東ヨーロッパを卒業旅行先に選んだのは失敗だった。
それはもう完膚なきまでに。
ハプスブルグ家の栄華の香り漂うオーストリアからポーランドへ抜け、そこからさらに南下してハンガリーで念願の国立歌劇場で舞台を観劇。
先進国として文明の毒に侵された西ヨーロッパより遥かに歴史の空気を感じ取ることが出来たのは僥倖だった。
三日ほどの滞在を経てセルビアの大聖堂を見学し吸血鬼で有名なルーマニアに入る。
吸血鬼ドラキュラと言えば何故かトランシルヴァニア地方が発祥のように言われているが、モデルとなったヴラド・ツェペシュはワラキア公国の大公であり語られるべき地方が違う。
とりあえずヴラドの妻が投身自殺したというポエナリの城は見ておきたかった。
ブラム・ストーカーの創作とはいえ、彼女への愛が高じてキリスト教世界を裏切るきっかけとなった城だからだ。
歴史オタクらしい自己満足にひたりつつ、ご機嫌でポエナリに向かうタクシーのなかで事件は起きた。
「…………ここはどこだ?」
薄暗い部屋のなかは見るからにどこか逝ってしまったカルトな光景が広がっていた。
魔法陣らしき文様
生贄であろう山羊の首が置かれた祭壇
全力でスルーしたい鋼鉄の処女をはじめとした中世の拷問道具たち
いつからオレはホラームービーのセットに迷いこんだのだろうか。
ぼんやりと霞がかかった頭を目覚めさせようと、煙草に手を伸ばそうとしてオレはここが決して映画のセットなどではないことに気づいた。
「な、ななな………なんで手錠が………」
両手も両足も手錠で拘束され芋虫のように床に転がされた状態であることに気づいたオレは軽いパニックに陥った。
いったい何が起こったというのか?
薄れかけた記憶を辿ろうとオレは再び目を閉じた。
「ポエナリの城まで頼むよ。できれば一時間ほどで戻るから帰りもお願いしたいんだが………」
観光タクシーの運転手にそんなことを頼んでいた気がする。
「珍しいねお客さん、たいがいの客はシギショアラかトラゴヴィシテに向かうもんなんだが……ポエナリを指定されたのは久しぶりだよ」
シギショアラはトランシルヴァニアのドラキュラ生誕の地として知られている。
トラゴヴィシテはドラキュラが長年居城としていた場所で広場にドラキュラの銅像が建っていることで有名だった。
もちろんそれらに興味がないわけではないが、オタクとしてはこだわりかたに価値があるのである。
「ドラキュラがドラキュラたる由縁となった場所だからね……それに詩情に浸るには人は少ないほうがいい」
運転手が笑った。邪気のない笑みでありながら何故か背筋の寒くなる笑みだった。
「全くですな、お客さん。運がいいですよ………なんせ今日は満月です。満願成就の良き日にいらっしゃるとは本当にお客さんは運がいい……」
昼なのに満月もないもんだ、と思ったが………よく考えるとそこから先が記憶にない。
ポエナリの城についた記憶もないし戻った記憶もない。タクシーで移動中になんらかのトラブルに巻き込まれたと考えるのが妥当だろう。
「おや、お気づきなさったか、旅のお人」
聞き覚えのある声にかろうじて動く顔だけを部屋のひとつしかない扉に向ける。
はたして薄気味悪い笑みを浮かべた件の運転手がそこに佇んでいた。
「…………いったいなんの真似か聞いてもいいかい?」
一瞬頭に血が上りかけたがかろうじて自制を保ちつつオレは尋ねた。
頭の中では様々なケーススタディが浮かんでは消えている。
これみよがしの魔法陣から察するにイスラム教徒ではないだろう。であるならばアルカイダに代表されるイスラム過激派の人質になったとは考えにくい。
オウーム真理教のようなカルト団体にしては部屋のつくりが一般住宅とあまり変わりないし、運転手以外の人手が窺えないのは解せない。
一番可能性が高いのはこの親父単独の妄想であるケースだとオレは判断した。
「今宵、ドラクリヤ公が復活なされるのですよ、日本のお人。尊い貴方という犠牲によって」
親父の言葉にオレは内心頭を抱えた。
いかれているとは思っていたがまさかここまでいかれているとは思わなかった。
生贄を捧げてドラキュラを復活させるだと?いったいどこの三流ホラーだそれは。
「日出づる国から生贄が訪れるとは………やはりこれは神のお導き……さあ、お覚悟を……」
親父が懐からやたらと意匠の凝った短剣を引き抜くのが見えた。
ふざけんな!ドラキュラ呼び出すのに神が導くわけねえだろが!歴史オタクなめんな!これでも北辰一刀流印可もってんぞ、ごるあぁ!
………って両手両足縛られた状態じゃなんの役にもたたんわあああああ!!
一人ボケツッコミをやっているあたり割と余裕に見えるかもしれないが実はただ現実逃避していただけだった。
理不尽だ。こんな理不尽なことがあってよいものか。
故郷で待ってる両親に言い訳がたたない。
異郷の地で精神異常者に後継ぎ息子を殺されましたでは泣くにも泣けないだろう。
「ヴラド・ツェペシュよ!この世で最も美しく残酷な御方よ!どうかこの生贄を糧に現世にお姿を現したまえ!」
「このど阿呆が!そんな蔑称で呼んで誰が喜ぶか!お前も信者ならヴラドの正式名くらい覚えとけええええ!」
ツェペシュとは串刺しを意味するヴラドに対する蔑称で正式にはヴラド・ドラクリヤ、またはヴラディスラウス・ドラクリヤと呼ぶのが正しい。
もっともそんな解説をする暇もなくオレの意識は暗い闇の彼方へと堕ちて行った………………。