「うーん、今日も間宮さんの朝ごはんは美味かった」
朝から満腹でご満悦なお腹を擦りつつ、俺は執務室へ向かっていた。
鎮守府の廊下は、窓から入る朝の陽光でキラキラと輝いている。清潔な床を見ていると、それだけで気分が高揚する。
昨日の掃除当番は榛名だっただろうか。会ったら褒めておこう。
執務室に到着。大きく深呼吸をして、気合を入れる。今日もまた書類の山と砲撃戦だ。敵の数は多く、夜戦までもつれ込む可能性もあるだろう。
だが、戦場に出て戦ってくれている艦娘達の為に、俺にできることをしなければならない。
「よっしゃ! 書類仕事の時間だオラー!」
気合一閃、書類仕事をぶちのめす勢いで扉を開いた。そして待っていたのは、いつもの如く机の上を占領している書類の山――ではなく
「あら、おはよう司令官! じゃーん! どう? ぜーんぶお仕事片付けちゃったんだから!」
と言いながらトテトテ駆け寄ってくる駆逐艦、『雷』だった。
机の上を見ると、いつもラスボスの如くオーラを放っている筈の書類山脈は存在せず、龍驤……いや、何もない平坦な机しかなかった。
「お、おはよう雷。片付けたって……全部? マジで?」
「そうよっ。司令官の為にぜーんぶ終わらせちゃったっ。えへへっ、秘書官なんだから、当然よねっ」
満足気な顔で自分の胸をトンと打つ雷。この子は嘘を吐く対応じゃないので、本当に終わらせてしまったのだろう。
しかし、普段俺が夜までかかる書類仕事を……もう終わらせた? この子有能過ぎじゃね?
ジワリと汗が流れ、お尻の辺りがびしょびしょになってきた。
脳内を『提督イラズ。クリカエス提督イラズ』という電報が飛び回っていた。
「ねえ司令官、他にやって欲しいことはない? 何でも言ってねっ。なーんでもしてあげるんだから!」
「じゃあ俺の代わりに提督して」
「えぇー!?」
「フフフ……俺、退役して田舎で暮らすわ。小高い平原に白い家を立てて、犬を飼って暮らすんだ。菜園とか作ってさ……可愛くて気立てのいいお嫁さんと平凡だけど決して退屈とはいえない日常を過ごすんだ……」
以前から考えていた退役後の生活を実現する時が来たのかもしれない。この鎮守府で提督をして1年、もういいだろう。最近は大規模な戦闘もないし、色々問題を抱えていた艦娘達も皆落ち着いている。もう俺の役目は終わりだ。
「お、お嫁さん!? えっと……私でいいんだったら、司令官のお嫁さんになるわ! 子供もたーくさん欲しいわねっ。私頑張って産んじゃうんだからっ――って、ダメよ司令官!」
顔を真っ赤にして俺のお腹の辺りにぐりぐりと人差し指を押し付けていた雷だが、我に帰ったのか必死な表情で俺の手を握った。
「やめちゃうなんてダメっ! まだまだ司令官にはやらなきゃいけないことがあるでしょっ」
「いや、君が全部やっただろ。俺、今日の仕事もうないよ? 書類仕事のない司令官とか、最早ただの置物だろ……」
「何言ってるのっ、司令官のお仕事はそれだけじゃないでしょ?」
書類仕事以外にあっただろうか……。最近書類仕事しかしてないから、他に何をしていたか覚えてない。
近頃は自分の部屋と執務室を往復する毎日だったからなぁ……。
俺が腕組みをして考えていると、雷がため息を吐いた。
「もー、司令官ってば本当に分からないの? 最近他の子達に全然会ってないでしょ?」
そう言えば食堂と執務室以外で他の艦娘と会った記憶がない。その日の秘書官か食堂で相席する娘以外、会った覚えがない。
「もっと昔みたいにみんなとお話しなきゃっ。最近は書類仕事ばっかりでコミニュケーションできてなかったでしょ? だーかーら、今日のお仕事はみんなと会ってお話すること!」
ピンと人差し指を立てて言う雷。
そう確かに昔はそうだった。配属されたばかりの艦娘達は色々と問題を抱えていたり、周りと上手くいかなかったりで、俺が間に入ったり相談を受けたりで駆けまわったものだ。
そういう日々もあった。最近の忙しさにそんな日々があったことも忘れていた。
「司令官に迷惑かけたくないから、みんな我慢してるけどね。ほんとは皆寂しいのよ? 昔みたいに構ってもらいたいって思ってるのよ? ……も、もちろん私だって」
もじもじと消え入りそうな声で呟く。
そうだな……そうだった。何も司令官の仕事は書類仕事だけじゃない。
艦娘達と触れ合い、それぞれがベストな状態を発揮できるように保つ、それも仕事だったはずだ。いやむしろそれがメインだったはずだ。
最近の忙しさ……いや、違うな。それは言い訳だ。
書類仕事という名の言い訳に逃げていた。
増えるにしたがって難しくなっていく艦娘達の関係、練度が高くなり比例するかのように厚くなってくる信頼感、こちらに向けてくる見え隠れする好意や直球な求愛行動。
そういうものから逃げていたのかもしれない。特に後者は命の危機も感じることも何度かあった。大井っちの歪んだ愛の形は未だに理解できん。
だが目が覚めた。逃げていても何の解決にもならない。
昔のように、鎮守府を歩きまわってみんなの様子を見ることにしよう。
「ありがとな雷、気づかせてくれて。書類仕事もありがとう。これで安心してみんなとコミュニケーションが取れるよ」
「司令官の為だもん。頑張ってね司令官! ……もーっ、髪型が崩れちゃうっ」
お礼とばかりに髪を撫でる。言葉とは裏腹にくすぐったそうに微笑む。
と、髪を撫でていたその手を、雷の小さな手が握った。
「司令官はね、ここのいる皆にとって大切な人なの。司令官がいるから、みんな今まで頑張ってこれたの。みんなね、すっごく感謝してるのよ」
「雷……」
「みんなと会って、優しくしてあげてね。みんなほんとーに司令官と会いたがってるんだからっ。ねっ」
見た目の幼さからは考えられない、慈愛を含んだ笑みを浮かべる雷。
この笑顔があれば世界中で起こっている戦争もすぐに止まってしまう、そう錯覚してしまうような心温まる笑顔だった。
雷は本当にいい子だ。この鎮守府にいる艦娘達はいい子ばかりだが、その中で一番いい子かもしれない。
何が一番スゴイって、この子古株に見えて、まだ配属されて1ヶ月しか経ってないんだよな。1ヶ月でこれって、この先が色々と怖い。
「さっ、私にばっかり構ってないで、早く行かなきゃっ! ほら、ネクタイ曲がってるわ。髪型もこうやってちゃんとして……よし、カッコよくなったわっ」
世話を焼くのが嬉しくてしょうがないといった雷に背を押され、執務室を出た。
「さて、鎮守府を歩きまわるのはどれくらい振りかな……」
久しぶりに、本当に久しぶりに俺は自分の部屋とは反対の方向へ歩き始めたのだった。