第二渋谷高校に入学して以来、僕はずっとある女の子のことが気になっていた。
その子は何というか、不思議な子だった。
楽しそうに唇を綻ばせて鼻歌を唄いながら廊下を歩いているのを見たり。
灰色のようにも紫のようにも見える曖昧な色の髪を指にくるくると巻き付けていたり。
授業中も先生の話を聞いたりノートを取っている素振りも無いのに、成績は僕なんかよりもずっと優秀。
同じクラスメイトの女子たちの輪にも入ろうとはせず、まさしく高嶺の花と呼ぶに相応しい感じの女の子。
ある日、通学のための定期券入れが無くなっていることに気づいた僕は、慌てて放課後の教室へと戻った。
すると彼女は自分の机に座って足をブラブラさせながら、視線を少し上げて天井の方をじっと見ていた。
何か考え事をしているようにも見える。
僕はその時の彼女の顔に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の横顔に浮かぶ、まるでアーモンドのような色の目。
その目にかかりそうなほどの長い前髪。
長い後ろ髪は濃い紫色の大きなリボンで束ねられている。
僕はこっそり扉の隙間から覗いていた。
向こうにはバレていないだろうと思っていたけど、彼女はふっと、僕の居る方に首を向けて言った。
「どうかしましたか?」
それが彼女ーー柊シノアとの初めての会話だった。
呼ばれた僕は、隠れたままでいることがすごく恥ずかしくなって、教室の中に入った。
「あ、いえ……ちょっと定期券入れをなくして、探しに来ただけです……」
普通に答えればいいのに、僕はものすごくおどおどした声で答えていた。
なんて格好悪いんだろう。
しかもバカ正直に、好きな子の前で物をなくしたなんて、かっこ悪すぎる。
そう思っていると、ふと彼女の口元がほんの少し笑ったように見えた。
柊シノアが、僕を見て笑ってくれた。
「あらあら、それは大変ですねぇ」
僕を心配してくれているのか、いつもよりもほんの少しだけ声色を変えてそう言った。
しかも柊さんは、教室の中を歩きはじめて床に落ちていないか探し始めてくれた。
「あ、柊さん……僕の席はここだから、多分この辺りを探したほうが……」
柊さんは僕の席とは全く違う場所を探し始めたので、僕はそう言った。
柊さんは言われた通り、僕の指示した辺りの椅子や机を動かしながら探してくれた。
僕は今、柊さんと二人きりだ。
その柊さんは、僕のためだけに定期券を探してくれている。
しかも僕と柊さんの距離はとても近くて……なんだか甘い香りすら漂ってきているような気になってくる。
柊さんの目が僕の目の前にある。
口元には、相変わらず茶目っ気のある微笑みを浮かべたまま、僕の顔だけをじっとみている。
僕は正直、定期券を探すことなどどうでもよくなっていた。
そして、もっと凄いことにーー。
「背中に埃が付いてますよ?」
柊さんはそう言うと、僕の背中を優しく撫でてくれた!
背中に一瞬感じる優しい体温。
僕の恋人の、柊さんの体温。
僕はありがとうと言った。
でも普通に言えたかどうかは自信がない。
僕は女の子と話す経験などほとんどしてきていない。
まして背中を撫でられるなんてーー。
結局、定期券入れは見つからなかった。
柊さんに背中を撫でてもらったのはとても良かったけど、定期が無くなってしまったのはすごくショックだった。
「ちゃんとポケットの中、探しましたか?」
もちろん探した。
無くなったと気づいてから一番最初に探したのがポケットなのだ。
僕はもう一度ズボンのポケットを調べる。
前のポケットにはない。
ポケットから手を出す前に、さりげなくパンツからはみ出しそうになっているアレの位置を戻す。
僕はやれやれとため息をつきながら後ろのポケットに手を入れたその時。
何かそれらしきものが入っていることに気づいた。
「あっ!」
さっき探したときはなかったはずなのにーー。
中から抜き取ると、探していた定期券入れがしっかりと入っていることに気がついた。
「あ、あれ、おかしいな。ポケットの中に入っていたよ、あはは……」
乾いた笑いを浮かべる僕。
腰に手を当てて冗談混じりの大げさなため息をつく柊さん。
「やれやれです」
その呆れた声も、僕にはとても可愛く思えた。
用事が済んだと見た柊さんは、僕に背を向けて離れた。
柊さんの長い髪と大きなリボンが目に入り、目線を下に降ろすと柊さんの脚が見えた。
膝の裏側がなんだかセクシーな感じに思えた。
突然、スカートがふわりと膨らみを見せて、僕は本能的に目をそらした。
あの中を見てはいけない。
柊さんは振り返って僕を見ていた。
「それじゃあ、私も帰るとしますか。戸締まり、しておいてくれる?」
足をじっと見ていたこと、ばれていないかな。
僕は心配だったけれど、柊さんの表情は普段通り穏やかだ。
彼女は帰ろうとしている。
しかし僕は、彼女を引き止めなければならない、と思った。
僕と柊さんが二人きりになれる状況なんて、これから先の高校生活では絶対に有り得ないだろう。
この瞬間を逃せば、もう二度と僕の本心を打ち明けることなんてできないのではないか?
返事をしないでいる僕を、柊さんは少し首を傾げて不思議そうに見ている。
僕は心臓の高鳴りを抑えながらーー決意を固めた。
「柊さん」
「なんですか?」
「僕は、あなたのことがーー」
すごくもじもじしている。
妄想でなら何度も経験したシチュエーション。
柊さんに告白する夢まで見た。
夢のなかの柊さんは、僕の名前を囁きながらぎゅっと抱きしめて告白の答えを示してくれた。
「あなたのことが……す、好き、です」
沈黙ーー。
さあっ、と背景が一気に遠のいたような気がした。ついに言ってしまったと、半ば後悔し半ば興奮しながら柊さんの答えを待った。
柊さんはーー。
「……ぷ、くくッ……」
柊さんは片手の甲を口元に当てて、なぜか笑いはじめた。
ずっと堪えてきた笑いが一気にこぼれ落ちてきたような感じ。
その笑いは徐々にエスカレートしていき、ついには両手で腹を抱えながらーー。
「あははははははっ♪」
可笑しなものでも見たかのように笑う柊さんの姿があった。
僕は柊さんの予想外の反応に呆然としていた。
僕がやっとの思いで絞り出した告白の言葉を、まさかそんな風に反応されるとは思っていなかった。
何がそんなに可笑しいのか分からなかった。
柊さんはひとしきり笑うと、目尻に滲み出た涙を指で拭い、普段通りの、飄々とした微笑みを浮かべた。
「あははっ♪ こんなタイミングで告白されるとは思いもしませんでしたよぉ」
僕はじっと固まったまま動かずに柊さんの声に耳を傾けていた。
「知ってましたよ? あなたが私のこと好きなんだってこと」
「えっ……?」
「だって教室に入ってきたところからすでに下心が丸見えでしたからねぇ。ええっと……ごめんなさい、私あなたの名前覚えてなくて」
えっ……? えっ……?
柊さん、僕の名前知らないの……?
同じクラスメイトなのに……?
そういえばさっき、僕の席がどこかも知らなさそうな感じだったっけ……。
「ま、いっか。それにしても、あなたって本当に面白い人ですね~。背中を撫でたらすごく反応したし♪」
柊さんは僕の前で、ケラケラと楽しそうに笑っていた。
背中を撫でたのって、もしかして柊さんがわざと……?
「後ろのポケットに入れておいたのに必死で探しているところも可愛かったし……」
え……?
「まあ、探しているというよりは、見ているほうに忙しかったのかな? あ、そうだ。せめて女の子の前でアレを触るのはやめておいたほうが良いと思いますよ?」
ば、ばれてた!?
「まあそれも可愛いとは思いますけどね~。 純粋で夢見がちな、いかにも童貞って感じがいいですねぇ……」
僕は柊さんの口から思いも寄らない言葉が出たのを耳にした。
童貞。
それは、僕の中にいる想像の柊シノアは決して言わないはずの言葉。
「あなた、女の子と話すらしたこともないでしょう?」
頭の中が混乱して僕は何も言うことができないでいた。
その間に柊さんは……柊シノアは、僕のすぐ側まで来ていた。
背がとても低い。
僕のほうが圧倒的に身体が大きいのに、主導権は完全に彼女に握られていた。
そして、柊シノアの言葉は、もちろん大正解だった。
今まさに、母親以外で女の人と会話した時間の新記録更新中だ。
ただ、はっきりと分かったことがある。
僕にとって柊シノアは恋人だ。
だけど、彼女にとって僕は何だ?
「こ、答えてください! 僕はあなたのことが、好きなんです。柊さんはーー」
「そういう、自分の気持ちだけを一方的にぶつけてくるような感じが、いかにも童貞っぽいんですよねー」
ずっと隠し通してきた僕の大事な心が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
もはや立っていることすらできない。
なんだか泣きたくなってきた。
目頭が熱くなってきた。
柊シノアは、すっと何も言わずポケットティッシュを差し出してきた。
駅前とかで配られているようなやつだ。
「っ……!!」
僕はそれを無視してガタガタと机に身体をぶつけながら教室に出ようとした。
「でも私、勇気を出して告白したことは、凄いことだと思います」
僕は扉の前で足を止めた。
「そうやって必死にがっついてくる心意気は、とても素敵なことです。そういうのは、嫌いじゃありませんよ」
嫌いじゃない。
それが柊シノアから聞けた言葉。
僕は早くこの場から逃げ出したかった。
でも、柊シノアと二人きりになれるチャンスは、もうこの先絶対に無いのだ。
僕は柊シノアと話がしたかった。
蔑まれても茶化されてもいいから、一秒でも長く彼女と同じ部屋の空気を吸いたかった。
柊シノアはポケットティッシュを、定期券入れのときと同じように僕の尻ポケットに入れて、尻を軽くポンポンと叩いてきた。
「もしかして、私の裸を想像したりとかしてました?」
柊シノアが、あくまで冗談と分かるような口調で、悪戯っぽく耳元で囁いてきた。
僕のことをからかっているようだった。
「してねぇし」
僕は強がってそう言った。
有りもしない男のプライドを守りたくてそう言っていた。
もちろん嘘であることなど、彼女にはお見通しに違いない。
「あはぁ、私って想像の世界でメチャクチャにされちゃってるのかぁ。恥ずかしいなぁ~♪」
結局、教室を先に出て行ったのは彼女の方だった。
カバンを腕に引っ掛けて、両手で頬を覆い隠し、いかにも大袈裟に恥ずかしがる素振りを見せながら、柊シノアは去っていった。
僕は馬鹿みたいに放課後の教室に一人突っ立っていた。