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[4574] 最初のゼロから間違えて(ゼロの使い魔・トリップ)
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/12/29 03:57
 初めまして、sawaと申します。

 正規の投稿版に上げるだけの実力は無いと自覚しているため、テスト版にて失礼させていただきます。 ※2


 さて、本作品は原作知識持ちのトリップ召喚もので御座います。

 また、ご都合主義的な展開と独自解釈も多少は含まれているかと思います。

 そういった作品が苦手な方は、ご遠慮くださいませ。


 因みに、本作品は物語の展開上ルイズの"デレ"が欠片も御座いません。ツンデレでなければルイズで無し、と思われる方はご注意下さい※1。

 加えて、本作品には多少"痛い"描写も多いようで御座います。その点も御留意して頂けます様、お願い申し上げます※3。


 もし、暇潰し代わりにでも読もうと思ってくださった方が居ましたら、"やつがれ"の技術向上に、御協力して頂けますと幸いです。


   ※1 11月1日(土)に追記致しました。この注意事項が無かった為に気分を害した方がいらっしゃった事、深くお詫び申し上げます。

   ※2  12月29日(月)に恐れ多くも"ゼロ魔"板へと移動させて頂きました。ご了承下さい。

   ※3 12月29日(月)に追記致しました。

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 壁を背もたれにして地面に座り込み、男は空を見上げていた。


 身なりはお世辞にも良いとは言えない。薄汚れたパーカーに、所々黒い染みのついたズボン。どちらもこのトリステインでは見慣れない格好である。

 尤も彼を見た人間は、その服装よりも顔の方を記憶に残すことだろう。

 何故なら男は、顔の半分以上を白い包帯で覆っているからだ。しかも痛々しいことに、清潔そうな包帯にも係わらず、そこには赤黒い血の跡が幾つも拡がっている。


 空の高さに目を細める男の顔は、しかし痛みに歪んだりしていない。痛みが無いのか、それとも痛みに慣れたのか。

 暫し空を眺めた後、男はそのまま身体を横に倒す。続く男の小さな溜め息と腰の後ろで鳴った僅かな金属音が、冷たい朝の空気を微かに揺らがせた。


 金属音の発生源は、腰の後ろに括り付けられた短剣だ。包帯の滲みとはまた違った赤黒い――鉄錆び色の刀身は、何に包まれる事無く剥き出しにされている。

 とは言え、武器と呼ぶのもおこがましいほどにびっしりと錆びの浮いた刃はお世辞にも切れ味が良さそうとは言えず、その刃が男自身を傷付ける危険性は低いと思われた。

 事実それは、廃棄される予定であった薪割り用の鉈を拝借したものであり、それまで薪割りに使われていた事さえ信じ難い程に切れ味が悪い代物であった。


 男は何度か短剣の位置を直してから、ゆっくりと目を閉じる。ともすれば寒さに鳴り出しそうになる奥歯の存在も、熱を生み出すべく震えだそうとする身体も、意識の外へと放り出す。

 寒さはまだ厳しい。早朝の冷え込みで目が覚めるのも無理からぬ事かもしれない。そのまま凍えて永眠する危険性が無いだけ、男の状況はまだ幸運なのだろう。



 だがしかし――

「何でこんな事になっちまったんだろ」

 少し前の男の生活を考えれば、自身の不幸を嘆きたくなるのも当然の話。

 ハルケギニアに来て――正確には召喚されて――今日で十日目。男の状況は悪くなる一方であった。





 『最初のゼロから間違えて』

 第一話「最初の一言間違えて」





 物語としては良くある話だろう。

 それが現実に起こり得るかは兎も角として、斬新なアイデアも奇抜な展開も何一つ有りはしなかった。


「あんた誰?」

 日常に起きた突然の異世界召喚。そしてそこが偶々、元の世界で小説として知られていた世界だった。それだけだ。

 ファンフィクションでは、原作知識持ちのトリップ召喚とでも呼ばれる部類に入るのだろう。


「感謝しなさいよね。貴族にこんなことされるなんて、普通は一生無いんだから」

 原作の主人公"平賀才人"宜しく狼狽えはしても暴れだしたりしなかったのは、男の許容量を超える事態に頭が付いて行かなかったに過ぎない。


「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール、五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔と成せ」

 このコントラクト・サーヴァントの呪文と接吻で漸くここが何処かを、そして続く左手の痛みで不本意ながらこれが夢ではないことを、男は理解させられた。


 だが男は"平賀才人"ではない。当然物語も、最初の一ページ目から原作と異なっているのだ。

 僅かに剥離した物語の流れは、男が上手く立ち回れば或いは良い方向に動き出したことだろう。

 しかし男は間違えた。間違えてしまった。

 意図した事ではない。只の偶然。別の物語であれば、間違いではなかったその一言。


「勘弁してくれ、まさかゼロの使い魔かよ」

 魔法学院の生徒とコルベール、そして男の主人たるルイズが注視する中で男が呟いたその一言。

 その一言は、周囲の嘲笑と、主人の怒りと、そして男の不幸を一気に呼び寄せた。

 "ゼロの使い魔"という小説の世界であることを嘆いた男の言葉は、"ゼロ"というメイジの"使い魔"であることを嘆いた言葉として受け取られたのである。


 嘲笑と主人の声の震えから漸くそのことに思い至った男だったが、生憎と弁解どころか声を上げる事さえ叶わなかった。

 男に出来たのは、顎を狙って振り上げられた彼女の蹴りを上体を反らして交わすことだけであり――

 続く踵落し――正確には蹴りの勢いと彼女の全体重が併せ込まれた強力な踏み付け――には反応することも出来なかった。それどころか頭部に落された一撃を記憶することすら叶わず、召喚一日目の記憶はそこで途切れることとなったのである。

 次に男が目覚めた時には、既に召喚二日目の朝が始まっていた。

 丸々一晩、居住用の塔の前に転がされていたことを、ルイズの蹴りで起こされてから理解する破目になったのである。




 ……どうやら完全に嫌われたらしい。召喚直後に"ゼロ"扱いされたと思っているのだから当然なのかもしれないが。

 扱いは原作の平賀才人への"犬"扱いよりも酷いものだった。

 ルイズは自分の要求だけを一方的に述べ、男の言葉には何一つ耳を貸さなかった。

 いや、そもそも発言を許さなかった。男が言葉を発しても、ルイズは蹴りや鞭、時には魔法という暴力で返事をするだけ。

 部屋への寝泊りは許されず、それどころか居住用スペースの用意さえ無い。無論、食事の用意もしてもらえる訳が無い。

 しかし使い魔として仕える事だけは要求された。尤も、使い魔の仕事と言うよりも召使いとか奴隷の仕事と言った方が正しいのかも知れないが。



 その結果、寝る場所にも食べる物にも男は困った。追々詳細を語ることもあるだろうが、取り敢えずは一文で済む。

『男は、十日たった今でも星空の下で夜を過ごし、しかしまだ生きている』





 朝、塔の入り口から吐き出される人の流れを見ながら、男は自身の状態をチェックする。

 正直、体調は芳しくない。ガンダールヴの力が無かったら、召喚数日目で屍を晒していただろう。身体能力を上げるルーンの恩恵が免疫能力にも及んでいることを、男は身を以って体験していた。

 だがそれもそろそろ限界に近い。ガンダールヴの能力を考慮しても、既に命の危険を感じずにはいられない状況になってきている。


 体力的には、今のままでも何とか生きていけるだろう。疲れ果てていようと十日間生き続けてきたことが何よりの証左だ。

 だが、精神的なものを含めるとそれは不可能だった。日本では当たり前のようにあった"平穏"や"安寧"を感じなくなって久しく、気力が回復する気配が感じられない。精神力が尽きればガンダールヴの恩恵も失せ、やがては死に至る結果となることだろう。

 安心出来る場所でなくとも良い。せめて不安に苛まれずに済む場所が必要だ、それも早急に。



 どかっ!!

 男の視界が突然横にぶれた。続いて痛みが、傷口の開く感触が、男の脳へと届く。

 思考の海に潜りすぎたらしい。"ご主人様"の接近に、男は気付けなかった。


「今日の予定よ」

 男の後頭部に押し付けられた足をぐりぐりと動かしながら、ルイズが今日の予定を語り始める。

 がりがりと擦られる靴底の感触と口に入った土の味に、男は自分の精神力もがりがりと削られていくのを感じた。

「……で、その後の予定は無しだから。今日はアンタの顔を見ずに済みそうよ、犬」

 最後につま先で男の顔に蹴りを入れ、ルイズは立ち去った。




 腰の後ろに手を回し、男は短剣に触れる。一時的にだが傷の痛みが消失した。開いた傷口から染み出した血が、包帯に拡がっていくのを感じる。

 立ち上がり、唾を吐き、口元の泥を拭う。

 ルイズの暴力にも慣れた。

 折角の包帯が汚されてしまったことへの不快感。男が感じたのは精々そんなことである。ルイズによって削られていく精神力に思い悩むようなことは、既に無意味だと諦めていた。


「取り敢えずメシだな」

 気分を切り替えて、男は歩き出す。

 先程のルイズの言に由れば、今日は彼女の後ろを付き従う必要は無い。ならば、住居を探すのにも新しいことを始めるのにも、もってこいの状況の筈だ。

 不安は数知れず、安心は程遠く。されど死を選ぶには状況が温く、諦めるにも絶望が無く。そんな環境下だが、男は腐っていなかった。

 平賀才人程ではないにしろ、男の環境適応能力も悪くはない。

 考え方一つで状況は変わる。雨露を凌げる場所さえ見付かれば、自分はもっと生きられるのだ。一日自由な時間があればきっと何とかなるだろう。


 ――そんな事を考えて生きる気力を生み出せる位には、嫌でもなっていた。





 火中の小枝が爆ぜる音を聞いていると、途端に周囲が騒がしくなる。集まってきたのは肉食の使い魔達で、目的はまず間違いなく火の上に吊るされたウサギだろう。

「お前等はお前等のご主人様から貰ったメシがあんだろう? 俺に集るな」

 近づいて来た使い魔の一匹を、手を振って追い払う。が、手の届かぬ位置で遠巻きにこちらを眺め、離れる様子は無い。他の使い魔にしても同様で、一向に視界から消える気配がなかった。

「毎度の如く言ってやるが、俺のメシを盗みやがったら只で済ます気はねぇ。死にたいヤツだけチャレンジしな」

 周囲の使い魔を睨み付けながら、男は胡椒の瓶を振った。胡椒の焼ける良い匂いが男の食欲を刺激する。

「きゅいきゅい、きゅい」

 ついでに彼女の食欲も刺激したらしい。どすどすと音を立てて青い鱗の幼竜――シルフィードが近寄ってきた。

 幼竜と言っても、体長はおよそ六メートル。人など丸呑みに出来そうな大きな口とその巨大な体躯は、常人に恐怖を抱かせるには十分だった。尤も男は、臆した態度も見せずに肉の位置を調整したりしているのだが。


 顔を擦り付けてくるシルフィードに対して、男は先程別の使い魔を追い払った時とは違い、呆れた様子を見せながらも笑顔で対応する。

「お前はご主人様のメシが少なくても、マルトーの親父からメシ貰えんだろ? 俺に集らないでくれよ」

 召喚三日目、男は空腹に耐えかねて食堂を訪ねたことがある。その時は乞食扱いされて散々罵られ、少々手荒な方法で追い出される不幸を味わう結果となった。

 その後、空腹と傷の痛みにへばっていた男を助けてくれたのが、目の前にいるシルフィードである。その時恵んでもらった林檎の味を男は決して忘れず、シルフィードには好意的な態度を示していた。

 反対にあれ以来、厨房を尋ねたことは一度も無い。今使っている調味料にしても、彼らに貰った物ではなく食堂からくすねてきた物だった。


「きゅいきゅい、きゅい~♪」

 シルフィードは胸を張ると、蔓で編み上げられた籠を男の前に差し出した。籠の中に有るのは、大量の肉の切れ端に数匹の魚、そして野菜が少々。成る程、男は納得がいった。

「俺に調理をしろと? 生で食べないとは中々に美食家だな、シルフィード」

 調味料のストックは残り少ないんだが、等と言葉をこぼしながらも、男は手早くもう一つたき火を用意した。


 火が安定するまでに、魚に塩を振り、肉に胡椒をかける。

 隣で歌いだすシルフィードの声を聞きながら、下拵えの終わった材料を火に掛け、焼き終わったウサギ肉を切り分けた。

「鍋なり鉄板なりがあれば、もうちっと料理の仕様もあるんだが……」

 ウサギ肉を一切れシルフィードの口に放り込みながら、男が呟く。

 男の所持品は多くない。召喚時に持っていた鞄には、当たり前だがサバイバル用品など入っていなかった。日々の生活において役に立つのは、精々が火を点ける際に使うジッポー・ライターくらいである。

 そして当然の如く、ルイズより何一つ与えられていない男には、現地で手に入れた私物も数えるほどしか存在しない。

 打ち捨てられた薪割り用の鉈に、食堂からくすねた調味料の瓶が幾つかと調理用のナイフが一本。そして、顔を覆う包帯。


「う~ん。鉄板はともかく、鍋くらいならあったかも……」

 突然の声に男が顔を上げると、正面にメイド服を着た黒髪の少女がいた。顎に手を当てて、なにやら考え込んでいる。

 別に声に出したわけじゃないが、噂をすれば影が差すとはこういう事を言うのだろう。

 包帯の贈り主である少女――シエスタは男の視線に気付くと、穏やかな笑みをその顔に浮かべた。


「おはようございます、使い魔さん」

「ああ、お早うシエスタ。今日の洗濯物もなかなかの量じゃないか」

「あ、はい。何でもやたらと溜め込んだ貴族の方がいらっしゃったみたいで……」

 召喚五日目、いよいよ酷くなったルイズの暴力により血と傷に塗れた顔を晒していた男を、心配し、治療してくれたのが彼女だった。

 心優しい少女はそれ以来、度々男の世話を焼いてくれている。と言っても、既に自力で食料調達が出来るようになっていた為、原作と違って怪我の治療以外で世話になったことは無い。

「……なので、使い魔さんに教わった鍋に水を貯めてぬるま湯にする方法は、すっごく助かっているんです」

 また、男は一方的に恩を受けるのを良しとせず、見返りと言っては何だが、原作の風呂イベントを利用した洗濯時のぬるま湯作成法を教えたりもしている。


 故に、男はシエスタに負い目を感じる必要などなかった。無い、筈なのだが――

「あの、また酷いことされたんですか? 血、滲んでます」

 シルフィードに魚を放る際に横を向いたことで、男の新たな出血に気付いたらしい。シエスタが男の顔に手を伸ばす。

「ん? ああ、問題ねぇよ」

 その腕を避ける様に男は身体を捻った。

 男の視線は意図せずシエスタの右腕へ――彼女の知らぬところで男を悩ませる"負い目"へと向けられた。


 シエスタの右腕は、二の腕から先に包帯が巻かれている。

 何でも食堂で貴族の不興を買い、投げ付けられたシチューの皿で火傷をしたとのこと。ついでに割れた皿で出血もしたそうだ。

 召喚八日目、何でもない事のようにそれを告げるシエスタの話を聞いた時、男は頭をハンマーで殴られたかと思うほどの衝撃を受けたのだった。

 原作でのギーシュとの決闘イベントは発生していない。つまりはそう云うことなのだろう。

 自身が歪めた物語の結果を、まざまざと見せられた思いだった。誰かが死んだ訳でもなく、只少女が傷付いただけだったとは言え、不意打ちのように襲ってきたその事実は酷く男を打ちのめす。

 以来、男はそれを負い目と感じるようになってしまった。

 包帯が取れたとき、痕が残らないことを祈るばかりである。



「それじゃ、時間が出来たら顔を出してくださいね。包帯、新しいのに替えますから」

 暫しの雑談を続けた後、シエスタは洗濯籠を抱えなおして去っていった。


「きゅい~、きゅい~♪」

 男の横では上機嫌なシルフィードが食後の歌を口ずさんでいる。

 大量の食料を口に出来てご満悦のようだ。気付けば保存用に加工しようと思っていた二羽のウサギも、シルフィードの腹に収まっていた。

 どうも最近――と言っても出会って一週間も経っていないが――シルフィードにも遠慮が無くなってきたような気がする。恩ある身とは言え、少し対応を考える必要が有るのではないだろうか、と男は思った。


「お礼の歌の最中で悪いが、俺はそろそろ行くぜ」

 火の後始末を終えると、男は腰を上げ、尻に付いた汚れを掃う。

「きゅい」

 てっきり何時もの様に飛び去るかと思ったが、シルフィードは男の後ろをくっ付いて来た。

 今日の授業に使い魔は必要ないとルイズが言っていたから、シルフィードの方でも似た様なことを言われたのかも知れない。

「シルフィード。お前の意見を聞きたいんだが――」

 楽しげに後ろを歩くシルフィードにふと思い立ち、男は訊ねてみた。

「宿無し、金無し、身元保証無し、無い無い尽しのこの俺でも雨露を凌げる場所、知らねぇ?」

 勿論、名案など期待していないことは言うまでも無い。確かな当てなど無かったから、何とはなしに聞いただけだ。



 だから――

「きゅい!!」

 力強い答えを返して、先を歩き出したシルフィードの後ろ姿を見ても、正直大した希望は抱かなかった。



 事実、最初のうちは無駄足ばかりだった。


 中型使い魔用の厩舎――

「生憎と此処は許可がなきゃ駄目らしい。四日目の夜に此処を使って、警備兵にしこたま追い駆けられた」

 まさか他の使い魔の目を通して発覚するとは思わなかったぜ、と男はシルフィードにぼやく。

 翌朝、怒れるルイズから初めての失敗魔法を頂戴し、男は血の海に沈んだ。そのお陰でシエスタと知り合えたのだが、果たしてこれは幸運と呼べるのだろうか。


 学院生徒達の居住用の寮塔――

「いや、問題外だろ。三日目の夜に忍び込んで寝たら、魔法攻撃喰らって気絶。気付けば全身痣だらけで塔の外だぜ?」

 勘弁しろってんだ、廊下の一スペース位使っても良いじゃねぇか、と男はシルフィードにぼやく。

 だが、男を見つけた魔法使いが"土"系統だったのは不幸中の幸いだったのだろう。もし"火"や"水"だった場合を考えると、痣だけで済んだとは思えない。


 衛兵達の寝泊り用の小屋――

「此処も駄目だ。浮浪者を泊めるスペースなんか無えって、近付いただけで槍向けられたぜ」

 三日目の昼、此処を訪ねたが無下に断られ、ついでに六日目の夜に偶然通りかかった際の彼らの対応を思い出す。


 学院の雑具が仕舞われている物置――

「一応雑具でも学院の備品だかんな。お前は知らねぇだろうが、夜になると鍵閉まってんぞ」

 五日目の夜、苦し紛れに学院施設の施錠を全て確かめたことを思い出す。


 教員用の当直室――

「ある意味ロシアンルーレットだな。誰も居ないかと思えば、強力な魔法攻撃が飛んで来たりする」

 五日目の夜はここに世話になった。が、六日目の夜は当直の教師から風の刃を放たれ、慌てて逃げた記憶がある。


 昼間は授業が行われている教室――

「確かに盗まれるような備品は置いてねぇけど、ここも夜は閉まってんだ」


 学院貸し出し用の馬が居る厩舎――

「意外なことに、此処も夜は鍵掛かってんだぜ。貴族御用達の高級馬はスゲェっつーか……」


 広場の片隅にあるトイレ――

「雨露は凌げるだろうが、流石に此処は……」



 こんな調子で本塔から五つの塔、果ては馬小屋や物置と言った明らかに居住用ではない所まで、シルフィードに案内してもらった。

 だが残念ながら、昼を過ぎる時刻になっても、宿に使えそうな場所は見付からない。

 半日歩き回って得た収獲は、金さえ有れば平民用の宿舎を利用できる、という情報くらいだった。




 これはもう、結論が出たも同然だな。

 男は胸中で頷き、シルフィードにその旨を告げるべく切り出した。

「さんきゅう、シルフィード。もう良いぜ」

 薪を保存する為の掘立小屋の前で、男はシルフィードの足に手を掛け、彼女の歩みを止めさせる。


 いい加減諦めるべきなのだろう。恐らく、この学院の施設内に今の自分が泊まれるような都合の良い場所など無いのだ。

「きゅい?」

 シルフィードが首を捻り、男の顔を覗う。

「流石にお前に言っても仕様がねぇことだもんな。時間取らして悪かった」

 その顔を優しく撫で、駄賃代わりだ、と男は林檎を取り出してシルフィードの口に放った。



 そう、土台無理な要求だったのだ。

 例えるなら、現代日本においてホームレスが学校に住めないのと同じ。前提からして不可能な条件が揃っている。

 金が無い者が既存の建物を利用しようと言うのが、そもそもの間違い。

 公園でダンボールハウスを作る浮浪者宜しく、咎められぬ場所を探して自分で自分の住居を用意するしかないのだ。原作の平賀才人のように、テントでも調達出来たなら僥倖だろう。

 そう言えば、原作で才人はどうやってテントを調達したのか。

 やっぱりコルベールだろうか? 困ったときの物品調達と言えば、あの人の良さそうな中年教師しか思いつかない。

 先程訪ねた時、コルベールの研究小屋は無人だった。だがテントの一つや二つ、あの小屋にならありそうな気が……



 そんな事を考え込んでいたら、突然襟首を掴まれた。

 すわっルイズか、と驚いて振り向いた男の顔に映ったのは、青い鱗の幼竜の顔。どうやら襟首を咥えられているらしい。

「きゅいっ、きゅい!!」

 そして何やら随分とご立腹の様子である。

 男を自身の背中に放り投げ、シルフィードは素早く空へと浮かび上がった。


「お、おい、シルフィード?」

 慌てて背中にしがみ付いた男が疑問の声を上げた時には、シルフィードは学院を見下ろせる高さにまで上昇していた。

 そして数秒と経たず、急降下を始める。

 男の口から思わず呻き声が漏れた。

 ファンタジーの世界でも、基本的に物理法則は変わっていない。

 魔法の加護がない身では、固定具のないジェットコースターに耐えられるはずも無く、掴んだ背ビレから右手が放れ――





「……成る程、こう言う訳か」

 森の中に建てられたログハウス――シルフィードの住処を見ながら、男は額の汗を拭った。

 流れる汗は、当然冷や汗である。放れた右手が偶然短剣の柄に触れなかったら、そのまま空中に投げ出されて死んでいたかも知れないのだ。

 不本意ながら、ハルケギニアに来て初めての、直接的な命の危機であった。

 あのシルフィードの急降下に表情一つ変えずに対応しているタバサを、男は素直に凄いと思う。


「きゅい!!」

 そんな男の横で、シルフィードが得意気に胸を張っていた。

「確かに此処なら、宿無し、金無し、身元保証無し、の俺でも雨露を凌げるな」

 その言葉に、シルフィードがきゅいきゅいと嬉しそうな鳴き声を上げる。

 木で作られたその建物は、小屋と言うより格納庫と言う方が近い。シルフィードの大きさに合わせて作られた大きな入り口が、竜と言う存在も手伝って、小型の飛行機を収容している修理工場のようにも見えた。

 シルフィードの乱暴な飛行の所為で正確な位置は分からないが、木々の隙間から見える学院の塔の大きさを見る限り、それ程遠い距離でもないだろう。

「助かるよシルフィード。住居の問題が解決するまでは、此処を利用させてもらうな」

 感謝の言葉と共に、その首元を優しく撫でる。そうすると、シルフィードは目を閉じて喉から高い音を出した。普段の鳴き声もイルカのような高い音だが、それとは違う、管楽器を吹いたような、優しく空気を震わすキレイな音だった。




 森に設置した罠から確保した数匹のウサギと、もぎ取った数個の果実を使い、男はシルフィードに昼食をご馳走した。

 その後、気持ち良さそうに昼寝をし始めたシルフィードの下を離れて、学院へと戻る。

 住居の問題は完全に解決したわけではない。何時までもシルフィードの世話になるわけには行かないだろう。

「第一、あの小屋の中でシルフィードに寝返りでも打たれたら潰されそうだしな」

 竜が人間のように寝返りを打つかは知らないが、シルフィードだけでも結構ギリギリな大きさの小屋であったため、強ち冗談とも言えない。

 だが、それでも十分な話だった。シルフィードの厚意が、男には素直に嬉しいと思えた。

 それだけで、今を生き抜くための気力が生まれてくるような、そんな気がする。



「次は金か……」

 森の中、学院へ戻る道すがら、男が一人呟く。

 胸中だけでなく、大事なことは声に出して確認するのが男の癖だった。

 言葉にすれば、より具体的な認識が可能になる。と言うのが男の持論である。


 生きる為の"取り敢えず"については何とかなった。

 足場を作った後に必要なのは、その足場を固めることだ。

 金があれば、テントも買えるし服も買える。そして何より――

「デルフリンガー」

 ガンダールヴの相棒にして、魔法吸収能力を持つインテリジェンスソード。

 原作通りの荒事に巻き込まれるかは別として、これは確実に手に入れておきたい。


「学院に居る限り、メイジとのいざこざは嫌でも体験するだろうから……」

 男は、腰元の短剣を手に取ってガンダールヴの能力を発動させた。

 向かう先には学院を囲む高い壁がある。しかし男は速度を緩めない。

「原作とは関係なしに、生き残る為の保険は欲しい」

 男はそのまま、強く地面を蹴って跳び上がった。壁面を、庇を、雨樋を蹴って更に高く、上へと身体を押し上げる。

 いとも容易く壁の上に辿り着いた男は、そのまま下も見ずに学院の内側へと身を躍らせた。


 膝だけでなく、全身を使って落下の衝撃を逃がし、男は塔の裏側――普段は余り人の寄り付かない広場の隅に着地する。

「……例えば今みてぇな時に、特にそう思うぜ」

 そのまま立ち上がり、逆手に持った剣をだらりと下げてから額に手を当てた。

 男の背後には一人の少女。前方には多数の少年。どちらもが、誰もが、杖を構えている。


「成る程、解り易い構図だ」

 飛び込んじまったからにゃ、知らぬ存ぜぬじゃ通らねぇわな。

 胸中で自身の不幸を嘆きながらも、男の目に迷いは無い。

「多勢に無勢ってのは、ちぃっとばかし男らしくないと思わねぇ?」

 無視は出来なかった。平賀才人ほど考え知らずでは無いが、男はこれで結構熱血漢なのだ。





 他人のことなど如何でも良いような態度を取っているからと言って、他人が放っておいてくれるとは限らない。

 誰もが一目を置く実力を示してみたところで、誰もがそれに納得してくれるとは限らない。

 嫉妬に駆られた生徒に徒党を組まれて襲われる。

 嬉しくはないが、この程度のトラブルはタバサにとって日常茶飯事だ。

 大抵は杖の一つも振って見せれば大人しくなる。キュルケ辺りが感づいて、トラブルになる前に潰すことも多い。

 だが、今回は少し不味かった。


(数が多い……)

 タバサはトライアングル級のメイジである。しかも、とある事情により実戦経験も数限りなくある。

 ドット級の一人や二人、どころか十人相手であろうとも、容易く退ける自信はあった。

 だが今、タバサの目の前には三十近い数のメイジがいる。当然迎撃は可能だが、これだけの数を無傷で退けることは難しい。

 因みに、この場合の無傷とは、"タバサ"だけではなく"相手のメイジ達"も含めたものである。

 トライアングル級の広範囲魔法は、本気で撃てばドット級が受けられるものではない。しかしそれ故に、中途半端に撃つことが出来ない。下手をすれば殺してしまうからだ。

 かと言って、一人一人を撃ち落とすには些か敵の数が多い。殺さずに相手を制することの難しさや、中途半端な手加減が招く死の危険を知らぬほど、タバサは未熟ではなかった。


(……ここは敵地)

 傷付いても、傷付けられても、良い結果にはならない。

 だが、逃げることもまた無意味なのだ。

 だからタバサは覚悟を決める。

 この程度の危機が何だというのだ。この程度の脅威を払えぬようでは決して届かぬ場所に、タバサの"望み"はある。


 強く、杖を握り締める。

 広域魔法が使えぬならば、使わず勝利すれば良い。

 中途半端な手加減が死を招くと言うなら、完全に制御された手加減をしてみせよう。

「ラグース・ウォータル……」

 殆ど口を動かさず、小声で詠唱を開始する。

 心を研ぎ澄ませ。揺らぐこと無き氷のように、全てを切り裂く刃のように。

 こちらに杖を向けて一斉に詠唱を開始したメイジ達を見据え、今まさに第一射を放とうと――


 ――したところで、影が落ちてきた。

 大きな音はしなかった。微かに草を踏む音だけが、タバサの耳に届く。

「成る程、解り易い構図だ」

 ちらりと一瞬タバサに目を向けると、影は――顔を包帯で覆った奇妙な出で立ちの男は――タバサを庇うように立ち上がった。

 舞台に立つ役者のように堂々とした態度で、大仰に額に手などを当ててみせる。

「多勢に無勢ってのは、ちぃっとばかし男らしくないと思わねぇ?」

 悠然と言葉を放つ男の手に握られているのは、杖ではなく錆びた短剣。身なりを見ても判断できる。この男、メイジではない。



「な、なんだ貴様!! 平民が貴族に意見して良い法など無いぞ」

「そうだ!! 平民如きが僕達に歯向かうなっ」

 なのに、この男の落ち着き様は何なのだろう。

「生憎と法律関係にゃ疎くてね。良ければ第何条第何項がそれに当たるのか教えちゃくんねぇか?」

 その言葉に、言われたメイジが顔色を変える。

 "平民が貴族に○○して良い法など無い"と言う言葉は、貴族に於いて半ば常套句と化している。

 しかし実際に法律としてその一文がある訳ではないのだ。強いて言えば"侮辱罪"や"政界に於ける平民の発言権"について述べた条文が、それに当たるのだろうか。

「オイオイ何だ? まさか知らねぇで使ってんのかよ」

 勉学に長けたタバサは極自然に頭の中でその条文を思い浮かべたのだが、他の者には無理だったらしい。話を向けられたメイジだけでなく、周りにいた全ての貴族達の顔が朱に染まっていく。

「じ……十一条第三項だっ!!」

 顔を真っ赤にしたまま、最初に質問されたメイジが怒鳴った。が、その顔色を見れば容易に嘘だと見抜けるだろう。

「十一条第三項ねぇ…… さてお姫様、答えは合っておりますか?」

「間違い。十一条は全て対外政策に関する条文」

 "お姫様"と言う言葉にピクリと反応を見せたが、元よりタバサは無表情。冷静そのもので男に返す。


「何? ひょっとして知らねぇ癖にその言葉使ってたの? うっわ~」

 こりゃ駄目だわ、と男は大げさに首を振った。

「無意味な嫉妬心燃やしてねぇで、少しは勉強した方が良いんじゃねぇの?」

 男の嘲りに、貴族達は何も言葉を返さない。只顔を紅潮させ、ぶるぶると震えるのみである。

(……不味い)

 この状況に、タバサは危機感を抱いた。メイジに臆さぬ姿は評価できるが、男は平民である。

 彼を守りながら戦うのは更に難易度が上がることだろう。

 しかしここまで罵倒されて、彼らが引き下がるとは思えない。寧ろ今にも――

「足並みは乱してやる。シルフィードも心配すっから怪我なんかしないでくれよ」

 ぼそり、と男がタバサに呟く。

「き、き、貴様らぁーー!!」

 そしてタバサが何か返すよりも早く、逆上した貴族の詠唱によって、戦いの幕が切って落とされた。



 冷静さも、連携も、当初の目的さえも見失ってしまったメイジの相手など、実に容易い。

「下手な魔法ってのはさぁ、数撃ってもやっぱ当たらないと俺は思うんだよねぇ」

 言葉通り数だけは多い――しかしそれ故に脅威となり得る魔法の数々を、あっさりと交わし、去なしていく男の動きは驚嘆に値する。

 加えて彼が放つ数々の罵倒に、貴族達は連携の"れ"の字も思い出すことが出来ないようだった。

「デル・ウィンデ」

 タバサが放つ風の刃が、また一つメイジの手から杖だけを切り落す。

 これでタバサが落した杖の数は七本。


「大体空飛びながら攻撃魔法を使えないんだったら、最初から飛ぶなよな」

 地面に降りたメイジの横をすり抜けざま、男の手刀がメイジの意識を闇に落した。

 これで男が昏倒させたメイジの数は十二、付け加えて、男が杖破壊だけに留めたメイジの数が二になった。

 残りは十一人、しかし全員が空を飛び、攻撃魔法を放つのを躊躇っている。

 理由は簡単。最初の頃ならいざ知らず、こうも数が少なくなっては、地面に降りる前に男に捕捉されてしまうからだ。


「あのなお前ら、空にいれば絶対安全なんて馬鹿なこと考えたりしてね?」

 そう、その通りだ。空にいようと関係なく、彼らを攻撃できる存在が此処にいるというのに。

 男の意を酌み、素早くタバサは風の刃を生み出す。

 フライの最中に杖を切り落とされ、二人のメイジが地面に落ちた。

 そして、空が安全ではないことを知った残りのメイジが逃げ去ろうと身を翻した所で――

 残りの九人が端から順に、全員合わせても五秒と掛からず、地面に落ちる。

「ましてや余所見なんてしちまったからには、コイツは避けらんねぇだろう?」

 右手で小石を玩びながら、男は楽しそうにタバサに向けて同意を求めた。


 どうやら数秒の間に、九人ものメイジの手から、投石で以って杖を落したらしい。

(恐るべき技術……)

 タバサとて実戦経験は豊富だ。メイジ殺しと戦った事も一度や二度ではない。

 しかし幾らドット級が相手とは言え、これだけの数を相手に、これだけ鮮やかに勝ちを浚う平民がいただろうか。

(そもそも彼は何者?)

 無関係、ではない筈だ。少なくとも、自身の命をベットしてまで無関係の人間を救うような御人好しが存在するとは思えない。

 善意を語るブリミル教の神官戦士とて、領民に施しを与える善良なる貴族の領主とて、その善行の裏には思惑があるものだ。

 何処かの絵本に描かれたような英雄の存在を信じていられるほど、タバサの世界は甘くはない。況してや、魔法も使わずに命の危機に立ち向かう剣士の存在など……

 知らず、彼女の心臓の鼓動が速くなる。杖を握る手にも力が篭った。


 そして――

 無条件の味方でないのなら、自分は彼と戦うこともあるかもしれない。

 そのことに気付いたタバサは、自身の背筋に走る戦慄を、こめかみを伝う汗を、止めることが出来ないのだった。





「さて。俺がお前らの意識を刈り取らずに放置していた理由だが……」

 その技量の高さにタバサが驚いている間にも、男は戦いの後始末を行っていた。


『杖を折られたヤツは大人しく地面に伏せてな。じゃねぇと意識を刈り取るぜ?』

 戦いの序盤にて男が叫んだこの声に従って、地面に伏せたまま身体を震わせているメイジの数は九人。男に意識を刈り取られ、完全に意識を失ったままでいるのが十二人。

 そして先程地に落とされた者の内、呆然と男を見上げて座り込んでいるのが二人と、落下時の衝撃で何所か痛めたのか苦しげに呻いている者が九人。


「自分を害しようとしたヤツを医務室に連れてってやるほど、俺はお人好しじゃねぇ」

 数歩足を進め、呆然と見上げるメイジの一人に短剣を突き付けた。

「お前等は運搬係だ。奇しくも一人当たり二人の人間を運べば事足りる」

 男の脳裏に、昔読んだ漫画の一場面が思い浮かぶ。

「良かったな、運ぶのが死体じゃなくて」

 調子に乗って付け加えた台詞は、思った以上の効果を上げた。

 地面に伏せていたメイジ達が一斉に立ち上がり、そのまま背を向けて逃げ出――

「因みに、自分の仕事も満足に出来ねぇ馬鹿をそのまま行かせる程、俺が甘ちゃんだと思わねぇ方が良いぜ?」

 ――そうとして、その身を凍らせた。




 杖を拾い直した者は魔法で、杖の見付からぬ者は無理な体勢で二人の人間を抱えて、貴族達はこの場を去っていった。

 これくらい怖がらしときゃ復讐する気も起きねぇだろう、と誰も居なくなった広場を見ながら、男が安堵に息を吐く。

 かさり、と男の後ろで草を踏む音がした。

 訂正。誰も居なくなった、では無い。まだ彼女が居た。

「お姫様、お怪我は御座いませんか?」

 戦闘で気分が昂ぶっていた事もあり、男は仰々しい仕種でタバサへと振り返った。

「……誰?」

 男に向けられたのは三つ。彼女の杖と、誰何の声と、そして困惑と警戒が入り混じりながらも氷の鋭さを失わぬ強い視線。



 男が思ったのも同じく三つ。

 蒼髪なんて実際にいたら気持ち悪いと思っていたけど、そうでも無かったこと。

 その鋭い視線が、小説を読んで"雪風"に抱いたイメージとピッタリであったこと。

 そして、訊かれた事は多々有れど誰もが勝手に納得し、結局こちらに来て一度も名乗ったことの無い自分の名前のこと。


「斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ」

 サイト・ヒラガじゃねぇからなと、この世界の誰にも解らない注釈を付けて、男はニッカと笑みを溢した。


 ハルケギニアに来て――正確には召喚されて――十日と半分。男は――斉藤は漸くこの世界で、自分の名前を声にしたのだった。





[4574] 第二話「二度手間は無駄にはならない(前編)」
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/11/01 22:55

 朝の訪れを肌で感じ、シルフィードは目を覚ました。

 身体を地に擦るようにだらしなく寝床を抜け出し、口を開けて大きな欠伸をする。

 木の枝に止まった小鳥が数羽、ちちちと鳴き声を上げたかと思うと、素早い動作でシルフィードの口へと飛び込んだ。そしてそのまま、口中でシルフィードの歯の隙間に詰まった食べかすを啄ばみ始める。

 シルフィードに驚いた様子もなく、また小鳥も慣れた様子で口中を跳ねていることからも分かるが、この光景は彼女達の日常である。

 そして、彼女の口内から昨晩の食べかすを全て取り除くと、役目を終えた小鳥達はあっさりと飛び去っていった。

 小鳥の影を追うようにその身を起こしてから、シルフィードは再度欠伸をする。


「ふあぁ、今日も良い風なのね」

 森中の湿気を払いながら、鱗を優しく撫でていく風。彼女が此処に自身の住処を用意したのは、この風が気に入ったからでもある。

「確かにコイツは良い風だ。森の中でこんな風が吹く場所を知ってるなんて、流石は風韻竜ってとこか?」

 目を細め、朝の風を存分に堪能していたシルフィードは、その声にはっ、として振り向いた。

「お早う、シルフィード」

 シルフィードに声を掛けたのは一人の男。厚手のパーカーに黒い染みの付いたズボン。加えて顔の半分を包帯で覆うという奇妙な出で立ち。

 驚きで身動きの取れないシルフィードを余所に、男――斉藤はシルフィードの下へと歩み寄り、右肩に乗せた朝の収獲物をどさりと落すのだった。


「ふ、風韻竜ってなんのことかしら? きゅい」

「いや、恍ける気ならここで喋んなよ」

 呆れた様子で答える斉藤に、遅れ馳せながら自身の失策に気付くシルフィード。

「きゅ、きゅい。思わず喋っちゃったのねー!!」

 朝の森にシルフィードの叫びが木霊した。


 その声を五月蝿いなぁ、と思いながらも、騒ぐ彼女を無視して斉藤は朝食の準備に掛かる。

「そもそも、寝言で喋り捲りだったぞ」

 集めておいた薪に火を点けながら斉藤が付け加えると、彼女の混乱はもっと大きくなった。

 彼女の寝言を思い出しながら、先程仕留めた鹿の皮を剥いでいく。

 召喚十日目の夜は、シルフィードの小屋を利用させてもらった。率先した朝食の準備と何時もより多い肉の量は、斉藤なりのお礼でもある。


 暫くして混乱から立ち直ったシルフィードは、切り分けた肉に胡椒を振っている斉藤におずおずと顔を近付ける。

「お、お願いがあるのね」

「ん? 別に誰かに喋る気はねぇから安心して良いぜ」

 不安げに切り出されたシルフィードのお願いは、全てを言葉にする前にあっさりと叶えられた。


「ほんと? ほんと? 良かった、安心したわ! 一時はどうなることかと思ったもの!」

 シルフィードは嬉しくなって、きゅいきゅいと鳴きだした。

 悩みがなくなって、次に彼女の頭を占めるのは食べ物のこと。斉藤の前で火に掛けられる、鹿肉のことだ。


「ねえ、それごはん? ごはん? わたしも食べる、おにく食べる。るる。るーるる」

 別に分ける気だったから構わないのだが、既に鹿肉を自分の物だと認識しているのは如何なんだろう。

 そんな事を考えながら、上機嫌に歌いだしたシルフィードを見上げて、斉藤が微笑を浮かべる。

 ハルケギニアに来て十一日目の朝は、昨日とはうってかわって優しい雰囲気で始まった。





 『最初のゼロから間違えて』
 第二話「二度手間は無駄にはならない(前編)」





『斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ』


 斉藤の名乗りを聞いたタバサの反応は簡単だった。

 杖も、鋭い視線も、斉藤へと向けたまま。何も変わることなく。

「……誰?」

 再度、誰何の声を上げただけである。


 当然と言えば当然か。先程の自分の行動を省みて、斉藤は胸中で自嘲した。

 この世界に来て初めての名乗りということもあり、一人で勝手に盛り上がっていたが、そもそもタバサが訊きたかったのは"名前"ではない。斉藤が"何者"であるかなのだ。

 確かに名前も、個人を示す要素の一つだ。ルイズやキュルケ辺りならば、その立派な家名が身分を――彼女達が何者であるかを証明したことだろう。

 しかし生憎と、"斉藤平太"の名はこの世界において未だ何の意味も持っておらず、それだけでは何も伝えることが出来ない。

 この場合のタバサに対する正答は別にある。


 つまり――

「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔だ」

 ルイズの使い魔。それが現在、トリステイン魔法学院において、最も解り易く斉藤平太を表す言葉だった。


 視線はそのままに、タバサが杖を下げる。警戒は解かれぬものの、敵でないことは納得してもらえたようだ。

「さっきのは……何?」

 疑問さえ解かれれば、さっさとこの場から立ち去るのだろう。

 杖を下ろしたタバサを見て、そんな事を考えていた斉藤だったが、奇しくも予想は裏切られてしまった。


 少々意外な反応だが、訊かれたからには答えてやらねばなるまい。

 尤も、斉藤は先程の騒動に関して何も知らないため、どうにも答えようがないのだが。

「さっきのが何かって…… そりゃ俺の方が聞きてぇ。俺は巻き込まれただけだし、騒動の原因は襲われてたお姫様の方が良く知ってるんじゃねえの?」

 取り敢えず、知らないの一言で終わらせるのも如何かと思い、質問を返しておく。

 しかし、訊いておいて何だが粗方の予想は付いていた。嫉妬に駆られた馬鹿共が集まって、馬鹿の名に相応しい馬鹿げた暴走をしただけだろう。


 とは言え、出来るなら知っておきたいこともある。

 一年の初めの頃ならいざ知らず、何故二年の今頃になってあれだけの人数に襲われることになったのか。

 それに確かな理由があると言うのなら、斉藤としては是非とも知っておきたい話だ。多分、今後の身の安全にも関わってくると思われる。


 しかし残念なことに、斉藤のその疑問が解消されることはなかった。

「違う、貴方のこと」

 何故なら、斉藤は根本的にタバサの質問の意味を取り違えていたからである。

 訂正が入ったからには、話を戻すわけにはいかない。いや、戻せないわけではないが、少なくとも今戻すのは礼儀に反することになる。


「……俺のこと?」

 しかし"俺のこと"とは如何いうことだろう。

 小説で読む分にはそこが魅力なのかも知れねぇけど、無口少女との会話ってのは地の文が無いとちょっと困るな。

 言葉の意味がいまいち理解できなかった斉藤が、そんな栓無いことを考えていると、タバサの方も質問の意図が伝わっていないことに気付いたらしい。

「あの動きは、何?」

 別の言葉で質問が言い直された。しかし相変わらず言葉は少ないし、説明は足りていない。

 とは言え、斉藤も馬鹿ではない。前後の状況や言い直された質問の意味を考察し、タバサが先程の平民離れした実力――ガンダールヴの力について質問しているらしいことには気付くことが出来た。


 尤も、素直にその答えを教えてやる義理はない。よく考えれば、彼女はまだ斉藤に名乗ってさえいないのだ。

 既に原作を通してタバサの性格を知っているとは言え、初対面でこれだけ失礼な態度を見せる彼女に、好感を抱けと言う方が無理だろう。

「見たままだよ、お姫様。見えない力を使うお姫様達より、ずっと解り易い」

 肩を竦めながら煩わしげな態度を装って答えてやると、タバサは暫し閉口した。

 少しは自分の失礼さに気付いてくれたのだろうか。

 何やら考え込むように口を閉じたタバサを見て、斉藤はそんな事を思ったのだが、タバサはあくまでマイペースだった。


「その呼び方は止めて欲しい」

 敵意をぶつけ、疑問をぶつけ、そして今度は要望をぶつけ。自分のことばかりで相手のことを考える様子も無い。

 そんなタバサを、斉藤は"振り"ではなく本当に煩わしく思った。

「そうは言うがね、お姫様。俺はお姫様の名前なんざ知らねぇし、お姫様の家庭教師でもねぇし、お姫様の部下でも、召使いでも、ましてや奴隷でもねぇんだ。聞いてやる義理もねぇよ」

 これだから貴族ってヤツは、と頭を抱えながら、斉藤はタバサに背を向ける。


 ルイズには暴力を振るわれるばかり、出会う貴族は皆平民を人と思わぬ輩ばかり、そして止めはタバサのこの態度。原作では平民寄り、と言うか貴族らしさの欠片も無いタバサでもこれだ。

 もう貴族には何の期待もするもんじゃねぇなと、自身がタバサと何の関係も結んでいない――友好的な態度さえ示していないことを棚に上げて、斉藤は溜め息を吐いた。

 後ろでタバサが何か言葉を発した気がしたが、斉藤は無視して広場を後にするのだった。




 午後は金策、と言うか職を探して回ることにする。

 しかし斉藤は使い魔である。時間的拘束の多い仕事に就くわけにはいかないし、学院外の仕事に就くわけにもいかない。となれば、就ける仕事は自ずと限られてしまう。

 そもそも、学院内で平民が行える仕事なんて、警備か使用人くらいである。


「おいおい、んな錆びた剣持って一人前気取りか? 身体鍛えて出直してくるんだな、ガキ」

 そして今、衛兵の詰所から追い払われて、斉藤は当ての半分を失った。

 実力を聞かれれば、ここにいる兵士全員を伸してみせるだけの実力を示すことも出来るのだが、話を聞かれるまでもなく追い出されてしまっては如何しようもない。

 無理やり実力を示せないこともなかったが、それ以前にこの職場で働きたいと思えなかったため、斉藤はあっさりと引き下がった。


 よく考えてみれば分かることだが、ドット級の生徒一人でも、並みの兵士一人分以上の戦闘力を有している。

 それ故か、この学院の衛兵に期待されているのは兵士としての実力ではなく、雑事をこなす能力と警報としての役割だけのようだった。

 素人目でも判断出来るほど、兵士の錬度は低く、また態度も良いとは言い難い。

 貴族を前にすれば、勤勉な振りとおべっかを用意してみせるが、普段は口悪くだらけきっている。一目でそんな兵士が集まった職場なのだと理解できた。

 我侭かもしれないが、こんな場所で働きたいと思うほど、斉藤は愚かではない。


 そして残る当てである使用人だが、こちらも恐らく期待出来ないだろうと斉藤は考えている。尤も、その理由は衛兵とは大きく異なり、性別的な問題なのだが。

 学院の雑事は、その殆どが女性によって行われている。厨房の料理人や力仕事を行う者以外で、斉藤は男の使用人を見掛けた記憶がない。多分、そう言う方針なのだろう。

 因みにメイドと言えば本来は年嵩のいったご婦人が行うものだと思うのだが、学院長の趣味か、はたまたファンタジーの不思議なのか、学院のメイドは全てうら若き女性が務めていた。

 そういう訳で、斉藤がこの仕事にありつける可能性は無いに等しい。

 とは言え、他に当ては無い。駄目で元々、仕事を貰えれば御の字と考えれば良いだろう。

 大した希望も持たずに、斉藤は使用人の待機部屋を訪ねることにした。



「あ、使い魔さん。丁度良かった」

 待機部屋の扉を叩こうとしたところで、背後から声が掛かった。

 斉藤が振り向けば、銀盆を持ったシエスタが笑顔でこちらに近付いてくる。

「私、これから休憩なんです。良かったら一緒にどうですか」

 シエスタが掲げた銀盆の上には、ティーポットと大きな皿が一枚。皿の上には、何やら大量のお菓子が乗っていた。


 中世の時代様式に近いこの世界で、使用人に休憩時間があると言うのは意外だった。だが、無いよりは有った方が良いのは当然である。

「コレ、貴族連中の余り物?」

 これ幸いとシエスタの誘いに乗った斉藤は、現在彼女に包帯を換えて貰っていた。

「はい。放っておいたら捨てるしかないので、メイド達みんなのおやつにしてるんです」

 本当はいけないんですけどね、と可愛く舌を出すシエスタの顔は、斉藤の顔から三十センチも離れていない。

 乾いた血で張り付く包帯をゆっくりと優しい手つきで剥がしていく。


 因みに、待機部屋にいるメイドはシエスタだけではなかった。

 そしてその内の一人が、包帯の外れた斉藤の顔を見て顔を顰める。

「うっわ~。何て言うかひどいよ、あんたの顔」

「まぁ、確かに自分でも、美形とは言い難い顔だと思うけどよ? 酷いとまで言うか普通」

 冗談交じりに斉藤が答えると、メイドはスコーンを齧ったまま、何度か目を瞬かせる。


「あはは。面白いね、あんた」

 傷口に消毒液の付いたガーゼを押し当てるシエスタの横に移動し、メイドは再度、斉藤の顔を覗き込んだ。

「うん、前言撤回。顔立ちは悪くないし、中々良い男だと思う。背はちょっと低いけどね」

「そいつはどうも。アンタも顔立ちは悪く無いぜ? スタイルはシエスタ程じゃねぇけど」

 斉藤はそう言ったが、彼女のスタイルは悪くない。寧ろシエスタより胸は大きく、魅力的だとも言える。


「え~、でもあったしー、シエスタよりも胸、大きいよ?」

 メイド本人も自身の胸の大きさを自覚しているらしい。小首を傾げながら、胸を寄せるように腕を組み、胸の谷間が斉藤の視界に入るように身体を傾ける。

 あからさまでありながら媚を感じさせず、極自然に色気を振り撒くその仕種は、上品な"商売女"と言った風情だ。

「そ、れ、と、もー、遠回しなシエスタへの告白?」

 とは言え、好奇心の塊のような瞳と、何でも直ぐに色恋沙汰へと繋げる思考回路は、やはり年頃の少女なのだろう。


「馬鹿言うな、出会って一週間も経たない女を口説くほど飢えてねぇよ。つーか、男がみんな胸だけに魅かれると思うな」

 仕様も無い話題に頭を抱えようと手を上げ、しかし包帯を巻くシエスタの邪魔は出来ぬと、中途半端な位置でぷらぷらと揺らす。

 そのまま揺らしているのも癪なので、手を伸ばしてスコーンを掴んだのだが、巻かれる包帯が丁度口元に掛かり、結局スコーンを掴んでもそのままぷらぷらと揺らすだけに留まった。

 その様子に二人のメイドが吹き出し、それを見た斉藤の口元がへの字に変わったのは、言うまでもない。



「そう言えば、あんたも黒髪だよね」

 ようやっと包帯が巻き終わり、斉藤が手にしたスコーンを口にしたところで、メイドが手を伸ばしてきた。

「だから何? っつか触んな」

 幼子にするかのように頭に置かれた手を、斉藤が振り払う。

 そうして遅れ馳せながら気付いた。このメイドもシエスタや斉藤と同じく、髪の毛の色が黒い。

 おまけに斉藤やシエスタよりもずっと長い。後ろでアップにしているため気付き難いが、下ろせば多分腰くらいまであるのではなかろうか。


「私も不思議に思ってたんです。黒髪ってトリステインじゃかなり珍しいんですけど、使い魔さんって何処の生まれなんですか?」

 薬箱を片付け、ティーポットにお湯を注いでいたシエスタが会話に参加する。

「ん? 言ってもシエスタ達の知らない場所だからなぁ」

 意外に日本と言ったら祖父繋がりで反応が返ってくるかもしれないが、面倒なので言う気はない。

 それよりも、斉藤は先程のシエスタの言葉が気になった。


「黒髪ってそんなに珍しいか? 欧州でも地中海沿岸にゃあブルネットも多いから、それ程でも無いと思うんだけど」

「欧州? 地中海沿岸?」

 質問の仕方が悪かったらしい。聞いたことも無い単語に、メイド二人が揃って首を傾げる。

 斉藤は気まずげに、あー、と唸ると言い直した。

「こっちで言うと、ガリアとかロマリアとか南の方。割と少なくない数の黒髪がいると思うんだけど」

 今度はちゃんと通じたらしい。小さく頷いたシエスタが顎に指を当てながら答えてくれる。


「確かにそうみたいですけど…… やっぱりトリステインでは見掛けないみたいです」

「それに、店に来るお客さんにもよく言われるけど、あたし達みたいな深い黒色って向こうでも見掛けないんだって」

 おまけにあったしってば、色は黒でも髪質は細くてさらさらだしー、とさり気なくメイドが自慢話を始めだす。

 そんなメイドの話を右から左に聞き流し、斉藤は紅茶を一口飲んでから呟いた。


「……店?」

「ああ、使い魔さんは知らなくて当然ですよね。この娘は助っ人なんです」

 斉藤の言葉に気付いたシエスタが、その意味を説明してくれた。


 何でも、春の使い魔召喚の儀式前後は、使用人の仕事が激増するらしい。

 どんな大きさの、どんな使い魔が、どれだけの数召喚されるのかは、結局召喚して見なければ分からない。事前の準備にも限界があり、仕方なしに毎年この季節は臨時の使用人を雇っているのだそうだ。


 彼女はその内の一人であり――

「"魅惑の妖精亭"の看板妖精、ジェシカでーす」

 ――原作にも登場する、あのオカマ店長スカロンの娘、ジェシカであった。


 そして――

「ああ、あのオカマ店長の娘か……」

 あまりに強力なキャラ設定を思い出し、ついつい口を滑らせた斉藤を責めるのは、些か酷と言えよう。

「あれ、あんたパパのこと知ってるの?」

 加えてジェシカやシエスタに、それに反応するなと言うのも、また無理な話なのだろう。

 あー、やべぇ、どうやってお茶を濁すかなぁ。そんな事を考えながら、斉藤はティーカップに口を付けた。

 生憎と緑茶と違い、彼の手の中の紅茶には濁り一つありはしなかった。




 結局、先程の話については"お茶を濁す"ことが出来ず、適当な理由を付けて"誤魔化"した。

 因みに誤魔化すの語源は幾つか有るが、今回斉藤が行った対応は、俗説だと思われる"胡麻化す"と言うのが最も近い。

 "護摩かす"のように全てを嘘で塗り固めるのではなく、"胡麻菓子"のように中身の無い見掛け倒しをするのでもなく、口からこぼれ出る嘘という粗悪な油を、ほんの少しの真実という胡麻油でそれらしく"胡麻化させて"もらった。

 簡単に言えば、斉藤の世界にも知られる程度にスカロンが有名である、と説いたのである。スカロンの強烈なキャラ設定は"ゼロの使い魔"を知る人間にとってそれなりに知られている筈なので、嘘は言っていない。


「ふーん、そっか。パパってばそんなに有名なんだ」

「有名っつーか、一度目にしたら、あのキャラは忘れられねぇって話だろ」

 ジェシカと一緒に学院の廊下を歩きながら、何度もしつこく話を蒸し返す好奇心の権化へと呆れた声を返す。

 因みにシエスタはもういない。夕食の仕込みがあるとかで、既に二人の下を離れていた。

 では何故ジェシカと一緒にいるのかと言うと、金策について尋ねてみたところ、当てがあるから付いて来て、と言われたからである。

 道すがら、矢鱈とこちらを詮索してくる好奇心の塊には些か辟易しているが、そんな事情なので無視も出来ない。


「それよりも、看板娘なアンタが店を留守にして大丈夫なのかってことの方が、俺は気になるんだけど?」

 訊かれてばかりなのもいい加減うんざりなので、斉藤はこちらからも質問を振ってみる事にした。

 原作のチップレースでは、週に百エキュー以上稼いでいた彼女だ。斉藤には、態々トリステイン魔法学院にまで彼女が働きに来る理由が解らなかった。ひょっとして、トリステイン魔法学院の給金はもの凄く高いのだろうか。


「ジェシカ。"あんた"じゃないわ、ジェシカよ」

 すると何故か、質問と関係ないところで彼女が怒り出す。

 妙なところに拘るヤツだな、と思わないでもなかったが、そこは譲れないとばかりに太い眉を吊り上げるジェシカを前にして、意味も無く断る必要も、彼女の心証を悪くする理由も、斉藤には無い。

 頷いて、呼び名を訂正する。するとジェシカもまた頷いて、話を本筋に戻してくれた。


「魅惑の妖精亭は今臨時休業中なの。一月くらい前に店で暴れた馬鹿貴族がいてさ。店は半壊、おまけに女の子達も何人か怪我しちゃって……」

 その貴族が暴れる原因に直接関わっていたのだろうか、ジェシカの表情が少し曇る。

 尤もジェシカは商売女だ。すぐさま瞳の曇りを消し、明るい調子で後を続けた。

「あたしらはメイジじゃないからさ。店の修理には一ヶ月以上掛かるし、その間も生活費は掛かるって事で、こうして働きに出てるワケ」

「へー、貴族を相手にするってのは大変みてぇだな」

 その表情の変化に気付いていても、斉藤は気付かぬ振りをして話を続ける。

 それこそが大人のマナー。正直に言うと、指摘すると面倒なことになり兼ねないと思っただけなのだが。

「ツカイマほどじゃ無いけどね」

 斉藤の包帯を指差しながら微笑する彼女の姿は、成る程、男が揃って粉をかけようとするのも無理はない、と思わせる程には魅力的だった。




「ここよ」

 本塔を入って直ぐ、ジェシカは振り向いて右側の壁を指差した。

 そこには、壁に備え付けられた黒板と、沢山の紙が画鋲で留められたコルク製らしいボードが存在している。

 斉藤はそれを見て、大学のバイト募集などに使われる連絡用ボードを思い出した。

「本格的な仕事から、小遣い稼ぎのお手伝いまで、雑事依頼用の掲示板ね」

 ジェシカの説明によれば、事実そういった用途に使われている物らしい。


 しかし困ったことになった、斉藤はまだハルケギニアの文字を読むことが出来ない。

 見る限り、漫画やアニメにあるような奇々怪々な文字ではなく、アルファベットに近い文字形態であるようだが。

「読めねぇ」

「あ、ゴメン。ツカイマってば、文字読めなかったんだ」

 思わず漏れた呻き声が聞こえたのだろう。ジェシカが気まずそうな顔をして、斉藤の顔を覗き込んだ。

 その顔に、疑問の色は浮かんでいない。

 貴族ならいざ知らず、平民が文字を読めないというのは、それほど有り得ない話ではないようだ。



 現状の斉藤にとっては予測しか出来ないことであったが――

 文明の発達は中世レベルである。只生きる為だけに日々を暮らす平民が、文字に触れる機会はそう多くない。

 職業選択の自由など殆ど無く、親から子へ職業が口伝されていくことが常識のこの世界において、文盲とはそれ程恥ずかしい話でも無かった。

 平民の為の学校など存在しないし、偶に見かける日本で言う寺子屋のような存在があったとしても、それは生活の合間に行われるものであり、ある意味、知識欲を満たす為の"娯楽"であった。

 とは言え、首都トリスタニアも近く、貴族達が暮らしの主となる魔法学院では、文盲と呼べる存在は殆どいない。

 貴族は平民の事情を知ることなく書置きを残すし、平民は在籍出来ないとは言え"学校"である。文字も読めぬ輩を積極的に雇う訳も無く、また読めぬ者をそのままにしておく様な薄情者達が集まる場所でもない。



「でも珍しいよね、ここで暮らしているのに文字が読めないなんて」

 斉藤の顔色から、特に気にしていないことを見取ったのだろう。表情を明るい色に戻してジェシカが訊ねてきた。

「ツカイマの職業って何? 庭師とか木こりとかそういうの?」

「何って、使い魔だけど」

 この女は何を言ってるんだ、と斉藤は思わず首を傾げた。

「いや、名前じゃなくて職業を訊いたんだけど」

 この男は何を言ってるんだ、と今度はジェシカが首を傾げた。


 首を傾げたまま、二人は揃って沈黙する。

「……ああ、そう言うことか」

 認識の違いに気付いたのは斉藤が先だった。

「"使い魔"ってのは俺の名前じゃなくて職業。使い魔、ファミリア、サーヴァント。オーケー?」

 そういや、今の言葉の繰り返しってジェシカの耳にはどう翻訳されて届いてんだろ。そんな事を考えながら、斉藤はジェシカの勘違いについて弁明する。


「えっ、でもさっきシエスタが"ツカイマさん"って」

「人間の使い魔なんて、この学院じゃ一人だけだかんな。それだけで俺を指すことはみんな分かってんだろ」

 そう返しながら、斉藤はふと疑問に思った。


 シエスタは"使い魔"さんと言っていたのに、"ツカイマ"と言う人名で認識されたのは何故だろうか。

 "ツカイマ"と言うジェシカの口の動きは、確かに"つかいま"と喋っているようだった。

 ハルケギニア語は知らないが、例えばシエスタが"使い魔=ファミリア"みたいに認識して喋っていたなら、口の動きも当然"つかいま"ではなく"ふぁみりあ"となっていなくてはおかしい。

 近藤とコンドーム、大輔とダイス、冗談とジョーダンみたいに、使い魔とそれに相当するハルケギニア語の語感が近かったりするのだろうか。

 使い魔の翻訳機能について、調べてみるのも面白いかもしれない。

 尤も、生きる為に必須となるガンダールヴの力や、この世界における魔法についてを調べる方が先なのだろうけど。


「……ってば。ねぇ、ちょっと聞いてる?」

 肩を掴まれて、斉藤は顔を上げた。何だか傷付いた様子のジェシカが、こちらを見詰めている。

「わりぃ、考え事してた。で、何の話?」

 下らない考えに没頭し過ぎていたらしい。斉藤は素直に謝罪する。


「もう、そこまで怒らなくても良いじゃない。変な名前で呼んでて悪かったわ、ゴメンなさい」

 思考に耽っていた斉藤の様子を、怒って気を悪くしたとでも思っていたのだろうか。言葉自体は乱暴だが、真面目な口調でジェシカが謝罪する。

「いや、気にしてねぇ。ホントに考え事してただけだって」

 てかそれが失礼ならシエスタの呼び方はどうなのよ、と言葉には出さずに斉藤は思った。


「良かった。じゃ、改めて自己紹介。あんたの名前は?」

「斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ」

「サイトー・ヒラタ。サイトー・ヒラタ…… サイト。うん、サイトね。分かった、よろしく」

 料理を舌先で味わうように、暫し名前を口中で転がしていたジェシカが、大きく頷いてから笑みを浮かべた。

 サイト・ヒラガじゃねぇからなって台詞は、タバサじゃなくてこっちに付けるべきだったか。

 ジェシカの笑顔を見ながらそんなことを考えた斉藤だったが、別に名前に拘りがある訳でなし、サイトと呼ばれようが何の問題もない。


「おう、宜しく。それじゃ、申し訳ねぇけど端から順にコイツを――」

「年齢は?」

 読んでくれねぇか、という斉藤の言葉を遮って、ジェシカが次の質問をする。その瞳はきらきらと好奇心に輝いていた。


「細かい説明文は良いから題名だけでも――」

「年齢は? ちなみに、あたしは十六歳ね」

 再度、言葉が遮られる。どうやら、質問に答えてくれるまでこちらの要望に応えてくれるつもりは無いらしい。

 人の弱みに付け込むのは女の子として如何なものか。そんな疑問が斉藤の頭に上らないでもなかったが、まあ仕方が無い。

「二十一だ。分かったらさっさとコイツを――」

「家族は? やっぱり妹とか弟とかいるの?」

「……いや、やっぱりって何だよ」

 どうやら暇潰しの道具にされようとしているらしい。

 結局、彼女の話に長々と付き合う破目になり、斉藤が掲示板に何が書かれているのかを知るまでには二時間近い時間が必要となった。




「じゃあ、あたしはそろそろ仕事に戻るね。サイト、楽しかったわ」

「そりゃそうだろ。これだけ好き放題質問されて、詰まらなかったって言ったら殴んぞ」

 ノリ的に言えば、女子高生の会話に長々と付き合った後の気分なのだろうか。

 精神的なエネルギーをジェシカにごっそりと持っていかれた気がする。まあ、少なくとも斉藤の個人情報が大量に持っていかれたのは確かだ。


 だが――

「流石は魅惑の妖精亭の看板娘ってところか。会話にゃ随分疲れたが、不思議と悪い気分じゃねぇよ」

 確かに随分と疲れさせて貰ったが、スポーツの後の爽やかな汗のように、精神的な老廃物を一緒に持っていって貰えたような、心地良い疲労だった。


 そんな軽い調子で出された斉藤の言葉に、ジェシカは目を細めてにっこりと笑う。

「あはは、ありがと。お店は十日後に再開するから、良かったらサイトも来てね」

「商売上手なこって。ま、残念ながらこの通り文無しでね。そんな店に行く余裕はねぇな」

「サイトだったら、チップなしでもあたしが付きっ切りでサービスしてあげる。だから絶対来てね」

 ウインクしながら身体を前屈みにして小首を傾げる。そんな可愛いポーズをきめるジェシカに、斉藤は苦笑を返すしか出来なかった。

 成る程、確かに看板娘だ。こんな風に言われたら、誰だってチップを用意して店に遊びに行くことだろう。

「期待すんなよ」

「いやよ、楽しみに待ってるから。必ず来てね、サイト」

 絶対だからね、と手を振りながら去っていくジェシカは、清々しいまでに"魅惑の妖精"の名にピッタリだった。



「こりゃ、本性知らない奴が、俺に惚れてるかもって思うのも無理ねぇな」

 去っていくジェシカの背中から目を離し、斉藤は手元の手帳に目を落した。

 そこには、ジェシカに読んでもらった掲示板の内容から、使えそうなネタをピックアップしたものが書かれている。

 ボールペンの存在や正確に書かれた罫線、それから角張った漢字や丸っぽい平仮名が混在する日本語の存在に、いちいち驚いた様子で興味深そうに質問するジェシカの様子を思い出し、斉藤の口の端が自然と吊り上がる。

「いかん。騙されてる騙されてる」

 頭を軽く振って意識を切り替え、斉藤は掲示板の前から離れた。

 ジェシカの所為で大分時間を喰った。金策の当ては出来たが、今日はもう時間的に無理だろう。



「さて、どうすっかな」

 本塔の前で伸びをすると、頬に冷たいものを感じた。

 空を見上げると、またポツリと、今度はおでこに滴が落ちる。雨だ。

 ついに恐れていた事態が起きたようだ。ハルケギニア召喚から、初めての雨である。

「今日、シルフィードに住居の当てを見付けて貰えなかったら、危なかった」

 額の滴を除け、斉藤は走り出す。

 そろそろ夕方だ。シルフィードの住処にお邪魔する前に、ルイズの戻りを待たなくてはいけない。

 ガンダールヴの力を使って全力で走ったら、どっかの漫画みてえに雨を避けられたりしないもんかね。

 後ろ腰の短剣を握りながら、斉藤はそんな事を思うのだった。




 髪に重たく染み込んだ水の感触を振り払い、引き攣るように痛む頬の感触に顔を顰め、木々の枝を掻き分ける。

 シルフィードに乗らずに行くのなら、学院の壁を飛び越えて徒歩で五分ほど。

 森が少しだけ深くなる、そんな場所にシルフィードの住処はあった。


「よう、シルフィード。早速だけど今晩お邪魔して良いか」

「きゅい、きゅい!」

 大きく頷いて、斉藤のためにシルフィードが場所を空けてくれる。

 雨合羽代わりに身に着けていた葉の多い木の枝を外し、まず数少ない日本の思い出、ドラム缶バッグを小屋の中に放った。

 ドラム缶バッグと言っても、旅行用の大型の物ではない。斉藤が通学用に使っていた小型のドラム缶バッグだ。当然、教科書類もそこには入っている。

 多少高くても防水性のしっかりした物を買っておいて良かったと、斉藤は妙なところで自分の過去を賞賛した。


「きゅい?」

 食べ物でも入っていると思ったのだろう。シルフィードがバッグに鼻先をくっ付けて、何やら首を傾げている。

「ん? 残念だがシルフィード、そいつにゃあ食べ物は入ってないぜ」

 小屋の右外側、風向きの為か殆ど雨が落ちることが無い場所で、斉藤は焚き火の準備を始めた。

 シルフィードが意図して作ったものかは知らないが、火を点けるには御あつらえ向きの場所である。

「食べ物はこっちだ。焼肉ばかりじゃ流石に飽きただろうけど、鍋がねぇから汁物も作れねぇんだ。我慢してくれよな」

 斉藤が手に持つのは、既に羽毛を毟られた四羽の鳥。

 どの鳥も、雨の日は巣穴に閉じ篭っていた為に、意外と捕まえ易かったのは嬉しい誤算だ。


 シルフィードが上機嫌で小屋から首を出し、斉藤の手元をじっと見詰める。

 暫くするとシルフィードが歌いだし、その歌声は雨音に交じって、森中に響く優しい音楽となる。

「ああ。いい加減、野菜が食いてえ」

 濡れた服を乾かしながら、揺らめく炎をぼんやりと見る。

 屋根がなければ生命力を奪うこの雨も、屋根があれば気分を落ち着かせる癒しの空間を生み出すだけ。

 何時しかシルフィードの歌声に合わせて、斉藤も歌を口ずさんでいた。


 召喚十日目の夜は、こうして更けていく。





「きゅ、きゅい! お姉さま、駄目! それは駄目!!」

 翌朝、斉藤は耳元で鳴り響く大声に目を覚ました。

 周囲はまだ暗い。腕時計を見れば、時間はまだ朝の四時を少し過ぎた辺り。早朝も良いところである。

「駄目! 駄目なのね!!」

 上体を起こし、斉藤が音の発生源を見やれば、そこには横たわる巨大な幼竜の姿。

 因みに瞳は閉じている。どうやら寝言のようだ。

「こらちびすけ! いい加減その手を除けるのね。今なら冗談で済ませてあげるわ。きゅい!!」

 何やら必死な声が笑いを誘うが、一体シルフィードは何の夢を見ているのだろうか。


 そんなシルフィードの口からは、定期的に寝言が発せられ、一向に止む気配はない。

 言葉の端々から、タバサと食事の取り合いをしている夢を見ているのだと判断できたが、竜と食事の取り合いなんて、一体彼女はタバサにどんなイメージを抱いているのやら。

 シルフィードの寝言を聞かされ続けた所為もあり、斉藤の眠気はすっかり飛んでいた。

 そもそも朝の四時とは言え、睡眠時間は八時間近く取れているので寝足りないという事もない。

 日本と違って夜更かしをするには灯りを用意しなければならず、また夜更かしをする理由も無いため、夕食後に一息吐いたら早々に床に就かせて貰ったのだ。

 お陰で体力の回復は勿論、気力の充実具合も昨日までの比ではない。やはり仮宿とは言え、屋根の下で眠れたのは大きい。



 外を眺めてみれば、雨は既に止んでいるようだった。

 斉藤は立ち上がり、寝乱れた服装を正すと、立てかけておいた剣を手に取って小屋から出る。

「おーにーくー」

 寝床を借りた身で、気持ち良く寝ているシルフィードを起こすのも気が引けた。

 昨日までと違って気力の方も随分と回復させて貰ったことだし、少し早いが朝食の準備に取り掛かるとしよう。

「何か大物にでも挑戦してみるかな」

 短剣を後腰に引っ掛けながら、斉藤は未だ薄暗い森中へ向けて歩を進めるのだった。




 樹海や密林なら兎も角、自分はもう普通の森で迷子になることは無いだろう。

 十日近く、自身の命を賭けて森での狩りを続けてきた斉藤は、何時しか森に足を踏み入れる度にそう思うようになった。

 それが自惚れかどうかは判らない。

 だが、ガンダールヴの力を当てに闇雲に森中を駆け回った当初に比べれば、遥かに"森"と云うものを斉藤は理解していた。


 例えば獣道。

 自身の足跡に限らず、何かが通ればその痕跡は残る。ましてや毎回の様に獣が通ったならば、自然と葉々の間に隙間は出来るし、地面の草も周囲と異なった姿になる。

 それが獣道なのか、それとも只単に木々の隙間なのか。

 文字通り命を賭してその目を磨いてきた斉藤には、今では全てを――通った獣の種類までも判断出来る。

 当然自分の通って来た道も容易に判断できた。そしてそれは、過去の自分の痕跡すらも例外ではない。

 故に斉藤は、森で道を見失うような事態には陥らない。


「コイツもガンダールヴの恩恵だったりするのか。それとも都会では発見できなかった俺の才能なのか……」

 獣道の途中に仕掛けた罠に嵌ったウサギを腰に吊るしながら、斉藤は自嘲気味に呟いた。

 鉈一本で、ルーンから狩りの知識まで貰えるとは思えない。恐らくは後者なのだろう。

 だとしたら、現代では役に立たない無駄な才能ではないか。それとも自分は、この世界に来ることを運命付けられていたのだろうか。

 斉藤は思った。歪んだ運命に弄ばれ、辿り着いた不幸の中で見付ける才能だなんて、一体どんな皮肉なのだと。


 そして今も、落した肩と視線の先で斉藤は何かを見付ける。

 真新しい足跡と糞。ウサギのような小さなものではない。人よりは小さいだろうが、蹄を持ったそれなりの大きさの動物。

 痕跡を追って斉藤が走り出す。

 しなやかな筋肉の動きが作り出す、無駄な音を排し且つ小回りの利いた独特の走法。これも、この十日間で斉藤が身に付けたものの一つだ。

 奇しくもそれは狩人や暗殺者のような、気配を絶つことに長けた者達が修練の果てに得る動きにそっくりだった。



 そして二十分程後、ウサギとは段違いに大きい鹿を仕留めた斉藤は、シルフィードの小屋に戻る途中でそれを見付けた。

「っと、こっちはやべぇな。今は行くべきじゃねぇ」

 斉藤の視線の先にあるのは大きな足跡と、丸太のような太い何かが引き摺られた跡。

 その痕跡に沿って周囲の枝葉が押し退けられ、何本かの枝はぷらりとだらしなく折れ下がっている。

 折れた枝に顔を近付ければ、新鮮な木の内皮の匂いが鼻腔に届く。折れてから、それ程の時は経っていない。

 直接対峙したことはない、と言うか今まで避けてきたのだが、これは恐らくオーク鬼の仕業だろう。


 他の獣のように縄張りはあるようだが、他の獣と違って決まった経路を辿る習性はない。また、糞尿をマーキングに使う様子もなく、棍棒らしき何かを引き摺っているがそれ以外に道具らしき物を使っている痕跡はない。

 生物としてはどの程度の知性を持ち合わせているのだろうか。猿程度か、それ以上か。

 生物学を専攻していた訳ではないが、当にワンダリングモンスターその物な"亜人"と言う生き物には、少しばかり興味を引かれる。

 当然まだ死にたくないので、無闇に近付くような真似はしない。尤も、最悪これから"彼ら"に関わらなくてはいけなくなる事態が訪れるかも知れないとは思っているのだが。




 オーク鬼の痕跡を避けるように大きく回り道をした斉藤がシルフィードの下に帰り着いた頃には、既に彼女は起きていた。

 その後のやり取りには思わず笑みがこぼれたが、シルフィードにとっては大真面目な話だったようで、些か申し訳ないと思わないこともない。

「お兄さま、お兄さま。シルフィはお姉さまを迎えに行くまでまだ時間がありますわ。だからお話! お話して!」

 シルフィードの方は、斉藤が彼女の正体を黙っていてくれると聞いた途端に上機嫌になり、普段碌に話せなかった反動なのか、食事中も途絶えることなく喋り続けていた。


 こんな調子では、どんどん他の人間に正体がばれていくのではないか。

 そんな心配をしたりもするが、その時はその時で原作外伝のように適当に誤魔化すのだろう。

 斉藤としては、苦労するのが自分でなければ割かし如何でも良い。彼女が風韻竜として捕らえられることがない様に、釘くらいは刺してやる心算だが。


「シルフィード。上空三千メートル、じゃなかった三千メイル以内で喋んな。俺が黙っててもお前がばらしたら意味がねぇ」

 そういう訳で、シルフィードに適切な助言をしてあげたのだが。

「きゅ、きゅい。酷い! 酷いわ! お兄さまもお姉さまと同じこと言うの? 失礼しちゃう! 恐れ多くも風韻竜であるシルフィがそんな間抜けな真似するわけないの!」

 シルフィードは甚くご立腹の様子だった。

「いや、現に俺にばれたじゃん」

「そ、それはアレなのね。シルフィの慧眼が、お兄さまは黙っていてくれる良い人だと見破ったからなのね」

「あー、さいですか」

 言っても無駄な人間、じゃなかった風韻竜に無駄な労力を掛ける義理はない。


「兎に角、ばれないように少しは気を付けてくれよ。俺はお前が捕まるのなんて見たくはねぇからよ」

 だから、忠告は一言だけに止めておいた。

 その忠告をシルフィードが聴いてくれるとは思えないが、言わないよりはマシだろう。それに。

「お兄さまもお姉さまも心配性! でも心配してくださるのは嬉しいわ!」

 騒がしいけれど、こうやってシルフィードと話しているのは悪い気分ではない。

 この機会を自分から消してしまうのも少しだけ勿体無い気がして、強くは言い出せなかった斉藤だった。





 そして学院の朝が始まり――


『いい? 絶対に喋るんじゃないわよ。アンタは只黙って私の後に付いて来ればいいの』

『教室では大人しく壁に張り付いてなさい。絶対に騒ぐんじゃないわよ。いいわね、犬』


 そんな命令を、暴力と一緒に一方的に叩き込まれた。誰に叩き込まれたかなんて、今更言うまでも無いだろう。

 斉藤の顔に巻かれた包帯は、早くも血と泥に汚れてしまっている。

 昨日換えたばかりだけれど、もう交換した方が良いのだろうか。

 ルイズの後に続いて教室の扉を潜りながら、斉藤はそんなことを考えていた。


 因みに、シエスタから念のために貰った予備の包帯は、現在斉藤の左手に巻き付けられている。

 これは左手に怪我をしている訳ではなく、ルーンを隠すための物だった。

 理由は簡単。毎度毎度、短剣を握る度にところ構わず光を放つルーンが、狩りにおいては非常に邪魔だったからである。

 予備の包帯の置き場所に迷っていたこともあり、これ幸いと左手にぐるぐると巻いてルーンを隠し、今に至ると言う訳だ。



 初めての教室だからと言って、別段何か感慨を抱くような事はない。

 自席へ向かうルイズから離れ、斉藤は黙したまま、一人壁際へと移動する。

 壁に背を預けた斉藤は、突き刺さる生徒達の視線を遮るように目を閉じた。

 周囲のざわめきも興味の視線も、斉藤にとっては如何でも良いことだ。厄介ごとにならない程度に無視させて貰えればそれで良い。

 誰が好き好んで、見下すことしか出来ない貴族共と関わろうなどと思うのか。

 貴族に対しては最早悪感情しか持ち合わせていない。全身から拒絶の空気を放ちながら、斉藤はただ時が過ぎるのを待った。



「おい、お前」

 とは言え、空気の読めない奴と言うのは何処にでも居るわけで。

「聞いているのか。平民風情が僕を無視するな」

 目を閉じて周囲から壁を作っていた斉藤に、話し掛ける生徒がいなかった訳ではない。

「いいか平民。僕は言ったぞ、無視をするなと」

 大抵は、黙して語らずな態度を崩さなければ問題なかった。

 そうすれば、貴族共は一方的に暴言を吐いて去っていく。

 暴言を聞き流すことなど実に容易い。そもそも、語彙能力の少ない幼稚な罵詈雑言で傷付くほど、斉藤は柔ではない。


 しかし――

「デル・ウインデ」

 今度は少しばかり状況が違っていたらしい。生まれたつむじ風に前髪を切られ、斉藤は嫌々ながら目を開けた。


 斉藤の前では、一人の男が席に座ったまま杖を構えていた。

 指揮棒状の杖には何やら微細な装飾が施されてあり、所々に貼り付けられた銀が鏡のように光を反射している。

「貴族の技に恐れをなしたか? ふん、最初からそういう態度を取っていれば良いんだ」

 視線を巡らせば、彼を遠巻きに様子を窺っている者が数名。しかし他の生徒達は皆前を向き、何やら真剣な面持ちで手元の紙へとペンを走らせている。

「光栄に思うが良い。貴族であるこの僕が直々に、平民であるお前に命令してやろうというのだ」

 教卓では教師らしき人物が舟を漕いでおり、黒板には大きな文字で何かのタイトルと数字、それから数行毎に区切られた大量の文章が書かれていた。



 筆記テストの真っ最中、なのだろうか。

 しかし監視役の教師が居眠りとは、カンニングをしてくれと言っているようなものだ。

 斉藤はそう思わないでもなかったが、周囲の生徒達がカンニングしているような様子はない。

 貴族の矜持か、はたまた斉藤が気付かないだけで実は魔法的な監視機構が存在しているのか。

「何、僕の命令は簡単なことさ。下賎な平民でも容易くこなせる仕事の筈だよ?」

 それに、気付けば周囲に居たはずの使い魔たちが居なくなっている。

 ひょっとしたらカンニング防止対策の一環で、皆教室から追い出されたのかもしれない。


「本当なら、僕が何か言う前に君が行動して然るべきだったのだけれど……」

 壁際で目を閉じる人間が、周囲の回答を覗き見たりしないだろうと判断されていたのなら、目を開けた今、余計なトラブルを呼び込む前に教室から立ち去るのが吉ではないだろうか。

「でも僕は優しいからな。君みたいな平民に僕ら貴族のような機知は望まない」

 一人上機嫌に話を続ける男を無視して、斉藤は壁から背を離した。

 教室の出入り口までに誰かの答案を覗けるような場所はない。これなら問題は無いだろう。


「つまりだね。僕はペンを落したんだ。さっさと拾ってくれ…… っておいお前、何処へ行く!」

 声を一段大きくして、貴族の男が斉藤を呼び止める。

 斉藤は首から上だけで振り向き、三秒ほど動きを止めた。

 その間に頭の中で、訪れるトラブルの大きさを天秤に掛ける。その結果、この男は無視することが決定された。

 テストの最中なのだから、教室を出れば追い駆けてくるようなことは無いだろう。教室外で――正確にはルイズの前以外で襲ってきたというなら、その時は遠慮なく潰すだけだ。

 今の斉藤にとって、怖いのはメイジとのトラブルではなく、ルイズの理不尽な暴力混じりのヒステリーである。


 全く、難儀なルーンを刻まれたもんだ。

 教室の扉を潜りながら、斉藤は左手の甲を――包帯の裏にあるガンダールヴの印を睨み付けるのだった。




 何故、あれだけ理不尽な扱いを受けながらも使い魔でいることを辞めないのか。

 二次創作に於いてしばしば論じられるこの問題の回答を、斉藤は身を以って知るに至った。

 一文で表すならば、ルイズに対する悪感情がルーンの存在によって打ち消されている、と言ったところだろうか。

 零の使い魔の原作に於いて"平賀才人"がそうであったのかを知る術はないが、少なくとも"斉藤平太"はそんな感じだった。


 軽く説明をしよう。

 例えば女性が、痴漢だと勘違いして暴力を振るった後に、誤解だと気付いて謝罪したとする。

 その時、暴力を振るわれた相手の中で、その女性はどのような評価を受けるだろうか。

 大抵の場合、謂れのない暴力を受けたことで大きなマイナス評価が下され、その後に謝ってくれたとしてもマイナスを打ち消すには至らず、結局マイナスな評価で終わってしまうことだろう。

 誠心誠意謝る姿が好印象になり、総合評価がプラスに変わる者もいるだろうが、そんなケースは稀な筈である。


 しかし、その稀有な"雨降って地固まる"現象にも似た何かが、ルイズと斉藤の間では起きてしまう可能性がある。

 先の例に沿った場合、ルーンの力に拠って暴力を受けた際のマイナス感情が打ち消され、謝罪の際のプラス評価のみが残ってしまうのだ。

 感情は打ち消されても理性ではどれだけ理不尽か分かるため、盲目的にマイナス評価がゼロにならないことがせめてもの救いである。

 原作において、平賀才人がひたすら暴力を受けながらもルイズの可愛い一面に素直に惚れ続けることが出来たのは、この辺りが原因なのでは無いだろうかと、斉藤は睨んでいた。


 因みに斉藤は現在まで、ルイズに謝られるどころか好感度が上がるような出来事は何一つ起こっていないため、プラス評価についてどうなのかは分からない。

 ひょっとしたらプラス評価は本来の数倍に増幅され、程なくして平賀才人のようなベタ惚れ状態になったり、シェフィールドのような盲目的な忠誠を誓ったりしてしまうのかもしれない。

 尤も、平賀才人のようにルイズが元々の好みに近かったり、ジョセフのような仕える者としての格の大きさをルイズが持っているような事もないため、そんな事態にはならないだろうとは思っている。

 少なくとも、あのセックスアピールの欠片も無いルイズの身体に欲情するような異常性がルーンに依って埋め込まれぬ様にと、そこだけは真摯に願う斉藤である。




 そんな風に、斉藤が自身に刻まれたルーンに対して考えを巡らせていた一方で――

 貴族の男は屈辱に身を震わせていた。

 平民が、平民如きが。先程から彼の頭の中では、その言葉だけが渦巻いている。

 彼に限らず、貴族のプライドは総じて高い。斉藤にとっては馬鹿げた話だろうが、時に自身の命さえ賭けられるほどに高い。

 屈辱にその顔は赤く染まり、強く噛み締められた奥歯がぎしぎしと音を立てる。


『テストの最中なのだから、教室を出れば追い駆けてくるようなことは無いだろう』


 先程の斉藤の予想を裏切って、彼が暴れ出すのも時間の問題なのかも知れない。

 しなった定規が限界を超え折れるように、彼の理性も怒りという負荷に折れようとしたその瞬間。

 彼の怒声とは違う、大きな音が教室に響いた。

 鳴ったのは大きく椅子を床に擦る音。

 その音で理性を取り戻し、暴れるタイミングを失った怒りが静かに貴族の男の胸の底に沈んでいく。

 音の発生源は教室の右後方。

 未だ血走る眼で、貴族の男は苛立たしげにそちらを見遣った。

 音を鳴らしたのは、蒼髪の少女。

 黙して語らず、他者に関わらずな、そんな少女だった。



「……タバサ?」

 少女の隣に座っていた赤髪の女性は、普段見せぬ親友の行動に大きく目を見開いた。

 その声を無視して蒼髪の少女――タバサは教卓へ向けて歩き出す。

 途中でちらりと、先程まで怒りに震えていた貴族の男へと視線が向けられる。

 尤もそれは一瞬のことで、その事に気付いた者は教室内では一人だけ。赤髪の女性――キュルケだけであった。


(何だか、すっごく面白いことが起こりそうな気がするわ)

 貴族の男が震えていた理由も、親友が態々大きな音を立てて立ち上がった理由も、瞬時に思い当たったキュルケが唇の端を大きく吊り上げる。

 滅多に無い、タバサに関する"面白そうなこと"である。これを逃す手はない。

 漸く目を覚ました教師に答案用紙を押し付けるタバサを見ながら、キュルケは素早く考えを巡らせた。


 答案用紙の空欄はまだ半分近く残っている。

 キュルケにとってはテストの点数など如何でも良いのだが、欄を全て埋めなければ教師が受け取ってくれないだろう。

(ああ、もう面倒ね)

 面白いことが実際に起こるまであと何分、それとも何秒だろうか。

 さっさとテストを終わらせて自分も向かわなくては、と何時に無く真剣な様子で、キュルケはテスト問題に取り掛かるのだった。




 一方こちらは、教室から少し離れた広場の一角。

 適度な暖かさと爽やかな風が通る、休憩にはピッタリの場所。

 斉藤はシルフィードに寄り掛かりながら、大きく足を伸ばして寝転んでいた。

 流石は風韻竜。シルフィードが休んでいる場所では、何時だって気持ちの良い風が吹く。

 昼寝でもしたいところだが、寝過ごすと血の雨が降る可能性が高い。残念ながら今回は見送るしかないだろう。

 しかし、ぽかぽかと暖かい隣りのフレイムの存在が、なんとも眠気を誘ってくれる。


「吹く風枝を鳴らさず。雨塊を破らず。平和ってのは良いもんだ」

 眠気に負けぬように斉藤が声を発すると、隣りのフレイムが目を開け、きゅるきゅると鳴いて空を見上げた。

「ん? ああ、違う違う。実際に雨が降ってきたわけじゃねぇよ。さっきのは諺だ」

 するとフレイムは、今度は斉藤の顔を見上げてきゅるきゅると鳴く。

「風が静かで枝が揺れない。雨は静かに降って土を傷めない。天下泰平を説いた言葉だな。まっ、実際はトリステインどころかハルケギニア全土を見渡しても天下泰平なんてありゃしないんだけど」


 そのまま休んでいると眠気に負けそうなので、斉藤は寄り掛かっていた身体を起こして柔軟運動を始める。

 そんな斉藤の横で、またフレイムがきゅるきゅると鳴いた。

「残念だがフレイム。俺はお前等の言葉なんて解んねぇよ」

 返す斉藤の言葉に、フレイムが首を傾げる。

 トラみたいに大きく、おまけに姿はトカゲなのだが、フレイムの仕種は意外と愛嬌があって可愛いかった。

「ん。まぁでも、お前等が人間の言葉を理解してることとか、知能はそれなりに有ることとかは知ってるから。言いてぇことくらいは察せると思うぜ」

 違ってたら馬鹿みたいだけどな、と斉藤がフレイムの顎下を撫でる。


 室内で飼われている理由もあるのだろうが、フレイムの鱗はシルフィードのそれとは違ってかなりキレイだった。

 もしかしたら、俺等の中でお前が一番恵まれてんのかもな。

 気持ち良さそうに目を細めるフレイムを見ながら、斉藤がそんなことを思っていると――


 フレイムと、それから周囲で同じように昼寝していた使い魔達が一斉に顔を上げ、視線を一方へと固定した。

 自分が近付いた時は皆眠ったままだった為、使い魔達のいきなりの行動に斉藤は一瞬目を疑ってしまう。

 きゅる。

 フレイムの鳴き声で我に返った斉藤が皆と同じ方向に視線を向けると、蒼髪の少女が近付いてくるのが見えた。

「おい、シルフィード。お前のご主人様が来たみたいだぞ」

 他の使い魔達と違って無防備な寝姿を晒したままのシルフィードの横腹を叩き、斉藤が彼女を起こす。

「きゅい?」

 億劫そうに目蓋を持ち上げたシルフィードの瞳がタバサの姿を捉え、しかしすぐに閉じてしまった。

「お、おい。シルフィード?」

 お前睡眠時間は十分の筈だろ、と呆れる斉藤を余所に、タバサは彼らのすぐ近くまで辿り着いていた。






「違う、用があるのは貴方」

 何やら呆れた様子でシルフィードを起こそうとしている男に、タバサは声を掛けた。

「俺?」

 すると男――サイトーはシルフィードを叩く手を止め、その場で勢い良く立ち上がる。

 そしてズボンに付いた汚れを払うと、胡乱気な視線をこちらへと向けて来た。


 その顔に有るのは警戒、いや敵意だろうか。先程まで周囲に向けていた笑顔は欠片も残っていない。

 随分と嫌われたものだ、とタバサは思った。

 しかしそれも当然のこと。

 助力をして貰いながら礼も言わず、あまつさえ杖を向けた相手を嫌うなと言う方が無理な話だ。

 況してや相手は一流のメイジ殺し。

 数多くのメイジと戦って生き延びてきたであろう彼ならば、杖を向けられることの意味を、たとえ弱い魔法であっても喰らえば容易く致命傷となる平民であるが故に、強く受け取ったことだろう。



「謝罪と、それから礼を言いに来た」

 その言葉に、サイトーは訝しげに眉を寄せる。

 尤も彼の顔はその殆どが包帯で覆われている為、実際に眉が寄せられたのを見たわけではない。顔の筋肉の動きから、眉が寄せられたであろうことが分かっただけだ。

「用件は分かった。んで?」

 腰に手を当て、サイトーがさり気無く剣の柄に右手を近付けて警戒を露にする。

 が、一応話は聞いてくれる心算らしく、それ以上のアクションは起こさずにいてくれた。


「まず昨日、助力してくれた事に感謝を」

 言葉と共にタバサはサイトーに向けて頭を下げた。

「そしてその後、貴方に杖を向けてしまった事に謝罪を」

 そしてもう一度、頭を下げる。

 彼は謝罪を受けてくれるだろうか。

 タバサはサイトーをじっと見詰めた。サイトーもこちらを見返し、しかし何も答えずに沈黙を保つ。



 一秒、二秒、三秒……

 そのまま十秒ほど経っただろうか、サイトーは何かに気付いたように表情を変え、唐突に言葉を紡いだ。

「あー、そう云うことね」

 "そういうこと"とは如何いうことだろう。タバサは思わず首を傾げたが、サイトーがそれを教えてくれる様子はない。

 一人で勝手に何度か頷くと、サイトーは気楽な様子で手を振った。

「了解だ、お姫様。謝罪を受け入れよう」

 謝罪を受け入れてくれた事は、素直に喜ばしいことだと思う。

 しかし、"お姫様"という言葉にタバサの胸が少し痛んだ。


 その呼ばれ方は好きではない。

 過去の自分を、幸せなあの頃の思い出を、そして"あの日"の光景を、まざまざと思い出してしまうから。

 今の自分をどれだけ強固な殻で覆っても、過去の自分は柔らかいままで、容易く傷付けられてしまうことを知っているから。

「タバサ」

 だから"彼女"は名乗りを上げた。

 今の自分は"タバサ"なのだ。過去の"シャルロット"という名の無力な少女ではない。

 冷たく氷のような意志と、吹き荒ぶ風のような激情を内に秘めた、復讐という名の"人形"なのだ。


「二つ名は"雪風"。雪風のタバサ」

 二つ名の如き温度のない瞳と、二つ名の如き白一色の無表情で、タバサはしっかと前を見据えた。




[4574] 第二話「二度手間は無駄にはならない(後編)」
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/11/08 22:30

 話は戻るが、それは本日朝の出来事。

 朝食を終えた斉藤が、地面の穴に食べ残しの骨を埋めている時のことだった。

「お兄さま、お兄さま!! お兄さまはお姉さまのこと知ってる? お姉さま、シルフィのご主人様!!」

「ん。ああ、お姫様のことか。一応面識はあんな」

 昨日の一幕を思い出し、斉藤は顔を顰めた。


 そう言えばコイツのご主人様なんだっけと、今ではタバサよりもシルフィードの印象の方が強い斉藤がぼんやりと思っていると。

「お姫様? 違う、違うわ! あんなデコすけとお姉さまを一緒にしちゃ駄目なの!! きゅいきゅい」

 "お姫様"の言葉に、タバサの従姉姫を思い出したらしいシルフィードが憤慨の声を上げる。

「デコすけ……ね」

 斉藤は訂正を加えず、何となくその言葉を繰り返した。


 シルフィードは馬鹿ではない。しかし、利口でもない。

 遠からず斉藤のことをタバサに話すだろうし、賢いタバサはシルフィードが斉藤と"言葉"を交わしている事にも気付くだろう。

 あまり余計なことを話すと、斉藤についてタバサが妙な勘繰りをする可能性がある。

 尤も、斉藤はタバサの事情を殆ど把握している為、勘繰りではなく正しい推量だとも言えるのだが。


 兎も角、余計なお喋りからタバサに情報が伝わるのは不味い。

 だから当然、シャルロットだとかガリアだとか北花壇騎士だとか、そういった"直接的な言葉"は出さないように注意していた。

 それさえ守っていれば、面倒なことにはならないだろうと考えていたのだ。

 それさえ守っていれば、シルフィードからタバサに不味い情報が伝達されることはないだろうと。


「一応同じ血族だからな。案外前髪払ってみたら、お前のご主人様も額が広いのかも知れねぇぜ?」

「きゅ、きゅい! お姉さまのサド具合を考えてみたら、強ち有り得ない話でもないのね……」


 しかし、斉藤は忘れていたのだ。

 使い魔からその主へ情報が伝達される方法は、言葉だけじゃないことを。

 使い魔の目と耳は、その主にも繋がっていることを。

 つまり、今の会話を彼女が聞いている可能性があることを。





 『最初のゼロから間違えて』
 第二話「二度手間は無駄にはならない(後編)」





『二つ名は"雪風"。雪風のタバサ』


 いや知ってるよ、と思わず言ってしまいそうになるのを抑え、斉藤は頷いた。

 名乗ってもらったというのは、歩み寄ってくれている証拠なのだろうから嬉しい限りだ。前触れもなく、いきなり名乗られたのには些か吃驚したが。

 しかし、相変わらず彼女の行動は分かり辛い。

 先程も、謝罪するなどと言うからゴメンなさいとでも言うのかと思いきや、頭一つ下げずに「謝罪を」と頷いただけである。

 恥ずかしいことに、斉藤はそれが謝罪の言葉だと気付かず、十秒ほど次の言葉を待ってしまった。

 政治家じゃあるまいし、その謝罪方法は如何なものか、と思わなくもない。


 そしてまた沈黙が続く。

 まだ何かあるのだろうか。

 用も終わっただろうに、タバサが立ち去る様子はない。

 この場にいる殆どの――タバサ自身とシルフィードを除く全ての――瞳に見詰められながら、タバサは動じた様子も見せずに斉藤を見詰め返している。


「んで、お姫様。他にも何か用事でも?」

 沈黙に負けた斉藤が、タバサに伺いの言葉を掛けると。

「……タバサ。雪風のタバサ」

 タバサが再び名乗りを上げた。

「いや、知ってるよ」

 今度は抑えられず、斉藤の口からその言葉が漏れる。


 そしてまた――沈黙。更に十秒。

「んで、お姫様。他にも何か用事でも?」

 今度の言葉は沈黙に負けて出たわけではない。

 無口なタバサの思惑を考え、しかし答えが出ずに面倒臭くなった斉藤の、呆れた声である。

「……タバサ。雪風のタバサ」

 そして、三度繰り返される彼女の名乗り声。

「いや、だから知ってるって」

 何これ、一体何所のバイツァ・ダスト? と、斉藤は呆れを通り越して何だか切なくなった。



「違うわよ。この子はアナタに名前で呼んで欲しいって言ってるの」

 そんな中、唐突に救いの声が――女性の笑い声と共に斉藤の耳に入る。

 斉藤が顔を向けると、木の幹に手をかけ、可笑しそうに腹を抱えている女性が一人。

 赤色の髪に褐色の肌。グラビアモデルを思わせる豊満な肉体と、仕種一つ一つから醸し出される妖艶な雰囲気。

 名乗られずとも、彼女が誰か分かってしまった。

 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。

 ゲルマニアからの留学生にして、タバサの親友である。


 キュルケの登場で、斉藤の足元にいたフレイムが、寝そべっていた身体を持ち上げて移動を始めた。

 あらフレイムも居たの、と言いながら、タバサの隣に立ったキュルケが、その頭を優しく撫でる。

 その序でに、身を屈めたキュルケがタバサの肩に顎を乗せながら軽くウインク。

「こういう時はもう少し愛想を良くしなくちゃ。嫌われちゃうわよ?」

 しな垂れ掛かるキュルケにタバサがちらりと、一瞬だけ視線を返す。

「あら、邪魔する気なんかないわよ。ちょっと手助けをしてあげようって思っただけ」

 タバサが言葉を発した様子はなかったのだが、流石は親友と言うべきか、キュルケは視線の意味を正しく受け取っているようだ。

「ねえ、アナタ」

 そして、タバサに体重を預けたまま視線を前へと戻したキュルケが、手に持った杖ごと斉藤を指差し――


 パシッ。


 ――たところで、タバサがその杖を払った。

 えっ、と意外に可愛い子供のような声を漏らしたキュルケが、タバサの行動を視線で問う。

「杖を向けるのは危険」

 無表情のまま、タバサがそれだけを口にした。





「危険? もう、心配性ね。別に私は襲ったりなんかしないわよ」

 何時にないタバサの反応に、キュルケは思わず笑みを溢した。

 ホント、早々にテストを切り上げて正解だったみたいね。

 杖を向けただけで過剰に反応する親友の姿を、キュルケは素直に可愛らしいと判断する。


「ねえ、アナタ」

 そして、タバサの要求通りに杖を胸元に仕舞ってから、視線だけを男の方へと向けた。

 背はそれ程高くない。流石にタバサほど低くはないが、男の癖にキュルケよりも少し低いくらいだ。

 また、貴族の男共よりは幾分逞しそうなものの、全体的に細身な身体つきは、少しばかり頼りない印象を抱かせる。

 キュルケにしてみれば、顔の包帯は別として、それこそ何所にでも居そうな平民の男にしか見えなかった。

 だが、あのタバサが気にするくらいなのだから、外見とは関係ない部分で注目すべき所が有るのだろう。

 そんなことを思いながら、探る視線を隠すことなく、キュルケはじっと斉藤を見詰める。


「……何だ?」

 貴族が怖いのか何所となく警戒した様子で、しかし敬語を使わないぶっきらぼうな口調で、目の前の男が答えた。

「名前を、教えて下さるかしら」

 本当はこの子に直接紹介して欲しいんだけど、とタバサの頬を突付きながら訊ねると。

「斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ」

 ぶっきらぼうな態度は崩さぬものの、男はきちんと答えてくれた。

「サイトーと、名前で呼んでもよろしくて?」

「残念だがお嬢様。俺の国では性を先に、名を後にするのが習わしでね。サイトーは名前じゃねぇよ」

「あらそう? じゃあヒラタと、そう呼ばせてもらうわ」

 キュルケがそう言うと、好きにしろ、と言わんばかりにヒラタが肩を竦めてみせた。

 貴族に媚びへつらう様子を見せないこの男は、成る程、顔の包帯以外でも、少しばかり他の男とは違うようだ。


「それじゃヒラタ、アナタはこの子と如何いうご関係?」

 使い魔に平民が呼び出されたという噂話や、ルイズが教室に連れて来たことから、ヒラタが"何者"であるのかはおおよそ予想が付く。

 しかし、ただでさえ他人と関わろうとしないタバサが、何故ヒラタと関わろうとしているのかは予想が付かない。

 それ故、ヒラタにそう訊いてみたのだが。

「赤の他人だ」

 返ってきた言葉は素っ気なかった。

 ヒラタもこの子と同じで素直じゃないのかしら。

 そんな感想を抱きながら、キュルケは背後からタバサを抱き締めるように、彼女の首に腕を回す。

「でも名前は互いに知ってるのよね? この子が名乗るのって珍しいのよ」

「……じゃあ知り合いだな」

 包帯で顔を隠しているものの、ヒラタの表情は解り易い。彼は如何にも"メンドくさげ"だった。


 キュルケの好奇心が、むくむくと鎌首を擡げてくる。

 ヒラタの態度と、さっきから至近距離でひしひしと向けられてくる、この場から去れというタバサのメッセージ。

(何だかとっても、面白いことが隠れてそうだわ)

 タバサの視線はあくまで要望で、別に怒っているわけではない。もう少しこの場に居ても大丈夫だろう。



 しかし、どうしてヒラタなのだろうか。

 この冴えない男の何所が、タバサの関心を惹いたのだろうか。

 キュルケの疑問はますます深まり、そして好奇心は止まるところを知らない。

 次は何を訊こうか、何を訊いたら一番面白いのか、キュルケは考えを巡らせる。

「ねえヒラタ。アナタとこの子の馴れ……」

 考えに考え抜いて、結局全て訊いてしまえと発した質問の途中で、キュルケは思わず口を噤んだ。

 ヒラタが突然視線を上に向けたからだ。

 周囲を見渡せば、ヒラタだけでなくフレイムも、寝転んでいた全ての使い魔達が、皆その視線を上へと向けていた。

「何? ……フクロウ?」

 全ての瞳に見詰められながらフクロウは舞い降り、ヒラタの横に生えた木の枝に止まった。


 フクロウが枝に止まったことで、使い魔達は警戒を解き、再び思い思いにくつろぎだす。

 そんな中、違う動きをするのが三人。いや、二人と一頭。

 まずタバサが、抱き締めていたキュルケの腕を素早く振り解き、歩き出した。

 続いてシルフィードが、だらだらと寝転び続けていた身体を起し、翼を大きく広げる。

 そして最後にヒラタが、初動は遅くとも誰より素早い動きでもって、駆け出した。

「お姫様、シルフィード、一分待て。すぐ戻るから、出発すんなよ」

 振り向きざまにその一言を残して――





 待てと言われたものの、タバサには待つ気などない。

 彼女はフクロウから書簡を受け取り、素早く目を通した。

 任務の内容は書かれていない。ただ一言、宮殿に来いとだけ書き記されている。

 書簡を丸め、ポケットに押し込んだところで、フクロウが一声鳴いて空へと飛び去っていく。

 フクロウが学院の壁を越えるまで目で追った後、タバサは無言でシルフィードの背に乗った。

 しかし、何時ものようにすぐ飛び上がるかと思ったシルフィードが、今日に限っては飛び上がらない。

「出発」

 杖で鱗をコツコツと叩き、タバサがシルフィードを促す。

「きゅ、きゅいきゅい」

 シルフィードが一瞬キュルケに目を向け、次いでタバサに視線を向けて首を振る。

 どうやらこの使い魔は、自分の命令よりもサイトーの言葉を優先しようとしているらしい。


「……出発」

「きゅ、きゅいきゅい」

 コンコン、鱗を叩く杖の振り方を、少し大きくする。

「…………出発」

 ガスガス、鱗を叩く杖の勢いを、もっと鋭くする。

「きゅ、きゅいきゅい!」

 何時もなら、痛いよう、と泣き言を言わせるほどの強さになっても、しかしシルフィードは動かない。


「ねえタバサ。出掛けるの?」

 何時の間にか近くまで寄って来ていたキュルケから、シルフィードを叩いているタバサに声が掛かった。

 タバサはキュルケの方を向いて無言で頷き、そして直ぐにシルフィードを叩く作業に戻る。

「ヒラタを待たなくて良いの?」

「……必要ない」

 サイトーは何かを知っているようだったが、彼の身がヴァリエールの使い魔である以上、問い詰めることは何時でも出来る。

 それよりもタバサとしては、北花壇騎士の仕事を完璧にこなすことの方がずっと重要だ。


「悪い、待たせた」

 苛立ったタバサがやおら立ち上がり、全力で杖を振り下ろそうかという所でサイトーが戻って来る。

 タバサは無言でサイトーを睨み付けた。

 どんな思惑があったのかは知らないが、使い魔の我侭が助長されたのはこの男が原因なのだから。

 しかし、タバサの責める視線も何処吹く風といった様子で、サイトーは手に持つ籠を差し出した。

「今から出発したら、途中で昼だろ。弁当代わりにコレ食わせてやってくれ」

 蔓で編まれたその籠の中には、下拵えの済んだ肉が詰まっている。

 このまま飛んだらこぼすかと思えば、良く見ると籠には蓋が付いており、おまけにシルフィードの首に括り付けられる様に帯状の紐まで用意されていた。


「きゅい、きゅい!!」

 感激した声を上げているシルフィードを余所にタバサが無言でいると、それを了承と受け取ったのか、サイトーはシルフィードの首に籠を括り付けてしまった。

「味付けは済んでっから焼けば人間でも食えるぜ。じゃ、無理すんなよ」

 サイトーが手を振ると、先程まで動こうとしなかったシルフィードがあっさりと飛び上がる。

 タバサには、それが少しだけ癪だった。

 この怒りは上空三千メイルに達してから、シルフィード相手に晴らすことにしよう。

 あっと言う間に小さくなった人影から目を離し、タバサはシルフィードの背中に座りながらそんなことを思った。





 一方地上では、手を振っていた斉藤が、遅れ馳せながら自分の行動の危うさに気付いたところだった。

 よくよく考えてみれば、タバサ達が何処へ行くのか完全に知っているような口振りだったな、と。

 ただ単に、何処か出掛けるならシルフィードの昼飯を用意してあるから持ってくと良い、位にしておけば良かったか。

 そんな事を考えながら、飛び去るシルフィードの影を目で追っていると。

「ねえヒラタ、タバサが何処へ行くか知ってるの?」

 隣りに立ったキュルケが、興味深げに斉藤の顔を覗き込んできた。


「……何で?」

「だって昼までまだ大分あるわよ。竜で行くんだもの。目的地が余程遠い所だと知ってなければ、"途中で昼"なんて言い方しないわ」

 案の定、何も知らないキュルケにもそう受け取られていたらしい。

 腕時計を見れば、時刻は十時三十分をちょっと過ぎたところ。

 昼までの約九十分で、竜の移動速度ならば五百キロメートル近い距離を移動出来るだろう。


 ――待て、十時三十分?

 斉藤の思考が、そこで一気に切り替わった。

 テストの際の授業時間は、通常の授業時間とは違うのかもしれない。

 しかし、もし普段の授業と同じだった場合、休み時間に入ったルイズが教室を出た可能性が高い。

 教室を出て、自分が居なかった場合のルイズがどのような行動を取るか。

 その結末までを瞬時に悟った斉藤は、包帯の下の顔色を青くした。


「悪いな、お嬢様に割く時間はもう無いみてぇだ」

「は? 何よそれ」

 突然の言葉に納得がいかないらしいキュルケを余所に、斉藤は教室に戻るべく踵を返した。

 一歩目を踏み出し、目を見開く。視線の先にルイズを発見した。距離はそれ程離れていない。

 二歩目は急停止に使った。ルイズがこちらに杖を向けていたからだ。おまけに口元は、何やらモゴモゴと動いている。

 三歩目で後方へ跳び退る。しかし残念ながら、収束した魔力が生み出す光点が眼前に生み出されたのを、斉藤の類い稀なる動体視力が捉えてしまった。


 爆発から顔を庇うよりも、隣りに立つキュルケを突き飛ばすことを、斉藤は無意識で優先した。

 俺って意外とフェミニストだったのか。

 引き伸ばされた一瞬の時間の中で、膨れ上がる光点を見ながら、斉藤はそんなことを思うのだった。





 タバサが居なくなった途端につれない態度に変わったヒラタ。

 そのヒラタに、突然突き飛ばされたかと思えば、続いて聞こえた爆発音。

 爆発によって生まれた空気の膜と、赤い飛沫がキュルケの肌を打つ。

 文句を言おうと口を開けたはずなのに、キュルケの口から吐き出されたのは音のない呼気だけ。

 キュルケの舌はこの一瞬、動き方を忘れてしまったのだ。

 しかし荒事に強いその思考と、驚きに見開いたその瞳は、一瞬たりとも止まることはない。


 ヒラタの顔が爆ぜていた。

 爆ぜたと言っても首から上が吹き飛んだのではない。吹き飛んだのはヒラタの顔――その顔を覆っていた包帯。

 頬に飛んだ飛沫が、水ではなく血であることを、キュルケは確かめるまでもなく理解する。

 見なければ良かった。

 荒事に慣れていたキュルケでさえ、そう思わずにはいられない。

 それほどまでに、爆発を受けたヒラタの顔は凄惨だった。


 好戦的な性格をしているものの、キュルケは別に戦いが好きな訳ではない。

 しかし少なからず、降りかかる火の粉を払うために人を焼いてきた。焼き殺したことも……ある。

 だが違った。

 ヒラタの肌は、炎で炙って出来る爛れた痕とも、高温で焼いて生まれる焦げ痕とも違っている。

 火傷でありながら、その痕は生々しく、ささくれ立ち、血の滲みが生まれていた。

 キュルケの使えるどんな魔法を用いたところで、この傷痕は作れない、作りたくない。

 破壊を根源とする"火"の属性を持ったキュルケでさえ、そう思うほどの凄惨な傷痕だった。



 獣のような咆哮が広場に響く。

 爆発音とこの咆哮――地面を転がるヒラタの口から漏れる絶叫に、周囲の使い魔達が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 近付く者は唯一人、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと呼ばれる少女だけ。

「うるさいわ」

 そしてルイズは、有ろうことか転がるヒラタの顔を踏み潰した。

 ヒラタの絶叫が潰され、くぐもった呻き声に変わる。

「ちょ、ちょっと。ルイズ?」

 余りの扱いに、思わずルイズを呼び止めたキュルケだったが、ルイズの昏い瞳の色に思わず一歩後退る。


 言葉にすることなんて多分一生ない――と言うかしたくない――けれど、キュルケはルイズが嫌いではなかった。

 寧ろ、腹の底に何かを溜め込んだ他の貴族たちと違って、真っ直ぐに言葉を放つ彼女に好感さえ抱いていた。

 嫉妬や欲望などの不純物で濁り、汚い音しか返さない有象無象の貴族たち。

 それに比べれば、雪原のように全ての音を飲み込むタバサや、音叉のように純粋な音を返してくれるルイズは、キュルケにとって特別な存在だったのだ。

 そう、純粋な金属を叩いた時のように、こちらの言葉の強さの分だけ感情の乗った"高い音"を返してくれる彼女が面白くて仕方がなかった。


(……だけどこれは何?)

 キュルケは思わず、胸の谷間に差し込んだ杖へと手を伸ばしていた。

 今のルイズは違った意味で、他の貴族たちと一線を画している。

 空ろで底の無い枯れ井戸のように、何を言っても彼女の声が返ってくることはないような気がした。

 返ってくるのは声ではなく空虚な風の音だけ――全ての感情が詰め込まれた結果、反って色を失くしたような、そんな音だけ。


「……何よ? 邪魔しないでくれる?」

 果たして、ルイズの返した声は普通だった。

 拍子抜けするほどに何時もと同じ、キンキンうるさい、感情丸出しの、生気溢れる声。

 気付けばその瞳の色は、何時もの彼女に戻っている。

(気のせい……だったのかしら?)

 しかし、キュルケの背筋に走った冷たい感情の名残が、それを否定する。

 今のキュルケには、常時のようにルイズに軽口を返すことが、どうしても出来なかった。



 沈黙しか返さぬキュルケに首を傾げて見せたルイズだが、結局キュルケを無視することに決めたらしい。

 改めてヒラタに向き直ると、とても無造作に、ヒラタの側頭部を踏み付けた。

「喋らず、騒がず、私に付いて来る。私の言葉、もう忘れたのかしら、犬」

 相手が平民とは言え、あまりに非道なルイズの行いに、キュルケはヒラタに同情した。

 傍らのフレイムも、何やら気の毒そうな鳴き声を上げてヒラタを見ている。

「そろそろ身の程を弁えたようだから、傍に控えることを許可したのだけれど…… ご主人様の心遣いは無駄だったみたいね」

 ヒラタは顔を踏みつけられた状態で、苦しげに呻いている。

 反抗する様子は一切見られないが、後腰の短剣の柄を掴んでいるのを見る限り、怒りを噛み殺しているのかもしれない。

 そんなヒラタを無視し、数度の文句と、その言葉と同じ数だけルイズは踵を落としていく。

「……今日はもう付いてこなくて良いわ。好きになさい、犬」

 そして最後にもう一度、勢いをつけた蹴りをヒラタの頭に打ち込んで、ルイズはこの場を去っていった。



「だ、大丈夫かしら?」

 途中から呻き声も発しなくなったヒラタに、キュルケは思わず汗を浮かべた。

 そこらの平民が何人死のうが構わないけれど、使い魔を自分の手で殺すのは、メイジとして最大級の恥である。

 他人事とはいえ、目の前でそんなことをされるのはあまり気分の良いものではない。

「……生憎とな」

 キュルケの疑問を、倒れた当人があっさりと回答する。

 喉の奥で悲鳴が上がりそうになるのを、キュルケは何とか堪えた。

 視線の先でヒラタが、先程までピクリとも動かなかったのが嘘のような軽快さで立ち上がる。

「わりぃな。お嬢様にゃあ、ちぃっとばかし刺激が強すぎたか」

 その声は普通で、痛みを堪えている様子も、悲しそうな様子も、一切感じ取れなかった。


 キュルケが何も言えないでいると、ヒラタは顔を押さえたまま歩き出し、広場にある噴水を覗き込んだ。

「ああ、こりゃもう、シエスタに治療頼めねぇな」

 水面に自分の顔を映したヒラタのぼやき声を、キュルケは聞いた。

 左手に握った短剣の柄を離さず片手で顔を洗うヒラタに、キュルケは何となく近付く。

 ふと、訊いてみたくなったのだ。


「ねえ、ヒラタ」

「ん? 前には回んなよ。俺の顔は今、ちょっとしたスプラッタだから」

 生憎ともう見ちゃったけどね、心中でヒラタのグロテスクな傷痕を思い出しながら、キュルケは話を続ける。

「何でルイズの使い魔、続けてるの?」

 当初の、タバサとの関係について訊くという意識は完全に消えてしまった。

 今気になるのはこの男――ヒラタが、こんなになってまで使い魔をやり続けている理由。

 タバサが気にしているから気になるのではなく、キュルケは今、極々個人的な感情で、この平民に興味を持ったのだった。





「何でルイズの使い魔、続けてるの?」

 傷口の泥を落していたら、キュルケにそんな質問をされた。

「不本意ながら、召喚に応じちまったからな」

 片手で顔を洗うことの予想外の難易度に苦労しながら、斉藤は気楽に答える。

 次の瞬間、頬の皮膚が引き攣るように血を滲ませたのが分かった。

 両手を使って顔を洗いたいものの、短剣の柄を放したら最後、たちまち痛みにのたうつ破目になるだろう。

 それに包帯も巻きたいのだが、さて如何したものか。この傷口の"グロさ"を鑑みれば、シエスタに頼むのも気が引ける。


「……不本意?」

「そりぁ不本意だろ。こんな扱いされて喜ぶような変態じゃねぇし」

 マゾにでも見えるか? と、斉藤は振り向いて訊こうとして――思い止まった。

 顔を見られた途端に悲鳴を上げられたら、それが傷痕の所為だと分かっていても、へこんでしまうだろう。

「そうじゃなくて、何で不本意なのに召喚に応じたのよ。拒否すれば良かったじゃない」

 事情も知らずに無茶を言ってくれる。そんな感想を抱きながら、斉藤は召喚の瞬間を思い浮かべた。


「……電車に乗ってたからな」

 追憶に、顔を洗う手が止まる。

「電車?」

 振り向かずとも、キュルケが首を捻っているのが分かった。

 言葉の通じないキュルケに、シリアスになるのも馬鹿らしくなった斉藤が、再び傷口を洗う作業に戻る。

「馬車よりずっと早い乗り物、だな」

「ヒラタって平民でしょ? 竜籠、持ってたの?」

 馬車より早いと聞いて、竜を思い浮かべたのだろう。斉藤は、何だか可笑しくなって、笑ってしまった。

「竜じゃない。てか個人用の乗り物じゃねぇし。……乗合馬車や民間船の凄いヤツ、かな」

 説明するのも面倒なので、適当に通じそうな言葉を選んで答える。

 それで納得できたのか、背後からの声はしなくなった。



 ようやっと傷口を洗い終え、斉藤はハンカチで水気を拭き取る。

 キュルケはまだ後ろにいた。こちらの説明を待っているのだろうか。

 一つ、息を吐く。

「召喚する側なんだから知ってるだろうけど、サモン・サーヴァントってのは、鏡みたいなゲートを開いて召喚者と非召喚者を繋ぐんだ」

「ええ、そうね。生憎と使い魔側に出てくるゲートは見たことないけど」

「でだな。そのゲート、動かねぇんだよ。俺の数メートル前に突然現れたっきり、動かねぇんだ」

 手元を見れば、水気と一緒に爛れた皮膚までハンカチにくっ付いていた。

 グロい。このハンカチで二度と口元を拭うまいと思うくらい、グロい。

「でも俺は動いてる。馬よりずっと早いスピードでな」

 後は分かるな、と説明を終了し、斉藤は肉片の付いたハンカチを、噴水の水に浸けて洗った。


「ふ~ん、それで"不本意ながら"ルイズに召喚されちゃったわけね」

 斉藤が片手で、四苦八苦しながらハンカチを絞っていると、そのハンカチが突然斉藤の手から跳ね上がった。

 驚いて顔を引くと、視界の隅でキュルケが杖を握っているのが見える。何時の間にか真横まで来ていたらしい。

 キュルケが杖を振ると、一瞬でハンカチが乾き、次いで斉藤の顔にはり付く。

 しゅるしゅるとハンカチが斉藤の顔を這い、その両端が後頭部で蠢いた。


「あら、この当て布じゃ長さが足りないわね」

「……それ以前に、コレじゃ前が見えねぇ」

 キュルケが突然自分を手伝ってくれるのを疑問に思いながら、斉藤は塞がれた視界に眉を顰めた。

 ハンカチは傷口全て、つまりは斉藤の顔の殆どを覆っている。

 包帯と違って目の部分に隙間を作ることも出来ず、前を見ることも叶わない。

「それもそうね。ヒラタ、他にも当て布持ってたりする?」

「ん? 左手に包帯巻いてるだろ。それ、予備の包帯」

 そう言って斉藤は、ある種の予感と共に素早く短剣を掴む手を左から右に変えた。

 持ち換えた一瞬、復活した痛みに叫び声を上げたくなったが、何とか堪える。


「じゃ、それ使うわよ」

 声と同時に、予備の包帯が浮き上がる――斉藤の左腕ごと。

 自分の直感を信じて良かった、と斉藤は胸のうちで安堵した。

 柄を握る手を換えていなければ、今頃ガンダールヴの"痛み誤魔化し能力"が途切れて悶絶したことだろう。


「こんなもんかしらね」

 魔法で浮かしているものだから、手で押さえるよりも余程正確に、患部に当てられたハンカチの上に包帯が巻かれていた。

 しかし――

「……志々雄真実?」

 水面に映った自分の顔を見た斉藤は、感謝の言葉より先に、そんな言葉を漏らすのだった。




「じゃあ、話を戻して良いかしら?」

 包帯の礼を述べた斉藤に、噴水脇のベンチで足を組んだキュルケが言う。

「戻す?」

「そう。何でルイズの使い魔、続けてるの?」

「ん? さっきも言ったろ、不本意ながら――」

 言葉を続けようとした斉藤を、キュルケが手で遮った。

「そ、れ、は、ヒラタが使い魔になった理由。私が聞きたいのは、ヒラタが使い魔を"続けている"理由よ」

「それは……」

 斉藤は言葉に詰まった。

「それは?」

 キュルケが斉藤を促す。瞳の輝きに籠められているのは、猫をも殺す好奇心。

 知らず、自身の顔が渋面を作っていたことに、斉藤は気付いた。



 自問する。

 ルーンの効果? それもあるだろう。だが、それだけではない。

 生きていく術が他に無いから? 違う。現に今も、自称ご主人様の援助など何一つ受けずに、日々を生き抜いている。

 ルイズが可愛いから? 有り得ない。セックスアピールの欠片も無い身体に欲情するほど追い詰められてはいないし、あの性格に惚れるような変態的な思考は持ち合わせていない。

 ならば何故か――


「負い目……かな」

 ポツリと漏らした声に、キュルケが反応する。

「それって、召喚直後にゼロ扱いしたっていう"アレ"のこと?」

 直接その現場を見たわけでは無いだろうが、キュルケの耳にも入っていたらしい。

 しかし負い目と聞いて、真っ先にその話を思い浮かべることの出来た彼女は、どうしてこうしてルイズを良く理解しているようだ。


『勘弁してくれ、まさかゼロの使い魔かよ』


 その一言で、ルイズの扱いも、『ゼロの使い魔』という物語も、大きく変わってしまった。

「少なくとも、彼女を能無し扱いしたわけじゃねぇんだけどな」

 だが、言葉が常に心情を正しく伝えてくれるとは限らない。

 斉藤にその心算がなくとも、ルイズにとっては、使い魔に能無し扱いされたというのが事実なのだ。

 尤もあの一言がなくても、ルイズがゼロだと蔑まされていることに変わりはないし、使い魔を犬扱いするのも同じなのだけれど。


「それに、本来彼女に呼ばれる筈だった"本当の使い魔"についても知ってっからな」

 自嘲気味に付け足す。

 ルイズにとってのベストパートナーで、ルイズがルイズらしく生きる為に不可欠な虚無の使い魔――平賀才人。

 ルイズを愛し、ルイズに愛され、使い魔の――ガンダールヴの枠をも超えてルイズを守り抜いた、ゼロの使い魔の主人公。

 穿った言い方をすれば、斉藤はルイズの生き甲斐を、ルイズの半身を、奪ってしまった事になる。


「本当の使い魔?」

 横でキュルケが首を傾げている。

 全てを語るには荒唐無稽過ぎて、それを信じて貰えるほどの信頼関係も、信じて貰う必要性も、今はない。

「そう、"本当の使い魔"だ。んでもって、これ以上は秘密」

 人差し指を立てて、斉藤はおどけてみせた。

 他人との距離を正しく理解するキュルケならば、そうすれば引いてくれることが解っているから。

「そんな風に言われると…… 気になるわね」

 言葉ではそう言うものの、キュルケの浮かべた軽い笑みは、それ以上訊かないことを保証してくれている。

「秘密だ。何故なら……」

「何故なら?」

 一拍を置き、人差し指の他に親指も立て、拳銃の形を作ってから顎に当てる。

「その方がカッコいいから」

 何処ぞの錬金の戦士のように、口元にニヤリとした笑みを浮かべて斉藤は答えた。

「何よそれ」

 そう言って呆れたように笑うキュルケだったが、その表情は数秒前の微笑と違い、とても楽しそうな笑みだった。


 今まで会った貴族連中は押し並べて不快だったが、目の前の令嬢は違っていてくれる。

 そのことが少し、斉藤には嬉しかった。

 ゲルマニア出身だからというのも有るだろうが、キュルケは純粋に相手の力量を見て会話をしてくれる。

 平民だからと言って見下すのではなく、相手が貴族だろうが平民だろうが、面白い相手ならば対等に接してくれるのだ。

 軽く話をするだけで、キュルケが"とても良い女"だと言うことを実感する。

 次の授業が始まるからと、キュルケが広場を後にするまで、斉藤は彼女との会話を堪能するのだった。




 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 鬱蒼と茂った森の中で、斉藤は噴水での出来事を思い出していた。

 因みに、キュルケとの会話で何かポカをして後悔している訳ではない。キュルケとのやりとりは、既に三時間近く前の話だ。

 後悔の原因は、昼飯の材料をシルフィード達に全て渡してしまったこと。

 キュルケと別れた後、ルイズの部屋を掃除し、洗濯を終え、昼飯にしようとして漸く気付き、材料調達に森に入って今に至ると言うわけだ。

 別に一日三食取らなければ死んでしまう訳ではない。故に、腹が減った時だけ食事を取れば良いと考えたことは、当然ある。

 だが、現代日本のように気軽に食事が用意できる訳ではない故に、動けるときに食料を用意しとかなければ大事に至ることを、斉藤はこの十一日間で学んだのだ。


「しかし、ホント二度手間だよな。いい加減保存食とかも考えねぇと」

 木の根元付近の若芽が齧られた後を見ながら、斉藤が呟く。

 前々から保存食を準備しようとは思っているのだが、用意した食材を片っ端からシルフィードに食われている為、未だにそれを成し得ていない。

 一度ガツンと言ってやるべきだろうか。

 尤も、あの腹ペコ我侭風韻竜が聴いてくれるとは思えない。

 では、シルフィードの主であるタバサを通して忠告して貰おうか。

 そう考えて、斉藤は少し鬱になった。


 あの無口少女はどうも苦手だ。小説と違って地の文もないから、いまいち彼女の考えが読めない。

 そもそも、タバサ自らこちらに関わってくること自体が、斉藤にとって想定外の出来事である。

 キュルケに通訳でも頼むかね、などと馬鹿げた考えまで頭に浮かぶ。

 彼女なら、喜んで引き受けてくれる気がしないでもない。もちろん、チャシャ猫のような笑みで余計な茶々も入れてくるだろうけど。


 その光景を頭に思い浮かべて、独りにやにやしていた時、斉藤の耳が聞きなれない音を拾った。

 森中で微かに響いたその音の名は悲鳴。遠くまで響く、甲高い女性の悲鳴である。

 ここは森でも、街道から離れたかなり奥深い場所である。女性が立ち入るような場所とは思えなかった。

 だが――

「聞いちまったからにゃ、知らぬ存ぜぬじゃ通らねぇわな」

 若芽を齧っていた小鹿の痕跡を追うのを止め、斉藤は走り出す。

 長く痕跡を追っていた獲物を諦めなければいけないのが、少しだけ悔しかった。





 何もかも、全てが気に入らなかった。

 昨日の雨で湿気て駄目になった香草に苛立ち、今日の朝に届くはずだったフラスコの到着が遅れたことに腹を立てる。

 ケチの付き始めは何だったのか。

 決まっている、ギーシュの浮気だ。それさえなければ、きっと楽しい毎日だったに違いない。

 だからきっと、自分がこんな目に遭うのもギーシュの所為なのだ。


「ホント、何なのよ」

 木の上で涙目になりながら、モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシは呟いた。

 彼女の耳には、ふごふごと豚のような鳴き声が絶えず聞こえてくる。

 しかし、彼女の足下に居るのは豚ではない。それよりも醜悪で、凶悪な、オーク鬼と言う名の亜人種だ。

 しかもその数は一頭だけではなかった。詳細な数はモンモランシーにも分からないが、少なくとも五頭は超えているようだった。



 ふが、ふがふが。

 モンモランシーを発見したらしい一頭が、木の上を指差して叫ぶ。

 ひっ、とモンモランシーの口から、悲鳴にならない声が溢れた。

 杖を強く握り締める。

 精神力はそれ程減っている訳ではない。

 一度水球をオーク鬼に向けて放ったのと、木の上に逃げる為に"フライ"を唱えただけで、まだまだ十分に残っていた。

 だが、"水"系統には直接的な攻撃力を持つ魔法が殆どない。

 トライアングル級以上であれば、濁流で押し流したり、水圧で切り裂いたりといったことも出来ただろうが、生憎とモンモランシーは未だドット級のひよっこメイジである。


 大きな音が鳴り、モンモランシーの乗っている木がぐらりと揺れた。

 悲鳴を上げ、慌てて木の幹にしがみ付く。それでも杖を落さないのは、メイジに残された最後のプライド。彼女の最後の命綱。

 オーク鬼が手に抱えた棍棒を振りかぶり、そして木の幹に叩きつける。

 それが三度繰り返され、衝撃に負けた木がみしみしと音を立てて折れた。

 モンモランシーは慌てて"フライ"を唱え、素早く別の樹に乗り移る。

 今度の樹木は細くない。オーク鬼が幾ら叩こうが、そう簡単に折れないだろう。

 そう思って、息を吐いた瞬間だった。

 オーク鬼の一頭が、彼女目掛けて棍棒を投げ付けたのは。


 悲鳴が一つ上がる。

 幸運なことに、棍棒がモンモランシーに直撃することはなかった。

 しかし、樹にぶつかって跳ね返ったそれがモンモランシーを掠め、彼女は樹の上から投げ出されてしまう。

 魔法を唱える余裕はなかった。

 三メイル弱の高所から地面に叩きつけられ、モンモランシーは痛みに呻く。

 身体に力が入らない。右腕が折れたらしく、自分の身体も支えられない。


「た……助けて」

 オーク鬼が、下卑た笑みを浮かべてモンモランシーを囲む。

 醜悪に歪められた顔が、欲望に荒くなった鼻息が、モンモランシーに最悪の未来を予測させる。

「お願い。ギーシュ……先生、誰でも良い。誰か助けて……」

 背中が痛くて、大声も出せない。オーク鬼が恐くて、舌も上手く回らない。

 自分の声は誰にも届かないことは、モンモランシーも気付いていた。

 何故なら、恐怖に駆られた彼女の声は小さく、オーク鬼の鼻息や足音の方がずっとずっと大きかったのだから。


 立ち上がることさえ叶わないモンモランシーの元に、一頭のオーク鬼が近付いた。

 吐き気を催すような臭いが、彼女の鼻腔に届く。

 伸ばされるオーク鬼の手が、彼女に終焉の訪れを告げた。

 モンモランシーは強く目を閉じる。少しでもこの現実から逃げる為に。

 股間に感じる生暖かい感触の意味は、極力考えないようにした。

 すると次の瞬間、どさり、と何か重い物が倒れる音が聞こえて来た。

 続いてふがふがと、オーク鬼どもの騒ぐ声が耳に届く。

 そして、身体に何か大量の液体を掛けられた。けれどまだ、何も、モンモランシーには触れて来ない。

 そのまま十秒ほど時が過ぎ、

「……あれ?」

 怪訝に思ったモンモランシーが目を開くと――


 ――そこに男が居た。

 見慣れぬ服装の、首から上の殆どを包帯で覆った奇妙な出で立ちの男。

 血に濡れる錆びた短剣を左手にぶら下げ、右手には乱暴に削り取られた木の杭を握っている。

 そして男の足下には、木の杭で首を突き刺されたオーク鬼が転がっていた。

 モンモランシーの身体に掛けられた大量の液体は、どうやらこのオーク鬼から吹き出した血であるようだった。


「無事か?」

 ひゅっ、と風を切る音を立てて杭を構えなおした男が、モンモランシーに声を掛ける。

 存外に、その声は優しい。

 その声に、自分は助かったのだとモンモランシーは思った。

 涙を流しながら、モンモランシーは頷いた。良かった、私は助かったのだ。と何度も頷いた。





 血塗れで呆然としたまま、無表情に涙を流して頷く少女は、はっきり言って不気味だった。

 こんな醜悪な化け物に襲われたのだから、無理もないとは思うけれど。

「んじゃ、精神力が残ってんなら、木の上にでも逃げときな。後は俺が片付けてやっから」

 指が白くなるほど握り締められた杖やその服装から、彼女がメイジであることは分かっているのでそう言っておく。

 適当に枝を削って作った即席の槍――と言うか長めの木杭――は、思ったより役に立つようだ。

 恐れていたほど、オーク鬼の生命力も高くはないようだし、この場は何とかなりそうである。

 とは言え、オーク鬼どもの持つ巨大な棍棒を見る限り、一撃でも喰らえば即お陀仏は間違いなく、とても安心できる状況ではなかった。

 なのに、ちっとも負ける気がしないのは何故だろう、と斉藤は自問する。

 言うまでもなく、その根拠はガンダールヴのルーンに拠るものだ。

 木杭を刺した感触に、左手のルーンが確信した。負けるはず無い、と。


「さて鬼畜ども、お前らに言葉が通じるかは知らんが、一つ言っておく」

 念のために、もう一度足下のオーク鬼に木杭を突き立ててから、斉藤は一番近いオーク鬼に木杭を向ける。

 警戒した様子で斉藤を囲むオーク鬼の数は、残り八体。

「抵抗はすんな。大人しく――」

 そのまま半身を引き、弓を引き絞るように全身の筋肉を絞らせ――

「死んどけ!」

 ――木杭を投げ付ける。

 気分は何処ぞの蒼い槍兵。尤も狙いは、分厚い脂肪の先にある心臓ではなく咽喉。

 ガンダールヴの力で投げられた木杭は、狙い違わずオーク鬼の咽喉に突き刺さる。


 足並みを乱されたオーク鬼を嘲笑うように、斉藤は跳んだ。

 咽頭に刺さった木杭を押し込むように掌打を放ち、止めを刺すと同時に木杭を回収。次いで、左手に持った短剣を振り抜く。

 錆びて切れ味が落ちていようと、ガンダールヴの力で以って振り抜けば、その威力は並ではない。

 斉藤の左に立ったオーク鬼の首元から、勢い良く血が吹き出した。

 しかし浅い、これでは致命傷にはならない。だが、止めを刺している余裕もない。


 素早く地面を蹴って、その場から一歩退く。

 地面を蹴ると同時に、斉藤の右に居たオーク鬼の棍棒が、目の前で振り下ろされる。

 棍棒が地面を叩く音と同時に、斉藤は短剣を切り上げた。狙いは親指、棍棒など二度と持たせてやるものか。

 そして、指を切られたオーク鬼が悲鳴を上げた時には既に、斉藤は別の場所へと移動している。

 当然だ。同じ場所に突っ立ってオーク鬼どもの的になる気など、斉藤には更々ない。


 棍棒を振り回したオーク鬼の足下を掻い潜り、素早く足の腱を切り裂く。

 止めを刺すことよりも攻撃を避ける事を優先し、常に相手の背後か、オーク鬼達の一番端に立ち位置を取る。


 両手を上げて進路を塞ぐオーク鬼の横を駆け抜け、脂肪の少ない脇を切り抜く。

 相手が自分を囲もうとした時は、寧ろ積極的に飛び込んで一対一の状況を作り、他のオーク鬼に手を出させないようにする。


 振り下ろされたオーク鬼の棍棒を半身で交わし、踏み出された足の親指に木杭を突き刺す。

 中途半端に同士討ちを避ける知能を持ったオーク鬼は、重い棍棒を武器にするが故に、密集状態では武器を振り回せない。


 ひとたび距離が離れればこちらから飛び込み、オーク鬼の眼球を木杭で貫く。

 傷付いたオーク鬼に休む暇など与えない。少しずつ、確実に、止めをさせるオーク鬼から仕留めていく。


 乱戦において最も重要なのは、ポジショニングだと聞いたことがある。

 その知識が決して間違いではない事を、斉藤は自らの戦術を以って理解した。



 優先すべきは、攻撃力よりも回避力。

 常に一撃で相手を仕留められるほど、こちらの武器は鋭くない。

 優先すべきは、必殺の状況を作り出すこと。

 危険を賭して内に飛び込む必要は無い。なるべく安全に飛び込める状況を用意すれば良い。

 振り回す棍棒で近付けないなら、その指を落して武器を奪え。

 多人数で囲まれて危険ならば、足の腱を切って機動力を奪え。


 囲まれるな、駆け抜けろ。

 留まるな、走り続けろ。

 そうすれば――




 右膝を砕かれ、左足の甲を貫かれ、両手の指を落されたオーク鬼の口中へ、止めの一撃を放つ。

 これで九体目。最後だ。

 ぶくぶくと血の泡を吐き出すオーク鬼を見下ろして、斉藤は大きく息を吐いた。

 一息吐いた途端、全身からどっと汗が吹き出す。身体中の細胞が、酸素を寄越せと訴えてくる。

 全て仕留めるまでの約五分間――それを早いと思うか遅いと思うかは人それぞれだろうが――絶えず動き続けたのだ。

 スポーツの試合などとは桁が違う。一瞬たりとも足を止めない全力疾走。

 おまけに命の危険が、容赦なく精神力を削っていく。

 流石に動き過ぎたようで、荒くなる呼吸を抑えられない。


「……助かったの?」

 恐る恐るといった感じで、助けた少女が訊いてくる。

 因みに彼女は、未だに木の根元でへたり込んでいた。

 さっさと木の上に避難してくれれば安心出来たものを、何時までも無様に座り続けてくれるものだから、戦闘の際には多大な労力を掛けさせられたのだった。


 彼女の元にオーク鬼を行かせない為、必要の無い危険を冒したのは一度だけではない。

 必死で呼吸を整えようとしている今、彼女の質問は酷く煩わしいものだった。

「少なくとも……近くにこれ以上……オーク鬼は居ねぇな」

 それでも斉藤は、荒い呼吸の合間に声を絞り出して、彼女の質問に答えてやる。

 泣いてる少女を無下にするほど、斉藤は薄情ではないのだ。



 そして三分ほど、斉藤の荒い息と、少女の嗚咽だけがその場を支配した。

 斉藤が顔を上げる。呼吸は漸く落ち着いてきた。

 今更ながら、身体の状況をチェック。

 元々負傷している顔は兎も角として、オーク鬼との戦闘で負った傷は無いようだ。

 武器を収めても、痛みはない。ガンダールヴの能力や気分の高揚で、一時的に痛みを感じないわけでも無いらしい。

 ついでに言うなら、服装にも返り血一つ付いてなかった。

 げに恐ろしきは、ガンダールヴの身体強化能力。服が汚れなかったのは、斉藤にとって嬉しい誤算だ。

「さて」

 軽く声に出して、大きく伸びをする。少女の身体がビクッと震えた。

 別に怖がらせる気はなかったんだが、と胸中で思いながらも、余計なことを言って彼女を泣かすのが怖いため、何も言えない。



 斉藤は少女を無視し、一番近くに転がっているオーク鬼の死体に歩み寄る。

 ふんっ。

 先の戦闘では一切行わなかった、大きく振りかぶった隙だらけの、しかし強力な一撃を死体に叩き込む。

 肉と一緒に骨を割く音が響き、ごろん、とオーク鬼の首が転がった。

「な……何してるの?」

 脅えた少女の声にも斉藤は振り向かず、オーク鬼の生首を拾いながら答える。

「ん? 見ての通り、オーク鬼の首を回収している」

 ずだん。

 また一頭、オーク鬼の首を落す。

 ひっ、と少女が息を呑み、音を立てて後退り始める。どうやら、要らぬ恐怖を煽ってしまったらしい。

 流石に気の毒になって、斉藤はオーク鬼の首を刈るのを止めて、彼女に振り向いた。


「知らねぇのか。オーク鬼に掛けられた懸賞金のこと」

「……懸賞金?」

 何のことか解らないのだろう。少女は首を傾げて、斉藤を見遣る。

 斉藤は軽く手を振って短剣の血を飛ばし、逆の手でポケットから手帳を取り出した。

「本塔の掲示板に貼ってあったんだが、最近トリスタニア周辺の森で大量のオーク鬼が目撃されてるらしい」

 手帳を開き、ジェシカに聞いてメモを取ったページを開く。

「オーク鬼が増えだした原因は不明。だが周辺の村々にも影響が出始めている為、政府はオーク鬼の首に懸賞を掛けた。懸賞額は首一つに付き金貨四枚」

 ジェシカ曰く、直接的な被害がないことやオーク鬼の潜伏数がはっきりしないため、軍を動かす決断はされなかったそうだ。


 オーク鬼の実力は、一頭で手練の戦士五人に匹敵するらしいので、この懸賞額が高いか安いかは非常に微妙だと思う。

 戦士を五人集め、命を賭けて一頭屠っても、一人頭金貨一枚にも満たない戦果。おまけにオーク鬼は群れで行動することも多く、負わされるリスクは決して安くない。

 しかし逆を言えば、実力のあるメイジや一通りの戦力を備えた傭兵団が討伐に当たれば、大した時間も掛けずに殲滅、大儲けをすることが出来るという仕組み。

 但し、無事オーク鬼の群れと出会うことが前提条件。しかも、オーク鬼の数が少なくても多くても、利益とリスクの天秤は容赦なく傾く。

 要するに、懸賞が一頭当たりで掛かっているが故に、個人単位で動くには額が低く、団体で動くには決断の為の情報が足りないということだ。

 そんな状態では、個人も、傭兵団やメイジの集団達も、このような案件に関わってくれるわけがない。

 ジェシカに言わせれば、如何にも現場を知らない官僚が出しそうな、お役所的な値段設定なのだとか。


 斉藤自身、ジェシカから話を聞いてメモをしたものの、こんな危険な案件に関わる気はなかった。

 だが意外なことに、個人で強力な力を持った斉藤には、割かし良い条件だったのかもしれない。

 確かに命を賭ける分リスクは高いが、予想よりオーク鬼はずっと弱かった。

 デルフリンガーを手に入れるまで、単独行動のオーク鬼を仕留めて金を稼ぐのも選択肢に入れるべきだろう。

 まあ、今後の行動は兎も角として――


 思考を打ち切り、手帳から視線を少女へと戻す。

「換金は魔法学院にある衛兵の詰所でも出来るらしい。必要なのは文字通りヤツの首。だから俺は首を刈ってる。オーケー?」

 たとえ駄目と言われようと、斉藤は首を刈る気満々なのだが、そこは隠して少女にお伺いを立てる。

 オーク鬼九頭で締めて三十六エキュー。目標額のおよそ三分の一である。少女が泣き喚こうが止める気はない。

 因みに斉藤は、デルフリンガーが"百枚"で売られた事は憶えているものの、新金貨かエキュー金貨かは憶えていなかった。

 そのため、目標額は現状どちらの場合でも購入可能な百エキュー。デルフリンガー以外にも買うものは沢山あるので、妥当な目標額のはずだ。


「そうなの? 知らなかったわ」

 幾分安心した様子で少女が答える。安心した理由は知らないが、少しばかり口調が貴族らしく――つまりは偉そうに――なった。

 とは言え、オーク鬼の血で服を汚され、激しい動きで髪は乱れに乱れ、顔は汗と涙でぐしょぐしょ。そんな状態では威厳も何もない。

 おまけに失禁もしたらしく、無様に濡れたスカートと血臭に雑ざって周囲に漂う饐えたにおいが、何と言うか逆に憐れさを誘ってしまっている。

「さて、お嬢ちゃん。落ち着いたってんなら、身嗜みを整えるべきだな。正直見てらんねぇぜ?」

 苦言を一つ吐き、斉藤は少女から視線を外した。

 後ろで何やら騒がしい声が聞こえたが、無視して首を刈る作業に戻る。

 反撃も動きもしないオーク鬼の首を刈ることなど実に容易い。都合一分と掛けずに、斉藤はオーク鬼の生首を全て確保した。

 しかし、オーク鬼の頭には掴む所が何もなかったため、そのままでは持ち運ぶことが出来ない。

 斉藤は仕方なく、持ち運び用に、蔓草を使って網を作るのだった。



「そう言えば貴方、名前は?」

 網を作成し、そこに首を五つ放り込んだところで、少女が斉藤に問い掛けた。

 六つ目の首を拾いながら斉藤が振り向くと――驚いたことに、染み一つない制服に身を包んだ少女が立っている。

 魔法ってのは便利だね、などと考えながら、斉藤は手に持った首を網に放り込んだ。

「ちょっと聞いてるの? 名前を訊いてるのよ、名前」

 語尾を荒げて少女が言う。そこには、オーク鬼に脅えていた気の弱そうな少女の姿はない。


「聞いて如何する。礼でもしてくれんのか」

 貴族に対してあまり良い印象を持てない斉藤が、何ともメンドくさげに答える。その間も、首を拾う手は止めていない。

「礼って…… 全く、これだから平民はアレなのよね。自分から礼を要求するのが、どれだけ失礼なことか分かりもしないんだから」

 ぶつくさと文句を言う少女の頬は、微かに朱に染まっている。

 しかし、生首拾いに精を出す斉藤は、そんな彼女に視線一つ向けず、正しくその言葉だけを受け止めた。

「ああ、そうかい。んじゃ、無礼な平民はさっさと退散させてもらうよ」

 最後の首を網に入れ、それを肩に掛けながら、斉藤は少女に背を向ける。


「待ちなさい、待ちなさいってば! ……お願い。待って!!」

 命令口調の少女を無視して、その場を去ろうとした斉藤だが、彼女の懇願の声に足を停めた。

 振り向くと、先程の強気は何処へ行ったのか、不安げな少女がこちらを見ている。

「んで、お嬢ちゃん。何か用事でも?」

 嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、目尻に涙を浮かべる少女を前に自重した。

 斉藤がじっ、と見詰めると、少女は何とも気まずそうに目を逸らす。

 正直、沈黙が痛い。

「斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ」

「え?」

「名前だよ、名前。さっきお嬢ちゃんが訊いたんだろ?」

 掛けるべき言葉が思い浮かばず、適当に先程の質問に答えてみた。

「あ、うん」

 何だかとても素直に頷いた少女が、そのまま"あ"とか"え"とか意味の無い単語を、語尾を伸ばし気味に呟く。


 そんな挙動不審な少女を斉藤が眺めていると、少女はやがて意を決したように頷き、口を開いた。

「お金、欲しいのよね?」

 突然の言葉に、斉藤は返す言葉を失った。

 斉藤が呆気に取られていると、少女が矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出す。

「ええ、そうよね。平民だもの、お金にがめつくても仕方が無いわ。しょうがないから、私が仕事を依頼してあげる」

 そんな言葉から始まり、貴族の矜持や平民の愚かさなど、非常に回りくどい言い回しを使って"仕事の内容"とやらが説明される。

 長台詞が初めての稚拙な舞台役者のように、早口で、割り込む隙を与えない自分本位のマシンガントーク。

 止めるタイミングも立ち去るタイミングもすっかり逃した斉藤は、黙って少女の言葉を聞くしかないのだった。



 数分間、彼女の息が切れるまで、彼女の台詞が止まるまで、黙って彼女の言葉を聞く。

 矢鱈と修飾語や自己弁護の台詞が連なってはいたが、おおよその理解は出来た。

 話を全て聞いた斉藤は、自分なりに彼女の言葉を纏め、それを告げる。

「要するに、オーク鬼が恐くてもう動けないから、俺に学院まで連れてって欲しい、と?」

「違うわよ!」

 違ったようだ。斉藤はぼりぼりと、汗が乾いて痒くなった頭の包帯を掻く。

 正直メンドくさい。周囲の血臭も酷いし、さっさとこの場を去りたいのが本音だ。

 しかし、強気な言葉とは裏腹に酷く不安気な瞳でこちらを見る少女に、斉藤は強く出ることが出来ない。

 キュルケの件に続いて感じた、自分の中途半端なフェミニスト振りに、斉藤は如何しようもなくなって溜め息を吐く。

「でも、動けねぇんだろ?」

「う…… そ、そうよ。でも、恐いからじゃないわ。怪我してるからよ」

 噛み付きそうに言葉を返す少女を、斉藤は生暖かい目で見詰める。

 お漏らしするほど恐かったくせに? と言うのは止めておいた。多分言ったら、これ以上ないほど"面倒"なことになるだろう。


「請けてやっても良い」

「本当?」

「嘘言っても仕方ねぇだろうが」

 ほっとしたように息を吐く少女に、斉藤は背負った網を下ろしながら、呆れた声を返した。

 背負った生首入りの網は腰に括り付け、彼女の前で背を向けてしゃがむ。

「んじゃ、お嬢ちゃん。乗りな」

「き、貴族を負ぶれるなんて幸運、そうそう無いんだからね」

 いちいち何か言わないと気が済まないのか、怒りに顔を紅潮させた少女が耳元で怒鳴る。

 ぎゃあぎゃあと喚く少女を意識の外に追い出し、彼女を背負った斉藤は思った。

 オーク鬼の血と同様、お漏らしの痕跡もキレイにしたんだろうな? と。





 顔中包帯だらけの変な男に背負われながら、深い森を真っ直ぐ進む。

 馬で森を通るときに使うような小道はおろか、道らしい道を目前の男は通らない。

「道、分かるの?」

 モンモランシーは男の肩に頬を乗せながら訊いてみる。

「ん? 魔法学院に戻るんで良いんだったよな」

「違うわ、そう言う意味じゃなくて――」

「違うのか? じゃあ目的地を言ってくれ。でないと連れて行けねぇ」

 足を止め、男が振り向く。

「そうじゃなくて。こんな森の中で、学院の方向が分かるのかって訊いてるの」

 察しの悪い男に、モンモランシーは軽く怒鳴った。

 大声を出すなよ、と男は小さく呟いてから、再び歩き出す。その歩調にはやはり迷いがない。

「で、如何なの?」

「如何も何も、分からないなら黙って歩かずに、お嬢ちゃんに訊くだろうが」

 貴族に対する口の利き方とは思えないが、モンモランシーは不思議と腹が立たなかった。

 男がつっけどんな態度とは違って存外に――例えばさり気無く彼女に当たるであろう小枝や葉を払ってくれる位――優しいことに気付いたからである。

 平民の癖に意外と紳士なのだ、この男は。


「名前、何て言うの?」

「ん? お嬢ちゃん、さっきも訊かなかったか」

 何となく沈黙が嫌で会話を振ったのだが、男に指摘されてモンモランシーは思い出した。

 あの時は、男を引き止めるのに必死だったから良く憶えていない。確か。

「サイトーンだったかしら?」

「……斉藤平太だ。サイトーンじゃねぇ」

 不機嫌そうに男――サイトーが口を尖らせる。それにしても。

「変な名前ね」

 正直な感想を口にする。

「……そうだな。確かにこっちじゃ珍しい名前かも知んねぇな」

 横顔を覗えば、包帯の隙間から見える瞳に、何所か寂しげな色が浮かんでいる。

 そう言えば髪も黒いし、肌も少し黄色が混ざった変わった色だ。

「異国人?」

「どっちかって言うと"異邦人"だな」

 サイトーがにやりと口角を吊り上げる。

 同じじゃないの、とモンモランシーは思った。

 それを言葉にしなかったのは、外国人特有の"独特の拘り"かもしれないと感じたからだ。

 モンモランシーは以前、似たような突込みを入れて、ロマリア人に"信仰"と"信奉"の違いについて長々と語られた苦い思い出がある。

 サイトーがそんなロマリア人と同じだとは思えなかったが、文句を言わなくとも傷付かないわけでは無い。


「それで、異邦人のサイトーは、何であんな所に居たわけ?」

 あそこは森でもかなり深い所だ。

 モンモランシーも、香水の原料を取りに行くためでなかったら、あれほど森の奥に入ったりしない。

 何しろ、馬で行くにも周囲の枝が引っ掛かるくらいの狭い小道しか存在しないのだから。

「昼飯調達の為に狩りを。ってか、お嬢ちゃんは如何なんだ。貴族様が独りで行くような場所じゃねぇと思うけど?」

「私は秘薬の原料を採取しに来たのよ。と言うか"お嬢ちゃん"は止めて。何だか、子ども扱いされてる気になるわ」

 今でも実家に帰れば、モンモランシーは屋敷の召使い皆に"お嬢"扱いされてしまう。

 当然"お嬢ちゃん"ではなく"お嬢様"と呼ばれているが、古株の家臣たちは、それこそ彼女の恥ずかしい過去まで平気な顔をして口にする猛者であるため、そう呼ばれるのは何とも嫌な感じだった。

「いや、俺お嬢ちゃんの名前知らねぇし……」

 ――そもそも、未だにお漏らしする様なヤツは、お嬢ちゃんで十分だと思うけどな。

 小さく付け加えられた斉藤の言葉に、モンモランシーはキレた。


 やっぱり"お嬢"扱いする人間は苦手だ。

 一頻り暴れた後、モンモランシーは右手を擦りながらそう思った。

 魔法で骨は繋いだとは言え、治りかけの右腕は僅かな衝撃にも酷い痛みを返してくれる。

 顔を殴られた斉藤がモンモランシー以上の痛みに悶絶していることなど露知らず、彼女は深く溜め息を吐くのだった。





 因みに、斉藤のお漏らし発言に依って、結局モンモランシーは彼に名前を告げなかった。

 斉藤が彼女の名前に気付いたのは翌日の昼を過ぎてからである。

「サイトー、貴方臭いのよ。これでも付けて少しは身嗜みに気を付けなさい!」

 そう言って香水の壜を投げ付けてきた彼女を、正確にはその独特の金髪縦ロールな髪型を見て、その名に思い至ったのだ。

「……あの髪、セットしたもんだったのか」

 オーク鬼に襲われた時は髪が乱れに乱れていた為、気付かなかったのである。

 よく考えれば天然であんな髪型になる筈ないのだが、斉藤は態々彼女があの髪型にセットしているという事実に、酷く驚嘆するのだった。


 ――それにしても。

「やっぱ俺って臭いか。良く考えりゃ、十日以上風呂入ってねぇし、服も洗ってねぇもんなぁ」

 モンモランシーの多分な照れ隠しにも気付かず、必要以上のショックを斉藤が受けていたことは、次話のために付け加えておこう。





[4574] 第三話「名前が三つは紛らわしい(前編)」
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/11/29 22:54
 ガンダールヴの能力を考えてみる。

 原作に於いて、デルフリンガーはこう言った。ガンダールヴの能力は心の震えに呼応する、と。

 心の震え、つまりはアレだ。精神力とか、気力とか、テンションとか言った、そんな感じのモノ。

 それを上げるには如何すれば良いのか、斉藤は考えてみた。


 戦いに理由が付くこと。多分それが一番大事だろう。

 例えば、誰かを護る為だとか、誰かを憎むことだとか。

 原作の才人もそうだったし、強ち間違いでもない筈だ。

 では、そんな大層な理由がない場合は如何すれば良いのだろうか。

 考えてみて、試してみて、結構簡単に答えは見付かった。



「オーク鬼、賞金はたったの四エキューだが、糞野郎には似合いの額だ」

 誰も、ターゲットであるオーク鬼も聞いていない、深く繁った森の中で、斉藤は声を発した。

 オーク鬼が居るのは遥か前方、木々の間を抜けて微かに見える、五十メートル以上は離れた場所である。

「憶えときな、賞金稼ぎは何処にでも居る!」

 しかしそれでも、斉藤は喋るのを止めない。


 理由は簡単。これが一番容易にテンションが上がるからである。

 世のスーパーヒーロー達は皆叫ぶ。技の名前を、自身の感情を。

 故に、斉藤も叫ぶのだ。生活の為に、金を稼ぐ為に、昔読んだ"漫画の台詞"を。

 只叫ぶだけでは敵を穿てない。勿論、斉藤は武器を構えている。

 硬い木を削って作った投槍器――アトラトルと、それに番えられた、同じく木を削って作った二メートル弱の細い木槍。

 因みに、枝葉が生茂る森の中では投槍より弓矢の方が遥かに狙いを付け易いのだが、生憎と斉藤には、実用に足る性能の弓を作ることは叶わなかった。


 まぁ、意外に弓を作るのは難しかったという事実は別として。


「その首――」

 斉藤は声を上げ、ガンダールヴの能力を底上げしながら、アトラトルを振りかぶって標的へと狙いを付ける。

「――獲った!!」

 足首、膝、腰、胸、肩、肘、手首、指と、間接を通して一段階ずつ加えられた力が、アトラトルに依って更にもう一段階加速され、木槍へと叩き込まれる。

 ふひゅっ。

 存外に軽い音を立て、しかし驚くべき速度で、木槍は放たれた。


 そして――、狙い違わずオーク鬼の首を貫く。

 視線の先で、オーク鬼の巨体が力なく崩れ落ちた。

 これでお終い。モンモランシーとの一件のように、接近戦をする必要など皆無なのだ。


「さて、首を回収しに行くとするか」

 アトラトルを仕舞い、代わりに短剣を手に持って、斉藤は歩き出す。

 これで、エキュー金貨八十四枚にオーク鬼の首が二つ。締めて九十二エキュー。

 となれば残り――目標の百エキューまでは、僅かオーク鬼二頭分だった。





 『最初のゼロから間違えて』
 第三話「名前が三つは紛らわしい(前編)」





 話を少し前に戻す。具体的に言えば、モンモランシーとの一件の翌日、香水の壜を投げ付けられた二時間後くらいに。


 斉藤は、森の中に居た。

 但し、その目的は狩りでも金稼ぎでもない。

 きゅるきゅる。

 そして独りでもなかった。斉藤の隣りにはフレイム――キュルケの使い魔であるサラマンダーが付き従っている。


「ん? 目的地はもう少し先だな。ってか、今更だけど何で付いてきてんの?」

 フレイムが通り易いように比較的広い場所を進みながら、斉藤は頬を掻いた。

 昼食時にシルフィードが居ないので、いざ保存食を、と息巻いて用意した食材を、あっさり食べ尽くしてくれたのが彼である。

 その後も何故か、斉藤の後ろを付いて来た。

 本塔の掲示板の前で、手帳を開きながら文字の勉強をしている間も、こうして森の中を進んでいる間も、何故か斉藤から離れないのだ。



「何? ひょっとして、キュルケに言われてマークしてんの?」

 と訊けば、意外なことを言われたかのように軽く目を見開いて首を振り――

「俺の傍に居ても暇だろ。キュルケの所に戻れば?」

 と言えば、悲しそうにきゅるきゅると鳴いたことから、多分、男を連れ込むキュルケに部屋を追い出されでもしたのだろう。



 きゅるきゅる。

 幾分水気を増した瞳で、フレイムが斉藤を見上げる。

「いや、別に付いてくるなって言ってるわけじゃねぇよ。寧ろフレイムが居た方が有り難いし」

 トラが如き体躯に膂力。加えて強力な"火"を操るフレイムの存在は、正直心強い。

 それ以前に、フレイムの能力は今回の目的にピッタリの存在だったりする。

「まぁ、付いて来るからにゃ、少しばかり協力して貰うぜ?」

 斉藤がおどけた調子で言ってみると、任しておけ、とばかりにフレイムは"火の舌"を吐き出して応えるのだった。




 そして、それから更に二時間後。

 "それ"を前にして、満足気に斉藤は額の汗を拭った。

「オーケー、これで完成だ」

 きゅるっ。

 斉藤の隣りで、フレイムも誇らしげに顎を反らす。

 一人と一頭の視線の先では、本流から離れた川の一端が湯気を立てていた。

「んじゃ、早速入るとしますか」

 斉藤は手早く服を脱ぐと、"それ"に身を沈めた。フレイムもそれに倣い、斉藤の隣りに身を沈める。

「湯加減もバッチリだ。流石フレイム、良い仕事してくれんぜ」

 タオルを額に乗せ、気持ち良さそうに斉藤が息を吐く。

 まあ、要するに、風呂である。

 何気に臭いと言われたことを気にしていた斉藤と、"火"の扱いに長けたフレイムの協力によって生まれた、手造りの露天風呂だった。


 場所は森の奥深く。学院から歩いて二十分ほど離れた、水が綺麗な小川の辺。

 大き目の岩と木の板や土で目張りした柵で一時的に支流を作り、その先に縦十メートル、横五メートルほどのスペースを用意した。

 これだけ広いと湯を作るのに苦労するのだが、元々の立地条件とシルフィードが浸かることを考え、良しとする。

 熱源は焼いた岩石を使用。フレイムの"火"に依って焼かれた大小様々な石を、適当な数だけ池へと放り込むのだ。

 因みにフレイムが居ない場合、焚き火でもして石を焼かなければならないのは言うまでもない。

 そして温度調整は、斉藤が用意した取り外し可能な板を以って行う。

 時に上流側の柵を外して川の水を流し込み、時に下流側の柵を外して湯を減らし、最適な温度と水位を作り出す。

 いやはや何とも、製作時間が一時間以下の風呂とは思えぬほどの大作であった。


「しっかしまぁ、フレイムもシルフィードに負けず劣らず優秀な使い魔だよな」

 斉藤はホクホク顔で、脱いだ服の横に置かれたオーク鬼の首を見た。

 その数、実に十二個。目標額の半分近い、四十八エキュー分の生首である。

 金稼ぎは本来の目的ではなかったのだが、道中でオーク鬼の群れを見付け、フレイムと共に討伐したのだった。


 勿論、助力は強制したわけではない。基本的に疲れるのは嫌なので、斉藤はオーク鬼の"群れ"を狙う気はなかったのだ。

 しかし、途中で何となく口にした、オーク鬼を殺して金を稼いだ時の話を憶えていたのか、フレイムの方から協力すると言ってきたのである。

 正確に言えば、斉藤に向けて一声鳴いたかと思えばオーク鬼に向けて歩き出し、止める間もなく炎でオーク鬼の持つ武器を焼いたのだが。

 しかし、あれは実に見事な手際だった、とフレイムの鱗に挟まった汚れを落しながら、斉藤はその戦いを思い出す。



 あれは一種の知能戦だった。

 まず武器を焼き、攻撃力とリーチを奪い去る。

 そして続くは、地面に向けた炎の一撃。

 足を焼くのではなく、地面を熱してオーク鬼の群れを分断したのである。

 多分、斉藤の『相手の攻撃力と機動力を殺ぎ落とす』という話をフレイムなりに解釈したのだと思われるが、結果は見事の一言に尽きた。

 熱せられた地面に慌てふためくオーク鬼を、バイク用のしっかりとした靴を履いている斉藤が追撃。

 他のオーク鬼は、熱せられた地面を通ることも出来ず、着実に一頭ずつ、フレイムと斉藤が仕留めていく。

 気付けば大した苦労も掛けず、三十分ほどで十二頭のオーク鬼が地面に転がっていた。

 いやはや何とも、フレイム様様である。


 きゅる。

 フレイムが鳴き、地面に向けて炎を吐いた。熱せられた石が、赤く輝く。

「ん? フレイムは火竜山脈出身って言うくらいだから、これじゃ温かったか」

 風呂から出て、焼けた石を短剣で弾くようにして、湯殿に放り込む。

 石に熱されて湯が沸騰する音と、ボコボコとお湯が煮え立つその場所で、フレイムは気持ち良さそうに目を細めた。


 しかし斉藤は、流石に沸騰するお湯には浸かれない。

 フレイムから離れた、川の水が近い下流側の柵前に移動して、改めて湯に身を沈めた。

 きゅる?

 不思議そうに小首を傾げたフレイムが斉藤を見る。

「いや、俺は人間だし、沸騰したお湯には浸かれねぇよ」

 にぎにぎとフレイムに向けた手を動かしながら、斉藤がツッコミを入れる。

 するとフレイムは、じゃばじゃばと水を掻き分けて、態々水温の低い斉藤の近くまでやって来た。

「ん?」

 斉藤が首を傾げると、きゅる、と一声鳴いてから、フレイムは目元まで湯に浸かって彼を見やるのだった。


 何と言うか、何でこんなに気に入られてるかね。

 炎が燈った尻尾で水面をぱしゃぱしゃ叩いているフレイムを見ながら、斉藤は思った。

 餌付けをしたシルフィードなら兎も角、フレイムに懐かれる理由が思いつかない。

「ってかフレイム。尻尾お湯につけて大丈夫なのか?」

 本人、と言うか本サラマンダーには当然解っているのだろうが、水面を叩くフレイムの尻尾を見て、炎が消えやしないかと心配になった。

 きゅる?

 フレイムは軽く顎を反らすと、湯殿に尻尾を沈める。

 あ、と軽く言葉を吐きながら、斉藤が慌てて水中に目を向けると、湯の中でも変わらずに燃え続けている尻尾が見えた。

「流石ファンタジー……」

 そもそもフレイム自体、地球には――少なくとも斉藤の知る限り――存在しない生物種なのだが、こうやってまざまざと不思議な光景を見せられると、改めて、ファンタジー世界なんだな、と実感させられてしまう。

 きゅる。

 斉藤が呆けていると、一声鳴いたフレイムが湯殿から尻尾を取り出し、その先で斉藤の頬をぺちぺちと叩いた。

 確かに熱は感じるが、炎の癖に熱くない。何とも不思議な炎だった。



 一頻り湯を堪能した後、斉藤はおもむろに顔を覆う包帯へと手を伸ばす。

 ゆっくりと、傷口を刺激しないように解いていく。

 ガンダールヴの代謝機能の強化は並ではない。既に顔の傷が一通り癒えていることを斉藤は理解していた。

 しかしそれでも、臆病なまでに慎重な所作で包帯を剥がしていく。

 最後の一巻きまで外し終え、次いで、恐る恐る湯面に映した自分の顔を確かめる。


 "傷口"は予想通りに癒えていた。しかし、

「ん。バラライカも真っ青なフライフェイスだ」

 "傷痕"もまた、予想通りの凄惨な状態で斉藤の顔に残されていたのだった。

 冗談めかした口調は只の強がり。

「……痛みがねぇのが幸いだな」

 続いて吐き出されたその言葉が、諦めたようなその口調が、彼の本音だった。

 顔に手を当てる。濡れた手で触れても、傷に沁みたりはしなかった。

 手に伝わるのは、柔らかい皮膚の感触ではなく、硬いゴツゴツとした妙な感触。

 瘡蓋と言うより、既に顔の皮膚自体が変質してしまったようで、恐らくもう元には戻らないのだろう。

 魔法を使えば治療が可能かもしれないが、生憎とそんな金も幸運も、巡って来るとは思えなかった。


 まあ、いいさ。別に元が美形だった訳じゃねぇしな。

 目元まで湯に浸かり、斉藤は暗くなりつつあった思考を切り替えた。

 溜まった何かを吐き出すように、大きく口を開けて、叫ぶ。

 そこに有るのは、空気ではなく水だ。咆哮は誰にも届くことなく、只ブクブクと水泡の割れる音だけを周囲に響かせる。

 限界まで声を出して、苦しくなって顔を上げて――

 斉藤は唐突に気付いた。いや漸く気付いたと言うべきだろうか。

 知らず、彼の口元に笑顔が灯る。


 成る程、これならばフレイムが懐いたのにも合点がいく。

 斉藤は一人、空を見上げてうんうんと頷いた。

 単純な話だった。何故思い至らなかったのかが、不思議なほどに。

 キュルケの使い魔たるフレイムが、斉藤に懐いたのは当然の話。何せ、顔にこれだけの傷を負わせるルイズの失敗魔法から、斉藤はキュルケを守ったのだから――


 斉藤は頭まで湯に沈め、わしゃわしゃと髪の毛に付いた泥や汚れを掻き出した。

 フレイムは、そんな斉藤の様子に、きゅる、と鳴いて、楽しそうに尻尾で水面を叩いている。

 そんな一人と一頭を、空に昇り始めた双月が、樹木の隙間から優しく見下ろしていた。





 ほひゅっ……とす。

 気の抜けた音を鳴らして飛んだ木槍は、やはり気の抜けた音を立てて地面に突き刺さった。

 だがその速度は大リーガーの球速よりも速く、そして二メートル弱の木槍が半分以上地に埋まるほどの威力だ。

 オーク鬼対策として何となく作った投槍器――アトラトルが示した性能は想像以上で、斉藤は思わず感嘆の息を漏らす。

 斉藤は暫し、削ったばかりでヤスリがけさえしていない手製のアトラトルを眺めた後、飛ばした木槍の落ちた先に視線を戻した。


 木槍が突き刺さったその直ぐ横には、ぷるぷると力無く震える一体の毛むくじゃらが居る。

 斉藤の狙いは、その毛むくじゃらだったのだ。

 その毛むくじゃらの正体については、容易く予想が付いた。

 恐らくはギーシュ・ド・グラモンの使い魔であるヴェルダンデだろう。

 尤も今の斉藤には、この毛むくじゃらが誰の使い魔だろうと構わなかった。

 当然だ。彼は怒っているのだから。

 ヴェルダンデだろうと、野生のジャイアントモールだろうと、その毛むくじゃらは彼の"敵"なのだから。


 一歩ずつ、地面をかみ締めるように、ゆっくりと進む。

「毛むくじゃら、お前が選ぶべき道は二つだ」

 確かに斉藤にも落ち度はあっただろう。

 しかし、だからと言って"それ"が正当化されるわけではない。

「自殺か、他殺か。好きな方を選べ、期限は――」

 アトラトルを右手にぶら下げたまま、斉藤は左手に短剣を握った。

 左手に巻いた包帯を透かすように、ガンダールヴのルーンが力強い輝きを放つ。

「――俺がお前にこの短剣をぶち込むまでだ」

 その光を何所か他人事のように眺めながら、斉藤は口角を吊り上げた。


 斉藤の笑みに脅えたヴェルダンデが、咥えていた布袋をどさりと落とす。

 重い音を立てたその布袋には、ぎっしりと金貨が詰まっていた。

 枚数にして、きっかり八十四枚。金額にすれば、締めて八十四エキュー。

 そう、この許されざる毛むくじゃらは、斉藤がこの二日間で稼いだ貴重な財産を盗もうとしたのである。

 理由は知らないが、それは彼の逆鱗に触れるに十分な出来事だった。


 速度を変えることなく、斉藤はゆっくりと脅える毛むくじゃらへ近付いていく。

 残り十メートル。

 頭の片隅で、この毛むくじゃらを殺した際に起こる"面倒"が計算された。

 残り五メートル。

 衝動的に槍を投げたものの、よく考えれば殺すのも"面倒"だと言うことに漸く気付く。

 その瞬間、斉藤の左手の甲から漏れていたルーンの光が消えた。

 正確には、ルーンは発動し続けているものの、包帯を透かすほどの輝きは無くなってしまった。

 残り三メートル。

 歩みを止めず、斉藤は考える。

 さて如何するか。無罪放免にはしたくない。しかし、妙案は思い付かない。



「あら、ヒラタ。何してるの?」

「……ん?」

 背後からの声で、斉藤は我に返った。

 気付けば残り一メートル。

 短剣を大きく振りかぶりながら、斉藤は眼前の毛むくじゃらを見下ろしていた。

 そして毛むくじゃらは――恐怖に負けたのだろう、泡を吐いて気絶している。

 ふむ、どうやら時間も稼げたようだし、彼女に助言でも乞うてみるか。

 一つ頷いて、斉藤は剣を収め、声の主へと振り向くのだった。




 そして二分後、斉藤は声を掛けてきた人物――キュルケと一緒に、近くのベンチに腰掛けていた。

 今日の授業はもう終わったらしい。

 何でも、散歩がてら恋人の一人とでも約束を取り付けようとしたところで、斉藤を見付けたのだとか。

 結局、暇が潰せれば恋人だろうが平民だろうが構わないらしく、にこやかにベンチへと誘われ、今に至るわけである。


 暇潰しを手伝えという何とも明け透けな物言いを聞き、斉藤は苦笑いを浮かべながら先程の一件を説明する。

「泥棒? このジャイアントモールが?」

 どうやら、彼女の退屈を紛らわせることには成功したようだ。

 驚いたように目を大きくして確認するキュルケに、斉藤は黙って頷いてみせる。

 因みに件の泥棒は、ベンチに座る二人の直ぐ側で、全身を拘束されて転がっていた。

 拘束方法はぐるぐる巻きではない。指同士を結んだり、下手に動けば気管を潰したりするような細工の加わった、本格的な拘束だ。


「俺にも落ち度はあんだけどな。じゃらじゃらと音を立てて貴重品持ち運んでた訳だし」

 回収した布袋を右手で掲げながら、斉藤は逆の手で頬を掻く。

 それを聞いたキュルケは、優雅に足を組み替えながらも、口調を強くしてきっぱりと言う。

「でも窃盗は窃盗ね」

「当然だ。だから捕縛した」

 何処ぞのモンスターペアレントの如く、盗まれるような場所に置いておくのが悪い、などと言われなかったことに、斉藤は安堵した。

 メイジと平民の壁は厚い。

 どんな糞理論だろうと、メイジ相手では公然と罷り通ってしまう可能性もあるのだ。

 窃盗の現行犯で捕まえたのは良いものの、目撃者は平民である斉藤だけ。おまけに被害者も同一人物。

 権力に押し潰されて、泣き寝入りするしかないような状況としか言えない――普通ならば。


「んで、如何すれば良いと思う?」

 細かい説明を一切合財省いた言葉で、斉藤がキュルケに訊ねる。

「そうね。コレが誰の使い魔かに依るんじゃない?」

 キュルケの方も心得たもので、あっさりと斉藤の言いたい事を理解して返答する。

 流石タバサの親友をやっているだけのことはある、と斉藤は妙なところで感心した。


「例えば? そうだな……有名、有力、典型的トリステイン貴族、の三種類くらいで説明宜しく」

 敢えて似たような、それでいてはっきりとイコールで結べない三種類を並べたのは、斉藤の言葉遊びであった。

 ヴェルダンデの処遇やら今後の対策よりも、斉藤は会話を楽しむことを優先させたのだ。

 何しろ斉藤は会話に飢えている。自覚はなかったが、碌に話す相手が居なくて寂しかったのだ。


 シエスタとの会話時間は、彼女に仕事があることもあり、非常に短かった。

 ジェシカとの会話は、一度に沢山言葉を交わしたものの、その主導権は常に相手側だった。

 シルフィードとの会話は、殆ど聞きっ放しで、人前で話せない彼女の鬱憤を晴らすのが主目的と言って良かった。

 要するに今の斉藤にとって、頭の良いキュルケとの会話は、彼の知能をちくちくと刺激してくれる、非常に楽しい時間だったのである。


 優先順位は斉藤の中で無意識に切り替わり、毛むくじゃらの運ぶ面倒事よりもキュルケとの会話の方が上になっていた。

 斉藤としては、金貨も取り戻したことだし"面倒事"が増えなければもう如何でも良い。先の一件は、既に過去のことだと割り切ったのである。

 そもそも、この毛むくじゃらがヴェルダンデであることは九分九厘間違いなく、斉藤が相手取るとすればヴェルダンデの主人たるギーシュ・ド・グラモンに他ならない。

 彼の性格と実力を原作を通して知っている斉藤にとって、ギーシュのことを脅威だなどとは、爪の先ほども思えなかったのだった。


「これはまた…… 面白い分け方ね」

 本気で今後の対応を質問している訳ではないことを、キュルケの方も察したらしい。

 満面の笑みで胸元から杖を取り出し、その先端を顎先に添えたりしている。

「有名であれば問題ないわ。トリステインじゃ、有名な歴史ある貴族ほど経営が苦しいらしいし、多分、瑣末事は無視してお咎めなしね。罰もなければ益もなし、ってところかしら。数少ない例外の一つであるヴァリエール家は、ジャイアントモールが使い魔じゃないから注意しなくて良いし」

 最後の言葉のところで、キュルケが微妙な流し目を斉藤に送る。

「有力貴族の使い魔の場合は?」

「これは微妙ね。なまじっか力が有るばかりに、こういうゴシップは揉み消そうとするもの。運が良ければ金を掴ませて終わり、悪ければ始末して終わりかしら。この場合、被害者が有力貴族の関係者だから……如何なるのかしらね?」

 杖の先端で斉藤を指しながら、キュルケが笑みの質を変えた。完全にからかいモードだ。



 尤も、その程度で揺らぐ斉藤ではない。

 気の抜けた表情でその目を見返すと、軽く肩を竦めて答えた。

「家名に関しては五月蝿いだろうからな。多分、相手をぎったんぎったんに扱き下ろしてから、俺に失敗魔法を二、三発ぶち込むんじゃねぇか?」

 まるで他人事な斉藤の態度に、キュルケが呆れたように息を吐く。


「失敗魔法の二、三発って…… ヒラタ、顔の傷も治ってないでしょうに結構余裕ね」

「ん? 一応、もう治ってんぜ。皮膚が変質してグロいから、包帯は取らねぇけど」

 嘘、と驚いたように呟くキュルケを余所に、斉藤はにっこりと笑う。

「一昨日の傷を今日までに治せない位だったら、召喚から一週間も生きていられなかったんじゃねぇかな」

 苦労してんだぜ? と、ベンチの背もたれで身体を伸ばした斉藤が、笑みに苦々しいものを混ぜる。


「正直、多分、間違いなく、お嬢様の想像以上の虐待を受けている自信がある」

 斉藤は、自身の掌をそっと額に押し当てた。

 彼の手に伝わるのは柔らかな包帯の感触。しかし額から伝わるのは、硬く変質した皮膚を通して物体が触れるという、そんな感覚。

「もうちぃっとお嬢様が"良い女"だったら、その胸で泣きてぇくらいだ」

 冗談交じりに付け加えた斉藤の台詞だったが、半分、いやそれ以上は、彼の本音だった。





「もうちぃっとお嬢様が"良い女"だったら、その胸で泣きてぇくらいだ」

 おどけたように言うヒラタの、その瞳が湛えた感情の色の名を、キュルケは知らない。

 しかし、今まで見たこともなかったその色に、彼女の食指が少し動いた。

「あら。別に泣いても構わなくてよ?」

 からかうように言ってみる。

 ヒラタの反応を探ったのだ。これで凡夫が如く詰まらない反応をしたのなら、彼女はヒラタとの友好を絶ったかもしれない。


 額から手を外したヒラタが、詰まらなそうにキュルケに答える。

「そこでそういう風に言う時点で、俺的"良い女"の及第点はやれねぇな」

 その反応は、キュルケにとって予想外だった。

 目の前の男を評価する積もりが、逆に評価されてしまったのだ。しかも悪い方に。

「あら。じゃあ、ヒラタの言う良い女なら、こんな時には何て答えるの?」

 多少、不躾な態度で睨み付ける。

 変な答えを返したら嘲ってやる積もりだった。女に幻想でも抱いてるの、といった感じで。


「……お嬢様と全く同じ答えを返すんじゃねぇかな」

「は?」

 またまたキュルケにとって予想外の答えが返ってきた。

 知らず間抜けな顔を晒してしまった気がする。いや多分してたのだろう。

 我に返ったキュルケは自分の失態に若干頬を染め、次いでヒラタに食って掛かった。

「何よそれ。じゃあ、何で私は及第点に届かないわけ?」

 そんなキュルケの剣幕に、ヒラタは若干驚いた様子で落ち着けと言ってから、表情を真面目なものへと変える。

 こくりと、身を乗り出したキュルケの喉が鳴った。


「その言葉を聞いた後に俺が如何思うか、だな」

 吐息と共に、ヒラタはそう言った。

「何? 私の言葉じゃ、胸で泣きたくならなかったってこと?」

「いや、逆だ。お嬢様の言葉に、その胸で泣くのも良いと思っちまったからアウト」

「何よそれ?」

(泣きたくなるってことは、思わずしゃぶり付きたくなるほど良い女だって証明じゃない)

 ヒラタの言葉に納得がいかないキュルケは、疑問より先に険悪な視線を彼へと向けた。


 視線を受けたヒラタは、メンドくさそうに後頭部を掻く。

 あくまで"俺的良い女"だからな、と態々前置きをしてから、ヒラタはその視線を何処か遠くへ向けた。

「言われた後に、甘えても良いかなって思わせるような空気しか作れねぇようじゃ駄目ってこと。本当に"良い女"なら、それを聞いちまったからにゃあ弱い自分のままじゃ居られねぇ、ってくらいの空気はあっさり用意しちまうんだよ。まっ、男を堕落させる女はどんだけ美人だろうと"良い女"足り得ないってこと……かな?」

 何故か最後は疑問系で、しかも照れくさそうな笑みが追加される。


「なるほど、面白い解釈ね」

 キュルケは過去の交際暦を思い出しながら、うんうんと頷いた。

 言われてみれば、誰も彼もが自分の魅力に負けて堕落し、詰まらない男に成り下がってしまっていたのではないだろうか。

 男を一人堕落させるたびに、魔性の女ね、などと得意気になってはいたが、ヒラタの解釈を聞いた今、得意気になっていた自分が恥ずかしい。

 勿論、ヒラタの持論が全てと思ったわけではない。

 しかし今のキュルケには、男を堕落させる自信はあっても、男を成長させる自信はない。

 なら、男を成長させることも可能な、とびきり"良い女"にならなければ、ヒラタと同じ考えの男たちを魅了することなど出来ないと言うことだ。


 キュルケは内心で炎を燃やす。

「真の良い女は、周りに良い男を侍らせるんじゃなくて、周りの男を良い男に変えるってことね」

 その挑戦受けたわ、とキュルケは揺らめく炎のような、獰猛な笑みを浮かべる。

「礼を言うわヒラタ。そして見てなさい。男の成長も堕落も視線一つで操るような、極上の"良い女"をその目に焼き付けさせてアゲル」

 目標は人を成長させる。

 "火"の属性に相応しい熱い瞳で、キュルケは目指すべき姿を、高みを、思い浮かべるのだった。





 何やら自分語りをしてしまい、言った後に恥ずかしくなった斉藤だが、キュルケの異様な盛り上がりを見て逆に冷静さを取り戻した。

 会話が嬉しくて、ふとした瞬間に自分の感情を溢れさせてしまったらしい。

 キュルケがのってくれたから良かったものの、冷めた視線でも返されていたらと思うとぞっとする。

「んで、話を戻しても良いか?」

 この話題から離れるべきだ。そう判断した斉藤は、幾分硬い声音で、キュルケの盛り上がりに水を注す。


「ええ、構わないわ。次は典型的なトリステイン貴族の場合、だったかしら?」

 斉藤の言葉に気分を害すこともなく、キュルケはあっさりとテンションを戻して頷いた。

 いや違う、キュルケの瞳の力強さは変わっていない。

 テンションを戻したのではなく、ただ思考を切り替えただけなのだ。

 真に熱き炎は、自身を揺らがせない。流石はトライアングル級の"火"の使い手、無駄に熱血するような愚は冒さないようだ。


「取り敢えず、一言で言うなら最悪ね」

 顔に掛かる髪を軽くかき上げ、キュルケはそこで言葉を切った。

「最悪?」

「そう、最悪。トリステイン貴族ってね、無駄にプライドが高いの。平民を人と思わないのは貴族共通の認識だけど、トリステイン貴族はそれどころじゃないわ。平民は犬畜生と同じ、それがトリステイン貴族の認識よ」

 キュルケが肩を竦める。

 トリステイン貴族ではなくとも、彼女も貴族の一員である。しかし、彼女の言葉は何所か他人事だった。

 平民でも爵位を賜われるゲルマニア出身であるが故に、平民を無条件で格下だと侮る貴族たちに、思うところがあるのかもしれない。


 斉藤がそんなことを思っている間も、彼女の話は続く。

「だから当然、自分の非を認めたりしないわ。逆に、平民に謝らせようと考えるくらいね。ヒラタの場合、決闘の名目で私刑にされるかもしれなくてよ?」

 現にこの間も……、とキュルケが似たような事件とやらを語ってくれた。

 奇しくもそれはギーシュの二股騒動の一件だったりするのだが、いやはや何とも、聞いて驚かされた。

 斉藤はてっきり、才人の代わりにシエスタが香水の壜を拾ったのだと予測していたのだが、実際は近くに居ただけらしい。

 振られて呆然としていたギーシュの前に、たまたまデザートを配っていたシエスタが通りかかり、「落ち込んでいる僕の前で、平民風情が空気も読まずによくも笑ってくれたものだね」と絡まれたのだそうだ。


 聞けば聞くほど、こめかみの辺りが痛くなってくる。

 原作では、実力は無いけど憎めないキャラクターだったはずだが、如何やらそれは、才人にぼこられた後に形成された性格であるらしい。

 そう言えば、最初の頃は気障で嫌味な性格してたんだっけ。斉藤は何だか遣り切れない思いを感じてしまった。

「……これを機に、ぼこってやろうか」

 そんな言葉が、口を吐いて出るくらいに。


 斉藤の右手は、何時の間にか色が変わるほど握り締められていた。

 その様子に、漸くキュルケが反応する。

「えっと、そんな恐がらなくても良いわよ?」

 だが、斉藤の呟きは聞こえていなかったようだ。

 俯いて拳を握り締めている斉藤を、恐がっていると判断したらしく、キュルケの声は少し優しい。


「別にそのジャイアントモールが、今話した男の使い魔ってわけじゃないでしょうし……」

 励ます行為は大外れですが、その発言はドンピシャです、と心中で――何故か敬語で斉藤が答える。

 別に恐がっていたわけではないのだが、キュルケの気遣いが申し訳なくて、斉藤は反応に困った。

 その様子が、更に彼女の誤解を促したらしく、

「いざとなったら、弁護くらいはしてあげるわ」

 縮こまる斉藤を励ますように、キュルケが優しく肩を叩いてくれた。


 斉藤としてはその気遣いが逆に痛く、訂正を入れることも出来ない。

「……いや、本当に済まねぇ」

「気にしなくて良いわよ」

 本人は脅かしすぎたと反省しているのだろう。その声はとても優しい。

 だが今は、その勘違いが何より斉藤を困らせるのだった。




 そして結局――

 斉藤は彼女の誤解を解くことは諦め、その優しさに付け込んで金貨を預かってもらうことにした。

 それどころか、この使い魔の処遇については私に任せなさい、とキュルケに太鼓判まで押される始末。

 キュルケの優しい態度に斉藤の良心が悲鳴を上げ、それを見た彼女がより一層優しい態度を見せ、とんとん拍子で纏められてしまったのだ。


 ヴェルダンデを餌に立つかと思えた決闘フラグは、何故かキュルケにへし折られていた。

 一度取り忘れたフラグは、二度と取れないと言うことだろうか。

 斉藤としては"面倒"がなければそれで良いのだが、ギーシュが矯正されないままだと、それはそれで余計な"面倒"を呼び込むような気もする。

 今回の一件でキュルケがギーシュをぼこっても、ギーシュの平民に対する態度が変わるわけでは無いだろう。

 それ以前に、キュルケがこの一件にどう始末をつける気なのかも、斉藤には分からないのだけれど。


 後は任せなさい、と優しくキュルケに送り出されながら、斉藤は思った。

 これから如何しよう、と。

 元々今日は、対オーク鬼用の武器製作に勤しむ予定だったのだ。

 第一弾の遠距離用武器"アトラトル"は完成した。性能も予想以上だった。

 しかし予定では、今日中に第三弾まで作り、万全の態勢を整えてから、最後のオーク鬼討伐に臨む心算だったのだ。

 モンモランシーの一件も、フレイムとの一件も、斉藤から望んで戦ったわけではない。

 今のままでも十分戦えるのだが、攻撃力不足は否めない。それを改善しなければ、自分から打って出る勇気を出せそうにない。

 それが斉藤の本音だった。

 しかし、まあ、お誂え向きに広場を追い出されたことだし、向かうしかないのかね。

 斉藤は、右手にアトラトルをぶら下げながら、そんな事を思った。

 時刻は四時を回ったところ。夕食の狩りを行うには少し早く、オーク鬼の討伐に時間を掛けるには少し遅い時間だった。




 取り合えず、夕飯の狩りを中心にして、序でにオーク鬼を見付けたら退治。但し、オーク鬼の群れには近付かない。

 目標到達まであと四頭とは言え無理はせず、暗くなる前に帰る。

「……その予定だったんだけどなぁ」

 夜の森の中で、樹の陰に身を潜ませながら、斉藤は荒い息を吐いた。

 夜空に輝く双月の光は思ったより強く、ガンダールヴで強化された視力は、薄暗い闇夜を容易く見通す。

 夜闇に目が慣れるより先に、瞳孔の開き具合を操って無理やり"対応"させたルーンの力には恐れ入るが、それでも状況は芳しくない。

 それはあくまで"視力"の強化だ。人間の瞳孔の開きにも限界があるらしく、オーク鬼のように"夜目"が利くわけではない。

 薄闇程度ならば兎も角、真に陰となる部分――月の光も届かぬ闇を見通すには、些か無理があった。


「糞ッ」

 風とは違う、草葉を掻き分ける音を聞き、斉藤は樹の陰から飛び出した。

 ゆっくりと、囲まれている。確実に、距離を縮められている。

 樹の陰から出ると同時に、樹の陰で削っておいた即席の槍を、アトラトルで投げ付けた。

 こんっ。

 軽い音を立てて、斉藤の一撃は防がれる。

「今度は盾かよ」

 斉藤が毒吐く。

 視線の先には、木製の長盾で半身を隠したオーク鬼の姿。その右手には石製の手斧。

 ずだんっ。

 斉藤が地面を蹴る音が森に響く。

 続いて、一瞬前まで彼の立っていた位置に三本の石斧が落とされた。

「オーク鬼が"戦術"使うなんて聞いてねぇぞ!」

 石斧を避けた斉藤が、オーク鬼との距離を縮めようとすると、別の方向から石斧が飛来する。

 四度石斧を交わし、距離を縮めた時には、既にオーク鬼の姿はそこになかった。

 代わりに棍棒が――石斧と違って圧倒的な質量を持つ丸太が――斉藤目掛けて投げ込まれる。

 慌ててしゃがみ、棍棒をやり過ご――

 がさっ。

 樹の陰に隠れていたのだろう。姿を消したはずのオーク鬼が、近距離でこちらを見下ろしていた。

 棍棒が斉藤の髪の毛を掠め、横の樹木にぶち当たる。

 同時に、振り下ろされたオーク鬼の石斧が――

「舐めんな!!」

 陸上のクラウチングスタートよりも低い姿勢から、斉藤が勢い良く飛び出す。

 頭上より落とされる石斧よりも速く、弾丸と化した身体がオーク鬼の股の間を潜り抜ける。

 そしてそのまま、身体を起こす力と振り返る力を流れるような動作で短剣に乗せ、斉藤はオーク鬼の首を"刈り取った"。



「一体何匹居やがるんだ」

 投げ込まれた石斧は、オーク鬼の死体を盾にして防ぐ。

 息が荒い。終わりの見えない戦いに、精神が削られていく。

 装備も、戦い方も、今までのオーク鬼とは一線を画していた。


 始まりは奇襲。

 本日二頭目の首を回収した瞬間だった。

 横合いから石斧を投げ付けられ、それを短剣で弾いた瞬間には、背後から別のオーク鬼が飛び込んで来ていた。

 気配には気付けなかった。

 当たり前だ、そのオーク鬼は"地面に穴を掘って"隠れていたのだから。


 最初は行き成りの事で驚くだけだった。しかし今考えれば、二頭目を仕留めさせたのも囮だったのだろう。

 そう考えなければ、あの布陣は有り得ない。

 しかしそれ以前に、オーク鬼に高度な戦術を使われた――正確には今も使われていることが、何よりも有り得ないと思えた。

 日が沈み、闇が濃くなり、斉藤の状況は文字通り刻一刻と悪くなっている。

 既に二桁近い数のオーク鬼の首を刈ったはずだ。

 だが、戦いの終わりはまだ見えない。


 戦闘によるレベルアップだか知らないが、今では"一撃"でオーク鬼の首を刈ることが出来る。

 回転力と全身のばねを効率良く伝える技術、移動時の速度を隙を作らずそのまま攻撃力に転化する技術。

 一瞬の油断も許されぬ状況の中で、斉藤の戦闘技術はより実践的な領域にまで高められたのだ。


 しかし――

 それでもまだ足りない。

 闇夜に紛れ、確実にこちらの"体力"を削るように動くオーク鬼の群れに、斉藤は追い詰められている。

 斉藤は考える。

 思考していると、咄嗟の反応は遅れてしまう。だが、考えず動いていても、この状況は打破出来ない。

 故に、斉藤は考える。



 人為的な介入――そう考えるのが妥当か。

 オーク鬼を操ることの出来る魔法具があることを、斉藤は知っている。

 アンドバリの指輪――では、シェフィールドの仕業か。

 否定。理由が無い。縦しんば原作より早く"虚無"に感づいたとしても、標的は斉藤ではなくルイズになるはず。

 何より、オーク鬼を利用するよりも遥かに使い勝手の良い手駒を、シェフィールドは持っている。

 では、魔法具が原因ではない?

 保留。アンドバリの指輪以外に、似たような効果を持つ魔法具がないわけではないだろう。


 そもそも何故、自分が狙われているのか。

 そう考えて、斉藤は思い至った。

 オーク鬼の狙いは明らかに斉藤だが、別に"斉藤"でなくても構わなかったと考えれば如何か。

 通常のオーク鬼では倒せぬ存在を、オーク鬼を操ることに依って打倒する。

 或いは、オーク鬼では倒せない存在を使って、オーク鬼による戦術が何所まで有効なのかを確認する。

 ――保留。

 この場合、オーク鬼では倒せない存在、つまりは斉藤のことを知っている人間が犯人と言うことになる。

 学院の関係者で、これだけのことを行うような人物は、原作には居なかったはずだ。

 斉藤がオーク鬼を大量に殺し始めてから、まだ五日と経っていない。

 トリステイン政府が報酬を出しているにしても、トリスタニアの連中に斉藤のことが知れ渡るには早過ぎる。


 視点を変えてみよう。

 オーク鬼の一頭が、たまたま群れを統率できる魔法具を手に入れた。或いは、知能を向上させる魔法具を入手した。

 ――保留。

 知識を得、自身を討伐しようとする人間達の装備を真似、盾や石斧を作り出す。

 ここまでは良い。

 しかし、今オーク鬼たちが行っている戦術は、襲う側に立って初めて理論を解すことの出来る類いのものである。

 オーク鬼自身が同様の襲撃をされていたとしても、その方法をこれほど鮮やかに模倣できるはずがない。

 襲われる側にとって、襲う側の布陣や距離感を理解することは非常に困難なはずだ。

 逆に、襲われた状況から、襲う側の布陣や思惑を理解するだけの知能を持ち合わせているのだとしたら――


「……もっと効率の良い追い詰め方をされてなきゃおかしい」

 また一頭、オーク鬼の首を落としながら、斉藤が独り言ちる。

 戦術の妙を理解できるほどの知能を持っているとしたら、この対応はおざなり過ぎた。

 ただ一人を追い詰めるだけなら、もっと効率が良くて嫌らしい方法が幾らでも存在する。

 戦術家でもない素人の斉藤でも、幾つか思い付けるくらいだ。

 こんな"決められた対応"しか出来ないようなお堅い戦術を何時までも続けている理由が――



「読めた。そういうことか……」

 石斧の連射を掻い潜り、樹の陰に逃げ込む。

 そして、言ってから気付いた。

 全くこれは、テンションを上げさせてくれる。

 樹の幹を背に、短剣を握り締め、斉藤は暫くぶりに深く息を吐いた。

 自分の考えが正しいという保証はない。

 間違っていた場合、状況が悪くなるだけでは済まされないだろう。


 だが――

「分の悪い賭けは嫌いじゃない」

 これらの台詞を並べてしまったからには、安全策に逃げる訳には行かないのだ。

 気分は何処ぞのPTパイロット。輝きを増した左手のルーンが、包帯を透かし、斉藤の顔を薄く照らし出す。

「どんな布陣だろうと……打ち貫くのみ!」

 樹の陰から飛び出す。

 駆け出す先は、無謀の極み。

 囮役のオーク鬼でも、包囲網の穴でもない。本来なら一番進むべきでない道――大量の石斧が飛んで来る、その先であった。





 宝物庫の守りは完璧と言って良かった。

 トライアングル級どころではない、スクウェア級でも突破は困難だろう。

 如何したものかしらね。

 宝物庫の外側の壁――つまりは塔の外壁に立ち、彼女は軽く鼻を鳴らした。

 その身は地面に垂直だが、重力に引かれているのは彼女が纏う外套だけ。彼女自身は髪の一房さえも、重力に逆らって存在している。


 コツコツ。

 軽く蹴るように、外壁の感触を確かめた。

 警報装置の類いが付いていないのは確認済みだ。見回りなどの警備も、信じられない程に甘い。

 だがそれも道理。そんなものは必要ないのだ、この宝物庫には。


「やっぱり、引き続き情報を探るしかないんだろうね」

 軽く杖を振り、塔の外壁からその身を剥がす。

 重力に引かれ、彼女の身がゆっくりと下に落ちていく。

 今日はもう、退散する予定だった。

 無意味にここに居ても良いはずがない。元来が人目に付かぬ場所とは言え、見回りが全くないわけではないのだから。


 しかし――

 地面に降り立ち、彼女が息を吐いたとき、その男は現れた。


「……誰だいっ!?」

 油断、ではないのだろう。

 彼女は十分気を張っていたし、職業柄、近付く人間に対する警戒は無意識レベルで行えている筈なのだから。


「ん?」

 首を傾げてこちらを見る男は、顔全体を包帯で覆い、左手に短剣をぶら下げるという、如何見ても不審人物としか思えない様な出で立ちだった。

 同業者か?

 杖を構えて、一歩後ろに下がりながら、彼女は思考する。

 しかしそれにしては、男の反応は無防備過ぎた。こちらに対する警戒さえ碌にしていない。


 いや違う、男が何者であるにせよ、重要なのは自分の立ち位置のはずだ。

 この場で被るべき"仮面"は、盗賊であるフーケの"仮面"ではない。

 最良なのは、この学院の関係者としての"仮面"を被ること。

 そして、ロングビルの"仮面"を被ったのなら、取るべき対応は自ずと決定される。


 即ち――

「名乗りなさい! ここはトリステイン魔法学院の宝物庫。おいそれと近付いて良い場所ではありません」

 学院関係者として誰何の声を上げる。これが最良の一手。

 彼女は外套のフードを外し、ロングビルとしての顔を、男へと見せるのだった。




「……ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔?」

 彼女の質問に、男はあっさりと自分の身分を明かした。

 男の説明で、彼女はおぼろげにだが思い出す。使い魔召喚の儀で平民の使い魔を召喚したメイジがいたことを。


「……顔を覆う包帯は、ミス・ヴァリエールの虐待の結果で、ここに居た理由は"狩り"の帰りに偶然通っただけだと」

 言い訳にしては余りに有り得なさ過ぎて、逆に信じられる。いや、信じるしかない。

「……苦労をなさっているようですね」

 知らず、慰めの言葉を口にしてしまうくらい、男の境遇は同情に足るものだった。


 彼女の励ましに、男――ヒラタと言うらしい――は、苦笑いを返してきた。

 その表情に隠された感情を、彼女は知っている。そして、彼女は"それ"が好きではない。

 彼女の妹分に慰めの言葉を投げ掛けた時に、彼女の妹分が夜中一人で楽器を奏でている時に、良く浮かべていた悲しい微笑。

 "諦め"と"申し訳なさ"が入り雑じった、しかし外には決して出そうとしない、"近くて遠い"距離を感じさせる表情。

 この瞬間、確かに彼女はそれと同じものを、ヒラタから感じたのだった。


 だからだろうか。

「あの……宜しければ、わたしの口からオスマン氏に、状況改善して頂くようにお伝えしましょうか?」

 さっさと追い払えば良いのに、こんな事を言ってしまったのは。

「有難う御座います。でも、お気持ちだけで十分です。多分、言っても無駄でしょうから」

 ゆっくりした口調で、その悲しい瞳の色を変えぬまま、ヒラタが微笑う。


 だからだろうか。

「いえ、メイジにとって使い魔の生活環境を整えるのは、絶対に守るべきルールの一つですから……」

 柄にもなく親身になって――油断してしまったのは。

「本当に良いですよ、十分生きていられますし。その言葉だけで救われた気持ちです。意外と優しいんですね、フ……"マチルダ"さんは」

「なっ! その名を何処でっ!?」

 惚けるよりも、相手の意図を読むよりも、咄嗟に杖を向けてしまった。

 余裕も何もなく、感情のままにルーンを唱えようとしてしまった。

 ――敵が、剣を持った敵が、手の届く距離に居たというのに。



 かんっ。

 呆気ない音と共に、彼女の杖は半ばで断ち切られてしまう。

 彼女の目はその剣筋を捉えていたが、それだけだ。交わすことも、刃筋をずらして受けることも、出来なかった。

 完全な油断。

 だがまだ、敗北ではない。

「はんっ、このわたしの杖を折るなんて、大した手腕じゃないか」

 秘書の"仮面"を脱ぎ捨て、彼女は強い視線をヒラタに向けた。


「いや、ちょっと待った。何で行き成り本性現してんだ?」

 最初は惚けると踏んでいたのだろうか。若干ヒラタが焦った様子を見せる。

 焦る? ということは、ヒラタは武力ではなく交渉を予定していた、ということか。

 彼女は内心で、笑みを溢した。

 近距離で油断していたために、杖は折られてしまった。しかし、剣筋が見えなかったわけでも、反応できなかったわけでもない。

 ヒラタが交渉を目的に近付いたというなら、用意された"戦力"はあまり多くないのかもしれない。

 確かにヒラタの実力は低くないようだが、それでも所詮は剣士、メイジの敵では無いだろう。


 こっそりと、彼女は左手をヒラタの死角に移動させ、手首に隠した予備の杖に指を這わせる。

「"マチルダ・オブ・サウスゴータ"。その名を調べて近付いて来たヤツは、全員碌な人間じゃないだろうから、ねっ!」

 最後の一言と同時に魔力を開放。

 唱えたのは系統呪文ではなく"念動"。狙いはヒラタの胴体だ。

 浮かされ、体勢を崩したヒラタの鳩尾に蹴りを打ち込む。

 彼女は実戦を、しかも泥臭く血生臭いそれを知るメイジだ。体術も人並み以上に修得している。


 正しく鳩尾に打ち込まれた蹴りにより、両者の距離が離れた。

 彼女が自身を遠ざけるように後ろに跳んだのもあるし、衝撃を通すよりも相手を飛ばすのを優先した蹴り方をしたのもある。

 結果、彼女は敗北寸前の状況から、二つの有利を勝ち取ることに成功した。

 一つは距離。未だ剣士にとっては一足の距離ではあるが、彼女が魔法を唱えるには十分の距離である。

 もう一つは時間。鳩尾への衝撃は、人体が動作するために必須となる呼吸を停止させる。メイジに限らず、人にとって呼吸とは"時間"だ。


 ヒラタの着地を待たず、彼女の呪文が完成した。

 生み出された土の槍は三本。相手の身体の中央と、左右に少しずれた位置に放つ。

「食らいなっ」

 ヒラタが如何に身を翻そうと、左右の土槍のどちらかは、確実にヒラタを捉えるだろう。


 しかし――

 必中の意を以って放たれたそれが、ヒラタに損傷を与えることは無かった。

 有ろうことか彼は、土槍をその手で掴んだのである。

 無論、手で止められるほど彼女の魔法は弱くない。ただ掴んだだけであれば、そのまま貫き、彼の身を打ち抜いたことだろう。

 だがヒラタは、土槍を掴みはしても、その土槍を止めようとはしなかった。

 掴んだ土槍から自身の身体を押し出すようにして、空中で体勢を変え、土槍の下にその身を潜り込ませたのだ。


 かはっ。

 着地と同時に、ヒラタの口から呼気が漏れる。その瞬間、彼女のアドヴァンテージは一つ消え失せた。

 蹲った状態から、ヒラタが掌だけをこちらに向ける。

 飛ばされる武器を警戒し、素早く障壁の準備を整えたところで、ヒラタの顔が上がった。

「待った、待てって! 暴力反対。頼むから話を聞いてくれ、"フーケ"」

 その名も知られていたか。

 嫌悪感を隠しもせず、一つ舌打ちをしてから、彼女は魔法を発動させる。

 一瞬のタイムラグの後、ヒラタが居たその場所には、地面から無数の針が突き出した。

 その針には、獲物は引っ掛かっていない――元より、引っ掛かるとも思っていない。


 本命はこっち。

 足下の異変に逸早く気付き、素早く地面を蹴って跳んだヒラタの姿を、彼女の瞳は捉えていた。

 ヒラタの動きは驚くほど速い。速いが、見えぬわけではない。

「コイツで――」

 杖を回し、土砂の渦を作り出す。素早く、直径一メイルほどの土柱へと纏め上げる。

 大事なのは、魔法の威力ではなく、土柱を生成する土砂を調達する場所。

 ヒラタの"着地点"を崩し、相手の動きを止めること。

「――終わりだよっ!」

 それが平民の限界。如何に身体能力を高めようと、蹴るべき地面が無ければ彼らは跳べない――飛べないのだ。

 土砂の流れで螺旋を描き、円錐状になった土柱でヒラタを狙う。

 刀身を横にしたヒラタが、土柱の先端を受け留め、受け流そうとするが――甘い。


「終わりって言ったはずさ!」

 圧倒的な土砂の質量を以って、受け流そうとするヒラタを、その身体ごと押し流す。

 そのまま土砂ごと塔の壁面に叩き付け、同時にその土砂を、巨大な五指へと変化させる。

 "アースバインド"。トライアングル級のそれが掴むのは、足だけではない。

 これで詰み。後は、この男の始末を付けるだけだ。



 壁面に叩き付けられた衝撃で呻くヒラタに、彼女はゆっくりと近付く。

「一応、後顧の憂いを絶っておきたいんでね。何処でわたしの名を知ったのか、何が狙いだったのか、話してもらうよ」

 笑みと共に、ヒラタを押し付ける"手"の力を強くした。

 しかし、悲鳴の一つでも上げるかと思えば、そんなことはなかった。

 歯を食いしばりながらも、顔を上げて、真っ直ぐこちらに視線を向ける。

 その瞳に映るのは、敵意でも憎しみでも懇願でもない、純粋な疑問の色。

「質問が有んだけど……っ、聞いてくんねぇかな」

 途中、呻くように言葉を途切らせたものの、存外はっきりした声をヒラタが放つ。


「残念だけど、質問してるのはわたしだよ?」

 "指"の力は抜いていないのにも関わらず、はっきりした声を出されたのには少々驚いた。

 だが、それを表情に出すほど、彼女は未熟ではない。

 彼我の距離が三メイルを切ったところで、徐に足を止める。

 剣士相手に不用意に近付くのはご法度だったが、壁面に縫い付けるように拘束しているので問題無いと判断した。

 このくらい近付かないと、相手の細かい表情まで見ることが出来ない。

 生憎と彼女は、"嘘"や"感情"の動きを見て取れるような"水"系統の高等魔法は使えないのだから。


「俺を敵だと断定した……理由は?」

 包帯に覆われた顔を見るに、痛みを感じていない筈はないのだが、ヒラタの口調は飄々としている。

「何度同じことを言わせる気だい? 質問をしてるのはわたしだよ」

 ヒラタを拘束する"指"の力を一本だけ強くする。

 声にならない掠れた呼気が、ヒラタの口から漏れた。

「……っ、そこを何とか……教えちゃくんねぇか?」

 もう息を吸うことも難しいだろうに、僅かな肺の空気を無理やり吐き出して、ヒラタが言葉を続ける。

 顔は歪めても、決して瞳を逸らさないヒラタの気丈さに、彼女は溜め息を吐くしかない。


 根負け、なのだろう。

 この場に留まり続けることは、彼女にとっても得策ではない。

 どの道名前は知れている。これ以上、妙な意地の張り合いをしても無意味だ。

「強情だね、全く……。ここでのわたしは"ロングビル"。"マチルダ"でも"フーケ"でもないのさ。坊やは……、自分の隠した名を呼ぶ相手を味方だと思うかい?」

 そう言って、拘束を少し緩める。"何時もの尋問"から考えると、これ以上は内臓にダメージを与えてもおかしくはない。

「そう……かっ、それで……」

 何かに納得したように、ヒラタがぶつぶつと呟き出す。


「納得したかい? それじゃ、いい加減、わたしの質問に答えてもらおうか」

 変わらずヒラタが苦しげな表情を見せていたため、更にもう一段階"指"の力を弱くしてから、ヒラタの顔を睨め付ける。

「そう、だな。……答え、るよ」

 弱弱しく声を出すヒラタが、一瞬しゃくりあげたかと思うと――口の端に赤い染みを作った。

「俺が、あんたに、近付いた……っ、理由は……あ……に……」

 ヒラタの声は尻つぼみに小さくなっていき、代わりに包帯の赤色が大きくなる。

 内臓を傷付けてしまったのだろうか。この場で死体を作るのはどう考えても不味い。

 そう考えた彼女は、未だに何か喋り続けているヒラタへと急いで駆け寄った。

 無意識に、ヒラタの声に耳を傾けながら、無造作に、無警戒に。



 そして――

 一瞬後、胸に強い衝撃を感じたかと思うと、彼女の視界が白に染まった。

 身体の力は抜け、何か大きなものが身体の正面に、どんっ、とぶつかる。

 痛みは感じなかった。それが地面だと気付くことも出来なかった。

 感じた衝撃は全く気にならず、そのまま身体が空に浮くかのような浮遊感を感じて――


「ったく、名前が三つ有んのは紛らわしいんだよ」


 ――何処か遠くでその声を聞きながら、彼女の意識は白へと落ちた。




[4574] 第三話「名前が三つは紛らわしい(中編)」
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/12/29 03:42
 気付いてみれば、簡単だった。

 あくまで理解するのが簡単なだけで、それを遂行する事が困難なのは相変わらずなのだけれど。

 飛んで来た石斧を左手の短剣で弾き、同時に拾っておいた別の石斧を、石斧が飛来した場所目掛けて投げ付ける。


 ふごっ。

 命中したようだ。オーク鬼のくぐもった声が、斉藤の耳へと届く。


 遠距離から石斧を投げるオーク鬼は、遠距離攻撃をした後に自身の身を隠すという行動をしない。

 ――知らないのだ。

 "決められた"行動しか行えない彼らは、そんな基本中の基本を守ることも出来ない。

 標的との距離、それから仲間の配置。

 相手のリアクションに関係なく、ただそれだけを指針に自身の行動を決定する。

 生死に関係なく、決められた行動を取り続けるその様は、生き物というより、機械に近い。


 一定距離に近付いた所で、オーク鬼たちが一斉に、投斧行動を停止させた。

 薄闇の中、斉藤の目前で、半数のオーク鬼が石斧を捨てて棍棒に持ち替える愚を犯す。

 残り半数の内、更に半分が後方に下がり、実質四分の一が石斧を手に斉藤へ向かってくる。

 ――だが遅い。

 投斧が無くなった時点で、斉藤は回避を考慮せずに突き進んでいた。

 そのまま石斧を振り上げるオーク鬼の一陣をすり抜け――勿論、すり抜けざまに首を一つ落す。

 そして、棍棒を振り上げようとしたオーク鬼の第二陣から、あっさりと首を一つ刈り取ってから――バックステップをして、足を止める。


 現在進行形の"支配"にしてはリアクションが弱い。恐らく、予め行動を"刻み付け"られているのだろう。

 オーク鬼どもは、決められた行動以外、一切行わない。

 例えば、オーク鬼と一メートル以内の近距離にいる場合、他のオーク鬼は遠距離攻撃を行わない。

 例えば、近距離攻撃を行う場合、使用する武器は棍棒より石斧を優先とする。

 例えば、相手との距離が十メートルを切った時点で、手元に持ち替え可能な武器があった場合、状況に合わせて武器の選択を行う、など。


 斉藤が目前で足を止め、呼吸を整えているというのに、オーク鬼どもは振り上げた棍棒を戻し、石斧へと持ち替えていた。

 オーク鬼が石斧に持ち替え終えたところで、斉藤は更にもう一度バックステップを行い、後方を確認する。

 第一陣は、全員姿を消していた。これも"刻み付け"られている行動の一つだ。

 第二陣の半数は、態々棍棒に持ち替えようとしている。それを確認しながら、斉藤は踵を返して別の方向へと駆け出した。



 一つ一つ、オーク鬼に刻まれたプログラムを解読していく。

 行動を切り替える際のトリガーを見極め、その優先順位を確認する。

 先程のような、自身の呼吸を整える休息時間も、今では殆ど把握していた。

 倒せない敵ではない。決まった行動しか起こさないのであれば、数の差も苦にはならない。


 必要なのは、時間と忍耐力。

 既に夜も深けきって、これ以上暗くなるような事はない。

 終わりが見えている分、削られる精神力も高が知れている。

 故に、どちらも問題ない。



 さぁ、狩りを続けよう。

 狩りを終えれば、……大金持ちだ。





 『最初のゼロから間違えて』
 第三話「名前が三つは紛らわしい(中編)」





『ったく、名前が三つ有んのは紛らわしいんだよ』


 崩れ落ちるフーケを前に、斉藤は苛立たしげに言葉を吐いた。

 言葉こそフーケに向けられたものだが、苛立ちは全て、斉藤自身へと向けられたものだった。

 オーク鬼との一戦を終えて、少しばかり気を抜いていたらしい。名前を呼び間違えるなど、迂闊にも程がある。

 フーケの杖を回収しながら、斉藤は自身の情けなさに、強く奥歯を噛み締めた。


 フーケ、マチルダ、そしてロングビル。

 三つの名を持つ彼女との対峙にて、斉藤は三つの大きなミスを犯した。


 一つ目は、彼女の名前を口にしたこと。

 咄嗟で慌てていたこともあるが、態々名前を呼ぶ必要など無かったのだ。

 一巻にしか登場しないような"ロングビル"の名前など、その時の斉藤の頭には残っていなかった。

 ただ"フーケ"と呼ばないことを優先し、迂闊にも"マチルダ"などと呼んでしまったのが悔やまれてならない。

 それさえ無ければ、今回の諍いは発生しなかったのだから。


 二つ目は、咄嗟に武器を振ってしまった後の行動。

 普段からルイズの失敗魔法を食らい続けていた所為か、魔法への恐怖で、条件反射的に相手の杖を切ってしまった。

 それ自体は無条件で悪いこととも言えないのだが、その後が不味い。少なくとも、初手に攻めを選んだのなら、手を止めるべきではなかった。

 初めから戦わぬ心算ならば、手を出さずに距離を置くべきであり、戦うと決めたならば、躊躇わず制圧するべきだったのだ。

 戦端を開きながら、交渉を望むなど馬鹿げている。

 これを間違えてしまったが故に、今回の争いは発展してしまったのだ。


 そして最後は、彼女の実力を侮っていたこと。

 フーケ=巨大ゴーレム、という先入観を捨て切れなかったのが大きい。

 よくよく考えれば、ただトライアングル級というだけで、世の貴族どもからお宝を盗み続けられようはずが無い。

 彼女の最も恐るべき点が、その狡猾な知力であることに、もう少し早く気付くべきだった。

 最初の一撃に、"相手を浮かす"選択をするメイジは、恐らくそうそう居るものでは無いだろう。

 平民相手の戦いに慣れていると言うべきか、相手の先を読むことに長けていると言うべきか、彼女の戦術は見事だった。

 詠唱に必要な距離を稼ぐために、敢えて最初に接近してみせるという思考の柔軟性。

 攻撃力よりも攻撃の速さを優先し、敢えて攻撃力ゼロのレビテーション(正しくは念動)を掛けるという発想力。

 そして、鳩尾を蹴ることで距離を稼ぐと同時に、相手の動きを鈍くさせるという行動を、一連の流れで瞬時に行わせた脅威の戦闘経験。


 初手だけで、フーケがどれだけのやり手であるかが良く解る。

 そして更には、攻撃の一手一手が流れるように次手へと繋げられていた。

 詰め将棋のように……いや違う、恐らくは予想外のことが起こったのだとしても臨機応変に、勝利への一手を打ち込んだはずだ。

 正直、今回の戦闘は完全に斉藤の負けだった。

 現状では、次また戦ったとしても、勝つことは出来ないだろう。

 冗談抜きにそう思える。原作一巻にて、穴だらけの間抜けな作戦を用いていたことが信じられないくらい、彼女は強かった。




 では何故今、フーケが地に伏し、斉藤がそれを見下ろしているのか。

 その理由は、宝物庫のあるこの塔の壁面にあった。

 幾重にも重ねられた"固定化"の魔法。斉藤は先程まで、この魔法の効果を勘違いしていたのだ。

 ただ固い、崩れない物なのだと――"固定"という言葉から、無意識にそう思っていた。

 しかし違った。

 よくよく考えれば当たり前だ。この壁の弱点は、衝撃、打撃といった質量攻撃。崩れない物とは相反する特徴を持っているのだから。


 これはあくまで斉藤の予想なのだが――

 "固定化"の魔法が固定化するのは、物質そのものではなく、物質内の空間ではないだろうか。

 系統魔法とは、分子を操る術であったと記憶している。

 魔力の手を伸ばし、分子構造を組み替え、操り、目的の構造へ変化させ、目的の現象を起こさせる。それが系統魔法。

 そこで、"固定化"とは物質内の隙間を予め魔力で埋めておき、別の魔力の介入を阻止するものだと考えれば如何か。

 魔法が掛けられたとしても、伸びた魔力の手を"固定化"の魔力が食い潰し、掛けられた魔法を無力化させる。

 もし"固定化"よりも強力な魔法だったのなら、伸ばされた魔力の手が"固定化"の魔力を食い破って、正しく魔法が発動される。


 故に、どんな炎が飛んで来ようとも、炎の構成は壁面に当たった瞬間に霧散し、ただの煤となり。

 故に、どんな風が吹き付けられようとも、風の構成は壁面を撫でた瞬間に解け、ただの空気に還り。

 故に、どれだけ水が滲みこもうとしても、水の構成は壁面に届いた瞬間に断ち切られ、ただの滴と成り果てる。


 そしてフーケの魔法による土砂の指も、当然ながら"固定化"の魔力を食い破ること叶わず――壁面に触れた瞬間、土砂同士の繋がりが崩れ去り、只の土に戻ってしまった。

 そのため、前方からの圧迫は如何にもならなかったものの、壁面を這うように動かせば、足の一本くらいは如何にか出来ると斉藤は判断し――最後の博打で勝利をもぎ取ったのだ。


 同じことが出来るとは、思わない――思ってはいけない。

 フーケに拘束された時点で斉藤が敗れたのは間違いなく、今斉藤が立っているのは、ただの偶然に過ぎないのだ。

 メイジ相手では、只の一撃も致命的な隙となる。肝に銘じなくてはならない。

 ガンダールヴの力だけでは、「俺Tueeeee!」は不可能。メイジが相手でも"戦うこと"が出来る――ただそれだけなのだと。



 色々考えて、過去に反省して、現在に嘆いて――そして漸く、斉藤は未来について考慮してみた。

「正直、関わりたくねぇんだけど。……如何すっかな」

 尤も、考慮はしても結論は出ない。ただポツリと、斉藤の口から本音が漏れただけだ。

 原作知識を使って云々といった行為は、生憎と今回は、いや"今回も"起こり得ない。

 ってか、寧ろ原作知識が俺の足を引っ張ってねぇか?

 頭の隅で、そんな詮無いことを考えながらも、斉藤は足りない頭で現状を打破する"何か"を模索し続ける。


 勝てる見込みは無い故、出来れば再戦は避けたい……と言うか、彼女と戦うのはこれっきりにしたい。

 しかし、"フーケ"を捕まえて終わりにするには、彼女が"盗賊"だと言う明確な証拠が無い。

 かと言って、"マチルダ"との争いを避けるにしても、彼女に"味方"だと認識してもらう方法が思い付かない。

 ティファニア関連の情報で説得をしようにも、こんな状況では下手をすれば脅迫と同じになってしまう。当然、信用などして貰えるはずが無い。

 だが、放っておく訳にもいかないだろう。そうした場合に斉藤が被る"面倒事"は考えるまでも無く、最悪の一言で尽きる。


 考えれば考えるほど、斉藤は鬱になった。

「……取り合えず、運ぶか。誰かに見付かったら、それこそ言い逃れ出来ねぇし」

 よっこいしょ。そんな掛け声を上げながら、斉藤はフーケを担ぐ。

 確かに何時までもここに居るわけにはいかないのだが、そんなことに関係なく、これは只の問題の先延ばし――つまりは現実逃避だ。


 最近物事が上手く行き始めたと思った矢先にコレか――儘ならぬ現実を嘆きつつ、斉藤は空を仰いだ。

 肩に担いだフーケの重みとは違う、全身に圧し掛かる疲労感が、斉藤の足下を覚束なくさせる。

 ――そういや夕飯、結局食ってねぇなぁ。

 夜空に輝く双月は既に中天を越えており、夜も半ばを過ぎていた。

 ふらふらと自身の寝床に向かいながら、斉藤は――もう何度目かも分からぬ程の――深く大きな溜め息を吐くのだった。




 ――そして翌日。

 問題は山積みだが、目覚めは快適だった。

 足が一本しかない椅子のように不安定だった思考は、どっしりと居を構えた風通しの良い日本家屋のように、すっきりと安定したものに変わっている。

 就寝時点で鉛のように重かった身体は、それが嘘のように、使い古された言い方をすれば、羽が生えたように軽い。

 具体的に言えば――現在、馬乗りになって斉藤を押え付けているフーケを跳ね除けられそうなくらい?


「……これは予想してなかった」

 斉藤は額に手を当てようとするが、彼の両手はフーケの両足で確りと固定されており、碌に動かすことも出来ない。

 何気にフーケってば、体術スキルも高いんだな、と危機的状況にも関わらず、斉藤は素直に感心した。

 そして同時に、自身の迂闊さを呪う。

 ヴェルダンデにしたような本格的な拘束をすることを、主にエロス的な方面で忌避した昨夜の自分を無性に殴りたくなった。


「そうかい。そりゃ、お気の毒だね」

 にやり、と酷薄な笑みを浮かべるフーケ。彼女の手には斉藤の短剣が――その刃を喉元に添えるようにして存在している。

 錆びた刀身で容易に首を掻っ切れるとは思えないが、フーケならそれも可能なのかもしれない、と斉藤は思った。


 至近距離で、斉藤の瞳を真っ直ぐに見下ろすフーケを見ながらも、斉藤に焦りは無い。

 昨日と違って思考に澱が溜まることはなく、クリアな思考は容易く斉藤に現状を整理させた。

 放っておいても、即座にフーケが自分を殺すようなことは無い。もし殺す気なら、既に斉藤はこの世に居ないはずだ。


 それに、フーケが体術を行使していることと、短剣が未だ錆び付いたままであること。この事から、フーケはまだ自分の杖を見付けていないことが分かる。

 それでも逃げずに攻勢に出ているのは、どれだけフーケの情報が握られているかが不明なためだろう。

 もしくは、目が覚めても一人でいることから、仲間が居ないと判断したのかもしれない。


 いや、まあ、それは良いとして――斉藤は、フーケに対する思考を一旦打ち切った。

 そんなことよりも、斉藤は自身に起きている思いがけない現象の方が、ずっとずっと気になっている。

 何しろ今、"手に武器を持たなくても"ガンダールヴのルーンが発動しているのだから。



 ガンダールヴの、能力発動の鍵は"武器"である。

 斉藤は今まで、幾つかその能力についての検証を行ってきた。

 オーク鬼討伐時から始めている、気力アップの為に漫画の台詞を叫ぶことも、その検証結果の一つだ。

 そして他にも幾つか、現在進行形で検証を行っている。


 例えば、原作において"真剣"では能力が発動したのにも関わらず、"木剣"では能力が発動しなかった理由。

 これについては当初、様々な理由を考えていた。

 その推論を基に実地で検証を重ねた結果、候補は幾つかに絞られている。

 序でに言うなら、それ以上の検証は実際に"それら"の武器を入手しなければ確かめられない為、保留状態になっていた。


 因みに、検証結果で最も意外だったのが、斉藤が"木剣"を握った場合にルーンが発動したことだったりする。

 ガンダールヴの"データベース"に登録された武器でのみ能力が開放される、というのが当初斉藤が考えていた最有力候補だったので、ルーンが光った際、思わず呆然としてしまったことは記憶に新しい。

 他にも同様のケースとして、物干し竿を構えた瞬間の発動や、木を削って尖らせた瞬間の発動に、ぽかんと口を開けてしまったことを憶えている。


 そんなこんなで検証を続け、現在での最有力案は二つになっていた。

 一つは、握った本人が"武器"だと思ったものなら、何だろうとガンダールヴの能力は発動している、というもの。

 もう一つは、どんな物でも握った瞬間にガンダールヴの能力は発動している、というもの。


 前者は、木剣はあくまで練習用の"道具"であり"武器"足り得ないと判断した平賀才人に対して、斉藤の方は、木剣だろうと"武器"は"武器"と考えた為に能力が発動した、と考えれば辻褄が合わないことも無い。

 尤もその場合、当事者の知らない武器を持った際にどうなるかを検証しなければ、確かとは言えないだろう。

 例を挙げるなら、アトラトルを知らない才人に一旦それを持たせ、能力が発動しないのを確認した後に、目の前でアトラトルを使ってそれを武器だと認識させ、再度握らせた場合に能力が発動するかを確認するような感じだろうか。

 つまり、斉藤が"武器"だと認識出来ない武器を入手しなければ、この検証は出来ないわけである。勿論その逆の、武器だと思ったら実は武器じゃない代物を用意しても同様の検証は出来そうだが。


 後者は、木剣を握った時点で能力は発動していたものの、実戦のような命を賭ける緊張感が無い為に大した恩恵に与れなかった平賀才人と、常日頃から食事調達にも命を賭けなければいけなかった斉藤との、"気力"の差が明暗を分けた、と考えれば辻褄が合う。

 尤もその場合は、同じテンションで木剣を握った場合と真剣を握った場合で結果が変わる理由を考えなければならない。

 例を挙げれば、刃を持つ武器から刺股のような殺傷力皆無の武器、攻撃力はあっても武器とは呼び難いブラックジャックのような鈍器などの多種多様な武器を用意し、それぞれについてルーンの輝度でも測るような感じだろうか。

 つまり、データベース化出来るほど、若しくは共通点が探れるほど大量の武器を用意しなければ、これ以上の検証は出来ないわけである。



 そして現在、手に武器を握らずともルーンが発動するという、何とも不思議な現象が起きている。

 これは一体如何いうことか?

 何やら顔を近づけて喋っているフーケの言葉を無視して、斉藤は深く、深く思考の海に潜っていく。



 武器を手に持たなくともルーンは発動する?

 その場合は、喉元に突き付けられた短剣が発動の鍵だろう。

 確かに、ガンダールヴの力をフルに使えば、フーケを跳ね除けると同時にその首を掻っ切ることも不可能ではない。

 例えば、ナイフを持った人間が喧嘩した際に、自身の持つナイフで自らを傷付ける可能性がゼロではない様に、相手を傷付ける武器を自らが持つ必要も無いのだと考えれば、今喉元に当てられている短剣も"斉藤の武器"だと考えられない事もない。


 これは新たな課題だ。考えてみれば、武器とは常に手に持つとは限らない。足に装着する武器とかも検証する必要が出来てしまった。



 ……いや、武器だと認識していないだけで、実はその手に武器が触れている?

 斉藤は考える。フーケのことだ。服の裏に暗器の一つや二つ隠していてもおかしくは無いだろう。


「ひゃんっ。……な、何する――」

 仕込まれた武器の可能性を考慮して手を蠢かせた瞬間、斉藤に乗っかったフーケが可愛い声を上げる。

 当然だ。斉藤の両手は馬乗りになったフーケの足に挟まれており、斉藤が撫でたのは彼女の内腿だったのだから。


 そして――

「……またもや形勢逆転だな。美人のお姉さん?」

 初々しい反応を見せて僅かに腰を動かしたフーケの隙を逃さず、斉藤は両腕を抜いて短剣の刃を素早く掴んだ。同時に、一瞬で彼女を跳ね除けたかと思えば――今度は逆に彼女を地面に組み伏せている。



「はんっ。我ながら醜態を晒したもんだね。……質問は何だい? 冥土の土産代わりに、話だけは聴いてやるよ」

 冥土の土産って、普通逆……いや正しいのか? それとも、彼女はまだ再逆転の手を残しているのか。

 殊勝な態度を見せるフーケに、斉藤は面食らった。とは言え、拘束の手を緩めるような愚は犯さない。慎重にフーケの出方を窺う。


「訊きたいことが有るから、若しくはさせたいことがあるから、わたしを殺さなかったんだろう? 名前を調べたのもその目的がある筈さ。違うかい?」

 組み伏せられた先で――片頬を地面に押し付けられながらも、フーケが嘲笑う。

 成る程、その知能は並ではないようだ。先程斉藤がフーケに殺されないと思ったように、フーケもまた、即座に自分が殺されないことを悟ったのだろう。


「その事なんだが――」

 斉藤がそこで一旦言葉を切る。続く言葉が何も思いつかなかったからだ。

 必死で何かの言葉を探して――

 沈黙が相手の意識を引き付け、次の言葉に力を持たせる、とは誰の言葉だったか。などと妙な思考が脳裏を過ぎった。

 只の言葉の迷いを、良い意味の沈黙として解釈すべく勝手に記憶を掘り起こした自分に、斉藤は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 少しだけ、気が楽になる。


「生憎と調べたわけじゃねぇ。教えて貰っただけだ」

 ――"ゼロの使い魔"の原作本にな。

 最後を言葉に出さず、浮かべた苦笑いを隠して、出来るだけ違和感の無い"微笑み"を用意する。

 交渉の肝と、腹は決まった。後は出来るだけ、その流れにフーケを乗せるだけである。


「そいつが黒幕ってわけかい? 良ければそいつの名前を教えてくれると嬉しいんだけどね」

 先程の沈黙の効果か、斉藤の"笑顔"に乗せられたのか、はたまた組み伏せられた肩の痛みか、フーケの回答は早く――それ故に読み易い。

「黒幕とはヒデェなぁ」

 ――相手は本だぜ?

 そう言って斉藤はまた"微笑み"、そして――


 直後、その"微笑み"を消し、表情を真面目なものに切り替える――と同時に、思考と話題を切り替えた。フーケに気付かせることなく。

「ティファニアが」

「……なっ!」

「彼女が今何をしているか、お姉さんは知らねぇのか?」

 言葉の合間にフーケの驚きの声が入ったが、斉藤は別の話題を振っただけである。だが、この台詞を聞いた彼女が、ティファニアから事情を教えて貰った、と勘違いする事もまた可能な、何とも厭らしい間の取り方だった。


 ――ミスリード。

 交渉の基本は嘘を吐かないこと。

 しかしそれは、"嘘"以外で騙すことや、"真実"を語らぬことで惑わすことを、止めるものではない。


 斉藤は、フーケが言葉を返すよりも早く、次の言葉を紡ぎ出す。

 会話のもう一つの側面――斉藤が脅迫者として動き、既にティファニアが捕らわれてる等と云ったミスリードをさせないために。


「ティファニアは、お姉さんが何の仕事をしてるかは知らねぇらしい。俺も、まさかお姉さんが"ここ"で"こんなこと"してるなんて思わなかったしな」

 前後の文に繋がりは無く。序でに言えば、"ここ"で"こんなこと"とは、"斉藤が寝泊りしているこのログハウス"で"斉藤に短剣を突き付けるようなこと"という意味である。

 決して、"トリステイン"で"盗みを働いているようなこと"ではない。



 お誂え向きの状況と僅かな仕込み、そして何より、フーケが持つ優秀な思考能力。

 なまじ日の当たらない職業に就いているだけに、彼女は誰よりも深く話の裏を読もうとし、その予測を自身で補完していくことだろう。

 斉藤が原作本を通じて知識を得ているという荒唐無稽な真実などフーケは知る由も無く、只純粋に与えられた材料のみで推論を重ねるのだ。


 一秒、二秒、三秒……

 フーケの表情を注意深く窺い、待つこと暫し。彼女の表情が変わった瞬間を見計らって、斉藤は組み伏せたフーケを解放する。

 突然の開放に、フーケが何かを言おうと口を開――

「だから、お姉さんとは戦う理由なんてねぇんだよ」

 ――いたところで、何を言わせる事もなく、斉藤が別の言葉でそれを遮る。


 そして、言葉に詰まるフーケを余所に斉藤は立ち上がり、小首を傾げながら、彼女にからかいの笑みを飛ばした。

「昨日にしたって、お姉さんが行き成り襲い掛かってくるのが悪いんだぜ?」


 斉藤が依然持ち続けている警戒心は、決して表に出しはしない。

 これは、交渉を有利に進めるために斉藤が切った"開放"と言う名のカード。

 熟練のメイジであるフーケに勝つことは難しい。しかし、魔法が使えない彼女であれば話は別。それが斉藤の認識。

 何時でも再び押え付ける準備が出来ているが故に、このカードは斉藤の状況を悪くすること無く"信頼"という名のカードを掴む切っ掛けを作り出すのだ。



「……何だかねぇ」

 フーケは深く大きな溜め息を一つ吐いてから、組み伏せられた際に痛めたらしい肩へと手を伸ばす。

 そして、何とも疲れた顔で視線を余所へと向けたまま、彼女は痛めた肩を揉み解し始める。

 取り合えず、斉藤に戦意が無いことは察して貰えたようだ。

 余りにぼんやりし過ぎて、返って斉藤の警戒心を煽ってしまうほど、フーケの身体からは力が抜けているようだった。


「幾つか質問があるんだけど、良いかい?」

「ん? 答えられる事ならな」

 しかし斉藤の方は、未だ警戒を解くわけにもいかない。

 真実を語らずにいるのは案外尾を引くもので、少なくともフーケから"信用"を勝ち得るまでは、このまま隠し通さなければならない。

 お前が勘違いしただけだろ、などと言う台詞も、ある程度の"信用"が無ければ虚しく響くだけなのだ。


 そんな理由で、大っぴらに警戒心を剥き出しにするわけにもいかない斉藤は、意図的にガキっぽい笑みを浮かべることで何とか表情を隠してみせた。

 フーケは姉御肌っぽい性格をしているので、大人びた対応よりもガキっぽい対応の方が良いだろう、と言う打算的な思考もその笑顔には隠してあったりする。



「あの娘は、元気にしてたかい?」

「知らねぇよ。最近はアルビオンも物騒だし、彼女は怪我人を放っておけずに自分から厄介ごとに関わっちまうような性格だし」

 そもそも、会ったこと自体ねぇし――斉藤が胸中で付け加える。


「ああ、あの娘は優しいからね。そんな台詞を口にするって事は、坊や自身、あの娘に助けられたクチかい?」

「ん? 如何だろうな」

 何せ未来の話だ。原作の"才人"みたいな出会いをするか否かより先に、会うかどうかすら判断できない。


「おや、これは答えられない質問だったのかい。助けられた過去は語りたくないなんて、坊やも難儀な性格してるね」

 ここで漸くフーケの目が斉藤を捉える。その口元に浮かぶのは、からかうような笑み。

 蒔いた種が芽吹いたのだろうか――斉藤の笑みが、知らず一段深くなった。

「お姉さん程じゃねぇと思うけど? 強気な性格して突っ張っといて、実は家族のために悪事を働く優しい女の子。その凶暴な性格が照れ隠しだなんて、ツンデレにも程があんだろ」

 続く言葉に、少し気安い雰囲気を混ぜる。これで相手が"反応"を示してくれれば上々である。


「……ツンデレ?」

 計略失敗。望む反応より先に、知らない単語への興味の方が勝ってしまったようだ。フーケが軽く小首を傾げる。

 意外とその可愛い仕種は、きょとん、とした顔の彼女には似合っていた。

 ウエストウッドでは、本当に優しい姉なのだろう。他者を拒絶する嘲りの色が抜けた素の彼女は、とてもとても魅力的だった。


「ああ、気にすんな。"ツンデレ"ってのは、俺の国でお姉さんのような人のことを指す言葉のことで、……少なくとも侮蔑的意味は持たねぇから」

「そうかい? 何か馬鹿にされたような気がするんだけどね……」

 フーケの斉藤を見る目が、何とも疑わしげなものに変わる。

 これが漫画だったら俺の額には玉の汗が流れてるんだろうな、などと斉藤が現実逃避をしていると、

「ま、いいさ。別にわたしは異国語が学びたいわけじゃ無いからね」

 その沈黙が功を奏したのか、フーケの方から話題を変えてくれた。

 ひょっとしたらフーケ自身、ツンデレの説明を無意識に避けたのかもしれない。



「坊やが使い魔ってのも嘘かい?」

「んにゃ、本当」

「ま、それもそうか。そんな突拍子も無い嘘、吐く必要は無いものね」

 少しは"信用"をして貰えたのだろうか。フーケの口調は少しばかり優しげな色を含ませている。


 斉藤は漸く見えた"安全圏"に、思わず安堵の息を漏らした。

 その一瞬後、その安堵がフーケに余計な思考をさせるかもしれないと思い直し、慌てて表情を隠したのだが――フーケにはあっさり見抜かれたようだ。彼女の口元が、先程の獰猛さや嘲りとは別の雰囲気で以って吊り上げられる。


「そう警戒しなくっても良いさ。誤解はもう解けたんだろ? 流石にわたしも、あの娘の友人に意味も無く襲い掛かるような悪党じゃない積もりだよ」

 全く敵わない。今の安堵の息どころか、当初から隠していた心算の警戒心まで、彼女にはばればれだったらしい。

 こういう経験が物を言うところでは、ガンダールヴで身体能力を強化しているだけの自分じゃ如何しようも無いな、と斉藤は、心地良い敗北感と共に思うのだった。





「それじゃ、色々と詳しい話は後にし……こほん、"後にしましょう"」

 二人で朝食――何とも嬉しいことに、彼女が食堂から斉藤の分まで調達してくれたのだった――を取り、その後、学院長秘書としての仕事がある"ロングビル"の仮面を被った彼女と別れる。

 去り際の"変身"は見事だった。口調はおろか、纏う雰囲気や顔までも変わったように感じてしまい、残された斉藤は、思わず口をぽかんと開けて間抜け面を晒してしまったものだ。


 化粧をしなくても女って化けるモンなんだな、斉藤の思考が意図せずそんなことを考える。

「……っと、いかんいかん」

 軽くこめかみを叩いて、斉藤は我を取り戻した。

 のんびりしてはいられない。斉藤には、すべきことは沢山あるのだ――主に、ご主人様関連の雑用とかそんな感じのものが。


 土を掛け、先程までフーケと囲んでいた焚き火を完全に消す。

 空を見上げると、今日も天気が良さそうだった。

「さて、今日も一日、気張るとすっかね」

 一つ大きな伸びをして、斉藤は歩き出す。



 そう、"フーケ"関連のイベントが、原作と大きく掛け離れてしまったであろう事を深く考えもせずに、斉藤は歩き出す。

 既に物語は、原作と違う流れを――修正できぬ程の大きな流れを、決定的に違う何かを、生み出そうとしていると言うのに……






 衛兵の詰所の扉を開けた瞬間、奥のカウンターに腰掛けた髭面の中年男が、下卑た笑いを斉藤へと向ける。

「うん? またアンタか。今度は何処の"貴族様"に取り入って、オーク鬼の首を恵んで貰ったんだ?」

 その声と共に、詰所の中で多数の、嘲るような笑い声が響き渡った。

 この中年男は――いや、彼に限らずこの詰所に居る全ての衛兵が、斉藤が自身の実力を以ってオーク鬼の討伐を行っていることを、信じたくないらしい。

 最初の数度は「俺の独力だ」と訂正を入れていたものの、斉藤としても金さえ払ってくれるならば信じて貰わなくとも構わないため、今では好きに言わせている。


 真昼間だと言うのに仕事が無い人間がこんなに居て良いのか――斉藤がそう思ってしまうほど、詰所に屯っている衛兵の数は多い。二十人は居るだろうか。

 誰もが彼を嘲る笑みを、様々な野次を、斉藤へと飛ばしている。

 しかしそれら全てを斉藤は無視し、黙って奥のカウンターまで歩を進めると、"それ"を台座の上へと載せた。

「換金だ。払えるか?」

「あん? 誰に物言ってやがる。テメェみたいなひよっ子が持ってくる分の報酬なんざ――」

 中年男の言葉が、途中で止まる。


 まぁ当然か、今回の数は前回までの比じゃないからな。斉藤が意地の悪い笑みを零す。

「如何した? 俺みてぇなひよっ子が持ってくる分の報酬なんざ、トリスタニアに連絡するまでも無く用意して見せんだろ?」

 コツコツ、と指でカウンターを叩きながら、斉藤はとろん、とした眼を中年男へと向ける。

 やれるものならやってみろ――斉藤の瞳がそう告げていた。


 カウンターに載せられた首の数は、締めて四十三個。

 金貨の枚数で言うなら百七十二枚。収入で言うなら平民の年収を軽く超え、重さで言うなら屈強な戦士がやっと持てるほど、である。

 戦術を使うオーク鬼。意図したものではなかったが、それの討伐に命を賭けただけの価値は――当然有るのだった。




 からんからんっ。

 衛兵の詰所を出る際、扉に付けられた鈴の音が斉藤の耳朶を打った。

 この扉を叩いたことは何度かあるが、その音を聞いたのは初めてのような気がする。

 こんな時だけ耳障りな甲高い音を意識させるなんて、建物内部の人間と一緒で意地が悪い、と斉藤は思った。


 空を見上げ、金貨の代わりに渡された割符を手で弄びながら、斉藤は深く息を吐く。

「四日後に全額纏めて……ね。これだからお役所仕事ってやつは」

 斉藤の手に割符以外の物、具体的に言えば金貨の入った袋は、存在していない。

 全額は兎も角として、目標の百エキューに達する程度――ほんの十六エキュー程度ならば、まだ衛兵の詰所に有るだろうと考えていただけに、一エキューも手元に来なかったのは大きな誤算であった。


『はん! どうせ貴族様から恵んで貰ったあぶく銭だろ。がめつくんじゃねえよ、糞ガキが!』


 斉藤の挑発を受けた中年男は、"口角泡を飛ばす"の言葉を実践するが如く激しくがなり立て――遂には分割払いさえ、一方的な理論で拒否したのだ。

 おまけに金の受け渡しは四日後。

 本来であれば明日の休日にトリスタニアへと赴き、デルフリンガーを購入する心算だった斉藤の心は、その小さな嫌がらせに、大きな苛立ちを内包させられる事となった。


 原作において"平賀才人"がデルフリンガーを購入した詳しい日付を、斉藤は憶えていない。

 だが、シエスタの事件やフーケが何やら暗躍していた事から鑑みるに、既に原作のデルフリンガー入手時期は過ぎている筈だ。

 一応外見は襤褸だから買われたりはしないだろうが…… そう思いつつも最悪な予想を否定しきれず、斉藤はがしがしと包帯ごと頭を掻く。



 いっそのこと、現在の所持金を全て持ってトリスタニアに行ってみようか。

 斉藤の頭にそんな考えが浮かぶ。

 勿論、駄目元で値切ってみようだとか、自棄になって言っているわけではない。それなりの勝算を、斉藤は持っていた。


 まず、デルフリンガーの値段が新金貨百枚なのか、それともエキュー金貨百枚なのかがはっきりしないこと。

 新金貨であれば、現状の八十四エキューでも購入可能だ。可能性は五分と五分、それほど悪い賭けでもない。


 次に、今斉藤の手元にある割符の存在。

 これは所謂為替や小切手といった物と同じだが、数日後とは言え"確実に"金貨へと換わる代物である。何かの拍子にゴミに変わったりする物では無いため、商人にとってはそれなりの価値を持つはずだ。

 勿論、手間賃やその他の諸経費に依って本来の価格よりも低い価値にしかならないだろうが――それでもデルフリンガーの購入くらいは出来るだろうと斉藤は考えている。

 割符の売買に免許や許可証の類いが必要な場合でも、"商売は草の種"だ。レートは低いだろうがパチンコの現金引換所のような"認知された違法を為す場"が無いわけが無い。


 一つ斉藤に心配事が有るとすれば、"伝手"やら"コネ"やらを考える以前に、ハルケギニアにおける商売の"いろは"さえ、良く知らないという現実だろうか。

 バイト程度の人生経験はあるものの、斉藤自身は別に商売人でも何でも無い。当然、海千山千の商売人と渡り合おうなどとは思っておらず、有る程度ふっかけられることくらいは覚悟していた。

 しかしこのままでは――相場の一つも知らないままでは、交渉も侭ならないかもしれない。


 だがそれは――

「別の誰かと一緒に行きゃ問題ねぇだろ。そうでなくても、話を聞いときゃ何とかなるかもしんねぇし」

 良し、と斉藤は一つ頷いて、コイントスを行うかのように、親指を使って割符を遥か上空へと弾き飛ばす。

 次いで祈るようにその目を閉じると、祝詞を詠うかのように、ゆっくりと言葉を吐いた。

「表は正道、お嬢様。裏は蛇の道、お姉さん。ってな」

 最後の言葉を茶目っ気たっぷりに言うと同時に、斉藤がその目を開ける。

 ガンダールヴの力を使ったわけでもないのに、割符はかなりの高さまで達し、くるくるくるくる、と勢い良く回転を続けていた。


 ――たっぷり五秒後。

 目前に落ちてきたそれを、斉藤は余裕の表情で掴み取った。

 慣れた仕種で手の平を上に向け――開く。

 原作の知識云々で行動するより、自分にはこう云う運任せの方が性に合ってるんだろう。

 割符の表裏を確認しながら、斉藤はそんな風に思うのだった。





 彼の行動範囲はそれほど広くないことを、シエスタは知っていた。

 食事の際は何故か食堂に来ず、森で狩りをするのだそうだが――それ以外で彼の居る場所は、とてもとても限られている。


 大まかに纏めるなら、凡そ三箇所。それを可能性の低いものから順に並べると――

 まず、彼のご主人様であるミス・ヴァリエールより後方二メイルの位置。

 それから、ミス・ヴァリエールの部屋とそこへと続く廊下の何処か。

 そして最後に、"普段"ではなく"その時々"の時間帯で一番人気の少ない"中庭"。


 だから、目的の荷物を持ったシエスタが、昼休憩に入って十分と経たずに彼を発見できたのも、別に珍しいことでも無いはずだ。

「あ、居た居た。使い魔さ~ん」

 今日彼が居たのは"アウストリの広場"だった。渡り廊下の両側に並ぶ木々の隙間に、彼の後ろ頭を発見する。

 彼の直ぐ横で立ち上る一筋の煙――焚き火の存在も、シエスタは直ぐに気が付いた。多分、昼食を取っているのだろう。

 シエスタは、胸の前の荷物を抱え直すと、大きな声で彼を呼んで――そのまま一気に走り出す。


 因みに、アウストリの広場は、本塔の通路から向かうと、最後の最後に渡り廊下の角を曲がるまで、視界に中庭が映らないようになっている。

 そのため、実際はシエスタの居た場所と、彼の居る広場の端っことの距離はそれ程離れておらず――シエスタが大声を出す必要など、何ら感じられない程の距離だった。


 現に彼がシエスタの声に気付いて振り向いた時には、両者の距離は五メイルを切っていたし――

「ん、シエスタ? ……止まれっ!」

「え?」

 シエスタが彼の制止の声を聞いた時には、既に三メイルを切っていた。

 結果、シエスタは彼の言葉の意味を理解することなく何かに蹴躓き、意味を理解したときには既に宙を舞っていた。



 そして――

 がらん、ぐっ、がしゃっ、ガキッ。

 まず始めに、シエスタが抱えていた荷物が散らばって地に落ちる音が鳴り響き。


 次に――

「……あれ?」

 衝撃に備え、きゅっと目を閉じていたシエスタは、何時まで経っても来ない衝撃に、思わず戸惑いの声を漏らした。

(ええっと……)

「無事か、シエスタ?」

 シエスタがそのまま目を瞑ったまま首を捻っていると、彼女の真下から声が聞こえた。

(え、真下?)

 驚いたシエスタが目を開ける。


 すると、シエスタの鼻先三十サントの距離で、彼が地面に仰向けに倒れていた。

「こう云うアクシデントは、ちぃっと勘弁して欲しいかな」

 シエスタの目に映る、包帯に覆われた彼の顔には、苦笑いと――歯に挟まれた一本の包丁が存在している。

「……え?」

 良く見れば、それは見知った包丁で、彼女が先程まで抱えていた荷物の一つだった。

 瞳を動かせば、他にも彼女が持ってきた数本の包丁が存在していた。彼の両手の指の間に計三本、首横と脇の下の隙間に各一本ずつと、顔の包帯を一枚切り裂くように刃先を頬に向けて地面に刺さっているものが、一本。


「……シエスタ?」

 余りの事態に頭が真っ白になったシエスタの耳に、包丁を咥えて滑舌が悪くなった彼の声が響く。

 シエスタの視界の先で、彼に刃先を咥えられた包丁の柄が、ぷらぷらと揺れた。

「……あ! ご、ゴメンなさい」

 慌てて頭を下げようとして、シエスタは自分の身体に何も触れていないことに気付いた。

 そう、何も触れていない。彼の手は包丁を持っていてシエスタを支えていないし、シエスタの足はぷらぷらと空中で揺れている。


「シエスタさん、でしたね。お怪我は?」

 シエスタが現状を理解しようと左右に視界を巡らせると、彼女の右後ろからしっとりとした女性の声が聞こえてきた。

 声の主を確認しようとシエスタが首を捻ったところで、彼女の視界が勝手に上へと持ち上がる。

 そして、見えない何かに掴まれたと言うよりも、周りの空気全てで持ち上げられたような独特の感覚を味わった後、シエスタの足は無事地面へと着けられた。

(あ……魔法、使われてたんだ)

 ゆっくりと重力を感じて、自分の力だけで立つに到って、漸くシエスタはその事実に気付く。


(魔法って、怖いものばかりじゃ無いのかも)

 先程の浮遊感を、包み込むような空気の感触を思い出し、シエスタの顔は自然に綻ぶ。


 尤も――

「危険の度合いから考えっと、俺の無事を確認すんのが先じゃねぇかな」

 シエスタの足下で、未だ包丁を咥えたままの彼の声に、すぐさま彼女の顔は申し訳なさで埋ってしまうのだが。






 やっぱ、お姉さんってやつなんだろうね。

 優しくシエスタを地面に立たせるフーケの魔法を見ながら、斉藤はそんな事を思った。

 行き成り声を掛けられたかと思うと、両手に抱えた鍋を放り出して"すっ転んだ"シエスタには随分と驚かされたが――斉藤が本当に驚いたのは、その直後だったりする。

 何せ、鍋の中に入れられていたらしい"ちびた包丁"が七本、刃先を斉藤へと向けて飛び込んできたのだから。


 場所を移動してそれらを避けることも斉藤には出来たのだが――文字通り逡巡の時を刻んだ後、毎度の如く中途半端なフェミニスト振りを発揮した斉藤は、シエスタを受け留める決断を下した。

 続いて瞬息の時が刻まれ、シエスタの前方に存在する刃の群れを、斉藤が自身の腕が傷付くことも厭わずに払い除け――ようとしたところで、フーケの"レビテーション"があっさりとシエスタを救助。

 マジかよ、と斉藤が叫ぶ暇も無く、何故か"レビテーション"の範囲に入らずそのまま飛び込んできた包丁を"如何にか"し、現在に至ると言うわけである。


 いやしかし――

「ゴメンなさい。だ、大丈夫ですかっ」

 先ほどの皮肉は、包丁を受け留めずにそのまま落としたフーケに向けられたものだったのだが、フーケ以上にシエスタが反応してしまったのは、斉藤にとって予想外だった。

 因みにフーケの方はと云えば、その程度で如何にかなるほど柔じゃないだろ、と言わんばかりのジト目を、斉藤へと向けている。

 いや寧ろ、何この娘を困らせてんのさ、と言う非難の視線かもしれない。


 何か最近溜め息ばっかり吐いてないか。そんな事を考えつつも、斉藤はやはり溜め息を吐く。

「謝る必要はねぇよ。怪我も無いし、ちぃっとばかし驚いただけだから」

 気にすんな、とシエスタに軽く笑い掛けると、斉藤は滑らかな手付きで、指の間に挟んだ包丁を一本、空へと放り投げた。

 そしてそのまま、ジャグリングを行うピエロのように次々と、手に持った包丁から地に落ちた包丁まで、順番に上空へと打ち上げる。

「それより……っと、俺に何か用があるんじゃねぇの」

 素早く立ち上がり、舞台上の役者のように大仰な仕種で両手を広げながら、斉藤はシエスタへ向けて首を傾げてみせた。

 次いで落ちてきた包丁は、斉藤が広げた両手の指の間に一本ずつ綺麗に収まっていく。何とも見事な、ガンダールヴの無駄遣いである。



「え? あっ、はい、そうでした」

 ぽんっ、と胸の前で両手を合わせた後、シエスタがその顔を笑顔へと変える。

 斉藤がシエスタを励まそうと行った曲芸はあっさりと無視されてしまったが、場の空気は確かに変わったので――斉藤は微妙に切ない気持ちを感じながらも――良しとした。

 何やってんだか、と口ほどに物を言うフーケの視線が更に斉藤の切なさを助長させたりもするが、極力フーケから視線を逸らすことで何とか堪える。

 今相手にすべきはシエスタのはずだ。態々フーケの視線を受け留めて、からかいの種を作る必要はない。


「んで、その用事ってのは?」

 斉藤の言葉に、シエスタは慌てて左右を見渡し始めた。そして、あ、と声を上げて何かを発見して、拾う。

「……鍋?」

「はい。使い魔さん、鍋が有れば良いなぁって言ってたじゃないですか。それから包丁も有れば便利だって話も以前しましたし。最近、厨房で道具を一括購入したんで余ったのを譲ってもらったんです。廃棄前のボロッちい中古品の方ですけど」

 可愛く舌を出しながらシエスタが差し出した鍋を、斉藤は何とも言えない微妙な表情で受け取った。

 確かに以前シエスタの前でそう零した記憶が斉藤にはあったが――まさか用意して貰えるとは思っていなかっただけに、どう反応すれば良いのか咄嗟に迷ってしまったのだ。


 そして、それを見たシエスタが首を傾げ――あ、と大きな声を上げながら、口元を手で覆った。

「ち、違うんです。別にこれは、嫌がらせとかそんなんじゃなくって……」

 何やら慌てた様子で弁解を始めるシエスタ。突然の出来事に、斉藤は更に面食らってしまう。

 嫌がらせ? と彼女の言葉を疑問に思いつつ、斉藤がシエスタの視線を辿ると――そこには穴が有った。斉藤が手に持っている、調理用の深鍋に開いた穴が。

 確かに、鍋が必要と言っている相手に底の抜けた鍋を渡すのは嫌がらせ以外の何物でも無い。

 多分、先程シエスタが"すっ転んで"落とした際に底が抜けたんだろう。とは言っても、その程度で底が抜けるようでは、実用に足る代物とは言えなかったのかもしれない。


「あの、さっき私が転んだ時に穴が開いちゃったんだと思うんですけど…… えっと、その、ゴメンなさい」

 胸の前で指先を合わせ、しゅんとしてしまったシエスタを見て――場違いかもしれないが、斉藤は少し和んだ。

 ここ数日は特に、荒事やら気の強い女の子の相手やらをしてきただけに、彼女の何気ない仕種に確かな癒しを感じてしまったのだ。


「いや、気にしなくて良い。シエスタが持ってきてくれなけりゃ、どの道、手に入らなかった代物だしな」

 優しい笑みを浮かべて、シエスタに向けてぷらぷらと手を縦に振る。

 二枚目主人公なら、ここでシエスタの頭でも撫でて惚れられるんだろうか。

 一頻り和んですっかり"平和"になった斉藤の脳裏に、そんな馬鹿げた考えが浮かぶ。

 勿論、浮かんだだけで実行には移さない。何しろ、現在の斉藤は顔面包帯男であり、二枚目には程遠い容姿である。

 いやそもそも、そんな事で女性が惚れてくれるほど"ここ"が甘い世界だなんて、斉藤にはとても思えない。


「それに、こっちの包丁は貰って良いんだろ。コイツだけで十分、感謝しきれねぇくらいだ」

 手慰みに手に持った包丁をくるくると回しながら、斉藤はシエスタに感謝の意を表す。

 因みに頭の片隅では、形の違う包丁ならまだしも、何故全く同じ形状の包丁を七本も持ってきたのか、と疑問が渦巻いていたりする。

 尤も、調理用とは言えやはり"刃物"。ガンダールヴの所持者としては嬉しい限りである。


「でも私のポカの所為で、使い魔さんにぬか喜びさせちゃいましたし……」

 胸の前で合わせた指先をいじいじと動かしながら――しかしシエスタの顔は晴れない。

「だから気にすんなって。そう云う厚意だけで、俺はすげぇ嬉しいんだから」

「そ……そう言って貰えると、助かります」

 斉藤の言葉にやっと頷いてくれたシエスタだが、やはりその表情は何所か曇ったままで――斉藤は何だか気まずくなった。


「あの、少し宜しいでしょうか」

 斉藤の気まずさが空気を伝ってシエスタにも届こうかと云うところで、今まで二人の会話をただ眺めていただけのフーケが声を発した。

 その絶妙なタイミングでの声掛けに、斉藤はほっと胸を撫で下ろし、次いでフーケに感謝する。

 その直後、伊達に歳は食ってないな、などと随分失礼な感想を抱いてしまったことは、決して彼女に洩らせぬ秘密となった。


 因みに――

「あ、はい、えっと……」

「ロングビルです、学院長の秘書をやっております」

「シエスタです。宜しくお願いしますね、ロングビルさん」

 戦々恐々と硬くなった表情を隠す斉藤を余所に、フーケとシエスタは互いの自己紹介と洒落込んでいた。


 それを見た斉藤が、原作の主要キャラクター同士が原作に無い絡みをするのは感慨深い、などと――自身が与えたこの世界への影響も何処吹く風と云った感じで――うんうんと頷いていたのは、余談である。



 フーケがシエスタへと話し掛けた理由は、何故包丁を七本も持ってきたのかと言う質問と、錬金の魔法で鍋の穴を塞ぎましょうかと言う提案だった。

 フーケがメイジだと知った瞬間に矢鱈畏まったシエスタを宥めたり、転倒の際助けられたことをベタ褒めされたフーケが思わず"素"の表情を出すほど照れてしまったりと、そんな紆余曲折を経て、両者の仲は深まっていく。


 シエスタを見るフーケの笑顔は、とても優しい。

 控えめで素直な心優しきその姿に、ティファニアを思い出しているのかもしれない。時折り現れるフーケの"素"の表情を見て、斉藤はそんな事を思った。


 丁度、フーケが"素"の表情を見せて微笑った、その後だっただろうか。

「そう言えば、ロングビルさんは如何して使い魔さんのところに?」

「"ツカイマ"さん? ヒラタさんの事ですか?」

「"ヒラタ"さん? えっと……あれ?」

 ――何やら妙な会話が始まったのは。




 混乱する二人を他人事のように見ながら、斉藤は包帯の上からこめかみをゆっくりと揉んだ。

 何故か彼の脳裏に浮かぶのは、初めてシエスタと出会ったその瞬間の優しい笑顔と、厳しい現実に人間不信となっていた自分の姿。


『大丈夫……ですか?』

『今……俺に追撃しやがったら……っ、只で済むと――』


 斉藤はその時の自分を、我ながら見事な狂犬振りだった、と少しばかりの呆れと共に思っている。

 台詞の途中で咳き込んだり、地面に這い蹲ったまま顔一つ上げられなかった自分には情けなさしか浮かばない。だが、血に赤く濡れた半分の視界の中で見たシエスタの、召喚されてから初めて自分へと向けられた笑顔を思い出すと、今でも斉藤の胸の内には熱い何かが込み上げて来る。


『良かった。ひょっとしたら、死んでしまうんじゃないかと……』


 そして斉藤は、包帯を巻いてくれたシエスタの、その何より暖かい掌の感触を、今でも鮮明に思い出すことが出来た。

 きっと、多分、後もう一押し何かがあれば、シエスタに惚れていたんじゃないかと――いや違う、何故惚れていないのか不思議に思うくらい、その時の想いの暖かさは、斉藤の胸の奥に確かな篝火となって残っている。


『あの……、貴方のこと、訊いても良いですか』

『…………使い魔だよ。使い魔、文句あっか?』


 だのに、自分ときたら、何処ぞの青春漫画の不良のような言葉遣いで、彼女に返すのがやっとだったのだ。

 苦笑いを浮かべるかのように、斉藤は頭の中で、その時の光景を想った。

 そうだ。その日の夜、貰った包帯を握り締めながら、俺は、抗えぬ洗脳の――


 ――ぞぷり


 頭の片隅で、肉食の獣が獲物に齧り付くような音を、聞いたような気がした。





「……やっぱり、何か事情が有るんですか?」

 どうやら少しばかり呆けていたらしい。首を傾けてこちらを覗きこむシエスタに気付いて、斉藤は軽く頭を振った。

「ん? わりぃ、考え事してた。で、何の話?」

「"サイトー・ヒラタ"と"ツカイマ・モンクアッカ"。どちらが貴方の本名なのか、と言う話です」

 そんな恍け方が通じるとでも思ってんのかい?

 シエスタからは見えぬ位置で、些か険悪な視線を斉藤へ向けながら、表面上は心配する様子を見せるフーケ。

 "偽名"に関しては、自身も理由有ってそうしているだけに、思うところが有るのかもしれない。


 しかし――

 偽名? ツカイマ・モンクアッカ? 斉藤には、とんと覚えがない。フーケの言葉だけでは、特に何も思い浮かばない。

 はて、何だったか、と斉藤が自身の記憶をもう少し深く探ってみると――


『…………使い魔だよ。使い魔、文句あっか?』


 シエスタに些か横柄な態度でそんな事を言った過去があるのを思い出した。

 後半の台詞はシエスタに直接言ったのでは無く、叫ぶように吐いただけだから、ハルケギニア語に変換されなかったのかも知れない。


 自動翻訳能力の弊害だな。

 がりがりと、包帯の下に手を差し込んで後頭部を掻きながら、斉藤は表情を歪めた。

 ジェシカが当初"ツカイマさん"と呼んでいた理由も、これに付随するものだろう。それだけにしては、些か会話のズレが大き過ぎた気もするが。


「ツカイマ・モンクアッカってのは、俺の国の言葉で『私は使い魔です。そのことに文句は有るのでしょうか?』と言う意味を持ってる。要するに、俺はあの時シエスタに名乗らず、母国語で毒を吐いてたって事だな」

「そ、そうだったんですか。私てっきり……」

 原因は斉藤だと云うのに、まるで自分が悪かったかのようにシエスタが顔を俯かせる。


「いやいや、気にすんなって。あの時の俺はスゲェ荒んでたし。謝るなら俺の方だって」

 斉藤が顔の前で、ぱたぱたと気軽に手を振り、シエスタを慰める。

 そして、徐に居住まいを正すと、

「んじゃ、改めまして。斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ。見た限りじゃ分かんねぇだろうけど、使い魔だぜ」

 と、包帯の上からでも容易く分かるほどの、満面の笑顔を二人へと向けた。


 それを受けたシエスタが、慌てた様子で居住まいを正し、ぺこりと一礼。

「あ、はい。シエスタ、シエスタです。私の事も好きに呼んで下さって結構ですよ。えっと、それから……み、見た目通りのメイドです」

 改めて名乗るのは恥ずかしいですね、と可愛く首を傾けながら、シエスタはふわりと微笑んだ。





[4574] 第三.四話(その一)「見知らぬ彼女と、意外な一面」
Name: sawa◆20d61b20 ID:de176f7a
Date: 2008/12/29 03:46

 一歩、距離を詰めてみる。相手は一歩、後退った。

 にこり、と笑い掛けてみる。相手は恐怖に、仰け反った。

 瞳を見れば嫌でも分かる。相手は確かに、今にも逃げ出してしまうのではないかと思うほど、怯えているようだった。


 予想外にも程がある、今の斉藤の心情を言葉にするなら、そんなところだ。

 自分の何に対して相手がこんなに怯えているのか、それさえ斉藤には良く解らない。

「勘弁してくれ。一体何が不満なんだ? どうしてそんなに俺を恐れる?」

 決して答えを返してくれない事は斉藤にも分かっている。しかし、訊かずにはいられなかった。


 びくっ、と相手が身震いをする。

 どうやら斉藤の声と、その中に織り込まれた隠せぬ苛立ちを察してしまったらしい。

 もう、溜め息を吐く気力も出やしない。

 そんな感想を抱きながら、斉藤は空を見上げる。


 皆無ではなく少しばかり棚引く雲が、空の青さを一層引き立てていた。

 そして同時に、この空の青さが斉藤の"どんより"とした思考をも、際立たせてくれている。

 斉藤の果敢なアプローチも実らず、既に敗北を繰り返すこと数限りなく。今の相手にしたって「大丈夫、彼女なら君を受け入れてくれる」と鉄板を推された筈なのだが……。本当に、情けない事この上ない。


 おまけに――

「なぁ、流石に洒落になってねぇから、これ以上笑わねぇでくれっか?」

 斉藤の情けない姿を確りと観賞し、声を顰めることも無く大笑いをしているキュルケの存在が、何とも彼を惨めにさせる。


「――っと、しまった」

 キュルケの方に顔を向けたのが不味かったのだろう。斉藤が視線を戻せば、既に相手は全速力で逃げ出した後だった。

 がっくり、と斉藤が肩を落す。

 本当に、情けなさに溜め息も出なかった。その代わりに、乾いた笑いが斉藤の喉から溢れ出る。



 安全圏を確認したのだろう。五十メートル近く離れた場所で、件の相手――"牝馬"がくるりとこちらを向いた。

「嗚呼、もう、一体何なんだ。何でどの馬も俺を乗せてくれねぇ!?」

 胸中に溜まる鬱憤を、斉藤は言葉と共に吐き出した。

 がしがしと頭を掻く手が包帯に引っ掛かり、ずれた包帯の隙間からエグイ傷痕が光に晒される。

 それは、普段の彼なら絶対にしないようなミスであり――つまりはそれだけ、今の彼が予想外の事態に苛立っていると言うことだった。


 背後では、キュルケの笑い声が響いている。

 遥か前方では、遠巻きに"十数頭の馬"が揃いも揃って斉藤の様子を窺っていた。

 天気は雨の心配など欠片も無いほどの晴天で、街に買い物へ行くには絶好の日和である。

 尤も斉藤は、未だに街へ向かう為の"足"を調達出来ないでいるのだが――





 『最初のゼロから間違えて ~アナザーリンクス~』
 第三.四話(その一)「見知らぬ彼女と、意外な一面」





 パカパカと、馬の蹄が音を立てている。

 冗談じゃなく本当にこんな音がするんだな。

 そんな事を考えながら、斉藤は地上二メートル強の位置から見渡す景色を堪能した。だが生憎と、どちらを向いても代わり映えのしない景色が続くだけで、新鮮味は感じられない。


 乗るならシルフィードの方が断然良い、と斉藤は思った。

 そもそも、ただ立っているだけでもシルフィードの方が断然高い。おまけに彼女は飛行可能で、"馬の背"から見る風景などとは比べ物にならないほどの感動を斉藤に与えてくれる。


 そして何より――

「……シルフィードは、俺を怖がったりしねぇしな」

 斉藤の口から、恨みがましい台詞がこぼれ出た。どうやら声に出してしまう程、馬に怯えられたのが気に入らなかったらしい。


「あら、何か言った?」

 首から上だけを後方へ向けたキュルケに、彼は瞳を覗き込まれた。

 小声だったとは言え、斉藤の呟きは彼女の耳に届いてしまっていたようだ。まぁ、三十センチと離れていない距離だったので、当然と言えば当然なのだが。

 しかし振り向かれてみると、想像以上に顔が近い。十センチと離れていない彼女の鼻先に、斉藤は思わず仰け反ってしまった。


 因みに、そんな斉藤を見て不思議そうに首を傾げるキュルケと、上体を反らして距離を取ろうとする斉藤は今、離れたくとも離れられない状況にある。

 いや、厳密には絶対に離れられない訳ではないが、"同じ馬"の背に乗っている以上、離れられないと言っても間違いでは無い筈だ。


 相乗り。

 本意不本意の判断は別として、馬に矢鱈と怯えられる斉藤が、唯一馬に乗れた方法がこれだった。

 最初にキュルケだけで馬に乗って貰い、暴れないように確りと動きを制限したところで、斉藤がその後ろに飛び乗る。

 馬にはかなりのストレスを与えているのだろうが、既にその背にキュルケが存在している以上、振り落としたりも逃げ出したりも出来ず――如何にか斉藤を、大人しく運んでくれていた。


「ん? 気の所為だろ」

 キュルケの臍辺りに回された斉藤の手からは、彼女が身動ぎする度に揺れる筋肉の動きと、彼女の暖かい体温が伝わってくる。

 女性の体温は総じて低いものだと斉藤は思っていたのだが、当然、そう言ったものにも個人差と言うのは有るらしい。

 キュルケが"火"の属性だからなのか、斉藤の体温が低いだけなのか、それとも前提となる知識に間違いがあったのか、斉藤には判断が付けられないのだけれど。



「それにしても、意外よね」

 風は少し冷たいが、空気自体は割りと暖かい。その心地良さに軽く伸びをしたらしいキュルケの髪が、斉藤の鼻先を擽った。

「……何が?」

 と訊きながらも、斉藤の声は低く冷たい。彼としては、散々笑われた馬話をぶり返されたくは無かったのである。


 キュルケが軽く息を吐いたのが、触れる手から伝わってきた。大方、自分の子供っぽい反応に溜め息でも吐いたのだろう、と斉藤は思う。

「ヒラタが商売の基本も碌に知らないって話よ」

 馬の話じゃなくてね、と付け足してキュルケがこちらに振り向いた。

 相変わらず顔が近い。斉藤はまた仰け反りながら――キュルケの顔にからかいの色が無いことに気付く。


「……被害妄想が過ぎたな。んで、俺が商売の"いろは"も知らない事が、何でそんなに意外なんだ?」

「ほら、ヒラタって平民の割には意外と確りしてるでしょ。頭の巡りも面白いくらい良いみたいだし。なのに、商売について何も知らないって言うんだもの。意外以外の何物でもないわ」

 何故だか知らないが、キュルケからは随分と高い評価を受けているようだった。純粋に首を傾げている彼女の態度が、斉藤には何だか面映い。


「お嬢様が言うほど、自分が確りしてるとは思えねぇけど……。ま、実際トリステイン、と言うかハルケギニアは、俺にとって"異郷"だかんな。流通通貨も、相場も、特産品も、この郷の商売における暗黙の了解も、何一つ解らねぇのは確かだぜ?」

 そういった意味では、昨日のコイントス、じゃなかった割符トスで"表"が出たのは幸運だったのかも知れない。正道を知らずして邪道を知ることなど、恐らくは出来ないだろうから。


「異郷? そう言えば、ヒラタの故郷の事って聞いたこと無かったわね」

 キュルケが更に首を傾げる。乗馬初体験の斉藤としては、後ろを向いたまま首を傾げる彼女が落馬しやしないかと、少し"はらはら"してしまう。

 とは言え、全くの杞憂だったようで、斉藤が「危ないから前を見ろ」と言えば「大丈夫よ、心配性ね」という言葉と共に、斉藤が思わず手を伸ばしてしまうほどのアクロバティックな体勢をされてしまった。

 因みにその際、ちらりと彼女の眩しい下着と太ももが目に入ってしまったのは――完全に余談である。



「ま、退屈ってのは人生で最も倒し難い事象の一つだかんな。俺に付き合わせちまった経緯がある以上、トリスタニアまでの約二時間、精々お嬢様の退屈を紛らわせて差し上げるとすっかね」

 速くなった動悸を誤魔化すように、大仰な仕種と口調で以って斉藤が暇潰しの話題を提供する。

 斉藤としても、キュルケとの会話は望むところだ。何せ今のところ、ハルケギニアで知的な会話を展開できる知り合いは、目の前の彼女だけなのだから。





「……驚いた。ハルケギニアにも"先物取引"ってのは有るんだな。んじゃ、"のみ行為"とか"転がし"の被害や対策って如何なってんだ?」

 驚いたのはこちらの方だ、とキュルケは思った。

 首都トリスタニアへの道中、暇潰しと称して色々な話をヒラタに振っていたのだが――


「"転がし"は分かるけど、その"ノミコーイ"って何?」

「ん? あ、そっか。ハルケギニアって、"商会"とかは有るみてぇだけど、"法定の取引所"なんてねぇのか……」

 商売の話に於いて彼が知らなかったのは、それこそ"ハルケギニアの常識"だけで、その知識の深さは、故郷ゲルマニアで出資者として"商会"を営む自分さえ凌ぐのでは、とキュルケに思わせるほどだった。

 これでヒラタ自身は商人ではなく、おまけにこの程度の知識の授与は常識だと言うのだから、彼の故郷"ニホ"の存在には驚くばかりである。


「"のみ行為"ってのは、私設市場を開設して……」

 パカパカとのんびり馬を揺らしながら、トリスタニアへの道程を進む。

 最初にヒラタから、街での買い物に付き合ってくれ、と頼まれたときには、ジャイアントモールを通して舞い降りた"儲け話"に対する義理と、詰まらない男では無いからと言う少しばかりの"気まぐれ"で引き受けたのだが――中々どうして"当たり"だったようだ。

 退屈凌ぎどころか、願ってもない興味深い話の連続である。思わずキュルケが上機嫌な笑みを浮かべてしまうのも、無理のないことなのだろう。


「……"架空取引"やろうとか、考えてんじゃねぇだろうな」

 頬の筋肉が持ち上がるタイミングが、少しばかり悪かったようだ。何を勘違いしたのか、ヒラタが疑わしげな声を上げてくる。

「しないわよ。そもそも、私の"イズンの林檎"商会は、そんな信用を落すだけの詰まらない"小遣い稼ぎ"なんて、する必要無いもの」

 商会と言うのは、大きくなればなるほど動く"額"も大きく、また"規模"も当然大きくなってくる。"架空取引"の場を作る必要など、それ以上に互いの利になる"取引"が引く手数多の状況では、一考の余地も無い。


「"小遣い稼ぎ"ねぇ……ん? お、あれがトリスタニアか?」

 前方に何かを見付けたのだろう。ヒラタが片手で目の上に庇を作って遠くを眺め出す。

 何気に彼はキュルケよりも背が低いので、腰を浮かすようにしてキュルケの肩から仰ぎ見ていた。

「ええ、そうね。随分前から、見えてはいたみたいだけど……」

 視界に入るトリスタニアの街は、既に随分と大きく――何時の間にか、かなりの位置まで進んでいたようだった。多分、あと十分も経たずに街の入り口が見えてくる事だろう。


 キュルケは思う。

 ここまで近付いていたと言うのに、ヒラタも自分も全く気付いていなかった。と言うことは、少なくとも自分だけでなく、ヒラタも会話を楽しんでいたと考えて良いのだろうか、と。



「っと、そうだ。街の門が見える前に、俺、馬から降りた方が良いよな」

「……何で?」

「何でって…… 普通、平民と貴族は一緒の馬には乗らないんじゃねぇの?」

 ヒラタの発言に、キュルケは思わず吹き出してしまった。彼女としては、何を今更、という話である。

 振り向いて、ヒラタの顔を見る。包帯の捲かれた白一色の顔には、疑問の色しか浮かんでいない。どうやら冗談の類いでは無いようだ。


「今更だもの、私は気にしないわよ?」

 軽く首を傾げてみせる。乗馬に慣れたキュルケにとっては、この程度どうと言うことも無いのだが、馬に慣れていないヒラタにとっては、落ちやしないかと心配になるらしい。

 現に今も、さり気無く腰に回された手の力を強くして、何時でもバランスの崩れたキュルケの身体を支えられるよう、重心低く身構えていた。

「お嬢様や俺が気にしなくても、世間体ってのは有るんじゃねぇの?」

 ここは魔法学院じゃなくて、誰が居たっておかしくない場所なんだぜ、と斉藤が憮然とした顔をキュルケに見せる。

 その拗ねる様な、酷くがっかりした様子が――キュルケには一際珍しく、面白いものとして映るのだった。




 相乗りしたからだけでは決して無い、普段の三倍以上疲弊した馬を入り口付近の厩舎に預け、ヒラタと共にブルドンネの大通りを進むこと約十五分。

 街の入り口から程近い、有力商会の集う一番活気のある場所と、城門から程近い、貴族たちの利用する一番大金が動く場所の、凡そ中間地点。街に放射状に拡がっている比較的大きな通りと、網目状に拡がる小さな通りとが交わる八叉路のすぐ近くに、その店――"アウルボザ商会・トリステイン支店"はあった。

 "商会"の名を看板に掲げている割には、まだその門扉さえ開いていない。

 空が明るくなると同時に働く――それ以前では照明代が惜しく、それ以後では時間が惜しいと臍をかむ――のが、商人である。大通りに構えていながら、未だ開いていない店と言うのは非常に珍しいものだった。


「……アウルボザ商会?」

 キュルケが門扉を叩こうとしたところで、ヒラタが看板を読み上げた。

 その首の傾げ具合から、キュルケはヒラタの疑問を素早く読み取り、訊かれる前に答えてやる。

「生憎と、"イズンの林檎"商会は"流通"より"生産"重視なの。トリステインに支店なんて出してないわ」

 帝国から王国に運ぶのって関税が高すぎるもの、片手間じゃ利益なんてそんなに出ないし、とさり気無く愚痴なんかも付け足して。


「いや、それも有るけど、"商会"って"商人の店"だろ? 個人客の俺たちが入る店じゃねぇような……」

 腕組みをして、ヒラタが眉間に皺を寄せる。どうやら、下らないことで頭を悩ませているらしい。

「用が有るのは"商会"じゃなくて、この"建物"とその"主人"よ。商会の中に"店"が有るの」

 説明をしながら、キュルケはドアノッカーを数度――ゲルマニア商人の符丁に則った調子で――叩く。

 すると、開店前だと言うのに数秒で扉が開き、年若い少年が深々と頭を下げて「どうぞ此方に」と二人を案内するのだった。




 その店は、相変わらず雑多とした空間で作られていた。

 無造作に品物が置かれ、転がり、見るものが見れば目を剥くしかないような代物も、解る人間には解る手入れを施されながら、無様に"埃"を被っている。

「久しいな、ツェルプストー。魔法学院に居るなら、もっと"うち"に来てくれても良いんだぜ」

 奥のカウンターで頬杖を付きながら、この店の主人にして"アウルボザ商会の営業主"でもある"フレキ"が言った。

 その声はしゃがれ、随分と乾いている。

 本人曰く、東の"サハラ"に赴いた際に咽喉を潰したそうだが、何所まで本当なのか分かったものでは無い。

 それを一笑に付せる程度の実力しか"フレキ"が持っていないのならば、"フレキ"流の冗談だとも思えたのだが、"フレキ"の商才と行動力はそれこそ計り切れず、キュルケは未だに判断が付いていなかった。


「お生憎様。"利"にもならない顔合わせをする心算は、アナタの方にこそ無いんじゃなくて?」

 右手をぷらぷらと振りながら、キュルケが答える。それを聞いた"フレキ"は、くつくつと愉しげな声を漏らした。

「違いない。アンタは兎も角、オレは商人だからな。その先に金貨の袋が無いならば、陛下の誘いだってあっさりと無視させてもらうさ。……それで、用件は?」

 手元の書類に何かを書き込んでから、"フレキ"が頬杖を止めて居住まいを正す。


 "フレキ"の商売の利に対する執着は半端ではない。それこそ、先の"フレキ"の発言も、決して嘘ではないのだろう。

 例えば今、キュルケの横で興味深そうに二人のやり取りを眺めているヒラタの存在を、商品の上に乗る埃よりも取るに足らない物だと判断しているように。

「別に大した用件じゃないわ。それこそ、アナタじゃなくて留守番を任された小坊主でも良いくらいね」

 そう言って、キュルケがヒラタに視線を向ける。

 視線に気付いたヒラタは、旧交の暖めはもう終わったのか、と"フレキ"の存在にも微塵も揺らいだ様子を見せず、ただ笑った。


「持って来たのは、"儲け話"じゃなくて只の客。しかもこの店の"裏"でもない、"表"に用のある客よ」

 そう言ってヒラタを促すと、何時もの"メンドくさそう"な態度のまま、ゆっくりと一歩進み出て、初めて"フレキ"と視線を合わす。

 物怖じしないヒラタの性格は、キュルケにとって好ましいものだ。しかし、そんな態度を"フレキ"がどう判断するか、キュルケには予想も付かない。

 さて、一体これから如何なるのかしら。

 そんな好奇心に、にやにやと頬を緩ませるキュルケの前で、ヒラタが徐に発した言葉は――

「利にはならない事を訊いちまうが、構わねぇか?」

 ――などと言う、真っ向から商人たる"フレキ"に喧嘩を売るような言葉だったりして、これまたキュルケを愉しませるのだった。





「利にはならない事を訊いちまうが、構わねぇか?」

 キュルケに促されて前に押し出された斉藤は、この部屋に入った瞬間から感じていた疑問をフレキにぶつける事にした。

「生憎と、"利"になるか如何かを判断するのはオレだ。訊きたいなら訊くと良い、答えてやるかは知らんがね」

 皮肉げに肩を竦めてみせたフレキの回答に、斉藤は軽い笑みを浮かべ、顎先を撫でた。

 キュルケじゃないが、"そんな"フレキに興味の炎を一つ位燃やしたって、誰も責めやしないだろう。

 ひょっとしたら禁句かもしれない。そんな考えが頭の隅にあったりもしたが、本人が訊けと言ったのだ、これ幸いと質問をする。


「ハルケギニアには詳しくねぇんだが、こっちだとやっぱ"女の商人"は珍しいのか?」

 そう、フレキの性別は、多分"女"だ。

 しゃがれた低い声は男の声とも取れるものだが、同時に女性特有の高く響く音もその声には残っており、結果的にはどちらとも取れる。

 表情を読まれないためなのか、フレキは鼻下までを分厚い布で覆っており、喉仏を確認することは叶わなかった。骨格を見ようにも、何枚か重ねて着込んでいるようで、角張った肩が動くのを見るばかり。

 だが、そのどれもが"女"を隠すための細工だとも捉えられて――何より決定的な"それ"の存在を際立たせてくれる。


 "それ"とは、フレキの剥き出しの"手"のことである。

 別に白魚のような手だとか言う訳ではない。

 恐らくは、商人としては多大な苦労を重ねて今の地位を築いたのだろう。フレキの手指は、肉刺や傷跡で皮膚が厚くなり、男のものだと言った方が頷く人間が多いのでは無いかと思えるほど、無骨なものだった。

 だから、斉藤がフレキを女性だと決定付けた理由はそこではない。

 着眼点は手の甲。心臓より下の位置に有りながら、僅かな血管の膨らみも浮かべやしない、女性特有の血管の細さである。

 正確には皮下脂肪の差が原因で、血管の太さとは関係ないらしいが、ならば尚の事、如何見ても肥満とは程遠いフレキが男性である可能性は低いと言えた。


 質問を受けたフレキは、詰まらない事を聞いた、と言わんばかりに鼻を鳴らす。

 そんなフレキの反応に、斉藤はゆっくりと一つ頷いてみせた。

「反応を見るに、かなり珍しいことみてぇだな。序でに言うなら、アンタが女性ってのも間違い無さそうだ。……んで、次にアンタは、用件は――」
「用件は何だ?」
「――何だ、と言う」

 斉藤の言葉を遮るように、先程よりもずっと低い声を、フレキが喉から絞り出した――斉藤の言葉と"全く同じ"タイミングで。


 場の空気が、一瞬で静寂に包まれる。

 ぎろり、とそんな擬音を付けても良いような鋭い視線が、斉藤の瞳を射抜いた。


 因みに、二人の台詞が重なったのは"偶然"である。

 斉藤は、何処ぞのスタンドも使える唯一の波紋使いではない。外してしまった場の空気を、無理やり本題に戻すために放った軽口が、"偶々"フレキのそれと被っただけなのだ。


「用件ってのは――」
「用件っての……っ」
「――何、お嬢様も言ったとおり、大したもんじゃねぇ。アンタの店が"質屋"をやってるって聞いたから、ちぃっとコイツを"質種"に、現金でも貰おうってだけさ」

 しかし運命は、状況を更に面白くするべく動いたようだった。再び放たれた両者の台詞がまたも重なり、場の空気を掻き乱す。

 いや、今回の場合、ほんの少しだけ斉藤の言葉が早かっただけに、フレキは口を閉じる結果となっている。決して狙ってやったものでは無かったのだが、先の偶然がある限り、フレキは狙ってやったと考えてしまうだろう。


 再度、場に静寂が下りる。

 フレキから斉藤へと向けられる視線は、温度を感じさせない、しかし"ずっしり"と精神的重圧を掛けて来るような、重たいものへと変わっていた。


 何だかなぁ、と誰かに愚痴りたくなる程"メンドくさく"なった斉藤は、場の空気に耐えられず、さっさと謝ることにした。

「済まねぇ、只の偶然だ。何か狙いがあってこうなった訳じゃねぇ。謝るから、さっさと水に流して、商談に移ってくれっと助かる」

 斉藤が言葉を発した瞬間、あ、とか、な、とか云った言葉がフレキの口から漏れていたような気もするが、斉藤は全く気付かず、頭を下げた。

 数秒後、頭を上げた斉藤の目と耳に、フレキの何所か呆れたような表情と、諦めたような溜め息が届く。


「……水に流せって割りには、悉くオレの発言を押し止めてくれるじゃないか」

 何所か不機嫌さを隠したまま、喉から低い声を絞り出したフレキ。するとそこに、斉藤が何か答えるより早くキュルケの愉しげな声が割り込む。

「あら、降ってもいない雨を水に流す必要なんて無いじゃない。それとも、どんよりと湿度を上げたアナタは、今更"カミナリ"と一緒に"泣き言"の雨でも降らす気かしら」

 キュルケの発言に、フレキが渋面を作ったのを斉藤の目は確りと捉えた。しかし、その発言の意味は良く解らない。

 商人特有の言い回しか何かだろうか。

 会話に付いて行けない斉藤は、何となくそんな感想を抱く。


「生憎とオレは商人でね。一緒に儲け話も流れちゃ堪らないから、この胸に留めて、大人しく商談に入るとしよう」

 肩を竦めて、フレキが軽く両手を広げる。しかし多分、斉藤がこの部屋に入ってから、一番大きい"彼女"の仕種だ。

「いや、だが…… オレの発言を押し止めるのに使った土嚢もタダじゃないだろう。礼くらいはしてやる」

 金貨をやる訳じゃないが、と幾分声に愉しげな響きを混ぜて、フレキは斉藤へと顔を向けた。


「アンタの質問に答えてやろう。"女の商人"ってのは"爵位持ちの平民"くらい珍しい。尤も、トリステインにはオレが居るがね」

 そう言って、フレキは立ち上がった。

 意外と背が高い。服を重ね着していても尚、細身だと分かるフレキの身体は、しかし長身のキュルケ以上の背丈を持っていた。

 百八十センチに届くか届かないか。始めからフレキが立っていたのなら、斉藤は彼女が女性だと言うことに気付けなかったかもしれない。


 カウンター横の扉を押し退けてこちらに歩み寄るフレキに、斉藤が笑顔を返す。

「成る程、じゃあアンタを商談の相手に出来る俺は、"良識ある貴族"と出会うくらいの幸運に恵まれたってことだな」

 斉藤の言葉に、フレキは軽く片眉を上げた。

 そんなフレキに何を言わせるまでもなく、斉藤は言葉を続ける。

「だってそうだろ? 平民が爵位を持つには、"爵位を持つ貴族"なんか及びも付かねぇ程の偉業を成し遂げるしか方法がねぇ。それに準えるなら、女だてらに商会の主になっちまったアンタの実力は、それこそ"男の商会主"なんかじゃ想像も付かねぇ程の、そうだな……"一国を脅かすほど"の商談を任されてもおかしくはねぇくらい高いってことだ」

 それを受けたフレキは、意外なことを言われた、と軽く目を見開いてから、ふっ、と視線を優しくさせた。


 因みに、軽く肩を竦めて冗談交じりに語りはしたが、これは全て偽らざる斉藤の本音であった。

「成る程、珍しい。ツェルプストーが気に入ったのも頷ける」

 そしてフレキはれっきとした商人であり、斉藤の言葉が"おべっか"でも"冗談"でも無いことくらい、容易く見切ってみせたのだろう。

 歩み寄って斉藤を見下ろした――不本意ながら、頭一つ身長が違うためこんな言い方をするしかない――フレキの顔は、猫と鼠が仲良く昼寝している光景でも見たような、何とも興味深げな表情を浮かべている。


「それで、現金に換えて欲しい品物は?」

 至近距離から放たれる彼女のひび割れた声は、何とも言えない圧迫感を斉藤に感じさせた。ドスの利いた声、と言っては彼女の声は太くないので些か語弊が出てしまうが、与える凄味はそう変わりない。

 尤も、ここで後退るような斉藤ではなかった。腹ポケットに手を入れて、掌ほどの大きさも無い小さな木板をフレキに見せる。


「割符、か。此処は質屋だぜ。換金所じゃない」

 斉藤が翳した割符を、腰を少し屈めるようにして"まじまじ"と覗き込んだフレキが、ゆっくりと言葉を吐く。

 割符を手に取ろうとしないのは、恐らく商人が刻む暗黙の了解。買ってもいない商品に手を触れるのは、ご法度と云うやつなのだろう。

「俺の国には、こんな言葉がある。明日の百より今日の五十。俺にとっちゃ、これにアンタが付ける金額が、三日後の"それ"に勝るのさ」

「オレたち商人には、こういう言葉もある。明日の価値を知らぬ商人は大成しない。如何するかはアンタの勝手だがね。百二十」

 最後に付け加えた数字が、フレキの付けた割符の値段なのだろう。三日後だから三割引、と考えるのは浅はかだろうか。


「時は金なりって言葉もあるぜ。明日の価値を知ってっから、今日を元手に元値以上の価値を引き出せるんじゃねぇか。百六十三」

「確かに。価値とは"金"に限らない、元手がなければ始まらない事もある、か。百三十」

「だろ? それに料理人が最高級の絵筆を握ったって売れる絵が描けるわけじゃねぇ。俺にとっちゃ、"金"より"剣"なんでね。百五十五」

「剣? アンタ傭兵なのか。オレが言うのも何だが、戦場で歓迎される体躯じゃないな。百三十七」

「ほっとけ。アンタと同じで実力で黙らせるから良いんだよ。百四十八」

 と、こんな調子で、会話に一切の間を挟む事無く、値段交渉すること二分弱。


「アンタ、面白いな。今度オレに商談を持ちかける時は、"相場を知ってから"来ると良い」

 百四十三エキューに届くか届かないか、と言うところで続けられていた交渉が、意地悪げに口元を歪めたフレキの笑みで停止した。

 因みに、交渉の途中でフレキは口元を覆っていた布を取り去っている。布を取り去る瞬間、驚いたようにキュルケが声を上げたことから、フレキの布には何か意味が有るのかもしれない。


「百五十五エキュー。二十スゥはサービスしてやる。小銭の用意も金が掛かるからな」

「……は?」

 突然上乗せされた評価額に、斉藤が思わず、ぽかん、と口を開ける。

 そんな斉藤の肩にキュルケが、ぽん、と手を置いて、

「割符や小切手みたいな変動価値の無い"質種"の値段はね、百エキュー以上だと大体相場が決まってるの」

 明確なルールが決まってる訳じゃないから、知らない人も多いけど……、と満面の笑みを浮かべながら説明してくれた。


「……時は金なりに同意したんじゃ無かったのかよ」

 商談に於いては、何があろうと最後に騙された方が悪い。だが、愚痴を言うくらいは許されても良いだろう。

 斉藤は目を細め、じとっ、とした瞳をフレキへと向けた。

「価値とは"金"に限らない、そう答えたろ? 今のオレに正面から口を利ける"男"ってのは、料理人が吟味した包丁くらい貴重なのさ」

 対するフレキは、くつくつと溢す笑みを欠片も隠さず、楽しげに肩を震わせている。

 その様子が何と言うか凄く愉しそうで、斉藤の胸中からは毒気がすっかり抜けてしまった。


「ハティだ。ハティ・フォン・マーナガルム。尤も、ハティなんて名前じゃ"締まり"が付かないんでね。商売上は"フレキ"と名乗ってる」

 先代の名だ、お陰で印鑑を二つ作らずに済んでる、とそんな軽口を足しながら、フレキが右手を差し出した。

「憶えておくと良い。商談の成功は、大抵握手で締められる。オレも勿論、それで締めてる」

 差し出した右手は、ぴくりとも動かず、同じ場所で指を広げている。

 それは、相手が応えなければ無理に商談は纏めない、と言う彼女の商売人としての基本理念と、既に何千回、何万回と繰り返したであろう、仕種の慣れによって生まれた無駄の無い美しさを、斉藤に感じさせた。


 極自然に、斉藤は自分の右手を服で拭って――

「ここでアンタを"ハティ"なんて呼んじまったら、やっぱり"締まらなく"なるのかい?」

 なんて軽口を叩きながら、確りとフレキの右手を握ってみせた。


 対してフレキは、商談"は"成立だな、と一言小さく呟いてから、確りとその右手を握り返して――その直後、凄い力で引っ張った。

 右手を引かれた斉藤は、自然、前に重心を崩して"たたら"を踏むことになる。

「やっぱりアンタは面白いな。望みどおり"しまらなく"させてやろう」

 フレキ――いや"ハティ"は、そんな斉藤を確りと抱きとめると、腰を屈めて彼の耳に、ぞぷ、と舌を差し入れた。


 ――突然の出来事に、斉藤の開いた口が"しまらなく"なってしまったのは、言うまでも無い。

 跳ね上がるかのように、びくり、と震えた斉藤を視界に収めながら、くつくつと声を潜めて笑う"彼女"は、なかなか如何して、お茶目な性格も持ち合わせているようだった。





 数秒後、顔に捲かれた包帯から覗くヒラタの真っ赤な耳を、驚きに硬直している彼の初心な姿を、まじまじと観賞していたハティが顔を上げる。

「冗談が過ぎたな。金貨は直ぐに用意させよう。……ハーナル」

 パチリ、と彼女が指を鳴らすと、カウンターの奥から小さな影が飛び出して来た。リスとサルの中間位の体躯で、恐らくはサルの仲間なのだろう、白い体毛と長い尻尾が特徴的な彼女の使い魔――ハーナルだ。

 ハーナルがハティの足下で彼女の顔を見上げたのを確認すると、ハティは鳴らした指を軽く一振りしてみせる。すると、彼女の懐から紙が一枚と羽ペンが一筆滑り出て、あっと言う間に一枚の書状が作成された。


「金貨は直接オマエが持って来い」

 ハーナルは小さな手で、しかし意外なほど器用に、書状を皺一つ作らず丸めてみせると、キィ、と短く肯定の言葉を返して部屋の外に消える。

 "小坊主"を介さず、ハーナルに直接金貨を持って来いと告げたのは、多分、ハティが"最後まで"この商談を担当すると言うことなのだろう。どうやら彼女は、本当にヒラタのことを気に入ったらしい。

 とは言え、存外に聡いヒラタの先に"金貨の袋"を見出したのか、とんと見ないタイプである彼そのものに"価値"を見出したのか、流石のキュルケも判断が出来なかった。


「ツェルプストー。アンタもオレも運が良い。明日ならオレは居なかった」

 商人は雑談を好まない、いや正確には雑談さえ商いに利用する。故に時折り、こうやって前置きも無しに会話を飛ばすことがある。

 ハティ曰く、オレが雑談を愉しむ時はそれこそ雑談"しか"しないんだろうよ、との事で、前置きや挨拶は彼女の雑談には入らないらしい。

「……アルビオン?」

 彼女が移動する、と言うのであれば、それは"金"の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

 そして、現状でハティが移動しそうな場所と言えば、内乱の起きているアルビオンである可能性が一番高い。


「"状況が動きそう"なんでね。直接オレが行くことにした」

 キュルケの声には頷きもせず、ハティが言葉を続ける。

 解り切っている返事を告げる時間こそ、商人にとっては無駄らしい。これでいて、"馬鹿"を相手取って商売をする際は、抜け目無い雑談と大仰な返事をしっかりと駆使するのだから、"純粋"な商人と言うのは侮れない。

 資産と権力を武器とする"貴族商人"の自分では、恐らくこうはなれまい、とキュルケは思う。尤も、ハティほどの商人に出会う事など、"イズンの林檎"商会を営むキュルケでさえ数えるほどしか無いのだが。


 と、キュルケがそんな事を考えていると――

「レコン・キスタ……」

 顎先に手をやったヒラタが、何やら"とんでもない"言葉を呟いた。

「耳聡いな。普通は"反乱軍"か"革命軍"と呼ぶ。オレもそう呼べと言われた」

 すっ、と左目を細め、ハティが斉藤の肩に手を掛ける。その視線は、とても鋭利だ。

 だがそれも道理。キュルケとて、"商会の情報網"が無ければ、知り得なかった情報である。


「何処で聞いた?」

 顔を覗き込むように腰を屈めたハティが、言葉と共に、ぐっ、とその指をヒラタの肩に食い込ませる――かと思いきや、彼女の指は空を掴んだ。理由は簡単、ヒラタが片足を後ろに引くようにして、身体を九十度回転させたからである。

 たたらを踏むハティから、ヒラタは更に一歩後ろに飛び退いた。包帯から覗く瞳には、大層剣呑な光が浮かべられている。

「触んな、"ヅカ系男女"が」

 吐き捨て、そそくさとキュルケの後ろに隠れた。いや、ヒラタ本人には隠れた心算は微塵も無いのだろうが、自分の斜め後ろに素早く移動した彼を見て、キュルケは普通にそう思った。


 尤も――

「情報を聞きたいってんなら"対価"を貰うぜ。ここは"そういう店"なんだろ?」

 続いて発せられたヒラタの言葉に、そんな微笑ましい思考など、木っ端微塵に吹き飛んでしまったのだが。




 軽く右腕を上げ、ハティがキュルケに目を向ける。極自然体で掲げられた右腕が、魔法の使用も止むを得ない、と言う彼女の"戦闘態勢"であることを、キュルケは既に知っていた。

「ツェル――」
「残念だが、お嬢様から聞いた訳じゃねぇ。情報も、この店についてもな」
 だが、何かを――恐らくはキュルケの名前を――言おうとしたハティは、ヒラタの発言に依ってその口を閉じる。

 まただ、とキュルケは思った。

 今までヒラタと話していて"こんな事"は一度も無かったのだが、彼は既に四度、自身の発言を以って相手の発言を封じている。

 しかも、その相手はハティ、いや"アウルボザ商会の営業主フレキ"なのだ。並みの知力と度量では、発言を封じるどころか、渡り合うのも難しいはずの相手である。

 キュルケはヒラタの事を、"普通に"聡いだけの人間だと思っていたのだが、ひょっとしたら認識を改める必要があるのかも知れない。


 普段の、"メンドくさがり"で飄々とした態度とは全く違って見えるヒラタに、その意外な一面を見させる切っ掛けとなったハティが声を掛ける。

「商売は信用がなければ成立しない。オレは今アンタを疑ってる」

 "対価"を支払って欲しいなら疑いを晴らせ――いやこの場合は、話さなければ容赦はしない、だろうか。

 言外にそんな意味を込めて、ハティの右腕がヒラタへと向く。細められた目は、測るようであり、謀るようでもある。

「……そんな疑うような話か?」

 対する斉藤は、首を竦めてハティの視線を受け流す。

 学院に居るときのような"飄々とした態度"の筈なのに、キュルケは何故か、その瞳に底知れぬものを感じてしまった。


「ま、良いさ。裏を返せば、疑いさえ晴れれば俺の話を聞いてくれるって事だろ? アンタの話を聞いて、ちぃっとばかし"面白い事"を思い付いたんでね」

 顎先に添えられたヒラタの指が、ざり、と音を立てて包帯を擦る。

「勿論、アンタの腹も膨れる"美味しい"話だ。食事を愉しんだら、"ゲップ"の後に"チップ"を俺に渡してくれりゃ、それで良い。どうだい、その物騒な右手を下げて、俺の話を聞いちゃ――」

「オレは商人だ。金にも生らない"無駄話"を聞く気はない。……先ずは疑いを晴らせ」

 低く乾いた声で、ハティがヒラタの言葉を遮り――ゆっくりと右手を下ろす。

 細められた目は相変わらずだが、彼女のその瞳には、先程までとは違う、興味の炎が焼べられていた。

「了解だ、男女」

 この展開を待っていた、いや予想していたのだろうか、口角を吊り上げて、ヒラタがにやりと笑みを浮かべる。



「自慢にもならねぇ話で高説垂れんのは好きじゃねぇんだが……」

 そんな言葉を皮切りに、何故この店が"情報"を売買する場所であることを知っていたのか――正確には予想したらしいが――説明を始める。

 第一に、商館と言う大金の動く場所に、"個人"を相手にする店が存在するということ。

 第二に、商品を買い取るのではなく、利になり難い"質屋"を営んでいるという意味。

 第三に、そんな質屋に、商会で一番利潤を考えなくてはならない"商会主"が店番に立つという矛盾。

 第四に、軒下でも倉庫の近くでもなく、普通の"脇部屋"に質屋を置くという無駄。

「……んで、後はその"点"を結んで"線"にすりゃ、考えるまでもねぇ。大体の予想は直ぐに付く、簡単だろ?」

 勿論、他にも幾つか細かいヒントは有ったけどな、とそこまで言って、一旦ヒラタが言葉を止める。


 ハティは何も言わない。

 ただ、じっ、とヒラタを見るだけだ。その瞳で熱を発していたはずの"興味"も、既に綺麗さっぱり消え失せている。

 だがキュルケは知っている。それが"ハティ"の何であるかを。

 そう、これは純然たる証。その道の果てに存在する"成功"を、共に掴むに値すると評価した相手にだけハティが見せる、純粋な"商人"の顔。恐らくは今この瞬間、ハティはヒラタを"認めた"のだ。


 しかし、キュルケの驚愕などヒラタは知らない。ハティが認める人間の少なさも、どれだけ"厄介"な相手に目を付けられたのかも、今のヒラタは知るはずも、無い。

 ハティの沈黙を、続きを促す無言の抗議とでも受け取ったのだろう、小さくヒラタが息を吐く。

 解り切ったことを言わすのは商人らしくないんじゃねぇの、とそんな"ぼやき"を足してから、後頭部をがりがりと掻いて後を続ける。

「……個人客用の店があれば、商人でもねぇ人間が商館に入ったって誰もおかしいとは思わねぇ。その店が"質屋"だってんなら尚のこと、貧乏人が碌な品物も持たずに訪れようと、違和感なんてありゃしない。んで、そんな何処の誰とも知れない輩を"商会主"が迎えることも有るってんだから、何か"裏"が有ると考えんのが普通だろ?」

 こつこつ、と言葉のリズムに合わせるように、ヒラタのつま先が木の床を叩く。

「加えて言うなら、"質屋"をまともにやろうって気が無いのも明白だ。恐れ多くも商館だぜ? 軒下に店構えるなら兎も角、店の奥まで入ろうって奴はそうは居ねぇ。かと言って、ちゃんと"質種"を管理しようって割りにゃ、倉庫は遠いわ入り口は奥まっているわで、効率の悪い事この上ない。……じゃあ何のため? 決まってる。表立って迎えられねぇ客を迎えるためか、そういう客が来たことさえ周囲に悟らせたくねぇかのどっちかだ」


「……ちょっと待って」

 分かり切った質問を教師に答えさせられている学生の様な顔で、吐き捨てるように説明を続けていたヒラタをキュルケは止めた。

 その胸中に、疑問が一つ浮かんだのだ。

「最初はヒラタが考慮してなかったのだと思ってたんだけど…… "どっちか"だって気付いたのなら、如何して"そっち"を選んだのかしら」

 そう、ヒラタは自分の推理に、"非合法の商談を行う場としての質屋"も考慮に含んでいたことを述べている。ならば寧ろ、"普通"はそっちに注目するのが道理だろう。"情報の売買"が行われていることまで、推理が及ぶとは考え難い。

 しかしヒラタは、大層不思議な顔をしてこう答えたのだ。

「"そっち"を選んだなんて俺が何時言った。寧ろこの場合、"どっちも"が正解なんじゃねぇの?」

 事も無げにそう言う彼は、それがどれだけ"卓越した"思考であるか解っていないのか――得意気な様子を隠している訳でなく、"素"でそう思っているようだった。


「って、聞きたいのはそんな話じゃねぇのか。……そうだな、お嬢様はあの"男女"がこの部屋で最初に言った台詞、憶えてっか?」

 相変わらず黙ってヒラタを眺めているハティを顎で示して、ヒラタが不意にキュルケに訊ねる。

「ええ。確か……『久しいな、ツェルプストー。魔法学院に居るなら、もっとウチに来てくれても良いんだぜ』だったわよね」

「そうだ。んで、ここから先は完全に俺の思い込みな訳だが――」

 ヒラタが視線をキュルケから外し、ハティへと向き直る。その目は随分と、楽しげだ。

「アンタ、無駄なことをする主義じゃねぇだろ。"商人"だからな、目的は何時だって解り易い。そんなアンタがこう言った、何時来てくれても良い、と。"何時来ても利になる"ものだと考えるなら、目的は"商談"じゃない……」

 そして一旦、言葉を切ってその目を細める。しかし、ハティの表情には微塵の変化も表れない。

 詰まらなそうな、ヒラタの吐息。

「お嬢様との、いや"イズンの林檎"商会との情報交換。そう考えたら"偶々"辻褄が合った。ま、後は適当なタイミングが来たんで、"鎌を掛け"させて貰っただけさ」

 いい加減何か反応を示してくれっと嬉しいんだけどな、と身動ぎ一つ見せないハティに向けて、ヒラタが肩を、竦めて見せた。





 僅かな間を置いて――

 最初に漏れたのは、くつくつと言う咽喉に突っ掛かったような低い声で、次に漏れたのは、かは、と言う中途半端な声とも付かない吐息だった。

 斉藤は、漸く見えた彼女の反応らしい反応に――それも意外と上機嫌らしい彼女の反応に、こっそり安堵の息を吐く。

 正直もう二度と、"あの右腕"を向けられた時の圧迫感は感じたくない。はっきり言って、質こそ違うが感じた恐怖は"フーケ"との一戦並である。頼まれたって、願い下げだ。


 そんな事を考えつつフレキの表情を窺っていた斉藤を余所に、フレキは更に数秒、笑い声とは微妙に判断し辛い、音量のある吐息を繰り返す。

 しかし気付けば、斉藤の意識が逸れた一瞬の合間に、フレキの声は"ぴたり"と止んで、彼女の顔は真面目な――無表情とは似て非なる表情へと変わっていた。

「オレが、いや"アウルボザ商会の営業主フレキ"が訊こう。アンタ、名は?」

 斉藤が驚く間もなく、フレキが問い掛ける。斉藤の横で、彼の代わりにキュルケが驚きを露わにしているのが目に入った。

 だが、キュルケの驚きは斉藤のそれとは違うらしい。

 驚きに続いて、軽く額を押さえ、あちゃ~、とでも言いたげな表情に変えたキュルケの姿が、何とも斉藤の不安を掻き立てる。


 だから――また何時もの不幸の予感がする、と斉藤が考えてしまったのは、無理からぬことなのだろう。

「な、名無しの権兵衛だ」

 かと言って斉藤自身、咄嗟に出したとこの偽名は如何なんだろう、とは思ってしまったのだが。

「ナナシッノ・ゴンベ? ……成る程、アンタもオレと同じクチか」

「……ん?」

「確かに幾分マシだが、"ヒラタ"も十分聞かない名だぜ?」

 何やらフレキは勝手に勘違いをしたようだ。確かに、発音だけしか通じぬのであれば、"名無し"なんて言葉の意味に突っ込みなど入る訳が無い。

 斉藤は訂正を入れようとして――別に如何でも良いことに気付いた。

 偽名を名乗った理由を訊かれるのも説明するのも、フレキ相手では"メンドくさい"ことこの上ない。加えて述べるなら、斉藤は、これ以上この"男女"と関わることなど無いだろう、と思っていた事も理由の一つだ。


「ま、アンタの主義に口を挿む気は無い。オレの利益を害する訳でも無いようだからな。……ヒラタ、いや"ナナシッノ"。オレと"商売"しないか?」

 相場を知らないというのが良い、扱き使えるからな、とフレキが意地悪く口の端を持ち上げる。

 その発言は、知る者が知れば驚きに目を剥いた事だろう。現に、斉藤からは見えなかったが、キュルケがそうだった。

 しかし生憎と、斉藤は、商人に直接名を訊かれる意味も、商人が"商売"に直接誘うことの意味も、欠片も知ってはいなかった。

 故に、重圧も感じず、意味も無く、気楽にそのまま言葉を返す。


「商売? 止めてくれ、海千山千の商人たちと渡り合えるほど、俺の"お頭"は上等に出来ちゃいねぇよ。するとしたら……、最初に誘いを掛けた通り、"商売"じゃなくて"商談"だな」

「……アンタがそう言うなら、"今は"それで良い」

 至極残念そうでも無く、フレキはそう言って右手を振った。

 するとカウンターの奥から、小さなテーブルと椅子が三脚、宙を飛んで来て、斉藤の前に静かに降り立つ。どうやら"座れ"と言うことらしい。



「行き成り言うと、またアンタの"右腕"が向けられそうだが…… "商談"の前置きは嫌いそうなんで単刀直入に言うぜ?」

 置かれた椅子に、勧められるまでも無く勝手に座る。斉藤の頭の中は"別のこと"で一杯で、その行為が失礼か否かなんて、考える余裕も無かった。

「知らないのか、そう云うのを前置きと言うんだぜ」

 斉藤が一人先に座ったことを如何受け止めたのか、何所か面白そうな表情を浮かべてフレキも椅子に腰掛ける。

 キュルケは何故か腰掛けず、斉藤の右後ろに控えて事の成り行きを見守ることにしたようだった。因みに、そんな彼女の表情は愉しげ――では決してなく、意外と真剣な顔を見せていた。


「"動きそうな状況"ってのは、王党派から接収した"レキシントン"、じゃなかった"ロイヤル・ソヴリン号"の事か?」

 言って斉藤は、フレキの一挙手一投足まで捉えんと目を凝らす。

 商談を始めるも始めないも、ここが正念場だ。そんな思いがあるが故に、当然少しばかりの"ズル"もする。いや、使えるものなら何だって使うのが商人で有るならば、彼女は"ズル"と言わないかもしれない。

 凝らした目は、肌のきめ細やかさまで見抜いてみせる。……が、表情には変化が無い。しかし、彼女の後れ毛が微かに揺らいだのを、"ガンダールヴ"の類い稀なる視力は見逃さなかった。

 因みに"ズル"――"ガンダールヴ"のルーンは、椅子に座った瞬間に発動させてある。ベルトに貼り付けたカッターナイフの替刃の一欠けに触れるだけで発動するのだから、簡単なものである。


「……間違い無いみてぇだな。ああ、答え難いことなら答えなくても良い、本題は"それ"じゃねぇから」

 斉藤は、自身に舞い降りた奇妙な偶然に息を漏らした。

 まさか"デルフリンガー"を買いに訪れた街で、こんな"出会い"が待ち受けているとは思わなかった。

 撫でた顎下の包帯は、僅かに汗で湿っている。この汗は、"驚き"に依るものか、"緊張"に依るものか、はたまた未来に関わろうとする自身への"慄き"に依るものか、斉藤自身、定かでは無い。


 一応、"存在する"とは思っていた。

 どんなお題目を掲げようと、レコン・キスタは"反乱軍"である。自軍の整備や兵糧調達を、全て"アルビオンの商人"だけで賄える筈が無い。

 両軍の戦力差が一方的であるなら未だしも、互角か或いは僅か程度の有利では、文字通り"国力"の差で"正規軍"が勝利すると考えるのが普通であり――そんな状況下では、"アルビオン"の商人たちが皆、反乱軍に協力してくれるとは考え難いからだ。

 無論、それを好機と見る商人も居るだろう。だが、そう言った"危険事"に関わろうとする商人は恐らく――安定を知らない、失敗しても被害が最小限で済む、"他国の商人"である可能性の方が高いはず。

 何より、物資の調達を"反乱軍"が考えるなら、下手に自国で用意するよりも、国外から調達した方が面倒は少ないはずである。尤も、空の国である"アルビオン"への貿易は、普通の陸続きの国と勝手も費用も違うだろうから、確信とまでは言えなかったのだけれど。


 一度目を瞑り、頭の中で状況を纏める。

 自分の目的と、目前の商人が得られるであろう"利益"。大丈夫、いける筈だ。

 そう言い聞かせ、斉藤は、ともすれば速くなりそうな動悸を"ガンダールヴ"の力で無理やり押さえ込む。

 そして――、次に目を開いたとき、斉藤は既に覚悟を決めていた。

「内乱は後二ヶ月ほどで終結する。勝者は……レコン・キスタだ」

 預言者の如く、断言する口調で話す斉藤を、フレキは、じっ、と内面まで見透かすように睨め付けた。


「……オレが介入するんだ、勝者について異論は無い」

 たっぷり三秒、測るような視線を続けた後、フレキが言う。まるで、オレが勝たせるのだ、と言わんばかりの表情が、彼女の商人としての自信を窺わせた。

「だが、二ヶ月と言うのは早過ぎる。根拠は何だ?」

 それじゃ儲けが予定の半分も行かないと、そんな言葉を付け足しながら、フレキがテーブルに肘を乗せる。身を乗り出すようにしたのは、本当に興味を持ったのか、それとも"ポーズ"だけなのか。

 斉藤は、その真意さえも量ろうとして――止めた。恐らく、経験の少ない自分では、疑えば疑うほど"どつぼ"に嵌ってしまうだろう。


「根拠と言うほどのもんじゃねぇけど……、一つはレコン・キスタ側は"戦争"を良く知っているということ」

 正確には、"レコン・キスタが"では無く"その後ろの存在が"、と言うべきか。胸中でそんな言葉を付け足しつつ、フレキの表情を窺う。

 ここから先は、多分に斉藤の"予測"が入る。その一つでも彼女に覆されたなら、商談は終わってしまうだろう。

「多分、"レキシントン"号の投入からレコン・キスタは総力戦に入る。損害は考えず、"勝利"ではなく"勝ち"を浚うはずだ。暫くの間はな」

「……理由は?」

「たとえ損害が増えて戦力的に劣っちまっても、戦略的に有利に立てっからだ。大々的な新戦力投入と同時に、連戦連勝。実情は辛勝だとしても、これを聞いた"第三者"は如何思う?」

 一旦、言葉を切る。軽く息を吐いてから、斉藤は口中が乾いていることに気付いた。

 どうやら、想像以上に緊張しているらしい。しかし、その緊張を意識しても硬くならない程度には、集中力が発揮されているようだ。


「ここでもう一つ、民は"戦争を見ない者"の方が多く、そして集団心理はマイノリティを駆逐するということ。つまり――」

「一度傾いた天秤は、決して元には戻らない。戦場の多くは傭兵で成り立つが故に、噂を聞いた傭兵は全て"反乱軍"に参加する、か」

 最後まで口にする事無く、フレキが斉藤の言葉を引き継ぐ。

 落とした目蓋の裏側で、彼女は思考を巡らせているのだろう。斉藤の言葉が有り得るか有り得ないか、それこそ天秤に掛けるように。


「成る程、有り得ない話じゃない。アンタ、革命軍で"元帥杖"でも握ったら如何だ」

 口調こそからかう様なものだが、斉藤は直ぐに気付いた。

 彼女は暗にこう言っている、レコン・キスタの連中がアンタほど賢い選択が出来るとは思えない、と。

 だから斉藤はこう答えるのだ。

「止してくれ。そういうのは柄じゃねぇ…… っつうか、既にレコン・キスタには、飛び切り優秀な"軍師"が居るしな」

 下手に関係して目を付けられたら、それこそ目も当てられねぇだろ? なんて、軽口に見せ掛けた本音をちゃっかり付け足しながら。

「……軍師?」

 と、そんな軽口に隠された本音に構う事無く、フレキはその言葉に反応を見せた。ある意味、斉藤の思惑通りである。

「そう、軍師だ。それこそ、ハルケギニアで一、二を争う優秀な"頭脳"で、俺なんかじゃ足下にも及ばねぇ」

 軽く肩を竦め、斉藤がおどけてみせると――鋭い眼光で睨まれた。

 事実なんだが、冗談と取られたのかもしれない。そんなことを、斉藤は思った。

「それで……、アンタはオレに何をさせたい?」

 だが、斉藤の考えは的外れだったらしい。フレキは正しく彼の発言の真偽を見抜き、その先に思考を飛ばしていたらしかった。



 疑いの言葉を吐かず、あっさりとフレキがこちらを信じてしまったのは、斉藤にとって予想外だった。

 恐らくは斉藤の知らない"事実"を何か掴んでいて、斉藤の話を、聞くに足るものだと判断したのだろう。優秀すぎる頭脳は、時に過程を一気に置き去りにして結論だけを見せるため、相手をしていてやり難い事この上ない。

 自分の原作知識も大概チートだが、本物の"頭脳派"には敵わないのだな、とそんな事まで思ってしまう。


 斉藤の世界では、ほんの数年、十年にも満たない僅かな期間で、情報インフラは急激な発展を遂げていた。個人が関わる物としては、携帯電話やインターネットなどが、その恩恵を最も受けた物だと言えるだろう。

 斉藤が小さい頃、調べ物は全て図書館だった。調べようと思うものに対して、情報は遥かに少なく、何時だって"目的"の情報を探すのがやっとだった。

 しかし時が過ぎ、調べ物は殆どネットで事足りるようになった。調べようと思うものに対して、情報は桁違いに多く――結局は"目的"の情報を探す苦労に変わりは無かったりする。


 だが、それでも、確かに変わり"磨かれる"ものがある。知る者だけが持ち得る、そんな能力がある。

 情報の取捨選択能力と言うべきか、総合判断力と言うべきか。"それ"を知る者は、一見無関係に見えるものが、何所か別の面を通して見ると繋がっていることに気付けるのだ。

 Aを調べる内に手に入った無駄な情報が、Bを調べるのに役に立ち、Bの情報を探る内に流れ行く情報に、Cの情報への手掛かりを獲る。そして、ABCの全ての情報を合わせると、自然とDの情報が導かれることもある。そんな"無駄"が"無駄"でなくなってしまうような、矛盾にも近しい不条理。

 例を挙げるならば、無数の情報の中なら取捨選択を行い、"最近"雇った"美人秘書"をクロムウェルが見せびらかしているらしい"噂"と、"最近"反乱軍が新戦力として巨大なフネを接収したという"事実"と、"最近"の反乱軍の動きが以前とは違うという客観的な"考察"を抜き出し、統合し、斉藤の言葉の真偽を測る様な――そんな能力。


 目的の情報を得るのではなく、数限りない情報から、目的の情報を導き出す。それはある意味、情報と言う名の川の急流で砂金を取るような、全ての細かな情報を駆使して砂漠内のオアシスを探し出すような、果ての見えぬ、成功の約束されぬ、実感なき苦行。

 斉藤の世界の住人でさえ、大量の情報を得る機会に恵まれながら目的の情報のみに固執し、"無駄"を排す者が殆どなのだ。

 況してやこの世界――情報インフラも殆ど発展していないハルケギニアで、コストの掛かる"情報収拾"に"無駄情報"をも含めて報告させようなどと、一体誰が考えるだろうか。

 例外的に、それでも"Yes"と言えるのは、ガリアの無能王とロマリアの教皇くらいだろう。彼らであれば、金も人材も、そして何よりそれを判断するだけの"頭脳"も持ち合わせている筈だ。しかし、それ以外にはそう居まい。


 そんな風に、斉藤は思っていた――つい先程まで。

 しかし、少なくともフレキは、いや恐らくはこう云った情報を集めている時点でキュルケなどの"ゲルマニアの商人"も、保有する情報の絶対量に差こそあれ、"それ"を知っていると言うことなのだろう。

 ひょっとしたら斉藤が知らないだけで、"それ"を知る者は意外と多いのかも知れない。何せ、情報の売買をここで行っている、と言う情報を握られただけで、それを知る斉藤に実力行使を辞さない警告を与えるくらい、"情報の漏洩"を恐れているようなのだから。



 もし多いのだとしたら、現代日本に居ながら殆どそんな思考が出来ていなかった自分の立つ瀬が無いな、と斉藤は思った。尤も、今はそんな事に落ち込んでいる暇はないのだけれど。

 斉藤は、すぐさま思考を切り替えて――それでも隠し切れずに溜め息を一つ吐いてから、フレキに答えを返す。

「王党派とも取引をして貰いたい」

 窺うような視線は、向けない。ガンダールヴの力で、無理やり"挑む"ような視線を作り出した。

「……落ち逝くフネと商売はしない。旨味がないからな」

 少し間を置いて、フレキはそう言った。その瞳は、斉藤を馬鹿にするでなく、試すような光を"態と"覗かせている。


「海に浮かべる船を知ってっか? 落ち逝くフネは落ちたらそれで"御終い"だが、海に浮かべる船の場合、沈んでもそれで"御終い"にはならないんだぜ」

 敢えて関係ないようで、如実に関係のある話題を振ってみた。多分、フレキであれば"それ"に気付く。気付いてくれる、とそう思えた。

「海船なら、南方の"青の大陸"との貿易でオレも関わったことがある。生憎と、沈ませるような真似はしなかったがね」

 だから、フレキがこうやって"冗談"で返したのは態となのだと、斉藤には断言出来る。

 故に――

「最高級のワインが詰った樽よりも、中身が空っぽの樽の方に価値がある。沈み逝く船ってのはそんな場所だ。んでもって、"王党派"と言う名の船に居る"貴族"と言う名の乗組員は、自分の船に穴を開けた"海賊"を決して赦す気はねぇらしい。俺にはとても理解出来ねぇが、そいつ等は"命"より"船"の方が大事だってんで、死ぬまで徹底抗戦するんだとよ」

 フレキの冗談に乗る形で、こう続けてみた。明確な答えを避けたのは、斉藤の"考え"よりも、そこから導くであろうフレキの"結論"の方が上だと判断したからでもある。

「成る程、その乗組員は今、自身を飾る"最高級の宝石"よりも海賊を打ち倒すための"粗末な剣"を所望する、と言ったところか?」

 果たして、斉藤の言葉はフレキの眼鏡にかなっていたようだ。くつくつと、彼女のくぐもった笑いが室内に響く。


「だが生憎と、オレも"海賊"の一味でね。お仲間の見ている前で"獲物"に"得物"を配るわけにもいかない」

 愉しそうに、くぐもった笑い声を響かせたまま、フレキが続けるその言葉。多分、その先にある斉藤の答えも、既に分かっているのだろう。

 決まりきった言葉を、決まりきった流れで、上手い具合に転がしてみる。こういった遣り取りも、嵌れば結構面白い、と斉藤は思った。

「いいや、アンタは商人だ。その先に金貨の袋が有ったから"海賊"の誘いに乗っただけの、がめついがめつい金の亡者だ。だから……、その先にもう一つ金貨の袋が有るならば、悪魔の誘いだって無視出来ない。そうだろ?」

 そんな斉藤の"誘い"に、組んだ指に顎を乗せたフレキは、口の端を僅かに歪めて片眉を下げる。


「ああ、そうだ、否定はしない。だが悪魔と言うのも狡猾でね。金貨の袋に伸ばした腕を、間抜けに晒したその首を、落とされぬとも限らない」

 耳を撫でる互いの台詞のテンポが心地良い。それは有る意味、彼女に巧みに踊らされている事をも意味しているのかも知れない。

 だが問題無い。たとえ踊らされていようとも、元よりリターンはそれ程望んでいないのだから。

 彼女のリターンが大きくなろうが小さくなろうが、自分のリスクが少ないままならそれで良い。それが斉藤の本音なのだ。

「そこは俺には関係ねぇ。アンタが上手くやってくれ。……と言いたいところだが、飛ばされた"首"に咽喉元を食い千切られちゃ敵わねぇんでな。いっその事、悪魔を騙して儲けるために、被った"海賊"の皮と手に持った"粗末な剣"を、"海賊の御株"ごと奴等に奪わせてみたら如何だ?」

 空には空賊ってヤツが居るんだろ、と原作のウェールズの行為を思い出しながら、斉藤も自然、彼女に良く似た顔を浮かべるのだった。






 それ以降の商談は、詳細を詰めると言う些事に過ぎない。語る必要は、少なくとも今は無いだろう。

 ただ暫くの後、彼と、彼女と、もう一人の彼女の"右手"が、固く結ばれた事だけは、述べておく事にしよう。


 ――詰まりは此処が分岐点。


 上手く行けば、王党派に届く物資が増強される。

 上手く行けば、原作ほどギリギリの綱渡りをしなくて済む。

 上手く行けば、ウェールズとのパイプが出来るので、手紙を取りに行く必要も無くなる。

 上手く行けば、レコン・キスタに渡すよりは、と"始祖のオルゴール"や"風のルビー"を要求出来る。


 そんな斉藤の思惑は、彼から彼女へ渡された。

 結果は一体如何なるのか。分かたれたもう一つの流れは一体何処で繋がるのか。それはまだ――誰も知らない。




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