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[41214] 大震災(俺ガイル)
Name: シウス◆60293ed9 ID:812a97c2
Date: 2015/07/10 23:25
5月30日の夜、その他から、チラシ裏へと板を変更します。
 →訂正、もう少し延期しますが、一ヶ月はかかりません。
  →もう少しかかりそうです。というより、以前に感想にて『その他』のまま在籍しても良いかと、ある人にお訊ねしたのですが、あれから返事がないので、このまま『その他』の板にこの小説を置いておいても良いということでしょうか?
 
 
 →なにもコメントが来ないので、『その他』に置いたままにします。
 
 
 
 
はじめに
 
 
①この小説は、原作の時系列と異なります。
 
 〇原作
文化祭→体育祭→修学旅行
 
 
 〇この小説
文化祭→修学旅行→体育祭
 
 
 しかもこの小説では、上記の3イベントは9~10月頃にあったものとします。
 
 
 
②以前、私の書いた小説内にて、アニソンを歌ってるシーンにて、一部だけ歌詞を掲載してしまったことがありました。実をいうとそれ自体が法律違反でした。なので思いっきり突っ込みをもらいました。
 この小説でも歌ってるシーン(その場の雰囲気に合いそうな、私の趣味の曲)は存在するものの、歌詞は載せないようにしました。曲名や歌手名は掲載しているものの、調べた限りでは、それらの掲載は法に触れないとの事でした。なのでご安心を。
 
 以上の点を踏まえて、『読んでやっても良いかな?』と思った方に読んで頂きたく思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――ナレーションサイド――
 
  ―――震災。
 
 それはいつ訪れるか分からない、極めて唐突な自然災害と呼んで良いだろう。
 台風であれば数日前から天気予報で知ることができるし、まだお目にかかってはないが、人類滅亡級の巨大隕石であっても同じ事が言える。……まぁ津波ともなれば、たとえ予測が出来ても、避難警報が出る前にやってくる恐れがあるが、そもそも津波そのものが地震による被害の一種である。
 また地震には余震という単語が付きまとう。最初の揺れの後に来る余震は、最初の揺れをも上回る大震災になることだって、決して珍しくない。そして―――最初と、その後に何度もやって来る余震と、それら地震の数だけ津波が押し寄せてくることも、最悪な予想ではあるが、ありえなくもない。
 
 
 ―――結論を言おう。俺たちの町は、大地震と度重なる大きな余震、そして一回の大津波によって壊滅した。
 
 
 元々、千葉県は地震の多い土地だった。だから耐震強度もそれなりにはあった。……もっとも、この耐震強度というのは阪神大震災以降に叫ばれるようになったからの産物であって、金銭に余裕の無い者は、昔ながらの建築法か、手抜き工事の家に住んでいる事が多い。
 まぁ何にせよ、なまじ耐震強度のある建物が多い分、町がすぐに更地になることが無かったのだが、逆に言えばそれだけ最初の地震を生き残った人間たちにとって、恐怖を感じる時間が長くなったと言える。……実際、度重なる余震により、何度も人が死んでいった。
 
 
 あの大震災で、俺達の暮らしは激変した。総武高校で生き残ってるのは、普段からつるんだりする仲間や顔見知りだけでも10人ちょっとしかいない。
 幸い、生き残った奴のうち、祖父母がルームシェアタイプのアパートを経営してるって奴が居たので、全員でそこに移住したので寂しい思いはしていない。金銭的にも、あまり誉められた事ではないが、廃墟となった千葉から脱する際、震災で死んだ銀行強盗から金を盗み出してきたゆえ、全員が大学に通うことができた。今では全員、家も所帯も持っている。
 ああ、そうだ。俺みたいな目立たない背景みたいな奴でさえ、あんな美人と結婚できたんだ。葉山隼人みたいなイケメンでもなければ、比企谷八幡みたいに俺以上に影の薄いながらもダークヒーローな奴でもない、材木座義輝みたいに中二病をこじらせて悪目立ちするわけでもない、こんな俺ですらな。
 
 
 
 今が幸せかと訊かれれば、幸せだと断言できる。
 でも時々、ふと思う。
 仲間内の家で酒盛りをしたり、そいつらと家族ぐるみで旅行に行ったり、川原でバーベキューをしたり……その時々に俺や仲間の子供がはしゃぐ光景を見ていると、ふと思うんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 ―――――――本当ならここに、死んでいった奴と、その家族も居たんじゃないかってな。
 









[41214] 1話 全てが終わり、同時に始まった日
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/05/23 22:06
 はじめに
 この小説はバッカーノやデュラララと同じく、『こいつが主人公!』ってキャラは設けてません。……そりゃ多少は比企谷八幡を目立たせたりはしますけどね。
 
 
 
 
 
 
 
 ――比企谷八幡サイド――
 
 
 今日、やっと体育祭が終わった。
 一時はどうなるかと思ったが、無事に奉仕部の依頼も果たせた。……まぁ赤組の勝利をという点について言えば、俺の頭脳プレイが反則行為と見なされて失格負けしちまったけどな。
 それでも清々しい気持ちではあった。胸の中を爽やかな風が吹き、俺の中の腐った人間性が―――腐敗臭を撒き散らすんだろうな、これ……。
 とまぁ、どうでも良いことを考えていると、部室の奥で雪ノ下が文庫本を閉じた。どうやら今日の部活はここまでのようだ。
「じゃ、私はここのカギを返してくるわ」
 その言葉に、由比ヶ浜は立ち上がり、スマホをポケットに戻して雪ノ下に手を振った。
「あ、じゃあまた明日ねー!」
「ええ、また明日」
 そうだよなー。明日は土曜日なのに、後片付けとして体育祭の実行委員は駆り出されるんだよなぁ。俺ら奉仕部って、実行委員でもないのに……。あ、でも有志で手伝う連中も居るんだっけ? 葉山達とか……。
 雪ノ下が部屋から出ると、由比ヶ浜は俺に向き直り、
「ヒッキーもまた明日ねー!」
 元気に手を振ると部屋を出て行った。
 
 ……こんな平和な日々が卒業までか、少なくとも受験生になるまでは続くと俺は思っていたし、その事に疑問なんて持たなかった。
 
 
 
 
 
 ―――実際、俺達が総武高校の生徒だったのは、この日が最後になってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 翌朝、AM7:30頃。
 
 千葉を震源とする、とんでもない規模の大地震が俺たちを襲うなど、誰か予想できただろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―――大地震ってのは、人が寝静まった時間に来るのと、真昼間に来るのと、果たしてどっちがマシなんだろうか。
 そんなどうでも良いことを考えながら、俺はガレキの中から這い出した。ちなみに今の地震は、朝食中に起こった。
「いてて……どこも折れてねぇみたいだな」
 声に出してみるが、こういう震災時というのはアドレナリンの分泌やら何やらで、痛みを感じない場合があるらしい。下手したら腹に何かが刺さってる可能性もあるが、今のところは何も異常は見当たらなかった。
「まさか俺ん家がここまで壊れるとはな……って小町は!?」
 そうだ。自分が生き残って何を安心してんだ俺は。美人妹の命とぼっちの命、天秤に載せるまでもない。
 狂ったようにガレキをどけ始めると、幸いな事に、すぐに気絶したセーラー服姿の小町を見つけた。こいつの中学も、昨日が体育祭だったため、今日は後片付けで学校に行かなければならないので制服を着ている。
 パッと見たところ、目だった外傷はない。骨折の可能性もあるが、そればっかりは意識を取り戻してから本人に聞くとしよう。とにかく良かった、小町が生きていて。
 と思った次の瞬間だった。“それ”を見つけたのは。
 両親の寝室は、2階の畳の部屋にあった。そこに布団を並べて寝るようにしていた。今もそうだ。ガレキの中、二人は仲良く並んだまま寝ている。
 
 
 ―――ただし二人とも首から上が柱に押しつぶされていた。即死だろう。
 
 
「………………親父、お袋……」
 唐突過ぎる家族の死。普段から妹以外に家族というつながりを感じたことのない俺は、泣けば良いのか、喜べば良いのか分からなくなった。ただ何も感じないわけではなく、なにかモヤモヤとした感情が湧いてくるだけだ。
 その感情の正体は分からない。だが、この光景を小町にだけは見せるわけにもいかない。
 俺は小町を背負い、彼らに背を向けて歩き出した。が、言い忘れていたことを思い出し、振り返って両親の亡骸に告げる。
「……今まで養ってくれてありがとな、親父、お袋。あと20年は養ってもらう予定だったけど、早くも小町を養う側に回らなきゃいけないみたいだ。じゃあな」
 そして今度こそ俺は、両親に背を向けて歩き出した。
 この辺りで避難区域に指定されているのは、小町の通う中学校だ。俺が通う総武高校も近いが、海沿いにあるので津波の危険性がある。その点、海から離れている中学校ならば、津波がガレキに遮られて相殺され、多少の波が押し寄せてきても耐えられることだろう。……本来なら津波が一切来ないくらい離れた土地へと向かいたいところだが、ここから一番近い山ですら相当な距離がある。自転車で行くことすら遠いというのに、この町の惨状からして徒歩でなければ移動もできまい。
 ふと思い出し、いったん小町を地面に下ろした。
 これから先、食糧問題が起こることを予想し、常に玄関に置いていた非常用のリュックを手に取った。中には乾パンや水の入ったペットボトルなどが入っているが、それとは別にガレキの中から冷蔵庫や食品棚、更に運良く通学用のバッグも見つけ、缶詰やジャーキー、ナッツ類(酒のつまみだろうな)、レトルトやカップラーメンを詰め込んでいく。そうそう、飲料水の方も貴重なので、ペットボトル飲料などを詰めていく。おっとMAXコーヒーもだな。
 あと俺と小町のポケットに入ってるスマホの電源は落としておこう。町中だというのに『圏外』になっている。いつ使えるようになるか分からないゆえ、節電するに越したことはない。
 非常用のリュックを、自分の胸を背中に見立てて腕を通し、通学カバンを気を失った小町の背中に引っ掛けてやる。
 そして再び俺は、小町を背負って歩き出した。もうここに戻ってくることもないだろう。
 
 
 
 
 
 しかし、まぁ……見渡す限りガレキの山だ。何度か歴史の教科書などに載ってた『戦後の写真』でみかけるガレキの山だって、まだ道路の横などに押し固められ、あたかも四角形を目にするような光景になっていたというのに……。きっとこれが震災直後の光景というものなのだろう。小町を背負ったまま歩いてはいるが、俺や小町みたいに生き残っている人間を見かけないどころか、ガレキの中から呻き声すら聞こえてこない。代わりに、どこからともなく『ヒュオォォ……』という物悲しい潮風が聞こえる。
 ふと、今の自分は孤独かなと考えかけて、背中から伝わる温もりを思い出す。ああ、孤独じゃない。俺は独りじゃないんだ。
 前に雪ノ下が言ってたな。『アンパンマンは愛と勇気だけが友達だと言うが、愛も勇気も友達じゃないと、幼児達はいつになったら気付くのか』と。確かに愛も勇気も友達じゃねぇな。でも孤独は友達だ。なんだ、アンパンマンも『ぼっち』じゃん。カレーと食パンどもは『仲間』じゃなくて気の合わない『同僚』か?
 そんなどうでも良いことを考えながら歩いていると、背中から『……んっ』という声が聞こえた。
「お? 小町、起きたか?」
「んん……あれ、お兄ちゃん……? ここはどこ?」
 寝ぼけ眼で周囲を見渡す。本来ならば家の近所であるはずなのに、あまりにも破壊し尽くされた光景からか、妹の声には夢の中を見ているような響きがあった。
 ……正直、俺も事実を伝えるのが辛い。
 だが真実は、そう遠くない未来に知られてしまう。ならば早いうちに知らせ、今の内に泣いてもらって方が良いに決まっている。
「さっき朝飯を食ってたら大地震があってな、運良く“俺らだけ”は生き延びたみたいだ」
「………俺、ら……だけ………? ―――ッ! お母さんは!? それにお父さんも!! カーくんも!!」
 背負われたまま、小町は叫んでくる。正直、予想していた問いだ。そして今もなお、どう言えば穏便に済むか分からない問いでもある。だが常識的に考えても、正直に言うしかない状況に、両親はなってしまった。俺にできるのは、ここで取り乱すであろう妹を押さえるか慰めるしかなかった。
「カマクラは知らん。でも―――」
 だから正直に言ってやった。
 
 
「―――親父とお袋は、仲良く並んで寝たまま柱に頭を潰されて即死していた」
 
 
 言ってから、背中で息を飲む音が聞こえてきた。
 そして夕立ように、小町は声を上げて泣き出した。
 世の中、言葉にしなくても分かるモノがあると、どっかのラノベに書かれてたな。少なくとも今の小町からは『なんでウチの家族が』という言葉が、言葉にせずとも泣き声を通して伝わってきた。
 不思議な事に、俺の涙は未だに沸いてこなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 中学校を目指してはいるが、少しだけ自信がなくなってきた。何しろ辺り一面がガレキの山だ。これじゃ見知った町も、見知らぬ土地にしか見えない。
 途中から小町は背中から降りて、俺の隣を歩いている。と、そこで俺達の耳に、男の泣き声が響いてきた。
 小町と頷き合って、角を曲がると、そこには―――えっと、川なんとかさんの弟がガレキをどかせながら泣き叫んでいた。
「姉ちゃん! けーちゃん!!」
 即座に駆けつけ、俺らもガレキをどけ始める。
「手伝うぞ、川なんとかの弟!!」
「川崎大志っす! 手伝ってくれるのはありがたいっすけど、できれば急いで欲しいっす! 姉ちゃんが……姉ちゃんとけーちゃんが生き埋めにッ……!!」
 その言葉に、小町のガレキをどける手が早くなる。
「小町さん……」
「小町、もう嫌なんだよ! 家族が死ぬとこを見るのなんて、もう嫌なんだよぉっ!!」
 だんだんと俺たち三人の手が擦り切れてきた頃、少し大きな空洞が見えてきた。そしてその奥に、総武高校の女子制服の姿も……。
「ああっ! 姉ちゃ…ん……?」
 大志の声が、だんだんと自信無さげなものになっていった。だってそうだろう。
 
 
 彼の姉は、orzみたいな土下座のポーズで、自分の下に幼女を庇っていたからだ。
 
 
 幼女―――おそらくは妹だろう。そっちの方は気を失っているのか、かすかに胸が上下していた。だが川崎の方は、日光が当たりにくいせいもあるが、ぴくりとも動いてないように見える。
「……姉ちゃん」
 茫然とした表情で、大志が膝を着いた。それは小町も同じである。こいつには両親の死を伝えてはいるが、本当に死体を―――それも知り合いの死体を見るのは、これが初めてのはずだ。
 だがいつまでも放心しているわけにはいかない。いつ津波や余震がくるか分からないのだ。まず妹さんを助け出すため、俺はガレキのスペースの中に身を入れた。
 そしてとんでもない事に気付く。
「ん? なんか思ったより広いな……」
 そう。このスペース、意外と広かった。上を見上げると、折れた柱同士が絡み合い、少し狭いテントのような空間が出来上がっていた。
 まさかと思い、川崎の背や頭上に手をかざしてみる。どこかに一つでも、天井から突き出してきた柱なんかが川崎の身体に触れていれば、それが彼女の致命傷だと証明する事ができるが、“それ”が見当たらなかった。
「…………」
 なんとなく予感がし、川崎の肩を揺すってみると―――
 
「う、うん……ん?」
 
 目を覚ました。どうやら気を失っていたようだ。
「ね、姉ちゃん!! けーちゃん!!」
「沙希さんッ……!!」
 川崎に手を貸しながら、妹ともども外へ連れ出すと、大志と小町が川崎に抱きついた。
「痛たた……ちょ、嬉しいのは分かったから、手加減しな。こっちは打ち身してるんだから……」
「ま、打ち身なら全員が当てはまるんだけどな。けどまぁ小町も川崎弟もほどほどにしてやれ。後で落ち着いてきたら『実はここを骨折してた』とかいう可能性もある。今はアドレナリンとかで痛みが分からないかもしれないだろ?」
「……あまり想像したくないけど、あんたの言う通りだね」
 川崎も俺の言葉に同意する。
 さて、知り合いも救助できたし、とっとと中学校まで避難するか―――と考え、まだ出会ってない人物がいることに気付いた。
「……なぁ川崎、親御さん達はどうした? それに川崎弟、たしか前に『弟もいる』って言ってなかったか?」
 川崎の顔にサッと影が差した。大志が歯を食いしばって涙を堪える。
 姉の方が答えた。
「――――――死んだよ、両方。頭が潰れて即死だった。この子と大志が生きてるだけでも奇跡だね」
 そう言って腕に抱える妹の髪を撫でた。
 
 
 
 
 
 
 ガレキの山(川崎家だけでなく、隣近所からも含む)からリュックや食糧になるものを掻き集め、俺たちは再び中学校に向けて歩き出した。途中で川崎の妹・京華(けいか)が目を覚ましたが、両親と弟の死は伝えないでおいた。幸いにも両親は共働きで夜遅く帰り、朝早くに家を出るため、休日にしか顔を合わせることがないらしく、うまく誤魔化すことができた。
 また弟の死に関しても、川崎が涙を堪えて微笑みながら『しばらく会えないけど、いつかまた会えるようになる』と言ってはぐらかした。きっとこの『また会える』というのは、妹の物心がついてから墓参りに行くという意味なのだろう。
 鬱になりそうな問題を頭から追い出し、俺たちはひたすら足を進めた。
 中学校が近くなるにつれて、ぽつりぽつりと人影が見えてきた。この近所の住人ではなく、恐らくは中学校へ向かう避難民だろう。誰もが震災の教訓などを知っているためか、大きめのカバンやリュックを持っている。どこかしらから見つけ、食料品などを詰めてきたのだろう。何も自分の家から持ち出すだけでなく、そこら中から集める事ができる。逆に言えば、家にある物を持っていかれて文句を言う人間の大半が死んでいるからできるのかもしれない。
 そして学校に着いて絶句する。
 建物は無事だった。危険を避けるためか、ほとんどの避難民がグラウンドに集まっていた。
 
 
 ―――パッと見ただけで30~40人くらいしか居ないのか?
 
 
 しかも学生が多い。中には総武高校の制服に身を包む集団も―――って、クラスメートの相模だ。それとジャージ姿の戸塚。お前を見てると心が安らぐな。その横にザザ虫―――じゃなかった、材木座か。それと葉山達、いつものスクールカースト上位の連中か。由比ヶ浜だけ姿が見えないけど、あの連中がいるということは、あいつも無事か? それに雪ノ下の姿も見えないけど無事だよな?
「比企谷に川崎!? 良かった、無事だったんだな!!」
 安堵の笑みを浮かべて手を振ってくる葉山。そーいやコイツ、いつからか『ヒキタニ』と呼び間違えなくなってたよな。千葉村のキャンプファイヤーで、『もし君と同じ小学校に通ってたら、君とは仲良くなれなかっただろうな』って言った時には『ヒキガヤ』になってたし……。ああ、でもその数秒前まではヒキタニ呼ばわりだったな。……何それ、わざと間違えてんの? いや本当マジで。
 沸いてきた疑問をとりあえず置いておき、俺は答えた。
「ああ、俺と妹はなんとかな。でも親父とお袋には先立たれちまったよ」
 続けて川崎も口を開く。
「あたしんとこも親と弟を一人、亡くしちゃった……」
 すると葉山も表情を暗くし、
「そっか……俺もだよ。……家の中で、俺だけ生き残っちまった」
 ……こいつもこんな顔するんだな。さすがに家族に死なれるのはこたえるらしい。
 しかし俺はコイツに訊かなければいけないことがある。二人だけ居ない、あいつらのことを。
「……なぁ葉山、一つ訊いていいか? ここには戸部も大和も大岡もいる。それに三浦や海老名さんだっていた。……でも由比ヶ浜と雪ノ下だけ見かけないんだが……」
 嫌な予感というのは、不思議とよく当たる。
 そもそもここにいる連中だって、俺の知っている人間に関して言えば『朝から出かける用事のあった奴ら』しか居ない。なら奉仕部のメンバーだって居てもおかしくはないはずだ。しかし姿が見えないということはまさか……。
 このときの俺がどんな顔をしていたのかは分からない。
 しかし俺の問いに、葉山ではなく、視界の外から歩いて来た雪ノ下が答えた。
「私はここにいるわ。それに由比ヶ浜さんも無事よ。さっきまで家族の死やみんなとの再会……それにあなたが無事かどうかで取り乱してたけど、今は少し落ち着いているみたい。あっちにいるから会ってあげて」
 と言って、体育館の裏手の方を指す。
「雪乃さん!!」
 と、小町。
「ああ、ありがとな。……お前も無事で良かった」
「運が良かっただけよ。……あなた達も無事で良かったわ」
 少し悲しげに微笑み、普段なら決して言わないようなことを言った。……うん、普段ならここで『ゴキブリ並みの生命力ね』とか言うんだろうなぁ、こいつ。それだけ今は精神的に参ってるってことか……。一人暮らしなだけに、親御さんの安否も分かんないしな。
 やがて彼女は、その笑みも消して葉山へと向き直った。
「私はしばらく、葉山君たちと今後の方針を話し合うわ。ここに居る全員が言う事を聞いてくれるとは思わないけど、少しでも死者を減らすことには繋がるはずだもの」
「今後のって……なんか話すようなもんでもあるのか?」
 すると今度は近づいてきた海老名さんが答えてくれた。
「東日本大震災のこと、覚えてる? 孤立された状態から脱出できず、支援物資を届けたくても何日も届かない。だから餓死者が出たってテレビで言ってたの。今のこの町を見て、同じ事が起こらないとも限らないでしょ? 杞憂でも、対策はしておくに限ると思うの。だから怪我してない人だけで、民家やスーパー、コンビニなんかの食料品を回収しようかと思ってるの」
 普段は俺とは別の意味で腐ってる海老名さんだが、冷静すぎるくらい真面目なことを考えてる。こんな災害時に、早くも今後のことを考えられる人間が、果たしてどれだけいることやら……。
 しかし人間観察に慣れた俺に言わせれば、海老名さんの目にも少し焦燥の色が浮かんでいる。恐らくは何かに集中する事で、家族や知り合いの死などから目を背けているのだろう。ま、こんな非常時だからこそ、この手の現実逃避者はありがたいんだけどな。
 海老名さんにも礼を言い、話し合いに加わると言う川崎を残し、俺と小町は体育館の裏手へと歩を進めた。
 
 
 
 
 
 
 着いてすぐ、由比ヶ浜を見つけた。
 体育館の壁に背を預け、三角座りしながら顔を膝に埋めていた。
「結衣さんっ……!!」
 小町が叫びながら駆け寄ると、由比ヶ浜はがばっと顔を上げ、
「こ…小町ちゃん!? それにヒッキーも!!」
 そのまま飛びついてきた小町と抱き合いながら、二人は泣き出した。
 しばしそれを見守ってやると、やがて落ち着いてきたのか、由比ヶ浜は目元の涙を指で擦りながら言った。
「良かった……ホント良かったよぉ……。家から出たとたんに地面が揺れて、家が壊れて……必死になってガレキをどけたら、パパも……ママも……っ! 血まみれに……血まみれになって潰れてて……呼んでも動いてくれなくて……」
「結衣さん、あたしの家もなんです。小町は気絶してたから分からないんですけど、お兄ちゃんが言うにはお父さんもお母さんも『頭が潰れて即死していた』みたいで……」
 半泣きになった二人が、また抱擁を交わす。……女子って、そういうの好きだよね。男同士ではゴメンだけど。あ、でも女子には抱きつかれたいって気持ちならあるかも? ……すまん、この状況では少し不謹慎だった。
 由比ヶ浜は続けた。
「ここにいるみんなも、親を失った人が多いみたい。っていうか、朝から外へ出かけてる人しか助かってないみたいだよ。みんな、生き埋めになってるか、建物に押しつぶされて死んじゃったんだね……」
「ってことは、俺と小町は運が良いな。マジで生き埋めになってたくらいだし。あと川崎と、その弟と妹もだな。あと一人弟が居たみたいだが、そいつと親御さんは助からなかった」
「川崎さんのとこも……それでも生きていて良かった。川崎さんは来るときに会ったの?」
「ああ。ってか、ここに来るまでの道に、あいつんちがあった。必然的にあいつと俺は同じ中学だったことになるのか? 会った覚えは無いんだけどなぁ」
「ま、お兄ちゃんのことですし、仕方ないんじゃないですか?」
 と、横から小町が生意気なことを言ってきた。
 由比ヶ浜も腕を組みながら首肯する。
「うんうん。それに前、あのエンジェルとかいうバーで会った時なんて、ヒッキーってば『……誰?』とか言われた挙句、クラスメートだって説明した後でも『こんな見ず知らずのあんたに……』とか言われてたもん。お互い、記憶に残ってないだけなんじゃない?」
 まぁ、大方そうだろうな。少なくとも向こうも俺を覚えてないのだから、特に文句を言われる筋合いは無い。
「……これからどうなるのかな、あたし達……」
 ほぼ無意識といった感じで呟かれた由比ヶ浜の言葉に、俺も小町も沈黙する。おいおい、一気に空気が重くなったじゃねーか。
「ま、少なくとも今までみたいに学校に通うことはほぼ不可能だな。高校は中退、大学にも行けずに、早くも社会人の仲間入りってとこじゃねーか? あ、小町はまだ義務教育の途中だから、ひょっとしたら国の金で学校には行けるかもしれんが、たぶんそこまでだろうな」
 少し辛辣な物言いだったのは分かってる。由比ヶ浜も小町も、予想はしていたのか、重々しい空気を纏ったまま沈黙している。
 
 
 しかし実際のところ、それらは全て『生き残れれば』の話である。
 
 
 海老名さんも言っていたが、東日本大震災の後に餓死者が出たという。
 支援物資が届けられない状況だったと聞くが、俺も詳しい事は分からない。ただ今この瞬間に関しては、決してありえなくは無いのだ。いつ来るかもしれない余震、そしてまだ来てはないが津波が来る可能性もある。そして余震のたびに津波が来るというのであれば、救助隊員を死なせないため、という名目で救助活動が行なわれない可能性だってある。
 俺は今も重苦しい沈黙を保ってる小町と由比ヶ浜を交互に眺めた。
(……死なせるわけには、いかねぇよな……)
 海老名さんが言ったみたいに、食料品集めと、あとは津波が来たときの対応を考えるか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「みんな、聞いてくれッ!!」
 グラウンドに集まっていた避難民の前で、葉山が演説する。……災害時ほど、こーいう事に向いてる奴は頼りになる。
「今の俺たちは救助を待つ存在だ。だが救助隊がいつ来るかは分からない。彼らだって下手に仲間を危険に晒したくはないからだ。……でも俺たちはこうして生きていて、食糧が必要になる。だから皆で壊れた民家やコンビニ、スーパーの食糧を集めて回ろうと思うんだ。無論、強制はしない。集めた食糧を山分けでなく、『自分で取ってきた物は自分の分だ』と言い張るのも結構だ。少なくとも今は仲間割れだけは避けたい。だから奪い合いだけはやめてくれ」
 葉山の演説を聞きながら、こいつのカリスマ性に舌を巻く。
 このような災害時、下手に指揮をとろうとする者が現れれば、いかに人を惹きつける天才であろうとも反対派という奴が現れる。だから真っ先に反対派の声が上がらないよう、釘を刺したのだ。
 葉山は続ける。
「それと食糧―――いや物資調達と言おうか。女性でも子供でも老人でも、とにかく一人でも人手が欲しい反面、いつ建物が崩落するかも分からない危険性がある。また、えげつない死に方をした死体も、山ほど見かけることになるだろう。それでも自分が、あるいは大切な仲間が餓死したくなければ手伝って欲しい」
 と言って頭を下げる葉山。ここに集まっていた人間の大半が学生であるが、何割かは大人もいる。その大人までも(怪我で動けない者を除く)が、重い腰を持ち上げた。
 ……やっぱお前は凄ぇえよ、葉山。
 俺が内心で賞賛と、自己への嫌悪をしていると、葉山と目が合った。ニッていう笑顔を向けてくる。その様子を見ていた海老名さんが『ぐ腐腐……』と笑う。やだ、海老名さん怖い……。
「じゃあヒッキー。あたし達も向かおう?」
「ああ、そうだな」
 由比ヶ浜に引っ張られて俺と小町が歩いていくと、戸塚や材木座、川崎姉弟(妹さんは学校での待機組に預けてきた)、そして雪ノ下のメンバーと合流した。
「けぷこん、けぷこん。……これが最後の審判というやつか。よもや故郷がこのような姿になろうとは……」
「……やめてくれ。マジ洒落になんねーから……」
 荒れ果てた町を見渡して、材木座が呟く。
 普段なら嘲笑すべき中二病患者の台詞だが、少なくとも今の『最後の審判』という言葉だけは誰にも笑えなかった。冗談ではなく、この光景を見ていると本当に最後の審判が起こったのだとすら思える。それも現在進行形で。
 戸塚が少し悲しげに笑って言う。
「あ、あはは……このメンバーに川崎さんが加わるのは初めてだね。……いつもならここに平塚先生も居たのに……」
 すると川崎が、戸塚に背を向けたまま答える。
「今は生き残ることだけを考えな。それが生きている人間の使命だよ。……あの人との感動の再会も、涙ながらの死体とのご対面も、生き残らなきゃできないんだから」
 悲壮感に彩られた彼女の横顔には、しかし前を向いて生きる決意に溢れていた。俺の知る限り、この女は友達がいない。しかし俺みたいな『ぼっち』とも少し違う。俺よりも孤高の存在に見える。しかし一方で俺は知っている。川崎は弟や妹にだけは心を開いている。仲間というより息子・娘のように接している節すらある。彼女の強さは、子を守る母親のような強さだ。その大事な弟を一人失ったというのに、この心の強さである。両親が死んでも泣けない俺には辛いくらい眩しい存在だ。
 すると由比ヶ浜が思い出したように口を開いた。
「そーいえば平塚先生、昨日の晩から隣の県に出かけてるはずだよ? 高校時代の同窓会とかで酔いつぶれるまで飲むから、実家に泊まって帰るんだって。だから運動会の後片付け、お休みするって言ってたよ」
 ……っ、
 先生、運が良すぎるぜ。できればそのまま同窓会で誰かに貰われててくれよ、せめてそのくらいのラッキーでもないと、この地震のありさまを聞いたら絶望しちゃうじゃねぇか。
 このメンバーで、何となくリーダーっぽい存在となった雪ノ下が言う。
「じゃあこれから近所の西地区へ向かうわ。葉山君たちは東地区に向かうみたいだから、なるべく缶詰なんかの長期保存ができる食べ物を集めるよう言っておいたわ。その間、私達は西地区のコンビニやスーパーで食料品を集めましょう。後は飲料水代わりのジュースも。でもアルコールは駄目。もし余震や津波から逃げなければいけない時、酔ってたら足手まといだもの。それにアルコールを摂取すると、余計に水分が欲しくなるものね」
 その点は問題無いだろう。俺達は未成年だ―――そりゃ好奇心で酒もタバコもやったことはあるよ? もちろん小町だってな。そして結論は簡単に出た。『こんな不味いもん、いらねぇ……』と。
 雪ノ下は続けた。
「それと注意してほしいのだけど。これから向かう西地区には、5階建て以上の古い建物が多いの。多少は耐震強度も保証されてるでしょうけど、今回の強烈な地震に対し、どれだけ耐えられるか分からないわ。だから下手に崩れかけているところに近づくと、倒壊に巻き込まれかねないわ」
 
 
 
 
 
 
 
 そして西地区に着いて、彼女の言葉が本当だということを知った。
 確かに建物が高く、かつ古い。―――そして、そのどれもが崩れかけていた。
 あるビルは一階部分が潰れてペッタンコになり、あるマンションは右半分だけが解体済みみたいに崩れ去っている。中にはピサの斜塔のようになっているビルさえある。
 上からの落下物や足元に気をつけながら、俺達はセブン・イレブンに足を踏み入れた。
 意外にも、コンビニは崩落してなかった。まぁ最近じゃ耐震強度の問題を指摘されやすいしな。民家ならともかく、客商売をする店ってのは、それなりに安全性が保証されるものなのだろう。そもそも千葉って地震多いし。
 レジから大きめのビニル袋を拝借し、弁当やパスタ、焼きそばなどの賞味期限の短いものを詰めていく。レジ横の揚げ物も忘れない。これらは今夜から明日の朝までは持つだろう。
 コンビニを出ると、今度は近くのスーパーへと向かう。
 全体的にヒビが入っており、天井も崩れかけてはいるが、すぐに崩れるわけでもないだろう。とりあえずここでは缶詰や乾物なんかを多めに拝借すべきだろう。あと備長炭なんかもあれば、暖を取るにしろ食事を作るにしろ重宝するだろう。ん? 燃料なら壊れた木造民家の破片を拾った方が効率的か?
 などと考えながら、俺達は入り口から中へと入り込んだ。
 すると何人か先客が来ていた。全員、二十歳前といった風貌である。その中の青年の一人が叫んだ。
「おい、生存者だ! えっと……君ら避難場所は見つけてるかい? 良かったら俺らの大学まで着なよ」
 すぐさま雪ノ下が答える。
「いえ、結構です。私達は中学に避難してますので。……大学には何人くらい避難されてますか? 私達の方は3~40人くらい居るんですが」
「へぇ、そっちの方が多いか……。俺達はここにいる6人で全員だよ。みんな同じ大学のサークル仲間なんだ。いま奥に一人だけいるんだけどな。ん?」
 青年の目が戸塚に向けられる。……何だよ、俺の戸塚は誰にも渡さないぜ?
 と思っていると、青年は顎に手をやりながら、
「そっちの君、ウチのサークルの戸塚彩菜(とつか・あやな)に似てるな。もしかして―――」
 青年が最後まで話すよりも先に、店の奥から戸塚そっくりな女性(髪が長く、巨乳で、スカートを穿いてたので女性と断定)が走ってきた。
「彩加ちゃーんッ!!」
「あっ、お姉ちゃん!!」
 戸塚の顔が満面の笑みになる。……うん、何度見ても良い笑顔だな。戸塚はそのまま姉と抱き合い、涙混じりに互いの無事を喜び合う。
「彩ちゃんのお姉さん、彩ちゃんにそっくりだね」
 由比ヶ浜が微笑みながら言う。確かに似ている。戸塚の背と髪を伸ばし、胸を大きくすればこうなるだろう。ってか姉がいたのか。
 青年たちが涙ながらに囁きあう。
「良かったなぁ、感動の再会だよ」
「ああ、ほんと仲の良い姉妹だぜ」
 ―――いや戸塚は男なんだが。
 その間にも戸塚姉弟の会話は進んでいく。
「ううっ……お姉ちゃん、落ち着いて聞いて欲しいんだ。お姉ちゃんは昨日は友達の家に泊まったから知らないだろうけど、お父さんとお母さん……お父さんとお母さんがっ…家が壊れたときに押しつぶされてっ……ううぅ……」
 そこから先は、言葉にならず嗚咽しか響かなかった。それを見ていた小町と由比ヶ浜、それに大志までもが、自分達の親の最後を思い出し、もらい泣きする。
 彩菜さんは驚きこそしたものの、しかし優しく微笑んで戸塚の肩を抱きしめた。
「それでも―――彩加ちゃんが無事でよかった」
「お姉ちゃん……」
 戸塚が声を上げて泣き出した。
 ……凄げぇな、優しさだけで悲しみに沈む戸塚を包み込んじまったよ。よくマンガとか小説とかに出てくる『全てを受け止められるキャラ』を地で行く人なんて初めて見たな。ザ・ゾーンなんてスキルがカスに思えるほど凄い強さだよ。
 しばらく泣きつづけた戸塚だが、それが落ち着くのを見計らい、彩菜さんは口を開いた。
「それじゃあ私達も、彩加ちゃんのいう中学に避難場所を変えようかしら」
「うん! 僕もお姉ちゃん達と一緒にいたいしね」
 キラキラという音が聞こえそうなくらい眩しい笑顔で戸塚は答える。
「うわ……なんで戸塚さんって、こんなにも女子力―――じゃなくて女の魅力? みたいなのが溢れてるんだろ?」
 後ろで小町の独り言が聞こえたが、きっぱりと無視した。うん、そりゃ戸塚が魅力的だからに決まってるじゃないか。
 新たな生存者たちと出会い、物資も調達した俺達はスーパーを後にした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――葉山隼人サイド――
 
 
 普段の比企谷は目が腐ってると言われがちだが、今は笑えるくらいみんなの目が腐っていた。
 かく言う俺も、家族が崩れた家の中で圧死しているのを見てから中学に避難するまで、似たような目になってたさ。割れた鏡の破片に映った顔を見たとき、『……なぜ比企谷がここに?』と思ったくらいだ。
 じゃあ今は? と聞かれれば、もう隠し切れないくらい『無理に作ってる笑顔』になってることだろう。
 何人か俺と似たような顔をしてる奴もいる。姫菜なんかそうだ。前からそうであるが、彼女は割とモテる反面、誰とも付き合うことはしない。受けた告白は全て振っている。理由は俺と同じで、今の友達関係(俺と優美子、姫菜、結衣、戸部、大岡、大和の7人。最近では比企谷と雪乃ちゃんと戸塚、川崎さんまで加わりつつある)を壊したくないからだ。少し欺瞞もあるが、それだけこのメンバーで過ごす時間が、姫菜も好きなのだろう。
 
 
 
 ―――それだけに、姫菜の心中の焦燥が分かってしまう。
 
 
 
 姫菜は普段から、その……ホモ的な内容の発言を多く口にし、モテ顔なのに中途半端にしか男子受けしない。―――否、そうなるように自分で他人との距離感を調整しているのだ。
 また今の彼女は、普段つるんでいる俺達との関係を気に入っている。以前、修学旅行で戸部が姫菜に告白しようとしていたが、それに失敗すると今の友達関係が失われることに、俺だけでなく姫菜も気付き、密かに告白を妨害するよう比企谷に依頼していた(←比企谷から聞いた)。
 そんな姫菜―――いや俺達だからこそ、今の関係を壊したくないのだ。
 何しろ、ここにいる全員が、この震災で親を失っている。いま最後の砦である『友達』を無くせば、俺らには何も残らなくなってしまうだろう。
 もちろん時間をかければやり直すことも、別の友達を作ることは可能であろう。皆それなりにコミュ力がある方だしな。でも今だけは……明日にでも余震や津波、長い目で見れば飢餓も含めた死に溢れる今だけは、そんな状態になるのは致命的なんだ。生きる気力を無くした者に、サバイバルは勝ち残れないだろう。
 ……考えてるだけで鬱になりそうだ。
 とりあえず今は食糧や使える物資を集めよう。
 幸い、ここは東区でも指折りに大きなスーパーだ。品揃えも豊富で、食材の質も良い。おまけに最近じゃ有料となったビニール袋も取り放題だ。今まで万引きすらせず真面目に生きてきた分、こういう略奪めいたことを一度はやってみたいと思っていた。……いや非常時だから思っただけだよ?
 
 
 
「あー! これキャビアの缶詰じゃね!?」
 
 
 
 今しがたまで腐った目で缶詰を漁ってた優美子が、まるで御神体を掲げるかのように、キャビアの缶詰を高く丁寧に持ち上げた。
 ……うん。皆も、『おおー……』と感嘆の声を漏らしちゃったね。一瞬で鬱な気分を忘れてしまった。
「よーし、どうせタダだ! だったら俺も上等そうな缶詰を見つけるぜ!!」
 大和が叫ぶと、大岡や姫菜も『俺もっす!』、『あたしもあたしも!!』と笑顔を浮かべて探し始めた。
 そんな中、戸部が海外からの輸入品コーナーの大きな缶詰を2つ掴み、振り回しながら走ってきた。
「おーい! なんか聞いたことの無い面白そうな缶詰を見つけたぜ!!」
 ……『美味しそう』じゃなくて『面白そう』って何だよ? 井上織姫オススメの『餃子パフェ』みたいじゃないか。
「わーお……戸部っち、やるじゃん! なんの缶詰?」
 優美子が聞くと、戸部は満面の笑みを浮かべながら叫んだ。
 
 
「シュールストレミングだって! シュールってくらいだから、きっと面白そ―――って、うわっ!?」
 
 
 戸部以外の全員の顔が凍りついた。誰もが『それ世界一臭い缶詰だ!』 ……と叫ぼうとしたが、それより先に戸部は落ちていた生鮮食品のバナナ(そんなバナナ……)を踏んで転んだ。そして両手で持っていた2つの缶詰は宙に投げ出され―――
「わっ……!?」
「ぅおっと……!?」
 一つは俺が、もう一つは大和がキャッチした。危機一髪、缶詰は無事だった。しかもよく見ると、内部で発酵が進んでいたのか、缶詰の上下が大きく膨らんでいる。開封すれば悲劇が起こること間違いなしだ。
 優美子が戸部を正座(コンクリの上)させ、しばらく説教した後、俺達はスーパーを出た。
 完全に廃墟と化した町が視界に飛び込んでくる。再び鬱になりかけるが、それでも生きる希望を見失ってはいけない。お調子者の戸部が、ややドヤ顔でキャビアについて語りだす。……こーいう時こそお調子者はヒーローじみて見えるな。
「いやー俺さ、実はキャビアってのを一回だけ食べたことあるんだわ」
 ……へぇ、お前もあるんだ?
 俺自身、かなり裕福な生活をしている身分だ。そして『キャビアを食べたことある人間は少ない』という知識もある。戸部の家も、そこそこ裕福か、あるいは美食家なのだろうと思った。
 しかし、それは見事な形で裏切られた。
 
 
 
「知ってっか? キャビアには『かずのこ』っていう別名があるんだべ?」
 
 
 
 自慢げに語るその顔は、どこか誇らしげですらあったのが痛々しい。
 みんなの顔が凍りつく中、普段なら絶対にしないが、みんなを元気付けるためにも、少し戸部をいじることにした。
「おいおい、かずのことキャビアじゃ別物じゃないか。値段の差が何十倍あると思ってるんだ?」
 少し半笑いになりながら言うと、戸部は目をパチパチと瞬かせ、
「え? い、いやー隼人君、ジョーダンきついわー。そんなはずがある…わけ……―――冗談だよね?」
「いや本当だって。そりゃかずのこだって時代によっては多少は高級な食材だったけど、キャビアほどじゃないよ」
 しかし戸部には信じられないことだったらしい。
「ゆ、優美子! さっきから何も言わないけど、隼人君のジョーダンに笑い堪えてんだよな!?」
 炎の女王と称される彼女は、悲しげに目を逸らした。
「え、海老名さん! 海老名さんだけが……海老名さんだけが頼りなんだ!!」
「……戸部っち、中学に戻ったら、一緒にキャビアを食べよう? 大丈夫、世の中には美味しい物がたくさんあるって、これから知っていけば良いから」
 姫菜の下手に優しい気遣いにより、戸部は膝から地面に崩れ落ちた。
 そして弱々しい声で、皆に問う。
「―――教えてくれ。キャビアはサメの卵なら、かずのこは何の卵だべ?」
 ……あまりに哀れな姿を見かねた大和が、戸部の正面に立って真顔で囁いた。
「戸部。かずのこはな、鮭(さけ)の子なんだ」
「もっとひどい貧乏人がいた―――ッ!!?」
 大岡が驚きのあまり絶叫する。
 うん……今の大和、嘘ついてる顔じゃなかったよね。大岡の声にキョトンとしてたよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 そうこうダベりながら歩いていると、比企谷たちの集団が歩いて来た。ここで彼らと合流して中学に向かおう。
 ……と考えていたら、彼らの中に見慣れない青年たちが混じっていた。
「やあ比企谷。何人か仲間が増えてるみたいだね」
「ああ。戸塚の姉と、そのサークル仲間だそうだ」
 比企谷が親指で後方を指すと、そこには戸塚とそっくりな顔の女性が立っていた。……陽乃さんとは別種の、凄い美人だな。なんというか慈愛とか優しさのオーラが凄い。
 が、いつまでも凝視するわけにもいかない。……優美子の視線が痛いしね。
「みんな無事で良かった。物資もちゃんと集めたみたいだね」
 全員が、ビニール袋やリュックを背負っている。食糧なら大丈夫だろう。
 続けて雪乃ちゃんが、
「おしゃべりは帰ってからにしましょう。ここはまだ崩れかけた高層ビルがたくさんあるんだから」
 と急かすように言う。確かに長居するのは危険だな。
 早く帰るべく、俺は声を張り上げた。
「よし、みんな! ここは危険だからなるべく―――」
 しかし、最後まで言えなかった。
 
 ギシギシ……と。
 ゴゴゴゴ……と。
 
 そんな音が響くと同時、屋外の地上にいても分かるくらいの揺れを感じた。
『余震だぁ――――ッ!!!』
 誰かが叫ぶと同時に、周囲にある、いくつもの高層ビルの上層が、地上へと落下し始めた。
『逃げろおおおおぉぉぉぉっ!!!!』
 誰もが死に物狂いで走った。幸いなことに、高層ビルの多いエリアの端っこに居たため、もうすぐ抜け出せるはずだ。
 
 
 はず―――だったんだ。
 
 
 巨大なコンクリート片や鉄骨などが、よりによって俺達の真上へからも落ちてきた。
「あ、戸部っち―――」
 戸部の真上に大質量が迫り、姫菜が手を伸ばす。……が、彼女も落下物の真下にいるのは明白だった。
「姫菜ッ!」
「ぼさっとしてんじゃないよ!!」
 とっさに結衣と優美子が、姫菜を両サイドから掴んで引っ張り、惨劇から救い出す。
「大和っ、大岡っ……ゴメン!!」
 ぼさっと立ち尽くす大和と大岡に、俺はタックルをかまして落下物の範囲内から押し出した。
 
 
 
 ――――――――轟音。
 
 
 
 もうもうと立ち込める砂埃。
 早く晴れろと、こんなにも思った事があっただろうか。
 砂埃が晴れた後、俺の―――俺達の焦燥は現実のものとなって目に飛び込んできた。
「嘘………」
 結衣が茫然と呟き、膝から崩れる。
 まず大学生の集団だ。彼らは全員が死んでいた。―――そう、“全員”である。
 誰もが皆、手足や首、上半身や下半身が千切れた状態で転がっており、一人だけ胸を鉄パイプで貫かれて事切れている美女―――戸塚の姉だけが、一番マシな死に方をしていた。仰向けで事切れている彼女の目は閉じられており、ともすれば穏やかに眠っていると錯覚する―――いや、錯覚したくなる。
「お……お姉ちゃん……? お姉ちゃ――――んッ!!!!」
 戸塚が駆け寄ろうとするのを、川崎が羽交い絞めにして止めた。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんッ!!!」
「駄目っ! 今はまだ危ない!!」
 そうこう言っている間に、戸塚の姉の周囲のアスファルトが崩れ、彼女の亡骸は地中へと落ちていった。その上から更にガレキが積み重なる。
 
「ああああぁぁぁぁあっ!! ああああああぁぁあぁあああぁあああぁぁっっっ!!!」
 
 ……生きながら瞳孔が開いた人間を初めて見た。それだけ彼にとって大切な姉だったのだろう。落ちゆく姉に手を伸ばしながら『離せ』と叫ばないのは、姉しか見えないゆえに、羽交い絞めにされてる事にすら気付いていないからか。
 しかし犠牲者はクラスメートにも及んでいた。
 
 
「あれ? お兄ちゃんは?」
 
 
 比企谷妹の発した声に、同じ疑問に行き着いた結衣も口を開く。
「そういえばヒッキーは?」
 ペタンと女の子座りした二人の疑問に、優美子が躊躇いがちに答える。
「……………………戸部っちの隣に並んで走ってた」
 優美子が、これほどまでに言いにくそうに喋ったことが、かつてあっただろうか。しかし俺も、同じ事を訊かれれば、たぶん同じ答え方をしていただろう。
 それを聞いていた、戸塚を押さえていた川崎の手から力が抜けた。が、それは戸塚も同じだったらしく、放心した顔のまま座り込んでしまった。
「比企…谷……?」
「うそ……だよ……嘘だよね…八幡?」
 結衣がパチパチと瞬きし、別の問いを口にする。
「じゃあ……戸部っちは?」
 優美子は沈黙した。
 しかし姫菜の次の行動が、戸部の行方を理解させてくれたことだろう。
 ふらふらと、ガレキに向かって踏み出す姫菜。
「―――と…戸部っち……戸部っち……」
 そして駆け出す。
「戸部っちいいいぃぃぃぃッ!!」
 今度は戸塚のように押さえる者が居なかった。とっさの事だったから誰も反応できなかったんだ。
「戸部っち! 戸部っち!!」
 彼女は一直線にガレキに飛びつき、死に物狂いに動かそうとしている。
「戸部っち! 返事して!!」
 幸いにも揺れは収まり、アスファルト上に折り重なったガレキも、ピクリとすら動く気配は無かった。
「あああああッ!! 戸部っち!! お願いだから……お願いだがら返事じでよ――――ッ!!!!」
 涙と鼻水でくしゃくしゃになった姫菜が一生懸命持ち上げようとするが、ピクリとも動かない―――それが、どれだけ現実が残酷であるかを物語っている。
 発狂したような―――いや、あれは本当に発狂しているんだろう。
 修学旅行のとき、優美子や俺以上に現状維持を―――今の『仲間』という関係を壊したくない彼女にとって『仲間一人の死』は、世界の終わりに等しい絶望だったんだ。
 ―――絶叫しながらガレキを動かそうとする姫菜を茫然と眺め、結衣は能面のように表情の無い顔、瞳孔の開いた眼で、再び口を開いた。
「……ねぇ、ヒッキーは?」
「お兄ちゃん、どこ……?」
 ―――やめろ。
 ―――もう…やめてくれ……。
 こんな時、あいつなら―――比企谷ならどうするってんだ。
「はぁちまあぁぁぁぁああんッッ!! いま助けるぞおおおぉぉぉぉッ!!」
 姫菜の横に並び、ピクリとも動かないガレキを持ち上げようと、材木座君が絶叫する。
 ―――もう、こんな痛々しいやりとりをしないでくれ……。
 視界が歪む。ここはみんなを叱咤してでも、この場を離れさせるべきだが、喉と口元が震え、まともな言葉が出てこない。比企谷なら皆を罵倒し、自分に敵意や殺意を向けさせることで、みんなから『悲しみ』を忘れさせるんだろう。正直、それを真似することに、今の俺は抵抗は無い。
 でも……でもみんなをどう罵れば良いんだ? 何を言えば怒り狂う? ただでさえそういった知識に疎い俺が、戸部や比企谷の死による悲しみから来る激情が渦巻く頭で、思いつけることなど何一つとして無かった。
 すると優美子が、材木座君のとなりまで歩み寄った。そして両手で勢い良く彼の胸倉を掴んで巨体を持ち上げると、右手で彼の頬を思いっきり殴った。
 そして滝のような涙を流しながら叫ぶ。
 
 
「いい加減にしなよ! ヒキオは戸部っちと一緒に死んだんだよ!!」
 
 
 対する材木座君は尻餅をつきながら、普段の気弱そうな性格を忘れたかのように、物凄い形相で叫び返す。
「だったらどうしたぁッ! まだ生きてるかも知れないだろうがッ! 俺は諦めねぇッ!! 絶対に諦められねぇんだ!! うおおおぉぉぉぉッ!!!」
 そして再び、ガレキを持ち上げようとする。
 しかしガレキは一切動かない。
「お姉ちゃん……八幡……」
 ある程度落ち着いてきた戸塚が、涙を堪えようとし―――正面から川崎に抱きつかれた。
「川崎…さん……?」
「比企谷……比企谷ぁ…ううぅ……」
 そして声を上げて泣き始めた川崎に触発でもされたのか、戸塚も大声を上げて号泣する。
「由比ヶ浜さん、小町さん。立って」
「……ゆきのん、ヒッキーが―――」
「お兄ちゃんがまだ……」
「立って!!」
 雪乃ちゃんが二人の肩を掴んで立ち上がらせる。
「痛たっ、痛いよゆきのん……」
「雪乃さん、痛いです……」
 苦しそうに言う二人の頬を、雪乃ちゃんは平手で叩いた。『パァン!』という音が響き渡った後、叩いた本人は、二人を両腕で包み込んだ。
 
 
 
 
「……ごめんなさい。でも―――比企谷君が死の間際に感じた痛みは、決してこんなものじゃ無いはずよ」
 
 
 
 
 その言葉に、結衣と比企谷の妹の眼から涙が零れたかと思うと、二人とも声を上げて泣き出した。
 ……一方。
「ひっ…えっぐ……うぅ……戸部っち…戸部っちぃ……」
「絶対に……諦めねぇ……諦めたく…なんか…ねぇんだよぉ……」
「お兄さん…まだ小町さんとの仲……まだ認めてもらってませんよ……ッ!!」
 姫菜と材木座君、その横でいつの間にやら大和や大岡、川崎の弟までもが手伝っているが、ガレキが動く様子は無かった。
 
 
 やがて遠吠えのような材木座君の慟哭が響き渡った。
 
 



[41214] 2話 長い夜と、更なる絶望
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/05/23 22:08
 ――由比ヶ浜結衣サイド――
 
 真っ暗闇の中、中学の屋上で焚き火が一つ。
 それだけが、今のあたしに見える“色”だった。夜になったとたん、停電の影響と、更に言えば新月だったため、星以外は何も見えないくらいの暗闇である。今のあたしの心の中みたいだ。
 ……ヒッキーはあたしの全てだった。
 生まれて17年。普通の女の子としては、多少の恋はしてきたつもりだ。……もちろん、告白まではいかなかったが。そのどれもが『話していて楽しい』、『ちょっと格好良い』といった程度のキッカケだったと思う。
 でもヒッキーと出会った時は違った。
 目の前でサブレを抱えた男の子が、意識を失って倒れている―――あの時、恩義と罪悪感、そしてサブレが生きてて良かったという思いが胸を溢れて混乱し、ポンコツなパソコンみたいにフリーズしてしまった。……けど彼が救急車に乗せられるのを見届けた時、彼が身を挺して助けてくれた行動力に気づいたんだ。
 誰かが困ってたら助けようとする気持ち―――それは大抵の人が持っている。
 
 
 じゃあ車に轢かれそうになった犬を助けるのに“とっさに動ける人間”が、この世界にどれだけいるだろうか。
 
 
 少なくとも事故の日、あたしは運命的なものを感じた。
 そして後日後、お菓子を持ってお見舞いに行ったとき、小町ちゃんにリビングに通されたら、ヒッキーってばパジャマのままソファで昼寝してたんだ。ちょっとイケメン(目蓋が閉じられてるので、目が腐ってることには気付かなかった)だったのもポイント高かったね。そのまま彼の前で小町ちゃんとおしゃべりしてても、とうとうヒッキーは起きなかったなぁ。
 後になってから性格が最低だの、数え上げればキリが無い欠点ばっかだけど、楽しい思い出がたくさん作れた方だと思う。
 
 でも―――ヒッキー死んじゃった……。
 
 きっと今のあたしの目は、ヒッキーみたいな死んだ魚みたいになってるんだろう。
 ―――ヒッキーは、異性を意識するキッカケは些細なものだといった。手と手が触れたり、自分と趣味が同じだったり、自分と同じ委員になりたがったりするのを目にする時、『あれ? こいつ、俺のこと好きなんじゃね?』と勘違いし、告白して失敗すると言っていた。
 ……はたから聞いていれば酷い勘違いだと思う。
 そんな勘違いと痛い思いを繰り返してきたからこそ、ヒッキーは女子に―――ううん、人に期待をしなくなった。
 異性どころか同性でさえ、笑顔を向けてくる理由を『社交辞令』と考えるようになちゃった。
 挙句の果てに、あたしがヒッキーに話し掛けるようになった理由が『飼い犬を助けたからって、俺を哀れんで話しかけようとしたんだろ』とまで言われた。仮にサブレを助けただけで、あたしがヒッキーに特別な感情を抱いたとしても、それは勘違いだとさえ言われた。
 
 ―――冗談じゃない!
 
 とっさに誰かを救おうとできる素敵な人に、魅力が無いわけないじゃない!
 そして例え勘違いでも、あたしの気持ちまで否定なんてしないでよっ!!
 ヒッキーは、自分から歩み寄るなんてことを絶対にしない。……もう自分からは絶対にできないような、心の傷を負っていたんだ。だからあたしから歩み寄り、心のドアも壁も叩き壊して、知ってもらいたかった。―――あたしの気持ちを。
 でも―――。
 
 ヒッキーはもう居ない、この世のどこにも。
 
 また涙が滲んできた。
 辺りを見渡す。
 大きな焚き火を中心に、誰もが数人ごとにグループ分けして会話している。
 かく言うあたしの周囲には、クラスメートの優美子と姫菜、隼人君と大和君と大岡君。いつものメンバーだ。違うのは戸部っちが居ないことだけ。……たったそれだけで会話が弾まないのも驚いたけど……ごめん。たとえ戸部っちが居ても、今のあたしは何も感じなかったと思う。
「ヒッキー……」
 オレンジ色の焚き火を眺めるのも疲れ、膝に顔をうずめた。
 となりに座ってた優美子が口を開いた。
「結衣……ヒキオのこと、好きだったんだね」
「うん……」
 みんなの前で頷いてしまった。でも、もうみんなが茶化す相手は居ないんだ。―――この世のどこにも。
 顔を上げると、再び涙腺が緩んできた。
 それを敏感に感じ取ったのか、大岡君が慌てて笑顔を取り繕いながら話題を変えた。
「好きな相手と言えばさ? みんなはどんな異性が好みだったんだ? 俺なんかは気の強い女子に足蹴にされたいタイプ」
 ……下手に盛り上げようとしているのか、とんでもない事を言い出したね。しかも本気っぽい……。
 大岡君は周りにも話を振る。
「大和は? お前の好みってどんなん?」
 ―――なんだろう。話し掛けるまでは気付かなかったけど、大和君、なんか目が死んでるような……。
 大和君は、死んだ魚みたいな目のまま呟いた。
 
 
 
「俺は……すらりと背が高くて、髪の長い、モデルみたいな川崎が好きだった……」
 
 
 
『……………………』
 好みどころか、まさかの好きな人を指名。
 それも予想外の名前が出たことに、重い沈黙が降りた。
 たしかに川崎さんに惚れてる人からすれば、彩ちゃんに抱きついて泣いてた彼女を見たとき、何かしらのショックを感じると思う。あたしもヒッキーが他の女子に抱きつきながら泣いてるのなんて見たくないし。……でもあの時の川崎さん、たぶん彩ちゃんじゃなくても、誰の胸でも良かったっていう気分じゃなかったのかな? あの様子を見て初めて知ったんだけど、どうも川崎さんもヒッキーの事、好きそうだし。
 ……って、もう取り合えないよね。
 でも隼人君が話を掘り下げる。
「意外だなぁ。大和、大人しめな子より、明るいタイプの子が好みだと思ってたんだけど……」
 ―――むしろあたしとしては、意外ではあったけど少し納得もしてる。だって川崎さん、美人なだけでなく格好良いし。それに前にゆきのんが大和君のことを『反応が鈍い上に優柔不断』って判断してたけど、あれって本当なんだよね。だから静かに、けど確実に、自分を引っ張ってくれそうな川崎さんに惹かれるのも分からなくはない。
 大岡君は続ける。
「ふーん。じゃあさ、最後は隼人! 隼人の好みは?」
 ここで戸部っちの好みや、優美子や姫菜に、その手の話題を振らなかったのは賢明だったと思う。
 隼人君は苦笑いしながら、
「……言わなきゃ駄目か?」
「そりゃもち―――」
「無理して言う必要なんて無いよ」
 大岡君の言葉を遮って、優美子が断言した。
「下手に誰かの好みを聞いて、変に意識とかしてられる状況じゃないじゃん」
 ……うん、その考え方だと、大岡君と大和君は手遅れだよね?
 まあ優美子の気持ちは分かるけどね。いま隼人君に振られたら、たぶん優美子は生きようと思えなくなるかもしれないし。
 もしも―――もしもここにヒッキーがいて、この会話に入ってたらどうなってたんだろう? いつものように空気扱いされて質問すらされないかもだけど、もし好きな人を聞かれて、しかも誤魔化したりせずに誰かの名前を出してたなら……。
 
 意味が無いと分かってるはずなのに、叶わない妄想は次から次へと湧き出してきた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――川崎沙希サイド――
 
 
 由比ヶ浜達とは少し離れたところで、あたしは戸塚と並んで座っていた。
 すぐ近くには弟の大志(妹の京華は教室で寝かせてる)、比企谷の妹、雪ノ下、相模。隣のクラスの材木座まで座っている。……由比ヶ浜は葉山達のところにいるな。最近、あの子はこっちのメンツとつるんでる事が多かったのにね。ちなみにこのメンツでは、あたしと戸塚、雪ノ下以外は全員寝てる。
 ―――そーいや聞いたことがあったな。恋は些細なことがキッカケで落ちるものだって。
 あたしは前々から比企谷に恩があったけど、彼を意識するようになったのは文化祭の時からだった。
 
 
『サンキュー! 愛してるぜ川崎!』
 
 
 …………状況から察するに、あれはランナーズ・ハイって奴だと思う。
 ああ、そうだよ! 勘違いみたいなもんだったかもしれない。でも……あれから教室で、自然と比企谷を目で追うようになり、気付いたらあいつから目が外せなくなっていた。
 ずっとその事実を否定してたけど、あいつが居なくなった今こそ認めるよ。
 
 あたしは―――比企谷八幡が好きだ。いつの間にか惚れてしまっていた。
 
 そして腹の立つことに、これは片思いであり、あいつはそのことに気付いてない。
 ……って、可能性無かったじゃん……。
 トン―――と右肩に重みを感じた。
 見ると、戸塚があたしに寄りかかったまま寝ていた。
「…………」
 恋のキッカケが些細なものと聞いてはいたが、昼間みたいに誰かに―――それも男に泣きながら抱きついたことなど、今まで無かった。
 だからだろう。今はこいつの寝顔を見ていると、少し鼓動が早くなる。
 でも……今度こそ、それを認めたくはなかった。
 分かってはいるんだ。今度はこいつが好きになりかけてることに……。でもあたしは比企谷への想いを簡単に捨てたくはない。たとえあいつがもう、この世に居ないとしても。一度好きになった人への想いを否定したくはないんだ。
 戸塚自身はどうなんだろう。こいつに片思いの人でもいたのだろうか?
 ……いや、それは考えてはいけない。それが気になるということは、あたしが戸塚と付き合うことを前提とする時に出てくる疑問だからだ。
 あたしが泣き叫んだあの時、本当は誰でも良かったんだけどね。近くにいたのが男だろうが女だろうが、絶望に駆られたあたしは、号泣しながら誰かに縋り付いていたんだと思う。決して慰めなんかを期待してではなく、ただの本能だけで。……まぁ相手が雪ノ下や三浦だったなら、それこそ本能的に避けてただろうけどね。
 その点で言えば、戸塚が相手で良かったのかもしれない。他の男と違って、下心がまったく無い(……でもちょっと意識してほしい)し、おまけに優しさがある。修学旅行の時もそうだったけど、お化け屋敷でビビって走り出したあたしを、こいつは追いかけてきてくれたし―――でもお化けのお面を被って(←ゾンビ役から借りたんだって)脅かしてきたよね……。
 ……どうしよう。やっぱりこいつの事、好きなのかな。
 気分を紛らわせるために、周囲に目を配ってみると、雪ノ下と目が合った。
「……あんたも比企谷に気があったの?」
 何気なく聞いてみる。そういえばバー『エンジェル』で会った時、あたしと雪ノ下の口論で、比企谷を貶しまくったことがあったな。
 雪ノ下はゆっくりと頷いた。
「かすかながら、何度かそう思いかけたこともあるわ。……でも正直なところ、ようやく友達と認めてあげても良いかなって思うわ」
「……この期に及んでその程度だけ?」
 しかもかなりの上から目線である。
「逆に訊くけど、そういうあなたは彼のどこに好意を持ったのかしら?」
「いや、その……何だか急いでそうな時に助言したら『愛してるぜ』って叫んで走ってった時からだけど……」
 雪ノ下は頭痛を堪えるように頭に手を当てた。
「あの馬鹿は……」
「馬鹿だったけど、それ以来ずっと目で追うようになっちゃってたよ」
「典型的な初恋の例ね。じゃあ隣でもたれかかってる戸塚君は? 彼もある意味であなたの気を引いたのかしら?」
「…………うん。比企谷への想いを捨てたくないのに、今度は戸塚のことが頭から離れない。あはは……こーいうのを『尻が軽い』っていうんだよね。ほんっと最低だよ、あたし……」
 しばし雪ノ下は沈黙し、やがて口を開いた。
「二人以上に対して想いを寄せることは珍しくないわ、男も女もね。そもそも日本の夫婦は、3組に1組が離婚してると言われてるもの。高校生の恋愛―――それもまだ告白してすらいないのであれば、むしろ健全すぎるんじゃないかしら?」
「……あんたにはあるの? 二人以上に思いを寄せたことが……」
「…………ええ、あるわ」
 雪ノ下は少し逡巡し、それでもきっぱりと答えた。一人は今言ってた通り比企谷のことだろう。そしてもう一人は、あたしの知らない誰かか……。
「時の流れは傷を癒す薬とは言うけど、本当は大切な想いを風化させる毒だと、私は考えてるわ。……でもね、川崎さん。比企谷君のことを永遠に引きずるのなら、それはもう呪いだと思うの。だから比企谷君の死を乗り越えて、新しい恋をするのも一つなんじゃないかしら? たとえ比企谷君があなたと両想いで、地獄から今のあなたを眺めてるとしたら、きっと新しい幸せを掴んでくれることを望んでるはずだもの」
 確かにそうかも知れない。―――比企谷が地獄行き確定なのがではなく、新しい幸せがどうのという方がだ。
 もう一度、あたしはもたれかかってる戸塚に目を向けた。
 ……なんで男として生まれたかが理解できないほどの美女(じゃなかった美人)なのだろう。彼の唇を眺めていると、こう……吸い込まれていくような気が……。
「う…んっ……」
「わあっ、お、起きた!?」
 オーバーなリアクションをとってしまい、それを見ていた雪ノ下が小さく笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 真夜中、あたしは目が覚めた。
 寝つきの悪い奴というのはどこにでもいるようで、この女子部屋にもたくさんいる。
 しかも『ただ眠れない』だけならマシな方で、どんな夢を見たのか悲鳴を上げながら飛び起きる者、酷い場合にはメソメソとすすり泣き続ける者など、とにかく鬱陶しくて眠れない。
 あたしがそっとベッドから立ち上がると、隣で寝ていた相模が『トイレ?』と聞いて来たので『散歩』とだけ答えた。
 もう屋上には誰も居ないだろうと思い、階段を上りつづける。すると―――、
 
 
 ♪―――
 
 
 歌が聞こえてきた。それも綺麗な女の声だ。
 こんな夜中の、誰も居ない屋上から女の歌声―――もしかして怪談かとも思ったが、不思議と怖いとは思わなかった。むしろ心霊現象だったら比企谷に会えるのではとすら考える自分がいた。
 ―――でもすぐに別の事に気付く。
 この歌には悪意のようなものが感じられない。
 歌詞の内容も、死んでしまった自分が現世の恋人に『わたしはここ(音楽を記録する媒体的なとこ)にいるよ』と呼びかける内容の歌だった。
 しかも声が美しいだけでなく、歌の技量も高く、それでいて歌詞も良いものだった。自然と涙腺が緩んでくるのを感じる。
 ああ、この歌をあたしは知ってる。エゴイストっていう、あたしの好きなアーティストが歌ってる曲―――『プラネテス』だ。
 袖で涙を拭いながら屋上に出ると、そこには手すりを掴みながら空を見上げ、たった一人で歌いつづけている戸塚の姿があった。……女の声じゃないじゃん。
 
 
 ♪―――
 
 
 戸塚は一瞬だけあたしを振り向き、けど何事も無かったかのように、満天の星空に向かって歌い続けた。
 次から次へと涙が浮かんでくる、切なくも温かい、心のこもった歌だった。
 ―――いま振り返った戸塚、泣いてたな……。
 今さらながら、彼の涙に気付く。
 やがて歌い終わった彼女―――じゃなかった彼は背を向けたまま、少し悲しげに笑ってから涙を拭って言った。
「僕もお姉ちゃんも、エゴイストの歌が好きでさね、特にお姉ちゃん、この歌が好きだったんだ……」
 こいつの姉好きはシスコンなのかどうか、少し判断に迷うところだ。
 ……でも今この瞬間だけは、その事をからかう気にはなれなかった。当たり前じゃん。大事な姉の供養をしてるんだから……。
「―――歌、上手いんだね」
 あたしがボソッと言うと、戸塚は振り返り、照れたように頭を掻く。
「あ、あはは……。男の子が女性ボーカルを歌うのって変だとは思うんだけどね。……でもやっぱり好きなものを歌うのが一番だと思うんだ。例え人から『気持ち悪い』って言われてもね」
 戸塚は意外と筋の通った奴らしい。
 そんな彼に微かに感動し、少し誉めてやろうって気持ちが湧いた。
「確かにアンタの言う通りだよ。……でも安心しな。アンタの声ならどんな女の歌でも違和感ないし」
「あ、それ前にカラオケに行った時、小町ちゃんからも言われた」
 ひ、比企谷妹と、かか、カラオケ!? まさか二人きりで!? ってかあの妹、大志じゃなく戸塚狙いだったの!?
「前に由比ヶ浜さんの誕生パーティをした時、小町ちゃんまで八幡に着いてきたんだ」
 無邪気に笑いながら語る戸塚に、内心で膨れ上がった嫉妬が霧散して安堵し―――今度こそ安堵してしまった理由に気付いて顔が真っ赤になった。そして強い背徳感を感じた。
 
 
 今あたしの中で、とうとう比企谷より戸塚の方が好きだと、認めてしまった。
 
 
 まぁ今のところ、比企谷の時と同じく片思いなんだけどね。
 ……それに比企谷より好きな奴ができた、という事実に、軽く絶望すらしている。
 
 でも雪ノ下が言った言葉が蘇る。
 ―――『比企谷君のことを永遠に引きずるのなら、それはもう呪いだと思うの』と。
 ―――また『比企谷君の死を乗り越えて、新しい恋をするのも一つなんじゃないかしら?』とも言われた。
 
 でも……。
 でも、まだ『次』は早いんじゃない?
 一方で、家族や比企谷の死による悲しみや、お先真っ暗な未来に対する不安で潰れそうなあたしを支えてくれる人を、あたしは今この瞬間にも欲している。
 あたしが好きなのは……。
「ねぇ、戸つ―――」
「―――温かかったんだ」
「へ?」
 あたしが言いかけたことを遮って、戸塚は星空を見上げたまま、意味の分からないことを言った。
 首を傾げるあたしに構わず、戸塚は続ける。
 
「家族以外の女の子に抱きしめられたの、初めてだったんだ」
 
 ―――ッ!?
 
 体温が急上昇し、顔が真っ赤になるのを感じた。
 一方で戸塚は胸に両手を当て、目を閉じ、独白のように続ける。
「何かの障害なのか、それとも精神年齢が低いのか、僕にはまだスケベ心も、異性に触れてみたいって気持ちも無いんだ。でも川崎さんに抱きしめられたときから、安堵感と一緒に、何かこう……そばに居たいって気持ちが沸いてきたんだ。……今も沸き続けてる。たぶんこれが恋なのかなって思うんだ。―――もし『この気持ち』が僕一人だけでなく、川崎さんも一緒だっていうんなら―――」
 戸塚は普段からは考えられないほど真っ直ぐで真剣な目―――少し不安そうで、それも可愛らしいんだけど―――であたしを見据え、一度深呼吸してから言った。
 
 
「僕と付き合ってください」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――材木座義輝サイド――
 
 
 昨夜は遅くまで焚き火の近くに居たが、夜中の11時近くになって冷え込んできたので、一つ下の階へと降りて夜を明かすことになった。
 一応は男女別で部屋を分け、保健室から運んできたベッド―――は女が使う分しかなかったので、男は町で集めてきた布団を床に敷くこととなった。
 一応はすぐに寝付くことはできた。
 
 
 
 ―――八幡。
 お主、そんなガレキの下なんぞで眠っている場合か? あの中学生ながらも幼げな妹君を一人にして良いわけなかろう? どうせボッチのお主のことだ。他の仲間全員がこの震災で息絶えようと、お主だけは最後まで生き残ってしまうくらいのボッチぶりを見せてみろ。
 我は、ガレキの下で苦しげにうめく八幡に活を入れるべく、そのように罵った。
 だが段々と八幡の動きは緩慢になり、我に伸ばした腕が、力無くガレキの上に垂れ下がる。
 さすがに不味いと思い、その手を掴むべく、我も腕を伸ばした。
「はちまああぁぁぁん!!」
 自分の絶叫で目を覚ます。どうやら夢だったらしい。
 しかし、それは我だけではなく、何人かの男子にも同じ事が言えた。
 特にこの中学に避難してきている者の中には、総武高校とは縁の無い者が多い。寝る前に隣り合った玉縄(たまなわ)という海浜高校の奴なんて、今しがた『うわあああぁぁっ!?』と悲鳴を上げながら飛び起きたくらいだ。あー良かった、こいつに起こされるより先に起きられて。イケメンの悲鳴に安眠妨害なぞ、されてたまるか。
 とはいえ……。
「……随分とうなされておったな」
 さすがにこの災害時、ここにいる全員が家族の死体を目にしている状況だ。剣豪将軍たる我ですらこれほど辛いのだ。そこらの人間なぞ、我以上に参ってるに決まってる。少しは武士の情けでもかけねばなるまい……。
 玉縄は汗まみれの顔で我を見て、ややぎこちない笑みを浮かべて答えた。
「あ、いや……すまないね、見苦しいところを見せてしまったよ。……どうしても頭から離れないんだよ。父さんや母さん、それに姉さんの身体が、ガレキに押しつぶされる光景が何度も繰り返されるんだ……」
 姉さん―――という単語に、昼間の戸塚氏の姉君が非業の大往生を遂げた光景が目に浮かんだ。こやつも戸塚氏と同じ嘆きを体験したのかと思うと、少なからず胸が締め付けられる。
「…………俺たち、どうなるんだろうね……」
「分からぬ。ただ、もう学生ではいられないことだけは確実だな。仮に生き延びて、この地に留まるも、遠い親戚が住まう地に赴くも、もう就職するしか道はないであろうな。……学費ごと養ってくれる親戚でもいれば話も変わってくるだろうが」
 今はこうして助かっているが、まだ救助待ちの状態だ。少なくとも救助隊によって、仮設住宅のあるところに避難できるまでは命の保証は無い。そして今日という一日、ヘリコプター1機が飛んでるのを目撃しただけで、本格的な救助隊の姿どころか気配さえない。そもそも生き延びたところで、まともな未来が見えてこない。―――いや、まだ未成年であるゆえ、孤児院といった施設に入れるなら、まだ学生を続けられる―――いやいや、努力次第では大学も夢ではないのでは?
 ……まぁ、いい。
 今は生き延びる事だけを考えよう。―――あ、今の『まぁ、いい』って、某悪魔の口癖みたいだな!
 と、どうでも良いことを考えていると、学校全体が揺れだした。震度は2~3くらいの余震である。
 玉縄は余裕の無い笑みのまま問いかけてくる。
「な、なぁ。いま揺れたってことは、また―――」
 こいつが最後まで言い切るより先に、遠くの廃墟と化したビル郡から轟音が響いてきた。
 
 
 ズズズン!!
 ゴゴゴゴッ……!!
 
 
 昼間に八幡達の真上に降り注いだビル(耐震強度の低い奴)の上層が崩れ落ちた音である。むしろ今の崩落での揺れの方が、余震よりも大きく揺れたかもしれない。……災難な話だが、夜になってから何度も軽度の余震が訪れ、その度に今のような崩落が起こっているのだ。
 最初の内は、これを聞いて怯える者、悲鳴を上げる者、あのエビ女や由比ヶ浜のように涙する者などが後を絶たなかったが、それも段々と慣れてきた様子である。
「いま崩れたところ……あそこはまだ、食糧を漁ってなかった店があったな……」
 急に第三者の声がしたので、驚いて辺りを見渡す。するといつの間にか、玉縄とは反対隣の布団に、クソ・イケメンにしてクソ・リア充の葉山がやってきていた。窓の外を覗っていたようだ。ってか、お前も起きてたのかよ。
「……朝になったら、また食糧集めをしなきゃ駄目か?」
 我は―――いや俺は、震災1日目が終わった時点で、すでに精魂が尽きかけている。これ以上、危険な食糧探しをしたいとは思わなかった。しかし一方で、救助が遅れれば遅れるほど、水と食糧の問題は大きくなっていく。
 ……ちなみに汚い話だが、トイレはまだマシだ。水道が止まってるものの、屋上の貯水タンクがあるから、排泄物だけは流せる。……飲み水には向いてなかったが。
 葉山は少し俯き、それでも小さく頷いた。
「ああ、食糧は必要だ。今は精神的に参ってて歩きたくないだろうけど、いずれ空腹で頭がおかしくなってくる。そうでなくとも栄養バランスの偏りと、極度のストレスで体調を崩す人は出るだろう。最悪、死人が出る可能性もある」
 ……嫌になるくらい的確すぎる未来予想だ。
 それこそ明日にでも救助ヘリに助けられでもしない限り、その予想は現実となる。
 まぁ食料集めくらいなら、多少の面倒も鬱も我慢しよう。
 しかし、それより先に提案しておきたい事がある。
「―――なぁ、葉山」
 俺が呼ぶと、奴は少し驚き、そしていつもの微笑み―――もとい薄ら笑いを浮かべて言った。
「君が俺の名前を呼んだのは初めてだね、材木座君。なんだい?」
「みんなを連れて隣の県―――いや、せめて地震の被害を受けてないところまで移動するというのはどうだろうか? 避難民として、多少は窮屈な大部屋で、赤の他人と寝泊りすることは変わらないが、少なくとも食糧も身の安全も、最低限は保たれるはずだと思う。今は何事も無いが、もし大きめの余震が来て、しかも津波なんかが起これば、例えこの学校は残っても、外は歩く隙間の無い状態になる。食糧確保は不可能だ。その状態で何日も救助を待つのは危険かもしれない」
 最後、『かもしれない』と締めくくるのは、下手に断言すると、いざ遠くへ移動する際に不備が起こったとき、俺のせいになる可能性があるからだ。だからさり気なく提案し、全てこいつの判断だったことにするためである。
 言ったとたん、葉山も玉縄も腕を組んで考え込んでしまった。
 ……まぁ気持ちは分かる。俺も真剣に考えてるからだ。このままここに残っていれば、いつかは津波が来るかもしれない。杞憂で済めばそれでいいが、もし来た場合、これ以上ここに篭城することは餓死を意味する。だったら倒壊したビル・民家の建築材が散らばり、所々で大きな亀裂が入っている『道路』が津波で流される前に移動した方が賢明であり、危険ながらもまだ『安全』である。
 やがて葉山は大きく頷き、
「分かった。明日の朝、みんなの前で提案してみるよ。……ま、仮に移動するにしても、食糧集めはしないといけないけどね」
 ……思えば、こいつと初めて会話したんじゃないだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――相模南サイド――
 
 
 あたしの人生って―――何だったのかな?
 
 人よりも下に見られたくはない、と考えながら、今まで生きてきた。
 小学校3年生の頃、クラスでイジメ―――というよりは、弄り甲斐のある男子がいた。
 その子はいつもみんなからハブされたり、笑い者にされたりしていた。確かヒキ―――ガエルだっけ? そんなわけないか。まぁややこしいからヒキガエルでいいや。
 ある時、『○○菌タッチ』というのがクラスで流行った。
 一応、当時でも陰湿なイジメの一種として、授業中に先生が言っていたし、あたしもそう思っていた。
 ただ、まぁ……こいつなら良いかな? って軽い気持ちで、彼がクラスのみんなから弄られてるのを笑ってみていた。ある種のショーのようなものだった。
 ある日の昼休み、とある男子があたしに向かって『ヒキガエル菌タッチ!』とか言いながらタッチしてきたのだ。
 他の男子と同じように、あたしも鬼ごっこ気分で誰かにタッチしようとしたが、当時から足の遅かったあたしは、結局誰にもタッチできないまま休み時間が終わってしまった。
 その日の放課後、クラスのみんなが、あたしを見てクスクスと笑っているのを見かけた。
 そして聞こえてくる、心無い言葉。
「ねぇ、あいつヒキガエル菌を持ったままなんだぜ?」
「3秒ルールならぬ1時間ルールだね。今ごろは身体中に菌が回って手遅れに―――」
「きゃー、こわーい」
 ……その時のみんなの目、まるでヒキガエル君を見る時と同じだった。
「ねぇ香織ちゃん、一緒に帰ろう?」
 あたしは、いつも一緒にいる幼馴染みに声をかけた。
 でも香織ちゃんは、みんなと同じ目であたしを見て―――
 
 
「……え? やだよヒキガエル菌持ってる人となんて……」
 
 
 次の瞬間、あたしは香織に掴みかかっていた。
「先生ーっ! 相模さんが折本さんとケンカしてるーっ!!」
 ……思えば保護者が来るほどのケンカ騒ぎを起こしたのは、あれが最初で最後だった。
 友達だと思っていたのにあの女……いや、やめておこう。当時から上面だけの友達付き合いしかできないあたしにとって、あの自称『サバサバ系』との会話から、いつの間にかあの女を友達と勘違いしていただけだ。それにケンカ(というにはあたしから一方的だった気もする)の最中、鼻血が出ても顔を殴っちゃったんだし、おあいこだよね、たぶん。
 その数ヵ月後、お父さんの仕事の都合で隣町の小学校に転校したけど、あの日の出来事が、今の『人よりも上へ』という性格を形作らせたんだと思う。常に人の上に立ち、ヒキガエル菌タッチみたいな『からかい』の対象に選べないほどの、クラスの中心人物に。―――子供っぽく言えば、ガキ大将みたいに……。
 中学校一年でのクラスの地位は―――少なくとも前半は『中間』といった。
 スクールカーストの下に見られてるわけでなく、かといって特に目立つわけでもない。
 それが悔しくてあたしは―――あたしは!!
 
 
 
 ―――――中二病になってしまったんだ……。
 
 
 
 弟の持ってたゾンビパウダーっていう古い漫画にハマり、主人公の『鎧に包まれた右腕だけで銃弾を払いのける』、『剣と一緒に黒い炎を操る』、その他もろもろの設定に強くあこがれ、人目も憚らずに奇行を繰り返すようになった。当然ながら、主人公の「俺が欲しいのは『狂気』じゃねぇ……『力』なんだよ!」などといった名台詞なんかは、日常的に人前で叫んでたなぁ。特にヒロイン(?)のウルフィーナが、昏睡状態の弟が目を覚ましたら怒るだろうかと怯えてるところで、彼女の胸倉を掴んで叫んだセリフは最高―――いや、いい。卒業したんだったね……。
 幸い、高校受験を向かえる頃には恥を知り、誰も受けないであろう総武高校を目指したんだ。
 ―――実は同じ中学に、もう一人だけ総武高校に合格した奴がいたらしいけど、噂によるとそいつはイジメから逃れるためだったみたいだから、特に気にはしてない。おまけにそいつとのつながりも無いし、また昔のあたしとは髪型や化粧がぜんぜん違うから、たとえ擦れ違ったとしても、『あの時の中二病』と気付かれることはないだろう。
 そしてあたしは春休み中にファッションしを読み漁り、『今時な女子高生』という雰囲気作りに励み、更には女子トークさえもネットを通して勉強した。
 結果的として、高校1年生の間はクラス内でトップに君臨していた。ドラえもんに登場するジャイアンというのも、きっとこの心境だったのだろう。
 問題は2年生になってからだ。
 クラスには、あたしよりもスクールカーストの順位が上な奴が多かった。特に葉山君を中心とするメンバーだ。……あそこには異常なものを感じた。正直、大和とか大岡などといった小物臭のする連中ですら、あのメンバーにいるだけでカースト順位が上がったように感じられるのだ。
 対するあたしは2番―――いや中の上だね。
 1年生の頃につるんでいた結衣ちゃんですら、いつの間にか葉山グループに入っていた。
 ……だから結衣ちゃんには少し嫉妬している。なまじ空気読みに長け、なのに『クラスの上位になりたい』という意思が欠片もない結衣ちゃんだ。そんな彼女がどうしてあたしよりも上に……?
 って、長々と独白したけど、“今のあたし”はこう思ってる。
 
 
 
 
 ―――― 全 部 ど う で も い い ――――
 
 
 
 
 昨日の地震のせいで、家族が死んだ。
 
 お父さんもお母さんも―――みんな死んじゃった……。
 遊戯部に入ってた弟だけは見かけてないけど、あいつは地震さえなければ土曜日だから昼まで寝てたはずだし、あたしじゃ重くて持ち上げられなかったガレキの下で潰れてるんだろう。
 それだけでこんなにも鬱になるなんて、それだけ家族の情は、友情より強かったんだね。……今のところ、友達が死んだという話は聞かないから、友情が喪われる悲しみは分からないけど。
 もう生きようという気力が沸いてこなかった。世の中にはあたしと同じ境遇の者が集まる孤児院なんてものがあるけど、ああいう所にいる子って、あたしよりも心が強いのかな? それとも長く孤児院にいると、家族の死を受け入れた上で、前を向いて生きられるようになるのだろうか……。
 ああ、本当にどうしよう。
「みんなー! 話したいことがあるから屋上に集まってくれー!」
 女子部屋の前で葉山君が叫んでいた。彼もご両親を亡くしたのに、みんなを助けるために頑張ってるんだな……。
 正直、ヒキタニに言われるまでもなく、あたしは最低な人間だと自覚している。でも心が強いかと言われれば、むしろ弱すぎるくらいだ。だから葉山君みたいに『みんなを率いて生き延びよう』という動きができない。……まぁ、だからといって家族を追って自殺したいとも思わないんだけどね。死ぬの怖いし……。
 あたしは葉山君の呼びかけに応じた三浦さんに続き、女子部屋を後にした。
 
 
 
 
 屋上に着くと、ちょうど朝日が降り注いできた。時刻は7時30分。学校との距離から早起きせざるを得ない限り、大抵の学生が朝食を食べる時間である。……というか、昨日の昼食と夕食も屋上で食べたことを考えると、葉山君からの話が無くても、みんなここに集まったことだろう。
 葉山君は、集まった学生や少数の大人達を前に、声を張り上げた。
「みんな、よく聞いてほしい。今のところ津波は来てないけど、それでもこの町は日本海に面しているから、いつ来てもおかしくないんだ。そして救助を待つ間、餓死者が出ないために食糧集めをしているけど、もし津波が来れば、とてもじゃないが町は食糧集めどころか、歩く事すらできない状況になるかもしれない! だからそうなる前に、津波が来ないところにまで避難すべきだと思う!!」
 誰もがざわめきだした。
 そりゃ、あたしだってかなり動揺してる。
 正直、ここにいれば、数日後には救助されると思っていたからだ。でも彼の言う通り、いつ津波が来るか分からない状況で、何日もここに拠点を置きつづけるのがどれだけ危険か、分かる気もする。
 続けて、葉山君のとなりに立ってた玉縄って人が口を開く。
「今すぐとは言わない! ここは全員出話し合って、ここに残るべきか移動すべきかを―――」
 と、そこまで言った玉縄の肩を葉山君は掴み、黙らせた。
「いや、話し合う時間は無いよ。仮に思い過ごしだとしても、歩く手間が増えるだけだ。もちろん移動には崩落物なんかの危険があるけど、それは食糧集めと変わらない。事は一刻を争う。だから今日の午前10時までは食糧集めに費やし、それから一旦ここに集まって、西へ移動しようと思う! 移動する意思のある人だけ着いてきてほしい。怪我をしてても、肩を貸すくらいならする」
 彼の話は以上だった。
 重い沈黙が降りる。話し終わった後、雪ノ下さんが葉山君に話しかけた。
「随分と思い切ったことを言うようになったわね」
 すると彼は困ったような笑みを浮かべつつ、
「……まぁね。下手に優しさを見せるんじゃなく、強引にやらないと救えない事もあるって気付いただけだよ」
 ―――なんだろう。彼に気がある三浦さんとの会話とも少し違う。普段、この二人が話してるとこは見ないけど、実は知り合いなのだろうか?
 
 
 
 しばらくザワついた空気になっていたが、移動するにしろ、残るにしろ、食糧や物資は調達しなくてはならない。誰もがどうするか悩みながらも、惰性的な動きで階段を降り始めた瞬間―――それは起こった。
 
 ―――キシキシキシ……
 ―――カタカタカタ……
 
 もう何度も体験する余震である。しかも微々たる揺れだ。正直、今さらこの程度で誰も動揺なんてしな―――いと思った次の瞬間、かつて無いレベルの揺れが、学校を襲った。
「で、でかいぞ!?」
「ガラスが! ガラスが一斉に割れたわッ!!」
「ってか、壁や床にヒビが入り始めてるぞ!?」
「く、崩れッ……崩れる! すぐに外まで逃げろ!!」
 さすがにヤバいってことは、あたしにだって分かる。一目散に逃げるに限る。―――と思ったところで、怪我人(足に即席ギプスを着けている老人)が目に止まった。あたしが肩を貸そうとすると、それに気づいた葉山君や三浦さんも加勢しようと駆け寄ってきた。
 しかし怪我をした老人は、あたし達の手を振り払って怒鳴った。
「ワシに構っとらんで、生き延びぃガキども!!」
 老人とは思えないほど鋭い目。あまりの迫力に押され、あたし達は一歩引いてしまった。―――でもすぐに相好を崩し、暖かな笑みを浮かべ、老人は言った。葉山君にではなく、“あたし”に向けて。
「人は窮地に立たされ、初めて本性が現れる。―――とっさに手を差し伸べてくれたその優しさ、大事にしなさい」
「ですが……ッ!!」
「爺さん、人の好意を無駄にすんなって……!」
 葉山君と三浦さんが叫ぶが、老人は微笑んだまま言った。
「娘夫婦や孫達に先立たれたままでいるのは辛い……。ここで終わらせてくれんか?」
 老人が言った瞬間、彼の頭上が崩れてガレキが降り注ぎ、一瞬で姿が見えなくなった。
 あたしと三浦さんが息を飲む。 
 葉山君が、老人に無言で頭を下げた。あたしと三浦さんもそれに習う。
 不意に涙が溢れてきた。ずっと最低な自分を自覚していたのに、あの人はあたしの良心を認めてくれた。見ず知らずの人なのに認めてくれたんだ。なのに―――なのにこうして見捨てた!!
 涙で滲む視界の中で、三浦があたしの手を取って走り出した。
 走りながら階段を降り続ける。途中、天井が崩落をし始め、コンクリート片や鉄骨が天井から降って来る。
 何とか無事に校舎から抜け出し、グラウンドの真ん中あたりまで走り、そして振り返った。
 未だに揺れつづける校舎は、とうとう轟音と砂煙を上げて崩れ去った。まるで建物の爆破解体のような光景である。
「今ので……あのお爺さん、死んじゃったよね?」
 三浦が言うと、葉山は頷いて続けた。
「……ああ。まただ……また俺は助けられなかった……」
 グラウンドを見渡すと、人が減っていた。……総武高校のメンバー全員と、ヒキタニ妹、川崎の弟と妹は無事だけど、それ以外は数人しか見当たらなかった。きっと校舎と運命を共にしたのだろう。
 海老名さんが膝を着いた。
「もう…やだよ……こんなの、もう……もうやだぁ……」
 嗚咽混じりに絞り出した声に、誰も答えようとはしなかった。……ううん、できなかった。
 これからどうしようか。
 これだけ大きな地震が来たんだ。今度もまた津波を心配しなくちゃいけない。……でも校舎は壊れちゃったから、次の避難場所を見つけないと―――。
 ―――あれ?
 何だろう、なんでまだ生きようとしてるのかな、あたし。
 彼女の前に立ち、ほぼ無意識に口から言葉が出てきた。
 
 
「海老名さん、生きようよ。死んだヒキタニや戸部、あなたの両親も―――今のあなたが会いに行ったら怒ると思うんだ。だから……だから生きよ? 生き残った友達、守り抜かないと。ね?」
 
 
 海老名さんが顔を上げた。思えば彼女とまともに会話したの、これが初めてだな。
 彼女は袖で涙を乱暴に拭い、あたしの手を取って立ち上がった。……その目は、まだ強い意思など欠片も無く、ただただ虚ろではあったけど、これも長い時間をかけてゆっくりと笑顔に戻せばいい。
 ふと視線を感じ、そちらを振り向いた。
 すると三浦が、あたしをギョッとしたような顔で見ていた。
「……なんか変わったね、相模。修学旅行までの暗い感じが無くなってるっていうか……」
「色々あったからだよ。なんか……あのお爺さんの言葉が胸に残ってさ。―――さ、みんな! ちょっと大変だけど移動しよう? 津波が来る前に次の避難場所を見つけなきゃ。食糧集めはその後。それも終わってから、絶対に津波が来そうに無いところまで移動だよ」
 
 
 ―――人は変われる。
 
 
 昔からよく聞く言葉だけど、少なくとも今だけは信じたい。今、あたしも時間をかければ変われるんだって。
 ……ひょっとしたら一時的なものかもしれない。数日経ったら普段のクズな人間に戻ってしまうかもしれない。でも、今のあたしの胸の中で、あのお爺さんの最後の言葉が温もりをくれている。だからみんなを安全なところに連れてくまでは、この想いを捨てたくはない。
 
 
 ―――でも。
 せっかくみんなをまとめ上げたのに、運命はあたし達を嘲笑うかのように、酷な方へとみんなを導いていく。
 
 
「……ッづああああぁぁぁぁッ!!?」
 
 
 突然響き渡った悲鳴に、誰もが振り向いた。
 そこには―――大きな熊が、玉縄って海浜高校の人の喉笛を食いちぎる光景があった。
 更に周囲から、3匹の熊があたし達に狙いを定め、じわじわと近づいてくる。
 ―――動物園から逃げ出してきたんだ……。
 そう思った瞬間には、3匹は殺到してきた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――海老名姫菜サイド――
 
 
 走りすぎて、酸欠のせいか脳みそが痛かった。
 どちらかといえば『痺れる』といった感じの痛みである。
 なんであたし達、こんな目に遭ってるんだろう? 地震なんて日本中のどこでも起きるし、有名な震災だってテレビの中でしか見ないような、どこか遠くの地の出来事だったのに……。
 あの熊たちから逃げるうちに、更に何人かが襲われた。―――その際、助けを乞う彼らを見捨ててしまったけど、悲しみよりも助かったという安堵が先立ってしまい、物凄い罪悪感がする。
 ……生き残っているのは、もう顔見知りである総武高校のメンバーと、サキサキの弟と妹である大志君とけーちゃん、ヒキタニ君の妹である小町ちゃんだけだ。
 近くで大和君が呟いた。
「ここまで逃げれば追って来ないか?」
 現在は学校を出て、海から離れるべく西へと移動し、ちょっと広い大通りを歩いている。
「ああ、とりあえずは逃げ切ったな。……助けられなかった人もいたけどな」
 隼人君が悔しそうに言う。それを聞いていた雪ノ下さんも、俯きながら唇を噛みしめている。
 相模さんが首を横に振り、ゆっくりと口を開く。
「仕方なかったよ。あの人たち、最初に急所を噛まれてた。―――あの状態から助けても失血死は確実だったし、下手に助けに入れば死体が増えるだけだったよ」
 ……ぼんやりとした頭でも分かる。相模さん、どっちかといえば自分から真っ先に逃げるタイプなのに、冷静に周りの状況を見ている。チャンスがあれば絶対に助けようという覚悟を感じる。さっき歩きながら聞いたことだけど、崩れゆく校舎内で助けそこなったお爺さんの言葉というのが、それほどまでに彼女の心を突き動かしたのだろうか。
「けーちゃん、大丈夫か?」
「う、うん。へーき……」
 サキサキ妹は、大和君が背負っていた。熊から逃げる時、この中で一番足が遅い子は、一番の力持ちが担いで走るに限る。……でもサキサキ妹も、人の断末魔の悲鳴や光景を目の当たりにし、精神的にかなり参ってるようである。まだ泣き叫んだりしないからマシだけど、いつかは心のタガが外れるんじゃないかと思う。
「沙希ちゃん、大丈夫?」
「ああ、これでも体力には自信があるからね。ありがと、彩加」
 ……こちらは戸塚君とサキサキ本人。いつの間にか名前で呼び合う仲になっていた。そんなにイチャついてはいないけど、あまり仲良さそうなとこを大和君に見せないでほしいな。でないとホラ。大和君、地面に降ろしたけーちゃんを見つめながら、サキサキの面影を見出そうとしちゃってるじゃない。なまじ体格が大きい分、余計に犯罪臭がしてしまう。
 大岡君が腕組みしながら言う。
「このまま西に向かうのも良いけど、あの地震からかなり経つのに津波が来てないじゃん? だったら、どっかでまた食糧や物資を調達しても良いんじゃないか? まぁ、ひょっとしたら来るかもしれないけど……」
 提案というよりは、下手にみんなを混乱させかねない発言だった。
 熊に追われてて忘れていたが、そこそこ耐震強度のある学校(……少しボロかったかも)が壊れるほどの地震が来たのだ。それにともなう津波というのも、東日本大震災のように数分で来ることもあれば、数時間かかる可能性もある。
 一応はけーちゃん以外全員が、それなりの物資を詰めたリュックを背負っているが、これもいつまで持つか分からない。今すぐではないが、そう遠くない頃には無くなるだろう。そしてあたし達は、津波の来ない所―――つまり都心から離れた所を目指している。そこが田舎であれ、何も無い山岳地帯であれ、物資の調達は見込めない。
 重い沈黙。
 しばらくして雪ノ下さんが口を開いた。
「……可能な限りの物資を集め、津波が来れば近くの建物に避難。誰か一人が海岸方向を見張ってれば問題無いわ」
 続けて隼人君も、
「どこかで車でも調達したいな。何らかの店先に停めてある車なら、店内にキーの持ち主がいるはずだしね。……持ち主は死んでるだろうけど」
 ……死体から物色するのは普段なら気が引けるとこだけど、今は不思議とそれほど苦に思えそうになかった。雪ノ下さんも隼人君も、この状況なのによく頭が回るなぁ。特に車は欲しい。歩かなくて済むし。仲間が死んでから丸一日経つけど、未だに落ち込んでるの、あたしと結衣だけなんだよね……。
「ねぇ、姫菜」
 考え込んでいたら、その結衣が話しかけてきた。あたしもあまり人のこと言えないけど、結衣の目、死んでから更に腐ってて、目の回りにクマができてて―――少し怖い。この子、本当にあの明るかった結衣なのだろうか?
「姫菜は戸部っちのこと、好きだったの?」
 昨夜、みんなが気を使って訊いてこなかった事を、結衣は遠慮無く訊いてきた。
 あたしは正直に答える。
 
 
「分かんないよ……」
 
 
 それがあたしの出した答えだ。
「修学旅行の時、みんながあたしとくっつけようとしたのは気付いてたけど、あの時点では戸部っちのこと、何とも思ってなかった。……でも戸部っちが死んだ時から、すっごいモヤモヤしてるの……。『好き』なのか、『何ともない』のかが分からなくなってる。何かは感じるんだけど、それが失恋なのか、友達を失った悲しみなのか―――」
 最後まで言うより先に、『それ』は現れた。
「グルルルル……」
 あたし達が歩いて来た方角から、4匹の熊が現れた。……さっき見たときは気付かなかったけど、これってグリズリーだよね? たしか地球上で一番凶暴な熊だったはず……。
「みんな散開しろッ……!!」
 隼人君が叫ぶのと、熊たちが突進してきたのは同時だった。
 誰かが犠牲になる―――と思った次の瞬間、
 
 
 ―――ドゲシャッ!!
 
 
 重々しい音と共に、柔らかい物が潰れる音が、辺りに響き渡った。
 熊たちの真上から、エアコンの室外機が落ちてきたのだ。内、2匹が頭を潰され、地面に血溜まりを作り、大和君がけーちゃんの視界にその光景が入らないように目隠しする。
 誰もが慌てて上を見ようとする中、雪ノ下さんが叫んだ。
「今の内に走って!!」
 一瞬だけ遅れたものの、熊たちより先に我に返り、誰もが走り出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 みんな別々の方向に逃げ出した。
 ……なのに、あたしだけを1匹の熊が追ってきた。
「ちょ、なんでっ…なんであたしだけっ!?」
 さっきから裏路地ばかり選んで逃げてるからか、本来なら人間より早い熊も、追いつけないでいた。……しかし振り切れてもない。
 そして普段はあまり歩かない路地だったため、とうとう行き止まりにまで来てしまった。
 3方向が高い建物に囲まれた行き止まり。窓を割って侵入しようにも、窓そのものが高すぎる。完全なまでの行き詰まりだった。
 その状況を察してか、熊がゆっくりと近づいてくる。自らの勝利を確信しているかのようだった。
「いや……来ないで………」
 足が竦んで、座り込んでしまった。尿意でもあれば漏らしてたかもしれない。
「誰か…誰か助けて……」
 熊が牙を剥き、あたしの目の前で2本足で立ち、両腕を振り上げた。
「誰か助けて――――ッ!!」
 死を覚悟した次の瞬間―――。
 
 
 
「―――ぅぉぁぁあああああああああッ!!」
 
 
 
 真上から強烈な雄叫びと共に、何かの棒を握った人影(声からして男)が空から降ってきた。―――そしてその棒は、振り上げられた熊の腕を貫き、脳天から股間へ抜け、太腿から足首まで貫通させ、降ってきた人間は落下の勢いを殺して着地した。そんな雑技団じみた光景を見ていたあたしは、生まれて初めて男の人を『格好良い……』と思い、惚れぼれした。
 そして彼が振り向き、あたしと目が合った瞬間。
 
 
 
「「―――あ」」



[41214] 3話 生きる希望と、再会
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/05/24 15:39
 時間は前日にまで遡る。
  
 ――比企谷八幡サイド――
 
 
 ……つくづく神様ってのは俺が嫌いらしい。
 こうして俺と戸部が生き残ったまでは良い。あの時、足場が崩れて地下鉄駅のホームに放り出され、しかも運良く着地点で潰れて死んでいた人々の上に落下したから怪我すら無かった。そして更に幸運なことに天井の大穴にコンクリート片が詰まって、それ以上の落下物が無かったのだ。……まぁ強いて困った点を上げるなら、服が死体の血を吸いまくって重くなったことと、ホームから地上に上がる階段が崩れて塞がれていることだろうか。
 
 ―――ん? むしろ神様に愛されてるんじゃないかって?
 
 バカ言え。
 俺らみたいなぼっち(……戸部もだっけ?)が生き残って何になるってんだ。地上で俺たちが走ってた集団の真上を、あれだけの建築材が降ってきたんだ。小町も由比ヶ浜も雪ノ下も、そして他の連中も―――生存確率が絶望的だ。
 同じ事を、すでに戸部も気付いてたらしい。
「な、なぁヒキタニ君……海老名さん、無事だったかなぁ……?」
 余裕の無い笑みを浮かべながら訊いてきやがる。そういえば本当なら海老名さんも、ここに落ちてくるはずだったよな。なんたって巨大なコンクリート片が俺たちの真上から落ちてきた時、海老名さんもすぐそばに居たし。
「まぁ、俺が落ちる寸前、由比ヶ浜と三浦が引っ張ってたからな。あれに潰されたって事は無いだろう」
 正直に言うと、戸部の顔がバカみたいに輝いた。
「ほ、ほんとかヒキタニ君!!」
「ああ。でもあれだけ建築材が降ってた状況だ。あの直後に上のみんなが別のガレキに潰されて死んでても、なんの不思議もない。いや、むしろその可能性が高い。あと俺はヒキタニじゃない」
 戸部は少し考え込み、そして力強い声で言った。
「それでも……俺、みんなを探しに行きたい。自暴自棄になるのも自殺するのも、みんなが―――海老名さんが生きてるか確認してからでも遅くない」
 ―――こいつ、こんなに意思の強い奴だっけ?
 心底そう思ったが、よくよく考えれば今は災害時だ。『人は簡単には変われない』という持論はあるが、少なくともこれほどの大災害を目の当たりにし、かつ家族達が死んでいる状況である。さすがのチャラ男も、少しはシリアスになれたのかもしれない。むしろこれで変われなければ、ある意味でそいつは大物なのかもしれない。……なにそれ俺って大物じゃん。
 しかし戸部の言う事にも一理ある。
 まずは上のあいつらが生きてるかどうかは確かめないとな。……俺らだけが生き延びてるって思い込んだままなのも寝覚めが悪いし。
 地下鉄に落ちたからには、道―――もといレールは2方向ある。とりあえず片側はさっきガレキで埋まってしまったので、もう片側しか道が無い。俺と戸部はゆっくりと歩き出し―――そこで一番損壊の少ない死体を見つけた。胸に鉄骨が刺さっているだけだった。
 
「戸塚!? ―――の姉か」
 
 俺は彼女の開いた目蓋をそっと下ろし、黙祷を捧げた。それを見ていた戸部も、十字の印を切り、続けて合掌する。……お前んち、何教だよ? アイザック・ディアンかよ……。
 
 
 
 
 
「しっかし、まぁ……俺ら運良すぎじゃね? 地下鉄に落ちたのもだけど、怪我無いのも。……あの人達には悪いけど」
 後半はゴニョゴニョとして聞き取りづらかったが、罪悪感を感じていることは分かる。しかし、俺達が彼らの上に着地せずとも、結局は地上からここまで落ちたなら、普通に死ぬか、粉砕骨折になっているはずだ。そう考えれば、俺達は彼らに生かされたといって良い。
 延々と続く暗闇の中、戸部がスマホで時々前を照らしながら口を開く。……たぶん不安(海老名さんの安否)から逃れようとしているのだろう。
 とはいえ、まだ次の駅すら見えてこない。
 地下鉄の駅と駅の間がさほど離れてないのは知っていたが、それを徒歩で行くとなると話は別だ。いつになく遠く感じてしまう。おまけに真っ暗闇だ。正直、スマホの明かりが無ければ、自分の手が見えないどころか、目蓋を閉じた事にすら気付けない。
 どれだけ歩いただろうか? やがて遠くの方に明かりが見えてきた。次の駅だ。あそこはまだ停電していなかったらしい。
 線路からホームに上がり、駅名を確認する。どうやら総武中学から結構離れたところらしい。
「ヒキタニ君、階段は!?」
「崩れかけてるが、まだ塞がってない!!」
 俺達は一気に階段を駆け上がり、改札口に出たとたんに血の臭いが漂ってきた。閑散とした切符販売機の周辺は、あちこちで天井が崩れ、その落下物の下敷きになった人々の死体が、ある者はうつ伏せで血溜まりに沈み、またある者は虚ろな目を、あるいは恐怖と激痛に見開かれた目を天井に向けている。
 
 ―――もしも小町たちがあそこで死んでたら、こんな感じになるのだろうか?
 
 駄目だ、不安に押しつぶされそうになる。
「うっ、ううっ……海老名さん…海老名さん、無事だよなぁ……」
 こいつも同じ事を不安に思っているようだ。しかし泣いてる男って鬱陶しいな。あ、でも泣いてる女は、鬱陶しいどころか痛々しいから男の方がマシかもしれない。
 駅から外に出る。
 すでに夕方になっていた。……地上から落ちて、いったい何時間くらい気絶してたんだよ、俺ら。改めてスマホで確認すると16:00と表示されてた。
 地下鉄に落ちる前に歩いてた町と異なり、こっちはまだ高層ビルが少ない。……もちろん廃墟になってはいるが。
 戸部がキョロキョロと辺りを見渡しながら聞いてくる。
「……ってか、ここどこよ? 知ってる駅前なのに、町が変わりすぎて中学がどこにあるかが分かんねぇし……」
「あっちだ。駅を出て右だったのを覚えてる」
「そっか。サンキューな、ヒキタニ君」
「よせよ、友達かと思っちゃうだろ?」
「ひどくない!?」
 HAHAHA! と笑ってやると、戸部も笑い返してきた。どうやら冗談だと『勘違い』したらしい。
 俺達は中学に向けて歩き出した。
 とはいえ、道路が壊れた建築物や事故車などのせいで、歩くのに時間が掛かる。
「なぁヒキタニ君、この調子で歩けば、あとどれくらいで着くと思う?」
 数学や計算は苦手だが、この程度なら予想できた。
「……あと2時間ってとこか」
「そっかー、2時間かぁ……頑張らないとな」
「いやいや頑張れる時間じゃないだろ? それにもうすぐ日没だ。暗闇の中で出かけたら、遭難して野垂れ死ぬか、下手すりゃ夜中に余震が起きて、津波まで起こって流されるぞ? 今の内に『津波からの避難所』のマークが描かれた建物を探して一泊する準備をしねぇとな」
 津波からの避難所のマークが描かれた建物なら、耐震強度も抜群であろう。幸い、近くにそのマークのある、背の低いビルを見つけた。
「いや、しかしヒキタニ君よぉ……」
 戸部はなおも食い下がってくる。今すぐにでも海老名さんに会いたいのだろう。びっくりするくらい愛に生きる男になっちまったな。
 しかし、ここで下手に説得しようとすると、こいつは一人で中学を目指しかねない。だったら俺の得意技である、いつもの卑怯な手を使うに限る。
「もし今のお前が行方不明になって、野垂れ死んだとしよう。俺が海老名さんと再会して、あの女になんて言えば良いんだ? お前が居なくなったのを機に、海老名さんとのフラグを立てて構わないなら、俺は止めないがな」
 さすがに戸部も、下唇を噛みながらも引き下がった。
 
 
 
 
 
 俺達はビルに入り、階段を上り始める。途中、背中のリュック以外の食糧でもないかと、幾つかの階を調べたが見つからなかった。代わりに地震で倒れた棚や、天井から吊るしていた器具等が落ちた際に潰された人間の死体をいくつも見つけた。頑丈に作られ、地震どころか津波にさえ耐えられる建物だというのに、このザマだ。本当に地獄絵図だな……。
「あっ! ヒキタニ君、ここ食堂って書いてある! きっと近くに厨房があって、冷蔵庫に食いモンがあるかも!!」
 こいつにしては珍しく冴えてる。……まぁ冴えた状態で一般人レベルだけどな。
 食堂には死体は無かった。その事に少しだけ安堵する。食品と人の死体を同時に見た日には、しばらくは肉が食えなくなるだろ。俺は食えるけどな……。
 しかし隣接する厨房に入ったとたん、その安堵に裏切られることとなった。
「「あ……」」
 厨房に入ったとたん、業務用の冷蔵庫が目に付いた。
 地震の影響か、倒れこそしなかったものの、床を滑って壁に激突してめり込んでいた。―――そしてその壁から、死体こそ見えないものの、大量の血が染み出し、冷蔵庫の前に大きな血溜まりを作っている。
 なまじ死体が見えない分、余計に怖いだろう。普通の神経を持った奴なら発狂しかねないだろう。しかし幸か不幸か、少なくとも他人の死体であれば、俺は何も感じない。ここはフリーズしている戸部に代わって俺が冷蔵庫の中を―――
「なぁ戸部、俺が冷蔵庫を―――」
 
「俺が冷蔵庫を調べっから、ヒキタニ君は他に使えそうなもん探してくんね?」
 
 思わず戸部の顔を見返してしまう。すでに発狂していたのかとも思ったが、やや強張ってはいるものの、普通の表情である。
「おいおいww、戸部……お前、これ見て何とも思わないのか?」
 緊張をほぐすべく、不謹慎だが半笑いしながら訊ねてみると、戸部は右手で後頭部を掻きながら、
「いやまぁ、怖いとは思うべ? でも―――いい加減、死体見るだけで泣いたり怯えたりすんのが嫌になってきたっつーかさ。ヒキタニ君だって、さっきから何度も死体見てるけど、何もリアクションねーし、俺だってコレくらい慣れときたいっつーの? そんな感じ」
 軽薄な調子はそのままだが、こいつはこいつで変わろうとしているみたいだ。ってか『人は簡単に変われない』とか言ったの誰だよ? 変わり過ぎじゃねーか。
 ……いや、それ以前に、こいつに言われて気付いたけど……俺、他人の死体を見てもリアクション無いって、どれだけ常人離れしてんだ? まぁ知り合いじゃないから悲しむ必要は無いんだが、そこに怯えないって、どうなってんだよ? これでもガキの頃はホラーな番組見て―――それでも構わず夜中に一人でトイレに行けたよな……。なぜだろう、幽霊とかお化けとかホロウなら、友達になれそうな気がしてたんだよ、割と本気で。
 結局、冷凍庫からは凍った米、冷蔵庫からは生肉や生野菜、うどん、シュレッダー・チーズくらいしか見当たらなかった。電気が使えないこの状況ではあまり重宝しない。
 またガスコンロとボンベ数本、それから2リットルのボトルに入ったアクエリアスが2本、それにプラスチックケースに入ったキシリトール・ガムが見つかった。こちらも鍋などの調理器具と一緒に拝借することにする。
 あ、そうそう。食品棚からカレー鍋の基(液体)が出てきた。これで冷蔵庫に入ってた肉や野菜が活用できそうだ。これで今夜の晩飯は決まりだな。
 
 
 
 
 
 
 
 食堂を後にした俺達は、階段を使って最上階(屋上は寒そうだったからパス)の社長室と思しき部屋に入った。
 すると先客が一人いた。それも総武高校の制服を着た1年生女子だった。しかも戸部と面識があるらしく、
「あーっ! 戸部先輩!!」
「えっ、いろはす!?」
 互いに指を突きつけあったまま、二人は硬直していた。
 構わず俺は口を開く。
「知り合いとの再開中に申し訳ないんだが、今夜の寝泊りはここで構わないか? 見たところ、部屋の入り口に靴を脱ぐとこあるし、部屋の絨毯は深くて柔らかそうだし」
 意味深に聞こえそうではあるが、寝泊りに向いてそうな部屋はここだけだった。一番乗りの女子には申し訳ないが、ここで譲歩するわけにはいかない。持ち物の中に布団は無いが、窓に掛けられたカーテン(複数ある)を使えば暖は取れるだろう。
 そのことを察したいろはす―――そういや見たことある女子だな。ああ、思い出した。確か柔道大会で葉山を呼びに来た一年生だ。
 彼女は俺の顔をまじまじと見詰めてきた。戸部と異なり、初対面の異性を警戒しているのだろう。とりあえず名乗ってやる。
「戸部のクラスメートの比企谷八幡だ。最初に言っておくが『ヒキタニ』じゃなく『ヒキガヤ』だからな? 漢字で書くと間違われるけど」
「えっ!? ずっとヒキタニって偽名を名乗ってたの!?」
「……お前らが読み間違えてたんだろうが……」
 戸部が心底驚いた顔をする。
 するとクスクスと笑う声が聞こえてきた。目の前のいろはすと呼ばれた女子からだった。
「えっと……初めまして。一色いろはっていいます。葉山先輩や戸部先輩と同じサッカー部でマネージャーやってます」
 さりげに葉山の名前が戸部より先に出たことに、こいつは戸部を小物扱いしているのだと感じた。人間同士の力関係を見抜く力、そして自分より弱い先輩(戸部)を踏み台にする力を充分に兼ね備えた奴らしい。
 ってか、このあざとさ……雰囲気的に天然キャラを“作ってる”タイプの女子だな、これは。この手の女は、中学の時の自称サバサバ系な折本以来だ。普段なら警戒すべき相手なのだが、この非常事態となった今、そんな人間関係などに頓着するつもりはない。
 一色が口を開く。
「戸部先輩は、どうしてここに来たんですか?」
「ああ、そうだった。聞いてくれよ、いろはす~」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―― 一色いろはサイド ――
 
 
「なるほどぉ~。葉山先輩、生きててほしいですね」
 戸部先輩の話を聞き終え、正直すぎる感想が口から出てしまった。
 いや、別に葉山先輩以外の人も生きててほしいとは思うよ? 本性は冷たいあたしだけど、さすがに大勢の人が死んでいる被災時に、そこまで冷たくはなれないし。
 ……まぁ、そりゃ好きな人だけは特に生きていて欲しいよね。ちょっとエゴな考えだけど、考えるだけならタダだし、祈ったり願ったりするだけで現実が変わるほど、世の中甘くないし……。
 戸部先輩は、あたしの言葉に何も感じなかったらしいけど、となりの―――えっと比企谷先輩って人は、いま確かに眉が動いたね。こりゃ気付いてるな。でも何も言わないところを見ると、下手に荒立てない性格なのかもしれない。ある意味で葉山先輩と似た人だね。……別に惚れないけど。
「いやー、それにしても……いろはすも大変だったんだべなぁ」
 戸部先輩が、大変とは思えないような軽い口調で言った。少し苛立つ。
 先輩二人に、あたし自身がここに逃げ込んだいきさつを話したのだ。
 今朝、体育祭の後片付けをサッカー部で手伝うため、あたしは早くから家を出た―――その数分後に大地震が来た。
 とっさに近所の公園に逃げ込んだあたしは、激しい揺れの中でも冷静に壊れ行く住宅地の様子を眺めることができた。……できてしまった。
 普段感じる地震でさえ、せいぜい家がギシギシ、ガタガタと音を立てる程度だというのに、この時は物凄い音がした。そして建物が次々と壊れていく。屋根の端から崩れていく住宅があれば、トランプ・タワーのように一瞬で横薙ぎに倒れたのもあった。縁側の下が一瞬でプレスされ、その衝撃で全体がバラバラになる家もあった。
 そして電信柱が次々に倒れ、その際に引き千切られた電線が青白いスパークを住宅街のあちこちに発生させた。
 公園もあまり安全ではなかった。ここにも電信柱はあり、あたしが立ってた場所にも倒れてきたくらいだ。
 幸い、運良く避けたので怪我は無かったけど、揺れが収まるまである事を忘れていた。
 
 ―――そう、家族の安否だ。
 
 辺りの住宅の損壊ぶりから、我が家が無事とは思わなかったが、走らずにはいられなかった。
 いろんな建築材が散らばる路面につまづきそうになりながら、自分の家があったと思しき位置まで辿り着くと、案の定、築20年の我が家は崩れ去っていた。
 涙ながらにガレキを掘り起こしたところ、家族全員をあっさりと見つけてしまった。―――それも損壊の激しい死体、という形で。
 ……幸か不幸か、顔だけは原形を留めていたので、間違い無く家族の死体だと判った。間違っていてほしいとすら思った。
 しばらくは泣き叫んでいたけど、そう長居はしなかった。
 ―――怖かったんだ。家族の死よりも、余震や津波の方が。
 幸いな事に、津波は今のところ来てない。けど救助ヘリか何かが来るまで安全な所で過ごそうと決め、このビルが目に付いた。
 正直、『どうしてあたしがこんな目に……』と思わなくも無かったけど、そもそも同じ目に遭ってる人は目の前にも、そして生きているなら葉山先輩たちにも言えるので口には出せなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 しばらく戸部先輩や比企谷先輩と、今後のことを話し合った。
 明日にはみんなの避難所だった中学に向かうんだそうだ。正直、ここで待っていても救助ヘリは来そうにないし、近くを飛んでてもあたしを優先的に拾ってくれるとは限らない。なら先輩達に着いていくべきだろう。
 その後、比企谷先輩が『厨房で晩メシを作ってくる』と言って出てしまった。戸部先輩と部屋に残されたあたしは、『変な気を使われたかな』と邪推するものの、そもそもさっきのやりとりであたしが葉山先輩狙いだというのはバレているはずだ。
 ……ってことは、あの血溜まりのある厨房で、本当に料理を作るのだろうか? 正気じゃねぇ……。
 残されたあたし達は、戸部先輩と協力して、部屋の中にある倒れそうな本棚などを倒して回った。次に大きな余震が来ると困るからだ。
 一汗掻いたところで、比企谷先輩が大きな鍋を持ってきた。
 そして一旦厨房に戻り、紙の器や割り箸、他にも色々なものを持ち込んできた。
「この匂いは!? ヒキタニ君、今日はもしかしてカレーか!?」
 戸部先輩がいきり立つ。
 ……この人は鼻がおかしいのだろうか? 確かにカレーの匂いはするけど、昆布やカツオのダシの匂いもする。あとヒキタニじゃなくてヒキガヤって言ってたよね?
「ちょうど材料が揃ってたからカレー鍋にしてみた」
 比企谷先輩は事も無げに言う。量もかなりある。
 三人で『いただきます』と唱和し、食べ始めた。すると意外すぎるくらいに美味しかった。
「旨めぇっ! ヒキタニ君、マジ料理の才能あんな!?」
「……いや言っておくけど、インスタントの鍋スープだぞこれ?」
 謙遜―――というよりは本気みたいな口調で比企谷先輩は言う。
「ちなみに先輩、どこのメーカーのスープを使ったんですか?」
「○○食品だったが、どうかしたか?」
「うちと同じじゃん……なにか調味料でも足したんですか?」
 すると比企谷先輩はふと考え、
「あー、足したな。食品棚にいろんなスパイスがあったし、カツオや昆布の出汁パックもあったから使った。なんせ元のスープだけじゃ、旨味が少なかったからな」
 ……女子力高けぇ。
 ってかお嫁さんにしてほしいくらいだ。……葉山先輩狙いなんで却下だけど。
 比企谷先輩は気にせず続けた。
「それとロウソクが無かったから、代わりの明かりを持ってきたんだ。……けど煤(すす)が出る奴でな。寝るときには消しておいても良いか?」
 そういって綺麗な擦りガラスのコップを4つ、鍋から離れたところに置いた。中には黄色の透明な液体が満たされ、厚さ5ミリに切ったコルク栓が浮いていた。よく見ると、そのコルク栓の中心から白い棒状の物―――捻ったティッシュが突き出している。比企谷先輩はポケットからライターを取り出し、そのティッシュに火をつけた。
 するとティッシュは燃え上がり、しかし燃え尽きる事もなく下から液体を吸い上げ、常に一定の明るさを保っていた。またその暖かな光が、擦りガラスを通り抜ける際に乱反射し、幻想的な雰囲気を放っていた。
 まだ日は暮れてないけど、確かにこれならロウソクの代わりになるだろう。
 やっぱ女子力高けぇ……。
「すっげぇ! ヒキタニ君、これって何なんだ!?」
 戸部先輩が、あたしの気持ちを代弁して問う。
「サラダ油で作ったオイルランプだよ。コップの部分が熱くなるから、夜中にトイレに持っていくときはコイツを使ってくれ」
 といってミトン(オーブンから鉄板を取り出すのに使う、分厚い手袋)を人数分持ってきた。
「綺麗……」
 思わず呟いてしまった。ロウソクの明かりとガラスの組み合わせって意外と綺麗なんだよね。
 比企谷先輩は頭を掻きながら言う。
「前にネットで災害時に使えるって掲載されててな。本来は缶詰の空き缶でするみたいなんだが、まぁ見た目だけでなく、機能的にもガラスの方が部屋を明るくするだろ? ほら、缶だったら内壁に光が当たって遮られるだけだしさ」
 お洒落ではなく機能だけで選んだか……でもセンスだけは一流かな。
「あ、そうそう。具材がなくなったらうどん入れるからな。あと煮汁はあまり飲むなよ? 明日の朝には冷や飯とチーズを入れてリゾットにすっから」
 女子力どころか主婦力が高けぇ……。将来は専業主婦でも目指すつもりなんだろうか?
 ふと……鍋を突付いていた戸部先輩の箸が止まった。
「どうしたんです、先輩?」
 あたしが問い掛けると、先輩は泣いていた。
「俺ら、こんな所であったかいメシ食ってて良いのかなって思ってよ……」
 能天気なだけが取り得のバカ先輩がこんなこと言い出すなんて……でもそれだけ堪えてるんだよね。家族を失うのもそうだけど、想い人の生死が分からない状況がこんなにも不安なんだし。あたしも葉山先輩が生きてるかどうかと思うと―――
「やだっ……泣かないで下さいよ先輩…あたしまで……あたしまで泣きたくなるからぁっ……ああっ」
 言いながらも、次から次へと涙が零れ始め、やがて止まらなくなっていた。
 そう言えば―――と思って比企谷先輩を見上げた。彼に想い人がいるのかは知らないけど、可愛がってる妹さんが葉山先輩達と行動していたらしい。そう考えれば比企谷先輩の心中だって穏やかじゃないはず。
 そして比企谷先輩は―――
「お、まだ肉が残ってた。ラッキー」
 実に腐った目で鍋から肉を摘み上げ、あたし達に『あえて見せびらかして』から口に放り込んだ。
 
 
「「空気読めよ!!?」」
 
 
 思わず戸部先輩とハモってしまった。
「へっ、冗談だよ。肉ならまだここにあるぜ」
 といって発泡スチロールのトレーを取り出した。しかも未開封の大皿である。
「あホントだラッキー……って、そーいう話じゃねぇよヒキタニ君! 妹さんが心配じゃねーのかよ!?」
 そーだそーだ、もっと言ってやれ!
 比企谷先輩は真顔(元が死んだ目なので、ちょっと怖い……)になって言った。
「心配なのは同じだ。でも昔の人が言ったろ? 自分の隣に慌てふためいた奴がいれば、かえって冷静になれるってな。お前ら見てたお陰で冷静を保てる。んで冷静になったら、どうするべきか? 決まってるだろ。……再会のチャンスまで生き延びることだ」
 シーンとなった。鍋がグツグツとなる以外、何も聞こえなくなった。
 比企谷先輩は、どこか遠くを見るような目になって続ける。
「はん……シュレディンガーの猫だぁ? 生きてる可能性と死んでる可能性が両立とかいうけどよ、あんなもんはデタラメも良いところだ。葉山も海老名さんも小町も、仮に今日の昼間に死んでいるなら、今からどれだけ祈ろうとも生き返らないし、その反対も無い。だったら俺達は、50%の生存の可能性に賭けて、あの中学校まで生きて辿り着かなきゃいけないだろ? それまできちんとメシ食って、体力を付けたらどうだ?」
 ぐぅの音も出ない、とはこの事だろう。
 見れば戸部先輩も似たような表情をしていた。
 トドメとばかりに比企谷先輩は言った。
「仮にあいつらが生きてて、お前らが力尽きて死んでたら―――俺はあいつらに何て言えばいいんだ?」
 
 
 
 
 
 
 
 ――戸部翔サイド――
 
 
 青空の下、廃墟と化したコンクリートジャングルの中、崩れかけたビルの前に海老名さんは立っていた。
 今は背中を向けてるけど、綺麗な長い髪は見ているだけで心が惹かれる。
 でも振り返った彼女の顔は―――恐怖と絶望に染まっていた。そして俺へと手を伸ばして呟いた。
 
「戸部っち…助けて……」
 
 慌てて駆け寄ろうとする。でも海老名さんがいる所まで10メートルくらい離れていて、しかも何故か身体が思うように前に進まない。それでも海老名さんの目前にまで何とか辿り着いた。
 世界がスロー再生になる。海老名さんも俺も、必死に手を伸ばし合う。スローなのがすっげぇ鬱陶しい。
 
 ―――でも次の瞬間、スローな世界が終わり、海老名さんは物凄い勢いで降ってきたコンクリの塊に押しつぶされ、視界から消えた。
 
 いつの間にか青空は茜色―――いや、血のような色に変わっていた。そう言えば大型の冷蔵庫に押しつぶされた人が前にもいたっけ? と思っていると、目の前のコンクリ塊は巨大な銀色の冷蔵庫になっていた。
 その冷蔵庫の下から、真っ赤な液体が流れ、アスファルトに鮮やかに広がっていく。
 そして聞こえてくる、とても苦しそうな海老名さんの声。
 
 
「痛い…痛いよ……戸部っち…助けて……」
 
 
「あああ……あああああああああああああぁぁああぁあぁぁッ!!!」
 自分の悲鳴で目が覚める―――マンガでしか見たことの無い体験を経て、俺は目を覚ました。
 辺りを見渡すと、ギョッとした顔で上体を起こすいろはすと、目を擦りながら同じく上体を起こすヒキタニ君がいた。
 いろはずが申し訳無さそうに口を開く。
「ごめん……なんか悲鳴を上げちゃいましたね。変な夢、見てたから……」
「あれ? 今の悲鳴って、俺じゃなかったっけ?」
 と俺は正直に疑問を口にする。そこへヒキタニ君が、
「……お前ら二人とも悲鳴上げてたぞ」
 と怖い目つきで言った。元から目つきが怖いから、安眠妨害されて更に怖くなってる。
「わ、わりぃ……」
「ごめんなさい……」
 いろはすと俺が謝ると、ヒキタニ君は再び寝転び、
「リア充どもの悲鳴が聞けただけで御馳走様だ。気にすんな」
 と言って片手をヒラヒラと振った。
 普段なら怒るとこだけど、ヒキタニ君なりの気遣いなんだろう。
 俺も再び寝るため、寝転ぶ。でもかえって目が覚めてしまい、簡単には眠れそうになかった。……それに今の夢、また見そうだったしな……。
「やっぱすぐには寝付けないか?」
 とヒキタニ君が聞いてきた。俺だけでなく、いろはすも同意みたいだ。なんか修学旅行の夜みたいな気分だな。女子と相部屋してる時点で問題かもしんねーけど、俺は海老名さんに、いろはすは隼人にしか興味ねーから問題無いし。ヒキタニ君は何考えてるか分かんねーけど、それでもいろはすに興味を見せる素振りすらない。海老名さんの好きなホモなのか? ……って、それだと俺の貞操が危ないじゃん。
 ヒキタニ君は寝たまま続ける。
「眠れないときは、何かを数えるに限る。余震が一回……余震が二回……」
「怖くて眠れませんよ!!」
 いろはすが文句を言う。
「ヒキタニ君、いっそ修学旅行の夜みたいに、好きな子を一人ずつ言っていくのは―――」
「戸部は海老名さんが、一色は葉山が好きだ。そして俺は特に無し―――いや、戸塚かな? 他に何か?」
 すでに誰が誰に惚れてるかバレていた。しかも戸塚がネタにされてる。……まぁ、俺も戸塚は可愛いと思うけどね?
 結局、30分近くもこんなバカみたいな話を続け、いつの間にか俺らは眠ってしまった。
 
 
 
 
 
 
 朝の7時、カレーの匂いで目が覚めた。
「あ……。先輩、おはようございまーす」
 すでに起きてたいろはすが俺の顔を覗き込みながら言った。……うん、微妙に寝癖があって良いべ? そういえば寝起きの女子見たのって、母ちゃん以外は初めてだ。
 上体を起こすと、ヒキタニ君が鍋の中をかき回していた。すでに米が煮立ってて、そこに大量のシュレッダー・チーズを一袋全部入れ、またかき回す。カレーとチーズの匂いが合わさり、昨日の夜にあれだけカレー味を堪能したばっかなのに食欲が刺激される。
「よっし……こんなもんか」
 ヒキタニ君が言ったとたん、いろはすが紙製の椀を差し出した。その目が『早く食わせろ』と語っていた。
 三人で『いただきます』して、夢中でカレー風のチーズリゾットを食べた。なまじ熱いので冷ますのに忙しく、三人とも息を吹きかける以外に何も喋らなかった。
 でも食い終わったとたん、余震が来た。
「ごちそうさま―――ん? でかいな……」
 ヒキタニ君が呟いた瞬間、揺れは一気に大きくなった。
 同時によその建物が壊れる轟音が響いてくる。
「きゃっ、せ、先輩っ!?」
「落ち着け! 倒れてくる棚は無いから安全だ! それにこのビルはかなりの耐震強度があるはずだ!!」
 ヒキタニ君が慌てながらも、冷静に叫ぶ。
 思わず俺も冷静に質問してしまう。
「……じゃあビルが崩れるほどの揺れが来たら?」
 ヒキタニ君はしれっと即答した。
「その時は諦めろ」
 マジ怖えっ!?
 しばらく震えながら待っていると、やがて揺れは収まった。
 そして窓から外を眺め、愕然とした。
「う…そ…だろ……」
 思わず呟いたのは俺なのかヒキタニ君なのか、分からなかった。
 このビルの周辺にある建物の半数以上が崩落していた。
 そして見通しの良くなった街並みの彼方に、崩れた学校が見えた。
「あ、ああ……あああ……あの学校…例の中学ですよね?」
 
 頭の中が真っ白になった。
 
「今すぐ行こう!」
 俺がそう叫ぶと、すぐに二人が頷き返してくれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 しかし徒歩で2時間かかる道のりだ。
 そりゃ大雑把な予測時間だし、走ればもう少し早くも着けるとは思う。
 でも地上に降りれば、またガレキを迂回しながら迷路を進むように移動しないといけない。しかもまだ崩れてない建物も多い以上、中学を遠めに見ることが出来ないので、余計に時間が掛かる。
「……ううぅ。だんだんと希望が減っていく気がする」
 隣を歩いてたいろはすが、半泣きになって呟く。
 確かに絶望すぎる。
 最初の地震があった昨日の朝、俺やみんなの家族が死んで、更には昼の余震で俺とヒキタニ君だけ地下に落ちた。それでも生きてる俺らは幸運だったかもしれない。でもそろそろ運も尽きてくる頃だと思う。それに俺らの運が良くても、他のみんなまで幸運かと聞かれれば微妙だ。あの時点で海老名さんが死んでた可能性もある。そこを『生きている』と仮定して行動してたら、彼女の拠点の中学が崩落だ。海老名さんが何したって言うんだよ畜生―――
 
「止まれッ!!」
 
 いきなりヒキタニ君が叫び、俺といろはすの襟首を掴んだ。
「ごふっ!!」
「ぐぇっ!? ちょ、何するん―――で、す……?」
 いろはすが抗議を言い終えるより先に、眼前の曲がり角から熊が現れた。
 
「「「……………」」」
 
 『…………………』
 
 しばし見つめ合い、でもすぐに熊は俺たちに向かって歩き出した。
「こっち! このビル、カギが掛かってないみたい!!」
 いろはすが手近な小ビル(3階建て。まだ崩れてない)の鉄扉を開き、慌てて駆け込んでカギをかける。直後、外から熊が体当たりする音が響き、鉄扉を震わせる。流石の熊も、頑丈なドアを壊すまでの筋力は備えてなかったようだ。人間の技術ナメんな。
 でもこのまま熊が去るまで待つわけにはいかない。
 中学がどうなってるか見に行くのもあるけど、そもそも津波の心配だってある。昨日の大地震とさっきの大余震を耐えたこのビルだって、津波に耐えられるか分からないのだ。なのでこのままビルからビルへと飛び移らなくてはいけない。……幸いなことに、この辺りには崩れてない小ビルがひしめいており、しかもビルとビルの間隔がえらく狭い。飛び移るのはそれほど苦ではなさそうだ。
 俺達は階段を駆け上がり、屋上に出て、すぐに隣のビルへと飛び移る。
 それを繰り返しながら、隣を走るヒキタニ君に話し掛けた。
「さっきの熊、やっぱ動物園から逃げてきたのかな?」
「まぁ、この辺りに熊の出る野山なんぞねぇしな。災害時の動物園ってのも厄介なもんだ―――って、うおぁッ!!?」
「先輩!?」
 会話に集中しすぎたせいで、ヒキタニ君は着地点にあった室外機の上でバランスを崩した。―――てか、この室外機が地面に固定されてなかったため、なんとか屋上内に倒れ込んだヒキタニ君とは逆に、室外機は路地裏へと落ちていった。そして何か生々しい音が響いてきた。……きっと死体か何かを押しつぶしたのだろう。
「ねえっ! あそこの屋上まで行けば、中学校が見えるんじゃないかな!?」
 いろはすが遠くを指しながら叫ぶ。
 そこには同じ三階建ての、それでいて学校でいうところの大時計がある部分のように、一階分高い部位のある建物があった。きっとハシゴのような物で上っていくタイプのものだろう。
「ナイス、いろはす!」
 いくつものビルを飛び移りながら、三人でそのビルまで辿り着く。そして高い部分に上るためのハシゴを見つめながら、誰が上るかを話し合う。なにも全員が上る必要なんて無いしな。
 結果、この中で意外と視力が一番良いヒキタニ君が上ることになった。
 
 
 
 ……で、そのヒキタニ君が少々ビビリながらハシゴを上っている間、
「あれ? この棒はなんだ?」
 屋上に転がる、銀色の棒を見つけ、拾い上げる。
 いろはすが反応した。
「あ、それ洗濯物を干す竿ですよ。うちで使ってるのと同じですね。あ、でも端のキャップが外れてて危ないな」
「ふーん……あ、ほんとだ。竿を引っ掛ける土台が倒れてる。地震で倒れたんかな―――ってうぉ!?」
 洗濯竿を掴んだまま歩き出した瞬間、屋上に転がるもう一本の竿を踏んでしまい、俺はバランスを崩した。
「あははっ。戸部先輩、ちゃんと足元を注意しな…きゃ―――あ」
 何が『あ』なのか聞こうと、とりあえずバランスを取るために右足を後ろへと踏み出そうとした瞬間―――右足は空を切った。
 信じられないことに、この屋上は手すりが無い上に、俺は屋上の、しかも割と端っこにいたらしい。
「先輩っ!?」
 いろはすが思わずといった感じで手を伸ばすけど、そもそも数メートル離れているので届くはずもなく、俺は屋上から落っこちた。
 
 
 
「ぅぅおおおおおぁああああああぁぁぁッ!!?」
 
 
 って、やべーって!? 超やべーって!?
 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!?
 怖い怖い怖い怖い!!
 握っていた洗濯竿にしがみ付く。完全に現実逃避だよな、これ……。
 あ、でも確か、飛び降り自殺した人が通行人の上に落ちて助かって話があったよな。通行人は死んだけど。
 現実逃避しながら、下を見下ろす。
 たかが三階から落ちただけなのに、ずいぶんと時間がゆっくりに感じられる。
 ちょうど下には制服姿の女子が座り込み、その真正面(俺から見て真下)には一匹の熊が両腕を掲げ、その女子に襲い掛かろうとしていた。
 そして今さら落ちる場所を変える事などできず、洗濯竿を突き出したまま、俺は熊に真上から落ちた。
 
 
 
 結果、洗濯竿は重い抵抗と共に熊の腕(真上へ掲げてたので手の平)に突き刺さり、そのまま内部の骨を粉砕しながら腕を突き抜け、今度は熊の頭蓋骨に突き刺さって背骨を砕きながら尚も突き進み、太腿から足首まで通って地面に突き刺さった。お陰で俺自身の落下スピードがバカみたいに減殺され、自分でも驚くくらい華麗にアスファルトに着地できた。
 
 
 
 ……うん。自分で言ってて変に思えてきたが、こんなアホみたいな奇跡によって、俺は死なずに済んだ。
 もし手に持ってた洗濯竿を放していたら、俺はアスファルトに叩きつけられていただろう。
 もし洗濯竿の端にキャップが付いていたら熊に刺さらずに弾かれ、やっぱ俺の身体はアスファルトに叩きつけられる。
 そもそもタイミング良く熊がこの場に居なければ、それも一歩も前後左右にズレずに佇んでなければ起こり得なかった奇跡だ。
 前の日に地下鉄に落ちたってのに助かったことも考えれば、不思議なくらいツイてる。
 ……いや、どうでも良いな。
 俺は神様も悪魔も中途半端ながら信じてるけど、今は海老名さんに会えさえすれば、例え悪魔とだって取り引きしてやる。……あ、でもそんな俺を海老名さんが見たらショックかな? あの子、自分の周りの人が変わることを気にするタイプだって、修学旅行の後、隼人君が言ってたしなぁ……。
 そんなことを考えてから、ふと後ろに女の子が居たことを思い出した。熊に襲われてた娘だ。
 連れて行くにしても、早く海老名さんを探しに行かないとなぁ……と思いながら後ろを振り返った。
 
 
 そして――――――
「「―――あ」」
 
 
 
 
 
 そして地面にへたり込みながらも俺を見上げる、海老名さんと目が合った。
 
 
 
「と―――戸部っち?」
「え……あれー? 海老名さん?」
 我ながら変な返事をしたと思う。とりあえず無事かどうかを聞いてみることにする。
「えっと…その……海老名さん、怪我とかしてない?」
 こくん―――と放心した顔のまま彼女は頷いた。
 可愛いなぁ、という不謹慎な思いがよぎる。いや、だって仕方ないべ? 海老名さんが危うく熊に殺されそうになってるとは思わず、俺自身も落下の危機から助かった直後で、少し―――いやかなり放心してんだし。
 俺が何も言えないでいると、再び海老名さんが口を開く。
「助けて…くれたの……?」
 真っ直ぐ見つめられながらの問いに、俺は何と答えようか悩んだ。
 
 ・『危ないところだったから、無我夢中で飛び掛ったんだ』―――いや、半分は合ってるけど、それは相手が海老名さんだからじゃないし、そもそもああでもしないと俺が地面に叩きつけられてたよな。
 
 ・『好きな子を守るのに理由なんかあるか!』―――これだって、きちんと告ってないのに言うと問題だよな……。
 
 ・『ピンチの時には駆けつけるって言っただろ?』―――言ってねぇ。それ約束したのはクラウドさんだ。
 
 こんな事態だってのに格好を付けようとする自分に嫌気が差すけど、同時に俺自身もテンパってるせいか、思いついた言葉がすぐに出てこない。しかしずっと黙ってるプレッシャーに耐えられず、
 
 
「あ、いや……普通に足滑らせて落ちちゃって……そしたら今の珍プレーで助かっちゃって……」
 
 
 とバカ正直に答えてしまった。
 再び沈黙が降りる。どうしよう、海老名さんに『変な奴』って思われたかな……?
 俺が内心で絶望していると、海老名さんの目から涙が溢れだし、ついで声を上げて笑い出した。
「ぷっ…ふふ…あははははっ。やっぱり変な奴」
 あ、あれー? おかしいな、『変な奴』って認定されちゃってるのに、なんか嬉しくなってきたような……。
 トドメとばかりに、彼女は涙の伝う笑顔で、
「いつもの―――いつもの戸部っちだよぉッ!!」
 と叫びながら、俺の胸に飛びついてきた。
 その拍子に俺は後ろに倒れた。そして俺の胸に顔を当てて嗚咽を漏らしだした海老名さんを見ていると―――両腕を通して伝わる彼女の温もりを感じていると―――気の聞いたセリフが何も思いつかなくなり、不意に涙が込み上げてきた。そのまま彼女の背中に手を回し、強く抱きしめる。
 
 
 
 声こそ上げなかったものの、俺達はしばらく抱き合ったまま泣きつづけた。
 



[41214] 4話 大切なモノを失う痛み
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/06/01 23:49
 はじめに。
 前に頂いた意見の中に、この作品は俺ガイルのキャラが死ぬシーンもあったりするので『俺ガイルのアンチでは?』というコメントがありました。
 私自身、ネット用語に疎いので、とりあえずはグーグルで『俺ガイル アンチ』と検索してみたのですが、アンチ本来の意味(嫌いな球団を罵ること)の通り、どちらかといえば俺ガイルを罵るスレッド等が見つかるだけで、俺ガイルの登場人物が死にまくる展開のSSにはアンチと書かれたものが見つけられませんでした(探し方が甘いだけかもしれませんが)。
 良ければこの文を読まれた方、この小説がアンチかどうか、また冒頭に『アンチです』と表記すべきかどうかコメント頂きたく思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 ――相模南サイド――
 
 
 みんなバラバラに逃げたけど、これって待ち合わせ場所も無いから、この後どこに向かえば良いのか悩むのよね。
 でも皆を置いて勝手に避難する、という選択肢は、あたしの中には無い。
「この後、どうしよう……」
 不安げに呟くと、たまたま一緒に逃げていた―――えっと、材木座だっけ? 彼が振り返り、
「とりあえず目的である西に向かわねばなるまい。そこで広場にでも出て、仲間が来るのを待つしか方法は―――いや、待てよ? 今から適当な建物に入って、上の階から大声で集合地点を叫ぶのもありか」
 ……ウチの学校で有名な中二病患者だとは知ってたけど、あの手の人って、なんでこう……緊急事態を想定するものなんだろうか? 正直、あたしも前に中二病だった頃があったけど、こういった緊急事態や災害時を想定した動きを考えるのを『格好良い』って考えるのよねぇ。……実際、平時だと奇人に見えるのに、本当の災害時には格好良く見えるんだから不思議だ。
「じゃあ早速、どっか開いてるドアから建物に―――」
 歩きながら話してると、材木座が右手であたしを制した。ちょうど曲がり角に差し掛かった時のことだった。
 彼は口に人差し指を当てて『静かに』とゼスチャーすると、角の向こうを覗き見た。あたしもしゃがんで覗き込み―――絶句する。
 そこには総武高校の女子制服を着た子が二人、海浜高校の女子制服を来た子が一人倒れてて、そこに覆い被さるようにして熊が食事する湿った音を響かせていた。しかも―――しかもその三人は、あたしの―――
 不意にドス黒い感情が湧きあがってきた。
 そりゃもう科学番組なんかで紹介されるプロミネンスのような勢いでだ。
「相模―――今から建物の中に逃げ込んで、さっき言ったように叫んでくれ。我は―――」
「嫌よ」
 気付けば即答していた。
 でも後悔は無い。対する材木座も堂々と言い返してくる。心なしか彼の雰囲気が変わった。普段のあたしなら引くところだけど、不思議と怯えが沸いてこなかった。
「相模! 我は―――俺は敵討ちしないといけない相手ができた。今あの熊が喰ってるのは、職場見学の時に俺を受け入れてくれたBL好みの女子―――俺にとって片思いの岡部由紀子(おかべ・ゆきこ)と、別クラスだがその友人の―――」
 
 
「秦野遥(はたの・はるか)、でしょ? ゆっこ(由紀子)と遥、あたしにとっても親友なんだよ。そしてもう一人は小学生の頃に離れ離れになった幼馴染みの折本香織。―――まだケンカしたこと謝れてないのに……」
 
 
 あたしの顔を見て何を思ったのか、材木座はしばらく黙り、そして近くに落ちていたバールを拾い上げ、あたしに差し出した。それを無言で受け取ると、今度は自分用にと、鉄パイプを拾い上げる。所々にサビのあるそれは、おそらく地震で壊れて落ちてきた、この辺りの小ビル屋上の手すりか何かだろう。
 今すぐにでも熊に飛び掛りたい衝動に駆られるけど、背中を向けてくるまで待つ。あんな化け物を襲おうと考えてる以上、あたし個人としては死んでも構わないとすら考えてるし、それは材木座も同じだろう。でも失敗だけはしたくない。
 でも次の瞬間、
 
 ガラッ……
 
 どこかで小さなガレキを踏む音が聞こえた。
 熊と、そしてあたし達も音のした方へ顔を向けると、そこには結衣ちゃんが立っていた。そして熊と目が合うと、腰を抜かした。
「くそっ……!!」
 あたしと材木座が飛び出したのは同時だった。結衣ちゃんとは一年の頃に友達だったあたしとは別に、この男にも何らかの繋がりがあるのだろう。あたし達は何の打ち合わせも無く二手に分かれ、熊の左右後方から同時に武器を突き刺した。
 熊が右を向き、たまたま材木座と目が合う。でも彼は臆することなく叫んだ。
「死角に入れ! まだ見つかってなかろう!!」
 無言で頷きながら熊の背後に回る。そうしている間にも熊は材木座に覆い被さろうとし―――
「剣豪将軍を―――ナメんなぁッ!!」
 叫ぶや否や、しゃがみ込むと同時に鉄パイプを真上へと突き上げた。それが熊の下顎を強打し、そのまま前のめりに倒れようとするところで彼は横に飛んで避け、熊の横顔を鉄パイプで殴る。中二病も極めればここまで強くなれるのかと感心する。
 そして背中を向けてる間にも、あたしはバールの尖った部分で熊の脇腹を滅多打ちにする。これで心臓にでも刺されば三人の仇が討てるんだけど、これがまた中々刺さらない。毛皮が厚いのか肋骨に当たってるのか……。
 結衣ちゃんも途中から、近くにあった角材で熊の頭を殴り始めた。―――けどその細腕で毛皮に包まれた頭を叩いたところで、大したダメージにもなりそうにはなかった。
 そうこうしている内に、下顎を打たれた痛みから立ち直った熊が、正面から殴りかかる結衣を突き飛ばし、あたしに向けて鋭い爪を叩きつけようとした。視界がスローモーションになり、過去に見たテレビで『熊に一度引っかかれただけで、顔の肉の半分を持っていかれた』という話があったな、と思い出す。
 
 
 刹那。間に入り込んだ大柄な人影―――材木座が、鉄パイプで重過ぎる熊の一撃を受け止めた。
 
 
 受け止めたは良かったが、その打撃力までは受け止めきれず、あたしを巻き込みながら後ろへと弾き飛ばされた。
「うっ! あぁっ…! ぐうぅ!!」
 何度かバウンドし、最後に材木座が『ズザアァァッ!!』と受け止めてくれた。―――いや、受け止めたのではなく、単にあたしより先に転がった所に、あたしがぶつかったのだろう。
 全身が痛い。骨が折れてなければ良いんだけどな……。
 そんなことを思いながら辺りを見渡すと、手の中にあったはずのバールが遠くに転がっていた。
「あああああぁぁぁぁああぁッ!!!」
 結衣が雄叫びを上げながら、熊の背後から角材で殴りかかる。でも熊は、振り返って少し腕を振るっただけで、結衣を近くの壁へと叩きつけた。そして何事も無かったかのように、再びあたしへと向き直る。
 だんだんと熊が近づいてきた。
 ―――畜生。
 この化け物に、一矢すら報いることができない。
 そう思った瞬間、頭から血を流した材木座が、あたしの前に出て鉄パイプを構えた。立てないのか、片膝を付きながらも、その背中はまだ死んではいなかった。『俺はまだ戦える』と言っている気がした。
 そして彼は言った。
 
 
「てめぇだけは―――てめぇだけは絶っっっ対に許さねぇ……ゆっこちゃんも……そのダチも殺したてめぇを……たとえ生きるために喰らったとしても……絶対に―――絶対にブッ殺してやるッ!!」
 
 
 なんで仇を討とうとしたのか、この瞬間だけは、死んだ遥とゆっこ、香織には悪いけど、どうでも良くなった。後悔だらけの人生の最後に、命がけであたしを肯定してくれる人が―――あたしを守ろうとしてくれる人が居てくれることに、涙が出た。目の前の彼が救いをくれた気さえした。
「あり…がとう……」
 痛みで声を掠れさせながら、あたしは身を起こし、彼の背中を包み込んだ。
 結衣が何かを叫んでいたが、あたしの耳には届かなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――比企谷八幡サイド――
 
 
 何だよ、これ……。
 裏路地の少し開けたところに、女の死体が三つ。―――ってか、こいつら相模のダチの遥とゆっことやらじゃねぇか。その内、髪の短い方(後で知ったが遥というらしい)に至っては、腹の肉を喰われている。
 海老名さんと合流し、他の仲間達(俺の知ってる人間のみ)が全員無事だとは聞いていたが、その直後にこれだ。
「せ、先輩……これって……」
 後ろから付いてきた一色が、顔を真っ青にする。が、それでも吐いたりしないのは、やはりこの震災で少なからぬ死体(それも潰れた奴)を見てきたからだろう。
 戸部がヒーローみたいに熊を倒し、海老名さんを助けるという珍プレーの後、俺達は由比ヶ浜の悲鳴が聞こえた方へと走り、この状況に出くわした。
 と、そこで死体だと思っていた内の一つが生きていることに気付いた。―――いや、虫の息だったけどな。
「お前……折本か?」
「奇遇、じゃん…比企谷……。2年ぶり…マジ、……っ、受け、るんだけど……」
「―――死に際になっても変わらないって、お前どんだけ大物なんだよ?」
 俺の言葉に、折本は『ははは……』と血まみれの顔で、乾いた笑い声を上げた。
「連れない…よ…ねぇ……。惚れた女に…涙くらい……流せないの?」
 その言葉に、一色や戸部、海老名さんまでギョッとする。
「ヒキタニ君……その子、元カノなの?」
「いや、中学の頃に告って面白いくらいに玉砕しただけだ」
 その後で晒し者にされたが、死に行く人間を悪し様に罵るほど、俺も腐ってはいない。ってか罵るのめんどい……。
 でも折本は俺の気遣いも無視し、
「あはは…次の日にはクラスの……皆に…言いふらしてコフッ(吐血)、笑い者にしちゃったよね……日ごろの行い、悪す…ぎ……だよね……あたし……」
 ―――っ、こいつ血ぃ吐きやがった。喉に傷あるなと思ったが、気道にまで達してたのかよ。
 一目見た瞬間に思ったが、やっぱこいつはもう助からねぇな……。
 それでも折本は、死にかけのまま手を伸ばして俺の腕を掴んだ。その弱々しすぎる腕は、まるで蝉の抜け殻のように、少し力を加えただけで砕けてしまいそうだった。
「ひ、比企谷ぁ……、悪い事は…言わないから、あっち、には…行かないで……熊が…いるから……」
 と反対の手で指すと、遠くのほうで熊が誰かと戦ってるのが見えた。あれは材木座に―――由比ヶ浜か? それに相模まで……。
 俺は首を横に振って答える。
「悪いな折本、今はあっちに行かなきゃいけない用事があるんだ」
「ぼっちのあんたに…友達でも…できた? それとも……彼…女? ふ、ふふ……比企…谷の…くせに―――」
 死相の浮かんだ顔で笑う彼女。
「もし良かったら……あっちで、たたか…ってる…幼馴染みゴフッ……さが、みんを……助けて、あげ…て……。それと……あの時は、ゴメンって……伝え…て―――」
 俺の腕を掴む手から、とうとう力が抜け、そして離れた。
「…………」
 と、そこで気付く。その表情のまま、彼女の呼吸が止まっていた。
 一色が顔を両手で覆い、戸部が海老名さんを抱き寄せ、彼女は奴の胸に顔を埋める。
 不思議と涙は出なかった。これが中学ん時の、こいつに玉砕した直後であればまだ泣けたかもしれないが、すでに2年も経ってるとなれば、さすがにこいつへの情は俺の中から消え去っている。……やっぱ時の流れって、毒でしかねえな。
 いつぞやマンガやラノベで読んだように、俺は折本の目を閉じさせてやった。
 そして誰にともなく呟く。
「友達とか彼女とか、あいつらはそんなんじゃねーよ。……ただの居場所だっての」
 
 
 
 
 
 
「さがみいいいいぃぃぃぃんッッッ!!!」
 由比ヶ浜の絶叫を、絶叫した本人の隣を駆け抜けながら耳にした。一瞬だけ目が合ったが、彼女は放心した顔になる。だがいつまでも見ているわけにもいかず、俺と戸部、一色に海老名さんの4人で一斉に無言で突進したのだ。
 もちろん手ぶらじゃない。洗濯竿1本の片側のキャップを外した状態のを前に向け、それを4人で掴んで突き刺す。単純だが4人分の体重とスピードが乗ってる分、半端じゃない威力がある。
 しかし熊の方も、俺達の足音に気付いたのか、刺さる寸前に振り返ってきた。
 頭に刺すつもりだったが、やむなく腹に突き立てる。すると竿は面白いように腹を貫通(腹には肋骨が無いので貫通しやすい)し、背後の壁にまで突き刺さった。……ってかコンクリじゃねぇな、この壁。脆すぎだろ。
 熊が壁に縫い付けられたところで、ようやく由比ヶ浜が叫ぶ。
「ヒッキー!!」
 由比ヶ浜が駆け寄ろうとするのを右手で制する。
「待て、由比ヶ浜。先にトドメを刺す」
 そして俺が地面からバールを拾うと同時、材木座が苦しげながらも立ち上がって言った。
「ま……待て、八幡……。そいつは俺の片思いを殺したんだ。……だから俺に殺らせてくれ。自分にケジメをつけたいんだ。……俺がやってもいいか相模?」
 離れたところで、相模が苦しげに頷く。
 ―――思えばこいつが素の状態でシリアスなこと言うの初めてだな。
 バールを投げて渡そうかと思いかけたが、重量そのものが凶器であるゆえ、そのまま手渡ししてやる。
 そして材木座が動くより先に俺は熊に近づき、
「ふんッ……!」
 
 ―――ドゲシッ!!
 
 奴の股間を全力で蹴り上げた。……いやまぁ、ぶら下がってるのが見えたからな。
 戸部が股間を隠すのが視界の端に見えたが、知ったことじゃない。こいつには俺も知り合いを殺されてるんだ。こんなんじゃ足りないくらいだ。それでも熊は、腹に刺さった竿と、大事な息子さんを撲殺された苦しみで前のめりになって苦しんでいた。やや茫然とする材木座に、そっと助言してやる。
「ほれ、あいつの目玉を狙えよ。あそこには毛皮も頭蓋骨も無いんだ」
 材木座は慌てて頷き、バールの尖った部分を突き出し、雄叫びを上げながら熊に飛び掛った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「八幡……千葉県横断お悩み相談メールでお前の言った通り、勇気出して告ったら言われたよ。『ごめんなさい』って。でも『友達なら続けられるから』っていわれるとは思わなかったな……」
 こんな町中で死体を埋葬するなどできないし、持ち運ぶ手段も余裕も無い。だからせめてもと、三人の遺体を俺達は川の字のように並べ、両腕を胸の前で組ませた。
 男子だけでやるべきかとも思ったが、そこは女子も協力を申し出てくれた。相模からすれば三人とも(折本も含め)友達だったらしいし、また相模の友達なら由比ヶ浜の友達でもある。そして海老名さんに至っては、ゆっことはBL仲間だそうだ。……一色だけは三人とは面識が無いそうだが、そこは『何となく』という理由だけで手伝ってくれた。
 一色と戸部と俺以外、全員が号泣しながら死体を並べた。
 材木座はともかく、海老名さんが泣いたのは初めて見た気がする。……もっとも、海老名さんは戸部と再会直後にも泣いてたそうだが、俺と再会した時にはケロっとしていた。
 材木座は半泣きになって問い掛けてきた。
「なぁ、八幡。俺は―――俺はちゃんと仇討てたんだろうか?」
「……仇なら討っただろ。そうでなくとも、あの熊に立ち向かった時点で、ゆっことやらの幽霊からすりゃ充分惚れ直してたんじゃね―――」
 と、俺が最後まで言うより先に、『ポフッ』という音がした。
 見ると、材木座の胸に相模がもたれかかっていた。泣きながらも言葉を紡ぐ。
「あり、が…とうっ……あの三人の仇を討ってくれて……。―――遥もゆっこも……それに香織ちゃん……ちゃんと謝れなくてごめんね………本当にごめんねぇッ……」
 ふと折本からの伝言があったことを思い出した。
「相模。死ぬ寸前の折本が言ってたんだが、お前に謝っといてくれって言ってた。『あの時はゴメン』だってよ。お前ら幼馴染みだったんだな」
 それを聞いた相模は一瞬驚き、そして声を上げて泣き出した。
 しばらくの間、涙と鼻水でグシャグシャになった材木座と相模が抱き合いながら声を上げて号泣する。
 相模と折本、こいつらが幼馴染みだったのには驚いたな。俺でも折本とは中学で知り合ったくらいだ。……まぁ、小学校は同じだったらしいけど。
「そういえば死んだ三人、同じ中学に避難してた連中なのか?」
 由比ヶ浜に聞いてみると、泣きながらも首を横に振った。どうやら最初から居なかったらしい。
 だがいつまでも泣いてるわけにもいかず、他の仲間を求めて歩き出した。
 材木座と相模が先頭を進み、戸部と海老名さんが続く。その後ろに俺も付いて行こうとして、後ろから背中を引っ張られた。振り返ると、由比ヶ浜が胸に飛び込んできた。……ずっとタイミングを待っていたんだろう。
「ヒッキー……ヒッキーぃ…うっく……生きててくれて良かった……良かったよぅ……!!」
 若干の照れはあるが、俺の身を案じてくれた奴に対し、さすがに邪険にするわけにもいかないだろう。
 反射的に彼女を抱きしめようかと葛藤し、頭を撫でるだけに留める。
 そして目を合わせられず、ぶっきらぼうに答えた。
「……俺のセリフだっての」
 由比ヶ浜は泣き笑いにも似た表情を浮かべ、俺の胸に顔を埋めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――大和サイド――
 
 
 熊どもを撒いてから30分くらいし、あの時に散開したメンバーの『大体』が集まった。
(……なのに、なんでいつものメンバーが全員揃わないんだ……)
 あの熊どもが現れ、確かに『散開』と言った。おまけに集合場所なんかの打ち合わせもできてない。だから全員が揃いきらないのは仕方ないと理解もしている。
 でも、よりによって結衣と海老名さんが揃わないのは不味い。
 冷たいかもしれねぇけど、相模とざい―――材木ザラキ? とかいう死神隊長みてぇな名前の奴は、今この瞬間に死んでたとしても、俺はあまり傷つかない。でも普段からつるんでる連中だけは別だ。あいつらは俺にとって居場所なんだ。
 ……まぁ川崎と比べると揺らぐけどな。
「さーちゃん、元気ないよー」
 妹のけーちゃんが心配げに川崎を見ている。雪ノ下さんもそうだけど、川崎さんも結衣や海老名さんに思うところがあるんだよな……。
 俺からも何か声をかけるべきだな。
「なぁ、川崎。―――」
 
 
 ―――しまった。何も話す内容が無いのに声かけちまった……。
 
 
 川崎は、死んだ魚のような目を向けてきた。なんだよ、ヒキタニ菌に感染してるみてぇじゃねぇか……。
「あんたも―――友達を失ってんのよね」
「…………」
 川崎の言葉に、思わず現状を振り返ってしまう。
 戸部が死に、このままでは結衣と海老名さんを見捨ててでも出発しなければならない。
 前者は仕方ないとしても、後者は自分達の意志によって切り捨てなければいけない。―――正直、自分が壊れそうになる。
「……死後、地獄行きは確定だな。この先、もし熊に喰われそうになったら、迷わず俺を囮にしてくれ。けーちゃんは背負ってもらわないといけないけど、そうでもしないと結衣や海老名さんに顔向けできねぇし……」
「まるで由比ヶ浜達を置いていくのはあんたの決定―――みたいな言い方だね。……あんまりこーいう表現したくなかったけど、それこそ『みんなで決めたこと』って奴じゃない。それが責任逃れみたいに聞こえるってんなら、こう言ってあげる。『全員地獄行きだ』ってね」
 ……少しだけ心が軽くなった気がした。
 日本人的な感覚なのか、みんなで地獄に行けるなら、それもありかと思ってしまう。
 と、そこへ雪ノ下さんと隼人が口論するのが聞こえてきた。
 
 
「……悪いけど雪ノ下さん。君だけがここに残って結衣達を待つのは認められない」
「あら、自分から生き延びようとしない人間を置いていくことに躊躇するだなんて珍しいじゃない。今朝、あの中学の屋上で、あなた自身が言ったことを忘れたの? 『移動する意思がある人だけ付いて来い』みたいな物言いだったけど?」
「そういう君こそ、普段の理論的かつ効率的な考えはどうしたんだ? 一人でも生存者が増やすなら、君みたいな人間は一人でも多い方が良いのは分かってるはずだろ?」
「大切な友達と、あまり関わりの無い大勢の人間、天秤に乗せるまでもないわね。なら私は、例え死んででも由比ヶ浜さん達を待ちつづけるわ」
「君の言ってることはワガママだよ」
「ええ、見ての通りワガママよ。こんな事態なんだもの。自分のワガママくらい通すわ」
 隼人は一瞬だけ言葉に詰まり、でもすぐに覚悟を決めた目になって口を開いた。
 
 
「なら俺もワガママを通そう。……俺は幼い頃から君が好きだ。本当なら君の意思を尊重したかったけど、君を生き延びさせるためなら引きずってでも連れて行くよ、“雪乃ちゃん”」
 
 
 急すぎる幼馴染み発言により、優美子が目を見開き、膝から崩れる。隼人も、優美子には背中を向けてるとはいえ、今の音を聞いていたはずなのに、振り返ろうとはしなかった。優美子はそのまま両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。
 雪ノ下さんは、そんな優美子にも、そして突然の告白をした隼人にも歯牙にかけないとばかりに小バカにしたような笑みを浮かべ、
「できるのかしら? あなたが私に物理的に勝てるところなんて、持久力しかないじゃない。小さい頃から今日まで、一度でも私にケンカで勝てたことなんてあったかしら?」
 この言葉には俺も驚いた。どうやら雪ノ下さんは強いらしい。格闘技でも習ってるのだろうか。
 隼人がギリッと歯軋りする。
「……まるで悪の幹部のセリフだね。確かに俺じゃ君に勝てないよ。―――でもこの人数で押さえかかれば、いくら君が強くたって敵わないはずだよ」
「ふっ、そっちは典型的な小悪党のセリフね。確かにこの人数を相手にするのは難しいかしら。でも……一体何人があなたの味方をすると思ってるの?」
 その言葉に、俺は内心で首を傾げる。となりで川崎も似たような表情をしていた。正直、雪ノ下さんに対し、俺は何の感慨も無い。だから隼人が『連れてけ』と言えば捕まえるつもりでいたんだが……。
 でも次の瞬間には、戸塚とヒキタニ妹、そして妹さんに味方するように川崎大志が雪ノ下さんのとなりまで移動した。どうやら彼女の仲間になるらしい。必然的に川崎も、戸塚と弟の味方をすべく雪ノ下の味方になるだろう。やばい、俺、どっちの味方になればいいんだ?
 雪ノ下さんは満足げに頷いたあと、隼人に哀れむような視線を向け、
「これであなたの味方をするのは大岡君と大和君だけね。今の三浦さんに期待するのは酷だもの」
 一応、俺は隼人の味方ということになってるらしい。
 彼女は続ける。
「ところで“隼人”君」
 し……下の名前で呼んだ!?
 誰もが驚く中、構わず彼女は続けた。
 
 
「たった三人で私一人に勝てるのかしら?」
 
 
「……え?」
 大岡が間の抜けた声を上げる。
 俺も、いま聞いた言葉の意味が理解できなかった。
 でも隼人は悔しそうな顔になり、俯いた。え? この人、そんなに強いの? ……ってか俺、隼人に諦められてるの?
 構わず雪ノ下さんは続ける。
「……で、どうするのかしら? それでも私を連れて行く手段があるのなら、一生あなたを恨むわ。具体的には、そうねぇ……あなたの身の回りの人に、一人ずつ死んでもらうってのはどうかしら? そして最後には私も」
 サラッとえげつないこと言い出したよ、この女!?
 なまじ隼人本人を殺さない分、余計に隼人の心にプレッシャーがかかるやり方だ。
 さすがに隼人も限界が来たと思ったのか、肩から力を抜いた。
「―――優美子、君の気持ちには気付いていた。でも君が答えを出そうとしないのを―――告白してこないのを良い事に、俺も君との関係を先延ばしにしてきたんだと思う。でもゴメン、もう雪乃ちゃんを連れて行くのは無理みたいだ。だから―――」
 だから優美子に告白しようってのか?
 内心で隼人に対し、軽蔑の思いが湧き上がる。似たような気持ちなのか、優美子が拳を握り締めた。ああ、こりゃ殴りかかるつもりだな、と思ったが、止めようとも思わなかった。
 でも隼人は、俺の予想をも上回る言葉を口にした。
 
 
 
「だから―――俺も雪乃ちゃんと一緒に、ここに残るよ。例え津波が来ても、余震で建物に押しつぶされても、ガリガリになって餓死しても……頭から猛獣に食べられてでもね」
 
 
 
 ……驚くくらい、一直線な男だった。
 雪ノ下さんは少し驚いたように目を見開いたけど、
「……勝手にしなさい」
 とそっけなく言って背を向けた。不思議と満更ではなさそうな気がした。
 優美子の拳から力が抜け、脱臼(だっきゅう)したかのように腕が垂れ下がった。
 今この瞬間、俺は悟ったよ。
 
 
 二年生になってからずっと続いていた俺たちの関係は、ここで終わったんだと。
 
 
 よく昔のマンガで『俺たちの友情は、この程度では揺らがない!』みたいなセリフがあるが、少なくとも俺らにとってはこの程度だったらしい。
 大岡も優美子も、そして俺も、しばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて大岡が優美子の肩を叩いて呼びかけた。
「行こう……俺たちだけでも生き延びなきゃ……」
 決心がついたのか、優美子と話し始める大岡。
 その光景に背を向け、俺は川崎に呼びかけた。
「なぁ、川崎……あんたはここに残るのか?」
「んー、彩加と大志が残っちゃうだろうしね。残るつもりだよ」
 ……ここだろ、俺。ここで決めなきゃ一生後悔すっぞ。
 俺は覚悟を決め、言ってやった。
「そっか。……じゃ、俺も残るわ」
「はぁ? あんた何言ってんの?」
「あ、いや何つーか―――あんたの事が好きなんだ、俺」
 言っちまったよ!
 隼人でも、もう少しシリアスに言ったってのに、なんか俺、さらっと言っちまったよ!!
「もちろん、あんたと戸塚の間に入り込めるなんて思ってはいない。でも惚れた奴がここで死んでいくかもしんねーのに、俺だけ逃げちまったら一生後悔すると思うんだ。それでさっきの隼人の告白を見て、俺もまぁ……何だ。勇気を貰ったっていうか……とにかく死ぬ寸前まで傍に居させてください! ってか、勝手に傍に居ます!!」
 一方的に捲くし立ててから川崎を見ると、彼女はポカンとした顔をしていた。
 でもやがて困ったような笑みを浮かべて、
「まさか自分がモテるだなんて思ってなかったね。あんたの気持ちは素直に嬉しいと思ってる。……でも一応は言っておくよ。今のあたしは彩加が好き。だからあたしからあんたを好きにはならない。それを間近で見ていて気にならないなら好きにすれば良い」
 ああ、こーいうのは一般に『失恋』って呼ばれるんだろうな。
 でも『傍に居ていい』とお墨がもらえたんだから良しとすっか。
 と、その時だった。
「はぁ!? ちょ…ゆ、優美子、本気で言ってんの!?」
 大岡が驚愕の声を上げた。
 見ると、優美子が腕を組んで大声を張り上げるところだった。
「何度も言うけど、隼人が我侭を貫くんなら、あーしだって貫いてやる。隼人が雪ノ下を押し倒そうとすんなら、あーしがはやとを押し倒してやる。このまま隼人がここに残って死のうもんなら―――あーしは地獄の底まで隼人をストーキングしてやる!!」
 それを眺めていた雪ノ下さんが肩をすくめ、隼人が溜め息をついた。
 隼人が口を開く。
「どこぞの小説並に、歪んだ恋ばっかだな……。えーと、じゃあ他に残らない奴は―――大岡と大和?」
「俺ぁ川崎が残るから、俺も残るわ。あ、戸塚も嫉妬しなくていいぞ? お前らの仲を見せ付けられても傍に居て良いならってお墨をもらったしな」
 必然的に大岡だけが仲間外れになった。
 すると大岡は急に泣き出し、
 
「俺を……俺を一人にしないでくれぇ―――ッ!!」
 
 ……こいつ、典型的な日本人だな。まぁ状況が状況だから分からなくもないが……。
 結局、全員で結衣と海老名さんを探す事となった。……言っちゃ悪いが、材木ザラキと相模はついでだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――三浦優美子サイド――
 
 
 ―――最悪だ。
 最悪だ最悪だ最悪だ畜生!!
 
 ……でも隼人の前で本音言えたから、少しスッキリしたわよ。
 ストーキング発言しても拒否られないなんてね。あーしだったら隼人以外の奴から今のあーしみたいな好意向けられても、ぶっちゃけドン引きなんだけど。
 あー、ホントどうしよう……。
 完全に拒否られなかったって事は、まだ可能性があるってことだ。……でも可能性は低い。仮に隼人がこの先、雪ノ下に振り向かれなかった時しか可能性が無い。
 ―――あえて言う。
 
 
 そんなのは真っ平ゴメンだッ!!
 
 
 あーしは二番じゃ駄目なんだよ!
 世間に出回ってる作り話みたいに、二番目で満足するヒロインなんかじゃ駄目なんだよ……。
 だからあーしが考えなきゃいけないのは、どうやって隼人をこっちに振り向かせるかなんだ。
 でも……とりあえずは結衣と姫菜を探そう。隼人との関係は失いたくないけど、それ以前にもう誰も失いたくはないし……。
 
 
 しばらくは全員、隣の人と他愛も無い話をしながら歩きつづけた。
 一応は手分けして探そう、という声も上がったけど、さすがに動物園から猛獣が逃げ出してる状況では危険なので、全員で固まって探す事にした。もし熊や他の猛獣と出会ったなら、みんなで袋叩きにするためだ。そのために全員、道端で拾った鉄骨などの武器を持っている。
「あっ……!」
 ひび割れたアスファルトにつまずき、川崎の妹……けーちゃんが転びそうになるのをヒキタニ妹が腕を引いて助ける。
 二日前までは活気に溢れていた街は、今や廃墟となって晴天に無残な姿を晒していた。
 思えば今が見納めなのかもしんない。
 隼人達と一緒に行ったゲーセンやカラオケ。
 結衣と姫菜の三人で行ったショッピングモール。
 たまに家族で出かけたレストラン。
 ここからじゃ見えないけど、あーしの家もすぐ近くにある。ここはあーしにとって庭みたいなものだった。
「うっ…くっ……」
 込み上げてくる涙と嗚咽を押さえる事は出来なかった。隼人と大岡と大和は、あーしの家がこの近辺にあることを知ってるからか、何も言わずに目を逸らしてる。
 ふと袖を引っ張られる感じがした。
 見るとヒキオの妹がハンカチを差し出していた。
「……お姉さん、この近所に住んでるんですよね?」
「ああ、そうだけど。……なんで分かった?」
「何となくです。沙希さんや大志君が、壊れた自分の家を眺めてる時と似た顔してたんで」
「そう……。ありがと、えっと―――ヒキオの妹」
 するとヒキオの妹は悪戯めいた笑みを浮かべ、
「小町です。比企谷小町。言っておきますけど、ヒキオって兄の名前でもあだ名でもありませんからね? あと苗字もヒキタニじゃありませんし」
 その言葉に、前を歩いていた大和と大岡が『―――え?』と声を上げたがスルーした。
「わかったわよ小町、あーしは優美子だから」
「わっかりました優美子さん! じゃあ優美子さんは―――いつ頃から葉山先輩が好きになったんですか?」
 後半は小声で、しかし直球が飛んできた。
 あーしは隼人や雪ノ下にまで声が届いてないか確認し、小声で返した。
「…………2年生になって、クラスで懇親会? みたいなのをやった時。一目惚れだったなぁ……それに優しく声かけてくれるのに、他の男子と違って色目使わなけりゃ、下心だって無かったし。―――そりゃ本命が雪ノ下じゃ、あーしなんかに下心なんて沸かないよね」
 それを聞いて、小町はなぜか小さく溜め息をついた。
「はぁ……。こりゃどっちかを応援しても良い感じじゃなさそうだね」
「何それ? 高校生の恋バナに口はさむ趣味でもあんの?」
「んー、どっちかというと、小町は兄を通じて結衣さんや雪乃さんと友達になれたんですよ。……で、小町としては、ぼっちの兄が結衣さんや雪乃さんとくっつくように持っていきたかったんです。できれば二股リア充みたいな方向で。……でもお兄ちゃん、死んじゃいましたし、せめて生き残ってる結衣さんや雪乃さんには幸せになってほしかったんです。だから少なくとも雪乃さんには、なんか面識のあるっぽい葉山先輩とくっついたらなと思ってたんですけど―――今の話を聞くと、ねぇ……?」
 ……この小町という奴は、最初に口を聞いた時から白々しい奴だとは思ってたけど、それほど腐った人間でもないらしい。
「小町もね、思うんですよ。……自分に優しくしてくれる男の子って、みんな笑顔の下に何かを隠してる感じがするんですよね。ま、それは小町もお互い様ですけど。でもたまーに居るんですよ、下心も無いのに優しいのがそこそこ。中にはあたし好みのも居たりするんですけどね、そーいう子って大志君以外、大抵が彼女持ちか、片思いの人がいるんですよね」
「……だからあーしに同情してるって?」
「んー同情とかじゃないっすねー。今の優美子さんは葉山先輩に振り向かれないし、雪乃さんは押しが弱いから、自分から葉山先輩に迫らない。……でも小町が後押ししたら、お兄ちゃんみたいな駄目人間じゃない限り、応援した方と絶対に結ばれると思うわけなんですよ。ただ―――それって不公平じゃないですか。優美子さんが遊びじゃなく、本気で葉山先輩を思ってるんなら、どちらに手を貸しても酷いとしか言いようがないですし」
 だから手を出さない―――という意味らしい。
 あーしは鼻で笑って答えた。
「諦めたら終わりだって言われるけど、ぶっちゃけ負け戦みたいなもんだし。意地でしがみ付いてるようなもんだし―――」
 
 
 最後まで言い切るよりも先に、一頭の大きな虎が現れた。
 
 
 数メートル先の裏路地から、突然現れたんだ。……たぶん、虎も何気なく大通りに出てきたつもりだったんだろう。
 あーしらと虎の目が合い、数秒の沈黙が降りる。
 デカい虎だなぁ……なんて思ってたら、虎はいきなり飛び掛ってきた。
「危ない!!」
 隼人が叫ぶと同時に、あーしと小町を左右に突き飛ばし、鉄パイプで虎の爪と顎を受け止めた。
 ……さすがに体重差で思いっきり負けているため、そのまま背中から地面に押し倒されたけど、隼人はそのまま柔道の巴投げ(知らない奴はググれ)の要領で虎の腹に右足裏を当て、後方へと投げつけた。虎はそのまま地面に叩きつけられ、軽い脳震盪を起こしている間に雪ノ下が鉄パイプ(先端が尖ってる)を虎の目玉から突き刺し、頭蓋骨の奥まで抉ってトドメを刺した。
 でも虎は一頭だけじゃなかった。もう一頭が角から現れたんだ。
 群れで行動しない虎の習性から考えると、たぶん雪ノ下が殺した奴と夫婦だったんだろう。死んだ恋人の亡骸を視界に納め、悲しさと怒りの混じった大声で一鳴きし、あーしらに飛び掛ってきた。
 
 
 数秒後、真っ赤な血と絶叫が宙を舞った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――戸塚彩加サイド――
 
 
 今まで人を好きになったことが無かった。
 
 
 ……ううん、友達としての『好き』は数え切れないほどあったよ? でも恋という意味では何一つなかったんだ……。
 こんな見た目だから女の子と間違われることも多かったけど、中には僕のことを『性同一性障害者』だと疑う人も居た。……実際、異性に劣情や特別な感情を感じることすら今まで無かったから、僕自身もそうじゃないかと疑っていたくらいだ。
 それなら同性に興味が湧くはずなんだけど、不思議とそれもない。
 ただ最近―――っていうか昨日、ようやく僕は男なんだって自覚できたんだ。
 
 
 沙希ちゃん―――川崎沙希ちゃんが、好きになっちゃった。
 
 
 ……別に性欲を感じたんじゃない。きっかけは簡単なものだった。
 八幡がガレキに押しつぶされて死んだ後、泣きながら抱きついてきたのが沙希ちゃんだった。
 タイミングとしては、八幡の死を知り、それでも泣くのを堪えようとした瞬間のことだったから、僕も貰い泣きしちゃったな……。
 あの時は悲しみのあまり大声で泣いちゃったけど、しばらくして冷静になると、初めて家族以外の異性を抱きしめた温もりとか、沙希ちゃんの『八幡を想う生の感情』とかが蘇ってきて恥ずかしく―――それでいて初めて異性を好きになる気持ちを感じたんだ。
 たぶん、沙希ちゃんも同じ気持ちだったんだろう。
 沙希ちゃんの泣きっぷりから、きっと八幡のことが大好きだったんだと思う。……でも僕が沙希ちゃんに感じてることを、沙希ちゃんも僕に感じてしまっていると自覚したのか、かなりうろたえていたのを覚えてる。その事で大分後悔や苦悩も感じてるとは思うけど、今の僕達は心のどこかで通じ合えてると思ってる。ひょっとしたら見えない『赤い糸』で結ばれてるのかな?
 
 
 まだキスもしてない関係だけど―――ううん、“だからこそ”かな? 恋がこんなにも幸せに感じられるのは。胸の高鳴りが不安でなく、喜びを感じられるのは……。
 
 
 だから僕は、二匹目の虎が沙希ちゃんに飛び掛ったと時、とっさに前に出て鉄パイプで殴りかかったんだ。残念な事に、先の尖ってる鉄パイプは雪ノ下さんしか持ってなかったしね。
 僕一人じゃダメージなんか無く、すぐに体当たり一つで近くの壁に叩きつけられ、トドメを刺されそうになったけど、そこは大和君が虎の横面に鉄パイプを叩きつけて助けてくれた。ああ、大和君は本当に沙希ちゃんが好きなんだな……。分かるよ、彼の目を見ていれば。あれは沙希ちゃんだけでなく、僕までも守るために自分を身代わりにしちゃう人の目なんだ。
 悲しい反面、人からそこまで思われることが嬉しかった。きっと僕から沙希ちゃんを奪うんじゃなく、沙希ちゃんの笑顔のためならどんな悲しい事だって出来る人なんだと思う。……まるで死んだ八幡みたいだね。
 
 
 ―――ただ残念な事に、みんなが虎を袋叩きにしている間、転ばされた僕を介抱していた沙希ちゃんの頭上から、洗濯竿を短くしたような鉄骨が落ちてくるのが見えた。
 その瞬間から世界がスローモーションになる。よく確認すると、頭上には崩れかけた高層ビルがあった。あの上から落ちてきたんだと思う。意識を研ぎ澄ませると、地面が微かに揺れ、周辺の建物がギシギシと音を立てている。間違い無く余震だ。そしてこのまま待ってれば、絶対に棒は沙希ちゃんに当たるはずだ。
 ……沙希ちゃん、ごめん。
 たぶん、君は僕を守るためなら命を捨てちゃう人なんだと思うけど、それは僕も同じなんだ。
 相手を思うようでいて、残された人の気持ちを踏みにじる、絶対にやっちゃいけない行為。
 
 
 
 ……だからこそ、ごめんね。君に辛い思いをさせて。
   ・・・・・ ・・・・
 
 
 でも僕の分まで生きてほしいな。すぐに後を追ってこられても、僕が悲しくなっちゃうから……。
 
 
 次の瞬間、僕は跳ね起きるように沙希ちゃんを突き飛ばした。
 同時に僕は、最期に彼女への想いを伝えようと口を開く。
「……、…………っ」
 駄目だった。あまりに咄嗟のことだから、声すら出なかった。せめて最後だけは伝えたかったなぁ。『ごめんね』と『大好きだよ』って。
 
 そして―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――川崎大志サイド――
 
 
 まるでテレビで映画か何かを見ているかのような、どこか『他人事』のようなものを見ている気分だ。
 ……きっと今の俺自身が、現実を直視するのを拒んでるんだと思う。
 俺と同じくショッキングな光景を見ている、俺の片思いの小町ちゃんが、さっきから俺の胸に顔を埋めて泣いているにも関わらず、まるで夢を見ているかのような放心を感じてしまう。
 それなのに耳だけが痛い。
 
 
 ―――痛みの原因は、細い鉄骨が刺さって通り抜け、胸に穴をあけて即死している戸塚さんの上半身を抱え上げ、涙ながらに絶叫している姉ちゃんの声だった。
 
 
 ―――戸塚さん。
 ―――姉ちゃんの、初めての彼氏。
 本当に男なのかと疑いたくなるほど美少女めいた人だ。それでいて優しく儚げな人。
 ……一応俺はシスコンではなくノーマルだけど、それでも姉に彼氏ができようものなら、ある程度は相手の男について心配事が沸きそうなものなのに、戸塚さんなら安心できそうな気がした。―――まぁ女にしか見えない顔だからかもしれないけど。
 
 
 でも―――戸塚さんはもう、目を覚まさない。もう……息すらしてない。
 すぐそばで大和さんが涙ながらに叫んでいた。
「なんで……なんで俺を殺さねぇんだよ神様! 戸塚がっ…戸塚がいったい何したってんだ!?」
 
 
 頭上で轟音がした。
 今しがたの余震で、みんなの傍にあった崩れかけのビルが倒壊しつつあった。巨大なコンクリート片や鉄骨が、100メートル以上の上空に投げ出され、自由落下を開始する。……この場に居れば絶対に押しつぶされるだろう。
 
「逃げろおおおおぉぉぉぉッッッ!!!!」
 
 誰かが叫ぶと同時、一斉に走り出す。
 泣いてる小町ちゃんは、ちょっと強引にお姫様抱っこして俺が運んだ。
 ……でも姉ちゃんだけは、その場から動こうとしなかった。さっきまで絶叫してたのに、今は戸塚さんの上半身を抱きしめたまま無言でいた。
 思わず叫ぶ。
「誰か! 誰か姉ちゃんを助け……ッ!!」
 焦ってるせいか、思うように話せない。
 それでも大和さんが、けーちゃんを肩車したまま姉ちゃんを担ぎ上げた。
「嫌あぁッ! 離して! 彩加ッ……!! 彩加あああぁぁぁッ!!!!」
 見たことも無い形相で―――それでいて見ていて痛々しいくらい泣き叫ぶ姉ちゃん。大和さんも一瞬、戸塚さんの亡骸も運ぼうかと手を伸ばしかけたけど、すでに定員オーバーな状態だ。少し躊躇い、戸塚さんに背を向ける。
 代わりに葉山さんが、戸塚さんを持ち上げようとした。
 ……パッと見て、この葉山さんって人は筋肉質だとは思うけど、やっぱり一人の体重というのはバカにならないみたいだ。戸塚さんに意識があれば背中にしがみ付いてくれそうなものだけど、死んでいる人間を一人で背負おうとするのは難しいらしい。
 他の皆はすでに逃げ終え、後は葉山さんと、死んだ戸塚さんだけになっていた。
「隼人君っ!!」
「隼人ぉっ!!」
 雪ノ下さんと三浦さんが半泣きになって叫ぶ。
 葉山さんが何とかお姫様抱っこをしかけたところで、俺らから見て虎が出てきた路地裏から走ってくる一団が現れた。
 
 
 ―――死んだと思われてた小町ちゃんのお兄さんと戸部さんだ!!
 ―――しかも由比ヶ浜さんと海老名さん、相模さんに材木座さん! それに見覚えの無い総武高校の女子服の人もいる!!
 
 
 お兄さんが上を見て驚愕し、下の戸塚さんを見て更に驚いて叫ぶ。
「と……戸塚!? ちっ! おい戸部、お前も運ぶの手伝え!! なるべく早く、それでいて戸塚の怪我が悪化しないようにだ!!」
 
 
 お兄さん達は何も知らずに裏路地から出てきたんだろう。
 戸塚さんがすでに死んでることすら気付かず、胸に真っ赤な染みが出来てることにしか意識が向いていない。
 それでも葉山さんと戸部さん、それにお兄さんの三人で戸塚さんを抱え、彼を仰向けのまま担いで走り出した。
 そんな彼らの後ろから由比ヶ浜さん達がやってきて、戸塚さんを運ぶ手伝いをする。
 さすがに数人がかりで運べば、あっという間だった。
 ガラガラと崩れ落ちるビルから距離を取り、戸塚さんを仰向けに寝かせた。
 すぐに小町ちゃんのお兄さんが叫んだ。
「胸だけじゃなく、背中にも血の跡が!? おい葉山! 戸塚の奴、胸に何かが貫通…した……のか………?」
 でもお兄さんの言葉は、視線を逸らした葉山先輩―――の後ろで涙を流している姉ちゃんを見て、だんだんと尻すぼみになっていく。
 
 
「戸……塚……?」
「彩ちゃん? ―――ねぇ、嘘でしょ?」
 
 
 やや放心気味のお兄さんと由比ヶ浜さん。その後ろで戸部さんと海老名さんも放心している。
 雪ノ下さんが口を開く。
「比企谷君、由比ヶ浜さん。他の皆も無事で良かったとは思うけど、今だけは受け入れて欲しいの。戸塚君は―――」
 それまで淡々と紡いでいた言葉が途切れた。
「戸、塚…君…はぁっ……!」
 声が揺らぐ。震える。いくつもの懊悩を秘めた物へと変化する。……あの雪ノ下さんがだ。
 
 
 雪ノ下さんは―――泣いていた。
 顔をくしゃくしゃにして、泣いていたんだ。
 
 
 俺が彼女のそんな表情を見るのが初めてなのはまだ分かる。でもお兄さんも由比ヶ浜さんも小町ちゃんも―――葉山さんと姉ちゃん以外の高校生達がみんな、信じられないようなものを見るような顔をしていた。
 彼女は続けた。
 
「戸塚君はっ……死んだの……死んだのよぅ……」
 
 それだけ言い切ると、雪ノ下さんは声を上げて泣き崩れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一方、お兄さん達が泣き崩れる雪ノ下さんを見て取り乱してる頃―――こっちはこっちで大変なことになっていた。
 なぜかいつも通りの無表情―――でも瞳孔が開いた姉ちゃんが、静かに泣き崩れる大和さんに歩み寄っていったんだ。
 そして気軽に声を掛けた。
 
 
「ねぇ大和。……あんた、この鉄パイプであたしの胸、刺してくんない?」
 
 
 目を見開く大和さん。俺だってあまりの発言に言葉すら出せなくなっている。……しかも姉ちゃんが持ってるのは、さっき戸塚さんの胸を貫通した鉄パイプだ。
 静か過ぎるやり取りに、慌しい周囲は誰も気付いてないようだった。
 大和さんが静かに、でも確かに拒否をする。
「ふざけんな……できるわけないだろっ! 大体、それじゃあ戸塚が身を呈して庇った意味…が―――」
 俺からは姉ちゃんの背中しか見えないけど、向き合ってる大和さんは一体、どんな表情を見たのだろうか。言葉が途切れ、明らかに感情が揺らいでいる。
 姉ちゃんは続ける。どこか明るく、そして空虚さを感じさせる声で。
「大切な人のために死ぬ―――そんな古すぎる美徳なんて嫌いだよ。だってそれは大切な人を裏切る行為じゃん。残された人がどれだけ苦しむか、どんな気持ちで生きていくか、ちっとも考えてない……。だから彩加があたしを裏切ったように、あたしも彩加を裏切るの。命を粗末にしたんだから、二人とも地獄に行けると思うし、そこでいつまでも仲良く暮らしたいんだ」
「…………」
 うっとりと未来を語る姉ちゃんは、どこか楽しそうで、大和さんは何も言えなくなっていた。
「大丈夫だよ、大和。刺してくれれば、彩加への想いを3割くらいは本気であんたに向けてあげる。死ぬ間際にキスしてくれても構わない。だからお願い。ね?」
 対する大和さんの表情の変化は凄かった。―――能面みたいになっていた。
「………あんたがそれで幸せなら……」
 言いながら大和さんは、鉄パイプを持ち上げようと―――
 
 
「やめ――――――ッ!!」
 
 
 でも俺が叫ぶよりも先に、予想外の人物―――材木座さんと相模さんが二人の間に入った。
 そして材木座さんが姉ちゃんに強烈なビンタをかまし、相模さんは大和さんの頬を思い切り殴り飛ばした。
 材木座さんが姉ちゃんに向かって言う。
「川崎ぃ……貴様は『千葉県横断お悩み相談メール』ってのをやった事があったよなぁ……。だったら過去ログだって見てるだろ? 俺が『剣豪将軍』の名前で女に告白しようとした件。―――実際には『ごめんなさい、でも友達から』って話になったあいつは、さっき熊に食い散らかされた状態で見つかったんだよ!! 貴様と同じく、俺も惚れた奴を失ったんだッ!!」
 材木座さんは言葉を切り、荒くなった息を整え、続けた。
「それに対して貴様は何だ? 戸塚が裏切った? ああ、話聞いてりゃ確かに裏切ったよ! やっちゃいけない事しちまったよ!! けど俺と違って、最期まで戸塚に愛されてたじゃねぇか!! ぶっちゃけテメェが羨ましくて妬ましく、死ぬほど憎い! むしろこの手で殺してやりたいくらいだ!!」
 そこで姉ちゃんもキレた。
「だったらアンタがあたしを殺してよぉッ!!」
 
 
「それをやったら戸塚に顔向けできねぇんだよ!!」
 
 
 材木座さんの言葉に、姉ちゃんがたじろぐ。
「戸塚はなぁ……ずっと一人だった俺に話し掛けてくれる、八幡と並ぶダチだったんだ。確かにあいつは許されないことをしたよ。でも……でも許してやってくれよぉ! あいつは俺にとっても、かけがえのない親友なんだよぉッ! なぁ頼むよマジでよぉッ!!」
 材木座さんは泣いていた。
 涙と鼻水を垂れ流して泣いていた。
 
 
「あいつの間違いながらも、あんたを守ろうとした想いを、裏切(自殺)らないでやってくれよぉ……」
 
 
 その言葉がどう響いたのか、姉ちゃんは膝から崩れるようにペタンと座り込んだ。
 すると姉ちゃんの正面から、けーちゃんが歩み寄っていった。
 けーちゃんは悲しそうな、とても幼稚園児とは思えないような表情で言った。
 
「さーちゃん、死のうとしないで……。さーちゃんが死んだら、さいちゃん(←戸塚さんのこと)もあたしもやーちゃん(←たぶん大和さん)も、泣きたくなっちゃうから……」
 姉ちゃんはけーちゃんを抱き寄せ、さっき枯れたばかりの涙が滝のように流れ出すと同時に、声を上げて泣き出した。
 
 
 一方、相模さんも大和さんにきつく当たっていた。
「あんた……なに地獄に堕ちかけてんのよ。好きになった奴を自分の手で殺して、それがあんたにとって何の得になるっての?」
「…………」
 大和さんは沈黙したままだ。時おり、何かを堪えるように歯を食いしばっている。
 相模さんは、そんな大和さんの態度に業を煮やしたのか、冷たく吐き捨てるように言う。
「―――そんなんで女の気持ちが動くとか思ってんの?」
「……ッ、お前なんかに何が分かんだよ……。何も知らないお前なんかに! この思いの何が―――」
 大和さんの言葉を遮るように、相模さんは言った。
「今そこで材木座が言ってた『熊に食い殺された奴』って三人いたの。二人は一昨日の体育祭の前に喧嘩して口すら聞いてなかった親友。もう一人に至っては小学校の頃に殴り合いの大喧嘩した幼馴染だった。あの後すぐに引っ越したから謝れてないままだったよ」
 相模さんはうつむきながら語りつづける。あまりに重い話に、俺も大和さんも何も言えないでいる。構わず彼女は続ける。
「運が良かったのか、幼馴染みの方は比企谷達が駆けつけてくれた時、虫の息ながらもアタシ当ての遺言を残してくれた。笑いながら『あの時はゴメンね』だって―――はん! あんなに鼻血が噴き出すくらい殴ってやったのにゴメンだって! 謝るくらいなら起き上がってかかってこいってのよ! それに比べてあんたは何? 振り向いてくれない女から『少しだけ愛してやるから殺してくれ』ってのを真に受けてんじゃないわよ。常識で考えてみなさいよ。恨まれたなら……憎まれたなら好きなだけ殴らせれば良いじゃない。そもそも―――」
 そして彼女は大和さんの胸倉を掴み―――叫んだ。
 
 
 
「死んでる奴に愛されるよりも―――生きてる奴に憎まれる方がよっぽどマシじゃないの!!」
 
 
 
 そう叫んだ相模さん自身、滝のように涙を流していた。
 彼女はすでに、そういった思いを3人分も背負っているのだろう。今の魂の叫びみたいなのを聞いた材木座さんが、ポカンとした顔で相模さんを見つめる。
「川崎―――すまん……すまねぇッ!! 俺は―――俺はアンタを殺したくねぇ!! 俺が惚れたアンタにはいつまでも―――いつまでも幸せそうに生きていてほしいんだ!!」
 大和さんは泣きながら、姉ちゃんに土下座した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして不幸な事は連続する。
 何の予兆も無く、『ついでだから……』とでも言いたげに。
 いろんな人の泣き声が響く中、戸部さんが現実逃避気味に軽い声で呟いた。
「あ、あれー? そーいや、いろはすは? ねぇ君、川崎さんの弟君っしょ? 俺やヒキタニ君と一緒に、髪染めた女の子が居たの見なかった?」
 急に話を振られ、回想する。うん、確かに居た。お兄さんや戸部さん、由比ヶ浜さんに海老名さんが、戸塚さんの遺体を運ぶ葉山さんの手伝いをした時、確かに彼らの最後尾に髪を染めた女子の姿があった。戸塚さんの足を掴んで持ち上げてたな……。そっから先は覚えてないけど。
 すると葉山さんが驚いたように口を開く。
「いや、待ってくれ。俺たちが戸塚をここまで運んだ時、あいつの姿は無かったぞ? 戸塚を掴んでたのも、俺と比企谷君と戸部、結衣に姫菜、相模さんに材木座君しか居なかったし……」
 
 
 ―――まさか?
 まさかまさかまさか!?
 
 
 俺と葉山さんと戸部さんの目が、ガレキの山へと向かう。
 
 
 
 ガレキの山の中に、白い腕が生えてるのが見えた。かなり血まみれだけど、間違い無く女の左腕だろう。
「あっ…あああっ……!?」
 葉山さんが半狂乱になって駆け寄り、その白い腕を引っ張った。
 ―――腕は肩よりもう少し上らへんから千切れた状態で出てきた。あれだけ心臓の近くで千切れたのなら、もう生きてはいないだろう。衣服すら纏ってないのは、引っ張った際に脱げたからだろうか?
 
 
 
「一…色……冗談だろ?」
「隼人……」
 強張った表情で呟く葉山さんを、三浦さんが不安げに呼びかける。でも葉山さんは振り返らなかった。
 
 
 
 やがて戸塚さんを悼む声と、一色さんを悼む声―――お兄さんと葉山さんの絶叫が響き渡った。
 
 
 



[41214] 5話 津波
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/06/09 23:46
 はじめに
 
 
 大体、一週間に1回のペースで投稿しており、後は番外編(キレの悪い終わり方なので投稿すべきか悩んでます)と最終話(……というよりエピローグの長い版みたいなの)の2話分で終わりになります。
 
 
 
 
 
 
 
 ――雪ノ下雪乃サイド――
 
 
 ―――私は負けることが嫌いだ。
 
 それはスポーツや学問だけでなく、あらゆる『勝負』と名が付くものにおいてである。
 完璧すぎる―――とは言えない一面も、家族であるゆえに知ってはいるけど、ほぼ完璧に近い存在である母や姉の背を見てきた分、何かに『負ける』という事に生理的嫌悪感を覚えると言っても良い。
 そして幸運にも容姿だけでなく、あらゆる学問やスポーツに適正があり、習い始めれば三日でマスターできる自信があった。
 ―――持久力だけは不思議なくらい低いし、これだけはどれだけ努力を重ねても向上しなかったけれども、いつぞや比企谷君が言っていたように、努力は自分を裏切る事は無かった。これは昔の人が言う『若いうちの苦労は買ってでもしろ』というのと同じで、『あの時の努力(苦労)に比べれば、まだ頑張れる』という原動力になるからだ。
 未だに姉さんにすら追いつけないけど、それでも努力することだけはやめたことはないし、やめるつもりもない。
 そして同時に、私は努力する人間が好きだ。……異性に対する『好き』ではなく、好感が持てるという意味だけど。
 
 
 ―――人生史上、私に頭を下げ、散々私に罵られながらも努力を止めなかった人間が二人だけいる。
 
 
 一人は由比ヶ浜結衣さん。
 お菓子作り―――いえ、調理と名のつく全ての存在から縁遠い彼女が、奉仕部への依頼として、入学時から片思いだった比企谷君にクッキーを作って渡したいと相談してきた(比企谷君には飲み物を買うように言って追い出してたので、彼には聞かれてないだろう)。思えばそれが、彼女との初めて会話だった。
 彼女の料理の腕は未だに向上が見られないけど、努力をやめない姿勢だけなら買っている。
 
 
 もう一人は戸塚彩加君。
 愚直なまでにテニスが好きで、でも自分も弱ければ仲間まで弱いというテニス部部長。
 それでも彼は勝つことを諦めなかった。
 しかもそれは自分だけが強くなるのではなく、部のメンバー全員を強くしたいという考え方だった。
 ……自分ひとりが強くなろうとする私以上に努力家と言えなくも無い。
 結果的には、まず彼自身を強くするために鍛えなければいけなくなったし、その間には随分と厳しく接したけど、それでも彼は愚直過ぎるくらい、私が言ったトレーニングを続け、毎日トレーニングの後に笑顔で『ありがとう』とすら言ってくれた。
 
 
 私は努力を続ける人が好きだし、努力は人を裏切らない。
 
 
 
 なら―――
 
 
 
 
 
 ――――――――ならどうして彼が死ななければならなかったの?
 
 
 
 
 
 これじゃ彼の努力はまるで―――
 
 
 
 
 
「……ゆきのん、落ち着いた?」
 由比ヶ浜さんの問いに、私は掠れた声で『ええ』と頷いた。
 私と隼人君、それに比企谷君と川崎さんと大和君の五人が、目元を腫らしながら死んだ目を虚空に彷徨わせていた。
 まだ移動はしていない。私達が泣き止むのを、皆が待っていてくれた。……まぁ私達五人ほどではないけれど、他の皆も泣いてしまってたけどね。
 一色さんという人の事はあまり知らないけれど、彼女の死に隼人君が泣き崩れていたのが気になって問い掛けてみた。
「隼人君……さっきの女の子、三浦さんのように自分を好いてくれる人なの?」
 隼人君は疲れたように答えた。
「ああ。……でも優美子と同じで、ただ群がってくる奴らとは違ったんだ。俺に君しか見えてないのと同じで、彼女達も俺しか見えてない気がしてた。……気のせいであってほしいけどね」
「彼女達の想いに応えなかったこと、後悔してるの?」
「…………ああ」
 この場合の『応える』とは、彼女達の失恋を意味しているのだろう。
 まぁ実際のところ、それは何らかの手段で告白してきた相手にしか断れないのが難点でもある。さっき三浦さんのことを『告白してこないのを良いことに――』と言っていたことから分かるように、恋愛感情抜きに『友人と思っている相手』に『態度で拒絶する』という手段は、私はともかく、この男には絶対に出来ない。
 
 
 ―――昔から変わらないのね。
 
 
 まだ私が幼かった頃。
 私が犬嫌いになった事件と―――隼人君が『とある男子』を助けられなかった事件。
 
 当時、小学生だった私は、気分転換にショッピングに出かけ、とある誘拐犯に襲われた。
 ……後で知った情報によると、誘拐犯は父の会社のリストラ社員で単独犯であり、身代金を狙ったものだったらしい。
 この事件がきっかけで護身術としての合気道を習う事になったのだけど、当時小学5年生だった私は成す術もなく座り込み、悲鳴を上げるしかできなかった。―――思えばこれが、『誰かに負けたくない』という心を形成する、姉以外の原因だったのかもしれない。ある意味で初めての敗北だった。
 ただその時、一匹の子犬が走ってきて、誘拐犯に何度も噛み付き、狂ったように吠え続けた。
 子犬と誘拐犯の攻防が数分間続き、やがて騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まってきた。
 その時、誘拐犯が武器として持ち歩いていた金属バットを高く振りかぶり―――子犬の頭を思い切り叩き潰した。
 血飛沫が私の顔に掛かり、私は気絶した。
 以来、私は子犬を見ると恐怖がフラッシュバックするようになった。
 ―――ええ、高校の入学式の朝、比企谷君が車で撥ねられた時も、近くに由比ヶ浜さんの犬が居たというだけで、震えて車から出られなかったくらいだもの。
 
 
 目が覚めたのは2日後だった。
 恐ろしい事に、私を誘拐しようとした人は、私が犬に襲われているところを助けた英雄になっていた。しかも名乗らずに去っていったらしい。
 慌てて家族に事実を知らせ、何とか犯人を捕まえる事はできた。
 でも私が意識を失っていた間に、私を助けてくれた子犬の家族―――正確に言えば私と同い年の男の子が学校で大変な目に遭っていた。
 学級会で一人黒板の前に立たされ、クラスメート達から『しゃーざーい、しゃーざーい』と、手拍子と共にシュプレヒコールされてたと聞いた。
 
 
 ……そのクラスに隼人君も居たのに……。
 
 
 なぜやめさせなかったのかを問い詰めた。
 私が意識を失っていた時点で、確かに彼の飼い犬には嫌疑が掛かったままになっていたが、だからといって飼い主―――ましてや保護者でなく生徒に責任の矛先が向けられることがおかしい。
 でも隼人君は困惑気味に『君があの犬に襲われたのが我慢ならなかった』と答えた。
 ……今になって思えば、当時小学生だった彼や私の判断力は未熟で、所詮は子供だったんだと思える。
 結局、その男子は数日ほど学校を休み、その間に誘拐犯は逮捕された。
 でも当時の教師達は、彼がクラスでそのような目に遭ってることを知らず、また彼のクラスメート達もうやむやにしてしまった。
 さすがにこれは悪いと思い、私は隼人君と一緒に掃除の時間、一人でゴミ捨てに向かう彼に謝りに行った。
 でも彼は振り返り、死んだ魚みたいな目で笑って答えた。
「はんっ……うちの犬がそんな英雄になってたのは知らなかったよ。やっぱ悪さする奴じゃなかったのは本当だったんだな。ま、家族以外の誰も信じてくれなかったけど……」
 その目が怖くて、当時の私は隼人君の背中に隠れてしまった。
 隼人君も、目の前の男子が発する仄暗い雰囲気に怯えながらも、何とか言葉を絞り出す。
「あ、ああ。本当に君には済まないことをしたと思ってる。その……同じクラスなのに助けられなくて…な……」
 刹那、目の前の男子の目から、光が消えた。
 そして口を開く。
 
 
「そんな言葉で―――そんな言葉であいつが救われると思ってんの? あいつが命張って守ったあんたを恨みはしないけどよ、みんな寄ってたかって狂犬呼ばわりしたんだぞ? ……もしあいつが化けて出るなら、あんたの家だろうな」
 
 
 あの絶望しかない目が怖く、私達は逃げ出すように引き返した。
 ……あと幽霊なんていうあやふやな存在に怯えるようになったきっかけも、彼の言葉が原因だったりする。
 その後、クラス全員で彼に謝罪をさせようと、隼人君と話し合い、昼休みに彼の教室に行ったの。
 でも教室を開けたら彼の姿は無かった。
 それどころか―――
「狂犬病タッチだー!」
「あ、それ知ってる! こないだ雪ノ下さんを襲った犬が持ってる菌だ!」
「そうそう。ついでに言えば、飼い主のあいつも狂犬病なんだぜ?」
「狂犬病って、罹ったら死ぬんじゃなかったっけ?」
 割と多くの生徒(クラスの男子ほぼ全員と、何割かの女子)が、彼のことをネタに遊んでいた。
 ……もうこのクラスの生徒達に謝罪など、言わせる意味などなかった。言ったとしても形だけで、余計に彼を傷つけてしまうだろう。
 と、その時、彼が教室に帰ってきた。
 そして入り口で私達と目が合い、
「……んだよ、さっさと俺の目の前から消えろよ」
 とだけ呟いた。
 
 ―――全く光の無い瞳で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 前にキャンプに行った際、隼人君に『あなたじゃ誰も救えない』と言ったけど、それは私にも言える事だった……。
 だって私達は逃げ出したんだもの。これが私にとって二度目の大敗だった。
 私なんてマシなものだった。何しろ、あの犬の飼い主の男子とは別のクラスだったのだから。
 隼人君がその後、彼と同じクラスで何を思ったのかは分からない。隼人君とは頻繁に会うけど、表情には出さなかったもの。
 あれ以来、私は『負ける』ということにアイデンティティを脅かされるような感情を抱くようになり、あらゆる分野に努力を惜しまなくなった。
 一方で隼人君は、『みんな仲良く』をモットーとした、今まで以上に周囲との協調を意識するようになった。私とは正反対の道を進んでいた。
 
 
 程なくして私が海外留学に行くことになった。
 ……とはいえ、これは私の意思じゃなく、学年から誰か一人を選出するという名目で、生徒達による推薦という形式で決まったものだった。
 正直、内心では行きたくもなかったし、隼人君に止めてもらいたかった。
 
 
 
 でも彼は何も―――
 
「あの時、『留学しないで』って言えば良かったって、後で泣いてたんだ……」
 唐突に声をかけられ、私は隼人君を見た。
「ほら、中学ん時に俺達の恋仲がどうとかいう噂が流れただろ? あれの原因って、帰ってきた君を見て、影で泣いてたのを見られたからなんだ」
「そう……」
「陽乃さんにも蔑んだ目で言われたよ。『自分の生き方を選ぶ事もできないのね』ってね。あんなに心に突き刺さる言葉は初めてだったよ。自業自得だったけどね。でも―――」
 隼人君は、一旦そこで言葉を切り、やや覚悟を決める素振りを見せると、
 
 
「もう君にだけは後悔したくはないんだ」
 
 
 そう言いきった彼は、一色さんが死んだときに流した涙を袖で拭い、立ち上がって私に手を差し伸べた。
 少し離れたところで三浦さんが悲しげに目を逸らすのが見える。
 
 もう一度―――。
 もう一度だけ、この男を信じてみようかと思い、私は彼の手を取って立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ――由比ヶ浜結衣サイド――
 
 
 彩ちゃん……。
 
 赤の他人の死体なら、この地震が起こってから何度も見てきたよ。
 でも自分のよく知ってる人の死は、家族とゆっこ達に続いて三回目だった。……ヒッキー達が地下鉄に落ちたときは別だよ? まぁ、片思いの人の死ってのは一番堪えたけどね。結果的に生きてたとはいえ、もし本当にヒッキーが死んでて、しかも死体なんて見た日には、その場で自殺してたかもしれないなぁ。
 けど……もう三回も死を見てきたというのに、やっぱり慣れるなんてことはなかった。今日一日だけで、一体どれだけ流れるんだろうってくらい泣いちゃった。
 それに川崎さんも―――あんなに彩ちゃんのことを想ってたなんて……。
 大和君はどうするんだろう?
 なんとか川崎さんを慰めようとしてるように見えるけど、さすがに空気が読めるのか、今は何もしようとしない。……そりゃあたしだって、好きな人が死んですぐに別の男に乗りかえたいとは思わないもん。大和君は反応が鈍い人だってゆきのん言ってたけど、その気持ちくらいは理解できる人だと思う。
 いい加減、みんな泣き疲れたのか、みんなが泣き止んだ頃、隼人君が口を開いた。
 
「……行こう、みんな。戸塚と一色の分まで生きなきゃ」
 
 みんなフラフラと立ち上がり、地面に寝かされた彩ちゃん(胸の上で手を『祈りのポーズ』みたいに組んでる)に一言二言だけ言葉を残し、歩き始める。
「戸塚、また来世―――いや、天国で会おうな……」
「ヒッキー……」
 その前にヒッキーって天国に行けるの? って聞きたかったけど、さすがに空気読んで控えておいた。
 あたしが高校生になってから見てきた中で、彩ちゃんはヒッキーにとって初めての男友達だったんだもん。川崎さんとは別の胸の痛みを感じてるはずだよね。
 ヒッキーはそれだけを伝えると、隼人君たちが向かう方へと歩き出した。あたしもヒッキーの隣に並んで歩き出す。
 最後に川崎さんが膝を着き、彩ちゃんの耳元で何かを伝え、その唇にキスをしていた。
 その光景から目を逸らすように、大和君がそっぽを向く。
 聞き耳を立てれば何を言っていたのか分かりそうだったけど、そこはデリカシーを考えて聴かないでおいた。
 
 
 
 
 
 その後、あたし達はひたすら西に向かって、廃墟と化した街を歩きつづけた。
 時々は食糧を集め、日用品を集めた。
 一応は車も探した。
 でも無事な車はいくつも見つかるけれど、どれもカギだけは見つからなかった。
 ダメ元でヘアピンを使ってピッキングも試してみたよ。……でもエンジンをかける以前に、ドアすら開かなかった。
 やがて昼前になろうかという時、街外れ近くで、とんでもないものを見つけた。
 電信柱に激突したワゴン車―――どうみても動きそうにない車だったけど、中で死んでる人を見て気付いた。
 
 
 ―――全員が覆面を被っていた。
 
 
 物は試しと、ドアを掴むと簡単に開いた。
 中は血の匂いで満たされ、5人くらいの男の人の死体と、いくつもの旅行用カバンが転がっていた。
 まさかと思いつつ、みんなでカバンを開けると、そこには一万円札がぎっしりと詰まっていた。そんなカバンが10個。……たぶん、この人達は銀行強盗だったんだろう。
 ここでモラル的に考え、みんなで葛藤することになった。
 優美子が言う。
「ちょっ……いくらなんでも金を盗むのはいけないっしょ!?」
 一方でさがみんが、
「でも今後のみんなの暮らしを考えるなら、少しでも多くのお金を持っていかないと困ることになると思う……」
 ……うん、地獄に落ちそうで怖いけど、言ってる事は間違いじゃない。そうでなくても、地震でここまで街が壊れちゃった今、このお金は持ち主の手に戻る事はないと思う。―――って言い訳だよね。でも理由さえできれば免罪符になる気がしちゃうのは人間の悪いところなのかな。
 隼人君が言う。
「金が必要なのは分かるし、ここのお金を持ち逃げするのも反対じゃない。でも今の俺達は食糧なんかの物資もたくさん持ち歩かないといけないだろ? 確かに金は後々になって役立つけど、今は生き延びることだけを考えないと不味いんじゃないかな?」
 隼人君の言い分も最もだと思う。
「なら、この近辺で車を調達するしかねーんじゃねぇの? ほら、すぐそこから田んぼと畑しか広がってない。こっから先の道に建物は無いんだ。そしたら車を探す方が難しいだろ?」
 ヒッキーがそう提案してくれた。
 みんなちょっと悩んだけど、確かに今は車が欲しかった。誰も免許を持ってないし、ろくに運転できるか分からないけど、それでも歩かなくて済み、かつ速く遠くへ行ける車は何よりも価値のある存在だった。
 中二が疲れたように言う。
「そうは言うが八幡、これだけ動ける車を探しても、どれもカギの在りかが分からないのだぞ? 運動は嫌いだが、いっそ諦めて歩いた方が良いのでは?」
「いや……そうでもないらしい」
 ヒッキーは強盗のポケットに手を入れ、何かを取り出した。
 それはいくつものカギ―――どれも統一性の無いキーホルダーの付いた車のカギだった。
 ゆきのんが納得する。
「なるほど。強盗団が仕事を終え、銀行員や客を縄で縛ったりした後、更に誰も追いかけて来れないようにカギまで巻き上げたと。さすがは比企谷君ね。強盗の才能でもあるんじゃないかしら。特に顔を覚えられないところとか、天性の素質とすら思えるわ」
「……そうやってディスるのやめてくんない? いまマジで向いてんのかと思っちゃっただろうが」
 その言葉に、みんなが笑いを零した。
 ……なんだ。ヒッキー、みんなに溶け込んでるじゃん。
 その後は近くの銀行に向かい、強盗が持ってたカギをみんなで分け合って、停まってた車一つ一つに差し込んで回った。
 幸いな事に、その中でワゴン車のみカギが回り、エンジンがかかった。しかも燃料が満タンだった。
「よし、じゃあさっきの強盗のところまで行って、お金を積み込もうか」
 隼人君の言葉に、みんなで頷く。……強盗から盗みを働くことに、みんな割り切っていた。
 『俺、運転したことある』と中二が言い、運転手が任される。
 全員で14人、それに対してワゴン車は10人乗り(運転席と助手席で2人、3人掛けの席が二つに、2人掛けの席が一つ)だった。でも後ろの席は各列に一人ずつ無理をすれば座れるし、一番後ろの荷物置き場にも一人入れるくらいだ。ちょっと窮屈だけど問題無いと思う。それに車の屋根にはボートが括り付けてあった。そのボートの下に荷物を入れれば一応は運べる。
 
 
 そして何とか強盗が持ってたカバンをワゴン車に乗せ終わった頃のことだった。
 
 
「…………」
 街の方を振り返る。
 快晴の下、いくつもの高いビルが崩れ、まるで空爆にでもあったかのように廃墟になっちゃった故郷。
 ……もう戻ってくることも無いんだろうなぁ。
 不意に涙が込み上げてくる。
「……この街も見納めね」
「ゆきのん……」
 振り返ると、ゆきのんがゆっくりと歩み寄ってきた。
「今は男子達が、近くのスーパーから食べ物を集めてるわ。こんな略奪めいた事をするのも、これが最後になるでしょうね」
 街と反対方向を見れば、もうひたすら田んぼしか広がってない。少し遠くに、かなり高いめの土手があって、そこに線路が敷かれているのが見える。
「……次の人里に着くまで、車でどれくらいかかるかな?」
「さあ? 私、方向感覚も鈍ければ、地図を覚えるのも苦手だもの」
「くすっ……。ゆきのん、初めて『苦手』って言葉を言ったね」
 あたしがそう言うと、ゆきのんも驚いた顔になる。
「苦手、か……。―――そうね、確かに私にも苦手なものがあったわ。ありがと、由比ヶ浜さん。あなたのお陰でまた一つ、自分の知らない一面が見えた気がするわ」
 ゆきのんはそう言うと、小さく笑った。そしてふと何かを思い出したかのように口を開いた。
「ねぇ、由比ヶ浜さん。……前にあなたの誕生日パーティーやった時、結衣って名前の意味を訊いてたの、覚えてるかしら?」
「あー、そーいえばあったな。ママ達に訊いたよ。聞きたい?」
 すると離れた所から姫菜と優美子と小町ちゃん、それにさがみんがやってきた。
 姫菜が口を開いた。
「それあたしも聞きたいなー」
 その言葉に、優美子と小町ちゃん、さがみんが頷く。
 ゆきのんがあたしを見て、視線だけで『いいの?』って聞いてきた。あたしが頷くと、
「結衣っていう二文字の漢字にそれぞれ意味があるの。まず結(ゆ)の意味は―――」
 そのタイミングで、
「おーい! 食糧見つけてきたぞー!!」
 大岡君の声が聞こえてきた。隼人君達が帰ってきたみたいだ。
 そしてあたしを囲う優美子達に近づいてきた次の瞬間、
 
 
 
 
 ―――『それ』は起きた。
 
 
 
 
 カタカタカタ……
 ゴゴゴゴゴゴッ……!!
 
「よ、余震だぁッ!!?」
「建物から離れろ!!」
 大和君と隼人君の声が響き渡る。
 地面が小刻みに揺れた。
 たったこれだけで、崩れかけた建物には致命的なダメージとなり、崩落する。
 ……でも今回の揺れは違った。
「お、おおおおい! なな何か揺れが段々強くなってんぞ!?」
 大岡君が叫ぶ。そう……昨日の朝にあった最初の震災より明らかに強い揺れだった。
「みんな! そこの大きな交差点まで走れ!!」
 隼人君が叫ぶと、ヒッキーもそれに続いて叫ぶ。
「あそこは高い建物が周りに無い! 今だけは一番安全だ!!」
 二人が指差す大きな交差点の中心には、あたし達の車も停めてあった。その周辺だけが安全地帯だ。
「走れ走れぇッ!!」
「うわああぁああ!?」
 次々とコンクリートの塊が落ちてくる中、みんなで死に物狂いになって走った。
 でも―――。
「あっ……」
 離れたところを走ってた小町ちゃんが、ヒッキーの方を向いて変な声を上げた。
 つられてヒッキーを―――正確にはその頭上に目を向けた。
 そこには凄く大きなコンクリートの塊が、猛スピードで落ちてくる光景が―――、
 
 
 
 次の瞬間、何も考えずに、ヒッキーに体当たりした。
「なっ!? おま―――」
 体当たりによってバランスを崩したあたし達は、離れ離れになるように弾かれ、地面を転がった。
 その上からコンクリートの塊や鉄骨なんかが次々と降って来て―――
 
 
 
 
 
 ――三浦優美子サイド――
 
 
 揺れが収まった。
 最初にあった震災よりも圧倒的に強い揺れだった。
「―――かはっ!! はぁっ、はぁっ……」
 ……息をするのを忘れていたみたいだった。今さらながらあーし自身、生きてることに驚いたよ。
 周りを見渡すと、息の上がった雪ノ下や、青い顔をした隼人など、みんな生きてるみたいだった。
「は…はは……」
 良かった。乗り越えたんだ。この局面を。
 怯えるのも泣くのも、生きてないとできないことだって、小学校の時、戦時中の日本を描いた映画を学校で見せられた中で言っていた。……まさかあーしらがそれを身をもって体験するとは思わなかったけどね。
「みんな、生きてるか?」
 隼人がさっそく声を張り上げる。
 誰もが恐々ながらも返事をする。
 
 小町は、震えながら川崎弟にしがみ付いている。
 川崎は、雪ノ下と並んで地面に座り込み、荒い息をしている。
 材木座とかいうデカい奴は、相模と背中合わせに座り込んでいる。
 姫菜は立ったまま泣いてるところを、戸部っちが手を彼女の肩に置いている。
 隼人と大和と大岡は、車に手をついて息を整えている。
 
 良かった、全員が無事に―――
 
 
 
 
「―――あれ? お兄ちゃんは?」
 
 
 
 
 ……前に聞いたような言葉が、小町の口から発せられた。
 
 っていうか結衣の姿も見えない?
 
 嘘……?
 
 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!?
「ちょ……結衣―――ッ!! ヒキオ―――ッ!! 居たら返事しろし!!」
 半ば現実逃避気味になって叫ぶ。
 前は材木座や姫菜がヒステリーを起こしてたから冷静になれたけど、今度ばかりは冷静さを保てなかった。
 結衣と仲の良かった雪ノ下や、小町なども同じように叫び始め、しまいには全員がヤケクソのようになって叫ぶ。
 どれだけ叫んだだろうか。
 頬を涙が伝い始めたとき、背後でコンクリの山から『ガラガラッ』という音が聞こえた直後、
 
「あー、痛って……。その声は三浦か? なんか意識失ってたみたいだな、俺」
 
 ヒキオの声が聞こえてきた。
 よく見るとコンクリの山に、まるで鉄格子の付いた窓のようになってる部分があった。そこから覗き込むと、中にいくつかの鉄骨が絡み合ってるのが見える。恐らく降ってきた鉄骨とコンクリが、テントのようになったんだろう。
 すぐさま雪ノ下が格子窓まで飛んでくる。
「比企谷君! 怪我は無い!? それとそこに由比ヶ浜さんは居ない!?」
 雪ノ下の問いに、ヒキオは頭を掻き、
「矢継ぎ早に言うなって。俺自身に怪我は無ぇし、由比ヶ浜は―――あ、いた。おい由比ヶ浜、起きろって」
「う……うん……あれ? ここは―――」
 聞こえてきた返事に、あーしは涙が堪えきれず、座り込んで泣き崩れた。
 良かった……本当に良かった。
 でも雪ノ下と隼人の様子がおかしかった。何か苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 隼人が問いかける。
「なぁ結衣、比企谷。そこから―――出られそうか?」
 そう問われた瞬間、あーしは二人の表情の理由を察した。
 結衣とヒキオが内側から、あーしらが外側から、ガレキをどけようとする。でも一つ一つが物凄く大きく、数人がかりで動かそうとしても、ガレキの一つすら動かせなかった。……それでいてかなりアンバランスに積み重なっているせいか、いまにも崩れそうにギシギシと音を立てている。
「いっそ車で引っ張ってみねぇ? どっかでロープとか見つけてさ。もしくは車で体当たりとか」
 戸部っちがそう言う。実際、それが一番手っ取り早い。……でも相当慎重にやらないと崩れるのは間違いないと思う。
 しかし最悪な事に―――、
 
 
「おい……何だよ、あれ……」
 
 
 結衣たちの閉じ込められたガレキの山の天辺に立ってた大和が、海のある方向を指差して呟く。
 何となく嫌な予感を感じる。海からはかなり距離を取ったけど、それだって徒歩―――それもガレキだらけの歩きにくい中で行ける程度だ。そしてこの街は海までなだらかな傾斜があるから、ここからでも海が良く見える。
 あーしらは海のある方を向き、そして絶句した。
 
 
 海辺の手前にある防波堤―――東日本大震災の津波で一番の被害を受けた街の堤防は、20メートル級が2枚重ねだと訊いた事がある。
 この街のはそこまで高くないけど、それでも10メートル以上はあったはずだった。
 でも今、ここから見える堤防よりはるか彼方には津波―――遠近法でどれくらい小さく見えてるかは分からないけど、ここから見える波の高さでさえ、堤防の3~4倍はあった。
「あー、あれって津波だよね。初めて見るなぁ」
 どこか間の抜けた、それでいて不謹慎とも取れることを誰かが言った。
 誰が言いやがったと憤り、ふと気付く。今のは結衣の声だった。ちょうど格子窓のようなところが海を向いていたのと、震災で高い建物の大半が倒れていたからか、結衣たちからも海の方が見えるのだろう。
 そして今の結衣の言葉には、現実逃避とは別の、何かの含みを感じた。
「ゆ、結衣……?」
「ごめんね、優美子。それにみんなも。あたしとヒッキー、ここで終わりみたいだよ。だからあたし達を―――」
「その先を言うなっ!!」
 思わずあーしは叫んだ。周りの奴らも、さすがに結衣が何を言おうとしてるのか気付いたのか、顔を青くしている。
 今度はヒキオが喋った。
「しゃーねーだろ三浦。こんなところで全員を心中させるわけにもいかんだろ。それに津波が恐ろしいって言っても、しょせんは海水だろ? 触れたら大火傷する溶岩じゃねぇんだ。ひょっとしたらこのガレキごと俺らを押し流して、そのまま生き延びれる可能性だってあるじゃねぇか。むしろこのまま放って置いたら餓死確定なんだから、むしろ津波が来てくれた方が―――」
 
 
「ふざけんなよッ!!」
 
 
 ヒキオの言葉を遮ったのは戸部っちだった。
「ヒキタ―――比企谷君よぉ、そうやって『置いていくことが良い』みたいに思えることを言わないでくれよ……。せめて友達を置き去りにする罪悪感くらい、背負わせてくれたって良いじゃんかよ……」
「戸部っち……」
 言いながら、戸部っちは涙を流していた。そして同時に、戸部っちは『置いていくことは前提』で話していることに気付いた。軽薄な、まるでカマキリの卵みたいに軽い脳みその『あの戸部』が、自ら重すぎるものを背負おうとしている。
 続けて結衣が、
「ごめんね戸部っち、優美子、ゆきのん、小町ちゃん。姫菜も隼人君も大和君も大岡君も、川崎さんに大志君にけーちゃん、さがみんに中二も。今のあたし達じゃどうしようもないんだよ」
 再びヒキオが口を開く。
「や、でもまぁ、誰が悪い状況でも無いってのに、罪悪感まで背負ってもらえるとか言われたの初めてだな。……ありがとよ、戸部」
 少し微笑んだまま放たれたヒキオの言葉に、戸部っちは膝から崩れた。
 今度はサキサキが格子窓に近づいた。
「比企谷、あんたのお陰でスカラシップ取れたんだ。お陰でバーでのバイトをしなくて済んだし、勉強する時間も作れた。ありがとう」
「そいつはどうも。でもスカラシップとれたのはお前の実力だぜ? これが由比ヶ浜なら取りたくても取れないっての」
「ちょっ―――本当の事を言わないでよ!!」
「あははっ。……ねぇ、比企谷。あたし、あんたのこと好きだっての、気づいてた?」
「……マジで? ってかスカラシップの存在を教えたのが理由なら考え直した方が良いぞ? それこそ偶々俺が知ってただけで、場合によっては他の男だったのかも―――」
 ヒキオが最期まで言うより先に、川崎は口を開いた。
「……、文化祭の時、屋上へ行く方法を聞いてきたこと覚えてる? あんたが息を切らして、必死に走り回って何かを探してた、文化祭の最終日のこと」
 あーしの後ろで、相模が『えっ……』と呟いたのが聞こえた。
「あたしが屋上のカギが壊れてることを教えたとき、あたしに何て礼を言ったか覚えてる?」
「あー……悪りぃ、思い出せねぇわ」
 川崎は一瞬だけ目を潤ませ、それでも無理に笑って答える。
「だったらあたし一人で胸にしまっておくよ。とにかく、あの時の一言が理由で、あんたを好きになったの。……雪ノ下の言う通り、ただのランナーズ・ハイになってただけみたいだけどね」
「……俺が何を言ったのか凄げぇ気になるけど、お前、戸塚といつの間にか仲良くなってなかったか?」
「あんたが昨日、生き埋めになったのを『死んだ』と勘違いした時、あたしは近くで泣いてた奴に縋り付いて泣いたんだ。……それがたまたま彩加だっただけ。後はなし崩し的に両思いになっちゃった。それに彩加からも告られたし」
「そうか……」
 次に小町と川崎弟―――大志が格子窓に近づく。
「お兄さん、これだけは言わせてもらいます。どれだけお兄さんが反対しても小町ちゃんは―――」
 
 
「―――小町を幸せにしろよ? それだけ守れりゃ文句は無ぇ」
 
 
 その言葉に、大志は目を見開き、小町はウッと息を詰まらせてから涙を流し始める。
「お兄ちゃあん……」
「今までありがとな、小町。ぼっちだった俺に一番長く傍にいてくれたお前には、どれだけ感謝しても足りない気がする。そんなお前を泣かせるようなごみぃちゃんで悪い。これからは俺の分まで幸せになってくれな……」
「やだよ……そんなのやだよっ……もうごみぃちゃんなんて呼ばないから……だから……だから小町を置いて逝かないでよぉッ!!」
 ヒキオは、格子窓から腕だけを出して小町の頭を撫でた。小町が声を上げて泣き出す。
 
「…………小町を頼むぜ、大志」
「俺の名前を―――ありがとう……ありがとうございます、義兄さんッ!!」
 
 大志が泣きながら返事し、頭を90度下げる。その後ろで川崎が『初めて名前で呼んだな……』と呟いていた。
 続けて相模と材木座が格子窓に近づく。
「比企谷……義輝から聞いたよ。文化祭の時、わざとあたしを傷つけることを言って、みんなの矛先を自分に向けたってね。……感謝してもしきれないよ。それに必死になってあたしを探してくれたんだってね。ありがとう……」
 義輝―――ってのは、材木座の名前らしい。一瞬、誰のことか分からなかったけど、ちゃんと相模が親指で差しながら言ってたから間違いないと思う。
「おいおい気にすんなよ相模。それとお前を居場所に気付いたのは材木座だ。礼ならそいつに言えって」
「ふふっ……そうね」
 続けて材木座が口を開いた。
「八幡……戸塚氏だけでなく、お前まで居なくなったら、俺は誰と一緒につるめば良いのいででででッ!?」
「ちょっと! 自分がハグした相手のことを忘れないでよ! ウチもこれからはぼっちなんだから!!」
 すぐに相模に耳を引っ張られ、材木座は沈黙した。
 今度はあーしと姫菜が格子窓に歩み寄った。
 すでに涙で目を腫らせた姫菜が口を開く。
「結衣……こんなことになってゴメンね。修学旅行の後、奉仕部がギクシャクしてないか気になってたけど、謝りに行けなくてホントごめん……」
 そう言って姫菜が頭を下げる。
 隼人から聞いたけど、修学旅行でヒキオは、戸部っちを庇って姫菜に偽告白をしたらしい。
「……姫菜、顔を上げてよ。確かにヒッキーは後味悪いことしちゃったよ。……でも実際、ああしなきゃ色んなものを、あたし達は失ってた。いつもあんなやり方しかしないヒッキーだけど、間違ってはなかったよ。……できれば嫌な役回りは他の人にしてもらいたかったけどね」
 結衣が恨めしそうに横を見ると、ヒキオは後頭部に両手を当て、そっぽを向きながら、
「だってぇ、仕方ないじゃないかぁ」
 と、どこかで聞いたようなセリフを吐いた。何人か半泣きの奴が軽く吹き出す。
 ヒキオ自身も軽く笑い、姫菜に向けて言った。
「なぁ海老名さん。そう思うなら戸部のことを大事にしてやりなよ。あの時までは―――いや、少なくとも昨日までは何とも思ってなかったあいつのこと、今じゃ好きなんだろ?」
 その言葉に姫菜は照れる様子も無く頷き、指で軽く涙をぬぐって答える。
「うん、そうだね。小町ちゃん達やザザ虫君達に負けないくらい幸せにならないとね」
 とだけ言った。
 結衣があーしを向く。
「結衣……」
 どうしよう。何を言えば良いのか分かんない……。
 でも結衣はあーしの悩みに気付かず、先を続ける。
「優美子、今までありがとうね。一緒のクラスになった時は『なんか怖そうな人』って思ってたけど、話してたら優しいし、ゆきのんとは違った意味で格好良いなって思ったんだ。まだゆきのんも優美子も硬いところもあるけど、最近、ちょっとずつ柔らかくなってる感じもするんだ。ほら、よく言うじゃない? 『自分が変われば世界も変わって見える』って。んで良い意味で二人とも変わることができたら―――」
 結衣はそこで言葉を切り、そして言った。
 
 
「優美子もゆきのんも、あたしとヒッキーの分まで生きて、あたし達の分まで幸せになってほしい……。二人とも―――みんなと同じくらい大好きなんだから」
 
 
 …………っ!
 ダメだ、堪えなきゃ。
 喉がグッと詰まる感じがし、目に熱い刺激を感じる。
 それを堪えようとするけど、次から次へと押し寄せる感情の嵐に、ついに涙腺が決壊した。
「ああ……ああああああっ! 結衣……結衣いいぃぃっ……!! あーし…あーしはぁぁッ……!!」
 その場でみっともなく泣き崩れるあーしの頭に、結衣は優しく手を置いた。
 今の言葉で何人かが泣き崩れていた。大和に至ってはあーしと同じくらい号泣していた。
 目に薄っすらと涙を浮かべた隼人と雪ノ下が格子窓に近づく。
「結衣……約束するよ。ここから先、誰も死なせないって。……それと比企谷君、君に謝らないといけないことがあるんだ」
「あ? 俺に?」
「ああ、小学校の頃、君が飼ってた犬が死んだ話だよ。ほら暴漢に襲われてる女子を助けようとして、逆に暴漢が狂犬から女子を助けようとしたことにされた事件の時だよ。すまない……」
「「「………ッ!!!」」」
 ヒキオと小町、そしてなぜか雪ノ下が反応する。
 雪ノ下が震える声で問う。
「……隼人君、私を助けてくれた犬って、比企谷君の家の犬だったの?」
 この言葉だけで、あーしも大体の事情を察した。
 ヒキオは一瞬だけ目を閉じ、
「そうか……あん時は俺も八つ当たり気味に、謝りに来た奴らに酷いこと言ったが、お前らだったんだな……。悪かったよ、変な言いがかりつけて……」
「全くよ。お陰で幽霊が苦手になるし、負けず嫌いの性格を形成されてしまったわ。……でも、あなたが奉仕部に入ってから、私は姉の背中を追わなくなれたのかもしれないわね。それと由比ヶ浜さんも。あなたはいつも私と比企谷君を振り回す嵐みたいな人だったわ。……でもそのお陰か、少しずつ私の知らなかった世界が見えてきたの。だからありがとう、由比ヶ浜さん」
 すると格子窓から、結衣の手が伸び、雪ノ下の手を握った。
「ゆきのんが自分から変わっただけだよ。奉仕部の理念じゃん」
「由比ヶ浜さん……」
「……最後くらい、名前で呼んでよ」
「ええ、結衣」
「ふふ……ありがと、ゆきのん。……それとごめんね? ゆきのんもヒッキーの事、好きになりかけてるの気付いてたよ。でもこんな事になっちゃって……。あたしね、自分が死ぬのを怖がるよりも、最後の瞬間までヒッキーと一緒に居られてラッキーかなって思ってるの。……一番酷いやり方かもしれないけど、独り占めしてごめん。本当にごめんね……」
「おーおー、ここに来てヤンデレかよ」
 ヒキオが何かを言ったがスルーされた。
 代わりに雪ノ下が、涙を浮かべながらも笑みを浮かべて口を開く。
「構わないわ。こんな状況だもの。比企谷君も、最後くらい結衣を笑顔でいさせてあげて。結衣も比企谷君をお願い」
「うん、分かってる。……じゃあね、ゆきのん」
「ええ、さようなら……結衣!」
 格子窓に雪ノ下が背を向けたとたん、声には出さずとも、彼女はくしゃくしゃになって滝のような涙を流し始めた。
 あーしはいたたまれなくなり、雪ノ下を抱きしめてやった。とたんに彼女の方から胸にすがりつき、声を上げて泣き始めた。
 それを尻目に、隼人が口開く。
「なぁ、比企谷。さっき君が言った『しょせんは水』だって話だけど……」
「あ? まぁ可能性の上じゃ、津波に巻き込まれて助かるかもって話だ。……可能性は低いがな」
「ああ。でも万が一という事もある。特に君、しぶとそうだからね。だから食糧と金の入ったリュック、それぞれ一つずつ置いておくよ。君なら奇跡の一つでも起こせそうだしね。……他に誰か、二人に言い残す事のある奴はいるか?」
 何人かの視線が、まだ何も話してない大和と大岡に向く。
 大和はさっきの結衣の言葉に号泣しながらも、手だけ横に振って『無い』と伝えてきた。
 
 ―――でも大岡は、泣きながらも格子窓に近づいてきた。
 
「……二人に……それぞれ言いたい事がある」
「珍しいな? 由比ヶ浜だけなら分からんでもないが、俺がお前と話したことなんて、これが初めてじゃないか?」
 ヒキオが不思議そうに問うと、大岡は涙を拭きながら曖昧に笑って頷き、
「まず結衣な。最後なんだから茶化さず、正直に思ったことを言って欲しい」
 そう言って大岡は息を大きく吸い込み、
 
 
「由比ヶ浜結衣! 俺はお前が好きだあああぁぁッ!!!」
 
 
 一瞬、みんなポカンとした。
 結衣が、茶化すのではなく、『思わず言ってしまった』かのように疑問を口にした。
「大岡君、気の強い女に足蹴にされたい―――って言ってなかったっけ? てっきり大岡君は優美子か川崎さん、ゆきのんが好みだと思ってたんだけど……」
 ―――あーしもそう思ってた。
 それを聞いたヒキオも、大岡から目を逸らしつつ、
「あー、まぁ何だ。趣味は人それぞれじゃね? そーいう趣味もありだとは思うが、由比ヶ浜に女王様みたいなのを期待すんのは難しいと思うぞ?」
 あーしが内心で頷いた瞬間、大岡はキレた。
「茶化すなっつっただろ! そっちの趣味(あ、趣味なんだ……)を押し付けるつもりはねぇよ! 俺は単純に結衣そのものが好きだったの! クラス換えした時から!! ―――まだ新しいクラスに馴染めず、誰とつるもうかとしてた時、一番初めに話し掛けてくれたんだよ……ただでさえ五十音順に席が並んでて遠いってのに……」
 それを思い出したのか、結衣が微かに目を見開く。
 ……でも大岡、さっき結衣と雪ノ下の会話を聞いてたなら分かるだろ? 結衣はヒキオが好きなんだって。
 結衣は悲しげに微笑みながら言った。
「大岡君……ありがとう。……でもゴメンね。あたしはヒッキーのことが好き。好きで好きで仕方ないの。もしもヒッキーと出会わず、こんな状況で同じ事を言ってもらえてたなら―――その時はあなたの事が好きになってたと思うんだけど……でもゴメンね」
 ……ほら振られた。
 でも大岡は満足そうな微笑を浮かべていた。
「ありがとうな、ちゃんと答えてくれて。本当にありがとうな……」
 そして今度はヒキオに向き直り、
「ヒキタ―――比企谷、やっぱアンタすげぇよ。学年で特に男子から人気だった雪ノ下さんと結衣から好かれるなんて……。最初同じクラスになった頃、影が薄いって意味じゃ俺と同類だと思ってた。隼人達と口を聞くまでは、アンタとなら友達になれるとさえ思ってた。……でも中身がこんなに俺と差のある奴とは思わなかったよ。もしも―――もしも互いに死なず、大人になれたなら、酒でも飲み交わそうぜ」
「ふん……ま、その内な……」
 大岡が伸ばした手を、ヒキオは確かに握り返した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――比企谷八幡サイド――
 
 
「みんな……行こう」
 葉山がそう呼びかけると、名残惜しそうに、それでも駆け足で車に向かっていく。もうすぐここも津波に飲み込まれるだろう。
 ……小町がやや抵抗めいたことをしていたが、そこは全員が心を鬼にし、車へと引きずっていく。
 途中、葉山が俺のところに駆け寄ってきた。
「おいおい……もうすぐ津波がくるんだぞ?」
「いや、最後に言い忘れててな。……姫菜から打診されてたんだが、祖父母が滋賀でルームシェアのアパートを経営してるんだが、今は誰も入居者が居ないみたいなんだ。もし生き残れたらそこに向かってくれ。住所とアパート名は―――」
 それだけを言い残すと、葉山は車へと駆け寄っていった。
 その背に向かって、俺からも呼びかける。
「葉山!!」
 奴の背中が止まった。
「あいつらの事、任せるぜ。お前ならみんなを纏め上げられそうだしな」
 葉山は振り返り、ニッと笑って答えた。
「任せろよ、八幡。……でも自分に出来ないことを頼むのはルール違反だと思うぞ? ……きっちりと次会ったときに借りを返しに来いよ」
 ……っ、最後だけ下の名前で呼びやがって……。しかも借りを返せって、あの世でか? いったい何十年後になるってんだ。
 運転席に材木座、助手席に大和が乗ってるのが見える。
 材木座がエンジンをかける。とたんに音楽が鳴り出した。あれは車を見つけた際、誰かが『歌が聞きたい』とか言って音楽プレイヤーを取り付けたんだった。
 案の定、騒ぐ声が聞こえてくる。
「おい、この歌をとめろ!」
「我は運転はできるが、オーディオ関係は全く分からん!」
「助手席の俺も分かんねぇ……」
「ちょっと! 歌は良いからさっさと車を出してよ! 津波がすぐそこまで来てんだから!!」
 ―――ああ、あれはエゴイストの『all alone with you』って曲だったよな。
 車が音源と共に離れてく。それでも聞こえてくるのは大音量だからか、それとも窓を開けてるからか……。
「…………」
「…………」
 しばし由比ヶ浜と無言で車を見送り、しばらくして由比ヶ浜から口を開いた。
「ねぇ、ヒッキー」
 なんか憂いを含んだ声だった。
「なんだよ? 最後くらい、お前の好きなようにしてやるぞ?」
 ……正直な話、俺達が津波に巻き込まれて生きていられる可能性なんて0みたいなもんだ。微かに可能性があったとしても、そんなものはハナから期待していない。とすれば死ぬしかないんだろう。せめて由比ヶ浜に悔いが残らないようにしてやりたい。
 だが由比ヶ浜は首を横に振った。
「ううん、違うんだよヒッキー。確かに最後だから、やってほしい事ならいっぱいあるよ? ……でも『それ』って、『ヒッキーがやりたい事』ではなく『あたしがやりたい事』だよね?」
「―――だったら他にどうしろっていうんだよ? 最後くらい何でもしてやるってんだから、甘えといて損はねぇぞ?」
 すると由比ヶ浜は真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「じゃあ……ヒッキーが一番したいことをして。エッチなことでも、何ならあたしを殺すことでも、とにかく自分がしたいことを」
 ……っ、卑怯じゃねぇか……。
 今の例えは極端だってのは分かるが、俺にやりたい事なんて……。
「……何もやりたい事なんてねぇよ……」
 思ったことが、苦しげながらも口から漏れた。
 そんな俺を、由比ヶ浜は正面からそっと抱きしめてきた。
 やめろ。俺はただ―――、
「俺は―――本物が欲しいだけだ」
  ……自分でも何を言ってるんだろうな。
 本物って、何の『本物』って意味だよ? 前にどっかで聞いた、ちょっと格好良いセリフを中二病みたいに口にしただけじゃねぇのか?
 でも由比ヶ浜は、いつものように首を傾げることなく言った。
「ヒッキーは……交通事故がきっかけで男女が出会って恋したとしても、そんなのは偽物だって思ってるんでしょ? 他の誰かが事故に遭いそうな人を助けていれば、その人と恋仲になったかもしれないって……」
「……ああ、そうだ。少なくとも俺はそう考えてる」
 ―――たぶん、これは俺の意思を確認してるのだろう。
 俺は由比ヶ浜が、俺自身に思いを寄せていることを知っている。でも由比ヶ浜は自分の気持ちに気付かなければいけない。その想いはただの偽物だということに……。もしかしたら入学式の朝、サブレを助けていたのは葉山かもしれないし、大岡だったかもしれない。下手すれば材木座―――ああ、でもあいつに惚れることはありえそうにないな。根拠無いけど。
 ……とにかく、そんな間違った感情に流されるのはゴメン―――
 
 
「じゃあ、どーいう出会いなら『正しい』の?」
 
 
 由比ヶ浜に投げかけられた問いに、俺は答えられなかった。
 構わずに由比ヶ浜は続ける。
「あたしのママはね、大学生の頃に車に撥ねられそうになったところを、一つ先輩のイケメンに助けられたんだってさ。そりゃもうドラマみたいにハグされたまま道路を転がって車を避けたりとかね。それで数日経ってから、そのイケメンの家にお礼を言いに行って―――」
 ……その思い出を聞かされてたから、俺のことを好きになったのか? その親が正しい出会い方をしたとも限らないのに?
 しかし次の瞬間、由比ヶ浜から予想外な答えを聞かされた。
「そのイケメンに、一つ年下―――つまりママと同級生の弟さんが居たんだって。それがあたしのパパだったんだ」
「―――はぁっ!?」
「そのイケメン―――伯父さんなんだけど、パパの事を恋敵みたいに思いながらも、最後には諦めたんだって。だってあまりにもパパとママが仲良かったからだって。―――ねぇヒッキー、こんな出会いも世の中にはあるんだよ? それにヒッキー、高校に上がるまでずっと勘違いでの失恋とかしてきたって言ってたよね。それはヒッキーだけが一方的に好きだっただけみたいだけど、その時の一方的な『好き』だって―――本物の『好き』っていう想いだったはずだよ」
 
 
「―――あ」
 
 
 気付いたら、頬に一筋の涙が伝っていた。
 あの時も、またあの時も……。
 俺は失敗したとばかり考え、恋をしてない平時でも常に過去を後悔して生きてきた。
 確かに失敗というのは痛い。後になって思い返しても、酒の肴になるどころか、思い出すだけで悲鳴を上げたくなるような激痛に苛まれるからだ。
 前に内心で相模に、『なんで過去の自分を肯定してやれねぇんだ』と罵ったことがあった。
 でもそれは俺自身も同じだったんだ。
 だってそうだろ?
 
 
 いくら失敗が痛いからといっても『失敗は成功の元』だったんだから。
 
 
 正面から由比ヶ浜に抱きつかれたままの俺は、彼女の背に手を回すことすらせず、その話に聞き入っていた。
 すると由比ヶ浜は、
「ねぇヒッキー……騙されたと思って、あたしの背中に手を回して抱きしめてみてよ」
 何がしたいんだろうと思った。
 ただボディタッチがしたいだけかとも思った。
 でも彼女の背中に手を回し、抱き寄せながら彼女の右肩に自分の顎を乗せた瞬間―――胸の中央に温かさを感じた。変な例えであるが、胸の中にコップがあり、そこに熱い湯が注がれてどんどん溢れ出し、同時に喉がキュウっと引き攣り―――堪えようにも涙がどんどん溢れて―――
 
 
「ヒッキーの胸の中で感じてる温もり―――それも本物なんだよ。そしてあたしの想いも……」
 由比ヶ浜は、俺の肩に顎を乗せたまま、頭を俺の頭へともたれさせた。
 そして胸のうちを吐露してきた。
 
 
 
 
 
「大好きだよ、ヒッキー。愛してる……」
 
 
 
 
 
「ああ…ああああ……あああああああっ!!」
 ついに涙腺が決壊すると同時に、戸塚が死んだ時くらいの勢いで、声を上げて泣いてしまった。
 そんな俺を、由比ヶ浜は優しく抱きしめ、俺の背をポンポンと軽く叩いてくれた。
 喧嘩や悔し涙、戸塚の死などといった悲劇以外で―――本当の意味での感動から来る涙というものを初めて知った。
 しばらく泣きつづけた俺は、やがて落ち着くと共に言った。
「由比ヶ―――結衣。……俺も、お前の事が好きだよ。愛してる」
 言ったとたん、結衣は少しの涙と、そして満面の笑みを浮かべ、俺の唇へと、自らのそれを押し当ててきた。
 そして津波の音が大分近づいてるのを人事のように聞きながら、結衣へと問いかける。
「なぁ、結衣……。お前の名前の意味って、結局なんだったんだ?」
「あー、そういえば余震の前に言いかけてたね。『結(ゆ)』は縁を結ぶって意味。色んな人と縁を結んで友達が多くなるようにって意味なんだ。『衣(い)』は衣(ころも)、つまり服みたいに人を温かく包み込むって意味なんだって」
 俺はもう一度結衣を抱き寄せ、そして彼女の耳元で言った。
 
 
「名前のまんまじゃねぇか、ほんと」
 
 
 もう一度、彼女と唇を交わそうと、互いに目を閉じて顔を近づけあった。
 
 
 そして――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――ナレーションサイド――
 
 
 車の中の歌が最後のサビに入った瞬間、テント型に重なったガレキの山が、巨大すぎる津波に飲み込まれた。
 それを見晴らしの良い田畑を猛スピードで駆ける車の窓から凝視する仲間達。
 絶叫しながら兄の事を叫ぶ比企谷妹。
 涙ながらに、そんな彼女を抱きしめる川崎弟。
 涙を流してない者など誰も居ない。
 崩れ行くガレキの山を目に焼き付けようと涙ながらに目を開きつづける隼人と、そんな彼の胸に顔を埋めて泣きつづける雪ノ下さん。また同じようにしている戸部と海老名さん。
 後は一人で泣きつづける者達ばかり。
 畑ばかりのため、何度もスピードを落として角を曲がる。そのまま大通りに出たころにはかなり津波に追いつかれることになるが、ここからは真っ直ぐな一本道だ。荷物も人員も最大のためか、どれだけアクセルを踏み込んでも津波との距離が縮まっていくばかりであるが、大通りがやがて大きなトンネルに入ったとたん、津波の勢いが弱まった。更に言えばこのトンネルは、巨大な山を貫通するようにできているため、もう助かったも同然と言って良かった。
 しかし当然ながら、車内は声を上げる者こそいないものの、ところどころですすり泣く声が響き、痛々しい沈黙に包まれていた。
 未だに音楽は鳴り止んでなかったが、誰も自分から進んで止めようとはしなかった。
 そんな中、隼人が口を開いた。
「―――この災害が一段落したら、みんなで毎年、ここに墓参りに来よう。大震災の跡地でやったりする追悼式とか、献花(けんか)とかな……」
 誰も声を発しなかったが、たぶん全員がそれに賛成なんだろう。
 
 
 俺たちを乗せた車は、故郷である千葉から遠く離れた地を目指し、長いトンネルの中を走りつづけた。
 
 
 
 
 
 



[41214] 番外編 本当のあたし
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/06/23 22:23
 ―― 一色いろはサイド ――
 
 
 熊に襲われていた結衣先輩や見知らぬ先輩達を助けた後、あたし達は路地裏を歩いていた。
 でもまた余震がやってきたのと、今いる場所が崩れかけの建物ばっかりだったため、危険だから大通りに飛び出したんだ。
 するとそこには王子―――もといテニス部で有名な男の娘(こ)こと戸塚先輩が、胸に赤い染みを作って倒れてて、それを愛しの葉山先輩が持ち上げようとしていた。
 戸塚先輩と知り合いなのか、比企谷先輩が真っ先に反応した。
 戸部先輩や材木座先輩に指示し、結衣さんや海老名さんや相模さんも手伝って、戸塚さんを全方向から掴んで持ち上げ、走り始めた―――次の瞬間だった。
 
 
 あたしの頭上から、特大のコンクリート塊が落ちてきたのは。
 
 
 戸塚さんには悪いけど、あたしは手を離し、後ろに跳んだ。他の皆は戸塚さんを掴んだまま進行方向しか向いてなかったので、手を離したあたしには気付いて無かった。
 そしてコンクリート塊は、みんなを真上から押しつぶし、その風圧であたしは更に後ろへと転がっていった。そのまま近くの壁に背中を打ち付け、意識まで失ってしまう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 目が覚めたら、景色は一変していた。
 ちょっと背中が痛いけど、深刻なダメージがあるわけでもないようだ。ちゃんと五体満足で、大きな切傷すら見当たらなかった。上半身を起こしながら顔を上げてみる。
 そこには巨大なガレキの山があった。
 ぼんやりとした頭でスマホを取り出し、時刻を確認する。うわー……1時間近くも気を失ってたみたい。
「あれ……あたしここで何をしてたんだっけ? 確か戸部先輩や比企谷先輩と一緒に―――」
 呟いた瞬間、意識を失う前の光景が蘇ってきた。
「あ……」
 雨のように降り注ぐガレキ。
「あ…あ……」
 意識の無い戸塚先輩を持ち上げる皆とあたし。
「ああ…あっ…あっ……」
 頭上から影が差し、見上げると巨大なコンクリート塊が落ちてくる。
 あたしは―――あたしは咄嗟に―――それこそ大好きな葉山先輩にすら警告することも忘れ、戸塚先輩から手を離して後ろへと跳んだんだ。その直後にコンクリート塊はみんなを―――
「あああっ…ああっ、あああ……」
 
 
 
 みんなを―――見殺しにしちゃったんだ。
 
 
 
 もう少し時間や理性に余裕があれば助けられたみんなを―――そして愛しい人を。
 よく人は極限の状態になるとは本性を現すというけど、あの状態でみんなを見殺しにしたという事は、あたしは……あたしは―――
「あああああああああああああああああっ!!!」
 あたしはガレキの前で、涙ながらに絶叫した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ……あれからどれだけ叫んでいたんだろうか。
 気が付いたら裏通りを歩いていた。今のところ、動物園から逃げ出したと思われる猛獣とは出くわしていない。
 叫んでいた場所からここに来るまでの記憶が無い―――普段なら薄気味悪く思える事だけど、今は心底どうでもいい。
 葉山先輩が死んだ。
 他の人も死んだ。
 
 ―――あたしのせいだ。
 
 あの時、いきなりすぎる出来事だったから『声を出す』という選択肢すら思いつかなかった。
 よく漫画とかで『一人で背負い込むな』とか『君が悪いわけじゃないだろう』と表現される状況だってのは分かってる。……でもそれらの言葉を受け入れたところで、失った人達は帰ってこない。
 
 
 自分が悪いわけじゃない。守りたい者を守りきれなかった自分に腹が立つ―――それだけだ。
 
 
「葉山……先…輩……」
 もう涙さえ込み上げて来なかった。
 これからどうしようかなんて考えられない。
 とりあえず津波とかが来そうにない方向―――西に向かって漠然と歩いてるけど、正直なところ、あまり『生きよう』って気が湧いてこない。
「あたし―――また一人になっちゃったよ……」
 不意に世界が揺れだした。
 ああ、また余震が来たんだ。しかもかなり大きい。
 逃げようとは思わなかった。あたしは足を止めず、ただ歩きつづけた。
 どれがけ歩きつづけただろうか。遠くで小さなビルが倒壊する音が聞こえたけど、周囲の建物は平然と余震に耐えた。
 
 ―――ああ、今ので先輩のところに行けると思ったんだけどな……。
 
 そんな物騒なことを考えてると、頭上から窓を開ける音が聞こえてきた。
 そして男の声で、
「おい見ろよ! ありゃ津波じゃね!?」
「本当だ! あれが過ぎるまで外に出ない方が良いみたい―――って、一色さん!!?」
 急に名前を呼ばれ、あたしは上を見上げた。
「…………誰?」
「覚えてないの!? クラスメートの―――」
「それはいいから一色! 早く上がってこいって!! 津波が来るから!!」
 あたしは『津波』という言葉に、今更ながら恐怖を思い出し、彼らのいるビルに駆け込んでいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「はぁっ……はぁっ……」
 階段を駆け上がっている内に津波が来たので焦った。
 でも3階までが水没した時点で、それ以上水が上に来なくなったので、ギリギリではあったけど助かった。
「あ、危なかったね……」
 目の前には息を切らした、総武高校1年の制服姿の男子がへたり込んでいた。全く見覚えの無いイケメンである。
 彼があたしの手を掴み、引っ張り上げるのが数秒遅かったら、あたしは津波に飲まれていたと思う。
「あれ? あんたさっき、眼鏡してなかったっけ?」
 手を差し伸べてくれた瞬間までは掛けていたはずの眼鏡が無くなっている事に気付く。あたしを引っ張った拍子に、あの激流の中に落としたんだろうか?
 すると目の前の男子は少し悪ふざけのような笑みを浮かべて声音を変え、
「へっ……一色さんの安否のためってんなら安いもんさ」
「え? もしかして口説いてます? ごめんなさい、そういうの無理なんで」
「ぐはっ!? ひ…酷い……」
 ついいつもの口調で否定しちゃったけど、相手も悪ふざけ交じりだったのか、それほど傷ついている風には見えなかった。
 するともう一人眼鏡を掛けた男子が降りてきた。
「おーい、孝実ー。一色の奴、大丈夫だった―――って、誰?」
「僕だよ! 相模孝実(さがみ・たかみ)!! 眼鏡を落としたんだよッ!!」
「ぷっ…くく……眼鏡外したらイケメンになるとか、お前マジで笑える……」
「うるさいな洋平! 例え眼鏡無しの僕がイケメンでも、自分で自分の顔が見えないんだから信じられないんだよ! そーいう君はどうなんだ!?」
「え、俺? そりゃ眼鏡なんてあっても無くても変わんないに決まって―――」
 言いながら眼鏡を外すと、平凡な顔つきながらも急に目が小さくなった。あたしが爆笑する。相模は低視力のため見えないらしい。
 ああ、そういえば二人ともクラスメートの相模孝実と秦野洋平(はたの・ようへい)だ。教室ではあまり目立たないせいで忘れてたけど、アニオタならぬエンターテイメント・オタクみたいなことを自称していたっけ? 確か『遊戯部』とかいう、『奉仕部』と並ぶくらい意味不明な部活に入ってたはずの……。
 ……ってか、二人とも眼鏡外したとたんに見た目が変わり過ぎだし。
 
 
 
 
 
 
 
 あたしは二人と一緒に屋上(6階に相当)まで行き、そこから津波に飲まれる故郷を見下ろした。
 ふと遠くを見れば、1台のワゴン車が農道を猛スピードで走っているのが見える―――って相模の奴、どこからともなく双眼鏡を取り出した!? 普段からそれ持ち歩いてんの?
 でも……、
「あーくそ! なんか知り合いみたいなのが乗ってるように見えるけど、眼鏡が無いから誰だか分からない!!」
「俺に貸してくれ!」
 秦野が言うと、相模は素直に差し出した。
 すぐに秦野が反応する。
「あのワゴン、前に会った材木座って人が乗ってる! 孝実、お前の姉ちゃんもいるみたいだ!!」
 ……!!
 あたしは思わず叫んだ。
「先輩は―――葉山先輩は乗ってる!!?」
「乗ってる! ああ、間違いない! ありゃ有名なモテ野郎の葉山先輩だ!! いつもつるんでる三浦先輩の女王までいる!!」
 葉山先輩の生存を知って狂喜しそうになるけど、三浦先輩の名前を出され、少しだけ冷静になれた。
 
 じゃあ、みんなは何であたしを置いて出発したのか?
 
 ―――あたしが死んだと勘違いされたからだろう。
 『あたしはここにいるよ』と叫びたくなったけど、死んだと勘違いしたのは先輩達だけではないんだ。あたしだってみんなが死んだと思っていたんだもん……。きっと葉山先輩のとなりは三浦先輩に取られちゃったんだろう。
 すると秦野が、やや元気の無い声で呟いた。
「でも、姉貴の姿が無い。やっぱ総武高校に立てこもってんのかな……」
 『姉』という言葉に、あたしは固まってしまった。
 嫌な予感を感じつつも、あたしは秦野に問いかける。
「ね…ねぇ秦野、あんたのお姉さんって、総武高校2年の秦野遥さん? いつも相模南さんや岡部由紀子(ゆっこ)さんと一緒につるんでた……」
「ああ。昨日の朝にあった地震、本当なら俺も孝実も家で寝てたはずなんだけど、平塚先生から『テント片付けを手伝ってくれれば、こないだの追試は無しにしてやる』ってメールが来て、姉貴が出かけた後すぐに家を出たんだ」
 だから彼らは難を逃れたらしい。
 大勢の人が最初の地震で民家ごと押し潰されている中、休日なのに朝から出かけている者だけが助かっているこの状況だ。平塚先生の強権発動がなければ、彼らはここに居なかっただろう。
 
 でも―――
 伝えなきゃいけない。
 
 相模はマシだ。たった今、彼の姉が無事であることが確認され、車で津波から逃げようとしている。―――と、視線を転じれば、その車は遠くのトンネルに入っていった。きっと助かるだろう。
 問題は秦野の姉だ。
 こちらはすでに、熊に喰い散らかされている。
 
 
 どうしよう。
 ―――怖い。
 でも掴みかかってくるわけじゃないじゃん。
 ―――取り乱す人間を見るのが怖い、悲しい。
 
 
「どうしたんだ一色? なんか顔色悪いぞ?」
「ひゃあああぁぁあッ!!?」
 あたしが葛藤してるのをどう捉えたのか、秦野が心配そうに問いかけてくる。
 ……ってか、顔近すぎ!!
「ど、どうしたの一色さん。大丈夫?」
 と相模。
 ―――ちっとも大丈夫じゃない。
 いや、本当に大丈夫じゃないのは遥さんだけど、こんな重すぎる話を伝えるなんて役目、今まで想像もしたことがなかった。
「ねぇ……秦野……。あんた、この津波が引いた後はどうするの? ……お姉さん、探しに行こうと思ってる?」
 あたしが不安げに問うと、彼は真っ直ぐな目で、迷わずに答えた。
「ああ、思ってるね。きっと総武高校にまで避難してるはずだし。安全地帯を目指すのはその後だ」
 気持ちが良いくらいの即答だった。
 相模が茶化す。
「珍しくギャンブルめいたこと言うね。どんなトランプでも、勝つためなら手段を選ばず、かつ堅実に動いてたのに」
「おいおい、そりゃお互い様だろ? お前だって似たようなこと言ってたじゃん」
 と笑いあう。
 姉より避難を優先するなら、遥さんの死は後で伝えた方が良かっただろう。避難が済んでから『それ』を伝えることにより、たとえ秦野が生きる気力を失ったとしても、周りが彼を支えることができるからだ。
 でも避難より姉の捜索を優先するというならば、今それを伝えなければ危険な徒労をする羽目になる。
 ―――ダメだ、言わなきゃ……言わなきゃ大変なことに……。
「ね、ねぇっ……!」
 あたしが意を決して口を開きかけた瞬間だった。
 
 
「あ゛あ゛あ゛あ゛がぼッ! たずっ…だずけっ……!!」
 
 
 女の人の悲鳴が下から聞こえてきた。
 見下ろすと今の津波で流された人が、もうすぐこのビルの前を通過するかという場面だった。
 ……ん?
 あの人、どこかで見たような―――
「生徒会長!?」
「城廻先輩!?」
 秦野と相模が同時に叫ぶ。
 ああ、そうだ! 文化祭のオープニングで変な掛け声をやってた人だ!
 秦野の姉のことを忘れそうになるのが怖いけど、今は生きてる人を助けるのが先決だった。
 すぐに秦野が4階の窓から雨どい(今の水面は、ちょうど3階が水没した辺り)に出て、あたしと相模が、秦野の腰の辺りを掴む。これで流される城廻さんを秦野が引き上げる際、逆に水中へと引き込まれることは無いはずだ。
 都合の良いことに、城廻先輩はこちらのビルへと流され、必死に伸ばされた彼女の手を、秦野はしっかりと掴み、そのまま引き寄せてから上半身にしがみ付いた。城廻先輩も同じ事に気付いたのか、それとも無意識だったのか、秦野の上半身に腕を回す。
 秦野が叫んだ。
「今だ……引っ張れ!!」
 三人で声を上げながら先輩を引き上げ、そのまま窓から中へと入った。
「けほっ、けほっ! かはっ……ありがと、助かったよぉ」
 弱々しくも座り込んだまま、先輩が礼を言う。
 いつもの間延びした口調であるが、その言葉の端々に、死の恐怖が見て取れた。しかも青い顔をしているだけでなく、濡れた髪が頬に張り付き、どこか水死体を思わせるような迫力さえあった。
 秦野が声を掛ける。
「城廻先輩っすよね。お久しぶりです」
「え? ああ、君は秦野君だねー。そっちの子は―――もしかして相模君かな?」
「はい。ちょっと眼鏡を落としちゃいましてね。文化祭の時にはお世話になりましたね。秦野の考えたオープニングの掛け声、採用してくれましたし……」
 ―――あれ考えたの、秦野なの!?
 先輩はニッコリと笑って否定する。
「やだなぁ。あれは生徒会から依頼したんだから、もっと胸を張って良いんだよ。―――それと、そっちの子は誰かな?」
 先輩の目があたしに向いた。
「あ、初めまして城廻先輩。1年の一色いろはです。相模や秦野とはクラスメートの」
 自己紹介すると、先輩は顎に手を当てながら名探偵みたいに考え込み、何を思い出したのか右の拳で左の手の平をポンと叩いた。
「ああ、書類で見たことあるよー。確か1年生で生徒会長になるっていう、署名で30人分も集めてた子だったよね」
 
 
「……………………はぁッ!!?」
 
 
 思わず叫んでいた。
「先輩、何であたしが生徒会長にならなきゃいけないんですか!?」
 あたしの剣幕に、先輩は引き気味になっていた。よく見れば秦野と相模もだ。
 冷静になって考えれば、今の先輩の発言に対して言いたいことは山ほどあるけど、もう総武高校が廃校になったも同然だろう。生徒会長になるだのが嘘でも本当でも、もう関係の無い話だ。あたしは落ち着いた声を作って問い直す。
「先輩、その署名って誰の名前が書いてあったか教えてもらえます? できれば最初の方に書かれてるのを……」
「うーん、そうだねぇ……。確か一色さんのクラスの田中さんと鈴木さん、それに渡辺さんだったよ」
 やっぱあいつらか……。
「あー、先輩。その人達、ちょっと仲が悪いっていうか……最近、喧嘩したんです。たぶん、その嫌がらせかなって思うんですけど……」
「そうだったの? あ、でも地震が無かったら間違い無く当選してたから危なかったかもね。不幸中の幸い―――って言ってもいいのか悩むとこだけど」
「……あたし的には生徒会長なんてやりたくないですけど、それやるだけで地震が無かった事になるなら良っかな? って思いますけどね」
「そっか……ごめん。―――くしゅん!」
 先輩が可愛らしいクシャミをする。そういえば全身ずぶ濡れだった。もちろん彼女を抱き合うようにして引っ張り上げた秦野もだ。
 あたしから提案する。
「先輩、とりあえず着替え―――このビルに服があるかどうか分かんないですけど、何かしらの服があるか探しましょう。もし無ければ―――」
 あたしが相模に目を向けると、彼は少し赤らみながらも、
「分かったよ。シャツとズボンは貸す。僕はその辺のカーテンでも身体に巻いておくよ」
 すると意外にも先輩は、ほんわかとした微笑を浮かべながらも首を横に振った。
「いいよいいよ、カーテンならわたしが使うから」
「え? でもそれじゃあ―――」
 それじゃあ風呂上りの、裸にタオル巻いたようなエロい格好になるんじゃ……。
 緊急時とはいえ、やっぱり男子の服なんて着たくないのかな? あたしだったら嫌でも奪って着るのに。
「だって相模君、凄く小柄で細いでしょ?」
「それでも男子の服なんですから大きいんじゃないですか? 見た感じ、先輩と相模、同じ体格だし……」
 
 
「うん。でも胸が窮屈そうなんだよね」
 
 
「ぐはっ……!? どうせ……どうせ俺はもやしみたいな貧相な胸板なんだよぉ……」
 女に胸を貶される男って……。
 いや確かにもやしだったよね。プールの授業で、女子の何人か(主にあたしを生徒会長に推した連中―――とあたし)が、相模の胸を見てクスクスと嘲笑していたのを覚えている。同じ部活のインドア派の秦野でさえ、一見痩せ型の猫背に見えて、実は少し体育会系の体つきだというのに……。でも今の場合、プールでの嘲笑と違い、悪意が無いから更にタチが悪いような気がする。
 ここで無駄話をしていても風邪を引いてしまうので、あたし達は手分けして、4階から上にかけて衣服を探して探索を始めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 結果、衣服は何も見つからなかったため、城廻先輩と秦野は脇から膝にかけて厚手のカーテンを巻きつけていた。―――ってか秦野、あんた男子なんだから胸まで隠さなくても……。
 特に先輩は、乾かすためなのか髪まで解いている。普段と異なる髪型と、露出は少ないながらも身体の線が見える格好のせいで、とんでもなくエロく見えるのだから不思議だ。
 相模が先輩の露出した肩や膝小僧に視線を彷徨わせては目を逸らす、という風に動揺しながらも口を開く。
「あー、クソ! 眼鏡さえ……眼鏡さえあれば素敵な御姿が見えたのに……!!」
 あたしが半眼で睨みつけると、相模は静かになった。
 ってか、この距離で見えないとか、視力ヤバすぎなんじゃないの? ……ん? じゃあ何であたしが睨むのは見えてるんだろう?
 一方で先輩は、特に相模や秦野の視線は気にならないのか、大きく伸びをしている。―――って、
「先輩! そーいう無防備な姿を男子の前でやっちゃダメです!」
「えー? だって濡れた服ってキツかったんだもん。せっかくシャツも下着も全部脱い―――」
「わーっ! ちょっと二人とも、今の聞いてないよね? 聞いてないよね!? 絶対に先輩を変な目で見たらダメだからね!!」
「(なぁ洋平……一色さん、先輩に振り回されて地が出てるんだよね、アレ)」
「(ああ……。あれこそが『天然』と『演技』との差なんだな。そして先輩、ノーパン・ノーブラだったのか……)」
「あ゛あ゛んッ!!?」
「ひっ……!?」
「す、すまん……!!」
 あたしが睨みをきかせると、男子二人は慌てて目を逸らした。―――ってかこれ、あたしのキャラじゃないし……。
 ちなみに二人の衣服は水道水で軽く洗って干しておいた。水道は止まっているものの、屋上に貯水タンクがあるから水はまだ使えるのだ。おまけに5階の食堂にはガスレンジがあり、しかもベランダのプロパンガス・ボンベと繋がっているから火が使えるし、しかも食堂の水道は浄水器付だから飲める。
 とりあえずあたし達は、食堂に集まって昼食を食べることにした。
 食堂の冷蔵庫は―――肉は勿論、野菜も手を付けないことにした。電機がストップしてから24時間、すでに腐り始めてもおかしくはない。でも戸棚にパスタが山ほどあったのと、レトルトに入ったパスタソースが何種類もあったから、それを調理することになった。
 そして意外にも―――相模以外の誰もが、パスタすら茹でたことがなかった。
 調理は相模に任せ、残りの三人で皿を並べながらダベる。
「あ、私この『伊勢海老のクリームソース』がいいなぁ」
「ちょ……先輩それ一つしか無い、一番美味しそうな奴―――」
 秦野が、まるで大切な物を取り上げられた子供のようなリアクションを見せるが、先輩が上目遣いに、
「……ダメ?」
「いえ決して! それ俺のオススメなんすよ!!」
 などと手の平を返していた。ちなみにあたしは『カニとトマトソース』を選んでいる。相模に至っては調理前からカルボナーラをキープしていた。
 そしてパスタが茹であがり、各自で好みのソースを掛けて混ぜる。
「「「「いただきます」」」」
 食欲をそそる匂いが漂い、箸―――もといフォークが進む。
 食べながら不意に思い出した。
 ―――でも、姉貴の姿が無い。やっぱ総武高校に立てこもってんのかな……。
 フォークが止まる。
 それまで全開だった食欲が嘘のように引いていく。
「ん? どうしたの一色さん?」
 相模の声が、どこか遠く感じる。
 
 ―――いつまでも話さないわけにはいかない。
 
 あたしは自分のパスタを食べ終え、他のみんなも食べ終わるのを待った。
 その間のあたしの顔を見て、深刻な雰囲気だというのは分かってもらえたみたいだ。
 ―――やがて、話すときが来た。
 あたしは不安で押しつぶされそうになりながらも、当たって砕けろとばかりに言った。
 
 
「今から言う事を落ち着いて聞いて欲しいの。特に秦野。あんたの姉さん、秦野遥さんは、動物園から逃げ出した熊に―――熊に食べられて死んだの」
 
 
 一同は―――というより秦野はポカンとした顔になった。
 きっと今聞いた話が理解できなかったんだと思う。
 でも、あたしも人のことを言えた義理じゃないけど、そういう呆気に取られた反応はやめてほしいの。こうして勇気を出して言うまでに、何通りものアンタからの拒絶反応が頭を過ぎっていたんだから。たとえ想定した通りの反応でも、怖いんだよ……。
「……え? 何だって?」
「ちょ……洋平!」
「秦野君……」
 相模と先輩が空気を読み、両サイドから秦野の肩を押さえる。きっとあたしに掴みかかると考えたのかもしれない。
 
 ―――怖い。
 でも怖いだけじゃない。
 誰かが悲しみのあまり取り乱す―――それを考えるだけで、なぜか涙が滲んできた。
 
「言った通りだよ。あんたの姉さんは熊に食い殺されたの。……敵は…討たせてもらったけどね……」
 言った。
 言い切った。
 あとはこいつが現実とどう戦うかだ。あたしの場合はどうだった? 葉山先輩が死んだと勘違いした時は? 気が付いたら当ても無く歩いてて、いつ死んでも良いかなーなんて思ってたな。うん、ダメだ。
 秦野はどうするのだろうか。
 泣き喚く? 暴れる? あたしに掴みかかってくる? それとも―――自殺?
 秦野は座ったまま、
 
 
「そっか……ま、仕方ねぇよな」
 
 
 それだけを呟いた。
「秦野……あんた、大丈夫?」
 一応は呼びかけてみる。
「……あんまり大丈夫じゃねぇよ。でも俺だって親父やお袋の死体を見てきたんだ。ショックなのは本当だけど、今更ここで悩んでるわけにゃいかねぇんだ。少なくとも安全地帯に着くまでは、姉貴のことなんて忘れていた方がいい」
「秦野君……」
「食器、俺が洗っておくよ」
 先輩が心配そうに呼びかけるのも無視し、食器を集めて回ろうとする秦野。きっと何かに集中してないと落ち着かないのだろう。
 なのに相模は、
「待てよ、洋平」
「何だよ?」
「皿はたくさんあるし、何なら洗わなくても次にパスタを乗せればいい。食器洗いなんていう『水の無駄使い』はやめてくれ」
「……っ、そうかよ」
 気の毒だけど、こればっかりは相模の言う通りだよね。
 秦野はやや苛立たしげに、食堂の出口へと歩いていく。
「ちょっとビルの中を散歩してくる」
 とだけ言い残して。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夜、海水の引いた町と星空を、屋上から眺めようと思った。
 ただの屋上ではない。学校なんかでいうところの、時計が付いてる部分―――普通の屋上から更にハシゴを使わないと上れない部分に、あたしはいた。
 ううん。正確には、いまハシゴを上っている最中である。
 ヒュオオオォォ……と寒そうな風の音が響き渡るけど、日中が暖かかったためか、未だに心地よい気温だった。
 寝床となる部屋はたくさんあったので、一人一部屋と贅沢に使っている。
 このビル自体、インスタント食品会社の一種だったのか、パスタ以外にも複数の食べ物があった。先ほどの夕食も、ビル内で見つけたうどんと出汁の元で相模が作った。……ただ昼の秦野の件があったからか、誰も口を開こうとしなかったけど。
 でもこんな状況でも、あと何日かは我慢しなければいけない。
 町が津波で破壊の限りを尽くされた今、たとえ猛獣達が一掃されてようと、ビルの外は人が歩ける状況じゃないし、食料だって手に入りにくいだろう。事ここに至れば、もう救助ヘリを待つしかなかった。
 あたしは今日の出来事を―――葉山先輩たちに置いていかれた事や、秦野の辛そうな様子を忘れたくて、ここに来たんだろう。
 そしてハシゴを登り終えた瞬間、
 
 
「あ……」
「え、一色さん?」
 
 
 先客だった相模と出くわした。それもどこで拾ったのか、眼鏡までかけている。
「……なんでアンタがここにいんの?」
 あたしが半眼になって問うと、彼は背中に何かを隠しながら、
「ああ、星を見に来たんだよ。ほら、綺麗だから見てると落ち着くだろ?」
 あたしが相模の後ろに回り込むと、そこには電気を必要としないポット(たぶんヤカンで沸かした湯が入ってるのだろう)と、スーパーの袋にいくつも詰め込まれたカップラーメンと割り箸数本があった。すぐ近くには、すでに湯を注いだと思しきカップラーメンに、フタの重石代わりにと割り箸が乗せられてある。
 それを見られた相模は観念したのか、両手を上げて答える。
「参ったよ、見られちゃったね。……でも星を見に来たのは本当だよ。あと君も食べるならカレー味だけは残しておいてほしいな。あれって一つしか無かったから楽しみに―――」
 あたしは構わずカレー味のカップヌードルを開け、ポットの湯を注いだ。
「一つしか無いから―――なに?」
「……いえ、何でもありません」
 しばらく互いに無言のまま、先に相模のラーメンが仕上がり、少ししてあたしのも仕上がった。互いに無言で食べる。
 こいつとなら無言でも、それほど気まずくはない。それは相手が自分より目下だからというわけではなく(もちろん目下とは思ってるけど)、なんていうか無言を圧力とは感じない。それは相模も同じなのか、時おりラーメンに息を吹きかけながらも、あたしを意識せずに口に運んでいる。
 気付いたら呟いていた。
「秦野の奴―――どう?」
「……見ての通りだよ。同じクラスになって半年近くの君でも分かるくらい、今のあいつは正常じゃない。小学校の頃、あいつの近所に引っ越して以来だよ。あの頃のあいつ、ゲームクリエイターやラノベ作家になるってのが、実力面以外の理由だけでなるのが不可能って思い知らされたんだ。ほらゲーム関係って入社するまでにかなりの学歴が必要だし、ラノベ作家は金にならないとか。他にも版権とかの問題のせいで、肝心の作品作りの実力に関係無い部分でも悩まされるし……」
 どうやら彼らは幼馴染みらしい。
「そう……」
「やっぱ気になる?」
「うん、少しね……。でもあたしも自分のことで一杯一杯だから、そんなに心配もしてられないんだ。……こっちのはもう、終わったことだし」
「―――葉山先輩のこと?」
「うん。崩れてきた建物の風圧であたしは転がって、どっかにぶつかって気絶してたの。意識を失う寸前に見たのは、葉山先輩の上からガレキが落ちてくる光景だった。目が覚めてから、先輩は死んだとばっかり思ってたけど、さっきここで双眼鏡を使って、先輩が生きてるのを見つけて思ったんだ。ああ、あたしのこと、死んだと勘違いしてるんだなって」
「…………」
「それに秦野が双眼鏡で見た限りじゃ、三浦先輩も同じ車に乗ってたって話じゃない。先輩達があの後、国内のどこに行くか分からないんだから、もうあたしなんかじゃ勝ち目なんて無いって、分かっちゃった」
「まぁ……そうだろうね」
「……あたしね、過ぎちゃった事は、もう考えないことにしたんだ。でもあと数日くらいは、葉山先輩のことを好きでいたいって、思う……」
 
 ああ、何言ってんだろ、あたし……。
 ―――途中から秦野がそっちのけになって、あたしのグチになってんじゃん。
 
 でも相模はその事に気付いてないのか、カップの中のスープを飲み干し、星空を見上げながら言った。
「結局さ、みんな何かに悩みながら生きるようになってるんだよね」
 そう言いながら、ハンカチを差し出してきた。いつの間にかあたし、泣いてたみたいだ。
 今の発言に文句の一つでも言ってやりたかったけど、とりあえずはハンカチの礼くらいは言わないといけない。
「……ありがと」
 『何を今更に……』と文句を言いそびれてると、相模はそのまま続ける。
「もしもあの時、車で逃げていった中に葉山先輩が居なくて、代わりに今の一色さんの隣に居たとしよう。で、葉山先輩は君にベタ惚れ。……でも君は、きっとここで別のことに落ち込んでたと思うよ。死んだ友達のこと、家族のこと。これだけ大規模な地震があったんだ。知り合いが誰一人として死んでない、なんてことはありえないでしょ。だから結局、君はここで落ち込んでたと思う」
 ………。
 言われてみれば、その通りだ。
「君のことを初めて教室で見たとき、材木座って人と同じくらい薄っぺらな人間だと思ってたよ」
「なっ……!」
 瞬間、怒りを感じた。
 材木座先輩―――割と総武高校でも有名な中二病患者。でも岡部由紀子って人の敵討ちの後のやり取りを見ていたから、材木座先輩が『ただ鬱陶しい人』ではなく、『熱い男』くらいにまで、あたしの中じゃ評価が上がってる。だから『あたしを材木座先輩なんかと同レベル』と見られた事ではなく、『材木座先輩を薄っぺらな人間と見た』という点にブチ切れそうになる。
「いい加減にして相模っ! いくらなんでも―――」
「でも違ったんだ」
 あたしが最後まで言うより先に、相模は、自分で言ったことを否定した。
 ってか、口を開くタイミングといい、このハンカチといい、こいつ計算してやってるの? ありえないだろうけど、もしそうなら博打とか得意そうだなと、どうでも良い考えが過ぎる。
 相模は続けた。
「前に材木座さんとちょっとした喧嘩になって、奉仕部の人達を仲介してトランプ勝負をしたんだ。……詳しくは略するけど、結果的には僕らは負けた。でも面白い先輩だったよ。それから奉仕部として来ていた比企谷先輩って人も」
 比企谷先輩を知ってるようだ。
 確かにあの先輩は、一見すると地味なようで格好良いし、料理上手だし、お嫁さんに―――って違う。
「そして君は、そうやって誰かのために涙が流せる。洋平に姉の死を伝えた時みたいに、あるいは材木座さんをバカにされて今みたいにキレたりね。―――裏を返せば、悲劇の数だけ泣く羽目になるけど、それって人として得な方だと思うよ」
 今まで、誰かから自分についての評価っていうのを聞いたことが、何度かあった。
 そのどれもが、酷い内容だったし、あたしも最低だと思いながらも、『そんな性格』を楽しんですらいた。
 でも―――でもあたしを……あたしをそんな風に肯定してくれる人なんて……
 だって……だって酷いことばっかしてきたんだよ? 色んな人を嘲笑い、蹴落として生きてきたんだよ? それなのに自分の性格の正反対なことを見つけられるなんて―――
 
 
「ほら、人って極限状態になると本性が出るでしょ? だったら―――『それ』が君の本性じゃん」
 
 
 口説いてるわけでは―――ない。
 説教してるわけでもない。
 ただ自然に、まるで雑学でも語るかのように放たれた言葉は、あたしの胸に刺さらず、染み込むようにして胸の奥に届いた。
 
 
 
 
 
 
 
 彼は―――本当のあたしを見つけてくれたんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気付けば、彼の薄っぺらな胸にしがみ付きながら泣いていた。
 そりゃもう、葉山先輩が死んだと思ったとき以上に号泣していた。
 こんなモヤシ野郎なのに、『泣きたいときに貸す胸くらいはあるさ』だって。……男らし過ぎんでしょ。
 しばらく泣きつづけ、ようやく涙が収まってきた頃、相模はスマホを取り出して電源を入れた。
「何してんの?」
「時間を確認してるんだよ。ちょっと悪巧みをしててね」
「……どういうこと?」
「洋平の奴、前から城廻先輩に気があったんだ。だから上手い事、先輩の心に届きそうな口説き文句を、地震が起こる前から仕込んでたんだ。……で、さっき『この時間になったら服が乾くだろうから、先輩が屋上で生着替えしてる』って言っておいた」
「うわぁ……」
 こいつも最低……。
 気にせず相模は続ける。
「……で、それとは別に、さっき先輩から『どうやって秦野君を慰めたら良いかな?』って聞かれてたから、これも洋平のツボな言葉と、あいつが屋上に来る時間を伝えておいたんだ。あとはそこでどう関係が進むか見守るってワケ」
「なるほど、面白そう……。でも相模、もし秦野が先輩を押し倒そうとしたらどうするの?」
「そこは僕の出番でしょ? 『こらー、やめないかー』とか言って乱入すれば、あいつだって頭くらい冷やすだろう」
「でもあんた、逆上した秦野に勝てるの? あんたと違って、かなり体格が良いんだけど」
「………………あ」
「ちょっとぉッ!!?」
「あ、ヤバイ! あいつら来た!!」
 屋上の扉が開き、カーテンを湯上りタオルのように身体に巻いた男女が、屋上へとやってきた。
 直後、あたしと相模は、スナイパーのように身を伏せる。
 もう今さら引くわけにもいかず、とてつもない緊張を孕んだまま、彼らの行く末を見守る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彼らがこの先どうなるか―――それは当事者二人と、出歯亀二人にしか分からないことだろう。



[41214] 最終話 俺達の生きる未来【完結】
Name: シウス◆60293ed9 ID:11df283b
Date: 2015/07/10 23:22
 
 ――ナレーション・サイド――
 
 
 ―――マンガや小説などの二次創作に関する用語で、『余りものカップル』という言葉がある。文字通りの意味で、主人公以外の男女を結んだ物語りである。二次創作の世界において、そういった物語りを好むものと嫌うものの対立はあるが、俺個人の意見を言えばアリだと思う。
 ぶっちゃけ今の俺自身が、そういった路線の人生を歩んでいると言えるからだ。
 
 ……まぁ、つまり何だ?
 
 
 
 俺は優美子と結婚し―――あいつは大岡優美子になったってワケだ。
 
 
 
 ―――はい、そこ。関西人みたいに『なんでや!』って言わない。……俺だって付き合い始める前までは信じられない気持ちで一杯だったんだよ。
 高校時代から付き合いのある奴と結婚できるってことが幸せかどうかは分からない。
 ただ恋愛・青春というものを、大学生という若さで体験でき、いつ破局を迎えるか分からない道のりではあったものの、無事にゴールインできたのは幸せな方だと思う。
 なぜ余りものカップルかといえば、あの震災を生き延びたメンバー全員(沙希さんの妹である京華ちゃん以外)が、同じメンバー同士で結婚したからだ。
 まず隼人だ。
 ある意味で俺にとって一番の恋敵だった。何しろ最後まで優美子と雪乃さんが取り合ってたからだ。……ただ隼人自身、元から雪乃さんが好きだったということもあり、そいつら同士で結婚することになった。もしも隼人が優美子を選んでいたなら、またも俺は余りものカップルとして、雪乃さんと結婚してたのだろうか? ―――何それ、どっちに転んでも自動的に勝ち組みじゃん俺。
 次に比企谷妹こと小町ちゃんだが、沙希さんの弟である大志と結婚した。……こいつら元々仲が良かったからな。
 ここまでは誰でも予想できた。
 
 
 少し意外なのになると沙希さんと大和だ。……まぁ予想してた奴もいるかとは思うが、こいつらも結婚した。落ち込んでる沙希さんを慰め続ける大和に心を開いたのか、それともしつこすぎる大和に折れたのか、そこんところは微妙だけどよ。
 
 
 他にも海老名さんと戸部っちだな。
 震災直前までは―――正直なところ、戸部っちが海老名さんを落とすのは不可能だと思ってた。
 でも後になってから知った、あのグリズリーに喰われる寸前だった海老名さんを助け出した方法を聞いて、あいつらが付き合いだした理由が分かった気がしたよ。……っつか戸部っち、無駄に格好良すぎじゃねぇか。
 
 
 もっと意外なのもある。
 材木座だ。
 これでも材木座は、悪い意味で学校では有名だった。
 そんな材木座が、どこでどのような出会い方をしたのか、南さん―――相模南と結婚したんだ。
 あのデブ(あ、でも震災後にだんだんと痩せ、ガッシリした体格になったな)、号泣しながら、結婚式でウェディングドレス姿の南さんをお姫様抱っこし、『材木座義輝はぁっ! 相模南を愛しています!! 世界中のっ…誰よりも!!!!』って叫んでたな。
 震災直後に、興味本位で聞いてみたんだが、あいつが中二病になったのにはキッカケがあったらしい。
 なんでも前の中学校にて、『ゾンビパウダー』の主人公に憧れた中二病女子がおり、そいつのロングコートとか、黒い炎を操る設定とかが格好良かったんだそうだ。しかも当時の材木座本人がイジメにあってるところを助けてもらい、名前も知らないそいつが風の噂で『総武高校に進学する』と聞いたから、うちの学校を受験したそうだ。
 その話を近くで聞いていた南さんは、嫉妬なのか顔を真っ赤にしながら―――頭を木の幹に何度も叩きつけていた。……嫉妬しすぎだろ、あの人。
 一応は聞いてみたよ。『その中二病女とは出会えたか?』ってな。そしたらあいつ、『ああ』とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
 ―――ちなみに今のあいつはライトノベル関係の会社で課長にまで出世しており、時おり自分でもライトノベルを書いている。これがまた人気の作品ばかりで、その全てがアニメ化しており、更には自分で声優に混じって脇役のセリフを入れる事もあるそうだ。『職業は―――気持ち的、ナイトやってます!』ってセリフには随分と笑わされたな。アニメの中でも剣豪名乗ってんのかよ。
 
 
 でも一番に驚かされたカップルは―――何と言っても、一番早く結婚したあいつらだな。
 組み合わせが珍しいんじゃない。
 
 
 ―――生きてたんだよ、あいつらは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――比企谷小町サイド――
 
 
 大和さんの祖父母が経営するルームシェア型アパートに辿り着いてから2週間。今の生活も何とか安定してきたところだ。
 学校への編入に関しても、上手いこと同情をあおって成功したし、あたしと大志君に関しては戸籍が津波に流されたのを良いことに『名門である総武高校に推薦入学が決定してた』ということにして高校受験の心配さえ無くなっていた。また銀行強盗達の車から奪ったお金が何億円もあったので、今の学費はもちろん、大学入試どころか卒業後の数年までは余裕があるとの見解だ。
 
 ―――でも皆、まだ陰のある顔をしていた。もちろん小町も含めてね。
 
 そりゃそうだよ。
 だって家族も友達も死んじゃったんだよ? ってか死に目に会えなかったまである。―――ってお兄ちゃんなら言いそうだよね。
 そりゃ小町だってクラスメートのみんなが生きてるとは思わないよ? あと何ヶ月か何年か経って、実は生きてましたって人が数人いればマシかなって思ってるし……。
 このアパートに着いてから、皆で家具やら雑貨やらを買い集めに走り、その間に別働隊の雪乃さんと葉山先輩が高校の、小町が中学校の、それぞれ編入手続きをしたんだ。
 でも当然ながら制服やら教材やらを用意するのに何日もかかるし、家具やら何やらを用意するのも数日でできるものじゃない。
 一応は一通りの生活必需品が揃った頃には2週間が経っていた。……でも編入に関しては、手続きをした日から1ヶ月―――今から数えると更に2週間かかると知らされた。
 その間にみんなでどうするかを話し合った。ちょうどその頃、東日本大震災の時のように被害状況のニュースかポポポポンのCM一色だったテレビもようやく通常放送がされるようになり、震災後の後片付けや被災者達への炊き出しをするニュースも増えてきていた。
 それを見て雪乃さんが提案したんだ。―――千葉に戻ってみようって。
 思えば雪乃さんだけ家族の安否が不明だったんだ。あ、それと相模さんの弟さんもかな?
 
 
 
 
 
 そして小町達は千葉に向かったんだ。
 相模さんの弟さんの安否は確認できなかった。
 自宅の敷地内のどこにも、彼の死体が見つからなかったからだ。でも仮に土曜日だからと家で寝てたなら、とっくに死体は見つかっているはずである。―――あ、でも津波が来たんだったか。それも相当大きいのが。
 一方で雪乃さんは、あっさりとご両親の安否が確認できた。―――最初の震災と余震は乗り切ったものの津波に流され、死体となって発見されたそうだ。
 ……でも陽乃さんは無事に生きていた。
 陽乃さんは雪乃さんの姿を認めるや、飛びつくようにして抱きしめた。
 雪乃さんが泣くところは何度か震災の中で見てきたけど、陽乃さんが大声で泣くのは初めて見たよ……。
 しばらく再会を喜んだ後、陽乃さんは父親の残した会社(県外のため被災してない)を引き継ぐと言っていたので、小町達は連絡先だけ伝え、数日だけボランティア活動に参加してから帰った。
 
 
 
 
 するとアパートの前で、信じられない光景が待ち構えていた。
 
 
 
 
 ちょうどアパートに帰る前に、スーパーで鍋(何となく皆で食べたい気分だった)の材料を買い集め、皆でわいわいと談笑しながら歩いてたものだから、最初は目に映ったのが誰だったのか理解できなかった。ただ一組の男女がいるという程度の認識だった。
 次にその男女の内、男の方が近づいてきたので、不審者かと思って身構えてしまった。……なにせ二人とも衣服が汚れてるし、大きな荷物を背負ってるし、目が腐って―――って。
 
 
 まさか……。
 
 
 まさかまさかまさか―――!!
 
 
 
 
「小町―――なのか?」
「お兄…ちゃん…?」
 
 気付いたら周囲の音が聞こえなくなり、約3週間ぶりに再会する兄と抱き合っていた。
 ふと隣を見れば、同じように汚れた服装の結衣さんが、雪乃さんや優美子さん、姫菜さんに抱きしめられていた。
 
 
 涙が溢れて前が見えなくなる中、それでも小町は言ったんだ。
 
 
 
 
 「ただいま…………ただいま、小町」
 「おかえり……お兄ちゃん、結衣さん」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――比企谷八幡サイド――
 
 
 ―――白。
 
 頭上や前後左右だけでなく、足元まで全てが同じ白色の空間。
 遠くも近くも同じ色のみのため、ともすれば平衡感覚までもがおかしくなりそうな不思議な空間。
 ―――そこに天使の笑顔があった。
「やっと会えたね、八幡、由比ヶ浜さん! ……でもゴメンね、またすぐ会えなくなるんだ。今度は何十年もずっと……」
 花のような笑顔から一転、悲しげな表情になり、そして泣き笑いみたいな顔になった。
 俺と由比ヶ―――いや結衣は横並びになったまま、声の主に対し、茫然としながら呼びかけた。
 
 
「と……戸塚か?」
「彩ちゃん……?」
 
 
 こいつが死んだのは、ついさっきだったはずだ。
 確か―――そう、胸を鉄骨が貫通したからだ。
 その死に顔は、死因とは程遠いくらい穏やかな顔だった。
 そんな戸塚が目の前にいるということは―――。
「ああ、俺ら死んだんだな。津波で」
「…………」
 結衣が、俺の服の袖を強く摘んでくる。彼女の顔には悲壮感は無く、あの世から迎えに来てくれた友人に対する歓迎と、かすかな不安といったものだった。
 だが戸塚は、またも首を横に振り、
「……死んでないよ。二人とも、まだ助かる可能性があったんだ。だからそれを伝えに来た……」
 思わず結衣と顔を見合わせてしまった。
 構わず戸塚は続ける。今までに見たことも無い―――ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて。
 
 
「ねぇ八幡、由比ヶ浜さん。二人が、その―――ちゅ……キスしてた時、足元にマンホールがあったの、気付いてた?」
 
 
 ―――。
 なんだろう、意外な生存の可能性よりも、戸塚が恥ずかしそうにキスをチュウと言いかけたところが印象に残ってしまった。言った本人まで赤くなってる。
 結衣を見ると、彼女も茹でたタコみたいに真っ赤になっている。
「ちょ―――彩ちゃん!!」
「あははっ……こーいうキャラは、やっぱり僕には向いてないみたいだね」
 戸塚もやや紅くなりつつ、笑って誤魔化す。
「ありがとな、戸塚。お前のお陰で助かりそうだ」
 俺が礼を言うと、戸塚は嬉しそうに頷いた。
「良かった……。これで心残りが一つ減ったよ」
 結衣が不安そうに問いかける。
「『一つ』って―――やっぱり川崎さんの事…だよね……」
 戸塚は悲しげに顔を伏せる。
「……仕方ないよ、自分で選んだことなんだもん。―――あーあ。きっと沙希ちゃん、別の誰かに寝取られちゃうんだろうなぁ」
 冗談めかして笑いながら言うが、戸塚の目は半泣きだった。
「なぁ、戸塚」
「ん? なあに?」
「こんな風に人前に現れることができるなら、川崎に顔見せてやれないのか?」
 戸塚は静かに首を横に振って答えた。
「無理だよ。一応は自縛霊なんだし、一定範囲から出られないよ。それに沙希ちゃんの前なんかに出たら理性が利かなくなって―――彼女を連れてっちゃうよ」
 この場合の『連れて行く』というのは彼女の魂のみを連れて行く―――つまり川崎を死なせてしまうという意味だろう。それが分かるからこそ、こいつは涙ながらに自分を押さえてるんだ。……って、距離的に無理だったんだっけ?
 俺は言ってやった。
「もしも俺達が生き残れたら、ちゃんとお参りに来るからな。追悼式だけでなく、誕生日もお盆にも……んで、さっさと成仏して、もっと幸せなリア充にでも生まれ変るように祈るから……」
 すると被せるように結衣が言う。
「あたしも彩ちゃんには幸せになってほしいよ。……って、今のあたし達が言ったら嫌味にしか聞こえないと思うけど、それでも――――この思いは本物だもん」
 俺達の言葉を聞いた戸塚は、指先だけで零れかけた涙を拭い(ほんと女っぽい仕草だな……)、笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、八幡、由比ヶ浜さん。二人に会えて本当に良かった。さっきの話だけど、人ってそんなにすぐには生まれ変れないみたいだよ? お爺ちゃんの3回忌の時に、お坊さんが言ってたんだ。だから―――みんなが天寿を全うするのを待ってるよ。絶対に自殺なんてしないで、ゆっくり来てね。約束だよ?」
 言いながら、戸塚の身体は段々と透け始めてきた。
「彩ちゃん!?」
 結衣が声を上げる。
「あはは……もうお別れの時間だね。二人とも大好きだよ。また―――またねっ!!」
 
 
「ああ。……『また』な、戸塚」
「うん……『また』だよ、彩ちゃん」
 
 
 
 
 
 
 
 世界に色が戻る。
 ガレキで出来たテントのような空間。その中の格子窓の方を向いたまま、俺達は立ち尽くしていた。さっきまでのやり取りが夢ではない証拠に、足元にはマンホールがあり、それをこじ開けるのに使えそうなバールまで近くに転がっていた。
 今までの人類の歴史で、今みたいな心霊現象(?)を体験した人間は何人くらい居たのだろうか―――などと、どうでも良い疑問が頭をよぎる。不思議と恐怖は感じなかった。そりゃ幽霊だって人間だもんな。
 結衣が、薄っすらと浮かんだ涙を拭いて口を開いた。
「ヒッキー……彩ちゃんの分まで生きよう……」
「……ああ、そうだな」
 俺はバールを拾い上げ、尖った部分を勢い良くマンホールの隙間に突き立てた。
 
 
 
 
 
 あの後、俺達は下水道を通って近くのマンホールから地上へと戻り、葉山が置いていった食料や金の入ったバッグを回収し、『津波からの避難所』を示す看板のあるビルへと逃げ込んだ。
 5階建てのビルで、俺と結衣が階段を上がってる最中に津波が押し寄せてきたが、幸いにも津波は3階部分までしか飲み込まなかった。……まぁビルが津波に飲まれる瞬間、ちょうどその3階へと上がる寸前だったから、かなり焦る羽目になったがな。
 その後、何とか屋上まで上った俺と結衣は、遠くに雪ノ下や小町の乗るワゴンが走り去るのを見つけ、手を振ってみたが気付いてくれた様子は無かった。
 それから1日ほど待機し、津波が引くのを待ってから、俺達は徒歩で西を目指して歩き出した。
 
 
 
 
 
 
 俺達が人類史上まれに見る奇跡(戸塚の幽霊)と遭遇しようとも、時間というのは気にせずに流れ続ける。
 ガレキだらけの農道を越え、舗装されてない山を越え―――今では地震による停電で電車が走ってない線路を二人で歩いている。ここまで来るのに、すでに3日もかかっているが、
「……なんつーかアレだな。アスファルト舗装されてない道―――ってか獣道しか無いって、こんな未開拓地みたいなのが千葉にあるとは思わなかったぜ」
 それに対し、結衣は乾いた笑い声を上げる。
「あはは……でも線路があるだけでもマシなんじゃない? このまま線路を辿って歩いてれば、いつかは人里まで辿り着くと思うんだけど……」
「しかしだな結衣、この枕木を見てて思うんだが、普通は線路の下の枕木って、鉄筋コンクリートで出来てるだろ?」
「え? そうなの?」
「いや、そこで首傾げんなよ。……とにかくこんなボロっちい『木造の枕木』っていうのはローカル線―――JRとかの大きい鉄道会社ではなく、田舎だけを走ってる線路に使われるんだ。ここまではいいよな?」
「う、うん。まぁ一応」
「んで田舎の線路―――つまりローカル線ってのは、駅から駅の間隔がかなり短い。それでいて電車の本数も少ないから、徒歩の方が次の駅まで早く着くくらいだ。―――にもかかわらず今の俺達は駅に着かない。線路をはさむ左右を見渡せば森ばっかりで先が見えない。……そりゃいつかは駅なり人里なりに着くと思うんだけどな。―――本当にどうなってんだ?」
「うーん……あ、ヒッキー、あれ!!」
 結衣が突然大きな声を上げたので見てみると、すぐ真横に線路を挟むように続く森に途切れがあった。そして結衣の指す先には木造の一軒家―――いや山小屋があった。
「家だよ! 誰か住んでるかも!」
「いや……あれは山小屋だから住んでるとは限らんだろ。……でも役に立ちそうな物資くらいならあるかもな」
 よく漫画とかで、雪山で遭難した若い男女が辿り着く設定とかあるけど、そもそも『山小屋』って何をするためにあるんだろうな?
 
 
 
 
 
 
 しかし何だ?
 近づけば近づくほどデカい山小屋だな。
 ……ん? なんか建物の前に看板があるな。
「えー何々……『○○家別荘』って本当に人の家だったな!?」
「ほら! 言ったとおり『家』じゃん!!」
 結衣が両手を腰に当て『えっへん!』という風に威張る。
「まぁ家には違いねぇけど、住んでるとも限らんな。すみませーん! 誰か居ませんかー!?」
 玄関をノックしながら叫んでみる。しかし中に誰も居ないのか、物音すらしない。
 結衣が恐る恐るといった感じで口を開く。
「……緊急事態だしさ、窓を割って入るのもありなんじゃないかな?」
「いや、そこまでの悪さをする必要も無いだろ。それにカギだって案外近くに隠してあるかも―――ほら」
 玄関の近くにあった、エアコン室外機の真下に手を入れ、銀色のカギを引っ張り出した。
 試しに玄関の鍵穴に差し込んで回すと、『カチャッ』という開錠音が響く。
「家のカギをこういった所に隠す奴って多いだろ? 泥棒だってそれを知った上でカギを探すんだとよ」
「窓破ろうとしたあたしより凶悪じゃない!?」
「いや確かに凶悪だけどよ、窓割られるよりは損害が少ないだろ?それに人の居ない別荘に食料なんざねぇだろうし、トイレットペーパーとかの物資だって、津波から逃げる時に入ったビルで調達してるんだ。ぶっちゃけここに用があるとしたら寝床の確保くらいだろ」
「むー……でも外じゃ落ち着いて眠れないじゃん……」
「それ最初の野宿の時だけだろ? 二日目から爆睡だったじゃねぇか」
「そ、それにほら! お風呂とか入りたいじゃない? それにひょっとしたら中に電話とかあるかもしれないでしょ!?」
「い、言われてみれば……」
 そうだ電話だ。
 俺達は別荘内に上がり、さっそく結衣と手分けしてブレーカーを探し、スイッチを入れた。
 ……でもダメだった。別荘内の明かりや電化製品は稼動しなかった。試しに置き電話の受話器も上げてはみたが、こちらも電気すら通っていなかった。昔のコナン君でやっていたみたいに、停電時でも電話は使えるというのは、現代では通用しないって母ちゃんが言ってたよな……。
 一応、今まで節電と称して主電源を落としていたスマホも起動してみたが、未だに『圏外』と表示されていた。
 たぶんこの別荘の電気は、津波に飲まれた俺達の町から送られてたんだろうな。もしくは最初の地震で電線が切れたかだ。
 と、そこで手分けしていた結衣が部屋に駆け込んできた。
「あー結衣、電気も電話もダメだ―――」
「ヒッキー、お風呂! お風呂があったよ!!」
 ……こいつ、最初からそれが目的だな?
「悪いが、それも無理だと思うぞ? 電気は使えないんだ。このオール電化の時代、いくらガス式であろうと多少の電気は使うだろ?」
 俺がそう言うと、結衣は俺の手を握って走り出した。そして別荘の裏側が見える窓まで駆け寄ると外を指した。
 
 
「………………は?」
 
 
 そこにあったのは―――ドラム缶風呂だった。
 ご丁寧に、近くに綺麗な小川があり、少し離れたところには大量の薪まである。
「お前……入り方って分かってんの?」
「え? 下から火で中のお湯を温めて入るだけでしょ?」
「湯の底にスノコを敷いて入らないと大火傷すっぞ?」
「そうなの?」
「…………はぁ」
 俺が溜め息をつくと、結衣は頬を膨らませ、しかし若干照れくさそうに、
「じゃあ、その……ヒッキーも入ってよ。二人で入る分、お湯は少なくて済むし、少ないお湯を沸かすなら、薪も少なくて済むじゃん」
「ちょ―――いやいやいや待てって由比ヶ浜さん! あまり自分を安売りしちゃダメだろ!? そーいうのは付き合ってから時を重ねてだな―――」
「時間なんて関係無いよ。津波で死を覚悟した時だってハグもキスもしたじゃん。……個人的にはキスよりハグの方が良いけど。とにかく恋人同士だから何をやっていいってわけじゃないけど、いつかはそんな関係にもなりたいし……ダメ?」
 うっ……。
 こいつの辞書には『あざとさ』という単語なんて無い。きっと素であり、本気の問いなのだろう。
 ってかこいつ、自分の事を可愛いって気付きながらもおくびにも出さないキャラだと思っていたが、無意識の時に限って言えば最強だな。
 あの津波に飲まれる寸前で、勢いで言ってしまったとはいえ、俺がこいつの事が好きと言ったのは前々からでもあるのだ。……まぁ同じくらい雪ノ下も好きではあったが、あの津波の日に、こいつと俺だけ皆から置いていかれる状況になってしまったのだから、必然的に結衣にしか目が行かなくなる。もしあの時、俺と一緒にガレキに閉じ込められたのが雪ノ下なら、あいつと恋人になっていたのかもな。
 
 
 そして。
 
 そして俺は―――
 
 
 
 
 
 
 別荘内の和室の縁側。
 今は全ての窓を開け放っているからか、心地の良い夜風が入ってくる。
 アウトドア用のロウソク(小さな缶に入ったロウソクが1ダースで100円)の明かりが、風のせいで天井をゆらゆらと照らすという、どこか艶やかな雰囲気。
「もうヒッキーったら。何も鼻血吹いてのぼせるまで我慢しなくても……ここまで運んで服着せるの大変だったんだからね」
 そういえば結衣に膝枕されてるんだったな。
 我ながら情けないことにのぼせてしまった。こんなザマではエロ漫画とかにありがちな『事あるごとにエロい展開』なんてのはありえないだろう。ってか、そんな展開になったら俺の身が持たない。
 昔の漫画にありがちな『女の裸を見て鼻血→即気絶』といったことは無かったが、それでも俺がのぼせるのに拍車をかけたのは確かだろう。
 ……ただフラフラしながらも『自分で歩ける』と言ったはずなのに、無理に肩を貸そうとするのはどうかと思うぞ? だってお互いに全裸だったし。大きいのも当たってたし……。
 ちなみに今は俺も結衣も浴衣を着ている。適当にクローゼットを漁ってたら出てきた。なので結衣には俺がのぼせている間に、俺達が着ていた服を適当に洗って干しておいてもらった。―――つまり二人ともノーパンである。
「ねぇ、ヒッキー」
 結衣に呼ばれ、膝枕されたまま見上げる。
 彼女は縁側から見える星空を見上げながら、どこか遠くを眺めるような目で言葉を紡いだ。
「ゆきのん達……今頃どうしてるかな?」
「ま、津波からは無事に逃げられただろうな。あいつらがトンネルまで入るの、あの屋上から見届けただろ。……あいつらが目的の滋賀県まで自力で到達するか、それとも警察に駆け込んだり呼び止められたりして、どうにか送ってもらえてると思うがな」
「あたし達のこと……心配してる…よね……」
「―――いや、さすがに心配を通り越して、『死んだ』と思って絶望してると思う。でも……どれだけ心配されようが絶望されようが、俺達は生きていることにかわりは無いんだ。いつかあいつらの居場所にまで辿り着いて、それこそ死ぬほど驚かせてやろうぜ?」
「……うん、そうだよねヒッキー……」
 そう言って彼女は俺の頭を抱きしめた。
 ―――だから当たってるって。
 ……ってか大きすぎるから胸元がはだけて見えてるって!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 結局、別荘を出発したのは翌々日の朝になった。―――洗った制服が、泊まった次の日の昼まで乾かなかったからだ。
 浴衣姿で出発することも考えたが、そもそもあの別荘、ホテルや旅館で御馴染みの『浴衣の上着』が存在しなかった。それに半乾きの制服やら下着を竿にくくりつけて出発するのも考え物だし、荷物がかさばるし、ノーパンだからスースーするし。
 それにまだ人里に着かない可能性は高いので、できるだけ朝の早いうちに出かけ、野宿する頻度は低くしておきたい。
「ねぇ、ヒッキー」
「あん?」
 再び線路の上を歩いていると、唐突に結衣が呼びかけてきた。
「こうして歩いてると、なんか昔のRPGみたいだよね」
「あー、言われてみればそうだな。―――って、そんなこと考えられるとか、何気にタフな精神だな。普通は歩けど歩けど人里にすら着けないと発狂するもんだろうに……」
 もしかして怖がらせてしまったかと思ったが、結衣は軽く笑って否定した。
「ないない! 発狂するなら、武器の無いこのタイミングで熊に襲われるとかしないとね」
「じゃあ何で発狂しないんだよ? 不安じゃねぇの?」
「へ? そんなの決まってるじゃん」
 この瞬間、こいつが何を言おうとしてるかを想像した。俺が平然としてるから危機を感じないのか? それとも足元にレールがあるから、いつかは人がいるとこに辿り着けると保証されてるからか?
 でも違った。
 結衣は笑いながら、『何を当たり前な事を』と言わんばかりに軽い調子で言ったんだ。
 
 
 
 
 
「だって―――ここにヒッキーがいるんだもん」
 
 
 
 
 
 ……っ、
 
 俺がいる―――から…か。
 
 よもや漫画や小説で使い古された『あなたと一緒ならどこへでも』ってのを言われるとは思わなかった。
 これを言ったのが小町なら『あ、今のポイント高い!』ってあざとさを発揮するし、陽乃さんや会って間もないが一色だったりしたら絶対に裏がある。でも結衣にはどちらも無い。
 よく国語テストの、割とレベルの高い問題に出てくる、居なくなるだけで身体が引き裂かれるような思いをする大切な存在。―――つまり『半身のような存在』。
 戸塚が死んだときに見せた、川崎の絶叫や自殺まがいな行動もまた、彼女にとって戸塚が半身のような存在だったがゆえ。
 俺は結衣の―――誰かの半身のような存在になれたんだな……。
 不意に文化祭の間、結衣が言った言葉を思い出した。
『待っていても来ない人は、待たないで……こっちから行くの』
 あの日、こいつとキスして以来、再び溢れそうになるものが込み上げるのを感じ、
「ふぁ……」
「あ! ヒッキー、今あたしが良いこと言ったのに欠伸するなんてヒドイ!」
「……悪りぃ、夕べは寝不足だったからな」
 さも眠そうに答えてから、両手の人差し指で、薄く込み上げてきた涙をぐしぐしと拭う。
「さ、今日もサクサク歩きますか。また野宿は嫌だもんな」
 適当に話題を逸らしつつ、俺達は歩きつづける。
 
 未来へ。
 
 そして仲間の元へ。
 
 
 
 ふと、とんでもない事実に気付いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――――――今の俺、とんでもなくリア充じゃね?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――ナレーション改め、大岡サイド――
 
 
 毎年、俺たち生存者は自分達の子供を連れて献花と供養に行っている。……ほら阪神大震災や東日本大震災のあった日、毎年ロウソクを立てる奴、テレビでやってるだろ? あれをしに行ってるんだ。
「……早いもんだな。もう震災から15年が経つんだからよ」
 となりで大和が呟いたのに対し、俺も『ああ』と相槌を打つ。
 あの時の生存者である俺達は全員(京華ちゃん以外)が既婚者であり子持ちだ。あの頃幼かった京華ちゃん(20歳)も彼氏を連れて参加している。
 その京華ちゃんはというと、少し離れたところで、今年で7歳になるうちの娘と5歳の息子、それから娘と同い年である大和の息子と追いかけっこして遊んでくれている。意外と世話好きな子だそうだ。
 
 
 この平和な光景を眺めながらふと思う。
 震災日になったらこうしてお参りしながらいつものメンバーで団欒し、戸塚の誕生日になれば近所の川原でバーベキューをする。無論、他の用事で団欒することも日常茶飯だ。
 
 
 ……もしも戸塚がここに居たなら、この『現在(いま)』はどう変わっていただろうか。
 少なくとも大和は沙希さんと結婚してはいないだろうし、下手したら隼人に振り向かれなかった優美子が、大和と結婚してた可能性すらある。
 更に『もしも』の話をするならば、戸塚が沙希さんを庇うことに失敗し、沙希さん本人が死んでた可能性もあるし、比企谷八幡と結衣のどちらか、あるいは両方が死んでいた可能性もある。
 ……ま、こんな事を考える意味なんて無いんだけどな。
 俺は今が一番気に入っている。ずっと目立つことなく、地味で背景になりがちだった俺が、人並みの幸せを手にした『今』を否定したくはない。
 あれからいくつも驚くことがあった。特に雪乃さんが県議会委員に立候補した際に、相模いろはという女と対立した時は驚いた。一色いろはが生きていたからだ。
 でも一番驚いたのは……
 駆け寄ってきた娘が、俺の足にしがみ付いた。
 俺はしゃがんで目線を合わせ、微笑を浮かべて頭を撫でてやる。
 娘はくすぐったそうに笑みを浮かべ、また離れていった。
 ……思えばあの子が生まれたときが一番驚いた。何しろ『生まれた時から金髪』だったからな。
 よくよく考えれば、優美子と結婚後、髪や眉だけでなく、下の毛まで金色だったことに気付いて無かった俺が間抜けだっただけなんだが、優美子はハーフだったらしい。
 モデルのような体型なのに黒目で目つきが悪いのと、地毛である金髪が染めたような色合いだったせいで、やさぐれたイメージしか持たなかったんだ。だから生まれてきた子が金髪(それも極自然な色)、そして青い目だったのには死ぬほど驚かされたね。どっかで浮気でもされたかと思ったくらいだ。
 ……ちなみに、この事を材木座に話したところ、『目つきの悪い金髪(染めたっぽい)ハーフの少年が主人公(しかもボッチ)』という内容のラノベを発行しやがった。しかもアニメ化したくらいだ。さぞかし売れたんだろうな。その事実を知った優美子は爆笑していたな……。
 ふと大和が口を開く。
「お? 八幡んちと隼人んち、あと大志んちの連中も来たか。あ、それに平塚先生んちも」
 ……一応言っておくけど、平塚先生は震災の翌年には結婚して苗字変わってるからな? 震災の前日にあった高校の同窓会で、幼馴染だった人に貰われてるからな? 同窓会の後、その彼のアパートにお持ち帰りされたらしい。
 少し離れた所から歩いてくる大所帯に、俺は右手を振って位置を知らせる。
 そして娘の背を軽く押しながら、
「ほら、みんなにご挨拶だぞ?」
 まぁ家も近いから、今朝だってしたとは思うがな。
 娘はやって来た三組の家族に対し、手を大きく振りながら叫んだ。
 
 
「やっはろ―――――ッ!!!」
 
 
 ……すっかり結衣に染められてしまったな、あいつ……。あれの元ネタって、やっぱFF8のヒロインなのかねぇ。……だとすると主人公のボッチなところは八幡に似てなくもないか?
 まぁいい。これで後は戸部の家族が揃うのを待つだけだ。
 
 
 俺は空を見上げて思う。
 
 
 なぁ戸塚。これがお前の守った現在だ。ここにお前が居ないのは寂しいし、かといってお前が居たら、確実に結婚できなかった奴もいる。どうなってたら一番幸せな未来になってたかなんて、俺には分かんねーよ。
 でも過去を振り返って変えられない現在を思うより、いま何ができるかを考えるべきだと思う。―――無論、すでに死んでるお前に対し、できることなんて『祈る』以外無いんだけどな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 だから俺は祈りつづけるよ。
 みんなが無事に天寿を全うして、天国でまた学生時代みたいに集まってダベりたいってな。






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