「いや、昨日は悪かった。入居者が入ることをすっかり忘れていたんだ。許してくれ」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
次の日。
朝日が差し込み、小鳥が屋根の上で囀るさわやかな朝。私は幽霊、もとい男と改めて挨拶を交わし合った。男は自らを織野伽羅と名乗り、朝食がまだだった私たちは共に連れだって食事をする為に町へ出ることになった。
朝もやの町は既に活動を始め、一日の始まり特有の活気を含んでいた。私の故郷でも日の出と共に農夫が畑に出ていく光景が当たり前だったが、ここでは商人があわただしく店開きの準備を始めるのが朝の日常の光景のようだ。
そんな中を私たちは歩き、織野氏の行きつけの食事処――――というより屋台というべき――――へと案内された。
そこで2人分の食事を購入すると、手近な所に腰をおろして、食事を始めた。
野菜と魚と穀物を一緒に煮込むだけという非常に簡単で雑な料理だったが、魚の出汁と磯の風味が効いていて非常に美味であった事だけは特筆しておこうと思う。
食事が終わると、ようやくというか、やっとというか、私たちは互いに互いの詳しい紹介を始めた。
そこで分かったのだが、彼は私がこれから通う大学に在籍して現在五年目で、ロリババア荘の二階に住んでいる住人だった。要するに私の隣室である。
年齢は私よりいくらか上であり、私よりも数年はやく大学入学の許可を得ていることから、目上の者として敬うことにした。
基本的に大学入学の条件に年齢制限はない。極論を言えば帝国文字を読めて筆を持てれば、幼児でも試験を受ける事が出来る。まあそれで合格できるかどうかは定かではないが、理屈の上ではそういうことになるであろう。
だが私が注目したのは彼の名前だった。
織野伽羅→おりのきゃら→オリキャラ 明らかに偽名である。
オリキャラとは古代語に由来する言葉で、「本来は存在しえない存在」という意味で用いられている。そして我々貴族の間では、それは表に出せない子供、即ち私生児の隠語でもある。それだけで織野氏がどのような立場にあるか、簡単に察する事が出来る。
彼はどこぞの貴族の隠し子で、学業面では優秀だったので厄介払い兼先行投資の意味でこの大学に送り込まれた、と、まあそんなところだと推察できる。
貴族用の邸宅を用意されずこのような庶民用の部屋に住んでいるのも、その辺りの事情があると思われた。
――――仮定と推察ばかりなのは、面と向かって聞けない話題だからだ。いくら同じ大学に通い隣室でも、踏み込んでいい領域の話ではないのだ。
さて、互いに互いの事を知ってほどほどに空気が暖まった頃、織野氏は昨日迷惑をかけたお詫びと、後輩の面倒をみる先輩の義務として、私に対し、大学生活を円滑に行うための案内役を買って出てくれた。
この帝都では頼るものが居ない私としては、無理に孤高を気取るよりもキチンと先達者の助言を聞き入れた方が無難であると考え、私はその申し出を感謝の念と共に受けることにした。そしてその判断は間違っていなかった。
流石は五年も大学に通っているだけに、男の口調はよどみなく、かつ分かりやすく、私に対して重要な助言を与えてくれたからだ。
まず大学の基本的な事について、織野氏は説明を始めた。
「本講義は死んでも出るべきだ。これは学位取得の最低条件であると同時に、教授の機嫌を損なわない為にも絶対だ。教授に嫌われたら最後、学位取得は絶望的である」
大学の講義は教授が毎週一回行う本講義と、その教授の直属の弟子が行う本講義の補足と解説を行う補講義に分かれている。学位取得、即ち大学を卒業しうるだけの学識があることを証明する免状を得るためには、この本講義を休まず受講しなければならない。補講義の方は別に出なくても良いが、いままで補講義を受けずに学位を取得できたものは皆無だとか。織野氏は心証の問題だと語る。
「大学は皇帝陛下が学長を務めているが、実質的に大学を取り仕切っているのは、十人の教授達だ」
毎週行われる十人の教授陣による本講義を受け、その上で学位論文を仕上げ、公開口頭試問を通過し、教授全員から認められた者のみが学位を取得し、卒業を許される。
この制度のおかげで、学生たちはそれなりの論文を仕上げ、衆人環視の中で自らの知識を認めさせ、なおかつ個人的に教授の機嫌を取ると言う高難易度の試練を受けなければならない。
最短で五年、最長では二十年かかったという記録があるとか。
しかしそれでも卒業出来れば良い方で、志半ばで挫折し大学を去って行くものが多く、無事卒業できるのは10人に1人か2人であるという。
「ところで、初日に私は学生会長を名乗る男と出会ったのですが」
「ああ、彼か。適当に御世辞でも言って置けばかまわない。まあ、ゴマをすっておけばそれなりにうまい汁がすすれるだろうけど、あまりお勧めはしない」
まるでちょっと厄介な住人を相手にするかのように軽く言ってのけた織野氏に、私は軽い衝撃を受けた。一応、大学在学中においては、学生同士は対等であるとされている。貴族も平民も関係なく、みな須らく皇帝陛下の教え子という風な形式を取っている。これは、身分差が学問において阻害にしかならないと言う点から定められていることだが、人間の感情にまでは踏み込めない。やはり、有力者に取り入りたいと考えるのは、極々自然なことだ。特に、後ろ盾がない者にとっては、それこそ靴を舐める勢いで媚を売ることだってあり得る。
そういった事情から鑑みて、氏のその超然とした態度は非常に驚きであり、好ましく思えたのだ。
「彼に関しては、考える事はない。問題は君自身の事だ。時に、君は具体的に何を学ばんとこの大学に入った?」
――――何を学ぶために。
その言葉が、思いのほかに深く突き刺さった。
基本、大学では何を学ぶかは学生の自由意思に任されており、本講義を受講する以外にはめぼしい規則はない。学生は時に学生同士で切磋琢磨しながら自らで自らが学ぶべき事を学ぶ。帝都には帝国国内で最大の規模を誇る図書館もあれば、神殿に行けば学を修めた高名な神官や学者もいるので、各々自由に学べと言う放任主義が基本方針であるのだ。
だが、私は未だに自分が学ぶべきことを決めかねていた。私の心に中にあるのは「大成したい」「名を上げたい」という功名心のみで、具体的な将来の展望は無い。
だから、その場しのぎの言葉を言うしかなかった。
「あ、いやその……まだ決めてません」
「では、卒業後にやりたい事は?」
大学を卒業すれば、道は大きく分けて3つある。一つは神殿に入り、神官になる事。オリーシュでは三理教の教えを伝える神官は、伝道師であると同時に学者でもある。大学を出た後も研究を続けたいのならば、神殿に行くべきという。
そしてもう一つは、宮仕え。こちらはほぼ大学出身の秀才や天才達がしのぎを削る激戦地だ。その中で出世していくのは至難の業であるが、成功した暁の権力というものは、たとえ元が平民であったとしても地方領主と同等かそれ以上。
そして最後は、市井で働く事である。海外貿易船の経営に成功すれば、一代にして莫大な財を築く事も夢ではない。学を究めたいのならば神殿、権力を求めるならば宮廷、財産を求める者は市井なのだ。
だが、生憎と今の私ではまだどちらの道を進むべきかという事は決められなかった。それに、まずは卒業しなくては話にならない。
「それは、おいおい決めたいと思います」
「ふむ。まあその辺りは個人の自由だろう」
織野氏はそう言うと、一呼吸おいた後に、「早く決められるに越したことはないが」と付け加えた後、大学生活における注意点についての話を再開した。
「何を学ぶにしても、論文は少しでもいいから神学と絡めたものを仕上げた方がいいだろう」
それはなぜですかという私の問いに、彼は快く答えてくれた。
先ほども述べたように、本講義さえ受けていれば、それ以外については概ね自由である。だが、学位取得となると話は違ってくる。端的に言えば、現在の十人の教授達の半数以上は神学に何らかの関わりを持っており、自然と神学以外の学問については相対的に冷遇されているのだ。
というよりも、現在帝都での学問の主流は神学であり、この流れはかなり前から続いているようだ。
そんな中、神学とは縁もゆかりもないような論文が教授陣に認められるのは、唯でさえ狭き門を自らの手で更に狭くしているに等しい行為なのだとか。
しかし神学という学問は、何と言うか、過去の資料を探し、どのような解釈を付け加えるかに終始する学問というような印象しかない。が、今後特にやりたい物が見つからなければこの道に進んでもいいかもしれない。
「ということは、あなたも神学を?」
「いいや、私は全く異なる。そうだなあ、あえて言うなら、物体の理に関する学問と書いて「物理学」とでも言うべき学問について研究している」
物理学――そんな学問は聞いた事がない。ということは彼は、全く新しい分野に手を突っ込んでいるということだ。
前人未到の地を行くことの難しさは、学問の世界においても同じだ。
しかし、自分で自分の出した助言に逆らうような行為というのは、やはりどうなのだろうか。もしかしたら、彼は学位取得を目的にしていないのかもしれない。
という事は、彼のそれは純粋な知的好奇心の発露であろうか。
「もしや、昨日のアレもその物理学とやらの実験ですか?」
「ああ、あれか。いや、物体の運動というのは興味深い。力の入れ具合で同じ物でも地面を移動する距離が変わって来る。物が動く速度と、動かすために加えた力には深い関係がある事は分かっているのだが……」
「強い力を加えれば物がより早く動くのは当たり前の事なのでは?」
「いいや、そう言うことではないんだ。どの程度の力を加えればどの程度の速さを出せるのか、それがどのような理屈に基づいているのかを、根本的な部分で解明したいのだ」
そう言うと、織野氏は懐から糸につながれた穴空き銅貨を取りだして、私の前にぶら下げた。きらきらと陽光を反射するそれは、帝国内で流通している小銅貨だった。中央に穴があいているのが特徴のこの銅貨は、これ一枚で先ほど食べた朝食一食分に相当する価値がある。
「これは?」
「振り子という。私が作ったものだ。いいかい、良く見ておくんだ」
そう言うと織野氏は、糸を目いっぱい長くした状態で、銅貨を小さく左右に振り始めた。
それを私の前で暫く見せると、今度は銅貨の振り幅を少し大きくして左右に振り始める。
「気がついたかね?」
「……いえ、分かりません」
さっぱりわからなかった。氏は一体、私に何を見せようとしているのだろうか?
「ならばそうだな、振り子が十往復する間の脈の数を数えてみたまえ」
「?」
とりあえず、私は言われたようにすることにした
(1,2,3……)
脈を数える。そして振り幅が大きい時と小さいと時の両方を計り終えた時、私は気づいた。
「同じですか?」
「正解だ」
氏はにっと笑い、種を明かしはじめた。
「私も一昔前に気がついたのだが、どうやらこの振り子、振り始めに多少の角度の差があっても、行って戻って来るまでにかかる時間は同じなのだ。まあ余りにも大きすぎるとその限りではないのだが、この振り子を使えば「時間」という数を正確に数える事が出来る。人間の感覚のように狂うことは無い」
――――もっとも、その理屈を表すために数学を使おうと思ったのだが、これがなかなかうまくいかなくてな。その為の数学を新しく作っている内に、何年もかかってしまった――――と、最後にそう言って朗らかに笑う織野氏だったが、残念ながら私にはそれがどれほどの事なのかが理解できなかった。ただ何となく、「すごいことのようだ」という漠然とした解釈しか出来なかった。
「だが、ようやく論文を書くための準備を整える事が出来た。しかし、いくつかやっておかなければならない事がある。ついては大変恐縮なのだが、君にも手伝って貰いたい。いいだろうか?」
やはり良く分からないが、なにやら自分はすごい場面に立ち会う事が出来そうだ――そんな予感めいた考えから、私は織野氏の誘いを二つ返事で受けることにした。
どうせ未だ自分の道を見いだせていないのだ。ここは見分を広げてみるのも悪くないだろう。
「もちろん、私に出来る事ならばなんでも」
だが――――この一言は、少々うかつだったように思える。
これから私が体験する事の顛末を語っていく。お代は見てのお帰りで。