自分用に宛がわれた部屋で、窓越しに昇る朝日を眺めていた。
ひょっこりと雲の海から顔を出す太陽の光。
天上に暮らす者にしか見られない、奇跡のような景色。
そんなものを前にしても、あたしの心はちっとも晴れてくれない。
あれから一年。
あたしの時は止まったままだ。
今でも、まざまざと蘇る光景。レイドックの王宮。
現実の世界から、今にも消え去りそうなあたし。
透き通った身体を抱きしめてくれる彼の力は、痛いほどに強くて。
だけど、堪らなく愛おしくて。
こんなにも愛されていたんだって、確かめさせてくれて。
あたしは笑っていた。
どうしようもなく笑っていた。
ボロボロ零れる涙に気にも留めず、笑っていた。
夢の世界へ完全に引き戻される瞬間まで、ずっと。
たとえ嘘でも、彼には最後まで笑顔を見せていたかった。
想いは通じたんだろう。
彼は縋るような声で応えて、でも涙は堪え切れなくて。
それでも、そう、それでも笑いかけてくれたんだ。
あの時、あたしはどうだったのかな。
ちゃんと、最後まで笑えていたのかな。
「ちょっと出かけてきます」
いつものように、ゼニス様の城から下界へ降りる。
朝食後の散歩といった感じで、気楽さを装って。
行き先は、いつも同じ。はざまの世界が消滅したあの日から、ずっと。
いるはずのない人を探して。あるはずもない奇跡を求めて。
「修練の時間までには戻って来て下さいね」
「分かってますって」
見張りに立つ兵士さんの言葉を背に、あたしは空間転移の呪文ルーラを唱えた。
緑の景色に赤が、黄色が混じる。秋に向けて色づき始めた木々の道を抜け、目的地に辿り着く。
レイドック城。かつては不眠王とまで呼ばれた若き君主が治める国。
お城は古びているけど、古臭いって感じじゃない。
一つ一つ、きちんと年を取ってきたというか。
歴史の重みみたいなものが、ひしひしと伝わってくる。
お城を正面から見上げ、いつものようにレックのことを思った。
彼の空よりも青い髪や、黒い瞳や、少し尖った頬骨や、大きな手を思い出した。
初めて彼があの手で触れてくれた時、とても嬉しかった。
レックの髪も、目も、頬骨も、手も。みんなみんな、消えてしまった。
もうどこにもない。記憶の中にしか、残っていない。
「駄目だ、バーバラ」
この城の最上階にある王の間で、二人きりで。
現実の世界に別れを告げる直前、彼が言ってくれたことは今もよく覚えている。
「行かないでくれ」
あの時のあたしは多分、世界で一番幸せな女の子だった。
そんなのは安っぽい少女の思い込みだと言われれば、正しくその通りだろう。否定するつもりはない。
確かに安っぽい思い込みだろう。夢見る少女の幻想に過ぎないだろう。
それでも、今でもはっきりと思う。
「俺には、お前しかいないんだ」
あの時、あたしは世界で一番幸せな女の子だったのだと。
魔王を倒して、世界が平和になって。
最後の最後で二人きりになれて、本当に本当に嬉しかった。
二人で世界中を廻って。いっぱいキスして。そして、いっぱい愛してもらえた。
楽しかった。すごく、すごく楽しかった。
だけど、そんな日々はあっさりと終わってしまった。
あたしを幸せにしてくれた彼の傍には、もう行けない。
思い出と、悲しみと。そんなものだけを残して、夢の世界に引き戻されてしまった。
我知らず、あたしは胸元に手をやっていた。
首から下げた木彫りのペンダントに。
リスを模ったそれは、木彫り細工を得意とする彼の手作り。
究極の魔法であるマダンテを継承する時、目の前にいながら大事な人を守れなくて。
目に見えて落ち込んでしまっていたあたしに、レックが贈ってくれた物だ。
手作りの小さなリスは彼のゴツゴツした手に似合わず可愛くて、温もりに溢れていた。
以来、肌身離さず身につけている。
何度もそうして少し黒ずんだペンダントを、これまでになく堅く握りしめる。
大丈夫。レックの声が聞こえた。
俺が守るから。レックの顔が浮かんだ。
これからも、ずっと一緒だから。そう言って、彼は笑った。
震える手で、あたしはペンダントを胸元にしまった。
どうして思い出はこんなにも強いんだろう。
これからなんて、あたしにはないのに。
そうだ、もう決してないのだ。
これからなんて、ないのだ。
みんなと一緒に、もっと冒険したかった!
あたしだって、レックの傍にいたかった!
ずっと、ずっと一緒にいたかった!
本当はそんな風に叫びたかった。
世界中に響き渡らせたかった。
けれど、叫んだところで現状が変わるわけでもない。
魔王を倒してから一年。
自分に出来る限りの努力を続けてきた。
魔法の修練だったり、世界の成り立ちについての勉強だったり。
全ては魔法都市カルベローナの長として相応しい人間になるために。
もしかしたら何らかの間違いが起きて、レックに再び会えるかもしれないと心のどこかで期待して。
でも、あたしの願いはどこにも届かない。
いくら叫んでも、あたしの声を聞いてくれる人はいない。
あたしは黙り込んだまま、ただ心の中で叫ぶしかなかった。
自分に向かって声を放つことしか、できなかった。
痛いよ、胸が。すごく痛い。
このまま壊れてしまうんじゃないかってくらいに。
ああ、視界が滲んできた。溢れる涙が止まらない。
悔しかった。何もできない自分が。
たった一つの願いも叶えられない無力な自分が。
もちろん分かっている。自身を呪っても仕方ないことぐらい。
でも、それでも自分を責めずにはいられなかった。
ふわあ、と大きな欠伸を一つ。
今日もまた、いつもと変わらず平和なものだ。
見張りなんて立っているだけ。
こう言っては失礼かもしれないが、必要性など全く感じない。
我々のように翼を持つ天空人か、大魔女であるバーバラ様。
天空に浮かぶ城に侵入できる者など、それぐらいしかいないのだから。
そう、だから仕方ないのだ。
「失礼、そこの方」
あまりにも暇で、再び大きな欠伸をしてしまったのとほぼ同時。
突如として響いた厳かな声に、危うく飛び上がりそうになったのは。
「ゼニス様にお目通り願いたいのだが」
そして声のした方に振り向き、絶叫を上げてしまうのも仕方ないことだったのだ。
赤い法衣を身に纏った巨漢が、いつの間にか真横に出現していたのだから。
「久方であるな」
金でも銀でもない輝きを放つ謁見の間。
その小柄な身体には、あまりにも大き過ぎる玉座に身を置くゼニス王に恭しく私は礼をする。
「しかし穏やかではないな」
首を垂れたままの私に、ゼニス王が語りかける。
「ダーマの預かり手である貴公が直々に出向くとは」
そう、余程のことがなければ有り得ないことだ。
私にはダーマ神殿を守る義務がある。
古より人の生きる道を司る神聖な場所を守る義務が。
預かり手である自分が神殿を離れることは、即ち義務の放棄を意味する。
それでも私はこの地に赴かねばならなかった。
事態は一刻を争うものになりつつあったから。
「面を上げるがいい、ダーマの預かり手よ」
静かな、しかし拒否を許さぬ強さを秘めた声。
「そして教えてほしい。何があったのだ」
顔を上げ、まず飛び込んできたのは神妙な面持ちでこちらを見つめるゼニス王の姿だ。
一見すれば、小柄の老人にしか見えない。
しかし腕に覚えのある者が相対すれば嫌でも思い知らされる。
枯れた年寄りという外見によって巧みに隠された、莫大なまでの魔力が。
そう、この方は間違いなく夢の世界を統べる者。
海底のポセイドン王、現実世界のルビス女王と並ぶ超越者なのだ。
「彼の者が目覚めました」
私は端的に告げた。
それだけでゼニス王は全てを理解した。
誰も目から見ても明らかなほど、その顔が強張った。
「本当なのか、それは」
十秒近くの間を置き、ゼニス王は訊ねた。
やはりと言うべきか、その声は少し震えていた。