたからだと勝利感すら覚えているようだが、2年生以上には大島が何を考えているかは手に取るように分かっている。
 そう、冬合宿に変わる楽しめそうなイベントを考えているのだ。もしかしたら「冬休み雪山猛特訓」などという名前だけを付け替えて冬合宿を実行しようと企んでいたとしても全く不思議ではないのだ……それだけは何としても阻止しなければならない。
 朝練が終わったら、直ぐに冬休みに家族旅行のような家族を巻き込む計画を立てて、冬休みのスケジュールを埋めてしまうように皆へ指示を出さなければなら無い。
 それだけで良いだろうか? 冷静さを取り戻した大島の悪知恵は恐ろしく回る。奴が攻撃に回りフリーハンドを得れば、その企みの全てに対処するのは不可能になる。
 だからこそ、予め打てる手を全て打っておく必要がある。
 今年の冬休みの期間は12月25日に終業式を行い1月6日に始業式で、実質11日間であるが30日から元日までに予定を入れておけば、冬休み中に5日間の合宿スケジュールは組めなくなる……いや待て、25日の始業式後にそのまま移動させて、26-28日に渡り冬山サバイバルを実行させて29日を移動日とすれば可能だ。つまり29日から元日にかけて予定を入れれば良いわけだ。
 別に、全員が29日から元日にかけて予定を入れる必要は無い。部員の半分以上が29日前後と元日前後に予定を入れておけば阻止できる。

 それにしても、その時期に受験生である3年生に雪山で冬合宿をさせようというのは頭がおかしいとしか言い様が無い。
 大体、合宿の字を良く見てみろ。皆で一緒に宿に泊まると言う意味だ。宿に泊まらないのは合宿とは言わん、小学校の国語からやり直せ。
 話が逸れてしまったが、とりあえずこれで冬休み中の合宿は阻止出来るはずだ。
 流石に冬休み以降となれば、2月の上旬には私立高校の試験があり、下旬には公立高校の試験があるので3年生の3学期の部活動は校則で禁止されている。
 つまり大島が何かをするとしたら……多分するんだろうが、その前となるはずだ……だが何をする? 9月、10月、11月にはそれぞれ3連休があるが、11月下旬の連休時期でさえ冬合宿以前に雪は降っても深く積もるというレベルにはならない。それにその時期はまだ熊が冬篭りの準備で活動が活発になっているので、山の中に部員を単独で放置などは流石に無理だ。
 そして12月には冬休み期間以外に3連休以上の休みは無い。つまり従来通りの冬合宿を行う可能性の芽は完全に潰す事が出来たという事だ。

 それでは次に大島は何を企むのだろう?
 俺達が酷い目に遭い苦労し、それを眺めて喜ぶ。これが大島の基本的な『お楽しみ』というやつだ。では夏冬の合宿に対して大島が求めているものは何か? ……学校というロケーションでは不可能な自由度を確保して、俺達を更なる酷い状況へと陥れることであるのは疑い様もない。
 そんな大島が従来の冬合宿以下のレベルで満足出来ることなど絶対にあり得ない。
 つまり、タイトなスケジュールで従来以上に楽しめるように密度かレベルを上げてくる……自分で想像しておきながら「何て事を考えるんだ。この人でなし!」と突っ込みたくなる。
 だが、この予想は外れないだろう。この手の事に関しては大島が俺を裏切った事はない。
 ならば大島が仕掛けてくるのは9月、10月、11月の3連休の何れかで、連休前日の部活を休みにして移動して、翌日の朝から2日間、いや3日目の午後までを使って俺達に何かをさせ、帰宅は3日目の夜というスケジュールを組むだろう。

 秋の山……まさか俺達にきのこ狩りをさせる訳もない……狩りか、ウサギや鹿を罠を作るための針金などの道具を一切与えず、山にあるものだけを利用して狩れとでも言うのだろうか。
 食料も与えずに自分の手で捕まえた獲物だけを食べて過ごせという課題なら、捕まえる方法が分からず右往左往する俺達の様子を存分に味わえる……うん、この可能性が高いと思う。思うが、非常識人の大島が俺の考えの斜め上を軽く跳び越して行ってしまうというのは良くあることなので、何か見落としていないかすごく不安だ。

 朝練終了後に弁当を食べながら3年生達で、俺の考察について穴がないかを検討する。
「俺は9月の飛び石連休が怪しいんじゃないかと思う。22日の月曜日に俺達全員に休みを取らせて、4連休にしてしまえば大島にとってはやりたい放題だぞ」
 伴尾が生徒手帳のカレンダーを見せながら、そう主張する……確かに一理あるが──
「いくら大島でも、何かの大会があって俺達を参加させるという名目もなく、部活で休みにさせることは出来ないだろう」
 櫛木田がすぐに否定する。俺も同感だ。

「ちょっと待て! 俺、今凄く嫌な事に気づいてしまったんだが……」
 今度は田村が……何だよそんなに深刻そうな顔したら怖いぞ。
「何だよ?」
「ここを見ろ」
 田村は伴尾から生徒手帳をひったくると、カレンダーの5月のところを指差して皆に見せる。
「ここに4連休がある!」
「…………」
 良く気づいたと褒めてやりたい一方で、余計な事に気づきやがってと怒鳴り散らしたい。そんな矛盾し理不尽でもある感情が胸の中で交差する。
「そ、その通りだね……僕達は大事なことを見落としていたみたいだ……ありがとう田村君」
 辛うじて紫村が感謝の言葉を口にしたが、その目は親の仇を見る様ですらあった。
「俺だって好きで気づいたわけじゃない」
「分かってる田村。おかげで何とか対策を立てる時間が出来たんだ。感謝している……だから後で殴らせろ」
「何でだよ!」
 田村の抗議を無視して、俺達は対策会議を始める。

「明後日の放課後には僕達は拉致される事なるから、今からじゃ阻止するのは難しいね」
「明後日か、そう考えると本当に時間がないな……高城。大島はどんな事を計画すると思う?」
「多分、今回は夏合宿の前倒しだと思うな。まず1年生に山でのサバイバルを仕込まなければ、流石の大島も無理はさせられないだろう」
 櫛木田の質問に、常識的な判断で答えを返す……絶対に常識だけは納まらないだろうけど。
「そうだね。ほぼ夏合宿と同様だと思うよ……だけど必ず意趣返しはしてくるはずだよ。大島先生の性格上、やられたら必ず何倍にしてもやり返そうとするだろうから」
 紫村の考えに間違いはない。間違いがないから頭が痛い。
「まあ、今回の件は俺と田村は無関係だから、下級生の指導は俺達に任せて、お前達は別メニューって事になるんじゃないか?」
 いきなりふざけた事を抜かした伴尾に、櫛木田が深く溜息を漏らす。
「甘いな。無関係な立場を維持したいなら、黙っていれば良いのに……」
「櫛木田の言う通りだ。そんな友達甲斐のない事を言い出さなかったら、お前達に下級生の面倒を任せて、大人しく別メニューでも何でも受け入れたのにな」
「何をするつもりだ?」
「大島先生に一言『3年生全員で別メニューに参加します』と言えば良いんですよ。彼にとってはどんな些細な事でも理由さえあれば、それで十分でしょうし」
「人を無視しておいて、勝手に巻き込むな!」
 田村が吼えた。


「なあ高城、今日の英語なんだけどさ」
 教室の自分の席で、大島がどんな手を打って来るのか不安に思っていると、前田が話しかけてきた。
「そうか、自分でやってきたのか偉いぞ前田」
「……いや、あのね、見せてほしいんだけど」
 またか1号。数学は自分でやるようになったみたいだが他の教科はさっぱりだな。
「そういえば、お前って今日は当てられるのか?」
 日付や出席番号、前回の授業の当てられた順番などの可能性を考えても今日は前田が当てられる可能性はかなり低いはずだ。
「俺さ、今日誕生日なんだ。堂島って必ず誕生日の奴に当てるだろ……しかもロングバージョンでさ」
 誕生日か、確かに英語の堂島は、そういうウザイ真似をする奴だ。
 8月生まれの俺は夏休み中に誕生日を迎えるので問題無いが、誕生日の奴はその日の授業中ずっと当てられ続けるという嫌がらせを受けるので、1学期が始まり時間割が張り出されると、チェックして自分の誕生日とこいつの授業の日が重なり、崩れ落ちる奴が何人もいる位だ。

「そうか15歳の誕生日おめでとう。心から、心だけだけど祝わせてもらうよ……だけど15歳と言えば世が世なら元服して一人前として扱われる歳だ。もうお前も独り立ちして自分の事は自分でやるべきじゃないのか?」
 遠まわしに教えてやりたくないと言ってやる。
「現代! 今は現代! 世が世じゃ無いでしょう! お願い。今日は範囲が広いから時間が無いの。後で何でもするから今は早く教えて!」
 何て愚かな男なのだろう。高々、英語の訳程度で「何でもする」なんて白紙委任状を相手に渡すなんて……しかもこの俺にだ。
 俺なら絶対に嫌だ。そんな真似をするくらいなら今すぐ早退して家に帰って寝る。
「その言葉忘れるなよ」
 念書でも取ってやろうかと思ったが、どちらにしろ「何でもする」という曖昧な内容では法的な拘束力は持たないので、釘を刺すだけにとどめておいた……これでも、この先ずっとネタにすることは出来るだろう。
「忘れないから。早く教えてくれ!」


 HRの時間だ。
 北條先生の姿に癒される。
 はっきり言って先生の美貌はエロフ2人にも劣らないと思う。そして俺の好みとしては先生の方に圧倒的大差で軍配が上がる。
 プロポーションも実に良い。露出の低い教師に相応しいシックな服装だが、その魅惑のボディーラインは隠し切れていない。
 こんな良い女に惹かれないなんて、この学校の男子生徒と男性教師はお子様と玉無しばかりだとしか言いようが無いな。
「なあ、続きを、続きを早く」
 後ろの前田が背中を鉛筆の先で突っついてくる。流石に範囲が広すぎてHRが始まるまでには書き写せなかったためだ。
「やめろ」
 振り向いて小さく一言だけ告げると、再び北條先生を見つめるのだが、30秒もしない内に再び突っついてきたので、前を向いたまま左手を後ろに回して、鉛筆を持つ前田の右手の中指をこちらの人差し指と中指の間の付け根部分で挟む。そして人差し指で前田の親指の付け根を、そして中指で親指の第一関節から上を鉛筆ごと指をフック状にまげて掴み、前田の中指を間接の稼動範囲とは90度違う方向へと締め上げてやる。
 当然だが目で確認もせずに仕掛けた関節技など、形の上でこそ出来ても簡単に極まるものではなく、左右に振ったり捻ったりしながら激痛を与えるポイントを──
「痛い! 痛いの、痛い痛い!」
 ──最初からポイントのど真ん中を撃ち抜いていたようで、前田は痛みに大声で叫び声を上げる。
 当然だがその後で北條先生に叱られた。しかし優等生な僕ちゃんは、実は北條先生に怒られるのは初めてなので、これはこれで中々に素晴らしい体験でありぐっと来るものがあった。後で空手部の連中に自慢してやらねばならない……ちなみに叱られている間のタイムロスが響いて前田は英語の訳を教科書に書き込み切れなかった。


「1年、2年良く聞け。部活が始まる前に伝えておくことがある」
 授業を終えて部室に集まった下級生達に悲しいお知らせがあった。
「何ですか?」
「明後日の金曜日に、俺達は山に連れて行かれる可能性が非常に高い事が分かった」
「どういうことですか?」
 下級生達に動揺が走る。
「冬合宿を中止に追い込まれた大島が、そのまま黙って引き下がるはずが無い。3年生で話し合った結果、5月3日からの4連休に夏合宿の前倒しを行う可能性が極めて高いと判断した」
「そ、そうですね。大島先生が黙って引き下がるなんて……それは既に大島先生じゃありませんね」
 香籐が結構毒を吐くようになってしまった。これも薫陶と言う奴なのだろうか……もちろん皮肉だよ。
「詳細は不明だが、金曜日の放課後に部活を中止にしてそのままマイクロバスに我々を乗せて山まで連行という可能性が高い」
 ちなみにマイクロバスは鬼剋流からの借り物だ。貸すなよ!
「主将。部活の後と言う可能性も十分にあるのではないでしょうか?」
「! ……小林。多分正解だ」
 6時位まで部活をやって、そのままバスに乗せて3時間ほど移動し、早乙女さんの山小屋で食事の後、『野外』で就寝。
 俺って奴はまだ大島を見くびっていたのか? そうだよ、奴はぎりぎりまで追い込むんだ。そのための労など厭う筈が無い。

「それでだ。まず用意しておくべきものが幾つかある。まずはトレッキングシューズだ。安物を選ぶのはやめておけ。次に雨具だが、ゴアテックス素材の上下の物を用意することを勧める。雨が降らなければ無用の長物だが、雨が降った場合にそれが無いと下手をすれば命に関わるほど大事な物だ。ゴアテックスが登場するまでは山を数日かけての縦走中に、日中ある程度気温が上がる状況で、雨に降られたら雨具を着てその場に留まり雨が止むのを待つのが常識だったくらいに、有ると無しとでは全く違う装備だ。それと速乾性タイプの吸った汗を水蒸気として放出する機能性下着の長袖、ロングタイツを着用しないとゴアテックスは機能出来なくなるから注意しろ。それらを準備するだけで4万円程度はするので、自分の手持ちや貯金が足りないなら家に帰ったら親に相談しろ」
 防水性と透湿性を兼ね備えたゴアテックスはそれほどまでに大切なものだ。最近はゴアテックス以外にも同様、中にはゴアテックス以上の性能を持った素材も開発されているが防風性に劣ったりするなどでバランス的、そして後発組みには無い長年の信頼性でゴアテックスで良いだろうというのが俺の判断だった。
「4万円ですか?」
 1年生達が驚きの声を上げる。そりゃあそうだろうな。
「明日の部活が終わった後に買い物に行くから、金の都合が出来ないものは名乗り出ろ。俺達が金を出してやる」
 1年生の中に金が用意できない者がいた場合は上級生が出してやるのは空手部の伝統だった。俺は親が出してくれたが櫛木田は先輩に出してもらったはずだ。
「で、ですが……そんな大金を簡単に……」
「安心しろ。俺達は普段金を使わないから小遣いやお年玉がたまってるんだよ」
「先輩達が……ですか?」
「お前らが空手部に正式な部員になってから暇な時間なんて、部活が中止になった先週の日曜ぐらいだろ」
「はい……毎日、家に帰って夕食を食べたら、勉強して、風呂に入ったら寝るだけです」
「それがずっと続くんだ。多分、2学期が始まって暫くすれば体力がついて身体も慣れてきて、多少の余裕が出来るが、それでも休日にどこかに遊びに行くとか、買い物に行くとかは出来ない。もしカメラとか金の掛かりそうな趣味を持っていたとしても遠出して撮影とか出来ないから、新しいカメラやレンズが出てもカタログを見ながら『欲しいけど、手に入れてもなぁ~』と愚痴をこぼすのが精一杯だ。なあ田村?」
「頼むから放っておいてくれ!」
「ちなみにこいつの写真はコスプレした女性をローアングルで撮るいかがわしいものばかりだから、近寄ると病気が移るから気をつけるように」
 伴尾の補足に下級生が退く……2名ほど目を輝かせたのがいたが、気のせいということにしておこう。
「捏造は止めろ! 俺は撮り鉄だ! ちゃんとマナーを守る誇り高き撮り鉄だからな」
「……ということにしておいてやって欲しい。頼む。本当に頼む!」
 深く頭を下げて、心から、心の奥からお願いする。
「誤解を生むような真似はするな!」

 そういうわけで空手部の部員は皆、貯金の額がかなりある。だから、入部したばかりの1年生とは違い、上級生の財布には余裕がある。3年生だけでカンパを募っても10万円程度は軽く集まる。だからこの伝統が受け継がれているわけだ。
 学校の授業と部活、更に好成績を維持するための宿題や予習復習を除けば、睡眠、入浴、食事などの時間以外に残る時間は1時間くらいしかない。俺はその時間をネットで潰していたから本当に趣味が無い。
伴尾はゲームをやるが、1本の大作RPGに掛かりっきりでもクリアするのに半年とか非常にコストパフォーマンスに優れた趣味だ。しかも「どうせクラスの皆と一緒のペースで遊べないから、俺は中古で十分だから安上がりで良いんだよ」と強がっていたのには泣けた……だって俺達は、基本男子生徒達にすら恐れられ避けられてるから一緒にゲームの話題で盛り上がれる相手なんていなから。
 だから1年生達には、いずれは後輩達に合宿の必需品のためのカンパ出来るように頑張ってもらいたい……出来るなら合宿自体を止めさせるように頑張れ、多分無理だろうけど。

「それから、今日は先に買っておくものとしては、ひとつはサバイバルシートだ。薄いポリエステルシートにアルミを蒸着させたもので高い保温効果を持つもので登山などでも緊急時には必要なアイテムだ。もしものために幾つかは用意しておくべきだ。後は釣り糸と釣り針。釣り糸は単に魚を釣るだけでなくウサギ捕獲用の罠の材料にもなるので必須だ。それと布製のガムテープも1つ持っておけ。これらは100円ショップで購入出来る。それから食料は取り上げられるから用意しても無駄だ」
 寝る時に雨が降っている場合は、サバイバルシートと釣り糸とガムテープでターフ代わりになる物を作ることも可能だ。
 獲物の解体や調理に使うナイフなどの道具や寝袋などは早乙女さんが貸してくれるので心配無い……テントをくれよ。
「やっぱり獲って食べるんですか?」
「当たり前だ。食べずに山で体力を失ったら死ぬぞ」
 即答する櫛木田に、質問をした1年生、斉藤の顔から血の気が引いていく……気持ちは分かるが、どうせすぐに慣れる。

「何か他に買っておいた方が良い物ってあったか?」
 3年生達に尋ねてみた。
「そうだね、雨が降った時のためにリュックごと包める様な大きなポリ袋があった方が良いと思うな」
「それとカッターだな。ガムテープやテグスを切るのにナイフよりもカッターの方が使いやすい」
「後は懐中電灯だな。最近の100円ショップは9灯のLEDライトすら売ってるから、アルカリの単四電池と一緒に買っておけば良いぞ」
「夏じゃないけど虫除けもあった方が良いかもしらないな。ともかく水が好きなだけ使える環境じゃないから、汚れは水で洗い流せないから着替えとタオルは多めに用意しておけってところじゃないか?」
 紫村達が思いついた必要な物を挙げていく中で、櫛木田はお母さんのように細やかなところに気がつくな。

 放課後の方の部活も、あっさりと終わる。明日と明後日もたぶん同様で、ゴールデンウィーク明けからは普段のメニューに戻り、そして10日には延期になっていた1年生の体力向上期間の総仕上げとしてのランニング祭りが開催される。2年生以上にとっては体力的にはそれほど辛くは無く、むしろ大島の指導が1年生に集中するので楽な位だが、1年生達の事を思うと憂鬱になる……嘘です吐瀉物の始末とかがとても嫌なんだ。



[39807] 第65話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2014/11/26 18:52
 目覚めると部屋に他人の気配を感じて寝返りざまに視線を飛ばす。
「何だ2号か……」
 前回2部屋を借りて、辻褄合わせが面倒だったので今回はツインルームを借りたのだ。
 だが、例え2部屋借りていたとしても、2人部屋に借り直しただろう……エロフの襲撃時に盾にして逃げるためだ。これから暫くは隣に2号がいないと安心して眠れない日々が続くと思う。
 相手がノンケの2号で本当に良かった。もしこれが紫村だったら究極の選択を放棄して切腹して果てることになっただろう。
 しかし、胸無しの方が俺に拘る理由は納得出来ないまでも何となくは分かった。しかし胸有りの方は俺というよりも俺の魔力にご執心だから余計に性質が悪い。金が絡み取り込む気満々だから、下手に靡いてしまえば最後ケツの毛まで毟り取られる事になる。

 ベッドから出て着替え始めると2号が目を覚ます。
「ああ、おはよう……随分と……早起きだね」
 早起きというが、既に夜明けからは暫く時間が経っているようだから、夜明けと共に起きて日が沈むまで働くというイメージのあるファンタジー世界においては、決して早くは無いと思うのだが、2号はボンボン育ちなので朝起きの習慣は無いのだろう。
「起きたついでだお前も着替えろ。走りに行くぞ」
「走りに? ……意味が分からないんだけど」
「分からなくて良いから走れ。何も考えずに、どうせ考えられないくらいに追い込むから気にもならなくなる」
「……君は何を言ってるんだ?」
「お前を根本から鍛え直すと言ってるんだ。武器を取れば一流の戦士の如き、机に向かいペンを持てば博士が如き。そんな人間に作り変えるんだよ。お前をな」
「いや、ちょっと待って『作り変える』って言ったよね?」
「分かったらさっさと着替えろ!」
「全然分かってないよ!」
「あぁ?」
「分かった! 今一瞬で分かったよ」
 大島の「あぁ?」に比べればまだ6割程度の模倣率だが、それでも2号には通じたようで、背骨に1本の真っ直ぐな棒を突き通したように直立して答えると、素早く着替えを始める。

 早朝の気持ちの良い空気の中、小鳥達の囀りを聞きながら走っているというのに、前を走る2号の小言がうるさい。
「ハァ……ハァ……これが一体何の役に立つんだい?」
 軽く5kmほどの距離を、空手部の1年生が脱落しない程度のペース走るだけで、2号は息を切らせ後ろを走る俺に尻を5回も蹴り飛ばされている。
「まずは体力だ。体力がなければ何も出来ない。そして忍耐力だ。苦しさに耐えて走り続けることでどんな苦境にも立ち向かえる精神力を身につけさせる。これからのお前に必要なのは、一日中走り続けても笑顔でいられる体力と、どんな苦しい状況におかれても、今の苦しさに比べたらましだと笑い飛ばせる精神力のみだ」
「ハァ……それって……単に可哀想な人だよ」
「当たり前だ。これからお前は世界中の誰から見ても『可哀想』と思われるような厳しい目に遭うんだよ。大人しくお前は自分の目的のために自分の幸せを差し出せば良いんだよ!」
「だ、誰に……誰に差し出すんだ? ハァ……君か?」
「お前の幸せをどうやって俺に渡すつもりだ? そんなものは神か悪魔にでも差し出すんだな」
「ハァハァ……僕には……君が悪魔に思えてならない」
「心外な。前にも言っただろう? 悪魔のようなのは俺の……認めたくは無いが師であって、俺自身は善良な一般人だ……と言う事にしておいた方が気が楽になるぞ」
 そう答えながら尻を蹴り飛ばす。
「ぐぁっ! ……分かったから蹴るな……何で僕が……ハァ」
「俺は何時止めても良いんだぞ。男のケツなんて靴越しでだって触れたくねぇんだからな。嫌なら止めても良いんだぞ」
「くっ…………」
 2号は文句を垂れ流すのを止めると無言で走り、そして吐いた……そうなるよな。でも吐くまで走ったという根性は認めよう。

 倒れて動かなくなった2号を吐瀉物ごと水塊で一気に洗い流してから、【操水】で水切りして担ぎ上げる。
 この一連の作業でも意識を取り戻さないのは問題だ。余りにも体力が無さ過ぎて空手部では大島をして「頼むから退部してくれ」と懇願しかねない……嘘にしても無理がある。むしろこういう鍛え甲斐のあるのを徹底的に可愛がるのが大島の好み。つまり昔の俺に似てるって事だよ!

 2号を担いだまま宿に戻ってくると、そのまま1階の食堂へと直行し空いているテーブルの椅子に2号を座らせると、強めにビンタを往復で食らわせる。
「うっ、うう……ん!」
「起きたら早く何を食べるのか決めろ」
 エプロン姿のウェイトレスのお姉さんがスタンドバイミーで「早く注文しやがれ」と無言でプレッシャーを与えてきてるのだ。
「……駄目だ……食べられない」
「駄目だ黙って食べろ……あ、お姉さん。肉定食を2つ、それから追加注文でドレッシングに酢をたっぷり使ったサラダを先に出して、それから定食と一緒にゆで卵を2つください……いいか? 運動して食べないなら運動する意味が無い。食わなければお前の先ほどまでの努力もすべて無駄だぞ」
 筋肉は運動によって傷付き、回復する際により太い筋肉へと成長する。その際、回復に必要な栄養を取らなければ筋組織は成長するどころか痩せ衰える……なんて話はどうでも良い。本当の目的は嫌がら…………忍耐力をつけるための試練だよ。


 街道によって分断された左右の景色は右手にある東側が深い森が果てしなく続いているのに対して、西側には人の手が入っている。
 まあ、入っているといっても畑などにして使われているのは1割以上、2割以下といった所で、ほとんどが湖沼や森、丘陵によって占められる。実に長閑な田舎の風景である。
「馬は借りないのかい?」
 門を通って街の外に出た後、今更ながら2号が疑問を呈してくる。
「贅沢は敵だ! 黙って歩け、大体朝だって結局途中でぶっ倒れて、俺に担がれて帰ってきたじゃないか」
 馬で移動している場合じゃないので、ばっさりとその疑問を切り捨てる。
「もう既に膝が笑ってるんだけど」
「だったらもっと大爆笑をとるくらい笑わせないと駄目だな」
「そんな膝は嫌だよ!」
「なぁ……膝って何て笑うんだ?」
「うわぁっ唐突に何か言い始めましたよ!」
「膝がガクガクと笑うって表現は聞くけど……ガクガクと笑う人間になんて出会ったことがないよな?」
「こちらの遠まわしな苦言を無視して、喋り続けるの?」
 勝手なことを言いやがって馬鹿野郎が、こっちも切り出しづらい話があるから、敢えてどうでも良いふわっとした話でタイミングを計ってるんだよ。
「……それでだ」
「何がそれでなのか分からない」
「それでだ! そろそろお前のパワーアップについて話をしたい」
 何とか切り出せたが、これからが問題だ。自分が他人から聞かされたら「バッカじゃねぇの?」と言い放ってしまいそうな事を、自分の口から述べなければならないのだ……ああ、言いたくない。
「パワーアップって、朝から走ったりしてるんじゃ──」
「そんなもんは、やってて当たり前のことで、パワーアップじゃねぇよ!」
「い、意味が分からない……」
「これから俺が質問を投げかけるから、一切の疑問を持たずに承諾して『はい』と答えろ」
「ちょっと待って、何の事なんだ?」
「お前がパワーアップするための儀式で制約だ」
「制約って何を?」
 え~いっ! 気持ちは分かるがイラっとするぞ。俺が敢えて真剣にこんな馬鹿みたいことを言ってるんだから、黙って察しろ!
「気にするな、嫌だというならすぐに解除するし、どのみちお前が十分な強さと賢さを身につけたと判断したら、お前が泣いて嫌がっても解除する。ハッキリ言ってデメリットがあるとしたら俺側にあるだけだから、むしろしないで済むなら俺はしない方を選択したい。やるか? やらないか? 腹をくくれ」
「しかし──」
「決めないなら、話はここで終わりだ。ただし『ミガヤ領の皆を助けたい』という夢物語はあきらめろ。ここで尻込みする様なら、お前は今後どんな選択の場面でも尻込みする負け犬だ」
 うん、ここで2号に「イエス」と言わせる事が出来れば、俺は詐欺師で食っていけるかもしれない……いや、俺が2号なら間違いなくお断りするだろうから、自分を騙せない様な嘘しか吐けない訳であり、詐欺師には向いていないということだ。

「わ、わかった。どんな条件だろうが飲もう!」
 覚悟を決めたか……救いがたい愚か者だ。だが、他人のためにそこまでの覚悟を示すことの出来る愚か者だ。

「ならば俺とパーティーを組み、共に戦うか?」
「はい」
 2号が答えると同時に『2号がパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』というアナウンス用ウィンドウが目の前に開く……2号って、おい! システムメニュー、GJ!だ。
 勿論YESを選択すると、聞き覚えのある様なメロディーの後に『2号がパーティーに参加しました』とアナウンスされた。

「……これって……何?」
 目の前に開いた『パーティーへの参加が完了しました』というウィンドウに触ろうと手を伸ばしては、触れずに突き抜けては下手糞なパラパラでも踊っているかのようになっている。
 本当に気持ちは分かるが、第三者的視点で見れば「初めて目の前に鏡が置かれたサルの方が、もっと賢そうな反応を示す」と思わざるを得ない。
「とりあえず、『システムメニュー』と声に出してみろ」
 目の前のウィンドウが消えて右往左往している2号に指示を出す。
「えっ! ああ、し、システムメニュー……うわぁっ!」
 視界を一杯に塞ぐシステムメニューウィンドウの出現に、2号は驚き後ろにひっくり返り尻餅を突き、それでもまだ目の間を塞ぐウィンドウから逃げようと仰け反り、更には仰向けの状況で首を左右に振り始めた。
 想像を遥かに超えたうろたえようにこちらまで焦る。
「落ち着け! ……頼むから」
 ここは街道だ。つまり俺達以外にも徒歩や馬、馬車などの通行者はいる。まだ時間が早いためにまだそれほど多くないのが救いだが、遠巻きに驚きと憐れみ、そして好奇の目が2号に注がれており、仲間と思われてるかと思うだけで恥ずかしさに赤面しそうだ。
 これが俺がシステムメニューを開いた場合は周囲の時間は止まるが、自分以外のパーティー参加者のシステムメニューでは時間停止が起きない事が、これほど問題になることに今更ながらに気づいた……だから何でそんなことを俺は知ってるんだよ?
「ほら、落ち着け」
 わき腹を軽く蹴りつける。
「うわっ! ……何だ?」
「いいから落ち着け! 玉蹴り潰すぞ……いいか「システムメニューOFF」と言え、もしくは頭の中で強く念じろ」
「念じる? …………うおっ消えた! ……今のは、今のは何だったんだ?」
「むしろ俺の方が、今のお前のうろたえ方が何だったのか聞きたいくらいだ。呪われてるのかと思ったぞ」
 ちょっと脅かしてやるつもりだったのに、パニック状態に陥られると、予め教えた上でシステムメニューを開くように指示すれば良かったと後悔したほどだ。
「……あ~……何ていうか、僕は……暗いところが苦手なんだ」
「面倒くせぇ~、なんて面倒なんだ?」
 暗所恐怖症、しかもパニックを起こすレベルって色々と問題がある……だがそれもレベルアップにより抑制することが出来る。

「まあ良い。戸惑いながらでも黙って聞け。先ほどのお前の目の前に現れた物こそがパワーアップする手段でシステムメニューと呼んでいる」
「システムメニュー?」
「そうだ。基本的に自分の能力を数値化して確認することが出来るものだ。試しに『システムメニュー』と念じてみろ。ただし視界を塞がれても驚かないで冷静を保てよ」
「色々と突っ込みたいけど、分かった耐えてみるよ……」
 2号がゆっくりと深呼吸をした後、ウィンドウが開いた。
「まずは【オプションメニュー】から【表示設定】を選び【バックグラウンド透過率】を選択しろ」
 場所を指で示しながら指示を出しつつ、システムメニューの能力は凄さには呆れる。俺が今覗いている2号のメニュー画面は、異世界の文字を使って表示しているはずだが、それをリアルタイムで俺の知覚に介入して日本語に変換している。そして俺が話そうとした日本語もリアルタイムで変換して異世界語をしゃべらせている訳だがまったくラグタイムが存在しないのだ。
「次に【メインウィンドウ】を選択して、ここのスライドバー……を左へと動かして透過率を……そうだな程度に落としてみろ」
 スライドバーの一言を異世界人に納得させるのに、どれほど長い言葉を費やすのか分からないが、何故か生まれたちょっとした間にも、しゃべっているつもりは無いのに口と舌が動いているという感覚を味わった。
「どうだ? 視界が透けて見えるようになったから恐怖感は消えたか?」
「ああ、これ位なら全く問題は無いよ……だけどこれは──」
「今は黙って、状況を受け入れて説明を聞け。それから【マップ機能】──」
 その後は【オプションメニュー】の下の階層にある、【マップ機能】【時計機能】【ログデータ】の説明をしていく。
「恐ろしくすら感じるよ。何時いかなる状況でも正確な時間を知り、決められた時間に目を覚ますとか、それどころかある程度自分の行動まで予めスケジュールを立てて指定しておくとも出来るなんて……それにマップって、何なんだいこれは? 便利すぎて出鱈目だよ。それに僕は世界がこんなに広いなんて知らなかった。今僕達がいる大地の他にも、もっと大きな大地が海の向こうにあったなんて……頭がどうにかなってしまいそうだ!」
「落ち着け。頼むから、他人の目がある場所で「頭がおかしくなる」とか大声で叫ぶな。傍から見たらとっくに頭のおかしな人だ」
「そ、そうだね……そうなんだけどさ。余りにも凄すぎて──」
「もっと凄いことがあるから、ともかく深呼吸しておけ」
「も、もっと凄いって? だって今だって既に、一度見聞きした情報は何時どこでも確認出来る【ログデータ】とか笑っちゃうほど凄いんだよ。これ以上何させる気?」

「次は【所持アイテム】と【装備】だ──」
 俺の説明に、2号は初めは興奮し顔が紅潮していたが、すぐに青褪めてしまった。
「…………マジ?」
「本当だ」
 俺は2号の肩を抱いて、街道側に背を向けるようにして並んで立つと【所持アイテム】の中から次々と収納した物を取り出しては再びしまう。
「念じただけで勝手に手の中に現れるんだ。しかも中では時間が停止で、とりあえずオーガやオークがそれぞれ数十体に、巨大な火龍の死体まで入ってるけど、どれだけ入るかは君にも全く見当がつかない……へぇ~へぇ~~へぇ~~~」
 トリビア的には『3へぇ』だったが、2号の心はどこか遠いところへ飛び立ってしまった。
 むしろ火龍を俺が倒したということに驚いて貰いたかったが、それどころではなかったのようだ。

「それからこれが肝心な事だが──」
 再び往復ビンタを食らわせて正気に戻すと【パラメーター】の説明を行う。
「なるほど、こうやって自分の体調や身体能力や色んなことを数値で知る事が出来るというのは素晴らしいね。自分に何が足りないのかがハッキリと分かる」
 今回はそれほど驚かなかったようで普通に状況を受け入れている……だが次の説明でお前の心は木っ端微塵に吹き飛ぶ!
「そして、それらのパラメーターを向上させるのがレベルアップで、それを為す事によってお前の能力は飛躍的にパワーアップする」
「レベルアップって何?」
「魔物などを倒すことで経験値というものを稼いで、ある一定の数値に達するとレベルが上がることだ」
「何故魔物とかを倒すとレベルアップするんだい?」
「知らない。何故かとしか答えようがない。そんな事を言うのならシステムメニューという存在自体に疑問を持て」
「自分の頭を疑ってもシステムメニュー様を疑うなんてとんでもない事はしないよ!」
 短い間に随分とシステムメニューに依存する心を育てたようだ。
 翻って俺自身はどうだろう? システムメニューを失ったら……正直なところ困るな。大島をぶん殴れなくなるし、こちらの世界にいる状態で失ったら、現実世界に帰れなくなるかもしれないしな。
 身体能力はレベル1の頃に戻るだろう、そもそも異世界で魔物相手に戦うというので無ければ、現実世界では一流のアスリートにも引けはとらないだけの身体能力を持っているので、強くなりたければ鍛えれば良いだけだ。
 お頭の方は、今までに詰め込んだ知識は思い出しづらくなるだろうが、それでも既に頭に押し込められているので無駄ではないし、一度身に着けた英語などの言語が使えなくなるとも思えない。
 つまり大島をぶん殴った後に、現実世界でシステムメニューを失うのであれば、それほど問題は無いということだ……待てよ、システムメニューを失った直後に【所持アイテム】の中の物を一斉にぶちまけたら大問題だ。近い内に、鈴中の死体と鈴中の部屋から持ち出した物は全て処分しておこう。そうしないと拙過ぎる。



[39807] 第66話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2014/12/30 18:50
 トリムを出てから5時間後、今日の目的地であるロルトノックとの中間地点であるエノブという宿場に辿り着いた。
 2号が朝の疲労のせいでペースが上がらなかったのだから仕方ない。【中傷癒】を使えば治るだろうが筋組織の向上がなさそうで嫌だったので、2号には引き続き苦しんでもらう予定だ。
 予定では有るが、どうやらこの宿場の周辺には魔物の反応がかなりある……街道の傍にと考えれば問題はあるが、飯を食ったら少し休憩させて2号をレべリングさせるのに良いかな。
「今日はここで宿を取ることにする」
「本当に良いのかい?」
 俺の提案に助かったといわんばかりに2号が目を輝かす。
「ああ、まずは飯を……食おう」
 思わず「食ってから休憩だ」と言いそうになってしまった。そんなことを言ったら「休憩の後に何をさせる気だ?」と突っ込まれるだろう。
食事の時『くらい』何も考えずに、安らかに気持ち良く食べなければ良い身体は作られない……大島でさえ俺達が飯を食ってる間は無茶なことをして来ないのだから。

「……いまいちだったな」
 店を出て真っ先にそう口にした。商売を始めて直ぐならば忠告も役には立つだろうが、ある程度の期間をあの味をキープしているなら忠告するだけ無駄というものだ。
「ああ、僕の口には合わなかった」
 この異世界に来て初めての不味いと思える食事だった……携帯非常食をそのままガリガリと齧った馬鹿がいるって? 誰だいそんな馬鹿は?
 現実世界にもカレーを不味く作って客に出して金を取る店も存在するのだから仕方が無い……この『俺』が適当に切って炒めた肉と野菜と市販のカレールーをお湯が沸騰した鍋にぶち込んで10分煮ただけでも、最低限不味くはない食べ物が完成するのにも関わらず、それ以下の物を作るプロがいる事に驚いたものだ。
 代金を払うとそのまま宿を出る。念のため飯を食べてから判断してチェックインしようと2号に言われたのに助けられた。


「ちょっと待ってろ」
 通りの屋台から肉が焼ける良い匂いが漂ってきたので、2号を待たせて屋台に突撃する。
 屋台の料理は、シンプルな串焼きだった。肉はお馴染みのオーク肉のバラ肉をひと口大にカットしたのに串を打った物と、モツ系……レバーと多分ハツ。そして腸、しかもシロコロと呼ばれる大腸の部分。
 難しい部位を出してきやがる。大腸は完璧な処理をしなければ強い臭みが残る。
 しっかりと汚れ……いや、今更取り繕っても仕方が無い。肛門からひり出される直前の状態のウンコだ。それを執拗なまでに流水で洗い流してきれいにした後で、たっぷりの塩で揉み込んで臭いを蓄えたぬめりを完全に落とし、更に小麦粉を塗して揉みこんで残った臭いや汚れを小麦粉へと移してから、最後の仕上げに牛乳に漬け込む。または、もう一度塩を振って浸透圧で中の水分を出すと同時に臭いを取る。
 それぐらい徹底的な下処理が必要な素材であり、ホルモンが現実世界の日本でさえ一般に広く、安全に食べられるようなったのは、ここ20-30年くらいであり、それ以前においては、ずさんな下処理で提供する不届きな店舗が少なからず有り、ホルモンは子供にとっては天敵とも呼べる危険な食べ物であったそうだ。
 ちなみに俺は物心つく前だが、既に潰れた近所の商店で購入したホルモンは恐ろしいほどの臭いを放っていたと母さんが遠い目で語っていたのを思い出す。

「おう、今日始めてのお客さんだ。サービスするからモツ串買っていきな。今日のは特別に美味いぞ」
 それを敢えて強く勧めてくるのか? これは職人として己の腕に対する矜持の現れなのか、それとも単なる無謀なのか?
 分からない、全く分からない。しかし何の確証も持てないのに何故俺は、モツ串を注文しようとしているのだ? しかも代金を支払い、受け取ってしまっただと?!
 自分が恐ろしい。こうも簡単に2号に毒見させれば良いやと思える己の非情さが恐ろしい。

「口直しに、串焼きを買ってきたぞ」
 そう言って大きな葉っぱに包まれた串焼きの中からモツ串を取り出して、ごく自然に2号に差し出す。
「ありがとう……モツですか」
 2号の顔が強張る。やはり異世界の調理技術ではモツは地雷なのか?
「不味いのか?」
「美味しい店のモツはとても美味しいのですが、そうでない店のモツは……最悪ウンコ臭い」
 なるほど……きちんとモツを下処理する技術は存在する。しかし、けっして広く一般に公開された技術ではなく、各店の職人達の秘伝であるということか。
「だが僕も食の冒険者と呼ばれた男だ。試してみない訳にはいかない!」
 誰が呼んだんだか知らないけれど、それは決して褒めてない。
「何が食の冒険者だ。坊ちゃん育ちが親元を離れて、うるさい事を言う相手がいなくなったのを幸いに買い食いにはまっただけだろう」
「好きに言うがいいさ。自分が自由に出来る範囲のお金で、自分が食べたいと思う物を買って食べる……この果てしなき開放感。幼き頃から頃からの躾を破った事で得られた背徳の美味。僕の僕だけの人生は買い食いから始まったんだ」
 それって、お前の人生は最初の一歩から大きく躓いてるんじゃないか? ……頭が痛くなってきた。

「いいから、さっさと食えよ」
「……うん、臭いは全くしない。これはしっかりとした処理がされている。食の冒険者の二つ名に懸けて、間違いなく美味い筈だ!」
 串に鼻を寄せて臭いをかいだ後、そう断言すると串ごとくわえてレバーを噛んで串を引き抜き抜いて、味わいながら咀嚼する。
「うん、美味い! これは塩を振っただけではなく、きちんと香草などを漬け込んだ塩タレに漬け込んだのか、中々やってくれる」
 レバーの感想を述べると、次にハツへと取り掛かり、そしてシロコロを口にした。
「漬け込まれたタレの味と、中から湧き出る脂が交じり合って……うん? これは…………うぇぇっぇぇぇぇっぇぇぇっ!」
 あほの末路だ。少しだけ齧って味見するとかやり様は幾らでもあったのに、食の冒険者云々と自分を追い込んだ挙句の果ての自業自得。
「うぇっぇぇぇっぅえっ! ……酷い、表面上は完全に処理しているけど中に入っている臭いが全く抜けてない。まるでオークの糞を口に入れたかのような臭いが……うぅぅぅぅ」
 涙目で涎を流し続ける様子が余りにも憐れだったので、取り出したコップに水筒から水を注いで差し出すと、奪い取るようにしたコップの水を煽ると口をゆすぐ。
「駄目だぁ、全く臭いが取れない。こんなの初めてだよぅ~」
 泣きながらどうやらちょっとやそっとの臭さではなかったようだ。それにしても嗅覚もレベルアップで上昇している俺ですら、臭いを感知できなかった。もし焼いていて僅かでもウンコ臭かったら流石に買いはしない……どうしてそれほど臭いのか不思議だ。

「おう兄ちゃん達、俺のモツ串を臭い臭いと随分な事を言ってくれるじゃないか?」
 屋台の兄ちゃんが巻き舌気味に絡んでくる。まあ、屋台から10mも離れていないのだから当然だな。
「実際にこいつが食って臭いと言ってるんだから仕方が無いんじゃないか?」
「全くだ。こんな食べ物となどと言えないような汚物を客に出しておいて!」
 とりあえず2号には口直しに、蜜柑に似た形で味がグレープフルーツとレモンの間くらいの味のフルーツを渡す。
「ふざけるな、今日のモツは全て、魔法使いに頼んで消臭してもらってるんだ。臭いはずないだろう!」
 魔法って結構身近な存在だと初めて知ったよ。
「そんなに言うんだったら、お前の店で買ったこのモツ串を食ってみろ」
 豚精串ならぬオーク精串以外にも、2号に食べさせて問題が無いことを確認してから食べるつもりで、モツ串を自分の分も買っていた。
「そこまで言ったんだ。俺が食って何でも無かった時は、覚悟できてるんだろうな兄ちゃん?」
「無論だ。万が一そんな事になったなら、こいつが全部責任を取る」
 そう言って2号を指差した。
「…………へっ?」
 2号と屋台の兄ちゃんが間抜けな顔でこちらを見る。
「俺はまだ何にも食ってないし、モツ串をウンコ臭いだの、こんな糞を捏ねて作ったような糞を作った糞料理人の頭の中に詰まってるのは糞だなんて一言も言ってない。無関係だと断言する」
「何だとテメェ!」
「そこまでは言ってない!」
 自分の胸倉を掴みあげる屋台の兄ちゃんに、2号は必死に首を横に振って否定する。
「いいからさっさと食って白黒つけろ」
「ちっ、覚えておけよ!」
 2号に舌打ちと共に殺意すら込めた鋭い視線を送ると、兄ちゃんはレバー、ハツ、シロコロをまとめて歯で串から引き抜くと、まとめて豪快に咀嚼する。

「………………くせぇぇぇっぇぇぇぇっ!」
 口の中の物を吐き捨てて、そう叫ぶと屋台に駆け戻り売り物のエールを小樽からコップへ注ぐと口に含んでは吐き出し、何度も口をすすいでいる。
「彼……殴っても良いよね?」
「無論だ。俺はあの屋台の看板を『オークのウンコ』って書き換えてやりたいな」
「それって良いね。僕も手伝うよ」

 人心地ついたのだろう。兄ちゃんが戻ってきて頭を下げる。
「すまなかった。まさかこんなことになるなんて」
「何であんなことになったんだい?」
 殴ってやろうと思ってたはずなのに、基本お人好しの坊ちゃんは頭を下げる兄ちゃんに対して問いかける。これが俺ならまず殴ってから問いかけるだろうし、大島なら殴り倒してからベッドで療養中の相手に問いかけるだろう。
「肉を全部切り分けて臭い消しの下処理をしようとした所に、流しの魔法使いがやって来て肉の臭みを完全に取り除く画期的な魔法があるから試してみないかと言われたんだ。10ネアで良いと言うから試しに頼んだら、確かに臭いは完全に消えたんで……」
 なるほど焼いた串から臭いがしなかったのはそういうことか。だが……
「実際に食べて確認しないで客に出したと……死刑!」
「ちょっと待て! あんたは無関係なんだろう? 何勝手なことを言ってるんだよ」
「ほう、無関係と? 金を払ってお前の自慢のウンコ串を買わされた挙句に、大事な友人にそれを食わせてしまい面子を潰された俺が無関係だと?」
「い、いや……それは……」
 モツ串が臭いと言った言わないには無関係だが、客という立場での被害者は俺だということを思い出したようだ。
「僕は大事にされた記憶が全く無いし……友人?」
「お前は黙っとれ!」
 首を横に傾げる2号を黙らせる。

「お前への処分はおいておくとして、その魔法使いというのは何者だ?」
 臭いを消すという発想の面白さに興味が沸いた。
「見たこともない男だったから、この町の人間じゃないはずだ」
「名前も聞いてないのか?」
「聞いてない。肉から臭いが消えたのを確認して金を払ったらすぐに立ち去ったから」
 出来るなら接触して話を聞いてみたいのだが2号をパワーレベリングする方が先だ。そうなると現在の時刻を考えれば、その魔法使いはロルトノックかトリムへと移動してしまうだろうから接触は無理か……まあ、魔法使いは王都に行けば、それほど珍しい存在でもないようだから今はまだ慌てる必要は無い。最悪エロフに頼るという手段も無くはない……やっぱり嫌だ。


「ここは誰? 私は何処?」
「もうそれは良いから」
 串焼き屋台の兄ちゃんからモツ串代の返金を受けて、更に謝罪としてオーク精串を大量に貰らい、ついでに評判の良い宿を聞き出し、その宿を取り、部屋で一休みした後で2号を眠らせ収納した。
 そして俺と2号は森の奥深くにいる。
「どうして僕はこんなところにいるの?」
「これもシステムメニューの力だ」
「す、凄い! どうやったの教えてく欲しい!」
 目を輝かせる2号に「お前にはまだ早い」と言って真相を明かさなかった。
「そうか、レベルが上がれば出来るようになるんだね?」
「まあ……そういうことだ」
 2号にタネを知られたら、逆に俺が収納されかねない。
 俺と2号のシステムメニューは俺のがマスターで、2号のがスレイブの関係にあるので、マスター権限のシステムメニューを持つ俺をスレイブ権限しか持たない2号のシステムメニューが収納するのは無理だと思われる……一応、【良くある質問】で調べてもピンポイントな質問の件が無かったが、関連する回答に『マスターシステムのユーザーに対して、スレイブシステムが影響を与えられるのは、マスターシステムのユーザーからの許可が得た場合のみ』というのがあったので、多分大丈夫だが心配なので教えない。

「周辺マップで状況を確認しろ」
「周囲に……これは動物なのかな? 反応が幾つかあるね。 北東方向に何かの群れがある」
「それに意識を集中してみろ」
 北東の群れはゴブリンの群れだ。システムメニューはマスターとスレイブのユーザーの情報を統合して情報量を増やすようなので、お坊ちゃん育ちの2号がもしゴブリンと遭遇した経験が無かったとしても、俺はゴブリンと戦闘もしているので、その情報は2号のシステムメニューにも反映される。
「ゴブリンか……本当に凄いねシステムメニューは」
「俺もしくはお前が遭遇した事のある相手だけだから、マップ内の全ての反応が何者か分かるわけじゃないからな」
 ちなみに2号をパーティーに加えた事により、俺のマップ表示範囲はかなり広がっている。
 ミガヤ領内の町や村と、それを結ぶ道とその周辺。そして残りの王都への道と王都周辺がワールドマップに表示されている。
 これならば、可能ならばパーティーメンバーを増やして行くのも良いかも知れない。

「まずは北東のゴブリンと戦ってもらうが、1人で大丈夫か?」
「ゴブリンがマップ上の4匹だけなら多分勝つことは出来ると思う。無傷とはいかないだろうけどね」
「じゃあ試しに戦ってみてくれ。お前がどの程度戦えるのかも知りたい」
「分かったけど、危なくなったら助けてくれるんだろうね? ……何で目を逸らすんだよ!」
「危ないと思ったら、書類にして報告してくれ、精査した後に助けると決まったら、その旨を連絡するから」
「助けてよ!」
「はいはい」
「助けろよ! 本当に助けろよ! 助けなかったら化けて出るからな!」

『セーブ処理が終了しました』
 2号よこれが俺の愛だ……死んだらリロード。自分の死さえも経験に出来るなんて羨ましいな。自分には出来ないのが残念でならない。いや本当。

 忍び足で気づかれぬように、木の陰からゴブリン達の姿が見える場所へと近づくことに成功した。
 相手はゴブリン4匹で、3匹は赤錆の浮いたナイフや短剣で武装しているが、1匹は小さい弓を持っている。
「飛び道具はちょっと反則だと思うんだけど?」
 確かに2号がどれくらい戦えるか分からない状況で、他のゴブリン相手に足を止めたところを攻撃されたら矢があたる可能性が高いだろう。
「常に動きながら戦えば、矢は当たらないから安心しろ」
 自分でもびっくりするほどクールだ。
「当たる時は当たっちゃうよ。もし毒矢だったらどうする気なんだよ?」
「一応解毒は出来るが、解毒が効かなかったら死ぬかもな」
「……僕はまだ死にたくないよ」
「安心しろ俺が手を貸すと決めたんだ。死んだ程度で楽になれると思うな。何度死んでも目的は果たしてもらう」
「もしかして死者の復活まで可能なのかい?」
「いや、死んだ人間は生き返らないだろう……常識的に」
「やっぱり死んだらお仕舞じゃないか?」
「死んだ人間は生き返らない。だったら死ななかった事にすれば良いだけだ」
「……何を言っているのか、訳が分からないよ」
「一度死ねば分かる。だから死んでみてくれないか?」
「おかしいよこの人! 誰か助けてっ!」
 2号が俺の理不尽な発言に耐えかねて悲鳴を上げた瞬間。その声に気づいたゴブリン達のシンボルが赤へと変化した。
「良し、ゴブリンどもが来るぞ。頑張れよ。もし逃げたら足を射て逃げられないようにするから、多分死ぬから止め……いや、良い実験になるから是非ともやってくれ」
「死んでたまるか!」
「……あっ、それから今の時間を確認しておけよ。絶対だからな!」
 そう告げると【迷彩】を使って姿を消す。
「あ、あれ? ちょ、ちょっと何処に行ったの?」
 完全にテンパって、周辺マップで俺の居場所を確認すれば良い事に気づけないでうろたえる2号を尻目に、俺は音を立てないように慎重に木の上に上って、特等席での見物を決め込むことにした。

「糞っ、覚えてろよ!」
 お坊ちゃんらしくない下品な口を叩くと、捨て鉢になって魔法の収納袋の中で鞘を払い剣を抜く。
 前回、俺に刀身を切り飛ばされた細剣以外にも普通の剣を持っていたのか、つまりそれしか持っていなかったから細剣で俺に決闘を申し込んだのではなく、自分が有利になるための選択として細剣を手にした訳だったのだ。
 実に良い。勝つために手段を選ばないと言うのはとても好意が持てる。良い振りしいのお坊ちゃんよりはずっと良い。これで容赦する必要も無くなったと思えば最高だ。

「うっ!」
 自分に向かって走ってくるゴブリン達の姿に、一瞬怯えて逃げるような素振りを見せたが、次の瞬間足元に突き刺さったボルト──当然、俺がクロスボウで射た──に、喉元まで上がった悲鳴を何とか飲み込むと踏み止まった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
 ヤケクソと言った感じで雄叫びを上げると、上段に剣を構えるとゴブリンの集団に対して左へと抜けるように斜めに走り出す。
 正解だ。飛び道具を持った相手に正面から真っ直ぐ向かったら、殺してくれと言っているようなものだ。
 2号は4-5歩毎にジグザグに走りながら更に距離をつめて行くと、リーチの差を活かして先頭のゴブリンの前を左に走りぬけながら、その頭上から剣を打ち込むと、脳漿を撒き散らして崩れ落ちるゴブリンに一瞥も与えずに後方にいる弓を持ったゴブリンへと速度を上げて迫る。
「おい馬鹿! 止めろ!」
 思わず制止の声を上げてしまうが間に合わず、ゴブリンの放った矢は真っ直ぐ突っ込んで行った2号を捉え、矢は2号の首を貫き襟足の辺りから鋭い鏃を除かせていた。

『ロード処理が終了しました』

「うわっ!」
 セーブ時点に戻った瞬間、俺の前を歩いていた2号はいきなり、小さく掠れる様な悲鳴を上げると後ろへと尻餅を突いた。
 ……漏らしてないのか残念だ。一生涯の弱みを握れたかもしれないのに。
「見事に間抜けな死にっぷりだ。良い体験が出来ただろう?」
「い、い、今のは一体? 僕は死んだんじゃ? 傷が無い……夢……なのか?」
「だから死んだんだよ」
「死んだって? じゃあ、今僕がこうしているのは一体何なんだよ?」
「言っただろう、死んだ事を無かった事にすれば良いって」
「分からないよ! 何なんだ? その死ななかった事にってのは!」
 追い詰めすぎたせいで、ちょっと言葉遣いが乱暴になってきたな。

「巻き戻したんだよ。時間をな」
「な、何を馬鹿なことを……まだ生き返らせたとか言われた方が納得出来るよ」
 素直が取り柄だったお坊ちゃんが反抗期? でも確かに死んだ人間を生き返らせると、時間を巻き戻すなら前者の方が遥かに奇跡としてのランクは下だと自分でも思う。
「じゃあ時計を確認してみろ」
「時計? ……あっ、おかしい時間は……あれ? でもそんな……」
「これは【セーブ&ロード】という機能で、流れる時間のある一点に印を付けて、その時点へと戻ることが出来る。俺のシステムメニューだけにある機能だ」
「それは既に、神の領域じゃないのか? 君は一体何者なんだ?」
「ただの人間だ。俺が凄いんじゃなくシステムメニューが凄いだけで、それに振り回されるだけのちっぽけな存在だよ……お前が凄いんじゃなくお前のシステムメニューが凄いようにな」
 まだ使いこなしているとすら言えない様だしな。
「それにしても、君のその力は個人が持つには大きすぎる力じゃないのか?」
「確かに大きな力だな。予め決めておいた時点から何度でもやり直すことが出来るんだから、誰かが死んだとしてもやり直すことが出来る
……だが、全てがやり直せるわけではない。巻き戻すと決めた時点より過去には巻き戻すことは出来ない」
「幾つか決めておく事は出来ないのかい?」
「1つだけだ」
「……少しほっとしたよ」
 安堵の溜息を漏らす2号だが、自分が死んでも俺に助けて貰えるが、俺が死んだら誰にも助けてもらえないって事までは理解出来ていないようだ。
 敢えて話そうとは思わないが、それくらい察して気を使って貰いたいと思うのは贅沢だろうか?

「それでだ。今回のお前の戦いをまとめよう。ゴブリンの集団へジグザグに走りながら距離を詰めたのは正解だ。そして先制に戦闘の1匹を倒した後、残りの2匹を無視して弓を持ったゴブリンへと狙いを付けたのも実に良い判断だった」
「ありがと──」
「だが、今回お前が死んだ理由をちゃんと理解しているか?」
「それは……ゴブリンに矢を射る時間を与えた事だと思う」
 やはり肝心な事を理解していなかったか。
「全く違う。問題なのはゴブリンが矢を放つ前に倒そうと、勝手に焦った事だ」
「だけど矢を射られる前に──」
「そういうことか……」
 俺が勘違いしていた。2号がジグザグに走りながら距離を詰めたのはゴブリンが矢を射ても当たらないようにするのではなく、狙いを付ける余裕を与えない事で矢を射ることができないようにするためだったのだ……つまり矢を射掛けられることへの強い恐怖心があるってことだ。
「あのな好き好んで矢を射掛けられたいと思う奴なんていない。だけどゴブリン程度の腕力で引ける小さな弓から放たれた矢の速さは、秒速50mにも満たないだろう。10mの距離から当たるまでの時間は0.2秒以上で、お前が走って移動している限り、当てる為には0.2秒後の未来位置を予測して矢を射る必要がある。つまりゴブリンの動きを良く見て、構えを制止させたら走る方向を変えれば良いんだ。そしてゴブリンが矢を外したら、距離を詰めるチャンスという訳だ」
 もっともゴブリンの腕がよければ、走る2号の動きに合わせて狙いを動かしながら射るなんて事も出来るのだが、それは敢えて口にしない。どうせ死んでもロードしなおすだけだから、今日の内に後2-3回死んでおくのも良い経験だろうという完全にスパルタな指導方針だ。
 大島を彷彿させる非人道的なやり方だが、そもそも俺が人を指導するなんて経験は空手部でしか経験が無い俺にとっては、悲しい事だが大島のやり方がスタンダードなのだから仕方がない。

「人間慣れるものだよな~」
 2度目に死んだ時は涙目で「もう嫌だ」と泣き言を抜かした2号だったが5度目を過ぎると目つきが変わった。
 先頭のゴブリンを始末した後に、弓を持ったゴブリンへと向かうのは最初と同じだったが、回り込むような動きを見せながら2号はわざと速度を落としてゴブリンが狙い易いように隙を見せると、ゴブリンが射掛ける直前に速度を上げて矢を避ける。しかも2号の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
 雄叫びを上げながら迫る2号に、ゴブリンは慌てて矢を番えなおそうとする……意外に速い。伊達に2号を5度も射殺してはいないようだ。
 俺ならば左サイドへステップして回りこみ斬りつける。右へと移動すれば射手が標的を追って左へと上体を捻る動作で弓を引く事が出来る。狙いも糞もないが至近距離なら十分に当たる可能性が高いからだ。
 だが2号は違った。何時の間にか握りこんでいた左手の中の土をゴブリンの顔目掛けて投げつけ、ひるんだ隙に剣の間合いまで迫ると、弓ごとゴブリンの首の左付け根へと斬りつけた。

 残り2体のゴブリンを斬り伏せ戻ってくる2号の顔には、先ほどまでとは違った凄みのようなものが浮かんでいる。
「レベル3に上がった感想はどうだ?」
「ハッキリとは分からないけど身体が軽くなった。勝利の高揚感のせいかとも思ったけど、それだけじゃないと思う」
「後2、3レベル上がったら、ハッキリと自覚できるはずだ……どうする続けるか?」
「勿論。ここで止めるにはもったいない」
 一度の勝利が、ここまで人間を変えるものなのかと驚くほど2号の性格が漢らしくなっている。俺も身に覚えがあるが傍から見ると、こんなにも恥ずかしく不安を覚えるものだとは思わなかった。最初の森で誰にも見られることなく、1人で済ませたのが救いだ。
「とりあえずゴブリンを狩ってレベルを5程度までは上げた方がいいな」
 俺がオークと戦ったのがレベル5の時だった。【セーブ&ロード】を使えないこと、そしてシステムメニューを開いても時間停止が無いことを考えると俺より遥かに条件は悪いが、それでも俺としてはかなり楽勝で倒せたので2号でも十分に倒せると思う。
「そうだ。次からオークだと言われたら逃げ出すよ」
「逃げるなよ。俺はレベル1の時に子牛ほどもある3頭の狼に襲われたけど逃げ場なんて無かったからな」
「……君が厳しくするのは僕への悪意じゃなく、それが君にとって当たり前の事なんだと分かったよ」
「……倒したと思った最初の1頭がさ、死んでなくて後ろから左手首に噛み付かれてな、奴が死ぬまでの間に腕をズタズタに引き裂かれた。そして別の狼に首に食いつかれる前に何とかロードを実行して何とか死なずに済んだんだ……」
「分かった、分かったから。もう良いんだよ! ほら僕もこれかはもっと真剣に励むから」
 当然だが、俺は2号に自分で口にした言葉を後悔させてやった。


「レベル10……流石にオークと戦うのは暫くは止めておきたい」
「じゃあ次はオーガか。流石に無理なんじゃないかと思うけど、お前がそういうのなら──」
 俺はレベル7でオーガを倒したが、セーブとロードは俺が後ろからやってやるから心配無いにしても、システムメニューのON/OFFを瞬間的に繰り返すコマ送り戦法。
 そして相手に接近して無手の状態で装備実行して、突き刺すという動作無しに相手にダメージを与えた後、収納することで相手の身体から武器を抜くという動作も無くす戦い方は、必要なレベルに達した後はパーティーから外す予定なので教えてすらいないので無理。
「違うから! 僕はそんな事、言ってもいないし考えてもいないよ!」
 とにかく目的のレベル10に達したので、ここでパーティーから2号を外し、その状態でも現在の身体能力や知力に魔力、そして習得した魔術は維持出来ているのか? そしてパーティーに再加入しても、今のレベル10を維持しているのかをチェックしてやろうと思ったが、泣いて「また最初からレベル上げするのは嫌だ!」と嫌がらた。ゲームでセーブデータを飛ばしてまた最初からレベル上げをする悲しみを知っている俺は、仕方なく【よくある質問】でチェックしたところ、システムメニューの機能は使用出来ず、収納しているアイテム等は俺預かり状態になるが、一度パーティーに参加してレベルアップした身体能力等はそのままでも使えて、更に再加入した場合も以前のレベルがそのまま適用されるとの事であった。
 身体能力が上がった状態から元の状態に戻り、その状況で戦った時にどのような影響があるのかを知りたかったのだが残念である。

「自分の能力が上がったという感覚はあるか?」
「その場で飛び上がったら軽く自分の身長を超える高さまで飛べたんだから、滅茶苦茶あるよ」
 他にも四則計算では暗算の達人級の速さを見せ、更に魔術も【水球】【飛礫】【坑】【火口】【微風】【閃光】と多少俺とは覚える順番が違うが、順調に使える数を増やしている。
「じゃあ、俺の役目はここまでで後は自力で何とかするって事で良いか?」
「頼む。まだもう暫く頼むよ。レベル20……いや30くらいまでは助けて欲しい」
 レベル30か、そこまで行けばかなりのものだ。身体能力に限れば加護持ちに勝てないかもしれないが、知力という面では間違いなく天才と呼ばれるほどの切れを持つことが出来るはずだ。何せ演算能力が半端じゃなく高いので天才の閃きにさえ計算で追いつくことも可能……かもしれない。
 問題は、考えられる範囲が広がりすぎて逆に意識の外に追い出されてしまう事が少なからずあると言うことだ。物事の可能性というのは自分が認知出来る範囲内でも突き詰めれば何処までも掘り下げることが出来る。如何に人間離れした思考・演算能力を持ってしても追いつかなくなるのは必然であり、量子コンピュータどころかラプラスの悪魔を連れて来て貰いたい。

「でもレベル30ってどれくらい強いんだろう?」
「そうだな……弱い龍と正面から戦ったら瞬殺されるくらいかな?」
 2号の疑問に珍しく真面目に答えてやる。
「なんだろう? 今のこの、龍となんて戦って堪るかという恐れる気持ちと、同時にやっぱり龍には勝てないのかという残念な気持ちは」
「あれは別格だ。ブレスっていうとんでもない飛び道具を持ってるから、こちらの間合いに誘き寄せて奇襲するしか勝ち目は無い」
「話には聞いたことがあるけどブレス攻撃というのは、実際どんな感じなのか教えてくれないか?」
「まともに食らったら死ぬ。水龍と戦った時は、ヤバイと感じて避けた瞬間に手足が宙に舞ったからな、痛みすら感じる暇も無かったな……」
「僕、龍とは一生戦わないよ!」
 自分のトラウマについて語る俺に、青褪めた顔でそう宣言した。
「戦いとは相手があってのことだ。お前が望む望まないに関わらず、戦う時というやつは勝手にやってくる」
「嫌だ。戦わない!」
「まあ最低限、備えだけは怠らないことだな」
「だから戦わないんだって!」
 いつか2号が龍と戦いますようにと、俺は神でも悪魔でもない何かに祈った。



[39807] 第67話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2016/11/10 17:07
「そうだ。俺、明日から火曜日の夜まで帰って来ないから」
 洗顔後にタオルで顔を拭きながら母さんに告げる。
「どうしたのいきなり?」
「まだ本決まりじゃないんだけど、空手部の合宿があると思うんだ」
「あら? 空手部の合宿って夏休みと冬休みだったわよね。どうしたの?」
「冬の合宿を中止にする代わりに、このゴールデンウィークに無理やり合宿を突っ込んでくると思うんだ」
「今年は冬の合宿が無いの? それなら久しぶりに母さんの実家に家族で行く予定立てようかしら?」
「母さん……俺も兄貴も受験生だよ」
 兄貴に至っては1月17日から2日間に渡ってセンター試験だから追い込みどころか直前の段階だよ。
「ごめ~ん、母さん忘れてたわ。大と隆はお母さんに余り心配させてくれないから」
 日本一危険な目に遭ってる中学生と言っても過言ではない俺の心配だけは、365日24時間しても罰は当たらないと思うんだけど、やはり日本一危険な女子中学生と俺が認める、涼には勝てないと言う事なのか?
「それで、何処に行くの? 今度はいつもと違って海……う~ん島なんて良いんじゃない? 鳥も通わぬ絶海の孤島。しかも無人島……そこで起きる連続殺人……」
 おい……おいっ! 想定される20人のキャストの1人はあんたの息子だ。連続殺人事件なら最低でも2人死ぬわけだから、1/10の確率で息子が死ぬような妄想でウットリするなよ。こういうところが涼の母親なんだなと思う。
「どう思う?」
「何で殺されなきゃならないんだよ!」
「大丈夫よ逆に島に侵入した殺人鬼達が次々と殺されていくの、オチを明かすと犯人は隆ね、随分と斬新な話になると思わない?」
 弁当を渡しながら言うことかよ、どうしようもないよこの人。
「息子を人殺しにするなよ! 大体、それじゃあミステリーでもなんでもなく、ただのアクション物だろ」
「何も知らずに島に上陸した殺人鬼達の視点から描けば十分にミステリー仕立てになるわ……やっぱり、島が良いわよね?」
「どうせ今回も山だよ山! 絶海の孤島は無いからね」
 ……多分。

「……という話があったんだ」
「コワっ! お前の母さん何を考えてるんだ?」
「ミステリーマニアの戯言?」
 そう答える自分自身ミステリーマニアだけでは説明がつかない気がする。
「流石は主将の母上ですね」
 香籐君。それは全く褒めてないからね。

「ところで1年、金策がつかなかった奴はいるか?」
 俺の問いに、6人中4人が手を上げた。
「すいません。親に言い出せなくて、貯金は3万円くらいしかなくて……」
「僕は2万円くらいです」
 まあ気持ちは分かる。いきなり「明後日から部活で合宿をします。そのために4万円ください」とは言い辛い。むしろそれを気軽に口に出来るとするなら「貴様、何処のお坊ちゃんだ!」と説諭することになるだろう。
「澤田、東田。お前達は工面できたのか?」
「はい、子供の頃から貯めてたお年玉貯金があったので」
「俺もです」
「そうか、すまないな。帰りにピザでも奢ってやるから勘弁してくれ」
 不足しそうなのは8万程度、まあ余裕を見て10万ってところだ。
「なあ、今回のカンパは俺達3年生だけでも良いか」
 櫛木田達に聞いてみる。
「良いんじゃないか?」
 田村は気風の良い男前っぷりを披露する。
「最初からそのつもりだ」
「当然だね」
「思ったよりも少なかったからな」
 残りの3人も同意してくれた。

「良いんですか先輩?」
 香籐が俺達の財布を気遣ってくれる。
「お前達は来年の1年生の面倒をしっかり見てやってくれ……さあ、朝の練習が始まるぞ」
 香籐の肩を軽く叩いて、格技場へと向かう……櫛木田。
「…………」
 美味しい所を全部掻っ攫われてしまったよ。


「全員そろったな。まず練習を始める前に伝えておく事があ──」
 大島の発言を遮り、その話を強引に引き継ぐ。
「明日の放課後、部活終了後に空手部は校外合宿を行う。部員一同は本日の放課後の部活終了後、合宿準備を行うように。ではランニングに出る」
「はい!」
 部員達は一部の隙も無く声を揃えて応えると、先に格技場の入り口へと向かう俺の後に続いた。

「待て高城っ! お前、何故それを?」
「簡単ですよ。昨日先生が何か余計な事を考え事をしながら、随分とぶっ弛んだ糞みたいな指導をしていたので察しがつきました」
「ぶっ弛んだ糞みたいな指導だと!」
「はい、いつもの先生の的確でメリハリ利いた指導に比べたら腑抜けとしか言いようの無い様。本当に時間の無駄としか思えないような酷いものでした」
 『いつもの』指導を……褒めたくはないが、俺に褒められた手前、自分でも思い当たる節がある昨日の指導態度をどう責められても文句は言えないだろう。どうだ大島? 悔しかろう? だがお前の手元に反撃するカードは無いんだよ。
「この俺が腑抜け? …………ふん、だからどうした?」
 まさか、一瞬で開き直っただと?
「明日から合宿に行くことは読めても、何処に行くかまでは分かっていまい? 違うか?」
「勿体つけたところで、どうせいつもの山でしょう」
 騙されるな。やはり奴が受けたダメージは大きく、精神的に立ち直るための時間稼ぎに吹かしているだけだ……
「違うぞ」
 違う? ……いや張ったりだ。
「今回は……島だ」
「………………はぁ?」
 ちょっと耳が遠くなったみたいだ。
「島。島だって言ってんだ。本土から遠く離れた無人島だ」
「げぇっ!」
 自分の顔が青褪めていくのがハッキリと分かる……何故ならみんなの顔がそうだからだ。
「連続殺人事件……」「死ぬのは誰だ?」「ミステリーの謎を解かなければ……死ぬ」「……犯人はこの中にいる」「ディナーの後じゃ遅すぎる!」「そうだ、殺られる前に殺ら無ければ……」「何人死ぬ? 何人殺せば良い?」
「お前ら何を言っている?」
 母さんが立てた不吉なフラグと現実の前に脳をやられてボソボソと呟きはじめた部員達。その様が想定外過ぎて大島が不審というよりも気持ち悪そうに退いてる……勝ったな、ある意味で。
「無人島に嫌な思いがあるんですよ」
「ふっ、そうか……そんなに無人島が嫌か」
 俺達の嫌がることが大好きな変態ドSが喜んでいやがる。
「ええ、殺人事件が起こりそうで嫌なんですよ……」
「はぁ……起きねぇよ、何いってるんだ?」
「しかも連続で……」
「だから起きねぇっていってるんだよ!」
「最初から殺人事件が起こると知ってるのは犯人だけですよ」
「ちっ、狐でも憑いたか言葉が通じねぇ!」
 それはいつもお前に対して俺……いや人類全体が感じている事だ。

「それで何故無人島を?」
「決まってるだろう。今更山じゃお前達も面白くないだろうからな」
「お前達『も』面白くないだろう……分かりました。その言葉はそのまま早乙女さんに伝えておきます」
「それは洒落にならん! チクるなど男らしくないぞ!」
「面と向かって言えない事を隠れて言うのとどちらが男らしく無いか、早乙女さんに直接判断して貰った方が良いですね」
「あー言えばこー言う! 畜生っ! 分かった何が望みだ?」
「我々に無人島で何をさせるのか合宿内容を説明してください。そして書面に合宿内容とそれ以外の事はさせないと記して、今日の放課後の部活終了までに渡してください」
「……構わん。別にお前らが出発する前に絶望するか、現地で絶望するかの違いだからな……むしろ絶望がお前らを苛む時間が長くなるだけで結構な事じゃないか」
 とことん人でなしだよ。だが書面に残して俺に渡すという事の恐怖をお前に教育してやる! といつか面と向かって言える様になれると良いな。

 例の事件のおかげで1週間も練習内容が地獄から夏休みのラジオ体操レベルに落ちてしまったが、最初こそ歓迎ムードだった部員達の様子も、今では1年生達を除く部員達からは物足りなさに「運動不足で太ってしまう」と愚痴が出るようになっていた……お前達の価値観はおかしい。今の練習量だって甲子園常連クラスの名門私立高校野球部で授業も受けずに一日中野球しかしてないような似非高校生部員達にも密度の面では決して負けてないんだよ。
「主将。僕らは10日に行われるという例の奴に、この調子で耐えられると思いますか?」
「部活の後に自主練でランニングは欠かしていないんだろう?」
「はい、通常練習時のランニングメニュー劣らないように負荷をかけて距離を伸ばしていますが……」
「……隠しておいても仕方が無いのでハッキリ言っておく。今のお前達の体力なら十分合格ラインに達している」
「本当ですか?」
 今のペースで走りながら喜び笑みを浮かべられる余裕があるのが、その証拠だ。しかし……
「お前達が合格ラインの体力をつけていても、ゲロ吐いて倒れ伏すのは確定だ。奴にとっては合格ラインに達しているのは当然の事であって、本当の目的はお前達がもがき苦しむ様を楽しむ事だから」
「…………」
 1年生達の顔から笑顔も生気も覇気も全てが抜け落ちる。そこには悲しみも絶望も無く、ただの虚無だけがあった……だって空手部ってそういうものだし。


───────────────────────────────────────────────────────────────

5月2日
 15:30 部活終了
 18:00 食事(奢ってやる)
 18:40 マイクロバスにて移動
 20:40 神奈川県の漁港へ到着
 21:00 漁船に乗船し出港
 23:00 島に到着
 23:30 就寝

5月3日
 05:30 起床。浜辺をランニング
 07:30 朝食
 08:00 水練
 09:00 遠泳
 12:00 昼食 休憩
 13:00 サバイバル訓練
 18:00 夕食
 18:30 自由時間
 20:30 野営準備
 21:30 就寝

5月4日、5日
 05:00 起床 終日サバイバル訓練

5月6日
 06:00 起床。浜辺をランニング
 08:000 朝食
 09:00 乗船し出港
 12:00 上陸、昼食
 13:00 マイクロバスにて移動
 15:00 学校到着 ランニング
 17:00 解散

───────────────────────────────────────────────────────────────

 ……なんだこのふざけたスケジュールは?
 昼休みに大島の元まで取りに行き、渡されて目にしたスケジュールに、最初に思ったのがそれであった。
 5月3日まで、細かい突っ込み所が幾つかあるものの、理解出来無い内容ではなかった。
 だがしかし4日、5日は何だ? これでは山での合宿と大して違いが無い。期間が短いだけにむしろ緩々とも思える。時間的にわざわざ高速道路を使い、漁船まで出して移動する意味が分からない。
 つまり、そこには必ず俺達を苦しめるための何らかの意図があるという事だ。無い筈がない。自分の命どころか全人類の命懸けても構わない。
「準備をしっかりしておけよ」
 そう言いながらニヤリと獰猛な笑みを浮かべる大島に一礼すると、技術科準備室を後にした……飯を奢ってやるなんて書かれても絶対に感謝なんかしてやらないからな!


「何を企んでいやがる?」
 スケジュール表に目をやりつつ、必死に考える4日、5日に何をさせるつもりなのか? しかし肝心なその日のスケジュールには具体的な事が何一つ書かれていないので想像するのが難しい……ならばその前後にヒントの欠片がある可能性にすがるしかない。
 ……ん、これは何だ?
 引っかかったのは5月3日の野営準備。しかも1時間もとってある。初日は島に到着して30分後には就寝となっているに何故2日目に野営準備が必要なのか? いや必要なのだ。必要じゃない時間を俺達に与えるはずがない。その時間がなければならない状況……待てよ。
 携帯を取り出して天気予報サイトにアクセスして関東地方の週間天気予報をチェックする。
「これか……」
 台風だった。台風6号が5月3日の夜半にかけて関東地方の南部から日本海沖まで暴風圏に収め、ゆっくりと北東へと進路を取りながら5月5日午後まで小笠原諸島から伊豆諸島、関東地方へと大雨と強風、高波をもたらすとあった。
「ここまでやるというのか?」
 奴め正気か? 台風だぞ台風。しかも風速50mクラスの強力な勢力を持つ台風だ。下手をしたら死人が出ると考えを抱く常識がないのか?


「紫村ぁ~、風速50mの暴風雨の中、無人島で快適に寝泊り出来る方法って無い?」
 困った時の紫村えもんに助けを求めた。
「……もしかして、そういう事なのかな?」
 俺の言葉に自体を察した紫村が、珍しく不愉快さ隠すことなく表に出してる。
「そういう事なんだ。これは俺が冬合宿を中止に追い込んだせいだ。下級生達が無事に乗り切れるように何とかしなければならない。悪いが力を貸してくれ……頼む」
 紫村に深く頭を下げた。
「頭を上げてよ。この件に関しては僕にも責任があるから当然協力するよ…・・・それにしても困ったものだね。ファミリー向けテントじゃなく山岳テントならきちんと設営すれば台風にも耐えられたという話は良く聞くけど、山岳テントとしては大型の3人用を通買うとしても6張は必要になるから金銭的に苦しいね」
 その辺のホームセンターで売られているランタン屋製のテントなら何とかなるかもしれないが、本格的な登山に使われる山岳テントはその倍はするので6張も用意するのは流石に無理だった。

「つまり風さえ抑えられたら、ホームセンターで売ってるレベルのテントでも問題が無いって事だよな?」
「風除けの可能な場所を探すつもりなら止めておいた方が良いよ。台風は通過と共に風向きが回り込んで来るから、最低でも3方向が塞がれている場所が必要だけど、そんな都合の良い地形を期待して計画を立てるのは賛成できないよ」
「違うんだ。壁を作ろうと思う」
「……詳しく説明して欲しいね」
「ここ100年程度で隆起したような新しい島ならともかく、古くからある島ならある程度大きな木も生えて林や森も存在するはずだから、それを利用して、集めた流木とロープで簾の様な物を作り、それを木と木の間に渡して壁のような物を幾つも作れば、中央には風が穏やかな空間が出来るんじゃないか?」
「風を完全に遮るなら強度が足りないだろうけど、ある程度風を受け止め、一部は壁面に沿って流し、そして一部は通過させるなら無理ではないね。テントが耐えられる程度に風を抑えれば良いんだから……必要な物は僕がリストアップしておくから、高城君はテントの確保を頼めるかな?」
「分かった。部員や先輩達に頼めば集まるだろう」
「3人用までの天井の低い小型ドームテントを頼むよ」
「分かってる」
 ランタン屋製の天井の高い快適テントじゃ幾ら防風壁を作っても受ける風の抵抗が大きすぎる。天気の穏やかなキャンプ日和には良いテントなのだろうが……そんな楽しいキャンプをしてみたいが、自分達には余りに無縁すぎて泣けてくる。

 紫村のクラスを出ると、俺は他の3年生達に声をかけて使えそうなテントを聞いてみると、田村が持っている事が分かったので明日持ってくるように頼むと、2年生と1年生のまとめ役である香籐と新居にそれぞれの学年の部員に聞いてくるように頼むと自分の教室に戻った。
 自分の席に着くと空手部のOB達へと送るメールの文面を作成する。
 今回の無人島合宿のスケジュールと大島の企み。それに対抗するための俺の計画。そしてテントが必要という内容。ついでに何か良いアイデアが無いか質問を加えた。
 ちなみに空手部の主将には全OBの電話番号やメールアドレスが受け継がれている。空手部の部員には他の体育会系の部活の様に先輩による後輩いじめは存在しない。つうか、そんな下らない事をやっている余裕は無い。部員が一致団結して大島の理不尽に対して抗わなければ生き残る事が出来ない環境だからだ。
 従って空手部の先輩後輩の関係には、他の体育会系の様な厳しい上下関係に縛られた繋がりではなく互いに慈しみ合う愛が存在する。
 以前にも述べたように、行き過ぎた愛が育まれてしまう弊害も少数ながら紫村関係だけではなく存在するほどなので、現役の後輩達からのヘルプに対しては断る事はほとんどない……大島との直接対決は例外。

 文面が出来上がり、文面をセーブして保存する。するとそこに香籐と新居がやって来た。
「2年生全員に確認したところ、中元の兄が山岳用テントをもっているそうなので、借りられるか確認してみるとの事です」
「1年生の中には、主将がいうところの快適テント以外を持っている部員はいませんでした。申し訳ありません」
「分かった。それじゃあ中元に明日テントを持ってくるように頼んでくれ」
 先ほどセーブした文面に、部員達で2張のテントが用意できた事を書き加えるとメーリングリストサービスを利用して全OBへと送信した。

 5時間目の授業が終わって、携帯を確認すると沢山のメールが入っていたので、システムメニューを開いて時間停止状態で内容を確認していく。
 メールのほとんどが、大島の暴挙への批判と俺達への同情だったが、俺の6学年上の先輩にあたり現在大学生の清水先輩から、大学の山岳部の備品の予備のテントとザイル──基本的に部員が私物として個人の装備を持っているため──を明日の朝練が始まる前に部室に届けてくれるとメールが来た。
「助かるな……」
 やはり持つべきは頼りになる先輩だ。登山用のザイルは高いだけあって、ホームセンターで売られているロープに比べると細さの割には強度が高く、ホームセンターで売られているビニロン・ポリエステル混紡のロープに比べて同じ太さなら倍以上の引っ張り強度を持つ。
 感謝の言葉と共に『明日、よろしくお願いします』と返事を出した。


「……という事だ。何か質問か意見はないか?」
 3年生達は俺から直接、2年生、1年生達はそれぞれ香籐と新居から、今回の合宿のスケジュールと台風の件は聞かされているはずなので、それに対応するための準備について説明を行った。
「質問をよろしいでしょうか?」
 1年生の斉藤だ。
「質問や意見は貴重だ。忌憚無く述べろ」
「台風6号は最大風速50mと聞きましたが、風速50mの風が襲ってくると考えるべきなのでしょうか?」
「良い質問だ。台風は中心の目の周りを反時計回りの風が吹いているので、台風の進行方向に対して右側の場所では台風の周囲を回る風の速さに加えて、台風自体が進む速さもプラスされて、左側よりも風が強くなる傾向にある。だから島が台風の進行方向の左側にあることを祈れ。洋上の孤島だ遮るものは何も無いから、右側にあれば最大風速50mが容赦なく襲い掛かってくるからな」
「……はい、祈ります」
「それについて、僕の予想を言わせて貰っても良いかな?」
「どうぞ」
「漁船について調べてみたんだけど、20人程度を乗せられるクラスの漁船になると、速いものでも30ノット程度で余裕をもって見積もっても35ノット程度だと思うんだ。船の移動時間は2時間となっているから、35ノット……64.82km/hでは最大でも130km程度の移動が限界のはずだから、台風の予測進路から考えると風の弱い左側を通ると思うよ」
 不幸中の幸いとも言うべき情報に部員達から安堵の溜息が漏れる。当然俺も口からも漏れた。

「主将。質問があります」
 今度は2年の森口だ。
「言ってみろ」
「キャンプ地の周囲に壁を作るとの事ですか、強度的に大丈夫なんでしょうか? もしも壊れた場合。それがテントに向かって飛んでくる危険もあると思うんですが?」
「それについては計算している。風により物体に掛かる力である風荷重の計算は、空気の密度(kg/m3)x風速(m/s)の2乗x抵抗係数x物体の風の当たる面の面積(m2)x1/2で求められる。空気の密度は1.293kg/m3とされるが、湿度、気温、気圧によって変動するので、細かい事を気にしても仕方が無いのでざっくりと1.3kg/m3とする。抵抗係数はとりあえず壁を平面と考えて2.1とすると、壁1平方メートルに対する風荷重は1.3x50^2x2.1x1x1/2を計算すると3412.5ニューロン。つまり341.25kgとなる。一方で直径11mmのザイルの引っ張り強度は27500ニューロンで2750kgつまり2.75tだから計算上では約8平方メートル、2mx4mの壁を作っても耐えられることになる。だがあくまでも計算上であり、ザイルも経年劣化で強度は落ちるし、台風の風が瞬間的に風速50mを超えないとも限らない。だから壁には隙間を作る予定だ。木材と木材の間のスリットを風が抜ける事である抵抗係数を下げ安全マージンを確保する予定だ」
 建築関係の情報を仕込んでおいて良かったよ。
「スリットを抜けてきた風の心配はどうなんだ?」
 櫛木田が突っ込んでくる……この心配性め。
「風は不規則な形状のスリットを抜けた後で互いに干渉して多くのエネルギーを失うから、山岳テントが耐えられる程度まで風は抑えられるだろうし、状況が許すなら防風壁を2重に構築することも考えている」
 現場に行ってみなければ分からないが、マップ機能を使って周囲の詳細な地図を作成し、どの木と木の間に壁を作れば効果的かも判断する事も出来る……はずだ。

「台風の進路を確認するための短波ラジオと、島の位置を特定するためにGPSは僕が用意しておくよ」
「流石は我が子房。見事なり」
「それじゃあ自害しそうで嫌だな」
 俺の下らない冗談に、紫村は苦笑いしながら応えた。
「子房は自殺なんてしてないから安心しろ……他に何か無いか?」
「主将……」
「何だ香籐?」
「意見というわけではないんですが、本当にこんな事が許されるのでしょうか?」
「常識的に考えれば許される筈がないだろう。つまり常識的じゃない手段でこの暴挙を押し通せる事が大島には出来るという事だ」
 県の教育委員会……いや、県政のトップに近い位置にいる人間に鬼剋流、もしくは大島個人に便宜を図る人間がいるのだろう。
 何てつまらない事に権力を濫用しているんだ馬鹿共め! もう少しまともとは言わない、せめて万人にも理解し易い形に権力を使え。金や地位、名誉の為とかの方がまだ理解出来る。
「でも幾らなんでもおかしいです。下手をすれば死人が出ますよ……そんな事を学校の部活動でなんて」
「そうは言っても、下手すりゃ死人が出るのは合宿なら、特に冬合宿では当たり前だろう」
「はい」
「でも一度もその手の事故は起きていない……バックアップ体制が出来ている可能性がある」
 狡猾な大島が「生徒をうっかり死なせてしまった」なんて自分の立場を危うくする真似をするとは思えない。
 奴と同じく俺達を絶望的状況に追い込み抗う姿を楽しむ同好の士が、合宿をしている俺達の周囲で監視し見守りながら楽しんでいたとも考えられる。
 一見、まともそうに見える早乙女さんだが、俺達への無茶振りはせずフォローしてくれるが大島を止めたり諌めたりする場面は一度も無かった。
 冷静に考えたら彼は大島の協力者だ。そして鬼剋流にはそんな連中が他にもいても不思議は無い。
 自分の考えを皆に伝えた。

「確かに、自分の立場を守れるなら俺達の命なんて屁とも思ってないだろうが……」
「自分の楽しみのためだけに、自らを危うくするような真似を……しないとも言い切れない気がするな」
「馬鹿違うだろ。それは自分自身の判断や行動の結果、危険に陥るのを楽しめるかもしれないが、この場合は俺達が自分の命を守りきれるかどうかだ。自分の立場を危うくしかねない可能性を、俺達に委ねるなんて事は絶対にしない。生徒を信じるなんて信頼関係が俺達と奴の間にあると思うか?」
 流石は3年生。伊達に大島との付き合いが長くないだけあって奴への理解が深く容赦が無い。

「それでは我々の安全は確保されていると言う訳ですか?」
 香籐……嬉しそうだな。君は大島に守られていると知ってほっとしているのかも知れないが、それは早合点という奴だ。
「もしもバックアップ体制が整っていなければ、安全マージンが必要となり、俺達をギリギリまで追い込むことが出来ないという事であり与えられる試練も軽くなる。しかし万全のバックアップ体制があるからこそ、奴は俺達をギリギリまで追い込み、生かさず殺さずの体制を維持出来ているんだぞ」
 安全マージンとは大島本人にとってのものであり、むしろそれがあるから俺達はデッドライン上で踊る羽目になっているのだ。
「…………酷すぎる」
 下級生達はドン退きである。大島と自分達がおかれた状況に希望なんて持つからいけないんだよ。希望を持たずに絶望しておけば……絶望の先にまだ絶望があったのだなぁ~と驚くだけで済むのに。

「部活後の買い物だが、予定通り雨具は購入する。今回は無人島だから本格的な山歩きは無いと思うがトレッキングシューズは用意しておいた方が良いだろう。後は長靴も安い奴で良いから用意しておく方が良いだろう。そして、ほぼ2日間テントの中に篭る事になるから、テントの中に湿気を充満させないために、大量のタオルの類と、塗れた物をしまうためのポリ袋。そして除湿剤も用意しておいた方が良いな。当然だが水食料も用意しておいた方がいいな」
「後は携帯トイレと、消臭剤、除菌シートを用意しておいた方が良い。トイレの度に外に出ていたらテントの中の大量の水を持ち込んでしまう事になるからね」
 その発想は無かった。しかしトイレもテントの中で済ませるのか……潔癖症と言う訳ではないが嫌だ。嫌過ぎる。
「テントの中で火を使うのは辞めておいた方が良いから、食べ物はゼリー系か、ブロック系の栄養食品だな」
「いや加熱しないでも食べられる、ハムやチーズ、ビーフジャーキー、野菜ジュース、それに果物をそのまま持ち込むのもありだな」
「火や電気を使わない加熱用のヒートパックというのが有るはずだぞ」
「阿呆が、それをテントの中で使ったら蒸気噴射でキノコが生えるわ! 大体、狭いテントの中で一日中篭りっきりの状況で、普通に湯気が出るような食べ物を食ったら何時までも臭くて地獄だぞ」
 撮り鉄で小学校の頃は、同じく撮り鉄の父と一緒に日本中を旅し、テント泊にも慣れている田村から伴尾に突込みが入る。
「つまり、普通にさめたままで食べられる物を食うのが一番って事か?」
「その通りだ」
 俺の質問に田村はきっぱりと応えた。
「しかし、温めないで食べられるキーマカレーとカレーうどんが……」
「だから臭うって言ってるんだろう!」
「カレーは良い匂いだろうが!」
「風呂に入れない。着替えられない。どんなに頑張っても一日中いるテントの中は蒸してるって状況でカレーの匂いが混ざったら地獄だと言ってるんだよ!」
 粘る伴尾に田村が切れる。そんなにカレーが食いたいのか? 確かにキャンプといえばカレーだが……いかん俺も食いたくなってくるじゃないか。
「伴尾君。君の言ってる商品には、ご飯もうどんもついてないから、結局はご飯やうどんを加熱して作らなければならないからね」
「そんな……」
 がっくりと崩れ落ちる伴尾の肩に田村は手を置くと「アルファー化米は水でも戻して食べる事が出来るんだ」と告げる。
「田村ぁ……」
 僅かな希望に目を潤ませる伴尾に田村は残酷に止めを刺す。
「絶対に作らせないけどな!」
 ……まさに鬼畜。


 格技場へと入ると──「全員駆け足で集合して整列!」
 まだ廊下にいる部員達を振り返って声を掛ける……何をとち狂ったのか大島が既に格技場にいやがったのだ。
 大島の横に北條先生と、なにやら小柄な老人が居たが、ともかく部員を集合させ整列させなければ拙い。
 そして部員全員が整列したところで──
「!」
 襲い掛かる突然の強烈な殺気に、下級生達が思わず飛びのく中で俺は前へと踏み込み、殺気から下級生達を遮るように距離を詰める。横には紫村と櫛木田が並び、田村と伴尾、それに香籐が後ろに付く。
「やってくれるな爺っ!」
 大島の拳が、殺気を放った張本人である老人の顔の前に突きつけられ、老人が手にしていた閉じた扇子が大島の首元添えられている。
 大島と互角だと? この枯れ木の枝のような細く、そして小柄な爺さんが……既に妖怪の類だ。どうして俺の前にはこんな人外どもばかりが現れるんだ?

「やるじゃねぇか若ぇの」
 大島の末路と言った感じで、年齢を重ねる事だけでは人間としての品格は磨かれないってのを体現した、血の臭いを感じさせる爺さんだ。
「お祖父ちゃん!」
 北條先生が爺さん後ろ襟を引いて鋭い声で一喝する。
「おう、怒るな弥生。ちょっとした挨拶って奴だ」
「そんな挨拶、何処にあるって言うんですか!」
 怒る姿に声、共に相変わらず凛々しい……お爺ちゃん? 違う、お爺ちゃんは血縁関係を意味するだけの言葉じゃない。近所のボケ老人もお爺ちゃんに違いない。
「あ、あの北條先生?」
「何じゃ?」
 爺が呼ばれていなのに応える。つまり爺も北條または北條、しかし同姓だけという可能性も十分にある。
「面識も無い非常識な爺さんは先生と呼ばないから黙ってて下さいよ……先生。これは一体何者でしょうか?」
 俺は爺さんを華麗にスルーして、北條先生に尋ねる。
「ごめんね。言いたくないけど私の祖父です」
「……(言いたくない)気持ちは分かります」
 現実とは非情だ。
「おい! 弥生?」
「急遽学校を辞められた鈴中先生の代理として、男子剣道部の指導を行うために地元の全剣連へと指導員の紹介を頼んだら祖父が自薦というか……出しゃばって来て」
「良いじゃねぇか? 可愛い孫の仕事っぷりを見てみたいという年寄りのささやかな願いぐらい」
 後ろ襟を引っ張られたまま、同情を引くかのように悲しそうに訴えるが……まるで同情を覚えない。
「ならちゃんとして下さい!」
「お、おう……」
 妖怪爺も孫娘には勝てないようだ。

「それにしても大島とかいったな? 若ぇの、歳の割にはいいものを積み上げてきたようだな」
「爺も無駄に長生きしてきた訳じゃないみたいだな」
 言葉だけなら何か両者の間に通じ合ったものがあったと勘違いしそうだが、両者の間にあるのはいきなり出会ってしまった野性の肉食獣。互いに一瞬でも相手から目を逸らし隙を見せたら死につながる様な緊張感のみだ。

「まあ良い……そこの小僧達も中々におもしれぇな」
 爺が意識をこちらに向ける。大島が襲い掛かるかと思ったが、流石に学校で自分から殺し合いに持ち込むのはためらいがあるのだろう手は出さなかった。これが夜、他人目の無い場所なら確実に襲い掛かっただろう。
「それはどうも……」
 こんな爺に面白い呼ばわりされてもまるで嬉しく無い。これが北條先生から「高城君って面白いわね」と言われたのだったら……妄想が素敵過ぎて意識が飛びかけた。
「儂を前にして怯えぬのは大したもんだ。小僧、空手なんて辞めて、俺の元で剣術を磨いてみねぇか?」
 睨むような強い視線を俺に向けてくる。
「爺、老い先短いんだ生き急ぐんじゃねぇぞ」
 大島の爺さんとの間に渦巻く緊張感が物理的圧力を持ってピリピリと素肌の上を走り回る……現実だというのに何というファンタジー感。
「何とでも言え。この小僧は剣術向きだ。儂の目に狂いは無い」
「狂ってるのは目じゃなく頭だろ?」
 いかん、もう俺の手に負える状況じゃなくなってきている。この2人の間に割って入るならもう一度火龍と戦う事を選ぶよ。

「さあ先生。危険なので逃げましょう……お前たちもランニングに出るぞ」
 さりげなく北條先生の手を握ると出口の方へと誘導する。
「高城テメェ!」
 櫛木田達のからの非難の声を受けつつ格技場を出ようとしたところで背後から爺が声を掛けてくる。
「小僧! 興味があったら弥生から聞いて道場に来い。俺の眼鏡に掛かったら孫を嫁にやって道場を継がせてやる」
「お、お祖父ちゃん!」
「何もお前とは言ってない。弥生とは一回りも年が違うが、皐月ならギリギリ歳の差が一桁だ何とかなるだろ」
「お祖父ちゃん? ……歳がな──」
「剣術やります! 嫁は北條先生でお願いします!」
「んです──えっ?」
 北條先生の言葉を遮り、そう宣言した。
「何を言う。俺が北條先生と道場を継ぎます!」
「いや、僕が!」
「お爺さんお孫さんを下さい!」
 後はもう、3年生と2年生が俺が俺がと必死の醜い争いとなる。

「弥生……いい歳して男も作らず、どうなるものかと息子だけではなく、この爺まで心配させておいて、こんなに沢山の若いのを誑し込むとは……生娘の分際で恐ろしいまでの深謀遠慮……見抜けなんだ。この爺の目を持ってしても、そんな恐ろしい事を企てていたとは……」
 そう言いながら床に崩れ落ちる。歳の話をするな、爺死ぬ気か? ……いや待て、爺は何と言った? 確かキムスメ……KI・MU・SU・ME……生娘!
 ああ何てことだろう? 今まで北條先生に「さあ、いらっしゃい……高城君」みたいに年上の魅力で導かれる妄想はしても、処女だという前提で妄想した事はなかった。勿論、先生が処女だったら良いなと願った事が無かった訳ではない。でも魅力的で美人の北條先生が処女だ何て信じる事は俺には無理だった……糞っ、人生損してきた!

「もういい加減にして下さい!」
 北條先生は恥ずかしさと怒りに顔を真っ赤に染めると、目元に涙を浮かべながら俺の手を振り払い走り去って行った。
「か、可憐だ……」
 心の奥底から湧き上がった、俺の本音が口を突いて出る。
「こ、この感情をどう表現したいいのか分からない。いや言葉にして消化しまうのが勿体無い」
「可愛すぎる」
「鼻血が……」
「おい。ランニングに出るぞ!」
 大島が毒気を抜かれた様に促してきたが、俺達は立てぬのだ。既に身体の一部が立ってるから立てぬのだ。
 ……猿と呼ぶなら呼ぶが良い。俺達はそういう生き物なんだ。
 そんな俺達に、大島は苦笑いを浮かべながら「仕方がねえな。この童貞共め」と吐き捨てると3分間の猶予をくれた……まさに武士の情けであった。



[39807] 第68話
Name: TKZ◆504ce643 ID:21aa2d18
Date: 2014/12/30 18:49
「おい起きろ。ランニングに出るぞ」
 目を覚まして3秒でベッドを出ると、隣のベッドで良い夢を見ているかのような2号の腹に踵落としを食らわせて起こす。
「ぐぇっ!」
 大きながま蛙を踏み潰したかのようなうめき声も、先ほどまでの幸せそうな寝顔が苦痛に歪むのを見ながらだと耳に心地好い。
「も……もう少し、優しく起こしてくれても……罰は当たらないと思うよ」
 上体を起こして腹を押さえながら恨めしそうにこちらを睨んでくる。
「何、もう一発貰いたい?」
「さあ、今日も走って体力つけるぞ!」
 飛び出さんばかりの勢いでベッドを出る2号……最初からそうしておけば良いものを手間かけさせる。
 やはりもっと最初にガツンと食らわせて主導権がどちらにあるのかハッキリ身体に教えてやるのが良かったのだろうか? 空手部の下級生達のような素直さという名の鉄の上下関係が構築されていないのが今後の指導に悪い影響を与えるかもしれない……大島流が骨の髄まで叩き込まれてしまっている自分が悲しい。

「げぇほっ……」
 吐くまで走らせる。入部仕立ての1年生にも劣る程度の2号のような虚弱体質的な体力無しには必要な荒治療だ。
 もっともレベルアップによって体力に下駄を履かせた状態になっているので、普通に走らせたわけではなく、後ろからケツを蹴り飛ばしながら全力疾走で10分間走らせた。
「10分間の休憩をやるから回復しろ」
「……無理ぃぃ」
「泣き言はいらない。回復しろ」
 突き放すとシクシクと泣き始める。

 その後、10分間の全力疾走を2セット済ませる。
 【水塊】で水の塊を出現させると【操熱】で40℃まで水温を上昇させてから、2号の後ろ襟を掴んで無理矢理立たせると、その身体を反時計回りに回転させた温水の塊に飲み込ませる。
 高さを足元から口元ギリギリまで上下させ、時折回転を逆方向に変化させながら5分間の洗浄を終えると、仕上げに頭部まで温水の塊に飲み込ませて高速回転。その後【操水】で可能な限りの全身の水分を取り除く。
 服はまだ湿っぽいが、大量の汗で濡れていた状態よりはずっとましなはずなので【弱風】で乾燥させるまでもなく、宿屋までゆっくり歩く間に乾くだろう。

「しかし、何故今更体力をつける必要があるんだ?」
「レベルアップしたからもう必要がないとでも?」
「その通りだよ」
「……レベルアップの効果は掛け算だ」
「掛け算?」
「そうだ。お前自身が持つ能力に対して、レベルアップの効果を掛ける事で得られるのがお前の能力だ。それがどういうことだか分かるか?」
「……いや、わからない」
「お前自身が持つ能力が低ければ、レベルアップの効果は大して上がらないって事だよ」
 はっきり言って事実だ。現実世界の俺と異世界の俺の身体は別物であるのだが、現在その能力を比べると、現実世界の俺の能力が自覚出来るレベルで劣っている。
 レベルアップを含めた身体能力を限界まで使いこなす状況が多々あり、自分の素の状態の身体能力も上昇している異世界の俺に対して、現実世界ではそんな機会が無いために素の状況での身体能力の向上は少ない。
 空手部の部活動での運動量ですら、異世界で狩をする時に比べれば運動量が小さいのだ。
 その程度の違いなら大した問題は無いのだが、レベルアップ分の効果を素の身体能力に掛け合わせることで、現実と異世界での身体能力の差がより大きくなってしまっている。
 そのため今後、現実世界と異世界での身体運用に齟齬が来たす様なことが無いように手を打つ必要性を強く感じている。

「逆に考えてみろ。今のお前の身体能力はレベルアップのおかげで数倍になっているんだ。そこで訓練で自分の素の状態の身体能力を底上げした場合は、普通の数倍の効果が見込めるし、更にレベルアップした時の身体能力の上昇も大きくなる。だから先ほどのランニングのような身体能力の上昇を目的とした訓練とレベルアップを組み合わせて行う必要があるんだ……理解出来たか?」
「理解したくないけど理解出来てしまったよ」
「じゃあ文句を言わずに身体を動かせ。そして戻ったらしっかり飯を食え。食うのも訓練の一環だ」
「うっ……食欲無いよ」
「食わないなら、走ったのも全部無駄になるからな」
 必ずしも運動直後に直ぐ食べないとならないわけではないが、運動直後にはアミノ酸とクエン酸は取っておくべきだと大島にも言われている。
 たんぱく質などは運動直後に口にするには辛いものは少し時間をおいて食べてもいい様だが、そんな時間を与えられた記憶は俺の中には全く無い。
「…………食べる。あれが無駄になるくらいなら食べる」

「最初にドレッシングにたっぷりの酢を使ったサラダを……その後で肉定食にゆで卵を追加で頼むよ」
「俺も同じで」
 その注文に俺も乗っかる。昨日の朝と同じ注文だが店ごとにメニューの内容も違うだろうから良いだろう。
「わかりました。ただサラダは定食にも含まれていますが?」
 看板娘といった感じのエプロン姿の10代中頃の少女が注文の応対をしている。
「それとは別で追加でお願いします」
 2号が応える。定食についてるおまけ程度のサラダでは全く足りないし、追加のサラダを含めても足りないので食後には果物とナッツ類も食わせる必要がある。
「はい。それでは肉定食と、追加のサラダとゆで卵。サラダは定食の前にお出しします。以上でよろしかったでしょうか?」
「それで頼むよ」
「では、少々お待ちください」

 そう言って少女は立ち去り、俺はほっと溜息を漏らす。
「彼女がどうかしたのかい?」
 2号がいらない事に気づきやがった。
「別に……」
「そういえば、彼女に対して目を合わせなかったようだけど……別にって事は無いんじゃない?」
 俺の弱みを見つけたと思っているのだろう……その通りだよ。畜生ニヤニヤすんな。
「彼女と知り合いなのかな?」
 俺が無視を決めていると勝手に話し出す。
「違うな。君は時々すれ違う女性に、さりげなく目を逸らすような素振りを見せていたよね」
 レベルアップのおかげで洞察力も上がっているようだ。良かったなお利口さんになれて……面倒くせぇ。
「その場合の女性達の共通点は……可愛かった?」
 安心と信頼のお馬鹿が、メモリの増設と演算速度の上昇で治る問題じゃなくて良かった……
「それで、10代半ばくらいの女の子に何か嫌な思い出でもあるのかな?」
 ……そう来たか、面白い真似をしやがるな。
「それを知ってどうする? 俺の弱みを握れるほどのネタだと確信でもしたのか? そんな事より俺を不愉快にさせた後の事を考えるべきだったんじゃないか?」
「えっ?」
 思いがけない事を言われたという素直な反応。要するに何にも考えずに俺をからかえれば良いと思っていたようだ。
「立場、実力ともに上位にある俺に対して、そんな真似をすればどうなるかすら想像できないほどの馬鹿だとすると、これからの扱いを考え直すべきなんじゃないかと考えるべきだな」
「リュー、リューさん。ちょっと待ってください?」
「随分余裕があるようだから、もう少し詰め込んでも構わないよな?」
「あっ、えっ?」
「構わないよな!」
「はい!」
 言質はとったので、後は容赦なく鍛え上げれば良い。
「今日はオークを狩るからな」
「えぇぇぇ~、もう少しだけ、僕はもう少しゴブリンと仲良くしたいな」
「ゴブリンさんはお前の事が嫌いらしいから無理強いさせるな、空気を読め」
 レベルアップを重ねて軍に志願させる。とりあえずエリートの集まる学校を優秀な成績で卒業したのだから、士官として入隊出来るそうなので、リートヌルブとの戦場で身体能力を活かし、小規模部隊の勇猛果敢な前線指揮官として武勲を立てさせる一方で俺も軍事関係、特に戦史関連を調べて、この世界の戦場において革新的となりうる作戦・武器・兵種を2号に教えて将へと出世させる……そのためには俺も戦場に立たなければならない。
 そう簡単に武勲を立てて出世出来るのかと言う疑問もあるが、むしろこれだけお膳立てをしてやって出世できないなら何をやっても無駄だ。そう断言できるほどのアドバンテージは与えるつもりだ。

「お待たせしました。サラダになります」
 俺は無言で目を合わせないから、当然対応は2号となる……ん?
「ああ……ありがとう」

 酸味の利いたドレッシングでサラダを口に運びながら「先ほどは気づかなかったが、お前も対応がおかしくなかったか?」と尋ねてみた。
 この八方美人的に人当たりの良い2号にすると明らかに愛想が無いというよりも素っ気無かった。
「君は君のトラウマの事を心配しておけばいいだろう」
 不機嫌そうに言い返してきた。
「他人のことにくちばしを突っ込んできておいて、自分の事には触れるななんて通用すると思ってるのか?」
 そんな我儘、お母さん許しませんよ……と叱られた事はないのか?
「僕もあの年頃の女の子は苦手なんだよ……」
「ほう、詳しく聞こうじゃないか」
「目を輝かせるなよ」
「先ほどのお前の顔を見せてやりたいよ」
「ちっ……僕って女顔だろ。だから子供の頃から色々と顔の事で弄られていて同世代の女性は得意じゃないんだ……特に少し年下の子は妹を思い出してね」
「妹?」
「僕の寝室に忍び込んで勝手に僕の顔に化粧してみたり、無理やり女装させようとしたりと、散々な目に遭ったからね」
 妹か……自分の妹を思い出すと、何となく他人事のような気がしない。
「普通にモテそうな顔なのにな」
 いわゆる王子様的な育ちの良さが滲み出た、整った……紫村ほど整ってはいないが、むしろその整い切れていない隙が親しみを生み、甘い顔立ちでアイドルのように10代の女の子達をキャーキャー言わせそうな2号にも、そんな悩みがあったのか。
「全然モテないよ! 僕の顔だと男らしくなく頼りなく見えるから、もっと年上のご婦人なんかの受けは良いけど、所詮可愛がるって反応だからね」
 えっ? ……これは文化の違いという奴か? いや、日本だってジャニーズ系のアイドル顔が持てはやされたのは戦後暫く経ってからで、それまでは凛々しい顔立ちの逞しい身体の男がモテていたと聞く……そう言っていた父さんすら生まれる前に話らしいけど。
「俺は目つきが同じ年頃の女性からは怖いと避けられ続けて苦手になったな」
「僕としては君の精悍な顔つきが羨ましいよ」
 つまり俺と2号は互いに不要なコンプレックスを抱き合い、心に壁を作ってきたのだ……だからどうだと言われれば、どうでもいい話だが、とりあえずこちらの世界では、非情の山とも呼ばれるK2(カラコルム2)にもさえ例えられる険しい俺の顔付きすらも、むしろ精悍と呼ばれる程度だとするなら……こんなに嬉しい事はないのだった。
 ちなみに大島の凶相は、サンスクリット語で豊穣の女神の意味を持つアンナプルナに例えられる……別名はキラーマウンテン。登山者の4人に1人が死ぬK2に対して、3人に1人以上が死ぬ。既に険しさ無視の死亡率の問題になっているが、大島の凶相は命に関わる問題なので趣旨は外れていない。


 食事を終えて宿を引き払うと、ジョギングペースで40km北上したトックサムという宿場町まで進んだ。
 レベル10まで上げた2号にとってジョギングペースでは何の体力上昇にもならないが、流石にそれ以上のペースで走り続けさせたら変な注目を集めるのは間違いないので仕方なくそのまま走らせたが、明日以降は何か良い方法を考え無ければならないだろう。
「分かってると思うが、これから飯を食ってからレベル上げをやる」
 レベルアップの最大の弱点はカロリー消費の問題だ。
 以前と同様の運動量なら消費カロリーも変わらないが、以前以上の運動量をすれば運動量に応じたカロリーを消費してしまう。
 ごく当たり前の事のようにも思えるが、問題なのは身体能力の向上で簡単かつ自覚なしにとんでもない量の運動を行ってしまう事でハンガーノックを引き起こす事だ。
 普通の部活動とはかけ離れた運動量を要求される空手部部員である俺は、ハンガーノックさんとは顔見知りの仲なのだが、気を付けていてもなおハンガーノックに陥りそうになるのがレベルアップによる身体能力の向上だ。
 ともかく、レベルアップで向上した部分まで身体能力を使うならば、朝昼晩は絶対に食事を取り、更に他に間食を何度か取るのが必須だ。

「この匂いは!」
 通りを歩きながら飲食店を探していると2号が強い反応を示した。
「どうした?」
「これは生のミノタウロスの肉を焼く匂いだ……珍しい」
 ミノタウロス……そうだ聞いた事がある。オーク肉以上に美味いと呼ばれる高級な肉だという話だった……誰に聞いたのかはまた思い出せないが、まあ良い今はミノタウロスの肉を食う事が先決だ。
 目を瞑り視覚を封じ、嗅覚のみに意識を集中しながらゆっくりと鼻から息を吸い込む。
 燃えた脂から立ち上る炎がたんぱく質を焦がす匂い。これは牛に近いな……ミノタウロスだけに!

「リューこっちだ!」
 匂いをたどって2号は足を速める。
「ミノタウロスの肉は珍しいのか?」
「何を言ってるんだ? 珍しいに決まってるだろう。それに足が速いから塩漬けとか燻製くらいしか流通しないんだ」
 やがて一軒の店の前に辿り着く……確かに、堪らなく俺の鼻腔をくすぐる匂いの源はここだ。
「突撃!」
 掛け声と共に2号と俺は店へと入る。

「危なかった……」
 2号が溜息を漏らす。後少しで売り切れという状況で滑り込みで注文が通ったのだ。
 何しろミノタウロスという魔物は、個体数自体は多くは無いが決して少なくもないのだが強い。特にオーガを好んで狩ると言えば理解して貰えるだろうか?
 普通の人間にとっては決して対抗できる相手ではなく、ミノタウロスを狩るためには、数十人のハンターでチームを作り、ミノタウロスの生息地の近くに罠を仕掛け、馬に乗ったハンターがミノタウロスを誘き出して罠にはめて動きを封じた後、矢を浴びせかけて弱らせ、最後は槍で心臓を突くという方法をとる必要があるといわれているが、ミノタウロスの肉が高価といえどもそれだけの労力を結集しても採算が取れるほどでは無く、普通ミノタウロスが捕獲されるのは、ミノタウロスの墓と呼ばれる怪我や老いにより寿命が近づいたミノタウロスが集まる場所が森にはいくつか発見されていて、そこを縄張りにして見張るハンターが死んだばかりのミノタウロスの身体を回収する程度なので、市場に出回るミノタウロスの肉は非常に少ないらしい。
「この町の付近の森のどこかでミノタウロスの墓場が見つかったという事なのか?」
「それ以外ないだろうね。とても痛みやすいから死体を直ぐにばらして、魔法の収納袋に入れて町まで戻って、血抜き処理──」
「その場で血抜きしないのか?」
「オーガよりもずっと大きいんだよ、その場で処理なんて無理でしょ」
 オーガよりもずっと……4m近くはあるよなオーガは、それよりもずっと大きいって5mくらい有るのか、いやオークではなくわざわざオーガを襲って食うくらいだ。オークでは満足出来ないほどの食欲と考えれば6mくらいの巨体だったとしてもおかしくないか。
 その巨体で馬に乗らないと人間の足では追いつかれてしまう速さで走る事が出来る……レべリングにはうってつけと思ってしまう自分が怖い。
 そうとは言ってもミノタウロスに勝つためには、武器を収納状態からの装備を使わなければ、レベルアップによる身体能力の向上だけでは絶対に勝てそうも無い。せめて【魔術】がもっと実戦向きなものであったり、魔法が使えるようになったなら状況が変わるが、現状では身体能力等の向上を活かして相手の攻撃を回避し接近してから、装備による相手の防御力無視の攻撃に頼りっぱなしだ。
 システムメニューに与えられたモノ以外の自分の力を、大島が持つ人外の力を身につけたい。そうでなければ今、大島と戦って勝ったとしても、素手の相手を圧倒的に強力な武器の力で嬲ったようなものであり、とても自分に誇る事は……それはそれで在りなのかもしれない。復讐とは相手にされた事をやり返す事だから。

「う、美味い……」
 肉を口に入れた瞬間、未知なる旨味成分の素である謎のアミノ酸が舌に与えた刺激は稲妻の如き速さで脳に伝わり、生まれて以来、まだ使われた事のない新雪の如き真っ白な脳の領域をステーキ色に染めていく……自分でも何を言っているのか分からないが、そうとしか表現しようが無い。
「美味いな……確か2年ぶりだよ、この味は。2年間もミノタウロスを食べずに僕は何をしてきたんだろう?」
 美味すぎて2号も訳の分からない命題を思いついてしまったようだ。
 しかし、本当に美味いよ。現実世界の日本で今までに一番うまいと思った豚肉を10とするならオーク肉は20と言っても過言じゃない。だが俺が今までに一番美味いと思った牛肉を10とするならミノタウロス肉は30を超えている。
 数値的には驚くほどの違いは無いようにも思えるが、俺の基準となるのが、一番美味い牛肉>>(超えられない壁)>>一番美味い豚肉であるので、ミノタウロス肉を食べた衝撃は数字よりも遥かに大きくなる。
 味も凄いが食感も凄い。肉質は強い弾力を持ち歯を押し返そうとするが、しかし一度だけ押し返した後、次の瞬間肉の繊維は柔らかく解れて口の中で脂と共に溶け崩れる。
 パーフェクトだ。問題があるとするならこのステーキの調理法だ。はっきり言おう未熟と!
 これほどの肉を火を入れ過ぎだ。牛と違うので食品安全上しっかりと火を入れる必要があるのかもしれないが、それにしても焼きすぎだ。豚の生姜焼きだってここまで火は入れない。
 そして味付けだが、塩と粗挽き胡椒を振りかけただけ。たしかにシンプルで肉の味わいを損なわないとも言えるし、最初にミノタウロスの肉を食べた俺にとっては、この調理法は正解なのだろう。
 だが肉の美味さに胡坐をかき、そこから一歩も先に進もうとしない店の方針はどうだろう? この肉に負けない、いやより旨さを引き出して、より客を唸らせられる最高の料理を完成させるのが、この肉を与えてくれたミノタウロスへの礼儀というものではないだろうか?
 俺ならば、俺ならば現実世界の最高の料理法を取り入れて、もっと、もっと凄い。ある意味物凄い料理を作るだろう……自分の料理の才能の無さを思い出して失望する。

 駄目か? 駄目なのか? ……いや違う。こちらの世界でも現実世界の料理が出来るようにすれば良い。
 このミノタウロスステーキをon the ライスしたいなら、米を探し出して稲作を普及させる。ミノタウロスの肉を西京漬けにしてステーキにしたいなら、大豆を探し出して味噌を、そしてついでに醤油を作れば良い。幸い現実世界と共通する作物も多く存在するのだから、米や大豆、トマトだって何だって探せばあるはずだと信じよう。無ければ無いで新しい事を考えれば良い。
 そして、必要な調味料、香辛料が揃ったら現実世界の調理レシピをこちらの言葉に書き直して、調理レシピ集として出版し……印刷技術が無いなら活版印刷技術だって導入してやるし、活版印刷技術を確立するために必要な技術が無ければ全部導入してやる!

 決めたぞ。俺はこの世界の最高の食材を最高の調理で味わうために、この世界で生きるんだ。
 そのためには2号に出世してもらうじゃないか? 奴がミガヤ領の領主になったなら、その権力を利用させてもらいミガヤを美食の聖地としてやる!


「し、死ぬぅ……」
 2号がミガヤ領主になる前に死にそうだ……いや、死んだんだけどね。
 オーク相手に頭を吹っ飛ばされて2号が死んだためにロードして巻き戻した。
 そういえばテレビで最近のビデオデッキのリモコンに巻き戻しボタンがなくなったという話を聞いた。
 HDD等のメディアに情報を記録するので、テープと違って巻き戻さないので、早戻しとボタンの名前が変わったらしいのだが、今更巻き戻しを止める意味はないだろう。

「だからさ、相手を倒したと思っても周辺マップでシンボルが残っていたらまだ死んでないからマップの確認は大事だし、死んでシンボルが消えても敵の死体が物理的に消滅したわけじゃないからマップに頼りっきりじゃなく自分の目での確認も必要なんだよ」
 2号は倒したと思ったオークに背後から切りかかられて、思わずマップ上で敵のいない位置へと飛びのくもオークの死体に蹴躓き倒れたところを、振り下ろされた斧によって頭が破裂するように飛び散ったのだ。
「分かっている。分かっているが……」
 そりゃあ分かっているだろう。自分のミスで酷い目にあってるのは2号本人だけで、俺は痛くも痒くも無い。
「くれぐれも死ぬのに慣れるなよ……訓練効果ががた落ちになる」
「そんなの慣れてたまるか!」
「それにしても文字通り命懸けの訓練。羨ましいな……俺も自分をそこまで追い込めればもっと強くなれるんだろう……いや安全マージンを切り捨てて、俺もギリギリのところで自分を……」
「怖い事言うなよ! 生き返るあてもないのにギリギリまで追い込んだら駄目だよ! 君に死なれて困るのは僕なんだからね」
「何と言う打算的な人間関係」

 確かにレベル10で6体のオークの群れと戦わせるのは多少無理があるようだが、勝てない相手を向こうに命を張って戦うなら自分の殻を打ち破って強くなる必要がある。
 俺も最初の森林狼との戦いがそうだったし、オーガとの戦いもそうだった。だから2号はレベルアップとは別の面でも強くなるだろう。

 2号は通算30回死んでレベル16となった。
 荒んだ心がその表情にも出てきたが、同時に歴戦の戦士のような凄みも出てきた……もっとも歴戦の戦士なんて実際は見た事がないけどね。
「まるで自分の身体じゃないみたいな強い力が身体中に満ちているし、記憶力や頭の回転、それに視力なんかも凄く良くなっているのが分かるよ」
「知力の方も磨いておけ、王都に行ったら学園の図書館に所蔵された全てを読んで頭に叩き込めよ」
「いや、それは流石に無理じゃないか?」
「今のお前なら出来るはずだ。レベル30にもなったら壁一面に描かれた絵画の筆の運び一つ一つまで記憶出来るようになる」
「そんな馬鹿な……」
「それがレベルアップって奴だ……ちなみにレベル30になったらミノタウロスと1対1で戦って倒してもらうぞ。それが卒業試験だ」
「いや、ミノタウロスは本当に無理だから! 出来る事と出来ない事があるから!」
「オークと戦う前にも同じ事を言ってただろう。100回も死ねば倒せるようになるさ」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 2号の叫びが深い森の中に響き渡った。



[39807] 第69話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f1efa4d
Date: 2014/12/30 18:51
「成功か……眠いな」
 もしかしていつも目覚める時間までに起きる事は出来ないのかと思っていたが、目覚ましで早くに起きる事が出来た。異世界で早目に寝たのも良かったのかもしれない。
 しかし眠い。いつもの時間に起きるなら短い睡眠時間でもすっきりと目が覚めて、眠気なんて感じないのだが今日は眠い。

 部屋のドアのノブのあたりがガリガリと鳴る。
 俺が目覚めた気配でも察したのかマルがやって来たのだ。
 ガチャリと金属音が響くと共にドアが開いて、隙間からマルの鼻先が覗くと、次の瞬間にはするりと隙間を抜けると俺目掛けて走ってくる。
「ワゥッ!」
「まだ早いから静かに!」
 嬉しそうに吼えたマルに注意をすると、小さく鼻を鳴らし頭を下げて勢いよく振っていた尻尾も垂れ下がる。
「暫く散歩に連れて行って上げられないから、これから散歩に行くぞ」
 散歩に言葉に反応して顔を上げて尻尾を振り出した。

 早朝と呼ぶにはまだ夜が明けていない午前4時過ぎの空気は5月とは思えないほど涼しい。
 暑いのが苦手なシベリアンハスキーのマルにはそろそろ厳しい季節に突入する事になるので、夏場の散歩の時間は今ぐらいの時間と夜はもう少し遅くなってからの方が良いだろう……そうなると両方とも俺が行く事になるのは良いのだが、夜の散歩と朝の散歩の間が短くなりすぎる気がしないでもない。
 マルが走るペースは、この2週間ほどで俺に合わせて少しずつ上がってきている。元々走るのが好きな犬種なので1歳になり身体が出来上がったら、散歩の時間も長くして毎日1時間ずつ2回の散歩でどれほど走るようになるか楽しみでもある。


 部員全員で校門で待っていると1台の軽ワゴンがやって来る。運転手の年恰好から清水先輩だろう……はっきり言って直接の面識は無い。
 普通ならOBが部活中の現役に会いに来るなんてありそうな話だが我が空手部には一切無い。OBが大島のいる場所に現れるなんて事はまずありえないし、多分俺達がOBになってもそうなるだろう。
「おはようございます」
「おう、お前が高城か……苦労してるんだろう」
 いきなり先輩から同情かよ。
「頑張れ、3年生はあと1年だ。卒業したらお前らの人生は変わるからな。人生って素晴らしいと心の底から思えるようなる。負けるな挫けるな。高校では絶対に良い事があるぞ。モテ期も来るかもしれないからな……」
 泣くなよ先輩。こっちが悲しくなるだろう。

「これがテントだ。設営方法と注意事項はこの紙にまとめて置いたから読んでくれ。それとザイルだが出来るだけ多く必要って話だったから先輩達が部室に置いていって埃の被ってたザイルを全部持ってきた。古い分強度は下がっていると思うから数で補ってくれ」
「ありがとうございます先輩」
「それからこいつは俺からの差し入れだ」
 そう言って渡された段ボール箱の中はドライマンゴー、ミックスナッツ、チーカマ、魚肉ソーセージ、カキピーが詰まっていた。
「どうせ、カロリーメイトやゼリーなんかしか持ってないんだろう? 2日間テントの中で楽しみは食事くらいなのに、それじゃ精神的に持たないぞ。例え火は使えなくても食事は楽しまない駄目だ」
 確かに栄養だけは満たされても、ゼリー啜って、硬くて不味いクッキーを齧っても心は満たされないな……肝心な事を見落としていたな。
「気づきませんでした。おかげで助かります」
「気にするな。俺も雪山の天候悪化で3日間ビバークする羽目になって初めて気づいた事だ」

「そう言えばお前らエアマットは用意してあるか?」
「いえ用意していませんが」
「そうか用意する必要があるな」
「でも先輩も知っている通り、合宿ではテント無しで寝る時もエアマットなんて使った事はありませんが」
「それはテント無しだからこそだ。俺が硬い地面の上に寝て可哀相だからエアマット用意してやろうとか仏心を出したと思ってるのか?」
「そこまで甘やかすとは思えません」
「当然だ、外は土砂降りの雨って状況で狭いテントの中に3人も居るだけでテントの内側は結露する。そうすると拭いても拭いてもテントの床部分は水浸しだ。エアマット無しに寝るには、最低丸一日完徹してからじゃないと無理って事だ。用意して部活の前に持ってきてやるから誰か校門で待ってろよ」
「すいません。何から何までお世話になります」
「気にするな。今回の事はOB連でもかなり問題になっている。今お前達を助けないという選択肢はない……それから、くれぐれも大島に気づかれるな。気づかれても俺が持ってきたとは言うなよ」
 そう言い残すと、先輩は素早く軽ワゴンに乗り込むと逃げるように去って行った。卒業しても大島への恐怖は抜ける事はないという事をまざまざと見せ付けられたのだった。

 朝練終了後の部室においてもやる事は無くならない。
「ここに集まった道具一式は部室には置いておけない事は皆にも理解出来ると思う……そこで北條先生にお願いして女子剣道部の部室に預かって貰える様に頼むつもりだ」
「そうだな、大島に見つかったらテントに穴を開けられかねないからな」
 田村の言葉に全員が頷く。
「では俺は、シャワーを浴びて飯を食ったら直ぐに北條先生を呼びに行くから、全員朝飯を食って待機し、北條先生が来たら直ぐに道具一式を剣道部部室に移すので準備をしておいて欲しい。以上だ」

 2分で汗を洗い流し、1分で身体に付いた水を拭き取ると、更に1分で制服を着て、2分で飯を口に押し込んだ……今日から暫く家に帰れないので弁当箱ではなくおにぎりだったので1分間は短縮出来ただろう。職員室に着いたのはジャスト8時だった。
 入り口から北條先生の席を確認するが居ない。若干焦りを覚えながら職員室の中を見渡すと、なにやら資料を抱えて席に向かう北條先生の姿を見つけた……駄目だ見惚れている場合ではない。

 周辺マップを確認する……大島はまだ格技場に居る。
「おはようございます」
 北條先生へと歩み寄ると、両手に持った資料の山を下からすくい上げるように彼女の手の中から、自分の手の中に移しながら挨拶をする。
「た、高城君……おはようございます。な、何か用ですか?」
「はい、お願いがあって来ました」
 応えながら北条先生の机に向かって歩く。
「……何かしら?」
「今日から、我々空手部は合宿に行く事になっているんですが」
「ちょっと待って、私はそのような話は聞いていませんが?」
「我々もスケジュールを知らされたのは昨日の練習の後なんです」
 資料を机の上に置きながら応えた。
 もっとも合宿の事に気づいたのは一昨日で、大島から合宿のスケジュールを渡されたのは『朝』の練習の後の昼休みの事である。
「そうなんですか……」
 俺の思惑通りに、昨日の放課後の部活の練習の後に俺達が合宿について知らされたと勘違いしてくれたみたいだ……ごめんね北條先生。でも先生がこの話を知って介入すると、余計ややこしい事になると思ったから相談出来なかったんだよ。

「それで、今回の合宿で必要になりそうなものを部員や空手部のOBに頼んで手配したんですが、空手部の部室に置いておくと大島先生によって隠されたり、細工をされる可能性があるので女子剣道部の部室に置いて貰えないかと相談に来ました」
「そんな、幾ら大島先生でも生徒の荷物にそんな事を──」
「しないと思いますか? 断言できますか?」
「……分かりました。剣道部の部室に避難させましょう。今日は剣道部の部活はありませんから、空手部の今日の部活が終わるまでなら問題ありません」
 やっぱり断言出来ないよな。
「それでは、空手部の部室に部員達を待たせているので、これから女子剣道部の部室の鍵を開けて頂けませんか?」
「分かりました。直ぐに行きますので先に戻って待ってて下さい」

「直ぐに北條先生が来るから、荷物を直ぐに移動出来るように準備しろ」
 周辺マップで大島は1階の廊下を移動している。一度技術科準備室に寄ってから職員室へ向かうつもりなのだろう。
「主将。北條先生がこちらに来ます」
「分かった。皆、荷物を女子剣道部の前に移動させろ」
 俺の言葉に、1年生と2年生が荷物を持って10mほど離れた位置にある女子剣道部部室の前へと移動を開始した。

「荷物はこれだけですか?」
「はい」
「では、これから鍵を開けますが、ここは『女子』剣道部の部室です。くれぐれも余計なものを見たり触れたりはしないで下さい」
「1年。分かったか?」
「はい!」
 2年3年は、学校の女子に何の幻想も抱いていない。とっくに自分とは縁の無い存在と諦めているのだ。

「ありがとうございました北條先生」
 荷物を運び込み終えて空手部一同は頭を下げる。
「これくらいは構いません。むしろ皆大変なのに力になって上げられなくてごめんなさい」
 逆に頭を下げられ俺達は恐縮しておろおろとする。
「お手数かけますが、帰りのHRの後で空手部の先輩が他に用意してくれる荷物を届けてくれるので、その時にも鍵を開けて欲しいのと、空手部の部活終了後に荷物を取り出したいので、その時もお願いします」
 唯一動揺していない紫村が俺の代わりに用件を伝えた。
「はい。部室の鍵は今日一日私が預かって誰も中に入れないようにしておきますから安心してください」
 立ち去ろうとした北条先生は、こちらを振り返ると「高城君は昼休みに数学準備室に来てください。今回の件で詳しく聞かせてもらいます」と言い残して再び背中を向けて去って行った。

「昼休み、数学準備室で北条先生と2人っきりか?」
「羨ましいな、おい」
 田村伴尾の考え無しコンビがちゃちゃを入れてくる。
「馬鹿が、もしも台風が通過する予定の海域の無人島なんて知られてみろ。北條先生は教師としての職をかけても中止に追い込もうとするぞ。大島を敵に回して……そんな事をさせる訳にはいかないから、どうやって話を上手く誘導するか、ばれてた時にはどうやって説得するか、頭が痛い。誰か代わってくれるか?」
「すいません」
「二度と言いません」
 謝らなくて良いから代わってくれよ。頼むから!


 などと思っている内に昼休みがやって来た。
「高城です」
 ノックの後のそう名乗った。
「どうぞ」
 当たり前の対応にほっとする。やはり自分で呼び出しておいて「何処の高城様だ馬鹿野郎」とドア越しに脅しつけるのは人間として間違ってるんだよな。

「早速だけど高城君。今回の空手部の合宿について教えてもらうわ」
 ずばり事の核心を真正面から攻めて来た。
「今回の貴方達が用意した荷物を見る限り、何時もの合宿とは違ってますよね」
「どうしてそれを?」
「自分が担当しているクラスの生徒が、色々と問題がある大島先生に連れられて何日も合宿に行くのです気には掛けていました」
 つまり、長期休暇中の夏冬の合宿の出発日に学校まで来て見送ってくれていたのか……気づかなかったよ。じゃなくて! これじゃ言い逃れも難しいじゃないか。
「今まではテントとかの大きな荷物を持たずに合宿に参加していましたよね。でも今回に限り大掛かりな準備を、しかも大島先生に隠れてしています。一体今回の急な合宿には何があるんですか?」
 うん言い逃れ無理。折角上がった知力により閃いたアイデアも、その知力によって先回りされた予測により駄目出しされしまう。
「……答える前に、約束してもらいたい事があります」
 残されたのは正攻法のみだった。
「何ですか?」
「僕の話を聞いても、この合宿を中止に追い込もうとか、大島を顧問から下ろすように働きかけるとかしないと約束して欲しいんです」
「どうしてです?」
「はっきり言って、大島が未だに教師を続けていられるって事が間違っていると思いませんか? あいつのやってる事は滅茶苦茶ですよ」
「……た、確かに行き過ぎた指導が多々あるとは思います」
 直訳すると「そうね私も、すっとそう思っていたわ。あんなのが教師なんて同じ教師として恥ずかしいわ」である。
「どう考えてもおかしい。そのおかしなことがまかり通る。つまりそれを許す状況自体が大島本人以上におかしいんです」
「一体、どういう事なの?」
「大島のバックには何かが大きな権力を持った存在がいるって事です。もしかしたら大島自体が一教師の立場という立場を隠れ蓑にして、権力を握っているのかもしれません。それに逆らうような事をしたら、北條先生のお立場が危うい事になるかもしれません」
 それが一番心配なのだ。空手部部員一同にとって一番恐れているのは、自分以上に北條先生の事である。
 北條先生を守るためならば、俺達は大島とも正面切って戦う事を厭わない。
 だが戦いを避けられるなら避けたい。大島が北條先生に手を出すような状況にこそならなければ俺達には譲歩の余地がある。今回の嵐の無人島サバイバル合宿もその余地に含まれているのだ。

「でも教師として止めなければならない事なら、それから逃げる訳にはいきません」
「だからこそ、そんな立派な教師である北條先生には、この学校で教鞭をとり続けて欲しいんです。以前にも言いましたが我々空手部の部員にとって、どれほど先生の存在が救いになっているか話しましたよね。このどうしようもない中学生生活で先生が居たからこそ我々は耐える事が出来たのです。もし先生がこの学校を追われる様な事になったら我々はどうすれば良いのでしょう? 卒業が見えてきている俺達3年生はまだ良いですよ。でも2年生や1年生、それに来年になれば新しい1年生が入ってきます。そんな彼らが苦しんでいる時にこそ先生の存在が必要なんです」
「私は……無力です。教え子達を導ける人間になりたいという夢を持って教師になりました。でもそんな思いばかりが空回りして、職員室でも浮いてますし、生徒達からも煙たがられています……だからこそ、自分が教師として正しいと思える事を最後まで貫きたいと思って来ました。でもそれを行う力すらないなんて……」
 すまない……懺悔させてくれ。
 俺はこんな北條先生の落ち込み儚げな様子に……『エエもん見させてもらいました。心にREC』等と思ってしまいました。こんな己の下種さを懺悔したいと思います。
 そして最後に一言…………北條先生! 俺の嫁に来てくれぇぇぇぇぇっ! 以上です。
「自分を貶めるような事を言わないで下さい。我々は今回の合宿で酷い苦しみを負うことでしょう。でもそんな苦しみも先生がこの学校から居なくなるかもしれないという不安に比べたら、全く苦しみでは無いと思えるほどなんです。だからお願いです。俺達が合宿から帰ってきたら『おかえりなさい』と言って下さい。それだけで俺達はこれからも大島という過酷な現実と戦えるんですから」
「……そんな事で良いのですか?」
「それが目茶目茶嬉しいです……それ以上はちょっと思いつかないほどです」
 嘘だ。当然思いついてる。妄想の中で北條先生とあんな事やこんな事など考えないはずがある訳がない。だって中学生なんだもの。 たかし
「かならず皆を『おかえりなさい』と迎えてあげるから、だから無事に帰ってきてね。お願いよ」
「はい。必ず」

 結局、話の流れで見事に先生に合宿のスケジュールを話す事無く収められた。満足して数学準備室を後にする……おっと、ついでだ。
「北條先生。最近は前田とかクラスの連中も先生の事を随分と慕うようになってきてますよ。先生が今までどおりの北條先生であればきっと皆分かってくれますから」
 俺達だけの、いや俺だけの北條先生であって欲しいという気持ちもあるが、逆に「俺の北條先生」が皆に認められて欲しいという気持ちもある。だけど北條先生が笑顔を見せてくれるなら、どちらに天秤が傾くかなんて考えるまでも無かった。


 HRが終わると、俺は急いで校門へと向かう。
 朝見たのと同じ軽ワゴンが校門の向いに停まっていて、下校する生徒達から不審そうに見られている。
 うちの中学校は全生徒が何かしらの部に所属しているが、全ての部が毎日活動しているわけではなく、格技系の部活などは学校施設の使用状況では今日の女子剣道部のように休みが生まれるし、文科系では週に1、2回程度しか活動していない部もあり、塾通いの生徒の多くはその手の部に所属している。
「清水先輩!」
 軽ワゴンに近づいて窓越しに声を掛けると、ほっとした表情を浮かべる。
 大学生が、中学校の校門前で中学生からジロジロ見られながら待つというのは苦痛以外何ものでもなかったのだろう。
「よう高城! エアマットを用意してきたぞ」
 そう言って、後ろのハッチのロックを解除して、車を降りると荷台を見せる。
 そこには大きなダンボール二つ分の荷物があった。
「エアポンプはそれぞれに付いているが、余計な荷物になるからテント1つに1台にして残りは置いていけば良いぞ」
「ありがとうございます。それからエアマットの代金ですが──」
「金の事は心配するな。俺達OBに任せておけば良い」
「本当にありがとうございます」
「それと、他のOB達から指摘されたんで、スコップと土嚢袋を用意した」
 土嚢袋か……確かにキャンプ地への水の流入や、大きく積み上げれば風除けにも使えるな。
「ご配慮感謝します」
「それからエアマットを含め、今回渡した道具一式は最悪放棄しても構わない。弁償しろなんて事も言わない。だが絶対に失わない方が良いぞ。大島はお前達が持ち込んだ道具一式を全て使えなくしてから、『それじゃあ、俺が用意しておいた道具を貸してやろう』と言い出すはずだ。そして必ず代償を求める。それは冬合宿の実行だと思え」
「や、やはり、そうなりますか?」
「そうなる。なるとしか思えない。奴が自分のやりたい事を簡単に諦めるはずはない。隙あらば必ず、どんな事をしてでも冬合宿に持ち込む。それが大島じゃないのか?」
「それが大島ですね……悲しい事に」
「ああ、悲しいな……」
 2年生達が集まって来て荷物を運んでいく。
「それからな、トランシーバーを6台エアマットと一緒に入れておいたから何かの役に立ててくれ。使い道が無いかもしれないが、これからお前達に何が起きるかは本当に分からないからな」
 そういい残して清水先輩は軽ワゴンを走らせて去って行った。
 先輩の言う通りだ。想定される事態に対応するための準備は整えた。想定以上の事にも有る程度対応出来るマージンもある。しかし想定外の事態に対応する準備は難しい。その時、その場にあるものだけで対応を迫られる。それがサバイバルなんだ……もう家に帰りたくなってきた。


「今日は部活の後に飯を食ってから移動だ。その分少し早目に部活を切り上げるからランニングもペースを上げていくぞ」
 流石に現在の緩々メニューの部活で、これ以上緩める気は無いために少ない時間にメニューを押し込んできた。
 ベースはグングンと上がっていく。だが1年生達も全く遅れる事無く走っていくので、俺の黄金の右足も暇を持て余している。
「1年、お前らちゃんと自主練してたみたいだな。よし、褒美に夕飯は中華じゃなく焼肉食い放題にしてやる」
 今回は自腹なのに太っ腹だ。まあ大島は機嫌さえ良ければケチ臭い事は言わないのが数少ない美点だ。
「ありがとうございます」
「おう。もう少しペースを上げるからついて来いよ!」
 これは1年生の自主練の成果に機嫌を良くしただけではなく、これから合宿に心を躍らせている機嫌の良さだな。
 つまりだ。大島がここまでご機嫌になるほどの試練が俺達を待ち受けているという事だ。
 2年生、3年生達は事情を察して顔色が悪い。一方、無邪気に喜ぶ1年生達の笑顔が憎くて、そして憐れだった。

 60分焼肉食い放題を30分で切り上げて戻ってくると、校門の中に見覚えのあるマイクロバスが停まっていた。
「おう皆元気にやってたか?」
 早乙女さんだよ。やはりこの人もこの合宿に付いて来るつもりなんだ。
 大島よりは遥かに常識があって人当たりも良いが、そこは大島と仲が良いだけあって、若い衆が必死にもがく姿が大好きなんだろう。
「よし、お前ら部室から荷物を取ってきたらさっさと乗り込めよ!」
 ふっ、持って来た荷物を見たら驚くぞ。

 俺達がプレハブの部室が集まるグランドの隅へと向かうと、北條先生が待っていてくれた。
「お疲れ様。鍵は開けてありますよ」
「ありがとうございます。お待たせして申し訳ありませんでした。皆、部室に置いておいた個人の荷物をまずは運べ。そして剣道部の部室にある荷物は大島に指一本触れさせないように最後部のシートに積んで……紫村が見張っておいてくれ」
「任せておいてよ……面白そうだね大島先生の呆気にとられた顔が見られそうだよ」
 紫村vs大村。紫村の紫色の薔薇の棘は大村すらも怯ませるとも言われる……怯まなかったら俺はとっく部活どころか学校辞めてるよ。

「怪我をしないように気をつけて、無事に帰ってきてください。頑張ってね」
 北條先生が、剣道部の部室から荷物を運び出す部員一人一人に声を掛ける。別に特別な事ではない、でもそんな当たり前な人の世の優しさが俺達の修羅の国の住人の心を打つのだ。

「じゃあ、高城君も気をつけて」
「はい。全員無事に連れて帰ってきます」
「お願いね」
「任せてください」
 皆に掛けた言葉より少ないが俺には分かる。先生の俺への気持ちが分かる……俺にだけは分かるんだよ!



[39807] 第70話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f1efa4d
Date: 2015/04/27 12:40
「用意周到じゃないか?」
「今回は装備品の制限とか言われてませんからね。嵐の中でビバークするんですから当然です」
「ほう、気がついていたか」
「ええ、流石に3日目と4日目のスケジュールは怪しすぎました」
「渡したスケジュール表の内容以外の事はさせないと約束させられたからな」
 しかし大島の顔にはまだ笑顔が張り付いている。どうせ俺達が持ち込んだ荷物に細工する機会はまだあると高を括っているのだろう。
「随分余裕ですね? 2日目の夜まで持ち込んだ荷物には手を出せないように、部員達で先生と早乙女さんは見張らせて貰いますよ」
「勝手にしろよ」
 まだニヤついてる。
「もしも何かがあったら。このバスには乗っていない誰かが嵐明けの伊豆半島、相模湾・東京湾沿岸の辺りに打ちあがる事になるかもしれませんから気をつけてください」
「テメェ!」
 大島は怒らせると反応が素直になるようだ。今までは怖くてわざと怒らせるなんて不可能だったが、レベルアップで【精神】のパラメータ上も気が大きくなっているので出来る芸当だ。とりあえず新たに見つけた大島の弱点を、心の中の大島取扱説明書にメモメモと。
「先生の知り合いの間抜けな探偵なんか真っ先に命を落としそうですね……ホラー映画とかでは」
「……本気で言ってやがるのか?」
「いやだな映画の話ですよ。映画の……ね」
「そうだな。映画の話だったな……」
 ふん、分かってるくせに何を言ってやがる。
「そうですよ。無人島なんだから我々以外に人間はいないんだから、居ない人間をどうこうするなんて事は出来ませんよ。居なければ」
 居たら殺る。言外にそういう含みを持たせる。
 勿論、実際に殺しはしない。ただし全員収納して1ヶ月位は失踪させてから、町のあちらこちらに捨てて来てやる。目が覚めた時には全員仕事は首だろうが俺の知った事ではない。己と大島を恨むが良いさ。
 出来るなら大島なんかは50年ほど収納しておいて浦島太郎状態にしてやりたいくらいだが、【昏倒】は効かなければ、寝ていても近づいただけで目を覚ます野生動物のような鋭い感覚を持っていやがるので難しい。何とか大島と早乙女さんを戦わせて共倒れになったところを2人まとめて収納する機会が無いものだろうか?
「無人島に俺達以外の人間が居るわけないだろうが」
「そうですよね」
 運転席の後ろの列で繰り広げられる、俺と大島の白々しくも禍々しい言葉のキャッチボールに、後ろの列に座る1年生達の心が凍死しかけていた。

 高速を降りて、間もなく目的地の港へと辿り着いた。
 それほど大きくない。いや素人目にもかなり小さい漁港だった。その港の端に他の漁船に比べてかなり大きい全長20m誓い漁船が停泊している。
 マイクロバスはその船の傍で停車する。
「荷物を持って降りろ……忘れ物をしても取りには戻れないから、しっかりと確認はしておけ」


「よく来たな大島!」
 大島の海男版と言った背格好の良く似た、暗い夜にも分かるほど真っ黒に日に焼けた男が船から降りて来て、マイクロバスを降りた俺達を迎える。
 単に背格好だけではない、骨格から筋肉の乗り、全てが大島にも引けはとらない。鬼剋流は化け物だらけか? 下はともかくいわゆる熊殺し以上のレベルの人間には大島クラスがゴロゴロいるのか……いや、そんなはずは無い。大島クラスがゴロゴロいたら、とっくに日本は世界を征服しているはずだ。
「急な頼みで悪かったな古瀬。今日はよろしく頼むぞ」
「任せておけ、こいつなら100海里くらいは2時間で楽勝だ」
 そう良いながら自分の船に目をやる……ちょっと待てよ。100海里っていったな約185kmって予想される台風通過コースよりも沖じゃないか?
「紫村?」
「ああ。台風の暴風圏の右側がぶつかる事になりそうだね……これは参ったよ。そんな高速船を用意するとは……」
「どうした高城? 何か拙い事でもあったのか?」
 やられた! ……そんな俺の顔を見て大島は、心底嬉しそうに尋ねてくる……顔を近づけるんじゃない。
「いえ予想の範囲を超えていましたが、全く対応する手段が無い訳ではありませんから」
「そうか、余裕だな」
 お前もな。こいつは絶対仕掛けてくる気だ。ならばこっちも徹底的にやってやる。今晩中にお前の手下は全て収納してやるから覚悟しておけ。

 乗船前に、用意しておいたポリタンクに水を詰める。
「ほう、水を持っていくのか感心だな」
 俺達が用意した水は容量16Lのポリタンク6つ分で96Lであり、とてもじゃないが俺達18人の部員の4日間分の飲料水としては少ない。
 人間1人が必要とする飲料水は2-3Lであり、基礎代謝の高い俺達ならば多めに考えて5Lを用意しておくべきと結論付けたが、5x4x18=360Lの水が必要になり、荷物が多すぎると削られる可能性があったのでポリタンクに詰めて運ぶ水は100Lに制限して、代わりに災害用の携帯浄水器を用意した。
 数十万もするような高級品じゃないが、フィルターの目の細かさは0.2μmと価格帯的には良い方に属して、目安だがフィルター交換無しで500L以上の性能を持つので、台風の雨を集めた水を濾過するのが目的なら十分だと思われる。
 中にはフィルターの目の細かさが0.1μm以下で、0.1μm以上の製品では除去出来ない小さなのウィルスのほとんどを除去出来ると謳っている商品があるが、フィルターの機能とは細かい目に異物が通らないことで除去するのではなく、フィルターの中を通すことにより水の中の異物をフィルターの繊維などに吸着させるものであり、除去する対象よりもフィルターの目が小さくなければならないというものではない。
 ……ともかくポリタンクの96Lはあくまでも雨が降るまでの繋ぎに過ぎず、大島は俺達が確保しておく水の量を間違えたとでも思っているのならば大成功である。


「船って随分早いんですね」
 不安そうに香籐が話しかけてくる。
 波をかき分ける、滑る様になど色んな船の進む様子を例える言葉があるが、この船の場合水面を蹴るようにして走ると呼ぶべきだろう。
 マップ機能と時計機能を使って計算すると船の速さは100km/hを優に超えていた。100海里を2時間と言ったのは全く誇張じゃなかったようだ。
「普通の船はもっとゆっくり進むさ」
 高速艇といわれる船の速さだ……漁船の癖に。どれだけエンジンを弄っているか知らないが、漁船なら経済性を優先して貰いたい。
 おかげで、デッキの上は死屍累々。俺と紫村、それに香籐と1年生の東田を除く部員達は船尾に鈴なりになって胃の中の夕飯を海の魚達にプレゼントしている。
 ちなみに船尾に鈴なりなのは、この速さで左右の船舷から吐けば、風に煽られて舞い上がり物凄い事になるからで、流石にその事態を想定していた船長の古瀬さんから吐く時は船尾でと厳重に注意を受けていたため、そのような事態は起きていない。
「あいつらには悪いが、香籐と東田は寝られるなら今の内に少しでも寝ておけ」

「紫村どうおもう?」
 明らかに言葉が足りないが紫村はこれで通じる。とてもありがたい事だ。
「船に乗って直ぐにエンジンルーム付近に行ってみたけど、かなり熱を持っていたよ」
「先に手下どもを送り込んで帰ってきたって事だな」
「そうだろうね」
「流木の類はある程度片付けられてると考えた方が良いかな?」
「分からないよ。まず彼らが僕達がどうやって風を凌ぐつもりなのか知らないだろうし、それに無人島が大きい島なら数人では、1日や2日じゃ、浜辺に打ち上げられた流木を処理するのは無理だと思うんだ」
「そうか……いっそのこと連中が集めて隠した流木を頂くのも有りだと思っていたんだけどな」
 海に流しても多くは海流の関係で再び浜辺に漂着してしまうはずだ。そうでなければ浜辺に大量に打ち上げられる事はない。だから連中が流木を処分する方法はまとめてどこかに隠すしかない。
「もし隠していたとして、見つかれば良いけど、そうでなければ余計な手間になるかもしれないから、僕は反対だよ」
「いや、探すのは流木じゃなく大島の手下だよ。そいつを捕まえて締め上げる」
「出来ると思うのかい?」
「大島の手下のレベルは、大島本人に比べたら遥かに下だ。3年生なら2人掛りでいけば確実に勝てる」
「だけど──」
「清水先輩がエアマットの中にトランシーバーを入れておいたと言っていた。連携さえ取れれば十分にやれると思う」
「……そうだね。それに今の君なら1人でも十分い出来ると思うよ」
 参ったな。やはり紫村は俺の身体能力の向上に気づいていたか……油断ならないというか困ったものだ。
「それじゃあ、俺一人でやらせて貰う。俺の居ない間、上手く誤魔化してもらえるか?」
「分かったやってみるよ」


 船が港を出てからあと少しで1時間30分が過ぎようとしている。
 その時、船の前方を照らすサーチライトが船の揺れとは異なる動きで数回振られた。
 俺は振り返り確認したいという思いを抑えて、周辺マップで大島の位置を確認すると大島はサーチライトの位置に立っていた。
 ライトが振られた方向へと目を凝らす。すると海上に2つの小さな赤い光を捉えた……タバコの火だ。
 タバコを煙を吸い込む時の火の明かりはかなり明るく、こんな海の上で対象物の周囲に全く明かりの無い深い闇の中でなら数百m離れていても見える。
 ましてや今の俺の視力ならば1km以上先からでも余裕で視認する事が出来る。
 つまり、大島は島に先に乗り込んだ手下達にサーチライトの明かりで到着を知らせていたということだ。
「どうしたんだい?」
 紫村が俺の様子に気づいて声をかけてくる。本当に出来た女房役だ……修辞的表現以外何ものでもないからな。
「船の進む方向を真っ直ぐ……見えるか?」
「……見えたよ。居るとは思っていたけど、実際に確認すると……イラっとするものだね」

「そろそろ到着だ! 船を降りる準備をしろ……いつまでもゲーゲーと吐いてたら海に叩き込むぞ!」
 人としての思いやりや配慮に欠ける言葉と共に、船尾のデッキ上の連中はゾンビのようにフラフラと立ち上がり、荷物がおいてある前方へと集まり荷物の確認を行う。
 本当にゾンビみたいに気持ちの悪い顔色で、目も空ろだ。
「……どうしてお前らは……そんな平気な顔をしてられるんだ?」
 櫛木田ゾンビが話しかけてきた。ちなみに吐く息がゲロ臭くて、ゾンビにも負けない悪臭を放っている……実際にゾンビにあったことは異世界ですらないが。
「さあな。俺は生まれてから一度も乗り物で酔ったことがないから」
「お、俺だって無いわ。だけどこれは、この船は駄目だ……乗り物というよりジェットコースターとか遊園地にあるべき物だ……よ」
 俺は漁船というよりも少し大きめのボートで朝から夕方までずっと海釣りをしていても、丸半日自動車移動で、その間ずっと小説を読んでいても酔った事が無い。
 唯一乗り物に乗って吐いた経験は、小学校の宿泊研修で長時間バスに乗っていて、まず一人が吐き、そして周囲の奴らも順に貰いゲロをしていき、最後に圧倒的物量による包囲網の前に屈した時だけだが、それは乗り物は関係なく閉鎖空間+ゲロの臭いがあればいつでも起こり得る現象だ。


 船は減速してゆっくりと島に近づいて行く……手下共に隠れる時間を与えるためだろう。小賢しい。
 次第に島の輪郭が確認出来るようになってきた。
 今の俺の視力でもさすがに闇が濃すぎて普通に見えるわけではない。町では決して見ることの出来ない満天を飾る星のきらめきをさえぎる島影として確認する事が出来るだけだ。
 残念ながら広域マップにより島を確認することは出来ない。さすがにシルエットだけが確認出来る様な状況では表示可能エリアと認識しないのだろう。
 だが北西から南東へと伸びるシルエットは500mを優に超えており意外に大きいことが分かった。もし奥行きがもっとあるなら昔は人が住んでいた可能性もありそうだ。

 サーチライトが照らす視界の中に桟橋が見えてくるが何かおかしい。
 船が桟橋に近づくと、桟橋といっても海底から伸びる柱と横木だけの構造体だけで、足場となる踏み板が存在しない。
「高城。こいつを持って行って足場を掛けろ」
 そう言って大島が足元に転がっている幅40cm、長さ2.5mで厚さが3cmほどの木材の一つを持ち上げて示す。なるほど波などで壊れて流されないように使う時以外は踏み板は外しておく訳だ。

 船が桟橋の先端部分に横付けしたので、船の減りから桟橋の反対側の柱の上へと跳び、船の方へ手を伸ばす。
「踏み板をください」
「ほらよ」
 明らかに俺の胸の辺りを狙って強すぎる勢いで踏み板を差し出す大島。
 俺は柱の上に右足一本で立ちながら、右手で下から跳ね上げるように先を上へと逸らしながら踏み板を掴む。
「船に酔ったんですか? ちゃんとしてくださいよ」
「すまんな。船が揺れたものでな」
 ちなみに船はほとんど揺れていなかった。
 大島と俺は睨み合う。
「主将。早く1年生達を上陸させてあげましょう。そうしましょう!」
 空手部において一番空気を読める男。香籐が良いタイミングで割って入ってくれたので、大島との直接対決になだれ込む事にはならなかった。


「生き返る!」
 櫛木田がそう叫ぶ。
 俺には分からないが、乗り物酔いとは乗り物を降りて、地面に足が着くとすぐに治るそうだが、その切り替わりが余りにも早いので騙されているような気になってしまう。
 この島の位置をワールドマップで確認すると八丈島北西数十kmといったところだろう。日本の本州、北海道、九州、四国と大きな四つの島は海岸線はワールドマップに表示されているのだが、それ以外は表示されていないのでおおよそだが、大きく外れていることは無いだろう。

「よし全員、船に忘れ物は無いか荷物を確認しろ!」
 大島の声に、全員荷物の確認を行う。各自の荷物とは別に、個々に管理を任せてあるダンボールに入ったサバイバル道具を確認した。
「確認しました。船に忘れ物は無いようです」
「そうか──」
「船に忘れ物は無いようですが、船への乗せるべき忘れ物があるのではないですか?」
「何だと?」
 大島の顔が歪む……歪むとただでも怖い顔がすげぇ怖い。まだ慣れていない1年生達が恐怖に顔を強張らせている。
「船が島に着く前に、島のある場所から赤い光が2つ見えました。しかも明るくなったり暗くなったりを繰り返して。察するところあれはタバコの火のだったと思います。つまりこの島には我々以外の人物が最低でも2人います。確かこの島は古瀬さんが所有する無人島でしたよね? 我々以外に一体誰がいるのか確認しなければなりません」
 俺の言葉に、大島は忌々しげに舌打ちをし、空手部員達は「やはり……いや、もしかして殺人鬼?」「バックアップか殺人鬼か?」「ミステリー? サスペンス? それともサバイバル・リアリティーショー?」とざわめき立つ……何かお前らやけくそで、いっそのこと楽しんでしまえと思ってない?

「待て、その光がこの島から見えたとは限らないだろう。遠くの船の明かりを見たのかもしれん。勝手に決め付けるな」
「先生こそ、何を勝手に決め付けているんですか? 私は確認する必要があると言っているのです。責任者である先生が、合宿の場である無人島に不審者がいることを生徒が目撃しているのに、かもしれないで否定して確認しようとしないのは余りに無責任です」
「口が過ぎるんじゃねぇか、高城?」
 全米が、お前が言うなするわ! 事実を指摘されて過ぎると思うなら生き方を変えるか死ね……つうか死ね。

「そんなことはどうでも良いですから、確認のために見回りに行きましょう。先生一人でなんて事は言いません。主将として僕も責任を持ってお供させて貰います……新居。不審者を縛り上げるのにザイルを2本くれ!」
「……てめぇ。何を言ってるのか分かった上で言ってるんだろうな?」
 耳元で聞かされる大島の囁きは、囁き声とは思えないほどの破壊的な威力を秘めている。
「手下に我々の妨害をさせて、そちらの手助け無しには立ち行かないようにして、助ける代わりに冬合宿を認めさせるのが目的ですよね?」
「くっ!」
 清水先輩。伊達に中学の3年間みっちり大島と付き合う羽目に陥った訳じゃない。読みは完璧だった。
「どうせ、この島は昔は人が暮らしていたんで、今でも使える家か何かがあって、そこに避難させるつもりだったんでしょう?」
 これは俺の推測だ。俺達が用意したテントなどを使えなくしてから、家か洞窟へ台風が通過するまでの間、避難させないと流石に危険があり必要な安全マージンを稼ぐことが出来ない。
「大人しくこれから船で戻って、いつもの早乙女さんの山で合宿にした方が良いですよ」
 そうすれば台風が通過する2日間も何らかの無茶を俺達にさせる事が出来るはずだ。

「クックック……断る」
 既に切る札も無いのに強気なものだ。苦しい時こそ笑ってみせろとでも言うつもりか?
 確かに悪い言葉じゃないな。実際に相手にそうされる立場に立つとかなりイラっとさせられるので、苦しい立場に追い込まれたなら、相手の冷静さを奪うためにやってみるべきだろう。
「そうですか、こちらは構いませんよ……さあ、見回りに行きましょう。そして白黒はっきりつけましょう」
「断る!」
 何を言っているんだ?
「じゃあ、僕が1人で行って来ましょう。結果は同じ……いえ、ずっと酷い事になるでしょうが、それは先生が選んだ結果ということで」
「勝手な行動は認めない! 言っただろうスケジュールに無い事はさせないってな。策士、策に溺れたな、これはお前が決めたルールだ」
 そう来たか、だがこのことに関しては残念ながら完全に想定内だ。
「現在の時刻は22:44で、終身予定時刻は23:30です。その間の予定はスケジュール表には一切ありません。つまり23:30までに僕の行動を妨げる理由はありません……先生の雑なスケジュールが幸いしました。ありがとうございます」
 わざとらしく深々と頭を下げてやる。

「全員。23:30までに就寝準備を始めろ。準備が終わった者は23:30までは自由行動だ。ただし荷物からは絶対に目を離すな……という訳です」
「待て!」
 立ち去ろうとする俺を大島が制止する。
「何ですか? 時間が無いんですが?」
「……俺も行く! こんな時間に生徒1人で島の中を歩かせる訳にはいかないからな」
 大島以外の教師が言ったら、ミステリーでは死亡フラグ並みの見せ場なんだが、こいつに言われても何の感銘も受けない。
「……分かりました」
 そう答えると、俺は島を反時計回りで海沿いを回るために南東へと向かって歩き始める。

 俺が進む後を大島が着いてくる。正直こいつを自分の後ろに立たせるのはひどいストレスで、1秒たりとも気は休まらない。
「!」
 桟橋の付近から200mほど南東に進むと、前方の海岸線から30mほど陸に上がった茂みに何者かが隠れているのを周辺マップで捉えた。
 だが言葉に出さずに黙って進む。
 そして相手と海岸線から30mほど陸に上がった場所にある茂みに隠れる相手との距離が15mほどに縮まった段階で「おや、早速不審者の気配がしますね」と告げた。
「何だと?」
 大島を声を無視して一気に駆け出す。茂みに潜んでいた相手は突然の俺の行動に対応出来ず、更にはどう対応するべきか迷いもあったのだろう一歩も動けぬまま俺に補足される。
 致命的だ。その身を低くして地面に伏せた体勢では例え大島であっても俺には勝てない。

 接近する俺へと相手に出来る事は、その低い大勢のまま俺の足元を腕で刈ることだけだ。だがそれが分かっていれば脅威でもなんでもない。
 両足で地面を蹴り、地を這うような低さで滑り込んでくる相手の前で、地面を踏み込もうとする左足のタイミングを、全力で下半身の間接の動きを止めることで一瞬遅らせ、左足を掴もうと伸ばした右手を泳がせる。そして次の瞬間、その右腕を左足で踏みつけると、右足で肩を、そして再び左足で腰、右足で脹脛を踏みつけて走り抜けた。
 もちろん相手を気遣い走り抜けるような気遣いは無く、むしろダメージを増大するために踵で着地したので、短く4度悲鳴を上げた男は走り抜けた俺背後でのた打ち回る。
 仕上げに背後から馬乗りになって頚動脈を締め上げて気絶させると、ザイルで後ろ手に縛り上げる……その時、エロフの事を思い出して緊張したのは内緒だ。

「この男が何者か分かりますか? ……勿論分かる筈がありませんね。愚問でした」
「そうだな……しらねぇな!」
 顔を皮膚の下の表情筋をピクピクと蠢かしながら、不気味な笑顔を作りながら答えた。
「おや、先生にそんな事を言われて、こいつは驚いたような情けない顔をしていますよ……可哀想に」
「知らんな!」
 全く感情を感じさせない声……切り捨てた。大島のことだ「中学生にやられるような情けない奴に掛ける情はない」と判断したのかもしれない。
 こんな短時間でそう決断を下せるのが恐ろしい。俺ならば同じ結論を下すことが出来たとしても、逡巡する事になる……ちなみに逡巡は普通に決断する事をグズグズと躊躇う意味の他に、100兆分の1を意味する言葉でもあり、またごく短い時間を表す言葉としても使われる。さて、どちらの意味だろう?

「ねえオジサン。これからどうするつもり? 古瀬さんの船で本土まで送り届けられて、『本人も反省していたみたいで実害もなかったから開放した』って事になるから大丈夫と思ってるんでしょう? ……でも、そうはならない。俺がさせないから」
 システムメニューを開いて時間停止状態にして、身体の隅々まで所持品をチェックする。
 流石に財布や免許証などは持っていないが、スマホは持っていた……なるほど指紋認証機能つきだから安心して持ってたのかもしれないが、捕まってしまえば何の意味も無い事に気づかなかったのは愚かとしか言いようがない。時間停止状態で抵抗することも出来ずに認証画面に指を押し付けられて、スマホのロックを解除されるのだが、別にシステムメニュー関係なく、拘束されて縛り上げられたら否応なく同じ結果になるのでスマホも持ち歩くべきではなかったのだ。

【所持アイテム】の中からミニノートPCを取り出す。
 昨日、部活の後に1年生達の買い物に行ったついでに駅前の家電ショップで買った型落ちのASUSのミニノートPCで、選択の基準は店頭にある商品の中で一番バッテリー駆動時間が長かったからだ。
 代金は自分財布ではなく、例の件でヤクザの財布から頂いた金だ……ハートはクールに痛痒すら感じない。むしろ使ってやるから感謝しろといったところだ。
 使用目的は、サバイバルに関するデータを片っ端から流し込んでおく事。全て俺の頭の中に入っているという説明では、データの信頼性が失われてしまうからだ。
 流石に他人のスマホからデータを抜くために用意したのではないので、USBケーブルは買っていなかったが、鈴中の家から回収した荷物の中に入っていたのでそれを使わせて貰い、スマホの中のデータをコピーし終えた……後はこのPCを紫村に渡せば良い。
 PCを収納してから、スマホを元あった場所へと戻してシステムメニューを解除した。

「とりあえず、顔写真を撮って後でネットにアップしておくよ」
 そう言いながら携帯を取り出して、男の顔に向けて数回シャッターを切る。
「やめろ!」
 男は自分の額を地面にこすり付けんばかりにして顔を隠す。
「止める理由がない」
 さらにシャッターを切り続けてやる。

「高城、分かった俺の負けだ……こいつは俺の後輩だ」
 意外だった。別にこの場で大島を追い込む心算などは無かった。そもそも、この程度の心を動かすような地球上の生き物だとは思っていないから。
 むしろ、捕まえたこの男の方を追い込む心算だったのだが、まさか大島が負けを認めるとは……おかしい。何かが決定的におかしい。
 大島にも人間らしい心があったんだ……なんて感動するほど馬鹿なら、とっくに俺は心を病んで登校拒否になっている。
「認めるんですか?」
 ちなみに見回りに出る前から、教頭を盗聴した時に使ったMP3プレイヤーで録音しているので、先ほどの大島の言葉も拾っている。
「ああ、今回ばかりは俺の負けだ。冬休みの合宿は諦めてやる」
 間違いなく嘘だ。こんな無謀な合宿を企ててまで往生際悪く冬の合宿を遂行しようと考える奴が、こんなに潔く判断出来るはずが無い。
 何が狙いだ? 間違いなく俺を油断させることだろう。ならば俺を油断させてどうする? 男の顔を撮影した携帯電話だろう。
 男のスマホのデータを抜き取られた事を知らない大島にとっては、携帯の画像を始末できるなら、後は知らぬ存ぜぬで乗り切るのは簡単だと思ったのだろう。
 つまり、大島は俺の携帯を奪いにくるはずだ。
 最低限、この見回りが終わる前に奪う必要がある。更に言えば、他の手下が発見される前に立場を逆転させるのが望ましい。そして、これが一番重要なことだが、俺に主導権を握られている状況に大島が耐えられるはずが無いという事だ。

 俺は大島の視線を引き付けるように、ゆっくりと大きな動きで携帯を学校指定ジャージの右ポケットに入れる。
 大島の目が携帯の動きに惹きつけられる事は無かったが、逆に一瞬も視線を向けてこなかったのは不自然だ。
「じゃあ、次に行きましょう。どうせ自発的に止めさせる気は無いんでしょうし」
 そう言いながら、わざと背中を見せる。
 ……本当に恐ろしい奴だ。次の瞬間には俺の背後に立っている。185cmを超える図体で、周辺マップが無ければ俺に気づかせないほど音も立てずに背後を取るなんて化け物としか言いようが無い。
 システムメニューで時間を止める。そしてポケットの携帯を収納し、上体を捻って振り返ると──時間停止中は俺自身一歩もその場から足を動かすことが出来ないのが面倒だ──大島の懐に手を伸ばして奴のスマホを奪い取り、液晶画面をデコピンで割ってからポケットに入れ手から、システムメニューを解除する。

 大島は素早く右手を伸ばすと、俺のポケットの中から自分のスマホを抜き取る。
「ふん、これさえ手に入れれば──」
「それは落し物ですよ。誰かのね」
「──何? これは……俺の? 何で俺のスマホが……壊れてる!?」
 どうだと言わんばかりの大島の顔つきが凍りつき、そして驚き、更には絶望へと変わった……そんな表情を見せるとは、よほど大事なデータが入っていたみたいだな。
「おや、拾い物は大島先生のスマホでしたか? 乱暴に扱うから壊れてしまったみたいですね」
 大島君。ドヤ顔ってのは、今君が見ている俺の顔の事を言うんだよ。

「てめぇ何て事をしやがる!」
「さて? 俺は拾ったスマホをポケットに入れていただけで、壊したのは先生だと思っているんですが? それより、どうして勝手に人のポケットからものを盗み取ってるんですか?」
「違う、お前のポケットの中に俺のスマホが見えたから──」
「その割には、これさえ手に入ればとか、何で俺のスマホが? とか言ってましたね」
「あーっ聞えねぇな!」
 餓鬼かこいつは? しかも何て昭和臭の漂う餓鬼だ。俺は呆れて「もう良いです。戻りましょう」と言って、来た道を戻った。
 大島は上手く煙に巻いた心算かもしれないが俺は違う。一度負けを認めておきながら証拠を奪い取った上で反故にしようとした事を絶対に許さない。
 自分の手下達に襲い掛かる悲劇。その責任の全てはお前にあると思い知らせてやるさ。



[39807] 第71話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f1efa4d
Date: 2016/11/10 17:09
 何だろう。同じ部屋の隣のベッドに2号が寝ている事を何とも思わなくなってしまった自分に改めて驚く。
 本来、寝ることに関してはうるさく枕が替わっただけで眠れないナーバスな今時の子供だったのに、すっかり別人のような図太さだ。

「どりゃぁ!」
 ベッドから降りると同時に、振り上げた足で踵を2号の腹に叩き込む……昨日よりも強く。男は常に昨日の自分を越えて行くものなのだ。
 幸せそうだった2号の寝顔は、一瞬で苦悶の表情に取って代わり、「げふっ」と肺から空気を吐き出すと寝返りを2度打ってベッドの端から落ちて消えた。
「起きたか?」
「ぐっ……起きた次の瞬間に気を失いかけたわ!」
 まあ起きたなら、ベッドの端をつかんで身体を起こそうとしながら背中と肩をプルプルと震わせようが、過程は全てどうでも良いんだけどね。

 流石に人前で今の2号を全力で走らせると問題があるので、俺は森へと連れ出した。
 人間もレベルが16にもなると、猿と同じように木から木へ、枝から枝へと跳んで渡ることが出来るようになる。
 2号も十分な身体能力を持って……落ちた。
「センスが無いな」
「人間って、こんな事をするためのセンスは生まれつき持ち合わせていないものだよ……」
 下生えの茂みに落ちた2号が、低木の枝や棘つきの植物で服がボロボロ、あちらこちらの切り傷から血を流しながら悲しそうに訴えかけてくる……実に正論だが、そういう人間が生きていくために関係ない動作を含めて、イメージ通りに身体を動かすのもまたセンスだ。そしてその手のセンスは後天的に培われた経験によって生まれ出るものでもある。
「こういう、今までの人生で無縁の動作を習得していく事で、他の経験の無い動作を習得するのがスムーズになっていく。それもまたセンスだろう」
「うわぁぁぁっ! もう一々答えが用意されてるみたいで嫌だ! たまに『そうだな。お前の言うとおりだな』と言ってくれよ! 事あるごとに理詰めで押さえつけられたら、堪らないんだよ!」
「そうだな。お前の言うとおりだな……じゃあ、続きを始めよう」
「そうじゃないんだよ! そうじゃ……」
 もう我侭だな。
「分かった分かった。それじゃあ……さっさと立ちやがれこの糞ったれが! グダグダ抜かす前に行動を起こせ!」
「……それも違う」
「じゃあ、一体どうして欲しいんだ」
「褒めて育てて欲しい! 僕は褒められて伸びる子なんだ!」
「そんなのは、俺も同じだ馬鹿野郎!!!」
 思いっきり2号殴り倒した……うわぁっ白目を剥いてピクピク痙攣していて気持ち悪い。

 久しぶりに2号を担いで宿へと戻る。
 ちなみに顎の骨がパックリと割れていたので、口の中に手を突っ込んで骨を正常な位置にしてから【中傷癒】で骨折部分を治して、更に【軽傷癒】で身体中の切り傷を治すなど面倒で、檄高して物に八つ当たりしてぶっ壊したのは良いが、その後、結局は自分で片付けるしかない空しさに似たものを感じる。


「……はっ!」
 宿の食堂の椅子に座らせておいた2号が目を覚ます。
 注文は済ませてあるので、飯が来る前に目覚めてくれて良かった。
「僕は……」
「ああ、疲れたんだろう。飯は食えるか?」
「……僕は君に殴られたような気が──」
「気のせいだ! ほら料理が来たぞ。今朝はチーズも注文しておいたらしっかりと食べろ」
 この世界では、絞っただけの無加工の乳を飲むという習慣はほとんど無いようなので、骨折して治療に体内のカルシウムを消費した2号のためにミルクの代わりにチーズを追加しておいた。
「チーズか……良いね」
 2号の顔に笑顔が浮かぶ。こちらでは現実世界以上にチーズは高級品だ。
 やはり家畜の乳を飲む習慣が無いのが大きく、更に食肉も魔物の肉が流通している状態のなので、畜産自体が盛んではない中でレンネットを得るために、仔牛や仔ヤギを屠殺せねばならないのネックになっていると思われる。

「おまちどうさまです」
 男の子が、小さな身体で料理が載ったトレイを運んできた。
「サラダとチーズになります」
 どんぶりサイズのボウルに入ったサラダを2つと、大皿に盛られたチーズを必死にテーブルに並べていく。
「定食は後でお運びします」
 そう言って頭を下げると、トレイを抱えて厨房へと戻って行った。

「随分と頼んだね」
「嫌だったか?」
「いや、好物だからありがたい……でもかなりしただろう?」
「それほどでもない。おごりだから気にするな」
 そのチーズだけで40ネアも取られたが、本当に気にしないで欲しい。カッとしたとはいえ流石に顎を砕いた事は俺だって反省するのだから。


 好物だというチーズを1人で全て平らげた2号は、俺に殴られた事を思い出すことも無く上機嫌で文句も言わずに歩き続けたため、トックサムから50kmほど街道を進み、ロロサート湖の西の湖岸に位置するイーリベソックへと、昼まではかなり時間を余してたどり着いた。
 今の2号の体力なら、この程度の距離はもっと速く移動するのは容易だろうが、走ったり、または競歩の選手のように高速で歩くのは人目があるので憚られた。
 王都レマゴープまで100kmと少しなので、明日は馬を借りてでも一気にゴールするのも良いかもしれない。
「なあ、明日は馬を借りて一気に王都まで行ってみないか?」
 賛成されると思っていたのだが2号は考え込むそぶりを見せた。
「王都の付近って森とか魔物が棲んでそうな場所は無いから、出来るなら今のペースでレベルアップをしながら王都を目指したいんだけど?」
「無いのか?」
「王都だよ。陛下の住まう都の傍に魔物の生息地があるなんて、他国に笑われてしまうよ」
 俺はてっきりこの世界は、人の住む町と畑と道以外は、自然しかないと思っていたのだが、流石に一国の都ともなれば周囲も広く栄えているのか。
「そうか、だったら目標のレベル30になるまでは今のペースで行くか」
「そのことなんだけど、王都までの残りの半分は王領になるから、王都同様に魔物の生息するような場所は少ないから、レベル上げをするなら、このスロア領内で済ませる必要があるから──」
「なるほど、ペースは落とした方が良いってことか」
「そうなんだけど、構わないか?」
「ああ、構わない」
 王都に居を構えるとエロフが襲撃を掛けてくる可能性がある。そのことを考えるなら今の移動しながら毎日宿を変える生活が望ましい……それにしても結局はしばらく王都で暮らす事になるので、何か対策を考える必要があるな。

 ちなみに今日の宿の飯はフツ飯。優れた食材を無難に調理して出すだけのこの世界としては良くある店の1つだった。
 そういえばコカトリスが食いたいなぁ~。
「コカトリスの肉って珍しいのか?」
「珍しいって言えば珍しいけど、ミノタウロスほどじゃないよ」
「だけどコカトリスって石化の能力を持ってるだろう?」
「ああ、コカトリスの石毒ね。コカトリスは落とし穴で捕まえるんだよ。人間の高さ以上の深い穴を掘って、その上に餌をおいて誘き寄せて落としたら、上から土を被せて生き埋めにして、そのまま土の中で3日ほど石毒を出させてから、石になった土を割って掘り起こすんだから結構大変だね」
 はて石毒?
「コカトリスの石化って毒なのか? 話に聞いたところでは、コカトリスの姿を見たり、逆に見られたら石化するって聞いたけどな」
「君は変なところで物知らずだな」
 何その蔑みの目は?
「常識で考えて欲しいんだけど、コカトリスが見た物が石になるなら、コカトリスの生息場所はみんな石だよ。獲物を食べようにもみんな石だよ? それにコカトリスを見た相手が石なるというなら、さっき言ったみたいに土が石になる訳が無いだろう?」
 うっ、ファンタジー世界の人間に、理詰めで間違いを指摘されてしまった。
 余りの悔しさに「そんなもん知るか! コカトリスなら石を食うかもしれないだろう! 大体、土が石になるとかお前が言ってるだけで俺は確認していない。そもそも何で石になるのかも分から無いくせに、訳が無いも糞もあるか!」と逆切れを起こしそうになったが、何とか堪えた……明らかに負け戦になると分かっているから。

「まあ、ミノタウロスと違ってコカトリスの墓場なんてものとは関係なく生息域でならどこでも狩れるし、むしろ痛み辛い肉質なので、その分だけ多く出回っているといったところかな」
「そうか……」
 俺なら【巨坑】で作った落とし穴にはめて、【中解毒】で石毒とやらを中和すれば……なんだか行けそうな気がする!
「なあ、コカトリス狩ってみないか?」
 俺の提案に2号は呆れたと言わんばかりの顔をする。
「僕の話を聞いていなかったのかい? コカトリスを狩るにはかなりの時間と手間を必要とするって」
「その手間を大幅に短縮する方法があるかもしれない。それを試してみたいんだ……お前を人柱にして」
 2号は一目散に走り出した。あの馬鹿、こんな街中で全力で走りやがって……瞬く間に小さくなっていく背中を街の人々と共に呆然と見送りながら、今からでも他人の振りをしようと思った。


 俺は2号を追いかけなかった。
 奴のレベルアップに付き合う必要もなくなったので、コカトリスを狩ろうと決めると、店で買い物したついでとか道行く人に、この街の狩人のことを尋ねて歩き、見つけた狩人に街周辺の獲物の分布状況を教えてもらい、礼としてオーガの角を渡した……実際は順番が逆でオーガの角を先に渡して、情報を買ったんだけどね。

「コカトリス……やっぱり肉を食っただけじゃまずいのだろう」
 デフォルトが世界地図固定で使いづらいワールドマップで今まで表示可能になった範囲内には「コカトリス」で検索してもヒットしないと言う事は、やはりエンカウントして『コカトリスが現れました』とアナウンスされなければならないのだろう。
 せめて2号が一度でもコカトリスと遭遇していれば……今頃、とっくに石になったな。
 奴にはこれからやってもらう事が沢山ある。コカトリスの石化能力の特定のための実験とか【所持アイテム】の中の火龍の肉の試食とか、一瞬で石化や死亡の可能性のある実験は俺以外の人間にやって貰う必要がある。
 一番良いのは、2号のようにパーティーメンバーになっていない人間を騙して実験することだろう。
 死んだとしてもロードすれば、2号と違って死の恐怖を憶えているわけではないので謝礼金を渡してサヨナラすれば良いだけだ。
 だが自分が死んだ事を憶えていなければ、それで良いのかといえば、俺としてはかなり引っかかりを覚えずにはいられない。となれば死に慣れた2号にやらせるのが「筋」というものだろう」
「どこが筋なんだよ!」
 2号が帰巣本能によって戻ってきていたようだ」
「帰巣本能じゃないよ!」
 うん、痺れる様な突っ込みありがとう。
「よし、実験に参加する覚悟が出来たんだな?」
「嫌だ!」
 あれ?
「何で僕がそんな事をしなくちゃいけないんだ!」
「コカトリス料理を食べるために決まってるだろう! 他に何の理由がある?」
「だけどね……」
「食べたくないのか?」
「……」
「そうか食べたくないか」
「うっ!」
「別に石化なんて痛いわけじゃないんだろう? 身体が変だと思ったら石になってるってだけで、しかも石になった後は意識も無いんだから、ロードして時間を巻き戻せば、何の問題も無いだろう? ……それでも嫌だというなら、俺が自分でリスクを犯してコカトリスを狩るから良いさ。まあ、運悪く俺が石化してしまったら、もうお前を助けてやることは出来なくなるけど構わんよな? それくらいの覚悟で嫌なんだろうし」
「やるよ。やれば良いんだろう! 当然、肉は俺も貰うからな!」
「俺を美味い肉を独り占めするほどセコい人間だと思っているのか?」
 心外な。どうせコカトリスの捕獲方法が確立したら、自分1人では食べきれないほどのコカトリスを【所持アイテム】内にストックするつもりなのだ。金持ち喧嘩せずの精神で食いたい奴には奢ってやるさ、と獲らぬ狸の皮算用するのが俺という小さな人間である。

 狩人から教えてもらった情報を元に、2人でコカトリスが多く目撃されるポイントである森の奥まで踏み入った。
 道の途中で見つけたオークは2号に狩らせたため、奴のレベルは1つ上昇して17になっている。
「オーガは明日だな」
 途中見つけたオーガはスルーだ。余り追い込むとまた起源を損ねて、今日のコカトリス狩りに影響が出るからだ……現に俺の言葉に顔を青褪めさせている。
「怖いのは分かるけど、オーガと戦えば、色々と考えが変わるぞ」
 俺も、オーガを倒してから少し大島が怖くなくなった……その後、逆にそれまで見えていなかった大島が見えて前以上に怖くなったけど。
 まあ、その後も水龍、ワイバーン、グリフォン、火龍と戦った事で、少しずつだが大島という人間の全貌に迫って来たような気が……しないでもない。
「そうかな?」
「まずは自分に自信がつく。ちょっとやそっとの事で動揺しなくなる。それに戦いを続ける内に笑ったりする事が少なくなるかもしれない」
「ちょっと待って、最後の凄く怖いんだけど」
「なぁに、慣れれば気にならなくなる。周りから笑顔が似合わないと言われるようになると、人間は余り笑わなくなるからな」
「い、嫌だ。こんな女顔なのに笑顔が似合わないなんて、一体僕は誰にアピールすれば良いんだ?」
「男が顔でグダグダ抜かすな! 惚れた女には真心と行動でアピールしろ!」
「何これ? 何で君なんかから、こんなに腹が立つ正論を聞かされなきゃならないの? 僕、そんなに悪い事した覚えはないんだけど?」
「ああ、言ってて自分でも何言ってるんだと困ったよ! 悪かったな!」
 そうだよ。そんな事が出来るなら、俺は北條先生に……


「準備は出来たよ」
「じゃあ、セーブするから現時刻を確認……14:23:20セーブ実行」
 どうやらこの世界の1日は現実世界と同じ長さなのは確かなようだが問題はその分割方法だ。多分1日を24に分割し、それを更に60で分割するなんてことはしていないと思うが、この手の単位に関しては話し言葉も文字も容赦なく変換するのがシステムメニューなので詳しい事は分からない。
「了解」
 2号が親指を立てる。俺の真似だそうだが自分ではそんな事をやって見せた覚えが無いので無意識にやっていたのだろう。他にもそんなのがありそうで怖いな。

 予定通りに落とし穴は【巨坑】を使って掘った。直径3mの深さは6mと馬鹿みたく大きな穴だが、これが仕様なので穴の大きさを小さくするとかは出来ない。
 だがこの穴は、【坑】や【大坑】とは違い、どうやら穴のあった場所にあった土や石や岩を穴の外周部へと圧縮して作られているようで、穴の周囲はコンクリートよりも硬く、凹凸の無い滑らかに出来ている。
 そのため山の斜面に水平方向に穴を作ればトンネルなども簡単に作れてしまうだろう。
 気になるのは【大坑】までは出来上がった穴の周囲にあった土は【所持アイテム】の中に移動するのに対して、【巨坑】の仕様が違うということだ。流石に【巨坑】で出来る大穴の分の大質量を【所持アイテム】の中にいくつも入れ続けるのには限界があるからだとするならば、そろそろ【所持アイテム】の限界が見えてくるということだ。何か残念ではあるが、また楽しみな不思議な気持ちだ。

 穴の上には葉の茂った枝を何本も渡して蓋をし、更に枯れ草や枯葉を乗せてカモフラージュし、オークの死体を右手首と左右の足首をロープで縛り、近くの木の幹に縛り落とし穴の上に地面ぎりぎりに浮かせるように置く。
 後はコカトリスが罠にはまった後は、【所持アイテム】内に大量にある、火龍戦の時に使った土砂の残りを被せてやれば普通のコカトリス狩りと同じになるのだが、3日間も悠長に待つなんて真似は俺には精神的に不可能だ……早く食いたくてたまりません。

「じゃあ、コカトリスが罠にはまるのを待つかい?」
「えっ? 何で待つの?」
「いや罠を仕掛けたんだから、少し離れた場所に隠れて見張らないと……あれ、何か嫌な予感がしてきたんだけど?」
「正解だ。お前がコカトリスを探して、こっちに引っ張ってくるんだよ」
「ああっ! やっぱりぃぃぃ!」
「ちゃんとマップで確認しておくから大丈夫だから安心しろ。お前のシンボルがマップから消えたら、『人間の死体』で検索してヒットしたらロードするからさ」
「死ぬのが前提? 嫌だよ! ……くそっ!」
 嫌だけど、コカトリスは食いたかろう。


「コカトリス見つけたぁぁぁぁぁっ!!!」
 周辺マップの表示可能域ギリギリの場所にいる2号の叫び声が届く……しかし、散々泣き言を言ったものの良く行く気になったなと、自分でやらせておいて思う。
 こんな見通しが利かなくきっちり周辺マップの100mの範囲しか広域マップに反映されない森の中で100m先から声を届かせるだけではなく、内容まで聞き取らせるには、単に俺の聴力の上昇だけではなく、2号の肺活量などの発声能力の上昇のおかげだろう。

 知らせを聞いてすぐに【迷彩】を使って姿を消すと木の陰に移動して待つ。
 2号が必死に走って戻ってくる。奴からはマップ上に俺が見えているので、迷う事無く真っ直ぐに向かってくる。そしてその後ろを20mくらい遅れてコカトリスが追いかけている。
 レベル17の2号の逃げ足に距離はじりじりと詰まるくらいだから、この森の中で40km/hくらいは出しているみたいだ。
 走って来た2号の腕をつかむと木の陰に引き込んで「声を出さずに息を整えろ」と低く告げると【伝声】を使い、2号の乱れた息遣いを収束して30mほど離れた木々の壁にぶつける。そこへ走って来たコカトリスがたどり着いたところで音を上空へと向けて逃がした。

 コカトリスは音の発生源を見失い、2号の姿を探すように周囲を見渡すとオークの死体を発見したようで落とし穴へと近づいて行く。
 そして俺と2号が息を殺して見守る中、周囲を警戒するように首を巡らせてから、飛び掛ろうと一気に勢いを付けたところで前足が落とし穴の蓋の上に乗ると、そのままバランスを崩して落とし穴の中へと落ちていった。
「やった!」
 俺と2号は同時に叫ぶと、落とし穴へと近づき【真空】で落とし穴に蓋をすると、直径5mの真空の見えない球体を落とし穴の中へと押し込んで行く……真空の塊自体は目には見えないが、何故か魔術を発動させた俺の目にはシステムメニューの補正で、ワイヤーフレーム状の球体が表示されている。

 穴の中を覗き込むと中で必死に壁を上ろうと足掻く2mほどの大きさのワニのような生き物が見える。
 頭部に鶏の鶏冠にも似た突起状の皮膚の隆起した部分が見え、そして背中にとても飛翔能力があるとは思えない小さな翼らしきものがあるが、その他の形状はまるっきりワニである。
 鋭い爪を壁に掛けて登ろうとするが【巨坑】の壁はコンクリートよりも硬く、そして凹凸が無いため、爪を食い込ませることも凹凸に引っ掛けることも出来ずにいる。
「うおっ!」
2号が驚きの声を上げて落とし穴の縁から飛びのく。突然コカトリスが濃い緑色の霧のような液体を口から吐いて、こちらに吹き掛けようとしたのだ。だが【真空】の大気圧と真空の1気圧を隔てる壁が跳ね返した。
「なるほど、コカトリスは自分の石毒とやらでは石にはならないんだな」
 身体中に緑色の液体を浴びてもコカトリスの身体には変化が無いが、エアゾル化した液体を浴びた穴の中は壁や底の部分は全が、ゆっくりと白っぽく変化していく……これが石化なのか。
「どうする?」
「とりあえずセーブだな」

 セーブを終えると、俺はクロスボウを取り出し弦を引いてボルトをセットする。
「珍しいものを使うね?」
 やはり余りメジャーじゃないのだろう、クロスボウに2号が大きく目を見開く。
「狙いが正確だからな」
 そう答えて、コカトリスの頭に狙いを付ける。30mの距離で水平発射で狙いより40cmほどボルトが浮いたが、この距離ならばすこし下を狙うくらいの気持ちで引き金を引けば──ボルトはコカトリスの右目の僅か中央寄りに突き立った。

 コカトリスは穴の中で暴れ周り、その振動が足の裏からドドドッと伝わるが、音は真空の壁に遮られてほとんど聞こえてこない。
「やってみろ」
 2号にクロスボウを渡すと、あっさりと弦を片手で引き上げて、渡したボルトをセットした。
「あれ? こんな簡単に出来るものだっけ?」
「レベルアップのおかげだろ。今の腕力があれば弓に比べても、それほど発射速度は悪くは無い」
 とはいえ時間は2倍はかかるだろうが、レベルが更に上がればもっと早く射る事が出来るようになるはずだ。

 2号は立て続けに3本のボルトをコカトリスの頭部に突き立てる。
「1本も外さずに命中か……凄い狙い易い上に、ボルトも弓に比べるとずっと速いおかげなんだろうけど、自分の腕が凄いと勘違いしてしまいそうだよ」
「中々良いだろう?」
「そうだね……これくれない?」
「自分で買え」
「……だろうね」

 その後、更に4本のボルトを打ち込むと、コカトリスのシンボルがマップ上から消えて2号はレベル18になった。
 誘き寄せる餌としたオークの死体をロープの木に縛った方を解いて穴の中に落とす。
「おお、早いな……」
「これは……石化は貰いたくないね」
 オークの死体は穴に落ちて30秒ほどで、石毒に触れていない背中の部分まで完全に白っぽい石へと変化してしまった。
 身体の中まではどうなっているか分からないが、石化していると考えた方が良さそうだな……もしも石毒が身体に触れたと感じたら、余計なことを考えたら、掛かった場所を確認するよりもロードした方が良さそうだ。多分顔や頭に掛かったら、1秒足らずで脳まで石にされてしまうだろう。
 ロープを手繰り寄せてオークの身体を引き上げようとするが、ロープが石化していることに気づき、拾おうと地面に伸ばした2号の手を慌てて蹴って止める。
「痛い! 何を?」
 手首を押さえてこちらを睨む2号に、石化したロープを指差してみせる。
「ロープまで石化だって?」
「知らなかったのか?」
「僕だって、そんなにコカトリスに詳しいわけじゃない。実際にこの目にしたのも今日が始めてだ」
「それは分かっているが、想像以上に面倒だな……【中解毒】」
 久しぶりに魔術の名前を口にしながら、石化したロープへと発動する……やはり魔法の類は呪文を口にする方が厨二心をくすぐってくれる。
「これは……凄い。石化に効いている!」
 もう一段上の解毒魔術を覚えないと駄目かなとも思っていたのだが、嬉しい事に効果ありだ。これなら石毒を貰ってもロードせずに【中解毒】で対応可能かもしれない……がやはり安全策をとってロードだな。
 【中解毒】を掛けたロープを手繰り寄せて落とし穴から引き上げたオークにも【中解毒】を掛けると、一発で全身の石化が解除された。
 俺のイメージ的に状態異常の最上級が石化であるので、石毒も毒の中では最上位に含まれると思い込んでいたために【中解毒】の想像以上の効果に驚きだ。はっきり言って【中解毒】以上が必要な状況がすぐには思いつかない……もしかして放射性物質も分解中和しちゃうとか? いやいやまさか……そんな……ねぇ?

 セーブを実行した後、そのまま身一つで落とし穴へと飛び込んだ。
 【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】落下中に周囲へと乱発射。
 【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】【中解毒】穴の底に着地後は、足元、自分の身体、そして周囲へと乱発射すること18回で一旦打ち止めにして、自分の身体に石化が起きていないか確認。そしてマップ内で『石毒』で検索を掛けて、穴の底や壁、自分の身体、コカトリスの身体のどこにも石毒が残っていないことを確認すると、大きくため息が漏れて、そのまま座り込んで叫ぶ。
「想像以上に面倒くさいわ!」


「すぐに焼いて食べよう!」
 血抜きを済ませたコカトリスを前に2号がいきなり切り出してきた。目がヤバイ事になっている。
 蘇られるとはいえ死の恐怖を振り切ってまで、コカトリス捕獲に協力しただけあって、澄まし顔の下ではコカトリスの肉を食いたくて食いたくて仕方なかったのだろう。
「こんな場所で悠長に肉を焼いてられるか!」
 だが俺は正論を吐いて拒絶する。
 この肉は……無難にプロの手に任せるのだ。簡単に手に入るそこらの素材ならば、いつもの病気を発病させて「俺がこの手で」と分の悪い賭けに投じる事もあるだろうが、せっかく手に入れた希少かつ貴重な素材を素人の手に委ねる訳にはいかない。

「ならば聞こう? お前にこの肉を調理する資格があるのか? 素材にふさわしい腕があるのか?」
「……自信は無い」
「ちなみに俺は、自分が料理する時は常に、奇跡が起こる事を願っているぞ」
「そ、それ程ひどくはないよ」
 ……酷くないよ。俺の料理は酷くないよ。酷くなんて無いんだから、ちょっと皮むきとか下処理の作業の方が得意で、そちらに専念する機会が多いだけなんだから。、下処理の腕前はみんな妙に優しく褒めてくれるんだから、そして、こらからも下処理は頼むって言われて……


 結局、2号がレベル21になるまで続け様に、3頭のコカトリスと13頭のオークを狩ってこの日のレベルアップ作業を終了した。
 コカトリスの肉は……本当に美味かった。



[39807] 第72話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f1efa4d
Date: 2015/07/19 22:08
 ……眠たい。
 やはりいつもの起きる時間より早く目を覚ますと、かなり目覚めが良くない。
 まだ日も明けぬ4時という時刻。町の明かり1つ無く、空にも月齢の若い今時は月は日没まもなく沈み、日の出の後に昇るので夜空には三日月よりも細く頼りない月影すらない。満天の星空は確かに圧巻ではあるが、星達には地上の闇を照らす力は無い。
 つまり、俺が動くには絶好の機会ということだ。
 寝袋に入ったまま、周辺マップで状況を確認する。
 俺達が寝ている浜から50mほど南東の場所にあるコンクリート製の猟師小屋の中には大島と早乙女さんのシンボルがあるが、2人とも寝ているようだ。
 そして俺達を挟んで反対側30mほどの距離に居るのが大島の手下の1人で、大島の言いつけを律儀に守って、ちゃんと起きて俺達の監視を続けている。苛つくのはビデオカメラでこちらの様子を撮影している事だ。
 ついでに『監視カメラ』で検索を掛けると、猟師小屋に監視カメラが3つ取り付けられていて、1つは俺達の方向を、残りはそれぞれ死角が無いように周囲を撮影している……カメラの撮影範囲が広すぎる。1つで180度の範囲を抑えるってプロ仕様じゃないの?
 まずいな。かなり優れた暗視機能も持っていそうだ。だとするならば【迷彩】を使えば可視光線のみならず赤外線すらも隠すことは出来るが、俺が抜け出た後の寝袋の萎んだ様子で俺が居なかった事がばれてしまうだろう……仕方が無い。

 セーブを実行してから【迷彩】で姿を消すと【所持アイテム】の中から、今回の合宿のために大量に買い込んでおいた10秒飯こと、半固形の憎い奴を足元から出しては寝袋を膨らませながら寝袋から這い出した……流石に監視カメラの解像度程度なら寝袋の中身がパック入りの緩いゼリーだとは判別が付かないだろう。
 ゆっくりと10mほど猟師小屋の方へと近づく。ここまでは俺達が寝る前に踏み荒らした足跡が大量に残っているので、足跡は気にする必要は無いだろうが、この先はほとんど足跡が無いので足跡を残す訳にはいかない。
「40mか……」
 流石に助走も無しに跳ぶのは難しい。空中での足場になる1t程度の質量を持つ物体があれば良いのだが、残念ながらまだ手に入れていない。
 日常生活において、中学生がそんなものを手に入れるのは難しい。石材を扱うような問屋で良さそうな石材を購入するとしよう。購入資金も何とか足りたとしても、持ち帰るのが問題だ。「配達はどちらに?」と聞かれて「大丈夫です持ち帰ります」なんて言える訳が無い。
 配達してもらったとしても家族になんと説明すれば良い? しかも届いても収納して持ち運ぶ必要があるのに……不可能だ。
 そうかと言って、日常生活の行動範囲にあるものを拾うとしても、小石を拾うのとは訳が違う。当然所有者が居るわけだから盗むのには抵抗がある。
 いっその事、やくざの事務所でも襲って金庫を中身ごと頂いて、足場にしてやろうかとも思ったほどだが調べてみると金庫はそれほど重たくない。
 一般向けには1tクラスの金庫なんてほとんど無く、そこそこ見つかるのは800kgクラスだった。800kg+中身で十分だとも思うが、そのクラスになるとかなり大きく、500Lオーバーの大型冷蔵庫よりもずっと大きくなってしまう。
 そんな大きな金庫が、我が町の田舎ヤクザの事務所にあるのかといえばかなり疑問だ。ドラマや映画で見る限りの勝手なイメージなら、大型冷蔵庫の半分以下であり、せっかくヤクザの事務所を襲っても手に入ったのが役に立たないとなれば無駄足だ……ちなみにヤクザが可哀想なんて考えはこれっぽっちも無い。金庫が簡単に開いて中から数百万が出てくるなら罪悪感無しで幾らでも襲ってやる。

 マルとの散歩道を更に10数kmも上流へと向かえば、川原や川の中に都合の良さそうな岩もあるだろうが、ともかく休日というものが存在しない生活なので取りに行くことが出来ない。
 マルをパーティーに入れてレベルアップさせ、もう少し暑くなったらマルの散歩の時間を遅い時間帯にして、一緒に上流まで足を伸ばすようにする……どうやってパーティーに入れるんだよ? 話しかけてもマルには内容が理解出来ないし、大体何を倒してレベルアップすのかも分からないよ。

 他にも大きく硬い岩盤が剥き出しになって、人目が無くて、いきなり大穴があいてても問題にならないような場所があれば【大坑】で出来た穴の分の岩が【所持アイテム】内に移動するので、それを足場にするのだが、そんな都合のいい場所があったらむしろ驚く。

 ともかく、猟師小屋の監視カメラをどうにかするには別の方法を考える必要がある。
「……そうか、波打ち際か」
 波打ち際を歩けば波が自然に足跡を消してくれるから気にする必要は無い。そして波打ち際沿いに接近すれば屋根までの高さに、更に3mほどの上下差が加わるが距離は30mほどに縮まるので何とか跳躍可能と思われる。


 猟師小屋のコンクリートの屋根部分、配置された監視カメラの内側へと音も無く着地する。着地時には膝や関節で衝撃を抑えるなんて事ではなく、【所持アイテム】内の鉄アレイの位置エネルギーを奪うことで物理的に着地時のエネルギーをゼロにした。
 そうとはいえ長居をすれば大島や早乙女さんが、気配に感づき目を覚ます可能性があるので、監視カメラを素早く【無明】でレンズをふさいでから屋根を降りた……大島のシンボルが一瞬黄色くなり覚醒しかけたみたいだが、俺がすぐに離れたことで再びリラックス状態をあらわす青へと戻った。危ない危ない。

 次いで、波打ち際を走って大島の手下を目指す。
 波打ち際から起こる俺の足音に振り返るが、姿見えずに怪訝な顔をしたところを【昏倒】を食らわして気を失ったところをカメラごと収納。
 そこからはともかく波打ち際を疾走する。そして分かったのが、この島は北西から南東へと1km弱と長細く、幅は一番太い中央部分で200mと少ししかなく、島の海岸沿いを移動した後で広域マップ上には、長さ100mで最大幅が20mほどの未表示になっているだけだった。」
 もう1周しながら大島の手下達を3名収納した。
 そして未表示エリアに侵入していくと、中央部分の山の岩肌に洞窟があり、そこに4名の手下が居たので、まとめて【昏倒】を掛けて全て機材ごと収納すると、洞窟の奥で【大坑】を使い直径1m高さ2mの円柱状の岩を20個ほど【所持アイテム】内に蓄えた。
 洞窟の中に置かれた食料などの荷物を頂くために、内部を詳しく捜索して分かったことだが、洞窟は入り口が大きく口を開けているが以外に深くて奥が開けている。かなり頑丈な造りになっているので、大島はいざとなったら俺達を脅迫して冬合宿を認めさせた上で、此処に避難させるつもりだったのだろう。

 ともかくこれで、思いがけず念願の空中足場用の岩を手に入れたが、それだけで終わりにはさせない。避難用の洞窟がある限りは、手下がいなくなっても大島は俺達への妨害を続ける可能性があるので、この洞窟自体を破壊する必要がある。

 俺は円柱状の足場を使い宙高く跳んで上空200m以上まで一気に上ると、自分の位置を広域マップ上の水平位置を洞窟入り口付近と同じ位置にあることを確認する。
「もうじき夜明けか……」
 地上では気づかなかったが、この高さからなら水平線が白み始めているのが見えた。俺は一度に15個の円柱状の岩を取り出すと、そのまま落下させる。
 そして、その着弾を確認する事無く足場用の岩を蹴って加速してダイブし、落下する岩よりも早く浜辺のキャンプサイト……と言うのもはばかられる、単なる砂浜へと水平方向へ100m移動して戻ると、一度寝袋を中の10秒飯ごと収納してから、再び寝袋だけを取り出す。
 次の瞬間、洞窟へと次々に着弾した岩たちが、連続するドーンという音と共に島自体を地震のように震わせる。

「起きろ! 何か爆発したみたいだ!!」
 第一声は俺が発して、集団にミスリードを仕掛けて主導権を握る。
 俺の声に部員達は慌てて跳ね起きると寝袋から出てくる。
「何だ?」
「何が?」
 軽くパニック状態で慌てる。
 目の前でチンピラが刃物を取り出しても、慌てるどころかむしろニヤニヤしちゃうような、肝が据わったと言うべきか、頭がおかしいと言うべきか言葉に困る様な空手部の部員達でも、さすがに爆発という言葉には焦るのだ……ニヤニヤされなくて良かったと胸をなでおろす。

「何が起きた!」
 大島が猟師小屋から飛び出して叫ぶ。
「何か爆発したみたいです!」
 俺がミスリードした内容を櫛木田が口にしてくれた。これで誰がミスリードしたのかという印象が曖昧なものへとなっていくのだ。
「爆発だと?」
「はい、方向はこっちで、音がしたのはここより高い位置だったと思います」
 走りよってきた大島と早乙女さんに田村が方向を指差しながら説明をする。
「まさか……あそこは」
「おい、大島行くぞ!」
「お前らは、そこから動くな! 良いな!」
 早乙女さんが走り出し、大島も俺達に指示を出すと追いかけて行く。

「主将。一体何が起きたのでしょう?」
 香籐が不安気に尋ねて来る……香籐君、普通はそんな事を聞かれても分かるはずがないから困ると思うよ。ちなみに知っている俺としても聞かれると困る。
「分からない。大島が確認してくるのを待つしかない」
 無難にそう答えるしかなかった。
「一体どうなっているんだ。この合宿は?」
 ごめんね伴尾。ただでも酷い合宿を、俺が更に引っ掻き回しているせいだよ。
 でも、ここまでやったら合宿も中止かな? せっかく用意した準備が無駄になるから、出来るなら万全の体制を立てた上で挑戦したかったのだけど無理だろうな。
 先輩方が用意してくれたエアマットも全て無駄かと思うと申し訳ない。せめて来年に、何てことは下級生が可哀想なので思ってはいけない。

 大島と早乙女さんが手下達の名前を大声で呼びかけている声が聞こえてくる。その声が必死であればあるほど、俺にとっては滑稽に思えて笑いを堪えるのに努力が必要になる。
 問題があるのは大島たちであり、俺は警告もした。後の責任は自分達で取って貰いたい。
「やっぱり主将の言うとおりに、僕達を監視している人たちが居たんですね?」
 もう居ないんだけどね、天国や地獄よりも遠くて近い【所持アイテム】という場所に行ってしまったんだよ。
「そうみたいだな……」
 そう答えながら、俺は2人が呼びかける名前をカウントしている。
 俺が捕らえたのが8名で、大島と早乙女さんが呼びかける名前が8人分ならば、この島に居る大島の手下を全て捕獲したということになる。
 もしも多かったら、俺が見落としたということになるが、島全体が広域マップ上表示可能域になっているので、それはありえない。
 そして、もしも呼びかける名前の数が8より少ない場合は、大島達の薄情さに涙するべきか、それとも「8人目って誰?」というミステリーかホラーな展開になってしまう……というのは嘘で、単に苗字が被ってる奴がいるってだけだろう。

「……呼びかけていた名前の人数は8人だな」
「その8人に何が起きたんだと思う?」
 俺の呟きに櫛木田が被せる様に尋ねて来る。こいつも不安なようだ。
「先ほどの爆発音したような音からして、用意していた爆発物を誤って……という可能性しか思い浮かばないな」
「それってまさか?」
「死んだと考えるべきだろうね。未だに呼びかけ続けてるって事は、誰も呼びかけに応えてないって事だろうから……」
 紫村の言葉に部員達は水を打ったように静まり返る。8人の生き死には中学生には辛い話だ。

「ほら、これからどうなるか分からん、いつ飯が食えるかも分からないから、取りあえずこれを腹に入れておけ」
 俺は自分の荷物の中から取り出す振りをしながら【所持アイテム】から取り出した10秒飯を部員達に投げて渡していく。
 そして、最後の2つを内、1つを紫村に投げながら「猟師小屋に行って無線を探して古瀬さんへ連絡を入れた方が良くないか?」と話しかけた。
「……そうだね、先生達も連絡していた暇は無かっただろうから、こちらでやっておいた方が良さそうだね」
「櫛木田、下級生達を見ていてくれ」
「分かった。頼んだぞ」

「高城君。大島先生の問いかけに対して君が答えなかったのはミスだと思うんだけど」
 猟師小屋へ向かう途中、紫村がそう切り出してきた……気づかれたか。
「どうしてそう思う?」
「君が何かが爆発したと叫んだ時、君は寝袋から出ていたからね」
 やっぱりか、別に手間を惜しんだ訳じゃなくて、タイミング的に寝袋を装備すれば、俺は寝袋を着た状態に一瞬でなることが出来たが、地面に寝転がるのは無理だった。すると寝袋を着たまま立っているという不自然な状況になるので、それならば脱いで立っている方がまだ自然だろうと判断した結果だが、紫村の前ではどちらにしても無駄だったと言う事だな。
「さすがだな。今回の騒動は俺が引き起こしたのを認めるよ。だけど誰も死なせてはいない。一ヶ月くらい過ぎて彼らが会社から退職と処理された辺りで発見される事になる」
「ふっふっ……なんらかの事件に巻き込まれたのだから温情をとはならないよね。この島に来た理由が理由だから……」
 楽しげに肩を震わせながら笑う。紫村にしても同情の余地は全く無いようだ。
「でもどうやったのか、流石に興味がありすぎて困るよ」
「悪いな」
「自分から言い出したんだから、話しくれるのを待つよ」
「本当に悪いな」

 そんな事を話しながら猟師小屋の中へ入る。
 猟師小屋の中には、大島達の荷物と食料。そして2台のノートPCと発電機があったが──
「無いようだね……」
「無いな」
 慌てて洞窟の中にあった荷物を確認するがやはり無線機は無かった。一瞬、無線機かと思うような古いSFに出てきそうな機械があったがソニー製の短波ラジオだった。更に広域マップで全島を『無線機』で探すが見つからない……つまり、最初からこの島には無線機は無かった?
「ほ、ほら衛星電話とかがあるから……」
 紫村にも焦りが見えた。大島を焦らせる紫村も凄いが、紫村を焦らせる大島も凄いという事だな。ちなみに『無線電話』でも探したが見つからない……あれ? 衛星電話ってもしかして昨日のは──
「なあ紫村。衛星電話ってでかいアンテナの付いた厳ついトランシーバーみたいな形をしてて、スマホみたいな形のなんて無いよな?」
「……確か去年の秋くらいにiPhoneにちょっと大きなケースというかコンパクトなクレードルみたいなのを装着すると衛星電話として使えるという製品が発売されてたと思うよ」
 もしかして……あれって……違う。奴は本当に外部との連絡手段を用意していなかった……ということにしよう。あのスマホはiPhoneじゃなかった。そうに違いない。
 多分、大島としては最終的に洞窟の中に篭れば大丈夫という考えだったのだろうが、それを俺が破壊してしまった……本当に、本当に不幸な行き違いである。

『……とても大きな勢力を持つ台風6号は、勢力と速度を増しながら日本列島の南側を東北東へ向けて進んでいます。漁業関係者は海域から退避するように警報が発令されています……繰り返します──』
 紫村が操作する短波ラジオからやばい情報が流れてくる。
「紫村?」
「ちょっと待って! 今はラジオの情報が先だよ」
「分かった。情報収集は任せる。俺は今から台風に備える準備を始める」
「頼むよ!」
 猟師小屋を出ると空が少し白んできていた。大変な一日が始まりそうだ。


「1年生。悪いが今から流木を集めてきて欲しい。長くて厚さが1cm以上あり腐ってない板材を出来るだけ多く集めて欲しい」
「分かりました」
「それから3年生には設営ポイントを探してもらうから、これを見てくれ」
 そう言いながら、砂の上に大雑把なこの島の地図を書く。
「島は、この長い方向に沿って背骨のように山になっているから、これを風除けにする必要がある。予想される台風の進路では島の北側を通過するので、まずは南南東からの風が吹いてきて、次第に暴風圏へと入り風力を増しながら南、そして西からへと向きを変えて行く。そして一番台風の目が接近して1番の強風がこの島を襲う時点で吹く風はほぼ西からの風になる。その後は風は北向きへと変わりながら弱まっていくのが予想される。つまり島の山を挟んだ北東側のポイントにキャンプ地を設営するのが良いと思う」
 北東側なら、台風通過の序盤から一番風が強まる時点を含めて山が風除けになってくれて、風をまともに受ける時点では風は弱まり始めているという考えだ。しかし──
「ここじゃ駄目なのか?」
 この様な残念な意見が出たのは遺憾である。
「……お前が、ここで死にたいなら止めないが、お前の自殺に付き合うつもりも後輩達を巻き込ませるのを認める気もないぞ」
「伴尾君。台風6号は観測史上最大級の上に、明日からは中潮だけど今晩までは高潮という状況に台風の高波が押し寄せると、この辺の浜辺は完全に波に飲み込まれるから確実に死ねると思うよ」
 俺と紫村の脅迫めいた言葉に伴尾は「さてと設営ポイント探しを頑張るか!」と大声で気合を入れた。

「まず周囲に多くの木が生えていて地盤がしっかりしている、比較的傾斜のなだらかな場所で、近くに崩れやすい急な斜面などが無いことが望ましい。広さは6張りのテントが密集して配置できる広さだから。余裕を見て半径3.5m程度を確保出来る場所が良い。それとその中央に1本木が生えているとなお良しだ」
「木か、落雷の心配はどうなんだ?」
「雷は高い場所に落ちる。これだけ狭い島だから、頂上付近の木に落ちる可能性が高い。それでも心配ならキャンプ地の周辺の木を途中で切って低くすれば良い。どうせワイヤーソーは全員持ってきてるんだろう?」
「当然だ。しかし最初の頃は買ったは良いけど使いこなせ無かったよな」
「1年の夏合宿の時だろ? 細い枝くらいしか切れなくて、想像以上の使えなさに泣けたな」
「それで紫村が調べてくれたおかげで、冬合宿で初めて役に立ったよな。太い枝を切り落として、掘った雪穴の天井の梁代わりにして、それで1日耐えたんだよな」
 俺達は1年の時の夏合宿に備えて、ワイヤーソーを皆で購入したのだが、ワイヤーを切断する木の裏側に通して両端のリングに指を掛けて引っ張るようにしてテンションを掛けて、左右の手を交互に前後させるようにして切断するという勘違いしてたお陰で、全く役に立てることが出来なかった。ピンと真っ直ぐに伸ばした状態で対象に押し付けるように左右に引かなければ、木に食い込む部分が長くなり抵抗が強くなってノコギリを引くという動作を妨げ、引くために力を込め過ぎるとワイヤーが切れてしまう。
 つまりテレビなどでたまに目にするワイヤーソーの使い方は基本的に間違っているのだ……だから自分達が間違っていたのも仕方が無いと慰めた。

「下生えはどうする?」
「スコップもあるんだ、掘り返して強引に設営ポイントを造営する。自然相手に綺麗に何も無いなんてそんな都合の良い場所なんてあるはずが無いだろ」
「了解だ。とにかく傾斜や木々の生え方。周囲に危険なポイントが無い。以上の条件で探せばいいんだな?」
「それで頼む」
 俺の指示に従い、1年生と3年生達がそれぞれの作業のために散っていく。

「僕達は何をすれば良いのでしょう?」
 香籐達2年生が尋ねてきた。
「お前達の仕事は、1年生が集めてきた流木とザイルで壁を作るのが仕事だ。設営ポイントが見つかって材料が集まるまではロープワークをいくつか覚えてもらう」
「はい!」
 まずはザイルを取り出して、傍に打ち上げられている適当な流木を使って簾状にするために巻き結びを実演してみせる。
 それからザイルとザイルを繋いで延長するための二重つぎ結び、木と結ぶために通す輪を作るバタフライノットと風を防ぐための壁を作るのに必要なロープワークテクニックを教えていく。
 流石に香籐は物覚えも良い……この何事も卒無くこなし、性格もとても良い香籐が良い子過ぎて心配だ。俺達3年生が卒業した後に、優秀ではあるが心に毒性を持たない彼が、部員達を率いて大島と渡り合えるのか。確かに俺を含めて歴代の主将達が大島と渡り合えた訳ではない。だが歴代の主将は、それぞれが己の心の奥底に秘めた強い毒を用いて、大島という理不尽に対して弱者なりの抵抗を続けてきた。それが空手部の伝統である。
 はっきり言って香籐は、傍に居ると心が晴れるような気のする気持ちの良い奴だ。だが今後の彼と空手部のためにも今回の合宿が、彼の心に何か強い毒のある武器を宿すきっかけになればいいのだがと思う。
「ロープワークを覚えたものは反復練習。まだ分からない者は香籐に教われ。俺よりも教え方が上手いはずだ。それからロープワークは忘れないように時々練習しておいて、時間があったら1年生にも教えておけよ。覚えておいても得にはならないかもしれないが損にはならない。そして覚えていた事が得になる場合は生死を左右するかもしれないからな」
 ……空手部においてはな。


「お前ら何をしている! 高城、1年生と3年生は何処に行った!」
「8人もの人間に重大な問題が起きた非常事態なのに外部との連絡手段が無いようですから、我々は自分達が生き残るために必要な作業を開始してます」
「何だとぉ!」
「それとも携帯用の衛星電話でも持っていて、古瀬さんとは連絡が済んでいるのでしょうか?」
「んなもんねぇ!」
「じゃあ、黙っててください。今ラジオで紫村が確認していますが台風の到達が早まるので、先生と遊んでる暇は無いんです」
「それは本当か?」
「紫村が詳しい情報を確認中です。だから邪魔しないようにお願いしますよ」
「そんなの知らん!」
 無視して猟師小屋へと向かおうとする大島に「先生達も早く台風に備えた方がいいんじゃないですか?」と言ってやる。
 これは俺達のことは俺達でやるから、お前達はお前達で勝手に生き残れというメッセージである。
 テントは田村や下級生が用意したテントとは別に清水先輩が6張を用意してくれているので予備はある。あるが貸してやる気は全く無い。
 洞窟を避難場所にするつもりだったのだろうが、既にその洞窟は崩壊し中に用意していた物資も俺の【所持アイテム】の中に入っている。
 この2人が台風如きでどうにかなる事など有り得ないので。精々大変な目に遭って欲しいというささやかな嫌がらせだ。

「それより高城。ちょっと面貸せ」
 一々顔を近づけて凄むなよ。何か願掛けでもしてるのか? 迷惑だからやめろよ。
「何ですか? 遊んでる暇は無いんですよ」
「いいからきやがれ!」
 大島に肩を掴まれて、連れて行かれる。

「お前何をした?」
「何をした? もう少し要点を絞ってから出直してもらえますか?」
「あいつらに何をしたかと言ってるんだ?」
「何とかあいつらとか、いい加減馬鹿を相手にしているみたいで辛いんで、簡潔に質問してもらえませんか?」
「俺の後輩達に何をしたんだと聞いてるんだ!」
「何もしてませんよ、昨晩1人ボコったくらいで他の7人については全く知りませんね」
「おかしいじゃないか、何故8人だと知ってる!」
「何もおかしな事は無いですね。先ほどまで大声で名前を呼んでたじゃないですか、8つの名前なら同じ名前の人間がいなければ8人だって見当は付きますよ……大体、何なんですか? 先ほどの爆発で、その8人が怪我をしたんですか?」
「何故爆発だと決め付けた?」
「あんな地響きや、ドーンドンドッドッドッドッなんて音は爆弾じゃなければ仕掛け花火か、火山の噴火ぐらいしかイメージ出来ませんよ」
「爆弾じゃねぇ。硝煙の臭いも何かが焼け焦げた臭いも何もしない」
「だったらガス爆発かもしれませんね。プロパンガスのカセットじゃなくボンベを幾つか小屋か何かに持ち込んで、それからガスが漏れて爆発した可能性は?」
「ガス爆発程度じゃ、洞窟はあそこまで大きく崩れたりはしねぇ」
 確かに、燃焼速度が火薬に比べればはるかに遅いガスと、入り口が大きく開けたあの洞窟では圧縮率が低くて強力な破壊力は生まれないが──
「洞窟? ならば中でガスボンベ自体が爆発したのでは?」
 それでも所詮はボンベの外殻が耐えられないギリギリの圧力だから、それが開放された程度ではあの洞窟が崩れるとは思えないが、俺は洞窟の事を知らないという体裁を取っているので、そう発言しておいた。
「それでも無理だ。大体洞窟は中から爆発したのではなく上から押し潰されたかのように崩落していた」
「じゃあ、大規模な崩落があの音と振動だという事じゃないんですか?」
「厚さ5mはある岩盤が多寡だか数m程度崩落した程度で、あそこまで細かく砕けるわけがねぇ! 大体だ8人が8人とも見つからないなんて訳があるはずがねぇ! 見張りの引継ぎだって洞窟で交代じゃなく現地で交代だ。洞窟に空になる事はあっても、洞窟に全員が集まることは無い。だったら8人全員どうやって消えたんだ? なぁ高城」
「何か犯人扱いされているようですが、どうやって僕にそんな事が出来るんですか? 単に洞窟を崩落させる確かに出来ないことは無いかもしれないですが、時間も金も準備すらないのにそんな事は出来ません。それに先生のへっぽこな手下達なら1人でいるところを不意打ちすれば、他の奴らに知られずに無力化するのは難しくないですが、そんな都合のいい事を8回も続けろと言われても無理ですね」
「誰もお前1人でとは言っていない。協力者が居るんじゃないのか?」
「協力者? 例えば紫村ですか? 幾ら紫村でも無理ですよ」
 紫村なら大島の手下と一対一なら互角に戦えないことも無いだろうが、それにしても常識的に考えたら無理すぎる。
「いや、部員のことじゃない。それ以外の組織的な協力者が居るんじゃないのか?」
「何の冗談を……いい歳して厨二病ですか? ちょっとそんな人にものを教わっているなんてのは恥ずかしくて嫌ですね」
「誤魔化すな!」
「僕は、行き先も知らされずに船に乗せられてこの島まで来たんですよ。仮に僕がGPSで得た位置情報を衛星電話で、その協力者に知らせていたとしましょう。彼らはその情報を元に、この島までやって来て、見張っていたへっぽこ達に気づかれずに上陸し、彼らを素早く無力化して、洞窟に連れ込み、何らかの手段で洞窟を崩落させて、素早く島から逃走したとしましょう……そんな事が可能な組織って何ですか? その辺のヤクザに出来ることじゃないですよね。僕がCIAの非合法員でCIAの組織力を行使出来るとでも言うのなら可能かもしれませんが、CIAは何の目的でそんな事に協力するんです? 先生の立てた合宿計画を潰す事にそれほどの意味があると本気で考えているんですか? それともそんな事をしてくれそうな暇人集団に心当たりがあるんですか?」
「糞っ! あいつらは生きているんだろうな?」
「はっきり言いましょう。もし僕が今回の首謀者なら彼ら全員を確実に殺します。そこまでやっておきながら、こんな合宿に協力したクソッタレをを生かしておく意味が分からない。だから僕が首謀者じゃないことを神にでも祈っておいてください」
 まあ生かしておくんだけどね。社会的には死んだようなものだけど。
 元々、発覚すれば社会的制裁を受けて当然なことをやっていた訳だから同情する余地は無い。自分達だけが制裁を受けるのが我慢出来なかったら遠慮なく大島も道連れにするが良い。それが世のため人のためだ。



[39807] 第73話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f1efa4d
Date: 2014/12/30 18:55
 櫛木田が探し当てたポイントへと3年生全員で移動する。
 元々俺が広域マップ上で確認した中では、最有力候補地であり俺が上げた設営ポイントの条件は、この場所の事をそのまま読み上げたと言っても過言ではない。
 不安だったのマップ上では詳しく分からない下生えの低木や藪の深さだったが、思ったより状態が良く、他には問題が見つからなかったので此処に決定した。

 『スズメハチ』『毒蛇』等で検索を掛けるがこの島には居ない。しかしハチと蛇なら結構反応があるが、その程度で動揺することは無い……蛇なんて抜け殻だけでも思わず飛びのいてた頃の自分が懐かしい。そんな小さなことに怯えていられたあの頃こそが幸せだったんだと。

 1年生が運び込んできた流木を長さによって分けて積み上げていき、2年生と3年生がテントを設営する場所の下生えの木や草をスコップのエッジで刈り取っていく中で、俺はどの木と木の間に壁を作るかを考えて、決まった木と木の間にザイルを張っていく縄張り作業をする。
 風に対してただ平面を作って抵抗するのではなく、上から見ると中心部分の無い渦状に配して風を受け流すよう考えて縄張りを施していく。

 縄張りを終えると時刻は9時近くになっている。他の部員達の作業はまだ続いていたが、5時前に軽く腹に入れただけなので、しっかりと腹に飯を入れておかなければ、今後の作業に影響が出そうだ。
「よし、作業を中断して朝飯にするぞ」
 最悪の場合を考えて、台風が来る前後を含めた全日程分以上の水と食料は用意してある。
 ダンボールから直径40cmの大鍋を取り出してポリタンクから水を注いで、カセットガスバーナーに乗せて火をつけ──
「主将、後は我々にお任せください」
 中元が俺の手首を掴んで止める。
「あちらで座ってお待ちください」
 既に折りたたみ椅子を用意してある。
「いや、これくらいは俺が──」
「黙って座ってろ!」
 田村。お前まで俺の料理を邪魔しようというのか? たまには食材の下処理ではなく、あ、味付けとかさ華のある役割を俺に……
「高城君。台風の進路と今後のスケジュールについて話があるんだけど、時間を貰えないかな?」
「俺も、この後の作業について聞きたいことがあるんだ」
 紫村、櫛木田。こいつら嘘を吐いている。そうまでしてまで俺に料理をさせないつもりか? 分かってるよ俺だって、どうせなら美味い飯を食いたいよ。大人しくしてれば良いんでしょう?

 食事は、俺が手を出さなかったお陰だと思うと悔しいが美味かった。
 メニューは男らしく単品完全食の野菜たっぷりの雑煮……餅という食品はパック詰めされてるのは長期保存が可能であり、水を使わず火だけで食べられる状態にすることの出来る食材なので、登山用などの食料としてもっと注目を集めても良い様な気がする。
 日持ちのする牛蒡、ニンジン、キャベツ、大根、ジャガイモを適当というよりも大雑把に切ってぶち込んで、かつお風味調味料と味噌味に仕上げただけの、実に男らしく完成度の低い料理ではあるが逆にそれゆえの醍醐味を感じさせてくれる。しかしそんな料理にすら参加出来ない自分が切ない……どうしてレベルアップで料理の腕前が上がらないんだろう?
「高城。お前は料理をしなかったんだから洗い物と後片付けくらいやっておけ」
 ついには下処理どころか後始末要員に降格だよ。料理の腕を上げる必要があるというのに、その機会すら与えられないなんて……


 食後は、1年生達は砂浜で土嚢袋に砂を詰め、出来た土嚢をキャンプ地に運び込むというトレーニングを兼ねた力作業に取り掛かり、2年生達は引き続きテントの設営地点の整地。
 そして3年生達は俺がザイルを結びつけた木にのぼり、3mほどの高さで幹ごと切り落とす作業に取り掛かっている。
 先に述べた落雷対策と、そして枝葉の茂る木の上部を切り落とすことで風への抵抗を減らし木が倒れるのを防ぐのが目的だ……自然破壊? 知った事か。

 流石に枝程度の太さを切るのと違って、直径20cm以上はある木の幹を切るのは大変だ。しかも樹上での作業なのでワイヤーソーを普通に扱うのは無理である。
 そこで、直径2cmくらいの枝をワイヤーソーの全長より7-8cmほど短く切り。その両端にワイヤーソーの端に付いたリングを、枝をしならせながら引っ掛けるようにして弓状のノコギリを作り上げる。
 勿論普通のノコギリに比べると強度も低く、勢い良く切れる訳ではないので、木に押し付ける力は極力弱く、そして左右に引く速度は極力速く時間を掛けて切断するしかない……出来ることなら部員全員を眠らせて収納し、その間に収納と装備を使って、とっとと全ての木を切ってしまいたい。

「主将。土嚢は何処におけば良いでしょうか?」
 新居の声に下を見下ろすと整地作業は全て完了しており、そこへ100個の土嚢が積み上げられていた。
「おう、ちょっと待て」
 そう言って簡易ノコギリから手を離して地面に落とすと、2/3ほど入った切れ目の上を両手で抱え込み、切れ目の下は両脚で締め上げる。
「おりゃあぁぁぁぁっ!」
 叫び声を上げながら上体を後ろに反らせていくと、木の幹は悲鳴を上げ始め、更に力を込めて上体を反らすとバキッという決定的な音を立てると同時に抵抗を止めて倒れた。
「凄い……」
「な、何て力技を……」
 上体を仰け反らせ、幹に回した両脚だけで身体を支える俺の耳に下級生の驚きの声が届く。
「あれは……」
「……まるで大島先生」
 その声を聞いた途端、身体から力が抜けて木から落ちた……俺のアイデンティティーが真っ二つだよ。


「1年生は土嚢はテントを設営する場所を囲むように積み上げて、斜面の下側を空けて水を流せるように並べてくれ。2年生は流木とザイルで壁を作る。俺が実際に手本を示すからそれを見てしっかり覚えるように。それから3年生は雨を集めて水を貯めれるようなものを作るように」
「ちょっと待て、何で俺達への指示がざっくりとしたものなんだ?」
 田村が言い募る。
「後輩でも何でもないお前達に一々細かい指示はしないから勝手に考えろよ」
 はっきり言って難易度は高い。
 単に雨粒を集めれば良いのであれば簡単だが、強力な台風がやってくる状況では本やネットで紹介されるような常識的なアイデアはまるで通用しない。水を集める能力だけではなく暴風に耐えられる構造を持たなければ話にもならない。
 一番簡単なのは岩の斜面を利用してそこを流れ落ちる水を集めることだ。長い時を風雨に晒された岩壁には雨水が流れる道が出来ているので、そこを流れる水を受け止めて容器へと導くようにすれば良いはずだ。その流れてきた水を容器に集める装置にも丈夫に作る工夫を施す必要があるが、真正面から風を受け止めて水を集める部分の耐久性を考える必要が無いのは大きなメリットといえる。
 当然だが、いざとなったら紫村が居るだろうなんて事は言わない。奴ならば三馬鹿には無理だと判断したら手遅れになる前に、俺よりも良いアイデアを出してくれることだろう……そういえば。
「ちょっと紫村。こっちにきてくれ」
 まだ文句を言う田村を無視して紫村を呼び寄せると、自分の荷物の中から取り出したかのようにノートPCを取り出すして渡す。
「これは?」
「サバイバル関連のサイトをいくつもそのままダウンロードしたデータも入ってるから必要な情報を引き出して使ってくれ。予備バッテリーがこれだ。駆動時間が長いのを用意したから、予備バッテリーも合わせれば、かなり時間使えると思うから役に立ててくれ……それから昨日見回りをした時に見つけた大島の手下のスマホのデータも移しておいたから、個人情報とメールのやり取りから今回の件について大島を追及出来ないか調べておいて欲しい」
「僕で良いのかい?」
「少なくても俺がデータを持ってるよりは良いさ」
「信頼してくれてありがとう」
 性癖を除けば、俺はお前の事を自分以上に信頼しているよ……と言ってやれる事が出来れば紫村は喜ぶだろうか? もし喜ぶとするなら絶対に言ってやらない!

 作業は順調に進み、土嚢を積み終えた1年生達は2年生の作業を手伝いに入り、櫛木田達も水を集める装置を完成させる……腹立つ事に、俺の考えたのとほぼ同じ物を紫村に教えて貰わずに考え付きやがった。三人寄れば文殊の知恵とはいえ、俺ってこいつらと同程度なのか? レベルアップで知能も上がってるはずなのに? 考えると死にたくなる。
 取りあえず、作業を終えた3年生にはテント設営の指示を出した。
「1つ目の条件が、中央の木を囲むように建てるという事。第2に降ってきた雨がスムーズに斜面を下って流れるようにテント床部分四角形の対角線の1本が斜面の勾配に沿っって居る必要があるという事。最後に他のテントへの移動が最短距離で済むように、出入り口が可能な限り中央の木に向けてる事。以上を留意して設営して貰いたい。以上だ……俺は昼飯の準備を始めるので後は任せ──」
 勿論、空手部全員からわりと真剣に説教された。2年生達にも……本気で凹む。


 俺がテント設営作業をしている傍で1年生達が昼食を作っていく。メニューは朝と同じく雑煮なために、作業には迷いが無く手際よく進んでいく……たった一度の経験が、これほどまでに人を成長させるというのなら、俺にもチャンスをくれても良いじゃないか?」
「お前は何度失敗したんだよ?」
 思わず口に出していたようで、田村から突込みが入る。
「……さあ、2回くらい?」
「ふざけてるとぶっ殺すぞこの野郎!」
「……3回?」
「お前が1年の夏合宿から駄目にした食事の回数は2桁に達するんだよ! 何度も何度も同じ様な失敗しては不味い飯を作りやがって!」
「そんなにも? だったら今度こそは成功するかも──」
「そんな奇跡が起きてたまるか!」
「高城よう、そういうのは家で挑戦してもらえないか?」
「家族には迷惑は掛けられない!」
「他人にも迷惑を掛けるな!」
 痺れるような突っ込みをありがとう伴尾。

 昼飯は朝飯と違って味付けがカレーだ。カレーは無敵だね。何に入れてもカレー味になって美味いんだから……もう世の中カレーだけでいいんじゃない?」
「カレーを不味く作れる男が何を言う!」
 な、何を言うんだ櫛木田?
「俺の作ったカレーは不味くは無いよ!」
 そうだ俺の料理にだって成功例が存在する。それがカレーだ。俺はカレーを作るのだけは得意なはずだ。
「お前が勝手に味付けしたカレーが普通に食えたのは、最初からジャワカレーが必要な分しか用意してなかったからだ。お前は3箱分のルーブロックをぶち込んだ後、『もう無いの? これじゃ足りないよ』とふざけた事を抜かしてただろう。あのカレーが美味かったのはお前の手柄じゃない。いいかお前がカレーについて語る権利は何も無い。二度とカレーについて語るな!」
 俺にカレーを語る資格が無い? そんな馬鹿な……
「じゃ、じゃあカレーについて語るライセンスは何処に行けば貰える?」
「お前への発行は国際条約で禁じられている!」
「こ、国際条約? それじゃあ俺がライセンスを取ろうとしたり、ライセンス無しでカレーについて語ると日本が国際的な批難を受けるのか?」
「当然だ!」
 国際問題というスケールの大きさではなく、そうまで言われなければならないと言う事実に俺は恐怖した……ああ、カレー雑煮うめぇ!


 全ての作業が完了した時には13:30を回っていた。
 テントの中心に立つ木にの先端──落雷防止のために高さ3mほどで幹が切り落とされている──から周囲の木の根元に向けて余ったザイルを渡した事で、異様なオブジェにも見えなくないが、風により折れた枝などの飛散物がテントに当たるのを、ザイルがある程度防いでくれるはずだ。
「完成か。しかし、ここまで堅固に設営されたキャンプ地が人類の歴史にあっただろうか?」
 またも櫛木田が大げさなことを言い出す。
「つうか、ここまで準備をしなければならない状況でテントを張ってキャンプしようとする馬鹿が居なかっただけだろ」
 同意だ。つまり俺達が人類初の大馬鹿野郎と言う事でもある。泣けるね。
「だけど、そんな事を言ってられなくなりそうだよ」
「どうした紫村?」
「この台風6号は予定よりも勢力が大きく。この海域への到達も早まりそうなんだ」
 小型の……多分短波ラジオをイヤホンで聴きながら応える。
「どのくらいの勢力に成長した?」
「観測史上最大の勢力。最大級じゃなく最大。最大風速90m……しかもまだ成長しているみたいだね」
 ……はっはっはっ無理だ! 流石にそんなのは想定していない。風速50mが風速90mになるというのは風の強さが8割増しなるという単純なことではなく50の二乗が90の二乗になると言う事だ。つまり風速50mの風に対して3.24倍の強さ。物理学者なら誤差の範囲と言うかもしれないが、明らかに俺の考える安全マージンを楽勝で飛び越えている。
 本来の風速50m程度ならば最終的にテントに【風圧】をかけて、テントに当たる風の圧を下げて破損を防いでも不審に思われることは無いと思っていたが、風速90mではもしもテントが耐えてしまったら明らかにおかしいし、それ以前に【風圧】による圧力減少程度でテントを守りきれるとは思えない。
 最大風速90mって……確かに富士山の頂上で90mを超える強風が観測された記録はあるが、あれは山の斜面に風がぶつかり上へと駆け上がることで風の強さが増した事による強風であり、未だ洋上にある台風6号の最大風速とは混じりッ気無しの本当の台風が起こす風の力だ。
 そんな強力な風は竜巻以外で聞いた事が無い。台風もハリケーンも観測史上最大風速は80m台だ。
 それが風速90mで更に勢力拡大中だって? 何だってこんな時に無人島で合宿なんて馬鹿なことを……

「更に到達予定時刻も早まっているんだ」
 別に紫村が悪いわけじゃないけど、こうも悪い情報ばかりだとイラっとするな。
「どれくらいになる?」
「このままの速度なら16時前には暴風圏に入ってしまうけど、速度は増しているから……」
「15時やそこらには暴風圏に入ってしまうか……」
「それまで残り1時間半ってところだよ」

「しゅ、主将、どうすれば?」
 声を掛けてきた香籐の顔が、人間の力では抗うことの出来ない自然への恐怖に強張っている。他の部員の顔も、紫村でさえも同じだ。
「せっかく準備してもらったのに真に申し訳ないが、これより撤収作業に入る。荷物を出したらテントを畳んでくれ。終わったらザイルを出来る範囲で回収だ。土嚢はそのまま放置で構わない。紫村と櫛木田は、この事を大島に報告して今後の対策を話し合って欲しい。田村と伴尾は撤収作業の指示をしてくれ」
「高城はどうする?」
 こうなったらシステムメニューの事がバレてもやるしかない。流石に部員達の命には代えられないからな。
 こんな時に役に立つのが【巨坑】だ。岩壁に水平に作った直径3m深さ6mの円柱形の空間を複数つなげれば嵐が去るまでの数日間は十分に耐えられるはずだ。
「多分、古瀬さん辺りが台風の状況を知って俺達を回収するために船を出してくれるはずだ。だけど万一のためにちょっとした準備をしておくのさ……後は任せるぞ」
「おいおい、ちょっとしたって何だよ? ちょっとやそっとで何とかなる場合じゃないだろう……まさか、お前……自決用とか?」
「……なあ、やっぱり田村って馬鹿なのか?」
 流石に呆れて櫛木田に振ってみた。
「こいつは昔から馬鹿だが、ここまで馬鹿じゃなかったと思ってたんだが……」
「いや、入学して初めて見た時に『馬鹿だなぁ~こいつ』と思った時から変わらない馬鹿だぞ」
 伴尾よ。俺はそこまで言ってないぞ……だが、田村以外の3年生の意図は理解出来る。
 俺がハッタリでも何か解決策を持っているという態度を取り続ける事でパニックを抑えようとしていると思っているのだろう。
 そして、それを察することの出来ない田村へ、茶化すように馬鹿にしているが本心ではぶん殴ってでも黙らせたい心境だろう。

「じゃあ高城は何をするってんだよ!」
 田村がむきになってなって聞いてくるが、そう簡単に教えるたっていうの。
「もし他に打つ手が無くなったら教えてやるから、驚いて座り小便漏らすために今の内に水分貯めておけ」
「ハッタリだったら血の小便を漏らすまで殴ってやるよ!」
 何とか舌鉾をかわそうとする俺だが、田村がしつこく食い下がる。これでは下級生達にも動揺が広がってしまうだろうに……
「田村。ちょっと顔貸せ」
「何だ?」
「良いから、ちょっと来い」
 田村の肩を伴尾と櫛木田が掴むとそのまま、引きずっていく。
 暫くして、遠くで田村の悲鳴が聞こえたが気のせいだろう。

「高城君。こちらのことは僕達に任せてくれれば良いよ……だから後の事はお願いするよ」
 どこまで分かっているのかは知らないが、この状況を何とか出来る力がある事を半信半疑くらいには思っているようだ……普通は、この台風を前にそんな事は思わないだろう。本当に油断出来ない奴だ。

 皆と別れた俺は、1人キャンプ地を離れると周辺マップで誰も後ろを追って来てない事を確認しながら斜面を登り、尾根の反対側へと移動すると、崖崩れなどで入り口が塞がれる心配の少ない風化による侵食の少なそうな岩壁にたどり着くと、地面から1mほどの高さで、水平方向に【大坑】を発動して、直径1m深さ2mの横穴を作り出す。
 その横穴に這うような形で入り込むと、更に【大坑】を発動して穴の深さを4mにする。ここまでが入り口だ。
 穴の置くまで進むと今度は【巨坑】を使って直径3m深さ6mの円柱形の横穴で住居スペースを作成する。
「18人で使うには狭いな……」
 大島と早乙女さんは、この期に及んでも計算に入れる気にはならない。大丈夫だと思うし万一の事があったなら運が悪かったと諦めよう。

 更に2度【巨坑】を使って空間を広げて作業は終了した。
 この空間ならば島ごとぶっ壊すよな台風でもない限り、問題なくやり過ごすことが出来るはずだ。
 入り口の穴を抜けて外に出ると【所持アイテム】の中から【大坑】で繰り抜いた岩の円柱を元の位置に戻す……簡単なことではない。
 円柱の重さは約4tに達する。それを穴の縁に端を載せるように出現させて、穴の中に押し込める必要があるのだ。現在レベル54に達している俺の筋力は、レベル1当時に比べると筋力全体の平均値は約28倍の強化を受けているが、単純に28で割っても140kg相当の物体を持ち上げて穴に押し込むということになる。幾らレベルアップの補正無しで背筋力が300kgに迫る俺とはいえ……意外に何とかなってしまった。どうやら元々普通の人間じゃなかったのかもしれない。
「ちょっとズレてるな」
 そうなると職人気質を発揮し、多少のズレでも納得出来ずに数回収納を繰り返して、ちょっと見ただけでは分からないくらいに元通りの位置に戻す事に成功した……時間は掛かったが、この穴を使わずに済むのなら、この存在に気づかれないようにしておく必要があるので仕方なかった。

 いざとなったら、この穴を円柱を取り除き皆を中に入れた後、入り口の穴を最低限の空気穴の分を残して土嚢で塞げば良い。
 水も、開き直って水球で出せば問題は無いが……トイレどうしよう? 外に出て用をたすのは不味いだろう。風速90mでは確実に命に関わる。つまりこの中ですることになるわけだが18人で最低2日間。駄目だ耐えられない。
 もっと中の穴を拡張して、居住スペースから離れた場所にトイレ用のスペースを確保して……駄目だ結局空気の逃げ道は入り口だけだから居住スペースに広がってしまう。
 そうだ。居住スペースと繋がる通路を【大坑】の横穴にして、普段は土嚢で塞いでおく……そんな事をしたら中は地獄だな。篭った臭いが目に滲みるレベルになるだろう。
 竪穴に砂を流し込んでおき、用を足す度に上から砂を被せる。猫のトイレ式を採用するべきか……それでもやはり臭いはきつい筈だ。どうする? どうすれば良いんだ?
 ……人間は、目の前に迫った一番重大である生命の危機の問題が片付くと、重要性の低い瑣末な問題が妙に気になるものである。

 とりあえずトイレの問題を棚上げにして、キャンプ地に戻ると紫村と櫛木田が戻ってきていた。
「向こうはどうだった?」
「流石に手の打ちようが無いみたいだね」
「だが『俺達だけなら何とでもなるが』とか余裕の発言もしてたな」
 本当に人類か? 今の俺ですらシェルター無しの状態では、強風で飛ばされて沖に流される可能性は十分にある。そうなれば幾ら力があっても燃費の悪いこの身体だから【所持アイテム】内の食料が尽きる前に陸地にたどり着けなければ命は助からない……まあ、ワールドマップで自分の位置も大陸や大きな島の海岸線が分かる。そして空中用の足場となるモノも手に入ったので何とかなると確信してはいるが、それでも絶対にそんな目には遭いたくない。
 正直、2人がどうやって『何とか』するのか見てみたくもある。


 撤収準備を終えた頃には南東からの強い風が木の枝を強く揺さぶるようになってきた。
「高城君……」
 紫村が俺に決断を促すように囁く。
 時刻は14:27、タイムリミットが近づいてきている。
 遠くの空に雷光が走る……そうだな、そろそろ腹をくくろう。
「移動する。荷物を持って俺について来い!」
 決まった! 恐ろしいまでに決まった。部員達の命運を握る主将たる俺がついに決断を下し立ち上がるのだ。燃える。燃える展開だ! 俺は俺は今、猛れ──
「お前ら船が来たぞ! 今すぐ浜に向かって移動しろ! 時間が無いから急げ。不要なモノは置いて行け!」
 そう叫びながら大島が走って来た。
 俺の一世一代の見せ場が……ま、まあいいよ。これでシステムメニューのことを部員達にバラさなくて済んだのだから……これがベストだよな……良かった良かった……全然、悔しくなんて無いから……さ。

「荷物が邪魔なら捨てろ。だが食料と水だけは捨てるな! 島を出たら台風を避けて南に移動して、そこでやり過ごすだろう」
 浜へと向かって走りながら大島が指示を出す。吹き付ける風には既に雨が混じっていて、叩きつけられる雨粒が痛いくらいだ。
「台風を回り込んで関西方面の港には行かないんですか?」
「あの馬鹿っ速いのが取り得の船じゃ、そこまで燃料が持つはずがねぇ。諦めて海の上で待機だ」
 島行きの時に、エンジンを改造して1500馬力にパワーアップしたとか自慢してたからな……やっぱり燃費悪いのだろう。

「香籐。ポリタンクを寄越せ!」
「す、すみません」
 1年生の負担を減らそうと荷物を担ぎ過ぎて、遅れて俺の位置する後方に来た香籐から水の入ったポリタンクを奪う。
「残念だな。高城君の秘密の一端が見られたかもしれなかったのに……」
 同じくポリタンク右手に持ってすぐ横を走る紫村に何か言い返してやろうと思った次の瞬間。前方に強い白い光が生まれると同時に部員達を飲み込んでいく。
「止まれ!」
 叫びながら前を走る香籐の肩を掴んで引き寄せる。

 光が消えた後には大島や部員達の姿は無かった。
「な、何が?」
「これは……一体?」
 他人が先に驚くと逆に落ち着くと言うが奴がいるが、驚きが大きすぎればやはり驚くしかない。
 ……どういうことだ? ここは現実世界だろ。ファンタジーな異世界なんかじゃない。今目の前で起きた事には明確な答えがあるはずだ。
 突然現れた白い光とともに16人の人間が消えた。光が視界を塞いだのは長かったようにも感じたが実際は3秒程度だろう。僅か3秒で16人の人間が目の前から消える。イリュージョンショーの類ならもっと派手に大きなものを一瞬で消してみせるかもしれないが、それを成し遂げるためには、騙される人間以外は全員スタッフまたは協力者という体制が必要になる。そうそうたまにテレビ番組でイリュージョンをやってみせるのがあるが、あれは何のことは無い撮影スタッフも含めて全員が仕掛け人という状況でありイリュージョンと呼ぶ事も憚られる出しものに過ぎない──「主将!」
 驚きの余り現実逃避に入っていた俺を香籐の悲鳴にも似た声が呼び覚ます。
 気づけば目の前が真っ白で何も見えない……そうだ、これはただの光なんかじゃない。何処からか照らされている光ではなく、それ自体が光る霧のようなものに覆われているかのような……そうか俺達も、皆のように…………ああ意識までも光に飲み込まれていくように消えて……いく。



[39807] 第74話
Name: TKZ◆504ce643 ID:63b95610
Date: 2014/12/30 18:56
 気づけば地面に倒れていた。
 仰向けのまま、木々の間から覗く空を見上げる……空が青い
 雨も風も無い。まるで台風が接近しているような気配を感じることが出来ない。
 何処だ此処は 先ほどまでいた島の林の中とは違って木々の濃さがまるで違う。それに潮の臭いがしない。
「馬鹿な……」
 頭の中に重たいものでも入っているかのような不快感に耐えながら上体を起こしてみると傍に紫村と香籐が倒れている。
「おい、大丈夫か 紫村 香籐」
 声を掛けるが返事は無い。立ち眩みのようなモノを感じながらもゆっくりと立ち上がり、3mほどの距離の香籐の元に駆け寄り、再び声を掛ける……返事は無い。
 頚動脈の辺りに指を添えて脈を取る……脈はある。次いで口元に手をかざすと呼吸する空気の流れを感じた。
 香籐のチェックを終えると、少し離れた位置にいる紫村の元に駆け寄り、同様にチェックすると脈と呼吸は確認出来た。
「おい 紫村 シムラーっ」
 耳元で大声で呼びかけると、眉を顰めて「うぅ……」と苦しそうな声を出す。
「シィムゥラァァァァッ」
 更に大声を出して呼びかけると「耳が痛いから止めてくれないか」と言う返事が返ってきた。
「……うぅ、何だろう頭が重いよ……」
 額を抑えながら上半身を起こそうとするが、かなり辛そうなので、背中に腕を回して上体を起こすのを手伝う。
「大丈夫か」
「高城君が優しくしてくれるなら、僕は大丈夫じゃなくても良いよ」
 俺は無視して香籐の元へと駆け寄る。後ろで紫村が何か言っているような気もするが聞こえない。聞こえないったら聞こえない。

 香籐は紫村を起こした時の大声のせいか、既に目を覚ましていた。
「香籐大丈夫か」
「……は、はい。何か頭が痛いというか重いというか……気持ち悪い感じがします」
「それは俺も同じだが、余り気にすると不安になるから忘れろ」

 周辺マップで確認するが、周囲には大島や他の部員たちの反応は一切無い。広域マップに切り替えて範囲を広げるが周辺マップの半径100mほどの範囲以外は何も表示されていない。ワールドマップに切り替えると『現在、この世界のワールドマップは対応していません』とアナウンスされる。
 この世界だと つまりここは、現実世界でも何時もの夢の中の異世界でも無いということか……そんな馬鹿なことが……いや、システムメニューを手に入れてからは馬鹿なことばかりだ。
 受け入れるしかない。此処が現実でも夢の中の異世界でもない第3の世界だと……納得は出来ないが。
 【所持アイテム】を確認してみようとシステムメニューを開く……何かが変だ。何だ 何がおかしい
「主将。どうしました」
 ……システムメニューの時間停止が働いていない。
「いや何でもない。ちょっと疲れているんだろう」
 そう応えながら、頭をフル回転で働かせる。
 そうだ。ロードで状況を巻き戻して仕切りなおそう。今朝、起きた直後の状況まで戻ってしまうが仕方が無い……駄目だ。【セーブロード】の項目を選択しようとすると『対象外の世界のために使用出来ません』とアナウンスされる。
 システムメニューを開いた時の時間停止と【セーブロード】が出来ないとなると、パーティーメンバー用のシステムメニューと同じじゃないか しかも、この場合はフルサポートのシステムメニューを使える人間が傍にいて【セーブロード】を実行してくれる訳でもないという状況で、しかも未知なる世界ってのはかなり不味いな……そういえば、俺は【所持アイテム】を確認しようとしていたんだ。
 【所持アイテム】を開いてみる……ある。俺が現実世界で放り込んでおいた荷物が全てリストアップされている。不幸中の幸いと言うべきか、とりあえず暫くは食料には困らない。困らないが10秒飯と帽有名ブロック上の固形栄養食だけだがな。

「主将。ここは何処なんでしょう 少なくてもあの島じゃないですよね」
「まず海の臭いがしないから島じゃない。空が晴れていて、雨も風も無いことから九州、四国、本州じゃないだろう。それから時計を確認してみろ」
「14時……45分 5月3日の……」
「俺の携帯の時刻も同じだ。紫村のもそうだろう」
「そうだよ。これが僕らをさらって此処まで連れて来た誰かが細工をしたのではないとしたら……」
「僅か数分間の空白の時間に島から俺達を運び出して、台風の影響を受けない数百kmは離れた場所に連れて来たことになる」
「そんな馬鹿な事が」
「落ち着け。慌てても何も状況は好転しない。あくまでも携帯の時刻設定が操作されていなかった場合の話だ。紫村ラジオを確認してもらえるか」
「そうか、短波ラジオなら放送される言語が分かれば、その受信感度から現在位置を知る目安になるかもしれないね」
 そんな意味で俺はラジオを確認して欲しいと言った訳じゃないんだが……
 荷物の中からジップロックに入ったラジオを取り出すと、電源を入れてイヤホンを耳に装着する。
「……えっ ……そんな」
 ラジオ側面のチューナーのダイヤルノブを回しながら焦ったように呟きを漏らす。そりゃあそうだろう。どういう世界かは知らないが異世界なんだ。もしもラジオ電波を拾えたとしても何の言葉かは絶対に判るはずがない。

「分かった事を説明するよ。このラジオではFMもAMも短波も長波も全て受信出来なかった。このラジオが壊れているか、この辺一体が何らかの手段で電波を妨害されているか、もしくはラジオ放送が行われていないかの3通りの状況のどれかだと思う」
「一番可能性が高いのはラジオが壊れたと考えるべきだな」
「そうだね。ラジオの受信に妨害を掛けるとしても、各ラジオの帯域に強力な妨害電波を流して本来の放送電波を受信出来なくする妨害か、電波自体を遮断する方法があるけど、電波の遮断は建物の中に電波が入らないようにするものであって、こんな開けた屋外では無理なはずで、妨害電波を流す方法だと、ラジオは妨害電波を受信するからチューニングメーターに当たりが出るんだけど、今回は全く当たりがなかった。僕もそんなに詳しいわけじゃないから他に方法が無いとは断言出来ないけど可能性として低いと思う。そして最後の全ての局でラジオ放送の停波は絶対に有り得ないと断言出来る。だから、ラジオが壊れているとしか考えられない。少し前まで問題なかったから可能性としては低いし納得も出来ないのだけど、それしかないよね」
 うん事実は、そのどれでもないんだけどね。
「でも僕達を此処に連れて来た奴らが、時計の時間をずらしたみたいにラジオも壊したというなら説明がつきますよね」
「違うんだよ香籐君。考えてみて欲しい。何故時計の時間をずらす必要があるんだい 何故ラジオを壊す必要があるんだい」
「それは、僕達が情報を得る手段を奪うためではないのですか」
「情報を得る手段を奪うためなら、携帯やスマホ、それにラジオをを取り上げてしまえば良いんだよ。何もわざわざ一つ一つ時間をずらしたり、袋に入れてあるラジオの外側に傷をつけずにチューナーだけを壊すなんて方法をとる必要なんて無いとは思わないかな」
「……そうですね」
「それにこいつを見てみろ」
 俺は自分の背負っているバッグからレインウェアを取り出して香籐に差し出す。
「胸のファスナーのスライダーの引っ張る部分の金具は時計になっているんだが、そいつまで時間がずらしてある。普通そこまで気づくと思うかな」
 紫村は気付きつつあるようだが、香籐もいい加減気付いて欲しい。誰も時計の時間をずらしてなんていない。そしてラジオは壊れてなんていない。たった数分間の空白の間に、俺達はそれまでいた島を離れて、ラジオ放送の電波が飛び交うことの無い場所に来ていると……はっきり言って「ここは異世界なんだ」なんて自分から切り出すのは嫌だ。残念そうな顔で大丈夫か聞いてくる2人の顔が目に浮かぶ。ここは俺からじゃなく奴らの方から気不味そうな顔で切り出してもらいたいのだが──

「あっ」
 思わず声が飛び出る。周辺マップに赤シンボルが登場して、真っ直ぐこちらに向かって来る。
 何故だろう。この深い森と言う地理的状況から100m離れた位置から視覚的に捉えるのは例え上空からだったとしても、数千mの高度からではないと木々に遮られるだろうし、遮られない高さからは俺達の姿を捉えるのは無理だろうし、そもそも周辺マップでは高度100m以上の存在には反応しない。むしろ目で見える範囲を表示することの出来る広域マップの方が役に立つ。
 一番怪しいのは音だな。紫村を起こすのに大声で叫んだからな……だが叫び声を上げてから既に数分経過しているから、今のタイミングで赤シンボルの状態で現れたと言うことは、周辺マップの表示範囲の100mではなくもっと遠い場所から俺の声を捉え、障害物の多い森の中で正確な位置を突き止めた事になる。
 まあ、細かい事はどうでも良い。問題は人間の声を聞いただけで襲いに来るほど危険で、更に現実世界の生き物を超えるような聴覚を持っている生き物が存在する世界と言うことだ……多分ファンタジー世界だ。しかも有難くない事にほのぼの系ではないファンタジー世界だ。今のところは危険なファンタジー世界率100%だ。きっとほのぼの系のファンタジー世界なんて存在自体がファンタジーなのだろう。

「高城君」
「主将」
 俺の声に2人が反応する。
「紫村。お前が見たがっていた俺を見せてやる」
「えっ そんないきなり言われても……ドキドキするよ」
「違う 断じてそんな方向の話じゃない」
 何を言っているんだこのホモめ ……子供が見てるんですよ
 率直さが評価されるのは人として善良な部分であって、性癖に率直さが求められるのは修学旅行の夜の猥談だけだ。しかもお前は関係者以外立ち入り禁止だ
「冗談だよ」
「紫村先輩。全く冗談に聞こえませんよ」
 一瞬で3mほど飛びのいた香籐が抗議する。香籐……逃げずに助けろ。

「まあ良い。少し隠れていろ。もし俺に何かあったら、逃げろ。どんな方法を使っても生き延びろ」
「そこまで危険なのかい」
「いや、どんな相手かは分からない。何か敵意を持った存在がこちらに迫ってくる事しか分からない」
「敵意ね……便利そうだね。僕も欲しいな。そんな力が」
「欲しいか 後悔して泣かないと約束するなら、後でくれてやるよ」
 別に泣いて後悔するような類のものじゃないが、いや最近のトラブル率の高さ、それに今回の件もシステムメニューの影響だとするならば……泣けてくるな。
「嫌だな怖がらせないでよ」
 そんな嬉しそうに言われても言葉に説得力が無いぞ。
「あ、あの……何の話をしているんですか」
「これから高城君が好いモノを見せてくれるんだよ」
 飛ばしすぎだ お願いだから、言葉に卑猥な響きを持ち込まないで 香籐は一瞬で5mを飛び退き木の陰に隠れてしまった。

「そろそろ来るから、お前も身を隠せ」
「分かったけど、危ないようなら手を出すよ」
「だから、その時は逃げろよ……」
 心意気は買うし実に有難い。だが今の状態では、俺が危ない目に遭うような相手には手出ししようとも思わなくなるはずだ。その計算が出来るからこそ、もしもの時には香籐を守って逃げ切ってくれると信頼することが出来る。

「……残り30m。もうじき姿を現すから、俺が倒すか、俺が倒されて逃げると判断するまでは動かず音を立てるな」
 ……残り20m。鬼が出るか蛇が出るか 鬼ならオーガは楽勝だけど、蛇は余り好きじゃない。それならいっそ龍が良い……嘘です。
「……残り10m。来る」

『????綣障?渇綣障が現れました』
 文字化けしてる
「畜生 何だよこいつは」
 目の前に現れた存在は、形状からして完全に予想の範囲をピョンっと飛び越えて、空の彼方に消えて行ったって感じの代物だ。
 一言で表現するならでっかい水晶球で、どう見たって生き物じゃない直径2m以上はある透明な球が1m位の高さを浮きながら滑るように迫ってくる。
 更に球体の上部と下部にはそれぞれ金属製で直径50cm、厚さ10cm程度の円盤状のモノがあり、その円盤の側面には長さ5cm程度のラジオのアンテナのような突起物がズラリと並んでいる。
 正直なところ、相手の戦力が全く読めない。手も足が無ければ、目も口も何も無い球体で、そんな形状からどんな攻撃をしてくるのかだが、当然、接近戦は出来そうもないので普通なら遠距離攻撃タイプと考えるべきだが、何故かこの距離で仕掛けてこない。何をしてくるのか全く想像がつかない。むしろ想像がつかない事に、俺って正常だなと安心を覚えるほどだ。

 そんな状況で打っておくべき行動は、相手の戦力の確認を確認すること、つまり遠距離からチクチクと攻撃を仕掛けて相手の出方を伺うべきだが、ここは異世界だけど、いつもの異世界じゃないのでクロスボウは【所持アイテム】内にはない。だが現実世界の方の【所持アイテム】内にはこいつが有った。
「とかれふ」
 右手に出現したトカレフのスライドを引いてから放し、薬室内に7.62x25mmのトカレフ弾を送り込んで、腕を伸ばして照門と照星の延長線上にお化け水晶球を捉える。
 映画なら、素人が引き金を引いて「あれ どうして 何で弾が出ない」とパニックに陥るところだが、トカレフさんは安全装置が無いから素人の俺をパニックに陥らせることが無い素敵な親切設計だ……すぐに撃てるように予め薬室に弾を送り込み、撃鉄を上げて安全装置を掛けておくようなプロには決してお勧め出来ない逸品だ。

「タマ取ったる 玉だけに」
 立て続けに引き金を4度引く。ダブルタップなんて人間用の撃ち方じゃなく化け物用だ。たっぷりサービスしてやるから受け取れ。
 4発のトカレフ弾はお化け水晶球の中心付近に横方向に並ぶように次々と着弾すると、その傷一つ無い完璧と言う言葉通りの身体に醜いひび割れを刻む……俺の腕力は発射時の反動による銃身の跳ね上がりをほぼ制する事が出来るが、何せ素人なのでトリガーを引く度に、銃身を横に振ってしまうのだった。
 お化け水晶球は着弾の度に一瞬強く発光する……衝撃を受けて光るって圧電体 本気でこいつは水晶球なのか

「んな事どうでも良いか もう1回食らっとけ」
 再び引き金を引いて薬室内の1発と弾倉の中の残り3発全てを撃ち込む。
 8発の安物鉄心弾は持ち前の貫通力の高さを発揮して、こちらに向けた面の中心部分が粉々に砕けて、破片を地面の上にばら撒きながら前進を止める……本体の発光に破片がキラキラと輝きながら飛び散る様は、こんな時にも関わらず綺麗だとさえ思ってしまう。」

 止めたと言ってもまだ宙に浮いたままであり死んだと言うべきか、それとも活動を停止したと言うべきか分からないが、そんな状況にはまだなっていない。
 ならば俺も手を休めるわけにはいかない。
「証拠隠滅。電子ジャー・グレネード」
 トカレフを収納すると、鈴中の家から回収してきた荷物の中の電子ジャー取り出し全力で投げつける。重さ4kg以上で速度200km/hを優に超える飛翔体の運動エネルギーは弾倉1個分のトカレフの銃弾を軽く超える。
 そんな電子ジャーがお化け水晶球の中心部を捉えると、銃弾が命中した時とは比較にならない雷のような強い火花のような放電を上と下のの円盤のアンテナ……いや電極の間に飛ばしながら中心部の表面が大きく弾け跳び、次の瞬間にキンと甲高い音ともに球体に大きなひび割れが生まれると同時に、先ほど以上の強い放電を連続的に起こしながら地面に落下し、ひびに沿って真っ二つに割れる。一瞬身構えたが爆発も放電も無かったが、『????綣障?渇綣障を倒しました』とアナウンスがあったので死んだのだろう。
 レベルアップはしなかったが、オーガ1体分より多少多めの経験値が入っていた。

 証拠隠滅第2弾。オーブンレンジドライブシュートの出番が無かった……じゃない 一方的に倒してしまったから、奴がどんな攻撃手段を持つのかとか、知りたい情報がほとんど得られなかった。
 唯一手に入ったのは、水晶のような圧電体──クォーツ時計に使われる事で知られる水晶振動子は、電圧を掛けられると発振するが、逆に衝撃などの圧力を受けて変形する際に電圧が発生する──であり、もしかすると雷のような放電現象を攻撃手段にする可能性があることと、物理的な衝撃にはそれほど強くないという点だ。ついでに地面から浮いて移動するので、何らかの物理的現象かファンタジー的な現象を起こしているのは確かだが、ざっくりしすぎていて何の手がかりにもならない。
 次の機会にはもう少し上手くやらないと駄目だな。


「どうだ紫村、面白かったか」
 足元で光っていたお化け水晶の破片を拾い上げて、振り返ってみた紫村の顔は驚愕に目を見開き、口も大きく開いていて、知性的あり爽やかな笑みを口元にたたえた普段のそれとは似ても似つかぬ笑える顔になっていた……良いぞ、良いぞ。俺はそういうお前の顔を見たかったんだ
「しゅ、主将……今のは、一体 何なんですかあれは 壊しちゃったみたいですけど良かったんですか 弁償するのは大変ですよ。それにあの銃は何なんですか いきなり手の中に現れましたよね 現れたと言えば電子ジャーもそうです」
 香籐の方が先に口が利ける程度には立ち直ったようだが、それは香籐が紫村に比べて精神面で強いことを意味しない。
 むしろ香籐の方がパニックを起こしていて、紫村は呆然とした顔を晒しつつも頭の中は必死に答えを探しているのだろう。

 確かに香籐にしてみれば、相手が攻撃を仕掛けて来る前に倒してしまったからお化け水晶球を的と認識していないのだ。俺にはお化け水晶球が赤シンボルという敵対的反応を示していたことが分かっているけど、香籐にしてみれば敵かどうかも分からない相手を一方的に攻撃して倒したようにしか見えなかった訳だ。
「最初の質問に対する答えは、弁償なんてする必要は無い」
 そう答えながら、手の中の破片を握りこんでみる。軽く、そうレベル1だった頃の感覚でいう軽くといった程度の力──20-30kg程度──で握りこむだけで、ビリビリとした電気刺激が掌に感じる……何だろう、これは俺の想像していた圧電体とは違う、お化け水晶全体としての構造は確かに圧電素子そのものだが、肝心の圧電体はゆっくりと加えた20-30kg程度の圧力で電気による痺れを断続的に感じらるようなモノじゃないはずだ……やっぱり異世界は現実世界の知識が通用しない。
「えっ でもそんなわけには──」
「香籐。お前がアメリカ人なら、あのお化け水晶球を見て、『アレってソニーが来年発売する予定のパーソナルトランスポーターだよ。流石日本人クレイジーなモノを作りやがる。はっはっはっはっは』と現実逃避が許されるがお前は日本人だ。こってこての日本人だ。現実逃避している場合か あんなモノはソニーもパナソニックもトヨタもホンダも作れない事ぐらい分かるだろう」
「石川島播磨重工なら……」
「出来ん ロケットを飛ばせたら何でも出来ると思うな。IHIにだって出来ないことがある。あれはな──」
「あれは異界の化け物なんだ。そうだよね高城君」
 おっと紫村が復活したようだ。しかし此処が異世界であることまで確信してしまうとは……

「いいかい香籐君。あんな存在は地球上に存在しないよ」
「地球上に存在しない ですが、そんな事は……いえ、たとえそうだったとしても……それならなおの事、積極的に敵対することは」
「高城君は最初からアレのことを『敵意を持った存在』と呼んだはずだよ。主将の言うことは疑うべきじゃない……そういう事なんだろう高城君」
「まあ、確かにそういう事だけど、いきなりそこまでたどり着かれるとこっちも困る。完全に香籐が置き去りじゃないか」
「でもね、大島先生達が目の前で消えた現象。そして僕達があの奇妙な光の中に囚われて、いつの間にか島の外に移動ささせられた事。時計やラジオに細工されたと考えるには不条理な部分が多い事。全てをつなぎ合わせれば、此処が地球上では無いという可能性は頭の隅にはあったよ。だけど地球上ではないのに僕達がこうして生きていられるのは大気成分がほぼ地球と同じで、更に重力も変わりないように感じられると言う不自然さが、その可能性を否定していたんだけれど、あんなモノを実際に見せられてはね……念のために聞いておくけど、あれはトリックの類じゃないよね」
「一切、トリックもCGも使用してない」
「CGは関係ないよ……分かった信じるよ。つまりここは地球上ではないと言うことで決まりだね…………それで質問なんだけど、高城君は今の状況について何か知っているんだよね」
 当然の質問だろう。
「何から説明するべきか……いや、その前に納得してもらう必要があるな……まあ、2号にも教えたんだから良いか……紫村、香籐。これからら俺がする質問に疑問を抱かず信頼して、ハイかイエスと応えて欲しい」
「僕は高城君のことを、必ずこちら側に転んでくれると信じているから大丈夫だよ」
「そんなもん、信じるな一生疑い続けろ お願いします」
「ぼ、僕は信じています」
「……まあ良い。絶対に変な突込みとかしないで肯定しろよ」
「良いよ。信じてるからね」
 真顔になって、紫村は応える……最初からそうしておけよ。

「じゃあいくぞ……俺とパーティーを組み、共に戦うか」
「はい」
 2人が同時に答えると『紫村 啓、香籐 千早がパーティーに参加の意思を表明しました。受理しますか 紫村 啓 YES/NO 香籐 千早 YES/NO』の確認ウィンドウが表示されるが勿論、両方ともYESだ。

 いつものBGMとともに2人の目の前に『パーティーへの参加が完了しました』というアナウンス用ウィンドウが現れる。
「こ、これは……」
「ようこそ、システムメニューの世界へ」



[39807] 第75話
Name: TKZ◆504ce643 ID:63b95610
Date: 2015/02/15 21:12
「システムメニュー」
「現実をゲームにしてしまう世界改変プログラム」
「現実をゲームに……世界改変プログラム……」
「なんて説明出来たら格好良いと思うが、正直なところ良く分からないんだよ」
「……分からないのかい」
 良い突込みだぞ紫村。いつものワンテンポおいたリズムの悪い余裕を持った突込みとは大違いだ……だが。
「分からないさ お前は風邪薬の各成分の薬効を全て理解して服用するのか」
 開き直るしかないだろう……おっと、そんな事を話している内に、周辺マップ内に文字化け野郎のおかわりが来たみたいだ。
 うん、このペースで現れると言うことは、紫村と香籐にもレベルアップして貰わないと、その内に数で押し込まれることになるかもしれないない。やはり2人のパーティー加入は正解だったな。

「悪いけど説明は後だ。次のお客さんが来たから、今回も隠れて見ていてくれ」
「僕も戦った方が良いんじゃないのかい」
「まだレベル1じゃ、危なくて戦いには出せない。これから暫くパワーレベリングするから、レベルがある程度になるまでは大人しく見学して、連中の弱点とか攻略法を見つけてくれ」

 【所持アイテム】から鈴中のオーブンレンジを取り出して地面に転がす。俺はこの異世界で鈴中の荷物を証拠隠滅のために全て廃棄していくつもりだ。不法投棄 そんな法律もマナーも異世界にはない。郷に入っては郷に従うのが日本人の心なんだ。
「ちょっと待ってください。先ほども電子ジャーを出していましたが、何処からそんなものを」
「その辺の草でも引き抜いて、収納と念じてみろ」
「収納ですか」
「良いから黙ってやってみろ。やってみなければ分からん」
 周辺マップ上では、やはり文字化け状態になっているお化け水晶球が向かってくる方向を見据えたまま指示する。
「はい…………しゅ、収納 …………き……消えました。凄いです。本当に……」
「はしゃぐのは後にしろ、そして『システムメニュー』と念じろ。すると目の前にゲームのメニュー画面のようなのが現れるから【所持アイテム】ってところを意識を集中して『開け』と念じろ。そうすれば物品リストが表示される。その中には今収納したばかりの草だけがあるから、自分の手を意識しながら『取り出す』と念じれば手の中に現れるからやってみろ」
「はい……システムメニュ……所持アイテム…………取り出し……出来た」
 何も口に出さなくても良いんだけどな、つうか人前でやったら変な人扱いされるから止めておいた方が良い……といつか忠告してあげようと思う。
「他にも便利な機能が幾つかある。特にマップ機能は使いこなせるようになっておけ」」
「はい わかりました」
 俺はお化け水晶の方へと向き直る。肉眼では確認出来ないが、マップ上では木々を回避しながらも最短でこちらに向かってくる。その速度は……先ほどの個体よりも速いな。
 
「香籐に成功おめでとうの思いを込めて、今必殺の証拠隠滅第2弾。オーブンレンジドライブシュートっ」
 木々の間から姿を現したお化け水晶球に叫ぶと、振り抜いた右足が加熱蒸気式オーブンレンジのフレームをひしゃげさせる。変形したオーブンレンジはドライブ回転どころか、むしろベクトル方向を回転軸とするジャイロ回転をしながら2体目のお化け水晶球目掛けて突き進んで行く……全米を沸かせた魔球ジャイロボールをオーブンレンジで繰り出すとは流石は俺

 オーブンレンジは空気の抵抗を受けながら本来の軌道を滑るように外れていくとお化け水晶球の中心点を外し左斜め上へとヒットする。
 しかし電子ジャーの6倍の質量を持つオーブンレンジは電子ジャーの速度を下回りつつも4倍のエネルギーを水晶球の表面に叩きつけた。
 バランスを崩して回転を始めたお化け水晶球に接近戦を仕掛ける。このまま遠距離からの飛び道具で決着をつけては情報が手に入らない。この後、こいつが大量に現れる可能性もある。ならば今の内に出来る限りの情報を手に入れるべきだ。

 地面を蹴って15mほどの距離を駆ける。
 1歩目、お化け水晶球は軋む様な音を立てながら変形を始める……そうきたか。
 2歩目、上下の円盤の側面にある電極間で放電を始める、なるほど自らの変形による圧力で電気を作り出しているのか……しかも全身を覆う様な、放電現象が己を守る鎧と言うわけだが、電気相手で殴り合いは厄介だな。
 3歩目、つんと鼻を突くオゾン臭を嗅ぎながら、変形して現れた鎌のような腕を飛び越えて避けながら……鈴中の部屋に侵入した時にも使った革の作業用手袋を装備する。
 そして自分の間合いに入った俺は【装備品】から、手錠の付いた鎖が支柱の脚に取り付けられた、如何わしい変態仕様の鈴中のパイプベッドを、お化け水晶球へと向けて装備した。

 『????綣障?渇綣障を倒しました』『紫村 啓はレベルが8上がりました』『香籐 千早はレベルが8上がりました』

「我ながら無茶したな……」
 お化け水晶球は内部に顕現したパイプベッドの体積により発生した圧力で、爆発的に砕けると同時に高圧の電流をぶちまけ、パイプベッドに繋がれた鎖を通して地面へと流れ、周囲にはコピー機から流れるような独特のオゾン臭が強く鼻腔の奥を突き刺し、思わず鼻を押さえて飛び退いた。
 パイプベッドは付着した綿埃や、一部の塗料が燃えあがったために、今でも煙が燻っている。空中に居た自分の身体に電気が流れないのは分かっていたが手袋をしていなかったら、流石に火傷しただろう。
 上から降ってくる破片が身体に当たる度にバチッ と電気が走る……痛いというか不愉快だ。


「主将。レベルアップしたとの事ですが、確かに身体が楽になったような気がするんですけど、どのような変化があったのでしょう」
 考え込みながら空を仰ぐような仕草をしながら、ちらりと香籐の頭上を確認してから「試しに、その場で全力で跳び上がってみろ」と口にする……鎮まれ、鎮まるんだ俺の表情筋。真顔をキープしろ。決して嬉しそうな表情を作るな。
「跳ぶんですか」
「どれほど力が上がったのか確認するために全力でな」
「分かりました」
 膝を屈めて力を反動をつけると、次の瞬間縮められていたバネがストッパーを外されたかのように勢い伸び上がりながら「あっ」と驚きの声を残すと、香籐は上に張り出した葉の茂った枝の中に突っ込んで行った。
「3m以上ってところか」
 突っ込んだ枝にしがみ付く香籐の足と地面の距離をざっと確認する。
「酷い……」
 上から何か聞こえた気がするが、気のせいに決まっている。
「跳躍力は3倍から4倍ってところかな」
「多分、もう少し高さを出せると思うんだけど、全力を出さなかったみたいだな」
 残念ではあるが、それで香籐を責めるほど人でなしではない……と思う。
「何もせずに、それほどの力を身につけるなんて、どう言ったらのか、ちょっと言葉に困るよ……」
「とりあえずは、このまま見学を続けてレベルを20くらいまでは上げてもらう。あのお化け水晶球は、経験値も多いからレベル上げには良いだろう」
 20体も倒せばレベル20は軽く超えるだろうし、20体なんて今のペースならすぐだろうから、下手をすればレベル30や40までは上がるかもしれない。
「負んぶに抱っこで申し訳ないけど頼むよ」
「その代わりに、レベル20を超えたら紫村達にも戦ってもらう。それまでに自分達で奴らを倒す方法を考えてみて欲しい……香籐 いい加減降りて来い」
「……高い所が苦手なんです」
 そういえば、こいつも俺と同じく高所恐怖症の気があったな。
「良いから手を離して降りろ。自分でジャンプした高さから降りて怪我するはず無いだろう」
「……その考えって素敵ですね」
「素敵じゃなくていいから降りろ」
「はい…………うわっ……おおっ」
 悲痛な表情で覚悟を決めて枝から手を離すも、落下の恐怖に顔を歪めて小さく悲鳴を漏らすも、着地の衝撃の小ささに驚きつつ、安堵の表情を浮かべる。実に忙しい表情の変化で面白かった。

「そうだ。システムメニューから【精神】を選択してみろ。そこに表示される精神面のパラメーターもレベルアップで勇敢で心優しい正義の味方風に成長するようになっている。実際、お前達はもう既にかなりの良い人になってしまってる。これ以上、そうなりたくないなら、一度上の階層に戻ってから【精神】に対して【レベルアップ時の数値変動】を固定と設定した方が良い。とくに紫村は性的嗜好もノーマルに傾いていると思うぞ」
「なっ ……システムメニュー 精神 レベルアップ時の数値変動 固定 固定 固定」
 これ程までに冷静さを失った紫村を見たのは初めてであり、多分最後なのかもしれないと思うとニヤニヤが止まらない。

「酷い 酷すぎるよ どうして早く教えてくれなかったんだい この僕をノーマルにして君はどうする気なんだい」
 設定し終えた紫村は、涙目で掴み掛からんばかりの勢いで怒っている。自分のアイデンティティーに関わる問題だから当然だが、悪かったとは全く思わない。
「教える時間が無かったし、むしろお前がノーマルになるなら俺は諸手を挙げて歓迎する。むしろ手遅れになるまで黙っていなかった事が惜しまれる。つうか香籐まで巻き込まないで済むなら、俺はずっと黙っていたぞ」
「何ていう同性愛者差別。君の恐ろしさを初めて垣間見た気がするよ」
 別に同性愛者を差別する気は無い。俺としては単に自分に興味を示す同性愛者を排除したいだけだ。これは似ている様で全く違う。鞘に収まっている刀と、抜き身の刀くらいに脅威度が異なる。

「まあ、俺も通った道だ。レベルアップしてから何か自分が自分じゃないような言動を取ることに気付いた。そして確認すると自分の精神パラメータが、まるで良い人のようになっていることに気付いた」
「ちょっと待って。確かに高城君が先月の半ば位から様子が変わったようには感じていたけど、良い人風には変わった様子は無くて、むしろ……大島先生に似てきたと思ってたよ」
 改めてそう言われると仕方が無いとも思うが、やはり嫌だ。
「わざとそうしてきたからな。自分が望まない形で良い人になりかけているから、俺は意識的に自分にとっての悪人像である大島ならどうするかを考えて行動してきた」
「しゅ、主将。大島先生を真似るなんて人類全体に対する裏切り行為ともとれますよ」
「そうだよ。もう大島先生の真似なんてするからこんな酷いことが出来るんだ、元の高城君に戻って欲しい」
「まあ、それなんだが、おかげで良い人に傾いていたはずのパラメータが、元に戻って……行き過ぎてしまったようなんだ。それで止めようと思っても中々元には戻せないんだ……」
 人間、己を高めるのに時間は掛かっても、堕落していくのは速く、そして止めるのが難しい。
 実際、ここ暫くは【レベルアップ時の数値変動】の固定をオフにしているにも関わらず、大島化を食い止めるので精一杯だ……何せレベルアップの機会が少なすぎる。

「でも、そういう事なら、ぼくも自分の性癖を開放すれば元に戻れると言うことだね」
「解放するな馬鹿野郎」
 嬉しそうに話す紫村を一喝する。
 その被害者はどう考えても俺じゃないか、現実世界に戻ってから恋人である倉田先輩に開放してろ。
「……それからな【精神】から【心理的耐性】を選択して、必要なパラメーターの【レベルアップ時の数値変動】の固定をオフにしておけ。特に香籐は高所への恐怖を改善しないと、これからやっていけないぞ」
 主に空中移動とか空中戦闘とか……多分、今話しても拒絶されるから言わない。
「確かに、これはいざという時にパニックに陥らずに済むから心強いね。でも恐怖への耐性が強すぎて、感じるべき恐怖を無視するようになるのは問題じゃないのかい」
「耐性が強くなっても恐怖は常に感じる。恐怖に耐えられるように心が強くなるだけだ……そうだ紫村。ノーマルになる恐怖への耐性が無いか調べてみろよ」
「そんなのはごめんだよ」
「そこを曲げて何とか……」
 紫村がノーマルになってくれるなら頭を下げる値打ちがある。
「無理だよ」
 1桁同士の掛け算の答えを口にするかのように何の迷いも無かった。俺はこれからも紫村がホモで無ければと思い悩むことになるのだろう。
「主将。僕は設定を変えずにこのままでレベルアップして行こうと思います」
「おい、それは──」
「子供っぽいと思われるかもしれませんが、僕は正義の味方になりたかったんです。誰かを助ける事の出来る強くて優しい人間になりたい。ずっとそう思ってました。だから心からそんな風になれるなら、僕は──」
「『誰か』って誰の事だ どうせ何の枠も無いぼんやりとした対象だろう。そんな無謀な夢は捨てておけ」
 この子は、厨二病に罹患しなかったせいで、こんな病をまだ患っているのか……良い奴「過ぎる」んだ。
「何故ですか」
「……人としての分を超えるからだろ」
「人としての分……ですか」
「ああ、俺は自分にとって大切と思える相手、家族や親戚。お前達空手部の仲間、少ないけど友人。まあ知人も無関係じゃないなら見捨てるような真似も気分悪いしな……そして何より北條先生が困っていたら手助けをする。必要なら戦いもするし、場合によっては命だって懸ける覚悟もある。もしお前にとって大切な人を助けるために力を貸すと言うのも有るだろう。だがそこまでだ。そこから先は神の領域だろ……神に人を救う気が有るかは知らないけどな」
「しかし、それでは──」
「まあ待て、『六次の隔たり』という言葉を聞いたことはあるか」
「いいえ、ありません」
「難しそうな言葉を使っているけど、単に知り合いの知り合いを6人介せば、世界中の誰とでもつながっているいう仮説で、ちなみに人口3億人を超えるアメリカでは知り合いの知り合いを4人介すと国民全員が知り合いになるそうだ」
「何が言いたいんですか」
「まだ分からないのか それとも納得したくないだけか」
「線引きをしないで『誰か』を助けたいと思うのは世界中の人間を救うと妄想するのと同じだって事で、出来もしないことを口にするなって事ですよね」
「勝手に拗ねるな。出来もしない事を口にするくらいなら良い。出来もしない事を実行しようとすれば、自分だけでなく周囲、それどころか助けようとした相手にも迷惑をかける事になる。自分の手の届く範囲を理解して、その範囲内で出来る事をすれば良いとは思わないか」
「それでは自分が手が伸ばせる範囲の一歩先にいる人は救えないじゃないですか、そんな線引きはしたくありません」
 この頑なな態度に違和感を覚える……そうか、分かったぞ。香籐は既にレベルアップによる【精神】のパラメータの変化により、大きな影響を受けてしまっているのだろう。元々精神的に、正義の味方の資質が高かったために、レベルアップにより一線を越えてしまったのだ。
 これは拗らせてしまった厨二病よりも厄介な状態だ。何せ自分の厨二病も始末出来ていない俺に何が出来るだろう
 ホモといい正義の味方といい。どうしてこんな面倒なことに
 多分、最初は紫村だけをパーティーに加入させて、レベルアップしてホモを卒業させてから、レベルアップによる【精神】パラメーターの変化の恐ろしさを香籐に理解させて、予め【レベルアップ時の数値変動】を固定にするように導けば良かったのだろうが、香籐の正義の味方病までは見抜けなかった。
 紫村に目で助けてとサインを送る。
「……僕に言われても、この手の病気は一生かけてじっくりと治すか、人生観を変えるような衝撃的な体験をさせるショック療法しかないよ」
「……1週間ほど大島の家に居候させるなんてどうだ」
「香籐君も、これまで1年以上も大島先生との付き合いがあるわけだから、どうかな」
「じゃあ、紫村が犯っちゃうとか」
「彼個人の事は好ましい人物と思っているし、後輩として大事にも思っているけど、そういう対象じゃないんだ──」
「何を勝手に僕の事で物騒な話をしてるんですか」
「それだけ君の考えが危険って事ですよ」
 怒る香籐に紫村は冷笑を浴びせながら答える。
「正義の味方を気取りたいのは分かりますが、香籐君は正義を為すためにどれほどの覚悟があるんですか」
「覚悟はあります」
「法を犯して犯罪者となってもですか」
「何故犯罪者なんかに 僕がなりたいのは正義の味方ですよ」
 厳格なる法に対して、正義っていうのは何の基準も無く言ったもの勝ちだから価値観だから、2つを横に並べて論じれば、結局は社会の論理と個人の感情論の衝突になって破綻しかないのだよ。
「法の中で正義を為す。それも不可能ではないですよ。でもそれこそが高城君の言うところであり、また君の嫌う線引きではないのかな」
「それは……」
「良いかい、高城君は己の正義を貫くためには法を超越して行動を起こすよ」
「おっ、おい」
 何を言ってくれちゃってるの
「別に大して面識があるわけでもない可哀想な女性のために法を無視しても行動を起こす。まるでダークヒーローだよ。厨二病も大概にするべきだと思うんだけどね」
「お前は共犯者だろ」
「……従犯じゃないかな 警察に捕まったら、君に脅迫されたと弁明しておくよ」
「警察に捕まったらな……お次が来たみたいだ」
 周辺マップにはお化け水晶球を表すシンボルが2つ現れていた。

 もしもこいつらが、広い範囲に均等に配置されていて、尚且つ、各個体がネットワークのようなもので繋がれていて、一斉にこの場所に向かって移動しているとすると、お化け水晶球が1時間に移動できる距離をrとして、1時間以内にこの場所に到達して戦闘状態になるお化け水晶球の数、すなわちこの場を中心とする半径rの円の内側にいるお化け水晶球の数がAとした場合に、最初の1時間に戦うことになるお化け水晶球の数はA体で、次の1時間で戦う数は3A体となり、更に次の1時間では5A体となる。その後の1時間ごとに戦う数は7A、9A、11Aと増えていく訳である。
 もしAを10とするなら、12時間後には1時間に230体倒すことに……1分間に4対近くか忙しすぎて押し切られるか いや、押し切られるのはレベルアップによる戦力の上昇を計算に入れていないからだ。
 オーガよりも経験値の多いお化け水晶を12時間、つまり1440体倒したならば、紫村と香籐はレベル50程度にはなるだろう……正直、レベルアップに必要な経験値は良く分からない。実際俺と2号とでは同じレベルでのレベルアップに必要な経験値は時には3割くらい2号の方が多く必要だったりすることがあれば、俺と同じ程度だった場合もある。
 更に言えば、俺自身のレベルアップに必要な経験値の数も先が読めない。全体的に見るとレベルが上がるほど次のレベルアップに必要な経験値は増える傾向にあるが、時折、少ない経験値でレベルアップすることもある。何らかの理由があるとは思うのだが、その法則性や必要経験値が少なくなるトリガが何なのかはまだ分からない。
 ともかく1440体ものお化け水晶を倒せば俺のレベル60には十分に届くだろう。そうなれば簡単に押し込まれるる事は無いはずだ。
 しかし限界は別の理由で来る。レベルアップで強化された身体能力を使い続けるためには莫大なカロリーを必要とする。長期戦になれば【所持アイテム】内のカロリーメイト系のブロック食品も食べるゼリーも使い切るには24時間もかからないだろう。
 この問題を回避するためには、お化け水晶球との戦闘を避ける必要がある。そして食料と休息を得るための時間を得る必要がある。

 俺が習得している魔術の中で、戦闘を回避するのに役立ちそうなのが、【迷彩】【無明】【闇纏】【結界】だが、それを使って連中をやり過ごせるか確認したい。
 だが広い範囲に均等に配置されていて、尚且つ、各個体がネットワークのようなもので繋がれていて、一斉にこの場所に向かって移動しているとする前提が正しいのなら、確認するならまだ数が少ない今の内しかない。
「ちょっと試したいことがある」
「何をするのかな」
 紫村は余裕があるな。
「先ほどのレベルアップの時に【魔術】って奴を覚えたとアナウンスがあっただろう 水属性の【水球】、土属性の【飛礫】、火属性の【火口】、風属性の【拡声】に心当たりが無いか もしかしたら光属性や闇属性の魔術なんかも憶えたかもな」
「……確かにそんなのを憶えたってアナウンスがあったよ」
「それを使って奴らをやり過ごせないものか確認してみる」
「確かに、有益な情報を探るなら、今の内に済ませておくべきだよ……僕の予想が正しいならね」
「やはり気付いたか」
「確認しておきたいのだけど、最初の1体と、その後の2体目、そして今こちらに向かっている3体目と4体目だけど、2体目以降は同じ速さでこちらに向かっているようだけど、1体目だけは速度が違った。それも速いのではなく遅かったんじゃないかな」
「……確かにそうだな」
「だったら間違いないよ。彼らは各個体が得た情報を群れ全体で共有しているね。そして最初の1体は何らかの方法で僕らの存在に気付き警戒しながら接近してきたが攻撃を受けて破壊されてしまった。そのために2体目以降は、更に警戒レベルを上げ最大速度でこちらに向かっていた。もしも群れの中に全体を統率する個体が存在すれば、このまま撃退し続けて彼らの被害が増えた場合。一旦攻撃は止めてこの近くのポイントに集合地点を設定して、戦力を集中させてから一気に攻めてくる可能性があるよ」
 そいつは拙いな。俺が想像していた状況より遥かにヤバイ 本当に数の暴力で押し込まれてしまう……それにしてもレベル差を超越した紫村の知力は恐ろしいものがある。それともレベルアップで得られる知力は、所詮は回転速度と記憶力の向上というハード方面の強化に過ぎず、個人が積み上げた経験と成長の中で獲得した頭の使い方というソフトウェア面での強化は為されてはいないということか……何にせよ、基本的に俺の頭出来は紫村には劣るということだ。それは前から分かっていたから別に悔しくなんてないやい

「集合するポイントは、ここからどのくらいの距離だと思う」
「距離は1km程度のポイント。でもこちらを包囲するように3-4のポイントに集合すると思う……僕なら間違いなくそうするよ」
「逆に考えれば、連中に包囲させてから囲みを破って逃げれば、その先には奴らは居ないと言う事だよな」
「そういうこと……でも、そのためには集合の進捗状況を確認する事が必要だよ」
「それは任せておけ……とりあえず、接近中の奴等は悠長に戦い方を探ってる暇は無いから速攻で叩き潰すぞ」
「頼むよ。高城君」
「それから香籐。やはり【精神】の【レベルアップ時の数値変動】を固定にしておけ。まずは冷静になった状態で自分の心の変化と向かい合え。それが自分にとって有益だと判断出来たら改めて設定を変更しろ。今のまま冷静に考える事無く決断して良い事ではない。多分レベルアップに任せて心を変えれば、お前は葛藤無く自分の正義を貫けるようになるだろうが、葛藤なき正義なんてものは小学生までにしておけ 迷い苦しみ、悩んで、のたうち回りながら考えて出したものこそが本当のお前の正義だ」
「えぇぇぇぇぇぇぇっ ……結局戦隊ものレベル」
 仕方が無いだろう。俺は正義なんて言葉はそもそも嫌いなんだよ。正義馬鹿のお前に分かるようにそれっぽい事を並べただけで……死ぬほど恥ずかしいわ
「ともかく、お前が設定を変更しないならシステムメニューは取り上げる。分かったか」
「……分かりました」
「納得していないようだが、適当に返事して設定を変更してなかったら、大島の可愛がりが生温く感じられるような目に遭わせてやるからな」
「具体的にはどんな事をするんだい」
「殴る ボッコボコに殴る そして【魔術】で治療する。それからまた殴り治療する。香籐が『もう二度と正義なんて馬鹿な事は口にしません ダークヒーロー最高』と泣きながら絶叫するまで繰り返してやる」
「今、完全に納得しました」
 俺の心を尽くした説得が香籐に通じたようで良かった。



[39807] 第76話
Name: TKZ◆504ce643 ID:7f55b1b5
Date: 2014/12/30 18:59
 全力で地面を蹴ると張り出した木々の枝の間を抜けて樹上へと一瞬で飛び出る。
 そして足元に【所持アイテム】から取り出した円柱状の岩を足場に移動し、接近するお化け水晶球の上へと飛び出すと、身体を捻りながら自分の真上に岩を出すと蹴り、その反動でついた勢いのままに、お化け水晶球の上部円盤の上に蹴りを叩き込んだ。
 その衝撃で下部円盤と上部円盤の電極の間で火花のような放電が起きるが、電気は俺の方へとは流れることは無い。
 いわゆる鳥が電線に止まっても感電しないってのと同じで、俺の身体を通って電気が流れる先が無いために電圧の高低差が生まれないためである。
 そして次の瞬間、蹴りの反動で地面に叩きつけられたお化け水晶球は……全然平気だった。
 土の上に草や低木が生えている森の中だから落ちても衝撃が少ないのは分かっていたし、割れれば儲けものといった程度だったので残念ではない。

「俺帰ったら、バールのようなものを買うんだ……」
 まさか現実世界側で素手で足りないと思うような相手と戦う事になるとは想像していなかったので、武装するという考えが自体が意識の隅にも無かった。

「困った時の岩だが……」
 現在【所持アイテム】内にストックされている円柱状の岩の数は6個しかない。島で【大坑】を使ったのが22回なのに対して、使用したのは洞窟を崩壊させるのに15個で、更に避難用に作った洞窟の入り口の蓋に1個で、16個使ってしまっている……もっと作っておかなかったことを後悔する。
 こんな森の中では補充が期待出来ない。しかも、どれほどの敵と戦い続けなければならない分からないという状況では、岩は空中を移動して敵を振り切るためには絶対に必要なアイテムであり、ストックを減らすわけにはいかない。
 岩はほぼ玄武岩で出来ており、比重も硬度も高い丈夫な岩だが、それゆえに出来るだけ大事に扱い一生物としたい逸品である。
「だが使う それが用の美」
 足の裏からお化け水晶球の中央部分を抉り取るように出現させると、強力な光と電気を放ち爆発するように割れて飛び散った。
 そして5秒後にもう一つのお化け水晶球が砕け散った。

 『????綣障?渇綣障を2体倒しました』『紫村 啓はレベルが3上がりました』『香籐 千早はレベルが3上がりました』

 アナウンスを無視して俺は再び宙へと思いっきり跳躍する。そして出現させた岩を足場にして跳びながら上へと駆け上がる。そして視界を遮るものの無い高さまでたどり着くと、周囲のパノラマを見渡す。すると自分を中心とした広域マップ表示範囲の全てが表示される。
 木々に遮られた森の中も表示可能になるのはどうなのかと思うが、ゲームの中では飛行船などで移動した範囲も全て地図に表示されるので、システムメニューはゲーム仕様なのだと納得するしかない。

「広域マップを確認してみろ」
 とても何かを言いたそうな2人を無視して先に指示を出す。
「はい ……これは」
 紫村の予想は的中していた。確かにまだこちらへと向かっている個体が30体程いる。しかし他の多くの個体はマップの中心から北側と南東、そして南西1.2-1.3kmの位置にある3ヵ所へと向かって移動する個体は、既に集まっている個体と合わせると、それぞれ100体前後いた。
「予測通りだね……だけど先ほどのは何なんだい」
 やはりスルーは出来ないか。
「飛んだ事か 止めを刺した時の事か」
「両方だよ」
 欲張りめ。
「紫村、口調がいつもと違って荒いぞ」
「……教えてくれないかな高城君」
「そうそう、そんな感じで……それでだ。飛んだのも止めを刺したのも、【収納アイテム】や【装備】を使った物の出し入れを使った俺のアイデア技だ」
「アイテムの出し入れ……そうか、それなら空中に足場を作って跳ぶのを繰り返せば、空中を自由に動く事も出来る。でも、あの止めを刺した時は──」
「それは【装備】を使ったんだ。自分がそれを装備した状況を思い浮かべながら装備を実行すると、出現した物体は出現位置にある全てのものを押しのけて出現する。相手がダイヤモンドだろうが爪楊枝を装備すれば串刺しだ……無論、先ほどのお化け水晶球のように押し退けられた爪楊枝の体積分の内圧でバラバラに弾け飛ぶだろうけどな」
 そんなもったいない真似はしないし、出来ないけどな。
「……出鱈目だ」
 驚いたか お前が今感じている驚きは、俺が2週間以上も前に体験した感情に過ぎない。
「後な、理由は分からないけど【収納アイテム】や【装備】から取り出した物体は、出現の瞬間は必ず静止状態だ。収納で戻す瞬間にどんな方向に、どんな大きさのベクトルを持っていても、取り出した時にはその運動エネルギーは全て失われる」
「それじゃあ、取り出した物体は絶対零度なのかい」
「いや、何故か出来立てのほっかほっかの料理は、数日後にも出来立てのまま出てくる」
「……意味が分からないよ」
「だからシステムメニューは何らかの自然的な現象なんかではなく、何者かの意図によりデザインされた機能だ。その何者かが『斯くの如きあるべし』と思った事が忠実に反映されている。そう納得するしかない」
「でも、そうなると足場が静止状態なら、加速に限界があるね……収納時の運動エネルギーを保存したままなら、音速まで加速するというのも出来たかもしれないのだけどね」
「そんな真似したら、衝撃波や空気との摩擦による発熱でエライ事になるだろ」
「そうだね、それに加速した後で、減速するのが大変か……減速用の足場を用意しておいて……でも減速に使用した後は、運動エネルギーをリセットするメンテナンスが必要になるから……確かに出現時に静止状態というのが一番使い勝手が良いという事……つまりシステムメニューを作った存在はユーザー満足度に対して配慮を持っているのかもしれない……だとすると」
 ……紫村が思考の海にどっぷりとはまり込んで帰ってこなくなってしまった。

 円柱状の岩を2つ取り出して地面に転がす。
「とりあえず紫村はおいといて、香籐はこの2つを使って空中移動の練習でもしておけ。レベル12ならそこそこ動けるはずだから、空中での感覚と足場の岩の出し入れのタイミングを速く掴んでおくんだ」
 時間が無いので、紫村は放置しておいて香籐に指示を出す。
「何故2つなんですか」
「保険だ。もし落ちたら死ぬような高さまで飛んで足場の岩の収納に失敗した時には、予備の岩を足元に出しては収納して、減速しながら降りることが出来る」
「そういえば気になってたんですが、足からって出せるものなんですか」
「すまん教えてなかったか。装備にしても【収納アイテム】内から取り出す時にしても、どこにどう出すかは本人のイメージだ。ただし、自分の身体と常に接触した位置にしか出すことは出来ない……手袋とか靴など装備品とシステムニューが認識している物は、自分の身体と同じ扱いをされるようだ」
「……主将。装備しているものが自分の身体と同じ扱いになるなら、長い棒を装備して、その先端に更に装備するなどすれば、幾らでも延長できるのでしょうか」
 ほう、良い発想だ……だがな。
「残念ながら、衣服や防具は重ねて装備する事が可能だが、武器として認識されるような物の先に更に装備とは出来ない。だから弓に番えた形で矢を出現させる事も出来ない」
「分かりました。では僕は練習をさせていただきます……収納 収納」
 2つの岩を収納するが……
「香籐、声に出さないでシステムメニューを操作出来るように意識しろ。声に出せば必ずタイミングが遅れるから、特に空中移動のシビアなタイミングでは失敗する。取り出す時は身体に接触した状態でしか取り出せないが、収納は自分の身体から1m以内の範囲にある物なら収納出来る。だから足場として踏み切って足が離れた瞬間に収納する必要がある。それが声に出してしか操作出来なければ致命的だ」
「わ、分かりました」
「先ずは、収納した岩を1つ取り出せ、そしてその上に乗って全力でジャンプしながら岩を収納する練習を──」
「僕抜きで楽しそうな事をしようとするのはどうかと思うよ」
 紫村が復活を遂げていた。仕方が無いのでまた2つ円柱状の岩を取り出した。
「言っておくが、俺の分とお前達の分、それぞれ2つずつで計6個。これが俺のストックしていた全てだから大事に使えよ。補充の当ては無いんだからな」
「分かってるよ。洞窟を破壊するのに使い過ぎたんだね」
「ちょと待て お前何を言っている」
「隠しても無駄だよ。大島先生も言っていたけど厚さ5mの岩盤を崩落させる方法なんてそうは無いよね」
「洞窟を破壊したのは主将 では大島先生が言っていた8人は……もしかして主将が」
「物騒な事を言うな 殺しちゃいない」
「それではどうやって」
 ……うん、口で説明するのも面倒臭いから、実際に見せるか。
「証拠を見せてやるよ」
 【所持アイテム】内から大島の手下を足元から取り出して地面に転がしていく。その数8体。
「こ、これは」
 紫村の表情が再び驚愕に染まる。
「気絶している。システムメニューは意識が無い場合は生き物もアイテムと認識するんだ。だから大島に手を貸したこいつ等は罰として、【所持アイテム】の中で1ヶ月ほど失踪して貰ってから、適当に街中にパンツ一丁で捨ててくるつもりだったんだよ」
「それは随分と酷いね……勿論全面的に賛成だけど」
 こういう話になると、途端に冷静さを取り戻す……紫村。お主も悪よのう。
「……尊敬する先輩達が、黒くて恐ろしいです」
 ニヤリと笑みを浮かべる俺と紫村に香籐は退いた。

「とりあえず、目を覚まされると面倒だからしまっておくぞ」
 地面に転がる大島の手下達を次々に収納していく。
「これは……拉致し放題だね」
「はっきり言っておくが、現実世界に戻ったら、システムメニューは使えないようにするからな」
「そんなひどい」
「レベルアップした分の身体能力の補正や身につけた【魔術】に関してはそのまま使えるから我慢しろ」
「……我慢するよ。でも今回の様な事が起きたら、使えるようにしてくれるんだよね」
「ああ、お前の力が必要な限りはな」
「僕の力が必要……あれ それなら……」
「どうした」
 こいつ余計な事に気づいたんじゃ
「いや、何でも無いよ……今は」
 絶対気付いたな、何に気付いた 確か『僕の力が必要』と言ったな。そうか、俺が紫村を戦力としてあてにしているなら、常にパーティーに所属させてレベルアップさせた方が良いはずなのに、それをしないのは矛盾していると気付いた。
 気付いたけど真相にはたどり着いていない……って事で正解だよな。現実ではレベルアップなんて出来ない。つまり俺には何らか方法でレベルアップが可能。そしてそれが此処とは違う異世界である。この最後まではたどり着いてないよな だって、そこにたどり着くための情報は何も無い、何も与えていないはずだ。
 だけど、こいつは紫村なんだよな。しかも、ただでさえ紫村だと言うのにレベルアップで知能までも上昇している……ヤバイ。何か嫌な汗が出てきた。

「ところで主将。これから彼等はどうなるんです」
「俺達が無事に現実世界に戻れたら……どうしようかな、こんな場所に飛ばされた一因がこいつ等にもある訳だからな。1年程寝かせて熟成しておくか」
「戻ったらすぐに開放してあげませんか」
 この正義君め、甘っちょろいことを。
「何のペナルティーも無しに開放したら、奴等は結局大島の手下のままで、今後も俺達空手部の部員を大島と共に地獄に突き落とす片棒を担ぐぞ。俺達だけじゃなく1年生達。さらに来年の新入生達……良いのか 後輩達が泣く事になるぞ」
「やはり然るべき罰は与えましょう」
 あっさりと前言を翻した。まあ同じ人間でも加害者側と被害者側の人間の権利が同等に保護されるわけではない。ろくでもない大島の手下と自分の後輩を天秤にかければどちらに傾くかなど考えるまでも無い。
「それに無断欠勤で仕事を解雇になれば、目が覚めて大島と距離を置くようになるはずだ。このままズルズルと大島の手下を続けるよりは、1度仕事を失う事になっても、大島ときっぱり縁が切れた方が、連中のためになるとは思わないか」
「8人まとめて失踪して新聞の一面記事に載るよう事件になり、その裏に大島先生が居る……なんて事なった方が世の中のためかもしれませんね」
 ……堕ちたな香籐。

「じゃあ紫村。香籐の面倒を見ながら練習をしておいてくれ。こちらに向かって移動中の奴等を叩けば、お前等のレベルは20近くまで上がると思う。そうなったら戦いに参加してもらう。正直、戦力が俺1人だとそう長くは持たないから、頼むぞ」
「了解したよ」
「頑張ります」
 2人の返事を背中に受けて俺は再び空へと跳んだ。


「攻略法さえ分かってしまえば、何てことは無い」
 31体のお化け水晶球を倒すのにかかったのは移動を含めて10分と数秒。
 紫村と香籐のレベルは19にまで上がった……俺が水龍と戦った時がレベル12で、倒した時にレベル22まで上がった。流石は水龍といったところだな。

 目の前の【巨坑】によって開いた大穴の中にはお化け水晶球が1体はまり込んでいる。ついでに言うと中には【大水塊】によって作られた水が流し込まれ、更に【操熱】によって氷漬けにされている。
 マップ上では敵対的である赤。中立的の黄色。友好的の緑のどれでもなく、物品を表す灰色になっている。
「死んだと考えるべきなのか」
 試しに【操熱】を使ってゆっくりと温度を上げていくと……急激に暖めると割れそうな気がするので……常温に戻って暫くするといきなりシンボルは赤になったのでゆっくりと温度を下げて氷漬けにした。
 温度が下がると機能停止するが死ぬわけではない……そもそも生きていると言って良いのか疑問だが。

 【迷彩】を使って姿を消した状態で氷を溶かしていく。そして常温まで温まり活動可能になった途端に変形させた鎌のような腕を振るって壁を這い上がると、姿が見えないはずの俺に向かって腕を振りかぶるような仕草を見せたので、容赦なく真下に別の穴を作って落とす……とりあえず、こいつ等の浮遊能力だけでは6mの高さを超えることは不可能だと分かった。
 再び這い上がって来た所に【無明】をかけ……ようとしたが、こいつの目がどこにあるのか分からなかったので、繰上げで【闇纏】をかける……全身というか全体を闇で覆われて、どこかに目があったら必ず視界を遮られているはずなのだが、全く関係なく俺に迫ってくるので、再び【巨坑】を使って穴に落とす。
 最後は【結界】を使う。直径5mほどの空間と外部との光・振動・臭いの伝達を絶つという優れものだが、内部からの光や反射光までシャットアウトするために、昼間に使うと地面から暗黒の半球体がぽっこりと姿を覗かせる怪しい状況になるのだが……効果があった。お化け水晶球は俺の姿を見失いふらふらと周囲を彷徨った後で、黄色シンボルになって紫村達の方へと向かって遠ざかっていく。
 そして【結界】を解除した途端に、赤シンボルへと変化して俺に無って移動してくる。
「とりあえず収納」
 またまた【巨坑】を使って穴に落とすと【大水塊】【操熱】のコンボで氷漬けにするとサンプルとして収納した。
 長期間に渡り、この世界に留まる事になるなら、こいつ等について知っておく必要があるからだが……是非とも必要なくなり無駄骨になって欲しい。

「……普通に出来ているだと」
 他にもまだこちらを目指して移動中のお化け水晶球はいるが、まだ距離があるので1度戻ってきた俺が目にしたのは、密かに望んでいた、上手く跳べずに涙目で苦戦する紫村と香籐という構図ではなかった。

「高城君。これは良いものだよ」
 紫村が空を左右にジグザグに跳びながら子供の様な無邪気な笑顔で叫ぶ。
「主将 最高です」
 一方香籐は、5mくらいの低い位置で、素早く、そしてタイミング良く岩を出し入れすることで、ごく自然にゆっくりと歩きながら手を振っている。
 たった10分ちょっとで……もう嫌だこいつ等、もう俺以上に使いこなしてない
 流石、何でも卒なくこなす天才肌だよ……ちっ覚えていやがれ。何を覚えるのか俺自身にも分からないが、とりあえず胸の中で毒吐いておく。
「調子はどうだ」
 胸底で渦巻く嫉妬の炎が口や鼻の穴から飛び出さないように理性を総動員しながら問いかける。
「すごく良いよ。特にレベルアップして跳躍力が増した事で、空中での自由度が大きくなったね」
「主将が言っていた声に出さずに操作出来るようにする意味が分かりました。コンマ1秒単位での操作を必要とする場面で声に出すなんて不可能ですよね」
 こ、コンマ1秒 そんな素早く精密な操作なんてした事ないよ。そういう場合はシステムメニューを開いて時間停止状態で行うんだよ……駄目だ負けている。何か色んな意味で負けている。完全に負けている。
「香籐君。そうやって低い位置をゆっくりと歩くのに専念するのも良いけど、これからの事を考えると、もっと高い位置を素早く移動する練習をした方が良いと思うよ」
「怖いから無理です」
 きっぱりと否定した。おかしい……そうか、こいつ【心理的耐性】に関しては必要な項目を【レベルアップ時の数値変動】を固定OFFにしておけと言う指示を忘れてたな。
 そんな大事な事に気づいた俺だが、香籐が完璧超人に進化したらと思うとムカつくので、気付か無かった事にする。そしてこの後、香籐が涙と鼻水を流しながら必死に空を跳ぶ事になりますようにと祈った……とは言っても、レベル9まで上がった段階で高所への耐性も大分ついているはずだから、ちょっと怖がるくらいか

「ひぃぃぃっ 駄目です。あぁぁぁぁぁっ 死ぬ……死んじゃいます 死ぬ 死ぬ 死ぬ 死ぬぅぅぅぅッ もう駄目、本当に駄目 た、助けてぇぇぇっ 助けておかあぁぁぁぁさぁぁぁぁぁぁんっ」
 ……全然耐性がついていない。
 嫌がる香籐を無理やり肩に担いで上空1000mほど上昇して、お化け水晶球の探知圏外を移動する予定だったのだが、香籐が涙と鼻水を流しながら大声で泣き叫ぶせいか、それとも連中の探知する範囲が想像以上に広いせいなのか、広域マップではお化け水晶球は追ってきている。
 こうもうるさく泣き叫ばれると祈りが叶ったと満足するよりも、可愛いはずの後輩だが肩から下ろしてポイしたくなるものだ。
「おがぁぁぁぁぁさぁぁぁぁぁんっ」
 こいつは…………【昏倒】収納

「おやおや……」
「このまま2000m位まで上昇してから、奴らの追跡を振り切れるか確認する……ついて来られるか 駄目なら香籐と同じく収納させてもらうぞ」
「大変そうでだけど付き合うよ。だけど3000mとかは流石に遠慮するよ」
 富士山を裾野からスキップで登頂出来るような体力があっても、休む間もなく一定の間隔で全身のバネを使って跳び続けながらの高度3000mへの到達、そして空気の希薄な3000mでの移動は辛いと判断したのだろう……俺はもう、そんな人間として当然の心配とは無縁な存在に成り果てているから大丈夫だけどな。
「じゃあ、2000mまで頑張って貰うぞ」
 そう言って、跳躍の方向を水平から垂直方向へと切り替える。
 俺が1度で跳ぶ20mを紫村は3度に分けて跳ぶ。この辺が今の俺と紫村の差だろう。
 だが紫村は顔色1つ変える事無く俺についてくる。
「この意地っ張りが」
「男としての意地が無かったら、とっくに空手部を辞めてるよ」
「それもそうだな──」
「折角の高城君とのロマンティックな空のランデブーは意地でも成し遂げ──」
 俺は紫村を置き去りにして逃げた。後ろなんて振り返らない。振り返ってなんてやるものか……涙で前が見えないよぅ。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【バールのようなもの】主人公が言っているのは多分、金てこと呼ばれる工事現場での解体作業に使われる道具のこと。炭素鋼などで作られた太く丈夫な棒状をしており、片方の端がヘラ状のスクレイパー状、または釘抜きになっている。もう片方の端は槍の穂先ほどではないがかなり尖っていて、勢い良く突けば十分人体に突き刺さる。
 非常に凶悪な破壊力を秘めているが、全長1800mm径32mmクラスの大物の中には12kgという馬鹿げた重さの物もあるので、これを武器として取り回すのは人類にとっては不可能事なためか販売については特に規制されていないようです。
 ゾンビ物の主人公がフィジカルチートされている場合には対ゾンビ用の最上級装備と言って過言ではない。



[39807] 第77話
Name: TKZ◆504ce643 ID:4b7831c9
Date: 2015/06/15 23:20
「レベルアップだ!」
 今の俺に必要なのは、もうどうしようもない程の圧倒的レベルアップ……龍を狩ろう。3匹くらい一気に狩ろう。
「朝っぱらから何だよぅ……」
 俺の目覚めの第一声に2号が目を覚ました。
「レベルアップだよ。もうお前のダラダラとしたペースに付き合っている場合じゃないので今日は一気にレベルを上げを敢行する」
「いきなりだ。それじゃあ僕は一体どうなるの?」
「知らん! おこぼれでレベルアップはさせてやるが、お前のペースに付き合っている場合じゃなくなった」
「何で? 昨日の晩、寝るまでそんなこと一言も言ってなかっただろう」
「お前が寝た後に、色々と考えることがあったんだよ」
「僕が寝た後に? 一体何があったんだ?」
「……言いたくない」
「言いたくないって、子供か!」
「俺は14歳の子供だと言っているだろう! 子供が子供で何が悪い」
「全く、都合良い時だけ子供を気取ってズルイだろう」
「ズルイなどと口にした段階でお前は既に負け犬だ。黙ってレベル上げた後で戦い方を自分なりに考えるんだな」
「くぅぅぅぅっ! この口から先に生まれてきたような輩か!」
「ほう? 俺の口と手、どちらが速いかを確認したいという事だな?」
 2号の前でシャドウ・ボクシングを始める。
「誰もそんな事言ってないだろう! 何そのいじめ? 僕はごく普通に感じた疑問を口にしただけなのに……」
「好奇心猫を殺す」
「その言い回しは何? 凄く怖いんだけど」
 成るほど、そんな言い回しはこの世界には無いので、システムメニューが適当に直訳したな。
「知らなくても良い事を知ろうとすれば、思いがけない死が訪れる事ってたまにあるよねって意味だ」
「そんな事たまにあってたまるか!」
「猫の世界ではよくあるそうだ」
「そんな猫の世界はありません! あってたまるか」

 着替え終えた俺と2号は飯を食いに食堂に下りる。
 今更、人目につく場所で出来るランニングなどは何の体力作りにもならないので仕方が無い。本来ならレベルアップをもっとゆっくりとしたペースにして基礎体力をしっかりとつけるべきだが……所詮他人事である。良く考えたら2号は友人の前田に一部性格が良く似ているだけに過ぎない。た、単に弄り甲斐があって面白いだけなんだから。
「それで一気にレベルアップって何を倒すつもりなの?」
「龍」
「……自分を倒してどうするの?」
「リューじゃない龍だ」
「ナイス、ジョーク!」
「だから俺は、水龍と火龍を狩った事があると言ってるだろう」
「えっ? 冗談じゃなかったの」
「今日は3匹ほど狩る予定だ」
「どうやって3匹も?」
「お前が龍の居場所を突き止める。俺がぶち殺す……簡単だろう?」
「いや無理。僕には3匹どころか1匹も当がないよ」
「……使えねぇな」
「僕が責められるの? いきなり聞かれて、龍の居場所を知らなかっただけで、責められてしまうのかい? それが下々のやり方だというのかい?」
 その態度にイラっとしたので細くて高い鼻梁を掴んで鼻輪捻りをお見舞いした。

「言っておくが、お前はとっくに下々だからな」
 鼻を押さえながら涙目になって地べたに這う2号を見下ろしながら告げる。互いの立場というものをはっきりとさせるのが人間関係の第一歩だ。
「はい……申し訳ありません」
 周囲からの奇異の目に晒されながら床に正座し土下座して謝る。
「親に勘当された貴族なんてネズミの糞にも劣る存在だという事を忘れるなよ」
「はい……うぅぅぅ」
 自分の立場を再認識して、あまりの惨めさに涙する2号を放置して、今後について考える。
 冗談ではなく今日中に龍を3匹ほど狩ってレベルを60以上に上げたい。
 現実世界の方では、あれから更に100体以上のお化け水晶球を狩って何とか55まで上がったが、正直レベル54と55では、レベルが高くなるほど1レベルの能力差が大きくなる傾向があるとはいえ戦力としてはそれほどの差は無い。
 ここ以上に訳の分からない異世界だ。今のところは敵対的な存在はお化け水晶球だけだが、今後どんな敵が現れるかも分からず、しかも【セーブ&ロード】も使えない状況ではレベルアップによる戦力上昇しか生き残るための有力な手段は無い……仕方が無いな。使いたく無いが札を切るしかないな。


「やっぱりあったか」
 人口が1万は超えるだろうイーリベソックの街には、当然のように『道具屋 グラストの店』が存在した。無かったら驚くし、何より困る。
「ここってトリムの……あれ?」
 戸惑う2号を無視して扉を開け──
「おお! ご主人様だ! ご主人様が私に会いに来てくれた!」
 開けた瞬間に扉の向こうに立っていたドMエロフに抱きつかれる……何せ扉の向こうは別の空間につながっているという店だ。扉を通して向こうの気配を探るどころか、マップ機能すら通用しないために警戒してはいたが回避出来なかった。
「お前になど用はない。今日はミーアに尋ねたい事があって来た」
 そう言いながら、俺の背中に腕を回して万力のように締め上げてくるドMエロフの耳に、すぼめた唇を寄せて強く息を吹きかける。
「ひやぅっ! な、な、何を!」
 驚いて腕を放すと、飛び退いて耳元を押さえる。
 これは噛み合って離れなくなった闘犬を引き剥がすためのテクニックの1つだ……犬です。闘犬です。面倒なので【昏倒】で眠らせておく。

「リュー様。いらっしゃいませ。最近はお見限りでしたね」
 床の上に転がった妹の姿に顔色1つ変えずに、笑顔で出迎えるミーアがクールすぎ。
 俺としても、他に知られたくない話をするつもりなので、このまま話を続けられるなら文句は無い。
「見限りたいのは確かだが、用があって来た」
 3日ぶりでお見限りもあったものではないが、あえて否定はしない。
「つれない方ですね……御用を承りますわ」
「情報が欲しい……龍だ。この街から近い龍の巣とまでは言わない狩場の情報を、入手可能な限り手に入れたい。代価は金か魔力、そちらの望むもので払う」
 俺の言葉にミーアの形の良い眉がピクリと動く……彼女にしてみれば思いがけない失敗なのだろうが、俺からすれば見事なポーカーフェイスだと思う。俺以外の誰がこんな馬鹿げた事を頼むだろうか?
「失礼ですがリュー様は龍と呼ばれる存在について、どの程度ご理解されていらっしゃるのでしょう?」
 つまり直訳すると『龍と戦うなんて100年早いんだよ』て事か、確かに要点だけを抜き出すと失礼だ。会話っていうのは要点が大事で、回りくどい言い回しや冗長性は無駄だと断じる奴も居るが、要点だけの会話だと殺し合いに発展する場面も少なからずあると思うよ……大島が常に率直過ぎる話し方をするのは、それを望んでるのだから。

 俺は魔法の収納袋の中から取り出すように見せかけて【所持アイテム】内から水龍と火龍の角を取り出すとミーアの前にかざしてみせる。
「……これは、まさか?」
「俺が自分で狩った龍の角だ」
「……人間離れした魔力の持ち主とは思っていましたが、龍を倒すほどの力を持っていらっしゃるとは思ってもみませんでした……」
 そう話すミーアの目は2本の角を完全にロックオン。ゆっくりと左右に振ってやるとテニスの試合の観客のように、角の動きに合わせて首が動く……妖艶と評して首を横に振るような男など居ないだろう彼女の事を、少しだけ可愛いと思ってしまった。
「欲しいか?」
 俺の言葉に無言で首を縦に振るが、その際も視線は角から1mmたりとも外すことはない。
「そうか……」
 かなりの価値があるようだ。現状で使い道があるわけではないし、売ればかなりの値がついて旅を続けるにしても十分な資金になるだろう。
「ならば、ゆず──」
 そう口にしかけた瞬間、システムメニューが起動し時間停止状態になり『それを手放すなんてとんでもない→【火龍の角】(重要アイテム)』というアナウンスが目の前に赤色で表示された。
 何だ? とりあえず火龍の角を収納して【所持アイテム】のリストから火龍の角を選択して、詳細データを表示させる。
 【火龍の角】:火龍の莫大な魔力を秘めた物品。全長95cm 重量3.2kg 重要アイテムのために売却、交換、譲渡、および放棄は出来ません。
 ……しかし、何が重要なのかはさっぱりわからない。分からないが駄目と言われて引き下がるほど素直な子じゃないんだよ。
 システムメニューを閉じると、再びミーアに「ゆず──」『それを手放すなんてとんでもない→【火龍の角】(重要アイテム)』
 分かったよセニョール。あんたは余程の頑固者のようだな……だが俺はもっと頑固者なんだ!
 システムメニューを閉じ──『それを手放すなんてとんでもない→【火龍の角】(重要アイテム)』
 何ぃ! システムメニューが閉じることが出来ず、時間停止からすら抜け出せないだと!? 畜生、システムメニューの奴め本気だな。システムと呼ばれる存在だけに、何度繰り返そうが決して奴が折れることは無いだろう……奴のルールの中ではな。
 ならばルールの外、すなわち例外事項を突く。そここそが突破口があるはずだ。
 売却、譲渡、放棄が禁じられているなら、それ以外の方法で俺の手元から無くなるのならシステムの穴を突けるかもしれない。そう盗難とかな、誰かに盗ませれば……いや待て、誰かに盗ませて何のメリットが俺に有ると言うのだ? 金に換えたいのであってシステムメニューの意に反することが出来るなら何でも良いわけじゃない。
 畜生。俺の負けだ。肝心の売却と交換をピンポイントで封じられてはどうしようもない。

「……譲ってやってもいいぞ。水龍の角なら」
「火龍の角もお願いします!」
 まあ、両者の力からしても火龍の角の方に価値があるのは俺にも分かるから、そうなるのは当然だろうが……
「悪いが火龍の角は手放せない」
 手放したくても無理だから。
「そんな事を言わずに、どうかお願いしますリュー様」
「肩をはだけるな……胸は引っ込めろ。俺が色気で堕ちると思うなよ!」
 ……すっげぇ堕ちそうです。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 横では2号が、胸元から覗く魅惑の谷間に完全に堕ちています。
「どうかお連れ様からもお口添えを……」
「リューっ──」
 聞くまでも無く2号が口にする内容は分かっているので、最後まで言わせる事無く裏拳を一閃し顎先を打ち抜いて黙らせた。幾らレベルを上げようともこれを食らって耐える方法は存在しない。
「あら?」
 あっけなく気絶した2号に対してミーアが口にしたのそれだけで眉1つ動かすこと無く「大丈夫?」の一言も無い……本当にクールすぎるよ。
 その癖に、俺が火龍の角をしまうと「あぁぁぁ~っ」と艶っぽくも悲しげな声を上げる。

「……リュー様においては釈迦に説法となりますが、龍を狩った経験をお持ちとはいえ、そもそも龍とは人の手に負える存在ではありません。そして同じ龍という名を冠しているとはいえ、その力の差は個体によって大きく異なります」
「分かっている。水龍と火龍では火龍の方が何倍も手強かった。だから出来るだけ強い龍の居場所を教えて欲しい」
「リュー様は分かっておられないようですね」
「いや、分かっている。今更雑魚の龍を倒したところで得る物は無いということも」
 水龍クラスでは1レベル上がるかすら怪しい。最低でも火龍クラスを狩らなければ効率的なレベルアップとはいえないだろう。
 確かにリスクは大きいが、時間停止も【セーブ&ロード】も使えない状況。しかも補給さえ無い状況で戦い続けるリスクを減らす方を選んだ。
「本気なのですね?」
「本気だ。そして勿論正気だ」
 何かおかしい事があるというなら、それは俺がおかれた状況の事だ。
「これで情報を買う」
 そう言って手の中の水龍の角をミーアに向かって差し出した。

「これは、情報の価値に比べて些か過分になります」
「かまわない。今日中に最低でも1体は狩ってくるから元は取れる。ただし俺に情報を売った事、その角を俺から手に入れた事、そして大事なのが俺がこれまで、そして今後龍を狩った事。そのいずれに関しても情報を漏らした場合は……」
「分かっております。『道具屋 グラストの店』の看板にかけてお客様の情報は必ずお守ります」
「看板を持ち出されても、その看板にどれほどの値打ちがあるか分かるほど馴染みじゃない……それに、お前は俺の情報を妹に流した前科持ちだからな」
「そんな昔のことを……嫌ですわリュー様」
 だからちっとも昔のことじゃなねえよ。
「信じるなんて言葉を安売りするつもりはない」
 基本的に裏切られるのは信じた本人の責任だ。
 信頼とは長い時間をかけて互いの誠意ある言動を積み上げることでのみ築き上げる事の出来る神聖なものだ。
 その神聖なものを安売りするという行為自体唾棄すべきであり、"trust me"などと簡単に口にするルーピーはどこかのオリンピックの聖火で焼き鳥にされるべきである。
 そして、そんな中身の伴わない安っぽい言葉を信じる者はすべからく愚か者だ。
 演武に興を惹かれたとはいえ簡単に口車を信じて空手部に入部してしまった俺が言うのだから間違いない……過去の自分に出会うことが出来るなら、こう言ってやりたい「馬鹿すぎて死んだ方が良い」と。

「分かりました。では誓約を立てます」
 誓約ね……
「リュー様はご存じないかもしれませんが、我々商人にとっては誓約を立てるとは自らへの制約でもあるのです」
「制約?」
「はい。商売とは友人とも呼べない他人との間に信頼関係を築き上げる必要がある世界です。その為に我々は互いを信頼しえるように誓約を立てるのです。破れば商売の世界では二度と信頼を得ることが出来なくなる制約です」
 なるほど。法整備された現代社会とは違い、領地や国の枠を超えて適用される法律が存在しないのだろう。
 その割には街道の整備などがなされており、実際に街道を行き来する商隊、行商の馬車などの交通量は多いので、領境や国境を越えて取引を支援するような商人達による組織があるのかと思っていたが『誓約』とやらが、商人同士の契約を履行させるための制約となっているのか。
今のところは良く仕組みが分からないけど、本当にこの世界の常識に疎すぎる。そもそも基本的な事が分からないから下手に聞けば不審がられれるのが怖いので、2号にも聞きたい事が山ほどあるが聞き出せていない。
 いっその事「僕、異世界人で~す」とカミングアウトしようかとも思わないでもないが中々切り出す事が出来ないでいる。
 むしろ2号の方から「もしかしてこの世界の人間じゃないのか?」と察してもらいたい……仕方が無い。少しずつ、そう疑わせるようなヒントを小出しにして会話の中に織り込んでいくしかないな。

「分かった。その誓約を立てて貰う」
「分かりました。では書面を作成します。こちらへ」
 床に転がっている2人を無視して俺はミーアの後に続き、店の奥に据えられたテーブルへと向かう。
「どうぞ、こちらにお掛けください」
 促されて席に着く。
「では、私が持つ、龍達の巣および狩場を含む生息地の情報の対価とし、リュー様がお持ちの水龍の角を譲ると言う取引契約に付随する条件。『本契約自体』『私が対価として得た水龍の角の出所』『リュー様が過去に、そして今後龍を狩ったという事実』この三つを厳に秘することを誓う。以上でよろしいでしょうか?」
「……追加で、今後この店に龍の角を売却した場合についても、水龍の角と同様にしてもらう」
「まぁ……リュー様。そんなに私のことを……これはプロポーズなのでしょうか?」
「いや、単に売る相手を1人に絞っておけば、もし朗詠した時も責任を取らせやすいだろう」
 秘密は自分以外誰も知らないのが最良だ。だが仮に誰かと秘密を共有しなければならないのなら相手は1人だけに限る。
 それ以上は駄目だ。共有する者が1人なら情報の漏洩が有った場合、誰が漏らしたのかは考えるまでも無い。だが共有者が複数居れば特定は難しくなる。それは責任の所在を曖昧にするのに等しい。
「そんなつれない事を仰らなくても、リュー様のお心はミーアには分かっております」
 てめぇ、ある程度こちらの心が読める癖に、何を人聞きの悪い事を抜かしやがる!
 そう胸の中で毒づくと、ミーアはこちらに流し目をくれると小さく微笑んだ……神様、このピーピング・トムに天罰を与えてやってください。

「最後に確認しておく、約定を違えた場合の代償は何か?」
「破滅です。我々商いにより身を立てる者は、この指輪を左の小指にしています」
 そう言って差し出された左手の小指の付け根にサファイアだろうか? 小さな青い宝石をあしらった銀の指輪がはまっていた。
「誓約を破ればこの指輪の石は青から赤へと変わります。そうなれば誰もその者を信用しません。この大陸のどの国の商人であろうと商人ならば相手にする事は有りません」
「つまり表では商売が出来なくなるということか?」
「いいえ、裏で商いをするのは更に難しくなることでしょう」
「へぇ……」
 これは少し意外だった。
「裏社会は何の裏づけも無い世界です。それ故に個人の持つ信頼というものが表社会以上にとても重要になります。表で信用を失くすような者に入り込む余地など有りません」
「なるほど分かった。だが随分と裏の事情にも通じているようだな?」
 俺の言葉にミーアは柔らかな笑みを浮かべると、ささやく様な甘い声で答える。
「お客様が望まれる品を、この世の果てからでも取り寄せて見せるのが我々商人の誇りです。この世の果てよりは遥かに近い裏の世界。そこにお客様が望まれる品があるというのならば手を拱く事は商人としての名折れ以外のなにものでもありません」
 つまり裏世界の住人と取引を厭わないということだ。
「そんな事を言っていいのか?」
 流石に公にしていい話ではないはずだ。
「どうぞお構いなく。リュー様が此処で見聞きした事をどなたにお話になろうともミーアは決してお恨みいたしません」
 真っ直ぐ俺を見つめる目に嘘はないと思う。これは俺の情報を妹に流した事への償いという意味なのだろう。
「分かった。今の話は俺の胸の内に収めておこう」
「……ありがとうございます」
 彼女の言葉に無言で頷いた。
 しょうもない妄想と諦めたくない夢、安っぽい意地と捨てられない矜持、それが馬鹿な男の子って奴の生き様だから。
 分かってるよ! それっぽいこと言って誤魔化してるけど、良い格好しいの助平心満載だよ。悪いか? 俺が悪いのか? こんな色気の塊のようなのを前にして、童貞に他に何が出来たって言うの?
 こんな戦力差で勝ち目があるなら太平洋戦争は日本が勝ってるよ!



[39807] 第78話
Name: TKZ◆504ce643 ID:3a54b2dd
Date: 2015/06/15 23:22
 ミーアから誓約書の写しと共に、龍の生息地と巣があると思われるポイントを記したこの国──ラグス・ダタルナーグ王国の地図を受け取った。
「随分高そうな地図に書き込んでくれたな」
「少しでもお役に立つのなら幸いですわ。まだまだ足りない分はどうぞ私のから──」
「それはいりません」
 心の中の「いるもの」「いらないもの」と書かれた箱の後者にそっと入れておきたい。主に俺の心の平安のために……恐ろしいほどのプレッシャー、鎮まれ、鎮まるんだ俺の股間。
「リュー様はいけずな事ばかりおっしゃります……ところで、魔力操作の方が上達されましたか?」
「そうだな操作はそこそこ上達していると思う。魔力の圧縮なら前回の1/1000──直径2mm程度の大きさまで圧縮した状態をリラックスして持続出来るようになったし、自分が認知しうる範囲へ性格に移動出来るようになったが、だがそれ以上の精密な操作が行えない上に魔眼が使えないので術の発動が出来ない」
 実際にやって見せる。
 以前のように垂れ流すことなく身体の中に留めてあった魔力の一部を切り離して身体の外へと押し出す。すると店内の照明器具が強い日ありを放つ。
「相変わらずの上質の魔力ですわ」
 そう呟く、ミーアの右手の中指の指輪にはめ込まれた黒い石も輝き強い光を放っていた……前回は気付かなかったが、これを使って魔力を見ていたのだろうか?
 その魔力の塊を小さく圧縮していく。圧縮空間で魔力は密度を増しながら激しく渦巻いていく。
「まさかこれほどとは……」
 圧縮された魔力の塊にミーアは右手を差し出すように伸ばしていく。中指の指輪の石には先ほどの眩いほどの光は無く、光沢すら無く、ただ全ての光を吸い込む物体化した闇の様に見える。
「僅かな魔力の漏れすらないなんて」
 石に手を翳して光を遮り覗き込みながら呟く……やはり魔力に反応して光を放つ、この店の照明と同じ──もっとも精度は上げてあるのだろうが──魔道具なのだろう。
 豆粒よりもずっと小さな、圧縮した魔力を指先で弾いて圧縮を解除する。しかし開放された魔力は、この部屋の照明と指輪の石をフラッシュライトのような閃光を迸らせただけで、空しく霧散した。
「随分と器用な……ここまで大きな魔力を、ここまで圧縮されるのを見たのは、私は初めてです……」
 驚いたというか呆れたような顔をしている。
「そうか、確かに以前よりは上達したとは思うけど、比較対象がいないから分からん」
 取りあえずは器用と呼べる程度までは上達しているみたいだなが、後は魔眼さえ使えるようになればな……

「魔眼の方は毎日練習は続けておられるのですよね?」
「毎晩、寝る前に1時間程度は」
 ついでに現実世界の方でも……とは言っても、全く上達の気配すら感じられない魔眼の方よりは、魔力操作の方に傾倒してしまっているとも言える。要するにテスト勉強の息抜きが息抜きでならなくなってしまうって奴だ。
 何て言うか、切欠となる何か、もしくはもっと大掛かりなブレイクスルーともモノが無いと魔眼は無理な気がする。

「ここまで魔力操作が上達しているのに、まだ魔眼が使えないというのはおかしいですね……自分の魔力を正確に感じられないならここまでは……」
 もしかして俺って才能無いのか? 良くあるファンタジーの登場人物のように、強大な魔力を秘めながら魔法の行使が出来ないって奴か? そうだきっと重大なイベントを乗り越えると魔法が使えるようになってチートになるんだよな……そうだと言ってくれ、頼むから!

「もしかして、いえ……まさか……リュー様は、魔粒子という言葉をご存知ですか?」
「勿論知っている」
 失礼な、この店で買った『基礎魔法入門』にしっかりと記されている魔法用語だ。魔素とも呼ばれる存在で、魔法はこの魔粒子に魔力で干渉することで発動すると説明されていた。
 本の中でも詳しい説明は無かったが分子、原子などの事であろう。それらを直接魔力で操作する事で効果的に物理現象を引き起こすと考えている。
 特に気体など、例えばある空間内に存在する空気全体を移動させるよりも、分子単位で操作し移動させた方がより少ない力で効果を得られるはずだ。本で詳しく触れられていないのは所詮ファンタジー世界では分子や原子という目で確認できない存在を説明出来ないからだと考えている。
 唯一の魔粒子の性質について説明らしきもので『魔力のみで干渉出来る』とあるが、現実世界でも分子ピンセットの開発に成功したとかしないとかレベルなのに、このファンタジー世界では魔力以外の方法で分子や原子を操作する方法がある訳がないので当然だろう。

「もしかして魔粒子について誤解があるかもしれません」
「誤解?」
「はい、元々魔粒子という存在は正確には分かっていないために書物などにそれを記す際は、どの著者も『分からない』とは書かずに曖昧にして誤魔化す傾向があるため、師について習わずに本を読んで独学で学ぶ方には誤解される方が少なくないと聞きます……リュー様も、私が説明する前に得ていた魔力に関する知識などは独学で身に着けたのではないでしょうか?」
「ああ……」
 その通りだよ。
「それでは魔粒子の事をめには見えないほど小さな粒のようなものと思われたのではないでしょうか? そして魔眼とは小さな魔粒子を見るための特別な視力を与えるものだと?」
「ああ……」
 全くその通りだよ。だけど、そこまで察しがつくほど良くある失敗なら、最初から教えてくれよ!
「本にも書いてあったはずですが、魔粒子とは世界に遍く存在する粒子です。その性質は魔力によって干渉され、魔力、または他の魔粒子以外には干渉されることはありません。そして……これは本には書いてなかったと思いますが、基本的に魔力も魔粒子以外の物体に対して影響を与えることはありません」
 うん?
「待ってくれ。魔粒子は物体なのか? それに基本的ってどういうことだ?」
「何らかの物体だと思われています。そして魔力は物体には影響を与えないといわれていますが、圧縮した場合には星石などの魔石に注ぎ込むと内部から砕くほどの圧を与える事があります。また心に直接的に働きかけることがありますが、これは人体の中の魔粒子に影響を与えているとも言われていますが、正確なことはまだ分かっておりません」
 要するには体験的にこうだと判断されているだけで、実際のところはどうかは分かっていないってことか。
「それじゃあ、結局魔眼って奴はどうすれば身につくんだ?」
「簡単です。2つの魔力の塊を作り出して、身体の外に取り出して並べて下さい」
「圧縮する必要は? それに形や大きさはどうする?」
「形は球状で問題ありませんし大きさは拳大ほどで、それに圧縮も必要ありません」
「分かった」
 言われるままに拳大の魔力の球を2つ作って目の前に浮かべる。必要ないと言われたのだが自然に圧縮されるのが俺クオリティーだ。

「それでは一方を目の前に浮かべたままにして、別の魔力の塊を遠くに移動させてから、勢い良く一方へと移動させて拳1個分の間を空けて急停止させてください」
 良く意味が分からないが一々聞いても意味が無い。どうせやれば分かることなのでやってみる。
 右側の魔力の塊を5mほど右手にゆっくりと移動させてから、自分が制御出来るであろう限界の速度で左側の魔力の塊を目掛けて動かす。
 拳1個分──10cmの距離ギリギリにまで接近させて停止させるつもりだったが、停止させた魔力の塊と左側の魔力の塊の間の距離は予想を大きく外した。
 何故なら減速に入った次の瞬間、左側の魔力の塊は見えない何かに押された様に左へと動く。
 勿論俺は、左の魔力の塊に対していかなる操作も行っていない……これはどういうことだ?
「魔粒子が魔力によって干渉されるように、魔力も魔粒子によって干渉を受けます。今の実験は魔力によって押し出された魔粒子が、もう一方の魔力の塊に衝突して、それを押し退けたという事を確認してもらいました」
「なるほど、だがこれが魔眼の会得にどうやって……いや、そういう事か、つまり魔粒子自体を直接認識する事は不可能だが、自分の魔力を介して魔粒子を認識するという事が魔眼の正体だと」
「はい、その通りです」
 クソッ! クソッ! 魔眼だと言うから、てっきり魔力を眼に集めれば良いと思って必死に、これでもかと高圧縮をかけた魔力を眼に集めてはグリングリンと回転させたり眼球全体を覆ったり、コンタクトをイメージしてレンズ状に変形させたりと色んなことを試した苦労は何だったんだ? ……つうか、今思い返すと凄い間抜けで恥ずかしいんだけど、あぁぁぁっ!
「クス……」
「だから他人の心を勝手に読むな!」
「ですが、あんなに強い感情と共にまざまざと回想されては……ふっふっ……失礼しました。無理でございます」


「結局魔眼とは、一定の範囲を魔力で満たして、その中に存在する魔粒子の位置や運動、形状を把握するということで良いんだな?」
 それが俺の導き出した答えだ。
「その通りです。その魔力で満たされた範囲の事を【場】と呼びます」
「最初に説明しろ」
「まさかご存じないとは思わなかったもので、申し訳ありません」
 ……嘘だな。
「はい、嘘です」
「他人の心を勝手に覗いて悪びれる様子もないのに素直に嘘を認めるな! ……何を言ってるのか自分でも分からん!」
「落ち着いてください」
「誰のせいだ」
「お詫びとしてこれをお納めください」
 そう言ってミーアは1冊の本を差し出していた。
「『基礎魔法入門Ⅱ』……2巻目が存在したのか」
 受け取ってページをめくってみると、魔粒子操作についてかなり突っ込んで書かれている。前の本はある魔粒子を上下に振動させると熱が発生して近くの可燃物を発火させられるという、本当に基本的な事しか書かれていなかった。
「リュー様には必要かと思い用意しておきました。その本に書かれている魔粒子操作が基本になります。全ての火・水・土・風魔法はそれを基本とした派生に過ぎません。【場】の中の全てを把握し理解する。それが世界を知る事だと言われています。その本はまさに世界の扉への鍵です」
 恐ろしいほどの先読み。いや違う、これを用意してあるからこそ、ミーアはこの状況に持ち込んで、ごく自然に渡す口実とする、そのついでに俺をからかって楽しんだ……流石は性悪魔女。
「……そんな照れますわ」
「それで照れるな。そしてしつこい様だが心を読むな」
「ですが、あんなに優しい気持ちで性悪魔女なんて呼ばれたことはありませんから」
 紅潮した頬を隠すように両手を当てる様子はまるで少女のようでもあり……こいつ歳は幾つだ?
「それには教えられません」
 つまりは答えられないような歳か。
「リュー様?」
 一気に部屋の温度が下がった。いかん、これでは寝ている2号とエロフが凍死してしまう。起きろ、起きるんだお前たち。凍死してても良いから起きて俺を助けてくれ。

「ところで、龍は角以外も売れるのか?」
 未だ倒れて目を覚まさない2号を収納してから店を出がけに尋ねてみる。
「その皮、骨、肉など全てが高値で、特に血と牙と爪は角ほどではありませんが、とても高値で取引されています……私にお任せいただけますか?」
 水龍は角以外はネハヘロの町においてきてしまったし、火龍は……またシステムメニューがうるさそうなで止めておく。
「いや、今日狩る分を売れるなら売ろうと思ってな」
「それは……是非にお願いいたしたいところですが、龍の身体は全てとても貴重な品なので出来るのならば全て回収したいのですが、秘密を守りたいリュー様にとっては無理なことですよね?」
 確かに……
「先ほどの誓約に俺個人に関して知りえた全ての情報も秘匿すると加えてくれるなら、龍の全身を回収出来るように便宜をはかっても構わないが?」
「それは構いませんが、回収のために人手を使った場合は、私からではなく、その者達から情報が漏れるのを防ぐのは難しくなります」
 なるほどね全員が商人という訳じゃないから制約なんて意味がなくなってしまうわけだ。
「俺としてはお前から情報が漏れないと確約されるだけで十分だ」
「? ……分かりました。では手続きをいたします」

 手続きを終えてから一つ問題があることに気付いた。
「ところで、龍の身体を回収して解体や保管する場所はあるのか?」
「それは大丈夫です。この店舗以外にも特別な場所を幾つか持っています。ご心配ありがとうございますわ」
 そうにっこりと笑顔で答える。俺を驚かせようという意図があったのだろうが驚かないよ。
「それなら一度、龍の解体を行える場所に招待して貰えないか?」
「勿論構いませんが……」
 俺が全く驚かないので怪訝そうな表情を浮かべながら答えた。

 店舗の奥、バックヤードへと続くのだろうアーチ型の出入り口を、仕切るカーテン状の薄く光沢のある布を手で避けながらくぐると一坪にも満たない正方形の薄暗い部屋出た。
 部屋の中には何も置かれておらず、ただ店舗へと続く出入り口のある壁を除く3面の壁にはそれぞれ扉があった。
「どうぞこちらへ」
 ミーアに導かれて右手の扉をくぐると広い部屋に出る。
 学校の体育館ほどはありそうな空間で、床には大理石とおぼしき石畳が敷き詰められ、壁は白く塗られたレンガで造られていて、壁に様々な道具類が置かれた棚が置かれているが、それ以外は何も無い殺風景な部屋だった。

「ここが解体作業に使われる部屋です。最近はほとんど使われることが無かったのですが、2代前のオーナーの頃には龍、時には巨人などが解体されていたと聞きます」
 巨人いるのかよ。しかも狩っちゃうのかよ。
「じゃあ、ちょっと試させて貰う」
 そう言ってから部屋の中央まで移動し【所持アイテム】内から火龍を選択して取り出した。

「こ、これは……」
「これが俺の能力だ。狩った龍を持って来て、ここで出せばいいんだろ?」
 火龍を収納してから答える。
「ああ……は、はい」
 混乱しつつも火龍が消えたことへの悲しい声を上げる、こんな風な妖艶な美女というのもギャップがあってとても良いものだった。


「わ~い、いきなりだ!」
 【所持アイテム】内から放り出された2号の第一声である。『道具屋 グラストの店』で気絶させられて、気づけば水龍との戦闘準備終了状態と知れば多少ヤケになるのも分からないでもないので許してやるのもやぶさかではない……ちなみにこの場合のやぶさかではないは誤用だ。よく間違われて使うが、テストに出たら『よろこんで~する』という意味だと答えよう。まあ絶対にテストには出ないと思うけど。
「良かったな。何もせずに龍と戦えるチャンスなんて早々ないぞ」
「稀な事例だからって誰が喜ぶんだよ!」
 世の中には何の価値も無いとしか思えない物でも、希少って二文字がつくだけで有難がる奴もいるんだ……理解しがたいがな。
「良いだろう。死んだって死なないんだから」
「僕を戦わせようって言うのかい? 言っておくけど死ぬよ。すぐに死ぬよ! 時間の無駄だから止めておいた方が良いよ!」
「もうセーブは済ましてある。どうせ巻き戻す時間だから惜しくはない。龍がどの程度のものか身体で覚えておけ、普通こんな貴重で危険な経験をノーリスクで体験出来るなんて事はないんだから、しっかり味わって自らの宝としろ、食べ残ししたら何度でもやり直させるからな」
「逃げ道を全部ふさがれたよ!」
「いい加減、死に慣れろ」
「死に慣れるなんて言葉は無いよ!」
「じゃあ、何時か辞書に載った時はお前の名前が刻まれるかもしれないな。その為には強くなって歴史に名を刻むくらいになっておかないとな。どうせそれくらいの事が出来ないなら、お前の目的は果たせないんだし」
「ますます逃げ道が無くなるぅ!」
 いい加減諦めて楽になろうぜ、全てを受け入れてしまえば気分だけは少し楽なるんだから。

 ロロサート湖。イーリベソックを西の湖畔に抱く湖であり、最初の水龍が生息していたネーリエ湖よりも大きく琵琶湖以上の面積──形状が左45度から見たひよこ饅頭に似た形で、最大長は琵琶湖に劣るが、最大幅で大きく上回る──を持つ、ラグス・ダタルナーグ王国の最大級の湖らしい。
 現在俺たちがいるのはロロサート湖の東の湖岸というか崖。岸壁から数mも離れると直ぐに国境の付近に連なる山まで続く深い森に包まれるという場所で、周囲には町や村、そして集落も存在しない。
「なあ、こんなに美しい景色の下で、水龍のような化け物が棲んでいると思うと……全部まとめて地獄へと変えてやりたくならないか?」
「何を物騒なことを?」
「いや、ふと思ったんだよ」
「思うなよ!」
 いや思ってしまうんだよ。
 今回の水龍はかなりデカイ。ミーアの情報では全長が30mを超えるという……身体の大きさが戦力を決定付ける訳ではないと赤い人も言っていたような、いなかったような気もするが、成長の度合いを示す指標であるのは間違いなく、そしてより成長を遂げた個体が強くなるのは必然だ。
 水龍の攻撃パターンは憶えているが、前回の水龍以上に成長していることから、より強力な攻撃手段を持っている可能性も高い。
 実際、水龍以上に成長していた火龍はブレス攻撃以上に強力な攻撃を角から撃ち出してきたのだから。
 心が荒んできても仕方の無いだろう。ミーアには出来るだけ強い龍の居場所を教えろと言ったが龍が怖くないわけが無い。戦うという意思と、相手を恐れる感情は別物なんだから。
「という訳で、俺がおびき寄せるから、お前が突っ込んで水龍の戦力を確認するんだ。基本は無駄に巨大な図体を利した攻撃だろう。控えめに言って一撃で死ぬから動いて避けろ。次に厄介なのがブレス攻撃で、糸の様に細く高圧の水流を放出し刃物以上の切れ味で触れたものを切断する。基本的にその水流は人体では一瞬たりとも遮るのは不可能、一瞬で貫通する。それを首の動きに合わせて自在に放出するから、それを避けて動き続けろ」
「どうやって避けろというんだよ?」
「その答えが見つかるまで付き合ってやるから安心しろ」
「そう言われると何か感動的ですらある台詞だけど、実際は鬼畜の所業だよね」
 早い段階で【精神】関連のパラメーターのレベルアップ時の数値変動を無効にした──精神面でタフになられても面白くないから──ために2号の根性はまだ、赤ちゃんの首並みに座ってない。
「言っただろ『戦う時というやつは勝手にやってくる』ってな」
「そういうのって普通運命が運んでくるものだよね。他人が勝手に運んでこないよね」
「何を馬鹿のことを、人と人の間で生きている者に訪れる運命って奴の半分は人為以外の何ものでもない。つまりこれからもお前に起こりうる運命の多くは、お前に対して圧倒的かつ一方的な影響力を持つ俺によって引き起こされるんだよ……楽しみだろ?」
「何を楽しめば良いんだよ!」
「強くなることを楽しめ。普通はこんな機会なんてないから感謝して良いぞ」
 最初の計画ではレベル20-30程度のレベリングに付き合う予定だったが、逆に俺のレベリングに2号を付き合わせることで奴のレベルは40-50程度まで上がるだろう。
 それは身体能力だけでも精霊の加護持ちにも匹敵する。他にも知能、魔力などのアドバンテージが……何で俺は加護持ちの身体能力を知っている? やはり俺は精霊の加護持ちと……くっ、頭が、意識が…………何かどうでも良くなってきた。
「どうしたんだい?」
 俺の様子に気づいた2号が心配そうに尋ねてくる。
「いや、ちょっと考え事が……これからのお前を思うと楽しすぎて」
「心配して損したよ!」


 2号に威力偵察という名目の鉄砲玉をさせる前に、空中移動を使えるようにする必要があり結構時間が取られることになった。
 まだレベル21なので身体能力的には長時間は難しいが、水龍相手に長時間戦えるとも思わないので十分だろうと思ったのだが、意外に適正があったようで、わずか2時間足らずで香籐どころか紫村にも勝る勢いで空中移動をモノにすると自在に空を跳び回りながら、人類が抱く夢の一つを堪能している。
「意外に結構良い戦いをするかもしれないな」
 そんな思いを抱かせるほど2号の空中移動の適正は高く、足場の岩が出現している時間が慣れている俺と比べても遜色ないほどに短く、必要な瞬間以外は極力収納した状態を保つという、空中移動の極意を指摘されるまでもなく身に着けてしまった。

「よしそれくらいで良いだろう。水龍と戦ってもらうぞ」
 俺の掛け声に地上に降りてきた2号は、そのまま地面に座り込んで一言「疲れちゃった」と呟いた。
 ……イラっ!

『セーブ処理が終了しました』

 アナウンスウィンドウ出現時のポーンという効果音が消えぬ間に回し蹴り一閃。2号は声一つ上げることも無く、ただバキバキと肋骨が盛大に砕ける音を残して崖から20mほど下にある水面へと飛び降りると、一拍おいて自分で起こした波立つ水面の下へと消えた……いきなり湖に飛び込むとは変な奴だな。

『ロード処理が終了しました』

「うわっ!」
 時間を巻き戻されたが、巻き戻す前の意識が残っている2号はパニックを起こしてその場から飛び退き、その拍子に崖から落ちていった。
「何をしているやら……」
 崖っぷちからそっと下を見下ろすと2号が溺れている。パニック状態のまま着衣の状態で水に落ちれば溺れるのは必然だろうが、そのまましばらく観察していると……笑えた。
 そんな自分に対して、紫村が言った「大島先生に似てきたと思ってたよ」という言葉が突然自分に対して牙を剥き、胸を突く。
「駄目だ。これ以上、もうこれ以上、人としての心を捨てては駄目だ……戻れなくなる」
 シンクロ率400%を超える訳にはいかんのですよ!

 2号を助けるためにロードを実行しようとすると、周辺マップのほぼ直下の位置に湖面の下から上昇してくる──水龍を示すシンボルが表示される。
「おおっ!」
 困ったここは、そのまま水龍に2号を襲わせて様子を見るか? それとも2号を助けるか? 悩ましい……いやいや違うだろう。ここは悩むまでも無く助ける。それが人間として当たり前の事だろう……でも2号を囮にして水龍の能力を探らなければ俺の命が危ない。
 ここで死ぬ訳にもいかなければ、レベルアップを諦めるわけにもいかない。単に紫村と香籐と一緒に現実世界に戻るのだけが俺の目的ではないんだ。俺には部員全員を無事に連れ帰るという使命がある。そして北條先生に褒められるという下心たっぷりの目的がある!
 そう学校に戻って『あんな大変な嵐の中、皆を無事につれて帰ってくれてきてありがとう』なんて言われてハグされたりして、その胸の柔らかな感触に……
「ぅああぁぁぁっ!」
 そなん妄想をしている間に、2号は湖面を突き破り現れた水龍のあぎとによって頭からパックリと咥えられていた……うん、良い経験を出来て良かったねという事にしておこう。
 だが、どうせならば俺にも良い経験をさせてもらいたい。
 崖っぷちを蹴って跳ぶと、水龍の頭上で足場用の岩を投下。こいつはロロサート湖の北岸にある山の岩場から切り出した【大坑】による円柱形の大型サイズだ。
 水面を突き破って空中に全身を晒した水龍は、俺が倒した火龍よりに比べても一回りは大きかった。
 その巨体の首の付け根付近から背中にかけて、立て続けに5個を落としていく。高さ20m以上から落とされた4tの岩の衝突の衝撃に、流石の水龍も痛みに巨体をのた打ち回らせる。
 そのタイミングで俺は【迷彩】で姿を消してから6個目と一緒に自由落下に身を任せる。
 だが水龍の角が光ると湖の表面が一枚皮を剥ぎ取られたかのように浮かび上がると、水龍の表面にドーム上の幕を作り上げ、岩は幕に当たると、何の衝撃も無く、ただその表面を滑るように軌道を変えてしまう……この水の障壁が水龍のブレスとは別の特殊能力って奴なのか? それとも水を自由に操ることで身を守るだけではなく攻撃にも? 4t近い質量を持つ岩を受け流す強度を持つなら、武器とすることも可能だろう。
 だが、そんな事はどうでも良い。俺は姿を消した状態で岩とともに幕の表面を滑り落ちつつ、火龍戦で使用した全長20m以上、直径45cmほどの大木をしっかり狙いを定めた状態で装備した──

『ロード処理が終了しました』

「うわぁっ! うわぁぁぁぁぁっ!」
 先ほどと同様にパニック状態で後ろに飛び退いて、崖から落下コースに乗り掛けた2号の首元を捕まえて森の方へとオーバースローで投げ飛ばす。
 まるでギャグ漫画の過剰演出のようだが、実際木に叩きつけられた2号は、受け止めた木が幹ごとへし折れているのに「痛たたた」とぶつけた肩を抑える程度で済んでいるくらいなので、レベルアップによる身体能力の向上自体がギャグなのだろう。

「倒し方が分かったから俺が手本を見せる。それからロードして、お前にやってもらう」
「僕が水龍と?」
「そうだお前がだ。本来、お前に任せている余裕が無いが、ここの水龍は上手くやればお前にも倒せそうだからやらせてやる」
「……マジで?」
「マジだ! 滅多に無いチャンスだぞ。実戦に勝る練習無しと昔の偉い……名前も知らない誰かが言っていたような気がする。自分の手で水龍を倒して実戦の感覚と自信をつける絶好の機会じゃないか?」
「途中で何か台無しな事を口にしたよね?」
「良いから黙れ……俺の笑顔が消える前に! そして俺のお手本を見ておくんだな」
「最初から笑顔なんて何処にもないよ!」


 崖っぷちに立って【所持アイテム】内から岩を目線の高さの位置に取り出すと、そのまま蹴り飛ばす。初期型の足場用の岩なので重さ1tほどを水平に対して45度の角度で重力に逆らわせるには、今の俺の身体能力をもってしても股関節に来るものがあった。
 続け様に岩を2つ蹴り飛ばした後に、最初の岩が岸壁から40mほど離れた水面へと落ちて大きな飛沫を上げた。
「50mは飛ばせるかと思ったんだが、そこまで飛ばすと股関節を傷めることになるのか……まだまだだな」
 湖面に出来た、ほぼ同心円の3つの波紋を見てから、再び【所持アイテム】をチェックして中からオークの死体を取り出し、担ぎ上げると色んな汁が垂れてきそうなのでジャイアントスイングで湖面に投げ入れる……背後で、遠心力で飛び散った色んな汁を浴びてしまった2号の悲鳴が聞えたような気もするが無視した。

 オークの死体が狙い通りに、水面に4つ目の同心円の波紋を生み出すと同時に、その直上を目指して跳躍する。
 そしてその位置をキープしながら、上に跳んでは自由落下を繰り返しながら待っていると、予想通りに周辺マップに水龍のシンボルが現れて湖底から急浮上してくる。
 流石に緊張を覚えるな。相手は何だかんだ言っても化け物だから俺としては、何としても一撃必殺される事だけは避けなければならない。
 逆に言えば一撃必殺されなければ何とかなる、レベルアップのお陰でたとえ首を刎ね飛ばされても意識を失うことなくロードを実行する事は出来るだろう……何か強力なヘルメット状の魔法のアイテムを手に入れた方が良さそうだな。

 流体の中を移動する物体が表面に纏う膜によって湖面が盛り上がる。その盛り上がった中心部めがけて装備した大木と共に落下する。
 足場岩を蹴りながら重力加速度を超えて加速した大木の尖った先端はオークの死体の胴体部分を貫通し、さらにその下に迫っていた水龍の頭部を貫いた……流石に貫通力が勝ったのか、それとも落下してくる俺の存在に気付かず水の障壁を張らなかったのか、はたまた水の中では障壁を張れ無かったのかは分からないのが問題だが、身体に対して小さな水龍の頭は、直径45cmの物体の侵入に内圧で皮は引き裂かれて砕けた骨が飛び散り、命の終焉を迎える。

 水龍は命を失っても、頭部を破壊した後にそのまま胴体にまで深々と突き刺さった大木の質量をものともせずに、その巨体を水面を突き破り水上へと飛び上がらせる。
「……あれ?」
 俺は反動で大木から手が離れて宙に投げ出されながら、あることに気付く。
 追い討ちをかけるまでも無く完全に頭部は破壊されているのに、討伐完了のアナウンスウィンドウが現れないのだ。
 そう言えば先ほどロード実行前にアナウンスウィンドウは現れなかった。
 疑問の答えはすぐに分かった。水龍は1匹だけじゃなかったのだ。周辺マップ内に新しい水龍のシンボルが現れた……戦闘継続中ってわけだ。

 水龍が群れを作るかどうかは知らないが、少なくとも繁殖期なら交尾のために雄雌の番がいてもおかしくは無い……群れるというのだけは無しにして欲しいものだ。
 1匹目の水龍を収納すると上空へと逃げる。流石に水龍の特殊能力の全てが分かっていない状況で命を張って接近戦で殴り合うほど酔狂ではない。

「でけぇ……」
 先ほどの水龍が20m台後半ならば、2体目の水龍は二回り以上で+10mはある圧倒的な巨体に、思わずため息がこぼれる。
 番だとするならこちらが雄なのか、それとも蜘蛛の様に大きいこちらの方が雌なのか? しかし、そんなことなどどうでも良いと思えるほど見事な生き物だった。強くそして何よりも美しく俺の心を惹きつける。

 それはさておきだ。明らかに予想よりも強いこいつと戦うか、それとも逃げるか、ロードして仕切りなおすのか判断が迫られる。
 幸いまだ奴は明らかに周囲を警戒しているが、俺が空中にいる事には気づいていない。
「きゅぅぅぅぅぅぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
 水龍が吼える。しかしそれは威嚇というよりも呼びかけるような響きだ。多分1匹目の水龍を呼ぶ声なのだろう。もしかしたら水龍の番は繁殖期のみの伴侶ではなく、狼などのように生涯連れ添うような一夫一婦の生態を持つのかもしれない。
 だが罪悪感や同情などを抱く気はない。そんなものは水龍自体が捕食において獲物が夫婦だろうが親子だろうが感じたことは無いだろうと割り切ったからだ。
 これが大島ならば、生存競争という純粋なる闘争に余計な感情を持ち込むことこそ失礼だと切って捨てるだろうが、そこまで俺は戦闘民族ではなかった……無かったはずなのだが、こうして強敵を前にして、戦いたいと胸が疼かせる自分が居ることに気づく。
 何故だ? 己の命を天秤の片側に乗せて釣り合うほどに、戦って守りたいものも、戦って奪いたいものも無いはずだ。それなのに戦いたいと思ってしまう。
 やはり、俺が小者であるが故の思いなのだろうか。所詮レベルアップの恩恵など借り物の力であり、状況が変われば失われて然るべきものだという思いは拭い去れない。だからこそこの力がある内に強者と戦いたい。自分が一生かけて力を蓄え技を磨こうとも、その前に立つ事さえ叶わない様な敵とやり合ってみたい。別に崇高なまでの戦いの意思に目覚めたというわけではない。
 借り物の力に溺れてみたいという安っぽい感情であり、もしも美味い飯を食べて心が満たされていれば湧き上がる事もなかったような、泡の如き曖昧な感情に過ぎないのだろう。

 ……いや違うな。どう説明付けてもしっくりこない。俺の中の焦燥感にも似た何かが戦いへと俺の心を追い立てている。
 奴を逃がすこと、奴から逃げることを強く拒否する感情が強く俺を突き動かそうとしている。
 その感情を生み出す何かの正体については全く思い当たるものが無い……となれば頭の中に時折よぎるおかしな記憶に関係するとは想像がつくが、すぐにどうでも良くなってしまう。

「挨拶代わりだ受け取っておけ」
 投下した岩が水龍の背に当たって砕ける。流石は俺の知る限り最大の巨体を持つ生き物だけあって小さい1tタイプの足場岩では大してダメージを受けた様子は無い。だが上空に居る俺には気づいたようだ。
 こいつには不意打ちで一気にかたをつけるという方法は取らない。この見事な化け物に対して、それが出来るくらいなら哀れな2号を先にぶつけて水龍の手の内を確認している。
 水龍はこちらを鋭く睨み付けると、湖面から水の膜を剥ぎ取るとドーム上に自らを守る盾とする。そしてさらに水面から抉り取られたかのように浮かび上がった水の塊が、撃ち出された砲弾のように上空の俺に迫る。
 だが所詮は500km/h程度の巨大な水の塊であり、俺の眼に捉えられない訳も無い。そして見えるなら十分に避けられるだけの距離はとってある。
 しかし高速で移動する水の塊が形を維持しているということは、俺の【水球】系と同じように魔法的な手段で形状をキープしているはずで、単に撃ち出された水の塊であるはずが無い。
 それに気付いて左へと大きく跳んで避けると、予想通りに追尾してくる。
「……だが、魔力と魔粒子について学んだ俺の敵じゃない!」
 自分の魔力に比べ他人の魔力は朧気に感じ取ることは出来ても、とてもじゃないが『見る』というレベルで認識することは出来ない。だが水の塊を動かすという現象が目に見えている以上はな……
 足場用の岩を蹴り空中を跳んで逃げつつ、圧縮した魔力をしつこく追尾する水の塊に向けて飛ばして衝突の瞬間に圧縮を解除する。
 衝撃波の様に広がる魔力の波に、水の塊は水龍の支配を外れると形を失い細かな水の粒となって重力に引かれて落ちていく。
「……やってみるものだな」
 正直、確信を持ってやったわけじゃなかった。
 魔力で魔粒子を操作を行うことで魔法の効果が現れるならば、そこに自分の魔力をぶつけてやれば相殺もしくは妨害出来るだろうという思い付きであり、ミーアに教わったものでも本に書いてあった知識でもない。

 俺は圧縮した魔力を送り込んで開放する事で、均一な魔力ではなく強弱のある波として水龍の魔力の支配下にある魔粒子へとぶつける。
 多分、本来は相手の魔力による魔粒子操作を妨害して効力を完全に消すためには、相手が使用した魔力と同等以上の魔力を行使する必要があるだろうと思う。
 しかし、今回は水龍の魔力を上回る振幅する波の高い部分がぶつかった瞬間に、魔粒子を操作するための魔力を満たした領域──【場】へと侵食し魔粒子を無秩序な状態へと化すと次の瞬間に霧散して消えた。つまり、魔力を強く圧縮できるならより少ない魔力で相手の魔法の行使を妨害することが可能ということだ。
 水龍の魔力は大きく、その魔力を相殺するどころか干渉して魔粒子への操作を止めるのはかなり難しいのだろうが、魔力の圧縮、そしてレベルアップによる【魔力】の底上げにより十分に戦えそうだ。
 水龍の【魔力】量の底が見えている訳ではないが、少なくても俺と水龍のどちらかの魔力が尽きるまで戦いが続く事はない。
 漫画じゃないんだ1対1の殺し合いがズルズルと長引くはずが無い。水龍の攻撃は全てが俺にとっては致命的な威力を持ち、俺の幾つかの攻撃も水龍の命には何とか届くのだから戦いは僅か数手で決まる……決まらなければ俺が死ぬだけだ。
 そして俺が勝つためには、どうしても間合いをつめる必要がある。最低でも一番リーチの長い攻撃手段であり、1匹目の水龍相手を討つのに使った木の全長である20m以内だ。
 その間合いに入るまでは俺には水龍に対して有効な攻撃手段は無いが水龍にはある。俺の間合いでも水龍には俺を一撃で死に至らしめる攻撃手段が豊富に揃っている……冷静に考えれば考えるほど何で水龍と正面切って戦ってる自分が馬鹿に思えて仕方なくなってくる。
 先ほどまで感じていた水龍と戦いたいという強い思いは、戦闘が始まったと同時に消えている。まるで屋根に上がらされた挙句に、上がった途端にはしごを外されたような感覚だ。

 圧縮した魔力の塊を可能な限り多く作り出す。現状では同時に維持出来る魔力球は9個だった。
 それを維持した状態で、俺は足場岩を蹴って中途半端な宙返り状態から「装備!」現れた大木を両腕に抱えると、新たに出した足場岩を蹴り加速して水龍目掛けてダイブを敢行する。
 水龍も素早く反応して、再び水の塊を俺に向けて操作するが、近づくと圧縮した魔力球を開放して魔力操作を無効化し、ただの水の塊と化したモノを【操水】でコントロールを奪い自分の前方からどける……ちなみに自分の魔力では、自分の魔力操作を阻害したりはしない。自分が魔力で操作している範囲に達した魔力は、その操作のリソースとして取り込まれるだけなので、既に作り出されている魔力球が解除されるようなことは無い。一方、魔術である【操水】の方はどういう理屈で効果を発揮しているのか分からないが、やはり影響は受けないようだ。

 次いで水龍はブレスによる攻撃に切り替えるが、水龍がこちらに向けて口を開いた瞬間、魔力球を口元に送り込んで開放すると、ウォーターカッターのように撃ち出されるはずのブレスは、魔力操作を解除された途端に自らの速度で霧のごとく細かい飛沫となる。
 そして、次の瞬間には20mの大木の槍の先端が水龍を間合いに捉えていた。
 大木は角の生える頭頂部分を避けるように突き刺さり、水龍の頭と命をまとめて吹っ飛ばした。

『水龍2体を倒しました』

 ……レベルが7上がって62レベル。ちなみに2号は一気に30レベルアップでレベル48になった。レベルアップのアナウンスが1レベル刻みだったなら、さぞウザイことになっただろう。
 ちなみにシステムメニューがバージョンアップした。何がどうバージョンアップしたのかアナウンスは無いが、Ver1.0.0からVer1.1.0に上がっている。
 アナウンスが無いので、一瞬、名前だけかと疑ったが、以前『道具屋 グラストの店』の店内をマップ機能で確認しようとしてアナウンスされていたレベル60まで上げろいう指示を思い出して、マップ機能をチェックすると確かに強化されていた。
 強度300までの魔法障壁を無視してマッピングできるようになるとの事だが、その「強度」というのがどういう基準なのか分からない。
 だがマップ機能自体は強化されていて、周辺マップの表示範囲は半径300m、広域マップは半径9kmまで拡張され、ワールドマップの拡張は無いが、各シンボルの区分が更に詳細化されて、シンボルを指定するとその個体の状況を簡単にだが表示されるようになった。

 また【魔術】の各属性のⅣが開放されたが、これはシステムメニューのバージョンアップというよりは普通のレベルアップのお陰だろう。だが今後は使えそうな魔術が……いや期待するのはやめておこう、辛くなるだけだから。
 ついでに、これはバージョンアップのお陰か判断が塚仲居が、レベルアップ時のパラメーターの上昇率がレベル61への上昇時からそれまでの上昇幅に1.5倍程度に大きくなっていた。まあ、それ自体はありがたいが、それだけ今後のレベルアップが難しくなるということでもあるのだろうと思うと気が重い。
 間違いなく龍を倒してもレベルアップ出来ない状況が近づいてきているのだろう……何と戦えば良いのか?

「ところで、ロードしてやり合ってみる?」
 2号に尋ねると、とんでもないと首が千切れんばかりに横に振られた。
 正直、俺ももう一度戦えと言われても困る。今日はもう十分に戦ったよ。

 午前中の、しかもかなり早い段階だが今日のノルマのレベル60を達成したので街に戻る。
「時間が濃密過ぎて、もう1日が終わってしまってもおかしくない勢いなのに、まだ昼飯時ですらないんだぜ?」
「僕は基本的に見てるだけだったとは思えないほど疲れたよ」
 酷い目にあったけどロードで、記憶の中以外には存在しないことになってるからな。
「飯まで時間があるから先に用事を済ませるわ」
「そういえば結局、うr──」
 迂闊な事を口走ろうとする2号の口を手で塞ぐ。
「余計なことを言うな。黙って付いて来い」
 2号は気絶していたのでミーアとのやり取りの事を知らないという基本的な事を忘れていた。

「リュー様。お早いお戻りですが、どうかいたしましたか?」
 店に入ってきた俺達を迎えるミーアにはなんとも言えない表情が浮かんでいた。戻ってくるのが早かったので何かあったかという心配と、狩りに失敗したのかという残念さ、そしてそれを表情に出すまいとする努力が交じり合っている。ついでに言うと2号の存在は視界に入っていても、視界に入っている様子も無い。
「水龍2体を納品に来た」
「……はい?」
「だから水龍2体を納品に来た」
「まさか……こんな短時間に?」
 ちょっと素の言葉遣いになってますよ。
「指定されたポイントに行くとすぐに水龍が出て来たお陰だ。しかも2体もな。良い情報だったよ」
 本当にピンポイントだったからな。本当なら探すのにもっと梃子摺ると思っていたのだがラッキーだった。
 だが2匹もいるとは聞いてなかったので、それについては軽く嫌味を言わせてもらった。
「2体も同時に出て来たって、それでどうやって?」
 完全に地が出ちゃってますよ……と強く念じる。
「し、失礼しました……ゴホン。ではリュー様こちらへ」

 解体作業用部屋に入ると、そのまま部屋の中央まで進むと、右よりの位置に立って小さい方の水龍を取り出す。
「これは随分と立派な水龍ですね」
「さあ? 俺は水龍についてそんなに詳しく知らないからな」
「先ほど頂いた角の主である水龍は10歳にも満たない個体でしたが、この水龍は300年以上の齢を重ねているでしょう。水龍としてはかなり長生きの部類だと思います」
「なるほど、それならこれはどうなるんだ?」
 そう言いながら左側に同じ方向に頭を向けて並ぶように、大きい方の水龍を取り出した。
「…………」
 驚きのあまりに声が出ないで口がパクパクとしてるよ。
 余りに素晴らしい表情なので、ここは俺の胸の内に秘めるのはもったいないので、絵に残して妹のエロフにプレゼントしてやろうと決めた。

「大変申し訳ありませんが、これは買い取れません」
 ミーアが深々と頭を下げる。
「無理か……」
「この店の回転資金ではとてもこれほどの龍の角を買い取ることは無理です」
 大きい方の水龍は1000歳近い超大物であってミーアには手が出せないそうだ。
「商人としてこれほどの品を目の前にして指をくわえる事しか出来ないのは、情けなく残念なことですが」
 うん、はっきり言って仕方が無い。だって彼女が購入した小さい方の水龍の角だが、彼女が口にした値段を聞いて今度は俺が無言で口をパクパクさせてしまったほどだ……正確な数字を出すのも嫌らしいのでヒントを出すと、俺の想定していた数字と丁度2桁違っていた。
 そして大きい方の水龍の角の値段はその10倍はすると言うので、右から左へ転売するための一時的にというのも可能だろう。
 むしろ小さい方の角を買えるほどの資金を、普通と呼ぶには物凄く抵抗があるが基本的には個人商店の経営者に過ぎないミーアが、プールしていたことこそ驚きだ。
「とはいえ、この角も使用する目的が無ければ、別に今すぐ金が必要という訳でもない……」
「いや、それを金に換えれば僕がミガヤ領を継げるように王都の重臣達に根回しする資金になるんだけ──」
 2号にボディーブロー。全力の半分ほどで殴ったが、流石にレベル43にもなると死なないものだ。もっとも2号にとっては、いっそ死んだ方がマシと思えるほどの地獄のはずだ。現に自分の嘔吐物の上に倒れ込んでゲロの海で溺れ死にそうになっている。
「他人の金で何とかしようなんてふざけた事を今度口にしたら、例え冗談であろうとも容赦なく殺すからな」
「…………」
 2号は無言で壊れたロボットの様な不器用な動きで頷く。
「そんな真似して夢を叶えて、それで良いと思っているのか? そんなので納得出来るのか? 嬉しいのか? 何より俺が面白と思えると思ってるのか?」
 本音が漏れてしまった。だって何の縁も無い他人に過ぎなかった2号に手を貸したのは、はっきり言って面白そうだったからだ。
 それ以外には大した理由は無い。王都でのこいつの伝を利用させて貰おうという弱い動機と、思わず実験台として収納してしまったという縁だけだ。

「ビドビィィィ!」
 ゲロに顔を漬けたまま抗議の声を上げるが何を言ってるのかさっぱりだ。
「俺は小さい子供に不思議に夢を叶えてあげる神様か? お前は幸福はきっと誰かが運んでくれると信じている少女なのか? そんな奴はいおらん! 俺はお前が苦しみ流した血と涙に応じて欲望を叶えてくれる可愛い妖精さんだと思え」
 俺の言葉に2号は身体を起こして、キッと俺を睨み付ける。 流石はレベル43だな、もう回復したか……人間離れしすぎてキモイと自分を棚に上げて思った。
「あ、悪魔だよ。それは悪魔だ! ……君がそんなのだから、あのドMに絡まれるんだよ!」
「その話はするな! 出たらどうする?」

 次の瞬間、店舗へとつながる扉がバーンと音を立てて開け放たれる。
「出た?!」
「呼ばれて参上!」
「呼んでない!」
 俺と2号の声を一つにして胸の無いエルフに突っ込む。
「アエラ。扉は静かに開けなさいと言ったはずよね……何度も」
「姉さん……ごめんなさい。ごめんなさい」
 一瞬で顔色を変えるとペコペコと頭を下げながら、丁寧過ぎるほどにそっと扉を閉める。
 この姉妹の力関係はとても分かりやすい。

「ところでミーア。お前の妹はどうすればいいんだ?」
 部屋の中央に転がる2体の水龍に興奮しながら「おぉぉぉっ!」とハイテンションに声を上げながら食いついている胸の無い方のエロフの処遇を、その姉に問いかける。
「困りましたわ。流石に私の店の中で身内に知られて、情報が流出という事になれば私が情報を漏らしたのではないなんて言い訳は出来ませんし……要らぬ事を口にしたらヒキガエルになる呪いでも掛けようかしら?」
 怖っ! この人、自分の妹に対する凄い怖い仕打ちを、何気なく自然に呟いたぞ。大体人間を──いやエルフをヒキガエルに変える呪いって何だよ。
「勿論、肉体をヒキガエルに変えるのは無理ですわ。単に誰から見ても顔がヒキガエルに見えるというだけの効果です……一生涯」
 一生涯有効なのは生命保険だけにしておいて欲しい。この人はホラー方面でも怖いよ。あと勝手に他人の心を読むな!
「私は姉さんにとって迷惑になるような事は一切言いません!」
 ミーアの物騒な発言を聞いていたのだろうドMは慌てて戻ってくると、そう宣言した。

「それじゃあ水龍は両方とも引き渡す。代金は1体を現金で受領し、もう1体は『道具屋 グラストの店』の責任で売却し、その売却益から諸費用を除いた純益を俺と『道具屋 グラストの店』の間で折半にする。というので良いな?」
 俺が抱え込んでいても現金化する方法が無いので、現品を先に引き渡すという手段を取った。もちろん誓約という形で契約は済ませるのが前提だ。
 これにより俺は、現金が手に入るだけではなく、ミーアとの関係を深める事で今後彼女に多少無理な注文もしやすくなるというメリットもある。
「でもよろしいのですか? これでは私にとって余りにも都合の良いと思えますが」
「勿論俺にもメリットはある。だがそれ以上にお前達承認には誓約という強い強制力を持った制約がある以上は、互いに信用が保証されるわけだから心配はしていない……それにしても、もう少し誓約を前提にした取引を拡大した方が、物や金の流れが良くなると思うんだ、この考え方はおかしいか?」
 勿論、こちらの世界にも手形のようなものを利用した直接的な現金の移動がない取引もあるのだろうが、それを大規模に行える金融組織もシステムも存在しない。ここ数十年の現実世界のようにそれが急激に発達しすぎるのも問題だとは思うが、やはり信頼性の高い『信用』を介した経済活動は社会全体の発展には欠かせないものであると、中学生なのに考えてみるのであった。
「とても素晴らしい考えだとは思いますが、一個人商店の経営者には手に余るお話です……」
「まあ気にするな、俺も世界全体の経済について、どうこう口を挟むつもりもない。そんな考えもあると頭に入れておいてくれれば良い」
 そう話を濁しておいた。はっきり言って経済関係は本を読んだだけでは理解出来ない万魔殿。著書で経済を論じる学者自身にすら何が正解なのかは分かっていないからだ。
 有名な「見えざる神の手」というべきか、そもそも社会全体にとって理想的な経済の形など神様にとっても思いつかないだろう。そのため俺の得意の取り込んだ大量の知識を利用して答えを導き出すという方法は使えない。脳内シミュレートで答えが出せるような簡単な話ではない。
 ともかく困った分野であり、更に言うと余り興味を持てない分野でもある。
 結局、経済とは誰かにとって有利か不利かという形で揺れ動くものであり、社会全体にとって理想となる形は存在しない。つまりは社会全体にとって許容され得る範囲内で、誰かさん達の大きすぎる欲望がによって形作られていくだけだ。
 これが俺の解釈であり、個人的な利益の追求のためにこの世界の経済のあり方を上手く利用するのならともかく、今ある経済システムを変更するのはパスしたい。
 それは結局は誰かが喜び、誰かが泣く。誰かが肥えて、誰かが飢えて死ぬことになる。どちらの方が全体の幸福量が多いかなんて問題ではない。自分の行動により生み出された不幸に対して責任を負うくらいなら無関係でありたい。見た事も無い他人の生き死にの責任なんて無理無理。



[39807] 第79話
Name: TKZ◆504ce643 ID:3a54b2dd
Date: 2015/02/15 20:49
 暗い穴倉の中で寝袋に包まれた状態で目を覚ます。システムメニューで時間を確認すると何時も通りの起床時間だった。
「現実に戻ってるなんて甘い事はないか……」
 明かり一つ無い暗闇の中だが昨日眠りに就いた地下の横穴だと分かる。自分が掛けたままの【結界】が張られたままなのだから。

 今回の夢世界ではっきりしたことがある。どうやら精霊は龍と敵対関係にあることは間違いないようだ。露骨なまで俺を龍との戦いに駆り立てやがった。
 思うにルーセの事といい、俺が敵にすべきなのは龍ではなく精霊の方な気がしてならない。敵対するしないを抜きにしてもいけ好かないやり方をしやがる精霊に対して好意を抱く理由が全く無い……だがこれといって打つ手が無いのが現状だった。

 次に、異世界……つか、今ここにいるのも異世界だから、夢世界と呼ぶことにしよう。夢世界からの持ち込みした問題は魔法だ。
 この世界にも魔粒子が存在するのか? それが問題だ。科学が発達した現代社会においてそんな未知の粒子なんて存在するはずが無い。なんて事は全く思わない。たとえばダークマター。その存在無しには現在の形で宇宙が存在することは有り得ないにも関わらず、未だ存在が確認されず仮定の存在に過ぎない。
 そして俺は今、人類の科学が及ばない範囲へと踏み入れて……普通に存在しました。まあ、こちらで魔術が使えたこと。更にはシステムメニューが使えた事からも、ある程度は想像がついていた事だった。
 魔術が魔粒子の操作の所産であることは想像の範囲内であるし、システムメニューの一機能であるマップ機能が『魔法障壁』なる存在によって阻害されたことから、システムメニュー自体が魔法的な存在であるとは察しがついていたのだ。

 夢世界で寝る前に『基礎魔法入門Ⅱ』を読んだ結果、魔粒子には現在発見されているだけで200種類以上も存在する。しかしごく普通に効果を発揮出来るほどの量が存在する魔粒子は12種類であり、気候や地形などの環境によって魔粒子の分布も大きく異なり、場所によって限定的に効果を発揮出来る量が存在する魔粒子は19種類と言われる。
 残りの200種類の魔粒子は利用出来ないというわけでもない。単独種類だけで魔法を発動出来る魔粒子と同時に操作する事で、効果を拡大したり異なる種類の効果を生み出したりもするし、あらかじめその魔粒子を集めておき魔法を発動する際に周囲に散布したり、または特別な魔法道具の中に封じ込めておき、その中の魔粒子を操作して効果を発動させるなど方法で使われる。ちなみにその特別な魔法道具とやらを作るのに必要なのが龍の角などの貴重かつ希少な素材らしい。

 俺は試験的に飛行を可能とする魔法の作成に挑戦したのだった。
 そういうと寝る前の僅かな時間でお気楽に作ったみたいだが、システムメニューの時間停止を利用して実質まる2日、48時間以上も掛かった。
 まずは基本となる12の魔粒子を操作するための、プログラムで言うところの共通関数というかむしろ標準ライブラリ関数──現代日本人の常識からすると驚くべきことだが、この世界の魔法使いの間で秘匿主義が蔓延し、誰もが使える広く知られた魔法はほとんど存在しないそうだ──というべき基本的な魔法を作る事にしたのだが、そう簡単にはいかなかったためだ。

 周囲に存在する魔粒子の中で対照となる魔粒子を選択的に操作するためには、魔粒子をパターン認識で識別する必要があり、そのためにそれぞれの魔粒子の特徴を理解し、識別に必要なポイントを探し出す必要がある。
 最初は、ほとんどの場所や環境で普通に魔法を発動することの出来る12種類の魔粒子だけを識別して操作する魔法を作り、ついで限定的な環境で魔法が発動出来る19種類だけを識別して操作する魔法。そしてそれ以外の魔粒子の中から特定の魔粒子だけを識別して操作する魔法を作れば良いと軽く考えていたのだが、『基礎魔法入門Ⅱ』の中の著述で魔粒子の識別精度が甘い場合は目的以外の魔粒子にも操作を行い干渉が起こり、効率が落ちるとあった。
 ミーアの話や本に書かれていた内容から推測すると、この夢世界で魔法使いと呼ばれる者達は、明確に魔粒子を識別しているわけではなく大雑把にイメージだけで操作を加えているようで、しかも大雑把にでも識別出来ているのは基本12種類と限定条件で発動可能な19種類のみで、それ以外の魔粒子を識別出来るのはごく一部の、専門的に魔粒子を研究しているような魔法使いに限られようであり、多くの魔法使いは似た魔粒子を混同して操作することで効率を落としているようだ。
 そこで俺は、識別精度を可能な限り上げるために、現在確認されている魔粒子全てを識別出来る魔法を作ることにした。
 もし全ての魔粒子を識別可能になれば、目的の魔粒子以外の基本的な回転運動さえも止めて更に効率を上げることが可能になるかもしれない。しかも誤操作による影響を排して効率を上げれば、基本12種類と同様にほとんどの環境下で魔法を発動出来る魔粒子の数を増やすことも可能になるからだ……その発想が実質2日間に摸及ぶ作業という名の長い長い迷路への入り口だった。

 魔粒子は基本的に中央の構造体と、それを鉛直方向に沿って中心を貫く軸状の構造体により作られている。
 中央構造体は外見上、球を基本とした形状と立方体を基本とした形状の2種類が全体の8割を占めており、全体的に独楽に似た形状をしていて軸を中心にして秒間1/4から8以内で回転しているとある……この実際の時間単位は分からないが、それを秒に変換して回転数を出してくれるシステムメニューの翻訳システムは素晴らしいと思う。

 魔粒子の種類の識別する基準となる要素には、中央構造体の形状と大きさ、軸の長さと太さ、回転の方向が考えられる。
 しかし実際の魔眼とは「眼」という言葉とは裏腹に、視覚的情報というよりも触覚的情報に近いために、軸を中心とした回転運動の際に見かけの形に変化の無い魔粒子、例えば球と軸のみで構成される魔粒子の回転速度を把握するのは難しい。
 回転運動の際にわずかに魔力を巻き込もうとする動きによって回転方向だけが識別が付く程度だ。
 従って、まず最初にチェックされるのは回転方向で、魔粒子の8割程度が反時計回りの左回転で、残りの2割程度が時計回りの右回転となる。
 普通に考えれば次にチェックするのは回転速度だろうが、先に述べたように正確な回転数を求めるのは難しい……これが魔法作成作業の大きな躓きになった。

 先に述べた回転の反応が極端に少ない魔粒子が、つまり球、円柱、円錐、または水平方向の断面が全て軸を中心とした円になる中央構造体を持つ魔粒子だが、外見上球を基本とした形状の魔粒子が多数派を占める割には、少ない。それは外見上は球体に分類されても、実際は球体では無くワイヤーフレーム構造で作られていたりする場合は縦方向に枠がある場合は水平方向の断面は必ずしも軸を中心とした円にはならないからであり、それに類する魔粒子が多いためだ。
 そして次に回転による反応が小さいのは────うん、結局はパターン認識による識別方法では全ての魔粒子の識別を行うのは不可能だったんだ。

 この結論にたどり着くまでに、俺は20時間もの時を費やすことになった。勿論、その20時間が全く無駄だった訳ではなく成果もあった。
 ……その場で確認出来た魔粒子184種類の図鑑的なものがシステムメニュー内の【文書ファイル】内で完成した。
 ちなみに人間などの体内にあるという魔粒子はノーチェックだ。そんなもの怖くて弄る事は出来ない。まずは動物実験から始めない……
 だが、これはこれで非常に重要な価値を持つ情報であり、今後の魔法技術の発達を考えれば、このようなものが存在しなかった事が問題だと断言できる。これを更に発展させて行けば、現在確認されていると言われる二百数十種類といわれる魔粒子の数は最終的には倍以上に増え、個々の魔粒子について更に詳しく研究されていくことになるはずだと思う……俺が公開すればね。別に秘匿する気はないけれど俺の名前で発表するのは面倒で嫌だ。

 図鑑的なものを作れるレベルで魔粒子の識別基準が出来ているなら何故魔法の開発に失敗したのか? という事になるが問題は時間だった。
 素早い魔法発動のためには可能な限り短時間で周囲の魔粒子の種類や数を識別したいのだが、ワイヤー構造というか透かし彫り技法というべきか、内部に空間を持つような中央構造体を持つ魔粒子の正確な形をチェックするには、単純にパターンに当てはめてチェックする方法は使えず、俺自身による判断が必要になるために、そんな悠長な手順を踏むのは明らかに使い勝手が悪すぎる。

 そこでしばらく魔粒子を色々と弄り回しながら考えて気付いたのは、魔粒子に対して魔力で干渉する際に、魔粒子が加わった魔力の力に対して従い運動を開始しする直前、そのほんの一瞬だが、動摩擦係数に対する静止摩擦係数のように強い抵抗を示して、魔力の一部を反射するということが分かった。
 そして反射された魔力には、それぞれ魔粒子によって固有の性質変化が発生し、自分の魔力でありつつも半ば行使された魔法としての力へと変わっていた。
 ここまで来たなら話は早い、この魔力の反射現象の詳細なデータ取りに没頭する。
 まずは弱い反射される魔力を強いものへするために、俺が得意とする魔力の圧縮を用いる。
 小さな魔力を出来るだけ小さく圧縮を掛けて開放されることで生まれる強い魔力の波をぶつけて、その反射を調べる。
 一般的に魔法発動に使用される、直径1m以下の魔粒子への干渉を行う空間には数千から1万程度の魔粒子が存在するので、この全ての反応を記憶して操作するには、俺のようにシステムメニューで知覚能力や記憶能力を強化されている必要がある。これは自分自身または、パーティーに加えた仲間しか使えないということでもあり問題どころかむしろありがたい。
 多分、レベル20程度を超えれば使いこなせるはずなので、それまでには【魔力】も上昇しているはずなので丁度良い。

 まずは周囲の自分の周囲にある魔粒子のチェックを行うため魔力を圧縮してから開放する。
 これを8回繰り返して、反射された魔力から確認された魔粒子は186種類。基本12種類と限定条件下で使用可能な19種類は当然全て確認されて、しかも密度的にも夢世界と変わらない比率で存在した。
 しかし、1つ気になる事がある。
 夢世界ではその場存在する魔粒子だけで魔法を発動可能なのは12+19の31種類のはずだが、ここではその31種類に含まれない魔粒子が単独で魔法発動可能レベルの密度で存在しているのだ。しかも2種類もである。
 一瞬、地下という環境の為かとも考えたが、そもそも地下であるというだけで魔法が発動出来るなら、限定条件下で魔法発動可能な魔粒子は19種類ではなく21種類になっていたはずだ……やはり世界が異なると書いて異世界である。他の世界の常識が全く通用しない。

 頭の中でイメージを作り出す──ちなみに、普通の魔法使いは呪文を詠唱するそうだが、俺はそんな事はしない。必要な魔粒子の操作の手順を頭の中で明確にイメージしてなぞる事で魔法を発動させる──俺が魔法発動のために作り出した直径1mの魔力の【場】の中で重力に干渉する魔粒子──ちなみに重力子を感知する術はないので、魔粒子が直接重力子に影響を与えているかは不明──67個中45個に対して逆回転を開始すると魔法が発動し始める。
 発動した魔法により生み出された力は可能な限り最短距離で魔力の【場】から脱出しようとする。魔力との相性が余程悪いようだ……今後要研究だな。
 つまり魔力の【場】の周辺部から凹ませていくと、凹みの反対へと向けて効果の力は流れるという性質を利用して自分へと向けた……正直、ここの理由はさっぱり分かっていないし、納得も出来ないが身体が軽くなっていくのが分かる。
 そして回転を少しずつ上げていき1秒間に3.5回転を少し超えた辺りで自分の身体の重さがほぼ0になった。これは夢世界と同じであり重力の大きさは、3つの世界全て同じと考えていいのだろう。

 寝袋に入ったままの状態で右手で地面を押す。すると下半身の方からふわりと身体が地面から浮き上がり緩やかに回転をしながら上昇する。
 この浮遊感覚は、岩を足場にしての空中移動では味わえないものだ。夢世界では魔法開発作業による精神的疲労のために身体の重さを0にする実験に成功した後、そのまま寝てしまったので、これが初の無重力体験だった。
「こりゃあ、たまらんな」
 テレビなんかで飛行機の放物線飛行で擬似無重力体験のする奴の驚きと興奮が理解出来る気がする。

 何かが動く気配がする。先ほどまで俺の隣で寝ていた香籐が目を覚ましたようだ。
「おはよう香籐」
 空中で回転しながら挨拶をする。
「おはようございます主将……えっ?」
 挨拶を返しながら自分の手のひらに【光明】を掛けた香籐は、空中にいる俺を見つけてそのまま固まった。

 昨夜は【坑】シリーズで掘って作った地下の空間に、更に【結界】を使用したシェルターで俺達は休むことにしたのだが、紫村対策として、メインとなる空間とは別に部屋を2つ作って、安全のために一方に俺と香籐、そしてもう一方に紫村の寝室とした。
 当然というか、図々しくも紫村からは強い抗議があったが「お前の性癖が信用出来ないということを圧倒的に信用している」と告げると引き下がった……それで引き下がるという事が全てだ。想像するだけでゾッとするわ。

「よし、朝飯にしよう」
 魔法を解除して降りると、まだ呆然としている香籐を無視して寝室スペースを出る。
 居間ともいうべき広いスペースに出るが暗いというか全く光が無い。
 とりあえず周辺マップで部屋の区切りは分かっているが、何せ円柱の形にくり抜いて作ったスペースなので足元は平らではない。
 【光明】を……ふと何に掛ければいいのか困った。
 香籐は自分の手のひらに使ったが、これは魔術を解除しなくても拳を握れば光を遮断する事が出来るメリットもあるが、何か手先を使う作業を行う場合は、逆に光で手元が見づらい上に光源が動いてイラっとするので【光明】を掛ける対象としては余り適してはいない。
 考えた末に鈴中の部屋から回収したお洒落なインテリア電気スタンドを取り出して地面に置くと電球に掛けた。うん何の不自然さも無いあるべき姿だ。

「おはよう」
 紫村が姿を現す。起こされなくても空手部の人間はこの時間には目覚めるという習慣が骨身に叩き込まれている。
「おはよう。しっかり身体を休める事が出来たか?」
「レベルアップのお陰で身体の回復力もかなり高まったみたいだから、完全に回復しているよ」
「それは良かったが、一つ大きな問題がある」
「なんだい?」
「食料だ。上がった身体能力を全力で使えばカロリー消費もそれに合わせて急上昇だから、俺が用意しておいた食料だけじゃ3日はもたないから、食料を調達する必要がある」
「食料といっても、こちらに来てから獲物になりそうな動物の姿は見てないね」
 そいつが最大の問題だ。
 戦いならば、戦えば戦うほど強くなれるのがシステムメニューのありがたさだ。そして安全な場所を確保する方法が分かった今となっては、突然強力な個体や、地下に潜って【結界】を張った俺達の居場所を発見する能力を持つ個体が現れない限り優位に戦いを継続出来る。
「今日は敵を排除しつつ、食料の捜索を行うしかないな」
「頑張りましょう」
「頑張るのは良いけど省エネモードでな。一応食料は普通の3日分以上はあるけど、俺達が全力で肉体を酷使したら今日の分すら危ういから……何とかならんかな? 魔術なら体力は消耗しないし、回復にはカロリーは必要ないんだろうけど、基本的に戦闘時には微妙な能力が多いからな」
 先ほどの浮遊/飛行魔法の事を紫村にバラすかどうかは考え中だ。確かに魔法を使えば空中を移動する際に格段に運動量を減らしてカロリー消費を抑える事も出来るだろうが、悩ましい問題がある。
「そうだね。わざと戦いには使えない、使いづらいのばかりを意図的に集めたかのようだね」
「しかも悪意だな」
「悪意というよりも悪戯なのではないでしょうか?」
「悪意か悪戯か……でも僕達に楽をさせる気だけは無いようだね」
「そうだな」

「それよりも主将。先ほどのは一体何だったんですか? 新しい魔術ですか?」
 会話が途切れた隙を突いて香籐が聞いてくる。
「魔術ではない。魔力を利用した別の技だ」
「何の事かな?」
「主将が宙を飛んでたんですよ」
「それは……今更じゃないかな?」
「違うんです。空中に足場を出して跳ぶのではなく、ふわふわとまるで風船かなにかのように浮かぶんです」
「なるほど……それは興味深いね。高城君」
 困った。魔法の事を話すなら色々と話さなければならない事があるよな、夢世界の事はまだ話していないし──
「それは、元の世界ともこの世界とも違う、別の世界で身に着けたものじゃないのかな?」
「ぶぅーーーーーっ!」
 お茶も飲んでないのに吹いた。
「何故それを!?」
「むしろ君が気付かれて無いと思う方が驚きだよ。僕と香籐君は君のお陰で40までレベルアップする事が出来たけど、そもそも君は今の僕達よりもレベルが高かったはずだよ。どうやってそこまでれベルアップしたのだろうと思うのは当然じゃないかな?」
「うっ!」
 心配してはいた。だがお前がそんなそぶりを見せてこなかったから油断していたんだよ。確かに現実世界で魔物をポンポン退治してレベルアップなんて事は出来ない。流石に北関東のド田舎のS県とはいえ、イノシシや熊を大量に狩るなんて真似が出来るほど山の中に野生動物は多くない。
「どこかで町一つ滅ぼすような大量殺戮でもしなければ、現実世界ではレベルアップは出来ないよね」
「発想が怖いわ! 幸いまだこの手で人を殺す事にはなってないから、人間を殺してどれほどの経験値が稼げるかは分からんぞ」
「僕も君がそんな事をするとは思っていないよ。だから答えは自ずと一つの可能性に向かうんだよ。君は此処の様に現実では無い別の世界へと行ったことがある。それも4月の中旬辺りにね……そこにたどり着いた詳しい説明が必要かな?」
「いや結構」
 経験値を何処で稼いだか? この根本的な問題がある限り、例え此処に飛ばされた後で不自然にならないようにもっと驚いて見せたとしても無駄だったとしか思えない。
「それじゃあ、そろそろ聞かせて貰っても良いかな?」
「分かった」
 俺は降参して、これまでの事を全て語って見せた。

「ついでに言うと、鈴中の死体や部屋にあった全ての荷物を処分したのも俺だ」
「そうだね【所持アイテム】これがあればどんな証拠だって完璧に処理できてしまうからね」
「ちょっと待って下さい。鈴中ってあの?」
「あの鈴中だよ」
「本当に死んでたんですね」
 まあタイミングが良すぎる失踪だったから香籐も疑っていたんだろう。
「鈴中は主将が?」
「そう考えてくれて構わない」
「そう……なんですか……」
 ショックを受けたように香籐がつぶやく。
「ここまで来て嘘を吐く必要はないんじゃないかな? 香籐君も余計な事を不用意に口にするようなことはしないよ……いいかい香籐君、鈴中は北條先生への中傷誹謗に関わっていただけではなく、教え子の女子生徒への暴行を繰り返していた。何人もの生徒へね」
「……13人だ」
「そんな、そんな事が学校で……」
「お前と同じ学年の女子にも奴に暴行されたのがいた。これが現実って奴だ」
「馬鹿な! 馬鹿な! そんな馬鹿な!」
 正義馬鹿を患っている香籐には辛い話だったのだろう怒りに肩を震わせている……だけど、当初の目的からかなりずれてしまっている事も完全に忘れているだろ?
「それだけじゃないよ。鈴中がヤクザから薬を買っていた話は覚えているよね? 当然彼は彼女達に薬を使っていた」
「クソッ! クソクソっ! 何でそんな真似が出来るんだ!」
 何でって、自分の欲望を満たすためだけに生きられるなら簡単に出来る真似だよ。良い奴がいれば糞野郎もいる。それが人間社会であり、そして1人1人の人間の腹の中にも、他人を思いやる心もあれば下種な欲望もある。それを全部ひっくるめて何を為して何を成すかが、その人間の価値ってものだ。善い心も悪い心も全てが揃い、矛盾する感情の中で葛藤があるから人間は人間でいられる。それが無ければ、そうだな……後50年もしたらコンピュータに追いつかれる程度の存在に堕ちる。
 そんな事を何時か、香籐に話してやりたいと思う俺だった……今は言わないよ。
「その被害者の女性の1人が鈴中を害したとして、君は彼女をどうしたいと思う?」
「それは……それは……分かりません。僕に何がして上げられるのか分かりません……ただ、時を戻す事が出来るなら僕の手で鈴中を討ちます」
 小さく、だがはっきりと言い切った。
 自分でも同じことを考えた癖に『うわぁ~中学生の発想じゃねえぞ。大島の影響はここまで子供達を狂わせるものなのか?』と退く。やはりこういうのはテンションが大事で、自分が冷静であればあるほど、こういうのは退くのである。

「高城君は、この件を一切表に出さないために様々な手を打ったんだよ」
 共犯者が涼しい顔でそう語る。
「主将……一生ついていきます!」
 一生はやめて、卒業したらきちんとした距離感が必要だろう……待てよ、このレベルアップして人間離れした力を身につけてしまった後輩と卒業したらさようならで済むはずがない。俺は時折鬱陶しいほど真っ直ぐで、こっちが引くほど慕ってくるこの後輩と長い付き合いになるのか? いや香籐ならまだ良い、問題は紫村だ。
「僕の事も末永くよろしく頼むよ」
 ……いかん、深く考える程に胸が締め付けられ眩暈がしてきたよ。

「なるほど魔法ね」
 異世界、そして魔法の話を聞いた紫村は、新しい玩具を手に入れた子供のように目を輝かす……勿論そんな可愛らしいものではないネズミを追い込んだ猫だな。
「面白いものだね。これが普及すれば世界が変わるんじゃないかな?」
「……変えないで欲しいんだが」
 現実世界の人間には魔法は使えないイメージというか偏見みたいなものがあってしかるべきなのだが、残念な事に俺には無い……実を言うと俺はレベル1の状態でかなりの魔力があったんだよ。
 これは紫村と香籐の【魔力】の数値を確認して分かったのだが、2人のレベルアップの補正の入った現在の数値よりも、レベル1の俺の方が上だった。
 つまり、現在のサンプリングデータでの確率は3人に1人は素の状態で魔法を行使出来得るだめの魔力を持っている事になる。
 これは正直洒落にならない。技術的なものが伝わってしまえば大量の魔法使いが誕生してしまう。そして彼らが何の法的拘束もなくそれを行使しようものならば、秩序崩壊の4文字がやってくるだろう。
 これが極々僅かな、精々3桁に収まる程度の人数にのみ現れる才能ならば、人類はその才能を管理して活かす方向へと持っていく事も出来たのだろうが……暫定的な確率とはいえ1/3は多すぎて収拾がつかない。これならいっそ全人類に魔法を使う才能があった方が、少なくても差別が生まれない分だけマシだ。

「勿体無いとは思わないかな?」
 何故とは聞いてこない。つまり俺が考える程度の事は紫村も考えてはいたのだろう。
「今ある現実世界自体を勿体無い事にするよりは良いだろう」
「そうかもしれないね。でも……やっぱり勿体無くないかな?」
 ああ、そうだね確かに勿体無いかもしれないね。でもな科学技術のブレイクスルーに使うならともかく、魔法前提の技術など俺はあるべきじゃないと思う。人類は己が前へと進むために磨き進歩させてきた科学技術に対する裏切りのような気もする。
 だが問題は俺の個人的な感傷などでは済まない。
「紫村。お前は俺より頭が良い。だが全ての面で俺より優れた知能を発揮できる訳ではないって事だな」
「僕は君が自分より劣るなんて考えた事は無いよ」
「お世辞は良いさ。自分ってものを理解する事が、自分を磨く第一歩だからな……お前の問題点は自分が認めるに値しない人間に対して興味が無さ過ぎるって事だよ。だから人間の汚さに対して自らの知り得る知識の範囲でしか理解しようとはしない」
「確かに僕自身には、そういう部分はあると思うよ。所詮人間だから全てに対して興味を持ち掘り下げて考える事は不可能だからね」
「魔法がほんの一部の人間にのみ使える便利で強力な力なら、魔法を使われる者が差別され、人権を制限される立場になるだろう。魔法が人類の大部分に使えるのなら、人類は大きく発展するが魔法を使えない者が差別される事になるだろう。そして決して少なくない数の人間のみが魔法を使える、もしくは使えないと言う立場になれば、魔法を使える者と使えない者の間に新たな、そして深刻な階級闘争が発生すると思っているだろう?」
「その通りだよ」
「いや人類全員が揃って魔法を使えるようにならない限り、持てる者と持たざる者の間で深刻な争いが始めることになるんだよ!」
「……?」
 何だってーっ! と突っ込んで貰えなくて寂しい……それはともかく紫村は分かっていないようだった。
「魔法を使える者と使えない者がいるという事が、人類が曲がりなりにも建前として信じている振りをしてきた『人は生まれながらにして平等』という考えが崩壊する」
「それは違うと思うよ。魔法を使える使えないというのも所詮は、人の持つ個性である才能に過ぎないよ」
「そうかな? 価値を見出すどころか誰も存在すら分からなかった【魔力】なんて才能が、お前が言う世界を変えるほどの力となるとすれば、魔力を持たざる者が黙って受け入れられるか?」
「それは納得するしかない……なるほど」
「そうだ。紫村、お前なら納得出来るだろう。自分に魔力が無かったとしても笑って済ます事が出来るだろう」
 それだけの強さと自信に裏づけされた自負が紫村にはあるが……
「だが、それが出来ない人間は多い。そいつらは世界を変えるほどの力を自分が使えないと知り、味わった絶望の代償として『魔法を使えなくても自分は誰かよりは上だ』と考えるようになる。そこで生まれるのは差別だよ。それが広く人類社会全体で発生する。そうなれば『人は生まれながらにして平等』なんて幻想は一気に崩壊する。これは人間の、自らは高潔でありたいと思う気持ちによって作られた約束事に過ぎない。むき出しの感情に従い、己の高潔でありたいという思いを捨ててしまえば、人間は生まれながらに決して平等ではないという事実が露呈するだけだ。その結果、権力を持つ者は持た無い者を、金を持つ者は持たない者を、力ある者は無いものを、知恵がある者は無い者を、美しい者は醜い者を見下し差別するようになる。そしてどの価値観がより意味のある価値観を争うようになる」
「必ずしもそうなるとは思えないよ」
「だが必ずしもそうなるとは限らないと、必ずそうはならないとでは、似ているようで決定的に意味が違うだろ。お前に、その結果に対して責任を負えるのか? 魔法が普及する事で幸せになったに人間が沢山いたとしても、魔法によって不幸になった者への責任は全く別問題だ。誰かの幸せで別の誰かの不幸を相殺するなんて都合の良いことは考えるなよ」
「確かにね……僕は政治家でも神様でもない。最大多数の最大幸福のために不幸になる人間への責任は負いかねるよ」
 納得して貰えてよかった。

 その後、魔法の使い方の基本を教えたが、流石に使いこなすのは難しいようで魔力の操作に2人は梃子摺っていて、今すぐ浮遊および飛行のための魔法を伝授するというのは無理だった。
 流石に教えてすぐに使いこなされたら「探さないで下さい」と書置きを残して旅に出てしまっただろうが、使えないのも正直困る。
 先にも述べたように現在のカロリー消費の大きさは深刻な問題だ。それを少しでも軽減し得るのが浮遊/飛行魔法だ。
 体力と食欲勝負の精霊魔法とは違い魔法に使う魔力は体力やカロリー消費とは関係ないので、カロリー消費を抑えるため浮遊/飛行魔法が大いに役立つ……空中を足場を利用して跳び続けるのは洒落にならなく体力を使うので、それを軽減してくれるのはとてもありがたいが、俺1人しか使えないならその効果も1/3になってしまう。

「やはり今日は俺が戦い、2人は食料調達をして欲しい」
 昨日、この拠点を作る前に1時間ほど2人に戦って貰ったが、レベルアップで上昇した自分の身体能力を使いこなせるまでには至っていなかったので、今日は引き続きレベルアップしながら、自分の身体能力に慣れて貰いたかったのだが、それどころではなくなってしまった。
「そうするよ。魔法を使いこなせるのならともかく、今の僕と香籐君では戦うとなれば体力の消耗が大きすぎるからね」
「お力になれず申し訳ありません」
「今は戦うだけでは生き残れない。それ以上に食料調達が重要だ。期待しているぞ」
 香籐の肩を叩きながら励ます。
 紫村のような頭のネジが2、3本……いやもっと沢山、抜け飛んでしまっているような奴と違って、かなり普通で常識的な神経の持ち主である香籐が、こんな状況で冷静さを保てる事自体が凄い事であり大分助かっている位だ。おかげで大島と一緒に飛ばされた連中の事が心配する余裕があるくらいだ。
 向こうのメンバーを考えると……櫛木田達3年生は情けない泣き言を抜かしながらも肝心なところでは男を見せるので心配ない。2年生達はリーダー格の香籐を欠いて集団としてのまとまりを欠いているだろうが、いざとなれば大島の指示に盲目的に従い危機を乗り切る事が出来る程度には飼いならされているので、パニックに陥り勝手な行動をして自滅するような真似はしないだろう……それをやらかしそうなのは1年生達だ。
 どんな世界に飛ばされたかは知らないが、あの大島が頭を抱えるような状況になっているとしてもおかしくないが、そんな状況を想像しても全く笑えない。
 もしも、この世界と同程度にヤバイ世界なら、実質戦えるのは大島と早乙女さんの2人だけで、一方守らなければならない対象は15人で、どう考えても手が足りない。何とかしてこの世界から現実世界に戻り奴らを助けに行く必要があるな……あるけどまずどうやって現実世界に戻るのか全く目処が立たない。


 食事とも呼べない味気のないカロリー摂取を終える。
「ちょっと待って。広域マップで半径300mくらいまでが表示シンボルの詳細がリアルタイムで更新されてるよ」
 広域マップで表示されるシンボルは、既にエンカウントして情報を取得済みの種と同じ種や、名前と顔が一致している人物などはっきりとした情報を持っている個体をマップ内に表示してくれるが詳細な情報は表示出来ないはずだった。
「ああ、昨日夢の世界の方でレベルアップして60を超えたらマップ機能が拡張されて、周辺マップと広域マップの表示半径が3倍になった……言ってなかったか?」
「聞いてないよ……そういうのはちゃんと説明を頼むよ」
「紫村達のマップの方はレベル60になるまでは今まで通りだと思うが、実際に表示可能範囲はパーティーメンバーの3人で情報共有だから、俺のマップ機能が取得した情報が、そっちのマップに反映されてるのだろう。だから俺と一緒に動く場合は周辺マップじゃなく広域マップを使った方が良いかもしれない。好きな方を試してみてくれ」
「分かったよ」
「分かりました」

 2人が確認をしている間に、周辺マップで周囲の状況を確認していく。まず『動物(獣)』という広いカテゴリで検索を掛けても半径300mの範囲にヒットするものはなかった。夢世界でやったら小さなネズミなどの小動物も反応して、何がなんだか分からなくなるほど大量にヒットするのだが……
 今度はずばり『食用になる生物』で検索を掛ける。すると数多くの対象が表示される。だがその殆どが植物であり、残りは数の多さと密集度の高さから虫の類と推測した。
「……流石に虫を食うのは嫌だ」
「どうかしたかい?」
 俺の呟きに紫村が反応して聞いてくるので答える。
「君の料理を食べるのとどちらが良いか答えに困るね」
 そこまで嫌か? 頷くな香籐!

「食べられる植物を中心に採取するしかないだろうな」
 虫なんか食べたくないというのは全員一致の思いであり2人とも素直に同意してくれた。もしこれで意見が一致しなければ血みどろの争いになった事だろう。
「とりあえずは野草の類は手を出さないよ」
「ああ」
 長期間のサバイバル生活を送るならば、ビタミン摂取を考えて野草を口にする必要があるかもしれないが、今の俺達にはカロリーベースを念頭において食材確保が重要だ。
 可能な限り身体を動かさずにカロリー消費を抑えた状況で、腹一杯に食べ続けてもカロリー不足に陥ると言われる野草の類を集めるのは時間の無駄の無駄以外何ものでもない。
 鳥獣や魚どころかトカゲやカエル。百歩譲って蛇の類すらいないこの世界では、果実や木の実などのある程度のカロリー摂取が望める食材を大量に摂取しなければならない。
 考えれば考えるほどトンデモナイ世界に飛ばされたものだ。
「じゃあ俺が派手にお化け水晶球を誘き寄せるから、そっちは【結界】を使いながら上手くやり過ごしながら食料を集めてくれ」
 頷く2人を確認すると【結界】を解除して穴倉から外へと出た。

「早速反応しやがるか……」
 拡張された周辺マップの範囲外である、1番近くても2km以上離れた位置にいるお化け水晶球が一斉にこちらに向けて移動してくる様子が広域マップに映し出される。
 想像以上に広い範囲の索敵能力を持っていると言う事だが、各個体がそれだけの能力を持っているのか、それとも何らかの方法でテリトリーに侵入する異物を感知する事が出来るのかは分からない。長期に渡りここで暮らすのならば、そんな事も知っていた方が何かと役に立つのかもしれないが俺は短期間で帰りたい。いや帰るんだ!

「浮遊/飛行魔法発動」
 言葉にする事で、全725ステップの処理をイメージとして焼き付けられた記憶領域へとアクセスする……こういう切欠があった方がスムーズに術が組み上がっていくみたいだ。
 重力を断ち切られてふわりと身体が宙へと浮かぶ。魔粒子操作のための魔力を満たした領域である【場】へと、より多くの魔力を注ぎ込む事で無重力状態から強い力が身体を上へと持ち上げていく。
 その力はおよそ2Gであり、上昇に対しては重力で1Gが相殺されるため、ざっくりと秒間10m/sのペースで加速する事が出来る。これが俺の作った浮遊/飛行魔法における限界だった。
 直径1mの【場】の中にある魔粒子の数から、これ以上大規模な魔法を組む事は出来ないのと、これ以上魔力を込めても浮かせる対象の質量悪大きく出来るだけ加速度の効果は頭打ちになり、後は燃費ばかり悪くなるだけなのが原因だ。
 もう少し慣れれば、複数の【場】を漬かって魔法を発動して効果を上げる事が出来るだろうが、まだそのメリットとデメリットも分かっていない状態で、実戦で試すのは俺の流儀に反する……大島とは違うのだよ、大島とは。

 空中の利を活かしてお化け水晶球を破壊していく……もう生物って気がしないから「破壊」で十分だ。
 30体ほど破壊して紫村達のレベルが42まで上がったところでお化け水晶球達の動きが変わった。
「この高さまで飛ぶのかよ?」
 それまでは地上から少し浮いていただけの連中が、高さ10m程の位置にいる俺へと向かって飛行を開始しやがった。
 とはいえ、俺が空中にいる限りはお化け水晶球の最大の攻撃手段である電撃は通じない事には変わりが無いし、それに何より上昇速度は本来の移動速度よりも遅かった。
 そのために、俺にとっては破壊する場所が地面に近いか遠いかの違いしかなく、体力の消耗に最大の注意を払いつつ、一方的な破壊を続行する事になった。

 しかし、紫村達のレベルが更に1つ上がってしばらくすると、お化け水晶球の行動に再び変化が起こる。電撃以外の攻撃手段である身体を変形させて作った鎌状の腕だが、3mほどの長さだった腕が倍以上に伸びるようになり、その分細くなった腕を素早く振って攻撃を仕掛けてくる。
「ちっ!」
 こうなって浮遊/飛行魔法に頼っていては避ける事は出来ない。【所持アイテム】内から足場用の岩を取り出し、それを蹴って素早く移動しながら避ける必要がある……ああ、貴重なカロリーの消耗が大きくなっていく。



[39807] 第80話
Name: TKZ◆504ce643 ID:3a54b2dd
Date: 2015/07/19 22:10
「どうだった?」
 4時間ほどぶっ続けで戦い続けた後、再び拠点の穴倉に戻った俺は2人に成果を尋ねる。
「味や栄養価は分からないけど、食べられるという条件に入るものならかなりの量を確保出来たと思うよ」
 一度【所持アイテム】内に収納して、リストから選択してチェックすれば、大まかな説明がされ、特に食用に適するならば必ず、逆に食べられそうだけど毒を持つものは最優先で表示してくれる親切さんだ。
「へぇ、こいつは何て食べ物なんだ?」
 キウイフルーツのように表面に短い毛のようなものが生えた果物らしいものを手にとって尋ねる。
「名前は不明だよ。それだけじゃなく全てに名前は無いよ」
「名前が無い?」
 それはおかしな話だ。システムメニューの翻訳能力はとても素晴らしく、親切丁寧痒い所に手が届くと全俺が大絶賛だ。
 現実世界に存在するものと同等の存在は現実世界の日本語で表示され、現実世界に無いものはその世界での呼び名をそのまま表示するので、今まで夢世界のどんな品も名称が表示されなかった事はない。
 試しにキウイっぽい何かを収納し、【所持アイテム】のリストから選択して……あれ? それらしいものが見つからない……これは「????」って何?

 確かにキウイっぽい何かは「????」と名称不明だった。それだけではなく他の食材も試すが悉く「????」としか表示されない。
 これは、システムメニューが対応していない世界だから…………ちょっと嫌な事を思いついてしまった。この世界には、何かに名前をつけるような知的生命体が誕生していない。誕生していないから、これらには名前が無い。名前がないから表示されない……いや、そんなはずは無いさ、あるはず無いよ。無いよね?
「もしかすると本当に名前というもの自体がこの世界には存在しないのかもしれませんね」
「やっぱり?」
「言語能力を持つに至るような種が発生しなかった……あのお化け水晶球のせいで、という可能性は十分にあるね」
「認めたくないだけで分かってる。ただ俺は現地の人間と交流を持ち、元の世界に戻る手段を探したかったんだ」
「高城君。認めようよ現実を」
 分かってるさ、電撃は物体を破壊する事を目的と考えるとそれほど優れた手段ではない。それに対して相手が大量に電解質を含む生き物と考える場合は格段に効果が高い。特に筋肉を電気的刺激で動かすような生き物は、その構造上電気に対して無防備にならざるを得ない。
 つまりお化け水晶球は自分以外の生物を捕食……捕食するのだろうか? ともかく攻撃することに特化した存在とも考えられる。
 植物を除けば、虫の類と原生生物程度の反応しかない現状と、食材に名前が存在しない事を考えれば、お化け水晶球がこの世界の動物にとって天敵であり、知的生命体が誕生する前に滅ぼされたと考えるべきなのだろう。

 取り合えず、紫村達が取ってきた食材の多くはそのまま食べる事が出来た……味は、まあそこそこと言った感じで、夢世界の食材の納得できないほどの美味しさや、現実世界日本の、品種改良・栽培方法の研究により糖度などの味を高める事に生産者が血道を上げた成果には及ばない普通の味だった。
 また中には落花生によく似たナッツ類があったが、落花生は茹でたり炒ったりして食べるものだと身をもって知った……味も落花生に良く似ていたが、生で食べるとエグ味が強い。
 肝心の栄養価だが、それは【所持アイテム】の説明にも表記されていないのだが、調べる方法が全く無いわけではない。
 【現在の体調】というパラメーターがあり、その中には【疲労度】や【傷病情報】の他に【栄養状態】という項目があり、食後しばらくして【栄養状態】の推移を見れば、必要なエネルギーを摂取出来ているかが分かるはずだ。


「栄養状態がどうのと言ってる場合じゃねぇなぁ……」
 食事休憩を終えて外へと出て、お化け水晶球を狩り始めて間もなく、またもや状況が変わってしまう。変わったと言う言葉が生易しいほどに……具体的に言うと、お化け水晶級達が巨大人型へと合体変形し始める。
「眩暈がしてくる」
「……モデルは主将ですね」
 俺達は呆然として、全長40m近くはある巨大な人型水晶を見上げる。
 しかも香籐が指摘した通りモデルは俺のようで、透き通る水晶で作られた巨大な俺似の身体が、浴びた日差しを中で乱反射させて輝く様をどう評価していいのか非常に困る。

 俺達に勝つために人の形状を真似たと考えるべきなのだろうか?
 それにしても対応が早すぎる、昨日は全く変化が起きなかったのに、今日は短時間でどんどんと対応する手を打ってくる。
 俺達が穴倉に引きこもっていた間に、奴らはこちらへの対応を数で圧すのではなく、自らを変化させる事へと方針を変えたのだろうか? 変えたとするなら高度な判断力を持つ頭脳の役割を果たす存在があるか、それとも個体のい一つ一つがネットワークとして繋がれていて群体全体として脳神経のような構造を持つ事で判断を行っているのか? ……どうでもいいや、ぶっ壊してしまえばどっちでも問題ない。

「浮遊/飛行魔法発動」
 発動と同時に地面を蹴って、一気に俺似の水晶巨人の頭上の遥か上へと跳ぶ……空気抵抗以外に減速する要素が無いって素晴らしい。
 上空70mほどの高さから真下に巨人を見下ろす。どうせ人の真似をするならば、見上げてこちらを伺う素振りくらいやればよいものだが、そこまでの知恵は無いのか顔は正面を向いたまま全く動かない。
 視線の絡み合わない睨み合いが、3度息を吸い込むほどの間続いた後、巨人は上昇を始める。
 しかしそれは欠伸が漏れるほどゆっくりとした動きで、元の水晶球状態の上昇速度となんら変わりは無い。
 そこへ【所持アイテム】から足場用の岩を取り出して落とす。
 折角、合体変形と言う芸を見せてくれたのだから、何か面白いリアクションが見られるかと期待したのだが、巨人は落下してきた岩を頭頂部に受けると、そこから亀裂が生まれ、次の瞬間には亀裂は何条にも分かれて内部を走ると反対側へと抜ける。
 そして大小6つの塊に割れると落下し、その衝撃で完全に崩壊し砕け散った。
 その様は上から見た俺によく見えなかったが、後に紫村は輝く光の粒が滝のように流れ落ちる幻想的な様子だった説明した後、俺の肩を叩きながら「見れなくて残念だったね」と告げるのであった……

「……えっ?」
 その余りの呆気無さに対する驚きは、俺のレベルが上がってしまうほどだった……驚きは関係ないけどな。
 しかし眼下にはまだ3体の巨人の姿がる。明らかなる相手側の誤った選択によるチャンス。美味しいな美味し過ぎる展開だ。
 巨人の全長は40m弱、大体俺の身長の22倍弱と言ったところだろう。つまり体積はおおよそ1万倍。
 俺は筋肉質で体脂肪も少なく見た目以上に重いので体重は65kgはある。そのため普通の状態では水にはほとんど浮かないので泳ぐ際は、肺に空気を多めに取り込んだ状態を維持する必要があるほどだ……つまり比重は水と同じ1と考えられる。
 すると俺の体積は大雑把に0.065m3となり巨人の体積は650m3と導き出される。
 対してお化け水晶球の大きさは直径2m……20cm程度のほぼ球体なので5.6m3となり、巨人は約110-120体分──前提となるサイズがおおよそのため、大体その辺りに収まるだろう──のお化け水晶球によって作られているはずなのだが、得られた経験値はお化け水晶球1体分の200倍弱になった。
 今日今までの分の経験値以上を、岩の投下1発で稼ぎ出した事になる。美味しすぎて踊りだしそうになる展開だ。
「これは……慎重に行くべきだな」
 調子に乗って、このまま既に存在する巨人3体を倒してしまったなら、奴らは新しい手段を講じてくるだろう。それが今回の巨人ほど簡単に倒せて、かつ経験値的にも合体特典がついた美味しい状況になると思えるほどおめでたくはなれない。
「2人は【結界】を張って退避して体力を温存! その間に俺はこいつらを出来るだけ多く誘き寄せるから、次にレベルアップしたら全員で一気に全てを破壊する!」
 2人は無言で頷くと【結界】を張って身を隠した。

「とりあえず、最初のを簡単に倒してしまった分をチャラにしないと不味いな」
 あっさり倒した最初の分で、水晶巨人作戦を中止されては勿体無いので、しばらくはこちらのピンチを演じる必要がある。
 巨人達が飛ばないように高度を下げて、連中の手が届くぎりぎりの位置を飛びながら時間を潰す。すると広域マップに表示される大量に集まってきたお化け水晶球達が次第に幾つかのコロニーを形成していき、やがて変形合体して巨人へとクラスチェンジしていく……ニヤニヤが止まらない。
 俺の周りにいる3体の他に、現状で6体の巨人が誕生している。
「宝の山だよ」

 その後、2時間ほど巨人達に囲まれながら鬼ごっこを続けていると周囲に集まった巨人の数は25体に達した。
 既に広域マップ内にはお化け水晶の姿は無く、全て水晶巨人へと変形合体を終えている。
「打ち止めだな」
 1時間を過ぎたあたりから増える数が一気に減り、これ以上増える様子も無い。そして何より俺の栄養状態がヤバイ。流石に『浮遊/飛行魔法』の機動力では数体の巨人にわざと囲まれた状態で逃げ続けるのは無理だったので、足場岩を使ったために、カロリー消費が大きかった。
 先日から狩り続けた分も含めて、この周辺にいるお化け水晶球の群れの残りはここにいる分だけになったのだろう。まあ、残りと言うか群れのほとんどがまだ生き残っているのだけどな。
 高度を取ると、移動しながら足場用の岩を巨人目掛けて投下していく。
 一気に4体を屠ると再びレベルが上がり、次の瞬間には紫村と香籐が結界から飛び出して上空へと足場用の岩を蹴りつけながら駆け上がると、巨人の頭上をとって岩を落としていく。

 攻撃を開始してから1分足らずの間に巨人は全て砕け散った。流石に3人ががかりだと早い早い。
 俺のレベルは67まで上昇し、紫村達のレベルも58まで上昇した……俺と比べると2人はレベル50を過ぎてから上がりが悪くなっているみたいだ。俺とパーティーの参加者の違いなのか、それとも俺自身と紫村達との違いなのかはまだ分からない。
 それからもう1つ新しい事があった。
『パーティーに参加してるメンバーの総レベル数が規定値に達したため、【所持アイテム】【装備品】の機能を拡張し、パーティーメンバー間でシステムメニューを介したアイテムの受け渡しが可能になりました』とアナウンスがあったのだ。

「こいつは?」
 試しに【所持アイテム】の中から鈴中の死体をチェックすると、【パーティーメンバーへの受け渡し】という項目が新たに追加されていたので【紫村】を選択してみる。
「こんなの要らないよ!」
 割と真剣に嫌がられた……分かってたよ。
 何だかんだで、取り合えずは実際にアイテムの受け渡しが可能なのは確認したが、実際これが役に立つ場面は今のところは無い。
 ただ、今後もパーティー全体の総レベル数でシステムメニューの機能が拡張される可能性があるって事が分かったので善しとする。

「それにしてもたった2日でレベル58か。今まで俺の苦労はなんだったんだ?」
 この世界に来るまでの俺のレベルを超えてるからな。しかもレベル50以上は伸びが鈍化してるくせにだ。
「……申し訳ありません」
「いや、香籐に謝って貰うようなことじゃない……ただ世の中、理不尽な事ばかりだと思っただけだ」
 本当に理不尽だよ。俺の事はまだ良い。だけど2号の事を考えるとね。
 あいつがレベル50になるために何度死んだ事か、それなのにもうレベル追い越されてるんだぜ……もう少しあいつに優しくしてやろう、甘やかせてやろうと思った。
 まあ、気が変わらなければの話だけどな。

「食料の調達を頼む。俺は周辺の様子を探ってくる」
 先ほど食べた果実やナッツ類は、特別に栄養価が高いと言う訳ではないが、現実世界の日本で食べている物とそれほど大きな差はないと思う。
 しかし、ここで1つ新たな問題に気付かされる。
 レベルアップによる身体能力の向上による消費カロリーの上昇に対して、消化器系の能力の向上が追いついていないって事だ。
 先ほど手に入れた食べ物を限界まで胃袋に押し込み続けたとしても、身体能力を全力どころかある程度加減した状態で使い続けても、半日も経たずにハンガーノックを引き起こして倒れるだろう。

 今後は、たんぱく質、脂質、炭水化物、ビタミン、無機物質などの成分をバランスよく含み、高カロリーで消化が良く、どんな状況でも素早く口に出来る。そんな都合の良い食べ物を常に携帯しておく必要があるが、何が良いんだろう?
 食べるなら美味しい方が良い。はっきり言って今の手持ちの携帯食では食事とはいえない。だが1日に最低でも1万カロリー以上を取れるのが最低条件だ。全力で身体を酷使したらその10倍のカロリーを摂取しても低血糖を起こして倒れられる。
 そんな条件を満たすためには素早く身体に取り込める糖メインなものになる。脂質メインじゃ駄目なんだよ
 俺は甘いものは嫌いじゃないが、耐えられる甘さの上限が低いタイプなのに、糖で1万カロリーを得ようとすれば砂糖なら2kg以上も食べる必要がある……生き地獄だ。想像しただけで歯が溶けそうになる。
 問題山積みだな。

「どのくらいの範囲を?」
「現在の広域マップの表示範囲の外側まで、そうだなレベルアップでまた視力も上がっているし天気も良い。これなら上空から見渡せば半径5kmくらいはカバー出来るだろうから、現在の表示範囲の外側5kmをぐるりと1週回ると、1時間くらいで戻ってくる予定だ」
「分かったよ……ところで、離れていても連絡出来る魔術や魔法は無いのかな?」
「あるぞ。今回のレベルアップで覚えた魔術に【通心】ってのがある。だけど使うためには互いに【通心】が使えないと送受信どちらも出来ないから役に立たないな」
 この手の便利な魔術はもっと低レベルで習得出来るか、習得していない相手とも自由に会話出来ないと使い勝手が悪すぎるだろう。相変わらず嫌がらせっぽいな。
「それは残念だね。それなら時間は正確に頼むよ」
「ああ分かった。1時間後には戻るようにする。戻って来なければ何かがあったと思って行動してくれ」
「気をつけてね」
「紫村もな、香籐のこと頼んだぞ」


 体勢を足を前に投げ出して寝転がるようにする事で空気抵抗を減らして、『ある程度』安定して高速飛行が可能となった。
 空力特性に優れた形状で、高速飛行時の空気抵抗に耐えられる丈夫な外殻を持ち、それでいて軽い素材で出来ていて、俺の身体がすっぽり収まるサイズなんて都合の良い物があれば、プロペラ機程度の速さで飛ぶことも可能なのだろうが、今のところは100km/h程度だ。
 流石にそれ以上速度を上げると、上空の寒さと風によって体温が奪われて拙い事になる。
 この身体は冬山でも一晩ゆっくり裸で寝られるほどの体温調整機能を持つのだが、不規則に揺れる飛行状態と奪われた体温を補うためのカロリー摂取による満腹により、腹の底から湧き上がる溢れんばかりの熱い何かとの死闘が続いているのだ。
 こんな時の為に【操熱】があるはずなのだが、この操作系の魔術で適温を維持しながら、操作系の魔法である浮遊/飛行魔法を扱う事は出来ず、火傷と墜落の二択を迫られる事になり、墜落の方を選ぶ事になった。
 多分慣れれば使いこなせるようになるのだろうが今の段階では無理だった。
 同様に島で防風壁にかける予定だった【風圧】と言う対象表面に対象へ加わる風圧を捜査する魔術もあるのだが使いこなせない。
 もっとも、使えたとしても【風圧】には問題がある。
 対象の周りに壁を作り、風が壁をすり抜ける際に、酸素・二酸化炭素・窒素などの分子の量を調節する事で、対象にぶつかる空気の比重を変えて風圧を2倍から1/2倍まで変化させられるのだが、空気中の分子密度を下げるとは、つまり空気中にある熱エネルギー=分子の運動エネルギーを奪うため身体から奪われる熱量は空気の温度の低下により大きくなるが、空気の密度が下がる事による熱伝導率の降下は、もっと大きな熱量を逃がす場合にはボトルネックとなるのだが、体温という少ない熱量の伝達には余り影響が出ないからだ。


 偵察の範囲が残すところ僅かとなった時だった……どエライもの見つけてしまった。
 半径200mはありそうな円盤状の形をしていて、広域マップには単なる点ではなく地形の様にはっきり形が表示されている。
 それは空に浮かんだ島の如き巨大な水晶の塊だった……まあ、まだ9kmほど離れてるから肉眼じゃな豆だけどな。
「超空の要塞、B-29は本当にあったんだ!」
 そんなお約束めいた戯言を口にせずにはいられない。一体何体のお化け水晶球が合体したのかざっと計算するのも躊躇ってしまう大きさだった。

 紫村達がいる先ほど巨人と戦闘をした方向へとゆっくりと──飛行速度はお化け水晶球の移動速度とそれほど違いはなさそうだ──移動している。
 俺は緩やかに右旋回しながら──速度が遅いので、やる気なれば急旋回も可能だが、速度が上がれた飛行機に比べても旋回能力は大きく劣るだろう──B-29(仮称)に向かって飛ぶ。

「思ったより高度をとってるな」
 目視出来るまでに近づいたB-29(仮)の上へと行くために、上昇して高度を稼ぎながら接近していく。
 既に高度500mでちょっとした山の頂上付近で風は冷たく、奪われる体温を補うように身体は熱を作り出す……ダメェ~おなかが一杯なのにカロリーが不足しちゃうぅ~。いや冗談抜きでかなり深刻で、システムメニューの【栄養状態】の項目は色が黄色に変わって異常を知らせる親切機能を余すことなく発揮している。
 食が細くて精霊術を使えず故郷を去ったエロフ姉の気持ちが今なら分かる気がする。どんなにそれが必要であっても食えないものはどう頑張っても食えないのだ。
「これ以上は本当に腹には何も入らないのに……点滴だこうなったら点滴しかない……あれ? どうやって!」
 我ながら軽く混乱してる。だが現実に戻ったら必ず点滴用具の入手を考えないとならないのは確かだ。

 上空900m。思えば高くに来たもんだと。
 俺が所持しているのは腕時計内臓の気圧高度計で、はっきり言って気象状況や緯度によって差が出来てしまうので、移動しながらの一発計測では余り数字に信用はおけない。あくまでも目安に過ぎないがそれでも表示されている数字は900mを超えているので、数字を見るだけで寒さを覚える……段々と身体が冷えてきている自覚が出てきた。
 身体能力の向上は体内のグリコーゲンを搾り出すだけではなく脂肪までも素早く、そして容赦なくエネルギーに変えていくため、それらが尽きたら短時間で命を失いかねない。

 狙いもクソも無く、B-29(仮)の上空を横切りながら足場用の岩を次々と落としていく。
「畜生! パージしやがった」
 岩の直撃を受けた場所を切り離す事で、周囲にひびが広がらないように手を打ったのだ。やはりお化け水晶級達は群れごとで情報を共有しているのではなく、種全体で共有している可能性が高いと言う事だ。俺達と巨人の戦闘の情報を入手していなければ、この対抗策を練れるはずが無いのだから。
 さほどダメージを与える事は出来なかったが、これにて撤退。これ以上は戦い続ける余裕が無い。
 一気に高度を下げると木々の上をかすめる様に飛びながら紫村達の元へと逃げ戻る。

「お帰りなさい」
「悪いが急いでここから逃げる。3km……いや、5kmほど東へと移動して拠点を作り直すんだ」
「どうしたんですか?」
「細かい事は後だ、とにかくやばい敵が来る。こちらに真っ直ぐ向かってきている事から、現在の拠点の大体の位置は知られているだろうから別の場所に……今よりもずっと深くに……作るんだ……悪いが俺は……もう限界……限界だ」
 まだ1年生の頃に時折やった懐かしいハンガーノックの感覚に襲われる。地面に腰を下ろした瞬間から身体が動かない。動かす気力もない。頭ががが、ぼんやりとしてててて意識が薄れていいいいいくぅ………………



[39807] 第81話
Name: TKZ◆504ce643 ID:2f00f0b5
Date: 2015/04/27 12:43
「……おぅ!」
 目覚めると見覚えのある部屋。一昨日、昨日と連泊したイーリベソックの宿の部屋だった。
 うん、あの後で俺はそのまま意識を取り戻すことなく夢世界に来てしまったようだ……自分の身体がちょっと心配だ。無理が利くから無理をさせるという状態が続きすぎている。
 違う! 何を俺は寝起きにまったりとしてるんだ? あの後一体どうなったのかに思い悩めよ。
 まあ、俺がこうして夢世界に来ているのだから死んだって事は無いはずだ。無いよな。無いと思いたい。

 俺が不安に感じているのは、お化け水晶球がB-29(仮)形態になって高度700-800m程度を飛行していたと言う事実。
 そこから予測されるのは自由落下による自爆攻撃だ。もしその上にバンカーバスター(地中貫通爆弾)と同じような細長い棒状に変化して落下し地面に深く突き刺さるよう形状変化し、俺達の拠点と疑わしき範囲への絨毯爆撃を敢行されれば、地下に篭っていてもただではすまない。

 俺の指示した通りに離れた位置に拠点を移して、そこで攻撃をやり過ごしていれば大丈夫だとは思うが……なんか、あの後飯を食ったような気もするんだよな?

 取り合えず今の俺に出来る事はレベルアップで新しい魔術を覚えるか、それとも新しい魔法を作り出すかのどちらかだ。
 魔術は、レベルアップで幾つかの魔術を覚えたが、残念ながらカロリー不足を補えるような魔術は無かった。いや、そもそもそんな魔術は無いと思う。
 【通心】以外に覚えた中で【大傷癒】【大病癒】の医療系魔術の進化版を覚えられたのはあり難い。しかも今回は大幅に効果が上がって心から役に立つなぁと実感出来るレベルだ。
 ここまでくるのが本当に長かった……いや、まだ3週間も経ってないんだけどね。
 他は……相変わらず微妙だ。

 とりあえずは新たなる魔法の開発作成だ。
 何を作るかはもう考えてある。物体の温度を一定に保つ魔法だ。しかも起動する時に温度を設定しておけば、その後は自分で操作することなく設定温度を自動的に維持する高機能さ……【操熱】が使えなかった時の無念さは忘れてはない。
 対象──自分の身体の周囲を包む程度の効果範囲があれば十分だろう──の大きさから、必要と思われる効率的に熱を発する魔粒子──魔粒子の多くは主たる機能の他に副作用的に僅かな熱を発するものは少なくないが、これは熱の発生が主たる機能である──を選択する事で、操作する魔粒子の数や使用する魔力の量を抑える事が出来る。
 温度を調節する機能以外は『基礎魔法入門Ⅱ』どころか『基礎魔法入門』に記載されている最も基礎的な魔法の実践段階「レッスン1、まずは温めてみよう」で紹介されているレベルだ。
 問題は温度調節のための魔力制御魔法だ。そうだ、そもそも自動的に魔法の効果を一定に保つために魔力制御を行う魔法さえあれば『浮遊/飛行魔法』も簡易化出来、その応用性は計り知れない。
 その機能を達成するために、俺の灰色の脳細胞が3秒間ほど考えた──男とは見栄で生きる生き物である──結果思いついたのは、あえて魔粒子の1つを静止させることだ。
 静止状態を維持するために必要な魔力の消費量によって、回転させている魔粒子が効果を及ぼす範囲の状態を測ることが出来る。
 今回の物体の温度を一定に保つ魔法の場合、魔力により操作の行わない状態の魔粒子は常温では常に右回転をしているが、周囲の気温が氷点下の状態で下がり続けるとやがて回転は止まり、更に下がり続けると逆回転を始める……正確な停止する温度は知らん。
 本来物理現象の影響を受けない魔粒子が唯一影響を受けるのは、自らが干渉を行う物理現象である。
 つまり、設定温度より対象の温度が低いならば、静止状態を維持するために必要な魔力は小さく、逆に温度が上がりすぎている場合なら必要な魔力は大きくなる事を利用して、温度を上げるために使われる魔力を調整する。
 【場】の中の全てを把握し理解する。それが世界を知る事とミーアは言っていたのだが、今その状態にかなり近づいている気もする。しかし肝心の世界が全く見えてこないので気のせいなのだろう。

「最近食欲が凄いんだけど」
 食堂で大盛りの定食を、貴族のお坊ちゃまらしさを片鱗も感じさせない勢いで掻きこみながら2号が愚痴る。
「身体を動かせば腹が減る。そして動かした分食わなければやがて死ぬ。当たり前の事だろう」
「いや、何ていうか腹一杯に食べてもね。食べたり無いって感じがするんだよ」
 はっきり言って普通盛りの定食でさえ、日本じゃガテン系でも「多いわ」と言うレベルの量であり、その大盛りといえば素人さんお断りレベルの大食いチャレンジメニューなのだが、2号はその小柄な身体──この世界の人間の体格が、現実世界の日本人に比べても小柄なだけで、こちらでは標準よりは若干細い程度──に似合わぬ健啖さを見せ付ける。
 2号も昨日の戦闘でレベル50近くになり、考え無しに全力で動き回れば、身体が受け付ける食事で取れる分以上のカロリーを消費してしまう段階に入ったようだ。
「そりゃあそうだ。今までの10倍の力を使ったら10倍食わなければならない。いくら身体能力が上がっても食った飯が10倍の速さで消化……腹がこなれるわけじゃないだろう。必要な時以外は出来るだけ力は抑えておけ」
 まあ実際の身体能力は10倍どころの騒ぎじゃないんだけどな。
 だが、ひとつはっきりしている事がある。現実世界の食事に比べて、こちらの世界の食事の方が腹持ちがいいというか、簡単にガス欠にならない気がする。
 こちらの世界では向こうの世界では出来ない身体能力を生かした長距離の高速移動を何度かしているが、先ほどの現実世界──と言うには疑問がある──でのような深刻なハンガーノック状態に陥ったことは無い……味の面だけでなく、栄養まで負けたら現実の立場が無いな。

「そうだけど、あの岩を出して空を跳び回るってのはずっと、ほとんど全力で動く必要があるからさ」
「……後で魔法を教えてやるよ」
「魔法?」
「空を飛べる奴だ」
「でも、僕は魔法なんて」
「システムメニューで【魔力】をチェックしてみろ。余程適正が無い限りは、俺が教える魔法くらいは使えるはずだ」
 素の状態の2号の魔力では「レッスン1、まずは温めてみよう」で、コップ一杯の水を温くするのを1日に1・2回が精一杯で魔法を使えるようになる意味は無いはずだが、今はレベルアップによって俺が使える2つの魔法なら同時に使っても半日程度は楽勝で連続使用出来る数値になっている。
「本当に僕が?」
「まあ、覚えることが出来たならな」
 絶対コツなんて教えてやらない。『基礎魔法入門』と『基礎魔法入門Ⅱ』で勝手に覚えるが良い。

 あっさり使いやがったよ……
 2号が王都で通っていた学院では、必修として魔法の基礎も教わっていたそうで、俺が躓いた魔眼の件もスルーしやがったよ。
 そうなれば、僕の考えた格好良い呪文……じゃなくて俺の考えた2つの魔法を頭の中に焼き付けて、イメージ的に引き出すなんて真似はレベル48の2号にとっては、食後にベッドで寝転がって鼻くそほじっている間に終わってしまう程度の事に過ぎなかった……く、悔しくなってないんだから。

「これは楽だね。それに学院で教えていた魔法とは全然効率が違うね。何というか合理的で無駄が無い。これに比べたら学院の教授の魔法理論なんて子供の落書きレベルだよ」
 はっはっはっは、もっと褒めてくれても良いんだよ。そう、俺には『褒められ分』が慢性的に不足しているんだ。
「確かに本に書かれているような理屈の無いぼんやりとしたイメージ的な部分を極力排して組み上げた魔法だが、まだ魔法について理解の及ばない部分がありすぎて足りない部分も余計な部分も沢山あると思う」
「でも【場】の中に存在する間粒子の中から、使用する魔法に必要な魔粒子を特定して、必要する数だけ支配下に置くという作業を自動的に行うとか、魔法の出力を自動的に制御するとか、今までに無い素晴らしい発想だと思うよ。正直、僕は今人生で一番他人を尊敬していると思うよ……君なんかを相手に」
 取り合えず、右手の人差し指と中指を揃えて2号の鳩尾へと送り込んでおいた。

「どうして僕は2日連続で龍と戦うことになったんだろう?」
 今日も龍のテリトリーで【所持アイテム】内から取り出される事になった2号が、どこか遠くを見つめるような目で呟く。
 ここはロロサート湖からはるか東、国境付近……というか国境を兼ねるノレマシド山脈へとやってきていた。
 山頂近くの断崖から見渡す景色はとても素晴らしく、空を行く白金の巨体が日差しの下をキラキラと鱗を輝かせながら飛んでいく……
「今日はあの風龍を狩ります」
「聞いてない」
「言ってない」
 0.3秒の被り返しに、2号は右側の口角だけを器用にピクピクと動かす芸で応えてくれた。

「リュー教えてくれ。僕は後何回死ねば良い」
 風龍に3度殺されて巻き戻された2号は泣き言を口にしだす。
「風龍を倒すまでだろ。今日こそはお前に『龍殺し』の称号を手に入れてもらいたい。格好良いな『龍殺し』だ。箔がつくぞ」
 まあ実際のところ『龍殺し』がどれだけ凄い事なのかは全く分からないが、角や身体の売却価格からしてとてつもない事だというのは想像出来る。しかも単独での討伐だから、かなり名前が売れる事になるだろう。
 そして2号が龍狩りに成功したなら、その偉業は隠すこと無く広く伝えて貰うようにミーアには頼んである。
 レベルは予定を遥かにオーバーしていて、十分以上に力を手に入れている。そして『龍殺し』の声望があれば軍に入るのも、そして高い階級からのスタートが切れるだろう。
 そうなれば俺と2号の契約の終わりが見えてくる。思えば2号にやって貰う予定だった事はミーアのお陰で全て必要なくなってしまっているので、一方的に2号が利益を享受しただけとも言える結果だが、それはこれから出世して地位と権力と財力を手に入れた2号に、色々と便宜を図って貰う事で払って貰う事とする予定だ。
「分かったよ。畜生! やってれやるよ!」
 そんな言葉も空しく、リロードの回数は2桁の大台に乗った。

「お願いです。どうかヒントを下さい」
 土下座をする2号……この世界にも土下座なんてあったのかよ?
「ヒントねぇ……じゃあ、俺が倒すのを見てみるか? 昨日みたいに俺が倒しておしまいと言う可能性もあるけどな」
「それはそれで困る。『龍殺し』を名乗れるようにはなりたい。それがあるとないとじゃ立場が違ってくるから」
 やはり『龍殺し』ってのはステータスなんだな。
「ならばヒントだ。お前は一体今までどの距離まで近づいて殺されたかだ」
 2号は『浮遊/飛行魔法』を使って空を飛ぶ風龍に接近しては様々な攻撃手段で殺されて続けた。より多くの攻撃手段を引き出した事を褒めるべきか、それとも失敗を糧にすることなく策も無く似たようなパターンで殺され続けた事を責めれば良いのかは分からない。
 今更ながらに思うんだが、2号って戦いのセンスが無い。
 これは頭の良し悪しとは関係ない。ある分野において活躍出来るか否かはセンスによって決定されると思う。
 センスとはその分野に対して適応されたシステムを自分の頭の中に構築しているかだ。
 幼い子供は日々の成長の中で、自分の行動、思考を司るシステムを何かに向かって適応するために構築していく。
 頭の良い悪いとは、そのシステムが完成度の高さであって、センスとはそのシステムがどの分野に適応するように構築されたかだ。
 生まれ持って障害を持つか、俺のようにシステムメニューの恩恵(チート)を受けていない限りは、頭の良し悪しはシステムの完成度であって、脳というハードウェアにはそれほど差は無い。
 自動車は空を飛べず飛行機は海に潜れない。自動車は空を飛ぶようには作られていない。飛行機は海に潜るようには作られていない。そして2号は戦うために自らを構築していない。これが全てであり、今更2号の頭の中のシステムを再構築(リストラクチャー)するのは不可能だ。
 そう、俺が2号にしてやれる事はもう……猛特訓しかない! 奴が思い返して、今までがぬるま湯だったと腐った魚のような目で呟くような、徹底的な猛特訓が必要だ。
 人間は自分の脳内システムがどっちの方向を向いて作られていようが、教育である程度は全方位に対応出来るようになる。
 俺だって、生まれながらどころか空手部に入るまでは、戦闘民族だった訳ではない。しごきと言う強制パッチを何度も当てられてバージョンアップを重ねて戦闘民族へと改正(リフォーム)させられたのだ。

「ヒントってそれだけ?」
「それだけだ。距離を憶えてないなら、今から何度でも死んで調べて来い」
「いや、分かる。分かるよ!」
「分かるなら、その距離の内側でどう振舞うべきかを考えろ」
「ええっと、もっと遠くから加速して突入する事で、迎撃される前に相手の懐に入り込む?」
「アホか? 速くなれば速くなるほど方向を変えるのが難しくなるって事も分かってなかったのか? 今まで何のために死んできたの?」
「それは……こちらの攻撃が届く範囲に接近しようと、そのためにどの方向から攻めれば良いかとか考えていて──」
「話にならん! そんな事は死ぬ前に駄目だと判断を下せ。何時までも死んでもやり直せるなんて考えてるんじゃねぇぞ! 小兵の戦いは大兵の周りを回る事から始まるんだよ。馬鹿みたいに突撃する前に相手の周りを距離をつめながら回って相手の攻撃を1つでも多く引き出せ」
「相手の攻撃を引き出す?」
「お前に遠距離から一撃で風龍を倒す手段があるなら何も考える必要ない。だがそれが出来ないなら、相手の間合いに入って何発も殴り合うしかない。そんな状況で一発貰えば死ぬしかないような敵に、相手の攻撃方法も知らずに突っ込むのは馬鹿だ。馬鹿も馬鹿ななりに10回も死ぬチャンスを得て情報を引き出したんだ。対策を立ててみろ」
 2号は風龍の長く先端が刃のように鋭く硬い尾によって、3度胴体を真っ二つに引き裂かれ、5度前足で捉えられて頭から丸齧り、そして2度後ろ足で胴体を蹴られ、その衝撃で文字通り破裂して死んだ。
 その10回の死、その全てが2号が20m程度の範囲に飛び込んだ瞬間に風の乱流によって翻弄された結果だった。

「風龍の周りにあるあの風を何とかする必要がある。あの風に負けずに風龍までたどり着く方法は──」
「あるはずだから考えろ」
「……空中で移動する手段は2つだから、もう1つの足場岩を使った移動方法なら……多少の強風程度なら突っ切る事も出来る──」
「まあ、そうなるだろうな」
 しかし、2号には装備と同時に相手に突き刺さるという攻撃手段は教えていない──パーティー離脱後の2号にとっては悪い影響しかないだろうから──ので、風龍に対して一撃必殺の攻撃手段は無い……ついで言うと、その方法を封じられたら俺にも無いという事にしておく。
「そして一撃加えて離脱。これを繰り返せば──」
「先ずどこへと攻撃を加える?」
「……翼かな?」
「龍があの巨体を翼だけで飛ばせてると思うなよ」
 物理学的にも生物学的にも不可能だが、こちらの世界の人間にはそんな知識は無いだろうから釘を刺しておく。
「あの翼だけでは無理なのか?」
「大きさが全然足りない上に、ほとんど羽ばたきもしないで飛べるか! 基本的には俺が教えた魔法と似たような方法で飛んでいて翼はあくまでも補助だと考えろ」
「それなら……いっそ角を落とすか──」
「根元からきちんと落とさずに、中途半端な位置で折れたり、砕けたら価値は激減だぞ。言っておくが風龍の角や身体の売却益が今後のお前の活動資金だからな」
「それは困る! ……どこだ……どこに攻撃すれば……」
 2号は頭を悩ませているが、自分が2号だったらという条件で考えた作戦なら少しでもダメージを与えることが出来ればどうでも良い、その方法では最初の一撃は風龍を怒らせて注意を惹けさえすれば何でもかまわない。構わないが限られる……さて2号の考えは如何に?
「先ずは……眼を攻撃──」
「先ほどは言わなかったけど、俺なら生きている龍の角の近くには絶対に近づかないぞ。死にたくないからな」
 龍の攻撃は通常攻撃<ブレス攻撃<角による特殊攻撃の順に威力が高いというのが、今までの経験から導き出された結論だ。
 だから龍のHPが一桁状態でも、俺は生きている龍の角の近くには行かない。
「……そうか、ならば……やはり翼を」
「ほう。飛行の補助でしか無い翼をか」
「例え補助でも、風龍の飛行能力を少しでも抑える事が出来るなら、最初の一撃として悪くないと思う」
 それが正解だ。そもそも2号の武器で風龍に対してまともにダメージを与えられそうなのは翼の皮膜だろう。俺は翼は飛行の補助でしかないと言ったのは引っ掛けであり、翼を責めるのは下策だとは言っていない……ちょっと待て、風龍が魔法、もしくは魔法的な手段を用いて飛行しているならば水龍の時に使った方法で飛行能力を奪う事が出来るかもしれない。
「それで、一撃を加えた後はどうする?」
「一撃を加えた後は離脱して再び攻撃を加える。これを繰り返す事によりダメージを蓄積させて──」
「やってみろ」


 結局、その後3回続けてロードしなおす事になった。
 ヒット&アウェーを繰り返し、風龍の翼の皮膜をボロボロにして、その空中での機動力を殺ぎつつ、ダメージを蓄積していくが、自分の疲労の蓄積の方が先に上限に達するのを3度繰り返したのだ。
 俺は自分の実験のために、2号が死んだ後にすぐロードを実行せず風龍に戦いを挑んで、圧縮魔力の開放による魔粒子操作の妨害を行ってみたが失敗した……余りに解せなくて、思わずその場でセーブしそうになったくらいだ。

「あと少しで──」
 3回目のロードの後、2号は1回目、2回目と同様の言葉を口にしようとするのを遮る。
「何度も言うようだが、普通は死んでもやり直しは出来ない。だから『あと少しで』と良いながら3回も死ぬようなやり方で戦っては絶対にならない。それなのにお前はやってはいけない事を懲りることなく3回も繰り返した。勝利に足り無いものがあると分かっていて、命懸けで戦ってみる必要のある場面なんて一生に一度あれば十分だ。それ以上の人生はイベント多すぎだ」
「死ぬのには慣れてしまったんだよ。僕をこんな風にしたのはリューだろう。今更何を言ってるんだ?」
 死ぬのに慣れる。死の一瞬前まで冷静でいられるなんて素晴らしい資質を手に入れたものだ。正直羨ましいくらいだが……そろそろ死なないで勝つという事を頭に置いて貰わないと駄目だ。まあ、まだ良いんだけどね。
「お前のレベルアップは今日で終わり卒業なんだよ。だから何時までもロードして復活して貰えるとは思うな」
「えっ?」
「分からない? 貴方は、当校の全過程を修めたことをここに証し、卒業といたします(棒」
「括弧棒って、ちゃんと括弧閉じろよ! いや、それじゃなく棒って何だ……いやいや、それも違う。ともかくいきなり過ぎるし、色々とおかしい!」
 2号が混乱してちょっと嬉しい。

「予定を大幅に超えてレベル上げしたんだからもう良いじゃないか? 後はお前の甘っちょろい性格を徹底的に叩きなおすだけなんだよ」
「ちょっと待て! 卒業はどうした?」
「俺の国では、この国と違って、義務養育だけで小学校と中学校があるんだよ。小学校を卒業したら今度は地獄の中学校って事も知らんのか!」
「知らんがな! ……って義務教育って何!?」
 底に食いつくのかよ……でも無視する。
「今まではお前を取り合えずレベルアップさせて下地を作っただけだ。俺のお楽しみはこれからだ」
「本音がタダ漏れだよ!」
「俺が楽しんで何が悪い? むしろ楽しませろ!」
「無茶苦茶だよ。この人無茶苦茶だよ! 助けて!」
「助けなんてこねぇよ!」
 この後、軽く揉めた……主観的には軽く。

「どうすれば……」
 打つ手を思いつく事が出来ず2号は頭を抱える。
 しかし、ここで俺が自分の出した答えを教えても2号に成長は無い。俺に出来るのは2号が苦しみ悩む姿を、じっと見守ることしか出来ない……
「ニヤニヤしながら見てるだけなら、どこか行っててくれないかな!」
 荒んでいるな。だが胃に穴が開くほどのストレスでも加わらなければ人間は変わらない……身体も壊すかもしれないけどな。
「…………ぅぅぅぅうううううっうっうっ」
 どこかで聞いた事のあるような唸り声を始める……壊れたか? 軽く壊れるくらいが良いんだが。

 突然、2号がこちらを振り返り血走った眼で叫ぶ。
「ヒント! ヒントをくれ!」
 この甘ったれめが、この期に及んでヒントだと……待てよ。もしかして、これは正解なのか? 問題解決のために自分が選択し得る最短ルートで一番可能性の高い方法を選んだとも言える……いや、言っていいのか? 何だか俺にも良く分からなくなってきた。

「ヒントは……お前が使える手段の中に、必ず風龍を倒す手段があるって事だ」
「倒せるんだな。この僕の手で。答えのない問題を解かされてるわけじゃないんだな?」
「そこまで悪趣味じゃない」
 大島じゃあるまいし。
「ならいい。答えがあるなら探せば良い……つかそれっぽい事を言っただけでヒントじゃないだろ!」
 俺がお茶を濁してごまかそうとした事に気付きやがったよ。
「先ずは、自分が出来る事を全て頭に思い浮かべろ。その中から風龍攻略を一歩でも進める事の出来る方法を探し出し、次の一歩へとつながる手を考えろ。次に今頭の中にある風龍についての情報を全て頭に思い浮かべて、最終的に風龍を倒したというイメージから、その一歩手前の段階でどうやって風龍に止めをさせるのかを考えろ。『どうするか?』を『それをどう達成するか?』と必ずしも関連付ける必要はない……どうせ最終的に全部は繋がらないから力尽くで何とかしろ」
 そもそも机上の問題ではないのだから、精密な作戦を立てるほど小さなトラブルで破綻するので意味が無い。
「それはアプローチ法として、かなりおかしくないか?」
 お行儀良くボトムアップ・トップダウンアプローチで答えへの道筋が最後まで見えるなんて事は、自分が居て敵が居て直接殴り合う戦闘においては無いと考えるべきだ。
 トップダウンは、ボトムアップに比べて机上の空論的という批判もあるが、命懸けの戦いにおいてはボトムアップの試行錯誤こそ机上の空論でしかありえない。
 結局戦いとは、飛び石状の道を渡りながら、どこかで発生する予想外を力尽くで帳尻合わせする自信がなければやってられない。
 命が懸かっている以上、必ず勝たなければならない。だが戦いに必ずは無い。そんな矛盾を埋めてくれるのは客観的な根拠のない自信だけだ。

「お前にとって、風龍をぶっ殺す最終的なイメージは何だ?」
「……地面に叩きつけてから、上から岩を落として潰す」
 実に明確かつシンプルなほ
「つまり最初に風龍の翼を傷つけて、最終的には地面に叩き落して岩で押し潰す。実に良いじゃないか。それなら風龍を地面に叩きつける前に何かしておく事はあるか?」
「眼を潰しておきたい」
「眼か、眼を潰しただけで風龍が周囲を知る力を失うと思えないが冷静さを奪う事は出来るだろう。だが攻めづらい場所だ。どうやる?」
「これから川に砂利を取りに行くから、それで奴の視力を奪うよ」
「だが奴の周囲にある風の乱流を通して届かせる事が出来るのか?」
「いくら風龍でも周囲の乱気流と共に素早く飛ぶとは思えない。だから奴を挑発してこちらに向かって全力で飛ぶように仕向ければ、いけると思う」
 俺が考えた作戦とほぼ同じだ。風龍に一撃を加えた後で、上へと高速で離脱──『浮遊/飛行魔法』と足場岩を使った跳躍を併用──して、俺を追って上昇してくる風龍の進路に足場岩を回収せずに落として……まあ、こんな感じだったんだが。

「目を潰した。例え龍だろうが思いもしないタイミングでいきなり視力を奪われたら驚き怯むのは必定だ。それをどう活かす?」
「接近して、奴の頭部を【大水塊】に巻き込んでから【強操熱】で茹で上げる」
 ……あれ?
「もう【強操熱】を使えるのか?」
 【操熱】の上位版で温度操作の範囲が-60℃~250℃と効果が上がっている分、水を沸騰させるまでの時間も圧倒的に短くなっている魔術だが、俺が覚えたのってレベル60超えた昨日の事だったと思うんだけど? 個人差というに大きすぎる。

「……まあ良い。それからどうする?」
「これから用意するよ」
 2号は、崖っぷちに近寄ると縁の3mほど手前に【大坑】で穴を開けた。
 この段階で2号が何をするつもりなのか、そしてその問題点に気付いてしまった。
「手伝ってくれないか?」
 崖の縁の手前3mのラインに沿って【大坑】で横に並べるように穴を掘りながら言ってきた。
「分かった」
 この作業自体は無駄になると分かっていたが、足場用岩の補給という意味で引き受ける。
 掘った穴を更に深くするために穴の中に降りて【大坑】を使う。
 最終的に厚さ3m、縦横10m程度の岩の塊を2号は作り出したかったのだろうが、当然ながら作業が進むほどに岩全体を支える箇所への負荷が大きくなり、やがて限界に達してひびが入り、そこから大きく割れて崩れた。
 俺は咄嗟に逃げて無事だったが、2号は巻き込まれて落ちて、うん死んで無いけど意識が無くて良かったねって感じだった。

『ロード処理が終了しました』

「おい?」
「今はそっとしておいて……」
 自分の醜態に両手と両膝を地面に突き、がっくりと項垂れる2号にかける言葉など無く。俺に出来るのは……
「クックックク……プッ、フッファハハハッ……」
 ただ腹を抱えて笑うことしか出来なかった。
「笑うなよ!」
「ガッ、グハッヘヘッへ……」
 愛想笑いじゃないんだから、笑うなと言われて止められるものじゃない。
「一生懸命堪えても堪えきれずに笑っちゃうのかよ!」
 予想はしていたが、本当にその通りになるとは想像していなかったのだから仕方が無い。
 この後、無茶苦茶笑った。

「十分な厚みは取ったのに、あんなに簡単に割れてしまうとは……」
「岩は確かに丈夫だが、逆に割れやすいものだからな。意味なく薄くするんじゃなく、出来るだけ丸くして表面積を減らせば割れるリスクも下がる」
 俺も幼稚園ぐらいの頃までは鉄は絶対に曲がったりしない頑丈なものだと思い込んでいた。我ながら可愛いものだ。そんな可愛気のある子供が育って今の俺になるだなんて親だって想像はしていなかったはずだ。
「わかった。今度は丸く──」
「取り合えずやってみるんだな」
 俺は自分の【所持アイテム】の容量を無限だとは思っていない。ましてや2号の【所持アイテム】の容量が俺のを上回るとも思えない。俺のレベルアップが60から伸び悩み──経験値大量ゲットで実際は伸びまくり──しているのに対して、紫村達がレベル50で伸び悩み──こちらも同様に伸びまくり──しているように、パーティーメンバーのシステムメニューの機能は俺のシステムメニューに比べると絞り込まれているからだ。

 出来上がったのは直径7m足らずでかなり歪な球状の岩の塊だが2号はそれを収納する事が出来た。
 何の不思議も無い当然の結果だ。何せ本来は10m近い大きさで山の斜面から切り出したものを、2号が収納出来る大きさまで削り取ったのだから。
 とにかく、今回の試行錯誤の結果【所持アイテム】の容量は大きさではなく重さだという事と、現在の2号の【所持アイテム】の容量が龍1頭程度であるという事がわかった。
 それに対して、俺の【所持アイテム】の容量は龍2体と大量の足場岩を収納出来る。これは単なるレベル差の問題ではないだろう。
 俺がレベル60になってシステムメニューの機能が拡張された事によるものか、それとも元となる本家システムメニューであるためか、そうでないとするなら2号に対して唯一3倍以上の差をつけているパラメーターは【魔力】しかなく──他のパラメーターは3倍以内に収まるが、魔力だけは10倍差どころではない──この3つのどれかだろうことは間違いない。

 「よし、今度こそ風龍を!」という言葉を言い残して2号は青空に大きな赤い花を咲かせ、そして散った……

『ロード処理が終了しました』

「風龍の目を潰すのを失敗した段階で当初の作戦は破綻してるんだから元の作戦に拘らず、駄目元で良いからあがいて、何か臨機応変に対応するべきだったと思う」
「ううっ……」
「どうして駄目だと分かっているのに、最初の作戦通りの行動を続けようと思ったんだ?」
 聞かなくてもパニくっての行動だとは察しはついている。頭は良いが想定外の出来事に対応出来ない。そして想定外を作らないほど天才的には頭は良くない。
 想定外に対して対応が取れないのは、失敗を織り込んだ計画を立てていないせいだ。あれだけ考える余裕があったのに計画に失敗を織り込めないのは性格だろう。
 その性格を作ったのは頭の良さ。なまじ知恵が働くから小さな想定外を即興で切り抜ける事が出来た。出来たから失敗を織り込んで考える癖が無い……非常に思い当たる節があって胸が痛い。
 とにかくそれを治すためには、理不尽な想定外に嫌というほど何度も遭遇して痛い目に遭う必要がある……思い出して吐きそうになる。


 結局、その日の2号は『龍殺し』の称号を手に入れることは無かったがレベルが52へと上がってしまう。
 駄目だ。こいつは駄目だ……明日だ。もう明日!



[39807] 第82話
Name: TKZ◆504ce643 ID:14039670
Date: 2016/11/10 17:10
「うぅぅぅ……」
 目を覚ました瞬間に自分の体調の悪さを自覚するほどの異変を感じる。
 具体的に言うとだるい。酷く身体が重くて起き上がる事が出来ない。
「起きたのかい?」
「紫村か?」
 俺が呼びかけると明かりが灯る。
 木の枝らしき棒の先に灯った光に照らされたのは紫村だったが、その顔は少し疲れた様子だ。
「また向こうの世界でレベルアップしたのかな?」
 それでも笑顔で話しかけてくる。
「ああ今回は風龍を1匹でレベルは1だけ上がった」
 流石に腐っても龍というべきか、1レベル上昇出来る経験値というか2レベル上昇にはギリギリ足らない経験値を搾り出してくれた。
「何十mもの巨大な龍を倒してレベル1しか上がらないというのも凄いね」
「ゲームで言うなら、早くラスボスを倒してクリアしろよって突っ込まれるんじゃないか?」
「そうかもね……そんなゲームに比べて現実ときたら、困ったものだね」
 俺達は互いに顔を見合わせると少し笑った。投げやりな乾いた笑いを……

「少しはお腹に何か入れられる余裕はある?」
「時間がたったお陰で満腹感は無いな……」
 腹に入っていた分が栄養になったお陰で生きていられたのだろう。
 答えた俺の目の前に銀色のアルミパッケージと黄色い箱が差し出される。うん10秒飯と元祖ブロック大部バランス栄養食品だ。血涙を流すほどの無念さと共に認めざるを得ない料理下手ではあるが、食う事に関してはうるさい俺としては、メニューに思うところが無いわけでもないが一番消化吸収が良さそうだから仕方がない。
「多少無理にでも口にして、安静にしていないとまた倒れる事になると思うよ」
「悪い。心配かけた……寝てないんだろう?」
「少しは寝たから心配いらないよ」
「そうか」
 言葉を額面通りに受け取ったわけじゃないが、それを追求するのは野暮ってものだ。

 ボリボリと齧ったブロックを唾液とゼリーで溶かしながら少しずつ飲み込むという食事というよりも作業の合間に紫村に尋ねる。
「俺が意識を失った後、どうなったんだ?」
「君の指示通りに動いたよ。君の口ぶりから余計な事を考えている余裕は無かったみたいだからね……でもそれが正解だったみたいだ。元いた場所は広域マップの範囲外だけどワールドマップには、あの水晶球の反応が多数現れては消えたよ。それが何なのかは分からなかったけど」
「多分、絨毯爆撃だと思う。まるで空に浮かぶ島のように巨大な円盤状になった奴らを見た」
「島?」
「ああ、半径200m位はあった」
「そ……それは……凄いね」
 紫村でさえも呆然とするスケールだ。半径200mで厚さは確認してないが仮に10mと少なめに想定し、更に内部に空洞が無いならば、お化け水晶球22万体以上に匹敵する体積になる。
 それはつまり、この付近に展開していた群れが数千の規模だったという事から、かなり広い範囲の幾つのも群れがこちらに集まって来たと言う事で、しかも更に増える可能性が大きい……いや確実だ。
「でも……向こうが大きくなれば一度に倒せる──」
「逃げる前に上空から1発当ててきたが、衝撃を受けた個体を瞬時に切り離して、ダメージは周囲に伝わらない様に学習していた。多分上空から一部を切り離して地上に落とす事で俺達を攻撃しようとしていると思うよ」
「それで絨毯爆撃……困ったね。勝てる気がしないよ」
「奇遇だな。俺もだよ」
 『浮遊/飛行魔法』で逆に重力をかけて落とす……無理過ぎる。人間の体重程度の物体を2Gで加速させる程度の出力では全く足りない。多重発動するとしても【場】を展開出来る自分の周囲に存在する重力に影響を与える魔粒子の数が圧倒的に足りない。それに俺自身の能力も足りない。
 圧縮した魔力の開放による魔法的現象への干渉で、奴らの飛行能力を妨害して地面に叩き落す……駄目だ干渉を行う範囲が広すぎるし、例え妨害に成功したとしても、飛行している高度が高いので一度妨害に成功した程度では墜落する前に飛行能力を回復してしまうだろう。
 こちらも上から絨毯爆撃……何を考えてる? 落ち着け冷静になれ俺。22万体だぞ。足場岩どころか重さ100kg程度の岩を使うにしても22,000tになる……そりゃあ無いわ。
 今までの体験上、数百t程度なら十分に収納可能だとは思う。多分1000t以上もいけない事はないのではないかとも思う。だが一万t以上は幾らなんでも無理だ。自分に限界を作るようだが、これを受け入れられるほど常識を捨てられない。
 だが待てよ。落とす岩をもっと小さくして重さ数kg程度にしてB-29(仮)の高度+3000m程度の高さから落とせば、お化け水晶球を一撃で破壊出来るほどのエネルギーを与えることが出来る……出来るかそんなもん! 都合よく22万個の重さ数kgの岩がその辺に転がってるとでも言うのか? 自分で加工する? 出来るはずがない。

「先ずはこの拠点から横穴を掘って数kmは移動して、そこから地上に出て奴らを攻撃する。そして再び穴に逃げ込んで退路を塞ぎながら逃げる」
 正面から戦う力が無いのなら、それなりの戦い方をするしかない。チクチクと刺すようにして相手の戦力を削る……いや、削ると言えるほどの戦果を挙げるのは無理だ。だがこちらの戦力を上げることは出来る。
「そんなゲリラ戦に意味が……そうか、絨毯爆撃で落として破壊した個体の経験値も入るとしたら、やってみる価値はあるね」
 話が早いというより、こんなにあっさりと自分の考えが読まれると落ち込むよ。
「もしも、ただ落ちて自爆させるだけでは経験値が入らない場合は、落下中のお化け水晶球に僅かでもダメージを与えれば経験値がはいるかもしれないしな」
「実際の経験と違って、経験値というシステム上の数値なら十分に可能性があるね」
 経験値って奴は結局ゲームのポイントと一緒であり、実際に頭と身体に刻み込んだ経験とは全く異なる。実際に自分は何もしなくてもパーティーの仲間が戦えばレベルアップするんだから、まじめに経験値を稼ごうなんて考えては駄目なんだ。如何に楽をして効率的にポイントを稼ぐかが大事だと割り切るしかない。
「レベルさえ上がれば消化器系の機能も向上するからカロリー摂取も楽になる」
 その分、レベル相応の身体能力が使える時間はレベルアップするほど減少するが、それは仕方ないと諦めるしかない。

 食事を終えるとゆっくりと身体を地面に横たえる。2つ合わせて約600kカロリーを摂取したわけで、これを日に3度行えば成人男子に必要な1日分のカロリーが摂取出来るわけだが、一流アスリート並みの運動量をこなす俺は元々1日に6000kカロリーは摂取していた。さらに現在は向上した身体能力の使用を可能な限り抑えても8000kカロリー程度は摂取していた……絶望的なまでにカロリー不足だ。
「でも今は身体を休めて、そうだね9時までは寝ているんだよ」
「お前は俺の母さんか?」
 優しい気遣いが、肛門がきゅっとなるくらい怖い。
「お母さんついでに、高城君は【所持アイテム】内に乾物とか嗜好品の類を用意してあるよね?」
「何故それを?」
「君は結構回りに気を使ってくれるからね。せっかく荷物を幾らでも持っていけるなら、皆に配るつもりで用意していたんじゃないかとは気付くよ」
「……せっかくの気遣いも、こんな事になるとは思いもしなかっけどな……スルメとかサラミとか乾き系は幾つも用意しているけど、腹持ちはするが消化はよくないぞ」
「戻してから調理すれば、少しはまともな食べ物を用意出来るよ」
「……分かったよ」
 イカ燻タコ燻に鮭トバ、チー鱈にサラミとソルトピーナッツ。そして乾パンを出して地面に転がす。
「鮭トバは戻すとして、イカとタコはソフトタイプだから刻んで煮込めば、そのまま使えそうだね」
「ますますオカンだな」
「君には随分と随分と心配させられたからね」
「……悪かったよ」
 気まずくなったので紫村に背中を向けるとさっさと寝た。

『次元解析作業の進捗により、現世界でのシステムメニュー機能の完全回復まで予定が明らかになりました』
 ……なんとなくそれっぽく聞こえなくもないが、本来次元解析はそういう意味じゃないからな。
『現在、システムメニュー画面表示時の時間停止機能回復』
 ありがたい。とっさに訪れたピンチの時にゆっくりと考える時間があたえらるのは何にも代えがたい強みだ。
『ワールドマップ対応回復まで30時間』
 要するに大陸などの輪郭線が表示可能になるのか、大して嬉しくないのに30時間もかかるのかよ。
『セーブ&ロード機能回復まで85時間』
 この大事な機能の復活に3日と半日もかかるのか、ワールドマップはほかしておいてそっちに集中しろよ。
『元の世界への移動が可能になるのは、132時間後を予定しています』
「帰れるのかよ!」
 思わず叫んだ。叫ばないはずがない。

「何があったんだい!?」
 叫び声に紫村が駆け寄ってきた。
「システムメニューからアナウンスがあった。現実の世界に戻れるらしい132時間後に……5日と12時間後……長いよ!」
 本来は明日には合宿終わりで明後日には普段通りに学校の予定だ。現実に戻ったら日曜の夜じゃないか。それから櫛木田達を……助け出す目処も立ってない。
「それでも戻れると分かっただけでもありがたいよ」

「ほ、本当に戻れるんですか?」
 騒いだせいで香籐が目を覚ましたようだ。システムメニューのアナウンスのせいで起きてしまったが、まだ朝の7時過ぎ。普段ならとっくに起きている時間だが2人とも俺の看病で寝不足なのだから仕方が無い。
「まだしばらくかかるけどな」
「帰りたいです……」
 俯きながらそう呟き肩を震わせる。気を張っていたのだろうが、はっきりとした目処が立ったことで気が緩んだのだろう。無理も無いまだ中学生なんだ……まあ俺や紫村も中学生だと思うと違う意味で考えさせられてしまうけど。
「ああ帰るぞ。生きて必ず帰るんだ」
 ともあれ、香籐の素直な反応にほだされウルっとくるわ。

「このまま時間が来るまでここで待つという事になるのかな?」
「……面白くないよな」
「僕も面白くないと思うよ」
 それは空手部の流儀ではない。敵に怯えて引っ込んだままというのは、バレたら大島に殺されるという意味だ。
 戦前の日本を描いたドラマに出てくるような、子供が喧嘩して負けて帰ってきて「勝つまで帰ってくるんじゃない!」と子供を叱り飛ばす肝っ玉母さんのレベルじゃないんだよ。
 例の『こうやの7人』の事件には後日談があり、学校を退学になり鑑別所送り──主犯格達はその後少年院送り──になった馬鹿共の仲間である工業高校の生徒、そして家族や友人知人と称する馬鹿共がお礼参りと称して、本人達ではなく空手部の部員を、しかも1年生に狙いをつけて集団で襲った……屑が屑なりに知恵を使ったと誉めてやるべきなのかもしれない。
 襲われたのは俺の2年上の先輩達だが当時は1年生の一学期だったので、修行の1つもした事の無い不摂生で不良・チンピラの類とはいえ同時に相手取れるのは2人か精々3人程度であり、数の暴力に対抗する術は無く、後の主将である野口先輩と加茂川先輩。そして我がトラウマの原因の片翼たる倉田先輩の3人は20人程に襲われて──反撃し合わせて6人ほどを蹴り殴り倒すと走って逃げ、時折「ほ~ら私達を捕まえて御覧なさい」などと挑発し、必死に追いかけて来る連中を散々引きずりまわして、疲労させた上で逆襲に転じてボッコボコにした……ちゃうねん、それ違う話だから。

 そう、あれは工業高校のOBでヤクザとして出世した奴が子分どもを引き連れ「面子を潰された」とか意味不明の理由で空手部に難癖をつけてきた時の話だ。
 勿論、上級生達にヤクザ如きがどうにか出来るわけも無く12人のヤクザは僅か1分で全滅に追い込まれ、更にその後、連中の組には正体不明者による殴り込みがあり重傷者多数で組は解散に追い込まれてしまった。
 翌日、やけに上機嫌で現れた大島が「しかし連中の言い分は理解出来ねえな。面子を潰したのは、たった7人に100人以上で襲い掛かって全滅させられた不甲斐ない後輩だろうに、もしお前らがそんな無様な真似をしたら生まれてきた事を後悔させてやる」と言い放ち、その日の練習は凄くハードかつエキサイティングで、一部ホラーですらあったらしく、1年生のみならず、2年、そして3年生までもが練習中にぶっ倒れることになり、大島をして「手加減間違った」と言わせたという逸話がある。
 よく考えて欲しい。先輩達はヤクザにやられた訳でも何でもない。それにも拘らずとばっちりだけで酷い目に遭うのだ。むしろ本当にやられっぱなしで逃げたりしたとするなら……
 ちなみにヤクザの組が1つ潰れた事は、この町の人間なら皆が知っていたが何故か新聞などで報道されることは無かった。


 取り合えず寝なおして9時丁度に目を覚ます。
 【時計機能】さえあれば、俺は一生涯寝坊とは無縁でいられるだろう。もう既に早起きは骨の髄まで染み付いた習慣だが、それでも毎晩寝る前に万一寝坊して朝練に遅れたらという危機感から目覚ましを複数用意してあったのだが【時計機能】のお陰でお払い箱となった……以前は毎晩寝る前に緊張感を覚えたくらいだった。
 紫村達が作ってくれたのだろう。久しぶりに食欲を掻き立てる料理の匂いが鼻腔をくすぐる。
「良い匂いさせるじゃないか?」
「おはよう。乾パンを砕いて煮た麦粥もどきだけど、君が用意してくれた食材でなんとか食べられる物になったとは思うよ」
「そいつはありがたい。久しぶりに食べたいっていう意欲が沸いてきた」

 紙製の碗から立ち上がる湯気の下から覗くのは、とろみの付いた茶色いスープらしきもの。
 見た目は良くない。茶色は乾パンの色ですり鉢で細かく磨り潰した訳じゃないからポタージュスープのように滑らかでもない。
 だがこの温かな湯気が香りをまとい頬を撫でる感触だけで涙が出そうになり、すぐに碗に口をつけると啜る。
「ああ、温かい……」
 心の底から湧き出た思いが口を突いて出る。
 この程度の味に感動されたなら、紫村は不本意に思うかもしれない。何事も卒なくこなす奴だから空手部の中では1位2位を争う料理の腕前を誇っており、合宿の料理の半分は奴が受け持っているようなものだった。
 豊富な食材があるわけでもなく、そして手に入る食材も余り料理に使われることもない類の山菜やキノコ、肉はウサギや猪。その上、料理道具などが用意されているわけではない。そんな状況でも美味い料理を作り続けた。
 そんな紫村の料理の中では今回のは上出来とは言えない。何せ調味料の類が無いのだから……だが今はたまらなく美味しく感じる。
 手軽で便利な携帯食だけじゃ駄目なんだ。温かい料理を食べないと心が痩せてしまう。

「もう少しゆっくりと食べないと消化に悪いんだけどね……」
 がっつく俺と香籐に呆れた様に呟く。
 確かに、半流動体の食べものでも、全く噛むという動作無しに飲み込んでは消化が悪い。
 噛むという動作によって唾液が分泌され、唾液に含まれる消化酵素群アミラーゼにより、デンプン質に含まれるアミロースなどを糖に分解されて、より消化吸収しやすくなるので、今の俺にとってはとても大事な動作のはずなのだが──
「無理!」
 俺と香籐は同時に答えた。


「よぅ~し、何だか戦えるような気がしてきた!」
 現金なもので、美味いと思える物が腹の中に納まっただけで力が沸いてくる。砂漠で水を切らして一歩も歩けなくなった人間が、水を飲んで一息ついたとたんに元気を取り戻すようなもの……まあ、それは創作上の演出って奴で、そんな事は絶対に無いんだけど。
「もう少し、食べると思ったんだけどね」
「寝起きだからだよ。俺の食欲なめるな昼飯は凄く食ってやるからな!」
 まるで食が細いなんて言われ方は心外だ俺の胃袋は海の如きキャパを誇る。ただ燃費の方がブラックホールなだけだ。

「期待しているよ。それで何か良い考えはあるのかい?」
「ちょっと待て……」
 半径9km圏内を表示範囲に収めた俺の広域マップには、元の拠点周辺の状況が全て表示されている……B-29(仮)は……単位は何だ? 体で良いのか? 群体だけど体で良いのか? いや群体だから体で良いのか、とりあえず2体ということにしておこう……何がしておこうだ。そんな場合ではない。えらいこっちゃ!
「いつの間にか、例の円盤が2体に増えている件について……」
「『例の』というのは直径200mの奴ですか?」
「そう、俺が個人的に超空の要塞B-29(仮)と呼んでる奴だよ」
「そもそも君が何と呼んでいるのか知らなかったし興味も無いよ……それで増えた事で何か問題でもあのかな?」
「現状では問題は無いな。あの状態から更に新たな形態に変化したら問題になるかもしれないが、あえて言うなら1体でも凄いのに、2体も倒したらどれだけレベルが上がるか考えると怖いというのが問題だな」
「つ、強気だ……主将達が強気過ぎて怖い」
「どうだ、心強いだろ?」
「それは主将達がパニックになったら、僕も一緒にパニックになるしかないから、冷静で居てくれる分には心強いですけど……」
 どこかまともじゃない。そんな言葉を飲み込んだのかな? 自覚はあるよ。いきなり1人で異世界に放り出されて3体の巨狼と戦わされて、今までとは違う何かに自分を変えなければシステムメニューの力があっても生き残る事は出来なかった。
 そうなると不思議なのは紫村だ。俺と同様な不思議で過酷な体験をしたとも思えないのに、下手すれば俺以上に全てにおいて割り切った考えが出来るのは、奴の性癖以上に……性癖程度に……性癖ほどじゃ……もうやめておこう、例えが悪かったんだ。

「安全を確保する方法があるから強気で居られるだけだ。別に俺や紫村の頭のネジが飛んでるとかいう訳じゃないぞ。安全第一」
「どうやって確保するんですか?」
 その懸念に、俺は余裕の笑顔で応える。
「うむ突然だが先程、また新しい魔術を覚えた」
 たった1レベルアップで良い魔術を引き当てたものだと自分で感心する。
「どこかで聞いたような台詞ですね」
 いかん、遊びすぎて香籐の忠誠心がごっそりと減っている。
「まあ、話を聞け。それは【結界】の上位版で【移動結界】という。名前の通りかけた対象が移動すると結界も追従するという優れもので、これを使えば俺達は奴らに気取られる事なく移動が可能になる」
「それならいけますね」
 忠誠心セーフ!


 【移動結界】を張ったまま拠点から外へ出ると、今にも雨が降り出しそうな大きな積乱雲が張り出して雲の中では時折雷鳴が轟いている。
「天気は曇りか……雨が降ったらまずいな」
「そうだね。急いだ方が良さそうだ」
 幸先が悪いな。
「どうして雨が降るとまずいんですか?」
 雨が蒸留水並みに綺麗な水だったしよう。水溶液ではない水は基本的に絶縁体だ。だが高圧の電流は空気すらも通して流れる。
 普通は空気中に放電された電流は可能な限り最短距離を通って地面へと走る。しかし周囲に空気よりも伝導性に勝る雨粒が大量に存在した場合は、素直に最短距離を通らない可能性がある。
 元々、空中に浮く伝導体である人体は、電流にとっては通りたいと思える選択肢だが、その先に流れられるものが無ければ、最短距離で地面に向かうはずであり、その最短ルートに近寄りさえしなければ安全だ……基本的にはね。
 実際の雷が蛇行するように、必ずしも距離的最短ルートはたどらない。流れやすさの最短ルートを通るだけ。
 大雨に降られ場合、最短距離で地面に向けて流れるよりも、放電体→雨粒→略→雨粒→人体→雨粒→略→雨粒→地面がより流れやすい回路として形成される可能性がある。しかもその回路が出来上がる瞬間は全く予測は出来ないということを説明した。

 ちなみに雷が枝分かれするのは、雷は空気放電が始まった時点でルートが決定されているのではなく、最初の放電が起こった段階では地上にたどり着くまでの電圧は無い。
 極々短時間だけ空気の壁を突き破ることの出来る電圧を得て、最初の放電が起こる。しかし電気の供給が自らが開いた道を通して放電元から続いているので、再び電圧を高めて再放電を行う。この際にほぼ同じ条件で流れる方向があれば枝分かれする。つまり雷は実際には大きなフローチャートのような経路を描いて、その中の1つ、もしくは極少数が地面に達する。
 すると他の行き止まりの枝道に流れて電流の一部はルートを遡り、地面に到達したルートを通って地面へと流れる。
 実際の雷ならば、その枝分かれである先駆放電だけでも致命傷になりかねないが、所詮お化け水晶球の放電に過ぎない。今のレベルならば直撃を貰わない限りはほとんど問題は無いので無視して説明すら省いた……多分、説明すると嫌がれるだろうし。

 俺達は結界によって奴らの【眼】──どのようにこちらを察知しているかは未だに分からない。音などの振動、臭い、そして通常の可視光線以外の赤外線を見ている可能性も否定出来ない。ただし魔力は結界でも遮断しないので除外出来る──を避けて、1体のB-29(仮)の真下にたどり着く。
 ちなみに結界使用中はこちらも外の様子を見ることは出来ないが、それはマップ機能から得られる情報で補う事が出来た。
「浮遊/飛行魔法(改)は大丈夫だな?」
 浮遊/飛行魔法は浮遊/飛行魔法(改)へとアップグレードしており、操作性が向上し高度、速度維持の自動化に成功し、更に1割の燃費向上と2割の出力向上に成功していた……色々と無駄が多い事が判明したのだ。多分、明日は浮遊/飛行魔法(改弐型)になっていると確信出来るほど、まだ目に付く無駄が多い。
「随分扱いやすくなったから大丈夫だよ」
「僕も大丈夫です」
「紫村、お前がもっと良いものへと改良するなり、新しい魔法作っても良くない?」
「……まあ、その内にね」
 乗り気じゃない。不思議だな紫村なら興味を示しそうだったのに。
「……そうか、それでは結界を解くぞ」
「いいよ」
「お願いします」

 結界を解除してから10秒後に、B-29(仮)は群体である自らの一部であるお化け水晶体を俺たち目掛けて落下させる。
「早い反応なのか遅い反応なのか微妙だな」
「あのスケールとしては早い方かもしれないね」
「そんなに落ち着かないで下さい! 大体、紫村先輩も少しはあの大きさに驚いてください」
「驚くも何も高城君の言ったとおりだからね」
 香籐が慌てるのも分かる。こちら目掛けて落ちてくるのは1体2体ではなく、ざっと見て3桁にも上る。まさに雨あられ状態だ。
「俺に続いて退避行動開始!」
 そう告げると返事も待たずに浮遊/飛行魔法(改)で高度10m程度の高さを西方向へと回り込むように移動する。
 すると上空に居た別のB-29(仮)の直下に入ったために、そちらからも爆撃が始まる。

「経験値が入るな」
 落ちてきたお化け水晶球は、移動し続ける俺達の後方で地面に衝突し派手に砕け散りながら、高圧電流を発生させてオゾン臭を漂わせるだけではなく、しっかり経験値もプレゼントしくれた。
 レベルアップ直前まで経験値が貯まっていたので、既にレベル70に必要な経験値は獲得しているはずだが、戦闘継続中とみなされてレベルアップのアナウンスは無い。

「段々と僕達の移動する先を読んで投下するようになって来たね」
 紫村の言うとおり、連中の攻撃が始まって3分ほどで逃げ回る俺達の先へ予測攻撃をする知恵を手に入れたようだ……成長が速いよ。
 お陰で、急な方向転換を繰り返す事が多くなって行き、加速時間に比例して伸びるはずの速度は頭打ち状態になっている。
 だが奴らに攻撃を続けさせるためには、その直下から逃げ出すわけには行かない。
「その内に奴らは飽和爆撃に切り替えるはずだから、その兆候があったら教えて、ぐぁっ!!」
 突然鼻から喉、そして胸へと呼吸器官全体に焼ける様な衝撃に襲われる。
「 ──まずい、息を止めろ! 高度を取って北に逃げろ!」
 そう指示を出すが、指示が間に合わなかったのだろう2人は受けた衝撃に集中を切らせて浮遊/飛行魔法(改)を維持が怪しくなっている。
 俺は一旦速度を落として2人を追いつかせると、その背中越しに反対側の脇の下に腕を通して抱え込むと、【場】に対してかなり本気で魔力を注ぎ込み、燃費を無視して得た出力を使い高度を20mほどまであげると北へと向けて飛び続けた……レベルアップのアナウンスを聞きながら。


 僅か1kmほどだがB-29(仮)から距離を開けると、浮遊/飛行魔法(改)を解除して着地し、2人に対して【大傷癒】を施して呼吸器官への火傷を治療し、次いで自分の治療も施す。
 地面に落ちて砕けたお化け水晶球の埃のように舞い上がっていた微細な破片が、呼吸と共に吸い込んだ後で放電を行い呼吸器官全体に火傷を負わせたのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ…………道理で単調な攻撃を仕掛けて来たはずだ。やってくれる!」
 火傷のお陰で呼吸が出来なかった分、酷く息が切れる。
「……ごめんね。やられてしまったよ」
「……申し訳ありません主将」
 2人も息を切らせて、よろめきながらも何とか自分の足で立ち上がった。
「いや、俺も連中の狙いが読めなかった。すまない」

 だが休む間もなく3体目、4体目のB-29(仮)が現れる。しかもそれらは一部のお化け水晶球を分離して地上近くから上空50mくらいの高さに多数展開させて包囲網を作り上げている……しかもどんどん上へと伸びているよ。
「主将。ここは結界を使いましょう」
「いや、やめておくべきだと思うよ。余り多用してみせれば奴らは、僕達が姿を消す事を前提にした行動を取るだろうし、更には結界自体に対する対策を行うはずだよ」
「だよな、奴らの対応の速さは異常だからな」
 実際に上と下での立体的な部隊展開を覚えてしまったようだし……もう少し楽がしたいです。

 結局、力尽くで包囲に穴を開けて突破する事になった。
 濡らしたTシャツで顔の鼻から下を覆って、水晶片を吸い込むことが無いようにした状態で突撃。
「電撃は3発までなら大丈夫! ほら痺れてないで戦うんだよ!」
「主将ぉぉぉっ!」
 泣くな叫ぶな。
「いいかい香籐君。電撃は避ければいいんだよ」
 紫村がおかしな事を口にし始めるが事実でもある。連中は包囲する壁を作る個体達が同時に放電を始める事で、各個体がノードとして役割を果たして電流を地面まで送り届けることで電気の壁を作り上げて接近する俺達へ電流を流し込む作戦に出ている。
 それに対して紫村は放電が始まる前に自分の周囲の個体を破壊せずに蹴り飛ばす事で、電撃が襲ってこない安全地帯を作り上げる。そして放電終了後に、前進しながら破壊を繰り返す。
 だがそんな事は香籐にだって分かっている。自分で気付かなくても俺と紫村の動きを見て察することの出来る男だ。しかし香籐の動きが良くなかった。【レベルアップ時の数値変動】の固定を【心理的耐性】の中の【恐怖症耐性】は【高所】を含め全てOFFにしたので、高所自体への恐怖は解消されているのだが、俺もそうだったが高所を恐れない事と、高所という状況をトリガーに恐怖を覚えると言う身体に染み付いた習性は別問題であり、怖くなくてもふとした瞬間に身体が強張るという状況が起こる。
 俺自身は、単なる移動などの命の心配の無い状況下で高所体験を数多く踏む事で解消したが香籐にはまだ経験が足りていない……などと考えている内に4発目のしかも大きな1発を貰って落ちていく。
 行く手を遮るお化け水晶球を蹴散らしながら、落ちていく香籐に追いつき救い上げると【大傷癒】を掛ける。
「高さを怖がるな、お前の今の身体なら100mの高さから落ちてもしっかり受身を取れば絶対に死なない」
 死なないと良いなぁ~と言う淡い期待を込めながら口にした。
「五接地転回法ですか? 僕はあれは苦手なんです」
 知ってるよ。俺と同じく高所恐怖症の奴が簡単に身に付けられる技術じゃない。いや技術的には低い場所で練習すれば身に付く。だがその技術を肝心な場面で使えるのかと言うのは別問題だ。
 問題と言うのなら、中学生が五接地転回法を身に付けなければならない環境というのが一番の問題だろう。
「安心しろ。お前が恐怖にビビッて失敗しても、その分を取り戻せるだけの身体能力がある。もし五接地が三接地に減っても死ねないから安心しろ。死ななかったら腕の2・3本が無くなっても生やしてやる」
「主将ぅぅぅ、3本も腕はありません」
「それは紳士の嗜みウィットに富んだジョークだ……笑え!」
「全然笑えません」
「……高城君。本当に時々……かなり、大島先生みたいだよ」
 それは言うな!

 俺や紫村はともかく、このままでは香籐が持たない……香籐を収納してしまうか?
 いや、むしろお化け水晶球を収納出来ないだろうか?
 足場用の岩を蹴って1体のお化け水晶球へと接近する。こいつらに対しては後ろから回り込むなどの基本は役に立たないから、必要なのは速度だけだ。
 お化け水晶球に数十cmまで接近し、システムメニューを開いた状態からの「収納!」……成功。やはり生き物ではないようだ。
 生き物でもないのに倒すと経験値が手に入るのか……ゲームによっては倒した敵の魂が経験値になるとかいう設定のものもあるが、機械やロボットが敵となるゲームもあれば、ロボットがレベルアップするゲームもあるので、ありといえばありなんだろう。
 しかし、この作戦は何の役にも立たなかった。触れずに収納が可能なのは俺だけな上に、1m以内に接近するならむしろ他の方法で倒した方が早いからだ。

 その後、無事に包囲を突破すると浮遊/飛行魔法(改)で更に距離を開けて完全に追跡を振り切った……ちなみに収納はしなかった。
 逃げる途中に戦闘終了によるレベルアップなどのアナウンスが流れたが無視したので、地面に降りてから確認する。
 僅か4分足らずの戦闘で、俺がレベル2、紫村達はレベル4上昇し、俺はレベル71で紫村達はレベル62になっていた。
「経験値的には美味しかったが、もう一度同じことをやらせて貰えると思うか?」
「無理だと思うよ。彼らは学習して短期間で学習したものを反映させてくるから、新たな作戦……もしかしたら空中で自爆させるとか対策を立ててくるよ」
「僕は今と同じ事はしたくありません! そして、こちらも新たな手段を考えなければ、狩られるのはこちらの方になります……だから新しい作戦を立ててくださいお願いします。本当にお願いします」
 とりあえず2人の意見と自分の考えが一致した事で、新しい作戦を考えることにする。
 紫村の知恵を借りたくもあったが、連中は俺達を見失ってはいるが、まだ探しているはずなので、余り時間がなくシステムメニューの時間停止を使って自分1人で考えた方が良いと判断する。

 先ほどのレベルアップのアナウンスで、レベル70到達ボーナスとしてとても大きな要素が追加された。前回のパーティーでのレベルが一定を越えた時のボーナスと同じく【所持アイテム】関連の機能拡張なのだが……容量が倍になり、更に夢世界の俺の【所持アイテム】と共有になった。
 つまりだ。俺の【所持アイテム】内には、昨日の夢世界で狩った風龍がそのまま入っている──流石に連日の龍の買取は断られてしまった。流石にそんな大物をポンポンと市場に流せば機密保持が難しくなるので、店で保存しておくにも鮮度の問題もあるので自分で持っててくれ言われた──のだ。
 他にはオークやオーガも入っているが、やはりオーク肉だろう。オーク肉のベーコンやソーセージもかなりの量がストックしてある。
 これで異世界の美味なる食材と現実世界の優れた調理法や調味料とのコラボレーションが可能になったのだ……我が人生に一片の悔い無し!
 夢が広がるね。次の夢世界では龍退治はお休みして、コカトリスを大量に狩ろうか? ……いや、ミノタウロスを絶滅させる勢いで狩ろう。
 ……違うわ! 結局、今の状況には全く役に立たないよ! 作戦を考えろ作戦を! どうやってミノタウロスを狩るか? ああミノタウルスがどうしても頭から離れてくれない!

 上空に居座るB-29(仮)を地面に叩きつけて破壊する……これが目的だ。
 その目的にどうやってアプローチするか? 下から射ち落すというのは無理だな。今回の作戦に使えそうな新しい魔術として【暴風】が思い浮かぶが『最大風速20m/sの暴風を吹かせることが出来る』は強力ではあるが、気象庁の定義する暴風と変わりがない上に、基本上下方向には吹かせられない上に効果範囲が狭いので今回は役に立たない。。
 B-29(仮)を上から攻撃して落とすとしてどうやって落とすのかだ。大きな質量を上から叩きつけるのがシンプルで理にかなうが、あれほど巨大な浮遊物を落とすだけの大質量体とは何か? 俺が上空で用意出来る一番重たい物といえば、風龍だろうか? 多分200t弱はあるだろう。
 いや液体でも良いなら【巨水塊】という魔術が存在する。直径9mくらいの水の球を生み出し操作する事が出来るらしいがスケールが大きすぎて試してすら居ない。何せ生み出される380tを超える水とは学校の25mプールに張られている水とほぼ同じ量だから、後始末を考えると試しに使ってみようかというわけにもいかない。
 だが【巨水塊】を覚えたことで分かった事がある。【水球】シリーズや【飛礫】【粉塵】などの術の発動と共に物体を創り出しているように見える魔術は、それらの物体を創り出してはいないという事だ。
 当然、物質を無から創造するなんて事は最初から考えてもいないが、【水球】の水は空気中の水分を抽出して創り出しているものだと考えていた。だがさすがに380tの水はありえない。
 それではどうやってそれだけの質量を持つ水の塊を用意するのか? 答えは簡単だ【所持アイテム】しかない。正確には所持アイテムと同じ機能を利用しているのだろう。
 この前のレベルアップで自分と紫村達の【所持アイテム】との間で物品の受け渡しが出来るようなったが、これは距離を無視して物を移動させる事が出来るという事を意味し、システムメニューにはどこか遠くにある水源から魔術を使った人間の元へと水を移動させる事が出来るという事を意味する。
 この機能を使わずして【巨水塊】なんて馬鹿げた魔術は成立しないと確信出来る……外れたら笑うしかないけどな。

 だが380tの水を被せても、重さにB-29(仮)が傾けば流れ落ちれば終了だ。
 何か良い方法はないか……そうダウンバースト現象のように下向きの台風並みの強い気流……待てよ、今の天候なら起こせない事もないかもしれない。
 ダウンバースト現象は、強い上昇気流によって作られた積雲や積乱雲内の水蒸気が結氷したり凝縮した物が、上昇気流の減衰と共に重力に引かれ落ちてくる事を切欠に始まる。
 氷や水の粒が降下する際に、周囲の空気を下に押し下げたり、摩擦で巻き込んで下降気流を生み出していき、更に降下中に氷が融ける水滴が蒸発するという相転移を起こす事で融解熱、気化熱により周囲の空気から熱を奪い気温を低下させて下降気流を加速させる。
 雲の下部で下降気流と雲を作り上げていた上昇気流がぶつかり均衡状態を生み出すが、切欠が上昇気流の減衰であるので、やがて上昇気流が消える事で地表に向けて一気に噴出するのである。
 これを人工的に発生させるには、高度1万m以上の積乱雲の中で【巨水塊】を、それも複数発生させて解除するダウンバースト発生トリガーと、B-29(仮)を積乱雲の直下へと誘導する2つの作業を同時に行う必要がある。

 B-29(仮)の誘導は紫村と香籐に任せるしかないだろう。問題は2つ有って、1つは情報伝達手段。しかし2人も既にレベル60を超えたので、闇属性レベルⅣの【伝心】が使えるようになっている可能性が高い……後で確認してみよう。
 もう1つは誘導する2人の安全だが、お化け水晶球側が何らかの対策を立ててきたとしても、2人がB-29(仮)の直下に入らず、常に奴らの前方を直線移動で目的地まで引っ張れば危険はないと思う。
 そして肝心なのは俺自身の役割であるダウンバーストの発生だが、問題は高度1万m以上までどのようにたどり着くかだ。
 まず防風防水対策として雨具があるが、目的地である高度1万m以上にまでたどり着くには、酸素濃度の問題で安定性とか全て無視して1秒でも早く全速力でたどり着く必要があるので、弾丸の様に叩きつけられる雨粒の圧力はゴアテックの防水性をも超えるだろう。
 風と雨と寒さによる体温の低下は短時間で決着をつけることで『我慢』という方法を取るが、酸素濃度の問題は辛いな、下手すると意識を失い作戦を失敗するどころか、失神後に浮遊/飛行魔法(改)が高度を自動的に維持するので確実に死ぬ。せめて自動高度維持はカットした上で最低高度維持を設定する必要がある……修正、修正っと、(改弐型)じゃなく(改+)程度だろうか?
 問題はあるが、とりあえずのアウトラインは決まったので2人に意見を求める。ちなみに【伝心】は紫村は使えなかったが香籐が使えた。

「ダウンバースト……この場合はマイクロバーストになるのかな? でもダウンバーストは現在分かっている条件が全て揃っても必ずしも起こると決まった現象じゃないから」
「その分、トリガーが大きいから大丈夫かと思ったんだが、難しいか?」
「成功はすると思うよ。ダウンバーストのトリガーとなる質量が380tと大きいから、上昇気流が弱まるタイミングさえ計れば多少の不確定要素を無視して積乱雲自体を巻き込んで質量を増し強力な下降気流を生み出すはずだよ」
「やれると思うか?」
「1つの積乱雲の質量は小さいものでも20万t近くにも達するんだよ。あのサイズならば3-4倍程度。その数分の1が頂上付近から一気に崩れ落ち、そのエネルギーに巻き込まれた空気が奔流となって上から叩きつけられる。それに円盤状という形状も最も上からの風の影響を受ける形だから耐えられるものではないと思うよ」
 どこを調べれば積乱雲の質量が分かるのか知らないが、我が軍師、紫村が太鼓判を押すなら良しとしよう。

「それでだ。残された不安要素は俺が上空1万mまで無事にたどり着けるかなんだが……」
「防寒防水対策なら僕の雨具を貸すから、重ね着してくれれば良いけど──」
「僕、酸素スプレーを用意しています。1年生達が無理させられて倒れた時のために」
「でかした! さすが香籐。気配りの人だ」
「今回の合宿は荒れそうだったので、2年生全員で酸素スプレーを用意しておいたんです」
「よし、元の世界に戻ったら俺の兄貴ケツの穴を掘る事を許可する」
「け……い、いりませんよ!」
 首をブンブンと横に振りながら3歩下がる。
「高城君のお兄さんは、やはり君に似ているのかな?」
「紫村。黙れ、そして座れ。いいかお前には言ってないから、関係ない話なんだ」
 目を輝かせて力強く立ち上がった紫村に釘を刺す。あくまでも冗談だがこいつの場合は冗談にならない。

『現在の俺がいる位置へと誘導を頼む』
 積乱雲はゆっくりと北東へと移動しているが、その速度は遅いので余り問題にはならないだろう。
 現在俺は【移動結界】で紫村と香籐をB-29(仮)から離れた場所に残すと、結界を張ったまま上空900mへと上昇して誘導する場所を指示した。
『これから誘導を開始します』
『頼んだぞ』
 【伝心】で香籐からの返事を受けて、【風測】『指定ポイントの風速、風向を知ることが出来る。持続時間3時間』を発動させて雷に打たれる前に積乱雲の下から抜け出すために20kmほど北へと高度を下げてながら移動すると、速度を200km/hまで上げた状態を維持しながら旋回する。

 B-29(仮)から、指定ポイントまでの距離は約3kmほどで、それに対してB-29(仮)の移動速度は10km/h足らずであり、途中大きな問題がなかったとして誘導が完了するのは20分程といったところだろう……1つの積乱雲の寿命を考えるとタイミング的にはギリギリだな。

 誘導完了まで残り10分少しというところで【風測】から上昇気流が弱まる傾向を見せたので、積乱雲の外側に沿って一気に上昇を開始する。
『上昇気流が納まりだしている。これから3分後にダウンバーストを発生させるので、ポイントまで誘導が終わったら現在移動している方向へとそのまま全力で逃げろ』
『3分後ですか?』
『安心しろ。風が地表に達するまでには10分以上は掛かる……多分』
『た、多分って何ですか!?』
『ダウンバーストの発生から地表までの到達時間なんて聞いた事も見たこともないからだ! それとも何か? 俺が流体力学と気象学の専門家だとでも思ってるのか? ああ、空気中での物体の落下速度なら幾らでも計算してやるぞ。
 だが水の塊から細かい水の粒へ、そして氷の粒へと変化して流体のように振舞い出す物体とそれに巻き込まれた空気の動きを、積乱雲の中という条件を加えて計算するなど本を読んだだけの素人に出来る訳ないだろ。それとも何かそんな簡単な計算も出来ないんですかとでも思ってるのか?』
『しかしですね』
『良いか、人間がスカイダイビングで落下する最高速度は、空気抵抗で200km/h程度でそれ以上は加速するのが難しい。つまり1万mを落下するのに200秒程度かかる。だが積乱雲自体が上昇気流で作られている以上、肝心の初期の加速に大きくブレーキがかかる。更に周囲の空気や水分などの質量を巻き込むロスを考えると、その3倍は掛かるんだよ』
『分かりました』
 ……ちなみに最後の3倍という数字には全く根拠は無いのは内緒だ。

 上空4000mを過ぎると流石に呼吸が苦しくなり始めるが、まだ耐えられる……違う。無理しても意味がない。酸素スプレーを一気に吸い込んで、更に上昇を続ける。
 酸素スプレーには95%以上の酸素が、約5L入っていて、1プッシュ100mlで約50回使える。俺の場合、普通の深呼吸で5L程度──肺活量を測る時の様に全力で吸い込んだらもう少し上だろうが──だろう。空気中に含まれる酸素の量は2割程度なので、深呼吸中に10プッシュで1Lを消費した。
 途中9000mで少し軽めに深呼吸で8プッシュ。其処からは緩やかなドーム上に広がる積乱雲の天井部に沿って頂上を目指して、薄い空気の中を加速して移動する。

「寒い!」
 信じられないほど寒い。思わず腕時計で温度を見ようと仕掛けたが、俺の腕時計の温度測定は-10から60℃までで冬合宿の山の中でさえ使い物にならない。ついでに言うと高度計も測定範囲外でさっぱり役に立ってない……父さんが合宿に行く俺に「し……頑張れよ」と思わず死ぬな言いかけるほどの思いで送ってくれた時計なのに。
 更に言えばシステムメニューのマップ機能も、広域マップのマップの地上の表示範囲が消失した高度9000mより上では全く役に立たない。
 だが既に高度1万mを大幅に超えているだろう。超えているが頂上部分にはまだたどり着かない。12000から13000mといったところだが、雲の頂上は何かに遮られるようにテーブル上に広がっている。つまり対流圏と成層圏の境界面によって遮られているのだ。
 それはどういうことか……考えたくも無いが、目的地点は-70℃くらいになっているという事で、今現在でも-50℃を上回ることは無いだろうって事だ。
 そんな中を現在は空気の薄さも手伝って500km/hを大きく上回る速度で移動中。普通ならとっくに低体温症。そして凍死へと驀進中だが、カロリーを大量に消費しながら耐えている状態だ……うん、後5分以内に決着つけないとハンガーノック再びだよ。

 頂上のテーブル部分の中央部にたどり着く。
『今からダウンバーストを起こす。大丈夫か?』
『本当に10分間余裕があるなら大丈夫です』
『…………よしやるぞ』
『今の間は何ですか?!』
 俺は香籐との通信を打ち切ると【巨水塊】を発動した。
 発動と同時に解除すると、巨大な球状の水の塊は重力に引かれて崩れる端から凍りながら落ちていく。
 その後、全10発目まで【巨水塊】を発動した後で4度目の酸素吸入を行ってから、来たルートを逆にたどって戻る……【巨水塊】のせいで雲に開いた穴を通って降りるのもありかと思ったが、多分中は温度こそ外よりはずっと高いだろうが、落ちていく氷と周囲の空気や水分との摩擦で雷の発生が凄い事になっている事が予想されたので避けた……厨二病がどうしようもなく疼くシチュエーションなのだが現実って厳しい。

 帰りは行き以上に全力を搾り出す。もう姿勢制御もどうでもいい積乱雲の中に入りさえしなければ構わなかったので、バランスを崩し後は膝を抱えて身体を丸めた状態で加速を続けてひたすら落ちていく。ついでにふわっと意識が気持ち良く遠のいて行く……これはやばいって。

 次に俺が意識を取り戻したのは高度500m地点。そして落下速度は600km/hだった……速度の自動維持がこんな場合にも利いてるね。
 意識を取り戻したのと同時に浮遊/飛行魔法(改)で魔力消費率との兼ね合いの限界値である2Gを大きく超える3Gまで【場】が弾け飛びそうなまでに魔力を注ぎ込んで減速をかけるが、重力に引かれているため実質減速に使われるのは2Gのみで全く間に合わない。だって600km/hとは3秒で500m移動する速度なのだから……

 だが俺にはまだ方法がある。【装備】だ。装備で呼び出した物品は俺がどんな速度で動いていようが関係なく静止状態で出現する。それを掴む事で幾らでも減速が出来る。
 両手の中に現れた片方5kgの鉄アレイが運動エネルギー0の静止状態で出現し──
「あっ!」
 今の俺の握力をもってしても、濡れた手に滑りやすい地金むき出しのグリップでは、現在の落下エネルギーを受け止めきれずに、俺と鉄アレイは生き別れになってしまった……いきなり想定外だよ。

 だがこんな時には慌てず騒がず即時間停止。
 冷静に考えろ俺。600km/hって音速の半分の速度だぞ。そんな状態で静止状態の5kgの鉄アレイを手の中に出すという事は、600km/hx5kgのエネルギーを片手で受け止めるという事だ。
 むしろ手が滑ってくれてありがとうだ。なんかの間違いできっちり指に掛かったなら、人差し指と中指は鉄アレイに引き千切られて持っていかれても不思議は無い。
 もっと軽いものから順に使って減速しなければ──スポーツドリンク入りのペットボトルが手の中に現れた瞬間に弾け飛んだ……無理も無い。ペットボトルにすれば半音速で壁に叩きつけられたのと大して違いが無いもんな。
 もっと柔らかい物を──鈴中の布団は手の中に現れた瞬間に引き裂かれて中の羽毛をぶちまけながら遠く上空へと飛んでいった。次に取り出したベッドのマットは身体でぶち抜いてしまった。

 なんやかんやで既に1秒以上はロスしているが、多少の減速もあり3秒の余裕が維持されている。そのまま引き続き必死に減速を試みるも高度10mで俺の身体は200km/hを超えていた。
「【巨水塊】!」
 地面と俺の間に生まれた直径9mの水の塊に突入して……レベルが70を超えていなければ即死だった。

「くっうぅぅぅぅぅっ……」
 痛みに口を突いて出そうな悲鳴を圧し殺す。
 脚は……両脚がそれぞれ複数個所折れて……いや骨がぐしゃぐしゃだろう。更に右腕が折れて、肘も外れてやがる。左腕は何とか無事のようだが、肋骨も何本か折れて、幸いなのは下半身の痛みが感じられるので脊椎の損傷は無いか軽微なことだろう。
 後は内臓のダメージだが、システムメニューで確認しないと……最初から全部、システムメニューで調べれば良かった。
「は、ん、が-……のっく……」
 左手で地面にダイイングメッセージを残すと、ひっくり返ったまま助けを待つ。【大傷癒】なら折れた骨も即効で直してくれるだろうが、骨は正しい位置に戻してから治療しないと、曲がってくっついたりするだけじゃなく神経や血管を骨で挟んでしまう可能性があるので、紫村達の手を借りる必要があるからだ。

 激しい雷鳴と共に風が止まり、空気が変わり重たい圧迫感を肌に感じる。上昇気流と下降気流の衝突により風の流れが収まった。
 【風測】からのデータは、上向きに流れていた風の勢いが急激に衰えていき、やがて止まった……ダウンバーストがその牙を剥く瞬間が迫ってきた。
「来る」
 上昇気流に打ち勝ち均衡を破った下降気流は地獄の釜を突き破ったかのごとく迸り、風速60m/sで【風測】のポイントを通過すると、3秒後には直下に集まっていた5体の──更に増えていた──B-29(仮)を飲み込むと、強風に飲み込まれた木の葉のように翻弄されるそれを地面へと叩き付けた。


 目の前を覆い尽くさんばかりにポップアップした大量のアナウンス用のウィンドウを掻き分け、目的のウィンドウを見つけ出した。
「……えらい事になった」
 呆然と呟く。もし今の状況で俺が全力でガッツポーズを取ったら確実に死ぬ。残り僅かな体力を一気に使い果たして死ぬ。それほど身体能力が上昇していた。
「レベル176って何だよ……」
 レベルが100以上もポンと上がってしまったよ。
 更にポップアップしたウィンドウを探してみると紫村達のレベルは114だった……やはりパーティーメンバーはレベルの上がり方が俺よりも悪いようだ。
 ブロック状とゼリー状の栄養食品を次々と取り出してはボリボリ、ジュルジュルと噛み砕き吸い上げていく。現在凄い勢いで続けられる身体の修復作業に使われる材料とエネルギーを供給しないと死んでしまう。
 この治癒力はすさまじい。魔術の助けもなく骨折が直っていくのが目に見えて分かる。血管とか神経の位置がどうのこうのと言うレベルではない。砕けた骨の破片が体内で勝手に正常な位置に移動して骨と骨がくっ付いていく感覚が気持ち悪くて吐きそうだ。

 一方消化器系の能力も物凄い事になっており、咀嚼して飲み込んで胃に送られた物が、本当に消化しているのか? と疑問に感じるほど早く幽門から十二指腸へと送られていく。消化酵素や胃液自体が今までとは違う何かに置き換わったとしか思えない。いや今までは気づかない範囲で少しずつ変わっていたのだろうが、今回それが気付く範囲で大きく置き換わってしまっただけだ。本当に人類、グッバイ! 今までありがとう……涙が零れ落ちた。

 携帯栄養食品が切れると、夢世界側で収納した果物やソーセージなどを口に運ぶ。やはり異世界の食べものは栄養価の面でもこちらの世界の食材を大幅に上回っているようで【栄養状態】の数値の上昇率が違っていることが分かった。

 またレベルアップがもたらしたのは消化能力や治癒機能だけでは無い。身体能力はレベル1の頃と比較すると100などではすまない大きな係数が刻まれており、知能面の強化は演算能力は昔の8ビットCPUの演算速度には……やっぱり速さでは勝てない。100m/sに届かない神経の伝達速度、そして受容体への神経伝達物質の受け渡しなどの仕組みを持つ脳では絶対に速さでは超えられない壁がある上に、並行処理ならまだ勝ち目はあるのかもしれないが、俺自身にそれを使いこなすスキルが無い。普通年単位の時間をかけて慣らしていく必要がある。
 しかし記憶能力ならそこらのPCに詰まっているデータなど比較にならない情報量を正確に保存し出し入れする事が出来る……速度については触れないで欲しい。
 そして何よりも魔力だ。もう笑ってしまうほど伸びた。自分の周囲半径100mの空間全てを【場】にした──勿論、それをこなすスキルが俺には無い──上で、その中にある魔粒子全てを通常出力で操作するなら丸一日でも可能だろう……夢世界の全ての魔法使いに土下座してサーセンと言うべきだろう。

 そして基準レベルへの到達によるシステムメニューの強化がレベル90、120、140、150で発生している。

 一番良い知らせは、レベル120でのシステムメニューのバックボーンの強化がなされて『システムメニュー機能強化により、現世界でのシステムメニュー機能の完全回復まで予定が短縮されました』というアナウンスがあったことだ。
 この世界でのワールドマップの対応。セーブ&ロード機能回復が終了し、元の世界への移動が後1時間足らずで自動的に実行されることになった。
 とりあえず助かったと胸をなでおろす。ここは世界全体が敵と言っても良い状況だ。しかもこちらの手の内を素早く学習すると同時に対応してくるので、正直この先、何日もこの世界に留まるのは危険だと思っていた。
 だが同時に大問題が発生していた。機能回復したワールドマップに表示されている大陸の海岸線が良く知る世界地図のそれと酷似していたのだ。
「ここが地球なのか……これが?」
 俺が現在いる場所は世界地図を当てはめるなら南米のアルゼンチンとウルグアイの国境付近だった。
 ワールドマップの海岸線は、ほぼ俺の記憶の中のそれと形や大陸間の距離などは一致している。つまりここが地球のもう1つの可能性であるとするなら、地形的に面で推測すると時代のずれは数千年の範囲に収まる。そして、そこまで近い時代だとするならば、同じ時間軸に移動したと考えた方がすっきりする。
 すると、どうして八丈島の北西数十kmから南米に飛ばされたのかという問題が残るが、そもそも時間軸がずれたとしても移動する場所は同じ緯度の場所にしかずれる事は無いはずだ。
 ……そうなる原因はひとつ。自転軸のポールシフトによる傾きにより、俺たちのいた地球との同時間軸における地表の位置関係が変化したと言う事だ……あぶねぇな。下手をしたら海上に放り出される可能性や、公転周期の変化により宇宙空間に放り出される可能性もあったんだよ。

 また、ワールドマップは元の地球での表示可能範囲もアクティブにはなっておらず、俺の人生で移動した事のある日本国内──海外旅行の経験無し!──の北は国内最北端の稚内の宗谷岬。東は旭川の旭山動物園。南は合宿現場の島。西は大阪USJという北関東の田舎に暮らす小市民家庭の中学生に相応しい行動範囲はこちらのワールドマップには表示されない。

 レベル120と150ではワールドマップ機能の復活以外にも、マップ機能が強化と新機能の実装が施されて、周辺マップと広域マップの表示範囲が半径3kmと半径30kmへと拡張された。
 また強度1200までの魔法障壁を無効化してマップ内での表示、検索の対象とすることが可能になったそうだが、正直魔法障壁が何なのか俺には分かっていない。
 そして、ワールドマップ内での検索機能も追加された。
 しかし、ここの地球でも元の地球でもワールドマップを使って表示可能な範囲が狭すぎる。将来的にどんなに頑張ったとして地球の陸上面積に対して1%以上を表示可能状態にするには周辺マップの範囲の更なる拡大と職業を旅人にする必要があるだろう……どう考えても使えない機能だ。

 そして新機能は、周辺マップ内の各シンボルの行動などの詳細データを得ることが可能になった様だ。
 レベル60になってシンボルの簡単な説明として対象の行動が、睡眠、移動、警戒、戦闘、瀕死と、色分けでの表示より多少踏み込んだ程度だったが、それが2段階アップしたことでかなり詳細になったようだ。
 試しに紫村達のシンボルをチェックすると、2人が『高城と合流するためにこちらに向かって移動中』と表示されている。これは2人の移動方向から割り出したのではない。文字でそう記されているのだ……こ、これは酷い。例えば半径3km圏内の対象の誰かがトイレで用を足している事すら分かったしまうレベル。
 そんな、そんな能力が欲しいと思った事なんて全く無いなんて事は無いけど、こんな能力を持っている事を他の人間に知られたら人生色んな意味で終わりだよ。
 女からは半径3km以内に近寄ったら訴えられても文句を言えないレベル。男だって少なくともそいつの友人どころか知り合いにすらなりたくないだろう。
 救いは、紫村達のレベルが114で、今回のマップ機能が実装された150にはかなり遠いという事だろう。
 2人を絶対にレベル150以上に上げてはいけない。そう決意するが、良く考えたらこの機能を実装されたら2人も同じ秘密を抱えた仲間となるだけだよな……それはそれで悪くない。

 レベル140では【所持アイテム】【装備品】の機能の強化だった。
「射出機能って何よ?」
 いや、言葉の意味は分かるし『【所持アイテム】から取り出す物品に対して、運動エネルギーを与えて指定位置まで移動させる』と説明がある。しかし何故そんな機能が?
 ……収納された物体の持つ運動エネルギーはシステムメニューによって打ち消されたのではなく、奪い取られてストックされていたとは考えられないだろうか? だとすると、何故今のタイミングで貯め込まれていた運動エネルギーを使えるようにしたのか? はっきり言って、レベル140というのは普通にやってて到達出来るレベルじゃない。
 確かに便利な機能だ。試しに適当なものを【所持アイテム】のリストから選択して【射出】を選択すると『目標位置の設定を行って下さい』とアナウンスが表示されたので試しにB-29(仮)の中の1つの円盤部分の中心を指定する。すると『加える運動エネルギー量を指定してください』とアナウンスがあり、スライドボタンが表示されて、デフォルト位置には『最低必要運動エネルギー量』と表示されていた……これは完全に長距離砲撃可能な兵器だね。

 だが兵器と使用可能だとしても、現在どの程度の運動エネルギーが蓄えられているか分からない。そもそも運動エネルギーが蓄えられるような使い方は余りしていない。精々足場用岩を蹴ってから収納するくらいだが……そう考えると結構たまっているような気がする。重力逆らって上空高く飛び上がったり、長距離を移動するために何千回……いや、万の単位で蹴ったからな。
 体重65kgの俺がだからかなりのエネルギーになるはずだ。そういえば昨日は風龍を倒した後に落ちていくのを、地面に落ちられると傷ついて価値が下がりそうだから地面すれすれで追いついて収納した分もある……まあ、とりあえず保留だな。

 それから、元からある機能も強化された。時間停止状態での手を触れずに収納出来る範囲が広がったのだ。
 レベル70の強化の時に、半径5m以内。そして今回の強化で10mだった……もう泥棒し放題だ。

「【所持アイテム】と【装備品】機能の強化は、レベル70、140と来たのだから、次は210なのだろうか?」
 だがオーガに匹敵する経験値が得られるお化け水晶球をあれほど──B-29(仮)5体で、総数は200万を超えている。B-29(仮)の厚さを10mと少なめに見積もったが、実際は20m程度はあったようだ──倒してレベル70台から170台なので、よりレベルの上がり辛くなっている状況で210までレベルアップするためには、今回と同じ数のお化け水晶球を倒しても届かないだろう。
 逆に考えると、オーガ200万体以上倒してもこの程度だとするならば、現実どころか夢世界ではこれ以上レベルアップは不可能と考えるべきだろう…・・・それは困る。拙いにも程があるぞ。
 一気に100以上レベルアップしたことで、魔術の各属性がレベルⅣまで開放された状況からレベルⅦまで開放されたのだが、レベルⅤ以上の魔術を1つも身に付けていない。
 レベル60を突破した時も属性レベルⅣの魔術が制限が開放されて、次のレベルアップからⅣの魔術を覚えたように、開放のアナウンスがあった後のレベルアップのタイミングで魔術を覚えるという決まりのせいだ。
 あれ? だが属性レベルⅠからⅢまでは、そもそも開放されたなんてアナウンスは無かったし、水龍を倒して10レベル上がった時は、それまで使えなかった属性レベルⅡの魔術をいきなり覚えていたな。これはレベルⅣ以上の魔術はそれより下のレベルの魔術とは扱いが違うと言うことなのか?
 確かにレベルⅣから一気に使い勝手が良くなった魔術が増えた。それまでは嫌がらせのように、使い方をこちらが必死に考えないと役に立たないものが多かったからな。多分レベル180から使えるようになる属性レベルⅧからはもっと別格な魔術が使えるようになるかもしれない。夢広がるな……
 だが、そんな獲らぬ狸の皮算用をしている場合ではない。この先レベルが上がらないとするなら、属性レベルⅧどころかⅤから先の魔術を覚える事が出来ないという事だ。

 レベルリングだ。超レベリングだ! 龍を狩って狩って狩りまくってレベルを上げる必要がある。レベル177までに必要な経験値はお化け水晶級換算で3万体弱に及ぶ。これでも176から177にレベルアップする経験値の40%程度に過ぎない……ありがたくて血の涙が出てくらぁ。
 冷静に考えよう。小さい龍を倒してもオーガ数十体分の経験値にしかならない。大きい龍を倒しても200体分には届かない……つまり大型の龍に狙いを絞っても最低でも150体倒す必要があるのだが、ミーアから買った龍の巣、生息地の地図にも150体もの龍の居場所なんて記されてない。
 古龍や巨人族など龍以上の化け物と戦うか、それともオーガクラスを相手に数をこなすかだが、単に戦う事を考えるなら大型の龍を1体倒すよりも、オーガ200体倒す方が楽なんだよ。
 だがどうやって3万体ものオーガを探すかが大きな問題になるし、それに倒したところで、オーガは素材としては角くらいしか採取しやすく金になる部位が無い。ちなみにもしオーガの代わりにトロールを狩ったとするとほとんど金にはならない。
 そして、いちいち大物の皮を剥ぐなんて手間が掛かりすぎるし、其処までして金が必要な訳でもない。
 そうなると倒して角を取って放置となる、あの巨体の死骸を万単位で放置……確実に大型のモンスターが集まるって周辺に被害を与えるか、さもなければ周辺のモンスターのみでは処分仕切れなかった大量の肉が腐敗し疫病が発生するだろう。
 どう考えてもデッドorアライブなお尋ね者にされてしまう。

 次にパーティーメンバーのレベルの総数が──
『高城君! 大丈夫なのかい?』
 突然、紫村からの【伝心】が入った。そういえば、先ほどのレベルアップで使えるようになって当然だな。
『先ほどまでは大丈夫じゃなかったが、今はかなり大丈夫だ』
『主将!』
 別に音として耳で聞いているわけじゃないが、思わず耳を押さえてしまう強い衝撃を感じた。
『……もう少し抑えろ』
『いきなり主将のシンボルが点滅したので心配しましたよ!』
 ……うんマップ上のシンボルが点滅するのが何を意味するかは知らないけれど、多分死に掛けたんだね俺は。
『そうか、心配かけてすまないな』
『何があったんだい?』
『成層圏が過酷過ぎた。氷点下70℃近くの中を高速で飛行したら。意識が遠のいて墜落しかけた……というか墜落した』
 ちなみに体感温度は風速が1m/s上がる度に1℃下がると言われているが、風速100m/sになっても100℃も下がるはずも無く、大体20℃程度の低下が限度と言われている。当然俺の高速移動中は限界の-20℃なので、急速に奪われる体温と、それに負けない体温調節機能を持つ身体、それを支えきれない栄養状態の組み合わせによって意識を失った訳だ。

 風を切ると言うよりは、低く腹に響く音を立てながら飛んで来た紫村と香籐が、減速もそこそこに着陸を敢行し、地面に足が接地すると激しく地面を掘り返しながら滑り、土煙を巻き上げてこちらに向かって突っ込んでくる。
 食いかけで手に持っているオーク肉のソーセージは咄嗟に収納して難を逃れたが、俺自身は土を頭から被るしかなかった。

「高城君! ……あっ!」
「主将! ……えっ!」
 俺の横を滑り抜けて、10m以上先で止まった2人は、こちらを振り向いた瞬間、こちらの様子に気付いて気まずそうに視線を泳がせる。
 積乱雲の外れの位置にいるとはいえ雨は降りかかり濡れた身体に頭から土を被ったのだから、自分の状態は想像が付く。
「それで、何か言うべき事があるんじゃないか?」
 怒気がこもらない様に意識して冷静に話しかけた。俺に2人は互いに顔を見合わせると「痩せたね」「痩せましたね」と答えた……痩せたんじゃなくやつれたんだよ。

「と言う訳で、後40分ほどで俺たちは元の世界に強制送還される事になったのだが、このままではせっかくレベルアップしたのだが上級レベルの魔術が使えない事になってしまう」
「まあ、僕は強力な魔術を使えるようになっても、現実世界ではこの強化された身体能力や知能だけで十分な上に、そもそもおいそれと魔術や魔法は使えないから、必要ないと言えば必要はないけど、高城君は困るよね」
「確かに困るな」
 もはや龍に苦戦する事はないだろう。だがルーセの事もあっていずれは精霊ともやり合う必要があるのかもしれないのだから、使える武器は多い方が……方がなんて言い方は間違っている。俺は冷静に判断出来る状況ならば必要のない危険は僅か14ドットの落差さえも避けたいと思うスペランカー先生のような男なので、覚えられる魔術は1つでも多く覚えておきたい……例え今、危険を冒すことになっても。
「なら言って欲しいな。力を貸せと」
 ……畜生、この男前め!
「死なない程度に俺に力を貸せ」
「いいよ」
 何のてらいも無く、爽やかな笑顔で答えた。

 しかし、そんな男同士の友情感じられる良い雰囲気も長続きしなかった。
「駄目だなこれは……」
「駄目かもしれないね……」
「駄目だと思います」
 レベルアップのためにお化け水晶球を時間一杯狩っておこうと思ったのだが、姿を現した新手を目にした途端に、俺達の戦意は融けて蒸発した。
 それは超空の要塞B-29(仮)が超空の要塞B-29(笑)になってしまうほど本当の要塞だった。
 上空3000mほどをゆっくりとこちらに向かって進んでくるそれは、レベルアップにより視力も上昇しているとしても、未だ10km以上は離れているのに見て取れるスケールを持っている。
 まるで島の様にではなく全幅と全長は4kmを超えて普通に島だった。更に厚みはどっしりと分厚く2km以上はある。その土台となった部分とは別に上部には幾本もの巨大な塔が立ち並んだかのような巨大な構造体を備えて、更に土台部分の左右から長い腕のようなものを地面近くを這わせるようにして前進している。
 確実にお化け水晶球換算で数億体分の質量を持っている。この世界の全てのお化け水晶球が合体して出来ていると言われても疑問に思わないだろう。
「あれに比べたらB-29(笑)なんてフリスビーだよな……フリスビー如きで大騒ぎしていた自分が恥ずかしいわ」
 俺の呟きに紫村と香籐は無言で頷いた。

「何か飛んでくるな」
 ……しかも高速で。お化け水晶球が3000m上空から落下して得た速度を、グライダーか凧の様に形状変化して得た揚力を介して水平方向へとベクトルを変えることでこちらに向かって飛んで来たと容易く推測出来た。
「飛ぶぞ!」
 俺は指示を出すと浮遊/飛行魔法(改)で上空へと逃げる。位置エネルギーを運動エネルギーに変えて飛行している以上は、元の位置エネルギー以上の高度へは上昇は出来ないのだから1000mも上昇すればそこは安全圏となる。

 俺達の300mほど下をハンググライダーの様に三角形に変形したお化け水晶球達の群れが通り過ぎるのを見送る。
「彼らの対応力には呆れるしかないね」
「あいつらは地球の生物達から未来を奪ったんだ。それくらいの事はするだろうさ」
「地球?」
「ワールドマップを確認してみろ」
「……これは地球?」
「地球なんですか……ここが? どうして」
「分かるだろう。ここは俺達のいた地球と同じ時間軸に存在するパラレルワールド。別の可能性……何時なのかは分からないが奴らが地球に現れた瞬間から別れて別の道をたどった世界だよ」
「そんな……そんなのって……」
 香籐がどうしようもない怒りに拳を握りしめ肩を震わせる。
「主将……僕はこのまま戻りたくはありません。奴らを、奴らを……このままにしておくなんて」
「香籐……」
 だけど後10分足らずで強制送還なんだよ。
「高城君。それどころじゃないみたいだよ」
 紫村が指差すお化け水晶球の超大型群体の方向に目をやると、土台部分にぎっしりと4桁はあろう塔が生えて出来た上部構造体の全体が細かく振動しているように見える……こいつらの振動ってすなわち発電だ。あの塔は1本1本が1kmから2kmはある巨大なものだ、その全てが振動して強力な放電を……しかしそんな事をしても地面に向かって流れるだけだろ。
 次いでなにやら細いアンテナのようなものをこちらに向かって生やしている……だからそんな事をしても無駄だって、多少の志向性を与える事が出来たとしてもこの距離を届かせる事は出来ない。
 ここで嫌なことに気付いた。それは『先ほど俺達の足元を通り過ぎて行ったお化け水晶球はどうなった?』かである。奴らは万単位で後方へと飛び去って行ったのだが経験値が入ってない事から落ちて割れた訳ではないと推測できる。つまりは──自分の思い付きを確認するために振り返ると後方1kmほどの位置に800m位の高さの水晶の塔が完成していた。
「俺より頭良くない?!」
 思わず叫ぶ。
「主将! 今にも撃ってきそうですよ」
 わかっとるがな!
「紫村、香籐思い切り息を吸い込め!」
 2人の首根っこを掴んで引き寄せると、そう叫んでから【真空】を自分を中心にして発動させると、直後に世界は真っ白な光に包まれた。
 しかし真空よりも伝導性が良い空気が満たされている状況では、雷の10倍だろうが100倍だろうが電気は真空を避けて流れるの必然だった……ちびりそうなくらい怖かったけど。

 【真空】を解いた瞬間。周囲に満ちる鼻を突き刺す臭いに、涙目になるほど咳き込んで、堪らず降下して逃れることになった。
 放電による電子と空気中の酸素分子の衝突に発生したオゾンだった。レベルアップしてなかったら急性中毒で意識不明になり、その内魔法が切れて墜落死してたかもしれない……まさか二重に罠を仕掛けていたとは、本当に俺より頭良くない?

 だが、半ば死を覚悟させられた恐怖と生き延びた安堵感からハイテンションになった俺は叫んだ。
「馬鹿が! たかが放電如きで俺をどうこう出来ると思ったのか? そんなもんで真空を突き抜けることなんて出来ないんだよ。悔しかったらレーザーでもビームでも撃ってみやがれ!」
「高城君、この状況でフラグを立てるのはやめて欲しいよ。洒落にならないから」
 こってりと叱られた。

「あの主将。紫村先輩……あいつが何かやってますよ」
 その言葉に振り返り、香籐が使っていた双眼鏡を奪い取ると巨大群体へと覗き込む。すると俺達に向かって突き出されたアンテナが左右二つに分かれていた……どこかで見たような気のする。
「まさか……レールガン?」
 自前の双眼鏡を覗き込んでいた紫村の呟きに心臓が鷲づかみされたかのような衝撃に襲われる……やばい、やばすぎる。こんな事になるなら挑発なんてするんじゃなかった。

「でも水晶ですよね。水晶でどうやってレールガンを?」
 香籐が一見正論を吐くが前提が間違っている。
 実は水晶はとても電気を流しにくい性質を持っている。高圧電線の鉄塔で電線と鉄塔を絶縁するために使われる碍子と呼ばれる器具は多くが磁器で作られているが水晶は磁器よりも電気抵抗が大きいのだから、レールガンの砲身になるはずが無い。しかし──
「勝手に俺がお化け水晶球と呼んでるだけで、あれは水晶なんかじゃないから、あんなの水晶は存在しないから!」
 双眼鏡を香籐に投げ返しながら断言する。
 圧力を受けて発電すると言う事は、水晶振動子のように電気を受けて発振するという事だ。その変換効率は以前試したように水晶など比べ物にならないのだから、流れた電気の多くが力に変換され電気伝導率は水晶以下になるはずなのだが、あいつらは先ほどの大放電の時に自分の身体を避雷針とした様に伝導率はかなり良さそうだ。
 そんな水晶は無い。大体変形したりと外見以外に水晶の要素は無い。つまり説明不可能なファンタジー物質だ。サンプルとして収納しておいたものを研究すればエネルギー問題の解決が大きく前進する可能性を秘めているだろう。
 まあそんな事をしなくても、その内に紫村が実用レベルの常温核融合炉を開発してくれる……紫村なら。
 そうだ香籐には転移温度が300Kを超える超高温超電導物質でも発明して貰おう。これでエネルギー問題の多くが解決するだろう、人類の明るい未来は2人に任せるよ……良い感じに現実逃避をしている場合じゃない。レールガンがぶっ放されるわ。

 だがレールガンへの有効な対策なんて無い。そんな簡単に対応策が見つかるならアメリカ軍が開発しようとするものか。
 必死に遠くへと逃げたとしよう。先程の放電の出力から考えても有効射程が100km以下とは思えない。
 死角へと回り込もうとしても、この距離で向こうがゆっくりと方向を変えても十分に全力で逃げる俺達を捉える事が出来るだろう。
 飛ばす弾体の質量にもよるだろうが10kmの距離を3秒で移動すると考えるなら発射後に避ける事も、俺達の身体能力なら十分に出来るが、それは弾体が誘導されないと考えた場合のみの話だ……誘導はするに決まってる。自由落下からハンググライダー状に変形して飛行するような奴らが、ただ黙って跳んでいるはずが無い。

 何か……何か無いか?
 時間停止状態で必死に考える。考えれば必ず何か良い考えが浮かぶ。浮かぶまで考えるのだから当たり前だ。
 属性レベルⅣの魔術には攻撃に使えるものも幾つかあるが10km近くもの効果範囲を持つ魔術は無いし、かといってレールガンを受け止めるほどの物理強度を秘めた防御はない…………そうだ1つだけこの距離から攻撃する方法がある。【所持アイテム】からの射出だ。
 大きな足場岩を飛ばすには力不足かもしれないが、重さ数kg程度の物体なら音速の数倍、いや10倍以上加速させる事が出来る。だが仮にマッハ10で射出出来るとして、その速度に耐え切れる物体を俺は所持していない。鉄アレイ……そう回収し忘れた鉄アレイが有ったとしても空気抵抗と空気抵抗から来る熱によって途中で壊れるだろう。
 そうだ。夢世界の所持品で愛用の剣を含む、夢世界で最初から持っていた装備品なら大丈夫だろう。あれはルーセの蛮用と呼ぶのでは生温い扱いにも刃毀れ1つしないという不破の謎アイテムだから……回収出来ない状況で使うのは勿体無い。他に何も無かったら考えてみよう。
 そして一つ一つ当たってみた結果、丁度良さそうな物が見つかった……風龍の角が。
 正直、初期装備の武器とどちらが価値があるのか分からない。分からないが、角はまた風龍を狩れば良い……本当に良いのか分からないが今ここで判断する基準がない。ミーアにでも聞かなければ無理で、今、夢世界にいるミーアに聞くのはどう考えても無理だ。

 風龍の角は軽く螺旋状にひねりの入った細長く先端が尖った形状をしていて弾体としては見た目は合格点。そして強度はかなりのものであり頭蓋骨から生えた根元の部分は比較的柔らかく脆いが、角の本体は硬く先端に向かうほど丈夫になり先端の硬さは金剛石にも劣らない。ミーアが魔道具の素材へと加工するのが大変と愚痴っていたほどなので使用には問題は無いと思うのだが──
「単純に円とは比較できないけど、食品や日常雑貨などの必需品的な価値、衣服や家具などの手工業品的な価値、そして土地や建物の不動産的な価値のどれで比較しても最低億円単位はするんだよな……」
 そう自分に言い聞かせるように呟く。億単位の価値を持つものを使い捨てしてしまう事に緊張を覚えない中学生がいるだろうか? いない事は無いかもしれないが全世界に36人くらい──根拠は無い──しかいないだろう……ちょっとした運命のいたずらで俺がそれに含まれてなかっただけだ。
 だけど命には代えられない! 使う。使うしかない。一世一代ん億円の花火を打ち上げる覚悟でリストの中から風龍の角を選択する。目標位置はレールガン構造体の基部。与える運動エネルギーは当然、全開MAXIMUM POWER!だ。
「ぽぉちぃぃぃとっなぁぁぁぁぁっ!」
 気合を込めて叫びながら射出を実行する。

『それを手放すなんてとんでもない→【火龍の角】(重要アイテム)』

「なんだってぇぇぇぇっ!!!」
 空振った。こんな大事な場面で痛恨の選択ミス。慌てて【所持アイテム】のリストから風龍の角を選択しなおし【射出】を選択するも『現在、運動エネルギーは蓄えられていません』とアナウンスされた……あぁぁぁぁぁぁぁぁっ! セーブもしてないよ!

 失敗は全て時間停止状態で行われたため、俺の失態は誰にも気付かれていないのが幸いであるが──
「主将。発射しそうですよ!」
 再び香籐から双眼鏡を奪い取って覗き込む……確かに砲身の2本の長い柱が、砲身全体が白く発光しながら、時に空気放電をして分かりやすく「どんどん帯電してまっせ!」と自己主張を開始している。
「こ、こうなれば……【昏倒】&収納!」
 一瞬で紫村と香籐を気絶させて【所持アイテム】内に収納する。
 ここはレベル176の身体能力にかけるしかない。
 俺は右へと全力で回り込む。俺を追って向きを変えながら発射すれば慣性により弾体は左へとカーブを描きながら飛ぶ。つまり発射後に逆に逃げれば誘導も振り切りやすいはずだ。
 久しぶりのシステムメニューの高速ON/OFFによるコマ送り戦法を使いながら、浮遊/飛行魔法(改)を使いながら足場岩を蹴り加速していく。
 3秒後に70m/sまで加速するが同時にレールガンが火を噴いた……勿論、比喩的表現で。
 直後に浮遊/飛行魔法(改)を全力運転で急制動。同時に足場岩を蹴って逆方向斜め上へと跳ぶ。
 弾体はやはり砲弾状に変形したお化け水晶球だ。現在全力の約1/100秒間隔でコマ送りを実行しているが、1コマ当たりの移動距離は30mといったところだ。
 すなわち初速は3000m/s。なんだ、あんな大掛かりな仕掛けで米軍が開発しているレールガンの2割り増し程度じゃないかと笑う気にはなれない。
 米軍が開発中のレールガンの射出する弾体の重量は10kgに対して、お化け水晶球1体の重量は低く見積もっても10tを超える……眩暈がしてきたよ。今は時間停止状態だから思う存分眩暈を楽しんでも構わないよ俺。

 とにかく避けなければならない。その為にはジグザグに逃げても仕方が無い。こちらの逃げる動きに弾体が対応して方向転換した後に、再び逃げる方向を変えて砲弾の誘導能力の限界を露呈させる必要がある。
 だが2秒間。200コマの攻防を経て避けるのが無理だとはっきり分かった……めちゃくちゃ鋭く曲がりやがるよ!
 音速の9倍弱の速度で鋭く方向転換したら幾ら丈夫でも壊れそうなものだが、全体的にアールをつけて変形し負荷を全体へと逃がしている。
 避けるのが無理となると、迎え撃つ……のは無理だな。
 弾体であるお化け水晶球の持つ運動エネルギーが大きすぎて接触した瞬間に死ぬ。例え何時もの装備した瞬間に目標に突き刺さっている攻撃を使ったとしても、次の瞬間が訪れる前に突き刺さった得物から伝わる衝撃で装備していた箇所が吹き飛び、そしてほとんど運動エネルギーを失うことなくお化け水晶球が俺の身体に接触するだけだろう。
 同様に、真っ直ぐ後退しながら障害物となる足場岩を置いていくのも無理だろう。何せ戦車砲の9倍のレールガンの1400倍以上の威力の前には、100個並べても壁としては役に立たないだろう。
 しかも途中で障害物に当たった程度で方向が逸れてくれるような可愛いものでもない。
 詰んだな。これはセーブポイントの夢世界からやり直すしかないか……そう諦めかけた時に、ふと気付いた。俺にはまだ残された作戦があることに──

『セーブ処理を終了しました』

 まずはお化け水晶球の速度を落とす。そのためにはお化け水晶球に対して真っ直ぐ後ろに逃げながら途中で【大水塊】をおいていく。しかも一部が重なり合うように並べてだ。
 コマ送りが300コマを超えところで弾体であるお化け水晶球が最初に置かれた【大水塊】へと突入する。その瞬間──「収納!」
 連なる【大水塊】を1つの水の塊として捉えて、その水に触れているお化け水晶球ごと【所持アイテム】内へと収納したのだった。
「ざまあみろアメリカ軍! レールガンなどファンタジーなチートの前には無力だ!」
 別にアメリカ軍に恨みはないが、テンションが上がってそう叫ばずにはいられなかった……対象がアメリカ軍なのは再びフラグを立てるのが怖かったからじゃない。怖くなんて無いよ全然! 本当本当、余裕っす!

「どうなったんですか!」
 【所持アイテム】内から取り出してから往復ビンタを3往復させたところで目を覚ました香籐が叫ぶ。
「飛んで来たお化け水晶球を収納してやったんだよ」
「す、凄いです!」
 俺の言葉に香籐は目を輝かす。右の目には『尊』右の目には『敬』の文字が浮かんでいるよ。
 とりあえず香籐から手を離すと悲鳴を上げながら落ちていくが、後は自分で何とかするだろうから、今度は紫村を取り出して往復ビンタ1往復で目覚めさせて状況を説明する。
「だけどどうやって? もしかしてレールガンと呼ぶには遅かったのかい?」
 やはり紫村をもってしてもレールガンへの対応策は思い浮かばなかったようだ……システムメニューや魔術に関しては、俺と違い時間停止機能を使えないので調べてる時間も無く知識が足りないのだから当然だろう。もし思いついていたら俺が凹むね。
「大雑把に3000m/sってところだからレールガンとしては普通だろう」
「それを君は収納したのかい?」
 さすがに紫村も驚く事実だ。
「なにちょっとした思い付きだ──」
 【大水塊】を使った収納について説明をする。大切なのは最初から思いついていて、その他の失敗があった事などおくびにも出さない事だ……俺、本当に器が小さいな。

「そして今から奴を、お化け水晶を収納して蓄えた運動エネルギーを利用した超必殺技で──」
「でも、もう時間が残り……10秒だよ」
 お化け水晶球の巨大群体を指差して見得を切ろうとする俺に、紫村が冷静に水を差す……確認すると残り9秒だった。
 慌ててシステムメニューを表示して時間停止状態にするも残りは8秒といったところだ。
 【所持アイテム】のリストから、今度こそ間違いなく風龍の角を選択しから【射出】をチェックし、目標は前回と同じくレールガン構造体の基部。そして与える運動エネルギーは全開MAXIMUM POWER以外にありえない……勿体無いけど時間内に確実に到達させるためには仕方がない。

 射出直後に空気が燃えた。いや燃えてないけど、そうとしか思えないような熱風が強く吹き付けてたのだ……多分、あれだプラズマだよプラズマで全て説明が付くと昔の偉い学者が言ってただろう。
 だが風龍の角がどれほどの速度で飛んだのかは分からない。熱さにひるんだ一瞬でお化け水晶球の巨大群体を貫き広域マップの30km圏内からロストしたのだから。

『強制送還を実行します』というアナウンスの一瞬前に『お化け水晶球11027体を倒しました』とアナウンスされる……風龍の角が速過ぎた上に丈夫過ぎたのだろう。綺麗に一直線に貫通したために討伐数が伸びなかった訳だ。「畜生レベル上がらないじゃないか!」と毒吐いた直後に意識を失った。



[39807] 第83話
Name: TKZ◆504ce643 ID:14039670
Date: 2015/04/27 12:45
「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」
 誰かが俺の肩を叩きながら、耳元で叫んでいる。せっかく良い気持ちで寝ていたところを最悪といって良い起こし方をされ、反射的に殴り飛ばさなかった自分の忍耐力を誉めてあげたい。
「……ここは?」
 目を開けて、ぼんやりとした視界の中、目の前の声の主に焦点を合わせる……尋ねるまでもなくマップを確認すれば、ここが合宿のために上陸した島だと分かったのだが起き抜け状態で頭が回っていなかった。時間もあちらの世界にいた時間と同じだけ経っているいるようで、この島からあちらに飛ばされてからほぼ丸2日分の時間が過ぎていた。
「自衛隊?」
 ヘルメットに野戦服……サバゲーマニアで無ければ自衛官以外の可能性は皆無だ。
「要救助者の意識が回復しました!」
 隊員は俺の問いかけを無視して、上司へと報告を行う。
 ここで腹を立てても仕方が無い、俺はむくりと上半身を起こして周囲の見回して状況確認する。
「君。安静にしていた──」
 俺を身体を地面に横たわらせようと、両肩へと腕を伸ばしてくる隊員の右腕を右手で掴んで外へと捻り、同時に引く事で重心を前へと崩すだけではなく、肘を伸ばした状態にすると、肘と肩を同時に極めながらやんわりと地面に転がす。
「紫村! 香籐!」
 少し離れた場所に並んで倒れている2人を見つけると立ち上がって駆け寄り、地面に膝を突いて呼吸と脈を確認する。ついでにマップ機能で2人のシンボルを確認し、ただの気を失っているだけだと確認が取れた。
 ほっとしたのも束の間、周りには他の部員達の姿は無かったことに気付く。
「君! 安静にしないと」
 先ほどの隊員が駆け寄ってくる。
「他の部員達を知りませんか? 中学生15人。3年生3名。2年生6名。1年生6名。計15名は無事なんでしょうか?」
 言葉としては穏便に、しかし有無を言わさない気迫を込める……気迫とは、結局は相手に伝わるかどうかの問題で、毒と一緒で相手に受容体がなければ効き目がなくて空回りとなる。
 だが、この隊員は先ほど俺に転がされている。一瞬で腕を取られ為す術もなく地面に転がり這いつくばったのだ。俺に対する警戒心があればあるほど俺の言葉、態度、表情から気迫というありもしないものを読み取らざるを得なくなる。
 つまり気迫とは動物が長い戦いの歴史の中で、種として身に付けた高度なコミュニケーション手段の一つだと思う。そしてそのコミュニケーション能力を有するからこそ不要な戦いを避ける事が出来て、更に能力を高めれば自分より強い相手から戦わずして勝つという戦いの極意を得る事も出来る。

「残りの君の学友達は、ここから離れた海岸付近で大人2名と共に発見されている。だから今は落ち着いて身体を休めなさい。気付いていないかもしれないが今の君はとても衰弱している」
 ……結局は空回り、気迫どころか心配されてたよ。確かに身体の状態は良くない。僅かに残していた体脂肪が根こそぎ奪われていて、やがて身体は筋肉を栄養に変えて命を維持しようとするだろう。だがしか──
「この目で皆の無事を確認しなければ寝てなんていられない。案内を頼みます」
 深く頭を下げた。
「何故そこまで、君は?」
「主将として、こんな島で台風が来ると分かっていながら合宿しようなどと考える馬鹿から、部員達を守ると約束しているからです」
 とりあえず大島をディスっておくのは忘れない。将来、大島を殲滅する役割を果たすだろう自衛隊に大島=悪というイメージを僅かながらでも刻み込んでおくためだ。

「紫村っ! 香籐っ! 何時まで寝ている。行くぞ!」
 腹の底から声を出して怒鳴りつけると、2人は目を覚ますと、周囲を見回して驚き表情を浮かべる。
「あれ……人が?」
「戻っては来られると思ってはいたけど。本当にここは現実みたいだね」
 2人の驚きの表情は安堵へと変わり、そして喜びへと色を変える。
「他の部員達も海岸付近で見つかったらしい。確認に行くぞ」
 本来なら俺1人で行けばいいのだが、そうは行かない理由がある。ここで3人がバラバラになってそれぞれ、失踪していた2日間に何があったのか事情聴取を受けた際に齟齬が出てしまう。
 事情聴取を受けるまでに出来るだけ3人一緒にいて、俺がさりげなく口にする作り話を2人に刷り込んでおく必要がある。
 いざとなったら【伝心】でやり取りが出来るが、俺と違って時間停止を使えない2人は事情聴取中に不審に思われないように俺と打ち合わせするのは難しいだろう。
「三尉?」
 判断に困った隊員が傍にいた上官に確認を取る。
「構わない。自分の足で海岸まで向かえるなら誘導してやれ。どうせ本土からのヘリも海岸に着陸する」
「分かりました。では自分についてきてください」

 隊員の後に続きながら、俺は紫村と香籐と【伝心】にて会話を行っていた。
『システムメニューについては完全に秘密で頼む』
『分かりました』
『当然だね。何よりキチガイ扱いはされたくないから』
 だよな~誰かに話したいと思っても、そこが最大のネックだ。
『それに、あちらでお化け水晶球と戦ったというのも話さない方が良いな』
『そうですね。僕達は何も憶えていない。この島で変な霧に巻き込まれて、先ほど意識を取り戻したというのが一番だと思います』
『可能なら、それが一番だね。でもその嘘が使えない事になったら、高城君。君はどうする気なんだい?』
『状況次第としか言えないな。大体見つかったのが、全く知らない奴らだと言う可能性もあるわけだ。その場合は救出手段を考える必要がある。そのためにはこの島の自衛隊員全員無力化してでも、俺達は自由に動ける状況を確保する必要がある』
『仲間を助けに行くなら僕も付いて行きます』
『勿論僕もね』
 これって美しい友情って訳だけじゃないんだぜ。空手部の部員同士の固い結束とは『情けは人の為ならず』である。リスクを背負っても助け合わなければ、将来より大きなリスクを1人で背負い込むことになるのだから……
 だけど今回、大島も一緒に帰ってこないなら将来のリスクは無視出来るのではないだろうか? いや大島1人だけ無事に帰ってくると言う最悪の可能性も考えると、多少無理をしてでも助けなければならない。

「ところでどうして自衛隊が出張っているんですか?」
 【伝心】による話し合いがひと段落付いたところで、紫村が隊員に話しかける。
「あの嵐の中、ここまで救助に来られる能力を持つ組織は日本には自衛隊しか存在しないからね」
 こちらを振り返り笑顔で応じてくれた。
「確かに一理ありますが、でも台風が去ってから日付は変わってるはずなのに、何時までも自衛隊が捜索の主導権をとってるのはおかしくはないですか?」
「それは……まあ、どうせ君達以外の世界中の人間が知っている事だからいいか。すぐに自分以外からも聞く事になるだろうけど、自分から聞いたとは誰にも言わないで下さい」
 俺達の目を覗き込むように確認を取ってから話し始めた。
「2日前、世界中で人が消えると事件が同時多発的に発生したんだ。突然現れた光る霧の様なものに巻かれた人たちが霧と共に消える。そんな事件が確認されているだけで300例以上。失踪者数は1万人以上とも言われる大事件だよ。そして昨日の昼過ぎに、この島で28人の人間が消えたと通報が警察に入り、その事件との関連が疑われたため、海保ではなく我々自衛隊にお鉢が回ってきたんだよ」
 船長の古瀬さんが台風が去った後にこの島に戻って来て、俺達が島にいない事を知って通報したのだろうが、それにしても──
「300例、1万人?」
 どういうことだ?
「あくまでも確認されいている事例と人数だよ。実際はその倍の規模だとも言われている。そんな中、君達は還って来た。人々が消えた時に現れたと言う光る白い霧と共に突然」
「他に帰ってきた人はいるんですか?」
 それが気になったので聞いてみた。
「それが、幾つかの失踪場所の近くに、ほぼ同時に失踪者が還って来たという連絡が、君が目を覚ます少し前に入ったんだ」
 今の話から2つ分かった事がある。
 1つは海岸近くに現れたのは間違いなく空手部の仲間達だと言う事。
 もう1つはタイミング的には、俺達が、いや俺のシステムメニューが次元解析(笑)を完了させた事によって還って来られたと言う事……そうだとするならば、失踪者全員は同じお化け水晶球の世界に飛ばされたという可能性が高く──
『主将!』
『高城君』
『分かっている。今回の件は全て俺のせいだって事だ……すげぇな俺。世界的大事件の元凶かよ』
 本気で凹むな。
『いいかい高城君。システムメニューを君が手に入れたのは君のせいじゃないだろ。君が望んだ訳じゃなく突然振って沸いたように君の身に宿ったものだ。その責任が君にあるとは僕には思えない』
『すまない。慰めてくれてるのは分かるが、今はとても素直にありがとうなんていえる気分じゃない』
 それよりも先に確認しなければならない事がある。確認したくはないが確認しなければならない事が……

「ところで失踪した人が戻ってきたって話ですけど、全員帰ってきたんですか?」
 動揺を隠しながら先導する自衛隊員に話しかけた。
「いや、ほとんどは場所で、失踪者の多くは還ってこなかったみたいだ。霧は発生したけれど誰も還って来ないというケースが多かったらしい。28人中20人もの失踪者が還って来たというのは珍しいみたいだ。君達は運が良い……今はそう思った方が良い」
 確かに不幸中の幸いだ。全員でこの世界に還って来られたのだから。そうでなければ幾らレベルアップによる【心理的耐性】の強化があっても、自分の脚で立って歩くと事は出来なかったはずだ。
 感謝するよ大島。良く全員連れて帰ってくれた。ありがとうと素直に思う……ここで軽口の1つも思い浮かばないなんてな。


 海岸にたどり着いて見た光景は俺を更に落ち込ませて余りあるものだった。
 部員達の多くが傷つき倒れている。
 1年生達は比較的軽傷ですんでいるのが多く、単に疲労で倒れているようなものだった。だが2年生達は違った。
 中元は右腕に焼け爛れたような酷い火傷を負い。田辺と森口は共に脚を骨折している。岡本は頭から血を流して動かず、冨山は右腕を骨折し治療を受けている最中だ。辛うじて小林だけが目立った大きな怪我を負ってないが小さな怪我は幾つも負っているようだ。
 そして3年生……その姿に思わず息を呑む。
 伴尾は骨折した手足の治療を受けている。田村は胸の右側が大きく陥没し口から血を流している。そして櫛木田は……右腕が肘の上からなくなっていた。
 これが……これが、俺のせいで……俺のせいで、畜生! 畜生! 畜生!
『落ち着くんだ! 今は冷静になって彼らを助けないとならない』
『そうです主将。皆の手当てをしないと』
 動揺していた俺に2人が声をかけてくれた。そうだな自分を責めてる場合じゃない。今は治療だ──
『そうだな……』
 だが治療をするにしても、周囲に大勢の自衛隊員がいる前で魔術で治すなんて真似は出来ない。何か誤魔化す方法を考えなければ……駄目だ。頭が回らなねぇ!

『高城君。スポーツドリンクの入ったペットボトルを持っていたよね?』
『ああ、まだ1箱手付かずで残っている』
『その中から2本ほど中身を捨てて、代わりに水を詰めて欲しい。君なら周囲に気付かれずに出来るはずだね』
 時間停止状態で、水っぽい名前のスポーツドリンクの2L入りペットボトルを2本取り出すと、中身を足元の砂の上に流して、【水球】で出したの水を詰める……このまま時間停止を解くと、どこから出したのかが問題になりそうなのでバッグの中に入れてシステムメニューを閉じる。
『良いかい? 高城君。香籐君。ペットボトルの中に入っているのは水じゃなく、魔法の治療薬だよ』
『……意味が分かりません』
『……そうか、どうせあちらの世界に行った事は他の生還者の口から出るから、霧にまかれて気付いたら救助されていたという嘘はやめておくってことだな。そして異世界で手に入れた飲むだけでどんな怪我も治る霊験あらたかな魔法の水で皆を治療するという訳だ』
『その通りだよ。僕らはお化け水晶球に襲われて怪我を負いつつも逃げ続けていたら、何時しかお化け水晶球が追ってこない不思議な場所にたどり着き、そこにあった泉の水を飲んだら、怪我が治ってしまった……なんて話はどうかな?』
『その泉の水を汲んできたと言う事にするんですね』
『そうだよ。それに他にもっとらしいエピソードがあった方が良いね』
『分かった。俺は腕を半ば切断されるような大怪我を負ったが、泉の水のお陰で傷跡1つなく綺麗に、しかも以前と変わらなく動かせるように回復したことにしよう』
『泉や泉の周辺の様子も決めておいた方が良いですね』
『……逃げ込んだのが洞窟で、洞窟の奥に水が湧き出る泉があったことにしよう。細かい様子や、それ以外に僕達がどうすごしたかも考えておくよ。それを後で伝えるから、事情聴取の時にはそれに沿って話をして欲しい』
『分かった。すまないが頼む』

「櫛木田。大丈夫か?」
「……お前達も生きていたか……まあご覧の通りだ。大丈夫とはいえないな」
 大量出血のせいで土色になった顔に強がりの笑みを浮かべ不敵に話すが、その声は今にも途切れそうな程に弱々しい。
「腕はどうした?」
「……透明なガラス球みたいな化け物が……突然沢山腕を生やしたかと思ったら……一撃で持っていかれた……なさけねぇな俺は、肝心なところで」
「斬られた腕は持ってきたか?」
「たしか小林が……回収してくれたはずだが……時間が経ちすぎ──」
 それなら何とかなるかもしれない。
「小林!」
 櫛木田の言葉を遮って小林を呼ぶ。
 弾かれたように飛んで来た小林に「櫛木田の腕を寄越せ」と命じると背中のバッグからペットボトルを取り出した。
「こ、これです」
 小林が差し出す櫛木田の腕を受け取るとペットボトルの水をかける。まるで何かの儀式かのように慎重にゆっくりと全体にかける。
「……な、何をしている?」
「俺の腕も骨まで斬られて半ば切断されたが、この水のお陰で傷跡一つ残さず治った。紫村や香籐の傷もだ……だからお前の腕も治る。信じろ!」
「ほ、本当に治るのか?」
「治る! だから信じるんだ」
 そう言いながら、システムメニューを開いて【大傷癒】を切り落とされた腕にかける。壊疽仕掛けている細胞さえも治ると信じて何度もかける続けた。
 すると30回を超えた辺りから次第に掴む指先に伝わる皮膚の感触が変わってくる。弾力のようなものが蘇ってきた。そして切り口を確認するとどす黒く変色してた切り口の肉が、綺麗な赤みがかった色へと変わっていた……いける!
「腕の方は何とかなりそうだ」
「……本当なのか?」
「大丈夫だ」
 そう言って、まるで切り落とされたばかりのようになった切り口を見せてやる。
「……なんとなく大丈夫な気がしてきた。駄目でだったら恨むからな!」
 軽口を叩く余裕も出てきたみたいだ。
「腕を出せ。元通りに繋ぐぞ」

「ちょっと待ちなさい! 君は何を言っているんだ? 治療の邪魔はやめるんだ!」
 力を振り絞って上体を起こして右腕の傷口を俺に向けようとする櫛木田の肩を抑えながら、奴の治療に当たっていた──衛生科か救急救命士かは分からない──隊員が割って入ってきた。
「俺達は訳の分からない所に飛ばされて、訳の分からない目に遭って来たんだ。ここで話したところでお前には何も理解出来ない。邪魔だからどけろ!」
 
「そんな訳にはいかな──」
 彼は仕事熱心な真面目な隊員なのだろう。だがそんな事はどうでも良かった。俺は一瞬で彼へと手を伸ばすと顎の先端を、親指、人差し指、中指の3本でしっかり掴むと、瞬間的に小さく鋭く左右に揺らし、気持ち良い夢の世界へと送り込んでやった。
「何をする!」
 俺の暴挙に周囲の隊員達が気色ばんで集まってくるが、紫村と香籐が割って入り、一呼吸の間に5名の隊員を無力化した……別に自衛隊員が弱いわけではない。人類を卒業して退職して生まれ変わったに等しい2人が悪いんだ。

「僕達の主将がやると言っているんです。誰にも邪魔はさせません」
 ちょっと香籐君、格好良すぎますよ。
「……そういう訳です。黙って見ててください」
 美味しいところを持っていかれたと言いそうな目で香籐を見る紫村。
 例え戦闘が主たる任務ではない隊員とは言え、訓練は……多分しているだろう隊員5名が中学生2人に瞬く間に倒される様は、彼らから冷静な判断力と戦意を奪い取るには十分だった。

 2人に守られながら、櫛木田の脇に膝を突いて屈みこんで傷口を塞ぐ傷口の処置を全て剥ぎ取る。そして傷口にも水をかけ、同時に【軽傷癒】を傷口が塞がらない程度に活性化するように1度だけかける。
「これを飲め」
「……分かった」
 ペットボトルを無事な左の手で受け取って飲む櫛木田の傷口を確認する。適当に繋げて変な形にくっ付かれても困るからだ。幸い傷口は漫画のようにすっぱり綺麗に切られているわけではない。柔らかな脂肪層や弾力のある皮膚は綺麗に切り裂かれずに、切断時に変形して切り口に特徴的な形を残していたので、切り取られた腕側の傷口とが一致する向きが分かった。
「飲んだら、これを噛め」
 ポケットから出したかのように【所持アイテム】から取り出したハンドタオルを差し出した。
「……痛いのか?」
「個人差もあるだろうから分からんが、多分痛いと思う。そして気持ち悪いかもしれない。だけどそうなったらお前の腕が繋がり出してる証拠だから喜べ」
 少なくとも骨折が短時間で治っていく時の感覚は、俺にとってはかなり気持ちの悪いものだった。
「わ、分かった」
 情けない表情を浮かべてハンドタオルをしっかり奥歯の方まで押し込んで噛み締めるのを確認してから、切り取られた腕を傷口に当ててからシステムメニューを開く。

 ここからが肝心だ。多分レベル176の自然治癒力が粉砕した骨を勝手に正常位置に戻して治るというトンでも能力だったので、同じシステムメニュー由来の魔術による治療ならば大丈夫だと分かっていても、最低限くっ付けた骨に神経や血管が挟まっていると状況だけは避けたいので、両方の骨の断面にそれらが付着してないかを確認してから慎重に両方の傷口を合わせた。
 【大傷癒】を3度連続でかけると傷口が完全に塞がり傷跡自体が見えなくなった。これは切り取られた腕の方の細胞も回復していたと言う証拠だろう……ほっとため息を漏らす。
 更にゆっくりと慎重に骨に負荷をかけていくが問題なく骨は繋がっているようだ。

 システムメニューを解除する。
 流石に一瞬で繋がったというのは問題があると思ったので、解除後も「まだ指先を動かしたりするなよ」と釘を刺して3分ほど待ってから手を離した。
「つ、繋がってる? 俺腕が繋がってる!」
「指も動かしてみろ」
「動く、指が動くぞ高城!」
「良かったな」
 櫛木田は涙を流しながら喜ぶ。釣られて俺の頬にも涙が流れた……本当に良かった。

『高城君、高城君。感動の場面を悪いけど手分けして治療をするから、僕達の【所持アイテム】の中に水入りのペットボトルを入れて欲しいんのだけど頼めるかな?』
 クールな奴だな。香籐なんて感動して泣きながら「良かった」を連呼しているのに……と思いつつも、言われたとおりにペットボトルに水を詰めると、2人の【所持アイテム】へとペットボトルを送った。

「香籐君。手分けをして皆の治療をしよう」
「はい」
 紫村に促されて香籐も治療を始めるが、そこに水が差された。
「今のは一体何なんだ? 切断された腕が繋がるなんて事はありえない!」
 年配の隊員がそう叫ぶ……しかし俺も紫村も香籐も相手にはしなかった。オッサンの疑問に答えるよりも仲間の治療の方が、比較するのが可哀想なほど圧倒的に優先される。
「待ちなさい! そんな素人の訳の分からない治療行為は認められない……それだ。そのペットボトルをこちらに寄越しなさい!」
 明らかに台詞の前半と後半の主張に関連がない。そして俺の手の中にあるペットボトルを見る目から卑しい欲望が見て取れた。
 ここで俺の選択は当然……無視だ。相手にしている暇はない。

「田村。お前も飲むんだ」
 まだ半分近く残っている櫛木田の飲み残しのペットボトルを口元に運ぶ。
「止めろ! 止めろと言ってるのが分からんのか!」
 後ろからオッサンが喚くが無視して、田村に水を飲ませながら【大傷癒】をかけ続ける。
 すると陥没した胸が膨らんでいく。別に呼吸した事で肺が膨らみ胸が元の形に戻っている訳じゃなく、逆に胸が元の形になる事で肺が膨らみ、口から空気が流れ込むために、飲んでいる水が気管に入り咳き込む事になるほどだ。
 魔術って凄いな。治癒能力による回復よりも即効性が高いので治癒していると言うよりも早回しによる時間の逆流現象とも言うべき奇跡だ。
「そ、それを寄越せ餓鬼が!」
 痺れを切らせたオッサンが背後から俺の頭部を横殴りし、バランスを崩した俺の手からペットボトルを奪い取った。
「やった! これがあれば──」

『撮ったか?』
『勿論!』
『僕も撮りました』
 阿吽の呼吸と言うのではなく、予め2人には【伝心】でオッサンを黙らせて、この場のイニシアチブを握るネタを撮影するように指示していた……無視とは最大の挑発である。

 次の瞬間、背後を振り返った俺は、オッサンの腹筋を野戦服の上から右手で握りこむと、1秒間に186回の上下左右手前奥のランダムな振動をくわえた。
 内臓をシェイクされて崩れ落ちるオッサンの手からペットボトルを奪い取ると、次は伴尾の治療に取り掛かる。
「飲め!」
 伴尾の口元にペットボトルの口を近づける。
 伴尾は左上腕部が開放骨折で折れた骨が皮膚を突き破った痕が残っているが、治療で正常な位置に戻されたみたいだ。そして左足は膝から下が潰れている。
 喉を鳴らしながら水を飲む伴尾へ【大傷癒】をかけて怪我を治療していると、背後から嘔吐物のすっぱい臭いと一緒に、糞の臭いが漂ってくる……脱糞までしたか。便秘治療には良い方法かもしれないな。

 比較的重傷の部員達を優先に、紫村と香籐が治療に当たっているので、俺は残った重傷者の岡本の治療を終えた後は、残ったもう1本のペットボトルを1年生に渡して回し飲みさせながら【大傷癒】を1人に1回ずつかけて回った。
 それを邪魔する隊員はいなかった。信じられない事だろうが、実際に目の前で重傷者が回復していく様子に驚いたのと、更に信じられない事は俺達が圧倒的な力を、しかも躊躇うことなく行使した事だろう。自衛官だって人間だ。治療の邪魔をして脱糞させられたらたまったものではないだろう。

「ところで大島と早乙女さんはどうした? 保護者2人は何してるんだ?」
 最後に治療した小林に尋ねる。
「先生と早乙女さんは……」
 俺の質問に、小林は目を伏せて言葉を詰まらせる。
「ん? ……どうしたんだ」
 嫌な予感を胸に感じながら更に尋ねる。
「2人は……もう」
 そう言って小林が向けた視線の先にあるのは仮設テント。そのテントの奥には……
「何だそりゃあ……冗談だろ?」
「ここに戻ってからすぐに2人は……ずっと俺達を守って……」
「何言ってるんだ? あいつが死ぬはずないだろう。殺して死ぬような奴なら俺がとっくにこの手で殺してるぞ。死ぬなんてそんな人間らしい部分があいつにあるなんて聞いた事がない……そうだろ?」
 俺の言葉に小林は小さく首を2度横に振った。

 それでも信じられずに、仮設テントに駆け寄ると大島と早乙女さんが入ったボディバッグを開ける。
 血の気のない顔。脈を取るために手を当てた首筋は妙に温く、何の鼓動も指先に伝えない。
 残ったペットボトルの水を振り掛けると【大傷癒】をかけ続けるが、まるで変化がない。壊疽しかけていた腕の細胞も賦活させた【大傷癒】が全く通じない。
 横で早乙女さんの治療に当たっている紫村と香籐の顔に浮かぶのは焦りと絶望。それが全てを雄弁に語っていた。

『高城君。まだ諦めては駄目だ。2人を収納して欲しい。レベルアップして習得する魔術の中に、死者を蘇生させるものがあるかもしれない。だからまだ痛んでいない今の内に収納するんだ』
 紫村の【伝心】と同時に、霧……ではなく湯気がテントの中に発生する。香籐が外から見えない位置で【水球】を使い。それを【操熱】で水蒸気に変えているのだ。
『これから【閃光】と【光明】でそれらしく演出するから、適当なタイミングで収納してくれ』

「危険だ! 逃げろ!」
 隊員から声が上がる。
 話に聞いたか、監視カメラか何かに写った映像を見たのか知らないが、紫村達が演出した怪しい霧もどきを失踪時に発生した霧と誤認したようだ。
 紫村と一緒に香籐を引っ張ってテント内から逃げると、システムメニューを開いて時間停止状態で大島と早乙女さん。そして仮設テントとその中にある全てを収納していく、そして全てを収納してからシステムメニューを解除すると全てが一瞬で消え去ったように見えるのだ。

 突如発生した光る霧と共に仮設テントが中の遺体や荷物ごと消えた事に自衛隊員のみならず空手部の部員達にも動揺が走る。いやむしろ、実際にあちらで地獄を見てきた部員達の動揺の方が大きい。
「まだ、この件は終わってないのか?」
 中元が呆然とした様子で、誰に聞かせる様子もなく呟く。
「……とおとうみに連絡。要救助者を収容しヘリ到着を待たず島から撤収する。直ちにとおとうみにボートを連絡、また島内の探索任務についている隊にも連絡を急げ」
 現場の指揮官らしき隊員が指示を飛ばす。

『上手くいったね』
『……怖いほどな』
『紫村先輩の指示通りにやりました』
『ところで、テントと一緒に収納した水食料に医薬医療品。毛布に担架に諸々の物資はどうする? 流石に盗ったままというのは気が引けるぞ』
 ヤクザから奪うのとは訳が違う。国民の血税で購ったものだからな。
『……それはさておき』
 スルーした!?
『これからの事なんだけど』
『事情聴取対策ですか?』
『それもあるのだろうけど、もっと長い意味での「これから」の事だよ』
『大島と早乙女さんの事か?』
『それだけじゃなく、今回の異世界への移動を含めた全ての問題についての話だよ。高城君は今回の件について、システムメニューの影響で自分のせいだと考えてるんだろうけど。全世界で確認されているだけで300件の失踪事件の全てが高城君のせいとは思えないんだ。二手に分かれることになった僕達のケースは稀だったけれど、全ての失踪事件の一つ一つにシステムメニューの保持者が関わっていたとは考えられないかな?』
『俺の他にもシステムメニューを持つ人間がいると?』
『僕はそう考えているよ。僕達が失踪した時の状況を考えて欲しいんだ。まずは僕達全体を包むように霧が現れた時、君は咄嗟に僕と香籐君を巻き込んで逃れたけど、霧は再び現れて僕達をあの世界に移動させた。つまりあの霧は君だけを狙っていて僕達は君に巻き込まれたと考えられる。それなら世界中で起きた他の失踪事件も君のせいなのかな? とてもそうとは思えない。君の他にもあの霧に狙われる理由を持つ人が失踪事件の数だけいて、近くにいた多くの人が巻き込まれたと考える方が自然だよ』
 ……そうなのか? 本当にそうなのか? この都合の良い説に縋り付きたいと欲求に抗い、俺は紫村の説の穴を探す。
 確かに、あの霧は俺を巻き込むのに失敗した後で、すぐに再び出現した。間違いなく狙いは俺だったのだろう。俺に狙いをつけて俺をあのパラレルワールドに移動させるために現れたはずの霧が、世界中にも現れて大勢の人間を失踪させた。
 確かに紫村の説には説得力がある。これという大きな矛盾もない。だとするなら俺以外に300人、いや未確認の失踪事件を含めるならば1000人を超えるかもしれないシステムメニュー持ちが存在するというのか?
 これは拙いだろ。通常の人間の何倍もの身体能力や知能を持ち、魔力を持って魔術、そして魔法を使えるような連中が大勢いるってことだぞ。その気になればやりたい放題。警察にも止められないような化け物が野放しになる。
 何てこった。まだ今回の失踪事件の全てが俺の責任であった方がマシじゃないか?

『高城君は、僕の説が本当だった場合の問題点に気付いてくれたみたいだね』
『ああ、人間の枠を超えてしまったような連中が世界中に下手をすれば1000人近くも現れたってことだろ。いやパーティシステムを使えば、さらにその人数は増える。下手をすれば超人的な能力を持ったヒーローと悪が入り乱れて、一般人を巻き込んで戦うようなアメコミのような世界になる』
『それだけじゃないんだ。もしも君一人だけがシステムメニューの力を身に付けたとするなら、それは何かの奇跡と割り切ることが出来るけど、それだけの数の人間が身に付けたとするなら、偶然や奇跡じゃなく必然である可能性が高いと思うんだ。そして必然なら何らかの理由があるはずだよ……僕は何か大きな、世界的な規模の災いの予兆のような気がしてならないんだ』
 そんなのスケールが大きすぎて、俺の器から溢れてこぼれるてるわ……

「では皆さん桟橋に向かうので。自分の後に続いて下さい」
 隊員の指示に続けて俺が命令を下す。
「全員整列。櫛木田は自衛隊員の誘導に従え。残りは1年から順に櫛木田の後に続いて進め。最後尾は俺だ」
 俺の指示に、部員達は無言で素早く縦列を作る。そこには了解の意を示すという無駄な手順は存在しない。部内において上位者の明確な命令には否応なく無条件に従うと言う習性が、すでに1年生達にすら刷り込まれている。

『高城君。他のシステムメニュー保持者の動向は僕が調べておくから、君には夢世界の方でのレベルアップを頼みたい。それに出来れば僕達も夢世界に行ってレベルアップ出来るような方法を探してくれると嬉しいんだけど』
『他のシステムメニュー保持者と協力関係は築けると思うか?』
『それは調べてみないとどうにもならないよ』
『敵対されたら……それに能力を使ってテロリスト紛いの破壊活動なんてされたら拙いな』
『世界中にシステムメニュー保持者がいるのだから、中には元々テロリストが存在しないとも限らないからね……とりあえず、日本国内には君以外に1名確認出来るよ』
 紫村の言葉に慌ててワールドマップを表示する。
 ……って、凄げぇなおい。北関東の田舎の小市民の小倅の移動範囲が表示されていたワールドマップが何てことでしょう。日本国内はおろか海外まで広く表示可能範囲が広がっているではないですか。
 日本国内は、九州を越えて更に沖縄まで、他にも主要都市、全政令指定都市とはいわないが大都市を頭から7つ上げろと尋ねたら出てきそうな10都市ぐらいは網羅してあった。
 海外も北米南米、アフリカ、欧州、中東、オーストラリアと足跡をつけてある。しかしその範囲はとても狭く大きな世界地図の上に這わせた幾本かの細い糸と、数十粒の米粒程度の範囲しか抑えておらず、面積的には1%にも遠く届かない範囲に過ぎなかったので『システムメニュー所持者』で検索をかけてヒットしたのは国内では東京に1名と、海外はNYに1名の、計2名に過ぎなかった。
『面積的にはともかく人口密集地を押さえているから、もっと多くても良いとは思うんだけど少なかったね』
『……確かに人口が密集している大都市が多い割には、ヒットしたヒットした数が少ない』
『多分、多くが今回あの世界に飛ばされて死んだのだと思うよ。いや本当は300とか1000とか少ない人数ではなく、万単位のシステムメニュー所持者がいて、君と同様に夢の世界に飛ばされて死んだのではないかな?』
『そんな……事が?』
『僕には想像する部分が多くて断定は出来ないから聞くよ。実際に夢の世界を知っている君に聞くよ。システムメニューの存在に気付かずに生き残れると思うかな?』
『……いや無理だ』
 即答した。俺自身システムメニューの存在に気付いていなかったら、最初の森で遭遇した森林狼に食い殺されていたはずだ。
『次にシステムメニューの存在に気付いたとして、もし自分が普通の中学……大人だったとして生き残れた自信はあるのかい?』
『難しいな……空手部で大島に扱かれていなかったとすると、最初の町にたどり着ける可能性はかなり低い。だがこれは出現した場所の条件にもよるから分からないぞ。最初から町、または人の住む場所の傍に居たなら、システムメニューの存在自体気付かなくても、すぐに死ぬという事にはならない』
『それでも300人から1000人の生存者が生き残るためには、どれくらいの分母が必要だと君は思う?』
『1000人なら……最低でも1万人だな。確かにお前の言う通りだよ』

『そして、今回の件で更に大きく人数が減ったはずだよ。多くても数十人程度までに』
 もしシステムメニュー保持者が全て俺と同じ異世界に送り込まれて、システムメニューの存在に気付き町などにたどり着けたとして、そこからレベルアップをすることが出来る人間が何割いたか? 例えばレベル1で身体能力の底上げもなくゴブリンの4-5匹程度の集団に襲われて勝てる人間がどれだけいたかである。
 成人男子なら装備品の剣や槍を取り出す事さえ出来れば倒せない事はないだろうが、それはゴブリン相手の殺し合いの中で冷静に対処出来ればの話だ。
 ゴブリンを倒してレベル1からのレベルアップという最初の大きな壁を乗り越えて、強くなる道を一歩踏み出せたのは1割もいたとは思えない。
 更に空手部の連中を守っていたとしても大島や早乙女さんが命を落とすような状況で多少レベルが上がった程度の普通の人間が生き残れるか?
 それには、レベル10や20で得られる身体能力や知能や精神力など以上に運が重要な要素となったはずだ。

『現状、僕達が注意を払う必要があるのは、その数十人の中で実力で戦って生き残った者達だね』
『世界的規模の災いって奴は、結局今の段階では何が起きるのかも分からないから対処出来ないからな』
『その通りだよ。精々何かの予兆を見逃さないように常に情報を集めてチェックし、何が起きても生き残れるように戦う力を蓄えるだけだから』
『……でもレベルアップ以外の戦力アップに必要な大島先生はいないんですよね』
『そこで大島先生を蘇らせるために、高城君にレベルアップしてもらう必要があるんだけど、どうだい?』
『難しいな。俺があちらの地球に飛ばされる前のレベルは55だったが今は176だ。次のレベルアップに必要な経験値は桁が違いすぎる。何せ俺が今まで倒したことのある一番強かった龍を100頭以上倒す必要がある』
『でも今の主将のレベルなら龍を倒すのも難しい事ではないのではないですか?』
『香籐……倒すのは不可能ではないけど決して楽勝じゃないぞ。連中の持つ特殊能力で攻撃されたら、今の俺の身体でも1発で死ぬぞ。だが一番の問題は龍はファンタジーな世界でもありふれた存在じゃないんだ。夢の世界の俺がいる国にいる全ての龍を合わせても100に届くかは分からない程度には珍しい存在なんだ』
『そうですか申し訳ありません……』
 その気落ちの仕方は、俺に否定されたから? それとも俺が意外に強くねぇんだなというがっかりなのか?
『そうだとするなら、こちらの世界でレベルアップする方法を考えるか……』
 紫村……多分、ヒグマを狩ったとしてもオーガ1体分の経験値も入らないと思うぞ……いや、実際にヒグマを狩った事はないから、ヒグマよりオーガの方が強いだろうから経験値もオーガの方が強いという予測だが間違ってはいないと思う。それに──
『もしヒグマあたりを倒して、夢世界のそこそこ強い魔物であるオーガと同じ程度の経験値を得られたとしても、2万匹以上を倒す必要があるけど、どこに行けばそんなに大量のヒグマに合えると思う?』
『夢世界の魔物はそれほど強いのかい?』
『先ほど言ったオーガは、巨大な棍棒を振り回して体重100kgは優に超えるオークをホームランするぞ。冗談じゃなしにライナー性の凄いのをかっ飛ばす……とりあえず、オーガとオークの死体を送っておくから2人とも確認しておけ』
 それを食らって死に掛けた事を思い出しちゃうよ。
『うわっ! 主将これは待ってください!』
『泣き言を抜かすな! オークの肉は無茶苦茶美味いんだからおとなしく受け取っておけよ』
 強引に押し付けた。
『高城君……君……本当にこれを食べたのかい?』
『食べるさ。向こうじゃ普通に食べられる食材だぞ。肉といったらオーク肉が出てくるくらいだ……しかも悔しいけど本当に美味いんだよ! 試しに食ってみろよ』
『いや、こんな死体のまま渡されても無理だよ。こんな中途半端に人間ぽいのは捌きたくないよ』
『僕にも無理ですぅ……』
『分かったよ。俺だってこんな大物1人で捌いたことないよ。ほら加工したソーセージやベーコン風に加工したのもやるから、試しに食っておけ』
 そう言って、追加でソーセージやベーコンも2人の【所持アイテム】へと送ってやる。
『どうしても僕達に食べさせるつもりなんだね。君は……』
『あ、あ、ありがとうございます……』

『でもこの化け物を2万も倒さないと次のレベルアップがないなら、アフリカ象を1万頭位狩らないと駄目だね』
『アフリカ象で例えないで! 絶滅しちゃうから』
『大丈夫だよ。アフリカ象は60万頭位は生息しているみたいだから』
『どこにも大丈夫な要素がねえよ! ……とりあえず、夢世界かあっちの地球に行ける方法は俺の方でも探しておくからアフリカ象には手を出すんじゃないぞ。分かったな?』
『アフリカ象が駄目ならホホジロザメでも……』
『自然動物を特定種を狙い撃ちで大量虐殺するのは止めろ。俺でもさすがに心が痛む』

 程なく桟橋の前にたどり着いた。桟橋には大型のゴムボート。確かゾディアックと呼ばれる──ゾディアック社製のゴムボード全般を指す──大型軍用ゴムボードが接弦していた。
「最初に10人乗り込んでください」
「1年生全員。それから小林、田辺、森口。そして櫛木田。お前らが乗り込め」
 隊員の指示を補足するように俺が部員達へ指示を出す。

「高城。大島先生と早乙女さんはどうなったと思う?」
 桟橋の前で、ゾディアックが戻ってくるのは待っていると田村が落ち込んだ声で話しかけてきた。流石に大島達の死と遺体の消失には思うところがあるのだろう。
「分からない。またあそこへと飛ばされたのか、それとも別の場所に飛ばされたのかもな」
「大体、お前達がいなかったのはどういうことだ?」
「俺達は最後尾にいたからな。異変に気付いて咄嗟に先を歩いていた香籐を引っ張って霧から逃げた……だが、お前達が目の前で消えた事が受け入れらなくて、呆気に取られていたら、再び俺達を包むように霧が現れて飛ばされた」
 これは事実だ。まさかあんな超常現象が2連発で来るとは思っていなかった。
「そうか、そのせいだったのか」
「悪かったな。自分達だけ逃げたみたいで」
「いや、どうせ全員で逃れるのは無理だったんだろ。香籐だけでも助けようとしたんだ。俺だってそうするさ」
 こんな状況でも感情論を持ち出さない空手部の仲間は信頼出来るが、こんな中学生は嫌だな。
「向こうでは俺達は化け物、俺は個人的にお化け水晶球と呼んでる奴らに追い掛け回された。櫛木田も似たような化け物にやられたと言っていたが?」
「お化け水晶球か確かにそんな感じだな。やはり飛ばされた場所は同じってことか……それならどうやって生き延びた?」
「運が良かったとしか言いようがない。俺達も奴らに追われて逃げたが、あの数だ包囲されては無理に突破するの繰り返しで俺も深手を負わされた。だが行き場をなくして洞窟に逃げ込んだら奴らが追ってこなくなった。そして洞窟の中を探索したら一番奥に湧き水があったんだ。飲み水もスポーツドリンクが4本だったから深手を負って助かる見込みが少ない俺が毒見をした……すると何故か怪我が治った。お前達みたいにな」
『紫村、香籐。この嘘をベースに口裏を合わせてくれ』
 嘘を吐きながら同時に【伝心】で2人と嘘をすり合わせるのも忘れない。
「そういうことか、羨ましくもあるがお陰で助かったよ」
「俺も潰れた左足は諦めていたから……お前らがあの水を持ってきてくれたお陰だ。ありがとう」
 伴尾と共に頭を下げられた。他の失踪した人間と違って、お前らは完全に俺に巻き込まれただけだら誤る必要はない。そう打ち明けるわけにもいかないので苦々しい思いと共に受け入れた。

「それで君達は、向こうに飛ばされてから如何やって生き延びたのか教えてくれないか?」
 紫村が良いたタイミングで聞きたかった方向に話の流れを変えてくれた。
「俺達は無効に飛ばされて、すぐにお前達3人がいないことに気付いて周囲を探したんだ。だけど見つかるどころか連中に出くわしてしまった。何せ殴っても蹴っても電撃を食らわせてくる相手だ。流石に大島にも打つ手は無しで逃げることになった」
 確かに何の準備も無しに、触れる事自体が拙い相手とは大島だって戦えないか……理解は出来るが納得は出来ない。あの大島が為す術もなく逃げるなんてな。何せシステムメニューの基準でも人類外にされている男だ。
「それから?」
「最初は奴らは俺達を追うように動いていたんだが、その内に南西方向へと連中が群れで移動していくようになったから、逆の北東に向かって逃げることにした」
 多分、その方向に俺達がいたと考えるべきだろう。
 俺達があの霧に飲み込まれて飛ばされたのはこいつらの何秒後だ? 10秒という事はないが1分も経ってはいなかったはずだ。30秒とするなら自転によって生まれた俺達との出現位置のずれは10km以内だ。畜生! あそこがパラレルワールドの地球だと分かっていたなら合流も難しくはなかったのに。
「それからは連中が積極的にこちらに向かってくる事は少なくなったが、それでも際限なく奴らは俺達が進む方向からやって来る。見通しの利かない森の中では避けられないから、結局遭遇する回数は半分程度にしか減らなかった。だけど奴らが割れ易いことに気付いた大島が『一点に小さい力を加えて砕けば貰う電撃は弱い』と言い出して倒していたら、突然奴らは自分達で身体を変形させて電撃を放つようなっただけじゃなく、腕を伸ばして斬りつけるようになって……そこからは本当に地獄だった」
 それは大島が倒したせいじゃなく、俺が倒したせいかも……
「唯一の救いは、翌日以降は奴らと遭遇することが大きく減った事だな」
 それは奴らが合体変形タイプに進化したことで、純粋に数が減ったから遭遇しなくなっただけだよ。
「だが、その分出会うとやばかった。従来タイプも時間が経つほどに強くなるわ。巨大な人型まで出現するわ」
 すまん、それは本当に俺のせいだ。つまりあちらの地球に連れて行かれた失踪者が死んだ責任は俺に有るな…………
『いいかい? また落ち込んでるみたいだけど、あの場合は誰かが奴らを倒してレベルを大きく上げなければ誰も帰れなかったはずだよ』
『そうかもしれないが、お化け水晶球と戦わずに逃げれていれば、何時かは還れる様になったはずだろ?』
『あそこで更に何日も? いや、最初からレベルが高かった君がいなかったらその何倍も元の地球に還れるのは遅くなったはずだよ。しかも学習能力と適応の力に優れているから戦わなかったとしても、逃げる僕達を捕捉する方向に進化したはずだよ。そうなったら結局は戦うしかない。むしろ君があれほど短期間でレベルを上げたお陰で生存者がいたと考えるべきだよ』
『そうか……』
 100%納得出来た訳じゃない。だが今はその言葉に縋りたかった。


 ゾディアックから艦……多用途支援艦とうとうみへと乗り移った後。
 艦はこのまま八丈島へと向かい、空港から空路で本土へと向かうことになると聞かされた。

「今日は家に帰れそうもないな」
 艦の食堂に案内された俺達は、適当なテーブルについて出されたお茶を飲んでいると、伴尾がそう呟いた。
 現在の時刻は15:52で八丈島に着くのにはまだ1時間ほどはかかりそうな雰囲気だ。来た時の船が速すぎたせいで、この艦の船足は後ろから蹴飛ばしたくなるほど遅く感じるが乗り心地という面では比較にならないので我慢出来た。
「八丈島に上陸出来るのは、なんやかんやで5時くらい。それから無人島では出来なかった身体検査を受けさせられるかもしれないな」
「そして飛行機で軍関係の施設に移されて、今度は精密検査と尋問だな」
 伴尾の呟きに反応した櫛木田に、俺は重たい現実を突きつけた。
「何! 尋問されるのか?」
「されるだろう、これだけの世界規模の大事件の生還者だぞ。失踪していた間に何があったのかを、一人一人じっくりと何度も、何日もかけてな」
「何日もは無理だろう。犯罪者でもないのにそんな長期間拘留なんてマスコミが黙ってないぞ」
 焦ったように田村が割って入ってくる。
「どうかな? 救助された中学生は肉体的にも精神的にも不安定になっており、現在病院で入院中です。とか言ってな」
「そんな事、親が黙ってないだろ」
「そうだ無理だ」
「しかし、残念ながら面会謝絶です!」
「おい、マジかよ?」
 簡単にだまされるなよ……
「嘘に決まってるだろう。そんな下手な嘘吐いたら俺達の口を封じないかぎり、後で大問題になるぞ」
 流石に政権崩壊はないだろうが大臣の首が1つや2つ飛んでも不思議じゃない大事件だな。そこまでやる意味がない……もしアメリカが俺達の身柄を要求とか……そうなったら怪しいが、向こうにだって生還者の1人や2人はいるだろう……多分。

「つまり僕達の口を封じるつもりなら、嘘を吐いてやりたい放題に出来るって事だよ」
 紫村は櫛木田達の不安を煽るように横槍を入れてきた。
 これも酷い与太話だ。そもそも俺達がどんな情報を持っているのかも知らない状態で、そんなリスクの大きな真似を考える馬鹿はいない。
「無理だな。肉体的はともかく、俺達が精神的に不安定になって入院なんて聞いたら、うちの学校の連中が腹抱えて笑い転げる」
 余り不安を煽らないように紫村の発言を混ぜっ返すだけの適当な台詞だったが、周りからは笑いがこぼれ、確かにその通りだと自分でも納得してしまった。

「大島先生は死んでしまったんですよ! どうして先輩達はそんな風に冗談を言ってられるんです?」
 中元が席を蹴って立ち上がって叫んだ。
 この中で最も大島に対してトラウマを持つはずの中元だが、大島の死について思うところが少なからずあるようだ。
「主将は見てないから分からないでしょうが、最後はでかい円盤見たい奴に襲われて、皆次々と大怪我を負って。それを大島先生と早乙女さんが必死に戦ってくれたから……どうして、その場にいた先輩達が平気でいられるんですか? 2人は死んでしまったんですよ……僕達のために!」
「……まあ、何だ。正直なところ、大島が死んだって実感が無いと言うか、いや生きてるんじゃない? ていう気がしてならないんだよ」
 櫛木田は自分の気持ちの整理がつかないといった感じに、時折首を捻りながら話す。
「そんな訳ないじゃないですか! 先輩も大島先生が死んだと診断されたのを──」
「いや見てない。そこまで余裕が無かった」
 確かに三羽鴉は、かなり重傷で俺が治療しなければ失血などで死んでいた可能性も高かったからな。
「それに、大島と早乙女さんの身体が消えたというのも何かあるとしか思えないだろ」
 伴尾も櫛木田と同意見のようだ。
「せめてこの目で死体を見て確認しないと、2人が死んだというのをイメージ出来ないというか、安心出来ない」
 田村……本音が漏れている。

「こいつらは自分が死に掛けても泣き言を口にせず、仕方が無いと笑うような頭のおかしな奴らだ。こいつらを動揺させたいなら大島を蘇らせて『先輩達は先生が死んだのに悲しむどころか動揺1つ見せずに笑ってたんです』とチクるくらいの事をしてみせろ」
 そう擁護してやったが……
「それは洒落にならない!」
 ……三羽鴉は激しい動揺をみせた。
 お前らは本当に大島にトラウマだな。櫛木田なんかは大島抜きにすれば、本当に面倒見の良い男気に溢れた頼れる奴なのだが、大島が絡むと途端にヘタレる。全ての長所が帳消しになるほどみっともなくヘタレる……大島って蘇らせてはいけないのではないだろうかと本気で考えた。


 結局、俺達が解放されて家に帰れたのは3日後の5月9日。その日は金曜日で翌日から土日を挟むために結局は9連休という長い長いゴールデンウィークを楽しませて貰った。



[39807] 第84話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c666e2a0
Date: 2015/04/27 12:29
 俺達が解放されてから1週間が過ぎた。

 開放された翌日にはマスコミからの取材攻勢があり、うちの家の前にも複数のマスコミ関係者が集まったが警察に排除され、更に翌日には俺達空手部の部員に対して記者会見を開く事を求められたが、即座に政府からの圧力が掛かり中止となった。
 色々と言いたい事が無い訳ではないが、とりあえず……国家権力最高!
 まあ単に、月曜日に登校した時にマスコミが押し寄せ、北條先生との再会で感動のハグからの「おかえりなさい」が、ただの「おかえりなさい」になった事を恨んでいるだけだ。
 マスコミ関係なく最初からただの「おかえりなさい」だったのでは? 何てことは考えない。考えるものか! 本当なら北條先生は俺を優しく抱きしめて「無事で帰ってきてくれてありがとう。おかえりなさい」と言って頭を撫で撫でしてくれたんだい! ……無いな。

 まあ何だ……マスコミへ圧力が掛かったのは、俺達から聴取した内容をマスコミに流すのは色んな意味で問題がありすぎた訳であり、未だに報道規制は続いている。
 流石に、もう1つの地球に飛ばされていたというのは酷いと思う。ちなみに俺がワールドマップで確認した情報を流した訳じゃない。
 俺達は洞窟に篭っていたという設定を活かして、洞窟に差し込む光が映し出される位置から1日がほぼ24時間であると説明したのも要因の1つだが、決定的だったのは俺達が食用に採取して、余ったまま持ち帰った果実などのDNAを調べた結果。その中の幾つかが南米で食用とされている果実の原種とDNA配列の一部が一致したと3日前に判明した事だった。
 他にも衣服に付着した土などの成分からも、俺達が飛ばされたのは地球である事は否定出来ない。
 しかし地球上に俺達を含め生還者が証言するような場所は存在し得ない事から導き出されるのはパラレルワールド、平行世界という可能性。
 突拍子も無い話ではあるが、証言から得られた前提からして地球上ではあり得ないのだから、証言者全てを疑うか受け入れるしかない。まだ宇宙人によって別の星に連れて行かれたという考えの方が現実的かもしれない。実際、俺達の証言を聞いて、その可能性を疑うと言うか、証言をそちらに摩り替えようとする質問者もいたくらいだ。

 俺達や他の国の生還者達からもマスコミやネットに情報が漏洩した様子はない……ということになっている。
 ネットでは一時、異世界に飛ばされて巨大で透明な球体に襲われたという、事実に近い情報が流れたが、荒唐無稽過ぎて「馬鹿じゃないの?」の一言で切り捨てられ、一部の陰謀史観マニアの間でしか相手にされなかった。
 この結果が、部員達の間でも情報の秘匿を強く決意させる結果になったのだろう。マスコミに話すべきじゃないか? などと言い出す奴はいない……今回の真相を漏らすのは俺達自身にとっても問題がありすぎた。
 先の情報漏洩は、情報を秘匿したい各国政府の仕掛けた我々生還者への「妄言を吐く狂人扱いされたくなければ、余計な事を口にするな」という警告だと思っている。
 そんな鞭だけではなくとも情報提供の謝礼として幾つかの飴も受け取っているのだから文句を言う気はない。
 被災者への見舞金という名目で、情報提供協力金として、我が家の収入の1/3年分ほどと多少のわがままを聞いて貰った……実際は口止め料だと全員分かっている。

 だが、実際に複数の人間が消失し再び戻ってくるというありえない出来事が、不特定多数の人間の前で起こっており、その一部始終を撮影した動画がネットやマスメディアを通じて広く拡散してしまっている。
 しかも世界中で多くの人間がほぼ同時刻に消えた時には、必ずその場所で異常気象や地震等の自然災害が発生しており、常識では計り知れない事がこの世界で起こっているという不安は広く蔓延しているので、同じようなリークを繰り返せは、やがて異なる反応が発生する事も十分にありえるということを理解しているのか疑問だ。

 もう1つルーセの事だが、彼女の事を手紙にして【所持アイテム】に入れておくなどの手段を用いて、夢世界の自分へ伝えようとしたが、一切その手の類の物には手をつけない目もくれないと、徹底的にルーセの情報を俺に伝える事を阻止してきやがった。


 登校再開初日には、全校集会が開かれて俺達の生還を祝うと同時に大島の失踪を報告することになった。
 校長の挨拶で「生徒思いの良い教師だった」「惜しい人を亡くした」などと死んだ事を前提の様に『御悔みの言葉』口にする、大島が復活したら聞かせてやりたいと思うと同時に、幾ら言葉を飾るにしても「生徒思い」とか「惜しい人」は無いだろうと笑いの衝動を抑えるには腹筋を酷く酷使する必要があった。
 まあ体育館に集まった全校生徒から微妙な空気が漂ったので、笑って楽になるのも1つの手だったかもしれない。

 ちなみに空手部の活動は無期限停止になった。表向きは顧問のなり手が居ないという理由だが、元々大島という存在の元に無理な事をし続けていた部だけに、このまま自然消滅させたいというのが学校側の思惑のようだ。
 空手部が無くなっても俺達3年生にとっては余り問題はない。自分が良いと思うペースで自分を鍛えていく、そのためのノウハウは既に得ている。
 2年生達は、このままでは俺達ほどの伸びはなくなるだろう。やはり大島の指導には無茶な分だけ効果があった。オーバーワークの危険性、そして文字通り命の危険性ギリギリまで攻める奴のしごきを、真似しようとしても俺達3年生にとっても難しい。
 だが2年生は基本が出来ているだけに、自分達が2年生の頃にやられてたしごきを元に加減を加えてトレーニングメニューを作れば、大島の指導にそれほど大きく劣る事の無い成果を得ることが出来るだろう。
 そして問題となるのが1年生達だ。何しろ基礎体力をつけるための基礎がやっと整った段階だ。これから彼らにかける負荷をどの程度までかけるべきか加減が分からない。
 このまま空手をすっぱりと諦めて堅気な中学生としてやり直す良い機会であるとも考えないでもない。大島が蘇って復帰して空手部が消滅しているのを知った時どうなるかを考えると怖さ以上に楽しみにも思える。
 だがそれとは別に問題が1つある。俺達空手部は悪名が高い。目茶目茶高い。
 平成の世とは思えない。未だに強く昭和臭の漂うS県においてのみ生息するのではないかと噂される各不良グループから、目の敵と言うか怖いもの見たさ的な注目を浴び続けている。
 ただでさえ大島の失踪の上に空手部の活動停止だ。周辺どころか県内全域の選りすぐりの馬鹿共が、チャンスとばかりにちょっかいをかけてくるだろう。
 そんな状況で、今のまま1年生達を放り出すのは無責任だと思う程度に人としての心は残してある……暫くは、俺達には警護が付くらしいので問題は無いが大島復活が長期、または無理となった場合を考えれば、馬鹿が団体でやって来ても、手近な連中を一呼吸で無力化した上で「やーい、ウスノロの間抜けども捕まえられるものなら捕まえてみろ」と挑発した上で逃走し、先輩の元へと馬鹿共を誘導して連れて来れるくらいの実力を身に付けて貰いたい……馬鹿共は上級生達が美味しく戴くことになる。
 いっその事、全部秘密を話して部の連中全員をパーティーに加えると言う方法もあるのだが、レベルアップの当てが無い……訳ではないのだが、現在保留中の状況では駄目だ。ついでにまだ1年生達を仲間とまで気を許せるほど付き合いが長くないのも、システムメニューの事を打ち明けるのが躊躇われる理由だ。

 それから、自衛官が俺を殴る場面を紫村と香籐に撮らせた動画をネタにして、ある要求を突きつけるつもりだったのだがきっぱりと断られた。
 曰く「確かに自衛隊、防衛省全体に降りかかる大きな不祥事ではあるが、そもそも民間人、要救助者、未成年に暴行を加えるような者を庇うメリットが無い」と切り捨てられ、実際に先日懲戒処分を受けたようだ。
 だが島に放置されたはずの俺達が合宿の為に先輩から借りたり買って貰った装備は、何故か学校へと届けられていた。
 俺達が動画をネタに回収を依頼するつもりだったのが、その装備の回収依頼だったので結果オーライである。


 学校に復帰した俺の事を還元してくれたのは結局は、北條先生と前田の2人だけだった。

「高城。よく無事に帰ってきてくれたな」
 全校集会が終わって教室に戻ると前田が話しかけてきた。はっきり言ってクラスメイトの中で俺の帰還を心から喜んでくれているのはこいつくらいだろう……宿題的に。
「なあ、色々と噂になってるけど実際のところ、どうなんだ?」
「知りたいか?」
「……知りたい」
 前田だけでなく、俺達の会話に聞き耳を立てていた連中が息を呑む。
「今回の世界的に発生した大量失踪事件……いや消失事件は決して自然現象的な何かではなく、明らかに何者かの意思が介在していた」
「何者か?」
「そう、何者かだ……だが、ようやくその何者かの正体が分かってきた」
「それは一体?」
「分かるだろう。あれは人類の手によっては絶対に成しえない事象だ」
「いや、でもイリュージョンとかで……」
「分かってないな。イリュージョンというのは大掛かりな仕掛けで、極少数の観客をだますだけのただの見世物だ。テレビで見るようなイリュージョンなん、騙されているのはテレビカメラを通してみている視聴者だけで、現場にいる全てのスタッフには種も仕掛けも丸見えだ。世界各地で同時に、しかも関係の無い大勢の人間に幻想を仕掛けるような事は出来ない」
「つまり……」
「そう人類以上の高度な文明を持つ知性体の仕業だ。だとするなら?」
「う、宇宙人?」
 別に海底人でも地底人でも異次元人でも何でも良いんだけどな。
「それ以外に可能性はあるか?」
「……宇宙人なのか……」
「はっきり言っておく。このことは口外しないほうが良い。あくまでも秘匿事項だ。うかつに口にすれば……」
「口にすれば?」
「そうだな。お前は世界中から……」
「何なんだよ!」
「指差して笑われるから気をつけろ」
「えっ? ……な、何だよそれ!」
「悪いけど。本当に口止めされているんだ。何となく知りたいってだけで首を突っ込んでもろくな事にならないぞ」
 からかわれたと分かって起こる前田に、声のトーンを落としてそう言い聞かせる。
「マジか……」
「かなりマジだ」
 失踪者は昨日の段階で確認出来ただけでも6万人以上に増えている。これは失踪者と認定されていない帰還者からの情報を含めてはじき出された数字だ。
 俺達が失踪したのと時を同じくして失踪したが、今回の事件に巻き込まれたとは断定出来なかった者達の中から帰還者を名乗り、その内容が他の帰還者達のはなしと一致して認定された数が、当初の失踪者リストの中にいた帰還者よりずっと多かったのだ。
 つまり300例以上、1万人以上とされていた事件の規模は、リスト内の帰還者とリスト外の帰還者の比率から1500例以上、6万人以上へと上方修正された。
 しかし、まだ名乗り出ていないリスト外帰還者の数を考えると2000例以上、10万人以上になるのではというのが日本政府を含む各国政府の予想だそうだ。
 何故そんな情報を知っているか? 勿論、日本政府が親切に俺達へ情報を教えてくれた訳ではない。
 教えてくれたのは『レベルアップのお陰で頭回転も上がって、今まで出来なかった事も簡単に出来るようになったね』とほざく謎のハッカーだと言っておこう。『身体能力のアップに魔術と魔法。ソーシャルハックも思い通りに捗るね』なんて絶対に俺は聞いてないから……絶対に聞いてないからな!

「無事に高城君もクラスに戻ってくる事が出来ました。皆さんもこれからは落ち着いて今まで通りの学校生活送るよう心がけてください。また来週の火曜日からは中間試験も始まります。授業内容などで分からない事があるなら、放課後に勉強会を開きます。教科を問わず分からない事や不安な事があるなら参加してください」
 一瞬だけだが、俺と目が合って微笑んでくれた……様な気がしたが、あれは絶対に俺に微笑を投げかけてくれたのだ。間違いない。


「おはようございます!」
「おはよう」
 5月16日。金曜日の放課後、一旦帰宅した後で俺達は学校から1kmちょっと離れた運動公園に集まった。
 この公園は市街地とは川を挟んだ反対側にある郊外になるために、夕方の4時前だと言うのに人影はほとんど無く、テニスコートの方でラリーをする球の音がするくらいだ。
 空手部は活動停止中のため、俺達は学校施設は使用出来ないために、ここに集まるしかなかった。
 だが逆に言うと放課後に校外に自主的に集まって練習する分には学校側がどう思おうと介入する権利はない。それが試験前の一週間の部活禁止期間だろうともな。
 それほど1年生達を鍛え上げるのは急務だった。
 既に、俺達へちょっかい出しに集まってきた馬鹿が、護衛に付いている警官達に捕まり、その数は二桁に達している。
 まだまだちょっと空手の出来る陸上部のエース級の走力を持つ中学1年生に過ぎない彼らを、後ろに立つものは女だろうが容赦なく叩きのめせるような戦士に鍛え上げる必要がある……それは殺し屋だよ。

「ランニング祭りの疲れは取れたか?」
 空手部伝統の新入部員の体力向上週間の締めのランニング祭りは、俺達に付けられた護衛達が止めに入り、3年生達に取り押さえられるほどの盛況を博して昨日、木曜日の放課後に終わらせた。
 ちなみに現在は朝練はやっていない。練習後の汗を流す施設が無いので各自が自主練という形で鍛錬を行う。一応家の近い者同士で1年生と2年生を組ませて練習させているのでメニュー的には問題ないレベルには達していると思う……しかし大島がいた頃の練習には質的には劣るのは確かだろう。
「はい!」
 そう答える新居だがどこかやつれた落ち武者的な様子は隠せない。
「今日からはランニングメニューは減らす。足りない分は自分で補うようにな」
 つまり、今まで科せられていた基礎体力向上のメニュー量は維持しつつ、空手としての練習を増やすという事であり負荷は増す一方だ……つうか楽になるようなら地獄部なんて呼ばれていない。

「では身体を軽く暖めるのに5kmほど走るぞ」
 俺が口にした5kmと言う数字に、嬉しそうに「はい」と答える1年生達に思わず涙が誘われる……もう既にこちら側の人間で、普通の中学生には戻れないんだなぁと。
 公園内の陸上競技用の400mトラックを集団で12周半走り終えるまでに掛かった時間は20分間。
 はっきり言って遅い。ただのタイムトライアルなら部員の中で一番遅い斉藤でも16分30秒そこそこで走る事が出来るだろうが、今やっているのは体力づくりではなく、どの程度の運動量を、どの程度の時間維持出来るのかを1年生達の身体に叩き込むためでもある。
 その証拠に、1年生達は汗を流していても呼吸を大きく乱してはいない。どれだけ運動量を増やし、どれだけ持続時間を延ばせるかは本人の努力次第……まあ、余り弛んでる様なら物理的に引き締められる事になるだろう。

「先ずは基本の正拳突きからだ、順突きと逆突きを100ずつ交互に良いと言われるまで続けろ」
「正拳突きですか?」
「不満か?」
「い、いえ……そういうわけではありません」
 そう答えるが、全員が小学校どころか幼稚園に通う前から空手を習っているような連中どもだ。やっと体力作りの中心のメニューから空手の技術面のメニューに移った最初が正拳突きでは不満なのだろう。
「神田。お前は正拳突きというものをどれだけ理解している?」
 偉そうに言う俺自身、未だに追い求める真髄の背中すら目にしていないのだがな。
「3歳から空手をやってるんです。理解しているに決まっているじゃないですか?」
「ならば、順突き逆突きのどちらでも好きな方の動作を全て言葉にしてみろ」
「言葉……ですか?」
「そうだ。全ての動作を余すことなく言葉にして説明しろ」
「……えっと、足の踏み込みから……」
「足の踏み込み? 足のどの箇所でどう踏み込むんだ?」
「そんな……無意識にやっていることを──」
「無意識? 自惚れるな! お前に無意識なんて言葉は100年早い。無意識って奴は、意識の先にある境地だ。1つの技を意識して意識して意識しつくした後にたどり着くもので、お前のは最初から何も考えてないって事だ。3歳から? 無駄な時間を過ごした事がそんなに自慢か?」
「む、無駄……?」
「俺が3歳からやってるなら、死ぬまでに正拳突きの真髄にたどり着けるわ!」
「……3歳児の理解力と意思じゃあ、どのみち同じ様に時間を無駄にすると思うよ」
「紫村! 混ぜっ返すな!!」
 事実だけにイラっとする。

「足の裏。先ずは踵の前と後ろ、そして左右の4箇所に、親指、人差し指と中指、小指。そしてそれぞれの付け根の6箇所の10箇所を認識して意図的に使い分けろ。それから、どこに体重をかけて、どうやって地面からの反発と摩擦を得るか。そしてその力をどの間接を経由し、力を増幅させながら伝えるのか、その一つ一つを突き詰めろ。そうして始めて間接以外の箇所で骨を曲げねじる事で得られる反発力にも気づくことが出来る」
「骨を曲げ、ねじる?」
「当たり前だ骨は剛体(力よって変形しない物理学における仮定の存在)じゃない。力が加わったら形を変え、力が抜けたら元に戻ろうとする。自分の身体に起こるす全ての現象を使いこなせて初めて技は完成する。そのためには意識しろ。己の肉体を全身全霊を込めて知覚して理解しろ。自分の身体の動きの一つ一つに理を見出せ。さあらば相手の動き、そして何を考えているのかすらも読める」
 これが鬼剋流か大島流空手なのかは知らないが、俺達が身に付けた格闘術の基本だった。
「しゅ、主将は読めるのですか?」
 何を言ってるんだこいつは?
「……読めるはず無いだろうが! 空手始めて2年ちょっとでそんな境地に達するか、分からんかな? 普通分かるだろ!」
「高城ぇ……自信一杯に断定したら誤解しても仕方ないだろう」
「自信なさそうに話しても説得力が無いだろうが!」
 櫛木田の突っ込みに、そう言い返した。
 大島の復活が何時になるか分からない今。指導において奴のどうしようもないほど威圧的でNOとはいえない説得力と強制力の一端でも示さなければ、1年生達を俺が卒業するまでに強くしてやることが出来ないだろ……残念ながら俺には他に参考とする事の出来る指導者を知らない。
 それとも何か? 空手部の後輩に手を出しそうな馬鹿共を1人残らず叩き潰しておけばいいのか? やれというならやっちゃうよ俺は。

「ゆっくりで良い。間接、骨、筋肉、重心。それらがどう動いたのか、どう動かした時に拳から伝わる手応えがどう変わったのかを突き詰めていけ。何なら気付いた事を携帯でメモっても構わないぞ」
 そう1年生達に指示を出しながら、2年の中元と小林を同時に相手をする。ゆっくりとやる目慣らしとは違い2人には本気で攻めさせる。しかし俺からは攻撃を加えない条件だ。
 2人は数の利を活かし俺を前後から挟もうとする。しかし前後に拘るほど180度で俺を挟み込もうとする事になり、俺は2人を左右に置くように身体を動かせば良かった。
 だが2人は距離を置いて前後からの挟み撃ちに固執しなければならない理由がある。それは単純に3年生である俺と2年生の2人の間に横たわる力の差……ではない。
 流石に2年生と3年生の間に、正面から間合いに入れば一瞬で決着が付くなんて程の差はない。俺にしてもレベルアップが無ければ一瞬とは言わず3秒ほどは欲しいくらいで、2人が同時に左右から襲い掛かるだけでも十分に良いのを1発貰う可能性は高いのだが、結果的に囮役になってしまったどちらか一方が確実に倒される事になる。
 今回は俺から反撃をしないと明言しているが、それを素直に信じる様な奴は2年生には1人もいない……彼らが不信に陥るような真似を時として大島……と俺達上級生はやって来たのだ。
 常に緊張感を持たねばならないって事で、時々油断していると思ったら……やってしまう訳だ。純粋に下級生のためを思っての指導だよ。これが伝統だから仕方ないんだよ。自分達が上級生にやられたからなんて小さい事は考えてないよ。

 だがこの均衡状態が続けても今の練習には余り意味はない。
「中元、来い」
 俺が足を左右に開いて止め腰を落とし、そう口にしながら右手で手招きしてた瞬間、左側にいた小林が一瞬で俺の背後を取り、躊躇無く移動の勢いを付けたまま体重の乗った俺の左膝の裏へと下段の回し蹴りを放つ。
 下段の回し蹴りは左脚の膝から下を持ち上げて脹脛と太ももの裏で挟み込んで止める。

 実は俺は、相手の動きから次の動き、そしてまた次への連なりが読める。戦いに限るなら相手の考えも読めるからだ。それはレベルアップによる知力の向上とシステムメニューによる時間停止の賜物だ。
 コマ送りで動く時間の中、自分の身体の動きを事細かく知覚し計算する事が出来る事で、俺は理へと大きく近づくことが出来た。
 しかし、今回はそれを使ってはいない。
 小林の足を大きく上げない歩法による小さく「タッ、タッ、ダッ!」と響いた足音から、どのタイミングでどこを攻撃するのかを読み取った。
 1歩目と2歩目の短くリズムがあり、そしてストレスの無い音から、方向転換などの無い真っ直ぐ素直な加速を行った事が読める、そして3歩目の強く踏み込んで行き足を止めた音から位置が特定される。
 3歩目の足音を立てたのは右足……左足では飛び道具でも使わない限り、俺の身体の何処にも届かせる攻撃手段はない。
 方向は俺から見て左斜め後方45度。そこから俺に届く攻撃は左の蹴りのみで、届く位置は左の肘から先と膝の下から先のどちらかだが、肘から先に蹴りを入れても意味が無いので膝の方と読めた。
 流れるように移動の勢いも乗せた鋭い蹴りは、それゆえに足音からタイミングも読めた。

 小林の蹴りを止めた時には既に中元が迫っている。だがこちらも一瞬たりとも中元からは目を離していない。
 鋭い気合と共に繰り出される体重の乗った同足からの左の順突き。次に素早く右の逆突きへと切り替える流れが出来ている。
 俺は右足一本で立ちながら左腕で中元の突きを外へ流す。そしてその反動の力に従って中元の左脚のすぐ脇に倒れこむように身を投げ出す。その際も左脚の脹脛と太腿の裏に小林の左脚を挟み込んだまま放さない。
 小林は足首から先を捻られるので、自分を身体を投げ出す事になり中元と交錯する。
 互いに衝突を避けるために回避を行うが、俺は地面に寝そべった状態から中元の足元をすくい、更に転倒を避けようとして地面を突こうとする腕も払う。
 派手に肩を地面に叩きつけるが脳震盪を起こすような落ち方はしていないので無視して起き上がると、小林もほぼ同時に起き上がる。足首を痛めるのは回避出来たようだ。

 真っ直ぐ俺の正中線に向かって踏み込んでくる。1対1となり開き直ったのだろうが、潔いと言うよりは堪え性が無いと言うべきだろう。もっと往生際が悪くなければ勝ちを無理やりにでも拾う事は出来ない。
 右の突きを左手で外側から掴み、伸び切ったところを更に引いて体勢を崩してやりつつ、右足を左後ろへと引きながら背中合わせになると、そのまま反対側へと押しやる。ついでに足元を駆る引っ掛けた。
 前につんのめりながらたたらを踏む小林を他所に中元に声をかける「起きろ! もう一度だ」


 30分間ほどしごくと中元も小林も疲弊し立ち上がることが出来なくなったところで休みを入れる。他の連中も似たようなものだ。
「どうだ? 頭を使い一つ一つの動作を意識しながらやると疲れるだろう」
 運動量なら一番楽だったはずの1年生達もかなりバテているようだ。
「はい。意識せずにやっていたことがどれほど大変な事だったのかは分かりました。そして1つの動作を意識して変えるだけで大きな影響がある事もわかりました……でも同時に、やるべき事が多すぎて、考えれば考えるほどより深い理解が必要になって、最終的に自分が目指すものが見えてきません」
「新居。今の段階でそこまで気付けたなら上等だ。そんなに簡単に理想形が見つかったら苦労しない。例えばある動作に対してある修正を加えた事で大きな効果が得られても、他の動作に修正を加えると逆にマイナスにしかならなかったりもする。今はじっくりと身体に対する理解を深めれば良い。そうすれば他人がどう身体を使っているのかも朧げながらにも分かってくるから、他人の技を盗み役立てられるようにもなるだろうさ」
 そんな手順を踏まずに、システムメニューのお陰で、大幅にショートカットした感のある俺は余り偉そうな事は言える立場ではない……ストレスたまるな。

 休憩を終えて再び30分間。相手を変えての練習を終えて解散した。解散したのだが……
「お邪魔します」
 俺は香籐と共に紫村の家へと来てしまっている。

「高城君による初めてのお宅訪問。しかも泊まり……この2年間長かったよ」
 2年前から待望してたんだ……へぇ~……へぇ~…………
「主将!」
 遠のきかけた俺の意識を香籐が引き戻す。そうだ俺は可愛い後輩のためにもここで正気を失う訳にはいかない。
「早速だけど僕の部屋に案内するよ」
 こいつ頬を赤らめてやがる……もういや……もういや…………もういいや………………
「主将! お願いですから諦めないで下さい」
 そうだ。俺がここで諦めてしまえば次は香籐の身が危ない。
 俺は両手で自分の頬を張り気合を入れて玄関の上り框を越えた。

 紫村の家はでかくて立派だ。元々この辺一帯に広い土地を有していた大地主の家系で、父親の職業は大学の教授で東京に住んでおり、母親は紫村が小学生の頃に病死しているそうだ。
 しかも兄弟は無く、一人息子なのでこの広い家に1人暮らしという境遇だ。一応夕方まではお手伝いさんが家事をしてくれているそうだが……金持ちの家に産まれるのもどうかと思わずにはいられない境遇だが、そのお陰で3人が集まる場所としてここが使えるわけでもある。

 紫村の部屋は映画に出てくるハッカーのような薄暗く、あちらこちらで廃熱ファンの音が静かに響くような部屋を想像していたのだが、おおむね普通に趣味の良い部屋だと感じた……一角に置かれた広い机の上に液晶モニターが28インチと24インチが2台の計3台置かれて、幾つも開かれたウィンドウの中で常時何かのログを吐き出し続けていなければ。

「それで、今回集まった理由なのだが、2人を夢世界へと連れて行けるかもしれない方法を試すためだ」
 ついに俺は見つけてしまったのだ。2人をあちらの世界に連れて行ってレベル上げをさせる方法を……俺に比べると次のレベルアップに必要な経験値がずっと少ない2人のレベルアップを優先してレベル115になれば多くの属性レベルⅤの魔術が一気に使えるようになるはずだ。そうなれば死者の蘇生も、か、可能性はゼロではない?
「ある程度想像はついていたけど、詳しく聞かせて欲しいな!」
「お願いします」
「そんな難しい話ではない。2人を眠らせてから収納し、俺が夢世界に行ったら取り出すだけだ」
「それは可能なのかい?」
「まずは、近所の野良猫で実験して成功した」
 夢世界で目を覚ました後に逃げ出し、速さ云々よりも狭い所を逃げられると周辺マップを頼りに先回りをするしか捕まえる手段が無くて大変だった。
「人体実験は済ませてないのかい?」
「……したさ。大島の子分達でな」
 向こうで【所持アイテム】内から取り出して、縛り上げ目隠しをした上で腹を蹴り、起こして意識が戻るかも確認した。
 ちゃんと意識は回復して、自分が置かれた状況に軽くパニックを起こして喚き散らしすのを確認してから再び眠らせてから収納した。
「それなら安心したよ。なら収納してくれても構わないよ」
「その前に済ませておくことがある」
「何か準備がいるのですか?」
「とりあえず、お前らは収納の前に飯食ったら風呂入って寝ておけ。そうしておかなければ【所持アイテム】の中では時間が経過しないから、一睡もしないで朝を迎えるようなものだぞ」
「じゃあ、みんなで一緒に風呂に入らないかい? 家は風呂だけは大きいよ」
「お断りだ!」
「お断りします!」
 香籐と一緒に割と本気で断った。大体、風呂以外も十分に大きいわ。
「男同士の裸の付き合いだよ」
「その言葉をお前が口にすると卑猥に聞こえるんだ」
 香籐が壊れた人形のように首を縦に振る。
「気のせいじゃないかな?」
 気のせいな訳あるか! どうせなら俺が1年の3学期に忘れ物を取りに戻ったら誰も居ないはずの部室の中から聞こえたあれも気のせいにしてくれよ! トラウマを何とかしてくれ!
「いいか! 俺が風呂入っている間は決して脱衣所より先に入るなよ。入ったら然るべき手段をとらせて貰うぞ」
「主将。お風呂の時は僕もご一緒させて下さい!」
 流石に紫村の私室で2人きりというのは危機感を覚えたのだろう、必死に訴えかけてきた。
「僕だけ仲間外れは酷くない?」
「元々お前は性癖からして仲間外れだよ!」

「上がったよ。次どうぞ」
 お手伝いさんが用意してくれたという食事をした後に、先に風呂に入った紫村が、バスローブに身を包みリビングに入ってくる。
「前を閉めろ。気持ち悪い」
 着ているバスローブの前を大きくへその下まで肌蹴ている姿は、クラスの腐った女子共が「きゃーきゃー!」騒ぎそうな妖しさをかもしていた。
「サービ──」
「そんなサービスはいらん!」
「ポロリも──」
「いらん! ポロリしたらポトリと落ちる事になるからな!」
「そ、そんな高度なプレイ──」
「プレイじゃねぇぇぇぇっ!!」

 風呂から上がり、夢世界に持ち込む物の準備を整え終えると【昏倒】を使って2人を強制的に眠らせたのは、まだ8時前のことだった。
 これから俺は12時過ぎまで起きて4時間半ほどこのまま2人を眠らせた後に、そのまま収納してから眠りに落ちて夢世界へと行く予定だ。
 俺は紫村の勉強机に向かって、この1週間に紫村が作った魔法を確認する。
「うわぁ……マジ天才じゃないか?」
 紫村は俺が作り上げた【場】の中の魔粒子を全て判別して、必要な魔粒子だけを操作するという基本魔法を、【場】自体に手を加えることによって格段に進化させていた。
 先ずは【場】の形を球形から変形させる事。【場】とは一定量の魔力を直径1mの範囲に満たしただけの魔力の塊であり、本来形状は球状である必要はないが、球状である事を前提に魔法体系は作られているといっても過言ではない。
 そこでは奴は、通常の【場】を作り内部に存在する必要な魔粒子だけを魔力で包み込み、必要な魔力量を大幅に減らすようにした。
 その複雑な制御を可能にするために紫村は魔粒子の新たな性質を突き止めた。魔粒子には同じ魔粒子同士は同じ魔力によって同じ操作を受けている状態では反発し合う性質があるが、一方のみを高速で回転させると反発していたもう一方は逆回転を始めて、逆に引き寄せ合う性質を発見したのだった。
 そこで、制御下にある魔粒子を包む魔力を、触手のように周囲に広げ、自動的に動く魔力の触手に触れた魔粒子の中で、引き寄せられる魔粒子を取り込んで制御下に収めて操作する事で、全体的な魔力の消費量は同じでありながら効果を増大させる事に成功していた。
 しかも、必要な魔粒子だけを必要な範囲のみ包みネットワーク状に繋ぐことで、これまでの直径1mの【場】とは違い魔粒子同士の距離を大きく広げられるので反発し合っても問題は無かった。
「天才だな」
 2度言わなければならないほど紫村への敬意が未だかつて無いほど高まった……変態だけど。

 紫村の開発した新たな【場】を利用する事で、浮遊/飛行魔法(改四型)へと進化し、複数の【場】を展開して同時発動させなくても、従来とほぼ変わらぬ魔力消費で数倍の効果を得られるようになった。
 同時発動させる必要がなくなった分、飛行時に自分の周囲を包み空気抵抗を減らし速度の向上。さらに高速飛行出来る安定性の向上を図るのみならず、風防効果で飛行時の快適性も向上させる魔法を創り出すことにした。


 浮遊/飛行魔法関連の魔法開発を終了した段階で日付が変わり17日土曜日となったが、ついでに【伝心】によらない通話魔法を作り上げてから2人を収納し眠りに就いた。



[39807] 第85話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c666e2a0
Date: 2016/11/10 17:13
 夢世界で目覚めたのは、しばらく滞在を続けたイーリベソックから昨日移動してきたばかりの王領との領境から南に十数kmほどのエマグラニフという名の街の宿だった。
 部屋には俺しかいない。
 昨日の時点で紫村と香籐をこちらに連れて来る予定だったので、何時ものように2人部屋ではなくシングルルームを借りておいた。
 屈み込んだ体勢で、床の上に現れるようにイメージしながら2人を【所持アイテム】から取り出した。
 2人の身体が床の上に出現すると同時に【浄化】『あらゆる穢れを掃う』を使用して、現実世界からこちらに持ち込まれただろう。夢世界にとって穢れであるものを消し去る。
 パラレルワールドの方では、取り出したオーク肉の加工品を現実世界の身体で食べた後【大病癒】『細菌・ウィルスが原因となる病気ならば根治可能』を使用して問題が無かったのだから、この方法で大丈夫だろう……ついでに2人にもこちらにいる間は何度か【大病癒】をかけ、そして現実世界に戻った時に【浄化】と【大病癒】をかければ大丈夫だろう。

「起きろ」
 2人の肩を揺すって起こす。
「……おはよう。無事に夢の世界へ来れたのかな?」
「夢世界にようこそ。ってところだ」
「……おはようございます」
「おう。起きたなら着替えろ。その格好はこちらじゃ変だからな」
 寝巻き代わりのトレーナーの上下。ちなみに紫村は「僕は寝る時はパンツもはかない主義なんだ」と抜かしたので2対1で拳で語り合い説得した。

 2人は俺が昨日の内に用意しておいた、下着と服とブーツにマントへと着替え始める。
「そこは一旦、全てを収納してから装備しろよ」
「そ、そうでした」
 そう申し訳なさそうに答える香籐に対してホモは「僕は自分が着替えるのを君に見て欲しいんだ」とほざいた。
 ノンケにも平気でちょっかいを出す腐れホモが最近やけに飛ばすじゃないか? そう腹の内で罵るも、こめかみを引きつらせながら無視した……構うのが一番良くない。

「こちらの世界の地理情報は、マップから読み取ってくれ」
 ワールドマップには、2号とマップデータを共有しているため、この国、ラグス・ダタルナーグ王国の主要街道と街道沿いの街や村の1/5程度は表示され、各地の名称も日本語で表示されている。
「こちらの最低限の常識などは伝えてある通りだが、分からない事があれば適当に誤魔化しながら【伝心】で俺に聞くようにな」
「わかったよ」
「はい!」

 2人に銀貨をそれぞれ10枚と銅貨を20枚渡す。
「じゃあ外に出て市で買い物をするから、お前達は【迷彩】を使って窓から脱出して適当に合流してくれ」
「適当にね」
 日本語の中で本来の意味とは間違って定着した言葉の中でも、程度が酷いのは「適当」と「いい加減」だと思う。
 どちらも最良の結果を出すために、自分の裁量の中で最も適した手段を選ぶという本来の意味に対して、悪い意味に使われる場合がほとんどだ。
 つまり人間は怠け者だから、自己の裁量に任せられると手を抜いて『適当でいい加減な』結果しか出さないと言う事なのだろうか? そう考えると深い言葉である。

『いやぁ~実にファンタジーな光景だね』
『あちらの世界は一見ホラーチックで、オチはパラレルワールドというSFネタでしたからね』
 宿の窓から外に出た2人から【伝心】が入る。
『オチとかネタとか言うな!』
『ドイツのメルヘン街道沿いにこんな町があっても不思議じゃないって感じだね』
 何がメルヘン街道だ一般庶民はそんなの知らねえよ。このブルジョワ階級め。
『狭い路地に古い建物が立ち並ぶ様子は、金沢の武家屋敷通りみたいですね』
 それも知らないよ。確か父方母方どちらも4代遡ると加賀に行き着くらしいが、一度も行った事無いよ。

「お待たせ。しかし異国情緒というか、中々興味深いね」
「見たことの無い果物や野菜が並んでて面白いですね」
 合流した俺達3人が揃って通りを歩くと周囲の目を引く。
 俺1人でも、この世界ではかなり背が高い方になるのだが、俺とほぼ同じ体格の香籐に、更に180cmを大きく越える紫村まで加わると驚きの目で見られる。

『目に付いた食べ物があったらどんどん買って口にしておけ。お前達にとってこちらの食べ物の何が毒になるかも分からない。早い内に分かっていた方が良いだろう?』
 話の内容的に【伝心】を使う。
『そう言われると手が出ませんよ』
 屋台の店先に並んだ果物に伸ばそうとしていた手を香籐は引っ込めた。
『必要な事だから諦めろ。食って突然倒れられても迷惑だ』
 説得するが、毒かもしれないと思いつつ食べるのは難しい。俺なら絶対に嫌だ。
『……美味いぞ』
『はい?』
『こっちの食い物は滅茶苦茶美味いぞ』
『で、ですが……』
 言いよどむ香籐を無視して、レモンのように鮮やかな黄色をした柿のような見た目のノミスという名の果物を2つ買った。

「ほら! こいつは美味いぞ」
 そう言って紫村へと投げる。
「ありがとう」
 受け取った紫村は上着の袖で表面を磨いて、躊躇うことなく齧りつく。
「どうだ?」
「これは驚きだね。果物を食べて驚いたのは初めてだよ」
「そうだろう。これなんかも美味いぞ」
 別のサーティックという名の紫色の柑橘類を買って投げ渡す。
「酸味も甘みも想像以上に強いね。それに何より剥いた皮から立ち上る匂いが堪らなく良いね」
「この皮は苦味が少ないから、皮ごと齧り付くのが良い──」
「主将。僕にも下さい」
 俺は肩をすくめるとサーティックをへたの方から親指を差し込んで2つに割り、片方を渡してやると齧りつく。味の感想は次の瞬間に香籐が浮かべた表情が全てだった。

 2人が他の果物を買っては口にしている間、俺は屋台で串焼きを3本買って来る。
「ほら、これも食ってみろ」
 そう言って焼きたての串焼きを差し出す。
「何の肉ですか?」
「うん、豚に似た奴の肉だ」
 嘘は言ってない。俺の言葉に全く嘘は含まれていない。ただちょっと心が痛むだけだ。
「……うん、美味い」
 後ろめたさを誤魔化すように、大降りに切られた肉の塊に噛み付くと串から引き抜くようにして口の中に落とし込むと、ゆっくりと大きく咀嚼する。
「いただきます」
 美味そうに食べる俺に刺激されて堪らなくなったのだろう香籐は思いっ切り齧りつく。
 何の肉か察しがついている紫村が微妙な表情で見ているが決して止めようとはしない。もし後で拗れたらこいつも共犯として同じ立場に立たせよう。
「美味しいです! 肉がふんわりと柔らかくて、脂もすごく上品で……」
 どこかの芸人のグルメリポートのような事を言いながら、30cm以上はある大串にぎっちりと隙間無く打ちたれた肉の塊を胃袋に収めていった。

「さて、食堂が開くまでまだ時間があるから、この肉の元を見てみるか?」
 まるで散歩にでも誘うような気軽さで言えるのはマップ機能のお陰だ。
「でも得物を持ってませんよ」
「今は見てみるだけだ。実際に狩る時までには用意しておいてやるから安心しろ」
 そう言って香籐の肩に腕を回して引っ張っていく。
 後ろからついてくる紫村が口笛で奏でるドナドナが、この状況を実に上手く表現していた。


 目的を果たして宿に戻り、1階の食堂でテーブルを囲み飯を食っている。
「あれは豚じゃないです……豚じゃないです……豚じゃないです」
 針飛びのするレコードのように繰言を続ける香籐だが、しっかりとオーク肉の朝定食を口に運び咀嚼して胃袋に流し込む仕事に従事していた。
「豚とは言っていない。豚に似たと言っただけだ……ちなみに紫村は最初から気付いていたぞ」
 早速仲間を売った。
「僕は美味しかったから良かったと思うよ……香籐君。君は嫌なのかい?」
 だが紫村は涼しい顔をして流してしまった。
「そ、それは……食べたくないと言えば嘘になります」
「嘘になるもならないも今食ってるだろうが……ちなみに牛肉に似た味のするミノタウロスの肉は絶品で、オーク肉にも負けない衝撃を受けるし、鶏肉に似たコカトリスの肉の美味さは想像を越えてくるモノがあるぞ」
「うっ……」
「オーク肉と違って、ミノタウロスの肉やコカトリスの肉は中々手に入らないが、俺達が協力し合えば今晩のディナーにも食べられるんだけどなぁ~」
「…………」
「香籐は食いたくないみたいだから、後で2人で狩りに行って見るか?」
「良いね。是非とも食べてみたいよ」
 そう話しながら香籐に流し目をくれてやる……遊んでやがる。まあ俺も言えた義理ではないが。
「じゃあ、午後に時間を作って狩りに行くか?」
「そうだね。2人っきりで狩りというのも──」
「僕も行きます。行きますからね」
 ……釣られたな。

「おはようリ……リュー?」
 食堂に現れた2号は、俺とテーブルを囲む紫村と香籐の姿に言葉を詰まらせた。
「おはよう」
 何か言いたげな2号の気持ちなどスルーして普通に挨拶を返す。
「それでね、そちらの人たちは何方なのかな? リューの知り合いなら紹介して貰いたいのだけど」
 2人にさっと視線を向けてから「……嫌だってよ」と返した。
「何も言ってないじゃないか!」
「ほら、俺達って知り合いを紹介し合うよな親しい仲じゃないだろ。距離感って大事だぞ」
「その割には随分と厄介なエルフの姉妹は紹介してくれたよね?」
「ビジネスな関係は距離感なんて気にしてたら駄目だぞ」
「よし。彼女達に今の事は言ってやるかな!」
「別に痛痒も感じぬ」
「何て人でなし」
「安心しろ。分け隔てなくお前にも同じ態度で接しているから」
「何日も一緒の部屋で寝泊りした仲だよね」
 ガタッと音を立てて椅子を蹴って立ち上がろうとする紫村の右足の膝裏を、テーブルの下越しに伸ばした足で手前に引いて座らせる。

「仕方ないな。こいつはガトー。俺の可愛い後輩だ」
 突然、ガトーと呼ばれて戸惑いながら香籐は頭を下げて「よろしくお願いします」と言った。
「僕はリューの友人でカリル。こちらこそよろしく」
 そう挨拶を返す2号に対して俺は……こいつの名前ってレンタルとかリースじゃなかったんだと思いつつも2号の名前を心に銘記はしなかった。
「それから、こっちのデカイのはシムラー。コメントは無い」
「よろしく。シムラー君」
「シムラー? ……ああ、シムラーでいいよ。僕もカリルと呼ばせてもらうよ」
 挨拶しながら握手を交わす2人……俺はカリルと呼んだ事はないけどなと思ったが口にしなかった。
「それでこいつは、今俺が面倒を見て鍛えてるところだから、一応弟子って事になるな」
「弟子だったのか?」
「俺も今気付いたくらいだ」
 驚く2号だが、俺にとてもかなり新鮮な驚きだよ。

「それでだ。今日はこの2人に龍に挑戦して貰う」
「それは無理でしょう。僕が未だに勝てないのに」
 そう2号が言い放つ。
「この2人はお前に対して、身体能力で16倍。精神力で256倍。戦闘技術で1024倍は強いから」
「嘘だ!」
 俺が綿密かつ主観的に判断した数字を即座に否定しやがったよ。
「主将。こいつを軽く〆てやっていいですか?」
「食事が終わった後に好きにして良いぞ……だから黙って食ってろな」
 妙に香籐は2号を敵視しているな。
「僕が負けるのが前提?」
「だからそう言ってるだろう。無理なんだ。お前じゃ全然無理なんだ。心技体共に大きく劣り、天地人共に影響しえず、補給も関係なければ援軍も無い。一体何処に勝機があるのか俺が教えて欲しいくらいだ」
「ひゅひょうおおばうぇほふぐぁなっ!」
「ガトー。黙って食う事に集中しろ」
 口の中に肉を頬張ったまま、2号に文句をつける香籐を叱る。しかし香籐の態度が分からん。


 あなたの町のコンビニこと『道具屋 グラストの店』へとやってきた……本当に何処の町にもある。空間を繋げている様だから、何処にあっても良いのだが、しかし入り口などの店の外側は賃貸なのか自分の物件なのかは知らないが無駄に金が掛かっているのは間違いない。
「いらっしゃいませ。今日は大勢でおこしですね」
 扉を開くと、入り口の傍に居たミーアが頭を下げながら迎えてくれた。
「頼んでおいた、新しい龍の生息地のマップは用意出来ているか?」
 俺は紫村と香籐を紹介しろと言外に促すミーアをかわすために、別段急いではいない用件を切り出した。
「勿論ですわ」
 そう言って、奥のカウンターへと優雅な足取りで歩いていく。

「主将。あの方は?」
「この店のオーナーのエロフだ」
「エロフ?」
「エロエルフ。略してエロフ……気をつけろ。油断してたら食われるぞ。童貞なんて」
「ど、童貞……」
 香籐の喉が『ゴキュリ』と鳴る。うん、見た目はエルフだけに文字通り人間離れした美貌だ。その気持ちは分かる。食われても良い。いや、むしろ食べて貰いたい……同じ童貞だけに嫌というほど良く分かる。
「だが止めておけ。奴は俺の歳が14と聞いて、それはそれでありだというような超肉食系の変態だ」
「それは、年上のお姉さん系が趣味な僕でも退きますね」
 そうだ。北條先生のおかげで年上の女性に幻想を抱きがちな俺達にとっても、年下『でも』受け入れてくれるのと、年下『だから』受け入れてくれるのでは大きく意味が違う。
 年下でも受け入れてくれるというのには、そこに愛があるのが分かるが、年下だから受け入れてくれるのは愛じゃなく生々しい欲望だ。溢れんばかりの性欲を下半身に宿した俺達だからこそ、自分以上の性欲を相手の女性から感じると急に退く。ほらアイドルはトイレに行かないとかあるじゃないか? 勿論そんな事は無いんだけど、やっぱりどこかでトイレに行って欲しくないというか、トイレに行く素振りは見せて欲しくないとかさ……童貞こじらせて女に幻想を抱き過ぎだ? こじらせてなんかないから、だってまだ14歳だもの全然こじらせてなんか無いよ。むしろまだまだ童貞初心者と呼ばれるくらいだよ! ともかくガラスの十代は繊細なんだよ!!

 そんな風に自分の中の敵と戦っているとミーアが皮製の筒を持ってきた。
「これが王領を含むラグス・ダタルナーグ王国北部の龍の生息地を記した地図になります」
 筒から引き出して地図を広げる。
 確かに、王都よりも北の国境線までを網羅した地図に53体の龍の生息地が記されていた……レベルアップにはこの全てを倒してもまだ足りないが、前の地図の龍を全て倒している訳ではないので、暫くはこれで十分だ。
「良くこの短時間で用意してくれた。ありがとう感謝する」
「リュー様のお役に立てて幸いですわ」
 上品に微笑むミーアからは何時もの妖艶さや淫靡さは影を潜めて優しげなお姉さんのオーラを放っている。
 とんでもない大猫を被ってやがる。お陰で香籐がすっかりやられそうになってるよ。
「ガトー。誑かされるな。その感情に身を任せると破滅だぞ」
 いかん、所詮言葉では目の前の美人という現実の前には勝てない勝てるはずが無い。
「誑かすなんてリュー様は酷い方ですわ」
「そうですよ主将。女性にそんな事を言うなんてよくありません」
「ありがとうございます。貴方様はとても紳士でいらっしゃいますのね」
「僕は……ガトーと申します。貴女のお名前を教えてはいただけないでしょうか?」
「私はこの店を主でミーアと申します。よろしくお願いしますガトー様」
「よ、よろしくお願いします!」
 ミーアに優しげな微笑を向けられて、この馬鹿たれが完全に誑かされて魂が抜けたような面してる。

「それじゃあ、2人に適当な武器と防具を見繕って欲しい。金に糸目はつけない」
「それはつまり魔法の武具という事ですね?」
「この店で普通の武具を扱っているのか?」
「当店で扱っている基本的に魔道具です。普通の武具などは扱っておりません……それでは、何かご希望はありますか?」
「武器は出来るだけ強度が欲しい。龍が踏んでも壊れないような丈夫さがあれば他はそれほど重要ではない。防具は軽くて動き易い物で鎧と篭手を頼む」
 俺の持ってた基本装備ほどとは言わないが、簡単に壊れてしまわない程度の強度は必須だ。防具は対して重要だとは思っていない。俺達が食らってしまうような攻撃ならば防具など紙も同然だろう。
「分かりました。少々お待ちください」
 そう言ってバックヤードへと向かうミーアの後姿に香籐は見惚れている。
 気持ちは分かるぞ。あの女の本章を知っていてさえ俺も見惚れずにいられないのだから。
 それにしても色っぽい。別に誘うような程に下品に尻を振っているわけではない。一歩歩くごとに揺らめく、そう不安定感すら感じる腰の動きがぐっと来る。
『まさかあれは……』
『知っているのかサンダーボルト?』
 【伝心】での紫村の誘いに俺は乗っかる
『ひねり方が微妙すぎてそれじゃ元ネタが全く隠れてないよ……あれはモンローウォーク。かのマリリン・モンローが編み出したといわれる。男を誘う独特の歩方。足を一歩踏み出すごとに自然に腰が振れるように、ハイヒールの踵を削ることであえてバランスを崩すことで生まれる儚げな動きが庇護欲を、そして揺れる腰が劣情を掻き立てるという』
『するとあの女は、人類史上屈指のセックスシンボルであるマリリン・モンローに肩を並べようというのか?……恐ろしい。実に恐ろしい』
 そんな俺と紫村のコントに香籐は全く乗ってくる事なく、ミーアが姿を消した出入り口をぼうっと見つめている……重傷だ。

「剣と槍、短刀の他、幾つかをご希望に副う範囲でご用意させて貰いました」
 後ろには3台のワゴンを従えて戻ってきたミーアが告げる……魔法のワゴンか、俺も作れるようになりたいがまずは魔法陣を習得する必要がある。だが魔法陣の理論は俺にとっては意味不明に無駄すぎる部分が多くて習得が難しい。
 無駄な部分部分を削除して自分の理に従い魔法陣を組んでいけば良いと思ったのだが、そうなると現代物理学に通じるような分野の効果を発揮する魔法陣は問題なく作れるのだが、時間や空間の効果を持つものや、生命に関わるような高度な魔法陣は全く扱えない。これは魔法に関しても同様だ。間違いなく俺が意味不明で無駄と断じた部分にこそ大きな役割があるのだろうが、今のところは解析に到っていない。
 辛うじて人の意思に反応を示す魔粒子を特定する事は成功したが、それをどのようにして【伝心】のような役割を果たすような働きをさせるかが分からない。


「僕はこの槍が良いね」
 手にした3mを越す槍をしごきながら構える紫村の姿が妙に様になっているのだが、何故かケツの穴がきゅっと締まる。
「……ああ、じゃあ紫村は槍だな。他にも短刀を見繕っておけよ」
 普通なら、短刀とは言わずに小剣も持っておけと言うところだろうが、むしろ武器はカモフラージュの意味が大きいので細かい事を言うつもりはない。
 はっきり言ってしまえば、武器を持った紫村より素手の紫村の方が強いという悲しい事実。今の俺達なら貫手で龍の鱗を楽勝で貫くだろう。
 龍の身体で素手では破壊出来ないのは角くらいじゃないだろうか? 最も角自体は道具を使っても破壊出来ない。角を切り取るためには頭蓋骨の方を壊すくらいで、加工には魔法の道具と魔法的手法を必要とする。
 素手の状態から装備すると、相手に突き刺さった状態で武器が出現する戦い方をしない限りは武器を使う必要性は低い。
 だが素手で戦うのを他の人達に見られたら……さぞショッキングな出来事になるだろうな~
「じゃあ、ナイフも貰っておくよ」

 早々に得物を決めた紫村に対して香籐は並べられた武器を前に、何を選べばいいか決められずにいた。
「一応、授業で剣道の経験もあるのだから俺と一緒で剣あたりがいいんじゃないか? それでなければ紫村みたいに槍はどうだ? 初心者にはとっつき易い武器だというぞ」
 とっつき易くても極める困難さは一緒だろうけどな。
「分かりました。僕は剣にしておきます」
 そして香籐は剣の中から柄頭から剣先までが130cmはある1番長い剣を手にした。
「どうだ?」
「……良いですね」
 鞘から抜いて目の前に刀身をかざすと笑顔でじっと見つめながら答える。ちょっと間違えると何とかに刃物だが目が子供のように輝いているのでセーフだ。
「剣が好きなのか?」
「特に刀剣の類に思い入れは無いつもりだったのですが、こうして実際に手にしてみると何かこみ上げてくるものがあります」
 俺自身、最初に剣を持った時、そして銃を撃った時に心の奥底から沸き立つ感情を覚えなかったわけでもない。
「そんなものだろ。武器ってのは強さの象徴だ。強さへの憧れを持たないなら空手なんてやってないんだからな」

「僕は細剣か小剣での二刀流なんて良いかなと思うんだけど、これなんてどう?」
 幾ら魔法で強度を上げたとしても、魔物と戦うには余りにも頼りなさ気な細剣を構えて意見を求めてきたのではっきりと言ってやる。
「お前は武器は自分で倒した龍を売って手に入れろ」
 あれから1週間以上も経っているのに未だに1人で龍を狩りを成功せずに、自分の武器を俺に買わせようなどと許されるはずも無い。
「贔屓だ! 僕だけ扱いが酷すぎる」
「贔屓じゃなく区別だ」
「く、区別?」
「そうだ。2人は俺の身内だ。同門として同じ修行をしてきた苦楽を共にしてきた仲間だ。立ち位置が全く違う。違えば扱いも変わる区別以外の何ものでもない」
「でも僕は弟子では無いのか?」
「……別に苦楽を共にしてないし」
「違うよ! 僕が苦楽の苦を担当して、君はそれ見て楽しむ役だよね。ある意味、苦楽を共にしているじゃないか」
「だったら、お前に楽をさせるような真似するはず無いだろうが!」
「うわぁ……僕はここまで酷い正論を聞いた事は無いよ……うわぁ~……ひでぇ~」
 ばっさりと切り捨てられて、店の隅で膝を抱える2号。
「落ち込むのは良いけど、ちゃんとその剣は返しておけよ」
 2号に示す慈悲など欠片も無かった。

 紫村の槍は流石に持ち歩くには不便なために普段は収納しておく事になったため、武器を持たずに歩くのも抑止力が無く面倒を引き寄せかねないので、大振りで刀身の分厚い短刀を2本腰の左右に吊るす事にして、香籐は長めの剣を腰に佩き、後は普通サイズのナイフを1本購入した。
 防具は身体に合わせて採寸して作るために今日のところは間に合わず1週間ほど掛かるそうだ。素材は2日前に納品した風龍の皮を使って作ることになったが、一見して龍革と気付かれないように表面加工を施すという事なので任せた。
 掛かった費用は中程度の龍1体角ごと売却した値段の1/3程度だったので即金で払う。もう金銭感覚はかなりおかしくなっているが気にしない。気にしたら負けだ。

「お買い上げ頂きありがとうご……どうかなさいましたか?」
「外に店を見張る連中がいるが、心当たりはあるか?」
 精算をしながら、ふと確認した周辺マップに表示されていた怪しい奴らについて尋ねてみる。
「このところ、立て続けに龍を市場に流しましたから……」
「なるほど、それでは俺達のお客さんという事か、ところで、何処のどいつなのか当たりは付くか?」
「……他の店舗周辺にも監視がいるようですから、ただのやくざ者には無理……大店の商人か貴族……そして王宮……でも王宮が動くにしては早すぎる……」
「つまり、大商人か貴族の可能性が高いのか?」
「はい、そのどちらかで、商人なら王都への街道の流通を握る大商人の中の……多分2人。貴族ならばこのスロア領の領主が可能性が高いかと」
 大商人に貴族。厄介な相手だが、更に問題なのは時間が経てば王宮。つまり国家が動き始めるという事だ。


 ミーアの店を出て街の外へと出るために大通りへと向かう。
「ちょっと待って貰おうか?」
 狭い路地の行く手を細身の片手剣を手にした3人の男が塞ぐ。武器の選択から、こいつらが鎧などの防具を身に付けない戦場以外での対人戦を得意とすることが伺われる。
 更に同時に後方も別の3人が塞ぐ。さらには周囲にこいつらの仲間らしき連中が4人いる……先ほど周辺マップで確認したら連中だ。

「待ってくださいお願いしますだろ。礼儀知らずが」
 こういう絡まれ方には慣れている。伊達に大島の下で空手部をやってはいない。俺達は偏差値の低い暴力好きの連中に愛されているからな~、普段は高嶺の花過ぎて遠くから羨望の眼差しで見つめてくるだけだが、時折直接的な行動に出てくる堪え性の無い早漏野郎が出てくるのだが、どいつもこいつも独創性に欠けるので、話しかけてくるパターンは片手の指で足りるので、今回のもテンプレ回答例の一つだ。
「そいつは失礼。それではご希望に答えよう。プリーズ糞餓鬼、俺が聞いた事にただひたすらに正直に答えろ。プリーズ」
 胸の内に怒気を押さえ込みながら用件を切り出してくる。上手く切り返したつもりなのだろうが、俺にはこの先100手先まで煽り倒すテンプレがある。
「良いぞ犬っころ。用件の頭と最後にきちんとプリーズと言えた事は評価してやろう。お前の親はさぞ躾に力を入れたようだが、結果がこれでは無駄もいいところだな」
「貴様っ!」
 気色ばむ男を無視して更に煽り続ける。
「だが願えば叶うなんて夢見る少女のような甘い事を考えているとしたら、スカートをはいて出直してくるんだな」
『相変わらず君は、呼吸するように相手を煽るね』
『よりにもよって、どうして相手を選んで絡まないのかと言ってやりたくなります』
『お前ら煩いよ! それより分かってるんだろうな。後ろの連中は香籐が、更に周囲の見張りは紫村が片付けろ。やり方は優しく丁寧に手足の2・3本はへし折ってから収納だ』

「本気で痛い目に遭いたいようだな」
 まだまだ手順を踏んで徹底的に煽り倒してやりたかったのだが、もう辛抱堪らなくなったのか……だから早漏野郎は駄目なんだ。
「こんな屑にを育ててしまったお前の両親の残念さを思うと十分心が痛いな」
 そもそも、俺たちに突っかかる役目のこいつらの他に見張りがいるという事は、こいつらは餌に過ぎない。俺達の実力なり情報を引き出して、それを見張り役が黒幕に伝えるという編成と考えて間違いないだろう。
 つまり、襲撃役の6人と見張り役の4人合わせてもこちらには勝てないと踏んだ上での事ということだ……随分とこちらの実力を買ってくれているようだな。
 そしてミーアの店を出て間もなく、しかも準備万端の布陣で仕掛けてきたという事は、狙いは直接俺達に絞られているのではなくミーアの店の客と考えるべきだろう。最初から俺達に狙いをつけているなら宿で寝ている所を襲えば良いのだから。
 これだけ状況が揃えば、かなり確度の高い可能性が思いつく。
 ミーアの店に龍を卸している人間を探っているという事だ。
 ミーアの店から出たところを襲うのも、こちらの戦力を高く見積もるのも全て説明が付く、32%の確率で正解だと断言しよう……そりゃまあ、神様じゃないんだから。

 襲い掛かってきた小者達へ、逆に襲い掛かり何もさせずに叩きのめして収納までの間に9秒。殺さないように手加減するなら1人3秒は……嘘で~す。単に無力化するだけなら一撃で眠らせる方法はあるが、そんな気持ち良く眠らせてやる気にはなれなかったので、それぞれ利き腕と膝を蹴り砕いて失神させてから収納したので時間が掛かっただけだ。
 この手の暴力稼業に従事する人間には「やっぱり暴力って良くないよね」と身体に教えてあげる主義だ。
 彼らに更正の機会を与えてあげるのが人の道だと思う。これが大島なら『更生』の2文字が比喩的表現ではなく文字通りの『生まれ変わる』になるので、俺などはむしろ感謝されてもおかしくは無いはず。
 2号が「あれ? 僕は、僕の出番は?」と言っているが無視だ。レベル60に達せず【伝心】を使えない2号が悪い……というかただレベルアップだけして強くなりましたという状況を良しとしなかった俺が、この1週間2号をパーティーから外しているせいなんだけどな。


 木々に閉ざされた深き森、ここでは、幾ら助けを求めても救いの手を差し伸べられる事は無い。
「楽しい尋問という名の拷問の時間がやってまいりました」
 捕縛され地面に転がる10名を前に、今後の方針を分かりやすく告げた。
「拷問とか穏やかじゃないけど、拷問と尋問の割合はどうなるかな?」
「拷問が9で尋問が1となります」
「それはほとんど拷問だね」
「はい。その通りです。拷問して拷問して。『もう止めてくれ。何でも話すから』と言い出しても無視して拷問して。『お願いです。話だけでも聞いてください』と懇願するまで拷問します」
「それは酷いね」
「いや~何度も同じ事を尋ねるのは面倒じゃないですか、ならば本当の事を話して楽になりたいと思うようにしてから尋ねれば一度で済むでしょう」
「なるほど。それはとても合理的だね」
 全く感情を込めずに淡々と進行する俺と紫村のコントに11人の顔が青ざめていく……2号。そこは他人事と流しておけよ。

「それで最初はどうするのかな?」
「まず、10人の利き手の小指二度と使えないように叩き潰していく」
「順番はどうするのかな?」
「順番なんてどうでもいいよ。手当たり次第に全員の小指を叩き潰すのは決まってるんだから」
「待ってくれ! 俺は話す。話すから、話すから勘弁して──」
 副う懇願する男の口に蹴りを叩き込んで、前歯を全て吹っ飛ばした。
「話を聞くのは後だと言ってるだろう! 他人の話はちゃんと聞け!」
 ちょっと過剰に切れて見せると、気絶してしまった男以外の残りの9人が息は飲む。俺が本気であると悟ったようだ。

「よしじゃあ、お前からだ」
 適当に1人を選んで、後ろ手に縛られた両の手首の部分を掴んで「どちらが利き腕だ?」と尋ねた。
「ひ、左だ」
「嘘だな」
 明らかに剣を振って出来た剣たこが右手にあったが、逆に左手には無い。日本刀のように両手で使う武器を持つならともかく片手剣を使う奴の利き手に剣たこが無い理由は存在しない。
 そのまま両手首をまとめて捻って折ると、暴れる男を押さえつけて右手の小指を鉄アレイ(買い直した)で叩き潰した。
 小指の第一関節と台に間接の間が潰されて紙のように薄くなったのを確認する事も無く男は夢の世界へと旅立った。
 だが不幸なのはまだ夢の世界へと旅立てない連中だ。
「次は──」
「頼む。話すから。お願いだから話を聞いてくれ。嘘は言わない絶対に言わない。聞かれた事は全て正直に話す。だからお願いしますお願いしますお願いします」
 1人が必死の形相で懇願を始めると、他の連中も我先にと泣きながら懇願を始める。

「それじゃあ1人ずつ話を聞いていく。もしも他と違う事を言った奴や、質問に答えられないだの分からないだのを繰り返した奴は死んでもらう。決して楽には死なせないから覚悟しておけ」

 それから1人ずつ、足を掴んで引きずりながら森の奥へと連れて行くと、何時から、何の目的で、誰から命令されたか。更に紫村が捕らえた見張り役の4人には誰に報告するのかも付け加えて尋問を繰り返した。
 見張り役以外の4人は大人しく全てを白状したが、その内容とは、昨日からグラストの店を見張り、客から何の目的で店に行ったのかを聞き出し、怪しければ捕縛するようにと、見張り役の中の1人から仕事を依頼されたとのことだった。
 次いで襲撃役へ仕事を依頼したという1人を後回しにして、他の見張り役の3人を先に尋問した。
 結果は、昨日からグラストの店を見張り、襲撃役が得た情報を何処の誰に伝えるのか知っている人物は誰か一致したので、こいつらも収納。
 そして唯一残った男への尋問……というか拷問を開始する。
「やあ、やっと真打登場だね」
 この際『真打』がどんな言葉に翻訳されているのか凄い興味があるが、それはさておきこれからが本番だ。
「…………」
 笑顔の俺に無表情で無言を貫く。
「OK、OK。無駄なおしゃべりはしないって事だな。嫌いじゃないぞ。だから俺もこれからは無口になる」
 顎をしゃくって指示を出すと紫村は、寸毫の解釈の違いも無く俺が望む通りに後ろ手に縛りあげた縄を解き、左手首の間接を極めて押さえ込む。
 一方俺は右手首を掴むと地面に押し付けて、鉄アレイを叩きつけて5本全ての指を叩き潰した。
「グゥゥゥ……」
 男は悲鳴を堪え唸り声を上げながら俺を睨む。だが次の瞬間に俺は男の手の甲に立て続けに3度鉄アレイを叩きつける……裏稼業の男の矜持などに俺は全く感銘を受けない性質だった。
 無言で紫村が男の左手を放して、すかさず俺が左手首を掴むと男の目に動揺の色が浮かんだ。ここで俺が質問をしてインターバルがあるとでも思ったのだろうが、俺はこの男が自分から話を聞いてくださいと懇願するまで手を休めるつもりなど無かった。

「ゥゥゥゥオゥゥゥ…………」
 男の低い唸りが響くが無視して、俺は【大解毒】を使う。体内の毒物などの異物を瞬時に排除する魔術だが、今この状況でかけると面白い現象が起こる。
「ウァァァァァッァァァァァァッ!」
 激しく悲鳴を上げて苦しみだす男。【大解毒】が痛みを中和するために男の脳内に分泌された快楽物質などを根こそぎ取り除いてしまったため、潰された両手からの激痛が新鮮さを取り戻して男を苛む。
「次だ」
 態と声に出した指示に紫村が反応して男の靴を脱がせ始める。
「やめてくれぇぇぇっ! もう止めてくれ。話すから! 全て話すからぁぁっ!」
 靴を脱がせる意図を察して男が屈服した。もう少し掛かると重っていたが意外に心が折れるのが早かったな。
「じゃあ、俺が聞いて喜ぶと思う事を話せ……必死になって考えろよ」
 俺の言葉に、すっかり心が折れた男は小さく頷きながら「はい」と答えた。

 男が口にした黒幕の名はオーディブ・スロア・シロポラギル。正直、そう言われても「ハァ?」としか思えないのだが、2号いわく昨晩泊まった宿のあるエマグラニフの街を含むスロア領の領主だそうだ。
 そして目的は想像の通りにミーアが立て続けに市場に流した龍を狩った人間を探すためだそうだ。
 それにしても、わざわざ領内の『道具屋 グラストの店』全てに見張りをつけるとはなんともご苦労な事だ。それほどまでに龍という獲物は貴重であり、そしてそれ以上に龍を狩れる者は希少である訳だ……随分と自分の立ち位置が面倒な事になってきているようだ。
 思えば俺にとって、この世界での生きる目標は異世界を見て回って楽しむ事だったような……気がしないでもない。多分……きっと。
 何で最初に水龍なんて狩ってしまったんだろう? 状況に流されすぎだ……だが水龍を始めとして、オーガだのトロール。それからワイバーン、グリフォンときて火龍を狩ったからこそ、平行世界で生き延びられるだけのレベルに達する事が出来たのだが、やっぱり最初考えていたのと違う。
 だが違うけど龍を狩り続けなければならない。正直色々と思うところはあるが大島を蘇生してやらなければ駄目。仮にも教え子である部員達を守って死んだのだから……そんな格好良い死に方は奴には許されない! 許してたまるか!! お父さんは絶対に許しませんよ!!!
 奴には相応しい惨めな死があるべきだ。そんな死を迎えさせてやるために生き返らせなければ駄目なのだ。

「それで、どうするつもりだい?」
「いっそ黒幕を含めて関わった人間を皆処分するという選択もあるだろうけど、どのみち俺が……俺達が龍を狩ってミーアを通して市場に流す限りは、別の奴が同じ事を考えるだろうしな」
 そんな、終わりの見えないイタチごっこは御免だ。
「でも絡んでくる連中を、その都度排除するというやり方も余りお勧めできないよ。自分の狗が消えた街に必ず現れる流れ者という条件で絞り込まれて目を付けられるからね」
「それは困るな。今後はミーアの店に行くのは出来るだけ時間を空けた方が良いかもしれないな」
「そして君が店を訪れた翌日には必ず龍が市場に流れると?」
「……そいつは拙いよなぁ~」
 いざとなったら、この国から逃げてしまえば問題は無いが、その為には2号をさっさと卒業させてやらなければならない。
「あと、捕まえた連中をどうするかも問題だよね」
「そうだな。別に殺す価値も無いから、俺がこの国を出る時に両手両脚を砕いてから捨てていけば良いだろう」
 まさに容赦無し! 法治国家の日本のように、きちんと法で裁かれる社会ならともかく、所詮はファンタジー世界、法よりも権力者の力が上にある社会。そして権力者の走狗として暴力を振るう奴らを解き放てば、また同じような事を繰り返すだけだろう。
 だから、開放の前に二度と暴力で飯は食えないように壊しておく必要がある。皆の幸せのために……我ながら笑える……こいつらが幸せが制限されるのは仕方が無いというか当然だと俺は考える。

「でも、そこまでするほどの事を彼らがしたとは思えないんだけど」
 2号が俺に意見する。むしろ俺よりも将来領主となろうと思ってる2号の方が、この手のやくざ者へは厳罰を処する覚悟を持ってなければならないと思うんだけどな。
「彼らは、僕達を呼び止めて情報を聞き出そうとしただけだよ」
 こいつはやっぱり頭がお花畑だ。
「あのな──」
「黙りなさい。何が呼び止めて情報を聞き出そうとしただけすか、この者達が呼び止めて断れてどんな手段をとるかの想像も出来ないボンクラですか?」
 ああ、香籐君が切れちゃったよ。俺は2号に容赦ないが、香籐は2号には敵愾心を抱いている。ここは先輩として注意しておかなければならない。
「ガトー。言いすぎだ。ボンクラにボンクラなんて、そんなにはっきりと言ったら駄目だろう」
「君は僕が嫌いだろう?」
「お前のその根拠の無い性善説的立場に立った物言いは不愉快だ。俺は人が生まれながらに善であると盲目的に信じるという考え方には、他者への愛を感じられない。相手に真摯に向かい合う事も無く、ただ人間はそういうものだと勝手に決め付けているだけに過ぎない」
 本来、性善説も性悪説も目指す方向は同じであり、孟子ですら人間という存在が生まれながらにして善であるなどとは本気で考えてはいない。
 生まれたばかりの貴方は汚れの無い無垢で善なる存在だった。だから貴方は今からでも善なる自分へ回帰する事が出来るんですよ、という人を善き方向に導くための方便であったはずだ。
 性善説、性悪説は共にどんな人間も善き存在へと変わることの出来るという考えであり、人間という存在を深く理解した上での愛だ……と例の本屋で立ち読みで必死に知識を頭に詰め込む作業中に、気分を変えるためにチョロっと立ち読みした本に書いてあった。
 哲学に感化されて青臭く恥ずかしい事を口走るのは、人生経験が乏しい中学生の特権だよ。まだまだどんどん口走っていくぞ!

「信用とは人を疑い、その醜きを理解し、その上で相手の手を取る崇高なる行い。相手への理解も愛も無くただ信じようとするのは、己と己に関わる人間に対する愛も無いという証だ」
 つまり信用とは自己責任。たやすく判子を突くと自分や自分の家族、友人知人にまで迷惑をかけるから覚悟しておけという身も蓋も無い話だ。
「お前が将来、領主となることを望んでいるなら、お前の肩には多くの領民の命と財産、幸福と未来が掛かっている。根拠も無く他人を信じようとするお前に、それを背負う資格があるのか?」
「そ、それ──」
「あるはずが無い!」
 言い訳も許さず断言する。2号は「えぇぇぇっ!」と叫んでいるが無視だ。
「五体満足で放逐された悪党が、将来お前の領民を害した時に、必ず俺は現れてお前の良心に問いかけてやろう『全ては、お前の甘い夢想がもたらした結果だ。どう責任を取るのか?』とな。当然、その問いに対する答えを持っているのだろうな?」
 将来の俺は、それほど暇じゃないと思うけどな。
「そ、それ──」
「無い事くらい知ってるわ! じゃあ何で庇おうと思ったんだ? 実はそれも知ってる。ただ何となくだろ。それが駄目なんだ。この場合ただ何となくが駄目なんじゃなく、ただ何となくを、ただ何となくやってる事が駄目なんだ。実際俺もただ何となくってのは好きだ。ただ何となくやってると心が安らぐね。だがただ何となくを状況も弁えずにやるのが駄目だ」
 一気に追い込みをかけつつ、ただ何となく「ただ何となく」を言いたかった欲求を満たす。

「誰かの言動は全てその人なりの考えによって行われる。お前は何故俺が奴らに対して僅かな慈悲を与えないのか考えるべきだった」
「じゃ、じゃ、じゃあ君は、どういう意図で彼らを──」
「こいつら嫌い。以上!」
「えぇぇぇぇぇええぇっぇえぇぇぇ!?」
 2号は抑揚の効いた愉快な叫び声を上げた。
「そ、それじゃあ……えっ? 何なの理解だの愛だのは?」
「立ち位置の違いだ。俺は俺自身と俺にとって大事な人間さえ守れれば良いという人間だ。そのためなら世界を敵に回しても良いと思うが、それは大変かつ面倒なので出来るだけ穏便にやって行きたいと切に願う小市民だ」
 ぶっちゃけてやったよ。俺に真面目に話をさせるなんて事が出来たら大したものだよ。

「大体な、奴らを解き放ってどうなるか少し想像してみてくれよ。はい、まず街まで戻って解き放ちました。彼らは真っ先に何をしますか?」」
「……助けを呼んで……雇い主に報告」
「そうだね。彼らは俺達のことを雇い主に報告して見事に任務を達成。やったね! ……何がやったねだ馬鹿野郎!!」
「そんな事いわれても、僕がやったねと言った訳じゃ……」
「お前が望む通りにやったらそうなるんだろう。つまり全部お前の責任じゃないか、それともそうならないための代案があるのか?」
 代案無き否定は無責任の罪で死刑にしても良いという法律が出来れば良いのに……
「話し合って説得すれば」
「じゃあ、開放する前にしっかり話し合って、もう二度と悪い事はしないと奴らが誓ってから開放しました。その後すぐに雇い主に報告して任務達成。やったね! ……だからやったねじゃないと言ってるんだろう!!」
「だ、だからそうならないようにしっかりと話し合えば」
「親兄弟すら説得出来ずに実力行使による乗っ取りを企んだ挙句にバレて勘当され追放された馬鹿が、俺に責任を取れと絡んできたのは、今となっては良い思い出か?」
 これは質問するまでも無く思い出の1ページだね。何せこれと同じようなやり取りは前にもやっているのだから。
「人に人を裁く資格がないのなら人には人を許す資格もない。だから裁く、仕方なく裁く、嫌々ながら裁く。それとも何か、俺が力にモノを言わせて悪人をボコボコニして楽しむような男に見えるのか?」
 ……見える見えないは別にして実は嫌いじゃない。闇に隠れて人知れず悪を裁く……言葉にするだけで厨二心をそそってくれますよ。
「見えるよ」
「見えます」
「そうとしか思えない」
 ここで意見を揃えてくるとは、いや俺も同意見だけどな。

「まあ良い。それでもお前が奴らを助けたいというなら好きにしろ」
 ここまで引っ張っておきながら引き下がる事にした。
「良いのか?」
「だが結果起こる全てが自分の責任だから覚悟しておけよ」
 俺はちゃんと警告はしておいたから、その先は責任は取れないし取る気は無い。



[39807] 第86話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c666e2a0
Date: 2015/04/27 12:47
 襲撃者達を収納し、龍の生息地目指して更なる森の奥へと踏み入った俺達はオーガーの群れと遭遇した。
「龍との前に一度、こいつらと戦っておくのはどうだ?」
「これは……想像以上に大きいね」
 何せ全長4mほどの巨体だ。より巨大な生き物を見慣れていなければ、4mという数字よりも遥かに大きく見える。
 人間は2mと少しくらいまでなら人型の存在の大きさをある程度正確に把握する事が出来る。だが慣れと常識の枠を飛び越えてしまった大きさに関しては直感的に把握するのは難しい。
「大きいだけじゃない。想像より早く動けるし、力も人間を単純にスケールアップさせた上でx2~3とか考えているより強い。だが今のお前達ならオーガの数倍の速さで動けるし、もし腕相撲が出来たとするなら人差し指と中指だけで勝てる」
 おかしいな1月ほど前に、初遭遇した時は恐ろしいほどの強敵だったのに……紫村と香籐の手によって7体いたオーガは1分足らずで全滅した。

「どうだ? 魔物とはいえ、人に近い生き物の命を奪うと中々来るものがあるだろう?」
 オーガの首を刎ねて倒すも、その人に似た姿の生き物を殺した感覚に香籐は耐えるように顔を歪ませている。
 一方、紫村は本当に飄々としたもので『高城君の言う通り、大体お化け水晶球1個分の経験値だね』と【伝心】で話しかけてくる……今まで2・3人殺した経験があっても不思議じゃない冷静さだ。
「安心しろ。奴は最初はゴブリン相手にビビッて殺されてたからな」
 2号を引き合いに出して香籐を慰める。
「それは言わないでくれ。何なら土下座して謝るよ」
「……まあ良いか」
 目つきが余りにも必死だったので、それ以上からかうのは止めた。

「それじゃあ今度は龍を狩りに行く。相手は火属性を持つ火龍。飛行能力を持ち、硬い鱗に守られた強靭な身体を持ち、巻き込まれたら確実に助からない炎のブレス攻撃と角からは更に厄介な謎の熱線を放つという化け物だ。戦う前にセーブを実行しておくから心置きなく死んでくれ」
「死ぬほどの目に遭うという言葉があるが、実際に死の経験する事が出来るというのは凄いね」
「恐ろしいけれど、生き返られるなら試してみたいです」
 2人の前向きな発言に、2号と俺はちょっと退いた。確かに死ぬ経験というは戦う者にとっては得がたい経験であり、それが自分を成長させるだろう事は分かる。実際、2号がその経験を得て成長しているからこそ、羨ましく思うことが出来るが、最初から「死んでみたい」とまでは思わない。
「何でこの2人はそんなに前向きなの?」
「根っからの戦闘民族だからだろう……多分」


 地図に示された火龍の狩場へと移動すると、一度上空から周囲を見渡して地形などの情報をマップに落とし込む。これで半径9kmの紫村達の広域マップも範囲一杯に網羅出来たはずだ。
「ここから先はお前達に任せる。順番に1人ずつでもいいし2人掛りでも自由にしてくれ」
 【結界】を張り、セーブ処理を実行した後でそう告げる。
「主将。飛び道具を貸して貰えませんか?」
「そう言うと思って用意してある」
 2丁──2張りかもしれないが、形状が銃に似ているのでそう呼ぶ──の弩(おおゆみ)を取り出す。
 現実世界でネットで落としたクロスボウの図面を、こちらの世界の職人に渡して作り上げても貰った物で、ちゃんとライフルのように銃尻を肩につけて構えられるように銃床が付いた改良タイプだ……自分で改造する? 一体何の話だ。素人には無理に決まってるだろう。
 更に今は取り付けていないがスコープ用のマウントベースも既に取り付けてある。
 また特注なので最初から、弓部分の以前の弩より丈夫で大型のものになっており、弦はアラクネーの糸という魔力を帯びた素材を縒って作ったものらしく滅茶苦茶高かったが、その分威力も大きくシステムメニューの【所持アイテム】の物品リストの説明では張力は600ポンド以上で約300kgにも達していた……そしてそれを腕の力だけで軽々と引ける自分が怖い。
 このクラスなるとボルトには鉄以外の選択肢が無い。幾ら張力を高めても空気抵抗は速度の2乗に比例するためボルトの速度には限界があるので、威力を上げるためには速度よりもボルトを重たくする事が重要になってくる。重さと丈夫さを考えると常識の範囲内で選択されるのは鉄しかない。
 理想を言うならタングステンのような高比重で硬い金属製のボルトだがこの世界では無理なのは言うまでも無い……現実世界でも用意してくれと頼んで出てくるものでもない。
 そしてここがファンタジー世界とはいえファンタジー金属製のボルトはおいそれと用意出来るものではない。比較的安価で手に入りやすいミスリルは軽くて用途に向かないし、アダマンタイとはミスリルの数倍の価格で、確かに高いが加工が難しい上に比重は鉄よりも若干軽いほどだ。オリハルコンは……ボルト1本作るのに控えめに見積もっても角付きで龍4体分は掛かるそうだ。

 待つ事30分ほどでマップ上に火龍のシンボルが出現したために【結界】を出る。
「火龍の飛行速度はどのくらいかな?」
「速さだけなら200km/h以上は出るみたいだが、それほど小回りは利かないし器用には飛べない。大型の猛禽類をイメージしてくれればいいだろう」
「それじゃあ回避される可能性は低いですね」
「かもしれないが、死にたくないなのなら火龍を本気にさせるなよ。火龍を倒すには奴が角を使い始める前に倒す必要がある」
 特に遠距離から角の能力を使わせたら勝ち目は無い。ほとんど無敵といっても過言じゃないだろう。
 そんな厄介な角は、龍にとって命とも言う存在だが、角にとっては龍本体よりも角が優先されるようだ。
 何を言っているのか自分でも困るが、龍は自らの命の危機に際して角の力を開放して危機を退ける。そして力を使った事で失われた魔力が完全に満たされるまで、龍から吸い上げるのは止めない。
 使われた力が大きければ、限界を越えて角に魔力を吸い上げられ龍は死ぬ。そして角だけを残して龍の身体は崩壊し砂埃となって風に舞い散るのみ。
 だがそうなると角には魔力が満たされていない状態になるので価値としては二級品、三級品扱いとなり売り物としては旨みがなくなるので、角の力をあまり使わないようにというのがミーアの言葉だ。
 今の俺達にとって必要なのは金よりも経験値なので余り関係ないが、それでも出来るだけ楽に倒すという意味では角の力を使わせるべきではない。調子こいて遠距離から弩による攻撃を続けて火龍を本気にさせたら地獄を見る事になる。
「でも一度は龍の本気というのを見ておきたいよ」
「そうですね。死んでも問題ないなら経験しておきたいです」
 前向きすぎるだろこいつらは……分かったような気がする。要は人生もリセットボタンがあるゲーム感覚で、これが今時の子供って呆れられる奴だな。うん、色んな意味でブーメランのように自分に戻ってくる言葉だな。


「撃て!」
 紫村の指示と同時に2本のボルトが唸りを上げて飛んでいく。僅か100m足らずの距離から放たれた音速の半分を越える物体を迎撃するには、ファンタジー生物の頂に位置する龍にすら角の力を使う以外に方法はないが、最初から奥の手を出す事が出来なかったために、ボルトは何ものにも遮られる事無く火龍の左右の翼の飛膜を貫くとそのまま背後、遠くへと飛び去った。

 一の矢を放った後に、銃尻を右肩につけたまま素早く弦を引き、クイーバーからボルトを抜き取り弩にセットするまでに掛かった時間は僅かに10秒ほど……こいつらもう少し練習したら1分間に6射以上する様になるな。
「撃て!」
 すかさず二の矢を放つと、再びボルトは火龍の飛膜に穴を穿ち、目に見えて火龍の空中での姿勢が崩れる。

「弩収納。突撃!」
 その掛け声と共に2人は地面を這うような低い位置を木々の間を縫うように火龍に向かって駆けて行く。
 速い! 速度は僅か3歩で60km/hを優に越えているだろう。地面すれすれにまで身体を前傾しながらも足は地面を蹴っておらず、足場用の岩を出現させては蹴り前へと進む。
 更にバージョンアップした浮遊/飛行魔法(改三型)──もう、浮遊/飛行魔法でいいや──と新しく作った風防魔法を組み合わせて、高速化と高起動を両立させている。

 4種の龍の中で飛行能力を持つのは風龍と火龍の2種のみ。しかし最初から空を飛ぶ事を宿命付けられている風龍に比べると火龍の飛行能力は遥かに劣る。
 風龍は翼が無くても、それどころか魔力が無くても空を飛ぶだろう。空を飛ぶからこそ風龍のなのであり、翼や魔力を失った程度で飛ぶ力を無くす事は無い。空を飛ぶのは風龍の種族特性であり、水龍は水を従え、土龍は土を従える。そして火龍は太陽の中でも生き続ける。
 繊細な飛膜を傷つけられた事で飛行能力に障害が現れたのだろう火龍は墜落を免れるために、必死に姿勢を制御しながら高度を下げていく。その結果2人の接近を許す隙を与える事になった。

「はっ!」
 火龍の落下地点に先に回りこんだ紫村が上空の火龍へと目掛けて跳び上がりすれ違いざまに槍の穂先で火龍の左の翼の飛膜を切り裂く。
 紫村は直後に跳ね上がった尾の鋭い一振りによって弾き飛ばされるが、火龍は左の翼の機能を失い更に無理な体勢からの尾の一撃を放った事で完全にバランスを失う。
「貰った!」
 そこへ香籐が身体の巨大さに比べるとたおやかとすら呼びたくなるような、その首筋へと鋭く剣の一撃を送り込んだ。

「その『貰った!』はフラグだろ」
 香籐は一撃は火龍の鱗を切り裂くことは出来なかった……丈夫さに拘った香籐の剣は切れ味はさほどではなく、一点に力を集中出来る突きならまだしも斬撃では火龍の丈夫過ぎる鱗には歯が立たなかった。
 全くダメージが無かった訳ではない。香籐の全力の一撃に火龍の首はくの字に曲がって弾き飛ばされる。

 だがそれが悪かったのだ。
 火龍は紫村と香籐の攻撃に自らの命の危険を覚えたのだ。
 弾き飛ばされて明後日の方向を向いている頭の上の角が光を放つと同時に香籐の身体は空中で爆発的な勢いで燃え上がり、一瞬で消し炭どころか灰となり熱風によって上空へと吹き散らかされた。
 紫村も危険を覚えて、鋭く軌道を変えて回避行動をとるが、再び火龍の角が光を放つと燃え上がった。

『ロード処理が終了しました』

「一瞬過ぎて、何の事かさっぱり分かりません」
「そうだね痛みすら感じなかったよ」
 おかしい。こいつらの反応は何かが違う。
「死に方に不満を漏らす前に、死んだ事への恐怖とか無いのか?」
「……特に無いね。死んだと言われて、死んだのかな? と思うくらいだよ」
「何の経験にもならない死に方でした」
「いや十分凄い経験だから。普通は人生に1度しかし経験出来ない事だからな!」
「高城君、希少と貴重はたったの一音違うだけだけど意味は全く違うよ。希少だから貴重だとは限らないからね」
 噛んで含めるように優しく諭された? 間違った事を言ってるのはむしろ紫村達なのに、正論を述べているはずの俺が何故か諭されるという理不尽な出来事に言葉を失う。

「もしも火龍が本気になったら、角から奴自身の身体を盾にするように動けば、例の攻撃は出来ないはずだ」
 何も分からない内に一瞬で焼き殺される事に意味を見出せない2人に、一応対処法を示しておく。
「なるほど、やってみる価値はありますね」
「……いや、本気出させないで一気に倒してしまえよ」
「それなら死角を増やすためには火龍を落としては駄目だね。僕が翼を斬ったのは失敗だった訳か……」
「俺の話し聞いてる?」
「さすがリューの兄弟弟子だけあって他人の話を全く聞かないね」
 人差し指と中指を揃えて作った指剣を2号の鳩尾に突き刺す……どうせ、すぐにロードし直すので2号のことは全く気にならなかった。

『ロード処理が終了しました』

 紫村と香籐は1度目と同じように弩で火龍の翼にダメージを与えた後、同様に接近した。
 その後は、火龍の落下予定地点から跳躍した紫村が下腹部から心臓を狙うように槍を深々と突き刺して動きを止めたところを、香籐が首と顎の付け根の辺りを剣で突き刺す事に成功したが、痛みに暴れた火龍に振り払われて飛ばされた後に角の攻撃を貰って燃えた。

「ヒグマでさえライフルで心臓を撃ち抜かれても、数十m離れたハンターまで駆け寄って反撃するのに、火龍がヒグマ以下のはずがないだろ」
「僕は首の頚椎をねらったんですが……」
「骨に弾かれたんだろ」
「……はい」
 想像はつく。頚椎を断ち切られてなお、狙いをつけて攻撃出来るような生物は存在しない。ファンタジー世界でも常識はたまには仕事をするんだ。

『ロード処理が終了しました』

「そろそろ本気を出して仕留めて見せろよ。今日は火龍だけじゃなくお代わりして、倒せるだけ倒したいんだからな」
 3度目のロード実行後にそう切り出した。別に何度ロードしても実際の時間は経過しないので問題はないのだが、何度も死ぬとその後がダレる。精神的疲労がたまってしまうのだ。
 これは2号の観察結果なので2人にも通用する理屈かは分からないが、正直見ている俺の方もダレてくるので、そろそろバシッと決めてもらいたい。

「分かったよ。本当ならブレスという奴も受けてみたかったんだけど、それは次の龍に期待するよ」
「僕もそれで構いません。ところで次はどんな龍なんですか?」
 香籐よ。少しはビビれ、そして目を輝かせるな。
「行ってからのお楽しみだ。どちらが狩る?」
「僕もそうだけど、香籐君も本気でやってみたいだろうから、僕が先に倒した後にロードしなおしてから香籐君が倒すって事でどうだい?」
「良いんですか?」
「良いんじゃないか」

 最初の弩での攻撃は香籐と2人で行うが、そこから本気を出した紫村は凄かった。
 先ほどまでの1.5倍以上の速度を出して間合いを詰めると真下から跳躍し、槍を火龍のV字状の下顎の骨の真ん中の隙間から突き刺し、そのまま頭頂部を貫通させる。
 割れた頭蓋骨から角と折れた槍の穂先が吹っ飛んでいく……丈夫さがとりえの槍ですら火龍の頭蓋骨を内側からぶち抜くには強度が不足だったのか、もう少し丈夫な武器が必要だな。
 火龍の返り血を浴びて火達磨になっている紫村を他所に俺は紫村の武器の心配をしていた。

『ロード処理が終了しました』

 速攻で一撃必殺をかました紫村に比べて香籐は慎重に見えた。
 紫村とは違い火龍への接近の速度はむしろ、2人掛りで攻撃をした時よりも若干遅いくらい。その証拠に火龍の位置は随分低くなって……こいつ、高所恐怖症だからわざと遅らせて低い位置に落ちてくるのを待っていたわけだ。かなり克服したとはいえ高所恐怖症だった俺には良く分かる。
 落下予定場所にたどり着くと、火龍の着地と同時に真上に跳躍しながら、右手を真横に伸ばすと足場用の直径1m高さ2mの円柱状の岩を自分の身体の横に積み上げるように【所持アイテム】内から取り出して置いていく。
 そして火龍の頭の横を飛び過ぎる瞬間にを伸ばしていた右手を火龍の上顎、唇というか口の縁に引っ掛けて軌道を変え火龍の頭上に移動すると、背中を曲げて脚を折りたたみ抱え込むような体勢から、背中と足元に同時に足場用の岩を取り出すと──同時に複数取り出せる事を俺は今初めて知った──背中と脚を同時に勢い良く伸ばした。
 背中の岩は上へと押し上げられて、そして足の岩は下へと押し下げられる。押し下げられた岩は火龍の頭に当り、頭ごと押し下げて下に積み上げた岩の柱に激突した。
 ……何と言えば良いのだろう? 一言にまとめるなら嫉妬だな。こんな曲芸じみた真似を練習も無しに一発で決めて見せる香籐に対する嫉妬。凄いだなんて誉めてやらない。悔しいです!


「次は──」
「ロケーションから水龍だと分かるよ」
 そりゃあ移動した先が湖だったら気付くよな。だがそんな風に言われれば、近くに生息域を持つ土龍とでもチェンジしてやりたくなる。しかし大きな問題がある……土龍は倒しづらいのだ。
 土の中を泳ぐように移動するという、龍の中でも一番インチキ臭い存在で、常に地中を移動して時折足元から襲い掛かって来る。
 2号への教育方針から装備すると同時に刺さってる戦法は使えないので、土龍に対する攻撃方法が1つしか思い浮かばなかった。
 どもそれが評判が悪い。確かに簡単に倒せるが、簡単過ぎて紫村達から「こんなのは戦いでもなければ狩りですらない」と文句を言われるのは確実だ。
 俺自身そう思ったし、2号からは「こんな倒し方を僕が出来たとして、それで『龍殺し』を名乗ったら後々拙い事になるよ。絶対に」と言われたくらいだ。

「それで、今回は水龍にとってホームと言うべき湖で戦う事になるので当然圧倒的に不利だ。ちなみに俺が最初に倒した水龍は酒で陸におびき寄せてから倒したが、それでもかなり苦労した。そこで2人には、水龍を陸に上げさせない。そしてシステムメニューの機能に頼らない。この2つの条件の下で戦ってみて貰いたい」
 あっさりとそう告げたが、正直この条件では俺が紫村だったとして勝てる気はしない。だがこの2人ならば今後の戦いの参考になるような面白い戦いを見せてくれるかもしれない……そのくらいの役得はあってもいいと思う。
「水龍の攻撃は水自体を好きな形にして操る事が出来る。色々あるが一番厄介なのは角の力で、ウォーターカッターみたいのを使って最低でも半径10m以内の固体は何でも真っ二つだな。ただし水球などで遮られるとただのジェット水流になるから、水球などを利用して防げ……後は、水に落ちたら助からないと思ってくれ」
「それなら一度は水に落ちて、それからウォーターカッターも食らってみても良いって事だよね?」
「……」
 自分が食らって腕と足が切り飛ばされた事を思い出して嫌な汗がジワリとにじみ出す。
 分かった。今はっきりと分かった。こいつらは本当にリセットボタンのあるゲーム感覚なんだ。だから俺が今感じているようなトラウマを負う事も無い。だから完全に究極の疑似体験として純粋に良い体験だと楽しむ事が出来る。
 それが良い事なのか悪い事なのかが分からない。経験を積むということでは間違いなく良い事なのだろうが、どうしても2人の様子に何かやらかしそうだという不安が付きまとう……フラグじゃないから、多分。

 先ずはオークの死体をまとめて3体ほど湖に投げ入れる。何時狩ったオークかは履歴を確認しないと分からないが最低でも数日は経っているはずにも関わらず、【所持アイテム】内にあったそれらは殺したててそのままで血はまったく固まっておらず、投げ入れた水面には鮮やかな赤が広がっていく。

『セーブ処理が終了しました』

 眼下にオークの死体から流れ出した血の臭いを嗅ぎ付けた水龍が姿を現している。
「先ずは2人掛りで行くよ」
「はい!」
 2人は浮遊/飛行魔法で流れるようなスムーズな動きで水龍との距離を詰めて行き、水龍が操る水の塊で湖に叩き落される。そして周囲全ての水が水龍の思うままに操られるという状況で何も出来ずに水圧に潰されて死んだ。

『ロード処理が終了しました』

「流石に死ぬかと思ったよ」
「死んでたよ!」
 紫村のボケに鋭く突っ込む。
「でも、やっと殺されるって言う恐怖を味わう事が出来ましたよ。あの状態でも最後の最後まで抗うという目的も果たせました」
「だけど最終目的は、心臓を潰されたり、喉笛を掻っ切られたりして、もう死ぬと決まった状態でどれほど戦えるかというのが一番大事だね」
「お前らおかしいだろ?」
「何故ですか? 例えば命に代えても守らなければならない人。命に代えても倒す必要のある奴がいたならば、自分が死ぬなら尚更最後の瞬間まで戦わなければ──」
「まずは魔術で怪我を先に治せ。千切れた腕がくっつくレベルの治癒魔法があるのに、何故すぐに死ぬ事を前提にする?」
「…………あれ?」
「あれじゃねえよ! もう自分が簡単には死ねない身体だと理解しろ。そしてお前らが死ぬような場合は一撃で叩き潰されるような一瞬の死だ。大体だ、お前達はセーブ&ロードのせいで気軽に死ねると思って死自体を軽んじてないか? 死の恐怖に慣れるとか言ってる割に死ぬ事に恐怖を感じてないだろ。ただ死に慣れちまっている。俺はこちらの世界に来るようになってから何度も死ぬような目に遭ってきて、その一つ一つがトラウマに近い状態になってる。戦いの中でこそ恐怖に囚われて足を引っ張られる事は無いが、日常の中でふとした拍子にその恐怖を思い出す事も少なくない。現実と夢世界を行き来する事になったお陰で夢を見なくならなければ、俺は悪夢に苦しむ事になっていたはずだ。それに引き換えお前らはどうだ? 言っておくが俺はお前らのリセットボタンじゃねぇ」
「高城君。君の言いたい事は良く分かった。確かに僕自身そんな気分だった事は否定しない……だけど今時、リセットボタンの付いたゲーム機は無いよ」
「屁理屈を捏ねるな! 大体、ソフトリセットがあるだろソフトリセットが!」


『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『』
『』
『』

「無理! 絶対に無理です!」
 香籐の緊張の糸が切れた。多分俺ならば別の意味で切れるだろう。
 何せ水の中にいる水龍はまさに難攻不落。無敵の城塞のような存在だった。その城壁を破壊するには飛び道具が必要であり、本来なら上空からの足場岩などの投下が効果的だが、システムメニューの機能は使わない条件によって縛られている。
 無茶な条件。しかもその条件を出した本人である俺自身が、効果的な攻略法を見つけていないのだから理不尽としか言いようがない。
 俺なら2人に比べて圧倒的に魔力が高いので、得意の魔力の圧縮から開放を用いて、水龍の魔力に関わる能力を封じて倒す方法があるが、2人の魔力では難しいし、そもそも魔力を高密度に圧縮する事が出来るのかもわからない。
 あれ? ちょと待てよ。魔力は魔力でも2人の魔力か……何とかなるかもしれないな。何とかなるかもしれないが俺が教えるのは駄目だよな。

『』
『』
『』
『ロード処理が終了しました』

「と、とりあえず……今日のところはこの辺で勘弁してあげるという事で……」
 すっかり憔悴した紫村がらしくない発言をする。
 何せ2人とも自分の攻撃が届く範囲に近寄る事すら出来なかったのだから、その精神的疲労は、俺が内心ニヤニヤするほど大きかったのだろう。
「主将。何かアドバイスのよなものは頂けないでしょうか?」
「香籐君。それは高城君にだって無いと思うよ」
「実は俺。お前達次第では何とか出来そうなアイデアが思い浮かんだよ」
「本当ですか!?」
 本当ですよ香籐君。尊敬の目を向けてくる後輩に不敵で素敵な笑顔で応じる。
「それは張ったりだよ。まあ、そんな虚勢を張ってしまう高城君も可愛いとは思うけど──」
 俺の拳が唸りを上げて紫村の腹に突き刺さる。俺を嘘つき呼ばわりしたのは許そう。だが俺に対して邪な情愛を向けるは許さん。最近こいつの言動がますます怪しくなってきている。たかが秘密を共有したくらいで俺との仲が深まったと勘違いしていると怖いので、ここらで釘を刺しておく必要があった。
「アドバイスは魔力だ。お前達が持つ魔力。2つの魔力を利用して水龍の水を操作する魔力を封じるとだけ言っておこう。ちなみに練習が必要だと思うから、それに気付いても今日中には無理だと思うぞ」
 常人ならば胴体に大きな風穴が開くような一撃を貰って、小刻みに身体を震わせてうずくまる紫村を無視し香籐にアドバイスをおくる。
「リュー。君って誰に対しも変わらないね」
「俺は差別はしないが、色んな意味できっちり区別するタイプだ。そしてお前は『区別される』対象だ」
「こんなにあっさりと酷い事を言う人は君以外には知らないよ」
 誉めるなよ。


 水龍狩りは宿題として後日に持ち越すことになったので、近場の土龍の生息域へと移動して狩りを始めた。
 土龍も正攻法では水龍に負けじと倒しづらい相手だ。水の中の水龍、土の中の土龍と俺が勝手に評価するほどの難敵であるが、実は土龍が下から攻撃するために開けた穴から大量に水を流し込んでやると溺れるという弱点があった。
 下から湧き出る地下水は上へ逃げる事で避けられるが上から流れ込んでくる水からの逃げ場は地中にはなく、土龍は地上へと逃げ出す事になる。
 だが土龍には他の龍のように全身を強固な守る鱗がない。多分狭い穴の中で鱗があると後進する場合は、鱗が引っかかり動きが取れなくなるのためだと俺は勝手に推測している。
 そのため、地上に出た土龍には防御手段が全く無い。また地中とは違い動きも満足に取れない。更に肝心の角が口の中にある──これも鱗と同じように土の中では角という突起物が体外に出ていると移動に大きな支障が出るためだと推測している──ために攻撃範囲が狭く限定され、自分の身体に遮られていなければどの方向にも攻撃可能な他の龍とは違い、開いた口が向いている方向にしか攻撃出来ないので簡単に避けられる。

 またグダグダとロードを延々と繰り返す作業はお断りしたかったので、今回はあっさりと攻略法を教えた。
 2人は足元から襲い掛かる土龍の攻撃を素早く避けると、香籐が【巨水塊】で作り出した水を、紫村が【操水】で穴へと流し込む作業を始め、そして10分後に【巨水塊】10回分の水を流し込んだところで地上へと逃げ出して来た土龍に襲い掛かる。
 体表には僅かに退化した鱗の痕跡が伺えるが、触るとヒンヤ&プヨプヨする土龍の柔肌を2人は力の限り殴り続けた。
 身体が破壊されていく痛みにのた打ち回る土龍。その動きを読んでかわしつつ、拳を叩きつける度に、どこか人間の赤ん坊が泣き声めいた土龍の悲鳴が轟く。

 俺はその光景から目を背けた。とても見ていられなかった……貴重な土龍の肉が破壊されていく様に。
 そう土龍の肉は実は美味い。実はオーク、ミノタウロス、コカトリスという三大食肉の上位にある幻の肉なのである。
 その肉はほぼ赤身である。土竜と同様に、常に獲物を探して地中を動き回り、獲物を捕らえては食べる。生活のほぼ全てがそのサイクルで成り立っている土龍には脂肪を蓄えているような余裕は無い。
 だがその赤身は驚くほど柔らかく、そして水っぽくならないギリギリの水分を含むため、脂身などなくてもとろける様な柔らかな食感と、旨みの濃い溢れんばかりの肉汁が口にあふれ出る……らしい。前回、土龍を狩って売り払った後に知ったので、まだ食べた事はない。
 ちなみに他の龍の肉も三大食肉に匹敵するほど美味しいらしいが、希少価値のお陰で三大食肉の中でも一番高いミノタウロスの肉の10倍以上の価値があるので庶民の口に入る事はほぼ無く、裕福な商人や貴族などの間では食事というより半ば薬という感覚で持て囃されているようだ。
 それともう1つ問題がある。それは龍の肉はそのままだと食べても美味くないって事だ。秘匿された魔法的な処置を施した上に、魔法を使い表面を一瞬で黒こげ状態に焼いて、その状態で3ヶ月以上低温暗所で保存熟成させる必要があるそうだ。

「肉を殴るという感触。それをこれほど強く味わった事はなかったよ。素晴らしい体験だったね」
「この大きさの肉を殴ることで、力がどう伝わり広がるのか……殴るという事に関して、何か新しい可能性があるんじゃないかと思えるようになりました」
 そんな事を言っているが、先ほど嫌というほど水龍に梃子摺ったせいで、土龍があっさりと倒せてしまった事に関して文句を言うつもりになれなかっただけだろう。やはり順番って大切である……どうするんだよ肉? 食うどころか売り物にもならんだろう。土龍って角より肉を含めた身体の方が高いんだよ。


 そして最後に風龍。
 何て言えば良いのか……思えば風龍って可哀想な存在だよ。
 本来は大空の覇者として、空において敵無しの存在であったはずなのに、あっという間の王位陥落。
 勿論、現在の空の支配者は俺達だった。
 浮遊/飛行魔法(改四型)と風防魔法によって最高速度は、まだ試した事はないが理論的には音速を越える事も可能。
 そして足場岩も使用すれば、静止状態から100km/hまでの加速は1秒もかからず、機動性はほぼ速度を落とすことなく直角に曲がる事も可能という出鱈目さだ。

 風龍は自分よりも速く、そして自由に空を駆ける紫村と香籐の姿に驚き、動揺を隠せぬまま2人に左右から首を刎ねられて死んだ。
 正確には先に紫村が槍で横殴りにした事で、風龍の首は香籐の斬撃へ向かって弾き飛ばされ、斬撃の力を正面から受け止めて首の骨ごと切り落とされたのだ。


 4種の龍との戦いを終えてなお、昼間ではまだかなり時間を余していた。
 まあ、戦い自体は長時間続くものではないので、かかった時間はほとんどは獲物を誘き寄せる時間と移動時間であるので、進化した浮遊/飛行魔法で移動時間が短縮されれば当然の結果だった。
「よしお代わりだ」
 地図を広げて各龍の縄張りを確認しながら次の獲物に良さそうなのを見繕う。
「ただし水龍は除く」
「火龍がいいと思います!」
 すぐさま返事が戻ってくる。明日までには水龍の攻略法を考えて実践出来るようにしておけよ。

「ところで僕の『龍殺しへの道』はどうなるの?」
「……頑張れ!」
 すっかり忘れていたので、咄嗟にそう返す事しか出来なかった。
「散々君という人間に触れて、良いだけ驚かされ続けた僕でもびっくりするほど投げっぷりだね?」
「冗談だ。次の……そうだな火龍を見つけたら、10回死ぬ権利を与えよう」
 ちっとも冗談じゃないけどな。事実、背後では紫村と香籐が「いいかい、あれは冗談じゃないよ」「冗談じゃありませんでしたよね」と声を潜めて話しているのが聞こえる。

 基本的に土龍と水龍。土龍と火龍。土龍と風龍はテリトリーが重なっていても問題はない。
 水龍と火龍。水龍と風龍もテリトリーが重なっても問題はない。
 だが繁殖期を除く同種の龍。そして火龍と風龍はテリトリーが重なる事はない。
 つまり風龍を倒した後で、火龍のテリトリーへと行くには長距離の移動が必要になる。

「この先で、ミノタウロスの反応があるんだけど狩って行くか? 嫌だと言っても狩るけどな」
 今までは料理をした事のない2号と、料理が『余り得意』では無い俺の2人だ。流石に現実世界の各種調味料や調理器具を持ち込んでも美味い料理が出来る訳もない。
 だが今は紫村と香籐がいるので最低限まともな料理が作れる。すなわちこちらの美味い食材と現実世界の調理法のコラボレーションに、もう気分は「やったねパパ今夜はホームランだ!」状態だ。

「意外に普通にミノタウロスだね」
「まるで普通にミノタウロスを見た事があるような言い方だが、俺もそう思う」
 オーガがRPG知識のモンスター情報のイメージよりも大きかったので、それを好んで捕食するというミノタウロスは6mくらいのコスプレ巨人かと思っていたが、実際はオーガよりも小さく3mを下回る程度しかなかった。

「ここは俺にやらせてもらう。まだミノタウロスとは戦った事は無いんだ」
 そう言って前に出る。
 牛なら群れてても良さそうなものだが、残念ながらこいつは肉食の獣で顔が牛に似ているだけだ。その証拠に手は偶蹄でも奇蹄すらなく人間と同じ5本指が生えている。偶蹄目=ウシ目である以上は生物の分類上こいつは牛に類するものではない。
 まとめて何匹か狩っておきたかったところだが今日はこいつ1匹だけで勘弁してやろう。

 多分ミノタウロスにとっては、自らのテリトリーに踏み込み、そして目が合いながらも何の躊躇う様子も無く歩み寄ってくる相手など初めてであろう。
 戸惑いと警戒を抱くミノタウロスを他所に、俺は一定の速度で距離を詰めて行く。
 やがて緊張感に耐えかねたミノタウロスが唸り声を上げて襲い掛かってくる。
「速い」
 思わず呟く。だがその言葉には『想像よりも』という言葉が枕に付く。レベル50程度の頃の俺なら対応出来たかは五分といったところだ。
 ミノタウロスは俺の一歩手前で左足を思いっきり踏み込み、左膝を屈めて体重を預けると、上体は慣性により前方へと流れながら沈み込む。
 これは斜め下から突き上げる頭突き、いや角による突き上げ……良く分からない相手に対して最初の一手から最大の攻撃力をもってあたるとは中々の古強者だ。
 しかし、そう冷静に思う事が出来るほどの余裕が俺にはあった。出来るならもっとレベルが低かった頃に……レベル1とは言わないが、レベルが20-30程度の頃に、こいつと死闘をして勝つ事が出来れば、俺は大島にも挑めるだけの何かを掴めたかも知れない。戦いの場で「たら、れば」は無粋と知りながらもそう未練を抱かせる。
 何せオーガはデカ過ぎるし龍はただの怪物だ。そういう意味ではミノタウロスはギリギリ人型の敵と認識出来るサイズでしかも技まで使いこなす。
 大島直伝の空手風の何か──空手と呼ぶことすら怪しい──の使い手として、ミノタウロスは一連の異世界騒動において出会った最高の敵となるはずの相手だった故の未練。

 突き上げてくるミノタウロスの左角を、左脚を半歩引いて上体を反らしてかわすと同時に胸の前に両腕をクロスさせて輪を作る。
 その輪の中を角が通過した次の瞬間、強い衝撃が腕と肩に伝わり身体が上へと引き上げられる。遅れて伝わる上半身への力を体幹でコントロールし後方ではなく前方への運動に変えて、右膝をミノタウロスの喉下へと叩き込む。
 想定外の喉への攻撃に半ば突き上げた状態で首の筋肉を弛緩させたミノタウロスへと追い討ちをかけ、右膝の一撃だけでは殺しきれなかった力を左脚を大きく振る事によって左への回転運動へと変え、抱え込んだ状態の左角を中心として緩んだミノタウロスの首を捻り上げてへし折った。
 多分、レベル20-30程度ではミノタウロスの角の一撃をクロスした両腕では受け止める事は出来なかっただろうが、異世界最高の敵への敬意のつもり……独り善がりな勝手な思いだとは分かっているが、そうせずにはいられなかった。
 後は美味しく食べる事で供養としよう……我ながら本当に勝手だよ。


 結局、水龍、土龍、火龍がそれぞれ2体ずつと、ミノタウロスが1人1体ずつ狩って4体。オーガが7体。そしてコカトリス3羽が今日のスコアだ。
 コカトリスは3人がかりで100m離れた位置からクロスボウで倒した。
 木で視界を遮られてこちらに気付いていないコカトリスが無防備に移動しているのを、マップで確認しながら木の陰から姿を現すタイミングを計っての予測射撃だった。

 既に龍は買取停止中だが、代わりにミノタウロスを捌いて貰う為にミーアの店に顔を出す。
 何故なら、前回狩ったコカトリスは解体を業者に頼んだ上に3羽の内2羽を売った……俺達2人では、精々肉に塩を振って焼いて焦がして駄目にするのが精一杯だから、持っていても仕方ないからだ。
 そのせいで、かなり話題になってしまったので、今回は情報の守秘に信頼がおける相手としてミーアを選んだ訳だ。

「皆様、いらっしゃいませ」
 まるで俺達が来る事が分かっていたようなタイミングでミーアが出迎えてくれた……いや間違いなく知ってるんだろうけどさ。
「今日は買取じゃなく、捌いて枝肉にして貰いたい獲物があるんだが頼めるか?」
「本来、そのような依頼は引き受けておりませんが、リュー様からの頼みとなればお聞きしない訳には参りません。しかしあえて当店に持ち込む獲物とは一体──」
「コカトリスとミノタウロスだ」
 考えてる相手に時間を与えず答えを告げる。まさに外道!
「それをどうす──」
「市場に流すつもりは全く無い。全て俺達で食う」
「な、何て──」
「ちなみにミノタウロスは墓場で死体を漁った物じゃない。病死でもなければ老死でもない。生きの良いのを戦って倒した。しかも例によって殺してたてのままの超極上品だ。そしてコカトリスは殺してすぐに毒を全て取り除いてあるので肉の傷みは全く無く、しかも内臓まで食べられるだろう」
「そ、そんな貴重なものを自分達だけで……なんて酷い」
「コカトリスは3羽、そしてミノタウロスは4体だ」
 コカトリスは大型犬に匹敵するサイズで体重は60kgくらいはある。
 空手部の合宿で罠で捕まえたウサギを捌いた経験があるために、獲物の体重に対して得られる食肉の重さの比率を調べた事があるのだが、鶏は精肉の部分と心臓や砂肝などの食べられる内臓部分を含めると6割近い部分が食べられる。
 コカトリスの場合、ミーアには食べられるとは言ったが、毒を抜いたといえども内臓は他人が試しに食って大丈夫か確認しないと抵抗があるので、半分が精肉になるとして3羽分合わせて90kgになるが、似ているとはいえ鶏には付いてない食べられそうも無い部分もあるので70kgくらいと考えよう。
 そしてミノタウロスはプロレスラー体型の3m近い巨体と考えると、約2mのプロレスラーの体重を1.5の三乗倍にすれば求められる。
 そのクラスのプロレスラーとなれば体重は120kgくらいはあるだろう。それを1.5の三乗である3.375倍すればよいのだからおよそ400kgになる。
 ちなみに牛から採れる精肉の割合は全体の1/3と鶏に比べて少ないが内臓も含めると4割近くになる……うん分かってる。ミノタウロスは牛じゃなくむしろ人間に近い。だけど人間から取れる精肉の割合なんて調べた事はないし、調べても出てくる数字じゃないからなぁ。
 少なく見積もり精肉の割合を3割と仮定して、400kgから取れる精肉の割合は120kg。4体分で約0.5tだ……単位が変わってしまったよ。

「そ、それほどの量があれば私にも──」
「どこぞの誰かさんは、土龍を売った後で面白い話を聞かせてくれたしな」
 そう、ミーアが土龍の肉がこの世界の肉の最高峰であることを教えてくれたのは、土龍が俺の手元を離れた後のことだった。
「それは……酷い人がいたものですね」
「そうか、そう来たか。それじゃあ今日狩った土龍はどうするか困る事になるな」
「申し訳ありませんでした。どうか当店に卸してくださいませ」
 速攻で頭を下げてきた。
「主将。意地悪は止めてあげましょう」
 エロフの色気にすっかりやられてしまった童貞野郎が口を挟む。同じ童貞だけに気持ちが良く分かるのが悔しい。
「ありがとうございます。ガトー様」
 うわぁ~……こんなみえみえの笑顔にあっさりと顔を赤らめて鼻の下を伸ばしてしまってるよ。いかん、このままでは香籐が道を踏み外しかねない。
 やはり女だ。全ては思春期真っ只中なのに女に縁が無さ過ぎるのがいけないんだ。どうすれば良いんだ? 俺は先輩として香籐にどうやって女性との縁を作ってやれば良いんだ?
『どうすれば香籐を女の色香に迷わないようにする事が出来る?』
 思わず紫村に助けを求めた。
『彼がこちら側に来れば良いと思うよ』
 駄目だ駄目だ駄目だ! ホモに聞いた俺が馬鹿だった。ご免な香籐。こんな頼りにならない童貞糞野郎な先輩でご免な……俺は状況に任せる事にする。俺に出来るのはそっと見守ってやる事だけだから。

 結局、色香に迷った香籐が間に入った事でかなりの譲歩せざるを得ない形になり、ミノタウロスとコカトリスをそれぞれ1体が解体の報酬となってしまった……目茶高いよ。毒を持ってて処理が難しいコカトリスが割高になるのは分かるが、ミノタウロスなんて要は大きなオークの解体と同じだ。しかし俺は口を挟まなかった。ただの傍観者でありたかったから。


 ついでに場所を借りて料理を作る事になった……俺以外が。
 台所のテーブルの上にはガスコンロ、鍋やフライパンなどの調理道具の他に、調味料が用意される。
「断っておきますが、僕に出来る料理は所詮男の料理の域を出ませんから」
「家畜の餌作りの域を出ない高木君の料理よりはましだけど、過剰な期待は止めて欲しい」
 随分な言われようだが言われ慣れすぎて怒りも湧いて来ない。人間は叩かれ続けると負け犬根性が身に付いてしまうのだ。
「構わない。肉々しいまでの肉料理祭りに小手先の技など不要! 男の料理大歓迎」
「……そういうところが家畜の餌を作る原因だと思う」
「料理以外はそんなに大雑把な人ではないんですけどね……」
 あれぇ~?

「大体、今まで包丁すら触った事の無い奴まで戦力に数えて俺は『席について一歩も動くな』と言われなければならないんだよ!」
 テーブルをバンバン叩きながら抗議する。
「未経験者の彼には伸び代がありますが、主将にはありませんから……」
 痛ましげな表情でこちらを見ないでくれ。
「高城君には……ほら、一合カップに入った米粒の数を数える仕事を上げるよ」
「いらんわ!」
 どんだけなんだ俺は?

 俺は不貞腐れて、新たな魔法の開発を始める。
 懸案の通信魔法は問題があって開発が進まない。元々魔力にはその人間の考えや感情が込められる。そして魔力の中の考えや感情に反応して魔力に似て異なる波を出し、その波を受けると多少劣化した魔力を発信者の考えや感情を乗せた状態で復号する魔粒子は存在するのだが、その波が届く範囲は精々10m以内といったところで、遠距離間での使用が出来て初めて通信魔法だという俺の仕様は満たされない。
 通信を行うためには、相手側も通信用の【場】を用意し待機していなければならない。つまり考えや感情をやり取り出来る魔粒子以前に、遠く離れた相手に、しかも相手側に【場】の無い状態でも信号を送りつける事の出来る方法が必要で、更には通信相手のみに情報を送り届ける方法も用意する必要がある。
 これは無理だ。もっと他の魔法を研究しながら何らかの新発見によるブレイクスルーを、幾つか果たさないと問題点を解決出来そうにない。

 とりあえず今出来そうな範囲で需要がある新しい魔法を考えてみる……風呂だな。圧倒的に需要があるのは風呂だ。何せ夢世界には風呂が無い。無い事は無いのかもしれないが未だお目にかかったことが無い。
 先ずはお湯で身体を濡らしてから、石鹸を泡立てて身体を擦り【水塊】を【操熱】で適温に暖めて、裸でその中に入り石鹸を洗い流しながら身体を暖めるくらいしか出来ない……ああ、湯船でお湯に浸かって足を伸ばしてくつろぎたい。
 単に風呂に入るだけなら、ネット通販でビニールプールのようなチューブ構造の簡易浴槽が1万円ちょっと売っていたが、黄緑色のビニール製の簡易浴槽は2号の前では使えないので使用機会が限られる。
 だから「魔法だから」で何事も済まされる夢世界で誰にも気兼ねせずに風呂に入るためには風呂に入れる魔法が必要だ。

 先ずは湯船の作成だが、岩などの硬い素材がある場所ならそれを湯船の形に整えるのは難しい事ではない。スマートではないが有り余る魔力でごり押しで作ればよい……魔力の消費量などは後々改良すれば良い。
 しかし、周囲に岩など無い草原や砂漠、または湿地、もしくは雪原に氷原の場合はどうすれば良い? 岩のように最初から強度のあるものを削って形を整えるのに対して、土や砂や泥などで湯船を作るには単純な力技では成し得ない。大体融ければ水になるような氷や雪しかない場所ではどうすれば良いんだ?
 ……そうか、何があるか分からない場所で湯船をその場にある物で作ろうと思うから駄目なんだ。魔力を使って作るのではなく、魔力を使って作りそして維持すれば良い。
 そのために役に立ちそうなのが、【闇手】シリーズ(範囲内の目に見える物体を自在に動かす黒い手を出す)に使われていると推測している斥力のような力の効果をもたらす魔粒子である……あくまでも推測な上に、そもそも物理学上の引力と対になる斥力とは違う一定の空間内に物体を押しのける力なのだ。
 まだ【闇手】のように斥力をリアルタイムで自由に操作するのは不可能だが決まった形の場を維持するように魔法を組むのは難しくは無い。そして斥力を操作すれば、水や自分の身体を支える事が出来る。

 そして水は……駄目だ。【水球】シリーズに頼っては駄目なんだ。ここまできたら【魔法】で全てを成し遂げるだろう常識的に。
 水を作る……空気中の水分を集めて水を作り出すことは可能だ。だが砂漠や寒冷地などの空気中の水分量が極度に低い場所では大量の水を空気中から用意するのは難しいだろう。
 いや寒冷地で雪や氷があるなら融かせばいいので問題無いが、砂漠はどうしようもないな。ついでに言うと屋内のように閉ざされた空間でも使うととんでもない事になる。1気圧で室温が24度で湿度が60%の場合は1m3中に含まれる水分量は僅かに13gに過ぎない。つまり10mx10mx10mの空間、1000m3に含まれる水分量は13kgであり、とても風呂に入れる量にはならない。一般的な家庭用のバスタブの容量は調べた事も無いから正確にはわからないが多分200L程度だろう。そこに俺が浸かって多少動いて水面が揺れても溢れない量と考えると130L程度。つまり必要とされる水の量は130L──130kgとなり、それを空気中から取り出すとするならば10000m3の空気から隈なく、1滴の水も残さず奪い取る必要がある。
 10000m3といえば一般的な学校の25mプールの30杯分程度に匹敵するのだが、もし宿の部屋でバスタブに必要な分の水を集めようとしたなら足りない分を何処から奪おうとするのか……試してみたくない。
 いっそのこと水素と酸素を化合させて水を作る……幾らファンタジー世界とはいえ水素単体が普通に存在する自然環境があるなら教えて貰いたい。

 残った問題は1つだけだ……砂漠と屋内空間で使えないのは仕様だからしょうがない。
 流石に湯船が無色透明というか何も無い空間なのはちょっと嫌だ。屋内で使えないことから、主に野営する時に外で使う事になるのだろうが、幾ら大自然の中とはいえ開放的過ぎて、変な趣味に目覚めてしまったら怖い。
 そのために湯船の表面、もしくは周辺を遮り目隠しになるものを用意する必要があるが、どうせならばこれも【魔法】で済ませたい。魔法で視界を遮る方法には光と闇が考えられる。
 光子、みつこではなくフォトンを放出、吸収する魔粒子は、初歩的な魔法として『基礎魔法入門』にも記されている【ライト】の魔法の項目の中でも説明されている。
 この魔粒子は魔力による操作を受けない状況では面白い振る舞いをする。一見それぞれが右回転左回転と無秩序に回転運動をしているように見えて、実は全体として放出・吸収される光子の量が釣り合う様に調和が取れているのである。
 そのために、周囲を明るくしようとしても、逆に暗くしようとしても、【場】の外に存在する光の魔粒子が調和を採るために逆回転を強めて、その効果を打ち消してしまう。
 それを防ぐためには、効果を発揮させるために操作する魔粒子と同じだけの魔粒子を外部と遮断された場所で逆方向に操作して遣る必要がある。ちなみに外部と遮断された場所とは別に石ころでも構わない。その中に効果とは反対の操作を加える魔粒子を押し込めば良い。勿論魔粒子は物理的な干渉を受けないので、石の中だろうが地面の下だろうが好きな場所へ移動させる事が出来るので問題は無い。


 風呂魔法の開発が終了し、米粒を数えるべきか考え始めた頃に料理は完成しテーブルに配膳された……流石の俺でも配膳すら断られるとは思っておらず傷ついた。おぼえてろよ!
 テーブルの上に並べられたのは、分厚いミノタウロスのステーキwithガーリックバター醤油ソース。そしてコカトリスの腿肉の龍田風から揚げ。さらに夢世界の各種野菜と蒸したコカトリスの胸肉のサラダ&QP梅シソドレッシング。手抜きの苦悩するチキンコンソメスープ。最後にご飯大盛りだ……また1つ、人類の夢が叶ってしまっ──ん?

「それでは皆さん席について下さい」
 紫村の指示で皆が席につき、目の前の料理に目を輝かせる。それはミーアも変わらない。こいつは壊滅的に量を食えず精霊術の使えないエルフだが腐ってもエルフである。食欲全開の体育会系中学生の俺達に匹敵するほどの食欲は秘めている。
「ではいただきます」
 その声に合わせて俺と香籐、そして2号──俺と軽く10回以上食事を共にしているので知っている──も声を揃えて「いただきます」と返して、食事を始める。
 だがミーアだけは「いただきます」の目的や意味が分からず戸惑ったのが命取りになった。反応が遅れた次の瞬間には彼女の前からステーキ皿が消えた。
「えっ!」
 慌てて振り返る彼女が見たのは、ステーキを指で掴みで口の中に押し込む自分の妹の姿だった。
 俺はこのドMエロフが店内に進入してきた事をマップで知っていたが敢えて何も言わなかった。むしろいただきますと言いながら「ヤレ!」と目で合図を送ったくらいだ。
「アエラ……一体何を……あっ、私の私の……あぁぁっぁぁぁっぁっぁああっ!」
 ミーアの口から悲痛な叫びが突いて出るが、ドMエロフは健啖な食欲と強靭な顎をもってステーキを噛み砕き嚥下していく。
 それだけでは済まなかった。無慈悲にもに姉のから揚げ皿を掻っ攫うと、口の中に放り込んでいく。
 肉の奪い合いとなることが容易く想像出来たため、大皿に盛らずにそれぞれの分を更に分けたのが致命的であった。もしも全員分を盛った大皿ならば、そうのような暴挙を俺達が許すはずが無かったのだ。

「だ、駄目よ。それは私の、私の、いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 絶望に泣き崩れるミーアをよそに、俺達もドMエロフに負けない勢いで食べるペースを上げる。妹に自分の分を食べられたなら、他から盗れば良いじゃないと彼女が気付く前に決着をつける必要があったのだ。

「何だこれは一体? こんな美味いのは初めて食べた。えーい、シェフを呼べシェフを!」
 サラダまで食い終わったドMエロフが、興奮して訳の分からない事を叫ぶ。
 しかもちゃっかり、まだ俺の皿に残っていた最後のから揚げにまで手を伸ばしてきたので、指を掴んで捻り上げた。
「痛い、痛いよご主人様、ああっ……あぁぁ、あっあっあぁぁん!」
 しまった。これはドMエロ孔明の罠だ。最近俺に相手にされず色々と溜め込んできた孔明の狡猾な罠だった。
「ご、ご、ご、ご主人様?」
「高城君、君は一体……?」
 2人の顔には『疑惑』の二文字が刻まれていた。もしも立場が逆なら俺も彼らと同じ思いを抱くという確信が、腋に嫌な汗が滲むほど説明するのが難しい現状を意味する。
「待て、先ず信じて欲しい。俺は無実だ」
 このような場合は、最初に前提となる事実をはっきりと示しておく方が良い。結論が決まっているなら、これから話す内容を聞き手は結論に向かって頭の中で組み立てていけるが、結論が無ければ全く違った方向へと誤解していく可能性が高くなる。

「……勿論、僕は信じるよ」
 お前は信じなくてもいいよ。お前が信じているのは何時か俺がホモに転ぶ事なのだから。
「でも、どうすれば一体、こ、ご主人様なんて……」
「分かった最初から全てを話す……20日前ほどのことだ、朝に宿の食堂で相席したのが始まりだ。初対面で顔つきと態度と話し方から彼女が男か女か判断が柄なったのだが、纏っていたマントを外した瞬間に男だと確信してしまった」
「……なるほど」
「……無理もありませんね」
 随分と失礼な2人の態度にも、ドMエロフはむしろ無い胸を張って当然という顔をしている。
「その性別を間違った事から口論が始まり、話の流れから胸のサイズに言及してしまった事から決闘騒ぎに発展し、面倒なので縛り上げて放置して逃げたんだが、その後すぐに再会した時には完全にドMになっていた」
「ちょ、ちょっと待ってよ……残念だけど何を言っているのか良く分からないよ」
「俺だって分からねぇよ!」

「事情は分かったよ」
「僕は信じていましたよ」
 ……真摯なる説得の末に、とりあえず冤罪は晴らされた。
 だが根本的な問題は解決していない。この件に関してはドMエロフに俺がご主人様では無い事を理解させるのが唯一の解決手段だ……俺は絶対にご主人様を受け入れる気はないから。
「何を問題は解決したみたいな空気を漂わせているのですか? 私の私の……アエルゥァァァァっ!」
 ミーアが巻き舌で吠えた。メッキが剥がれたとも言う。神秘的ですらある美貌に上品で落ち着いた物腰、それでいて大人の女の妖艶さすら感じさせる彼女が豹変する様子に香籐が固まる……ショックの余りにホモに転ばなければ良いのだが。
「な、何ですか姉さん?」
 素早く俺の背後に回り込んで盾とする。そんな奴隷がいてたまるわけが無い。
「どうして私の大切なお肉たちを食べてしまったのかしら?」
「それは、良い匂いがしたから……仕方なく」
「仕方なく? 仕方なく……そうね、確かに仕方が無いのかもしれないわね。あんなに美味しそうな匂いをさせていたのだから……」
「そ、そうだよね。仕方ないよね?」
「ええ、だからお姉ちゃんがあなたに殺意を抱いてしまっても仕方が無いわよね? あんなに美味しそうなお肉を食べられてしまったのだから」
 ドMエロフが両手で俺のマントの生地を鷲掴みにしながら、俺をミーアに向かって押し出すように背中を突こうとした瞬間、装備品の解除でマントを収納するとギリギリで体をかわす。
 力一杯俺を突き飛ばそうとしていたドMエロフは前につんのめりながらたたらを踏んで、ミーアの下へ自分から進み。顔面を鷲掴みにされた。

「アイアンクロー!?」
 5本の指先だけを顔面に食い込ませて、じりじりと身体ごと持ち上げていく。やがてドMエロフは片足のつま先を僅かに地面に触れさせるだけになった。
「痛い。痛いよ……痛いのに姉さんにされても嬉しくない!」
 よ、余裕じゃないか変態め、チラチラとこっちに熱っぽい視線を送るな。
「あんな、ハンサム系なお姉さんが変態だと凄く……嫌ですね」
 ミーアの豹変から少し精神的に立ち直ったのかドMエロフをそう評する香籐。女なんて面の皮一枚下はそんなものだよ……と女性経験の無い自分が言っても悲しくなるので口にせず「俺も凄く嫌だ」とだけ答えておいた。

 ドMエロフのお陰で、せっかくの料理をじっくりと味わう事が出来なかった事に気付いたのは宿に戻ってからであった。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 宿を出て市場で合流直後。
「高城君。お待たせ」
「……高城は止めろ。こちらではリューと名乗っている」
「了解。なら僕はケイ……響き的にはケーが良いのかな? それともケンとかどうだい?」
「馬鹿やめろ! ……そ、そうだなケインとかはどうだ?」
 ケンは駄目だろう、お前の苗字的に。
「そうしようかな。じゃあ香籐君も名前を考えた方が良さそうだね」
「僕の千早は……余り良さそうな略称が思い浮かびませんね」
「チハヤか……そうだな、ぱっと思いつかないな」
「チハヤ、ちはや……チャーなんてどうだい?」
「お前はさっきから何を言ってるんだ! 香籐の下の名前がチャーで良いと本気で思ってるのか?」
 そう言いながら、胸倉を掴んで揺すってやる。
「じゃあ、チャイなんて──」
「馬鹿かお前は! 意味的にはどストレートじゃねぇか! わざとだろ、わざとやってるんだろう?」
 胸倉を掴む手に力を込めて、首が締まるように掴んだ服の生地捻り上げていく。
「く、首が……君だって高城の下の名前がリューじゃないか?」
「リュウと名乗っても、みんなリューと呼ぶんだから仕方ないんだ! 大体、高城リューだとそんなに目立たないだろ。お前らと一緒だから目立つだけなんだよ!」

 誰も弄ってくれないので、主人公達の名前のネタバレです。
 メンバーは旧メンバーを含めて6人揃っています。
 ちなみにリーダーの名前が特徴的過ぎてさりげなく登場させるのが難しく諦めかけたのですが、突如良い名前が閃いたのでその名前に沿った設定のキャラクターをでっち上げて作中にぶち込んであります。

 それにしても、大幅レベルアップの度に覚えていくだろう【魔術】の設定が間に合わず(微妙に役に立たない魔術ばかりを考えるのがキツイ)に、説明を省いていたら、既に設定してある【魔術】を作中で使わせようとしても、作中で一度も触れられていない事に気付く悲しさは半端無いよ。


 関係ないけど話は進まないのに文字数が80万文字を突破w
 それでは来月中にお会い出来れば幸いです。



[39807] 第87話
Name: TKZ◆504ce643 ID:06fc2bee
Date: 2015/07/19 22:12
 紫村の家で目を覚まして、最初にしたことは【所持アイテム】内から2人を取り出すことだ。
 だがその前に大きな失敗に気付いて頭を抱える。
 夢世界で俺達にちょっかいをかけてきた連中の処遇を2号に任せると認めてしまったことだ。
 あの時は、2号を『龍殺し』にして、そしてミーアから貰った地図に書かれている龍を狩り終えたら【所持アイテム】内の連中を2号に引き渡して、速攻でラグス・ダタルナーグ王国を脱出する予定だった。
 第一の候補はエルタン・ノティアン王国──ラグス・ダタルナーグの西に位置する。名前の通りエルタンとノティアンの2国が併合して出来た国。ラグス・ダタルナーグは2国が併合して出来た国ではない──で、ラグス・ダタルナーグとは特別に親交が深い国ではないが、一応友好国という事になっている。
 第二候補はアリウクゥト候国で、ラグス・ダタルナーグとエルタン・ノティアンに挟まれた小国で、政治的にはエルタン・ノティアン側に近い国。
 そして第3候補はリートヌルブ帝国で、現在ラグス・ダタルナーグの南方国境沿いで戦争をしている国だ。
 何故この3国かというと、ミーアの『道具屋 グラストの店』が支店を出しているのが、現在この3国だけなので、彼女との付き合いを維持するためにはラグス・ダタルナーグの東方諸国などへの脱出は選択肢に含まれない。

 それで何が問題かといえば、ルーセの問題が解決するまではラグス・ダタルナーグに留まり続ける予定だったのだが、夢世界ではルーセ関連の記憶が飛んでしまうために、出国前提で話を進めてしまった事だ。
 今更ながら2号に、その件については無かった事にすると宣言するのは問題は無い。奴にグダグダ言わせてやる義理は無いからだ。
 問題は、夢世界に行った時には、今感じている後悔すらも頭の中からポーンと消えてしまうという事であり、近い内にラグス・ダタルナーグを離れる事は俺自身にも止められないって事だ。


 頭を抱えつつ、フローリングの床の上に取り出して転がすと2人はすぐに目を覚ます。
「朝……なんだね」
 まだ寝ぼけた紫村が起きざまに周囲を見渡してから呟いた。
 実質4時間程度しか寝てないからな。レベルアップのお陰で多少睡眠時間が少なくても耐えられる身体になっているはずだが起きぬけの辛さは変わらないようだ。
「ほら、香籐も起きろ」
 肩を掴んで軽く揺すると、目を擦りながら鼻から抜けるような小さな欠伸を漏らしながら目を覚ました。
「おはようございますぅ……」
 こちらも半分寝ぼけているな。

「俺は一旦家に帰って犬の散歩がてらランニングに行って来るわ」
「犬の散歩……僕も付き合うよ」
「……僕も行きます」
 ぎこちない動きで起き上がろうとする2人の姿はどこかゾンビじみていた。

 準備を済ませ紫村邸を出て、家に帰り着いてもまだ6時前。
 紫村の家から我が家までは500mちょっとの距離なのでそんなものだ。
 黒塗りのステンレス製の門扉──と呼ぶには少し恥ずかしいささやかな代物──を開ける前から玄関扉の脇の磨りガラス越しにマルを尻尾を振っている影が見える。
 鍵を回して錠を外し扉を開けると、開き始めた狭い隙間からすり抜けてマルが現れ、俺の左手に舌を伸ばしてペロペロと舐める。ここで喜んで吠えずに小さく甘えるように鼻を鳴らすのは躾の成果だ。
「ただいまマル」
 しゃがんで両手で頭から背中、そして下あごから胸までを撫で回してやると、千切れんばかりに尻尾を振りながら、俺の顔を舐め回す。
「良く懐いてますね」
「というか、寂しかったんだろう」
 その理由は、現在家には兄貴しかいない。両親は中東はクウェートまで妹、涼の柔道国際大会の応援に行っている。
 そんな状態で何で俺まで家を空けているのかといえば、兄貴に「受験生の俺が何でお前の、自分は料理は全く出来ないくせに味にはああだこうだと煩いお前の飯の世話までしなければならないのか? 嫌だ! 飯マズのお前に料理で駄目出しされると心が折れる」と拒否されたからである。
 カップ麺は作れても袋麺は怪しいと褒め称えられる俺だけに反論の余地は無く、夢世界の事もあったので渡りに舟とばかりに紫村の家に転がり込んだ訳である。

 そんな事情で一番割りを食ったのはマルである。
 兄貴は昨晩マルを散歩に連れて行きはしただろうが、マルを満足させられるほど一緒に走ってやるだけの体力は無い。最近、俺との散歩で体力を使うようになったので食欲も増し、食べる事で成長速度も増し、身体つきもかなり立派になったせいか、犬ぞりを引いて毎日何十kmも走るシベリアンハスキーの本能が目覚めたのかの様に走る距離も更に伸びるというサイクルにはまっているため絶対に無理だ。
 それでもマルは大好きな母さんと一緒の散歩なら別の方向性で満足出来るのだろうが、余り接点の多くは無い兄貴とでは走らなければやってられないはずだ。

「僕が触っても嫌がりませんか?」
「マルはちょっと馬鹿なんじゃないかと心配してしまうほど、知らない人でも警戒しないから大丈夫だ」
 ……言っててちょっと悲しくなってしまう。
「それでは失礼します」
 そう言って香籐が手を伸ばすと、ブンブンと尻尾を振り、顎を上げて首を反らして「ここを撫でて」と言わんばかりにアピールする。

「本当に全然警戒心が無いね」
 慣れない手つきながら夢中で撫でる香籐。そしてそのの手を嫌がることなく目を細めて受け入れるマルに紫村が突っ込む。
「言うな。マルには最初から番犬なんて期待していない」
 この子に嫌われたら大したものなんです。でも俺の妹は結構嫌われています。そんな妹にかなり嫌われている兄が俺です。
「……それにしても香籐君は嬉しそうだね」
「はい。僕は犬が飼いたかったんですけど、母が動物が苦手なもので……」
「わかった。思う存分マルと遊んでやってくれ」
 香籐は笑顔で頷くと、興奮したマルが息切れを起こすまで撫で続けるのであった。

「この子は随分走るね」
 3人と一匹でノンストップ10km走破を達成した後に、皿に入れられた水を一生懸命飲んでいるマルへ紫村が驚きの声を上げた。
「この1週間は朝晩に俺が好きなだけ走らせてやってるから、走る距離も伸びる一方だな」
「走るのが仕事なシベリアンハスキーでも、普通の飼い犬はそんなに走らないよ。大体、アスファルトの上だと足を痛めるからね」
「肉球や爪は散歩中と後にチェックして、少しでも傷とかがあれば治療しているし、まだ成犬に比べると3割くらいは体重が軽いし、散歩のほとんどがこの散歩道だから足腰への負担も小さいからな」
 この川沿いの散歩道は、アスファルトではなく土の上にゴムの柔らかさと滑り止め効果のある樹脂製のマットみたいなものが敷き詰められてあり、犬の身体への負担が小さくなるように作られている。そのために自転車で走るとかなり走り辛く、小学生の頃のクラスメイトに、この道を自転車で走っていて曲がろうとしハンドルを切った瞬間にタイヤを取られて転倒して、前輪のリムを壊した奴がいた。

「でも本当に凄いですよ。もしかしてこの子もレベルアップしたんですか?」
「幾らなんでも、犬だから『パーティーに入りますか?』『はい』なんて判断は出来ないよ」
「高城君……試したんだね?」
「ば、馬鹿言うなそんな事試すはずが無いだろ?」
「試したんだね?」
「…………」
 俺は黙秘権を行使した。これ以上深く追求するようなら、まず弁護士を呼んでもらうぞ。


 散歩道から住宅地に入り、家へと向かおうとするマルと紫村家へ向かう俺の間でリードがピンと張る。
「こっちだよマル」
 そう言いながら、リードを軽く、しかし鋭く引っ張ってこちらに従うように指示を出す。
 訴えかけるような目で俺を見上げながらいつもより一歩後ろの位置を歩きながら、時折家の方を不安そうに振り返る。
「大丈夫。こっちで良いんだよ」
 一度足を止めて、頭から尻尾の方まで大きく手をスライドさせて何度も撫でてやると落ち着いたのか鼻を鳴らして俺の手を舐めようとする。
「随分ナーバスになっていますね」
「犬はある意味人間以上にルーチンワークに従って生きている部分が大きいから、散歩を終えて楽しみな餌の時間という決まりが破られる事への不安が大きかったんだろう」
「何か犬って自由そうなイメージがあるんですけど」
「人間に飼われて人間の都合に合わせて生きるしかないんだから、本当の意味での自由なんて無いさ。だからせめて飼い主として出来る限りの愛情を注いで上げる必要がある」
「犬を……動物を飼うのって大変なんですね」
「そりゃそうだ。俺の1日の自由になる時間の半分位はマルと散歩したり、ブラッシングしたり、遊んだりに使われている」
 しかし、それでもマルと一緒にいてやれる時間は母さんに劣る。未だにマルの人気ランキング1位にはなれていないのが悲しい。


 紫村の家に戻り、紫村と香籐がお手伝いさんが作り置き──さすがに朝練で5時半過ぎに家を出る紫村に合わせて飯作りしてくれるお手伝いさんなど存在しない──しておいてくれた料理をレンジで加熱している間に、家から持ってきたドッグフードと水をマル専用皿に入れて出す。
 犬と人間の間にははっきりとした序列があった方が犬にとっても良いという理由で、犬の食事は人間の後という説もあるが、俺はその辺は気にした事は無い。ただ朝の散歩の後には食事と水を取らせるという決まりがあるだけだ。

「高城君。オークとかの肉で料理を作って貰うにはどうした方が良いと思うかない?」
 温め直した朝食をテーブルに並べながら、そんな事を言い出してきたよ。どうやら夢世界の食材で作った料理を舌が覚えてしまったようで、普通の食事じゃ不満なのだろう。だが──
「それは難しいだろ」
「そうですよ。料理するなら味見はするだろうし、食べたら自分も手に入れたいと思いますよ。どこで手に入れた肉なんですか? と聞かれてどう答えるつもりですか?」
「それが悩ましい問題だね……レベルアップで料理スキルを取得なんてことはないのかな?」
 自分で料理をするという方向は……紫村も男の料理と言い切るのは決して謙遜ではなく事実だからな。
「残念ながらシステムメニューを作った奴は、スキル制のゲームは嫌いなようだ」
「詳細なレシピとそれをきっちりと丁寧にこなせれば美味しく作れるはずなんだけど、感動を生み出すような」
「確かにお前の料理には驚きが無かった」
「……料理に驚きしかない君に言われると、流石にイラっとするんだけど?」
「すいません。調子こきました」
 紫村が浮かべた笑顔のあまりの冷たさに速攻で謝る。
「僕も力にはなれそうも無いです」
 俺達空手部の料理は基礎からして修正が利かないほどワイルドだ……最初に罠で捕まえたウサギをナイフで捌く方法を教わるのがいけないんだ。

「そんなお前達のために、俺からの素敵なプレゼントがある。オーク肉のソ~セ~ジィ~!」
「これなら、ちょっと茹で上げただけでもいけますね」
 良いね。腸で出来た皮が熱で縮んで噛むとパキって破れて口の中に肉汁が飛び出るのは最高だね。
「さらにベ~コ~ン!」
「ベーコンエッグを作るよ。すぐ作るよ! 追加でそれぐらい食べられるよね?」
「勿論だ。その程度のカロリーなんて本気を出したら1分で消費してやる」
 自分で言ってて悲しくなるほどの燃費の悪さだ。


 朝食を終えて、俺達は運動公園へと向かう。
「ワン!」
 今日はマルと一緒だ。
 尻尾振り振りご機嫌な様子で俺の横を歩いている。そう言えば最近は常に全力疾走の散歩ばかりで、こうやって落ち着いて歩くのは珍しいな。
「この子も一緒に連れて行って大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。目の届く範囲に家族がいるとマルは独りでじっとしているのも苦にしない。ただし俺は母さんや父さんがいないと駄目だ」
 うん兄貴じゃ駄目なんだな。
 最近は俺が部屋で何かしている時も、部屋の隅でじっとこっちを見ながら大人しくしているから、近くの木にでもリードをつないでおけば大丈夫だろ。


「おはようございます! ……ってその犬はどうしたんですか?」
 2年生の田辺が俺に挨拶をした後、2度見で突っ込んでくる。
「こいつは俺の愛犬のマルだ。今は家にマルが家族として信頼している人間が1人もいないので連れてきた」
 木の支柱に、マルのリードを繋ぎながら答える。
「どうしたんですか?」
「妹が柔道の国際大会に出ると言う事で両親が応援に行ってしまったんだ」
「へぇ……凄いですね」
「大会という名前の付くものに出場した経験すらない兄とはえらい違いだろ?」
 俺とは違い、他の連中は小学校の頃から……頃までは空手の大会に出て名を馳せていたようだからな。
「そ、そんな事はありませんよ。主将ならどこの空手大会に出ても中学・高校クラスなら優勝出来ますよ」
「いや、俺は卒業したらきっぱり空手は辞める。高校に入ったら、そうだなサッカー部にでも入って……俺なら手も使えるGKが良いかな? それでレギュラーになり女の子にキャーキャー言われるんだ」
 あまりに甘美な妄想に溺れそうになる俺の前で田辺が泣いていた。田辺だけではない1年生と紫村を除く他の部員達も泣いていた。俺の悲しい姿に自分を重ねてしまった故の男泣きだ。
 ちなみに1年生達は未だに空手部に入ってしまった恐ろしさを理解していないために泣けなかったのだろう。
 良いんだよ。理解しなくて……そうだ大島の蘇生が叶っても1年生達が卒業するまでは【所持アイテム】内で寝かせておこう。
 そうすれば、1年生達には普通の中学生……はもう無理でも、普通の中学生っぽい感じを味合わせてやる事が出来る。
 夏休みまでにすれ違いざまにその辺の不良達がそっと目を逸らすような恐ろしい顔つきにならずに済むのだ。
 ちなみに地獄の夏合宿を乗り越え2学期が始まる頃には、ちょっと深刻な顔をしただけで街のチンピラですら、すれ違う10m前からエア電話を始めてしまう通称『人殺しの目』を身に付けるようになってしまう。そうなったら手遅れだ。おしまいなんだ。もう女の子の気を惹くためには容姿以外の何かで勝負するしかなくなる……しかも容姿の面で大きなハンデキャップ付きで。

「高城君。GKで女の子にキャーキャー言われるのは高校レベルだと無理だと思うよ。そうだねプロでも代表候補になるくらいじゃないとね」
「馬鹿な! GKだってモテモテのウハウハのドンと来いな選手は居るだろ」
「表現がオヤジ臭いよ。大体そういう選手はGKに関係なく個人的な魅力でモテるだけで、GKであることにモテるという要素はほとんど無いよ。そう、つまりはイケメンに限るって奴さ」
「お、お前はたった今、全国3000万人のGKの皆さんを敵に回したぞ」
 大体だ、イケメンがイケメンに限ると言ってしまったら、もう戦争だろうが! ……自分がホモであったことを感謝するんだな。
「はいはい、日本にいるGKの人数は日本の総人口の1/11が上限だと思うよ」
 軽く流された。
「……とにかくだ。家のマルは練習の邪魔をする事は無いから気にしないで欲しい」
 
「無理です。凄く気になります! 触っても良いですか?」
 栗原の目が輝いている。両手の指をワキワキと動かすのは止めてもらいたい。
「良いが、練習が始まるまでの5分だけだぞ」
 俺が許可を出すと、栗原だけじゃなく部員の半分くらいがマルの元へと押しかけた……結構犬好きが多かったんだね。


 護衛の警官達に呆れた様な目で見られながら軽く10kmほどトラックを走って身体を暖めた後で組み手に入る──
「おはようございます」
「……北條先生?」
 休日の朝の思いがけぬ登場に思わず声が上ずる。
 うろたえているのは俺だけではない。他の部員達も彼女の普段の外出着なのだろう春らしい明るい色のワンピース姿に低く感嘆の声を漏らしている。
 俺と違ってこいつらは学校でスーツ姿か部活の時の剣道着に袴姿のどちらかしか見た事が無いからな。しかし俺は項がはっきりと見える部活時の姿が一番好きだ。
「ところで今日はどういう理由で、ここに集まっているのですか? 試験前1週間の部活動は校則で禁じられているはずですが?」
 ああ、北條先生が怒っている。俺を詰問している……これはこれでご褒美です。
 違う。そういう場合ではない。俺は主将として何としても彼女を丸め込まなければならないのだ。
「これは部活動ではありません。我々は学校側の不当な干渉により部を休止状態におかれていますから、単なる自主的な集まりに過ぎないので学校の干渉はお断りします」
 は、はっきり言ってやったよぅ……どうしよう? このはっきりと言い過ぎる性格は何とかならんのか?

「今回の学校側の対応には、これ幸いといわんばかりの本音があった事は間違いなく高城君達の学校への反発は分かりますが、空手の経験のある指導者が居ないというのも事実です」
「それは詭弁です。別に部活の顧問にその部活に関する技能は必要なく、監督し危険があるなら注意を促すだけでいいはずです。実際、バドミントン部顧問の藤原先生はバドミントンの経験の無い居るだけ顧問です。それともあらゆる球技の中で一番の球速を持つバドミントンは安全な競技なので、顧問にバドミントンの素養は必要ないとお思いですか?」
「そ、それは……」
 困りながら言いよどむ俯き加減の北條先生も良い! いや好い! もう、この表情だけで3杯はいけるね。
「良いんですよ。北條先生は優しいから、他の教師達が臨時でも我々の顧問になる事を拒否したなんて、我々を気遣って伝える事が出来ない事くらい分かっています」
「そ、そんな……」
 照れておられる! 北條先生が照れておられる! 俺の心の叫びだけではない。他の連中も同じように呟きを漏らしている。

「小僧。儂の孫娘を口説いてるのか? 弥生。お前もいい歳してこんな子供に誉められて何を真っ赤になって照れているんだ?」
 何故か北條先生とは血のつながりを全く感じさせない化け物爺が居た……着物に袴姿の爺が彼女の隣に居るのは分かっていたが、敢えて心の視界に入れてなかっただけだが。
「まっ、真っ赤になんてなってません!」
 そう言い返すが、俺達は『真っ赤になってる!』『可愛い!』『萌える』『付き合って欲しい』『いや結婚してくれ!』と心の中で呟いていた。

「お久しぶりです。御老台」
 礼儀正しく頭を下げておく。もしかしたら……万が一に、可能性はゼロではないので俺の義祖父になるかもしれない相手を怒らせる必要は無い。
「ほう今日は、面識も無い非常識な爺さんじゃねぇのか?」
 ちっ! 憶えてやがる。爺は年寄りらしくそこはボケておけよ。
 咄嗟に「一体何の事でしょう?」と誤魔化す自分の顔が引きつるのが分かる。
「まあ、いいだろう……お前達の師匠が死んだと聞いてな」
「さあどうでしょう? 簡単に死ぬような人間じゃないですから」
 大島の死は肯定しない。3年後には生き返らせてやるつもりだからだ。
「ほう。生きていると思うのか?」
「いえ、ただ……」
「ただ?」
「この手できっちりと止めを刺さなければ安心出来る相手ではないですから」
 冗談でも何でもなく、本心からそう思う。
「うむ……なるほど。あの若造の弟子なだけはあるな」
 失礼な、一緒にするなよ。
「単に部員と顧問の関係で弟子になった記憶はありませんよ」
 俺の言葉ににやりと獰猛な笑みを返す爺に俺は背筋に冷たいものを感じ、敢えて何かに気を取られたかのように自然に視線を少しだけ逸らせて隙を作り誘った。
『爺が一戦しかけてくる気だ。監視の目から俺と爺を身体で遮ってくれ』
 【伝心】で紫村と香籐に指示を飛ばした次の瞬間、爺は手にしていた杖で顔を目掛けて鋭く、そして容赦なく突きこんでくる……そうだよこの爺は初対面の時もこういう奴だった。

 そのタイミングを読んでいた俺は突きを左手で横から握りこんで止めた。如何に爺が人外であっても加齢により痩せて衰えた小柄なその身体から絞り出せる筋力は大きくは無い。レベルアップによる身体能力の向上に頼る必要もない。
「冗談がきつ──」
 俺はこれで終わりだと思った。油断以外の何ものでもなかった。
 これはちょっとした力比べ。野生動物のように俺が強いお前が弱いという順位付けだけ。この手の人間には必要な幼稚な振る舞い。間抜けな事にそんな甘っちょろい事を考えていたのだ。

 爺は杖の手元の丁字になったハンドルを握りこんだ拳ごと90度捻ると、そのまま拳を突き出した……杖は俺が握っているのに何故動く? そうか仕込杖かよ!
 そう気付いた瞬間、杖の石突に取り付けられた滑り止め効果のある樹脂製のカバーを銀光が貫いて飛び出す。
「ちぃっ!」
 2号が持っていた細剣に似た、細くて薄い両刃の切っ先を遠ざけるために杖を握りこんだ左手を外側へと動かしながら首を右へと傾ける。これで十分に切っ先を交わすことが出来た……そう思った時には爺は向かって左側へと踏み込んでいる。
 俺が握りこんでいる部分を支点とすれば、力点に掛かるのが爺の小さな力でも十分に作用点である切っ先の方向を俺の顔へと向けることが出来た。
 糞っ! この爺は『戦う(ヤル)=殺す(ヤル)』という剣豪小説の中に棲んでいる連中と同じキ印で、大島以上に性質が悪い。奴にはもう少し世間体というか、殺す(ヤル)なら他人目の無い場所を選ぶ慎ましさがある。

 ただ後ろに下がる……戦いのセオリーから大きく外れる行動だが、この爺の攻撃が届く範囲から身を退かない限り避けられないから仕方な──畜生、後ろにはベンチがある。
 離れ際に杖を掴んだ左手を力に逆らわない方向へと強く捻るトリックを入れて虚を付くと、後ろに大きく右足で踏み切ってトンボを切る。右足に続いて踏み切った左足で爺の仕込み杖を下から蹴り飛ばそうとしたが、一瞬早く杖を引き戻される。
 だが半歩分の時を稼ぎペンチを飛び越しながら、首にかけていたタオルを引き抜き手首を使って鞭の様に振り、踏み込んで来た爺の顔の前にタオルが来た時に手首を返し「パン!」と大きく鳴らして牽制するが、爺は一瞬の遅滞も無く、更にもう一歩踏み込んで来るのが空中から見て取れた。
 糞っ! タオルが汗を吸って重たくなってさえいたならば、もう少し深い位置で手首を返して爺の左耳を打ち鼓膜でもぶち破ってやったものを、10km程度のランニングではほとんど汗もかかない自分の身体を初めて憎いと思った。

 それにしても人間は眼前で起きる予想外の出来事には反射的に身体が対応しようとするのは生理現象でありアクション漫画の登場人物でも無ければ、生き物である以上それから逃れる事は出来ない。爺といえども無視出来る訳が無いのだ。
 だがそれを精神力で抑えきったのだ。極僅かに発生した驚きは、それによって生じた遅滞を俺にすら悟らせないほどまでに抑え込み追撃を続けたのだった。
 化け物爺め! フィクションの世界に帰りやがれ……俺の常識がぶっ壊れる前に。


 空中で1回転を終えて着地しようとするタイミングで、爺は足元の芝生ごと土を俺の顔を目掛けて蹴り飛ばしてきた……これではチート抜きの真っ当な手段では飛び散る土は避けられない。
 俺は目が見えなくなって心眼に目覚めたり、小宇宙だの第七感に目覚めたりするような主人公適正は無いので、戦いの最中に視力を奪われる訳にはいかない。左手を顔のすぐ前、目の高さに水平に構えて目を瞑らずに細めて土に備える。土を被る瞬間に爺が仕掛けて来ないはすが無いからだ。

 細くしか開かれてない瞼の隙間から、土埃の乗った睫毛越しに見える視界の中で確かに俺は爺の姿を捉えている。
 俺は爺の策にきっちり対応したつもりだったが見通しは甚だ甘かった。目に見えるその姿と、耳を通して伝わる踏み込みの音や地面から伝わる振動の間に僅かタイムラグを感じたのだ。
 しまった! ……そうだ、人間は明るく視認状態の良い状況で見たものと暗く視認状態の悪い状況で見たものでは認知処理への負担の違いから、後者が遅れて見えるようになっている。
 そのためにサングラスを片方のグラスを外した状態で掛けて動くものを見ると、コンマ数秒の差だがグラスの入った方の目で見る方が遅れて見えるというのを本で見た。幾ら俺の脳の処理速度や視力全般が向上していてもその頚木からは完全には逃れらない。
 つまり今、俺の眼で捉えている爺はコンマ1秒以下だが過去の姿──そう認識して回避するのと仕込み杖が俺の首の右横を皮膚のほんの表面を切り裂きながら通り抜けていくのは同時だった……爺め、本当に命を取りにきやがったな。俺じゃなければ首を突かれているぞ!

 切れた。首の傷の事じゃなく堪忍袋の緒が切れた。ブチ切れだ!
 怒りに任せて振るった右の裏拳が捉えると、仕込み杖はくの字にへし折れて爺の手から、まるで俺の敬老精神と同様に吹っ飛んでいった。
 俺の攻撃を目で捉える事が出来る目を持つ者は、この場には紫村と香籐しかいない。その2人にしても距離が離れていたために見えただけで爺の立ち位置にいれば見えなかったはずだ。
「何?」
 知覚すら出来ずに、己の手の中から杖が失われた事実に爺が驚きの声を上げる。次は悲鳴を上げさせて最終的には泣き叫ばせてやるよ!

 杖を失った爺が懐中に手を伸ばし──石礫がその手を打った。
「北條先生!」
 石を投げたのは北條先生だった。恐ろしいほど感情を殺した目で自分の祖父を見つめている。
「……お祖父ちゃん。何をしてるの?」
 こ、怖い! 北條先生が怖い! 爺も顔を青褪めさせている。
「や、弥生……何って、それは──」
「それは……何?」
「いやなんだ……冗談、そう冗談だ」
「へぇ……冗談で私の大事な教え子を殺そうとしたんだ」
「殺そうなんてしてない。ただちょっと行き過ぎただけだ……な?」
 爺は必死の形相で俺に同意を求める。こちらに目を向けた彼女に俺は思いっきり良い笑顔で首を横に振って見せた。
「こ、小僧っ!」
 何だ、その裏切られたと言わんばかりの怒りの叫びは? 俺は貴様に対して1mmたりとも心の距離感を縮めた事も無いし、1mmgの同情も、刹那のシンパシーも無い。筋違いな怒りは止めて貰いたい。
「私に嘘まで吐くんだ」
「ま、待て弥生──」
「お祖母ちゃんに言いつけます。ある事ある事を全て」
 ある事無い事じゃないのでは救いようが無い。
「勘弁してくれ!」
 ……うん、嫁さんが一番怖い訳だ。もしも会う機会に恵まれたなら気に入られるように最大限の努力をしよう。

 マルが繋いでいたリードを振り切ってこちらにやって来て、爺を睨みながら「うーっ!」と唸り声を上げる。
 俺が頭を撫でながら「大丈夫、大丈夫」と背中を軽く叩いてやると小さく鼻を鳴らしながら身体を俺の足の間に入れると首を伸ばして顔を舐めてくる。
 ここまで心配してくれると嬉しいと思う反面、申し訳なさに胸が締め付けられる。

 ここで問題がある。俺達の周囲には護衛がついている。周囲を取り囲むように展開し外側に監視の目を向けているだろうが、近くにいる2名には紫村と香籐が作った壁越しにトンボを切った俺の姿が見ていたはずだ。
 幸いなのは開けた運動公園をカバーするためには人手が足りずに、その2名さえも距離が少し離れていたために、僅か数秒の間に何が起きたのか正確に把握出来たとは思えないことだが、あの仕込み杖を発見されたら爺は捕まるだろう。
 それは俺にとっても社会にとっても素晴らしく良い事のなのだが、自分の祖父が刃物を振り回して生徒に襲い掛かったとしたら北條先生の立場も危うくなる。下手をすれば別の学校へと転任……いや、教員の資格すら失いかねない。それはまずい。

『香籐。さりげなく移動して仕込み杖を回収してしまっておくんだ』
 首元を隠すためにジャージの前のファスナーを一番上まで引き上げながら【伝心】で指示を出す……少しはみ出て隠し切れていないか。
『はい!』
 香籐はそう答えると、トイレにでも行く様な素振りで、俺達の輪から離れると護衛たちの目を避けるように仕込み杖に近づくと、歩を緩める事も屈むなどの動作も見せずに収納して回収し、そのままトイレへと向かった。
 周辺マップで確認していた限りにおいて近くの護衛達には、香籐のした事に気付いたような緊張などの精神的変化は見られなかった。
『よくやった』
『頭のおかしい爺のせいで、北條先生のお立場を悪くする訳にはいきませんから』
 香籐も爺に関しては歯に衣を着せない。

「大丈夫ですか?」
 護衛の警官達が声を掛けながら近づいてきた。彼は空手部員達に張り付いている護衛の中の責任者とも言うべき立場の坂本と名乗ったが、階級やどの部署に所属しているかなどは一切口外していない……紫村は既に知っているようだが、俺は聞かないし聞きたくない。

 彼の声からは緊張感を感じない。何かあったのか確認のために近寄った程度なのだろう。
「このお爺さんがボケて暴れただけですよ。仕方が無いですよ誰だって歳を取ったらボケるのはね」
「そうですか、それでは仕方ありませんね……それでお怪我は?」
 ……この男は食えないな。俺の言葉を信じたのか、それどころか本当に爺の暴挙を見逃していたのかすら分からない。全く感情がフラットなのだ。
「大丈夫です。僕がボケの入った老人1人をあしらえないと思いますか?」
 彼らはこの1週間俺達の練習風景を見ているし、木曜日の『恒例、春のランニング祭り』では止めに入ろうとして、排除されている事から俺達の実力は知っている……だが、ほんの一瞬だが坂本の視線が俺の首元へと流れた。
 今の俺の回復能力なら、もし僅かにでも血が流れていたとしても傷は完全に塞がれているだろう。だが斬られた皮膚の薄皮は、すぐに下から新しい皮膚が再生するが、破れた皮自体は決して元には戻らずに白く浮いてその存在を示す。
 気付かれた? 知っていて見逃してくれたのか? それとも何か思惑があるのか? 要注意だ。

 爺は俺の言葉に何度か反応したが、その度に北條先生にわき腹をきつく抓られては己を押し殺していたが、坂本達が立ち去り定位置に戻ると、早速殺意を込めた視線をぶつけてくる。
 それに対して俺は身長差を活かして侮蔑の目で見下ろしてやった。
「小僧。ボケ老人とは言ってくれるなぁ?」
「黙れ糞爺。北條先生と血のつながりは怪しくても戸籍上の祖父であった事を感謝しろ。さもなくば貴様などとっくに警察に突き出しているわ」
「随分と態度が違うじゃないか? それがお前の本性だな」
「本性? 何を言っている。人に対する礼遇と犬に対する待遇と狂犬に対する処遇。全てが異なっていて当然だろう」
 そもそも家庭内実力者が、この爺ではなく北條先生の祖母である事が分かった以上。爺は用無し、こいつに配慮してやる必要などない。
「俺を犬呼ばわりとは良い度胸だ」
 一人称が儂から俺に変わった。怒りに本性が出てしまったのだろうか? いや、やっぱり『儂』なんて一人称は無理に使っていただけで、本人も恥ずかしかったのでこっそり俺に戻したと、好意的に判断してやろう。
「お祖父ちゃん。高城君は狂犬呼ばわりしているのよ。斬りつけた相手に情けを掛けられ庇って貰って恥を晒した上に、恩知らずにも食って掛かる誰には実に的確な呼び方だわ」
「や、弥生ぃ……」
 可愛がっているのだろう孫娘の言葉に涙目の爺。
「今回の件は全て祖母様に伝いえてしっかり叱って貰います」
「…………」
 声も無く項垂れる爺……そこまでか、そこまでの圧倒的な家庭内実力者(オピニオンリーダー)だとは……絶対に気に入られるように頑張ろう。それが北條家への婿入りの最短ルートと見た! その最短ルートすらも果てしなく長いんだけどね。

「それで爺は、孫に折檻される様を見せにわざわざこんな所まで来たのか?」
 正面には俺が、左後方には香籐が、そして右後方には紫村が立って爺の動きを封じている……この囲みならば
 ここまでするのには理由がある。周辺マップで『刃物』で検索をかけると8本の刃物が爺のシンボル周辺に表示される。他にも暗器の類を警戒して『含み針』で検索を掛けるとこれまたヒットした。ついでに『含み針+毒』で検索をかけるとこれまたヒットする……警戒しない理由がどこにも見つからない。むしろ今からでも警察に突き出すのが市民の義務じゃないか、そんならしくもない事が頭の中を過ぎってしまう。

「だから言っただろう、お前らの師匠が死んだと聞いたからだ」
「それなのに続きを話す前に勝手に盛って襲い掛かってきたと」
「ちっ、自分で誘っていおいてよく言うもんだ」
 爺が不貞腐れても全くかわいらしさは無い。
「やる気満々なのを面に出して隙を見せたら喰らいつく。一体どこのダボハゼだ?」
「主導権をとりたくて必死な小僧が、拙い腹芸で隙を見せたんだ。乗ってやるのが年長者の務めというやつだ」
「その油断の挙句に自分の得物をぶっ飛ばされてか? とんだ未熟者。俺を小僧と呼ぶお前の人生とはまさに馬齢を重ねるのみだったようだな」
 鍛え上げられた技で挑むなら分るが、口で俺に挑むとは余りにも愚か。拳による戦いと口での戦いなら俺は後者の方が得意なくらいだ。

 実際、爺は実力の全てを出してはいなかった。俺がどれ程の兵法を使えるのかを確認するため手加減しながら手探りしていた状況だったのだろう。
 そこで俺がいきなり使うべきではないギアへと入れて一気に振り切ったに過ぎない。
 俺としても勝ったなどとはとてもいえない状況だが、それでも爺にとっては負けは負けなのだろう。しかし、そんな事は無視して容赦なく爺に敗北感を味あわせる……うん卑怯かもしれないが、相手が相手だけにむしろ清々するわ。

「…………」
 爺は言葉を無くし、ただ顔だけで怒りと悔しさを表現するのみ……良いぞ、実に良いぞ、その顔を見たかった。
「お祖父ちゃんがいつも口にする腹を切るべき状況ね」
 北條先生は、感情を込めずさらりと言い捨てた……ちょっと怖いが、それが良い。目覚めてはいけない何かが目覚めてしまいそうだ。
 それにして腹を切るとか切らないとかやはりこの爺は大島と根っこが同じ危険人物だという事だ。
 いや、生まれ育った時代的に大島に輪をかけてフリーダムでワイルドに育っていると考えるべきだろう。
「弥生ぃ~~」
「良いから早く要件を伝えてあげてください。彼らもお祖父ちゃんほど暇ではないんですよ」


 北條先生に促されて爺が口にした内容は、空手部が活動停止となり学校施設を使えず放浪の空手好きの集いになってしまった俺達のために、以前北條家で開いていた長刀教室で使っていた道場を開放しても良いとの事だった。
「でも、何故長刀を教えるのを辞めてしまったんですか?」
「お祖母ちゃんが教えていたんだけど、去年から体調を崩してね。それ以来閉じてしまったの」
「すいません不躾な質問をしてしまいました」
 やばい。北條先生の祖母の体調が悪いとなれば、何れは家庭内序列に変動が起きて爺がトップに躍り出る可能性も十分にある……迂闊だった。幾らブチギレたとはいえ対立構造を作らずに、もう少し態度を保留するべきだった。
「良いのよ……それに長刀は元々北條の家の業ではなく、お祖母ちゃんの実家の四上流長刀術で、お祖母ちゃんの趣味でやっていたものだから、だから誰かに継がせるわけでもなく……という事だったの。それで小さいけれど道場が空いていいるの誰も使わないと建物って傷んじゃうでしょう。それならしばらくの間でも皆に使ってもらえば良いと思ったのよ。お願いできるかしら?」

「僕個人としては、この話は是非受けたいと思います」
 どうせ隠居し無聊をかこつ爺もセットで付いてくると考えると是非にとは言えないのだが、しかし北條先生に「お願いできるかしら?」なんて言われてNOとはいえない……いやいや、ちゃんと1年生を鍛えるという当初の目的に適う条件だからだよ。
「それで皆の意見も聞いた上で決めたいと思うので、少し時間を頂けますか?」
「構いませんよ」

「どうする、絶対爺が練習に口出ししてくるぞ」
「そこは主将の高城君がシャットアウトするという事で」
 副主将が面倒事を俺にぶん投げた。
「そうだな。これから雨季に入ったら屋根が無いとつらいからな。それに北條先生とお近づきになれるチャンスだ」
 そうだなって、何がそうなんだ田村! 大体、北條先生とお近づきとか色ボケしやがって当初の目的を完全に忘れてるねぇか。
「そのために主将と副主将がいるんだし」
「おい!」
 いきなり伴尾に厄介な問題を振られた櫛木田が突っ込みを入れる。
「お前に文句を言う資格は無い。とは言っても櫛木田じゃ全く爺の抑えにはならない」
「おいっ!」
「言っただろ油断していたと。あの爺は全然本気じゃなく手加減しながら様子を見ていたら、想像以上に俺の力量が上で本気を出す前に武器を払い飛ばされたって訳だ」
 しかも俺の本気の方はシステムメニュー込みの力だ、そんなものを想像出来たとしたなら爺の正気を疑うレベルだ。

「高城君。この話は受けた方が良いよ。1年生達のことを考ええるなら武器を持った相手への対処法も身に付けた方が良い。それにはあの老人の力を借りるのが一番早そうだからね」
 流石は紫村だ。三馬鹿とは違ってちゃんと目的を見失わない。俺が後輩だったらこんな頼れる先輩を持ちたい……ホモでさえなければ。
「そうか……確かにうってつけって奴だな」
「襲ってくるような連中が素手な訳が無いし、最初から対武器戦を想定させた方が良いな」
 やっと気付いたようだ。
 ちなみに空手部の2年生以上にとっては決武器を持った相手に素手が不利だという感覚はない。
 鎧などの防具を身に付けた者同士の戦いなら、武器による攻撃力の向上は悪くない選択だ。だが特に防具を身に付けていない奴を相手にするなら素手の方が速さで優位に立てる。
 武器は飛び道具などを除けば、武器自体の重さがあるほど、そして握った場所と重心との距離が離れているほど、攻撃の始まりと攻撃が相手に届くまでの時間が長くなるのは避けられない。
 そして一度攻撃の動作が始まると修正が利き辛く、また攻撃を終わりから次の攻撃への時間も長いなどの弱点を多分に含む。
 ならば『堅きを避けて疵をせむ』である。流れる水のごとく高み(Strengths:強み)を避けて、低き(Weaknesses:弱み)へと流れれば勝機は掴める。むしろ武器を持ってしまったが故に手放すという選択肢を選ぶのが難しい相手に比べればかなり分は良い。
 だが、口にするのは簡単だが、これが意外に難しい。武器への恐怖心が身体を戦いの場で身体を縛り上げてしまう。
 それを克服する方法は実に単純だ「ナイフなんかで切りつけるより。自分の拳で殴って骨を砕いた方がダメージが大きいよね」と自覚すれば武器への恐怖は消えはしないが、冷静な戦力の比較が出来るようになる……空手部ってそんなところなんだよ。
 だが単純だけに多くの時間と経験が必要になるので、今の状況では手っ取り早く対武器の経験値を稼ぐ事で、対処法を身に付けていく方が早いという考えには同意する。
「それでは、北條先生からの申し出を受け入れるという事で異論はないか?」
 俺の問いに良く分からないといった様子の1年生を除けば全員頷いたため、北條先生の申し出を有り難く受けさせて貰う事を決めた。

「北條先生のお話を受けさせて貰います。よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げ、他の部員たちも一斉に頭を下げると「そうですか。こちらも助かります」と北條先生は、学校でのクールビューティーさとは違った可愛らしいとさえ感じてしまう温かな笑顔で応えてくれた。
「本当に凄えなぁ餓鬼共がデレデレだ……」
 爺の呟きを聞き取れたのは俺。もしかしたら紫村と香籐にも聞こえたかもしれないくらい音が抑えられていたはずなのに、北條先生は爺をキッと睨みつけた。


 うん凄いね。地元の人間なら誰でも知っている北條先生の実家。
 高さ1mほどの石垣の基礎の上に白い土壁を築き、更に丈夫には瓦まで葺いてある立派な塀。それで一区画まるまる全てを囲む敷地……どこから見ても武家屋敷である。
「えっ? ここって北条先生の家だったんですか?」
 1年生達が驚きの声を上げる。俺もそれを知った時は驚いた。
 そんな事は無いと分かっていながらも、どうしてもお殿様が住んでいるようなイメージが頭を離れなかったため、お屋敷のお姫様が教師をやっているというギャップが受け入れられなかった。
「広いだけがとりえの古い家だけど、どうぞ入ってください」
 古いというよりも歴史を感じさせると表現すべきだろう。丁寧に人の手が入っているためだろう経年劣化による変化はみっともなさではなく良い具合に寂れた趣を醸し出している。
 彼女の言葉を受け入れるなら、父さんには悪いが高城家は良く言って山小屋レベルだ。

 門から母屋の玄関へと続く飛び石が配された道の右手には、庭があり大きな池を中心として周囲に岩と石を組み合わせて配置し、高さのある木は要所要所へ柔らかな木漏れ日を落とす影を作るようにバランスよく植えられているために日本的美意識である侘びではなくとも落ち着き安らげる雰囲気を作っている。
 日本庭園といえば枯山水しか頭に無い俺にでも良い庭だと感じることが出来る。もっとも、池の上に張り出すように建てられた四阿を見て、夏の昼寝にもってこいだと思う位だけどな。

 道を挟んだ左手には道場だ。しかもかなり大きく、中では大勢の門下生達が修行中なのだろう。鋭い気合と竹刀が簿具を打つ音が響いている。
「流石に授業のレベルとは随分と違うな」
 音だけで違いが分かる的なことを口にしてみた。
「授業のレベルと比べたらどちらにも悪いよ」
「大体、中学校の授業とか部活ではやってはいけない段階ってのがあるだろ?」
「ドヤ顔がきめぇんだよ!」
 ……ここぞとばかりにボッコボコですよ。
「そうですよ。授業や部活で生徒を本気で扱いたら、私は教師を首になってしまいます」
 御尤もです……ただし大島は除く。
「……そう考えると大島先生って何者なんでしょう?」
「そうだな。それを知ってしまうと決して幸せにはなれない存在だな」
 岡本に田村が答える……なんて説得力だよ。


「ここが皆に使って貰う道場です。マルちゃんは上がれないから、入り口の前の木にでも繋いでおいてください」
 先ほどの道場の建物に比べるとずっと小さいが、それでも内部は学校の格技場と同じくらいの広さがあり俺達が使うには十分すぎるスペースだ。
「想像以上に立派ですね。本当に僕達が使っても構わないんですか?」
 正直なところ、ちょっと気後れしている。道場は木造で柱や梁も太く立派で、どこか寺のお堂内に似ていなくも無く、地方公務員の小倅の庶民感覚をグイグイと威圧してくるように感じてしまう……やはり道場は鉄筋コンクリート造りではこの迫力は出ないな。
「構いませんよ。それでは始めましょうか?」
 笑顔で北條先生にそう言われて、俺達は思わず「はい」と答えてしまった。何を始めるのかも聞かないで。


「それでは試験に備えて、皆で勉強をしましょう」
「えっ?」
 あまりに想定外な言葉にそう聞き返すしか出来なかった。
「勉強です。あなた方が1週間も皆より遅れているのには同情するべきことが多々あります。でも試験前期間だというのに放課後はいつも通りに練習を続けていた事に関しては同情の余地はありません。これで成績が下がったなんてことは許しませんよ。ですから試験が終わるまでは放課後、毎日ここで勉強をして貰います」
「あ、あの……先生?」
「先ほど『はい』と答えた以上は問答無用です。しっかり試験で良い成績を出して学校側に空手部の活動再開の許可を貰わないと駄目ですよ」
 どうなってるんだ! と爺に目を向けると、シラケタ顔して「勉強かよ、つまんねェな」と小さく吐き捨てると俺の視線を無視して道場から出て行ってしまった。
 ちょっと待て! 爺ぃ本当に待て! こんな話聞いてないよ!


 最初からこうなる事は北條先生の中では既定だったのだろう。
 1年から3年の全教科の教科書の試験範囲をコピーしたプリントに筆記用具が用意されていた……ここまでされてはNOとはいえない。
 2年生達なんて「北條先生が俺達のためにここまでしてくれるなんて」と感激しちゃってるから、断ったら暴動が起きる……パトカーひっくり返すのは俺に任せろ!

 北條先生は1年生に教えている。一番欠席の影響を受けてるのが1年生なので当然だが、そうなると面白くないのが上級生達だ。
 先輩後輩の仲が良いのが空手部の伝統だが、こればっかりは話が別だ。しかもまだ1年生達にとっては彼女は担当学年が違うただの学校の先生の1人に過ぎない。故に『豚に真珠』『猫に小判』『ブスにカネボウ』そんな妬みの声が漏れ聞こえる。

「先生。ここが分かりません」
「僕もここが分からないんですけど」
 田村と伴尾が競うように北條先生に質問を投げかける。下心が見え透いてるわ。
 中学3年生にもなって我侭な甘えが可愛いとでも勘違いしてるのか? ……彼女の妹への甘さを考えると有りなのかもしれないが、だが俺はお前らを置き去りにして次のステージに立つ。
「1年生の勉強は僕が見ますよ」
「貴方の勉強はいいの?」
「僕も受験生ですから普段からきちんと勉強しています。だから先週の分はもう取り戻していますよ」
「そうね、高城君はしっかりしてるから大丈夫よね。お願いするわ」
「任せてください」
 ……どうだ? お前達は何時までもママに甘える赤ちゃんでいるが良いさ。俺は頼られる男になる!
「それでは僕は2年生を教えます。先生はこの出来の悪い2人を教えてあげてください」
 すかさず櫛木田が俺の作戦に乗ってきた。まさに機を見るに敏。世渡り上手な副主将め。必ず蹴落としてやる。
 北條先生とお近づきになる次のステージは俺1人分のスペースしかない。お前がそこを目指すというのなら何れ雌雄を決する事となろう……ちょっと空しくなってきた。櫛木田などと争ってるようじゃ駄目なのだ。
 実際、2年生達に教えると称して、過去の出題傾向から中間試験に出る問題を予想して「これとこれは確実に出るから憶えろ」などとピンポイントに教えて先生から怒られ、更に試験の裏技を教えてこれまた怒られる馬鹿である。
 ちなみに試験の裏技とは、問題を解くのではなく出題者を攻略する方法であり、良く知られる効果的な手法は国語の選択問題対策である。
 例えば「長文を読んで、傍線部の部分における主人公の心情を以下から選択せよ」という問題があった場合に、出題者は間違った解答例を作らなければならない。
 その際に出題者の多くが、正解の文章から間違った解答例を作り上げるために、解答例の要素を抜き出して他の解答例と類似する要素が最も多かった解答例が正解である可能性が非常に高い……なんて事は中学生の内から覚えるものではないというのが北條先生のお言葉だが尤もな話である。


「それではお昼休みにしましょう」
 北條先生の言葉に皆からは長いため息が漏れる。学校と違って休み時間無しのずっとだったから脳が酸欠気味になっていたのだろう。

 それにしても……勉強しちゃったな。
 毎日色んな事を勉強はしているが、学校の授業内容を授業以外で勉強したのは久しぶりだ。
 授業を真面目に聞いているだけで他に勉強はしなくても好成績は取れるという、学生なら一発殴らせて欲しいと思うくらい素敵なポジションに俺は立ったのだ……うん、何も困ることは無い。良かった良かったとしておこう。
 問題だったのは、やはり1年生達の勉強の進捗状況で、こうやって勉強する機会を得たのは良かったというべきなのだろう。
 だが空手部には毎年の問題の出題傾向から割り出したポイントをまとめた虎の巻が存在する。大島のシゴキに耐えつつ学力を維持するために用意されたもので、今年度版の1学年2学年用の作成は卒業した前主将と俺と櫛木田の合作で、3学年用のは他の先輩達が製作してくれた。
 その虎の巻を使って今回のテストでは成績を稼いで貰って、期末試験までに学力を上昇させる予定だった。
 レベルアップの当てがある今なら、全員をパーティーに入れて身体能力だけでなく知能の向上もという方法があるが、流石に18人全員を紫村の家に集める事は出来ないからな……そんな事を考えていると、今度は全員で平行世界送りという可能性もあるから深く考えないでおこう。
 いや可能性というよりも、積極的に平行世界を利用するというのも考えておくべきなのかもしれない。今ならまた飛ばされたとしてもシステムメニューの力で戻ってくる事が出来るから、むしろ自分の意思で平行世界へ行くことが出来たなら大量の経験値を得る事が出来るようになる。

 余計な方向に気が行ってしまったのを軽く頭を振ってクリアする。
「じゃあ、昼飯の買い出しにコンビニに行く──」
「お昼はこちらで用意しているわ」
「北條先生の手料理?」
 そんな呟きにも似た声が部員達の間から漏れた。
「いえ、そこまでして頂く訳には──」
 流石にこの大人数でご馳走になるのは申し訳ないと遠慮しようとする俺の背後で連中のうめき声が上がる……お前らな、18人分の食材だけでもかなりの出費になるんだぞ、食材費だけでも払わせて貰えるならまだしもだが、子供が大人に金の事で気を使っている素振りを見せるのも失礼だと思う。
 もし自分が奢ってやるといってるのに下級生から「やっぱり自分で払います」と言われたら……やっぱりイラっとするからな。
「門下生の皆さんの分と一緒に皆の分も作ってあるから、それに別にご馳走って訳でもないので遠慮しないでね」
 大人数用の炊き出し的なもので、もう作ってあるのか……そう考えると、少しだけ気が楽になり「ご馳走になります。よろしくお願いします」と頭を下げてしまった。決して背後からのプレッシャーに負けたわけではない。

 案内されて本道場に行くと、中には三十数名程度の剣道着に袴姿の男女が配膳などの準備をしていた。
 年齢層は大体、大学生くらいから30代くらいに集中している。俺達のような中学生らしき門下生はいないようだ。
 彼らが俺達を見る目は鋭い。鋭いというか最初から目付きが良くないだけで睨んでいる訳ではない。まるで俺達みたいであり、どこか堅気じゃない空気が漂っている。
「失礼します」
 彼らに一礼してから靴を脱いで上がる。

「小僧ども勉強は終わったのか?」
「まだよ。試験まではずっと勉強をしてもらうから、お祖父ちゃんと違って暇じゃないの」
 やくざ者のように絡んでくる爺を北條先生がシャットアウトする……ああ煽ってやりたい。「ねえ? ねえ? どんな気持ち? 可愛がっている孫娘にけんもほろろにされる気分はどうなの?」と煽ってやり、その悔しがる顔を見てみたい。
「弥生。お祖父ちゃんにそんな言い方は──」
 北條先生のお父さんと思しき、ロマンスグレーの総髪で髭のおっさんが立ち上がり諌めようとする。
「お父さん!」
 やっぱりお父さんでした。将来は俺のお義父さんになるかもしれない人だ。
「な、何だ?」
 娘にピシャリと遮られてちょっと腰が引ける髭のオッサン……この一族は男が弱いな。
「お祖父ちゃんは、仕込み杖で高城君に襲い掛かって怪我を負わせたのよ!」
「! ……お、親父?」
「ちっ、何だよ。あんなのかすっただけだ。怪我の内に入らなねぇだろ」
「ほ、本当に? ……そ、その怪我をしたという子は大丈夫なのか? 怪我の様子は?」
「これよ」
 そう言って彼女は右手で背中越しに俺の右上腕を掴んで後ろに引いて肩を反らせながら、左手で前回しに俺の左即頭部を掴むと自分の方へと引き寄せて、俺の首の右側の一直線に薄皮が割れて白くなっている部分を髭のオッサンに示した。
 好い……後ろに引かれた俺の右肘の先は彼女の柔らかな胸のふくらみに食い込み、引き寄せられた顔の左頬は彼女の白皙の額に触れている。そして何より背中の左側に左胸のふくらみがグイグイと押し付けられている。
 もう俺の股間が勃っち&Go!ですよ。絶頂して(いって)も良いかな? ……自分でも何を言っているのか分からない。
「一瞬でも高城君が避けるのが遅かったら怪我で済まない様な事をしたんだから!」
 突きつけられた事実に髭のオッサンは言葉を失い、水から揚げられた金魚の様に口をパクパクとさせている。剣の腕はどうか知らないがメンタルは爺ほど強くはなさそうだ。
「お、終わった……北條流もこれで終わりだ。よりにもよって子供に対する刃傷沙汰など」
 そう呟いて膝から崩れ落ちる……改めて言葉にして聞くと凄い事してるぞ爺。
 周囲の門下生達も「有明(ゆうめい)師匠ならありえる」「しかし、門下生でもない中学生になど……」などと諦めにも似たような声が上がる……爺の名は『ゆうめい』という名前なのか変な名前だと、名前にすらケチをつけたくなる。

「僕は北條先生のお立場を悪くするような事をするつもりはありません」
 まるで好青年のような態度でフォローする……いや、好青年だよ。好青年だから俺。
 北條家にとって俺は敵ではなく味方の立ち位置にあるということだけははっきりさせておく必要があった。
「何故そうまで娘を庇ってくれる? 私は自分が息子でなければ、とっくに父を訴えて刑務所送りにしているはずだ。いやこの際、良い機会だから家名を汚し、北條流の看板を下ろすことになっても、むしろその方が良いのでは思わないでもないくらいだ」
 オッサンは爺への積年の恨みをぶちまける。とても初対面の中学生に言うべき話ではない事を口にせずにはいられない……気持ちはとても良く分かる。
 大島≒爺と考えると同じ被害者。いや爺の息子として長年苦労した事を考えれば被害者の大先輩だ。強くシンパシーと共に尊敬の念すら覚える。

「ふん」
 そんな息子の気持ちを爺は鼻で笑って受け流す。これは分かっていてまるで悪びれていない悪党の顔だ。この爺に大島に比べて救いがあるとするなら老い先短い事くらいだろう。
「東雲(しののめ)。その小僧が弥生を庇うのは惚れているからだぞ」
「はっはっは馬鹿な。一体何を言うかと思えば、中学生と弥生では10以上も歳が離れているではないですか父上?」
「それが餓鬼どもを手当たり次第に誑しこんで逆大奥状態だ」
「逆大奥……や、弥生?」
「そ、そんなのお祖父ちゃんが勝手に言ってるだけの事だから!」
「そうだよな。お前に、そんな事をするわけが無い──」
「弥生。何時までも抱きついて胸を押し当ててるんじゃねぇぞ」
 そう。北條先生による幸福固めはまだ続いており、俺が頭の中で読み上げていた素数は5905187、5905213、5905217、5905243、5905247、5905253、5905279と既に7桁台の半ばを越えていた。

「あっ! こ、これはそういうんじゃないから!」
 慌てて俺から手を離して飛びのくと、そう叫んだ。
 ほっとする反面、物凄く残念。
「何なんだ? その昭和のラブコメ漫画のような反応は? まさか弥生。本当に?」
 オッサンもラブコメ読んでたのかよ……髭なのに。
「何を馬鹿なことを言ってるの?」
 やっぱり馬鹿な事なんだ……そう落ち込んでいると門下生の間からささやく様な話し声が聞こえてくる。
「弥生さんは……ないわ」「無理というか不可能ですよね」「もし本当なら心から尊敬する」「兄貴とお呼びしよう」
 ……あれ? 何かおかしくない? これは一体どういうことなの?

「待たせたな!」
 道場の入り口に立つ何者かが叫んだ。逆光で良く見えないが声からして間違いなく女性。
「待ってないわよ!」
「皐月。父さん達は今は大切な話をしてるんだ。だから頼むから大人しくしていておくれ」
「おお、そういえば冷蔵庫に祖父ちゃんのプリンが入っているから、それを食べてきなさい……な?」
 北條皐月。北條先生より2つ下の社会人で銀行に勤めている。年齢的にも立場的にも立派な大人だというのに、家族から明らかに可哀想な子扱いされているようだ。

「あの人が北條先生の妹さんですか?」
「まさに先生の眼鏡無しバージョン!」
「目元がちょっと垂れてて、可愛い系ですよ」
 噂のというか俺からの話でしか聞いた事の無い妹さんの登場に、空手部の連中の心が熱く沸き立ったようだ。

「姉さんが中学生男子による自分のハーレムを引き連れて来たと聞いて、プリンなんか食べてる場合じゃないわ!」
 ……だ、駄目な人間だ。駄目な人間なのに自分に正直すぎる。これでも対外的な目を気にしているそうだが脇が甘すぎる。多分職場でもとっくに知られていて可哀想な人として気遣われているに違いない。
「ハーレム? ……人聞きの悪い事を言わないで! 第一この子達に対して失礼よ!」
 流石の北條先生もハーレム呼ばわりには怒る。俺達の名誉のために怒ってくれたのも狂おしいまでに嬉しいが、あながち的外れな指摘でもないんだよな。

「こんなピッチピチの若い子達を引き連れてハーレムじゃないとか同じ喪女の癖に随分と上から目線だわ」
 空手部の連中の盛り上がりは死海(地球上でもっとも標高が低い)の如く陥没した……これは無理だ。北條先生似の美人だが無理だ。万一北條先生と結ばれることが出来たとしても、親戚付き合いをするのは無理だ。
「引き締まった身体に精悍な顔だt……あーっ! 何よ凄い美形がいるじゃない」
 うん、紫村のことだ。
「それに可愛い子もいる!」
 可愛い子は、1年生の誰かかと思ったら香籐の事のようで指差して大興奮だ……ピョンピョンと跳ね回って喜ぶ大人って初めて見たよ。
「これは良い……まるで男子空手部シリーズの最新刊のタケル君とユウ君みたい」
 男子空手部シリーズ……あのおぞましいタイトルで如何わしい表紙のアレか? 本当にアレが北條先生の愛読書じゃなくて良かった。心から良かった。
「ほらほら、2人とももっと寄って寄ってぇ~、そして見つめ合うの」
 欲望むき出しにして手をワキワキ動かしながら2人に近寄っていく腐れ神様の前に、門下生の1人が割って入る。

「皐月さん。お客人に対して失礼な真似は慎んでください」
 三十絡みの男性が、苦りきった様子で苦言を呈す。
「失礼なんてしないわよ」
「そう言いながら、この子達を口にするのも憚られるような薄い本のネタにするんでしょう。我々にしたみたいに! 我々にしたみたいにっ!」
 2度言った。そりゃあ言いたくもなるだろう自分がホモネタにされたら。本当にこいつは最低だ。俺と紫村の薄い本を作ろうとしているクラスの女子並みに最低だ!

「崇高なる創作活動でしょ。私には剣道シリーズの読者5000人の支持があるのよ!」
 ご、5000? この馬鹿女は何をしてるんだ?
 次の瞬間、男性の手刀が彼女の額に叩きつけられる。
「いったぁぁぁぃ。何すんのよ!」
 そう叫ぶと同時に、もう一発叩き込まれる。
「5000人と言ったか? そんなに多くの人間にあの様な本を売ったのか?」
「5000冊は最新刊の販売数よシリーズ累計なら、その何倍もあるわよ!」
 こいつ本当に阿呆だ。煽ってどうする?
「このウツケめ! ウツケめ! シリーズって何だウツケめ! ウツケめ!」
 手加減こそされているが、額、頭頂部、側頭部と頭を満遍なく滅多打ちにされるのを見ながらそう思った。

「なるほどハーレムじゃなく。この中から婿を取って道場を継いで貰うと──」
 正座し、膝の上に10kg入りの米袋を3つ載せられた状態でも、反省することなく余計な事を口にしてもう10kg追加される。
「そ、そうだねこの子達が結婚出来る歳になるまで待ってたら、お姉ちゃんは三十じ──」
「29よ」
 容赦なくもう10kg追加される。ちなみに正座する彼女の脇には米袋が後5つ積み上げられている。
「く……予め数えてるって事は──」
 無言で更に20kg追加された。
「皐月。もう黙るんだ。口を開くたびに余計な事を言って状況を悪くするだけだから黙るんだ」
「うう、お祖父ちゃん助けて」
「……無理だ」
 爺は北條先生と視線が合った瞬間に反らして、そう答えた。


 昼食は俺の想像していたおにぎりに豚汁とは違い、ちゃんとした膳でご飯に、汁物、煮魚、鳥の照り焼き、漬物、サラダと豪勢という訳ではないがしっかりと手を掛けた料理が出て来た時は、思わず二度見してしまった。
 しかも、なし崩し的にご遠慮させて貰えない空気にてマルまでもがお昼を頂戴してしまっている。
「美味しいですね」
「ああ美味しいな。ご飯は釜で炊いたみたいだ。僅かだけど香ばしい焦げの臭いが入っている。メバルはこれは軽く干した物を煮付けているな」
 甘辛く煮付けたメバルをおかずにご飯を口にする香籐に答える。
「本当に高城は、作れないの味には細かい事いうよな」
 田村が呆れたように突っ込んでくる。
「ほっとけ」
「味が分からない訳でもないのに、どうしてあんな料理を作るのか本当に分からんな」
「そうだよな。味覚音痴というのならまだしも、味が分る癖にあんなのを他人に食わせようとするなんてテロの類だよな」
「お前ら。あまりしつこいと俺の手料理を食らわせてやるぞ!」
 冗談で、そう脅すと皆は視線を逸らせて無言で自分の前の料理を口に運ぶ……あの~冗談だよ。何で冗談じゃない! 的な態度を取るのかな?

「その美味しい料理は私が作ったんだよ」
「……そうですか、ご馳走様」
 突如食欲がなくなり箸を置く。
「何で──いったぁぁぁぁっ!」
 背後から頭頂部に落ちた拳の一撃によって頭を抱えて転げ回る。
「貴方は何もしていないでしょう! 見なさい皆の箸がとまってしまったじゃない」
 振り返ると、俺や部員達だけではなく門下生達も困った顔で箸を止めていた……これはまさか──

「飯マズか……」
「腐女子で飯マズ。喪女一直線だよな……せっかくの可愛い系のお姉さんなのに、もったいない」
 部員達から残念そうにため息と共に、そんな声が上がる。
「皆。皐月は何もしていないから安心して食べてください」
 その言葉に、門下生達はほっとした表情を浮かべると食事を再開する。
「高城君。君は他人事じゃないからね」
「頼むから俺を引き合いに出すな。さもなければ本当に手料理を食らわすぞ」


 昼食を終えると再び勉強の時間となり、夕方の4時までみっちりと勉強を続けた。
 中間試験は国語・数学・英語・社会・理科の5教科で範囲も狭い。しかも数学なんて算数の四則演算にプラス・マイナスの正負符号が入った程度なので、正負符号の使い方を教えるだけで十分だった。それでも例によってマイナスとマイナスの掛け算については1年生達から疑問の声が上がったので、それは北條先生に任せる……俺も北條先生から自分の耳で聞きたかったからだ。
 国語もまだ現文だけなので、小学校の延長線上の内容であり小学校で授業についていけていたなら何の問題も無く、範囲内の漢字の読み書きをしっかり憶えて、後は良くある「傍線部のアレ・ソレが何を指すのかを何文字で答えよ」について解き方を教えた。
 別に難しい事は何も教えない。ただ指示代名詞と、それが指し示す内容との間に、沢山の色んな内容を詰め込むのは不細工であり、そんな文章を書く奴はプロじゃないので、答えは指示代名詞の前でそんなに離れていない範囲にあると話した……これも試験のテクニックではあるが、文章の成り立ちを説明しているから……北條先生に叱られなかったのでセーフ!
 社会は、地理と歴史だが、これは記憶がものをいうがそれとは別に如何にポイントを絞るかが大切だ。
 ざっくりポイントを絞れば、ルーズリーフ1枚に余裕で収まる。このポイントだけを丸暗記するだけで確実に9割は点数がとれるだろう……ああ教えたい。教えてしまいたい。しかし確実に怒られる。
 仕方なく、教科書の必要な部分だけを取り上げて、重要度の高いポイントだけを抑えて「ここは試験に出るから絶対に憶えるように」「ここは試験に出ないだろうけど一般教養として知らないと恥ずかしいので憶えるように」と指示を出して一応メモらせた。頼むから試験に出ると言った方にチェックを入れて重点的に憶えてくれ。
 理科は……個人的に好き過ぎて、分らないと言う奴の気持ちが分らない。そうなると他人に教えるのは不可能であり、ポイントがというか全て必要かつ重要だから理解して憶えなさいと言って退かれてしまい教える役を降ろされてしまった。

「皆一生懸命頑張ってくれたので、明日一杯でかなり遅れは取り戻せそうですね」
 そう俺達は自由になる時間が少ないので、基本的にだらける事が無く、やるべきことは前向きにさっさと終わらせるために真面目に取り組み、1秒でも多くの自由になる時間を獲得しようする習性が身に付いている。
 1本の大作RPGに半年以上も掛けてクリアする伴尾の気持ちを考えて欲しい。自力でまだ誰も発見していない裏技やバグを見つけてネットの攻略Wikipediaに書き込んでも、既に皆は他のゲームに夢中でコメント1つも貰えない悲しさを伴尾はこう語った。『現実で感じる孤独感よりもネット上での孤独感は、本当に世界から孤立しているような寒さを覚えるよ』と……

 用意してもらった大きな座卓を片付けて、道場内を清掃して後は帰るばかりとなった時を待っていたかのように爺が現れた。
「よう。勉強は終わったか小僧共?」
「お祖父ちゃん。晩御飯はまだよ」
「誰がボケ老人だ! 俺は絶対にボケねぇよ!」
「……しかし、その一ヵ月後、あんなに元気だったお祖父ちゃんが、いきなり家族の顔と名前さえ分らなくなる重度の認知症を発症する事になるとは誰も、本人すらも、この時は思いもしなかったのです」
「喧嘩売ってるのか小僧! 年寄りのセンシティブな部分を容赦なくえぐりやがって!」
 どの面下げてセンシティブだ。センシティブに謝れ! そう罵りたいのを我慢して、無視すると北條先生に別れの挨拶をする。
「それでは北條先生、今日は本当にありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」
「そうね。明日も軽くランニングを済ませてからでも来てください」
 体育会系数学教師だけあってランニング程度は認めてくれるようだ。
「先生。明日はもっと早く来ても構いませんか?」
「僕ももっと早くからお邪魔させてもらいたいです」
 2年生達がとても前向きだ。だがそんなほのぼのとした学園的情景に苛立ちを募らせる者がいた。
「お前ら俺を無視するな!」
 この手の特別な存在と他人からみなされ、それを当然の様に受け入れてきた年寄りには無視が一番堪える。
「無視されるのに慣れてないのか? 自分が他人にとっては何の価値も無く、取るに足らないちっぽけな存在に過ぎない事を思い知るのは老い先短い人生にとっても有意義だと思うぞ。良かったな死ぬ前に人として極当たり前な事を体験出来て」
 舌の回転は絶好調。もう喧嘩無双を名乗ってもいいかもしれない……嫌だけど。
「死ね!」
 懐から苦無を抜き取ると何の躊躇いも無く投げた。
 だが、所詮は何を投げようがただの投擲に過ぎない。速度も100km/hを越える程度で、形状から軌道が変化する余地も無い。野球ならバッターボックスで欠伸しながら長打コースになる程度に過ぎず、不意打ちならともかく正面から投じられるなら距離が近いとはいえボールと思えば何の苦も無く横から掴む事が出来る……苦無だけに。
 受けると同時に、爺が手首のスナップを利かせて振った右手の中から飛び出した鎖に繋がれた分銅を打ち返した……萬力鎖だと? 鎖術かよ。大島から気をつけろと言われた武器であり、無手で戦う者にとっては最も相性が悪い武器の1つと奴が評した道具だ。

 爺は弾かれた分銅を右手を振って引き戻すと左手で掴むと、胸の前で両の手を合わせるように一瞬で鎖を手の内に納めた……確か合掌とか言う構えか?
 大島をして「鎖使い相手に戦うなら、痛いのは覚悟しておけ」と言わしめた。そんな武器をこの妖怪爺が使うのだから厄介この上ない。レベルアップで得た身体能力に頼らなければ勝ち目は無いだろう。だが別に相手の土俵で戦ってやる必要もない。

「この苦無は思わず受け止めてしまったけど、俺が避けたら奥さんの大切な道場に傷をつけることになってたよな?」
「ふん、だから避けられないように投げた」
「だったら老いぼれ犬、傷つけないように取ってこーい!」
 そう叫ぶと大きく放物線を描くように、天井付近まで高く投げ上げた。苦無の形状と重量バランスから確実に床に突き立つだろう。
「馬鹿野郎!」
 爺は必死に苦無の落下点を目指して道場の奥の方へと全力で走っていくのを見送る事も無く、俺達は足早に道場を後にした。

「ああぁぁぁぁぁぁっ!」
 背後で爺の絶叫が響き渡る。
「ヘボだな~……先生。お祖母さんには『お祖父さんが投げつけた苦無が刺さった』とお伝えください」
 そう笑顔で告げる。何も嘘は言っていない。
「……そ、そうね。そうしておくわ」
「黒い腹黒過ぎる!」
「恐ろしいわ!」
「流石大島に一歩も退かずに嫌味をかました男だ」
 北條先生と部員達が退いてしまった。


 門まで見送ってくれた北條先生に後ろ髪を引かれる思いで手を振りながら立ち去ると、俺と紫村と香籐の3人は他の部員達には気づかれないように、一旦それぞれが自分の家の方へと散ってから紫村の家に戻ってきた。

「2人は先に飯を食って風呂入って寝る準備をしておいてくれ」
 そう告げると、俺はマルと一緒に散歩に出かけた。
「僕も一緒に」
 そう訴えかける香籐に俺は首を横に振る。
「2人は6時位までに寝てくれると俺も助かる」
 俺は夢と現実の間を移動する場合、朝の5時半前という決まった時間に起きると何故か睡眠時間が少なくても平気なのだが、そうではない2人は6時間くらいは眠らせてやりたい。
「分りました……」
 凄く残念そうだ。犬好きなのに犬を飼えず、そんなところにちょっと心配なほど人懐っこいマルと出会って、かなりヤラられてしまったようだ……だがマルは渡さん。
「散歩から帰ってきたら寝る前に遊んでやってくれ」
「はい」
 頷く香籐を紫村に任せて散歩に出かける。


 マルと一緒に走りながら、朝に紫村達が言って話を思い出す……確かに最近のマルの体力は凄い。ペースを上げても全く遅れることなく長距離を並んで走る。自由に走らせたら20kmでも30kmでも走りそうな気がする。
 もしかして、香籐の言うようにシステムメニューが影響してレベルアップしているのではないだろうか?
 俺にぴったりと併走するマルに視線を送り続けていると、気付いたマルがこっちを見上げてきた。
 まるで「何ぃ?」と可愛く問いかけるようだ……顔つきはとても精悍で灰青色の瞳は独特なドスが利いているが、俺の目にはフィルターが掛かってるから可愛く見えるので問題ない。
 その姿に思わず微笑が漏れると、マルも俺の顔を真似て顔の表情を作ろうとしたかのように顔つきを変えるが上手くいかない。
「畜生、可愛いなマルは!」
 疑問もすっかり忘れて足を止めて、マルを抱きしめる馬鹿飼い主だった。

 給水休憩を含めて1時間で20kmを走破して紫村邸に戻る。
 この距離をただ走るだけではなく全く息を乱すことの無いマルに疑惑が強まる。
 門をくぐって玄関に向かう俺の後ろをマルが、まだ慣れない他所の家に不安そうに尻尾と頭を下げてついてくる。
「お邪魔します」
 鍵の掛かってない玄関を開けて中に入る。
「お帰り」
「お帰りなさい。主将。それからマルちゃん!」
 おう香籐。うちのマルを気安くマルちゃん呼ばわりか? 気安くするんじゃねぇぞ。
「ワン!」
 家にはビビッてた癖に人にはビビらないマルは、今日一日で随分と慣れた香籐に尻尾を振りながら駆け寄る。
「お帰りマルちゃん」
 首を伸ばして「撫でろ」のポーズを決めるマルの頭を抱えるようにし、左手で顎の下から首、そして胸を。そして右手で頭から首、背中を撫でる。気持ち良さそうにうっとりとした表情で身を任せるマルの姿に、嫉妬よりも「そんなにも犬が好きなら、親を説得して飼えよ」と思ってしまうが家庭の事情に踏み込む訳にはいかんよな。


 3人で一緒に夕食を食べてから俺は風呂に入り紫村達は寝た。
 俺が魔法研究に入るとマルは、少しは慣れたところで横になり、すぐに鼻から抜ける小さな寝息を立て始めた。
 遠距離通信が可能な魔法の開発に目途はついている。
 通信待機状態を維持していない相手と通信するのは現状では不可能だと判断して、その役割を代替してくれる方法を考えてマジックアイテムを使用するというアイデアにたどり着いたからだ……嘘だけど。
 実は、店の前にスロア領の領主の手の者が張り付いていたことを告げると魔道具を渡された。
 それは魔力を込めると魔道具の現在位置をミーアの持つ魔道具へと送る物で、その情報を受け取ったミーアが対象の周囲の壁、もしくは垂直に切り立った物体の側面に『道具屋 グラストの店』へ繋がる扉を作ることが出来るので、宿屋の室内からでも直接店内に入ることが出来るようになったのだが、魔道具によって位置情報だけとはいえ情報を他の魔道具へピンポイントに伝え、所持者にそれを伝えることが出来るのなら、長距離通信魔法の開発で障害となっている壁を一転突破で突き抜ける事が出来ると気付いたのは、現実世界に戻ってからだった。
 それにしても、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのか? それは簡単だ。魔道具の作成方法が分らなかったから……単に魔法陣を組み込めば良かったに。
 勿論普通に魔法陣を書き込むだけでは魔道具にはならない。魔法陣は基本的に一発限りの使い捨てであり、一度発動すると書き込むのに使ったインクの中に込められた魔力を蓄え、魔力を効率よく流すための粒子──龍の角などが使われているらしいが──が駄目になってしまうらしい。
 その辺の事に関して突っ込んだ事は『初めての魔法陣』には書かれていないので、その辺の知識に関してミーアに尋ねてみる必要がある。

 とりあえず開発を諦めるとテレビを観て時間を潰す事にした。
「う~ん、何が面白いのか分らん」
 中学に入ってからはゆっくりテレビを観る時間なんて無いから、どのチャンネルに変えても良く知らないお笑い芸人ばかりだよ。特に若手と呼ばれる立場の連中の顔が全く分らない。新陳代謝のサイクルが速過ぎる。
 それに話題のチョイスも良く分からなければ知らない言葉が沢山出てくる……自分が世界から取り残されているような不安に駆られた。



[39807] 第88話
Name: TKZ◆504ce643 ID:06fc2bee
Date: 2015/06/15 23:36
 目覚めると夢世界。目覚めているのに夢世界……間違ってはいないのに何かおかしい。
 紫村と香籐を【所持アイテム】内から取り出してベッドの上に転がす。
「うん……おはよう高城君」
「……おはようございます」
 昨日より早くに寝た2人は十分な睡眠が取れたようで、今日の寝起きは悪くない。
「おはよう。早速だが今日の予定は、この地図に記された残りの龍を全て狩る」
 そう言って2人に突きつけた地図はミーアから受け取った龍の生息地を記した1枚目の地図で、残りが丁度10体となっている。
「10……かなりのハイペースになりそうだね」
「気合入れていきます!」
「それから2枚目の地図に突入します。今日の予定はレベルアップするまで!」
 隠し持っていたもう1枚の地図を突き出す。
「……」
 流石に2人とも嫌そうな表情を浮かべる。
「ほら、2人とも今日中に15体くらい倒せばレベルアップするから、もしかしたら蘇生魔術を憶えるかもしれないぞ。そうしたら大島復活だぞ!」
「余り急ぐ必要も無いよね……」
「そうですよね」
 2人とも大島復活には余り前向きではないようだ。
「じゃあ、どうするんだよ? そんなに大島が復活するのは嫌か? 俺も勿論嫌だぞ!」
「朝から随分と飛ばすね」
「だって仕方ないだろう。何時までも大島の死体が自分の【所持アイテム】内に入ってるのって、気になりだすと凄い嫌なんだから!」
「そ、それは嫌ですね」
「そうだろう。何かの拍子に復活した大島が中で暴れだして、突如俺の腹を引き裂いて出てきたらと思うと眠れないぞ!」
「もしかして、僕達が寝ている間にテレビでホラー映画を観たのかな?」
「その通りだよ! お前がケーブルテレビを引いてるから観ちゃったよグロイB級ホラーを、しかも3本も!」
 そんな俺に2人は「知らんがな」とハモった。
「お前達の睡眠時間を少しでも長くしようと頑張ったのに……こうなったら!」
 パーティー内の所持品移動で、大島の遺体を紫村に、早乙女さんの遺体を香籐へと送りつける。
『パーティーメンバー(紫村)から所持品の移動を拒否されました』
『パーティーメンバー(香籐)から所持品の移動を拒否されました』
「受け取れよコン畜生っ!」
「嫌だよ。そんな変な話聞かされて受け取る気になるはず無いよ」
「主将。すいません僕も嫌です」
「お前達が収納されてる間、【所持アイテム】のリストを並び替えて大島の早乙女さんに挟まれるように配列しておくからな」
 その後、かなり深刻に揉めた。

「まあいい。お前達が泣こうが叫ぼうが、今日中にレベルアップしてもらう。つうかレベルアップするまで現実世界には帰さないからな!」
「き、汚いよ高城君。君がそんな手を使うとは」
「じゃあ、大島を受け取れよ」
「それは話が別だよ」
「そんなに嫌か?」
「死んでも嫌だよ」
 ちょっと大島が可哀想になってきたよ……嘘だけどな!

「まあいいか、俺がレベル上げを頑張ればいいんだし……というわけで、朝飯まで少し俺に付き合え」
「ベッドの中で──」
「言わせねぇよっ!」
「一体、何をするんですか?」
 俺と紫村のコントを鮮やかにスルーする香籐。
 落しどころの無いコントの流れを断ち切ってくれたのありがたいやら寂しいやら。

「上空3000mくらいから岩を落として欲しい」
「はい?」
「落ちてきた岩を俺が収納する。平行世界で使った一番最後の俺の攻撃を憶えているだろ?」
「はい。あの収納時の収納対象が持つ運動エネルギーを溜め込んでおいて、【所持アイテム】内からアイテムを取り出す時に、溜め込んだ運動エネルギーをアイテムに与えるというアレですね」
「説明的台詞をありがとう。つまりその運動エネルギーを溜め込んでおきたいんだ」
「でも、岩には限りがありますよ」
「とりあえず俺がストックしている分はそちらに移す。それをまずは3秒間隔で投下して貰い、様子を見て投下間隔を出来るだけ狭くしたい。そして全部落とし終えたら、俺の【所持アイテム】からそちらの【所持アイテム】へと移動させる。それを1時間ほどやって貰いたい」
「1時間もですか?」
「面倒を掛けてすまないが目標は1000回分だ」
「随分な多いようだけど、もしかして平行世界へ行く可能性を考えているのかな?」
 分かっちまうよな。どう考えたって1回分の運動エネルギーがあれば龍を殺しておつりが来る。それが1000回分ともなれば使う対象はごく限られてくる。
「今のままでも俺がレベルを1つ上げるのは無理ではない。だが属性レベルⅦに蘇生魔術が含まれていなかったら属性レベルⅧの魔術を覚えていく必要がある。レベル180で属性レベルⅧを開放して、その後レベルアップを重ねながら覚えていく……はっきり言って現実や夢世界では無理だ。だがあの平行世界ならそれが可能だ。何せ勝手に集まってくるのだから、十分な戦力さえあれば蘇生魔術を身に付けるまで戦い続ければ良いだけだ」
 もっとも奴らの学習能力の高さと進化の早さに俺が対応出来たらの話だが難しいだろうな。
 常に俺の想像を超えるようなスケールで……そう、正しいかどうかは別としてぶっ飛んだスケールで進化していく。
 更に巨大な群体を作り、静止軌道へ地球を挟むように2体投入すれば、理屈の上では地上の全てに対して攻撃が可能となる。その際の攻撃手段は……止めておこう。いつもの様に奴が俺が考えた最悪を越えて来るとするなら考えたら負けだよ。
「だけど勝てると思う?」
「結局は奴らを1匹残らず駆逐出来るかどうかの問題になる……勝つのは無理だな。だが、今なら向こうに飛ばされても戻ってこられる当てがあるから、そこまで決定的な局面には至らないと思う。それに俺が自分の意思で平行世界に行くのではなく飛ばされたらの話だからな。その時に備えて力を蓄えておきたいだけだ」
 今のところはね。
「そうだね向こうに飛ばされる事を考えるなら、生き残る手段を用意しておくべきだね……分かったよ。僕の方も新しい魔法の開発を真剣にしてみるよ」
「まだ真剣じゃなかったのかよ」
「割と真剣だったよ」
 そう言って紫村は不敵に微笑む……何、この圧倒的な任せて安心感は?
「そう、今日は水龍も狩るんだよね? 楽しみだよ」
 あれ? もう攻略法を見つけたの? 一応ヒントとも呼べないような事を口にはしたけどさ、早くない? 実戦の中でピンチに陥りながら閃くみたいな……そんなのは無いんだね。

『上は寒くないか?』
『大丈夫です。主将が作った風防魔法で外気は遮断されていますから』
『空気の薄さは大丈夫か?』
『はい。激しい運動をする訳ではないので、これくらいなら大丈夫です』
『そうか、悪い頼むぞ』
『はい。それでは落としますよ。いいですか?』
『OKだ』
 上空3000mから落とされた軽めに見積もって3t強の円柱状の岩は30秒も掛からずに地上に到達する。その終速は800km/h弱と半音速を軽々と超えてくる。
 大雑把に表面積(二乗)に比例する空気抵抗に対して質量は体積(三乗)に比例する。つまり物体は大きく重たいほど空気の壁を容易く突き破るために速度が上がり易い。
「わおっ!」
 その速さに思わず驚きが口を突いて出る。大丈夫だと分かっていても普通の人間だった頃の感覚が、自分目掛けて高速で落ちてくる大質量の物体の落下点に立つという状況に「こりゃあ死ぬ」と強く訴えかけてくるからだ……だが収納だ!

『よし連続投下を開始してくれ。間隔は2秒で頼む』
『分かりました。では投下開始します』
『頼む』
 連続して落ちてくる岩を収納していく。香籐がきっちりと2秒間隔のタイミングで落としてくれるのでかなり楽が出来る。

『じゃあ、そちらへ送るぞ』
『了解です』
 合計100個の足場岩を収納した俺は、今度はシステムメニュー経由で香籐の【所持アイテム】へと足場岩を移動する。
『受け取りました。すぐに投下しても大丈夫でしょうか?』
『大丈夫だ頼む』

 2回目の岩の移動の後は投下間隔を1秒まで短縮たために1時間で19セット。1900回という目標の倍近い回数を稼ぐことが出来た。
 富士山を更地に出来そうなくらいのエネルギー量のような気もするが、実際は標高を100mも下げる事は出来ないだろう。
 これでは平行世界のあの化け物を倒しきるに足りない。だがあれを倒しきりレベルアップすることが出来たなら。もう……大島を蘇生出来なくても諦めていいよな? そして諦めたなら大島の死体を処分してもいいよな?


 俺と香籐が宿に戻ると食堂に2号がいてこちらを睨みつけている……ちなみに紫村の姿はまだ無い。
「リュー。君達が3人部屋で僕だけが1人部屋というのはおかしいとは思わないか?」
 別の席に着こうかとも思ったが、無視しても仕方が無いので2号のいるテーブル席に着くといきなり切り出してきた。
「何か問題があるのか?」
「普通はそれぞれ1人部屋か、それとも大部屋を借りて4人で泊まるよね?」
「そうでもないんじゃないかな?」
 思いっきりとぼける。
「そんな訳は無いだろう! 僕が感じている疎外感をどうしてくれる……」
 2号の馬鹿が大声を出したお陰で近くのテーブル席から『ホモの愁嘆場?』という看過しえぬ言葉が聞こえてきた。
「だ、誰が、違うわっ!」
 ああ、無視しておけば良いものをむきになって食って掛かったら……
 香籐は素早くフェードアウト。俺も続いてフェードアウト。うん決めた。さっさとこの街を出て、今日は宿どころか町も変えよう。それが良い!

 俺達は自分の荷物を【所持アイテム】に入れてあるので、そのまま宿を引き払い通りに出る。そして適当に歩きながら朝飯が食べられそうな店を探すが、結局は市が立っている門前の広場で屋台を見て歩きながら買い食いしていく。
 現在パーティから抜けている2号は俺達の動きを捉えることは出来ないので安心出来る。

 買い物というのは人間の狩猟欲を代替する行為でもあるが、その中で屋台をめぐりながらの食べ歩きというのは食欲と好奇心も満たす事が出来るとても素敵な行為だ。
「中々の収穫があったね」
「異文化って奴ですね。日本の屋台では見られないものばかりで、しかも美味しい」
 香籐だけではなく意外に紫村もテンションが高い。やはり人間は美味い物には勝てないのだ。
 俺から小遣いとして金貨──金貨=500ネア、食事代と考えると、1ネアは100円以上に価する。もう俺の夢世界での金銭感覚は壊れている。所持金が増えすぎて、数字など気にせず一杯としか認識していない──を渡された2人は興味が惹かれる物があれば、買って試食いして、美味しければどっと大量買いしては、魔法の収納袋──昨日のミノタウロスとコカトリスの代金代わりに購入して2人に持たせた──にしまうと見せかけて【所持アイテム】に収納するのを繰り返している内に腹は十分に膨れてしまった。
 屋台の軽食とはいえ、買い物客や市で店を出す人間が朝飯代わりに食べる物を、3人で分け合いながらでも十数食も買い食いすれば八分目くらいにはなる。
 もっとも俺達の凄いところは、一度に食べられる量ではなく、これだけ食べても2時間程特に運動もすることなく過ごすだけで同じ分量を食べられるようなる消化吸収の早さだ。
「このまま狩りに行くぞ。今日はそのまま領境を越えて王領に入り、ムイダラップに宿を取る……泊まるのは俺だけだがな」
 俺達は、街を出ると龍の狩場、そして今日は龍自身が狩られる狩場へと移動した……2号? 合流して無いよ。


「よ~し、よ~し。マルは良い子だな~」
「……高城君?」
「何だ? 俺は今マルをかいぐりかいぐりするのに忙しいんだ」
「あの──」
 そもそもマルをこちらに連れて来たことすら知らされていなかった

「それは大事ですね!」
「えっ?」
 割って入った香籐の言葉に紫村は未だかつて見たことの無い『裏切られた』という表情を浮かべてた。例えるなら「ブルータス。お前もか」と叫んで倒れたカエサルの如き……そもそも実際に見たことが無い方を例えに使うのはどうなのだろうか? まあ、それほど紫村が驚き何ともいえない深い表情を浮かべたという事だ。
「じゃあ、マルちゃんはまだ散歩行ってないんですよね? 僕が連れて行っても良いですか?」
「お前じゃ、連れて行って帰ってこないかもしれないから駄目だな」
「そんなことしませんから~!」
「……君達?」
 マルを囲んでキャッキャと楽しんでいる俺達の背中に紫村の氷のように冷たい声が投げつけられる。

「この子がどんなに躾されていても犬なんだよ。何かの拍子にはぐれてしまったら現実世界と違って合流は……マップ機能を使えば大丈夫かもしれないけど、危険な生き物も多いから危ないんだよ」
 正座させられた俺と香籐の前で紫村が説教を続ける。俺の横にはマルもきちんとお座りをしているが話は聞いていないで欠伸を漏らしている。
「香籐君も、これから水龍と戦うのに緊張感が足りないよ。幾ら死んでもロードでやり直せるとしても、緊張感を伴わない経験なんて意味がないとは思わないかい?」
 完全にスイッチの入ってしまった説教モードだ。これはどこかで話を切らないと延々と説教を続けるパターンだ。

「水龍といえば、奴のブレスに対抗する方法は思いついたか?」
 一瞬の息継ぎのタイミングを突いて話をねじ込む。
「! ……1つ方法は見つけてあるよ」
 呼吸を読まれた事に浮かんだ悔しげな表情が隠し切れずにこぼれるが、一呼吸してリセットすると柔らかな笑顔を浮かべて答えた。
「前後から2人で交互に人差し指で押して釣鐘を動かす気か?」
「余り上手い例えじゃないけど、そんな感じだよ」
 ちくりと嫌味を入れてきやがった。
 別に俺だって上手い例えだなんて思ってないが、この方法を考え付いた時に真っ先に浮かんだのはそのイメージだった。
 寺の巨大な釣鐘だが、あれは小学生が人差し指で押すような小さな力でも大きく揺らすことが出来る。
 要するに振り子と同じなので、加えられた運動エネルギーが振れて位置エネルギーに変換された後に、更に運動エネルギーを加える作業をタイミング良く続ければ、最終的に与えられる運動エネルギーは釣鐘を大きく振らせるに十分なほど大きなものになる。
 これを水龍を間において紫村と香籐で交互に魔力をぶつければ、2人の魔力が水龍の魔力に劣っていて、更に俺のように魔力の圧縮を使えなくてもブレスの行使に影響を与えることが出来、更に続ければ水龍の魔力の行使自体を抑えることが出来る……と思うんだよ、やったこと無いけど試してみれば良いんだよ。

「それじゃあ俺が【場】を作るから、それを2人の魔力で干渉して崩すことが出来れば実践してみるという事で良いな」
 そう告げると割と本気で魔力を込めた【場】を作りだす。
「これは、レベル差以上に魔力の差が大きいね」
「俺の魔力はレベル1の頃から強かったみたいだからな。ともかくこれが水龍がブレス攻撃を使う際に操作している魔力とほぼ同等だと思ってくれて良い」
 実際は水龍よりも強い魔力を行使しているのだが内緒にしておく、そして2人の魔力は大体、これの1/3以下といったところだ。
「まずは試しに僕の魔力をぶつけてどれくらいの影響があるか確認してみるよ」
「おう、ぶっ飛ばすつもりで来い」
 と言いつつも俺には、そのぶっ飛ばすと言う感覚が分らない。俺がやってきたのは圧縮した魔力塊を相手の魔力の傍で開放するだけだから。
「行くよ!」
 掛け声と同時に展開してある【場】に魔力の波のようなものが一定間隔で当るのを感じる。これが紫村の魔力だ。
 紫村が右手を前へと突き出すように動かすと【場】にドンと何かがぶつかった感覚が自分の魔力を通じて身体に伝わる。弱い干渉は頭の中にモゾモゾとした痒いというかくすぐったい感じだが、強い干渉は重低音が響くように身体に染み入る感じだった。

 だが身体に感じた衝撃のようなものの割には【場】はほとんど動いていない。正確に測った訳ではなし測れるものでもないが1cmも動いてはいないだろう。
「思っていた以上に影響は小さいみたいだ……これでは、最初の一撃を止めるのは難しいかな?」
「そう悲観したものではないさ。ようは水龍がブレスを使おうとする前に封じてしまえば良いだけだから」
「そうだね……ありがとう。戦いというのはそういうものだったのを忘れていたよ。僕としたことが大島先生がいないことで少し平和ボケをしていたようだね」
 つまり大島がいる日常は日々是戦場って訳である。昨日水龍相手に戦って何度も死を味わった男がそう言ってしまうほどに……オラ、段々復活させるのが嫌になってきたぞ!

「じゃあ次、香籐く……」
 香籐はマルと戯れていた。
「……香籐君?」
 何かのスイッチが入ったかの様にトーンが変わった紫村の声に、香籐は素早く反応するが、マルは更に素早く後ろに回りこんで俺を盾にする。
「はい、何でしょうか?」
「何でしょうかではありません。僕の話を聞いてなかったんですね?」
「いえ、あのぅ……」
「聞いてなかったんですね?」
「……申し訳ありませんでした」
 平伏す……たまに大島の前でヤクザがやってるのを見たことがあるよ。
 一方マルは正座する俺の背中に額をすりすり押し付けていた。

 30分も掛からずに2人の練習の成果は実を結び、交互に魔力を叩きつける事で、僅か5秒ほどで俺の【場】を崩せるようになった……あくまでも水龍を想定して作った【場】の事だけど。
「まあ、そんなところだろう」
 しかし練習で成功した事が実戦で使えるかと言うと怪しい。実際俺には対抗手段は幾つか思いついている。
 後は水龍がその対抗手段を持ってないと良いなぁ~と願う事くらいだろう。


 紫村と香籐が高度50m程をキープしながら湖面の上を渡っていく。
「ワンッ!」
 その光景にマルが興奮して吠える。
「ワン! ワン! ワォン!」
 興奮収まらず。俺はマルを抱き上げるとそのまま上空へと飛び上がった。
「ワゥッ! …………クゥ~ン」
 高さに怯え、俺の腕の中で小さく丸まって心細気に鼻を鳴らすマルがラブリィー。
 だが次第に高さに慣れてきたのか、首を伸ばして下を覗き込んで尻尾を振りパシパシと俺の太ももの辺りを叩き始める。
「ウオオオオォォォォォォン!」
 地面に着陸してもマルの興奮は冷めやらず遠吠えまで始めやがったよ。本当に能天気で調子に乗る奴だ──ピコーン!
『マルガリータが仲間になりたがっています』
 …………えっ?
 システムメニューが変な事を言い出した。
『マルガリータと使い魔の契約を行いますか? Yes/No』
 ……………………えっ?

『あ~、もしもし? 俺、俺。俺だよ。そうそう……ところでマルが俺の使い魔になりたがってるとシステムメニューにアナウンスされた件について』
『……はい? 一体何を、今はそん──』
 そうだよね戦闘中に話しかけられても迷惑だよね。でもそうせずにはいられないくらいに俺も混乱してるんだよ。
『今すぐ戻ります!』
 か、香籐君? 君は一体何を言っているんだい?
『香籐君? ちょっと待てぇっ! 水龍がぁぁぁっ! 香籐ぉぉぉぉっ! うわぁぁぁぁぁっ!』
 …………見えなくても彼の身に何が起こったのか全てが手に取るように分った。
 流れたあの星は紫村の宿星?

 一方、紫村を見殺しにして1人駆けつけた香籐。
『マルちゃんが僕の使い魔ってどういうことですか?』
「先ずは口で喋れや。次にお前の使い魔じゃない。ついでに言うとすっこんでろ下郎! マルは家の子だ」
「ああ、妬ましい。主将が妬ましいです!」
 涙目でこちらを睨む香籐が鬱陶しい。そう思った次の瞬間には香籐が150km/hの速度でトラックに追突されたかの様な勢いで飛び、空に美しい紅いアーチを描く。
 そして、一瞬前まで香籐が居た場所の少し奥に、幽鬼の如くというか落ち武者の様な姿の紫村が立っていた。
 何時もの伊達男は何処へやら、己の血と水に塗れた無残な姿だ。
「よ、よう紫村。水も滴る良い男っぷりじゃないか?」
 場を和ませるために冗談を口にしたが、紫村はそっけなく「今は冗談はいいよ」と応えると、香籐が吹っ飛んだ方へと森の中に入って行く……香籐。無力な俺を許してくれ。まあ自業自得だし、大して同情する気にもならないけどさ。


「クゥン」
 鼻を鳴らしながら、俺の上着の裾を噛むマル。Noを選択した俺に拗ねてしまったようだ……つまり、システムメニューからマルにお断りのアナウンスが何らかの方法で届いたと言う事だよな。それってマルは既にシステムメニューに介入して、俺へと使い魔の契約を申請したと言う事か? いやいや、それは無いな。
「使い魔になってどんな問題が起きるのかも分ってないに、その場の勢いでYesとかは無理だから、お前のためでもあるんだぞ」
 手を伸ばして頭を撫でると嫌がるような頭を動かす素振りを見せるが、尻尾はブンブンと振れている。
 ……困った時の【よくある質問】先生は、使い魔は、主人との意思の疎通。レベルアップ・マップ・所持アイテム。各システム対応とあったが、レベルアップにより知能が向上して何かやらかす可能性が高く、特に万一喋るようになった場合は大事になるのは間違いない。他にも力加減を間違ってじゃれついて怪我を負わせたりと悩ましい問題が続出するだろう。
 そうなった場合に俺にマルをかばう事が出来るのかとなると、所詮は一中学生に過ぎない俺には荷が勝つ。
 せめて使い魔の契約を解除・再契約が可能ならまだ何とかなるかもしれないのだが、使い魔の契約が成立すると原則、解除が出来なくなる。解除は俺かマルの当事者がどちらか、または双方が死ぬ事のみだった。

 何だかんだでマルを愛でていると、戻って来た紫村は、ボロボロになった香籐を俺に向けて放り投げる。
 勿論俺はヒョイと避ける。
「ひ、酷い……」
 うん、両手に間接が2つずつ増えていて気持ち悪い。生理的に無理。
「悪いけどそれ、治しておいてくれるかな?」
 そう話すと、その場に崩れ落ちて魔術を用いて自分の怪我を治し始める……紫村さんが完全にやさぐれておられる。触らぬ神に祟り無しだよ。

「しゅ、主将ぅ……」
「完全に自業自得だから同情の余地すらない。それにしても紫村をここまで怒らせるなんてある意味快挙だ。是非とも日記につけて年に一度くらいは読み返して今日のことを思い出すと良いぞ……トラウマと共に」
「ち、治療をお願いしまふ……」
 治療はしたが、骨を定位置に戻す作業には細心の注意などは払われず、香籐をして何度も悲鳴を上げさせる事になった。
 だって紫村……紫村さんが、香籐の悲鳴に嬉しそうに口角を吊り上げるんだもん仕方ないじゃないか。


「ヒャッホー!」
 水龍の首を切り落とした紫村さんが両手を天に突き上げてはしゃいでおられる。まるでその辺に居る普通の中学生の様に本気ではしゃいでおられる……色々ストレスが溜まりに溜まっていたんだね。
「僕と高城君の力を合わせればこんなものだね」
 そう香籐は紫村采配においてベンチ要員に格下げされて湖岸でマルと……戯れる事は固く禁じられ、死んだ魚の様な目をして正座でこちらを見ている。
 その目に輝きを取り戻すために、今の俺に何が出来るだろう……何もしたくはない。折角上向いた紫村の機嫌を損ねるような真似は出来たとしてもやりたくはない。

「それにしても、ご機嫌だな」
「……う、うん。ちょっと色々と溜め込んだせいで、達成感と開放感に酔ってしまったようだね」
 つまり紫村的に香籐への制裁は全然開放に価しなかった訳だ。怖いね、怖いから紫村の取り扱いには細心の注意を払うことにするよ。絶対に。
「まあ、それは良いとして、やはり格上の相手の魔力を封じるためには複数で協力する必要があるな」
「それに思った以上にタイミングはシビアだから信頼出来る相手じゃないと無理だね」
 まだ根に持ってる。これは暫く放って置くしかないだろう。

 しかし、あちらを立てればこちらが立たず香籐がかなり落ち込んでいる。
 その後、午前中一杯は香籐をハブって2人で順調に龍狩りを続けて昼飯を食った後に、マルを紫村に預けてから朝の運動エネルギーの確保を理由に香籐を誘い出した。
「紫村先輩が口を利いてくれません」
「俺が紫村なら、俺が口を利かないのではなくお前が口を利けなくなるようにするからな」
「酷い!」
「酷いのはお前だ。お前を信じて命を預けた相手を見捨てておいて良く言えるな?」
「主将がマルちゃんの話を振るからじゃないですか!」
「……俺は振っただけだ、乗るお前が悪い」
 視線を外しながらそう答えると「どうか助けてください」と土下座して頼み込んできたので先輩として多少は真面目な対応をする事にした。

「先ずはきちんと謝って来い。説教されながら謝ったのと、時間をかけて何が悪かったのか本気で考えた上での謝罪とでは心証が違う」
「心証ですか?」
 おやご不満のようだ。どうせ心からとか誠意とかの格好良い言葉が頭の中にあるのだろう。
「心証は大事だぞ。ついでに心象もな、人間は相手の心を読めるわけではないんだ。相手を許すか許さないかの判断は言葉などから受ける心証1つだぞ」
「でもそんなのでは……」
「お前は勘違いしている。紫村がお前に怒り心頭で生涯決して許さないと思ってるとでも考えてるんだろう?」
「このままではそうなっても僕の自業自得かと」
「馬鹿だな。紫村はお前を許してやりたいから説教したんだろう。奴は一生口を利くつもりもないような奴を相手に説教するほど暇でもお人よしでも、悪趣味でもないぞ。だからこそ、紫村がお前の事を許せると思えるような状況に持っていくのが言葉の力だろ」
 好意の反対は無関心だから、紫村なら話しかけても「君は誰?」と初対面で馴れ馴れしく接してくる相手に送るような一瞥をくれるだろう。
「……分りました」
「はっきり言っておくが誤る内容はじっくり考えるんだぞ。どうでも良いような浅い言葉では絶対に謝るなよ。それだとむしろ『そんな事を改めて謝罪する事かな? 君は僕の話をちゃんと聞いていたのかい? 単に何も考えずに言われた事に対して、条件反射ですいませんと頭を下げていたんじゃないかな?』と怒り倍増で嫌味たっぷりに説教されるならまだましだ。鼻で笑って二度と相手にしなくなる可能性もあるからな」
「は、はい! 助言ありがたく頂戴します」

「それから、お前には愛犬が必要なことが良く分ったから、親を説得して犬を飼え」
「し、しかしですね」
「母親が犬が駄目なんだろ?」
「はい」
「アレルギーでもあるのか?」
「いえ、そういう訳ではなく生き物全般が苦手なようで」
「そうか、アレルギーとかで体質的に無理とかじゃないんだな」
「はい」
「だったら自分で何とか説得しろ」
「えっ?」
「えっ?」
「こういう時は何か助言とかを頂ける流れではないでしょうか?」
「そんな都合の良い流れなど知らん! 自分の事だぞ、自分の家族くらい自分で何とかしろ」
 妹すら手に余している俺に、他人の家族の説得などという難題はどうにも出来ない事くらい察して貰いたい。
「でも……」
「先ずは目をつぶって家に犬が居る生活を想像してみろ」
 そう言われて目をつぶった香籐の顔は20秒ほどで蕩けてきた。どんな妄想を繰り広げているのか分らないが、とりあえず幸せそうで気持ち悪かった……何故だろう。今日という日は、何故か1年間目をかけてきたはずの可愛い後輩が気持ち悪くてならない。


 名目上とはいえ30分間ほど、3000mからの落下させた岩から運動エネルギーを頂く作業を終わらせて戻ると紫村はマルと楽しげに遊んでいた。
 ドッグセラピー。犬との触れ合いを通して情緒的な安定を得る効果は、香籐によって荒んだ紫村の心すらも癒してみせたようだ。
 それにしても紫村は犬の扱いも手馴れているな。マルは大型犬だけに優しく軽く撫でられるよりワシワシと強く撫でられるのが好きなのだが、既にその辺の事を熟知しているかのような手付きで撫でている……卒が無さ過ぎる。むしろ奴が一番苦手なのは人並み程度の料理じゃないかと思えてきて死にたくなるわ。

「運動エネルギーのプールは順調かな?」
「ああ、かなり溜まったから、弾体となる物を用意出来たら、例の大物も潰せる……のはまだ無理だな」
 一応、朝の分と含めて3000回分の運動エネルギーを蓄えてある。
 既に奴のレールガンによって射出される弾体の運動エネルギーの約4倍のエネルギーをプールしてあるが、奴を構成するお化け水晶球の大多数を破壊するためには、硬い水晶球を何百、何千と貫通可能な丈夫さを持ち、貫通力を得るために細く、それでいて質量を確保出来るほど長い棒状の弾体が必要になる。
 それが用意出来ないのなら、効率はかなり下がるが弾幕を張って表面から薄皮を剥ぐ様に削っていくしかない。
 その場合に必要な運動エネルギーは現在プールしている分の10倍以上は必要になるだろう。
 一応最低限必要な性能を持つ弾体を想定して調べておいたのだが、炭素鋼の中で最も一般的な素材で作られた断面が直径30mmの円形、長さが1mの棒状で、そして重さが6kg強といったところでお値段が3000円以上。
 必要となる数は5桁に達するであろうから、どう考えても予算が足りない。夢世界側の貴金属を現実世界で売却して資金を調達するにしても、中学生と言う立場がそれを不可能にする……成人していたとしても、売却する貴金属の出所を探られたらアウトだけどな。

「現実世界では弾体として使うものが確保出来ないてところかい?」
「ああ。予算が無ければ、それを人知れず購入するのも無理だな」
「こちらで用意すると言うのは無理なのかな?」
「こっちの世界でか?」
 それは考えないでもなかったのだが──
「必要な数が万単位だから、大量生産が不可能なこちらでは無理だと思う」
 比べるのも可哀想なほど工業力に開きがあるからな。
「魔法的な何かで、破壊力を向上させる方法はないかな?」
 その発想はなかった。
 確高速で打ち出された弾体を目標手前で爆破して散弾にする事で、広い面積への着弾させ一度に破壊する水晶球の数を増やす事を考えなくもなかったが、それを実現するために大量の火薬や火薬の材料になる物を購入するのは現実世界では不可能だし、夢世界側でも無理だと諦めていたが、魔法を使えば出来なくもないし、それどころか着弾後に何らかの効果を発揮させる事で、広範囲に破壊力を伝達する方法もある……かもしれない。
「後でミーアに尋ねてみよう。可能性があるなら何とか実用化してみたいから協力を頼む」
「来週までに何とかしておくよ」
 つまり、来週の土日にまた紫村の家に集まってこちらの世界に来ると言う事だ。余り紫村の家に入り浸ると俺がホモに転んだと噂されかねない。とするならば、その噂を立てる急先鋒となる三馬鹿を仲間に引き入れるべきなのだろう……ちょっと不安だな。あいつらって本質的にうっかりとお調子者と馬鹿を併発しているからな~と自分は棚に上げておく。
 その事を紫村に話すと意外なほど乗り気だった。
「僕は賛成だね。彼らも迂闊に秘密を漏らすほど馬鹿じゃないよ。秘密を守れるなら仲間は多い方が何かと助かる……3人だとやっぱり制限があるよ」
「そうか賛成してくれるなら、この話を進めてみる。明日の放課後に一度、集まりたいのだが紫村の家で良いか?」
「情報の漏洩を避けたいなら僕の家が一番良いね」
 自信ありげに答える紫村が、どのような漏洩防止の手段を講じているのか分らない。マップ機能を使って盗聴器などの排除だけではないのだろう。
 実際のところ、俺の家にも盗聴器は仕掛けられていた。マスコミ・俺達の身柄を狙う隣国の工作員ではなく俺達を護衛する立場にある彼らの仕業だろう。
 それ以外にどんな手段が施されているかは分らないが、知らない方が幸せになれる類の話しだと思うので深くは突っ込まない。


 午後からは俺に変わり、香籐が紫村とコンビを組んで龍狩りを再開する事になった。
 基本的に俺よりもコミュニケーション能力が高い香籐なのだから、上手く紫村に謝る事が出来たのだろうが、その現場を俺は見ていない。他人が謝る姿を第三者としてみるなんて野暮すぎる。

 2人は上空からオークの死体を湖に投げ込み、血の匂いに反応して姿を現すはずの水龍を待つが何時までたっても現れない。
『主将。これって水龍が居ないのか、それとも既に満腹で食欲がないのどちらでしょう?』
『多分、後者だろ。水龍は下手をすれば千年以上生きるって存在だから、地図が書かれてから数年の間に死ぬ可能性は低いし、それに俺達以外に狩れる奴が居るわけでもないみたいだしな……とりあえず、これを湖に投げ込め』
 そう言って【所持アイテム】からワインの酒樽を香籐のへと受け渡し処理を実行する。
『これって酒ですか?』
『高城君が一番最初に水龍を倒した時の話を憶えているかい?』
『ああ、酒で誘き寄せたんでしたよね』
『そういうことだ。満腹でも酒は別腹だろうさ』

 香籐が上部の蓋を割った酒樽を投げ落として、3分間も経たずに水面を大きなうねりを生み出しながら巨大な黒い影が落下地点に向かっていくのが見える。水龍としてはあまり大きい個体ではないが水龍なのは間違いなく、2人が最初に狩る相手としては手頃ともいえる。
 落下地点にたどり着いた水龍が何かを探すように付近を周遊する。
 そりゃあそうだろう。樽の上部を割って放り込んだのだから中のワインは全部水と交じり合ってただのフレーバーになってしまっていてるのだから、奴が求める酒は存在しない。

 しかし水龍が酒探しに没頭している間に紫村と香籐は高度を下げて配置に就くと、水龍の動きに合わせて常に自分達の間に置くように移動しながらクロスボウを構える。
「3・2・1・放て!」
 紫村のカウントダウンに合わせて同時に放たれた2本のボルトが湖面を貫く。
 一拍おいて湖面が盛り上がると水面が破れ、耳を劈く咆哮と共に水龍が姿を現す。そこへ再び2本のボルトが襲い掛かり、香籐が放った1本は水龍の鼻面に突き立ち、紫村の放ったもう1本は、その後ろの首の付け根の真ん中に深々と突き刺さる。
 凄いのはクロスボウの狙いの正確さではない、2人は水龍が姿を現した瞬間から、3射目に備えて弦を引く、この瞬間も水龍に対して魔力干渉を行い続けている。
 これならば水龍が魔力操作を行おうと魔力を集める初期段階で阻害されて、魔法的な現象は何一つ起こす事が出来ないだろう。

 3射目は香籐のボルトが水龍の右眼を貫き……偶然だよな? 激しく動く直径10cm程度の眼球に当てるなんて、偶然に決まってるよ。
 紫村のボルトは2射目のボルトの僅か3-4cmほどの位置に突き刺さった……偶然だ……そんな馬鹿なことがあるはずがない。そんなチートはお父さん許しませんよ!
 ま、まあ、それは良いとして、だ。僅かな間に深刻なダメージを受けた水龍は、その危機感から必殺のブレスに頼ろうとするが、魔力干渉によって魔力を操作するどころか集めた先から霧散している……様である。この距離からじゃ水龍の魔力は把握出来ないよ。

 ブレスを使う事が出来ない事に気付き戸惑う様子を見せた水龍に、更なるボルトが襲い掛かり混乱に陥り、首を伸ばし正面に浮かぶ香籐へと横に鞭のように鋭く振った。
 控え目に言ったとしても売れすぎたトマトを床に落としたように弾けてもおかしくは無い一撃を、香籐は足元に出した岩を足場に蹴りで迎え撃つ。

 物体と物体の衝突は必ず、そこで生まれたエネルギーが反動として双方に等しく送り返され、共に同程度の素材で出来ているならば、多くの場合はより小さい方の物体が破壊される。
 小さい物体が大きい物体を破壊する方法はただ1つ。相手の固い表面を衝突の瞬間に破壊し、柔らかい内部へと衝突により発生したエネルギーを注ぎ込む事で反動を減らす。

 香籐はそれをやってのける。足場とした岩に接する右足から、その蹴りのベクトルを示すが如く、力強くそして美しく一直線に伸びた先にある左足は頭蓋骨を砕き水龍の左側頭部に突き刺さっていた。
 カウンターを取ったとはいえ、そもそも水龍の首のスイングに勝る速度で蹴りを放って初めてなし得る業である。
「見事です」
 紫村の掛けた声に、香籐は左足を引く抜くと崩れ落ちとする水龍を収納すると向き直り一礼する。
「今の蹴りを決して忘れるな。今後5年はお前にとって最高の手本となる蹴りだろう」
 俺からもそう声を掛ける。それは3年かもしれないが、もしかすると10年になるかもしれない。だが何れの時には追い越していくべき手本である。
 もし香籐が短期間でそれを追い越してしまったのなら、俺は武を捨てて普通の男の子になるよ。他人と拳を競うような事の無い平和な生き方をするんだ……冗談じゃなくそうなりそう気がして怖い。


 その後は、紫村と香籐が順調に龍狩りを続けていき、本日8体目の獲物となる風龍を見事に討ち取った。
 俺に思わず「風龍より、ずっとはやい!!」と言わしめた高速空中起動で追い込むと、香籐が死角から飛び込んで首の付け根の一番柔らかな部分を切りつけて半ば切断すると、直後に紫村の槍が頭部に突き刺してから頭部を中心に回転しながら首をねじ切る。
 強い。僅かな時間ながら数をこなして戦い慣れした2人は息の合ったチームとして完成しつつある……これなら試してみたかった事が出来るかな?

 予定していたよりも得られた経験値が多く、後一体、小型の龍であっても倒せば十分にレベルアップが可能な状況だから思いついただけで、試すといってもそんなに大した事ではない。パーティーメンバーと一緒に戦えば経験値を共有する事が出来る。だが離れて戦った場合に他のメンバーが倒した魔物の経験値を共有する事が出来るか? また出来るなら、どのくらいの距離まで共有出来るのかを確認するだけの事だ。
 既に俺の夢世界での戦闘結果が、現実世界の紫村や香籐に反映されなかったのは確認済みだ。それが出来るなら他の部員たちもパーティーに入れて、俺が夢世界で龍を狩りまくれば、世界征服も可能なくらいの戦力強化になるのだが……出来ても面倒だからやらないけど、妄想としては面白い類だったよ。

『マルガリータが仲間になりたがっています』
 ……既に今日5回目のアナウンスだよ。
 そう。既に4回お断りをしている訳だが、その度にマルの悲しそうな姿を見る事となり罪悪感に苛まれ胸を抉られるような気持ちになる。
「マル。分ってくれ。まだお前を使い魔にする訳にはいかないんだ。実際どんな問題が出るか、逸れ次第によっては今まで通りにお前と暮らす事も出来なくなるかもしれないんだ」
 マルを抱きしめながらそう話しかける。マルは言葉は分らなくても俺の態度からお断りを察したのか悲しそうに鼻を鳴らす。
「分ってくれ。マルおれはお前が大好きだ。出来る事ならYesと言ってやりたい──」

『使い魔の契約が終了しました。マルガリータ(通称マル)犬:シベリアンハスキー。Lv1が使い魔となります』

「えっ? ……ちょ、ちょっとそれは違うだろ!」
 そう叫ぶも、くい気味で『契約は解除できません』とアナウンスを寄越してきやがった。
「ワウォン!」
 マルは一声吠えると、俺を押し倒すと顔を嬉しそうに嘗め回してくる。
 何時までたっても俺の顔を涎だらけにするのをやめないマルの頭を抱きかかえて押さえつけると、マルは胸に顔をグリグリと押し付けながら『マル。嬉しい! タカシ大好き!』と【伝心】に近い感覚で言葉が頭の中に響いて来る。これが主従間の意志の疎通なのか? ……はさておき、マルから大好きと言われたらもう堪りません!
 【伝心】で話しかけるように頭の中で『俺もマルが大好きだ!』と強く思う。
『マルも、マルも大好き!』
 ちゃんと返事が返って来るよ。こんな嬉しい事は無い。
『……タカシと気持ちが分る。なんで?』
 ようやくマルが事態に気付いたようだ。
『マルが俺と使い魔の契約……これじゃ難しいか……う~んそうだな。マルと俺がもっと仲良くなるって約束をしたからだよ』
『マルとタカシ仲良し、仲良し!』
 一応通じたようだ。
『マルはこれから俺と一緒にどんどん強くなる。だけどこれだけは気をつけて欲しい。マルがとても強くなったらちょっと力を込めただけで誰かを傷つけてしまうかもしれないし、大切な物を壊してしまうかもしれない。だから何時も気をつけて優しくしていて欲しいんだ』
『……? うぅぅぅってしなければ良いの?』
 うぅぅぅっ? ああ、怒って唸る事か。
『そういう事だよマルは、うぅぅぅっってしない優しい、良い子だから大丈夫だと思うけどね』
『マル、良い子! 他所の子にうぅぅぅってされてもうぅぅぅってならないよ』
 全く家のマルは本当に良い子に育ちましたよ。可愛くて可愛くて可愛さのあまりに、心の堤防が決壊して色んな感情が暴走してあふれ出しそうだ。

「……何を見詰め合ってるのかな?」
 良いタイミングで掛けられた紫村の声に少し冷静さを取り戻す事が出来た。
「マルと使い魔の契約を結んでしまった」
「ど、どういうことですか主将! 僕のマルちゃんが!」
 再び香籐が暴走しそうになったのを、紫村が後ろから蹴り倒した。蹴られた尻を押さえてピクピクと痙攣している香籐を見つめる紫村の眼は、まるでGを見るような嫌悪感に満ちている……本当に香籐には自分の犬を飼って可愛がり満たされる事で落ち着いて貰いたい。

「それで、一体どうしてそんな事になったのかな?」
 寿司のシャリとネタのように一体化している俺とマルの姿に呆れた表情を隠さず尋ねてきた。
「それは──」
 俺は起きた事を包み隠さずそのまま話した。
「それは君の迂闊さを責めるべきか、システムメニューの狡猾さを責めるべきか……」
「やはり、システムメニューから何らかの意図を感じるか?」
「勿論だよ。その子の願いにシステムメニューが応じて、君に対して使い魔の契約を持ち出すのがそもそもおかしいよ」
「そうだよな。だがどんな意図があるのか全く分らないからな、それが俺にとってメリットなのかデメリットなのかも判断がつかない」
 システムメニューは今は俺にとって間違いなくありがたい存在だが、それが今後もそうなのか分らない。そこに不気味さを感じずにはいられない。
「問題は、その意図が分ったところで、僕らには何も手を打つ手段すらないと言う事だね」
「……すまんな。巻き込んでしまって」
「水臭い事は言わないで欲しいよ。それにあの時、君が僕と香籐君をパーティーに加えていなかったら、僕らは生き残れたかどうか……君の判断に間違いは無かったと思う。そして今後どんな結果が待っていたとしても、僕と香籐君が君を恨む事だけは決して無いと信じて欲しい」
 胸に染み入るような言葉だ。自分の心情まで勝手に代弁された香籐が凄い表情で悶えていなければ感動して泣いていたかもしれない。

『何を話しているの? マルの事?』
『そうか、マルはまだ俺達が喋っている事は理解出来ないのか』
『? 分るようになるの?』
『今だって、ご飯と散歩、それに家族の名前は分ってるだろう?』
『うん分る! ご飯に散歩! マサルは好き! おとーさんは大好き! おかーさんは大大大好き! それからタカシはチョー大大大好き!」
 チョー大大大好きとな、ちゃんとランク付けが、しかも俺が一位だ……ついに偉大なる母の背を越えたか。
 それはそれとして父さんと母さんはともかく兄貴もマサル呼ばわりで安心した。俺だけ呼び捨てという訳ではなく家の中での呼び方を憶えているだけみたいだ。
『それからね、スズも好き……でも時々苦手』
『やっぱり苦手か……』
『スズは身体が大きいけど、まだ子供だから力の加減が出来ないの。でもマルお姉さんだからうぅぅぅってしないよ。だけど時々痛くてヤーなの』
 くっ……く、くくくっ……涼の奴、マルから子供扱い、妹扱いされてたのかよ。腹筋が俺の意思とは関係なく痙攣しやがる。
『マルは賢いなぁ~』
 腹を抱えながら、誉め頭を撫でてやった。

「君と君の犬が【伝心】の様な方法で意思の疎通をしているのは分ったけど、何を話しているのかな?」
「くっ……い、いや、あのな。俺の妹の事をマルは子供扱いしてて……自分がお姉さんだからって……」
 笑いを必死に噛み殺しながら伝えると、紫村は顔を背けて肩を震わせている。今年13歳になる人間が1歳になってない犬に妹呼ばわりされているのだ笑わない方がおかしい。
「いや、失礼した」
 何とか笑いを噛み殺して表情を取り繕った紫村の様子がおかしくて、俺も笑いながら引導を渡す。
「それでな……妹は子供だからまだ力の加減が出来ないから……時々痛くされて嫌なんだけど……お姉さんだから我慢してるって」
 流石の紫村もついに吹き出し、声を上げて笑い始めた。


 骨盤を割られていた香籐を治療する……骨盤骨折がこんなに簡単に折れるとも治るとも知らなかった。
「二手に分かれて龍を狩っても経験値が共有されるのかを確認するのも良いかと思っていたが、マルの経験値稼ぎの為に確実に経験値を稼げるようにまとまって移動し龍を狩ることにしたい」
「レベルアップには懸念があったのだと思っていたけど、どうなの?」
「中途半端にレベルアップさせるよりどうせなら一気にレベルアップさせて、ある程度知能を向上させれば話せば分ってくれるようになると思う」
「いまでも十分に分って貰えそうなくらい頭が良さそうだけどね……お姉さんだから……ふっふふふ」
 いきなり思い出し笑いを始める紫村に、先ほどのやり取りを知らない香籐は怪訝そうな表情を浮かべるが放っておく、どうせ病気を拗らせるだけだろうから。


 火龍を待ち伏せするために、巣穴の中で待機していると最初に倒した火龍を思い出さずには居られない。
 表面が高温で融けて黒いガラス状になった壁や床、天井が吹き抜けから落ちてくる日差しの頼りない明かりを反射させ、幻想的というよりは不気味なものを感じるのは以前と同じだ。
 俺は何かを忘れている。あの時、あの場所であった何かを俺は──
『暗くて嫌な感じがする』
『とても大きなトカゲの親分みたいな奴の巣穴だから気分は良くないな』
 マルの問いかけに答える。
『とってもってどれくらい?』
『家よりも大きいよ』
『……タカシ。嘘良くない』
『嘘じゃないよ』
『そんなに大きなのは居ない』
『そこは騙されたと思って信じろよ』
『マル。騙されないよ』

「主将。マルちゃんと何を話しているんですか?」
「香籐はうるさいなと話し合っていた」
「嘘です」
「嘘ではない」
 嘘だけど。
「騙されませんよ。マルちゃんはそんな事言いません!」
 何故だろう。マルとの会話と似た展開なのにまるでほのぼのとしない。
 この待っている時間にマルにシステムメニュー関連の使い方を説明するのもありかと思ったが、どうせならレベルアップ後に頭が良くなってから説明した方が効率が良いと気付いたので暫くはマルと遊ぶ。
 香籐が羨ましそうにこちらを見ているが無視する。別に香籐に対するイジメではない。香籐が紫村を怒らせないようにするための配慮だ。

「来た」
 広域マップに『火龍』のシンボルが出現し、こちらに真っ直ぐ向かっているのを確認してから知らせる。
 移動速度は秒速で50mほど、つまり180km/hで第一次世界大戦時の複葉戦闘機程度、もっともこっちのは最大速度で飛んでるかは分らない。
「こいつは俺が貰う」
 使い魔に関する情報は【よくある質問】を確認しても詳しくは出て来ない。多分、マル自身が調べないと詳細は出て来ないような気がする。
 そのため、俺自身の使い魔であるマルへ、パーティーのメンバーが倒した対象の経験値が振り分けられるのかは不明なため、残りのノルマの2体は俺が狩る事になっている。
『マルも戦う?』
『今日は見てるだけで良いから』
 別に明日以降もマルを戦わせる気は無いんだけどな。別に戦い向きの性格でもないし、実際今も「戦う?」と尋ねつつも腰が引けている感じだった。
『いいの?』
『マルは元気で可愛いが一番だよ』
 これが俺の本心だ。犬が飼い主を守って命を落とす美談を聞くが、俺がマルを守る事はあってもその逆は想像出来ない、
『マル元気? マル可愛い?』
『マルは元気で可愛いよ』
『元気! 元気! 可愛い! 可愛い!』
 マルはスキップするように飛び跳ねながら、そこらじゅうを飛び回る。

「主将とマルちゃんがキャッキャウフフ状態ですよぅ」
「嫉妬は見苦しいですよ」
 本当に見苦しいよ。どうしてマルが絡むと香籐は駄目な奴になってしまうのだろうか? 何でもそつ無くこなす優等生タイプで、1つぐらい欠点があった方が良いとも思っていたが、その1つの穴が大き過ぎて深過ぎる。
「二人の世界に入り込めません」
「無理に入れようとしてはいけません」
 違うよね? お前、今何か別の邪な事を考えていたよね……怖いから絶対に突っ込まないけどさ。
「僕も犬を飼います。絶対に母さんを説得して犬を飼います。そうしたらその子と使い魔の契約をして、あんなふうに会話して楽しく──」
「はいはい……」
 妄想の世界に逃避した香籐に紫村もうんざりしているようなので、そこへ水を差してやる。
「性格の悪い駄目犬を飼って苦労するが良い」
「ちょっ! いやな事を言わないで下さい!」
「犬だって生き物だ。人間と同様に良い奴がいれば、悪い奴もいる。マルのように性格が温和で頭の良い犬はそう簡単にいるものではないな」
 マル以外の犬を飼ったことも無いくせに偉そうに言ってみる。
「で、でも使い魔にして、レベルアップすれば少なくとも賢くは──」
「香籐君。そもそもその犬との間に深い信頼関係が築けなければ使い魔の契約は結べないんじゃないかな?」
「! ……えっ? ……えっ!?」
 ごくごく基本的な問題に気付いていなかったようだ。
 まあ香籐自身が勉強しながらきっちりと躾けていけば、そう酷いことにはならないだろう……マルはちゃんとブリーダーから直接譲って貰ったのだが。

「じゃあ、マルは後からかと……紫村に連れて来てもらって上までおいで、紫村頼むぞ」
「何で言い直したんで──」
「任せて。じゃあ抱き上げるから大人しくしていてね」
「あっ! 僕だってまだマルちゃんを抱け上げた事は無いのに!」
 腰に負担が掛からないように、上手にマルを抱き上げる紫村に香籐が噛み付くが、紫村が機嫌を損ねる前にフォローしておく。
「そのチャンスは一生来ないから安心しろ」
「…………ひどい」
 フォローになったかどうかは知らないが、そう言い捨てると俺は天井部分に開いた竪穴へと一気に跳躍する、そして壁を蹴りながら上昇し竪穴を飛び出す。
 丁度、翼を風に向けて立てて減速中の火龍の40mほど手前正面に飛び出した形になった。
 無論、それはマップで確認しながらタイミングを計った結果であり想定通りだ。
 モット至近距離で飛び出して一気に首を落とすという方法もあるのだが、ここは2人に魔力の圧縮と開放により相手の魔法を封じるやり方を見せるのを選択した。
 それにしてもでかいな……俺が今まで目にした龍の中でも間違いなく最大の大きさだ。

 だがやる事に大して違いは無い。
『先ずは圧縮した魔力を相手の傍に送り込む』
 想定される龍が角から謎の熱線攻撃を放つの必要な魔力の1/100程度の魔力を1mm以下の小さな球へと圧縮したものを3つ飛ばす。
 魔力の圧縮は、外へと向かって漏れる魔力の一切を封じ込める性質があり、更に極小サイズにする事で余程注意を払っていないと、いや払っていても発見は困難なはずだ。
 圧縮した魔力の後を追うようにして火龍へと距離を詰めていく。

 火龍はやはり戸惑うかのように何の動きも見せない。他の火龍や風龍もそうだが強者である彼らにとっては、地を這う小さき者が自分に向かって飛んで来るという事態を冷静に受け止める事が出来ないのだろう。
 自分に例えてみるなら、生まれたばかりの目も開かない子犬か子猫が、まだ満足に動かせない足を使ってのたうつように自分に向かってくるようなものだろうか? ……うん、その辺のホラーよりゾッとするシチュエーションで、冷静でいられる自信は無い。

 そのお陰で、火龍が迎撃の態勢をとる前に懐に飛び込んでしまった。
 このまま首を刎ねたら目的は果たせないので、斬らずに右足で火龍の下顎を蹴り上げてから素早く角から火龍自身の身体を盾と出来る背後へと離脱する。
 火龍自身は混乱を来たしていても、火龍の意思とは別の自己防衛本能的な動きを見せる角に対して注意を怠る事は出来ない。
 そして角は内部で魔力を操作して効果を発生させるので、他のいかなる魔法の行使と比べても発動のタイミングが読めないという厄介な性質を持つ。
 そのために、角の攻撃を封じるならば紫村と香籐がやったように、魔力操作を行う前から妨害を続けるというのが正解なのだが、俺の方法では連続的に妨害し続けるというのは難しいので、常に火龍自身の身体を盾にしながら攻撃を加えて、火龍を危機的状況に追い込んでおかなければならない。

 角の死角から尻尾を斬り落す。飛び散る血は被らないように、全て【操水】で球状にまとめると収納した。
 龍は血液すら高額で取引される素材だが、火龍の血液は34-35度程度の温度で発火するという性質の為に取り扱いが難しく、事実上取引されることは無く、他の肉や皮の処理も大変な手間が掛かるそうだ。
 だが、きわめて高温で燃える火龍の血は何かに使えそうなので残らず収納して保存している。
『どうやって切り落としたんですか?』
 柔らかいどころか比較的硬い鱗に守られて、攻撃手段としても使われる尻尾を切り落とした事に香籐は驚く。
『悪いが俺の剣は特別製だ。切れ味はそこそこだが、決して刃毀れせず龍の鱗が相手でも切れ味が落ちない』
 首や腹などの比較的柔らかい鱗を切っただけで、刃先が丸まり切れ味が落ちてしまうお前の剣とは違うのだよ。
 まあ、磨いだ直後のお前の剣の方が遥かに斬れるけどな。何といっても切れ味が落ちないって事は刃先が変形しないという事であり、つまり研ぐ事が出来ないという事だから。
『切れ味がそこそこといういのは微妙ですね』
『ほっといてくれ!』

 次いで左の後ろ足へと膝の後ろを斬りつけて、そのまま両断する。
 斬り飛ばされた右足から吹き出る血の飛沫が、轟きの如き火龍の咆哮により細かい粒子に砕かれ霧のように舞い散る。
『見逃すな!』
 そう2人に指示を出すと、俺は角の死角から飛び出す。そして同時に魔力を開放し魔力の衝撃波によって、魔力を練り上げいつでも撃てる状態になっていた角の熱線攻撃を妨害した。

『これは……』
 紫村の驚きが【伝心】によって伝わる。
 崩壊した熱線の術式からあふれ出た魔力が突風のように吹き荒れる。もしも魔力に物理的影響力があるなら、近くにいる俺の身体は木の葉のように吹き飛ばされていただろう。
 何せ龍の命を削る程の魔力を必要とする攻撃だ。今なら龍以上の魔力を持つ俺でもそこまでの魔力を使った事は無い。術式崩壊によってあふれ出したのはその1/10程度だろうが、それでもこの規模になる。

 だが俺は荒れ狂う魔力の奔流をものともせずに正面から混乱状態の火龍に接近すると、その額の真ん中に剣を突き立てる。
「硬いな」
 流石に突き刺さりはしたものの、食い込んだのは5cm程度で頭蓋骨を貫通するには至らなかった。
 柄から右手を離すと、飾り気の一切無い無骨な剣の、平らな柄尻へと振り上げた右の拳を叩き込むと剣先の辺りから「カッ」と何かが壊れる特有の音が鳴り、剣先は30cmほど一気に深く食い込み火龍は、断末魔の叫びを上げて絶命する。


『マル。レベルアップしたから確認するよ』
 ちなみに紫村達もレベルアップしたのだが放置する。確か大島を復活させるための魔術がどうのとかつまらない事を言っていたような気もするが、そんな汚れ仕事は後回しで構わない。
『レベルアップって何?』
『マルが強くなったって事だよ』
『強く? マル何にもしてないよ』
『それはそれとして。システムメニュー表示!』
 声に出しても出さなくとも、表示されるのだがマルとの意思疎通手段の中で表明しても受け付けられる事が分った。
『何? これ何?』
 目の前に浮かぶ文字情報にマルの興味津々と言った感情すらも伝わってくるようだ……つうか本当に伝わっているな。これが使い魔との契約の効果という事か?
 本来、絶対的な孤独のはずのシステムメニュー表示時の時間停止世界にさえも、共にある事の出来る使い魔は、パーティーメンバー以上に俺にとっては近い存在といえるようだ。

『これはシステムメニューと俺が呼んでいるもので、目の前に浮かんでいるのは……』
 あれ? マルには日本語の文字が見えているのだろうか? 犬語に変換されて……犬語ってなんだよ! じゃあ何か別の言葉に……そんなの無いよ。マルは犬なんだから体系的な言語なんて無く、言語哲学者ノーム・チョムスキーが提言した生成文法理論における概念である普遍文法という奴しか持ち合わせていない。
 普遍文法とは大雑把に言うと赤子や動物のように言語を習得していない生物でも、自分の周りで起きた現象などの情報を五感から得たままの形で脳の記憶野に保存するだけは無く、言語的な情報へと変換して記憶するものであり、第一段階は事象に対してそれを象徴する特徴的成分を抽出し、それらにラベルを貼ることで処理する情報量を圧縮する効果を持つ。
 例えはマルは俺という人間に対して、多くの情報を持っているが、俺に関わる事を思ったりする場合に、俺の全ての情報を記憶野から引き出すのではなく、俺の特徴的成分、この場合は「タカシ」という名前を思い出す事で情報量を大幅に減らしている。
 動物は処理する情報を減らすために他にも「何がどうした」という主語と述語的な文法を言語によらずとも生来持ち合わせていう考えだ。

 つまりマルにはシステムメニューによって翻訳されるべき言語を持っていないとするなら、マルに提示されてる文字は何か?
 普通に考えれば契約の主である俺が使う日本語だろう。ならば確認する方法はある。
 【所持アイテム】内からノートと筆記用具を取り出す。最近は、学校の教科書一式と全部まとめて収納してあるよ楽だから仕方が無い。
 マルが判断しやすいようにカタカナで【パラメーター】とまぶたを閉じて、頭の中でイメージされた文字をなぞるようにして書き込むと、システムメニューの【パラメーター】の項目とノートを並べて、『同じものが書かれているか?』と尋ねた。
『うん、同じ!』
『そうか』
 どうやら、日本語で間違いないようだ。名状しがたき謎の言語じゃなくて良かったよ。

 確認してみるとマルのレベルは17になっているが、【知能】関連のパラメーターは【記憶力】を除けば、未だ人間レベルに達してはいない……だよね犬だもんね。
 だがこれでは、言葉などを覚えさすのも不可能ではないが、効率が悪すぎる。やはり経験値お代わりだ! ……身体能力は凄い事になっているが、それはこの際どうでもいい。問題はその身体能力を抑えて今まで通りに生活出来るだけの知力を得られるかが問題だ。


「引き続きレベル上げを続行する」
「僕達はレベルアップしたけど?」
「残念ですが、蘇生関連の効果を持つ魔術はありませんでした」
 ……何だろう残念と言われて感じる残念さは、大島の死体を自分の【所持アイテム】内に収納しているという残念さしか感じない。
 自分でも薄情だとも思わないでもないが、時間が経つと部員達を守って命を落したという事実に感じ入ったものも薄れて、中学生になってからの2年間のあんなのやこんな苦しい想い出が先に来るようになるのも仕方が無いだろう。
 人間が憎しみだけで人を殺せるならば、俺は大島を三桁以上の回数殺している事になるはずだし。
「まあ、それは想定内の出来事だが、想定外にマルの知力の向上が思わしくなかった。もっとレベルアップさせて話を理解出来るようにしないと、現実世界に帰った後に何が起きるのか、想像するのが怖い」
「確かに怖いね……月曜日に君が家に戻ると更地になっていたとか」
「本当に怖いから! 無いとは言えないんだからな」

「とりあえず2人は、魔力の圧縮の練習でもしておいてくれ」
「距離が離れた状態でも経験値を共有できるかを確認する訳ですね……ですが嫌です! 僕もマルちゃんと一緒に行き──」
 背後から紫村が優しく抱きしめるように香籐を締め落した。
 見事だ。気配を感じさせる事なく背後に回りこみ、呼吸のタイミングを計る事で秒殺で落した……空手とは何の関係も無いというのに、どうして俺達はこんな技ばかり身に付いてしまっているのだろう。
「それでは、僕らも練習しておくから高城君も頑張って」
 気持ち良さそうに意識を失っている香籐がどう練習するのかは知らないが「……お、おう。分った」と答えると、マルを抱き上げて地図に記された最後の龍を目指して空へと舞い上がる。

『凄い。何か臭いが濃いよ!』
 俺に抱きかかえられて空を飛びながらも恐れる様子はなく、鼻をフンフンと鳴らしながら嬉しそうに伝えてくる。
 確かに犬の臭いを嗅ぐ能力は嗅覚細胞の数からして人間を大きく上回るが、それ以上に人間との嗅覚の違いは、入ってきた嗅覚情報を事細かく判断する能力が高いということだ。
 つまり、嗅覚細胞自体の能力が人間に比べて高いわけではなく。漫画などで見かける犬に臭いを放つ液体を吹き付けて撃退するシーンはあるが、あれは犬という種族の本能として危険と判断する対象=不快な臭いと結びつけてあるために、犬は不快と感じる臭いに戦意を失うのであって、強い臭いの刺激によって撃退されるのではない。
 今のマルは、今まで感じることの出来なかった弱い臭いを嗅ぎ取ることが出来る事が出来て、臭いの数が増えたことを「臭いが濃い」と表現しているのだろう。
『それはレベルアップして、マルの臭いを嗅ぎとる力が強くなったんだよ』
『なにそれ、すご~い!』
『ちなみに臭いを嗅ぎ取る力のことを嗅覚って言うんだよ』
『きゅーかく? きゅーかく! 面白いね!』
 知識が増えることを喜ぶ。知識欲も身に付いてきたというか、これは生来の好奇心旺盛さによるものだろう。
『全ての物事には、それを表す言葉があるんだよ』
『言葉。言葉……マルもっと憶える! タカシ教えて』
 モットレベルアップしてからの方が効率的だけど、記憶力は既に素の俺以上まで強まっているので移動の間、雲や風などの自然現象についてマルに教えた。


 面倒なので手抜きで、長距離からこぶし大の石に足場岩3000mからの落下分の運動エネルギーを与えて打ち出すと、標的の風龍の首の中ほどに当る。そして当った周囲が弾け飛び、千切れた上部が縦に回転しながら落ちていくが身体は落下しない。
 魔力操作を封じてはいないために、風龍のとしての『空を飛ぶ』という基本属性が維持されているためだろう……何故、頭の方は落ちたのかは分らないし、そもそも俺の推論自体が正しいのかすら分らん。
 とりあえず手抜きした甲斐があったとしておく。


『マル、レベルアップしたよ!』
 今回のレベルアップでマルは26になった。【知能】関連のパラメーターも上昇して素の俺にも負けない……つうか俺が負けてるよ。いやいや負けてない負けてない。俺がレベル26といえば人類卒業した上に人類の辞表まで提出している。2-3歳児程度の知能を持つはずのマルがレベル26といえば、人間を上回るくらいは当たり前のことだ。そしてそれは全てシステムメニューのお陰で……とにかく負けてない!
『マル強くなった?』
 ……うん強くなりすぎて、とっくに犬に似た何かになってるよ。
『マル試しに、その場で思いっきり跳んでみて』
 やはり身体能力を自覚するためにはジャンプが一番だと思う。
『うん何で?』
 首を少し傾げる姿は「このビクターの犬め!」と罵ってやりたくなるほど可愛らしい。
『跳べばわかるよ』
『分った』
 少し身を低く構えて、四肢に力を蓄えると気合を込めて踏み切った──何と表現したら良いのだろう? 一番近いのはあれだバッタがピョンと跳ねたみたいな勢いで飛び上がった。
『やぁぁぁぁあぁぁぁぁ!』
 恐怖と混乱が入り混じった叫びにも似た感情が伝わってくる。
 跳んだのは良いが、跳びすぎて完全に態勢を崩しておよそ30m程の頂点で、まるで漫画のようにワタワタと手足尻尾を動かして、やがて落下に移ったマルは身体を強張らせたまま着地態勢も何も無く落ちてくるので受け止めてやる。
『マル! マル! 大丈夫か?』
 頭をワシワシと強く撫でながら話しかける。
『! いやあぁぁぁぁぁっ!』
 マルが突然身体をビクッと震わせると暴れだす。パニック状態で再起動かよ!

 マルを必死に抑えこんで宥めすかすまでに、服は爪で引き裂かれてボロボロ。左の二の腕も思いっきりガブリとやられた。
『タカシ。マルに何したの?』
 マルさんは少し不機嫌そうだ。だがそれもまたラブリーなのでご褒美だ。
『今のは本当にマルの力で跳んだだけだよ。それだけマルの力が強くなったんだ』
『マルの力……だったらタカシを思いっきり噛んじゃったよ。タカシ大丈夫?』
『大丈夫だよ。俺はマルよりもモットレベルアップしてるから、ちょっと血が出たくらいだし、もう治ってるよ』
 多分、サメに噛まれたくらいの強さだったけどな。
『タカシ……ごめんなさい。マル……』
 左の袖が肩から千切れてむき出しになった二の腕をマルが上目遣いで一生懸命舐めてくれる。
『良いんだよ。びっくりしたんだよな。ごめんな驚かせて、でも俺なら大丈夫だけど、俺以外の父さんや母さんとかに、もし驚いてでも噛み付いたら大怪我では済まないことになるんだよ。だから今の内にマルが自分の力に驚かないようになって貰いたかったんだ』
 我ながら上手い事まとめたが、勿論そんな深く考えた上での事ではない。
『マルびっくりしない! お父さんやお母さん、マサルとスズ。もう誰も傷つけない!』
 やはり知能の向上もあって伝わってくる意思もしっかりとしたものになっている。
『そうか。良かった』
 しっかりと頭を抱きかかえて頬ずりするとマルも頭を摺り寄せながら「くぅ~ん」と甘えるように鼻を鳴らす。

 ちなみにその後、マルに現在の自分の力を確認して貰うために、直径7cmくらいの太目の木の枝を試しに力一杯噛んで貰うと、枝葉ほとんど抵抗無く粉砕され、上顎と下顎の衝突で大きく鈍い音が鳴った。
 自分の力に驚いたマルは暫し呆然とした後、突然『タカシ腕大丈夫? 取れてない?』と慌てて俺の腕を心配した後、『マル。絶対に思いっきり力は使わない!』と宣言した。


 紫村達と合流後に魔道具でミーアに『道具屋 グラストの店』の入り口を繋げる場所を指定すると10秒と経たずに崖の岩肌に扉が出現した。実にシュールな光景である。
「いらっしゃいませ……まあ、とても精悍で美しい犬ですね」
 そうだろうそうだろう。もっとマルを誉めてくれてもいいんだよ。
「それにとてもお利口さんみたいですわ」
 マルは店の中の様子に興味があるようで、あちらこちらに注意を向けてはいるが、俺の横にお座りをして決して動こうとはしないのを見てミーアは誉める。
「マルちゃんと言うんですよ」
 香籐がまるで自分の犬かのように名前を告げる。
「マル……ちゃんですか? 確か古い言葉で、速いという意味ですね。お似合いの名前ですね」
 ここは未来のメキシコかよ! いや単に偶然だ。そうに違いない。
 一方でマルの反応は。
『タカシ! タカシ! 凄いよ。このお姉さん耳が尖ってるよ。ねぇねぇ、マルみたい?』
『いや、マルの耳より尖ってるよ』
『えぇぇぇ~。マルの耳より尖ってるの?』
 こんな感じだった。

 とりあえず先に用件を済ませる事にした。
「頼みがある」
「如何様な御用にございましょう?」
 待ってましたとばかりに笑顔で応対するが、俺の言葉を聴いて笑顔が凍りつく事になる。
「用立てて貰った最初の地図の龍を全て狩り終えたので、さすがに蓄えと呼ぶには多すぎるので何とか売りさばいては貰えないだろうか?」
「……もうですか?」
 唖然とするミーア。美人の美人たる所以には表情という要素がかなり大きく影響する。顔のパーツの配置からそのパーツの形状まで微妙なバランスで美しさが決まる。そして表情筋を使いこなす事はその微妙な美醜の天秤の平衡を操る事でもある。
 表情を作る事を忘れたミーアの顔は、年齢不詳の妖艶たる美女から、一体どこに隠れいていたのやら可愛らしさが顔を出し、どこか彼女の妹にも似ているように見えた。
「い、良い……」
 ああ、そういえば香籐……頭が痛い。
 もっとも北條先生に対する俺達の態度を見て紫村も頭が痛いのだろう。そして紫村の性癖に俺達も頭が痛い。世の中痛い事だらけだよ。
「今後出来るだけ早く、100体ほど狩りたい」
「えっ? それは……無理です。流石にそれほど多くの龍では買い手が、それ以前に価値が暴落……」
 だよな、素材として代替するものが無いほど優秀であるのも事実だが、希少である事がより価値を高めている訳で、短期間で極端な供給過多は龍の素材を取り扱う業者にとっては悪夢だろう。
「分った。仕方が無いが角以外は破棄するしかないな」
「チョット マッテ クダサイ!」
 何故片言に?
「どうした?」
「ソレハ ヤメテ ホントウ オネガイ シマス」
「そう言われても困る」
 ぶっちゃけてしまえば欲しいのは経験値であって、さしあたり金が必要な訳ではない。
「ナントカ ナラナイ デショウカ?」
「それなら龍以上に強く、多くの素材を買い取る事が出来る。もしくは素材を回収しなくても良い奴を、その生息地と共に教えてくれるなら、龍を狩らなくても良い」
「……龍よりも強い存在は多くはありません。上位存在である老龍、古龍。他には上位巨人族。そして精霊──」
 口調が元に戻った。つまりミーアが動揺から抜け出せる想定内の話の流れに戻ってきたという事だな。つまり期待して良いんだよな?
 それにしても精霊か、確かに龍を超える厄介な相手だ……どうしてそう思った? 俺は何時精霊についての情報を知ったんだ? ……全く思い出せない。もしかして俺の記憶の齟齬には精霊が関係してい……また、どうでも良くなってしまう……
「……大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。他には無いのか?」
 取り繕うように先を促す。
「後はまさに伝説上の存在となります」
「伝説か、有りもしないものには興味は無い」
 正直がっかりだよ。
「いいえ、確かに存在します」
「伝説なのに?」
「はい。皆が畏れ近づくことなく故に誰も見たことが無い。伝説として語り継がれる存在です」

 ……その後揉めた。早速明日にでも倒しに行こうと決意すると俺と、自分達も参加するから来週まで待てという紫村と香籐との間で。
 何しろ獲物は、ファンタジーRPGをやったことがあるなら、ラスボスではないが中ボスクラスなどとして知っていてもおかしくない伝説というよりも神話世界の住人達だ。
 自分でも心の底で沸き立つものが抑えきれない。
 むしろ臆病なまでに慎重でリスクを計算する自分と、厨二病の適齢期真っ只中で十二分に患ってしまっている自分。
 理性対病気……順当に病気が勝つよな普通。理性に負ける程度なら病気じゃないし。
 だが結局は、例の岩落しの協力を盾にされて、俺は譲歩するしかなかった。
 交渉において自分の弱みを握られているというのは如何ともしがたく受け入れるしかなかった……だってさ。「いざという時に、自分自身を危機に陥れかねない事を盾に、要求を押し通そうとするのはどうなんだ?」と突っ込んだのだが「高城君。君が来週まで待てば済むだけの話を、どう取り繕っても余り意味は無いよ」と返された。実に嫌なところを突いてくる正論だった。

『マル。皆が僕の事をいじめるんだ』
『タカシイジメた?! 誰? マルがうぅぅぅぅってするよ!』
「いいかい香籐君。彼は僕達の悪口を吹き込んでいる。今まさに罪の捏造が為されようとしているんだよ」
「マルちゃん騙されてはいけないよ!」
 そんな事を話しながら、王領ムイダラップの街へと向かった。
 ……そういえば2号は? まあ良いか、奴ももう十分一人前だ。大体、俺達が龍を狩りまくっているせいで市場への流入が多く、騒ぎになっている中で『龍殺し』の称号は奴にとっても厄介事を招くだけだろう。
 明日、2号に約束した通りスロア領の領主の部下を解放して、速攻でこの国を出れば良いだけだ。
 頑張って功名を果たしてミガヤ領主になるんだよ……そう、良い感じに別れの言葉を胸の中で呟くと、俺は全てが済んだとばかりに2号の事を頭の中から拭い去り、忘れる事にした。
 ムイダラップの南正門前で2号の姿を見つけるまでは。
「に、2号……」
 再会が早すぎるわ!

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 今回は、今まで一番間が開いてしまいました。
自分の更新の目安の5万文字、1000行は1ヶ月で書き上げていたのですが、今回は現実世界・夢世界共にイベント進行でボリュームが膨らみこの有様です。
 また、話数を増やすと色々面倒なので、どんなに長くなっても今後は現実世界・夢世界ともに1日を1話にすることにします。読みづらいかもしれませんがよろしくお願いします。
 それではまたお会いできれば幸いです。←これ以上嘘つきになりたくないので次の更新期日に関しては触れません。



[39807] 第89話
Name: TKZ◆504ce643 ID:2e2960f9
Date: 2015/07/19 22:17
 目覚めて最初に紫村に香籐を床に転がし、そしてマルをそっと腕の中に出現させて抱きかかえる。対応に違いが出るのは当然だろう。
 マルの首元に鼻を突っ込んで深呼吸する……うん、宿で風呂魔法の実験にマルを全身丸洗いにしたので匂いはほとんど無い。
「やはり、俺の身体は現実世界と異世界にそれぞれ別の身体があるみたいだが、マル達の身体はどちらの世界も共通の身体1つというわけだ……」
 という事は、現実世界と異世界を往復させ続けると肉体の老化がかなり早まってしまうという事か……
 ファンタジーなんだからいずれ不老長寿の薬でも見つけたら飲ましてやろう……面白そうだしな。

『……う、うん、アレ? タカシだ。おはようタカシ!』
 早速ペロペロと挨拶代わりに顔を舐めてくる……やっぱり口は獣臭いのはいかんともしがたい。
『おはよう。マル』
 俺がマルの顔に顔をこすり付けてやるとマルも目を瞑って顔をこすり付けてくる。
 ちゃんと意思の疎通が出来るというのは素晴らしい。朝のスキンシップ1つとっても今までとは世界が違う……などと言ってる場合ではなく、散歩に行かなければ。

『散歩に行こうか?』
『うん、行く! 散歩大好き! タカシとの散歩が一番好き!』
 そんな可愛いく答えると、俺の腕の中から抜け出して、俺の周りを一周しながら匂いを嗅ぐような仕草をすると『今日も異常なし!』と伝えてきた。
『異常なしって?』
『タカシの臭いがいつもと一緒だから大丈夫ってことだよ』
『マル。お前は毎日おれの健康を気遣ってくれていたのか?』
 やばい。マルの心遣いに思わずウルッと来てしまった。
『?』
『マル。ありがとうな!』

「おはよう高城君。ところで何をしているのかな?」
 感激しマルを抱きしめて、頬ずりしながらワッシワシと撫でていると紫村が目を覚ました。
「おはよう紫村。何をしてるかって? マルがな毎日──」
 ちょっとドヤ顔で自慢してやった。
「それは単に犬の習性だよ。彼らは臭いで相手の状況が何を食べたか、健康状態はどうか、そしてその日の機嫌までもチェックするからね。だから特に君の事を思ってのことじゃなく……落ち込まないでよ」
「べ、別に落ち込んでなんか無い!」
 ……落ち込んでます。

「ところで、もう一晩泊まってもいいか?」
「構わないけど……何かあるのかい?」
「櫛木田達をここに呼び出すって話だけど、ついでにあいつらもあっちの世界へ連れて行こうと思うんだが、どう思う?」
「急だね。急だけど時間をおいて何かがあるわけじゃないから……うん、問題は無いね」
「そうか、すまないな迷惑をかけて」
「僕が迷惑というよりも、昌枝さんの仕事が増えるんだよ。お詫びにコカトリスの肉を、珍しい地鶏の肉が手に入ったからとでも言っておすそ分けしてあげて欲しいな」
「それなら全く構わないが、渡すのは任せる。何処の地鶏かと深く突っ込まれても困るけど、お前から渡すなら『貰い物だから詳しい事は分らない』で済ませられるだろう」
「その方が良さそうだね」

 早速、台所に行き、綺麗に磨かれたシンクにコカトリスの肉の塊を肉を取り出すと、流水で丁寧に洗い流してからキッチンペーバーで水分を叩くようにして拭き取る。
 適当に2kg程度の塊にして……2kgの鶏胸肉の塊など一体どんな鶏から取れるというのだろう? 間違いなくそれは鶏じゃない。
 皮のつき方で元の大きさを推測されないように皮を外して、適当に目見当で300gくらいの塊に切り分けてからポリ袋に詰め、同様に今晩の晩飯の用にも2kgほどを切り分けてポリ袋に詰めて冷蔵庫へと入れておく。
 オーク肉とミノタウロスの肉は帰ってきてからでも良いだろう。

「本当に下ごしらえの手際だけは鮮やかだよね」
 その口調には全く誉めている様子はなく、むしろ呆れていやがる。
「これが味付け、過熱、そして人の口に入る形に包丁を入れると酷いことになるのですから不思議です」
「高城君。君は何か呪われてるんじゃないかな?」
「ウルセェ! お前は櫛木田達に連絡をいれておけ!」
 全くこいつらは俺の事を何だと思ってやがる。


 いつもの堤防上の散歩道を、いつもより少し速いペースで走ること20分。
 少しずつペースを上げることで、護衛の連中を引き離して彼らが足による追跡を諦めた頃には、既に市街地を離れ、山に差し掛かった他人目の無い場所だったので一気に加速して距離を稼ぐ。
 マルだけじゃなく、紫村や香籐でも60km/h程度での長距離は全く問題は無い。
 途中で散歩道は無くなり、上流にあるダムに向かう歩道も無い片側一車線の車道を走ってきたので、早朝という時間帯もあってマップ上で確認しても周囲5km以内には俺達以外には誰もいない。
『じゃあマル。この先を少しずつ速度を上げながら走るんだ。多分途中で上手く走れなくなるから、そうなったら走るのを止めるんだよ』
『マル走れなくなくなるの?』
『説明するのが難しいから、走ってみた方が早いよ』
『うん、分った!』

 どんどんと速度を上げていくマルに併走して走る。
 低い体勢で空力抵抗の少ないマルに対して、俺達は早い段階で限界が来る……だって人間だもの。
 一方でマルは更に速度を上げて、100mグリッド間の通過タイムから割り出した100mの平均速度は130kmとチーターすら越える……だが。
『タカシおかしいの。もっともっと速く走れそうなのに上手く走れないよ』
 そりゃあそうだろう。車輪で走る車などとは違って脚で走る場合は、より速く走るために地面を強く蹴れば蹴るほど、前進する力だけではなく上へと跳ぶ力も増える。そうなれば身体が浮いて着地するまでの間隔が伸びていき、加速出来ない空中で空気抵抗により失速してエネルギーのロスが大きくなるために、姿勢や地面の蹴り方を考えてフォームを改造しない限りは、今の速度が限界と言う事だろう。
『マル。どうやったらもっと上手に速く走れるようになるか自分で考えてみて』
 宿題を出す。今のマルならば解けない宿題ではないと思う。
『えっとね、今以上にもっと力を入れてドーン!って地面を蹴るの』
『それはやめて』
 きっと道なき山奥を探しに行く事になりそうだから。
『え~!』


「そろそろ戻らないと騒ぎになりそうだな」
 マルと香籐が追いかけっこしながら走り方を研究しているのを見ながら紫村に話しかける。
「そうだね、護衛の人達も今頃は必死になって僕達を探しているだろうね」
 徒歩での移動で振り切られた後に、車に乗って追跡をしたのは間違いないだろうが、振り切った直後から人類には決して出せない速度まで加速し、それを維持したまま長距離走ったとは想像も出来ないだろうから、追っ手としても常識的最大限にお代わりを盛って見積もった想定範囲内に俺達の姿が無いことにパニックになっていることだろう。少し可哀──
 ……くすっ。
 横を振り返ると、同時に紫村が同じ方向に振り返り顔をそらした。
 こいつ……今のタイミングから考えて俺と同じ想像をした上で笑ったんだよな?
「そろそろ戻ろう」
 横を向いたままで誤魔化そうとするが俺は突っ込まないでおく。

『タカシ! タカシ! マル速く走れるようになったの。ほめて! ほめて!』
 嬉しそうにじゃれ付いて来るマルを撫でながら『速かったよ。マルはとっても頑張り屋さんでえらいね』と答えた。
『うん、マル頑張ったよ!』
「ああして2人の世界を作って、マルちゃんとほっこりと心の温まる触れ合いをしてるんですよね」
「それは間違いないだろうね」
「妬ましい、妬ましい、妬ましい……」
「そこで、自分の家にペットの犬が来て、自分の使い魔にしてコミニュケーションやスキンシップをしている様子を想像して」
「……………えへっ、えへへへへへへっ……」
 自分の妄想に酔ったかのように蕩けた笑顔になる。そして香籐を良い様に玩具にしている紫村は邪悪な微笑を浮かべているよ。
 昨日から紫村の暗黒面が表に出てきているのは気のせいじゃないと思う。
 これを友人として打解けてきて素が紫村が現れてきたと喜ぶべきか……余り嬉しくは無いけどな。

『大人しくしててね』
 そう言って抱き上げると、マルは両の前足を越しに背中に回して同じ高さの目線になると、俺の頬に額をぐりぐりと押し付けてくるので、側頭部を軽くコンと額にぶつけてから【迷彩】を掛けて姿を消すと浮遊/飛行魔法で空に浮かび上がるとゆっくりとした加速で紫村の家へと向かう。

『高いね!』
『怖いか?』
『タカシと一緒なら怖くないよ!』
『そうか。それならもっと速度を上げるぞ』
『うん!』
『……なんて事を話してるんだよ』
『なんて羨ましい! マルちゃ~ん!』
 お前ら本当にうっさいわ!


 川沿いの散歩道の山へと向かうコースの反対側に少し行ったところで人目を気にしながら着地して【迷彩】を解除すると、何食わぬ顔で紫村の家へと戻る。
 紫村宅の玄関を伺える位置で路上駐車している車の中で運転手が焦った表情でどこかに電話しているのを確認した。
 ちなみに俺達はこいつらの連絡先は知らないが、こいつらは俺達の連絡先を知っているし通話局から俺達の携帯やスマホの位置を特定する事も出来るのだろうが、姿をくらます時には携帯は収納してあるので俺達の位置を特定する事は出来ない。
 その辺はごお疲れさんとしか言いようが無いが給料分の仕事だと思って諦めて貰いたい。
 最低限の礼儀として運転席の男に軽く手を上げてから目礼するとさっさと門扉の内側へと入る。男は聞こえてないつもりだろうが「この糞餓鬼!」と小さく罵ったのは俺達の耳に届いているので、最後に振り返りそして嗤ってやった。

 紫村に風呂を譲ると俺と香籐とマルは、紫村の部屋で風呂魔法を展開して風呂を済ませ、ついでに洗濯も済ませ身を整えて風呂上りの紫村を迎えた。
「君達もふ……何故?」
「いや折角、風呂魔法があるんだから」
「そうじゃなくて、どうし──」
「お前が風呂に入っている間が一番安全だからに決まってるだろ」
 この世で最もホラー的なアレが現れて欲しくない風呂場という真っ裸で無防備な状態だ。そこにこいつが嬉々として乱入して来るのを考えたら最良の判断だったいえるだろう。
「そんな、折角今日こそは──」
 アブネェ! 本当に危なかったんだな俺の貞操。
ボディーブロウを喰らわせ、倒れた紫村を比較的身体の接触面が少なくてすむロメロスペシャルで極めながら、背筋が凍るような恐怖を噛み殺すのだった。


 北條家へと向かう道すがら、背後から俺達を尾行する護衛達から恨みがましい視線が飛んで来るが無視する。
 確かに護衛が付いている事での恩恵はある。
 現在のところ1年生達の安全は彼らによって保障されているといっても過言ではない。それ以外の部員達も彼らが護衛しているためにちょっかいを掛けてくる馬鹿がいないということで無駄な手間が省けている。
 だけど、一日中黒服の男達が付いて回るというのはとても世間体が悪い。元々あまり世間体の良いとはいえない俺達だが、それでも今更と笑い飛ばせる程には振り切れてはいない。はっきり言って迷惑である……彼らとはそんな微妙な関係だ。

「いらっしゃい」
 大きな門の前で北條先生が笑顔で出迎えてくれた。これで今日一日分の幸福を充電したよ……それじゃあ、今日はもう幸福が訪れないみたいだけど、良くある事だ。
「おはようございます。今日もお世話になります」
 俺に尻尾が生えていたならブンブンと振り回していただろう。
「おう、世話してやるぜ」
「……今日は良い天気ですね」
 曇ってるけど。
「……ええ、そうね。さあ道場の方へ」
 ぎこちなくだが先生も話をあわせてくた。その顔にはどこかほっとした表情が浮かんでいた。
「そうですね行きましょう」
「失礼します」
 俺達4人は、この場に自分達以外の人間は存在せぬものとしてその場を後にしようとする。
 マルが不思議そうに『この人、放っておいて良いの?』と聞いてきたので『良いんだよ。むしろ相手にしちゃ駄目だよ』と伝えた。

「待てぇい!」
 背後からそう叫ぶ声がしたが、それで待つくらいなら無視などしない。俺達は更に歩を早めて立ち去る。
「待てと言っておろうが!」
 爺が回りこんで、行く手に立ち塞がる。
「何ですかお祖父ちゃん。朝ごはんならもう済ませてますよ」
「だから儂はボケとらん!」
「ボケてないなら昨日お祖母ちゃん叱られた事くらい覚えているよね?」
「弥生。それを言うでない! ……ともかくだ。昨日の借りは今ここで熨斗をつけて返してやるわ!」
「いい歳して叱られたんだ。可哀想だな」
「可哀想ですね」
「そうですね……」
 紫村、嘲笑はやめろ。そこは憐憫をプレゼントしてあげるところで、まだ爺を煽る場面じゃない。

「お前ら良い度胸だ」
 爺が低く構えて腰に手を伸ばすが、何かを求めてさまよっている。
「お祖母ちゃんに取り上げられたでしょう? お祖父ちゃんたらボケちゃって」
「ボケてねぇ! た、単に何時もの癖で、ど忘れしただけだ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ。
「お、お前ら良い度胸だ……」
 つぼに入ったのか香籐が肩を震わせて耐えているが、明らかに耐え切れていない。
「……ぷっ」
 吹いちゃうくらいなら最初から笑ってやれよ。溜めただけに相手のダメージも大きくなると俺は思うよ。

「このっ──」
「父上。それくらいにしていただきたい」
 激発しかけた爺をお義父さん……いやいや気が早い。北條先生のお父さんが間に入って諌める。
「東雲、邪魔をする気か?」
「彼らは弥生の生徒であり、弥生が招き私が認めた客人ですよ。それを先代とは言え隠居の身である父上が狼藉を行うとは……あんな狼藉を……あんな狼藉を……」
 肩を震わせながら何度も呟き続ける。
 壊れたか? と疑った次の瞬間、振り返り俺の手を掴む。そして
「重ね重ね申し訳ありませんでした! 先日の朝の件だけではなく、帰り際にまでもあの様な真似を父に許してしまったのは、この私の落ち度。如何様にもお詫びをさせていただきますから、先日の件は何卒、何卒内密にしてはいただけないでしょうか!」と涙目で訴えてくる。
 何この、凄い親近感を覚える小市民っぷり。
「いえ、先日の件は気にしてはおりません。家族に凶状持ちがいたとしても貴方の子でも孫でもなく父親ならば、誰にも貴方を責める事など出来ません」
 強いシンパシーに思わずそう答えた事を俺は後悔しない。家にだって凶暴な獣がいるから……マルの事じゃない。
「良い人だ。弥生、この少年はとても良い人だよ」
「はい、高城君は自慢の教え子です」
 北條先生。何と過分なお言葉……もうこうなったら結婚するしかないよね?

「東雲。当主面して儂に説教か?」
「家人の粗相を糾すのが当主のつとめならば」
「随分と偉くなったもんじゃないか……貴様如きが」
「勿論、父上の素行が問題になり、未だ大学生だった私が大学を中退してまで当主の座を押し付けられた時から」
「…………」
「大学卒業まで後1年を切っていたというのに、親族会議で貴方が当主の座から下されて、私に当主の座が押し付けられたんですよ。未だ二十少し過ぎの私がね。それからどれほどの苦労を──」
「…………じゃあ、そういうことで」
 形勢悪しとみて、素早く逃げ出す爺……こいつ、一体何をやらかしたんだ?


 勉強会は先日同様に滞りなく進む。
 若い頃の努力は買ってまでしろとも言うが、少年老い易く学なり難しともいう。
 努力は嫌だが、好き嫌いで努力を厭う事が許される立場には無い事を身をもって理解している。
 だがどんなに努力をしてもオーダーの水準が高ければ普通に努力していたのでは駄目なのだ。つまり努力以上に効率の良い努力が大事なのだ。
 間違った方向に努力している余力などは無い。救難ボートで太平洋を彷徨う遭難者みたいに、限られたリソースを最大限有効に使わなければ死んでしまうから。

 だから俺達は勉強にも効率を求める。
 英語なら、勉強する前の下地として無理矢理にでも単語を頭に詰め込み、文法を無視してひたすら語彙を増やす。十分に語彙を増やしたなら洋画を吹き替えではなく、そして字幕無しで観まくる。
 単語を聞き取れて単語の意味が分かるなら、後は画面を見ていれば大体の意味が分ってくる。
 この大体の意味が分かってくる事が何よりも大事だ。何も引っかかるものが無いつるつるに磨き上げて、更にテフロン加工を施した壁に水をかけても綺麗に流れ落ちるだけだ。
 そんな徒労としか言い様の無い真似をさせられて学習意欲が沸くはずが無い。
 それに対して「ああそうか」「なるほど」という知的刺激を得られる下地があれば、学校のどうしようもない屑みたいな授業でも学習効果は上がる。
 幸い1年生の中間試験の範囲なら十分な語彙さえ蓄えておけば高得点が可能で、教科書の試験範囲にある単語を全て叩き込むのは難しい事ではない。難しくないので試験範囲外の単語も強制的に叩き込んでいく。
 そう、既に彼らも大島の『出来ないとは言わせない』指導方針の下で『出来ないを出来るに変える不思議な(笑)心の力』に目覚めているのだから……


「本当に空手部の皆は勉強にも真剣に取り組んでくれるから教え甲斐があるわね」
 俺達は常に真剣に物事に取り組むから、余暇ですら限られた自由になる時間を有効に使うために真剣に全力で遊ぶ。
 その真剣さは、大島がいなくなり時間に余裕が出来た伴尾が大作RPGをネット情報無しに1週間でクリアするほどである。
「折角の休みだというのに時間を割き、その上に場所まで提供して頂いて、教えて頂いているのですから当然です。このご恩に報いるのは試験で結果を出すしかありません」
 櫛木田の必死のアピール。北條先生へのアピールだけなら許そう。実際俺も先を越されただけだ。だが、こちらを見てドヤ顔をきめられるとイラっとするわ

 だが、これは櫛木田はこちらを意識しているが、俺は櫛木田を意識していないという格の違いを示しているのだ……負け犬めが……いやいや、これはフラグか?

 そんな俺の葛藤とは関係なく、1年生達の北條先生への好感度は急上昇だ。
 1年生達の評価は「こんなに丁寧に優しく教えてくれるのは俺達の学年の先生にはいない」などは良いとして、小声で「美人だ」とか「可愛さもある」などと色気づきやがっている。
 1年生達の様子に田村は「貴様らには100年早いわ」などと先生には聞こえないように漏らしているが、年齢差的に俺達は98年早いことになってしまう。

「弥生さん。昼餉の準備が整いました」
 20過ぎくらいの剣道着に袴の女性が道場の入り口から控え目に声をかけてきた。
「ありがとうございます。これから参ります」
「はい。では皆さんお待ちしております」
 立ち去る女性の後姿をチラチラと追うのは仕方ないよな。剣道着の袴というのはそそる。腰高の位置でぎゅっと絞られてからの腰のライン。露出が低いからこそラインがヤバイほど引き立つ。
 ああ、北條先生があの姿で教えてくれたなら……想像しただけで気が遠くなる。
 剣道部の部活の様子を見に行けば、北條先生のあの姿は見られるはずなのだが、剣道部の部活の時間は空手部の部活の時間でもあり、俺達は前世のどんな罰かは知らないが同じ学校の違う場所で苦役に就かされていた。
 そうだ。テスト明けには、自主練で運動公園に行く前に剣道部の部活の様子を少し見学しよう。理由を考えるのは難しいが、多少理由が苦しくても一度くらいは許されても良い筈だ。

「いただきます」
 ……膳の上に載せられたカレーライスを見たのは生まれて初めてだよ。
 日曜日は、第二道場……そう驚くべき事に、本道場と俺達の使っている長刀教室用だった道場とは別に未だ道場が合ったのだ。そこで子供達に教える剣道教室があるということで、昼は毎週カラーライスだそうだ。
「……美味い!」
 一見するとカツカレーだが、プレートの脇に盛られた千切りのキャベツ。そして濃い目の味付けに独特のまろやかな食感で、所謂金沢カレーを思わせるが、酸味と香り、そして強いコク。チーズ……いや違う。クリームチーズがふんだんに溶かし込んである!
 ケンシロウならこういうだろう。「お前のような金沢カレーがいるか」と、だが美味い。実に贅沢な味わいだ。このカレーをオークやミノタウロスの肉で作ったなら天国を垣間見ることになるであろう。

「お代わり!」
 子供達の声に空になった皿をじっと見つめていた部員達が「えっ! お代わりありなの?」という表情を浮かべて俺の方を見る。
 だが俺は目を瞑って首を横に振る。
 当然だ、彼らは月謝を払って修行をし、その修行の一環として同じ釜の飯を食っているのだ。ただ飯ぐらいの俺達とは立場が違う。居候は三杯目にはではなく一杯目で我慢しろという事だ。

「皆もおかわりしてね」
 上品そうな40代後半位の女性、先生のお母さんで北條芳香(よしか)さんが声を掛けてくれる。
 親子だけあって互いの面影を感じさせる顔立ちで、先生もこんな風に齢を重ねるのだろうと思わせる。単純に見た目だけなら妹の方が似てるのだろうが、纏う雰囲気がアレだけは明らかに別物のだ。
「いえ、僕達は身体を動かしていた訳ではないので──」
「中学生は寝てても勝手にお腹が空くものでしょう。遠慮なんてしないでどんどんお代わりするの」
 そういうと、俺の膳からプレートを取ると俺に手渡して「ほら、向こうでお代わりを貰ってくる」と言って、俺の背中を押した。
「ありがとうございます。ではお代わりを頂いてきます」
 頭を下げて礼を言うと部員達に目配せをする。すると連中は待ってましたといわんばかりにプレートを手に立ち上がると一斉に「ありがとうございます」と言って頭を下げた。

「なあ、兄ちゃん達、ここに来て身体動かさないで何してるの?」
 食事を済ませて暇になった子供達の1人、小学校の低学年くらいの男の子が俺の元にやって来て質問してきた。
「俺達は北條先生……弥生先生の教え子で、勉強を教えてもらっているんだ」
 この場で「北條先生」と呼ぶのはおかしいから咄嗟に言い直したが「弥生先生」か……素晴らしい響きじゃないか。弥生先生。今後はそう呼びたい。
「すっげえ! 休みなの勉強してるの? 兄ちゃん達すげえな。真面目か!」
 妙な感心のされ方をしたものだ。
「余り真面目じゃないから、休みなのに勉強する事になったんだ」
「それじゃあ、兄ちゃん達は不良か?」
「不良って程じゃないな。まあ普通だ」
「そうか普通か、普通が一番だな。父ちゃんもそう言ってたぞ!」

「そういえば、兄ちゃん達空手やってるんだってな」
 そう言いながら正拳突きの真似事みたいな突きをしてみせる。
「まあ、空手……みたいなことはやってるな」
 正直、本当に空手なのか未だに自信が持てない。俺達が所属しているのが空手部だという事以外に、何の根拠も無いから……実際、ネットの動画とか見ても微妙に違ってる気がするんだよ。
「強いのか?」
「う~ん、そこそこじゃないかな」
 大人な対応で適当に誤魔化す。
「……そこそこって、どれくらいそこそこだ?」
 想像もしなかった切り替えしに頭がフリーズする。そうだ子供に大人な対応が通じる筈が無かった。
「……ど、どれくらいそこそこ?」
 そんな言葉は聞いた事が無いぞ。
「うん!」
 俺の疑問に一切の曇りなき笑顔でそう答えた。まさか、あるのか? 『そこそこ』にどれくらいとか程度が本当にあるのか? そこまで日本語は奥が深いのか?
「ねえ、どれくらい?」
「どれくらい?」
 うわっ! 他のガキンチョまで集まってきやがった。
「そうだな……──」
「強いわよ」
 俺がどう答えたものかと逡巡していると、北條先生が答えてしまった。
 あのね先生。現代社会で生きていくにはほとんど意味の無い腕っ節の強さをひたすら磨いてきた様な馬鹿チン共が、自分の目の前で強いと名乗る人間が現れたらどう思うか、その辺を考えて発言して貰いたいんだけど。
「やっぱり強いのか!」
「おっちゃん達が言ってた通りだ」
 なるほど年嵩の門下生達は、俺達の立ち居を見ただけある程度の実力を把握していたのか……侮れないじゃないか。

「このお兄ちゃんは、あのお祖父ちゃん先生の杖をへし折ったのよ」
「えっ? ……兄ちゃん、祖父ちゃん先生の杖を折ったのか?」
「いや……まあ、成り行きで」
「年寄りは労わらなきゃ駄目なんだぞ」
「駄目なんだぞ!」
「兄ちゃん、やっぱり不良か?」
 いきなり状況が変わった。俺が責められるのか? この世の理不尽の全てが俺目掛けて襲い掛かってきたかのような納得しがたい状況だよ。
 ちらりと視線を送ると、爺が嬉しそうに口元を吊り上げていやがる。

「良いのよ。元々お祖父ちゃん先生の方からいきなり襲い掛かったんだから」
「!」
 俺を批難していたガキンチョ共が驚きの表情で一斉に爺を振り返ると、爺はすっ惚けてお茶を飲んでいる振りをしている。
「爺ちゃん先生が悪いのか!」
「爺ちゃん先生! 本当にそんなことしたのか?」
 ガキンチョ共はそう言いながら爺の元へと突撃して行き、爺は脱兎の如く逃げ出した。
「あっ逃げた!」
「逃がすな!」
「吊るせ!」
 しかしガキンチョは簡単に諦めない。奴らは一度標的を設定すれば電池が切れるまで全力で追い続ける習性を持っているのだから。
 それにしても最後のは意味が分かって言っているのか?
 しかし、その追跡も長く続くことはなかった。
「あっ! 犬がいるよ!」
「うわっ、強そう!」
「格好良い!」
『何か子供がたくさん来た! 遊んでも良いの? ねえ、遊んでも良いの?』
 追跡者達がマルという新たな獲物を発見してしまったからだ……爺め命冥加な。


「それでは今日はここまでにします。明日は先生は参加出来ないけれど、明日もここで勉強をしてください……サボっては駄目よ」
「はい!」
 北條先生にそう言われてサボれる奴は空手部にはいない……そう既に1年生達すらもだ。
「それでは先生。今日もありがとうございました」
「ありがとうございました!」
 空手部一同で頭を下げ、北條に見送られたながら北條邸を後にする。
 そんな和やかな空気の余韻は長くは続かなかった。


「どういうことだ高城?」
 そう強い口調で詰るように詰め寄る櫛木田の顔は青褪めている。
「紫村の家とは聞いてないぞ」
 田村の顔からも血の気は失せている。

 勉強会終了後、櫛木田達を連れてきたのは俺の家ではなく紫村邸だった事への当然の訴えだ。
「今晩、お前達が泊まるのはここだからだ。紫村からどう聞かされたかは知らないが、紫村の家に泊まると聞かされていないのかもしれないが、俺の家に泊まるとも聞かされていないだろう」
「だ、だが俺が紫村から聞いたのは『高城の家には今両親がいないから』という事だったぞ……まさか!」
 伴尾の顔には脂っぽい汗が浮かんでいる。
「その通りだ。俺の家に両親がいない事と、今晩紫村の家に泊まる事は全く関係は無い」
「汚いぞ!」
「そんなに紫村を誉めるなよ」
 だって、俺が言ったんじゃないもんね。

「まあ落ち着け。大切な話があるのは事実だ。それに美味い飯も食わせてやるから中に入れ」
「美味い飯とは?」
 半分近くが食欲で出来ているような中学男子には有効な言葉だ。
「滅多に手に入らない。希少かつ極上の牛豚鶏が手に入ったので焼肉パーティーを開催する。嫌なら良い、今からでも2年生達を呼ぶ」
「は、張ったりだ。そんなので俺達が騙されるとでも?」
 想定内だ。俺は予め冷ましてレンジバッグに入れておいたオーク肉の串焼きをスポーツバッグの中から取り出すと見せかけて【所持アイテム】内から取り出すと、張ったり呼ばわりした田村に投げつけた。
「焼いてから時間が経っているが、お……豚肉の串焼きだ。食ってみろ」
「こんな串焼き程度で……不味かったら帰るからな! いいな?」
「食ってみてから言え」

 田村はレンジバッグから長さ25cmほどの串焼きを取り出すと、警戒するようにじっくりと目で確認し、次いで匂いをかいで異変が無いかを確認する。
「断っておくけど、高城君の手は一切入ってないから安心しても良いよ」
「それを早く言えよ!」
 紫村……田村……お前らぶっ飛ばす。いやいつか俺の料理をお見舞いしてやる!

 田村は安心して串に打たれた5つの肉の一番上のに齧り付く。
「……な、何だこれは?」
「どうした田村?」
「まさか、高城の料理? 謀ったな紫村!」
 ……うん、櫛木田にも俺の渾身のオリジナル料理をお見舞いしてやる。

「う、美味い。これは本当に豚肉なのか? だとするなら俺が今まで食ってきた豚肉とはなんだったんだ?」
 ごめんね。本当は豚肉じゃないんだ。その件に関しては本当に謝る……多分、すぐ近い内に。
「大げさな。そこまで驚くようなものじゃ」
「だったらお前は食うな。これは全部俺が食う!」
 その後は3人による醜い肉の奪い合いになった……気持ちは分らないでもない。それほどまでにオーク肉の美味さは衝撃的だ。
 俺もその肉がどういう素性の肉か分っていながら食うことを止められない自分の浅ましさに泣けてくるほどだった。

「それで中に入る気にはなったのか?」
「仕方が無いから入ってやる!」
「……香籐。2年生達を呼び出せ」
「はい」
 香籐がスマホを取り出すと田村と伴尾が割ってはいる。
「ちょっと待った! 俺は入って話を聞くぞ」
「俺もだ。帰るのは櫛木田だけだ」
 清々しいまでの切捨てっぷりだった。人間の欲望とは簡単に友情すらも破壊するのだ。


 食事は、俺が下処理した肉を、香籐が適当な大きさに切りそろえ、紫村がキャンプ用の炭のコンロで焼いていく。他には家政婦さんが用意してくれた大量の具なしおにぎりと、ざく切りにした処理された野菜たちで、野菜は紫村がコンロの端に載せた鉄板の上でサイコロ状にしたオーク肉とミノタウロス肉と一緒に野菜炒めにしていく。
 飲み物は水か麦茶を用意した。ジュースの類では折角の味を邪魔してしまうからだ。

 下処理が終わってしまえば俺にはやることは無い。つうか何もやらせて貰えない。こうやって皆が俺から調理の機会を奪うから上達しないんだよ。
『タカシ。これ美味しいね! とても美味しいね!』
 マルが尻尾をブンブンと振り回しながら切り落としの部分の肉を食べている。
 これからは、今までの食事とは別にマルに餌を与えないと増えた運動量に対して栄養価が不足することになる。食事自体を用意するのはさほど問題は無い。
 適当な大きさに切った肉。それに野菜や果物は夢世界の方で調達すれば良い。だが何時マルに餌を与えるかとなると朝晩の散歩の時間になってしまうが、それ自体は問題ない。
 問題は俺がいない時だな。今年の夏は合宿も無いし修学旅行は去年済ませてある……とりあえず暫くは問題は無いか。あるとしたら来年高校に行って宿泊研修の時だろう。
 未だそれまで十分に時間はあるが何か手を考えておかないと……あれ? そういえば【所持アイテム】ってマルにも使用出来たから、それを使いこなせるようにすれば良いだけか。
 ただし、マルが何時でも取り出せる餌を持っていたとすると……際限なく食べてしまう可能性があるな。この場合、マルは自分で節制なんて出来るのだろうか?
 幸い時間は未だ十分にあるのだし、意思の疎通も出来るのだから話し合えば何とかなるだろう。

『マル。何時ものカリカリ──ドライタイプのドッグフード──もちゃんと食べるんだよ。これはマルの身体に良い物がたくさん入ってるからね』
『身体に良いって何?』
 そうか何気なく使っている言葉だが確かに漠然としすぎていて訳が分からないか。
『先ずね。マルが大きく立派に育つために必要なものがたくさん入っているんだ』
『大きくなれるの? マル大きくなりたいよ! タカシより大きくなって背中に乗せて走りたい!』
 それは随分と大きな夢だな。
『そこまで大きくなれるかどうかは分らないけど、美味しい肉だけを食べてるより大きくなれるよ』
『マル。カリカリもっと食べる!』
 他にも健康で長生きして貰いたいという思いもあるのだが、大きくなりたいという目的があるなら敢えて口にする必要もないな。


「……もう食えない」
 紫村邸の庭の芝生の上に仰向けに寝転んだ状態で伴尾が苦しそうに、そう口にする。
「誰がそうなるまで食えと言った?」
「いや、これだけの肉を出されたらそれは無理だろう」
「お前も、他人事のように言うなら立って言え」
 田村も伴尾の隣で仰向けになっていた。
「ほうでぃあこおだえいいいうぼ──」
「だからお前は何時まで食ってるんだ!」
 2人のようながっつく食べ方はしないが、上品でありながらも、一瞬たりとも口の中を空にはしないハイペースで食べていた櫛木田は、2人が倒れた後もペースを落さずに食べ続けている。
「こんにゃいうもいおお──」
「話しながら口に物を入れるな!」
 口に物入れて話すならともかく、話しながら肉を口に入れるとはどれだけ器用なんだ?

「お前達が望むなら、この肉が毎日でも食えるようにな──」
「俺はお前が予想通り悪魔だったとしても、たった一つの魂を売ろう」
「嫌な予想をするな!」
 櫛木田とはいっぺん話し合う必要がありそうだ。
「……命の保障さえしてくれるなら」
「命と肉か……やっぱり肉かな?」
「お前達は俺を何だと思っているんだ?」
「ちょっと物分りのいい大島」
「弱体化大島」
「大島よりはマシ」
 3人は一斉に即答してきた。

「だから言ったよね。最近大島っぽいって」
「ぼ、僕はそんなこと思ってませんよ」
 香籐。嘘でもありがとう。
 でも、そこまで言うなら大島風に問答無用でやってやろうじゃないか! 博愛精神に満ち溢れる愛の戦士になるくらいなら俺は大島で良い。
 いきなり【昏倒】を使って3人を眠らせると、すかさず収納する。
「えっ! 説得は?」
 紫村も驚きの表情を隠せていない。
「ここでグダグダ話をするより、実際にあっちの世界に連れて行った方が話が早いだろう……これが俺の考える大島のやり方だ。文句あるか!」
 もう開き直ったから怖いものなんて無い。だって俺は、いや俺が大島だからだ! ……やっぱり嫌だ。

「ところで、もう1日僕等もあちらの世界に行くことになったけど、例のアレを狩るのかな?」
「無理だな。アレを狩るには準備がいると思うし、櫛木田達にも実際に戦いを経験させておく必要があるからな」
 先ずは十分に情報収集をして、出来るなら軽く一戦交えて、その後じっくりと対策を立て必要な物を揃えてからだな、それをせずに戦うほど自信過剰ではない。
「それなら、次の休みぬい僕が一当たりして力量を探るから心配は要らないよ」
 抜け駆けするなと釘を刺してきた。
「僕の事も当てにしてください」
 畜生!


 焼肉の後始末を手早く済ませると、マルと散歩に出ようとして香籐に止められる。
「何だ? マルとの散歩は諦めてさっさと寝ろ」
「そうじゃなくてですね」
 そこで一旦言葉を切って、ちらりと紫村を視線をやってから覚悟を決めた様に「僕が風呂を上がるまでここにいて下さい」と切り出した……割と必死だった。
「別に無理矢理どうこうしようと思うほど香籐君は僕の趣味じゃないよ。君の方からどうしてもと言うのならとも──」
「言いません。絶対に言いません。死んでも言いません」
 無理矢理じゃなければ、どうこうしたいとも受け止められる発言に、香籐は真っ青な顔で首を千切れんばかりに横に振った。


『夜はゆっくり~』
 夜の散歩は朝に続いて夜も失踪するのは可哀想なので軽く流しながら走る。
『こんな風にゆっくり走るのも好きか?』
『うん、好き~! お母さんと一緒に歩くのも好き!』
『そうか。俺もマルと一緒に歩くのも好きだよ』
「キャウン!」
 マルが大喜びでスキップするように跳ねながら俺の周りを回りだす……リード捌きが大変だよ。
『ずっと一緒にタカシと歩いたり走ったりするの。ずっとずっと一緒に!』
『そうだ。ずっと一緒だ』
 ならばどうしてもマルの寿命を延ばす方法を考えなければならない。猫なら気合を入れたら尻尾が二股になって妖怪化してくれそうだが、犬なら首が三つになってケルベロスか……正直、そんな風になったマルを想像するとちょっと……いやかなり気持ち悪い。
 他に思いつくのは人面犬……犬の化け物はどうしてこうもビジュアルが酷いんだ?

 紫村邸に戻り、マルと一緒にゆっくりと風呂に入る。やはりゆったりと寛げるかどうかというなら、魔法は本物の風呂には勝てない……要改良だな。
『プルプルして良い? 良い? ねえ、良い?』
『ちょっと待って!』
 身体の水を振るい飛ばすためにプルプルしたくて堪らないマルを制止すと【操水】でマルの毛の間にたっぷりと含まれた水分を抜き取り、排水溝へと流す。

『マル。もう我慢出来ない!』
 マルは全身を捻るように身体を動かすが、既にほとんどの水分は取り除かれているので飛沫は飛び散らなかった。
『あれ~?』
 何かいつもと違う事に気づいたマルが、俺をじっと見上げて何かを訴えかけてくる。
『先に魔法で水を飛ばしたんだよ』
『……魔法?』
『こんな感じに……』
 俺は再び【操水】を発動すると、天井や壁に付着した水滴すべてを集めてマルの目の前に浮かべて見せた。
『うわ~! 何これ? 魔法?』
 球形になった水の塊に鼻を近づけたが、触れて良いものなのか警戒しているので、水を少し近づけてマルの鼻先を少し飲み込ませた。
「キャン! ……クゥ~ン」
 驚いて1mほど後ろに飛び退くと、首を振って鼻に付いた水を振り払うと尻尾を丸めて情けなそうに鳴いた。
 その様子に笑いを堪えながら、水の塊を動かしてマルの周りを巡らせた。紫村邸の大きな風呂場だからこそ出来る真似だ。
『タカシ、タカシ、こいつで遊んで良いの? マル遊びたい!』
『……よし、やっつけるんだ』
 一応、興奮しすぎて風呂を壊した場合に備えて、セーブを実行し終えてから許可を出した。
『分った!』
 マルは嬉しそうに尻尾を振りながら、伸び上がって上体を起こすと前足で叩き落そうとするが、水は素早く軌道を変えてマルの一撃を掻い潜るとそのまま首の後ろへと回りこませた。
『何処?』
 首を振って周りを確認するが絶妙に頭の動きとシンクロさせて動かしているためにその姿を捉えることは出来ていない。
『さあ?』
『むぅ……』
 マルは凛々しく目を細めて身を低く構える。そして次の瞬間身体を捻るようにして飛び上がると左前足の一閃で水の塊を叩き割った。
『マルの勝ち! 誉めて誉めて』
 頭を差し出して撫でろのポーズを取るマルに、抑えきれず笑みを零しながら撫でながら『どうして分った?』と尋ねる。
『あのね、マルから見えないなら、マルから見えない所にいるからで、マルが頭を動かしても見えないなら、マルの頭の後ろにいるはずなの、それでね、耳を澄ましたら、マルの後ろから聞こえる音が何時もと違ったの。だから後ろにいると思ったの!』
 完璧だ。マルの知能は単に記憶力や演算能力だけではなく、論理的な思考を可能とするほど高まっていたのだった。


 風呂を上がり、居間に戻ってくると携帯にメールが入っていた。
「母さんとイーシャからか……へぇ、イーシャは銀メダルで、涼が別の階級で金メダル……すげぇな」
 イーシャと涼は、小学生の頃は全国大会でメダルを獲っていたが、世界レベルでも通用する? いや世界大会というわけではなくアジアでの親善試合的な大会みたいだな……それでも凄い事には違いない。帰ってきたら誉めてやらなければな。
 涼は喜ばないだろうけど。そう思うと気が重たいが、とりあえずメールで「おめでとう」と返事をすると寝た。



[39807] 第90話
Name: TKZ◆504ce643 ID:2e2960f9
Date: 2015/11/17 19:29
 今日も今日とて、2号を置き去りにして俺は宿を出た。
 既に昨日の段階で2号には龍殺しの称号は諦めて、普通に軍人として仕官するように勧めてある。後はそれを2号が納得するかどうかは奴次第だ。
 どうせ納得はしないだろうが、現状でこれ以上2号をどうするという考えは俺には無い。
 暫くは普通にオーガ辺りを狩って名前を揚げておく──最近はすっかり雑魚扱いだが、オーガはそこそこの規模の町が壊滅しかねない魔物──ようにとは指示を出してあるのだが、今日は櫛木田達の事を説明するのが面倒なので、そのまま姿をくらましたという訳だ。


「! ……」
「目が覚めたか?」
 深い森の奥で、硬い地面の上で目覚めた櫛木田は何がなんだか分らないといった様子で、目を見開いている。
 穏やかな談笑の途中でいきなり気を失い。奴の主観的な次の瞬間には地面に横たわっているのだから仕方が無い。
「何が起きた?」
「お前の身に起きた事なら、一言で云うなら色々ってところだ」
「何をした!」
「質問に答える前に言わせて貰うなら、お前達を異世界に招待した」
「異世界だと? お前、まさか……」
「あちらはパラレルワールドで、こっちはファンタジーな異世界ってやつだ。安心しろ、あちらよりは幾分ましだぞ」
「ファンタジー?」
「そうだファンタジーだ……お前らも起きろ!」
 両手に水球を出現させると、そのまま田村と伴尾の上で解除して頭に水を被せる。
「何!」
「うわっ!」
 愕き飛び起きる2人に「おはよう!」と声をかける。
「た、高城?」
「何だ? いきなり……俺は何を?」
「面倒臭いから、結果だけを伝える。櫛木田にも話したことだが、お前達をファンタジーな異世界に連れてきてしまったって事だ」
「異世界ってまたか?」
「お前の想像しているのとは違って、今回はファンタジーな異世界だ。水晶球の化け物みたいのしかいないのと違うから」
「何を言ってるんだ高城?」
 言っている事が理解出来ないというよりは、受け入れがたいという感じだな。ならば分りやすく理解させてあげるべきだろう……丁度良いタイミングだし。
「説明するよりも実際に見た方が分りやすいだろう。ちょっとこっちを見てくれ」
 そう言って、3人の背後の空を指差す。

「えっ……紫村?」
「それに香籐……何故だ」
「何だアレは……そんな馬鹿な!」
 3人が振り返った先には、空を飛ぶ紫村と香籐が背後に火龍を引き連れてこちらに向かって来ているのが見えているだろう。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 全長30m級の巨大な化け物が真っ直ぐ突っ込んでくる迫力の前に3人は一斉に悲鳴を上げた。
 気持ちは分る。分るけれど、そんな風に驚く事が出来る事が少し羨ましいというか、初々しくさえ感じる。

「退避!」
 俺が叫ぶと、紫村と香籐は鋭くそれぞれ左右に方向を変えて火龍の前から逃げた。
 そして一瞬、どちらを追うべきか速度を落とした火龍の顔へと、レールガンよりずっと速いと呼ばれる超高速で打ち出された拳大の岩を撃ち出し、岩は摩擦熱で燃え上がる間もなく目標を捉えると同時に爆散させた。
 残った頭から下は墜落して、地面に叩きつけられ激しく転がり、俺達の手前10mほどで止まった。

「た、助かったのか?」
「何が起きた? 何が起きてるんだ!」
「まあ、とりあえずファンタジーの世界にようこそって事だ」
「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 嫌だな、俺はふざけてなんていない。真面目にこんなことしてるというのにどうしてご理解頂けないのかな?

「大体、紫村! お前は空を飛んでたよな?」
 奴らの追及の手は紫村へと向かった。
「僕達は全員空くらいなら飛べるよ」
 そう言って身体をふわりと宙に浮かせて見せる。
「……どういう事だ高城!」
 紫村が浮かんでいるという事実が自分の中で説明付けられない田村が今度は俺に矛先を変えた。
「分りやすく言うと魔法って奴だ。俺も紫村も香籐も使えるようになった。それをお前達にもって思ったのだが余計なお世話だったな。申し訳ない。今日一日、好きなだけ美味い物を食って時間を潰してくれ」
「ま、待ってくれ。魔法ってそんなものを俺達も使えるようになるのか?」
 伴尾が食いついてきた。
 すぐ使えるようになるのは魔術で、糞使えないのばかりだが、とりあえず嘘ではないので頷いておく。
「今日一日あれば使えるようにしてやれるけど、どうやら気に入らないみたいだから止めておくよ。無理強いはしたくないし」
 敢えて突き放す。俺からお願いするのではなく奴等が望みそして頼み込んでくるように仕向ける。結果、どんな事が起きようとも自己責任という状況を作り出すのだ。

「高城ぃぃぃっ!」
 雄叫びに振り返ると、そこには見事なまでの土下座をする櫛木田の姿があった。
「な、何だ?」
「俺に魔法を教えてくれ。頼む! この通りだ。魔法が使いたいです!」
 腰を軽く浮かせて額を地面にズリズリと擦りつけながらの懇願だった……そういえばこいつは一時期手品にはまっていたな。全く適性は無く、逆に俺が一発で決めてやったら泣きながら悔しがっていた。
「教えるのはやぶさかではない。だが物事には常にメリットとデメリットが存在するのは分るな?」
「勿論だ。例えこの先にどれほどの困難が待ち構えていたとしても、この言葉を告げよう『時間よ止まれ、汝はいかにも美しい』と」
 ……こいつ、何を言っているんだ。
「高城君。ファウストだよ。ゲーテのファウストで、悪魔メフィストフェレスとファウスト博士が魂の契約を結ぶ際の言葉で……何時ものアレさ」
「知らんがな!」
 大体誰が悪魔だ。
「また何時もの病気かと思ったら、やっぱり何時もの病気だよ」
「全くだ。お前は賢そうに見せたいのだろうが、ただの間抜けだ」
 田村と伴尾からも容赦の無い罵声が飛ぶ。話す相手が分らないようなネタを選ぶ厭らしさが叩かれてるのであって、決して知らなかったので恥をかかされたと憤っての事ではない……としておく俺は友達思いである。

「それで田村と伴尾はどうする?」
 櫛木田が落ちた。次に落ちるのはどちらか?
「高城。未だ他にメリットはあるのか?」
 やはりこいつらは馬鹿だ。デメリットよりもメリットを先に考える。小心な俺には不可能な事を平気でしやがるものだ。
「田村……頭も良くなるぞ。頭の回転が高まり、コンピューター並みの演算力といえば語弊があるが、人間とコンピューターのどちらに近いといえばコンピューター寄りと言って良いだろう。それに記憶能力は本をぺらぺらとめくって読むだけで一字一句間違いなく頭の中に叩き込まれる感じだ。辞書だって一晩で頭に叩き込めるし、英語どころかフランス語だろうが辞書を頭に入れてから吹き替え無しの映画を3本くらい観れば日常会話で困ることは無くなる」
「高城……一生ついていくよ」
 早っ! そして馬鹿だ! 想像以上に馬鹿だ!
「ほ、他には何かあるのか? 例えば──」
「肉体的に強くなる。しかも圧倒的に……というか人類を越える」
「……そうじゃなくて、ほら、女子から好かれるとか、モテモテになるような」
「申し訳ありませんが、当店では扱っておりません」
 力なく崩れ落ちる伴尾……ごめんな。俺も力になってやりたいが、システムメニューにも出来る事と出来ない事があるんだ。俺だってモテてぇぇぇぇぇっ!

「高城君。見た目はどうにもならないけど、社交的で優しく気遣いの出来る性格になれば、女性受けは良くなると思わないかい?」
「そうか、【精神】関連の変化をオミットしないで、上昇してやれば……」
 でも俺は嫌だな。性格が変わったら俺が俺じゃなくなるだろう。既に自分を見失いかけてる俺としてはこれ以上の変化はお断りだ。
「性格が変わるってどういうことだ?」
「何というか、性格を心優しく高潔な正義の味方へと変えてしまう副作用があるのだが、それをブロックする方法があってな。更にそれを部分的にブロックする事が出来るから、社交性と優しさと気遣いのパラメーターを上昇させると、頭が良くて運動が出来て性格も良い。ちょっと顔の怖いのが珠に傷だけど、完璧じゃないところが人間らしさを演出し、かえって好感度を上げるという。伴尾君が完成してしまうのだが──」
 俺が気付いた時には既に伴尾は天に召されていた。その死に顔はとても嬉しそうな良い笑顔で……嬉しそう過ぎて気持ち悪かった」
「勝手に変なモノローグでまとめるな! まあ、何だ俺もその話に乗らせてもらうからな」
 そんなツンデレっぽく言われても軽く殺意しか沸かないんですけど。


「──という事だったのさ」
 いきなりこの夢世界に現れた事。
 システムメニューの存在に気付いた事。
 初めての戦闘と敗北。
 現実世界と夢世界の両方に存在する俺の肉体の事。
 システムメニューの力で俺が夢世界。そして現実世界で行った事。
 そして、もう1つの世界であるパラレルワールドでの事をざっくりと説明した。

「それでお前は、俺達に何をさせるつもりなんだ?」
 3人とも意外なほど動揺を見せない。
「とりあえずはレベルアップをして貰う。今のままじゃ現実世界の方で何かが起こったとしても役に立たないからな」
「まるで何かが起こるといわんばかりだな」
「起こるに決まってるだろう。このシステムメニューというのが自然現象に思えるのか?」
「ありえないな」
「だったら何者かの何らかの目的のために、俺を含めた1000人以上の対象にばら撒かれたものだ」
「それは本当なのか?」
「賭けても良いぞ」
 答えは知ってるからな。
「そうか……」
「そこまでしておいて、このままめでたしめでたしで終わるようなシナリオを書くような脚本家がいると思うか?」
「いたとしたらよっぽどのヘボだな」
 率直な意見だが、その脚本家が聞いていたら脚本を変更して、不用意な事を口にしたくしを作品から追い出すのではないだろうか?
「……それでだ。第二幕以降が存在するなら、部員達全員には生き残るためにレベルアップして貰いたいと言う事だ」
「高城の駒としてか?」
「そういう事言うなよ。本当にケツの穴が小さいな田村は、紫村に拡げて貰えよ」
「冗談でもそれは言うな。洒落にならない」
「安心して良いよ。僕も君は頼まれても嫌だから」
 きっぱり言われて落ち込む田村。本当に嫌なんだけど、その嫌な対象から拒絶されると落ち込む気持ちは理解出来なくも無い。
 日本の隣には日本が嫌いな癖に、日本が自分を好いてないとおかしいと思う国があるだろう。要するにエゴなんだけど、人間は度の違いはあれどエゴとは無縁ではいられない。

「大体だ。俺に利用されるのも織り込んだ上でメリットを取ったんだろうが、今更グダグダ文句を言うのはお門違いじゃないか?」
 契約後にごねるなど悪魔もびっくりの所業だ。
「いや俺等はどうでも良いんだ。だが1年や2年の連中を引き込むのはな……」
 そう言われるとつらいな。
「確かにそうだが、はっきり言っておくぞ。俺は別に一方的に利用しようなんて考えてはいない。俺のモットーは『皆で幸せになろうよ』だ」
「嘘くせぇ! こいつの言葉からは嘘特有のドブ臭さがしやがる!」
 失礼な。
「嘘を吐いてどうなる? win-winの関係にこそ意味があるんだよ。一方的な搾取では継続的な協力関係は続けられない。だからこそを相手にも十分な利益を与え長く細く搾り取れるんだろう」
「うわぁっ! 良い事を言ってそうで何一つ良い事は言ってないぞ。汚い。大人って汚い!」
「何を言うか同級生。それに1・2年生達とお前等は大島に借りがあるんだろう。俺に協力すれば大島を蘇らせる事が出来るかもしれないんだぞ」
「大島? あいつを……どうやって?」
「奴と早乙女さんの遺体は俺が回収してある。今後のレベルアップで死者復活の魔術を使えるようになう可能性がある」
「大島が復活……嬉しいような嬉しくないようなというより、嬉しくなくてたまらない」
 心の整理をつけたら、恩よりも怨の方がずっと大きかった事に頭ではなく心が分ってしまったのだろう……無理も無い。
 多分、現在大島を復活させたいと心から願っているのは俺だけかもしれない。もっとも何時までも【所持アイテム】のリストに『大島の遺体』という項目があるのが嫌なだけだが。
 やはりこの大島というカードは交渉には使えないか……本当に使えないな大島。

「駒と言ってもお前等に望むのは、またこの前みたいな事が起きた時に生き残って貰う事だ。ついでに後輩や周りの人間を可能な限り助けてくれると嬉しい」
「……それだけか?」
「後は、俺がこっそりと動く時などにアリバイ工作したり、手の足りない時の手伝いなどのバックアップをして貰いたい」
「お前の戦いに巻き込むつもりはないのか?」
「無いというか、俺が本気で助けて貰いたいと思うような戦いには、お前等は連れては行けない……死ぬから」
「レベルアップをしても戦力にはならないか?」
「もう一度、パラレルワールドに飛ばされて、お化け水晶球を大量に300万程倒せば今の俺と同じくらいになるだろうけどな」
「その機会はあるのか?」
「あると良いなとは思っている。その場合は、お化け水晶球を億単位で叩き割って絶滅させてやるつもりだ」
「それなら俺達も──」
「ありがたいが、俺の方がレベルの上がり方も、レベルアップ時のステータスの上昇も上だから差は開く一方だ」
「……分った。全面的に協力する」
 櫛木田がそう答えると、田村、伴尾も協力を約束してくれた。


「高城ぃぃぃっ! お、お前は何てことをしてくれたんだ」
 あーうるさい。
 あの後、俺は初心者用の狩りの相手として「とりあえず練習がてらに、お前等が昨日食った豚肉を狩りに行かないか?」と誘って狩場につれて来て、「アレが豚肉だ」と言いながらオークを指差してやった結果の騒ぎだった。

「お前、あんな、あんなものを食わせたのか?」
 いきり立つ櫛木田に笑顔で答えてやる。
「びっくりしただろう? 俺もびっくりしたぞ。初めてたどり着いた町で、この世界で最初の真っ当な食べ物が出てきたと思ったら、俺が狩ったオークの肉が出てきたんだから。しかも一口食ったら止められなくなって、美味しいやら悔しいやらで涙が出た」
「そ、それは……なんていうか」
 俺は方をすぼめて、やれやれといった感じで頭を軽く左右に振る。
「別に食いたくないなら食わなくて結構。断っておくが昨日の牛も鶏も全部魔物の肉だから、大して違いは無いからな。この世界で美味しい肉は全部魔物の肉で、最高峰はドラゴンの肉だ。ああ残念だ。その内食わしてやる機会もあるだろうと思っていたんだが、オーク肉も食えないって奴には無理だし……ああ残念」
「……俺はオーク肉、悪いとは思わないぞ」
 田村が手のひらを返した。
「櫛木田はわがままだな。子供じゃないんだから見た目で好き嫌いするな」
 伴尾がはしごを外す。
 こいつ等は本当に良い友人関係を築いていると思うよ……ある意味。


「肉となれ!」
「美味しい肉になれ」
「そして、ご馳走様だ!」
 三馬鹿に俺達から借りた武器を手にして5体のオークの群れへと突撃して行く。
 人間より遥かに嗅覚や聴覚に優れたオーク相手に奇襲をかけるのは難しい。俺や紫村達の様に空中からでも無い限りは飛び道具を使わなければ無理だと分った故の突撃だった。勿論セーブ済みだ。
 櫛木田と伴尾は剣を、田村は槍を選択した。
「田村君。槍は突く事よりも引く事を念頭に入れた方がいいよ」という紫村の助言を田村がどれほど理解しているかが生死を分けるとみている。
 全般的に魔物と呼ばれる存在の身体能力は人間どころか野生動物に比べても高い。一見丸くてプヨプヨとした柔らかそうなオークだが、その脂肪の下には鍛えた訳でもないのに物凄くブラッシュアップされた筋肉がこれでもかと詰め込まれた肉体が隠されている。
 だから、レベルアップもしていない田村の腕で槍を深々と刺せば、収縮した筋肉に包まれた穂先が引き抜けなくなるのは間違いない。

 掛け声ばかりは勇ましかった3人だが、はっきり言って浮き足立っている。
 それほど自分の手で相手の命を奪うという事への心理的な障壁は厚くて堅い。
 ましてやオークは曲りなりに亜人と分類される人型である。俺自身ゴブリンに対しては戸惑いを覚えたのは決して古い記憶ではない。
 ゴブリンを観察して、猿よりも人類から遠いと決め付けなければ殺すのは難しかった。。
 3人の掛け声も同じなのだろう。肉だと思い込まなければ戦えない……だが、自分の嘘で自分を騙し切れてもいない。その辺を割り切るためには──


「おおぉぉあっ!」
 伴尾は真正面から踏み込んでの面を打ち込む……完全に剣道だ。インパクトの瞬間に左の小指からぎゅっと絞り込むように強く握りこんでも駄目なんだよ。
 竹刀なら打った瞬間に綺麗に剣先が跳ね上がるような打ち方だが、この場合は剣の重量を生かして振り下ろして生まれた運動エネルギーを余さず全て叩き込むようにしないとオークの頭蓋骨にはひびが入ったとしても砕けない。
 刀でも相手を一撃で死に至らしめるような場合は、斬りつけながら両膝を抜いて腰を落しならがその運動エネルギーすらも刃に乗せる。

 案の定、オークは頭に一撃を貰いながらも反撃をし、伴尾は棍棒の一撃を避けるために横っ飛びで地面に身体を投げ出し転がった。
 その隙を突いて別のオークが大きく頭上で振りかぶった棍棒を地面の上の伴尾に振り下ろそうとするところを、田村が槍で腹を突く。
 しかし、焦りのために紫村の忠告を忘れたのだろうその穂先は深々と突き刺さり、腹筋によってからめ取られ引き抜く事が出来ずにいるところを、更に別のオークが棍棒で頭を殴り飛ばす……ああ、死んだな。
「田村ぁぁぁぁっ!」
 死んでも時間を撒き戻して記憶以外は元通りと伝えてはあるのだが櫛木田は頭に血が上ってしまったようで、我を忘れて突っ込むと怒りに任せて振るった剣で、田村を殴り飛ばしたオークの腕を切りつけた。
 剣道の打つではなく、叩き斬る様な一撃は肉裂いて骨を砕くが、両断は出来ずに皮一枚繋がった状況となり、そして櫛木田の身体は前へと体勢を泳がせる。
 そこを、伴尾に頭を斬りつけられたオークの一撃が背後から襲い……背骨を折られたな。

 更に伴尾が起き上がる前に残りのオーク2体が襲い掛かり、滅多打ちになった。


『ロード処理が終了しました』


「うわぁぁぁぁぁっ!」
 3人はロード終了直後、死の恐怖に叫び、何かから逃れようと地面を転げまわる。
「よう、おめでとうさん」
 嫌味ではなく心から祝う。やはり武道を志す者として、一度くらい無様に死んでおくべきだと思うのだよ。
「た、高城ぃ?」
 這いつくばった状態から顔だけを上げる櫛木田。
「何だ? 最初から言っておいたよな、死んでもロードで時間を巻き戻すから安心して死んでこいと」
「いや、だけど……アレ、アレが俺の死なのか?」
 苦しげに顔を歪めながら吐き出すように口した。
「自分の死に様はみっともなかったか?」
「……無様だった」
「良かったじゃないか、それを経験出来たんだから」
「そうだな……これは凄い経験だ。だが礼を言う気にはなれない」
「別に礼は入らないが、悔しいな。俺はその体験を試す事が出来ないのだからな」
「そうか、お前が悔しがるなら死ぬのも悪くはないな」
「じゃあ、後十回くらい死ねば良いと思うよ」
「この悪魔!」
「うるさいよ。櫛木田だけじゃなく伴尾だって剣道じゃないんだから考えて武器を扱えよ。田村は槍で首か心臓を狙って突けば良いのに、躊躇った挙句に焦って腹を思いっきり突いただろ。だから槍は抜けなくなったし反撃も貰った。お前等一度殺されてるんだから、もう手加減とか躊躇うのは止めろよ」
「分ってる。こちらが躊躇っても相手は躊躇わないんだ。無駄なことはもうしないさ」
 割り切りの速い現実的な対処が俺たちの売りだから。

『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』

「ちっ、5回で終わりかよ」
 櫛木田達は無事にオーク達の殲滅に成功した……心には大きく深い傷を負ったのだが、それはそれだ。
「舌打ちしたな?」
「気のせいだろう?」
 3人の恨めしげな視線など痛痒も感じぬわ。
「折角だからレベルアップって奴を少し実感してみろよ」
「実感って……例えば?」
 まあ、何時ものあれしかないよな。
「じゃあ、俺が掛け声を掛けるから、一斉に思いっきりジャンプしてみろ。一、二の、三!」
 俺の余裕を与えないカウントダウンに合わせて、何も考える余裕も無いまま思いっきりジャンプした3人は、思った以上に高く跳んだ自分の身体を制御できずに空中でバランスを崩すと、空中で体勢を整える術などなくそのまま地面に落ちた。

「痛った……く無い?」
「それより、今凄く高く跳んだな」
「確かに、2mくらいは跳んだぞ。これがレベルアップの?」
「僅か3レベル上がって4レベルになっただけだが、既に普通の人間と呼ぶにはおこがましい存在で、やがて人類との別れを体験することになる……今日中にな!」
 名残惜しさを感じる余裕も無い一足飛び生き急ぎすぎだよ……勿論他人事だ。
「それじゃあ、大島が復活しても、もう怯えないで澄むんだな」
「………………」
「黙るなよ!」
「………………」
「目をそらすな!」
 注文が多いよ。
「だって、そもそもあいつは人間じゃないし」
 システムメニューも認める人外だから。
「人間じゃないのか?」
「アレを人類と認めたら、人類への冒涜だよ。あいつは普通に魔術を弾くから。魔力を気合で無効にするんだよ。そんなの人間じゃないだろ?」
「……それって本当なんですか?」
 意味が分かっていない櫛木田達とは違い、魔法の知識がある香籐が疑問を口にする。
「本当だ。『【昏倒】は対象の気合によって無効化されました』とアナウンスされたんだ。確かにレベルの低い非物理的な魔術は、魔法と違って魔力に影響されて効果を失うが、奴は魔力ではなく気合で無効化したという事だ。調べてみたら『ある種の生物には意志の力により少ない魔力を瞬間的に高めて魔術の効果を無効にする術を持っています。ただし人類は除く』とあった」
「本当に人類じゃないんですね」
「システムメニューによりレベルアップして人類の範疇から外れた俺達と違って、あいつはそもそも別の生き物なんだよ」
 衝撃の事実の前に紫村さえ口を開けて固まっている。

「……大島先生を復活させて良いのか不安になってきたよ」
 何とかショックから立ち直った紫村が余計な心配を始める。何故なら──
「大島の遺体を収納している俺の方が不安だ。この世のためとはいえ大島を封印し続けるつもりは無いからな」
「えっマジ!? 大島をアイテムボックスにいれてるのか? エンガチョ!」
 これが我々の大島に対する赤心の吐露です。穢れの無い少年達がこうなってしまうほどの仕打ちを大島は行っていたのです……じゃない。アイテムボックス?
「田村、今アイテムボックスといったよな?」
「それがどうした?」
「お前のシステムメニューにはアイテムボックスという項目があるのか?」
「何だよ、普通にあるぞ」
「【所持アイテム】という項目は?」
「そんなものは無い」
「そのアイテムボックスという項目には、当然アイテムを入れられるんだよな?」
「アイテムボックスなんだからそうだろう。まだ何も入ってないから」
 ……なるほど。このシステムメニューの項目は本人の認識によって変化する。【所持アイテム】は俺が持ち物を入れておく項目をそうだと思ったから、項目に【所持アイテム】というラベルが貼られているという事か、別に大した問題ではないが、ここで俺は一計を案じた。

「試しにお前のアイテムボックスへ、俺の【所持アイテム】内のモノを送るから受け取ってみてくれ」
「分った」
 チャンスだ。【所持アイテム】内のリストから大島の遺体を選択して……このままじゃ流石にバレるな。よし鈴中の部屋から回収した幅が2mを越える大型のクローゼットも選択する。すると『1つにまとめますか?』とアナウンスが出たので、迷わず『Yes』を選択すると、どうやら大島の遺体はクローゼットの中に収まったようで、リスト上はクーロゼット(*1)と注釈こそついているが、一見してクローゼットになった。ついでに鈴中と早乙女さんの遺体もクローゼットにまとめて入れると、何食わぬ顔で田村へと送りつける。
「クローゼット? 随分大きなものを寄越すな」
「最低でもそれくらいの大きさじゃないと、ありがたみが分らないだろう?」
「それもそうだ。Yes……と、それにしても随分と大きなクローゼットだな。何でこんなものが?」
「いや、鈴中の話をしただろ。あの時に証拠隠滅で奴の部屋の家具など一切合財を収納した時の奴だ。処分に困ってる奴だからお前にやるというか返さなくて結構だからな」
「そんなものこっちで捨てればいいじゃないのか?」
「合板とか使った家具なんてある意味オーパーツだからな。かといっても現実世界で捨てて足がついても困るから。本当ならパラレルワールドで捨ててしまうかとも思ったんだが、結局は何やかんやと忙しくてそれどころじゃなかったからな」
「分った。アイテムボックスが一杯になったら処分を検討すれば良いんだろ」
 計画通り! いや、ただのごっつあんゴールだけど、とりあえずババは手札の中からは消えた。何という開放感だろう……幸せってこんな感じなのだろう。

『高城君。やったんだね?』
『やりましたね?』
『やらないはず無いだろう。何か問題があるか?』
『特には何も』
『僕もありません』
 あるはずが無い。
 ここで田村にチクったとしよう。田村は俺に送り返そうとするだろうが、俺は断固受け取りを拒否する。すると田村は自分のアイテムボックス内からクローゼットごと3人の遺体を取り出してしまうだろう。そうなれば結局は、鈴中はともかく大島と早乙女さんの遺体を6人の中の誰が収納するかで醜い押し付け合いになる事は2人にも分っているはずだ。
 故に2人は口を噤む。この場合、雄弁は銀だが沈黙は金なのだ。


『マルまだ眠い……』
 昨日は興奮して遅くまで起きていたマルはまだ眠り足りないようで、欠伸をしながら地面に胸を着けたまま立ち上がろうとしない。
「香籐。マルはまだ眠いから触るなウザイと言っている」
「マルちゃんはそんな事言いません!」
 お前にマルの何が分る! と怒鳴りつけてやりたくなったが何とか抑える。
「いやいやマジで香籐ウゼェ! って言ってるから、近寄らないであげて」
 止めを刺してあげた。
「嘘だどんどこどーん」
 香籐は泣きながら走り去った。
「香籐君……親を説得して犬を飼えるようなると良いね」
「そうだな。そうすれば少しは症状が軽くなるよな?」
「…………」
「………………」
「……………………あっ、全滅したみたいだよ」
 気付けば櫛木田達がオーガー相手に全滅していた。友人がオーガーの一撃でバラバラに弾け飛ぶ様をみて冷静でいられる俺達は精神面でも人から外れた存在になっているのかもしれない。

『ロード処理が終了しました』

「ふざけるな! 何だアレは!」
 最初にオーガと戦って死に掛けた俺と同じような事を言っている。
 そうだよな、化け物じみた力を手に入れたと思ったら、すぐにもっとトンでもない化け物と戦って殺される様な極限状態で、人間がとれるリアクションにはそれほどバリーションに富むはずが無いというのが俺の持論だ。
 バリエーションを生み出すほどの精神的な余裕があったら、それは極限状態ではないのだから。

「現状では速さも力も劣っている。唯一の救いは、俺達の腕に宿る力はオーガの力には届かなくてもオーガの命には届くという事だ」
「つまり、その力をどうやってオーガの致命的な部分に送り込んでやるか……」
「もう1つ俺達に有利な点がある。奴は一体だが俺達は3人だ」
 知恵と勇気と友情で乗り切る気か? 俺は1人だったぞ……色々インチキもしたけどな。
 それにしても数の優位を戦力の計算に含めるとは、基本1対1、そして1対多数(1は自分)しか想定していない空手部の人間としては上出来だ。
 もしかして、そんな事は無いとは思うのだが、3人は俺が想像していたよりも頭が良いのかも知れない。
 いやいや、やっぱりそんなはずは無い。あいつ等は3人で戦えるから気付けただけで、俺はシステムメニューを身に付けてからずっとボッチで戦……やめよう、これ以上自分を追い込むような真似は危険だ。
 俺はオーガに挑む3人に背を向けると、眠るマルの横に座って静かに彼女の身体を撫で続けるのであった……癒される。


「高城君。高城君」
「ん? ああ、また死んだのか」
「それでも全滅はせずにオーガを倒したよ」
「なるほどそれなら後1、2回ってところかロードロードと」

『ロード処理が終了しました』

「だから正三角形でオーガを囲うのは良いけど、三角形の頂点の1つが正面に来るのだけは避けないと駄目なんだ。真後ろに回り込む役以外は常にオーガの動きだけじゃなく視線や足の指の向きまでも気を配って、咄嗟の動きに警戒しつつ注意を自分に向けるというある意味矛盾する役割を全身全霊で果たす必要がある」
「だけどオーガだって馬鹿じゃない。先ずは誰かに狙いをつけるだろ」
「そのために他の2人が牽制して、常にオーガが誰か1人に狙いをつけるのを妨害するんだ」
 3人は真面目にディスカッションをしている。幾ら生き返る事が出来ても進んで死にたくは無いようだ。死という感覚をとことん突き詰めようとする紫村や香籐に比べたら、多分俺は櫛木田達に近いのだろうと思う。

「高城、犬なんかを構ってないでお前も何か案を出せ」
 そういうのは自分で考えてこそだろう櫛木田よ。それを俺に振った挙句に、犬なんか?……あっ、いい事思いついた。
「お前等は、安全を確保することばかり考えた結果、長期戦になりやられてるんだから短期決戦で挑めよ」
「短期決戦?」
「そうだ。三角形の頂点を正面に配置して、残りの2人が突貫してオーガのアキレス腱をぶった斬って無力化しちまえよ。そうだな囮は櫛木田にやらせれば良い」
「お、おいちょっと──」
「良いアイデアだ」
「さすが高城主将だ。副主将に厳しいのが素敵!」
 再びあっさりと手のひらを返す田村と伴尾に、こいつ等3人組のコントグループとしてデビューすれば良いのにと思う。

 結果的に俺の助言が功を奏して、両脚のアキレス腱を斬られて立ち上がれなくなったオーガを3人はあっさりと仕留めた。


「これでお前等のレベルは6になった。どうだ大分人類から遠ざかった気がしないか?」
「いや、そこまでは」
 3人は一斉に首を横に振る。
「まあ、早い段階で諦めた方が楽になれるからな」
 とりあえず忠告だけはしておく。別に胸が痛むとかいう訳ではない。心の何処にぽっかりと穴が開いたような虚無感が沸いてくるだけだ……
「そしてこの後の事だが、後3回位オーガを倒して戦闘慣れして貰ったら。龍狩りに向かう」
「龍? あまりにもいきなりハードルが上がり過ぎじゃないか」
「竜ってアレだろ、ワイバーンとか」
「それでも辛いわ!」
「残念だが、バリバリの龍だ、全長は20m程度から大きいものは30mを超える。超大物だから」
「無理だ!」
「分ってるから安心しろ、別にお前等に龍を倒せとは言っていない」
「そ、そうか──」
「龍に倒されて貰うだけだ」
「なんだってぇぇぇぇっ!」
 良い反応だ。その顔が見たかった。
「お前達のレベルじゃ流石に無理だから。俺でも水龍と戦ったのはレベル10を越えてからだしな」
「じゃあ何故?」
「絶望的なほど力に差のある相手に蹂躙されるという経験は得がたいものだと思うぞ」
 俺も経験してみたいのだが、それが出来ない以上は他人の状況を見て学ぶしかない。俺の糧になるがい……ゲフンゲフン、win-winだよ。

 場所を変えながらオーガを狩って行く訳だが、櫛木田達は空を飛べないので……抱き上げて飛ぶのは嫌なので歩きだ。
 ちなみにオーガの個体数はそれほど多くは無い。統計がある訳も無いので俺の私見だが、オークの数百分の一程度の頻度でしか発見出来ない。
 勿論、これはオークの個体数がそれほど多く、それ故に人間にとって重要なたんぱく質の供給源となっていると言える。
 俺のオーガのスコアが100を越えているのは、ど田舎にして魔境ともいうべきミガヤ領で稼いだスコアが大きいためであり、流石に王領ではオーガを狩るには、広域マップで検索をかけてヒットした個体を目指して数kmから10km程度は移動する必要があった。

「なあ高城。俺達はいつになったら飛べるようになるんだ?」
 長い移動中に伴尾がそう尋ねてくる。女にモテタイのもあるだろうが、高所恐怖症でもない限り空を自由に飛んでみたいという夢は誰にでもあるだろう。
 ちなみに、3人が【精神】のパラメータのレベルアップ時の変更をデフォルトでOFFにした後で、真っ先に個別設定でONに切り替えたのは高所耐性だった。

「そうだな、ギリギリ浮き上がる程度なら今でも出来るだろうが、ある程度実用レベルで飛べるようになるのはレベル30は必要で、思う存分自由自在に飛ぶならレベル50-60くらいじゃないかな」
 【魔力】に関しては3人とも紫村や香籐とさほど変わらないので、そう判断した。
「それで今日俺達のレベル上げの目標はなんぼだ?」
「レベル60を目指す予定だから安心しろ。そのレベルになれば魔法も簡単に理解出来るようになっているだろうし、自分で新たに魔法を作れるようにもなるだろう……だがくれぐれも悪さはするなよ、俺や紫村を敵に回したくないなら」
「い、悪戯ならどうだ?」
「覗きとかか? 断っておくが、システムメニューのマップ機能は、互いに相手の位置情報とかも知る事が出来るから、恥ずかしい行動はしない方が良いぞ」
「し、しないしない、そんな事考えた事も無い!」
「この能力は文字通りチート、ズルだ。一度踏み越えたらズルズルと落ちていくだけだ。使う相手を間違うなよ」
「……ズルだけにズルズルと?」
「ホォァチャッ!」
 化鳥の叫びと共に裏拳を叩き込むと伴尾は反動で空中で2回捻りをしながら跳んで落ちた。
 完全に失神しているので、「面倒な」と吐き捨てると右足を掴み上げるとそのまま引きずりながら歩き始める……俺は自分以外が口にするイラっとするような冗談が嫌いだ。
『何これ? 新しい遊び? マルもマルも!』
 何が楽しいのか分らないが、マルは伴尾の右肩の辺りを咥えると、嬉しそうに尻尾を振りながら引きずり始めた。

 一連の様子を見ていた誰も突っ込んではこない。ただ櫛木田が「馬鹿め」と呟いただけ……死して屍拾う者無し。死して屍拾う者無し。
 こういう殺伐とした人間関係が俺達がモテない理由なのかも知れないと、ふと思った。


「よし、レベル8だ」
 レベルアップによる身体能力の向上と戦闘への慣れによって、3人はあっさりと2体目のオーガを倒した。
 そして更にもう1体を倒してレベルを9に上げた段階で、オーガと1対1での戦いを指示する。
「無茶を言うな!」
 そう抗議する田村を無視すると「1つ戦い方を教えてやる」と切り出す。
「戦い方? 何だ」
「櫛木田。見せてやるから俺の剣を返せ」
「おう」
 放り投げて来た剣を掴むとそのまま収納する。

 俺は剣を持たない素手の状態で、剣を両手で振り上げる構えを取ると、手の中に剣を装備すると同時に振り下ろす。
「?」
 何の事か意味が分からないという顔をしている3人を無視して、振り下ろした状態で剣を収納し、素手のまま剣を振り上げる構えを取り、剣を装備すると同時に再び振り下ろす。
「そうか、そういうことか!」
「武器は攻撃の時にだけ手にしていれば良い。まさにシステムメニューを利用した戦い方だ」
「武器を持っていない間は武器の重さから自由になるだけではなく、長さのある武器を振り上げるためには重さ以上に力が必要となるからこれは大きなアドバンテージだ」
 感心する3人だが、これから見せる本当のインチキを見てどんな顔をするのかが楽しみだ。

 剣を収納してから近くの木に歩み寄ると、3人を一瞥してからニヤリと笑ってから木の幹に向けて、剣を持つような形で手を寄せた。
「お、おい!」
「まさか!」
「それはないだろ?」
 驚きの声を上げる3人を他所に、俺は高らかに叫んだ「装備!」
「………………」
 突如現れて直径50cmはあろう木の幹を貫通した剣に、3人はあんぐりと口を開けたまま固まってしまう。
『凄い! 何が起きたの? マルもやってみたい!』
「知っている僕でさえ出鱈目だと思うのだから、無理も無いね」
「確かに、主将は凄いというか酷いですよ……」
「仕方がないだろう。それだけ追い込まれて必死だったんだから。俺は1人で自分が死んだらロードも出来ないんだからな」
 異世界でボッチ過ぎたせいで、ちょっとおかしくなりかけた事も無い奴に文句は言われたくない。

 現金なもので、装備を使った戦い方を知った途端に、櫛木田と伴尾も剣ではなく槍を使わせろと言って来た。届く範囲ならどんな対象にも無条件で突き刺さるなら得物は長い方が良いからだ。
「今回は1対1だから槍を使い回せよ。田村、櫛木田に槍を渡してやれ」
「俺からかよ!」
「自信ないのか? 確かに後回しになった方が、先に戦った奴の戦いを見て参考に出来るし、何より高いレベルで戦えるから楽だよな……副主将さんよ」
「こんな時だけ副主将かよ」
「お前はどんな場合に、俺を主将呼ばわりしていたか思い出してみろ」
「…………善し。俺が戦うところをしっかり見ておけよ」
 素早く目をそらしてから、そう言うと田村から槍を奪い取った。納得して貰えて結構な事だよ畜生め!


『小さい方が負けるよ』
『マルは賢いな』
 などとマルと話していると櫛木田の肉体が宙を舞う。バラバラにこそなっていないのはレベルアップのお陰なのだろうが、肉体からは心も魂も既に遠い彼方へと旅立ってしまっている。

『ロード処理が終了しました』

「だから、まだ向こうの方が速さすら上だから。あの長大な棍棒と呼ぶのもおこがましい何かの薙ぎ払いの範囲に入ったら、空手の技なんて何の役にも立たない。空手はああいうのを相手にするためのものじゃないから」
 上から目線で説教。俺には説教してくれる奴が……いいんだ。もう別に……
「空手以外か……」
「大島相手にやりあうとしたら空手は使い物にならない事くらい想定してあるだろう。ならば搾り出せ、自分に出来る全ての可能性を。そして想像しろ、可能性というピースを組み合わせて勝利の形を作る方法を」
 俺もそうだが、こいつ等が大島とやりあうことを想定しないで生きていこうと思うほど現実をお花畑な楽園だとは思っていないはずだ。
「勝利の形か」
「少し考えればわかる事だがオーガは大島よりも、そしてお前達よりも頭が悪い。これがヒントだ」
 不親切なヒントだ。もっと肝心な部分を教えるヒントもあるのだが、それは何度か死んでる内に思いつくだろう。

 櫛木田はオーガに向かって真っ直ぐ歩み寄っていく。ゆっくりとしかし自分を見据えながら近づいてくる人間の姿にオーガは戸惑いを覚えたように警戒しつつも、その場で待ち構えるように動きを見せない。
 オーガの棍棒が届くギリギリのラインで立ち止まると突如「あっ! UFOだ!」と叫んで、オーガの間合いの内側に飛び込もうとしてホームラン性の当りで高々と宙を舞った。

『ロード処理が終了しました』

「なあ櫛木田。死ぬのが快感になってないだろうな?」
「…………」
「馬鹿だ。お前は馬鹿だ」
「…………」
「何があっ! UFOだ! だよ」
「…………」
「残念だったね櫛木田君。でも、あの自信満々の顔の根拠がアレなのはどうかと思うよ」
「…………」
「お、惜しかったと思いますよ」
「…………慰めが一番堪えるわ!」
 吠えた櫛木田に俺と伴尾、そして田村が噛み付く。
「心配してくれた香籐に何を言ってるんだ?」
「後輩に八つ当たりする先輩。あ~嫌だ嫌だ」
「香籐が気配りの人じゃなかったら、お前なんてただの足の臭い先輩だぞ」
 俺達は誰かを弄ってる時だけは心が通い合う……実に嫌な人間関係だ。
「田村っ! 足の臭いはこの際関係ないだろう!」
「この際だろうが、どの際だろうがお前の足は臭いんだよ。いつも櫛木田の足は臭い櫛木田の足は臭いと思ってるわ! お前の蹴りを受けたら空手着が臭くて堪らんから、その日のテンション駄々下がりなんじゃあ!」
「それを言ったらもう戦争だろうが!」
 櫛木田は槍を構え、田村は「高城、武器をくれ!」と叫ぶが俺達は2人をその場に残すとさっさと退避する。
「高城、高城! ……高城?」
 次の瞬間、櫛木田と田村は騒ぐ2人の声に走りこんできたオーガの一撃で仲良く一緒に空の散歩を楽しんだ。

『ロード処理が終了しました』

「先ずはあの棍棒を何とかするしかない。あれさえなければ槍を持っている俺の方がリーチが長い」
 ロード終了後、何事もなかったかの話し出した櫛木田が憐れ過ぎて、先ほどの事に対して突っ込む言葉が無かった。
「それで具体的には?」
「……奴は必ずフルスイングしてくるから、タイミングを合わせて退いて空振りさせる。その僅かな時間だが奴は己の膂力によって自らの動きを封じられる!」
 自信満々にそう断言した櫛木田に「やってみろ」とだけ答えた俺は……27秒後。櫛木田の飛距離を正確に測ってみたいという衝動に駆られていた。

『ロード処理が終了しました』

「勝手にオーガがフルスイングしているとか勘違いしてたみたいだけど、あいつ等が人間如きに全力で振るはず無いだろう」
 実際は岡目八目とも言うように傍から見ていたからこそ気付いた事だ。棍棒で薙ぎ払った後のオーガの体幹を見れば全力には程遠く、十分に余力を残しているのが見て取れた。
「それは前もって言えよ。本当にお願いします」
 前もって知ってたわけじゃないけど、それを言うのは癪だったので言い返す。
「前もって言っても、お前はどうせ俺を信じない」
「俺はお前を信じている。だからお前も俺を信じろ!」
「……無理」
 オブラートに包まず本心を言葉にするなら「気でも違ったか?」だ。
「頑なだ! 何がお前の心をそこまで閉ざさせたんだ?」
「お前の普段の行い」
「うわっ! 思い当たる節が多すぎる。だがそれはお互い様だ!」
 そんなやり取りがあった後。

『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』
『ロード処理が終了しました』

 ついに櫛木田はオーガを1人で倒し切った。
「おめでとう」
 拍手と共に勝利者を迎える。
「ありがとう。お前がアイテムボックスの使い方を教えてくれてたらここまで苦労しなかったけどな」
「若い時の苦労は買ってでもせよ」
「苦労してるから! 俺達は一緒に人一倍苦労してきた仲だろ? 何度殺されても折れない強い心が、その証だろ」
 確かに、無残に死んでいるのだがトラウマともPTSDとも無縁の精神力……良く考えるとゴキブリ並みの強靭さって気持ち悪いな」
「心の中のモノローグを口に出す! 俺が気持ち悪いならお前だって気持ち悪いだろう!」
「いや、俺死んだことは無いし。多分、死んだら俺の繊細な心はガラスのように砕け散るよ」
「ポリカーボネートは割れても砕けないし、象が踏んでも壊れないから安心しろ」


 その後、田村と伴尾はあっさりとオーガを倒した。櫛木田が舌打ちするほど鮮やかに完勝だった。
 櫛木田という手本があり、さらには櫛木田のオマケでレベルアップを果たしているので当然だ。
 櫛木田は棍棒を上体後ろにそらすスウェーバックでかわしながら、胸の10cm手前を通過する棍棒を下から触れて収納する。
 今の櫛木田の目と反射神経なら400km/hの野球のボールさえもキャッチは無理でも触る事なら楽勝なはずだ……触れた時の衝撃で小指を折っていたが、それは治しておいた。
 流石に十分に余裕を持ったはずのスイングでも、突然全長3mを越す俺の胴回り以上の太さを持つ棍棒が突然消えたら思いっきりバランスを崩すのは必然であり、倒れたオーガを背中から心臓を目掛けて槍で滅多刺しにして絶命させた。

 田村は櫛木田の小指の骨折を踏まえて、棍棒へのタッチする時の手の向きを横にして、通過する棍棒を指先で軽く触れる様に工夫した。

 伴尾は「マップ機能で俺が収納可能な大きさの岩を探す事って出来るか?」と有意義な質問をしてきたので、検索方法を教えた上で足場岩を提供してやる。
 案の定だがスイングの軌道上に岩を出して盾とすると、そのまま槍を構えて突撃する。
 岩を打ち付けた棍棒は自らの破壊力によって自らを破壊するが、伴尾は砕けた棍棒の破片を全身に浴びながらもそのままオーガの下顎から上へと槍を突き上げて頭蓋骨の内側に穂先を突き刺すと、左手で握り込んだ場所を支点に石突近くを握り込んだ右手で小さな円を描いて脳をカクテルをステアするように軽くかき混ぜた……酒に弱い中学生の俺がカクテルを飲んだ事があるわけではないが、ジェームズ・ボンドの「ウォッカマティーニを。ステアせずにシェイクで」という台詞からだ。父さんの影響──父さんは祖父ちゃんの影響──とはいえ、この手の知識ばかりを無駄に蓄えてしまうのが中学生男子の本懐だと思う。


「あ、あっさりレベル60を超えてしまった」
 途中昼飯を挟んで龍を6体も狩れば、余程幼い個体ばかりを狙わない限りレベル60は越えてしまうものだ。
「良いのか? 何もしないのに強くなるって」
「良い訳ないだろう。これは人間を駄目にしてしまう」
 伴尾は過ぎたる力が僅か1日で身に付いたという現実に強い危機感を感じている……信頼して引き入れた仲間が「棚ぼたラッキー!」と喜ぶような馬鹿じゃなくて良かったよ。
「所詮はただの力だ。今までだって俺達は学校という集団から爪弾きにされるほど力を持っていて、進んで力を使った事があるか? そもそも強くなって良かったと実感した事も、何かの役に立った事もほとんど無いだろう。今更、お前等がより強い力を手に入れたところで力に溺れる事も無いよ」
「だがよ、高城。こうも簡単に強くなったら、今までの練習で積み上げてきたものが無駄になっちまったような気がするぞ」
「そうだ。今まで死ぬような思いで磨き上げてきた技と力が、たった1日だ。お前等が龍を狩るのを見てるだけで、比べ物にならないレベルで上書きされたようなものだぞ……空しさでどうにかなりそうだ」
 そんな心配しなくても、所詮、お前達の力はマルに大きく劣っている程度だから気にするなと言いたくなったが、それを言えば空しさの上塗りになると思ったので止めておいてあげる気配りの出来る俺。

「大体な、レベルアップの能力向上は基本的に掛け算だと説明してなかったか?」
「何の事だ?」
 ……なるほど言い忘れてたのかよ。
「システムメニューで?くパラメータを表示すると数値が出てるだろ。あの値に掛ける元の自分の身体能力が現在のお前等の身体能力だから、今までの努力が無駄になるなんて事は無いからな」
「だから、そういうのは早く言えよ!」
「伝える事が多すぎて、話さなければという思いはあるが口が追いつかない上に、他にも伝えたい事が多くて……」
「つまり、他にも沢山伝えてない事があるんだな?」
「システムメニューにはちゃんとヘルプ機能があるから、そこから【良くある質問】で調べろ。それでも分らないなら俺に聞けよ」
 潔く投げ出した。
 正直、俺自身ですらシステムメニューに関して調べれば分る部分に関してさえもコンプリートしていないし、調べても分らない部分に関して全ての考察が完了している訳でもないからだ。むしろ自分で調べ考えて俺に教えて欲しいくらいだ。


 今日も早目に切り上げると、2号に櫛木田達の分の部屋を取る事を説明するのが面倒だったので、ムイダラップには戻らず、王都へと続く街道を北上せずに東部へと伸びる街道の先にあるノイツクアの街で宿を取った。
 2号とはこれっきりになるかもしれないが、今まで奴にしてあげた事を考えると、2号は俺への深い感謝の念を忘れずにいつかきっと恩を返してくれるだろう……し、信じていれば必ず、多分、もしかしたら。

 今日狩った龍は、6人で1体ずつ収納し『道具屋 グラストの店』へ売りには行かなかった。
 香籐ですら熱を上げたミーアに三馬鹿を会わせればどうなるかなど考えてみるまでも無いからだ。
 ついでに行ったところで在庫過剰で買い取ってはもらえないだろう。
 日が暮れるまでは魔法関連のレクチャーを行いながら時間を潰そうかと思っていたのだが、櫛木田達の電池が切れてしまったようで、早い夕飯の途中には食べながら舟を漕ぎ始めた始末で、どうにか食事を終えて部屋に入ると早々にベッドで寝てしまった。
 こいつらは現実世界の方では【昏倒】をかました直後に収納したために、本当に一瞬しか寝ている時間が無かったので当然といえば当然だ。
 先ほどの事といい、この事も忘れていたという事は不思議だ。
 例によって【良くある質問】先生で調べてみると、どうやら強化された記憶能力には選択性があり、重要な事はしっかりと脳裏に刻まれて、スムーズに思い出すことが出来るが、どうでも良い事はそれなりにしか記憶に残らず、意識しない限りは思い出されることも無い……これって凄いことだよな。



[39807] 第91話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c4006491
Date: 2016/01/01 17:47
 目を覚ます……今日は一度家に帰ってから学校に行く準備をしないとならないからいつもより少し忙しい。
 ベッドから降りると、1人ずつ【所持アイテム】……櫛木田の【アイテムボックス】にしても生きた人間も収納しているのに『アイテム』は無いな。その内、いい名前を考えておこう。
 あいうえおの五十音順に並んだリストの上から順番に香籐、櫛木田、紫村、田村、伴尾と選択して床に転がしていく……一番最後の伴尾を選択する時、一瞬、本当に一瞬だが空に向けて射出したらと思った自分が怖い……何が怖いって、楽しそうだなって思ってしまったんだよ。

「オラ起きろ! ……」
 華麗にするされたので、伴尾から田村へと順に腹を踏んで歩いて行くと、抜け目なく紫村はすぐに起きたので、田村の腹の上で踏み切って紫村を飛び越えると櫛木田の腹の上に着地した。
「ぐぇっ!」
 漫画じゃないので寝ている人間の上でこんな真似をしたら下手したら死ぬが、何と言っても既に人類よりアクション物の漫画の登場人物に近い存在に成り果てた櫛木田は、潰されたヒキガエルのような音を立てるだけで済んだ。
「降りろ……良いから降りろ……さっさと降りろ」
 足元から聞こえる怨嗟の声に、次の香籐へと思ったら既に目を覚ましていたので床へと降りる。

「テメェ……普通に起こせないのか?」
 完璧に寝入っていて腹筋に僅かな力も入っていない状況で俺の全体重+落下の衝撃が伝わり──勿論、余すことなく全て伝えるために、着地の瞬間に全身の間接を運動ベクトルの方向に素早く真っ直ぐに伸ばし、間接部分でのエネルギーの吸収を排除するだけではなく伸ばす時のエネルギーも加える──レベル60オーバーの肉体にも十分にダメージが通ったようで何よりだ。
「最初は普通に声をかけた」
「お前には最初と最終手段の間に何か無いのか? ……おいおい、何を不思議そうな顔をしてるんだ?」
「いやだって、まだ最終手段は出してないから──」
「さっきので十分最終手段だ! アレで起きない奴はただの屍だから」
「俺の最終手段は屍すら起こす!」
 ……嘘だけど。


 結局3泊もすることになっただけに、そこそこ量のある荷物をまとめていると携帯にメールの着信が残っているのに気付く。
「何だイーシャか……」
「イスカリーヤさんがどうした?」
 相手の小さな呟きは、自分に話しかけられたものじゃないと判断して聞き流す配慮が欲しい……ただし俺は除く。
「俺にも見せろ!」
 食いついてきた櫛木田と田村に「分るだろ。お前達には何の関係も無いことくらい。クラスの女子とでさえ、宇宙の端と端位の隔たりがあるのに、年下で学校も違い、そして一度しか会った事の無い女子とお近づきになれるかどうか、そんな事を俺に言わせる気か?」と告げる。
 俺自身の胸をも抉る悲しき正論に、2人は膝を突いて崩れ落ちる。
「で、でもちゃんとお話したんだ」
 分るぞ櫛木田。お前もクラスの女子とは必要事項の連絡くらいしかした事が無いんだよな。私的会話なんてのをしたのは……遠いよ、遠すぎて心が死んじゃいそう。
 それに比べたら、普通に会話をした歳の近い女子としてイーシャに親近感を抱いちゃったんだよな? ……だが絶対にイーシャには近寄らせねえよ!
「手だって握ったんだ」
 わ、分るぞ田村。フォークダンスで俺と踊る順番が来た女子が怯えたように「ひっ!」と短く悲鳴を上げたのは、お前も同じなんだよな? ……後で、イーシャを投げた時に掴んだ手の感覚を忘れるまで殴ってやるからな。

「だがそれらを全てひっくるめて言おう。お前らには縁が無いからな!」
「な、何故そんな事が言える!」
「そうだ。お前が判断する事ではない!」
「何故だ? 俺が判断する事じゃない? ……違うな、俺がお前等はイーシャには相応しく無いと判断して排除するからだ。イーシャとお近づきになりたいなどと戯けた事を抜かすなら、俺の屍を越えてみせろ!」
 そう啖呵を切ると同時に、背後から襲ってきた一撃を振り返ることなく上体を前に倒して避けながら、後ろ蹴りとも呼べない左足をすくい上げる様な動作で一蹴する。
「……な、何故……分った」
 股間に一撃を受け倒れ、股間を押さえながら脂汗を流しながら聞く伴尾に一言「マップは常に視界の端に出しておけ」と言い捨てる。ちなみに細かい描写は俺の想像で見てないけど……奴が感じている痛みは分かる。痛いほどに分かる。

「どうする? 戦うか尻尾を巻くか?」
「今更、俺達が死ぬ事を怖れると思っているのか?」
「……なるほど、それがお前達の遺言なら、死をも怖れぬ勇敢な馬鹿と墓標に刻んでやるよ」
 日本の墓は土葬の欧米と違って個人、個人の墓じゃないから意味不明だし、何より犯罪だからやら無いけど、何か良い方法を考えてやらなければならない。
「ちょっと待て! 何故そうなる?」
「これから死ぬんだろ。死んだら墓に入るのは当然だろう。まさか遺骨は海に撒いてくれとかロマンティックな事を考えてるのか?」
 いや櫛木田なら十分にありえるな。

「俺達が死んで墓に入る事が前提なのがおかしいだろう」
「何を言ってる? 俺と本気で戦う=お前等死亡。これは動かしがたい宇宙の法則だろう」
「そんな法則は無いし、俺達の生き死には宇宙規模にまでスケールを広げて語る事か?」
「お前等に宇宙規模の器がある訳ねぇ!」
 食い気味に即否定する……何故がっかりする?

「高城、さっきから気になってたんだが、お前まさかロードする気が無いのか?」
「良く気付いたな、お前等を仕留めたら即セーブしてやる」
 田村の問いかけに対して、疑いを抱く余地が無いようにはっきりと断言してやる。
「ひどっ!」
「故あって命を奪うのだ。故無くして生き返らせるとでも思うか?」
「非情だ。非情だよ高城ぃ! お前には俺に対する友情という奴は無いのか?」
「少なくともお前等から俺への友情を感じたことは無い」
 まあ、決してそんな事は無いんだが、ノリでそう言う。

「……マジでエスパー?」
「違う、俺達の知らない魔術か魔法だ。そうに違いない」
 ……こいつら自ら死刑執行命令書にサインしやがったよ。
 先ずは馬鹿の片割れである田村にフェイントのジャブを鼻っ面に叩き込んで……入ってしまったのは仕方が無い……からの一歩踏み出して左肘を鳩尾へと容赦なく叩き込み、そこから肘から上を跳ね上げて猿臂で鼻を打つと、その反動に逆らわず鳩尾においた肘を中心に半円を描くように左掌が股間を叩く。
 田村は立て続けに襲い掛かった3箇所の急所の痛みに、何処を痛がれば良いのか分からないといったうろたえた表情を浮かべながら崩れ落ちた。
 そして櫛木田は……何度見ても惚れ惚れするような見事な土下座をきめていた。

 この男は中学3年生にして素手でルールなしという条件なら、人類70億以上の中でこいつに勝てる者は10万人と居ないだろうと思われる強者でありながら、大島のように明らかに自分より強い者に対してはメンタルが豆腐で、某漫画のように兄貴によって頭の中に何か埋め込まれているのではないかと心配するほど顕著な反応を示す……櫛木田に兄貴は居ないけどな。


「主将。結局どういうメールだったんですか?」
「大会で従妹と妹が階級は違うが銀メダルと金メダルを獲ったという報告に、おめでとうと返信した事への返信というか、これって永遠に途切れないのか?」
「それはおめでとうございます」
「ありがとう」
「それからメールは相手が途切れさせたくないと思っているなら、自分から切らないと途切れませんよ」
「そうだよな……」
「お前! 俺達には頑なに教えなかったくせに。どうして香籐には!」
 そこへゴキブリのような回復力で立ち上がった伴尾が噛み付いてくる。次からは簡単には回復しないようにきっちりと潰しておくべきだな……想像しただけでキュッとした。駄目だ俺には無理かもしれない。
「……なあ紫村、何か不思議な事があったか?」
「さあ? 僕にも分からないよ」
「だよな、こいつ等3人に駄目で香籐ならOKな事はあっても、その逆ってかなり稀なケースだしな……伴尾、何が気に入らないんだ?」
 そうだな、敢えて言うなら3馬鹿にマルの散歩を任せる事は出来ても香籐には任せられないってことくらいだ。
「ぐ、グレてやるっ!」
 徹底的に後輩との間に扱いの差をつけられて、傷ついた少女のように目元に涙を浮かべて走り出す伴尾……嫌なものを見てしまったよ。


『今日は朝もゆっくり?』
『ごめんねマル。今日は俺達を見張っている人達がいるんだ』
 今日は振り切られても大丈夫なように、散歩道のコースの先の先まで予め人員を配置しているようだ。プロなんだから当然といえば当然な対処だが、無駄に労力と予算を費やさせてしまい申し訳ない。
『狙ってる? マルとタカシの事狙ってるの?』
 軽く毛を逆立てて警戒するように周囲を見渡す……マップ機能を使う事は何故か憶えてくれない。それだけ犬としての感覚に誇りを持っているのかもしれないが、単に考え過ぎのような気がする。
『いや違うよ。むしろ他の人が俺を狙わないように守ってるんだけど……』
『じゃあ、良い人? マルと遊んでくれる?』
 一転、期待に尻尾を振り振りと……誰とでも遊びたがる子だから番犬の適正はゼロだよ。
『無理じゃないかな? 彼等は一日中、俺の回りに変な奴が近づいて来ないように見張ってるから』
『一日中? 凄いね。誉めてあげないと』
 良い歳した大人が犬に誉められる光景を想像すると腹筋が痙攣する。
『?』
 腹を押さえて呼吸を乱す俺にマルは不思議そうに首を傾げた。

「ところで高城──」
『お前は【伝心】を息するように使いこなせるようになれと言っているだろう。黙って田村、伴尾としりとりをしていろ』
 普通に声をかけてきた櫛木田に説教をかます。3人は未だに誰か1人に対して話しかけるというのが出来ずに【伝心】を使える全員に話しかけてしまうので練習をさせている。
 俺達の他に【伝心】を使えるレベル60以上に達したシステムメニューのユーザーはいないとは思うが、万が一の為に送受信において相手を限定して使いえるようになって貰わなければ困るので、現在は3人の中だけで使えるように【伝心】でしりとりをさせている。
『高城め偉そうに』
『大島亡き後は高城の独裁体制かよ』
『覚えてやがれ』
 暫くは大人しくしりとりで練習しているものと思えば、どうやら俺の悪口をしていたようだ。しかも悪口に夢中になって制御が甘くなって駄々漏れだよ。
『……お前等、来週は龍を倒すまで帰れま10の刑に処する』
『ちょっと待て意味が分からない』
『先ずは、お前らの【伝心】での会話は途中から駄々漏れになっていた事。そして会話の内容の事。その罰として来週は龍を倒せるまで何度でも死んでロードを繰り返す刑に処すといっているんだ』
 死刑宣告よりも酷い話である。
『デッドコースターより酷くない?』
『あっちは一度死ねば済むからな』
 軽口を叩ける程度には死に慣れてきたようだ。むしろ俺自身の死に慣れしてない事が不安になってくる。
 自分の死が避けがたいと思った時に、俺はうろたえる事無く最後の瞬間までやるべき事をやり遂げる意思を失わずにいられるだろうか?

 葉隠に『武士道と云うは死ぬ事と見付けたり』とある。これは単に死を美化した言葉ではなく、武士として恥じる事無く生きたいという理想であり、そのためには『武士とは常に死と向かい合う覚悟して生きる者だ』という意味だと俺は理解している。
 だが俺自身が死に対して思うのは「死ぬのは嫌だけど、犬死はもっと嫌だなぁ~」というぼんやりした思いである……だって武士じゃないから。
 厨二病患者特有の自分の死に特別な意味を持たせたい的な思いに基づく、殺されるとするなら最後に相打ちには持ち込みたいという欲だ。
 これは大島の教育という名の肉体と精神の改造によって、中学生にして既に、死というものは決して遠くにあって自分には無縁な存在では無いと悟ってしまっているせいだ。


 ランニングの終了後、紫村邸で朝飯をご馳走になってから、俺はマルと共に久しぶりの我が家へと戻ってきた。
「おはよう隆」
 色々とあって寝不足気味のマルがお気に入りの毛布の上で身体を丸くして眠りに就いたところへ兄貴が眠たそうに目を擦りながら居間に入ってきた。
「おはよう……朝の目覚めの爽やかさが欠片も無いな」
「ああ、誰も居なくて静かだから勉強が捗るから、つい寝るタイミングを外したんだ……」
 答えながらも、吸い込まれそうなくらい大きく欠伸を漏らす。
 県内一の進学校である大安高校においてすら成績はトップクラスらしく、誰もが知ってる東京のアノ国立大学の志望する理系の学部・学科は模試判定もAであるそうだが、いつも寝る暇を惜しんで勉強しているイメージしかない。
 兄貴こそシステムメニューでレベルアップしてやれば、世界を変えるような発明でもしてくれそうな気がするが、致命的に運動神経に難のある兄貴がレベルアップに到るイメージが沸かない。
 勿論、俺がパワーレベリングしてやれば、兄貴は何もしなくてもレベルアップ可能だが、最初くらい自分でレベルアップしろよという考えがある。
 強い意志を持ち正義感に裏付けされた行動力もあるが、どうにもこうにもフィジカルが貧弱なのだ。

「そんなに必死に勉強しなくても受験は大丈夫なんだろ?」
「ああ、そうだけど。何ていうか勉強していると落ち着くというか、趣味だな」
「駄目だ……疲れているのか幻聴が聞こえた」
 ちょっと眩暈もした。今日は学校を休んだ方が良さそうだ。
「幻聴は良いけど、お前も明日は中間なんだろう。今回の件で遅れた分は取り返したのか? 今年は受験生なんだから進学の事もちゃんと考えないと──」
 流された挙句に、全国のオカン代表クラスのような小言が来た!
「だ、大丈夫やで、期待したってや?」
「何故、そんな怪しげな関西弁を?」
「別に、何となく……」


 空手部の朝練が無いと俺も時間に余裕を持って教室に入る事が出来る。出来るのだが早目に教室に入ると俺がいることで教室の空気が重いです。
「明日のテストの山を教えてくれ山を!」
「安心しろ。国語と英語以外はたった一月半分の授業の内容しか出てこない。いうなれば全部が山だ」
 所詮校内テストだから数学も理科も社会も範囲内の教科書の内容しか出てこない。問題は漢字や単語を除けば、それまでの積み上げで勝負するしかない国語と英語だろう。
「役に立たねぇ!」
 そう吐き捨てた前田の顔を正面から鷲掴みにすると、そのまま軽く机の天板に叩きつける……結構良い音が鳴り、教室がざわめく。
「痛ぇな! 謝罪と賠償として山を教えろ。教えろ! 教えろ!」
 机の天板の端を掴むとガタガタと上下に揺すりながら連呼する……ウゼェ。俺だけでなく周囲からもその声が漏れる。
「あのな、教科書を見ながら授業の時の様子を思い出して頭に思い浮かべろ。そうすれば時折、黒板に書きながらこちらを振り返り『憶えろよ、憶えろよ、憶えないとテストに出しちゃうんだからね』と鬱陶しい視線を投げてくる箇所があッたはずだ。それが山だ」
「憶えてねぇよ!」
 再び鷲掴みにすると、先ほどよりも少し強めに叩き付けた……そうだよね。授業をきちんと聞いてたら今頃困ってるはずも無いよな。


『タカシどこ?』
 3時間目の国語の授業中、心細げに俺を呼ぶマルの想いが伝わってくる。
『起きたの?』
『うん起きた。タカシはどこにいるの?』
『学校だよ』
『学校……じゃあお母さんは?』
『母さんが帰ってくるのはまだだよ。俺が帰ってきた後になるよ』
『タカシ早く帰って来て』
『それは難しいな』
『じゃあマルが学校に行く!』
『駄目!』
『う~マルはタカシが居なくて寂しい。タカシはマルが居なくて寂しくないの?』
『でも母さんが居たら寂しくないんだよね?』
『うん、お母さんが居たらマルは寂しくない。嬉しい!』
『結局マルは俺がいないからとか母さんが居ないからじゃなく、独りで居るのが寂しいんだよね?』
『……あれ?』
『じゃあ、そういう事で、大人しく留守番しているんだよ』
『えっ? えっ? タカシ、タカシ~!』
 マルからの【伝心】の着信をOFFにする。
 動物は人間と違って心が綺麗とか抜かす頭の中がお花畑な阿呆が居るが、単に取り繕う事無く率直に態度に表すだけで、むしろ自分勝手で打算もある。それはマルも同じだ。
 今まで以上に自己主張が出来るようになったマルには空気を読むことを憶えさせておく必要があるようだ。


「高城」
 給食時間が終わり、マッタリと午睡でも決め込もうか……いやいや、そのまま夢世界に飛ばされても面倒だから、どうしようと目を閉じて悩んでいたところにクラスの女子が声を掛けてきた。
 これが普通のモテナイ君なら、勝手に期待感に胸を躍らせ盛り上がる事が出来るだろうが、筋金入りのモテナイ君である俺は、どうせ何か良からぬ話だろうと最初から諦めがついている……甘い希望とは残酷な幻影だ。何度も心が擦り切れるまで裏切られればこうなる。

「どうした?」
「詳しい事は分らないけど、あんた達の空手部のせいで北條先生が職員室で叱られていたわよ」
 椅子を蹴って立ち上がると職員室に向かう……慣用表現とはいえ、椅子を蹴って立ち上がった人間が人類史上存在するのだろうか?

 職員室のドアの前に来ると、2年の学年主任で英語の村山がキャンキャンと吠えているのが聞こえる。耳を澄ますと明らかに北條先生を弾劾しているのは、3年の学年主任で生活指導を兼任する赤原 力(つとむ)だ。こいつの渾名はアカハラ・パワハラ。またハラスメント先生。本名をもじった渾名かと思うだろうが、そうではなく純粋に奴自身の振る舞いにあやかってつけられた名前だ。
 名に負けぬ生徒へのアカハラと、立場の弱い若手の教師へのパワハラを得意とする糞教師だ。
 授業が始まる5分以上前に教室にやってきて勝手に授業を始めて、遅れた生徒へ「5分前行動は当たり前だ」と意味不明な説教をし、体罰を加えて悦に浸り、そのくせ自分は、授業時間が終わって準備時間に入っても授業を続行し、さらに次が若手の教師の授業なら時間になっても続けるという頭のイカレた事を平気でする。
 他には「そんなので社会に出て通用すると思うな」を口癖のように繰り返すが、ある時は自分で曜日を間違ったのだか授業時間になっても教室に現れず、嫌われ者のこいつを呼びに行くような物好きも居ないので、そのまま自習で終わった後、休み時間に教室に乗り込んできて「何で呼びに来なかった」と怒鳴り散らすようなキチガイだ。社会に出て仕事で会う約束をすっぽかし、どうして呼びに来なかったと相手を責めるのが、こいつにとっての『社会』なのだろう。
 何でそんな馬鹿げた事が言えるのか? それは簡単な事だ。教師とは基本的に社会に出たことが無い人間だからだ。大学を卒業してそのまま学校に戻って来た奴に社会経験なんてあるはずが無い。
 ベニザケと同種でありながら、川で生まれて海へと出ずに川で育ったヒメマスが海を語るようなものであり、奴等が口にする『社会』とは妄想社会に過ぎない。
 そんな赤原が取り巻きと一緒になって、北條先生へ「校外で個人的に空手部の部員達に勉強を教えるのは職務違反だ」「他の生徒への差別だ」とねちっこく詰っているのだ。俺の腸が煮えくり返るのは当然の事だった。

「失礼します!」
 敢えて大きく声を張ってから職員室に入る。
「高城」
 北條先生を取り囲んでいた教師達が気不味さを押し殺せずに俺の名を漏らす。
 このまま、糞教師どもを逆につるし上げて黙らせることも出来る。
 何せ俺達は1週間もの間、政府によって身柄を事実上拘束されていたのだ。その分、文科省を通じて学校には俺達の学習の遅れを補うために補習を行うように指示すると言われていた。
 しかしその補習は、先週全く行われなかった。俺達はむしろ面倒な事が無くて良かったと1年生達を扱くのに力を注いでいたが、学校側は文科省-教育委員会のルートで届いた通達を無視したという事であり、学校の責任者であり通達を握り潰せる立場にあったのは校長と、校長以上に学校を牛耳っている赤原以外に存在しない。

 そこまで大島、しいては部員である俺達まで学校から嫌われていたのかと正直笑える。元々この学校と大島を含めた教師には、北條先生以外は全く期待をしていないので何と思わなかったが、馬鹿教師共が北條先生に迷惑をかけるというのなら、この件をほじくり返して大きな問題としてマスコミにもリークさせてやるのも1つの手ではあるが、そこまでやってしまえば北條先生が教師の間で孤立して、この学校に居られなくなってしまうだろう。
 ここは標的を最高責任者である校長と赤原に絞ることにする。

「学校で教師が教師をイジメか、所詮は人間はイジメと言うツールからは逃れられない下種な生き物って事だ……ああ下種諸君は自らを卑下する必要はない。君達の行動は実人間らしい。何一つ『人』として恥じ入る必要は全く無い。どうぞ思う存分、自分達の日頃の鬱憤を美しき生贄にぶつけて、己の人間らしさを再確認するが良いよ」
 馬鹿でも疑いようの無い挑発。これで怒り恨み、不の感情が俺に向くなら結構だ。
 今更内申点など気にしてはいない。元々学力を重視する進学校ほど、学校ごとにバラつきのある内申点は重要視していないので、本番の試験で文句の付けようの無い点数を叩き出してやれば良い。
 むしろ、不当に俺の内申点が低ければ高校側も来年以降はこの学校の内申点の付け方自体に疑問を抱くようになるだけだ。
 今年の受験は、空手部3年生全員で大安高校を受験して全員満点で合格し、より強くこの学校の内申点の付け方のいい加減差を強調してやるのも良いだろう。
 そうなれば狭い教育と言う世界において良い話題になるだろう。この学校は市立だが市内の中学校への移動もあるのだから職場ではさぞ居心地は悪くなる事だろう。
 だが他の教師達とは違い、校長には正式な処分が下されるだろう。退職後のお楽しみで墓まで持って行きたいだろう瑞宝双光章の授与も永遠にお預けにしてやるために、職員室内をそのままスルーして奥の校長室へと繋がるドアへと向かう。
 廊下から直接入れるドアを使わなかったのは、当然嫌がらせだ。

 ノックもせずにノブを握るとまして勢い良く押し開く。
「やあ校長。こんにちは」
 友好的ににこやかに表情を作って挨拶する。その声はレベルアップによって1万の大台に乗った肺活量を生かした、大音声でありながらもオペラ歌手のように朗々として広く響く。具体的に言うとこのフロアの廊下に居る生徒達には聞こえてしまうだろう……それが狙いだけど。
「な、なんだね君は! 失礼じゃないか」
「失礼も糞もありませんよ。ちゃんと仕事をしない公僕へ一市民として説教をくれてやるために来ただけですから」
「せ、生徒の分際で何を」
「生徒の分際? 仮にも公僕である教師がそれは不味いんじゃないですかね?」
 実際、教育というサービスで生徒に奉仕するの立場の人間でありながら、奉仕される側の上に立つというおかしな関係が便宜上認められているのは教育現場以外にはそれほど多くは無い。
 無論それは教師への尊敬の念に基づく恩師・生徒という関係があってこそであり、尊敬に価しない人間が一方的に他者に尊敬を強要するのは醜く恥じるべき行為だ。
 つまり俺の価値観において校長は醜い。もうどうしようもないほど糞野郎である。何故なら根拠の無い尊敬を求めてくるのは大島と同じだからである。
 お前の何処に尊敬される余地があるのかと恨みしかねぇ! 俺の青春を返せ! この人でなし! ……ちょっと冷静さを失いかけた。

「いきなり入り込んできて、そのような暴言を吐くなどと立場を分かっているのだろうな!」
 他人を下に見た上での高圧的な態度。同じ公僕の父さんが「明らかにおかしい態度をとる人間にも公務員は、いきなり『いいえ』は言わず『はい』からの『いいえ』と言わなければならない事が時々辛い」と言っていたのとは真逆だ。
 校長の中では自分はさぞかし偉い人間なのであろう。
「正論が暴言に聞こえるようになったら人間お仕舞いだ。よくもまあ校長なんて立場に立てたものだ。その厚顔無恥にあきれ返るしかない」
「き、貴様。覚悟は出来てるんだろうな」
 これだけ自尊心を肥大させた人間が、自分の1/4程度しか生きてない俺にここまで煽られて冷静で居られるはずが無い。大島張りの見事なメロン熊へ顔真似だった。
「覚悟をするのは自分だろう。市の教育委員会から学校へ、俺達空手部部員が休んだ授業の補習を行うようにと通達があったはずだ。何故それが行われていない?」
「それは……知らん。そんな通達など知らない!」
「知らないのか。ならば教育委員会か文科省が仕事をしなかったことになる。申し訳ないすいませんでした」
 俺はその場で深々と頭を下げて謝罪する。
「すいませんで済むか、この事は──」
「ならば今から教育委員会か文科省のどちらが仕事をしなかったのか確認して貰いましょう。どちらの責任かは知りませんが、必ず校長にも直接謝罪して貰いま──」
 勿論そんな権限は俺には無いのだが、校長は慌てて遮る。
「ま、ま、待て! 謝罪って何の事だ?」
「俺の謝罪ではすまないのだから、責任者に謝罪して貰うに決まっているでしょう。ああ、偉い人に頭を下げさせるのは恐縮ですか? 気にする必要はないですよ。悪いのは向こうなんだから、教育委員会のお偉いさんや、文科省の役人に頭を下げさせるなんて滅多に無い機会じゃないですか。あくまでも悪いのは向こうなんだから」
 大事な事なので2回言わせて貰った。
 校長の顔色は興奮の赤から一気に血の気が退いて白ばんでしまった。分かりやすくて素敵だ。
「そんな事をしたら、私は……私は──」
「困りますよね? 校長。あんたが握り潰したんだからな!」
「違う!」
「よし、それなら確認しようじゃないか」
 俺は携帯を取り出すと、取調べ中に俺達の担当官とか言ってた内閣府の若い官僚の連絡先の番号をゆっくりとプッシュしていく……早くしないと繋がっちまうぞ、おい。

「待て、待ってくれ!」
 制止する校長の声に、俺は湧き上がる笑みを抑えようとして表情筋がヒクヒクと痙攣するの、携帯を持つ手で校長の視線を遮る。
 もう既に網に掛かった魚だ。後はゆっくりと網を手繰り寄せるだけ。
「何故だ?」
「それは──」
「それは?」
「私は悪くない! 赤原君が!」
 そうか、やはり赤原が関わっているのだな。良く口にした偉いぞ校長。
「ほう、赤原先生が?」
「彼が、彼が私に空手部の補習を行う必要が無いと」
「では、赤原先生が俺達空手部への私怨で、補習を取りやめるように校長に進言したと! その上、我々から手部のために休みの日に時間を割いて場所まで提供して個人的に補習を行ってくれた北條先生を吊るし上げにしているという訳ですね! それじゃあまるでマッチポンプ。許される事ではないですね!」
 グラウンドにまで響くような大声で話してやる……ちょっとあからさまだっただろうか?
「ふざけるな! 何を出鱈目を!」
「えっ! 校長が出鱈目を言って赤原先生に罪を擦り付けているんですか?」
 ここに到っては、この芸風で押し切る覚悟を決めた。
「あ、赤原君。君が言い出した事じゃないか!」
「こ、校長!」
「やっぱり赤原先生がやらせた事なんですか?」
「ち、違う私は何もやってない!」
「赤原君! 君は責任を全て私に押し付ける気なのか?」
 素敵だ。チョー素敵な展開だ。輝いてるぞお前等、今のお前等はサイコーに輝いている。例えるなら消える一歩手前のロウソクの火の様だ。

「わ、私は関係ない。全ては校長がしでかした事でしょう。知りませんよ」
「おおっと、ここに来てハラスメント先生がその薄汚い本性をむき出しにして、校長に全ての罪をなすりつけ始めた! 非情だ。余りにも非情な裏切りだ。まるで戦国の梟雄、松永久秀の如し」
 ここに来て口が回る回る。俺という人間はこういう場面でこそ輝く人間だと確信する。将来、この特技を活かした職業に就けないものだろうか? 例えば悪口専門のアナウンサー……どんな職業だよそれ?

「高城ぃ! 貴様は先ほどから勝手な事を言って!」
 切れたアカハラ親父が掴みかかって来るが、牛の突撃を華麗にさばく闘牛士のように、十分に引き付けてからギリギリで交わすと、目標を見失いたたらを踏みながら壁に突撃し頭を打ってひっくり返った。
「一体何がしたかったのでありましょう? ありのままに話すなら『私に掴みかかってきたと思ったら、いつの間にか壁に頭を叩きつけて倒れていた』何を言っているのか分からないと思うが、私も何をされそうになったのか分からない!」
 赤原は、黒縁眼鏡のセルフレームは左右のレンズを繋ぐブリッジの部分が折れて真っ二つになって床に転がり、額からは血を流しながら立ち上がる。
「貴様、教師に暴力を振るったんだ、覚悟は出来てるんだろうな」
「何て事でしょう。この名前の通り薄汚いアカハラ野郎は、生徒に『暴力』を振るおうと掴みかかって来て、避けられて勝手に壁に怪我をした挙句に、それを生徒の罪にしようというのです……校長。この件に関してどのようなお考えをお持ちで?」
「赤原君。私は君が生徒に暴力を振るおうとしたのをこの目で見ているし、そして勝手に自分で壁にぶつかり怪我をしたのも見ている。更には罪を捏造し生徒を落としいれようとした事もね」
 赤原は馬鹿だ。校長室の中で実際に様子を全て目撃している唯一の証人である校長を、たった今裏切ったばかりだというのに、罪を捏造しようなどとは笑うしかない。
 全くおかしな奴だよ赤原は、それに校長も。
 これで互いに庇い合うべき共犯者である2人は完全に互いを敵として決裂する事になった。後はこの2人が再び手を取り合うことの無いよう、溝を深めるように誘導するだけだ。

 互いに罵り合い、互いの罪を、そこまでしてたのかと思うほど色々と暴露していく2人の発言は、職員室に筒抜けであるだけではなくしっかりと録音してある。
 修学旅行に関する御者との癒着。現金のキックバックから、接待での買春行為など死ねば良いのにとしか言いようが無い泥沼の暴露合戦。
 しっかり記録に残されているというのに、余りにも道化過ぎて哀れみさえも感じてくるが、むしろこんな教師がいる学校に通わなければならない生徒達の方が遥かに哀れだ。
 ちなみに途中からは携帯で動画撮影していたのだが、2人は罵り合うことに夢中で全く気付かない。廊下で生徒達がざわめき始めているのにも気付かないのだから間抜けだ。

 もう2人を失職に追い込むには十分な証拠が集まったのでエンディングの〆の台詞を口にする。
「キャリア……それはいつも儚い。1人の経験と実績は1つの不祥事によって一瞬の後に破られる運命を自ら持っている。それも人々は出世に励む。限りない職場での権力と昇給をいつも追い続ける。それが人間なのである。次の不祥事を作るのは貴方なのかもしれない」
 こいつ何を言ってるんだ? と言わんばかりの視線が、掴み合い状態になっていた2人のみならず戸口の向こうの職員室からも集まる中、教頭が一言「……何故びっくり日本新記録?」と呟いたのを聞きながら携帯を胸ポケットにしまうと校長室を出ようとする。
「待て、待ってくれ!」
 背後から校長が半ば叫びながら制止する。言い直す辺り、己の分を弁えてきたようだが、もう遅いんだよ……1週間ほどな。
「何でしょうか?」
「こ、今度の事は……その……」
「ああ、その事ならば、私は気にしていませんよ。そうだ他の部員達にも主将としてきちんと学校側の対応を批難しないように説得しましょう」
 何て俺は広い心の持ち主なんだろう。最早神か仏のレベルだな。人類にこのレベルに達した者など皆無だろう。
「あ、ありがとう高城君。感謝する。それにもう二度とこんな事は起きないようにすると約束する。ありがとう。本当にありがとう」
「良かったですね校長先生…………後は、教育委員会や文科省からも許してもらえると良いですね」
「え゛っ!?」
 感涙にむせび泣きそうになっていた校長の顔が一瞬にして凍りつく。良いぞ、実に良いぞ。俺はその顔が見たかったんだ。
「ですから、後は教育委員会や文科省から許してもらえれば無罪放免ですよ。大丈夫でって、当事者の我々が許すんですから、彼等も広い心で許してくれますよ」
 勿論、そんな訳はないけどな!
「そんな事をされたら──」
「信頼は本当の事を『全て』話すことで勝ち取れるんです。幸いお2人のやり取りは全て撮影させて貰いました。これを観れば良く全て正直に話してくれたとワシントンの父親のような心で誉めて貰えますよ」
 取り出した携帯を振りながら笑顔で答えてやった。

「そんな、そんなぁ~……」
 感涙を悲しみの涙に変えて力なく膝を突く校長。完全に心が折れたな。
 だがもう一方はまだ心が折れていなかった。
「ふざけるな! 寄越せ、カメラを寄越すんだ!」
 赤原は校長を突き飛ばすと、俺に向かってくる……校長を突き飛ばす直前にシステムメニューの時間停止状態で、携帯を動画撮影状態にして2人をフレームに入れてからのシステムメニュー解除。
 校長は受身も取れずに床に顔面を叩きつけて眼鏡は吹っ飛び、折れた前歯数本も飛び散る……傷害事件発生ですよ。

 赤原は倒れた校長の背中を踏み越えて俺に迫る。その目は完全に正気を失っている。
「それだ。それを寄越せ!」
 ここで一度撮影を止める。
「寄越せと言われてお前に渡す道理があるか? これだから一度も社会に出た事の無い筋金入りの学校引き篭もりは常識を知らなくて困る。だけど安心しろ、もうじきお前を学校から解放してやる……永遠にな」
「何だとぅ!」
「分からないか? お前は懲戒解雇になるんだよ。もう一生学校とは無縁になる。これからはお前自身が社会で通用するかどうか確認してみるんだな」
 ここで撮影開始。
「き、貴様ぁぁぁぁっ!」
 ブチ切れて殴りかかってくる赤原の拳を敢えて顔で受ける……当然、何かの拍子にバランスを崩したかのように外れたカメラの視点が一瞬だけ俺の顔に向いて、そこに赤原の拳がぶち当たるように操作する絶妙な自撮りテクニックを披露しながらである。

「うあぁぁぁぁぁぁっ!」
 赤原は殴った右腕を押さえながら悲鳴を上げて床を転げまわる。
 殴られる瞬間、カメラ操作とは別に俺は自分の頬骨の部分を逆に赤原の拳に叩きつけて、拳を砕くだけではなく腕自体を破壊したのだ。前腕の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)は2本とも折れて肘関節は脱臼しただろう。
 ここまでやれば殴られたというよりも顔で拳を殴ったというのが正解だ。拳が当る一瞬前に鋭く首を振り、僅か1cmの隙間で100km/h以上に加速して、頬骨で赤原の拳をたたきつけたのだ。どんな格闘技にもいえることだがパンチはそんなに速くは無い。多分パンチの中で一番トップスピードの速いフリッカージャブですら100km/hを越える事は無い程度だ。越えるとするならば、野球の投球フォームから繰り出される猫手パンチか大島の正拳突きくらいだろう。
 前者はそんなので殴ったら赤原の二の舞確実な自爆技であり、前者はそもそも人間とは認めがたい。

 空手三段の腕前が自慢で、何を勘違いしたのか赴任早々に大島に突っかかって空手の試合と称して挑んだ挙句に、無様を通り越して無惨としか言いようの無い目に遭わされたのは兄貴が中学1年生の今頃の季節だそうだ。それ以来生徒の間では通信空手の黒帯と馬鹿にされる赤原の右拳は、もう一生誰かを殴るためには使えないだろう……骨折は治っても精神面の問題で。
「さすが通信空手三段の腕前! 殴られたお前より、殴った俺の拳の方が痛いんだを実践するとは驚きです。それにしても近頃の暴力教師は骨が弱い。カルシウムが不足しているからすぐに切れて暴力を振るうのでしょう。全く困ったものです! 以上現場から高城がお送りしました」
 撮影を終えて携帯をしまうと、そのまま校長室を出て職員室を通る。その際に部屋の仲の教師を睥睨してゆくと、どいつも慌てて視線をそらしていく。
 要するに悪の大なるは校長と赤原であり、小なるはこいつらだ。そして大島は超巨大な悪。首魁と書いてラスボスと読むのだ。
 そんな中で北條先生と視線が会う。それはこちらを気遣う様であり、やりすぎだと咎める様にも思える表情だったが、最後は小さく微笑んでくれた。
 多分、俺はドヤ顔を抑え切れてはいなかったはずだ。それが出来るなら俺じゃなく俺に似た何かだ。しかも挙句の果てに気取ってウインクをしようとして両目を瞑ってしまい笑われてしまった。
 せめて笑顔が貴女の救いになるのならば、俺は何時だって道化師になろう……ではなく自分の決まらなさ、残念さに死にたい。

 廊下に出て野次馬達の恐れ戦く視線を無視して、その足で紫村の教室に行き、一連の事を話すと「はいはいSDカードに情報移して渡して」と言われて、最初から撮影の記録はSDカードへ行っていたので抜いて渡した。
 少なからぬスマホではSDカードを抜くのにバッテリーを外すなど面倒な手順が必要と知って驚いた事を思い出しつつ、早くそんな苦労をしてみたいと思う。
「多分、もう校長先生と赤原先生に会う事は無いと思うよ。ネットとマスコミにも流すから……ああ大丈夫。ちゃんと高城君の顔にはモザイクを入れるからね」
「わ~い、容赦なくて心強い!」
「誉めないでよ」
 やはり紫村だけは敵に回してはいけない……大島? アレは初めて言葉を交わした瞬間に敵だと確信したから仕方がないと思うんだ。


「良いんですか? 昼休みに僕等の事で問題が起きたと聞いていますが……」
 放課後、何時ものように校門付近で集まり、運動公園ではなく北條先生の実家の道場へと向かおうとしたところ2年の岡本から突込みが入った。
「モンダイ? ナニモオキテナイヨ!」
「しゅ、主将。一体何をやらかしたんですか!?」
「お、岡本君。それは随分な言い草じゃないか?」
 幾ら本当の事とはいえ、確認も無しに決め付けされると俺も流石に傷つくんだよ。
「実際やらかしてるからね」
『紫村。それは言わない約束でしょ』
『そんな約束はしてないよ』
「主将!」
 えーい! 通常の会話と【伝心】が同時に来るとウザイわ!
「紫村、状況を1分でまとめて説明して」
 俺は投げだした。
「北條先生が僕達に個人的に指導している事が、職員室で問題になっていると知った高城君は、状況を確認するために職員室に行くと、そこではまさに北條先生が吊るし上げにされていた。憤りを覚えた彼は、学校には僕達の補習を行うように通達が来ているにも関わらず、それがなされていない事を盾にして、校長を糾弾し、更には赤原先生をも煽り、僅かな時間で彼等を仲違いさせて互いに責任を擦り付け合う様に仕向けると、その様子を撮影し証拠とし、更に追い込まれて逆上した赤原先生にわざと殴られ傷害事件としただけではなく、殴られる瞬間に自分から叩きつけるように頭を動かす事で、彼の拳と腕を破壊して病院送りにしましたとさ。めでたしめでたし」
「短い30秒じゃないか!」
「えっ! そこ大事なの? それなら補足するけど、北條先生が僕達に個人的に指導したのは、学校側が補習を行わないのを『まあいいや』で済ませてしまった僕達の落ち度でもあるよね?」
「うっ!」
 痛い所を突くじゃないか。
 部員達の視線が俺に突き刺さる。何せ「まあいいや」という態度を真っ先に示したのが主将である俺だからだ。だがあえて言わせて貰おう。
「だが、そのお陰で北條先生に教えて貰う事が出来たんだぞ」
「!」
 俺の卑怯な言い逃れに、部員達は反論出来ない。理屈はどうあれ北條先生が付きっ切りで教えてくれた2日間はかけがえのない宝石のような時間だったのは間違いない。
「でもそれが北條先生に迷惑をかけた事には変わりないよね?」
 やっぱりホモには通用しないか。
「……分かった。分かった。俺が悪いんだろう?」
 皆は無言で頷く……糞、覚えてやがれ!
「じゃあ、謝ってくるよ……そして『高城君が謝るようなことじゃないのよ』とか言われて慰めて貰うんだ!」
「おいっ! ちょっと待てェ!」
 その後、少し……いや、かなり揉めた。


 北條家道場……北條先生不在のために爺が調子こいて絡んできたので、北條先生に即連絡、北條先生からお祖母さんへと連絡。そして呼び出し、悲しそうな瞳で俺達を見ていたが、全く同情の念は沸いて来なかった。
 お陰で勉強ははかどった。特に北條先生が居ない事を良い事に、1年生達に試験対策のテクニックを叩き込んだので各教科+5点は上がるだろう。
 中学生になって最初の試験で点数を取るのは、真っ正直に学力自体を上げる以上に大切な事だと俺は思うからだ。
 1年生の時の中間試験。これが本人にとっての自分がとれる点数の基準となってしまう。そしてその基準に応じて点数が上がった良かった。下がったから悪かったと判断してしまう。
 ならば多少の下駄を履かせてでもその基準を上げてしまうのが、その後の試験におけると点数への高いモチベーションとなり得る。人間である以上、一度定めた基準に対して現状維持以上を求めてしまうだろう……求めないなら、それは端から駄目という事だ。
 実力以上の高みで現状維持をしようとするならば、人間は今の実力以上の力を得るために努力を積むしかない。
 更に人間は一度道筋のついてしまうとそれを繰り返して行う事に苦痛を感じ辛くなる。これが習慣化だ。空手部の部員が毎日ランニングをしないと落ち着かないくらいに習慣とは行動を支配する。一度、習慣として身に付いたことは余程の考え改めるだけの外的要因が加わらない限り続ける事を是としてしまうのだ。
 特に俺の様に流されやすいタイプはその傾向が顕著だ。


 家の玄関を開けるや否や『タカシ!』とマルが飛び掛ってきて俺の顔をペロペロ……そんな可愛らしいものではなく、長い舌でベロンベロンと泥酔者を示す擬態語のような勢いで嘗め回した。
『マル、誰も居なくて寂しくて、タカシに会えて嬉しくて、良く分からなくなったの』
 顔どころか、制服の襟の部分まで垂れたよだれで濡れてしまった俺の前でお座りしながら、そう弁解するが尻尾は嬉しそうに大きく振れていた。
「……はぁ」
 深くため息を吐くと、洗面所に行って顔を洗い、制服を洗濯ネットに入れて体育の時間に使ったジャージなどの洗物と一緒に洗濯槽に入れて洗濯機を動かす、その間ずっと無言で押し通す。

『タカシ怒った? ごめんなさい。マル反省してるよ』
 俺の態度に本気で反省モードに入ったマル。尻尾もダラリと垂れ下がり床の上に這っている。
『怒ってないよ』
『本当?』
『本当だよ。洗濯機も動かしたから、着替えたら散歩に行くよ』
 顔をよだれだらけにされた程度で怒っていては身が持たないよ。
 恨みはともかく、怒りは勝手に自分の中でリフレッシュする訳でもないから持続しない。勿論外から燃料を流し込むような輩がいなければだ。
 いや、本当。俺を切れさせたら大したものだよ。
『わ~い、散歩散歩!』
 ……ふぅ、一発で癒されちゃったよ。


「ワンッ! ワンワンッ!」
『足音がするの、お母さんとお父さんがもうすぐ帰って来るよ!』
 一説によると、犬は音でも匂いでもなく、人間の歩行時の着地の瞬間に発生する活動電位を数百m先から感知し、そのパターンから飼い主などの親しい人物を特定するというが、マルよお前はいい加減マップ機能や魔術を使いこなしてくれ。本当に頼む。

 マルに袖口を引っ張られ来た玄関前で待ち構えて3分、右手の角の向こうから人の気配を感じた途端、マルはリードを引っ張って駆け出す。
『お母さんお帰り! お父さんもお帰り!』という心の声と同時にマルは甘えるような高い泣き声を上げる。
「ただいま~。マルガリータちゃんお出迎えしてくれてありがとね~」
 マルは嬉しさのあまりに飛びつかんばかりの様子だったので『マル駄目だよ。母さんは疲れてるんだから飛びついたら倒れちゃうよ』と注意すると、どうしたものかと困って母さんの周りを回り、最後にはお腹を上にして地面に寝転んで、尻尾を振り振りしながら「お腹撫でて!」のポーズをきめる。
 そんなマルに、母さんは「あらあら」と困った様な、それでいて嬉しそうに微笑むと、両手の荷物を下してマルの前にしゃがみ込むと、優しくお腹を撫でて上げるのだった。
「お帰り、疲れたでしょう?」
 そう言って、母さんの荷物を持ち上げる。

「隆。ただいま。お土産も買って来たからな」
 笑顔で俺の肩を叩く父さん。
「父さんも、お帰りなさい」
「大は勉強か?」
「そうだろうね。今朝なんて勉強が趣味とまで言われたし」
「そうか……前から思っていたが我が息子ながら変な奴だな」
「うん、大丈夫かこいつ? と思ったよ」
「酷い事を言うな~」
 笑いながらそんな事を言われても、それに息子を変な奴扱いした人には言われたくない。

「キャウン、ク~ンク~ン」
 家の中に入ると母さんの座るソファーの隣を陣取って甘えた声を上げ続けるマル。
『お母さん! お母さん! お母さん!』
 久しぶりの母さんに必死になって甘えている。しかし久しぶりと言っても空手部の合宿の件で1週間家を空けた俺が帰って来た時には、これほど甘えては来なかったよな。
 やっぱり母さんには勝てないのか? 俺(との散歩)が一番好きって言ったじゃないか……
「やっぱり寂しかったのね? ごめんね」
 母さんが優しく梳る指の感触にマルはうっとりとした表情でなすがままにされている……こ、これが世に言う寝取られ感? 妻でも恋人でもない相手が、他の人に靡いただけで、ユニコーンの囁きによってNTRの3文字が頭の中に響き渡るというアレなのか?

「週末からずっと面倒を見てきたのに、やっぱり母さんには勝てないか?」
 家庭内マル人気ランキング不動の4位。辛うじて涼より上なだけの兄貴がニヤニヤしながら居間に入ってくるなり、俺の胸を抉ってきやがった。
「自分の面倒しか見てなかった人は黙ってて」
「ちょ待て、それは言う──」
「大。どういうことなの? 隆とマルガリータちゃんの事をお願いしておいたわよね?」
 部屋の空気が一瞬にして変わり、マルも毛を逆立てて飛び上がると俺の後ろに隠れる……こいつは! 可愛いじゃないか。
『お母さん怒らせる。マサル馬鹿』
 結果的に至福の時間を台無しにされたマルは兄貴に向けて毒を吐く。別に動物は純粋無垢な存在だとか馬鹿げた幻想を抱いては居ないが、むしろ人間ではなく犬ゆえの率直さにドキッとさせられる。

「食事の用意が面倒なら店屋物でも取るようにって、お金も置いていったわよね?」
「ほう、それは初耳だ」
「……どういうこと? それじゃあ、隆はどうやってご飯を食べてたの? 自分のお小遣いで?」
「友達の家で寝泊りしていた」
「えっ…………」
 そのままパタリとソファーの上で横に倒れて悲しそうに呟く。
「お母さん、もうPTAの集会に顔出せないわ……」
 常識的に考えると世間体は悪いわな。『嫌だ、高城さんちの奥さん。生活力の一切無い事で有名な息子を放り出して海外に旅行に行ったんですって』とか言われそうだ……誰が生きてる価値の無い生ゴミ製造マシーンの馬鹿息子だ!?
「そうだ! 隆、その友達って誰なの? 明日にでもお詫びに伺わないと」
 いきなり身体を起こすも「そいつの両親は仕事で海外に居るから行っても無駄だよ」と告げると、また倒れた。
「どうなってるの家の子達は、1人暮らしの子の家に押しかけて自分の食事の世話までさせるなんて~、私の教育が悪かったのかしら~」
 その後、母さんの小言は一時間ほど続いた。


『マル、お母さんとお話したい!』
 後は寝るだけという段階になって突然マルがそんな事を言い出した。
『はいはい、じゃあ寝るよ』
 きっぱりと無視してベッドで頭から布団を被る。
『タカシ聞いて、ちゃんとマルの話聞いて!』
 駄目だ、布団を頭から被っても意味が無い! 布団を跳ね除けて起き上がると『無理』と告げて、再び布団を被る。
『マルもお母さんとお話したいよ。タカシとマサルばかりお母さんとずっと話してズルイよ』
 仕方なく布団を剥いでベッドの縁に腰掛ける。
『いや、あのね……アレはお話というよりはお叱りだよ』
 辛かったよ1時間にも渡り正座させられて説教されるのは。
『マルもお母さんにお叱りされたい!』
 駄々っ子かよ、いや満1歳未満だから何1つ恥じる事も無い駄々っ子だよ……困った。こうなってしまうと宥めすかす方法が分からない。
『マルね、ずっと皆でお話しするのが羨ましかったの。お母さん、お父さん、マサルにタカシ、スズがマルを撫でてくれても何を話しているか良く分からないの』
 上目遣いで心情に訴えかけてくるマル。
 孫ことを言われても家族と会話をさせるとなると、互いに【伝心】を使えるようになる以外の方法を俺は知らない。つまりマルが【伝心】を使いこなせるようになるだけではなく、家族も全員、パーティーに参加させる必要がある訳だが、紫村と香籐はのっぴきならない事情というべき状況でパーティーに入れたが、確かに櫛木田、田村、伴尾の3人、そして今後は2年生達も参加させる事を考えているが、彼等は今後更なる異変が起こり得る可能性に備えて彼等自身と周囲の人達を守る為に戦力化したという側面がある。
 人としての信頼のみならず、共に戦うものとして彼等以上に信頼出来る者達は俺にとっては存在しない。
 そして戦うという事に関して家の家族は、生兵法は怪我の元という言葉が浮かぶのみだ。父さんは戦えるかもしれないが、性格的に母さんや兄貴は駄目だろうし、涼は性格的にも人類より大島サイドの人間だから過ぎたる力を与えるなんて信頼は出来ない。
 仮に大島をレベル60程度までレベリングしたら、翌日には国会を乗っ取ってクーデターを起こすなんてストレートなことは絶対にしないだろうが、もっと恐ろしい何かをやらかすに違いない。そして、それを止める事は3倍近いレベルである俺にも出来るかどうか分からない……いや、多分出来ないだろうな。
『せめて……涼抜きならどうだ?』
 最悪、他の家族ならば話せば分かるという確信がある。涼は確信が無いというか、話しても分からない確信がある。
『駄目! スズには色々と話して聞かせる事があるの。お姉ちゃんとして!』
 むしろマルが話して涼の性格が何とかなるなら、万難を排してもマルと話が出来るようにしたいとは思うが、先ずお約束の「俺とパーティーを組み一緒に戦ってくれますか?」という台詞に、涼が「Yes」と答えるはずが無い。もし答えたとしたら間違いなくそれは偽者だ。

『ごめん、やっぱり無理』
『え~っ』
『先ずマルと話せるようになるには、マルが未だに覚えようともしない魔術の中の【伝心】を、マルと相手が使えるようになる必要があるんだよ』
『魔術……面倒』
 まだマルが文字を覚えてないから使いたい物が使えず、足元に大穴を開けて落ちてからすっかりやる気を失っている。
『いい加減、必要な文字だけでもちゃんと勉強して覚えなさい』
『勉強はイヤ~!』
 犬には学校もテストも何にも無いからね。
『嫌とか言わない。兄貴を見てみろ。勉強が趣味とか言うんだぞ』
『……マサルおかしい。先生に注射してもらうべき』
 家の家族は兄貴に対して容赦が無いと思う。

『それに涼が【伝心】を使えるようになるには、マルみたいに心から俺の仲間になりたいと思う必要があるけど、涼がそんな事を思うと思うか?』
『…………無理。マルが魔術を使えるようになるよりずっと無理』
 マルは俺に背中を向けて寝転がる。たまにやる拗ねた時のポーズだ。
『マルはちゃんと努力しなさい。折角頭も良くなったんだから、言葉や文字を身に付けるのは難しくないはずだよ』
『うぅぅぅ……』
『大体、言葉を聞き取れるようになったらマルから話しかける事は出来なくても、他の人たちが何を話しているのかは分かるようになるんだよ』
『皆が何をお話してるか知りたいの……』
『だったら、言葉と文字を使えるようになるしかないよ』
『……明日から頑張る』
『じゃあお休み』
『……今日はあっちに行かないの?』
『今日はマルは余り寝てないみたいだから、あっちに連れて行ってもずっと寝てるだけだと思うよ』
『イヤ。マルも行く!』
『だけど、俺も猛眠たいから、マルは全く寝ないであっちに行くことになるよ』
『行くよ。タカシはマルがいなくても良いの?』
 体勢を変えてこちらに顔を向けると、小さく「ワン」と吠える……もう俺に選択肢は無いじゃないか!



[39807] 第92話
Name: TKZ◆504ce643 ID:3f2e3199
Date: 2015/08/25 21:56
 今日はソロだと思うと何だか気分が軽やかだ。そのお陰か目覚めもやけにすっきりとしていた……マルがいるから完全に1人ではないがマルは家族なので問題なし。

 だが、そのすっきり感を台無しにする問題が目の前に存在する。
 家族に事情を話してパーティーに入って貰うにはどうしたものだろう?
 現在の身体能力を見せたり、魔法で浮かんで見せたりすれば十分に、俺が言ってる事が絵空事ではない事を理解させる事は出来るだろう。だが納得をさせられるか?
 納得させられるなら問題は無いが、納得させられなくて拗れると面倒だ。空手部の皆は、結局は他人なので決定的に拗れて対立するような事になっても、中学を卒業して、更に高校を卒業し大学進学や就職で地元から東京へと行けば人間関係をリセットすることも出来るが、家族はそう簡単にはいかない。
 そうとはいえ、1人を除けば面倒な性格なのは居ないから問題は無いと思う、だけど最後の1人である涼がな~。
 レベルアップした兄貴に柔道で投げられたら納得するかもしれないが、兄貴がレベルアップしても果たして涼に勝てるのかが疑問だ。
 レベルさえ上がれば、単純に走るとか重たい物を持ち上げるとかなら、簡単に涼を追い抜くことは可能だろうが、戦うという行動は突き詰めても突き詰めても底が見えないものであり、大島をしてまだ道ならずと言わせるものだ、年下の中学生1年生でしかも女子であるとはいえ、決してマイナーとは呼べない競技の、まがりなりにも国際大会で優勝する涼の武は決して浅くは無く、素養が無い兄貴が身体能力だけで勝てる可能性は……
 見えた! 開始3秒で1本背負いで畳の上に投げつけ、流れるような動作から間接技に移行してSTF(ステップオーバー・トゥホールド・ウィズ・フェイスロック:Stepover Toehold with Facelock)を裏で極める涼の姿が見えたぞ! ……見えるなよ。
 そう、涼は父さんの影響でプロレス技にも精通している。いやむしろ柔道よりも得意かもしれないほどだ。そもそも最初の投げに柔道技を使うという俺の予想すら怪しい。
 開始と同時に兄貴の懐に飛び込むと見せかけて、猫ダマシ……いや涼の性格を考えたらもっと攻撃的に一発入れるな。そう兄貴の首が飛んでいきそうな強力な平手打ちをかますだろう。そして意識が飛びかけて足元が覚束ない兄貴の膝を蹴って倒すと背後に回りこんで背中越しにクラッチし、そのまま四連続の起上がり小法師式のジャーマンスープレックスを硬いコンクリートの床の上で食らわせる。そしてまだやりたい無いと首を傾げて5秒ほど考え、閃いたとばかりに邪悪な笑みを浮かべ……この先は既にプロレスですらなく処刑だ。まさかコーナーのトップロープからリングに向かって──俺の妄想の中では場面はリング上に変わっている──ではなく場外に向かって飯綱落としだなんて忍術じゃないか、そんな殺し技を実の兄に使うだなんて涼はどこに向かおうとしているんだ? と妹をネタにここまで妄想出来る自分が怖い。

 それはさておき……おいたらマルに泣かれるのだが、今日はやるべき事がある。
 そいつを狩るだけで177へのレベルアップが可能かもしれない大物との戦いに備えての準備を始める必要があるからだ。
 その獲物の名はクラーケン。ファンタジーRPGなど遊んだ事無い人でも、一度くらいは聞いた事があるだろうビッグネーム。
 この世界においては正式に何と呼ばれているかは分からないが、俺が認識しているクラーケンと呼ばれるモノとイメージが一致するから翻訳機能が、夢世界の魔物にクラーケンの名を与えているのだろう。
 多くの魔物は、俺が知っている名詞に変換されるが、魔物以外の動物の半分くらいは、こちらの世界の言葉のままにアナウンスされるし、こちらの世界の人間が話す時もそう聞こえる。
 意外に、現実世界の動物と似ているが微妙に違う動物でも、それはそれで俺自身の拒否感が強いのだろう、こちらでの呼び方で聞こえる事が多い。
 だが、魔物に関しては実物は存在せずぼんやりとしたイメージで認識されているためか、何かに似ているけど現地の呼び方をされる魔物は今のところは居ない。
 まあ、映画やゲームなどの作品ごとに扱いや詳細な形が違っているので、俺自身の中で魔物に関しては受け口が広いためだろう。
 もしゴブリン、角無しだったり2本角だったりしても俺は気にしないOのだから、角が6本あっても「ゴブリンだな」と思ってしまえばゴブリンだというのがシステムメニューの翻訳機能なのだろう。

 クラーケンに関して分かっている事は、体長が最低でも100mを超えるという事である。もっともクラーケン相手に水中に潜って確認した勇者様──単に船から落ちたともいう──は当然往きて再び還る事無く、その全貌を知るものはこの世には居ないので、100mが200mでも400mでも責任は取れないとの事……何て心強い。
 そして奴が良く出現するポイントだが、王領の東にあるラグス・ダタルナーグ王国の北部で唯一海に接した場所にある港町エスロッレコートインから海岸線を北上する事100km程の海域だという。
 大河ポトセッドから流れ込む養分に富んだ水に育まれた豊かな海を根城とすることでその巨体を維持してきたのだろうが、最低でも100mを越す巨体を1つの餌場では維持するのは難しい。
 ポトセッド河口周辺の海域にクラーケンが居るのは今の時期の3ヶ月ほどという事なので、他に2-3の餌場を移動しながら1年を過ごすのだろう。

 今日中に済ませておくのはエスロッレコートインへ移動すること。これは浮遊/飛行魔法なら全力で飛ばさなくても30分も掛からず済む。
 残りの時間……龍狩りは止めておこう。クラーケンを狩った後の事を考えるなら【所持アイテム】内に、これ以上大物を溜め込むのは良くない。
 クラーケンを狩るためにはどんな準備が必要だろうか? 船での移動は無理だから、やはり浮遊/飛行魔法に頼ることになるだろうが、いざという時の為に周囲の海面に足場となる丸太を浮かべるのもありだ……いや【所持アイテム】内に入れておいて必要に応じて取り出せば良いか。それに丸太状の木ならデカイのが幾つもストックされている。足場だけでなく武器として使うためにもストックを増やしておくべきだな。
 実際にクラーケンを見てみないと分からない事が多いが、確実にいえる事は、クラーケンが海深くに潜って逃げられないようにする手段が必要だ。
 銛と浮きをロープで繋いおけば、銛を打ち込めば浮きが浮力となって潜る妨げになるのだが、相手が蛸のように身体が柔らかくする事も出来るなら銛の返しを避けるように傷口を変形させて脱出してしまうので、返しは一方向だけではなく、3-4方向に飛び出す形にしなければ役に立たないかもしれない。だがそのような形状にすれば貫通力は落ちてしまい、結果貫通しなけば返しの効果も発揮されない。

 それにクラーケンの巨体を考えれば、泉水を阻止するために必要な浮きの浮力は……形状や大きさが不明な今の段階で計算するのも余り意味が無いだろうが、体長100mの蛸と考えるなら10万kg程の浮力で潜水を阻止出来ると思うが、10万kgは100tであり、大雑把に考えて10mx10mx1mの発泡スチロールの浮きの浮力──発泡スチロールの重量は海水の比重1.02-1.03で相殺──と考えて良いだろう。
 どこからそれだけの発泡スチロールを集めれば良いんだ? ちなみに夢世界で木を切り倒して浮きにするという方法は使えない。
 切り倒したばかりの生木の比重はちょっとだけ水より軽い程度で、重さ数tの大きな丸太で何とか成人男性1人分の浮力となる……屁のつっぱりにもならない。
 乾燥させて生木に含まれる水分を抜けば杉などは0.5を大きく下回るが、得意の【操水】では細胞内に蓄えられた水分などは操作することは出来ない……詰んでるな。

 物理的手段で駄目となれば、魔術か魔法となるわけだが魔法は駄目だ。今の俺の魔力なら大抵の力技が可能だ。
 例えば、これから夏に備えて綺麗で透明な氷を作る魔法を作ったのだが、その術式の中には氷の中に気泡を作らないために水に溶け込んだ二酸化炭素や酸素を除去する工程がある。ちなみに、この工程がなければ水中の二酸化炭素などを追い出すためにゆっくりと凍らせる必要があり時間が掛かる。
 ともかくその工程を抜き出した魔法を組んで、水中の海水中の酸素を除去してやれば、エラ呼吸の烏賊蛸モドキなど潜れなくするどころか昇天させてやることも魔力面だけを考えれば可能だ。
 だが魔力で働きかける肝心の魔粒子の数で行使出来る力が制限される。魔粒子の数とは濃度なので周囲の魔粒子量が極端に高くなければ、俺の無駄に多い魔力に対して魔粒子不足が起きてしまい、クラーケンの巨体を含む一帯の海水から酸素を除去するなんて真似は不可能だ。
 魔粒子を集めて保存しておく魔道具も存在するが、それは希少種の魔粒子を予め魔道具に集めておいて開放する事で魔法が発動する程度の魔粒子数を確保するためであって、元々普通に発動出来る量のある魔粒子の濃度を何倍にも高める様な使用目的では作られていないために、大量に魔粒子を集めておく事は出来ないからだ。
 魔術に関しても、今のところクラーケンの動きを掣肘するのに使えそうなのは……ないな。
 せめてクラーケンに関する詳細な情報があれば上手いこと活用する方法が思い浮かぶかもしれないが現状では無理
 これも宿題だな。何か宿題が増えてばかりな気がするが、違うぞこれは人生という物語の中の重要な伏線だ。そうフラグだよフラグ。

 とりあえずは【所持アイテム】からマルを出して、朝食の時間まで眠らせておくか……いや、もっと良い場所があるな。


『セーブ処理が終了しました』

 とりあえずセーブを実行してからミーアから預かった魔道具を使って、店への入り口を出してもらう。勿論セーブを実行したのは2号が店で待ち構えている場合にロードしてなかった事にして時間を開けてリトライするためだ。

 1分間も待たずに、宿屋の部屋の壁に扉が出現する……どれほどの魔法技術が注ぎ込まれているか今の俺には想像もつかないが、間違いなく魔法技術の一つの頂点と呼ぶべきものであるのは間違いないだろう。術式を教えて貰おうにも代価として何を要求されるかと思うと「教えて」なんて気軽に口に出来ないほど俺にプレッシャーを与えてくる代物だ。
 先ずは周辺マップで店内をチェックして2号がいないことを確認した。

「いらっしゃいませ。リュー様」
 両腕で抱き上げたマルに、一瞬ミーアの視線が流れるが、次の瞬間には何事も無かったかのように、見る者全てを魅了するような笑顔で迎えてくれた。
「ああ、それでニゴ……カリルは来てないよな」
 一応確認を取る。この店には狭い範囲ならバージョンアップしたマップ機能ですら阻害する手段があってもおかしくは無い。
「はい。先日の夕刻に一度お越しになりましたが──」
「いや、居ないならそれでいい」
「カリル様と何かあったのですか?」
「意見の相違という奴だ。昨今の状況をみれば『龍殺し』を名乗る事はメリットよりもデメリットの方が大きい──」
「それはリュー様が──」
「とにかくだ! あいつが『龍殺し』を諦めるまでは顔を合わすつもりは無い」
 強引に遮って結論のみを告げる。言われんでも、俺が龍を狩りまくった結果だとわかっとるわ。
「そうですか……分かりました」
 全て分かっていますと言わんばかりの笑みを浮かべながら頷く……あれ? 一瞬状況を受け入れてしまったが、これは相手に対して借りだと思わせる手法か?
 勿論、俺はミーアに対して借りだとは全く思っていない。だが今の状況自体を忘れて、印象的なその笑顔だけが記憶の中に残ったのなら、確かに俺はミーアに借りを作ったというイメージだけが頭の中に残ってしまうだろう。
 だが記憶力が物凄いことになっている俺には効かないだけではなく、普通に考えても効果は薄いだろう。
 しかし10人試して1人か2人が引っかかってくれるとするならば……勿論、効かない相手には何度もやれば胡散臭い奴と思われて逆効果だが、効果が有った相手にのみ繰り返し使うとしたら、とんでもなくえげつないテクニックだな。
「そういうのは相手を見て使うんだな。無意識に相手構わず使ってしまうなら、二度と使わないと決めた方がお前の為なんじゃないのか?」などと説教は口にしない。
 いい歳した──本当に凄くいい歳しているよ──大人なんだから自分で痛い目に遭って学んだ方が良いだろう。先回りして問題点を解決する様な真似は小さな子供、俺の場合はマルにだけだ……ちなみに実の妹にはウザがられて盛大に失敗している。

「それでは今後カリル様の入店はご遠慮させていただくようにいたします」
 顧客名簿に載っていない客は店に入れなくする事が出来るのか? いや、違うな。それなら一見さんだった俺が店に入れた説明がつかない。
 そうかブラックリスト入りという訳だな。なんか2号が可哀想になってきたような気が……するようなしないような。
「そのように頼む」
 やっぱりしないや。
「それからコカトリスやミノタウロスを狩ろうと思うので、午前中マルを預かって欲しい」
「その子をですか?」
「名前はマル。まだ眠たいようなので店の隅にでも寝かせておいて貰いたい。粗相などはしないように躾けは万全だが、ミノタウロスはともかく、コカトリスを狩る時には子犬の好奇心で石にされる可能性も有るから」
「狩り方は前回と同じ──」
「当然だ。肉質を悪くするような狩り方をする必要があるか? マルを預かり肉の解体もやってくれるなら、獲物の半分は渡そう」
「それでおねが──」
「前回と同じという訳ではないが調味料は用意してある」
 テーブルの上に、先日北條家からの帰りにスーパーで買った。某SとBな会社の小瓶に入った一味、山椒、胡椒、粗挽き黒胡椒、ナツメグ、ガーリック、ジンジャー、クミン、コリアンダー、シナモン、花椒を並べていき、そして缶入りのカレー粉。ペットボトルの醤油、チューブのわさびとマヨネーズとケチャップ。そして最後に中濃ソースとウスターソースを置いた。
「こ、これは一体、どういう材質で?」
 マヨネーズの入ったチューブボトルをプニプニと手の中で変形させながら呟く。目の前にいる俺へ質問するのではなく、自問自答するほど驚いている。
 やはり何かガラス壜などのこちらにも存在する容器へ移し変えた方が良かったのかもしれないが、壜だってアルミか何かのスクリューキャップの段階でアウトだから開き直ってそのまま持ってきた。しかし特にマヨネーズの容器、薄く柔らかく、それでいて容器として十分な強度を持ち、さらには透けて中が見えるというポリプロピレンやポリエチレン製の容器はミーアに与えた衝撃は俺の想像以上だったようだ。
「これは世界が……世界が変わってしまう……」
 次は醤油が入ったペットボトルを手に虚ろな眼で呟く。
 分かる。密閉できる上にガラスや陶器の器に比べると遥かに軽く、しかも簡単には壊れない容器が普及するのらなら、現実世界においてペットボトルが、あっという間にガラス壜のボトルを駆逐してしまったように、この夢世界を大きく変える存在だろう。だが残念だが──
「これらの外への持ち出しや、他の人間に見せるのは無しな」
 我ながらまさに外道! いや、そもそもこちらでは製造は難しいし、量産などは夢のまた夢。

「そ、そんなぁ~」
「絶対駄目だから、誓約を立てないならこれは全部回収な。この缶の中に入ったスパイスは、俺の国では調味料の王様とも言うべきものだが無かったことに」
 慌ててテーブルの上の調味料を抱え込もうとするミーアよりも一瞬早く取り上げたカレー粉の缶を自分の顔の横にかざしてみせる。
「調味料の王様……」
 ごくりと喉を鳴らす。所詮この女もエルフの呪いからは逃れられぬ憐れな食いしん坊なのだ。
「世界とかどうでも良いだろう。大事なのは自分が美味しい物を食べられるかじゃないのか?」
「………………」
「今なら、オマケで野菜と肉を炒めたらひたひたになるまで水を張り、これを入れて煮込めば完成するカレールウもつけちゃう!」
 ミーアは文字通りに俺の前に膝を屈して、俺の要求を全て呑んだ……やはり家族の説得も食い物から入るのが正解なのだろうか? でも櫛木田達は結局は問答無用で眠らせて収納だったよな。


 先ずはミーアから近場でのコカトリスの群れの目撃情報を得ると、その周辺上空へとやってきた……朝飯食い忘れたよ。
 上空で視線の範囲内を全て表示可能範囲に収めると、広域マップマップ内には40頭ほどのコカトリスの群れが表示された。
「全部狩る……のは拙いよな……でも駆除の対象? あれ?」
 他の魔物ならば容赦なく駆除なのだが、希少で貴重な肉の原料と思えば保護の対象としてみてしまう。
 どのみち何匹までなら狩っても群れの維持に問題が無いかなんて分かるはずも無い生態も分からない生き物相手だからな。
 仕方が無いので群れの1割だけを狩るという方針でエスロッレコートインへと向かう。途中見つけるだろうミノタウロスは群れを作らないので容赦なく狩ればまさに一石二鳥である。


「一石二鳥などといった馬鹿はどいつだ!」
 ……俺だよ。
 一石二鳥のはずのミノタウロス狩り好評第4弾で問題が発生した。
 A5ランクを越える牛肉……もとい、ミノタウロスを前に舌なめずりをする俺。そして自分を美味しそうという目でしか見ない小さな人間(俺)という未だ嘗て無いだろう状況に緊張感を漂わせるミノタウロス。
 俺が一歩踏み出せばミノタウロスが一歩下がる。
「へっへっへっ、逃げるなよ霜降りちゃん。俺が美味しく食べてやるからさ……ジュル」
 いかん、口を開いたらよだれが垂れてしまうじゃないか。
 ミノタウロスの表情が緊張から恐れへとシフトする。奴の本能が何か分からないけど関わっちゃいけない。関わったら不幸になる相手だと告げているのだろう……失礼な。俺はどこの変質者だよ。

 その時、足元で「ナ~ゥ」と何かが鳴いた。
「な、なう~?」
 聞く者の身体から力が抜けほっこりしてしまうような泣き声に振り返ると、そこには真っ白な長い毛足がまるで毛玉のような子猫が俺の靴の紐にじゃれ付いていた。
 この食うか美味しく頂くかいう殺伐とした空間に現れた癒しというファクターに、最近周囲から人間性を疑われ始めている俺さえも時間が止まった。
「こ、子猫が、子猫が俺に懐いている?」
 こんな純真無垢な存在に懐かれてる私もきっと純真無垢な存在なのだと感じました……いやそんなことは無いけど。

 俺の意識が子猫に向かった瞬間、俺からのプレッシャーが消えた事に気付いたミノタウロスは攻撃に転じた。
「ブモオォォォォォォォオッ!」
 雄叫びと共にこちらに向かって踏み込むと、巨大な戦斧を球技において最速と呼ばれるバドミントンのスマッシュにも匹敵する速さで薙ぎ払ってきた。
 迫り来るのは一度たりとも砥がれた事の無く全体的に欠けて既に刃と呼んで良いのか疑問すらおぼえる戦斧の刃だが、300km/hを軽く越える速度の硬くて幅の狭い物体を身体に受ければ今の俺の肉体をもってして両断されるのは必至であり、避ければ子猫が巻き込まれるかもしれない。

 この危機的状況に俺は外野フライを捕球するように左手を戦斧が描く軌道の延長上に翳す。
 そして戦斧が左手に触れる瞬間、素早く手を引いて相対速度がほぼ0の状態で厚さ3cmはあろう分厚い鉄の塊の縁を掴む。
 掴んでしまえば後はただの力比べ。真横に薙ぎ払われたら体重差で押し切られるが、身長差の為に斜め上から振り下し気味なために地面を支えとして踏ん張る事が出来たので、逆に地面を強く蹴り瞬間的に強く押し返すと、戦斧の柄が半ばから折れ反動で俺の手の中から飛んだ戦斧の頭の部分がミノタウロスの頭部を襲い、その右の角を砕いた。

「……」
 ミノタウロスは恐る恐るといった様子で己の右側頭部へと手をやり、その感触に驚き悲しみ、そして様々な感情を表情に浮かべ、最後には全て抜け落ち呆然とする。
 同時に股間でウザイくらいに滾りまくっていた雄の象徴たる一物が、穴の開いた風船のように萎んゆき……そしてその最後に俺は恐怖した。
 だってどんどん小さくなって2cmくらいのなると、股間からぽとりと落ちたんだよ! 思わず自分の股間に手を伸ばして無事を確認するほどの衝撃的な光景だった……いかん、夢に見てしまいそうだ。

「恐るべき敵だった……今まで、俺にここまで深い心の傷を負わせたのは大島と涼に次いで3番目だよ」
 奴ほどではないが未だかつて無いほどに小さく縮んで、一向に元に戻ろうとしない股間の物にマッサージを施しながら、既に雄としてだけではなく生命的にも死んだミノタウロスを収納した。
「ナ~、ナ~」
 足元で俺を見上げならが鳴く子猫を抱き上げ、というより手のひらサイズなので片手で持ち上げて目線を合わせる……ついでに股間を見るが一見してフグリなどが分からないのでとりあえず雌(仮)とする。まあ小さい内は雄雌の区別は素人目には分からないというから。
「ナ~ァ」
 前足を伸ばして空を掻きながら何かを訴えてくる。妙に人馴れしているというか……そうかまだ警戒心が薄いのか。
「母親はどうした?」
 無駄だとは分かっているが声に出してしまった。現実の猫と同じとは限らないのではっきりはしないが、まだ離乳はしてないと思う。そうだとするなら母猫が近くにいるはずだが……

 試しに周辺マップで俺の手の中にいる子猫を確認すると雪猫と表示されたので、その名前で検索をかけるがヒットしない。
 嫌な予感がしたが、「雪猫の死体」で検索をかけると20mほど離れた場所で4つ、そしてそこから5mはなれた場所で1つヒットした。

 下着と上着の間に子猫を入れると大人しくなったので、ヒットした場所へと歩く。
 離れたところにあった1つの反応は大人の猫と思われる前足の部分のみで、他の死体は子猫の兄弟と思われたが全て潰されていた。
 俺はそれらを全て収納すると周囲で抜きん出て大きな大木の傍に穴を掘って埋めると目印に足場用の岩を隣に立てた状態で置いた。
「ナ~ゥ」
 胸元で子猫が鳴く。母や兄弟が死んだ事も理解していないのだろう。
 母猫がいなければ子猫は生きていけない。つまり俺が飼う以外にこの子が生き延びる可能性は皆無。
 どうしよう? 単に俺が猫の仲間と認識しているだけの得体の知れない可愛いだけの生き物を飼うことになってしまった……一石三鳥? ふざけている場合か? 多分、この子を飼って可愛がったらマルが嫉妬すると思う。
 母さんも見た目的に断然マルより可愛いこの子に夢中になるだろう……そもそも飼って良いと許可が出るかはさっぱり分からないし、許可が出たとしても予防接種させて猫用の薬品が体内に入って大丈夫かどうかすら分からない。
 大体、大人に育ったらどんな生き物になるのかも分からないのに……難題山積みだが、何故かこの子を助けないという選択は俺には無かった。


 暫く狩りを続けたが昼近くになったので再び魔道具で店の扉を開いて貰う。
「この子はどういう生き物で、どんなものを食わせれば良いのか教えて欲しい」
 狩りの成果を尋ねてくるミーアを無視して、懐から子猫を取り出してミーアのテーブルの上に載せて尋ねた。
「まあ……これはとても珍しい雪猫の子ですね。純白の毛皮にとても愛らしい姿で──」
 興奮気味なミーアだが、子猫がお腹を空かしているかもしれないので話を遮って「それで何を食べさせれば良いか教えてくれ」と先を促す。
「私の専門分野ではありませんが、母親を亡くした犬や猫の子には山羊の乳を与えるのが一般的かと思います」
 白山羊さんに黒山羊さん。どの色まで山羊だと認識出来るんだろう? いや緑色でも狼と認識出来たのだから色は結構緩いのかもしれない。まあ幼稚園の頃にはのらエモンを緑に塗った色彩感覚に難のある俺だから紫山羊でもいける気がする。
「山羊の乳は手に入れられるか?」
「今日の午後のお茶はミルクティーにしようと思っていたのでお分けする事が出来ますが?」
「すまないが頼む。それとまとまった量を買ってストックしたいのだが注文できるか?」
「勿論。どのようなご注文でも」

「…………良いなぁ」
「はい、堪りませんわ…………」
 子猫が懸命に皿に注がれた人肌程度に温められたミルクを舐めながら飲む姿に俺とミーアは癒されていた。
 皿から直接飲む事が出来なければ哺乳瓶。それが無ければミルクに布を浸して吸わせようとも思っていたのだが、離乳時期が近かったのだろうとの事だった。
『あっタカシだ! おはようタカシ! ここ何処? あっ耳の尖ったお姉さんの所だ!』
 十分に睡眠をとったようで、起きた瞬間からテンション全開なマルが、俺の右の脇の間に鼻先からずっぽりと頭を差し込んで来たので、脇を締めて首を押さえて下顎と上顎をまとめて左手で掴んだ。
『おはようマル。今は静かにするんだ。分かったか?』
『く~ん、分かったから放して』
 さすがに嫌がる。
『本当だな。いきなり吠えたりするんじゃないよ』
『本当に本当! 吠えないから、静かにするから』
 身をよじって嫌がるので、先ず手を放して顎を開放してやる。
「クォン?」
 手が離れたことで視界が開けたマルは目の前の子猫の姿に驚いたように鼻を鳴らす。
『何アレ? タカシ、アレ何?』
『雪猫という生き物の子でまだ名前は無い。だけど今日からあの子は家の家族だ……まだ父さんや母さんに許可貰ってないけど』
『家族? あの子家の子になるの?』
『父さんと母さんが許してくれればな』
『家族! 家族! ねぇ妹なの弟なの?』
「まだはっきり分からないけど、多分妹かな?」
『マルの妹なの! マルに妹が出来たの。可愛い妹が出来たの!』
 だからまだはっきりと分からないし、それに飼うのは父さんと母さんの許可が必要だから、まあ許可が貰えない場合は、こちらの世界限定で飼う事になるけど……というかスルーしかけたけど気になる発言が有ったよな?
『……涼もマルの妹じゃなかったのか?』
『スズも妹。大事な家族で妹。でもスズは余り可愛くない』
 マル容赦なし……俺は生まれた初めて妹を憐れと思って心の中で泣いた。

『白くてフワッフワで可愛い。マルこんな妹欲しかった』
 もう止めて涼が憐れすぎて心が涙で溺れそう。
『良いな、良いな』
 マルは一心不乱にミルクをピチャピチャと舐めている子猫の周りをうろうろしながら色んなアングルで眺めてうっとりとしている。
『ねえ。マルはこの子に何をしてあげれば良いの? マル何をして上げられるの?』
 低いアングルから眺めるのがお気に入りなのか下顎を床につけてお尻を高く上げて尻尾をブンブンと振りながら聞いてくる。
『とりあえず落ち着いて、この子がミルクを飲むのに集中出来るように静かにしてあげて』
『ごめん……分かった』
 マルは大人しくその場に伏せた。

 子猫が飲むのを止めてミルク皿から離れる。
『もう良い? この子と遊んでも良い? スリスリしたり、ペロペロしても良い?』
『駄目。まだゲップをさせてない』
『ゲップ?』
『そう。子供は人間も犬も猫もミルクを飲んだ後にゲップをさせてあげるの。マルも家に来る前の小さな頃はそうして貰ったの』
『へぇ~……憶えてない』
 そんな事を放しながら子供を抱き上げると、上体を起こした体勢にして背中を軽く叩いたり撫でたりを繰り返すと、可愛く舌を出しながら小さくゲップを漏らした。
 そのままミルク皿の傍の床の上に戻す。
『良いの? もう良いの?』
『駄目。ゲップをしたらお腹に余裕が出来てまだ飲むかもしれないから待つの』
『くぅ~ん……』
 言葉で意思を伝えないところが犬なのだ……可愛くて善し!

『よし、飲み終わったみたいだぞ』
『良いの? 本当に良いの?』
『良いけど、ぐいぐいと距離を詰めて怖がられるなよ。初対面で怖がられたら絶対に姉として敬愛されないからな』
『えぇぇぇぇっ? 駄目なの』
『この子は犬じゃなく猫だから、犬式の初対面から馴れ馴れしく行くのは厳禁だ』
『……ま、マル馴れ馴れしいの?』
 まるで自分のアイデンティティーを根本から否定されたかの様に大口を開けて愕然とする。
『基本的にマルは誰とでも仲良くなれる、自分は嫌われる訳が無いと根拠の無い自信満々で周囲に接するからな』
『………………』
 力なく垂れた尻尾以外完全に硬直するマル。題するなら「落ち込んだ犬」といった感じだ。
『それがマルの良い所でもあり、可愛い所だから余り気にするんじゃない』
『マル可愛い? 本当?』
『うん、マルは可愛いよ。とても良い子だよ。だから少し空気を読んだり、真面目に文字や言葉を勉強して欲しい』
『マル頑張る! 頑張るから誉めて!』
 チョロイ……その言葉を飲み込むと、マルの首を後ろと前から挟むように強めにさすってやると大喜びだ。やっぱりチョロイ。
『でもね。この子にはいつものマルのやり方は通じないんだ』
『どうして?』
『先ず、猫は仲間と群れて生活しないから、同じ猫同士でも一定の距離に簡単に近づけさせないんだよ』
『でも近所の猫達は空き地に集まっているよ』
『あれは人間が作った町の中で暮らすために、狭すぎる縄張りの中で互いに喧嘩しないように努力してるんだよ。だから互いにしつこく干渉しないとか目を合わせないとか色々ルールを作ってるんだよ。だからマルが「一緒に遊ぼう!」って突撃すると逃げられるだろ?』
『うん、逃げる。マル悲しいよ』
『それにあの子は、お母さんや兄弟を殺されてたった一匹になって悲しくて寂しくて心細いんだ。そんな時に自分よりずっと大きなマルが勢い良く近づいてきたら怖がると思わないか?』
『…………もしかしたらそういう事も有るかもしれない?』
 おい、全く分かってねえだろう!
『だから少し距離をおいて、子猫から近づいてくるのを待つんだよ』
『分かった。マルずっと見守るよ!』


『ズルイ! ズルイよ! タカシズルイよ!』
 マルが俺の周りを駆け回りながら訴えかける。
 どういうことかというと、ミルクを飲み終えて満足した子猫は俺に近寄ってきて甘えるように鳴くので、片手で拾い上げて手ごと胸元に寄せると、襟元から中に潜り込んで、お腹の辺りで丸くなって寝てしまったのだ。
『服の中に入ったら見守る事も出来ない! タカシひどい自分ばかり!』
 そんな事いわれても、一匹になってしまったこの子が、最初に頼ったのは俺なんだから俺に懐いても当たり前だし。
『分かった。分かったから。マルお座り!』
 この手の命令には機械的ともいえる反応速度で従ってしまう。
『丸くなって寝て』
「ハゥン?」
 不思議そうにしながらもやはり従うマル。
 俺はお腹の子猫を服の上から右手で包み込むように優しく押さえると、左手でウエスト部分を締めている紐を解いて、服の下に手を入れて子猫を取り出した。
 子猫の姿に思わず立ち上がろうとするマルを静止する。
『頭と首の横に少し間を空けて、そこにこの子を入れるから』
 俺の言葉に、耳をピンと立てて尻尾をパタパタと振りながら頭、首、お腹、後ろ足で囲まれたドーナツの穴の部分を少し広げる。
『俺が帰ってくるまで、この子をそこに入れてずっと見守ってあげるんだぞ』
『見守るよ! この子が起きるまでずっと見守るよ!』
『オシッコとかは大丈夫か? 何時間もじっとしてるんだよ』
『大丈夫だよ3日くらいなら我慢する!』
 そんなに我慢するなよ。
『……そ、そうかそれならこの子と一緒に留守番を頼むな』
『うん、留守番するこの子と一緒に良い子で留守番するよ!』
 あんなに俺と一緒に居たがっていたのに本当に現金だ。キャッシュだよ! キャシュマルと呼ぶぞ!

 ちなみにそれから【所持アイテム】内から前回のコカトリスの肉を取り出して調理して貰い昼食としたので、かなり長い昼休みとなってしまった。
『タカシ。マルも食べたい!』
『じっと我慢してるんじゃなかったの?』
 大体、普段のマルの食事は朝と夕方で、昼飯を食わせていないから。
『食べたいよう~』
『それにマルは今日ずっと寝てただけだから』
 そう、寝てたから朝飯も食ってないのでお腹自体は減ってきてるだろうが、今日はこの後も眠る子猫のお守りなので身体を動かす予定は無いからな……
『…………』
 無言で悲しそうにじっとこちらを見るマルに、思わず【所持アイテム】内から取り出したオーク肉の串焼きをマルの鼻先に置いてしまうのを、ミーアは見ていた……その目が「駄目飼い主!」と詰っているような気がしたのは、単なる俺の被害妄想……ではないと思う。


 午前中の成果であるミノタウロス4体とコカトリス19体を引渡して、マルと子猫の事を頼むと俺は狩りを続行するために店を出た。
 出た先は先ほどつないで貰ったミノタウロスの巣である洞窟近くの森の中で、少しは慣れたところには子猫の家族の墓標代わりの大木と目印の足場岩があった。
 何か意味があるわけでもないが自然に手を合わせてしまう。
「あの子は俺の家族になった。俺とあの子のどちらが……いや共に死すとも家族である事は変わらない。貴方達とあの子が今も家族であるように」
 ……何を言ってるんだ俺は? 自分の中に厨二病以外にもやっかいな魔物が潜んでいた事に驚く。

 狩りを続けながら移動しているとワイバーンの群れに遭遇した。
 経験値的にはオーガーの2倍程度と悪くは無い相手なのだが、少なくともオーガの5倍程度は厄介な上に個体数はそれほど多くないので狙って狩ろうとした事は無い。それに今は【所持アイテム】の容量をクラーケンに備えて空けておきたいので多少回りこんで回避しようとしたのだが、向こうから寄ってきた。
 龍の下のカテゴリーである竜の一種に過ぎないワイバーンだが、それでも空では頂点に立つ種族の1つ。勝手に空を飛ぶものは許さないとでも思っているのだろうか? だとするならせめてグリフォンに勝てるようになってから言えよ。

 売られた喧嘩は、値札を財布の中身と相談して買うんだよ!
 ちなみにお前等の喧嘩の値札は毎日が半額だ! ……それって公正取引委員会から是正指導が入るだろう。
 などと戯言を考えている内にワイバーンは距離を詰めてきた。戦意高揚、意気軒昂。喧嘩を売る相手を間違った事も含めて結構な事じゃないか。

 俺は左側から迫ってくるワイバーンに対して、緩やかに弧を描きながら左側へと進路を変える事でワイバーンの左側面へと回り込もうとする。
 そうなれば互いに相手の左側をとろうとして、より深い角度で回頭する事で空戦において何よりも貴重である速度を失っていく。補助的にとはいえ翼を使っているワイバーンだけが。
 優速を得た俺は総勢11体のワイバーンの最左翼に食らいつくとその翼を一撃で斬りおとす。強力な武器である毒牙を持つ尾の一撃も虚しく空を切り、甲高い鳴き声を上げながら堕ちて行く。
 その叫びはまるで始まりを告げるサイレンの様だった……結局、全部を叩き落すまで鳴り響いたけど。

 片翼を斬り飛ばされ飛行能力を奪われて落ちたといえども、ワイバーンにとって翼はあくまでも補助的な存在であり、俺の浮遊/飛行魔法と似た能力を持って生まれてきた奴等にとっては傷1つ負わずに軟着陸することなど容易いことだった。
 だがそれは幸いではなく災いの類である。ワイバーン達は空を飛ぶ能力によって地上の生き物に対して天空の覇者として君臨してきた。その立場が逆しまとなって自らに襲い掛かる。
 奴等は空で死ねなかったことを後悔するのだ……俺の厨二マインド溢れる勝手な妄想だけど。
 実際は後悔する間もないほどあっさり迅速に全て首を刎ねて収納した訳だが……ミーアはワイバーンは高い需要があると言っていたが、これほどの数を買い取ってくれるだろうか?


 想定外の戦いを経て、更に5体のミノタウロスと18対のコカトリスという成果を得てエスロッレコートインに到着した。
 夢世界始めての海は現実世界の海と同じ潮の匂いがする。S県には海が無いのでバリバリのS県民である俺は海を見ると無性にテンションが上がる。
 そもそも俺が伝説級の魔物の中で真っ先に倒す相手としてクラーケンを選択したのは、戦いの場が海であったからに他ならない。
 そのまま街の上空を通過して海に出る。
 小さく波打つ海面に踊る太陽の照り返し、海だ。これこそが海なんだ! などと海無し県の住人が海を語る……
「良いじゃないか! 海を当たり前に感じているような罰当たり共に海の何が分かる! 本当に海の有難味が分る我々にこそ海を語る資格があるのだ!」
 などと無茶苦茶な事を叫びながら海面近くまで一気に高度を下げていく。
 足元の装備を収納し、足の指先を海面に浸けながら水面ギリギリを飛ぶと後ろに水飛沫が舞う。【迷彩】で姿を隠している俺は良いが、その水飛沫に近くで舟で漁をしている漁民が驚いた様子でこちらを見ている……1つの都市伝説の誕生の瞬間である!
 更に【操水】で自分の前方の海水を左右に除けながら海面下へと潜って行く。
 最高だ! 俺は今海の中を自由に飛び回っているんだ……って岩は除けられねぇ!
「ぐぁっ!」
 周辺マップどころか前さえ見ずに左右の水面から見える海の中の景色に夢中になっていた俺は、前方に迫る岩礁に気付いた時には避けるタイミングを完全に逃していて、200km/hオーバーの速度で両膝を岩肌に叩き付け、バランスを崩してぶっ飛び【操水】も浮遊/飛行魔法も糞も無く海水の中に突っ込んだ。
 これは膝は完全に砕けたな……そう思って 恐々手を伸ばして触れてみると、確かに打ち身の鈍痛は感じるが想像した様な痛みは襲ってこない。
 ん? ステータスメニューを開いて【現在の体調】から【傷病情報】の【怪我】をチェックしてみると膝は打撲となっており砕けるどころか骨折もしてなかった。
 一体、俺は何処に向かって進んでいるのだろう?

 水を蹴って泳ぎ海面まで辿り着く。
「何だこれは?」
 周囲には大小、数十、いや軽く3桁に及ぶ魚が浮いていてかなり不気味だ。しかもまだ海面下からどんどん浮いて来て、あきらかに根の魚ではなく大きな回遊魚の類まで浮き上がってピクピクと痙攣する様は地獄のようですらある。
「……まさかガッチン漁って奴なのか?」
 岩礁にには数多くの海の生物が集まる。海草やイソギンチャク、そして貝の類。そこには小さな魚達が集まり、それらを捕食する大型の魚達も集まり1つの生態系を作り上げる。
 つまり、1つの生態系を根こそぎ刈り取ってしまった可能性がある。
 今俺が持つ大き過ぎる力は、望まなくてもふとした事で多くの命を奪ってしまう可能性があるという事だ。
 そんな反省をしながら、浮いている魚達をどんどんと収納していく。
 何も問題は無い「それはそれ、これはこれ」なのだ。折角獲れた獲物を逃す必要は無い。
 こちらの世界の海の幸も経験したいと思うのは人として当然の欲求だ。
 今までは流通手段の貧弱さから魚といえば川魚という選択しかなく、しかも調理方法のせいで泥臭くてとても食えたものじゃない。
 問題なのはこちらの世界の人間はその泥臭さを含めての魚料理だという認識を持ってしまっているので調理技術の問題ですらないということだ。
 分かるよ。俺も日本で唯一、一切の加熱処理をしない壜詰め牛乳を飲んだ事があるけど、紙パック特有の匂いや、加熱時にたんぱく質が変質したために発生する匂いも無いきわめて済んだその味わいは俺にとって「これは牛乳じゃない」だった。ちなみにそれは誉め言葉じゃない。
 だけど、この世界の人間がどうであれ、俺には泥臭い川魚は無理なんだ。魚自体が美味いかどうか以前の問題なんだ。
 だから今日、この世界の海の魚を俺は喰う! これは絶対に譲れない。

 とりあえず【所持アイテム】内のリストで、収納した魚をチェックして、毒持ちか不味いのかは知らないが食用に向かないと説明された魚はリリースしていく作業をしていると、面白い事に意外なほど現実世界の名前そのままの魚が多い事に気づく。
 ただし俺自身の魚の知識の薄さが原因だろう、特徴的な縦縞模様でイシダイっぽい魚も、マダイっぽい魚なども全て鯛と表示されている。
 正直、どいつも美味そうだ……いや、ここは無理に期待値を上げるべきではない平らな心で判断しなければ舌が曇る。テレビなどで持ち上げられた名店がいまいちに感じるのも全て上がり過ぎた期待値のせいだ。
 父さんも言っていた「誰かに勧められたわけでもないぶらりと立ち寄った店の飯が美味かった時の嬉しさは格別だ」と……余程ぶらりと立ち寄った店が地雷である可能性が高いのだろうと思ったものだ。
 だが、そうじゃないんだと……いや、そういう部分もあるだろうし、自分で発見したという喜びもあるだろう。だが過度な期待も無く、曇りの無い舌で味わうからこそ真っ直ぐ味が心に届く、そういうことにしておくのだ!


『お帰りタカシ!』
「ナ~ゥ」
 『道具屋 グラストの店』の入り口の扉をくぐると、子猫を従えたマルがやって来てお出迎えしてくれた。
 膝の辺りに自分の頭や顔を擦り付けてくるマルを真似るように、子猫がブーツにスリスリとしている……実に可愛い。
 咄嗟に『この子マルの真似をしているよ』と告げると、マルは視線を俺の足元に落とした瞬間全身の毛を逆立てて硬直した。
『か、可愛い! これマルの真似? マルの真似してるの? マル感激!』
『落ち着け。猫との関係は距離感が大事。自分からは余り距離を詰めない。向こうから甘えてきたら構う。そして寂しそうにしてたら寄り添うんだ』
 マルの首から背中にかけてポンポンと叩いたり撫でながら諭して落ち着かせる。
『危なかった。マルちょっと訳が分からなくなりかけた』
『本当に危なかったな。可愛いい可愛い! 大好き大好き! と前足であの子を抑え付けてベロベロ舐めて嫌われる場面しか想像出来なかった』
『ま、マル、そんな事しないよ……しないしない、した事も無いよ』
 ……俺の目を見て言えよ。

「お帰りなさいませリュー様」
 何事も無いように出迎えているようだが、ミーアも子猫の姿に見とれていたのだから、子猫の魅力恐るべしだ。
「早速ですが解体作業に入りますのでこちらへ……それから午前中の分は既に処理を終えて枝肉になっておりますのでお持ちいただけるようにしております」
 つまりミーアは、最低でも午前よりも多くの獲物を狩ってきたと予想している。そして午前より多かった分を何とか買い取れるよう交渉するつもりだ……相変わらず食えない女だ。
「じゃあ、午前の分と同じ数『だけ』卸そう。それで良いな?」
 ちなみに午前の狩りの成果はミノタウロス7体にコカトリス14体に対して、午後の成果はミノタウロス10体にコカトリス19体と少し多めに狩ってある。

「そんなぁ~、余りにもご無体です」
「無体も何も、それだけしか狩らなかったんだから仕方ないだろう」
「嘘です! リュー様は『同じ数だけ卸そう』と言いましたわ。絶対にもっと狩ってるはずです。きっと私が『数が多いので時間が掛かる』と言い出してどうにか多かった分を買い取ろうと交渉してくると思ってそんな事を言い出したんです……あっ」
 自分の発言に驚いたように目を見開き口元を手で隠す。
「と、つい俺に気を許して失敗した所を見せた事で、ポイントを稼ぎつつ済崩しに多い分を買い取ろうと思っているんだろう?」
 ミーアは目を逸らした……全くどいつもこいつも。

 解体作業部屋に入ると、ミノタウロス7体にコカトリス14体を【所持アイテム】から入り口付近の床の上に取り出した。
「まだ隣に十分スペースがありますから、遠慮なさらずにどうぞ」
 にこやかな笑顔で図々しい事を口にしやがる。段々と遠慮が無くなってきてないか?
 笑顔を無視すると、広い作業場の奥へと歩を進める。
「あの~リュー様? 龍の買取は暫くは──」
「安心しろ龍ではない」
 そう告げてから、次の瞬間に作業場の真ん中辺りにワイバーンの山を築いた。
「な、な、何ですかこれは!」
「ワイバーンだ。ついでに狩ってきた」
「……た、確かにワイバーンならば買い手も多いので、買取制限はありませんと言いましたが……こんなに沢山を『ついで』でなんて……」
 あの後、更に別の群れに出会って狩ったため最終的に数は24匹になった……今日狩ったのはな。【所持アイテム】内には他にもワイバーンは53体も入っていた。あんまり記憶が不明確なのだが確かに狩った記憶はあるのだが……どうせ何時もの忌々しいアレだ。
「龍ではないのだから買い取って貰えるだろうな?」
「も、勿論です……ワイバーンは龍に比べれば一般的な素材としてとても需要が高い魔物ですから……」
 そうとはいえ、本来なら街道付近などは定期的に軍が多くの犠牲を出しつつワイバーンやオーガなどの危険な魔物の駆除を行っているが、しかし軍の成果でもこれほど沢山のワイバーンが一度に狩られる事は無いそうだ。
「買い取って貰えるんだろうな?」
 合計77体のワイバーン。大吉とは言わないが吉くらいは幸運そうな数だ。さすがに全部買い取れと言うのは酷かなと思うが、【所持アイテム】の空き容量を増やすためには心を鬼にして売りさばかねばならないので強気に出てプレッシャーを与える。
「売りさばく事は出来ます。でも……これも仕入先は秘匿なんですよね?」
「無論!」
「そんなご無体なぁ~~っ!」
 悲鳴が上がった。


「それでは解体処理が始まるので、作業が終わるまでこちらへ」
 少し疲れた様子のミーアに促されて、彼女の居住スペースへと繋がる扉をくぐった……物理的に繋がっているのかどうかは知らないし、解体処理というのがどのように行われるのかも知らない……
 おや? 突込みが無い。いつもなら俺の心を読んで先回りして突っ込みをビシバシ入れてくるのに……そういえば最近は突っ込み自体が無いな。

「最近は俺の心を読まなくなったみたいだが、性根を改めて真人間になったのか?」
「……?」
 俺の正論に対して「何言ってるんだこいつ?」的な視線を投げつけてくる失礼なエロフ。
「何か言いたい事があるなら言えよ」
「嫌味ですか?」
「嫌味も何もお前が俺の心を読んでたのは事実だろ」
「今は読めませんから……どんな方法を取ったのかは存じかねますが」
 今は読めない? 俺は別に何か対策を立てたおぼえは無いが……平行世界での大幅なレベルアップがあった。マップ機能がバージョンアップした事でこの店の魔法障壁を無視して店内が表示可能域になったように、システムメニューがミーアの読心能力を弾いたとしても不思議は無いというかそれしか思い当たらない。
「読めなくなったのなら別に良いさ」
 まるで読心への何かの対策を練った上で確認したといわんばかりの態度で応じると、ミーアは悔しそうにこちらを睨む……そんな目付きすらも色っぽいとは本当に魔性だ。だが読心という武器を失った今、その脅威度は大幅に減少したと考えても良いだろう。

「美味しいものが食べられると聞いて!」
 いきなりドMエロフが登場した……こいつの存在をすっかり忘れていた。
「そんな事、誰にも話した覚えは無いわよ」
「姉さん。霊感が囁いたのですよ」
「そんなのがあるなら私がこの手で真っ二つに引き裂いてやるから出して見せなさい」
「い、嫌だな姉さん。そんなの出せるわけ無いじゃないの──」
「もしかしたら絞れば出てくるかもしれないじゃない」
「ね、姉さん……?」
 怖っ! 何をどう絞るんだよ?
 少食ゆえにエルフ社会から去らねばならなかったはずなのに、この食に対する強い執着……エルフの業の深さの一端を思い知ったような気がするというよりも、普通のエルフってどれだけ食うのか怖くなってきたよ。

 肉料理は全て女性陣に任せて、俺は手に入れた魚の中からシステムメニュがマグロと表記する魚を取り出す。
 マグロと言っても全長1.2m程度の小ぶりだが、今までに自分でおろした魚のサイズはイナダ・ワラサが上限で1mの大台を超えるのは初めてだ。
 表面にはひれの周辺などに僅かに鱗の手触りがあるが体表の殆どは分厚い皮に覆われているだけだ。
 マグロは暴れると激しい運動により筋肉が発熱して一気に身が焼けて劣化するといわれているので、失神状態が解ける前に一気に頭を落す。
 胸鰭の裏から頭の方へと斜めに一気に包丁を走らせる。そして太くて硬い背骨に当たった所で、手首を内側に返しながら刃先で静かに背骨の表面を撫でて背骨の節を探る。
 如何にミーア愛用の魔法的出刃包丁といえどもこのサイズの魚の背骨を断つのは荷が重い。だから背骨の継ぎ目である表面の凸凹の凸の節に刃を当てて力を入れるとスッと入っていく。それと同時にブルブルっと全身を震わせてマグロは絶命した。
 昔はこの感覚が苦手だった。北海道で海釣りをして釣ってきて捌く時に、まだ生きているカレイの首を切り落とす時には眼を瞑って一気に切り落としたものだったが、空手部に入って合宿で罠で捕まえたウサギを自分の手で締めるという経験をした後はそんな感傷は俺の中からいなくなっていた。
 次に腹を割いて内臓を抜く。本当なら順番が逆だが調理段階でまだ生きているマグロをまな板の上にのせるのが間違っているのだから仕方が無い。
 下っ腹の肛門部分から刃先を入れて手前に救い上げるようにしながら真っ直ぐ頭の方へと、硬い皮にショリショリと音を立てさせながら包丁が走る。
 内臓は心臓以外はそのまま収納して後日アラ汁にでも……誰かにして貰おう。今日の料理は刺身だ。腸を綺麗に洗って茹でて酢味噌和えにするとかそんな無謀な事はしない。

 俺が加熱や調味などを施すと何故か不味くなる。はっきり言って自分でもゲロマズだ。
 料理において塩梅という言葉がある。塩加減などの調味に関する言葉だが、いつの間にか按配と意味が交じり合ってしまったが、料理における味加減には美味さの絶頂ともいうべきそれ以上足す事も、そこから引く事も出来ない完璧なポイントがあるはずだ。親指と人差し指の先で一つまみしただけの塩を加えただけで崩れてしまうような。
 一方、俺は負の味の絶頂を引き出す名人なのかもしれない。
 塩を入れすぎてしょっぱ過ぎて食べられたものじゃないなんて素人さんがやる一般的な間違いではなく、負の絶頂は正の絶頂の付近にこそ隠れている。
 そう塩にして小さじ一杯以内の差で存在するのだ。僅かな差で食材の味を台無しにするだけではなく、食材が持つネガティブな味わいを全開で引き出してしまう呪われし味のバミューダー海域が確かにあるのだ。
 僅かに加減を違えば単なるマズ飯で済むはずなのに、そこを味見もせずにピンポイントで引き当てる才能が俺にはあるのだ。
 だから今は刺身以外に料理はしない。完璧におろした魚を一口大に適当に切って並べて、味付けは醤油とわさびでお好みで食べる人間がすれば良い。
 つまり世界で刺身だけが、卵賭けご飯やカップラーメンすらも不味く作るという都市伝説を持つ俺がまともに作る事の出来る料理だ……自分で言ってて死にたくなる。

 新鮮でプリプリとした弾力のある内臓をひきずりだして、腹腔内を【水球】を高速回転させて血の汚れを洗い流す。結構面倒な作業なはずだが締めたての新鮮さゆえに血管内の血が凝固していないのと魔術を使うことで簡単に済んでありがたい。
 首もとの方から尻尾へと向けて背側から背鰭と背骨に沿って包丁を入れていき、先ずは二枚に、そして身をひっくり返して三枚におろす。
 次に、脂の乗ったハラスの場所にある人間の肋骨にあたる長い骨を、その下に包丁を入れて身ごと削ぎ取り、更に背と腹の境目に横に入った骨は、骨の左右に包丁を入れて、これも周囲の身ごと削ぎ取れば、イナダやワラサなら作業はほぼ終了だが、マグロには血合いがある。
 話には聞いていたが尾の方に集中してどす黒い身が背骨周辺に広く分布している。そして血合いの部分は想像以上に大きかった。
 血合いは最も激しく運動する筋肉の部分でそこに血液も集中するために栄養分が豊富な健康食材といわれるが調理しなければ食べられるものではないので収納。
 後は4分割されたパーツを一口大に切り分けていくのだが、人がそのまま口に入れる大きさと形状というのを意識して綺麗に切ろうとすると何故か失敗するのだ……これって呪いの類だよな?
 だから敢えて大きさがバラバラになるように『適当』に切る必要がある。

「……完成だ」
 俺の呟きに、エロフ姉妹から異論が上がる。
「ご主人様御乱心! ご主人様御乱心!」
「この状態に効く薬は……この状態?」
 ……異論ですらなく普通に頭のおかしい人扱いだった。

「生の魚とは想像以上……いえ想像した事もありませんでしたが美味しいものですね」
 わさび醤油で刺身を食べながら賞賛を口にするミーア。
 ちなみにわさび醤油なのは、手本である俺が小皿に醤油を適当に入れて、小皿の縁にわさびをチューブから搾って、醤油に溶いて、箸で摘んだ刺身をわさび醤油に付けて口に運ぶという作業を全て目を瞑って行う必要があるから。
 目分量で、俺が「良い」と思ったわさびの量や刺身に付けるわさび醤油の量が味の負の味の絶頂を捉えてしまうのだ。
 以前はわさびを刺身に目分量で載せるのが危険なだけだった。目を瞑って適当な量のわさびを醤油に溶いておけば、後は目を開けて刺身をわさび醤油に付けて食べればよかった。
 だが意識すれば刺身についたわさび醤油の量が分かってしまうのが今の俺だった。

「魚の僅かな生臭さをも、この醤油とわさびが見事に打ち消して、経験した事の無い食感と美味を舌の上にもたらす」
 そうだな刺身や寿司で食べる生の魚に近い食感は無いだろう。そして何よりやはりこの世界の食材は魚も美味い。美味さの次元が違う。心臓の刺身にいたっては心が震えた。

 食事は全ての料理を食い尽くしたところで終わりを告げたが俺を含めて3人とも無言だ。俺は感慨に言葉が無くミーアは至福の表情を浮かべ、ドMは鍋の底まで確認して残り物が無いか確認している……とことんまでエルフという種族に対する憧憬を破壊しつくしてくれる奴だ。

「もしもっと早くリュー様に出会っていれば、私達姉妹はエルフとしての道を外れる事は無かったかもしれませんね」
「……どういう意味だ?」
「私達は子供の頃、食べるという事に喜びを持てませんでした……母の料理がとても……美味しくなかったのです」
 飯マズ故の悲劇か……悲しいな。飯マズは……
「その為に、すっかり少食が身に付いてしまった私達は精霊術を満足に使いこなす体力が無く、アエラよりも特に少食な私はエルフの里にいることが出来なくなりました」
 特に少食って、お前は俺の1.5倍位は食ったよな? 食い盛りの中学生で、しかもバリバリの体育会系で、更にレベルアップで消費カロリーが増大し食うことを宿命付けられた俺が限界まで詰め込んだ1.5倍の量をな!
 何か悲劇のように語ってるけど十分喜劇だし、それにエルフの食欲はホラーですらあるわ。

「それなら、俺が渡した調味料を使った料理で食欲が出た今ならば精霊術とやらも使いこなせるんじゃないか?」
「いいえ、この程度では無理です。初級の術を一度使っただけで空腹と貧血で倒れる事になります」
「…………」
 どれだけ燃費が悪いんだよ? むしろ、良くもまあそんな使い勝手の悪い力に頼ろうと思ったものだと呆れて言葉が出ない。
「私だって精々、初級の術は2、3度。中級の術なら一度で倒れることになる」
 俺の3倍以上は食べたドMが言うと説得力あるわ。どんな力を持った術かは知らないが知りたくも無くなった。

「姉さん、この調味料などが里に持ち込んだなら精霊術は飛躍的に強力なものへと──」
「駄目よ。これらの調味料は『私』が個人的に使うためにリュー様が御用立てて下されたモノだから」
「私が個人的に? 姉さん、私は?」
「貴女は私の妹よだから……」
「姉さん!」
 ミーアは、自分の言葉に感動し目を潤ませる妹に冷たく続きを告げる。
「私じゃないわね」
「……姉さん酷い」
 本当に酷いな。

「ご主人様! どうか私にも──」
「持ち合わせが無いな」
「つ、次に入手できる機会は?」
「さあ、何時になることやら?」
「で、では入手出来たならば私に──」
「目処も立たないな」
 正直、このところ色々と買い込むものが多かったので俺の貯まるばかりだった預金額も大きく減少している。政府から出た見舞金代わりの口止め料から一部が預金に回されたが、その殆どは俺名義の定期にされたが通帳自体は母さん預かりになっているので、早々調味料を大量に買い込むわけにもいかない。
 やはり現実世界でまとまった現金を手に入れる方法を見つけるのは急務だな。
「そんなぁ~、このところのご主人様の放置プレイにもちゃんと耐えたのにご褒美が無いなんて~、幾らご褒美がないのが最大のご褒美といわれるこの業界においても過酷過ぎます」
 ……一体、どういう業界に身をやつしてるのか知らないが俺は無関係だ。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今回も更新は一ヶ月オーバー……
今回も言い訳はあるんです。
現実世界編でまたまた勢いだけでイベントを前倒しで投入しようとしたら、先に進みすぎて色んなイベントが吹っ飛ぶ事に気付いた上に、あまり展開が面白くない事に気付いて大幅に書き直したせいです。

コンセプトである「結末を用意せずに、行き当たりばったりで何処まで続けられるか?」が、そろそろネックとなってきており、物語をたたむ段階に入った方が良いのかなと思うけど、現時点でも広げた風呂敷をたたむのも大変で「帰還不能限界点を越えてない?」と思う始末。

こんなに長くなるとは思ってなかった(精々50万文字も続けたら「おいおい長編大作じゃねぇか、スゲェな俺」の予定)し、そろそろ別の話も書きたいし、別サイトで放置中のSF(続きや設定だけじゃなくIDやパスワードを全て吹っ飛ばして、そもそも投稿すら出来ない)の続きもどうにかしたいと思うが、とりあえずこの作品を終わらせるしかないんだよな……

などと愚痴をこぼした所で最後に何時ものご挨拶。来月中にまたお会いできたら幸いです。



[39807] 第93話
Name: TKZ◆504ce643 ID:545410f3
Date: 2015/11/17 19:30
 朝起きて、真っ先にマルを取り出す。

『う~ん朝? ……朝! おはようタカシ!』
 夢世界の方でじっくり寝たので朝から元気一杯だ。
『おはようマル』
『おはよう! お母さんにも挨拶してくる! ……』
 そう言った後、何か忘れ物を探すように部屋の中をきょろきょろと見回す。
『タカシ。ネコちゃんいない!』
 うろたえた様子で訴えてくる。
『まだ外に出してないからな』
『出して。ネコちゃん外に出して!』
『駄目。テスト期間が終わるまで、あの子の事は家族には内緒にしておくし、出すのはあちらの世界でだけ』
 俺自身がどうかとかは関係なく、テスト期間中に突然野良猫の赤ちゃんを連れてきて「飼いたい」と言い出した息子に両親がどれほど心を傷めるかと思えば、そんなことは出来ないだろうと思う程度の常識はある。
『えぇぇぇ!』
『叫んでも無駄』
『お母さんにもネコちゃん見せてあげたかった。そうしたらお母さん喜ぶ。凄い喜ぶ。お母さんの喜ぶ顔が見たいの。タカシは見たくないの?』
 マルめ、高度(笑)なレトリックを用いるようになったじゃないか、これもレベルアップによる知能チートの効果なのだろう。
『マルがお母さんとも話したいって言い出しただろ。それをするために皆と話し合うからその時に、あの子のお披露目もいっしょにするから待ちなさい』
『う~待つってどれくらい?』
『今週中。3日か4日くらいだな』
『そんなに?』
 顔には絶望の2文字が刻まれている……犬なのに。
『どうせあっちに行ったら会えるんだから、こっちでは母さんに甘えてなさい』
『お母さん! そうだお母さんにおはようしてこないと』
 レバー式のノブをガチャガチャと引っ張ってドアを開けると、廊下の床をカチャカチャと爪で鳴らしながらリビングへと走って行く。
『兄貴が起きちゃうから静かに』
『は~い!』
 返事だけは良いんだが、1階からはリビングのドアノブがガチャガチャと鳴る音がする……返事すらしてくれない誰かに比べたらずっとましだなと許す気持ちになってしまう自分が悲しい。


 中間試験の初日は英・国・理の3教科だが、俺は空手部の3年生達と香籐に対して『手加減せずに全教科満点を叩き出せ』と檄を飛ばしている。
 昨日の件で、俺はこの学校の教師達の首根っこを押さえることに決めた。
 お前達の授業なんて受けなくても満点を取れるんだぞと言う挑発。そうなれば奴等は自分達の面子を守るために満点を取った俺達6人へカンニング疑惑を被せてくるだろう。
 だが当然の事ながら、証拠は無いのだから俺達に濡れ衣(?)を着せる事になる……英語ではカンニングもチートと呼ぶんだよなぁ、レベルアップによる知能向上は間違いなくチートだからな。
 ついでに浮気もチート。正規の方法以外で目的を達成する『ズル』は全てチート。つまりこの世の悪の殆どはチートなんだ……
 と、ともかくだ、例え俺達がチートだとしても証拠も無しに生徒に罪を着せるのチート行為だ。どちらもチートなら証明出来ないチートよりも証明出来るチート行為から責められるのは当然……当然なんだ!
 教師達がどんな方法で来るかは分からないが、手ぐすね引いて楽しみに待とうじゃないか。
「高城。キモ笑いしてないで英語の山を教えろよぉ~教えろよぉ~!」
 ……前田ぇ~。
「無駄にでかいフォントで書かれた僅か教科書10数ページの範囲が山だ馬鹿野郎! 誰がキモ笑いだ馬鹿野郎!」
「ば、馬鹿野郎二連荘!?」
「ノートを開け、板書した構文例などは必ず出ると思ってこの場で頭に叩き込め。それだけでお前なら点数が15点は違ってくる。70点を85点にするのは難しいが45点を60点にするのは要領を抑えれば短時間でも可能だ。要は普通に授業を受けていれば誰でも60点前後は取れる様に問題は作られてるんだからな」
「さ、35点が50点……」
 お、お前中学3年生だぞ、受験を控えてるんだぞ?
「……ま、まあ何だ……それはそれとして早くノートを確認して頭に叩き込め」
「……ノート持って来てない」
「舐めてるのかこの野郎。死ね! 今すぐ死ね!」
 怒りに任せてアイアンクローをかます。俺は前田の頭が破裂しないように手加減をする自信が無い。

「お前のノートを貸せ、早く貸さないと手遅れになるぞ!」
 前田は力では振り払えないとみると、「ぺっぺっ!」と唾を吐きかけてアイアンクローから逃れると図々しくも要求してくる。だがな……
「馬鹿め、俺はノートどころか教科書すら持ってきてない」
 カバンの中には筆記用具しか入ってないわ!
「舐めてるのはお前だろう! この馬鹿、バ~カ!」
「試験範囲の内容など、既に俺の頭の中に全て叩き込んである。今更、直前になってドタバタするなど滑稽以外何者でもないわ!」
 クラス全員を敵に回した。
「一体なんだ、その根拠の無い自信は? まさか頭の病気か! ……や、止めろ頭がミシミシとぅ!」
 再びアイアンクローを先ほどよりも強く極める。
「俺達空手部の部員は、朝晩のシゴキによって家で予習復習出来る時間は限られている。どう都合つけても1時間取れれば御の字。そんな環境ですら好成績を維持する事を要求されてきた。だが大島がいなくなった今。俺達の学習時間は大幅に増えたのだ。それがどういう事か理解出来るか?」
「……それは良い点数が取れる様になるんじゃないのか?」
「甘いな、満点を取る。全教科満点を俺達空手部3年生5人は達成するんだよ!」
「……ね、寝言は寝て言え」
「賭けるか?」
「金か?」
「俺が全教科満点を取ったらお前は俺達の練習に1週間参加する」
「そんなの死ぬわ!」
「寝言なんだろ? さっさと俺が全教科満点を取れなかった時の条件を言えよ」
「どんなに確率が低くても自分の命を賭けてまで欲しいものなんて無い!」
 正論だ。この小心でリスクを犯さない所が俺と前田の気が合う部分なのだろう。
 前田の教科書を手に、テスト範囲の英文を口頭で訳して話の流れを憶えさせる。
 平均点60点のテストで30点台しか取れないのには理由がある。相手が余程の馬鹿以外なら、学校でも家でも学習するという態度をとってこなかった故だと判断せざるを得ない。
 その手の人間には、先ずはどんな内容について出題されるかを理解させるしかない。
「良いか、長文問題が出たら今の内容と照らし合わせて解け。それから長文問題はもう1つ、教科書からの抜粋ではない短めの出題者オリジナルが出題されるが過去数年間は3つの問題をローテーションで使い回しなので、この3つの文章の内容を今から言うから憶えておけ──」
 ローテーションのパターンから予測される、今回のテストで使用される長文問題を特定しなかっただけ手抜き教師どもにはこの配慮に感謝して貰いたい。


「隆。テストの出来はどうだったの?」
 帰宅早々に予想通りの質問をされる。ウンザリすると思う奴もいるだろうが、むしろ親がまだ自分に関心を持ってくれていると思うべきだろう。
「ばっちりだよ。満点を取れないと思う要素が無い」
 自分で言っておきながら何ていう不安な言葉だろう……これ英語のテストの後に前田が言ったまんまの台詞だから。
「隆がそういうなら安心ね」
 冗談交じりで受け取った母さんが笑顔で応じてくれた……しかし、この時はまだ、冗談では済まない事を史緒は知るよしも無かったのです。

『タカシお帰り!』
 興奮したマルが俺の開いた左右の脚の間を8の字の形にグルグルと回りながら話しかけてくる。
「ただいまマル」
 声に出して返事をすると一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに意味が理解出来たようで嬉しそうに「ワン!」と応えた。
『今日はねお母さんと一緒にお昼寝したよ。日差しがぽかぽかして気持ち良かったよ』
『そうか……』
 今の時点で12時を少し越えたところなのに、もう昼寝を終えたとは? そんな疑問を抱きながらマルの頭を撫でてやりながらリビングに向かい、マルにズボンを毛だらけにされながら昼飯を食べた……抜け毛、埃取りにはぱ○ぱ○ローラーマジ最強だわ。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 エスロッレコートインの朝は早い。
 町の東側が海に面しているために日の出が早い──地球と同じ自転方向という事になるのだが余り気にしていない。気にしたら負けだ──だけではなく、貿易港かつ漁港でもあるので、夜明け前から人々が動いていた事を感じさせる賑やかな声が閉じられた窓の外から聞こえてくる。
 ベッドを降りて窓を開け放つと、窓の向こうには既に太陽は昇ってしまっていて、少し高台の宿の2階から眺める俺の視線よりも僅かだが上に居る。
 太陽の日差しを浴び体内時計はリセットして眠気も吹き飛ばすと、着替えと僅かな保存食を詰めたカモフラージュ用の背嚢──【収納アイテム】内に全て入れて持ち運べるとはいえ、荷物1つ持たずに旅をしていますと強弁するほど神経は太くない──を肩に引っ掛けると部屋を出た。

『タカシ。これ楽しい!』
 マルと一緒に森の中を木の幹を蹴りつけながら跳躍し移動する。
 階段の上りは平気でも下りは苦手な犬が多いの事でも分かるが、犬は高い場所は好きだが、不安定な高い場所は余り好きではないという人間に似た性質を持つ。
 高い所なら足場とか気にせずにぐいぐい登っていく猫や山羊などとは違う。
 なので最初はマルは尻尾を巻いていたのだが、俺が目の前で何度もやってみせるとすぐに真似をして習得した。
 散歩がてらに1時間ほど森の中を追いかけっこして適当にマルを疲れさせてストレスを解消させる。
『そこでだ。マル』
『何?』
『今のやったことの上級編をやるからちゃんと見てて』
 そう言ってから、その場で大きく真上へと跳躍し、途中で足元に足場岩を出してそれを踏み台にして、周囲の木々よりも高く跳躍した。
『凄い! 凄いよタカシ!』
 着地した俺にマルが駆け寄ってきて、周りを駆け巡ってはしゃぐ。
『これはマルにも出来るよ』
『本当? マルもやりたいよ!』
『じゃあこれを受け取って』
 俺は【所持アイテム】内から足場用の岩を3個ほどをシステムメニュー経由でマルの【所持アイテム】と送る。
『これ何? マルどうすれば良いの?』
『受け取るって強く思って』
『うん、分かった。マルやってみるよ』
 無事に受け渡しが終了したのを確認する。
『よし偉いぞマル。次はね、今受け取ったものを取り出すんだ』
『タカシが何を言ってるのか良く分からない』
 そうか物を取り出すって感覚が無いのか……犬だものな。
『だったらよく見てて』
 そう言って、マルから少しはなれると右腕を横へと伸ばして手のひらを地面に垂直に立てた状態で、手のひらの先へと足場岩を取り出す。
『これさっきもタカシ空中で出して、蹴って跳んでた奴だ!』
『そうだよ。これを空中で出したり仕舞ったりする事で空を自由に移動出来るんだ』
『どうやって出すの? どうやって仕舞うの?』
 取り敢えずは収納だが、取り出すという感覚が無いのだから仕舞うという感覚も無いだろう。屋内飼いのマルは地面に穴を掘って隠す修正も無いし、きちんと躾けられているのでお気に入りの物をどこかに隠す癖も無い。ついでに言えば自分の玩具を自主的に片付けるほど賢くも無かったからな。

『そうだな……例えばだけど、この袋の中には干し肉が入っている』
 カモフラージュ用の背嚢をマルの前に置く。
『マルお腹すいた! ご飯食べたいよ』
 ……食欲が先立ってきたか。
『じゃあ、この中から干し肉を探し出──』
 俺が言い終わるのを待たずにマルは背嚢の中に頭を突っ込むと干し肉が入った巾着状の小袋を取り出した。
『食べて良い? 食べて良い?』
『先ずはそれをこっちに寄越して』
『くぅ~ん……』
 悲しそうな目をして差し出した俺の手の上に小袋を落す。
『今、マルがこれを袋の中から探し出して口にくわえて袋から出したのが、取り出すって事だよ』
『……』
 マルはお座りの姿勢で無言で首を縦に大きく振る。もう待ちきれないといった様子だ。
 小袋の口を開いて中に手を突っ込んで星肉を取り出す。これもオークの肉なのだが味付けも無くカラカラに干してあるだけなので正直美味くは無い。
 マルは星肉が見えた瞬間、腰を上げる。
『待て!』
「キュ~ン」
『今の俺がやったことも取り出すって事だよ』
『……』
 ……駄目だ。もう聞いてないな。
 溜息1つと共に干し肉を半分に千切ってマルの前に置く。
『マルよし!』
 言い終わるか否かのタイミングでマルは干し肉に齧りつくと牙をむき出しにして硬い肉を噛み砕いていく……うん、野生の獣って感じだ。
 ついでにカリカリと水を与えてマルが食事を終えるのを待つ。

『マル満足!』
『満足じゃないよ。マルは何をしたかったんだい?』
『……! 忘れてた』
 分かっている。マルはどんなに頭が良くなったとしても人間ではなく犬だと。人間より野生に近い生き物として目の前の欲望に対して率直な態度をとるのは当然なのだ。だから叱ったり怒ったりは駄目なのだ、何が悪いのかマルには理解が出来ないのだから。勿論これは人間も同じだ理解出来ない理由で叱られて納得出来る者など居ない。
『マルは俺がしたみたいに空を自由に跳び回りたいんだよね?』
『そうだ! マルはタカシみたいに自由に跳び回りたいの』
『だったら勉強しようね……真剣に!』
『アレ~?』

 マルに【所持アイテム】への出し入れ、特に狙ったものを引き当てて取り出す事を教えるのには1時間ほど掛かった。
 それは頭に思い浮かべた物を『取り出す』と強い意志で願う事方法で、リストからアイテムを選んで取り出すという方法は無理だったが、足場として取り出すのにいちいちリストから選択するなんて方法は、俺のように開くと時間停止が働くオリジナルのシステムメニューを持つものにしか出来ないだろから良いのだが、本当に言葉や文字は覚えてもらわないと困る。
 だがマルは基本マイペースの暢気者の上に犬だから学習に対する集中力は前田にも劣るので長く時間が掛かりそうだ。
『何か馬鹿にされたような気がする』
『誰だ? 可愛いマルを馬鹿にしたのは?』
 こんな時だけ空気が読めるマルであった。
 ……ちなみにまだ足場岩の出し入れに難があって、自由に空中を駆けるというのは出来ていない。

 その後、グラストの店に行って朝飯を食ってマルと子猫を預けて、俺は単身クラーケンの生息地付近へと偵察に出ることにした。
「気をつけてくださいリュー様。もしもクラーケンの全長が212m級に達していたら即座に逃げてください。それは既にクラーケンではなくハイクラーケンと呼ばれる上位種に進化していてクラーケンとは完全に別の生き物です」
 ハイクラーケンの名前以上に引っかかったのは212mだ。そう言えば以前にも「大体21m」という中途半端な数字を聞いたことがあったな。その時はメートル法とは別の長さの基準があるので、そちらのキリの良い数字をメートルに換算すると21とキリの悪い数字になるだけだと納得した……納得したはずなんだが、何時何処で、どんな状況でなのかが思い出せない。つまり例のアレだ。
「……ハイクラーケンとクラーケンの具体的な違いは?」
「ハイクラーケンは、水古龍、レヴィアタン等と並ぶ海の支配種なのです。リュー様といえども戦うべき相手ではないと──」
「心配してくれてありがたいが、相手の実力も分からずに尻尾を巻くというのは性分じゃないんだ」
 勿論、相手との実力差に気付けば尻尾を巻くのはやぶさかではないが、そのためにも一当てして判断する材料を得る必要がある……俺が「具体的」と言ったのに返って来た答えからして、ミーアが知っているハイクラーケンに関する情報は伝え聞いたお話レベルと察したので仕方が無い。
「お役に立てず申し訳ありません」
「龍を超える大物の更なる上位種なんて本当の伝説クラスの存在だろう。簡単に情報が手に入るほどありふれていたら既に世界は滅んでるはずだ」
「ありふれてると言うほどではないですが、そこまで珍しいという訳でも……それに」
「それに?」
「支配種の上に超越種のク・リト──」
「言わせねぇよ!」
 とんでもない名前を挙げるな、そもそも口にすることを憚れ。大体、何故もっとメジャーな方の名前が出てこないんだ俺の翻訳機能は?
 とにかく今はっきりと分かった。この夢世界は想像以上に物騒だ。魔王・宇宙人・改造人間・魔人・破壊神の順でインフレしていく某作品の世界観のようで、オラ全くわくわくしてこねぇぞ!

 海岸線沿いに北上しながらクラーケンの海域を目指す。
 マップ上に大きな河、多分ポトセッド河とおぼしき地形が見えてくる。
 その河口一体の栄養分の高い海域にクラーケンが居るはず……嫌な予感がするのでセーブを実行しておく。

 全力で加速しつつ高度を上げ海上へと出ると、クラーケンの反応を待つために適当な間隔で足場岩を海へと投下しながら沖へと向かう。
 海岸線から3㎞程沖。14個目の岩を投下した直後に俺の直下に特大の赤シンボルが出現する。
「ハイクラーケンかよ」
 通常はゴブリンだろうがワイバーンだろうが同じ大きさのシンボルが使用されるのに対して、巨大なモンスターにのみ使用される対象のシルエットが使われる特別なシンボルはマップのグリッドから胴体だけで150mは越えているように見える。脚を入れたら300mを下回る事は無いだろう文句なしのハイクラーケンだ。
 心の中の3割程度がビビッていてキンタマ袋がキュッとなる。だか別の3割位がたまらなく興奮して股間の長モノ──そこそこはあるよ……ほ、本当、本当! ──へと熱い血潮が流れ込んでいく。残りの4割は何がどうなっているのか全く分からないグラグラと大鍋の中で無秩序に煮詰められているような感情が渦巻いていて胸が苦しいくらいだ。

 海面下から2本の黒く長い触手が矢のように飛び出して襲い掛かってくる。その狙いはかなりなもので上空300m以上を飛ぶ俺が2秒前に居た空間を正確に捉えていた。
「何で俺の位置を掴んでやがる?」
 とりあえず分かっている事は150mを越える胴体部分に300m以上伸びる触手で450mになり、普通の状態よりも伸びていると考えても400m級であろう。つまりハイクラーケンとして小型とは呼べないのは確かなんだ。

 最低限ハイクラーケンの奥の手の1つは引き出す。これが俺の今日のノルマだ。
 その為には、身体を張って奴を挑発してやらなければならない。胴体の一部を海面上に出したハイクラーケンへと足場岩を直撃させる。
 痛み、苛立ち、そして怒り。そんな感情を表現するかのようにハイクラーケンの体表は複雑なパターンで激しく色や模様を変えている。
 俺は船に乗ると必ず船尾デッキに行って、回転するスクリューが水面に作り出す、ランダムでありながら大きな枠組みの中で秩序だった模様を作り出し続ける様子を、時を忘れて見続ける習性がある俺だが、何故かハイクラーケンの作り出すそれは不快に感じた。
 そのまま触手の届く限界の高さギリギリを飛びながら2度3度と岩を叩きつけていると、懲りもせずに再び触手を伸ばして──いや、今までとは比較にならないほど速く、そして触手の届く限界を越えて襲い掛かってきた。
 触手ではなく触腕による攻撃。つまりこいつは単に巨大なタコというだけではなくイカの性質を持つという事だ。
「まさに奥の手って奴か」
 触腕の動きは浮遊/飛行魔法の機動性で避けられる速さではなく、咄嗟に足場岩を出して蹴って軌道を変える事でやり過ごしながら高度を取るが1000mを越えてなお平らになった先端の吸盤の中に鋭い爪状の刃を見せながら触手は追って来る。

 だがお陰で触腕は長さに取られて随分と細くなり先端部の付け根の部分でも5m以上は有った直径は2m程度になっている。
 斬れるか? そんな疑問が頭に浮かぶ。違う! 斬れるかではなく斬るのだ! ……そんな剣豪小説の主人公じみた事は考えない。俺の頭の中にはどうやったら確実、かつ簡単に切断してやれるかという考えしかない。
 斬れるかどうかなら間違いなく斬れない。直径2mはあろうかという柔軟にして強靭で噛めばコリコリとした食感を味あわせてくれるだろう美味しそうな筋肉の塊を、丈夫だが切れ味の方はいまいちな俺の剣で一振りで切断するのは不可能。
 ならば得意の装備した瞬間に相手に突き刺さってるという方法もあるが出現した空間に有ったものが周囲に押しやられるだけなので柔軟性の高いハイクラーケンの身体には穴が開いたという効果しか残らないだろう。
 あれ? そもそも切断したとしてもすぐに新しく生えてきて何のダメージも無いって気がしないでも無いな。
 ……いや良いんだ。挑発して奥の手を引き出すのが目的なんだ、ダメージ自体は大した事が無くても怒らせさえする事が出来れば良い。岩を落として当てた程度でもここまでしつこく攻撃して来るんだから、10本の足の中でも最も重要な触腕にダメージを与えれば、次の段階の攻撃が始まる──
「しまった!」
 次の段階の攻撃はもう既に始まっていた。晴れ渡っていたはずの空の俺の頭上に気付けば暗く重い雲が出来上がっていた。
 雲の中に雷光が走り、低い轟が空気を通して俺の臓腑を震わせ、ツンと鼻を突くオゾン臭が周囲を包む。

『ロード処理が終了しました』

 そうロード! 圧倒的ロード! どんな攻撃も時間を撒き戻してしまえば怖くない……ほ、本当。全然怖くなかったから。全然!
 とにかくだ、ハイクラーケンの奥の手の気候操作と雷を引き出すことは出来た。気候操作はまだ奥がありそうだが落雷は準備さえ出来れば差ほど怖くは無い。むしろ自分の身体で自分の雷を味合わせてやる……効くかどうかは知らんけどな。
 問題は雷だけで済めば良いのだが、それで済まないのが化け物達だ。どんな奥の手や隠し球を持っているか分からない。慎重に情報を集める必要があるが久しぶりの格上相手の命の懸かった戦いに俺も疲れ、もう一戦挑むという気力も無かった……既に龍を格下と決め付けている自分に驚く。普通に戦うなら十分格上なんだけど、レベルアップによる身体能力や魔力の向上以前に、そもそもシステムメニューがチート過ぎる。

 まだ昼にはかなり時間を残しているので、ポトセッド河を上流へと移動しながら先日同様、コカトリス・ミノタウロス・ワイバーンを狩っていく。
 そこに緊張感は無い。切り立った岩場で【大坑】を使いマルに上げた足場岩を補充するのと変わらない作業だった……またホラ吹かしました。そんな風に図太い精神力を持つ人間になりたいなぁ~という願望だ。


『タカシ! タカシ!』
「ナァ~!」
 俺の大事な癒し系、いやもはや癒し係とも言うべきマルと子猫が出迎えてくれる。
 仕事を終えて家に帰ると子供達が笑顔で迎えてくれる。父さんがほとんど味わった事が無いだろう至福を俺は14歳にして噛み締めているのだ……いや俺が憶えて無いだけで、まだ幼気盛りだった俺は「お父さんの帰りなさい」と可愛く玄関まで迎えに行っていたはずだ。
 きっと多分、憶えてないから分からないけど……まあ良い。悔やんだところでどのみち手遅れだ。今更俺がやったらなら家に帰ってこなくなるだろう。
 しゃがんでマルの首に腕を回して顎の下から首をくすぐってやりながら、もう一方の手で子猫を救い上げて頬ずりする。
 この2種類の感覚が俺の心を深く癒していく。野菜や海草をメインにしたグルタミン酸を多く含むスープと、肉や魚介から取ったイノシン酸の旨みスープを融合させる事で異なる旨味が脳内の受容体を2段構えで刺激してゆくダブルスープ状態だ。

「おかえりなさいませ」
「おかえりなさい。ご主人様」
 俺の癒し成分補給終了を待って声を掛けてくるとは中々の配慮じゃないか……この配慮がもう少し方向を変えて範囲を広げれば、俺からエロフと蔑まれることも無いだろうに。
「ああ、この子達の面倒を見てもらってありがとう」
「いえ、この子達に関しては何の面倒もありません。むしろ……」
 ほっこりした顔で視姦……いや、ギリギリ目で愛でているという事にしよう。
「そうだ。こんな商品を作ってみたんだけど」
 そう言って胸の無い方のエロフが銀細工のアクセサリーらしきものを差し出してきた。
 手にとって見てみるとマルと子猫をモチーフにしたブローチだった……おい、細かい所まで良く作りこんであるな!
 着色こそされてないが、日本のプライズフィギュアにも引けを取らない完成度だ。
「買う! 幾らだ?」
 そう言いながら、俺は近いうちに2匹の3Dデータを撮影し、いつか金を工面して3Dプリンターを購入してマルと子猫のフィギュアを幾つも作るんだと心に決めた。
「勿論、リュー様には進呈させていただきます。その代わりと言ってはなんなのですが、これを当店で商いたいと思うのですが許可を頂けないでしょうか?」
「構わない」
 即答だ。マルや子猫を可愛いと思う心は、独占欲もあるが決して独占欲だけではない。むしろ自慢したくてしたくて堪らないくらいだ!
「では、この子達の姿を使わせていただく御礼として売り上げの──」
「いや、それは必要ないのだが……そもそもこの店に客が来るのか?」
 はっきり言って流行っているようには見えない。何故なら自分以外にこの店に客が居るのを見たことが無い。
「幾らなんでも失礼ですわ! 当店は伝統ある老舗の人気店です」
「そんな事を言われても俺以外に客が居たためしがないだろ?」
「それは当店がお客様のプライバシーを守るために完全入れ替え制を取り入れているからです」
「だが俺は結構長居をしているはずだぞ。それじゃあ他の客が──」
「ご安心ください。当店の店舗は10店舗あり現在も他の9店舗で9組の他のお客様をご案内しておりますわ」
 知らなかった新事実……別に深い興味があったわけではないが、知らされるとインパクトのある事実だ。
「各店舗の責任者は?」
「私ですわ」
 久しぶりの魅力に溢れた余裕の笑顔……ドヤ顔だよ。
「それじゃあ、各店舗の責任者は?」
「勿論私ですわ」
 ウザイくらい満面の笑み。美人だけに濃すぎて胸焼けしそうで辛い。
「魔道具で姉さんの身代わりとなるパペットがお客の相手をしているんだよご主人様」
 そんな嫌な空気に、空気を読めない胸の無いエルフ──ちょっと昇格。未だかつてこいつの存在をありがたいと思ったことは無い──が割って入ってネタ晴らし。
 一方で胸の有るエロフの顔はドヤ顔のままに強張っている。
「……アエ──」
 良いところを邪魔されて怒気をこめて妹の名を呼びかけるが、今度は俺が割って入る。
「まあ客足が途絶えないというのなら、俺への分け前は要らないから、その分値段を下げて多くの客に売って、マルと子猫の可愛さをアピールしてやってくれ」
 妹に怒りをぶつけようとする姉の注意を引き付けて話をそらしてやる。俺がお前にしてやれるのはここまでだから後は自分で何とかするんだなと胸の裡で語りかける。どうせ後で姉から叱られるまではこいつは自分の失敗に気付かないだろう……まあ仕方が無い。
「は……はい」
 怒るタイミングを外されて毒気を抜かれた様子で答える彼女に子猫を手渡す。
「えっ? ……」
 自分の手の中に居るこの世の愛らしさだけで作り上げられたような小さな温もりに、気持が悪いほど満たされきった顔をしたまま言葉を無くして固まる。
「ナァウ」
 大きく目を見開いて自分に呼びかけるような子猫の姿に、思わず「……な、なあう?」と可愛く返す姿は、普段の艶やかな妖女の雰囲気は何処へやら、どこか幼女っぽくすらあった。
『ネコちゃん返して!』
 一方マルは前足でミーアの膝辺りを叩きながら抗議する。基本俺が抱いてない時は常にマルが子猫を独占していたので、俺の手を離れた以上は自分が構う番だというのが主張だろう。
 俺はマルを後ろから持ち上げて、そのまま抱きかかえると頭に頬ずりしてやる。
『マルの相手は俺がしてやるから、子猫は任せてあげなさい』
『くぅ~ん』
 満足したのか拗ねたのか分からないような反応を返すと、マルの方からも顔をこすり付けてきた。

 ちなみに残された空気を読まない人は「姉さん、私にも~」と言いながら近づいて鳩尾へと下から突き上げるようなパンチを貰って床に這ってい……カオスだ。

 昼食を終えて、再びマルと子猫を残して狩りにでも行こうとしたらマルが俺のズボンの裾を噛んで引っ張る。
『マルはネコちゃんとタカシと一緒にお散歩したい!』
『マルが本気で走ったら子猫は驚いて逃げちゃうかもしれないよ』
『それは嫌!』
『お姉ちゃんならわがままを言わない』
「キュ~ン」
 悲しそうに鼻を鳴らして頭を垂れる。時折上目遣いでこちらをチラ見しながら鼻を鳴らすのでウゼェ! ……全くろくな知恵を身に付けない。


『良いな、タカシ良いな。ネコちゃん抱っこ出来て良いな』
 結局連れて来てしまった……だって仕方が無いだろう。あんなに悲しそうにされたら、俺は何にも悪くないのにスゲェ罪悪感に駆られるんだぞ。
『マルがもっと勉強すれば同じような事が出来るようになるよ』
 【闇手】の上位版である【暗手】を使えば子猫程度は余裕で背中に乗せた状態で動いても落ちない程度には保持出来る。
『う~ん、じゃあ本気で頑張る!』
 ……本気で頑張ってなかったのかよ!
『明日は母さん、父さん、兄貴もこっちに連れて来てレベルアップさせて【伝心】を使えるようにするから、マルも早く文字や言葉を憶えて使えるようになるんだよ』
『…………』
 何故黙る?



[39807] 第94話
Name: TKZ◆504ce643 ID:545410f3
Date: 2016/11/10 17:14
 朝だ。試験2日目、最終日の朝だ。
 いつもなら今日も試験という憂鬱さと、今日で終わるという開放感。そして今日から部活再開だという憂鬱さの2対1で憂鬱の勝利という心境なのだが、現在部活は休止中で自主練習だから憂鬱感は無いし、試験そのものへの憂鬱な思いも今更残っていない。
 全国の受験生から見たら呪われてしかるべき立場ともいえるが、その分厄介事ばかりが増えている気がするので、自分の立場を喜んで良いのやら悪いのやら分からない。待てよ元から俺は大島と書いて「やっかいごと」と読むような、特大の厄介事に巻き込まれていたので、とても不幸だったのが少しだけ不幸が薄れた……これ以上考えるのは止めよう。

『マル。今日は雨だから散歩はやめておく?』
『えっ! 雨なの? マル雨大好きだよ!』
 尻尾を振りながら軽く興奮している。確かにマルは雨の日の散歩を嫌がった事は無かったが、まさか好きとまで思っていたとは……だが問題はマルが好きかどうかではなく、塗れたマルの始末が大変だという人間側の都合だ。
『でも今日は雨が強いから、マルはびしょびしょになっちゃうよ』
『大丈夫。塗れてもタカシがすぐに乾かしてくれるから! あれ凄いね、ブルブルよりずっと凄いよ!』
『マル。アレは内緒だから使えないよ』
『……じゃあ仕方が無いからアレ着るよ』
 マルの尻尾がダラリと下がる。
 アレとは母さん手作りのマル専用のレインコートで、手足の部分も筒状に縫ってほぼ全身をカバーするという優れものだが、ちょっと熱が篭るので母さんとのゆっくりとした散歩ならともかく、俺との激しい全力疾走の散歩には向かない。
『だったらこっそり涼しくなるようにしてやるから我慢しなさい』
『本当に! 暑くないなら動きづらいのはマル我慢するよ』
 出来るなら散歩を我慢して欲しかった。


 マルとの散歩は身体を動かしたいという欲求は、夢世界で十分に満たされているので、ハーフマラソンレベルからは一般的な散歩に近いレベルになってきている。
『これ楽しいよ!』
 マルはかなりのペースで走る俺の歩調に合わせて、股の間をジグザグに潜り抜けるながらついて来る。テレビのペット番組を見てやってみたかったようだ。
 すれ違うジョギング中の小母さん……お姉さんや、犬と散歩中の爺さんはその様子に驚き、視線を向けてくるが、そんな状態でもリードを見事にさばいて脚に絡ませない俺のテクニックにも注目して貰いたいものだ。
『あのね、マル高いのを飛び越えるのやりたい!』
 次なる要求に走りながら左腕を水平に横に伸ばすと、マルは一度足を緩めて距離をとってから加速し、一瞬で左腕の飛び越えていった。
『タカシもっと高く』
『普通の犬はそんなに高く飛ばないから駄目』
『えぇ~!』


「高城。社会の山を~」
 HRの前に前田が後ろから俺の両肩を掴んで揺する。
「あ~き~め~ろ~」
 揺すられながら答える。
「何かあるだろう。これを憶えておけば何点か上載せられるという豆知識!」
「前田。社会という科目には他の主要教科にはない変わった特徴がある──」
「そうだ。そういう裏技的なのが知りたいんだ!」
「前々からずっと思ってきたことなんだが、今日ここで言わせて貰う。実は社会科の授業で面白い話は……」
「話は?」
「試験の問題には出ない!」
 俺の断言に聞き耳を立てていた周囲のクラスメイト達からも驚きの声が上がる。
「ど、どういう事だ?」
「社会科の授業では、なるほどと思うような話を良く耳にすると思うが、アレは記憶がメインのクソ面白くない授業を、巧みな話術と裏話、豆知識で楽しませて自分の話に興味を向かせようとする社会科教師の陰謀で、試験に出るような重要な話はクソ面白くない部分にしか存在しない!」
「そ、そんな……馬鹿な!」
「事実だ。だから漠然と授業を受けて社会科って面白いなどと思ってる奴等ほど点数は伸びない。クソつまんない話で脇にそれてないでさっさと授業進めろよと思ってる奴等の方が点数を取れる」
「マジで?」
「大マジだ。だから今、お前の頭の中に残っている社会の授業の記憶の中に、点数に繋がるような知識は入ってない……だから今更足掻いても無駄だと言ってるんだ」
「社会の授業……好きだったのに……酷すぎる」
 俺の肩から手を離して机の上に泣き崩れる。
「俺も結構好きだぞ。授業に関係ない脱線した部分の話はな……だけど、好きなものは好き。それで良いじゃないか? そこに点数を求めるのは不純だ」
「高城……何、上手くまとめてるんだよ! 問題に出そうな所を早く教えろよ」
 どうして前田はこの必死さを試験1週間前に発揮出来ないのだろう。そんな疑問が一瞬頭に浮かんだが考察する価値は無いので止めた。


「ただいま」
「お帰りなさい。もうご飯は出来てるわよ」
 朝食時に学校から帰ってきたら昼飯を食べたら自主練へ行くと告げてあったので、準備は完了してあるようだ。
「それで試験はどうだったの?」
「ばっちりだよ」
 そう答えるとマルが駆け寄ってくる。
『タカシお帰り!』
『ただいま』
 ズボンに毛を沢山くっ付けるマルを撫でながら三和土から上がって廊下へと上る。一度三和土に降りたマルはきちんと玄関マットの脇に置かれた雑巾に足の裏を擦りつけてから上がる。
 前までは足を拭いてやる必要があったのだが、レベルアップしてからは汚れを家の中に持ち込まないという事を理解してくれて、母さんも喜んでいる。

「母さん。貰い物なんだけど今晩はこれで焼肉にしない?」
 ダイニングテーブルの上に用意されている昼食を確認しつつ、筆記用具くらいしか入っていないカバンの中に手を突っ込んで【所持アイテム】の中から、夢世界でポリ袋に詰めておいた肉を取り出して渡す。
「どうしたの、このお肉?」
 オーク肉とミノタウロス肉、そしてコカトリスの肉の3種詰め合わせで2kgほどある量に、驚きながら聞いてくる。
「紫村から貰ったんだ」
 とりあえず、簡単に親への連絡がつかない紫村を出汁に使う。この嘘は長く引っ張るつもりは無い。今晩で決めるつもりなので今日一日位ならバレる事は無いだろう。
「……また紫村君? こんなにお世話になって、どうすればいいの?」
 肉を受け取ったまま遠くを見るような目をしているが、慰めようにも自分の嘘のせいなのでかける言葉が無い。

「マル。道場に行くけどマルも一緒に行く?」
 早目の昼飯を食べ終えた俺は着替えて準備をし終えるとマルに尋ねる。
『何? ドージョウって何?』
 状況的に何処かに行くというのは分かったのだろう場所について聞いてくる。
『道場は俺と皆が勉強しに行ったあの家の事だよ』
『う~ん……行く!』
『だったら一回吠えて』
「ワン!」
「母さん、マルも行くって言ってるけど良い?」
「良いけど迷惑にならないの?」
「本道場の方に沢山の門下生や練習生が来るけど、誰か彼かが構ってくれてたんでマルは良い子にしてたよ」
「マルガリータちゃん。本当に大丈夫? 退屈して寂しくならない? お母さんと一緒に居ても良いのよ」
 母さんが何を言っているのか、言葉は分からなくても大体想像がついている様で困った顔──ちょっと頭を後ろに引いて寄り目になる──をする。
「母さん。道場には小さい子供達も通ってるんだ」
 マルは家族が大好きだが、知らない人間も好きなので色んな人に代わる代わる撫でられチヤホヤとされるのが好きだ。でも特に小さい子供が好きなので道場に通う小学生達に群がられたいのだ。
「あら、それじゃあ仕方が無いわね」
 母さんもマルの習性は理解しているので名残惜しそうだが諦めた……というより、どうして母さんは俺が道場に行くという事をマルが理解したと判断したのか謎だ。


「いってらっしゃ。気をつけて、練習頑張ってね」
 母さんに俺が小さく手を上げると、マルも「ワン!」と一吠え返した。
『今日もマルは待ってれば良いの?』
『先ずは、皆と一緒に走るよ』
『群れで走るの大好き!』
 何度もジャンプを繰り返す大興奮。やはり群れで生活する動物だけに集団で走るのは本能的欲求のようだ。

「おはようございます。今日もお世話になります」
 本道場を覗いて、中に居た北條先生の父親である東雲師範に挨拶をする。
「おはよう高城君。もうすぐ昼食だが良かったら食べていくかい? ……今日は父も居ないのでね」
「ありがとうございます。でも今日は学校が早く終わったのでみんな早目の昼を終えてから集まる事になっているので、申し訳ありませんが……」
「そうか、いや気にしないで欲しい。弥生に伝えておかなかった私が悪いのだから」
 本当にこの人は、あの男の息子なのか疑わしいほど常識人で人当たりが良い。

「それでこれからの予定はどうなっているのかな?」
「全員が揃ったら、1時間ほどランニングに出ます。それから3年生は1年生達に基本の型を指導し、2年生達は組み手を中心に練習を行いますが、試験期間で身体が鈍っているようならば追加でランニングさせるなど流動的に対応しようと思っています」
「なるほど、基礎的体力の向上に随分と重きを置いているようだね」
「はい。『戦いは最後まで動き続けられた者が勝つ』が空手部顧問の教えです。傷つき動けなくなるのならばともかく体力が先に尽きるなどあってはならないことだと私も思います」
「それは至言だね。色々と噂には聞いていたが指導者として優れているのは確かだった様だね」
「人としてはとても間違った存在ですが、強く鍛え上げるということに関して残念ながら認めずにはいられない人です」
「私の身内にも似たような人がいるよ」
 そう言って東雲師範は笑った。


「どう言う事だお前等!」
 田村の怒声が下級生達に飛ぶ。
「香籐! お前はどう思う」
「はい。こいつ等は心身ともにぶっ弛んでると思います」
 空手部一の人格者。常に場の空気を読み。先輩には素直で、後輩には親切で、同級生にはリーダーシップを発揮する。常に柔和な笑顔を忘れない香籐が抑揚の無い声で答える。
 そして1年、2年生達に向ける視線は氷のように冷たい。
 信頼する同級生達、そして目をかけてきた1年生達に裏切られたという失望と怒りが彼の全身から滲み出しているかのようだった。

 ランニングが始まってさほど経たない内に1年生達が集団で遅れだし、2年生達は疲労の色は顔に出していなかったが明らかに足取りが重かった。
 別にペースメーカーの櫛木田がレベルアップして体力向上したために、何時もよりペースが速まったなんて事は無い。
 部活動が休止になりランニング祭り以降は、自主練ではランニングの時間を削り、基礎体力の維持向上は各自に任せていたのだが、こいつ等は少しずつサボっていたようだ。そしてこの数日間は自主練すらなく勉強会だったため完全にサボっていたのだろう……良い度胸だ。俺が大島じゃないと思って舐めた態度をとるならば、俺もまた【大島】であるということを証明してやろうではないか。

「香籐。このリードを渡すから、お前はマルと一緒にこのお馬鹿さん達に走る喜びを、もう一度魂に刻ん込んでやってくれないか?」
「分かりました!」
 マルのリードを手にしてテンションが上がり踊りだしそうな勢いの香籐に対して、1、2年生達は顔色を無くす。
「ペースはこいつ等に合わせてやる必要は無い。マルが走りたいと思うペースで走れ。マルが満足して帰るまでな」
「脱落した者はどうしますか?」
「電話で知らせろ。俺達が回収して脱落した順番に思いっきり【可愛がって】やる」
 勿論、相撲部屋的意味でな。
「それは良いですね」
 何が良いのか俺にもわからないが、そう肯定する香籐に笑顔で応える。1、2年生達の表情は死刑宣告を受けたかのように絶望に染まった。
『タカシ。マルどうすれば良いの?』
『マルが先頭を走るんだ。ただしリードを持った奴が止まってと言ったら言う事を聞いてあげて』
『マルが先頭? 良いの? 本当にマルが先頭で良いの?』
『良いよ。満足するか他の連中がついて来られなくなったら道場に戻って来るんだよ』
『分かった! マルがリーダー! マルがリーダー! わぉーん!』


「見えぞ! 私にも敵が見える!」
「誰が敵だ!」
 互いにレベルアップの身体能力の向上分を抑えた状況で櫛木田と組手をやってみると、普段なら櫛木田にかわされた事の無いフェイントから入り、奴の意識の外から襲い掛かる攻撃が全てかわされてしまう。
「相手が見えるということが、これほど凄いとは思わなかった。これは身体能力の向上以上に意味があるな」
 同じように紫村と組手をやっていた伴尾がレベルアップによる贈り物に驚きと喜びを示す。
「そうだろう。大島はこれに匹敵する目を持っていたということだ」
「大島が? だが奴は……」
 普通の人間だと言いかけて田村は続く言葉を飲み込む。大島が普通の人間のはずが無いからだ。
「俺達とは違う、俺達の知らない方法で見ていたと考えて間違いない。だから俺達はそれを手に入れる必要がある。その一端でも掴まない限りは、今の俺達でも勝ち目があるか分からない」
 下級生達が地獄のランニング祭り開催中に、俺達3年生達は大島復活に備えて大島対策に頭を悩ませていた。
 大島を復活させる。この第一目標は全員嫌だけど実行すると決まった。だが復活させて今までと同様に大島の言いなりに成り下がるのはごめんだというのが香籐を含む俺達の総意だった。
 大島を復活させ、同時に大島を抑え込む体制を確立する。この命題の答えは至極簡単で、ただ力が、大島を抑え込める力があれば良い。
 だが最大の問題は、大島の力は俺達のようなレベルアップによる身体能力の向上の延長線上には存在しない。勿論肉体的な強さもあるだろうが、どこかの時点で斜め上方へと逸れた先にあるという事だけは本能的に理解出来る。

「だが、どうやってそれを?」
「分からなければ、誰かから得るしかない。例えば……爺」
「アレは下手をしたら大島以上の狂犬だぞ」
「だから例えばだって、後は他には大島と同じ鬼剋流の連中ぐらいだろ」
「あの井上さんはどうだい? 彼なら少なくとも話は通じる相手だと思うよ」
 鬼剋流の幹部のあの男か、確かに大島なんかに比べたら常識人だが──
「確かに話は通じるだろうが、ある程度計算の出来る人間で、元々俺達を懐柔して鬼剋流に引き込もうとしたくらいだから借りを作りたくないな」
 せめて早乙女さんがいたのなら……惜しい人を亡くしてしまった……あれ?
「早乙女さんを先に復活させて、説得して大島への対抗手段を教えてもらうのはどうだ」
「どうだ? 早乙女さんは大島と比べるから凄く常識人に見えるだけで、あの人もかなりといえばかなりな人だぞ」
 俺の閃きを田村が否定する……うん、確かに大島と比べると常識人のスタンスになるが、単体では十分に非常識な人だ。なにより大島と仲良く先輩後輩の関係を維持している段階で異常者と呼んで差し支えないだろう。危ない危ないつい判断を誤る所だった。

 結局結論は出ないまま、香籐からの連絡を受けて俺達は脱落した1年生達の回収に向かう事になった。
 道々で壁に寄りかかるようにして失神している1年生を回収していく。大島の方針ではぶっ倒れるまで走らせるが、奴と違って周囲への配慮の出来る俺は他の歩行者などに迷惑をかけるので立ったままで失神しろと命じた……命じておいてなんだけど律儀だなと思う。

「香籐。ご苦労だった」
 何とか走りきった2年生達を引き連れてマルと香籐が戻ってくる。ちなみに1年生達はまだ死んでいる。
『マルも頑張ったよ!』
 戻ってくるなり必死に甘えてくるマルを抱きしめてやると、もがいて抜け出すとお腹を見せての寝転がり、服従というより構ってのポーズを取る。
『どうしたマル。リーダーを張り切ってやってたんじゃないのか?』
『リーダーね、やってみたら少し不安で怖かったの。やっぱりタカシと一緒が良いの』
 余りにも可愛いことを言ってくるれたので、この! この! この! とマルを思いっきり撫でまくってやった。

「まず森口、お前だ!」
 香籐からランニング時の様子を聞いて、一番遅れていたという森口の名前を田村が呼ぶ……ちなみに1年生はまだ死んでいるので後回しとなった。
「構えろ!」
 田村の怒声に、弾かれた様に森口は構えを取る。
「大島が戻ってきた時に、先生が居なかったのでサボってぶっ弛んでましたテヘっとか言うつもりか? お前はそんなに俺達3年生を大島に殺させたいのか!」
 私憤だ。悲しいほど的を射た事実だが完全に私憤だ。しかし誰だって自分が可愛い。下級生が努力の末に力足りずというのなら幾らでもフォローはしよう。例え大島を相手にしても庇ってやろう。
 だがこいつ等のサボりで自分達に被害が及ぶなんて理不尽を受け入れられるほど俺達は聖人君子じゃない。何事にも一線がある。
 3手と交えぬ内に突きで腹を打ち抜くと、倒れた森口を振り返る事も無く田村は次なる処刑者の名前を呼んだ。

「あ~、ちょっと良いかな」
 1。2年生達が地獄を彩るには似合いのオブジェと化した道場に東雲師範が現れた。
「どうぞ」
「彼等は大丈夫なのかな」
「全く問題はありません」
 3年生達と香籐を除く全部員の失神を確認した後で【中傷癒】で治療して壁際に転がしてあるだけなので、放って置けば勝手に目を覚ます。
「これは何時もの事なのかな?」
「いいえ、顧問の大島先生が居ない事を良い事にサボっていたために気合を入れるという名目での粛清です」
「しゅ、粛清……穏やかではないね」
「残念ながら我々の空手部に穏やかという単語は存在しません。彼等が弛んだままだといずれ地獄から復活するだろう大島先生に我々が責任を問われて粛清されます。そしてその粛清はこの比では無い事は間違いありません」
「君達、本当に中学生の部活動なんだよね?」
「はい、間違いなく中学校の部活動ですが、中学校の部活動として適当であるとは思いません」
「ああ……そうなんだ」
 東雲師範は明らかに途中で理解するのを止めた。

「ところで君達の練習を少し見学させてもらっても良いかな?」
「勿論です。幾らでもどうぞ」
 隠す事など何も無い。むしろ怖れられても興味を持たれる事は無く、そして誰かに見せる機会も無い我々だから見られるのはオールOK、バッチコイだ!
「それでは失礼する……物凄い苦悶の表情を浮かべてるのだが本当に大丈夫なのだろうね? さすがに生き死にに関わるような事は困るよ」
 それは田村が、出来る限り痛みを与えるように倒したせいだ。
 奴は「痛くしなければ覚えない」などと嘯いていたが、後進を指導するべき立場としてもっと言葉の力を信じないでどうする。
 もっと大島を見習え。奴なら「あぁ?」の一言で相手に全てを悟らせてみせる……言葉じゃねぇ!

『速度的には素の状態に抑えておけ』
 組手を始める伴尾と香籐に指示を出す。俺達クラスなら速度が1割向上したらボクシングの軽量級世界ランカーにも引けは取らないだろう。それは体格的に考えれば異常な速さとなる。
 組手をする2人の姿は美しいとさ言える。互いに余裕を持った速度で動いているために体幹が全くブレず、まるで剣舞のように優雅でさえある。
 それでいて、この世の常識で考えるなら速い。ボクシングの試合のように激しく拳が飛び交いながら、互いにかわし、受け流し有効打を一切受けない。
 本来の実力なら香籐の方が何発か貰い始めているはずだが、この程度の速度なら互いに技を確認し合うために行うスローモーションの様にゆっくりとした動きで行う組手のようなものだろう。
「速い。そしてなによりよどみない……」
 普通の人間にはそう見えるはずだ。それが例え武術の達人であろうとも。
「これは約束組手という訳ではない……そうだろう?」
「はい」
 予め相手と手順を打ち合わせた殺陣のような組手ではない事のを見て取れるのは流石だ。これほど激しい動きの中で2人の視線や呼吸を読んで判断したのだろう。
「そうだろう。これが約束組手のはずが無い……だが本当に彼等は、君達は中学生なのか疑問に思うようなってきたのだが」
 その疑問はもっともだが、返す言葉が見つからない。
「大島という君達の師は何を考えて、中学生をここまで鍛え上げたのか理解出来ない」
 大島の頭の中に俺達をどう鍛え上げたいというビジョンが有ったかどうかは俺にも分からない。ただ奴が鍛え上げるという過程を愉しんでいた事は事実だ。
 勿論、鍛え上げる過程と言っても、盆栽作りを愉しむお爺さんの様な心で我々の成長する姿を愛しむのではなく、ドSな心で我々が苦しみもがく姿を堪能するのが目的なのは間違いない。
 こんな事を誰かに言えば、師匠の心が分からない愚かな弟子と笑うだろう。多分俺も俺達以外の人間がそんなことを口にしたら笑うだろう。

「高城君……こんな事を言うのは申し訳ないとは思うが、一度私と立ち合っては貰えないだろうか?」
「立ち会うんですか?」
「ちなみに「あう」は「かい」ではなく「ごう」の方だから」
「立ち合う。私と師範とですか?」
「その通りです」
 左脇におかれていた木刀を握る腰を上げ、鍛え上げられた足腰は揺らぐことなく真っ直ぐと力を背筋に通して身体を立ち上がらせた。
 一瞬で纏う空気が変わった。全身に鳥肌が立ち身体中の毛という毛が立ち上がっていく。これほどの恐怖感を人から感じたのは……大島、早乙女さん、井上、爺。結構ある自分が怖い。

「私はこれを使わせてもらうが構わないかな?」
「剣術家に素手でやれとは言えないでしょう。その代わりにどんな手を使っても勝ちに行きますよ」
「望むところです」
 木刀対素手の戦いなら、基本的に最初の一撃が勝負を決する。
 攻撃範囲で劣る素手の方は相手の間合いに入り込む必要があるが、一方木刀を持つ方は自分の攻撃範囲内かつ相手の攻撃範囲外の位置で攻撃を仕掛け一撃で倒すのがセオリーとなる。
 奥行きにして20cmほどの狭い範囲が勝敗の分け目で、そこで攻撃を当てれば木刀を持つ方の勝利、その攻撃を掻い潜って更に相手の懐へ踏み込む事が出来れば素手方の勝利となる。
 もっとも攻撃は外れ、素手方も踏み込む事が出来ずに仕切り直しになる事があれば、踏み込んだ先で木刀を持つ方が素手でも強かったという可能性もあるけどな。
 だからこそ、木刀を持ち技量も経験も勝る相手に対して身体能力の優位を使わない俺では、相手が待ちに徹すれば全く勝ち目は無い。俺が相手の攻撃範囲に入り込んだ瞬間に決定的一打が打ち込まれるだろう。

 櫛木田の合図と共に始まった立ち合い。
 だが、どちらもその場を動かない。
 基本的に弱い方が相手の隙を伺うために積極的に動くのが常套だろうが、俺がどんなフェイントを入れたとしても、それに引っかかって空振りするような事はするほど温い相手ではないと分かっている以上、俺が動くのではなく相手を動かす事でしか勝ちは拾えない。
 俺の考えを察した東雲師範はゆっくりと間合いを詰めてくる。それに対して俺は左右へと切り替えしつつ全体的には後ろへと下がり続ける。
 何度か態と距離を詰めさせては離れるを繰り返し、相手の勝ちたいという欲の基本である打突欲を誘うが全く動じた様子は無い。
 そんな甘い相手だとは最初から思ってないから良いけど、それっぽい反応の一つも返して欲しいものだという表情を浮かべておく……これもまた誘い。
 俺の表情を読み取るために僅かでも意識が集中したと思うタイミングで床に仕掛けをばら撒く。
 人工イクラ……昔は安い回転寿司でよく使われたらしい、アルギン酸ナトリウムと塩化カルシウムの水溶液で作られたゲル状の膜の中に着色し味付けされた水(塩化カルシウム水溶液)と食用油を封じ込めたイクラのフェイク。
 食感や味はイクラと騙されない事もない程度には近いらしいが、一方で食べ過ぎると酷く胸焼けをするらしい……中の油分は動物性の脂ではなくサラダ油の類だから大量に食べればお察しの通りだ。
 着色無しの塩化カルシウムの水溶液の中に1:1の割合で油を入れて徹底的に攪拌した状態でアルギン酸ナトリウム水溶液を入れた容器へ、一滴ずつ投入して作る。対大島用の奥の手として作られた仕掛けだが実戦投入は今回が初めてだ。

 油などを使って大島の足元を滑らせて隙を作り襲い掛かるという計画は、俺達のずっと前の先輩達の時代から試行錯誤を繰り返されてきたようだが、そもそも油などで床や地面がテラッテラに光っていたら大島は避ける。スプレー潤滑剤のように油以上に滑るものを、目立たないように少量撒いておく方法は臭いがきつすぎてすぐにバレた。
 ならば目立たないように何かの中に仕込んで大島に踏ませるという方向に開発は進んだが、ゲル状のビーズの中に匂い成分を染み込ませた芳香剤を乾燥させて油を染み込ませるなどというアイデアもあったが、残念ながらゲルが油を吸い込まないという致命的問題で頓挫していたが、ついに俺達の世代で開発に成功したのだが実戦投入前に大島は田村の【所持アイテム】内の住人となってしまっている。

 ともかく対大島用の仕掛けを今ここで使わせてもらう。そのために「どんな手を使ってでも」と断りを入れさせてもらった。
 左を前に半身に構えて【所持アイテム】内から人工イクラもどきを右手から道着のズボンの右足に沿って落として、そのまま右へと移動しながらスイッチして右を前の半身に構えて、相手の視野に人工イクラもどきが入らないようにする。これらの動作が不自然であからさまにならないように非常に気を使う作業だ。
 そして人工イクラもどきゾーンの手前まで東雲師範を誘導したところで、強弱をつけていた下がる速度をほんの少しだけより遅くして自分の身体を木刀の攻撃範囲内に入れた。しかし打ち込んでは来なかった。

「足元を疎かにしない。これは基本だよ」
 畜生バレてるんじゃんかよ! 東雲師範を試金石にしたのだが、この様では大島にも通用しないだろうな。
「斯くなる上は!」
 手持ちの人工イクラもどきを全て東雲師範の周囲にばら撒く。
「これは!?」
「踏めますか? 何かも分からない怪しげな物体を素足で踏む事が出来ますか?」
 俺なら嫌だ。命が懸かっているような状況でもなければ絶対に嫌だ。
「グッ……」
 やはりそうだ。常識人で神経の細い所が見受けられる彼もまた、高々こんな立ち合い程度で訳の分からない謎の物体など踏みたくないのだ……流石は未来の義父上、親近感湧くわ。
「……多分は油の類で足も──」
「中にカプサイシンを濃縮した液体を入れて、踏めば1分以内に炎症を起こして火傷と同等のダメージを負わせる……という計画もあったよな」
 そう紫村に話を振ると、俺の意を汲んで大きく頷いて応えてくれた。
 実際100均で売ってる唐辛子の代わりにハバネロで作ったタバスコで試してみたが、脛などに掛かったならばすぐに炎症を起こすが、皮膚の分厚い足の裏は簡単には炎症を起こさなかった。そこでカプサイシンの揮発性を利用して蒸留を行うことで濃縮する計画も進行中だ。

「……本当に君達は中学生なのか?」
「中学生がこうもならなければならない社会と大人が悪いんですよ」
「……私の中学生の頃は、真剣を抜いた父が『避けてみせろ、さもなくば死ぬぞ』と言って襲い掛かってくる程度だったのに」
 東雲師範はがっくりと項垂れると、構えていた木刀を下すと、そう呟いた。
「それ十分酷いから!」
 俺達6人は同時に突っ込んだ。

 その後はばら撒いた人口イクラもどきを回収して、俺達部員達と東雲師範での不幸自慢合戦になってしまい。
 結果として理不尽な暴力に屈し続けてきた負け犬同士の奇妙な連帯感が生まれた。

 帰りは寄り道して郊外まで足を伸ばして大型ホームセンターへと向かった。
 ハイクラーケンの雷に対抗策として針金を使う事を考えたのだ。
 勿論針金といってもただの針金ではない。材質こそ通常の鉄製で僅か0.7mmだが巻きの重量5kgで全長が1㎞を軽く越えるものを購入する。
 勿論たかが針金であり先駆放電の一撃で蒸発するだろうが、鉄イオンを含む空気のトンネルが海面にいるハイクラーケンにまで届いていたとするなら、雷本体は間違いなくそこへと目掛けて流れ込む……多分。
 駄目なら駄目で別の方法を考えるだけだ。



「う、美味いぞぉぉぉぉぉぉっ!」
 炙ったミノタウロスの舌に塩にチョンとつけたのを口にした父さんが昭和な臭いのするオーバーなリアクションをした。
「母さん。これトンカツなのにトンカツじゃないよ!」
 それはオークカツだよ兄貴。
「そうでしょう。このお肉、皆とても美味しいのよね」
 満足しきった表情でコカトリスのささみ肉の入ったサラダを小鳥のように慎ましく食べる母さん。つまり味見という名のつまみ食いを名目にガチ食いしたという事に他ならない。

「この肉は何処のブランド肉なんだ?」
 こんな当たり前の疑問が父さんの口から出たのは、食後、食卓から離れることも無く30分間まったりとした時を過ごした後のことだった。
「隆がお友達から貰ってきたのよね」
「友達って、これはかなり……いやそれでは済まない最高級の肉だろう。そんなに高価なものを貰ってきたのかお前?」
 それ相応のお返しはどれくらいか掛かるのだろうか考えたのだろう青褪める父さん。

 これで荒唐無稽な話をするための下準備である、家族が俺の話を真剣に聞く環境が整った。
「実を言うと貰ったんじゃないんだ」
「まさか、お前盗んだって言うのか?」
 驚愕に顔を歪める兄貴。
「違うよ。貰った訳でも盗んだわけでもない。自分で狩ったんだんだよ」
「買った?」
「ああ、お金を出す方じゃなく、ハンティングの方の狩ったね」
 同音異義語で天丼する俺ではなかった。
「ハンティングゥ~?」
「ちなみに牧場で飼育されている動物を勝手に狩ったわけではなく、あくまでも野生の生き物だから」
「野生? 鹿とかイノシシ……もしかして犬とか猫とか?」
「兄貴冷静になれ。しかやイノシシや犬猫が、こんなに美味しかったら、とっくに狩られまくって絶滅危惧種になって、保護されて飼育で増やされて肉が流通しているよ」
「そうだな……そうだろうけど、じゃあ何なんだこれは?」
「それを伝えるためには、幾つか理解して貰わなければならない前提条件があるから、見て貰いたいものがある」
 いきなり異世界では誰も話しについてこれないからな。
「何だよ?」

 家族全員をダイニングテーブルに着席させてから、【所持アイテム】内から、今日渡した肉とは別に袋詰めしておいた肉を10kgほど取り出してテーブルの上に積み上げた。
「これはどういう手品だ?」
 たっぷり20秒ほどの沈黙の後、父さんがそう切り出した。
「これが手品だと思うの?」
「手品で無ければ何だ。ネタもなくしてこんな事が出来る訳がな──」
 父さんの発言の途中で、今度はテーブルの上の肉を収納して消してみせる。
「……待て英。冷静になるんだ……この状況を冷静に把握しろ。どんな時にも冷静に頭を働かせれば何とかなってきただろう。所詮は人間のする事だ、しかもその現象を目にしておいて解明出来ないはずが無い。解明出来ないとしたら、お前は息子の半分も頭の働かないボンクラだと証明することになる……頑張れ、頑張れ英。頼むから頑張ってよ……」
 父さんは混乱の内に遠く心の旅へと出てしまった。
「隆。お前……」
「これが手品だと思うのかい?」
 出したり消したりと連続で繰り返して見せる。
「……イリュージョンというより幻覚の類。催眠術か?」
「そんな面倒な事はしないよ」
「だったら──」
「つまり、目の前で起きていることが全て事実って事だよ兄貴」
 そう言いながら【水球】を発動させて兄貴の目の前に浮かせて見せる。
「こ、これは……」
 中に浮かぶ水の塊に触れ、それが実際に存在する水だと理解し、理解したけど納得出来ずに混乱し始めた兄貴。
 そしてまだ帰ってこない父さん。そして最初から理解する事を放棄してオブザーバーという名の置物に徹する母さん。
 頼む兄貴。兄貴が最後の砦なんだよ。

「……これは……これはSF?」
「残念ながらファンタジー」
「何だよぅ~、そこはSFにしておけよ。ついに人類の科学力はここまで来たのかとか言わせろよ」
 ギリギリで土俵際で踏みとどまった兄貴は、以外に神経が太い所を見せ付けてくる……そう兄貴はメンタルが強い。フィジカルは驚くほど脆いけど。
「原理すら理解出来ない超科学とファンタジーに違いを見出せるのかよ? 結構ファンタジーって奴も、科学では解明出来ていない前提条件を加えただけで原理原則に従ったシステマティックなもんだぞ」
「それならばそれはファンタジーではなくSFの領分じゃないか、よし俺に教えろ!」
「まあ、教えるのは既定事項だから安心しろよ。だけどまだ説明しなければならない事がある」
 まずは光属性レベルⅢの【覚醒】を使い。父さんと母さんを正気づける。こいつは闇属性の【昏倒】と対を成す魔術だが、2号なんかが相手の場合は殴って正気づければ良いので使い道が無かった。

 かなり無理な事でも「そんな馬鹿な」では済まされる事の無い下地が出来たと判断し、これまでのことを説明した。
 1月ほど前から寝ると異世界で目覚めて、魔物と戦うとレベルアップして強くなり、魔術や魔法を使えるようになりましたとさ……我ながら酷い話だ。
 当然3人は頭を抱えたが、肯定せざるを得ない材料には事欠かないため、更に頭を悩ませながらも否定は出来ず、納得は出来ないものの飲み込むしか無かったのだろう。
「分かった……分かりたくないが分かった。だが隆はどうして今になってその話を父さん達にしようと思ったんだ?」
 この世のあらゆる苦いものを飲み込んだような深みの有る悩ましげな表情で切り出してきた父に「マルが、お母さんやお父さんマサルともお話したい! っておねだりして来るんだから仕方がないでしょう」と答えた。
「ちょっと待って! マルガリータちゃんとお話が出来るの?」
 父さんと兄貴が『何を言っているんだお前?』という視線を向けてくるのに対して、精神安定剤代わりに膝の上に乗せたマルの毛づくろいをしていた母さんが食いついた……一方、気持ち良くまどろんでいたマルはビクッと驚いて身を震わせる。
「俺は出来るよ。マルと使い魔の契約を結んでるからね」
「お母さんも結ぶわ!」
「残念だけど使い魔は何人も主は持てないよ」
 そもそもパーティーメンバーの方のシステムメニューで使い魔と契約出来るのかどうかも確認してないし。
 だが俺がそう答えると、母さんは「隆だけずるい!」と悔しがり、父さんと兄貴が目で俺を責める……母さんを不機嫌にさせると色々と被害を被るから。
「それで、マルと話が出来るようにするには、レベル61以上で憶えられる【伝心】という魔術を使えるようになれば良いんだ」
「お母さん、レベル61以上になるわ!」
「それは良いんだ。パワーレベリングすれば、1日でそれくらいは上がるから……でも問題が一つあるんだ」
「何、何なの?」
「マルがとっくに【伝心】を身につけているのに使いこなせない。使いこなそうとしないんだ」
「でもマルガリータちゃんはワンちゃんだし──」
「マルはレベルアップして、身体だけじゃなく頭も良くなってるから今ならその辺の中学生以上に理解力はあるよ」
 少なくても前田以上には。
「……ま、マルガリータちゃん!」
 突然、母さんは叫ぶとマルの背中とお腹を鷲掴みにして揺すりだした。
「キャン!」
 驚いたマルはワタワタと足で宙を掻くと、身を捩って母さんの手から抜け出して俺の足元に逃げて来て「キュ~ン」と鼻を鳴らしながら『お母さん怒った! マル悪い子なの?』と聞いてくる。
 俺はマルの頭を撫でながら『ほんの少しね』と敢えて否定をしない。

「母さん。マルが驚いて『マル悪い子なの?』って言ってるよ」
「!」
 俺の言葉に、母さんはショックを受けたかのように顔が強張る。そしてマルの悲しそうな顔を見て目に涙を浮かべる。
「ごめんなさい。マルガリータちゃんは全然悪くなんて無いのよ!」
「……悪くないって事無いだろう」
 床に膝を突いてマルを抱きしめる母の背中に向かって俺が小さく呟くと父さんと兄貴も頷いた。やはり母さんはマルに甘過ぎる。そういえば涼にも甘かった。
「お母さんも頑張って【伝心】って言うのを使えるようになるからね、マルガリータちゃんもお母さんが教えてあげるから一緒に頑張ろうね!」
 母さんが【伝心】を憶えるまで頑張るのは俺なんだけどな~と思っていると、母さんがこちらをちらりと振り向いて顎をしゃくる……仕方が無いの、マルに伝える。
『本当? マルもお母さんとお話が出来るように頑張るからね!』
 そのまま母さんに伝える……ああ面倒臭い。


 ついでに雪猫の赤ちゃんを取り出して母さんに手渡す。
「はい、母さん」
「えっ? 何これぬいぐるみ?」
 母さんがそう尋ねた瞬間、丁度良いタイミングで「ナァ~」と鳴いた。
「うそ! この子本物なの?」
 自分の手の中で可愛く鳴く子猫の姿に母さんは感激中。
『あっ! ネコちゃんだ。ネコちゃん! ネコちゃん!』
 マルは母さんの膝の上に両の前足を突いて、立ち上がって覗き込む。
「これは雪猫の赤ちゃんだよ」
「雪猫? そうね新雪みたいに真っ白でフワフワな子ね。可愛いわね、マルガリータちゃんもそう思うでしょ?」
「ワン!」
 言葉は通じてないはずだが思いは通じたようで、タイミング良く吠えて返事をする。こういう共感力が母さんがマルを溺愛する理由だろう。
「この子は、向こうの世界で昨日拾ったんだ。母猫も兄弟も他の魔物に襲われて生き残ったのはこの子だけだったんだよ」
「そうなの……今日から私がお母さんだよ。マルガリータちゃんがお姉ちゃんね」
「ワフッ!」
 良し、これで子猫を飼う家で買う事が決定だ。母さんが認めた以上、既に父さんにも口を挟む権利は無い。これが我が家の掟である。

「この子にはまだ名前が無いんだ。母さんが付けて上げてくれる?」
「良いの母さんが付けても?」
「そうだぞ、史緒が付けると長くなるぞ」
「英さん。私の名前の付け方に何か不満でもあるのかしら?」
 笑顔と優しい声。どうしてこの2つの組み合わせで、父さんはまるで背中に氷を入れられたかの様にビクッと震えたのだろうか。
「ちょっと長くて呼びづらいかなぁ~って」
 それでも頑張る父さん。もっと頑張れ、ガツンと言ってやるんだ!
「私の名前の付け方に何か不満でもあるのかしら?」
 空気がギシギシと軋む音を立てそうなくらいのプレッシャーが父さんへ一転集中で襲い掛かっているかのようだ。
 ちなみにマルは『お母さんはどうしてマルの事をマルガリータちゃんと呼ぶの?』と言うくらい、自分の名前は『マル』だと認識しているので、父さんが正解だが、その程度の正論を武器に割って入るには空気が悪過ぎる。

「そうね、この子は──」
「スノーホワイトというのはありきたりだよね」
 俺の中の危機回避能力がベストのタイミングで、それを言わせてくれた。
「そ、そうよね……」
 ふぅ、間一髪だった。大体、世界的に見ても呼びやすい名称なんて4文字以内なんだ。だから外国では長ったらしい名前を付けても親しい者同士では短縮した愛称で呼び合う。
 日本ではドラゴンクエストはドラクエで、丹羽五郎左衛門長秀はゴロウザだ。
 それなのに母さんは横文字系の長い名前を付けて名前を省略しない。スノーホワイトとつけたら将来的に『どうしてスノーの事をお母さんはスノーホワイトちゃんって呼ぶの?』と聞いてくるだろう。そんなマルの二の舞を踏む訳にはいかない。

「母さん。日本的な名前はどうかな?」
 兄貴が絶妙なタイミングで割って入ってきた。
「日本的な名前……それも良いかも」
「史緒はちゃん付けで呼ぶんだから、ちゃんがついて座りの良い名前が良いな」
 父さんが良い提案をしたと思ったのだが「マルガリータちゃんが座りが良くないとでも言うの?」と再びプレッシャーをかけれれて尻尾を巻いて逃げ出した……

「この子のイメージは、雪と白よね」
 それじゃあ、結局スノーホワイトだよ母さん。
「雪と白から連想されるイメージを使ってみれば?」
 何とか方向性を変えようと誘導してみる。
「雪…氷、寒い、北、白くま、アイス、鹿児島──」
 明らかに間違った方向へと流れている。
「母さん、次々に思い浮かぶ関連するワードを繋げていくんじゃなくて、あくまでも雪とか白から直接連想されるキーワードを使わないと訳が分からなくなるよ」
 ちなみに俺のお勧めは単純明快に『雪』が良いと思ってる。語感も綺麗で呼びやすい。ちゃん付けしても『雪ちゃん』だ全く問題ない。
 ずっと呼び、呼ばれる名前は変に捻る必要なんか無い。母さんが新雪に例えたように、雪猫の子を見て頭に思い浮かぶのは『雪』なのだから、これ以上相応しい名前は無いと思う。

 その後30分間以上にも及ぶ激戦の末に、雪猫の子の名前は『雪』に決定した。俺と父さん、そして兄貴は勝ったのである。
 これでマルとユキのコンビが誕生である中々語呂も良いじゃないか。


「……という訳で、今晩は夢世界に備えて早く寝てください」
「俺はまだ行くとは言ってないからな」
 往生際が悪いな。
「じゃあ別に良いよ。マルも兄貴とはそんなに話す事もなさそうだし」
「そ、そんなことは無いだろ!」
「あるだろ。滅多に散歩に連れて行かないし、余り遊んでもやらないから。マルからしたら一応家族くらいだろ」
「違う、ちゃんと遊んでる。勉強の合間の息抜きの半分はマルと遊んでる。お前となんかよりもずっとマルとコミュニケーションが取れてるぞ」
 俺としても別に兄貴に含むところは無いが、思春期を迎えて兄弟と積極的にコミニュケーションを取るなって気持ち悪いことをする気は全く無い。
 それでも10代半ばの男兄弟としては普通よりは幾分仲が良い方ではないのかとも思うけど。
 ついでに兄貴もマルを可愛がっていないわけではない。単に勉強の息抜きの時間の絶対量が少なくてコミニュケーション不足に陥っているだけだ。

「兄貴が自分でそう思う分には自由だと思うよ。心の中でくらいは良いんじゃない?」
「何だその自分は全部分かってるって態度は? ……もしかして……まさか」
「涼よりはマシみたいだよ。マルから聞いた限りではね」
「……お、俺も行くぞ」
「いや、無理しなくて良いよ」
「無理なんかしてない!」
「それに俺も人数が増えて余計な手間は面倒だしね」
「…………」
「父さん、レベルアップすれば頭の回転も凄く良くなるよ」
「それは助かるな……最近はちょっと物忘れが多くなってきたからな、ところで体調も良くなるのか? 最近は朝起きても腰とかどこかしこか痛いんだ」
「大丈夫だと思うよ。もし身体を悪くしても自分で治せるようになるしね」
「それはありがたいな。楽しみだ」
「他にも魔法なんかも楽しいと思うよ。俺が作った空を飛ぶ魔法もあるから」
「空を飛べるのか? どんな感じだ?」
「じゃあ実際に見せるよ」
 そう言って、その場で浮遊/飛行魔法を発動して宙に浮いてみせる。
「おおおおおっ! 凄いな。本当に父さんも飛べる様になるのか?」
「高所恐怖症の俺でも飛べる様になったんだから大丈夫だと思うよ」
「そうか……何かわくわくしてくるな」
「ちなみにまだ音速飛行は試してないけど800㎞/hくらいは出せるから」
「それってプロベラ機の最高速度だろ」
「最初の頃は風の問題も有って、精々200㎞/hとか色々限界があったけど、今は風防魔法というのを同時に展開して身体に当たる風を防ぐだけじゃなく、風の抵抗も極限まで小さくして安定して飛べるのでかなり旅客機で移動するより快適かもしれないよ」
「凄いな。本当に楽しみだ……ところで大が土下座してるんだけど、どうするんだ?」
「と言われて、単に変な格好で寝ているだけかもしれないし、そうだとするなら起こすのも可哀想だし」
「こんな格好で寝る奴が居るか!」
「へぇ~そうなんだ」
 兄貴が怒ったところで主導権を握っているのは俺だった。

「外国語を覚えるのも結構楽だったよ。辞書を片手に字幕付きの映画を3本くらい観たら日常会話程度なら問題なく話せるようになると思う……ただし映画のジャンルは気をつけた方が良いよ」
 態と父さんに話を振る。
「そうか、じゃあ明日は早目に仕事を切り上げてドイツ映画でも借りてくるか……やっぱり英語をもっと上手く話せるようになった方が良いな」
 父さんも兄貴を無視して話に乗ってくる。そう言えば近頃は北関東の秘境と呼ばれるS県といえども外国人の住民が増えてきて税務課でも英語くらいは話せる人間が常に1人はいないと困ることがあるとか言って、○ピード・○ーニングを通勤時に聞き流して英語の聞き取り能力を鍛えなおしているらしい……ちなみに聞き流すだけでは聞き取り能力以外は微妙らしい。

「ところでどうしてドイツ語? 英語以外ならフランス映画の方が面白いと思ったけど」
 正直、日本でドイツ映画って選択肢が狭い。
「大学で選択した第二外国語がドイツ語だからまだ辞書を捨てずに持ってるからだ……全然ものにならなかったけどな」
 肩を上下させて笑うほどかとも思ったが、笑っちゃうほどものにならなかったのだろう。例え旧帝国大学の有名じゃないところを卒業しても第二外国語が身につくことなんて無いって事だと考えると、その分の単位を英語に回せよと思わないでもない。

「隆……隆君……隆様……」
 ついに兄貴は弟に対して下手に出る事を学習した。くだらない意地を張らなければ学習する事も無かったのに。
「ああ別に良いよ。どうせ兄貴がグダグダ言うのは想像ついてたし、それに元々兄貴が泣こうが叫ぼうが無理矢理にでも連れて行く予定だったから」
「それはそれで酷くないか?」
「勉強が生き甲斐な兄貴には、レベルアップして知能チートで人類のためになるような歴史的な発明とかして貰おうと思ってたから。例えば現在のエネルギー問題を全て解決するようなのをね」
 実用核融合炉向けの技術や、体積・重量比で従来の10倍以上の容量を持ち、安価な素材で大量生産に向いた新型バッテリー技術の開発を期待している。
「そうか人類のためか、仕方が無いな……そんな訳あるか! 人類のためにならないような俺がひとりニヤニヤするようなしょうもない発明じゃ駄目なのか?」
 駄目だこいつ……駄目だけど流石は俺の兄貴なだけはある。駄目すぎて素敵だ! 兄弟だけあって兄貴の想いが俺には痛いほどわかってしまうのが悲しい。
「そいつは素敵だけど、どうして兄貴にそんな素敵な思いをさせてやる必要があるんだ?」
「た、隆ぃ?」
 俺のまさに外道な発言に兄貴の顔が絶望に歪む。
「……ノーベル賞とイグノーベル賞をW受賞する気で頑張れよ」
 冗談じゃなしにそれくらい期待しても良いと思うのが知力チートだ。自分自身は人類のための研究に人生を捧げようとは思わないので、実の兄を捧げるので勘弁して貰いたい。
「世界一意味の無い発明の分野における世界的権威になりたいという夢は?」
「捨てちまえ、そんな夢!」
 俺の想像以上だった。何て業の深い夢を持ってるんだこの男。

 その後、今までにも紫村と香籐、そして櫛木田、田村、伴尾へとしてきた説明だが、今回は奴等には話さなかったルーセの事を話した。
 もしかしたら、俺以外の記憶は夢世界に行っても阻害されないと考えたからだ。

 そして3人にはパーティーへの参加の手続きを経て、システムメニューを使えるようになって貰った。
 悪戯に俺が兄貴の参加を拒否してやったら「何してんだよ!」と怒鳴りながら涙目で掴みかかってきたりもしたけど、問題なく全員パーティーメンバーとなった。
「これがマップ機能か……これは凄いな」
「本当ね、これなら無くし物が簡単に探せるわね」
 抱き締められて安心して寝てしまったマルの背中を優しくなでながら、実に生活的な活用方法を思いついて喜んでいるが、母さんが良くやる自分で何処に物を置いたのか思い出せなくなるパターンは、今後のレベルアップによる知力チートで無縁になるのだが言わないでおいた。

 一方俺としては、父さんと母さんがパーティーに参加した事で今まで以上にこの町のマップの表示率が向上し、更に東北や北海道を中止とした国内の表示率が向上した事がありがたかった。
「この【アイテム倉庫】も凄いな。一体どれくらい中に入れられるんだ?」
「限界まで入れたことは無いけど、家1軒程度で一杯になる事は無いよ」
「家1軒?」
 俺の発言に、3人が驚いた表情で鸚鵡返しする。
「現段階でも最低で数軒分。多分というかきっと数十軒分は収納出来ると思うよ」
「それって……」
「自分の身体と不動産以外は、所有する物はすべて中に収納して持ち運べるって事だよ」
「……それは犯罪だってし放題ってことじゃないか?」
「そうだね、密輸だって簡単に出来るね。合法な物から非合法な麻薬や武器だって何処にでも持ち込めるよ……そして、そんな人間が世界には各国が把握しているだけでも数十人。把握されてないのは何人いるのか分からないけど確実に存在してるって事だよ。必ず世界各地で大規模なテロが発生すると思うよ。もしかするとこの日本でもね」
 兄貴の言葉に、そう返した。
「隆、それに対して何か俺達に出来ることはないのか?」
「そうだね。1月ぐらい学校を休んで自由にする事を許してくれるならシステムメニューの能力保持者の移動を把握するための監視網を作って彼等の位置を把握出来るようにすることは出来るけど──」
 そのためには音速突破実験を成功させて浮遊/飛行魔法の能力を向上させ、最終的に音速の10倍以上にまで高める必要がある。
 その高速を使い、経線、緯線に沿って世界中を飛び回り、表示可能域を網の目に廻らせる。そしてワールドマップで表示可能域通過するシステムメニュー保持者をチェックする事で、彼等の動きを把握する。
 そのためには基本的に経線、緯線を5度毎に、つまり経線に沿って72周、緯線に沿って36週し、更に中緯度、低緯度では経線の幅が広がるために赤道付近では1度毎にするなどして移動距離を増やす必要があるので、30日間、毎日16時間を音速の10倍で飛び続けたとしても微妙なラインだ。
 更に言うなら欧州・北米などや東・東南アジアの人口密集地帯。更にアフリカ、中東などの政情不安な地域、そして日本を重点的に監視網を強化するとなると、1ヵ月という期間を切るなら音速の20倍、約24000㎞/h位は欲しい。
 だが5000m走の世界記録の選手が無風状態で感じる風、つまり空気の抵抗。その100万倍以上もの圧に耐える障壁を作りながら、その速度を維持し続ける……想像しただけで気が遠くなった。

「──だけど、彼等が実際に事を起こそうとして止められるかといえば無理としか言いようがないし、責任も取れないし取る気も無い。俺は中学生に過ぎないし、父さんは自分の仕事の有る公務員だから」
 我が身の全てを投げ打って、世界のために知らない誰かのために尽くすなんて事は出来ないし、してはいけないだろう。
 個人の力によって護られ、その犠牲の上にしか成り立たない世界など遠からず必ず滅びる。世界とは全ての人々が汗と血を流し、犠牲を払いながら支えるものだ! なんてそれっぽい事を適当に思いながら話題を流す。
 世の中など、全ての人間が自分にとって本当に大事な人々を命懸けで守り、そこそこ大事な人々を適当に守っていれば、結局は多くの人間が互いに尊重しあえる社会が出来上がるというのが俺の持論なのだ。
 勿論その枠から外れる人間もいるだろう。だが、それはそれこれはこれである。全ての人間が救われないなら、それは間違いであるというならば具体的な対案を示してから抜かすが良い……聞く耳は持たんがな!

「大いなる力には、大いなる責任が伴う……スパイダーマンだったな。だが責任は権限とワンセット。権限無くして責任を負わされるならば、それはただの奴隷に過ぎない。だから映画の中のスパイダーマンは民衆の期待という名の鎖に縛られた奴隷のようにも見えた」
 父さん……スパイダーマンは良く知らないんだ。ほら蜘蛛男って響き自体が生理的に受け付けないんだよ。
「とりあえず、何かがあったとしても自分を守れる程度の力を父さん達には付けて貰いたいんだ」
「それなら涼はどうするんだ?」
「父さん……俺にはどうやって涼に切り出せば良いのか分からないよ」
「……あ、諦めるな隆。お前は涼のお兄ちゃんなんだぞ」
「涼の父親である父さんに任せるよ」
「涼は中学生の女の子という、一番男親が簡単には踏み入れ難い時期なんだぞ」
「……俺は今まで一度も涼の心に踏み入れたことが無いよ」
「右に同じ」
「大。お前まで?」
 兄貴も父さんに押し付ける気満々で俺に乗っかってきたために、父さんはいよいよ退路を失い苦い表情で口元を歪めた。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 エスロッレコートインの朝はやっぱり今日も早かった。
 窓の外から飛び込んでくる喧騒を無視して宿を出ると、市場で卵や野菜、果物にベーコンっぽい奴やソーセージ、ついでに屋台料理を調達すると、人通りの少ない場所で【迷彩】で姿を消して空を飛んで街の外へと出る。
 十年単位の昔、山火事でも起きて出来たのだろう木々の切れ目に降りる。
 そして中央付近を【分解】──有機物を分解して畑の肥料にする事が出来る。という将来俺に農業への道を歩ませようというシステムメニューの陰謀──で草や若木を枯れさせ、分解して平らな地面を作り出すと【所持アイテム】内から3人と1匹を取り出して、空手部の連中や2号とは違って少し丁寧に地面に寝かせてゆく。
 予め、森の中を移動する事もあるので動きやすく丈夫な格好で寝るようにと伝えておいたので、寝入った所を収納しに行った時は3人とも登山に行く時のような格好をしていたので問題は無いだろう。

『……おはようタカシ!』
 真っ先に目覚めたのはマル。起きて3秒で全力運転、俺の周りを元気に駆け回る。
『あっ! お母さんだ! お父さんもいる! ……マサルもだ』
 兄貴に関しては扱いが違う。特別扱いだな、羨ましくない。
『お母さん起こして良い?』
『顔に優しくスリスリとして上げなさい』
『分かったよ!』
 マルが母さんへと近寄り身を低くして母さんの頬に自分の頭をすり付け始めるとすぐに伸びた両腕がマルの首を抱きしめた……だが母さんは目を覚ましてはいない。
『捕まっちゃったよ』
『暫く起きそうも無いから捕まっておきなさい』
『は~い!』
 そう応えるマルの尻尾は嬉しそうに振れている。

 だが、そうなると俺が暇だ。他の家族が気持良さそうに寝ている中、どうして俺が黙って見守っていなければならないのだろう。
 そんな疑問を解消するために、兄貴を蹴り起こした。
「うわっ! 何だ!」
 驚いて跳ね起きる兄貴の脇に腕を差し入れて引き起こして立たせる。
「何するんだよ?」
「とりあえず散歩かな」
『散歩!』
 真っ先にマルが反応したが『マルは後でね』と告げると鼻を鳴らしながら、自分を抱きしめる母さんに擦り寄った。
「何で散歩?」
「決まっているだろ。兄貴が運痴で体力無しだから、レベルアップしても元の体力が無いと効果が少ないんだよ」
「そうか0に何をかけても0みたいなものか……誰が身体能力無しの植物状態以下だ!」
 勿論、そんな事は思っていても言ってない。
「それにしても散歩と言っても……どうするんだよ?」
 周囲は草木に囲まれている。
「はいこれ」
 愛用の剣を取り出すと差し出す。これなら兄貴が適当に振って草むらに隠れた石や岩を切りつけても刃毀れしないから。
「剣? これをどうしろと?」
「高村光太郎だよ」
「高村光太郎?」
「僕の前に道は無く……」
「僕の後に道は出来る……お前まさか?」
「剣で草木を薙ぎ払って道を作って歩き回れと言っている。他に誤解しようも無いだろうに察しが悪いな」
「……何時まで?」
「父さんと母さんが起きるまで……叫んだりして起こそうとしたらペナルティーを課すから」
 逃げ道を丁寧に塞いでいく。
「待て、父さんや母さんだって──」
「父さんは若い頃はしっかり運動していて、今でも身体を動かす事に全く抵抗を感じてない。鈍っていても兄貴とは土台が違う。それに身体能力が上がったら喜んでランニングとかを日課とするだろうから心配ない」
「か、母さんは?」
「母さんは、俺がいない時はマルをつれて散歩に出て3㎞以上は一緒に歩いたり走ったりしてるし、マルと一緒に買い物に行った帰りに遠回りして帰ったり結構身体を動かしてるから」
「……まさか家で一番体力がないのは俺なのか?」
「まさかも何も『ふざけた事を抜かしてるんじゃないぞ、このもやし以下の種粒が』と罵らなかった事をネットで掲示板に書き込んだら、世界中から俺の忍耐力に賞賛の声が届くレベルだよ」
「種粒……何でワールド・ワイドな賞賛が……」
 そう呟いて地面に膝を突いた……いや、膝を突くのは『散歩』を終えてからにして貰いたい。


 父さんや母さんが目を覚ましたので、とりあえず朝飯にした。
 市場で買った食材と、屋台料理を出して母さんに渡して作って貰う事にした。
 俺が用意したキャンプ用の折りたたみテーブルに向かって母さんが料理している間も、兄貴は意識を失いぶっ倒れたままで、マルが前足で顔を突いてもピクリとも動かない。
 父さんは朝飯の前に軽く運動しておくかと言って、俺から剣を受け取ると兄貴同様に剣で下生えの草木を薙ぎ払いながらの散歩を始める。
 剣道の素養があったのかは分からないが、兄貴と違って剣の重さに振り回されること無く、鋭く振りぬいて草木を切り倒しながら悪くないペースで歩いていく。
『お父さん! お父さん! 何それマルもやりたい!』
 料理中には絶対に近寄ってこないように母さんから躾けられているマルは父さんに構って貰いたくて追いかけていった。
 お陰で1人何もする事が無い俺はユキを可愛がり続けているのだった。

 さすがに、ここ最近のように『道具屋 グラストの店』へ家族でお邪魔して飯を食う気にはならない。遠慮というよりもエロフ姉妹の様な怪しい連中と知り合いだなんて家族には言えない。特に母さんには絶対に言えない。

「この卵の濃厚さは何だ?」
 母さんが持ち込んだガスコンロで作った目玉焼きの味に良いリアクションをする父さん。
 だが、あれがでっかいトカゲの卵だとは言えない……ついでに、昨夜の肉がオークとミノタウロスという人型モンスターとコカトリスという毒持ちモンスターの肉だなんて俺の口からは言えない。

 いつの間にか両親に言えないことばかり、こんなにも増やしてしまった……とりあえず、今日中に一気にレベルを上げて、2度とこちらの世界に来なくて良いレベルにしてしまうのが正解だな。


「今日は忙しいから、早速狩りに行くよ」
 食後、幸せそうな表情でまったりとしている3人に声を掛ける。
「忙しいって何を狩るんだ?」
「レベル60って、兄貴以外の人間なら戦場で無双出来るくらいの強さだから、そのレベルをたった1日で超えようとするんだ……さて何を倒すべきだと思う?」
「失礼な! ……そうだな、スライム?」
「異世界舐めるなよ」
 スライムと言っても本格的なファンタジーの登場するスライムではなく、某国民的RPGシリーズに出てくるスライムのイメージで言っているのだろう。
 大体、本格的な方のスライムは決して雑魚じゃないので、兄貴は二重にファンタジーな異世界を舐めている。
「じゃあ何だよ!」
「皆ご存知、龍、ドラゴン」
「異世界舐めてるのはお前だろう! 何処の世界にレベル1でドラゴン戦に挑む馬鹿がいるんだよ!」
「安心しろ。ただのパワーレベリングだから。戦うのは俺、兄貴黙ってみてるだけでレベルが上がる簡単な仕事だ」
「それなら安し──」
「だけど時々、流れブレスとか飛んで来て死ぬかもしれないから気をつけてな」
「どう気をつければ助かるんだ?」
「諦めろ、気づいたら死んでるから」
「おま、気をつけろと言ったのは何なんだ!」
「死んでもロードして時間を巻き戻すから生き返れるが、記憶は巻き戻らないから死の記憶にビビッてお漏らししないように気をつけろと」
「そんなの気をつけていても余裕で漏らすわ!」
「えっ?」
「えっ? って何? 素で不思議そうにされると怖いんだけど」
「他の皆は今までに2桁は死んでるけど誰もちびった奴は居ないから」
「お前のところの部員達と一緒にするな。俺は普通の人間だからな」
 いやだな僕らは何処にでもいる普通の中学生だよ……さすがにちょっと無理があるかな。

 さすがに今の3人に龍のいる場所まで移動しろと言っても無理なので、【昏倒】で眠らせて収納すると地図に記されている風龍の狩場へと移動する。
 そして俺が風龍を1体狩って見せて彼等のレベルを18にまで上げた。
「分かる。自分の身体や頭の中が変わった事がはっきりと理解出来る」
「分かるの?」
「分かるさ!」
「だけど今まで、誰もそこまで確信していった奴はいないよ」
「俺も、確かに変わったような気はするけど……」
「若い連中には分からない。日々身体も頭も衰えていくのが分かる父さんの年齢になると上向くなんて事は無い。常にどんどん壊れていく自分と向き合って生きているんだ。今のこの感覚が分からないはずが無い……」
 上を向いて感動を噛み締めている父さん。その目には薄っすらと涙が光っているようにも見えた。
「そうだよね史緒? ……史緒さん?」
 そう同意を求めるが、マルと一緒にユキを愛でていた母さんはそっと視線を外し「私にはまだ分からないかな?」と自分はまだ若いから一緒にしないで欲しいと言わんばかりの態度をとった。
 父さんも俺も、兄貴だって思う事はあったが誰も口にしなかった。父さんや兄貴が空気を読める男で良かった。それは父さんも兄貴も同じように思っているだろう。こうして男達(弱者同盟)の連帯感は無駄に強まっていくのだ。

「レベルアップ凄いな!」
 試しに全力で走ってみた兄貴が目を輝かせて叫ぶ。
 だけど『貧弱な坊やと女の子に笑われていた僕も、レベルアップのおかげで逞しい男と呼ばれるようになった』という訳ではない。レベルアップでどんな身体能力が増しても、兄貴の見た目は貧弱な坊やから1mmたりとも変化は無い。、だが今は、今だけはぬか喜びでも喜んでいて貰いたい。
「凄い! 凄いぞ俺!」
 長さ10m近くはありそうな倒木を両腕で頭の上に持ち上げてくるくると回ってる……思いもしなかった新しい自分との遭遇に脳内麻薬物質がドップドップと分泌されて溢れ鼻から流れ出しそうな勢いだ。
「今なら必死に筋肉を鍛えようとしていた連中の気持が分かる」
 分からなくて良いからあんたは勉強していろ……そんな俺の思いは虚しく、兄貴は自分がボディービルダーにでもなったつもりなのかポージングを始めた。
 ああ、そんなダブルバイセプスを決めても、その棒っきれの様な細い腕じゃ上腕二等筋は力瘤と呼べるほど盛り上がらないよ。見せられてもこっちが悲しくなるから止めて。
 サイドチェストはむしろ紙の様に薄い胸板を目立たせるだけだよ、もう恥ずかしいから止めようよ。
 次々と「ふん! ふん!」と気合を込めながらポージングを続ける兄貴からそっと目を逸らせると「キレてる!」「デカイ!」と棒読みの心の篭らない声援を送るのであった。

「見て見て隆。マルガリータちゃんこんなに可愛いわよ!」
 軽々と左腕一本でマルを抱き上げて、添えただけの右手はその首元をくすぐり続けながら母さんがドヤ顔でこちらを振り返る。
『マルね、小さい頃もお母さんにこんな風にして貰ったの憶えてるよ』
 マルも嬉しそうで良かったねとしか言いようがない……あれ?
「どうしたの?」
 首を傾げる母さん……その顔が、いつもより、いや先ほどよりも若い感じがする。
 待て冷静になれこんな時こそ、完全記憶の出番だろう。まず先ほどまでの顔を思い出して、そのイメージを今の顔と比較する……皺が、皺が少ないだと? それに豊齢線も目立たなくなっているのに頬の肉が全体的に2cmくらい上に持ち上がり──ともかくはっきりと若返っている。
 父さんはそれほど変わってないのに……つうか男は顔より生え際の変化の方が大きいよな、父さんも昔の写真との違いは主に生え際の位置だし。
 その上生え際の毛根が復活しても実際に毛が生え揃うのは数ヵ月後だから、多少若返ってもさほど変化を感じ無かったということか。
「母さん、若返ってるよ」
「えっ! 本当に?」
 素早くマルを地面に下すと、取り出したスマホで自分の顔を確認しながら「まあ! まあ! 私ったらどうしましょう?」と言ってニヤニヤしている。
『お母さんどうしたの?』
『ちょっと嬉しい事があったみたいだね』
『お母さん嬉しいとマルも嬉しいよ!』
 ……良い子過ぎて涙が出てきそうだ。この健気さ純真さを忘れずにずっと持っていて貰いたい……そうだ。母さんが若返ったならレベルアップによってマルの寿命が延びる可能性も高いという事だ。
 マルが30年も40年もずっと元気に行き続ける未来。それは何て素晴らしいんだろう。
 …………ちょっと待て! 何をほっこりしているんだ俺は。マルが40歳まで生きたとすると人間に換算すると俺達は200歳くらいは楽勝で生きる事になるぞ。
 これって大問題だろ。どうするんだ?
 空手部の連中や父さん達は、周囲から怪しまれるようになったら最悪でも夢世界の方に生活の場をシフトすれば、色々問題はあっても普通に暮らす事が出来る。
 だけど俺は……拙いだろ。絶対に拙いよ。変装をしてひっそりと生きる? いや現代社会では周囲の協力も無しに無戸籍の人間が密かに日本で生きていくなんてのは1年間とか短い期間に限るなら可能かもしれないが、何十年、下手をすれば100年もの間を隠れて生きるなんて絶対に無理だ。
 こうなったら将来医学部に進んで薬品の研究分野に携わり、人間の寿命を大幅に伸ばす不老薬の類を開発する必要がある。
 正直、そんな物を開発出来るとは思わないが他の人間の寿命を大幅に伸ばさない限り、俺の将来に安定した生活は存在しない。無理を通して道理を引っ込めてでも完成させないと北條先生との幸せな家庭は作れないんだ! ……不老薬と北條先生との結婚。さすがに無理を2つも通すのは本当に無理な気がする。


 父さんに倒した風龍の収納を頼む。
「こんな物が本当に?」
 尻尾から頭の先まで20mはある巨体を前にして圧倒されている……龍としてはかなり小さな個体なんだけどね。
「イメージの問題だけど、自分の何処かに仕舞い込むというのを想像したら多分無理だから。あくまでもシステムメニューが提供する巨大な貸し倉庫へと放り込むイメージだよ」
 自分の何処かにこんな巨大な物を入れるなんてイメージを出来るとするならば、そいつは頭のどこかがいかれている筈だ。
「そ、そうか……ジャンボジェット機の格納庫……ジャンボジェット機の格納庫…………よし入った!」
 今時ジャンボかよと思ったのはジェネレーションギャップではなく、単に先月くらいにニュースでジャンボジェット機が全ての航空会社の路線で退役したと聞いたからに過ぎない。
「本当に入ったのか……」
「英さん凄いわね」
 兄貴と母さんの温度差が激しすぎる。これがどれほど凄い事なのかを母さんがきちんと認識していないだけなのだが……母さんは暢気で良し。


「父さん……人間辞めちゃったのかな?」
 1周して3人の【所持アイテム】内に龍が1体ずつ収納されて、レベル39になったとこで父さんが血の気の退いた顔色でそう尋ねてきた。
「人間を辞める時の辞表は壜に詰めて海に流すのが決まりだよ」
「……そうか、まだ書いてもいないから大丈夫だな」
 俺の小粋なジョークを真剣な顔でスルーしてくれましたよ。
「父さん。魔法で空を自由自在に飛んでみたいんでしょう?」
「それは……飛んでみたいさ。人間誰もが一度は見る夢だから」
「そんな夢を叶えたら、もう人間じゃないに決まってるでしょう」
「人類の夢を叶えたら……人間じゃなくなる?」
「夢には叶う夢と、叶わない夢があって、叶わない方の夢を叶えたら、それは人間の枠を超えるって事だよ父さん」
「……やっちまったのか? 俺」
「とっくに、やっちまってるよ。母さんを見てみなよ。どう見ても20代くらいに若返ってるよ。父さんの生え際だって数ヵ月後には4cmは前進してるはずだよ」
「4cm……いや、父さんの生え際はそんなに後退していな──」
「いい加減現実を見つめなよ」
「大、お前まで?」
「3日もすれば、額に青々とした髭の剃り残し状態の帯が4-5cmの幅で出来るから、前髪を垂らすとして隠さないと大騒ぎになるよ」
「隆! 繊細な数字を勝手に増やすな!……そうか、確かに隠さないと拙いな。この歳になってイメチェンでちょっと若作りしてみたとか言い訳をしないと駄目なのか?」
「嫌なら、頭に包帯でも巻いて役所に行くの?」
「それは……」
「じゃあ、毎日剃れば良いだけだよ」
 俺が思っていても口にしなかった事を兄貴はあっさりと口にした。
「大! お前は父さんの抜け始めてから気付いた、なが~い友達を、いや親友を毎日この手で殺せというのか?」
 激怒する父さんに兄貴は「知らんがな」と応える。俺も知らんがな。


 2周目が終わり、3人の【所持アイテム】内には仲良く2匹の龍が収納されている。
 今回も20m程度の小さめの個体が揃ったのでだったので3人ともレベルは54で、そろそろ【伝心】が使えるレベルが近づいてきた。
「拙い。拙いよ父さん。母さんが若返りすぎてるよ」
 ぱっと見た目には20代前半と言われても納得する肌の張りと肌理の細かさだ。涼と並べたら歳の離れた姉妹と間違われても仕方の無いレベルだ。
「史緒が若くて美人で何が拙い! お前等も喜びなさい」
「英さんも、結婚する前の頃のように若くて素敵よ」
「素敵とか言ってる場合かっ!」
 ここは俺と兄貴が声を揃えて否定する。
「え~何で?」
「俺となんぼも歳が違わないような実の母親がいて堪るか!」
「いいから母さんは、老けメイクで誤魔化してね……そこから少しずつ周囲には分からない様にメイクを戻していくように」
「嫌よ折角、若返ったのに。それに老けメイクって何? 聞いた事無いわよ」
「ネットで調べれば多分すぐにみつかる。やっちゃいけないメイクのことだよ」
「ええ~~」
 若返ったせいで、そんな拗ねた様な態度が似合うのが性質が悪い。
「可愛いな史緒は」
「父さんは黙っててくれないか?」
「すっかりポンコツだよ、この人たち」
 俺達の抗議を他所に、2人でいちゃつき始めやがった。


 3周目が終了。今回は30m弱の個体が揃った事でついに目標のレベル61は超えて66にまで上昇しパワーレベリング終了した。
『本当に電話も使わないで話が出来るのね』
 ここまで、腕力が一気に強くなるとか、若返るとか色々なイベントを経て来て、未だに信じてなかった母さんが凄い。
『これでマルガリータちゃんとお話が出来るようになるのね』
『マルが【伝心】を使いこなせるようになったらね』
『どうしたら良いのかしら?』
『先ずは、システムメニューに書かれている字を読んで理解出来るようになってもらう必要があるから』
 嘘なんだけどね。
 システムメニューの機能の発動は、別にシステムメニューから選択する必要は合い。
 一度マルに上から何番目とか説明しながら【伝心】を発動させてどういうものかを理解させてから、後は【伝心】を使いたいと念じるように言えば使えるようになるだろう。
 だけど、そのやり方を憶えてしまうと、マルが文字や言葉を理解しようとする機会を完全に失ってしまう。
 はっきり言ってマルは勤勉な性格ではない。大型犬らしい大らかでのんびりとした性格であり、特に興味が無い事には目もくれないで、そんなことに時間を取られるなら昼寝を愉しむタイプだ。
 だからこそ、母さんと話をしたいと言う強い動機がある今だからこそ、それを利用して文字や言葉を憶えるための動機として役立てたい。
 多分、先に【伝心】を使えるようにしてから言葉や文字を教えた方が学習効果はずっと高いだろうが、絶対に難航して高い確率で失敗する。
 ここは母さんの力を借りて、マルに言葉と文字を身につけさせるというのが俺の結論だ。

「そういえばユキちゃんはどうするの? お母さんはユキちゃんともお話がしたいわ」
 言うと思ったが、それは承知しかねる。
「ユキはまだ小さいからレベルアップして力が強くなると色々と大変な事が起こると思うよ」
 俺の言葉に、その状況を想像して顔色を青褪めさせると「そうね半年か、もう少し落ち着いてからの方が良いわね」と答えた。


 日が傾くまで父さん達とマルに魔術と魔法の使い方。後はお約束の足場岩を利用した空中移動をレクチャーする。
 足場岩と浮遊/飛行魔法の組み合わせは速度と機動性を両立させる最高の技であり、俺の知る限りにおいて最高の空中での移動能力を持つ魔物であるグリフォンにさえも上回る事が出来る……もっとも浮遊/飛行魔法の速度が向上して音速を超えるようになったら、流石にレベルアップで向上した脚力を持ってしてもベクトルを大きく変えるのは難しくなるだろうが、それでもどんな戦闘機よりも鋭い機動が可能なのは間違いない。

 また兄貴は魔法の原理を理解すると随分と興味を持ったようで「面白い事が出来そうだ」というと、地面に寝そべるとノートを開いてカリカリと何かを書き始める。
 時折、愉悦の笑みを零すのが怖い。父さんや母さんも自分の息子の様子にドン引きだ。勉強が楽しいというだけあって、やはりどこかが壊れている人間だったようだ……何も異世界の岩山の上で本性をさらけ出す事は無いだろうと思った。


 夕方前にはエスロッレコートインに戻る。
 先日買っておいたマントを羽織った母さんが、市場をまわって食材を買い込んでいく……さすがにジーンズに、フードつきのゴアテックス製のジャンバーは異世界においてありえない。
 朝市と比べると、夕市は近隣の農家からしか売りに来ないので野菜や果物の品数は少なくなるが、それでも港で揚がった海の幸は朝市に劣らない品数が揃い、母さんは満足気に見知らぬ魚を売り手に尋ねながら色々と買い込んでいく……金を払ったのは俺だけど。

『隆、金は大丈夫なのか?』
 母さんには聞かせたくないのだろう【伝心】で父さんが話しかけてきた。
『大丈夫だよ。龍が売れれば大金が入るから……最近は俺のせいで供給過多で値崩れが起きないように買取を拒まれてるけど、今まで稼いだ蓄えで十分な大金持ちだよ。現実では使えない金だけど』
『……現実で使える金が欲しいのか?』
『欲しいよ。欲しいにきまってるよ。いきなり俺を含めて1000以上ものシステムメニューを持った人間が現れて、更に化け物しかいない別の地球に飛ばされて……明らかにおかしな事が起きている。前に話した大規模なテロ事件が多発するなんて事じゃあすまない何か大きな事が起こるという予感だけはずっとしているんだ。だから安心するためだけにでも、例え取り越し苦労となっても準備は欠かしたくないんだ。せめて家族全員が避難出来るシェルターを用意出来るだけの資金が欲しいよ』
 実を言うと既に家の地下では内緒でシェルターの建設が始まっている。
 【大坑】を使って家の庭に直径1m、深さ2m竪穴を作って、その真下に【巨坑】で直径3m、深さ6mの竪穴を作り、更にもう2段【巨坑】で竪穴を作る。
 そして深さ20mの地底で今度は水平方向へ放射線状に【巨坑】で穴を作っていくと直径14mの円盤状の空間が完成する。今度は空間の周辺マップで慎重に場所を確認しながら中心部に【巨坑】で竪穴を作り、その周囲にも【巨坑】を使い竪穴を横方向へと広げていく。
 大切なのは【巨坑】の穴を作る時に穴の位置にある土砂や岩は円柱状の横の壁方向へと押し出すために、壁の部分は圧縮されて強度を増すという性質を利用して、可能な限り中心から外側へと土砂や岩を排除していくように【巨坑】で穴を作る事。
 そうする事で、壁の強度が高まりシェルター全体の強度も上がる。
 天井や床部分も同様にして上や下へと押し広げながら強度を高めていく。
 そこまでしなくても、わが町は標高が200m以上の高さにあり、土地は肥沃とは正反対で10mも掘らずに硬い岩盤にぶち当たるので強度的にはそれほど不安は無いが念には念を入れてだ。
 そして出来上がったのは直径14m、高さも14mの広い空間だ。この内側に3-4層の居住空間を作り上げる予定だが、その先は資金不足で資材を調達出来ず一切手をつけていない。

 その気になれば、このシェルターは地下深く幾らでも広げる事は可能だ。地熱で温度が上昇するといっても大雑把に言って深さ1kmごとに40度程度の温度上昇なので、100m程の深さの方が快適で暖かいだろうが、そこまで作りこむ予定は今の所は無い。

 内部の居住空間を作りこむことさえ出来たら、水は【水球】シリーズで調達が可能だから飲料水を含む生活用水の確保の心配はないし、それを魔法で酸素と水素に分離すれば、閉鎖的環境を作り上げても酸素の心配は無くなる。
 食料は保存食を中心に【所持アイテム】内に確保しておけば問題はないし、夢世界で調達する事も出来る。
 他にもまだ幾つも問題点はあるが、一番問題なのは電力だ。
 魔法でも発電をすることは可能だが必要な電力を常に維持するのは現実的ではなく、電気自動車に搭載される大容量のリチウムイオン電池に魔法で充電するとしても数時間電力を供給し続けるのも面倒だ。
 一番良いのは、水を水素と酸素に分離した後それをタンクに保存して水素燃料電池で発電するのが良いのだが、何年か前だが価格はン千万円だったはずだ。数年で値段が下がったとしても、ン百万円はする。
 だが単純に金だけの問題ではない。タンクは補充時のことを考えると二系統が必要になるのだが、通常の家庭用水素燃料電池システムには水素タンクも酸素タンクも存在しない。
 都市ガスなどの燃料ガスを改質し一酸化炭素と水素を取り出し、水素と空気中から取り込んだ酸素を化合させて電気を発生させるので、そもそも保存用の大型タンクは必要が無い。
 燃料電池に直接、必要な量の水素と酸素をタンクから送り込むよう改良する必要がある。だがメーカーがそんな改良をしてくれるとは思えないし、してくれるとしてもその理由を、上手く誤魔化す方法が分からない。
 ちなみに酸素タンクが必要なのは、閉鎖空間で燃料電池が空気中の酸素を取り込めば死人が出かねないという理由だ。

『そうか、普通なら笑い飛ばすところだが、俺は今異世界にいるんだったな……何が起きたって不思議じゃないか……この世界の金(カネ)とは金貨とかあるのか?』
 夢世界の物価は食品など、特に調理、加工されていない食材は安いので市場の買い物では銀貨で十分なので金貨は出していない。
『本当なら金貨ばかりで銀貨や銅貨は端数だけにしたいところだけど、この世界は両替にはお金が掛かるから、どれも沢山持ってるよ』
 そう言いながら金貨を1枚取り出して渡す。
『なるほど……純度はどうなんだ?』
『金貨は他の金属を混ぜることはしてないみたいだけど純度は90%から95%とはっきり言ってブレもある。渡したのはこの国の金貨だけど、大体周辺国では同じ重さの金貨を使っていて1対1で交換されるから、他の国の金貨もあるよ』
 土属性魔術の【鑑定】を使えば手のひらに載る程度の物体の、成分とその比率を調べる事が出来る……相変わらず派手な攻撃に使えそうなのは無い。
 せめて各成分ごとに分離する事が出来れば凄い事が出来そうなのだが。
『さすがにこれはアンティークコインとして売るのも無理だな』
 そりゃあそうだ。何せ文字が人類の歴史上のどの文字とも違う上に、超古代、例えばムー大陸の遺物だなどと強弁するには鋳造技術が、素人目にも中世から近世の金貨なイメージで、有史以前の時代と言うほどに低くも無ければ、オーパーツと呼ぶほどに高くも無い。

『……金がないって辛いね』
『……お前は知らないだろうが金を稼ぐってのも辛いぞ』
 見事な切り返しだよ。
『そうだな……金を稼ぐなら、一つ思い当たる方法があるぞ』
『何?』
『言っておくが、限りなく犯罪だからな』
『という事は、捕まえようの無い完全犯罪の方だね』
『息子が察しが良すぎる! こんな事ばかり……』
『照れるな~』
『…………』
 そんな呆れた顔してないで突っ込んでくれないと恥ずかしいんだけど。

『要するに株のインサイダー取引だ。お前は現実とこちらの2つの世界を通して、1日に1度だけセーブを行う。そして1日の株価の変動の大きかった銘柄をチェックして、何が買いか売りかを決めてからロード。確実に儲かるぞ』
『限りなくじゃ無く完全に犯罪だよ!』
 公務員の癖に何を言っているんだ?
『……そうか、隆がちゃんとしたモラルを持っていてくれて父さんは嬉しいぞ』
『ちっとも嬉しそうじゃないよね? むしろがっかりしてるよね!』
『ぜ、全然がっかりなんかしてないぞ!』
 ……いや、すっげえしてるからさ。
『ちなみに俺は反対していないからね。どうせ捕まるのは父さんだし』
『息子が鬼だ……』
 父さんの教育と遺伝子に問題があったんだよ。

『合法的に金を稼ぐなら俺に任せて貰おう』
 突然兄貴が割って入ってくる。俺はきちんと父さんのみに相手を絞って【伝心】を使っていたが、父さんは【伝心】を使いこなせておらず、母さんを対象から除外しただけで兄貴には筒抜け状態で話していたようだ……年寄りって奴は新しいものを使いこなせないな。
『聞いていたのか?』
 聞かせてたんだよ。
『父さんの話だけだよ』
『うん、まあ……隆も取り合えず話を聞こうじゃないか』

 兄貴の金を稼ぐ方法とは特許をとるということだ。
 魔法を使いこなせるという事は、魔力と魔粒子の反応を通してリアルタイムで原子の位置やベクトルを認識する事が出来る。勿論、知能チートがあってこそ認識出来るのであって、普通ならば膨大な情報の波に飲まれて頭が追いつかないだろう。
『研究開発とはつまるところ"Trial and Error"の繰り返しだ。魔法は試行の部分をどんな高価な実験装置よりも短時間で行え、錯誤の部分から得られるデータも精密にして正確。つまり俺はどんな研究者よりも100倍は早く研究を推し進める事が出来る! 素晴らしい。素晴らしいぞ! 隆。俺はお前を弟に持って良かったと思ったのは今日が初めてだ』
 なるほど「今日ほど俺を弟に持って良かったと思った日はない」じゃないわけだ。
「それで、その研究開発とやらの成果は何時頃出来上がるんだい?」
「そうだな……1年ほどあれば」
「遅いわ馬鹿野郎!」
 次の瞬間、思いっきり殴った事を反省する日は、俺が生きてる限り訪れる事は無いだろう。



[39807] 挿話5
Name: TKZ◆504ce643 ID:545410f3
Date: 2015/09/23 21:58
 大会の閉会式をを終えて、選手達の応援の親御さん達の多くは即日飛行機で帰国の途に就いたが、選手達はホテルで1泊してからの帰国となった。
 中東諸国を中心とした大会で、中東以外の参加選手は招待選手だったために一流ホテルでゆとりのある日程が組まれていた。

「──以上、ミーティングを終了します。選手の皆さんは明日の帰国の時差に備えて早目に休んでください」
 ホテルの会議室でのミーティングという名の反省会を終えて、日本柔道連盟から派遣されたスタッフや各選手に同行した学校関係者が立ち去ると室内は選手たちだけになる。

 会議室に残っていた長家 イスカリーヤは隆に優勝のメールを送ろうと携帯を操作していた。
「あれ? リーヤ誰にメールしてるの?」
 イスカリーヤや涼にとって柔道部の先輩にあたる少女が、目ざとく突っ込みを入れていた。
「ふふ~ん、彼氏よ。カ・レ・シ」
 間違いなく隆の事なのだが、隆が聞いたら「この子は昔から妄想癖があって」と残念そうに語るだろう。
「えっ? リーア、あんた彼氏なんていたの?」
「結婚を前提に付き合ってるの」
「け、けっこん……重っ! 大体、そんなこと聞いてないし! ……うわっ勝手に陶酔して目をウルませてる! 何これ、リーアじゃないわ」
 イスカリーヤの変貌とも言うべき変化に少女は退く。
「先輩。リーアは時々こうなる病気なので気にしないで下さい」
「そ、そうなの? ……ところでリーアの彼氏って、涼も知り合いの人?」
「……さ、さあ? 多分、妄想かと」
 関わりあいたくなかった涼は、突然話を振られ顔を引きつらせながら答える。
「……知ってるでしょう」
「し、知らないし……」
「そんな分かりやすい嘘で誤魔化せると思うな!」
 少女は涼に抱きつくと身体中をくすぐり始める。
「やめて……や、やめてよ……」
 そう口にしながらくすぐったそうに抵抗する涼の姿に、同じ会議室に残っていた少年達は腰を10cmほど後ろに引いた。

「それでリーアの彼氏は誰なの?」
「リューちゃんは~リョーちゃんのお兄ちゃんなんだよ~」
 まだお花畑で魂が遊んでいる状態のイスカリーヤだったが、カクテルパーティー効果で無意識に反応し夢見心地な様子で答える。
 涼が舌打ちをするが後の祭りである。

「……涼。あんたのお兄さん? えっ? リーアと涼は従姉妹だから、涼のお兄さんとリーアは従兄妹……従兄妹同士で付き合ってるなんて……何かぐっと来るわね」
「馬鹿だ。ここにも馬鹿がいる」
 思わず涼が呟くと周囲も頷いた。
「何、何? 涼のお兄さんってどんな人? 格好良いの?」
「べ、別に、ただの軟弱な奴だから──」
「違うよ。リューちゃんは強くて格好良くて優しいよ」
「えっ、格好良いの? どんな人?」
 格好良いの一言に他の少女達も集まって、イスカリーヤを囲む。

「強いって、何か格闘技とかやってるの?」
「空手部で主将をやってて、とても強いの~」
「なんだ空手かよ、あんなの実践的じゃないな」
 うっとりしたように答えるイスカリーヤに、1人の少年が馬鹿にしたかのような口調で話しに割り込む。
 この少年、実はイスカリーヤに惚れている。小学生の頃には全国大会で顔を合わせたこともあったが、2年ぶりに今大会で再会し美しく成長した彼女に心を奪われてしまったのだった。
 そんな彼女に既に彼氏がいると知って、到底心穏やかでいられるはずが無かった。

「強いよ。それに柔道のルールで戦ってもここにいる誰よりも強いから」
 隆が聞いたなら「そもそも柔道のルールを知らんがな」と答えそうな事を、きっぱりとそう言い切った。
「そいつ幾つなんだよ?」
「リューちゃんは中3で、8月で15歳よ」
「ふざけるなよ! ここには俺を含めて、この年代で日本でトップの連中が集まってるんだぞ。同じ中学生が俺達より強い訳が無いだろう!」
 惚れた女が、自分が惚れる以前に既に他の男に心奪われていたとしても、いや奪われているからこそ柔道だけは負けるわけにはいかなかった。
「強かったよ。試しに空手部の人を投げてやろうとしたら、逆に簡単に投げられたんだから!」
「それはお前が油断しただけだろうが!」
「油断なんてしてないよ! 空手部の1人を好きに投げても良いって言われて、さすがに腹が立って、でも誰もその人が怪我をする心配をしてなくて、むしろ私が怪我をすることを心配しているみたいで、馬鹿にされてると思ったから、その人とは別の人が油断している所を投げてやろうと本気で行ったら、逆に手を取られて手首を捻られて、折られないように自分から跳ぶしかなくて……」
「……マジかよ?」
「私だって真剣に柔道に取り組んでるんだよ。こんな事冗談でも言わないわ!」
 イスカリーヤの言葉に、それまで騒いでいた柔道少年少女達は声を失った。

 しばしの沈黙の後、それまで騒ぎに加わっていなかった少年の1人が声を上げる。
「……そういえば、高城ってS県出身だよな?」
「そう」
「…………もしかして友引市?」
 涼は頷いて答えた。
「………………兄貴の中学って友北中?」
 涼は答えずに視線を逸らせた。
「……………………本当に友北空手部かよ」
「何だよ友北空手部ってのは?」
 最初にイスカリーヤに絡んだ少年が声を荒げて尋ねる。
「長家の言ってる事は、本当かもしれない……」
「だから何なんだよ。その友北空手部ってのはよ!」
「分かんないよ! そんなの俺にだって! ……噂だよ全部。全部、信じられないような噂ばかりだよ」
「……どんな噂だよ?」
「例えば彼等と道ですれ違うとヤクザは土下座して5分間、そのまま動かないとか……」
「そんな馬鹿な……」
 ちなみに半分は事実で、無謀にも大島にちょっかいをかけたヤクザがボコボコにされた挙句に「今後俺の顔を見かけたら、例えどんな状況であろうと、その場で土下座して自分が立ち去るまで絶対に顔を上げるな。もし上げたら、その中身が空っぽなお前の頭で考えに考え抜いた最悪な状況の10倍以上な目に遭わせてやる」と脅しつけられて、それを未だにそれを守っているヤクザが10人以上いるので、月に1回は友引市のどこかでその光景が見られるのだった。

「他には、毎年冬には雪山の奥に1人ずつバラバラに捨てられてサバイバル訓練をさせられるとか、3年生は卒業までに熊を素手で倒さないと留年させられるとか……」
 前半は事実だが、後半は事実無根だった。
「熊はともかくサバイバルは空手に全く関係ないだろ。出鱈目ばかりじゃないか! 大体、何処でそんな与太話を聞いたんだよ」
「友北中空手部の話は、俺達が小学生にテレビでも流れたニュースが元になってるんだよ」
「どんなニュースだよ?」
「今から6年前に、S県の工業高校が手段暴力事件を起こして大量の逮捕者を出したって話を憶えてないか?」
「いや……俺は憶えてない。誰か知ってるか?」
「確か、その事件が原因で高校自体が廃校になったんだよな」
「そうだ……確か100人以上の逮捕者を出したとか」
「100人以上って一体何が?」
「実際の逮捕者の数は150人近くだったらしいよ。その人数で友北中空手部の卒業生7人に返り討ちにあったというのが事実らしい」
「……はっははは、それは幾らなんでも嘘だろ」
「そう思うだろ? でも俺の実家は群馬だけど、友引市とは10㎞ちょっとしか離れてないんだよ。だから結構あの町の噂と人伝に入ってきてさ、どう考えても嘘とか思えない話ばかりなんだ。武器を用意してきた工業高校の連中に対して7人は素手で、しかも連中から家族や友人知人への危害を匂わせる脅迫状があったらしくて、それで7人は逮捕されず工業高校の連中だけが逮捕されたって話だけど、実は友北中空手部の指導者がヤクザだけじゃなく警察にも睨みの利く人物で、そのお陰で逮捕されなかったとか、工業高校のOBたちが関係する暴力団がその後いくつも壊滅したとか、地元の政財界の大物に口を利いて工業高校を廃校にさせたとか、そんな噂が幾つも流れてくるんだ」
 細かいところはとにかくとして、大筋で事実だった。
「く、くだらない。所詮は噂じゃないか! 俺は認めないからな!」
「そこまで言うなら試しに勝負でも挑んでみれば良いじゃないか、そうすればハッキリする。試してみてくれよ」
「……やってやるよ! 日本に戻ったら練習休んででも行って試してやるよ!」
 男には決して退けない一線が存在する。必ず後になって退いておけば良かったと後悔する。そんな一線が心の中に引かれているのだ。
 そして少年は果てしない後悔という名の海を越えて大人になる……無事に済むかどうかは知らないけれど。


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

今回はいつもより早く書けたので、前回言ってた挿話も書いてしまった。物語をたたみに入りたいのに余計なエピソードを増やす馬鹿。
ちなみに新しい作品も書きたいと言っていたけど、我慢出来ずに手をつけてしまった大馬鹿。

それはさておき、今回で本編と挿話を合わせて100話&100万文字達成。
やれば出来る子。やれば出来る子のTKZを今後ともよろしくお願いします。

名前ネタ
長家イスカリーヤ(おさいえ いすかりーや)
→おさいえ→ちょうけ
→ちょうけ い【す】かりーや
→ちょう【す】け いかりーや
→ちょうすけ いかりや
→長介いかりや→いかりや長介
故に彼女の初登場の台詞は「あっ! リューちゃんだ。オイーッス! 久しぶりだね」なのです。

では来月またお会いできれば幸いです。



[39807] 第95話
Name: TKZ◆45a565f0 ID:1d9cfc47
Date: 2015/11/17 19:25
 目覚めて最初に思ったのは、結局父さん達がルーセに関して一言も口にしなかった事だ。
 やはり精霊の干渉は徹底している。これでは干渉される範囲から移動して外に出るというのも不可能かもしれない。範囲から出る事ではなく、範囲自体が世界を網羅している可能性すらあるということだ……

 居間で父さん、母さん、兄貴、マル、ユキを順番に床の上に寝かせてから開始された目覚ましグランプリは圧倒的な早さでマルが優勝した。
『タカシおはよう! ユキちゃんおはよう!』
 マルは一瞬だけ俺に顔を向けて尻尾を振ると、すぐに伏せの体勢をとってユキに顔を寄せる。
『ユキちゃんふわふわ! 可愛いね、可愛いね』
 完全にユキに心を奪われている……俺もだけどな! マジでユキはふわっふわっ!

 次に目覚めたのは母さんだった。
「それじゃあ、後は母さんに任せてマルと散歩行ってくるからよろしく」
 その時マルは、仰向けに寝転がって逆さの状態でうっとりとユキを眺めていた。
『ユキちゃんはこんな風に見ても可愛い……』
 アホがおる! アホになる魔法を食らったアホがおる!

『マル散歩に行くぞ!』
 強い口調で話しかける。
『ユキちゃんも一緒に……』
『まだ寝てるからそっとしておきなさい。赤ちゃんは寝るのが仕事なんだよ』
『くぅ~ん』
『分かった。今日は久しぶりに思いっきり走らせて上げるから』
 そういった瞬間、マルの耳と尻尾がぴんと立った。
『本当?』
 先ほどまでのトロンとした目から、男前な顔つきへと変貌する……雌なのに凛々しすぎる。
 夢世界の方では全力で運動しているとはいえ、基本人目を避けての森の中なので地面を走るということはほとんど無い。
 マルとしても木々の間を跳躍しながら移動するのも好きなようだが、やはり地面の上を全力で走るというのは本能なのだろう。

 マルを抱かかえて【迷彩】で姿を消すと、窓から浮遊/飛行魔法でゆっくりと外に出て高度を上げると、そのまま北上して川沿いに移動する。
『高いねぇ~』
 俺の腕の中で暢気な口調で下の景色を見下ろしている。
『何処まで行くの?』
『この先にダムがあるから、その近くまで行けば道はダムへの一本道になるから、その区間なら幾ら走っても人に見つかることは無いよ』
『じゃあ、そこなら思いっきり走っても良いんだよね?』
『ああ、良いよ』
 以前マルが全力で走ろうとした時は止めたので、その後も機会が無く今日までお預けになっていた。

 目的の場所に辿り着いてマルを地面に下す。
 マルは鼻を鳴らして周囲の状況を確認する。俺もマップで周囲を確認して人や監視カメラなどが無い事を確認した。
『大丈夫?』
『大丈夫みたいだけど、本当に自分でマップ機能を使えるようになってね』
『……前向きに検討するよ』
『どうしてそういう事は憶えちゃうかな?』
『お父さんがお母さんに言ってたよ。こういう時に使うんだよね?』
 何やってるかな父さんは。
『時々お母さんもお父さんに言ってるよ』
 本当に何をやってるのかな、あの夫婦は!

 先日更にレベルを上げたマルの全力疾走は間違いなく失敗するだろう……うん、絶対失敗するね。
 体勢を低く構えて『行くよ!』と尻尾を振りながら能天気に俺を振り返ると、一歩、二歩と小さい歩幅でスピードを増して行き、十歩目を踏み切った瞬間、身体が浮き上がり、十一歩目が地面を捉えることなく空を切る。
『あっ!』
 慌てたマルは必死に後足を伸ばして地面を蹴ったのが致命的であり、下半身が持ち上がり、それに引っ張られるように身体全体のペクトルが一気に上向きになり、連続前方宙返り状態で道を外れて川とは反対の左手の森の中へと消えていった……俺の予想が外れたのは、落ちるのが川じゃなかった事くらいだった。

『楽しかった! マルは今のが気に入ったよ!』
 すぐにマルは葉っぱや折れた枝を身体中の毛に絡ませた状態で凄い勢いで戻ってきた。
 失敗を反省せずに楽しんでるだと? 確かにマルにはそういうところがある。
 もし「失敗を楽しめ」とどこかの大企業の創業者が言ったのなら、NHKかテレ東辺りが勝手に良い風に解釈して再現ドラマで放送しそうだが、マルの場合は含蓄も糞も無く本当に楽しんでしまっているので頭が痛い。
『今のもう一回やる! タカシ見てて』
『……』
 俺の返事を待つことなく、マルはダッシュすると先ほどよりも大きく跳んで森の中に消えて行った。
 そして再び戻ってくると、今度は川の方に跳んで濡れ鼠状態で戻って来て、そしてわざわざ俺の前でブルブルをやりやがった。
 嫌な予感がしていたので【操水】で飛沫を絡め取り直径3cm程の球にしてマルの鼻先にぶつけてやった。
「キャン!」
 驚いて飛び退くと首を左右に振って水を振り飛ばし、更に前足で水を拭う。
『タカシひどい! 意地悪駄目!』
『じゃあ、どうしてマルは俺の前でブルブルをやって水をかけようとしたの?』
『マルは水に落ちて冷たかったから、タカシに慰めて欲しかったの! だから一生懸命戻って来る時は気にならなかったけど、タカシの傍にきたら安心して、ムズムズしてきて止められなかったの!』
 ……確かにブルブルは犬にとって欠伸などと同じカーミングシグナルだった。
『でも俺も、目の前でブルブルをやられて水に濡れるのは嫌なんだよ』
『……そうなの? マル水浴び好きだよ』
 なるほど、マルは自分の行動を俺や家族は嫌がっていないと思い込んでいた訳か……なんて迷惑な。
『あれは水浴びと違うし、それに人間は服を着て水浴びしないの』
『へぇ~……分かったからマルを慰めて! 大丈夫大丈夫って撫でて!』
 この流れから慰めるの? ……まあ、慰めたんだけどさ。


「お帰り隆。マルガリータちゃん」
 俺達が散歩に出てから目を覚ましたのだろう母さんが、朝食の匂いと共に玄関で出迎えてくれた……エプロンの大きなポケットからはユキが顔を出して「ニャ~」と鳴きながら前足で手招きするように動かしていたけど。

「おはよう隆。マル」
 洗面所から顔をタオルで拭きながら父さんが現れる。
「なんだ……隆が言っていたルーセって言う女の子事だが、向こうの世界に居た時は少しも思い出せなかったぞ……全くどういう理由か分からないが気持が悪いな」
「だろうね……」
 俺としてはそれ以上何もいえなかった。


「じゃあタカシ。父さん今日は早く仕事を終わらせて帰ってくるからな!」
 何を言ってるんだろう?
「……別に父さんが早く帰ってきてもゆっくり帰ってきても俺は全く気にしないよ」
「えっ?」
「何がえっ? だよ。今まで一度も今日は早く帰ってくるとかなんて言われた事無いよ」
「だけど、ほらあっちの世界に行くのに……」
「もう行かなくても良いよね?」
「何で?!」
「……いや、もう十分レベルは上げたし、今の父さんなら何かあっても十分自分の身は守れるでしょう? それに俺も今日は向こうでやることがあるから、父さん達に付き合ってる暇はないんだけど」
 そう、ハイクラーケンの雷撃封じに、昨日買った針金が使えるのか確認もしなければならないし、更には奴がまだ隠しているだろう奥の手を引き出しておく必要もある。
「大丈夫、父さん隆の邪魔はしないぞ」
 必死に目でも訴えかけてくるが、休みの日に居間で寝転がって、掃除をする母さんに邪魔扱いされている男が言って良い台詞ではない。
「何で行きたいの? 言っておくけど父さんが自分で倒せる範囲の魔物を狩ってもレベルアップは無理だよ」
 今の父さんのレベルなら小型の龍なら1匹で精々レベルが2上がれば御の字といったところだ。しかしレベル的にはともかく、命のやり取りの経験の無い父さんに龍が倒せるとは思えない。
「別に龍を倒そうとまでは思っていない。だがお前が言うように今後何かあるとするなら、家長として家族を守るために戦う経験を積んでおきたい」
 そう言われると……なぁ。
「じゃあ、一緒に兄貴も連れて行くから、向こうで少し鍛えてやってくれる? 今のままじゃ折角の身体能力が意味ないし」
「えっ! 俺も?」
「分かった。大の面倒は父さんに任せろ!」
「あれ決定事項?」
 完全に巻き込まれた形だが、実際兄貴は少し鍛えておく必要があるのは確かだ。

「なら母さんは良いのか?」
「往生際が悪いぞ兄貴。母さんやマルを守るためにも長男としてしっかりして貰いたいという事だよ」
「長男扱いされた記憶は無いのに、ここぞとばかりに長男扱いぃぃぃぃぃ……」
「いや、俺はちゃんと兄貴を立てていると思うけど?」
「…………そうだな」
「涼に兄扱いされてないのは俺も一緒だし」
「そうだよ。妹におにいちゃん扱いされない悲しみの前では、弟に兄貴扱いされるなんて些細過ぎて記憶に残らなくても当然だな」
「お前はもっと弟に敬意を払え!」
 兄貴にボディーブロウを3連発で叩き込んだ後で「今日はさっさと帰って来るんだぞ、バックレても探し出して寝る暇無しで連れて行くから覚悟しておけ」と脅しつけてから家を出た。


 2時間目の授業時間になった直後に母さんから【伝心】で連絡が入ってきた。
『隆、授業中にごめんね。今大丈夫かしら?』
『まだ、奥田(社会科教師)が来てないから大丈夫だよ。それで何の用?』
『あのね、マルガリータちゃんは【伝心】を使えるようになったの』
『何だって!』
 俺が教えても一向に憶えようとしなかったあのマルが、僅か2時間程度で【伝心】を使えるようになっただと? 喜びよりも驚きと悔しさの方が遥かに大きいわ!
『だ~か~ら、マルガリータちゃんが【伝心】を使え──』
『どうやって?』
『どうやって? ……普通にやっただけに決まってるでしょ』
 違う。絶対に違う。俺と母さんでは普通にカテゴライズされている中身が全く違っている。
『俺はどんなに普通にマルに教えようとしても上手くいかなかったから』
『……ちゃんとおやつ上げた?』
『えっ?』
『だから、マルガリータちゃんの意識をこっちに向けたり、集中させるのにおやつを上げたか聞いてるのよ』
『そんな事しなくてもマルはレベルアップする前から、こっちの言う事はある程度分かってるくらい頭良いし──』
『はぁ……』
 何だろう。母さんが頭を抑えて首を横に振ってるイメージが流れてきた。
『……いい? マルガリータちゃんは人間じゃなく犬なのよ。犬に犬以上の事を求めては駄目なの』
『いや、でもね──』
『隆。犬というのはとても優れた生き物よ。優れた運動能力や、嗅覚など感覚器官。これは絶対人間には勝てない優れた生物としての能力よ。だからそれ以上のものを勝手に犬に押し付けてはいけないの。もしも隆のように犬に人間的な能力まで求めてしまったら、人間が存在する意味って何なの? という事になると思わない?』
 実に正論であって口を挟む余地が無い。しかし、一番マルをか可愛がっていたはずの母さんの感情を排したようなドライな考えに納得は出来なかった。
『母さんはマルの事を犬としか見ていなかったのか? 家族だと思ってたんじゃないの?』
『何言ってるの? マルガリータちゃんは大事な家族に決まってるでしょ。隆は犬なら家族じゃないとでも言うの?』
『そういうわけじゃないよ。でも家族というなら──』
『人間扱いしろって事? 隆、差別と区別は違うから、そこの意味を履き違えないでね。マルガリータちゃんはどう頑張っても人間にはなれないの、生物的に無理だって事くらいは理解出来るでしょう。犬だから人間と同じ食べ物は食べられないし、毎日身体を洗われるのは嫌がるし、毎日散歩に行かないとストレスが溜まって体調さえも崩してしまう。だからマルガリータちゃんが犬として幸せに生きられる環境を整えて上げるのが人間の義務なのよ。ただ可愛がるだけではなく、ちゃんと威厳を持って接して、叱り、誉めて、教えて上げないと家族という群れの中で自分の立ち位置も分からなくなってしまうわ。大体、英さんも大も隆も、マルガリータちゃんと遊んで構って甘やかすだけで、全然躾けたりしないで…………』
 説教が始まってしまった。
『……あっ! 先生が来たみたい』
 そう言って【伝心】を切った……勿論、まだ来てないけどな。


 4時間目の国語の授業において、採点を終えた答案が戻って来た。
「何があったんだ?」
 クラス1の秀才と誉れ高い橋本が俺を親の仇を見るかのような目で睨みつけている……そんなに睨むなよ悪いとは思っているからさ。
「これで3教科満点ってどうなってるんだよ高城!」
 後ろから俺の椅子の背もたれに自分の机をガンガンと当ててくる前田に、俺はゆっくりと振り返り笑顔で「お前が俺たちの練習に参加して血反吐を吐いて死ぬまで残すは2教科って事だよ」と応えてやった。
「待て! 俺はその賭けには応じてないぞ」
「元々はお前が言い出したことだし、そもそも俺はお前が降りる事を認めてない」
「えっ? 俺から賭けを持ち出したのか?」
「ああそうだ」
 嘘だけど。
「……やっちまった!」
 俺の嘘を信じて、がっくりと項垂れる前田を無視して、前を向くと教師のテスト問題の解説に集中する振りをした。
 正直、現代国語の問題に解説なんて必要ないというのが俺のスタンスだ。読み手が漢字が読めないとか極度に語彙が不足しているなど以外の要因で、書かれている文章の意味が読み取れないとするなら、それは全て書き手の無能が原因だ。そしてそんな駄文を教科書に載せた馬鹿が全て悪いと思っている。


 昼休みに空手部の3年生達と香籐は図書室に集まり勉強会を開いていた……ふっふっふ、お前等のやっている事は既に俺が1月以上も前に終えた事だ。
 なんて悦に入っていても仕方が無い。俺は時間停止を使えないこいつらのために、座って読めるようにと指示された本を取ってきて、読み終わった本を戻す作業に従事している。
 こいつらは時間停止こそ無いが、速読ってレベルじゃないほど凄い勢いで本の内容を頭の中に叩き込んでいく。はっきり言って開いたページを読む時間よりもめくる時間の方が3倍はかかってそうで、周囲の生徒からは気持悪そうな目で見られているが、普段から俺達に向けられている視線と大して違いが無いので誰も気にしていないのが悲しい。

『ところで高城の言う通りに満点狙いで全力でやったけど、クラスメイトの目が厳しいぞ』
 ページをめくる手を全く緩めることなく櫛木田が【伝心】で話しかけてくる。
『俺はかなり露骨にカンニングしたと仄めかされたな』
『だが気分は悪くなかったぞ。奴等の態度は何時もの事だし妬まれる方が遥かにマシだ』
 俺は最近北條先生へのクラスの連中の態度が好転し始めた事で、クラス全体の空気が変わりつつあるので、俺が満点を取り続けている事に関しては橋本以外は風当たりはさほどでもなかったが、それを口にすると自慢とも受け取られかねなく、こいつらは僻むだろうと思うと何も言えなかった。
『それで教師達は僕等に仕掛けてくると思うかい?』
『明日にもでも仕掛けてくるだろうな。お前達にカンニングの疑いがあるとか言ってな』
 楽しみだ。奴等が何処まで手を打って来るのか実に楽しみだ。ああ、出来るだけ足掻いて下種な手段を用いて俺達を陥れようとして欲しい。
 間違っても中途半端な真似をして、奴等を決定的な状況へと追い込むのを躊躇ってしまうような事だけは避けて貰いたい……躊躇う木は最初から無いんだから。
『奴等がそう言ってきたらどうするつもりだ?』
『疑うなら適別の問題を用意して来いと言ってやるさ』
『彼等がまともな問題を作ってくると思うかい?』
『おい、それって中学レベルではない問題を引っ張ってくるって事か?』
 紫村の突っ込みに櫛木田が驚く……俺としては櫛木田が内心の驚きを一切表に表さず、表情一つ変えずにページをめくり続けている事の方が驚きだ。
『櫛木田は素直な良い子だな。ひねくれ者の紫村とは大違いだ……俺としては是非そうして貰いたいな』
『失礼だな。僕ほど自分に素直で正直な人間は珍しいと思うよ』
 ……3秒ほど時間が止まった。
『本当に失礼だよ君達は……それで中学生に解けないような問題が出てきたらどうするつもりだい?』
『決まっているだろう。無回答だ』
『なら明日は、色々記録するための準備が必要だね』
『勿論、頼んだ』
 こんな事を言葉も無しに理解してくれる紫村が捻くれてない訳が無い。
『お前等2人だけで納得してないで説明しろよ』
 ……まあ、普通はこうだよな。こうじゃないと困る。

『つまりだ。呼び出しを受けて出頭後から全ての会話を記録する。奴等が出してきた問題は俺がオリジナルのシステムメニューの時間停止を用いて、携帯で撮影しておく。そして、俺達が無回答だった事に奴等がどう出るかで奴等の残りの人生がどうなるか決まるって事だ』
『ヒュ~……怖いな』
 田村の発言に俺以外が震撼した……田村は【伝心】で口笛の音を再現して伝えて来たのだ。でもマルは結構鼻を鳴らす音を伝えてくるので驚かなかった。

『お前、今一体に何をやった?』
『えっ? 俺何かやったか?』
『お前は【伝心】で口笛を音で伝えてきただろ。どうやったんだ』
『えっ? ……何となく?』
『もう少し具体的に言えよ』
『いや単に、気分的に口笛の一つも吹きたい心境だったとしか』
 漫画じゃあるまいし、口笛を吹きたい心境って何だよ?
『つまり、口笛を吹いたイメージで【伝心】を使ったと?』
『そんな感じだな』
『待てよ。イメージで伝わるなら……』
『顔文字は止めておけ』
『何故分かった?』
 嫌な予感がしたので櫛木田を止めたが図星だったようだ……伴尾。いきなりデスメタルを流すな!
『紫村! 人の頭の中に色んな意味で如何わしい動画を送りつけるな。お前の性癖になぞ興味は無い!』
『香籐君。まさか味覚まで伝えてくるなんて、凄いよ!』
 その後、収拾がつかなくなったが、【伝心】のイメージ伝達能力には大いなる応用性を秘めている事が分かった。これを使えばマルの教育も一気に進むはずだ。
 とりあえず母さんに【伝心】で……いや、また説教されそうだから帰ってからにしよう。説教されるなら父さんや兄貴を巻き込んだ方が俺の被害が小さくなる。

『……とにかく、教師達が穏便ならざる手を使ってきた場合は如何する気だ?』
『先ず問題がまともじゃなかったのなら、そのまま問題を回収して証拠として教師には渡さないという態度を示す。同時にそれまでの会話を全て録音している事を告げる』
『それで大人しく諦めると思うか?』
 俺の答えに、櫛木田は底意地悪そうな笑みを浮かべて、更に尋ねてきた。
『俺なら大人しく諦めるだろうが、お前は諦めて欲しいか?』
 先日以来、校長と赤原が学校から姿を消してしまった理由を知っていて、そんな馬鹿な真似をする訳が無いと思うが、学習能力がないのが馬鹿の馬鹿たる所以だから。
『いや、出来るだけ足掻いて傷を広げて貰いたいに決まってる。気に入らない生徒をいじめるなんて、教師にとっては極々些細な事で人生破滅してしまう馬鹿を見るなんて最高じゃないか』
 全く、空手部には俺を含めて筋金入りの捻くれ者が多いようで結構じゃないか。もっとも、それだけ教師達には煮え湯を飲まされてきたとも言えるわけだ。
『勿論、そんな事はないとは思うが、もし馬鹿が仕掛けてきたらどうするんだ主将さんは?』
『そうなると、多分今学期の3年生の授業は困ったことになるだろうな。何とか2学期までには居なくなった先生の代わりを用意しないと大変だな。そういえば校長も居ないしどうなるんだろう。この学校?』
『別に良いだろう。心配してやるほど親しいクラスメイトとかが居る訳じゃないし』
『お前達と違って俺には居るぞ』
 心外な言葉に反論する。

『見栄張るなよ高城』
『高城に友達? ナイナイ』
『主将には孤高が似合うと思います』
『俺には前田とか前田とか前田が居るから……』
 いかん、言ってて自分で泣きそう。
『うん、そうか友達を大事にするんだぞ』
 あれ、空手部部員以外に話をする相手すら居ない櫛木田に同情されちゃったんだけど、どういうこと?

『……そうそう、良い忘れてたけど、その前田と賭けをしていて、俺が今回の中間で全教科満点取ったら、前田を空手部の部活に1週間参加させるからよろしく』
 俺の言葉に奴等のページをめくる指の動きすら止まってしまった。そして3秒が過ぎて……
『友達を大事にしろと言ってるだろう。馬鹿なのお前? いや馬鹿なんだな!』
『いきなり俺達の練習に参加させるって鬼だ』
『いや友達だったらそんな酷い事はしようと思わない。つまり高城には最初から友達なんて居なかったんだよ』
『やっぱり主将は孤高でしたね』
 お、お前等……随分嬉しそうだな?


『お帰りタカシ!』
 放課後の練習を終えて家に戻ると背中にユキを乗せたマルが玄関で迎えてくれた。
「なぁ~」
「ただいまマル。ユキ」
 2匹の頭を軽く撫でてから居間へと向かう。
『あのね。マル、お母さんと話せるようになったよ!』


 夕食時……明らかに晩御飯のおかずの量がかなり増えている。
 母さんに視線を送ると「今日はお腹が減ったの」と恥ずかしそうに答える。
 父さんや兄貴の食欲も旺盛で、おかずはともかくとして炊飯器の中のご飯は瞬く間になくなり、追加でスパゲッティーを茹でる事になった。

「朝、時間の許す限り歩いてみようと思ったら調子が良くて、結局役所まで歩いて遅刻しそうになったよ」
「俺も大した息切れも無く学校まで走って行けたんだ」
 2人とも職場と学校には5㎞以上離れている。父さんはまだしも兄貴がその距離を走るなんて、もし俺がレベルアップのことを知らずに、その姿を見たなら兄貴の幽霊が走っていると勘違いするだろう……そもそも、自発的に走る兄貴と想像するだけで不吉だ。
「お陰で母さんの弁当だけじゃ足りなくて、おにぎりを買って食べたよ」
「俺も、だからお小遣い欲しい」
「そういえば隆はどうしているの?」
 手のひらを上にして差し出してきた兄貴の手を払い落としながら母さんが尋ねてきた。
「俺は朝食を多目にして後は我慢してるよ」
 最近は夢世界から持ち込んだ、屋台料理をこっそりと時間停止状態で食べてるけど。
「明日からおにぎりを作ってあげるから、給食が足りなかったら食べておきなさいね」
「母さん、俺はお小遣いが良い──」
 俺には全くの謎だが、どうすればこの状態で、再びその話を切り出そうと思ったのか余計な事を口にする兄貴。
 瞬間、母さんの右手が獲物を捕らえる蛇のように兄貴の顔面に伸びて指を頭蓋骨に食い込まんばかりに突き立てる。
「大は少し黙ってようね、良い子だから」
 レベルアップによって軍用ヘルメットを遥かに越える強度を持つ筈の兄貴の頭蓋骨が軋む音を聞きながら、何故か俺がコクコクと首を縦に振ってしまった……不思議だね。不思議じゃないけど不思議だね。

「そ、それじゃあ父さんは、あっちの世界に備えて風呂に入って寝るよ」
 子供達を庇う素振りどころか、躊躇いすら見せない見事な逃げを打つ。
『マサルは馬鹿。お母さんを怒らせるのは駄目』
 言ってる内容には同意するが、しっかり俺の背後に隠れて盾にしやがる。
「なぁ~う」
 唯一、膝の上に陣取り恐怖に固まった俺の手のひらに頭を擦り付けているユキの存在が正気を保つための命綱だ。

「あっ! そういえば母さん。【伝心】について面白い事が分かったよ」
 そう格好良い隆君は、この殺伐とした状況を打開する素敵なアイデアが閃いたのだ。
「……何かしら?」
「居間まで【伝心】は言葉としてのイメージで情報を伝える事が出来たんだけど、実はそれ以外の形でも情報を送れることが分かったんだよ」
「どういうこと?」
「例えば──」
 母さんが若い頃に聞いていただろう80-90年代にヒットしただろうポップの曲を【伝心】で家族全員に送りつけた。
「これって……凄いわね」
「やるじゃないか隆」
 父さんと母さんが食いついてくる。ちなみに兄貴にはまだ母さんの右手が頭に食いついている。
「それだけじゃなく、視覚情報もそのまま送りつけることが出来るんだよ」
 今朝のマルとの散歩の、マルが勢い良く走り出して跳んで行く場面を送りつける。
「まあ、マルガリータちゃんったら」
 頭の中で再生される楽しいペット動画に微笑む母さんの手から兄貴の頭が外れてボトリと床に落ちて倒れ伏した。
「隆、これは本当に凄いじゃ──」
「今度からは、父さんの帰りが遅い時に、これで今何をしているのか送って貰えば良いよ」
「──た、隆?」
 父さんが凍りつく。子供を見捨てようとした報いと呼ぶには、余りにも酷い仕打ちかもしれないが俺は気にしない。
「そうね、それが良いわ。ねえ英さん?」
 何が良いのか子供の俺にはワカンナ~イけど、母さんの笑顔の奥では有無を言わせる気は全く無い事だけは、動物的本能によって理解出来た。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 宿の木張りの床の上に父さんと兄貴を転がす。
 今日はマルもユキも居ないというのに、この2人とは……癒し成分が何処にも無い。むしろマイナス?
 【水球】を2つ発動させて2人の顔の上に落として起こす。
「ぶはぁっ! 何だ? 何なの!」
「げほっ、うぇ……水?」
 効果はてきめん勢い良く上体が跳ねる様にして起き上がった。

 2人にタオルを投げかけ、ベッドの上においたマントを指差す。
「おはよう。それは替えと予備のマントだから、前を紐で結んで閉じておけば父さん達の格好でもおかしく見えない……ただし足元はだめだから、金を渡すから靴屋でサンダルを買って、それからブーツを注文しておいて。後は適当に此方でも不自然にならないような服装を揃えて……食べ物はちゃんとした店や表通りの屋台で食べなよ。こっちの世界で汚な美味い店なんか探すと、食材に何を使ってるか分からないから」
「お、おう……それから、おはよう」

「じゃあ2人は【迷彩】で姿を消してから窓から出て行って」
 それだけを告げると部屋を出て、1階の食堂へと出ると朝食をとる。毎日、朝飯分も金は払っているのに食べてなかったからな。一度くらいは食べておかないと勿体無い。
 10分ほど待って出てきたのは、港町の宿だけあって魚料理だった。ソテーされた白身魚の表面に掛かっているソースの匂い……これは醤油? いや魚醤か。
 魚醤とは、魚だけではなく魚介類全般を長期間塩漬けにし、たんぱく質が発酵分解される事で生まれるアミノ酸による旨みとミネラル・ビタミンなどを栄養分を豊富に含んだ発酵調味料であり、古来より世界中の魚の獲れる海岸部などで多く作られてきた人類の友である。
 しかし、欧州においてはグルタミン酸を豊富に含むトマトの食用化、日本では大豆や穀類を使用する醤油の台頭でマイナーな調味料へと追いやられてしまったが。
 ちなみに、魚介だけではなく獣肉を使用したタイプも存在するが、中国で問題になった人毛醤油もその仲間と言って過言ではない。
 要はたんぱく質を多く含む材料を発酵分解しアミノ酸を作る化学変化が基本となった製造法であり、そもそも中国に限らず、日本でも人毛醤油は戦後の物不足の頃に研究されたりもしていた……コスト面で折り合わず、実用化はされなかったが。

 うん、醤油には無い深みもあるが癖もある。それに衛生管理という概念自体の欠如から入り込む雑菌の影響で、僅かだが臭みと雑味がある……だが、それすらも有りと言えば有りだ。 加熱無しで口にするには難があるが加熱調理後ならむしろ正解だとさえ思えてくる。


『それじゃあ、これからセーブを実行してから実験に入るから、しばらくは危険な事はしないでおいて欲しいんだけど大丈夫?』
『ああ、問題ないが何をするんだ?』
 ……まあ当然聞かれるよな。
『ちょっと危ない実験。死にそうならロードしてやり直すつもりだけど』
『待ちなさい隆。どんな事をするのか言ってもなさい』
 だから今日と明日は連れて来たくなかったのに……

『つまり週末にハイクラーケンという大物を狩るのに、下調べに色々と相手の情報を探ろうとしていた訳か……』
『まあ、そういう事だよ』
 これは止められるな。
『なら実験は父さんがやろう。父さんなら死んでも隆がロードすれば問題無いようだし』
『いや、それはどうかな? 普通の人間にはトラウマになりかねないし』
 空手部に1年以上在籍した人間を俺は普通の人間だとは思っていない。
『馬鹿を言うな! 息子が命を危険に晒すような真似をするというのに黙って見過ごせる親があるか!』
 現実世界で俺と兄貴を見捨てて逃げようとしてなかったら、その台詞に感動しただろう。
『大体、隆はどんな実験をするつもりなんだ?』
 実験と聞いて黙ってられないのが兄貴だった。
『ハイクラーケンは天候を操作して雷を落す。それを避雷針代わりに──』
 俺の考えを披露すると『ふっ!』と鼻で笑われた。
『確かに触手を避けるために高度をとる必要があるのは分かった。にわかには信じられないが天候を操作すると言うのも大負けに負けてよしとしよう。だけど結局は何処で空気放電が始まるか分からない状況で1本の避雷針(w)で避けられると思ってるのか? それに失敗して直撃を貰って耐え切ってロードする余裕があると思ってるのか? ……馬鹿だろうお前』
 兄貴め、(?)なんてイメージまで上手い事送り付けて煽るとは芸が細かいじゃないか。
『どうせ気候操作と言っても空一面に雲を作り出すなんて神懸かった真似は出来ないだろうから、狭い範囲に強い上昇気流を発生させて積乱雲を作り、何らかのトリガを発生させて自らのタイミングで落雷を起こすって事だろ。だったら簡単だ積乱雲の下限より上の高度を維持して水平方向に移動すれば落雷を受けることは無い。横方向へ雷が放たれるには他にも雲が横並びで発達している必要がある。幾ら魔法とはいえ一瞬で積乱雲を発生させるのは無理なんだから、上昇気流を感じたら高度をとって安全位置に移動しろ』
『おお、やるな兄貴』
『それから、安全地帯で雷が落ちた時にハイクラーケンがどのような行動をとるかを確認しろ。海に潜ったなら雷の直撃を避けているという事で、直撃を食らったら自分もただではすまないって事だし、そのまま潜らないなら確実に落雷を受けるはずなので雷は奴自身には効かないって事だから、高度1000m以上から岩を正確にハイクラーケンの上に落す方法を考えろ』
『潜った場合は?』
『奴がどの程度の深さまで潜るのかを確認しろ。それより長い鉄筋を奴に突き刺して海面上に、そうだなハイクラーケンが潜るなどして立つ波の高さを考えて2-3m程度飛び出すくらいの長さがあれば、必ず雷はハイクラーケンに落ちる。雷は地面の上に設置された物体の中で1cmでも他より高い物体に落ちるから、波以外に海面上に高い部分が存在しなければ鉄筋に落ちるしかない……まあ、お前も上昇気流を気にしながら触腕を避けるのは大変だろうから、雷に関してはもう少し根本的な解決策を考えておいてやるから、今日は安全地帯に逃げて、その後にハイクラーケンがどういう手段に出るか観察しておけ』
『駄目だ隆。それは父さんがやるからな』
『そうだぞ。お前が死んだら俺と父さんも現実世界に帰れなくなるんだ。死ぬのは父さんにやって貰え、父さんなら何十回死んでも大丈夫だ』
『……別に進んで死ぬ気は無いのに、家の長男が酷すぎるだろ』

 1時間後、父さん達の合流を待ってセーブを実行した。

「はい死んだ! 父さん死んでしまったぞ!」
 父さんの浮遊/飛行魔法を扱う能力では、まだハイクラーケンの触腕の攻撃を避ける事が出来ずにあっさりと死んだのだ……それにしても何故そんなにテンションが高い?
「じゃあ次は兄貴で」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 まさか自分が指名されるとは全く考えていなかった兄貴は、断末魔の如き叫びを上げる……ハイクラーケン相手なら、叫び声を上げる暇すらないだろうから今の内に思う存分上げておくと良いよ。
「何で俺?」
「想像以上に父さんの浮遊/飛行魔法が下手だったんでチェンジとなると、他に選択肢が無いから」
「無理無理、俺は肉体派じゃないから頭脳派だから、無理、絶対に無理」
「魔法は肉体に関係ないから。首から下は脳の生命維持装置に過ぎない兄貴でも大丈夫……理論上はいける」
「何処にも理論無いし……それにしても上手い例えだな」
 ……100%悪口だというのに、こいつ感心しやがった。恐るべき自覚とでも言えば良いのか?

「はっはっはっはっはっ! 死んだぞ。俺死んだぞ!」
 この辺は親子なんだなぁ~と思わせるロード後の似たような反応だ。
「それで何か掴めた?」
「いや全然、気付けば脳がシャットダウンしていくというかその瞬間を感じた! これは何と言うか、どう役立てたら良いのかまだ分からないけど凄い経験だ。多分、脳を専門に研究している人間なら羨ましがるんじゃないか?」
 そうか、父さんも兄貴も自分がどう死んだのかも分からない。痛みも無く、そして真っ先に頭を破壊されなかったので死ぬ瞬間だけを味わったからこんな感じなのだろう。
「言っておくけど、身体中の骨を砕かれたり、手足を切り飛ばされたりとか、楽じゃない死に方もあるんだから死を簡単に考えるなよ……下手をすればトラウマどころか廃人状態もありえるんだから」
 ただし、1年生以外の空手部部員は除く。
 はっきり言って、香籐以外の空手部の2年生達にも是非体験させてあげたいと思っている……これは強制だ。


 結論として、雷をクラーケンに直撃させるのは意味が無い事が判明した。水バケモンの癖に電気攻撃が無効だなんて、全世界のバケモンファンが怒りの声を上げるぞ。
 そしてハイクラーケンのもう1つの引き出しの中身も分かった。
 俺も平行世界で超空の要塞B-29(仮)を撃墜するために使ったダウンバーストを起こしやがった。
 崩れ落ちる積乱雲に巻き込まれた空気が起こす風に引きずられて吸い込まれて地面に叩きつけられて死んだ父さんは、ロードで復活した瞬間「チョー! スペクタル!」と全力で叫んだのでトラウマなどの心配は無いが、別の意味でかなり心配だ……母さんに報告すべき事案なのかもしれないが、正直に話すには勇気が必要だ。俺自身正面から受け止める自信が無い。

「どうやら、奴は自分の真上にしか積乱雲を発達させられないようだ」
 父さんの後に自分もダウンバーストに巻き込まれた兄貴がそう結論付けた。
 ちなみに兄貴は「良いか、俺が地面に叩きつけられる前にロードするんだぞ。絶対だぞ。これは振りじゃないからな!」としつこく念を押してきたので死んでいない……だけど4回に1回くらいの失敗は許されるんじゃないかと俺は思っている。
「それに積乱雲も普通のものよりずっと範囲が狭いのに成層圏にまで届く分厚いという異様な形だよ」
「つまり、単に上昇気流だけを起こしているわけではなく、何らかの魔法的な制御が行われていると考えるべきだな……良い方法は思いつかないか?」
 兄貴の言葉に俺は頭を捻るがそう簡単に対応策は見つからない。
「一瞬の魔法制御なら阻害する方法はあるけど、継続して行われる魔法制御を崩すのは難しい。ハイクラーケンは雷の発生トリガもかなりの遠隔操作で起こせる事から【場】自体を遠くに設定する事が出来るのかもしれない」
 発動した魔法の現象を維持し離れた場所にまで現象自体を移動させるために、場によって与えられた操作により離れた場所にまで魔力と魔粒子を移動させるのが俺の魔法の前提であるのに対して、ハイクラーケンはどうやら離れた場所に【場】を発生させられる様だ。

 俺自身離れた場所に【場】作る練習はしていて日に日に伸びている。多分この調子なら最終的には100mは無理だろうが50m位まで伸ばす事は可能だと思う。今はまだ20mにも及ばないほどの遅々たる成長だが。
 しかしハイクラーケンの【場】は本体より10㎞以上離れた場所でも発生しているようだから比較にもならない。この決定的な違いの理由は何か?
 単に魔力の問題だけなら魔力番長としては魔力だけはハイクラーケンにも負ける気は無い。
 ならば何が原因か? すると身体のスケールの差ではないだろうかという斬新な閃きが浮かんだ……疲れているのかな?

「まあ良い。ダウンバースト自体は雷と違って発生してからでも避ける事は出来る。根本的解決も考えてみるが、現状では避ける方向で作戦を立てるんだ」
 実際、現時進行形で父さんを巻き込んで発生しているのは、ダウンバーストの中でも範囲が狭く、その分強力なマイクロバーストと呼ばれる現象であり、高度1万m以上から落ちてくる空気の塊が、積乱雲を発達させる上昇気流とぶつかり合う事で、より圧を高めてから一気に吹き降ろすので、発生する前から予兆はあるので、超空の要塞B-29(仮)の様な機動性皆無なのとは違って俺が受けることは無い。
 ちなみに父さんが巻き込まれているのは、どの程度の距離なら安全か調べると称して遊んでいるからだ。地面と激突する直前に俺がロードするからと安心して。

 伸びる触腕に落雷、そしてダウンバーストが判明した奴の奥の手だが、俺はまだ隠してある可能性が高いと思う。
 それはもっと接近した時に使う奥の手。そして海面に落ちた相手に使うような何か、更には海中の敵に対して使う何かも当然あるだろう。
 だからこそ、触腕の届かない高さから葬り去る方法を考えるべきなのだろう……


 その後、父さんと兄貴のオーガ狩りを実行して貰う。
 さすがに2人のレベルなら、オーガ相手には全く引けをとらないはず……兄貴が引けをとらないのは逃げ足の速さだけだろうけど。

 父さんは、対格差から完全に油断しているオーガに対して、ゆっくりと周囲を左へと回り込み続ける。
 その油断ゆえに身体の向きを変えるのに無造作に右足を外へと踏み変える時に、膝の伸びきった右足に体重が乗る。
 父さんはその隙を見逃すことなく右膝へ体重の乗ったタックルをして間接を破壊する。
 痛みに膝を抱えたオーガの背後に素早く回りこみ、背中を登ると首を締め上げると「大! お前が止めを刺すんだ!」と叫ぶ。
「……」
 兄貴の顔が表情筋だけで「何言ってるのか分かりません」と語っている。
「早くしろ! 何時までも持たないぞ。やらなければ2人とも死ぬぞ!」
 オーガの力が今の自分に比べて、弱くは無いがそんなに強くないという事は分かっているはずなのに父さんノリノリです。
 一方で兄貴は追い込まれてオロオロしている。チラチラと俺に助けを求めるように視線を向けてくるが俺は取り合わない。
「急げ! 急ぐんだ大!」
 正直もう吹き出しそうなのを堪えるのが苦痛なレベルなんだけど我慢する。
「た、頼む大! ……もう……」
 腹筋が激しく痙攣する。
 だが我慢の甲斐あって兄貴が行動に出る。
「うわぁぁっ、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 貸してやった決して壊れない不思議な剣を力任せに鍬を振り下ろすようにしてオーガの頭に叩きつける……おいおい、中学校で剣道を習ったはずだろう。
 はっきり言って仮にも剣を振り下ろす形ではなかったが、現在の兄貴の腕力で思い切り叩きつけただけあって刃筋は通って無かったが、オーガの頭蓋骨を砕いて中まで食い込んだ……普通は剣が折れるんだろうが、流石は不思議剣だ。

「うぇ、えっえっえっ、ぐうぇぇぇぇぇぇうぇぇぇぇぇぇぇ……」
 兄貴は自らの手で為した事に驚くと2歩3歩と後ずさりし、やがて膝から崩れ落ち両膝両肘を地面に突くと、胃の中の朝飯を材料にして大きなもんじゃ焼きを作っている。その姿を見てまだまだ可愛いものだと生温いで見守る。
 俺がこんな状態にならずに済んだのは、空手部の合宿で罠で捕まえた生きたウサギを締めて解体するという経験もあるが、生きる事とは戦う事だと、こちらの世界で最初に出会った敵である3頭の狼達に教えられたからだろう。
 むしろこの状態で平気な顔をしている父さんが不思議だ。例え45年生きようが普通なら今の状況に匹敵する様な体験はしないだろう。
 この一見するとただのオッサンに過ぎない一介の市役所勤務の公務員である父さんが、どのような人生を送ってきたのかちょっと興味が出た……勿論、今まで父さんの過去について興味を持ったことなど一度も無いよ。

 オーガ狩りも5体まで倒すとさすがに兄貴も吐く事はしなくなった……慣れたというより、もんじゃの材料がなくなったようだ。
「大は駄目だな」
「駄目だね」
「これが普通! 普通なの! おかしいのは父さん達だろ! 何だよそのスプラッター耐性は?」
「俺の場合は、兄貴と違ってこっちに来て3頭の狼に襲われて、両腕をズタズタにされて殺されかけたせいで、他の命を奪うのは良くないとかそういう考えは速攻で捨てたし」
「……」
「俺が最初の洗礼で学んだのは、生きるって言うのは生存競争に勝ち残るってという事で、負けたら死ぬって事だよ」
「……弟が歴戦の兵(つわもの)の様な空気を醸し出している件。駄目だ送信出来ない!」
 現実逃避にネット掲示板にスレ立てしようとして、ネット接続が出来ずに暴れてる。
 まあ無理も無いのだが、むしろ吐きながらでもオーガを倒し続けた兄貴のメンタルには敬服する。

「ところで父さんはどうして平気だったんだ?」
 疑問を口に出してみる。
「それはまあ……父さんにも色々あるんだ」
「色々ってなにさ?」
「秘密だ。格好良いお父さんには秘密の1つや2つあるものだ」
「キモイ」
「2人して即答! えっ何、父さんがキモイっていうの? もしかしてドッキリ?」
 何だその有り得ないといわんばかりの表情は? 何処から見てもキモイ親父だろ……はっ! これはまさか──
「父さん。煙に巻いて誤魔化そうとしてるだろ?」
 俺より一瞬早く気付いた兄貴が突っ込んだが、父さんは下手糞な口笛を吹いて誤魔化す……絶対に言う気は無いようだった。
 予想通り、兄貴が突っ込み続けるが父さんは言を左右にしてまともに取り合おうとしない。
「兄貴、無駄だよ。これは生きるか死ぬかの状況で『話せば助けてやる』とでも言わないと駄目だ」
「……そうだな」
「ちょっと待って! 何物騒な事を言ってるんだ? 大体、父さんが命が危険に晒されても質問に答えないと助けないってどういう事? 父さん子供の教育間違った?」
「……そもそも涼がああなったのは父さんが甘やかしたのが最大の問題だったと俺は思っているよ」
 兄貴の言葉に俺は大きく頷いた。
「そこから駄目出しだった?」
 自覚無いのか? 涼の暴力的な傾向を抑えるよう躾けるのは兄より親の責任が大きいのに、全く手を打たず可愛がるだけ可愛がったのは父さんだ。
「それが我が家の最大の問題だろ」
 今度は俺の言葉に兄貴が大きく頷いた。
「いつの間にか1対2。完全にアウェイ?」
「父さん、そもそも父さんは家庭内で完全にアウェイでしょ。家庭内に居場所の無い男親の姿を見せられるにつけて、俺達も男として結婚というモノに幻想すら持てなくて困っているよ」
「兄貴それは言い過ぎだ」
「た、隆ぃ」
「本当の事だからこそ言葉を選ばないと駄目だろ」
 一瞬俺が庇ってくれたのだと希望を抱いたのだろうが、俺は止めを刺した。
「……そうだな。ごめん父さん言い過ぎたよ」
 そして本気で謝る兄貴の姿が駄目押しだった。
「畜生グレてやる!」と叫びながら父さんはエスロッレコートインへと一目散に飛んで行った。

「……逃げたな」
「そうだね逃げたね。ああまでして隠したい事って何だろうね?」
「どうせ大した事無いだろ」
「隠したい理由は大した事無いかもしれないけど、隠している内容自体は大した事あると思うけどな」
 父さんからは鬼剋流や北條流の親子のような血生臭いに何かと関わりがあるような気がしてならない。
 想像するだけでも嫌だな。もし俺が将来普通の家庭を持ったとしてで、直接ではないとしても鬼剋流と関わりがある事は家族には絶対に話さないだろう。
 ……………………はっ! ま、まさか?


 兄貴に戦い方の基本を教える。
「戦うって事は躊躇わない事だと思うんだ」
「躊躇わない?」
「そう。孫子は『勝利の軍は開戦前に勝利を得ている』と言い、 ブルース・リーは"don't think feel"と言った。つまり考えたり悩むという行為は戦いには不要。勝つためには、勝利のためには悩む考えるなどを含めて全ての準備を戦いの前に終わらせておく必要がある。」
「だからどういう事なんだ?」
「個人レベルの戦いにおいては、考えなくても身体が勝手に動くくらいに徹底的に身体に憶えこませるって事だよ」
「嫌な予感がする。いや嫌な予感しかしない!」
 それ、マサル正解と書いて大正解。

 2人きりになった俺と兄貴は特訓を開始した。
 まずは戦えと言っても無理だろう。全くその手のセンスが無い。それどころか身体を自分の頭の中のイメージに沿って動かすという事が出来ないのだ。
 だから俺は【所持アイテム】内から足場岩を取り出すと、気合と共に突き出した拳を叩きつける。レベルアップ前の俺なら拳が砕けても決して破壊する事の出来ない重さ1tにも及ぶ大きな岩を一撃で、3つの大きな塊と、無数の小さな破片へと変えた。
「……な、何をするんだ?」
 突然目にさせられた、力と破壊の光景に兄貴の顔にはくっきりと怯えの色が浮かんでいる。
 俺はその言葉を無視して、更に大きな岩の塊にも拳や踵を叩きつけて砕いて、出来上がった砂利状の石を手当たり次第に収納する。
 そして【所持アイテム】の検索機能で2-3cm程度の小石だけを取り出し、それ以外の石とは別の【礫】としてカテゴライズして収納する。
「おれはこれからこの小石を兄貴に向かって投げつけるから、それを避けて貰う」
「ちょっと待て! 普通もっと何と言うか基礎的な何かから始めないか?」
「どうせ、兄貴には攻撃以前に身体を動かすという理が頭にインストールされてないんだから、攻撃を避けるという行動から身体を動かすという事を学んで貰いたい」
「いきなり理不尽だ!」
「戦いとは何時だって理不尽だ。道理を尽くして理解しあうのを止めて、残った溝を暴力で埋めるんだよ。理不尽に備えるための訓練メニューが理不尽であっても仕方が無いだろ」
「思わず納得しそうになったけど違う! 別にちゃんと道理を立てて効率の良い訓練メニューを時間をかけて考えよう……な、隆」
 その言葉への俺の答えは、梨の礫ではなく石の礫だった。
「痛っ!」
「痛いのが嫌なら避けてくれ」
 更に俺は小石を投げつける。
「痛えっ! 痛いって!」
 無視して更に投げつける。
「イッタァァっ! ち、血だ……お、覚えてろよ!」
 額に小石を受けて、押さえた手に血がついていたのを見て、叫びながら4発目の小石を避けて走って逃げ出す。
 正解だ。距離を開ければ威力も弱まり、さらには追いかけながら投げるなら命中率も下がる事が期待出来る。ただ問題は、俺の方が足が速く、それに走った程度では狙いは外さないという事だ。

 走って追い詰めると、
「痛い!」
「適当に避けるな。俺の腕の動きから石が飛ぶ方向を見極めろ」
「本当に手加減無しの特訓だな! アタッ!」
「この特訓を乗り越えたなら、兄貴には更なる猛特訓が待っている!」
「人でなし!」
「大きく避けない。俺の手を離れた石がたどるコースを見切った上で、必要最小限に安全マージンを加えて避ける」
「先生! 何故必要最小限の動きと安全マージンを分けるのですか?」
「良い質問だ。正確に見切るために石を避けるための必要最小限の動きと、安全マージンのための動きを区別して意識するのはが大事だ。慣れると無意識に身体が動くようになる」
 結局特訓は、無意識に身体が動くようになるまででは無く、意識しても身体が動かせなくなるまで続いた。
 僅か数時間だが、兄貴の普段の運動量を考えると1年分と言っても過言ではないほどの濃厚な時間だった。


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
>読み手が漢字が読めないとか極度に語彙が不足しているなど以外の要因で、書かれている文章の意味が読み取れないとするなら、それは全て書き手の無能が原因だ。
……そ、そんなこと無いよね? 無いって言ってよぅ。



[39807] 第96話
Name: TKZ◆45a565f0 ID:1d9cfc47
Date: 2015/11/17 19:27
 朝の目覚めは睡眠時間は十分とはいえないのに相変わらず調子が良い。単純にレベルアップの影響なのだろうか? それとも意識があちらの世界に行っている事が、俺の身体にも何か影響があるのか?
 前者ならまだ良いのだが、後者だとすると何か怖い。

「おはよう」
 リビングから流し台の前に立つ母さんに声を掛ける。
「おはよう」
 包丁仕事をしている母さんは、こちらを振り返ることなく返事をした。

『タカシおはよう』
 マルは寝床の中でお腹にユキを抱いた状態なため動けず、こちらに顔だけを向けて挨拶してきた。
『マルおはよう……ユキはまだおはようじゃないな』
『ユキちゃんはまだお休みだよ』
 完全にお姉ちゃん気取りでユキの面倒を見ているつもりだ。涼にもお姉ちゃん気取りなのだから何とか躾けて貰えないだろうか? ……無理だなというよりも、これでマルが涼を躾けてしまったら人間としてのプライドがズタズタだな。

 リビングの床の上に父さんと兄貴を転がす。
『あっ、マサル泥だらけ! いけないんだ。お母さんに叱られる』
 あちらの世界で指一本動かせなくなるまで俺にしごかれ、幸いにも俺には男の服を脱がす趣味は無いので、そのまま収納してきた結果だ。
 しかし散歩が終わって家に入る時は足や身体の汚れを落としてからと、きちんと躾けられているマルとしては許せないのだろう。

「どうしたの? ……まあ!」
 マルの訴えに、朝食の準備の手を休めてリビングに入って来た母さんが眉をひそめる。
「隆。こういうのはお風呂場に転がして頂戴」
 今兄貴のことを汚物を見るような目で『こういうの』扱いしたよ。

 一旦兄貴を収納してから、風呂場に向かい床に転がして顔に水をかける。
「ぶっふぁっ! ……また水!」
 飛び起きた兄貴に「おはよう」と声を掛ける。
「隆! もう少し起こし方を何とかしろ!」
「はいはい、さっさと服を脱いでシャワーを浴びろよ。次は父さんが浴びるだろうからさ」
 そう言い残して立ち去ろうとする俺の背中に「なあ、俺って少しは強くなれたか?」と兄貴が投げかけてきた。
「全くセンスは無いけど、身体に教え込んだ分は消化して身に付いてると思うよ……まだ、ホンのさわり程度だけど」
 それが消化出来たのはレベルアップのおかげだけど。
「そうか、だったら今日も向こうに連れて行ってくれ……ハイクラーケンの件については考えておいてやるからさ」
「……分かったよ。そういわれたら断れないじゃないか」
 それにしても兄貴にも強くなりたいという欲求があったとは思わなかった……余りにも意外すぎるので何か裏がある事を疑うべきかも知れない。

『マル。今日は散歩は止めておくか?』
 ユキがいるために身動きが取れないみたいなので、今日は1人でランニングに出かけようかと考える。
『マルをおいていったら駄目! お母さん! タカシが、タカシがマルをおいて散歩行くって意地悪を言うの!』
 意地悪じゃないだろ。大体母さんに告げ口とはいらん知恵ばかりつけやがって。
「どうしたの隆?」
『お母さん! お母さぁん!』
 駄々っ子状態で母さんを呼んでいる。
「マルの上でユキが寝てるから起こすのも可哀想だし、今日はマルの散歩は休みで良いかって聞いただけだよ」
「あらあら……」
『マルガリータちゃん。マルガリータちゃんは寝ているユキちゃんを起こしてまで隆とお散歩に行きたいの? ユキちゃんは小さいから寝るのが仕事なのよ』
『でも……でも……マルもお散歩が仕事なの』
 確かにマルはシベリアンハスキーだから走るのが仕事だし、走らないとストレスで体調を崩すほどだ。
『マルガリータちゃんはお姉ちゃんじゃなかったの? ユキちゃんはマルガリータちゃんをお姉ちゃんだと思って安心してこうして身を任せているのよ』
 その言葉に、マルは自分のお腹に半ば埋もれるようにして眠るユキへと目を向けると、溜まらずに尻尾をパタパタと振り始める……ストレスと書かれたゲージが凄い勢いで減っていくイメージが頭の中に浮かんだよ。
『うぅぅっ、マル……マル、我慢するよ! だからタカシもお兄ちゃんなんだからお散歩我慢して!』
 とんだとばっちりだよ!

 結局、朝のランニングをサボる事になってしまい、マルや目覚めたユキと遊んでから朝食をとり、母さんとマルとユキに見送られて学校へと向かった。


「高城。高城君。例の件なんだけど……」
 2時間目の理科の答案が返って来て、俺のグランドスラム達成が確定した直後、背後から小さく声を掛けてくる。
「来週の月曜日から日曜日までみっちり仕込んでやる……安心しろ1年生と同じメニューだから大した事は無い」
 空手部の基準ではな。
「そうか?」
「毎日20㎞程度走ってから、ちょっと型や組手をして貰うくらいだ」
 大島が居なくなって下級生達が手を抜いていた事が判明したので、再び基礎体力重視の訓練メニューに戻っている。
「……終わった」

 昼休み、またもや図書室に集まって知識の詰め込みを行っている空手部3年生+香籐の面々。
『呼び出しが掛からないぞ!』
 櫛木田からの【伝心】による突込みが入る。
『高城どういう事だ?』
『俺が知りたいくらいだ!』
 田村へそう吐き捨てる。
 全くどういう事だ? 大島に頭が上がらない腹いせに、教え子でも有る空手部部員に嫌がらせをしてクラスでハブらせるように誘導する事も厭わない様な理性と思慮と恥に欠けたアダルトチルドレンどもが、何故今回に限って賢明な選択を行えたというのだ?
『北條先生が止めてくれたんじゃないかな?』
『なら仕方が無い!』
 紫村の意見に全員で応えた。
『君達ね……僕に準備をさせておいて』
『北條先生が教師たちの中で発言力を発揮したとするなら、良い事だと思います』
『そうだな粛清だけが全てではない。集団の空気を少しずつ変えていく事で、集団をより良い方向へと導く事が出来るならそれに越した事は無いな』
 香籐の意見に櫛木田がそう応える。この男は下級生達を大事にするように空手部の中でバランサーとして動くので、穏便に済むならそれでよしとする傾向が有る。
 尤も教師達に対しては「死ねば良いのに」と恨みは持っているのは間違いないが、学校という集団に関しては、既に教頭の退職が迫って居る中、鈴中と大島が対外的に失踪した事になっており、先日から校長と3年の学年主任が不祥事による自宅待機状態という中、これ以上の教職員の減少は望んでいないのかもしれない。
 この辺は甘いという考えもあるが俺は嫌いではない。だが──
『北條先生が止めたとするなら、多分今日が明日にずれ込む程度だ……残念だがそれ以上の影響力は発揮出来ないな』
『そうだね。僕もそう思うよ』
 俺の意見に紫村も同意する。すると『そうか紫村が言うのなら』と皆が納得する驚きの説得力……おい! 俺の言葉がそんなに信用出来ないのか? と言っても、どうせ肯定されるので思ってても言わない。

『それにしても北條先生には面倒をかけた上に心配までかけてしまった事になるのか……』
『だが、北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げて来る感情を抑えきれない高城であった……』
 そう北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げてくるものが……おいっ!
『分かるぞ高城!』
『俺にも分かる!』
『うっせー俺が言ったんじゃない! 紫村勝手な事を抜かすな!』
『そんなに照れなくても良いじゃない?』
『照れるんだよ! お前と違ってこちとら思春期のガラスのように繊細な少年なんだからな』
『まあ、照れる高城君もまた良いんだけどね』
 紫村を除く全員のページをめくる指の動きが止まった。
『……解散!』
 櫛木田がそう宣言すると同時に、我々は紫村を残して図書室から撤退した。


「高城君。ちょっと話があるので数学準備室の方に来て下さい」
 帰りのHRが終わる前に北條先生に呼ばれる。理由は察しが突くが、クラスの連中達がざわめき、その中に気に入らない単語が混じっていた……橋本の奴だ。
 この優等生君はクラスでトップの座を俺に奪われた事が我慢なら無いようだった。チートな能力を手に入れてテストで全教科満点を取るのは卑怯かもしれないが、少なくとも俺はチート能力を手に入れるために死にそうになるという代償を払っている。しかも何度もだ。
 もしシステムメニューを手に入れて夢世界に飛ばされたのが橋本で、俺と同じ目に遭ったなら死んでるはずだと断言出来る。
 それどころか俺だって、生き残れたのはかなりの運に恵まれた結果だと思う。狼に出会う前にシステムメニューに気付いてなかったら確実に死んでいただろう。
 だから良いだろう。俺だけは許して欲しい。恨むなら俺以外のパーティーメンバーを恨んでくれ……パーティーに入れたのは俺だけど。
 そう自己正当化した事で、橋本の刺さってくるような刺々しい視線や言葉は無視する。これから北條先生と2人っきりでお話するんだからそんな些細な事で気に病んでいる場合じゃない。

『北條先生に呼び出されて、一緒に数学準備室まで移動なう』
『うぜぇ~』
『何がなうだよ。古いんだよ、お前は江戸時代の人間か?』
 浮かれて言ってしまったとはいえ、お前等俺の事嫌いだろ?
『それはともかく実況よろ~』
『リアルタイム中継キボンヌ』
 よろ~はまだしも、どう考えてもキボンヌの方が酷いのに誰も突っ込まない。このアウェイ感……だが全ては連中の嫉妬だと思うと心地好い。
『前を歩く先生の一歩ごとに揺れるお尻に時々視線が流れるのを止める方法を教えて欲しいなう』
 優越感から来る余裕の発言で煽る……本当の事なんだけどさ。
『お前死ねよ』
『自分で目を抉れ』
『さすがに正直すぎます』
『庇いようが無いね』
『映像で送れよ』
 そんな馬鹿をやっていると、すぐに数学準備室の前に着いた。

「どうぞ入って」
「失礼します」
 頭を下げて、中に入ると先生はコーヒーを淹れながら俺に席を勧める。
 俺は席に着くと同時にセーブを実行した。ここは慎重に行くべきだろう。

「……それで高城君。今回の貴方のというより空手部員達の試験結果についてのことなのだけど……」
 躊躇いがちに、言い辛そうにしながら切り出してきた。まあ、立場的に俺達の疑いを晴らす必要があって、そのためには第一に疑う必要があるからだろう。
 こんな場合に私は信じてるとか言うのは偽善者だ。本当に疑って疑って全ての疑いが晴れて初めて信じられるのであって、最初から口先だけで信じてるなんて言うのはただの無責任であり何の意味も無い。
「自分達の実力でテストに臨んで相応しい結果を取っただけですよ」
「今回、いきなり3年生全員と2年生の香籐君が全教科満点を取ったのも実力に相応しい結果だったという事?」
 北條先生はメモを取りながら尋ねてくる。
「……これは、今日私が高城君と面談した内容を、他の先生達に説明する必要があるの」
「構いません。どうぞ……それで満点を取った事ですね。それには理由があります」
「理由とは?」
「大島先生の失踪です。その為に我々は時間的な余裕が得られるようになったので、その時間を勉強に割く事が出来ました。ご存知だと思いますが我々の成績は決して悪くはありません。ほとんど家庭での学習に割く時間が無い状況で成績を維持するために効率良く勉強した結果ですが、今回は時間も十分に取れたので今回の結果に繋がったのでしょう……と説明しておいてください」
「説明しておいてって……」
「勿論、本当は先生が我々の事を心配して時間と場所まで提供して貰い、しかも親切丁寧に教えていただいた恩に報いるために奮起したのです。全て先生のおかげですね。ありがとうございました」
『自分だけ良い子ぶりやがって! 高城ずる──』
 折角リアルタイムで中継してやってたのに田村が文句をつけてきたので【伝心】を切った。
 丁度、俺の言葉に照れる北條先生というレアな場面だったのでザマアミロだ。

「そんな風に言ってくれるのは高城君くらいね」
 照れながらの笑顔でのその台詞……ふぅ、危なかった。思わず理性が弾けとんでどうなるか分からなくなるところだった。セーブしておいて正解だった。
 有頂天になる事無く冷静に対処する。この世の何処に誉められて調子に乗るような馬鹿な男に好感を抱く女性が居るだろうか?
 万一、そんなのに引っかかる女性が居たとしても、北條先生はそうではない……という絶対的な思い込み、恋するというファンタジーな状況には大切な要素だと思います。

 ……セーブまで済ませて「YOU告白しちゃいなYO」状態を確保したにも関わらず、俺はヘタレて当たり障りの無い話に終始してしまった。
 どうせ俺は将来「愛される事よりも愛する事が大事なんだ」とか戯言を抜かしながら童貞をこじらせて魔法使いになるんだ。
 既に魔法を使えるようになった童貞が、30過ぎまで童貞を抱え込んでしまったら神になるんじゃないだろうか?
 俺が神になったらモテる男は全員、死後永遠に自分の趣味の正反対にいる女に言い寄られ続ける地獄に落としてやる……決まってるの? 童貞をこじらせるのは俺の中では既定事項なの? 何で童貞をこじらせる事を前提にして、訳の分からない復讐劇を企んでるの?


 今日も道場を借りるために北條邸に辿り着くと、門の前に北條先生のお母さん──雰囲気は母上って感じ──である芳香(よしか)さんが立っていた。
「今日もお世話になります。よろしくお願いします」
「こちらこそ。練習頑張ってくださいね」
 柔らかな上品な微笑と口調。その顔立ちは妹の方が僅かに似ていると思うがアレと一緒にしてはいけないという思いを強く感じさせる。多分将来的には北條先生の方がお母さんに似ると思う。妹の方はどこかで軌道をそれて変な方向へ飛んで行って管制室から自爆コードを入力され汚い花火となるのだろう。
 それにしても、北條先生が歳を重ねてこのような上品なご婦人になるとするなら20年後でも十分行ける! と思った。
 つまり11歳違いなど、俺にとっては何の障害にもならないという事だ……違う。そもそも俺にとっては障害なんて最初から無かったよ。問題は北條先生にとって俺が11歳も歳下の子供であるということだ。
 先ずは生徒と付き合うという体面の悪さ。そして俺が経済的に独立していないという問題……ハードルが高過ぎる。そういうのを無視して強引に突っ走れるタイプなら良かったのだが、ヘタレな俺には無理だ。
「どうかしましたか?」
 考え込んでしまった俺に、怪訝そうに尋ねてくる。
 まさか、北條先生もお母さんのように美しく歳を重ねるのかと思うと胸熱からのちょっと鬱とは正直に答えられず「……いえ、少し見惚れてしまいました」と答えてしまった。
 ああ! 幾ら嘘には真実を混ぜるとそれは混ぜたらアカン奴だ。

 直後、後ろからケツを蹴り飛ばされる。
「イテェッ!」
「何をナチュラルに人妻を口説いてるんだ!」
「いや、あのな、ほら……先生もこんな風に素敵に歳を取るのかと思うと……ちょっと色々と考えて──」
「何を色々考えてるんだ恥しら──」
「まあ待て」
 いきり立つ伴尾の肩を掴んで田村が止める。
「何だよ?」
「俺にも高城の気持がわかる!」
 直後、伴尾の踵落しを頭頂部に受けた田村はキリッとした真剣な表情を変化させる間もなく地面に沈んだ。
「伴尾! お前には分からんと言うのか?」
「分かるのと認めるのは違う!」
 櫛木田と伴尾が互いに至近距離で放った上段の回し蹴りが激しくぶつかり合う。
 強靭な体感とバランス感覚、そして柔軟な股関節によって成し遂げられる視界の外から跳んでくる足技は互角ではない。
 伴尾の蹴りを櫛木田が読んで迎撃したのだ。
 これは櫛木田を誉めるより伴尾を責めるべき結果だった。櫛木田には異能と呼ぶべき感覚が存在する。それは周囲の人間の歩調を察知し把握する事で、相手の未来位置を正確に読み取る事だ。相手が意図的に歩調を変えない限り、周囲にいる人間の3歩後の左右の親指先の位置を半径1cm以内の円の中に捉える事が出来る。
 勿論、空手部に半年以上在籍していれば、似たような事は嫌でも覚える事になる。だがそれは対象は1人で誤差は5cm程度はある。
 大島さえも「これだけは櫛木田には勝てない」と認める異能だ。
 伴尾は技を放つ前に技を出す距離を合わせる為に途中で微妙に歩幅を短く変えていた。これは普通は問題無いが櫛木田相手には致命的であり、度のタイミングで蹴りを放つかまでも読まれたのだ。
 ちなみに俺が櫛木田を相手にする時は、歩幅は一切調整せずにその間合いで使える技を繰り出して倒すだけだ。

「認めろ! 北條先生が20年後にも母君の様に美しい姿である可能性が高いという希望を抱ける奇跡を!」
 また変な言い回しが始まったよ。
「それと人妻に懸想するのとは話が別だろう! ましてや北條先生のお母さんだぞ、お前等恥ずかしくないの?」
「美しいもの美しいと認めるのは人間の正しき心だ。昔のインドの偉い人も『美しいものが嫌いな人がいて?』と言っているだろう」
「それはアニメの話だ馬鹿野郎!」
 もう意味が分からない。

「こんなおばさんを相手に美しいとかお世辞を言ってないで、学校で気になる女の子に言ってあげなさい」
 そう言って、櫛木田と伴尾の呼吸の間に絶妙なタイミングで割って入る……流石は北條流に嫁ぐだけの事はある。
 後、機嫌を損なうどころか、むしろ嬉しそうなので良かったのですが、我々が学校で気になってるのは女の子ではなく、女性で貴女の娘さんだって事は空気を読んで理解して貰いたい。
「せめて貴方達が二十歳くらいだった娘達を勧める野だけど……」
 空気を読んでた! でも次女の方は結構です。
「娘達は上も下も問題があって……」
 深く溜息を吐く。
「皐月さんの問題は分かりますが、先生に何の問題があるんですか?」
「弥生は、きっとお義父様の血が濃かったのね、魂の奥底に鬼を飼っているの……」
「鬼ですか……先生に?」
 いまいちピンと来ない。確かに女子剣道部では厳しい指導から鬼と呼ばれていると自分で言っていたけど。
「弥生は、面を付けるとちょっと人が変わるというか、戦闘モードにスイッチが入ってしまうというか……色々と加減が出来なくなってしまうの」
 言葉の上では別に気になるような話ではない。俺達だって本気になるとスイッチが入ってしまうのは普通に起こる。だが芳香さんの表情と「色々」
という言葉が妙に引っかかる。
「そんなに凄いんですか?」
「容赦なく人を斬る事が出来るとお義父様は言っていました」
「……でも、斬ると言っても竹刀ですよね」
 面を被ると人が変わるというのだから剣道の枠からは離れることは無いだろう。
「竹刀でも何人も病院送りにしていますから」
 ……鈴中は手加減されていたのだろうか、それとも単に鬼を起こすには力不足だったのか。
「武術には怪我はつきものですし」
 単なる怪我と病院送りでは意味が全く異なる事を分かっているが苦しいフォローをする。
「娘を庇ってくれるのは嬉しいのですが、私は練習や試合で相手を病院送りになどした事はありませんよ」
 どうやら芳香さんも剣道か何かの武術は修めている様だ。

「気をつけなさい。貴方達の中にも鬼は潜んでいるようです」
 貴方達にもと言いながら、その目は真っ直ぐ俺を射抜いている……
「僕にもですか? まさか──」
「お義父様にあって、夫と私にはなく弥生にあり、貴方の仲間にある……特に貴方は随分と強い鬼を秘めていそうですね」
 心の奥を覗き込んでくるような眼差しに、焦燥感がじりじりと胸底を焼く。
「僕は極普通の中学生ですよ」
 背後からダウトのコールが掛かる……お前等な、覚えてろ!
「芳香さんのお義父さんと旦那さんなら、圧倒的に旦那さんに親近感を覚えていますし……そこはかとない小市民感覚?」
「貴方は自分の中の鬼に気付き怖れているからこそ、普通でありたいと願っているのではありませんか?」
「……それは」
 痛いところを突かれた。絶対に認めたくない核心を一発で撃ち抜かれてしまった。
 確かにその通りだ。自分の中にある大島への奇妙な親和性に怖れて自分に言い聞かせるように小心者と思い続けてきた。
 更にレベルアップによる精神変化に驚き、あえて大島的に振舞った結果、後戻りが聞かないほど大島に近づいている自分に気付くたびに自分が小心な小市民だと強く言い聞かせてきたのが、自分を騙し続けるにもそろそろ限界が来ていた。
「夫は自らの気質が小市民的で良かったなんて安心などしていません。安心するという事はそうではない事を自分で理解しているから、そう振舞う事が出来る自分に安心しているだけです……自らの中に棲む鬼を否定するのではなく、受け入れてあげなさい。そして積極的に御する努力をするべきよ」
「……はい」
 反論の余地が無かった。

 芳香さんの言葉に色々とこれからのことを考えさせられてしまった。
 別の意味で頭が痛い存在である爺が、鈴中の代役として我が校の男子剣道部の指導に出向いているのが救いだった。お陰で普通に練習を終わらせる事が出来た。
『ところで高城、香籐以外の2年生達はどうする?』
『流石に紫村の家が大きくても、客が11人もいると狭いというか変だよな?』
 田村の問いに俺は少し迷った。何せ俺達にはまだ護衛兼見張りがついている身だから、余り不審に思われるような行動は控えるべきだろう。
 不審に思われる行動を取った場合のデメリットとかを予想するだけの情報は持ち合わせていないけど、余計なリスクは犯したくない。
『……先ずは大島と早乙女さんの復活を急いだ方が良い』
 つまりハイクラーケンの経験値で自分のレベルを上げたいという正直者な櫛木田。
 大島が復活すれば、差し迫って1年生まで慌てて強くする必要も無くなるのも事実だ。そうなれば香籐以外の2年生達をパーティーに入れてレベルアップさせるのも夏休みまで待つのありだと思う。
 はっきり言って、それくらいまで俺達の2年生部員達への信頼感は低下している。
 人間の身体は3日厳しく練習してもそれほど目立った効果が現れないように、3日練習をサボってもそれほど目立った体力の衰えは現れないものだ。つまり連中は大島失踪後からほぼずっとサボっていたのだ。
 1年生達にはまだ同情の余地がある。突如として理不尽な状況におかれてそれが日常となる前に開放されたのだから自由を謳歌したとしても当然ともいえる。
 それに対して2年生達への俺達の目は冷めている。特にこの件に関しては香籐から何時もの様な気遣いに基づく弁護の声が出てこない。彼にしてみれば仲間に裏切られたという気持があるのだろう。
『それなら今日は俺達だけ、紫村の家に集まるという事で問題ないか……紫村?』
『問題は無いよ』
 ホモの家にノンケの男達が集まるという、ある意味凄く世間体的に問題はあるが、それは仕方ないと割り切るしかなかった。
『今回は俺の父と兄が参加するから、俺は一旦家に戻って2人を回収してから戻ってくる事になるから』
 ちなみに俺が家族をパーティーに入れた事は皆にも話してある。
 香籐は「マルちゃんと話が出来るようになったんですね!」と眩しい位に目を輝かせている。
『ここのところマルはユキにベッタリで多分お前の相手をする気は無いぞ』
『ユキって何ですか?』
『ああ、話してなかったか。向こうの世界で拾った雪猫という猫に似た種類の赤ちゃんで、白くてフワッフワで可愛いが主成分という素敵な存在だ』
 ついでに画像イメージも送りつけてやる……可愛い家の子を自慢したいんです。
『何故……?』
『いや、何故って言われてもむしろ何?』
『どうして主将のところばかりに可愛い子が集まって、僕の家にはいないんですか?』
『知らんがな! お前の母さんが嫌いなのは犬なんだろ。猫なら問題ないんじゃないか?』
『父さんが圧倒的な犬派です。多分、犬が飼えないのにどうして猫を飼うと怒りますね』
『本当に知らんがな!』

『……では主将。お父さんとお兄さんを連れてくる時に、一緒にマルちゃんとユキちゃんを連れてきて下さい。良いですね?』
『良いですねってお前……』
 俺は続く言葉を飲み込んだ。話して通じるような目をしていなかった。
『だけど、マルは自分にユキを懐かせるために必死で、知らない人どころか父さんや兄貴がユキに構うのも嫌がるくらいだぞ』
 実力行使には出ないが、悲しそう表情でずっと見られるので精神的にきついらしい。ちなみに俺に対しては自分よりも俺にユキが懐いているので嫉妬を込めているのだろう、とても犬とは思えないような微妙な目付きでこっちを睨んでくる。
『……話し合えるようになったのですから、きっと分かり合えます』
 復活した大島を前にその寝後を口に出来るのか……試すまでも無いな。


 紫村家のお手伝いさんの小母さんに、今回は袖の下代わりにオーク肉を渡すと「今度は豚肉なの? 前回の鶏肉も凄く美味しいから楽しみね」と言いながら受け取り「汚れた食器とかは明日の午前中に来て片付けるのでそのママにしておいてください」と実に良い笑顔で帰って行ったそうだ。
 その気持はとても良く分かる人間美味いものには勝てないのだ。来週ミノタウロス肉をプレゼントしたら大抵の無理は利くようになりそうだ。

 今晩のメニューも庭でバーべキュースタイルと思ったのだが、生憎夕方から天気が崩れたのでキッチンで料理する事になった。
「じゃあ俺はから揚げを作るわ」
「俺はオーク肉で生姜焼きにしよう」
「圧力鍋があるなら角煮も良いな」
「ローストビーフは時間が掛かるから、シンプルにミノタウロスはステーキにするよ」
 ……何故だ? こいつら普通に料理のレパートリーを増やしている?
「田村。何時からから揚げなんて作れるようになったんだ?」
「そりゃあ、余り大っぴらに出来ない美味い肉が手に入るなら自分で料理出来るようになった方が得だろ。夢世界の方でも此方から調味料とかを持ち込んで料理出来る方が良いしな」
「それなら俺も──」
「だがお前は駄目だ!」
 田村だけでなく全員で一斉に否定しやがった。
「主将はおいしい料理を食べる役で良いじゃないですか?」
 何の慰めにもならない。
 畜生! どうしてシステムメニューはスキル制じゃないんだ? レベルアップでスキルポイント貰って、料理スキルにポイントを振ってチート料理人になりたい。
 ちなみに【良くある質問】先生に尋ねたら、スキルは練習や実際に行う事で磨かれるもので、魔物を倒して戦闘とは全く関係ないスキルが磨かれる訳ないじゃないですかプップクプーと返ってきた……ふざけやがって!

「嗚呼美味しい美味しい。自分で仕留めた獲物の肉は美味しいな。これで自分で料理したならもっと美味しいだろうな」
 今日も下ごしらえ以外は火を使ったり味をつけたりなどの料理の核心部分の作業には全く関わらせて貰えなかった事に関して嫌味を漏らす。
「お前に限ってそれは無い」
 一言でばっさりと心を真っ二つに切り裂かれてしまった。
「……俺の何がいけないんだろう?」
 弱気になった俺がそう愚痴る。
「はっきりって高城の料理下手は全く意味が分からない」
「どういう理由か分からないけど、ちゃんと料理しているように見えて最終的に食べてはいけないモノが出来上がってしまうからな」
「アレはオカルトの類だろ」
「だったら御祓いして貰うのも良いかもしれないね」
「そこまで? 神の力が必要なレベル?」
「主将の料理は神か悪魔かというなら間違いなく後者ですし」
 何処にも俺の味方は居ない。香籐だって実際に俺の料理を食べるまでは擁護してくれたのに、一口食べた瞬間に否定派へと鞍替えした。何と人の心の移ろい易さよ……だが認めない。絶対に認めないよ。俺が俺だけが信じてあげないと、誰が俺の料理の腕を信じるというんだ? 俺が信じなかったら俺の料理はゲロマズでファイナルアンサーだよ!」
「お前の料理はそもそも料理ですらないでファイナルアンサーだよ」
「何で俺の心が……エスパー?」
 俺の心を読むとは、現状では俺の手に余る精神系の魔法の糸口を見つけたとでも言うのか?
「お前は、考えが口から駄々漏れだ!」
 なんだ何時もの事か。
「納得してないでその癖はなおせよ!」
「なおらないから癖なんだ!」
 開き直る。相手を怒らせる時にも使うが3回に2回は素だから……


『タカシお帰り!』
「なぁ~!」
 玄関まで出迎えて待ってるマルの後ろからユキが一生懸命走ってくるのが見える。未だしっかり走ることは出来ないのでヒョコヒョコと足取りは覚束ないが、その必死さがラブリーである。
 だが次の瞬間よろけてマルの前足に身体をぶつけると転倒し、コロコロと言う表現がまさにぴったりな転がり方で三和土(たたき)へと落ちる所を左手で救い上げた。
 俺の手の中で何が起きたのか分からないといった様子で怯えた様子で身を低くして全身で緊張し腹這いになる形で周囲を見渡すが、俺と目が合うと安心したかのように身体中の力を抜いて「なぅ~」と小さく鳴いた。
 ……マル。そんな恨めしそうな目で俺を見るのは止めてくれ。
『タカシずるい』
『タカシずるくない』
『ずるい!』
『だったら、ユキが落ちるのを放っておけば良かったんだ。マルひどい』
『マルひどくないもん!』
『隆! まだ1歳にもなってないマルちゃん相手にむきになって恥ずかしいと思いなさい』
 台所で晩飯の後片付けをしているだろう母さんの雷が落ちた。
 同時に何故か昔に「小学生にもなってお兄ちゃんを苛めて恥ずかしいと思いなさい!』と涼が兄貴に暴力を振るって叱られた事を思い出してしまった。アレは実に悲しい出来事である。兄貴のプライド大崩落だった。

『今日はマルも一緒に向こうの世界に行かないか? 最近ユキと一緒で散歩もしてないだろから、向こうで思いっきり身体を動かした方が良いんじゃないか?』
『ユキちゃんも一緒?』
『ユキを連れて行って、何かあったら大変だから置いて行こうと思うんだけど』
『……どうしよう?』
 思いっきり身体を動かした欲求もあるのだが、ユキと離れたくないという気持も強いといったところだろう。
『マルちゃんも行くならお母さんも行こうかな? 向こうでもっと色んな面白い食材を探してみたいし』
 ここ数日は、食卓に異世界の野菜や果物を使った料理が載るようになって、これがまた美味い。
 食材としては全般的に味が濃厚で旨みや甘みが強く、普通の野菜などと同じように料理に使うと自己主張が強すぎてまとまりが無い味になってしまうだろうが、母さんはそれを上手く使いこなしてくれている。
 なので母さんが新しい食材探しの目的で夢世界に行くことに反対する理由は無い。レベルアップによって人間離れした能力を得た母さんをどうこう出来る様な人間はほぼいない筈なので、街さえ出なければ脅威となる存在とは遭遇する可能性は低いし、しっかり運動をさせた後でマルを母さんに預けておけば万一の事が起こっても十分に対応出来る筈だ。
 それでも何とかならない場合は、マルとユキを抱きかかえて、浮遊/飛行魔法で全速力で逃げれば風龍だろうが追いつく事は出来ない。
 そして最悪の事態が起こったとしてもロードすればやり直しが利く。何か心配するのが無駄なような気がしてきた。
『お母さんも行くならマルも行くよ!』
 椅子に座る母さんの膝の上に頭を乗せて、上目遣いに「撫でて、撫でて」と訴えかける。
『それじゃあ、今日は家族皆であちらの世界にお出かけね』
『お出かけ!』
「なぁう」
 母さん……お忘れでしょうが家にはもう1人家族がいるんですよ。離れていても家族が。

「……そ、そういえば明日、涼とリーアちゃんが泊りがけでこっちに来るんだけど」
 咄嗟に父さんが、家族からの戦力外通告を受けた涼の事を話題に出す。
「それを早く言え!」
 俺と兄貴の口から出たのは批難の言葉だった。
「やばい……俺は明日はネットカフェにでも泊まるわ」
 速攻で逃げをうつ事に決めたようだ。
「何も逃げなくても、レベルアップのお陰で多少殴られても痛くないんじゃない?」
「痛い、痛くないの問題じゃなく、俺は暴力を振るわれる事が自体が嫌なんだ。人間が人間を殴る。そこにある相手を傷つけようとする感情が嫌だ。それに殴られて気持良い変態じゃないんだよ」
「…………」
「何不思議そうな顔をしてるんだよ! 俺っておかしな事言ったか?」
「そうか、普通の人ってそうだよな。俺って空手部だから普通に殴られ慣れしてて……」
 特に大島から。
「な、殴られ慣れ……その件に関しては俺の方こそすまない」
「それは良いんだけど、今回の件は兄貴が涼と向かい合ういい機会じゃないのか?」
「機会?」
「涼を怖れて避けるのではなく向かい合って話し合う事が出来る状況が整っていると思うんだけど」
「そうだな……そうかもしれない…………それで隆。お前はどうするんだ?」
「それは当然、兄貴が涼と和解する。そこで良い感じにほぐれた空気に俺が乗っかって、ついでに俺も涼と和解する」
「死ね!」

 その後、母さんの介入により結局は、俺も兄貴も明日は家にいる事になった……困った、予定が狂うじゃないか。
「明日は向こうにいけないとすると、ハイクラーケンを今日倒すことになるんだけど。兄貴、何か良い方法思いついた?」
「最も簡単な方法は、自分の身長より長い電気伝導性の高い金属の棒を自分から1m以上離して浮かせておく事だ。お前の頭のてっぺんよりも数cm、余裕を持って10cm程度高い位置に棒の先端が出るようにして垂直状態を維持出来たら、雷自体がお前の身体を撃つ事は無い……ああ、間違っても頭より上に手を伸ばすなよ。頭も足もどちらも棒の両端の間に入るように動け。それから衝撃波には頑張って耐えろ。軽く吹き飛ばされるかもしれないが直撃以外なら大丈夫だろ」
「ちょっと待て、衝撃波はともかく避雷針の保護範囲は頂角45-60度の円錐状の範囲じゃなかったのか?」
「それはお前が、地面の上にたっている場合だ。上空の積乱雲下部に集まったマイナス電荷に対して、積乱雲直下の地面にはプラス電荷が集まる。その地面の上に立つお前の身体はプラス電荷を帯びて雷を呼び込みやすい状態になっている」
「だとすると自分の身体にマイナス電荷を帯びさせれば雷を受けづらい状況が作れるのか?」
「そうだな、生物由来の有機物には静電気でプラス電荷を帯びやすいから、全身の毛を剃って全裸になって、塩化ビニルなどの静電気でマイナス電荷を帯びやすい素材をヒラヒラの絡みやすい状態にして身につけておけば良い」
「それは嫌だな」
 想像するだけで辛い。
「まあ、どうせ気休め程度だけどな」
 気休めで全身の毛を剃れと言ったのかよ。

「そうしておけば雲よりも下の位置で動くのに雷を気にする必要は無いって事か……」
 根本的解決策ではないが、当るとは限らないが意識して避けるのは不可能な雷撃に対する防御手段が出来たのはありがたい。
「流石に昨日の今日であれを何とかする方法を考えるのは……核兵器とか?」
「おい止めろ。絶対に止めろよ。振りじゃないからな!」
「核といっても純粋水爆の方──」
「頼むから止めろ。むしろ頼んでる内に止めろ!」
「首! 首! 絞まってるから!」
 兄貴の首を軽く絞めながら、無言で睨みつける。
 こいつは本気でやりかねない。三重水素の入手は困難だが重水素なら魔法という手段がある兄貴にとっては入手は難しくは無い。重水素だけでの水爆の作成は不可能ではないようなので、実験感覚で作ってしまわないとも限らない。
 それだけならまだ良いが実験の失敗に巻き込まれるなんて絶対に嫌だ。
「分かった。分かった作らないから……」
 俺は頷くと手を離す。
「冗談なのに──」
「今後は冗談でも言うなよ。洒落にならないから」
 将来は科学者か技術者かは知らんがどちらにしてもマッドが頭につくような男の冗談など冗談で済むかどうか分からない。


 皆が寝静まった後、一度家を出てホームセンターで避雷針代わりの鉄筋を購入する。そして再び家に戻り11時過ぎまで待ってから収納を済ませると家を出て、紫村邸で紫村達5人も収納してから寝た。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 朝起きて、機能一緒にこの部屋に泊まった父さんと兄貴を【所持アイテム】内からそれぞれのベッドの上に取り出した。
 母さんは父さんと同じベッドに、櫛木田達は床の上に、そして紫村は少し考えてから兄貴と同じベッドに、

 フローリングと呼べば聞こえだけは良いだろう床の上の4人はすぐに目を覚ました。
「実の兄にそこまでするか?」
 兄貴のベッドの上を見た伴尾が俺を詰る……でもその表情には嫌ではない何かの感情が見え隠れ、いや見え見えだ。

「きゃゃぁぁぁぁぁっ!」
 数分後兄貴の絹を裂くような悲鳴が響いた。
「そこでニヤリと笑うお前が怖い。本気で怖い。キン玉キュッとなるくらい怖い」
「それより、紫村……ケツを揉んでるぞ。良いのかおい!」
「寝ぼけながらも人肌を感じて速攻でケツを揉みに行くとは、紫村はやはり恐ろしい男だ」
「……起きてるんじゃないですか?」
 香籐君が正解だろう。あの悲鳴で目を覚まさないとは思えない。そうあの悲鳴でおきない人間は居ない……だとするなら──
「俺の息子に何をする!」
 一呼吸で弓固めへと持っていった。50ほどのレベル差的に父さんが力技で紫村に弓固めを極めるのは不可能。しかし紫村相手に技量でプロレス技を極めるのも常人には不可能なはず。
 つまり父さんのプロレス技は紫村にさえ通じるレベルという事だ……本当に意味が分からないよ。
 プロレスの技は魅せる技であって相手を破壊する技ではない。故に実用的とはいえない技が多く、弓固めを使うくらいならもっと素早く簡単に相手の動きを封じる技は、関節技が本分ではない俺でも幾つか使えるのがある。
 それに自分達で使うのではなく、相手が仕掛けてくる関節技に対する備えはしっかりと身につけている我々空手部部員の中でも、一番の床上手……もとい寝業師……これも間違いではないが違う。そう業師である紫村を相手に流れるような動きで絡め取る様に極める。
 それは単なるプロレス好きのオッサンに出来る難易度ではない……我が親ながら何者なんだろう?

「う、動けない。まさかこうも簡単に動きを封じられるなんて……クッ!」
 極まった状態から脱出しようと試みるが、既に反り返ってしまった背骨は元の位置に戻すだけの力を振り絞れる体勢には無い。
 父さんが単純な力の差を越えて技を極める事が出来たのは先ずは意識の分散の賜物だった。最初は首を捻りにいくと見せかけて、それに抗うために紫村が首に意識や力を集中させた状態を維持させながら、紫村が抵抗する動作の中で上体を大きく反らした瞬間に弓固めを完成させた。
 しかも紫村が上体を大きく反らしたのは偶然ではない。明らかに父さんは自らのアクションで紫村のリアクションを操作していた。これが一番の理由だろう……本当に何者だ?
 ここまで来ると、気軽に尋ねる事が出来ないほどの恐怖を覚える。触らぬ神に祟りなしという言葉が胸に去来する。

「こうまで良いようにされて……何だか自分が掌の中で転がされるようで、これはこれで……」
 頬を僅かに赤らめながら妖しい事を口にし始めた紫村に、父さんは技を解いて距離を取る。
「隆、史緒さん以外にこれほどの恐怖を与えるなどお前の友達は何者だ?」
「…………」
 俺にはそれに答える言葉が無かった。
「……誰が恐怖を与えるんですか?」
 だって母さんが父さんの後ろに立っているのだから。

「お前の家族は何者だ?」
「父さんは極ありふれた公務員で、大学時代はプロレス同好会に所属していたらしい。得意技は弓固め。はっきり言って弓固め職人。母さんは登場人物のほとんどが死ぬような殺人事件が起こるミステリーが大好きな普通の専業主婦」
 俺は質問に正直に答えたのに、櫛木田は「全然ありふれてねえし、普通じゃねえ! 大体何で弓固め推しなんだよ無理あるわ!」と否定した。
「そこは否定するな。俺の中の普通の家庭に育った小市民という設定が崩れてしまうだろ」
「知らんわ!」
「だけど本当にどういう人なんですか? レベルがかなり上の紫村先輩にプロレス技をかけるなんて普通は絶対に無理ですよ」
「俺にも分からないんだ。俺だって最近までは自分の親の事をプロレス好きのオッサンだとしか認識してなかったよ」
「最近って何かあったんですか?」
「パワーレベリングをした後で、オーガと戦って貰ったんだが普通に倒すし、屠るにも何の迷いも無かったんで、もしかして堅気の人間じゃなかったのだろうかと不安に駆られた」
「それって絶対に普通じゃないですよ。あんなのでも人型ですよ。それを迷いも無く屠れるなんてまともな神経じゃないですよ」
 それは自分を含めて俺達がまともじゃないと言っている事に気付いてるのだろうか?

「それよりお前の母さん若すぎないか?」
 目ざとく伴尾が気付いた。
「そうだ! 若すぎるアラフォーとか言うよりも、円熟した20代って感じだろ」
 友達の母親に関して生臭いことを言うなよ。
「いや待て、前に見た時よりも若返ってる……化粧でどうにかなるレベルじゃなく整形?」
 そう思うだろうな。おれも未だに違和感を覚える。昼間はあえてファンデーションなどを厚めに塗って化粧で皺などを誤魔化しているように見せかけているが、今は寝起きですっぴん状態だから誤魔化しようが無い。
「レベルアップの効果で若返った」
「若返った?」
「そうだ。父さんも後退した生え際に抜け始めて分かる長い友達が帰ってきたと大喜びだ」
「マジか!」
 そう叫ぶ田村の顔には喜色が浮かんでいる。
「だが言っておくが良い事ばかりじゃないぞ。若返るだけなら良いけど寿命も伸びてるぞ」
「伸びて悪いのか?」
 何言ってるの? という目で見るな。想像力のない奴め。
「100歳くらいで普通に死ねるなら良いけど、もし200歳くらいまで寿命が延びていたらどうする?」
「………………ちょっと……いや、かなり拙いな。幸せな老後が全く想像出来ない!」
 事の深刻さに気付いてくれてありがとう。
「何故黙っていた!」
 伴尾が噛み付いてくる。
「話してどうにかなる問題じゃないだろ。それともお前が将来、人類の寿命を200歳くらいまで延ばす薬でも開発してくれるのか? マジお願いします!」
「……それにしても話せよ」
 スルーしやがった。

「別にお前等なんてどうだって良いだろ。年取って現実世界で暮らしにくくなったらこっちで暮らせば良いんだし。だけど俺はこっちに逃げるという方法が取れないんだよ!」
「……なるほど。歳をとってこちらで過ごすのも悪くは無いかもな」
 自分の問題さえ解決すれば、後は知った事じゃないという伴尾の態度に、こいつが此方の世界に移り住みたいと言い出したら暫く放置しようと決めた。

 放置と言えば──
「……ホモに兄を襲わせておいて……謝罪の一言も無いのか?」
 ベッドの上で枕を涙で濡らしながら兄貴が訴えてくるが無視した。
「無視するなぁ……」
 無視した。


 俺と父さんと兄貴は部屋を出て階段を使って降りて正面から宿を出る。そして母さんと空手部の連中は路地でそれぞれ合流していく。
 こういう場合は仲間の位置が確認出来るマップ機能の便利さがありがたい。
 市場に集まるとそれぞれが買い物を始める。勿論金は俺が出す、既に数える必要性を感じないほど金持ちになってしまったのでお金がただの記号のようにしか感じられない。
 これが現実世界でも使えるなら良いのだが現代社会のしがらみは全く面倒であり、此方の世界で使うにして継続的に必要なのは宿代と飯代だけで後は、パーティーメンバーの衣服装備品で、それも驚くほど高いというわけでもない。伝説の武器装備やとんでもない力を秘めた魔法の物品ならば、今の俺の財布を軽くするほどの価値があるのだろうが、少し考えれば分かる事だが、その辺の武器屋に伝説の武器とまではいかないものの家が建つような値段の商品が転がっているなんて事はありえない。
 一流レストランで数千万円もするワインがメニューに載ってるのは、単に看板効果を期待するだけではなく、ワイン自体が投資の対象であり購入して保存しておく事で価格の高騰を期待出来るという意味合いも大きい。
 ミーアの『道具屋 グラストの店』にでさえ、龍の角に価する商品はそうそう無いそうだ……つまりあるって事だが、「それほどの商品を扱っているって事はとても凄い事なんです。常識として受け入れて下さい」とたしなめられる位に、そのクラスの高価な品を扱うというのは大変な事で、本来は王都の大店(おおだな)を営むような大商人にのみ(経済的に)許されるステータスであるとの事だ。

「どれも美味しくて何を買ったら良いのか困るわね」
 俺が貸した1t収納可能の大型の『魔法の収納袋』へと入れている振りをして【所持アイテム】内に収納しているので容量的に困る事も、勿論懐事情で困ることも無い。
 母さんが困っているのは、露店に並ぶ食材の全てが地球には存在しないものばかりで、前種類コンプリートするには沢山ありすぎて、ぱっと目に付くも物だけを購入しても、それらの特性を生かした調理を行い食べる段階に到るまで数ヶ月単位の期間がかかるという時間の問題で困っているのだ。
 ここで飛びぬけた美味しい食材を外してしまえば、最低でも数ヶ月間はそれを食べる事が出来ないという悩み……正直どうでも良いがな。

 市場での買い物を済ませると一度街を出て、人気の無い場所で【迷彩】で姿を消すと浮遊/飛行魔法で飛ぶと森の奥の開けた場所へと移動する。
 周囲の草木を払ってスペースを作るとマルとユキを取り出す。
「おおおぉぉぉぉぉっ!」
 生ユキを目にした香籐が雄叫びを上げる……オタケビと言うと、何故かアイドルオタクがコンサートで叫んでるイメージが頭に浮かんでしまう。
「うるせぇっ!」
 櫛木田が鉄拳制裁で香籐を黙らせる。
「びっくりしまちたか? 大丈夫でちゅよ」
「気持悪いわ!」
 いきなり赤ちゃん言葉でユキに話しかける櫛木田を田村が蹴り飛ばす。
「それにしても本当に雪みたいに真っ白でフワッフワな毛並みだな」
 そう呟きながらユキへと伸ばす田村の右手を、マルの手が上から押し下げる。
 田村がマルへと目を向けると、マルは正面からその視線を受け止め、そしてゆっくりと首を横に振る。
 そのまま田村は左手を伸ばすが、今度は強く手を叩き落される。
「…………」
 暫し見詰め合う両者の間に緊張が走るが、田村はふぅと小さく溜息を吐くと同時に肩の力を抜いてからマルに手を伸ばして、頭や首、背中と撫で始めるとマルもそれを受け入れて嬉しそうに尻尾を振る。
「よ~し、よし、よし」
「クゥ~ン」
 一分ほどじっくりとマルを撫で回すとマルもリラックスした様子でお腹を上に向けた。
「よしそれじゃあ──」
 再びユキを撫でようとした田村の右手にマルがバクッと噛み付いた。
「痛なんでぇぇぇぇぇっ!」

 マルは加減をしていたとはいえ、田村の手には牙の痕が残っている。
「どうしてあのタイミングで俺は噛まれたんだ? 撫でられて喜んでたし、俺が子猫に危害を加えないって事くらい通じてるよな?」
 田村としては痛みよりも人懐っこい犬にいきなり噛まれたというのがショックだったらしく涙目だ。
 その疑問も、もっともとはいえるが、他に理由がある。
「マルはユキを自分に懐かせたくて必死なんだよ。だから俺達家族といえどもユキに構うと不満そうにしているくらいだから、家族でもないお前如きがユキを撫でようとするのは100年早いというのがマルの考えだ」
「それじゃあ触れないのか?」
「マルの目が黒いうちはな」
「黒くないだろ!」
「……青いうちは」

 結局、香籐や田村、櫛木田は【伝心】でマルと話し合った結果、なんとかユキを撫でる事が許された。
「先輩! 僕がマルちゃんを撫でて気を惹いているので、その内にどうぞ!」
「すまない香籐!」
「後は任せた!」
 ……全然話し合いの結果じゃない気がするが、マルを含めて全員楽しそうなので放っておく。

 マルの散歩代わりの運動。そして市場で購入したもの(毎日食う分以上の量を購入しているために、在庫が増大している)で朝飯を取るとハイクラーケンの棲む北の海へと向かった。

 クラーケンから5㎞ほど離れた場所に一度降りた。母さんとマル。そしてユキはここで留守番となる。
『マルはここで母さんとユキを守るんだよ』
『うん! お母さんとユキちゃん守る!』
『あらあら、じゃあマルガリータちゃんよろしくね』
『喜んでぇ!』
 誰だ余計な事をマルに教えたのは?

 男達は岸壁から眺める白波の立つ海の向こうを見つめている。
「ついにクラーケンとの戦いか──」
「違う」
 感慨深げに何か言い出す様子の櫛木田の言葉を俺は遮った。
「違うって何がだ?」
「クラーケンじゃない。ハイクラーケンだ」
「ハイクラーケン?」
 喧騒に、そして若干嫌な予感を感じているのだろう不安そうに尋ねてくる。
「クラーケンの中でも全長212mオーバーの化け物を、ハイクラーケンと呼称するそうだ」
「にひゃくじゅうにメートル?」
 そのスケールの前に、櫛木田の顔のデッサンが崩壊した。
「しかも標的は400mクラスの大型のハイクラーケンだ」
「よんひゃくメートル!」
 膝がカクカクと震えている。
「ビビるな櫛木田。でかいといってもタコだぞ。軟体生物如きに人間様が──」
「タコの寿命が50年あったら、人類の変わりに地球の覇者となっていたとも言われてるけれどね」
「……」
「この世界の海において人類とクラーケンのどちらが覇者かは明らかじゃないですか?」
「いや、現実世界だってクラーケンやハイクラーケンが海に居たら、大航海時代も太平洋戦争も起きてないだろ」
 伴尾は心が折れそうな櫛木田を奮起させようとしたのに、紫村と香籐、そして俺から集中砲火を浴びて撃沈した……空手部は心が折れてから勝負だから良いんだよ。


『これは想像以上だな』
 上空800m。ハイクラーケンを見下ろす位置に到達した一同だが、平行世界でもっと大きな化け物に遭遇した紫村と香籐、そして広域マップ内に表示されるハイクラーケンのシルエットのサイズに改めて驚きの声を上げる。
『こいつは大物だ。例えるなら高倉健さんクラスだな』
 櫛木田がまた妙な事を言い出して、皆が「はぁ?」と声を上げる。
『ハイクラーケン。ハイを高に変えて高クラーケン、高クラケン、高倉健!』
 櫛木田はドヤ顔を決めたまま、その場に居た全員。兄貴からも攻撃を受けて気絶して落ちて行き、海面に墜落する前に触腕の一撃を食らって弾け飛んだ。

「余計な手間掛けさせやがって!」
「思いついた冗談は口にする前に口に出すべきかどうか判断しろと言ってるだろ!」
 ロードにより母さん達の居るベースキャンプを出る前の状況に戻った我々は一斉に櫛木田に罵声を浴びせた。
 良く考えれば殺された挙句に、自分を殺した犯人達から罵声を浴びせられるって凄い状況だな。


 再びハイクラーケンを見下ろす上空800m地点に到達する。
『まずはこの高度を維持した状態で一撃を加える。そして奴の気候操作が始まったらすぐに高度1000mで、発生する積乱雲から距離をとれ』
 指示を出す俺に紫村が割って入ってきた。
『高城君。実際に闘って見る前に、我々の攻撃でハイクラーケンを倒せるか試してみた方が良くはないかい?』
『どういうことだ?』
『はっきり言って、あのサイズの化け物になるとどれほどの攻撃を行えば倒しきれるのか想像がつかないんだよ。だから最初に君の例の攻撃で、どれくらいで倒せるのか確認したいんだよ……というか、例の攻撃以外で倒せるとは思えなくて』
 例の攻撃……【所持アイテム】の拡張機能である【射出】の事か。
『だが、この高度から岩の投下でも重さ1tの物体が、音速の1/3の速度で突っ込むんだぞ』
『戦艦大和の主砲から撃ち出される弾頭は重量1.5tの徹甲弾が音速の2.3倍だけれど、大和の装甲は設計上それに耐え得るんだよ』
『…………マジ?』
 つまり、俺が上空から足場岩を落としてハイクラーケンを怒らせたのは、大きなダメージを与えたからでは無く、単に沸点が低かっただけの可能性があると言う事か?
『マジ』
 サイズだけに限って言えば大和の数倍の排水量を持つだろうハイクラーケン相手では、俺達の肉体が持つ物理的破壊力と知恵と勇気と友情だけで挑むのは確かに無謀に思えてきた。
『今のところ使える魔術や魔法でハイクラーケンの生命活動を止める方法は僕には思い浮かばない。あの水晶体の巨大な集合体を貫通させた例の方法でも使わなければ無理だよ』
 やっぱり核兵器? いや、それならば【射出】を使うのとなんら変わりは無い。
 今後の展開も含めて、システムメニューによるレベルアップではない俺達自身の能力の向上を計るためにも、楽をせずにクラーケンを倒すという目標を立てていたのだが、ハイクラーケンだった段階で計画を見直すべきだったのだろうか?
 だけど、俺はもっとレベルが低い段階から【射出】も無しに格上の龍達と戦って勝利してきたのだから、空手部の連中が共同するなら何とかなると思ってきたのだが、正直自信がなくなってきた。

『それなら俺が手本を示す。俺が【射出】と核兵器を使わずにハイクラーケンを倒せたら、今日一日は皆で力を合わせてハイクラーケンに挑んで貰うというのはどうだ?』
『それはリスクはどれくらいあるのかな? というか核兵器ってどういう事かな?』
『多分、俺の推測が正しかったとしても一度で成功するのは難しい。何度かロードをしなおすことになるだろう。それから核兵器を作ろうと考えた馬鹿がいたんだよ』
 そう言って兄貴の方を見た。
『……そういうギリギリの戦いは、僕達を連れて来てない状況で挑戦して欲しいんだけど』
 紫村、華麗にスルー。
『一蓮托生?』
『途中で岸辺によって下してくれ!』
 櫛木田が突っ込む。
『友達じゃないか?』
『こんな時だけ友達扱いはやめてくれ!』
 なんて友達甲斐の無い……いかん舌がもう一枚生えてきそうだ。


 結局父さんをはじめとする全員に止められて俺と折角買っておいた鉄筋の出番は無くなった。
 メンバーは俺を除く空手部の5人と、父さんと兄貴を加えた7名で、俺の考えた単独でやる作戦を元に7人での作戦に変更したものを実行する。
 上空からハイクラーケンを牽制するのはαチームで櫛木田と伴尾と香籐。
 上空1300mに待機して積乱雲とハイクラーケンを監視するのはβチームでボッチの兄貴。
 そして作戦の要であるアタッカーがγチームの紫村と田村と父さん。
 この編成でハイクラーケンに挑む。α・βチームはγチームの突入を成功させるためのサポート役である。
 作戦の根幹とは、【巨坑】や【大坑】は土以外にも岩にも通用する。そして地面では無く壁にも通用する。使う人間が足元にあるものが地面目の前にあるのを壁と認識していれば横穴も作ることが出来る。つまりハイクラーケンの身体を地面もしくは壁と認識する事が出来るなら、穴を掘る事が出来るのではないだろうかという発想である。
 出来るかどうかははっきりいって分からない。それにハイクラーケンの身体に穴を掘る事が出来ない場合に、地面や壁だと思うイメージが弱かったのか、それともそもそも生き物の身体に【坑】シリーズの魔術が通用しないのかの判断がつかないという問題もある。
 俺ならイメージ力の不足による失敗はありえないので、失敗は自動的に後者だと判断する事が出来る。
 何故、イメージ力の不足による失敗はありえないのかと言えば……俺は妄想力によって物理的刺激無しにイケる絶技を持つ男だと言っておこう。

 作戦中は全員【伝心】によるイメージ伝達で各自の視覚情報をリアルタイムで共有している。
 αチームは上空10000mを維持してハイクラーケンの真上に到達する。3人は、背中を天に向けて腰を曲げ股関節と膝を曲げて足を折りたたむと、まずは背中に足場岩を出現させて、次いで足元にもう1つの足場岩を取り出して、両脚で押し出すように足場岩を真下へと向けて落す。同時に3人は背中の足場岩を収納すると、落下する足場岩を追って降下する。そして追いつくと浮遊/飛行魔法を出力全開にして足場岩と共に重力加速度を越えて加速しながら降下し、限界まで降下速度を上げつつ、軌道をハイクラーケン直撃コースに乗せると高度1000mで足場岩から離れて両手を広げて空気抵抗を増やしつつ浮遊/飛行魔法を全開にして減速を開始する。
 3つの足場岩はほぼ同時に目測で260m/sの速度でハイクラーケンの胴体へと直撃する。
 およそ8秒後にドーンと言うには少し高い音が、身体を震わせるような空気の波と共に飛び込んできた瞬間、これで死なない生き物が居るはずが無いと確信するも。その3秒後には高度600mに留まっている櫛木田、伴尾、香籐の3人へと触腕で攻撃を仕掛けて俺を唖然とさせた。

 しかも触腕の数はタコと同じ2本と思っていたが、3人への攻撃に使われる触腕の数は4本だった。
 しかし3人は兄貴から送られる上空1300mからの俯瞰視界と、俺から送られる真横からの視界、そして自分以外の2人の視界を利用して見えない位置からの攻撃を巧みに回避しながら、高度600mを維持してハイクラーケンの意識を自分達に向けさせ続ける。

『強い上昇気流確認。積乱雲を作り始めるぞ!』
 櫛木田の叫びにも似た【伝心】を合図として、γチームの志村と田村と父さんの3人が【迷彩】で姿を消した状態で斜め上方からハイクラーケンへの接近を開始する。
 同時にβチームの兄貴が、上空1300mから足場岩の連続投下を開始する。
 αチームの3人は、上空から落ちてくる足場岩を見上げて視認することも無く回避しつつ、触腕の攻撃も回避していく。

 合計100個。100t岩の直撃に攻撃を続行する余裕も無いハイクラーケンに接近する事に成功したγチームは胴体に取り付いて──
『無理!』
 一斉にそう叫ぶと全速力で上空へと逃げた。


『ロード処理が終了しました』


「次は俺がγチームに参加する」
 俺はそう断言した。これは「僕が一番上手く妄想出来るんだ。一番、一番上手く妄想出来るんだ」という自負の現れである……何を自負しているのか自分でも分からない。
「今回のように事が進むようなら、確かにγチームの負担は少ないから俺は構わないと思う」
 田村が俺の言葉に賛成した。
「【巨坑】と【大坑】が失敗したらすぐにロードするなら俺も賛成だ」
「良いんじゃないか」
 櫛木田と伴尾も賛成に回ると、渋い顔をしていた父さんも賛成に回った。


『ロード処理が終了しました』


「よし。次だ次」
「おい、こいつ……今までの事を無かった事にするつもりだぞ!」
「恐ろしいまでの図太さ」
 仕方が無いだろう。俺の妄想力を持ってしても、ハイクラーケンに【巨坑】も【大坑】も通用しなかったんだから!
「隆には昔からそういうところがあるよな。良く言えば切り替えが早いっていうか……良く言えば、それ以外に兄として口に出来ない」
「小言は後にしてくれ。それで最初の足場岩の攻撃は、ハイクラーケンにどの程度のダメージを与えたと思う?」
 強引に俺への批判が高まりそうな空気を変える。
「ほとんど無かったと思うぞ。胴体を包む外套膜が厄介だ。衝撃を受けた瞬間に表面に大きな波を作って、衝撃を全身に流すだけじゃなく外套膜や足などから海水へと衝撃を逃がしていた。これが証拠だ」
 兄貴から【伝心】で1枚の画像が送られて来た。そこには細かい波紋がハイクラーケンの全身から海面に広がっているのが見える。
「これならほとんどの衝撃は内部に伝わることなく海水に流されてしまったと考えるべきだろう」
 さすが戦闘以外は役に立つ男である兄貴は、ちゃんと仕事をしてくれいたようだ。
「この外套膜は筋肉で出来ていて最大で厚みが10mを越えいるんじゃないか? 打撃力でどうにかなるとは思えない……やっぱりたんぱく質には熱かな」
 その熱量は何処から得るんだよ? どうせまた核兵器とか言い出すんだろ? 戦闘以外でもこういう場合は全く信用出来ない兄貴である。


「第二案がある。それには準備が必要だ」
 これが最後だ。これが駄目ならもう【射出】による攻撃でタコにある9箇所の脳を破壊してやるしかない。
「どうするんだ隆?」
「巨大な銛を作る。出来るだけ大きな針葉樹を切り倒して、枝を根元の30cm程度を残して切り払う。そして根元側を削って先端を尖らせれば良い」
「巨大な銛ね……外套膜だけでも10mを越えるような化け物相手にな」
 そう呟いて父さんは周囲を見渡す。20mを越える巨木はあるが流石に30mクラスの巨木は数えるほどしかない。
「それは心配ないよ。俺が一番最初にこの世界に来た時に出現した森の話を憶えてる?」
「……まさかあの高さ100mを越える木々の森?」
「えっ? あれって本気で言ってたのかよ」
「俺はてっきりファンタジーの導入部の張ったりだと思ってたよ」
「はったりにしては話が大きすぎると思ったけどな」
「お前等が俺をどう思っているのか良く分かった!」

 俺がこの手段をとりたくなかった。はっきり言ってあの森に対する苦手意識というか恐怖感が先立つからだ。
 あの森は異質だ。異なる世界である、この世界を知れば知るほど、あの地がこの世界においてさえも異質だという事が浮き彫りになっていく。
「目的地は、ワールドマップに表示されている南へ400㎞東へ150㎞の地点にある森林地帯。母さんとマルとユキはエスロッレコートインで、俺たちが戻るまで買い物や食事をしていて欲しいんだけど」
「あら、私は邪魔?」
「前にも話したけど、あの森は侵入者を発見次第、魔物達が襲い掛かってくるような場所だから、母さんやマルなら大丈夫かもしれないけどユキに何かあるかもしれないから……」
 言葉とは偉大だ。使い方次第で多くの問題を解決へと導く事もより良い方向へと導く事も出来る。ストレートに「そう邪魔」と答えるのとはまるで違うのだ。
「そうね。ユキちゃんに何かあったら心配よね」
 母さんはにっこり笑って答えた。
 これは母さんが俺の言葉による心理的な誘導に引っかかったのではない。母さんは俺の配慮を理解した上で、快く受け入れられる気持になったというだけの話しだ。
 相手の少しの心遣いを感じ取り、胸の中に生まれるほっとするような優しい気持。これが大事、試験に出るから。


 飛ばすこと約1時間で目的地の森が見えてくる。
『ま、マジかよ話半分だと思ってた……』
『遠近感が狂う』
『これは確かに、一目で異世界と納得するしかない光景ですね』
『もしくは自分の正気を疑うかどちらかだ』
『だがどうしてこの森だけが、植生がこんなにも他と違っているんだ?』
『そうは言っても、隆君以外はこの世界の事はほとんど知りませんからね……お父さん』
『お父さんと言わないで貰おう!』
『そういうかたい所も隆君に、いえ隆君も似たんですね』
 今の「かたい」が何か別の意味に聞こえた。多分俺が感じた通りの卑猥な意味が入っているのだろうが、一々突っ込まない。突っ込まないぞ!

 森の手前の草原に降りる。
「ここから先は、マップ上の魔物は全て俺達を見つけ次第襲い掛かって来るから、森の奥には入らないで手前の木から倒していく」
「そう言えば斧とか木を倒す道具なんて持ってたのか?」
「道具はこれがあれば十分だろ」
 そう言って槍を取り出す。
「いやいや、おかしいからそれは槍だろ。漫画じゃないんだから木は切れないって」
「伴尾、お前にも見せただろ」
 そう言って槍を木の幹に森の手前側の方から押し付けるようにして当てると、素早く収納と装備を素早く繰り返す。
 剣を収納している間に腕を少し幹の方へと移動させると、装備した瞬間に皿深い位置で剣が出現して木に食い込む。
 直径3m以上はある杉に似た針葉樹の幹の半ばまで水平に切れ目が入るまでに1分も掛からなかった。
「本当にチートだよ……」
 兄貴が呆然と切れ目を見つめながら呟いた。そういえば兄貴や父さんに収納と装備を利用する攻撃方法は教えてなかったな。

 更に作業を進める。斜め上から同様に切れ目を入れていき、水平方向の切れ目と交わった所で、引っ張ると1/8にカットされたスイカの様な破片が取れて木の幹には三角の切れ目が入った。
「多分、こっち方向に倒れるから避けてくれ」
 そう告げると、切れ目の反対方向から最初の水平の切れ目より少し上の高さで追い口と呼ばれる水平に切れ目を入れて行く。
 木は太陽の方向ではなく光のある方向へと成長する。つまり陽が余り差し込まない森の中では少しでも開けた方向に向かって幹や枝を伸ばす。
 つまり、森の縁に立つ木は森とは反対側に僅かだが重心を傾けている──このサイズまで成長した巨木が大きく重心を傾けると倒れる──ので、追い口が深く入る前に、木は軋みを立て始め倒れ始めた。
「倒れるぞ!」
 既に全員倒れる方向には居ないが、そう叫ぶ……一度言ってみたい台詞だったから。

 木を倒すのは結構簡単だったが、面倒なのは枝を払う作業だった。
 想像以上に枝が太く、そして何より数が多い。1本仕上げるのに8人がかりで実際の作業時間は30分掛かった。
 更に面倒だったのは実際の作業時間外。襲ってくる魔物との戦いだった。
 2本目以降は、切り倒したのを収納して別の場所で加工する事にして、現在兄貴が1人で作業を進めて、他は襲ってくる魔物に対処している……そうしなければなら無いくらいに魔物達が集まってしまった。
「おい、もうレベルが上がったぞ」
「高城。俺達ってそろそろ龍より弱い奴と戦ってもレベル上がらなくなるとか言ってなかったか?」
「塵も積もれば山となるって言うだろ!」
「それより、どうしてこいつらは逃げずに襲ってくるんです? 僕達の方が強いことくらい分かるはずですよね?」
「おかしいんだよ。この森も、この森に棲む奴らも全部!」
「うぇぇぇぇっぇぇぇっうぅぅぅぅ」
 周囲に充満する濃厚な血の匂いに兄貴がやられた。
「もう止めて! 吐いてる子がいるんですよ!」
 その後、兄貴が死力を尽くして4本目の木を切り倒すと俺と櫛木田と伴尾と香籐がそれぞれ1本ずつ収納し、父さんが兄貴を担ぐと撤退した。


 エスロッレコートインで母さん達と合流してから、再び海岸線を北へと向かいハイクラーケンの狩場近くに辿り着く。
 【所持アイテム】から取り出された巨木を目にして、流石の母さんも声を無くす。
 マルは『何これ凄いね大きいね!』と大はしゃぎだが、これが地面から生える木だとは分かってないようだ……少しほのぼのとしてしまった。

 その後作業を行い完成した銛は、細くなった先端部分をカットして、全て100mの長さで揃えたのに対して、ハイークラーケンの胴体は幅が1番広いところで150m。縦が1番長い所で200m程度と兄貴の観測から導き出された。
 俺が大まかに判断したサイズより大きかったようだが、銛で胴体を貫通するのは無理だが重要器官を破壊する程度のことは出来そうだ。

 作戦は、銛を上空から落下させて突き刺すのではなく、前回のγチームと同様に突入役が【巨坑】【大坑】の代わりに銛をハイクラーケンの胴体に突き刺す。
 1人はタコの脳がある目と目の間を正面から突き刺す。
 タコとクラーケン種を一緒だとは思わない。ぱっと見の姿的には数あるタコ種類の範疇からは逸脱していないが、よく見れば6本の脚と4本の触腕で手足は10本あるし、そもそもイカと違ってタコは全ての足が触椀だが、ハイクラーケンの場合はイカと同様に触腕に比べると他の足が極端に短い。
 結局は似て異なる生き物だという事で、だから目と目の間の位置に脳があってくれればラッキー程度だ。
 何故ならタコにはメインとなる脳以外にも、各腕に副脳というべき発達した運動中枢を持っていて、脳を破壊されただけでは生命活動を止める事は無い。
 完全に生命活動をとめない限り、海底深くに逃げられたら経験値も入らず、ハイクラーケンを倒す最大の目的である俺がレベルアップが達成されないので、絶対に止めを刺す必要がある。

 今回も上空からハイクラーケンを牽制するのはαチームで櫛木田と伴尾と香籐。
 上空1300mに待機して積乱雲とハイクラーケンを監視するのはβチームでボッチの兄貴。
 そして作戦の要であるアタッカーがγチームの紫村と田村と父さんという、1番最初と同じ布陣で挑む。

 これが3度目なので作戦は順調に進む。
 特に兄貴は慣れもあって、取捨選択を行い必要な情報を素早く皆に伝達しサポートしている。
 戦いの中で、どんな情報が何時必要かを判断出来るという事は戦いというものが理解出来てきているという事だ……あの兄貴が、しかもこんな短時間に、俺は兄貴を見誤っていたのかもしれない。
 更なる的確な足場岩の連続投下。1300mの高さから落とした初弾から正確にハイクラーケンの胴体を捉えているのが地味に凄い。
 その隙に紫村と田村と父さんが接近し、丁度良いタイミングで投石が終了する。

 全てが流れ落ちる水のように留まることなく進んだために、γチームの奇襲は予定ではそれぞれが2撃、6回の攻撃を加えた後は触腕の攻撃を回避しつつ追い討ちをかける予定だったが、時間的余裕から2撃では無く、滅多刺し状態で脳への攻撃を担った紫村は右の眼球から左の眼球までを数珠繋ぎ状態で穴を開けまくり、そこに脳があったなら確実にテーブルから落としたカップ入りのプリンの中身と化しているだろう。
 田村は、胴体の中央部から様々な角度に向けて十数回の攻撃を加えて確実に重要器官を破壊した。
 そして父さんはあえて外套膜に沿うように銛を何度も少しずつずらしながら撃ち込んで、80mほどの長さで外套膜を引き裂いてハイクラーケンの臓物を海へとぶちまけさせた。

『後は10本の脚を根元から少し先の位置で切断して完全に無力化する!』
 胴体の中身はともかく、多くの足を自在に動かすためにはタコと同様に足の付け根に神経中枢を持っている可能性は高い。
 それほど動物の身体とは合理的に出来ている。一見して非合理的な構造に見えたとしても、環境に適合するための特殊な構造になっているだけで、本当に説明がつかないような非合理的な身体構造をもつ生き物は多くは無い。しかもそれさえも現在は研究が進んでいないために不明なのであり、やがて理由が判明するものが多いと思う。

 俺も加わり4人で暴れる足を切り落としては収納していく……どんな味か知りたいから。
 そして残り2本となったところで兄貴から警告が飛ぶ。
『積乱雲が急速に発達中。退避しろ!』
『了解!』
 俺たちは一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 上空1500mの位置まで退避した。
『脳を破壊する事が出来なかったみたいだ……』
 珍しく紫村が落ち込んだ様子で話しかけてきた。
『そうだな、足の根元に神経中枢があったとしても、それでは魔法関連の操作は不可能だろうから、脳本体が残っているので間違いないだろう』
『そうだね』
『気にするな俺の予想が甘かっただけだ』
『でもこのままでは止めを刺す事が出来ないよ……』
『それより広域マップを見てみろ。敵対的シンボルが見えるはずだ』
『これは……』
『見たまんまだよ。父さんがぶち破った外套膜から脳が飛び出して海面を彷徨っているって事だ……くっくく』
 こみ上げて来る笑いが止まらない。
『凄いじゃないか、脳だけになっても死なないだけでなく、雲を呼びまだ戦おうとしてるんだ』
 その姿勢だけは評価せざるを得ない……笑いは止まらないけど。

 高度1500mから投下された足場岩がハイクラーケンの脳を破壊すると皆のレベルが上昇した。紫村、香籐でもレベルが2つ上昇し、櫛木田達や父さん達はそれぞれレベル80-82まで上昇し、そして俺はついにレベル177に達した。

『高城君。どうだい蘇生とか死者復活なんて魔術は?』
『……レベルⅦに【反魂】ってのがあって、確かに死んだ者の魂を肉体に呼び戻すという効果があるんだけど……闇属性なんだよ』
『よし諦めよう!』
『止めよう。闇属性による死者復活は不吉だ』
『これからも頑張れば、光属性で死者復活の魔術が憶えられるかもしれないぞ』
 櫛木田、田村、伴尾の3人は速攻で反対に回った。
『FAQで調べて見た限りでは問題はなさそうですよ』
『復活させて問題があれば、もう一度生命活動を休止して貰えば良いんじゃないかな?』
 師を師とも思わない弟子達の中でも、一際非情な意見が紫村から飛び出す……それ採用! 採用させた大島に問題があるんだよ。


 ハイクラーケンの身体の砕け散った脳と、海に沈んでしまった内臓の一部を除く全てを皆で収納する。
 予想外だが、試しにやって貰ったらハイクラーケンの胴体を分割することなく兄貴が1人で収納してしまったという事だ……
『はいっちゃったよ100万m3弱位はあったと思うんだけど……あれ? 隆、1mx1mx1mが1m3で、100mx100mx100mが100万m3だったよな? それで100万m3を水で満たすと100万t……俺間違ってないよな?』
『何か間違っているような気がしてきたんだけど……ほら100万tとかおかしくない?』
『何だ、それじゃあ俺が間違ってたんだ……なるほどだったら分かるわ』
『高城君。気持ちは分かるけど現実逃避しないで欲しい……するなら僕も連れて行ってよ』
『俺も俺も!』
 全員混乱していた。


 母さん達の待つ場所に戻ると、一度ハイクラーケンを取り出す。
 場所に対して胴体部分は大きすぎて森の木々を押し倒す事になったが、仕方が無いとしか言いようが無い。
 このサイズになるとミーアの店の解体場にですら取り出すことは出来ない。つまり売ることが出来ないとなるとただのデッドストックと化してしまうだけだった。

 まずはタコの体の中で1番貴重だと教わっているか嘴を解体して取り出す。タコのトンビカラス(タコのトンビと呼ばれるが、正解はトンビカラス。一対の嘴の片方の形がトンビに似ていて、もう一方の形がカラスに似ていることから付いた名称)の特大版というレベルではなく、嘴自体が龍の角と同様に強い魔力を秘めた魔石として扱われる。
 だがタコの嘴の周りの筋肉部分もコリコリとして俺は大好物なので、直径5m程の球体である筋肉の強い筋肉の塊である口ごと嘴を収納する。

 次いでタコの足は解体場に収まる50m弱になるように切り分ける。ここで母さんのハイクラーケンを調理したいという要望を受け入れて、足の付け根の部分と先端の部分を両手で抱える程度の大きさを切り取って収納する。

 問題は口の部分を取り除いた胴体と少しの頭部だが、タコの頭部はいわゆるタコ軟骨と呼ばれる部分がある。ここも大好物なのだが、はっきり言ってハイクラーケンのそれは軟骨と呼べるほど柔らかくない。かたい小さな骨が寄り集まっている感じになっているので、食べづらそうで食指が進まない。

 胴体部分は混乱が収まってから一度取り出して内臓を除く外套膜だけを改めて収納する事で減量に成功していたが、それでも厚さが10mもある外套膜を解体場に収まる大きさに切り分けるのは大変だ。
 北海道ではタコの頭と称して水ダコの外套膜が食べられているので、俺もイーシャの実家で何度か食べる機会はあった。
 味は他の部位と変わることの無いタコの旨みを持つ身だが、食感が柔らかくはっきり言って俺の好みでは無かった。
 逆に強い歯ごたえが好きではない母さんなんかはタコの身で1番好きと絶賛していたので、母さんが食べる分だけ1tでも10tでも切り取って収納し、後は捨ててしまえば良いんじゃないかと言う気分だが、これが結構人気のある食材だと言うのだから分からないモノだ。
 クラーケン種が狩られる事などは神話の英雄譚以外には無い話だが、死体自体が打ち上げられることは珍しいが無い事ではなく、更にその何分の一かは食べられほど新鮮な場合があり、そうなると国レベルで1年はクラーケン祭り状態で、クラーケンの肉が食されることになる。
 主に食されるのは燻製や干物となるが、干物を灰汁で戻して焼いたクラーケンステーキは、クラーケン祭りを経験した事のある世代にはたまらなく懐かしい味だそうだ……ミーアはエルフだから何度クラーケン祭りを体験したかは知らないし知りたくも無い。


 外套膜の始末を終えたところで大島の復活を行う事にした。
「田村。例のクローゼットを取り出してくれ」
「……何故そんなものをいきなり?」
 そう尋ねてくる田村の顔には、早くも嫌な予感に油っぽい汗が浮かんでいるようだった。
「お前の想像通りだよ」
「ま、まさかお前は、そんなものを俺に?」
「これは紫村や香籐も知ってる事だからな」
 速攻で仲間を売った。
「主将!」
 香籐は焦って突っ込んでくるが、紫村はこうなる事を初めからわかっていたかのように涼しい顔だ。
「お前等憶えておけよ!」
 田村が涙目でクローゼットを取り出して、扉を開くとその場で膝から崩れ落ちる。
「鈴中までもかよ……」

「隆。鈴中って学校の先生の?」
「そうだよ」
「どうして先生の死体が?」
「こいつは女子生徒をレイプして、それを録画して脅した上に覚醒剤漬けにしてたんだよ。しかも13人もね」
「そんな……それで隆が?」
「……そうだよ。俺が始末したんだ」
「……嘘ね。隆が嘘を吐く時に顔に出る癖くらい母さんお見通しよ」
『嘘を吐く時の癖?」
 そんなものがあったのか? 今まで全く気付かなかった。そこに痕跡がある事を確かめるように無意識の内に自分の顔に触れてしまう。
「そう、それが嘘を吐いていた証拠ね」
 してやったりといった顔をする母さん。つまりカマをかけられて引っかかったって言う訳だ。
「じゃあ、本当は主将は鈴中を殺していなかったんですね!」
 喜ぶ香籐だが、これは喜べる事ではない。
「香籐。俺が殺していなかったのなら、誰が鈴中を殺したのか想像してみろ?」
「覚醒剤の売買のトラブルで──」
 俺は首を横に振った。
「主将でも、それじゃあ、まさか……?」
「こいつの餌食になっていた女子生徒の1人が呼び出されたこいつの部屋で、トイレで用を足している所を背後からガツンと殴られてあの世行きだよ……後1日早かったら俺の手で殺してやれたのに」
「その事は警察には?」
「知られてないはずだよ。奴の死体を含めて部屋の一切合切を全部収納し、血痕や指紋などを全て消し去ったよ。死体が無いなら殺人事件も無い。ミステリーのネタにもならないでしょ? 警察も単に失踪。今はそれこそ覚醒剤取引のトラブルの線で捜査してるかもね」
「彼女達のアフターケアはどうしたの?」
「【中解毒】を使って薬物だけは完全に取り除いたけど、精神的依存については不明だけど、でも薬からの離脱を【中解毒】で済ませたから、離脱時に感じるはずの強い苦しみが無かったから、精神的依存も最低限に済んでいるはずだよ……所詮、ネットや本からの知識だけど。それから鈴中を殺してしまった女子生徒には俺が発見した段階では鈴中は生きていて、その後処分したので、この件は絶対に明るみにならないと説明しておいたよ」
「そう。それなら問題はなさそうね……それで彼のことはどうするつもりなの?」
「こいつを蘇らせる気は無いよ。例えこの世界に島流し状態にしたとしても、こいつはこの世界でも周囲に不幸をばら撒く。このまま海にでも投げ込んで魚のエサにするのが1番だよ」
「生きて償うなんてタイプじゃないわよね」
「自分を省みる事の出来る性格なら、教え子をレイプして脅迫して薬漬けなんて事を13人も繰り返すはずが無いよ。それにあいつはサディストだよ彼女達を支配し、傷つける事に喜びすら感じていたよ」
「この件に警察を介入させるメリットは、犠牲者達の身体と心のケアを受けさせる事が出来るということだけね。それに心のケアどころか警察で聴取を受けて更に傷つく可能性もある……隆、彼女達のケアをもう少し高い段階で出来ない?」
「例えば?」
「記憶の操作。もしくは選択的記憶の消去」
「……出来るよ。闇属性Ⅵに【忘却】という魔術があるから、だけどどんなに上手く記憶を消しても、彼女達はその欠落した記憶の穴に悩み苦しむと思うんだけど?」
「それじゃあ、何か別の記憶で上書きするような方法はないの?」
「無茶言わないでよ。もし記憶を上書きするような魔術や魔法があっても、彼女達の視点で破綻なく進行するような記憶をイメージする事が不可能だよ」
「それなら消した記憶を思い出そうとすると可愛い犬や猫の映像が再生されてほっこりするとかは?」
「そんな現象、記憶の欠落があるより怖いわ!」
「冗談はさておき、彼女達の中にある覚醒剤使用の時の快感の記憶だけを消せば精神的依存は消えると思わない?」
「それだよ母さん!」
 そうすれば、彼女達は記憶の欠落を自覚する事も無く、覚醒剤=快感の記憶を失うので精神的依存の根幹を消し去る事が出来る。


 鈴中の死体を海に投棄して処理した後、残った2つの死体もクローゼットから取り出す。
「どちらから先に復活させる?」
「早乙女さんだろ」
 櫛木田は断言する。
「そうだな、早乙女の旦那を先に復活させて事情を話して協力を頼めば良いだろ」
 俺達の中で1番早乙女さんと親しい伴尾がそう提案する。
「まあ、話が通じる相手だしな」
「お前等勘違いしてるけど、根本的な部分で早乙女さんは大島の同類だぞ」
「……分かってる。分かってるけど言うな! 俺にとっては唯一の癒し系なんだから」
 伴尾、お前ぇ……
「何を悪人面の髭のオッサンに癒しを感じてるんだ?」
「だって、合宿で俺が限界に達して……それでも大島は……そんな時に早乙女の旦那は『大島。お前が焦りすぎているのと違うか? 部員の子等はみんなちゃんとやってるぞ』って言ってくれたんだ。だから俺はそれまで以上に頑張る事が出来たんだ」
 お前、それって──
「伴尾君。それは大島先生が鞭役で、早乙女さんが飴役を上手い事演じているようにしか思えないんだけど」
「え゛っ?」
「だって、それで少しでも練習が緩くなったりした訳じゃないよね?」
「……いや、それは、俺が奮起したから……むしろきつくなった様な……」

 結局、大島を先に復活させる事にした。早乙女さんを先に復活させて、その後大島復活後に、大島に同調されると敵が2人になるためだ。
 先に大島を復活させて敵対した場合は、各個撃破が可能となる。

 戦いやすい足場のしっかりした場所に大島の死体を置き、その周りを空手部の6人で取り囲む。
「隆。どうして命懸けで教え子を守った先生や、その友人を復活させるのにこんな物々しい態勢を整えるんだ?」
 流石男親。こどもの学校事情には疎い疎い。
「危険人物だから」
「そもそも人物と呼んで良いのか分かりません」
「何かあったら我々の命が危険だからです」
「良く言って、多少は無しの通じる悪魔だから」
「色んなスイッチが他人とは違う所に付いていると言いますか……」
「必要だからとしか言いようがありませんね」
 誰一人として大島を擁護するような事は口にしない。兄貴ですら無言で頷いている。
「そ、そうか……そうなのか」
 大島を知る者達の総意の前に、父さんもそれ以上言う事は無かったようだ。
 正面に俺が立ち、そこから正六角形の形に右から田村、香籐、櫛木田、紫村、伴尾の順番に並ぶ。何かがあれば俺が大島の注意を惹きつけ、残りで一斉に攻撃を仕掛ける。これならば大島であっても確実に仕留める事が出来るはずだ。


『セーブ処理が終了しました』


 一度大きく深呼吸してから【反魂】を大島にかける。
『対象の魂の復活のために、対象を一時的にパーティーに編入します』
「あ゛っ!」
『対象の肉体と魂の治療効果を上げるために、対象の持つ経験値をレベルに変換します』
「え゛っ!」
『対象のレベルが30上昇しました』
「い゛っ!」
 レベル30の大島だと? 今の俺で勝てるのか?
『処置終了まで残り30秒…29…』
 いかん!
「ロード!」
『現在の処理終了までシステムメニューの一部の機能をロックしています』
 ふざけるなこん畜生!
「全員退避だ! 復活後に即ロードを行うが、一瞬の間を突かれないように距離を取れ」
『9…8…7…6…』
「構えろ、集中しろ、髪の毛一筋の隙も見せるな!
『1……対象をパーティーから排除します。全ての処理が終了しました』
 その瞬間、禍々しいまでの何が周囲に渦巻いた。魔力でもない……これが気とか気合とかいう奴なのか?
「ロード!」
『システムメニューの機能ロック解除まで5秒…』
 5秒もだと? これは先制攻撃をして時間を稼ぐか、それとも無事に時が流れる事を期待するか?
『4…』
 大島が目を開ける。眼球が左右に走り素早く状況を確認しているようだ。
『3…』
 身を捻りながら身体を起こす。身を低く四つん這いの状態で周囲を警戒する姿はまさに野獣。
『2…』
 大島と目が合うと、奴は唇の両端をニィっと吊り上げる。人間として笑っているんじゃない野獣の威嚇行動の1つだ
『1…』
 大島は立ち上がると「よう!」と──
『0』
「ロード!」


『ロード処理が終了しました』


「どうするんだよ?」
 本当にどうしたら良いんだろう? 誰も田村の問いには応えない応えられない。
「……あれは拙いだろ。レベル30というのは大型の龍を倒すのに匹敵する経験値が要る」
「じゃあ、あいつって現実世界でそれに匹敵する何かを倒してきたのか?」
「熊何匹分だよ?」
「熊だけじゃないと思うよ」
 櫛木田と伴尾の言葉に紫村は形の良い眉を顰めながらゆっくりと首を横に振った。
「虎とかか?」
「象だろ?」
「カバ?」
 その何れの答えにも紫村は首を振った。
「人間だろ」
「主将!」
 そう答えた俺を香籐は諌めようとするが、紫村はゆっくりと首を縦に振り肯定する。
「そんな!」
「幾ら大島でも……」
 香籐は受け入れられていないが、伴尾が飲み込んだ言葉は「ありえる」だろう。
「考えてもみろ。ヒグマでさえもオーガに比べたら雑魚もいい所だ。ツキノワグマなんて精々オーク程度。そんな状況下でレベル30分の経験値をためるのに1番適した生き物は何だ?」
 夢世界のように魔物や野生動物が豊富にいるわけではない。現代の日本においては倒す倒さない以前に、倒す相手が沢山いるわけではない。
「そうだ魚釣り!」
「香籐、現実をみろ」
 確かに魚釣りでも経験値は入るようだが端数の域だ。俺達のレベルは大島と違って皆1から始まったが、レベルアップ前に溜め込まれていた経験値でレベル3に価するほど溜め込んでいた奴は父さん以外にはいない。ちなみに父さんでもレベル8程度にすぎない。
 何より、魔物とそれ以外の生き物では経験値が全く違っている。森林狼は巨体と高い戦闘能力を持ち合わせていながら経験値はゴブリンよりも少なかった。
 つまり現実世界でレベル30分の経験値を稼いだ大島の異常性が浮き彫りとなるのだ。
「大島先生が英語以外にも幾つも言葉を使えることは知ってるよね。つまり若い頃に海外での生活が長かったと考えるべきだよ」
 大島が使う当ても無い言語を必死に習得する姿は想像出来ない。必要があるから身に付いたのだろう。だとするなら紫村の言葉には説得力が出る。
「その海外の生活で何をしていたのかが問題だよね」
「傭兵……つまりPMSC(private military and security company)民間軍事会社ってところか?」
「僕はそう思うよ。戦場以外ではあの経験値はありえないから」

「其れで改めて聞くけど、どうするんだよ?」
「田村! どうするどうするとうるさい。少しは自分で考えろ!」
 櫛木田が一喝する。
「だけど本当にどうしたら良いのやら」
「まさから復活のせいでレベルが上がってしまうとは……」
「高城、お前なら勝てるのでは?」
「普通に考えたなら勝てる。負ける要素が見当たらない。それなのに勝てるという確信が抱けない……これは刷り込まれた恐怖とかトラウマの問題じゃない。本当に読めないんだ」
「俺もレベル77になった今でもレベルアップ前の大島と戦えと言われたら困るな。身体能力、反射神経、視力等の五感全てで勝っているにも関わらず、それらをひっくり返しかねない何かを大島に感じる」

「隆、大島と言う教師はそこまで凄いというか、酷いのか?」
「父さん。隆たちが言ってる事は何一つ誇張は無いよ」
「大……あの中学校は本当に大丈夫なのか? この前は隆から校長と学年主任の問題行為について聞かされたばかりだし」
 そう俺は校長達の件を父さんを通して教育委員会へと話を持っていって貰った。
 余り知られてない事だと思うのだが、教育委員会は各市町村の自治体下の組織でもあり、委員は知事、市町村長によって指名され議会の承認を経て任命される。
 その為に委員の内一定数は役所の職員が通常の職務に就きながら一緒に兼任している。
 父さんの同期の友人も教育委員会の委員を務めているため、その友人へと例の件は証拠の動画などと一緒に送られている。
「それだけではなく、教頭も早期退職を希望していて今は必死に留任を促しているところだそうだ」
 やはりそうなるか。後任が決まらぬまま校長と教頭、さらには3年生の学年主任という重要な立場の人間が消えるのは問題だよな。
「はっはっは……大変だね我が母校も」
 兄貴は乾いた声で笑った。
「学校がおかしくなった原因の1つが大島だよ。奴が他の教師達にも強いプレッシャーを与え続けたせいで教師達も捻じ曲がったんだよ。そのストレスを生徒にぶつけるのだから元々誉められた連中じゃないけどね」
「だが隆はそれで良いのか?」
「3年になって今更、学校に何かを期待する気は無いけど、後輩達のために少しはいい学校にしたいな」
「そんな学校に、再び野獣を解き放とうとする鬼の様な俺の弟だった……」
 やっぱり復活させない方が良いのだろうか? 心が揺れる。
 大島を復活させたくないという思い。大島を絶対に復活させてはいけないという思い。そして大島を決して復活させ無いという決意の間で……復活させなくて良くない?
 いや違う。俺達が今此処で大島を止めておけば良いのだ。キャンと言わせてやれば良いのだ。
 大体、俺達以外の誰に大島を止める事が出来るというのだ? やるべき事をやらずに後輩に押し付けるつもりか? 良くも恥ずかしくもなく先輩面出来たものだ。

「いや、大島とは決着をつける! お前等覚悟を決めろ!」
「高城!」
 田村の顔に先ず浮かんだのは驚き。そして驚きは怖れに、そして怯えに、だがやがて田村は笑みを浮かべる。覚悟を決めた男の顔で。
「……やろうじゃないか!」
「そうだな。何れの時にか決着はつけなければならないんだ。やろう……今!」
 櫛木田も覚悟を決めた。
「後輩に荷物背負わせる訳にはいかないだろう。この拳で大島の鼻っ面をへし折ってやるさ」
 そして伴尾も覚悟を決める。
「紫村……頼む」
「水臭いな……まかせてよ」
 紫村は気負うものもなく、ただ笑って応えた。

「主将。僕も──」
「お前も俺達が守るべき後輩なんだぞ」
「それでも僕は主将達と肩を並べて戦いたいです」
「莫迦だな……」

「……大。隆達は何でこれから命を捨てに行く男のロマン的な雰囲気を出しているんだ?」
「父さん。触らないであげて、そういう年頃なんだよ」
「それにしても、そこまで雰囲気を出すほどか…………たしかに大島という男は只者じゃないようだけど」
 父さんはまだ納得が出来ていないようだ。俺だってまだあいつの存在を納得出来ていないよ。


「良いか? 行くぞ」
「了解」
 気持ち良い返事が返ってきたところで大島に向けて【反魂】をかける。

『1……対象をパーティーから排除します。全ての処理が終了しました』
 禍々しいまでの気当りにはもう怯む事は無い。
「よう、久しぶりじゃないか高城。生きてたとはな驚いたぜ」
 何時だって無駄に不敵な男だ。
「お久しぶりです。ですがむしろ自分が生きている事を驚いてください」
「はっ、こうして生きてるんだ驚いたって仕方が無いんだろ。お前と紫村、それに香籐までも生き延びたって方が驚きだ」
「それは──」
「それで1年や2年共はどうなった?」
 さすがに教師としての良心はわずかに残っていたらしく教え子を心配するなんて以外だが……いや、何かあったら面倒だからかもしれない。
「全員無事ですよ。後遺症も無くすべて回復しました」
「後遺症……アレからどれだけ時間が経った?」
 後遺症が無いという言葉から、彼らは治療を施され、更にある程度の時間が経過した事を察したようだ。
「大島先生が死んでからという意味でしたら3週間ほど経ってますよ」
「死んでからだと? 3週間?」
「はい、死んでましたよ。現実のあの島に戻った時にはね。そこで死んでる早乙女さんと一緒に」
「早乙女……おい!」
 俺の指差す方向を振り返り早乙女さんに気付くと、駆け寄って早乙女さんを抱き起こす。
「おい! 目を覚ませ!」
 心臓マッサージを行いながら叫ぶ。
「無理ですよ。死んでますから……少し前までの先生と同じように」
「俺と同じようにだと?」
「ええ、言ったじゃないですか死んでから3週間経ったと」
「……話を聞こう」
 教えてもらうのに、聞いてやるという態度。しかもその事に何らおかしな事を感じていない……恐ろしいほどの上からの態度だが、命令じゃなかっただけ死を経験して人間として成長したのだろう。

「なあ大島君」
 だが俺は思いっきり見下した風に話しかける。
「大島君だぁ?!」
「大島君。そろそろその様な子供じみた態度は慎むべきじゃないかな」
 俺の目的は、慎ませる事なので本題を切り出す。
「良い歳して、恥ずかしいと感じるところは無いのかな」
「お前、死ぬ気か?」
「何ならもう一度死体に戻してやろうか?」
 最初から話し合いでどうにかなるなんて思っていない。
「おもしれぇな。6人がかりで強気になったのか?」
「6人がかりじゃあ、大島君が納得しないだろ。本当は僕ちゃんの方が強いのに、あいつ等6人がかりでなんて卑怯だ。僕ちゃんは負けてないなんて泣き喚かれても迷惑だ。俺1人でやってやるよ」
 善し! 今日も煽りは絶好調だ……お前等そんな心配そうというか、遺影を見るような目で俺を見るな。

 冷静になって考えれば勝算はある。そもそも大島は自分がレベルアップによって驚異的に身体能力等が向上している事に気付いてない。
 故に今まで以上の力を使う事が出来なくても良いが、怒らせたので確実に今までの限界以上の力を出すだろう。だがその力に奴は驚き隙を見せる。
 隙は一度だけ二度はいらない。そして一瞬だけで十分だ。
「大した度胸だ。その度胸に免じて先手をくれてやる。掛かって来い」
 相変わらずのメロン熊面に笑みを湛えての威嚇。これだけ常人ならば尻餅をついて座り小便を漏らすほどの恐怖を覚えるだろう。実際にヤクザがそうなった場面を見たことがある。
「それではお言葉に甘えて……」
 回り込むなどの小細工無しに正面からゆっくりと距離を詰める俺に、大島の瞳孔が軽く開く。それから読み取れる感情は喜びと興奮。

 大島の間合いがデッドラインとして目に見えなくても、俺の身体に染み付いた経験則が視覚情報以上にはっきりと教えてくれる。
 だがそのデッドラインを俺は信用していない。大島が自分の手の内を教え子とはいえ俺達に明かすはずが無い。つまり本当のデッドラインは俺の身体に染みこんだそれよりもこちら側にある筈だ。
 それは5cmか10cm? それを探りながらゆっくりと距離を詰めるデッドラインの手前で体感時間が無限に引き伸ばされていくような感覚──!
 研ぎ澄まされた五感の中の皮膚にピリリと電流が流れたような感じがし、次の瞬間、どういう理由かは分からないが、速く鋭い大島の左貫手が空気を切り裂く音も立てずに飛んでくる。
 拳を貫手にする事で俺の中のデッドラインより20cmも伸ばしてきた。
 俺はそれを受け止め斜め上へと押し上げる。大島の攻撃は避けてはいけない。避ければ大島の手を自分の近くでフリーにしてしまう。そうなれば奴は絡みつくような動きでこちらの動きを封じてくる。だから受け止める。勿論そこから間接を取りに来るなどの手段を講じてくるが、視界の範囲外でフリーにするよりはマシだ。

「必死だな大島君。先手はくれるんじゃなかったのか?」
 俺の右手首の内側に差し入れようとしてくる親指に対して、自分の右手の親指を付け根から反らせる事で外側へと流し、逆に大島の左手首を握り込──
「甘ぇんだよ!」
 手首を縦方向から完全に掴む寸前に大島は肘から先を90度内側に捻り、横方向に手首を握らせると、再び肘から先を90度捻って元に戻しながら引き抜いた。
「甘いも何も、大島君の新鮮味の無い姑息なやり方は厭き厭きしてるよ」
 その時点で俺達は互いの間合いで向かいあっていた。

「何処でそれほどの力を身につけた?」
「大島。お前をボッコボコにした後で教えてやるよ!」
「上等だ! 死ね!」
 引き絞られた力の解放。大島が繰り出した正拳突きは驚くことに目測で200㎞/hを遥かに越える速さで飛んで来る。
 だが俺以上に驚いたのは大島自身だろう。俺が左腕で受けて肘から先の回転で捻り落としても、大島は反応出来ず、踏み込んで手加減をかなり加減した俺の拳を腹にもらって、漫画のように地面に水平に吹っ飛んでいった。
 ……うん、これじゃあやっぱり大島は納得しないだろうな。絶対に再戦を要求してくるだろう。しかも今度はレベル30の身体能力をフルに使ってだ。

 自分の身体でへし折った20mはある大木の下敷きになっている大島。木をどけて気絶している大島に光属性レベルⅥの【真傷癒】をかけると破損部位が提示される。胃と肝臓が破裂していたので治療する……魔術凄げぇな。
「くっ……俺は負けたのか?」
「負けてないと思うのはそちらの勝手だ。治療でちょっと麻酔無しで腹に穴あけるから我慢しろ」
 幾ら傷は塞がっても、破裂した胃の内容物が腹腔内に溜まっていれば大島でも死ぬだろう。
「……勝手にしろ」
 大島の腹に治療用のアルコールを撒いて消毒する。
 本来腹部を切開するなら皮膚、脂肪、筋肉、腹膜と層ごとに術具を変えながら切り開いていくのだがなにぶん素人なので一発勝負で失敗したらロードという方法を取らせて貰う。
 適当に距離を測って手を構えると、ナイフを装備する。大島は一瞬ピクリと身体を小さく震わせた以外に反応を示さないが傷口からは血があふれ出す。
 多分、他の臓器を傷つけたのだろうが気にする事無く【真傷癒】で治療すると、掌サイズのLEDマグライトを取り出して、ヘッドとエンドのパーツを捻って外すと、中のバッテリーボックスを取りすと、握りの部分はただの筒になるので、【水球】で作った水の塊を空中に浮かべたまま【真傷癒】で沸騰させると中にマグライトの握りの部分を放り込んで煮沸消毒し、再び【真傷癒】で人肌程度に冷ましてから、腹部の開いた開口部へねじ込む。
 直径30cmの水球の体積は14L強で、これを生理食塩水にするためには塩を130g弱溶かし込めばよいのだが……重さを量る道具など持って無いよ。料理させて貰えないだから。

「紫村。塩130gくれ!」
 悠長に紫村に頼む。苦しいのは大島なので慌てる必要はない。
「軽量スプーンでもいいかな?」
「構わん。多少の違いは誤差は誤差だ。大島が誤差程度でどうにかなるなら苦労しない」
「それもそうだね」
「……お、お前等」
 大島も教え子の心遣いにに感動しているようだ。

 紫村が大体で計った食塩を水球内に投入。【操熱】で加熱しながら回転させて食塩を溶かし切り、更にそのまま沸騰するまで過熱し、人肌まで戻すと【操水】で水球の水の約1/3、5L弱をマグライトの握りの部分を通して大島の腹腔内に送り込んで、血液や胃の中の未消化な食べ物をあらない流し水と一緒に外に取り出す。それを3回繰り返してから【中解毒】で雑菌を殺し腹腔内の洗浄を終えると、マグライトの握り部分を引き抜き【軽傷癒】で切開部分の傷を塞いだ。

「処置終了。感謝して土下座しても良いんだぞ」
「高城、今のは何をやったんだ?」
「さてね」
 大島に対して魔術の事を説明する必要はない。奴はレベル30になったが、レベル176の時の俺と同様にレベルに応じた属性魔術のレベルが開放されただけであり、もう1つレベルが上がって属性レベルに対応した魔術を憶えない限り憶魔術を使うことは出来ない。そして奴は2度とレベルを上げる事は無いのだから。
「それがお前の強気の原因か? だがその力、何もお前だけが身につけたって訳じゃないみたいだな」
 ……勘違いしてるよ。
「大島君。大島君。泣きのもう一回を遣りたいなら、ほら人としてやる事があるんじゃないかな?」
「何のことだ?」
「ド・ゲ・ザ。地面に額を擦り付けて、もう一度チャンスを下さいお願いします高城様って言うんだよ」
「舐めるな、この餓鬼!」
 完全に怒った。冷静さを失ったなら大島といえ恐くは無い。
 現段階では大島の身体能力は怖れるに足らない。恐るべきはその技のキレと深さ。そして悪魔のように狡猾な頭脳だ。その頭脳が冷静さを失い働かなくなるのなら勝率は跳ね上がる。
 更に罠を仕掛けていく。
 パワーが2倍以上に跳ね上がった大島の打撃をいなす。だが力をいなし切れずに下がる。立て続けに襲い掛かる打撃を必死にといった風に受け流し払い続ける。
「止めだ!」
 追い込まれて、反撃する余力も無い振りをした俺に、大島は止めとばかりに大きく踏み込んでの一撃を送り込んでくる。
 その瞬間、俺はその一撃をかわすと、自分の中のギアを1つ上げて踏み込みながらカウンターを放つ。
「やはりな」
 俺の一撃は大島の左手に阻まれて止まり、次の瞬間に右斜め下から跳んできた大島の膝に顎を打ち抜かれる。

「残念だったな。必死に俺を怒らせて、更に奥の手まで隠していたのは誉めてやる。中学生の餓鬼にしては大したもんだ」
「くそ……」
 脳を揺さぶられて膝から力が抜けて、歪んだ視界の中で景色が上へと流れて行き、地面の硬さを顔に感じた。
 だがこれも作戦の内だ。大島の手を読んでいた訳では無いが想定外という事態というほどでもない。
 10秒もあれば脳震盪から回復する事が出来る。俺の身体はそんな風になってしまっている。
「……な、なんで……分かった?」
「簡単な事だ。お前が追い込まれているというのに櫛木田達は妙に余裕の表情を浮かべていたからな」
 馬鹿共が! 後で覚えてろよ!
「それじゃあ、お仕置きの時間だ」
 余裕の表情で近寄ってくる大島だが、俺は既に脳震盪から回復し終えていた。
 さてと、どのタイミングで仕掛けるかだが──

「これ以上息子に手を出すというのなら私が相手になろう」
 ……か、格好良い! これが本当に俺の父さんだろうかと疑ってしまうほど格好良いな。
「ほう……俺は相手が父兄だろうが一切手加減しない主義だぞ」
 そこはしろよ馬鹿野郎。
「父さん。大島はまずいから止めておいて。回復して無い振りして隙を伺ってただけで、俺はとっくに回復してるから!」
 俺の発言に大島は一瞬驚いた表情を浮かべたが、それを押し殺して「……やはりな」と呟いた。
「嘘吐け、完全に騙されてた顔してただろ」
「騙されてなんていねぇ! お前の気のせいだ! 誰があんな猿芝居に引っかかるか!」
「騙されるかどうかもう一度試してやろうか?」
「ほざきよるわ!」
 やはりこの男は正面から叩き潰さなければならないようだ。だが勝てるのか? こいつはまだ奥の手をかくしているだろう。そして俺よりも引き出しの数が多いのは間違いが無い。
 俺は大島という宿敵との戦いに入れ込みすぎて、自分と大島だけが世界に存在するかのごとく視野狭窄に陥っていた。
 だが大島は冷静にその場を取り巻く全て、櫛木田達の表情すらも戦いに利用した。
 自分を取り巻く全て、いや自分すらも煽られて冷静さを失えば戦いにおいて敵となりうる。同様に自分を取り巻く全てを、相手さえも味方とする事が出来れば必ず勝つという事に気づかなかった。

 大島が持つ経験という名の引き出しはやっかいだ。戦いの場で起こり得るモノの多くが、頭の中で考えたものではなく経験として蓄えられ状況に応じて何時でも引き出されるのだから。
 そんな大島を倒すとするのならば、奴が何も引き出しから取り出せぬ内に倒すべきだろう。
 先手をとって主導権を握り、手放さず大島には何もさせないのが理想的だ。しかしそんな事が俺に出来るのか?
 大島の無駄に豊富な戦いの経験なら、相手に先手を取らせてからいなして主導権を奪うなんて事は朝飯前だ。俺の引き出しの中にすら幾つか手段は入っているくらいにありふれている。そうでもなければ戦いは先手を取った方が勝つという単純な構図になる。
 だが逆に先手必勝の言葉通りに、先手を取ってそのまま押し切るなり逃げ切るなりして勝利を得る方法もありふれてる。
 両者に明確な優劣が無いのだから当然だろう……馬鹿か俺は考えすぎだ。戦いを複雑にすればするほど大島の術中にはまる。逆だ。逆に戦いを単純にするんだ。

「大島。これから俺が仕掛ける。そして一撃で決める。その一撃を凌ぐ事が出来たらお前の勝ちだ。今まで通り学校で王様気取りで過ごすが良い。だが負けたなら今後は態度を慎め。さもなけばあの学校を去れ」
 大島なら他に食っていく手段は幾らでもあるだろう。奴が教師を遣ってるのは半ば趣味の様なものだと俺は思っている。
「負けた場合、お前は……場合もくそも負けるんだけどな。どうするつもりだ?」
「卒業後は鬼剋流に入門し、お前の手下になってやるよ」

「主将! それは駄目です!」
「待て高城早まる!」
「人生を捨てる気か?」
「思いとどまれ!」
「高城君それは言い過ぎだよ」
 お前等……それは分かり易すすぎるだろ。台詞棒読みだし。
「俺が負けたらこいつらも同じ条件で良いからな」
 俺の爆弾発言に紫村を除く4人の顔が怒りと絶望に歪む。
「そいつはおっかないほどの自信だな。不安になってしまう無いか」
 一方大島は心の邪悪さを顔に浮かべ心にもない台詞を口にしやがる。顔に感情が出るというより、そもそも隠す気が無いときている。

 戦いを単純にする。それは単に正面から踏み込んで殴るだけだ。
 ただし、大島に反応さえさせない速さで踏み込み、回避不能の攻撃でガードごとぶっ飛ばす。
 何の駆け引きも介在しない実にシンプルなプランだ。だが、その為には大島のありとあらゆる企みを看破しなければならない……大島が俺が攻撃するまで何の手も打たないなんて事はありえないからだ。

 大島と俺の距離は3mといったところだ。2人の間には固い岩盤の上に、長い年月をかけて草木が生えては枯れて出来た土の層が数10cmといったところだろう。
 システムメニューを呼び出して、時間停止状態にして周辺マップを拡大表示する。
 周囲の地面を岩、石、土、草、それ以外に分けて色を変えて表示する。
 こ、この野郎、涼しい顔して何してやがる! 俺と大島との間の地面にはアルミ製の板で作られた小さな捲菱が撒かれていた。
 小さいといっても靴の底を突き破って足に刺さるには十分な大きさだ。
 何故そんなものを持っているのか分からない。大島の格好は平行世界から戻ってきた時に自衛隊の手当てで来ていたシャツは切って脱がされているので上半身は完全に裸で、下は軍の放出品のゆったりとしたカーゴパンツで、収納力はあるだろうが常備する理由も分からない。
 とりあえず撒菱は拡張されたシステムメニューの収納機能は自分を中心とした10m以内の物を触らずに収納出来るので全部回収。
 だがこれは俺にとっては拍子抜けだった。大島の仕掛けにしては弱い。奴ならもっと決定的な何かを幾つも仕掛けてくるはずだ。

 更に地形的な段差、穴、などや草の中に紛れた蔦等の障害になりそうな物の位置を全てチェックする。
 しかし、これといった問題は発見出来ない。
 これはおかしい。撒菱では必ず俺が踏むとは限らない。大島にとっては気休め程度の仕掛けだ。そうだとすると気休めじゃない本命の仕掛けがあるはずだ。
 本命が何かを考える。大島が仕掛けを施すとしても、時間もさらに俺達に気付かれずに出来るような隙も与えていない筈だ。精々撒菱を気付かれないように落すのが限界だ。
 ならば、元々この場にある何かを利用する。
 いや、それも難しいだろう。今俺がチェックを済ませて何も問題が見つからなかった事。もし毒を持つ虫や植物へ俺を誘導する罠とか考えないでも無いのだが、そもそも大島がこの世界の動植物の知識を持っているはずが無い。

 残された可能性は仕掛けが大島の手の中にあるという事だった。
 銃器・刃物・毒物・劇物・火薬・可燃ガス……危険物で検索をかけてもヒットするのは、すぐには取り出せない位置にあるナイフと、後は残りの撒菱だけだった。
 考えすぎだったのだろうか?
 最後に大島の握りこまれた拳の中をチェックする……ハバネロ粉末?
 なるほど眼に入れば失明の可能性もある劇物でもあるが、奴が調味料として購入したのなら、ハバネロはあくまでも調味料という事か。それを指で弾き飛ばして俺の視力を奪う作戦か。
 ちなみに指で弾いて飛ばすといっても大島の場合は普通じゃない。ガムの銀紙の包み紙を丸めて親指で弾けば2mほど先にあるアルミ缶を狙い1発で破裂させるのだ。更にいえば5mm程度の小石を縦に丸めた舌の上に乗せて吹いて飛ばすと4m以上離れたアルミ缶をこれまた正確に捉えて破裂させるという嫌なかくし芸を持っている。
 そう本人はかくし芸だと言っていたが、使い方次第では武器となる、そして武器として使う事に躊躇いなど持ってはいない。
 ……最低でも、もう1つは何かを仕込んでいる。仕込んでいなければそれは大島じゃない別のもっと可愛いらしい何かだ。
 だが、それを見つけ出すことが出来なかった。分からないという底知れぬ恐怖と、罠を食いちぎって勝ってみせてやるという蛮勇。その狭間の中で俺はシステムメニューを解除した。

「ほらいいぞ。いつでもか──」
 お言葉に甘えて台詞の途中に仕掛けさせてもらう。
 大島が撒菱を仕掛けた場所を敢て踏み込む。大島の「しめた!」と言わんばかりの表情筋の動きを無視する。そして眉間の辺りを目掛けて飛んで来る白い包み紙を左手で下へと叩き落すと、大島の股間の真下を踏み込んだ俺の正拳突きが唸りを上げる。
 咄嗟に腕をクロスして鳩尾を守ったのは流石と賞賛しても良いだろう。だが俺の拳は2本の腕を重ねてへし折り、その腕ごと鳩尾へと突き刺さった。
「勝った!」
 俺は確信した。この打撃に今の大島が堪えられるはずが無いのだ。両腕が使い物にならなくなり再び胃を破裂させられた大島に反撃の余地はもう残されていない。完全勝利だと……
 次の瞬間、大島の口から吐き出された赤い煙を正面から顔に受ける。
 両方の目を襲い、そして吸い込んでしまったため鼻や口、喉の奥まで入り込む赤い煙。
「あぁぁっぁあっぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 一拍置いて襲い掛かる顔から胸が直接神経を炙られるかの様な痛みに限界を越えた脳がシャットダウンした……



「隆。隆起きろ!」
 身体を揺さぶられて意識が覚醒していく。
「……兄貴?」
「目はちゃんと見えてるのか?」
「目? 目は別に…………うわっ!」
 先ほどの痛みを思い出して思わず声を上げてしまう。2
「どうした? 見えないのか?」
 父さんが慌てた様子で肩を掴んで揺すってくる。
「隆、こっちを見て!」
「目は見えるよ。問題ない……何がどうなったの?」
 傍には父さん、母さん、兄貴。そしてマルにユキもいる。

「目、喉、気管、そして肺の一部まで広範囲に広がった炎症が原因で失神状態に陥ったんだよ」
「炎症で失神?」
「ハバネロの粉末を詰めたパイプを口の中に仕込んでたんだ。それで呼吸器系がまとめて火傷した様なものなんだから無理も無いよ」
 紫村の説明に、随分酷い目に遭わされた事が分かった。
「それで大島は?」
「向こうで死にかけているね」
「相打ちか……それで治療は?」
「高城君が回復してない状況で、彼を治療するなんて自殺行為だよ」
「そりゃあそうだな……じゃあ死なない程度に治療しておくか」
「そうだね、また生き返らせるのも面倒だろうし」
「別に魔力は無駄に余ってるから、一度死なせてから【反魂】をすれば怪我も全部治って楽なんだけど、そもぞも全部直す気は無いし」
「それなら、やはり一度死なせて【反魂】をかけてから改めて両腕を折れば良いんじゃない?」
「紫村。お前マジ天才だな」

「息子が荒みきっている。昔はあんなに良い子だったのに」
「いや、隆は大島の近くで影響を受けてる割にはかなりまともだと思うよ」
 俺の中で兄貴の評価が急上昇。今ならレベル100までパワーレベリングを無理矢理してやっても良い気分だ。
「やはりあの男が元凶か……」
 父さんが「排除するべきか?」と真剣な顔で呟く。
「彼に教員免許を与えた責任者の顔を見てみたいと思うわ」
 突然、周囲の温度が下がる……母さんが怒っている。
「治療用の魔術が無ければ隆は死んでたかもしれなかったのだから……ちょっと海に捨てて来るわ」
「待って文緒さん!」
 父さんが背後から羽交い絞めにして母さんを止めるがズリズリと引きずられていく。
「母さん!」
 慌てて兄貴が加勢して何とか抑える。
「嫌ね、英さんも大も、これじゃあ海にゴミ出しに行けないじゃない」
「行かなくていいから!」


「もう一戦やるのか?」
 面倒なので死なせてから【反魂】で復活させようかとも思ったのだが、また何か想定外な事が起きても嫌なので、普通に治療魔術で復活させた大島は、両腕が砕けた状況でも不敵にそう嘯いた。
「その腕でか? 大した自信だな」
「なんら問題は無い!」
 張ったりではない。揺らぎ無き強大な自負心が言わせる言葉なのだろう……羨ましいほどの図太い神経。
「だがな。もう一戦も何も、そもそもあんたは俺の一撃を凌いでないから賭けは俺の勝ちだからな」
 そう、思いがけない反撃をしてきたが、俺の攻撃はかわす事も受け切る事も出来ずにきっかり食らっているので、あの賭けは俺の勝ちとも言える。
「何だと! あれは相打ちだ」
「だから相打ちかどうかなんて関係ないんだよ。俺の一撃を食らって死に掛けて俺に助けて貰ったという事実があるだけだ」
「くそっ!」
「大体、戦った相手に治療して貰い命を救われておいて相打ちとか都合の良い事抜かして恥ずかしくないの? 俺なら切腹モノだ」
 そう断言してやる。
「分かった。学校は去ろう」
 ……えっ? 今何て言ったの? 櫛木田に視線を飛ばすと、分からないとばかりに首を横に振った。
「潔く教師も辞めよう」
 イ・サ・ギ・ヨ・ク……これは何かのアナグラムだ。多分地球滅亡に関わる重大なメッセージが潜んでるいるはずだ。
 ……駄目だ。総当りで試してもそれらしい言葉は出てこない……地球オワタ!

「い、今なんて?」
 混乱する俺を他所に田村が大島に聞き返す。
「教師を辞める。お前達もこれからは自分達で空手部をどうするか自由にやれば良い。ここが異世界だというのならこっちに残ろう。なにやら面白そうなて相手がいるようだから、戦う相手に不足は無いだろう」
 そう言って崖から見下ろす海には5頭の海龍が、投棄されたハイクラーケンの臓物に群がっていた。
 ちなみに海龍は名称こそ違えど水龍と同種であり、単に住む場所が淡水域か海かの違いでしかないが、餌の豊富さで海龍の方が大型化するために水龍の上位種と勘違いしている研究者も多いらしい。
 海龍は水龍と違って群れを作る。湖などをテリトリーとする水龍と違い、広大な海でしかも餌も豊富なため縄張りを維持する必要もなく回遊するために群れることが出来る。
 だが群れる事が可能な事と実際に群れを形成する事は同じではない。水龍より大型化した海龍が群れを形成して行動を取る必要があるほどの脅威がハイクラーケン以外にも海には存在するいうことだろう。

 その海龍をどこか清々しくもある表情で見下ろす大島の顔には、もう空手部へのこだわりは無いように見える。
 ……おかしい、おかしいぞ、俺は誰だ? 中の人が大島じゃないぞ……まさか、大島以外の、早乙女さんと人格が入れかわているとか? ……何を考えてるんだ俺は? 落ち着け落ち着くんだ。冷静になるんだ、そうすれば答えは必ず導き出されるはず……………………あっ!
 閃いた。答えが閃いてしまった。これは良い。なんて素晴らしい状況なんだ。

『皆良く聞け! 大島は【精神】関連のパラメータの【レベルアップ時の数値変動】を設定しないままにレベル30になったんだ!』
『何だって! 大島はそんな状態でも、撒菱を巻いて、ハバネロの粉末をお前に吹きかけたというのか? どれだけ酷い性格をしてるんだ?』
『相当病んでますね』
『あれって数値変動をONにしておくと数レベルでもかなり変化が現れるんだぞ』
『そんな異常者が教師をやっていたなんて怖いわ!』
『僕の想像を超えるね』
 一斉にディスられる大島。確かにレベル29分も『勇者様』的性格に変動してアレと考えると恐ろしいというよりおぞましい。やっぱりあいつは悪魔なんじゃないかと思う。

『だからだ。このまま大島のレベルを一気に上げればどうなると思う?』
『…………それは、凄く、凄く……気持悪い』
 伴尾の返答に皆が一斉に頷く。
『気持悪いとかの問題じゃなくだ。大島が善人になったとしたらの話だ』
『やっぱり気持悪いです』
『整理的に受け付けない』
 やはり不評だ。俺も当然だが気持悪いと思っている。善人な大島なんて気持悪くないはずが無い。
『気持悪いか気持悪くないかなら、俺だって気持悪い! だけどそういう話じゃないって言ってるんだよ』
『だがな高城。厚い寒いや痛い痒いは我慢出来ても嫌悪感は自分の中で何とか出来ないからな』
『我慢しろ。何でもキモい、ただしイケメンは除くで済ませる女子か?』
 そういう見た目で判断するから、俺達が怖いの一言で遠ざけられるのだろう。そういう風潮を後押しするような事をお前等自身が口にしていいのか?

『僕はおもしろいと思うね。それにキモいとか』
『そう! 紫村。そういう言葉を待っていた。どのくらいレベルが上がったら奴がまともな人間になると思う?』
 流石紫村だ。言葉の全く通じない遠い異国で日本人に出会ったような思いだよ……日本を出た事無いけど。
『難しい問題だね。大体レベル30でも、最近何かと大島化が進んだといわれる高城君と比べても、全然モノが違うというか比較にならないと思ったくらいだからね』
『つまりお前の見解は、無理って事か?』
『違うよ。別に大島先生に善人になれとか真人間になれとか言う訳じゃなく、少しはマシな人間になれば良いんだよね。普通の悪人レベルにね、それなら十分ありだと思うよ』
 大島がその辺のヤクザレベルの言動に落ち着くとしたら……何だか微笑ましく思えてしまうのは何故?

「それじゃあ、餞別代りにレベルアップしていきませんか?」
「レベルアップ?」
「ほら、テレビゲームなんかである、戦って経験値を稼いでレベルアップして能力上昇って奴ですよ。そんな現象がシステムメニューの影響下なら実際に起きるという事です」
「システムメニュー? ゲームの話は良く分からんが、それで強くなるという事か?」
「そう考えて下さい。ちなみに貴方の現在のレベルは30です。自分が強くなっている自覚はあるでしょう?」
 大島は自分の手を何度か握ったり開いたりしてから「なるほど、そういう事か」と呟いた。
「それで、本来はパーティーというか、俺の仲間に入らないとレベルアップなどの恩恵は受けられないのですが、【反魂】という特別な魔術を使う際に、レベルアップなどの機能を持つシステムメニューの影響下に入らなければ死者の復活は出来ないために自動的にパーティー加入した状態になり、その際に貴方が今までに貯めていた経験値でレベルアップしてしまったんですよ」
 その辺の説明は正直自分でも自信は無い。何故ならパーティーに加入した段階で皆最低でも2レベルになるだけの経験値を貯めていたはずなのに、誰もパーティーに入った瞬間にレベルアップしたものはいないので【反魂】には俺の知らない何かがあるのだろう。

「高城。お前のレベルは今なんぼだ?」
「177ですよ」
「177……てめぇそれはズルイだろ!」
「空手を始めて2年と少しの俺に対してあんたは何年修行してきたんだ?」
「糞、痛いところ突きやがる」
 こんな風に素直に認めてしまうのもレベルアップの影響だろう。もっと素直にして綺麗なジャイアンのように綺麗な大島にしてやるから覚悟しろ……無理だな精々普通のジャイアンまでだな。

 その後、早乙女さんにも【反魂】を使って復活させる。
 早乙女さんのレベルアップは18で、驚いていいのか安心していいのか微妙な数字だった。
「俺も大島に暫く付き合うからレベルアップを頼みたいんだが」
「いいですよ。今日中に70程度までは上げてしまいましょう」
 早乙女さんなら大島よりもかなりマシな部類に入る人なので、レベル70まで上げれば真人間になるだろう。そして彼に大島が感化されるなら……悪くない。感化しなければ2人で殴り合って白黒つけるかもしれないのも、それはそれで善しだ。

「それでは心の中で強く。私、高城隆の仲間になりたいと願ってください」
「無理を言うな」
 大島が速攻で拒否した。
「無理でもやれよ。お前が嫌だと思う以上に俺だって我慢してるんだ。大人の癖にガタガタとみっともない真似はするな!」
 今の大島には正面から浴びせられる正論を鼻で笑い飛ばすような真似は出来ない。どんなに拒もうとしても心が言う事を聞かないのだ……などと油断していると痛い目に遭いそうなので気をつけよう。

『早乙女 晴司がパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』
 勿論YESだ。
「それでは面倒なオッサンは放っておいてレベルアップをしに行きますか」
「よろしく頼む。大島……じゃあな」
 親しい先輩で、多分大島にとっては唯一の友達と呼べる早乙女さんに突き放されて、奴の顔に僅かだが動揺の色が浮かぶ。
 そうシステムメニューが作り上げようと目指すのは知恵と勇気と友情の勇者様だ。その影響を受けた大島が唯一の友達から見捨てられようとしている状況に焦りを感じないはずが無かった。
「分かったやってみよう……」
 こんなに自信が無さそうな大島を見るのは初めてだ……つうかそこまで嫌かよ。俺も嫌だけど。
『…………』
 システムメニューからは何のアナウンスも来ない。

「早乙女さん行きましょうか?」
「そうだな」
「残念ですよ。自分を騙す程度の嘘すら吐けないなんて」
 自分に正直過ぎる男には自己欺瞞は無理だったようだ。
「待て……自分を騙せば良いんだな? ……プライドは捨てぬ。ヘタレの高城如きの下に俺が靡くなどありえない……だから己の心さえ欺く!」
 何だ、きっちり俺をディスりやがって──

『大島 俊作がパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』
 やりやがった……迷わずに即NO!
「おい高城! お前今何をした? 成功したよな? 俺成功しただろ?」
「確かに成功した……だがお前の態度が気に入らない」
「何しやがるこの野郎!」
「悪いな。俺もまた自分すら騙す事が出来ない未熟者よ……そもそも俺の方から折れるメリットが無い!」
「ふざけるな!」
 その後、早乙女さんが間に入ってとめるまで掴み合いになった。


「それじゃあ説明するけど、俺のパーティーに入るとパーティー全体で経験値というものを共有する事が出来る。つまり俺があそこにいる海龍を倒すと、その経験値は全員で共有しレベルアップすることが出来る」
「頭割りじゃないところが太っ腹なシステムですよね」
「香籐、余計な事を言うと突然バージョンアップで修正されて頭割りになるかもしれないぞ」
 そう脅すと、香籐は血相を変えて押し黙った。
「……それでだ」
 システムメニューを呼び出し、【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】」
 システムメニュを解除すると打ち出された足場岩が5体の海龍の首をほぼ同時に吹っ飛ばした。

 俺のレベルは勿論、紫村と香籐のレベルも上がらなかったが、大島と早乙女さんはレベル68と67に、残りはレベルが80以上になりレベルアップに必要な経験値が大幅に増えたので1-2だけしか上昇しなかった。
 大島と早乙女さんも70を越えるかと思ったのだが、予想より経験値は延びなかった。やはり海龍は水龍が大型化しただけの同種に過ぎないというわけなのだろう。

 ちなみにレベルアップによって、大島君、早乙女先輩と呼び合う2人が様子が気持悪かったのは否定出来なかった。


----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

今回はハイクラーケン編のラストと大島復活の大きなイベントが2つも同時にやってきたため、書いても書いても終わらないという地獄で結局二ヶ月。
ハイクラーケンも後乗せでどんどん強くして、更に大島は予定に無いレベルアップというアイデアを盛り込み自分を追い込む始末。
「今日の俺にはハイクラーケンを倒す方法を思いつくのは無理だが、明日の俺なら必ず倒す方法が思いつけるはずだ。頑張れ俺! 俺は明日の俺を信じてる。だからハイクラーケンをもっと強くするお! ついでに大島もレベルアップさせるお!」
……タイムマシーンで過去に戻って、過去の自分を殺すべきだと思った。

ハイクラーケン編を書くにあたって雷を一生懸命勉強したので、先日ある番組の中で、雷は周囲の温度を3万度まで加熱するというアナウンスと同時に、実際の雷の画像に広範囲に3万度まで上昇する範囲を示していて笑った。
3万度近くまで加熱されるのは雷が通った場所の空気で、それが急激に膨張する際の衝撃波が生み出すのが雷鳴であり、番組で示されたような広範囲が3万度に熱せられるなら、世界はとっくに滅んでる。
 雷の放電持続時間は0.1秒程度であるが、その大半の時間は雷が落ちる先を探すための先駆放電なため、先駆放電の一筋がルートを確保してからの雷が落ちるまでの時間は0.01秒程度で熱量自体は1番危険な放射熱でも1mも離れれば人体の生命に関わるほどの危険は無い。
また、説明が長すぎて作中では省いた衝撃波は、避雷針を通過している部分では発生しない(空気に比べると鉄筋は電気伝導率がいいので発熱は小さい)ので、主人公兄は主人公なら驚く程度で済むだろうと軽く考えている。

ちなみにハバネロはマジでヤバイです。
自分が知る限り最もコストパフォーマンスに優れた辛い調味料である100円ショップのキャンドゥで売ってる 【LOUISIANA THE PERFECT Habanero HOT SAUCE】というハバネロで作ったタバスコソースの様な奴なんだけど、手を滑らせて落とした衝撃で容器のガラスが割れて絨毯の上に撒いてしまって、自分の脚にも掛かったんだけど無視して、ガラスの破片を拾って絨毯の汚れを拭いてとやってる内に、1分ほどでピリピリ程度が突然激痛に変わり風呂場に駆け込んで洗い流したら、ソースが掛かっていた場所が真っ赤になって軽い火傷状態になっていた。まさに食品でありながら劇物だよ。
また大島が使ったのは【S&B ハバネロペッパー】を想定。文字通りハバネロの粉末で、12gで定価165円(税抜き)とコストパフォーマンスが良い。



[39807] 第97話
Name: TKZ◆504ce643 ID:c4006491
Date: 2016/11/10 17:16
 結局、大島と早乙女さんを異世界に放し飼い状態というとても迷惑な状態のまま、俺達は帰ってきた。
 数年単位で食うに困らない程度の金は渡して来たので犯罪行為に走るとは思わないが、何らかのトラブルは起こすだろうな、きっと……
 起きるとすぐに、紫村と香籐、それから櫛木田と田村と伴尾と床の上に転がしてゆく。
「……おはよう高城君」
「おう、おはよう。今日はこれで帰るから、後はよろしくな」
「ああ、妹さんが帰ってくるんだったね」
「そんなんだ」
「ちょっと待て、という事はイスカリーヤさんも一緒に?」
「それをお前が知ってどうするというんだ?」
「勿論、お前の家にお邪魔する!」
 櫛木田の顔面にアイアンクローをかける。軍用ヘルメットでさえ紙風船と大して違いが無い俺の握力に櫛木田の頭蓋骨が悲鳴を上げる。

「妹さんも可愛いのか? 可愛いんだろう? なあ? 可愛いと言えよ?」
「いいか田村。家の妹が可愛いくても可愛くなくてもお前の人生に全く関わりが無いんだ。夜空に輝く遠い星が、既に消えているのかまだ存在するのか以上に、お前にとっては意味が無い話だ。死にたくなかったら2度とその話題を口にするな」
「お……おう」
 俺の脅しに口ごもる田村に、ついでに何かを言いかけて止めた伴尾。

「でも主将のご家族なら興味がありますね」
「じゃあ、お前は家に来い」
「本当ですか! やったー!」
「差別だ!」
 アイアンクローを受けながら櫛木田が叫ぶ。
 良いんだよ。香籐は家に来てマルやユキと遊びたいだけだから。それに何かのきっかけになるかもしれないから……


 香籐と一緒に紫村邸を出て家に向かう。相変わらず護衛兼見張りがついている。
 ここで大島が戻ってきたとなったらどうなるんだろう? そういえば大島の手下達はどうしよう? 予定では大島や早乙女さんと一緒に平行世界から此方に戻ってきたという風に偽装するつもりだったのだが……まあ良いか。

 家に戻ると、父さん、母さん、兄貴。そしてマルとユキを居間の床へ取り出して寝かせる。
『おはようタカシ! お母さんは……まだ寝てるね。あれカトーが居るよ。どうして?』
 マルは香籐の匂いを嗅いで確認しているが、香籐に撫でられてすぐに尻尾を振ってじゃれ付いてる。

「……ああ家か。おはよう隆。それじゃあ、シャワーを浴びてから涼達を迎えに行く準備でもするかぁ~」
 欠伸を漏らしながら風呂場の方へと消えて行った。
 母さんと兄貴はまだ起きない様なので『散歩に行って来る』と書置きを残すとマルにリードをつけてカトーに渡し、目を覚ましたユキを抱くと家を出た。

『タカシ! タカシ! マルの背中にユキちゃん乗せて!』
『危ないから駄目』
『走らないから。マル静かに歩くから』
『本当に?』
『本当! マル嘘吐かないから』
『主将。マルちゃんの上にユキちゃんの二段重ね。最高じゃないですか!』
『カトー、オメガ高い』
 この手の話題に関して香籐はポンコツ野郎で、マルとは愛称ばっちりだ。

 ただ景色を楽しみながら歩くだけの散歩を済ませて家に戻る……いや、散歩とは本来そういうものだな。
 香籐にシャワーを譲って、マルとユキに餌を上げて、床に胡坐をかいて食べる様子を眺めていると兄貴がやってきて俺の隣に座り込む。
「なあ、涼とどんなことを話せば良いと思う?」
「そんな事が俺に分かるなら、とっくに俺達兄弟は3人仲良くやってるか、俺と涼で兄貴をハブってるかのどっちだろ」
「そうだな……って酷すぎるだろ! 普通に兄弟3人仲良くってことにしとけよ!」
「きっと俺だけお兄ちゃんと呼ばれて、兄貴は、オイとか呼び捨てだな」
「それなら、今日俺が涼と和解して、お前をハブる!」
「その意気だ。頑張ってくれ……精々な」
「隆も少しは頑張れよ!」
「何となく……無駄な足掻き?」
「何でもう諦めてるんだ?」
「失礼な俺は諦めてないぞ。奇跡は起きます。兄貴が起こしてみせます! ってな」
「……完全に他力本願かよ」
「そういえば、イーシャが言ってたよ。俺達は理屈っぽすぎるって。もう少し単純なら涼と仲良くやれるって」
「単純に……ってどういうことだ?」
「さあ、だけどそれを考えてしまうのが悪いんじゃないのか?」
「俺に考えるなというのか?」
 考えない兄貴というか、考え過ぎない兄貴は余り想像出来ない。似たような性分である俺が言うのもなんだが、敢て言わせて貰えば面倒な奴である。

 香籐に続いてシャワーを浴びて居間に戻ると、玄関の方から車のエンジン音が聞こえてくる。
「帰ってきたみたいだな」
『お父さん帰ってきたの?』
『涼も一緒にな』
 俺の答えにマルの身体に緊張が走る。
『スズ来るの?』
『もう来てるんだよ』
 更なる答えに、マルは立ち上がりオロオロと落ち着きをなくする。
「主将。もしかして……」
「マルが妹を苦手としているのは確かだ。だけど別にマルをいじめているという訳じゃないんだ。手加減を知らないと、生まれつき粗暴というか……」
「もう良いんです。分かりました、もう良いんです」
 香籐は察してくれた。

「おかえり」
 居間に入ってきた父さんに俺が声を掛けると「ああ」と小さく応えるだけで、顔には不機嫌と大きく書いてあった……はて? 俺達兄弟の苦言を無視して甘やかしてきた娘と、可愛がっていた姪を連れて帰って来たとは思えない態度だ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「おはようございます」
「いらっしゃい。リーアちゃん」
「お邪魔します」
「あら?」
 ……3人目誰? 男の声だよな……これが父さんの不機嫌の原因か?

「リューちゃん、ダイちゃん おはよう!」
「おはよう……久しぶりだな」
 前回兄貴は俺を見捨てて逃げて帰ってこなかったからな。
「おはようイーシャ。涼」
 入り口で挨拶もしないで、此方を睨んでくる妹に一応挨拶をしておく。どうせ注意しても噛み付いてくるだけだろうから。
「どうも初めまして。香籐って言いますよろしく」
 ミスター爽やか君の香籐が、爽やかに挨拶をする……さあ妹よ、何かリアクションを返すのだ。
「……そいつ誰だ?」
 いきなり、そいつ呼ばわりかよ!
「友北中の2年生で空手部でお兄さんの後輩で、何時も大変お世話になっています」
 香籐はそいつ呼ばわりも爽やかにスルー。マルやユキと戯れて、幸福度がMAXな香籐はまだまだ心に余裕があるようだ。
「あっそう。興味が無い」
 そう吐き捨てるとダイニングへと姿を消す。
 思わず唖然とするほどの無礼さ。本当にこいつは、その手の礼儀がうるさい体育会系バリバリの柔道部の寮生活でやっていけてるのだろうか?
「……すまないな香籐」
「妹が申し訳ない」
「いいえ、気にしないで下さい」
 謝る俺と兄貴に、香籐は笑顔で許してくれる。
 だけど香籐。お前が許してくれたことで、お前への無礼は気にしなくて良くても、涼の将来を気にしなくては駄目なんだよ。

「リューちゃんの後輩? 私はイスカリーヤ。よろしくね」
「どうも香籐です。貴女の事はは何度か聞いた事があります。そうだ準優勝おめでとうございます」
「イーシャ。おめでとう」
「おめでとう」
 入り口に立つ3人目が気になりながらも無視して、俺と兄貴はイーシャの準優勝を讃える。
「うん、ありがとう……決勝戦で、ちょっと納得のいく試合が出来なかったんだけど、今はちょっと嬉しく──」
「あの……」
「今大事な所なんだから空気読んで黙ってろ!」と兄貴。「他人の家で勝手に呼吸してるんじゃねぇぞボケ!」と俺が見知らぬ男を怒鳴りつける。
 そんな俺達の失礼さに香籐は「やっぱり兄弟妹なんだなぁ~」と溜息混じりに漏らしていた。


「それでお前は何者だ?」
 普通に考えるなら涼の彼氏と考えるのが普通だろう。そうでもなければ唯の知り合いの女の子の家に態々新幹線に乗ってやってくる男がこの世に居るはずも無い。
 だが、涼に彼氏が? ……はっきり言って信じられない。粗忽、粗暴、そして粗末な胸と三拍子揃った涼に彼氏だと? そんな馬鹿げた事、異世界以上に現実味が無い。
「俺は国中 忠司(くになか ただし)。蓬栄中の柔道部で主将をしている」
「蓬栄って、そもそも学校も違う無いか! まさか涼をだましてるんじゃないだろうな? あいつに彼氏なんて出来るはずが無いんだから!」
 そうだ。そう考えれば全ての矛盾が解きほぐされていく。流石兄貴、実に明快な答えだ。そして流石兄貴、やっぱり馬鹿だ。
「随分と面白い事を言ってるじゃないか……大」
 戻って来た涼が兄貴の後ろから声を掛ける。
「げぇっ! す、涼」
 孔明ではなく実の妹に「げぇっ!」は……良く分かります。
「てめぇは後で覚悟しておけよ……こいつは隆、お前と勝負がしたくてやって来た馬鹿だ」
「高城! 先輩に向かって馬鹿とは──」
 学校も違うのに先輩とか……柔道の先輩という事か? 俺には分からない感覚だな。
「素人相手に柔道の勝負を仕掛けに来たとか馬鹿としか呼び様が無い」
「……うっ!」
「しかも、それがリーアが隆の事を誉めたのが気に入らないから、態々新幹線でやって来たとか……どうなんだ馬鹿先輩?」
「馬鹿で申し訳ありませんでした」
 涼の容赦の無い言葉攻めに、新幹線でやって来た馬鹿は全面降伏をする。

『あの追い込み方主将そっくりですね』
『おいっ!』
『香籐君、真実だけに止めてあげて』
『おいっ!』

「ともかく柔道の勝負と言われても、俺は柔道なんてやったこと無いから柔道着も持ってないしルールも知らないぞ」
「柔道着なら父さんのを貸そう」
 父さんの柔道着?
「……どうした」
「汚くない?」
 それが一番大事だった。
「失礼な! ちゃんと洗ってある」
「漂白と殺菌した? 加齢臭が残ってたら嫌だよ」
「お前は思春期の娘か? オカマちゃんか?」
「加齢臭が嫌いかどうかに、性別性癖は関係ないから」
 むしろ、オヤジの加齢臭を好むとしたら、その専門分野を得意とするオカマしか想像出来ない。
「父さんは加齢臭なんてしません!」
 おいオッサン。開き直って嘘つくのは止めろよ。
「そりゃあ、自分の加齢臭だから分からないだけでしょう」
 冷徹に事実を突きつける俺の言葉に兄貴が深く頷く。
「ま、大?」
 兄貴にまで加齢臭が臭い事を肯定されて動揺を隠し切れない父さんは、怯えるようにゆっくりと涼を振り返り、娘が頷く姿に絶望してその場に座り込んでしまった。
「大丈夫ですよ英さん。臭くなんて無いですよ」
「史緒さん~」
 優しく慰める母さんに、泣きながらすがりつく。
「ちゃんと洗濯物はセスキ炭酸ソーダを溶いたお湯で漬け置きしてから洗ってますから、洗濯物は臭くないですよ」
(加齢臭の原因菌を60度以上のお湯で殺菌し、原因物質である酸化した脂肪をアルカリ性のセスキ炭酸ソーダで鹸化、つまり液状の石鹸へと変化させて洗い流す)
「史緒さん~っ!」
 母さんから遠回しに加齢臭が臭いと指摘され、本当に泣きが入ってしまった。

「……まあ、それで結局どうしたいんだ?」
 馬鹿が新幹線でやって来たこと国中に尋ねる。
「俺と試合え!」
「涼。こいつ真剣に馬鹿だぞ。一般家庭に押しかけて、さあ柔道だ試合え試合えって、一体何処で試合をする気なんだ?」
「馬鹿の考えなんて知るものか!」
 「お前も考え無しにこんなの連れてくるなよ」
「悪かったな。勝手について来たんだよ! 何で父さんもこんなの車に乗せたんだよ!」
「乗せたも何も当然という顔で乗り込んでこられたら何も言えないだろ……」
 もしこいつが涼の彼氏で、そんな態度をとって愛娘に嫌われたらと思ったら何もいえなかったんだね……そんなのだからスポイルして涼をこんな風にしてしまうんだ。

「家族の揉め事は後にして、学校の格技室の隅でも借りれば良いだろう」
「お前が馬鹿なせいで揉めてるんだよ。大体、何が借りれば良いだろうだ? 勝手な事ぬかしてるんじゃねえぞ」
 馬鹿も度が過ぎると面白くない。むしろイラっとする。
「休みなんだから、空手部にだって格技室の割り当て時間があるだろう。その時間で俺は構わない」
 俺は構わない? 誰がお前の都合など心配してると思うんだ?
 もう決めた。こいつの望みどおり試合をしてやる。そして最高のピエロに仕立ててやろう。更にそれを撮影して顔出しで動画サイトに投稿してやる。
「空手部は、今顧問がいないので無期限活動停止で、主将の担任の先生のご好意で、ご実家の剣道の道場を借りて活動しているので、部外者を招き入れるのは問題があります。それに空手部としても迷惑です。さっさと新幹線で帰るのが良いでしょう」
 そう言って割って入った香籐のこめかみで血管をピクッピクッと動いている。馬鹿の態度が腹に据えかねたのだろう。
「部外者は口を挟むな!」
「何を言ってるんですか? 部外者も何も空手部の部員ですが?」
「うるさい!」
 馬鹿が手を出そうとした瞬間、香籐は小さく右膝を抜くと次の瞬間、膝を伸ばして床を蹴り、その力を左足で止める事で上半身に右回りの運動を生み出すと、即座に左膝を内側に抜き、更に上半身に右前に倒れる力を生み出すと、肩から先を鋭く振りぬいて馬鹿の顎先を打ち抜いた。
 崩れ落ちる馬鹿の後ろ襟を掴んで止めて「主将。この馬鹿は川原に捨ててきます」と振り返りながら笑顔で言った。

「香籐。捨てて来なくて良いぞ。これから北條先生に連絡して、こいつを道場に連れて行く許可を貰うから」
「主将!」
「まあ落ち着け。こいつの望み通りに試合をしてやるさ。結果はこいつの望み通りには絶対にしないけどな」
「……なるほど。具体的にはどんな感じにするんでしょう?」
「散々弄くって恥をかかせて、その様子を動画サイトに顔出しで投稿するに決まっている」
「流石主将」
 はっはっはっ誉めるなよ。


 北條先生に連絡を取り許可を得てから、次に紫村に撮影する準備を頼んでから俺達は道場へと向かった。
「あれ? 高城は今日は午後からだったんじゃないのか?」
 門の前で、伴尾と出会った。
「妹と従妹がこっちに顔を出す事になったんだ」
「可愛いと評判の従妹さんが来るんですか?」
「妹さんの方も可愛いですか?」
 周りに居た2年生達が一気に盛り上がる。
「残念な事に俺の妹が可愛かった事など一度も無い」
 俺の答えに一瞬で盛り下がった。

 道場で空手道着に着替えて、門の前に戻りまつ事5分で父さんが運転する車がやってきた。
 後部座席のドアからは涼とイーシャ。そして助手席のドアからは馬鹿が降りて来た。
「ったく、もったいぶらずに此処でやれば良いだろうに」
 香籐に殴られた顎に手をやりながら勝手な事をほざいている。
「お前は今日は空手部の練習に参加すると言う名目で特別に許可を貰った。すぐにランニングに出るから道場で着替えて来い」
「ランニング?」
「そうだ。唯の準備運動だ。文句は無かろう?」
「良いだろう」


 ……20分後、いや着替えなどの時間もあったので、実際に走った時間では10分足らずで国中は路上に倒れ伏した。
 走った距離は3㎞程だというのに体力が無さ過ぎる。
「体力無いですねこの人」
「中一の女子でもちゃんとついて来てるのに」
「なさけねぇ」
 1年生達が、倒れた道端の草でつっついたり、鼻の穴に突っ込んだりして遊んでいる。
「ぺ、ペースが速すぎる……陸上部の長距離走じゃあるまいし……こんなペースで走れるわけが無い」
「我が空手部に長距離で陸上部に負けるような軟弱者は居ない!」
「だよな、鍋川の奴、俺達の1500mのタイム見て涙目立ったもんな」
 1年生達がそう言って笑ってる。
 鍋川は体育教師で陸上部の顧問だ。そりゃあ手塩にかけて育てた3年生の長距離代表選手と変わらないタイムを、2ヶ月前までは小学生だった空手部の1年生が出したら泣くだろ。
 強いて言うなら、システムメニューを身につける前の俺が、陸上部の1年生に空手で負けるようなものだ。もしそんな事になったら責任を取って腹を斬るだろう……大島が。
「そ、そんなの空手部じゃねぇ……」
 そう良い残して国中は意識を失った。アスリートの癖に筋肉の上に贅肉をたっぷりトッピングした柔道の重量級ならそんなものだろう。

「じゃあ、こいつの面倒は任せた」
 俺達のペースについて来るのはやはり厳しかったのだろう。額に汗を浮かべて息を乱した涼とイーシャに告げる。
「こんなの連れて戻れないよぅ~」
「連れてかいらなくて良いよ。ただ、こんなのが道端に転がってたら警察を呼ばれるから、こいつが目を覚ますまで傍で介抱している振りをしていてくれ」
「こんなのの横で立ってられるか冗談じゃない!」
 君達2人とも「こんなの」扱いか、何でこんなのを連れて来たのか、何でもっとはっきりとお断り出来なかったのか本気で教えて欲しいよ。
「じゃあ、俺達はまだ半分以上ランニングが残ってるから。行くぞ!」
「イスカリーヤさん、また後で!」
「ランニングなんてさっさと終わらせて帰ります!」
「待っててくださいね!」
 こいつら分かりやすく張り切ってやがる。

 結局、1年生や2年生達が張り切ったお陰で、ランニングコースを2kmほど伸ばしたにも拘らず、時間は何時もより短縮されてしまった。
 連中はドヤ顔だが、明日以降は今日の結果が考慮される事は思いもしていないのだろう。
 大島も復活したことだし、最終的にはこっちの世界に戻って来るだろうから、それまでにこいつらを鍛え上げておかなければならない。
 戻って来た大島に「何だ後輩の指導も満足に出来ないのか? 俺がやってた事をそのまま真似すれば良いのに、真似すらも出来ないって無能だなぁ~」と言われたらと想像するだけではらわたが煮えくり返る。

 ともかく、後輩達、そして櫛木田、田村、伴尾の3人は我先にと道場に駆け込んだが、涼もイーシャも、そしてどうでもいいが国中も姿が無かった。
「あの野郎。まだのびてるのか?」
「先輩、あいつ使えませんよ。何で練習に参加させてるんですか?」
「主将が連れて来たみたいなんだけど……」
 1年生の栗原と2年生の岡本が俺の方を見る。
「何か知らんけど、いきなり家に押しかけて来て、さあ試合え、試合えと言ってな」
「はぁ主将と? 頭大丈夫なんですかあいつ?」
「大体、あいつが着てたのは柔道着ですよね? 柔道で主将に挑む気なんですか?」
 柔道をやっている人間は空手を下に見る傾向があるが、同様に空手をやっている人間は柔道を下に見る傾向がある。勿論俺もその思い込みからは完全に自由という訳ではなく、ある程度囚われているのは間違いない。自分が打ち込んできたものが1番であって欲しいに決まってる。
「というか俺にも柔道でやれと」
「主将って柔道の経験あるんですか?」
「全く無い」
「…………それで、相手の柔道の腕前はどうなんですか?」
「一応、中学柔道では日本でもトップクラスらしい……良く知らないけど」
「はぁ! それで素人相手に柔道で試合しろと言ってるんですか?」
「ふざけた奴ですね……ちょっとヤキ入れてきます」
 立ち上がりかけた森口の肩を掴んで押しとどめる。
「俺が例え柔道であっても奴に負けると思うか?」
「幾らなんでも……柔道のルールさえも知らないんですよね?」
「知らない。だが知らないから面白いアクシデントが生まれる。そもそも奴は俺が柔道の素人と知って試合をしろと言っているんだ。どんな面白アクシデントが起きても奴自信の責任だとは思わないか?」
「撮影は?」
 分かってるな森口。
「勿論、紫村に頼んである」
「僕も手伝います!」
「頼むぞ。撮ったのは動画サイトに投稿するからな」
「それならばっちり気合を入れて撮影します!」
 悪そうな笑顔でテンションを上げる森口に対して、空手部の水にまだ馴染んでいない、いや大島の毒に犯されていない1年生達は軽く退いている。


「それで? 無様にも練習前のランニングにすらついて来れずに失神した国中君は、まだ俺と試合をしたいというのかな?」
 1時間後、ようやく戻って来た国中は「さあ勝負だ。試合え、試合え」と懲りもせず喚きだしたので、たっぷり挑発しながら尋ねる。
 ちなみに既にカメラ4台で撮影中だ。
「試合をして俺がお前より強い事が証明したいだけだ」
 他人を指差してお前呼ばわりなんて、その指をへし折られても文句を言えない国も多いというのに、こんなのを国際試合に出して大丈夫なのか?
「経験者が未経験者相手に試合をしろと強要か……俺なら恥ずかしくてとても言えないような事を平気で口にするとは、お前恐ろしい奴だな」
「お、長家は、お前は柔道でも俺より強いと言っていた」
 俺がイーシャを振り返って睨むと悪びれる様子も無く笑顔で「ゴメンネ!」と言った……その様子を森口のカメラが撮影しているようだが、それは使えないからな。
 俺は涼に近づくと「何でイーシャが俺が強いというと、あそこまでむきになるんだ?」と耳打ちする。
 すると涼は、こいつは馬鹿か? と見下すような目で俺を見ると「奴がリーヤの事を好きだからに決まっているだろう」と声をひそめて答えた。
「す、すると奴は俺との勝負にかこつけて、ここまでイーシャとデート気分でやって来たというのか?」
「それは……否定出来ない」
 なんて高度な手段を使うんだ? モテないならモテないなり僅かな可能性を残すことなく泥臭く拾い上げていく。俺にはそんな発想は無理だろう、恋愛というのはもっと綺麗なものだという妄想を捨て切れない……ともかく恐ろしい奴だという事は分かった。
 東京にはあんな奴がたくさんいるのかよ。さすが日本の首都だな。正直、所沢が日本の首都だと言われても騙されるレベルのS県の田舎者にとっては格というより次元が違う。

「先ほども言ったが、俺は柔道の技は幾つか知っていてもルールは知らないぞ」
「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」
 おお格好良い! 格好良ければ良いほどピエロとなった時の惨めさが引き立つのだから、もっと吹かして貰いたい。

 嫌々ながら父さんの柔道着に着替えた俺は、道場の真ん中で国中と向かい合う。
「始め!」
 涼の掛け声と共に国中は組手争いの距離まで詰めてきたので、俺は組手争いを無視して掌底で鼻頭を打つと、怯んだ一瞬の隙を突いてコブラツイストを決めた。

「そんな柔道あるかっ!」
 涼の怒声が道場中に響き渡った。
「だからルール知らないって言ったのに、こいつが自信満々に何もさせるつもりはないとか言って聞く耳持たなかったのが悪いんだろう」
「……まあ、そうだな。この馬鹿の自業自得だな」
 一部の隙も無い正論に、いくら涼でも俺を責める事は出来なかった。

「こ、今度は殴るなよ! 殴るのは反則だからな!」
 鼻血は止まったがまだ鼻が赤く腫れている国中が叫ぶが「はいはい、殴らなければ良いだろ」と投げ遣りに答えた。
「始め!」
 掛け声と同時に、先ほど同様に距離を詰めてきた国中の鼻頭に向けて掌底を放つ。
「ひぃっ!」
 怯えた声を上げ、完全に腰が引けた状態で頭を抱える国中の鼻の一寸手前で掌底を止めると、余裕でコブラツイストをかけて、グイグイと締め上げやった。

「止め! 隆、わざとやってるだろ? 柔道のルールを分かった上でわざとやってるだろう? そして何故コブラツイストなんだ?」
「父さんに最初に教わったプロレス技がコブラツイストだったからだ。ちなみに涼の練習台としてかけられる方だったがな……苦しかった。幾らギブアップと言っても、力を緩めるどころか笑い声を上げながらグイグイ締め上げてくる妹が怖かった。確かその後、俺は失神したよな?」
「…………まあ、コブラツイストはもう止めろ」
 気まずそうに涼は視線をそらした……むしろ気まずいという感情を持っていた事にお兄ちゃん吃驚だよ。

「な、殴る振りも駄目だからな」
 俺を責めるというよりも怯えた目をしている。鼻骨を折られた訳でもないのに、ただ鼻っ面に掌底貰った程度でビビってしまうなんて信じられない。
「なあ、もうやめた方が良いんじゃないか?」
 試合じゃなく柔道を。格闘技に向いてない気がするよ。
「うるさい! ちゃんと柔道で戦えば俺の方が強いんだ。卑怯な手を使うお前が悪いんじゃないか!」
 よし、今のシーンと「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」のシーンを交互に3回ほど流せば効果的だな。
「始め!」
 少し投げ遣りな掛け声で試合は始まる。
 今度の国中は慎重に距離を取りながら、俺の周りを右へとゆっくりと回る。消極的だな、ここで俺から先に仕掛けると面白みが無くなる。あくまでも柔道をやろうとする国中に対して俺がギャグで返すというスタイルを変えるのは得策じゃない。
 わざと隙を見せてやると、国中は踏み込みながら俺の右肘へと右手を伸ばして袖を掴み引き寄せようとした。
 これが立ち関節で相手の間接を痛めつける大島が好きな技だと分かった俺は、右肘が伸ばされない様に逆に身体に引き付けると同時に左手で右の袖を捲くって国中の右手の上に被せてから、袖口を絞り上げて手を引き抜けないように固定すると、身体ごと左へと回転して半ば手首と肘をと肩を極めた状態で国中を引き回し、1回転したところで足を引っ掛けて転倒させる。
 そして俺は人差し指を立てた右拳を高々と突き上げて「イッチバーン!」と叫んだ。

「だから柔道をやれと言ってるだろ! 柔道を!」
 また涼が怒鳴る。」
「一体何が柔道じゃないんだ?」
 妹よ、お兄ちゃん今の何が悪いのか本気で分からないよ。
「袖で覆って相手の手を動けなくするな!」
「そんなのも駄目なのか? 柔道にだって確か相手や自分の柔道着を使って締め上げたりする技は有っただろう」
「駄目なものは駄目だ! 柔道舐めるなよ! ……それから国中! 手前ぇ脇固めで隆の肘を壊そうとしただろう」
「な、何を証拠にそんな事を……確かに多少痛い思いをして貰おうとは思ったけど、壊すとかそんな真似を俺がするとでも?」
 国中はすっとぼける。あの瞬間の奴の目は明らかにやらかす人間の目だったよ。

「はっきり言って、何を根拠にそんな風に自信満々に『俺がするとでも?』なんて言えるのか全く理解出来ない。そういうのは普段から相手との信頼関係をしっかり築いてから言え、それとも何か? お前は私との間に信頼関係を気付けてるとでも勘違いしているのか? 笑わせるな、そういう所が信頼に値しないんだ。寝言は寝て言え」
 容赦の無い啖呵に、場が静まり返る。
 アレは確実に相手の憎しみを生み出す。相手を確実に始末するくらいの覚悟が無ければ使うべきではない。
 少しでも場の空気を和ませるために、俺は明るい口調で「うわぁ~凄い啖呵聞いちゃった」と言った。
「高城君は普段からあんな感じだよ。兄妹だね良く似ているよ」
 流石紫村だ。上手く話の流れを関係の無い方向へと流してくれた。
「えっマジ!?」
 態と大袈裟に尋ねる。
「残念な事に……」
 目を合わさず頷く紫村。他の部員を振り返るも全員顔を背けた……えっ、本当にマジなの?


「それでどうすれば良いんだ? そろそろ俺も飽きてきたし、練習を再開したいんだけどな」
 ……というか傷心。俺だって傷つく事はある。
 そこで涼が妥協案を示した。
「仕方が無いから、両者相手の襟を取った状態から開始だ……国中。これはお前にくれてやったアドバンテージだ。これ以上柔道をやる者として恥を晒すなよ」
 どういう理由かは分からないが勝手に俺はハンデを負わされてしまったようだ……そうそう、よく「ハンデを貰う」とか「ハンデをあげる」という使われ方をしているが、ハンデキャップは負ってる方が不利なんだから、貰って喜んだり上から目線で相手に押し付けるものじゃないだろうと思うので、「ハンデ頂戴」とか言うのを聞くと笑いがこみ上げる。
「そんなものいるか! 俺は実力で勝つ!」
 こいつはこいつで実力差を理解出来てない。俺がやった事が反則かどうかは関係なく、俺はこいつのアクションに対応出来ているが、こいつは自分が俺のリアクションに何一つ対応出来ていないと気付かないのが怖い。
 野生本能の欠片も感じられないハムスターを、もし野に放ったらどうなるんだろうと想像するのと同じくらい怖い。

「この馬鹿がっ! 隆分かってるな……始め!」
 涼よ。分かってるななんて言われても、お兄ちゃんもお前とそんな以心伝心な関係は築いてなんて居ないぞ……という事を前提にして、お兄ちゃん何の事か分からないや~(笑)
 胸元で両腕を内側に捻った状態で構えて、襟を取りに来る国中の人差し指と中指の間に自分の人差し指を挿し入れ、中指と薬指の間に中指を挿し入れる。
 そして内側に捻っていた腕を逆に外側へと捻り戻しながら、自分の人差し指と中指の間の付け根に挟んだ国中の中指を中心に、人差し指と中指の先でロックした国中の人差し指を、奴の中指に巻きつけるようにしながら外側へと回転すると両手指四字固めの形だけは完成するのだが、奴の方が上背があるのでこのままだと腕を上から前へと突き出すようにされると技の効きが悪くなるので、両手指四字固めを極めた状態で肩から先の腕全体を外回りに回転させ下へと移動させることで互いの両の掌を上向きにする事で両手指四字固めは真の完成をみる。
「何を? ……お、おい、止めろ……痛、痛い、痛ったったったった!」
 今にもポッキリと折れてしまいそうな中指の痛みに悲鳴を上げる。
「ギブ?」
「痛い! 痛い! ぎ、ギブ、ギブ、ギブッ!」
 涙目の国中の指を開放してやると、今度は人差し指と小指を立てた右の拳を突き上げて「ウィーーーッ!」と叫んだ。

「もう止めた! 私は知らん! お前等みたいな馬鹿と付き合ってられない!」
 全く柔道をしようとしない俺に、涼がついに切れた。そしてダンダンと床を踏み鳴らしながら道場の出口に向かって歩いて行く。

 まあ無理も無いが俺にはこいつを道化にするという大事な仕事があるんだよ。
「リューちゃんが苛めるから、リョーちゃん怒っちゃったじゃない。い~けないんだ、いけないんだ!」
 可愛く身体を左右に揺らしながら歌われると、何故だか懐かしさと共に罪悪感が沸いてくる。
「イーシャ? そんな小学生みたいな──」
 しまった。こいつは2ヶ月前まで小学生だよ。
「い~けないんだ、いけないんだ!」
 小学生から最も遠い3年共が唱和し始めた。だが、そんな野太い声で歌われても罪悪感どころか嫌悪感しか沸いて来ない。
「待て涼。次で決着をつけるぞ」
 このまま涼を不機嫌にして帰してしまったら、兄貴に馬鹿にされてしまう。
 きっと『何が涼と向かい合ういい機会だって? お前って想像以上の馬鹿だな』などとネチネチと責められるのだ……だって俺ならそうするから!
「次だと? てめぇ、やっぱり遊んでたんじゃないか!」
 はい、しっかり遊んでました。しっかり撮影もして貰ってます。
「もう遊ばないから機嫌直して……な?」
「うるさい! もう知るか!」
 そう言って道場を出て行ってしまっ──

「きゃっ!」
 飛び出した直後誰かにぶつかって、小柄な涼は反動で転がり戻って来た……さすがに受身は万全で頭を打つような事は無かった。
「大丈夫?」
 この声は北條先生。
「大丈夫です。ごめんなさい」
 ……俺はてっきり「何処見てんじゃボケ!」と漫画のチンピラのように絡むのかと思ったが意外に普通だよ、我が妹は。
「先生こそ怪我はありませんが? 愚妹がご迷惑をかけて申し訳ありません」
 俺は素早く駆け寄って謝罪する。
「怪我はありませんよ」
 そう言って、尻餅を突いている涼に手を差し伸べる。
「あ、ありがとうございます」
 北條先生の手を借りて立ち上がった涼は、頬を赤くして照れた様子で頭を深々と下げる……何だ、この可愛い生き物は? こんなのは決して涼ではない。
「可愛い妹さんね」
 ……涼が可愛いかどうかには色々と意見があるが、俺は大人の対応で「はい」と答えるしかなかった。
「涼です。よろしくお願いします……あ、兄が何時もお世話になっています」
 ANI? 今、涼の口から出たANIとは何だ? 俺へのどういう罵倒を意味する言葉なんだ? ……このパターンはもうやったわ!
 兄と言ったのか……やはり兄なのか? 涼が俺の事を兄と呼んだのか? 一体何年ぶりだろう10年とまでは言わないが8年振りくらいだろう。
 何だろうこの胸の中にこみ上げて来る温かい感情は?
「いいえ、私の方こそお兄さんには色々とお世話になってます。とても頼りになるお兄さんですね」
「…………はい」
 涼は顔を強張らせながら答えた。嫌だったんだね、お兄ちゃんも結構微妙だったけど我慢したよ。
「私は、お兄さんのクラスの担任で北條 弥生です。そうそう柔道の国際大会で優勝したんですってね。おめでとうございます」
「……あ、ありがとうございます」
 涼が素直だ。まるで借りてきた猫を被ったとも言うべき態度。何故それが普段から出来ない! 悔しいから兄貴に【伝心】で今の一連の流れを動画イメージで送りつけてやった。
 すると混乱した兄貴から『もしかして、高城家に代々伝わる掟によって別々に育てられた涼の双子の片割れ?』とか言い出したので『アホ』とだけ伝えて兄貴との接続を切断した。


「隆……弥生さんってどんな人なんだ」
 道場の中に入って部員達に声を掛けている北條先生の姿を目で追いながら涼が尋ねてくる。
「俺の担任の北條 弥生先生は、この家の主の娘さんだ。ちなみに担当教科は数学、とても切れのある良い授業をする」
「美人で優しくて、教師としても優れていて……羨ましい」
「ちなみに剣道4段の腕前だ」
「隆には勿体無いな」
 自慢したら睨まれた。
「俺の学校の教師は北條先生以外はほとんど糞だけどな」
「お前にはお似合いだ」
 なんと口と性格の悪い。流石兄貴の妹だぜ!
「良いな弥生先生……憧れる」
「このにわかが北條先生を弥生先生などと呼ぶなど100年早いわ」
「ふっ、お前の100年などこの涼様にとっては──」
 そう言って涼は気取ったしぐさで右腕を斜め前に突き出すと指をパチンと鳴らし「この程度に過ぎない」と嘯(うそぶ)いた。
「弾指の間……そんな言葉を知っているなんて、お前何者だ? 涼を、俺の妹をどうしたんだ!」
 勉強は嫌いで、そもそもお頭の出来がいまいちな涼が、そんな気取った言い回しが出来るはずが無い。
「お前の中で私はどんだけなんだよ!」
「一言で言えば、残念!」
「よし、その喧嘩買った! 隆、さっさと国中と決着をつけたら私と勝負しろ」
「え~~っ、涼ちゃん小さいからお兄ちゃんと試合するのは無理だと思うよ」
 涼は中学1年生としても小柄で身長は140cmは無いだろうという手のひらサイズの中学生……勿論冗談だ半分は……
 柔道の階級的には44kg級のはずだが、実際の体重は筋肉がしっかりついているので、この身長にしては体重はあるだろうが、40kgを大きく割り込むだろう。
 その体重で44kg級を制したのは大したものだが、リーチと体重が大きく掛け離れた俺とでは例え柔道の試合といえども涼に勝ち目は無い。
「誰にものを言ってるんだ? 隆如きが」
 今晩、鏡を見て真似る練習をしようと思ったほどの、実に惚れ惚れとする様な不敵な笑みである。不敵というと大島だが涼の方が見栄えが良いというか、奴のは少し下種いのだ。


「そろそろ前座試合の時間はお仕舞いだ」
 ピシっと国中を指差して告げる……良いんだよ指さしたって、俺は海外なんて行かないから。
「……前座だと、ふざけるな!」
「ふざけてなどいない。そもそも今回の涼の帰郷で、俺は宿命の兄妹の因縁に蹴りをつけて、俺の事を可愛く上目遣いで『お兄ちゃん』と呼ぶようにしてやるつもりだった」
「おぞましい事を言うな!」
 道場の隅で、イーシャと北條先生に壁を作って貰い着替え中の涼が叫ぶ。
「そして、その計画に割り込んできた邪魔者がお前だ!」
「……もう少し兄妹仲何とか出来ないのか?」
 意外にもいきなり冷静に突っ込んできた。
「うるさい! 生後1年の妹に目を抉られそうになった俺の気持がお前に分かるのか? 初顔合わせで、生後数日の妹に差し出した手の指を一瞬で脱臼させられた兄貴の気持がわかるのか?」
「うん、ごめん無理……何かすまなかった」
「同情するな!」
 俺が切れると同時に涼も切れた。
「うるせい! 隆、てめえ余計な事抜かしてるんじゃないぞ!」
 暴れているようだが、北條先生から「可愛い顔でそんな汚い言葉遣いしたら駄目よ。それに高城君の事は、お兄ちゃんと呼んで上げた方が良いわよ」と諭されて「……うん」と小さく答えたのが耳に届いた……俺は初めて北條先生への嫉妬の念を覚え、この感情を持て余していた。


「始め!」
 着替えを終えた涼が戻ってきて開始の合図を出す……物凄い表情で俺を睨みながら。
 少し警戒しながら取りに来た襟を何もせずに取らせてやる。想像していなかった事態に戸惑い色を一瞬浮かべるが、すぐに感情を消し去ると体格差を生かして揺さぶりをかけてくる。
 だが足腰の強さに関しては、レベルアップの効果など関係なく明らかに俺の方が鍛え上げられているので、国中は思うように揺さぶりをかける事が出来ずに焦りの色を浮かべる。
 そして、より強く俺の体幹へ揺さぶりをかけるために奴自身の体幹が乱れ始める。それを待っていたのだ。
 今までの流れで国中の呼吸を読み切った俺は反撃に移る。
 掴んだ襟ごと俺の胸を押した状態から、一気に引き寄せて投げに入ろうとした瞬間、国中が体重を乗せ変えようとする途中の左脚を自らの左足で払い、そのまま左足で踏み込み、腰を右へと捻り国中の腰に当て、バランスを崩してすがるように強く俺の襟を握り込んだ奴の両手と腰を支点に、勢い良く身体を右前へと捻りながら倒す事で自分の両手を一切使う事無く国中を投げた。
「一本、それまで。一本勝ち」
 涼は俺の方である右手を高く上げて、俺の勝ちを宣言するが、その顔は驚きに歪んでいた。


「……待て」
 床の上にひっくり返ったままの国中が声を掛けてきた……床に叩きつけられる直前に奴は手を離しているために、力の方向が横へと逸れて大してダメージを受けていないはずなのに起き上がろうとしないのは、単に自分が負けた事が信じられないのか、それてもあんな投げ方をされたからだろうか?
 正直なところ、普通に柔道の試合をするならレベルアップ前の俺なら国中には勝てない。
 基点となる動作から、どのような動作を派生させて技につながるのかが分からないからだ。何せほとんどが初見となってしまうため自分のセンスだけで推測して対応しろと言われても限界がある。
 その点、柔道経験者なら長い歴史の中で積み上げられてきた技が頭と身体に刻まれているだろう。個人の素質とセンスだけでそれを上回るのには余程の天賦の才が必要となる。
 ましてや同じ中学生として世界でも上位に食い込む相手ならば、体重差を考慮しなくても紫村ほどの才をもってしても勝つのは無理だろう。

「今の技は何だ?」
「何だと言われても唯の遊びで技でも何でもない」
「遊びだと? ……俺は、遊びで負けたのか」
「遊びで良かったじゃないか、本気なら病院送りだ。俺等のやってるのは武術であってスポーツじゃないから安全なんて言葉は無いから……本当に無いんだから」
 言ってて泣けてくる。
 空手部の2年生、3年生も涙を堪えている。
 辛かったもんな、痛くなければ身に付かないじゃないく、痛ければ身に付くはずだ。だからもっともっと身体に教え込んでやるが大島流。
「生徒への指導で安全を考慮しないなんて大問題だ」
「何故か大問題にはならず空手部は長きに渡って存続してきたんだよ……迷惑な事に」
「迷惑なのか?」
「迷惑でないはずが無い。何で空手部の部員がこんな技を身に付けなければならない? ただ強くなるというならまだ分かる。だが何で山でサバイバル訓練を受けなければならない。何で冬山に捨てられなければならない? これに何か理由があるんだ?」
「それって本当だったのか?!」
 跳ねるようにして起き上がるほど驚いている。
「ああ、そうだ」
「じゃ、じゃ、じゃあ、工業高校が廃校になったって話は?」
「……先輩達がやった事だ」
 つまらない事を知っていやがる。
 当の先輩達も「若気の至り」と言ってる事を引っ張り出してきやがって、先輩達だって反省してるんだ。工業高校のトップを浚って【空手の試合をきちんと決着がつくまで何度もやり、その様子を撮影する】事で問題を回避すれば、これほどの大事にしなくて済んだのにと……どう考えても誘拐と脅迫で犯罪だな。
「俺は殺されるのか?」
 そう言った国中の顔の強張った顔には、はっきりと怯えの色が浮かんでる。
「物騒な事を言うな。それじゃあ俺達が普段から間単に人殺しをしてるみたいじゃないか」
 態と凄みを利かせた笑顔で答えると「ひっ!」と小さく可愛い悲鳴を上げて、再び崩れ落ちて失神した。


「一応、あいつを相手に実力は見せたと思うけど本気でやるの?」
 男子で2学年上で、涼が出場したのと同じ大会の90kg超級で優勝しているのだから涼よりは強いはずの国中に一本勝ちしてるのに、これ以上戦えといわれても、俺は打撃系なんでそろそろ引き出しが無いんだよ。
「お前が誰と戦って勝とうが関係ない。私に負けを認めさせたければ私に勝て!」
「それじゃあ、俺が勝ったら上目遣いで──」
「黙れボンクラ! その干乾びたちっさい脳みそが耳の穴から転がり落ちるまで蹴り飛ばされたくないなら、2度とそのおぞましい事は口にするな!」
 マゾならば涙を流して喜びそうな切れのある罵声……その気は無い俺だけど目覚めてしまったらどうするんだ?
「涼ちゃん!」
「ごめんなさい」
 北條先生には速攻で謝る……蘇る北條先生への嫉妬心。これを癒すにはやはり涼に勝って、上目遣いで「お兄ちゃん」と可愛らしく呼ばせるしか無い……無いんだ!

「はいはい、始め!」
 イーシャが何故か俺を睨みながら適当な合図を出す……おっと涼に集中しなければ。
 想像通りに涼は最初から攻勢に出る。
 圧倒的なリーチの違いから組手争いには持ち込まず、体勢を低く取って下半身を狙いに来る。
 空手部的には足技によるえげつない対応法もあるし、例え足を取られて寝技に持ち込まれたとしても、その状態でも使える急所への打撃もあるので、基本に寝技に持ち込まれることに対して特別危機感とかは抱かないのだが、幾ら糞可愛くなくても妹にそれを使うのは躊躇われる。ただでさえ円滑とは程遠い兄妹の仲は完全に崩壊して、2度と口を利いて貰えなくなる自信がある……大島め、もっとマシな技を教えろよ。

 淀みない水の流れのようにするりと足元に滑り込んでくる。狙いは足首。
 そう判断するとその場でほとんど予備動作すらなく前方宙返りを行い、空中で丸見えの涼の背中手を伸ばすと帯を掴んで、着地と同時に反動も利用して一気に引き抜くようにして頭上へと持ち上げる……なんて勝ち方をしても涼は絶対に負けを認めないだろう。むしろ暴れる。引掻かれて噛み付かれる様子が目に浮かぶようだ。
 仕方が無い。俺は涼の攻撃を受け入れ、それを正面から返す事で兄としての威厳を示そうと──
「はいリョーちゃん反則。もう面倒臭いから反則負け!」
 イーシャがやる気がなさそうに左手を上げて俺の勝利を告げた……タックルから足首を取ってなんてむしろ常識じゃないだろうかと思うんだけど、柔道って本当にスポーツなんだな。
「違う……ほら、講道館ルール的な?」
 涼は焦った様子で必死に言い訳をする。
「私達は中学生だからね」
 なるほど中学生だとルールが変わるのか、確かに剣道も中学校では突き禁止とか年齢によって使えない技はあるからな。子供なら分別もつかずに危険な技を使って大怪我をさせる事もあるから仕方が無いのだろう。
「た、隆が悪いんだ! フェイントだったのに避けないから思わず掴んでしまったんだ」
 涙目である。
「リョーちゃん、そんな言い訳するんだ……」
「そんなつもりは──」
「良いんだイーシャ。涼の攻撃を正面から受け止めて、その上で勝とうとしたんだけど、今までが今までだから涼は混乱したんだよな。それに俺自身がルールを知らなかったから足首を取らせてからが勝負だと思い込んでいた。涼、悪かった」
 そう言って涼に頭を下げた。紳士である。自分でもうっとりするほどの立派な紳士ぶり。これは北條先生も惚れるな……櫛木田に話しかけられて見てないし!
 その癖、俺の紳士ウェーブは予期せぬところへと波及する。

「リューちゃんのお兄ちゃん力が未だ嘗て無いほどに高まっている。もしかして、これがフォースの目覚め? I'm your brotherって言う気よ。恐ろしい……」
 イーシャは混乱した。
「だ、誰だこいつは? くっ、この中の人が兄だったら私はもっと……」
 涼は混乱した。
 隆は逃げ出した……だが回りこまれていた。


 結局試合は仕切り直しになった。
「今度は反則しないでね」
「しないよ!」
 イーシャの突っ込みに涼が噛みつく。
「それでは、始め!」
 俺は両手を前に差し出す。涼が良いのか? という視線を送ってきたので、黙って頷くと左手で俺の右袖の肘下の部分を下から掴み、右手で左袖の肘上の内側を掴む。
 身長差があるので涼が両の袖を掴んだ段階で俺は前傾体勢になっているので、涼は容赦なく投げ技をかけてくる。
 ちなみに俺には背負い投げと体落しと跳腰などの区別は良く分からないので全部投げだ。
 投げられながらの対応は身体を捻ってうつ伏せで落ちて一本を避けるんだろうが、うつ伏せの体勢へ首を絞めるような技を使われたら力技で抜け出すしかなくなる。
 仕方がなく身体を前に投げ出しながら右足で床を蹴り跳ぶ、空中で涼の背中を見ながら掴まれた袖を大きく捲らせる様にして腕を伸ばし、両脇腹の辺りで帯を掴むと、左足で床を蹴って高さを稼ぐように跳ぶ。
 涼の身体を自分の胸に引き付けて、そこを重心として前方宙返りで着地。衝撃で帯がずり上がるので、右腕を涼の右脇に差し入れて、左手で両膝を救い上げて抱っこの体勢にした。
「こんなもんじゃ駄目か?」
「…………」
 涼は俯いたまま何も答えない。
「抱っこ固め一本。それまで! リョーちゃんだけズルイ! リューちゃん私も抱っこ! お姫様抱っこして!」
 イーシャが走り寄ってきて、涼ごと俺を抱きしめる。
「抱っこ固めってなんだよ?」
 幾ら俺でもそんな技は無いことくらい分かる。
「知らない! 知らないけどイーシャも抱っこ固めにして!」
「リーヤ苦しい!」
「じゃあ代わってよ! 何で何時までも大人しく抱っこされてるの?」
「べ、別に大人しくなんて──」
「リョーちゃん降りて!」
 涼の頬を引っ張る。涼も負けじとイーシャの頬を引っ張り返す。
「い、今は敗因を分析してるんだ。黙って待ってなよ!」
「分析なら降りてでも出来るでしょう」
「や~め~ろ~!」
 俺から引き剥がそうと必死に引っ張るイーシャに涼も必死に抵抗する。
「何よ今更、お兄ちゃんに甘えたくなったの?」
「そ、そんなことあるか!」
 涼は俺の胸板をドンと突き飛ばして俺の腕の中から抜け出すと、俺に向かって「バーカ!」と叫ぶと道場を出て行った。そして、周辺マップを見る限り家に向かっているようだ……柔道着のままで。

「あぁぁぁぁぁっ!」
 イーシャは膝を曲げて座り込むと、やっちまった感たっぷりな表情で頭を抱えている。
「どうしよう? 自分だけのお兄ちゃんを取られたみたいな気分になって……リューちゃんはリョーちゃんのお兄ちゃんなのに……」
 確かに、俺も兄貴も実の妹に愛情を注げなかった分、イーシャにたっぷりと兄妹愛を注いできた。
「俺がいきなり涼にばかり構ってたから焼餅焼いたか?」
「うん……でもそれだけじゃないけどイラついてたの。あんな事言う気はなかったのに、リョーちゃんがりゅーちゃんやダイちゃんと仲良くなれるようにってずっと思ってたのに……ごめんね。リューちゃんごめんなさい」
 そう言いながら立ち上がって、俺の胸に顔を埋めて肩を震わすイーシャを叱る事など俺に出来るはずも無い。そもそも妹との仲を破綻させた俺と兄貴が悪いのだから。
「イーシャは悪くないよ。むしろずっとイーシャに心配かけててごめんな。それからありがとうな」
 慰めるために頭に置いた手でそっと撫でてやると、本気で泣きに入ったのでうろたえた……こんな時の女の子への対応なんて俺には荷が勝ちすぎる。
 荷が勝ちすぎたので、そのままイーシャの頭を撫でながら【伝心】を兄貴に繋ぐと『任務失敗。対象はそちらに向かい移動中』と報告した。
『失敗って何が?』
『俺と涼が戦って、涼を傷つけないようにして勝ち、少し涼の態度が解れたんだけど、涼のことばかり構っていたのでイーシャがご機嫌斜めになり涼と口論になってご破算』
『あちゃ~っ! だけどリーヤがなあ……他に何かあったんじゃないのか? 心当たり無いか?』
『いや、特には……あれ? そういえば他にも理由があるような事を言ってたけど』
『まあ良い、リーヤの理由は置いておこう。今はどう涼に対処するかだ……』
『兄貴に任せた』
『待て!』
『言っておくけど、どうせ俺は何の役にも立たない』
『それは分かっているが……』
『同様に兄貴が役に立たない事も分かっているから、俺も兄貴を頼らなかった』
『おいっ! 事実だけに、おいっ!』
『超頑張れ兄貴! 以上』
 無事に引継ぎは終了した。俺と兄貴の間には兄弟愛と書いて『非情』と読む、深くて澱んだ長い川が横たわっているのだ。


「悪いが、今日は先に帰らせてもらう。国中が目覚めたらさっさと自力で東京まで帰れと言って追い出してくれ。練習が終わるまで起きなかったらたたき起こして帰せ。以上頼んだ」
 そう伝えると、涼の荷物を持ちまだ落ち込んでいるイーシャを連れ、まだ昼前だというのに練習を抜けた。
 背後から「ああ、貴重な女子分が一気に不足状態!」と悲鳴が上がるが知った事か。

「ねえ……」
 しばらく互い無言で並んで歩き続けていたが、ためらいがちな呟くような小さな声。何時ものイーシャとはまるで違った様子だ。
「どうした?」
「リューちゃんは、あの先生の事が好きなの?」
「えっ? ……」
 即バレに驚き、言葉が出てこない。
「そうなんだ……」
 何も口に出来ないでいる間に疑問は核心に変わってしまった。
「どうして好きになったの?」
「分からない。気付けば好きになっていた……」
 最早、隠す意味は無かったので、事実をそのまま話す。
「綺麗な黒髪が良いの?」f
「いや、髪の毛が綺麗なだけで好きなったりはしないよ。それにイーシャの髪は綺麗だと思うよ」
「それじゃあ、大きい胸が好きなの? イーシャの胸だって大人になれば負けないくらい大きくなるから……」
 一人称が「イーシャ」なのは久しぶりだ。小学3、4年生の頃には「私」になっていた。何故かと聞いたら「もう大人だから」とこたえていたのに……
「イーシャ……外見じゃないんだ」
 すいません、私めは今嘘を吐いています。もちろん外見だけじゃないが外見も大変重要です。そして北条先生の外見は本当に素晴らしいものだと、日々感心する事しきりであります。
 だから、北条先生の濡烏とも呼ぶべき艶やかな長く、そして癖のない真っ直ぐな髪は、先生の微笑みにも匹敵する魅力で俺の目を惹きつけてやまない。
 スタイルだって抜群だ。一見して露出が少なく身体のラインが出ない地味なスーツ姿に隠されているが、エロ孔明の称号を手にした選ばれし者のみが持つ【全てを見通すエロい魔眼】の前にはマルっとゴリッと全て見え見えだ!
 ……だけど、イーシャの外見に魅力が無いという訳では無い。将来への期待を含めるなら北条先生にさえ匹敵する魅力がある。
 そういう全てをひっくるめて、外見じゃないんだ……ほら、なんとなく良い事を言ってるかのように綺麗にまとまったな。

「出会いなら、イーシャの方がずっと前からリューちゃんの事を好きだったよ。なのにどうして?」
 イーシャの頬を涙の玉が滑り落ちる。
 マズイ! 何がマズイかと言うと、ここは路上であり、人通りは少ないとはいえ周囲には通行人がいる。
 どう見ても中学生カップルの痴話喧嘩。しかもイーシャは人目を惹くロシア系白人とのハーフの妖精の如き美少女である。そして致命的なのは、ここは既に家まで数100mというご近所圏内であり、このままではこの町で暮らすのが、今まで以上に辛くなってしまうという事だ。
 何としても早急にイーシャの涙を止めなければならない。
 システムメニューを開いて時間停止状態にし、セーブを実行する。
 ロードを実行すると、パーティーに入っている全員に迷惑をかけることになるが、そんな事を気にしている場合じゃない。
 後でどんな突込みが入ろうとも、今この場での被害を最小に止める必要がある。

 今の状況で俺には3つの選択肢があると思う。
 先ずは、泣き止んでもらうためにイーシャに譲歩しまくる。当然「好きだよ愛しているよ」なんて正気では言えないような事を口にすることになる。
 そうすると俺に待っているのは、イーシャとゴールインしてしまう未来だろう。
 何せ親戚同士だ簡単には別れられ無いから、例の2文字に達する可能性が高く、当然北条先生と結ばれるという未来はなくなるだろう。
 次は、イーシャには誠実に自分には正直であるという選択。「北条先生が好きなんだ。彼女と結ばれたい。彼女以外ありえない」という事になる。
 そうすると、今の状況は更に悪化するだろう。当然、この町に住み続けるにはかなりのストレスを伴う様になるのだ……
 高校は県外の全寮制の学校を選ぼうか? でもそれだと北条先生との縁も薄くなってしまう事になる。
 それ以前に、この醜聞が北条先生の耳に届くかと思うだけで胸が引き裂かれそうになる。

 最後は、折衷案。つまり「君の事【も】好きだよ」……最低だ。
 そして確実に、一番酷い結果を招く事になる事くらい俺にだって分かる。
 もしそれで上手くいったとしよう。だが2人の女性と同時に付き合うなどという器用な真似が出来るとは自分でも思わない。むしろ地獄! ストレスでハムスターの様な小動物のように死ぬんだ。

 こうなったら4番目のプランを思い浮かべるんだ。
 話をそらす。
 何も言わずに(言質を与えず)抱きしめて誤魔化す。
 逃げる!
 ……真剣に考えろ馬鹿野郎が! 自分なんかを信じた俺が馬鹿だった。

「イーシャ……」
 何の解決手段も思い浮かばなかった俺は、ハンカチを取り出して彼女の涙をそっと拭う……ハンカチは紳士の嗜みというか、もしそれが北条先生の為に使う機会があるかもしれないとしたら、僅かな可能性でも逃さないように常にアイロンの掛かった綺麗なハンカチをポケットに忍ばしている。勿論自分では絶対に使わない。もしもの時に汚れていたらアカンだろ。
「リューちゃん……」
 俺の二の腕の辺りをぎゅっと掴み、額を胸に押し付けてくる。
「ご──」
「私あきらめない!」
「めん……えっ?」
「良く考えたら、あの人ってリューちゃんより10歳は上よね。リューちゃんが結婚出来る年齢になるまで待ってたら30歳。リューちゃんが大学進学をするなら結婚は30代半ばだから、普通に考えたらそんなには待ってくれないから」
 あっさりと意気を回復すると、俺が考えまいとしてきた重過ぎる事実を、こうも残酷に口にするなんて……慰めが必要なのはイーシャではなく俺だろ。
「お、俺は大学なんて行かないから、高校卒業したら働いて生活基盤を築いてプロポーズするから」
「ふっ」
 鼻で笑われただと?
「リューちゃんのそういう可愛いところ好きだよ」
 何この上から発言。確かに大人の女性である北条先生に掌(たなこごろ)の上でコロコロと転がして貰いたいという願望はあるが、妹のように思っていたイーシャは中学1年生にして俺をコロコロしようとしているだと? ……恐ろしい女って生き物は、年齢に関係なく「女」であるんだ。結婚したら負けなのかな?
 いや俺はどんなに絶望しても希望だけは諦めない。男子中学生の限りなき美しい(おぞましい)夢(妄想)よ世界の理すらも捻じ曲げて見せろ! ……本当に頼む!


 家の近所の曲がり角の向こうから突然現れた涼と鉢合わせになる。
「な、何だよ!」
 家まで戻って自分が着替えなどの荷物を全部道場において柔道着姿のまま家まで戻った事に気づいて戻ってきたのだろう、さすがに気まずそうだ。
「忘れ物だろ。ほら」
 俺に対して野生の動物のような距離感を持つ妹に、俺は忘れ物のスポーツバックを放った。
「おう……」
 両手で抱えるように受け止めると、何か言いたそうにしているが、さらに気まずそうに黙り込む。
「何この不器用な父と息子の寸劇みたいなのは?」
「誰が父だ誰が!」
「百歩譲ったとしても息子とはどういう事だ?」
 俺と涼の抗議に対してイーシャは「だとするなら私がお母さん? リューちゃんの奥さんなのね……」
「俺の話を聞け!」
「そうだ!」
 2人の意見が一致するのだが……
「駄目よリョーちゃん。お父さんに先ずありがとうでしょう」
「こいつ止める気がない。妄想の翼が力強く羽ばたいてやがる!」
「し、幸せそうなのが怖い」
 肩をすくめた涼の顔にははっきりと怯えの色が浮かんでいる。正直なところ俺も怖い。誰かの幸せそうな顔を怖いと感じる事に対する言い知れぬ恐ろしさ。
「怖いって酷いよ!」
 涼の率直な言葉を浴びせられて、流石のイーシャも正気に返る。
 酷いのはお前の妄想だと言うのを堪えた自分を褒めてやりたいくらいだが、俺が言わなくても言ってしまうのが妹様だった。
「リューちゃん、リョーちゃんがいじめるの」
 勿論、俺としては涼に同意だが……畜生。卑怯なほど可愛いじゃないか。
「涼、思っていても口にしないで上げるるのが思いやりだぞ」
「リューちゃんも酷いっ!」
「思っても口にしない……リーヤ、率直でごめん」
 そう言って深々と頭を下げる
「いや! 何よ全然仲良いじゃないの。何で私をいじめるのは息がぴったり合うのよ?」
「……何となく?」
 俺と涼は同時に答えると「……もういいわよ」と力なく頭を振りながら、すっかりやさぐれてしまった。



「ねえダイちゃん。リューちゃんとリョーちゃんが酷いの私の事2人していじめるの」
 家に戻ると、ダイニングでコーヒーを飲んでいた兄貴にイーシャが縋り付く。
 窓辺でユキと一緒に日向ぼっこをしながら昼寝をしていたマルが一瞬、こちらに耳を向けるが、そのままゆっくりと耳を伏せて再び眠りに落ちた。
「うぉっっと! ……お帰り早かったな」
「ただいま」
「お、おぅ……」
「あのね、2人して私の事を可哀想な子扱いするのよ」
「……よく状況が分からないけど、隆と涼の意見が一致したという事は余程の事だよ。それは人として動かしがたい普遍的真理って事じゃないかな?」
 ナイスだ兄貴。俺達兄弟妹の仲の悪さを活かして上手い事言ってくれる。
「ダイちゃんまで私の味方してくれないの?」
「何を言うんだ。俺はいつだってリーアの味方だよ。そして味方だからこそ、早く事実を受け入れた方が良いと思うんだ」
「うっ! 心遣いが痛いよぅ~……あっそうだ。ねえダイちゃん。リューちゃんが私というものがありながら他の女に色目を使ってるの!」
 嫌な方向に話をずらしやがる。ついでにこちらにちらりとドヤ顔で視線を投げてきた……むかつく!
「ほう……それはそれは」
「父さんも聞かせてもらおう!」
 畜生、居間で新聞を読んでいたはずの父さんまで寄ってきた。
「へぇ~、それは私も興味があるわね。家の子達は誰もそういう話題が持って来た事が無くて寂しかったの……それで誰なの?」
「学校の剣道部の先生」
「ああ、北条先生か、隆。分かるぞ! ……以上、終了」
「北条先生ね。美人だしまだ若いし、中学生の男の子が憧れてしまうのも無理ないわ……終了」
「えっ? どういう事? 大も史緒さんも即納得って、どういう人なの?」
「弥生先生なら……お姉ちゃんって呼んでも良い」
 よく言った妹よ……俺が心の底からそう思ったのは人生で初めてだよ。
「涼まで?」
 一晩の内に家族が地球侵略を目論む宇宙人に洗脳されてしまったSF映画の主人公のような驚きを見せる父さん。
 だが父さん以上にその心境にたどり着いたのは──
「遅かった……高城の家はもう征服完了なのね」
 いや色々間違ってるし、その間違いを前提にしたとしても父さんがいるからノーカンにしないで上げて。
「だけど、リューちゃんと結ばれるのは私だから!」
 ……ネバーギブアップだね。
「リーヤの事はお姉ちゃんと呼びたくない」
「そこは呼んでよ! 私の方が誕生日が早いんだから、私は従える姉と書いて従姉。リョーちゃんは従う妹と書いて従妹なんだから」
「たった3日早く生まれただけの癖に」
「双子なんて数時間差で兄弟姉妹の秩序が決まるのよ」
 両雄一歩も譲らず……女だけど、いや女だから空気が悪くなっても間には割って入る事など出来ない。某、男故に。

「涼ちゃんもリーアちゃんも喧嘩しないで、それより学校の勉強はどうなってるの? そろそろそっちの学校も中間試験は終わってるんじゃないの?」
 しかし母さんは遠慮なく割って入って話題を変えた。
「うちの学校は1学期に中間試験は無いから」
「そうそう、中間試験なんて無いよ」
 一瞬にして旗色が悪くなった2人は共同戦線を張る。
「本当に?」
「本当、本当!」
「うんうん、リョーちゃんの言う通りだよ」
 疑わしそうに尋ねる母さんに、2人は断言した……これは嘘は吐いてなさそうだ。

「じゃあ、中間試験は良いけど……」
 矛先が逸れてほっとため息を漏らす2人だが、次の瞬間、触れられたくない核心を突かれる。
「でも普段から勉強はちゃんとしてるの?」
「べ、べ、勉強はちゃんとしてるよな?」
「してるよ! リョーちゃんは知らないけどリーアちゃんとしてるよ!」
 いきなりイーシャは涼を売った。
「リーア、裏切るな! 私だってちゃんとしてる。リーアがどうかはしらないけど!」
「あっ! リョーちゃん」
「喧嘩しない! それじゃあ涼。リーアが勉強してるのを見たことがある?」
 母さんの目つきが厳しくなり、2人の名前の後には「ちゃん」が抜け落ちた。
「…………」
 口ごもる涼に母さんは「ちゃんと答えなさい!」と追い込む。
「あ、あるよ」
 苦しそうに答える。
「授業中を除いてよ」
 母さん毛の先ほども容赦なく追及する。
「ありません……」
「りょ、リョーちゃん……」
「すまないリーア」
「リョーちゃん~~」
「ごめん、リーア」
「それじゃ、リーアは涼が勉強しているのを見たことがある?」
 2人の愁嘆場の様な空気を無視して母さんは話を進める。
「授業中も含めて全くありません!」
 あっさり売りよった!?
「リーア……?」
「だってリョーちゃん授業中も寝てるでしょ」
「それは言っちゃおしまいでしょうが?」
 本当におしまいだよ……本当に色んな意味で。

「涼?」
 母さんの声が極北の地に吹く風の唸りの様にも聞こえた。
 一方マルは、咄嗟にユキを口にくわえると猛スピードで居間を脱出すると階段を駆け上がり、多分俺の部屋に逃げ込んだ。

「か、母さん?」
 恐る恐るといった様に母さんに目をやり、「とんでもないものを見た!」と言わんばかりに目を背けて、助けを求めるように父さんへと縋る様な目を向ける。
 父さんは、涼と目が合うと小さく頷き母さんの方を向くが、目が合うと即逸らして、涼に「無理!」とばかりに首を横に振って見せた……駄目だ。父さんは母さん以外なら、大島にすら立ち向かう強者だが、母さんには無力。完全に尻に敷かれている。
 続いて兄貴も、同様に涼に小さく頷くと母さんの方を向く。そして一瞬で勝負が着く……だが、俺は【伝心】で『良いのか兄貴? ここが重要な分岐点だぞ』と訴えかけると土壇場で踏み止まり、延長戦に突入する。
「か、母さん……涼の学校は大学までエスカレーター式だから、今はまだそれほど問題視する状況じゃないと思うんだ」
「ま、大……」
 まさかの救いの手に涼の中で兄貴の株が急上昇。
「へぇ、大は妹が馬鹿のまま大学まで行って、馬鹿のまま卒業して社会に放り出されて、それで良いと思ってるんだ? 随分と妹思いのお兄ちゃんだったのね」
 寒い。成層圏付近で感じた寒さとはまた別次元の凍り付くような寒さが俺の心を襲う。
「でも、大学卒業後も柔道の指導者としての道も──」
「馬鹿に指導者が出来ると思うの? 第一涼は技術や努力で強くなったというより、生まれつきの才能で強くなったようなものよ。そんな選手に後進の指導が出来るとでも思ってるの?」
「……涼。ごめん」
 兄貴弱っ!
「…………」
 涼も何も言えない。正論過ぎて言い返すことが何もないのだろう。そして最後に一縷の望みをかけて俺に視線を向けた。

「任せろ……」
 力強く頷くと涼が感動のためだろう目を潤ませる……そう、そこで「お兄ちゃん」と言ってみろ……言わないわな。畜生!
「隆も何か言いたいことがあるのかしら?」
「母さん、涼は柔道をやる上で決して恵まれた資質を持っているわけじゃない」
「そうかしら?」
「そうだよ。とにかく身体が小さいのが致命的だ」
「でもそのための体重別のクラス制じゃないの?」
「涼は身長はあと5㎝以上伸びる事は無いよ。今後柔道を続けていくなら48㎏以下の階級で戦う事になるから、体格で劣る涼は勝つために技術面を強化するしかない。だから涼が柔道を続けるのなら決して才能だけの選手では終わらない」
「……そうね」
 俺の言葉に母さんは少し納得したような様子だが、納得しない馬鹿がいた。
「うがぁぁぁっ! 勝手な事を言うな! 私の身長はあと10㎝以上は伸びる。階級ももっと上で戦うんだ!」
「……はぁ?」
 思わず出てしまう溜息交じりの疑問形。
 俺が口にした5㎝だってかなり気を使って多目に出した数字だよ。正直なところあと1-2㎝が妥当な数字だと思う。

「リョーちゃん。おばさんとリューちゃんは真面目な話をしてるんだから冗談はやめて」
「ごめんね涼。お母さんがこんなに小さく産んでしまったせいで……」
「史緒さん、僕にも責任はあるんだ……」
「涼。無理な事を言って母さんを悲しませるなよ」
 家族親戚からの総叩きに涼は半泣き状態だ。

「冗談はさておき……涼は48㎏級でもかなりの重量差のハンデを背負って戦う事になるだろうけど48kg級を制覇したら、絶対に計量前に大量に水を飲んででも上の階級を目指すから、負けず嫌いで上を目指す性格だから、技に関しては誰よりも上手い選手になるって保証するよ」
「そう……でもね──」
 まだ不安そうな母さんに最終的な決着案を出す。
「後は学校側に、中学生なんだから柔道だけじゃなく勉強もきっちり教えろ。成績が悪かったら保護者として試合出場は認めないと脅しをかけておけば良いよ。そうなれば学校側だって必死になるし、授業中に居眠りなんてさせないと思うよ」
「それは良いわね!」
 母さんの顔に喜色が浮かぶ。
「おい隆!お前、全然良くないよ!」
 そう叫ぶ涼は、半泣きどころか全泣きの一歩手前で掴みかかってくるが、リーチの差を利用して上から頭を片手で鷲掴みにして押しとどめる。

「まあ、暫くは真面目に授業を受けて頑張るんだ。それでも駄目だったら今度帰って来た時に、空手部に伝わる短時間で確実大幅成績アップ術を教えてやる」
「胡散臭い!」
「そういうな、空手部の部員は勉強をする暇もないほど練習を科せられているのに、理不尽な事に成績優秀であることまで要求されているんだぞ。人間は必要性が生命に係わるほどのレベルに達すると分厚い壁だって突き破るんだぞ。効果的な学習方法を編み出さずにはいられるはずもない。そして、その切実さは教える立場の人間が感じられるような生温いものではない」
「だったら今、それを教えろよ!」
「涼。今のお前には必死さが足りていない。しかも圧倒的にだ!」
「ひ、必死さ?」
「そうだ。本当にぎりぎりまで追い込まれたなら、その状況を打開するためなら、俺に『お兄ちゃん、涼にお勉強の仕方を教えて、お願い』と上目遣いで言うようになるだろう。お前にはそれほどの必死さが無い!」
「てめぇ、いい加減そこから離れろよ、ぶっ飛ばす──」
「そう言えば、俺は勝負に勝ったよな?」
 ふとある事を思い出したので、涼を無視してイーシャに話を振ってみた。
「確かに勝ったよね。勝った時の条件って何だっけ?」
 俺の意図を察してくれたようで期待通りの展開に持ってきてくれた。
「い、言っておくが、私はそんな事は認めてないからな!」
 激高する涼だが、そこに母さんが喰いつた。
「そんな事ってどんな事?」
「! ……いや、その~……」
 涼の顔が激高したまま青褪める……器用だ。
「あのねリョーちゃんはリューちゃんと勝負して──」
「黙っていろ!」
 イーシャの背中にジャンプし腰に両脚を巻き付け、右腕を首に回すと左手で固定して締め上げる。
「涼ちゃん邪魔」
「い、止め……うひゃひゃ……てっ!」
 母さんがイーシャの脇越しに手を伸ばし、涼の両の脇腹を擽ると堪らず裸締めを解いて落下し腰を打った。
「それで何なんだったの?」
「リューちゃんが試合する条件として、リョーちゃんが負けたら、上目遣いで可愛く『お兄ちゃん』って呼んで貰──」
「わぁーーーっ! わぁ~~~~~! わぁ────っ!」
 声を上げるのが遅い。すでに100%肝心な部分は話し終えてるよ。
「何だと! 父さんだって涼から可愛く上目遣いで『お父さん』って呼んで貰いたいというのに、隆だけなんて実にけしからん!」
 結構涼とは上手く親娘関係を築いていたはずの父さんですらやって貰ったことないのかよ。この分なら「大きくなったらお父さんのお嫁さんになるの」もやって貰ってないな……憐れ。

「……涼ちゃん。大と隆に言ってやりなさい。ついでに英さんにもね」
「それは無理」
 うるうるとした涙目に上目遣いで、プルプルと首を横に振る……それだよ。そういう可愛らしいのが我が家の男衆の乾いた心には必要なんだよ。何故それをやってはくれない? 無理なんですね、分かってますよ!
「お母さんのいう事を聞けないの?」
「嫌! だって気持ち悪いから」
 衝撃的な言葉が俺達の胸を貫く。嫌われているのは分かっていた…父さん以外。
 だけど気持ち悪いとまで思われているとは……キモイのは父さんだけにして欲しかった。
「涼。お父さんに気持ち悪いはないでしょう。加齢臭とかでデリケートな年頃なんだから」
「史緒さん……まだそれで引っ張るの? ……それに気持ち悪いのは僕限定?」
 少なくとも俺は気持ち悪くない。何処にも気持ち悪い要素なんてない。あってたまるか……そうだよね?


 昼食後の家族のまったりとした時間は、インターホンの音で終わりを告げる。
「どちら様でしょうか?」
 母さんが応対に出るが、母さん自身もマップ機能のおかげで家のインターホンを鳴らしたのが国中である事は知っている。
『すいません。そろそろ新幹線の時間なので迎えに来ました』
『それはお前が心配することじゃない。涼とイーシャはこちらで送っていくから、さっさと帰るんだな』
 割り込んで、そう告げるとインターホンを切った。
「隆?」
 俺の言動に憤りを感じたのだろう母さんがきつい目で睨んでくる。
「あいつはイーシャに懸想した挙句、俺との勝負にかこつけて2人に同行する事で、密かにデート気分を味わっていたという不埒者だから」
「え~っ! そうだったの?」
「お前以外の人間は皆気づいていたぞ」
 柔道以外はほとんどポンコツな涼が気づいていたんだから、他に周囲で気づかない奴がいるとは思えない。

「つまり俺の女に手を出すなって怒ったわけね……意外にやるわね、でも北条先生との二股はどうかと思うのよ、母さんは」
「そんな事は思ってない。ただ奴の性根が気に入らないだけだし、はっきり言っておくけど、俺はイーシャと付き合っていないし、そして北条先生には恋愛の対象としてすら見られていないから……」
 自分で言っていて泣きそうだよ。
「あ~、じゃあ隆が涼ちゃんとリーアちゃんを責任を持って送っていくという事で、新幹線代を出してあげるわ……英さんが」
「…………大。父さん泣いても良いよね?」
「泣いても良いけど、どこか行って独りで泣いてよ」
 父さん無残……帰りは【迷彩】で姿を消して飛んで帰ってくるから片道分にジュース代でも付けてくれれば良いよ。


 父さんの運転で新幹線が止まる県庁所在地のある街の駅のコンコースに到着する。
 そこそこ周囲は栄えていて、そこそこ大きな駅なのだが私鉄が乗り入れる様なターミナル駅ではない。埼玉がとんでもない都会に思えて仕方がない関東のブラックホールS県らしい……基本的に公共の移動手段はバスがメインだからしょうがないんだよ。
「それじゃあ涼、リーア、風邪や怪我をしないようにしっかりと気を付けるんだよ。それから史緒さんじゃないけど勉強もしっかりするんだよ。それから……」
 オカンかっ! と突っ込みたくなる父さんの優しい気づかいにリーアはともかく涼は嫌そうな顔をしている。
「はいはい、もういいから父さんは帰って」
「おじさん、今日はありがとうございました。またお世話になると思いますがよろしくお願いします」
 涼の塩対応とイーシャの礼儀正しい態度。父さんは自分の娘への教育の失敗を深く噛みしめるべきだと思う。
「それじゃあ隆、頼んだぞ。ちゃんと学校まで間違いなく送り届けてくれ」
 そう言って、俺に輪行バッグを渡した上に、涼達には見えないように1万円札をこっそりと渡してきた。
『これは多いよ。帰りは自力で帰ってくるから』
『途中で何かスイーツでも食べさせてやれ』
『本当に涼には甘いな』
『…………』
 無言で【伝心】を切りやがった。そして目も合わせる事無く車に乗り込むと涼とイーシャにだけ手を振って去って行った。


「よう!」
「失せろ、10m以内に接近するな」
 何事もなかったかのように近づいてきた国中にそう告げる。
「おいっ!」
「俺との勝負だけに、わざわざこんな田舎までやって来たのなら、愚かなるも殊勝と褒めてやるところだが、まさか妹達と新幹線でキャッキャウフフな気分での小旅行が目的とは、とことんおそ……見下げ果てた奴め、2度と妹達の視界に入るな消え失せろ」
「生まれてきてすいません」
 図星を突かれ真っ赤になった国中は、周囲からの視線もあって別の車両へと逃げて行った。

「今後奴に声をかけられるような事があったら、すぐに俺に連絡を入れるんだぞ……涼もだからな」
「うん!」
「わ、わかった」
 真剣に話す俺を見て涼も頷く……こちらが真剣に向き合えば涼にも思いは通じるのだろうか? いや、元々俺と兄貴が真剣に向かえば向き合うほどウザがられて、最終的には暴力に訴えてきたのだからそれはない。
 正直、東京は恐ろしいところだ。あのような危険人物が沢山いるとするなら、涼やイーシャにもパーティーに参加させてレベルアップを施したいところだが、やはり涼がネックだ。
 涼に強力な力を与えたら、冗談じゃなく何かの拍子で死人が出かねないし、イーシャにだけという方法もあるが、すぐに涼にばれるだろう。

 新幹線は指定席は取っていない。そして土曜日の午後のこの時間は始発でもないので座席は当然のように空いていないのでデッキに立つ。
 デッキにはぎっしりというほどでもないが、他に乗客がいるので基本無言だ。
 涼とイーシャは女子中学生だが空気を読まないで騒ぐ事無く小声で何やら話している。俺は女の子の会話に割って入るような技能は生憎持ち合わせていないので、壁に身をもたれ掛けさせて目を閉じて寝ている振りをしながらマップ機能で周囲を伺う……便利すぎる。
 最近は慣れすぎて意識する事が少なくなってきている護衛兼見張りは、隣の国中と同じデッキ部分に待機している。
 他には何事もなさそうなので、警戒を続けながらも2人の会話に耳を傾けながら時間を過ごす。
 意外に内容はクラスの女子達と大して違いがなく、安心するやらついていけないやらで溜息が漏れた。


 東京駅から山手線に乗り換え、更にバスへと乗り換えて涼達の通う柔道名門校「太洋学院大付属中等学校」にたどり着く。
 途中、何か甘いものでも食っていくかと尋ねたのだが、夕食前に少し練習に顔を出しておくというので直行したのだった。
 帰る前にとりあえずセーブする。
 これから交通機関を使わないで家まで帰る訳だが、もし戻ってから俺の姿を誰かに見られたとすると大問題だ。
 新幹線を使ったとしても上手く乗り継ぎが出来て2時間半程度の時間がかかるが、俺は新幹線に乗っていない事はすぐに確認がとられてしまうだろう。
 そして、次に新幹線以外の鉄道。そして高速バスなどもチェックするのも護衛兼見張りの彼らにとっては可能だ。
 彼らの監視の目を逃れて、いかなる足跡も残さずにいつの間にか自宅に戻っているという状況が、超常現象を伴わずに受け入れられる程度の期間を俺は姿をくらます必要がある。
 父さんから渡された輪行バッグに入っている自転車。父さんが若い頃にこいつで旅をしたというロードサイクルで、今も年に数回は整備をして長距離を走るのだが、こいつを持っているという事で交通機関を使わないでも短時間で長距離を移動する説明がつくので、明日の朝まで身を隠しておけば問題はない……実際に自転車は使う事は無いけど。

「リーア、涼お帰り!」
 校門の前で2人に声が掛けられた。
 相手は学校の友人なのだろう。4人組の女子中学生……声を聴くだけで胸の中で苦手意識が頭をもたげテンションが下がる。
「北斗先輩。ただいま戻りました!」
 4人の中で1番身長が高く170㎝位はあり、全体的に均整の取れた身体付きだが、首から方のラインが柔道で鍛え上げられているせいだろう男性的ですらある少女に、涼は元気よく挨拶する。
 ちなみに髪型はイーシャを除き涼を含めて全員、うなじの見える襟足で切り揃えたショートカットで前髪に多少バリエーションがある程度だが、まあ格闘技をやっているものとしては当然の心構えだろう。
「……誰?」
 涼に北斗と呼ばれた少女とは別の、涼より10㎝くらい背の高いちびっ娘が、こちらをチラ見してから涼に尋ねる。
 全く礼儀知らずめ、他人の名前が知りたければ自分が名乗ってから直接聞け。本人の目の前で他人を介して名前を知ろうなどとは個人情報保護法違反で死刑だ。ああこれだから満足躾もされてなジャリ女は嫌いだ。礼儀知らずが闘うための技を磨くなど、熟れの果ては大島だ……と全く表情に出さず胸の奥で罵る。
 中学生女子というだけで俺にとっては親の仇にも等しいのだ……親は死んでないけど。

「鶴居! 誰じゃなくちゃんと自分から名乗ってから相手に尋ねなさい」
「あぅ……」
「自分がコミュ障だから、相手が気遣ってくれないと困るとか勝手な事を思っているんじゃないでしょうね?」
「お、思ってない……」
 はっきりコミュ障扱いされて涙目だ。
「だったらちゃんと挨拶しなさい!」
「……鶴居……鶴居 雪裡(つるい せつり)……」
 なんとか自分の名前を口にして、やり遂げた感のある満足気な表情を浮かべた鶴居の頭がパン! と良い音を発した。
「痛い……」
 頭を押さえて蹲ると、恨めしそうな目で叩いた相手を見上げる。
「よろしくお願いしますでしょう。ちゃんとしなさい」
「よ、よろしくお願いします」
「……高城 隆です。よろしくお願いします」
 言わされた感たっぷりだが責める気は一切起きなかった。

「全く……申し訳ありません。うちの部員が失礼な態度を。私は柔道部で主将をしている北斗 文月(ほくと あやつき)と申します。どうぞよろしくお願いします」
 さすがは主将だ。きちんと礼儀をわきまえている……怖いけど。俺も主将として恥ずかしくない対応をしなければなるまい。
「涼の兄、高城 隆と申します。妹がお世話になっています」
 そう名乗り頭を下げる。
「いいえこちらこそ新入生の涼のめさましい活躍は柔道部の励みになってます……ところで涼のお兄さんという事はあの空手部の?」
「あのとは、どの空手部かは知りませんが、地元の友引北中学校の空手部で主将をしています」
「そうですか、あの……失礼ですが、噂は本当なのでしょうか?」
「噂とは?」
「えっと、OBの方々が素手で武器を持った不良達に100人以上をたった7人で倒したという……」
「……概ね事実です」
 実際の戦力差は1:20程度だったけど、その辺のチンピラ相手なら20対1でも、囲まれないように移動しながら戦えば今の空手部の2年生達なら勝てる。
 チンピラ共では逃げる部員に追いつける足は無いので、ある程度ばらけたところで逆襲に転じて各個撃破して行けばよい。それに20人程度を倒す間走って闘い続けるだけの体力は十分にあるときているので楽勝だ。
 しかも例の事件では、1対百数十人のつもりで油断していたところを背後から襲い掛かりパニックに陥った連中を殲滅していったので先輩達にとってはそれほど大変だったという意識はないらしい。

「今日はどういったご用件でしょうか?」
 その質問には涼が答えた。
「えっと……兄に勝負に負けた国中が何をするかわからないということで付き添いで来たというか……」
「えっ! アイツ負けたのダッサ!」
 しかし、身長160㎝くらいの粗野と粗暴を兼ね備えたような女が、まるで奴が格下に足元をすくわれて負けたような言い方をした。
 まあ良いさ、こんな女としての魅力に欠けた小娘にどう思われようが知った事じゃない。役目も果たしたことだしさっさと帰ろう……べ、別に悔しくなんてないんだから! 単に早く帰って紫村達と一緒に国中の動画を編集して動画サイトにアップしたいだけなんだから!

「リューちゃんは──」
 抗議の声を上げようとしたイーシャの肩に手をのせて止める。
「良いんだよ」
「でも……」
 拗ねたように上目遣いをするな……畜生、破壊力抜群だよ。
「イーシャが分かってるだけで良い。そもそも彼女たちが知る必要もない話だよ」
 実際、凄く嬉しかったしな。
「えへへ……イーシャが分かってるだけで良いなんて……もうリューちゃんは……」
 俺がほっこりする一方で、イーシャの頭のネジが飛んでしまったようだ……どなたか、この娘の頭のネジ穴に合うネジをお持ちの方はいらっしゃいませんか?

 そんな俺とイーシャのイチャついてるとも取れる、やり取りに誰一人として突っ込まなかったのは、同時進行で別のイベントが進行していたためだ。
「先輩。国中の馬鹿は馬鹿なり真剣に闘いました。そんな言い方は闘った2人に対して失礼です」
 何が起こっているのか全く理解できない。もしかしてこれって涼が俺の為に先輩に反論しているの? いやまさか? はっはっは、狼狽えるな。これは孔明の罠だ。
「失礼も何も油断して素人に負けるようなダサ坊主じゃないか」
 頭の悪い奴だな、実際に見た涼が真剣に闘ったと言っているのに、それを無視して自分の勝手な思い込みを前提にしていやがる。
 俺の名誉を守ろうとしている……ような気がしないでもない妹の思いを無下にする言葉にお兄ちゃんは流石にイラッと来てますよ。
「国中は油断して何度もやられてましたが、最後は完全に一本を取られました」
「高城ぃ、お前身内贔屓で目が曇ってるんじゃないか? 海外試合で活躍したからって調子に乗ってんじゃねえぞ」
 涼の胸倉を掴んで言い放つと、平手を打ち下ろしやがった。
 手が振り下ろされる前に割って入り手首を掴んでへし折ってやりたかったが、距離を一気に詰めるにはウサイン・ボルトの2倍以上の速さで駆け寄る必要があったので出来なかった。
 代わりに時間停止状態を使いながらのコマ撮りで──ただのガラケーに連続撮影機能は無いし、時間停止状態では動画撮影は無理──涼が打たれる様子を余すことなく撮影して証拠とする。

「舐めてんじゃねえぞ、この餓鬼が!」
 そう吐き捨て胸倉を掴んでいた手で、そのまま涼を突き飛ばした。
 その一連の動作も全て撮影してから、暴力女に歩み寄ると、その顔にアイアンクローで鷲掴みにし、爪先が地面に届かない高さに吊し上げる。
 俺の腕を掴んで引きはがそうと暴れるのを無視して引き寄せると「じゃあ、お前は一体何をやって調子に乗ってるんだ?」と自分でも驚くほど低く冷たい声で尋ねる。
「は、放せこの!」
 必死に暴れるがその程度では俺のアイアンクローは外れない。
「身内贔屓も何も妹は控えめに言っても俺や上の兄貴が大嫌いで、普段はろくに口も利いてくれないんだ。だけどな柔道に関しては嘘を吐けないから、仕方なくああ言った訳だ……理解出来るか?」
「畜生! 手を放せ!」
 俺の手に爪を立てて抵抗するだけで、分かったという言葉もシグナルも発する事は無かった。
「お前、妹を含めて下級生に暴力を振るったのは今回が初めてでないだろう?」
「うるさい! 何が悪い」
 ……う~ん、それがどういうことなのかも分からないほど、自分に与えられた権利だと言わんばかりに弱い立場の者へ日常的に暴力を振るってきた様だな。これはもう駄目だな。
「馬鹿過ぎて言葉も通じない、相手をする価値もない」
 手を放すと同時に【中傷癒】で俺の指先が喰い込んで出来た痣を消し去る。
 これで俺にアイアンクローを食らって宙吊りにされたと訴えれば、信憑性を失い証言自体を疑われるだろう。この場にいる全員がそう証言しても、仲間同士で口裏を合わせて不条理な言いがかりをつけて来たと反論すれば良い。

「ふざけるな!」
「ふざけてるのはお前だ! あれほど下級生のへ体罰は止めろと言ったのが理解出来ないのか?」
 堅苦しいまでに折り目が正しい態度をとっていた北斗がブチ切れた。
「……上下関係をはっきりさせるのも指導だ、これは安浦先生も認めているだろう」
 主将の北斗が馬鹿を怒鳴りつけるが、反省素振りすら見せず、それどころか開き直って見せた。
「もういい、お前がいてはまとまる話もまとまらない。さっさと寮に帰れ。お前達もだ」
 鶴居と呼ばれたのは頭下げてから、そして暴力女ともう1人は不満そうな表情を浮かべて立ち去った。

「涼、さっきあの女が言ってた教師が上級生による下級生への暴力を認めているというのは本当なのか?」
 そうだとするなら、涼が転校するか教師が学校を辞めるか、それとも教師を俺の手で強制的に人間辞めさせるしか選択肢が思い浮かばないレベルだ。
「はっきりとは言ってないけど多分……」
「良し分かった……ちょっと、その馬鹿に話があるから案内してくれ」
「待て隆! そんな事をしたら私が柔道部にいられなくなる」
「リューちゃん、それはまずいよ」
「私の方からも注意を促すので、思い止まって下さい」
 涼達と北斗が止めるが、既に止める訳にはいかないのだ。何故なら涼が殴られる様子は【伝心】で父さんと母さん、そして兄貴に送られている。
 兄貴からは『何故止めなかった!』とお叱りの言葉が届いていて、父さんに至っては怒りの余りに『ぶったね? 親父の俺だってぶったことないのに!』と訳の分からない事を口走って母さんにぶたれている。
 ついでに言うと、涼とイーシャを何事もなく送り届けるためにここまで来た俺のメンツも丸潰れだよ。
「それは出来ない相談だ。この件は父さんと母さんに報告しなければならない。笑って済ませるような2人じゃないぞ」
 実際に2人は激怒しているので、それは間違いない。
「父さんと母さんには内緒にしてくれ!」
 そんなことを言うから、『涼が俺に内緒?』『英さんにならともかく私にも内緒なの?』と落ち込んでるよ。
「お前の気持ちも分かるが答えはNOだ。これが練習時の指導の中での体罰なら俺も目くじらを立てるつもりはない。だがな今のは妬みからの暴力だ。これが日常茶飯事だというならば、そんな学校にお前達を通させておく事は絶対に認められない」
 折角の珍しい涼の頼みだがそれにOKを出す訳にはいかない。もし「お兄ちゃんお願い」なんて言われたら二つ返事でOK出しだろうけど。

「リューちゃん、私の事をそんなに心配して……」
 イーシャ、今は真剣な話をしてるんだから少し黙っていてよ。
「……迷惑だ……誰が……誰がそんな事を頼んだ?」
 ……俺は小さくため息を漏らした。
「じゃあ父さんと母さんが、お前を転校させると決めたら、お前は2人にも言うのか? そんな事誰が頼んだってな」
 この馬鹿ちんが、そもそもお前は父さんと母さんに頼んでこの学校への進学を認めて貰った立場だろうに。
「それは……だけど」
「大体、お前が文句を言うべき相手は学校だ。今後このような事が再発しないための具体的改善策の提示と正式な謝罪。そしてこのような状況を作り上げた責任者の処分。これが行われない場合は……」
「場合は?」
「まあ、父さん次第だろうな」
 転校の2文字は口にしない。俺からその言葉を出したなら涼の怒りは確実に俺に向かう。ここは無難にパスを回すに限る。ちなみに父さん「達」と言わないのは母さんを敵に回さない生活の知恵である。
『なんて酷い裏切り! もう息子を信じられない』
 何とでも言ってくれ。

「待って欲しい。高城と長家は1年後には我部のエースとして活躍してくれる大事な選手なんだ。転校されては困る」
「それじゃあ、柔道部の指導者やその上の責任者を挿げ替えるしかないな」
「それは無理だ。確かに人間としては最低レベルで言動にも問題があるし、指導能力も最低レベルではあるが、柔道界では色々と顔が利く男なんだ」
 想像以上の低評価に驚く、それなら何でさっさと追い出さなかったのか不思議なレベル。
 やはり顔が利くというのは大きいのだろうか? 大島のおかげで大会にすら参加出来ない我空手部を思えば、理解したくないけど理解出来る気がするが……
「いや、それにしても柔道名門校だろう指導力に問題のある奴が指導してたら強くなる者も強くなれないだろ」
「柔道は、ある程度基礎となる練習法は固まっているから……それに全くの無能という訳でもないから……」
 かなり言い辛そうに答える。
「それにセクハラするよね」
「リーア!」
「リョーちゃんは完全に対象外だけど、私は厭らしい目で見られて気持ち悪いよ」
「本と──」
「……おい」
 俺の怒りの声を遮った涼の目には憎しみの炎が灯っていた。
「アレがロリコンじゃなくて良かったね」
 イーシャは見事に空気を読まずスルー。
「……おい!」
「いや、中学生にセクハラする段階で完全にロリコン……だとするなら何故?」
 北斗の言葉に全員の憐憫の視線が涼に集まる。
「誰が女としてもロリータとしてさえも魅力が無いだと!」
 誰もが思っているけど、誰もそんな恐ろしい事は言ってないよ。


「……安浦、柔道部の顧問なんですが、彼を排除するとするなら、まずはセクハラの証拠を集めてそれをネットに流すのが一番かもしれませんね」
 俺の考えそうな事をさらりと口にする北斗。
「つまり貴女にとっては、顧問よりも涼やイーシャが大事だと?」
「ところでイーシャって長船の事ですか?」
「そうなの、リューちゃんだけが呼んで良い私の愛称なの」
「分かった分かった。イラッとするから惚気るな……顧問に関しては、むしろもっとまともで優秀な人に替わるなら、それに越したことはないと思っています」
 笑顔で答えるイーシャに凄い笑顔で返しながら答えた。しかしだ……
「現状では優秀な指導者は無理だと思う」
「何故?」
 涼が俺を睨みながら言う。まだ怒っているようだ。
「そもそもこの学校のお偉いさんが、選んで招いたのが安浦って奴だったんだから後釜も同じようなレベル。多分お偉いさんとコネのある奴って事になる」
「駄目じゃないか!」
 駄目なんだよ!
「それでは排除しても無駄という事ですか?」
「いや、そのお偉いさんごと排除すれば良いんじゃないか……その上も含めて全部」
「リューちゃん凄い悪い笑顔してるよ」
 失礼な……左右から頬を挟んでマッサージを行いながら、ちょっと引っかかる事があったので尋ねてみる。
「ところでどうして、そこまで協力的なってくれてるんですか?」
 その瞬間、周囲を取り巻く空気が変わった。
「理由ですか? 簡単な事ですよ奴を社会的に葬ってやりたいだけです」
「何故に?」
「奴が私にセクハラ……いえ、あれは既にわいせつ行為を行ってくるからです。最初は指導中に偶然を装って胸を掴んで来たのですが、こちらが抵抗出来ない事を良い事に、次第にエスカレートして直ぐには手を離さず下種な笑みを浮かべながら揉んできたり」
「完全に犯罪者だな」
 納得した。
 鈴中を知っている俺にとっては小者感しか感じないが、それでも涼やイーシャの……まあ、涼は関係なさそうだが、それでも傍においてはおけない存在だ。
 単に失職だけではなく、刑務所にぶち込んだ方が良いだろう……となるとセクハラや指導方針の問題だけでは足りないから、挑発して暴力をふるわせて、その証拠をガッツリと押さえ、それを周知する必要がある訳だ。
 早速人手が必要になったので紫村と香籐を呼ぶ。
 あの2人が最新バージョンの浮遊/飛行魔法を使って全力で飛べば、直線で120㎞少しの距離は10分もかから無い。
『なるほど、要するにうちの学校でやった事をもっと規模の大きな名門校でやるという訳だね……わくわくするね』
『やりましょう』
 紫村はともかく香籐もかなり乗り気だ。そもそも俺達は学校という組織が大嫌いだ。悲しい事に好きなる理由が無いのだから仕方がない。
『女子柔道部なら俺も』
『勿論、俺も』
『行かない理由がない!』
 櫛木田達の弁だが、勿論『下級生達への指導を頼む。そして来たら殺す!』と丁重にお願いし納得して貰った。


 校門より敷地内に入り、来客用玄関に向かうのだが玄関までが長い。そしてなにより敷地が広い。
 涼達は途中で分かれて生徒用玄関に向かう。
 靴を脱いでスリッパに履き替えると玄関脇の事務室の窓口に向かう……休日にも事務に人がいるとはさすが有名私立校だけあって金を使ってる。うちの学校では事務員は公務員だから土日には誰も居ないから。
「こちらの用紙に生徒名と保護者名を記入して、来校目的の欄へも記入をお願いします」
 渡された用紙に名前を書き込む。
「来訪目的……生徒である妹への指導について、柔道部の顧問に相談あり……と」
 校門での揉め事は伝わっていないのだろう、用紙を提出すると面会申請はあっさりと通った。
「それでは第4柔道場の待合室でお待ちください」

 既に来客用玄関に来ていた涼達に案内されて第4柔道場へと向かうのだが、名称通りこの中等学校には柔道場が4棟存在する。
 中等学校とは中学と高校の一貫校なので、柔道部だけでも中学の男子と女子、高校の男子と女子の部ごとに、友北中学の柔道、剣道、空手部兼用の格技場の2-3倍はある道場が存在するのだから恐ろしい。
 他にも合気道や薙刀、空手などのさほど人数が居ない部活にも大きな合同道場の中に、我校の格技場より広い格技室が各部ごとに与えられ、更に共同のトレーニングジムなどが用意されていると聞くと、もう笑うしかない。
 十数年前に23区内から現在の広い敷地へと移転したそうだが、それだったらもっと地価の安いS県の我校ならもっと凄い事になっていても……止めよう比べる対象が悪すぎる。自分が傷つくだけだ。


 中学女子柔道部棟の玄関脇の待合室に入ると紫村と香籐から【伝心】による方向が入る。
『高城君。無事に所定の場所へ侵入に成功したよ。久しぶりのピッキングは緊張したね』
 犯罪臭溢れる単語を聞いた気がしたがスルーする。
『こちら香籐、現在、待合室の外で撮影準備完了しています』
『了解。指示があるまで待機していてくれ』

「なあ隆。本気でやるつもりか?」
 この期に及んで何を言うんだろう。もう諦めて試合終了の段階だろ。
「いい加減覚悟を決めろ。この学校が変わるか、お前がこの学校を辞めて転校するかのどちらかしかない」
「私はもう覚悟を決めたよ。この学校にいられなくなったら、リューちゃんと一緒にリューちゃんの学校に転校するからね」
「リーア! お前は」
「リューちゃんと同じ学校に通うってことは、リューちゃんと同棲するって事だから、むしろラッキー!」
「この色ボケが同棲じゃなく同居だ! それに柔道はどうする気だ?」
「柔道なら父さんに教われば良い」
 涼のごく真っ当な疑問に俺が答える。
「父さんに~?」
 涼。そこで胡散臭いって顔しないように父さんも俺の視点でリアルタイムに見てるんだから……良いぞもっとやれ!
「父さんをただのプロレス好きのおっさんだと思うな。ああ見えて柔道に関しては並みの腕ではない(多分)」
 俺の言葉に父さんが『隆、良く言った! さっき渡した金のお釣りはいらんぞ!』とはしゃいでいる……父さんは涼とイーシャが途中でスイーツを食べて残金が僅かだと思っての事だろうが、とにかく儲かった。
「信用出来ない」
 しかし、言葉の刃で一刀の元に斬り捨てられた父さんの親心……内心、思いっきり笑った。甘やかしてスポイルするだけでは子供の信頼は得られないんだよ。

「まあ大丈夫だ。悪いようにはしない」
「本当か? 本当に大丈夫なんだろうな?」
「心配ない。いざとなったら肉体言語も駆使してお話しするから」
「止めろ! 頼むから止めろ! 本当にマジお願いします!」
「はっはっは俺に任せておけ。お兄ちゃんは話し合いで相手を怒らせる事と、肉体言語による表現力の高さには定評があるんだ」
「駄目だ、心配しかない。お前は全てを目茶目茶にする気満々だろう!」
 妹よ破壊無くして再生無しだよ。
「そうそう、ここでの話し合いの様子は証拠として記録しておきたいから、各々撮影しておいてくれ」
「それは良いけど、本当にやり過ぎるなよ、話し合いだからな」
「大丈夫、大丈夫」
 ……絶対話し合いじゃ終わらないよ。俺に終わらせる気は無いから。


 待つこと5分ほどで扉が大きく開け放たれ入ってきたのは黒ジャージの髭のビア樽親父だった……その背後には【迷彩】で姿を消している香籐がいることが周辺マップで確認出来る。
『香籐。騒がしくなるから入り口は閉めておいて』
『了解です』
 誰も触れていない扉が突然動き出し、ゆっくりと閉まっていく様子はちょっとホラーだったが、幸い誰も気づいていない。

「何だ居ないじゃないか? おい、お前は誰だ?」
 多分、父兄と聞いて父さんか母さんを想像していたのだろう。髭のビア樽は大人でも生徒でもなさそうな俺に目をつけて詰問してきた。
「おい涼。この髭の生えたビア樽は何だ?」
 もうこの手の無礼者にはうんざりなので余計な手順は踏まずに最短コースで喧嘩を売りつけるため。第一印象をぼかす事無くありのままの言葉にして伝えた。
「ぷっ! ……おい隆、お前何を」
「何をってお前笑ってるんじゃないぞ、髭の生えたビヤ樽に失礼だろ」
「わ、笑ってなんていないぞ!」
 ……残念だが、それを笑っていないというのなら『黄金のガチョウ』をもってしてもお姫様は笑わせられないだろう。
「てめぇ、誰が醜く肥えた薄汚い髭だと?」
 安っぽい挑発に乗ってくれたのには感謝するが、誰もそんな事まで「思っていても」言ってない。

「涼、質問に答えるんだ」
 髭ビア樽を無視して涼を促す。
「ああ、もう! 柔道部の顧問の安浦先生だ」
「お前、こんなのの指導を受けているのか? 道理で弱いはずだな」
「何だと!」
 涼と髭ビア樽が同時に叫ぶ。

「自分が誰に喧嘩売ってるのか分かっているのか?」
 髭ビア樽が威圧をかけてくるが、大島に比べたらチワワが吠えているようなものなので全く意に介さない。
「誰に? 知るか! そもそも名乗りもしないで、尋ねて来た生徒の父兄にお前呼ばわりするような礼儀知らずが」
「何を餓鬼の分際で!」
「生徒の父兄を名乗る相手を餓鬼呼ばわりするとは、頭おかしいんだろ? 悪い事は言わないから病院行け。それとも黄色い救急車を呼んで欲しいか?」
 ある一定以上の年齢層にはお馴染みのフレーズをぶつけてやる。
「……父兄だと、餓鬼がふざけたことを抜かすな」
 父兄という言葉を浴びせられて多少は冷静さを取り戻した髭ビア樽はトーンを下げてた。
「高城涼の兄で、高城 隆。両親から任されて妹達をここまで送って来たんだ父兄を名乗るになんの不足がある?」
「ふん、その父兄気取りの餓鬼が何の用だ?」
 そう言いながらポケットから煙草を取り出して口にくわえると火を着ける。
 俺は手を伸ばして一瞬にして煙草を人差し指と中指の間に挟んで奪い取り、向きをひっくり返して火先から口の中に突っ込む。
「ぶっはっ! て、てめぇ」
 慌てて吐き出す。
「許可も得ずに勝手に他人の前で煙草を吸い始めるな。ましてや生徒の前でとか馬鹿なの阿呆なの死ぬの?」
 ネットスラングも用いて挑発する。ネットというのは仲の悪い者同士が、匿名で文字だけでやり合う場なので、この世の煽り文句の全てがそこにあるといった感じで勉強になる。
「俺が煙草を吸うのに、お前の許可などいるか!」
「イーシャ。こいつは普段からも生徒の前で煙草を吸ってるだろう?」
「うん」
「せめて生徒の前で煙草を控える程度の常識さえわきまえる事の出来ないニコチン中毒。そして不摂生な食習慣で太った身体。それに目の充血……どうせ毎日の深酒で肝臓にも問題があるんだろう。駄目な大人の典型……こんなのが体育会系の部活の顧問だなんて非常識だ」
「言いたい放題言ってくれるじゃないか、おい?」
 近寄って来て臭い息を浴びせてくる。
「言いたい放題? お前はやりたい放題だろう? 生徒に生活態度から食生活の指導も行うのに手本となるべき当人がそんな様で、一体どうすれば指導に説得力を持たせられるんだ?」
「お、俺の指導をお前に文句を言われる筋合いはない!」
 正論に狼狽えるなら、普段からまともにしておけよ無様な。

「まあ、それはどうでもいいさ。それよりも本題だ。先ほど学校の校門の前まで2人を送り届けに来たのだが、いきなり俺の妹が柔道部の上級生から暴力を振るわれたんだが、柔道部ではいったいどの様な指導を行っているのか教えて貰いたい」
「暴力? 指導だ? ……何の問題もない」
「問題無いとは、どういう事だ?」
「上級生が下級生を殴って何が悪い?」
「……意味が分からない。日本語で頼む」
「上級生が指導で下級生を殴る程度の事は問題ないと言っているんだ! 一体何が悪い? どうせお前のような文系の口ばっかり達者な坊やには体育会系の流儀なんて理解出来ないんだろう?」
「今時の世情がその言い分を認めるかどうかは別として、俺個人として指導の為に上級生が下級生を殴るのはある程度ありだと思っている。だが、妹は指導で殴られたのではなく、単に感情的に殴られたのだが、それでも問題は無いと?」
「感情的だ? どうせ高城が生意気な事を抜かしたからだろう」
「何故決めつける? お前はその場で見ていたのか? どうして自分の都合良いように勝手に話をすり替えるんだ? 恥を知れ!」
「お前の一方的な言葉を信じる必要などない」
「俺の言葉を信じ無い事と、頭から否定するのでは意味が違う。俺の言葉を信じられないなら、お前がするべきと否定では無く事実の確認だ。そんな事すら分からないで良くも指導者でございますと名乗れたものだな」
 実を言うと本当に確認されたら少し拙い。何故なら仲間内で庇い合って涼が先輩に暴言を吐いたと先ほどの3人が口裏を合わせられると、水掛け論になってしまい、それを覆すだけの証拠は無いのだ……せめて動画で音声も拾っておけば違ったのだが。
 勿論、ロードし直して、涼が平手で殴られる前からその状況を撮影しておくというも手だが、妹が殴られるのを止められるのに黙って見ている事など出来ない。だからといって殴ったという事実がなければ、この問題だらけの柔道部のあり方を見逃すという事となり根本的な解決にならない。
 つまり、ロードなしで決着をつけるために策を弄する必要がある。
 単純に考えるならば今のはったりが効いている間に、状況を進めて髭ビア樽……もう髭樽で良いや。その髭樽から決定的な問題発言なりを引き出して決着をつけてしまう短期決戦で勝負に出る。
 その為の策を練る必要がある訳だが、柔道と同じでもっと揺さぶりを掛けてから仕掛けるべきだろう……だがそれは無駄になった。

「うるさい! 柔道部において上位に立つ者の言葉は絶対だ。上級生に下級生が逆らうなんて事は認められない。上級生が下級生を殴るならそれは正当な理由があるって事だ。部外者が口を挟むな!」
 あ~あ、言っちゃったよ。
 香籐からも『音声と画像ともにばっちり録りました!』と喜びの報告が届く。
「要するに、顧問のあんた自身が上級生が下級生に暴力を振るう事を認めているという訳だな?」
「そうだ、何が悪い!」
「悪くない。悪くないよ。実に悪くない。自分がトップに立つ職場で上位者が絶対であるというヒエラルキーの構築は、快適な職場環境の完成と同意義だからね。あなたは成功者だ、小さな小さな王国を王様になれたんだから誇っていいよ。本当に素晴らしい。あなたの豚小屋の王国では、上位者は絶対で間違わない。批判を口にする事は許されない。すべての成功は王様のモノで、全ての失敗は下の者責任だ。人間をそうマインドコントロールすることで豚に変えて支配する。素晴らしいのはその階級制度を豚にも当てはめることで、大多数の豚に自分より下の豚を作ることで体制を維持するというやり方だ。3年制のいや中高一貫で6年制の学校において、最下層の中学1年生を過ごすのはわずか1年間のみ、残りの5年間を上級生としての立場で過ごす事が出来るなら、誰もその状態に不満を持たない。持っていても1年後には忘れて、新たに王国に入って来た最下層の新入生に上級生として思うがままに振る舞う事だろう。自分たちが受けて来た屈辱の全てをぶつけてな。実に素晴らしく何処にでも転がっているありふれた豚小屋の王国だ。独創性というものが欠け過ぎていて、そして余りに醜悪で反吐が出そうだ」
 俺は髭樽にチェックメイトをかける。
「言うに事欠いて、俺の柔道部を豚小屋だと?」
「お前の? 本当に所有物気取りとは驚きだが、だとするならやはりお前は豚の王様だ。人と呼ぶにはその性根が醜すぎる。そんな奴に大事な子供を預けている親達は憐れだな」
 父さんと母さんからは何のリアクションも返ってこない。
 今の発言が最後のトリガとなった様だ。髭樽は「うおぉぉぉぉぉぉっ!」と叫びながら突進してくる。そして俺はそれを避けずに受ける。
 推定身長185㎝体重130㎏の樽が突っ込んでくる衝撃をまともに受ければ、レベルアップによる身体能力なんて関係なく俺の体重では支えきれるはずもない。
 髭樽と一緒に壁まで吹っ飛ばされて、壁と樽……もう樽で良いや、樽の間でサンドウィッチにされる。普通というかレベルアップの恩恵を受けていない人間なら、どんなに鍛え上げられた強靭な肉体を持っていても肋骨の骨折は免れないだろう衝撃を受け、そして反動で樽共々床に投げ出される。
『見るものをぞっとさせるような衝撃映像が撮れましたよ。こいつの人生終わりですね』
 香籐、少しは俺の身を心配してくれ。イーシャなんて驚きのあまりスマホを持ったまま固まってるくらいだぞ……うん、肝心なところを撮影していないね。

「この餓鬼が! この餓鬼が! 餓鬼の癖に生意気な事を抜かしやがって!」
 樽はすぐに起き上がると、力なく横たわる演技をする俺に圧し掛かり上から殴りつけてくる。
 実は激突の瞬間、壁に背中だけではなく両肩と両肘を付け、続いて突っ込んでくる樽の胸の両脇を受け止めるように構えていたので、奴の肋骨は左右数本ずつ折れている筈なのだが、その痛みを気付かせない怒りとは凄まじいものだ。
 1発、2発とその拳をわざと受けるが、それ以降は右拳には左に、左拳には右へと教科書通りのヘッドスリップによる防御を行うと、所詮打撃の素人の樽なので、力任せに振るう拳は全て的を外してコンクリートの上にリノリウムを貼っただけの床を強く打ち付けていく。
 怒りの興奮によって脳内へ過剰分泌されたβ-エンドルフィンによる鎮痛効果で痛みを感じていなのだろうが既に樽の両の拳は砕けているが殴るのを止めない。
 数か月は両手ギブスで箸も握れないだろうが、どうせ数か月は留置場と刑務所暮らしだから刑務作業をサボれて良かったのかもしれない。 まあ自業自得なので俺が心配する事でも無いだろう。


『主将。もう十分だと思います』
 香籐の言葉を合図に俺は反撃に転じる。マウントポジションからのコントロールの利いた打撃ではなく馬乗りになった素人の力任せな打撃は体重を乗せて前のめりになって打ってくるので、下から簡単にカウンターを合わせることが出来る。
 カウンターで鼻先に入った一撃に仰け反る樽の左膝を取って、持ち上げてやると簡単にバランスを失い俺の上から転がり落ちる。
 そこで樽は初めて柔道の寝技に持ち込もうとするが、同時に砕けて使い物にならなくなっている自分の両手に気づく。
「ああぁぁぁぁぁっ!」
 興奮が醒めた事で一気に襲い掛かってくる両手の痛みに悲鳴を上げて転がりまくる。
 本来ならその顔面に膝を叩き込んで、前歯を全部へし折ってやるところだが、この場はあくまでも柔道部顧問の暴力にあった生徒の父兄という被害者でなければならないので自重して【昏倒】を使って眠らせた。

『紫村、作戦実行だ』
 紫村がいるのは放送室。
 この状況を香籐が撮影していた動画データは、全てビデオトランスミッターで紫村に送られており、紫村はそれを録画データUSB接続で放送機材のHDDレコーダーにデータ落とすと騒ぎの一部始終を校内に放送するのだった。

『ばっちり撮れているねいるね。それにしても流石、金持ちの私立校だね。校内のあちらこちらに校内放送用のモニターが設置されてるんだから、うちの学校じゃ考えられないよ』
 放送開始直後、紫村は内側から鍵をかけた状態で外側から扉を閉め、更に鍵穴には細くねじったティッシュをピッキングツールで押し込んでから放送室を脱出した後、廊下に配置されているモニターで動画を確認しながら話しかけてくる。
『どんな立派な施設でも中身があれじゃあな』
『それにしてもどうしようもない奴でしたね』
『あの手の人間は他にも沢山存在するぞ。何故なら恥を知らない人間にとってはあれが一番やりやすい形なんだから……それにうちの学校もこの学校を馬鹿に出来るような立派な学校じゃない』
『救われないね、この世は……』
 3人で浮世を嘆いていると、北斗から突っ込みが入る。
「これは、どういう事なんだ?」
「どういう事って?」
「セクハラ問題でこいつを追い込むのでは?」
「ああ、そういう事か。セクハラ問題じゃ弱いだろ。証拠を出せと言われても困るだろし、それにお前さんもセクハラされましたなんて広言出来るか?」
「それは……」
「分かりやすい傷害事件が一番良いんだよ。俺が殴られれば済む話だし」
「……私の為に?」
「リューちゃん、身体は大丈夫なの?」
 北斗を突き飛ばしたイーシャが不安そうに聞いてくる。
「大丈夫だ。ちゃんと受けているから」
「イーシャびっくりしたんだから!」
 泣きながら抱き着いてくる。
 か、可愛いじゃないか、それに胸の感触が……もうイーシャで良いんじゃないか? そんな思いが頭を過るが、次の瞬間、胸元でクンカクンカと鼻を鳴らす音に、真下に見える旋毛めがけて手刀を振り落とした。


 突然扉が開く。
「安浦君!」
 息を切らせながら飛び込んできた初老で眼鏡をかけたスーツ姿の男が樽の名前を叫んだ。
「安浦……君?」
 床の上で大きな鼾をかいている樽に戸惑い勢いをなくす。
 いや、おっさんもしも樽が頭を打って脳震盪で倒れているとすると鼾は脳溢血のサインなんだから呆気にとられるなよ。
「これは一体? あっ、き、君たちそのスマホはしまいなさい!」
 男は自分に向けられたスマホに驚き、恫喝すると開け放った扉を自分で閉めた。この行動はこの後の話を周りに知られたくないという気持ちの現れなんだろうが、その様子は香籐が先ほど同様にしっかりと撮影している。
 部屋の中の何かを探すように見渡しているが【迷彩】で姿を消し、気配を消して背後に立つ香籐を捉える事は出来ない。
 大島レベルとは言わないまでも、空手部の2年生レベルなら何かおかしいと気づけるだろうが、この男は武道に関しては素人のようだ。

「この状況を撮影されると困る事でもあるんですか?」
「何もありません。しかしここは学校です、こちらの指示に従って貰います」
 3人は俺に「どうする?」と言った視線を向けてくるので「しまいな」と答えた。
 記録されてないと勘違いしている方が本音が出てやり易いからだ。

「ところで、一体もなにもありませんよ。この男がいきなり飛び掛かって来て、僕を壁に叩き付けた上に、馬乗りになって殴りかかって来てんで何発か殴られた後で、避けたら床を殴りまくって拳が砕けて痛みに悲鳴を上げながら転がり回った挙句に失神したんですよ。頭を打った様子はないので両手の人差し指と中指の第3関節の骨折。もしかしたら複雑骨折でしょうね。救急車と警察を呼んでください」
「け、警察?」
「当たり前じゃないですか傷害事件なんだから」
「傷害事件?!」
 放送を見て駆け込んで来た癖に白々しい。だがそれを指摘はしない。あくまでも放送されたのは俺達とは関わりの無いというスタンスを取る。
「いちいち繰り返さなくて結構。人の話聞いてないんですか? 僕はこの男に壁に叩き付けられた上に、馬乗りで殴られたんですから立派な傷害事件ですよ。ちゃんと警察に被害届を出すつもりですから状況確認をして調書も作成して貰わないと」
「ま、ま、待ってくれ!」
「待って『くれ』? ……さてとあなたが呼ばないのなら、自分で電話して呼びましょう」
 そう言って携帯を取り出す。
「いや、待ってください!」
 この瞬間、この場における主導権どころか関係性がどちらがプライマリーでどちらがスレイブが決定した。
「待つのは良いんですが、あなたはどういった立場の方ですか?」
「私は太洋学院中等部体育会部活動系統括部長の花沢と申します」
 そう言って流れるような動作でさっと名刺を出してきた。
「ああなるほど、つまり今回の問題の学校側の責任者ととらえて間違いありませんね?」
 名刺をじっくりと眺めながら、次なる口撃を加える。
「責任、責任者ですか?」
「当然じゃないですか? この学校内で統括者である貴方の部下の女子柔道部顧問が生徒の父兄に暴力を振るった訳ですから、直接事件を起こした彼は刑事責任が問われるとして、民事では当然あなたと、この学校の管理責任も問われないはずが無いでしょう。明日は日曜日だから月曜日の新聞にはこの事件が載るんじゃないですか?」
『今の主将、とても輝いてますよ!』
『そんな褒めるな』
 割と本気で照れる。

「待ってください。何とか穏便に済ませる訳にはいきませんか?」
「傷害という犯罪をなあなあで済ませて、犯罪者に刑事的責任を科さずに野に放とうとお考えな訳ですね。学校経営という意味では理解出来るんですが、あなたの子供達への教育に関わる者としての見識を疑いますね」
「いえ、私は教育の現場に直接関わる立場ではなく、あくまでも学校をマネジメントする立場の人間ですので」
「つまり、この学校は上の立場の人間ほど、教育とは全く関係ない理念に従って学校を運営しているという事ですか……いや、正直な方ですね。驚くやら呆れるやら」

「いい加減、そういう上げ足を取るようなやり方は止めてもらえませんか?」
 目つきが変わり、態度もメッキが剥げてきたようだ。
「止めて欲しいも何も、あなたが学校側としてどのような対応を取るのかはっきり示さず、下らない駆け引きをしようとするからこうなる」
「つまり学校側から何らかの誠意を見せろと……つまり脅迫ですね。そういう態度をとるのならこちらとしても──」
 やはりこの学校にはろくな大人が居ないようだ。徹底的に叩いて潰して涼とイーシャには転校という形を取って貰った方が良い。
 はっきり言って、これ以上2人をこの学校に通させておく事は出来ない。
「もしもし警察ですか? あのですね傷害じ──」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
 再び携帯電話を取り出すと警察に電話を掛ける、すると花沢が叫び声をあげながら携帯電話を奪おうと飛び掛かってくる。俺は左足を左後ろに大きく引いて体重を乗せる事で上体を逃がしながら、残した右脚で花沢の脚を引っ掛ける。状況についていけず呆然として椅子に座る涼の隣の椅子に突っ込み椅子ごとひっくり返った。
 ちなみに携帯はわざと奪わせるという絶妙なタイミングでそれは行われたのだ。

 床から起き上がった花沢は眼鏡がどこかへ吹っ飛び、さらに額から血を流しているが口元には卑しそうな笑みを浮かべている。
 俺から奪った携帯を真っ二つにへし折ると床に叩きつけて「これでお前も傷害犯だ覚悟しておけ!」と叫ぶ。
 実は二枚腰のタフな交渉者であったという面白そうな展開ではなく、ただの小物の逆切れだった。
「俺の携帯を奪って勢い余って勝手に転倒しただけに見えましたが? ちなみに俺の携帯への器物破損であんたも犯罪者の仲間入りだ。おめでとう」
 そして俺の電話がスマホに生まれ変わって戻ってくるチャンスをくれてありがとう!
「うるさい! お前が勝手に言ってるだけで何の証拠もない!」
「ここには当事者の俺とあんただけじゃなく目撃者が3人もるけどな」
 花沢は部屋を見渡してからおもむろに鼻で笑った。
「そんな餓鬼の証言が何の役に立つ」
 香籐がしっかり証拠映像を撮影している事を知っているので彼がピエロ過ぎて笑うのを堪えるのが辛い。
「役に立つかどうかは自分の人生をかけて確認してみるんだな」
「……ふん、ここは学校だ。こちら側の証人なんて幾らでも増やせる。せいぜい吠え面をかくんだな」
「ねぇ、リューちゃん吠え面って何? 初めて聞くんだけど」
 空気を読まないイーシャの疑問の声に、俺も挑発の意味で乗っかる。
「そうだな、今時吠え面なんて古臭い言葉使うのは爺くらいだよな。いいか吠え面っていうのは泣きっ面という意味で、これは犬の吠える事を鳴くともいう事から鳴き声の鳴きを、涙を流す泣くにすり替えた昔の人間の言葉遊びじゃないだろうかと俺は思うんだけど、信じるか信じないかはあなた次第です」
「へぇ~昔の人って面白い事考えるんだね」
 俺が適当に今考えたそれっぽい話をあっさりと信じちゃいましたよ。こいつは将来、訪問販売詐欺に百万円単位で金を騙し取られるだろう。
「うるさい! 何を下らない事をしゃべってる。もうお前たちは終わりなんだよ。お前は刑務所にぶち込まれて、その3人は全員退学だ! ざまあみろ! はっはっはっはっは……」
「ちなみに撮影はしてないけど録音はさせて貰った。お前を破滅させる証拠として十分だろう。お疲れさま」
「な、何だって?!」
 もう十分に喋って貰ったので、呆然としているところを【昏倒】で失神させた。

『紫村先輩、後はよろしくお願いします』
 花沢が失神したところで香籐はカメラを止めた。
『了解したよ』
 ちなみに紫村が今居るのは、高校の校舎の放送室だ……ご愁傷さまとしか言いようがない。
「それにしても、この学校もろくな人間がいないな。お兄ちゃん、ますます学校という場所が嫌いになりそうだよ」
 涼にそう話しかけるが、頭を抱えながら「柔道部が……も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……」と呟くだけで返事は返って来なかった。
 どうした諦めるのが早くないか?
「私はもう開き直ったから良いよ。リューちゃんの家から最低でも中学3年間は通わせてもらうから、その間に既成事実を……ふっふっふ」
 も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……

「さすがに私もこの学校には失望が隠せません」
「まあ、そうだろうね」
「今のが表沙汰になったら、この学校自体が終わりですよね」
 もう既に高校の方では一部始終が放送されているので手遅れなんだけどね。
「トップクラスがまともなら立て直すチャンスもあるんじゃないかな?」
 可能性はゼロではない。
「花沢って結構トップに近い人間ですよ」
「……ほ、ほら、校長とかが──」
「校長は部活動にはほぼ無関係です。この学校にとっては部活動の成績が広告代わりなので、そこを統括する花沢の発言力は、ある意味校長をも上回ります。つまりこの学校はもう救いようがないって事ですね……ならばこの手で引導を渡してやるのが……ふっふっふ」
 なるほど涼が諦めモードに突入したのはそういう事なのか……北斗、あんた黒いよ。
「どうしたものか……」
『もういいから。こんな学校には涼やリーアをおいてはおけない!』
『そうね。だったらもう涼達とは関係ないんだから徹底的にやってあげないと駄目ね』
 母さんが黒い。真っ黒だ。


 それから5分後、Next challengerによって三度扉が開け放たれる……私は誰の挑戦でも受ける!
「花沢君、君は何をやってるんだ! 学校中に全部流れている……花沢君!?」
 倒れている花沢に気づいて駆け寄ろうとする小太りの六十がらみの爺さんに声をかける。
「何が全部流れているんですか?」
「げぇっ!」
 多分、高校の校舎の放送で花沢の醜態を見て来たのだろう、俺の顔を見て潰されるカエルのような悲鳴を上げた。
「他人の顔を見てげぇっとは、熟(つくづく)この学校の人間は礼儀知らずですね」
「あっ……やあ、私はこの学院の中等部の校長で島村です」
 動揺を隠し切れずにぎこちなく名乗った。
「僕は高城。ここにいる今年の新入生で柔道部に所属する高城 涼の兄で、同じく長家 イスカリーヤの従兄です」
 いつものように最初は人当たりの良い態度で接する。
「それで、今日はどのような用件で?」
「実家から妹達を学校まで送って来たんですが、校門の前で柔道部の上級生が妹に『調子に乗ってる』などと難癖をつけて殴り、更に『舐めるな餓鬼』などと暴言を吐いて突き飛ばしたんですよ」
「それは、誠に申し訳ありません。我々の指導不足と申しましょうか、今後そのような事が無いよう──」
「その件で、上級生が下級生に暴力を振るうのは柔道部の指導者が認めているという発言があったので、その事に関して問い質したく面会を申し込んだのですが」
「安浦先生にですか……って安浦先生どうしたんです!」
 壁際に倒れている安浦を発見して半ば悲鳴のような裏返った声を上げて駆け寄る。
 安浦が鼾をしている事を確認して安心しているが、脳震盪で倒れた場合は鼾は危険のサインだから安心するなよ。

「それで彼と面会したところ、上級生が下級生に柔道の指導と関係のないところでも体罰と称して暴力を振るう事には何の問題も無いという意見を頂きまして」
「……はっ? 何でですか?」
「そんな不思議そうな顔をされても間違いのない事実です。その様子は撮影してありますから」
「撮影……そうだ!」
 島村は慌てて背後の扉の付近を振り返ると何かを探しているかのような首の動きを見せる。
 香籐の撮影は、その辺りで行っているので、カメラが仕掛けてあると勘ぐっているのだろう。
「そんなところに隠しカメラ何てありませんよ。彼女達が撮影したんですよ」
 隠しカメラはないがカメラマン自体が隠れてるだけだがな。
「それから意見の相違という奴で口論になりまして、そこで突然叫び声を上げながら突っ込んできて、僕を壁に叩きつけて、倒れたところを馬乗りになって殴られましたよ」
 その場にがっくりと崩れ落ちる。
 すっとぼけているのかと思ったが、どうやら本気で花沢の件の放送は見ているが安浦のは見ていない、しかも花沢の方の放送もしっかりとは見ていない様子だ。
「やはり本当なんですか?」
「本当ですよ全て」
 間髪入れずに即答する。
「……分かりました。この際、膿は全て絞り出し切りましょう」
 おお、この学校に来て初めて建設的な意見を耳にしたような気がする……だけど校長って実権は余り無いんだよな?

「具体的にはどうするつもりですか?」
「残念ですが、安浦先生と花沢君には職を辞して貰い。その後刑事罰を受けてもらいます。安浦先生は傷害罪。花沢君は脅迫、器物破損となるでしょう。そして安浦先生は起訴されるのは間違いありませんが、花沢君は起訴されるかどうかまでは分かりません。その件に関しては学校側の力が及ぶところでないので、ご理解下さい」
「それは構いません。学校側が身内を庇うような事をしなければ、後は司法に判断を委ねれば良いと思います。ただし彼らが、再び今の様な職には就けないように、全ての学校に話を入れておいて下さい」
「分かりました」
「それからもうひとつ。安浦は女子生徒へのセクハラ行為も行っていたようです」
「セクハラ? まさか中学生にですか?」
「そのまさかです。この件に関しては表沙汰にすると傷付くのは生徒達なので内々に処理をして貰いたいのですが、他の部でもそのような問題がないのか、生徒への体罰と合わせて、アンケート調査、そうですねあくまでも部の指導者達が関わらない方法で、生徒達に直接行った方が良いでしょう」
「内々にアンケートを実施して、その結果を踏まえて処分を行う事にしましょう」
 随分と積極的だな。
「でも良いんですか? 警察沙汰になれば学校側にも大きな痛手でしょうに」
 気になったので尋ねてみた。
「構いません。学校側が自主的に彼らの排除を行えば信頼回復も早いですし、それに体育会系の部活動偏重の学校経営には疑問を持っていたので、彼らの勢力を削ぐというのは私個人としてのメリットのある話ですから」
 良いね、こういう人。ふんわりとした正義感に酔ってる奴等と違って、裏切る事はあっても行動原理がブレる事の無いタイプだから、利害関係が一致とまではいかなくても互いに調整出来ている間は信頼しても大丈夫だろう……その間だけはね。
「それでは、当たり前の事ですが、妹達を含めて柔道部の部員が何の杞憂もなく柔道に打ち込めるように、教師が生徒を上級生が下級生を弱い立場の者を虐げる様な事が無い艦橋を作るとよう約束してください」
「……分かりました」


 俺と島村とのやり取りを見ていた北斗が疑わしそうに俺を見詰めている。
「……高城兄。君は本当に私と同じ中学3年生なのか?」
 真顔で言うな。それはよく言われる言葉だから、慣れているからと言って何でも無いわけじゃなく、良く言われるからこそ嫌だという事もあるんだぞ。
「えっ! 中学3年生……高校じゃなくて?」
 島村が、俺の顔を見詰めたままで口を開けて固まるのは止めろ。俺だって傷つくことぐらい……ある。
 好きで中学生にして幕末の人斬りみたいな目つきはしてないんだよ。
「リューちゃん、頼れる大人って感じで格好よかったよ!」
 中学生に見えないから良い、発想の転換で少しだけ救われた気分になれるよ。イーシャは俺の癒しだな……時々。


『高城君。どうしよう?』
『何だ?』
 真剣な様子の紫村に、俺は先を促した。
『高校の放送室で流した奴には、最後にスーパーインポーズで「続きはウエブで」って入れたのに続編はお蔵入りになるみたいだけど』
『勝手に入れるなよ』
『だって、あそこは徹底的にやるなって期待してたからね』
『僕も期待していました』
『酷い奴等だな、人の妹の人生を左右するような話だというのに……だが、お前達の期待は叶うぞ』
『へぇ~』
『どうしてです?』
『最後に奴に話しかける前に俺は闇属性レベルⅢの【看破】を使った』
『まさかあの使いどころの分からない。相手が嘘を吐いたかどうかし分からない中途半端なあれをですか?』
 やっぱり評判が悪い。というか魔術はほとんどが評判悪い。【看破】は相手に掛けて、こちらの質問などに対して、答えた時にそれが嘘の場合に自分だけに聞こえる「ブゥーッ!」という音で知らせてくれるのだが、普通の会話の流れの場合は、どれに対して嘘を吐いたのかが判断付きづらいという欠点の魔術である。しかも本当は何なのかも分からない、正解の解説をしないクイズ番組のような不親切さも使いづらさに拍車をかける。
『そうだ。カマを掛ける前に使う位にしか役に立ないあれだ。あの野郎すました顔で「分かりました」と嘘吐きやがったよ』
『でも【看破】を使ったという事は疑いを持ってたんですよね? 一体どのタイミングで疑いを抱いたんですか?』
『花沢達体育会系が力を持った状態を改善したいって言ってただろう。だがそれを行うには花沢を排除しても余り意味はない。別の新たな人間が花沢の立場を就くだけで、学校の体制自体は変わらない。だとするならば島村は自分が学校、というか本体の大学を含めた組織のトップに立ち、運動部の成績で学校の知名度、評判を上げる構造を変えるつもりと考えるべきだろう。つまり柔道部をはじめとする運動部をいずれは縮小するはずなんだ』
『でも自分には奴が嘘を吐いているようには見えなかったんですが』
『それはそうだ。奴は嘘は吐いていない。嘘を吐かずにこちらを騙そうとしていた』
『そんなことが?』
『可能だよ。奴は嘘を吐かずに、選択的に真実の一部だけを話す事で、こちらの意識をコントロールし、自分に都合の良い話の流れに持って行った』
『何故そんなことをするんですか?』
『嘘を吐くのはデメリットが大きいからだ。相手が証拠を記録していれば致命的になるし、それに普通人間は嘘を吐くのが嫌いだから嘘を吐けばストレスがかかるし、何より相手に見破られ易い』
『でも主将は──』
『それ以上何も言うな』
 誰が平然と嘘を吐きまくる異常者だ!

『だけど面倒だね。彼を破滅させてあげるだけの証拠を集めるのに時間がかかりそうだけど、彼は今回の件が公表された後、早い段階で……多分、来週中にでも決着をつけてトップを取ると思うよ』
『同感だ。だからこちらも今日中に決着をつける』
『どうするんだ隆?』
『奴にとって致命的な爆弾がこちらの手の中にあるからね』
『彼女達が撮影した。そして彼女達が放送したと思っている動画データだね』
 やはり紫村は気づいていたか。
『奴としてはそれを何としても回収したい。自分のコントロール下にない爆弾の存在は許容出来るはずが無いからな』
『そしてそれを彼が穏便に手に入れようとする提案を高城君が理由をつけて蹴る。すると彼は何らかの直接的なアクションを起こすという訳だね』
『それじゃあ、涼やリーアが!』
『大丈夫だよ兄貴。先ずこれ以上学校の中で事件が起きる事は、学校自体にとっても致命的だし、次に島村には体育会系に所属する涼達へ直接的に手出し出来る手段は無いだろ。そして何より肝心の動画データを俺が持っている事を分からせてやれば確実に狙いは俺になる。俺の護衛として張り付いてる人達にも仕事をさせてあげないとね』
『なるほど、お前を襲って捕まった連中は背後関係を洗いざらい徹底的に調べられるから、誰の命令で襲ったのかも明らかになる訳だ』
『それなら、続きをウェブで発表しても良いんだね?』
『構わん、むしろやれ。ただしタイミングは俺が襲われて、島村が捕まった後だ』
『それなら時間があるようだから、先ほどの分もしっかり編集して解説もつけておくよ』
 一つの大きな学校という組織を破壊しつくす事を楽しんでるな。

『それは良いんですけど、扉の向こうに張り付いてる奴はいつまで無視するんですか?』
 香籐の言葉に俺は困る。周辺マップには明らかに部屋の外で、扉の廊下側にぴったりと張り付いて、多分中の様子を伺っている奴がいるのは島村が入って来てすぐに気づいたのだが、それがどういう人間なのか分からないので放置している状態だ。
『どうしたものかな?』
『じゃあ開けますよ』
『えっ?』
 止める間もなく香籐が扉を開く。
 すると扉に身体を預けて聞き耳を立てていたのだろう男ががバランスを崩して転がり込んできた。
「そ、総長!」
 その言葉にS県人たる俺の頭に真っ先に思い浮かんだのは暴走族の頭だ……いや、本当に多いんだよS県には、暴走族同士の抗争で機動隊が出動とか、平成の世でそんな事が起こるオンリーワンなS県万歳だよ。
 だが、乱入者は革ジャンにサングラス、そして気合の入ったリーゼントの「どけぇ~い、どけ、どけぇっ!」という感じではなく、長い白い髭を顎に湛える和服の島村よりも10歳以上は齢を重ねた老人だった。
 ただ者ではないと感じさせる佇まい。総長と呼ばれるだけの事はあり人を従える事に慣れた者特有の空気をまとっている……例え床に転がっている姿を晒していても。
 そして倒れる瞬間のぎりぎりまでの粘りからも、老いた今でも肉体の鍛錬は欠かしていない事を感じさせる……そう、俺には分かる。この老人はカバディの達人に違いないと。根拠はないよ。

「島村君。やはり君は己の野心を抑えきれなかったようだのぅ」
 立ち上がると何事もなかったように口火を切る。
「な、何を馬鹿な事を……」
「先ほどの話は、廊下で聞かせてもらった」
 盗み聞きだけどな。
「くっ! ……」
「はっきり言おう。我太洋学院大はスポーツ名門校という看板を下ろせば経営は成り立たない。君の思惑通りにする訳にはいかんのだよ」
「スポーツ名門校と言えば聞こえは良いが、実際世間の評判は運動馬鹿校という不名誉なものだからですか?」
 島村の発言に、俺が涼やイーシャ、ついでに北斗に視線を投げかけると3人ともさっと視線を外した……おい!
「だが人を育てるという事に関して、文と武に優劣がある訳ではない。何を恥じる必要がある!」
「貴方には分かるまい、『ねぇ、お祖父ちゃんの学校って馬鹿製造プラントって本当?』と孫に訊かれた私の気持ちが!」
 うま……酷い事を言うな。この部屋にいる製造中の馬鹿3人は、がっくりと肩を落としているぞ。
 そもそも、そんな個人的な理由で学校の制度改革を行おうと考えたのか? 馬鹿だろ。
「そんな事で僻んでいたのかね?」
「そ、そんな事だと! 私がどれほど──」
「孫にそう言われたのが自分だけだと思うなっ!」
 カバディで鍛え上げられた老人離れした肺活量による大音声(だいおんじょう)で一括された島村は堪らずに尻餅を突いてひっくり返る。
「総長も……それならば──」
「喝っ!」
 気合に打たれて仰け反りでんぐり返り一回転。
「……儂はな、そう言った孫に3時間に渡り正座して話し合って分かって貰えたよ。小さな子供とはいえ腹を割って話し合えば理解してくれる、それが教育なのではないか?」
 それはただの拷問だろう。下半身を重点的に鍛え上げる空手部の俺は正座が苦手だ。発達した脹脛などのボリュームたっぷりの筋肉が正座の姿勢により圧迫されて常人以上に血流を妨げるので、3時間の正座など考えただけでゾッとする。
 俺ほど苦手じゃなくても、子供が3時間も説教されたら「OK!OK! グランパ。あんたの言いたいことは分かったぜ。分かったからもう勘弁してくれ!」と泣きを入れるのは間違いない。
「君には教育者としての信念が、いや哲学が足りない!」
「哲学?」
 哲学とは我々現代日本人にとっては思想的なものを想像するだろうが、本来の哲学とは全ての学問の根幹にあり、学問ではなく論理的な思考活動全般を意味する。つまり哲学とは活動を示すものであり人生そのものであるのだ。
 だからこそ孫に拷問を加えて自説を通し、それお教育と豪語する人間が使ってはいけない。哲学に対する冒涜といえる。
「そうだ哲学だ。何故諦める? 何故己の信念を貫き通さない? そもそも幼き子供の意見に己の考えを屈するなど、それでも教育者なのか?」
「私は……間違っていたのか?」
 何かを分かって居るような気分になっているようだが根幹の部分から間違ってる。その爺のいう事は全部間違ってるからな。
「やり直すのだ。我校に問題があるのも事実だ。一から仕切り直そうじゃないか」
 そう言って手を差し伸べる。
「そ、総長……」
 島村は差し出された手を両手でつかむ。
「島村君……」
 涙を浮かべて見つめ合う爺2人に、俺は「何これ?」と呟くしかなかった。


 もうね、涼がすっかりこの学校でやっていく気をなくしてしまいましたよ。こんな学校にいたら馬鹿になるってね。
 既にどのクラスにも一人いる。ダントツで勉強出来ない子レベルだと思うんですが、これ以上馬鹿になるのは嫌なんだと好意的に解釈したよ。
 まあ、気持ちは分からないでもないのだが、大学を含めた学校全てのトップである総長が折角部活などの改革にも力を入れる気を見せているのだから、様子を見てからでも良いんじゃないかと説得している。
「ほら夏休みにこっちに戻って来て、父さんの指導を受けてみて、その結果、転校して実家に戻るか判断しても遅くはないだろ?」
「じゃあ、私もリューちゃんの家に行くからね」
「国に帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」
 ソニックブームを出しそうな勢いで俺は断固として拒否する。
「じゃあ、電話するね……もしもし、お母さん? うん私。あのね今年の夏休み、リョーちゃんと一緒に叔父さんの家に行ってもいい? ……うん……うん、ありがとうね。じゃあまた電話するから!」
 通話を終えると「お母さんが頑張りなさいだって」笑顔で言った。
 ナニを頑張るんだ!?
『頑張るんだ』
 と、父さん?
『頑張れよ』
 兄貴? ……
『お母さん、信じてるから、ちゃんと自重してね』
 自重って何を?

 とりあえず涼とイーシャの転校は保留となった。
 涼に家に電話をかけさて父さんと母さんに話をして貰った。
 父さんがうっかりとまるで見ているかのように話しかけて母さんに足を踏まれたのは想定内の出来事だった。

 その後は警察と救急車を呼んで、警察からは調書を取られ、更には病院で診断書も取られた。
 診断書とともに警察署に向かい、そこで更に改めて聞き取りが行われる。
 何度もしつこく同じ事を尋ねて来られるのはかなりイラッとするが、これには嘘を吐いていた場合に証言がブレたり、または新たな事実を思い出すという事もあるので、事件捜査において重要な手法なので怒ってはいけない……怒ってはいけないのだ……怒ったら負けだから。
 結局、涼達と共に解放されたのは5月下旬という日の入りの遅い季節にも関わらずとっくに日は沈んでからの事だった。
 涼とイーシャと北斗、それに学校関係者は警察車両で学校に送り届けて貰えるようだ。俺は駅に送ると言われたが「自電車でS県まで戻るんだよ……これから」と言ってやった。
「電車賃が無いなら貸そうか?」
 俺の聴取していた刑事がそう言ったが「借りても出費だ。余計な気を遣いをするくらいなら、俺が輪行バッグに自転車を入れてる事がどういう意味なのか察して、聴取を早目に終わらせる程度の気遣いが欲しかった」と嫌味をぶつけてやる。
 そもそも俺の所持品である輪行バッグの中身を確認したのはこの刑事なのだから、これくらいの嫌味は許されるだろう。
 こんな時間になるまで拘束されるとは思ってなかったので、これから街灯もない山道を走って帰るという設定は無理があるんじゃないかと思うのだ……だが、無理を通せは道理は引っ込むと昔の偉い人も言っていた。

 自転車で家まで帰る振りをするために輪行バッグから取り出した自転車のフレームに車輪を取り付けて跨ると、そのまま警察署の門を通過し、表通りで張り込んでいる護衛兼見張り達の横をすり抜け、加速し一気に振り切ると人目のない路地に入ると【迷彩】で姿を消して自転車を収納する。
 そして浮遊/飛行魔法で上空へと移動すると、紫村、香籐と合流する……こいつらしっかり何か買い物したのだろう紙袋を両手に持っていやがる。

 途中、飛ばし過ぎて飛行機雲が出来てしまい、一部ネットで話題になってしまった。
 月齢が25頃の細い月なので油断していたせいだが、夜空に3本の雲が水平に伸びていくが、その先頭には航空機であることを示す航空灯・衝突防止灯の明かりが存在しない動画にはさすがにヤバイと思った。
 ともかく飛行機雲の発生は、折角の視認もレーダーによる捕捉も不可能な高い隠密性を誇る浮遊/飛行魔法の優れた特性を無にしてしまう重大な問題だった。
 原因は飛行時の風除けの為に形成する風防の形状が高速飛行する場合に正面から受ける風の影響で不規則に歪む事で、本来ならば水平に直進するだけなら発生しないはずの飛行機雲が発生すると予想出来たが、速度制限を行うか、全体の魔力消費の40%を占める風防の強度を上げて、魔力消費量を大幅に引き上げる以外に解決方法が簡単には思い浮かば無い。
 現在の目標である超音速達成の為には根本的な解決策を講じる必要があるだろうが難しい問題だ。



[39807] 第98話
Name: TKZ◆504ce643 ID:dd2e1479
Date: 2016/11/10 17:01
お久しぶりです。
決して書いていないわけではなかったのですが、98話の先頭の2万文字ほどをミスで消してしまい、そのリカバリー作業中に「一度書いた文章を書き直し照られるか」とキレて、それまでの考えていた最終章の流れを全部無視して書き直していたため、それまでの話と整合性がとれずに何度も書き直していました。

98話以降の話の展開は少なくとも前回の更新時には頭になかったもので、その内容については作者も責任が取れませんw

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


『タカシ散歩行こう! 散歩散歩散歩!』
 俺が起きると……いや起きる前から俺の顔を舐めまわしていたのだろう、顔がベトベトな上に、枕や襟、肩のあたりまで涎で濡れている。
 直接的に舌が舐められた事で濡れている訳では無く、大型犬は何かと口元から涎が滴るのだ。
「おはようマル……今日は朝から元気が良いね」
 マルの頭を小指と親指で挟んで固定して遠ざけながら残りの3本の指で額の上の部分を軽く掻いてやる。掴んで遠ざけるだけではマルが凹むので、こういう細かい気遣いと小技が必要になる。
『うんマル元気だよ。今日はお散歩楽しみだったの!』
 ここしばらくはユキにべったりで散歩も夢世界へも行くのを控えていたくらいだから、散歩への欲求が我慢しきれなくなったのだろうと思えば納得も出来る。
『だから早く準備して散歩行こう!』
 マルの尻尾はブンブンと左右に振れて残像による分身の術状態だった。

 枕カバーを外し枕をファブっておき、枕カバーを持って洗面所に向かい、洗濯籠に枕カバーと共に寝間着代わりのTシャツを放り込む。
 顔を洗い、歯磨きを済ませてから自分の部屋に戻ると、お座り姿のマルは、自分の前でユキが寝転がりながら身をくねらせ、前足で宙を掻く様にする仕草に目を細めてうっとりと眺めていた。
「ユキと一緒に散歩に行くなら俺がユキを抱っこする事になるぞ」
 そうするとすぐに機嫌が悪くなるくせに……
『大丈夫! お母さんがこれ作ってくれたの!』
 自分の『所持アイテム』から取り出した何かを口に咥えてテンションマックスといった感じにピンと耳を立てて尻尾を振りまくるマルの姿を【伝心】で香籐に送り付けて、返信が返ってくる前に一方的に遮断した……

「何だそれ?」
『これはね、お母さんが作ってくれたユキちゃんと一緒お散歩バッグなの!』
 ユキちゃんと一緒お散歩バッグ……多分、これが母さんが名付けた名前なのだろう。見た目はペットボトルホルダー。それも最近のペットボトルのネック部分を挟むように取り付けるアルミ製の金具と吊るすためのカラビナの組み合わせになったタイプじゃなく、保温機能付きの袋にハーネスが着いたタイプだった。
『これマルに付けて! そして格好いいって褒めて!』
 身に付ける前から格好良い前提? 褒めるの決定? 納得のいかない思いを胸に抱え込みながらも装着する。
 畜生……想像していたよりも格好いい。胸に小型の樽をつけた山岳救助犬みたいであり、胸を張ってすくっと立つ姿は、オオカミを思わせるシルエットを持つシベリアンハスキーだけに凛々しい。
『格好良い? 恰好良い?』
 ノーと言われる事など夢にも思っていない様子のマルにただ頷くのが悔しい。だから俺は素直に認める事無く「マルに格好良さなど不要! 可愛ければいいんだよ!」と言って抱きしめた。
『マルが可愛い……それは分かってるよ。ずっとお母さんやタカシ達に可愛い可愛いと言い続けられてきたからマルは疑い様が無いくらい可愛いの』
 な、何だと? この恐ろしいまでの自負心。しかもそれを育てたのが俺自身だと?
『だけど今、可愛いの最先端はユキちゃんに移っているの、だからマルは可愛いだけでは駄目なの! マルはこれから格好良い女を目指すの!』
 か、母さんだ。こんな事を吹き込んだのは間違いなく母さんだ。そもそも母さん以外にいないだろ! マルと話が出来るようになったから、俺等が学校に行っている間ずっとマルとガールズトークで盛り上がっている様子が頭に思い浮かぶ……何してくれてるの!

 マルは散歩用バッグの口が丁度ユキの前に来るように伏せをして頭を上げて胸を張り、入れと促すように小さく「ワン」と吠える。
 ユキは「ニャ~」一声上げると慣れた様子でバッグの中へと入ると、中で反転してバッグの口から頭を出し、右手を伸ばして招き猫のように手招きをしながら「ニャ!」と短く鳴いた……滅茶苦茶可愛いじゃないか!
 そして、マルのどうだユキは可愛いだろうと言わんばかりの表情に敗北感を覚える。
 俺ではここまでユキの魅力は引き出せない……ま、まあ別に誰が引き出そうともユキが可愛ければどうでも良いんだ。全然負けてないし、むしろ労せずして可愛いユキを見られたんだから勝ってるんじゃないの俺?

「おはようございます主将」
 玄関を出ると香籐が待ち伏せしていた。こいつめ俺の【伝心】を受けて、文字通り飛んで来たな。
「うっ、何ですこの可愛さは!」
 素早くマルとユキを撮影しながら興奮して大声を上げた香籐へ抉るようなレバーブロー。6時前から他人の家の前で大声を出すな。
「それで、お前も散歩に付いてくるのか?」
「はい、御一緒させてください」
 常人なら肝臓破裂は確実な一撃だったのに大してダメージを受けていない様子なので、次回は脇腹に穴が開くような一撃を喰らわせようと誓うのだった……

 散歩に出る。マルは胸元のユキが外の景色が良く見えるようにピンと首を高く持ち上げ胸を張る。
 ユキのためにだろうか今までそんな走り方をしたことが無い上下の振れ幅の小さい側対歩で軽やかに走るのだ。
 大型で精悍な顔立ちと体形のシベリアンハスキーだけに、そんな歩き方が恐ろしいほどよく似合う。
 その様子を香籐が締まらない撮影している。
「ユキの写真はネットにアップしたりするなよ。専門家の目に止まったら見た事ない種だと騒がれたら面倒だ」
 心地好い揺れに身を任せ、顔だけを外に出して夢の中へと旅立ったユキの寝顔を地面に這いつくばって接写する香籐に釘を刺す。
「そうですね。僕の中の可愛い動物フォルダに記録しておきます」
 ユキが異世界生物だと思い出したのだろう、素直に頷いて撮影を止める。まあ、外に連れ出す以上は何れ拡散して専門家の目に止まる事もあるだろうが、いざとなったら「さあ、何かの雑種でしょう」でしらを切るつもりだが、こちらからあえて面倒を呼び込む必要はない。


「ちょっと待て、おかしくないか?」
 家を出て30分ほどが過ぎて、俺は初めて周囲に護衛兼見張りが居ない事に気づいた。
「何がですか?」
「護衛の連中が追いついてこない」
「……確かにおかしいですね」
 奴らが徒歩ではついてこれない速度で振り切ったのだが、そうなれば車を使って追跡するはずなのだ。そんな事にも気付けないほど俺は、香籐もだがマルとユキに夢中になっていたのだった……正直なところ今マップを確認するまで何処を走っていたのかも分からないくらいに夢中だった。
 それはともかくとして俺達が彼らの予想する移動範囲外に出ていたとしても、半径10km圏内に反応が無いのはおかしい。実際彼らは15㎞以上離れた俺達の家のある友引町(友引市北川区友引町)に展開して……シンボルが敵対/戦闘中を意味する赤に変化している。
「何かが起きているんですか?」
 何かか……俺達に何かがあるとするなら、近隣の不良、それに暴走族。驚く事に我がS県にはリーゼントに特攻服姿の昔ながらの暴走族が普通に生息している。そろそろ国で保護すべきじゃないかと笑い話なるほどだ。
 だが連中が政府がつけた護衛をどうこう出来る訳が無いので除外だ。
 同様に大島関連でヤクザ者が絡んで来たとしても無理だろう。所詮お上には正面切っては逆らえない連中だ。
 ならば可能性は3つしか想像出来ない。
 1つ目は、何らかの大きな事故でも起きた可能性。最近の俺の周囲でのトラブル発生率の高さを考えると十分過ぎるほどにありえてしまう。
 2つ目は、再び転移などの超常現象が起きた可能性だ。これも色々と身に覚えがありすぎて、無いなんて事は絶対に口に出来ない。
 そして最後は、本来俺達に護衛を付けた理由……そう、生還者である俺達の身柄を狙う存在。つまり問題児だらけの日本の隣国達が手を出してきた。
 事故だのオカルトだのよりは、常識的に考えて1番目か3番目なのだが常識的ではない自分とその周囲を考えると胸が苦しく感じる。

『マル。面倒な事が起こりそうなんで、とりあえず眠って貰えるか?』
『……マル頑張るから、タカシの役に立つよ』
 仲間外れにされたと思ったのだろう。マルは悲しげに訴えかけてくる……ズキューン! っと効果音が頭の中で鳴ったよ、鳴り響いたよ。
「主将。胸が痛みます!」
 黙ってろ馬鹿野郎。俺はお前の何倍も心が痛んでるわ!
『……でもユキはどうする?』
『ユキちゃん……寝てるよ。収納!』
 お散歩バッグごと消え去った。
『これで大丈夫!』
 まあ、大丈夫といえば大丈夫なんだが、しかし随分と躊躇いも無くユキを収納したものだ……そうかマル自身よく俺に収納されてるから、収納に対する不安とかは無いのか。
『じゃあ、マルここにおいで』
 そう言って自分の左肩を叩く。するとマルは軽くジャンプして俺の左肩に乗っかると両の前足を背中にかける。そんなマルのお尻を左腕で抱えてがっちりとホールドする。
『これ好き!』
 そう言いながら首の後ろで鼻をクンクンと鳴らしながら、頭を擦りつけるようにしているマルに『行くぞ!』と声をかけてから跳んだ。


『マルは戦ったらだめだよ』
 飛び立った後で気づいてマルには釘を刺しておく。
 はっきり言って、マルがどこまで力の加減を出来るのか分からない。オークを狩る時のように一撃で首と刎ね飛ばす様な状況が脳裏に浮かぶ。
『どうして?』
『マルが強い事は今は秘密にしておきたい。マルが強いって事を他の知られているよりも、誰も知らない方がいざという時にとても役に立ってくれるんだ』
 正直に話さずに、丸め込む方針をとる。マルは普段は素直だが一転、ユキに関する事ではそうであるように頑固な部分も多分に持っているので『大丈夫! ちゃんと手加減できるよ』という話の流れになると、むきになる可能性は捨てがたい。
『……? マルが強い事を知っていれば、マルに喧嘩を仕掛けてこないよ』
 確かに犬の世界ではそうです正論です。
『悪い人は、マルが強いって知っていたら、マルが力を発揮出来ないような方法を考えるんだよ』
『どんなの?』
『例えば、マルが眠ってる時にそっとお母さんを攫ったり』
『!』
『マルが散歩している間に、お父さんに怪我を負わせたり』
『大変! どうしよう? お母さん。お父さんが危ない! タカシどうしたらいいの?』
『いや、今のは例えだから、もしかしたらそんな事が起こるかもしれないって事だよ』
『お母さん、お父さん大丈夫?』
 まだ心配そうで、尻尾が垂れ下がってしまっている。
『大丈夫だよ。だからマルが強いって知らない悪い人は、マルを警戒しないからマルの目の前で悪い事をする。それならマルは?』
『悪い人をやっつけるよ! お母さん、お父さんを守るよ! ……分った! だからマルが強くなった事は内緒なんだね?』
『そうだよ』
『タカシ頭良い!』
 尻尾をブンブンと振っている。
 丸め込めた安堵と、嘘を吐いた罪悪感……騙される身が辛いかね? 騙す身が辛いかね?

 全力で飛ばすと十数㎞の距離などまさにあっという間というのは言い過ぎだが、1分もかかっていない。
『主将。前方のあれは?』
 香籐が注意を促してくる。多分指で指し示しているんだろうなとは思うが、残念な事に【迷彩】を使用している香籐の姿は俺にも目を凝らしても薄っすらと輪郭の辺り微妙に見えたり見えなかったりする程度だ。それでも一緒に並んで飛べるのはマップ機能で互いの位置を確認しているからだ。
 それでも前方を目を凝らしてみると空に張り付いた小さな黒いシミの様なものを発見した。
 前方3km先の100m程の高さに飛行物体が見える。それほど大きくは無いためにはっきりとは確認出来ない。
 これは視力の問題ではなく、朝の澄んだ空気とはいえ3kmも先にある1mにも満たない小さな物体は、気圧や気温による空気の歪み、そして空気の水蒸気によってぼやけて見えるので仕方が無い。
『あれはドローンだね』
 突然紫村が割り込んできた。
『ドローン?』
 頭の中でテレビでやってた昭和ギャグ「では、この辺でドロンさせていただきます」を想像する。
『カメラ付きのラジコンヘリと思ってくれれば良いよ』
 貴様、俺の心を覗いたな! と思ったが言うと悲しくなるのでやめた。
『ああ、SFなんかに出てくる監視用ロボットとかもドローンとか言ってたな』
『主将ヘリが』
 青地に赤い縦線が1本入ったヘリ。機体本体の後方にS県警と書かれているので疑い様もなく警察の航空隊の機体だ。やはり大きな問題が発生していると言う事なのだろう。
 何かが起きているなら、ヘリが飛んでいる下だと当りをつけると高度を下げながら飛ぶ。

 するとドローンが警察のヘリへと接近していくのが見えた……撮影? 意味が分からんよ。
 一方ヘリは接近するドローンに外部スピーカーで警告を行いながら退避行動で高度を上げようとするが、ドローンは警告を無視すると速度を上げて接近していく。
 そしてドローンがヘリに接触すると同時に爆発が起こった。
「ちょっと何やってんの!」
 監視用でカメラがついてるだけじゃないのかよ?
『爆弾付とは僕も想像していなかったよ』
 爆発に巻き込まれたヘリは後部のテールローターが壊れたようで、メインローターの回転に対して発生する逆回転のトルクを抑える力がなくなり、次第に機体は回転を速めながら降下を始める。

『行ってくる!』
 そう口にすると、マルには申し訳ないが【昏倒】で眠らせると収納し、香籐の返事を待たずに最大加速で落ちていくヘリへと向かう……俺の町で住宅へのヘリ墜落など許せない。
 最高加速を絞り出すことで気流制御が追い付かず、身体が周囲を覆う風防魔法の膜ごと激しく上下左右にブレるが構わず無理矢理接近し、急制動を掛けて機体尾部に取り付くとテールローターの代わりに回転を抑え込む。
 しかし簡単には回転は止まらない。車に比べれば遥かに軽い素材を使って造られているとはいえ、全長10mを軽く超える巨体だけに2tはあるだろう。それが勢いよく回転するエネルギーは大きく。気流などの制御で最高速度こそは上がったが推力自体は自分とマルの体重を合わせても100kgに満たない質量を5G程度で加速する浮遊/飛行魔法では短時間に回転を止めるのは無理だった。
 推力が高すぎると姿勢制御不能になる事から、幾つか前のバージョンから推力に上限をつけたのが災いした。
「くそっ! このままじゃ……」
 次の瞬間、機体の回転する力が弱まる。
 パイロットがメインローターの回転速度を下げる事で機体の回転を抑えたのだ。
 その狙いはすぐに分かった。ヘリは緩やかな螺旋を描きながら少しずつ東側にある空地へと移動している。つまりある程度の操縦性を回復させるためにメインローターの回転を抑えた……だがそれでは落下速度は上昇し、パイロットを含め乗員が助かる可能性はより少なくなる。
「ちっ!」
 ニュースなんかで、飛行機が住宅地に墜落して民家にいた住人が死亡なんてのを聞くと「他人の家に落ちるな、勝手に川にでも落ちて死ね」と思う。それが人として最低限の責任感だと思うが、こうして自分の命を懸けて住宅への墜落を避けようとする奴を前にすると、それが当たり前の事ではなく人として尊い行いに思えてならない。
 何とかして……一線を越えてでも助けたいと思ってしまう自分に舌打ちする。どうしてこうも情に流されるんだろう? クールではいられないんだろう?
『主将! 迷うくらいなら助けましょう!』
 地上まで3mを切った状況で香籐の声に押されて俺は行動に出る決意を固めた。
 方法はシステムメニューを開いて時間停止状態を作り出し、ヘリコプターを……ヘリコプターだけを収納するのだ。
 ある程度の思考能力を有した状態の生き物、つまりパイロットや乗員を排せば問題なく収納可能だ。そして取り出せばヘリの持つ運動エネルギーは0になるので命だけは助ける事は出来る。
 問題は、一度収納したヘリを完全に同じ位置に取り出すことが出来るかだ。
 取り出された物体は自分と重なる物体を一瞬で押しのけるように現れるので、皮膚の様に柔軟性のある組織はともかく、爪なら割れるだろうし、筋肉は断裂し骨は折れるだろう。
 そして操縦桿の位置が2㎝もずれたなら操縦桿を強く握るパイロットの指は千切れ飛んでしまうだろう。
 誤差が5㎜程度までなら皮膚や脂肪、着用している衣服、グローブなどで吸収出来るだろう。1㎝以内なら指の骨折程度で済むだろう。
 だが1㎝の範囲で10mは優に超える大物の出現位置を正確にイメージ出来るかはやった事が無いので分からない。救いはレベルアップのおかげで完全記憶に等しい膨大な情報量の出し入れ自在な自分のお頭(おつむ)だが、見える範囲だけの情報でヘリの全貌を推測し完全にイメージし、その向きや傾きまで全て正確に頭に入れるのは……やれる! …………ような気がする程度だ。

「ええい、儘(まま)よ! 収納!」
 静止時間状態で好きなだけ悩むことは出来るが、いくら悩んでも確信が生まれれる訳もない以上は結局は成り行き任せしかない。
「やっちゃったよ!」
 実行と同時に後悔の念に駆られる。
 だが後悔している場合ではない。時間が止まった世界の中で空中に空気椅子の格好で浮かぶパイロットと乗員2人。実にシュールなオブジェだがそれを楽しむ時間もない。コンピューターのデジタルデータじゃない。レベルアップでどんなに強化されても元が俺のお頭なので、僅かといえども情報の時間劣化が生じるからだ。

「こんなん出ました!」
 気合の入った叫びと共にヘリを【所持アイテム】内から取り出す……俺の頭の中のイメージと正確に一致する位置に出せたとは思う。
 ただし確証はない。確認するためには時間停止を解除して、マップ内のパイロット達のシンボルが痛みなどによる変化するのを注視する事が必要だが、それは不可能だった……何故なら、出現したヘリコプターの運動エネルギーはゼロだがパイロット達自体はかなりの速度で落下している状況なので、時間停止を解除した途端に彼らはヘリのシートに叩きつけられる事となり、重傷を負う事は免れないので確認する意味はない。
 それでも地面に叩きつけられるよりはましだ。力の逃げ様の無い地面よりは空中に浮く2t強の物体の方が力の逃げる余地がある。

 時間停止解除を行った瞬間、地上2mの位置で辛うじて機体の水平を保ちながら墜落していたヘリは、傍から見ていると突如として強い衝撃を受けたかのように前方に傾く……その前に一瞬機体が止まったかのように見えただろうが、それは気のせいだ!
 ここで再び時間停止状態にして、光属性レベルⅥの【遠隔傷癒】を実行して治療する。全員脊椎、頸椎を骨折していたので、それらの怪我は治療はしていいだろう。
 再び時間停止を解除するとヘリは高さ2mの位置エネルギーにパイロット達の落下エネルギーを加えた分を、機体を前方に傾けた状態で地面にぶちまけた。

 パイロットなどの乗員は打撲や砕けたキャノピーの破片で裂傷。乗員の1人が指を、もう1人はシートベルトで肋骨を骨折していたが治療はしない。せめてその程度の怪我を負って貰わなければ不自然過ぎる……むしろ今の状況でさえ本来は奇跡的と呼ぶべきなのに、無傷なんて状態になったら、俺が適当に手足を折ってやる程度の処置をする必要がある。
 ヘリ自体は修理すれば飛ばせるようにはなりそうな雰囲気があるような無いようなと言ったところで、警察の偉い人が涙目になるのは確かだろうが、それは俺が気にするべき話ではなかった。


『他のドローン5機は僕と香籐君で全て回収したよ!』
『ヘリの墜落に気を取られていたようで、こちらのドローンに注意を向けている者はいなかったので、収納して消える瞬間は目撃されて居ないはずです』
 流石抜け目なし。ヘリ墜落の大惨事を防ぐためとはいえ不自然な形で力を行使してしまった考えなしの俺とは違う。
 良いんだ高城家の教育方針は『拙速でも良い、逞しく育って欲しい』と昔父さんが言ってたんだ……当然、嘘だ。


『どうやら、撤退を始めたようだね』
 不測の事態により上空の目を失った事で作戦の遂行を諦めたのだろうが、それより気になったのは──
『被害はどうなっている?』
 自分で絞り込みを掛ける手間すらもどかしく紫村に尋ねる。
『犠牲者は無しとはいかなかったようだね』
『どれくらいだ?』
『僕達の護衛に来てた警察官達の内5人が撃たれて、3人が重傷、2人が重態だね』
『空手部の部員、その家族、そして一般人の怪我人や犠牲者は?』
『死傷者は警察と襲撃者だけだね。この時間帯だった事と日本の警察が有能だったお陰だよ。他には襲撃側の奴らが5人死亡。これは負傷して動けなくなった見方を口封じに始末したみたいだ』
『そうか……櫛木田! 田村! 伴尾! 一匹たりとも逃がすな、この町で誰に喧嘩を売ったのか思い知らせてやれ!』
 この抑えきれない怒り、それはまるでシマを荒らされたヤクザのようであり、実行犯の下っ端風情からけじめを取って終わらせてやる気などない。今回の絵図を描いた本人からきっちりとけじめを取るまで治まる事は無いだろう。
『殺る(やる)のか? ……よし、殺ろう』
『これで俺も童貞卒業か』
『大島はいつ、この一線を越えたんだろう?』
 動揺する様子もなくあっさりと覚悟を決めてしまう。普通の人間とは神経が違うというか人間として何か大事な部分が壊れてしまっているのだろう……最大の理由は、平衡世界への転移事件だ。お化け水晶球との戦いによって、紫村……はちょっとわからないけど、香籐が変わったように3人も変わった。そして他の部員達にも大きな影響を与えたのは間違いない。

 ちなみに伴尾は大島が殺人を犯している事を前提にしているが、俺がそれを確信したのは空手部のお試し入部期間を終えた翌日の事だ。
 思えば、田村なんてお試し入部期間の初日に「あれは人殺しの目だ」と断言していた。
 つまり我々は、平衡世界への転移事件よりももっと前に、人間は人間を殺すものだというあきらめにも似た認識を心には刷り込まれている。人間が人間を殺す生き物ならば自分や大事なものを守るためには、何時か何処かで命のやり取りをしなければならない時が来る。そんな確信を持たずに人間はここまで強くなる筈が無い……もっとも、その命をやり取りする対象は大島たったんだけど。

『いや殺らなくても良い。捕まえて取り調べする必要があるだろう……警察には』
 犠牲者を払って戦ったのだから、それくらいの配慮は当然だ。
『生きて口が利けるならそれで良い。それ以上の手加減は全く期待しない』
 可能な限り、後悔と言葉の意味を身体に刻んでやって貰いたい。
『それから目立たなくやるのは当然だが、無理に隠す必要はない。むしろ自分達がやったという痕跡は残せ、そしてどうやったかは警察だけじゃなく敵に対しても徹底的に隠せ。後で聞かれても適当にはぐらかしておけ』
『良いのか?』
『どうせ疑われるんだ。俺達がやったというのを隠しても無駄だろ。むしろ徹底的に隠蔽したとしたら、どうやって隠蔽したのか方が重要視され追及される。だから普通に奇襲をかけて倒したのだろうと解釈出来る余地を残してやれ』
 背後から不意を突いて襲い掛かるという理想的な条件なら、空手部で2年もレベルアップの恩恵がなくとも護衛のSP達を一呼吸の間に5人くらいは倒す。
 勿論大島の様に、こちらを心技体共に隔絶しているのなら逆立ちしても無理だが、大島の半分程度……3、いやご、5分の1程度なら大丈夫……だよな。

 レベル1の頃の俺が訓練を受けた職業軍人5人相手に奇襲をかけるとするならば、タイミングを計ってやり過ごしてから、走る連中の前方10mほどの位置に落ちるように小石を高く放物線を描くように投げる。
 ほとんど上から落ちてくる小石が、後ろから投げられたのか前からは投げられたのかは一瞬では判断は出来るものではない。判断は石が手前に転がるか奥へと転がるかが基準になる。
 その為に強くバックスピンを掛けて投げる。地面に落ちた瞬間に僅かでも手前に転がれば相手は足を止めて前方へと注意を向けるので、その一瞬の隙をついて攻撃を仕掛ける。
 注意すべきは投げる石の形状だ。風を切ってしまいそうな凹凸や平たい形状の場合は強いバックスピンで音が鳴り全てが台無しになってしまうので意志を用意する場合は形状に気を付ける。

 最初の1人に対しては、完全に背後から襲い掛かり、最小限の打撃力で10秒程度の相手の戦闘力を奪う事が出来、正確な狙いが必要ない攻撃、つまり股間への打撃が最適だろう。
 何せ下から腕なり脚なりを振り上げれば、特に狙いをつけなくても相手の内腿がガイドとなって必ず股間の急所へと導いてくれるという親切設計……人体って不思議だね。
 喰らった瞬間目の前が真っ白になり、身体を動かす事だけではなく、何かを考える事すら出来ぬままに数秒は経過し、立ち上がれるようになるまでには最低でも10秒は必要な打撃……思い出すだけで俺の可愛い可愛いタマタマがキュッとする。俺なら立ち直るのに10秒どころか1分間は欲しい。

 不意を突いての奇襲は最初の3秒間が勝負だ。訓練されている人間なら3秒間あれば頭の切り替えが出来る。
 なので自分が圧倒的に優位にあると信じてノリと勢いだけで倒し切るのが大事であり、少しでも「アカン!」と感じたなら全力で逃走を図るべき……だそうだ。
 そう教えを授けたのは大島だが、奴が敵に背を向けて逃げるという状況は容易に想像出来ない。しかし大島が奇襲という手段を選択する段階で相手が相当ヤバイって事は察しが付く、謎の海外渡航期間に奴は本当に何をしていたのだろう?

 背後から身を低くして襲い掛かり、同時に2人の股間の急所を、腕をすくい上げるようにして打ち戦闘不能に陥れ、更にそのまま2人を前にいる敵へと突き飛ばしながら、追いかけるように前に出て距離を詰める。
 敵は物音に振り返るだろう。だが武器を持っている人間は意外なほど自分が持っている武器への攻撃に対して備える意識を持たないので狙い目だ。
 武器が刃物で右手に持っているなら、右回転で振り返る敵──右手に武器を持っていて、反射的に左回転で振り返る奴はいない──に対して接近すると、自分の左手を刃物を持つ相手の右手の甲に重ねて、小指と薬指を相手の手首の内側に回し、そこを支点として被せるようにして手首を内側に曲げてやる。
 人間の関節は基本的に内側に曲げる力が強い分、咄嗟に外部からの力によって内側に関節を曲げられる事に抵抗するのは難しいので、タイミングさえ間違わなければ、女の細腕でも屈強な男の手首を捻る事は可能だ。
 後は刃物の切っ先が相手の身体に向いた状態で、空いている右手でグリップエンドを押し出してやると刃先は相手の左肩の関節の内側辺りに突き刺さる。余程関節が柔らかくない限り、そうなる様に人間の身体は出来ている。

 相手が持っている武器が拳銃ならもう少し簡単で、先ほど同様に相手が拳銃を持っているのが右手なら、左手を相手の右手の甲に重ねて、手首を折り曲げてやりながら親指を相手の人差し指に重ねて押してやると、撃鉄を引いてある状態なら銃弾を発射する。
 刃物と違って拳銃の場合は、銃口を身体に押し付けておけば良いのであまり深く考える必要はないが、3回に1回位は心臓を打ち抜いてしまうそうだ……これは人差し指も柄を握り込む刃物に対して、人差し指はグリップを握り込まずにトリガーガード内に差し入れてる状態の拳銃との違いで、人差し指を握り込んでいない分、手首が内側に曲がり易いためだ。
 そして何より注意するべきは自分の人差し指は相手の親指の第二関節の下を握り込んでおかないと発射時に後退する遊底のエッジで指が削られるから注意する必要があるそうだ……あの男は中学生に何を教えているんだろう? 大体相手の心臓を打ち抜いて死なせない方を普通は注意するだろ。

 5人中3人を一時的に戦闘不能に陥れた後は、流動的に対処する必要がある。この段階で、最初の2人の股間への攻撃を加えてからすでに1秒は経過しているので、残りは1人1秒のペースとなる。
 問題は想像される位置取りが3人目を挟んだ先に残りの2人が居るという状況になっているだろうという事だ。
 ここは自分が回り込むよりも、障害となる3人目を移動させるべきだろう。つまり3人目を残りの内、より近い位置にいる方へと突き飛ばすが正解だ。
 1対複数の場合、複数側の人間は自分よりも相手に近い位置に味方が居ると、良くも悪くも心に余裕を持ってしまう。
 そこで、こちらで順番を変更してやる事で短期決戦には何よりもありがたい相手の動揺を作り出す事が出来る。
 隙を突いて4人目との距離を詰めるが状況次第では、こちらの間合いに入る前に相手が動揺から立ち直る可能性がある。
 その為には飛び道具を用意しておく必要がある。一握りの砂でも良いし小石でも十分だ。それらを闘うと決めた段階で用意するのが俺にとっては常識だ。
 きっと櫛木田達は最悪な道具を用意しているだろう。何せ、大島の例の仕掛けの事を「まさにドラゴンブレス」「その手があったのかと思った」などと感心していたから必ず用意しているだろう……だが大島の真似をしては大島を出し抜くことは出来ないという事は奴らの頭にはないだろう。

 俺なら、最初に投げる小石を拾う時に他にも2、3個は見繕ってポケットにでも忍ばせておく。それを手首のスナップだけで相手の顔目掛けて投げつける。
 人間は自分の顔に向かって飛んでくる物は良く見える。そして良く見えるからこそ、目にでも当たらなけばどうって事の無い小石に対処してしまう。
 そして受ける躱すなどの行動をとろうとして、肝心な敵自体から目を切るというミスを犯す。
 俺にとっては一瞬の隙があれば十分だ。後は眼球、股間に次ぐ俺が受けたくない攻撃ベスト3。先ほど香籐に食らわせた肝臓への打撃が良いだろう。
 レバーブロウのダメージは股間への一撃と同様に内臓器官自体から発せられる痛みではなく内臓器官を包む腹膜が由来の痛みだが、何故か同じ腹膜でも痛みの質が違う。
 股間への何も考えられない痛みじゃなく、何というか痛くて何もしたくないと思う痛み……この痛みが引くまで大人しく地面に蹲っていようと冷静に頭が判断してしまう。そんな痛みだ。

 残り1人、ここまでくると相手の状況、行動は共に読めはずが無い。同じ条件でのリアクションの多彩さが高度な知能を持つ人間の特色だ。だがしかし、相手が準備万端で構えていない事だけは確かなので、十分主導権は握る事は出来るはずだ。
 主導権を握った状況とはいえ一撃で勝負を決められるかどうか? 愚問だ。それが出来ない化け物クラスの実力者相手なら、もっと早い段階で全力で逃走に移っている。
 そこまで実力差が無いなら、既に4人を倒して良い感じに脳も身体も全力運転状態になってるこちらに対して、相手は、あっという間に仲間を倒され状況が良く分かっていない状況だ。強気で行けば必ず相手を呑めるし相手もこちらに呑まれる。ただ相手を呑んでかかるだけでは負けフラグだが、相手が呑まれてくれるなら必ず勝つ、それが闘争の本質だ。



『紫村。敵は正確に何人いる?』
『28人だね』
『死んだのを含めると33人、1個小隊……いや特殊部隊なら2個小隊ってところか? とにかく紫村は上空で俺達に指示を出してくれ』
 特殊部隊2個小隊なんて豪華な編成は無いだろうとは思うが……俺の身柄を確保する意味に奴等が気づいていない限り。
 だが気付いているとするなら本気でヤバイ気がするな。
『了解。早速だけど高城君から見て北東の方向で組織だって撤退をしている9人の集団がいるよ。他は彼らの撤退を助けるように強く抵抗して警察の目を惹きつけている事から、間違いなくどうしても逃がさなければならないスタッフが集団の中にいるようだよ』
『どうしても逃がさなければならないだって? そんな奴を態々こんな現場に連れてくるなんておかしいだろ……それって誰かを拉致したんじゃないのか?』
『ああ、なるほど……じゃあ高城君頼んだよ』
『任せろ!』
 そう答えて上空から接近していくと……おかしい。
 スーツ姿──それぞれ違う色や柄のスーツだが、似たような鍛え上げられた身体付き──の集団の中心にいるのは、1人だけ休日の繁華街に幾らでも良そうな格好をし、ひょろりとして身長だけは高い男。そのニキビ面から10代半ばの少年に見えるが、別に拘束されている様子はなく自分の足で歩いてるので拉致されているように思えない。

『紫村。拉致されてるようには見えないのがいるぞ!』
『だろうね』
 おい、その態度は何だ?
『だろうねって、お前も俺の意見になるほどって言っただろ』
『なるほどそういう可能性も否定出来ないよね。略してなるほどだよ』
『略すな!』
『だって僕が間違いないと太鼓判を押したのに無視するから……』
『どういう効果を狙ったかは知らないが、拗ねても全く可愛くないぞ』
『冗談だよ……黄砂と共にやってきた迷惑な一党独裁政党の私兵共の中で、同じ拳銃程度の装備でSPと互角以上に戦えるとしたら特殊部隊の類でしょう。そして貴重な特殊部隊を二個小隊も日本まで送り込んで大事にするのなら、システムメニューに気づいてる可能性が濃厚だから、そうなれば向こうも対抗策としてシステムメニューを使えるスタッフを用意するはずじゃないかな?』
『そ、そうだね……』
 俺達以外にレベル60に達している奴はいないだろうが、例えレベル1でも厄介な能力が紫村達とは違うオリジナルのシステムメニュー所持者には備わっている。
 それは【セーブ&ロード】だ。

 俺以外に【セーブ&ロード】を使用可能なオリジナルシステムメニュー保持者が複数いるはずなのに、今まで一度も俺以外による巻き戻し現象を体験というか認識出来ていない。勿論、俺以外の誰もロードを実行したことが無いなんて事は無いだろう。つまり自分以外のオリジナルシステムメニュー保持者のロードにより時間を巻き戻された事は、オリジナルシステムメニュー保持者にも認識出来ないという事であり、それは自分で実行した巻き戻しとは違い、記憶情報すら保持出来ないという訳だ。

 つまり自分よりも古いセーブポイントを持った相手と闘う場合、どんなに俺が相手よりも強くても自分では気付く事すら出来ない永遠のループに引き込まれる可能性がある訳だ。
 そうなった場合、相手のセーブポイントの方が古いので、途中で何かの拍子に俺がロードを実行して状況を変えたとしても、最終的に相手にロードを実行されると元の木阿弥になる。
 こちらはループしている事に気づけないのに、相手は何度でも同じ時間の中でこちらの行動を観察し対応手段を探し出して、最終にこちらを出し抜く事が出来る……勿論、無限の選択肢の中に俺に対抗する手段が存在したらの話であり、相手がロードを実行する前に殺すか意識を刈り取れば良いので、絶対に勝てない訳では無い。だが非常に厄介なのは確かだ。

 マップ機能でシステムメニュー保持者で検索を掛けると眼下の少年を示すシンボルにチェックマークが出た。
 【迷彩】で姿を消しているとはいえ、100m以上離れた俺の存在を認識出来ないのは、レベル60でのマップ機能の拡張が行われていないためだろう。
 面倒だからここで始末してしまうか? そんな思いが頭の中を過る。仕掛けてきたのは奴であり、奴が俺や俺の周囲の人間にとって害悪になる以上手加減の必要はない。
 それでも躊躇うのは、人類愛とかそんな気取ったお題目ではない。単に自分が一線を越える事への躊躇だ。
 本来なら、無理に殺す価値もないので一瞬で気絶させて収納して、その存在を記憶の底に沈めて2度と思い出さないというのが一番だろう。
 だが今なら殺しても生き返らせる方法がある。どうせずっと収納しっ放しになるならば、気絶した状態であろうと死体であろうと何ら変わりはない。
 むしろ何らかの理由で俺が死ぬ事で解放されてしまう可能性があるので、【反魂】により蘇生させるという手順を踏まない限り完全に無力化されているという方が望ましい。
『うん、殺そう!』
 そう呟いた時には、夢世界の市場で買った梅に同じくらいの大きさに硬い食感。そして桃に似た香りを放つ甘い果実が、音速の3倍の速度で奴の頭蓋骨の額をぶち抜いて、中で脳と甘い果肉が混ざり合っていた。

 脳を破壊されてロード実行をシステムメニューに指示する事も出来ずに崩れ落ちる。
 急降下しながら、まだ何も状況を飲み込めていない他の8人を【昏倒】で気絶させて収納する。そして着地と同時にオリジナルシステムメニュー保持者を収納しようと手を伸ばした──
 直後、奴の死亡をシステムメニューが確認したのだろう。【所持アイテム】内に収納していた物品が幅6m弱の路地15mほどを埋め尽くすように溢れ出したので、慌ててシステムメニューを開いて時間停止状態にすると遺品を次々と収納した。
 時間停止までのタイムラグは数百分の1秒程度に抑えたので、人間の目どころか、ハイスピードカメラでも無い限りは普通のビデオカメラでは撮影さえ不可能だろう。
 それにしても俺も死んだらこんな風に……いや、違うな俺が収納している量を考えると、周囲100mくらいは俺がぶちまけた物に飲み込まれるだろう。しかもその大半が生ものだ……想像したくない。

『レベルが1上がりました。レベルアップ前の余剰経験値はそのまま繰り越します』

 いきなりのレベルアップのアナウンスで俺はレベル178になった。
 余剰経験値の繰り越しという言葉に、システムメニューで経験値をチェックしてみると、レベル177になるために必要な経験値分を超えていた分がそのままレベル178になるために必要分の経験値に上乗せされていた。

『今レベルアップした?』
 他のメンツに【伝心】で尋ねる。今の状況なら他の奴らにも経験値が分配されている筈だが、答えは『何の事だ?』『別に殺してないしレベルアップするはずないだろ』『というかお前殺したのか? 殺したんだな!』と突っ込まれた。
『オリジナルシステムメニュー保持者だ。面倒だから殺して収納した。なんなら後で【反魂】を使えば良いだろ』
『流石高城。命を弄ぶ悪魔め!』
 事実だけに胸に鋭く突き刺さった。

 レベル表示の右斜め上に星のマークがついている。所謂撃墜マークなのか?
 自分以外のシステムメニュー所持者。多分、オリジナルのシステムメニュー所持者を倒したという証……つまり、システムメニューは他のシステムメニュー保持者を狩る事を推奨している可能性が高いって事だ。
 これは認識を改める必要がある。システムメニューは俺達にデスゲームを仕掛けているという事になる。
 その目的は……間違いなくたった1人の絶対的強者を生み出す為だろう。夢世界で戦いレベルアップを果たした者だけがアドバンテージを得るゲームだ。
 夢世界での戦闘では頭打ちになったレベルを、システムメニュー保持者同士の星の奪い合いでより高みへと引き上げる訳だ。
 多分、いや間違いなくこのゲームの現在のトッププレイヤーは俺だろう。しかし全く安心する気にはなれない。システムメニューは何者かに作られた物だ。製作者の意図が必ずある。そしてそいつの性格は『いい性格している』という言葉がぴったりだと確信している。
 そんな奴が、後半になってダレるような展開にゲームをデザインするはずが無い。俺なら絶対そうしない……い、いや、俺の性格には何の問題も無いよ。
 と、とにかくだ。終盤で一つ二つどんでん返しを入れてくるのは間違いないと断言出来る。このカシオミニを賭けてもいい。
 しかもそれだけではないだろう。たった1人の絶対的強者を生み出すのは手段であって、そいつに何かをやらせるのが真の目的なはずだ。
 馬鹿な奴だ。それなら俺などにシステムメニューを与えるよりも大島に与えておけば良かったのだ。奴がこのゲームに最初から参加していたなら、今頃はレベルは4桁に達してゲームをクリアし、次なるステージを攻略している事だろう。
 そして地球も、夢世界も、そして平衡世界も全て大島の手によって滅んでいるだろう……うん、何者かは知らないがナイス判断。俺に任せて大正解。


 溢れ出した物品の中で一際目立つのはヘリコプターとボートだ。
 正規ルートで入国したが、日本で騒動を起こしたら正規ルートは使えないので、帰りの足とするつもりなのだろう。
 他には銃器の入った木箱、堂々と他国に輸出しているライセンスを結んでない中国製のクローン銃ではなく欧米の銃器メーカーの純正品だった。まあ当然だろう、クローン銃を使えば言い逃れしようも無く中国の関与が決定的になってしまう。
 日本から遺憾の意を表明されても中共どもは歯牙にもかけないだろうが、国際社会から非難されると途端に火病を起こすので現場レベルで配慮したのだろう。
 それから大量の弾薬と爆薬類などの装備品。そして食料など。他には活動資金なのだろう円で1500万とドルで10万の現金。
 そして……「それにしてもとんだおき土産だな糞野郎が!」
 数十体の人間の遺体があった。
 よく考えれば、自分の手を下さないだけで修行と称して紫村や香籐、櫛木田達を何度も何度も死ぬ目に遭わせていたのだから、こいつ如きを殺す事に対して躊躇いを感じたのは幾らなんでも紫村達に失礼過ぎだ。
 更に胸糞が悪いのは【所持アイテム】内のリストでシステムメニュー持ちを表示すると【危険物が内蔵されています】という警告が出た。チェックすると体内に爆弾が仕掛けられている事が分かった。
 しかも心臓の鼓動を一定時間確認出来ない状況になると自動的に爆発するという糞っ垂れ仕様。本当にどいつもこいつも糞ばかりだ。

 【所持アイテム】内に収納した物をリスト表示すると、遺体の中に4人の日本人がいる事が確認出来た。
 レベル140での【所持アイテム】機能の強化で、収納アイテムリストの説明がより詳細になっているおかげで死者の名前から死亡日時までも分かる。
 日本人は、全てこの数日中に殺されており日本への潜入時に目撃者などを始末し、死体を隠すために収納したのだろうか?
 いや北朝鮮の工作員のようにボートで日本海側に潜入しなくても、普通の旅行客としいて入国すればいいだから、大きなへまをやらかさない限りは目撃者を始末するなんて状況にはならないだろう。だとすると答えは一つ、遺体が全て女性であるという事はそういう事なのだろう。
 奴は死体のままで【所持アイテム】内で塩漬けに決定だ。
 だがとても頭の痛い問題が残った。それは奴がまき散らした物の中に、失神した状態のオリジナルシステムメニュー所持者がいたという事だ。
 本当にどうしよう? 分からないので保留にして、とりあえずは忘れよう……


『こちらは終わったぞ』
 櫛木田から連絡が入る。続いて田村、伴尾から完了の連絡が入る。
『主将。僕の担当ですが既に北条のご老人に倒されてました』
 あの爺なら間違いなくやるだろう。
『うん……そういう事もあるよね。それで連中は真っ二つか?』
 横や縦、もしくは斜めに2つにされた肉の塊がゴロゴロと転がっている惨状が頭に過る。
『いえ、生きてます』
『じゃあ、手足がバラバラとか?』
『両肘、両膝を砕かれてますが繋がってます』
『……やるな。想像以上に使えてびっくり!』
 あの中学生にすら真剣を振るうような、やっとう(剣道・剣術の意)キチガイだから獲物を前にして斬らずにはいられないと思ったのに、住宅地を血の海に変えないだけの自制心という名の安全装置を搭載していたという事実に驚きだ……もしかしてマイナーチェンジした新型?
『あのご老人。【迷彩】で姿を隠して身を潜めていた僕に気づきましたよ』
『老いたりといえども大島と同じカテゴリーの生き物だ。出来ても不思議はない』
 霊長類ヒト科というより『霊長類、人か?』に属する危険種。その程度の事が出来ずに人類の天敵を名乗る事は出来ない……
『それで爺は、連中を倒した後どうした?』
『銃やナイフなどの武器と財布を回収して立ち去りました』
『追剥だろ!』
『実に自然に手慣れた様子でした』
 ……本当に恐ろしい爺だ。奴の頭の中は戦後の色々どさくさ時代のままか?
『ま、まあ良い。櫛木田と田村と伴尾は武器の類はどれでもいいからスーツを脱がして、それに包んで電柱にでも吊るしておけ。財布は中身を抜いてごっつあんして良いぞ。それから俺が回収した分の1500万円と10万ドルは山分けにする』
『1500万?』
『た、高城、ドルは当然米ドルなんだよな?』
『一人頭250万円と16,666ドル!』
 額を聞いてはしゃぐが、大学生くらいになっているなら中古で車を買おうとか、海外旅行にでも行こうかとか、趣味にガッツリ突っ込んでみよういう考えも出てくるのだろうが、中学生の俺には額がデカすぎて使い道が思い浮かばない。
 特に趣味の薄い俺達には猫に今晩は状態だろう。、唯一、紫村が「これっぽっちじゃ何も出来ないよ」と嘆くくらいのはずだ。

『高城君。櫛木田君達に渡すと出所不明の大金の使い道が問題になりそうだから止めておいた方が良いよ。それより我々の活動資金としてプールするか……』
『プールする……か?』
『僕に預けててくれるなら多少は増やしておけると思うよ』
『良し預けた!』
 紫村以外が言うのなら「この詐欺師め!」と一発ぶん殴って警察に突き出すところだが、紫村なら大丈夫だろう。俺は紫村にならケツ以外なら命さえ預けても構わないくらいに全幅の信頼を寄せている。
『えええええっ!』
 だが3人は動揺した声を上げる。
『うるさい。連中の財布から抜き取った金で我慢しろ』
『横暴だ!』
『金よこせ!』
『今年の夏は遊ぶんだ!』
 『ああっ? 今年は3年の夏だぞ』
 最後の伴尾のふざけた発言に全員から突っ込みが入る。
『今更、真面目に受験勉強をしろって言うのか? 馬鹿らしいだろ』
『先輩。我々はチートです。ある意味ズルをしているんです。せめて周囲に対して努力をしている姿勢くらいは見せましょう』
『加藤の言う通りだ。他の連中の手前それくらいの配慮はしろ。受験でも満点を取れる自信があるからとこれ見よがしに遊びまくるのは、流石にどうかと思わないか?』
『だけどなぁ~』
『想像じてみろ。お前だけがレベルアップが出来なくて、俺達が遊びまくって適当に受けた試験で満点を取る様子を』
『……俺って最低だな』
 そう認めた伴尾に対して『そうだお前は本当に最低な奴だ!』『この最低な蛆虫め!』などと、ここぞとばかりに櫛木田と田村の吊し上げが始まる……仲が良いなお前ら。

『おい、こいつらの財布の中凄いぞ!』
『全部で53諭吉と35ベンジャミン(1ベンジャミン=100ドル)だぞ!』
『1万、3万、5万、10万……一杯?』
 ……結局、彼らは財布から奪った金もそれぞれが10万円ほどを自分の財布に移して、他は紫村に預ける事になった。
 やはり、悲しい事に10万円を超える現金を手にして怯んでしまったのだ。
 最後まで金に拘った伴尾でさえ、2月に発売された国民的ゲーム機の第4弾を買おうにも積みゲーが多すぎて「そんなの買ってる場合じゃねぇ!」と言ってしまうくらいだ。
 おしゃれに興味がある訳でなければ、趣味に掛ける金以前に趣味に掛ける時間が殆どない。精々たまにゲームやCD、雑誌を買うか位で、他には月に数回程度の部活帰りにする買い食いくらいで、毎月の小遣いも使い切らないのだから、これでよくも250万円を寄越せとか言えたものだ。

『言い忘れたけど、ドルは円に換えるから最初は目減りするからね』
『やっぱりドルの交換は難しいか?』
 50ドル以上の高額紙幣は普通に偽札だと疑われ、100ドル以上の現金を持ち歩く者は薬の売人と疑われる国の金の金だから。
『まあ、中国人を通すと円にするのは難しくないけど、監視付きの今の状況では大っぴらには出来ないからね』
 確かに自国通貨よりドルの方が圧倒的に信用のある国は多い。しかし監視付きじゃなければドルを円に換える伝手を持っている中学生が怖い。
『それでも来年の3月中までには最低でも2桁増にはするよ』
 紫村の言葉を疑う奴は誰もいなかった。
 最低でも2桁増の意味するのは普通10%増ではあるが、紫村の場合は最低でも99%程度で、最低でないなら勿論3桁増で、そして狙うはそれ以上という意味だと疑わなかった。
『かなりまとまった資金が出来たから、やりがいがあるなぁ~』
 お願いだからやり過ぎないで欲しい。倍に増えるだけで万々歳なんだから……無駄だと思いつつもそう願わずにはいられなかった。


 その後、俺達は解散し学校へとはいかなかった。
 家には警察が待ち構えていて逮捕……ではなく保護されてしまった。
 確かに俺達護衛対象を狙った外国人武装集団が、警察のヘリを墜落させるは、護衛の警察官が撃たれて重傷を負わされるとなれば護衛体制が距離をおいての警護から対象の身柄確保に移るのは、考えてみれば当然の話だった……だが理解するとの納得するのは別問題だ。

「ところで……今朝の事件だが、重傷を負ったテロリスト達の発見現場の周辺で君達の姿が目撃されたという話があるのだが?」
 護衛達の隊長格の坂本がそう話しを切り出してきた。
 テロリストね……まあ良いか。
「さあ、僕は知りませんね」
 俺と香籐はマルの散歩に行っていて現場には居合わせていないという設定だから、余計な事は一切言わないよ。
 ちなみに俺は玄関前で身柄を確保されてしまったために、マルとユキは母さんに任せた。現在は家でそれそれドッグフードとキャットフードを……マルはおまけでオーク肉も食べて『美味しい美味しい!』と喜んでいる。
 一方、俺はまだ朝食にありつけていない。口の中に直接食べ物を取り出してやろうかと思ったが、いきなり口をもぐもぐと動かし始めたら不審に思われるし、それに俺が食べ始めたら櫛木田達もすぐに気づいて真似して食べ始めるだろう……密室で聴取中に突然4人が牛の反芻の様に口をもぐもぐと動かし始める。そんなシュールな状況に俺の繊細な神経が耐えられそうにない。
「君と香籐君、紫村君の目撃情報は無いけれど、櫛木田君。田村君。そして伴尾君の3人が現場近くで目撃されているんだよ」
 俺は分かってるんだぞと言わんばかりの視線を投げかけてくる。
「櫛木田、どうなんだ?」
 そんなまさかという表情を作り話しかける。
「あの時間はランニングに出てたから、その現場が何処かは知らないけれど、その近くで俺を見たという人がいても不思議じゃないな」
 そう答えながら『くさい演技して……笑わせるな腹筋が、腹筋が……』と【伝心】が来る。表情を取り繕っているが、地味に顔が赤くそして目も充血している。
 坂本は「そんな場所には行ってない」と言って欲しかったのだろう。そして「何故現場が何処だったのか知っている?」と突っ込みを入れるつもりだったのだろうが、櫛木田は華麗にスルーした。
「俺もそんなところだ」
「同じく俺もランニングに出てからな」
 田村と伴尾もそれに乗っかる。

「それでは君達は現場には行っていないと?」
「もしかしたらすれ違ったり、遠くから目撃しているかもしれませんが、ランニング中にテロリストだと疑いを抱くような集団とは会ってません」
「集団? 何故集団だと?」
「貴方が重傷を負ったテロリスト【達】の発見現場と言ったからですよ」
 櫛木田は焦らず冷静に切り返す。
「確かにテロリスト達とは言ったが、各現場で発見されたのは1人かも知らないんじゃないかな?」
「例えそうだとしても、そもそも僕らは発見された現場が何処で、現場が複数かそれとも1か所なのかどうかも分からないから、テロリスト達と言われたら集団を想像しても仕方がないんじゃないですか?」
「しかしだ、2・3人だったとしたら集団とは呼ばないんじゃないかな?」
 もう半分諦めムードを漂わせながらも食い下がる。
「狙いが僕達空手部の部員全員だとするなら2・3人のはずが無いですよね?」
 止めの一撃だった。苦虫を噛み潰したように顔を顰めると安いプラスチックのボールペンの柄の尻で、カツカツと机を突きながら「そうだな」と頷いた。
 これで警察は俺達が工作員達を再起不能状態にしたという確信を持ちつつも、それを追求する足掛かりを失った……ニヤニヤ。

「ともかくだ。君達には暫く我々の保護下に入って貰う事になる」
「それは困る」
 喰い気味にそう告げる俺に、まさか断られるとは思っていなかったという感じに目を剥いて固まった。
「どういう事だ?」
「僕達にも家族がいる。自分達がいない間に家族を狙われたら困るんですよ」
「分かった……残念ながら我々には君達の家族を守れという命令は受けてないし、君達の家族まで守れるほどの人員は無い」
 深く溜息を吐いて肩を落とす。
「随分物分かりが良いですね」
「護衛対象を敵に回して出来る仕事ではないからな」
 話の通じる相手で良かった。
 通じないのなら通じるよう治るまでぶん殴るところだ。
「という訳で学校もあるので帰らせて貰いますよ」
 そう言えば今日が学校で用事があった。
 俺達が全科目満点を取った事が許せなくて許せなくてたまらない馬鹿共を──
「流石に、このまま学校に行かせるのは無理だ。まだ色々聞き取りをして上に報告を上げる必要がある」
「おいおい」
「悪いがこれも我々の仕事だからな」
 これには何も言い返せなかった。護衛である前に警察官だから……お役人だものな。

 午前中には開放するという条件で聞き取りに付き合っていると、北條先生からのメールが届く。
 勿論、キター! なんてぬか喜びは0.2秒も持続しない。件名に『本日の休校について』というただの学校業務上の連絡メールだからだ。
 休校に伴う家庭自習の指示内容と宿題が入った添付ファイル付き。
 学校が休校になっても中学生には自由は無いのだった……何だまたメールか? 北条先生か。
『件名:本日予定の再テストに関して 本文:テスト自体が中止となり高城君達への再テストは必要なしという事になりました。それでは明日も元気に登校してください』
 俺は、俺は北条先生から明日元気に登校する事を期待されているんだ!


 聞き取りが終わり、俺達はそれぞれの家に車で送り返された。
 母さんとマルに色々と質問されながら、俺はずっと周辺マップと広域マップを開きっぱなしにして事件現場の周辺をリアルタイムでチェックしていた。
「来たな……」
『何が来たの?』
「朝の連中の仲間だよ」
 顔を上げて俺を見つめるマルの頭を撫でながらそう答える。
「どうするの?」
「やるべき事が残っているんだ……連中のシステムメニュー持ちの【所持アイテム】内に日本人の死体が幾つもあったから」
「まあ……」
 顔を顰める母さんに、被害者の多くが女性でしかも乱暴された形跡があったとは言えなかった。
「このまま【所持アイテム】に入れっぱなしにも出来ないでしょう?」
「そうね」
「彼らの遺体を早く発見して貰って家族の元に帰れるようにするつもりだよ。単に善意だけじゃなく知らない人間の死体を入れておくのが嫌だというのもあるけどさ」
 冗談交じりに口にするが、正直なところ、それは【所持アイテム】内に気絶した状態で放り込まれている連中と、そしてマップ上で確認出来たその仲間をこの手で殺すという事だ。
 連中のアジトを突きてめて強襲し、【所持アイテム】内の連中共々皆殺しにした上で被害者達の死体をアジト内に置き、入り口を開け放ち、連中の死体をその辺にばら撒き、奪ったクローンMP5Kを乱射してから逃走するのがザックリとした計画だ……何処のどんなアジトなのかも分からないのに事細かな計画など立てるのは不可能。

「隆。この件は私とお父さんに任せなさい」
「はい?」
 任せろと言われても、一体どうする気だ?
「大丈夫。私が完璧な密室トリックを完成させるから」
 ……母さん、貴方が好きなのは密室モノの様な精緻なトリックによる一つの殺人事件にじっくり迫る話ではなく、ドミノ倒しの様な勢いで人が無残に殺されていく上に、異なる犯人による殺人があるために動機などの面から混乱する系な話だろう。
 しかもその混乱が好きというよりも単に連続殺人事件というシチュエーションが好きだというのだから、我母ながら心に抱えた闇が深くて恐ろしい。
「どうする気なの?」
 そう尋ねながらも物凄い残酷な場面が幾つも脳裏を過る。
「隆が心配するような事は何もないから、安心して任せてね」
「あ、あのね?」
「もう心配するような事が無い様にするから」
 やる気だ。徹底的にやる気だ。レベルアップで人間の範疇を超えるような力を手に入れたとはいえ、数日前まで普通の主婦だった筈の母さんが……あの物騒なミステリーを読みながら、普通絶対に笑うところでは無い場面でクスクスと笑う様な母さんだが、完全に殺す気と書いてやる気だ。
「家族に手を出そうとしたんだし、もう戦争よね……」
 いかん! 母さんの中で殺人事件が戦争にまでスケールアップしようとしている。


-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
>『ドローン?』
作中の時間は、まだドローンが話題になっていない2014年5月。

>何とかセーブポイント増えないだろうか?
増えたとしたら、後先考える余裕が無いほど作者が追い込まれたという事。

>やっとう
そういう言葉もあるって事を憶えておいて下さい……多分、使う事も2度と耳にする機会もないだろうがな! (まさに鬼畜)



[39807] 挿話6
Name: TKZ◆504ce643 ID:dd2e1479
Date: 2016/11/10 16:50
「本日は休校となりましたが、彼等の処分は決定という事で構いませんね」
 朝の事件で学校は急遽休校となったが、教員が休みになる事は無く、職員室で今後の対策を会議していたが、最後にこの場を取り仕切る3年の国語科主任の小野が嬉しそうに笑みを浮かべながら集まった周囲の教師達に確認を取る。
「何故そうなるのか理解出来ません。休校となった以上は、彼等に確認のためのテストを受けさせるなら後日というのが筋だと思います? それに最終決定は教頭先生がお決めになるべきです」
 事件に関して確認等で教育委員会に呼び出されている教頭抜きで、話を進める小野の勝手な言い分に数学の北條が怒りを滲ませて抗議する。
「休校かどうかは今回の処分には関係ありません。そもそもテストをするのは我々教師からの温情ですからね」
 小野の言葉に、北條は怒りを鎮めるように、目を瞑り一度大きく深呼吸をしてから目を開くが、その瞳には怒りの炎が宿っていた。
「温情? 一方的に思い込みだけで生徒に疑いを掛けるという教師としてあるまじき振る舞いをして、それを証明する機会を与えて貰うという温情をかけて貰ったのは小野先生の方だと私は認識していますが?」
「何ですって?」
「相手に疑いを掛けた側が、疑惑が事実であることを示す証拠を提示する。これが法の原則です。あなたは何の証拠があって生徒を疑い処分しようとしているんですか?」
 隙の無い正論でグイグイと相手を締め上げていく。理系特有の非情な所業であり、理性が乏しく理屈よりも感情を優先させる人間を暴発させかねない危険な行為である。
「アイツらが満点を取る。それ自体が不正の証拠として十分でしょう?」
 一方、辛うじて怒りを堪える事に成功した小野だが、自分の言ってる事が何の証拠にもならない事が分からないあたり実にお花畑な国語教師に相応しい。

「ああ、口を挟んで申し訳ないのですが、何故生徒が満点を取った事を問題視するんですかね?」
 理科の池永が無表情にすっとぼけた口調で割って入る。
 彼は顔面神経痛を患っていて、顔の半分に軽い麻痺があり、感情を面に出すと左右で表情が変わってしまう以外にも問題があり常に無表情を保つ為に、普通なら鉄仮面などと揶揄されそうなものだが、意外に生徒達かあの人気が高い。
 一方で生徒達はそんな彼を笑わせる事に血道を上げている。
 難攻不落と呼ばれる彼だが数年に1度の割合でギャグを笑いのツボにねじ込まれて「自習」と一言告げて教室を出ていく。
 しかし、その両手で顔を覆って逃げるように立ち去る姿が、先輩にラブレターを渡し、恥ずかしそうに真っ赤になった顔を両手で隠して逃げる昭和のドラマのヒロインの様で、数人の少年少女に「池永萌ぇ~」と言わせたとか言わせなかったとか。
 それはともかくとして、10数分後にいつも通りの無表情で戻って来て「失礼。笑って来た」と告げただけで、何事もなかったかの様に何時もの無表情で再開した授業を淡々と進めるのであった。
 ちなみに、今までは再現のスパンが長すぎて3年間しか学校にいられない生徒達には傾向と対策すら立てられなかったのだが、前年度に1年間に2回も池永を笑わせる事に成功したクラスがあり、奇跡と称賛された一方で「唐突にぶっこまれるナンセンス系のギャグに弱い」という攻略の足掛かりが出来たために、最近はかなり追い込まれているようだった。

「何を言ってるんですか? 満点というのはそう簡単に取らせて良いものでは──」
「それは認識の違いと呼ぶよりは考え方自体が違うと言うべきでしょうね」
「何がですか?」
 独特なスローテンポで話の流れを遮る池永に、苛立ちの表情を隠し切れなくなった小野。
「私は生徒がしっかり授業を聞いて、予習・復習をきちんとすれば満点を取れるように問題を作ってるので、全ての生徒が満点を取れない現実に、自分の指導力の無さを嘆いているくらいでしてね」
 実際の処、理科の点数は他の教科よりも平均点は低いくらいだった。最近の子供の理系離れは憂慮するべきである。
「そんな中でも空手部の部員達は一所懸命と……というよりも必死、いや悲壮といった感じで授業に集中しているので成績は良いですよ。3年の連中もそれぞれが今まで満点を取った事は一度や二度ではないですからね……北条先生、数学もそうですよね?」
「はい。数学に関しては授業態度、テストの成績共に文句の付けどころは無いと思います」
「そういう事なら社会もそうですね」
 社会科の奥田もこの流れに乗って来た。基本的に教科書の中のポイントになる部分だけを暗記すれば点数を取れる社会科は、地理も歴史も空手部員達にとっては大好物だった。
「主要5教科の中で彼らの成績が、理数と社会に比べて良くないのは英語と国語ですね」
「英語は授業時間だけでは足りませんからね、しっかり予習復習して貰わないと……まあ、授業態度だけなら満点なんですけどね」
 高城をはじめとした空手部員達からの評判がよろしくない英語教師の堂島も同調する。高城たちに対して理解がある訳では無く単に小野の古いやり方に嫌悪感を抱いていたためだ。

「つまりはこういう事です。彼等を処分したいというのなら小野先生個人の責任でどうぞとしか言いようがありませんね……ただし、必ずこの件は問題になると思いますから、私は関わり合いになるのは御免ですよ」
 別名サラリーマン先生とも呼ばれる池永は、良くも悪くも粘質な教師特有の感情を生徒にも学校に対しても持ち合わせてはいなかった。
「今更裏切る気ですか?」
「裏切るも何も、私は別段、小野先生の味方というわけじゃないでしょう。ただ同僚として最低限、新たな問題を作るまでは馬鹿々々しいと思いながらも付き合っただけで、むしろ感謝して欲しいくらいですね。これ以上話が無いようなので私は、中止になった授業の対応作業があるのでこれで失礼しますよ」
 口元の以外の表情筋の一筋すら動かす事無く淡々と告げて立ち去る池永の背中へ小野は憎しみの目を向ける。
「そうそう小野先生。貴方の作る国語の試験問題は生徒からとても評判が悪いですよ」
 扉の前で足を止めて振り返り、思い出したかのように胸を抉る一撃を放つ。
「なっ! ……」
「理解も共感も出来なければ、教科書にすら載ってなければあなた独自の作者論なんて自分の人生に全く意味が無いのに、それを憶えて解答用紙に書かないと点数が貰えないのは理不尽だと言ってましたよ」
「どいつがそんな事を!」
 ちなみにテストで『この波線部の主人公に対する作者の心情を30文字以内に記せ』という問いに『文学崩れ如きが俺の私生活を詰り心情まで捏造って身の程知らずwwwwwwwwww』とあえて大量に生やした草で回答欄の枠をぶち抜き、小野を激怒させたのは当時1年生だった高城だった。
 高城にとっては小野の持論を無視した上で自らの考えを記述した回答を、意味不明な理由で不正解にされ続けての逆襲である。どっちもどっちとも言えるが立場と年齢を考えるなら酷さは小野に軍配が上がるだろう。
 高城に付けられた傷口に塩を塗り込まれた形になった小野は激怒したが、池永は全く意に介さない。
「どいつと言うより、皆が思っている事でしょう。私もそうですねとしか言えませんでしたし……では失礼します」
 そうメガトン級の爆弾を落とすと池永はぴしゃりと扉を閉めた。

「では僕もこれで」
「わ、私も失礼します」
「それでは今日も一日頑張りましょう」
 北條を含む他の3人はもそそくさと職員室を立ち去ったのだった。

 以下省略。



[39807] 第99話
Name: TKZ◆504ce643 ID:dd2e1479
Date: 2016/11/10 16:51
「おう高城!」
 ランニングを終えて朝飯を食いに宿に戻ると大島に捕まった。
 大島が俺のパーティーに入っている限りマップ情報が共有されるので、俺が避けても向こうからやって来るので諦め、ここしばらく定宿であり、大島も泊まっている宿の食堂に踏み入ったのだから当然だが、せめて朝飯位はこいつの顔を見ずに食べたかったというのは贅沢な願いだろうか?

 まず、「おう」じゃなくて「おはようだ馬鹿野郎」という言葉を飲み込んで「おはようございます」と返す。当然ながら返事は戻って来ない。
 イラッとしつつも、気にしない気にしないと自分に言い聞かせる。これは大島へのおはようではない、食堂にいる皆さんに対する挨拶だ……別に誰からも返事が無くても気にしないよ。紳士たれという自分のスタイルを貫いただけだ。

「まあ座れ」
 そう言いながら自分の着いた席の対面を顎で示す。
 それを無視してカウンターで料理を受け取り──この世界では宿の朝食のメニューなんて良くても3種類、下手をすると選択肢は無いので、一食分ずつトレーに用意されてる分を受け取るだけ──そのまま別のテーブルに座った。
「おいっ!」
 更に無視をすると、大島は席を立つとこちらに床を踏み鳴らしながら近づいてきて、いきなり振り上げた拳をテーブルに叩きつけようとしたので、自分の食事をトレイごと持ち上げると、今度はシステムメニューを開いて5mほど離れた位置の大島の食事が乗ったトレイを収納する。
 そして大島のトレーを大島の拳が叩き付けられようとしているテーブルの上に出す……おっと、トレイの下、大島と反対側にフォークを差し入れるのを忘れていた。
 そして、システムメニュー解除。
 拳が叩き付けられた瞬間、丈夫な天板はその衝撃に沈み込み、そしてエネルギーを平面上に波打つように変形しながら周囲へと広げていく。同時にテーブルの上に乗っていた全ての物は跳ね上がり、特に大島へと傾斜をつけておいたトレーの上の皿や器は大島目掛けて栄光への虹の架け橋を描きながら跳ぶのを見送りながら、テーブルの振動を止めるために1/100秒の間にテーブルを収納し、再び同じ位置に取り出す。

『ざまあみろ』
 自分の朝飯の乗ったトレイをテーブルの上に戻しながら、そう胸の内で呟いた直後、俺はほくそ笑みを浮かべたまま驚きに顎だけがストンと落ちた。
 大島は自分に向かって飛び散った全てを一瞬で収納して見せた。パンや焼き魚などの固形物はまだしも、飛び散ったスープやエール──朝っぱらか酒を飲んでいたんだよ──の細かく飛び散った数百の飛沫さえも。
 オリジナルシステムメニューとは違って時間停止が使えないのにも拘わらずである。

 収納した次の瞬間には飛び散ったはずの食事が全て元のままにテーブルの上におかれていた。
 喧噪の中でもテーブルを殴った音は大きく響き渡り周囲の注目を浴びているが、肝心な場面は誰も見ていないだろう。
「どうした鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして?」
 腹の立つドヤ顔でこちらを見下してくる。
 だがどうやったんだ? あれを一瞬で収納するには、一定範囲の空間にある物をまとめて収納したとしか思えない。だがそれは出来ない。
 テーブルの上に置かれた水を入れたコップは、水だけ、コップだけ、テーブルだけ、そして水とコップ、コップとテーブル。更に水とコップとテーブルと選択的に一度に収納可能であり、コップによって隔てられている水とテーブルだけを一度に収納するというのは出来ない。
 また、大きな一枚岩の半分だけを収納する事は出来ない。つまり海の水を収納しようとすると、世界の海の全ての水を収納する事になる……試した事は無いが無理だろうけど。
 つまり、空気を収納するというのはこの星の大気中の空気を全て収納する事であり、こちらも怖いから試してないがやはり無理だろう。
 空気を収納する場合には、気密性の高い箱の中の空気を収納する以外に方法はないはずだ。
 それに何らかの方法で一定範囲の空気ごと収納したのならば、収納され一時的に真空状態になったその空間に周囲の空気が流れ込むのだが、そんな気配はなかった。

『つまりは、飛び散った飛沫までも一つ一つ正確に認識しあの僅かな時間で素早く収納していったと言うのか?』
 周囲の注目が集まってしまったので【伝心】で話しかける。
『この不肖の弟子が、だからお前は駄目なんだ。今の自分に何が出来るかを貪欲に突き詰めようとしねえ。それがお前らゆとり世代の限界だ』
『不肖の弟子は弟子が自分を謙って使う言葉だ。お前が誰かの不肖の弟子である事と、俺が駄目な事には何の因果関係も無いだろ』
『ああ言えばこう言う! 人の話を黙って聞けコラァっ!』
『人の話を聞かないのはお前の十八番だ!』
 そう罵り合いながら、俺は冷静に考える。今の自分に何が出来るのか? つまり大島はアイツなりにシステムメニューに何が出来るかを徹底的に調べ、より効果的に使う方法を突き詰めているという事なのだろう。
 ならば簡単、困った時は【よくある質問】先生だ。
 もしもし、先生? オレオレ。そうそう……困った事があってお金を……じゃなくて、教えて欲しい事が……えっ? 年上の女性を口説く方法? ……それは後程詳しく、本当にお願いします……それで【所持アイテム】の収納機能の事なんですけど、一度に異なる沢山のモノを一気に収納する方法で……えっ? やっぱりあるの……おおなるほど、そういう事ですか………………
 って何で対話式になってるんだ? しかも先生めっちゃフレンドリー!?

『まあ想像はつく。個別に認識た対象について条件付けで絞り込んで一気に収納する。例えば目の前にある全てのモノを認識し、その中で空中を飛んでいるモノとかな。そして収納した後は、エールやソースの飛沫は同じ物同士をまとめて食器に戻してから取り出した……俺にも出来ない訳じゃない。必要ないだけで』
 先生に聞いたという事をおくびにも出さずに嘯く……こういう腹芸が出来る中学生ってどうなんだろう。自分以外の中学生がやってたら、そいつの将来心配するわ~。

 まあ本来は、目の前に飛び散る飛沫などを一瞬で全て認識するのが難しいのだが、レベルアップのおかげでその気になれば完全記憶を動画で行う事が出来るので難しくはない……んな訳あるか! 完全記憶は視覚情報を絵として見えたままに記憶するだけで、視界に存在する全てを一つ一つ区別して認識している訳じゃない。100分の数秒で手前の物に隠れて見えない小さな飛沫さえも全て認識するという事は俺にはまだ不可能だ。
『ふん、ヒントをやり過ぎたか』
『ヒントをやろうと思った訳じゃなく、単に調子に乗って口を滑らせた事を、こうも恩着せがましく言う奴ってどうよ?』
 肝が冷える思いを飲み込んで強気にそう煽ってみせる。
『きっ──』
『図星を突かれて喚き散らせば、自分が惨めになる事くらい理解出来るよな?』
 次の瞬間、一瞬前まで俺の頭のあった空間を大島の拳が空気の壁を突き破り、ボッっと音を立てて通り過ぎて行った。
『開き直りやがったな!』
『俺のこの拳は、五月蠅い奴を黙らせるためにある』
 実に大島らしい反応だ。ここまでくると清々しくさえ感じる……だからと言って、大島を許せる気分になれる訳でもない。
 俺と大島の間の空気が張りつめていく──
「おはようシュン!」
 この殺伐とした空気を無視して挨拶をかました20歳くらいの女性。そのまま大島の無駄に太い二の腕に自分の腕を絡ませて寄り添った……仕草一つ一つが大人の女の色っぽさを醸し出している。
 身長はこの世界の女性としては破格に高い。170㎝をわずかに越えているだろう大女だが、大島と比べると似合いの身長差。見るからに肉食系女子であり出ると処はこれでもかと出て、引っ込むところは生き物としての強度が不安に感じるほど引っ込んだ日本人女性では太刀打ちするのが難しいポテンシャルを秘めている。
 だが、それだけではなく引き締まり発達した手足、首から肩への筋肉。そして一目見てわかる安定した体幹。ちょっときつめな赤銅色に焼けた美貌。
 戦士としての力量も感じさせる……多分、傭兵ってところだろうか?
 はっきり言ってかなり俺好みでもある女性が大島にデレている状況を見せられて、心穏やかではいられない。
 学校では教師、生徒を問わず特に女からは蛇蠍の如く嫌われている癖に解せぬ。

「あれ? もしかしてシュンの子」
「誰がだ!」
 大島と俺が珍しくハモった。
「だってほら、似てるじゃない」
「何処がだ!」
 再びハモる。もう訴えても良いレベルだろ。
「そう言うところが似てるのよ……もしかして近親憎悪って奴? シュンは所帯を持つのには向いて無さそうだし、そんな父親を持ったら子供がグレるのも分かるわ」
 勝手に物語を紡ぎ出す女を無視し、席に座ると無言でテーブル上の自分の食事に取り掛かる。関わりさえしなければ自分とは無関係な出来事として感情も処理出来る。
 気づくと大島も向かいの席について、無言で飯を口に押し込むようにして食べ始めていた。
「不器用な親子の食卓ね」
「五月蠅いわっ!」
 土瓶の中にマツタケと一緒に入れて蒸してしまいたいくらいハモるのであった。

「私はフェアレソール……ねえ、お母さんって呼んでみない?」
 肉食だ。想像以上に肉食だ。大島がこちらの世界で復活を遂げてまだ3日目。実質的には丸2日にも満たない時間しか経過していない。
 童貞少年にとって、2日足らずでワイルド系美人をモノにしてヤルことヤッテいる大島にも驚愕するが、それ以上にもうそこまで頭の中で明るい家庭像が進行してしまっている彼女に恐ろしいモノを感じずにはいられなかった……まあ、北條先生に結婚してと言われたら間髪入れずに三つ指突いて土下座して「不束者ですが末永く宜しくお願い申し上げます」と答えるけどな。
 しかし、恐怖心など俺にとっては馴染みの隣人のようなもの……平和で平穏な生活を送りたい。
 だからクールにこう言ってやるのだ。
「俺が知る限りでも、シュンちゃんは現在進行形で2人と付き合っているぞ」
 以前大島が自分で言った事だ。
 俺の言葉に笑顔を凍り付かせる女性に対して、大島が噛みついてくる。
「誰がシュンちゃんだと?」
 突っ込むところはそこなんだ。
「俊作、略してシュンちゃんだろ。親のつけてくれた名前に文句を言うな」
「勝手に略するな!」
「何だ? 女には鼻の下のばしてシュンとか呼ばせておいて、可愛い教え子には呼ばせないつもりか? OBを含め空手部全員に言っちまうぞ。シュンちゃんと女に呼ばれて鼻の下を伸ばした大島は、想像以上に気持ち悪かったってな」
「ふん、そんな嘘を言ったところで──」
「皆俺のいう事を信じるぞ。間違いなくな」
「…………」
 決して俺が人望に満ちあふれている訳では無い。ただ己の人望の無さに関しては人後に落ちない事くらい自覚しているのだろう。反論の糸口すら見出す事の出来ない大島にほくそ笑む。

「……ちょ、ちょっとどういう事なのシュン?」
 お待ちかねの修羅場がやって来て、俺ニヤニヤが止まらない。
「…………」
 何ともいえない深みのある表情を見える大島……これって顔芸で乗り切ろうとする売れない芸人と大して違いが無いだろう。
「ちゃんと答えて」
「………………」
 ちらりと俺に視線を送ってくる。助けろのサインだが……『万が一にも俺に助ける気があったとして、この状況を何とか出来るスキルがあると思うか?』と【伝心】で返事すると蔑むようであり憐れむようでもあり、そして切なげでもある目で俺を見やがった。
 まともな恋愛経験すら無い寂しい男子中学生に何を求めてやがる。そう胸の中で吐き捨てると耳も心も閉ざして朝飯を平らげて行く。
 大島が最終手段で女性を抱き締めて濃厚な口付けを交わし「俺を信じろ」などと意味不明な事を囁き出したのには、心を折られ「死ね、チンポ腐り落ちて死ね」と呟きながらもしっかり録画しておくのは忘れなかった。大島が現実世界復帰後にはネットに流してやる予定だ。


 朝食を食べ終えて紅茶に似た匂いの……いやもう紅茶で良いな紅茶で。それを飲んでまったりしていると、一旦女性を連れて部屋に戻った大島が、すっきりした表情で戻って来た。
「幾らなんでも早漏(はやい)だろう?」
「ふん、床入り前に前戯など必要も無いほど高め、失神するほど責めれば後戯すら必要ない」
「ば、馬鹿な、そんなのどんなHow to本にも書いてないぞ……」
 中学生の性への探求心は何者に止める事は不可能だ。しかしこのエロ孔明をもってしてもその発想は無かったわ。
「これだから童貞は、役にも立てる当てもないマニュアルが大好きだな」
 童貞を母親の腹の中に置いて生まれて来た訳でもないくせに童貞を下に見る態度への憤りが、普段なら決して言わないだろう言葉を腹の底から押し出した。
「それにしても短い、早漏に過ぎる」
「……所詮、穴に突っ込んだら出すとしか考えられない童貞の浅はかさよ。女をいかせるのに俺なら3分もあれば十分だ」
 そう答える大島の目からは、ほんの僅かだが動揺の光りを感じた。
「お前、すっきりした顔してたじゃん」
「馬鹿か? 自分もいかないでどうするんだ?」
「一見正論だ。だが卵が先なのか?、鶏が先なのか?」
「そもそも卵は鶏じゃねえ、鶏という種が誕生したのは卵から鶏が生まれた時点に決まってるだろう。何を馬鹿な事を言ってやがる?」
 予想もしなかった方向に話をそらしやがった。
「早漏を補うために、それほどの技術を磨いたとは……」
 そろそろ、他の客達も俺と大島のやり取りに耳を傾けているようで、そんなコメントちらほらと聞こえてくる。
「高城ぃ、テメェ人聞きの悪い事を抜かしやがって!」
 そう凄んでくるが──
「3分は早いよな」
「牛の交尾よりは長いな」
「そんなに早く女をいかせる必要はないよな」
「作業じゃあるまいし、女はもっとじっくり可愛がるもんだろ」
 世論は一気に俺に傾き始めていた。

 しかしそれを大島は力尽くでねじ伏せる。もちろん周囲の奴らを叩き伏せるとかは流石に無しだ。
 銅貨を両手の親指と人差し指でつまむと、そのまま左右の手を逆に捻ってねじ切ると床にポイ捨てする。周囲を凄い笑顔で見回しながら銅貨を半分にちぎって捨て続ける大島に周囲は目を逸らすと、無言で自分達の前の食事に没頭し始める。
 日本人よりも平均身長が10㎝は低いこの世界の住人が185㎝以上ある上に、筋肉特盛状態である大島に凄まれたらこうなるよな……日本でも同じ結果だけど。


「ほう、チャンコロがお前らの身柄を狙って動いてると……身の程知らずめ!」
 朝っぱらからお代わりしたエールをあおり、追加注文した肉を喰らう……ワイルド過ぎる。
 アラフォーで最近は野菜メインのさっぱり系の朝食をとるはずなのに、システムメニューの影響で若さも取り戻したのだろう。システムメニューも余計な事をする。
 ちなみに呼吸をするくらいに自然に口にしたチャンコロは蔑称ではなく古い中国の国名「清」の人間を意味する言葉が訛ったものという説もある。まあ蔑称だとしても、そもそも連中も呼吸するが如く日本人への蔑称を使うのでお互い様だろう。
 むしろ「相手がそうだからと言って同じレベルで罵り合うのは……」云々と綺麗事を口にする奴等こそ相手を同等とは扱わず、人間としての格が違うとばかりに、平然と相手を見下す様は深刻な差別主義者だと断言出来る。
 気に入らない相手とは単純に「バーカ! バーカ!」と罵り合っているくらいの方が人として健全な関係だろう。
 しかし、どう言葉を言い繕ったところで大島が「チャンコロ」を蔑称として使っているのは間違いない。そしてメロン熊の様に顔面に浮き出た血管の網目が奴の怒りの大きさを示している。

 それにしても、大島はいつの間にかレベル95に達していやがる。溜まっていたログを確認した時、思わず2度見してしまい、どういうレベリングしたんだと愕然としたほどだ。
 しかし、そこまでレベルアップし、【精神】関連のパラメータ変化の設定変更を一切行っていないにも拘わらず、この有様だ。
 もしかすると……やはり闇属性の【反魂】で復活させた影響だろうか? 闇属性だぞ。他の治療魔術系は全て光属性なのに、どう考えても不吉だろ。

「一度向こうに帰ってゴミ掃除でもするか」
 既に連中を人間扱いすらしていない。流石大島、システムメニューによってレベルアップの度に正義の勇者様へと性格が改変されようともブレない人で無しっぷりだ。
 俺はレベル4にして、自分の性格の変化に違和感を覚え、レベル12で確信に至った……ちなみにレベル5から12までは一気に上がっているので、もう少し段階を踏んでレベルアップしているなら、もっと早くに自分が気持ち悪いほど善人へと性格を捻じ曲げられている事に気づいたに違いない。
 決して善良とは言えない──空手部に入り、恐怖、怒り、そして憎しみ。負の感情を性根に刻み込まれ、人格が大いに歪みまくった──俺がである。
 もしレベル95まで自分の異変に気付かずに過ごしていれば、いつも笑顔で挨拶を欠かさず、毎朝近所を掃除して回るような変な人になっていただろう。
 そう考えると多少丸くなったとはいえど、未だ大島らしさを失おうとはしない奴本来の性格の異常性に改めてゾッとする。
 同時に、大島もレベルアップを重ねれば何れは真人間を通り越してウザいくらいの正義の味方になるだろうと、高を括っていた自分の考えの甘さが一番怖い。最低限社会人として恥ずかしくない口の利き方をするようになるなどと夢想した数日前の自分に「死ねばいいのに」と言ってやりたい。

 どうするんだよ? こいつ……はっきり言って、レベル95に達した大島は今の俺にとっても十分に脅威だ。殴り合い以外に持ち込めば十分に勝機を望めるが、殴り合いになったら認めたくないが勝ち目は薄い……というよりそんな条件で戦うのは全力でお断りして奥の手を出すけどな。
 どちらにしても不意打ちをくらえば一撃で殺される可能性は十分にある。
 普通に考えればマップ機能により常に距離と位置関係、更にはこちらに対する敵意すら表示されている状態なので互いに不意打ちは不可能に近いはずで、更にこちらはレベル差によって各種パラメータは倍の差があり、しかも時間停止まで使えるので不可能と断言してもいいはずだ。
しかし手品師が普通なら絶対に出来ないと考える事を、人間の認識の穴を縫うようにすり抜けて成し遂げるように、大島が俺が考える絶対という名の城壁を突き崩さない等と言えるはずもない。

「よし今日中に大台に乗せておくか。高城、手伝え」
 正気か? 今日1日でレベルを100の大台に乗せる気なのか? レベル60までとレベル60以上ではレベルアップに必要な経験との量が全く違うんだぞ。ましてやレベル95から100となれば必要とされる経験値は龍を10倒した程度では全然足りない。そうクラーケンでも狩らない限り……クラーケン?
「クラーケンを狩っていやがったな?」
 現実世界で他人の目がある状況ならともかく、今更大島に敬語を使う気はさらさら無い。。
「ああ、お前らが狩ったハイクラーケンほどではないだろうが、なかなか手ごたえのある獲物だったぞ」
「何体狩った?」
 クラーケンは間違いなく海の生態系の頂点に立つのに、そんなのをポンポン倒したら、この世界の海がどうなるか? なんて事は余り気にしていない。
 食物連鎖の底辺にあるプランクトンなどが大幅に増減するのに比べると影響はかなり限定的であり回復も早い。
 所詮生態系はベースとなる食物連鎖の底辺の量によって養われる許容範囲に収まる様に全体量が推移するのであり、逆に食物連鎖の最上位層の量が数%レベルで減少しても影響は短期的には各層における量の増減が多少起こるだろうが数年で回復する程度だろう。
 また、この世界において漁業は沿岸部に限定された小規模──漁業技術や造船技術の不足以前に、海龍だのクラーケンなどが出現する海で遠洋漁業なんて考える者はいない。この世界で航海と呼べる距離を往く船は、それらを寄せ付けない手段を持つ大型の戦船だけらしい──なものであり、人の手による乱獲が無いために海に魚影は濃く、漁獲高は規模や未発達な漁業技術に対して高いので漁師達への影響も少ないだろう。
「昨日までの5体。そろそろレベルの伸びが小さくなってきたからレベルを5上げるのには2体は倒さないとならねぇな」
「そうか……」
 それはそうだろう。オリジナルのシステムメニューを持つ俺に対して、大島や紫村達の場合はレベル60以降はレベルアップに必要な経験値の上昇が大きくなるので、レベル95なら同じレベル帯の俺がレベルアップに必要とする経験値の倍近くになっている筈だ。
 ちなみに、ハイクラーケンの経験値はレベル177へのレベルアップに必要な経験値を大幅に超えていたため、クラーケンを2体倒せばレベル179に届く可能性が高い。
 そして【所持アイテム】内に眠るオリジナルシステムメニュー保持者を……そんな非道な事は決して思っていても口にしません……駄目じゃん!
 だが死体の方はどうだろう? 生き返らせて、奴が状況を認識してロードするよりも早く、具体的には蘇生後1/100秒以内に再び殺す。いやそんな裏技めいたやり方は通じないな。しっかりFAQを質問から全て自分で作り上げてしまうような暇人が、そんな抜け穴を残しておくとは思えない……そうしっかりとフラグを立てておく、やっぱりこういうのって大事だ。

「飯も食ったし行くぞ」
 突然そう言って大島が立ち上がる。
「何処へ?」
 大島達は『道具屋 グラストの店』を知らないはずだ。ミーア以外にこの手の情報を持っている奴が居ない訳じゃないだろうが、ネットも無いこの世界で簡単に情報を入手出来るとは思わない。
「お前がハイクラーケンを狩った場所だ」
「はい?」
「分からんか? クラーケンの上位種であるハイクラーケンが独占する条件の良い猟場だ。そこの主であるハイクラーケンがいなくなれば、クラーケンが後釜を狙って集まるに決まっているだろう。ヤクザもんのシマ争いと一緒だ」
 ああ嫌だ嫌だ。何でヤクザを例えに出して説明して中学生に通じると思うんだろう? 何が一番嫌だって、ソンな例えで納得出来る荒んだ自分が嫌だ。

「おい高城。例の空飛ぶ方法を教えろ」
「……教えてください」
「…………」
 俺の切り返しに黙り込む。以前なら同じ黙り込むでも無言で殴りかかって来ただろうから、人間として成長……もとい、人間に近づいてきたと言えるのだろう。
「何か言えよ」
 こんな前進の90%が筋肉で出来てそうなオッサンとお見合いを続ける気はないので先を促す。
「代わりにクラーケンを倒す方法をお前に教えてやる」
「いや、すでにハイクラーケンを倒したから別に必要ない」
 もったいぶった挙句に何を言い出すんだ?
「お前等のやり方とは違う方法だぞ」
「どう違うんだ?」
「殴り殺す!」
 あっ? 何を言ってるんだ。ハイクラーケンに比べれば確かにキッズサイズだが、それでも全長100mを超える化け物だぞ……ま、まさか高等打撃法?

 高等打撃法。これは俺達空手部部員がそういうモノがあると信じてる仮定の技術。
 大島は立てた空のペットボトルのスクリューキャップの受け口部分を手刀の一振りで斬り飛ばす。もちろん実際に手刀で斬る訳じゃなく硬い親指の爪を受け口部分の下の樹脂の分厚く硬い部分に当てる事で、あの軽くて丈夫なPET樹脂を、何かに固定する事も無く割るのが正解だ。
 しかしレベルアップ前の俺が真似をして試したが、ペットボトルが真横に吹っ飛ぶだけで、大島の様に受け口部分だけを斬り飛ばし、ボトル本体はほぼ真上に跳ね上がるような現象は起こらなかった。
 その結果に対して他の部員達に「スイング速度が倍あれば出来そう」と言ったが、それは冗談のつもりはない。最低限それくらいの速度が無いと無理だと確信したのだ。
 だが大島が俺の倍の速度で手刀を真横に振り得る事が出来たかと言えば、そんな事はありえない。
 大人と小さな子供だったり、世界トップクラスの短距離ランナーと足の遅い肥満児だったら記録に倍以上の差が生まれる事はあるだろうが、ある程度身体が出来上がり、そしてその動作について一定以上の経験がある者同士ならば倍の差が付くような事はまず無い。
 例えば、俺は野球のボールを100㎞/h位なら投げる事は出来る自信はある。ちゃんと投げ方を練習すれば+10㎞/h以上の上乗せは出来るだろう。
 だが、大島が200㎞/h以上でボールを投げられるかと言えば、数ある野球漫画(フィクション)の中でもその速度で投げられるのは某緑山の二階堂君しか俺は知らない。
 それはさすがに無理だ。奴が丸一日真面目に練習しても精々150㎞/h程度だろう……いや、それも十分おかしいのだが。

 つまりは、大島の打撃には俺達の知らない何か別の技術がある。
 実際、部活の練習中に奴の放った腰の入っていない戯れのような軽い一振りを受けただけで部員が失神するという事がたまにある。特に急所や顎などの部位に当たっている様子も無いのに関わらずだ。
 その一撃に関して空手部では高等打撃法という名称が付けられ、先輩から代々受け継がれている。

 その正体は気だと主張する奴は各学年に1人居たりなかったりだが、冗談は顔の怖さだけにしておけと笑い飛ばされるレベルだった。しかし魔術、魔法というものが実際に存在する事を知り、更にその魔術を気合で無効化された経験から全く笑えなくなってしまった。
 発勁だと言う奴も各学年に何人かは現れる。発勁とはフィクションなどで神秘的な扱いを受ける事が多い技だが、結局は関節と筋肉を効果的に使い力を生み出し伝達する技術であり、毎日千回以上もの正拳突きを、全力で突く事のではなく常に身体の中の力の流れを意識してやり続ければ、自分なりのそれっぽいモノを見出す事は出来る。
 むしろ自分の身体の中の筋肉と関節によって生み出される力の流れを、どうやて相手に効果的に送り込むかだが、これはいきなり胡散臭くなる。
 浸透勁という言葉をたまに耳にするが、これは何となく中国武術っぽい感じがするが単なる日本語で、中国武術にはそんな言葉は無い……大島の打撃法を秘密を探るべくネットで浸透勁を調べていたらwikiに書いてあって驚いた。
 俺なりに考察した結論は、物理学上、力は運動エネルギーも熱も電気も流れ易きに流れ、逃げ易きに逃げるため、人体に衝撃を加えると硬い筋肉や骨よりも皮膚や脂肪などの柔らかい部位へ、更に内側よりは動く余地が大きな表面へと向かう。
 つまり、打撃力を効果的に対象の芯へと伝えるのは難しい。

 人体は大半を水によって作られているが、水面を打った時、その速度が速いほど水面で大きな衝撃が発生して大きな水飛沫が発生する。
 上がる水飛沫の量は打撃のエネルギーの総量ではなく、速度に影響を受ける。同じ形状、同じ体積で質量が1と100の物体を質量1の方を速度10で、質量100の方を速度1で水面に落とす。その時の運動エネルギーの総量は共に同じだが、上がる水飛沫の大きさは必ず前者の方が大きくなるのだ。
 この水飛沫こそが相手の身体の内側へと伝わらずに失われる打撃力だと俺は結論付けた。
 つまり、相手により多くの打撃力を効率的に伝えるためには拳の速度を上げない事が重要……うん、自分でも明らかにおかしな事を言っている。
 ここがネックとなり、高等打撃法の研究は進んでいない……だが、その秘密のベールがついに剥がされる時が来た!

「分かった。その方法と引き換えなら応じる」
 浮遊/飛行魔法Ver1.0前のβ版というよりもα版レベルのやつを、術式の説明無しに結論だけをシステムメニューによる情報共有で教えてやろう。どうせ大島も素直に全てを伝える気はないだろうから、それ以降は交渉になるだろうが最新版は教える気はない。

「それで良い」
 口元をにやりと歪ませて大島は応じた。
「ところで早乙女さんはどうした?」
 早乙女さんの姿どころか、表示半径3㎞の周辺マップにも30㎞の広域マップにも姿が無い。
「……山で食材採取している」
 詳しく話を聞くと、この世界の食材の旨さに止せばいいのに琴線を震わせてしまい、市場に出回る食材を手当たり次第味見するだけではなく、市場にも出回らないようなまだ見ぬ食材を求めて近辺の山を駆けずり回っているそうだ。
「山の生活が好きだからな……」
 大島をしてついていけないという表情をさせる。流石大島の先輩を長年続けてきた人だ。
「それならクラーケン狩りは1人で?」
「いや、クラーケン狩りには合流する。コリコリとした吸盤が堪らねえんだとよ……」
「流石は早乙女さんイカはエンペラ。タコは吸盤と軟骨に決まってる」
 クラーケンのスケールだと吸盤も直径1m以上はあるのを想像するがそうではない。ある程度小さな物体をとらえるためには小さな、とはいえ直径5-10㎝程度の吸盤も備えている。これに隠し包丁を入れて醤油をかけて丸ごと焼くと堪らないのだ。
「こいつもだと?」
 俺の発言にうんざりだというように顔を顰める……良い気分だ。やはり一方的に大島によって顔を顰めさせられる立場より大島の顔を顰めさせる立場の方がずっと素晴らしい。


 足場岩を利用した空中跳躍で移動する大島を置き去りにし、ハイクラーケンが根城にしていた河口を抱え込む入り江へとたどり着く。
 海岸線から急激に落ち込む海底が作り出す濃い群青に染まる穏やかな水面。この数日でこの入り江を埋め尽くすほどの量のクラーケンが命を失ったとは思えないほどの美しい光景……そう思うと潮の匂いが生臭く感じて来た。

 頭を振って気持ちの悪い考えを振り払うと、スポーツドリンク用のボトルを取り出し、中に詰めた高カロリー・ドリンクを喉を鳴らしながら飲む。
 レベルアップによって生じる数少ない問題の中で、命にも関わるカロリー消費量の増大という大問題。
 全力どころか6-7割程度に抑えた力で2時間程度身体を動かし続けただけで身体中のエネルギーを使い果たし極度の低血糖状態に陥り、突然スイッチが切れた様に身体が動かなくなる。これが戦闘中なら間違いなく命に関わる。
 何せレベルアップによる身体能力の向上の一端である消化栄養吸収能力の向上よりも、遥かに消費カロリーの増大が遥かに大きいので、身体的に無理の無いペースで一日中走り続けると、その間ずっとバナナなどの糖質の多い食品を胃袋の許す限り食べ続けていてもハンガーノックで倒れる。
 そこで手に入れたのがこのドリンクだ。ハチミツ……外見上蜜蜂に相似──国語的意味ではなく数学用語として──する生き物。正式名はエピンスと呼ばれるのだが、何故か広く一般に『ミツバチ』と呼ばれ、俺の常識という概念を突き崩そうとする存在だ。
 生態も現実世界の蜜蜂に似て花粉を集めて巣に持ち帰り蜜を作り出す。本当にサイズが異なるだけの魔物。
 ともかくそいつの巣より得られる超高カロリーな食品と、牛乳、勿論、牛から絞られた乳では無い。牛乳に似たおぞましい何かだ。俺はそれの正体を知らない絶対に知らない! ああ知りたいとも思わない! ただ栄養価が異常に高い。それだけを知っていれば十分。
 その2つを混ぜ合わせ、数種類の果汁や香辛料と薬草を加えて作ったドリンクで、現実世界の食べ物に比べると味、栄養価に優れるこの世界の食べ物だが、その中でもこの組み合わせが栄養吸収に良いと知られるレシピであり、24時間は戦えないが、これを飲みながらならば8時間くらいはそこそこ激しいと言えるレベルで身体を動かし続ける事が出来る。
 元々は病気になって体力を落とした子供や老人向けの回復薬としてミーアが開発した『道具屋 グラストの店』の商品であり、結構値は張るし保存が利くものでは無く大量に入手出来るものではないが、金は食事や宿代以外に使い道が無いまま貯まり続けている。せめて金貨を鋳潰して現実世界で現金化する当てでもあれば良いのだが、今のところは『道具屋 グラストの店』で龍の在庫が捌ける度に買い取って貰えるので増える一方なので、まとまった量を購入し、保存は【所持アイテム】内に保管すれば品質劣化も無い。
 今後は『道具屋 グラストの店』に原材料の中で一番入手が難しいハチミツを卸すことで入手可能という契約を結んだ。

 こうして考えると、俺の異世界での交流相手ってミーアを起点としたものしかないような。そうだ、他にも2号がいるじゃないか……今頃何してるのかな?
 ってとっくに交流が途絶えてるよ! ……いやいや違うぞ。男同士の友情っていうのはそんなもんじゃない。例え何年も会わず、何の連絡も無くても、顔を合わせて「よう、久しぶりだな!」と声を掛け合っただけで、会わなかった時間なんて飛び越えてしまう。そしてその後二度と会う事が無くても友達であり続ける。それが男同士の友情ってものだ。
 問題は2号と俺が友達かという事だ。友達の後に(笑)が付くなら、間違いなく友達だ。むしろ親友(笑)なんて「親」の一文字が実に笑いを誘ってくれる。

 今頃2号は、魔物狩りで腕を磨きつつ名を上げているか、それとも昔のコネを使って仕官して軍に潜り込んでいるかだろう。
 早く名を上げるなり出世するなりして、俺に恩返しが出来るようになって貰いたい。
 最初に2号に求めていた情報や便宜はミーアとのビジネスライクな関係でほぼ得られているので2号からお返しを受けていない。
 これはいけない。2号も俺にお返しがしたくてしたくて堪らず、毎日ストレスを溜め続けている事だろう。このままでは彼の胃が持たないに違いない。
 心配だ。ああ心配で堪らない。何としても早く彼の肩の重荷をおろして上げなければならない。親友(笑)として!
 ……まあ、実際のところはどうでも良い。奴から返してもらいたいと思うようなモノは今のところは無い。かと言って心配してやるほど弱くもない。
 10年後にでも再会して、ありえないとは思うが奴が結婚して子供でもこさえていたら、親父のある事ある事吹き込んで「あるある!」と喜ばせてやれば良い。

「よう!」
 そんな小さな企てを考えていると、背後から聞き慣れたというほどではないが、かなり聞き覚えのある特徴的な濁声を投げかけられる。
「おはようございます」
 頭を下げて挨拶をする。大島はともかく早乙女さんへの礼儀を捨て去る気はない。実際この人には随分と世話になっている。無論、合宿のたびに大島の片棒を担いで我々を地獄へと突き落としてくれる、良く言って悪魔の様な人だが、大島に比べたら遥かに常識を持ち合わせているので、大島がやり過ぎるような場面ではストップをかけてくれる大島専用のブレーキのような人だ……そもそも大島に効くブレーキなんて彼以外には知らない。
 お陰で、我々はぎりぎり死線を掻い潜りこうして生きていられるので、色々と言いたい事もあるが命の恩人でもある。
「大島の奴はまだか……ところで、それは何だ?」
 俺の手の中のボトルを指さして尋ねて来た。
「まあ、栄養ドリンクみたいなものですよ。飲みますか?」
「悪いな」
 取り出した別のボトルを受け取ると、絞り出すようにして口の中へと流し込む。
「ふぅ……牛乳にハチミツってところだが、抜群に美味いな。流石異世界」
「そうですね。でも旨いだけじゃなく、今のところ知りうる限り栄養補給という面で一番優れたモノですよ」
「本当か?」
「本当です。栄養価が高く吸収性にも優れているので、これさえあれば簡単にガス切れを起こす事は無いですね」
 レベル差とさらにシステムメニューがオリジナルかどうかの差で、身体能力の上昇に関わる係数が俺に比べて小さいので、早乙女さんがこのドリンクを使えば24時間戦えるかもしれない。

「何処で手に入れた? まだ手に入るのか?」
「入手経路は内緒で……早乙女さんには教えてもいいんですが、教えると大島にも伝わりますよね?」
「言いたい事は理解出来る……後輩が自分の教え子に人望が無さ過ぎるのは、先輩たる俺のせいなのだろうか?」
 上を見上げてそう呟く。否定して貰いたいのだろうかチラチラとこちらに向けてくる視線がウザったかった。
 だけど否定はしないが肯定もしない。「あんたさえしっかり指導していれば大島も少しは違ったんだよ」と本心を口にしない俺は優しい人間だった。
「定期的に入手は可能ですが、一つ問題があります」
「な、何だ?」
 チラ見を無視して話を進める俺に傷ついたのだろう焦った様子で聞いてくる。
「ミツバチというか、蜜を貯めるとんでもなくデカいハチともいうべき奴の巣から取れるハチミツが不足気味らしくて──」
「よし狩ろう! クラーケンなんて狩ってる場合じゃない! なんて言うハチなんだ?」
 必死だ。それだけ身体の燃費の悪さには頭を悩ませていたのだろう。
「エピンスという名の全長80cmクラスの蜂で、形状は話に聞いた限りはミツバチよりもスズメバチに近いようです」
 はっきり言おう、俺は無視の類が得意では無い。あの複眼が嫌だ。脚の関節が嫌だ。全体的形状が嫌だ。キャーキャー言うほどでは無いが、大きい蜘蛛を目の前にすると無言になる程度に嫌いだ。
 それが全長80㎝の超特大サイズとなると想像するだけで胸が締め付けられる。だから早乙女さんが取って来てくれるとありがた──
「じゃあ行くぞ!」
「えっ?」
「えっ? じゃないだろハチミツを取りに行くんだよ」
「でも大島が──」
「だから大島が来る前にずらかるんだよ。ここまで来てクラーケン狩りを断ったら……奴はしつこいぞ」
 それは知ってる。しかし──
「今なら俺に急用が出来て、ついでに教え子を借りたと言えば何とかなる」
「きょ、今日は大島先生にクラーケンの狩り方を教わるという約束をしてまして」
 べ、別にでっかい蜂が怖くて抗ってるわけじゃないんだからね。俺の目的は高等打撃法の取得なんだからね。
「はぁ? クラーケンの殺り方なら俺が教えてやるから行くぞ!」
「よろしくお願いします!」
 俺は腰を直角に曲げ、深々と頭を下げた。早乙女さんが教えてくれるというのなら大島にはもう用は無い。所詮デカい蜂など、大島とクラーケンのタッグの前には雑魚だ。


 自分自身のマップ機能をOFFにして大島のマップ機能に情報が反映されないようにし、南から接近する大島の広域マップの範囲に入らないように北上する。
 普段からワールドマップを使用してる可能性は低いので、広域マップ表示範囲外での俺達の動きを把握していない大島には俺達の足取りは分からなくなったはずだ。
 その後、王都のある西へと向かって30分ほど移動しミーアから聞かされていたエピンス発見情報がある山にたどり着く。
 麓の村から山頂へと続く道と呼ぶのもおこがましい山道の中腹辺りで村人が発見したという話なので、その辺一体を上空から捜索する。
 マップ機能を使えばすぐに発見可能だが、ここは徹底して大島への情報流出を避ける。
 しかし、あっさりと見つかる。山肌を覆う木々の上を飛ぶ毒々しい黄色と黒の縞模様の80㎝くらいはあるだろう物体を見逃すほど俺達の目は悪くない……しかし、話で聞いた以上にスズメバチだよホーネットだよ。

「追うぞ!」
 無言で頷き、遥か上空から、後ろ脚に花粉団子を付けたエピンスの追尾を開始する。
「それにしてもあの図体でよく飛ぶものだな」
 形状は本当にスズメバチそのものだが、スズメバチの中でも最大のオオスズメバチと比較しても体長で20倍、つまり体積で8000倍だ。そして大きな身体を支える外骨格の強度は実際のスズメバチよりはるかに向上しているはず──さもなければ、自分自身の質量に外骨格が耐え切れずに裂ける──なので、重量は体積以上に対象なりとも増えている可能性が高いのだ。
 それにも関わらず翅の大きさが極端に大きくなっていないので、8000倍以上の質量を400倍の翼面積で飛ばすのは不可能と考えるだろうが、聞こえてくる羽音の周期が実際のスズメバチと比べて違和感を感じない程度なので、単純に考えて翅のストロークの距離が20倍に増えたのに対して同じ間隔で往復しているなら翅の羽ばたく速度は20倍である。
 つまり、オオスズメバチに対して8000倍強の質量を持つが、400倍の翼面積を持つ翅を20倍の長さのストロークで羽ばたかせる事で、時間当たりに8000倍の体積の空気を押し下げて8000倍の揚力を得ているので大雑把には釣り合う計算になる。
 翅がその速度の耐えられるものなのか不思議でならないが、実際に飛んでるのだから仕方がない……蜂の死体もかなり価値があるのでハチミツ以外にもある程度狩って来て欲しいと言われていたが、翅は面白そうな素材なので兄貴や紫村へのお土産として一部回収しておこう。

 10分程、重たげに飛ぶエピンスを追い続けていると、眼下に数匹のエピンスが行き来するポイントを発見した。
「此処だな」
「行くんですか?」
 蜜蜂なら数千~数万匹の群れを作り、スズメバチだとしても最大で1000匹前後の数となる……どうするんだよ。
「蜂は小さいから厄介なんだ。あんなに的が大きい上に俊敏にも動けないなら一撃だろ」
 確かにあの巨体を宙に浮かせてはいるが普通の蜂のような切れのある飛び方は出来ないようだが……俺はあれを殴れるのか? いや、そもそも触れるのか?
 結論。剣で斬り殺してした。
 あれだけデカいと作り物臭さが出てきて、まるで大きな昆虫のフィギアの様であり、あまり嫌悪感を感じないで済んだ。
 しかも早乙女さんが言うように鈍重で的がデカい。しかもデカいだけに一個体が占有する空間が広すぎて同時に沢山群がるような攻撃方法がとれないので、精々3体を同時に相手どれば良いので、戦う相手としてはむしろ物足りないほどだった。
 注意すべき攻撃と言えばスズメバチと同じく、こちらの目を狙って撃ち出す毒液攻撃だったが、飛行時に使う風防魔法は気流の制御が目的の為に、雨などの細かい液体は巻き込んで僅かだが粒子状にして内部に取り込んでしまうので毒液に対してはむしろ被害を増大させかねなく、液体を操作する魔術【操水】も四方から吹きかけられる液体を全て操作するというのは無理だった。
 しかし、今朝大島が使った収納の新しい使い方を利用し、更に島合宿に備えて持っていた海中用ゴーグルがあったので、毒液攻撃をものともせず戦いという名の作業を進める事が出来た。


「思ったより個体数は多くなかったですね」
 駆除したエピンスの数は18匹で、女王蜂などを含む出口を塞いで巣ごと【昏倒】を掛けて眠らせた61匹と合わせても3桁には届かなかった。
 討伐数が少なかったのは、勿論今後もお邪魔して継続的にハチミツを頂く為だ。
「これだけのサイズだ、こんなもんだろ。形状はどうあれ蜜蜂だろ。この図体では飛べる距離もそれほど長くはない。だとすれば集められる花粉の量にも限りはある。むしろよくこれだけの数を揃えたものだと思うぞ」
 確かにクマは自分に必要な獲物を獲得する事が出来るだけのテリトリーを持つが、逆に蜂にとってテリトリーの範囲が最初から決まっているのなら、その範囲で生存出来る個体数に群れは収まるという事か。流石山の男そういう事はやけに詳しい。

 中を確認するために壊した巣の上部の穴へと早乙女さんと2人して上半身を突っ込んで中の様子を確認していると遠く背後で地響きがする。しかもどうやらこちらへと接近してきているみたいだ。
 マップ機能を使えば確認は簡単だが、そうすれば大島に我々の居場所が分かってしまい、ハチミツ目的で巣を襲った事もバレてしまうだろう。

「何だありゃ?」
 背後を振り返った早乙女さんが戸惑いを隠せない様子で声を上げる。
 遅れて振り返って見ると、小山の如き黒い塊が左右に揺れながらかなりの速度でこちらに向かってくる。
「レゴヴァードナウ、ハチミツグマとも呼ばれる巨大な熊ですよ……体長は6mを超えるそうです」
 ちなみに普通、エピンスのハチミツを手に入れるには、この熊を巣に誘導して巣を破壊させ、熊が十分にハチミツを堪能して立ち去った後の残りを回収するという、いささか乱暴で継続的収穫が不可能な方法でしかないらしい。

「そんなデカいのは熊じゃねえな。流石にレベルアップする前の俺じゃあどうにもならんぞ」
 あれほどデカくない熊なら素手で倒す奴だって十分人間じゃねえよ。
「それを言うならこいつらだって蜂じゃないですよ」
「まあ、そうだな……うん、あいつは俺が倒す。望みのモノを見せてやるから目を掻っ穿って(かっぽじって)おけ」
「待ってました大統領! よっ大島の先輩!」
「……それは褒めてるのか?」
「いえ全く」
「だろうな」
 そう吐き捨てるようにして、熊目掛けて走り出していくのを見送る……訳にもいかず追いかける。

 四肢の爪を大地に食い込ませるようにして地響きを鳴らしながら、自分に真っ直ぐ突っ込んでくる巨熊に顔色一つ変える事無く立つ。
「良いか! 大物相手に身体の芯にダメージを通すには速く打ち込むな!」
 そう叫ぶと100mではなく200mを10秒切るペースで身体ごとぶつかる様に熊の懐に飛び込むと、噛みつこうと襲い掛かる熊の顎を左の裏拳で弾き飛ばす……あれって首の骨折れてないか? もしかしていつもの力技?
 そのままの勢いで更に一歩踏み込んで、熊の右の首の根元というか肩というべきか微妙な位置に、打ち込むというより勢いよく正拳突きの構えのまま拳を押し当てる。
 そして衝突のエネルギーを拳の一点で受け止め、その衝撃を吸収するように肘と肩をたわめるていく。それはオイルバンパーが衝撃を吸収するというよりもバネが受け止めたエネルギーを溜め込む様であり、同時に練習時に動きを確認するために行う正拳突きの大きな予備動作の様でもあった。
 拳を深く食い込ませながら早乙女さんの身体が熊の身体に接触する寸前、引き絞られた弓から矢が放たれるように──
「ふんっ!」
 気合と共に打ち出された正拳突きは、次の瞬間には深く肘の辺りまで熊の身体に食い込んでいた。一瞬だけその衝撃を自らの身体で支え力を熊の身体の奥底へと送り込んだ直後、反動で早乙女さんが後ろに吹っ飛び、空中でとんぼを切ると左手を地面に突いて着地する。
 一方熊は、そのまま一歩二歩と進んで三歩目で鼻先から地面に突っ込むと、ビクンビクンと生物としてヤバイとしか言えない痙攣を無理返して10秒足らずで完全に動きを止めた。
 口や目、鼻、身体の穴という穴から血を流し絶命した熊の巨体に対して、早乙女さんは血の一滴、汗の一滴すら流していない。
 直接の死因は首の骨折のような気がしないでもないが気のせいだという事にしておく。だが首が折れて無くても確かにあの一撃は熊の身体を内部から破壊していた。

「どうだ?」
「恐ろしい技ですね」
 俺が考えたのと同じ方向性だが、遥か先を行っている。
 今の俺では同じ威力で殴ったところで、この巨体を今の様に破壊する事は出来ない。
「クラーケンを倒すのに使ったのはこいつの更に先にある技。いや業だ」
「……なるほどそう来たかって感じですが、理屈は分かっても簡単に真似出来るようなものじゃないですね」
 こいつの先があるというはとりあえず保留と紫、それ以前に幾つもおかしい。あの一撃のエネルギーが熊の身体の中に余すことなく伝わったとしても、あの巨体に対してああまでダメージを与えられるとは思わない。
 命を奪うには十分であったが、あそこまで肉体を破壊出来る訳が無い。早乙女さんの身体は大島を凌ぐ190㎝近い長身で骨太の骨格に筋肉特盛で体重は130㎏を超えるだろうが、その体重が数m後方に飛ばされる程度のエネルギー量。見た目だけで正確な計算は出来ないが全エネルギーが反作用に転じたとは思えないのでざっくり半分と考えると、そのエネルギーの大きさは大体エレファントライフルとアンチマテリアルライフルの間くらいだ。確かに大したものではあるが、これで体長6mを超える巨熊を倒すとするなら、高い貫通力で身体の奥深くに食い込んで、そこで運動エネルギーをぶちまける銃弾にも匹敵するエネルギー伝達の効率性が必要になる。
 何かある。俺にまだ示していない何かがあるはずだ……しかもその先すらも。

 手掛かりになりそうな何か……固有振動数の同調……共振?
 交換した古いCPUに着いていたヒートシンクが、本気で咳込むと1m以上離れていても鳴るようにエネルギーの波を身体の奥底まで伝えたのか?
 何を言ってるんだ俺は? そんな事は出来るはずが無い。ハチミツグマは早乙女さんにとっても初めての遭遇だ。そんな相手の重要器官に共振でダメージを与えるなんて幾ら人外にして人害な鬼剋流の使い手といえども無……いや、先に拳はハチミツグマの身体に触れていた。だからその感触から……だから何を言ってるんだ漫画の見過ぎだろう俺。大体固有振動数の同調を起こす様な振動をどうやって生み出すんだ?

「感謝しても良いぞ。今日大島に付き合ってたら必ずぶっつけ本番でクラーケン相手にやらされてたからな」
 こみあげてくるモノに抑えきれずブルっと身体が震えた。確かに大島ならやらせようとするだろう。そういう男だ。
「あざーっす!!」
 全力で頭を下げた……やはりこの人がいなかったら、俺は、俺達は夏冬の合宿中に死んでいてもおかしくはなかったのだ。

「ヒグマ程度が相手ならここまでやらない。拳を打ち込む瞬間に身体中の関節の動きを止めて己の肉体を一つの塊として叩き付ければ済む……先ずはそれを身に着けてから、何度も何度も生き物の身体を殴っていれば、何れは相手を中から破壊する方法が何となく見えてくるもんだ。これは口で言っても分からん。頭じゃなく心で感じろ」
 事も無げに口にするが、この人はレベルアップの恩恵も無しにヒグマ相手にそんな事をやって来た訳だ。尊敬……否、こいつ馬鹿じゃないの? という思いが強く胸の内に湧き上がるのは仕方がない事だろう。


 巣の中に並ぶ六角形仕切りが集まって出来たハニカム構造体。その仕切りの中にたっぷりと詰まってるいるハチミツ。
 1つの仕切りの大きさは六角形の対角線が45㎝程度に深さが130㎝程度なので大雑把に計算して170Lとなる。
 ハチミツが詰まった仕切りは全部で11あったが、俺達は今後の事を考えて3つの仕切りの中のハチミツだけを頂くことにした。
 その回収法というのが、あらかじめミーアに渡された回収道具は甕と長柄杓、つまり長柄杓で掬い取って甕に入れる。
 長柄杓で1回に掬い取れる量は最大で1L程度だろう。零さないようにするためには掬い上げる量を減らすとすると7分目8分目程度になる。それに対してハチミツの量は3つの仕切りで大体500Lである。
 考えてもみて貰いたい。有史以前から一つ一つの不便をこつこつと便利に変えて文明を築き上げた人類の端っこにぶら下がる者として、馬鹿みたくただ長柄杓でハチミツを掬い上げるような真似をしていて良いのだろうか?
 この高城隆。昔から母さんに「隆は楽する事ばかり考えて」と褒め続けられてきた男として、そんなので良いはずが無い! ……あれ、何かおかしいような?

 結局、ハチミツの入った仕切りの底と、その真下にある巣の外壁を壊して甕に流しいれる方法を採った。
 中が空の使われていない仕切りを【操熱】で溶かし──ハニカム構造体は蜜蝋で出来ており、現在蝋燭などの主成分として使われる石油から取れるパラフィンに比べて融点も60度台前半と低いので、簡単に溶かす事が出来る──てサラサラな液体にしたものを【操水】で巨大な漏斗状に形を整え、再び【操熱】で冷やし固めた物を使って甕へとハチミツを導いた。
 さらにハチミツ自体も【操熱】で仕切りや漏斗が解けない40度程度まで熱して時間短縮して流し込む事が出来た。
 後の巣の回復を考えてハチミツの入っていた仕切りの穴は塞いておく。

「これで、どれくらい作れるんだ?」
「全体量の1割以下って話だから少なくても5000L位は作れると思いますよ」
「つまり、1日2L程度使うとして2人で2年分くらいか……まだ要るな」
「これを持ち込んドリンクとして引き渡されるのは半分ですよ。他の材料や加工、それにエピンスの巣の情報。全て向こう持ちなんだから」
「そうか……仕方ないな」
 表面的には大島にかなり近い、むしろ大島に影響を与えたのは早乙女さんだろうと睨んでいるのだが、この辺の物分かりの良さなどが大島との決定的な違いだろう。
「……ところで他に、巣に関する情報は無いのか?」
「ありますよ」
 ハチミツは保存食であり、通常の方法でもきちんと保存しておけば劣化の心配は少なく。更にハチミツは俺からの買取では無く代金の代わりに加工した半分を引き渡す契約なので引き取り不可という事は無いので、ミーアからは「是非沢山採って来て下さい」という言葉と共にエピンスの巣の情報は複数貰て来ている。

「じゃあ次、行くが……おい、あの飛ぶ方法教えてくれよ」
「それは構わないんですが、早乙女さんに教えると大島にも伝わりますよね」
「そりゃ、まあ……そうなるだろう? そんなにアイツには知られたくないのか?」
「それがですね……」
 俺は現実世界の方で、世界の中心を意味する名を持つ某国の特殊部隊とオリジナルシステムメニュー持ちが友引町で騒ぎを起こした事を伝えた。
「そりゃあ、大島の奴は怒るだろな」
 早乙女さんは自分のテリトリー外での出来事なのですこぶる冷静だ。もしこれが自分の山での事なら大島の様に激怒するだろう。
「それでですね……某国を亡国にするために乗り込む気満々なんですよ」
「それは、流石に拙いな」
「そうでしょう!」
「マスクで顔を隠すように言わないと……ああ、犯行声明も出さないよう言い含めて……面倒だ俺も付き合ってやるか……楽しそうだな」
 だ、駄目だ。やっぱりこいつは肝心な根っこの部分が大島の先輩だ。
「それでだ。海を渡るには空を飛ぶのが一番だろ。幾ら俺の名前が早乙女でも泳いで日本海は渡れねぇぞ」
 何を言ってるのか分からない。多分彼の世代になら分かる渾身のパンダネタなのだろうが、平成2桁生まれの俺には、そんな上手い事言ったとドヤ顔されても分からない。
「戦争を起こすつもりですか?」
「安心しろ。ちゃんとバレ無い様にする」
 安心出来るはずが無い。大島という暴走車に早乙女さんという踏み込んでも効きの悪いブレーキの組み合わせに安心出来る要素が何一つない。
「そのちゃんとが信用出来ないんですよ」
「まあ、俺自身あんまり信用してねぇな……ああ面倒くせぇ! だったらお前もついて来ればいいじゃねぇか!」
「俺は学校あるから」
「お、おう。そうだな学生相手に何言ってるんだ……つうか大体お前が中学生ってのがおかしいだろ? こんな可愛気の無い中学生が居るか!」
「男子中学生に可愛気を求めるな変態か? 自分が中学生の時にそんなもの持ち合わせていたのか?」
 そいつは流石に看過しがたい……キレたよ。こんなに可愛い俺に何を抜かしてくれてるの?
「何を言う。俺のガキの頃は可愛かったぞ」
 そう強弁する彼の目は泳いでいた。豪快にバタフライで泳いでいた。
「さぞかし可愛い熊さんだったんでしょうね!」
 しかし、どうやっても彼に似た可愛い熊は想像出来なかった。
「誰が熊だ。俺にだって可愛いと呼ばれた時期があったんだ!」
 あんただよ。この熊人間が。
「あんたが可愛いなら俺なんてめっちゃ可愛いよ!」
 そして一呼吸の間の沈黙。
「この嘘吐きが!」
 同時にそう叫んだ。
「大体だ。いきなり態度を変えやがって!」
「敬意とは払う価値のある相手に払われるべきで、その価値の無い相手に払うのは勿体無い」
 お前の株はストップ安で、取引停止中だよ。

 不毛なにらみ合いを打ち切るために、強引に話題を変える。
「それで今悩んでるのは、こいつをどうしようかって事なんですよ」
 オリジナルシステムメニュー保持者の死体を地面に転がして悩みを打ち明ける。
 ちなみに、こいつの体内の爆弾は時間停止状態で腹部を切開して取り除いて【所持アイテム】に収納してある。体内から取り出して単体として収納した事で、リストから確認出来る情報はより詳細になり、HNIW(ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン)という爆発物を使用している事が分かったが、残念ながら聞いた事すらない。また1分間対象の心臓停止を確認すると爆発する仕掛けだがカウントは1つ減って59になっていた。
「死体なんて埋めちまえば良いじゃないか」
 何の躊躇いも無いというより、非常に言い慣れた様子で吐き捨てた。絶対にこの人は何人も埋めている。そう確信した事に気づかれないように話を変える……気づかれたら俺も埋められそうで怖い。
「そうじゃなくて、こいつを殺した時にいきなりレベルアップしたんですよ。だから【反魂】を使って復活させてからもう一度殺せば無限レベルアップが可能になるんじゃないかと」
「そいつはやってみる価値があるな」
 この場には人でなしが2人もいる。ちなみにこの場にいるのは俺と早乙女さんの2人だけだ。
「問題は、こいつもオリジナルシステムメニュー持ちなんで、復活した瞬間にロードを使われると面倒なんですよ」
「俺が復活した時は暫くは頭が回らなかった。すぐに〆れば問題ねぇよ」
 〆るってねぇ……
 やってみた。
 レベルアップは出来なかった。しかも全く経験値は入らなかったよ。
「こいつ役立たずだな」
 【所持アイテム】の一覧リストから、生きてる方のシステムメニュー保持者と比較すると、生きてる方の名前の後に【システムメニュー保持者】と表示されているが、死んでる方には表示が無かった。

「もう君の事を思い出すことも無いと思う。いつか俺が歳をとって自分の時間が残り少ないと自覚した時、不用品と一緒にまとめて火口にでも投げ込んで処分する事になるだろう。サヨウナラ」
 そう口に出してから収納した。
「お前、酷ぇ奴だな……さっさと埋めてやれよ」
 そんなに埋めたいのだろうか?
「もしかしたら思い出すこともあるかもしれない。思い出すという事は何か用があるって事だから……」
「要らない物を捨てられない性質だろ?」
「物と人を一緒に考えるなんてサイテー!」
「…………」
 目が「どの口で言いやがる」と俺を責めている。目を合わせる気は全くないが絶対に責めているはずだ。この左の頬に何かが当たるようなチリチリとした感覚が証拠だ。

「それでもう1人システムメニュー持ちが【所持アイテム】内にいるんですよ。また10代の女性なんですけどね」
 再び強引に話を変える。
「よし殺してレベルアップだ。なに生き返らせれば良いんだから何の問題も無い。何か? 恨みも無い奴を殺すのが嫌か? 分かる分かる。お前の気持ちはよく分かる。代わりに俺がやってやろう」
「そんなにレベルアップが?」
「それもある。だがなこのシステムメニューそのものに興味があるな。こいつは単なる使ってる人間がレベルアップで強くなってハッピーなんて便利なもんじゃない。どす黒い悪意の塊だ」
「俺もそう思いますよ」
「それに俺もお前も乗っかってしまったんだ。悪意の正体を突き止めなければケツがむず痒いだろう」
「早乙女さんには降りるって選択肢がありますよ」
「ふん、こんな楽しそうなのから誰が降りるかよ。大島だって絶対に降りねぇぞ……お前がどんなに降りて欲しくてもな」
「迷惑だな~」
「アイツは何時だって迷惑な奴だ」
 その言葉に腹を抱えて笑った……ヤケクソだった。
「まあ、何だな……やっぱり殺すならお前がやっておいた方が良いだろう。多分、お前が殺して俺がレベルアップ出来ないなら、俺が殺しても俺もお前もレベルアップ出来ないだろう」
「……その可能性はありますね」
「何だ? 女を殺すのは気が引けるのか?」
「そもそも人を殺すこと自体、気が引けるんですよ」
 アンタらと一緒にはされたくない。
「まあ気にするな。これは人助けだと思え」
「人助け?」
「どう考えても人助けだろ。女でまだ10代なんだろ? システムメニューなんてものは普通の人間にとってみればお荷物以外なんでもねえよ。それを取り払ってやるんだから人助けだ」
 確かにそれは正論だ。普通はシステムメニューを与えられてファンタジーな異世界に送り込まれてもレベルアップどころか死ぬだろ。
 俺が最初に送り込まれた森の中は、この世界でもかなり危険な場所であり、俺にしてみても早い段階でシステムメニューの存在に気づかなかったら生き残る事は不可能だっただろう。
 あの森に比べれば安全な場所に送り込まれたとしても生き残る事が出来た奴は少ないだろう。実際【所持アイテム】内の女性はレベル1であり、もしかしたらシステムメニューの存在にすら気付いていない可能性もある。
 そう考えると、多くの──多分9割以上のシステムメニュー所持者がシステムメニューに気付く事なく初日で命を失ったという可能性も十分に考えられる。
 むしろ気づく方がおかしい。自分がいるのが地球上ではない事に気づくなり「ベリーイージーモードで再スタート」とか「リセット」とか叫んでいた自分を省みて恥ずかしいと思うのだから……
 初日でシステムメニューに気付く事が出来たのは間違いなく極少数派だろう……もし多数派だったとしたら人類に失望してスペースコロニーを地球に落とすレベルだよ。

 だが、そうだとするなら疑問が生じる。
 俺達がこちらの夢世界ではなく、平行世界に飛ばされた時の事は、未確認を含めて1000件以上の失踪事件が起きたと聞いたが、仮にその時点でのシステムメニュー保持者が1000人だとして、それまでに夢世界で命を落とした人間は1万人じゃあ済まないはずだ。
 多分、その犠牲者の多くは初日に発生しただろう。
 無駄にサバイバリティに溢れている俺ですら、初日に命を落としかけたのだから1%も生き残れたとしたなら御の字だろう。
 いや単に俺が出現した場所がヤバかったという可能性を考慮して10%か、更に平行世界に飛ばされるまでの2週間以上を生き延びた可能性は5%は難しいだろう。
 だが俺が最初にこの夢世界に飛ばされた4月15日に世界中で4桁に届く人間が睡眠中の突然死を迎えたなんてニュースは耳にした事が無い。俺が知らなくても紫村ならネット上でなんでも拾ってくれるはずだ。

 この矛盾を埋める可能性として考えられるのは、夢世界ではシステムメニュー保持者は死なないという可能性。
 しかしこれはこれで疑問が生まれる。
 死なないというアドバンテージがあるなら、システムメニュー保持者は生き残り続けて、やがてレベルアップする事が出来る。するとレベルアップのアナウンスでシステムメニューの存在に気づかされるだろう。
 そうなった場合、【セーブ&ロード】と死なない身体を使って、俺以上に大胆に狩を行いレベルを上げる奴も出てくるはずだ。
 だが実際は、殺した方はレベル3で生きてる方はレベル1。この2人を平均的システムメニュー保持者と断じる事は出来ないが、可能性としてはかなり低いし、平行世界の方でも、状況からして帰還条件を成立させたのも俺だから、少なくともその時点で俺よりレベルの高い奴は居なかったはずだ。

 それらを踏まえ上で考えられるのが、夢世界で死んだ場合はシステムメニューとシステムメニューに関わる全ての記憶を失い現実世界で目覚めて、普通の生活を何事も無かったように送るという可能性。
 これが今の段階で思いつく矛盾を排除出来る都合の良い解釈だろう。矛盾を排除する以外の観点は本当に一切ないけどな。

 また違った疑問が生まれる。
 現実世界と夢世界の俺の身体が別の身体である可能性。これはこちらの世界で負った傷をあえて残した状態で眠りに就いて、現実世界で目覚めると身体には傷が残っておらず、現実世界で眠りに就いて、再び夢世界で目覚めると傷が残っている事から間違いないと思う。
 すると、現在この夢世界には彼女の肉体が2つ同時に存在するという事だ。
 現実世界での身体で一度死ぬと、現実世界の身体からはシステムメニューが消えたが、こちらの世界の身体はどうなるのか?
 死んだり、消滅するのならさほど問題はないだろう。今夢世界の身体を使ってる俺から見ても、この身体には俺以外の意識みたいなものは無い。この世界で俺の意識の器として何者かによって用意された肉体なのだから。
 問題は、夢世界の身体が何事も無かったかの様に、今まで通りに生きていく場合。システムメニューは所持しているのか? 今までの記憶はあるのか? 意識は現実世界のままなのか?
 自分事でもあるので是非とも確認したい。

「どうした?」
 時間停止も使わずに考え込んでいたようだ。
「いえ、ちょっと考え事を」
「何だ?」
 自分が考えていた事を早乙女さんに伝える。
「……そういう訳で、やるなら、こちらでの彼女の身柄を確保してから試してみたいんですよ」
「二度手間三度手間が好きな奴はいねえって事だな」
「手間とか言うよりも、生きた状態でオリジナルのシステムメニュー保持者を確保出来る機会が、そうあるとは思えませんから」


 結局、システムメニュー保持者については保留のまま、早乙女さんに浮遊/飛行魔法を教えると午前中に更に3か所の巣を回り、追加で1000Lほどのハチミツを入手する事が出来た。
 それにしてもどいつもこいつも簡単に浮遊/飛行魔法を使いこなすな……

 今日中に『道具屋 グラストの店』に持ち込めば3日でドリンクを引き渡してくれるとの事だし、手持ちの分を早乙女さんに分けても十分な量だ。
 ハチミツ1500Lから出来る15000Lのドリンクが出来るので、その半分の7500L、更に早乙女さんと山分けで3500Lで十分に思えるが、紫村達にも回す分、ついでに、香籐以外の2年生達もこっちに引き込む事を考えると2か月に1度位はハチミツ狩りをする必要があるだろう。
 それに余り採り過ぎて供給過剰になる場合は、ドリンクを買い取りとなる……まあ、金はあるからむしろハチミツ狩りをしなくて済む分ラッキーだな。

「午後からはどうする?」
「そうですね大島と合流しますか?」
「だったら、この匂いをなんとかしないとならねえな」
 確かに今の俺達の身体は、濃厚なハチミツの甘ったるい匂いに包まれているので、何をしていたのか大島にはバレバレだろう。
 俺達は【水塊】を使って直径1mの水球を作り出すと、指を突っ込んで【操熱】で良い感じまで加熱する。
 そして服を脱ぐと水球を回転させながら水球の中に粉石鹸を投入する。そして水球の中に身体を入れると水球を上下に動かしながら全身を洗う。
 粉石鹸を使うのには理由がある。石鹸の天然界面活性剤は多くの洗剤に使われる合成界面活性剤とは違い、川の水などの自然水に含まれるミネラル分に非常に弱く、排水が川などの自然環境に流入しても短時間に界面活性を失い無害な石鹸カス(凝固温度が高い油)となり魚などの餌となってしまう。石鹸カスを食べた魚の身が石鹸臭くなるかもしれないが……
 ともかく、キャンプなどの野外生活で使うような『環境に優しいが髪に優しいかどうかは分からないシャンプー』は基本的に液体石鹸だ。
 液体石鹸にも問題はある。髪に優しいかどうか分からないどころか、使い方を間違えると害でしかない。
 石鹸は中性ではなくアルカリ性であり、一般的な洗剤に比べると洗剤切れの悪い。そのため洗髪後しっかり洗い流さないと髪を構成するタンパク質がアルカリ成分によって溶かされダメージを受けてゴワゴワになる。更に酷いとタンパク質が溶けた事で髪同士がくっついて塊になり、最終的には髪を全て切り落とすしかなかったという事例もある。
 まあ、俺も早乙女さんも髪は戦いの最中に掴まれてもすぐに外れる程度の長さしかなく洗い流すのも簡単なので大して問題はない。

 身に着けていた服も洗い、しっかりと濯ぎ脱水をしてから収納する。【所持アイテム】内なら湿っていても雑菌が繁殖し、臭くなる事は無いので宿の部屋で【操熱】で加熱しながら干せば良いだろう。
「これなら風呂はいらねえな」
「身体を洗うのと、ゆっくりお湯に浸かるのは別でしょう」
「中学生の癖に爺臭い奴だな。風呂なんてぱっと入ってぱっと出るに限る」
 烏の行水め、大体それを言うならぱっと咲いてぱっと散る桜だろ?
 俺自身は特に長湯というほどでもないと思うが、一日の終わりに20分ぐらいはじっくり湯船に浸かり、湯上りの気怠さと共に眠りにつくのが最高だと思う。
「まあ良いとりあえず石鹸寄越せ。それから明日は髭剃りもだ。頼むぞ」
「髭剃り? その顔のどこに髭剃りが?」
 髭をのばし放題で熊と見まごう、髭8:肌2という顔のどこに髭剃りが必要なのだろう?
「何言ってるんだ? 髭はちゃんと手入れをしているぞ」
「嘘だ! 1年は人の手が入ってない雑草生え放題の荒れ果てた庭のような顔して何を図々しい」
「餓鬼だな。このダンディーな髭の良さが分からんとは」
 漫画に出てくるような山賊だってもう少し髭の手入れに気を使ってるとしか思えないよ。
「大体、大島だって髭何て生やしてないでしょう!」
 さすがに奴だって教師として最低限の身だしなみに気を使っているんだ──
「アイツは、髭にビールの泡が付くのが我慢できないらしい。馬鹿だよな」
 想定外の理由だったが、どっちも馬鹿だよ。

 その後、昼食を取り、更に頼まていた調味料を渡す。
「何だミリンが……昆布もねえぞ。それに鰹節とは言わないが顆粒のカツオだしとか、どうして持ってこないんだろうな?」
「……塩と胡椒で十分じゃないの?」
 これでも気を使って醤油と味噌、マヨネーズにソースとケチャップ、それからわさびに一味、カレー粉も持ってきてやったのだ。何だよミリンとか出汁とか、そんな上等なモノを使って料理する熊なんて何処のサーカスにも居ねえよ。
「……そうか、お前は可哀想な子だったんだよな。ごめんな。お前の精一杯を馬鹿にしちまって」
 生温い目で同情されただと? しかし、どんなに憤りを覚えても、反論する言葉が上手く見つからなかった。
 分かってるんだ。目の前の熊は俺よりずっと料理が上手いって事くらい。
 そもそも比較すること自体間違ってる。俺のは料理以前の段階だ……くっ、とうとう自分でも慰めの言葉が何も浮かんで来なくなってしまった。


「それじゃあ奴と合流するか……」
 早乙女さんの言葉を合図に俺もマップ機能をONにする。
 事前に2人で手分けをして海岸線から王都手前までの表示不可能範囲の上空を全力で飛び回る事で、ハチミツ狩りで移動した範囲が分からないようにしたので、大島がワールドマップで確認していても一度に表示範囲が更新されるので、俺達が何処をどの順番に移動したかは分からないようになっている。
 これで大島にはドリンクに関しての情報の手がかりを与えるどころか、俺達が何をしていたかさえも分からないだろう。
 何故、早乙女さんがそこまで協力してくれるかというと、早乙女さんをして暴走気味と評せずにはいられない大島を抑え込む材料として、奴へのドリンクの供給源を自分だけに絞るというのはメリットがあるのだろうと予想するが多分外れているのだろう……当たっても嬉しくない。

「何をしていた?」
 再会の挨拶は字面からは想像も出来ない恫喝。子供が泣くどころか、野生の虎ですら腰が砕けて座り小便を流す事だろう。
 そんな物理的圧力すら伴う──実際、気合で魔術すら無効化するのだからしょうがない──威圧に対して俺は正々堂々と早乙女さんを盾にした。
「俺の用事で手を借りただけだ」
「態々、足取りを消してか?」
 息さえしがたい緊張感。
 龍虎相打つ……いや、東映チャンピオン祭り ゴジラ体メカゴジラ 同時上映、アルプスの少女ハイジ他。それくらいスケールがデカい。
 この2人が真剣にやり合うところは見た事が無い。今後も武の道を進み続けるとするなら学ぶ事が多い特別な一戦となるだろう。
「何か問題があるっていうのか?」
「押忍! いいえ」
 大島が折れた? しかも軍隊の「サー、イエッサー、ノーサー」的なヤツで……何たる期待外れ、大島の事を買いかぶり過ぎていた自分が恥ずかしい。
 いや、これがレベルアップによる【精神】パラメーター変動による影響。俺が気づかない内に奴も人間らしくなってきたという事なのか……良かったな大島。お前はやっと憧れていた人間になれたんだよ。(妖怪人間 オオシマ 完)


「どういう事だ?」
 今度は浮遊/飛行魔法を使い自在に空を飛ぶ早乙女さんの姿に大島はこちらを睨んでくる。
「早乙女さんに例の打撃法を教えて貰ったお礼だ」
「ふん、まあ良い」
 どうせ早乙女さんから教えて貰えば良いと甘い事を考えているのだろうが──
「俺は教えてやらねえぞ」
「くっ」
 早乙女さんはしっかりと釘を刺した。
 理由は簡単。基本的に一番カロリーを消費するのは移動だ。高速で長距離を移動出来るが故に限界まで体力を使い切ってしまう。それに比べれば戦闘なんて戦争にでも参加して倒しても倒しても切がないほどの敵と持久戦を繰り広げるのではなければ、基本的に数分で勝つか負けるか決着を迎えるか、逃げるかの判断を下す事になる。
 だから高カロリー・ドリンクの供給で大島を縛るなら、浮遊/飛行魔法を覚えさせないのが一番だ──
「土下座するなら考えてもやらん」
 えっ? それで良いの? いや、そもそも大島に土下座が出来る訳が無い。つまりこれはオブラートで包んだお断りのメッセージに違いない。
「断る!」
 そうだろう。当然そうだろう──
「じゃあ、向こうに戻ったら寿司でも奢れ」
 えっ、えぇぇぇぇっ! 金で済んじゃうの?
「じゃあ、美味い酒のある店で……やべぇ馴染みの店は使えねえな」
 公式的には失踪扱いで政府的には死んだ事になってる大島が、普通に馴染みの店で早乙女さんと一緒に飲み食いするとすぐにバレるだろう。2人はすぐに姿をくらますので、結局面倒事は全て俺が引っ被る事になるだろう。
 だが止めろと声に出す事は出来ない。それは自分の弱味を見せる事になり、大島は笑顔で俺に無茶振りをしてくるだろう。ここはあくまでも「そんな事は知ったこっちゃない」という態度を守るべきだ。
「どうした? 都合悪いけど興味ない振りしてやり過ごそうってか? いつも通りの分かりやすい顔してんな高城ぃ~」
 何て邪悪な笑みを浮かべるんだろう。本当にこいつは大嫌いだ。今すぐ隕石が頭に直撃して、転んだ拍子に川に落ちて海まで流されて、どこか遠い無人島で生涯を終えてくれねぇかな? ……妄想の中でも老衰しか思い浮かばない弱気な自分が悲しい。
「いえいえ、歩く3歩先に犬の糞を見つけた程度の気分ですよ」
 何をしようがお前はその程度の存在だと言外に匂わせてやる……自分で挑発しておいてちょっと心臓バクバクなのは骨の髄まで刷り込まれた恐怖心のせいだ。
「言うようになったもんだ。命のやり取りを経験し、殺しもやっただけはあるな」
 まるで通過儀礼を経て仲間入りしたような口振りは止めて貰いたい。本当にお願いします。アンタらと俺は別のカテゴリーに属してるんだから。
 まあ、ここで嫌がる素振りを見せれば、一層掘り返してくるので軽く流そう。
「まだまだ、お2人には敵いませんよ」
 出来るだけ無難に返した。
「そりゃそうだ。場数が違う」
「年季が違うからな」
 こいつら、自分達が人殺しの経験がある事も軽く認めてるだろ。
「もしかして、2人が【反魂】で蘇った時にレベルアップしたのは、沢山殺しをして経験値を貯めてた……から?」
 ついでだから、今まで聞かずにスルーしてきた事を聞いてみる。
「人間か? 人間は経験値にならないぞ。こっちでも賊の類を結構狩ったが、奴らからは経験値は鼻糞にもならん程度だ」
「レベルアップの経験値は、熊やイノシシのだろうな」
 こっち『でも』って、疑う余地も無く完璧に殺人の事実を認めてるよ。こいつらにとっては賊の類なら殺ってしまっても構わないって事らしい。
 確かに俺だって生かしておけば、自分や自分の周囲の人間の命に関わるような敵対的存在は、一発ぶっ飛ばしてから優しく「やり直せ、お前はまだやり直せる、一からやり直すんだ……来世でな」と止めを刺して後悔の言葉一つ漏らさないだろうが、この2人にとっては敵対者の命はもっと軽いようだ。


 浮遊/飛行魔法を覚えた大島は簡単に使いこなして、早乙女さんと空中戦を演じている。
「マジかよ」
 俺が生まれる前に原作の漫画の連載も、オリジナルのテレビシリーズも終了したが、何故か知ってる国民的アニメ。しかも今年は十数年ぶりの新作映画まで上映している例のアレ。キーアイテムでタイトルになってる竜珠が途中からフレーバーなアレ。
 それそっくりな空中戦が目の前で繰り広げられているのだ。
 完全に一つ一つの動作が地上での動作と比べて遜色がない。むしろ浮遊/飛行魔法によって重心の移動をサポートする事で切れや緩急幅など小さいが非常に意味のある動作が洗練され、全てが水の流れの様につながっている。
 身体の動作を伴わない重心移動は、ある程度武を修めて予備動作から何をするのかを読む者にとっては魔法にも等しく──魔法だけど──意識する事すら出来ぬ間に攻撃・回避に移る行動の第一ステップを終えている事になる。
 それだけではなく重力に逆らう形での重心移動も可能なので気付かない内にどうこうではなく、何が起きたのか気づいた時にこそ激しく動揺、混乱し隙を作ることなるはずだ。
 悔しいが俺などが割って入る余地はなく、見惚れるしかないほど見事な戦いだ。
 あの2人は空を見上げて飛ぶ鳥を見ては飛べぬ我身を呪い、いつか自分が重力から解き放たれることを渇望して来たのだろう。そして同時に飛べたならば自分がどう戦うかもイメージする。そんな事を繰り返してきたのだろう……そうでなければ、飛べるようになってすぐに、ああまでも空を自分の物に出来るはずが無い。
 才能の問題じゃ無く、強くなるためにどこまでも貪欲なれる心構えが俺とは全く違う。そんな男達が俺が生まれるずっと前から己の武を磨き続けてきたのだ……勝てないな。俺には『まだ』勝てない。だが『何時か』越えてやる──
「初めてでここまで出来る俺達って天才だな、大島!」
「ああ、こんな想像すらしたことも無い状況だというのにイメージが次から次と湧いてきて止まらん!」
 おーいっ! 色々と台無しだよ。畜生! 才能あるものが才能の無い凡人を虐めるのは止めろ。あとシリアスさんが呼吸してないからほんと頼むわ。


「凹むわぁ~」
 まだ空中戦を楽しんでる2人の姿に心が折れそうになる。
 高所恐怖症が改善されているとはいえ、完全に呪縛から解き放たれてはいない俺には浮遊/飛行魔法と足場岩を使った。三次元的な素早い動きは出来ない……別に良いんだ。ほら、土から離れては生きられないと昔から言うだろ。
「高城、こいつは良いな。お前も上がって来いよ」
 俺が高所恐怖症だと知った上での挑発に対して答える言葉は一つしかない。
「だが断る!」
「お前なぁ~、いい加減克服しろってんだよ」
 気に入らないな。その他人の苦悩を理解しようとすらしない態度。
「出来るもんならとっくにやってる」
「自分がパラシュート無しでスカイダイブして死ねる身体じゃない事くらい受け入れろ」
「世の中には1200mで飛行機から飛び出して、パラシュートが全く開かないまま、木などのクッション無しに粘土質の地面に叩きつけられて生き残った女性もいる。 そういう意味では、俺なら死なない可能性も十分にある……かも?」
「かもじゃねえ分かってねえな……お前は200km/hくらいで岩壁に突っ込んで死ぬ自分を想像出来るか?」
 200km/hか、500km/h以上で飛びながら足場岩を蹴って直角に曲がる事が出来るのだから、激突の前に足で壁を蹴って、そのまま壁を上へと走れば衝撃は殺せるだろうな。
「出来ねえだろう。スカイダイブでの人間の落下速度は、1番速い頭を下に向けた姿勢なら300km/h以上は出るだろうが、身体の正面を地面に向けて手足を広げた状態なら最大でも200km/hは出ねえ、お前みたいに痩せで手足の長い奴なら精々180㎞/hってところで、空気抵抗と重力が釣り合ってそれ以上加速は出来ねえんだよ。何を恐れる必要がある?」
 俺が痩せだと言うには凄い疑問があるが、早乙女さんは他人に教える時にきちんと相手が納得出来る言葉を使う。大島とはえらい違いだ……一方、大島は余計な事を教えやがってという目つきで早乙女さんを睨んでいる。
 教員免許の取得って人格とか面接で判断しないのだろうか? 面接があって通過したとするなら面接官の家族を人質にとって脅迫したと考えるのが妥当だろう。恐るべし、こんな無茶な妄想に全く違和感を覚えさせない恐ろしさ。

 早乙女さんの指摘を受けたおかげで、俺は多少高所への恐れを減らすことが出来たと思う……だから実験をやってみようという気持ちになれた。
 試しに上空500m程で魔法の使用をやめて、落下を始める……本来ならここでケツから背筋を通って頭の天辺から突き抜けていく恐怖に意識が遠のくのだが『ちゃんと対応すれば怪我はしない』『失敗しても痛いで済む』と自分に暗示をかける事で耐え切る事が出来る様になっていた。
 地上を見下ろしながら大の字に手足を伸ばす。普通なら肘や膝を曲げた安定度の高い姿勢を取るのだが、俺は出来る限り空気を身体で受け止めるために手足を伸ばす。空気が激しく身体に当たる時の圧力で、粘性の高い液体の様に身体の表面を流れていく。姿勢制御を試すように身体を微妙に動かしていると、やはりこの姿勢の安定度は低くほんの僅かな動きで一瞬にしてバランスを失う。ちびる事すら出来ないほど恐怖に駆られたがすぐに冷静さを取り戻し体勢を立て直す事が出来た……今までの俺とは確かに違う。違うのだよ!

 掌を空気を掴むよう形にして受け止める事で、何も無い宙にいる自分の身体を支える支点にする。上手く空気を逃がすようにしないと反動が大きすぎて上体が仰け反るので調節が必要……だが、確かに落下の加速はある一定で収まる。
「何とかなりそうだ」
 そう呟くつもりだったが、吹き付ける風に上唇が反り返り、訳の分からない音が漏れて、慌てて口元を引き締めた。
 思っていた以上に大地がゆっくりと迫って来るのが見える。自分がここまで冷静でいられる事に軽い驚きを覚える。
 頭の中で着地のイメージを描く、5点着地? そんなのやった事ねえよ。そもそも高所恐怖症の俺が高いところから飛び降りて着地する練習なんかするはずが無い。
 だからもっと単純な着地法を使う。軽く前傾姿勢で足から着地し、垂直方向に上から圧し掛かる運動エネルギーの一部を足首、膝、股関節、腰、背骨で順番に受けつつ、大半を前に向かって倒れる方向へと逃がす。
 そして、身体の傾きが45度を超えた段階で撓めた関節を伸ばす事で前方へと跳ぶ。腕を突いて肩を支点にするイメージで運動エネルギーを身体ごと回転軸に巻き込むように前転する……イメージは完璧だ。行ける!
 そう確信し着地する直前。殴りつけるような大島の叫びが耳を打った。
「小細工するな。そのまま足から着地しろ!」
 余りにドンピシャのタイミングに、俺は着地の直前に身体を硬直させてしまった……
「お、おい! 無事に2本の脚で地面に降り立ったよ。降り立ってしまったよ!」
 両足の膝をカクカクとさせながら天に向かってそう吠えた。

 それはさておき、振り向きざまのバックスイングで裏拳を飛ばす。
「おっと……あぶねえな」
 全然危なくねぇ、余裕で受け止めやがる。牽制目的で当てるつもりも無かったが、こうまで余裕だと苛立つ。
「危ないのはお前だお前! 何してくれんの? なあ、一体何考えてるんだ?」
「何でも無かったんだろう、何が問題なんだ?」
「死ぬかと思ったわ! ちびったらどうするんだよ! お前が洗濯してくれるのか?」
「とりあえず写真に撮ってお前の実名でネットに流すだろうな」
 うわっ、どこかの性質の悪い中学生みたいな事を……俺だよ!
「人だと思った事は無いけど、人でなし!」
「中々いうじゃないか? それなら俺と空中戦といこうじゃないか……なあ高城?」
「練習もさせないつもりか?」
「俺だって今初めて飛べるようになったばかりだ、何の問題も無いな」
 嫌な流れに引きづり込まれている……まさか!
「ここまでの流れを全て読み切ったのか?」
「読むだと? 分かると言って貰おうじゃねえか」
 な、なんだって────っ!? と驚く事は無かった。大島は良くこういうはったりをかます。そしてすぐにバレて逆切れする……何て面倒くさい大人だ。
「嘘吐け」
 次の瞬間、早乙女さんが大島の背中を容赦なく蹴り飛ばしたことに驚いた。
 蹴られた大島は怒った様子もな無く、むしろ笑顔で早乙女さんを蹴り返す……いい歳してじゃれ合っているだと?
「その思いついた事をとりあえず口にする癖は止めろ」
「そっちの方が格好良いじゃないか」
「いい加減、40近くにもなって大人として責任のある発言をしろ」
 まあ、大島は常にノリと勢いと暴力で生きて来たような男だ。勝手に話を膨らませた挙句に、それを前提にして強引に事を進めようとする……駄目だ。何と表現した良いのか言葉が浮かばない。
 それにしても、早乙女さんと素で話す大島はまるで悪餓鬼そのもので……全く可愛くない。
 こんなに可愛くない無邪気さというのが存在する事に俺は恐怖した。動物園の熊だって食後のまったりとした気分でじゃれ合っている様子には可愛らしさがあると言うのに……


「俺等がやるのをしっかり見とけよ」
 ……などと言われたものの、早乙女さんからは実際に殴って覚えるしかないと言われているので、むしろオーガでも殴りに行った方が役立つんだよな。

 海上200mほどから、オーガの死体を10体ほどを適当に撒餌として投下する。
 素材としても高値で買い取りして貰えるオーガだが、解体の手間を惜しんで一番高く、そして簡単に取る事の出来る角以外はまとめてポイという勿体無さだが、俺も最近は角以外のオーガ死体は海洋投棄しているので文句はいえない。
 相場次第だがオーガの角は1対で10000ネアほどで買い取って貰える。更に皮や骨、ついでに肉は合わせると1体分8000ネアほどで買い取って貰えるので本当は勿体無いだのだが、解体業者へ持ち込むのに【所持アイテム】から取り出すというのも問題があり、面倒なので角をミーアに卸すだけにしている。
 俺が普段泊まるような比較的評判が良ければ値段も良い店で、個室で食事が晩と朝に2食付いた部屋が50ネア以下なので、8000ネアなら約半年は泊まれるのでかなりの大金なのだが、龍の買取金額が高すぎて金銭感覚が完全に麻痺してしまっている。
 あの2人だってオーガを10体も狩って角を売れば、1年間は遊んで……いや、豪遊して暮らせるだけの金が手に入るので異世界生活3日目にしてこの有様だった。

「ダボハゼ並みだな」
 ものの数分で現れてオーガの死体を触腕で捉え、カラストンビと呼ぶにはスケールが大きすぎる上下の顎板で、驚くほどあっさりと上半身と下半身を2つに切り裂き、前者を飲み込んでしまうクラーケンを大島はそう評した。
 大島が時折口にする言葉だがダボハゼとは何かは知らないし、知りたいと思うほど興味を持った事は無い。大島の口ぶりから何にでも食らいつく雑魚という意味だと想定しているから、クラーケンは雑魚はないだろうと内心突っ込む。


「行くぞ」
「おう!」
 先に降下を始める早乙女さんを大島が3秒ほど遅れで追いかけて降下して行く。その3秒という数字の意味は分からないが、俺は大島にそう遅れずに浮遊/飛行魔法の重力制御を止めて追いかける。
 餌に意識を向けているといえども、タコ同様に各腕に副脳を持ち、捕食作業に費やす脳のリソースの多くを副脳が請け負う事で、クラーケンの意識は常に周囲への警戒におろそかにはしないので、即座に上空への迎撃を開始した。

 鋭く伸びてくる触腕に、一瞬早乙女さんの身を案じたが、2人は既に何匹ものクラーケンを狩っている。だからこの程度の攻撃への対処は出来ている筈なので手は出さずに見守る事にすると、予想外の事が起きる。触腕とぶつかる瞬間に早乙女さんは取り出した岩を足場に使い触腕を殴り付けた瞬間「パンっ!」と音と共に触腕が殴られた場所から破裂して千切れ飛んだのだ。
 俺の目の前で物理法則が崩壊した瞬間であった。

「はぁ?」
 思わず間抜けな声が漏れる。
 レベルアップによるハイパワーとかハイスピードとか高等打撃とか謎の共振現象なんてちゃちなもんじゃない。俺の大っ嫌いなオカルトっぽいモノを感じた。
 はっきり言って格闘技+オカルトなんて格闘技+宗教と同じくらいに気持ち悪い。
 個人的見解として格闘技+オカルト=合気道という公式が成立するほど、俺は合気道を毛嫌いしている。

 そもそも合気道という武術はオカルト抜きでも嫌いだ。
 強くなるという目的に対する最短ルートを真っ向から拒否している迂遠な姿勢が嫌だ。
 そもそも合気道は護身術などと称して人を集めているが、合気道は他の格闘技に比べ決して習得し易くはなく、むしろある程度『使える』レベルまで習得するには、空手と比べれば倍以上の時間と努力を要するだろう。
 少し考えれば分かる事だが護身術であり基本的に相手の攻撃に対して応じる形になる。つまり初歩の段階から他の格闘技では初級レベルを脱した者がやる難易度で始まるのだから敷居がかなり高い。

 しかも目立ちがり屋の馬鹿がテレビに出ては詐欺紛いで……いや、明確に詐欺で客寄せをする。
 見世物よろしく「背後からここを、こう掴まれたら、こうして下さい」的な阿呆発言。背後からいきなり肩を掴まれたしても掴んで来た手が右手か左手かでは全然対処法が違う。背後から掴んで来た手が右手か左手か、どういう体勢なのか瞬時に判断して最適な行動をとれるなら、そもそも合気道なんかを身に付ける必要は無い。

 護身術として『こうされたら、こうする』というのは、その前提条件として『相手にこう【させる】為の状況を作り出す』という方法が先に必要であって、それが無ければ無限の可能性に対処する方法を身に着けて、状況に応じて使い分ける必要がある……まあ、無限は言い過ぎだが。
 つまり、テレビなどで『背後からこう掴まれたら、こうすれば撃退できます。どうです合気道って簡単で凄いですよ。是非とも学んでみませんか?』という宣伝は詐欺である。
 実際それを有効に使えるようになるには様々な前段階の練習が必要であり、身に着けるにはかなりの時間と努力必要になる。短期間である程度強くなりたいならば他の格闘技をお勧めしますというのが誠意ある態度だろう。
 弱い者が自分よりも強い者から身を守る手段を身に着けたいと思っているのに、他の格闘技に比べて習得が難しい合気道を選択させるのは犯罪にも等しい。防犯用アイテムでも持たせておいた方が遥かに役立つ。

 その手の馬鹿だけでも十分唾棄するに値するのだが、更に許せないのが『気』とか言い出す。格闘技オカルト派共である。
 何が気だ。やられる方は完全に自分で跳んでるだろうが、いい年してヒーローごっこと同じ事を、しかも人前で真剣にやって恥ずかしくないのか?
 大体、おっさんが「私は気を使って、手を触れずに相手を吹っ飛ばせます」なんて言い出した時の相手の心情を慮れ、むしろ相手の方が『大丈夫かこの人? 病院に行くことを勧めるべきか、それとも警察を呼んだ方が良いだろうか?』と気を使う立場だよ。
 腹を切れ腹を……それなのにだ! よりによってこいつらが格闘技にインチキ臭いモノを取り入れやがったなんて、よくも2人して俺を裏切ったな! …………いや、別にインチキじゃないなら良くないか? あれ?


 その後も続け様に高射砲の如く飛んで来る触腕による迎撃を逆に次々と迎え撃つ。早乙女さんの腕が足が振るわれる度に巨木の幹にも匹敵する太さの触腕が千切れ飛ぶと、重さ1tを超える足場岩が殴った反動で二重にブレて見えるほど動き、収納されて消える。
 しかし、早乙女さん身体の軸は一切ブレない。どれだけのボディーコントロールを身に着ければ為し得るのか俺には想像すらつかない。

 そしてついに早乙女さんの両足はクラーケンの丁度両目の間を捉える。
 しかしクラーケンの身体の表面に波紋が立たない。200m以上の高さから重力によって引き下ろされた身体が持つ運動エネルギーによって、その水分量の多そうな身体の上に立つ波の形が見えないのである。
 確かに彼の着地点は大きな窪みになっているのだが、窪みの縁の外側に波紋らしきものを俺の目にも捉える事は出来ない。
 つまり、力はほぼ真下。クラーケンの身体の両目の奥にある脳へと向かっているという事だ。
 着地の衝撃を極限まで減らす事で、身体に掛かったベクトルの方向を分散する事なく目標の一点に絞り込む……口で言うほど簡単な事ではない。俺と早乙女さんとの力量の差を見せつけられるばかりだ。

 早乙女さんは位置エネルギーから変換された運動エネルギーが0になる直前に、着地時から身体をたわめて蓄えていた力を足元に叩き付ける様に跳躍する。
 そして直後、入れ替わる様にして大島が落下による運動エネルギーに己の身体の筋力の全てを削ぎこんだ一撃を着地点に打ち込んだ。
 着地の瞬間に大島の足元から湧き上がり押し寄せる物理的な干渉を伴う何か。気合と称して魔術の発動すらも封じる何かが、かつてない巨大な波となって俺にぶつかった……これはもう、クラーケン駄目かもわからんねと思わせられる。


 絶命したばかりである証の体表面に斑が浮き出たり消えたりをランダムに繰り返しながら海上に浮かぶクラーケンの上に降り立つと、そのまま大島を問い詰める。
「おい、アレは何だったんだ?」
「何だも何もただの【気】を入れた一撃だろ」
 おい、そこで何言ってるんだこいつ? みたいな驚いた顔をするな……ん? 早乙女さん?
「気合を入れた一撃?」
「【気】だ。【気】! 民明書房の本に書いてあるだろう!」
 また訳の分からない事を言い出す。
「知らねえよ!」
 知りたくも無い。こいつが何を言ってるのか分かったら負けな気がする。
「だから【気】だって言ってるだろう。2週間に渡って腕を回しながら溜めに溜めて打った必殺技的なアレだ。イライラしてそんなことしてる間に相手も殴れよってテレビに向かって叫んで、親父にウルセエ! って怒鳴られるアレだ!」
「本当に知らねえよっ!」
 昭和生まれが少年時代に夢中になったモノで例えられても分かるかよ。


「だ、大体【気】って何だよ。何でいきなりオカルト染みたことを──」
「……魔法とか使っておいて、お前がそれを言う?」
 大島が心底驚いたとばかりの表情を浮かべている。言われないでも、自分でもそうじゃないかと思いつつも気づかない振りをして、それを誤魔化すために合気道に切れてみせたりもしたというのに……とにかく落ち着いて話を聞こう。
「何でそんなモノを身につけられたんだよ?」
「そりゃあまあ鬼剋流ってのはそういうもんだからだな。【気】の一つも使えずに鬼とは戦えねえだろ」
 他人に対して気の一つも使った事が無いくせに! ……いやそうじゃない。もっともな話だがそうじゃない。
「お前、今何て言った? 鬼とか──」
「ああ鬼だ」
「鬼? やっぱり気狂いか? 気狂いなら仕方がない」
 残念だが、身体の病気は治せても心の病気を治す魔術は知らないんだよ。
「誰がだ! いるんだ鬼は、実際いるんだよっ!」
 何処か必死な響きのあるとはいえ大島の言葉を信じるのは愚かだが、だが嘘を吐いてまで、いい歳したオッサンが「鬼がいるんだ」なんて恥ずかしい事を主張する理由が俺には想像出来ない。そうだとするなら事実かどうかはさておき少なくとも奴は本気で言ってるという事だ。
「マジかよ!?」
 【気】だの【鬼】だの、こいつら今更世界観すら変えるつもりなのか?
 今までの爽やかな青春学園物……無理があるのは重々承知だ馬鹿野郎! ……がいきなり「鬼畜ヒデエwiki」や「夢枕立つ」の作品みたいな伝奇アクション物に路線変更する気なのか? 腐女子共によって紫村を軸とする空手部を舞台とした18禁BL小説シリーズの登場人物にされているだけでも頭痛いのに。本当に頭痛いのにぃぃぃぃっ!

「何をいまさら驚く? 鬼に勝つと書いて鬼剋流だ。いい歳した連中がこの世に存在しない化け物相手に勝つ練習を必死にしている様な頭のおかしな団体だと思っていたのか?」
「あっ、はい」
「あっ、はいじゃねえっ!」
 そんな事を言われても、本気でそう思ってたし。
「かなり気持ち悪く、関わり合いになりたくないというのが代々の部員達の偽りの無い気持ちです」
 容赦なく事実だけを包み隠さず伝えた。
「お、お前らな!」
「大島! お前は教え子達にどういう指導を──」
「無理無理、そもそも大島と俺達の間には何の信頼関係も無いし、一見上意下達の関係ですがそこには尊敬などという感情を挟む余地は無く、恐怖で縛られているだけなので、大島がいきなりこの世には鬼なるものが実在し、鬼剋流はその鬼と戦うためになどという話しても、表面上は頷きながら、とうとう社会生活が不可能なレベルまで狂ったかくらいにしか思いませんから」
「それは酷いな!」
「子供相手にそんな人間関係しか築けない大人ってどう思います?」
「……マジ最低だな! 道理で、総帥が直接スカウトに行ったら泣いて嫌がったはずだ……なぁ大島?」
「ちっ! 泣いてんじぇねえってんだよ」
「お前は反省しろ!」
「泣いたのは、何で中学を卒業した後も大島に関わらなければならないのかという胸に去来するやるせなさのせいだと……」
「ああっ! 全く何でこんな事になってるんだ? 高城ぃっ! お前は入門するよな? するんだろ? な!」
 早乙女さんもかなりテンパっている。
「嫌か、嫌じゃないかといえば、積極的に嫌です」
「納得の回答ありがとうな。だがそこを何とか!」
「この件は持ち帰り精査した上で前向きに検討したく」
「それは日本語で言うとNOじゃねえか!」
 英語だよ。

「大体、何で俺達を鬼剋流に引き込もうとしてるんです?」
「……」
 早乙女さんは黙して語らず、ただ何か言おうとした大島の脇腹を拳で抉った。
「なるほど。他人様の子供を鬼とやらと戦わせようって心算ですね……人でなし」
「お前のような子供がいるかっ!」
「さぶイボが立つわ!」
 こいつら2人とも酷いわ。
「……検討の結果、今回はご縁が無かったという事でオナシャス。今後の皆様のご活躍とご健勝をお祈りいたしております」
「オナシャスって何だ!」
 大島、何でも人に尋ねないで自分で調べろ!
「そう言う問題じゃない。奴は完全に心を閉ざしたぞ」
「問題ない。アイツはいつも心を閉ざしているから」
 失礼な、まるで俺が精神的に病んでるかのように言うな。
「お前だけにだろ! 前から思ってたけどお前は教師に全く向いてない。教える方も教えられる方も不幸だから辞めろ」
「いえ、大島は何時だって幸せそうですよ。ただ奴の幸せと教えられる側の幸せが反比例しているだけで……勿論、教えられる側の人数の方が多いので世界全体の幸福量は大島によって激減中ですが」
「大勢の犠牲の上に成り立つ。俺の幸福……最高じゃないか」
「自分勝手な事を言うな! せめて他人のちょっとした不幸を出汁に、この上ない幸せを追求してみせろ」
 ……早乙女さん、言いたい事は分かるけど、それもかなり最低な発想です。
「なるほど」
 納得するな馬鹿野郎! 他人の不幸とは関係無い方法で幸せを見つけろ……兎に角どこか遠くでな!

「俺達を引き込まなければならないほど人手不足か?」
「鬼と戦えるようになれる奴はそう多くは無い」
 早乙女さんの言葉に俺は一つの答えにたどり着いた。
「……なるほど、つまり早乙女さんは【気】とか【鬼】の話は、現実世界に帰るまで俺に聞かせたくなかった……という事ですね」
「な、何を?」
「だって早乙女さん。大島が【気】について話した時、明らかに動揺したじゃないですか?」
 そう俺は、大島が何言ってるんだこいつ? みたいな顔で驚いている時、早乙女さんがしまったとばかりに顔を歪めたのを目にしていた。
「聞かせるべきでは無い話を大島が口にしてしまった。でも何かおかしかったんですよ。強く止めさせたり否定する事もせず、いや出来なかった。それは知られた事以上に、今この場で知られるのが拙かったと言わんばかりで」
「一体何が──」
 反論しようとする早乙女さんを手で制す。
「貴方は俺達を鬼剋流に引き入れたい。ならば大島の発言はその妨げになるのでは? そう考えると色々と想像以上に空想の輪が広がり、しかもぴったりとはまり込むんですよ」
「…………」
「沈黙は肯定と受け取らせて貰いますよ。多分早乙女さんは現実世界に戻り、システムメニューの事を鬼剋流本部に報告したいと考えていた。そして鬼剋流の総力を挙げて我々をスカウトするつもりだった。だから大島が余計な事を口にした後は過剰なほど俺に同調するそぶりを見せた」
「…………」
「さぶイボの件で貴方の本音を聞けて気づけました。本来こういう人だった筈なのに変だとね。そしてどうして大島は、ああまでも迂闊に口を滑らせたのか? という疑問が湧きます。その男は適当でズボラでいい加減な奴ですが、自分の利害に関しては計算高い。つまりあの発言は大島本人にとっては利害関係には無いと判断した上での発言」
「大島?」
 驚き見やる早乙女さんに、大島は不敵な笑みを浮かべる。
「部員達にいう事を聞かせさせる事など俺には簡単な──」
「そうそれだよ大島。俺がやっと気づいたお前を絶対に許せない理由がそこにあるんだよ!」
「ほう……」
「お前が学校で女達から心底嫌われている。あれは態とだろ。俺達に女子が近寄らなくするために態とやっているんだろう!」
 女二人と、しかもこっそり二股じゃなく公認の上で付き合うというプチハーレム状態で、異世界においても48時間で相手が結婚を意識するほど誑し込むという、エディー・マーフィーもびっくりなうらやま……けしからん男だ。
 当然、女の扱いに長じていなければ無理な話であり、そんな奴が女から蛇蠍の如く嫌われる? 騙されていた自分が馬鹿過ぎて笑えるほど有り得ない事だ。
「ふん、良く気づいたな正解だ」
 つまり、こいつは空手部部員を態と女にモテない状況に追い込み、いざとなったらハニートラップに嵌めて俺達を意のままにするつもりだったという事だ。
 そう、俺達に全く女っ気が無かったのは大島の企みのせいだったと……決して、俺達がモテないという訳では無い……絶対に無い……きっと。
 これは大島はチンポをもいでも許されてしかるべき事案だ……悔しいんだ。女にモテたくて必死な男子中学生を追い込むためだけに、学校では態と女性から嫌われてみせる余裕。そして私生活では複数の女を侍らせる余裕。
 悔しくて悔しくて仕方ない。俺達が空しい中学生活を送っているのを陰で笑いながら見ていて、自分はしっかり女とやりたい放題だったなんて。
 歴代空手部部員達の無念を思うと……大島を考え得る限り最も残酷な方法で殺した上で、裁判で無罪を勝ち取り世界中から「良くやった」と称賛され、後にノーベル平和賞を受賞したくらいだ。

「とりあえず、2人共こちらの世界に島流し続行&システムメニュー剥奪で」
「おいっ!」
「ウルセエ! 糞野郎。当然の処置だ命あるだけ感謝しろ!」
「大島が、俺も退くくらい糞野郎なのは同意だが、俺までシステムメニュー剥奪かよ!」
「連座制」
 俺は無情にもそう告げた。
「れ、連座制?」
「連座も何もあんただって同罪だろ、知ってて俺を止めずに笑ってたんだし」
「てめぇこの!」
 暴露した大島に絡むこいつも結局は人でなしなのだった。
「結局あんたも大島の類か、この屑め」
「いや、違うぞ。俺はこいつよりはまだ──」
 俺の向ける目が冷たすぎたのだろう。途中で言葉を飲み込んだ。
「俺を騙したよね?」
「何がだ?」
「何が技だ? いや業だ? ただのオカルトじぇねえか!」
「いや違う。【気】を身に付ける前段階としてお前に教えた事は本当に必要だ」
「……話を聞こう」
「【気】は単なる打撃よりもずっと身体の表面へと逃げやすい性質を持つ。だからより多くの【気】を相手の身体の芯へと送り込むにはあの技法が必要になる」
「そうか……でも結局は騙して鬼剋流に引き込むつもりだったのは変わらないから」
 冷たい視線を送ると『元』早乙女さんの人でなしがしつこく粘る。
「……鬼剋流には入門するよな?」
「誰がするか馬鹿野郎!」
 何故そこまで俺達を鬼剋流に入れたがる? 鬼とは俺達の力まで必要とする相手なのか?
「大体、鬼って何なんだ?」
 気になったので聞いてみる。レベルアップ前の大島達が戦えたのなら何とかなるとは思うが……
「お前は鬼と聞いて何を連想するんだ?」
「そりゃあ、角が生えてて──」
「先ず、そのステロタイプは捨てろ」
「……親父ギャグか?」
「ば、馬鹿野郎! ただの偶然だ!」
 顔を真っ赤位にして否定する。本当に偶然のようだ。
「『鬼』には対になる言葉がある。それは『悪』だ。『悪』には、単に道徳や法に従わないという意味での悪いという意味以外にも、古くは恐ろしいほどに強いという意味。そして『災い』を意味でも使われていた」
「災い……何を災うと言うんだ?」
「人だ。古来から人に災いをもたらすモノを鬼と呼ぶんだ」
「だから鬼と戦わなければならないと……どうすれば鬼は倒せる。殴れば殺れるのか?」
 それなら少なくとも自分と自分の周囲の人間は助けられる……うん、それで十分だ。
 世界平和ってのはたった1人ヒーローが世界を背負って戦い勝ち取るモノじゃなく、世界中の1人1人が自分と自分にとって大事な人々を守る事で成し遂げられるものなんだから。
 直接的に知り合いじゃなくとも、知り合いの知り合いをたどれば間に5-6人も挟めば世界中の誰とでも繋がるんだから、自分にとって大事な人を尊重するならばその人が大事に思っている人にも手を差し伸べるだろう。
 そう考えると世界は驚くほど狭く感じられるはずだ……まあ、それっぽい事を言っただけで嘘なんだけどな。
 世の中そんなに簡単なモノじゃねえ事くらい中学生にも分かる。分からない奴は人間を全く理解してない。究極の自己中か馬鹿だのどちらかだ。

「鬼を倒す為の業が【気】だ」
 何となく予想はついていたが、そうなると俺には倒せない。
「【気】ね……」
「古くは『氣』であり、そして元々は『鬼』、『鬼気』とも呼ぶ。毒を持って毒を制す。鬼を倒し得る業も人もまた鬼だ」
「残念だが力になれそうもないわ。気とやら使えないし。いや本当に残念」
 出来ない事は出来ないと割り切るべきだ。特にこいつらに関わる事ではその見切りが大事だ。
「身につけろよ。努力しろよ。諦めるなよ!」
「俺、今時の子供だからそんな風にグイグイ来られるのが嫌い」
 俺の拒絶の言葉に、諦め、そして──
「分かった分かった……じゃあ教えてやるよ!」
 何をするつもり──「なっ!?」
 しまったこの手があったか……【伝心】によるイメージ情報の伝達。気を身体の中で練り上げる感覚。身体の隅々にまで送り出す感覚。そして相手に打ち込む感覚。その全てが情報の奔流となって流れ込んでくる。
 マズイ。このままでは【気】を使えるようなってしまう。
「どうだ? 【気】を身につけたら、鬼が見えるようになるぞ。そうなった時、人を害する鬼を見過ごす事が出来るのか? なあ高城」
 やられた……社会だ。世の中だ。世界だと大きな事を言われれば中学生に頼るなよ関わり合いにならない理屈も見つける事が出来るが、流石に自分の目の前に災いと呼ばれるような存在が現れれば放っておけない。
 仕方ない。それに【気】とやらを使ってみたいという気持ちもある……だって厨二病だもの。

 元早乙女さんに目配せすると、無言で頷き返してきた。そして「おい」と大島に声をかけ気を惹いた瞬間、その背後から伸びて来た2本の腕が奴に抵抗する暇すら与えず捉えて身動きを封じる。
「よし試してみろ」
 その声に俺が頷くと、流石に大島も慌てた様子で「おい、止めろ!」と叫ぶ。
「手加減は期待しないでくれ、何せ初めてだから」
 流石に殺す気は無い。先程【伝心】で伝えられた情報の中から、ヤクザ相手に殺さない程度に手加減して打ち込んだ【気】のイメージを頭の中に再現しながら脅す。
「お、憶えてろ!」
 【気】を練り上げていく。なるほど、実際の感覚と【伝心】で流し込まれた感覚とではさほど差はない。これなら問題なく使えそうだし、紫村達に教えるのも簡単だろう。
 どうやら空手部の練習メニューは【気】を使える様になる事を前提に作られているようだ。
 呼吸法から体重移動。身体中の関節の使い方のすべてが【気】を使いこなす事を前提に作られている様に感じられる。身体の全てが【気】に馴染んでいる。そんな感じがする。

 かなり軽く【気】を込め、そして軽めに殴ってみる。拳に伝わる衝撃と一緒に身体の中でうねりを上げる何かが拳の先から迸り、大島の身体へと流れ込んでいく。
 大島は、その場に倒れ伏してビクンビクン痙攣し始める……生命の終わりを生々しく感じさせる動きで気持ち悪い。
 ともかく【気】が使えるようになってしまったのは間違いないようだ。

「やるじゃないか、良い【気】の流れだったぞ」
 いまだ意識不明な大島を他所に切り替えの早い元早乙女さん。
「そりゃあどうも」
 あんたから送られてきたイメージ通りにやっただけだが、それが出来るというのも凄い事なんだろう。
「それにしてもこいつは相変わらず防御が下手だな」
「こいつが下手?」
「ああ、下手糞だな。攻撃は最大の防御とか言って攻撃一辺倒の馬鹿だ。だから【気】の防御もこの有様だ……確かに攻撃だけなら鬼剋流でも一番かもしれん。なまじ攻撃に自信があるせいで一向に改める素振りすら見せねえ」
 肩をすくめる元早乙女さんだが、はっきり言って大島は防御においても俺から見れば「神技の域に達してるんじゃねえ?」というレベルなんだけど……どれだけこいつらの要求レベルが高いのか想像がつかない。
 この2人や幹部の井上を除けば、俺の知る鬼剋流のレベルはそれほど高くないと思うのだが……
「それから、鬼相手ならともかく人間相手に使うなら、今の1/10……いやもっと抑えておけ、殺す気ならともかくな」
「じゃあ、大島は?」
「大丈夫だ。一応防ぎはしていたからな。お前もある程度の【気】は防げるようになっておけよ」
 確かに【伝心】で送り込まれたイメージの中には防御の時の【気】の使い方もあった。相手の攻撃に対してピンポイントで【気】を集中して防ぐのだが……
「この馬鹿は、防御の時に【気】を集中が甘いから、普通の打撃ならともかく練り上げられた【気】にはこの有様だ」
 初心者の加減した【気】の攻撃を受けての有様だとすると本当に防御は甘いのだろう。

「だが流石に全力はやめろよ。曲がりなりにも【気】の使い手のこいつだからこそ生きてるが、普通なら本当に死ぬからな」
「いや、そっちが送り付けた殺さないで無力化するイメージでやったぞ」
「……あっ」
 取り返しのつかない大事な事を忘れてていたと言わんばかりに大袈裟に顔を歪める。
「な、何だよ?」
 思わず不安を掻き立てられる。
「レベルアップすると【気】も強化されるんだった。こっちに来てから人間を相手にした事ねえから、お前に送ったイメージは……」
 その言葉にシステムメニューを開いてパラメーターを確認すると一番下に【気】という項目が追加されていた。
 そしてその強化係数は……「わおっ!」
 システムメニューを解除して、時間停止を伴わないオリジナルではないシステムメニュー保持者が使う簡易版のステータスウィンドウを出して元早乙女さんの方へと飛ばす。
 それを覗き込み、記された素敵な数字を見た彼の反応もまた……「わおっ!」だった。
「大島っ!」
 既に痙攣をすら止めた大島に駆け寄り、地面に膝を突いて──地面に指先で記された「SAOTOME TAKAGI」という大島のダイイングメッセージを見つけて片手で払い飛ばしてから抱き起す。
「大島。死ぬな! 死ぬんじゃねえ!」
 その姿に、クラスの女子の間で爪弾きにされている女子が転校するとHRで聞かされ、突如涙する女子達に感じた様な、背筋がゾッとするおぞましさを覚えた。


 可能な限りの処置を行い、何とか大島は息を吹き返した。流石光属性レベルⅥの【真傷癒】は強力だった。
「まあ現実世界に戻ったなら、存分にその力を鬼相手に振るうんだな。お前の活躍を期待してるぞ」
 まるで既定事項の様に、凶相に笑顔を湛えて俺の肩を叩く。
 しかし、俺にはまだ逃れる方法が残っていた。
「その鬼って奴は、昼間から出てくるのか?」
「ん? いや普通は夜だな……」
「それで出没するのは住宅街?」
「そんな場所には……あれ?」
 やっと気づいたか。
「どうせ繁華街とかに出るんだろ? 残念だが、夜は結構早くに寝るしほとんど出歩く事も無い。何せ品行方正な中学生だし」
「けっ! 何が品行方正だ。日本語を舐めるな!」
 吐き捨てられる様な事は言ってないぞ。早寝早起き、無遅刻無欠席、文武両道……俺ってもしかして天使じゃない? と思うくらい品行方正だろう。
「大体、どうしてあんたらがそんな事に必死になってるんだよ? おかしいだろ? ただの粗暴で空手キチガイのあんたらが何でそんな正義の味方みたいな真似してるんだよ? どう考えたって悪党の側の癖に!」
「じ、人類愛?」
「疑問に思うなら口にするな! ……金の匂いがするな」
「何を言うんだ?」
「その反応で分かった。間違いなく金だ」
 犯人はこの中に居る! くらいの確信をもって断言する。
「そんなわけないだろ。何で鬼を倒して金になるんだ?」
「知った事か、とにかく金だな」
「馬鹿な事を……」
「金にならないとして、普通の人間が鬼なんて知らないという事は感謝されることも無い」
「ボランティアだ。非営利活動、NPOって奴だ」
 自分の面を見て言え、そんな玉かよ。
「まあ、自分より強い奴に会いに行くとか訳の分からない目的意識があったとしてもだ、それなら自分達が勝手に好きなだけ戦えばいいだけなのに、俺達にも強要しようとする……つまり金だ。金以外ありえない! 大島の命を懸けても良い」
「そんなもんに価値があるか!」
 酷い事を言った俺へ、もっと酷い言葉が返って来た。
「じゃあ、どこから金が出るかという話をしよう……国だな」
 まだ何か言いたそうなのを無視して話を進める。
「な、なんでそうなる」
 確信という訳ではない。ただ思い当たるのが他に無かっただけだが、あえて自信満々にかましたはったりは図星だった様で、明らかに狼狽えている。
 そして動揺を面に出してしまった事に気づいて諦めの苦笑いを浮かべている。
「害獣駆除と考えると金を出すのは行政と決まってる。鬼剋流が細々とだが一応全国規模で活動している事を考えると地方じゃなく国だろ」
「細々は余計だ! だいたい害獣と一緒にすんなよ!」
「同じ駆除対象だろ。結局は駆除し易いかし辛いかの違いだけだ」
「違い過ぎるわ!」
「……駆除対象である事は否定しないんだな」
「今更誤魔化して何とかなるのか?」
「つまり、鬼剋流ってのは政府のひも付きって事だな。意外だなアウトロー気取りの大島とその仲間達が政府の犬か……似合わねえな」
「……お前、大島はお前の学校の教師、公務員だぞ」
「こ、公務員……」
 その言葉に、俺は驚きに目を見開いているだろう。口元を覆う左手が震えていやがる。大島が父さんと同じ公僕である事を思い出し、その事実に背筋が凍る。

「まあ良いか、確かにお前が察したとおりに鬼剋流には後ろ盾が存在する」
「だろうな、経営センスも無い脳筋が力ずくで強引かつ適当にやってる流派にしては規模がデカい。門下生からの月謝以外に収入が無ければ立ちいかないだろう」
 はっきり言って、前に粛清を喰らった某支部長の方が武道家としてや指導者としてはともかく経営者としては正解だったしな。
「テメェ! そこまで分かっていって──」
「所轄官庁は警察……が怪しいが、違うな」
 一瞬の表情の変化から感じ取った。これが大島ならおくびにも出さなかっただろう。
「……そういえば、鬼を払うと言えば陰陽寮」
「馬鹿が、それはお伽噺の類だ。陰陽師の仕事の主な仕事は暦で、追儺は大舎人だが、ただの儀式。実際に鬼を払うは北面、西面、滝口などの武士だ」
「なるほど、つまり皇室……宮内庁ってことか」
 そんな予算がどうやってつくのか分からんが、嘗て早乙女さんと呼んだ男の顔を見れば的を射たと確信出来た。
「ふ~ん、当たりか」
「ぐっ、だがそれを知った以上は──」
「ネットにセンセーショナルかつショッキングなタグをつけて流出されたくなかったら、俺達をお前等の仲間に引き入れようなんて下らない事は考えるなよ」
 大勢の目を惹くようにして流出してしまったデータを削除する方法なんてあの中国国内ですら無い。
「逆に脅すのかよっ!!」
「脅されたくなければ少しは考えろよ。こちらには情報を流出させる意味なんて報復以外には無い。逆にお前らは情報流出で宮内庁と手切れになったら鬼剋流終了だろう。俺達を鬼剋流を含めお前達の仲間に引き入れないと誓うなら2人とも現実世界に戻してやるから、精々好きなだけ鬼退治に励むんだな」
 ちなみに光属性レベルⅦには【誓約】と言う魔術が存在する。ミーアが使った商人達の間で交わされる誓約とは違い。破った場合には直接的な罰則を自動的に己の手で下す事になる呪いの様なものだ。光属性と言うよりも闇属性っぽく【呪】とか【呪縛】とすれば同じ効果で闇属性にぴったりな魔術だと思う。
 これを使えば問題はないだろう。

「先ず条件は、既に入門している者以外の空手部関係者を鬼剋流への入門。および鬼剋流関係者の仲間にしない。これを破った場合は……そうだなアンタら2人主演で本番ホモビデオ撮ってネット流出だな」
「おぞましい事を言うな!」
「鬼かお前は!」
「別に破らなければ良いんだ。最初は自分の竿と両方の玉を切り落として料理して自分で食べて貰おうと思ったけど、ほら欠損を回復する魔術があるから意味ねえなと思ってさ」
「ちゅ、中学生の発想じゃねえ! 大島お前はどういう教育を施してきたんだ?」
「……割とあんな感じだな」
 無言で大島を殴る早乙女さんの偽物。大島も「碌でも無い先輩の教育が悪かったんだろう!」と殴り返す。
 類は友を呼ぶ、割れ鍋に綴じ蓋……三つ子の魂百までもが混ざっているような気がする。

 結局2人は俺との【誓約】に応じた。いや応じさせた。
「最初から約束を守る気が無いなら。俺はあんたらをこっちに島流しでも良いんだぞ」と脅したのが決定打となった。
 2人は俺以外のシステムメニュー保持者を引き合いに出すが、誰がこんな危険人物を野に放とうと思うだろうか?
 それにこの2人に出来る交渉手段など力づくのみだが、結局現実世界に帰るには相手に収納されなければならないので使う事が出来ないので無理だと指摘すると苦虫を噛んだかの様に顔を顰め、低い声で唸るだけだった。

「先程の条件だけど、俺達が鬼剋流に入門したいと言い出しても断らなければホモAVデビューだからな」
 目的を達したので親切にも俺は教えて上げた。
 鬼剋流への入門。および鬼剋流関係者の仲間にしないとは、そういう意味になる。
 2人は自分達が直接勧誘しなければ問題無いと勝手に勘違いし、俺の事を「まだまだ甘い」と侮っていたようだが、それは誘いだ。
 如何に【誓約】といえども、対象外の人間の行動を縛る事など出来るはずもない……そんな事が出来たら世界を支配出来てしまう。
 つまりこの2人だけではなく、鬼剋流からのアプローチへの壁も必要であり、この【誓約】によって2人はその役目を果たさなければならない状況に陥ったのだ。
 まさに神算鬼謀。2人は希望(キボウ)を無くし辛酸(シンサン)を嘗めるのだ…………今の無し。


---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

>護身術であり基本的に相手の攻撃に対して応じる形になる。
仮想敵がチンピラ程度なら、攻撃をいなしてから逃げるとかそういう発想が全く浮かばない。立ちふさがる敵は粉砕あるのみ……彼もまた大島の犠牲者なのだった。
まあ、合気道には胡散臭さが伴うのは間違いないけど。

>しかも軍隊の「サー、イエッサー、ノーサー」的なヤツで……
軍曹「お前はスカート履いたオカマちゃんか」
新兵「ノーサー!」
軍曹「貴様が俺に向かってカエルの如くグェグェと鳴く時は、頭とケツに必ずサーを付けろ。福原愛の様にな! 分かったか?」
新兵「サー、イエッサー!」
軍曹「分かったかと聞かれたらアイアイサーだ。貴様言葉も満足に喋れないのか? まあ良い、それで貴様はオカマなのか?」
新兵「サー、ノーサー!」
軍曹「貴様が如き、蛆虫以下の分際で俺の意見にノーを突き付けるとは死ぬ気か? 好物は犬の糞かと尋ねても貴様がまず口にするのはイエスだ。分かったか?」
新兵「サー、アイアイサー!」
軍曹「さっさとお前がオカマかどうか答えろ」
新兵「サー、イエッサー……?」
軍曹「つまり貴様はオカマか? オカマが軍内でオカマ天国でも作るつもりか!」
新兵「い、いえ、自分はオカマではありません」
軍曹「だったら、お前が答えるべき言葉は、サー、イエッサー、ノーサーだ! 分かったか」
新兵「サー、アイアイサー!」
 この件を何かで見た時、コントだな~と思った。



[39807] 第100話
Name: TKZ◆504ce643 ID:dd2e1479
Date: 2016/11/10 16:53
 紫村と香籐、そして櫛木田、田村、伴尾に【伝心】での『話がある』の一言で呼び出してマルとの散歩に付き合わせた。

 暫く無言で走る俺に、櫛木田がしびれを切らして話を促してきたので大島について話した。
『奴がこっちに来ただと?』
 櫛木田が深みのある面白い顔になる。
『何故連れて来た?』
 肩を震わせながら田村が掴みかかって来るのを右手の掌を下にして、あっちに行けと手で払う動作で人差し指から小指の4本を使い目潰しをかます。
 直接眼球は叩かず、涙袋から瞼を硬い爪で強く撫でただけでなので失明の危険性は無いので、あの距離でなら頭突きを喰らわすより優しい対応といえる。
『楽園も終わりかよ』
 両目の辺りを抑えて「ノゥッ!」と叫ぶ田村を無視して皆が再び走り始める中、伴尾が力なく溜息を漏らした。
 そうだよな大島が居なければ俺達にとっては何処だって楽園だよな。


『暫くは表立って動く気は無いそうだ。学校にも来ないから安心しろ』
『それじゃあ何のために』
『自分のシマに鉄砲玉を送り込んで来た連中に挨拶回りするんだとよ』
 ……こんな言葉で全てを察してしまう悲しい奴らだった。
『ちょっと待て! それは拙いだろ。もしも中共のトップをまとめて暗殺でもしたら人民解放軍がどんな行動をとるか分からないぞ』
 櫛木田の大島への信頼の無さが良く分かる。最悪の事態しか想定していねえ。
 だけど心配ももっともだ。 中共の私兵である人民解放軍は政治のトップである最高指導者でさえも手綱を握るのに細心の注意が必要な存在である。
 その手綱から解き放たれたとしたらどんな暴走を始めるのか想像もつかない。

 【迷彩】によって光学的に捕捉が不可能で、攻撃ヘリの3倍の速さで音も無く飛行する人間大の物体で低空をも自在に飛び回れてホバリングも可能なので奴の接近を防ぐ方法を人類は持ち合わせていない。
 更に奴のマップ機能は第一段階の拡張を済ませているので、周辺マップの範囲は300mとなっている。
 相手は一国の最高指導者であり公式の場に立つ事が多々あるだろうから、300m以内に標的を捉えるのは難しい事ではないだろう……ヤベェ! オラなんだか不安になって来たぞ!
 猫が手を伸ばせば届く位置にいる金魚やカナリアを見てどう思うか? 俺には大島の忍耐力が猫に勝るとは思えない。
 明日の朝、いきなり『高城、わりぃ~な、ついヤッちまった』なんて【伝心】が届かないとも限らない……
『済まんが、いざとなったらロードによる巻き戻しをするので、面倒だろうが覚悟しておいてくれ』
 同じ時間をやり直すなんて、ゲームで長い時間セーブしてなくて失敗してやり直す苦痛どころじゃない。今のセーブポイントから考えると数日間巻き戻してしまうのだから堪ったものではないのだが、我慢してもらう事になる。
 今からセーブしたとしても手遅れになる場合も考えられるので、セーブを実行する事も出来ないし、むしろ他のオリジナルシステムメニュー所持者の事を考えると、安易にセーブを実行したくはない。
『別に数日程度なら構わないぞ』
『良いのか? 記憶と違って身体の方はセーブ時の状態に戻るんだぞ』
 単にやり直しが面倒臭いという問題だけじゃなく、アスリートにとっては頭の中の記憶が保持されても、練習で鍛えた肉体が巻き戻されてしまうのは大きな痛手なはずだ。
『別に今更練習が辛くて嫌だとかは言わないぞ』
『それに、やり直したい失敗なんかもあるからな』
『あるある。1日に1回くらいはヤッちまったってのがあるよな』
『俺に1日に3度は生まれ変わってやり直したいと思う』
 櫛木田の心の闇は深かった。

『それよりもだ。大島の使う高等打撃法の正体が分かった』
『何だってっ!』
 櫛木田達だけでなく紫村と香籐も食いついてきた。
『それで何なんだ正体ってのは?』
 田村よ知りたいか? 知りたいだろう。しかし俺は言いたくない。言えばお前らがどういう反応を示すか分かってるから言いたくない。
 俺がされたように問答無用。こいつらの意志なんて関係なく【伝心】で【気】の使い方を押し付けてしまいたい。
『言えよ、勿体付けるな』
 俺は伴尾に背中を押されるように『【気】だ』と答えた。
『へぇ~そうか』
『はいはい、解散解散』
『引っ張るほど面白くねえだろ』
『主将。疲れてるんですね』
 ああ分かってるよ。こうなる事くらい分かってました! 分かってても傷つくんだからな!

『その【気】は使えるようになったのかい?』
『信じてくれるのか?』
『君がこんな嘘を吐く理由は無いからね』
 他人から理解されるという事がこんなに嬉しいなんて……ホモに転びそう。
『嘘は吐かなくても、下らない冗談は良く口にするだろ』
『高倉健の人に言われたら高城もお終いだな』
 余計な事を口にした櫛木田は田村の的確な突っ込みによって凍り付いた……多分、こいつは一生言われるのだろう。俺も高倉健は頭の片隅をかすめていたので言わなくて良かったと心から思う。

『勿論【気】は使えるようになった。そしてお前等が使えるようにするのも簡単だ』
『どうやってだ?』
 伴尾が喰らいついてきた。
『【伝心】を使って、気の練り方、使い方のイメージを直接お前の頭に送り込む。すると俺達の身体は既に大島の指導によって【気】を使えるようになっているから練習すれば、大して苦労しないで使える様になる……と思う』
『俺にイメージを送ってくれ』
『まあ待て。この【気】ってやつの習得にはメリットとデメリットがある』
 一瞬、望み通りにしてやろうかとも思ったが、俺が欲しいのは仲間であって敵ではない。

『デメリット……君は大丈夫なのかい?』
『今のところはな』
 まだ鬼に出会ってないし。
『それでデメリットって何なんだよ?』
 流石にいきなり鬼という単語を口にする勇気はない。
『先ず鬼剋流について説明した方が良いだろう』
 ワンクッション挟む事にした。

『鬼、滝口武者、皇室……』
『ひでぇ~異世界よりもリアリティー無いなんて……』
 おい田村! 俺もそう思ってるけど言うな、切なくなってしまうだろ。
『まあ、話を信じるかどうか別として、言いたい事は分かった気がする……それでデメリットって何だよ?』
『……鬼が見えるようになそうだ』
『そりゃあ鬼とやらと戦うんなら、見えなきゃ困るだろ?』
『つまり、スルー出来なくなるって事だ』
『なるほど……確かに怪しいのが目の前をウロチョロしてたらボコるな。空手部的に』
『詳しくは聞き出せなかったが、なし崩し的に鬼を狩る事で、鬼との敵対関係に陥る事が考えられる』
『鬼って奴等は、そこまで組織的に動いているのか?』
『知らん。そもそも俺はまだ鬼なんて見た事も無いよ。早寝早起きで余り出歩かない生活をしていると遭遇する可能性は低いらしいし』
『それじゃあ、デメリットにならんだろ? よし俺は──』
『伴尾君、それは早計だよ。高校生・大学生・社会人になって同じ事を言えるかい? 一度身につけた【気】は多分一生ものだよ。もう少し真面目に考えよう』
『……はい』
 これはまさに子供の反論を許さない『オカンの正論』と、それに打ちのめされた中学生だった。


 散歩の折り返し地点でマルに水を飲ませていると伴尾がやって来て、周囲を確認して誰も居ない事を確認してから「そろそろ見せろよ」と言ってきた。
 ここで「何を?」と答えて焦らす気も無いので、奴が左手の親指と中指で首の辺りを抓んで持っているスポーツドリンク入りのペットボトルを奪い取ると、逆さにして中身を地面にぶちまける。
「何するんこら!」
 叫ぶ伴尾に空になったペットボトルを投げ、奴が受け止めたところで「掌の上に立てて乗せろ」と告げ、右手で手刀を作って構える。
「アレをやるのか? ……出来るのか?」
「優しく小突いて、失神させるというのも出来るが、そっちが良いか?」
「や・め・ろ!」
 そう叫びながら慌てて掌の上に空のペットボトルを立てる伴尾に向かって、構えた手刀を水平に振る。
 往年の名プロレスラー、ジャイアント馬場の水平チョップをほうふつさせる緩やかに振られた手刀。その小指の付け根がペットボトルの首の部分を捉えると、何の抵抗も感じる事無く飲み口が宙を舞った。
 そう、大島がやったように鋭く振る必要も、硬い親指の爪で捉えて見せる必要もない。それらは俺達をミスリードするためのフェイクだったのだ……畜生! 騙されて必死に研鑽した俺達はピエロじゃないか。
「えっ? えっ? 手品?」
 目の前で起きた事を受け入れようとしない田村にはデコピンをプレゼントして一撃で失神させる。
『今の何? 何か毛がぶわって逆立ったよ。何したの?』
 興奮するマルの背中を撫でて落ち着かせる。それにしても【気】に対する反応が良いな。

「とにかく、これが【気】の一端だ」
 自分でも顔がドヤ顔になっているのが想像出来る。
「他にも何かあるのかい?」
「ああそうだ。自分の身体の中に練り上げた【気】を循環させる事で身体能力の向上も出来る」
 これが、レベル差によって身体能力に大きく隔たりのある俺との戦いで大島が戦えた理由だろう。
「他にもまだあるが、【気】を習得したいというなら使い方を含めて全部【伝心】で送ってやるよ」
「もう少し考えさせてもらうよ」
「そうしてくれ、そもそも鬼の事だって正体すら分からないんだ。迂闊に喧嘩を売って良い訳が無い」
 紫村と俺のやり取りに、櫛木田や香籐達も頷く。


 家に戻ると、ダイニングテーブルの上に新聞を広げた母さんが「あら、朝刊には間に合わなかったみたいね」と言っているが何の事なのか俺には全く分からない……世の中には分かっていても認める訳にはいかない事があると思うんだ。


「よう大変だな。また事件に巻き込まれてさ」
 能天気に接してくれる前田が有り難くて仕方がない。これからはもう少しだけ優しく接してやろうと決めた。
 何せ他の連中の目が厳しすぎるんだよ。完全に犯罪者を見るような目だよ。
 まあ銃器で武装した複数のテロリスト──という事になっている──が暴れて、爆発物で警察のヘリを破壊し、住宅地に墜落させた事件が起こり、休校になった原因を俺達だと決めつけているのだからな全く……鋭い!
「俺達が事件に関わっているみたいな事を勝手に言うな」
「へぇ~関わってないのか?」
「全く関わってない」
 ……というのが警察の、そして政府の見解だ。
「ふ~ん、そうかそうか、とりあえず宿題見せて貰おうか」
 全く信じてないが、良いから宿題を見せろという偉そうな態度は大物の片鱗なのかもしれない……可能性はゼロではない。

 予鈴が鳴り暫くして北條先生が教室に入ってくる……今日も溜息が漏れるほど美しい。
 突然後ろから椅子を蹴られ振り返ると、必死に宿題を写している前田に「気持ち悪い溜息漏らすな」と叱られる。この俺が奴にである……何たる屈辱。
 日直の掛け声と共に起立し、挨拶をして着席する。毎日繰り返されるこれに何の意味があるのか? 好意的に考えるのなら火災などの緊急時の避難で号令一つで集団行動出来る下地を毎日刷り込み続けているのだろうが、俺は好意的には捉えている訳では無い。只々今日も北條先生に出会えた事を感謝するだけだ。

 1時間目の国語の授業に小野が憎しみ、それ以上の殺意すら感じる目つきで俺をねめつけている。間違っても教師が中学生の生徒に撮るべき態度ではない。クラスの連中もざわつき始める。
 それでも止めようとしない小野に対して、俺は睨み返すわけでもなく悠然と目をそらさず受け止める。
 そんな状況が1分間以上も続いて、流石に大きくなったざわつきに気づいた小野が目を反らした瞬間、ぎりぎり奴の耳にも届くような音を出して鼻で笑ってやる。
 瞬間、首が外れて飛んでいくんじゃないかという勢いで振り返った奴の目に映る様に『この負け犬め!』と太字の油性ペンでくっきりと書かれたノートを見せてやった。

「た、高城ぃぃぃっ!」
 教卓を蹴倒す勢いで前列の生徒を掻き分ける様に迫ってきた奴に「何ですか?」と涼しげに答えるが右の口角が僅かに持ち上がるのを抑え切れなかった。
 沸点が低すぎる。明らかにこちらをなめてるからこそ、軽く煽られた程度でこうも簡単に激高出来る。
「ノートを寄越せ! 絶対に職員会議で問題にして処分してやるぞ!」
 先程の書き込みの事を言いたいのだろうが、そのノートは既に収納済みで、机の上の国語用のノートにもカバンの中の他の科目のノートにも書き込まれてはいない。
「ノートを提出したら職員室で問題にされて処分されるのか意味不明過ぎて笑える」
 実際には吹き出したいのを全力で我慢しているので全く笑ってはいない……腹筋と表情筋が痙攣してるけど。
「馬鹿が黙って寄越せ! これでお前もお終いだ……何だ? 無いぞ……馬鹿な! 何処にやった! 他のノートを出せ!」
 国語のノートを床に叩き付けると、寄越せとばかりに手を伸ばす。
「あんたの頭がおかしいかどうかには興味は無いが、まずはそのノートを拾って謝罪しろ」
 クラスの皆が見ている言い逃れしようも無い状況で、こいつを社会的に葬る事に決めた。
 元々、学校内でも人望が無い事に監視ては大島にも匹敵する小野には味方は少ない。教師としてはとにかく派閥を形成して教員内での隠然たる力を持っていたアカハラ先生こと生活指導の赤原に比べると小者も良いところである。
 大島が居ない今こそ赤原の失脚に自分の出番だと勘違いしたこいつと、後に続くだろう2・3人ほどを葬りされば、少しはましな学校に生まれ変われる転機になるのは間違いない。

「何だと馬鹿野郎! あの書き込みを見つければ、お前を処分するなんて簡単なんだぞ!」
 俺のノートを足で踏みにじりながら叫ぶ小野……見つかっても処分にまで持ち込むのは簡単じゃないというより無理だろ。そもそもお前には見つけようがない。
「書き込みって何の事ですかね? 全く身に覚えが無いんですけど。訳の分からない言いがかりは止めて貰いたい」
「黙れ! 隠したノートを寄越せって言ってるんだ!」
「話になりませんね……前田。悪いが職員室に行って教頭を、いなければ北條先生を呼んで来てくれ」
「合点承知。授業がつぶれるなら望むところだっ!」
 中学生としてあるまじき事を叫ぶと脱兎如く教室を飛び出していった……まあ、俺もこいつの授業なんて受ける意味は無いと思ってるけどさ。
 前田の余りの速さに俺を含めて皆が呆然と見送ってしまう。
 ただ一人、その隙に小野は俺の教科書などを詰めた学校指定のスポーツバッグを引っ掴むと逆さにして中身を床にぶちまけた。
「無い! 無いぞ! 何処に隠した!」
 こいつにとっては証拠さえ押さえれば後はなんとでもなる。逆言えば証拠が見つからなければ自分の立場がヤバイと焦っているのだろうが、証拠があっても、俺は「朝っぱらから親の仇のような目で長々と睨みつけられてイラッとしたので煽っちゃった。テヘ」で済む話だ。
 済まないというなら出るところに出て問題にしてやる。
 大体、全教科満点取って何が悪い。数学・理科・社会は95点以上は普段からキープしている。英語だって常に90点前後で85点を切た事は一度も無い。
 問題は国語だけだ。俺が答えるのも馬鹿々々しいと思う問題以外も、小野のおかしな採点で正解が不正解にされたりしていつも60点台になっているだけだ。
 今回は、奴が上げ足すら取れないように一文字一文字、止め、払い、ハネまできっちりと書いた上に、唾棄すべき奴の持論もノートに板書したのと一文字一句変わらずに書いてやったのだ。俺以外にお前の下らない授業を一字一句憶えてくれるような奇特な生徒がいるのか? むしろ感謝して貰いたい。

「机の中を見せろ!」
 机を引き倒して、中から辞書などを引っ張り出して投げ捨て「無い! 無い!」と喚いている。床の上の教科書も踏みつけれれて酷い有様で、クラスの連中は巻き込まれたくないとばかりに机と椅子ごと逃げて俺の席を中心に円を描いた空間が出来上がってしまった。
 そんな中で俺は『まだかな~まだかな~』と前田が教頭か北條先生を連れて戻ってくるのをワクワクしながら待っている。
 周辺マップで確認すると、現在前田が職員室で声をかけているのは教頭。
 小野に引導を渡す相手としては北條先生よりずっと適任なので大いに結構…………教頭の足が遅い! 10秒足らずで後悔した。
 教頭が教室にたどり着くにはまだ3分はかかるだろう。小野の立場を決定的にするためには教頭が来るまでこの狂騒を維持して貰いたい……つまり燃料追加だ。
 だが余りに露骨にやると、証言者となるはずのクラスメイト達を敵に回してしまう。しかし、良く考えればこいつ等を味方と思った事は無いし、それ以前に既に十分やり過ぎなような気もしないでもない。
 だから、傍から見て分かる様に直接的に煽るのは駄目だ。

 俺の荷物だけではなく隣の席の奴の分まで床にブチ撒け、負け犬と書かれたノートを探していた小野の動きが止まる。
 諦めたのか、それとも自分の醜態を第三者の視点から見つめ直すきっかけを得たのか知らないが、表情に理性の色を感じる。
 だが教頭の到着まではまだ1分以上残っている……仕方がない。
 このタイミングで燃料を投下するべく、小野の視線を確認した上で、さり気なくブレザーの左の脇腹辺りを何かを確認するかのように触れて見せる。
「馬鹿がそこに隠してるのが丸分かりだ!」
 狙い通りに食いついた。再び双眸に狂気を光をたたえて掴みかかってくる。

 椅子に座ったまま小野の手を避ける様に仰け反り、椅子の後ろの2本の脚に重心を預けた状態から、右足で床を蹴り、その反動を左側の脚を軸にした回転力に変える。右回りに215度回転し、次いで椅子の右後ろの脚へ軸を切り替え、反動で弧を描くように軸足を滑らせながら右回りに270度回転すると椅子に座ったまま小野の背後を取った……俺達って無駄に鍛え上げられた運動神経をこんな下らない事ばかりに使っているのだと思うと少し切なくなる。
 しかしクラスメイト達にはこの曲芸が好評の様で「お~!」と驚きの声が上がり、少しだけ切なさが癒された。

 手が届く近距離から一瞬で背後に回った俺の姿を小野は見失い左右に首を振るが、後ろに移動されたとは思ってもい無いようだ。
 完全に見失ってしまったようで「何処だ!」と大声で叫ぶ……これは教頭がたどり着く前に隣の教室から怒鳴り込まれそうだ。
 まあ、勿論答えてやる義務はない。しかし生徒達の視線が自分の背後に注がれている事に気づき、慌てて振り返る。
 しかし、その動きを読んだ俺は席を立つと素早く奴の視界の外へと移動する。
 動きを読むといっても難しい事は無くただ足元を見れていれば良い。膝を内側に入れて踵を外側に向けた足の反対側を振り返るのだから、それに合わせて上半身だけを逃がせばよい。小野との距離は50㎝程度。ここまで近くで背後に立たれると肩越しに振り返っても、自分自身の肩が目隠しになってしまって俺の下半身は奴には見えない。
 なので鏡を使わずに自分の背中を見る事が出来るような特技でも無ければ、相手の移動する音や息遣いなどの気配を察しなければ無理だろう。
 勿論、興奮して冷静な判断力も無く、更に息を切らせている小野には絶対に無理だろう。

 まるでコント様に、小野の背後に張り付きながら奴の視線を避け続ける様子に、クラスメイト達からは笑い声が漏れ始める。
「生徒の癖に教師を笑うな!」
 この手の教師は少なからず存在する。教師と言う立場は無条件に生徒から敬意を受けるものだと勘違いしている奴。
 先生などと言われて勝手に自分が偉い存在だと思い込む。ただ『先に生まれた』と書いて先生の価値しかないような連中がだ。
 尊敬と言うのは、自分の言動に対して他者抱く感情であり、立場が無条件に与えてくれるものではない。
 彼らは古い儒教的思想に支配されているのかと言えば、確かに親族・先輩後輩などの関係の中では目上の人間をある程度重んじる一方で、その枠外では上司などの目上の人間に対して敬意を払う訳では無い。それでありながら生徒に対しては一方的な敬意を期待するのだから救いようがない。

 これは教師と言う職業特有とまでは言わないが、多く現れる症状だと思う。
 ついでに言うと教師の職業病にはロリコンもあると思う。ロリコンが教師になりたがるというよりも、教師を続ける内にロリコンに転ぶ奴が多い……だから北條先生は多少ショタコンを患ってくれても良いのではないだろうか?
 などと考えが脇道に逸れている間にも、クラスメイト達はその笑いの方向を直接小野へ、そして質を嘲るようなものへと変えていく。
 この状況を作り出した俺が言うのもなんだが、いい歳してみっともない真似を晒しているのだから当然だろう。

 他人には無神経な割には自分に向けられた侮蔑には敏感だったようで、耳だけではなく薄い頭頂部から首にかけてを真っ赤に染めて肩を震わせると、俺が座っていた椅子の背もたれを掴んで振り上げようと……だが時間切れだ。

「何をやっているのですか小野先生!」
 ゆっくりと振り返った小野の顔が、前田が飛び出した時に開け放ったままの教室後側の扉。その向こうにいる息を切らせるほど走って来た為だけではない紅潮させた顔の教頭に固まる。
「な、何……を? 何で……」
 両手で掴み上げた椅子に視線を這わせたまま固まる。自分が何をし、何をしようとしていたのか客観的に認識出来たようだ。
「何をやっているのか聞いているのですよ」
「なっ……私は悪くない。私が悪いんじゃない」
 そんな訳はない。
「貴方が悪いかどうかを判断するのは貴方ではありません。さあ、その椅子を置いて下さい」
 穏やかではあるが有無を言わせてやる気は全くないと言わんばかりに話を進める。
「それでは行きましょう」
 分かりやすく言うと、これからお前の処分を決めるからちょっと来いである。
「……嫌だ。こんな事で終わってたまるか!」
 俺としても、穏便な形で終わらせられてたまるものか。
 小野が、どう終わらせないつもりなのか全く分からないが、はっきり言って何らかの処分を受けて別の学校に飛ばされるのが一番無難な終わり方だろう。
 だがそれでは面白く無い。この中学校は県立ではなく市立なので教職員の移動も市内という事になるので、それほど小野にとっては大きなデメリットではなく、単に定期的な移動が早まっただけとも言える処分だ。

 大体、この手の人間は新しい赴任先でも同じような事を繰り返すだけだろう。学校は生徒にとっての学びの場であり、教師の職場としての側面はおまけに過ぎない。教育も寛容も、やり直す機会も生徒に与えられるものであって、教師に与えられるべきものではない。
 失格の烙印を押された教師がやり直すならば、他の職種で人生をやり直して貰うのが筋というものであり、他の学校で何食わぬ顔して教師を続けるというのは実におかしな話だろう。
 ある学校で資質に難があると判断された教師を別の学校でそのまま使い回す。食品会社の賞味期限表示の偽造事件と本質は変わらない話だ。
 故に奴に対する同情なんてものは全く無い。同情するなら相手を選ぶべきだろう。そもそも奴の方が俺達を排除しようとしたのだ。先に噛み付いて来た負け犬には相応しい報いがあるべきだ。

 追い込まれて叫びながら振り上げた椅子を後ろから掴む。
「ぐっ!」
 一歩踏み込みながら全力で振り下ろそうとした椅子が1㎝たりとも動かなかったのだから、反動で肩が抜けそうな痛みを覚えているはずだ。
 もしこれが大島だったなら1㎜たりとも動かないようにするだろう。そうなれば小野の肩は脱臼、酷ければ骨折しただろう。
 つまり、俺が1㎝足らずとはいえクッションとなる遊びを作ったのは思いやりであり、決して大島に技量で劣る訳では無い……と言ったら誰が信じてくれるだろう? 俺なら鼻で笑うな。
「……あっ」
 息を吐き出しながら小さく呟くような悲鳴を上げると、そのまま膝から崩れ落ち、前のめりになった身体を両手で支えた状態で固まる。
 身体は、特に腰の角度はピクリとも動かないが息遣いは荒い。
「腰をやってしまいましたね」
 まるで同情する様子も無く、痛みに顔から血の気の失せた小野に告げる。
 自分に向けて振り下ろそうとした椅子を止められて腰を痛めた馬鹿に同情出来るのはお花畑か天使なので当然だろう。
 クラスの男子達は勿論、女子達でさえ駆け寄るどころか心配する様子すら見せない。
「あっ……あっ……あっ……」
 呼吸の度に苦しげにか細く声を上げる。そんな状況でも首を捻りこちらに向けて睨みつけてくるので、俺は自分の後ろを振り返って見せてやった。
「き……きさっ……まだ。かならっ……ず、こ……うっ……かい……させてっ……やる」
 執念だけでそれだけを言い切った小野だが……
「逆恨みなど……完全に貴方の自業自得ですよ。この件は私の権限において、貴方を刑事告訴と言う形を取らせて貰います」
 教頭はそう告げる。
「なっ……んだと……」
「授業中に暴れ、それを止めようとした私に対して椅子を振り上げて殴りかかろうとしたのですから当然です。私が怪我を負ったかどうかは関係なく、貴方が害意をもって私に暴力を振るおうとした段階で暴行罪で訴える事は出来ます。私も今学期一杯で退職するので詰まらない柵を気にする必要もありませんからね」
 小野も居なくなるので、教頭が今学期一杯で退職させてもらえるか疑問だが、気持ち良く辞める気満々の彼に冷や水を被せるような真似をしても仕方がない。
「そんっ……な」
「安心して下さい。多分、執行猶予は付きますから」
 何一つ安心出来る要素の無い宣告を下すと、小野は完全に崩れ落ちて泣き叫ぶ……正直、心が痛むのか腰が痛むのか分からん。

 結局その日は、空き教室に移動して授業を受けた。
 色々と昭和感に満ち溢れたS県ではあるが、流石に出生率の低下の影響は他県と変わることなく生徒数の減少に伴い学年毎に4クラスが削減され、実に教室の半数が空き教室になっているので教室の移動には何の問題も無く、5時間目の理科と6時間目の社会は少し埃っぽい開かずの5組で行われた。
 3時間目と4時間目は技術/家庭科で、技術が大島が居ない為に1学期中は自習の予定の為に、俺と前田を含めた男子生徒数名が警察の事情聴取に付き合わされた以外は滞りなく進んだ。

「ところで小野って結局どうなるんだ?」
 放課後のHR前の一時、前田が尋ねて来た。
「教頭が訴えると言っている以上、起訴された段階で懲戒免職だろうな」
「随分あっさり言うな」
「別に小野には何の義理も無い。それどころか今まで毎回俺のテストの点数を好き勝手に下げてくれたからな」
「はぁ? それ初めて聞くんだけど」
「今までの問題と解答を残してあるから、二学期の中間テストの後にでもまとめて表沙汰にして、教師終了させてやるというサプライズを予定し──」
「そんなサプライズはいらねえよ!」
「ちっ」
「それにしても、どんな風に点数を下げられたんだ?」
「記述問題は何を書いても全部不正解。それ以外も色々いちゃもんを付けられて不正解。酷いのになると字が汚いで不正解だ。俺の字が汚いならお前なんて氏名欄の名前が汚いから0点だっていうのにヒデエ話だろ」
「お前も十分ヒデエよ!」
「いや、一番ヒデエのはお前の字の汚さだよ。お前の字を読んで採点しなきゃならないという点では、仕事とはいえ小野に同情したいくらいだ」
 前田は本当に字が汚い。小学1年生の時に担任の教師を「こんなに字の汚い教え子は教師生活において初めて」と嘆かせたという逸話は伊達ではない。
「事実だけに本当にヒデエよ!」

「ともかくだ。生徒相手に好悪の情を現すという段階で教師としての資質に欠けるが、公文書である内申書にテストの成績を含めた評価が書かれる以上、テスト採点にまで私的感情を持ち込み生徒に不利益を与えるため意図的に歪められた点数を付けた段階で教師失格なのは当然だ」
「だがな──」
「小野がお前の事を気に入らないっていう理由で、国語の点数を30点下げられ成績表に1を付けられたらどう思う?」
「奴にアルゼンチンバックブリーカーを極めた状態で側転して50mを10秒切ってやる」
「……楽しそうじゃないか」
 そう、思わずニヤリと笑みをこぼしてしまうほど、本当に楽しそうだった。


 放課後、いつもの様に練習の目に北條家の道場へと向かう。
 ワールドマップを確認すると中国に個体シンボルが表示されている大島と元早乙女さんと呼ばれた下種の動向にドキドキして胸が切なくなる……

「来たか小僧……」
 物騒な仕込み杖を突きながら門前で爺が出迎える……今の俺には分かる。爺の身体から大島達を凌ぐ濃密な【気】が立ち上るのを。
「随分とおっかねえ鬼を目覚めさせたじゃねえか」
 獲物を前にした獣の様に楽しそうに口元を歪ませやがる。
「北條流ではこれを【鬼】と呼ぶのか」
 そう言えば大島達というか鬼剋流でも元々は【気】を【鬼】と呼んでいたらしい。
「あの空手遣いの若造の流派では、そう呼ぶらしいな」
 どうやら爺さんは鬼剋流とある程度、親交は無いが交流はあるといったところか、それにしても大島のが可愛らしく思えるほど禍々しい【気】だ。
 単なる武ではなく【気】込みならば、大島以上かと思わせるだけの脅威というか、踏み込む事を躊躇わせる不気味さを感じさせる。
「単に【気】を使えるだけなら、うちのボンクラ息子や弟子共にも使える奴はいる。だが人の身で【鬼】を宿すに至るには本人の資質が大きいからのぅ」
「止めてくれ、俺をあんたの同類みたいに──」
 瞬間、背筋を冷たい感覚が迸る。
 恐るべき達人の業だった。
 技の始まり、静から動へと移るその瞬間こそ、受ける者にとっての最初の警鐘ともいうべき瞬間。
 それが完全に消されていた。【気】による肉体強化を受けただけではない。
 決して技の初動に関して雑とは言えない大島が、どっかんターボでガツンと来る加速だとすると、静かで力強く伸びるリニアな加速だと表現すべきだろう。
 しかも動き始まりを技とは別の何気ない動作の中に隠していたので、俺はその瞬間を察知する事すら出来なかった。
 爺が鯉口を切って踏み込みを始めているのを見て『あれ?』と初めて気付いたのだ。
 そんな状況でも辛うじて対応出来たのは、このやっとうキチガイの爺は必ず斬り付けてくるだろうという絶対的信頼感から、予めどんな攻撃にも対応出来るように、全ての関節を僅かに緩めて構えていた……なんて負の信頼だろう。
 爺の「相手が強ければ斬れるかどうか試してみたい」という生態が分かっていなければ逆にいうならば、爺は抑えきれない己の好戦性が仇となったのだ。

 白刃から逃れる様にそのまま後ろに飛び退く。普通ならこれは悪手だ人間は後ろに下がるよりも前に進む方が速い……しかし今回は最初の一手から身を外に置きさえすれば良かった。
 飛び退きながら門に掲げらた道場の看板を収納すると、そのまま自分の目の前に出現させる。
 看板は木目の繊維方向に音も立てずに両断されると、アスファルトの上でトドンと跳ねて転がった。
 これだはやりたくなかったと思う最悪のカードを切ってしまった……俺笑ってないよな。

「ぬっ!」
 爺は転がった2枚の板を見やり、そして門柱の看板が掛かっていた場所へと視線を向け、有るべきものが無い事にぎょっと目を見開く。
 鼻の上に嫌な汗を浮かべながら再びアスファルトの上の板を注視する。
 見たくない何かを発見したかのように目を閉じて首を左右に振ると、再び門柱に目を向けてから、既に本人も疑い様も無く分かって居るだろう道場の看板の残骸に三度視線を落とす……次いで膝も落ちた。
「ぅぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
 小さく、しかし深い絶望の慟哭が耳を打つ。
 そんな爺の背中に視線を向ける俺の顔には悪魔のような笑みが浮かんでいるだろう。何故なら我が胸裏には悪魔すら逃げ出す様な企みがあるからだ。

「うわぁぁぁっ! 何をする!」
 わざとらしいにも程がある。そんな悲鳴を上げた……今はこれが精一杯。
 俺の悲鳴にも爺は全く反応を示さなかったが、門下生達はわらわらと飛び出して来て、それを目にしてしまう。
「こ、こ、こ、これは……師範を東雲師範を呼ぶんだ!」
 当然ながら大事になった。


「つまり、父上が斬りかかって来たので咄嗟に看板で受けたら真っ二つ。どう考えても殺す気満々だったと」
 東雲師範はこの世の不幸の全てを肩に乗せたかの様に沈痛な顔つきで噛みしめるかのように確認する。
「はい。普通死ぬよなという感じで斬りかかってきまし──」
 これに関しては嘘は言っていない。
「申し訳ありません!」
 それは凛として美しいほど見事な土下座だった。
 その様に思わず見惚れていると、土下座から土下寝へのコンビネーションを決めようとするので止めた。
「親子とはいえ無制限に親の責任を子供が取れる訳では無いでしょう。お気になさらずに……」
 結果としては爺が自分で道場の看板を真っ二つにして落ち込んだだけの話で、そう仕向けたのは俺自身だし……


 練習を終えて帰り際、門前で木工用ボンドで必死に看板を治そうとしている惨めな老人を見かける。
「爺。木工用ボンドは2・3日かけてゆっくり乾かすもんだ。そんなところで作業しても直ぐに直るなんて夢見てるんじゃねえ。とっとと道場にでも持っていけ。それから100円ショップに行って、自転車の荷台に使うゴム紐買って来て接着面同士が圧着するように縛って3日放置しておけ。そうやって乾燥させた接着面の強度は本来の木の強度より上だ」
 まあ、これは大島の授業の受け売りだ。
「小僧……」
「何だ爺?」
「……ツンデレ乙」
「……まあ想像はつく。剣術しか取柄が無くて趣味も無い。偏屈で家族からも持て余されるくらいだから交友関係も極めて狭い。そんな老人が逃げ込む少ない場所がネットだと言う事だろ」
「てめぇ、人の隠居生活を10秒でまとめるんじゃねえ!」
「爺はいい歳してネット用語を使うな」
「仕方ねえだろ年寄りの数少ない娯楽だ」
 うわっ……本人の口から言われると想像以上にきつく、そして切ない。

「それでだ。小僧、あの場にもう1人いたはずだな?」
 ……爺は収納して看板を盾にした事を1人で出来たはずが無いと常識の範囲で結論を出したようだ。
「爺がそう思うならそれで良いんじゃないか?」
 あの場にもう1人いたはずと勘違いし、もう1人いた事を気付けなかったと勝手にプライドを傷つけられている……故に煽ってやる。
「…………」
 そのもう1人がどうやって自分に気づかせずに潜み、どうやって俺に看板を渡したか? 聞きたいのだろうが聞くのは矜持が許さないってところだろう。
「……小僧も使えるようになったなら【鬼】とやり合うのか?」
 話を逸らしたな。
「さあな、何れはそうなるかもしれないが、今は知らん」
「弥生が今晩も狩に出る。暇なら手伝ってやれ」
「可愛い孫にそんな事をやらせているのか?」
 とんでもない爺だ!
「鬼剋流の若造がいなくなったせいで手が足りねえ。この老いぼれを過労死させる気か?」
「俺は一向に構わんぞ。大体、都合の良い時だけ年寄りぶってるんじゃねえ!」
「はぁ? 耳が遠くて聞こえんな」
 わざとらしく首を傾げて、耳の横に手のひらをかざしやがる。
「まあいい。北條先せ……弥生さんは何時頃から?」
 マップで確認しておけば分かる事だが聞いておかなければ、爺からすると不審に思えるだろう。
「ほうデート気分か」
「いや、まずは尾行してやり方を見えて貰う。何せ初心者だからな」
 嘘だ。いきなり北條先生と2人きりでというシチュエーションが童貞には荷が重くて、何かやらかしてしまいそうなんだ……というよりやる。きっと、必ず。
「……このビビり童貞がヘタレやがって」
 何とでも言え。事実だけに何も言い返せねえよ。


 夜の10時を過ぎてマップ内で北條先生のシンボルが自宅の門の外へと移動した。
 予め用意を済ませ、黒のジャージに着替えていたので、床に広げた新聞紙の上で今は使ってない古いスニーカーを履くと【迷彩】をかけて窓から外へと出た。
 移動中、爺の動向もチェックする……予想通り尾行してやがる。
 大きくマージンを取るために100mの高度を取って接近していく。
 気配と言う言葉があるが、俺はそれを五感から得られる僅かな情報を統合して感じるモノだと漠然と理解していたが、そこに【気】という新たな要素が存在する事を知ってしまった。
 以前大島が部室の外から壁に耳を押し当てて聞き耳を立てているのを、壁越しに殴って鼓膜を破壊してやろうとして反撃を喰らったのも【気】による気配察知だったのだろう。
 その為に必要と考えられるマージン、50mの更に倍の距離を取った。

 北條先生と爺の周囲に薄ぼんやりとした気配が広がっている。
 更によく観察すると、その気配は均一に広く広がっているのではなく紐状に伸びた数千本の【気】が、やわらかな風に靡くリボンの様にゆっくりと空中で波打っている。
 北條先生の周囲15mほどに広がる気配と、北條先生の背後20mにいる爺を中心とした約半径60mに広がる気配。
 しかも北條先生の周囲15mの範囲を避けて包み込むように展開している……俺には絶対に無理。大島達にも出来るかどうか分からない。
 攻撃力も持たない。気配を拾い上げるだけの触角のような【気】ならば身体の外に出すのは俺にも出来る。しかしある程度の攻撃力を持たせ、しかも操作を加えるとなると難易度は一気に増す。
 しかし、北條流の場合は手足に【気】を纏わせて戦うのではなく、武器に【気】を纏わせる必要がある。その分【気】を操作する能力に長けているのだろう……という事にしておく。

 水平方向への範囲は俺の予想以上だったが、上への備えは流石に薄いようで高さは10mにも届かない範囲。
 だからと言ってマージンを減らす様な楽観主義者では、俺はこれまで生きてはこれなかっただろう……ビビりです。
 上空から2人を追って移動する。
 100mの距離なら双眼鏡などは要らない。
光学的情報を神経信号に変換する網膜の視細胞の数と密度が上昇し光受容体、つまり解像度が増した訳では無いが、変換効率の上昇・神経伝達の速度の上昇、そして脳での神経信号の分析などの情報処理能力向上により視力はかなり上昇している。特に情報処理能力の向上は暗視能力を著しく向上させた為、街中の暗がり程度は物ともしない。
 もっとも空気自体のコンディション。埃などの光を遮る浮遊物の濃度や、温度差や風による空気密度の差によって視力だけではどうにもならない要因もあるが100m程度なら何とかなる。


 北條先生はこの数年流行りの夜のジョギング・スタイルと言った服装だが、羽織っている上着やキャップ、スニーカーの色が普通はドライバーからの視認性の良い蛍光色を使うのに対して目立たない色になっている。
 キャップを目深に被っているので、上から見下ろす俺は勿論として、すれ違う通行人達にも北條先生と特定されるほど顔は見えていないだろう。
 アングル的にまるで面白く無い眺めなので高度を落として斜め後方か負う形にしたいのだが、そうなると建物や信号・電柱・標識・街路樹、そして通行人が邪魔になって視界を遮られるので、建物の中などに入られない限りほぼ真上から見下ろす今の形が一番だ。


 暫く繁華街を軽く流していた北條先生がペースを落とし、何かを探すかのように首を左右にめぐらせる。
 一方爺は、ゆっくりと後退して北條先生から遠ざかる。あくまでも尾行している筈の俺を見つけて監視するのが目的で、孫の手伝いをする気など全くないのだろう。

 北条先生は鬼の気配を探り当てたのだろう、ビルの間の狭い路地へと入っていく。
 マップでその先を確認すると、周囲をビルに囲まれた歪な空間に人間を現すシンボルが2つ……しかも意識が無い。
 【気】を練り目を凝らすと闇の中に気配を感じる。【気】が宙を舞う淡い光の小さな粒の集まりのような存在として見えるのに対して、それは黒く蠢く黒い粒の集まりだ。
 はっきり言おう。ゴキブリの大群のようで気持ち悪いというか、ここまでくると怖い。世界で最も邪悪な一族の末裔を召喚して「焼きハマグリェ~っ!」と叫びたくなる。

 現場を見下ろせるビルの屋上に着地すると、ちょうどそこへ北條先生が踏み込むと、慣れた手つきで右手でウエストポウチから3段式の特殊警棒を引き抜き一振りして伸ばすと、そのまま無言で練り上げた【気】を特殊警棒に纏わせるというか流し込んでいく。
 北条先生の【気】に反応して、鬼(?)は全体を震わせながら触腕のように身体の一部を彼女に向けて伸ばしていく。
 無言で特殊警棒を下から掬い上げる様に一閃すると、それは光に照らされた影の様に呆気ないほどあっさりと消え去る……弱くねえ?
 そのまま、一歩踏み込んで右へと薙ぎ払い。そして更に一歩踏み込んで両手で上段から鬼の本体を切り裂いた。

 まるで血を払うように一振りすると、特殊警棒を畳んでウェストポウチに戻すと、倒れている2人に近づいて、1人の首元に手をやる……脈をとったのだろう、すぐにもう1人の脈をとって頷いた。
 そして深呼吸をすると、北條先生の身体を通して強い【気】の鼓動が響いてくる。
 しっかりと【気】を練り上げてから、2人の額に両の掌を添えてるとゆっくりと吐き出す息と共に気を送り込んでいく。
 元早乙女さんから送られた【気】に関するイメージ情報の中にある【鬼落とし】という方法だ……北條流で何と呼ぶかは知らないけど。
 1分間ほどだろう長く息を吐きながら【気】を送り終えた北條先生は肩で息を視ながら、スマホを取り出して何処ぞへか電話をかける。

「どうだ小僧、これが現代の追儺(ついな)……鬼剋流では追儺(おにやらい)と呼ぶものだ」
 いつの間にか背後に現れた爺が話しかけて来た。
「頭に【気】を送り込むのは何だ?」
「あれは【気】で鬼の気を払っているだけだ」
「払わなければどうなる?」
「……色々だが、最終的には本人の身ならず周囲の人間を巻き込んで碌な事にならなんな」
「鬼は人を操るのか?」
「そうじゃのう……種を植えると言った感じだのう」
「種?」
「植え付けられた種はやがて芽吹き……まあ、それぞれってところだな」
 この勿体ぶった言い回し、それに軽く引き込まれていた自分に気づいて話を変える。
「しかし弱かったな」
「あれは雑魚だ。もう2枚くらい上手になると弥生では厳しいじゃろう。そこでお前が盾になって死ね──じゃなくて弥生を娶っても良いじゃぞ」
「……本音はともかく魅力的な提案だが、北條流を継げと言われても剣術やるにはちと遅くねえか?」
「弥生が産んだ子に継がせればいい。その子が一人前になるまで儂はどうか分からんが東雲はしぶとく生きとるだろ。奴に修行を付けさせれば問題あるまい」
「俺はただの種馬かよ」
「別に東雲や弥生が勝てないような道場破りが来たらお前が出ってってぶちのめしても構わんぞ」
「今時、そんなのがいるとは思えんが、仮にも剣術道場に道場破りに来て空手でぶちのめされたら全米が泣くわ」
「えっ?」
「えっ!」
 どういう意味で「えっ?」なのか分からないが驚く。
「お前の師匠の若造、家に道場破りに来たぞ」
「それは想定外だ!」
 何やってるの大島!
「それに空手で倒すのが嫌だというなら、木刀持って蹴り飛ばせば良いじゃねえか」
「それは剣術関係ないよ」
「別に構わんだろ。ほれトンファー・キックみてぇにな」
 駄目だこの爺、早くなんとか……ならねえ! 手遅れだよ。


----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
>「蜂は小さいから厄介なんだ。あんなに的が大きくなったら一撃だろ」
去年の夏に家の周りの草刈りをしていて、マルハナバチに襲われました。
最初は羽の生えた丸くて黒い毛玉の様なマルハナバチ一匹がブンブンと周りを威嚇するように周りを飛び回るだけだった。
しかし普通の蜂と呼ぶには大きい。一円玉くらいの丸い黒い物体が重そうに飛ぶ様子には迫力がある。
だが周囲を見ても巣らしきものはなく、しかも一匹だけなので無視して草刈りを続けようする俺に、しつこく絡んでくるので、手で追い払おうとすると羽音を大きく鳴らして激しく威嚇してくる。
もう一度、周囲を確認してこの一匹しかいないのを確認し「お前さん、覚悟はできてるんだろうな?」と目で蜂に語り掛けると、返事を待つ事も無く草刈り鎌を一閃す。寝かせた刃の腹の部分は正確に蜂の身体を捉えて「バーン!」と気持ちの良い音を鳴らすと黒い毛玉は地面へと叩きつけられた。
「たわいもない」そう吐き捨てた次の瞬間、蜂は力強く地面から飛び立ち、より激しく俺を威嚇する。
想像を超える大型の蜂の外骨格の強靭さに背筋に冷たいものを感じつつ「最早、互いに命のやり取りをするしか無いようだな」と呟くと、握りを変えて刃を向けると「寄らば斬るのみ!」と気合を入れて目で語る。
十代の頃は愛刀、竹物差(50㎝)で飛ぶハエを幾度となく文字通り真っ二つにしてきた俺にとって鈍重で的の大きなマルハナバチが斬れぬはずが無い。
しかし背後から新たなる羽音。
「貴様、決闘に助太刀を呼んだな。卑怯なり!」
同時に背後を取られないように素早く飛びずさり、自分の正面に2匹をとらえるように位置取りをする。
「一対二ならこの神子上典膳にも勝てると己惚れたか?」←誰がだよ。
草刈り鎌を構えて、一匹を視界の端にとらえつつ、もう一匹に狙いを絞る。
すると再び新たな羽音が耳に入る。
「不覚、時をかける少女……もとい時をかけ過ぎた」(ドラマ「時をかける少女」は本当に不覚だよ)
己の不明を詰るも、すぐに四匹目、五匹目と蜂は数を増やしていく。
「やってられるかこん畜生! バーカ! 覚えてろ!」と逃げ出すも、蜂は執拗に追いかけてくる。
そして家の前の路地へと逃げ出した俺の姿は、草刈り鎌を振り回しながら走る完全無欠の不審者だった……警察呼ばれなくて本当に良かった。

たった一行のセリフにこれだけの想いが込められていると一体誰が気付けただろうか? ……どうでも良いだろうそんな事。

>『環境に優しいが髪に優しいかどうかは分からないシャンプー』
作者は頭皮の激しい炎症──頭皮全体がかさぶた状態になる──その為、色々と試した結果、洗髪を石鹸で行う事を考えたが、ネットで調べたら髪の毛が溶けて塊になってしまい結局根元から切るという話があって、恐怖のあまり中々石鹸で洗髪が出来なかったでござるの巻。
石鹸を使うようになって数年、皮膚の炎症は収まり、真っ赤だった頭皮の色も少しずつ落ち着いて、フケも出なくなった……つうか以前はフケというよりかさぶたの一部が剥がれてボロボロと落ちるという状況。

>2週間に渡って腕を回しながら溜めに溜めて打った必殺技的なアレだ。
君の事を殺さないように、と剣呑な歌詞のオープニングのアレだ。

> 絶命したばかりである証の体表面に斑が浮き出たり消えたりをランダムに繰り返しながら海上に浮かぶクラーケンの上に降り立つ
タコやイカは色素胞と呼ばれる色素細胞をそれを包む筋肉が体表面に沿って引っ張る事で面積を広げ体表の色を変える。
そして死ぬと大抵の場合は体表に波打つような濃い警戒色のから薄い色へと一気に変化する。脳からの命令は送られなくなっても筋組織は生きていて無秩序に活動を続けるので作中の様な「イカの提灯」と呼ばれる状況になる。
やがて筋組織が弛緩し活動が収まると色素胞は表面積を減らして、体表はほぼ白へと変化する。
その後、死後硬直が始まると硬直した筋肉により色素胞は引っ張られて表面積を増やし、体表は濃い色へと変化する。これがスーパーなどで刺身用として売られている鮮度の良いイカの状態。
更に時間が立つと死後硬直が解けて体表は再び白へと変わる。これが加熱調理用のイカである。

 スプラトゥーンをする際はぜひ思い出してもらいたい。

>「なるほど、つまり皇室……宮内庁ってことか」
自分で書いててありえねえw

>「……あっ」
>息を吐き出しながら小さく呟くような悲鳴を上げると、そのまま膝から崩れ落ち、前のめりになった身体を両手で支えた状態で固まる。
>身体は、特に腰の角度はピクリとも動かないが息遣いは荒い。
ぎっくり腰やらかした時のトラウマが……確かに自分も「……あっ」って感じに声を出した気がする。
当時まだ二十代だったのにそれ以来、出来ない事がかなり増えて、はっきり言って人生変わってしまったよ。
腰を痛める前に、腹筋と背筋をバランスよく(これ大事)鍛えておくことを勧める。腰をやってからでは鍛えるのも難しい。

>小学1年生の時に担任の教師を「こんなに字の汚い教え子は教師生活において初めて」と嘆かせたという逸話は伊達ではない。
紛う事なきノンフィクション……俺の事だよ!



[39807] 第101話
Name: TKZ◆504ce643 ID:dd2e1479
Date: 2016/11/10 16:54
 久しぶりにマルと2人きりの……1人と1匹の夢世界なので、朝食後に『道具屋 グラストの店』を訪れることにした。
『マルねレベルアップしたい! もっと強くなってユキちゃん守る』
 すっかり、しっかり者のお姉ちゃんの風格を漂わせている。確かマルの中では涼も妹枠のはずなのだが、ここまでお姉ちゃん度を上げはしなかった。
 これは間違いなく、涼に可愛い妹としての素養が無いからお姉ちゃん度が上がらないのだろう。俺や兄貴の中でお兄ちゃん度が息をしていなかったようなものだ。
「そうだな一緒にユキを守ろう──」
『タカシは要らない。マルとお母さんで十分!』
 マルはユキへの独占欲が最近酷く、自分と母さん以外が構うのを嫌がる……赤ん坊とペットが無条件に可愛いと思えるのは、彼らが口を利けないからだというのは本当だな。
 とりあえずマルの上顎と下顎を一緒にぎゅっと握りしめてやるのであった。


「いらっしゃいませリュー様。おはようマルちゃん」
「おはよう。今日は──」
 視界の隅に2号の姿を発見してしまった。
「久しぶりだねリュー。本当に久しぶりだね」
「そういうのは何年も会ってないかった相手に言うんだな」
「人を置き去りにしておいて良く言うね!」
「無人島に置き去りにしたとかならともかくグダグダ言うな。それにホモの愁嘆場のような気持ち悪いのは止めろ」
「失礼な。僕にはそんな趣味は無い!」
「もし俺にそんな趣味があったとしてもお前は趣味じゃない」
「……何だこのほっとした様な、悔しいような気持ちは?」
「黙ってほっとしておけ、そういうのが本当に気持ち悪いんだよ!」
 2号の顎を殴り飛ばして失神させた。

「先日お納め頂きました材料にて、大甕3口(こう。大きく口の空いた器の数え方)分を用意出来ました」
 失神した2号だが、3秒ほどで復活しているので、ミーアは気を利かせて特定されるような名前を使わずに報告してきた。
「分かった。とりあえず出来た分を貰っていこう」
 俺も話を合わせるが──
「何を意味ありげに話してるの?」
 ……まあ、不自然に思うわな。
「安心しろ。お前には全く関係ない話だ。心置きなく聞き流しておけ」
「そうまでして隠そうとする話。聞かずに擱くべきか」
「そのお喋りな口と聞きたがりの耳を今すぐ塞ぐか、2度と戻って来られない暗くて寒い遠い遠い場所に1人で放り出されるの、どっちが良い?」
 固く握りしめた拳を前に突き出し、殺意をオブラートで包み問いかけると、俺が本気だという事が分かって貰えたようだ。


「お願いがあります」
 今の俺にとって主食ともいうべきカロリー汁を受け取り、ついでに海龍を買い取って貰い(料金後払い)戻ってくると、2号が土下座していた。
「俺に頼みがあるのにあんな態度だったのか?」
「それは緊張を解そうと思って」
「何で俺がお前に緊張しなければならない」
「いや、僕がね」
「……さて帰るか。また来るけどその馬鹿は入店禁止にしておいた方が良いぞ」
「無視しないで!」
 まるで俺が悪いとでも言わんばかりにこちらを憐れみを誘う目つきで見るが、どうにも演技臭さが鼻につく。
「そうですね。お客様という訳でもないのに居座られても迷惑ですし」
「こいつ、どれくらい居座ってるの?」
「この数日は毎日数時間ほどは……」
「帰れこの野郎!」
 そう怒鳴りつけたのは人として当然の行為だと思う。
「待ってくれ! 本当に大事な話なんだ。この国の存亡に関わるんだ」
「……俺、この国の人間じゃないし」
「当店は複数の国で営業しておりますので」
 俺とミーアは冷静に塩対応する。
 一方マルは2号には興味が無いようだ。
 「そんなミツバチがいるかっ!」と叫びたくな超巨大ミツバの巣から採れる名状しがたきハチミツ。そして謎の動物から採れるミルク。更に常識的な範囲の素材として数種類の果汁・香辛料・薬草を加えて作られた。超高カロリーで吸収も良い。カロリー汁を旨そうに深皿から飲んでいる……ミーアが与えたようだが、犬が飲んで大丈夫なのか不安だ。

「うわぁ~……だ、だがしかし。このその件に関して君の仲間が関わっているようなんだ。それで敵の大規模な侵略を許して……」
 俺の仲間? ……心当たりがあるとするなら大島達だが、あれは俺の仲間じゃないので、何があろうと責任は取らない。取る気が無い。
「俺の仲間と呼べる相手は国の存亡に関わるような事には手を出してないはずだし、仮に俺の知り合い(大島達)が何かをしても、俺が責任を取る義務は無い」
「仲間じゃなければ同じ力を持っている連中が南方での紛争に介入している節があると言ったらどうだい?」
 同じ力……オリジナルシステムメニュー保持者という事か?
「顔色が変わったね。少しは話を聞く気になってくれたかな?」
「はっ」
 してやったりと言わんばかりの2号に冷や水を架ける様に鼻で笑ってやる。
「何故に?」
 あからさまな否定に戸惑っている。
「もう欲しい情報は手に入ったからお前は必要無い。つまりお前に協力してやる必要も無いという事だ」
 要するにリートヌルブ帝国と紛争が起きている──つうか攻め込まれている──南の国境付近に御同輩が出没している。これだけで俺には十分だ。
 【所持アイテム】と【マップ機能】を利用すれば、この世界でなら戦争の概念すら変えてしまう事すら可能だ。
 【所持アイテム】を使えば、食料・水、消耗品である矢などの補給物資のみならず、陣地を構築するための資材。大型の攻城兵器などを人一人を移動させる労力で、好きな場所に用意する事が出来る。
 【マップ機能】は、システムメニュー保持者を連れて戦場を偵察させる手間が必要だが、戦場の全てを把握出来なくても、表示可能範囲を敵が横切るのを把握できれば相手の動きは把握出来る。
 これはレベルが上がって身体能力が上がり、システムメニューで覚えた【魔術】を使えても単に強くて便利な力を持った個人に過ぎない2号には真似の出来ない活躍だろう。
 つまり奴が俺から引き出したいのはパーティーへの再加入だろうが、お断りだ!」
 途中──つまりの後から──から声に出していたのは当然わざとだ。
「そんな、ひどい!」
「酷いのはお前の依頼心だ。いい加減俺に頼るのは止めろ。むしろ俺に頼りにされろ。お前に協力したのもそういう約束だろ。お前が何か俺に返してくれたか?」
「女性を紹介しよう」
 何?!
「先程とは比べ物にならないくらいはっきりと顔色が変わったね」
 変わるに決まっているだろう。女性を紹介すると言われてどんな形であれ反応を示さないオスなど生物学的にありえない。
 その証拠に、窓を指さして「あっ、風でネエチャンのスカート──」
「えっ! ……何処? 何処? ……はっ!」
 ……そういう事だ。
 街を歩いていて悪戯な風に、スカートの裾がふわりと舞い上がるのを視界の端だろうが捉えていたならば0.3秒で反応して振り返ってしまうのが漢ってものだろ。
 心理学においてカクテルパーティー効果の視覚版として認められている……勿論嘘だ。
 男と言うのは、ただ舞い上がったスカートの裾がかたちどる人為と自然が織りなす造形美と、その下に隠されていた神秘をとらえる天性のハンターである。
 その結果、相手の容姿や年齢が自分のストライクゾーンを大きく外していたとしても、それどころか相手が女装のオッサンだったとしても後悔はすれど反省はしない。そして何度後悔しようとも、その瞬間が訪れたのなら光の速さで振り返るのだ。
 同様に、女性を紹介すると言われた瞬間に「どうせ、こいつが紹介するのに期待なんて出来ない」なんて考える判断力を神は男に授けてなどいない。
 その瞬間「女」の一文字が脳裏の120%、未使用領域まで溢れてしまう欠陥品なんだよ男ってのは。

「とりあえず、何だ……話し合う余地はあるようだな」
「サイテーです」
 背後からミーアの非難の声が届くが無視だ。そもそも俺にとっての「女」の範疇から丁重にピンセット抓みだされた姉妹の片割れに「男」としてののあり方を問われる筋合いなどない。
「お前が俺に望むのは、この国を救うために俺と同じ能力を持った者の排除だな」
「そうだ。出来るのか?」
 よし言質は取った。顔がにやけるのを堪えながら「誰に訊いてるんだ?」と返す。
 はっきり言って戦場の状況は全く分からないので、出来ない可能性だって十分にある。しかし十中八九出来ると確信しているなら自信たっぷりにしている方が格好がつく。
 一方大島は、勝率が5割を超えるなら虚勢を張って堂々としていろ。背伸びしているくらいの方が勝率は上がると言っていた。たまには教育者らしい事も言うのだなと驚きつつも、その頻度の低さに呆れ、そして、奴自身は挙句に失敗しても不敵な態度を崩さないのだろうなと……諦めた。

「明日南方戦線に向かうけど、そっちの都合は良いのか?」
「都合は構わない。だが俺は先に行くから、お前は後から来い」
「えっ」
 驚く、2号に対して逆に驚きながら、声をひそめて「お前が使える初期バージョンの浮遊/飛行魔法では俺について来れないから」と告げる。
 当然だ。先程、建前とはいえ「国を救うため」という理由を口にしたのだ。こいつ個人の功名など配慮してやる必要なんてないのだから。
 2号が使えるのはとりあえず飛べるだけで風防魔法も無い旧式魔法。速度を上げると自らが発生させた乱気流で錐揉み回転を始めて墜落するだろうし、何とかバランスを維持して速度を上げても呼吸が出来ないので長時間の連続飛行には耐えられない。
 それに対してこちとら超音速、いや超音速クルージングを目指して日々進化を遂げる浮遊/飛行魔法の最先端だ……衝撃波の問題がクリア出来ないんだ。衝撃波の発生で風防魔法が歪み発生する後方乱気流……超音速で飛行中にそんな事が起こるとどうなるかなんて考えたくも無い。

「それを教えてよ!」
 何故こいつが強気に要求してくるのか意味が分からないので、耳に手を当てて「……はぁ?」と聞き返す。
「教えてくれたって良いじゃないか?」
「教えてあげたって良いなら、教えてあげなくたって良いじゃないか? その境界線上からどちらに俺の心情を落とし込むのかはお前次第だ」
 我ながら恐ろしいほど血も涙もない正論だ。
 当然ながら2号に俺の心を震わせるようなネタがあるはずも無い。そもそも女紹介する云々だって怪しいのだ。
 散々カロリー汁を飲みまくっておねむになってしまったマルを収納すると、2号を置き去りにして南へと旅立った……マルは多分太ると思う。


 そして長い長い旅路を1時間足らずで踏破した……距離的には十分長い。ただ移動速度が速かっただけだ。
 別に目印に『ようこそ戦場へ』なんて分かりやすい看板が出ている訳では無く、国境線の一部である湖が眼下に広がっているからだ。
 他のオリジナルシステムメニュー保持者のマップに引っ掛からない様に飛んでいる上空12000mから見下ろすと、琵琶湖を大きく超える巨大なミシニワード湖が一望出来る。
 直径75㎞ほどのほぼ円形。間違いなくカルデラ湖であろう……カルデラ湖は好きだ。地図を見ていていきなりポコッと丸い地形が現れるとほっこりする。
 南北を分ける中央に国境線が設定されているはずなのだが、現在は北岸に拠点を築かれて、既に砦と呼べるレベルに成長している。
 オリジナルシステムメニュー保持者による1人補給大隊が一晩で必要な資材を運び込んだのだろう……墨俣城というより、これはもうジョパンニの仕業だよ。
 他者の所業に、改めてシステムメニューの基本機能の恐ろしさを再認識させられた。

 砦には3000人ほどの人間が居て、広さは400m四方を土塀でも石垣でもなく板壁に囲まれている。南側がすぐ湖になっていて、岸から100mほど湖に3本の突き出した長い何か、多分桟橋が架けられている。それを使って直ぐに船で運ばれた人や物資を中へ運び込め、更に帝国領への脱出も容易になっているのだろう。

 一方、地上にいる人間の姿は、流石に今の俺の視力でも捉えられるのは自分の真下を移動する何かの列を、辛うじて集団で進む人の列と認識するのが精一杯で1人1人を視認するのはとても無理だ。
 視力は低レベルの頃と比べて余り上昇していない。眼自体の能力の問題ではなく大気中の埃や水蒸気、そして気温や風による大気自体の密度のむらにより正確に像を結ぶのが難しいためだ。これは機能の向上した脳による補正処理の範疇を超える。
 それでもマップ機能は地上の直径1㎞程度の範囲ではあるが「視認出来ている」と判定してくれているようでマッピングをしてくれている。
 ちなみに双眼鏡も持ってきているので、それを使えば目に入る情報量が増える分だけより遠くを見通せるが、その代わりマッピングされる範囲は双眼鏡の視野のみとなり逆に狭くなる。
 わざわざそんな高い位置からマッピングしているのは、当然俺以外のオリジナルシステムメニュー保持者を警戒しての事だ。
 俺よりも遥かに視力や脳の補正機能が劣るとは言え、連中もマッピングを行っているのでその表示可能範囲に引っ掛かるのを避ける必要があった。
 そうは言っても、マッピング行うのに上空まで範囲に入れるような酔狂な奴はいないと思う、しかし絶対にいないとも言い切れない……どうやら心配は無駄ではなかった。
 眼下、高度500mほどを飛ぶワイバーン。その背の上に人間と思しき姿を見つけた……ワイバーンって乗れるのかよ。

 双眼鏡を取り出してワイバーンの背の上を確認すると確かに兵士のようだ。帝国側の兵士ではない。
 戦争している一方でワイバーンを偵察に使っているのなら相手が使ってない可能性は低い。つまりリートヌルブ帝国側に付いたオリジナルシステムメニュー保持者は、ワイバーンに乗ってマッピングしたと考えるのが妥当だ。
 だとするなら、ゆっくり足で移動しながらマッピングするのとは違い、移動速度の速いワイバーンの上では上空を確認する余裕はないはずだし、何より偵察手段のワイバーンが1000m以下を飛行するなら、今より高度を上げる必要も無いだろう。
 元々視力2.0の俺がレベル一桁台の頃にマッピング範囲が10000m程度だったのだからワイバーンの飛行高度を多少多く見積もって+1000mしても少し余裕がある。

 更に列をなして進む集団を見つけたので再び双眼鏡を覗き込むと、2列になって進む200人ほどの隊列だった。
 兵装は特にお揃いという訳では無く、兜に縦に太く赤い線が入っているのが敵味方の区別を付けるための印なのだろう……それだけで良いのか疑問に思ったが、他にも何か敵味方を見分ける方法があるのかもしれない。
 とにかく湖の10㎞以上北側を悠然と行進しているので、兜の赤い線が王国側の兵である事は間違い無い。
 そう言えば、先ほどのワイバーンに騎乗していた兵の兜にも赤い縦線が入っていたので王国側の竜騎士で間違い無い……ワイバーンを竜と呼んで良いのかは知らないが。


 3時間ほどかけて、戦場とその周辺のマッピングを終える……マッピングは終了してないけど。
 本来の予定なら明日一杯までかかるはずだが、流石に単調と呼ぶのも生易しい、ただひたすら飛び続けるだけの作業に音を上げてしまった。
 そして冷静に考えてみて気付く。俺と違って低レベルのシステムメニュー保持者にとって、この広い範囲をリアルタイムで監視出来るのはワールドマップだけで、ワールドマップ上に表示出来る対象は、周辺マップ内にエンカウントして個体識別情報を入手した対象のみだという事……こんな事にすぐに気づけなかった自分が悲しい。
 つまり、実際に相手が偵察に出て視認出来る範囲に俺が入らない限り、俺の事は相手に捉える事は不可能なので、俺が相手のオリジナルシステムメニュー保持者の個体識別情報を手に入れたなら、その範囲外を上空2000mほどで飛び回れば、短時間にマッピング作業は終わるのだ。
 それに気づいた俺は大雑把に5㎞幅の格子状にマッピングし、アクティブ部分を通過した人物の情報を【ログデータ】へ放り込む様に設定した。
 これもマップ機能の2度目の拡張時に実装された俺以外には使えない……はずの機能だ。


 マッピング作業を中断した俺は、湖から北西に50㎞ほど離れた村の一軒しかない宿屋で余裕を見て3日分の料金を先払いして部屋を借り、その部屋のベッドの上に寝転がりマップを拡大表示して眺めていた。
 マルは収納したままにしておく。これから俺がやる事はマルの教育上良くないと思うから……俺の教育は? そもそも中学校で受けた教育が99%間違っているのだから今更だ。

「来たか」
 網目状に張り巡らせた表示可能の範囲に【オリジナルシステムメニュー保持者】が表示される。
 同時に【システムメニュー保持者】の条件でも検索をかけているのだが、オリジナル以外のシステムメニュー保持者は現れていない。
 やはり、パーティーに加入させた相手が居ないと考えて良いのだろう。正直、この世界の人間である2号をパーティーに加入させたのはちょっと考えなしだったと反省をしない訳でもない。
 何故、奴を簡単に加入させてしまったのか正直自分でも良く分からない。今思い出してもおかしいと思う。紫村と香籐を仲間に入れた時は十分な理由があったが、2号の場合は理由が弱い。特に初めてのパーティー加入者なんだから、もっと慎重になるべきだったのだから、奴に対して精神的な壁が極度に低くなっていたとしか思えない。

 話は逸れたが、オリジナルシステムメニュー保持者、長いからオリ保で良いか? だったらオリジナル以外のシステムメニュー保持者はシス保か……
止めておこう。
 オリ保、いやオリジナルシステムメニュー保持者は湖を多分船で北上している。物資を【所持アイテム】に詰め込んで王国領に侵入するつもりなのだろう。
 ……きっと俺は今、凄い悪党面をしているだろう。だけど心の中はもっと悪人だから大丈夫。ちゃんとバランスはとれている。
 拉致して、殺してシステムメニューを奪い取り、ついでにボーナスでレベルアップして、蘇らせて放置して逃げる……なんて悪党なんだろう。
 対象をロックした状態で、検索条件を『男』に変えると消えた。
「また女かよ」
 何だろう野郎相手なら何やっても特に罪悪感は湧かないのに……
「ズルいな女は!」
 自分でも訳の分からない愚痴がこぼれる。
 仕方ない当面は拉致収納で勘弁してやろう……まあ、現実世界でのこの女を捕らえたら、現実世界の身体を殺した場合のこちらの身体がどうなるか? その逆の場合はどうなるのか? 実験するんだけどな……べ、別に無理に悪ぶってるわけじゃないんだから、やる時はやる子だから俺。

「テンション下がるわ~」
 やっぱり気は進まない。システムメニューなんて面倒事から解放してやるという錦の御旗があっても、女を殺すのは俺達を拉致しようとした野郎を返り討ちに知るのに比べると当社比で35倍くらいは気が進まない……当社って何?
 だけど、俺も心情的には王国側に立っている。侵略しているのは帝国な上に、何だかんだとこの国に居続けているので「俺の縄張り(シマ)に余所者(他のオリジナルシステムメニュー保持者)が手を出しやがって」的な意識も芽生えてしまっている。
 まあ、この戦争の原因とかによってはその心情もどちらに傾くかは分からないが、ずっと昔から湖を挟んで攻めたり攻められたりしているようなので、一方的な理由なんてものは無いのだろう。
 それを踏まえても、相手が女子供だろうが排除する必要性は弱いけどある……あるのだが、やはり「テンション下がるわ~」という事になる。
 しかし、やる気が無くてもやらねばならない。そういうシチュエーションに対して慣れと諦め一杯で立ち向かうのが空手部魂である。
 再び【迷彩】で姿を消すと、部屋の窓から空へと飛び立った。


 現在安全圏内の上空12000mで待機している。
 対象は天幕の中に入っているのでどんな顔をしているかどころか人種すら分からない……年齢とかどの国の人間かなどはマップの検索機能を使えば総当たりで調べる事は出来る事は出来るが、面倒なのでやってない。

 相手の探知範囲の外側から一方的に相手の状況を把握する。犯罪臭ぷんぷんだが別にスケベ根性どころか好きでやっている事ですらない。
 相手のマップ表示可能範囲に踏み込むのが難しいと思えるが、塞ぎようのない大きな穴がある。寝込みを襲われたら対応を取れない。こればかりは俺自身にもどうしようもない穴だった。
 故にこちらの素性は絶対に知られてはいけない。
「長丁場になりそうだ」
 相手が寝るまで起きて無ければならないのだから当然だ。
 一向に天幕の中で移動する様子は無いので2000mまで高度を下げた。

 最悪、日付が変わるまで粘るのを覚悟していたのだが、まだ7時前だというのに対象のシンボルは睡眠/失神を示す灰色に変化した。
「早っ! 小学生か!」
 しかも低学年並みのだ。
 もっとも現代社会と違い、夜暗くなれば寝て朝日が昇れば起きる。一部の都市部に住む者たちを除けば、圧倒的多数にとってそれが常識なのだが、それにしても子供にとっても長すぎる夜だ。
 昼間の長いこの季節ですら現実世界のS県なら10時間近い。正確には分からないがこちらの世界も季節は春の様なので似たようなものだろう。暇を持て余した大人が子作りに励むはずである。
 そんなどうでも良い事を考えながら降下を開始する。

 きっちり3分後に地上に降り立った……余り早く降りると怖い。ちゃんとやる事はやってるんだから、怯えるくらいは良いよな? 心の中の膝がガクガク震える自由は誰にも奪う事など出来ないのだから。
 目標の天幕の傍に姿を消したまま音も無く降り立つ。天幕の前には兵士が1人立っているだけで周囲には人の姿が無い。
 様子がおかしい。単に周囲に人気が無いのではなく天幕を中心とした10m四方に柵が張り巡らされ、こそれはまるで帝国軍にとっては重要人物であるオリジナルシステムメニュー保持者を守るというより隔離されているようだ。

 嫌な予感がしたので、とっとと目的を果たしてドロンさせて頂くことにした。
 素早く天幕前の兵士に近寄り、足音に反応してこちらを怪訝そうに振り返ったその腹の鳩尾に内臓が破裂する勢いで拳を叩き付ける。
 そして実際に破裂した内臓を魔術で治療する……当たり前だが、大怪我を負わせずかつ、声を上げる事も出来ない一撃でを喰らわせて失神させる。そんな妙技を使えるほど他人の腹を殴って失神させた経験は無い。

 崩れ落ちる兵士の脇に腕を差し入れて支えながら素早く天幕の中に入る。
「なんだとぅ?」
 俺が目にしたのは、天幕を支える中央の柱に鎖で繋がれた5歳くらいの女の子だった。
 首輪をはめられ、むき出しの硬い地面の上に横たわる、その目元に浮かんだ涙が見えた。
 抱えていた兵士を地面に叩き付ける。こいつが嫌々ながらも上官の命令に従っただけだろうと、家に帰れば良き夫で良き父親だろうが関係ない。
「死ね」
 首元に振り上げた足の踵で脛骨を踏み砕いた。

 女の子の元に歩み寄る。
 浅黒い肌。黒人種というより南方に住む黄色人種といった感じ。顔立ちは中東系に近いがモンゴロイドの影響も強い……良く分からないがインド辺りか? 確かインドは人種の坩堝と呼ばれていたな。
 彼女の顔にはどす黒い痣があり、首輪の下の皮膚からは出血すらあった。
 女の子の傍に膝を突くと【大傷癒】をかけて治療を施した。こんな小さい子供に何故こんな真似が出来るのか俺には分からない。
 首はめられた頑丈そうな鉄環は俺の腕力でも簡単に破壊出来そうになかった。
 右手の中にナイフを装備してみる。そのして何度か収納と装備を繰り返して現れる刀身の位置関係を確認してから、鉄環と女の子の首の間に左手を差し込んで隙間を作ると、嵌められた鎖付きの鉄環にナイフの刀身を当て、一度収納して少し右手の位置を少女の首元に近づけ、ナイフを装備する。
 鉄環の8割ほどに刀身が食い込んだ形でナイフが出現すると、刀身の分だけ押し広げられた事により、残りの2割に亀裂が入り甲高い金属音を立てて割れた。。
 鉄環の反対側にもアムリタで同じ処置を行い。真っ二つになった鉄環を女の子の首から外した。

「さて……」
 女の子を収納する。これからこの場で起こる事は彼女に見せるには教育上良くないからで、決してやましい目的のための拉致ではない。
 システムメニューを開いて時間停止状態にしてから【所持アイテム】のリスト検索で女の子を探し出して、彼女の情報をチェックする。
 名前:アムリタ……うん、不老長寿の霊薬の名前だったな、というかそれだけ?
 国籍:インド……やっぱり、だけどインド人って何か色々、沢山名前があるイメージだったんだけど。もしかして孤児とか?
 年齢:6歳
 身長…………
「と、とりあえず保護しないと駄目だよな……」
 流石に、帝国軍から解放して放り出すという選択肢は無い。
「その前に落とし前は付けてさせて貰うか」
 頭の痛い問題を先送りにして、別のやり易い方法を選択する。

 システムメニューを解除し、マップで食料などの物資を集めている場所を検索すると、湖岸から少し離れた位置にある大きな天幕に集められているのが分かったので、姿を消して入り込み中身や数など関係なく手当たり次第、全て収納する。
 全部が食料だったとしても3000人規模の軍勢の食料としては随分少ない。1週間程度分しか無いじゃない?
 食料などの物資はアムリタに運び込ませればいいので、緊急時の撤退を想定して必要以上の物は王国領に持ち込まない様にしているのだろう。
「セコイ!」
 たっぷりせしめてやろうと思っていたのに当てが外れた……金に困っている訳でもないのにセコイのは俺じゃない? と思ったが多分気のせいだろう。
 更に武器を集積した天幕を見つけて、当然の様に全て収納する。
 槍と弓と矢がほとんどで、剣の類は兵は持たされないだろうし、士官クラスは自前だろうが、食料などと違って3000の規模にふさわしいだけの数が用意されていた。

 次に移動したのは湖岸の桟橋。当然連中の退路を断つのが目的。
 3本が川の字に並ぶ桟橋には大小40隻程の船が係留されているのだが、小型の手漕ぎの舟などはともかく、大型の輸送船──これは兵を載せて撤退するための船だろう──は常に動かせるようになのだろう。必ず船員が2名ほど待機しているようなので収納という訳にはいかない。
 小型の舟を2艘収納し、残りは『俺のポケットには大きすぎらぁ』という事で、上空から足場岩を落下させて漏れなく撃沈させる。
 幾人もの船員が巻き込まれて命を落としたのだろうが、先程の見張りの兵士も含めても経験値は雀の涙ほどにもならない。
 一方で人を殺した事には対しては、現実世界で感じたほどの後悔は無い。
 相手が非戦闘員への虐殺も辞さない軍人であるという事。そしてアムリタへの仕打ちに対する憤りもある。だがそれ以上に割り切ってしまったという部分がある……この世界では人命がそれほど重く無い事が原因だ。

 アムリタが船で湖を渡っていた数時間を、彼女がリアルタイムでマッピング出来る範囲外を一気にマッピングした際に、緑ばかりの景色の中に黒く焼け焦げた場所が見えたので降りてみたら、そこは焼き討ちされた村だった。
 崩れた石塀に木製の張と屋根が焼け落ちた石造りの家々、埋められる事無く放置されたのだろう遺体は、獣か魔物に食い荒らされたのだろう村のあちらこちらに散乱していた。
 そうした村や集落は他にも幾つもあり、昨日、今日襲われたのだろう村ではオオカミに似た魔獣が村人達の遺体を奪い合うように食い漁っていた。
 軍による略奪行為がこの世界では常識だとするなら、仕方のない事なのかもしれない……だからといって俺が納得するかは別問題だ。

 平和とか隣人愛とか道徳とかマナーは、互いに相手の大事なものを尊重し合う事によって互いに利を得る互恵関係であって、一個人が一方的に周囲にそれらを適用しようとするなら、ただのお人好しの変わり者で終ってしまう。
 例えるなら、この世に一台しかない電話を持つようなものであり、やはり電話は話した相手にも所有して貰わなければ意味が無い。

 そして人命が等しく尊いものであるというのは、国家の様な巨大な集団が内包する個人を平等に扱う必要があるが故に使われる言葉であり、個人にとっては全く意味が無い。
 個人は明確に命に順番を持っている。
 一番大事で尊いのは自分と自分にとって大切な存在である。
 第二のカテゴリーに属するのは、自分にとって無害などうでも良い存在。
 そして最後は、その他の存在。自分や第一・第二のカテゴリーに属する人々の生命や財産を脅かす存在。
 大事な場面で、その順序を守れず全員を等しく尊いなどと考える奴は、守るべきものを守らない、人としての心を持たない者と断言出来る。
 博愛という概念は個人にとっては重過ぎる。個人個人が自分と自分の大切な相手を大事にし守ろうとする。それが人と人の結びつきにより社会全体に広がり、結果として人々の中に博愛と呼べる空気が生まれればそれで良い。


 その後、更に3本の桟橋も破壊して帝国側が救助の船を出しても接舷出来ない様にすると、連中を砦に封じ込めるために3か所ある扉の場所に足場岩を数十個単位で落として塞ぐ。
 そして砦内の天幕に火を点けて回った。
 防水の為に帆布の様な丈夫な生地に樹脂などを塗布してあったのだろう。天幕は一度火が付くと黒い煙と鼻の奥を突くような刺激臭を放ちながら激しく燃え上がり、たちまちの内に周囲の視界は煙に閉ざされ、帝国兵達は突然の火事に武器も持たずに墓地の様に整然と区画割りされた砦内を怒声上げながら右往左往する……我ながら放火犯の才能があるようだ。

「駄目だ。門が開かない!」
 そんな絶望の叫び声がパニックの引き金だった。
 扉を押し開けようと兵達が門の前に押し寄せるも、皆が協力して力を合わせも簡単に開くものではない砦の扉とは、号令に息を合わせて集団で押しでもしない限り開かない強度を持っているものだ。烏合の衆が集まってバラバラに押した程度で破れる訳も無い。
 なまじ数が多いだけに、火と煙に混乱状態の兵達を統率する事が出来ないのだろう。個々の指揮官がそれぞれに別の命令を上げて混乱に拍車をかけるばかりだ。
 扉に取り付いた前列の兵士達は後ろから押し寄せた兵によって押し潰され、血反吐を吐きながら次々に倒れていく。
 倒れた兵士達のシンボルは次々に生物から物体へと変わっていく……それに対して後悔も反省も無いが、ザマアミロと笑えるほど爽快でも無い。

 やがて壁の一部を押し倒す事に成功する。壁は構造上、外部からの力を受けても耐えられるように柱を支える様に斜めに柱木が渡さているのだが、逆に内側から外へと押す力に対しては、ある程度としか言えない程度の対策しか施されていない。
 倒れた壁は壁の外側に巡らせてある堀を渡す橋となり、他にも破壊された箇所から兵士達は脱出していく。
「まあ、仕方ないか」
 もっと人数を減らす予定だったが、多くの兵が着の身着のまま脱出したので戦力にならないだろう。
 俺がすべきは、砦を使う事が出来ない様に完全に燃やし尽くす事だ。先ほど奪った物資を【所持アイテム】内で検索をかけると灯り用の油が入った壺が幾つかあったので取り出して、【操水】で壁の下側に満遍なく撒きながら着火していく。
 四方を取り巻く壁が燃え上がると、やがて中心で火災旋風が起こり、砦の中央に竜巻状の火柱が立ち上がり炎の奔流が全てを飲み込んでいく……門の扉で圧死した者達、炎と煙に巻かれた者達。その死体すらも飲み込んでいった。


 帝国軍は、兵士の殆どが武器を持たず着の身着のまま焼け出され、帰る手立ての船も失い。敵地に放り出されたという事実に項垂れ座り込む。
 その数は500人ほど減って2500人足らず。
 この状況なら同程度の人数の王国軍とぶつかれば即敗走だろう。
 逃げた先で近隣の村を襲ってそこを拠点にしてしのぎ援軍を待つという方法も普通ならあり得るが、こいつらが焼き討ちを架けたので近隣に無事な村なんて存在しないので本当に詰んでいる……自業自得としか言いようがない。

 それにやがて王国軍がやって来るだろう。あれだけ大きな狼煙を上げたのだから到着は今日中は……無いな。
 まず斥候を立てて情報収集し、その報告が届くのは夜になるだろう。この世界の軍隊が夜間行軍や野戦に耐え得る練度を持ち合わせているのかは分からない。だが敵軍を包囲殲滅、または捕縛するのに夜の暗闇は無いだろう。必ず大量に取り逃がして後々厄介な事になる。
 素人の俺が直ぐに思いつく程度の事をプロフェッショナルである軍のお偉いさんが気づかないはずが無い。
 馬鹿な敵将を山盛りで登場させれば主人公達が賢く見えるというどこぞの戦記物のような事は現実ではあり得ない。
 歴史上、馬鹿な指揮官の話は数多くあるが、それはその愚行が洒落にならない大事だからこそ後世にまで語り継がれているのであり、愚将が数多くいたという意味ではない。
 多くの兵士の命と国家の命運すら握る軍の指揮官というのは大抵は"Right stuff"(適任)であるのだから、基本常識外れな判断は下されない。
 時に馬鹿が神輿として担がれても、それを支える優秀な人材がそれを支える。
 同様に馬鹿がアメリカ大統領になっても、優秀なスタッフと政府の高官が己の権限と世論を利用して大統領を掣肘して愚かな真似は許さず、何となく無難に大統領として任期を終えるのだ……ただし再選は無理。

 明日の早朝に出立……積極的行動を好む指揮官ならば、多少のリスクを冒しても夜間行軍をして10㎞程度の距離まで接近し、先行させた斥候の報告に従って布陣も済ませるだろう。そして夜明けと共に攻撃という可能性もあるかもしれない。
 いや、それ以前に普通の野生動物とは違う魔物が闊歩するこの世界で軍隊といえども夜間に行軍出来るのか?
 この世界の人間は、現実世界の日本人に比べても体格面ではかなり劣り、平均的な身体能力でも運動不足になりがちな現代の日本人と良い勝負だろう。鍛え上げられた者同士を比較するなら確実に日本人に軍配が上がる。
 一方でシステムメニューの恩恵が無い状態の俺は、オーク3体以上を同時に素手で相手にすれば遅れをとりかねない──分厚い脂肪と筋肉に守られた身体や頑強で徒手空拳では鳩尾にすらダメージが通るかすら怪しい。更に見かけの割に動作もかなり素早い──のだが、そんなネイキッド隆にも勝てる人間がこの世界にどれほど居るのか疑問だ。
 多分、夜間行軍中に数十頭のオークの群に遭遇し視界の利かない状態で奇襲を受ければパニックを起こして軍が壊乱し為す術も無しなんて状況が予想される。
 勿論夜間行軍の訓練を普段から行っているとするならば対応策もあるのだろうが、その対応策が有るかはかなり疑問だ。。
 魔物対策を考えてもさっぱり思いつかない。もしかしたら俺の知らない魔物避けなどのファンタジー臭満載な魔法の道具があるのかもしれないが、これからミーアの店に戻って尋ねるにしても往復で2時間近くかかってしまう。
 とりあえず日付が変わる前にはには王国軍は来ないのは確かなので、それまでにやる事を済ませて退散すれば良いさ。
 一方、2号は間もなくこちらにたどり着くだろう……やったね2号。手柄立て放題だよ!
 勿論、ここまでお膳立ては済ませてあるのだから、後は自分で何とかして貰いたい。

「静まれ!」
 突然、響き渡る良く通る渋い声に、混乱し右往左往していた兵士達が一斉に声の主を振り返る。
 まさか「静まれ」の一言で本当に静まるなんて事が起きるとは思っても居なかった俺も声の方を振り返ってしまったよ。

「司令部付き中隊は我前に集合。工兵大隊は我右に集合。歩兵大隊は左手に集合。司令部付き中隊は速やかに必要な分隊を編成し拠点内の状況確認を急げ……自時間は無い! 各大隊は被害状況を確認し報告。その後、工兵大隊は桟橋と船の残骸から可能な限り多くの筏を……」
 三角巾で右腕を吊り、頭と顔半分を包帯に覆われた指揮官らしき男が次々に命令を下している。
 面白く無い。折角の負け犬の集団が軍隊へと返り咲こうとしている。

「……くたばれ」
 【装備】した弓に矢をつがえると引き絞り、50mほど離れた上空から標的に狙いを定めると放つ。
 今更、1人を殺す事に躊躇いなど無い。むしろ帝国軍がやらかした事についての責任は、現場責任者であるこいつに帰すのだから、こいつが生きていたら先に死んだ500人の兵士達の立場が無いってものだろう。

 暇を見ては練習してた弓の腕は結構上がっていたので、放たれた矢は指揮官の頭を目掛けて突き進む。しかし的を射る直前、横切った銀光によって切り落された。
「何奴かっ!」
 指揮官を自らの背に庇うように立ってそう叫ぶは、ファンタジーRPGに出てきそうな実用性を無視しデザイン重視のお洒落っぽい剣と鎧を身に付けた……決してイケメンじゃなく、むしろ俺と同じで顔を形容する言葉に、岩山を形容するような単語が幾つも出てくる厳つさで、さらに言えば結構不細工だった。
『許す!』
 何を許すのか知らないが、その言葉が胸に湧き上がった。お洒落鎧を着こんだ身体に対して顔が妙に浮き上がってるこの男に対して、俺はそれ以外の感情を持つことが出来なかった……もしウザいくらにイケメンだったら足場岩をマッハ30で射出し、一瞬で2500の軍勢と共に蒸発させた上にほぼ円形の湖を瓢箪形に変え、更に世界中の皆に小氷河期をプレゼントしてやるところだ。

「はっ!」
 余計な事を考えている間に奴は傍にいた槍を持った兵士から槍を奪うと気合と共にに正確に俺を目掛けて投擲してきた……えっ? 俺って【迷彩】で姿見えないはずだけど。
 驚きつつも槍を避けようとした時、嫌な予感が脳裏を過り、咄嗟に穂先の根元を掴む。するとと手の中で槍がもがくように暴れる。
 別に意志を持って動いたという訳では無く、突如外から力が加わった様に回転しながら力を増して押し込んで来た。
 しかし、俺の馬鹿みたいに強い握力から逃れられるはずも無く大人しくなったところを、そのまま投げ返した。

 自分が投げた倍の速度で帰って来た槍を、男は難なく掴み取る……どういう事だ? 奴の直前でいきなり減速したぞ。
「英雄イースフィグ!」
「イースフィグ。風の勇士!」
「精霊の導き手イースフィグ!」
 一連の攻防に兵士達が奴の名前なのだろうイースフィグが連呼して讃える。英雄ね……まあ、放たれた矢を剣で切り落した技量からそう呼ばれる実力者である事は分からないでもない。
 だが風の勇士だ精霊の導き手というは、風の魔法の使い手という事なのだろう。つまり先程の槍の挙動は全て風魔法の影響という事か。
 何にせよ、戦争で非戦闘員、女子供まで虐殺する類の連中に讃えられる英雄様だ。死んだ英雄にしてやるのが世の為、人の為、俺の為。
 遊んでやろう……ちなみに、50mの距離はとにかく、30mほどの高さに居る俺に槍を投げつける事からして身体能力はネイキッド隆くんを間違いなく上回る、しかも圧倒的に。

 俺だって、空手に振り分けられたリソースの全てを槍投げの練習に注いでいたら、何かの間違いでどこかのスポーツ弱小国のオリンピック代表になるポテンシャルは秘めている自信はある。
 だが槍投げの世界記録は100mにも満たない。奴が投げた実戦用の槍ではなく競技投擲用の800gの槍を投げてそれである。
 軽く3kgは超える重量の槍を50m地点で高さ30mを通過させる、しかも勢いを失って穂先が下がっての30mじゃなく、ピンと糸を張ったように直線に飛ばすなんて、人類がその域に到達にするには100年以上未来に、俺の子孫が「薬の力だけでオリンピックをやってた時代があったなんて信じられないね」と語る様になるのを待たねばならない。
 つまり、何だ……偉そうな事を言って申し訳ありません。僕は自分の才能や努力で身に付けた訳でもないチートで好き勝手にするので宜しく! って事だ。
 もっとも槍の挙動から奴も何らかのインチキをやってる可能性があるけど。

 俺は親父のプロレス関連グッズのコレクションからパクっておいた白地に黒の模様で額に赤でkが刻まれた覆面レスラーのマスクを取り出して被る……こっちの世界で被るためにパクったではなく、先日の事もあり現実世界で何かやらかす時に有った方が便利だと思ってパクったのだが、こちらの世界で役立ってしまうとは備えあれば嬉しいなって訳だ。

 自分の手の中の槍を信じられないと言わんばかりに睨みつけたイースフィグは、こちらを振り返って叫ぶ。
「この力、貴様も精霊の加護を持っているのか!」
 精霊の加護? 聞いた事があるような無いような……今の俺の記憶力で思い出せないなら聞いた事が無いのだろう。
 奴との30mほど距離をおいて地面に着地し【迷彩】を解く。
「貴様、名を名乗れ!」
「自ら名を名乗りもしない田舎者の帝国っぽが」
 名を名乗れと言われたこう答えるのが世の情け……かな?
「……俺は──」
「貴様の名を聞く耳など無い!」
 貴様に名乗る名前など無いの逆バージョンを勢いだけでぶつけてやる。
「おっ……おう?」
 想定外の状況に相手も見事に混乱している……ちなみに勢いで言った俺もどうオチを持っていけば良いのか着地点が見いだせない。
「な……ならばこの剣に懸けて問うのみ!」
 何とか自力で着地点を発見したようだが──
「剣ではなく槍です、そして返してください」
 奴が手にしているのは、そう抗議した兵士の槍だった……着地失敗。

 イースフィグ死んだ魚ような目で槍を兵士に投げ渡す。
 そして一度大きく深呼吸をすると、腰の剣を鞘から抜き放ち「おおおぉぉぉぉぉぉぉっ!」と勇ましくウォークライを吠え上げてこちらに突っ込んでくる……気不味さを誤魔化す為の方法がそれしか見つからなかったのだろう。
「剣を抜け!」
 走りながら剣を振り上げてそう叫ぶが俺の剣は【所持アイテム】の中だから、こいつには俺が剣を持っているようには見えないはずなのに何を言ってるのやら。
 さらに言えば、この高城隆は飛び道具以外の武器を恐れた事など一度も無い。剣で俺に脅威を感じさせたいならライトサーベルでも持ってくるんだな……嘘だけど。

「貴様が抜かずとも斬る!」
 本人は格好良いつもりで言ってるのかもしれないが、単に武器を持たない相手に斬りかかる言い訳だろう。
 驚異的身体能力で間合いを詰め、人外の力で斬りつけてくる英雄(笑)に対して、俺は奴の剣の届く範囲の内側へと速度で対抗するのではなくタイミングを読んで踏み込んで行く。
 俺とイースフィグの視線が交差する。そして奴の目が驚愕に見開かれた時には鎧越しに掌底を鳩尾へと打ち込み終えていた。
 俺に反撃を喰らうまで全く反応出来なかったことから、こいつの力は加護とやらの借り物の力だと確信した。

 口から血反吐を吹き出し、その場に崩れ落ちる姿に帝国兵達から悲鳴のような声が上がる。
「英雄がぁ……精霊の加護がぁ……」
 湖を挟んだ敵地で拠り所である砦を失い。更には精神的支柱とも呼ぶべき英雄様が一撃で倒されたんだから、そりゃあ泣くさ俺でも泣く……だがこれでこいつらの心が折れてくれ──
 いきなり下から掬い上げる様にして俺の首目掛けて走る斬撃を横から右脚で蹴り付けると、折れて刀身が飛んでいく。

「き、貴様も……やはり……精霊の加護……」
 付け根から刀身を失った剣を握りしめ、鋭い眼光でこちらを睨みつけながら、必死に膝や肘をカクカクブルブルさせながら立ち上がろうとする英雄様。その鎧の腹部は俺の掌底で大きく陥没していた……やっぱり見た目重視で防御性能はお察しレベルか。
「知らねえな。精霊の籠だの瓶だのなんて」
「馬鹿な……加護のも無に……我に、勝てる者など……」
 折角煽ってやったのに、軽やかにスルーされただと?
 まあ良い。とにかくこいつに勝つのは難しい事ではなかった。加藤以外の空手部の2年生でもマジモードなら同様の結果になったはずだ。
 確かに奴は人類に出せる速度をはるかに上回ってはいたが、最後の踏み込みの時点で速度は100㎞/hを超える訳では全くないし、振り下ろされる剣の切っ先の速さがバドミントン男子のトップクラスの選手のスマッシュの速さを越えている訳でもない。
 つまり、人類の枠内に楽勝で留まっていたネイキッド隆くんの目でも追えない速さでは無いどころか、身体が反応出来ない速さでも無かった。
 しかも全力で走り込んで来て全力で振り下ろす。その目標が俺と決まっているのだから、何処に最後の一歩を踏み下ろして、何処に振り下ろすのか予め決まっている。
 その走る歩幅と速度からどのタイミングで振り下ろすのかも丸分かりだから、その瞬間、俺は奴が振り下ろす場所より1m足らず前へ踏み込んで奴の鳩尾目掛けて掌底を打ち込めば良いだけだった
 左足で踏み込んで前進する力を受け止めて、左足から身体の左側を軸として右回りに発生した回転力を使い右側から袈裟懸けに剣を振り下ろすという動作において、左足を踏み込むタイミングを読まれて相手に懐に飛び込まれた場合。
 力を加減しているならともかく全力ならば止める事も大きく軌道を変えたりタイミングをずらす事は、こいつが自分の速度に対応出来る反射神経を持っていたとしても不可能。分かって居ても止まれるモノではない。
 ちなみに、そのタイミングを読む程度の事が出来ないなら生きていく資格は無いと、空手部員は1年の二学期中には気づかされる……ちなみに物覚えの悪い方だった俺は目覚めた病院のベッドの上で気づいた。

「嘘だ……ありえない……加護も持たない……者に負けたなど……」
 加護加護うるさいな。何か気に障るフレーズだ。
「精霊の加護を……持つ我が……」
 イラつくのできっぱりと言ってやることにした。
「精霊の加護とやらを持つ割にはお前弱いな。俺の知る精霊の加護を持つ……」
 俺の知る? ……来た来た! いつもの頭の中を掻き回すような不快な感覚。
 毎回毎回ふざけるな。ふざけるな。ふざけんなーっ!
 気合全開で抗う。だが気合が足りないのか次第に不快感が強まっていく。このままでは押し負ける。気合が足りないなら【気】も持っていきやがれ!
 次の瞬間、頭の中で何かのスイッチが入ったように『プチっ』という感覚と共に不快感が引いていく。
 勝った。逆転勝訴! 第一部完! ……そんな状況ではない。同時に頭の中に俺の知る精霊の加護を持つ者。ルーセの記憶が思い浮かんだ。

 だがじっくり思い出に浸れる状況ではない。即座に目の前の英雄様の顎を蹴り砕いて失神させる。
 さてどうしたものだろう……すぐにでもコードアに行ってルーセの行方の手掛かりを探したいが、こいつらを放置という訳にもいかない。
 皆殺しか、2500人も……それは面倒過ぎる! それなら龍を数匹狩る方が楽だ。
 まとめて気絶させて、収納して……その後はどうする?
 開放したらこいつらの口から『全員いきなり気絶させられた』『気付いたら元居た場所とは別の場所だった』『目覚めたらかなり時間が経過していた』等々の余計な情報がリークする事になる。
 ……そうか、どこか遠くで幸せになって貰えば良いのだよ。遠い無人島にでも置き去りにすれば良い。
 自分の手で殺さなくても男しかいないこいつらは、放っておいても数十年後には全滅するだろう。
 脱出しようにも周囲に数百kmに陸地の無い絶海の孤島を探してあげよう。2500人が生きていくのに十分な広さを持つ島。食べ物に困らないよう、果物が豊富にとれる南の島が良い。魚も沢山獲れるサンゴ礁に囲まれてるのが良いな……絶望の楽園で死ぬまでゆっくりと余生を過ごせるようにな。


「殺した方が楽だった……」
 見通しが甘すぎた。2500もの人間を半径10mほどの【昏倒】を使って失神させ、収納するという作業は逃げ惑う兵士達との果てしの無い追いかけっこであった。

 下手に指揮を執らせれば厄介だと思って最初に指揮官とその周辺にいた上級士官等にまとめて【昏倒】を喰らわせたのが拙かったのだろう。
 彼らが倒れた事で、2500の兵士が完全に烏合の衆と化してそれぞれがバラバラに逃げ散ってしまったのだ。
 これが「待てよ~!」「つかまえてみなさい~!」的なキャッキャウフフ要素満載なら楽しいのだろうが、むくつけき兵士共を相手に盛り上がる要素など何一つなく、心が疲弊するだけだった。
 仕方が無いので、再び【迷彩】で姿を消すと、浮遊/飛行魔法を使い上空から【昏倒】の爆撃を喰らわせては時間停止状態で収納するのを繰り返す事になった。
 レベルⅥやⅦに【昏倒】の上位魔術が無かったのが悪いんだ。
 相変わらず実戦的だったり実用的だったりする魔術は少なく、多くがしょうもないのがレベルが上がる事で規模を拡大するだけのパターンが多い。


 最後にマップ上に兵士の残りがいない事を確認してから、コードアに向けて移動を開始する。
 時折、懲りずに例の不快感が襲ってくるが【気】を高めて排除する。
 使い方に慣れていないので常時【気】を高めておくには集中力が必要で、少しでも気が逸れた途端に襲ってきやがる。

 途中で2号とすれ違う。互いに【迷彩】を使っているので、マップを使える俺は奴に気付けたが、2号は俺に気づかずに高度200m程をチンタラと80km/h以下で飛んでいる。
 飛行中に余り高度を取らない事は俺にとっては速度を上げるためにはメリットがあるが、逆に2号にとってはデメリットだ。
 音速を超える際の衝撃波が壁になっている俺は、気圧と温度が高く音の伝播速度が速い低高度を飛ぶ事でより速く飛ぶことが出来るが、逆に風の抵抗が速度を上げる壁になっている2号は、空気の薄さと寒さに耐えられる範囲で高度を上げた方が空気の抵抗が少なく速度を上げられる。
 ちなみに高度3000mでの音速は地上の340m/sに対して300m/sと1割以上も低くなるので、俺は有り余る魔力をつぎ込んで200m以下の低高度を音速を少し下回る速度を維持して飛んでいる。
 衝撃波の問題をクリア出来たなら成層圏を飛ぶ。それに成功したなら上空100㎞の先、宇宙を狙うと誓う。勿論何の意味も無くただのロマンな自己満足だが、男って奴はいつだって浪漫の欠片を追い求める生き物だ。


 さほどかからずコードアにたどり着く。
 見覚えのある村には、1週間ほどだが俺がルーセと共に過ごした家は無く更地になっていた。
「やりやがったな……」
 急に公共事業計画が立ち上がって区画整理に引っ掛かったという訳ではない。人の住んでいない家なんて村には幾つもあって、何年も放置されてはお化けでも住んでそうな廃屋でさえ1か月前と変わらず傾きながらでも建っている。
 ルーセの家だけが取り壊されたのだ。こんな事をするのは、執拗に俺の頭に干渉してルーセの記憶を思い出せないようにしていた糞っ垂れな精霊だ。
 どうせ村人の頭に干渉してルーセの家を壊したのだろう。ルーセの痕跡を残らず消すために……ならばルーセは何処へ? 嫌な予感しかしない。

 村を出ると森を北へと進み、火龍の巣の入口の前に降り立つ。
 この場所でルーセと別れたのが最後だった。
「ここから、用を足しにと言って向こうへ……」
 彼女の足取りを思い出しながら森の中へ踏み入ると、10mも進まない内に茂みに落ちている布を見つけた。
「これは!」
 雨風に晒されて汚れてはいるが小さな子供服。しかも見覚えがあった。
「まさか……」
 俺は膝を突いて服を拾い上げる。
 間違いなくルーセが着ていた上着だった。それだけではないズボンや靴も全て一揃えが落ちていた。
 認めたくはないが、目の前の光景が意味する事は想像がつく。この森の中で身に付けている全てを脱ぎ捨てて何処に行ったと言うんだ。しかも家のあるコードアにも戻らずに。
 感じていた嫌な予感。精霊が執拗なまでにルーセが存在していた痕跡を消そうとしているならば、真っ先に消そうとするのはルーセ自身のはず……いや、ルーセ自身が存在していないからこそ痕跡を消していると考えるのが自然だという事。
 以前からこの事は考えまいとしても何度も頭を過っていたが認めずに今まで来た。俺の考えが間違っている。夢世界で記憶を取り戻せばルーセを探し出せるはずだと。


「ここまでしやがるのか……」
 ルーセの両親の墓へとやって来て目にしたのは、見る影もない2人の名前が刻まれた墓標代りの石だった。一抱えはあったはずの大きな石が粉々に砕かれていた。
 墓の周辺の地面にある複数の足跡からオーガの仕業と分かる。そしてそれが精霊が操ってやらせたのだという事も。
 決定的だ。今まで何度も精霊が敵となる可能性を考えていたが、ちがう高城隆が精霊を敵とするのだ。
「この報いは必ずくれてやる」
 そう誓いを立てた。

 足場岩を新たな墓標として設置して名前を刻み終えると、手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱える……以前にこうした時には隣にルーセがいた事を思い出す。
 ふと2人の墓のあった場所の隣にある石が目に入った。ルーセは両親の墓穴を掘った時に出て来た石だと言っていた。
 思い出すその時のルーセの表情が引っ掛かり、跪いて石を手にする……頭の中でもう1人の俺が止めろと警告を発している。
 だが宝物を扱うようにそっと石を横に置くと、そのまま道具も使わず手で地面を掘り始める。
 一応空手使いとして、脛や拳だけでなく貫手を使える様に指先も鍛えてある。
 これらはスポーツ空手においては意味の無い鍛錬であり、巻き藁打ちをしても拳の骨が硬くなる事は医学的にありえない。
 しかし実戦を想定する場合において巻き藁打ちは決して無意味な行為ではなく、あれはどの程度殴っても拳が壊れないか知るための確認だと思っている。
 拳は想像以上に堅固であり、かつ想像以上に脆い。何処まで拳を壊さずに殴る事が出来るか知る事は非常に重要な事だ。
 一方、貫手の方は少し意味合いが違う。貫手で砂を突いても指先は、拳同様に硬くはならない。
 あれは指を痛める事無くより強く突けるコツを掴む練習だ。
 大島ですら、貫手はコツを掴んだら、後は忘れない様にたまに確認する程度にしろと注意するほどだ。日常的にそんな鍛錬をしていると歳を取ってから指の関節が曲がらなくなるそうだ。
 そしてそんな鍛錬も無意味になるほどレベルアップの恩恵は大きく、砂場で穴を掘るよりもむしろ楽に掘り進んでいく。
 すると指先に硬い何かが触れる。
 収納して確認するとそれは人骨で……ルーセの骨だった。


 その後、自分が何をしたかははっきりと憶えていない。
 堪えようのない感情に押し流され、癇癪を起した5歳児の様に泣き喚き暴れる様を、まるで他人事のように見ている記憶があるだけで全く現実の事の様な気がしない。
 やがて爆発した感情の熱量を使い果たしてしまうと虚脱感に襲われてその場に蹲る様に倒れたのだった。

 感情が収まり頭が回る様になってくると、次は後悔の念が湧き上がる。
 何故気付いて上げられなかったのか……迫りくる終わりの時。火龍を倒せない焦りと死への恐怖。ルーセはそれをすべて胸の奥に抱え込んでいたのだ。年長者としてどうして気付けなかったのか? ルーセの「リューありがとう!」という言葉にどれほどの想いが込められていたのかに、どうして気付いて上げられなかったのか? 自分の不甲斐なさが情けない。


 気が付けば日がとっぷりと暮れていた。
 慌ててルーセの骨を埋め戻そうとした時、この骨に【反魂】を使えばルーセを蘇らせる事が出来る可能性について閃いた。
 無理がある事は重々承知だが、僅かな可能性に懸けてみたくなった。

 先ずは骨を全て掘り返して集める。
 その為にマルの力を借りようと思ったが、口の中でボリボリとさせながら『イマイチ美味しくない』と言うのを想像してしまい試す気にはなれなかった。
 周辺マップ機能でルーセの遺体を骨だけではなく歯の1本、そして少し残った毛髪まで残さず検索して位置を確認する。
 それらの分布は深さ60-90㎝、縦70㎝横幅50㎝の範囲に分布し、身体を軽く丸めて横たわる形になっていた。
 しっかりの狙いを定めてひとつ残らず範囲に納める様にして【大抗】を発動して、範囲内の土ごとルーセの遺体を【所持アイテム】内に取り込む。
 そして土の塊の中から、ルーセの遺体を抜き出して取り出す。

「やっぱりこのままでは駄目だよな……」
 こんな手足も頭も雑多に混ざった状態で復活したらと考えると恐ろしい。
 一番わかりやすい頭骨と骨盤を配置して、それを基準にして他の骨の位置を一つ一つ決めていく。
 大腿骨の様に分かりやすい大きな骨も、一度収納しリストから左右をきちんと確認して配置していく。
 似たような骨が多い背骨や頸骨も順番を確認して正確に配置する。


 ……まあ、結果は失敗だ。
 失敗の理由は親切にもアナウンスしてくれた。
 1つは、重要臓器の欠損。
 つまり骨だけで生きられる人間は居ないという事だ。
 【反魂】は失われた臓器まで復活させる訳では無い。そして【傷癒】シリーズを含む魔術による治療も、破損した組織の回復や一部再生は可能でも、骨しか残っていない状況から全ての臓器を完全再生などは治療の範疇を越えている。
 もう1つは、魂の有無の問題。
 【良くある質問】先生曰く、死んだ人間の身体には魂が数時間から最長で数日残り続けるそうだ。ルーセの場合は死後すぐに仮初の身体に魂が移っていたので完全に無理って事だ。

 だが俺は諦めない。
 身体の方はレベルアップすれば骨からでも再生する魔術を使えるようになるかもしれない。
 ルーセの魂が精霊が用意した仮初の身体に移ったというのなら、その魂はまだ精霊の元にある可能性がある。
 そうならば精霊をボッコボコにぶん殴った上で取り返せばいい。
 その為にはレベルアップをする……実にシンプルな計画だ。現実とか運命とかいう奴等が「もう勘弁してください。お願いしますお願いします」と土下座するまで諦めずにやってやる。


「ちっともシンプルじゃねぇ……どうしよう」
 宿屋に戻って頭を抱える。
 ベッドの上に転がした幼女6歳の処遇に頭が痛いのだ。
 1人分でも十分頭が痛いのに2人分の幼女問題を抱え込む事になるとは……ルーセは11歳と名乗っていたが、実質8歳の身体のまま成長していないし、そもそも成育が遅いから幼女枠で十分だ。
 とりあえず、システムメニュー持ちの最大の問題である【セーブ&ロード】は使えないはずだ。使えるならあんな奴隷扱いのような立場に甘んじてはいないだろう。
 使い方を知らないか、使い方を知っていても既に捕まって首輪をされた後に気づいたかのどちらかのはずだ。
 そうだとするなら、俺が与える待遇が帝国軍よりましなら彼女はロードを実行しない…………相手が子供だからな何するか本当に分かんないけどな!
 何よりいきなり俺の顔を見たら子供は怯えるだろう。
 どうするか? 先程使った額にkの一文字が眩しい『キロ・マスカラス』の覆面を……馬鹿野郎! 余計怯えるわっ!
 あっ、そんな事を考えてる内に目覚め始めてしまった。
 ベッドの上でもぞもぞと動き、意識の覚醒を嫌がる様に枕に顔を押し付けるが、突然何かに気付いたかのように固まった。
 ゆっくりと手を伸ばし枕の感触を確かめ、再び固まる。
 そしてゆっくりと10秒ほどかけて枕に顔を押し付けたまま首を捻って顔をこちらに向ける。
「!」
 案の定、驚きと恐怖を浮かべて顔が凍り付く……予想通りの結果に、予想通りに俺のガラスのハートに亀裂が走る。

「俺は隆。君は?」
 動揺を抑え、インドの公用語であるヒンディー語で出来るだけ優しい声で話しかけるも、返事は無く、アナウンスが『……返事は無い。ただの幼女のようだ』と告げる……うるさい黙ってろ!
 ヒンディー語を身に付けるのは比較的楽だった。英語以外の外国語を身に付けるのに俺にとって身近な教材は吹き替えや字幕入りの映画だが、意外に日本でDVDやRDで提供されている映画を作ってる国は少ない。
 映画で多いのは英語、フランス語、中国語、朝鮮語。そして最近はインド映画でヒンディー語となり、ドイツ語やイタリア語などの映画よりもレンタルショップで借りやすい。

 一向に返事は無いがこちらをじっと見つめる幼女。目を逸らしたらお終いだと言わんばかりの必死さで大きな目を更に大きく見開き、恐怖を押し殺して俺を見つめ続ける……心の傷に貼る絆創膏って何処で売ってるの?

 一方、俺も目を逸らす事が出来ない。幼女の目には死ぬなら叶わぬともせめて一太刀的な悲壮感すら込められており、目を逸らせば攻撃されそうな緊張感があり怖い。
 その為、睨み合いがしばし続いた。
 ここはマルを出して、動物の癒し効果で場の空気を……いやいや、ユキの時の二の舞だ。マルは俺を悪者にしてでも幼女の心をガッチリ鷲掴み作戦を実行するだろう。
 何でマルに美味しいところをマルに盗られなければならないんだ? ここは自分の力で何とかしなければ。


 突然『ぐぅ~』という緊張感の欠片も無い音が、幼女のお腹から鳴り響く。
「……………………」
「……お腹減ってるの?」
「…………」
 しばしの葛藤の後、握りしめた拳を震わせ涙目で声を出さずに頷いた。

 チャンス到来だ。警戒心の強い野生の小動物に対して有効なのは餌付けだ。まして言葉の通じる人間相手により効果的なのは間違いない。
「食べる?」
 ボストルとエスロッレコートインの朝市の屋台で買ってストックしてあったスタンダードなオーク肉と得体の知れないが滅茶苦茶旨い貝の串焼きを取り出して差し出す。
 目をまん丸に見開いて串焼きを凝視するが受け取ろうとはしない……そう、野生動物は決して人間の手から餌は食べない。
 しかし、差し出した手を左右に振っても、標的をロックオンした彼女の視線は串焼きから外れる事は無い……食いついている。
 【所持アイテム】内では時間が経過しないので、焼き立ての串焼きの匂いの粒子がゆっくりと空気中に拡散して、呼吸と共に幼女の鼻腔に到達し、奥の受容体にドッキングすると稲妻の如き衝撃として、頭骨を貫通して直結した神経を介して情報を脳にお見舞いするのだから無理も無い。

「いらないか、じゃあ」
 あっさりそう言い放つと海鮮串の根元を咥え、引き抜くようにして一口食いする。
 目だけではなく口まで全開にして見せる驚きと絶望の形。
 しかし、俺はそれに気づくそぶりも見せず、続け様にオーク串も一口食いする。
 俺の手に残った何も刺さっていない2本の串を見て、そのままベッドの上で両手と両膝を突いて項垂れる幼女。
 肩が震えている……悔しかろう。こんな殺し屋の様な顔をした得体の知れない男の差し出す食い物に心を奪われ、食欲と警戒心とプライドを秤にかけて決断を下せぬ内に食われてしまったのだから、プライドを捨てかけた事が悔しいだろう。自分の決断が遅かった事が悔しいだろう。串焼きを食べられなかった事が悔しいだろう。
 大島が倒れ伏した俺に「悔しかろうて?」と笑顔で問いかけてくる時の気持ちが分か……いや全く分からない。
 仕方ないので、その顔の下に串焼きを6本ほど載せた紙皿を差し込んでやると、顔を伏せたまま食べ始める。もう2度と機会を逃すまいといった必死さが良い。

 串焼きと言っても、串の長さだけでも日本の焼き鳥の倍以上あり3-4本も食べれば俺でもある程度腹が満足するのだが、すぐにも食い尽くしてしまいそうな勢いなので【所持アイテム】内からタッパー(100均の偽物)に入ったカレーと、レンジでチンするレトルトごはんを取り出し、ついに実用段階に入った新魔法『電子レンジ』で温める。
 『電子レンジ』とは、兄貴が開発中の核融合発電魔法の研究段階で生み出された技術を使っていて、反応プラズマを封じ込めるフィールド魔法を流用し、フィールド魔法で形成した空間内にマイクロ波を発生させることでマイクロ波加熱を起こすという無駄に高度な技術を使った魔法である。
 正20面体を形成するフィールド内の温める対象が置かれた中心部に向かって12箇所ある頂点からマイクロウェーブを照射する事で短時間でむらなく温める優れもので、更に温度センサーで予め設定された温度以上に上昇しない親切設計。その性能と便利さに母さんを感激させたのであった。
 ちなみに次回のバージョンアップでオーブン機能も追加する予定である。
 加熱開始10秒後、終了を知らせるこだわりの音である「チン!」と鳴りフィールドが消えると取り出し、レトルトごはんを深手の紙皿にあけてカレーの入ったタッパー。そして一応スプーンを共にベッド脇のチェストの上に置く。

 カレーの香りに誘われたかのように最後の串を口に咥えたまま頭を上げて周囲を見渡して、チェスト上にある物を発見して再び固まる。
 インド人といえばカレーのイメージだが、元々かレーという言葉はインドにないけど逆に海外から流入して使われているとかはどうでも良いが、
外国人にとってインド料理が全てカレーにカテゴライズされるのは間違いない。
 そしてインド人にとっても、欧風だろうが日本風だろうがクスクスだろうがスープカレーだろうが焼きカレーだろうが、海外でローカライズされたインド料理のバリエーションだろう。
 しかもこのカレーは、母さんの料理の腕がどうこうなどちっぽけな要素──母さんが自分で認めた──になるほど、こちらの世界の滅茶苦茶旨い食材を使いまくって作られた究極の一品だ。むしろインド人の癖に、このカレーの芳醇な香りに惹き付けられないならそれはもうインド人じゃなくパキスタン人だ……勿論、パキスタンとインドは宗教でイスラム教徒のヒンドゥー教ごとに分離独立しただけで宗教が関わらない部分では文化風習には違いは無いだろうから嘘だけど。

 予想通り、幼女の視線はカレーに釘付けだ。
 視線を泳がせてはカレーを凝視するという動作を何度も繰り返し、唾を幾度も飲み込んで、三度俺に泣きそうな目を向けて一言。
「……………………食べていい?」
 つ、遂に来た! クララが立った! いや、アムリタが喋った!
「……どうぞ」
 一拍おいて興奮を抑え込みながらそう答えるや否や猛然とカレーに挑みかかるが、しっかり温めてしまったので熱かったのだろう手を抑えてもだえる。そしてすぐにスプーンを掴んで凄い勢いで食べ始めた……やっぱりインド人もスプーンを使う事はあるんだね。
 お代わりまでして、一体小さな身体の何処に入ったのだと思うほど食べ、満足したというより限界に達したという感じで仰向けに寝転がる……何処に入ったのかは一目瞭然だった。お腹がぽっこりで、その様子に俺の心はほっこりだ。

 20分ほど満腹感と共にまどろんでいた幼女が、いきなりむくりと起き上がると「私はアムリタ。このお礼に何をすれば良いの?」と言い出した。
 先程俺がした自己紹介をスルーした事をちゃんと気にしていたのだろう……良い子じゃないか。実の妹に比べたら。
 しかし「何を」と言われてもノープランだ。単に脳内会議で「この幼女を助けてやらないと、俺ヤバくね?」と自己主張の激しい自尊心クンが言い出し、結果会議が踊ってしまった結果であり、利害関係の調整等を突き詰めた結果の行動ではない。
 所詮男という生き物は『梵天丸もかくありたい』……梵天丸は関係ねぇ! 『こうでありたい』という自分の理想像を守ったり裏切ったりしながら自分を作り上げていくだけだ。そして今回は理想像を守っただけで別に特別な事ではない。

「お子様は、笑顔で素直にありがとうと言っておけば世の中の大概は乗り越えて渡っていけるんだよ」
 他に必要なのは『ごめんなさい』と『お願いします』だな。むしろ『でも』とか『だって』とか余計な言葉は憶えるなと言いたい。
「でも……」
 デターッ! 全人類にとって自分が言う分には気にしないが他人が使うのは大っ嫌いな言葉の一つが言ってる傍から出てしまったよ。
「……ありがとうじゃどうにもならなかった」
 うっ、確かに捕まって首輪されて鎖に繋がれたら言葉なんて無力だね。
「そうだね、世の中には言葉は通じても話が通じないろくでなしがいるね」
「あやまっても頼んでも止めてくれない……いつも」
 ……いつも?
「まさか現実の世界でも?」
 幼女は答えの代わりに小さく首を縦に2度振る……世界は本当に糞っ垂れだ。

 言葉少なく語る幼女の話を聞く限り、彼女は1年ほど前に両親を失ったストリートチルドレンの様だった。
 別にインドでは珍しいはなしでもないようだ。インドのストリートチルドレンは公称50万人、実際はその倍とも言われている。
 そして大人や他のストリートチルドレンから暴力を日常的に受けていたようだ。
 どうする俺? インドまでちょいと出掛けて、幼女を1人誘拐してくるか? 大して難しいミッションではないし、ストリートチルドレンの女の子が1人消えたところで問題になる事は無いだろう。しかしその後の事を考えると全くお勧め出来ない。
 例え父さん達の同意があったとしても、日本は身元不明の外国人幼女を家に住まわせて何事も無くめでたしめでたしになるようないい加減な社会じゃないし、国籍不明の不法滞在者では幼女の将来がどうなるのかまで考えて行動する必要がある……とりあえずだが、今日中にやっておくべき事が一つ思いついた。


「よし、狩に行こう!」
 この言葉を口にする前に30分ほど、少しずつ互いの話をしたりしてある程度打ち解けた……と思う。
 今後の事を考えても今日中に上げられるだけ幼女のレベルを上げる必要があるが、いきなりは無理なので怯えられないように結構頑張ってみた。
 レベルさえ上がれば、身体能力が向上して例え大人の暴力からでも身を守れるようになる。
 レベル60を越えれば【伝心】を覚えて、何時でも俺と意思の疎通が出来る。
 レベル70になれば【所持アイテム】が現実世界と夢世界共用になり、こちらで幼女に渡した食べ物などが現実世界の幼女も食べられるようになる。
 そうなれば、こちらの世界で俺が彼女の生活の面倒を見れば当面の心配は無くなる訳だが……本当に当面に過ぎない。
 まだ6歳なのでこれからきちんと教育を受けさせれば普通に生きる事も出来るようになるだろうが、定住先も無いストリートチルドレンでは教育を受ける事も出来ない。
 インドでストリートチルドレン支援をしている欧米系NGO法人を探して、支援・保護プログラムに参加させるかしかないかもしれない。とりあえず紫村に丸投げだな……我ながら酷い。

 幼女は突然の発言に「何言ってるんだこの馬鹿?」という表情を浮かべる……それは気のせいかもしれないが、気のせいと思えないペシミストな俺。
「まあ良いから、夜のハンティングに出かけようじゃないか」
 自分の心を誤魔化す為に無理にテンションを上げながら手を差し伸べると、幼女は明らかに困った顔しながら仕方なさそうにベッドを降りて近づいてくる。
 腰を屈めて抱き上げようとした瞬間、強烈な臭いが鼻の奥をめった刺しにする。
「くっさ!!」
 弾かれた様に飛び退いた俺に幼女は衝撃を受けたみたいだが、自分の服の脇の辺りを引っ張って鼻先にもってきて思いっきり深呼吸して、まるで鼻にヘビー級の世界ランカーのストレートを喰らったかの如く大きく、そして素早く仰け反ると、そのまま後ろに崩れ落ちるように倒れた。

「臭いぃ……」
 改めて知った自分の臭いに涙目でこちらに訴えてくる。
 確かに汚い。肩にもかからない短めの黒髪の中に小さな白い粒が幾つも蠢いているのを見つけ
、慄き背筋に震えが走る。
「身体を洗うから服を脱ぐんだ!」
 咄嗟に警察に通報されてもおかしくない発言してしまうが、幼女はためらうことなく裾の長い貫頭衣を腰紐で縛っただけの服を10秒足らずで脱ぎ捨てる。
 一方俺は【水塊】と【操熱】で直径1mほどの温めのお湯の塊を宙に浮かべる。
「…………!?」
 幼女は驚き固まるが構っている場合じゃない。
 髪の中に蠢く白いのはシラミだろう。もしかするとノミもいるのかもしれない?
 その可能性に気付いて、即座にシステムメニューを開いて時間停止すると【マップ機能】と【所持アイテム】をリンクさせ、室内の『ノミ』『シラミ』『ダニ』など思いつく限りの寄生虫を全て周辺マップ内に表示させ、そしてまとめて全て収納を実行した。
 虫に意識があると認識しないのか? それとも虫には意識というものが無視にはないのか? 虫には意識があると主張する学者がいるが、そもそも意識の有無という線が何処にあるかもはっきりしていないから……とりあえず寄生虫の収納は出来た。
 出来なければ宿を引き払ったうえで、一度幼女を失神させて収納して寄生虫などを除外して取り出せば良く、ベッドの上に落ちただろう寄生虫に関しては同様にベッドごと収納して取り出せば良い。
 しかし床に落ちただろう寄生虫の処置は難しいので他に別の町で宿をとって、そちらに泊まるという非道を行う事になっただろう。

「そのまま動くなよ」
 そう告げて幼女の頭上に浮かべた水塊に回転をかけてゆっくりと下へと降ろしていく。
 怯えた目で「魔法使い?」と聞いてきたので「すぐに自分でも使えるようになるから」と告げた。
「どうして?」
「自分にも不思議な力がある事くらい知っているだろう。その力にはもっと先があるって事だよ」
 パワーレベリングで高レベルにしてからネタ晴らしして驚かせたいのでぼんやりとしか説明しない。
「魔法使いになりたい!」
「なりたければ、先ず身体をきれいにするんだ」
「うん」

 それからお湯を2度取り換えてしっかり幼女の身体についていた埃や垢を洗い流す。同時に衣服も洗濯をして即座に乾燥も行う。
 身体も服もきれいになった幼女は見違える様……にはならない。確かに女はお洒落な服を着て化粧をしてヘアメイクすれば別人の様になるが、所詮は幼女だ漫画じゃないので汚れていてもきれいでも見れば分かる程度だ。
 だが、こざっぱりしたことで印象は良くなったのは確かだ。

 初期装備のロープ──これも剣などと同じく壊れない物品だった──を幼女の身体にたすき掛けにして、余った分を俺の左の肩と肘の2ヵ所に縛りつけてから幼女を左手で抱き上げ「首に両手を回してしっかり捕まるんだ」と指示を出す。幼女は魔法使いになりたい一心だろうか迷い見せる事無く従う。
「それじゃあ行くぞ」
「うん!」
 浮遊/飛行魔法を発動させ宙に浮く。
「?」
 浮かび上がった感覚に違和感を覚えたのだろう。俺の首から手を放して肩の辺りを掴むと俺から身体を遠ざける様にして肩越しに下を覗き込んだ。
「あぁぁっ! 飛んでる?」
 興奮して叫び声を上げると、俺の頭をぺチぺチと叩き出す。笑顔できゃっきゃしている幼女の無邪気な姿に率直に感動した。涼もルーセもなぁ……捻くれてて可愛気に乏しかったからな。

「最悪落ちても大丈夫なようにロープで結んであるけど、しっかりとしがみついておけよ」
 そう告げてから【迷彩】で姿を消す。
「何!?」と声を上げるので「自分の手が見えるか?」と尋ねる。
「見えない! 何これ?」
「姿を消す魔法だよ」
「魔法凄い!」
「これもすぐに使えるようになるから……」
 今日中にね。
「頑張る!」
 頑張ろうが頑張るまいが、君の意志に関係なく強制的に使えるようになって貰うからね……君の身の安全の為というよりも、俺の心の平安の為に。


 暗闇の中をこの世界の人間が、いや生物が体験した事の無いだろう超高速で飛ぶ。
 最初は見下ろす村の灯りに喜んでいたが、高度を上げて水平飛行に移り町を離れてしまうと、ところどころ遠くにボンヤリと人々の生活の灯りが見える以外は、厚い雲に閉ざされた空には月や星の明かりさえも無い。見るべき物も無く一気にテンションは下がってしまったようだ。
 俺の頭にしがみついたまま呼吸がゆっくりとなって来た……寝落ちの兆候だ! 慌てて声をかけて起こす。
 ここで寝られて現実世界に行かれたらどうなるかも楽しみではあるが、今日だけは目的を果たすまで寝て貰っては困る。
 朝に出発したエスロッレコートインをスルーして北上し続けて目指すは以前お世話になった入り江。
 狙いは勿論クラーケン。超パワーレベリング! 今日中にレベル70以上まで一気に上げるのに龍を何匹も狩っている時間など無い……けれど確認しておくべき事があった。

 入り江近くで寄り道してマップ機能を使ってオーガを探す。
 今までのルーセや2号や紫村達は、俺のパーティーメンバーで、俺と一定距離内にいる場合は、魔物を俺が倒そうが奴等が倒そうが互いに経験値が入る。
 多少の目減りがあるが、一定距離内のパーティーメンバー全員に無条件で8割程度の経験値が入るという大盤振る舞い。
 この事に関しては推論がある。システムメニュー保持者が魔物などを殺す事によって何らかの価値が発生し、システムメニューはそれと引き換えに所持者にレベルアップという恩恵を与える。しかし実際はレベルアップに比べてシステムメニューが得る価値の方が圧倒的に高い。つまり所持者側が搾取される関係。
 だからこそ、このような大盤振る舞いが可能であり【所持アイテム】の様なとんでもない能力がコスト0で使用出来るように設定されているのではないかという考えだ。

 それはさておき、幼女は俺のパーティーメンバーではないので、本番前にどうやればパワーレベリング出来るか確認しておきたい……システムメニューではオリジナルシステムメニュー保持者同士の協力プレイは推奨されていないようで【良くある質問】先生にも、その手に関する情報は無い。

 先ず幼女を左腕に抱き上げた状態で、1匹で森の中を散策中のオーガに上空から襲い掛かり、降下の勢いを利用して斜め上から振り下ろした蹴りの一撃で脛骨をへし折って倒した。
 視力が強化されている俺とは違って、この闇の中では何も見えていなかったのだろう。高速機動に少し驚いたものの一体何が行われたのかは分かっていないってところなのだろう。
「レベルが上がったとか、そんな声が聞こえなかった?」
 その問いに幼女は首を振る……という事はオーガの経験値なら例え1%でもレベル1から2へと上昇するはずなので、近くにいても無条件で経験値が配分される事は無いというルールと理解しておこう。
 残るパワーレベリングの可能性は共同撃破による経験値の分配か、止めを刺した者による全取り、もしくは一定割合の獲得だろう。

 再び浮遊/飛行魔法で飛び上がり、2分後にはオーガの真上30mの位置に到着していた。
「はい。これを収納して。そして俺が指示したら取り出して下に落とす。すると下にいるオーガの頭に当たる……分ったかな?」
 握り拳大の石を右手の掌の上に載せて差し出す。握り拳大といっても俺の握り拳大だから幼女の手には余る大きさなので収納が推奨。
「オーガ? 当たったら怒らない?」
 頭に角を生やした4mに迫る巨人の姿が見えてない事に感謝する。見えていたら大きな悲鳴が鳴り響く事になっただろう。
「怒っても次の瞬間には倒すから関係ないよ。これから行うのは戦いではなく実験だから」
 良く分からないオーガに怯えて震えながら小さく頷いて石を収納した。

「今だ。落として」
 俺の指示に慌てた様子で石を取り出してそのまま下へと落とす。
 500g以上はあるだろう石だが高さは26m程度の距離を落ちただけでは人間の頭ならともかくオーガにとっては大したダメージでは無かったようで「痛い!」というよりも「何だ?」と言った様子で上を見あげた時には既に俺の右手はそいつの角を握りしめていた。
 そのまま肩越しに背後へと抜けながら身体ごと捻りオーガの首をへし折った。
 直後発生した悲鳴が左の鼓膜に突き刺さり弾かれたように首を右へと傾げる。
「ああ、そりゃあ……」
 幼女の目から全てを覆い隠すはずの暗闇へと雲の切れ間から月の灯りが差し込んでいた。
 そして首をへし折られたオーガの顔が丁度真上から幼女を見下ろすような位置にあり、顎の落ちた口元からは長い舌が垂れ下がり、そこから涎が雫となって失神した彼女の額へと滴り落ちていた……そうなるな。

 水球で額の涎を洗い流した後、アルコール入りのウェットティッシュで念入りに吹い手上げたのだが、幼女は俺の首に縋りついたまま泣いている。
 鎖骨に辺りに滴り落ちる涙は我慢するとしても、涙とは明らかに違った粘性のある生暖かい液体が、ゆっくりと首筋を伝い落ちるおぞましき感触は本当に勘弁して貰いたい。

 泣き続ける幼女を宥めすかしながら何食わぬ顔で次のオーガを探し出して、その頭上へと移動し終えていた……自分で言うのもなんだが酷い。
 最後の実験を行う前に確認しておくことがあった。
「今度もレベルは上がらなかったか?」
「……うぅ……何にも」
 ぐずりながらも涙を堪えて幼女は答えた。しかし経験値を確認して貰うと僅かながら経験値が増えているらしい。
 本当に雀の涙ほどの量だが、かといって移動中に羽虫を払ったりして倒した程度では増えない数値であり、オーガを共同撃破したとして経験値の分配が行われたと考えるべきだろう。
「よし最終実験開始だ」
「……最終?」
 怯えた目でまだ何かあるの? と訴えてくる幼女に「大丈夫。何の危険も無いし、実験はこれで最後だから」と言い聞かせる。
 そう嘘は言っていない。『実験』は最後なんだ。ただその後に本番が待っているだけで騙す気なんてさらさらない……訳が無い。
 違うんだ。ベテランが初心者を連れて山登りをするときに「もう少し」を連呼するようなもので、別に嫌がらせでやっている訳じゃない。
 人間は「もう少し」なら頑張れる生き物だ。しかし疲れ切って弱音が出たところに「まだ半分も来てないな」等と事実を言っても心を折るだけだ。
 登頂をさせてやりたいからこそ「もう少し」という言葉が出るんだ。
 別に初心者のせいで登頂せずに引き返すのはやってらんねぇから、とりあえず「もう少し」を餌に限界を突破させれば良いよな? なんて考えている訳では無い……訳では無い。
 それだけは断言出来る。何故なら空手部でランニングで「死ぬ」とか抜かしている新入部員に「もう少しだから」なんて糞ったるい言葉を口にした事など無い。
 心の命ずるままに「生きている内は黙って走れ」としか言わないのだから。
 俺が新入部員の頃、大島に「喜べ、走り続けている内は生かしておいてやる」と言われたのに比べたら遥かに優しいよな?

 近くの一番高い木に近寄って、どさくさで【所持アイテム】内に残っていた登山用のザイルを幹を一周させて結びつける。
 そして幼女をザイルが引っ掛かった太い枝の上に腰かけさせると、ザイルと幼女の腰紐をカラビナで繋げて落下防止策を講じると。
「ちょっと、ここで静かにしていてね」
「あぅ……」
 心細そうに、俺の服の肩の辺りを握って放さない……自分の中で何かが50万周期の時を超えて蘇ってしまいそう。
 前田や2号なんかと違って女の子に、ここまで懐かれて頼られると心が弾むね。空だって飛べそうな気分になる……飛べるけど。
 実際は「こんなところに連れて来たんだから最後まで責任を持て馬鹿野郎!」なのかもしれないが、事実を知って落ち込むのは出来るだけ後の方が良いし、更にいうなら気づかないで済む方がずっと良い。

「これから起こる事をしっかり見て、そして覚悟を決めて欲しい。生き残るためには闘わなければならないという現実を」
 実際のところ俺が覚悟を決めれば、幼女は闘わなくても生きていけるだろう。
 現実世界に戻って両親を説得し学校を休んでインドまで飛んで連れ帰れば良い。
 だがそれは幼女にとってベストな結果をもたらすとは思えない。そもそも幼女にとってのベストが何なのかが分からない。この辺りは人生経験の不足という面が大きい……という事で父さんと母さんに丸投げかな?
 やはり俺はやるべきことはレベリングだ。明日になったら幼女が現実世界で死んでいたなんて嫌だぞ。
「う……見てる」
 小さく頷く。多分、これから起こる事など何も分かっていないだろうに……つまり俺、信頼されてる。

 果物を一つ渡して「これが食べ終わる前に終わる」と言い残して地面へと降りていく。
 音も無く着地したはずだが、オーガは何かを感じたんだろう鋭くこちらを振り返り、威嚇の唸り声を上げる。
 【光明】を4つ発動し周囲の木の幹に光を灯す。
 オーガは突然の明かりに明暗順応が追い付かず武器の棍棒を持たない左手を目の前に翳すが、俺はその隙を突かない。俺の中の闘争本能が「今だやっちゃえ!」と命じるが突かない。
 これから行うのはレベルアップを果たした人間がどれほど強いのかを幼女に分からせるための戦いなので隙を突いて楽勝では駄目だ。

 ブルース・リーの様に、顎をしゃくらせて掌を上に向けて差し出し、人差し指から小指の4本をくいくいと2度起こして挑発する。
 オーガはブルース・リーの物真似は分からなくとも、舐められていると理解したのだろう。その巨体に似合った長大な棍棒を振り上げると風と喉を唸らせて打ち付けてきた。
 ほぼ真上から降るように落ちてくる棍棒を「我生涯に一片の悔いなし!」と突き上げた拳で打ち砕く。
 ……この体格差が良い。今の一撃が真横から薙ぎ払いであったなら、どんなに俺が強くても受ける事など不可能。ホームランボールの様に吹っ飛ばされる。
 しかし、上から下への攻撃なら常に大地が俺の味方をする。そしてそれはこちらが攻撃に出ても同じだ。
 爆発でもしたかのように吹き飛んだ棍棒からの反動で仰け反ったオーガの足元に素早く潜り込むと、斜め上へと蹴り出す左の『ローキック』で脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)を2本まとめて4つにへし折った。
 大島が教えるローキックは2種類ある。上から斜め下へと蹴り下ろす普通のローキックと、下から斜め上へと蹴り上げるローキック。
 そして多くの場合は後者を使う。
 下から斜め上に蹴り上げると相手が膝を上げれば力を逃す事が出来ると言うが、その場合は大島は逃がさずそのまま相手の脚をすくい上げてバランスを崩し、時には転倒させる。
 そして相手が膝を上げて防御しなければ難なくへし折る。更にいうと本気を出せば相手が膝を上げて防御しても、そのままへし折るのが大島クオリティー……

 右脚を折られて倒れ込みながらも左腕を振り上げて叩き付けようとするが、万全の体勢から振り下ろした棍棒すらも破壊されたのに無駄な事をと思いながら、再び「我生涯に一片の悔いなし!」と突き上げた拳で掌底部を粉砕し、有頭骨から舟状骨までのビリヤードのラックの様に組まれた8つの骨を、ブレイクショットの様に掌と言う名の肉袋の中にぶちまけてやる。
「ぐわぁぁっぁぁぁぁっぁっ!」
 起死回生の一撃を心と共に打ち砕かれたオーガは戦意を失い痛みに転げまわるが容赦せず、残りの右腕と左足を破壊する。そして改めて四肢が完全に動かせない様に肩の付け根と股関節を破壊して、仕上げに【昏倒】で眠らせる。

 目の前で起きた惨劇に口をパクパクしている樹上の幼女の元に戻り、残酷な告知を行う。
「止めはアムリタ、君が刺すんだ」
「え゛っ?」
 この幼女もまたア行濁点の使い手だったようだ。
「俺達は魔物を殺す事で強くなれる。だから他の命を奪っても強くなり生き残る。その覚悟を示すんだ」
 自分が6歳の頃は、平和な日本でのほほんと暮らし、危機感と言えるほど強い感情は実の妹に抱く位だった癖に、自分よりもずっと過酷な生活を送って来た6歳の幼女に何を言ってるんだろう? ……そんな疑問もあるが、彼女が過酷な環境に生きているからこそ必要な覚悟だと思う。
「あぅあぅ……怖い……」
 自分の限界を超える恐怖に怯えているのだろう。目から涙がポロポロと零れ落ちていく……やっぱり無理だね。6歳児に何を要求しているんだ俺。幼女をこんなに泣かせてしまって。
 何か流れと言うか勢いで行けるような気がしたんだけど気のせいだったね。
 ……気のせいだったねじゃねえ! だったらどうするんだよ!

 そうだ目隠しして「そう、そうそのまま……ああちょっとずれちゃったから構えを右に戻して、今!」とかやるなんてどう……結局やるこたぁ同じだよ。殺しだよ。割と人間っぽい大動物の殺害だよ。
 日本一殺伐とした中学生集団である我校の空手部。その主将たる俺ですらゴブリン討伐には思うところが無かった訳では無い。外見の余りの醜悪さに猿以下と自己暗示する事で乗り切った位だ。
 なのに幼女だよ幼女。お前6歳の頃にそんなことしたか? かつてお前にそんな事をさせる大人が居ましたか? どうなんですか隆君!
 脳内会議で繰り広げられる激しい隆君パッシングの嵐……はいはい、反省しました。これからは性根を改めて真人間として……違う! やはりレベリングは必要なんだ。

 このままでは現実世界で明日を迎えても俺には幼女を身柄を確保する事は、親の説得とか抜きにしても不可能なんだ。
 幼女には自分が住んでいる──果たして住んでいると言って良いのか分からないが──町の名前を宿でも聞いたが分からないとの事だった。
 5歳でストリートチルドレンとなり、生きるだけで精一杯だった幼女が知らなくても無理はないのだが、分からないと捜し出すのは無理だ。
 オリジナルシステムメニュー保持者同士ではパーティーも組めないので、マップ情報が共有出来ない。
 国籍がインドだと分かっているだけでインドの何処に住んでいるのかは分からないのだから、一日中インド上空を飛び回っても見つけ出すのは難しいだろう。
 ならば幼女の身柄を確保する最短ルートは、明日現実世界での自分のいる場所をワールドマップで確認して貰い。夢世界での明日にその情報を得て、更に翌日の現実世界で幼女を確保する事になる。
 つまり幼女は後1日半はストリートチルドレンとして自力で生き延びる必要がある。
 しかもそれさえも、父さん達の説得に成功し、父さん達が合法的に幼女を引き取る何らかの方法を即見つけ出したらという無茶な条件での最短時間だ。
 多少なら今まで1年間過ごしてきたのだから多分大丈夫だろうという考えもあるが、だが所詮それは「多分」に過ぎない。
 心配すらさせて貰う事も出来ずルーセは居なくなってしまった……あんなのは2度と御免だ。

 その点、レベル70までのレベリングに成功すれば日本とインドでも【伝心】で意志の疎通が可能になる。そして【所持アイテム】も現実世界と夢世界で共通化されるので、こちらの世界で食料や必要なものを渡しておけば、現実世界でもそれを取り出す事が出来る。
 更に【坑】シリーズを使いこなせば地下に簡易住居を作る事も出来るので、生きるという事について心配は無くなる。


「頼む。俺の為だと思って我慢してくれ」
「あぅぅ……隆の?」
 ちょっと鼻水が垂れていたので、ティッシュで拭いて上げてから答える。
「そう俺の為だ」
 出会って数時間の幼女にここまで入れ込むのは全て俺の都合だ。小さな子供を守れないような奴は男じゃない。そんな時代遅れの感情が根底にあるのは確かだが、その感情を強くしたのはやはりルーセが原因だ。
「俺の為に頑張ってくれないか?」
 本心からの言葉だが、これって「そうしてくれるとお母さん嬉しいな」作戦だ。
 子供に何かさせる時によく使われがちな「貴方の為なんだからやりなさい!」作戦に対して子供を追い込まないので、子供からすると反発心が芽生えないので受け入れやすい提案である。
 母さんが良くやる手なのだが、俺が「これって上手く乗せられてないか?」と気づいたのは10歳の誕生日まで半年の時点だった……小学生の頃はとても純真な子供だったんだよ!

「……やる。頑張る!」
 そう言わせてしまったという罪悪感。肩を震わせ拳をぎゅっと握りしめ、小さな身体中からありったけの勇気を振り絞らさせてしまった事に胸の痛みを感じる程度の良心は俺にだってある。
 だがそれ以上にほっとしている。
「ありがとう」
 そう言って手を伸ばして彼女の頭を撫でようとして思い出した……インド人にナデポは通用しないという事を。
 つうか、インド人の頭を撫でるのはタブーだよ。実際は欧米文化の影響を受けてそんなにうるさい事は言わないようだが、5歳でストリートチルドレンとなった幼女がどう思うかは俺には分からない。
 とりあえずハグはOKみたいなので、軽く抱きしめて背中をそっと叩いた。
「頑張るから……」
 語尾は俺の耳をもってしても聞こえなかったが嫌がっている様子は無かったので続行。

 やる気さえ出して貰えたなら、途中で怖気づく要素が少ない方法を使えば良い。
 幼女を再び抱き上げて樹上から降ろすと【所持アイテム】から槍を取り出して差し出し「これを収納してくれ」と告げる。
 『何で?』という顔をしながらも頷き手を伸ばして槍に触れた瞬間に消えたので、収納は問題なく使いこなせるようだ。

 そして大音声で鼾を立てて寝るオーガの前へと連れて行くと、漁師が銛を構える様に右肩の上に拳を構えるて見せて「この格好をして」と言って、同じ構えを取らせる。
「拳は完全に握り込まないで、これくらい開いて」と親指と人差し指で円を描いて見せたり、構える向きを細かく調整した上で「先程の槍を頭に思い浮かべながら装備」と念じてみて。

 ……エライ事になってしまった。
 自分の手の中に現れた槍が正確にオーガの頭を貫くのを見た幼女は悲鳴を上げ、腰を抜かしてその場にへたり込み失禁した。
 俺って奴は、ルーセに続いて……教えてくれ、俺はあと何人の幼女にお漏らしさせれば良い?

 幼女は騙されたという悔しさと羞恥心に耳まで赤くし、俯きながら俺の腹の辺りを可愛らしくポカポカ音を立てて殴り続けるが、突然ポカポカがドゴドゴに変わり、3発に1発位の頻度で拳が鳩尾を捉えると流石にダメージが来る。
 レベルが一気に上がったのだろう。
 多分、10には届いていないだろうが7か8か9のどれかくらいだろう……これでレベリングが出来る!
 何せシステムメニュー所持者を勇者様に仕立て上げようと企んでいるんじゃないかとしか思えないデフォルト設定なので、特に恐怖心へ克己は重要なのだろう。
 これが無ければ、最後の止めだけとはいえ幼女をクラーケンに立ち向かわせようなんて発想自体が生まれない。
 ニヤリと笑みを浮かべた途端、鳩尾にいい感じにクリティカルヒットを貰い地面に跪かされてしまった。


 その後、レベルを確認した後に現在の身体能力を認識させるために、いつも通りのジャンプをして貰った。
「自分が強くなったのは分かる?」
 俺の言葉に強く頷いた。幼女のレベルは予想の範囲で8だったが、試しに跳んでみて軽々と俺の頭の上を飛び越えることが出来れば嫌でも状況認識が出来るというものだろう。
「この調子で次もいける?」
 幼女は頷くものの、流石にこのままはクラーケンとは駄目かなと思い直す。時間は無いがせめてオーガをもう何頭か狩ってからの方が良い……また失禁されても困る。
 レベル10台中盤までもっていけばハイクラーケンに止めを刺す程度の胆力は身に付くと良いな~せめて漏らさない程度には身に付いて欲しい。
 だけど難しいな。単に精神的な衝撃やストレスに対して強くなりましたというのは良くない。色んな経験を積む事で様々な事態に『慣れる』事で身につく強さが人間には必要だと思う。
 恐怖を感じないとか絶対におかしい。そんな奴は意味も無く危険を冒す事になるだけだ。
 恐れてもなお立ち向かう勇気……こう言うと格好良いけど、その根幹にあるのは恐怖と向かい合える慣れだと思うんだよ。

 追加のオーガ狩りはサクサクと進んだ。
 やはりレベル8までデフォルトでレベル上げをすると人が変わる。元々魔術・魔法に興味津々だけにレベルアップへのモチベーションは高かったのもあってかなり積極的でむしろ怖いくらいだ。
 延長戦で4体のオーガを倒してレベルは14。同じオリジナルシステムメニュー保持者としてはレベルアップが遅い気がするが、それは自力で倒し続けた俺に対して、止めだけを刺している幼女との違いで、止めだけを刺す場合は総経験値量に対して8割程度しか取得でき無いよう為だった。

「次はもっと大物を狩る事になるけどやれるか?」
 俺の質問に力強く無言で頷く。その顔はとても幼女とは思えない凛々しい男前の雰囲気を醸し出していた……おっと、これ以上は駄目だな。レベルアップ時の【精神】のパラメーター関連の変動設定をしなければ、幼女ではない何か別の生き物になってしまう。
 可愛い幼女が怯えて涙目になって、それでも頑張って立ち向かうのが視聴者の感動を誘うのであって、血風が吹き荒れる様な惨状の中で眉一つ動かさず両の眼に決意の光を湛えるのは違う。手遅れかもしれない。レベル10くらいで止めておくべきだったかもしれない。だが今後次第で何とかなるのが人の心だ……


 入り江を一望する断崖の上に着地すると【迷彩】を解いて幼女を地面に降ろしながら、光属性魔法レベルⅤの【大光球】を頭上に浮かべる。
 この【光球】シリーズは一番最初の【光球】ですら光属性レベルⅣと覚えるのが遅いが、物体を光らせる事しか出来ない【光明】に比べると球状の光を作り出し自由に位置を動かす事が出来る優れもので、俺の中では【光明】の上位互換として認識している……あまり使わないけどな。
「まず、これを収納して」
 明かりを見上げて「おぉぉぉぉ」と感嘆の唸り声を上げる幼女に告げると【所持アイテム】内から火龍との戦いに使った20m級の丸太よりも長い30m級の丸太を取り出して地面に転がした……見事な大物だ。
 幼女は迷いなく丸太に手を伸ばして収納すると、俺が注意する間もなく槍を構える格好をすると【装備】を実行してしまった。
 その果断さに、少しは考えろよと思う。
 幼女は現れた丸太の重さに一瞬たりとも耐える事は出来ず、手放すと前のめりになって激しく顔から地面に倒れ込んだ。
「痛い……」
 鼻血と涙を流す幼女に、屈みこんで顔の前に手を翳して【中傷癒】をかけてやる。
「……痛くない?」
 驚く幼女の顔と手に付いた鼻血を【水球】を使って洗い落とす。
「血も出てない!」
 鼻の下を擦って血が付いていない手を見てまた驚く……初めてこの世界に来てシステムメニューを知った時の自分のはしゃぎっぷりを思い出すと、そんな幼女を生暖かい目で見る権利など俺にないのだ。

「ごめんな。まず最初に注意しておけば良かった」
 幼女なら飴でも用意しておけばご機嫌取りが出来たのだろうが生憎持ち合わせていない……飴か、例のカロリー汁も飴に出来たら……検討する価値はあるな。
「もう痛くないから大丈夫」
 とても前向きだ。幼女には魔法使いになって色々やらかす自分の姿しか見えてないのかもしれない。

 再び幼女に丸太を収納して貰ってから手本を見せる事に知る。
「このサイズになると取扱いに注意が必要だけど、逆にこのサイズだからこそ出来る使い方もあるんだよ」
 そう言うと、20m先にある断崖の縁から5m手前を狙って丸太を右肩に担ぐイメージで装備する。
 次の瞬間、出現した丸太は目標地点を貫き崖の斜面まで抜けた。
「丸太は重いから装備したらすぐに収納するのが大事なんだよ。そして更に!」
 構えをそのままにパノラマ写真を撮る様に、水平方向の角度を維持しながらゆっくりと身体を右へと捻りつつ1/100秒ごとに収納と装備を繰り返していく。
 これが昼間ならば貫通して出来た穴から天気次第では鮮やかな青い海が見えただろうが、残念ながら黒い穴が横へと広がっていくだけだ。
 そして穴は5mの長さまで成長する直前で、音を立てて海へと崩れ落ちて行った。
「ここまでやれるようになれとは言わないけど、こいつを的に打ち込めるように──」
「…………おぶおぶ」
 レベル14の勇者様仕様の精神をもってしても、目の前で起きた事実を受け止めかねるのだろう。
 幼女はどこぞのシュールなカワウソの様な声を上げながら身体ごと右へ左へと振り返りながら怪しい挙動を見せる……まだ恐れを感じる人間らしさが十分残っている事にほっとした。


 これから戦う事になるクラーケンの弱点が目と目の間で、そこに丸太を打ち込むんだと教えてから幼女を左腕に抱き上げて海上へと出る。
 雲の切れ間から零れ落ちる月の光が、波間に反射する僅かな輝きが暗闇の中で辛うじて見えるが、幼女の目には何も見えていないだろう。
「それじゃあ始めるよ」
 先ず【大光球】で海面付近に4つの光の珠を発生させる。タコは知らないがイカには正の走光性──光に向かって集まるのが正の走光性、逆に光から逃げるのが負の走光性──があるので、タコ7、イカ3くらいの見た目なので、クラーケンの中に息づくイカ成分を信じての行為……ではなく、単に自分の視界を確保するのが目的だ。
 【大光球】の上位魔術も存在するが、光源から100mくらい離れた位置で太陽光に匹敵する明るさって使い道が無さ過ぎる。

 クラーケンをおびき寄せる方法は臭い。そこでオークの死体を10体投下。
 海面に叩き付けられてから30秒ほどで浮かび上がった死体をロックオンすると、先ほど集めておいた崖っぷちを砕いた時に出来た手頃な大きさの破片を連続で射出する。
 拳の2倍ほど岩の破片が音速でオーガの胴体に吸い込まれると、次の瞬間に血煙を上げて弾け四散した。
 驚いて俺の首にガッチリとしがみつき耳元で「おぶおぶ」と再びカワウソのモノ真似を始めた幼女に生暖かい視線を送り続けたのは仕方のない事だろう。

「そろそろ来る」
 中々混乱から回復しない幼女の背中に右手を回して優しく叩いて正気づかせる。
 そして「何が?」と言いながら俺の指さす方向を見た次の瞬間。オーガの血肉の臭いに引き寄せられて奴が現れる。
「ドーン!」
 擬音でも何でもなく、そのままの音を立てて海面を突き破り、その衝撃で大気を振動させ、水煙の中から現れたのはクラーケン…………いや、ハイクラーケンでした。

 前回倒したハイクラーケンに比べるとかなり小型でギリギリハイクラーケンの領域に踏み入れたといった感じだが、マップ上のシンボルには紛れも無く『ハイクラーケン』と表示されている。
 ハイクラーケンが相手ならと、圧縮した魔力の塊を作り出して……? あれれれれ、内に左の脇腹の辺りに生暖かい液体が垂れていくよ。

 ええい! 相手がハイクラーケンなら幼女の失禁など気にしている暇はない。
 時間をかければ厄介な雷を落とし始めるので、先手必勝しなければ電気伝導性の高い電解質溶液(尿とも言う)塗れの今の俺と幼女は良い的となるだろう。
 改めて圧縮した魔力の塊をハイクラーケンの周囲に送り込んでおく。

「本当に目が良いいな」
 既にハイクラーケンは俺達の存在を認識しているのだろう。体表の色を激しく変化させる警戒信号を発するだけでなく、その巨大な目がこちらを睨みつけている。
「きれい」
 幼女は無邪気に目を輝かせている。ちびった癖にアレを綺麗だと思う余裕を取り戻しているのか? いやむしろ混乱している可能性が高い。アレが綺麗だと俺にはとても思えない。

「来るぞ」
 音速で飛んできた触腕が、10音速の3倍で射出された足場岩に撃たれ、僅か10m手前で爆散する。
 直後、幼女の腰をぐっと絞めると足元に足場岩を出して蹴ると、飛び散った無数の触腕の破片を目隠しになる様に間に挟んで後方に飛び退く。
 そしてシステムメニューを開いて時間停止状態を作り、周辺マップ内でハイクラーケンの各脚の付け根部分をロックオンすると一斉に足場岩を射出する。
 素早く動く足先の部分ならともかく、ほぼ動く事の無い脚の付け根に対してロックオンは有効で、それぞれに自分で狙いを付けた訳でもないのに【射出】と念じるだけで、撃ち出された足場岩は次々と目標を捉えて吹き飛ばす。
「おうっ!」
 次の瞬間、俺と幼女を掠める様にして巨大な触腕が通り過ぎる。
 命中より先に巨大な質量が撃ち出されては止まる訳も無い。しかしあれだけの質量を撃ち出す力の反動を受ければハイクラーケンの本体はひっくり返るなどの影響を受けそうなものだが、全くファンタジー生物は度し難い!
 罵りながら、更にクラーケンの胴体の正中線──と言って良いのか分からないが──に沿って足場岩を5発打ち込む。
 着弾の衝撃で、それほど強度の無い足場岩は砕け散りながらハイクラーケンの体内に飛び散りダメージを広範囲に広げ、体内の重要器官を破壊していく。

「しかし、これで死なねえのかよ」
 四肢断裂……4本じゃ済まないけど、その上に重要器官の多くが破壊され、脳ですら爆発的な圧力で破壊されていてもおかしくないのに、ハイクラーケンの両眼は鋭く俺達を見据えて離さない。
 だが俺は戦いの中にロマンチズムを持ち込まない。厨二病だから持ち込みたいけど持ち込まない。戦いの中で格好良い厨二っぽいセリフを吐きまくりたいけど自重します……だって主将なんだもの。
 死を前にしてもなお戦わんとするその意気に感じ入って反撃の機会を与えてやろうとか感傷じみた考えは格好いいけど、大島という厳しい現実を前に、そんな感傷は裸足で逃げ出してしまったよ。
 だから勝機は決して逃さない。一度握った主導権は最後の一滴まで絞りつくすまで手放さない……だから奴の両目を吹っ飛ばして視力を奪い取った。
 これで雷を落とすしか奴には手は無いはずだ。
 光速は30万km/s弱だが雷速は音速の400倍程度と遅い……ちっとも遅くねぇ!
 ビームを見て避けるロボットアニメの主人公じゃないのだから、雷光を見てから避けるのは不可能なので、ハイクラーケンの周囲に配置した圧縮した魔力の塊を破裂させる事で、雷が落ちる前に妨害するしかない。
 しかし止めを刺す幼女は、またもやカワウソの物真似で忙しそうだ。

 失敗の二文字が脳裏を過る。
 ハイクラーケンを俺が倒せばレベル179になりレベル180へリーチとなる。
 レベル180で属性レベルⅧが開放されるが、実際に属性レベルⅧの魔術を覚えるのはレベル181以降だが、その他にもマップ機能の強化がある予定なので楽しみだ……現実逃避している場合ではない。
 今日中に幼女をレベル70以上にするのは既定事項だ。
 どうする時間は無い。時間停止で考える時間が幾らあっても、ハイクラーケン自身の命はそんなに長く残っていない。最後の力を振り絞り一発雷を落としたら力尽きて直ぐにも死ぬ可能性が高い。
 その間に、幼女にハイクラーケンの止めを刺して貰う方法を考えなければならない。その為には幼女に正気づいて冷静になってもらう必要があるのだが、そんな時間は残されていない……あれ、俺って馬鹿? 幼女にもシステムメニューを開いて時間停止を行えるだろ。

 軽く幼女の額をデコピンで弾く。
「おぶおぶおぶおぶ……あうっ!」
 両手で額を抑えて、涙目で何をするだーっと訴えかけてくるが無視する。
「これからアイツに接近する」
 俺の言葉にビクリと身体を震わせる……心が折れている?
「奴は腕という腕を失い。このまま放っておいても死ぬくらいに弱っている」
「で、でも……」
「だが、まだ反撃の牙を失っている訳では無い」
「うう……」
「だけど、俺が奴に攻撃を許さない。アムリタの攻撃が届く場所へ何もさせずに連れて行く。絶対にだ……だから止めはアムリタが刺すんだ」
「……」
「怖いよな。システムメニューを開けば自分以外の全ての時間は止まるからじっくりと考えて答えを出して欲しい。戦うのなら首を縦に振って、嫌なら横に振ってくれ」
 そう告げた次の瞬間には幼女は力強く首を縦に振って頷いた。一体どのくらいの時間をかけて考え抜いたのかは分からないが、決して短い時間ではないだろう。その証拠に再び男前な目つきに変わっていた……だからそこまで行ってしまうの? もっと後戻り出来そうな場所で踏み止まれないの?

 幼女を肩車すると、術式崩壊限界ギリギリまで魔力を注ぎ込んだ浮遊/飛行魔法を多重起動し、足場岩を蹴ると同時に最大加速で突撃する。
 次の瞬間魔力がざわめく。ハイクラーケンが残された魔力を身体中から集めて雷を落とそうとしているのだ。
 ハイクラーケンの周囲に浮かべた魔力球を破裂させ、奴の魔力の流れを掻き乱し術式を崩壊させる。
 そして浮遊/飛行魔法最大出力で制動をかけ、同時に足元に出した足場岩をハイクラーケンの急所である目と目の間に蹴り飛ばす事でも制動をかける。
 ハイクラーケンの直上10mの位置で静止すると「あの岩を目掛けて丸太を打ち込め!」と叫んだ。

 幼女は俺の頭から両手を離すと太腿でぎゅっと俺の首を絞めつけ身体を固定すると……ヤバイ!
 いきなり何かが飛んでくる。速いが小さい物ではない少なくとも俺の身体よりもずっと大きい質量の物体。
 反射的に殴りつける。ありったけの【気】を使っての一撃。
 目の前で爆散したのはハイクラーケンが無理矢理に再生させたのだろう20m程度の触腕。
 本来の長さがあったら先端の速度は音速を超えるので拳を繰り出すタイミングを合わせる事は出来ても【気】を通すなんて真似は出来なかった筈だ……まあその場合は、時間停止状態から【所持アイテム】内の全てを取り出して盾にするので問題は無いけどな。
 しかしハイクラーケンの死すとも敵を道連れにしようとする執念は見習う必要がある。

「凄いレベルアップした」
 急所というか各腕ごとにある脳を司る中枢脳とでもいうべき存在を丸太で貫き止めを刺した幼女は見事にレベルアップを果たしたようだが、問題はそのレベルだ。
「何レベルになったの?」
「78!」
「良し! これで勝てる」
 うん、小なりとはいえ流石ハイクラーケンだ。しかも止め分の8割程度で、普通サイズの龍10匹分にも相当する経験値だよ。
「何に勝つの?」
「碌でもない現実って奴にだよ」
「?」
 何が何だか分からないといった風に首を捻る幼女。
「それじゃあ、ハイクラーケンを収納して宿に戻る……前に魔術と魔法の練習をしておこう」
「やったーっ! ……魔術と魔法って違うの」
 やっぱりそこから説明しないと駄目だよな。

 簡単に魔術はシステムメニューが提供するものでレベルが上がると覚えられる……微妙に便利だけど、色々と微妙なモノで、魔法は自分で覚えたり作ったりするモノだとザックリと説明をした。
 そして全てを説明するには夜も遅いので明日すぐにでも必要となる呪文だけを説明した。
 現実世界での明日に真っ先に使う【伝心】
 迎えに行くまでに身を隠して貰う場所を作るための【坑】シリーズ。【大坑】で作った入り口の横穴の先に【巨坑】で空間を作り、【光明】で明かりを確保し、入り口を隠せば隠れ家として十分だろう。
 そして隠れ家を作る場所まで移動するには浮遊/飛行魔法と【迷彩】のセット。
 それからついでに【傷癒】【病癒】【解毒】の薬箱セットをどうにか教え切った。幼女も途中で何度か意識を失いかけたが頑張って覚えた。


 結局寝てしまった幼女を抱いて宿屋に戻ると、幼女をベッドに寝かしつけてから【所持アイテム】内からマルを取り出す。
 背中をポンポンと軽く叩いて起こすと、マルは周囲を警戒するように耳を立てて、首を左右に振る……その理由はわかる。
『何で夜なの?』
 不信の目を向けるマルの当然の疑問に俺は答える言葉を持っていなかった。
『…………あれ?』
 じっと俺を睨んでいたが、ふと何かに気付いたようだ……何かって一つしかないけど。
『ここ!』
 ベッドの上に両前脚を載せて叫ぶ。
『何この子? どうしたの? マルの妹?』
 嬉しそうに尻尾で床を掃除しているところを申し訳ないが妹は無い。この幼女は俺の妹だからな!
『ちょっと訳あって助けた』
『訳って何?』
『悪い奴らに捕まっているところを助けた』
『……じゃあ家の子だ。挨拶しておこう!』
 ベッドに飛び乗ると幼女の顔に自分の顔を近づけるマルの上下の顎をまとめてガッチリと握り込む。
『疲れて寝ている子供をマルは無理矢理起こすのかな?』
『ま、マルはそんなことしない!』
 嫌そうに掴む俺の手の甲を前脚でポンポンと叩いて抗議しながら嘘を吐くので、握る手に更に力を込める。
『マル嘘吐いた。ごめんなさい!』
 自分の欲望へも含めて素直な事に定評があるマルだ。一応反省しているようなので『よしよし、ごめんなさいが言えて偉いぞ』と褒めながら撫でてやる……ちなみに俺は素直にごめんなさいが言えない性質だ。
 マルは嬉しそうに身もだえしながらベッドの上で仰向けになり、お腹を撫でてのポーズをとる。
 最近のマルは褒められると以前よりもオーバーリアクション気味に喜ぶ。
 以前は撫で方、声の高さと大きさ、顔の表情から褒められ具合を計り、そして漠然とどんな事で褒められたのかを察する事しか出来なかったが、【伝心】による意思疎通で、ピンポイントで褒められた理由が分かると嬉しいそうだ。
 とにかく叱られた凹んだ直後に褒められて有頂天となり、その落差に何が何だか分からなくなってしまったマルは俺を追求する気も無くし、撫でられて褒められてご機嫌のまま眠りに落ちた……チョロい。



-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
>上空12000mから見下ろすと、琵琶湖を大きく超える巨大なミシニワード湖が一望出来る。
上空から見下ろして視野角120度に収まる地上の範囲は、高度の4√3倍(7倍弱)の直径(つまり12000m上空の場合は83㎞強)の円となる。


>当社比
新製品と自社の旧製品との性能差を示す言葉だが、当社比何倍の数字が大きいと、前の製品は随分性能低かったんだねという事なってしまう諸刃の剣。

>これはもうジョパンニの仕業だよ。
 デスノートの登場人物。物語の最終局面において、一晩ありゃジェット機だって直らぁと叫んで、神経質な夜神月をも騙せる完成度のデスノートの偽物を作り上げ、夜神月へ決定打を与えたキラ事件解決の功労者。
 同時に多くの読者に「はぁ?」と言わせ、最後の最後で作品をぶっ壊した大罪人。
 一説には、ニアがデスノートに「ジョバンニ。一晩でデスノートの完璧なコピーを作成し、その後死亡」と書いたゆえに出来たとも言われる。

>加護持ち
78話で主人公は、この言葉に絡みルーセの記憶を思い出しかけた為に、精霊の加護という言葉も記憶から消されているという設定を作者自身の記憶からも消されていた……精霊恐るべし。

>帝国っぽ
水戸っぽだの薩摩っぽだのと、相手の出身地+っぽの言い回しは幕末モノでしか聞かない不思議。

>ライトサーベル
ライトセーバーではない微妙なパチモノ感……とても大事だと思います。

>バドミントン男子のトップクラスの選手のスマッシュの速さ
書いた時は300㎞/hを超えるくらいの認識だったけど、念のために確認してみたら公式試合で計測された最速は493㎞/hで茶を吹いた。

>日常的にそんな鍛錬をしていると歳を取ってから指の関節が曲がらなくなるそうだ。
まあ、これも作者自身の事なんだけどね……温泉通いして改善したけど、一時は第一関節から先と第二関節から下をくっつけらない状況で、箸遣いも満足に出来ずご飯ポロポロこぼしていたよ。

>キロ・マスカラス
疑い様も無いほどミル・マスカラスのパチモノ。
ミルは千を、マスカラスは仮面の複数形を意味するスペイン語。
ミルフィーユというお菓子も、スペイン語と同じくラテン語を源流とするフランス語で千を意味するミルが使われている。
ミルをキロに変えてパチモノ感をかもしている。
額の一文字がKではなくkなのは、千倍を意味するキロの表記は小文字のkとお約束で決まっているからで、大文字Kは普通温度の単位であるケルビンを意味する。
ちなみに1kBは1000byteで、1KBは1024(2の10乗)byteで読みもキロバイトではなくケーバイトと読むのが正しいとのこと。


>朝鮮語
マスコミは何故か韓国語という言葉を使うが、北朝鮮でも同じ言葉を使ってるのに韓国語というのはおかしな話で、歴史的・文化的に考えて朝鮮語が正しい。
特にNHKが朝鮮語をハングルと呼称するに至っては、さっさと民営化して経営に失敗して潰れるか、国営化して政府の管理下で公務員給与水準で働けと思わずにはいられない。

>どこぞのシュールなカワウソ
「ぼのぼの」の主人公、ぼのぼのの事。
主人公が間違ってカワウソと思い込んでいるだけで実際はラッコ。
作者もしばらくカワウゾだと勘違いしていた。普通アライグマやシマリスの友達がラッコ? って思うよね。



[39807] お久しぶりです
Name: TKZ◆504ce643 ID:cd856a27
Date: 2019/03/06 22:00
現在カクヨムで新しい作品を投稿しています
ジャンルがジャンルだけにそもそも読んでも貰えない状況なので
ジャンル的に受けそうな、この作品もカクヨムに投稿して
そちらに読者を誘導して行きたいと思います・・・共倒れの可能性大

夢で異世界、現は地獄も全体的に手を入れ修正つつ完結を目指したいと思います
今後ともよろしくお願いします・・・完結するとは言ってない

追伸、トリップが思い出せない


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.3348608016968