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[40230] 星の未来【世界崩壊近未来ファンタジー】
Name: 大航◆ae0ba03e ID:ded3c5b3
Date: 2014/09/29 22:55
*****************

西暦二二〇〇年、地球は海が大半を占め、陸地は限りなく狭まった。
その問題を解決するため、ある国は国民の選別を行うことになる。
主人公の女性は選別の間際、他の国へ亡命を試みた。
だが、その船で知り合ったレジスタンスの一人に誘われ、国の革命に力を貸すことになる。

選別を中止させ、国だけでなく星を救う道を探す女性の物語。

******************

※この小説は「小説家になろう」様にも投稿させていただいてます。
※挿絵があったりしますが、ツイッターにてUpさせていただいてます。

よろしくお願いします。 



[40230] プロローグ
Name: 大航◆ae0ba03e ID:ded3c5b3
Date: 2014/07/24 23:45
国家救済特別法 西暦二二〇〇年 十一月 三日 法律第九拾六号

玖国国民は国家の存亡にかけ以下を享受しなければならない。
この法に従ふことは、国民の責務であると信ずる。


第一条 国民の寿命、および管理についてはこの法律の定めるところによる。

  一、国民の寿命は六十歳を上限とし、以降は同法第五条に基づくものとする。

  二、二十歳以上の国民は、国が定める試験の義務を有する。

  三、試験の結果は同法第四条に基づき、拒否することはできない。


 国家救済特別法より抜粋



[40230] 一.逃走
Name: 大航◆ae0ba03e ID:ded3c5b3
Date: 2014/07/24 23:50

「地球は青かった──」

 貴方はこんな言葉を聞いたことがないだろうか?

 宇宙から見れば、地球は青く、とても美しい星──でもこれは地球を飛び出して、
宇宙から地球を見たから言えることではないだろうか?

 こんな昔話がある。
十四世紀の大航海時代、海は平らで先は崖で滝のように落ちている、と考えられていた。
そのため船乗りたちは南に行き過ぎると落ちてしまうと思い込み、怖がって行きたがらなかった。

 貴方はこんな昔話を聞いて、どう思うだろうか? 

 昔の人は無知だなぁ、とか。
まだ科学が発展していないから、仕方がないよ、と思ってくれるのだろうか。

 しかし、この昔話を私と貴方がそんな風に捉えてしまうのは、『常識』が蔓延(まんえん)しているからだ。
地球は丸い、地球は青い。こんなこと知ってて当たり前、知らないと『常識』がないなど。
こんな風に思われてもおかしくないくらい、周知の事実となっている。

 でも──どうだろうか?

 貴方の居る世界は紛れもなく地球だ。
私たちは地球に住んでいる、これは常識なんだ。でも──青いだろうか?
某国の首都圏にいる私にとって、地球はとても灰色に見えてしまう。
高いビルや展望台に上って景色を眺めてみると、
灰色のコンクリートに敷き詰められた街並みが、地平線の向こうまで広がっている。
これで青いと思え──なんて無理な話だ。

 しかし地球は青い。長くなってしまったが、何故……青いのだろうか。

 私はおそらく、地球の陸地と海の割合にあると思う。
地球の約七割は海が占めている。そのため外から見ると地球は青く光っているのだ。

 地球は海に覆われて青く、そして奇麗だ。
この七割がもしも……九割、いや、それ以上になってしまったなら……。

 これより書き記すは、今よりもずっと先に在る未来──。



………………
…………
……


 赤く光っていた太陽が海の中に沈み、私の眼に映るのは紫色の水面だけ。
寄せては返る波音に、時折魚の跳ねる音が混ざって聞こえてくる。

 私の住んでいる場所は、この国ではそう珍しくもない海の上だ。
目を海から背けて後ろを振り返ってみると、ところ狭しとボートのような家が海上を覆いつくしている。
電灯の光が漏れているボート、夕食の美味しそうな焼き魚の匂いが漂うボート。

 私も含めて、ここにいる人たちは、みんな土地を追い出された人たちばかりだ。
顔には生気がなく、ぼーっとした表情で釣竿を傾けている。

 海の上に家があるからって、バカンスに使われるような優雅な場所ではない。
そんなところは常夏って言葉がにあうところだけだ。
ここには厳しい冬があり、夏だからって過ごしやすいわけでもない。
かといって治安が悪いスラム街でもない。
住人からは常に無気力がにじみ出ていて、まるでゴミ捨て場のような雰囲気が感じられる場所だ。

 私は陽が落ちるのを確認し、時計を見た。左手に巻いた小さな腕時計は十八時を指している。

「もういいかな」

 私は自分のボートに入って、身支度を整える。長く伸びた黒髪を結び、薄く化粧をする。

「スカートなんて、いまはいらないわね」

 洋服籠の中から動きやすそうな服を選んでいく。
黒のタンクトップと、青系のデニムと黒いスニーカー。まるで男の子みたいだけど仕方がない。

 身支度が終わったころには、辺りは真っ暗になっていた。
まだ夏も序盤なのに、陽が落ちてもむしむしと暑苦しい。
徐々に汗ばんでくる額を拭い、
私は最低限の衣服と運よく買えた船のチケットを鞄につめこんで、少し重たい鞄を肩にかつぐ。

 行ってきますの挨拶なんて言う気にはなれない。

 だって、ここにはもう帰る気なんてないのだから──。
 電車がゆるゆると減速し、大きな溜息のような音を立てて駅のホームにとまった。
私のいたゴミ捨て場から、すでに四時間が経っていた。私は鞄からメモを取り出して駅名を確認する。

「次ね──」

 停車した駅からは続々とスーツ姿の人たちが乗り込み、
いつのまにか満員になった車内は暑くて息苦しい。
前にいる男性のせいで、クーラーの風もあたらない。座り続けていたせいで腰も痛い。

「まだかなぁ……」

 三分ぐらい経つと、電車が減速しはじめ、私は人ごみを掻き分けながらなんとかホームに降りた。
もう夜の十時を過ぎるというのに、駅の構内は人で溢れかえっていた。

 改札を抜けて、港行きのバスを探す──ちょうどいい具合にバスが来たところだ。
バスに乗り込んでも人だらけ。
都内からは少し外れているのに、どこも人で敷き詰められているような印象を受ける。
私は手すりに捕まりながら、流れていく街の風景に眼をやった。

 きらきらと光る街頭、渋滞で一向に進まない車のテールランプがピカピカと光っている。
賑やかで活気がある街、私の居たところとは大違いだった。

 私はバスの中にいる乗客たちを見回す──。
誰ひとり一言も話すことなく、車内は運転手がバス停名を告げる決まりきった定形文だけが流れている。私の横に立っているスーツ姿の男性は、立ったまま寝ているようだ。
椅子に座っている初老の男性も、同じく目をしばしばさせながら眠そうにしている。
みんな疲れきっているのか、携帯をさわる人すらいなかった。

 バス停でバスが止まり、また動き出す。
それを繰り返しているうちに、車内は私ひとりになっていた。運転手が駅名を告げる。

「次は終点──」

 私は窓ガラスの横に備え付けられているボタンを押した──。

「はぁ~ついた~」

 バス停に降りて私は一息ついた。降りる際に運転手にじろじろ見られたが、仕方がない。
こんな時間に女一人で、しかも港前の駅に降りる──何をしにいくんだろう?
なんて疑われても仕方がないかな……。

 私はバス停に置いてある木のベンチに腰を掛け、持ってきた地図に眼を通す。
微かに潮の香りが辺りに漂っているが、港前って言っても歩いて三十分ぐらいかかりそうだ。
鞄を肩にかついで一本道を歩き出す。

 さっきまでの喧騒とは違い、虫の鳴き声が夜道に響いている。
空は厚い雲で覆われて、月明かりさえ見えない。
二車線の道路の脇に、転々と置いてある街灯の明かりだけが光っていた。

 私は薄暗い足元を、街灯を頼りに港を目指した。コツコツと、私の足音だけが聞こえてくる。
もう三十分は歩いただろうか──。汗でシャツが身体に引っ付いて気持ちが悪い。
のども乾くが、近くには自動販売機すらなかった。

 ようやく目の前に大きな白い橋が見えた。潮の香りもいっそう強くなった気がする。
アーチ上の橋の上から下をのぞき込んでみる。暗くて見えないが、どうやらすでに海の上にいるようだ。

 橋を渡り終えると、頭上にある道路標識に眼をやった。
道路標識には第一、第二、第三と名うってある。私は鞄の中から再度メモを見た。
メモには第三港、零時出航と書かれてある。いまの時刻は二十三時三十分、時間は問題なさそうだ。

 私は標識にしたがって一車線の道路に足を向けた。
五分ほど歩くと、目の前に大きな港が見えてきた。しかし街頭はあるものの、ほとんど灯っていない。
辺りには大人二人分ほどの大きなコンテナが、道の端に所狭しと積まれている。
まるで迷路のような場所を、地図を頼りに歩き続けた。

 目的地はもうすぐのはず──。私は最後の街灯を横目に見つつ、先へ進んだ。
ここから先は明かりもない。まるで暗い海の底にいるような……そんな感覚すら憶える。

 コンテナ群を抜けると、私の目の前に大きな船が姿を表わした。
大きな貨物船、その大きさに圧倒されてしまいそうだ。

「これ……でいいのよね」

 私は携帯を取り出し、ディスプレイの明かりで再度メモを確認する。
しかし、いくら見ようと船の名前や、船を識別できるようなものは見当たらない。
時間はすでに残り十五分ほどしかない。

 なによこれ──。

 もう時間もないのに、船がどれか分からない。焦りからか、体中から汗が噴出してきた。
おもむろに髪をあげ、頭をぐしゃぐしゃと掻き毟ってしまう。

 すると、規則的な波の音に混じって、コツコツと足音が聞こえてきた。
血の気が凍るようだ。湧き出た汗は一瞬のうちに冷たくなっていった。
私は急いで携帯を鞄の中に隠す。
明かりがなくなると何も見えなくなるが、もう遅い。
私の目の前に立ちふさがるように、ずいぶんと背の高い影が、私を睨みつけていた。

「チケットを……」
「へ?」
「チケットを……」
「あ、はいっ」

 私は急いで鞄の底に入れてあるチケットを取り出し、姿勢のいい男に渡した。
男はチケットと私を見比べ、確認が取れたのか、親指で停泊している船を指した。

「急げ、あと十分ほどで出航だ」
「は、はい」
 私は追い出されるように小走りで船へと向かった。
船からは一人がやっと上れるくらいの小さな金属製の階段が伸びている。
私は手すりにつかまり、段差をひとつ上った。
潮風で錆びているのだろうか、手すりからは錆と思われる小さな凹凸の感触がする。

 カコン、カコンという足音が、やけに響いて聞こえた。

 これで──逃げられる。

 私の心は安堵と、ほんの少しの恐怖。
しかし、それ以上の期待が胸の中で膨らんでいく。

「さよなら……」

 わざと声に出してみた。
これで本当に最後、この人殺し国家から、めでたく脱出だ──。

 錆びた階段を上ると、目の前には大きなコンテナが山積みにされてあった。
そのコンテナに腰かけている人、船から外を眺めている人、目につくのは十人程度。
みんな思い思いの場所で何かを待っているようだ。

 少し小太りな男性、どこかに旅行でも行くような派手なスカートの婦人。
周りの大人たちは中高年ばかりで、私と同じぐらいの人はいないみたいだ。

「はーい、集まってくださーい」

 ふいに奥のほうから男性の野太い声が聞こえてきた。
周りの人たちもその声のしたほうに顔を向けている。

「零時には扉を閉めますので、それまでに入ってください」

 辺りがざわつき始めた。周りの人たちが驚くのも無理はない、私も眼を疑った。
男性が言った扉とは、客室へ続く扉ではなく、分厚い鉄製のコンテナの扉だったからだ。

 もしかして……これに入れってことなの──。

 奥は暗くて見えないけれど、おそらく明かりもなければトイレもない。
荷物を運ぶためだけに作られた物。
周りに積んであるのと同じならば、幅は十メートル、高さは二メートルほどだろうか。
それでも十人が入るには狭すぎるように感じた。

 おそらく見つからないための配慮なのだろうけど──。

 これから数週間、トイレもなければシャワーもない。
ただ狭く、暗くて汚いだけのコンテナ内の暮らしを想像するだけで眩暈がしてくる。

 でも──仕方がない。

 私はぶんぶんと大きく頭を振って、嫌な妄想をかき消した。

 仕方がない──仕方がないんだ。だって見つかれば……

 そのときカコン、カコンという階段を上る規則正しい音が聞こえた。
私は後ろを振りかえる。どうやらまた一人追加になるみたいだ。
前に居た大人たちはしぶしぶとコンテナの中に入っていく。
私はどうも一緒に入る気にはなれない。零時まではあと十分もないけれど、少しでも外に居たい気分だ。

 私は踵を返して、遠く街の光が見える甲板まで引き返した。
すると、丁度いま上ってきたであろう男と眼があった。

 肩まで伸びた茶色い髪、歳は私と同じくらいだろうか……身長は私よりも頭一つ半ほど高い。
緑色のジーンズに、薄茶色のシャツがはだけて、タトゥーだ。
真っ赤なタトゥーが見えている。

 甲板に取り付けてあるライトが彼の眼に入ったのだろうか、
煙草を咥えながら私を睨みつけているように眼を細めていた。
私は思わず階段から眼を背け、海のほうへと眼を向けた。

 恐い──恐すぎる……。

 私は横目でちらりと二度見したが、彼は先ほどと変わらぬ形相で、携帯を見ている。
耳についている三つのピアスが、ライトの光に反射していた。

「ちょっと、そこのおねえちゃん」
「ひゃ、ひゃいっ!」

 急に呼ばれてびっくりした──心臓が止まりそう。

「なんでしょうか……」

 私を呼んだ男は、携帯を片手になにやら唸っている。
しかし何かが確認できたのか、私を睨みつけていた鋭い眼は、すぐにほがらかに細く、そして丸くなっていった。

「お姉ちゃん? お娘ちゃん? まあいいや、お姉ちゃんも脱走組み?」
「あ、はい……。というか、此処にいるならみんなそうだと思いますけど……」
「え、あ~やっぱり? いや~まわりがおじさんおばさんばかりでさ~。みんな相手してくれないの、みーんな無視しちゃってさ~」

 私は呆けたように口をあけっぱなしにしてしまっていた。
先ほどまでの強面は消え、惚けたような顔で話かけてくる。
へらへらと他愛もない世間話をしようとする男に、私はだんだんイラついてきた。

 こんなところでナンパでもする気かしら──。

 私はもういちど彼を値踏みするように見た。
不良のような格好、人を威圧するようなタトゥー。
これじゃ誰も話したがらない、大人たちが無視するのも当然だと思う。私も同じ様にそっぽを向いた。

「ねぇねぇ」

 それでも彼は話かけてくる。私は彼のへらへらとした態度がとても気に食わない。

「すいません、一人にしてくれますか?」

 私の言葉が思いもよらなかったのか、彼が少しだけ後ずさりした。
私はその隙に後ろにあった錆びた扉を開け、薄暗い廊下を早足で歩く。
廊下を抜けると、反対側の甲板に出ることができた。

 辺り一面が真っ黒い海が見える。少し離れたところには灯台のランプがぴかぴかと光っている。
私は手すりに肘をついたところで、大きな溜息が出た。
船に取り付けてある時計が眼にはいる。時計の針は二十三時五十五分を指していた。

 あと五分しかない……か。そろそろ戻ろうかな──。

 たまに強く吹く冷たい潮風が肌にあたって気持ちがいい。
大きく深呼吸をして、この国の空気を吸ってみる。
潮風とともに、なにか黒く濁ったものまで吸い込んだ気がした。

 ガチャリ、と扉のドアノブが回される。出てきたのはさっきの不良だった。

「わるい、わるい。俺は兎谷ってんだ。お姉さんの名前ぐらい教えてよ」

 兎谷(うさぎだに)と名乗る彼は、私の横に立ってにこやかな笑顔を向けている。

 そんな顔しても、そんな格好じゃ誰も相手にしてくれないだろうに──。

 私は頬を手で支えながら、少しだけ考えてみた。

 こんな男と何週間も同じコンテナで過ごすの……嫌だなぁ。
でも、いまのうちに知り合っておいたほうがいいのかも。
誰とも話さずに狭いコンテナ内でじっとしているのも気が重いわ──。

私はそのままの姿勢で、ぶっきらぼうに答えた。

「音疾(おとはや)よ」

 私が苗字をいうと、兎谷はにっこりと笑った。

「名前は?」
「……愛」
「愛ちゃんね、いい名前じゃん」

 私は兎谷に聞こえるように、大きな溜息を吐いた。
だって、兎谷のしていることは、ただのナンパにしか見えなかったからだ。
たいていの男は女の名前を聞いたら「いい名前」っていうだろう。
まさにテンプレートといわんばかりの行動にイライラしてくる。

 何か言い返してやる──と思っていたときだった、兎谷が閉めた扉が音を立てて開かれる。
出てきたのは私が入り口でチケットを渡した男だ。

「もうすぐ出航だ、早く中に入れ」
「あ、はい」

 男はそれだけを言って、力任せに扉を閉めた。
がちゃん、と大きな音と、男が走りさる足音際にカンカンとかん高い足音が船内に響いた。

 私は急いで時間を確認した、いつのまにか零時を回っている。

 ようやくこの国から脱出できる──。ほっとした私は胸をなでおろした。
私は鞄を肩に担ぎなおし、コンテナがある甲板に行くため、扉に手をかける。
すると、ガタン、と音がした。なんと兎谷が手で扉を押さえ、私に顔を寄せてくる。

「な、なによ……」
「やめとけ」
「やめとけって……なに言ってるのよ」
「残念だが、この船での亡命は成功しない」

 兎谷がさらに顔を寄せてくる。
互いに息が顔に掛かりそうになるぐらいの距離、私は思わず後ろに飛びのいた。

「なにいってるのよ……意味わかんない」
「意味わかんない、って言われてもなぁ」

 兎谷は頭をぽりぽりと掻きながら私に向かって呟いた。

「そのままの意味だけど?」
「なんでっ……そんなことわかるわけ?」

 私は思わず声を荒らげそうになった。
でも感情的になるのはあまり好きではないし、騒ぎを起こせばあの男が戻ってくる不安もあった。
私は深く息を吸い込み、兎谷を睨みつける。

「おーこわ、そんなに睨むなよ。ねぇ愛ちゃん、その情報……どこで買ったの?」
「そんなのどこでだっていいでしょう」
「ふーん。信用できるの? それ」
「それは……」

 私は確かに情報屋から格安でこのチケットを買った。
あの時は、この国から出れる──、と思って飛びついてしまったけれど……。
信用できるかと言われれば自信がない。
それに、こんな話の何を根拠に信用できるというのだろうか。

 私が自問自答に迷っている最中、兎谷はなにやら得意げに話し始めた。


「正直なのもいいけどさ、ちったあ疑うことも考えたほうがいーんじゃねーの? 
情報屋は愛ちゃんにガセネタ売って儲けた。運び屋は愛ちゃんから乗車賃を貰って儲けた。
あとは道中捕まって処分されれば、嘘の情報は漏れることなくみんな丸儲けだ。
こんなこと、考えたくないかい?」

 これが、嘘──?

 私は拳を強く握り、ぐっと奥歯を噛み締めた。
これが嘘だなんて信じたくない。しかし、一度浮かんだ疑問は、すぐには消えてくれなかった。

 まるで甘い蜜に、蜂のように飛びついてしまった自分が憎らしい。
強く握りすぎたせいで、爪が手のひらに食い込み、今にも肌を突き破りそうだ。
このままこの船に乗り続けるか否か……私は兎谷を睨みつける。

 もしも兎谷が言っていることが事実ならば、最悪の事態なんて簡単に予想できる。
さっき彼が言っていた『処分』の一声が、重く圧し掛かってくる。

 しかし、兎谷の言葉も信用できたものじゃないし……。
どちらを選択するか、判断材料が少なすぎて、どちらも選べない。
私の選択を待っているのだろうか、兎谷は先ほどから一言も話さない。

 いっそサイコロでも振って決めようか──いや、間違ったら死ぬかもしれないのに……。

 私が頭の中で格闘している最中、またしても大きな音をたてて錆びた扉が開いた。
扉の中から顔を覗かせたのは、私が入り口でチケットを渡した男だ。

「早くしろ、もう出航だ」
「いや~すいません。こいつ船酔いみたいで~」
「ちっ、早く入れよ」

 兎谷が体よく男を追っ払った。そこまでして兎谷は何がしたいのだろう……私にはわからない。
男の足音が徐々に遠ざかっていく。私は声のトーンを落として呟いた。

「なんで、私だけに教えるの?」
「秘密」

 なぜか兎谷は笑顔だった。
私はその笑顔を問い詰めたい気持ちでいっぱいだったが、どうやらそんな時間はないらしい。
船のエンジンが掛かったのだろうか、先ほどまではただ浮いているだけのような感覚から、
力強い推力が加わったような感覚、出航するんだ。

 私は錆びた扉に手を掛ける。兎谷は何も言わずに道を譲ってくれた。薄暗い廊下を足音がたたないように静かに歩き、扉の窓からコンテナを見た。

 薄暗い闇の中、一つの照明が扉の開いたコンテナと、それに乗り込む乗船客を照らしている。私は彼らを眺めながら、まるで心臓を掴まれているような感覚に襲われた。

 まるで出荷待ちの羊達を柵の外から見ているような、私も一歩間違えれば柵の中へ入ってしまう──。

 頼るあてもない疑心暗鬼。一度危険と思ってしまえば、もう足を動かすことなんて出来ない。
見知らぬ土地で、『ここから先は地雷源だよ』そう言われてしまったならば、
誰が躊躇なく歩くことが出来るだろうか。
兎谷に騙されているのかもしれない。だが私の心はまるで枯葉のように風の吹くままに流されていく。

 死んじゃうかもしれない──。

 分かってはいたのだけれど、私は『自分だけは大丈夫』なんて思っていたのかも──。
そう考えてしまったらこの扉を気軽に開けることなんて出来ない……。

 私は、震える声で兎谷に訊いた。

「どうすれば、どうすればいいの……?」

 兎谷はまるで、『まってました』と言わんばかりににっこりと笑った。
そして私に顔を寄せて呟く。

「ここから逃げればいいのさ」

 兎谷は大きな音を立てて扉を開けた。そして空いている左手で、私を動くなと制した。
扉が閉められる、一人がこんなに心細いなんて、久しぶりのことだった。

 兎谷は扉の横に背をあずけていた中年男性に声を掛けている。
私は扉に耳をあてると、途切れ途切れに会話が聞こえてきた。

「わ、私かね?」
「そそっ。おっちゃん、なんか連れが船酔いで体調わるくてさ。俺たちちょっと長いトイレになっちゃうかもしれないんだ。悪いけど、俺ともう一人が船長に呼ばれたらトイレとでも言っておいてよ」
「な、なんで私が。あそこに居る男に言っておけばいいじゃないか」
「まぁまぁ」

 ガサガサと何かが擦れる音がする。

「……! わ、わかった。言っておく」
「話がわかるおじさんでよかったよ」

 中年男性は勢いよく首を立てに振っている。兎谷が男性に背を向け、廊下に戻ってきた。
私も扉から耳を離して、兎谷を迎え入れる。

「どうかしたの?」
「ん? ちょっと言い訳をね」
「言い訳ってなによ」
「いいから。いくよ愛ちゃん、結構ガチで時間がない」
「え?」

 兎谷は私の腕をつかんで、勢いよく走り始めた。
さっきまでカコン、カコンと響いていた足音も、今ではエンジンの音でかき消されていく。
私はなんとか転ばないように足並みを合わせるだけで精一杯だ。

 扉を開けて元の甲板に戻ってくる。私が何か口を挟む前に、またしても兎谷は走り出した。
どこに向かっているのかわからない、でも駆け足で船内を走り回る。

「ね、ねぇ。そっちは出口じゃないわ」
「いーの。ほら、急いで。スクリューが回り始めたら危険だ」

 兎谷に引きずられながら、どこまで来たのだろう。
ここはちょうど船の真ん中あたりだろうか、
眼に見える明かりはなく、いつのまにか雲の隙間から奇麗な三日月が顔を覗かせている。
空にぽつんと浮いている月が、黒い海に映りこむ。
荒げた息を整えている間、そんな幻想的な風景を呆けたように見ていた。

 徐々に私の息が整ってきた。
兎谷はそれを見越したように、手すりから身を乗り出し、左右を確認している。

「ここらでいいか」

「こ、ここらって……逃げるはずじゃなかったの?」
「そうだよ」

 そういって兎谷はまたしても私の手をとった。また走るのか、正直うんざりしてきた。
疲れて抵抗する気も出ない、しかし兎谷の取った行動は違った。

「へ?」

 彼は私の肩と膝を抱えるように持ち上げた。
まるでお姫様抱っこのような形、そしてそのまま手すりに向かって飛び跳ね、

 んん── !?

 私が文句を言う暇もなく、叫び声は彼の手で押さえ込まれ、訪れるのは恐怖と浮遊感。
兎谷は私を抱えたまま、軽々と手すりを飛び越えたのだ。

 数瞬の浮遊感のあと、大きな水音と夏でも冷たい水の感触。
私は海の中で兎谷の腕の中から放りだされる。月明かりを頼りに、無我夢中で水面へと浮かび上がった。

「ぷはぁ! な、なんで出口から出ないのよ! 馬鹿? あんた馬鹿よね!」
「はっはは」
「なに笑ってるのよ!」
「いや~いいリアクションするなぁ~と思って」
「なんなのよ……まったく」

 兎谷はまた笑い始める。
月明かりでも彼の顔は見えないが、おそらく口元をにんまりと細くしながら笑っているのだろう。

「とにかく陸に上がろう。こっちだよ」

 兎谷がすいすいと平泳ぎで陸へと向かっていく。真っ黒い夜の海はなんだか気持ちが悪い。
足に何かが触れているような気もする。ここに留まるのも嫌なので、私は仕方なく彼を追った。

「おっと」

 兎谷が手を差し伸べてくる。私はその手をきつく握った。
彼は私の手をさらに強く握り返し、海の中を泳ぐ。
なんだかその手が命綱のように感じてしまうのが、ものすごく気に入らなかった。

 夜の海、いまでも船の中では大きなエンジン音が鼓動しているだろう。
誰も私たちを見つけることなんて出来ない。
兎谷は第三港には戻らず、ぐるりと回ってどこか違う港へと泳いでいく。
私は手の引かれるまま、彼に付いていくしかなかった。

 目の前には小さなオレンジ色の照明が港を照らしている。
周りに見えるのは小さなボートや民間のものと思われる漁船がぎっしりと埋め尽くしている。
辺りに聞こえるのは波の音だけ。
どうやら誰もいないようだ、兎谷は明かりを頼りに港の端へ向かって泳いでいく。

「あった」

 彼が見つけたのはフジツボに覆われた小さな階段だった。

「転ばないようにね、あれで切ると痛いよ」
「わかってるわよっ」

 彼は階段の左右に取り付けてある手すりをつかみ、掛け声ひとつで階段を上った。
濡れたジーパンで手を擦り、またしても私に手を指し伸ばす。

「ほい。その手すりにもびっしりフジツボついてたから気をつけて」
「切ったんでしょ?」
「切ってねーよ、ほら」

 私は彼の手をつかむ。水に濡れた重い身体が、一気に陸へと引き上げられた。
陸に上がると服の重みと、走り回った疲れで身体が重い。
私たちは少し歩いて、幾分奇麗なコンクリートの上にどさりと座った。

「あー疲れた」

 座った途端、兎谷が横に寝そべる。
ここがふかふかのベッドの上なら、私もすぐさま横になっただろう。
いや、その前にシャワーかな。私は疲れからか、大きな溜息が出た。溜息と共に後悔の念が押し寄せる。

 この選択で……よかったのかな──。

 正解なんて、教えてもらっても納得なんてできっこない。
意味のない悩みに、また頭を抱え込んでしまう。

やっぱりあの時、こんな話に乗らなければ──。
チケット代……勿体ないなぁ──。

「あ~あ」

 結局私もコンクリートの上に横たわった。
すると、規則的な波音に突如車が走り去る音が聞こえた。
マフラーが咆える大きな音、私は急いで振り向いた。
ここからは小さく見える橋の上を、テールランプの残像だけが薄く見えた。

こんな時間に──?

「見てたのさ」

 兎谷が振り向きもせず、寝そべったまま呟いた。

「見てた?」
「脱走者が出ないように、ってとこかな」
「えっ」

 兎谷の言葉と同時に、濡れた肌を潮風が通り過ぎ、いっそう寒気が増した。

「わざわざ船から飛び降りたのは、あいつらが見張ってたせい。大方、海軍の下っ端だろうな」

 海軍? 軍隊が絡んでいるの──?

 それが本当か嘘かは分からない。
ただ偶然車が通りかかっただけかもしれないし、私を信用させるための嘘かもしれない。
でも、まるで当たり前のことのように淡々と話す兎谷の言葉に、現実味を感じているのも確かだ。

 これで本当によかったのかな──。

 またしても答えのない妄想に頭を悩ませてしまう。
隣では兎谷が水に濡れてしけってしまったのだろう、煙草に火を点けようと頑張っている。
ジッポライターを擦る音が、何度も聞こえた。

 夢中になっている兎谷に、私は疑問を投げかけてみた。

「ねえ、なんで私にだけ教えたの?」

 兎谷は口に咥えた煙草を諦め、そのまま捨てて私に向き直る。

「愛ちゃん。この国で亡命がどれだけ重い犯罪か知ってる?」
「さっきあんたが言ってたじゃない。『処分』されるんでしょ」
「う~ん、まぁ確かにそうなんだけどね。ちなみに愛ちゃんって、いま何歳?」
「はぁ? なんでよ」
「いいから教えてよ」
「……十九よ」
「愛ちゃん、この国じゃ十九歳は処分されないよ、監禁されるだけ」
「監禁……」
「二十歳になるまで監禁されるんだ。で、二十歳になった瞬間死刑になる。男なら強制労働、女なら慰みものって感じか? まぁ生き地獄ってやつだな、八割以上自殺するらしいがな」

 生き地獄──。

 私もそれなりには覚悟をしてきたつもりだけど、その言葉を訊くだけで背筋がぞくっとした。
私は目の前にあるフェンスの隙間から、遠い海を見据えた。
私が向かうはずだった、遠い遠い海の先にある新天地。
それを頭に思い描きながら、じっと海を見つめる。

 兎谷も私と同じように海を見ていた。
辺りには規則正しい波音だけが聞こえてくる。私はもうひとつの疑問を彼に訊いてみた。

「ねえ、なんで私だけ助けたの?」
「ん? さっき言ったとおりだよ」
「だって、私たち他人よ。さっき知り合ったばかりなのに、海に飛び込んでまで助ける? もしかして『人を助けるのに理由なんかない』なんて奇麗事でも言うつもり?」

 私の言葉に兎谷は目を丸くした、そしてまた笑い始めた。

「はっは、そんな崇高な理由なんてない」
「ならどんな理由よ?」

 兎谷は「理由、ね」と小さくぼやきながら顎に手をそえ、なにやら考え始めた。
まるでその理由をいま探しているような様子。本当に理由なんてないのだろうか……。

「そうだなぁ、しいて言えば……興味があったかな」
「きょうみぃ?」

 私はまたしても大きな溜息を吐いた、今日何度目だろうか。
この男と一緒に居るのがだんだんうんざりしてきた。
その一言で、彼が私の命を助けてくれた恩人ではなく、
只のナンパな男にしか見えなくなってしまったからだ。

 私は立ち上がって、両手で背中とズボンについた砂を落とす。
びしょ濡れで気持ちが悪い服を絞り、皴にならないよう引っ張った。
そして踵を返し、海に背を向けて歩き始めることにした。

「愛ちゃん、どうした?」
「帰るの」

 私は歩き始めると、兎谷も私を追ってきた。
私は歩みを速める、とにかく家に帰ってシャワーでも浴びて、もう一度なにか策を練りたい気分だ。

「おいおい~待ってよ~」

 後ろから聞こえる兎谷の声に、再度溜息が漏れた。私は兎谷の声を無視して歩き続ける。

 なんでこんなことに──。

 船にも乗れず、チケット代も無駄、おまけに服もびしょ濡れで、鞄の中も全滅。
最悪な一日に心身共に疲れてしまった。
本当なら、今日はこの国から出れる素晴らしい日のはずなのに、
自分で選んでしまったとはいえ情けなくてしかたがない。
私はあてもない『次』を妄想することしか出来なかった。

 コツ、コツ、とコンクリートから二人の足音が真夜中の港に響く。
明かりも少ない中、私はようやく橋の前にある道路標識まで戻ってこれた。

「待ってよ~愛ちゃ~ん」

 この声さえなければ、歩く気力も湧いてきそうなのに──。

 いつまでも追いかけられてはたまらない、私は彼を睨みつけてやった。

「なに? まだ何か用があるの?」

 兎谷は私の返答が嬉しかったのか、ほっと落ち着いたような顔をみせた。
彼は少し小走りで私の傍までよってくる。

「もうすぐ迎えの車が来るからさ、送っていくから待っててよ」
「いい、歩いて帰れる」

 私は、それが最後の言葉だ、といわんばかりにぶっきらぼうに返答した。
歩調を速め、薄暗い照明の中、まるで競歩でもしているかのように足を進ませる。
兎谷との距離が早く離れるように、思いっきり足を伸ばした。

「無いんだよね」
 兎谷がぽつりと呟く。
その声のトーンがさっきまでの彼とは別人のようで、私は思わず立ち止まり、振り返ってしまった。

「……なにが無いのよ?」

 兎谷はなにやら手帳のようなものを取り出し、橋の上の照明を頼りに、ゆっくりと捲っていく。
水に濡れたせいでページが引っ付いて今にも破れそうなノートを、兎谷が慎重に捲っていた。
すべて見終わったのか、手帳をたたみ、ポケットに突っ込んだ。

「音疾 愛。そんな名前は今日の密航者リストに載っていない……」

 自分でもわかるぐらい、私の顔が引きつっていく。
同時に体中の血が凍えるように冷え、悪寒が全身を駆け巡っていった。

 私の名前が無い……? いや、その前になんでこいつはそんなリストを──?

 私はパニックになりそうな心をぎりぎりで押さえ込んだ。
そして合点がいった。やはり兎谷が私を助けたのは偶然じゃない、私を探していたんだ。

「……誰に話しかけてたの?」
「なんのことかな?」
「私は貴方が最初に船に来たところを見てる。貴方は知ってたんでしょ? 
私以外、みんなおじさんおばさんってこと」
「へぇ……ちったぁ頭まわるじゃん」

 兎谷が足にぐっと力を入れたのを、私は見逃さなかった。
すぐさま反転し、勢いよく橋を駆け抜ける。
冷えたはずの身体は熱を取り戻し、溢れんばかりの熱を帯びて私の身体を駆け巡った。

今思えば、もっと疑って掛かるべきだったんだ。
あの風貌、あの仕草。私は、絶対に近づきたくない、そう思ったはずなのに……。

 恐い──。

 私は全速力で橋を駆け抜け、市街地を目指した。
恐怖が私の身体を押してくれる、肺は悲鳴を挙げ続けているのに、
身体はそれでも前を目指して動いてくれる。

 こんな男に……騙されるだなんて──!

 悔しさのあまりに眼から涙が零れ落ちた。
保障なんてどこにもないのに、兎谷の口車に乗せられてしまった自分が情けない。
でも、嘆いている暇なんてない。

 後ろから私の足音にまぎれて、もうひとつの足音が聞こえてくる。
それを聞いた瞬間、身体に鞭を入れなおし、さらに速度を上げた。

 息が苦しい、でも走らないと──。

 先ほどまで眩しいばかりに夜を照らしていた三日月は、雲に紛れて見えなくなっていた。
道路に転々としている頼りない街灯だけが、辺りを照らしている。
うす暗くて何も見えない、
追ってきているのか、いないのか。

その暗闇がまたしても私の恐怖を増長させ、足を緩めることをさせなかった。

「はぁっ、はぁっ」

 私はどのくらい走っただろう、もう息も限界、身体も動きたくても動けないくら疲れていた。
私は道の脇に倒れこむように座った。

 走ってきた一本道を、眼を細めて見つめる。
どうやら兎谷の姿はないようで、ほっと一安心した。反対側を見ると、私が降りたバス停が見える。

「はぁっ……もうバスなんてないわよね……」

 私は大きく息を吸い込み、棒のような足に力を入れて立ち上がった。
おそらくもうバスはないだろうけど、一応都会だからもしかしたら走ってるかもしれない。
もう顔を上げる元気もない、私はバス停を目指して疲れた身体を引きずるように歩いた。

「きゃっ」

 私は気が緩んでいたんだろう、何か大きな物に正面から当たって転んでしまった。

「ついてな……」

 私が顔を上げると、そこには二メートル近い黒の上下を身にまとった男性が立っていた。

「す、すいません」

 私は急いで立ち上がり、ぶつかった男性に謝った。
頭を下げると同時に、今日幾度とも味わった血の気が引いていくような感覚が襲う。

 なんでこんな時間に? 道はこんなに広いのに、なんでわざわざぶつかったの──?

私は震える足をぐっと押さえつけ、男の横をすり抜けようとした瞬間、

「あぐっ!?」

 鈍い音、そして腹部に広がる鈍痛。私の身体は糸の切れた操り人形のように地面に倒れてしまった。
目の前がチカチカする、徐々に視界も狭くなって息苦しい。
私はなんとか立ち上がろうとしたが、まったく力が入らない。
どんどん狭くなっていく視界には、男の靴だけしか見えなかった。

 コツ、コツ、と誰かが走っている音がする。
その音が私の傍で聞こえるようになると、足音は止まった。

「いや~助かりました。足速いなぁ、この娘……殺してませんよね?」
「交渉は失敗したんだろ? 殴って気絶させただけだ」
「あ~女の子を殴るとか、大丈夫かなぁ」
「仕方ない、仕事だ」
「へ~へ~。よいしょっと」

 聞きなれた声と共に、私の身体は抱きかかえられてしまったようだ。
もう眼もよく見えないし、すごく眠い。音だけがずっと聞こえてくる。

 規則的な波音は、まるで子守唄のようだった。



[40230] 二.玖国
Name: 大航◆ae0ba03e ID:ded3c5b3
Date: 2014/07/24 23:52
 小鳥の鳴き声が耳を通り過ぎていく。
目の前には白い壁紙が張り巡らされた天井、そしてふかふかのベッド。
空いた窓からは太陽の光りが舞い込み、シルクのカーテンが風に揺られてひらひらと動いている。
それに、隣の部屋からだろうか、珈琲の香ばしい匂いが漂ってくる。

 どれもこれも私の住んでいた海の上では味わえない。
快適極まりない空間に、私の眼はまたうとうとしてきた。

「……え?」

 私はうとうとして、眼を閉じる寸前に飛び起きた。
辺りを見渡すと、木のフローリング、ベッドの横には可愛らしい動物たちのぬいぐるみ。
それと顔だけでなく、全身も見える大きな鏡がドアの横に置いてある。

「女の子の部屋?」

 女の子といっても私じゃない。でも、私の部屋じゃないことだけは確かだ。
私は顎に手を当てて考える。

「昨日、何かあったかな……?」

 あれ? 昨日は確か家を出て、電車に乗って……。そう、密航するために船に乗って──。

「うわっ!」

 ようやく昨日のことを思い出せた。思い出したと同時に、お腹の辺りが酷く痛む。
服を捲ってみると、拳大の痣が浮き出ていた。

「そういえばあのあと……」

 私は兎谷ともう一人の男にさらわれたはずだ。抱きかかえられたことは、確かに憶えている。
ならば、此処はあいつらの住処なのだろう。
こんなとこにいつまでも居たら、何をされるかわからない……。
私は勢いよくベッドから起き上がった。

「拉致ってやつ? あ、いてて……」

 殴られた腹部が痛む、それに全身筋肉痛だ。
昨日の全速力のせいだろう、思うように足が出ない。
壊れかけのロボットみたいだ、ゆっくり歩いてドアの前に辿り着く。
私はそのままドアに耳を当てた。

「これは、包丁の音かしら?」

 トン、トン、と包丁とまな板が奏でる美味しそうな音が聞こえる。
珈琲の香りに、香ばしいベーコンの香りが混ざった。
フライパンから脂が飛び跳ね、ジュウ、とこれまたいい音が胃袋を刺激する。

「お腹減ったなぁ~」

 緊張感はどこに吹っ飛んでいってしまった。私は音がしないようにゆっくりとドアノブをひねった。

 ドアを開けると、リビングの奥に清潔感溢れるキッチンに一人の少女の姿が見えた。
腰のあたりまで長く伸び、絹糸のような柔らかな金色の髪が、朝の光りを浴びてキラキラと輝いている。ピンク色のエプロンをなびかせ、キッチンを動き回る。
幼いとも見れる低い身長、踏み台を使って戸棚から食器を取り出そうとしている。

 可愛いなぁ、まるでフランス人形みたい──。

 私が無用心に見惚れていると、

「あ、おはよう~」
「え? あ……」

 少女が元気いっぱいの笑顔を私に向けてくる。
私は結構長い間、少女に見惚れていたみたいだ。少女が小走りで近寄ってくる。

「よかった~目が覚めて。悪いけど、お話は帰ってからね!」

 金髪の少女は笑顔のまま、さっとエプロンを脱ぎ、私が寝ていた部屋へと入っていってしまった。
私も少女の後を追う。
肩が見えるようなシャツと、赤いショートパンツに着替えた少女からは、
さっきのフランス人形のようなお淑やかさではなく、はつらつとして元気な印象を受けた。
少女は鏡の前で、軽くファンデーションを塗って、薄いグロスをつけている。
出かける前の身支度が終わるまで、私はドアの横に立ったまま待つしかなかった。

「よいっしょ」

 どうやら終わったみたいだ。

「あの~」
「ん? あ~色々訊きたいことあると思うけど、いまからお仕事なのだ! なんかあったら、うさちゃんに訊いてね~、んじゃ!」

 少女はそれだけを言い残して、ドタンバタンと豪快な足音を立てながら部屋を出て行った。

「ちょ、ちょっと……」

 私が何か言う暇もなく、辺りは化粧道具が散乱している。まるで台風のような女の子だ。
私は散らかった化粧道具を見て、なんとなく片付けを始めた。そしてようやく一息つく。

「ここはどこなんだろう」

 私は窓から外を眺めると、住宅がびっしりと敷き詰められているのが見えた。
閑静な住宅街の様だ、時折子供の声や、自転車の音が聞こえてくる。

 私はなんだか毒気を抜かれたような気分になった。
昨日のような緊張は嘘のようで、もしかしたら単なる夢で、此処が新天地のような気もする。

 ……気もするだけね──。
 私は少し欠伸をし、両腕を天に伸ばして大きく伸びをした。
気分は悪くない、とりあえず外に出てみようと、私はドアノブを捻った。

「あ……」
「お、早いじゃん」

 さっきまでは誰もいなかったリビングに、昨日みた不良男、兎谷が席に座って朝食を食べていた。

「あ、あ、あんだ政府の人間だったんでしょ! 私を拉致してどうするつもり!?」

 私は軽いパニック状態になってしまったかもしれない。
昨日のことが鮮明に思い出され、動機は激しく、足は今すぐにでも駆け出せるように力を入れ始める。

 しかし、私の様子に対して、兎谷はまるで興味がなさそうに答えた。

「まぁ落ち着けよ、朝食でもどうだい? 鈴の料理は結構いけるぜ?」

 リビングにはパンと珈琲の香ばしい匂いが漂っている。
六人掛けの大きな机の上にはラップに包まれた食パンとスクランブルエッグ、
山盛りに詰まれたサラダとウインナーがところ狭しと置かれていた。

「……すごい量ね」

 私は料理を遠めに見ながら兎谷に呟いた。確かに美味しそうではあるが、あまり食べたくはない。
お腹は相応に減ってはいるけど、昨日のことを思うと食べるのには勇気がいる。

「五人分だからな、珈琲でいい?」

 珈琲を淹れようとしている兎谷を、私は首を振って応対するわけでもなく、ただ睨みつけるように眼で追った。

「そんな恐い顔やめろよな~。大丈夫、な~んも入っちゃいねぇよ、ほら」

 兎谷は無作為にパンをひとつ掴んで、自分の口に放り込んだ。
もぐもぐと口を動かしながら私のほうを見て、にっこりと笑った。
船の上と同じ笑顔に、私は安心感なんて欠片も感じなかった。

「これ、あの金髪の娘が作ったのよね」
「ん、そうだよ。俺が作るように見えるか?」
「見えないわ」

 私は彼女が作ったものなら、なぜか安心できそうな気がした。
たくさん積んであるパンをひとつ掴み、手でちぎって食べる。

「鈴がつくったんならいいのかよ」
「貴方よりも、信用できそうだもの」
「はいはい、どうぞごゆっくり……」

 兎谷は食器を流しに運び、ピンク色の兎柄の描いてある灰皿を持ってベランダへと出て行った。
リビングには私一人取り残されることになった。私はもう一つパンを取り、口にはこぶ。
兎谷が言っていた五人分のパンも少なくなっていた。
おそらくまだ食べていない人がいるのだろう、私は珈琲を飲み干し、食器を台所へと運んだ。

「あ、いいよ。そこ置いといて」

 兎谷がベランダから戻ってきた。
台所へと向かうついでに私の食器を奪い取り、自分の食器と一緒に私のも洗い始めた。

 ジャーと流れる水道の音、カチャカチャと食器が擦れあう音。
何気ないいつもどおりの生活音が私の周りで奏で始めた。

「……なんなのよこれ」

 私は椅子に座りもせず、その場に立ち尽くしてしまった。
私がいまおかれている状況に対して、周りがあまりにもいつもどおりのような気がしたからだ。

 私って、なんでこんなところにいるんだっけ──

 何の目的で私を拉致したのかはわからない。
でも、ここの待遇はあの場所にいるよりもはるかに恵まれていて、居心地は悪くなかった。
私はこれからどうすればいいのだろうか、と考えていたら、

「愛ちゃん、出かけるよ。準備は出来てる?」
「出かけるってどこによ?」
「外だよ。家の中よりも、外にでて話そうぜ」

 兎谷は鍵についたキーホルダーを、くるくると指で回しながら歩いていく。
私も彼に訊きたいことは山ほどあった。
兎谷の後ろをついていき、玄関においてあった私の靴を履いて外へでた。

 扉をあけると外は快晴、窓から漏れていた日の光りが暑いぐらいだ。空は今日も青く……

「ここ……どこ?」

 私は真上を見上げて驚いた。

 そらは青くなく、白く眩い照明で埋め尽くされていた。
雲ひとつ見えないのだから、天気がどうというわけでもない。
私がいつも見慣れた青空はそこにはなかった。
眩しくてずっと見ることはできないけれど、機械的で人口の太陽らしきものが街中を照らしていた。

「Bエリアに来たのは初めてだろ? びっくりするよなぁ」
「ま、まぁね」

 私が驚いているのがそんなに面白いのか、兎谷は満面の笑みを私に向けた。

「訊きたいことあるだろ? 今日はいい天気だ、そこの公園にでもいこうぜ」

 兎谷は私の返事も待たずに先を歩き始める。
 天気の悪い日なんてないでしょ──。私も彼の一歩うしろを歩いた。

 きっちりと舗装された道路、碁盤の目のようになっているのか、区切られたまっすぐな道を歩いていく。
歩行者だけが利用するような少し狭まった道だ。道の端には街路樹が均等に並べられている。
辺りをきょろきょろと観察しながら歩いていくと、道路を走り回る子供の声や、
母親たちの井戸端会議が目に付く。

 穏やかな朝の風景が私の目にはいってくる。やがて木々に囲まれた公園が見えてきた。
兎谷は公園の端にあるベンチに腰を掛ける。

「座る?」
「いい」
「あっそ」

 兎谷はベンチの中央に座りなおし、胸元から煙草を取り出して火を点けた。
清々しかった朝の空気がニコチンの臭いで濁っていく。
どうやら兎谷は私の言葉を待っているのだろう、
あれだけおしゃべりだった男が、何も言わずにただ煙草を吹かしている。

 私はというと、正直あたまの整理ができていない。
何を聞くか迷うが……まあいい。時間はたっぷりとありそうだ。

「訊きたいことは山ほどあるけど、とりあえずここは何処なの?」
「ここはBエリアの第四十六区画、街の名前は別にあるかもしれないけどね」

 そんな地名だけ言われてもわけわかんないわよ──。
 そんな私の不満そうな顔が目に入ったのか、兎谷は足を組んで話を続けた。

「愛ちゃん、『D』は覚えてる?」
「たぶんね、でも教えて欲しいかな。十代の刑罰とか聞いたことなかったし……」

 兎谷は私の質問が嬉しかったのか、元気よくベンチから立ち上がった。

「よっしゃ、ちょっと長くなるから座っててよ」
「え、あんたが座ればいいじゃないの」

 兎谷は人差し指を左右にふりながら、

「先生は立って授業するもんだろ? いや~講義とかしてみたかったんだよな~」
「教職になりたいんだったら、まずは身なりからきちっとしなさいよ」
「はいはーい、私語は謹んでくださ~い」

 兎谷は手のひらを叩きながら、私の目の前に立った。

「まずは歴史の勉強からだな。この国がなんでこんな風になっちまったのか、それは今から約百五十年くらい昔のことが原因だ」
「なにかあったかしら……」
「二〇四一年に南極の不可侵条約ってのが廃止されたんだ。
 いままで南極はほぼ手付かずの状態だったからね、資源が有り余ってたらしいぜ。
 そこに世界中がわんさか群がった。
 この頃には発展途上国って言葉が無くなっちまうくらい世界中が発展した。
 まぁ、みんな裕福になったんだな」

 兎谷が生き生きと話しはじめた。私は顎を手のひらで支えながら、彼の言葉に耳を傾ける。

「人が裕福になった途端、今度は地球の調子が悪くなっちまった。環境問題ってやつだ。
 いままで貧乏だった国が、急に発展しはじめた。
 その際環境にまったく目を向けなかったツケが回ってきたのさ」
「ツケ、ねぇ」
「そそ。そのツケってのがいま俺たちのいる現状、『海面大上昇』ってやつだ」
「そんな地表に影響でるまでほっといとくなんて、昔の人はなんとも悠長で迷惑な話ね」
「ん~俺はなんとなくわかるぜ」

 兎谷は指で顎を触りながら、なにやら考えている。

「地球が危ないから発展を止めろ、だなんて先進国の連中が言っても無駄だろ。
 先進国も同じ様に地球を汚して発展してきたのに、途上国だけしちゃいけないだなんて、
 そんなの止まるわけないじゃん」

 兎谷の言うことに、私はなんとなく頷いた。

「結局何が原因だったのかよくわかってないらしいしな。
 南極の氷が溶けたとか、地球温暖化だとか、様々な説はあるが、
 現実に海面の推移が急上昇を起こした。大地は徐々に海へ飲み込まれ、国が無くなることもあった」
「国ごと海の中……ねぇ」

 なんだか現実味のない話のような気もする。
あまり興味がなく、どこか呆けたような私の顔に兎谷は気がついたのか、

「愛ちゃんの思ってること分かるぜ、『嘘くせぇ』だろ?」
「別にそんなこと思ってないわよ──少ししか」
「ふっふっふ。分かるぜ、誰だってそう思うのが普通だからな」
「そうなの?」
「だって俺たちの国を見ても、海に削られてるなんてイメージはわいてこねぇだろ?」

 兎谷からの質問に、私は黙って頷いた。

「実際にいまでも削られてるんだぜ。でも住んでいる俺たちはそんなこと思えないくらい、
 それは非常にゆっくりとした災害だったからだ」
「その災害が『D』とはどう繋がるの?」
「非常にゆっくりとした災害だからだ。人的被害はなしに等しく、住む場所だけがなくなっちまった。
 人口密度の増加、いままで十の場所に十人で住んでたのが、二十、三十人で住む必要ができた。
 玖国は様々な解決方法を試したが、根本的な打開策にはならなかった。
 そこで国民を選別する法案、通称『D』ってのが出来たんだ」

 兎谷は話は徐々に熱を帯びていった。
私たちが時折口にしている『D』とは、簡単にまとめると──国民を四つのクラスに分ける法案だ。

 一、国民の寿命は六十歳を上限とし、以降は同法第五条に基づくものとする。
 二、二十歳以上の国民は、国が定める試験の義務を有する。
 三、試験の結果は同法第四条に基づき、拒否することはできない。

「主なのはこの三つだな」
 兎谷は私の目の前に指を三本立て、説明と同時に指をおっていった。


「んで、次に重要ってか愛ちゃんももうすぐ受けると思うけど、この区分けってのが一番大事だな」
「AからDまでクラスを分けるんでしょ?」
「学校のクラスわけみたいなのだったらどうでもいいんだけど──ってよくはないか。この二十歳になったときに受けるテスト、この結果が大学入試なんかよりも大事になったんだ」

 国民を選別するテスト。兎谷が言うには、この結果によりAからDまでのラングに分けられる。
各クラスによって居住区が異なり、生活が大きく変化するらしい。

 Aクラス──
 地上に住むことが許される。
各分野において有能な人間のみ選ばれ、総人口の約二割がこのランクに位置づけられる。
他の地域に行くには簡単な通行許可のみで行き来ができ、
主に議員や研究者、その他企業の役員たちが名を連ねる。
彼らはこの国をリードする存在だが、その分規制は厳しい。

 Bクラス──
 地下に住むことが義務付けられる。
総人口の約六割がBクラスに属しており、地上に出るには特別な許可が必要になる。
一般企業に属している者が主であり、国を支える基盤となっている。

 Cクラス──
 海上周辺に住むことが義務付けられる。
総人口の約二割がCクラスに属しており、周辺からは隔離された状態になっている。

 Dクラス──
 二十歳以上の社会不適合者。

「とまぁ、この四つだな。愛ちゃんはCなんだろ?」
「え、ええ。一応ね」
「ふ~ん、親がなにしたのか知らないけど、大変だな……」
「親は関係ないでしょ」
「……ふーん、まあいいか」

 兎谷はなぜか不満そうな顔をしつつ、煙草を灰皿へ押し付けた。

「んで、ほかに聞きたいことは?」
「何言ってるの、最初の質問に答えてすらいないわよ」

 兎谷は目を大きく開いて、思い出したかのように話し始めた。
おそらくは本当に忘れていたんじゃないだろうか、そんなリアクションだった。

「『D』が始まり、政府は国民をランク別けした。
 A~Dまで四種類に別けられたが、ここはBランクの街。地上から追い出された奴等の街なのさ。
 大地は海に侵食され、人で溢れかえった。それを解決するために国は地下に街を作ったんだ。
 地下にシェルターを作った国は沢山あるが、街を作ったのはこの国が初めてらしい。
 まぁ、どでかいシェルターには違いない」

「ここが地下……すごいわね、地下には見えない」

 私は周りを見渡す。地下と言われれば上空にある地面もにも納得がいく。
私がキョロキョロしているのが面白いのか、兎谷から笑みがこぼれた。

「この災害は何十年も前に予想されてたからな。政府は何年も掛け、地下に街を作りまくった。
 その数九拾六区。大きさはまちまちだが、ここはその中の四拾六区目だな。
 国民の約六割、六百万人ほどがそのいずれかに住んでいる。
 世界各地を見渡してもここまで大規模なシェルターを作った国はないだろうな。上を見てみろよ」

 私は言われたとおりに天井を見上げる。眩しい光が私の視界を遮るが、ここは地中だ。
太陽なんて見えるはずが無い。見えるはずなんて無いのにまるで地上の様な明るさ。
眩しい光の正体は、無数に散らばる照明だった。

「天井には太陽光電灯を何万個と設置し、時間や季節を計算して傾きや発行量を制限する。
 照明だけじゃない。区画内の二酸化炭素を還元し酸素の量を地上と同等に保つシステムもある。
 これらを安定し、かつ安価で作った。この国独自の技術力が地中国家を誕生させたのさ」

 兎谷は何故か自慢げだ。確かに凄い技術だとは思う。だけど、私が聞きたいのはそんなことじゃない。

「ここが何処かはわかったわ。もうひとつ、なぜ私をさらったの?」
「勘違いしてもらっちゃ困るが、俺は国だの政府だのそういう奴等との関わりは一切ない。
 単なる一般市民さ。それにあんたをさらったのだって、俺の意思じゃない」

 兎谷の意思じゃない――? 
さらに疑問が増えた。兎谷に指示した誰かがいるのだろう。私は兎谷を見ながら頭を悩ませる。
しかし、「俺の意思じゃない」と言われては、何を訊いても答えはもらえないだろう。
私は思わず大きな溜息をついた。

 なんだか妙なことに巻き込まれちゃったな――。

「まぁ夜になればわかることさ。夜までこの街を案内しよう。俺の名前は」
「兎谷、でしょ?」

 兎谷はひゅうと口笛を鳴らし、また笑顔を見せた。
ようやく私は普段の落ち着きを取り戻せたような気がする。
おそらくこいつは私の見張り役なんだ。兎谷の言った通り、夜を待つしかない。

「しかし、私はCランクの人間よ。ここに居てはいけない存在のはず」

 Cランクの人間は海上周辺に住むことが義務付けられている。
そこから出るには国からの許可が必要で、無断で外にでると罰せられる。
どのような処分があるのかわからないが、Dに落とされるかもしれない。それはすなわち――。

「大丈夫だって、ここに役人はめったに来ないし。それに俺の彼女だって言えば誰も疑わないさ」

 兎谷は私の肩をつかみながら言い寄ってきた。
思わず眉間に皺がよる、私はそのまま兎谷を睨み付けたが、すぐに溜息を吐いてしまった。

 仕方がない。見つからないためには、兎谷に従うしかない――。

 諦めの言葉しか頭に浮かんでこない。私は肩においてある兎谷の手を払いのけて呟いた。

「今日だけよ」

 兎谷はそれだけで充分だったようだ。公園を離れ、二人で街へむかって歩く。
辺りを見渡すと街路樹に沿って、道の両脇に立派な家が所せましと立ち並んでいる。
閑静な住宅街だ。
私が見てきた地上とは少し違うが、地中とは思えないほどよく似ている街並みに感心すら覚えた。

 脇道抜けると、すぐ近くに繁華街があった。進むにつれて辺りが人で賑わい始める。
歩いているとエプロンを着た商店の店員に話しかけられた。

「よぉ兎。ん? 誰だその娘」
「俺の彼女」
「はっはっは。嬢ちゃん、そいつだけはやめといたほうがいいぞ~そうだ。
 いいのが入ったんだよ、見ていかないか?」
「なんだよ、またかぼったくる気かよ。しょうがね……あ」

 突然兎谷の動きが止まる。

「どうしたの?」
「財布忘れた」
「え?」

 私はその言葉に呆れかえった。しかし、店員は驚いた様子もなく笑い始めた。

「おいおいまたかよ~はっはっは」

 まるで毎度のことの様な対応だ、頻繁に忘れているのだろうか。

「悪いねおっちゃん、ツケにしてくれ」
「嬢ちゃんに怒られても知らねぇぞ。まったく……ほら」

 店員は苦笑いしながら兎谷に商品を渡した。このやり取りはいつものことなのだろうか。
だとしたら兎谷はちょっと抜けている人物なのかもしれない。
いや、店主の様子からすると抜けてるのだろう。見た目と合わせると余計残念な人間に見える。
しかし兎谷は街の住人達から頻繁に声を掛けられている。
兎谷のフランクな性格もあってか、印象に残りやすいのだろう。
それによく名前が知られているようだ。

 だが、言い訳だとしても『俺の彼女』は気に食わない。
私は兎谷に聞こえないよう、小さく溜息を吐いた。

「はあ」

 私は話し込んでいる兎谷を横目に、壁に背をあずけた。
耳からは街の喧騒が聞こえてくる。
賑やかなのはいいことだ、私のいたCランクの街と違って、この街は活気で満ちている。
私は空を見上げながら、ふと気が付いた。

 街の中心部のはずなのに、地上では当たり前のビルや車がまったく見られない。
おそらくだが空気の循環が地上より悪い地下では、環境を害するものを全面禁止にしたのだろう。
高いビルがないのは、光が平等にあたるようにだろうか。
それにしても整備が整ったこの街は、まるで地下の楽園のように見える。
新しい人類の住処、そう思いたくもある。だからだろうか、この街の住民はみんな笑顔だった。

「ほい」

 私が街に見とれている最中、兎谷がアイスを持ってきてくれた。
いつの間に買ったのだろうか。断るのも申し訳ないので、私は遠慮がちに受けとった。

「あ、ありがとう」

 私は受け取ったアイスを一口なめた。
ひんやり冷たくて美味しい、Cランクではアイスなんて贅沢品だ。
嬉しい顔が漏れてしまったのか、兎谷は私を見ながら嬉しそうに笑っている。
私はすぐいつもの顔に戻した。

 兎谷は私の一歩前を歩く。いや、私が一歩後ろを選んで歩いている感じだ。
いつのまにか私たちは商店街の中心にきていた。
大通りの周りには様々な店が立ち並んでいて、空を気遣ったのか、天井には仕切りがしてある。
立派なアーケード街だ。私が立ち並ぶ店に目を奪われていると、兎谷が口を開いた。

「ここに来ればなんでも揃うな。地上と地下でそんなに差はないと思うが。
 まぁネズミとかもたまに売ってるけどな」
「ね、ねずみぃ?」
「食ったことないか? ネズミも結構いけるぞ」

 私は思わずネズミが食卓にあがる風景を思い描くと……背筋がゾクゾクと震えた。
食事といえば魚ばかり、魚を捕るのが私の日課だ。

「よかったな、今日俺が休みで」
「え、あなた働いてるの?」
「見えないか」

 私は思わず訊いてしまった。兎谷の風貌を改めてみるが、とても仕事しているようにはみえない。
そこらへんの遊び人とばかり思っていた。
私の反応をみて、兎谷が笑い始める。嬉しいのか、可笑しいのか。

「またテストを受けるのも嫌だからなぁ」
「どういうこと?」
「二十歳で政府のテストを受けるが、そこで終わりじゃない。
 確かにそのテストで区別はされるが、その後は社会貢献度ってやつでまた区別される。
 一度Aになったからって一生Aクラスとは限らないのさ」

 競争社会とでも言えば聞こえはいいのか、生きるために働くことは至極当たり前のことだ。
だが区別は終わらない。生きるために働くのではない。
死なない為、落ちない為に働く。同じ様で違う気がした。
見方を変えれば、普通の青年に見えなくもない。だが、なぜ昨日あの場所に兎谷は居たのだろうか。
そしてなんで私を攫ったのだろうか……。

 わからない、すべては夜。夜になればわかるはず。私はそう自分に言い聞かせた。

「ちょっと待っててくれ、買い物があるんだ」

 私が頷くと、兎谷は近くにあるスーパーに入っていった。
私はまたしても一人で街を見渡すことになった。
私は傍に置いてあったジュースのロゴが入っている赤いベンチに腰を下ろし、貰ったアイスを口の中に放り込んだ。

「何やってるんだろう……私」

 呆けた顔で街を眺める。所々聞こえる笑い声や、威勢の良い売り文句が聞こえてくる。
そんな賑やかな場所で一人呆けている私が、すごく異質な存在に思えた。

「私が土を奪われたように、此処の人たちは空を奪われてる」

 私は小さく呟いた。誰にも聞こえないように、誰にも届かないように。
この空気の中ではそれが禁句であるように思えた。

 早くこの世界から抜け出したい――。

 そんな悲観的な愚痴すらも溢れてくる。
この世界は異常なんだ、たった一言ですべてが崩れるような代物だ。
早く此処から逃げ出したい。しかし何処に行けばいいのかわからない。
右も左もわからない初めての街では、動く気になれなかった。
私はCランクから無断で抜け出しているんだ、警察にでも捕まったら……どうなるかわからない。

「はあ……」

 私の溜息と同時に、向かいの店から兎谷が出てきた。

「お待たせ、少し早いけど帰ろうか。掃除をしないと五月蝿いからな」

 私は頷いて立ち上がった。アーケード街を出ると、心なしか日の光が強くなっているように感じた。

 ゆっくりと日の光が無くなっていく。夕方の太陽を演出しているようだ。
時刻は十八時、街の上空は美しい夕日のグラデーションに包まれていく。
もうすぐ照明は消えて、辺りには夜が訪れるのだろう。
私はその光景をベッドに座りながら、窓越しに眺めていた。

「よくできた偽物ね」

 私は外を見なが呟く。ゆっくりと暗くなっていく様は、地上となんら変わりはないだろう。
そんなことを思いながら外を見ていると、バタン、と玄関が開く音が聞こえた。
誰か帰ってきたのだろうか。

「おつかれーっす」

 隣の部屋から、兎谷の労いの言葉は聞こえた。誰か帰ってきたみたいだが、返事は聞こえない。
私は家に響く音に耳を澄ませると、またバタンと玄関が開く。

「たっだいま~」
「おつかれーっす」

 今度は元気な少女の声が聞こえた。
おそらく朝会った少女だろう、ドタドタと足音が近づいてくる。部屋の扉が勢いよく開いた。

「たっだいま~ごめんね~お腹すいたでしょ? すぐ晩御飯作るね!」
「あ」

 私が口を開く前に、少女は部屋を出て行った。トントンとリズムよく響く包丁の音。
同時に良い匂いも漂ってくる。その匂いに私の腹の虫がなった。

「おなか減ったな……」

 私はベッドを降りて、扉に手を掛けようとした。
でもドアノブを回すことはなく、私は首をぶんぶんと左右に振ってベッドへと戻った。
これが友達や知り合いなら手伝いに出ていくことは当然だけど、
悪い言い方をすれば私はいま捕虜みたいなものなんだ。
危機感が足りない、私は再度自分に言い聞かせた。
部屋の外に耳を澄ませながら、外の景色を眺め続けた。

 しばらくすると部屋の扉がノックされ、兎谷が顔を出した。

「飯だってよ、鈴が呼んでる」

 私は警戒心を持ちながらも、それを悟られないようになるべく無表情を保ちながら部屋を出た。
リビングでは見知らぬ大男が一人、席に座って私を睨み付けている。
私は反射的に目をそらしてしまう。すると、

「こっちこっち」

 朝に出会った少女が私に向かって手招きしていた。
少女の綺麗な顔を見ていると、固くなった心が少し柔らかくなったような気がした。
私は手招きされるがままに椅子に腰を下ろす。テーブルの上には美味しそうなスープとハンバーグ。
昼間兎谷が話したネズミが頭を過ったが、考えないことにした。
その他には焼きたてのパン、色彩豊かなサラダ、グラスにはワインと思われる赤い液体が注がれている。
私が食卓をまじまじと見ていると、少女が元気よく手を合わせた。

「ひとり居ないけど冷めないうちにね! いただきまーっす」

 少女の声に兎谷も手を合わせた。

「いただきま~す」

 大男は小さく頭を下げ、スプーンに手を伸ばす。

「ん」

 私も慌てて手を合わせた。

「い、いただきます」

 突然のことでよくわからないが、目の前の食事は美味しそうだ。
兎谷が美味しそうにハンバーグを貪っている。
目の前の食事のせいなのか、兎谷の子供のような姿なのか。
どちらかはわからないが、私の警戒心がどんどん薄くなっていくのを感じる。

「ん……」

 隣に座っている少女が笑顔で私を見つめている。
私と目の前にある食卓を交互に見ながら、天使のような笑顔を私に向けている。
私が箸をつけないことが不安なのか、その笑顔は徐々に泣き顔へと変わっていく。
結局その視線に耐えられず、私は料理を口に運んだ。

「美味しい……」
「え、ホント? ありがと~」

 横に居る少女の顔に花が咲いた。先程の不自然な笑顔とは違う。
周りの人まで嬉しくなってしまう様な、そんな笑顔だった。

「私、御幸(みゆき) 鈴(りん)っていうんだ。よろしくね!」

 鈴と名乗った少女が元気な声で自己紹介してくる。私も慌てて言葉を返した。

「私は音疾 愛。よろしく……」

 いきなり拉致されたのに、なにがよろしくなのか納得いかなかった。
だが、鈴の前では何故か怒るきになれない。私の答えに、鈴はニッコリと笑いながら大男を指さした。

「あっちのでかいのが鉄ちゃん。本名は鉄(くろがね) 真識(ましき)。めんどいから鉄ちゃんね」

 私は鈴が指さした方向を見る。鉄ちゃんと呼ばれた男は何とも言い難い威圧感があった。
私と鉄の視線が合わさる。

「鉄だ。テツでいい、昨日は乱暴してすまなかった」

 その言葉と声で私は思い出した。顔は彫りが深く、がっちりとした体型。
短い黒髪は体育系の人間を思わせる。迫力があって怖いが、その声には聞き覚えがあった。
もう痛みはない腹部に手を当てる。昨日、私を路上で気絶させたのは鉄だろう。

「んで、あれがうさちゃんね」
「名前ぐらい言ってくださいよ~」

 私の様子を気にすることなく、今度は気の抜けた声が響いた。
すかさず兎谷のツッコミが入ったが、鈴は可愛く舌を出した。
兎谷もそんな鈴の仕打ちには慣れたものなのか。
諦めた様な表情をし、何事も無かったかのように食事を口に運んだ。
その仕草が微笑ましくて、思わず笑みが零れてしまう。

 美味しい食事が始まった。夕食を頂きながら、私は思い出す。
夜になるまでの時間に、聞きたいことは整理できた。なぜ攫ったのか、そしてなぜ保護したのか。
この人たちは何者なのか、その目的は? 整理しても聞きたいことは山積みだ。
私はテーブルを囲む三人の中から、一番話しかけやすい鈴に聞いてみることにした。

「えっと、鈴さん。ちょっといいですか?」
「鈴でいいよ~どうしたの?」

 鈴から馴れ馴れしくも思える返事が来る。
少々不快な気もしたが、なんだか鈴の前では怒る気になれない。
私は軽く咳払いをして、鈴へ訊いてみた。

「兎谷さんから、色々話して頂けると聞いていたのですが」

 私は丁寧に鈴を問いただす。この状況を早く説明してほしい、馴れ合いはごめんだった。
兎谷が言っていた『夜になればわかる』その言葉を信じて夜まで我慢したのだから。
私の気持ちを分かっているのか、それとも知らないのか。鈴は変わらない緩い口調で答えた。

「せんせ~が全部話してくれるよ。もうすぐ帰ってくるから」

 待っててね、と笑顔を浮かべた。まだ一人帰ってきてない人がいるんだ。
先生と呼ばれる人物。どうやら鈴も話す気は無いらしい。
いや、本当に何も知らないだけなのか。先生とやらの帰りを待つしかない。

 そう思った矢先に玄関が音をたてて開いた。

「せんせ~お帰り、ご飯できてるよ~」

 黒い帽子を被った男が部屋の中に入ってきた。
紺色のジャケットに白いスーツ、
そして服にはがしゃがしゃと多種多様なアクセサリーが付けられている。
まるで夜のホストかバーテンダーの様な恰好をした男に、鈴は嬉しそうに近寄った。

 男はさっき紹介された鉄よりも幾らか身長が低い。でも凄く嫌な感じがする。
鉄とは全く違った違和感、あえて言うならこの男が入ってきた瞬間、
部屋の温度が何度か下がった気がする。
そんな冷たい目をした男の視線に耐えられず、私は視線を逸らして兎谷を見た。

 普段調子のいい兎谷でさえ背筋を伸ばして、緊張した面持ちだった。
男が席に座り、帽子をテーブルの上に置くと、低い声を放った。

「お前が、脱走者か」

 私は何かされたわけでもないのに、恐怖で言葉が詰まった。
しかし、ここで黙る理由はない。私は下唇を噛んで、身体の震えを止めた。

「あなたがここのリーダーね?」
「そうだ」
「なんで私を拉致したの?」
「依頼だ」

 男はそれだけを発した後、食事を口に運び始めた。私の問いにそれ以上は答えてくれない。
依頼、これが答えだとでもいうのか。そんなものに納得できるわけがない。
私が再度質問を投げかけようとしたが、

「お前はなぜ亡命しようとした。生きるのが嫌になったか? それともこの国に絶望したか?」

 その質問に私は怒りで頭が沸騰しそうになった。
私は手が痛くなるほど強く握りしめ、恐怖を抑え込んだ。

「嫌になんかなってない。生きるために亡命したのよ。それを邪魔してくれてどういうつもり!?」
「……生きるため、か」

 男はまるで私を馬鹿だと言わんばかりに失笑した。
私の顔は怒りで真っ赤になっていることだろう、最早我慢の限界だ。しかし男は私の反論に口を挟む。

「亡命なんぞしたけりゃさせてやる。だが、その前に協力してもらおう」

 協力――? 
 いったい何に協力しろというのか。男の言葉は意味不明な問いばかりだ。
私が返答に困っていると、男が手を伸ばした。

「自己紹介が遅れたな、俺の名は大神(おおがみ)だ」

 大神と名乗る男が、「お前は?」と言わんばかりに顎で促してくる。
先ほどとは打って変わって友好的な態度に思わず気後れしてしまった。
大神が何をしたいのか、私にはさっぱり見えてこない。私はゆっくりと口を開いた。

「音疾よ……。協力って何をするのよ、話もなく、握手なんかできないわ」

 私は手を出さなかった、これが精一杯の抵抗だ。
私の意を汲んでくれたのか、大神が手を引っ込める。

「正論だな、長くなるが聞いてもらおう」

 大神はいつの間にか片づけられていたテーブルに肘をのせ、腕を組みながらゆっくりと話始めた。

「うちはな、分かり易く言うと便利屋みたいなもんだ。誰からのどんな依頼でも受ける。政府の依頼も多い。国のお偉いさんは自分の手が汚れるのを嫌うからな。 お前を攫ったのもそんな依頼のひとつだ」

 便利屋――。なら私を攫ったのも便利屋としての仕事なのだろうか。
私が口を挟もうとすると、それよりも先に大神が口を開いた。

「本当ならお前は今日にでも依頼主に引き渡すはずだったが、今回は依頼主もそうだが内容も気になってな」

 大神は胸ポケットから煙草をだし、口にくわえて火を点けた。
紫煙を吐き出しながら私ではなく、兎谷の方へ視線を向ける。

「おい兎」
「はい」

 兎谷は大神の呼びかけに素早く対応する。今日見た彼の遊び人のようなイメージは無くなっていた。

「お前、この国は誰が舵を取るか、知っているか?」
「え? えーっと、内閣総理大臣とかですかね。あの最年少の……」
「ま、普通はそう思うよな。残念だが不正解だ」

 大神は私に向き直った。
話の出汁に使われた兎谷は、不機嫌というよりも、何も言われずほっとした表情を見せている。
大神は私の目を見ながら話を再開した。

「この国は絶対王政のような習慣がまだ残っている。
 一時は無くなったらしいが、今のような民主制に変わってからは表に出なくなった。
 お前の拉致を依頼したのは前国王。
 引退したのになぜ権力を持っているのか、詳しいことはわからない。
 こいつが一昨日急な依頼を持ってきた。
 こいつはうちの先代と知り合いだったから、依頼が来ることは珍しくない。
 だが、依頼が小娘一人の拉致ってのが気になった」

 大神の拉致が、まるで子供のお使い程度に聞こえてしまったのが嫌だった。
こいつらは依頼さえあれば犯罪でもなんでもするのだろうか。
私の拉致なんて楽な仕事とでも思っているのだろう。

「急に依頼を持ってきたからには、よほど知られたくない事情があるのだろう。
 時間も無く、急いで兎を向かわせた。後で鈴が調べて分ったが、あの貨物船は海軍の物だった。
 あのまま乗っていればお前は海上で捕まり、即Dランク行きってわけだ。
 地獄への片道切符ってとこだな、天国かもしれんが……」

 そこで大神は失笑し始める。それは誰に向けての笑いなのか。煙草を灰皿に押し付け、話しを続ける。

「依頼主も立場的に海軍には頼れなかったのだろう。
 陸軍と海軍は常にいがみ合っているからな。
 だが、なぜお前をそこまでして救いたかったのだろうか?」

 大神は私を厳しい目で睨み付けてくる。
まるで私の反応を一瞬たりとも見逃さないように。そんな刺すような視線に、思わず目をそむけた。
少しだけの静寂がリビングに流れる。
誰も口を開かず、聞こえてくるのはいつのまにかパソコンの前に座っている鈴が、
キーボードを打つ音だけだった。

 何をしているのだろう――。

 私が視線を鈴の方へ向けると、大神が鈴に訊いた。

「鈴、何か見つかったか?」

 鈴は大神の問いに首を振るだけった。鈴の返答を見て、大神はニヤリと不気味に笑った。

「そうか、思った通りだ。こいつの音疾という姓は母親のものだ。
 そして音疾家は『D』の元、全員処分されている。そうだろ?」

 大神が私に向かって何か呟いている。でも私には理解できない。
肌という肌からどっと汗が噴き出してくる。

 大神は、すべて知っているのだ――。

「おい」

 また大神が私に向かって何か呟いている。でも私はそれどころじゃない。
あの日の記憶が、戻ってくる。額を流れる汗が止まらない。
服を滲ませる勢いで身体から溢れ出ていく。それでも大神は構わず話を続ける。

「お前の家族は全員処分されたのに。
 なぜお前だけ生き、また連れ戻そうとするのか。理解できるか……?」

 そんなこと、わかるわけがない――。

 徐々に視界が狭くなっていく。過去と現実が頭の中で重なり合う。
私は思い出してしまった、幼いころの記憶を……。

……………………………………………………
…………………………………………
………………………………


――雨が降る。

 冷たい雨が降る夕方。空は雲に覆われ、街は徐々に明るさを失っていく。
母は家で夕食を作り、父が仕事から帰ってくる。そして幼い彼女が疲れた父を迎えに行った。
家族三人の幸せな家庭。しかし、それは一発の凶弾で粉砕された。
突如軍は彼女の家を占領し、囲んだのだ。国の正規軍が彼女の父親を組み伏せる。
頼もしかった父は、優しかった母は、彼女の目の前で崩れ落ちた。

 その銃口は彼女にも向けられた。しかし母親が彼女を逃がす。
遠目から崩れ落ちる母親を見てしまった彼女は必死で逃げた。父を置き、母を見捨て、死ぬ気で逃げた。
恐怖が彼女の足を動かし続けた。
だが、幼い彼女が大の大人の足から逃げられるはずが無い。
しかし、追手は来なかった。彼女を見失ったのだろうか……。

 近くにあった藪の中に、彼女は隠れ続ける。どのくらい時間が経ったのだろうか。
既に太陽は落ち、街には明かりが灯っている。
住宅地に鳴り響いた凶弾。だが、住人は何食わぬ顔で何時も通りの生活を送っている。
まるで、彼女だけが世界から取り残されたような感覚に陥る。

 途方に暮れ、行く当ても無かった彼女は、結局家に帰るしかなかった。
恐る恐る家の中を覗き見ると、そこには変わり果てた両親の姿があった。
彼女は大声で泣いた。まだ、兵隊が近くに居るかもしれない。
それでも彼女は泣く事を止められない。目の前の残酷な現実に彼女の心は脆く、砕け散った。

 雨の音がする。廃人寸前だった彼女は、雨に打たれる両親に毛布を被せる。
ポタポタと落ちる雨音と一緒に、軍人が一人彼女に向かって歩いてきた。
しかし彼女は座ったままだ。もう逃げる気力すらないのだろう。
軍人は彼女に銃を向ける事は無く、変わりに一通の手紙を差し出す。
中に入っていた物はCランク行きの通告書だ。

「**********」

 軍人は彼女に何か言ったかのように聞こえたが、彼女には聞こえない、届かない。

 お前らの声なんて……聞きたくない――。

 軍人は両親の遺体を担ぎ、その場を立ち去ろうとする。
彼女はそれを見て大声で叫んだ。しかし、彼女の声は泣き疲れて言葉に成らない。
軍人を追う体力も無く、その場で転んでしまう。
彼女が起き上がる事は無い。軍人の後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた――。

…………
……………
………………


「愛ちゃん! 愛ちゃん!」

 私は誰かの声で現実に引き戻された。強い嫌悪感、吐き気と頭痛がいっぺんに襲い掛かる。
この夢を見たのは初めてじゃない。でも、だからといって慣れるものでもなかった。

「愛ちゃん、大丈夫?」

 鈴がタオルを持ってきてくれる、私は思わず顔をうずめた。

「辛いことを思い出させてしまったかもしれんが、教えてくれ。なぜお前の親は処分された?」

 わからない――。私はタオルに顔をうずめたまま首を小さく横に振った。

「そうか。恐らくだがお前の両親は何かタブーを犯したんだろう。
 何かはわからないが、俺らBクラスにも関係のあることだ。
 いま世間は揺れ、十五年前と同じ事が起ころうとしている」

 大神は苦虫を噛み潰した様な顔をして話し始める。十五年前に何があったのだろうか。
兎と鈴は顔を見合わせている。どちらも心当たりはなさそうだ。鉄だけが腕を組んだまま聞いていた。

「このおかしな政策、『D政策』が施行されたのは、今から二十年前の事だ。
 『D政策』後に『D』と呼ばれて国民の間で知れ渡る事になる。
 常識的にこんな馬鹿げた政策が許されるはずは無かった。
 しかし、時代がそんな狂った事を受け入れてしまった」

 大神は煙草を取り出し、火を点けた。

「――ある程度は知っていると思うが、海の侵食による国土の減少、それに伴う人口密度の増加。
 様々な問題が出たが最も重要な問題が食料だった。深刻な食糧問題は大量の餓死者を出した。
 餓死は恐ろしい。皆に平等に降りかかる悪夢だ。
 この餓死を無くせる、という政策はとても魅力的だったのだ。
 こんな馬鹿げた政策に頼る程、国は末期だった。
 しかし、急な人口減少など出来るはずが無い。
 国民の暴動、反感を買ってしまってはそれは只の独裁になる。
 故に『D』は非常にゆっくりと行われた。
 最も重要な食料を管理し、配給を餌に国民を判別したが、すぐに処刑など昔の法律では考えられない。
 まずは身寄りの無い老人、重罪を犯した犯罪者。
 処刑しても誰も気が付かない者たちを殺していった」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 思わず兎谷が話しを遮った。

「どうした?」
「なんか俺の知ってる歴史と全然違うんですけど……」
「そりゃそうさ。お前、当時一歳ぐらいだろ。まぁ大人しく聞いてろよ」

 大神は腕を組みなおして話を続ける。

「――Dは年に千名程処刑した。残酷な話しだが、それでも年間の自殺者より少ない数だ。
 国は水面下で人を殺し続けたが、国民が気付く事は無かった。
 しかし、飢餓を無くすほど多くは無い。そんな中、一人の反対派議員が叫んだ。
『この政策がエスカレートしてしまえば、皆殺される!』
『無能な独裁者を許してはならない!』と。
 だが、彼の言葉は国民に浸透する事は無く。案の定、反対派議員は異常者扱いされた。
 俄かには信じがたい事を、声高らかに演説する姿はまさに異常者そのものだったからだ。
 生まれてきてから培った常識が、彼を否定した。
 誰も自分の世界を否定する異常者をまともに相手にする人間は居なかった。
 叫んだ議員の予想通りに、『D』はどんどんエスカレートする。
 判別による国民の住居の強制変更。配給の差別化、異常なまでの情報規制。
 しかし、これだけでは何も変わらない。国民が気が付かない程度の排除をしても解決にならない。
 無意味な政策、そして減らない餓死者。国民の怒りは徐々に溢れ始めた。
 政策の存在に気づかずとも、食糧難の不満に国中でデモが始まる事となる。
 そしてついに食料の底が見えてしまった。ここで国は初めて国民を明確に差別化した。
 AからDに分けた国民達の中から、今で言うCの国民には必要最低限の食料すら渋り始める。
 まさに大を生かすために小を見捨て始めたのだ。この差別化が引き金になった。
 国からしてみれば少しでも餓死を減らす為の苦肉の策だった。
 だが、国民の怒りはついに爆発し、大規模なデモが起こなわれる。
 このデモに何十万人もの人が参加した。人の壁は国会を覆い、国は一時的に機能を停止する。
 これを治めるために、国は軍隊を出動させる。それでも治まらない。
 膨れ上がった敵意、強い覚悟があれば人間一人で戦車を止める事だって出来るのだ。
 治まらない人の波、デモを鎮圧する為に国は最悪の手段を取る事になる」

 大神の淡々とした言葉に、私は思わずごくりと生唾を飲みこんだ。

「それは、国民に向けての無慈悲な一斉射撃。そしてついに、『D』は公の元に晒された。
 施行されてから六十歳以上は全て安楽死させられ、抵抗した者は問答無用で処刑。
 玖国は歴史上初めての恐怖政治を誕生させた。
 国の人口は大幅に減り、皮肉にも国民は生き残る事が出来た。
 ……誤解が無いよう付け加えておくが、他国も各々の方法で生きながらえている。
 海面上昇による移民を受け入れた大国では紛争が絶えることはない。
 だが、その紛争のお陰で経済は周り、同時に人も減った。
 結果さえ見れば、玖国の政策は成功と言えるかもしれない。
 紛争で若者が死ななくて済むのだから……。
 しかし、成功と思われた玖国の政策だが、
 こんな非人道的な事をしても追いつかない程国は病んでいた。
 それから明確にランク別けされたが、それでもAとBしか満足に食べれず、餓死者が出た。
 C以下の国民は怒りに怒り狂う。それも当然だった。
 法律とはいえ、自分の命と引き換えに、親を……殺されたのだ。
 ついに国民は立ち上がる。大規模な紛争の始まりだった。
 しかし紛争と呼べるものでは無く、大量虐殺と言ったほうが分かり易い。
 A、Bランクにはもちろん軍隊も含まれていた。対するCランク以下の住民には満足な武器すらない。
 石槍対銃器では、結果は見えすぎていた。数でも物資でも負けていた反乱軍に勝ち目などない。
 これが『D』の醜悪なところだ。
 ここで国民全てが立ち上がることが出来れば、結果は変わっていたかもしれない。
 だが、立ち上がったのは餓死が出たCランクの住人のみ。
 既に安全地帯に居るA、Bの住民は死を恐れた。
 国はCの国民を反乱軍とし、正義の名の下に蹂躙する事になる。
 僅か一カ月も満たない紛争。反乱軍は女、子供含めて三百万人以上の死者を出す。
 国は連帯責任と称し、単純に人口を減らしたかったのだろう。
 身内が暴動に参加しているだけでDランクへと連行し、処刑を行った。
 人口が極端に減ったおかげで食料が行き渡り始める。
 国からすれば紛争とは大規模な『間引き』に過ぎなかった。
 極端な人口減少で餓死者は突然居なくなる。食料の心配がなくなると途端に争いは無くなった。
 皆この生活が素晴らしいと思ってしまったのだ。
 最悪を知った国民は、それだけで満足できたのだ――」

 大神はそこで話を切った。私は大神の話を聞けば聞くほど吐き気がしてくる。
それは兎谷も鈴も同じようだった。

 国が、人を間引いた――。

 私はそれを頭に思い描く。なんとも無慈悲な光景が浮かんできた。
 そんな屍の上でこの国は成り立っている。頭の中に今日出会った街の人たちの笑顔が浮かんでくる。
 空を奪われたなんてとんでもない。
 餓死の心配がない。すべてが制限されていても、これだけで彼らは幸せだったんだ。

「吐き気がしたよ。こんな国に生まれて恥ずかしいとすら思った。まさにこの世の地獄だ」

 大神の言葉がリビングに響き渡った。その言葉が空気を伝わり、各々の体に響き渡る。
大神の心の叫びに、皆放心していた。

「昔話はこの辺にしとこう」

 大神にとっても気持ちのいい話ではなかった様だ。
灰皿に置いた煙草が燃え尽き、灰だけになっている。新しい煙草に火を点けた。

「問題はここからだ」

 更に大神は話しを続けた。

「餓死が無くなり、何年も経つと住居と食料を得るのが当たり前になりつつあった。
 しかし人の慣れが、慣性が悲劇を薄れさせていく。人は忘れる生き物だ。
 幸福が長く続けば続くほどそれは幸福ではなくなる。
 Bランクの住民は満たされない幸福に、何が足りないか考え始める。何があれば幸せなのか。
 それは人生において最大のテーマだろう。
 餓死が無いように食料があれば幸せなのだろうか。
 住む家があれば幸せなのだろうか。
 満足な金があれば幸せなのだろうか。
 幸せの基準など、人それぞれだ。
 家族が居れば幸せと言う人もいれば、居ない方が幸せと言う人もいる。
 だが、Bランクの誰かがひとつの不満を言い始めた。
 それは多くの住民に認識され、共感を得る事になる」

 大神は人差し指を天井へ向けた。私は奪われた空のことを思い出し、口を挟んだ。

「空?」
「そう、彼らが求めたものは 空 だった。お前も此処の空を見ただろう?」

 私は夕焼けに染まっていく空を思い出した。確かによく出来た作り物だと思う。
だが、所詮は作り物。本物の空には遠く及ばない。確かに凄いシステムではある。
だが、この中で一生を過ごせと言われて過ごせるだろうか。本物の空を知っているなら尚更だ。

 空を返せ――。
なんとなく私もその意見に共感してしまう。私が小さくうなづくと、大神はニヤリと口元を緩ませた。

「と言うのは建前だが。まぁ立派な理由のひとつにはなる」
「建前?」

 私はオウム返しに投げかける。

「足りない頭を使ってよく考えればわかることだ。
 このシステム、太陽光やら酸素循環やら様々だが。
 地下に住む奴等にとってはどれも命に関わるものだ。
 しかし、システムを稼動させるために必要な電力、管理体制はどれもBランクの住人ではなく、
 Aランクの奴等が管理している。Bランクの連中はようやく気がついた。
 次に国が壊滅的状況に陥った時、『間引き』されるのは、俺達Bランクだと……」

 大神の話に背筋がゾクゾクと震え始める。何も変わっていない。
こんな悪夢のような政策を実行したにも関わらず、何も変えられないのだ。
大量虐殺が、只の延命策だなんて……。

「もう俺達Bランクの住人は立ち上がるしかない。
 Aの奴等に脅えながら生きるか。戦って空を得るか。もう、考える必要すらないだろう」

 大神の話には妙に現実味があった。兎谷と鈴の二人は呆然としていた。
考えたことも無かったのだろう。
私とは違う、地中に住むのが当たり前の二人には、仕方のないことかも知れない。
大神は椅子から立ち上がり、窓から偽者の星を眺めた。

「近々でかい内戦があるだろう。お前はその為に協力してもらう」
「協力って、私に武器を持って戦えとでも言うの?」
「女の細腕じゃ邪魔なだけだ。そんなことは期待していない。話を戻すが。
 なぜ、依頼主はお前を救ったと思う?」

 だからそんなことわかるわけがない――。私は静かに首を振った。

「そう、か……おそらく何等かの利用価値があるのだろう」

 大神は帽子を触りながら、私からほんの少しだけ目を背けた。
大神の言った利用価値、その言葉に私は奥歯をぐっとかみしめた。

 あいつが両親を殺したに違いない――。

「話は以上だ。お前が聞きたかったことなど、この程度だろう」

 大神がズレた帽子をなおしながら私に訊いてくる。
 たしかに私が知りたかった以上の情報だった。しかし、ひとつだけ気になった点がある。

「協力ってなによ」

 返事とばかりに、大神は懐から一枚のカードを取り出した。

「もうお前を保護した事は連絡してある。急いでいるのかもう許可証を送ってきた」

 大神は手に持ったカードを私に差し出した。
表には22XX年8月17日0:00~8月17日23:59と書かれている。

「Sランクカードってやつだ。昨日兎に持たせたBランクのカードとは格が違う。
 こいつはどんな場所、交通機関、区域を自由に移動、利用できるカードだ。
 但し同乗者三名ってのがネックだな。ちっ、俺も出向けってことかよ」

 大神に運転させるまいとの配慮なのか。運転手と私を含めての三名分だろう。
今は八月一四日の二十二時。三日後には行かなくてはならない。

「これはチャンスだ。こんなカード、億の金をだしても俺等には買えねぇ。
 これが成功したら亡命でもなんでもさせてやる。俺が保障しよう」

 大神の話に熱が入り始める。気づけば偽物の空が白く霞んできた。
この国の永い夜が、明けようとしている――。



[40230] 三.遺産
Name: 大航◆ae0ba03e ID:ded3c5b3
Date: 2014/07/29 00:36
―八月十五日 10:00―

 車の走り去る音が耳を通り過ぎる。私はゆったりとした車内で兎谷の帰りを待っていた。
車内は冷房が効いているし、座席の柔らかいクッションが実に気持ちいい。

 私たちがいる此処は四十六区の検問所だ。
B区域、すなわち地下では車をつかえないが、地上に近いこの場所からは使えるらしい。
地上に出ればすぐ中心部というわけではなく、公共の交通手段がないこ出口では車が必須だ。

「ふぁ……」

 私は不意に欠伸が出てしまった。
昨日から一睡も出来ていないせいだ。瞼も重く、目もしばしばしてくる。

 大神と朝まで話をした後、私たちは寝ずに検問所まで来た。
ここまで来るのに電車を乗り継いで三時間ほどの距離。
環境への配慮の為だろう、このB区域では電車しか交通機関がなかった。
そのせいか、どの電車も満員で座ることすら出来なかった。

 私はやっと座れた心地よさにすぐさま目を閉じてしまう。
車の時計はもう十一時を表示していた。

 急がなくちゃ――。

 約束の日まで残り三日。私は寝ぼけながら昨日の話を思い出した。


………………
…………
……


 いつの間にか窓から朝日が差し込み始めている。
鈴や鉄は自室に戻り、私と兎谷だけが大神の話を聞いていた。
大神は神妙な面持ちで私に何度も質問を投げかけた。

「お前、このルートは誰に訊いた?」

 大神が私に問いかける。
もう一昨日の夜のことだが、船での脱走ルートの事を聞いているのだろう。

「言え」

 大神が私に詰め寄りながら問いかける。何故か彼には鬼気迫るものがあった。
変な嘘をつく必要もない、私は正直に答えた。

「へ、変な人から買っただけよ」
「……言え」
「こ、これ以上は本当に知らないわ」
「あのルートはな、そこら辺の小娘が買える代物じゃない。Aランクの奴らでも買えるかわからない代物だ。貴様の裏には誰かいるはずだ、言え」

 大神が私に詰め寄ってくる。
その顔は先ほどまで紳士的な態度で話していたとは思えないほど、異常な反応だった。

「わ、私がそこら辺の小娘じゃないってことは、あなたが一番知っていると思うけど?」

 私の言葉に大神は眉間に皺を寄せたが、半ば呆れたかのように椅子に座りなおした。

「運だけは一人前だな。もう一度そいつに会ってこい」
「え? 私が会ったのは偶然よ。どこに居るかわからないのに、どうやって会うのよ」
「ある程度予想はついている。詳細は鈴にでも調べさせよう。おい、兎」
「……え、あ。呼びました?」

 どうやら兎谷はいつの間にか寝てしまっていたようだ。
寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりと立ち上がる。

「鈴を起こしてこい」
「はい~」

 兎谷はふらふらしながら鈴の寝室に向かっていった。私の眠気も限界に来ていた。

「今から兎谷と行ってこい」
「い、行って何するのよ」
「行けばわかる」
「行けばわかるって」

 わかってるなら行く必要ないんじゃないの――?

 私はその言葉が喉から出そうになったが、大神が口元が大きく歪んでいくのに気づき、思わず黙ってしまった。私が茫然としていた少しの間に、大神は口元を引き締める。

 大あくびをしながら出てきた鈴から、一枚のプリントと手紙をもらい、
私と兎谷は追い出されるように家を出た。
扉を開けたそこには、偽物の太陽が朝焼けを演出していた――。

………………
…………
……

 キュルキュルと、兎谷が車のセルスイッチを回す音が聞こえる。
どうやら昨夜の夢をみている間に順番が来たらしい。私は眠い目を少しだけ開いた。

 車がゆっくりと動き始める。兎谷がBランクのカードを検査官に見せ、
大勢の警備員が見張る中、小さなゲートを通過した。久々に見る本物の太陽の光が私の顔を照り付ける。

「暑いわね」
「寝とけよ、二時間はかかる」
「……そうするわ」

 私はまた目を閉じた。
昨日といい今日といい、結局私は彼らに巻き込まれる形で従っている。
今すぐこの国を脱出したい、その気持ちが変わることはない。
でも、一人ではどうやって船に乗れるのかわからない。
私があの船に乗れたのは、大神が言うとおり運がよかっただけなのだろう。
もう一度亡命する手段を手に入れる可能性は限りなく低い。だから大神たちに従うしかなかった。

 大神が出した条件はすごく魅力的だ。あと三日従えば難なく亡命できる。
大神が約束を守ればの話だが、いまは信じるしかない。
人任せな案だが、私にとってはこれが最善策のはずだ……。

 車は海岸線を止まることなく走り続けている。
ほんの少しだけ窓を開けると潮の香りが漂ってきた。夏の日差しは強く、海面に反射した光がまぶしい。
対向車線からは大きな荷物を積んだトラックばかりがすれ違う。
私は開け始めた窓をすぐさま閉めた。おそらくB区域に物資を輸送しているのだろう。
トラックから出る排気ガスの臭いに咽た。

「暇そうだな」

 運転している兎谷が話しかけてくる。

「当たり前でしょ」
「寝とけばいいのに、なんかないかな」

 兎谷がダッシュボートのを探し始める。しかしすぐさま諦めた。
この車はレンタルだし、気の利いた音楽CDなんかが入ってるわけもなかった。

 私は鈴からもらったプリントを再度見返した。プリントには簡単な地図と住所が載っている。
私が居たすぐ傍、C区域の住所が記されていた。

「はぁ……」

 溜息が漏れてしまう。またあの町に戻ることになるとは思わかなった。
それに名前も分からない人探しだなんて無理がある。
うろ覚えの風貌だけで探すのはかなり難しいだろう。

「大丈夫さ」
「何が大丈夫なのよ」
「大神さんの言うことに無理なことはない。なんらかの確証がある、きっとすぐ見つかるさ」

 私の心中を察したような一言、そんなに顔に出ていただろうか。
私は両手で顔を拭いながら返事をした。

「ふ~ん。信頼されてるのね」

 兎谷の一言には大丈夫の理由なんてかけらもなかった。
理由もなしにただ大神を信頼しているように聞こえる。

「信頼……ねえ。うーんちょっと違うけど、まぁそんなもんか」

 兎谷はハンドルから片方の手を離し、軽く頭を掻きながら呟いた。
それは信頼しているけれど、私から図星を付かれたのが恥ずかしい。そんな印象を受けた。

「あの人は、大神さんは父親じゃないわよね」
「はっはっは。あんな若くて恐ろしいのが父親だったら、反抗期なんてあったもんじゃないな。ま、上司みたいなもんさ」

 兎谷は笑いながら胸ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
しかし、私に気をつかったのかすぐに元の場所に戻した。

 車は海岸線をひたすらに走る。兎谷と話したおかげで、眠気が取れてきた。二時間ほど走り続けると、やっとCランクの町が見えてきた。


 Cランクを囲む鉄条網と検問所が目に入る。
Cランクにもゲートがあるが、入るときはフリーパスだ。
車に乗ったまま、すんなりと通過した。兎谷はそのまま車を走らせ小さな漁村に路駐した。

「うお、あっちーな」

 車から出ると真夏の太陽が私たちを照らした。
この暑さのせいだろうか、商店街には人気がなく、静まり返っている。
聞こえるのはけたたましい蝉の声だけ。辺りを見渡すと、すべての店にシャッターが下りていた。

「ゴーストタウンってやつ?」
「いや、人は居るはずよ。でも暑いからみんな閉めてるんじゃないかしら。こんな暑いのにお客なんて来ないしね」
「ま、田舎ってそんなもんか」

 兎谷は私が朝見ていたプリントを見返していた。

「えーっと、こっちか」

 兎谷は地図を見ながら細い路地に入っていく。その後ろ姿を、私は急いで追いかけた。
路地を通って着いたのは小汚いトタン屋根の小屋。
どうやら廃工場のようだが、周囲の窓ガラスは割れ、地面は雑草ばかりで荒れている。
人が入らないように入口には鎖で封鎖されているここに、人が居るとは考えにくい。

「あったあった、いつも迷うんだよね」

 だが、兎谷はようやく見つけたとばかりに小屋の中に入っていった。
私も急いであとに続く。小屋の中は暗く、日の光が入ってこない。
暗闇の中、兎谷が手さぐりで電灯を点けた。
明るくなった部屋の隅で人が座り込んでいるのに気が付く。
潜んでいるのは、どうやら老人のようだ。

「おや、兎谷さん。何か御用ですかな」

 老人は長く伸びた白い髭を触りながら私たちに話しかけてくる。

 おかしい、どうみても六十歳をゆうに超えているのでは――。

 私が首をかしげていると、兎谷がその疑問に答えてくれた。

「俗にいう、Eランクってやつさ。書類上では死んでいる人間。
 でも六十を過ぎても生きたいと思う人は大勢いる。でもこの国では生きていられない。
 そういうやつは命を掛けて亡命するか、金で死亡診断書を書いてもらって法的に死ぬのさ。
 ま、生き残っても死ぬのと同じだと思うけどな」

「ふぉふぉふぉ」

 老人は兎谷の言葉に笑って見せた。
老人は戸籍も、家族も、自分の名前すらすべてを捨てて生きていた。
私の神妙な顔つきのせいか、老人はまた髭を撫でながら口を開いた。

「ふぉふぉ。生きることは辛い、死んだほうがマシだと、そんな奴等もたくさん居た。じゃが、生きることはこの上なく素晴らしいことじゃよ」

 老人は微笑みながら私に目を合わせてくる。でも私はその目を見ることが出来なかった。
彼の三割も生きていない私にとって、生への答えなど出せるはずもなかった。
会話が途切れると、兎谷が一歩前に踏み出した。

「大神さんから連絡が来てるはずだ。そいつを探している」

 兎谷は懐から金を出す。待ってましたとばかりに、老人は嬉しそうに金に手を伸ばした。
だが彼はひょいと老人の腕をかわし、厳しい目を向ける。

「おいおい。まだ情報をもらってねえぜ爺、呆けたか?」

 兎谷の今まで見せたこのないような表情に驚いた。
目はつりあがり、眉間に皺を寄せ、老人を睨み付ける。
老人は絶えず髭を弄りつつ、苦笑いしながら口を開いた。

「あれは、どこに居ったかの。最近はめったに姿をみらんなぁ。確証はないが、夜に街外れの岬にいってみるといい。あいつは釣りが好きじゃったからのう」

 その情報を聞いて、兎谷は老人に先ほど出したお金を手渡した。
兎谷が私に視線を向ける、そして外へ向かって手招きした。
私は先に歩き出した兎谷を追う。にこやかに手を振る老人を後ろ目に見ながら、小屋を出た。

 外に出ると蝉たちの声が大きくなったような気がした。
夏の日差しは加減を知らない、身体中をジトジトした汗が流れ始める。
夏独特の焼けた匂いが地表から蒸気の様に溢れる。
それはコンクリートだったり、少ない土の地面だったり、様々だ。
先に出た兎谷が来た道を戻り、車に乗る。車内のクーラーが無性に恋しい。
私も急いで車内に飛び込んだ。

「まぁこんなもんだろう。愛ちゃん、例の情報屋と出会った時間と場所は覚えているかい?」

 そういわれて私はやっと気が付いた。ヒントは私自信が持っているんだ。
なんで兎谷は最初に私に訊かなかったのだろう。私はあの夜の事を思いおこす。

「えっと、この町の先にある小さな港よ。私も釣りに行ってたもの。時間は覚えてないけど、たしか夜だったわ」

 私が思い返した事は、さっきの老人が言ったこととほぼ同じだった。
兎谷は私の言葉に、満足そうな表情を浮かべた。

「そうか、なら大丈夫そうだ」
「……試したの?」
「いや、そんなんじゃないよ」

 その言葉はどちらを疑って出た言葉なのだろう――。

 突如兎谷は車のアクセルを踏み、岬ではなく、町中に向けて車を走らせた。

「ちょっと、どこ行くのよ」
「まだ昼だ。Eランクの奴らは昼間は動かないよ。見つかれば即処分対象だからな。それよりも腹が減っただろ? 飯でも食べにいこうじゃない」

 目処がついて気が楽になったのか、兎谷の表情は先ほどの様な険しさはなく、
いつもどおりの穏やかな表情に戻っていた。それを見て私も思わずほっとした。
大神や兎谷が、時折見せる独特の雰囲気、私はそれが少し苦手だった。

 十分ほど車を走らせると、ありふれた古臭い定食屋が目に付いた。
Cランクの町に駐車場なんてない、車なんて贅沢品だからだ。路上に車を置いて、定食屋に入った。

「結構いい感じじゃん」
「これが?」

 外見と同じく中も小汚い。塗装が剥がれた壁に、メニューがずらりと張り出されている。
中には客がおらず、店員だけが暇そうに扇風機の風を浴びていた。
私たちは四人掛けのテーブルに腰を下ろした。

「全然わかんねーな、愛ちゃんわかる?」
「私も魚の名前なんてわかんないわよ」

 メニューをみると魚の名前ばかりが並んでいた。

「俺は日替わりね」
「あ、私もそれでいいわ」

 私も兎谷と同じものを注文した。
なんの魚かわからないけど、私がいつも食べていたものと変わりないようだ。

「Cランクつってもそこまで寂れてるわけじゃないのな」
「Bに比べれば充分寂れてるわよ」

 私は兎谷と途切れ途切れの会話をしながら箸をつける。
味は悪くない、でも店の中は相当蒸し暑く、長いは出来そうもなかった。
私たちはいち早く会計を済ませ、外へ出た。

「あっちーな」
「さっきから暑いしか言ってないわよ……」

 私たちは店を出て街中を歩こうとするが、Cランク街に娯楽なんてあるはずもなかった。
当てもなく寂れた商店街を歩いていると、運よく開いている喫茶店が見つけた。
私たちはそこで時間を潰すことにした。

 扉を開けると、カランカランと来客を告げるベルが店内に鳴り響いた。
シャッター商店街の中に喫茶店なんて、よく見つけたものだ。
私だけだったら諦めて車にでも居る事だろう。兎谷がシャツをバタつかせながら、席に座る。

「ふう、ようやく落ち着けそうだな」

 さっきの定食屋よりかは幾分涼しい。
店内には私と兎谷しかいないようだけど、車の中で待つよりかはずっといい。
兎谷はオーナーと思われる人物に飲み物を注文する。

「俺、アイスコーヒーね。愛ちゃんは?」
「私も同じで」

 カウンターの中にいる人物はそれを聞くと、何も返答せず一礼して奥へと入っていく。
チリンチリン、と風鈴の音が鳴る。夏を感じさせる気持ちのいい音が店内に反響する。
Cランクではクーラーなんて贅沢品だ。
この店も窓を全て開放しているが、風通りがよく中々気持ちが良い。

「こんな場所があるなんて、知らなかったな……」

 ちょっと勿体ない。
でもC区域に居た時は町に行く理由なんてないし、行っても何もないと思っていた。
だけど此処みたいな素敵な場所もある。
B区域に比べると寂れた田舎町って感じで、そこまで生活が困難な印象も受けない。


 あれ? 何かおかしい気がする――。

 何かが矛盾している。
仮にDランクを死とするならば、Cランクは生きている内の最下層のはず。
前に兎谷が言っていた。
「試験が終わっても終わりじゃない」BランクになってもCランクに落ちることがある。

 なら逆もあるはず。
CランクからBランクに行ける事だってあるだろう。
でもCランクは確かに贅沢ではないが生活はできる。

「ああ、そういうことか」

 私は自分の疑問に、ふと自分で答えを出せた。
どうもこの政策を作ったやつは馬鹿じゃないらしい。

 『妥協』 そう、人生とはどこまで妥協出来るか?
そんな問いを突きつけられている様だった。
Cランクがあまりにも酷過ぎたら? 毎日のご飯にもありつけなかったら? 
そうなればまた大神さんの言ったような内戦が起きる。

 内戦が起きないとしても、Cランクで息が出来なかったら。
皆、BランクやAランクを目指して動くだろう。そうなれば区域分けした意味が無くなる。
川を流れる水のような変化ある生活環境ではなく、大きな湖や、ダムのような。
何も変化がなく、何も起こらない。そんな生活を最下層のCランクに与えたのだろう。

それはまるで……。

「飲まないの?」
「あ」

 私は不意に現実に戻された。
考えに熱中しすぎたせいで、目の前に置かれている珈琲の存在にすら気が付かなかった。

「頂きます」

 冷たい珈琲が、私の喉を潤してくれた。

「また難しいことでも考えてたんじゃない?」
「あ……うん、そうかも」
「いいんじゃない?」
「なにが?」
「考えることを止めたら、人じゃなくなるって。 よく大神さんが言ってたよ」

 人じゃなくなる、か――。

 なんだか、何を持って人なのか人じゃないのか。
よく分からなくなってくる。あんまり考えすぎるのもよくない。
難しいことばかりですこし頭が痛い。せっかくだから兎谷と話でもしてみようかな。

「みんなあの家に住んでるの?」
「あー、大神さんはあまり帰ってこないからな。あの人は違うかもね」
「貴方達って家族、なのかしら?」
「血はつながってないけど、ん~家族みたいなもんかな。まぁ、俺は日が浅いんでよく知らないけどね」
「……」
「……」

 一昨日会ったばかりだから会話が難しい。兎谷も話題を振ってくれるけれど、奥には触れないように。
また、私も触れないように言葉を返している。
あんまり居心地のいいものじゃないければ、無言よりはマシだと思いたい。

 ボーンと店内の時計が音を鳴らし、十八時を指した。
時計の音を聞くと、兎谷が椅子から立ち上がる。

「そろそろ行こうか」
「そうね」

 兎谷が会計を済ませて外へ出る。私もあとを追った。
外はゆっくりと陽が落ちはじめ、昼間よりかは涼しくなっていた。
近くに止めておいた車に乗り、情報屋から買った場所へと向かった――。


 ――波音が響き渡る。老人が言っていた岬の近くで車を止め、私たちは夜を待った。
落ちていく夕日が水平線にまたがり、昼と夜の境界線が美しく浮かび上がる。
私たちから居場所を奪った大いなる海。しかし、このときばかりは地球の美しさに目を奪われてしまう。

「綺麗ね……」

 私は車を降りて、ひとりで堤防を歩いた。
海風が心地いい、いつもはこの風が大嫌いだが、今日はなんだか違った。

 堤防の先へ向かって歩いていく。釣りをしている人は疎らだ。
その中で麦わら帽子を深く被った人が目に止まる。遠くて顔は見えないが、雰囲気が似ている。

「あれかな」

 私はびっくりして後ろを振り返った。いつの間にか兎谷が真後ろに来ていた。
私はもう一度麦わら帽子を被った人を見た。

「あの時は暗くてよく覚えてないけど……たぶん」

 私の言葉を皮切りに、兎谷が麦わら帽子の釣り人に近づいて行った。

「爺さん、調子はどうだい?」

 ……だが、釣り人からの返事はなかった。横から見ると白い顎鬚が見える。
おそらくこの釣り人もEランクの住人だろう。
そんな人は「爺さん」なんて呼ばれて返事をするわけがない。
兎谷は何度も話しかけるが、釣り人は一向に顔を向けず、返事もなかった。

「愛ちゃん」

 兎谷が私を呼んだ。その一言に釣り人はゆっくりと振り向いた。私は釣り人の正面に立つ。
すると釣り人はようやく口を動かした。

「なんじゃ……逃げなかったのか」

 釣り人は残念そうに呟いた。たぶん、この人が私に情報をくれた人だ。
麦わら帽子を深くかぶって目元を隠し、よれよれのジーパンと肌着を来た老人。
足にはいているサンダルは使い古されていてボロボロだった。

 私はポケットから一枚の手紙を取り出し、老人に手渡した。

「これを……」
「なんじゃこれは」
「私にもよくわかりませんが……」

 私は大神から渡された一枚の手紙を手渡した。
老人は乱雑に封筒を破り、中の便箋を取り出す。すると、いきなり老人は手紙を私に見せた。

「読んでみるといい」
「え、あ、はい」

 私は受け取った手紙に目を通した。手紙にはたった一文だけ記されていた。


 ――鍵を渡せ。これは彼女の意思だ――

「これだけ?」

 私は便箋をひっくり返してみるが、他に何も書かれてはいない。鍵とは何のことだろうか。
私はしばしの間考えてみたが、答えはでない。そもそも答えなんて考える必要すらない。
私は老人に向かって手を差し出した。

「鍵を、頂きにまいりました」
「……」

 老人は私の言葉に応じず、針に餌を取り付け海へと投げた。
長い空白のあと、ようやく老人が口を開いた。

「受け取ってどうする? おまえさんはこの国に未練がないと思っておったが」

 私はここまで戻ってきた経緯を老人に話した。
逃げようとしたが、亡命に失敗し、大神の命令でここまで来たことをかいつまんで説明した。

「ふぉふぉふぉ。大神の小僧に見つかったか、それは不運じゃったのう」

 老人は髭を触りながら、豪快に笑い始めた。

「そして再び亡命するために、いまは大神にしたがっとるという訳じゃな」

「……その通りです。その鍵が何のなのか、私にはわかりませんが必要なんです」
「これは、この国を壊すかもしれんのじゃ。それでも欲しいのか?」

 壊す? どういう意味だろうか。
しかしこの国がどうなろうと、私にとってはどうでもいい事だ。
大神が何を企んでいようと、たとえそれが革命やクーデターであっても、私には関係ない。

「私には関係……」

 私はそこで言葉が詰まってしまった。昨夜大神が話した内戦の事を思い返してしまう。
もしもこれが引き金となってしまったのならば、関係ないだなんて言えるわけがない。
ではこのまま一生不満を持ちながらこの国で生きるのか。
……そんなこと考えたくもない。いったい大神は私を使ってなにをしようとしているのだろうか。

 私が言葉に詰まったまま固まっていると、ふいに老人が呟いた。

「やめときなされ」
「で、でもっ」

 このまま帰ったら外国へ渡る術がなくなってしまう。
それは嫌だ。運よく掴んだ脱出の方法を、私は一度離してしまった。
もう二度とないかもしれない。私は頭の中で考える。老人の態度から、ふと気が付いてしまった。

「お爺さん」
「なんじゃ」
「お爺さんは、「渡さない」と言わないんですね。
 もしもこの国を壊すような代物なら、そんなこと言わずに「知らない」でもよかったのではないですか?」
「ふぉふぉふぉ。頭の回る子じゃわい、父親によく似とる」
「えっ! 父を知ってるんですか?」
「ああ、よく知っとるよ。それにこれはあんたの父親から依頼されたもんじゃて」
「だから、渡さないわけにはいかない……と」
「その通りじゃ」

「……ずるいですよ。そんなこと聞いて、いらないだなんて言えないじゃないですか」

 老人はにっこりと笑いながら、釣り道具を片づけ始める。
笑いながら、なんだか苦い、悲しそうな瞳が、麦わら帽子の隙間から見えた。
老人は腰を上げて、陸地の方へと歩きはじめる。

「お前さんから欲しいと言われて断る理由がない。付いてきなさい」

 私は兎谷と目配せして、ゆっくりと歩く老人の後ろを追った。
三十分ほど歩いただろうか、陸地が存在しない、私が住んでいた海の集落にたどり着いた。
その中にあるひとつのボート、ここが老人の住処なのだろう。
老人は何やら忙しく準備をしている。箱の中から物を引っ張り出し、兎谷に手渡した。

「爺。何だこれは?」
「なんじゃお前ら、ヘルメットも知らんのか?」
「いや、知ってるけどさ……」

 兎谷は不安そうな表情をしている。
手渡されたのは黄色いヘルメット。ヘルメットの正面にはライトが付いていた。

「さて、自己紹介が遅れたな。わしは泉(いずみ) 紅葉(こうよう)爺で構わんがな。物は別の場所にしまってある。今から取りにいくぞい」

 泉と名乗る老人はリュックを背負い、意気揚々と家を出る。
私たちも渡されたヘルメットを片手に泉を追った。
いつのまにか太陽は水平線の向こうへ吸い込まれ、辺りは徐々に暗くなっていった――。

 藪の中から虫たちの鳴声が聞こえる。私たちは夜の山へと足を踏み入れていた。
ここから少し内陸にあたる場所は、Aランクに接した場所のはずだ。

「爺。まさかAランクに入るんじゃないだろうな。俺はまだ死にたくないぞ」

 兎谷が愚痴を吐く、それも当然だった。A区域に無断で侵入すれば、即処分されてしまうだろう。
A区域を示すフェンスが遠くで見え隠れする。
兎谷の話によると、何重ものセンサーと高電流のフェンスで防衛されているようだ。
私も思わず冷や汗が出てくる。

 そんな私たちに目もくれず、泉は目の前の山道を登って行った。

 ようやく着いたのはとある廃墟だ。
辺りに照明はなく、不気味な建物がコンクリートの壁に覆われている。
私は門の前にあった錆びた表札にライトを当てた。

「排水所?」

 見るからに使われていない施設、門には重い錠が掛けられていた。

「こっちじゃ」

 泉が壁を乗り越えて中へと入っていく。兎谷に引っ張られながら壁を乗り越え、施設の中へと入った。
扉を開けるが、勿論照明はなく、暗闇で何も見えない。
私と兎谷はヘルメットに付いているライトのスイッチを押した。

「うおっ! な、なんじゃこりゃ!?」

 私も兎谷と同様、驚きを隠せなかった。中に入ったとたん出迎えたのは、下が全く見えない長い縦穴。
それが地下深くまで続いている。ライトの光で照らしても、底が見えない程深い穴だ。

「ここは外郭放水路への入り口じゃよ。もう使われておらんがね。電気も通ってないからゆっくり歩くぞい」

 穴の周りには螺旋上に階段が設置してある。
私たちはヘルメットのライトだけを頼りに、ゆっくりと地下へ降りていった。

「爺、説明が足りねえよ。なんなんだよ此処は」

 兎谷からの質問に、泉は顎鬚を触りながら答えた。

「簡単に説明するとな。外郭放水路というのは人工的に作った地下の川じゃよ。
 大雨が降ったときに小さい川が氾濫するのを防ぐためじゃ。
 氾濫しそうな川の水をここに集め、氾濫の心配がない大きな川に流すのじゃ。
 ちなみにこの縦穴は五十メートル程かのう。さっさと歩くんじゃな」

 私たち三人は螺旋階段をゆっくりと降りる。五十メートルがこんなに長く感じたことがあるだろうか。
辺りは暗く、ライトがないと殆ど見えない。転ばないようにゆっくりと、足場を確かめるように進んだ。

 そしてようやく一番下に辿り着く。目の前には鉄の扉。泉が扉に鍵を挿して重い扉を開ける。
扉の先はまさに別世界だった。

「うわぁ……」
「なんだこりゃ、すげえ……」

 私と兎谷は思わず感嘆の声を上げた。そこは大きな柱が何本も立ちそびえる地下の巨大な空間。
驚きを隠せない私達を横目に、泉は上機嫌な様子だ。

「ここは調圧水槽じゃよ。ここに水を貯めておくんじゃ」

 目の前にある柱の大きさに圧倒される。泉の説明はほとんど耳に入らなかった。
長さは二十メートルほどだろうか、幅も二メートルはありそうな柱が部屋の奥まで何本も連なっている。
その大きさは、まるで巨人の世界にでも迷い込んだ気分だ。
先が霞んで見えない柱の森。私たちが入ってきた扉はすでに見えなくなっていた。

 そんな中、泉があるひとつの柱の前で立ち止まった。その柱にある小さな窪みの中に手を入れる。
中から取り出したのは小さな箱、それを見て泉は懐かしむように口を開いた。

「ここは裕福な国じゃった。最後に大きな戦争があったのは二百年ほど前じゃろうか。
 その間、この国は争いもなく平和な時期が続いた。十五年前のあの日までは……。
 これは恐らく争いを起こすひとつの原因となるじゃろう。
 だが、それがこの国を変えることが出来るのなら、仕方あるまい」

 泉が私に小さな箱を手渡してくる。指輪ケースの様な白く小さい箱、横に付いているボタンを押した。中から出てきたのは長方形の小さな板、メモリーチップだろうか。

「あんたの両親が作った物が入っておる。それさえあればこの国と戦争できるらしい。この国の防衛力を崩せる程、と聞いておる。それが両親の残した、あんたへの贈り物じゃ」
「これを、父さんと母さんが……」

 私は箱を見つめながら思い返していた。私の目的はこの国から逃げること。
そのためには大神の命令に従わなくてはならない。
大神がこのメモリーチップを使って玖国と戦おうとしても、逃げるためには従わなくてはならない。

 でも……これはここに隠しておいたほうがいいのでは――。

 ふと昨日歩いたBランクの街並みが頭に浮かんだ。
この国に住む人々の笑顔、それを戦争で壊すかもしれないこのチップは、本当に受け取るべきなのだろうか。

 コツン――と足音が響いた。

 私たち三人以外、誰もいないはずの空間。
その空間にコツ、コツと足音が響き、それは徐々に大きくなっていく。

 人が居る――?

 私が振り返る最中、泉と兎谷は懐から銃を抜き、近づいてくる足音の方へ銃口を向けた。
ヘルメットに付けられたライトが暗闇を照らすと、うっすらと人影が浮かび上がる。

「それを渡してもらおうか」

 光の中浮かび上がった影。紅いマントを羽織った大きな男が立ちふさがる。
四方には銃を持った兵隊達が、私たちに向かって一斉に銃口を向けた。

「勘がいいのう。それともつけておったか。上手くなったもんじゃ、久条よ」

 泉は銃口を向けながら、紅いマントを羽織った男に向かって呟いた。

「先生にお褒めいただけるとは、明日は雪でも降りますかな」

 紅いマントを羽織った久条という男は不気味に語り掛ける。
久条が口走った先生という言葉。二人は知り合いなのだろうか。
泉は銃を持っていない左手を背に合わせ、兎谷を呼びつけるように指を前後に動かした。
それに気が付いた兎谷は、ジリジリと泉へ近づいていく。

「この先にもうひとつの縦穴がある。 そこから逃げろ……」

 言葉と一緒に鍵を手渡した。
泉の目は今まで一緒に居た人物とは思えないほど、鋭い目つきをしている。
兎谷は鍵を受け取ると、首を小さく縦に振った。そのまま私の手を固く掴んでくる。

「行くぞ」
「え? でも」

 泉さんはどうなるの? 私たちだけ逃げる? そんなこと――。

「うわっ」

 私が言葉を発する間もなく、兎谷に抱きかかえられた。私を持ったまま、兎谷は勢いよく走りだす。

「行け」

 兎谷が走り出すのと同時に、久条の声が聞こえた。
それと同時にけたたましい足音が響き渡る。
私は兎谷に抱きかかえられたまま、徐々に小さくなっていく泉の背中を見つめることしか出来なかった――。


………………
…………
……


 ――部下全員が泉の横を通り過ぎていく。久条と泉だけがこの場所に取り残された。

「お前は行かなくてよいのか?」
「あの程度の部下に先生の相手は無理でしょう。部下を減らすのは勿体無いのでね。まずはチップを頂こうと思いまして」

 久条が優雅に西洋の騎士の様に深々と頭を下げる。
泉はその仕草が、その余裕綽綽(しゃくしゃく)とした態度が気に入らない。
顔を顰めながら重々しく口を開く。

「ふん。お前が欲しいのはチップなぞではない」

 その一言が久条の顔から余裕を吹き飛ばした。

「さすが先生です。隠居なされたとは聞きましたが……どこまでご存知で?」
「今度はあの娘を王にする気か?」

 久条は間髪入れずに言葉を返す。

「勿論です。あのときの先生のご配慮には、いくら感謝しても足りません」
「貴様があの狂った仕来りに従った罪だろう」
「代々そうしてきたもので。後継者以外を殺し、内部で争いが起きないようにするのは国のため。極々、当たり前のことです」

 久条の流暢な語りに泉は暫しの間、口を閉ざした。
二人の間にひと時の静寂が生まれる。動いたらすぐにでも壊れるであろう世界。
この広い地下に余計な音は無く、二人の小さな呼吸音だけが微かに聞こえるだけだった。

「それが狂っているとは思わんのか……」
「可笑しいですね先生。貴方は国より個人を選ぼうとしている。これは安定させるためですよ。あなたも同じことをなさったじゃありませんか」
「……」

 久条に言い負かされる形で、またしても泉は黙り込んだ。
いや、わざと黙り込んでいるのか。しかし、今度は久条が沈黙を破った。

「それより先生、どういたします? そのご老体で私と戦うのですか?」
「ふん。決まっとろうが」

 紅葉がゆっくり、そして静かに距離をとった。
先ほどの会話から推測すれば、久条は泉の教え子のようだ。
それが学問なのか、はたして武術なのかは分からない。だが、泉の選んだ事はただひとつ。
彼女達を逃がすための時間稼ぎだ。

 しかし、人は老いる。人間にとって老いとは最も恐怖するものだ。
長期戦は不利……それでも泉は彼らを逃がすため、長期戦を選んだ。
久条は動かない。泉を恐れているのか、それとも逃げた二人を追うにはもう遅いと判断したのか。
泉は銃を構えるが、それでも久条は動かない。

 一発の銃声が響き渡る、それが合図となった――。



……
…………
………………


 ――走る。
兎谷に抱えられていた私も腕の中から降り、一緒に全速力で地下を駆け抜けた。
追手はすぐ後ろに迫ってきているが、撃ってはこない。
このデータが壊れるのを恐れているのか、それとも別の理由があるのか。
何かは分からないが、武器が拳銃一丁しかない私達には好都合だ。

「見えた。走れ! もうすぐだ!」

 泉の言うとおり、もうひとつ出口がある。
兎谷は鍵を取り出し、鍵穴に挿し込む。
鍵を開けるのに少々手間取ってしまったが、なんとか中に入ることができた。

「いくぞ! 走れ走れ!」

 中から鍵を閉め、長い螺旋階段を駆け足で上り始める。
階下から乾いた銃声が聞こえた。同時に金属が倒れる音、追手がドアを壊したのだろう。
私たちはさらに上へ上へと階段を駆け上る。暗闇を照らすライトの光だけが頼り。
それを持っている兎谷が先行する。半分は上れただろうか。
距離感は既に失っている、だが追手は見えてこない。

逃げ切れるかもしれない――。

 そんな思いからか、少しだけ安堵の息が漏れてしまう。
私は疲れてきた足に活を入れ、薄暗い階段を二段飛ばしで駆け抜けた。

「痛っ!」

 突如目の前の兎谷が派手に転んだ。
私の安堵が伝染してしまったのか、転がった拍子に頭をぶつけ、ヘルメットが地面に転がった。

「痛ぇ! だっさいなあもう」

 兎谷も愚痴を垂れる余裕すらあった。すぐさま両手を付いて立ち上がる。
だが、歩こうとするとまた転ぶ。立ち上がって、また転ぶ。

「ちょっと、何してるのよ」
「いや、なんかうまく……」

 私は肩を貸すため、兎谷に近寄った。
すると、ぬるっとした階段に足を取られそうになり、思わず手すりに寄りかかる。

 カタンと、ヘルメットが足に当たり、ころころと地面を転がった。
鈍い光が、兎谷の足元を照らした。

「あ……ああああああああ!」

 兎谷が狂気じみた叫び声を上げる。私はライトが映し出す光景に、思わず目を瞑った。

「ない! くそったれ! 脚がない!」

 彼の足首から下が……無くなっている。
綺麗に切り取られた左足からは夥しい程の血が流れ、どす黒い表面からは白い骨が見え隠れしていた。
ライトの光が脚を切断した凶器を映し出す。

「これは、ピアノ線?」

 細く長い糸の様なモノの上に兎谷の血が浮いている。

 罠? こんなもの見えるわけがない。足元を確認するのがやっとなのに――。

「がああああああ……」
「だ、だ、大丈夫!? と、とにかく血を止めないと!」

 兎谷は玉の汗をかき、苦悶の表情を浮かべている。
私は急いでポケットのハンカチを取り出し、兎谷の足を縛った。
だけど、こんなもの気休めにしかならない。

 なにか、なにか血を止めれるようなものは――!

 私は泉が用意してくれたバッグの中に手を伸ばす。しかし使えそうなものは何もない。
コツ、コツと追手が階段を上る音が耳に届いた。

 まずいまずいまずい――。 

 冷静さを欠いているのはわかっている。
だが、それでも落ち着かなければ。私は必死に頭を回転させる。

 どうしよう、どうすれば? どうすれば彼を救える――?

 考える……考える。でも、時間が足りない。私はもう恐怖に狼狽することしか出来ない。

「あ~あ」

 兎谷が突然、気の抜けたような声を出した。
それはまるで雑談でもしているかのような、いつもと変わらない声色。
兎谷の突然の変化に、私は驚いて固まってしまった。
状況は何も変わっていない、けれど兎谷は跪(ひざま)いた体勢を立て直し、私の目を見た。

「出口はもうすぐなのに。最後の最後で、ドジかぁ~」

 兎谷の口から諦めの言葉が出始める、しかし緊張感がなかった。
兎谷は腰に付けていたナイフと、手に持っていた銃を私に手渡した。

「これでひとつひとつ解除しながら行くしかない。ゆっくりだ、ゆっくり行けばきっと大丈夫」
「で、でも。脚が……とにかく血を止めないと!」

 どうすれば、どうすれば彼と共に還れるのか――。

 不安と恐怖が同居し、混乱する頭の中で必死に考える。
しかし考えている間にも血だまりは量を増していく。
兎谷の顔からはどんどん血の気が引いていき、早くなんとかしないと死んでしまうかもしれない。

 嫌だ、私のせいで……死ぬ――?

 焦る思いは徐々に速度を増していく。私はもう、何がなんだかわからな、

「!?」

 不意にパンッと大きな音と頬の痛みが私を襲った。兎谷が私の頬を叩いたのだ。
私は兎谷の顔を見つめてしまう。玉の汗を掻きながら、苦痛に顔を歪める。
だが、兎谷の顔は一転して厳しいものへと変わった。

「自分のことだけを考えろよ。俺に構ってる暇はねえ。それを渡せばこの国を出れるかもしれないだろう? ここに居たら二人とも捕まっちまう」
「で、でも血が!」

 兎谷は自分の服を破り、ハンカチの上からきつく結んだ。
それは気休めにもならないが、兎谷の穏やかな表情が、私の心を引き戻してくれた。

「なっ。これで大丈夫だ」
「でも、捕まったら殺されるかも」
「大丈夫だって。いいか、罠に気をつけてゆっくり進めよ。できるな?」
「でも、でも……」

 出来るわけ、ないじゃない。見捨てるなんて、出来るわけないじゃない――!

 私の言葉は声にはならなかった。

「出来る……な?」

 兎谷は今まで見たこともないような、優しい笑顔を私に向けた。
なんでそんな顔ができるのか、私は不思議で堪らなかった。

「私はあなたを見捨てようとしてるのよ!? それなのに、なんで、そんな顔するのよぉ」

 不意に涙が頬を伝う。

 なんで……他人の為にここまで出来るの? おかしい、おかしいよ――。

 兎谷は私を慰めるような、そんな優しい声色で答えた。

「この国を出たいんだろ?」
「そ、そうだけど、こんなの」
「俺もな、出たかったんだ」
「えっ」
「こんな国捨ててな。違う国で暮らそうと約束してたんだ でも、それは叶わなかった」
「いまからでも……駄目なの?」
「もう遅いんだ。だから、愛ちゃんにはそれを叶えて欲しいのかもな」

 覚悟を決めたような兎谷の表情に、私は口を開くのさえ戸惑ってしまう。
追手の足音がどんどん大きくなっていく。兎谷は後ろを振り返った。だが、笑顔は崩さない。

「行け。俺のことは大丈夫だから」
「うん。うん……」

 兎谷から優しく頭を撫でられる。私はゆっくりと頷き、慎重に階段を上った。
ナイフを縦に振りつつ、一歩づつ足を進めた――。



………………
…………
……


――兎谷は一人取り残されてしまった。いや、それを自分から望んだのだろう。

「あー。死んだな、俺」

 胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けながら小さく呟いた。
兎谷は思っていた。女の足と男の足ではどうしても差が出る。
追手は捕まえようと思えばすぐ捕まえられたはずだ。
でもここまで逃げれたのは、すでに包囲が完了していたからだろう。

「きっと、上も駄目かもな。袋の鼠ってわけだ。嫌だね、趣味が悪いよ」

 でもここに二人で留まるよりかは、還れる可能性は上がるだろう。
そう信じるしかなかった。煙を吹き出す。肺から出る紫煙が心地よい。
兎谷はもう一度バッグの中身を漁った。

「武器はなし、か。これじゃ映画の脇役だぜ。……まぁ悪くないかな」

 奴等の足音が聞こえる。煙草を階下へ投げ捨てた。

「終わりだな」

 彼の脳裏にその言葉がはっきりと焼きついた。

 最後の仕事になってしまったな、仕方が無い――。

 今の彼の目的は、彼女が上へ逃げるまでの時間を稼ぐことだ。
武器も無く、弾薬も無く、脚も無く。それでも彼は戦うだろう。
闇の中から聞こえる足音に只々息を潜めていた。



「……B級映画のラストシーンってとこかな」

 カランと小さな音と共に、目に飛び込んだのは閃光弾。
兎谷は条件反射で目を閉じる。同時に上からは銃器の音が鳴り響いた。

「ホント格好付かないね、君は」

 鈴だ、何故此処に? でもそんなことはどうでもよかった、助けがきたのだ。
彼は痛みを堪え、なんとか立ち上がろうとする。しかし、片足だけでは歩くことすら間々ならない。
小さな鈴に肩を借り、ようやく階段を上り始める。

「重い~。もっと力はいんないの?」
「無茶言うなよ。片足ないんだぜ」
「そうだ、忘れてた」

 鈴が階段で何かを探している。階下からは拳銃の音が何発か聞こえる。
相手の応戦が始まったのだ、しかし地の利は明らか。
銃撃戦においては、上を獲ったほうが圧倒的有利だ。上から銃器の音がけたたましく鳴り響く。
この弾幕では顔も上げられないだろう。用事を済ませた鈴が兎谷の元に戻ってくる。

「よしいくよ! 早く上って! こんなところで死なれちゃ困るの!」
「死んだら二階級特進ってか?」
「バカね。うちは軍隊じゃないのよ」

 兎谷は鈴に肩を借り、ゆっくりと上を目指す。
身長差がありすぎる二人にとっては、肩と言うより背中を借りると言うべきだろうか。
銃器を撃っているのは恐らく鉄だろう。ともかく急がなくてはならない。
兎谷のライトが階段を照らし出す。

 鈴が後ろを振り返るが追手は来ない。拳銃の音も徐々に減っていった。
ライトが扉を明るく映し出す。階段を上ってきた二人に鉄が気づき、撃つのをやめて扉を開ける。

「で、出口か?」

 兎谷は生きて脱出する事が出来た。あの絶望的な状況下から、足を失いながらも生還出来たのだ。
夜空に佇む星達が、まだ数時間しか経っていない事を告げる。
だが、兎谷はまるで何ヶ月も地下に居たような感覚に襲われていた。
それほど地上の空気は美味だったのだ。

 ああ、空気がうまい。こんなに旨いと感じたのはいつ以来だろうか――。

「鉄ちゃん、引き上げよう」

 鉄は鈴の声に頷き、扉を閉める。扉のすぐ傍には一台の車。その中から愛が飛び出してきた。

「よかった……」
「大丈夫だって言ったろ?」

 兎谷はニコリと笑って見せた。愛の顔は溢れた涙でボロボロになっている。
そんな感動の再開に水を指す様に鈴が二人の間に割り込んだ。

「ほらほら、感動の再会はあとあと」

 二人はすぐさま現実に戻される、確かに時間は無い。
銃声が止んだのなら追手は大急ぎで向かってくるだろう。
だが、久条達が張った罠のお蔭か、追いつかれる事は無かった。
まさに自業自得、追手は自分で自分の首を絞める形になってしまう。
愛達四人は負傷している兎谷を抱え、車へ乗り込んだ。
鉄が急いでアクセルを吹かし、戦場から脱出する。車中では皆、安堵の息を漏らした。

 愛は緊張が緩んだのか、そっと目を閉じてしまう。長い一日に疲れたのだろう。
今は眠らせてあげたい。兎谷の脚は重症だが、痛み止めの薬と応急処置を施した。

「どこの病院だ?」

 鉄が運転しながら呟く。

「あ~一般のとこじゃまずいよね。ならおじさんの所じゃない?」
「了解」

 その言葉に兎谷が嫌そうに目を曇らせた。

「行きたくねぇなぁ」
「贅沢言わないの」

 鈴に叱られ、兎谷は嫌々ながらも言う事を聞く。
鉄が車をB地区の病院へと急がせる。鈴が愛と同様に今にも瞼を閉じそうな兎谷に気が付いた。

「お疲れ様、兎。寝ててもいいよ」
「あ、ああ」

 その言葉を最後に、兎谷の意識は微睡みの中へ吸い込まれていった――。





[40230] 四.正義
Name: 大航◆ae0ba03e ID:11bba59f
Date: 2014/08/23 06:05
 朝日が窓から射し込んでくる。時計を見ると六時を指していた。
私は何度も寝返りを打ちながらベッドで眠気を待っている。
でも全然眠れない。目を閉じると昨日の事を思い出してしまう。

 眠りたいのに……眠れない――。

 私はなんとなく水を飲みに部屋を出た。

「すごいよこれ」

 リビングから鈴の声が聞こえる。
持ち帰ったデータとまだ奮闘していたのか、私はゆっくりとリビングの扉を開けた。

「これさえあればAクラスどころか、国の機能すら止めれるかもしれないよ」

 鈴がパソコンの前で驚きの声をあげていた。鈴の横では大神が真剣に鈴の話に頷いていた。

「愛ちゃんおはよ~よく眠れた?」

 鈴が私に気づいて声をかけてくれる。私は目を擦りながら二人に近づいた。

「愛ちゃんのお父さんは、国の偉い人だったの?」
「え」

 鈴からの思わぬ質問に、私は驚いてしまった。
そういえば父がどんな仕事をしていたかなんて訊いたことがなかった。
覚えているのは三人での幸せな暮らしだけ。

「とにかく、これで中に潜入できるってことだな」

 大神が不敵に微笑みながら、私と鈴の間に入った。鈴はすぐさまパソコンの画面を切り替える。

 大神と鈴が私に気を利かせてくれたのを感じてしまった。
なんだかありがたいような、申し訳ないような気持になってしまう。
私は寝ぼけた顔をパンッと両手で叩き、目を覚ました。

 父さんと母さんが残してくれたもの、これさえあれば――。

 私は大神と鈴の話に割って入る。

「官邸の見取り図を出してくれ」
「ほいほい」

 鈴が慣れた手つきでキーボードをたたく。
すると、パソコンの画面には立体的な建物が浮かびあがってきた。

「防衛機能を停止できる時間は?」
「ん~停止だけなら十分ぐらいじゃないかな。すぐ上からセキュリティを被せられると思う」
「充分だ」

 大神は椅子に座って胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

「ん? おい、兎はどこにいった?」

 兎谷が居ないことに今頃気がついたようだ。
それほど熱中していたのか、それとも存在感がないのか。

「兎は足が切れちゃったから病院だよ。切断面が綺麗だったからすぐ繋がるっておじさんが言ってた」
「ふむ……」

 大神は兎谷のことを心配しているのかいないのか、神妙な顔つきで何か考えている。

「音疾」
「え、私?」

 いきなり大神からの呼びかけに、思わず背筋を伸ばしてしまった。

「お前以外に誰がいる。今日は一日自由だ、暇だろうから兎の見舞いにでも行ってこい。すぐ帰ってこいと伝えとけ。明日の十四時からA区域に行くぞ」
「は、はい。分かりました」

 足が切れても休みはないのか。
動けるのか心配する半面、兎谷が不憫に思えてきた。
それにしてもブラックな仕事だ。

「わぁ~あ、どうせナンパでもしてるよ~おやすみ~」

 鈴が大きな欠伸をしながら部屋へと入っていった。
鈴の欠伸につられて、私も欠伸が出てしまう。
ようやく眠気が来てくれたらしい、やっぱり疲れているんだ。
私も鈴の後に続いて部屋に戻ることにした。
リビングでは大神が独りでパソコンとにらみ合っていた――。


 蒸し暑い夏の日差しで目が覚めた。時計を見ると午後一時を少し回ったところだ。
私はベッドから飛び起きて身支度を急いだ。

 少し寝過ぎちゃったな――。

 私は入院した兎谷のもとへ行くために家を出る。
外に出ると眩しい偽物の太陽が、私を出迎えてくれた。
昨日も海沿いの田舎町でたくさん太陽を浴びたばかり。
曇りの日ぐらいあってもいいと思うのだが、残念だがこの街では晴れしかないらしい。

「今日も暑いわね」
 夏なんだから当たり前……か――。

 私は鈴から貰ったメモを頼りに駅を探して歩いた。
兎谷と話た公園を越え、商店街の少し先に大きな駅はあった。
私は駅の構内に置いてある路線図を見上げる。車が使えないB区域では、電車が主な交通機関だ。
そのせいか街中を線路が蜘蛛の巣状に張り巡らされていた。

 病院のある駅名を探す、どうやら二回も乗り換えが必要らしい。
私は戸惑いながらも、なんとか病院にたどり着くことが出来た。

「迷わなければ便利よね」

 私は電車を降りて、メモに書いてある病院へと向かった。十分ほど歩くと病院が見えてきた。
こじんまりとした小さな病院に見えたが、
高さがないだけで幅は何十メートルもあり、周りはたくさんの花が植えられている。
兎谷はどうやらまともな病院に入れられているらしい、少し安心した。

 私は受付に兎谷の病室を訊き、院内へと入った。昼間の病院は看護師たちが忙しそうにしている。
私は邪魔にならないよう、廊下の隅を歩いた。

 兎谷の病室にたどりつく。私は空いている扉から中を覗き込んだ。
兎谷は暇そうに横になりながら、火の点いていない煙草を咥えていた。

「さすがに禁煙ってわかってるようね」

 冗談交じりのご挨拶。私の見舞いが意外だったのか、兎谷は嬉しそうに笑った。

「愛ちゃんが来るなんて驚いた、俺のこと心配になったの?」
「……まーね」

 へらへらした態度はいつものことだが、私にとって兎谷は命の恩人だ。
いつもの態度に怒る気もなくなってしまった。
私は手土産を置いて、病室の脇に置いてある車椅子を手に取った。

「煙草、吸いたいんでしょ? ほら、外にいくわよ」

 私は兎谷の体を抱えようとするが、

「だ、大丈夫だって! 自力で歩けるから」

 兎谷は顔を真っ赤にして断ってきた。
同じ病室の人たちがクスクスと笑っているような気もするが、私には関係ない。

「何言ってるのよ。ほら、肩かして」

 私は半ば強引に兎谷を車椅子に乗せ、病室を出た。
看護師に喫煙所の場所を訊くと、どうやら中庭にあるようだ。

 車椅子を押しながら中庭に出る。病室に居るよりも、外に出たほうが気持ちいい。
中庭にある喫煙所に着くと、兎谷は嬉しそうに煙草に火を点けた。

「ほんとヘビースモーカーよね。美味しいの?」
「もう癖みたいなもんだな」

 そういって兎谷は紫煙を吐き出した。
私は兎谷の少し後ろに立ち、大きく背伸びをしている彼を見つめていた。
そんな私の視線に気が付いたのか、

「愛ちゃん、どうしたの?」

 私は昨日の、あのシーンを鮮明に思い出しながら、兎谷に問いかけた。

「あ、足は大丈夫なの?」

 兎谷の切れた足。骨まで見えてしまっていたあの生々しさは、一日で消せるはずもなかった。

「あ~大丈夫大丈夫。すぐ治るらしいよ、もうだいぶくっついてるしね。鈴が足を拾ってくれたおかげだ」

 兎谷は同時に傷口を見せてきた。
足首一面に縫われた痕があるが、大丈夫そうな兎谷の笑顔を見てほっとしてしまう。

「って、鈴ちゃんが足を拾ってきたの?」
「そうだよ。いや~末恐ろしいガキだな、はっはっは」

 兎谷は笑顔のまま笑い始めた。それに釣られて私も口元が緩んでしまう。
でも、心から笑えることはなかった。だって、その痕は私のせいで出来てしまったのだから。
そのことを思い出すと、謝らずにはいられなかった。

「あの……ごめんね」
「なんで謝るんだ、謝るようなことでもあったか?」

 兎谷は紫煙を吐きながら目を閉じた。いつもの兎谷なら、お茶を濁されそうな会話。
でも、今日は笑いもせず、冗談なんてなく、真剣に私と向き合ってくれている様な気がする。

「愛を守るために俺はついて行ったんだ。愛は生きてるし、俺も生きている。目的の物もある、最高の結果じゃないか」
「で、でも私は」
「足の事なら気にするなよ。おかげで可愛い子ちゃんが見舞いに来てくれたんだからな」

 そういって兎谷は、いつもの笑顔に戻っていった。
私はなんだか頬のあたりが熱くなっていくのを感じる。

「きゃっ」
「あだっ」

 スコンっといい音が中庭に響いた。兎谷からお尻を触れた瞬間、勢いよく手が出てしまっていた。

「あんたねぇ……全く、心配して損した」
「おーい、俺はけが人だぜ? もっと優しくしてくれよ~」

 兎谷の冗談に思わず笑顔が出た。私の笑顔に、今度は兎谷が釣られて笑い始める。
つい最近会ったばかりなのに、何気ない会話にすごく安心してしまう。
人との会話が、こんなにも楽しいとは思わなかった。

「兎」
「ん? 今度はなんだ」
「また、珈琲飲みに行こうよ」

 喫茶店で過ごしたあの時間。今なら、今の私たちのような楽しい時間が過ごせるような気がした。
私の言葉に兎谷が目を丸くして驚いている。でも、すぐに真剣な顔になった。

「ああ、行こう。すべて終わってからな」

 真剣な兎谷の顔。先ほどと少しだけ違ったのは、口元が少しだけ笑っているところだった。

 私たちはそれから他愛のない会話に夢中になった。
先日までの緊張感は、嘘のようになくなっていた。
会話に花が咲いた私たちは、面会終了時刻まで話し合っていた。
病院内を小さなチャイムが鳴り響いた。
面会時間の終了を告げるチャイムだ、私は兎谷を病室まで送り届ける。

 そしてベッドの脇に置いておいた手土産を渡した。

「大神さんから」
「え?」

 兎谷は中身を確認すると、頷きながらベッドに入っていった。

「じゃあ、私は帰るね」
「うん。今日はありがとうな、気を付けて帰れよ」

 私は軽く手を振って病院を出た。外はもう夕方だ、ゆっくりと夜の帳が下りていく。
大神からは明日A区域に行くと伝えられている。
明日が上手くいけば、この国から出られるんだ。

 でも、昨日のような気持にはなれなかった――。


――八月十七日 十四時――

「行くぞ」

 大神の一言が合図となり、私たちは家を出た。
気合いを入れて家を出たのに、電車に乗るとなんだかシュールだ。
一緒に歩く兎谷はまだ足が完全に繋がってはいないようで、左足を引きずりながら歩いている。
私が心配そうに兎谷の足を見ていると、

「大丈夫大丈夫。痛み止めも飲んだから平気だよ」
「何も言ってないわよ」
「え、そう? なんだか不安そうに見えたからさ」

 それはその通りだが、こんな怪我人を無理やり連れてくる必要もないだろうに……。
私は返す瞳で大神を見た。

「こいつは自分から今回の役割を買って出たんだ、仕方ないだろう」
「でも、ここで無理して傷口が開いたりしたら」

 大神は私の返答には目もくれず、代わりに兎谷に声をかけた。

「兎、行けるのか?」
「大丈夫っす」

 それをひとつ返事で返した。
大神から出た最大限の譲歩だろうに、私はそれを聞いて拗ねるように窓の景色を見た。
変わり映えしない茶色の空の下には、これまた変わり映えしない街並みが見えた。

 検問所につくと、兎谷はすぐさま車を借りてくる。
大神が例のカードを見せると、大きな音を立てて柵が開いた。
一昨日C区域に行った道とは別の道だ。
車は地上に出ることはなく、地下を通って徐々にスピードを上げていく。
対向車は皆無だ、この道を通ることが出来る車は限られているのだろう。
上とは違った特別な道、これがA区域への道のりだ。

 手元の時計はすでに十七時を指そうとしている。
電車で話してから二時間ぐらい黙りっぱなしだ。少し息苦しいのもある、
私はなんとなくだが大神に話を振ってみることにした。

「大神さん、いまからどこに行くの?」
「依頼主へ会いに行く」
「依頼主って?」
「王だ。いや、恐らくだが……」

 大神は少しの間沈黙したが、私は気にせず話を続けた。

「会って、どうするの?」
「お前を引き渡す?」
「え? ちょ、ちょっと話が違うじゃない!」
「話だと? 何の話だ」
「私を亡命させてくれるって約束はどこにいったのよ、忘れたの!?」
「忘れていない、これが終われば晴れて亡命できる」
「……亡命って、天国とかじゃないわよね?」
「くっく、そんな悪趣味な言い回しはしない。壱でも弐でも好きな国に行くといい」
「そ、そう……よかった」

 私はほっと胸をなでおろす。しかし、また別の不安が生まれていた。

「会って、私はどうすればいいのよ?」
「どう? とは」
「だって敵の親玉のところに行くんでしょ? 殺されたらどうするのよ」
「問題ない、お前は絶対(、、、)に殺されることはない」
「絶対って……」

「今のお前はイレギュラーなんだ、居ても居なくても問題はない。怖かったらトイレでガタガタ震えていてもいいし、屋上から飛び降りてもいい。ああ、でも飛び降りたら天国に逝っちまうかもな」

 今のって言葉に私は心底ムカついた。昨日までは私が必要で、今日は必要ないってことなのか。
息苦しいからって損をした、私は頬を膨らませながら黙り込んだ。

 しばらくするとA区域の検問所が見えてきた。兎谷は例のカードを警備員に見せると柵が開いた。
検問所を無事に通過し、A区域へと入った。

 目の前には全面鏡で覆われた高いビル。まるで雲まで届きそうな高いビルで埋め尽くされていた。
私が最初に来た港付近とはまた違い、都会の雰囲気で満ちていた。

「着いたぞ」

 車は路地の奥に入る。意外なところにある検問所を通ると、鏡で覆われたビルの前で止まった。
ここが大神の言う、王の住処なのだろうか。
王様というぐらいだから、厳格な城の様な建物を想像してしまっていた。
立派なビルには違いないが、王という肩書きの前では、寧ろ質素な印象を受けてしまった。

 私は車の中から辺りを見渡した。周りは様々な警備システムが施されているようだ。
いたるところに監視カメラが設置されており、奥には銃器を持ったロボットさえも見える。

 重要人物が居るって感じね――。

 それに人どおりがまったくと言っていいほど無い。
此処を歩いているだけで撃たれそうな気さえする。

 車道は一車線しかなく、全て一方通行だ。
さっき通った検問所を抜けると、別の世界に入ったような感覚すら覚える。

 大神がビルの前にいる警備員と何やら話をしているのが見えた。
そして車へ戻ってくると、私が座っている後部座席のドアを開けた。

「行け、ここからはお前独りだ」

 私は初めて指示をもらった。なんて心細い言葉だろうか、私は唇を強く噛んで立ち上がる。

「行けばいいんでしょ」

 私は力任せにドアを閉めた。心臓の音が速くなっていくのを感じる。
視界の端に映る警備員が自動小銃をカチリと鳴らした。私は意を決して歩きはじめる。
ビルに備え付けてある短い階段を上り、鏡の扉の前に立つと、ゆっくりと扉が開いた。

「うわぁ……」

 私は思わず感嘆の声をあげてしまった。
ビルの中に入ると高い天井と、美しいホールが私を出迎えてくれる。
天井には西洋風と思われる絵画が描かれており、
その下にはシャンデリアでライトアップされた赤い絨毯が奥の階段まで敷かれている。
とてもじゃないが、玖国に居るとは思えない造りだ。

「綺麗……」

 私が部屋の装飾に見とれていると、ゆっくりと扉が閉まった。
自動扉なら私が立っている位置でまた開くはず。でも扉は一向に開こうとはしなかった。

 出られない、ってわけね――。

 私はゆっくりと足を前に向けた。

「ようこそいらっしゃいました」

 私が少し目を離した隙に、いつの間にかホールの中央に一人の若い男性が立っていた。
赤いメガネをかけた二十代くらいの若い男性。
いや、男物の黒いスーツを着ているだけの女性かもしれない、そんな中世的な顔つきをしている。

「どうぞこちらへ」

 黒服に案内され、私は階段の脇にある小さな部屋へと連れて行かれた。
中には小さめのシャンデリアと大きな鏡がある。それと、

「メイドさん?」

 シックなドレスを着た女性が立っていた。女性が私に向かって一礼する。
私はよくわからないままそのまま突っ立ていると、女性が私の後ろに回ってぐいぐいと背中を押してきた。

「ちょ、ちょっと」
「どうぞ、そのまま進んでください」

 言われたまま、押されるままに前に進むと、シャワールームに通された。

「どうぞ」
「いや、なにが……」
「どうぞ」

 目の前の女性は全く表情を崩さない。
私は流されるようにお風呂へ入らされ、何やらエステサロンにでも来たような待遇を受けた。

 行ったことなんてないけどね――。

 シャワーから上がると、髪を丁寧に梳(と)かれ、何やら豪華な服を着せられる。
これも西洋のドレスだろう、まるで王侯貴族にでもなったようだ。
ドレスを着るなんて生まれて初めてだし、ちょっとしたお姫様気分に浸ってしまう。

「お疲れ様でした」
「う、うわ……」

 部屋に備え付けられている大きな鏡に映ったのは、見たこともないような私の姿だった。
いつも縛っていた髪は下ろされ、腰のあたりまで伸びている。
そして肩がはだけた真っ白いドレスに、赤いリボンがちょこんと添えられていた。

 私は思わず鏡に向かって手を差し出した。当たり前のことだが、鏡に映っている女性も同じように鏡向かって手を差し出した。

 信じられないけれど、本当に私なんだ――。

 驚きと恥ずかしさが同時に襲ってくる。でも、ほんの少しだけ嬉しくもある。
今度は裾を両手で少しだけ持ち上げてみた。
ぎこちなさだけが目立つが、まるで童話のシンデレラみたいで、私は魔法に包まれているよう……。

「愛様」
「ひゃ、ひゃい」
「申し訳ありませんが、久条様がお待ちです」
「え……」

 メイド服を着た女性はそれだけを言って扉に近づいた。
私も転ばないように裾を持ち上げて女性の後を追った。

「お綺麗ですよ」

 扉を開けた瞬間、黒服からお世辞が入る。
私は思わず顔を引きつらせてしまった。
メイドの女性はそこで一礼し、私を黒服に預けるようにして部屋へと戻っていった。

「こちらです」

 黒服に案内され、赤絨毯の階段を上る。
上った先にはエレベーターホールがあり、頭上の表示板にはⅠからⅨまでの数字が記されている。
私は黒服と一緒にエレベーターに乗り込んだ。

 エレベータの中ではお互いに何も話さない。
私はさっきのメイド服の女性が言った、久条という名前を思い出していた。

 久条……たしか泉さんが言っていた、あの男の名前だ――。

 チンとエレベーターが止まる音が聞こえた。表示板はⅦを指している。
私はエレベーターの前に敷いてある赤い絨毯に足をつけた。

「失礼いたします」

 私を降ろすと、黒服は階下に戻って行ってしまった。
私は独り取り残されてしまう。七階は一階と同じように赤い絨毯が敷いてあるが、ただそれだけだ。
一階とは違い綺麗な装飾はないが、横一面ガラス張りの廊下からはA区域の街並みを一望できる。
しかし、そんな景色を楽しむ余裕なんて、今の私にはない。

 部屋なんてひとつもない、廊下だけね――。

 私は導かれるように赤い絨毯を歩いた。そして大きな扉の前で立ち止まった。
私の背丈の倍はあるだろうか、三メートル近い扉にはこれまた派手な装飾が施されていた。
悪趣味なドアノブに手を掛け、扉を押した。大きな扉にしては、音も立てずにすんなりと開いた。

「ほう、馬子にも衣装とはまさにこのことだな」

 大きな部屋の奥から声が聞こえる。コツ、コツと高い足音が響き渡る。
私はゆっくりと扉を閉め、部屋の奥へと足を進めた。

 久条……やっぱり、あの地下水路で私たちを襲った男だ――。

 久条と私は、部屋の中央で向き合う形でにらみ合う。
地下水路の時は暗くてよく見えなかったが、白髪で眉間に皺が寄ったその顔は五十歳ぐらいに見える。
身長は鉄ぐらいか、二メートル近い大柄な初老の男。
軍服のような服装に紅いマントを羽織り、胸には沢山の称号、腰には西洋のサーベルのような剣を携えている。

 相対していると久条の威圧感に押されて尻もちでもつきなくなってしまう。
私は声が裏返りそうになるのを必死に堪えて、気丈に言葉を返した。

「いきなりこんなもの着させて、随分な物言いね」

 私の精一杯の返答に、久条は小さく笑い始めた。

「くっくっく、確かに失礼だったかな。いかに『我が娘』とはいえ」

 突拍子もない発言に思わず目を見開いてしまう。
しかし、私の記憶にこんな男の姿はない。私の父親はただひとりだけなんだ。

「あんたなんかに育てられた覚えはない!」
「ふん、私も育てた覚えはないがね」

 私は思わず声を荒らげてしまう。私を挑発しているつもりなのだろうか。
落ち着き払っている久条を必死で睨み付ける。
すると久条は笑っていた口元を引き締め、見下すような目で私を見た。

「どうだったかね、あの男はお前を愛してくれたかね」
「お前に父さんの何が分かる」
「ふん、お前は何も知らないようだ。いい機会だ、全てを教えてあげようじゃないか」

 久条は席を立ち、私に向かってゆっくりと歩き始めた。

「お前の母親は私の妾の一人としてやってきた。正妻と子宝に恵まれなくてな。だが、程なくして正妻との間に子供が出来た。しかし私は彼女を気に入ってね」

 嘘だ、何を言っているのか意味が分からない――。

「そ、そんな話をするために私を拉致させた訳? 何のために呼び出した!」

 すべてはこいつのせいなんだ。私が亡命に失敗したのも、
大神に依頼をだしたこいつのせいなんだ――。

「その強気なところが母親によく似ている。しかし、そんなに怒っていては肌に悪いぞ」

 こんなときに久条は冗談まで言い始めた。私は敵意を持って久条を睨み付ける。
久条が前に出るたびに一歩下がってしまうのが情けないが、私にはこれぐらいしか出来ることがなかった。

 そんな私に呆れたのか、久条は溜息をつきながら横に置いてある椅子へと腰かけた。

「私が王の地位から身を引くとき、次の王を選んだ。勿論、正妻との間に出来た子供だ。しかし、王を決めるときに古い仕来りがあってな。聞いたことぐらいはあるかね?」

 どうやらこちらが本来の話のようだ。私は何も言わずに首を横に振る。

「邪魔な兄弟共を『殺す』のだよ。王族の血が流れているというだけでな。残酷だとは思わんかね」

 殺す? 王族の血が流れているだけで――?

 私は心の中で久条の言葉を反芻する。とたんに冷や汗がどっと噴き出してきた。

「わ、私が本当にあなたの子供ならば、既に死んでいるはずだけど?」

 声が震える。違う、唇が震えているんだ。嫌な予感がする、とても嫌な予感が――。

「お前達はな……逃げたのだ。母親はお前を守るために、国命に逆らう重罪人になってまで」

 血がどんどん冷たくなっていく。
足はがくがくと、震えが止まらない。立っていることさえも、

「理解したようだな。そう、お前の母親はお前を守って死んだのだ。美しいとは思わんかね? これが家族愛とでもいうのか。だが、あの男は哀れなことにな。自分の子ではなく、他人の子のために死んだのだ」

 その言葉に、私はずるずると床に座り込んでしまった。

「嘘……。全部、私のせい?」

 コツ、コツと足音が聞こえる。でも私は頭を上げることすら出来ない。
目の前には堅そうな革靴が映る。私はそのまま両脇を持ち上げられ、久条に抱きかかえられてしまった。

「お前が生きてくれていてよかったよ。王の代わりが出来るのは、お前しか残っていない。若くしてこの世を去った王の変わりに、お前が次の王になるのだ」

 久条は私は抱えながら、扉を開けた。

「さぁ授与式に行こうじゃないか。これからはお前が国を司るのだ」
「国を……?」
「そうだ、これからはお前が王なのだからな。玖国の王は久条の血を引いておらねばならん。何世代も玖国を繁栄させた我が久条家の人間が、玖国をより良い未来へ導く者なのだ」

 久条は意気揚々と赤い絨毯を歩いていく。
久条に抱きかかえられながら、私は朦朧とした意識の中で呟いた。

「そんなことの為に、父さんと母さんを殺したの?」
「そんなこととはなんだ。国に王が居ないんだぞ、玖国の民にこの世界を生きる道筋を示さなければ、この国は滅びてしまう」

 国が滅びる? 国が、玖国がこいつのせいで……。


 父さんを母さんを犠牲にしないと、生きていけない国なんて――滅びてしまえばいいんだ!


 私は体に火がついたように、久条の体を蹴って拘束から逃れた。
そんな私の姿が気に入らなかったのか、先ほどまでの笑顔は消え、久条は私を睨み付ける。

「私は……お前の、国の、操り人形なんかじゃない!」

 憎しみが私の震える足を止めてくれた。二本の足に力を込め、私は大声で解き放った。

「こんな腐った国を作ったのは、あなたでしょう!」
「腐ったとは心外だな」

 余裕たっぷりに呟くその姿に、私の怒りは更に激しさを増した。

「なにがD政策よ。人の命を淘汰する国に、未来なんてない!」
「ふん。お前は若いから知らないだけだ。海に浸食されたこの国に国民全員が暮らす場所などない」

 久条の返答に一歩踏み出し、私はなお吼えた。

「生きるために国民を差別し、殺すなんて……。人の命は皆平等のはず」

 私の言葉に久条は呆れたかのように笑い始めた。しかし、目は笑っていない。
眉間には皺が寄り、まるでいたいけな娘を叱るような優しい目を私に向けた。

「まさに夢見がちな小娘といったところだ。人は今まで戦争を終わらせたことなどない。常にどこかで、生きるために、人は人を殺しているのだ」
「だからと言って、人を殺していい理由なんてない!」

 久条は先ほどよりも大きな溜息を吐いた。

「お前は見たことがないから言えるのだ。小さい子供が、家族の亡骸の横で叫ぶのだぞ。パンをくれ、パンをくれ、とな。この国もつい最近まではパンひとつで殺人すら起きたのだ。人の命などパン以下。だがなそれでも人は……生きていたいのだよ」

 久条の悲しそうな目に、私は反論できなかった。

 大地が人で覆い尽くされ、食料は満足に行き渡らず、餓死者まで出始める時代。
そんな時代に王だった久条にとって、D政策は苦肉の策だったに違いない。
私の頭の中に、地下で出会った人たちの笑顔が映し出される。
あの人たちの笑顔は、餓死の恐怖から解放された笑顔だったんだ。

でも、それでも……。
父さんと母さんの命が、パンよりも軽い命だなんて……信じたくない――。

「同じよ……」
「同じ、だと?」
「Dのせいで、殺された親を泣き叫ぶ子供は、この時代でも消えていない!」
「阿呆が。数は減っておる」
「数の問題じゃない!」

 私の瞳にはいつの間にか涙が溜まっていた。
濁っていく視界をドレスで素早く拭きあげる。久条は少しの沈黙のあと、口を開いた。

「国はな、個を救えんのだ。国家を守るために、個を切り捨てる場合もある」
「そんな国に……何の価値があるっていうの?」

 私の言葉に呆れたのか、それとも無駄だと思ったのか。目を尖らせながら私に近づいてきた。

「ちっ、貴様には今から死ぬほど勉強させてやる」
「勉強? 洗脳の間違いでしょ?」

 久条の手をかいくぐり、私は赤い絨毯を必死で駆け抜けた。
もうこんなところには居たくない、エレベーターへと向かって全速力で駆け抜ける。

「愚か者が、ここからは逃げられんよ」

 久条の声が遠く微かに聞こえた。私はエレベーターのボタンを押すが、

「うそ、反応しない」

 壊れているのか、それとも止められたのか。私は脇にある階段を目指して走る。
下に行くか、上に行くか……もちろん下だ。私は階段を下り始める。
しかし、ドタドタと大勢の足音に足が竦(すく)んでしまった。

「どこだ?」
「こっちじゃない、探せ! 探すんだ!」

 久条が連絡したのか、大勢の黒服たちが階下を走り回っていた。

 下には行けない、上に行くしかない――。

 私は大神の言った言葉を思い出した。トイレで震えていることすらも出来ない。

 私は絶対に諦めたりしないんだから――!


 天国とまで言われた屋上への階段を一歩づつ踏み出した。



 私は最後の階段を上り、屋上へと続くであろう鉄製のドアノブをひねった。
ギィと蝶番がきしみながら扉が開く。外に出ると夏の帳が心地よい風と共に私を出迎えてくれた。

 大きな太陽がA区域の街並みを柑子色(こうじいろ)に染め上げていく。
B区域の作り物とは違った色合いが、とても美しく見えた。

 私は屋上の中央へと足を踏み出す。
コンクリートの床には大きくHと書かれたヘリポートがあるだけだ。
私は辺りを見渡も、屋上へ逃げられたのはいいが他には何もない。
端のほうにも柵はなく、少し高い段差に囲まれているだけだ。
私は屋上の端へ行き、恐る恐る下を覗いてい見るが、

「そこから飛び降りでもするかね。やめた方がいい、この高さから飛べば生きてはおれん」

 突如、久条の声が後ろから響いた
。私はぐっと奥歯を噛みしめ、情けない顔していたであろう、頬を引き締めた。

 諦めるわけにはいかない――。

 死ぬためにこんな場所にきたんじゃない。しかし、対抗できる策なんてなかった。
抵抗できる事なんて、私がここから飛び降りるぐらいだろう。
久条が一歩づつゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。

 誰か――!

 私が目を閉じかけた瞬間、久条がいきなり飛びのいた。
屋上の入口のほうへ、まるで獣のように飛びのき、あらぬ方向を見つめている――。



 ――パンッと小さな音がした。
鉄から放たれた銃弾は空気を切り裂き、遥か遠くに見える人影へとまっすぐに飛んで行った。

 ここは愛が居るビルから遠く離れた別のビル。
屋上には鈴と鉄の姿があった。
鈴は大きな双眼鏡を持ち、鉄は寝そべった体制で鈴の背丈ほどもある大きなライフルを構えていた。

「あ、あいつ避けたんじゃない? ちゃんと狙った?」
「運のいいやつだ」

 狙撃だ。鈴は双眼鏡で目標の動向を逐一報告し、鉄はそれに合わせて狙いをつけ、引き金を絞る。
先ほど久条が飛びのいたのはこの銃弾によるものだったのだろう。

「ん? なんかあいつこっち見てない?」
「五百メートル以上も離れたビルの中だ、見えるはずがない」

 鈴は双眼鏡から見える久条の姿を見定める。すると、小さい光が微かに目に映った。

「あいつ撃ってきたよ、私たちの位置バレてるんじゃない?」
「バレてたとしても、絶対に当たらん」

 鉄が狙いを見定めながら、再度引き金を絞る。
すると、背にあるコンクリートの壁が鈍い音をしながら剥がれ落ちた。

「がっ」
「鉄ちゃん、目標止まってるよ。早く次弾を撃って……なにやってんの?」

 鈴は双眼鏡から目を離し、蹲(うずくま)っている鉄に近寄った。

「う、撃たれた……馬鹿な、五百メートルだぞ」

 鉄がそういった後、三秒ほど遅れながら壁に五つの穴が開いた。
拳銃の射程距離はどんなに長くても五十メートル程度。
相手が拳銃を持っていても問題ないように安全地帯に居るつもりだった。
しかし正気の沙汰とは思えないほど正確な射撃が飛んでくる。
鈴は急いで双眼鏡をしまい、鉄に肩を貸しながらその場を立ち去った。
物陰に避難し、携帯を取り出す。

「撤収、鉄ちゃん負傷、撤収します」
「了解」

 電話から聞こえてくる声は、大神のものだった――。



 ――久条は突然銃を取り出し、私ではなく虚空へ向けて放った。
久条はリボルバー式の拳銃は六発すべての銃弾を吐き出し、新たな銃弾を装填しながら私へ問いかけた。

「これがお前の策か? お粗末だな」
「お粗末なのはどちらかな」

 突如、屋上に響き渡る男性の声。
大神の声だ、屋上の扉に背を掛けながら、手には拳銃をもちながら久条へと狙いを定めている。

「ほう、よく此処まで来れたな」

 突然の大神の登場にも、久条は先ほどまでと同じ余裕もった表情で言葉を返した。
私は見知った顔を見て少しだけ安心した。大神は私を助けに来てくれたに違いない。
大神の銃口は背中を向けている久条へと向けられている
。一歩でも動いたら大神はなんの躊躇い(ためらい)もなく撃つに違いない。

 数秒がやけに長く感じられた。
大神は銃を構えたまま、久条は私の目の前で眉間に皺を寄せながらも、口元はにやけている。
絶対絶命のはずなのだが、この余裕はなんなのだろう。

「……何の音?」

 私は耳に聞こえてきたバタバタと大きな音に耳を取られる。
すると、ビルの階下からいきなりヘリコプターが轟音を連れて顔を出した。

「馬鹿な! なぜヘリがここを飛べる!」

 久条の先ほどまでの笑みが消えた。
ポケットから通信機のようなものを取り出し、大声でまくしたてる。

「私だ、警備の連中は何をやっておる! おい、聞こえんのか?」
「無駄だぞ、おっさん」

 久条の慌て様が面白いのか、大神はまるで子供の用な笑顔で笑い始めた。

「貴様……何をした」
「知らねぇのか、自分の部下がやってたことぐらい知っておくべきだったな」

 大神は久条を見下したような目をして、次に私を指差した。

「こいつの父親はな、この国の元情報管理者だ。それに優秀な科学者でもあったそうだぜ」

 そして私が地下で手に入れたチップを見せびらかす。
まるでチェックメイトと言わんばかりに銃の撃鉄を下げた。
だが、久条は不敵な笑みを浮かばせるだけだ。

「そいつで防衛システムを破った……それだけか?」
「……」
「くっくっく……はっはっは」
「何が可笑しい? もうお前は終わりなんだ」
「終わりだと? 我が心臓はいまでも脈打っているが?」
「うるせぇ野郎だ……」

 大神は銃に力を込める。だが、久条はお構いなしに話続けた。

「これだけか? 貴様もそのチップの中身を見たのだろう? その成果が本当にこれだけなのか?」

 大神は力を込めつつも、久条の言葉を待っているように見えた。
そして久条はゆっくりと、初めて大神に相対する。

「能無しどもはあれを見ても使い切らんか。やはりこの国にはまだ、私が必要のようだ」
「きゃっ」

 久条が動いた瞬間、ヘリコプターに備え付けられていた機関銃が火を噴いた。
屋上のコンクリートに無数の穴が開き、まるで生き物のように久条へと襲い掛かる。
しかし久条は先ほど見せたような反応と身のこなしで、素早く射線上から逃れた。

 私と久条との間には弾丸の川ができる。
私は川から数メートルも離れていたが、凄まじい衝撃に思わず吹き飛ばされそうになった。

「愛!」

 轟音の中で、私を呼ぶ声が聞こえた。
私は辺りを見渡すと、ヘリコプターから身を乗り出している兎谷の姿が見えた。

「来い!」

 兎谷が私を呼んでいる。ヘリコプターは屋上の端で上下にホバリングをしている。
屋上からヘリコプターまでの距離は、そう遠くないはず。

 あそこまで行ければ――!

 私はいまにも抜けそうな腰を、歯を食いしばりながら立たせた。

「兎ー!」

 私は大声で兎谷を呼んだ。
それに気が付いてくれたのか、兎谷は大きく手を振りながら、身体全体を外へ出した。

 兎谷めがけて、飛べ――。

 私は何かに押し出されるように走り出す。
私が走り出すのと同時にヘリコプターも動き始めた。
ゆっくりと私に向かってくる。兎谷の姿がどんどん近づいてくる。
タイミングなんてわからない、飛んで届くのかもわからない。

 彼に会いたい一心で、私は屋上の端から飛んだ。

「あ、あああああ!!」

 浮遊感、身体中を寒気がするほどの浮遊感が私を襲った。
彼の顔が間近に見える、でもあとどれほど離れているのかわからない。
私は腕がちぎれるほど、彼に向かって手を伸ばした。

「愛!」

 私の手には兎谷の体温が、私の体は力強い手から暖かい腕の中へと運ばれていく。
私は地面に激突していない。何もなかった両方の手のひらには、しっかりと兎谷の手が握られていた。

「よし、上げてくれ!」

 兎谷の一声でヘリの高度があがり、先ほどまで立っていた屋上が徐々に小さくなっていく。
しかし、

「え?」
「え?」

 またしても寒気がするような浮遊感が私を襲った。
でも、それは兎谷の命綱ですぐさまおさまった。

「大丈夫か?」
「ああ、軽く死にかけた」
「あ、あんたねぇ!」

 ヘリコプターの操縦者だろう男の笑声が聞こえてくる。
私はその声でようやく安堵の息を漏らした。
最後に何かしらミスをするのが、なんだか兎谷っぽくて安心すら感じられた。

「よっと」
「わっわっ」

 兎谷が私をしっかりと抱きかかえる。
繋いでいた手を解かれ、私も兎谷もお互いに抱き合っていた。
私は思わず顔が熱くなってしまう。

「よく頑張ったな」

 兎谷のその一言に、恥ずかしさ半分、嬉しさ半分。
でも兎谷の暖かさに、私は思わず腕の力を強めた。

「私は、何もしてない」
「ん?」
「いや……なんでもないわ」

 なんだか無理にいじけるのも馬鹿らしくなってしまった。

いまは、このままで居たいな――。

 でも兎谷と目が合うのは恥ずかしい。私は目を逸らして、夕日に照らされているビルの方向を見た。
先ほどまでいたビルはいつの間にか小さくなり、屋上に立っている二人の姿はよく見えない。

「大神さんが気になるかい?」
「ええ、残してきてよかったの?」
「よかったもなにも、全て大神さんの指示通りだよ」
「え、ならなんで……」

 私は兎谷に訊いてみた――。



[40230] 四.正義(大神視点)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/08/24 11:27
 ――屋上を涼しい風が吹き抜けていく。
昼間の熱を奪っていくような涼しい風、大神は遠ざかっていくヘリコプターを見ながら口を開いた。

「行かせてよかったのか? あんたならヘリぐらい撃ち落とすだろうと、あんな真似をさせたんだが」
「私が動いたらお前に殺されるかもしれんのでな。それに、もうあんな餓鬼に用はない」

 久条は大神を睨み付けながら、リボルバー式の拳銃を懐から抜いた。

「やはり私がもう一度、この国の王にならねばならぬようだ」

 久条はそのまま引き金を引いた。パンッと乾いた銃声が辺りに響く、

「ほう」

 大神の頭を狙ったであろう銃弾は、大神をすり抜けたように屋上の扉に穴を空けた。
今まで大神が腰かけていた扉、頭があった位置にははっきりと銃痕が浮かび上がっている。

 大神が一歩、二歩と久条へ近づき、手に持った銃を久条に向けた。
屋上に静寂が訪れる。まるで時が止まったかのように、二人とも銃を構えたまま動かない。
地上でしか見ることの出来ない夕日だけが、止まらない時間の存在を感じさせた。

 この静寂を破ったのは大神だった、一歩、二歩とまたしても歩みを進め――、

「知ってんだぜ、お前に銃が当たらないことぐらい」

 大神が手に持った銃を投げつけるその瞬間、大神の足元にあるコンクリートが音を立てて砕けた。

「な、貴様!」

 久条は驚いた表情で身構えた。大神は凄まじいスピードで走り出している。
その踏み込んだ衝撃でコンクリートの床が壊れたのだ。
残像すら見えそうな速度、その速度のまま大神は久条に向かって高速の蹴りを放った。

 ガキンと金属と金属がぶつかり合うような鈍い音が響き渡る
久条は大神の蹴りを受け止め、そのまま流れるように受け流した。
大神はまるで合気道や柔術のように、後方へ投げ出されるが、くるりと一回転し足から着地した。

 たった一合の衝撃で、お互いのズボンの膝から下が燃え尽きた。
そこから垣間見えるのは、肌色のメッキが剥がされた金属の鈍い光。
先ほどの金属音の正体はこれだろう。

「小僧、お前も戦闘用の機械(オート)義肢者(メイル)か」

 機械義肢――。
科学の発展に伴い、玖国では地下のシェルターという生活面だけでなく福祉の面にも力を入れていた。

 使えない人間はすぐさま切り捨てるが、使える人間が事故や病気でその価値が失われないように、
義肢はこの数十年で飛躍的な進歩を遂げていた。この国らしいと言えばらしいが……。

「おっさん、そんな言葉よく知ってるな」

 大神の言葉に久条は口元を緩ませながら返した。

「私はこの国の舵取をしてきた。この国に関して、知らないことなどない」
「へぇ……」

 大神もまた、久条に対して口元をにやりと歪ませた。

「貴様もよく調べ上げたものだ。私が機械義肢者だと知って四肢を捥いできたのか……。しかし残念だ」
「残念?」
「ああ、せっかく機械義肢にしてもだ。戦いというのは」

 久条は右手の人差し指で自分の頭をトントンと叩いた。

「ようは、ここなんだよ」
「くっくっく……同感だ」

 大神はこみ上げる笑い声を抑えることもなく、そのまま足に力を入れた。

 先ほど久条が頭を叩いた行動、これはただ頭を使え、ということではなかった。
本来ならば手足の不自由な人たちのためにある義肢。
しかしいつしか機械(オート)義肢(メイル)と呼ばれ始めた戦闘用の義肢には膨大な利点と重大な欠点があった。

 義肢を装着すればたちまち百メートルを三秒台で走り、
一トンもの重量を動かせる人外的な能力を備えた機械義肢。
だが、それを扱う人の生身の部分。すなわち脳や心臓が耐えられない。

 かつては義肢の兵士の軍事応用も考えられた。
しかし膨大な予算をつぎ込む割に、戦局を変えられるような兵士は作れない。
次第にこの計画は薄れていくことになってしまう。

 大神が物凄い勢いで近づいてくるにも関わらず、久条は少し考え込むように眉間に皺を寄せた。
そしてまた大神の勢いを受け流そうと手を前に伸ばす。
だが、大神は久条の目前で急ブレーキをかけた。

「ほう」
「死ね……」

 大神はそのまま拳を前に突き出す。
一発一発に死臭が付きまとう、しかし久条はそれを受け流しながら口を開く余裕さえも見せた。

「しっかりコントロールできている。それゆえにわからんな」

 その表情に大神は歯を食いしばり、ギアをひとつあげた。
だが、それでも久条は話すのをやめない。

「見たところ二十代後半の貴様が、なぜ機械義肢を持ち、なぜコントロールできる」
「五月蝿いぞおっさん」

 大神は拳を引いた反動で、大きく足を蹴りあげた。
しかし久条はその足を踏み台にし、後方へ大きく回転しながら距離を取った。
久条が見せた曲芸じみた行動に、さすがの大神も目を奪われてしまう。

「もう私も歳だからな、どうしても口が滑ってしまうものよ。それにしてもわからんな、この計画は私が終わらせたはずだが……」

 久条の溜息じみた発言に、大神が口を挟んだ。

「玖国の研究者どもは皆、頭がいっちまってるからな」
「ふむ、独自で進めておったのか。科学者というものはどこまでの己の欲望に忠実なことよ。そしてやつらはいつも我々の常識を覆す」

 久条はあえて常識という言葉を選んだようにも聞こえた。

 人は空を飛べない、遠く離れた人との会話は出来ない。
これらの何世紀も続いた常識を科学者たちは非常識へと昇華させていった。
そして科学者たちはまた、常識を覆す。

「俺はお前とは違う。俺は、お前の様な中途半端じゃないんだ」

 距離を取っていた久条に向かって、大神はまた足に力を込めた。
先ほどまでの走りとは違い、今度は一足飛びで久条の目の前へと飛んだ。

「なっ!」

 久条は見えていないのか、大神の拳を受け流すことが出来ず、今度は組み合う形となった。
両手を互いに合わせての力比べでは分が悪いと判断したのか、久条はすぐさま足を出す。
大神は久条の足が見えると、またしても一足飛びで後ろに跳躍した。

 その運動力はあまりにも人間離れしすぎていた。久条は驚いた表情で大神を睨み付ける。

「中途半端……だと。まさか貴様、脳に手を出したのか」
「……」
「実験動物の生き残りか、ならその若さも分かる。貴様は機械義肢者などではなく、機械そのものなのか」
「……俺は人間だ」
「はっ、人間の定義でも決めたいのか。もう貴様に人間の部位などあるまい」

 その言葉に大神は床のコンクリートを踏み抜いた。
その威力は先ほどとは違い、コンクリートの破片は大神の目の高さまで浮き上がる。

「調子に乗るなよ。俺をこんな風に変えたのは、お前ら国のせいなんだぜ」

 大神の表情が苦悶に歪み、そして久条を睨み付ける。
大神はここまで準備し、針の隙間を縫って王の場所まで辿りついた。
その原動力になったのはひたすらに純粋な怒り。復讐という名の心が彼を動かしている。

「拉致でもされたか、運が悪かったな」

 久条がいつもの声色で呟いた。
まるで自分には関係ないとばかり、人事で終わってしまうような感想に大神の怒りは更に燃え上がる。

「運だと? 他にも俺と同じ様な境遇の人間はたくさん居た。だが、俺だけ。俺だけが生き残った。貴様を殺すために何にでもなった。貴様への憎悪が俺をここまで変えさせたんだ。おかげで、今はいい気分だぜ」

「……本当にそうか?」

 その言葉に空気が変わる。
顔を出していた夕日はすでに見えず、辺りに少しづつ夜の帳が訪れる。

 昼と夜との境界線で二人は向き合った。


 大神は浅い呼吸を繰り返し、またしてもリミットを外した。
大神は脳にすらメスを入れているのだろう。いや、入れられたという方が正しい。

 脳とは人間にとって最も重要な器官だ。
だが、科学が進歩した玖国でもその内容は完璧に解明されていない。
この脳を制御できれば、機械義肢の性能を十分に引き出せるだろう。

 しかし、それを人間の脳が許さない。
仮に脳によるリミッターがなかった場合、成人男性の平均筋量は約五百㎏持てる計算になる。
しかし、こんなことが本当に可能だろうか。

 十分の一の五十㎏でさえ、普通の人間には難しいだろう。
それは大切な筋繊維(きんせんい)や腱が壊れないよう、脳がリミットを掛けているからだ。

 そのため、人は本来の十%から二十%ほどしか力を発揮できない。
もしもこれが自由に解放できたならば――。


 大神は久条へ向かって突撃する。足元が爆ぜ、音と共にコンクリートの破片が宙を舞った。
一足飛びに久条の懐へと踏み込む。ただ勢いに任せるだけでは久条に受け流されてしまうだろう。
だから大神は久条の手前で片足でブレーキをかけ、返す足で踏み込みながら拳を放った。

 閃光のような拳が久条へと襲い掛かる、
少し遅れて新幹線でも通ったような風圧に久条の短い髪が左右に揺れた。

「くっ」

 今まで余裕の表情だった久条の顔が歪み始める。
機械化された目のおかげで大神の拳は見えている、だが反撃に転じられない。
ひとつ避けた後にはふたつ、みっつと飛んでくる。
その圧倒的な速度の差に久条は自分の身を守ることしか出来ない。

「はぁっ、はぁっ」

 大神の息が徐々に荒くなり、球の様な汗をかいている。
そのことに久条はいち早く気がついた。
まだほんの数秒しかたっていないのに、大神の疲れぐあいは異常だった。
久条は攻めに転じず、防御に専念する。
そのことに大神も気が付いたのか、拳を開き、久条の服を右手で掴んで思いっきり地面に投げつけた。

「あぐっ」

 投げつけられた久条の体はその衝撃に鈍い声をあげ、まるでピンボールのように高く跳ね上がった。
二メートルほども跳ね上がり、無防備になった久条の体をめがけて必殺の拳を振るう。

「死ね」

 大神の拳が久条の体を突き抜けるその刹那、久条が素早く掴まれている腕の関節を極めに行く。
久条の全体重が大神の右手に圧し掛かり激痛が走った。
このままでは左手に力が入らない、大神は仕方なく足で久条の腕を蹴り飛ばす。

 交通事故にでもあったかのように、久条の体は吹き飛ばされた。
屋上の扉を突き破り、その姿は見えなくなっていく。

「この死にぞこないが……」

 大神はこの間に大きく深呼吸した。
同時に蒸気のような汗が吹き出し、身体中が赤く染まっていく。
燃えるように赤く染まった身体は、人とは思えないほどだ。

 コツン、コツンと足音が聞こえる。
久条の足音だろう、大神はそこから動くことはなく、膝に手を付いたまま久条を待った。

「貴様は欠陥品なのだな」

 久条が屋上の壊れた扉の隙間から姿をあらわした。
久条が身にまとっていた紅いマントはボロボロになっており、軍服は破れ、金属の手足が顔をのぞかせている。
そして頭からは大量の血が流れていた。

「そんな姿になっても、よく口が回るおっさんだな」
「くっくっく、そうかね。私の頭は人間なのでな、脆いものだ。だが、ダメージは五分と言ったところか」

 大神は浅く深呼吸をし、身体の熱を冷ますように服を脱いだ。
上着を脱ぎ捨てた大神、その金属の体に久条は目を奪われる。

「これは……本当に全身機械義肢なのだな」
「違う」

 大神は親指で左胸を指差した。

「ここだけは俺のままだ、お前らなんかにはやれない」
「ほほう、これで納得がいった。お前の動きに脳は付いていけても、心臓が付いていけないのか……」

 呼吸が落ち着いた大神は膝から手を離し、身体を起こした。

「充分だ、お前を殺すのに五秒あれば充分だ」
「はっはっは、いままでに何秒たった? それはお前が動ける限界時間じゃないのか?」
「……これからだ」

 大神が身構える。足を肩幅まで開き、腰を浅く落として久条を睨み付けた。

「む」

 対して久条も身構える。両方の手を前に差出し、大神の攻撃を防ぐような防御の姿勢。
それに変わって大神はまるでスタート前の陸上選手のような姿勢を見せた。
大神の力強い攻撃に対して、久条は常に柔らかい防御の姿勢。まさに、

「柔能く剛を制す、ってところか?」

 大神が言葉を漏らした。大神は更に力を溜めているように見える。
球の様な汗が蒸気となって蒸発していく。
それが夜と重なって大神の体は暗い渦を巻いていく様にも見えた。

 久条は何も答えない、大神の姿が不気味だったのか、
それともこれから来るである衝撃に対して集中力を高めているのか。

「その続き、知ってるか?」

 大神は口元を歪ませた。久条は何も答えない。

「弱能く強を制す。つまりだ、そいつは弱者の戯言でしかないんだっ」

 大神が動き出す。またも爆発したかのように足元のコンクリートが砕け散った。
すでに屋上は爆撃でもあったかのように凹凸している。
大神が久条へ到達し、拳を振り上げるまでもう一秒もないだろう。

 その刹那、久条は目を閉じながら集中していた。
達人と呼ばれる人間との違い、それは己の引き出せる集中力の違いにある。
呼吸を整え、ただ一つの事に集中し、久条は己のリミットをひとつひとつ解放していく。
久条は見えているのだろうか、高速で動く大神の姿が――。

「うおおおおお!」

 久条が吠える。大神が繰り出すのは渾身の右、それを捉えようと腰を落とし、両手を合わせた。


 ――激しい交差、音速を超えたであろうその数瞬、音は遅れて聞こえ、焦げたような臭いが辺りに立ち込めた。

 久条の手は大神の拳を捉えた。だが、捉えただけだった。
高速で近づいてくる衝撃が予想できても、それと受け止めることはまた次元の違った話だ。
大神の拳は久条の身体をいとも簡単に貫き、久条はそのまま壁に叩きつけられ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 久条の差し出した両腕。
片方は肩口から捥げ、片方は歪な方向へと変形している。
頭からは大量の血を流し、昏倒としているなか、それでも久条は口を開いた。

「今日はなんと酷い日だろうか。娘からは罵倒され、そして……」

 久条は大量の血を吐き出した。咳き込むたびに身体から血が逆流していく。

「まだ息があるのか……」

 大神は座り込みながら呟いた。ダメージはないはずだが、心臓が限界を超えたのだろう。
全身から汗が吹き出し、先ほど人とは思えないほど赤く染まった身体は、赤を通り越して徐々にどす黒く染まっている。

 これがリミットを外した代償だろうか、ほんの数秒、だが大神は何日も遭難したかのように消耗していた。

 大神はゆっくりと立ち上がる。歩くことすら息切れしながら、それでも一歩づつ近づいた。
倒れている久条に向かって拳を振り上げる。

「終わり……だ」
「待ってください!」

 突如屋上に悲痛な声が響き渡った。その声の主は、愛を案内した黒スーツだ。

「一ノ宮(いちのみや)か」

 屋上の扉から一ノ宮と呼ばれた黒服が顔を表れる、そして小走りで久条のもとへ駆け寄った。

「もう久条様は限界なんです。脳に腫瘍ができていて、本当は動くことすら困難なはずなんです」
「脳腫瘍(のうしゅよう)だと……」

 全身を機械化しても脳だけは出来ない。いや、脳の代用品など存在しないのだ。
それが当たり前であり、大神のように成功した例は他に見ない。一ノ宮の一言に大神の動きは止まった。

「余計なことを……」

 大神の下で久条が憎まれ口を叩く。しかし一ノ宮は構わず口を開いた。

「久条様は国を守るために一心不乱に働きました。国のために自分の命すら顧みず、働いたのです。
 自分の選択が、多くの悲しみを生み出すのは分かっていました。
 でも、それでも国民の命を、玖国を救いたかった。
 その最後が守りたかった人達に殺されるなんて、あまりにも悲しすぎます!」

 一ノ宮は涙を流しながら大神に懇願(こんがん)した。
その姿を見て大神は振り上げた拳を躊躇してしまう。大神は久条に向かって問いかけた。

「なんだおっさん……死ぬのか」
「……ああ」

 その返答に大神はふらふらと立ち上がり、久条のもとから離れていった。
一ノ宮は大神の後ろ姿を目で追ったあと、久条の口元へとさらに近づいた。

「お前は本当に余計なことばかり……ぐっ」
「大丈夫ですか!? 今医者を」

 一ノ宮は無線で医者を呼ぼうとしたが、久条がそれを退けた。

「いや、もういい。 私は十分に生きた気がする」
「何言ってるんですか、この国にはまだ貴方が必要です」

 一ノ宮の瞳からは、溢れんばかりの涙が見える。それを見た久条は少しだけ微笑んだ様な気がした。

「こんな年寄りには、もう何も変えられない。私だって分かってた。Dなど、こんな陳腐な策しか取れないようでは、国は変わらないのだ」
「仕方がなかったんです! あの時はこれが最善の策だった」
「あいつなら変えられる気がするのだ。あの娘なら、悲しみを生まない未来を……」

 久条は最後の力で手を空へと伸ばす。それは何を掴もうとしたのだろうか。

「も、もう目が」
「後を頼む、じゃぁな……」

 最後の瞬間、久条は確かに目を細め口元を緩ませた。
悲しい叫び声が夕暮れに木霊する。大の大人が涙も隠さずにただひたすら泣いていた。
大神は顔を見せず、その場を静かに立ち去った。

 ――D政策という恐怖の政策を貫いていた時代が終わった。
 大神の言った革命は成功に終わったのだろうか。
 しかし、久条が、Dが無くなっただけでこの世界は変われるのだろうか。

 玖国の国民は変わらなければならない。
 彼らは独裁という枷を外した後、どう生きることが出来るのだろうか。
 彼らは歩まなければならない。
 それは久条が最後に掴もうとした未来。

 誰も泣かず、理不尽に苦しまず、飢えることなく、誰もが裕福な心を持つことが出来る。

 久条が死の間際に願った、幸せな未来を――。





[40230] 五.生と死の狭間で(追記)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/08 01:28
 ――久条が亡くなったあの日からこの国は変わった。

 D政策は廃止され、各区域の検問所は全て取り外されることになる。
すぐに全員移住という事は無いが、ランクによる制限や制約はもう無い。

 久条の遺言通り、愛が時期国王となったが、
元々王政自体国民に浸透していないこの国では知っている者の方が少なかった。

 愛は政治なんて分からないと言い拒否したが、久条の遺言が一ノ宮を諦めさせなかった。
何百年も昔から続いてきた君主制を途絶えさせる分けにもいかず、兎谷や大神からの進言もあってか、愛は渋々王座に座る事になった。

 渋々とは多少誇張があるかもしれない。なぜなら愛自身は既に目標を終えているからだ。
愛の目的は国を出て、新しい世界で生きる事。

 それは冒頭でも書き綴ったが、個人の世界とは個人の主観でしかない。
D政策が無くなった玖国は、愛にとって新しい世界と言っても過言ではなかった。

 王になれば最悪の世界を自分自身で新しい世界に出来る。
しかしそれは愛一人の願いだけでは済まず、玖国民全員を巻き込む可能性が出てくる。

 その一点に愛は恐怖していた。己の理想が他人の理想と決して同じ事は無いだろう。
それでもD政策だけは消し去りたい、その思いが強く膨れ上がっていた。

 この願いは全玖国民の願いに一番近いはずだ。そう願い、愛は国の頂点に立った。
もう彼女の目が曇る事は無かった――。

 ――そして四ヶ月の月日が流れた。



 ――兎谷は車を走らせる。既に必要ない検問所を通りすぎ、Cランクへと足を運んだ。

 愛が王になってからの劇的な国政の変化に、国民は様々な反応を見せた。
しかし全て一ノ宮がうまくやったようで、さほど混乱もなかった。

 多少不満があると言えばAランクの国民だろう。
だがB以下の連中にとっては嬉しいことばかりだった。

 王が代わったといっても、今年二十歳になったばかりの愛が政権を握ることは、
非常に難しいことだろう。愛は表舞台にはそうそう出てこない。

 元から王なんて決まりは表立ってはいなかったから、仕方がないとも思う。
兎谷が愛を最後に見たのは半年前の即位式のときだ。

 綺麗なドレスに身を包んだ愛に兎谷は戸惑った。
美しい彼女が、さっきまで自分の隣に居ただなんて……とてもじゃないが思えなかったからだ。

 兎谷はブレーキを踏み、車をとある港に止めた。

「う、冷えるな」

 バタンと車のドアを閉める乾いた音が波の音に紛れていく。
十二月の海は荒れに荒れていた、今年ももうすぐ終わろうとしている。

「よっと」

 兎谷はジャケットを羽織り、堤防へと足を進める。
なんで真冬にこんな場所にいるのか、それはあの爺さんのせいだった。
兎谷は地下水路で助けてもらって以降、泉の様子をたまに見に来るようになった。
泉を置いて逃げてしまった、その負い目も少しはあるだろう。

 泉は出会ったときと同じように、堤防で釣りをしている。
もうD政策はなくなったのに、泉は海に住み続けていた。

「爺さん」

 兎谷は泉に声をかける。そして手土産にと持ってきた酒を掲げた。
泉はそれを見て気をよくしたのか、いそいそと釣り道具を仕舞いながら立ち上がる。

「爺さん、なんか釣れたのかよ?」

 泉がバケツを見せてくる、中には小魚が何匹か泳いでいた。

「てんぷらにでもするかの」
「いいね」

 二人は顔をにやけながら共に家路を歩く。
海辺の風が冷たく突き刺さるが、それでもお互いに笑顔だった。

「しかし、なんでわしなんかに構うんじゃ? 友達おらんのか?」
「爺ぃ、人が好意で付き合ってやってるのによぉ」

 兎谷がここに来る理由としてはもうひとつある。それは愛からのお願いだった。

 泉をひとりにさせたくない――。

 国事に奔走せざる得えない愛にとって、泉の様子を見に来るのは非常に難しい。
愛は泉に新しい住居を提供したが、泉は丁重に断っていたのだ。

 兎谷と共に泉の自宅に入り、釣った魚を酒のつまみにしながら、
二人は他愛もない談笑をしつつ酒を飲む。
泉はそれが嬉しかったに違いない、ちびちびと酒を交わしながら話題は愛の話になった。

「愛ちゃんも大変じゃなぁ。D政策が終わったからといって暮らしは一向に楽にならん。
 逆に昔のほうがよかったじゃろう。確かにDがあった頃は殺伐としていたが、
 逆に諦めがついたもんじゃ。ここまで落ちたなら、もう終わりだ……とな」

 泉は当時のD政策を思い出しながら呟いた。空いたグラスに兎谷が酒を注ぎながら口を開く。

「俺はいいと思うぜ。人の間引きなんて見たくもない。それが当たり前の時代が、異常だったんだ」

「それは上の人間の意見じゃよ、Cランクは違う。
 上に行こうと頑張る輩もおれば、もういい、と諦める輩もいる。
 なんと言えばいいのか、難しいのう。でもわしはここで頑張る輩が嫌いじゃなかった。
 Cに落ちたことが逆に原動力になっていたのも確かじゃ。
 この国には、無能な人間を住ます土地なぞ無いからのう」

 泉は兎谷が持っていた酒を手に取り、兎谷のグラスへ酒を注いでいく。

「傲慢、だよな」

「そうじゃな。人の価値なんて、人が決めるものではないしの。難しいことじゃのう。でもそれを考えさせるくらい、人はこの星を壊し、住みにくくしたのじゃ」

 泉はそこで話を切り、ごろんと横になった。

「なんだ爺、寝るのか?」
「今宵はちと酔うた。寝る」

 兎谷は溜息混じりに毛布を差し出した。
泉は毛布を手に取ると、すぐさま寝息を立てはじめる。

「いい気なもんだぜ」

 憎まれ口を叩きながら、兎谷は煙草に火を点けた。そして愛のことを思い返していた。

「どうすれば世界が変わる、かなんてそんな大それたこと俺には分からねぇな」

 兎谷も煙草を咥えたまま、ごろんと横になる。

「Dは必要だった、か……大変だねぇ国のお偉いさんは」

 泉の言葉はまさしくD政策についての確信を得ていた。
もともとD政策とは国を安定させるための苦肉の策だったはず。
つまり、D政策を廃止するにはなんらかの対抗策が必要のはずなのだ。

 しかしその対抗策が耳に聞こえたことは一度もない。
兎谷から漏れ出た労いの言葉は、その対抗策に頭を悩ませている愛に向けられたものだった。

「二時か」

 兎谷は横にあった時計を見る。時刻は十二月二十五日の二時、もう真夜中だった。
兎谷は煙草の火を灰皿に押し付け、たったひとつの電気を決して布団を羽織った。

「ん」

 ドン、と小さい破裂音が海のほうから聞こえた気がした。
その音はまるで花火のようにドン、ドン、と数を増やしながら聞こえてくる。
そしてそれは次第に大きく鳴り響き始めた。

「あ~そうか。今日はメリークリスマスってやつか。なんで俺はこんな爺と一緒なんだろう、ありえねぇわ」

 ドン、ドン、ドン、花火の音は徐々に数を増していく。

「五月蝿いな~これじゃ寝れないぜ。なんだってこんな夜更けに……夜更け?」

 兎谷は布団から飛び起きる。時刻は二時十分、やはり見間違いではない。

「馬鹿な、誰がこんな時間に花火なんか見る」

 兎谷はゆっくりと窓から顔を出した。



「う、うおおおおおお!」

「なんじゃい、五月蝿いのう」

 兎谷の叫び声を聞いて、泉も身を起こした。
泉が眠たい目を擦りながら見たその光景、それは花火なんかではなかった。

「せ、戦艦か?」

 ドン、とまたひとつ大きな音が聞こえた。
窓の外にいるのは大きな軍用船、その船が玖国の大地を砲撃している。
D政策廃止のおかげで無人となったC区域が吹き飛ばされていく。

 ゴン、と泉の家に何かがぶつかった。おそらく吹き飛ばされた民家の破片だろう。
しかしそのおかげで兎谷は金縛りから逃れることが出来た。

「爺! 逃げるぞ!」

 兎谷は泉の腕をつかみ、駆け足で外へとでる。
外へ出ると頭上を閃光が駆け巡り、無数の光が夜を染め上げていた。

「綺麗じゃのう」
「馬鹿か、逃げるぞ!」

 兎谷は一目散に車へと走った。その間にも無数の砲弾が二人の上を通り過ぎていく。
車にたどり着いた兎谷はすぐさまドアを開け、車内へと転がり込んだ。その瞬間、

「うおっ!」

 大きな音と光が数メートル先で弾け、車体を揺らした。
兎谷はアクセルを思い切り踏み込み、道なき道をひたすらに走っていく。
すでに道路は砲弾の雨でボロボロだった。そんな中、助手席から外を見ていた泉が呟いた。

「あれは弐国の船じゃ」
「弐国? 友好国じゃねぇのかよ!」

 またしても大きな音が間近で聞こえる、バックミラーに映るはずの民家はもはや跡形もなかった。

「戦争かよ、くそったれ!」

 短すぎる平和はたった四ヶ月で幕を下ろした。
人の歴史において、平和とは戦争の準備期間にしか過ぎないと唱える人もいる。
もちろん戦争を体験せずに生涯を終える人もたくさんいるだろう。

 だが地球という規模で考えれば、平和とはあまりにも儚い。


 兎谷と泉を乗せた車は、運よく砲弾にあたることはなく旧B区域まで避難することが出来た――。



――――――
――――
――


「愛様……愛様」

 誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。身体を少し揺すられながら、私は目を擦った。
寝ぼけ眼を開くと私のお世話係をしているメイドの姿が見えた。

「愛様、一ノ宮様から緊急のお電話です」
「緊急?」

 私は電話を受け取りながら、横目で時計を見た。時計の針は二時半を指している。

 こんな夜更けになんのようだろう――。

「もしもし」
「夜分遅くに申し訳ありません。準備が出来ましたら国会の方へお願いいたします」
「わかりました……何があったのでしょうか」
「弐国からの攻撃です、お急ぎ願います」

 私が口を挟む前に電話は切られてしまった、受話器からは規則正しい不通音が流れている。
私はそのまま受話器をメイドに返した。

 攻撃……? 弐国から――?

 意味がよく理解できない、私は混乱しながらも素早くスーツに着替える。
メイドに髪を梳かしてもらいながら、軽く化粧をした。

 私が居るのは前国王、久条が住んでいたビルだ。
まさかここが自宅になるとは思わなかったが、歴代の国王は必ずここに住む義務があるらしい。

 天井に吊るされたシャンデリア、洋風なつくりの部屋と豪華なインテリアの数々。
寝に帰るだけのこの部屋は、四ヶ月たったいまでもまったく落ち着かない。

 私が王に即位してからの四ヶ月を一言で表すと、多忙というのが一番しっくりくるだろう。
半ば強制的に王にさせられてしまったが、国を変えるチャンスなんて全くといっていいほど無いだろう。
私は国民の支持を受けたわけじゃない、ただ血縁というだけだ。

 ただ運がいいだけ、でも私はこのチャンスを最大限に活かしたい。
だがその為に覚える事が無数にあり、ただの勉強と付き合いだけで四ヶ月もたってしまった。
いくら権限があっても、何もしらなければ判断のしようがない。
私はいまこの国を知ることに全てを費やしていた。

 その中でも驚いたのは一ノ宮の存在だ。一ノ宮は二十代の若さで玖国の総理大臣に着任していた。
一ノ宮は私の目から見てもとにかく優秀だった。
本来なら総理とか敬称を付ける必要があるのだけれど、呼び捨てでいいのは一ノ宮からの希望だった。

 それに一ノ宮は「私が選ばれたのはD政策のおかげ」とも言っていた。
人の命が六十歳までと決められている状況では、
年老いた知識人よりも若い指導者が欲しいと久条の要望があったそうだ。

 玖国(うち)らしいと言えば、それまでなんだけど――。

「よしっ、行ってきます」
「いってらっしゃいませ」

 私はメイドに見送られ、門の前に付けてあった車に乗り込んだ――。



 国会に着いたのは夜中の三時を回ったところだった。
指定された会議室へと足を運ぶと、ちらほらと空清は見えるが数名の議員と一ノ宮が私を待っていた。

「遅くなりました」

 私は会釈をして用意された席に腰を下ろす。
すると私が来るのを待ち構えていたのだろう、すぐさま一ノ宮が近づいてくる。

「お電話です」
「私に?」

 私は受話器が受け取ると、会議室に備え付けられているモニターから相手の姿が見えた。

「メリークリスマス、久条様」
「え、ええ。メリークリスマス」

 私はモニターに映った姿を見て思い出した。

 相手は弐国の大統領、Adolf fon Hermann(アードルフ フォン ヘルマン)

 ヘルマンとは前回のサミットで会ったことがある。
紅く充血した瞳に金髪の髪、
それに顔に彫ってある666というタトゥーはとてもじゃないが国の代表とは思えなかった。
私は初めて出会った時の兎谷よりも強烈な印象を受けていた。
兎谷からはチンピラという雰囲気がにじみ出ていたが、
ヘルマンからは何か狂気じみたものを感じ取ってしまったからだろう。


 サミットは本来なら前の久条に代わって私が出るはずだが、前回は一ノ宮の助手という立場で参加させてもらった。
まだ政治に精通していない私を矢面に立たせる必要はない、と一ノ宮からの配慮だった。

 だが、あの時からヘルマンは知っていたのだろうか。
久条が死に、玖国のトップが若返ったことは玖国の中でも数人しか知らないトップシークレットのはず。
私は声が詰まらないよう、ひとつ咳払いをした。

「ヘルマン様、本日はどのようなご用件で」
「か~これだから玖国人は。何をそんなに急いでいるのか、すぐ本題を聞きたがる」

 癇に障る声でヘルマンは言葉を返してきた。その声に隣で聞いていた一ノ宮の眉間に皺が寄る。

「もうちょっと会話を楽しもうとかないの?」
「ヘルマン様、大変申し訳ありませんがこちらは夜中の三時ですので」
「ええ、知ってますよ」

 その言葉に一ノ宮の顔がニコニコしながら十字の皺を寄せる。
隣にいる一ノ宮が怒ってくれているせいで、私はなんだか冷静になれた。
そう、これはただの電話ではない。国と国との国交なのだから……。
私が黙っているとヘルマンが続けて口を開く。

「いや~すいません。長くなるとお肌に悪いので手短にいいますね」
「え、ええ……どうぞ」
「いや~本当に申し訳ないのですけどね、弐国(うち)もちょっと苦しくなってきてしまいましたね~。大変恐れ多いのですが、援助をお願いしたいのですよ」
「援助、とはどういうことでしょうか」
「玖国の食糧と資源のうち、三割ほどお借りしたいのですがね。いや~うちも移民が増えすぎちゃいましてね、お宅も大変だとは思いますが……」

 電話の向こうでヘルマンは聞きたくもない美辞麗句を並べはじめる。
私はヘルマンの質問の意味がわからず、なんだか呆けてしまっていた。
三割もの食料や資源なんて、譲れるわけがない。
お借りしたいだなんて、返す予定もなければ譲るのと同じだ。
それにそんな予定があっても、玖国にはそんな余裕はない。私は横目で一ノ宮に目配せした。

 一ノ宮はゆっくりと首を横に振る、至極当たり前のことだ。
私は電話の向こうでしゃべり続けているヘルマンに向かい、気丈な声で返答した。

「無理だとわかっていらっしゃるのに、お訊きになるのですか?」
「だよね~無理だよね~。だから、貰いにに行きますわ」

 挑発とも取れるヘルマンの言い草に、さっきまで落ち着いていた私も苛立ってきてしまう。

「そのようなふざけた電話をするために……ご苦労ですわね。それより玖国に向かっての砲撃はどのようにご説明して頂けるのでしょうか、国連も黙ってはいませんよ?」
「こくれん~?」
「そうです。それに我が国は壱国と軍事同盟を結んでいることくらいご存じですよね。貴方は壱国に戦争でも仕掛ける気ですか?」

 電話越しにヘルマンの笑い声が聞こえ始める、そしてその笑い声は異様なくらいに長く響き続ける。

 なんなんだこいつは、いったい何を考えているのかわからない――。

「戦争だよ」
「なっ……」

 突然ヘルマンの口調が変わり、声のトーンが低くなる。
受話器越しでも威圧感が伝わってくる。ヘルマンの、弐国の代表の言葉が重く圧し掛かってきた。

「私は本気だ」
「ば、馬鹿な……戦争などしてなんの意味があるのです!」
「はっはっは、君たちもつい最近までやってたじゃない」
「戦争なんかやっていません」
「はっは、違う違う」
「何が違うのですか!」

 私はいつのまにか全身に汗をかいていた。
背中から流れてくる汗が気持ち悪い、心臓がばくばくと破裂しそうなくらいに鼓動している。

 戦争だけは……絶対に嫌だ――。

 ヘルマンがまた笑い始める。
今度は短く、しかし笑っているというよりもまるで呆れているような笑い声。
私は今すぐにでも受話器を放り投げたい衝動に駆られた。
そして笑を止めたヘルマンは、ゆっくりと私に言った。

「間引き、だよ」

 その単語に私は息がつまり、呼吸さえも止まってしまいそうだった。
私は不意に一ノ宮から聞いた話を思い出す。

 一ノ宮は言った。
 D政策は他国に漏れることなく施行してきた。
インターネットなどの情報封鎖はほぼ完璧にだったが、人の口に戸は立てられない。
それにあれほど亡命が流行ってしまった。
幾ら警戒網を敷いてもその隙間を縫うように亡命していった人もいるだろう。
いずれ玖国の恥部ともいえるD政策は、他国に漏れる可能性があります。と。

 そしてその可能性は最悪の現実となって降りかかってしまった。
私は何も言えずに受話器に耳を傾けていた。
ヘルマンは私が呆けているのがわかったのだろうか、軽く舌打ちをし、言葉を投げかけてくる。

「まだわからんのか能無しが、死ねと言っているのだよ。我が国のために、その土地をあけ渡せ」

 がちゃんと受話器を降ろす音と共に電話が切れた。
プーッ、プーッと規則的な不通音が流れている。
呆けていた私から、一ノ宮がゆっくりと電話を受け取った。

 私はしばらくの間、何も考えられずにいた。
それは周りに座っていた議員たちもおなじようで、
会議室はいつの間にか水を打ったかのように静まり返っていた。

「せ、戦争だと……馬鹿げてる」

 一人の議員がぼやくと、それに続いてざわつきが広がっていった。

「弐国は何を考えているんだ」
「壱国と国連に連絡を」

 震えていた声は次第に大きくなり会議室は熱気に包まれていく。
騒がしくなる議員たちに向かって、一ノ宮が静かに呟いた。

「静粛に」

 一ノ宮の一声で会議室は静けさを取り戻す。議員たちすべての目が一ノ宮に集中した。

「我々が慌てていてはどうしようもないでしょう。まずは落ち着くことが先決です、私の話を聞いてください」

 その一言でみんな落ち着きを取り戻したように思えた。私も一ノ宮の目を見る。

「ひとつだけ言えることがあります。この戦争は……いや、侵略は避けられないでしょう」
「そ、そんな……」

 私の声を皮切りに、他の議員たちも同じ様な反応を見せた。
すると一ノ宮が軽く咳払いをし、会議室を静寂に戻す。
静まり返る議員たちを確認すると、一ノ宮が話を再開した。

「順を追って説明いたしましょう、まずは弐国の国内情勢からです」

 一ノ宮がモニターのスイッチを入れると、多様なグラフが掛かれたシートがモニターに映し出された。題名には弐国の歴史と記載してある。

「この資料は今年の物ではありませんが、皆様に理解していただくには十分ですので用意させました」

 一ノ宮はレーザーポインタを手に取りモニターに向けた。

「愛様もいらっしゃいますので、まずは弐国についてざっと説明いたします。
 弐国は玖国から一番近い隣国です。ですが近いと言っても海を隔てて千五百キロはあります。
 総人口は約五億人と発表されておりますが定かではありません。
 それは弐国が玖国の何十倍もの国土を持ち、移民の受け入れを余儀なくされ、
 超多国籍国家となり弐国自体も管理できていないからです」

 移民の受け入れ、私はその言葉を聞いて、旧B区域で兎谷と話した事を思い出していた。

 海面上昇という緩やかな天災。兎谷が自慢げに話していたのを懐かしく感じる。
玖国は地下に都市を作って住居を確保したが、他の国では何の対策も取れずに沈んでしまった国もあるのだろう。

 そして、その受け入れ先となってしまったのが壱国の次に大きな弐国なのだ。

「国連が出した移民という強制的な救済措置は、現在紛争の大きな原因でもあります。
 弐国では人種や差別による紛争が後を絶たないようです。
 食料や紛争による問題はどんな国でもありますが、弐国は他国から領土を奪う形をとる気なのでしょう……」

 一ノ宮の説明が区切りを見せると、一人の議員が口を開いた。

「だが、壱国と玖国は同盟国だ。玖国の小さい土地を奪うのに、壱国を敵に回しては分がわるいと思うのだが」
「確かに壱国と玖国は同盟の関係にあります。私はここに来るまでの間に、壱国に連絡を取らせていただきました」

 その言葉に議員たちが賞賛の声をあげる。
「さすが一ノ宮総理だ」「行動が速い」など、その声には事態を楽観視したような安堵の声をあげる議員もいた。

 だが、一ノ宮の表情は暗いままだ。

「しかし、もう昨日の事になりますが壱国で大規模な軍事衝突があったようです。弐国の件に関して打診はしておりますが、連絡はまだありません。恐らく玖国に構ってる暇などないでしょう、弐国はこれをチャンスと見たに違いありません」

 すぐさま議員から反論意見が飛んだ。

「しかし国連が黙ってはいないだろう」
「現実を見て考えてください。世界で弐国に武力で立ち向かえるのは壱国だけです。他国も苦しいのは同じでしょう。うちを助けてくれと言っても来てくれるでしょうか?」

 一ノ宮の発言に「しかし、しかし……」と声が上がる。誰だって戦争はしたくなかった。
慌ただしい議員をよそに、私はまったく別の事を考えてしまっていた。
先ほどの説明にもあったように弐国は五億人、対して玖国は五千万人しかいない。
国土もそれぐらいの差はあるだろうに、なんで玖国を狙うのだろうか。
私は顔をあげて一ノ宮に訊いてみた。

「ちょっとよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「ひとつ疑問なのですが、国土的な面に対して弐国に対して玖国はあまりにも小さいと思います。つまり、戦争をしても弐国にはメリットが少ない。なのに何故、弐国は玖国を狙ったのでしょうか」

 私の質問は確信をついたようだ、一ノ宮は驚きながら私に向き直る。
一ノ宮は何故かすぐには答えず、まるで言葉を選んでいるかのようだった。
その間に、議員の一人が苦虫を噛み潰したような顔で口を開く。

「一番戦力が無いとでも思われてるのか……」

 そんなぼやきに、一ノ宮はいち早く反論した。

「いえ、違います。戦力として我が国は決して弱くはないでしょう」
「では何故……」
「核ですよ。核爆弾がないから悠々と攻めてこれるのです。こんな殺伐とした世の中で、全て自国内の争いしか起きていないのは、核が原因なのです」

 私の頭の中に、戦争抑止力という単語が浮かびあがってくる。
各国は核爆弾を抑止力の為、自衛の為にとこぞって持ち始めた。
だが玖国は憲法上、核の所持を禁じている。

「今までは壱国という巨大な後ろ盾のおかげで戦争なんてありませんでした。しかし壱国の援助が期待できないいま、私たちは絶好の的になってしまったのです」
「でもっ!」

 私は勢いよく立ち上がってしまい、椅子が後ろに大きな音を立てて倒れてしまった。
近くに待機している従者が急いで椅子を起こしにやってくる。
私はひとつ咳払いをし、心を落ち着かせた。

「すいません。ひとつ質問したことがあるのですが」
「どうぞ」
「玖国に……核を作る技術はないのでしょうか」

 私の発言に会議室内の動揺は最骨頂となってしまった。
まわりの議員たちは騒ぎだし、聞きたくもない言葉すら小さく聞こえてきてしまう。

「静粛に。愛様、そのお言葉は……」
「言葉が不適切なのは認めます。しかし、玖国民を護るために核が必要であるのなら……いち早く着手すべきだと思います」

 一ノ宮はしばしの間、すこし顔をふせて顎に指を当てて考えこんでいる。
私の言ったことは間違ってはいないはずだ。
核という武器が必要なのであれば、玖国もいち早く実装すべきだと思う。
単純な考え方かもしれないが、さっき一ノ宮が言っていたことはそういうことだ。
一ノ宮が顔をあげて私の目を見た。

「先ほどの質問ですが、玖国も核を持つことは可能です。それぐらいの技術力は充分備わっています」
「では……」
「しかし、使用するにはある程度時間が掛かるでしょう。とても弐国が待ってくれるとは思いません」
「わ、私もそうは思います。でも、玖国が核を持てば弐国も引かざるおえないのではないでしょうか」
「愛様……核は持ってもいいですが、撃つことはできません。
 撃ってしまった瞬間、玖国は全世界から狙われることになるでしょう」
「え……」

「例えばここに居る全員が銃を片手に議論をしているとして、愛様だけが持っていないとします。
 愛様は別の議員から銃を突き付けられながら議論をしていましたが、
 いきなり隠し持っていた銃を突き返し、相手を撃ってしまった。するとどうなるでしょう」

「……おそらく私は他の議員から殺されるでしょうね」
「大変失礼な例を持ち出し、申し訳ありませんでした」
「いいわ、私の意見が間違っていただけ」

 私は少し不機嫌になりながらも着席する。
一ノ宮の言うことは間違ってはいないだろう、でも私は何かおかしい気がしてならなかった。
私はまだ一ノ宮から目を離さない、それに一ノ宮も気が付いたのだろう。
少し間を置いた後、私の名を呼んだ。

「愛様、まだなにか」
「では……戦争なのでしょうか」

 私の声は震えてしまっていた。その言葉にほかの議員たちも戦慄し、脅えた表情が漏れ出ていた。
それでも何人かの議員が一ノ宮に問いかける。

「だが、仮に玖国全土が弐国の植民地になっても弐国の問題が解決するとは考えられないが」

 一ノ宮はその問いに詰まることなく答えた。

「私もそう思います。
 しかし戦争をビジネスとまでは言いませんが、国の不満を別所に向ける国会対策のひとつとして考えることもできます。弐国は明確な敵を作ることで国内の内乱をおさめ、国民が持つ不満を全て玖国へ向かうように仕向けるでしょう」

 一ノ宮の説明を聞いて、私は何故か納得してしまいそうになってしまった。
明確な敵が現れれば、自国内で互いにいがみ合うこともなくなるだろう。
戦っているほうが平和になるだなんて……まるで獣、いや狂っているとしか思えない。

「それに先ほどの電話で、彼はなんと言いましたでしょうか」

 私の顔は引きつっていただろう、同時に頭も痛くなってきた。
私は震えた唇を抑えることも出来ないまま呟いた。

「間引く……と」

 私の悲痛とも取れる呟きに、会議室はいっそう静まり返ってしまう。
一ノ宮だけがその表情を崩すことなく、私の呟きに応対した。

「そうです。弐国は私たちを間引く、そう言いました。これはもう降伏の余地などないでしょう。最悪の場合……国家の殲滅戦になる可能性さえあります」

 バンッと大きな音を立てて机が揺れた。
一ノ宮の発言に激昂した議員の一人が、思いっきり机を叩いたのだ。そしてそのまま立ち上がり、

「そんな馬鹿な! そのような戦争、聞いたことがない」
「今までの戦争には多種多様な理由があります。
 それは植民地化による自国の繁栄、宗教や思想の違い、単に国家間の意地の張り合いでもあるでしょう。しかし今回は別だと私は思います。この大地には、人が多すぎるのですから……」

 堂々と正論を述べる一ノ宮に、議員達は反論する気力すら無くなっていく。
最後に残るのは、懇願だけだった。

「そんな……我が国にも五千万の民が居るんだぞ。全員殺すというのか」
「過去、そのような大量殺戮がなかったとでも?」

 鏖(みなごろし)、そんな言葉が頭の中に浮かび上がる。
これがもしも現実になってしまったら……玖国はまさに地獄と化すだろう。
考えるだけで溜息が漏れてしまう。

 玖国と弐国の人口の差はおよそ十倍、兵力や国力に至ってはどれほどの差があるのだろうか。
そんな強国から「殺しあおう」だなんて言われても……。

 私たちとしては、どうしようもない――。

 私は頭を横に大きく振って、諦めの芽を消した。
私たちがそんな気持ちじゃ、この戦争は絶対に回避できない。
なにか策があるはずだ。議員たちも同じ気持ちなのだろうか、様々な意見が会議室に飛び交った。

「宣戦布告前の奇襲攻撃だぞ、これだけでも世界各国が味方に付いてくれるのではないか?」
「世論を味方につかれば……」
「大人しく渡してしまうのはどうか?」
「三割も渡したらこの国は破滅だ、それにそれだけで済むとは到底思えない」
「国連に仲介してもらえないのか?」

 会議室は徐々に熱を取り戻し始める。今夜は誰も寝られそうになかった――。



 陽も昇り始めた朝方、ようやく会議は終わりを告げた。
 私は自室に戻り、窓の外からいつも通りの日常を送る街並みをみて、大きくため息をついてしまった。

「はぁ……平和ね」

 街は平和そのものだった。
スーツを着て歩いているサラリーマンたち、ベビーカーを押しながら歩いている女性。
あの人は夜勤上がりなのだろうか、眠そうに大欠伸をしている。
私もつられて欠伸をしてしまった。

 コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」
「愛様、お疲れ様です」

 一ノ宮が私の部屋に入ってくる。
 私と同じく疲れているはずなのに、その顔はいつとも変わらぬ精悍(せいかん)な顔つきだった。

「一ノ宮さん……どうだったの?」

 私は会議中に再度和平を申し出ていた、その答えが返ってきたのだろう。

「駄目でした、和平をするには無理な条件ばかりで話にもなりません」

 一ノ宮は私に書類を渡してくる。それには一ノ宮とヘルマンの会話の内容が記されていた。
私はそれを読んだ後、力が抜けたように椅子に座り込んだ。

「こんなの……国民を飢えで殺すか、戦争で殺すかの違いじゃない」

 私はまた大きく溜息を吐いてしまう。

「一ノ宮さん、私は……どうすればいいの?」

 一ノ宮は私の質問に珍しく考えているようだった。

「人は、人は誇りがなくても食料さえあれば生きてはいけます。逆もまた然り。ですがどちらもなくなった場合、戦って取り戻すしかないのです」

 私はその言葉に驚いてしまった。
いつも合理的な意見ばかりの一ノ宮が、珍しく精神論すら唱え始めたのだ。

「しかし、力が違いすぎるわ。まるで大人と子供の喧嘩よ」
「そうです、まさに大人と子供の喧嘩でしょう。もしそれが本当にあった場合、大人が喧嘩を止める時はどのような時でしょうか」
「子供が泣き叫んだときでしょ」
「そう。ですが、泣いても終わらない場合は?」

 泣いても終わらない。玖国が泣き叫んでも、弐国は決して止めることはないだろう。
もしもそうなってしまったら――。

「子供は、狂うか……死ぬしかないのね」

 一ノ宮は私の言葉にゆっくりと頷いた。
もう玖国にはそれしか残されていないのだろうか。
私は半ば諦めたように一ノ宮の背中を追うこともなく見送ってしまう。
一ノ宮は部屋の扉を開け、私に向かって一礼しながら呟いた。

「私に考えがあります。ですが、それは狂った考えです」

 そんな微かな希望を秘めたような言葉に、私は飛びついた。

「それは?」
「子供が大人に勝つには、大人が恐れるような武器を持てばいいのです。失礼いたします」

 一ノ宮が部屋を出ていく。
バタンと音を立てて扉がしまった瞬間、どっと疲れがおりてきた。
私はふらふらとしながらベッドへと倒れこんだ。

「武器……か」

 それが無いから苦労してるのに――。

 思えばこの半年間は問題続きだった。
やっとの思いでD政策を終わらせたのはいいけど、
D政策を終わらせたせいで様々な問題が浮上してきてしまった。

 以前からあった食糧問題、増え続ける人口問題。
まだ半年もたっていないからそう明るみには出ていないけど、根本的な解決策はまだ出ていない。

 このまま五年、十年と過ぎてしまったら前に大神が言っていた悲劇があるかもしれない。

 ああ……D政策は、なんて残酷なまでに画期的な政策なんだろう。さすがあんたが考えただけはあるわ、このくそ親父――。

 私は頭を大きく左右に振って、久条の顔をかき消した。
あんな醜悪な政策なんて認めるわけにはいかない。
そして新たな弐国との問題、戦争なんてやりたくないけど止める術がない。

 私の頭の中はかつてないほどにぐちゃぐちゃだった。

「もう八時か」

 昼からまた会議の予定が入っているから少しの間だけで眠っておきたい。

 今日は大変な一日になりそうね――。


 私はそう思いながら目を閉じた――。


次の日から弐国の侵略が開始された。
結局私たちは弐国の侵略から玖国を守るために兵をあげざる負えなかった。

 会議室で軍の司令官が淡々と状況を読み上げていく。
私はその言葉をどこか他人事のようにしか受け取れなかった。

「陸軍は旧C区域との境目を防衛線とし、配置完了しております。
 海軍は弐国の供給路を経つ為、逐次攻撃をしておりますが、戦況はあまり芳しくないようです」

 ああ、本当に戦争なんだ――。

 沢山の勲章を胸に飾った勇ましい男が、なにかしゃべっている。

「弐国側の兵力は約五万ほどであり……」

 私は疲労と眠気で頭がぼーっとしていた、男の話していることがなにひとつ入ってこない。
そんな時間がどのくらい過ぎただろうか、隣に座っている一ノ宮が急に立ち上がって声を張り上げる。

 「もう充分です」

 一ノ宮が勇ましい男の話を切った。

「もう戦況は結構です。それよりもこの戦争の終わりを決めなければならない、それが最優先です」

 一ノ宮の一言で会議室は静まり返る。

「でも和平は……」
「そう、和平は失敗に終わってます。
 しかしこのまま戦争を続けてしまっては本当に殲滅戦になってしまいます。
 あのヘルマンという男はどこまで本気なのかわからない」

 私はその言葉にはっと正気に返ったような気がした。
それは一ノ宮の言ったヘルマンという名前からくる恐怖だったのかもしれない。

 あの男はまるで狂人のようだ――。

 ちゃんと考えないと、玖国は滅んでしまうかもしれない。私は席を立って議員たちへ問いかける。

「何か、何か打開策はないでしょうか。いち早くこの戦争を終わらせないと玖国は……」

 会議室がざわつき始める。周りの議員たちは一斉に話始めたが、一向に手が上がることはなかった。


 数時間の議論を経て、決まったことは徹底防衛という当たり前の対策だけだ。
私は会議室を出て、両手で頭を抱えてしまっていた。

 使えない、なんて無駄で、無能なやつらなんだ――。

 このまま戦争が長期化してしまったら、玖国に必要な人材が次々と死んでしまうだろう。
 そしたら復興が難しくなってしまう。だから早く終わらせないといけない、いけないのに――。

「お気持ちお察しいたします」

 一ノ宮が私に向かって一礼してきた。
私と一ノ宮だけしかいない廊下を見て、私は思わず声を荒らげてしまった。

「これが貴方の言った策なの? 何も解決できていないじゃない!」
「愛様、これは私の言った策などではありません」
「なら早くそれを実行しなさいよ!」
「……まだ実行できる段階ではないです、申し訳ありません」
「なんなのよ……どうすればいいのよ」
「愛様」

 私は思わず廊下に座り込んでしまった。


「私は、このままじゃ私は……兎谷たちも殺してしまう」

 視界が滲んでしまう。
私は顔を両手で覆うが、手の中から涙が溢れ出ていってしまうのを感じていた――。



[40230] 五.生と死の狭間で(兎谷)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/08 01:24
 ――弐国の侵略が始まった。

 ニュースが流れている。内容は侵略を続けている弐国についてだ。
何万という兵が旧C区域に上陸、そのまま首都に向けて徐々に進軍しているらしい。

 兎谷はチャンネルを切り替えるが、先日まであったはずの娯楽番組はなく、
どれもつまらないニュースばかりだった。

「暇だねえ」

 兎谷はソファーに座わり、煙草を咥えたまま、つまらないニュースを見ていた。

「鉄さんも今日は休みなんすか?」

 兎谷は椅子に腰かけている鉄に向かって話しかける。

「いや、今日は午後からだ」
「あらら、忙しいっすね」

 兎谷はテレビのリモコンを手に取りチャンネルを切りかえる。
局が一周したところでテレビの電源を消した。

「戦争っても実感わかないっすね。
 向こうではドンパチやってんのかもしれないけど、ここは静かなもんだ」
「うむ……今の内はな」
「今の内っすか」

 鉄は何か考えるかのように腕を組みながら目を閉じた。
その仕草に兎谷も口を閉じる。部屋には静寂が訪れた。
しかしそれは長く続くことはなく、玄関を勢いよく開ける音が二人のいるリビングに聞こえてくる。

「たっだいまー」

 鈴の声だ。鈴はドタドタと廊下を走り、慌てた様子でリビングへと入ってきた。

「お、二人とも休みなの?」
「俺だけだよ、鉄さんは午後から仕事だってさ」
「ふ~ん、なら兎でもいいや。ちょっとあんた手伝ってよ」
「俺でもいいやって酷くない? 俺の心が深く傷ついたわ~」
「そのまま壊れちゃえばいいのよ。ってそんなのどうでもいいから手伝ってよ」
「はいはい、何するんだ?」
「買い物よ!」

 兎谷は鈴に手を引かれながら慌ただしく家を出て行った。
兎谷は鈴の走るペースに合わせながら付いていく。ついた先は愛と一緒に行った商店街だ。
そこには沢山の人がスーパーの前に並んでいた。

「なんだこりゃ、安売りセールでもやってんのか?」
「どっちかというと、高売りセールかな」
「なんだよそれ……」

 兎谷はスーパーの外から中を覗き込んだ。
まだ昼前だというのにスーパーの商品は売り切ればかり、ほとんどの物がなくなっていた。

「買占めか、でもこれってすぐに規制されちまうんじゃないの?」
「まだ規制されてないからいいの。それにこれから毎日買えるかわかんないんだから」

 鈴は人混みをかき分けながら中に入り、兎谷にカゴを手渡した。
その中にお米が何袋も入れられていく。

「おもてぇ~」
「ほら、頑張ってよ」
「まったく……大丈夫かよ」

 兎谷が呟いたのは何に対してだろうか。兎谷は大量の荷物を抱えながら鈴のあとを追う。
買い物が終わるころにはとても手では持ちきれず、仕方なくスーパーの台車を借りて家へと向かった。

「なんでこんなに買ったんだよ」
「なにいってるのよ、ニュース見てないの?」
「そりゃ見てるけどさ」

 兎谷はぼやきながら台車を押していく。

「まったく、戦争なんてほんと迷惑だわ」
「…そうだな、でも実感ないんだよなぁ」
「私もそんなのまったくないよ。
 でもせっかく自由に出歩けるようになったのに、
 有事ってことでまた封鎖されちゃったし、軍人は偉そうだし、嫌になっちゃう」

 鈴はぷんぷんと頬を膨らまし、手に持っているバックを振り回す。

「危ねえよ」
「別にいいじゃない、当たるのはあんただけなんだし」
「それが危ないって言ってんの」

 鈴は兎谷をからかうことで笑顔になっていく。
はしゃぎ回る姿は十代の女の子そのもので、二人の姿は仲のいい兄弟のようにも見えた。
今度はくるくると横に回りながら鈴は笑い続ける。
しかしその姿はどこか無理をしているようにも感じた。

「はぁ~それにしても何考えてるんだろうね」
「愛か?」
「そ、愛ちゃん。玖国の一番になったんじゃないの?」
「なったかもしんないけど、そんなに口を出せる立場でもないんじゃね? よくわからないけどさ」
「ふ~ん。政治のことはよくわかんない。でももっと私たちのこと考えてほしいよね」
「……そうだな」

 兎谷と鈴はその会話を最後に口を閉ざした。
がらがらと台車がコンクリートを進む音だけが辺りに聞こえる。
鈴はうつむきながら、兎谷はどこか空を見上げながら家路を辿った。

 兎谷は家に帰り着き、扉を開けると出るときにはなかった靴に気がついた。

「あれ、大神さん帰ってきてるんじゃね?」
「え、ほんと?」

 途端に鈴の表情がぱあっと花ひらいた。
靴を乱雑に脱ぎ捨て、鈴は急ぎ足でリビングへと向かう。

「ただいま~」

 リビングの扉を開けると、そこには神妙な顔つきで話合う大神と鉄の姿があった。
それに構うことなく鈴は大神に飛びついた。

「お帰り~どこ行ってたの? 連絡もないから心配したんだよ」
「鈴か、悪かったな」

 大神の声はいつになく低く、とても疲れているようにも聞こえた。

「大丈夫?」
「問題ない。それにまたすぐ出かける、今度は長くなるかもしれない」
「ええ~いつ帰ってくるの?」
「わからん」
「兎に行かせればいいじゃない」
「兎も鉄もお前も仕事があるだろう、それに今回は俺一人でも十分だ」
「むぅ~」

 鈴はまた頬を膨らませてむくれ始める、大神はそんな鈴の頭に手を置いてあやし始めた。
その光景は子供をあやす父親のようだ。

「危険なの?」
「危険ではない。だが、気乗りしないのは確かだ」

 大神は鈴の頭から手を離し、小さなバッグを肩に担いだ。

「鈴、家のことを頼む」
「うん!」

 鈴は笑顔で大神を送り出した。
大神がリビングを抜けて玄関に向かうと、荷物を搬入していた兎谷と出くわした。

「あ、大神さんお疲れっす」
「兎谷か、しばらく家を空ける」
「了解です」

 大神は兎谷の横を通り過ぎる。
かかとを踏み潰した靴を履いてドアを開けた。
そして兎谷に背を向けたまま大神は小さく呟いた。

「兎、いま何歳だ?」
「え、二十一っすけど」
「はっは。ついてねぇな」
「何すか急に、ついてないってこの戦争のことですか?」
「まあな」
「大丈夫っすよ、俺は兵隊じゃないし」
「でも、もし行くことになったら?」

 兎谷は少し間を置いて、頭を軽く掻きながら答えた。

「そりゃついてないって言葉だけじゃ済まされないっすね」
「くっくっく」

 大神は肩を震わせながら笑い始めた。
兎谷は自分のいった事のどこが面白かったのか、まるでわからないといった表情だ。

「そうだよな。運がないってだけじゃ済まされない……よな。行ってくる」
「いってらっしゃい」

 兎谷が大きな声で大神を見送った。
大神は小さく手を振り替えし、駅へと向かって歩いていく。

 その足取りは決して軽くはなかった――。



[40230] 五.生と死の狭間で
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/22 01:37
―― 一ノ宮が私の肩を叩いているような気がする。
でも、まだ目を開けたくない。開けたらまた会議だもの、もう少しだけ眠りたい。

「愛様、起きてください」

 今度はゆさゆさと体を揺らされる。
これでは眠りたくても寝られない、私はうっすらと目を開いた。
私を揺すっているのは一ノ宮ではなく、付き添いのメイドだった。

「おはよう、もう朝なの?」
「おはようございます。お疲れのところ申し訳ないですがお時間です」
「わかったわ」

 私は軽く背伸びをしてベッドから抜け出した。
寝ぼけたまま窓のそばに置いてある椅子へと腰をおろす。

「失礼します」

 メイドがテーブルに置いたのは暖かいトーストと珈琲。
寒い冬の朝にはもってこいだ、私は朝食を食べながら眼下に広がる街並みを見下ろした。

「変わったわね……」

 街を歩いているサラリーマンたちの横に、軍服を着て銃を持った男たちが闊歩するようになった。

「有事ですので」
「わかってるわよ。何か連絡はきてないの?」
「今のところは何もありません」
「そう……」

 私はその言葉を聞いて安心はしたが、同時に残念な気持ちになった。
何もないということは何も変わっていないことだ。
こんなときにのんびり珈琲を飲んでいるなんて褒められたことじゃない。
でもいいじゃないか、私はこれから夜遅くまで帰れないのだから。

 私はスーツに袖を通してズボンを履いた、スカートではなくズボンだ。
女性なのだから女性らしい格好をしたほうがいい、と一ノ宮から言われるが、
あいにく私は女性扱いなんてしてもらいたくなかった。

 そもそもスカートなんて似合わないしね――。

 私は薄く化粧をし、長く延びた髪の毛を後ろで一つに束ねた。

「よしっ、行ってきます」
「お気をつけて」

 私はメイドに見送られて国会へと足を運んだ。

 会議室の扉を開けると、すでにいつもの面子が勢ぞろいしていた。 
私もいつもの席へ腰を下ろすと、早速会議が始まった。

「先日決定いたしました玖国側の意向としましては……」

 一ノ宮が昨日決まったことに関してなにやら大仰な言葉を並べて話している。
私はとても人任せな作戦に昨日から頭を悩ませてばっかりだった。

 玖国がとった行動は主に三つだ。

 一つめは停戦、これは門前払いで終わってしまった。

 二つめは防衛、これは随時対応中だ。玖国は島国だから海岸の防衛に七割もの兵力を配置した。
これで上陸している弐国の兵にはたった三割の兵力で対応するしかない。
私は無謀だと思ったが、
他に上陸されてしまえば更に危機的状況になるとの一ノ宮からの進言に断れる理屈がなかった。

 三つ目は壱国への救援依頼だ。
壱国内での内戦が終われば、すぐに玖国を助けに来てくれるとの約束を取り付けた。
もちろん私たちが支持する側が勝てばの話なので、玖国はなけなしの食料や弾薬を提供してしまい、
国庫はすっからかんの状態になってしまった。

 ……なんだか私まで難しく考えすぎているのかもしれない。

 要するに壱国が助けに来るまで玖国を守りましょう、って作戦だ。

「愛様」

 ああ、なんて無様な作戦なんだろう。
いじめられっこが居るかどうかもわからない正義のヒーローが来るのを、
ただ指を咥えて待ってよう作戦。こんなもの作戦なんて――。

「愛様!」
「ひゃ、ひゃい!」

 私はいきなり名前を呼ばれて変な声がでてしまった。

「愛様、お疲れのところ申し訳ないですが、いまは会議に集中してください」
「すいません……」

 私は一ノ宮に言われてすっと背筋を伸ばし、椅子を立って話をしている軍人のほうに目をやる。

「……いたしまして、第一戦の玖国側の戦死者は五十名ほどで、弐国側はおよそ一万名を超える戦死者が出たと思われます」
「え?」

 私はまるで夢を見ているかのような報告に思わず驚いてしまった。
先ほどからそのような話をしていたのだろうか、驚いたのはどうやら私だけのようだ。

「そ、それはなんで?」
「愛様、お話を聞いていらっしゃらなかったのですか?」
「まぁまぁ。国王はお疲れの様ですので、私から説明致しますよ」

 軍人はにこにこしながら手元にある資料を読み上げていく。
玖国が大勝利をしたのが面白くて仕方のない様子だ。

「弐国側の装備が旧式であったことから、私たちは弐国の射程距離外から攻撃を開始いたしました。
 それでも弐国は幾度も突撃を繰り返しましたがすべて迎撃いたしました。
 その際、最前線の部隊が物量の差で少々戦死者を出しましたが、
 被害は皆無と言ってもよろしいかと思います」

「え、えっと……それは」
「玖国の大勝利です」

 会議室から大きな歓声と拍手が舞った。まるで戦争に勝ったかのように賑わっている。
私も思わず頬が緩んだが、横に座っている一ノ宮の顔がまるで興味なさそうに白けているのを見て、
顔を引き締めなおした。私は歓声に包まれている最中、小声で一ノ宮へ話しかけた。

「どうしたの?」
「これは愛様、何かありましたか?」

 一ノ宮は笑顔を作って私へ顔を向ける。

「質問してるのは私よ、なんだか面白くなさそうじゃない」
「え、ええ……敗色濃厚だったのに逆転勝ちをすると、何か裏がありそうで怖くなりましてね」
「裏?」
「私の考えすぎですね、ともかくこれでは収まりがつかないでしょう。
 愛様もお疲れのようですし、今日はこれにて終わりにしましょう」

 一ノ宮は会議を終わらせようと、椅子から立ち上がった。

「あ、待って。さっきの報告に関しての資料を、私に持ってくるように伝えてもらえないかしら」

 一ノ宮は驚いたように私を見たが、「了解しました」と会釈をした後、会議を終了させた。



 私は官邸に帰ると、さっそく一ノ宮から貰った資料に目を通した。
戦の知識なんて持ってない私が読んでも意味ないかもしれない、
でも一ノ宮の言葉が気になった。しかし……

 何にもわかんないわね――。

 私は資料を持ったままどさっとベッドに横になった。
結局私にはわかることなんてひとつもない。
しいて言えば今は勝っている、それぐらいのことぐらいしかわからない。
私は顔だけ上げて、半ば愚痴っぽく横にいるメイドに向かって口を開いた。

「ねえ」
「はい」
「うち、勝ったみたいよ。最初の一戦だけど大勝利だったみたい」
「それはいい知らせなのでしょうか」
「たぶん、ね」

 メイドはそこで口を閉ざしてしまった。私は再度話しかけてみる。

「何か感想は?」
「私は政治や戦争のことは何一つわかりませんので」
「私もよ」

 私はメイドが口を開くのを待ってみる。一分ほど経っただろうか、
この空気に居心地が悪くなったのか、メイドはしぶしぶ口を開いた。

「……亡くなった兵の方々にご冥福をお祈りいたします」

 私はその言葉を聞いて何かを取り戻せた気がした。

「そうよね、それが普通の反応……でいいのよね」

 私は目を閉じながら横になった。この戦争で早くも一万人が犠牲になったんだ。
玖国側の犠牲が極々少ないからといって、両手を挙げて喜ぶ気には到底なれない。
これから同じような報告は増えていくだろう。

 でも人の命を、まるでゲームの駒のように扱う気には――。

「ですが」

 メイドが口を開いた。私は思わず目を開けてメイドを見る。

「私たち庶民は悲しむことしか出来ません。
 ですが愛様はこの戦争を終わらせる権力(ちから)があります」

 彼女の言葉は、まるで私を初心に帰らせるように、

「どうか国民のためにも、そのことだけはお忘れなく」

 ストンと私の心の中に染み渡った。私は体を起こし、ベッドから起き上がる。

「ありがとう、どうかしてたわ。この国を変えるため私は此処に座ったのに、もう忘れてた」

 私は先ほどまで見ていた書類を手に取り、いつも座る椅子へと腰を下ろした。

「私が止めてみせるんだから」

 疲れた体に鞭をうち、私はなんとか和平策を模索していった――。



 ――いつの間にか昼が過ぎ、徐々に日が落ち始めていた。
私は椅子から立ち上がり、窓から街並みを見下ろしながらメイドに珈琲を依頼した。

「あ、あと一ノ宮さんを此処に呼んでください」
「かしこまりました」

 メイドが扉を開けて部屋を出て行く。私は珈琲をすすりながら眠たい頭を叩き起こす。
十五分ほどで扉をノックする音が聞こえてきた。

「どうぞ」
「失礼します、お呼びでしょうか」
「早いわね、昼間はよく眠れた?」
「いえ、私はそんなに寝なくても問題ないので」
「あら。でも体には気をつけてね、あなたは玖国にとって大事な人なんだから」
「了解しました……なにかありましたか? 朝とはまるで別人のようですが」
「昔に戻っただけよ」

 私が椅子に座りなおすと、扉の前にいた一ノ宮も目の前の椅子に座った。
私と一ノ宮は机をひとつ挟んで、向かいあうように座る。

「貴方の考えをもう一度聞きたいわ。この戦争を終わらせるにはどうすればいいの?」
「それは和平ということでしょうか」
「そうね。そう捉えてもらって結構だわ」
「弐国の様子から見ると和平は極めて難しいと思われます」
「それは分かっているわ。ならどうやって戦争を終わらせようと思ってるの?」
「戦争を終わらせるにはどちらかが泥を被る必要があります。
 被りようによっては国が亡くなるかもしれませんし、どちらも被りたくはないでしょう」

「なら?」
「二つの国で無理ならば、他の国に仲介してもらう必要があります。
 壱国の紛争が収まるまで被害を少なくし、徹底防衛に努めるのが最良かと思われます」
「それが貴方の考えなのね……」
「はい」

 私は一ノ宮の返答を聞き、先ほどまで読んでいた資料を机の上に置いた。

「これを読んでちょうだい」
「これは、朝に話しをした陸軍の資料ですか」
「そ。ここを見て」

 私は資料の隅を指差した。

「我が軍は二キロメートルの転進と陣地の再構築、とありますが」
「これはまずいんじゃないかしら」
「まずい、と申されますと?」
「海岸から首都までは三百キロしかないのよ。戦果は出ても勝ちとは言いがたいわ。
 それに私たちに必要なのは壱国が来るまでの時間のはずよ」
「そ、それは確かにそうですが……」

「一ノ宮さんにはそこを調べてほしいのよ。
 相手の兵量と残弾薬、そしてこの進行速度ならいつまで耐えることが出来るのか。
 その現状次第では壱国を悠長に待つのは危険だわ」
「はっ、承知いたしました」

 一ノ宮は急ぎ足で部屋を出て行った。
私は扉が閉まるのを確認してから、大きくため息を吐いた。
すっかり冷めてしまった珈琲に口をつけ、少しの間だけ目を閉じる。

 なるべく戦死者を出さず、戦争を終わらせるには――。

 私一人の頭では案は出そうにない。
なら今の案が正しいのか、それだけでもしっかりしとかなくては反論すら出来ない。
私はいつのまにか椅子に座ったままうとうとと、船をこいでしまっていた。

――――
――

「愛様」
「は、はいっ」
「愛様、お疲れのところ申し訳ありません」

 目の前には書類を持った一ノ宮の姿が見えた。
時計を見るとすでに二十一時を回っており、
夕日で染まっていたはずの街は明るくライトアップされている。
どうやらうとうとしながら寝てしまっていたらしい。私は口元を拭って一ノ宮に目を向けた。

「ごめんなさい、早かったわね」
「どうしましょう、明日にしましょうか?」
「いえ、今お願い」
「かしこまりました」

 一ノ宮は持っていた書類を机の上で広げ始める。
なにやら数字がたくさん書いてあるが、こんなものはどうでもよかった。

「個々の説明はいいわ、どうだったのかだけ教えて」
「はい、関係者に確認したところ……おそらく一年ほどで首都まで到達するだろうと」
「一年……か、その数字は正しいのかしら」
「私は概ね正しいと思います、ですが」
「ですが?」

 私は一ノ宮の言葉をオウム返しで問い詰めた。一ノ宮は髪をいじり、なにやら考えている。

「ここからは私の妄想に過ぎないのですが」
「結構よ、教えて」
「わかりました。今回の弐国との戦闘ですが、矛盾しています」
「矛盾?」

「はい、一つ目は上陸地点です。上陸されたのは旧C区域ですが、此処から上陸するよりも首都に近い海岸はたくさんあります」
「警備が薄いとか、そういう理由じゃないの?」
「いえ、お恥ずかしながら海上の警備はどこもそう変わりません。
 それに壱国の援護が来れば不利になるのは弐国側もわかっているはず。
 それでもあえて一番遠い海岸を選んでいます」

「いったい何故……?」
「それだけではありません。戦果については報告どおりですが、問題は兵の質です」
「兵の質?」
「相手は歩兵だけで装備も旧式、戦闘行為も無謀な全員突撃のみのようです。
 これではまるで三百年前の戦争ですよ」

 一ノ宮の報告を聞いていくと、確かに矛盾がある。
弐国側は余計な邪魔が入らないうちに、短期決戦をしかけてくると思っていた。
そして我が国は壱国が支援にくるまでの時間稼ぎが目的だ。

 しかし弐国はあえて遅れるような行動を取っている。
それに戦果も期待できないような兵を送り、無謀な突撃を繰り返すだけ。
私には弐国が何をやろうとしているのかまったくわからない。

「これは妄想です、私の勝手な妄想と思ってお聞きください」

 一ノ宮が何度も口をすっぱくして言う。

「大丈夫よ、わかったからお願い」

 一ノ宮は手で口を覆い、頭を捻りながら静かに言った。

「もしかしたら弐国は、人を減らすのが目的なのではないでしょうか?」 

 その言葉に、私は思わず息が詰まってしまう。

「先代のD政策、それに限りなく近いものがあるのではないでしょうか」
「ば、馬鹿言わないでよ。これは戦争なん……」

 そこまで言って私はようやく気づくことができた。

「そうです、戦争では人を殺しても、人が殺されても当たり前のこと。しかもDより」
「言わないで、それを言われてはあまりにも悲しすぎる」
「失礼しました」

 一ノ宮ならずっと前から気がついていたはずだ。
口が滑ったのはこの事態に一ノ宮も焦っているからだろう。

 だって何も考えなしに口減らしをしたいなら戦争が一番手っ取り早いだろう。
もし勝てば国にとって有益だし、負けても目的は達成できる。
しかしそんなことが言えるのは弐国のような、負ける要素がないほどの大国家でないと無理だ。

 さっき負けてもと言ったけど、こんな時代に負けた後立ち上がれるはずがない。
だから久条はDなんて最悪な政策を取らざる終えなかった。

 私は大きくため息を吐き、下を向いて黙っている一ノ宮に話しかけた。

「最悪なのは変わらないわね、一年以内に壱国の内戦は終わりそうなの?」
「それは……わかりません」

 一ノ宮は心底申し訳なさそうな表情をした。
私も意地悪な質問をしてしまったものだ、だってそんなこと誰もわからないのだから。

「うん、わかったわ」
「あ、愛様」
「でも和平と根回しだけはしててね。
 壱国がやっぱりやーめた、とか言っちゃったらもうどうにも出来ないから」

 私はお茶らけた様に手を軽く振りながら、一ノ宮に下がるよう命じた。

「それは承知しております。しかし弐国側は和平に応じるとは思えません」
「いいのよ、ポーズだから」
「それを聞いて安心しました、失礼いたします」

 一ノ宮は私に一礼して、部屋から出て行った。
パタンと小さく扉が閉められる。
一人になり、部屋の中が静まりかえると私はなんだか凄く興奮していた。

 不謹慎だとは思うけど、私はようやくこの国の役に立てるかもしれない――。

 そう思うとどんどん心が高揚してしまい、
眠たかったはずの目は冴えてしまい、中々寝付けないでいた――。



[40230] 五.生と死の狭間で(兎谷戦闘前)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/29 00:27
 
――『弐国の軍隊は徐々に侵攻しており、旧C区域第四十六区から第七十七区までは軍事衝突が予想され』

 ぶつっと音がしてテレビの電源が消された。
兎谷がリモコンを持ちながら暇そうに煙草を咥えている。

「暇だ……」

 そのままリビングに置いてあるソファーに寝そべった。
兎谷が目を閉じるとカチャと扉が開く音が聞こえ、リビングには鉄が顔を出した。

「どうした、仕事じゃなかったのか?」
「あ、鉄さんお帰りなさい。職場は閉鎖しちゃいましたよ」
「閉鎖?」
「徴兵されて人が居なくなってしまったんすよ」
「……そうか」

 鉄はそういって荷物が入った袋をテーブルの上に置き、上着をハンガーにかけ、椅子に腰を下ろした。
兎谷は煙草に火を点けようと立ち上がり、窓を開けて少し伸びた縁側に腰を下ろした。

 いつの間にか玖国は春を過ぎ、夏に近づこうとしている。
戦争が始まってすでに半年の月日が流れてしまい、旧C区域のほとんどが弐国側に占領されてしまっていた。

 B区域の人は徐々に戦争に取られ、電力などの生活必需品も最低限にされ、地下にある旧B区域はいつも薄暗いままだ。

 兎谷は薄暗い夕方の様な空を見て呟いた。

「まだ終わらねぇのか」

 兎谷は変わってしまったこの戦争についてぼやいていた。
しかしぼやくだけで何も出来ない、半ば諦めのような印象すら受けてしまう。

「兎」
「へい」

 鉄が兎谷になにやら封筒を手渡してきた。
それを見て兎谷は頭をぽりぽりと掻きながら封筒を受け取った。

「ついに来ちまったか」

 それは軍からの召集令状だった。
玖国にも一応形だけではあるが兵役はある、二十歳以上の男性なら少なからず軍隊経験があるのだ。
兎谷は横目で鉄の表情を伺うが、鉄はいつもの無表情を崩すことはなかった。

「鉄さんは何処でやってたの?」
「俺は少し特殊だった。スナイパー志望だったんでな」
「へ~エリートじゃん」

 兎谷は小さな声で「じゃあなんでこんなところにいるの?」と呟いた。
それは鉄の耳には聞こえないような小さな声だ。
此処に居る以上、みんな何か理由があることを兎谷は知っていた。だから野暮な質問は避けたのだろう。

 兎谷は封筒を開け、中に書いてある詳細を見る。召集日は、なんと三日後だった。

「こりゃ相当焦ってるな」

 兎谷は大きくため息を吐く。仕事もなくなり、流れるニュースは戦争の話題ばかり。
確かに暇を持て余してはいるのだが、

「暇つぶしが戦争だなんて、頭がおかしくなりそうだ」

 この国で大きな戦争があったのはなんと二百年も昔のこと。
個を捨てて、公を守る。そんな心なんて、今の玖国民に有るのだろうか。
当然逃げ出す者も大勢いるだろう。

 だが弐国によって港は既に制圧されている、逃げられるはずもない。
封筒を持って立ち尽くす兎谷に、珍しく鉄が声を掛けた。

「どうする?」

 その言葉に兎谷は困惑する、だがいくら考えても答えは出ない。

「どうするったって……」
「逃げるか?」
「逃げるって、どこに?」
「さぁな」

 鉄はそのまま黙りこくってしまった。

「俺だって銃を撃ったことぐらいあるっすよ、人に向けて撃ったこともある。でもそれは……」

 兎谷は両手で顔を抑えてしまう、言い訳の言葉は見つかりそうもなかった。

 戦争にいけば間違いなく人に向かって撃つだろう。
結果としてそれが相手を殺すことになろうとも、仕方が無い。
それが戦争なのだから、殺されたくは無い。
兎谷は顔を覆った手を戻し、鉄に向かって話しかけた。

「鉄さん、鈴は……鈴はどうしようか」
「仕方あるまい」
「仕方ないって、そんな」

 鉄の返事に兎谷は顔を曇らせる。大神は仕事なのか中々帰っては来なかった。
二人が居なくなってしまったら、この家に鈴だけ置いてけぼりになってしまう。
どこかに預かってもらおうにもそんな当てはなかった。

 兎谷が考えてる最中に、玄関のドアが勢いよく開く。同時に元気の良い声が家中に響き渡った。

「たっだいまー!」

 鈴が帰ってきた、彼女は今日も元気いっぱいの笑顔を兎谷と鉄に向ける。

「見てみて二人とも。今日はなんと、ジャーン! お米が買えましたー」

 鈴はリュックから買って来た米を自慢気に取り出す。そのまま食材を持って、すぐさま台所に立った。
「少ないけどね」とすこし残念そうな顔もしたが、今の世の中米は貴重品だった。
容姿がいい鈴のことだ。さぞ店の店主にでも好かれたに違いない。

 兎谷は将来間違いなく美人になるであろう、鈴の姿を思い浮かべた。

「将来……か」

 兎谷はせわしなく動き回る鈴の姿を見ながら呟いた。

「それでいいんじゃないか?」

 鉄が兎谷の心を読んだかのように口を開いた。

「鉄さん、超能力者か何かすか」
「お前の表情は読みやすいからな」
「はは、かなわないな」

 それはただ単に理由が欲しかっただけかもしれない。
兎谷はそれがなんの免罪符にもならないことを充分知っていた。
だが、それが自分の為だけでなく、家族の為ならば、

「命をかけてみても、悪くないっすね」

 兎谷はにっこりと笑いながら鉄に向かって微笑んだ――。



 ――薄暗い空が、更に暗くなっていく。楽しい食事のあと、縁側に座りながら、兎谷はひとり煙草を吹かしていた。

 あのあと鉄と話し合い、鈴に徴兵の件を伝えることにした。
先延ばしにしても仕方がないし、なにより二人には時間がなかった。

 徴兵の件は鉄が一人で伝えることになった。
鉄が「俺一人でいい」と兎谷を拒んだからだ。それは鈴への配慮だったのかもしれない。
だが、兎谷は気になって外まで足を運んでしまっていた。
隣の部屋からは涙声で話す、鈴の声が所々漏れていた。

「泣いているのか」

 兎谷は大きく紫煙を吐き出す。

「ついてない――か、そんなんじゃ諦めきれないよな」

 兎谷は大神との会話を思い出しているのだろう。運がない、なんて言葉じゃ諦められない。
いくら国家危機とはいえ、あまりにも唐突すぎる徴兵だ。

 突然家族が連れ去られ、戦争の犠牲になってしまう。
国は残された家族のことを考える余裕すら無いのだろう。

 兎谷は縁側から静かな街並みを眺め続ける。

「ここは平和だな。でも、もうすぐ戦場になっちまうのか……」

 兎谷はこめかみを押さえながら俯いてしまっていた。
兎谷はあのクリスマスの日、弐国の攻撃をその目で見てしまっている。
立ち上る砲煙と焦げた大地の醜悪な臭い、その中へと身を投じなければならない。
考えただけでも頭が痛くなってしまうのだろう。

「家族の為……か。嫌だねぇ、まるで死ぬ準備でもしてるみたいだ」

 兎谷は煙草を灰皿に押し付け、パンッと両手で顔を叩いた。
死ぬ準備、まるでそんな感傷に浸る自分を戒めるように、強く大きな音が辺りに鳴り響く。

 兎谷はすっと背筋を伸ばすと、そのまま部屋へと戻っていった。

 兎谷は住み慣れた街をまるで最後の様に眺める自分が嫌だったのだろう。
しかしこんな事態にいつもどおりの日常をおくる事は難しい。
そして、いつの間にか死ぬ準備をしている自分に嫌気がさす。

 兎谷の行動はそんな思いを感じさせた――。

――翌朝。

 どんよりとした朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
地下の世界では朝の光すら制限されていた。
それでも毎朝の習慣だろうか、兎谷は目覚まし時計よりも早くおきた。
目を擦りながら大きく欠伸えおし、身体を起こす。目覚めは気持ちのいいものでは無かったようだ。

「……鈴は、どうなったかな」

 二人が徴兵されることを聞いて、鈴はどう思っただろうか。
鉄に任せろと言われて了承したせいか、どうにも聞きにくいものがあった。

「はぁ~起きるか」

 兎谷は考えても仕方が無いとばかりに立ち上がった。とりあえず顔でも洗いにいこうと部屋を出る。

「おはよ~」

 リビングに入ると鈴の元気な声が聞こえていた。その声に兎谷は思わず驚いてしまう。

「あ、ああ。おはよう……ってなんだこりゃ!」

 鈴はいつも通り朝食の準備をしていた。
だが、今日はいつもと違って物凄く豪華だ。
白米に味噌汁に焼き鮭、それに海苔や納豆、卵と純玖国風の食事だった。

「あんたたちもうすぐ行くんでしょ? なら今のうちに美味しいもの食べとかなきゃ!」

 鈴は笑顔でそう答えた。兎谷は眩しい程の笑顔に戸惑いを感じつつも、自分の席に座ろうとする。

「あ、もうすぐできるから。鉄ちゃん呼んで来て」
「お、おう」

 鈴の言葉どおり、兎谷は席に座る前に鉄を起こしに部屋へと向かった。

「鉄さんは、どんな話をしたんだろうな……」

 兎谷は鈴の変わりように驚きを隠せなかった。
鉄に聞くなら今が丁度いいだろう、聞くべきかどうか、兎谷は迷いながらドアをノックした。

「鉄さん、起きてます?」
「ああ、すぐ行く」

 部屋の中から気だるそうな鉄の声が聞こえてくる。
兎谷はごくりと生唾を飲み、ドア越しに鉄へと話しかけた。

「昨日……なんて言ったんですか?」
「そのままだ。鈴には俺たちが行くことをそのまま伝えた」
「……本当っすか」
「ああ」

 兎谷は目を細めながら、少し悲しそうな表情を浮かべていた。
ドアに頭をつけながら、小さな声で話しかける。

「鈴は、結構無理してるみたいっすよ」
「……鈴は強い女だ」
「ガキっすよ、あいつも俺も……。お二人に比べたらただのガキです」

 兎谷は大神や鉄のように気丈に振舞えない、と愚痴をもらした。
鈴の変わりようにショックを受けたのか、それともこんな時代に生まれた自分を呪っているのか。
そのどちらも混ざり合い、兎谷の心は酷く揺れているように見えた。

「そう嘆くな、薄く見えちまうぞ」
「薄く?」

 扉一枚に隔てられていても、鉄が苦虫を噛み潰している表情が見えてしまいそうな、低く重い声が聞こえてくる。

「昨日、お前は戦う意味を見出せたんじゃなかったのか?」
「……」

 兎谷は緩んだ手のひらを強く握り、背筋を伸ばして頭を上げた。

「……鈴が朝飯気合入れて作ってるんで、早く来てくださいね」
「ああ」

 鉄の声も少し軽くなったような気がした。

 リビングに鉄が入ってくると、いつもは無愛想な表情も、豪華な食事に目を丸くする。
その表情に鈴は喜び、笑顔を二人に向けた。


 徴兵までの三日間、毎日鈴の豪華な食事が続いた。
鈴はいつも笑顔だった。
それは戦争に行ってしまう二人に心配させないような……彼女なりの強がりだったのかもしれない。

 強い娘だと心底そう思う、心の底ではきっと泣き叫びたいぐらいの事件だっただろう。
もしも、自分が逆の立場だったらどうなっているだろうか? 彼女の様な気丈な態度が取れるだろうか。
残された時間はあと二日半。それからは二度と会えないかも知れない。

 兎谷に後悔の念が重くのしかかる。なぜもっと一緒に居てあげれなかったのか。
時間が永遠ではないことなんて、彼は知っているはずだった。


 そして三日目の朝が訪れた。

 今日の昼には徴兵場所に集合しなくてはならない。
兎谷と鉄の二人は封筒に記載してあったとおり、最低限の荷物だけを持って此処を出る。
部屋の前で兎谷は鉄に尋ねた。

「準備いいですか?」
「ああ」
「まだ一時間ぐらい余裕ありますけど」
「知らない地区だ、早く行っておいたほうが無難だろう」
「そうっすね」

 兎谷は大きめのリュックを担ぎ、鉄も同様にバッグを肩に背負いながら玄関のドアを開けた。

 いつもどおりの見慣れた風景が、なぜか特別なように感じられる。

 もう此処には帰れないかもしれないな――。

 兎谷はそう思いながら玄関先を見つめた。
玄関の前では鈴が見送りをしてくれる。鈴は今日も笑顔だった。

「行ってらっしゃい」

 いつもどおりの挨拶は、兎谷の心を酷く揺らした。

 別れの言葉なんて、この国にはたくさんあるのに――。
 俺たちの行く先は戦場だなんて、鈴は知っているはずなのに――。

 兎谷はこの三日間、鈴から泣き言なんて一度も聞いたことが無かった。
旅立ちの朝までいつもどおりの鈴の姿。その姿は眩しく、凛々しくすら感じさせる。

 兎谷はまぶたを震わせながらも、強気に手を振って答えた。

「行ってきます」
「……行ってきます」

 兎谷にあわせ、鉄も同じ言葉を鈴に返した。兎谷と鉄は駅に向かって歩き出す。
鈴は二人の後姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。

「いい言葉っすね」
「……行ってきますの後には続く言葉がある」

 鉄は兎谷に優しく問いかけた。兎谷は震える瞼を手で拭いながら、笑顔で言った。

「ははっ、そんぐらい俺だって知ってますよ」
「そうか、ならいい」

 鉄も目を細めながらにこりと口元を緩ませた。

 二人はまた此処へ帰ってくるために、「ただいま」を言うために戦場へと赴く。

 二人が後ろを振り向くことはなく、通り過ぎていく街並みをゆっくりと歩いていった――。



[40230] 五.生と死の狭間で(兎谷戦闘1)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/29 00:27
――旧B区域 第四二区――

 目的の場所に到着すると、すでに徴兵された人で溢れ返っていた。
二人が住んでいた第四十六区とは違い、戦地に近いこの場所は人が忙しなく動き回り、
錆びた鉄の臭いからは戦争独特の雰囲気が感じられた。
綺麗に舗装されていたはずのアスファルトにはキャタピラの跡が色濃く残っている。

「ひでぇな」

 兎谷はひとり呟いた。鉄の後ろ頭だけを目印に進んでいく。
入り組んだ道路と、途切れない人の波は、朝の満員電車を思い出させた。

 目の前を軍服を着た兵隊たちが規則正しい歩幅で歩いていき、
戦車や車両がところ狭しと置かれている。
去年まではこの地区もなんら変哲のない居住区だったのだろう。
愛が地下の楽園とまで称した世界は、泥沼へと変貌していた。

「行くぞ」

 鉄は戦車を眺めている兎谷に声をかけ、集合場所へと足を進める。
その足取りは家を出たときとは違って、重いものだった。

 集合場所には大きな体育館だった。
軍服に着替え、支給品を受け取り、書類にサインをして小隊へと入っていく。
味気な事務的な処理だ、会話する者は誰もおらず辛気臭ささだけが漂っていた――。

――――
――

「本作戦の目的は敵の侵略を食い止めることにある」

 軍服を着た上位階級と思われる男が壇上に上がり、大きな声で皆を激励している。
まだ隊に合流してから二日しかたっていない。後ろのほうで聞いていた兎谷はついぼやいてしまった。

「たった二日で戦場入りか……」

 焦っているのは召集令状の詳細を見てわかっていた。
しかしあまりにも急すぎる状況に思わずため息すら漏れてしまっていた。

 皆を鼓舞しようと、壇上にたった軍人は大きな声を更に張り上げていく。
しかし兎谷の耳にはまるで届いていないようだった。

「祖国のために決死の覚悟で臨んでほしい、以上だ」

 皆が一斉に敬礼をする、兎谷もワンテンポ遅れて右手を頭の上に掲げた。
そこで一時休憩となった。

「だり~、さっさと飯にでも行きましょうよ」
「うむ」

 兎谷は鉄と一緒に配給所へと向かった。
集合場所となったこの第四十二区は、住宅地の顔はもうなく、戦争のための前線基地になりつつあった。

 戦争の用意などできていない玖国では、大きな食堂なんてものはない。
配給所で食事を貰い、空いている民家で暖をとっていた。

「出遅れたな~もう不味そうなのしか残ってないぜ」

 兎谷は文句を言いながらも列に並んだ。あまり食欲はなかったが、何か食べておかないと働けない。

 ついてねぇな――。

 兎谷はまたため息を漏らした。戦う決意はした、戦う理由もできた。
しかしちょっと緩んでしまうとすぐため息を吐き、煙草を咥えてしまう。

 情けないとも思っていただろう、しかし気丈に振舞う理由もなかった。
兎谷は煙草に火をつけ、呆けながら列の先を見つめていた。

「うおっ」

 突然兎谷はバランスを崩し、列から弾き飛ばされてしまう。
いや、急に手を引かれたのだ。兎谷の手を掴んでいる主は、そのまま狭い路地へと走っていく。
兎谷は足に力を入れ、バランスを立て直しながら引かれている手を強引に切った。

「このや……」

 兎谷は自分を連れ去ろうとした主を大声で怒鳴るつもりだったのだろう。
だが、その格好を見て肺に溜め込んだ空気をゆっくりと吐き出した。

 玖国では見る事の出来ない真っ白いローブに顔と体を包み隠している。
まるでイスラム社会のニカーブの様に目元以外を全て覆い隠していた。
しかし、唯一見えている目で誰か分かってしまった。

「愛、なんて格好してんだよ」

 兎谷は笑い出してしまう、ローブに包まれて現れたのは愛だった。
愛は身に纏ったローブを触りながら口を開く。

「へ、変装?」
「はっはっは、逆に目立つだろ」

 兎谷は大声で笑い転げてしまっていた。
戦地に一番近い街で、緊張感の欠片も無く笑い続ける兎谷に、愛が怒り始めてしまった。

「なによ、もう……折角人が着てあげたのに」

 愛は兎谷から目を反らし、後ろを向いてしまう。兎谷は怒ってしまった愛の後姿に話しかける。
その声は先程までのふざけた雰囲気ではなく、真剣な兎谷の本音が感じられた。

「なんでこんな所に?」
「……あなた、今日行くんでしょ?」
「ああ、今からな」
「貴方を、連れ戻しに来たの」

 その言葉に兎谷の時が止まってしまった。
自分を連れ戻す、すなわち戦地から逃げれるという事だろうか。
心が揺れそうになる、だが兎谷は抑揚無き声で愛に訊いた。

「なんで?」
「……」

 愛は黙ったまま、立ち尽くした。
愛自身も分かっているのだろう、曖昧な答えでは兎谷を連れ戻せない。
考えていく間にも時間は過ぎていく、愛は堪えきれない本音を吐露してしまった。

「貴方を、仲間を、殺したくない……」
「とても一国の王の意見じゃないな」
「嫌なの! これ以上人が死ぬのは」

 愛は強く拳を握る。顔は見えないが、悲壮な声が愛の感情を露(あらわ)にしていた。

「俺ひとり逃げても、何も変わらないぜ。俺の代わりに誰かが行くだけだ」
「鉄さんも一緒に徴兵されているって聞いたの……」
「まぁな、軍隊は人手不足だとよ」
「もう嫌なの……こんな戦争」
「なら早く終わらせるこったな」

 兎谷達は知らない。
なぜこんなにも無謀な戦争が起こったのか、民衆は知らないのだ。
愛の言葉は次第に小さくなっていった。

「終わらないのよ……」
「じゃぁな」

 兎谷が踵を返し、列へと戻ろうとする。それを引き止めるように愛が大きく兎谷を呼んだ。

「待ってよ! 仲間でしょう!?」
「仲間だからさ」

 兎谷は立ち止り、精一杯笑って見せた。正直、会えて嬉しかったのだろう。
愛と話したいことは山程あったに違いない。

 しかし、今は世間話に興じている暇は無い。こんな状況で彼にできることは笑う事だけだった。

 まったく俺は、器用じゃねぇな――。

「兎!」

 突然表の路地から鉄が血相を変えて兎谷を呼んだ。兎谷は首を立てに振り、急いで駆け出した。
敵が来たのだろうか。兎谷は震える歯を食いしばしながら足を動かす。

 最後に、これだけは伝えておきたい。愛の横を通り過ぎる間際、小さく呟いた。

「正直、行く前に会えてよかった。生きるか死ぬかなんて、まだわかんないさ」
「待って……」

 愛の言葉に兎谷は振り返らず、戦場へと向かった。
何時からだろうか。地下内のサイレンは鳴りっぱなしだった――。

 ――走る、走る。

 跡地となった検問所を走りぬけ、兎谷は地上へ出た。
ここは旧A区域のオフィス街、高いビルに囲まれたこの街はもうすぐ戦場になるだろう。

 兎谷は自分の部隊が配置される予定のビルをひたすらに上り続ける。
周りのビルからもカンカンと軍靴が階段を蹴る音が響いていた。
激しい息切れをしながらも、兎谷は足を止めることは無い。
ビルの七階までいっきに上りきり、皆のいる場所へと滑り込んだ。

「はぁっ、遅くなりましたっ」
「すぐに構えろ」

 すでに銃を構えている鉄が、兎谷の姿も見ずに言った。
兎谷は返事もせず、すぐさま銃を構えて表通りに目を向けた。

 ふう~はぁ~……よし、落ち着いた――。

 兎谷は声を漏らさぬよう、大きく呼吸をした。
アラートが鳴ったということは敵が来たのだろう、手に汗にぎるとはまさにこのことだ。
部隊の人間も続々集まり、一小隊約百個の目が表通りに釘点けになる。

 五分は経っただろうか、だが目の前の道には誰一人通ることはない。

「……」

 兎谷は沈黙を保ちながら通りを見続ける。油断はできない、全神経を目に集中させる。
だが目の前の状況は変わることはなく、それから三十分程経つとようやく警報解除の情報が流れた。
緊張が途切れた兎谷は大きく息を吐いた。

「はぁ~なんだよ、緊張させやがって。まだ飯も食ってないのに~」
「腹減ったな」

 その声が聞こえたのか「行って来ていいよ」と、仲間が答える。二人はお言葉に甘えることにした。

「腹が減っては戦は出来ぬってやつですかね」
「間違っちゃいないさ」

 兎谷はその言葉を体験させられたようだ。
あのような緊張感、たった三十分しか経っていないのに、大きく体力を消耗させられてしまった様だ。
兎谷は疲れた顔を鉄に見られないようにか、軽く頬を叩いて基地へと戻っていった――。


 ――二人が戻ってくるまでに、今の状況を振り返ることにしよう。
 弐国の侵攻はすでに首都付近の旧C区域を占領し、旧A区域にまで食い込んできた。
今回兎谷と鉄が配置されたのは、C区域との境にあるA区域だ。
敵が首都を目指して最短で来るのなら、必ずこの道を通る場所だ。

 A区域のほとんどの場所は高いビル群で埋め尽くされており、防衛しやすい場所になっている。
道は碁盤の目のように整備されており、敵が路地に隠れても道が遮蔽物とならない為、街は大きな要塞のようにも見える。

 そして要塞を機能させるためには軍だけでは人員が足りず、
兎谷たち民間人も借り出されることとなった。
しかしそれでも弐国との兵力差は十倍以上あるだろう。
その兵力差を埋め、半年もの月日の間、持ちこたえたのは顕著な火力差にあった。

 もちろん弐国がまるで人を銃弾か何かと勘違いしていることも大きな要因だ。
集団で突撃を繰り返すその姿は、まるで薬物でも使用しているの様に思えてしまう。
もしくは帰る国すらないのだろうか、いかなる理由があるのか玖国にはわからない。
しかしその死体の道はC区域を埋め尽くし、A区域へと近づこうとしている。
玖国はなんとしてでもここで進軍を食い止める必要があった。

 作戦はこうだ。

 オフィス街のビルに無数の機銃を置いて待ち構える。
縦一列のビルに小隊を配置し、中央の道を進む敵兵を十字に狙い撃つ。
敵を排除できない場合は持ち場を放棄し、
後方の持ち場にて待ち構える、まるで鼬ごっこのような作戦だ。

 道を跨(また)いだ二つの陣地を線で結ぶと、ノコギリのようなジグザグな線が描ける。
こうすることで前方が退避中であっても、後方の小隊が援護射撃を行い、銃弾の雨が途切れることはない。

 これもあまりいい作戦とは言い難い。
もしも弐国の火力が十分ならば、こんな陣地はすぐに破壊されてしまうからだ。
しかし玖国側にはこれぐらいしか打つ手がなかった。

 平和が続いて約二百年。縮小され続けた軍事にツケが回ってきてしまった。
それでも守らなければならない。それは国の為なのか、家族の為なのか、愛する人の為なのか。

 兎谷が令状を受け取ってから考えていた事、それは薄っぺらいモノかもしれない。
だが、それを評価するのは他人ではなく自分自身なのだ。
守るべきものがあるからこそ、戦うのだ。

 たとえそれが……人を殺すなんの免罪符にならなくても。そう信じたいのだ――。


「ふう」

――兎谷は食事から戻ると、持ち場に座りながら煙草を吹かしていた。
隣で鉄も一緒に座りながら、何も変化が無い道を見続ける。

「誰も来ないっすね」
「来ないなら来ないほうがいい」

 鉄は目を細めながら遠くを見据えている。
だが、何も来ないことを確認すると、持ち場を離れてそばにあるソファーに寝転んだ。

「何も来なければ、誰も死なずに済む」
「そう……っすね」

 鉄は寝たままソファーの横にある毛布を取り、目を伏せた。

「お前も寝たほうがいい、身体が持たんぞ」
「そんな、寝れないっすよ」

 兎谷は鉄に目を移すと、すでに鉄は寝息を立てていた。

「はあ、よく戦場で寝れるもんだ。こっちは緊張して眠くても寝れないってのに」

 兎谷は二本目の煙草に火を点けた。煙草から上る煙が夕日で赤く染まっていく。
ビルとビルの間を、目が空けれないほどの眩しい夕日が沈んでいく。
長年地下に居た兎谷は、その光景に目を奪われていた。

「綺麗だ」

 雲たちが真っ赤に染まり、太陽はオレンジ色に表情を変える。
空は徐々に紫色へと変化し、夜との境界線がぼんやりと浮き出る。
暖かかった風は、少しだけ冷たさを帯びていた。

「やっぱ地下とは大違いだ。地上のやつらは、こんな景色すら見飽きちまったのかなぁ」

 兎谷は地球が映し出す光の魔法を、飽きることなく見続けていた。



[40230] 五.生と死の狭間で(兎谷戦闘2)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/29 00:28
廃墟と言ってもおかしくないこの街に、わずかばかりの電灯がついた。
辺りは徐々に暗さを増していき、月明かりがやんわりと落ちてくる。

 日は完全に落ち、兎谷は眠りにつけないまま、持ち場で欠伸を漏らしている。

「はぁ~今日は敵さんお休みかな」

 そんなことを言いながら、暗闇に向かって目を凝らしている。
今日はアラートが鳴ったせいで交代の時間がズレてしまっていた。
兵役だけで実戦経験の無い兵隊たちは眠れず、皆ウトウトしている。

 当然だな、こんな緊張が半日を続いちまったし……そろそろ交代してほしいぜ――。

「ふぁ~、あ?」

 突然兎谷が違和感に気がついた。
小さく揺れているような、まるで地震のような地鳴りが聞こえてくる。
その音に鉄も気がついたのか、ソファーから飛び起き、機銃を手に取った。

「来たか」
「え?」

 鉄の発言に兎谷は呆けたような返答をしてしまう。
そして再度暗闇に目を凝らすが、何も見えない。

『総員、配置につけ!』

 ノイズ交じりの音声が部屋中に響き渡った。
対面のビルにある陣地から小隊長の指示が聞こえてくる。

 始まるのか――?

 訳の分からないまま兎谷は機銃を握り締めた。
小隊長の指示はノイズ交じりでよく聞き取れない。
いや、もしもクリアな音声だとしても今の兎谷には聞く余裕すらないだろう。

 地鳴りは大きくなっていく。兎谷は力強く機銃を握りなおす。
緊張とスリルで胸が締め付けられている。
その二つが混ざり合ったような不思議な感覚が、兎谷を支配していく。

 地鳴りは徐々に、徐々に大きくなっていく。それ合わせて心臓の鼓動が速さを増していく。

『照明弾、用意』
『準備よし!』

 無線の音だけが、やけに鮮明に聞こえる――。

 兎谷は自分の感覚が徐々に研ぎ澄まされていくような、得体の知れない何かを味わっていた。
そんな兎谷に、鉄が話しかける。


「兎」

「えっ?」
「死ぬなよ」

 鉄からの一言、それが兎谷を我に返した。
兎谷は鉄に感謝した。兎谷は集中していたのではなく、緊張で停止していたのだ。

「あったりまえだ!」

 兎谷は自身に活を入れ、汗ばんだ手を拭い、機銃を握りなおした。

『撃て!』

 小隊長の指示通りに前方で照明弾が上がった。
小さい爆発音と同時に、街一面を照らし出す。そして兎谷は見てしまった、地上を覆いつくす人を。

――人、
――人、人、
――人、人、人、

――人人人人人人人人人人人人人人人人人人人――。


 同時に二十もの機銃を銃声を鳴らした。各々が手に持った機銃は絶え間なく火を吐き続ける。
当たっているのか、いないのか。
道を埋め尽くす敵兵は更に勢いを増し、無理やり大通りを突破しようとしている。

「う、おおおお!」
「落ち着け、そんなに連続で撃っても当たらん。銃口が焼きつくだけだ」
「あ、ああ」

 鉄の一言で兎谷は少しだけ落ち着きを取り戻した。

 敵兵を見ただけで体中が興奮する。脳が異常なほど麻薬を分泌し、人を正常でいられなくする。
兎谷は荒い呼吸を抑え、街の通りに照準を合わしトリガーを引いた。

 ドンと大きな音が前方鳴り響く。
二発目の照明弾が上空で爆発し、夜空に浮かぶ一斉の照明弾が敵の姿を露にさせた。

「は、ははは……」

 一斉に放たれた照明弾は闇夜を昼間に変えた。そして兎谷は見てしまった。

 さっきまで見てた人はなんだったのか。
それは例えるなら海。この街に人の津波が押し寄せてきている。

 抑えきれないほどの絶望感が漂い始める。兎谷も事前に与えられた情報で覚悟はしていた。
だが、自分の目で見てしまったのだ。

 何千、何万の人の前に立つ、大勢の人間の前に立った事がある人間にしか分からない。
それは気の強い者ならばかつて無い高揚感を得、気の弱い者ならば萎縮してしまうだろう。
巨大な群集とはただ居るだけでも暴力に近いものがある。
その群集が手に武器を持ち、敵意を持って向かってこられたら、
絶望という名の感情は人を飲み込み殺してしまうだろう。

 兎谷は手に握った機銃を撃つ事も無く、只々笑みを浮かべるだけだった。
その瞬間、鉄の気合を入れた声が飛んだ。

「何をしてる! 撃て!」
「お、おう!」

 またしても鉄からの一声で兎谷は正気を取り戻す。そして手に力を混めるが、

 手が、手が動かない――。

 トリガーが引けない、物心付いた人間なら誰でも出来るような動作が出来ない。
兎谷は歯を食いしばり、恐怖を噛み殺す。そうすることでようやく力を取りもどせた。

 兎谷の機銃から銃弾が放たれる。
眩しいばかりのノズルフラッシュ、そして凄まじい硝煙の臭いが部屋に立ち込める。
兎谷は鉄のお蔭でようやく恐怖から逃れる事が出来たが、それでも不安は絶えない。

 足りるのか――?

 たとえ一発の銃弾で一人殺せても、足りないではないか――?

 そんな杞憂を思い描いてしまっていた。

 正確な弾数も分からない、敵の数も分からない今、考えても意味が無い事は分かっている。
なのに一度覚えた不安は、死という名の要素を加えてしまうと更に大きくなっていく。

 この街を砂糖の街と仮定するならば、それに向かって群がる蟻達のように、敵は進行を止めない。
撃っても撃っても減らない、どんどん増えていっているような錯覚に陥ってしまう。

 パーンと聞きなれない銃声が耳に飛び込んできた。目の覚めるような敵の銃声が部屋中に鳴り響く。
二人の居るビルの天井には、無数の弾痕が生まれた。
幸い角度的に当たり難い高い位置に居るため被害はなかったが、ついに居場所がばれてしまったようだ。

 撃っているのだからそれも当然のこと。
すぐさま反撃に移ろうとするが、途切れない弾幕で反撃がままならない。
全員地べたに伏せ、全く身動きが取れなくなってしまう。そんな中、鉄だけが機銃を握っていた。

「怯むな! そう簡単には当たらん、撃たないと攻め込まれるぞ!」
「くそがああっ!」

 兎谷は体を起こし、トリガーを引いた。鉄の激により、後ずさりしてしまった兵も戻ってくる。
このビル群、この傾斜ではそう簡単には当たらない。
重要なのはこの雨のような銃弾を潜らせないこと。ビルに入られてしまったら危険だ。

 逆に考えれば懐に入られなければ永久に有利なのだ。
だがそれも儚い考え、敵は徐々に近づいてきていた。小隊長が本部に無線で連絡している。

『敵兵距離、十五M未満。射撃が通りません』
『B撤退。こちらは援護に回る。B―2まで下がって体勢を立て直せ』
『了解』

「撤退ー!」

指揮官から撤退の命令が降りる。兎谷と鉄は機銃から手を離した。

「よし、下がるぞ」
「さ、下がるってどこに?」
「なんだお前、聞いてなかったのか?」

 兎谷は鉄の後を追いながら説明を聞いていく。
兎谷も説明は聞いていたはずだが、どうやら頭のネジが外れてしまったらしい。

 この鼬(いたち)ごっこ作戦は永遠でないのが悩みの種だが仕方が無い。
ビルも武器も無限にあるわけじゃない、このビル群にも限りはある。

 ビル内に設置してある陣地の数は両側共に九つ、つまり撤退は八回しかできない。
戦闘が始まってまだ三十分ほどしか経っていない。
どれだけ続くのか分からない戦闘、仮に一晩中だとしたらあと八時間もある。

 兎谷たちの小隊は、早くも一つ目のカードを切る羽目になってしまった。
兎谷と鉄は間に張り巡らされた工事用の通路を渡っていく。
カンカンと響き渡る鉄製の足場を、二人は駆け抜けた。しかし少し離れたところで、鉄が足を止める。

「先にいけ」
「鉄さん?」
「心配ない、ちょっと燃やしてくるだけだ」

 撤退する際に、相手に武器はやれない。
だからビルごと燃やす事になっている様だ。鉄は予め用意してあった導火線に火を点ける。
五分ほどでビルは火の海になるだろう。

 仕事を終えた鉄が急いで部隊に戻ってきた。
二人の小隊は後方の陣地まで撤退していく。辺りは焦げ臭いガソリンの臭いが充満していた。
その光景を兎谷は横目で見つつ、次の陣地まで走った――。



[40230] 五.生と死の狭間で(兎谷戦闘3)
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/29 00:29
 ――二つ目、三つ目の陣地まで後退した。敵は幾分減ったのだろうか……。
兎谷は機銃を握りながら考えてしまう。

 いったい俺は、何人の人生を奪ったのだろうか――。

 兎谷はそんなことを思いつく頭を左右に振り、戯言をかき消した。

 考えたくない、だが奪われるのだけはごめんだ――。

 兎谷はB―3陣地の機銃を力強く握った。その瞬間、またしてもドンと大きな音が鳴った。
照明弾を打ち上げる音だろう。
しかし突然の轟音と、向かいの陣地の吹き飛ばされる姿を見て凍りついた。

「なっ!」

 向かい側の陣地に砲弾が落ちた。それは照明弾ではなく、紛れも無い弐国の砲撃だった。

「ついに来たか」

 鉄が煙の出ている陣地を見ながら呟いた。
周りの皆も、もくもくと揚がる煙を見て唖然としている。
そんな中、小隊長だけが冷静に無線を手にとった。

『敵砲弾確認、応射願います』
『了解』

 ビルの後方で轟音が鳴り響いた。先に敵の砲弾を受けた代わりに、敵の場所がわかった。

「なんだよ、こっちもあるなら早く撃ってくれよ」
「場所が分からなければ弾の無駄だ」
「で、でも……」

 兎谷は鉄に何か言いたげだが、口ごもってしまった。

「兎、お前の言いたいことはよくわかる。だが、相手との戦力差は明らかだ。俺たちは一で十に勝たなければならん」

 鉄はそれだけを言って、機銃を握った。

 分かってる、分かってるよそんなことは……でも、その一になりたくねぇ――。

 敵の位置さえ分かれば、確かに有利にはなるだろう。
逆に先に砲を使って場所が割れてしまえば、当然相手も砲台を狙ってくる。
こちら側の砲台が全て破壊されてしまったら、敵の砲撃を止める術がなくなる。

 ならば先手を打ってもらうしかない。
小で大を倒すには後を取るしかなかった。苦肉の策にしてはよかったのかもしれない。
しかしそれは最悪の事態を引き起こした。

『A? Aチーム、応答せよ』

小隊長が無線を片手に慌て始める。何かあったのだろうか、近くに居た鉄が尋ねた。

「どうしました?」
「Aチームが応答しない。どうやら先の砲撃で損害が出た様だ」
「!」

 最悪の事態が訪れる。
反対側の部隊が先の砲撃で被害を受け、連絡が途絶えてしまったのだ。
このままでは片側からしか攻撃が出来ない。
攻撃どころか、近寄られたら撤退すら難しい。援護なくては撤退しても体勢を立て直す時間がない。
小隊長が無線で司令部に指示を求めている……どうやら話はまとまったようだ。

「総員そのまま聞け、Aチームからの連絡が先の砲撃で連絡が途絶えた。よってこちら側からA側の陣地へ行くしかない」
「む、向こう側へ……?」

 室内が皆の動揺でいっきに騒がしくなる。砲弾が落ちた向こう側へ行けとの命令だ。

 無茶だ、下の通りには何万の敵兵がいるのに……死ににいく様なものだ――。

 ざわついた室内で、ひとりの兵士から別案が出される。
「ち、地下の通路を使っては?」

 兵士たちの移動用地下通路。そこからなら安全にたどり着けるはずだ。
だが、小隊長は首を横に振った。

「駄目だ。地下通路を使うにはB四十二区まで降りる必要がある、それでは間に合わない」

 戦場のど真ん中を走れってのか――。

 その無茶苦茶な作戦は自殺行為に近い、だがこのままでは状況は悪化するばかりだ。
しかし上からの命令は絶対だ、兵士たちはどうにかして向こう岸へは行かなければならない。
だが強行突破して突入部隊が全滅したら状況は更に悪化してしまう。
兵士たちの動揺は次第に大きくなり、皆が思い思いの意見を挙げる。

 しかし代案が浮かばぬまま時間は過ぎていく。
室内に重い空気が流れ始め、全員が微動だにしない中、鉄が一歩前に踏み出した。

「俺が行く」
「鉄さん!?」
「このままでは全滅だ、次に近寄られたらもう攻撃できないだろう」
「で、でも!」
「もう何名か欲しい、最低でも工兵が一人必要だ。ビルの間は地雷原になってるからな」

 中央の通りにはまだ無いが、中央以外からの進攻を阻止するために裏路地は対人地雷を敷き詰めてあった。
そう、彼等はこの街を捨てる覚悟だ。
たとえ街が廃墟になろうとも、これ以上の進攻を止めなければならない。

「私も行こう」

 皆の思いと共に、続々と手が挙がった。

 このままBチームに居ても全滅は必至。向こう側までいけるかどうかわからない。
だが、勝つためには行くしかない。 鉄の呼びかけに八つの手が上がった。

「兎、お前はどうする?」

 鉄が兎谷に問いかける。

 正直言ってあの通りを跨ぐのは自殺行為だぜ……だけど誰かが行かなくてはいけない――。

兎谷は小さく息を吐き、鉄に顔を向けた。

「わかったよ、俺も行く。あんたひとり死なれたら困るからな」

 珍しく鉄がニコリと笑った。話し合った結果、小隊に十五名残し、十名が通りを渡ることになった。
各々荷物を持ち、ビルを後にする。

「兎、そいつも持っていってくれ」
「なんすかこれは?」
「お守りみたいなもんだ」

 兎谷は言われた通り、鉄の荷物を持ってきた。
それは長方形の大きなケース、ひとつ持つのがやっとの大きさだ。

 お守りにはちょっと大きすぎるんじゃないか――?

 しかし疑問を声にする間もなく、彼等十名はビルの階段を駆け下りた――。


 ――ビルの間から通りを覗き見る。

 ここはメインストリートではないが、対岸までは三十Mほどはある比較的大きな道路だ。
路面電車の線路を跨いで、互いに二車線の道路、それが果てしなく遠い距離に感じた。

 暗闇の中からまるで地震のような物凄い足音がしている。
彼ら十人がすべて配置につくと、鉄が無線を片手に班長と連絡を取った。

『行きます』
『幸運を』

 鉄が引き連れた九名に向かって小さく呟いた。

「行くぞ」

 走り出す――! 

 暗闇の中を十名が勢いよく駆け出した。この区域の通りにはまだ地雷は無い。
敵を誘い出すためにわざと設置していなかった、これが幸いした。
そのため彼等何も考えることなく走ることが出来る。
この事態が中盤の陣地だったならば、もう歩くことすら難しいだろう。

 兎谷達は勢いよく走り始めたが、その姿は敵の目を引くのも仕方の無いことだった。
暗闇の中から銃声が響き渡る。鉄は素早く無線で援護を要請した。

『援護お願いします!』
『了解』

 上のB―3陣地から一斉射撃が始まった。まさに銃弾の雨が地上に降り注ぐ。
砂埃が敵陣に向かって一斉に吹いた、もう何も見えない。

「はぁっ、はぁっ!」

 いったいどのくらい走った、もう半分は行ったのか? それともまだ序盤に過ぎないのか――。
 一秒がものすごく永く感じられる。時間が縮んでしまったんじゃないのか――?

 兎谷は全力疾走で駆け抜ける。すぐ隣では銃弾の雨が降り注いでいる。
兎谷は走りながら横目で敵陣を見た。

 この雨の量なら、一秒で何回死ねるんだ――。

「兎!」

 鉄さん――!

 先行していた鉄が先に着いたようだ。
鉄は路地から手を伸ばし、大声で兎谷の名を呼んだ。
あと五メートル、兎谷も走りながら鉄に向かって手を伸ばした。

「はぁはぁ……」
「全員いるか?」

 大丈夫、大丈夫と皆の声が上がった。
全員の顔からは大量の汗が流れていたが、どうやら無事に渡りきることができた。

 しかし、問題はまだある。目的の陣地に行くには、路地裏の地雷原を歩くしかない。

「工兵、頼んだ」
「了解です」

 工兵は小型の地雷探知機を片手に進んでいく。目には暗視ゴーグルを装備しながら先行する。
ミスは許されない。もし踏んでしまったら、密集している十名なんて即全滅だ。
慎重に、一歩一歩進んでいった。

「ありました」
「通れるか?」
「この幅なら大丈夫でしょう。端だけを進んでください」
「了解」

 踏み外せば死は免れない。
人の命なんて本当に安いものだと思い知らされる。
対人地雷なんて安いものは、三百円~千円ぐらいしかしない。
地雷からすれば、人間なんて千円程度の価値しかないのだ。
十名は慎重に地雷原を進んだ。

「こ、ここは無理です」
「どうした?」
「多すぎます。撤去するには一時間以上かかる」
「無理だ、なんとかならないのか?」

 鉄が頭を捻りながら、唸るように考えている。
早くしなければ敵に追いつかれてしまう、一時間なんて待てるわけが無かった。
そんな中、一人の兵士が声を挙げた。

「そうだ。ビルを使いましょう。ここまで着たら上に通路があるはず」
「それで行こう。このビルでいいのか?」
「はい、そこから行きましょう」

 十名はビルを素早く、それでいて慎重に階段をのぼった。
ビル内には地雷は無いはずだが、トラップがあってもおかしくは無い。
仲間の仕掛けた罠にはまるなんて無様な真似だけはしたくなかった。

「着いた……」

 兎谷は目的地の陣地へと辿り着くと、その場に座り込んでしまう。
彼らは運良くトラップに掛かることもなく通路を確保し、無人の陣地へ入ることに成功した。
作戦に参加した十名から安堵の息が漏れる。

 つ、疲れたぁ――。

 兎谷は横になりたいのを抑えるのに必死だった。鉄だけが何も言わずに銃を持って奥に進んでいく。
薄暗い陣地が見えると、鉄も少しは安心したようだ。だが、まだ戦争は終わっていない。
鉄は気の抜け掛かった仲間たちを戒めようと振り返った瞬間、カツンと小さな物音がした。

 その物音に、一瞬にして全員が凍りついた。
全員が銃を力強く握り、安全装置を外す音だけがカチ、カチと鳴った。

 兎谷も座り込んだ下半身に力を入れ、中腰の状態で銃を抜き、安全装置を外した。

 誰かいるのか――?

 全員の顔が引き締まった。安心している暇などない、ここは戦場なのだから。
鉄も兎谷と同じく銃を抜き、構える。
何時の間にかリーダー格になっている鉄が皆を制し、物音のあった方向へと進んでいく……。

 鉄は銃を持ちながら片方の手で小さいライトを点けた。
ゆっくりと音がした付近に近づく。素早く飛び出し、ライトと共に銃を向けた。

「ひっ」

 やはり人が居た。
怯えた兵隊は鉄のライトに照らされると、立ち向かう事も無く両腕で顔隠しながら伏せた。
武器も持っていないのだろう、戦う意思も無い味方の兵がそこにいた。

「味方か」
「あ、ああ……。よかった」

 頭を伏せて小さくなっているのは、先ほど連絡が途絶えたAチームだ。
鉄は銃をしまい、地面に蹲(うずくま)る味方に手を伸ばす。

「よかった、生きていたのか」
「ああ、運よく」
「他に生存者は?」
「俺を入れて五名だけだ」
「負傷者は?」
「……」

 味方の兵士はそこで口を閉ざしてしまう。鉄は首を捻りながら改めて訊いた。

「隊の損害は?」

 兵士は後ろめたそうな表情をしながら、重い口を開いた。

「生き残ったのは五名だけ。負傷者は……いない」
「いない?」

 鉄が突然生き残った兵士の胸倉を掴みあげた。

「うあっ」
「貴様! 逃げたな!? 負傷者を置いて逃げたんだな!」
「すまねぇ、仕方がなかったんだ、もう敵がすぐ傍に……」

 鉄は怒りを露にして大きな声を上げる。

「貴様それでも……」

 しかしそこで声のトーンが下がり、掴んだ手を離してしまった。
鉄は恐らく「軍人か!?」と言いたかったのだろう。しかし鉄はその言葉を言えなかった。
幾ら兵役があると言っても、現役の兵隊は小隊長クラスから上の人間しか居ないのだ。
兎谷も同じ思いなのだろう、兎谷は苦い顔で鉄を見ていた。

 そうだ……俺たちは軍人なんかじゃない。俺たちは――。

 兎谷は拳を強く握り締めた。周りの兵士も皆、何も語ることなくその光景を見続けていた。
戦場は一気に静まり返った。そのとき、鉄がポケットにしまっている無線が鳴り響いた。

『遅くなりました』
『状況は!?』
『目的地に到着、損害はありません。それとAの生き残りと合流しました』
『生存者がいたか。こちらはもう限界だ、この陣地は破棄する。今すぐ援護を頼む!』
『了解』

 鉄が無線を切った。先程までの気落ちした表情は一変し、厳しい表情へと変わる。

「総員、機銃に付け! B―3方面に向かって一斉射撃!」

「「「「「了解!」」」」」

 救出にきた十人全員が機銃に向かい、一斉に銃弾の雨を降らせた。
敵は既にB―3地点まで来ている。砲撃を受けたA―2地点は既に敵の手に落ちたのだろうか。

 負傷者を救出に――。

 鉄はそんな無謀な考えを泣く泣く切った。その考えはあまりにも危険すぎたからだ。
生存していた兵士は鉄の足元で壊れた玩具のように謝罪を繰り返している。
鉄は歯軋りしながら目の前で土下座する兵士の胸倉を掴み、起き上がらせた。

「貴様もすぐに機銃に付け! 仲間の死を無駄にする気か!?」
「りょ、了解しました!」

 戦意を失いつつあった兵士を発起させ、急いで機銃に座らせる。
彼はまだ戦える。現実から目をそらしてはならない。
鉄はすでに敵の手に落ちたであろう、A―2陣地を見つめた。

「すまない」

 苦虫を噛み潰したような声が、誰の耳にも届かず、銃弾の音に紛れて消えた――。



 ――撃つ、撃つ。
 数多の敵を目掛けて無数の銃弾を撃ち続ける。しかし戦況は一向によくならなかった。
後退を繰り返し、小隊は六番目の陣地に追いやられてしまっていた
。残った陣地はあと三つしかない。兎谷は新しい機銃を握ると、疲れからか大きなため息が漏れた。

 いつになったら終わるんだ――。

 不安が兎谷に襲い掛かる、しかし考えている暇すら与えてもらえない。

「総員配置、撃て!」

 鉄の指示とともに機銃を撃ちつづける。もうどれほどの人を殺したのだろうか。
敵の死体が暗闇で見えないことが、唯一の救いだった。

「ん?」

 隣で機銃を握っていた兵士が兎谷に力なく持たれかかった。

「大丈夫すか? 鉄さん、一人倒れた!」

 疲れからだろうか、休憩を取ることもできずかれこれ五時間あまりも戦っている。
兎谷たち民間の兵士では倒れてしまうのも無理はないだろう。

 このままじゃマジでやばい、なんとかしないと……でもどうやって――。

 兎谷は倒れた兵士に肩を貸し、奥へと避難させる。鉄が兎谷に呼ばれて走りよってきた。

「どうした?」
「なんかいきなりぶっ倒れちまったっす」
「倒れ……?」
「やっぱつかれ」

 あれ……なんで俺、こんなに濡れてんだ――?

 兎谷は自分の服が濡れていることに気がついた。
汗とは違う、まるで生ぬるい温水のようなものが服に浸透し、皮膚にへばり付いている。

 見るな――。
 そう、誰かに言われたような気がした――。

 鉄が血相を変えて兎谷に飛びかかろうとしている。兎谷は見てしまった、
肩に担いだ兵士の姿はまじまじと見てしまった。

「う……ああああああああああ!」
「見るな! 騒ぐな!」
「だ、だって鉄さん! こ、こいつ」
「五月蝿い! 騒ぐんじゃない!」

 兎谷が悲痛な叫び声を上げる。
その瞬間、ひゅんひゅんと風きり音が耳をかすめ、機銃を握っていた数人が倒れこんだ。

「伏せろぉ!!」

 鉄がひときわ大きな声で叫んだ。十五人の兵士が、一斉に床へはいつくばる。
その中には頭を庇いながら声を掛け合う者、負傷した傷口を押さえながら床で暴れまわる者、血を流しながらぴくりともしない者。

 安全な場所で攻撃をしているはず、しかし陣地内は一気に血生臭さを増していく。

「鉄さん、これはなんなんだ!」

 兎谷が涙声で鉄に話しかける。鉄は伏せたまま部屋の壁に空いた弾痕を見て判断した。

「……ライフルだろう、どうやらビルを攻略されたようだ」
「狙撃……?」

 敵は地雷原を攻略してビルへと侵入したのか、さすがに相手も馬鹿じゃない――。

 慣れて薄れてきた恐怖が甦ってくる。兎谷は恐怖で震える口元を力で押さえつけた。

「間違いないな。兎、俺のケースを持ってきてくれ」
「ケースって、あのでかいお守りっすか?」
「ああ」
「了解っす」

 兎谷は急いで持ってこようと足に力を入れた。

「あれ?」
「馬鹿、立つな!」

 鉄は兎谷の服を思いっきり引っ張った。しかし兎谷は力を入れただけで、立つことはできなかった。

「やべ、腰ぬけっちった」
「這っていけばいい。絶対に頭を上げるなよ」
「りょ、了解っす」

 兎谷は匍匐(ほふく)前進しながら、奥へと下がっていく。
鉄は腹に力を入れながら、大きな声で他の兵士に命令をした。

「撤退するぞ! 怪我人には手を貸してやれ! 絶対に頭を上げるなよ!」

 その一声に反応し、動ける兵士たちはじりじりと芋虫のように地面を這って進んだ。

「ゆっくりでいい! 伏せていれば絶対に当たらん!」

 鉄は最後まで残り、全員が脱出するのを見届ける。鉄の号令に動かない兵士は五人いた。

「聞こえるか! どこでもいい、声が出せないのなら身体をどこでもいいから動かしてくれ!」

 鉄は大きな声で叫ぶ、街中から聞こえてくる銃声に負けないよう声を張り上げる。
しかし、反応はなかった。

「……」

 鉄は何も言わず、ゆっくりと地面を這って脱出した――。



 ――ガリガリとノイズ交じりに無線機が音を鳴らした。鉄は急いで無線機を手に取る。

『Bチームが敵の射撃を受けている。これは何処からだ?』
『敵の狙撃です。一旦撤退したほうがよいと思われます』
『撤退しても状況は変わらないと思うが……』
『自分がスナイパーを排除します』
『お前が? 出来るのか?』
『大丈夫です』
『了解。一時撤退する』

 鉄が無線を切るのと同時に兎谷がケースを持ってきた。

「ありがとう」
「何すかこれ?」

 鉄は兎谷からケースを受け取り、ロックを外して中身を取り出した。

「ライフル?」
「ああ」
「こんなものどこから……」
「昔、貰ったんだ。今じゃお守り代わりだ。兎、工兵から暗視ゴーグル借りて来い」
「了解」

 鉄はすばやくライフルを組み立てていく。
その手つきは慣れたもので、月明かりしかない闇夜の中でも問題ないように見えた。
ライフルが完成すると、兎谷が暗視スコープを抱えて戻ってきた。

「借りてきました」
「お前が見つけろ」
「て、敵スナイパーをですか?」
「当たり前だ」

 二人はビルの階段を上った。
陣地ではないただのビルの屋上では、大きく丸い月だけが街を優しく照らしている。
その月明かりに映し出される廃墟は、幻想的な雰囲気をかもし出している。

 鉄は地面に伏せながら射撃姿勢をとった。兎谷が暗視ゴーグルを身に付けて敵兵を探す。
一人が敵の位置を知らせ、一人が狙撃する。この基本のやり方は狙撃をするために効率が良かった。

「居ました。銀行の看板があるビルの最上階に一人」
「了解」

 返事と同時に乾いた銃声が鳴り響いた。鉄が何の躊躇いも無く引き金を引いたのだ。
銃弾は闇夜を貫き、兎谷は倒れていく敵兵を確認した。

「当たった……」
「次だ。早くしろ、位置がばれる」
「りょ、了解!」

 二人、三人と敵のスナイパーを殺し続ける。四人目を撃ったところで、鉄は立ち上がった。

「限界だ、場所を帰るぞ」
「ういっす」

 これ以上この場所に留まるのは危険と判断したのか、鉄は颯爽とこの場を去った。
敵のスナイパーのほうがおそらく数が多いだろう、対してこちらは一人だけ
。しかも正規兵は少なく、ほとんどが民間兵だ。
鉄の他にスナイパーの技術があるものはいない。
ならば鉄が死んでしまえばこちらに対抗手段が無くなってしまう。

 鉄は階段を降りながら無線を手にした。

『敵スナイパーを排除しました』
『なに、いったいどうやって……いや、よくやった』
『全員排除出来たとは限りません。しかし、これで相手も迂闊に顔を出せなくなるでしょう』
『それだけでも十分だ。すぐに隊を率いて新たな陣地に向かってくれ』
『了解』

 鉄が無線を切ると、階段の踊り場で足を止めた。

「鉄さん?」

 兎谷が心配そうに鉄の表情を伺っている。しかし鉄は何を考えているのだろうか、微動だにしない。

「鉄さん、早く移動しないとやばいですって」
「兎。お前、国のために死ねるか?」
「はぁ? 今頃なにいってんすか?」

 兎谷には鉄の質問の意図がわからない。いまさら心構えのことを訊いているのだろうか。

 そういえば情けないところ見せちまったしなぁ――。

 兎谷は暗視スコープを握り締めながら、空いているほうの手で頭をかりかりと掻いてしまう。

「質問に答えろ」
「答えろって、国なんかの為には死ねないっすよ。俺は鈴のために……」

 その答えに、鉄は安心したように表情を和らげた。

「鈴のためなら死んでもいい、そう解釈していいんだな」
「なんつーか、変っすね。いや鈴には世話になったし、俺たち家族みたいなもんじゃないですか」
「家族か」

 兎谷は何が言いたいのかまとまらないようで、仕切りに頭を掻きながらもごもごと話し続ける。
それを見て鉄はニコリと笑いながら、肩を震わせている。

 ここだけを見れば、まるでいつもどおりの日常のように思えた。
しかし走り回った二人の汗と埃にまみれた顔、汚れと血が付着した服、そして肩に担いだライフルは嫌がおうにも戦場へと回帰させる。

 鉄は口元を拭いながら、兎谷に向かって言った。

「兎、この戦いは負ける」
「はぁ?」
「玖国が勝つか負けるか、政治的な問題はよくわからん。だが、この戦場では負ける」
「ちょ、ちょ、鉄さん何いってんすか」
「こんなこと、皆の前では言えないだろ」
「そりゃそうっすけど……」

 兎谷は訳が分からないとばかりに頭を捻らせる。しかし鉄はお構いなしに話を続けた。

「兎、お前は地下に戻れ。此処にいれば恐らく死ぬだろう、もはや戦線は崩壊している」
「……なにいってんだアンタ」
「お前が死ぬと鈴が悲しむ、それに鈴を一人にさせたくない」

 兎谷はその言葉に激怒し、大きく腕を振り上げた。兎谷は鉄の胸の辺りを思いっきり殴る。

「ふざけるなよ……ならアンタはいいのかよ!」
「……」
「そんなこと言うなよ! それなら最初から逃げればよかったじゃねーか! なんで参加させたんだよ、なんで……なんで……」

 兎谷は両目から流れる涙を拭うこともせず、力任せに鉄を殴った。

「誇らしげな気持ちにさせやがって! 滑稽(こっけい)だったか? まるでおとぎ話の勇者みたいに、自己犠牲の精神にやられちまった俺を見て笑いが止まらなかったか!?」
「兎、落ち着け」

 兎谷は力なく鉄の身体にもたれ掛かり、そして地面に膝をついた。
鉄が放った突然の救いの言葉は、兎谷の心のリミットを突き破った。
兎谷たち新兵は、もしかしたら自己犠牲という酒で酔っ払っていたのかもしれない。

 自分が戦うことで国が、家族が守られる。
そう思って自己犠牲という名の酒をたらふく飲み、正義に酔いしれた。
そんな保障なんてどこにもないのに、残された者の気持ちすら想像できないほど酔っ払っていた。

『逃げるか?』

 兎谷は思い出した。召集令状がきて、鉄は兎谷に確かに言った。兎谷は顔を上げて、鉄を見上げた。

「ごめん鉄さん。鉄さんは最初に言ってた、逃げるかって俺に言ってくれてた」
「……」

 兎谷は涙を拭いながら地面に座り込んだ。

「もう本当に勝てないんすか……」
「……恐らくな」

 兎谷は大きく息を吐きながら、うな垂れるように頭を下げた。

 運がないってだけじゃ済まされない……よな――。

 大神の言った言葉が思い出される。兎谷は拳を強く握り、地面へとたたきつけた。

「糞……なんて時代だ」

 こんな時代に生まれたことを呪うかのような言葉が漏れた。
うな垂れている兎谷に向かって、鉄は腰を落として話しかけた。

「どうする、逃げるか。それとも国の為に戦うのか……」
「鉄さん、俺たちはこの国を変えるために集まったはずっすよ……そんな俺たちが国の為なんかに、」
「もうあの政府は倒れている、俺たちの目的は達成したんだ」

 鉄はなんとか兎谷を逃がしたいと思っているのだろう、少し声のトーンを大きくして兎谷に訴える。

「すまない、お前はもっと早く逃がすべきだった」
「逃がすって……」

 ならなんで参加したんすか――。
 そんなこと言うなよ、誰の為に……何の為に戦っているのか――。

「わけわかんねぇ……よ」
「……」

 二人の間には静寂が訪れた。
しかし敵の地鳴りのような行進は収まらず、雨のような機銃の音も鳴り響いている。
時間はそう多くない、兎谷は震えるような声で鉄に話しかけた。

「鉄さんはどうするんすか」
「俺は最後まで戦おうと思う。俺がいないと味方はスナイパーに狙われ続けるだろう」
「はっは……はは」
「兎?」

 兎谷は笑い始める。いきなり笑い始めたことに、鉄は不思議そうな表情を浮かべた。

「鉄さん、アンタわかったないっすよ」
「む……」

「俺がアンタを見捨てて、胸張って帰れると思うんすか。アンタを見捨てて帰ったら鈴になんて言われるかわかったもんじゃない」
「む、すまなかった。ならどうする、このまま生き残れる可能性は限りなく」
「やるしかないっしょ」

 兎谷は鉄に最後まで言わせることなく、口を挟んだ。
その目には恐怖の乗り越えた、力強さすら感じさせる。

「生き残って、弐国との戦争を終わらせてから……鈴のところへ胸を張って帰ろうよ」

 決意とも取れる兎谷の言葉に、鉄は諦めたような表情を浮かべた。
いや、その口元は少し笑っており、嬉しさと半々といったところだろう。

 鉄はライフルを担ぎなおし、陣地へと続く足場を走り出した。
それを見て兎谷も立ち上がり、すぐに鉄の後を追った――。



 ――鉄は陣地に戻ると、指揮を別の兵士に任せて引き金を引き続けた。
しかし敵兵は更に数を増し、続々と押し寄せてくる。
スナイパーの射線上に居ても、機銃を撃ち続けるしかない。
次第に損害は増して行くばかりだった。
銃座に座るたびに凶弾が飛び交い、頭を上げられない戦闘が続く。
そしてついに最後の陣地へと退却した。

『お疲れ様です』
『お疲れ……』

 鉄が無線で対岸にいる味方と話している。
小隊長は既に戦死し、無線の相手は生き残った若い兵隊に代わっていた。

 鉄と兎谷がいる此処は最後の陣地。
これより後はなく、逃げることも出来ない。
地下へと下りる通路はすでに閉鎖され、道路には無数の地雷が敷き詰められている。
撤退の命令もなく、司令部が生きているのかさえも判らない。

 兎谷は地面に腰をおろしたまま、鉄の無線に耳を傾けていた。

『ついに最後ですね』
『ああ、状況は?』
『戦闘可能人数は三名。負傷者二名です」
『こちらも似たようなものだ』
『はは……。どうします?』

 乾いた笑いが無線越しに聞こえる。鉄は少し間を置いてから返答した。

『逃げるのか?』
『まさか。そんなことできるわけないですよ』
『そうか……』

 鉄が悲しそうな表情を漏らした。

『御武運を』
『そっちもな』

 鉄は最後になるであろう、無線を切った。通信が終わると横に居た兎谷が鉄に話しかける。

「なんだって?」
「ただの世間話だ」
「そっか……」

 兎谷は煙草に火を点けた。そして煙草の箱を鉄へと向ける。

「鉄さんもどうすか?」
「ああ、なら貰おうか」

 兎谷は鉄に煙草に火を点ける。

「禁煙してたんだけどな……」
「そうだったんすか、なんでやめたんです?」
「まぁ、色々あってな」

 生き残ったのは兎谷と鉄の二人だけ、負傷者は居なかった。
途中から機銃に座らなかったせいか、彼等だけが生き残っていた。
鉄が煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。疲れた体に紫煙が追い討ちをかける。
次第に夜の闇へと溶けていく煙が、悲壮感を漂わせた。

「逃げてもいいんだぞ?」

 鉄がまたしても兎谷に向けて呟いた。
覚悟が揺らいでしまいそうな言葉、だが兎谷は対岸にいる若い兵隊と同じ様に、当たり前の様に答えた。

「その言葉、そのまま返しますよ」
「二人共死ぬと、鈴が悲しむ」
「あんたが死ぬと、俺も悲しいんでね」
「……そうか」

 鉄はそれ以上話さなかった。もう何を言っても無駄だと思ったのか、虚空へと視線を向ける。
何度聞いただろうか、地鳴りの音が近づいてくる。敵が地面を激しく揺らしているのだ。

「行くぞ」
「おう」

 機銃に座る。もう援護はない、敵の足音だけが頼りだ。
 最後まで司令部から撤退の命令は無く、二人は固く……銃を握った。

「撃て!」

 幾度となく鳴り響いた機銃の音、それはまるで戦場で流れる音楽のようだ。
その無機質な音が、人の命を、人生を、喰らっていく。

「「うおおおおおおお!!!」」

 二人の声だけが、室内に響いた。しかしそこに紛れ込む爆音に、鉄がすばやく反応した。

「伏せろ!」

 大きな音ともにビルが歪む。衝撃で陣地が砕け、身体ごと弾き飛ばされる。
兎谷はその衝撃で空に投げ飛ばされ、必死で壁にへばり付いた。

「兎!」
「鉄……さん」

 何が、何が起きたんだ――?

 近くで砲撃を受けた兎谷は朦朧とする意識の中に、鉄が必死に手を差し伸べてくれている。
しかし兎谷の目は虚ろで、焦点が合わない。

 頭がクラクラする……手を、鉄さんの手を――。

 崩れる壁と共に、訪れる浮遊感。鉄の叫び声が聞こえる中、兎谷は意識を失った――。



[40230] 五.生と死の狭間で
Name: 大航◆ae0ba03e ID:55eb210c
Date: 2014/09/30 20:54
 ――夜、大神が独りで夜道を歩いていた。
廃墟となった街に月明かりがふわりと落ちていく。
月明かりのおかげで、探し物を見つけるには都合がよかった。

 歩くたびに砂埃がまい、焼けたコンクリートの臭いと、焦げ臭さが鼻につく。
大神が歩いているこの場所は、ほんの数時間前までは地獄と化していた。
まだ敵の残党が残っている可能性もある、しかし大神はその危険を受け入れてまで、独りで歩いていた。

「ここのはずだが」

 大神は手元の端末を見ながら呟いた。
頭を上げて周囲を見渡すが、そこには弐国の砲撃で崩壊したビルしかない。
大神は当てもなく崩れたビルへと近づいていく。

 探し物を見つけるまで、それほど時間は掛からなかった。

「よう、お疲れさん」

 それはほんの数時間前まで鉄だったモノ。
二人所属している小隊が帰ってこない事を聞きつけ、大神は仲間を探しにきていた。
大神は鉄の亡骸に近づき腰を下ろす。

「どうだった? 即死だったか? なんだお前、腕がねぇよ」

 鉄の体は血に塗れ、腕は根元から無くなっていた。
ビルから落ちたのか、足は歪な方向に捻れ、腸が露になっている。
首が付いていたのは正直いって有難い事だった。

「すまないな」

 大神は亡骸となった鉄の体に触れ、鉄の生きた証を探す。
だが鉄は何も持っていなかった。敵に奪われたのか、それとも縋(すが)る物すら無かったのか……。
大神は鉄が首から下げているタグを引きちぎった。

「これだけ貰っていく、まだもうひとり待ってるからよ。向こうで会えるといいな」

 大神は鉄の目を閉じ、しばしの間黙祷を捧げた。そして大神はまた歩き出す。
運がよかったのか、探し物の片割れはすぐ近くで見つける事が出来た。

「よう」

 ひゅうひゅうと苦しそうな呼吸音が聞こえる。兎谷の変わり果てた姿だった。
鉄とそう変わらぬ姿の兎谷は、最早呼吸すら間々ならない。大神はゆっくりと腰を下ろした。

「ああ……大神さん……ちっす」
「……」

 兎谷は小さく声を漏らした。
命を削ってまで漏らす声を聞き逃さないように、大神は更に近寄った。

「死にたくない……」

 しかしその行動は大神を後悔させてしまう結果となった。

「そ、そんな顔……初めてみた」

 死――。
 間近に見える死の足音。助からないことは兎谷も解っている様に見えた。
それでも兎谷は口を開き続ける。

「最後に……もう一回、愛ちゃんに会いたかったな」
「なんだお前、惚れてたのか?」
「へへ……かも知れない……。あいつ、俺が死んだこと知ったら……泣いちゃうかな」
「たぶんな」
「また、泣かせちまうな。ゴホッ、ゴホッ」

 兎谷はもう限界だった。
血しぶきを吐きながら苦しそうに咳き込む姿を、月が無慈悲に照らしている。
そんな姿を見ていられなかったのか、大神は銃を手に取った。

「止めてくれ」
「嫌か?」
「嫌だ、死にたくない。まだ何もやっちゃいない……。嫌だ、なんで!」

 兎谷は血を吐きながら、命を吐きながらも話すのを止めない。

「なんでこんな簡単に終わらなきゃいけないんだ! あいつ等さえ、あいつ等さえ攻めて来なければ、戦争なんて……戦争……なんて」

 涙と血と命が兎谷から漏れていく。
 大神は、再度兎谷の頭に銃口を向けた。

「なんだか……申し訳ないです」
「気にするな」
「これから、この国は……愛。ごめん……な」

 兎谷の手が上がり、そして落ちた。
一発の銃声が明け方の戦場に鳴り響く、それが仲間との別れの合図。
大神は兎の亡骸を抱きかかえ、虚空に向けて呟いた。

「死にたくねぇ……」

 大神は兎谷を抱いていた手を、そっと離した。
今まで居た仲間が、大切な人が、まるで塵の様に死んでいく。
兎谷のポケットから、何かが落ちた。

「写真か」

 それは愛が兎谷たちが住む家を出るとき撮った一枚の写真だった。
べとべとになった張り付いている血糊を優しく拭った。

「皆で撮った最後の写真になっちまったな」

 鉄が腕を組み、大神は鈴に引っ張られるような格好で、恥ずかしそうに帽子で目を隠している。
泉は横でどっしりと構え、その後ろでは一ノ宮が時間を気にするように時計を見ている。
カメラのタイマーを間違えたのだろうか、兎谷は後ろ姿しか映っておらず、その姿を愛が指を差しながら笑っていた。

「兎、お前背中しか写ってないじゃないか……最後までドジだったんだな」

 大神はふつふつと笑いながら、そっと写真を兎谷の胸元に返した。
兎谷が首にぶら下げているタグを片方はずしてポケットへ仕舞う。

 大神が立ち上がると、いつの間にか東の空を白んでいた。
朝日が眩しく死地を照らしていく。朝日は光を待ち望んでいた屍をいっそう明るく照らした。
大神は朝日を見つめ続ける。

「ちっ」

 その瞬間、廃墟に足音が響いた。大神は傷心から我に返り、すぐさま銃を抜いて物陰に隠れた。

 銃声が仇になっちまったか――。

 大神は物陰から足音が聞こえる方向を見据える。眩しい朝日のせいでよく見えない。
太陽を背にした人影からは、ヒラヒラとしたスカートのようなシルエットが浮かび上がった。

「女性か?」

 しかし此処は数時間前まで戦場だったのだ。
女性だと思ってはいても銃を握る手は緩むことなく、より一層強さを増した。

「馬鹿が……」

 大神は人影の正体がわかると物影からゆっくりと出てきて煙草に火を点けた。
人影の正体は愛だった。愛と目があった大神は顎で兎谷を指した。
恐らく、大神の行動を聞きつけてやってきたのだろう。
愛は走るのを止め、ゆっくりと兎谷に近づいた。

「い、嫌……。いやあああああああ」

 愛は泣いた、血まみれの兎谷を抱き寄せて泣いた。
あと十分、いや、五分早ければ兎谷の死に際に間に合ったのだろうか。
大神は愛の泣き顔を見ないように、廃墟を眺め続ける。

 どのくらい時間が経っただろうか。愛が落ち着いたのを見て、大神は二人に近寄った。

「大神さん……」
「ほらよ」

 愛は大神からチップを渡される。
それはかつて地下で泉から貰ったチップと同じ様な形をしていた。

「これは」
「核、いや核とは違うが。それと同等またはそれ以上の代物だ。一ノ宮から依頼されてずっと調査していた。でもよ、渡す気にはなれなかったんだ」

 愛は受け取ったチップを見つめた。

「そいつは、『反物質爆弾』ってやつだ。
 お前の両親は、こんな事態すら想定していたのかもしれないな。
 そんなものこの世にあってはならない。だがよ、もうどうでもよくなっちまった。
 お前の言った正義とあいつが行なった正義。どちらがこの国にとって良かったのか……」

 大神は兎谷の胸ポケットを探り、今は亡き、兎谷が吸っていた煙草を取り出した。

「あとは、お前が決めちまえ。
 どこの誰かわからない議員なんぞが決めるより、お前が決めたほうがいい結果になると期待している」

 大神は煙草を一本取り出し、火を点ける。残った煙草を愛に差し出した。

「あいつのだ」

 愛は兎谷が吸っていた煙草を受け取る。おずおずと一本取り出し、火を点けた。

「ごほっ、ごほっ」
「はは」

 無理に煙を吸い込み、咽る愛に悲しい笑みが漏れる。
しばしの静寂のあと、大神は愛に背中を向けた。

「じゃあな……」

 大神はこの場を立ち去った。泣いているのだろうか。
その足取りは重く、そして悲痛に見えた。

 愛は唇を噛み立ち上がると、ゆっくりと兎谷の傍を離れた。
朝日は全て顔を出し、一日の始まりを告げる。

 愛は振り返ることも無く、何かを決意したような表情で廃墟を歩いていった――。



[40230] 六.星の未来-大神-
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/10/19 12:07
 規則正しい電話の着信音がなる。
大神は携帯を手に取ったが、映し出されている相手の名をみてそのままポケットに入れた。
着信音は鳴り止む、しかし一分と経たずにまた携帯がなり始めた。

「うるせぇな」

 大神はうっとおしくも携帯を耳に当てた。

「もしもし」
『どうしてすぐに出ないのですか』
「あー……仕事中だったんだよ」

 どうやら仕事相手のようだが、大神はいつにも増して気だるそうな表情をしている。

『いつになったら結果が出るのでしょうか』
「あー一ノ宮総理、最初に長く掛かると説明したはずだが」
『ですが、もう半年ですよ。早くしないと』
「なら国で調査機関でも作ればいいじゃないか」
『そんな余裕は無いのです、貴方だけが頼りなんです。よろしくお願いしますよ』
「はいはい」

 そういって大神は通話を切った。
どうやら通話の相手は一ノ宮のようだ、大神はため息を吐きながら地面に座り込んだ。

「とは言ってもねぇもんはねぇんだからよ。まったく、面倒な依頼受けちまった」

 大神は座ったまま辺りを見渡した。
大神の視線の先にあるのは、大きな弐国の上陸船だ。
砲弾に塗れた港町の傍に、弐国の軍事拠点が出来ている。

「変わったな」

 大神は煙草を一本取り出し、口に咥えて火を点けた。
こんなところにいて、もし弐国に見つかったら殺されてしまうだろう。
しかし大神の身体能力を持ってれば、逃げ切ることぐらい容易いのかもしれない。
その余裕からなのだろう、大神はそのまま横になった。

「どうせろくでもないことに決まってる。あと半年もすればこの戦争は終わる、それまでじっとして待つのも悪くないか」

 横たわった大神の傍を春の穏やかな風がそっと横切った。
草木は青々と育ち、小さな花も所々に咲いている。頭上には澄んだ青空、まさに平和そのものだった。

 大神はこんな場所で何をしているのだろう。
一ノ宮から仕事の依頼を受けているようだが、その姿からはやる気は感じられず、まるでサボっているようにも見えた。

 またしても大神の携帯が規則的な着信音を鳴らした。

「またかよ」
『大神か?』
「その声は鉄か……よくこの番号がわかったな」
『何言ってる、緊急用に自分から置いていったんだろう』
「あ、そうだったか。何かあったのか?」
『申し訳ないが帰ってきてくれないか、俺と兎は徴兵された』

 大神は眉をぴくりと動かし、眉間に皺を寄せた。

「行くな」
『そうもいかないだろう』
「俺がなんとかする、戦場には出ないでくれ」
『なら早めに頼む、相当焦っているように見えるからな』
「わかった」

 大神は携帯を切り、立ち上がった。車に乗りながら携帯をかけなおす。

「おい!」
『留守番電話サービス接続い』
「くそ、あの狸野郎が……」

 大神はアクセルを思いっきり踏み込んだ。
タイヤとアスファルトが大声を上げながら、車は猛スピードで旧B区域へと向かっていった――。


 ――大神が家にたどり着いたころには夜になっていた。
真っ暗で明かりも付いていない我が家を見ながら、バンと大きな音を鳴らしてドアを開ける。
大神は急ぎ足でリビングへと向かった。

「鈴、いるか?」
「え、あ……」

 リビングでは鈴が独り、テーブルに向かって伏せていた。
鈴は大神の顔を見ると、涙を流しながら抱きついた。

「せんせぇ……せんせぇ……どこ行ってたの?」

 鈴は力ない声で大神に訊いていた。

「すまない、仕事でな」
「鉄ちゃんと兎が、戦争に持ってかれちゃったんだよ」
「知っている、鉄から聞いて急いで帰ってきた」
「もう、遅いよ……先生はいつも遅いんだから」

 そういうと鈴は大神に抱きついたまま寝息を立て始めた。

「泣いたまま寝ちまうなんて……」

 大神は鈴を抱いたまま、近くにあったソファーに腰を下ろした。

 鈴に調べてもらう気でいたが、明日にするか――。

 大神も鈴を抱いたまま、目を閉じた。


 ――翌朝。

 瞼がはれ上がった鈴を前に、大神は神妙な顔つきで話しをしている。

「鈴、協力してくれ。もしかしたら鉄と兎谷が早く帰ってこれるかもしれない」
「え、ホント? するする、なんでもするよ!」

 大神の一言に鈴の沈んでいた顔は、瞬く間に花を咲かせた。

「前にあいつらが持ち帰ってきたメモリーチップがあっただろ」
「うん、ちゃんと保存してあるよ」
「よし。その中にある施設の場所が記録されているはずだ、それを探してほしい」
「はずって、先生自信ないの?」
「まぁな、恐らく音疾夫妻が関係しているとは思うが……」
「愛ちゃんのお父さん?」
「そうだ」
「わかった、探してみる」 

 鈴は急いでパソコンの前に座ったが、

「先に朝ごはんね! 先生もおなかへってるでしょ?」
「そうだな、貰おうか」

 二人だけの寂しい朝食ではあったが、そこには大神のおかげでいつもの調子に戻った鈴の姿があった。

 朝食を終えると、二人は作業に取り掛かった。

「音疾夫妻が関係している施設があるはずだ、探してくれ」
「このデータがあればすぐにわかるよ」

 鈴は慣れた手つきでキーを滑らしていく。しかし、

「ん~この中にはないみたい……」
「マジか、いきなり手詰まりだな」
「それは誰からの情報なの?」
「一ノ宮からだ、愛の両親が研究していた物があるらしいが」
「う~ん、愛ちゃんのお父さんって婿入りしたんでしょ? ほら、先生前に言ってたじゃない」
「そうか、前の苗字はわかるか?」
「ほいほいっと……泉 圭介。たぶんこの人だね」
「泉だと……まあいい、その名で探してくれ」

 鈴は頷き、キーを滑らせる。
今度はすぐに見つかったようだ、大神はモニターを食い入るように見た。

「結構多いな……」
「有名な科学者さんだったみたいだね、私は全然わかんないけど」
「仕方ない、すべての施設に電話して訊いてみるしかないな」
「電話?」
「一ノ宮の言い分では、すでに使われていない場所らしい。恐らく情報規制もされているだろう」
「なるほどね、なら私はネット上でこれらが引っかかるか試してみるね」
「俺は電話で稼動しているかどうか確認しよう。まったく、面倒な仕事だな」

 鈴はくすくすと笑いながら、大神の顔を見ていた。
大神はその仏頂面を更に歪ませながら電話を取り出す。単純作業だが二人では時間が掛かりそうだ。

 こりゃ一日掛かるかもしんねぇな……しかし鉄がいればそうそう死なないだろ――。

 大神は戦場に行った二人のことを考慮していたが、それでも鉄のことを信頼しているようだ。
早く戦争を終わらせる必要はある。
だが、大神はあくまで一般人であり国のために働く気にもなれないようだ。

 動いているのは鈴の為に二人を救出しようとしているに過ぎない。
いまの大神からは昔のような殺気立った空気は感じられなかった。

 昼も近づき、大神が休憩しようと煙草を取り出すと、鈴が声をあげた。

「見つけたよ!」
「早いな、どこだ?」
「ここ電話してみて、たぶん繋がらないよ」
「了解……ビンゴだな」

 大神は耳に当てた携帯を仕舞うと、モニターを覗き込んだ。

「地図を出してくれ」
「ほい」

 地図に映し出された赤い点を目で追う。
そこは首都から少し離れた、ぎりぎり旧A区域にある山の中だった。

「区域が開放された今なら行けるな、弐国が来てるのは逆側だから問題ない」
「ならすぐ行こう、今すぐ行こうよ!」

 鈴は意気揚々と大神に訴える。鉄と兎谷を戦争から取り戻したい一心だろう。

「しかし今から行ったら夜になっちまう」
「なら明日の朝一番ね」
「はいはい、わかったよ。だが使われていない施設にどうやって入るか……」
「何言ってるの先生。私たちが持っているのは国を止めれるほどの武器だよ」

 鈴は久条のビルを襲撃したときのことを言っているのだろう。
確かにこれがあれば、セキュリティの突破は問題なさそうだ。
大神は少しため息を吐きながら鈴の傍を離れ、ソファーに寝転んだ。

「そりゃ大層なもんだな。なら明日までに準備しておけよ」
「もちろんだよ!」

 鈴は嬉しそうに微笑んだ。しかし大神はなにやら不満そうな顔をしている。
そんな顔を鈴に見せないように帽子で隠していた。

 どうも嫌な予感がしやがる、何かが引っかかる――。

 大神はそれが何かがわからないまま、寝息を立て始めた。

――翌朝。
 鈴を連れた大神がA区域の山の中を、携帯を片手に持ちながら歩いている。
鈴は大神に手を引かれながら、急な山道を進んでいく。

 二人の格好はいつもながらの普段着、
ハイキングとも言いがたい時間に歩いている二人の姿は異様だった。

「朝靄が酷いな」
「大丈夫、もうすぐだよ」

 鈴は携帯に入った地図を大神に見せる。
画面に表示された赤い点と、現在地を教えてくれる黄色い点はいまにも重なりそうな位置にあった。

「見つけた」

 鈴が小さく声をあげた。大神と鈴探し当てたのは、今は亡き音疾夫妻が残した研究所だ。
もっとも大神のやる気があれば、もっと早くに探し当てれたかもしれない。

 大神は鈴が見つけた古い扉の前に立った。

「ただの廃墟にしか見えないな」

 目の前にある扉も、その周りにある建物も所々錆び付いていて、不気味な雰囲気をかもし出している。建物は工事現場などにありそうなプレハブ小屋で酷く脆そうだ。

 こんなもの、鍵なんて必要ないだろう――。

 大神はあまりにボロさに、思わず扉を蹴ってみた。
ガンと大きな音がして、扉の蝶番が外れる。
ドアノブを握って思いっきり引っ張ってみると、扉はいとも簡単に壊れた。

「ちょ、ちょっと先生。壊したら怒られちゃうよ」
「誰が怒るんだよ、ここはハズレじゃないのか?」

 大神はそういって中に入っていく、中は明かりもなく真っ暗だった。
大神は足を一歩前にだすと、カツンと甲高い足音が響いた。

「止まれ」
「へ、どうしたの?」

 大神は携帯を取り出し、ライトをつけた。
そこに映し出されたのはプレハブとは思えない、四方がコンクリートに囲まれた通路だった。

「なにこれ、外はただのプレハブだったのに……」
「どうやらアタリのようだな」

 大神は慎重に歩を進めていく。もしかしたらセキュリティと称した罠があるかもしれないからだ。
その緊張感に鈴も気が付いたのか、大神に後ろを二歩と離れず付いていく。

 十メートルほど進むと、二人の前に頑丈そうな両開きの扉が現れた。

「エレベーターか?」
「みたいだね」
「しかしどこにもボタンが無いな」

 エレベーターであれば呼び出しのボタンがあるはずだ。
しかし周りにそれらしきものは見当たらない。
大神は少し考えた後、扉の横に埋まっている機器に目が付いた。

「これはカードリーダーか。鈴、開けれるか?」
「任せてっ」

 鈴はメモリーチップからデータを抜き取り、カードキーを複製していた。
それをカードリーダーと思わせる隙間に通す。機械的な音と共に扉が動いた。

「電源が生きているのか」
「よかったね」
「……そうだな」

 エレベーターの中に入り、点灯していないもう片方のボタンを押した。
扉が閉まると、エレベーターはぐんぐん下へおりていく。

「長いな」
「もう三分くらい下に向かってるね」

 エレベーターの中に窓は無く、いま何階にいるかも表示されていない。
ただ身体の感覚で下りているのが分かるだけだ。十分ほどして、エレベーターは漸く止まってくれた。

 チンと、聞きなれた音と共に扉が開いた。
エレベーターの中から見えるのは、非常口と書かれた緑色の明かりだけだ。
ほかに電灯らしきものは無い。
大神はライトで辺りを照らしながら、片方の手で銃を取り出して安全装置を外した。

「何かいるの?」
「念のためだ」

 大神は鈴を連れてエレベーターを降りる。ライトと銃を構えながら、ゆっくりと進んだ。
緑色に光る非常灯の明かりから、二手に分かれている通路が浮かび上がってくる。

 T字路になってるのか、面倒だ――。

 大神は片方の壁を背にして、ゆっくりと進んでいく。
辺りに気配はなく音もしないが、壁に耳を当てると微細な振動が伝わってきた。

 これはなんだ――?

 大神は更に緊張感を高めながら前へと進んでいく。
鈴は壁に手を付きながら大神の後ろをゆっくりと付いていく。
暗くて周りはほとんど見えない、鈴は手の感触を頼りに足を進める。
そんな中、カチッと鈴の手に何かが触れた。

「あ」

 パチパチと点滅したあと、二人の頭の上にある蛍光灯が眩しく光り始めた。

「おいおい」
「ご、ごめん先生。でも結果オーライってやつ?」

 大神はそれでも緊張を緩めない。
神経を研ぎ澄まして辺りの音に集中するが、特に変わった様子はないようだ。
大神は呆れながらため息を吐き、目の前のT字路へと進んでいった。

「生きてるから問題ないけどよ、注意してくれ」
「りょ、りょ~かい」

 コツコツと大神が歩く音が廊下に木霊している。
廊下の突き当たりから先は吹きぬけになっており、
広いスペースの中には大きな機械の塊が鎮座していた。

「なにこれ、凄く大きいね」
「俺にもよくわからん」

 大きく円筒機械の塊、直径は十メートル、長さは百メートルはあるだろうか。
ガラスのような物が無数に貼り付けられており、奥のほうは薄暗くよくわからない。
それらを運ぶために置かれてあるトレーラーなどの重機が、やけに小さく見える。

「どうやら放置されてから、それほど経っていないようだ」
「だね、廊下とか手すりとか新しいもん」

 しかし何をしていたのかわからない。
大神があても無く廊下を歩いていると、
長く、人一人入れそうな大きさの金属パイプが道なりに続いている。
大神はそのパイプを手でコンコンとノックしてみた。

「なんだこいつは?」
「触ってもいいのかなぁ」

 パイプは道なりにどこまでも続いているように見える。
このままでは拉致があかないと、大神は地べたに座って鈴にたずねた。

「地図とかないのか?」
「あ、そうだね。ちょっとまって」

 鈴は持ってきたノートパソコンを開いてカタカタとキーを打つ。
ものの数分でお目当てのものは見つかったようだ。

「はい先生」
「早いな……おい、これ本当にここの地図か?」
「そのはずだけど」

 大神が見ている地図は中心に豆粒のような四角い枠がポツンとあり、その枠を大きな円が覆っていた。
恐らくこの円周の枠はパイプが置いてある通路を示しているのだろう。しかし、

「でかすぎるぞ……円周五百キロだと?」
「五百キロってどのくらい?」
「玖国全土が枠の中に納まるぐらいだろう」

 大神は地図を拡大して、ようやく自分たちのいる位置が分かった。
ここからもう少し歩いたところに管理室があるらしい。
大神はズボンに付いた埃を払いながら立ち上がる。

「とりあえず管理室とやらに行ってみるか」
「うん」

 カツカツと二人の足音と、今にも消えてしまいそうな電灯が鳴らす、カチカチとした音だけが聞こえる。

 なんでこんなでかい施設を放置したんだ――?

 鈴から受け取った情報によれば、この施設は玖国全土を使っている。
これほど大きな施設ならば国家プロジェクトのレベルだろう。
しかし国は此処の事を何もしらないようだ。

 大神は考えながらゆっくりと歩いている。
そんな姿を鈴が心配そうに顔を覗き込みながら並走している。
ぴょこぴょこと動き回る姿を、大神は気にも留めず歩き続ける。

 そんな中、鈴が携帯を開きながら大神に向かって口を開いた。

「ふ~ん、さっきあったおっきい機械は、粒子加速器っていうんだね」
「……あ?」
「先生もさっき見たでしょ、あのおーっきい円筒の機械。あれの名前っていうか部屋の名前が載ってたよ」

 鈴は笑顔で大神に携帯を渡した。
携帯にはメモリーチップからこの施設に関してのデータを移してあった。
大神はそれを食い入るように見る。

「思い出した……反物質だ」
「反物質?」

 鈴は大神の言葉をオウム返しに答えた。

「俺も専門じゃないから詳しくは知らん。
 反物質ってのは宇宙誕生の謎を解き明かす鍵だとか、
 新しいエネルギーとして注目されていた物質だな」

「でも私は全然知らないよ」
「二一ⅩⅩ年に大事故が起きたらしい、その事故で壱国の一部が無くなった」
「無くなった?」

「ああ、文字通り全て無くなってしまったらしい。
 核なんざ地球から見れば火傷みたいなもんだろう、
 だが反物質での事故は身体の一部が消し飛んだ感じだろうな」

 大神はまるで知っていて当たり前の様に話していく。しかし初めて聞く鈴には堪らない。
同じ様な場所で事故の話しなどされては、流石の鈴も驚きのあまり口を閉ざしてしまう。
それが自分の想像も付かないのであれば尚更だった。

「それから壱国は次の失敗を恐れ、反物質に関する研究を全面停止した。
 一番大きい国が辞めてしまって、ビジネスとして成り立たなくなってしまった。
 それから廃れてしまったのだろう。いや、みんなビビっちまったんだろうな……」

「でも玖国だけは続けていた」
「だけとは限らないだろうが」
「……。もしかして、私達ってやばいことしてるんじゃないの?」
「気付くのが遅すぎたな」

 大神はそういってまた歩き始めた、鈴もおどおどしながら大神の後を追う。
金属パイプを隣に見ながら、二人は誰もいない施設を只々歩いた。

「此処か。鈴、カードキーを」
「あ、はい」

 大神はカードキーを使って扉を開けた。
ここが管理室なのだろう、部屋の中にいくつもパソコンが置かれている。
パソコンの先には大きなスクリーン、並んだ机の上には書類が散乱していた。

「いったいこの施設になにがあったんだ……」

 施設内の電源は生きており、設備関係も放置されたまま。
仮に襲撃等があったのなら、どこかに争いの痕が残るはず、しかしそれも見当たらない。

 全てを置き去りにして、人だけ消えちまったような感じだ――。

「どーしたのせんせ」
「あ、ああ……なんでもない。生きているパソコンはあるか?」
「これが大丈夫みたいだよ」

 鈴が少し遠くにあったパソコンの前に座った。
鈴がモニターの電源を押すと、パソコン本体の電源が入ったまま放置されている物があった。

「うーん、どれが知りたい情報かわかんない」
「反物質……で検索かけてみてくれ」
「りょーかい。えーと反物質は……あった」

 大神はその声を聞いてすぐさま鈴の元へと駆けつけた。

「早いな」

「えーっと、反物質とは二十世紀後半から研究された全く新しい物質の事。
 構成する素粒子の電荷などが逆の物質であり、この反物質が地球上の物質と衝突すると対消滅が起こり、質量がエネルギーとなって放出される。そのエネルギーはわずか一グラムで約九十兆ジュールのエネルギーに相当し、約二百トンの核と同等で」

「まてまて、何を見てるんだお前は」
「え、反物質の報告書だけど」
「違うだろ……うーむ、この情報の中で一番重要なセキュリティが掛けられたものを探してくれ」
「りょーかい、お安い御用だよ」

 鈴は浮かれながら凄まじいスピードでキーを叩き始めた。

 鈴は天才なんだけど、頭が悪いのが玉に瑕(きず)だな――。

 大神は作業を鈴に任せ、辺りを物色し始める。
散らかされたままの書類、ぬくもりさえ感じそうな椅子は、放棄された施設に不気味さを加えさせた。

 机に指を滑らせると、少しだけ埃が指に付いてくる。大神はデータの入った携帯を見ながら考えた。

 久条が死んで約十ヶ月、当たり前だが音疾夫妻が処分された時期は書かれていない。最低でも一年だが……くそ――。

 大神は頭を大きく振って、片手でこめかみを抑えながら考える。

 愛はいつからCランクだったんだ? いつ両親が処分され、いつ泉の爺さんと出会ったんだ? 何かがおかしい気がする――。

「先生!」
「む、どうした鈴」
「んもー! さっきから呼んでるのに、早く来てよ!」
「わかったわかった」

 大神は頬を膨らませている鈴をなだめながら、小走りで駆け寄った。
モニターにはロケットのようなモノが映し出されていた。

「物凄く嫌な予感しかしないが」
「これたぶん、爆弾だよね」

 鈴はゆっくりと画面を切り替えていく、大神は頷きながら画面を見つめ続けた。すると、

「はっ……はは……」

 大神の口から乾いた笑いが幾度となく漏れる。

「せ、先生、どうしたの?」

 ――能無しどもはあれを見ても使い切らんか。やはりこの国にはまだ、私が必要のようだ。

 大神は思わず思い出してしまった。
それはクーデターを起こしたあの日、夕焼けの屋上で言った久条の一言だった。

「音疾、お前の親父はよ。この星を壊しちまうぜ……」

 画面に表示されているのは弾頭の中身だ。
モニターに映し出されたロケットには、反物質を百グラム抱えて飛ぶことが可能だった。
大神は絞るような声で呟く。

「観測すら難しいはずの反物質を固定化して運ぶだなんて、とんだオーバーテクノロジーだ」

 大神は疲れきったかのように、どさっと椅子に腰を下ろした。鈴はその様子を心配そうに見つめる。

「先生これって……」
「見たとおりだ。単純計算だが、そいつには核爆弾二万トン分の破壊力がある」
「に、にまん!?」
「なんなんだこれは、この国は馬鹿ばっかりだ……」

 大神はうな垂れながら大きくため息を吐いた。しかし鈴はそのデータを見ながら大神にたずねる。

「で、でもさ。これで終わるんだよね?」
「何がだ?」
「戦争だよ! これで終わるんでしょ?」
「これは核以上の抑止力があるだろう、異常なほどのな」
「なら鉄っちゃんや兎は帰ってくるよね!」
「……恐らく弐国との交渉が上手くいけば、停戦にはなるだろう」
「ああ、よかった」

 鈴から安堵の息が漏れた。
鈴は鉄と兎谷の事をずっと心配していたのだろう、
大神の言葉を聞いて緊張や不安から開放されたのか流暢に話し始める。

「あたしさ、愛ちゃんに代わったせいでこの戦争が起きたって思うの。もう全っ然私達のこと考えてないよね! なんで戦争なんてするのかなぁ」

 大神は項垂れた姿勢のまま、鈴の話しを聞いていた。
鈴からようやく漏れた本当の気持ちがそこには在った。

「戦争なんて一個もいいこと無いよね! 鉄っちゃんも兎も徴兵されて帰って来ないしさ。
 これで、二人が帰ってこなかったらあたし絶対に許せない。
 きっとあの人のせい、あの人に代わったせいで、こんなんなっちゃったに違いないよ」

 鈴はまだ言葉を捲し立てている。大神は上の空ので話しを聞き流し、適当に相槌を打った。

「戦争の理由、か」

 大神は小さく声に出してしまう。そして表示されるデータを見て思っていた。

 これはあまりにも異常すぎる――。

 大神が席を立って鈴の元へと近づいた。

「あとはこれを報告してしまいだな」
「だね、お疲れ様」

 鈴はノートパソコンを取り出し、慣れた手つきで報告書を書き始めた。
恐らく毎回依頼の度に、鈴が書いていたのだろう。
だが、大神が奪い取るようにノートパソコンを引き寄せた。

「あとは俺がやろう」
「え、パソコン苦手じゃなかったっけ?」
「なんとなくだ」
「ふーん」

 大神は鈴に席を譲ってもらうい、報告書をまとめ始める。
しかしこの報告書は一ノ宮に提出しなかった。

 この兵器は絶対に世に出してはならない――。

 大神独自の判断だった。
誰も自分が壊れるかもしれない武器なんて使いたくない、共倒れはごめんだった。
恐らく作った愛の父親も同じ気持ちだったのだろう、だから施設の情報を地下に隠した。だが、

 どうもすっきりしない――。
 この施設にはまだ、いやこの国にはまだ俺の知らないことがある――。

 大神は頭を悩ませる。
だが久条や愛の父親が死んだ今、出てくる答えはすべて妄想にすぎなかった。
大神はため息を吐きながら嘘の報告書を書き終わる。

「此処には何もなかった」
「え、先生なにか言った?」
「なんでもない、帰るぞ」
「うん!」

 鈴は嬉しそうに大神に寄り添い、笑顔で施設を後にした――。



 しかし、兎谷と鉄の死を境に反物質爆弾を世に解き放ってしまうことになる。
 彼女は手に入れてしまったのだ……一ノ宮が言っていた、子供が大人に勝てる武器を――。



[40230] 六.星の未来
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:14
「これ……これさえあれば」

 真夜中、明かりも付いていない暗い部屋の中、私は大神から渡されたチップの中身に没頭した。
チップに記録されていた報告書には、救国の英知と呼ぶに相応しいモノが書かれている。

「終われる、やっと終われるんだ」

 反物質爆弾、この武器さえあれば――。

 思わず涙すら流れてしまいそうだ。
玖国はようやく戦争抑止力を手に入れた、これほどの武器があれば弐国も無視は出来ない。
私は意気揚々としながら、呼び鈴を鳴らしてメイドを呼んだ。

「お呼びでしょうか」
「今すぐ一ノ宮さんを呼んでください」
「……今は夜中の二時ですが、よろしいでしょうか」
「事態は急を要するわ」
「かしこまりました」

 メイドが急ぎ足で部屋を出て行った。
私は嬉しさのあまり、大声ではしゃぎたくなるほど心が高揚していた。

 時計が三時を指すころ、コンコンと扉がノックされた。

「どうぞ」
「遅くなりました」

 扉を開けて入ってきたのは一ノ宮だ。一ノ宮はいつ呼び出しても必ず来てくれる、私の優秀な補佐だ。今日は一ノ宮の驚いた顔が見れると思うと、思わず口元が緩んでしまう。

「こんな遅くにごめんなさい、でもどうしてもこれを見てほしくて」

 私はパソコンのモニターを目の前に立っている一ノ宮へと向けた。
まじまじとモニターを見る一ノ宮の目が、徐々に丸くなっていく。

「愛様……これは」
「前に貴方が言った、大人に勝てる武器よ……これさえあれば戦争は終わるわ」

 一ノ宮は神妙な顔つきで、私とモニターを交互に見ている。
頭の中で意見がまとまったのか、ゆっくりと口を開いた。

「愛様は、これをどう使うおつもりで?」
「何言ってるのよ、これで弐国と対等になれたのよ。これを使って停戦に持ち込みましょう」
「……果たして上手くいくでしょうか」

 私はその一言にカチンときてしまい、思わず立ち上がった。

「なに弱気なこと言ってるのよ! これで戦争が終われるのよ。
 私が直接弐国に言って対談を行うわ、すぐに準備して頂戴」
「あ、愛様落ち着いてください。こちらの方針も決めませんと、私たち単独では……」
「もちろん朝一で会議も行うわ、でもこちら側としては停戦しかないのよ。
 方針とやらが決まったらすぐに飛べるよう、準備しておいて」
「かしこまりました」

 一ノ宮は一礼して、部屋を出て行く。
扉が閉まりきるのを見て、私は握りこんだ拳を机に思いっきり叩き付けた。

「もう誰も死なせないんだから……」

 私はそのまま椅子に座り、朝日が昇るまでじっと待ち続けた――。


 バタバタと大きな音を鳴らしながら、ヘリコプターの回転翼が回り始める。
上空は雲ひとつない晴天、ヘリポートには少し肌寒いが春を感じさせる穏やかな風が吹いていた。

「申し訳ありません、ヘリはもうこれしか残っておりませんので」

 横に立っている一ノ宮が会釈をしながら私に説明してくれた。
目の前にあるのは玖国に残っている唯一のヘリだ。
前に兎谷が使ったものと同じ軍用機が、一台ポツンとヘリポートにおいてある。

「構いません」

 私はそう言ってヘリコプターに近寄った。

「しかし、本当によろしいのですか」

 一ノ宮が何度も私を止める。私自ら弐国へ行くのは危険すぎると何度も止められていた。
確かに私では役不足かもしれない。でも、

「私はこの国の王なのだから、私が全責任を負う義務があります」

 私は力強い言葉で一ノ宮に反論した。
私の言葉に一ノ宮は散々頭を悩ませているようだが、私の結論は変わらない。
一ノ宮は軽く息を吐いて顔を上げた。

「わかりました。私も同行いたしますが、よろしいですね」
「よかった、もちろんそのつもりよ」

 私は笑顔で一ノ宮に答えた。
 私は一ノ宮と、数名のSPを連れてヘリコプターへと乗り込んだ。

「お願いします」

 一ノ宮が操縦士に一声かけると、ヘリコプターは地上を離れて大空へと飛び立った。
 私たちが向かう先は、玖国と弐国の間にある小さな島だ。
弐国側が指定してきたその島は、弐国の領土ではあるが本土とは少し離れている。
弐国側の配慮なのだろうか、とにかくその島を目指してヘリコプターは一直線に飛んでいく。

 窓から見える大地が姿を消すと、見渡す限りの海原が見えた。

「玖国の周りには何もないのね」
「ええ、他国から離れた島国ですから」

 そういう意味じゃ――。

 私は思わず言葉を返そうとしたが、途中で相槌を打つだけにした。
黙り込んでしまう私をみて、一ノ宮が不思議そうな顔をしている。

 私は視線を海へと戻した。太陽に照らされ、眩しく光っている海をただただ眺めた。

 朝の議会では満場一致で停戦に決まった。
それも当たり前だろう、私たち玖国はすでに疲弊しきっている。
半年前までは勇ましかった軍人たちも、言葉なく頷くだけだった。しかし、

 なんで席に座ってくれたのかしら――。

 私は手に入れた武器を見せることで、無理やりにでも話し合いの場を作ろうとした。
それは今まで何度も和平を申し出ていたが、弐国は話すら聞いてくれなかったからだ。

 だが、今回弐国側は何も聞かずに初めて席に座ってくれた。
弐国側も頃合だと思っているのか、私には弐国の思惑が分からないままだ。

 とにかく、ここで終わらせないと――。

 私はぎゅっと手のひらを握り締め、気合を入れなおした。
緊張からなのか、さっきから手の震えが止まらない。
そんな自分を一ノ宮に気づかれないよう強く強く握り締めた。

 何時間経っただろうか、ようやく弐国が指定した島が見えてきた。
周りを断崖絶壁に囲まれた小さな島には、ひとつだけ真っ白な灯台が建っている。
その横にあるヘリポートには、数名の人影が見えた。どうやら弐国側は先に到着しているようだ。

「行きましょう」

 私は一ノ宮に声をかけた。ヘリコプターはゆっくりと高度を下げ、ヘリポートに着陸した。
 SPがドアを開けると、目の前にいる黒服の男が私に向かって頭を下げた。

「お待ちしておりました」

 弐国のSPと思われる男が私を歓迎する。どうやら弐国側はすでに灯台の中で待っているようだ。
私は一ノ宮と一緒に黒服の後を追った。少し歩くと、上空から見えた灯台が見えてくる。

 立派な灯台……なのかしら――。

 上から白く見えた灯台は、海風にさらされて所々塗装がはげ、むき出しになっている。
しかし、中に入ると寂れた外見とは裏腹に、豪華な装飾たちが私たちを歓迎した。
美しいシャンデリアと周りには絵画が張り巡らされている。
私が住んでいるビルと同じような西洋風の豪華な造りだ。

 そんな装飾品たちに目を向ける暇も無く、黒服は弐国の王が待つ部屋へと進んでいった。
ひときわ大きな扉を開けると……いた、ヘルマンだ。

「どうぞ」

 大きなテーブルの中央にヘルマンは座っていた。
私たちは黒服に案内され、向かい合う形で椅子に座る。
心臓の鼓動が高鳴っていく、私は心を落ち着かせるように長くゆっくりと息を吐いた。

「ようこそいらっしゃいました。長旅お疲れでしょう、こちらに」
「前置きは結構です」

 私は強い言葉でヘルマンの発言を遮った。
私の発言で、たださえ張り詰めていた空気が更に引き締まっていく。

「ほう……」

 ヘルマンはギロリと目を尖らせ、私を睨みつけた。
そんなヘルマンの脅しにも似た行為には目を合わせず、私は単刀直入に話を切り出した。

「この戦争を、終わりにしましょう」
「では前の条件を呑んでくださる、と」
「ええ、食料と資源の三割とそちらにお渡しいたします。それで軍を引いてください」
「……はい?」

 ヘルマンはなにやら不適な笑みを浮かべながら私を見ている。
これは、もう一度言えということなのだろうか。

「ですから、食料と資源の三割」
「何をおっしゃっていられるのか、七割ですよ七割」

 私は横目で一ノ宮を見た。一ノ宮は書類を取り出し、その中の一枚をさっと私の元へ置いた。
その紙には、確かに七割との記載があった。

 ――「駄目でした、和平をするには無理な条件ばかりで話にもなりません」

 思い出した、これは即日和平を申し出たときに返ってきた答えだ――。

 私は再度その書類に目を通す、分かっているが書いてあるのは玖国にとって無理なものばかり。
とてもじゃないが、この条件では玖国は生きていけなかった。

「ご確認頂けましたでしょうか、ではその条件でよろしいですか」
「……それは出来ません」

 私の返答で室内は静寂に包まれた。それはほんの二、三秒程度だっただろう。
でも私にとってはとても長い沈黙に思えてしまう。
ヘルマンが首を捻るような仕草をしながら口を開いた。

「意味がわかりませんね。弐国と玖国では、弐国側のほうが戦死者が多いはずですよ。
 ですからそれぐらい頂かないと割りに合わないのです」

 穏やかな口調だが、ヘルマンの雰囲気が穏やかなとはほど遠い。
びりびりと伝わってくるプレッシャーに、私は必死で耐えることしか出来ない。

 でも私には武器がある――。

 その思いが、私の震えを止めてくれた。
私は周りのSPに書類を預け、弐国側へと渡した。

「これは?」
「私がご説明しましょう」

 私に代わって一ノ宮が反物質爆弾について説明を始めた。
 反物質爆弾の威力、その存在をゆっくりと分かりやすく弐国側に説明していく。

「以上となります」

 一ノ宮が説明を終わらせ、椅子に座ると辺りは静まり返っていた。
この事実に弐国側は衝撃を受けたのか、頭を抱える者が大多数だ。

「そんな馬鹿な、玖国に核はなかったはず」
「このままでは共倒れになる、三割でも十分なのでは」

 一人の声は瞬く間に二人、三人と波紋のように大きく広がっていく。
反物質爆弾の効果は絶大だったようだ、これで弐国側も譲歩せざるを得ないだろう。
私はヘルマンたちに気づかれないよう、一ノ宮に目配せをした。
それに気づいた一ノ宮、少しだけ笑ってくれたような気がした。

 そんな混乱の中、口を開いたのはヘルマンだった。

「で?」
「これ以上の武力行使を続けるのであれば、こちらも相応の手段を取らせていただきます」
「ふーん」

 ヘルマンは何故かふてぶてしい態度を取り続ける。
つまらないような対応、それともこちらを挑発しているのだろうか。

 違う、こいつはヘルマンは子供なんだ――。
 簡単に手に入りそうだった玩具が手に入らなくなってイラついてるんだわ――。
 いけるわ、これなら三割と言わず、もっと条件を緩和出来るかもしれない――。
 いや、してみせる――。

 私は高鳴る鼓動を悟られないよう、軽く咳払いをして口を開いた。

「弐国と玖国は、最早対等の立場であるとも言えます」
「はぁ~……」

 何よそのため息は――。

 ヘルマンの様子がおかしい、何故か不穏な空気が辺りに立ち込めていた。
ヘルマンは子供、私はそう認識した。しかし呆れたようなため息が、どこか鼻に付く。
先ほどまで騒がしかった弐国側が静寂を取りもどし、
傍で控えている黒服たちも背筋を伸ばして緊張している様に見える。

「やれ」
「!」

 銃声――!

 パンッ、パンッと乾いた音が部屋中に何度も響き渡る。
ヘルマンの一声で弐国側の黒服たちが一斉に銃を抜き、私たち目掛けて発砲したのだ。

「え……」

 私の目の前には一ノ宮が来ていた紺色のスーツが見える。
一ノ宮が私を庇う盾のように覆いかぶさっていた。

「お、お逃げください」

 一ノ宮の顔が苦痛に歪んでいく。
口から血を流しながら、ズルズルと力なく私の身体から滑り落ちていく。

 な、何が――。

 私は何が起こったのか、わけがわからないまま固まってしまっていた。
足元に横たわる一ノ宮だけが、現実を教えてくれているような気がした。

「誰だぁ、愛ちゃんに撃ったやつは」
「す、すいません。奴が先に動いたので……」

 ヘルマンは銃口を黒服に向けながら、なにやら言い争っている。
銃弾は私には当たらなかった。しかし一ノ宮の身体を貫き、椅子を貫き、部屋の壁すらも貫いていた。
ヘルマンは黒服に向けて銃を向けたが発砲することはなく、そのまま私に近寄ってきた。

  まずい、まずい、まずいまずいまずい――。

 全身から玉の汗が噴出してくる。身体を震えだし、頭の警報は今頃になってけたたましく鳴り始めた。

「き、聞いてなかったの!? 私たちも核と同じ武力を……あぐっ!」

 ヘルマンが私の黒髪を掴み、そのまま私は床へと叩きつけられた。
同時に足で頭を踏まれ、私は床に這いつくばってしまう。
ヘルマンの顔は見えないが、その歪んだ顔は容易に想像できた。

「お前さ、なぁんにもわかってないのな」
「な、何をよ!」
「私も銃を持っています、だから貴方も銃を下ろしてください? 甘いんだよ全てが、しょうがねえよなぁ、一年生王様はよぉ!」
「あぐっ」

 今度はヘルマンに蹴られて私の身体が宙に浮いた。その勢いそのままで椅子に叩きつけられる。

 逃げられない――。

 これから何をされるか分からない恐怖に、私は思わず目に涙を浮かべてしまった。

「国民は可哀想になぁ。こんな奴のために戦ってるんだからよぉ」
「あんた達が攻めてくるからでしょ! この****共め!」
「ヒヒ、いい顔で泣きやがる」

 私は必死の形相でヘルマンに訴えるが、ヘルマンはそれすら楽しんでいるように見えた。

「撃つわよ! 私達が帰ってこなかったら発射されるのよ!?」
「撃てばいいじゃねえか」
「なっ……」
「最初からわかってんだろ? これは既に戦争の域を超えちまってる戦争なんだよ」

 戦争の域を超えている――。

 ヘルマンの言うことが欠片も理解できない。ヘルマンはその不気味な顔を更に近づけて言った。

「玖国は世界から孤立してんもんなぁ。Dなんて非人道的なことまでやっちまってよ……頼みの壱国様からも見捨てられちまったか」
「くっ、先代のことは関係ないでしょ」
「そうだよなぁ、久々にサミットなんかに出てきたと思ったら代替わりしてたもんなぁ。
 くくく、お前をよ、この前のサミットで見たときから思ってたぜ」
「な、なによ……」

「お前のような立場の女を、犯って犯ってヤッテ、手足ぶった切って、畜生の様に飼ってやったら。
 どんな顔するのかってなぁッ! アヒャヒャ************!」

 人のモノとは思えないような笑い声が耳を貫いていく。
しかし私の両腕はヘルマンの足に踏まれて動かせない。
私は目を閉じて、笑い声が収まるのを我慢することしか出来なかった。

「狂ってる……」
「狂う? 上等じゃねぇか。俺等のご先祖様がよぉ。
 この星をこーんなにレイプしちまって、俺等が食うところなんかひとっ欠片も残ってねぇ。
 こうなっちまったらよぉ、もう狂うしかねぇだろ」

 こんな、こんな狂人のせいで私の仲間が……大切な人が殺されたなんて――。

「そういえば、お前の大事なお仲間もよ。何人か死んだってな」
「なっ!」

 兎と鉄さんのことを、なんでそんなことをこいつが――。

「さぁ? 何故でしょうかねぇ……あひゃひゃひゃ」

 心の中を読まれたような気すらしてしまう。
これもヘルマンの絵のとおりなのだろうか。悔しさはすでに通り越し、怒りが収まらない。

「お前のせいだよ」
「違う!」
「アヒャ******************!」

 私の苦痛な顔がお気に入りなのだろうか、またしても奇怪な笑い声が部屋中に木霊した。

こいつらさえ攻めてこなければ。国は、国はあの政策から立ち直れたはずなのに――。
こいつらさえ……弐国さえなければ――。

「最初から条件呑んどけば、誰も死なずに済んだのによぉ」
「違う! 違う違う違っ……! ゴホッ、ああ……ああああああ」

 もう私の心は限界だ。口では否定の言葉を繰り返しても、頭がどんどん真っ白になってしまう。

 私のせいじゃない――!
 私のせいじゃ、ない――?
 私のせいなんて……思いたくない――。

 突如私を襲った困惑、激情、そして絶望が私を壊していく。
あまりにも大きすぎる精神的苦痛に、私の理性が壊れていくのを感じる。

「地下へ連れて行け」
「はっ」

 黒服に抱きかかえられ、私はどこかへ連れて行かれてしまう。
頭の中は真っ白で、目は涙で歪んで何も見えない。

 何も……見たくない――。

 扉が閉められる音が聞こえ、私は黒服に抱きかかえられたまま階段を下りていく。
 兎谷とは違う、がさつでゴミでも運んでいるような不快感。
 私は心が折れていく音が聞こえるような気がした。


暗い――。

 冷たい感触が下半身全体に広がっていく。
ゴツゴツとしてざらついた肌触りからは、汚れた石のような床が想像できた。
背中に壁があるのを感じ、座ったまま壁に寄りかかる。
あたりは真っ暗で何があるのかすら分からないが、暗さに慣れた目から鈍い光を放つ銀色の網が見えた。

 恐らく此処は、牢屋なんだろう――。
 私はどのくらい眠っていたのかな――。
 なんで私はこんなところに居るんだろう――。

 頭が混乱していてよくわからない。
それに下半身は寒いのに、腕や胸の辺りが燃えるように熱い。

 なんでだろう――。

 私は目だけを動かして自分の腕の辺りを見るが、暗くてよく見えない。
身体には倦怠感があって、腕を持ち上げるのも面倒だった。

 波の音が聞こえる――。

 牢屋の中に微かな潮騒が聞こえる。
ぴちゃんと綺麗な水滴の音も混ざり、まるで海に囲まれているような雰囲気がする。

 寒い――。

 下半身がぶるぶると震え始める、でも上半身はどくどくと脈打つ。
頭は考えるのを止め、私は唯一見える網目の鉄を呆けたように見つめ続けた。

 がちゃり、と扉が開く音がした。耳に飛び込んできた異音に思わず身体が反応する。

 わからない、わからないのに……怖い――。

 私は下を向いて目を閉じた。コツコツと足音が聞こえる。
その足音は私の目の前で止まってしまった。

 怖い――。

 カチャカチャと何かを外している音が聞こえる。

 嫌だ、もう嫌だ――。

 ギィと甲高い音が牢屋中に響いた。

「あ、ああ……あ」
「落ち着け」
「うぐっ!」

 誰かの手が私の口を軽く押さえた。しかし押さえたのはほんの数秒で、私の口はすぐに自由になった。
私は目を動かして横にいる誰かを見たが、暗くてよくわからない。
そんな中、取り出した携帯端末の光が、牢屋中を照らした。

「お、大神さん……」
「大丈夫か?」

 助けに来てくれた――。

 私は思わず涙が溢れてしまう。それと同時に申し訳に気持ちになってしまった。
大神はライトで私を照らしながら、身体を縛っている拘束具を取り外そうとしている。
身体が動かなかったのは倦怠感だけでなく、この拘束具が原因だった。

「まったく、世話やかせるなよ」
「大神さん……ごめんなさい、こんな……こんなことになるなんて」
「仕方が無い、俺も弐国がここまで馬鹿だったとは思わなかった」
「うあ……あああ……」
「泣くな、見張りに聞こえる」 

 大神の言葉に、私は歯を食いしばって漏れ出す声を我慢した。
静かな牢屋の中でカチャカチャと金具を外していく音だけが響いている。

 カチッと何かが外れた音がすると、私の身体は自由を取り戻す。
しかし私は自由になってもうな垂れたまま、半ばあてつけのように大神に訊いた。

「大神さん、私の何がいけなかったの……? 私はただ戦争を終わらせたいだけなのに……」
「知らん」
「えっ」

 大神からの予想外の答えに、私は思わず声をあげた。

「んなもん俺ら庶民に分かるかよ。お前は玖国(うち)の代表だろうが、自分で考えろ」
「でも……でも」
「今回なんで失敗したか考えろ、そして次に生かせ。生きて此処を出るぞ、お前にはまだ出来ることがあるはずだ」

 私に出来ること――。

――私たち庶民は悲しむことしか出来ません。
ですが愛様はこの戦争を終わらせる権力(ちから)があります。

――なら早く終わらせるこったな。

 私の心の中で二人の言葉が鼓動した。
二人が私に教えてくれた、私には戦争を止める権力(ちから)がある。
この戦争を止めるには私がしっかりしなくてはならないんだ。
そして私と同じような悲しみを二度と繰り返したくない。

 私にはまだ――。

「居たぞ!」

 扉が音を立てながら勢いよく開かれた。
差し込んでくる光に、一人の影が映りこむ。その影は懐から銃を取り出し、私たちに向けた。

「伏せろ」

 大神さんが私を引き寄せて、背中を出口のほうへと向けた。
乾いた銃声が牢屋の中で何度も反響している。

 助からない……また私は――。

 涙が溢れてくる、また私のせいで大切な人が殺されてしまう。
私は大神さんの身体に必死でしがみついた。

「馬鹿野郎、娘にも当たる!」
「し、しかし……」

 出口から言い争う声が聞こえ、銃声が収まった。
その瞬間大神さんが立ち上がり、物凄い速さで黒服たちに近づいた。

「悪いな」

 ドンッと鈍い音が聞こえた。
大神さんの横にいた二人の黒服が、まるで糸の切れた人形の様に倒れこんだ。
銃弾によって千切れた大神さんの服の隙間から、金属の足が見えた。

「お、大神さん……なに、その足……」
「質問は後だ、行くぞ」

 大神さんは右手に拳銃を持ち、空いた左手で私を抱え込んだ。
大神さんの体格では私を片手で持つのは難しいはず、でも私はまるで幼児の様に片腕に包まれる。
包まれた腕からは人の温かみは無く、金属独特の冷たさが伝わってきた。

 私は大神さんに抱きかかえられながら階段を上ってホールへと出た。
立派な装飾をされた玄関。その絨毯の上には弐国の黒服たちが何人も蹲っていた。

「化け物め……」
「ひっ」

 バンッと銃声が鳴った、大神が右手に持っていた銃で黒服の頭を撃ちぬいたのだ。

「お、大神さん」
「黙ってろ、舌かむぞ」

 まるで私の言葉を拒むかのような強い口調に何も言えなくなってしまう。

 違う、分かっていないのは私のほうだ――。

 私は頭をぶんぶんと左右に振って、なんとか思考を元に戻そうとした。

 大神さんは私を助けに来てくれたんだ。
銃が乱雑するこの場で、動いてる人間を放置なんて出来ない。
ほんの少しの力、敵に引き金を引く力さえあれば私は殺されてしまうかもしれない。

 だから大神さんはあんなにも躊躇なく殺したんだ――。

 私の目に涙が滲み出てきてしまう。大神さんに気づかれないよう、顔ごと服に押し付けた。

 私は何も出来ない、足手まといだ――。
 一ノ宮も殺してしまった……こんな私に戦争を終わらせられるだろうか――。

 バタンと大きな音がする、大神が正面の扉を蹴破った音だ。
太陽の光と、涼しげな海風が私たちを出迎える。
この島は断崖絶壁に囲まれた島、此処から脱出するには空か海しかない。

「行くぞ」

 大神さんが勢いよく走り出した。私は落とされないように大神さんの服をぎゅっと握り締める。

「ど、どこから逃げるの?」
「船だ、近くに俺が乗ってきた船を隠している」

 私は少し顔を上げて船を探す、しかしどこを見渡しても船なんて見当たらない。
そのとき後ろから銃声と大きな声が聞こえた。灯台の扉から続々と黒服たちが出てくる。
大神さんは後ろを一瞥したが、迎撃することはなく一目散に駆け出した。

 私は横目で黒服たちを見る。しかし黒服たちは灯台から出てきただけで、追ってくる素振りはない。

 なんで……なんで追ってこない――。

 ふとした違和感が私に浮かんでしまう。
大神さんは後ろのことなど気にしていない、船が置いてあるであろう崖を目指して走り続けている。

 崖から飛び降りようと大神さんが踏み込んだ瞬間、私は思わず大声を上げた。

「止まって!」
「どうした?」

 大神さんの動きが止まると同時に、ドンッと大きな音が鳴り響いた。
その音はまるで花火のように高い音を上げながら、私たちの目の前を通過した。

「伏せろ!」

 突如爆音が当たりに響き渡る、焦げた臭いをのせた風が舞う。
大神さんは私をゆっくりと地面に降ろし、崖から海を覗き込んだ。

「船が……くそっ」

 狙われたのは私たちではなく脱出手段、船を壊された。
海からは火柱が上り、小さな船は炎に包まれている。
返す身体で大神が灯台を睨みつけた。
恐らくヘルマンの仕業だろう、狂気に満ちた笑い声が聞こえる気がした。

 逃げられない――。

 私はそこから立つことすら出来ない。
身体が恐怖を思い出してガタガタと震えてしまっている。
大神さんはそんな私の身体を抱え、岩陰へと隠れた。

「しょうがねぇな」

 大神さんは銃を取り出して小さく呟いた。

「とりあえず全員殺すか……」

 大神さんは身を低くしながら、岩の隙間から顔をだして辺りをうかがっている。

「囲め、ゆっくりでいい」

 男の声が微かに聞こえた。
黒服たちは私たちを包囲するつもりなんだ、後ろは断崖絶壁のうえに海は荒れに荒れている。

 無理……もう無理だわ――。

 いくら大神さんと言えども、囲まれてからの一斉射撃を突破するのは難しいだろう。
私の脳裏に諦めの二文字が重く圧し掛かる。

「よく聞け」

 大神さんが低い声で私に話しかける。私は思わず背筋をぴんと伸ばしてしまった。

「諦めるのはまだ早い、脱出方法はもうひとつある」
「ど、どこに……」

 大神さんは灯台に隣接してあるヘリポートを指差した。

「船はもう無いからな、あいつらのヘリを奪うしかない。そこの崖を這っていけば灯台までいける、危険だがやれるな?」
「この崖を……でも」
「でもじゃねぇ、誰のせいでこんな目にあってると思ってる」
「わ、私の……」
「ああ、でもお前の判断を批判しているわけじゃない。
 あんなものを託した俺の責任でもある。やはり反物質爆弾は表に出すべきじゃなかった」

「違う! あれはこの国を救えるはず、戦争を終わらせれるはずだった。
 私が……私がもっと考えていれば」

 私の目に涙が浮かび、大神さんの顔がどんどん見えなくなっていく。
泣いている場合じゃないのはわかっている。
でも、私さえもっと上手く交渉できていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
そう思うと涙が止まらなかった。

 少しの沈黙のあと、大神さんが私に向かって銃を差し出した。

「復讐なんてしてほしくは無い。だが上には奴がいるだろう、此処から脱出するには必要となるはずだ」
「これは……」
「兎谷のだ、力を貸してくれるといいな」

 やるしかない――。

 私は大神さんから託された銃を握り締め、力強く頷いた。

「俺も終わったらすぐ向かう……行け」

 私は勢いよく岩陰から飛び出した。
震えていたはずの足は、まるで生き返ったかのように軽かった。
飛び出したときに黒服たちが私に向かって大声で叫んだ。
しかし大神さんのほうが優先なのだろう、追っ手はこない。

 私は戦場から逃げることに成功した――。


 銃声が聞こえる、おそらく戦闘が始まったのだろう。
後ろを振り向いてももう見えない、先に進むしかない。
それに、銃声が聞こえていると言うことは大神さんが生きている証拠でもある。
銃声が止まないことを願い、私は崖のふちに向かって歩いた。

 奥に進むとぎりぎり一人通れそうな道があった。
私は崖に張り付きながらすり足で進んでいく。
足元は波しぶきが飛び、波間に鋭く尖った岩が私を見上げている。

 落ちたら助からない――。

 私を引き込もうと力強い波が崖に打ち付ける。
波しぶきが無いところでは、何層もの蒼が織り成す幻想的な美しさに引き込まれそうになる。
私は心を落ち着かせるために、少しの間目を閉じて深呼吸をした。

 時間がないことは分かっている――。
 でも慎重に行かないと――。

 私はゆっくりと崖のふちを進んだ。

 ようやく対岸へたどり着くと、私は急いで崖の横にある小高い丘を上った。
丘を越えるとさっきまで監禁されていた灯台は目の前だった。

「着いた……」

 私は灯台の裏側に出た、目的のヘリポートまではもうすぐだ。
しかしヘリポートに行くには灯台の中を入っていくしかない。
私は恐る恐る塔へと近づき、静かに裏口の扉を押した。

「誰も居ないみたいね」

 あんなにいた黒服たちは誰一人いないようだ。
みんな大神さんの元へ向かったのだろう、私は音を立てないように扉を閉めて中へ入った。

 私の足音を豪華な絨毯が消してくれる。
裏口から最初に案内された入り口まで来る、足元にある絨毯には血がこびり付いていた。
この扉を開ければヘリポートまですぐのはずだが、大神さんが来ていない。

「私ひとりで逃げるなんて出来ないわ……」

 どうすれば……あれ、ちょっと待って――。

 私はふとした疑問と、この計画の破綻に気がついた。

「ヘリコプターなんて運転できないわよ」

 私は大きくため息を吐いてしまった。
大神さんにしては珍しいミスだ、私がヘリコプターを運転できるだなんて普通思わないはず。

 それとも私が邪魔だったのかな――。

 あんな崖の傍で私を守りながら戦うのは難しいだろう。
ならば先に私だけ逃がしたほうが、勝ち目はあるかもしれない。
そう考えると、仕方ないと思う気持ちすらわいてしまった。

「とにかくヘリポートまで行こう」

 私は灯台入り口の扉に手を掛けた。

「何処へ行こうというのです?」

 思わず肩がびくっと震えてしまう。私は歯を食いしばりながら、大神から貰った銃に力をこめた。
そして振り向きざまに銃口をヘルマンに向ける。廊下の真ん中にヘルマンは居た。

「ふん……」

 ヘルマンは呆れたかのように鼻を鳴らした。恐らく私が撃てないとでも思っているのだろう、
ヘルマンの顔からは余裕が滲み出ていた。

「そう躍起にならないでください。こちらにどうぞ、二人きりで話しをしたい」

 ヘルマンはそう言って私を手招きし、部屋の中へと入っていく。

「行かないわ」

 私の言葉にヘルマンが振り返ったその瞬間、手に持った銃の引き金を強く引いた。
パンッと軽い音が辺りに響く、私の手は銃の反動でビリビリと痺れてしまいそうだ。
私の撃った銃弾はヘルマンに当たらず、大きく横に逸れてしまう。

「動かないで! 貴方と話すことなど何も無い!」

 先ほどまで紳士的な口調だったヘルマンの顔が歪んでいく。ヘルマンは口元をにやりと緩ませた。

「成長したじゃねぇか、あんなに死にたいと言っていた小娘がよぉ……」

 顔の不気味さに背筋が凍りそうだ。
初弾を外してしまったことを悔やんでしまう、手の痺れはまだ取れない。

 このままじゃ狙えない――。

 私はいつでも撃てるという表情をヘルマンに見せながら、手の痺れが治まるのをひたすらに待った。
初めて体験する銃の衝撃。慣れてさえしまえば毎回痺れたりすることはないんだろう。

 こんな僅かな力で人の命を奪えるなんて――。

 私は銃をヘルマンの身体に向ける。
頭なんて小さな箇所は当てれない、身体に当てさえすればもう一発撃てる時間が生まれるはず。
だから、

 次だけは……外せない――。

 私はまだ痺れの取れない手に力を込めるが、思うように力が入らない。

 お願い、早く……早くとまって――。

 ――出来る……な?

 私の頭の中に兎谷の声が飛び込んできた。
そうだ、この銃を手に取ったのは初めてじゃない。
私は敵の罠で足を切りながらも、笑顔を浮かべてくれた兎谷の顔を思い出した。

 出来る……私はやれる――。

 そう思うと手の痺れはさっと引いていった。痺れではなく、震えだったことに今更気がついた。
兎谷が力を貸してくれたんだ、私の心は徐々に落ち着きを取り戻していく。

 ヘルマンはゆっくりと体制を低くしている。
私が動いたらヘルマンも動いてしまうだろう。私は更に当てる確立を増やすため、口を開いた。

「私はまだ死ねない」
「帰ってどうすんだよ。また俺達と戦争をやろうってのか?」
「戦争はもう終わりにしましょう」
「あぁん? そりゃどういう」

 一発の銃声が辺りに響き渡った。私が放った銃弾は、運よくからの胸元を抉った。
銃弾を受けたヘルマンは、ゆっくりと膝をついて前のめりに崩れ落ちた。

「はぁ……はぁ、落とされる前に落とすだけよ」

 私もヘルマンと同じように膝をついてしまう。
緊張の糸が切れてしまったのだろう、力が抜けて、立っていられない。

 ありがとう……これで脱出できる――。

 私は大きく深呼吸をして、自分の足に力を入れた。
私は入り口の扉に目をやった瞬間、後ろのほうから微かな音が鳴った。

「くっ!」

 私は慌てて銃を握りなおし、何も見ないまま自分の正面に向かって引き金を引いた。
パンッと鳴り響く銃声と共に、私の腕は銃の反動で大きく上に弾かれてしまう。
跳ね上がる腕と同時にヘルマンが近づいてくる。
慌てて撃ってしまったばっかりに、銃弾は大きく逸れてしまった。

 ヘルマンは目をぎらつかせながら私に向かって手を伸ばしてくる。
私にはその動作が凄くスローに見えていたが、大きく跳ね上がった腕を引き寄せることが出来ない。

 間に合わない――!

 ヘルマンの腕が、私の喉元を掴み上げた。

「がっ……あああああ!」
「驚きました、そこまで決断できていたとは……あなたもやっと馬鹿になれましたね」
「な、なんで」

 ヘルマンが片手で服の一部を破り、胸元を見せてくる。
その胸板は肌色ではなく、銀色の金属で覆われていた。

「実は私も人間みたいなモノでして。では、さようなら」
「ゴホッ」

 喉がつぶされたのか、私の意識と反して口から血が流れ出す。
意識が遠くなっていく最中、私の耳に聞きなれた声が入ってきた。

「愛!」

 大神さんの声だ、でも視界は暗くなっていて周りがよくわからない。
大神さんが助けに来てくれた、それだけしかわからない。
突如私の身体は大きく揺さぶられ、気持ち悪い浮遊感が全身を駆け巡った。

「げほっ、げほっ」
「大丈夫か?」

 気がつくと大神さんがすぐ近くにいた。
徐々に視界が戻ってくる、恐らくヘルマンは私は投げ飛ばしたんだろう。
私が大神さんに向かって話そうとすると、喉元が苦しくて咳き込んでしまう。
だが、大神さんは私のそんな姿を見て安堵の表情を浮かべた。

「じっとしてろ」

 大神さんの一言に私は頷くことしか出来なかった。大神さんは立ち上がり、ヘルマンを睨みつける。

「貴様……」
「あらあら、私は彼女を教育していただけですよ。彼女があまりにも馬鹿なんでね」
「馬鹿?」
「核……反物質爆弾でしたっけか、そんなもの落としちゃ駄目ですよ」
「なにふざけたこと抜かしてやがる、どうせ落とすつもりだろうが」

 大神さんの一言にヘルマンは大げさに手のひらを返した。

「お前らがしたいのは領土拡大と間引きだろうが。兵隊を入れれるだけ入れて、占領後には皆殺しにするつもりか?」
「ヒヒ……」
「ど、どういうことなのよ」

 私は大神の言葉に目を丸くしてしまう。
ヘルマンは私の反応が面白いのか、薄笑いを浮かべていた。

「こいつ等の戦い方は頭がおかしすぎる。
 兵隊は最小限の装備だけ持って突撃するのみ。
 目の前に何があろうと只々進み、そして死ぬ。まるで死ぬために戦っているかのように」
「おやおや、歩兵は大事ですよ。時には多大な犠牲が必要な時もあります」

「全てそうなのがおかしいんだよ。だからうちみたいな弱国でもまだ戦えてるだろうが。
 貴様、人を『間引き』しすぎて神にでもなったつもりか?」
「ふふ、神ですか。違いますよ、人を間引くのも人。私は神などになりたいとは思わない」

 ヘルマンは不適な笑みを浮かべ続けている。私は睨みあう二人の会話に割って入った。

「間違っている。人が人を殺していいはずなんかない!」
「貴方の国では一般的だったではないですか」
「今は違う! 人を殺してまで生きるのは間違っている!」
「……黙れ小娘が。夢ばっかりみてんじゃねぇぞ」

 急にヘルマンの様子が変わり、私は思わず大神さんの影に隠れてしまった。

 この男はどこかおかしい――。

 紳士的な態度を装っていると思えば、途端に暴力的な男に変貌する。
ヘルマンの急な変わりように狂気すら感じてしまう。

「うるせぇ、間引きなんてよぉ……普通にどこでもやってるじゃねえか。
 大を生かすために小を殺す、しょうがねえじゃねぇか。どちらも死ぬわけにはいかねぇんだから。
 だからよ、弐国のために玖国を間引くんだよ。こんなことも解らんのかこの糞餓鬼は」

「そ、それが、それが間違っているのよ。私達は生きるために、この星を治せばいいだけよ!」

 私の声は震えていただろうか、ヘルマンが手で顔を押さえながら肩を震わせている。
笑っているのだろうか、その表情は読み取れない。

「人はなぁ。ヒヒ……人はこの星に生まれてから、一度たりとも星を治した事など無い。
 この星の間違いは人間っていう『害虫』を何億も増やしちまったことだよ」
「違う!」

「違わねぇ。それによぉ、生きるためってなんだよ? 
 お前ら星なんて治してる暇あんのかよ? 
 星を治してる間に、星に食われちまうのがオチだろうが……
 ああ、そうか……ヒヒ、そうだったなぁ……ヒヒヒ」

 ヘルマンは何かに気がついたかのように私を見た。
その目は狂気に犯されているだろうか、瞳孔は開き、まるで猫のような丸い瞳で私を見つめている。
いや、見下している。

「お前らはそうなっちまったら、また国民を間引けばいいんだったなぁ! 
『生きるため』に一生懸命頑張ってる国民をよぉ! ヒャハハハ**************!」

 耳障りな甲高い笑い声が辺りに木霊する。私はそれをかき消す様に大声で反論した。

「違う! そんなことをしなくて済む為に、私達が何をすべきか考えるのよ!
 どうしてそれが分からないのよ!」
「何をすべきか考える? もう遅い。
 てめぇ等は結局何も解決しないまま、人を殺しながら魚のエサになるのを待つだけだ。
 もうお前の夢物語を聞くのも飽きた」

 ヘルマンはゆっくりと歩いて、私が落としてしまった銃を手に取った。

「死ね」

 パンッと軽い銃声の後に鈍い金属音が響き渡った。
銃弾は大神さんの腕に当たり、軌道を変えて後ろの壁に穴を開けている。

「そういや、お前も人みたいな物だったか」
「呼び名など知らん」
「そう邪険にするなよ、俺達は兄弟みたいなもんだろう? 兄さん? それとも弟がいいかい?」
「好きにしろ」

 大神さんは足に力を入れると、勢いよく走り出した。ヘルマンはそれを見て銃を乱発する。
銃声の後に金属音が聞こえる、だが大神さんは止まることなく一直線にヘルマンを目指した。

 ヘルマンはそのことを予測していたのだろうか、
特に驚くこともなく銃を投げすて大神さんの拳を手の平で受け止めた。
 金属同士がぶつかり合う音と、拳が風を切る音が遅れてやってくるほどの速さ。
遠くから見ているにも係わらず、目で追うのも難しい。

「いいねぇ! いいよお前!!」
「くっ」

 二人の拳が互いに交差しあい、空を切りあう。打撃音と金属音が規則正しく混ざり合う。
そのリズムは次第に速度を増し、大きく響き渡った。

 まるで大型トラック同士がぶつかった様な、大きく鈍い音が耳に入ってくる。
大神さんが跳ね飛ばされていくのが見えた。
勢いよく壁に叩きつけられ、壁は一瞬にして瓦礫へと姿を変え、大神さんを飲み込んでいった。

「ヒヒヒ、ろくな整備されてねぇな」

 ヘルマンは大神さんとのやり取りに満足そうな表情を浮かべている。
そして破けた衣服から見えてくる銀色の四肢を私に見せつけながら口を開いた。

「小娘、気が付いていると思うが俺達は機械義肢者(オートメイル)ってやつだ。
 人間のような機械なんだよ、元は人間だけどな。
 元々は義手や義足に使われていたが、人は何でも兵器にしちまう困ったもんだよな」

「五月蝿ぇぞ」

 いつのまにか瓦礫から這い上がっていた大神さんが、猛スピードでヘルマンに飛び掛る。
しかしヘルマンは予想していたかの様に体をいなし、再度大神さんを瓦礫へと殴り飛ばした。
大神さんはその拳を避ける事も出来ず吹き飛ばされ、またしても壁に激突してしまう。

 ヘルマンはこんなスピードでさえも、スローモーションに見えている様だった。

「まぁ聞けよ兄弟。俺等みたいな物を造るための研究で、どれくらいの人間が死んだかわからねぇ。無数の屍の上に俺達は立っているんだ」

 ガラガラと瓦礫が崩れる音が耳に入ってくる。
少し遅れて大神さんが立ち上がりながら、ヘルマンを睨みつけていた。
しかしヘルマンはこの演説とも取れるような話をやめることは無かった。

 まるで何も知らない私に、すべてを教えてやると言わんばかりだ。

「この研究を始めたのもよぉ、お前の親父って知ったときは嬉しかったぜぇ。生きる目標が出来たようだった」
「なっ……」
「いいね、いいねぇその顔。まさにこの世の不幸を全て背負ったみたいな顔。たまらねぇ……何の為にこんな研究が生まれたんだろうなぁ?」

「黙れ……」
「ん?」

 大神さんの低く濁った声にヘルマンが振り返った。

 ヘルマンを睨みつけた大神さんの身体から、なにやら白い靄のようなものが湧き出ている。
顔は真っ赤に染まり、目を血走り、まるで鬼のような風貌だ。
恐怖すら感じるその表情は、とてもさっきまで大神さんだったとは思えない。

 そして大神さんはゆっくりと体勢を低くすると、私の視界から一瞬で消え去った。

「えっ」

 ドンッと地面が波を打ったような、気持ちが悪い感覚に襲われる。
私は慌ててヘルマンを見た、案の定大神さんはヘルマンに向かって突進していた。
そのスピードはヘルマンを捉え、私の目には壁に向かって吹き飛んでいくヘルマンの姿が見えた。

 ヘルマンが壁に向かって飛んでいく、
いくら同じ機械義肢者(オートメイル)でもあの速さは防ぎようがないみたいだ。
ヘルマンが叩きつけられた壁は、大神さんと同じく瓦礫へと姿を変えていく。
しかし、ヘルマンはすぐに立ち上がった。

「馬鹿な……なぜだ。このポンコツがぁ、俺より速いはずがねぇだろ!」

 ヘルマンが罵声を吐きながら大神さんと睨みつけている。
対して大神さんは膝に手を付いて、大きく呼吸を荒らげながら、今にも倒れそうな身体を支えていた。
その姿はまさに慢心相違、大量の汗が水蒸気となって蒸発していく。
そんな大神さんを見て、ヘルマン睨みつけていたはずの目を丸くして驚いている。

「体温が四十度だと……四十一……四十二……。馬鹿が、そんなことしたらてめぇ死んじまうぞ!」
「だ……ま……れぇ……」

 またしても大神さんの姿が消える、私の目には大神さんの繰り出す拳が見えない。
恐らくヘルマンも見えていないだろう、先ほどから顔に余裕がなくなっている。
ヘルマンは大神さんの攻撃をいなしているようだが、
次第に二人の身体がぶつかり合うと空気の波がこちらまで押し寄せてくる。
その衝撃に耐えられず、ヘルマンの足元は次第にひび割れていく。

「この……ポンコツがぁ!」

 ヘルマンは玉の汗をかきながら、大きく後方へ退いた。
大神さんはヘルマンを追うことはせず、そのまま立ち尽くしている。

「おい小娘、訂正させてもらうぜ。お前ら玖国は……地球最高に馬鹿な国だ。
 見ろ、あいつの姿を! あいつは自らの脳を弄ってやがる。お前なんかの為に命を削ってやがる!
 全ての神経を解放して、バケモノの道を選びやがった。
 こんなモノまで造りやがって、一体何人殺しやがったんだ!」

「なっ!」

 知らない……わからない、こんな研究知らないのよ――。

「ヒヒ、すげぇ技術だ。命を圧縮してやがる……脳のリミットを解放して、それに耐えうる神経を作ってんのか」

 ヘルマンは口元を歪ませながら、狂気に満ちた表情を大神さんに向けている。

「やべぇぐらいに身体が疼きやがる。最高だぜお前、絶対に殺してやる」

 ヘルマンはゆっくりと身体を起こし、大きく息を吐き出した。

「があああああああああ!」

 ヘルマンが吼える、耳を劈くような咆哮。まさか大神さんのようにヘルマンも変貌するのだろうか。
長い咆哮が収まると辺りに静寂が訪れた。
ヘルマンの顔は先ほどまでのような狂気に満ちた表情ではなく、
どこかすっきりとした顔つきで大神さんを見据えていた。

 そして両腕を目の高さに構え、身体の軸を斜めずらし、まるでボクサーのような構えを取った。
踵を浮かせ、足の指先に力を込めている。

 ボクシング……カウンター――?

 ヘルマンの構えを見て、私は咄嗟に最悪の未来を頭に描いてしまった。

 もしも大神さんのスピードを逆に利用されてしまったら――?

 今の大神さんは飢えた獣のように暴走しているに違いない。
そうならば考えることなんて出来ずに、大神さんは突進するしか出来ないのではないか。

 またしても地面が揺れる、大神さんが踏み込み、ヘルマンへと刹那の速さで近寄っている。
二人の動きがやけに遅く感じられる。大神さんが踏み込むと同時に、ヘルマンも動いた。

 音すらも間に合わない。
音速を超えて繰り出される凶器、額に向けて迫り来る拳をヘルマンは左手で抑えた。

「っ!」

 その瞬間、金属が捻じれて引き千切られた。
私がもたれ掛かっている壁に、ヘルマンの左手が吹き飛んできた。

 やった――。

 私は思わず安堵に包まれてしまう。
ヘルマンの策は失敗した、しかしヘルマンの顔は苦痛に歪んではいるが、目の輝きは失われていない。

「死……ね……」

 ヘルマンはにやりと笑い、残った右腕を固く握り、大神さんへと振り下ろした。
大神さんは全身全霊を掛けた先ほどの一撃で体勢を崩している。

 だが、ヘルマンの拳が届くよりも早く大神さんは新たな拳を繰り出した。
性能差なのか、それとも負傷により動きが鈍くなったのか、だがヘルマンにとっては予想外。
隙を突いたはずのヘルマンの動きは止まらない、止まれない。
相手は自分の何倍も速く、見てからではとても間に合わない!

「ガああああああああああ!」

 拳は止まらない。しかし、大神さんには見えている。もとより勝算などなかったかもしれない。
ヘルマンが命を賭けて放った拳は空を切った。



 ぐしゃり、と大きな鈍い金属音と共に、ヘルマンは壁に埋め込まれていた。
ヘルマンの繰り出した拳は、逆にカウンターとなってついに崩れ落ちた。

 私はその光景を呆けたように見ていることしか出来なかった。
大神さんの荒い呼吸だけがロビーに木霊する。私は急いで大神さんの元に駆け寄った。

「大神さん……」
「大丈夫だ、それより早く此処を出よう」
「は、はいっ」

 私は大神さんに肩を貸し、急いでヘリポートへと向かった。
ヘリポートには私たちが乗ってきたヘリがそのまま放置されていた。
しかし、操縦席の扉を開けると血の臭いが鼻についた。

「奴らのやりそうなこった……そのまま俺を乗せろ」
「はい……」

 大神さんをヘリコプターの操縦席に座らせて、私は後ろの席に飛び乗った。
ヘリコプターの回転翼が勢いよく回り始める。上空から島を見下ろすと、ほっと安堵の息が漏れた。

「終わったのね……」
「何も終わっていない。お前にはこの国を立て直す義務がある」
「はい……」

 私はその言葉を強く噛み締めた――。



[40230] 六.星の未来-ヘルマン-
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:15
「ふざけやがって……あいつら……」

 ヘルマンは一人取り残されたロビーで、全身を引き摺りながら部屋へと向かっていた。
階段を上り、更に上へと歩いていく。

 小さな個室に辿りつくと、ヘルマンは机の引き出しを開けて綺麗なジェラルミンケースを取り出した。
そして中にあった赤いボタンを押す。
誤作動しないように特殊な金属に覆われた表面を握りつぶし、ボタンを勢いよく繰り返し押し続けた。

「死ね! シネシネシネシネシネシネ死ねぇ!」

 ヘルマンは狂ったかのような声で叫びながら押し続けた。
片腕を失いながらも、その狂気は収まることはない。

 そんなヘルマンの行動を嘲笑うかのような、淡々とした拍手が部屋に響いた。
拍手に合わせて一人の人影が、部屋の中へと入ってくる。

「……」

 ヘルマンはその人影を睨みつけていた。

「さすが弐国の代表だ、期待通りですよ」

 その影は胸元から銃を取り出し、ヘルマンへと銃口を向けた。

「……そんなもん向けても意味が無い」

「いつもの貴方ならそうでしょう、今の貴方とは違う」
「このっ」

 パンッと乾いた銃声が鳴り響いた。ヘルマンの目には放たれた銃弾が回る方向すら見えている。
だが身体が言うことを利かない、見えていても反応できない。
徐々に弾丸はヘルマンの頭部へと近づき、頭を突き破った。

「対機械義肢者(オートメイル)鉄鋼弾か、あまり意味はないな」

 その人影はヘルマンの傍に拳銃を置くと、足早にその場を立ち去った――。



[40230] 六.星の未来
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:15
――窓から見える夕日が、だんだんと海に顔を沈めていく。
ヘリコプターは徐々に高度を下げ、旧C区域に着陸した。
ドンと大きな衝撃が身体を襲ったが、ヘリコプターは問題なく着陸できたようだ。

「大神さん、ありがとうございました」

 私は後ろから操縦席に顔をだして感謝を伝えた。
だが、大神さんは答えようともせず、なにやらぐったりとしている。

「だ、大丈夫ですか大神さん!」
「あ、ああ……」

 大神さんの目は帽子に隠れていてよく見えない。
私が覗き込もうとすると、横の座席に置いてある携帯電話が鳴った。
大神さんは覚束ない手つきで携帯を手に取った。

「どうした?」
「先生? 大変なの、いきなり軍の人が……ちょっと何よ!」

 音が漏れて聞こえてくる。鈴の声だ、
しかし携帯が地面に落ちたのか、ノイズと共に会話が入れ替わった。
電話からは聞きなれない声が聞こえてくる。

「大神か?」
「耶久士(やくし)のおっさんか。依頼通り連れて帰ってきたぜ」
「そうか……いや、ご苦労だった。いま国王と一緒に居るな? 代わって頂きたい」

 大神から携帯を手渡された。

「代わりました」
「私は耶久士と申します。一ノ宮殿の代行です。非常に残念な報告ですが、弐国が我国に向けて核を発射したとの連絡がありました」
「なっ!?」
「独断で申し訳ありませんが、報復攻撃としてこちらも撃たなければなりません」
「ちょ、ちょっと待って! それを……それを撃ったら」

 嫌な汗が流れ始める。
必死に戦争を終わらせようとした私の行動は、すべて裏目に出てしまったのか。

「対談は失敗したのでしょう?」
「それは……」

 私の濁した言葉を聞いて、耶久士という男が落胆したようなため息が微かに聞こえた。

「彼等は核を落としたあと、この国を蹂躙するでしょう。この廃れた兵器がどこまで威力があるのかわかりませんが」
「だ、駄目! それを撃っては駄目! 星が、地球が無くなってしまうかもしれない!」

「我等が、玖国を守ろうと死ぬまで戦った勇者達に……対抗手段がありながらも実行せず、無残に蹂躙されていく祖国を見て……なんと顔向けできるでしょうか」
「あ……」

 私は何も言い返せなかった。耶久士の言葉からは苦虫を噛み潰したかのような顔が想像できた。
彼は、彼らは本気なんだ。軍人、この国を守るために戦った人の言葉は限りなく重い。

 しかし反物質爆弾は本当に星を破壊してしまう可能性すらある。
これだけは防ぎたい、でも耶久士の意見を変える言葉が見当たらない。

「早く地下シェルターにお逃げください、それでは失礼致します」

 電話からは規則的な不通音が聞こえてきた。
私は全身の力が抜けてしまい、そのまま腰を下ろしてしまう。
会話の内容が聞こえたのだろう、大神さんも神妙な顔つきで私を見ていた。

「最悪の結果になっちまったな」
「大神さん、早く、早く逃げないと」
「愛、聞いてくれ。俺は最後に……お前に謝りたい」
「え……あ、謝る?」

 大神さんが私の肩を掴んでくる。その温もりと言葉で私の心は少しだけ落ち着きを取り戻せた。
そして私は大神さんの言葉を待った。

「こうなっちまったのも、俺のせいだ。俺がお前を、こんなところまで連れてきてしまった」
「ち、違うわ。私は自分の意思で此処に来たのよ」

 大神さんはゆっくりと首を振った。

「俺の復讐のために、お前を利用してしまった。俺は……俺は何も見えちゃいなかった、知ろうとすらしなかった。ただ久条とこの国に復讐するために生きていたんだ」
「大神さん、血が……」

 大神の口元からはうっすらと血が流れ始めている。

「ああ、もう臓腑が死んでるんだ。俺はもう助からないだろう、でもいいんだ。俺にはもう生きる理由がない……」

 大神さんは口元の血を拭うこともせず、私に向かって話しかけるのを止めてくれない。

「俺の願いはもう叶っている。あとはお前の願いだけだ」
「私の……」

「国を変えたいんだろう。わかったはずだ、久条がどれだけ国を思い、戦っていたことを。考えろ、どうすればこの国が変われるのか……その心が国を変えるんだ」

 私は泣いてしまっていた。目から大粒の涙が絶え間なく溢れてしまう。

 大神さんが死んでしまう、誰か……誰か助けてください――。

「……だが、お前は十分に戦った。これが国の答えなら、ガハッ」

大神さんの口元から大量の血が噴出してしまう。

「……ただの娘に戻れ。お前のことを知っているやつが少ないのが、唯一の救いだ」
「大神さん……」
「幸せに生きろ……な……」
「大神さん? 大神さん!」

 大神さんの目がゆっくりと閉じ、二度と開くことはなかった。

 また、また私が殺してしまった――。
 私なんかが王にならなければこんなことにはならなかったのに――。
 みんな、みんな私のせいで――。

 涙が止まらない、私がこんな国に変えてしまったのだ。


――――――
――――
――

 どのくらい経ったんだろう。私はいつの間にか疲れきっていて、大神さんの横で蹲っていた。

「警報が……」

 玖国全土に響きそうな大音量の警報が鳴っている。私はそれを聞いて立ち上がった。

 ――生きろ。

 大神さんのその言葉だけが、私を動かしている。私はヘリコプターを降りた。

「空が……」

 夕日はすでに見えなくなっていたが、空は紫色の光に包まれている。
私は辺りを見渡すと、何も通っていない車道にポツンと立っている標識を見つけた。

 標識にはまだB区域の表示がされていた。私はそれを見て走り出した。

 生きて、生きてどうするの――。

 分からない、でも足は勝手に走り出している。
核が落ちるまでどのくらい時間があるのかわからない。それでも生きるためには走るしかない。

 生きる――?

 生とはなんなのだろうか。全力で走っているせいで、心臓の鼓動が勢いを増していく。
この鼓動が、生きていることなのだろうか。生きて何をすべきなのだろうか。
私には何一つわからなかった。

 玖国は……終わるのだろうか――。

 私は走った、生きるためにただひたすらに走った。

「早く入ってください!」

 いつの間にか目の前にゲートが見えた。
ゲート前に居る男性が私に向かって声を張り上げている。
私はなんとかB区域に入ることが出来た――。

 私はなんとか地下シェルター、旧B区域へと逃げ込むことが出来た。

 地上を取り戻したはずなのに、また地下へ逃げ込むだなんておかしな話だ。
私はゲートにいた男性に連れられ、奥の居住区へと避難させられた。

 中は混乱と不安がひしめきあっていた。私は呆けたまま、その光景を見続けた。

 逃げられない、どこにも逃げ場なんて無いのに――。

 避難した人たちは歩みを止めない。私も人々に引き込まれるように歩き始めてしまった。

 そのとき、ふと気が付いた。

 此処は、見たことがある――。

 土地勘のない私だが、この場所は見覚えがあった。
ここは兎谷と歩いた商店街の近く、私は辺りを見渡すと、見覚えのあるアーケードが目に見えた。
特に行くあても無かった私は、以前過ごしていた皆と住んでいた家を目指して踵を返した。

 商店街は混乱と暴力による略奪が始まっていた。
店内は荒らされ、活気があったはずの道は人と物で犇(ひしめ)きあっている。
私はそれに巻き込まれないよう、ひとつ手前の裏路地を静かに歩いた。

 これも、私が招いた結果なのだろうか――。

 路地には横たわっている人の姿が見える。手を握り、天に向かって祈りを捧げている幼い子供たち。
微かに聞こえてくる女性の叫び声と、恐怖にすすり泣く声。
私がかつて訪れた戦場よりも悲惨な状況がそこに在った。

 私には何もできない、出来ないのよ――。

 国が無くなる、もはや私に何の権力もないだろう。
いや、あるとしたら戦犯として裁かれることぐらいか。
国民が生きていけるのであれば、それでもいいかと思ってしまう。

 そんな当てにならない希望を頭の中で膨らましながら、私は家に辿りついた。

 なんだか懐かしいな――。

 もう数年も訪れていなかったかのように、凄く懐かしく感じてしまう。
私はゆっくりとドアノブを回すと、扉に鍵は掛かっておらずそのままキィと音を立てて開いた。
同時にドタドタと足音が響いてくる。もうこの家に残っているのは……鈴だけだった。

「……先生は?」

 鈴は泣いて赤くなったであろう目尻を拭きながら、色の違う二つの目で私を見据えていた。
凛としたその表情に、私は胸を締め付けられる思いだった。
私はそんな鈴の目を見ていられない、鈴は一歩、二歩と私に歩みよってくる。

「ねぇ、先生は? ねぇ……なんとか言いなさいよ!」
「大神さんは……私を助けてくれたときに……」
「嘘……鉄っちゃんは? 兎は!?」
「戦死……したわ」

 私の言葉に、鈴は泣きながら崩れ落ちた。鈴の目には大粒の涙が浮かんでいる。
私は崩れ落ちていく鈴を支えることも出来なかった。

「やだ……やだぁ。兎……鉄っちゃん……せん……せぇ……」

 鈴は泣き続ける。大事な仲間を立て続けに三人も亡くし、ついに鈴は一人になってしまった。
いや、鈴にとって三人は家族だった。

 鈴の悲しみは私以上なんだろう。一番の心の拠り所を失った悲しみは、私には想像すら出来なかった。

 鈴が泣き続ける。私に出来ることは泣き止むまで鈴の傍に居てやれることだけだった。
しかし、鈴はすぐに泣きやみ、私の目を見た。
その目は先ほどまでの凛と輝いた目ではなく、黒ずんで濁ってしまっていた。

「お前の……せい」
「えっ?」
「みんな死んだのは……お前のせい」
「ち……ちが」

 鈴が私に向かって人差し指をさす。私はまるで銃を突きつけられたような錯覚に陥ってしまう。

「お前のせい……。お前が王になったせい……」
「違う! 鈴ちゃん話を……」
「名前なんかで、呼ばないで……」
「鈴ちゃ……」 

 鈴の言葉は治まることを知らない。鈴の瞳から光が失われ、徐々に漆黒へと染まっていく。
全てが黒に塗りつぶされたその瞳は私を映してはいなかった。

「なんでみんな居なくて……お前だけ…… い き て る の ?」
「あ……」

 鈴の変貌振りに驚きを隠せない。

 鈴ちゃんは……壊れてしまったの――?

 でも私は鈴の問いに何も答えられなかった。
ただ立ち尽くすしかない私を横目に、鈴は家を飛び出してしまった。

「あ、鈴ちゃん!」

 何も持たず、身体ひとつで鈴は飛び出していく。
私も急いで後を追った、しかし何を言えば戻ってきてくれるのか。
その答えが分からない、私には分からない。

 鈴ちゃ――。

 玄関から数メートル離れたところで、鈴の姿ははるかかなたに在った。
一度立ち止まってしまった私に、鈴を追う気力はなかった。

「どうして……どうしてこうなるの……」

 私はもう、泣くことしか出来なかった――。




[40230] 六.星の未来-鈴-
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:16
 何もかも……すべてあいつのせいなんだ――。

 鈴は一人で公園内を歩いている。
周りは避難しようと騒いでいる住民の声、だが鈴の耳には何も入っていないようだ。

 そのとき、ズンッと地面が大きく波を打った。

「なに? 地震……?」

 鈴は地面に座り込む、地震ならばどこか安全な場所に避難しなければならない。
しかし揺れは長く続き、歩くのさえ困難だ。

「早く止まってよ……もう嫌だぁ……」

 鈴は分かっていた。もう兎谷と鉄がこの世に居ないことを。
それでも信じたかった、信じられずには居られなかった。

 二人の死と共に、大神も死んでしまった。鈴の心を繋ぎとめていた最後の家族が死んでしまった。
その事実は幼い少女を壊すには、あまりにも大きすぎた。

「うわっ」

 いきなり辺りが暗闇に包まれた、天井の照明が一斉に落ちたのだろうか。
鈴は忘れていた、ここは地上ではなく地下なのだ。暗闇はその存在を思い出させるには十分だった。

 地震がピタッと止まった。たった数分だったであろう、その揺れは何倍にも感じられた。
地震が収まった数分後に照明が戻った。徐々に街に光が下りてくる、ほっと一息つくことが出来た。

「よかった……」

 鈴の怒りと悲しみで混ざり合った頭は、ほんの少しだけ平常心を取り戻した。
すると辺りに場違いな歓声と拍手が舞い降りた。

「?」

 大の大人たちが総出で騒ぎ始める。
まるで今から楽しいお祭りでもあるのかのように、歓声は止まらない。
拍手と歓声の波に紛れて、人の声が聞こえてくる。

「助かったー!」
「よかった、終わったんだ。戦争は終わったんだ!」
「戦争が終わった?」

 今更終わっても――。

 鈴は重く苦しい溜息を吐いた。

 何故もっと早く終わってくれなかったんだろう――。

 鈴は何もする気になれず、しかし家に帰る気にもなれず、とぼとぼと公園内を歩いていく。

「それにしてもよく耐えたな」
「ああ、さすが玖国が世界に誇る地下シェルターだ」

 近くにいた住人が呟いていた。

 耐える――?

「……そ、そんな……嘘でしょ……」

 鈴は何かに気が付いたかのように、無我夢中で走り出した――。

 鈴は走り出す。公園を抜け、商店街を抜けて更に奥へと走り出す。
それは頭に思い描ける最悪の事態、鈴はそれを確かめずにはいられなかった。

 鈴は歓喜に沸いている人ごみを掻き分けながら走り続ける。

「どこだっけ、そうだ。場所を調べれば……」

 鈴は携帯端末を取り出した。
しかし携帯は繋がらない、電波の強弱を教えてくれるアンテナは圏外を示している。

 がんばれ私、思い出して――!

 鈴は辺りを見渡しながら考える。

 案内板、地図、なんでもいい。何か場所が分かるものは……そうだ――。

 鈴は携帯端末に入れていたメモリーチップの中身を探し始めた。

「あった!」

 鈴はそれを見ながら走った。

「ここのはず……」

 十分ほど鈴が走った先には、ある施設が建っていた。
そこは旧B区域では特別な場所、B区域にあるのにBランクの立ち入りが禁じられていた場所だった。
鈴は建物の正門に立ち、掲げてある表札を目にした。

「環境処理場……うん、ここだ」

 門の前にも後にも、周りには鉄条網がしかれている。
いつもなら誰か立っているはずの正門には誰も居なかった。
鈴は受付の扉からすんなり施設内に侵入した。

 普段なら出来ないことだ。しかし街の住民は皆、助かったことに酔ってしまっている。
鈴は施設内の事務所らしき場所で足を止めた。扉を押すが、案の定鍵が掛かっている。

「当然よね、どこか入れる場所は……」

 鈴は低い位置にある窓ガラスに目をつけた。窓ガラスに細腕をガンガンとぶつけていく。
しかし窓ガラスは鈴が思ったより固かった。

「こんなとき鉄っちゃんがいれば……」

 鈴はぶんぶんと頭を振り、思考をかき消した。
いま思い出したら涙で歩けなくなってしまうだろう。

 何かないの――?

 鈴は辺りを見渡すが、大きな石も工具のような硬い金属も見当たらない。

「そうだ!」

 鈴は窓ガラスを諦め、施設内を走り回った。
だが施設は同じような建物が続き、どの窓にもガラスがはめてある。

「あったあった」

 鈴は嬉しそうにそれに飛びついた。
そこは何処にでもあるような休憩所、ベンチと共に自動販売機と灰皿が置いてある。
まさかベンチを持って叩き割ろうというのか。

 しかし鈴が飛びついたのは自販機の横にあるゴミ箱。
いや、ゴミ箱にあったビニール袋だった。
中にある缶やビンを放り投げ、一目散に先ほどの場所まで駆けていく。

 鈴は何も入っていないゴミ袋の中に、ありったけの小銭をばら撒いた。

「せぇーの!」

 ガシャンと大きな音を立てて窓ガラスが粉砕された。
鈴が作ったのは車の窓ガラスすら破壊できる簡易ハンマーだった。
その破壊力は鈴の細腕でも十分すぎた。
窓に残る破片をひとつひとつ取り除きながら、鈴は施設の中に入った。

 施設の中は薄暗く、ひとつの電灯すら点いていなかった。
窓から差し込んでくる光で十分だったが、それにしても気味が悪い空間だ。
誰か居て当たり前の場所に一人きりというのは、夜の学校のような日常では体験できないような場所によく似ている。

「管理室は四階ね」

 鈴は事務所内の案内板で場所を調べ、薄暗い階段を上った。

「それにしても警報すら鳴らないなんて……」

 普段なら入った瞬間に取り押さえられてもおかしくない。
昔だったら即D行きの可能性だってあっただろう。
しかし何も起きない。いや、何も起こせないのかもしれない。鈴は急ぎ足で階段を上って行った。

 四階にたどり着いた鈴は、一応用心のためにゆっくりと廊下に顔を出した。
遠くにある大きな窓からは明かりが差し込んでくる。
その光はよく磨かれた床に反射し、一階よりも一層明るく照らしていた。
廊下に沿って左側に扉が何個も付いている。鈴は誰も居ないことを確認し、その扉に近づいた。

「あった」

 鈴はドアノブを捻る、運よく鍵は掛かっていなかった。

 無数のパソコンたちが鈴を出迎える。だが、どれも電源が落ちてしまっていた。
これでは調べることは出来ない。

「あ」

 しかしそれも杞憂に終わった、奥にある一台だけモニターが点滅している。
鈴は急いでそのパソコンに近づいた。

「……」

 予備電源:残――116:48:15――
 予備電源:残――116:48:14――
 予備電源:残――116:48:13――

 ――システムを稼動させるために必要な電力、管理体制はどれもBランクの住人ではなく、Aランクの奴等が管理している。

 死神の足音が聞こえてくる。その足音は一秒ごとに大きく鳴り響いている。
恐らく弐国の核で地表はすべて消し飛んでしまった。だから携帯も繋がらない、電源も供給されない。

「う……そ……」

 鈴は大神の話しを思い出していた。

 すべて上の住人が管理している――。
 なら、上が消し飛んだいま……復旧はできないの――?

 仮に復旧できたとしても、残り百十六時間はあまりに短すぎた。

「そ、そんな……」

 鈴は気が狂いそうな衝動を抑えるのに必死だった。
死ぬのだ、地下にいる皆がすべて死んでしまう。
このカウントは命のカウントダウン、これが零になれば終わるのだ。

 終わり……すべて終わり――。

「はは……」

 鈴から乾いた笑いが滲み出た。
あまりにも大きな絶望を感じたとき、人は恐怖より先に笑みを浮かべてしまう。

 諦め、絶望、終末……そして死。様々な負の言葉が頭に浮かんでしまう。
しかし、それは鈴にとってなんの慰めにもならなかった。

 鈴は走り出す、もうこんな場所には居られない。
鈴はどうしても見たいものがあった。死んでもいいと思っていた。

 兎が、鉄っちゃんが、先生が……命を賭けて守ったこの国を見たい――。



 それからどうやって辿りついたのか、鈴は無我夢中で走り回っていた。
地上に出たい、その思いだけが鈴の身体を動かしていた。
通常時の出入り口はすべて遮断されていた。だから緊急時の通路をあえて選んだ。
幸か不幸か、警備は誰も居なかった。
鈴は緊急用と書かれた梯子に手を伸ばし、ゆっくりと上り始めた。

「そういえば、一度抜け出して怒られたっけ」

 鈴の脳裏に懐かしい思い出がよみがえる。
それは大神から怒られたことだったり、兎谷と喧嘩したとき、鉄から抱きしめられたことだったりと様々だ。

 そんなことを思い返しながら、鈴は小さな横穴に入った。
小さいときはもっと楽に入れたはずの通気口、少し大人になった鈴には窮屈だった。

「思い出した、あの時はすごい青空だったんだ。先生に聞いたんだ、空の色ってなんだろうねって……」

 鈴はゆっくりと、しかし止まることはなく通気口の中を進んでいった。

「もう一度見たいな、あの時の空……」

 カチャン、と何かに頭がぶつかった。
鈴を目の前にあるバルブを手にとり、勢いよく回した。扉は軽く、静かに開いた。

「綺麗……」

 地平線の向こう側で、空は赤と紫色のグラデーションに包まれていた。
反対側の空は星が散りばめられ、夜の帳を教えてくれる。

 綺麗……本当に綺麗――。

 鈴は人に生まれたことを心から感謝した。

 それはこんなに美しい地球を感じられるのだから、見ることが出来るのだから。

「あ、雪だ……」

 季節はずれの雪が降ってきた。
地球は鈴にまた違う美しさを見せてくれる。
何も無い大地を受け皿に、ゆっくりと雪が舞い降りていく。

「ねぇ先生、とっても綺麗だね」
 ――そうだな。
「すごい、雪なんて初めてみた」
 ――おいおい、転んでもしらねぇぞ。
「綺麗、本当に綺麗。ねぇ見て、みんな見てよ」
 ――……

 鈴は何も無い大地を走り出した。
それはあまりも儚く、美しい少女は舞い散る雪と共に踊り始める。


 最後のときが、訪れるその瞬間まで――。



[40230] 六.星の未来
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:16
 私は大神さんが暮らしていた家に住むことにした。
鈴が帰ってくるまで、鈴のために家を残してあげたい。
私はそう思ってこの家から離れることが出来なかった。

 鈴ちゃんが怒るのも仕方が無い、大切な家族が私に殺されたようなものだもの――。

 それでも戻ってきてくれるかもしれない。
微かな願いを胸に、私は家の片付けに精を出した。

「ふう」

 この家は広い。鈴に、鉄に大神、そして兎谷の四人が暮らしていた家だ、狭いはずがない。
もう帰ってこれない三人の部屋も掃除をする。
もし鈴が帰ってきたとき、悲しむような気がするから……。

「馬鹿なのかな……私」

 三人の部屋を掃除して、最後に鈴の部屋にたどりついた。
私は小さくノックをしてみるが、勿論返事が返ってくることはない。

「お邪魔します」

 鈴の部屋はいつもどおりの生活観が残されていた。
散らかったままの机、ベッドにはパジャマが脱ぎ捨てられている。
今にも主が帰ってきて片付けを始めそうなこの部屋。
だけど、鈴が出て行ってもう丸二日が経っていた。

 私は勝手に入っては怒られてしまうと思って、部屋に入るのを遠慮していた。
でも、鈴が帰る場所を少しぐらい綺麗にしてあげたかった。
単なる私のエゴだ、怒られても仕方が無い。

 でも帰ってきてほしい――。

 いっぱい怒ってくれていい、軽蔑してくれてもいい。早く帰ってきてほしい、それだけだった。

 鈴が家を出てから数分後、大きな地震があった。いや、地震ではなく恐らく核なんだろう。
街の人たちも分かっているようで、所々で歓声が上がっていた。
少しの停電もあったが、今では元通り復旧している。

 戦争のおかげで水と食料の多くは地下に貯蔵されていた。
おかげ、というのも妙な話だ。こうなってしまったのも、戦争が原因なのに……。

 私は首を大きく横に振って掃除をはじめる。
嫌なことを頭の中から消し去って、ただただ掃除に没頭した。

「あ」

 カタンと何かが落ちた。
掃除機が机に当たってしまい、机の上に置いてあった何かを落としてしまった。

 壊れてないかな――。

 私は慌てて何かを拾った。

「わぁ、懐かしいな」

 私が手にしたものは、小さな木製の写真立て。
その中にはこの街を出る最後の日に、みんなで撮った写真が飾ってあった。
私たちが共に生きた、ただひとつの証だった。

「もう、一年ぐらい経っちゃったね。懐か……あ……なつ……」

 思い出されるのは、いつもどおりの穏やかな日々。
私が王になることを決めた、この家で過ごす最後の日。
兎谷が何処から持ってきたのか、玄関先にカメラと三脚を置いてみんなを集めていた。

「はーい、もっと寄って寄ってー」

兎谷の元気の良い声が木霊する。

「ほら先生、もっとこっちだって」
「いや……俺はいい」

大神さんは写真に映るのが嫌いなのか、嫌がるその手を鈴が無理やり引っ張っている。

「一ノ宮さんも、早く入ってー」
「わ、私はただ迎えに……わっ」
「いーじゃん、いーじゃん!」

私を迎えに来ただけの一ノ宮も、その輪に加わった。

「まだかのー」
「も、もうすぐですよ」

 一緒に地上に出る予定の泉さんが愚痴を漏らしている。

「……」
 いつもは無愛想な鉄さんも、この日は笑顔だった。
一番後ろで腕を組みながらみんなを待っている。準備が出来たのか、兎谷が声を掛けた。

「よーし、いくぞー」

 タイマー式のスイッチを押した兎谷が私たちの元へと駆け寄ってくる。

「お、俺の場所が無いじゃん!」
「あ」

パシャ、とカメラのシャッターを切る音が辺りに響いた。

「……」

「「「「あはははははははっ」」」」

皆が一斉に笑い始める。
甲高い声は鈴の声、小さな笑いは大神さん、鉄さんは微笑ながら肩を震わせ、
泉さんと一ノ宮もそれにつられて笑い始める。勿論、私も……。

「ちょ、ちょっと待って! もう一回な!」

兎谷が慌ててカメラに戻ろうとするが、一ノ宮が申し訳なさそうに頭を下げた。

「すいません、もう時間が……」
「えええええ!?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと写ってるって!」
「後姿がな」
「あははっ」
「そりゃないぜ~」

またしても皆が一斉に笑った。それは紛れも無い、幸せな一ページ。

「ほんと……ほんとに……懐かしいね……みんな……」

私の目から一滴の涙が、頬を流れて写真へと落ちてしまった。

「ごめん……ごめっ……ごめんなさい……」

涙が止まらない、私は間違っていたのだろうか。

決めたんだ、こうするしかなかった――。

国を守るにはこれが最善手だと思っていた。
王になった瞬間、受け入れたつもりだった。でも、それは本当に、受け入れたつもりだった。

 止まらない、手で抑えても涙が止まらない。
ごめんなさいの一言が止まらない。私が自分で決めたはずなのに……後悔が止まらない。

「ああ……そうか。そうなんだ……」

 守りたかったのは国じゃない、私が本当に守りたかったものは……家族だったんだ――。

 私は涙を拭って、窓の外から混乱する街並みを見据えた。

「もう一度、もう一度やり直せるなら……」

 幸せだった記憶、守りたい家族の写真を胸に引き寄せて愛おしく握り締めた――。



[40230] エピローグ
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:17
 カチカチとキーボードを打つ音が聞こえる。
暗い闇の中に音だけが浮いているような感覚、その中に二人の声が聞えてくる。

「で、これが真相ってわけ?」
「ん? ああ……たぶんな」

 男女の声だ。女性が声を掛けると、流れるようなキーボードの音は鳴り止んだ。

「真相も何も……何も変わってないじゃん」
「ま、そういうことだな」
「はぁ、くだらない」

 女性の声に、大きく溜息が混じった。頭を抱えている仕草が目に映るようだ。

「くだらないか? お前ならどうするんだよ」
「えっ……うーん」
「そういうこと、だよ」

 ガタッと物音がした。
男性が椅子か何かから立ち上がったのだろう、同時に足音が徐々に遠くなっていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ。私なら……」

 女性の声で、足音が止まった。

「私なら?」
「……」

 女性は男性を引きとめようとしたのだろう。
だが、女性の口から答えが出てくることはなかった。

「……正解ぐらい教えなさいよ」
「そんなもん俺にもわからないよ」
「なによそれ……」

 女性は男性の答えに不満そうだ。そのとき男性のほうだろうか、大きな欠伸が聞えてくる。

「眠い、俺は先に寝る」

「もー何よ……この馬鹿兎!」



[40230] 星の未来【世界崩壊近未来ファンタジー】あとがき
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/04 02:18
長々と続いた物語ですが、実はまだまだ続いてしまいます。

「星の未来」では何も変えられず、ただ流されてしまっていた主人公愛についてのお話でした。

ここまで読んでくれた方には感謝感激ですが、この先のことを想像して頂けると大変嬉しく思えます。

どうすれば変えられたのか、何がいけなかったのか、何故戦争を止められなかったのか。

この「星の未来」では投げかけが主な部分として書かせていただきました。

複線を張りまくって半分も回収していない投げっぱなしな文章でしたが、あえてそうさせて頂いてます。

通勤や通学の中で、こうしとけばよかったんじゃね? など考えて頂ければ嬉しいことこのうえありません。

皆さんの暇つぶしになれば幸いです。

ありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします。



[40230] 第二章 星の傷痕
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/23 09:18
このお話は
「星の未来」
の続編となります。

ですが、前作の「星の未来」より時系列が古い作品になっておりまして

主人公を愛から大神に変え、「星の未来」の背景を重視した作品となります。

なのでどちらか読んでいただいても、問題ないかと思います。
本当ならば、この作品から掲載する予定でしたが
「星の未来」を読んでいただいた方々には
より一層考えて暇をつぶして頂きたく、このような形を取りました。

今回もよろしくお願いいたします。



[40230] 七.**
Name: 大航◆ae0ba03e ID:6ad2cbb2
Date: 2014/11/23 09:17
 小鳥の囀(さえず)りが微かに聞えてくる。
足の先は冷え切っているのに、窓から差し込んでくる光に当たって頭だけ妙に温かい。
朝が来た、起きろ、と言われている気分だ。
俺は寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりと目を開けた。

「七時か」

 正確には六時五十五分、目覚ましがなる五分前に起きることが出来た。
いつもどおりの朝、俺は残った五分を至福の一時と思って目を閉じる。

 幸せだなぁ――。

 頭の中で一秒、二秒と数える。
こうでもしないと朝の五分は急速に縮まり、十秒程度に感じてしまうからだ。
眠っているのか起きているのか、こんなあやふやな時間が一番好きだった。

 ん――。

 ドタドタと足音が聞えてくる。聞きなれた家族の音、この軽快な足取りは恐らく……。
朝の騒音は扉の前でピタッと音を消し、同時にゆっくりと扉の蝶番がキィと音を鳴らした。
足音は聞えない、でも何かが擦り寄ってくるような圧迫感があった。

「……あーっさだっ!」
「ほっ!」

 パチンと俺の寝ていたベッドの上に丸めた新聞紙が打ち落とされた。
俺はすばやく布団ごとベットから転がって新聞紙を避ける。

「む、やるじゃないかにーに」
「あのな凛、もうちょっと優しく起こせないのか?」
「優しくしてるじゃん! 見てくださいこの柔らかな新聞紙、本日刷り立てほやほやですよ!」
「あーはいはいそうですか。それ父さんのだろ、曲げたらまた怒られるぞ」
「わわっ、早く起きてよね~」

 丸めた新聞紙を戻しながら、妹の凛(りん)は扉を勢いよく閉めて下へ降りていった。
騒がしい朝の騒動のせいて、俺の目は完全に冴えてしまっていた。
しかし枕元に置いてある時計が目に入ってしまった。

「まだあと一分ある」

 俺はベッドに飛びついたが、すぐさま目覚まし時計が大きな音を立てながら動き始めてしまった。

 ついてないなぁ――。

 大きく欠伸をひとつ、寝巻きを洗濯籠に放り投げて白いYシャツと紺色のブレザー、
それとこれまた紺色のズボンに履き替える。
ジャケットを取って一階に降りては、洗面所で顔を洗って歯を磨く。
冬の冷たい水が歯にしみて少し痛い。
リビングへと続く扉を開けると、父さんと母さんと凛の三人がテーブルで朝食をとっていた。

「おはよー」
「おはよう。ほら、もう時間ないよ」

 母さんが俺に朝食を用意してくれている。
俺は焼きあがったトーストにマーガリンを塗って口に咥えた。

「またそれ~?」
「いーふぁろふぇつに」
「もーちゃんと食べてから話してよ」

 俺は凛と一緒に玄関を出た。
眩しい太陽の光が目に飛び込んでくる。
ひんやりとした冬の風が、ジャケットの傍をすっと吹きぬけた。

 俺はジャケットの中に首をすくませながら、朝食のトーストにかじりついた。
そのまま顔を上げると、澄みわたるような綺麗な青空が広がっていた。

「いい天気だなぁ」
「なに暢気なこと言ってるの、急がないと遅刻しちゃうよ」

 能天気に空を仰いでいると妹に叱られてしまった。
凛は俺の三歩先で紺色のスカートをなびかせながら歩いている。
風に吹かれて、長く、少し栗色の髪が束になって揺れていた。

 男子と同じ紺色の上下に、凛は灰色のダウンジャケットを羽織っている。
周りが地味な色合いのせいか、栗色の髪が映えて見えた。

 住宅街を抜けると、俺たちは大通りにたどり着いた。
この街一番の大きな道路には、朝からたくさんの車と人が行き来している。
この大通りを抜けると学園だ、凛が近くの電信柱に備え付けられている歩行者用のボタンを押した。

 たくさんの人が行き来するこの通りだが、俺たち以外に制服姿の学生は居なかった。
信号が赤から青に変わる。

「お兄ちゃん、行くよ」
「おう」

 この信号は一度赤になってしまうと変わるまでに時間が掛かる。
俺は妹を追いかけるように駆け足で横断歩道を渡った。

 大通りを抜けて、学園の門をくぐった。
立派な鍵付きの下足箱に靴を入れて、上履きに履き替える。

「**、凛ちゃん、おはよう」

 誰かが俺を呼んでいる気がした。
頭の中にノイズが走る、立ちくらみのような眩暈が俺の頭の中を走り抜けた。
俺は声がした方向を横目で見た。

 そこには少し背の高い、短髪の生徒が俺と凛に向けて手を振っている。

 あれ……誰だっけ、こいつの名前が思い出せない――。

 短髪の男は誰かに似ている。
しかし思い出せない、名前が出てこない。挨拶も交わせず、俺は思わず顔を伏せてしまっていた。

「あ、久条先輩。おはようございます」

 横にいた凛が俺の代わりに挨拶を交わした。

 ああ、そうだ、思い出した――。
 こいつの名前は久条、久条正義(まさよし)だった。なんでこんな事忘れていたのだろうか――。

「凛ちゃんどうしたの、こいつ具合でも悪いの?」
「あれ、朝は普通でしたけど……兄さん大丈夫?」

 凛が俺の顔を覗き込んでくる。

 猫被ってんじゃねーよこいつ――。

 頭の痛みはいつのまにか治まっていた。
俺はなんとなく恥ずかしくなって頭の痛いフリをしながら顔を上げた。

「いや、なんともないよ」
「そっか。んじゃ凛ちゃん、お兄さんを借りていくぜ~」
「いいですよ~返品は結構ですので~」

 久条の前では猫なで声で話す凛の口調に、またしても頭が痛くなりそうだった。
久条は俺の肩を軽く叩くと、嬉しそうに階段を上っていく。
どうせ行く先は同じだ、俺も久条の後を追って階段を上った。

 教室がある三階にたどり着いた。しかし久条はもっと上へ、屋上へと足を伸ばしている。

「おい、俺たちは三階だろ?」
「いいんだよ、今日は授業ないからさ~」
「マジかよ……」

 俺は溜息を吐きながら、屋上へと足を運んだ。
久条がどんどん先に階段を上っていき、ガチャンと重い鍵を開けた音が聞えた。

「あ~気持ちいい~」

 屋上に出ると冷たい風は更に勢いを増していた。
俺はまたしてもジャケットの中に首をすくませたが、久条だけは大の字で背伸びをしている。

 久条はそのまま寝そべると、胸元から煙草を取り出した。
カチン、とライターの蓋をあけて火を点ける。

「久条……お前のその様子だと、ついに俺たちだけになったのかな?」
「勘がいいな、その通りさ。みんな疎開しちまったよ」
「……そっか」

 俺は久条の横であぐらをかいて座った。

「仕方ないよな~国が決めたことなんだからよ。しかし幾ら働き口が無いからって全員そっちに回すのも極端すぎるぜ」

 久条はそういって口から紫煙を吐き出した。

 久条が言っているのは国が最近だした方針のことだ。
度重なる温暖化による海面上昇によって、俺たちの国は徐々に狭くなっていってるらしい。

 そんな中で重要なのが食料問題だ。
それを解決するためには国は農業や漁業を重視した。
都心で働いている人に転職を持ちかけ、支援や補助を行った。

 俺にはよくわからないが田舎へ行ったほうが旨みがあるんだろう、
家族そろって田舎へ引っ越していく人たちが増えた。
田舎のほうが税金も安いらしいし、食料品も豊富にあるのだろう。
こんな時代に都心で暮らせるなんて限られた人たちしか居なかった。

「実感わかないんだけどなぁ……」
「俺もだ、海が~土地が~ってニュースで騒いでるけど全然実感わかねぇ」

 久条が頭だけ上げながら、煙と一緒に深い溜息を吐いた。
その表情は悩ましげで、どこか遠くを見つめながら眉間に皺を寄せている。

 俺も何気なく久条が目向けている方を眺めていると、始業のベルが学園に鳴り響いた。
もうすぐ授業が始まるはずだが、久条はまるで動こうとしなかった。俺はそんな久条に訊いてみた。

「授業は?」
「自習だってよ~さっきお前が来る前に連絡があった」
「まるで学級崩壊みたいだ」
「まるで、じゃなくて本当にそうなんだよ」

 たった二人では授業さえも行われないのか――。

 俺は嬉しい反面、どこか寂しく気持ちになってしまった。

「あ~あ、来年から遊べると思ってたのにな」
「俺たちはエスカレーター組みなんだから、今からでも遊べるよ」

 久条は俺の言葉に首を振りながら、携帯灰皿を取り出して煙草を押し付けた。

「ところがどっこい、俺も明日までだ」
「……マジか」

 久条と同じような溜息が口から漏れた。

 明日から俺は一人でここに来るのか――。

 一人きりの学園を頭に思い描く。
まるで日曜日に間違って来てしまった、そんな毎日が始まるのかと思うと寒気がした。
それならいっその事、学園なんて来ないほうがいい。

 俺は思わず頭を抱えてしまう。しかし久条は手を合わせながら、

「本当にすまん。よくわからないけど、本家が戻って来いとか言ってるからさ~」

 久条が何度も頭を下げて、申し訳なさそうに言い訳をしていた。
本家とか分家とか、俺にはよくわからない。でもいい所のお坊ちゃんであることに間違いないだろう。

「はぁ……」

 俺は謝る久条を横目で見ながら、またしても溜息を吐いてしまっていた――。

ゆっくりと陽が傾き始める。
俺と久条は授業を受けることもなく、一日中放置されたまま終了を告げる鐘の音を聞くことになった。
屋上に取り付けてあるスピーカーから、大音量で鐘が鳴り響いた。

「帰ろうか」
「ああ、凛ちゃんが待っているだろ?」
「たぶんね」

 俺は屋上の扉を開けて、下足箱へと向かった。

 本当に何も無い一日だった、こんなのが明日も続くなんて正気の沙汰じゃない――。

 俺は先に帰っていく久条に手を振る。そのまま壁に背中を預けながら、凛を待っていた。
五分ほど待つと、反対側の校舎から凛の姿が見えた。

「兄さんお待たせ」

 凛をつれて正門を抜ける。傾いた陽の光と、肌寒い風が服の間を通り過ぎた。
夕方の大通りは朝と同じくらいの賑わいを見せている。
信号が変わるのを待っていると、凛が口をひらいた。

「また友達が減っちゃったよ」
「そうか……俺のところもだ」
「えっ、兄さんのクラスって久条先輩しかいないんじゃ」
「久条は明日までなんだってよ、もう行きたくないな」
「一人きりって、授業とかあるの?」
「さぁ……合同とかになるのかな」

 といっても自習が関の山だろう。
二人しか居ないのに授業があったのが、そもそも稀だったのだろう。
いつも勉強なんて嫌だと思っていたのに、今は大切に思う。

 いや、勉強も大切だが一番の友達が居なくなってしまうことが凄く寂しい。
久条が居なくなってしまったら、俺は何のために学園にいくのだろうか。

「はぁ」

 考えれば考えるほど、大きな溜息が漏れてしまった。

「大丈夫?」
「ああ」

 信号が青に変わる。

 明日からどうしよう――。

 俺はまるでリストラされたサラリーマンのように、明日何をやるか考えながら家路を歩いた。

――――
――

 朝、今日はなんとなく目が冴えてしまっていた。
俺はベッドに寝転びながら、時計に目をやる。
凛が起こしに来る時間まであと一時間もあった。

 起きるか――。

 俺は二度寝する気にもなれず、そのまま洗面所へと向かった。
階段を下りるとリビングの扉が開いており、
その隙間から母親が忙しなく朝食の用意としているのが見えた。

「ふう」

 顔を洗っても、憂鬱なこの気持ちがすっきりすることはなかった。
制服に着替えてリビングへと入る。

「おはよう」
「あらおはよう、今日は早いのね」

 俺が早起きだったのが意外なのだろう。母親は笑いながら俺に笑顔を向けていた。
 階段からトントンと軽い足音が聞える、凛も起きてきたのだろう。

「あれぇ……お兄ちゃん、なんでこんなに早いの~?」

 凛が眠たそうな声で目を擦りながら俺に話しかけてくる。
栗色の流れるような髪は崩れ、パジャマ姿での登場だった。

「顔洗って来い」
「うー」

 俺は気だるそうにして立ったまま動けない凛を洗面所まで押しやった。

 俺はリビングに戻ってテレビの電源を入れた。
朝の番組なんてニュースばかりで面白くないが、音がしないとなんだか寂しかった。
トン、と目の前に朝食が置かれる。昨日と同じトーストと飲めなかった珈琲だ。

「いただきます」
「どーぞ」

 トーストを口に入れながら、横目でニュースを見る。
有名人の離婚話だとか、景気の動向だとか、なにひとつ興味が沸かない話題ばかりだった。

 食事をすませると、ジャケットを羽織って玄関先で凛を待った。

「置いてくぞー」
「ちょっとまってよー!」

 時計を見ると、昨日より十五分ほど早かった。
別に急ぐ必要はなかったのだが、このまま家にいると学園に行く気がなくなるような気がしたからだ。
バタバタと階段を走り回る音が、家の外まで聞えてくる。
勢いよく玄関を開けて、少し息の荒い凛が走ってきた。

「はぁ……いってきまーす!」
「行ってきます」

 今日も凛は元気いっぱいだった――。


 学園に着くと、昨日と同じように屋上に来て久条と無駄話をしていた。
だけど、無駄話も今日まで。明日からは話をする相手すら居なくなってしまう。
そんな俺の心境を分かっているのだろう、久条は何かにつけて頭を下げてくる。

「悪いな~」
「明日から何すればいいんだよ……悪いと思うなら残ってほしいな」
「それは無理な相談だ」
「はぁ……」

 またしても溜息が出てしまった。久条はぽりぽりと頭を掻きながら、俺と同じような溜息を吐いた。

「お詫びと言っちゃなんだが、今日の帰りに遊びに行かないか?」
「遊び?」
「そそ、行こうぜ」

 久条が楽しそうに話しかけてくる。
こんな楽しそうな顔をしているときは大抵ろくでもないことだが、
今日はなんとなく付き合いたい気分だった。俺は首を縦に振る。

「決まりだな」

 久条は嬉しそうに笑った。しばらく談笑していると、ようやく終わりを告げる鐘が鳴り響いた。

 夕方、俺と久条は街の中心を目指して歩いている。
夕方といえどもすでに陽は落ちていて、街は眩い光を放っていた。
向かう先は都内唯一の繁華街、ここだけは未だに活気に満ち溢れている。

「すごい人の量だな」
「帰宅ラッシュってやつだろ、この時間は仕方ないさ」

 久条はよくこの道を利用しているのだろうか。人と人の間を上手にするすると歩いていく。
対して俺は立ち止まったり、前の人の靴を踏んづけたりしてしまう。

 久条が大通りから横道に逸れて行く。
久条の後姿を見失わないように、少し背伸びをしながら早足で後を追った。
久条は店の前で俺が追いつくのを待ってくれていた。

「お疲れ、ここだぜ」
「ここって……酒飲むとこじゃないのか?」

 大通りと比べて電灯が少ない路地裏に、ぽつんと光る小さな看板が掲げてあった。
看板にはBAR Scarと書いてある。俺たち学生には縁が無い場所だった。
俺は横目でちらりと久条を見ると、

「大丈夫、俺の知り合いの店だから」

 久条はそういって、目の前にある重くて分厚そうな木製の扉を開けた。
そのまま俺の首根っこを掴んで中へと入っていく。
扉に付けてある小さなベルが、カラーンと心地よい音色を鳴らした。

 中はテーブルひとつと、五人座れるカウンターがある小さな店だった。
カウンターの奥にはスーツの様な格好をした白髪の男が一人だけ立っていた。

「いらっしゃいませ」

 その男は低い声で俺たちを出迎えてくれる。俺は久条の後を追うようにカウンターに座った。

「久条様、その格好は場違いでございます」
「いいじゃん、気にするなよ」
「店を閉めて参りますので、少々お待ちを」

 白髪の店員はCloseの看板を取り出して、表のドアに掛けたあと店の鍵を閉めた。
初めて来た場所に、なんだか不安が押し寄せてくる。俺は小声で久条に訊いてみた。

「なんで様付けなんだよ。それにこの店大丈夫なのか?」
「大丈夫だって、うちの親父が好きな店なんだよ」

 親の七光りってやつだろうか。
あまりにも堂々としている久条の姿を見ていると、なんだか安心してくる。俺は安堵の息を漏らした。

「金持ちって得だな」
「あれ、お前のとこも似たようなもんだろ?」
「父さんが何やってるかなんて、聞いたことない」
「ふーん」

 久条が不思議そうな顔をしていた。白髪の店員がカウンターに戻ってくる。
俺たちの目の前にコースターとお絞りを出してくれた。

「おじさん、俺いつものね」
「かしこまりました、お連れの方は?」
「久条、俺は何がなんだかわからないぞ……」
「適当に、だってさ」
「かしこまりました」

 まったく、なんでこんなところに連れてきたんだが――。

 俺はちょっと不機嫌になっていた。店員が目の前でシェイカーを振り始める。
何も言わずにそれを傍観していた。銀色のシェイカーからオレンジ色の液体が流れてくる。
カウンター越しに芳醇な匂いが漂ってきた。

「どうぞ」

 俺の前にグラスが置かれる。俺は久条をちらりと見たが、お先にどうぞと手を滑らせた。
俺はおどおどとグラスに口をつけてみた。

「なんだこれ、美味いな」
「だろ、この店は美味い酒しか出さないぜ」
「恐縮でございます」

 オレンジ色の液体の中で、丸く形取られた氷がくるくると回った。
久条の前にもグラスが置かれる。
俺が持っている幅が大きいグラスとは違い、細長いグラスの上に切ったレモンが乗っていた。

「ほい」

 久条がグラスを傾けてくる。俺は手に持っていたグラスをゆっくりと近づけた。

「乾杯」
「乾杯っと」

 カランとグラスの中にある氷が音を立てる。
その音はなんだか心地よくて、不機嫌だった俺の心はいつの間にか上機嫌になっていた。
白髪の店員が微かにボリュームを上げたのだろうか、
会話が途切れると聞いたことの無い曲が耳に入ってくる。
その大人びた雰囲気に、俺は酔ってしまっていた。

 久条が煙草に火を点ける。

「……悪いな」
「何が?」
「いきなり居なくなることになっちまってよ」
「仕方ないさ。今の時期、田舎に行ってしまうのは珍しくない」
「いや、引っ越すわけじゃないんだ。なんか国がどーたら親父が言っててよ」
「久条の親父さんは議員なの?」
「わかんね、それと似たようなもんだとは思う」
「へぇ……でもこの街にいるならいつでも会えるじゃない」
「そうかもな、兄弟」
「なんだよ兄弟って」
「知らないのか? 杯を交わしたらもう兄弟なんだぜ」
「なんか昔の映画でそんなシーン見たな……まぁいいか」

 久条がグラスを傾けてくる、俺も同じようにグラスを傾けて二度目の乾杯をした。
久条はそれを見て笑っている、俺もなんだか嬉しくなった。

「久条様、もう九時を回りましたが」
「お、もうそんな時間か。遅くまで悪かったな」
「別にいいよ、帰ろうか」
「ああ」

 久条と共に店を出た。扉を開けると、カランと小さくベルが鳴った。
少し飲みすぎてしまったのか、足元がふらついてしまう。

「大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫、初めてだからわからなくてさ……これぐらいなら歩いて帰れるよ」
「そうか、じゃぁ……またな」
「ああ」

 俺は久条と手を振って分かれた。時計を見ると九時を少し過ぎたあたりだった。
街中は帰宅途中のサラリーマンたちで賑やかだ。恐らくみんな一杯引っ掛けて帰るのだろう。
酒を飲んだのは初めてだったが、意外と気持ちがいい。
父さんが毎日晩酌をするのも分かる気がする。

 俺はふらふらと心地よい気分で街中を歩いた――。

 いつもの通学路まで戻ってきた。
そのころには酔いも冷めてしまっていて、両親になんて言い訳をするか、そのことで頭が一杯だった。

「やばいよなぁ……」

 せめて連絡だけでもしておけばよかった。
携帯を見るとすでに十時、閑静な住宅街はすでに静まり返っている。

 まぁ久条の送迎会とでも言えばいいか――。

 俺はそのまま携帯を閉じて、自宅を目指した。

「あれ」

 歩いていくと真っ暗な自宅が見えた。
いつもならまだ明かりが点いていてもおかしくない我が家だが、今日ばかりは真っ暗だった。

 もしかしたら家族総出で外食にでも行っているのだろうか。俺は玄関前に立ち、ドアノブを捻る。

「あれ、開いている」

 無用心だな……いや、俺が鍵を持っていないと思って開けといてくれたのか――。

 それならばありがたいことだが、同時に泥棒の線も浮かび上がってきた。
俺はゆっくりと玄関を開ける。するとさっと風が俺の真横を通り過ぎた。
家の中も窓を開けているのだろうか、俺はゆっくりと玄関を閉める。

「う」

 なんだ? この臭い――。

 さっきの風が異臭を連れて戻ってきた。


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