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[4531] 神宮司まりもの奇妙な年末 【短編】
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/10/21 15:13
■ALTERED FABLE⇒幕間のプロローグ

 この日、天下の御剣本家は非常に騒がしかった。
 警報こそ鳴らないものの、廊下を行き交う多くの者たちの足音が騒然と響き渡る。
 怒号こそ上がらないものの、人々の間を飛び交う幾重もの報告が混然と入り乱れる。

『クソッ! こちらD小隊。一体どうなってるんだ! 全然見つからないぞ!』
『こちらB小隊。対象の姿は発見できず。どうぞ』
『こちらN小隊。影も形も見当たらず。本当にまだ内部にいるのか? 既に脱出されている可能性の再検討を進言する』

 各所からひっきりなしに飛び込んでくる報告は、しかし一つとして違う内容のものがなかった。
 誰もが思う。そんな馬鹿な、と。
 だが、厳しい訓練を受け、数多の実戦を経験してきた者たちが見事なまでに手玉に取られているのが現実だ。
 敷地、邸宅の内外に星の数ほど散りばめられた各種センサーは、絶望的なまでに無反応。猫一匹でも出入り可能であると思われるあらゆる経路を監視するカメラは、常時と変わらぬ平穏だけを捉え続けている。
 これは非常に拙い事態である。
 平静を常に心がけている月詠真那は、湧き上がる焦燥を力ずくで押さえつけながら口を開く。

「こちらCP。偶数番区域が充てられている小隊は一度帰還。装備を整えてから敷地外部の探索の任に就きなさい。奇数番区域が充てられている小隊は分隊に分かれ、任されている区域と、一つ小さい番号の区域の探索を命じます」
『A小隊、了解』
『B小隊、了解』
『C小隊、了解』

 各小隊の応答。
 音がマイクに入らないようスイッチを切って、それから真那は敗北のため息をついた。
 薄く眼を閉じ、何度も繰り返した確認を心の中で再度行う。
 暗い視界に浮かんだのは、変わらぬ結果だった。

「武様はいつもわたくしどもを驚かせて下さいますが、まさかこれほどまでとは……。まだまだ認識が甘かったようですね」

 思い出すのは、脱出しようとする彼と、決して逃がすまいとする警護部隊や警備部隊との熱き戦いの日々。
 毎回毎回、誰もがまさかと思う手段により脱出を可能にしてきた彼であるが、ここのところは勝率が右肩下がりとなってきていたはずだった。それは、一度突かれた盲点は二度と狙われぬようにしてきた御剣の力の成果である。しかし、今回は脱走の発覚から一時間たった現在、未だに経路すら明らかになっていない。
 決して侵入を許さず。
 決して脱出を許さず。
 二段構えの防犯体制は、子供の遊びとはわけが違う。本物のプロフェッショナルが考え抜いた末に、一つの芸術といっていい域にすら達している。
 それが、武が御剣の家に入ってからは幾度となく破られているのだ。
 警備部隊の懐柔に始まり、どこぞの刑務所のように少しずつ地を掘り進めた隠し通路まで。ときにはカタパルトで戦闘機さながらに発射され、対空防衛のシステムに撃墜されかけたことすらあった。
 外に出たいという欲求ではなく、飽くなき探求心による防壁破り。
 いわく、こういうのが好きじゃない男はいない、とか。
 振り返ってみれば、たしかに御剣に身を委ねた彼が特に喜んだのは豊富な財力や広い屋敷ではなく、日常の裏に潜む無骨な防衛システムなどであった。なるほど、一般人では見られないものではある。しかし、真那にしてみれば興味から見ようとはまず思わないものである。
 しかし彼女の価値観などには関係なく、彼は今日も敷地外への脱出という難題に挑み、そしてどうやら成し遂げてしまったらしい。しかもいままでにないほど静かに、まるで空に溶ける煙のように忽然と姿を消した。机の上に『探してくださいさないでください』とだけ書かれた手紙を残して。
 この情熱を勉学にも向けてほしいと願うのは、間違っているのだろうか。
 こんなことをして喜ぶのは彼本人と、彼の大胆にして奔放な様を楽しんでいる節がある双子の姉妹と、既に良きライバル関係が築き上げられているらしい防衛主任だけだ。

「私たちも出ます。ついてきなさい、3バカ1号、2号、3号!」

 本来ならば武の傍についているはずだった三人のバカもとい部下を引き連れて、月詠真那は自身も雪の降り出しそうな空の下に探索に出ることにした。






 一時間後。
 敷地内すべての探索部隊が外の探索に回されたとき、武の部屋に放り出されていた一つの段ボール箱(特別製)が蠢いた。
 段ボール箱(特別製)は進む。まるで生きているかのように廊下を這い、その様子は監視カメラにしっかりと捉えられた。しかし悲しいかなその映像を見る者はいなかった。

「―――大佐、屋内すべての探索部隊の撤収を確認した。これより配達される荷物を装い、トラックを使い敷地内からの脱出を敢行する」

 彼の名はチョビット・ハブ―――になりきった白銀武。
 潜入工作を得意とする諜報員では、当然ない。

 本日の教訓。
 灯台下暗し。



 



[4531] 前編
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/10/21 13:55
■は

 神宮司まりもの年末は、平穏であったためしがない。少なくとも、すぐに思い出せる範囲では穏やかな年末というものが存在しない。
 有明。
 嫌な響きだ。
 恋人はいなくてもいい。一人きりでもいいから、ゆっくりとした年末を過ごしたい。
 二十代後半独身女性のささやかな願いである。
 もしかすると―――。叶わぬと知っていながら、まりもは期待せずにはいられなかった。今年は厚薄こうはくを見ながら年越し蕎麦で年末年始を迎えられるかもしれない。
 この日、毎年まりもを絶望に陥れる親友が、二人の勤める柊学園の終業式が終わってすぐに、愛車に乗って姿を消したのだ。普段なら、空いた(職員会議を素早く終わらせ、空けた、ともいう)半日を使って衣装合わせなどが行われる。しかし今年は、おなじみといってよいほど繰り返された恒例のイベントがなかった。これは、期待しないほうが間違っている。
 親友が戻ってくる前に、まりもはそそくさと職場を離れ帰路についた。もちろん親友が通りそうな道は避けるという徹底した保身は忘れない。
 家に入るまで、ストーカーに狙われていることを自覚する女性のように、周囲への注意は怠らない。
 そしてまりもはついに安楽の地・自宅へとたどり着いた。
 他人の家に忍び込んだ泥棒のごとき慎重さで鍵をかけた、その瞬間……



 ―――携帯電話が……鳴ったッ!



 見られていたかのような絶妙なタイミング。
 まりもは恥も外聞もなく、ひっ、と喉の奥で引きつるような悲鳴をあげて飛び上がった。
 恐る恐るディスプレイを見る―――までもなく、このメロディは不吉を告げるものであることを、まるで反射学習について学ぶための教材として使われるマウスのように、まりもの体はしっかりと覚えていた。
 逃げたことを咎める電話だろうか。
 やはり自分のような売れ残りの独身女には、コスプレをして過ごす年末がお似合いなのだろうか。
 でも最近、肌を露出するのが辛い年齢になってきたし、どうにかして許してはもらえないだろうか。
 無理だろうなあ。

「―――はい」

 スピーカーを耳に当て、まりもは覚悟を決めた。

『あら、早かったわね』

 出るまでの時間に比例して罰が肥大化することは、重々承知している。

「……どうしたのよ? 今日はドライブに出たんじゃなかったの?」
『ふふふ……』

 返事は上機嫌に笑う声。
 背筋に痺れが走る。

「な、なに?」
『まりも~。あたしから逃げようったって、そうはいかないわよ~?』

 いま、あなたの後ろにいるの。そういわれた方が何倍もマシだった。
 おわった。
 でも、追い詰められたネズミがネコを噛むことだって―――

『―――と、いいたいところだけど』
「……え?」
『毎年毎年頑張ってきたんだから、たまにはご褒美の一つくらいあげないと……ねぇ?』

 このまえ一緒に見た軍隊モノ映画の中で、教官の軍曹が訓練兵たちにいった、南の島でバカンスだ、という類のジョークだろうか。
 褒美に有明に行く権利を与える、とかワゴンの覇者じみたセリフが次に来ないことを願いながら、

「ご、ご褒美……?」

 わずかな光が見えると縋ってしまうのが人間なのだった。
 ―――だめよまりも、期待はいつだって失望を二乗するんだから!
 まりもは喜ぶ自分を必死に教戒する。
 しかし、まりもの虚しい努力などそっちのけで、今日の香月夕呼は一味違った。

『そんなに警戒しなくてもいいわよ。今回はそういうのじゃないし、安心なさい』

 そういうの、という言葉で通じるあたりでまったく安心できないのだが、声に邪気がないのもまた事実だった。
 香月夕呼は、単に獲物を罠にはめるだけで喜ぶ人間ではない。罠にはまるしかないと知りつつも、絶望しながら罠への道を行く獲物を見てこそ愉悦を得る人間なのだ。
 なので、普段はもっと、こう、やたらと不安を煽るようなことを、やたらと不安を煽るような声色で囁く。だが、この日に限っては電話の向こうにその手の気配が不在。
 どういうことかと首をかしげるまりもに、夕呼は告げる。

『毎度のごとく寒い冬を過ごしてるあんたに、男を紹介してあげる。それもとびきりの』
「はあ?」
『なぁに? いらないの? だったらなかったことにしてもいいけど』

 夕呼をしてとびきりとまでいわしめる男とは、果たしていかほどのものだろうか。
 まりもの中で、興味や好奇心といった感情がむくむくと頭をもたげてきた。
 そこらのグルメでは相手にならないほど、まりもの親友のストライクゾーンは狭い。いや、たとえるならば、ハードルが高い、という表現が適切だ。無謀にも挑んで飛び越せなかった男は、容赦なく地面に叩き落とされ、それはもう悲惨な結末へと至る。自尊心とか、特に。
 夕呼はまりもを玩具扱いするものの、付き合う男については色々とうるさいのだ。あれは、彼女なりにまりもを心配するからであり、同時に、本人は決して認めないだろうが、まりもを取られたことに嫉妬する感情もあるに違いない。
 そんな夕呼が薦めるからには、言葉のとおりにとびきりの男なのだろう。

「ま、待って、まだなにも答えてないじゃない!」
『―――フィッシュ』
「……? なにかいった?」
『わかったっていったのよ。待ってなさい。いまからあんたの家に届けてあげるから』
「いまからって、ちょっと! 待ってよ、まだ」
『待てないわ。男は新鮮なうちに届けないとすぐダメになるんだから。十五分で着くからよろしく~』
「―――夕呼、ちょっと夕呼!?」

 電話は切れていた。乾いた電子音。
 かけ直してつながらないことは知っている。さらにこの状況、無駄なことに時間を使えないのは明らかだ。夕呼は不可能なことを可能とはいわない人間である。自ら刻限を指定した以上、地球が滅ぶ危機を放り出してでも己の言葉を現実のものにする。
 まりもは壁の時計を見上げて、十五分という時間の短さをシミュレートした。
 昼食の準備は無理だ。せいぜい部屋を片付ける程度だろう。それも、完璧とはいい難い仕上がりになること間違いなし。

「ああ、もう……」

 どうしてチャンスというやつは準備が万全でないときに限ってやってくるのか。
 一度首を振ってから、まりもの短い戦いは始まった。






 近所迷惑なクラクションが鳴る。音の発信源はマンションの外。どうやら親友も奇妙な具合にハイってやつになっているらしい。まりもの胸は、知らず高鳴っていた。それが期待なのか不安なのかはわからない。
 それはともかく、最後のチェックをする。
 日ごろからそれなりに整理整頓していたおかげで、やはりそれなりにではあるが、見られる形にはなっている。部屋の中に洗濯物を干していたり、床に本を積み上げていたりはしない。服装だって、部屋でくつろぐためのものでも、職場で身につけるものでもない。
 涎こそ垂らしはしないが、餌の前で飼い主の許可を待つ犬そのものの心境。しかし玄関で待つのもはしたないと考えて、リビングのソファに腰かけ、誰も見る者のいない部屋の中、ドキドキわくわくしてませんよ、と弁解するように背筋を伸ばして行儀よく、まりもは客人二人を待ち構えていた。
 チャイムが鳴る。
 走らぬよう、早足にならぬよう、平静を心がけながら玄関に向かい。

「いらっしゃい、夕呼。それに」

 夕呼の斜め後ろに付き人のように控え、なぜか酷い目に会ったすぐあとみたいに所々に傷がある、けれども一目で上等だとわかるシャツ、ジャケット、スラックスを身につけた男の顔へと目を向けて、

「―――白銀、くん?」

 返事の代わりに、自分や夕呼よりも年下だと思われるその男は、知り合いに向けるものではない視線をまりもに向けた。
 知りあいどころか顔見知りどころか、まるで初対面の人間に向けるような表情を見て、まりもは自分が間違っているのかと不安を覚える。それほどまでに、男はまりもの元生徒としか思えない容姿をしていたし、男の視線は意図して初対面を装っているものではなかったのだ。
 どういうことなのか。
 まりもは目で親友に説明を求めるが、

「詳しい説明はあとよ。誰かに見られるまえに入りましょ」

 津波のようにまりもを押し、ついでに幾分成長してはいるものの、かつての教え子そっくりな、いや、本人であるとしか思えない男の腕を掴んで、夕呼はまりもの部屋に滑り込んだ。
 わけがわからないが、しかしまりもの嗅覚は厄介事の臭いをしっかりと嗅ぎわけていた。
 どうせこんなことだろうと思った。わずかにも期待した身であるがゆえに、口が裂けてもそんなことはいえない。
 代わりにまりもの口から出てきたは、未来の分を先払いするかのような深い深いため息だった。






■ん

 時間はわずかにさかのぼる。

 ブロロギャイーン、と相変わらずの危険運転で愛車ストラトスを駆る彼女。名を香月夕呼という、白陵大付属柊学園において最強を誇る教諭である。
 いや。その力、最強ではなく―――無敵。
 夕呼はわざわざ戦うような無駄はしない。かといって味方を増やすことはせず、ただ圧倒的な力を見せつけるのみ。相手の戦う気力を削ぐようなやり方で敵を作らない。
 そんな彼女は今日も華麗に同僚の頭が固い教諭たちを黙らせて、食後のデザートならぬ職後のドライブ中である。
 薄墨を流したような空の下、冷たい空気を切り裂いて加速。
 身体がシートに押し付けられる圧迫感。
 愉悦に自然とつり上がる口の端。
 景色が視界の端を高速で流れていく。
 ぐ、とアクセルペダルを更に踏み込み、そして、


 ―――スパーンと誰かを撥ねた!


 撥ねられたどこかの誰かは星になった。
 ストラトス。語源は『stratosphere』すなわち『成層圏』であり、被害者はその語のとおり成層圏あたりまですっ飛んでいったのであった。

「……?」

 地面に盛大なタイヤ跡を残して急停止した夕呼は、首をかしげて鈍色の空を見上げた。一瞬の出来事ゆえに確証はないが、空の彼方に飛んで行った男に見覚えがあるような気がしたのだ。
 記憶によれば、男の名前は白銀某。いや、もう白銀ではなかったかだろうか。式の招待状は来ていないので、あるいはまだ白銀なのかもしれないが。
 その人物は、数年前に彼女の元から――柊学園は事実上夕呼の物なので、この表現はおかしくない――巣立っていった、珍しく彼女とやりあえる素質を持った生徒だった。話には、本当に世界一の逆玉を実現し、いまは世界の御剣の頂点も目前らしいのだが、そんな男がこんな峠道でなにをしていたのか。
 元生徒にして、現在は星の数ほどの人間を従える男を轢いたことなど少しも気にした素振りがないのが香月夕呼だ。轢かれた彼がここにいれば「そこに痺れる憧れるぅ!」と涙を流しながら訴訟を諦めたであろう。
 結局、ここで停車し続けても仕方がないので夕呼は再度車を発進させた。
 しかし物語はここで終わりはせず、かつてのように騒がしくも面白い彼女の数日は、このときから始まることとなる。


 しばらく進んだところで、夕呼は先ほどの男を再び―――撥ね飛ばした!


「あら、やっぱり白銀……御剣……白銀じゃない。久しぶりね」

 今度は星にならなかった男に、夕呼にしては珍しく言葉選びに迷いながら話しかけた。ボロ雑巾みたいなことになった彼への気遣いは、やはり存在しない。
 しかし男はそんな態度に怒るでも呆れるでもなく、ただ不思議そうに見返すだけだった。

「どうかしたの? 懐かしいのはわかるけど、そんなアホ面のままでいたらちっとも成長してないと思われるわよ?」
「あ、いや……、その……」
「なによ、ハッキリしないわね。頭でもぶつけた?」
「もしかして……あなたはオレと知り合いなんですか?」
「…………………………」

 普段彼女にいじめられているときの友人みたいに汗をだらだら流しながら、夕呼の頭脳は高速で回転していた。彼女の知能は、常人には理解しがたい飛躍力と並んで、思考の速さも優れた点として挙げられる。それは既に歴史に名を残した天才たちの域にまで達しており、遥か未来の常識を口に上らせる彼女は、多くの天才がそうであったように学会から冷笑を浴びせられ、在野の天才学者の名に甘んじているのだ。
 同質量の黄金と比べても遥かに高い価値を持つ彼女の脳は、瞬きを数回繰り返すほどの短時間で計算を終了した。

「―――そうね。知り合い、というよりは……事情を知っている人間だ、といった方が正しいのかもしれないけれど」
「それはどういう―――」
「いいわ。ここで会ったのも何かの縁。説明してあげるから、まずは―――」

 視線でパッセンジャーシートを指して、

「乗りなさい。走りながらだったら、誰かに話を聞かれることもないでしょうし」
「聞かれることもない……?」
「いいから。乗りなさいっていってるのよ」

 謎の迫力に背中を押され、彼はドアを開き、夕呼の隣、助手席に着く。
 隣からシートベルトを装着する音が聞こえる前に、夕呼はアクセルを踏んだ。
 しばらくはきついカーブしかない道が続き、ようやく直線にタイヤが踏み込んで運転が楽になった頃を見計らって男が口を開いた。

「それで、あなたが知っている事情って―――」

 早く聞きたいだろうにここまで我慢してきた男を更に遮って、夕呼がいう。

「待ちなさい。その前に確認しとくことがあるわ。あんた、自分の名前はわかる? 年齢は? 住所は?」

 男が息を呑む気配。
 やはり、と思う夕呼はしかし表情を変えず、男の返事を聞く。

「―――いえ。でも、どうしてそれを」
「だからぁ、あたしはあんたの事情を知ってるっていったでしょ。そうねぇ……、端的にいって、あんたは記憶を思い出せないんじゃなくて、記憶がない、、、、、のよ」
「記憶が……ない?」
「そう。Generalized Amnesia、全生活史健忘―――俗にいう『ここは何処、わたしは誰』ってタイプの記憶喪失。これは普通は心因性。脳の記憶を司る部分が壊れたわけじゃあない。だから本当に『喪失』しているのではなく、『思い出せない』というのが正しいわ。ほら、頭を叩いて記憶を『取り戻す』描写とかあるでしょ? これは、正しくは『取り戻す』ではなく『思い出せるようになる』ってこと。でも、……あんたの場合はそうじゃない」

 口調は重く。
 陽の光が差さない冬の午後は、まるで鉛のよう。
 真剣な目で話を聞く男を横目で確認してから、夕呼は話題を切り替えた。

「ところであんた、御剣財閥って知ってる?」
「……はい。大丈夫です。といっても巨大な財閥ってことくらいで、詳しいことはわかりませんが」
「そう。つまりそれは、御剣財閥って言葉が自分に関わる知識としてではなく、社会的な記憶、要するに常識みたいな形であんたの中にあったってことね。……ふぅん、じゃあますます思ったとおりってこと」
「どういうことですか?」

 男の声に苛立ちが溶けだし始めた。

「あんたの状態は、さっきいった全生活史健忘に非常によく似ている。たぶん事情を知らない人間が見れば、十人が十人、そう判断するでしょうね。でも、そうじゃない」
「だから―――」
「聞きなさい。わたしはねぇ、あんたのことを思って話してあげてんのよ。知らない方がいいことなんて、この世の中にはごまんとあるんだから」
「それがオレの記憶だっていうんですか?」
「だからいったでしょ。あんたに記憶はない、、のよ。聞く覚悟がないやつに話せるのはここまで。よく考えなさい。聞いてから忘れることなんて、それこそできやしないんだから」

 夕呼の言葉を吟味しているのか、男は黙り。
 唸るエンジン音が車内に鈍く満ちる。
 窓の外。
 雪が降り始めた。
 ちろり、ちろり。
 空気を舐めるように。
 雪が舞う。

「―――聞かせてください」

 男の言葉に、

「あんたはあたしの元生徒にして御剣財閥次期総帥のクローンよ。影武者として作られた、ね。記憶がないのは当たり前。だって過去がないんだもの」

 夕呼は応えた。

「捕まれば、まず間違いなく消されるわよ?」






 もちろん。
 すべて真っ赤な嘘である。






■に

「まりも。あんたは今日からこいつと一緒に住みなさい!」
「………………はあ?」

 なにがなんだかわからない。
 どこかの名前がアルファベット一文字の探偵みたいに混乱したのは、なにもまりもだけではなかった。

「なにいってんですか香月さん」

 夕呼が連れて来た、名も知らぬ男。彼もまた、意味がわからぬと表情が告げている。きっとこの白銀あるいは御剣武似の男も、自分と同じく被害者なのだろう。
 勝手に妙な連帯感やら同族意識やらを抱くまりもであった。
 が、被害者が連盟を作って団結しようがなにをしようが、自然災害そのものな香月夕呼に敵うはずもない。放っておくと、それじゃあね~、などといって二人を放置し帰ってしまう可能性も十分にありえるので、まりもは急ぎ問いかけた。

「どういうことか説明しなさいよね、夕呼」

 腰に手を当て呆れを表現するまりもに、

「そうね。じゃあ、まずは彼について説明するわ」

 男の方を指して、

「彼は御剣財閥が作った、白銀武のクローン体よ!」

 な、なんだってー!?
 と驚くまえに、普通の人間であれば、なにいってんのおまえ、と反応する。そしてまりもは、まだ、辛うじて、夕呼の親友だが、ぎりぎりのラインで、狂犬とか呼ばれたこともあるけど、普通の人間であった。
 まりもの生温かい視線を受けた夕呼は、つまらなさそうに、けれども嘘がバレたときの開き直りは少しも感じさせない口調で続けた。

「いつの時代、どこの地域であっても、権力者は自分の影武者を作ることに腐心するものよ。ま、それでもそこらの国のトップ程度じゃ自分そっくりの人間を連れてくるぐらいがせいぜいなんでしょうけど、天下の御剣財閥に限っては違った。
 彼らには、既にヒトクローンを可能とする技術がある。
 最先端の科学技術は、一般に公開されているものより三十年も五十年も先をいってるっていうでしょ? で、その最先端の科学技術っていうのは、普通は軍事技術。そして、御剣財閥は世界中の軍事大国ともつながりを持っている。しかも、軍から技術を提供されるよりも、むしろ軍に技術を提供する側として。
 なんであたしが御剣財閥の事情や隠されているはずのクローン技術について知っているかというと、別の分野の研究にわずかなりとも携わっているからよ。そこで噂話程度に耳に挟んだだけなんだけど、そのときはあたしも、まさか事実だとは思わなかったわ。でも、なんの偶然か、彼があたしのまえに現れた。それでピンときたってわけ。
 しかも、訊いてみたところ彼には自身についての記憶が一つとしてない。だというのに流暢な日本語をしゃべることができるし、当たり前のように歩くこともできる。この一見すると全生活史健忘のような状態を鑑みるに、御剣財閥はヒトクローンだけでなく、人為的に人間の記憶を操作する技術を持っていると思われる」

 怒涛と表現するに相応しい、しかし一度も途切れることなく滑らかに続けられた説明に、まりもは思わず納得しかけた。しかし、それを止めたのは教師としての神宮司まりもだった。
 まりもは自分の受け持ったことのある生徒たちをよく知っているし、大事に思っている。なにより、信じている。
 数年前に受け持った、御剣の姓を持つ姉妹と、常に騒動の中心にいた一人の少年。あの騒がしくも楽しい時間を過ごした彼らが、夕呼の語ったような人道から外れたことをするだろうか。
 内心で己に問い、出た答えはやはり、

「御剣さんや白銀くんが、そんなことをするはずないわ」
「どっちの御剣も正道こそが我が道って感じだし、白銀は白銀で道を踏み外すことに怖じ気づくでしょうから、まあ、まりものいう通りかもしれないわね」
「ほら、やっぱり―――」
「でもね。いつの時代だって、権力者の夢と人倫とはかみ合わないものよ。そうね、こんなのはどうかしら。人倫とは権力者の増長を阻むために組み込まれた、人類という種としての安全装置だ、とか。ま、それは置いておくとしても、組織の頂点に立つ者と、その取り巻きと、末端とでは意思が異なるのは当たり前。結社じゃなくて組織なんだから、個々人の目的すら異なるに決まっている。そんな状況の中、白銀が死ぬことで自分の持つ利権が失われることを極度に恐れる人間がいないと、まりも、あんたいいきれる?」
「で、でも……」
「なに? 反論があるなら聞くわよ?」
「…………」

 黙り込むまりも。目が泳ぎ、そこらに都合のいい回答が落ちていないかと探しているような仕草。

「あの……」

 生まれた静寂を破ったのは、ここまで黙って話を聞いていた男であった。
 何かを期待するようなまりもの視線に怯み、余計なことをいうなといいたげな夕呼の眼光は見なかったことにして、彼はいう。

「オレがクローンだってことは、納得できないにしても、理解はしました。でも、オレが彼女―――まりもさん、でいいんですかね?―――と一緒に住む必然性が見えてこないんですが……」
「そ、そうよ。彼の出自と私の家に住むこととは関係ないじゃない」

 男の言に追従するまりも。
 圧倒的に現実感を伴わない話を浴びせられ、危うく最初の議題を忘れかけていた。自分一人であれば押し切られていたかもしれない。しかし、自分一人であればそもそも問題が発生しなかったことを考えると、感謝するというのも変な話だ。

「あんたたちねぇ……。飾りじゃないんだから、もうちょっとその頭の中に入ってるものを使いなさい。そのうち腐るわよ? 特にあんた、白銀モドキは一つ大きな情報を持ってるんだから、ちょっと頭働かせたらそんな質問は出ないはずなんだけど」
「……大きな?」

 首を傾げたのはまりもか男か。
 しばし与えられた猶予を使い、男は首をひねり考え続けたが、夕呼が痺れを切らすのが先だった。

「あんた、本当に生き延びる気あるの? 車の中で教えたわよね? 捕まったら殺されるって」
「ちょっと―――それ、どういう」

 唐突に現れた物騒極まりない単語に、まりもがぎょっとして尋ねる。
 が、夕呼はそれには応えず、

「あたしが御剣の研究に少なからず関わっていることはさっき話した。さらにいうなら、あんたのオリジナルである白銀武―――御剣武……ああもう、紛らわしい! 白銀武でいいわ―――はあたしの元生徒であることも教えている。これだけの知識があるなら、あたしが密告屋として御剣の手足にされることぐらい気づきなさいよ」
「つまり、ここでの会話はなかったことにしてくれるってことですか? それに、香月さんは密告屋として期待されると同時に、……監視もされる?」
「そういうこと。ようやく回転してきたじゃない。ま、だからあたしが住居を用意したらすぐにバレちゃうだろうし、ここは一つまりもに任せるのがいいかと思って紹介してみたんだけど。どう?」
「どう、って……」

 そんなに軽く尋ねられても困る。
 置いてけぼりだというのに被害者としては最も中心に位置するであろうまりもは既に涙目だ。
 たった十分、二十分まえの、今年の年末はいままでになく熱いものになるかもしれないという仄かな期待に胸を膨らませていた自分は、もういない。それどころか、想像以上に重たい事態が平穏な日常の中に飛び込んできた。
 目の前の、教え子によく似た彼は、御剣の追手に捕まれば殺されてしまうという。
 逃げだした以上は影武者としては失敗作だ、とか。
 人道に唾を吐きかけるような行為は隠蔽せねばならない、とか。
 そういうことなのだろう。
 たしかに、目の前にいる彼が殺されてしまうのをみすみす見逃したくはない。人が死ぬということそれ自体も見逃せないが、それ以上に、その人物が自身の知る人そっくりだということが、まりもの良心を刺激してやまない。
 だが、しかし―――

「でも、それなら私が別の部屋を用意するのだっていいわけだし―――」
「あたしの唯一の親友が、使いもしない部屋を何の脈絡もなしに取ってみなさい。すぐにお縄につくわよ。厄介払いしたいなら、そんな回りくどいことせずにいまここでいえばいいじゃない。あ、ちなみに御剣たちに直接連絡入れるのはダメよ? 処罰を受ける前に証拠を強引に消しに来る人間がいないとも限らないから」

 こうして奇妙な共同生活が始まった。






「あ、でも彼のことはなんて呼べばいいのかしら」
「別に白銀モドキでもG-11グレイ・イレブンでもBETAでもいいんじゃない?」
「なによそれ。もう人の名前ですらないじゃない……」
「じゃあデイヴィットとでも呼べばいいわ」

 こうして彼はデイヴィットになった。






■ん

「あとのことは若い二人に任せるわ~」

 そんなことをいい残して、夕呼はまりもの自宅を去った。が、手をひらひら振る後ろ姿を責めるわけにもいかなかった。彼女は、御剣姉妹への安全な報告はどうにかして自分が成功させて見せるから、それまでどうにか持ちこたえてくれ、とも口にしたのだ。大抵のことは外側からつついて楽しむ人格ではあるが、今回はことがことなだけに、どうやら積極的な協力姿勢を取るつもりらしい。
 しかし残されたまりもとデイヴィットにしてみればたまったものではない。
 出会ったばかりの男女がこれから寝食をともにしなければならないという状況が、二人きりになったことで、ようやく現実感を伴い始めたのだ。
 問題は多い。
 むしろ問題のない部分を探す方が難しい。
 しんと静まり返った、しかし完全に無音ではない部屋の中、二人は互いを窺うように意識し合っていた。

「あの―――」
「あの―――」

 第一声を重ねあうベタベタな展開に再び黙り込む。
 屋外から車の走行音が届き、やがて消えていった。
 そして、くう、とお腹が鳴った。
 まりもは真っ赤になった。






「なるほど。その白銀武ってやつはとんでもない生徒だったんですね」

 そんな台詞が『その白銀武ってやつ』と同じ顔を持つ人物から出たことに、なんとも形容しがたい感覚を抱きつつ、

「でも白銀君がいたときが、ここ数年で一番賑やかだったわ。夕呼もなんだかんだいって、彼のことはちゃんと認めていたみたいだし」
「みたいだし、神宮司さんも気に入っていた、と」

 デイヴィットが言葉を引き継いだ。
 まりもは『神宮司さん』と呼ばれるくすぐったさを大きく上回る驚きを得て、彼の顔を見る。
 目の前にはやはり話題の人と同じ顔があり、しかし態度にはどこか余裕が満ちているように思われる。まりもの記憶には該当するものがない表情であった。
 別人だと理解はしているけれども、自分の受け持っていた生徒が随分と大人びて戻ってきたように感じられ、まりもの中に感慨や懐古の念といったものが湧きあがる。
 喪失はまぎれもなく成長の一側面である。しかし、自分の手から離れていった生徒が、失ったものの代わりになにか大切な、得難いものを手に入れたならば、それは教師にとってなにより大きな喜びだ。いま正面にいる彼は、まりもにその可能性を見せてくれる存在であった。
 二人は食卓を挟んで向かい合っている。
 最初こそぎこちなかったが、まりもが手早く準備した昼食を二人で食べながら話しているうちに、漂っていた気まずさは影を潜めていた。
 二人のやり取りは、まりもが話し、デイヴィットが聞き、あるいは尋ねるという形式を基本とする。デイヴィットにはそもそも提供できる話題が存在しなかったため、それは必然だ。一方、まりもはまりもで普段から聞き役に回ることが多いのだが、だからこそ話す側に回ったとき、自分が思いのほか語ることを楽しんでいると気がついた。饒舌というほどではないにしても、普段より口数が多いことは明白で、この昼食の席には普段は見ることのできない神宮司まりもが存在する。

「そういえば、いまでも職員室で話題になることがあるわね。その度に、当時の担任として私も話を求められるんだけど」

 あまり公とはいえない事実だが、近年、卒業生からの寄付という形で柊学園の施設が次々と整っている。そのため、プール施設が話題になれば特定の卒業生二人の名が上がるように、新しくなった施設が話題になれば御剣の名が上がるのだ。
 死人を悪くはいえない、というのとはまた別なのだろうが、在学中の彼らを苦々しく思っていたはずの教員までも、いまでは懐かしげに語ることがある。それを聞いて、調子がいいとは思わないが、どこか自分の教え子を取られたような気持ちにならないといえば嘘になる。
 時に静かに、時に相槌を打ち話を聞くデイヴィットを前に、まりもは自覚なく長々と語り続けていた。まるで古く親しい友人に愚痴を聞かせるように、いつの間にか遠慮も薄れている。おかげで、一人でいるときよりも随分と昼食に時間をかけることになった。
 当初思っていたよりも遥かに穏やかな昼が過ぎ、さて、そろそろ真剣に話をしようか、という雰囲気が生まれたのは、あるいは再び訪れた沈黙を回避するためだったのかもしれない。ならばこれまでの和やかな談笑は現実逃避の類か。
 再び机を挟み向かい合い、デイヴィットはまりもにいう。

「現実的に考えて、そんなに長くお世話になるわけにはいきません。いまさらですが迷惑をかけることになりますし、それ以前に無理のある生活は必ず早い段階で破綻するはずです。香月さんがどの程度の時間で御剣の本家にごく内密に連絡を取れるかに関わらず、オレは数日でここを去るようにします」

 ですから、それまではどうかよろしくお願いします。デイヴィットはそういって、改めて礼儀正しく頭を下げた。
 この場を去るまえ、安全を確保できるまでにどれほどの時間がかかるか定かでないと夕呼は告げ、それまではデイヴィットの世話をするようにまりもに伝えていた。そしてまりもは、勢いに押し切られるようにして了承したのだ。どうやらデイヴィットは、そのことについて相当申し訳なく思っているらしい。

「数日で去るって……なにかあてはあるの?」
「いえ、ありません」

 わかりきった答えに、しかしデイヴィットはこう続けた。

「けど、どうやら先立つものは持っていたみたいで―――」

 ポケットから取り出されたのは、これまた衣類と同じく品のいい革財布だった。デイヴィットはそれを開いてみせる。
 促されて中を覗き込んだまりもは、普通は財布に入れないであろう紙幣の量に目を丸くした。

「やっぱりというべきなのか、個人情報に関わるものが不自然なまでに見当たらないんですけど。お金の方は、影武者にも見せ金は持たせておいたってことですか。それで、とりあえずお世話になる間は神宮司さんにこれを預けておこうと思います。面倒をかける代わりにお金を……って感じがして嫌なんですけど、だからといって無視できる問題じゃありませんし」

 デイヴィットは真摯な表情で、まりもがするであろう返事を先回りして潰しにきた。
 理不尽ではないが、強引な様は夕呼に似たところがあるのかもしれない。揺らがぬ視線をじっと向けられれば、まりもがそう思うのも無理はない。
 またもや押し切られる形で財布を受け取ることになった。決して手をつけまいと密かに心に決めつつ、まりもは手にしたそれを視界から追い出すように机の端へと寄せた。
 向かい合うデイヴィットの目が、まりもの手の動きを追って横へとずれる。
 ほんの数時間で自分の知らない『白銀武』の顔を幾度と見せられ、その度にどきりとしていたまりもであるから、真剣な目が自分からそれたことに内心ほっとしていた。それはもしかすると、かつての自分が一人の生徒を相応以上に意識していたと自覚するを無意識で避けたのかもしれない。
 しかし無意識とは意識できないからこその無意識であり、そのためまりもは、これから訪れる波瀾とその中で生まれた自分の気持ちに大いに戸惑うことになる。






■は

 年末年始は忙しい。
 日本国内ですらクリスマスは一つの大きなイベントとして認知されている。海外との付き合いがあれば、その重要度はなおさら高い。年末から年始にかけての祝いの席に出るのも、御剣に名を連ねる者であるならば、これは一つの義務であるといえる。
 出席する者ですら、準備に忙しいのだ。ならば行事の準備を主たる仕事とする者の忙しさは如何ほどのものか。
 御剣は当然ながら、もう何年間もあらゆる行事に伴う集まりを開催する側としての立場にある。ゆえに関係者たちの日々は、寝る間も惜しんで駆けまわらねばならない域に達するのが常となる。それらのことを考慮しても、今年は例年の慌ただしさを遥かに超える大騒動となっていた。
 原因はただ一つ。
 昨今御剣の中枢に名を連ねた一人の青年が姿を消したのだ。
 彼の失踪は、当初、いつものように突発的な脱走、すなわち息抜きだと解釈されていた。その分析結果はいまも変わっていない。彼がクリスマスパーティーに出席する準備を前日までにしっかり終わらせていたことが大きな根拠の一つ。他にも挙げようと思えばいくらでも挙げられる。これらにより、少なくとも計画的な脱走ではないとの見方が主流となっている。
 誰もが、すぐに連れ戻されるだろうと、あるいは帰ってくるだろうと予想した。
 しかし彼は24時間経った今、未だに帰還を果たさずにいる。
 彼に御剣への不満はなかった。平穏な日常を含むなにもかもを振り切って今を選んだ男である。不満などあろうはずもない。
 出先で何らかのトラブルに巻き込まれたとしか思えない事態。しかも彼自身が連絡できず、かといって誰かから何らかの要求や連絡が来ることもない。
 突発的な事故の可能性が高かった。それも、極めて危険な状況にあると思われる。雪の季節、屋外で身動きが取れない状況で夜を越したとなれば、命に関わる可能性は決して非現実的なものではない。
 これは捜索部隊にしても護衛部隊にしても近年稀に見る大失態に違いない。
 一番悔やんだのは、彼の失踪当時に傍らに仕えていた、そして捜索初期の指揮を執った月詠真那だった。
 彼女を含めた全員が、あれほどまでに簡単な手であっさりと出し抜かれ、結果、彼はトラックで輸送されていった。行先は荷物の集配拠点。一度集められた荷物は、そこから全国へ、そして全世界へと散らばっていく。ちなみに武が入った段ボールは宛先が『ヨーロッパの方』とだけ書かれていた。なぜそれがわかるかといえば簡単で、脱皮した蛇の抜け殻みたいな段ボール箱が集配センターから回収されているのだ。彼はおそらく、さらに別の段ボール箱に入りどこかへ運ばれていったのだろう。すなわち、集配センターから続くどの地にでもたどり着ける。御剣の手がどれほど長かろうが、目がどれほどよかろうが、日本全土、さらに世界中を隈なく探しつくすには莫大な時間がかかる。武が一刻を争う事態にあると想像される以上、それは文字通りに致命的なことだった。

「月詠。そなたが自分を責める必要はない。問題があったとすれば第一にタケル自身に、第二にタケルの脱走癖を常日頃から敢えて見逃していた私にある」
「そうですよ、真那さん。冥夜のいうとおり、問題があったとするならば、それは武様と私にこそ」
「……姉上」
「なんです、冥夜?」

 にこにこ。
 姉の強さを見せつける悠陽を前に、冥夜はなんともいえない顔をした。

「…………いえ。いまは敢えてなにも。ですがタケルが無事に戻って来た暁には、是非とも姉上と真剣な話をするために一つ席を設けたいと」

 視線の交差。
 途端、すぅ、と音が空気に染み込んでいった。
 静かなる間がどれほど続いたのか。

「―――いいでしょう。曖昧な関係はそろそろ終わりにするべきであると、私も思っておりました。武様がお帰りになられた折には」
「どちらがタケルを御剣に招くに相応しい者であるかを」

「「決めましょう」」






 宿命のライバル同士が拳を突きつけ合うような、あるいは己こそが最強であると刀を向け合う武者のような、まさに真剣そのものの場面。
 その隣では、真那が雰囲気をまったくもって無視して電話で連絡を受けていた。

「―――それは本当ですか!?」

 キレたとき以外は決して大声を出さない真那であったから、上がったその声を耳にした双子の姉妹は争いを忘れ、侍女へと視線を向けた。
 このタイミングでよもや人類に敵対的な地球外起源種が地球を侵略しにきたなどという連絡は入るまい。

「それはどこで……柊町? ―――いえ、失礼いたしました。香月様から連絡をいただいた時点で、たしかに柊町の可能性を考えるべきでした。それで、そのとき武様のご様子は?」

 少女らの期待を裏切ることなく、それは武の発見の報であった。

「はい、……ええ、はい、そうでしたか。武様には特に変わった様子はなかった、と。わかりました。ご連絡ありがとうございます。また後ほど、改めてお礼に伺いますので。はい。それではこれで失礼いたします」



 



[4531] 後編
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/10/21 14:38
■か

 二人の共同生活は、思いのほか順調に回っていた。
 まりもの中では、デイヴィットの容姿は学生時代の白銀武を想起させる要因となっている。ちょっと抜けたところのある、けれども友人思いの少年だ。そのイメージが強すぎて、多少の緊張はあれど警戒はそれほど濃くない。
 男女の同棲ではなく、教室の延長。そう表現するとしっくりくる。だからこそ、デイヴィットがときどき見せる大人の表情にまりもははっとさせられる。
 彼はまりもの知る白銀武でも、その白銀武が成長した存在でもないのだ。その事実を思い知らされ、同時に、かつての自分が想像以上に白銀武のことをよく見ていたと気がつかされた。ギャップに驚くということは、そういうことだ。比較する材料がはっきりしていなくては、そもそもギャップというものは生まれないのだから。
 記憶の中にいる白銀武の姿は驚くほど鮮明だ。デイヴィットと共に暮らし始めて数日がたった最近になって、まりもはそのことを急速に自覚していた。
 たとえば、

「皿はどれを使いますか?」

 などと、フライパン片手に野菜を炒めるまりもにデイヴィットはそう問う。これがかつての白銀武であれば、リビングの椅子に座ってただ待つのみであったはずだ。
 他人から与えられるのが子供の仕事。それを卒業したとき、子供は大人になるのだろう。言動の端々に存在する『与える側』としてのほんの小さな気遣いが、たとえ面倒を見られる居候であったとしても、デイヴィットが大人の男であるということを示していた。
 こうして二人で机を挟んで食事を取るのも、もう十回を超えている。そんなことをまりもが考えたのは、横に逸れたデイヴィットの視線の先にカレンダーを見たからだった。
 先に視線を戻したのもデイヴィットだった。そして彼は正面に座るまりもが自分と同じものを見たことに気づき、困ったように笑う。それだけで話の流れは決まった。

「『数日』、経ちましたね」
「そうね……」
「香月さんからの連絡はまだ来ていませんし、そろそろ頃合いかと」
「で、でも、もう少し待てば来るかもしれないじゃない」
「来るかもしれないし、来ないかもしれません。もちろん期待はしています。けど、だからこそいま出る結論を信用するのは危ないんです。それがわかっていたから、最初から外部に判断基準を置いていたわけですし」

 もっともそれも『数日』という曖昧なものであったのだが。

「まあ、どうにかなりますって。無事なら無事だと連絡します。香月さんからの連絡があったのかも確かめないといけませんしね」
「……そう」

 相談というより報告といった口調に、まりもは反論を諦めた。それは生死がかかっているという事実が未だ現実感を伴わないことも原因の一つではあったが、それ以上になにをしても無駄だと奇妙な確信を得てしまったからであった。きっと、あり得ないが、仮にまりもが泣いて引き止めても、彼は行くだろう。
 感じたのは落胆だった。それに気づいて、自分に驚く。知らぬ間に随分と感情移入してしまっていたらしい。というより、彼のことを知ったつもりになっていたようだ。初対面で数日を共に過ごしただけだというのに。

「ごちそうさまでした」

 話はこれで終いだ、とデイヴィットが箸を置いた。皿の上の料理は綺麗になくなっていた。

「今日の料理も美味しかったです。神宮司さんの手料理を食べられなくなるのは残念ですが……」

 それになんと返せばいいのかまりもが考えると同時だった。
 部屋のチャイムが鳴る。
 まりもは席を立って玄関へと向かう。
 開いた扉の向こうに立つのは、個性を殺すどころか目だって仕方ない黒ずくめの男だった。

 ―――御剣

 まりもは咄嗟に来た道を振り返る。目に入る範囲にデイヴィットはいない。ほっと一息つく前に、男が尋ねた。

「はじめまして、神宮司様。昼食どきに申し訳ありません。私、こういう者でして」

 差し出された名刺は、まりもの直感通り、男が御剣の手の者であることを示していた。

「本来であれば悠陽様、冥夜様が直々にお伺いする予定でしたのですが、なにぶん多忙であられますので急には動くことができず、私が代理として参った次第であります。お二人からは、後ほどご挨拶に伺います、との伝言を預かっております」
「そうですか」
「はい、そうです。ところでさっそく本題に入りたいのですが、いかがでしょう。もちろんお時間は取らせません。一つ二つ、お訊きしたいことがございまして」
「……どうぞ」
「ありがとうございます。ときに神宮司様。この件はくれぐれも内密にお願いしたいのですが」

 まりもが頷くのを確認してから、男は続ける。

「ご存知でしょうが、かつて神宮司様が担任を務めていらした白銀武様は現在、御剣家の中でも非常に重要な位置におられます。それが、数日前から行方不明となっているのです」
「―――白銀君が?」

 うまく驚けただろうか。

「はい。その通りです。ああ、誘拐などではないのでそちらの方はご心配なく。ただ、ご自身の意思による外出となりますと、その行き先の幅は無限と広がるわけでして……、恥ずかしい話ですが、どこにおられるのかとんと見当がつかないのが現状であります。だからといって動かないわけにもいかない。そこで一つの候補地として、武様の故郷でありますこの柊町にて、武様のお知り合いを当たっているところなのです」

 そういう建前なのか。確かに白銀武のクローンが逃走したなどと馬鹿正直にいうはずもない。
 まりもは考える仕草を作り、

「いいえ、心当たりはありません。何かあればすぐ知らせるようにします」
「そうでしたか……。ではご連絡の際は名刺にある電話番号によろしくお願いします」

 いわれて、まりもは先ほど渡された名刺に目を向ける。
 その瞬間だった。

「ところで、お客様がいらしておられるのでしょうか?」

 男が突如話題を変えた。
 まりもの目は男の顔へと向く。

「ああ、いえ。神宮司様はこの部屋にお一人で住まわれていると聞いていたものでして」

 男の目が足元へと向く。釣られてまりもも視線を下げる。
 ざぁ、と血の気の引く音を聞いた気がした。

「このお履き物は神宮司様のものではございませんね。だとすれば、私はとんだ無礼を働いてしまったことになります。どうかお許しください」
「――――いえ。構いません」
「ご寛容に感謝いたします。それでは私はこれで。何かお気づきのことがあれば、いつでもご連絡ください」

 恭しく頭を下げて、男は去った。






「―――ああ、いますね。たぶんあの車だ。……参ったな。さっきのが決定打だったか」

 鏡を使って窓の外を見るデイヴィットはいう。しかし彼のいう通りであったなら、もうそのような警戒の仕方は必要ない。なにせ今日この瞬間まで、窓の外からの視線などに注意を払ってこなかったのだから。

「いや……確信したからこその訪問か」
「……どうするの?」

 自身の言を独り言のように否定したデイヴィット。そんな彼にまりもが尋ねた。

「そうですね。動くならお互い夜でしょう。それまでは相手も大きく動けないだろうし、こうも張り付かれるとこちらとしても動き難い。相手が動かないことにはこちらも動けないですし、いまできることといえば準備くらいです」

 やけに慣れているな。それともこのくらいは当たり前なのだろうか。

「まあ、準備といってもできることなんてほとんどないのが現状なんですけどね。それに、ざっと見たところ部屋に盗聴器は見当たりませんでしたが、電話の方はここだけ調べてどうなるものでもないので、香月さんや他の誰かに連絡を取るのも控えた方がいいかと。それ以外は、夜までいつも通り過ごせば問題ないかと思います」
「問題ないって……」

 逆に問題しかないじゃない。
 先ほど訪れた黒服の男が何人もでやってくるのを、自分とデイヴィットだけで切り抜けられるとは、まりもには到底思えなかった。

「ねえ、やっぱりいまからでも御剣さんたちに連絡した方が……」
「相手もその可能性は考慮に入れているはずです。たぶん連絡すれば五分と待たずにこの部屋に突入してくる。速さの勝負になるでしょうし、きっとかなりの数をつぎ込んできます。そうなると流石に対応しきれません。何より神宮司さんにも危険が及びます」
「あなた……」まりもは言葉に詰まった。「一人でどうにかするつもりだったの?」
「逃げるだけなら、どうにかなると思いますよ。この数日で、とりあえず周辺の地図は頭にたたきこみましたし」

 事ここに至って未だにこのような思考をするデイヴィットに、まりもは呆れかえった。それは彼の浅慮を上から見てのものではない。むしろ彼の性格を好ましいと思った自分への呆れだった。
 迷惑はいまさらだし、危険についていえば、もういまの段階で、クローンの存在を知る者としてまりもが認識されていてもおかしくない。だが、それを口に出していったところで、彼が余計に申し訳なく思うだけだろう。だからまりもは、自分がどのように動くつもりであるかをいうことはなかった。

 やがて夜が来た。






■が

 外の様子を窺おうと、玄関の扉を小さく開けた瞬間だった。

「……ッ!?」

 どう見てもあっさり捕まりました。本当にありがとうございます。
 某宇宙人を彷彿とさせる姿勢で、黒服さん達に両腕を抱えられたデイヴィット。抵抗虚しく、逃げ出せる見込みはもはやない。
 玄関で起きた物音に気付いた家主が顔をのぞかせた。

「デイヴィット……ッ!」

 驚きの声を上げたまりもは、このとき、明らかにテンパっていた。少なくとも、他者の目にはそう映った。
 なにせ拳銃を構えるようにかっこよく突き出した手には、

「動かないで! 動くと電波を発するわよ!」

 小さい携帯電話がストラップを揺らしながら握られていたのだから。
 堂に入った啖呵だったが、意味ねー、と誰もが思った。闇に溶け込む黒服の彼らでさえも、そう思った。
 カラン、と何かが地面に落ちる固い音がした。それは聞いたことのない人はいないくらいポピュラーな音だ。
 空き缶が地面に撥ねる音である。
 どこにでもあり得る音。しかしこの場には酷くそぐわない音。
 誰もが―――まりもでさえ―――そちらに顔を向けた瞬間、デイヴィットが動いた。一瞬の早業で拘束を抜ける。鋭い投げ技。黒服の男が背中から地面に叩きつけられる。皆の視線がデイヴィットに戻る。デイヴィットが駆けだす。その先にいるのはまりもだ。黒服の男がデイヴィットを捉えようと手を伸ばす。デイヴィットは走る。まりもとの間にあった数メートルの距離を詰め―――
 抱きしめられるのが先だったか、耳を潰す大音響と目を焼く閃光が先だったか。
 幸いにしてまりもの頭部はデイヴィットに抱えられており、目も耳も無事だった。しかし黒服の男たちはそうではない。そしてそれは、自分の耳を塞ぐべき手でまりもの頭を抱き寄せたデイヴィットにしても同じことだった。
 更に、爆発した空き缶とは別の空き缶が再び地面に撥ねる音。間もなく部屋は煙で満たされた。続けて、人が次々と崩れ落ちる音。

「行くわよ。まりも」

 時間にしてほんの数秒ではあったが、まりもには随分と長く感じられた一連の流れの後、すぐ近くで囁く声があった。
 聞きなれた声にほとんど条件反射的に従って、現れた親友と共に、未だ棒立ちになっているデイヴィットの腕を引き、まりもは部屋を脱出した。
 ぼんやりしたままの頭は、抱きしめられたときのにおいがまだ鼻に残っているなあ、などとどうでもいいことを考えていた。





「本当に助かりました。ありがとうございます。香月さんがいなかったらどうなっていたかと思うと」
「まったくよ。ちょっとでもあたしの到着が遅かったら、今頃あんた、ここにいなかったわね。捕まればバラバラにされて脳髄だけシリンダーに放り込まれたりしたんじゃない?」
「どんなSFですか。それより、どうしてあのタイミングで?」
「御剣と連絡取れるまでにもう少し時間がかかりそうだってことを伝えようと思ったんだけど、電話越しに伝えるのも万が一のことを考えれば避けるべきだったし、直接出向くことにしたのよ。で、いま到着したってマンションの駐車場から連絡してみれば、まりもがあんたの名前を叫ぶじゃない」
「ああ、じゃあ神宮司さんが玄関に来たとき、ちょうどつながっていたんですか」
「そうよ。いや~、笑って死ぬかと思ったわ。『動くと電波を発するわよ!』」

 キリッ、とモノマネして見せ、それから相好を崩す。ドンドンとステアリングを叩くのは、走行中にはやめてほしい。

「あ、あのときは混乱してたのよ……」

 力なく言い返すまりもは助手席に座っている。正確には、助手席に座るデイヴィットの上に座っている。ストラトスは二人乗りなのだ。
 見つかれば今度は制服の人たちに捕まるだろうが、緊急時なので仕方がない。

「『動かないで! 電波を発するわよ!』」
「もう! 夕呼!」
「痴漢撃退用にマイクロウェーブでも発射する携帯電話、作ってみようかしら。電波をマイクロウェーブに置き換えてさっきのセリフいってみなさいよ。ちょっとは様になるかしれないわよ?」

 痴漢もレンジでチンされては堪らない。
 二人のやり取りがあまりにも自然すぎて、デイヴィットにもこれが日常の風景なのだと理解できた。だから、無粋な割り込みでそれを壊すのをもったいないと思いつつ口を開く。

「ところで香月さん」
「わかってるわよ。ったく、鬱陶しいわね」

 夕呼の舌うちはバックミラーに向けられたものだ。
 夜の暗闇に輝く猟犬の瞳を思わせるライト。
 年末のこの時期、この時間。もとより交通量の少ない道は、夕呼のストラトスと、

「まだ二枚張り付いてます。外は普通のセダンだけど、この分だと中身は違うかもしれませんね」
「よく見てるじゃない」

 途中で一台ずつ二回振り落としたのだが、その度にどこからともなく現れた新手が合流し、結局二台に追われるという状況は変わらない。夕呼はかなり無茶な走りを実現しているが、追手もそれにしっかり食らいついてくる。

「ま、アレの中身は運転手も込みでどの程度のものか試してみることにしましょ。ちゃんとシートベルトしときなさいよ?」

 助手席に二人。いわれるまでもなくシートベルトを回している。
 じきに峠道へと入る。デイヴィットが夕呼に出会った、もとい轢かれた地だ。

「あ。そういえばあんた、どこかで武術でも習ってたの?」

 脈絡のない質問に、デイヴィットは首をかしげる。

「いや、そんな記憶はない、というかそもそも記憶なんてないんですが。どうしてです?」
「いざとなったらあたしが二人を引きずっていく覚悟もしてたんだけど、あんた、あのとき黒服を投げたでしょ。それが随分手慣れてるように見えたのよ」
「はあ……そういえばどうしてでしょうね。体が勝手に動いたような気がしたんですけど」
「あんまり詳しくはないから断言できないけど、軍隊の格闘術にああいう動きがあったような気がするわ」

 それにどのような返事をすればいいのかわからず、そもそも返事を求めているようには聞こえなかったので、デイヴィットは口をつぐんだ。
 代わりに尋ねたのは、ここまで二人の会話を聞きながら、デイヴィットの吐息が首にくすぐったい、などと考えていたまりもだった。

「そういう夕呼は、どうやったの?」

 煙の中で複数名の男たちを順に昏倒させていったのは、状況からして夕呼しかありえなかった。

「あたし? そうねぇ……、まぁ、携帯電話で倒したんじゃない?」

 ぐ、と言葉に詰まるまりもを楽しそうに見てから、

「じゃあくわよ」

 口の端で肉食獣のように獰猛な笑みを作り、夕呼がいった。
 同時に、シートに体を押し付ける重圧が強くなった。






■み

「ではタケルは神宮司教諭、それに香月教諭と行動を共にしていると……」

 深刻な顔で頷いたのは真那だ。

「はい。それも、まず間違いなくご自身の意思によるものであるようです」

 武が姿を消したせいで皺寄せがきたのは、現在彼と同程度の重要度を持つ冥夜、そして悠陽であった。だから彼女らは自ら動きたくとも動けなかった。その結果が、この有様だった。
 もし彼女らが自身の足で彼の前に出れば、あるいは原因を知れたかもしれない。しかし代理で向かった部隊は身柄を押さえるどころかその心を聞くことすらできず、全員が揃って倒れているところを別のチームに回収されたという。

「やはり最初からわたくしたちが向かうべきでした」

 悠陽の声も落ち付いてはいるものの、その表情と合わせて暗い。
 姉妹の脳裏をかすめた考えは同じだ。

 ―――彼は御剣に耐えられなくなったのではあるまいか。

 そのようなことは決してありえないと信じている。自分が生きている限り、彼のことを信じ続ける。それは組み込まれた機能、もしくは生態といっていいほどに強固な思い。
 しかし彼女らとて人間だ。嫌な方向へと気持ちが流れることもある。特に最大の支えがいない今、揺れ動きやすくなっても無理はない。
 だから、振り子のように揺れるのならば、糸を切ってしまえばいい。
 悠陽がいった。

「冥夜。真那さん。今晩の私たちの予定は、どのようになっておりましたか。実は先ほど、手帳をどこかでなくしてしまったことに気がついたのですが」

 そんなあからさまな偽りを口にする裏を、尋ねられた二人は正しく読み取った。

「申し訳ありません。姉上。どのような偶然かは存じませんが、実は私も今しがた確認しようと思ったとろ、すべての予定を記した手帳が見当たらないことに気づいたのです」

 真那もそれに合わせて、二人のスケジュールを把握する人間への連絡は今日中には取れないと告げた。
 こうして彼女らは、いまこの瞬間を以て、することのない暇人となった。そして彼女らは、空いた時間を無駄に浪費することができない真面目な人種。何かすることはないかと探したところ、ちょうど白銀武がいなくなっていたので、自らの足で捜しに行くことにした。
 そんな強さを後押しするように電話が鳴ったのは、偶然ではなく運命だと呼ぶべきだろう。正道を往く彼女らには、幸運を呼び寄せる力が確かにあった。

 電話の向こうで口を開いたのは、鏡純夏だった。






■す

 柊学園を卒業し、そのまま内部の進学ルートに乗って大学へと進んだ。鏡純夏の日記には、以降が存在していない。何冊も書き溜めたそれは、ようやく過去を象徴するものになったのだ。
 誰のための日記であるかといえば、それは純夏自身のためのものだった。しかし何のための日記であるかといえば、白銀武との生活のためのものであったのだ。
 だから白銀武との生活が終われば、その存在意義が失われるのは必然だった。
 武のいない生活など、純夏には想像もできなかった。想像したくないのではなく、純粋に、能力の限界として、不可能だったのだ。そして想像できないままにその季節はやってきて、隣に彼がいないことに、ほんの少しだけ慣れていた。それが成長だというのなら、子供のままでよかった。純夏はそう思った。
 武のいない春が過ぎ、武のいない夏が過ぎ、武のいない冬が過ぎ、気づけば一年経っていた。
 武のいない春が過ぎ、武のいない夏が過ぎ、武のいない冬が過ぎ、気づけばまた一年経っていた。
 相変わらず友人とは上手くいっているし、相変わらず隣に武はいない。誰もいない空間に話しかけてしまうことも、もう随分と少なくなっていた。
 そしてまた季節がめぐる。
 春には桜が舞い、夏には星が瞬き、秋には月が満ち、冬には雪が散った。
 それは年の終わりも間近に迫った日のことだった。柊学園時代からの中の良い友人たちで集まって、例年通りにクリスマスパーティーをしようということになった。純夏が街を歩いていたのは、食材の調達やら何やらといった、パーティーの準備のためだ。

「―――タケル、ちゃん?」

 だから、思いもしなかった。ただの見間違い。きっとそうだと思った。
 だというのに、声はその背中に手を伸ばすよう口からこぼれていた。






 並び座る少しだけ大人になった二人の距離は、かつてより少しだけ開いている。
 衣服越しに伝わる公園のベンチの冷たさは、いまは気にならなかった。

「そうか。……みんな元気にやってるんだな」
「あ。タケルちゃん、いま少しだけ残念そうな顔した」
「ああ? なんでだよ。安心ならまだしも」

 最初こそぎこちなかったものの、話し始めれば、まるで昨日の続きのように調子は戻った。それが信じられなくもあり、どこか納得できるところもあり。

「オレはいらん子だったんだな……とか思ったんじゃないの?」
「思うか、そんなこと!」
「どーだか。それで、なんでタケルちゃんはこんなところにいたの?」
「こんなとこって……」

 呟くその反応を見て、武にとって柊町は『こんなとこ』じゃなくなったのだ、と純夏は悟った。
 生まれ、育った町。そのありふれた無価値さは、純夏の中にはまだ存在している。けれども武の中には、既に価値ある『故郷』という形で存在しているのだろう。それは悠陽や冥夜がこの町に抱くものとよく似ているのかもしれない。

「まあいいか。別に大した理由じゃないぞ。荷物の宛先を間違えて実家に指定したから取りに来ただけだ」
「そんなこといって、ゲームセンターで遊んでたじゃないのさ」
「そりゃアレだ、通りすがりにちょっと覗いたらえげつない戦い方してるプレイヤーがいたから天誅をだな」
「通りすがるような場所じゃないけど? そう考えると、宛先を間違えたのだって怪しく見えてくるよ」
「……純夏にしては鋭いな」
「あー! じゃあやっぱり知られたらまずい物でも買ったんだ! タケルちゃんのエッチー!」
「ち、違う! 冤罪だ! というか真昼間から外でそんなこと叫ぶなこのバカ!」

 ビシッとチョップを入れようとして、けれども振り上げられた手は力なく下ろされる。
 純夏には、それが何より辛かった。
 隣にいるのに、隣にはいない。武のいない生活がどのようなものであるのか、ようやく理解できた気がした。
 なんとなく、もう誰もいない隣に話しかけることは二度とないだろう、という予感があった。






■み

『―――それで、その後はしばらく気まずかったんだけど、結局いつもどおり言い争いになって……、その……』

 いいにくそうに言葉が途切れる。
 一度、代理の人間が純夏の元にも聞きこみに行った。そのときはこのような話は出なかった。それはつまり、他人にはいいたくない話をいましているということに他ならない。思い返すだけで辛いであろう出来事を、隠すことなく話したのだ。電話をよこすのが遅れたというが、果たして自分が彼女の立場にあれば、このように連絡を取ることができたかどうか。
 純夏が続けるまで、冥夜は瞑目して待った。
 互いに恨まないという約束はあった。それでも冥夜たちは武を御剣に引きこんだ―――言い換えれば奪った側なのだ。それまで体験したことのなかった類の引け目を感じ、忙しさを言い訳に、もう長い間疎遠になっていたのは否めない事実である。それと同質の臆病さが、純夏に連絡を躊躇わせたのだろう。純夏の心境がある意味で手に取るようにわかったため、冥夜には武と純夏の二人がどのような話を交わしたのかということまで聞き出すつもりはなかった。

『えっと、その……』
「純夏。いい辛いことであれば、無理にいわずともよい」
『え? あ、いや、きっと冥夜が思ってるいい辛さとは違うと思うんだけど』

 どういうことか。
 冥夜が聞き返す前に、純夏はいった。

『思わず、その、手が出ちゃって……、ドリルミルキィでタケルちゃんがどこかに飛んで行っちゃったの……』

 正直、聞かないほうがよかった。






■か

 夕呼がコートを脱ぐ。その下は相変わらずというべきか、暖房の効いた部屋だとしても、見ている方が寒くなる露出度の高さだった。まるでこだわりのように量産品しか置かないビジネスホテルの一室は、親友には全く相応しくないように見える。
 デイヴィットを隣室に放り込み、二人はようやく一息つくことができていた。

「それで、どうだったの?」

 尋ねたのは夕呼だ。

「どうって、なにがよ?」
「だから、ナニよ」

 夕呼がデイヴィットとのことをいっているというのは理解できた。

「…………」

 うわぁ、とジト目で見るまりもを心外そうに見返して、夕呼。

「いまさらあたしの前でカッコつけたって意味ないでしょ。それともなに、本当に何もなかったっていうの?」
「当たり前でしょ。あとなになに連呼しないで」

 今度は夕呼が、うわぁ、という顔を作った。こいつ信じらんねー、と目がいっている。

「あんたねぇ……。命の危機と認識する状況にあってなお頼れる人がいない以上、あんたが匿うことにした時点で、まりも、あんたの勝ちは決まってたようなもんなのよ? それを……、人がいいのはいいけど、そんなだからいつまでたっても……」

 まるで何かあるのが当然のような反応に、一瞬、まりもは自分がおかしいのかと錯覚しかけた。けれどもこれはよくあることだ。特に夕呼との付き合いでは、一瞬でも自分を疑えば、容易にそこから突き崩される。
 自分は真人間として常識的な行動を取った、とまりもは気を持ちなおした。
 一方の夕呼は、なにやら全てのやる気を失ったかのようにベッドに背から倒れ込んだ。その勢いが押し返され、一度体が小さく跳ねる。

「それよりも、夕呼、これからどうするの?」
「どうもしないわ。あー……、まったく、あたしの努力は何だったのよ……。なんのために寒い中いろいろと奔走したんだか」

 本格的に訳のわからないことを呟きはじめた友人は、しばらくの間はこの状態のままだろう。
 なんだか急に疲れた気がする。まりもは同じようにベッドに倒れ込もうとして、少し思い直して腰を掛けた。
 それにしても、振り返ってみれば、今日はとんでもないことが続いた日だった。いまになって、自分が恐ろしい事態の中心付近にいたのだという認識がようやくい付いてくる。この感覚は、すぐ傍を大型トラックが高速で通過していった直後のそれに近いものがある。ギリギリのところで助かった後、遅れて危機を認識した脳が昂揚している。そして、混乱から抜け出し気が昂る余裕が生まれたからこそ、つい今しがたの親友とのやり取りを思い出し、もったいなかったかもしれない、などと考えを巡らせてしまった。
 出会いや素性はどうあれ、デイヴィットが好人物であったことは間違いない。その容姿は―――元となった人物を考えれば当然ではあるが―――元教え子を思い出させるものではあるが、まりももいい大人だ、そのくらい割り切れないなんてことはない。ああ、これは本当に失敗したのではなかろうか。いやいや、けれども危機にある人を助けるのは当然で、それを対価に迫るような真似なんて。
 正常ではない思考がぐるぐる渦巻く。心身の疲れがピークを越えて、逆に元気になるこの感じは、しかし醒めたときの疲労感が半端ではないことを経験から知っている。
 部屋の扉がノックされたのは、それからしばらく経ってから、だけどまりもの脳の火照りが覚めるまえのことであった。
 現れた御剣の姉妹を見て、まりもはようやく心の底から安堵した。



 



[4531] エピローグ
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/10/21 13:42

■幕間のエピローグ⇒第二ラウンドのプロローグ

 なんだか非常に場違いな気がして、まりもは肩身が狭かった。
 特別な日のデートでも入らないような店に用意されたテーブルで人を待っている。煌びやかな空間は、なかなかどうして馴染めない。
 ここは壁一面がガラスでできた高層ビルの最上階だ。目を外に向ければ、都会の灯りが夜を明るく照らしている。
 そっと左手首を返して時計の針に目をやれば、約束の時間まであと十五分以上ある。それまで特にすることもなく、だからといって周囲をじろじろ観察するのも問題がありそうな気がして、仕方がないのでまりもはここに至るまでの経緯を思い出すことにした。





 あの後の流れは、それまでと同じくらいに忙しなかった。
 まず、御剣の姉妹が現れた。ご無沙汰しておりました、との挨拶はあったが、どうにも気が急いている様子。
 そして妹の方がいった。

タケル、、、はどのようにしておりましょう?」

 タケルというのが誰を指すのか、咄嗟にはわからなかった。が、振り返り夕呼と目が合えば、すぐにわかった。
 夕呼は肩をすくめた。

「隣の部屋にいるわよ。もっとも自分が白銀武であるとは知らないみたいだけど」

 それに驚愕したのは果たして誰だったのか。
 どういうことかと訊く数人に、夕呼は何でもないことのように答える。

「なんだか記憶喪失みたいなのよねぇ。あたしが撥ね―――」
「もしや鑑さんの、ええと……」
「ドリルミルキィです、姉上」
「そう、そのドリルミルキィとやらで飛ばされた衝撃で、武様は記憶を失われたのでは」

 なにかいいかけた夕呼を気にせず会話を進め、双子の姉妹は何らかの結論に至ったようだった。

「なんということだ……」冥夜が呟く。「月詠! すぐにタケルを病院へ」
「既に手配は済んでおります」
「そうか。では今すぐタケルを。申し訳ありませんが、神宮司教諭、また後ほど正式にご挨拶とお礼に伺いますので」

 丁寧さを忘れない彼女らが、なりふり構っていられないほどの大事だったのだろう。今回の出来事は。
 そのようして、嵐のようにやってきた懐かしい顔は、嵐のように去っていった。隣の部屋でなにやら物凄い音がした気がしたが、その詳細は知れない。
 まりもは難しい顔をしている夕呼に話しかけた。

「さっき、なんて言おうとしてたの?」
「別に面白い話じゃないわよ? まりもの家にあいつを連れていった日、実はその前に轢いちゃってたのよね。で、あたしはあいつの記憶喪失を自分のせいだと思ってたってわけ。まあ数日で治るだろうし、その間にまりもとできちゃえば面白く、じゃなくて、まりもにもチャンスが来るんじゃないかと思ったんだけど、まさかどっちからも手を出さないなんて予想外だったわ。あ、もうわかってると思うけど、クローン云々に関してはまったくの作り話だから」
「―――――」

 言葉を失うまりもを前に、夕呼はいった。

「それじゃ、今日はもう疲れたし寝るわ。おやすみ」






 さらに数日後のことだ。
 今度は、記憶を失っていた間の記憶を失った武が、悠陽や冥夜と共にやってきた。その間なにがあったのか聞きに、そして迷惑を掛けた謝罪に、ということだった。
 その場に居合わせた夕呼がいった。

「あんた、女を抱いておいて記憶がなくなったなんて言い訳が通じると思ってんの?」






 そしてまりもはいま、この場所にいる。
 本来は双子の姉妹が雌雄を決する場であったとか聞いているが、どうして自分までもが新年早々そんな所にいるのか。

「……はぁ」

 ため息が漏れた。
 まったく、本当に彼らとは奇妙な縁があったものだ。いや、それどころか自分も『彼ら』の中に加わろうとしているらしい。
 さて、どうしたものか。夕呼などは「あんたは例の淑女同盟に加盟してなかったんだから後出しもアリよ」などというが、気が引けるのも確かだ。
 正直、これからの身の振り方は決まっていない。けれども感情がどの方向を向いているのかは、もう無視しようとしてもできない事実としてまりもの中にある。
 久しく訪れなかった決戦を前にして、まりもは気を引き締める。
 やがて、元生徒にして現ライバル、、、、の二人が現れた。




 


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