※ネタバレ、原作との整合性、カップリングの好き嫌いが、あまり気にならないかた向けです。
上条当麻はオティヌスによって10031回のリセットを経験した。
無限に思える死に瀕する経験を繰り返し、その都度損傷した身体は修復を繰り返された。
最終的に世界は巻き戻されて、上条が経験した世界はなかったことにされた。
それでも、上条はなかったことにされた世界のことを覚えていた。そこでの経験はなかったことにはされなかった。
つまり。
今ある世界における上条の、右手に幻想殺しを宿す肉体は10031回の再生を経たと考えられるのではないか。
ならば。
それ以前から上条の肉体に残っていた肉体的な欠損も、一緒に再生された可能性がないとは言い切れまい。
物理的に喪った記憶は、戻らないにせよ。
脳に負った破損が治れば。
この破損が原因で、記憶として収納できなくなっていたひとりの少女について、上条はこれからの世界で記憶に残していけるのだ。
これは、そんな奇跡が起きた話。
とある建物から出て来たのは、食蜂操祈(しょくほう みさき)。学園都市が誇る超能力者(レベル5)、心理掌握(メンタルアウト)を司る少女にして、名門常盤台中学に通う、腰まで滑らかに伸びた蜂蜜色の長髪が印象的なれっきとしたお嬢様である。
その後を追うのが、おざなりにツンツンした髪型に整えた黒髪以外はこれといった特徴のない風采をしている少年、上条当麻だ。食蜂が通っている名門には遠く及ばないとはいえ、高校に通っているので食蜂から見れば目上にあたる。
だが、このふたりにとって、能力だとか通学先だとか年齢だとか、些事に過ぎない。
食蜂は上条の足音から測ったように、ごく自然にほんの少し、歩を緩め、後方から近付いて来る彼がそんなに急がずとも自分の横に並んで歩けるよう調整する。
「安心したみたいね、蜜蟻さんが喜んでくれて。さぞ積もる話があったんでしょうねぇ」
一歩先の位置から振り返った食蜂へ、
「おいおい、そっちのほうから病室を出て行ったんだから文句言うのはお門違いだと、お兄さんは思いますよ、食蜂さん」
と上条は軽口で返した。それに対し、
「乙女心の無理解力も甚だしいわぁ。一体全体、ふたりきりでどんだけぇ話してたと思ってるのかしらぁ」
食蜂がわざとらしく嘆息混じりに言えば、今度は上条が彼女の傍らで一緒に歩きながら、
「まったく可愛げないなー、蜜蟻が話しやすいように気を利かせてくれたんだろ?」
仕返しとばかりに大仰に溜息をついてみせてから、食蜂に告げた。
「この食蜂操祈サマは万全なアフターケアが身上なの。この人格力がなきゃメンタルアウトなんて危なっかしくてたまらないわよぉ」
ちょっと前までは、彼とこんなやりとりができるとは。いや、彼から代名詞ではなく固有名詞で呼んでもらえることすら、食蜂は夢想し願うことはあっても叶う可能性は限りなくゼロに近いものとして自分を納得させていた。
でも。
あの日。
過去に上条が助けられなかった少女、蜜蟻愛愉(あゆ)の復讐から一夜が明けて。
上条が入院する病院を訪問し、そこの中庭で、ベンチに座る彼を見かけた――あのとき。
『お久しぶりぃ☆』
『……昨日のこと覚えてないのか?』
毎度のように自分を納得させるため、気楽に投げた挨拶に対し上条が寄越した言葉は、食蜂を大きく揺さぶった。
『あ……あ、貴方、覚えてるの、私のこと?』
『そりゃあ、昨日の今日だしな』
上条は食蜂のことを覚えていた。昨夜のことだけとはいえ。
上条と食蜂には1年前に面識があった。
だが、上条は食蜂が原因のとある事件の渦中に食蜂を守るために自ら身を置き、結果、重傷を負った。そのとき食蜂は上条を助けようと、痛覚を遮断するため超能力(メンタルアウト)を応急処置に揮った。結果、上条は助かったが、彼本人は自覚することのない、食蜂だって思いもよらなかった副作用が残ってしまった。
彼を診た冥土帰しの異名を持つ医者は言ったものだ。
『これは記憶の破損というより呼び出し経路の破損といった方に近いね? この少年は、君のことを話していても、それを思い出すことができない。人の顔や名前を格納する部分で、君の枠だけ物理的に潰れているのに近い。きっと、君の能力でももうどうにもならないんじゃないかな?』
けれども、奇跡は唐突に彼女の前に舞い降りた。
諦観の幻想は死に、今こうしてふたりでいられる現実が再び蘇った。
「ありがとな。蜜蟻も礼を言ってたぞ」
「ふうん。女の厭味力を感じるわねぇ」
「そこは素直に受け取れよ。いい加減食傷気味になって来たぞ、素直じゃない女子中学生っての」
「御坂さんと一緒にされるのは、すっごく心外だわぁ」
「同属嫌悪って言葉知ってる?」
「いちいちお兄さんぶらないで欲しいんだけどぉ」
思わず食蜂は上条の顔を睨み上げた。上条も食蜂の顔色を伺おうとしていたものだから、目が合った。
改めて実感する。今、上条当麻の目はきちんと、ほかの誰でもない食蜂操祈を認識しているということを。
この事実だけで途轍もない多幸感に彼女は浸れる。
(我ながら、安上がりな女よねぇ)
弛緩してしまう相貌を上条に悟られまいと食蜂はまた顔を背けた。そう、今の食蜂操祈は名実共に名門常盤台中学の中でもトップレベルの大人びた雰囲気を纏う“お姉様”系なのだから、ニヤケ面なんて人前で曝したら沽券に関わる。しかも、目の前の男こそ、“お姉様”系を極めようという動機になった張本人なのだから尚更だ。
こんな葛藤が隣で展開されているとは露知らず、単なる素直じゃない女子中学生の態度の範疇と解釈しているのだろう、上条は特に意に介することなく話しかける。
「おかげで色んな話を聞けたよ」
話しかけられたので、食蜂はみたび上条のほうへ目線を転じた、表情をしっかり引き締めながら。手慰みに持っていた携帯電話を軽く振る彼の仕種が視界に入った。
「しかしなー、俺の記憶喪失って案外バレていたんだな。食蜂も蜜蟻も知ってて、雲川先輩も承知してた訳だから……今だからこそ思えるんだろうけど、俺も何をくよくよしてたんだか」
「簡単にすっきりできることじゃないでしょうけどぉ、そう言ってくれるなら、こっちも安心したんだゾ☆」
「1年前から心配させてばっかりだな、食蜂には」
「あら? 蜜蟻さんから私のことも聞いたのかしらぁ」
「ああ」
「ふうん。まあ、過ぎたことよぉ」
過去に拘泥して彼の所有権を主張するつもりは、食蜂にはない。これに関しては、チャンスは平等だと思っている。
蜜蟻愛愉だって、闇に堕ちた身を彼に見られたという罰を経て、同じスタートラインに立ったと言っていい。食蜂が蜜蟻に課した宿題という名の未来へ向けて。
そう。今や、食蜂もスタートラインに立てる。上条の記憶に留まっていられなかった頃には、どんなに足掻いても叶わなかったことだ。過去というアドバンテージを放棄することにはなったが、それでもお釣りが来る。
「食蜂は、それでいいのか?」
上条の愚問に、
「私は報われた。今はそれで充分なんだゾ☆」
食蜂はきっぱり答えた。自然と表情に溢れ出た満面の笑顔。
「――――食蜂って……」
この束の間、惚けた顔になった上条が口を開く。
「いい女だな」
食蜂は一瞬絶句したかと思うと、それが溜めだったらしく、一気に笑い出す。
「あははは。相当な進歩よねぇ。何せ昔の貴方には、小娘だの顔洗って出直しこいだの、さんざんなこと言われたのよぉ」
「マジ? 昔の俺ってひょっとして実は鬼畜系だったりする?」
「さあて、どうかしらぁ?」
食蜂は弾まんばかりに軽快な足取りで、上条より先へ進み出す。上条はやれやれと言いたげに後を追いかける。彼女が傍から見てもはしゃいでいるのがわかったから、きっと余計なことは口に出さなかったのだろう。
いずれにしろ。
学園都市が誇る精神系最強の超能力者(レベル5)の、その人生の中で3本の指に入る『幸せな時代』の扉が開け放たれたことは間違いない。