いつから自分はここを漂っているのか、スクィーラには分からなかった。目に見えるのは赤色のようにも青色のようにも黒色のようにも見える。
自分の目の前に広がる光景は果てしない空間だった。景色を見るスクィーラ自身の視界は朧気で、もやがかかっているような感覚だ。
このぼやけた空間の中を何時からかは知らないがスクィーラは漂流していた。意味不明で、分けの分からない異世界に来たスクィーラ。
どれ位の時間をここで過ごしたのだろうか? ついさっき来たような気もすし、百年、千年という年数が経ったようにも感じる。正確にどれ位の時間がここで流れているのか見当すらも付けられない。
しかしこんな世界においても二つだけ分かっていることがあった。
一つは気を抜けばこの空間の、奈落の如き深さと、果てが見えない程に広く広大な空間の一部になってしまうことだ。
本能的にそう分かる、気を抜いた瞬間に自分の意識が周囲に吸い取られそうになったからだ。
そもそも今の自分は肉体を持っているのかさえ分からない。精神、魂、意識のみの状態でこの世界を漂っているのだろうか? いや、自分の今の状態以上に、自分が見た最期の光景はハッキリと覚えている。
二つめは自分が何者で、そして何を目的に生きていたか、だ。
自分は神を称する者達に戦いを挑み、そして敗れた。自分達の種族の誇りを掛けて連中に反旗を翻したのだ。
しかし結果は切り札であった救世主が、同じバケネズミである奇狼丸の策略に嵌り死亡。神栖66町に敗れた。
裁判の時に連中に「我々は人間だ!!」と吐いたものの、今考えればそれは無理な話だろう。
ミノシロモドキに記録されていたバケネズミに関する歴史を見れば最初にバケネズミが造られた時から五百年もの月日が流れている。そんな月日が経った今日ではバケネズミを人間と思えなど到底無理な話だった。
自分達バケネズミを人間と認めさせるのは不可能だろう。しかし人間に匹敵するだけの知力を持ち、意思疎通も可能な存在をこれまで虐げ、殺めてきたことに対する罪悪感が町の連中に芽生えることをスクィーラは期待した。力の差は只でさえ大きい。
呪力使いである町の人間からすれば赤子にも劣る存在の筈だ。喜怒哀楽を始めとする感情も備わり、尚且つ人間に比肩しうるだけの知性を持つ存在バケネミ。自分達と姿形が違うから、呪力を持たない非力な者だから、そんな理由でバケネズミは連中に都合の良い道具にされてきたのだろうか?
ミノシロモドキの記録によれば自分達バケネズミは呪力を持たない旧人類の生き残り。先祖である旧人類と新人類である町の祖先が激しい戦いを繰り広げたことは知っている。今の自分達は先祖の犯した過ちのツケを払わされているのは間違いではない。
しかしもういいのではないだろうか? 旧人類を人間とはかけ離れた姿に変えそんな者達の支配者として君臨することが楽しいのだろうか? 先祖が敵対関係にあったのは知っている。しかしもう十分だろう? これ以上旧人類の末裔であるバケネズミを苦しめたい理由は何なのだ?
町の人間がバケネズミに対してしてきた冷酷な支配を見直してほしかった。呪力を持つ強大な存在である町の人間になぜ戦いを挑んだのか? 戦いには敗北したものの、せめて町の人間にバケネズミに対する扱いが改めることを期待した。自分達がこれまでどんな思いで町の支配を受けていたか。常に町の顔色を伺いながら暮らしていくことがどんなに苦しく、過酷なのか。バケネズミが受けてきた苦しみを、痛みを、怒りを知ってもらいたかった。
だがそれも無駄なことだった。裁判の際の傍聴席にいた町民達、裁判長の自分に向けた嘲笑の声が今にも耳に焼き付いている。スクィーラの期待を無残にも打ち砕いたのだ。そう、連中はバケネズミを苦しめてきたという罪悪感、後悔の念などなかったのだ。あくまでも自分達が被害者だと、自分達に落ち度はないと、バケネズミをどう扱おうが知ったことではないと……。
戦いに敗れたこと自体が悔しいのではない、町の人間達がバケネズミをゴミのように扱っておきながら、それを欠片も後悔することなく、当然のことだと思い、自分達は何故バケネズミに攻撃され、反乱を起こされたのか理解しようとしないのが悔しいのだ。
連中にとってはバケネズミの苦しみなど知ったことではないのだ。いつでも使ったり捨てたりできる便利な道具だと。バケネズミは感情を持たないロボットではない。町の人間とさして変わらぬ知能を持った生き物だ。そんな存在に対して自分達を都合のよい家畜にしておいて、何の不満も怒りも抱かないと本気で思っていたのだろうか?
「やりすぎた」、「厳しくし過ぎた」という考えにも至らないとは。スクィーラの精神は怒りに支配されていた。町の町民に対する果てしない憤怒の炎を一層激しく燃え散らせる。
そしてその「声」は、スクィーラが町への憎悪と怒りを燃やしている時に聞こ
えてきた。
寒気が走る、怖気が走る、自分の耳に入ってくる声は否応なくスクィーラの神
経を掻き毟る。
肉体はとうにない筈なのだが、正体不明の謎の声じゃ、精神だけの状態のスク
ィーラに確かな嫌悪感を抱かせていた。
「いや、実に素晴らしい! 実に甘美で最高級の絶望だよォ。もしかしたら■■■■以上の絶望かもしれない!!」
まるで何人もの人間が輪唱しているかのようなぶれた声だった。そしてその声
は嘘偽りのない確かな賛辞をスクィーラに送っていた。
言葉や声自体は嫌悪感を催させる類のものではあったものの、口にした言葉の
は心の底からそう言っているかのようだった。
そしてスクィーラの目の前に黒い霧のようなモノが集まり始める。それは寒天のように滑らかでありながら、著しい不潔さを感じさせる鬱気を滲み出させている。
おそらくその内部には、ありとあらゆる汚物がはち切れんばかりに詰まっているからだろう。暗黒に染め抜かれた表面は一切の光沢を発していない。
そしてそれは徐々に形を成してきた。ぞわぞわと歌うように微細な振動を繰り返しながら形づくられていくその様は、どこか耳元で飛び回る羽虫の不快さを連想させる。
いや、これは実際に、極小の何かが寄り集まった群れだった。その何かを定義するなら昆虫に喩えるのがもっとも近い目に見えぬほど小さな蚊や蝿、蜂や百足、蜘蛛、ゴキブリといった、生理的嫌悪感を催す諸々で編み上げられた黒い霧。その身を構成する粒子の一つ一つが汚らわしく、同じ世界に存在するのが誰であっても許せなくなるような影であり、邪悪なエネルギーの集合体そのものだった。
不快感と嫌悪感の奔流が精神だけの存在となったスクィーラを襲う。肉体がない分、ダイレクトにそれらの感情がスクィーラを支配していた。こんな存在がいる世界ということはここは地獄なのだろうか?或いはもっとおぞましく、口にするのも憚られる世界なのか? 目の前の存在を言葉で形容するのであれば「悪魔」としか呼べないだろう。
そしてソレはついに形を成してスクィーラの前に現れたのだ。
その面貌は煙状に揺らいでおり、身に纏う漆黒の僧衣もろとも闇一色に染まっている。故に容姿は分からない。無貌と評すべき外見ながら、それでもその存在が笑っていることが分かるのは、爛れた光を放つ瞳が愉悦の色に濡れているから。吊り上った口元が、すべてを嘲ってるのだと告げているから。
「あぁんめい、いぇすぞまりぃあ」
そしてソレは宗教の聖句のような言葉を口にする。
スクィーラは内心思っていた。自分の目の前にいる存在は悪魔なのだと。塩屋虻コロニーが手に入れたミノシロモドキは膨大なまでの宗教、科学、歴史、考古学、人類学という過去の人類の記録を全て網羅していた。当然スクィーラもそれらを熱心に学んだ。自分の今目の前にいる存在は西洋社会のキリスト教における「悪魔」の類のものだろう。
ミノシロモドキから得た知識を引き出すと悪魔に関することが思い浮かんでくる。
目の前の混沌が悪魔であるとするならば今自分がいるこの世界は地獄なのだろ
うか?
「Sancta Maria ora pro nobis
Sancta Dei Genitrix ora pro nobis( 」
悪魔は唄っていた。キリスト教における聖歌なのだろうが、この悪魔が歌が歌うと、禍々しいまでの呪詛の奔流となる。
神聖なる歌が歌い手によって呪いと絶望と堕落を呼び起こさせるような呪歌へと変わるのだ。
「Sancta Virgo virginum ora pro nobis(
Mater Christi ora pro nobis(
Mater Divinae Gratiae ora pro nobis(」
尚も悪魔は唄い続ける。そしてその歌はスクィーラ自身に向けられているのだ。
「Mater purissima ora pro nobis (
Mater castissima ora pro nobis(」
するとようやく悪魔が歌を歌い終えた。そして愉悦に輝く双眸をスクィーラに向ける。
「待っていたよスクィーラくん。我が主からの命令で君を迎えにきたんだ」
「む、迎え……?」
「そうだよ。君にはこれから行われる未来を掛けた戦いの先頭に立ってもらわなきゃならないのさ。分かる、分かるよ君の気持ち。君がどんな思いで紛い物の神連中に反旗を翻したか。そして敗れた君がどんな気持ちで死んでいったか。所詮家畜と蔑まれ、好き勝手にこき使われて何も感じないなんておかしいのさ。君は機械じゃないだろう? ロボットの類じゃないだろう?」
「元は人間なら、プライドと誇りがある。自分達の真実を知った上での君の動、君を見ていた我が主が狂喜乱舞していたよ。いやぁ、あの喜ぶ様は滅多に見られるモンじゃなかったねえ。僕の主をあそこまで燃えさせるなんて大したもんだよ。だからね、主は君に力を貸したいのさ。君の生きる世界、千年後の未来の世界はこれより変わる。我が主が君を新たなる時代に輝ける星にしたいんだ」
これは悪魔の誘いだった。しかし町の人間に破れ、絶望を味わった今のスクィーラにとっては悪魔の誘惑は救いの天使に見えた。
「そうだよ、その意気だよスクィーラくん。君が味わった絶望、今度は連中に味合わせてやろうじゃない?」
ウキウキしているかのような口調で語りかける悪魔。
悪魔の魂胆などスクィーラには関係なかった。スクィーラにあるのは町の人間に対する憎悪、憤怒しかないのだ。
「これから主の所に連れていくけど、そこには君に対してキツく当たる人もいるけど気にしないでね。ああ見えて僕の友達なんだけどこれが素直じゃなくてさァ。君の生きる未来について主直々に説得されてやっと折れたってワケ。まぁ、神祇省や辰宮のお嬢さんも渋々だけど協力はしてくれるみたいだし、これから主に合ってみればいいよ。君の生きる世界、僕等にとっちゃ遥か未来の世界は主にとっては地獄なんだってさ。だからこそ君はあの方に目を掛けられたんだよねェ。それじゃぁしっかりと意識を僕に集中しておいてね。気を抜くとこの無意識の海の一部になっちゃうからさ。それじゃいくよ、「限りなく盧生に近い者」さん」
スクィーラは言われるがままに悪魔に意識を集中した。