「地球は青かった──」
貴方はこんな言葉を聞いたことがないだろうか?
宇宙から見れば、地球は青く、とても美しい星──でもこれは地球を飛び出して、
宇宙から地球を見たから言えることではないだろうか?
こんな昔話がある。
十四世紀の大航海時代、海は平らで先は崖で滝のように落ちている、と考えられていた。
そのため船乗りたちは南に行き過ぎると落ちてしまうと思い込み、怖がって行きたがらなかった。
貴方はこんな昔話を聞いて、どう思うだろうか?
昔の人は無知だなぁ、とか。
まだ科学が発展していないから、仕方がないよ、と思ってくれるのだろうか。
しかし、この昔話を私と貴方がそんな風に捉えてしまうのは、『常識』が蔓延(まんえん)しているからだ。
地球は丸い、地球は青い。こんなこと知ってて当たり前、知らないと『常識』がないなど。
こんな風に思われてもおかしくないくらい、周知の事実となっている。
でも──どうだろうか?
貴方の居る世界は紛れもなく地球だ。
私たちは地球に住んでいる、これは常識なんだ。でも──青いだろうか?
某国の首都圏にいる私にとって、地球はとても灰色に見えてしまう。
高いビルや展望台に上って景色を眺めてみると、
灰色のコンクリートに敷き詰められた街並みが、地平線の向こうまで広がっている。
これで青いと思え──なんて無理な話だ。
しかし地球は青い。長くなってしまったが、何故……青いのだろうか。
私はおそらく、地球の陸地と海の割合にあると思う。
地球の約七割は海が占めている。そのため外から見ると地球は青く光っているのだ。
地球は海に覆われて青く、そして奇麗だ。
この七割がもしも……九割、いや、それ以上になってしまったなら……。
これより書き記すは、今よりもずっと先に在る未来──。
………………
…………
……
赤く光っていた太陽が海の中に沈み、私の眼に映るのは紫色の水面だけ。
寄せては返る波音に、時折魚の跳ねる音が混ざって聞こえてくる。
私の住んでいる場所は、この国ではそう珍しくもない海の上だ。
目を海から背けて後ろを振り返ってみると、ところ狭しとボートのような家が海上を覆いつくしている。
電灯の光が漏れているボート、夕食の美味しそうな焼き魚の匂いが漂うボート。
私も含めて、ここにいる人たちは、みんな土地を追い出された人たちばかりだ。
顔には生気がなく、ぼーっとした表情で釣竿を傾けている。
海の上に家があるからって、バカンスに使われるような優雅な場所ではない。
そんなところは常夏って言葉がにあうところだけだ。
ここには厳しい冬があり、夏だからって過ごしやすいわけでもない。
かといって治安が悪いスラム街でもない。
住人からは常に無気力がにじみ出ていて、まるでゴミ捨て場のような雰囲気が感じられる場所だ。
私は陽が落ちるのを確認し、時計を見た。左手に巻いた小さな腕時計は十八時を指している。
「もういいかな」
私は自分のボートに入って、身支度を整える。長く伸びた黒髪を結び、薄く化粧をする。
「スカートなんて、いまはいらないわね」
洋服籠の中から動きやすそうな服を選んでいく。
黒のタンクトップと、青系のデニムと黒いスニーカー。まるで男の子みたいだけど仕方がない。
身支度が終わったころには、辺りは真っ暗になっていた。
まだ夏も序盤なのに、陽が落ちてもむしむしと暑苦しい。
徐々に汗ばんでくる額を拭い、
私は最低限の衣服と運よく買えた船のチケットを鞄につめこんで、少し重たい鞄を肩にかつぐ。
行ってきますの挨拶なんて言う気にはなれない。
だって、ここにはもう帰る気なんてないのだから──。
電車がゆるゆると減速し、大きな溜息のような音を立てて駅のホームにとまった。
私のいたゴミ捨て場から、すでに四時間が経っていた。私は鞄からメモを取り出して駅名を確認する。
「次ね──」
停車した駅からは続々とスーツ姿の人たちが乗り込み、
いつのまにか満員になった車内は暑くて息苦しい。
前にいる男性のせいで、クーラーの風もあたらない。座り続けていたせいで腰も痛い。
「まだかなぁ……」
三分ぐらい経つと、電車が減速しはじめ、私は人ごみを掻き分けながらなんとかホームに降りた。
もう夜の十時を過ぎるというのに、駅の構内は人で溢れかえっていた。
改札を抜けて、港行きのバスを探す──ちょうどいい具合にバスが来たところだ。
バスに乗り込んでも人だらけ。
都内からは少し外れているのに、どこも人で敷き詰められているような印象を受ける。
私は手すりに捕まりながら、流れていく街の風景に眼をやった。
きらきらと光る街頭、渋滞で一向に進まない車のテールランプがピカピカと光っている。
賑やかで活気がある街、私の居たところとは大違いだった。
私はバスの中にいる乗客たちを見回す──。
誰ひとり一言も話すことなく、車内は運転手がバス停名を告げる決まりきった定形文だけが流れている。私の横に立っているスーツ姿の男性は、立ったまま寝ているようだ。
椅子に座っている初老の男性も、同じく目をしばしばさせながら眠そうにしている。
みんな疲れきっているのか、携帯をさわる人すらいなかった。
バス停でバスが止まり、また動き出す。
それを繰り返しているうちに、車内は私ひとりになっていた。運転手が駅名を告げる。
「次は終点──」
私は窓ガラスの横に備え付けられているボタンを押した──。
「はぁ~ついた~」
バス停に降りて私は一息ついた。降りる際に運転手にじろじろ見られたが、仕方がない。
こんな時間に女一人で、しかも港前の駅に降りる──何をしにいくんだろう?
なんて疑われても仕方がないかな……。
私はバス停に置いてある木のベンチに腰を掛け、持ってきた地図に眼を通す。
微かに潮の香りが辺りに漂っているが、港前って言っても歩いて三十分ぐらいかかりそうだ。
鞄を肩にかついで一本道を歩き出す。
さっきまでの喧騒とは違い、虫の鳴き声が夜道に響いている。
空は厚い雲で覆われて、月明かりさえ見えない。
二車線の道路の脇に、転々と置いてある街灯の明かりだけが光っていた。
私は薄暗い足元を、街灯を頼りに港を目指した。コツコツと、私の足音だけが聞こえてくる。
もう三十分は歩いただろうか──。汗でシャツが身体に引っ付いて気持ちが悪い。
のども乾くが、近くには自動販売機すらなかった。
ようやく目の前に大きな白い橋が見えた。潮の香りもいっそう強くなった気がする。
アーチ上の橋の上から下をのぞき込んでみる。暗くて見えないが、どうやらすでに海の上にいるようだ。
橋を渡り終えると、頭上にある道路標識に眼をやった。
道路標識には第一、第二、第三と名うってある。私は鞄の中から再度メモを見た。
メモには第三港、零時出航と書かれてある。いまの時刻は二十三時三十分、時間は問題なさそうだ。
私は標識にしたがって一車線の道路に足を向けた。
五分ほど歩くと、目の前に大きな港が見えてきた。しかし街頭はあるものの、ほとんど灯っていない。
辺りには大人二人分ほどの大きなコンテナが、道の端に所狭しと積まれている。
まるで迷路のような場所を、地図を頼りに歩き続けた。
目的地はもうすぐのはず──。私は最後の街灯を横目に見つつ、先へ進んだ。
ここから先は明かりもない。まるで暗い海の底にいるような……そんな感覚すら憶える。
コンテナ群を抜けると、私の目の前に大きな船が姿を表わした。
大きな貨物船、その大きさに圧倒されてしまいそうだ。
「これ……でいいのよね」
私は携帯を取り出し、ディスプレイの明かりで再度メモを確認する。
しかし、いくら見ようと船の名前や、船を識別できるようなものは見当たらない。
時間はすでに残り十五分ほどしかない。
なによこれ──。
もう時間もないのに、船がどれか分からない。焦りからか、体中から汗が噴出してきた。
おもむろに髪をあげ、頭をぐしゃぐしゃと掻き毟ってしまう。
すると、規則的な波の音に混じって、コツコツと足音が聞こえてきた。
血の気が凍るようだ。湧き出た汗は一瞬のうちに冷たくなっていった。
私は急いで携帯を鞄の中に隠す。
明かりがなくなると何も見えなくなるが、もう遅い。
私の目の前に立ちふさがるように、ずいぶんと背の高い影が、私を睨みつけていた。
「チケットを……」
「へ?」
「チケットを……」
「あ、はいっ」
私は急いで鞄の底に入れてあるチケットを取り出し、姿勢のいい男に渡した。
男はチケットと私を見比べ、確認が取れたのか、親指で停泊している船を指した。
「急げ、あと十分ほどで出航だ」
「は、はい」
私は追い出されるように小走りで船へと向かった。
船からは一人がやっと上れるくらいの小さな金属製の階段が伸びている。
私は手すりにつかまり、段差をひとつ上った。
潮風で錆びているのだろうか、手すりからは錆と思われる小さな凹凸の感触がする。
カコン、カコンという足音が、やけに響いて聞こえた。
これで──逃げられる。
私の心は安堵と、ほんの少しの恐怖。
しかし、それ以上の期待が胸の中で膨らんでいく。
「さよなら……」
わざと声に出してみた。
これで本当に最後、この人殺し国家から、めでたく脱出だ──。
錆びた階段を上ると、目の前には大きなコンテナが山積みにされてあった。
そのコンテナに腰かけている人、船から外を眺めている人、目につくのは十人程度。
みんな思い思いの場所で何かを待っているようだ。
少し小太りな男性、どこかに旅行でも行くような派手なスカートの婦人。
周りの大人たちは中高年ばかりで、私と同じぐらいの人はいないみたいだ。
「はーい、集まってくださーい」
ふいに奥のほうから男性の野太い声が聞こえてきた。
周りの人たちもその声のしたほうに顔を向けている。
「零時には扉を閉めますので、それまでに入ってください」
辺りがざわつき始めた。周りの人たちが驚くのも無理はない、私も眼を疑った。
男性が言った扉とは、客室へ続く扉ではなく、分厚い鉄製のコンテナの扉だったからだ。
もしかして……これに入れってことなの──。
奥は暗くて見えないけれど、おそらく明かりもなければトイレもない。
荷物を運ぶためだけに作られた物。
周りに積んであるのと同じならば、幅は十メートル、高さは二メートルほどだろうか。
それでも十人が入るには狭すぎるように感じた。
おそらく見つからないための配慮なのだろうけど──。
これから数週間、トイレもなければシャワーもない。
ただ狭く、暗くて汚いだけのコンテナ内の暮らしを想像するだけで眩暈がしてくる。
でも──仕方がない。
私はぶんぶんと大きく頭を振って、嫌な妄想をかき消した。
仕方がない──仕方がないんだ。だって見つかれば……
そのときカコン、カコンという階段を上る規則正しい音が聞こえた。
私は後ろを振りかえる。どうやらまた一人追加になるみたいだ。
前に居た大人たちはしぶしぶとコンテナの中に入っていく。
私はどうも一緒に入る気にはなれない。零時まではあと十分もないけれど、少しでも外に居たい気分だ。
私は踵を返して、遠く街の光が見える甲板まで引き返した。
すると、丁度いま上ってきたであろう男と眼があった。
肩まで伸びた茶色い髪、歳は私と同じくらいだろうか……身長は私よりも頭一つ半ほど高い。
緑色のジーンズに、薄茶色のシャツがはだけて、タトゥーだ。
真っ赤なタトゥーが見えている。
甲板に取り付けてあるライトが彼の眼に入ったのだろうか、
煙草を咥えながら私を睨みつけているように眼を細めていた。
私は思わず階段から眼を背け、海のほうへと眼を向けた。
恐い──恐すぎる……。
私は横目でちらりと二度見したが、彼は先ほどと変わらぬ形相で、携帯を見ている。
耳についている三つのピアスが、ライトの光に反射していた。
「ちょっと、そこのおねえちゃん」
「ひゃ、ひゃいっ!」
急に呼ばれてびっくりした──心臓が止まりそう。
「なんでしょうか……」
私を呼んだ男は、携帯を片手になにやら唸っている。
しかし何かが確認できたのか、私を睨みつけていた鋭い眼は、すぐにほがらかに細く、そして丸くなっていった。
「お姉ちゃん? お娘ちゃん? まあいいや、お姉ちゃんも脱走組み?」
「あ、はい……。というか、此処にいるならみんなそうだと思いますけど……」
「え、あ~やっぱり? いや~まわりがおじさんおばさんばかりでさ~。みんな相手してくれないの、みーんな無視しちゃってさ~」
私は呆けたように口をあけっぱなしにしてしまっていた。
先ほどまでの強面は消え、惚けたような顔で話かけてくる。
へらへらと他愛もない世間話をしようとする男に、私はだんだんイラついてきた。
こんなところでナンパでもする気かしら──。
私はもういちど彼を値踏みするように見た。
不良のような格好、人を威圧するようなタトゥー。
これじゃ誰も話したがらない、大人たちが無視するのも当然だと思う。私も同じ様にそっぽを向いた。
「ねぇねぇ」
それでも彼は話かけてくる。私は彼のへらへらとした態度がとても気に食わない。
「すいません、一人にしてくれますか?」
私の言葉が思いもよらなかったのか、彼が少しだけ後ずさりした。
私はその隙に後ろにあった錆びた扉を開け、薄暗い廊下を早足で歩く。
廊下を抜けると、反対側の甲板に出ることができた。
辺り一面が真っ黒い海が見える。少し離れたところには灯台のランプがぴかぴかと光っている。
私は手すりに肘をついたところで、大きな溜息が出た。
船に取り付けてある時計が眼にはいる。時計の針は二十三時五十五分を指していた。
あと五分しかない……か。そろそろ戻ろうかな──。
たまに強く吹く冷たい潮風が肌にあたって気持ちがいい。
大きく深呼吸をして、この国の空気を吸ってみる。
潮風とともに、なにか黒く濁ったものまで吸い込んだ気がした。
ガチャリ、と扉のドアノブが回される。出てきたのはさっきの不良だった。
「わるい、わるい。俺は兎谷ってんだ。お姉さんの名前ぐらい教えてよ」
兎谷(うさぎだに)と名乗る彼は、私の横に立ってにこやかな笑顔を向けている。
そんな顔しても、そんな格好じゃ誰も相手にしてくれないだろうに──。
私は頬を手で支えながら、少しだけ考えてみた。
こんな男と何週間も同じコンテナで過ごすの……嫌だなぁ。
でも、いまのうちに知り合っておいたほうがいいのかも。
誰とも話さずに狭いコンテナ内でじっとしているのも気が重いわ──。
私はそのままの姿勢で、ぶっきらぼうに答えた。
「音疾(おとはや)よ」
私が苗字をいうと、兎谷はにっこりと笑った。
「名前は?」
「……愛」
「愛ちゃんね、いい名前じゃん」
私は兎谷に聞こえるように、大きな溜息を吐いた。
だって、兎谷のしていることは、ただのナンパにしか見えなかったからだ。
たいていの男は女の名前を聞いたら「いい名前」っていうだろう。
まさにテンプレートといわんばかりの行動にイライラしてくる。
何か言い返してやる──と思っていたときだった、兎谷が閉めた扉が音を立てて開かれる。
出てきたのは私が入り口でチケットを渡した男だ。
「もうすぐ出航だ、早く中に入れ」
「あ、はい」
男はそれだけを言って、力任せに扉を閉めた。
がちゃん、と大きな音と、男が走りさる足音際にカンカンとかん高い足音が船内に響いた。
私は急いで時間を確認した、いつのまにか零時を回っている。
ようやくこの国から脱出できる──。ほっとした私は胸をなでおろした。
私は鞄を肩に担ぎなおし、コンテナがある甲板に行くため、扉に手をかける。
すると、ガタン、と音がした。なんと兎谷が手で扉を押さえ、私に顔を寄せてくる。
「な、なによ……」
「やめとけ」
「やめとけって……なに言ってるのよ」
「残念だが、この船での亡命は成功しない」
兎谷がさらに顔を寄せてくる。
互いに息が顔に掛かりそうになるぐらいの距離、私は思わず後ろに飛びのいた。
「なにいってるのよ……意味わかんない」
「意味わかんない、って言われてもなぁ」
兎谷は頭をぽりぽりと掻きながら私に向かって呟いた。
「そのままの意味だけど?」
「なんでっ……そんなことわかるわけ?」
私は思わず声を荒らげそうになった。
でも感情的になるのはあまり好きではないし、騒ぎを起こせばあの男が戻ってくる不安もあった。
私は深く息を吸い込み、兎谷を睨みつける。
「おーこわ、そんなに睨むなよ。ねぇ愛ちゃん、その情報……どこで買ったの?」
「そんなのどこでだっていいでしょう」
「ふーん。信用できるの? それ」
「それは……」
私は確かに情報屋から格安でこのチケットを買った。
あの時は、この国から出れる──、と思って飛びついてしまったけれど……。
信用できるかと言われれば自信がない。
それに、こんな話の何を根拠に信用できるというのだろうか。
私が自問自答に迷っている最中、兎谷はなにやら得意げに話し始めた。
「正直なのもいいけどさ、ちったあ疑うことも考えたほうがいーんじゃねーの?
情報屋は愛ちゃんにガセネタ売って儲けた。運び屋は愛ちゃんから乗車賃を貰って儲けた。
あとは道中捕まって処分されれば、嘘の情報は漏れることなくみんな丸儲けだ。
こんなこと、考えたくないかい?」
これが、嘘──?
私は拳を強く握り、ぐっと奥歯を噛み締めた。
これが嘘だなんて信じたくない。しかし、一度浮かんだ疑問は、すぐには消えてくれなかった。
まるで甘い蜜に、蜂のように飛びついてしまった自分が憎らしい。
強く握りすぎたせいで、爪が手のひらに食い込み、今にも肌を突き破りそうだ。
このままこの船に乗り続けるか否か……私は兎谷を睨みつける。
もしも兎谷が言っていることが事実ならば、最悪の事態なんて簡単に予想できる。
さっき彼が言っていた『処分』の一声が、重く圧し掛かってくる。
しかし、兎谷の言葉も信用できたものじゃないし……。
どちらを選択するか、判断材料が少なすぎて、どちらも選べない。
私の選択を待っているのだろうか、兎谷は先ほどから一言も話さない。
いっそサイコロでも振って決めようか──いや、間違ったら死ぬかもしれないのに……。
私が頭の中で格闘している最中、またしても大きな音をたてて錆びた扉が開いた。
扉の中から顔を覗かせたのは、私が入り口でチケットを渡した男だ。
「早くしろ、もう出航だ」
「いや~すいません。こいつ船酔いみたいで~」
「ちっ、早く入れよ」
兎谷が体よく男を追っ払った。そこまでして兎谷は何がしたいのだろう……私にはわからない。
男の足音が徐々に遠ざかっていく。私は声のトーンを落として呟いた。
「なんで、私だけに教えるの?」
「秘密」
なぜか兎谷は笑顔だった。
私はその笑顔を問い詰めたい気持ちでいっぱいだったが、どうやらそんな時間はないらしい。
船のエンジンが掛かったのだろうか、先ほどまではただ浮いているだけのような感覚から、
力強い推力が加わったような感覚、出航するんだ。
私は錆びた扉に手を掛ける。兎谷は何も言わずに道を譲ってくれた。薄暗い廊下を足音がたたないように静かに歩き、扉の窓からコンテナを見た。
薄暗い闇の中、一つの照明が扉の開いたコンテナと、それに乗り込む乗船客を照らしている。私は彼らを眺めながら、まるで心臓を掴まれているような感覚に襲われた。
まるで出荷待ちの羊達を柵の外から見ているような、私も一歩間違えれば柵の中へ入ってしまう──。
頼るあてもない疑心暗鬼。一度危険と思ってしまえば、もう足を動かすことなんて出来ない。
見知らぬ土地で、『ここから先は地雷源だよ』そう言われてしまったならば、
誰が躊躇なく歩くことが出来るだろうか。
兎谷に騙されているのかもしれない。だが私の心はまるで枯葉のように風の吹くままに流されていく。
死んじゃうかもしれない──。
分かってはいたのだけれど、私は『自分だけは大丈夫』なんて思っていたのかも──。
そう考えてしまったらこの扉を気軽に開けることなんて出来ない……。
私は、震える声で兎谷に訊いた。
「どうすれば、どうすればいいの……?」
兎谷はまるで、『まってました』と言わんばかりににっこりと笑った。
そして私に顔を寄せて呟く。
「ここから逃げればいいのさ」
兎谷は大きな音を立てて扉を開けた。そして空いている左手で、私を動くなと制した。
扉が閉められる、一人がこんなに心細いなんて、久しぶりのことだった。
兎谷は扉の横に背をあずけていた中年男性に声を掛けている。
私は扉に耳をあてると、途切れ途切れに会話が聞こえてきた。
「わ、私かね?」
「そそっ。おっちゃん、なんか連れが船酔いで体調わるくてさ。俺たちちょっと長いトイレになっちゃうかもしれないんだ。悪いけど、俺ともう一人が船長に呼ばれたらトイレとでも言っておいてよ」
「な、なんで私が。あそこに居る男に言っておけばいいじゃないか」
「まぁまぁ」
ガサガサと何かが擦れる音がする。
「……! わ、わかった。言っておく」
「話がわかるおじさんでよかったよ」
中年男性は勢いよく首を立てに振っている。兎谷が男性に背を向け、廊下に戻ってきた。
私も扉から耳を離して、兎谷を迎え入れる。
「どうかしたの?」
「ん? ちょっと言い訳をね」
「言い訳ってなによ」
「いいから。いくよ愛ちゃん、結構ガチで時間がない」
「え?」
兎谷は私の腕をつかんで、勢いよく走り始めた。
さっきまでカコン、カコンと響いていた足音も、今ではエンジンの音でかき消されていく。
私はなんとか転ばないように足並みを合わせるだけで精一杯だ。
扉を開けて元の甲板に戻ってくる。私が何か口を挟む前に、またしても兎谷は走り出した。
どこに向かっているのかわからない、でも駆け足で船内を走り回る。
「ね、ねぇ。そっちは出口じゃないわ」
「いーの。ほら、急いで。スクリューが回り始めたら危険だ」
兎谷に引きずられながら、どこまで来たのだろう。
ここはちょうど船の真ん中あたりだろうか、
眼に見える明かりはなく、いつのまにか雲の隙間から奇麗な三日月が顔を覗かせている。
空にぽつんと浮いている月が、黒い海に映りこむ。
荒げた息を整えている間、そんな幻想的な風景を呆けたように見ていた。
徐々に私の息が整ってきた。
兎谷はそれを見越したように、手すりから身を乗り出し、左右を確認している。
「ここらでいいか」
「こ、ここらって……逃げるはずじゃなかったの?」
「そうだよ」
そういって兎谷はまたしても私の手をとった。また走るのか、正直うんざりしてきた。
疲れて抵抗する気も出ない、しかし兎谷の取った行動は違った。
「へ?」
彼は私の肩と膝を抱えるように持ち上げた。
まるでお姫様抱っこのような形、そしてそのまま手すりに向かって飛び跳ね、
んん── !?
私が文句を言う暇もなく、叫び声は彼の手で押さえ込まれ、訪れるのは恐怖と浮遊感。
兎谷は私を抱えたまま、軽々と手すりを飛び越えたのだ。
数瞬の浮遊感のあと、大きな水音と夏でも冷たい水の感触。
私は海の中で兎谷の腕の中から放りだされる。月明かりを頼りに、無我夢中で水面へと浮かび上がった。
「ぷはぁ! な、なんで出口から出ないのよ! 馬鹿? あんた馬鹿よね!」
「はっはは」
「なに笑ってるのよ!」
「いや~いいリアクションするなぁ~と思って」
「なんなのよ……まったく」
兎谷はまた笑い始める。
月明かりでも彼の顔は見えないが、おそらく口元をにんまりと細くしながら笑っているのだろう。
「とにかく陸に上がろう。こっちだよ」
兎谷がすいすいと平泳ぎで陸へと向かっていく。真っ黒い夜の海はなんだか気持ちが悪い。
足に何かが触れているような気もする。ここに留まるのも嫌なので、私は仕方なく彼を追った。
「おっと」
兎谷が手を差し伸べてくる。私はその手をきつく握った。
彼は私の手をさらに強く握り返し、海の中を泳ぐ。
なんだかその手が命綱のように感じてしまうのが、ものすごく気に入らなかった。
夜の海、いまでも船の中では大きなエンジン音が鼓動しているだろう。
誰も私たちを見つけることなんて出来ない。
兎谷は第三港には戻らず、ぐるりと回ってどこか違う港へと泳いでいく。
私は手の引かれるまま、彼に付いていくしかなかった。
目の前には小さなオレンジ色の照明が港を照らしている。
周りに見えるのは小さなボートや民間のものと思われる漁船がぎっしりと埋め尽くしている。
辺りに聞こえるのは波の音だけ。
どうやら誰もいないようだ、兎谷は明かりを頼りに港の端へ向かって泳いでいく。
「あった」
彼が見つけたのはフジツボに覆われた小さな階段だった。
「転ばないようにね、あれで切ると痛いよ」
「わかってるわよっ」
彼は階段の左右に取り付けてある手すりをつかみ、掛け声ひとつで階段を上った。
濡れたジーパンで手を擦り、またしても私に手を指し伸ばす。
「ほい。その手すりにもびっしりフジツボついてたから気をつけて」
「切ったんでしょ?」
「切ってねーよ、ほら」
私は彼の手をつかむ。水に濡れた重い身体が、一気に陸へと引き上げられた。
陸に上がると服の重みと、走り回った疲れで身体が重い。
私たちは少し歩いて、幾分奇麗なコンクリートの上にどさりと座った。
「あー疲れた」
座った途端、兎谷が横に寝そべる。
ここがふかふかのベッドの上なら、私もすぐさま横になっただろう。
いや、その前にシャワーかな。私は疲れからか、大きな溜息が出た。溜息と共に後悔の念が押し寄せる。
この選択で……よかったのかな──。
正解なんて、教えてもらっても納得なんてできっこない。
意味のない悩みに、また頭を抱え込んでしまう。
やっぱりあの時、こんな話に乗らなければ──。
チケット代……勿体ないなぁ──。
「あ~あ」
結局私もコンクリートの上に横たわった。
すると、規則的な波音に突如車が走り去る音が聞こえた。
マフラーが咆える大きな音、私は急いで振り向いた。
ここからは小さく見える橋の上を、テールランプの残像だけが薄く見えた。
こんな時間に──?
「見てたのさ」
兎谷が振り向きもせず、寝そべったまま呟いた。
「見てた?」
「脱走者が出ないように、ってとこかな」
「えっ」
兎谷の言葉と同時に、濡れた肌を潮風が通り過ぎ、いっそう寒気が増した。
「わざわざ船から飛び降りたのは、あいつらが見張ってたせい。大方、海軍の下っ端だろうな」
海軍? 軍隊が絡んでいるの──?
それが本当か嘘かは分からない。
ただ偶然車が通りかかっただけかもしれないし、私を信用させるための嘘かもしれない。
でも、まるで当たり前のことのように淡々と話す兎谷の言葉に、現実味を感じているのも確かだ。
これで本当によかったのかな──。
またしても答えのない妄想に頭を悩ませてしまう。
隣では兎谷が水に濡れてしけってしまったのだろう、煙草に火を点けようと頑張っている。
ジッポライターを擦る音が、何度も聞こえた。
夢中になっている兎谷に、私は疑問を投げかけてみた。
「ねえ、なんで私にだけ教えたの?」
兎谷は口に咥えた煙草を諦め、そのまま捨てて私に向き直る。
「愛ちゃん。この国で亡命がどれだけ重い犯罪か知ってる?」
「さっきあんたが言ってたじゃない。『処分』されるんでしょ」
「う~ん、まぁ確かにそうなんだけどね。ちなみに愛ちゃんって、いま何歳?」
「はぁ? なんでよ」
「いいから教えてよ」
「……十九よ」
「愛ちゃん、この国じゃ十九歳は処分されないよ、監禁されるだけ」
「監禁……」
「二十歳になるまで監禁されるんだ。で、二十歳になった瞬間死刑になる。男なら強制労働、女なら慰みものって感じか? まぁ生き地獄ってやつだな、八割以上自殺するらしいがな」
生き地獄──。
私もそれなりには覚悟をしてきたつもりだけど、その言葉を訊くだけで背筋がぞくっとした。
私は目の前にあるフェンスの隙間から、遠い海を見据えた。
私が向かうはずだった、遠い遠い海の先にある新天地。
それを頭に思い描きながら、じっと海を見つめる。
兎谷も私と同じように海を見ていた。
辺りには規則正しい波音だけが聞こえてくる。私はもうひとつの疑問を彼に訊いてみた。
「ねえ、なんで私だけ助けたの?」
「ん? さっき言ったとおりだよ」
「だって、私たち他人よ。さっき知り合ったばかりなのに、海に飛び込んでまで助ける? もしかして『人を助けるのに理由なんかない』なんて奇麗事でも言うつもり?」
私の言葉に兎谷は目を丸くした、そしてまた笑い始めた。
「はっは、そんな崇高な理由なんてない」
「ならどんな理由よ?」
兎谷は「理由、ね」と小さくぼやきながら顎に手をそえ、なにやら考え始めた。
まるでその理由をいま探しているような様子。本当に理由なんてないのだろうか……。
「そうだなぁ、しいて言えば……興味があったかな」
「きょうみぃ?」
私はまたしても大きな溜息を吐いた、今日何度目だろうか。
この男と一緒に居るのがだんだんうんざりしてきた。
その一言で、彼が私の命を助けてくれた恩人ではなく、
只のナンパな男にしか見えなくなってしまったからだ。
私は立ち上がって、両手で背中とズボンについた砂を落とす。
びしょ濡れで気持ちが悪い服を絞り、皴にならないよう引っ張った。
そして踵を返し、海に背を向けて歩き始めることにした。
「愛ちゃん、どうした?」
「帰るの」
私は歩き始めると、兎谷も私を追ってきた。
私は歩みを速める、とにかく家に帰ってシャワーでも浴びて、もう一度なにか策を練りたい気分だ。
「おいおい~待ってよ~」
後ろから聞こえる兎谷の声に、再度溜息が漏れた。私は兎谷の声を無視して歩き続ける。
なんでこんなことに──。
船にも乗れず、チケット代も無駄、おまけに服もびしょ濡れで、鞄の中も全滅。
最悪な一日に心身共に疲れてしまった。
本当なら、今日はこの国から出れる素晴らしい日のはずなのに、
自分で選んでしまったとはいえ情けなくてしかたがない。
私はあてもない『次』を妄想することしか出来なかった。
コツ、コツ、とコンクリートから二人の足音が真夜中の港に響く。
明かりも少ない中、私はようやく橋の前にある道路標識まで戻ってこれた。
「待ってよ~愛ちゃ~ん」
この声さえなければ、歩く気力も湧いてきそうなのに──。
いつまでも追いかけられてはたまらない、私は彼を睨みつけてやった。
「なに? まだ何か用があるの?」
兎谷は私の返答が嬉しかったのか、ほっと落ち着いたような顔をみせた。
彼は少し小走りで私の傍までよってくる。
「もうすぐ迎えの車が来るからさ、送っていくから待っててよ」
「いい、歩いて帰れる」
私は、それが最後の言葉だ、といわんばかりにぶっきらぼうに返答した。
歩調を速め、薄暗い照明の中、まるで競歩でもしているかのように足を進ませる。
兎谷との距離が早く離れるように、思いっきり足を伸ばした。
「無いんだよね」
兎谷がぽつりと呟く。
その声のトーンがさっきまでの彼とは別人のようで、私は思わず立ち止まり、振り返ってしまった。
「……なにが無いのよ?」
兎谷はなにやら手帳のようなものを取り出し、橋の上の照明を頼りに、ゆっくりと捲っていく。
水に濡れたせいでページが引っ付いて今にも破れそうなノートを、兎谷が慎重に捲っていた。
すべて見終わったのか、手帳をたたみ、ポケットに突っ込んだ。
「音疾 愛。そんな名前は今日の密航者リストに載っていない……」
自分でもわかるぐらい、私の顔が引きつっていく。
同時に体中の血が凍えるように冷え、悪寒が全身を駆け巡っていった。
私の名前が無い……? いや、その前になんでこいつはそんなリストを──?
私はパニックになりそうな心をぎりぎりで押さえ込んだ。
そして合点がいった。やはり兎谷が私を助けたのは偶然じゃない、私を探していたんだ。
「……誰に話しかけてたの?」
「なんのことかな?」
「私は貴方が最初に船に来たところを見てる。貴方は知ってたんでしょ?
私以外、みんなおじさんおばさんってこと」
「へぇ……ちったぁ頭まわるじゃん」
兎谷が足にぐっと力を入れたのを、私は見逃さなかった。
すぐさま反転し、勢いよく橋を駆け抜ける。
冷えたはずの身体は熱を取り戻し、溢れんばかりの熱を帯びて私の身体を駆け巡った。
今思えば、もっと疑って掛かるべきだったんだ。
あの風貌、あの仕草。私は、絶対に近づきたくない、そう思ったはずなのに……。
恐い──。
私は全速力で橋を駆け抜け、市街地を目指した。
恐怖が私の身体を押してくれる、肺は悲鳴を挙げ続けているのに、
身体はそれでも前を目指して動いてくれる。
こんな男に……騙されるだなんて──!
悔しさのあまりに眼から涙が零れ落ちた。
保障なんてどこにもないのに、兎谷の口車に乗せられてしまった自分が情けない。
でも、嘆いている暇なんてない。
後ろから私の足音にまぎれて、もうひとつの足音が聞こえてくる。
それを聞いた瞬間、身体に鞭を入れなおし、さらに速度を上げた。
息が苦しい、でも走らないと──。
先ほどまで眩しいばかりに夜を照らしていた三日月は、雲に紛れて見えなくなっていた。
道路に転々としている頼りない街灯だけが、辺りを照らしている。
うす暗くて何も見えない、
追ってきているのか、いないのか。
その暗闇がまたしても私の恐怖を増長させ、足を緩めることをさせなかった。
「はぁっ、はぁっ」
私はどのくらい走っただろう、もう息も限界、身体も動きたくても動けないくら疲れていた。
私は道の脇に倒れこむように座った。
走ってきた一本道を、眼を細めて見つめる。
どうやら兎谷の姿はないようで、ほっと一安心した。反対側を見ると、私が降りたバス停が見える。
「はぁっ……もうバスなんてないわよね……」
私は大きく息を吸い込み、棒のような足に力を入れて立ち上がった。
おそらくもうバスはないだろうけど、一応都会だからもしかしたら走ってるかもしれない。
もう顔を上げる元気もない、私はバス停を目指して疲れた身体を引きずるように歩いた。
「きゃっ」
私は気が緩んでいたんだろう、何か大きな物に正面から当たって転んでしまった。
「ついてな……」
私が顔を上げると、そこには二メートル近い黒の上下を身にまとった男性が立っていた。
「す、すいません」
私は急いで立ち上がり、ぶつかった男性に謝った。
頭を下げると同時に、今日幾度とも味わった血の気が引いていくような感覚が襲う。
なんでこんな時間に? 道はこんなに広いのに、なんでわざわざぶつかったの──?
私は震える足をぐっと押さえつけ、男の横をすり抜けようとした瞬間、
「あぐっ!?」
鈍い音、そして腹部に広がる鈍痛。私の身体は糸の切れた操り人形のように地面に倒れてしまった。
目の前がチカチカする、徐々に視界も狭くなって息苦しい。
私はなんとか立ち上がろうとしたが、まったく力が入らない。
どんどん狭くなっていく視界には、男の靴だけしか見えなかった。
コツ、コツ、と誰かが走っている音がする。
その音が私の傍で聞こえるようになると、足音は止まった。
「いや~助かりました。足速いなぁ、この娘……殺してませんよね?」
「交渉は失敗したんだろ? 殴って気絶させただけだ」
「あ~女の子を殴るとか、大丈夫かなぁ」
「仕方ない、仕事だ」
「へ~へ~。よいしょっと」
聞きなれた声と共に、私の身体は抱きかかえられてしまったようだ。
もう眼もよく見えないし、すごく眠い。音だけがずっと聞こえてくる。
規則的な波音は、まるで子守唄のようだった。