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[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 【第一部 完結】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:c5abc7d8
Date: 2010/04/12 01:14
 時は、後漢王朝末期。
 王朝はすでに建国時の力と理念を失い、ただ惰性によって、歴史を引き摺るだけの存在と化していた。
 悪化する治安。跳梁する賊徒。
 官界には賄賂が横行し、官吏はその腐敗を恥じず。
 罪無き民の怨嗟は、大陸を覆い尽くそうとしていた。
 そして、皇帝が、自らの娯楽の為に、国家の要職さえ金銭で購わせるに至って、後漢王朝は中華の民を統べるに必要な信義を自ら手放すこととなる。


 治、極まれば乱に至り、乱、極まれば治に至る。
 ここに、光武帝劉秀によってもたらされた治世は完全にその輝きを失い、時代は乱へとなだれ込んでいく。
 それは、力なきことが、罪悪とされる時代。無能が、悪徳とされる世の中。
 朝廷は続発する反乱に目と耳を塞ぎ、群がり起こる賊軍は、ためらうことなく民衆を踏みにじる。


 いつの世も、最初に犠牲になるのは、力なき民衆である。それは、人の業が定めた哀しい哲理。
 されど、絶望に沈むことはない。
 最初に犠牲になるは民衆なれど、乱世を終わらせる力を持つ者は、その悲劇の中より生まれ出るものだから。
 戦乱の世を嘆く声が。大地に晒された屍の山と血の河が。何よりも、平和を願う民衆の願いが。
 乱世を終わらせる者――すなわち英雄を生み出すこと。それもまた、人の業が定めた輝ける哲理なのである。 


 後漢王朝の崩壊に始まる群雄割拠の戦乱の世。やがて、それらは3つの勢力に統合される。
 正義を掲げた、劉玄徳の興した蜀漢。
 覇道を歩みし、曹孟徳が築きし魏。
 調和を重んじた、孫仲謀の建てた呉。
 三国が覇を競い、中華の大地を鮮やかに彩った時代を、知らぬ者などいないだろう。
 それ、すなわち三国時代。
 後の世に、永く語られることになる猛々しき争覇の時代にして。
 幾多の乙女たちが、その心命を賭して駆け抜けた、繚乱の時代である。










「おら、こんなとこで力尽きてんじゃねえぞ! てめえら奴隷は、ただ働いてりゃいいんだよ!!」
 牛馬用のムチを持った威丈高な男は、そう吠え立てると、躊躇うことなく、地面に蹲る若者の背を打ち据えた。
 押し殺した苦悶の声と、人の皮が裂ける生々しい音があたりに響き渡る。
 打たれた若者は、痛みに耐えかねたように地面に倒れ付す。
 それを見た男は、嗜虐の表情を浮かべながら、その背を踏みつけると、更なる懲罰を繰り返した。
 繰り広げられる凄惨な仕打ち。だが、周囲にいる人々の中に、それを止めようとする者はいなかった。それをすれば、次に懲罰を与えられるのが己であることを、皆、知っていたからである。
 だから、彼らはただ地面を見詰め、暴虐の嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった……



「だ、大丈夫か、お若いの」
 ようやく。
 監督役の男が、嗜虐心を満足させて立ち去った後。
 背中の痛みに耐えながら、立ち上がったおれに、1人の老人が声をかけてきた。
 この老人、見た目はすでに60代の後半くらいであり、おれが今日のノルマの一部を引き受けてあげた人でもある。
 自分のせいで、という慙愧の念をあらわにしている老人に、おれは余裕を持って、受け答えしようとする、が。
「あ、あんまり大丈夫じゃないですね……」
 口から出てきたのは、我ながら、ちょっと情けないひと言であった。
 さすがに、ムチで打ち据えられることは、1回や2回で慣れるものではなかった。
「すまんの、見ず知らずのわしをかばってくれたそなたを、惨い目にあわせてしもうて……」
「いえ、気にしないで……ッ痛、い、いえ、気にしないでください。どうせ、あの男からは目の敵にされてますからね」
 努めて何気ない風に返答するが、どうやらさっぱりきっぱり上手くいっていないらしい。老人の顔から、自責の念が消えることはなかった。
 周囲からも、心配そうな、申し訳なさそうな視線が注がれている。
 おれへの仕打ちを見て、憤り、そして止めることのできなかった自分たちを責めている顔であった。


 それを見て、おれは改めて知った。
 ここにいる皆が、決して人間らしい感情を失ったわけではないことを。
 牛馬の如き扱いを受けても、他者を思いやる心を持ち続けていることを。
 そして、同時に思い知った。
 乱世とは、力さえあれば、そんな直ぐな気持ちを踏み躙ることさえ許すような哀しい時代であることを。
 おれが――つい先日まで、聖フランチェスカ学園の1生徒でしかなかったおれが、そんな時代にいるという現実を。   
 背中の痛みが、今さらながらに、その現実をおれに強いてくるのだった。



 北郷一刀(ほんごう かずと)
 年齢 17歳
 部活 剣道部
 所属 聖フランチェスカ学園
 特技 爺ちゃんに叩き込まれた剣術以外に特筆すべきものはなし
 趣味 剣道 読書 ゲーム


 自分で言うのもなんだが、ごくごく普通の高校生、それがおれである。
 もっとも、友人に言わせれば「剣術やってる人間が普通とか言うな」とのことだが、剣術といっても、田舎道場の流派を無理やり習わされた程度のもの。剣道部の成績だとて、そう大したものではない。
 そんなわけで、そんな普通の高校生以上でも、以下でもありえないはずのおれが、何で、こんな場所で、こんな目に遭っているのかというと――それが、実は自分でも、さっぱりわからんかった。
 わからんかったが、しかし、だからといって呆然自失していても、誰も助けてはくれない。実際、気がつけば黄巾族の人狩りに遭って、牛馬のような強制労働に従事する羽目になっている。
 この現実は、夢のひと言で片付けるには、あまりにもリアリティに溢れていて、おれは現実逃避を早々に諦めざるを得なかった。
 逃避を諦めたのなら、次は現実と向き合わねばならない。わけがわからないなら、わからないなりに、今の状況を掴んでおかなければならないのだ。
 おれはこの半月の間、可能な限りの情報を集めてまわり、そして、1つの結論を出すに至った。
 自分が、異なる世界に来ているのだ、という、正直なところ、自分でもそれはどうよ、と思う結論に。



 黄巾の乱。
 三国志を知る人ならば、その名前に覚えがあるだろう。というか、知らない人がいたら、三国志を知っていると言うのは嘘に違いない。
 後漢末期の混乱に拍車をかけ、一時は王朝を滅亡寸前にまで追いやる勢いを見せた農民反乱のことである。
 もっとも、農民反乱というには、規模が小さく、鎮定に要した時間も、後代のそれとは比べ物にならない短さであったことから、実際は太平道の張角が企てた謀反が、時代の混乱とあいまって大火となっただけという見方もある。
 だが、いずれにせよ、この乱が後の中華帝国に少なからざる影響を及ぼしたことは疑念の余地がない。
 そして、おれの命運に少なくない影響を及ぼしたこともまた、疑う余地がないことであった。


 痛む背中にもだえながら、おれは奴隷たちがすし詰めにされている天幕の隅で小さくなっていた。
 ここは黄巾党が労働力として、各地から攫って来た者たちが纏められている一画である。
 言うまでもないが、その待遇は最悪で、ぬくぬくと育ってきた現代人であるおれにとっては、正直、命の危機をおぼえる状況であった。
 それでも、何とか今日まで生き延びてこれたのは、ひとえに幼い頃から、爺ちゃんや親父たちに無理やり叩き込まれた剣術のおかげである。修行やら稽古やらに不満を漏らしたことは数え切れないが、今となっては、あの日々に感謝したい気分で一杯である。いつか元の時代に帰ったら、2人にはぜひともお礼をしなければなるまい。
 とはいえ、問題なのは、そのいつかが、いつ来るのか、ということだった。
 正直なところ、このままここに居れば、遠からず死ぬ。それはもう、額縁保証書付きの、時期を未来に設定しただけの、ただの事実であった。
 とすると、ここから逃げ出さなければならないのだが、当然ながら、黄巾の連中は昼夜を問わず、見張りを立てて脱走する人間がいないか、目を光らせている。
 毎夜のように脱走する人間が出るが、この監視の目を抜け出ることができた者は1人としていなかった。
 失敗した人間は、更に悲惨な運命が待っている。
 見せしめとして、公開で処刑されるのは、まだ良い方だ。この前の家族は、眼前で妻子を嬲られた挙句……
 あの時の光景を思い出してしまったおれは、こみ上げてきたものを、必死に飲み下した。もう幾度、背中に刻まれたかわからない暴虐の、最初の仕打ちを受けた日。思わず止めに入ってしまったおれの眼前で、繰り広げられたあの光景を思い出すと、いまだに背筋が凍る。身の毛がよだつ。
 打ち据えられた傷は、いつか癒える時が来るだろう。だが、胸奥に刻み込まれた、あの光景を忘れることが出来る日は来そうにない。
 法も秩序もない世の中というものが、これほど醜悪なものであるとは、想像さえしたことがなかった。こんな風に思ってしまい、脱走する意欲を失くしてしまうのは、黄巾の連中の思い通りなのだろうが、生憎と、今のおれは連中の思惑を跳ね返すだけの気力も体力もなかったのである。
 誰もが昼間の重労働で死んだように眠っている天幕の中で、おれは先の見えない煉獄に、ひそかにため息を吐いた。



 明けて翌日。
 その日も、おれたちは朝から休みなく働かされていた。
 先日の一件以来、おれを目の仇にしている監督役の男が、今日も何かと文句をつけてくる。
 しかし、すでに半月以上、この過酷な環境で生き抜いてきたおかげで、おれも今の状況に多少はなれてきてしまったらしい。連中が課してくる作業をこなすことは、大して難しくはなくなっていた。
 もっとも、昨日のように、他人の分まで背負い込むとなると、かなり厳しくなりはするのだが。
 相手もそのあたりのことは飲み込んでいるようで、今日も今日とて、また難癖をつけて、おれをいびりに来るかと思ったのだが、今日は少し様子が違った。
 昼を少し過ぎたあたりから、監督役の男の様子が、目に見えておかしくなっていった。いや、よく見れば、やつだけでなく、そのまわりにいるいけ好かない連中もそうだし、おれと同じ奴隷たちの中にも、何やらそわそわしている者もいる様子。
 はて、何なのだろうか。
 おれが首をひねりつつ、それでも作業の手は止めずにいると、不意に、遠方から、遠雷の轟きのようなものが聞こえてきた。
 それが、幾多の人々が発する歓声であると知った時、おれは思わず作業の手を止めていた。
 そのおれの耳に、ひとつの名前が飛び込んできた。
 張角様、と。


 大賢良師、張角。太平道の創始者にして、黄巾党の党首。後漢末期の乱において、紛れもなく雄なる者の1人。
 その人物が現れたというのか。
 いったい、どのような人物なのだろう。今の状況を忘れて、俄然、興味が湧いてくる。
 もっとも、奴隷の身で、拝謁することなど許されるはずもないのは明白であったから、おれはその興味を押し殺し、作業を続けようとした。
 のだが。


『みんなのアイドル、張家の三姉妹がやってきました~』


「は?」
 あまりにも。
 あまりにも。
 なんというか、あまりにも場違いな台詞に、おれは凍りついた。
 幻聴か、と自分を納得させようとしたのだが。


『数え役萬☆しすたぁずの登場で~す!』


 ウワアアアアア、とも、ウオオオオオ、ともつかない怒号が、押し寄せてくる。
 気がつけば、監督役どもの姿も消えている。
 どうやら、辛抱たまらずに、彼らのアイドルを見に行ってしまったらしい。
 見れば、周囲の奴隷たちまでが、それに追随している。


 誰もいなくなった荒れ野に1人佇むおれ。
 吹き付ける風の冷たさと、彼方で高まる熱気の温度差に、なぜか泣きたくなった。   


 


 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 刀花邂逅(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/14 13:32

 
 天公将軍 張角
「みんなー! てんほー、みんなのこと、とってもあいしてるー♪」
 沸き立つ聴衆。高まる歓声。


 地公将軍 張宝
「みんなの妹、ちーほうだよぅ! 応援、ありがとー♪」
 足を踏み鳴らし、台上のアイドルたちを称える人々。老若男女を問わず、彼らの視線は台上にいる3人の姿に集中していた。


 人公将軍 張梁 
「みんな、今日は私たちのために集まってくれて、ありがとー♪」
 呼びかけに応える声は、もはやこの世のものとも思えぬ熱気を孕み、張家のアイドル3姉妹が持つ求心力と人気が、どれだけ大きいものかを如実に示していた。
 そう、たとえば、旭日のごとき勢いで高まる人気にファンが暴走し、1国の王朝を倒壊させる引き金となってしまうほどの、それは力だったのである……


 台無しだった。
 いろんな意味で台無しだった。
 おれは黄巾党の設立された経緯を知り、地面に膝をつきたい気分に駆られた。
「ありえないって。なんだ、アイドルグループの延長の末に起きた黄巾の乱って?!」
 と叫びたい気持ち。きっと、三国志のファンならわかってくれるはずである。
 あいにく、この地に、そんな人間はおれしか居そうになかったが。


 だが、いくらおれが嘆こうとも、それで歴史が変わるわけではない。今、この時、この場所で、それは紛れもない事実なのだ。
 これまで、おれは自分の体験を、タイムスリップとか時間転移とか、そのあたりの領域のことであると漠然と考えていた。古来より、神隠し、という言葉はあるし、小説やゲームなどで、そういった展開は珍しいものではない。
 だが、これだけあからさまに史実と異なる状況を見てしまうと、単純に過去の世界に来てしまった、というわけでもないようだ。一体、どういう状況に巻き込まれてしまったのやら、見当もつかない。


「まあ、死にそうな状況に変わりはないわけだけど、な」
 そうつぶやき、おれは作業に戻ることにした。
 冷静に考えれば、監督役どもがいない今、絶好の逃げる機会であったのだが、そこまで頭が回らなかった。冷静になったつもりでいたが、実際はそうでもなかったようだ。それくらい、おれの受けた衝撃は強かったのである。
 そのことに気づいて臍を噛んだのは、夕食後のこと。くたくたになるまで働き、天幕に転げ込みながら、ああ、そういえば逃げ出す好機だったな、とようやく思い至ったのである。我ながら、間の抜けたことだった。


 ところが、翌日。この行動が、おれに思わぬ幸運を招き寄せることになる。
 朝、まだ早い時間。おれは、例の監督役の男に連れられ、ひとつの天幕まで連れてこられた。豪奢な布地を使ってつくられた天幕は、これが黄巾党の幹部クラスの人間が使っている物であることを物語っている。
 これまでは近寄ることさえ許されなかった一画で、おれは困惑の表情を隠すことができなかった。
 男の説明によれば、なんでも、件の張家の姉妹が、じきじきにおれを呼び出したらしい。正確には、おれというより、姉妹のステージが行われているというのに、見向きもせずに労働に従事していた奴隷を呼び出したのである。
 こんなことは今までなかったらしく、監督役の男も、おれにどんな態度で接して良いやらわからないようだ。もっとも、おそらくなんらかの叱責を加えられるであろうとは思っているらしく、特にこれまでと大きく態度を違えることはなかったのだが。


「張梁様、お言いつけどおり、例の者をつれてまいりました」
「わかったわ。中に入りなさい」
 予想していたよりも、ずっと落ち着いた声音が、天幕の中から、おれの耳に飛び込んできた。
 張梁、ということは、人公将軍か。正史での役回りは……何だっけかな。まあ、少なくとも、アイドルグループの一員ではなかったな、うん。
 背中を小突かれたおれが、転げるように天幕の中に入ると、中にいた少女が、眼鏡(?)をくいっと持ち上げ、おれに観察の視線を走らせるのがわかった。
 当たり前だが、黄巾の連中に捕まってからというもの、着替えはしていないし、風呂も入っていない。そもそも、風呂というものが、この時代にあるのかも良くわからんが……
 つまりは、おれの姿は、小汚い路上生活者そのもの。自分ではわからないが、悪臭もぷんぷんと漂っているのではなかろうか。
 だが、目の前の少女は、そういった些事は気にも留めず、ただおれの姿を見つめ、そして最後におれの瞳を覗き込むような視線を向けてきた。
 怜悧な視線は、おれの内心さえ分析しているかのようで、おれは視線を逸らすこともできず、ただ見返すことしかできなかった。


 どれだけ、そんな状況が続いたのか。
 不意に、張梁はおれから視線を外すと、おれの後ろで控えていた監督役の男に声をかけた。
「ご苦労様。あなたは帰って良いわ」
「は、はい。この者は、いかがしますか? 処刑するのであれば、将軍の手を煩わせる必要は……」
「処刑? 誰がそのようなことをいいましたか?」
「は、いえ、ですが……」
 戸惑う男に、あくまで冷静な張梁。
「罰を与える、という意味では間違いないですが、処刑などという真似をする必要はありません。姉さんたちからも、黄巾党の者は、皆、仲良くするように、と言われているはずですが、この者を見るに、姉さんの言葉はあなた方に届いてはいないようですね?」
「い、いいえ! そんなことはございません! こやつらは奴隷でして、黄巾党の仲間というわけではありませんので、それに相応しい扱いをしているだけでございます」
 男の言葉に、張梁はかすかに顔を顰めたが、何を言っても無駄と考えたのか、軽く手を振って、男に退出を促す。
「まあ、いいでしょう。いずれにせよ、この者を連れて来るのは、姉さんたちも知っていること。あなたがとやかく言うことではありません」
「ち、張角様じきじきに?! ど、どうしてこのような奴隷風情を……」
「それもまた、あなたがとやかく言うことではないでしょう。今度のステージの打ち合わせがもうすぐ始まるので、早く出て行ってもらいたいのだけれど?」
「……は、はい、失礼いたします」
 明らかに納得はしていない様子で、男はしぶしぶと引き下がった。
 天幕から出て行く際、おれにむけて剣呑な視線を向けていたが、この流れで、おれに一体どうしろというのだ、おまえは。


「さて、話を続けましょうか」
 そういって、また眼鏡をくいっとあげる張梁さん。
 たしかにアイドルらしい華やかさはあるが、どちらかと言えば委員長とかマネージャーとか、そういったマネージングを担当する役割が相応しいように思える。
「……何か、失礼なことを考えていないかしら?」
「いえ、滅相もありません」
 きらりと鋭い眼光に、おれは平伏して許しを請うた。



 張梁の話を要約すると、おれに姉妹のマネージャーをしなさい、ということだった。
 なんでまた、おれにそんな話を持ち込むのか。希望者など掃いて捨てるほどいるだろうに。
 おれが疑問に思って訊いてみると、張梁曰く。
 たしかにいることはいるらしいが、どいつもこいつも下心満載な連中ばかりで、とてものこと、身辺に控えさせておくことはできない、とのこと。
 常日頃、アイドルとして注目されているからこそ、オフの時くらいはゆっくりしたいという気持ちは、わからないでもない。たしかに、人間、始終、気を張っているのは大変だしな。


 今の境遇から抜けられるという意味でも、張梁の提案は大きな好機であったが、問題がひとつ。
 おれにはマネージャーを務める技能も経験もない。そのあたりはどうしたものか。
 だが、張梁はただ一言。
「マネージャーといっても、単なる下働きだから。というより、召使いかしらね? 姉さんたちのわがままに、諾々と従ってくれれば、文句は言わないわ……私の代わりとしてね」
 最後の部分に見え隠れする人公将軍の本音。
 しかし、そこは聞こえなかったフリをするのが、空気を読める男というやつである。
 それにまあ、おれとしても、アイドルグループのお側付きというのは、興味あるし。少なくとも、今の強制労働を続けるよりは、よっぽどマシだろう。
 そんなわけで、おれは張梁の提案にうなずくことにした。
 張梁は、当然ね、と言わんばかりに小さくうなずくと、最初の命令を発した。
「とりあえず、身体を拭いてきなさい。臭うわよ」






 久方ぶりにさっぱりしたおれの顔を見て、張梁は少しだけ驚いた顔でつぶやいた。
「……あら、思ったより良い顔してるのね」
「え、何だ……もとい、何ですか?」
「何でもないわ。ほら、早く来なさい。姉さんたちが待っているわ」
 そう言う張梁に急かされ、おれは一際豪奢な部屋に連れてこられた。
 その中にいたのは、どこか張梁と似た面立ちの、2人の少女。
 その2人が誰であるのか。今更考える必要もないことであった。


「ふーん、君が新しいマネさんね。わたしが張角だよ、よろしくね」
 そういって、ほんわかと微笑む張角。
「ふふん、張梁が選ぶだけあって、なかなか良い男じゃない。うん、合格合格。あたしたちのために、きりきり働きなさいよ! あ、そうそう、あたしのことは張宝様、と呼ぶように。いいわね!」
 最初っからテンションの高い張宝。
 初対面ながら、いきなり相手の性格がわかってしまった気がするおれだった。
 そしてもうひとつわかったこと。
 張梁に聞いていた通り、彼女らにとって、黄巾党の党首や将軍というのは肩書きに過ぎず、その本質はアイドルグループであるということである。
 それも当然といえば当然のことで。
 3人のユニット『数え役萬☆しすたぁず』は、黄巾党が結成される以前から、アイドルグループとして活動していたのである。それが予期しない方向に発展してしまい、現在に至るわけだが、張角も張宝も、それもありかな、と受け入れてしまっているようだ。
 それで良いのか、と問いたいところだが、しがない奴隷改めマネージャーの身としては、そんなことを言えるはずもない。
 おれに出来るのは、これからよろしくお願いします、と頭を下げるのみであった。


 かくて、おれのマネージャー業の日々が始まりを告げる。
 だが、内心で、確か、おれって三国志の時代に来てるんだよな、なんでアイドルのマネージャーになってるんだ、と首をかしげていたこの時のおれは、知らなかった。
 アイドルのマネージャーというものが、ある意味、強制労働の時よりも心身を削る仕事だという、恐るべき真実を……
 
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 刀花邂逅(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/14 13:33
  
   
 
「一刀、疲れたー。お茶持ってきて。今すぐ」
 はいはい、ただいま。
「一刀! ぐずぐずしてないでついてきなさい! 今日は10の瓦版屋を回るんだからね!」
 申し訳ありません、すぐに! 
「このまえ預けたデータの洗い直し、終わったかしら。まだとは言わないわよね?」
 もちろんです! ここに!


 長い一日が終わり、床に倒れこんだおれは、冗談抜きで思った。 
 死ぬ。死んでしまう。何か大切なものが――魂とか、生気とか、そういったものが――口から出て行ってしまいそうだ。
 眠る暇もない過酷な労働の連続。強制労働の場合と違い、何をやれば良いのかわからないことも、疲労の一因となっていた。
 おれに与えられたマネージャー業とは、要するに張家姉妹の走り使いであった。パシリともいう。
 身の回りの世話をするのが侍女たちの仕事なら、おれの仕事は姉妹が命じる様々な雑務を片付けることだ。
 では、雑務とは、主に何を指すのか。


 1、張角のわがままの相手をすること。
 2、張宝の行動のフォローをしてまわること。
 3、張梁のマネージングに必要な種々のデータ集め、資料分析等を手伝うこと。


  張角は基本的にのんびりとした良い子なのだが、流石はアイドルというべきか、無自覚に人を扱き使う傾向が垣間見える。
 もっとも、内容もさることながら、にじみ出るアイドルオーラによって、そういった無理難題をごく当然のことと相手に思わせてしまうあたり、実に末恐ろしい少女だと言えた。   
 張宝に関してだが。
 張梁曰く、天性の扇動家である張宝は、行動力に溢れた活動家で、自分たちのユニットを売り出すことに全力を傾けていた。それは結構なことなのだが、張宝の行動力は往々にして適度や限度といった、度とは無縁に発揮されるため、おれは毎度毎度、そのフォローに回らなければならず、関係各所をかけずりまわる日々が続いている。
 そして、張梁はというと。
 そんなこんなで疲れ果てたおれの前に、種々の資料を山として置くと、明日までに統計を取りなさいとか、今日中にレポートにまとめなさいとか、無情な一言を残して去っていくのが常であった。


 かくて、おれの毎日は嵐のような忙しさと騒がしさと共に過ぎ去っていく。
 そんな日々に、内心、何やかやと不平をならしつつも、ふと今の日々を楽しんでいる自分に気づくことがある。
 今をときめくアイドルグループに携わっているという事実と、当のアイドルたちと日常的に接することができる幸運を思えば、確かに悲観した立場ではない。むしろ、戦乱におびえる人たちから見れば、羨望に値する仕事なのかもしれない。
 それに気づいてからは、より仕事に集中できるようになり、侍女の人たちとも、何かと打ち解けた話が出来るようになっていった。


 気がつけば。
 マネージャー業に就いてから、およそ1カ月が過ぎようとしていた。

 
  
 

 その日は、しすたぁずの活動がお休みだった。
 めずらしく、ゆっくり出来るかなあ、などと甘い夢を見ていたおれだったが、その夢は早々に砕け散る。
「一刀、今日は買い物に付き合ってねー」
 という張角の一言で。
 無論、拒否など出来るはずもなく、おれは荷物持ちという名のお供をすることになったのである。


 今いる冀州は、張角の出生地であり、当然のごとく黄巾の勢力も盛んであった。
 同時に、冀州は中華帝国にとって、政治的にも経済的にも重要な位置にあり、袁紹をはじめとした軍閥の力も強い。
 それゆえ、都市付近ではそれなりに治安が保たれており、賊徒である張角は顔を隠して入城しなければならなかった。
 黄巾党の党首である張角の顔を知る者は多い。それでなくても、張角の容姿は目立つことこの上ないのである。しかして、本人にはあんまりその自覚がない。アイドルという職業上、変装には慣れているようだが、根本的に周囲への警戒心が欠けている。
 それにお供するおれの気苦労や、推して知るべしである。ましてや、お供がおれ1人とくればなおさらであった。
 これには、張梁だけでなく、ほかの黄巾の連中も反対したのだが、張角が押し通してしまったのである。おれを買って、というより、ぞろぞろと引き連れて歩き回るのが嫌だったのだろうと思われる。


「あれと、これと、うーん、あ、それも全部くださいな♪」
 都内でも指折りの服飾店で、そんなことをのたまう党首様。あ、店長、呆然としてるし。
 まあ、当然といえば当然か。一般の民衆なら、1年は暮らせるような額の買い物を、一見さんがしているのだから。
「ま、毎度ありがとうございます。その、お支払いの方は、どのようになさるおつもりでしょうか?」
「一刀~」
「はいはい、えーと、これで」
 こっそり差し出される大量の財貨。目を見張る店長は、震える手で金を数えはじめる。
 しばらく後、店長は信じられない、とでも言いたげにつぶやいた。
「は、はい、確かに」
 店長の視線が、目的の物が買えて、満面の笑みを浮かべている張角に向けられる。
 顔は不自然ではない程度に隠れているが、これだけ近くで見れば、類まれな美少女であることは誰の目にも明らかである。
 おまけに、これだけの買い物が出来る客とくれば、興味を持つなという方が無理であった。
 何事か言いかけた店長に、おれはやや強い口調で、品物をまとめるように促す。こんなところで張角の正体がばれてしまえば、冗談抜きで命が危ない。余計な興味は遮断しておかねば。
「か、かしこまりました!」
 そういって、店長はあたふたと店の奥に消えていく。やがて、店長は妻らしき女性をともなって現れると、手早く買った品物を包装していった。
 さて、荷物をもらったら、早いところ戻らなければな。そう思いながら、おれは荷物持ちの役割を果たすべく、店長から渡された品物を背負い上げたのである。


  
 そうして……気がつけば、日が傾いていた。
「あー、たくさん買えてよかったね、一刀」
「は、はい、そうですね……」
 まだまだいけます、と言わんばかりに元気な張角。対照的に、げっそりと頬がこけたおれ。
 く、友人から、買い物に対する女の子の行動力のすさまじさを聞いてはいたが、まさかこれほどとは!
 最初のうちこそ、張角のような美少女とお忍びで街中を歩くことにちょっと浮ついた気分でいたが、訪問した店舗が4つを過ぎたあたりから、おれの気力は下降の一途を辿り、いまや地面に潜っている状態である。
 両手と背に負った戦利品が、ここに至るまでのおれの苦闘を如実に示してくれていると思う。
「じゃあ一刀、次いってみようか」
「ええ?!」
 張角の一言に、思わず叫ぶおれ。
 だが、張角はそんなおれを楽しそうに見ながら、小さく舌を出して言った。
「と、言いたいところだけど、そろそろ帰ろうか。人和(れんほう)も、おかんむりだろうしね」
「そ、それがよろしいかと……」
 ほっと胸をなでおろすおれに、張角はくすくすと微笑んだ。


 ちなみに、人和とは、張梁の真名(まな)である。
 この時代、名前には姓と名、そして字(あざな)があったのは、良く知られているところだ。
 たとえば劉備であれば、姓は劉、名は備、字は玄徳、という感じである。
 だが、この世界にはおれが知らなかったもうひとつの名前があった。
 それが真名。その人物が、真に心を許した者にのみ、呼ぶことを許すという、なんとも雅な風習である。
 なお、この真名を本人の許しなく呼ぶことは、問答無用で斬られても文句は言えないくらいに礼を失した行いにあたるそうだ。
 この風習に慣れていないおれは、特に気をつけなければならない。漢民族は礼を重んじる民。ついうっかり、ですむ問題ではないのだから。


 もっとも、張角や張宝、それに張梁にしてもアイドルという職業上、ファンの人々は遠慮なく真名で呼びかけているし、張角たちもそれを気にすることはないから、このあたりは微妙な呼吸があるものらしい。
 それにプライベートにおいて、姉妹を真名で呼ぶのは、お互いくらいなものである。
 ちなみに張角は天和(てんほう)、張宝は地和(ちーほう)という真名を持つ。
 なるほど、それで天公、地公、人公になったのだな、と納得したのは少し前のお話だった。



「待ちな!」
 考えこむおれの耳に、荒々しい呼びかけが飛び込んできたのは、城門を潜って少し歩いた頃であった。
 城門は日の入りと共に閉じられるため、あたりにはほとんど人影はない。
 おれたちの前に立ちはだかったのは、いかにも盗賊然とした格好の男たちが3人。
「ずいぶんと、懐が豊かみたいじゃねえか。おれたちにも、少しわけてくれよ」
「そうそう。それに、そんな美人は、おまえみたいな小僧にゃもったいねえ。なあ、兄弟」
「まったくだ。世の中にゃあ、釣り合いってもんがあるからな」
 そういいながらも、男たちはすでにそれぞれ武器を抜き放ち、これみよがしにおれの前にちらつかせている。
 武器を持った大人が3人。しかも、見るからに人相が悪く、おそらくこういった行為に慣れている手合いであろうと思われた。
 正直、かなりやばい状況である。おれも念のため、腰に剣を差してはいたが、3人を同時に相手どることなど出来るはずもない。
 だが、それにも関わらず、おれは落ち着いていた。というのも、3人の頭に黄色い布が巻かれていたからである。党首に刃を向けていることに気づいていないのであろうが、変装を解いて張角の顔を見れば、たちまち退散することだろう。それが、おれの余裕の源であった。


 だが。
「あなた達なんかが、私と釣り合いがとれると思ってるんですか?」
 そういって、おれの腕を抱え込む張角。腕に感じる柔らかさに、おれの顔が一瞬で真っ赤になる。
「それに、この人はすっごく強いんですから。あなた達なんか、こてんぱんにのされちゃいますよ!」
 って、え、え?? あの、もしかして張角様。喧嘩売ってませんか?
「なんだと、このアマ!」
「そんなほそっこいガキに、おれたちが負けるとでもいうのか!」
「はん、てめえの目の前で、恋人をたたき殺してやるよ!」
 そして、良い感じで激昂する盗賊の皆様。
 うわあ、目を血走らせてるよ。殺る気満々ですね。あと、恋人じゃないです。
「一刀、がんばって~♪」
 そして、いつのまにやら安全な後方へと下がり、おれに声援を送る張角。
 待て待て。張角が正体を明かせば済む話でしょうが?!
 だが、おれがそれを言う間もあらばこそ。
 盗賊たちは一斉におれに向かってきやがった。こうなれば、おれも剣を抜かざるをえない。
 仕方なく覚悟を決めながら、おれは心中、ひそかに張角に向かってつぶやいていた。
 コノアマ、イツカヤッテヤル……




 結果だけを言えば、おれはなんとか盗賊たちを追い返すことに成功した。
 もっとも、本拠に戻ってきたおれたちの前には、党首の帰りをいまや遅しと待ち構えていた人たちが、てぐすねひいて待っていた。
「で、こんな泥だらけになって帰ってきた、と?」
 心底あきれ果てたような張梁の眼差しが、傷ついた心身に一際沁みる。
「ずーるーいーー! 姉さんと一刀ばっかりお買い物を楽しんでたなんてーー!!」
 心底憤ったような張宝の叫びが、疲労した心身に一際堪える。
 いや、どっちも、おれより張角の方に責任があると思うんだけど、気のせいかしら。
 だが、当の張角はそ知らぬ顔で、おれの手当てを続けるばかり。おれを弁護する気はさらさらないらしい。
 ちなみに、驚いたことに、張角の手当ては堂に入ったものだった。そういえば、太平道は病気や怪我の治療も行っていたっけか。党首である張角が、その方面に長けていても不思議はないのかもしれない。
 とはいえ、そもそもの原因は張角なわけで、感謝するには複雑なものがあったりするのだが。一体、何だってあんなことをしたんだ、張角の奴は。


 そのおれの疑問は、次の張梁の台詞であっさりと答えが出た。
「姉さんも、一刀のことを認めさせるためとはいえ、こんな危険なことをしないで下さい。もし、一刀が負けていたら、どうなったかわからないんですから」
 へ?
「……気づいてなかったの? あなたのことを悪く言っている人たちは少なくなかったのだけど。良いのは顔だけだとか、腰巾着とか、それはもういろいろなバリエーションの讒言が届いてるのよ」
 マジデスカ。いや、素で気づかなかったな。とはいえ、おれのような新参が、党首の傍近くに仕えていれば、古くからいる部下たちが不満に思うのも当然か。自分のことにかまけてばかりで、ちっとも思い至らなかった。
 もっとも、マネージャー役なんて、のぞめばいつでも代わってやるのだが。
「そんなことは、私たちが認めません。盗賊まがいの大男どもに、始終近くをうろつかれたら、たまったものじゃないわ」
 張梁の言葉に、この時ばかりは張宝も同意する。
「そうそう。まあ、最近はようやく一刀も使い物になるようになってきたしね」
 それはどうもです。
 あれ、ということはもしかして、今日のことは?
「ふふ、たまたま、偶然ですよ」
 ようやく、会話に加わる張角。
 いつもと同じ、裏表の感じられない、ホケッとした声なのだが。
 おれの視線を受けて、張角は小首を傾げ、にこにこと微笑んでいる。
 あるいは、おれは大きな勘違いをしていたのかもしれない。おれはふとそんなことを思った。



 だが、物思いにふけることができたのは、ここまでだった。
「一刀、明日はあたしに付き合いなさいよ!」
 決め付ける張宝。いえ、おれ怪我してるんですけど?!
「そんなの、気合で直しなさい! 明日はあたしに付き合うこと! 良いわね!」
 うう、了解いたしました……
 うな垂れるおれに、隣の張梁がとどめの一言。  
「それはかまわないけど、昨日渡した資料、明日までに完成させなさいよ?」
 ……あ゛
「あはは、一刀も大変だね~」
 我関せずと朗らかに笑う張角。


 3姉妹にいい様に扱き使われる日々は、これからも当分続くようだった……

  

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 刀花邂逅(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/14 13:33


 桃花咲き誇る園の中。
 向かい合う3人の乙女は、それぞれの武器を天に掲げる。
「劉玄徳が、ここに誓う」
 中山靖王の血筋を伝える宝剣「靖王伝家」を掲げた乙女――劉玄徳が高らかに謳う。
「関雲長が、ここに誓う!」
 自身の身長を越える青龍刀を天に突きつけた乙女――関雲長が覇気をあらわに告げる。
「張益徳が、ここに誓う!」
 幼い身体に不似合いなまでに巨大な蛇矛を軽々と抱えた乙女――張益徳が澄んだ声で叫ぶ。


 我ら三人、姓は違えど、ここに姉妹の契りを結びしからは
 心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん
 上は国家に報い
 下は民を安んぜん
 同年、同月、同日に生まれることを得ずとも
 願わくば同年、同月、同日に死せん事を
 皇天后土、照覧あれ
 我ら、この誓いを破りて、義に背き、恩を忘れることあらば
 天、人、共に我らの命を奪い給え



 
「えへへー、なんか格好良いのだー」
 叫び終わった張飛が、両手を頭の後ろで組みながら、にこやかに笑う。
「茶化すな、鈴々。今この時から、我らの本当の戦いが始まるのだぞ」
「そのくらい分かっているのだ。そんなことより、桃香お姉ちゃん、もうご馳走食べても良い?」
「そんなこと、とは何だ、そんなこととは! 鈴々、おまえ、この誓いがどれだけ重要なものかがわかっていないのか?!」
「だからー、わかっているって言っているのだ。愛紗は真面目すぎるのだ。はじめっから、そんなこちこちに固くなってたら、出来るものも出来なくなってしまうぞ。戦うべき時は戦い、休むべき時は休み、食べるべき時は食べるのが、成功の秘訣なのだ」
「……むむ、鈴々にしては、まともな意見だな」
「そう簡擁さんが言ってたのだ」
 張飛が同志の名前を挙げると、関羽はまなじりを吊り上げ、さらに説教をしようとするが、この場にいたもう1人の人物が、慌てたように関羽を止めた。
「ほらほら、愛紗も、かっかしないで。今日は、私たちにとって記念すべき日なんだから。最初っから仲違いしてたら、漢王朝の復興なんて、夢のまた夢だよ」
「玄徳殿、あ、いや、姉者。鈴々を甘やかすと、ろくなことにならないんですよ。きちっと言って聞かせておかないと、またどんな失敗をやらかすやらわかりません。ここは、姉者からも言って聞かせて……って、鈴々、何をやっている?!」
 ぱくぱくむしゃむしゃ、と桃園に並べられていたご馳走にかじりついていた鈴々は、愛紗の声に顔をあげると、口許を果汁で汚したまま、あっけらかんと口を開いた。
「愛紗、食べないのなら、鈴々がみんな食べちゃうぞー。さすがは桃香お姉ちゃんの母者。めちゃくちゃ美味しいのだ♪」
「あ、母さんが聞いたら喜ぶよ、鈴々」
「母者が喜ぶなら、鈴々もうれしいのだ……あ!」
 そういった張飛は、何事かに気づいたように、勢い良く立ち上がった。
「どうしたの、鈴々?」
「桃香お姉ちゃんが、鈴々のお姉ちゃんになったということは、お姉ちゃんの母者は、鈴々の母者なのだ! ここに来てもらって、一緒に食べるのだ!」
 言うやいなや、風のように張飛の姿は掻き消えていた。
 一陣の疾風が、母屋に向かって一直線に進んでいくのを見送る2人の少女は、顔を見合わせた。
 1人は深々とため息を吐きながら、仕方ないな、と言うように首を振り。
 もう1人は、楽しげな笑みを浮かべながら、張飛の行動に深い思いやりを感じ取っていた。


 関羽は、ゆっくりと口を開いた。
「たしかに姉者や鈴々の言うとおりかもしれませんな。今日くらいは、心行くまで酔い、明日から始まる戦いの為に英気を養うとしましょうか」
「うん、そうしようよ、愛紗。そうだ、簡擁さんや、ほかのみんなも呼んでこよう。私たち義勇軍の、記念すべき始まりの日なんだから、みんなでお祝いしないとね!」
「それは良案。では、それがしが皆に伝えてまいりましょう」
「うん、お願いね」


 承知つかまつった、と応えた愛紗が歩み去っていく姿を見送ると、劉備は桃園に1人たたずみながら、空を仰ぎ見た。
 雲ひとつない蒼穹。澄み渡った空は、劉備たちの旅立ちを祝福するかのように晴れやかで、陽光は燦々と大地に降り注ぐ。
 腰に差した宝刀の柄を握る手が、かすかに震えていることを、劉備は自覚していた。
 戦いが始まるのだ。
 靖王伝家の剣を持ち、漢王朝を復興させ、人々が笑顔で暮らせる世の中を取り戻すための戦い。
 それは、正義の為の戦いだ。
 けれど、戦いは所詮、戦い。人を斬る。殺す。その家族を泣かせる。恨まれる。
 どれだけ崇高な理念があろうとも、血と涙が流れる理は変えられない。それを思えば、総身に震えが走るのを止めることはできなかった。
 けれど。
「でも、黙って見ているだけなんて、絶対できない」
 言葉を発することで、劉備は決意を新たに据え直す。
 こんな女々しいことを言うのも、思うのも、今日で最後。
 共に重荷を背負ってくれる妹たちのために。こんな自分についてきてくれる人たちのために。
 何よりも、乱世に喘ぎ、平和を望む多くの人々のために。


「力のない人たちを苛める世の中を、私がぜーったいに変えてみせるんだから!」


 少女の決意の声が、桃園の中に木霊する。
 その誓いに応えるように、桃の木々たちが、しずかにその葉を揺らして、少女に餞を送っていた。




 
  
 
   
 桃園の誓いによって、名実ともに動き始めた劉備軍。
 近隣の住民たちに参加を呼びかけて集まった兵力はおよそ100。
 勇ましく義勇軍と名乗ったものの、今はまだ、吹けば飛ぶような小さな力に過ぎない。
 だが、兵力は小なりとはいえ、それを率いるは関羽と張飛という2人の猛将であり、徳望高い劉備がその上に座すこの軍が秘める力は、誰にも予測できないものだった。
 もっとも、それは劉備たちを良く知る者たちから見た話。あんな女子供が集まったところで何が出来るものか、と軽視する者も、この時期、少なくなかった。あるいは、劉備たちが仮に男であれば、集まった兵力は、今の数倍に達したかもしれない。


 今後の方針を話し合う場で、最初に発言したのは簡擁であった。
「なにはともあれ、まずは資金を得ねばなりませんな」
 額から流れる汗を拭きつつ、簡擁は理念を追い求めがちな劉備たちに、現実を示してみせる。
 義勇軍内において、主である劉備を武で支えるのは関羽と張飛であるとすれば、文で支えるのが、この簡擁であった。
 元々、劉備とは旧くからの付き合いで、劉備を真名で呼ぶ許しももらっているほどに信頼厚い人物であった。
「資金だったら、鈴々に名案があるのだ!」
 関羽が驚いたように張飛に目を向ける。
「ほほう、名案、とな。どうするつもりなのだ?」
「そこらへんにいる黄巾賊をやっつけて、あいつらの持ってるものを奪っちゃえば良いのだ! 突撃! 粉砕! 勝利なのだ!」 
「……鈴々、名案の意味がわかっているのだろうな?」
「もちろん! 愛紗は反対なのか?」
「反対も何も、戦うための資金が不足しているというのに、どうやって戦えというの! もう少し考えてから物を言いなさい!」
「うー、でも、愛紗と鈴々がいれば、盗賊くらい、簡単にやっつけられるのだ」
 不満げに頬をふくらませる張飛。その言い分は間違っているわけではなかったが、関羽はきっぱりと首を横に振った。
「確かに、このあたりに跋扈する夜盗どもなら、私たちだけで十分だ。だが、それでは兵たちが育たぬし、軍としての力もつけられん。今後、我らが相手とするのは、夜盗どもばかりではない。事と次第によっては、正規軍と刃を交えるような事態にだってなるかもしれんのだぞ。私や鈴々の力など、所詮個人の武に過ぎぬ。いつまでも、そんなものを当てにして戦っているようでは、我らの誓いは、いつまで経ってもかなえることができないだろう」
「でもでも、今回だけなら……」
「皆で知恵を絞り、それでも万策尽きて、打つ手がないとなったら仕方ないが、今の段階ではまだ駄目だ。安易に将の力を頼りにするような軍が、軍としての力を発揮できるはずもない」
 関羽の言葉に、張飛は不満げではあるが、それ以上、抗弁することはしなかった。


 張飛の案は据え置きとなったが、しかし関羽や劉備にもこれといった名案があるわけではない。
 関羽は武人として、銭を愛さずという潔癖感を持っていたし、劉備は筵織りをして行商していた経験こそあるが、商いに長けていたわけではないし、豪商たちの支持を取り付けられるような弁舌の才能を持っているわけでもなかった。
「憲和(簡擁の字)、何か案はないの?」
「むう、実は、それがしも張飛殿の案が最良ではないかと……あ、いやいや、決して張飛殿や関羽殿に頼ろうというわけではなくて、ですな」
 関羽に鋭い視線を向けられ、簡擁は慌てて説明する。


 つまるところ、劉備軍に対する信頼の念が、まだまだ足りていないことが原因となっているのである。
 通常、小規模の義勇軍は、土地の太守や豪商といった有力者の援助を受けるか、住民たちの支持を得て、彼らから資金を供出してもらうか、あるいは略奪に走るかして、何とか資金を捻出している。
 3つ目は論外として、1つ目、あるいは2つ目の案を実行するために不可欠なものが、今の劉備軍には決定的に不足していた。
 つまり、実績である。  
 この軍にならば、金を投じても良い、と思わせるだけの成果をあげて見せないことには、他者からの援助を受けることは難しい。
 土地の有力者の援助を受けるための伝手もない以上、まずは派手な勝利を挙げて、衆目を引き寄せることが求められた。
 その点、この軍には関羽と張飛という2大猛将がいるし、主も見目麗しい少女であるため、勝利による効果は抜群であろうと考えられるのである。


 簡擁の説明はもっともであり、関羽は頷いて引き下がった。
 その関羽に、張飛がふふんと胸を張ってみせる。
「結局、鈴々の言うとおりなのだ」
「威張るな。簡擁殿のお考えを理解していたわけではないのだろう?」
「もちろん、そんなことこれっぽっちも考えていなかったよ!」
「だから、なぜそこで胸を張るんだ、お前は……」
 じゃれあうような2人の会話を聞きながら、劉備は、うーん、と考え込む。
 関羽の言うことももっともだが、今、優先すべきは簡擁の言だろう。資金がなければ、武具も整えられず、軍馬も買えず、糧食も集められないのだから。
 それに、民衆の平穏を乱す賊徒を討つのは、決起の目的に叶うものだった。


「うん、じゃあ……戦おう。憲和、このあたりで1番近い賊軍はどこ?」
「先日、西方の村落が賊軍に襲撃されたと聞きました。規模自体は小さいですが、襲撃と離脱を繰り返し、太守も鎮圧に手を焼いているとのこと。叩くとすれば、これが良い、と思うのですが……」
「ん、何か気になることがあるの?」
「はい。賊軍の動きが、かなり計算されているように思われるのです。あるいは、小規模というのは見せ掛けなのかもしれません。討伐軍が来るのを待ち構えているのかもしれんのです」
 そこまで高度に組織された賊軍、と聞けば、出てくる答えは1つだけだ。
「黄巾族の、本隊?」
 劉備の問いに、簡擁は小さく頷く。
「あるいは、それがしの考えすぎかもしれません。しかし、先日、州都で黄巾の党首を見た、という者の話も伝わってきておりまして。その時はデマだと思ったのですが、西の話と併せて考えるに、あるいは……」
「黄巾賊の首魁が、じきじきに近くまで来ているかもしれないんだね?」
「御意」
 それがまことであるならば、千載一遇の好機であるかもしれない。
 劉備はそう考えたのである。


 邂逅の時は、もう、すぐそこまで来ていた……

 
 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 刀花邂逅(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/14 13:45


 しすたぁずのステージが続いている間は、おれの数少ない休息時間である。
 舞台の進行やら、衣装の変更やらはちゃんと専門の人がいるから、素人が口を出す隙はない。
 だから、おれはふと足を外に向けたのである。
 特に深い理由はなかったが、あるいは、無意識のうちに引け目を覚えていたのかもしれない。今の自分の生活が、黄巾党の略奪の上に成り立っているという事実から、目を逸らし続けていることに。


 振り下ろされる鞭。倒れふす男の姿。
 それは、かつての自分の姿を髣髴とさせた。そして、そんな酷虐な状況の周囲には、生きる希望を失い、うつろな顔をした奴隷たちの姿があった。おれがいた頃と、何一つ変わらない――いや、周囲の人々を見れば、確実に悪化している状況を目の当たりにして、おれはしばし呆然とする。
「おお、これはこれは。3姉妹のお気に入りマネージャー殿ではありませんか」
 そんなおれに、横からわざとらしい声がかけられる。
 振り返ってみれば、いつぞやの監督役の男であった。一ヶ月以上、顔を見ることはなかったが、下卑た顔つきは相変わらずだ。
「このようなところに、わざわざ足を運ぶとは、どういったご用向きですかな? かつての自分と同じ境遇の者どもを哀れみに来られたのか。あるいは、笑いに来られたのか?」
 こちらを挑発する意図があるのは明らかな言葉だったが、あやうくおれはそれに乗せられそうになってしまった。張角たちの傍に仕えているとはいえ、おれが黄巾党の中で地位を得たわけではない。下手に現場に口を出せば、また奴隷に戻されてしまうだろう。
 目の前の男は、おれの性格を覚えている。そこを衝こうとしたのだろうが、その手に乗るか。


 だが、おれがそっけなく対応すると、男はさも満足そうに何度もうなずいてみせた。
「なるほど、なるほど。せっかく奴隷の身から解放され、将軍たちの傍近く仕えることが出来る立場を手に入れたのに、またそれを失ってはたまったものではないでしょうからな。かつての自分と同じ立場の者のことなど、構っている暇はありませぬよなあ」
 耳障りな、嫌らしい笑い声があたりに響き渡る。
 ぐ、と言葉に詰まるおれの姿を見て、男の笑い声はさらに高くなる。
 結局。
 おれは、すごすごとその場から退散するしかなかった。
 胸中から様々な言い訳が湧いて出てくる。おれでは彼らを助けられない。強いてそうしようとすれば、おれは奴隷に戻され、彼らを救うための手段を探すことさえ出来なくなってしまう。そうだ、張梁に頼めば、あるいは助けてくれるかもしれないなど等。
 だが、誰に言われるまでもなく、おれ自身が知っていた。単に、おれに意気地がないだけなのだということを。この世界に来たばかりの頃、当たり前のように出来ていたことが、今のおれには出来ない。
 あの男を蔑む資格など、おれにはない。強いられて働かされている人たちにしてみれば、今のおれは、あの男と大差ない奴にしか見えないだろう。
「何をやってるんだろうな、おれは……」
 おれの呟きは、客席から響く、観客たちの歓声にかき消されるくらいに小さく。
 けれど、その問いかけは、いつまで経っても、おれの中から消えることはなかった。



 人間、どんなことにも慣れることはできるらしい。
 そんなわけで、マネージャー業に慣れてきたおれは、密かに黄巾党の内部を調べることにした。といっても、別に機密文書を探すとか、兵力配置を確認するとか言うことではない。
 現在、黄巾党が、大陸各地で勢力を広げ、多くの惨禍を招いているのは事実である。一方で、党首であり将軍でもある張家の姉妹は、おれが見る限り、ほとんどアイドル活動に専念しているように見えるのだ。
 であれば、おそらくそちら方面は、別の人間が指揮を執っているに違いない。おれはそう考えたのである。
 そして、そういう視点を得て、黄巾党の内部を見回せば、これまでは気づかなかった様々な流れも見えてくる。
 一応、軍事の報告も姉妹のところに回ってくるのだが、決まって張梁がいない時だということ。
 時に張角にお菓子やら衣装やらを渡しながら。
 時に張宝に小難しい台詞を並べ立て、煙に巻きながら。
 彼らは将軍たちの許可を得て、独自に動く権限を得ているのであった。
 彼ら――波才、張曼成、程遠志ら、黄巾党の実戦部隊を率いる連中こそが、黄巾の乱の実質的な首謀者なのだと考えられた。


 もっとも、それがわかったところで、おれに出来ることは何もない。
 妙な動きを見せれば、たちまちの内に斬られることになるだろう。
 というのも、男のおれが、張家の姉妹の傍近くに仕えていることは、この姉妹を利用しようとしている者たちにとって歓迎すべきことではないからである。
 たかがマネージャーとはいえ、党首の一言があれば、軍を率いる立場になることさえ出来るのだから、彼らも気が気ではないのだろう。
 もっとも、張角たちがおれを頼るとしても、それはあくまでマネージャーとしてであり、間違っても軍事的な方面に関することではない。それは明らかだが、遠方にいる有力者たちは、勝手におれの影を大きくしてしまっているらしい。否、大きくなる前に、消してしまおうとしているのかもしれない。最近は、妙な視線を感じることも少なくなかったりするのだ。
 なぜそんなことがわかるかといえば、剣術の稽古の時、爺ちゃんや親父から「必殺」とか「必滅」とか、そういった類の意思を毎回のようにぶつけられていたからである。
 子や孫に、毎回、命の危機を覚えさせる家族というのもどうかと思うが、それはまた別の話。


 つまるところ、このまま漫然と過ごしていては、遠からず不幸が訪れるということである。
 それに、仮にこれをうまいこと乗り越えたとしても、黄巾党自体が、いずれ討伐されることに変わりはないだろう。
 盧植や皇甫崇ら朝廷の戦力が動き出す前に、黄巾党から抜け出さないと、滅亡に巻き込まれてしまいかねない。もっとも、これに関しては、おれの知る歴史とはだいぶ異なるようだから、あるいは別の結果が出るのかもしれないとは思う。
 しかし、民衆を救うという名目を抱えながら、その民衆を虐げるやり方が、いつまでも通用するとは思えなかった。そう考えると、張角たちも、いずれ史実どおりの運命を辿ることになってしまう。世話になった恩もあるし、あんな可愛い子たちが悲惨な運命を辿るところなど見たくはない。何とかしたいところだが、まさかアイドルグループやめて、とも言えないしなあ……張梁に、それとなく伝えて注意を促しておくしかないか。張梁なら、冷静に状況を見極めて、手遅れになる前に逃げ出すこともできるだろう。


 さて、そうと決まれば、あとは行動あるのみである。
 そう思った途端、不思議なくらい身体が軽くなったような気がした。明確に意識していたわけではなかったが、やはり今の状況は、色々な意味で、おれの心身に負担をかけていたのかもしれない。
 問題は、どう行動するかである。
 奴隷たちを解放するという目的のためには、具体的にどういう方法を採るべきだろうか。
 ただ逃がすだけでは、またすぐに捕まってしまうだろうし、脱走者には厳罰が下されるわけだから、事態をより悪化させるだけに終わるだろう。
 1番良いのは、この地の領主に保護してもらうことだ。確か、この時期、幽州の太守は劉焉であったはず。ぬ、あれは演義の創作だったっけ? 官匪、などという言葉があるくらいだから、朝廷の者だからと無条件に信じるのは危険だ。黄巾党という前門の虎から逃がし、官匪という後門の狼に差し出してしまったら目も当てられない。
 実際、おれは張梁の使いで何度かその手の役人と会ったことはある。もちろん、黄巾党です、なんて名乗らずに、だが、正直、いけ好かない連中が大半だった。露骨に賄賂とか要求してきやがったし。
「むむ、そうすると、手詰まりになっちまうな」
 あれも危険、これも危険と考えていると、結局、何も出来なくなってしまいかねない。
 今日、明日に結論を出さなければいけないわけではないが、1ヵ月2ヶ月と余裕があるわけでもない。なるべく早めに方策を探らねばならないだろう。


 心中密かにそう考えるおれ。
 それが急転直下、それから3日と経たないうちに行動を起こす羽目になるとは、流石に予想だにしていなかった。





 


 切っ掛けは、単純といえば単純なことだった。
 後日のために、と人目につかないように周囲の様子を探っていたおれの耳に、奴隷のものとおぼしき悲鳴が聞こえてきたのである。
 本来であれば、後日のために、歯を食いしばって聞こえなかったフリをするべきであった。
 だが、おれは即座に地を蹴って、悲鳴が聞こえてきた方に駆けつける。
 聞こえてきた声は、どう聞いても、年端もいかない少女のものだったからである。


「何をしているッ?!」
 その場に駆けつけたおれが見たものは、2人の少女であった。
 2人とも、おれよりずっと年下に見える。元の世界でいえば、おそらく小学校高学年くらいではなかろうか。
 1人は肩よりやや上のあたりで髪を切りそろえ、もう1人は頭の後ろで結わえた髪が腰まで伸びるほどに長い髪の持ち主であった。
 前者は地面にうずくまり、後者はその少女に寄り添い、更なる恥辱から友人を庇うために、両手を広げて身を挺している。
 そして、彼女らの前に仁王立ちしているのは、もう見慣れてしまった、あの監督役の男だった。
 言い訳させてもらうと。
 様子を見なければ、という理性はおれにもあった。
 だが、男に殴打されたとおぼしき少女が顔を上げたのを見たとき。
 その頬に走った無残な傷を見たとき。
 おれの中の理性は、陽光を浴びた薄氷のように、あっさりと消え去り、


 気がついた時には、おれは少女たちと男の間に立ちふさがっていた。  
 
 


「あ、あの……」
 怯えた様子もあらわに、長い髪の少女が口を開く。
 だが、その小さな声を掻き消すように、憎憎しげな男の罵声があたりに響き渡った。
「おら、また邪魔するのか、てめえ! いい加減にしねえと、ぶっ殺すぞ!!」
 歪んだ楽しみを邪魔された憤りもあらわに、男は居丈高に吠え立てる。
 だが。
「……それはこっちの台詞だ、たわけ」
 おれは無造作に。そして躊躇なく、腰に差していた剣を、鞘ごと抜き放つと、その勢いのままに男の顔面を殴打する。鼻と唇の間。鍛えようもない、人体の急所を、手加減抜きで。
「ぐああッ?!」
 もんどりうって、地面に倒れる男。
 言い訳のしようもない、明確な反逆行為に、周囲の空気が凍りついた。



 だが、おれはそれを気にもかけず、振り返って2人の少女に向き直った。
「大丈夫か……って、大丈夫なわけないよな。立てるかい?」
 おれの言葉に、呆然としてこちらを見上げていた2人の少女は我に返ったようだ。
「は、はわわ、だい、大丈夫です、立てます、はい」
 傷つけられた少女は、そう言うと、慌てて立ち上がる。
 その少女を、心配そうに見つめるもう1人の少女。
「しゅ、朱里ちゃん、平気なの?」
「う、うん、平気だよ、雛里ちゃん。雛里ちゃんこそ、大丈夫だった?」
「うん、私は、その、何にもされなかったし……って、あわわ、ご、ごめんなさい、私、お礼も言わずに!」
 長い髪の少女――雛里、というらしい。真名かもしれないので、本人に向かって名前は呼ばないでおく――は、おれに向き直ると、慌てたようにぺこぺこと頭を下げてくる。目深なつば付き帽子が、動きにあわせてひょこひょこと揺れていた。
 もう一方の少女――こちらは朱里というらしい。以下同文――も、友人にあわせて頭を下げてくる。
「礼には及ばないよ。立てるようなら、早いところ、ここから逃げ出した方が良い。親御さんはいる?」
 おれの質問に答えたのは、朱里の方だった。
「い、いえ、私たち、旅の途中で、黄巾党の人たちに捕まっちゃって、ここまで連れてこられたので、ここがどのあたりなのかも、わからなくて……」
 隣では、雛里がうんうんとうなずいている。
 どうやらこの2人、おれと同じ立場らしい。とはいえ、はっきり言って、今はおれ自身、大ピンチの真っ最中。申し訳ないが、一緒に行動すると、この子たちまで危険な目に遭わせてしまうだろう。
 それに、周囲の人間たちも、ようやく自失から立ち直り、剣呑な空気が漂ってきつつある。急いで、この子たちをここから去らせねばならなかった。
「じゃあ、これを持って、急いでここから逃げなさい」
 そういって、手持ちの全財産を銭入れごと朱里に渡す。正直、最低限、自分の分は残しておきたかったが……この状況で、その行動をとると、色々と台無しなような気がしたので止めておいた。たまには、こんな正義の味方みたいな役回りをするのも良いだろう。
 だって、一生に一回、あるかないかだしね。


『あの、でも、あの……』
 2人して、はわわあわわと慌てる少女たち。
 なんか和む光景だが、さすがにもうタイムリミットだ。
 というか、ひょっとして……
 おれがあたりを見回すと、2人もつられて、同じ動作をする。
 おれが倒した男は、まだ地面でうめいているだけだが、監督役、見張り役は当然、他にもいる。
 いつのまにか、おれたちの周囲は、そういった連中で囲まれつつあった。
「……あのー」
 朱里が心細げに声をかけてくる。
 努めて冷静を装いながら、おれはそれに応える。
「なんだい?」
「ひょっとして、もう手遅れですか……?」
 否定してほしい、という気持ちがありありと伝わってくる言い方だった。
 隣の雛里も、口こそ開かなかったが、朱里と同じ眼差しをおれに向けてくる。
「……ああ、その、なんだ。心配するな?」
「はわわ、さ、最後が疑問系になってますよ?!」
「大丈夫大丈夫。うん、きっと。多分。おそらくは……」
「あわわ、ど、どんどん確信が薄れていってます?!」
 うむ、ごめん。ぶっちゃけ、四面楚歌です。
 というか、今更だが、さっさとこの場を逃げ出してから、話をすれば良かったな。
 いくら3姉妹の傍仕えとはいえ、実際に手を出してしまった以上、この連中が手加減をしてくれるとも思えない。この少女たちとて、命をとられることはなかろうが、死んだ方がまし、という状態があることも、おれは知っている。
「さて」
 呟くと、剣の鞘を払う。
 護衛役を兼ねる場合もあるため、稽古は欠かしていないが、実際に人を斬ったことはない。だが、おれが爺ちゃんや親父から教わったのは、剣道ではなく、剣術。剣の道ではなく、術。


 爺ちゃんは言っていた。
 古来より、剣とは力に過ぎなかった。剣術とはそのための技術であり、心構え。力をどのように振るうかは、そのもち手の心根次第なのだ、と。


 親父は言っていた。
 現代において、人を斬り殺すのは犯罪である。だが、剣に拠らずとも、人は人を傷つけ、殺めている。そんなニュースが、毎日のように流れているではないか。そんな時代だからこそ、覚悟を持っておくことは無意味ではないのだ、と。


 2人に、心からの感謝を。
 今このとき、おれの心に迷いはなく、その手は震えていない。
 それが実績のない人間の虚勢ゆえだとしても、今はそれで良い。
 年端もいかない2人の少女を危難から遠ざけるために、戦うこと。男であれば、誰もが一度はあこがれるようなこの場面で、見苦しく狼狽しないでいられるのは、爺ちゃんたちのお陰だ。
「おれが前に動いたら、後ろについてきて。包囲を一気に破るよ」
 おれは後ろを見ずに声をかける。
 正直なところ、返答は期待していなかったのだが。
『はい!』
 2人は、綺麗にそろった返事を返してきた。なかなかに、度胸のあるお子様たちのようだ。願ったりかなったりというやつだな。
 よし、では、北郷一刀、これより吶喊しま……!


「官軍だ! 官軍が攻めてきたぞーー!!」
「総員、応戦するのだッ! 急げ急げー!」
「み、みなさん、奇襲ですよー。急いで逃げてくださーい!」


 っす?! 
 唐突にあたりに響き渡った敵襲の声。
 動揺したようにあたりを見回す黄巾賊たちに向けて、数本の矢が降り注いできた。
 数にすれば、たかが数本。だが、その弓勢は強烈であり、一矢一殺とでもいうべき威力を持っていた。
 そして、死者が出たことで、混乱は爆発的に拡大していく。
 あたりは騒然とした空気に包まれ、たちまちのうちに状況は混迷の霧の中に沈みこんでいった。









 
「何をしているッ?!」


 その声は、劉備の耳に、落雷のごとき衝撃と轟音をともなって響き渡った


 振るわれた暴虐。
 止められない自責。
 そして、現れた防ぎ手。


 それは、いかなる奇跡であったのか。






 敵情を知るべく、黄巾賊の懐に入り込んだ劉備たちは、そこで強制労働に従事させられている奴隷たちを見つけ、憤慨する。
 だが、この地の黄巾の勢力は、簡擁が読んだように小規模どころの話ではなかった。
 しかも、党首たる張家の3姉妹が揃い踏みしているとあっては、100や200の義勇軍では相手にもならない。
 劉備たちに出来るのは、この事実を太守に知らせ、官軍の被害を最小限に食いとどめることだ。そして、一刻もはやく黄巾の乱を終わらせ、奴隷たちを解放してあげること、それだけだった。
 それだけだったのだが……


「愛紗、鈴々……」
 劉備は、懇願するような視線を妹たちに向ける。
 その意図は、2人にもはっきりと伝わった。
 関羽と張飛は、困惑した顔を見合わせる。いかに彼女らが勇武を誇ろうとも、数百、数千の敵軍の波を押しとどめることはできない。今、この場で動けば、間違いなくそういう事態になってしまうだろう。
 それは、劉備とてわかっていた。
 わかってはいても、目の前の光景を見てしまった以上、何もせずにここから立ち去ることは出来なかったのだ。
 関羽は、劉備を説得しようと口を開きかけ……結局、何も言えず、最後には小さく微笑みをこぼした。
「そうですね。姉者がそういう方だからこそ、私と鈴々は、姉者についていくと決めたのです。全ての民を解放することはできませんが、出来るかぎりは助けましょう」
「うん、鈴々に任せておくのだ! 黄巾の奴らなんか、敵じゃないのだ!」
「こら、鈴々! 声が大きいぞ。我らは敵中にいるのだぞ?!」
 関羽の叱責に、張飛はぺろっと舌を出して謝った。
「ごめんごめん、忘れてた」
「まったく、お前というやつは……だが、今はともかく、彼らをいかに逃がすか、ですな。なにはともあれ、簡擁殿に連絡して、義勇軍を連れてきてもらいましょう。さすがに我らだけでは、何も出来ませんから……」
 関羽がそこまで言いかけたとき、3人の耳に悲痛な声が飛び込んできた。
 それもすぐ近くからだ。
 咄嗟にそちらに駆け寄った3人が見たのは、鞭を持った男と、その前に蹲る2人の少女だった。
 何が行われたのか。何が行われるのか。誰の目にも明らかだった。


 鈴々が、幼い顔に怒りの表情を浮かべて、その場に飛び込んでいこうとする。
 だが、関羽は鎮痛な表情で、それを押しとどめた。
(何をするのだ、愛紗! 止めないと、あの子たち、大変な目に遭うのだ!)
(わかっている! だが、ここで私たちが飛び込めば、私たちだけではなく、姉者も危険にさらされるのだぞ!)
 関羽とて、張飛の行動を止めたくはなかった。関羽と張飛だけならば、多勢の敵に囲まれても、わが身を守ることくらいは出来ただろう。
 だが、もう1人。劉備の武勇は、2人に遠く及ばない。否、2人どころか、そのあたりの兵士にさえ及ばないかもしれない。
 それを知るからこそ、関羽は、敵情視察に劉備が同行することに反対したのである。
 だが、危険を関羽たちにゆだね、1人、安全な場所にいるなど、劉備に承知できるはずもなく、結局、3人そろって、この場所に来ることになったのである。


 そのことは、劉備自身も自覚するところだった。
 自分が足手まといになっているということ。それが、こんな形で関羽たちの行動を束縛することになるとは思いもしなかった。
 自分の迂闊さと、それがもたらそうとしている結果に、劉備の顔が青ざめる。
 少しでも役に立てれば、と思ってやってきたのに、関羽たちの足を引っ張り、挙句、あの少女たちを見捨てることになるのだろうか。
 そんなことは駄目。
 そんなことは許されない。
 たとえ、ここで自分が傷つき、倒れることになってもかまわない。
 今、目の前で行われようとしている暴虐を止めることが出来ないような人間に、幸せな世の中などつくれるはずはない!


 前に飛び出そうとする劉備。
 それを察して、関羽と張飛が慌てて止めようとした、その瞬間。


「何をしているッ?!」


 その声は、劉備の耳に、落雷のごとき衝撃と轟音をともなって響き渡った


 振るわれる暴虐。
 止められない自責。
 そして、現れた防ぎ手。


 それは、いかなる奇跡であったのか。







「官軍だ! 官軍が攻めてきたぞーー!!」
「総員、応戦するのだッ! 急げ急げー!」
「み、みなさん、奇襲ですよー。急いで逃げてくださーい!」


 関羽と張飛は、叫びながらも次々と矢をつがえ、放っていく。
 2人の強弓は、次々と黄巾の兵士たちを射抜き、物言わぬ躯へと変えていく。
 ちなみに、劉備は関羽に弓を持たせてもらえなかった。
「姉者が射ると、彼女たちに当たってしまいかねません」
 申し訳なさそうにしながらも、関羽はきっぱりとそう言い切ったのである。
 劉備はそれを否定できなかった。
「うう、なら、せめて声だけでも出します!」
 そういって、混乱を助長させるために、偽の官軍情報を叫び続ける劉備。
 もっとも、黄巾賊は、すでに自分たちで勝手に混乱を広げており、劉備の叫びは、あんまり効果がなかったりするのだが、本人は気づいていない。
 だが、劉備の叫びは別の効果を発揮した。
 逃げ出した少女たちが、劉備の声を辿ってこちらにやってきたのだ。


 後に、こっそり朱里と雛里、そして一刀は声を合わせて、劉備たちのもとへやってきた理由を口にした。
『桃香の声が、あからさまに不審だったので』
 と。




 朱里と雛里を連れ、おれは矢を放っていると思われる人たちがいる方向に駆けてきた。
 敵の敵は味方、というわけではない。本来なら、さっさと陣地から抜け出すべきだった。
 だが、ひっきりなしに聞こえてくる、どこか気の抜ける警告の声が、そういった警戒心を鈍らせてしまったようだ。
 少なくとも、黄巾に味方する人ではあるまいと思い、おれは、その場所へとたどり着き。
 そして。


「きゃッ?!」
「わッ?!」


 その場に飛び込んだ瞬間、1人の少女と正面からぶつかる羽目になった。
 勢い良く飛び込んできた為、咄嗟に止まることができず、そのまま少女を押し倒すような格好になってしまう。
 地面に倒れる寸前、少女の腰を抱えるようにして、なんとか互いの身体の位置を入れ替え、少女を下敷きにすることだけは危うく避けたが、お陰で受身もとれずに、まともに地面に身体を打ち付けてしまう。
「ッ痛?!」
「あ、わ、きゃあ、大丈夫ですか?!」
 目を閉じて、痛みを堪えるおれの身体の上で、何やら慌てふためいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
 何やら柔らかい感触が繰り返し胸のあたりに感じられたが、それは気にしちゃいけないと言い聞かせる。
「あ、あの、あのですね」
 おれの身体の上にいる少女が、申し訳なさそうに声をかけてくる。
 なんだろうか、と不思議に思って目を開けてみると、ほとんど目の前に、可憐な少女の顔があった。
「うおッ……って、痛?!」
「きゃあ、だ、大丈夫ですか?!」
 おれは咄嗟に顔を離そうとするが、当然ながら、地面にもぐれるはずもない。
 もろに後頭部を地面に打ちつけてうめくおれに向けて、少女は心配そうに声をかける。
 おれは痛む部位をおさえるために、両手を頭の後ろにまわし。
 そこでようやく、少女の腰を掴んだままでいた事実に気がついた。
 つまり、おれはこの少女を抱き寄せたまま、地面に転がりこみ、その手を離そうともしなかった不埒者というわけである。


 ふと。
 おれは背筋をはしる悪寒に気づく。なんというか、爺ちゃんが10人集まっても、ここまでにはなるまいと思えるような必殺の気配が濃厚に漂っていた。
 おそるおそるそちらに目を向けると、手に青龍刀を持った、なんかすごい鋭い目つきの少女が、おれの顔をじっと睨みすえていたのである……
 


 劇的といえば劇的であったが、感動やら運命的やらという単語とは全く無縁の、それがおれと劉備、関羽、張飛ら中国史上に名高い英傑たちとの最初の出会いであった。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 蒼天已死(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/17 00:46


 おれたちを救ってくれた恩人たちの旗揚げの地、幽州は楼桑村。
 黄巾賊の追撃をかろうじて振り切ったおれたちは、なんとかここまで逃げてくることができた。
「ああ……死ぬかと思った……」
「はうう、同感です……」
「あうう、お花畑が見えました……」
 卓に突っ伏すおれ、朱里、雛里の3人。
 情けないというなかれ。武器を持った連中に追われるというのは、それくらい、心身をすり減らす経験だったのである。
 真正面から対峙すれば、まだ覚悟の決めようもある。しかし、逃げている最中に、後ろから、矢やら槍やら投げられた日にはかわすことも出来ないし、その恐怖が余計に冷静さを奪い、心身の疲労を増幅させてしまうのだ。
 撤退戦の遂行は至難を極めるというが、しみじみとその言葉が実感できた1日であった。


 そこまで考えて、おれはふと、大切なことを忘れていたことに気づいた。
 のんきにこんな分析をする前に、あの少女たちに礼を言わなければ。今、おれたちが無事にこの村にいられるのは、間違いなく、あの娘たちのお陰なのである。
 何度も命を救われながら、礼を言うのも忘れていたなど、人として恥ずかしいことこの上ない。おれは1人、赤面すると、礼を言うべく、あの少女たちを捜そうとする。
 だが。
「あ、いたのだ! おーい、桃香お姉ちゃん、愛紗、こっちなのだー!」
 元気な女の子の声があたりに響き渡る。
 見れば、あの時、おれたちを助けてくれた3人のうちの1人だ。
 朱里たちと大してかわらない小柄な身体。だが、蛇矛を振り回して、黄巾賊を蹴散らす様を繰り返し見た今となっては、子供扱いなど出来るはずもない。確か、他の2人からは鈴々と呼ばれていたな。
 そして、その鈴々の声を聞いて、この場に姿を現したのは、愛紗、桃香と呼ばれた2人であった。


 愛紗と呼ばれる少女は、例のきつい眼差しの子である。もっとも、向けられるのはおれ限定で、朱里や雛里に優しく微笑む横顔は、見ているこちらも、どきっとするほど綺麗だった。
 そしてもう1人。桃香という名の少女は、おれが非礼にも押し倒してしまった子である。もちろん、あの後、すぐ謝ったし、桃香も、恥ずかしさに頬を染めながらも許してくれたが、健全な高校生としては、抱きしめた際の柔らかい感触は、なかなか忘れられるものではない。いや、自信をもって断言することじゃないのは重々わかっているが、もてない男のサガというものである。ご容赦あれ。


 おれたちの他にも、奴隷とされていた民衆の一部は、一緒にここまで逃げてきていた。なぜ一部のみなのか、というと、帰る当てがある人々はそれぞれの故郷に帰り、おれのように帰る当てのない人たちが、ここまで来たからである。その数は200人以上にのぼる。
 そう、つまり。
 目の前の3人の少女は、おれたちを含め200名以上を、黄巾党の追撃から救ってのけたのである。何者ですか、あなたたち。
 くわえて、愛紗と鈴々の2人の武力は、はっきりいって反則級である。稽古や鍛錬でたどり着くことのできない領域、この2人は、疑いなく、天与の才を持っている。
 そして、何より驚くべきは、その2人から姉と慕われ、100名以上の義勇軍を率いている桃香という名の少女である。
 見た目、おっとりとしながら、少しドジな面も垣間見えたりして、実におれの好み……って、そんなもん関係ないな、うん。
 そんな普通の女の子であるはずの子が、義勇軍の長だというのだから、一体、何がどうなっているのやら。


 とはいえ、色々と不思議な点はあるにせよ、彼女らがおれや朱里たちの命の恩人であることに変わりはない。
 おれは自分の名を告げて、改めて御礼を言った。
「北郷、一刀殿……」
 桃香が、舌で転がすように、おれの名を呟いている。
 その隣に座る愛紗は、相変わらず、警戒するような目線でおれを見据えていた。
「姓が北郷、名は一刀……字は持っておられぬのか?」
「ええ、これまでは必要なかったもので」
 愛紗の問いに、おれは曖昧にうなずく。
 同じ問いは、黄巾党にいた時も何回かされたことがある。その度に、おれは同じ答えを返したが、相手はその都度、奇妙な眼差しで、おれを見つめたものであった。
 というのも、中華帝国では、名を呼ぶことが著しく非礼に当たるからである。その人物を名で呼びことが許されるのは、親や主君といった目上の人間のみである。
 そのため、普段の呼びかけには字が用いられるのだ。
 字は、通例、成人の証として付けられる。自ら付けても良いし、師が授けることもある。あるいは主君が与えることもあるという。これよりずっと後の時代だが、あの有名な宋の文天祥の字である宋瑞というのは、時の天子より、文天祥が賜ったものである。
 ちなみに、成人の証と言っても、現代日本みたいに20歳でなければならないわけではない。おれくらいの年齢の男児であれば、字くらい持っていても不思議はないのである。


 とはいえ、ちゃきちゃきの日本人であるおれが、名で呼ばれることに不快を感じるはずもない。なので、おれは東夷から来た、ということにしていた。
 東夷というのは、文字通り東の蛮族という意味で、そんな出自を明らかにすれば、色々と誤解される可能性はある。あるのだが、2字の姓、2字の名というのは極めて珍しい上、おれ自身、この時代の常識や風習に無知であることもあり、東夷から来たという理由は、そういった不自然な点の言い訳になってくれるのである。それに、事態を四捨五入すれば、本当のことだしな、うん。


 というわけで、ここでも同じことを言うことにする。
 一同、ほう、と感心したような、驚いたような顔をするところは、今までの人たちと同じだった。
 予想通りの反応に、思わず笑みをこぼしたおれだったが、目の前の少女たちが自己紹介を始めた途端、その笑みは瞬く間に凍りついた。
 



 最初は、朱里だった。
「わ、私は姓は諸葛、名は亮、字は孔明といいます」
 水鏡女学院に在籍していたが、戦乱で苦しむ人々の助けになりたくて、旅に出たという朱里改め諸葛亮。
 ……え?


 その次は雛里。
「姓は鳳、名は統、字は士元と申します……」
 そういってから、全員の視線が向けられていることに気づき、慌てて帽子で顔を隠す雛里改め鳳統。
 ……ええ?!


 いや、ちょっとまって。
 諸葛孔明と鳳士元って、伏竜と鳳雛?! なんでこんなところにいるんだ……って、旅に出たって言ったよな。しかし、こんな女の子たちが、あの2大軍師とおっしゃいますのんか? この世界、やっぱり普通じゃないな。
 よし、落ち着こう、おれ。この世界はもう何でもありだ、矢でも鉄砲でも持ってきやがれ!
 なかば無理やり、自分を納得させようとしていたおれだったが、次の一言で、その虚勢も吹き飛ばされた。
「じゃあ、今度は私たちだね」
 そういうと、桃香がにこりと笑って、自分の姓名を告げたのである。
「姓は劉、名は備、字は玄徳。よろしくね、みんな」
 ……は? 劉……玄徳?
 その名を聞いて、おれがぽかんとしている間に、愛紗が続けた。
「私は姓は関、名は羽、字は雲長。戦乱に苦しむ民草を救うため、姉者と共に立ち上がった。見知り置きを願う」
 脳の負荷が限界を追え、おれは乾いた笑いを浮かべて、鈴々の方を見た。
 桃香が劉備、愛紗が関羽ということは、当然、鈴々は…… 
「鈴々は、姓は張、名は飛、字は益徳なのだ!」
 やっぱり?! 何なんだ、この錚々たる面子は一体?!
 おれはあまりに予想外の展開に、しばらく呆然としたまま、動くことさえできなかった。


 だが、しかし。
 冷静になって考えてみれば、さして驚くことではなかったかもしれない。そもそも、最初にあった張角たちがあれだったのだし。むしろ、劉備たちは性別こそ違え、黄巾賊に戦いを挑み、民衆を助けようとしているところは、おれの知る劉備たちと何ら変わらない。
 諸葛亮と鳳統に関しても、おれの知る2人よりも、ちょっと行動力がプラス修正されただけだと思えば、十分許容範囲内だ。
 うん、別に問題はないな。ないったらないんだ、疑問に思ったら負けだぞ、おれ!




「あの、それで、実は北郷さんたちにお願いがあるんだけど、聞いてくれますか?」
 劉備の言葉で、おれは内心の葛藤から、ようやく現実に立ち返ることができた。
「あ、はい、何でしょうか?」
 恩人の頼みとあれば、出来るかぎり応えるのは当然のことである。
 だが、劉備は何やらもじもじとしながら、おれや諸葛亮、鳳統らに視線を送るのみで、なかなか口を開こうとはしなかった。
 はて、どうしたんだろう?
 おれは首を傾げ、諸葛亮や鳳統の方に視線を向けるが、彼女らも不思議そうに劉備を伺うだけであった。
「あの、その、あの、ですね。実は……えっと、ううう……」
 何やら言いにくそうに何度も言いよどむ劉備。
 頬を染めて、何やら困惑するその様子は、正直、目を離せないほどに愛らしい。もっとも、本人にその自覚はかけらもないだろうが。
 困惑する劉備の横で、関羽が小さく苦笑しながら、助け舟を出した。
「姉者、私から言いましょうか?」
「だ、だめだよ、愛紗。こういうことは、ちゃんと私からお願いしないと!」
「承知しました。では、ご存分に」
「ううう」
 関羽の言葉に、思い悩みながらも、何事か決意した様子の劉備。


 そして。
 劉備は、おもむろにおれたちの前に立つと。
 がばぁ!
 と、すごい勢いで頭を下げ、こう叫んだのであった。


「わ、私たちと一緒に戦ってくれませんかッ?!」







 劉備が、出会ったばかりの彼らを仲間に迎えようとしたのは、決して一時の思い付きではなかった。
 黄巾賊の根拠地で。
 劉備たちは、その場にいた奴隷たちを逃し、行く当てのない者たちは自分たちの根拠地へ連れて帰ろうとした。その数はおおよそ200人。義勇軍の、ほぼ倍の数にあたる。
 いきなり、自分たちの倍の非戦闘員を抱え込むわけだから、義勇軍の行動が大きく阻害されることになるのは明白だった。
 追い討ちをかけられれば、散々な目に遭うだろう。
 劉備たちの危惧は、しかし、諸葛亮と鳳統によって、あっさりと否定された。


 諸葛亮は言う。
「黄巾党の人たちは、追い討ちをかけないと思います」
 希望的観測……にしては、いやに確信に満ちた言葉だったので、劉備たちは、その根拠を問うた。
「お話を聞くかぎり、この場にいるのは張角さんを筆頭とする黄巾党の主力で、幽州の太守様を相手にしていたのですよね。そうであれば、官軍の不意の奇襲を受ければ、まず守りに力を割かねばなりません。下手にうって出れば、別働隊に本陣を襲われる危険がありますから」
 朱里の言葉を受け、雛里も口を開く。
「それに、情報を集めれば、今回の襲撃が少人数によるものだということはわかると思います。そして、偵騎を放てば、こちらが少数で逃げているのも、すぐにわかるでしょう。黄巾党の本陣に、こんな寡兵で攻め寄せる者がいるとは考えにくいですし、官軍の罠ではないかと疑うのが普通だと思います」
 理路整然と述べ立てる2人。
「……何者ですか、あなたたち」と北郷が呟いていたが、劉備もまったく同感だった。


 2人の論旨は至極もっともだったが、問題は、敵がそのあたりをまったく考慮しないおばかさんであった場合である。
 それに備えたのが北郷だった。
 何も難しいことをしたわけではない。北郷は、ただこう叫んだだけである。
「張角様たちが狙われているぞ、迂闊に打って出るな」と。
 戦術眼がない黄巾賊であっても、党首への崇拝は有り余るほどに持っている。こう叫んでおけば、黄巾賊は簡単には動けない。仮に謀を見抜いた者がいたとしても、配下がすぐにそれに従わないだろう。
 かくて、劉備たちはほとんど敵勢力と接触せずに楼桑村にたどり着くことができたのである。
 少数の追っ手はかけられたが、関羽、張飛らが簡単に蹴散らせる程度の数であった。


 諸葛亮と鳳統の識見。北郷の機転。何より、黄巾賊の根拠地の真っ只中で彼らが見せた義侠心を目の当たりにした劉備にとって、3人はぜひとも仲間になってほしい人物と映ったのである。
 それを言いよどんだのは、あの場で自分が示した無様さを自覚していたからだ。
 彼らの目に、劉備自身が、共に戦うに足りる人物だと映っているとは思えず、躊躇してしまったのである。


 しかし、それは杞国の憂いに等しいこと。
 それは、劉備自身の目にも、すぐに明らかとなった。






 小さくとも、一軍の将たる者が、どこの馬の骨とも知れない者たちに頭を下げる。
 その意味がわからない者は、この場にはいなかった。
 諸葛亮と鳳統は視線をかわし、互いの意思が等しいことを瞬時に確認しあう。
「あ、頭を上げてください、玄徳様! 私たちの方こそ、お願いします。私たちを、みなさんの軍に加えて下さい!」
「朱里ちゃんの、言うとおりです。どうか、お顔を上げてください……」
 諸葛亮が、鳳統が、口々に劉備軍への参加を願う。
 それを聞いて、劉備の顔がぱっと輝いた。
 その視線が、最後の1人に向けられる。劉備だけではない。諸葛亮も、鳳統も、どこか不安げな目でおれを見上げていた。


 この地に来てからはもちろん、この地に来る前も含めても、おれは、ここまで正面から他人に求められた経験はなかった。
 それゆえ、目の前の少女の誘いに、心が大きく揺れ動いたのは事実である。。
 だが、おれは劉備配下の将軍たちのような力は、欠片も持っていない。今後、劉備たちが辿るであろう道筋や、おれの身の安全などを考えるに、放浪軍に等しい彼女らの軍に身を委ねることが得策であるとは思えなかったのも、また事実であった。
 なぜなら。
 おれは元の時代へ帰らなければならないから。そのためには、決して死ぬことはできないから。
 降りかかる火の粉は払う。だが、正義のために武器を手にとり、命をかけて戦う、などということをしようとは思わなかったし、出来るとも思えなかった。
 この世界で生き抜く意思を持たない人間が、この世界で何を成せるというのか。


 おれのためらいを感じとったのだろう。
 諸葛亮と鳳統の顔は曇り、劉備はしょんぼりとした様子で俯いてしまった。
 ああ、なんかずきずきと胸が痛む。良心とか、誇りとか、そういった大切なものが、身体の中で暴れまわっている感じ。
 ここまで真正面から頭を下げて、共に戦ってほしいといってくれた少女の願いを足蹴にしようとしているのだから、それも当然か。
 まったく、我ながら終わっている。しかし、返事はきちんとしなければならないだろう。


「おれは、いずれ東に帰るつもりです。あちらには、待っている人もいる。この地で戦い、死ぬことはできないんです。だから……」
 だから、共に戦うことはできない。
 そう断られることを覚悟したのだろう。劉備がぎゅっと拳を握り締めるところを、視界の隅で見た。
 だが。
「だから、その……あー……そんな半端な奴が、あなた達と行動を共にしたところで、大したことはできないと思いますけど、それでも良いんですか?」
 おれの口から飛び出したのは、そんな情けない台詞だった。
 きっぱり断ることも、格好良く受諾することもできない自分の軟弱さが恨めしい。
 その引け目があったため、おれは劉備の方を見ることができなかった。きっと呆れられているのだろうなあ、と半ば覚悟する。


 それは突然だった。
 ぎゅっと、柔らかい感触が、おれの手を包み込むと、胸のあたりまで引っ張りあげられたのだ。
 驚いて顔を上げると、いつのまにか、すぐ近くに劉備の顔。
 劉備はおれの手を握り、胸のところに持ってくると、心底ほっとしたような顔で微笑んだ。
「私だって、まだまだ半端な人間です。平和な世の中をつくりたくて、でもそんな力はなくて。それでも、みんなの力を借りて、少しずつでも、そういう世の中をつくっていきたい」
 間近にある澄んだ眼差しから、目が離せない。胸を打つ脈動は、明らかにさきほどのそれとは違うものに変わりつつあった。
「北郷さんが、それに力を貸してくれるなら、とっても心強いです。もちろん、私も出来るかぎり、北郷さんが目的を果たせるように力を貸します。それは、みんなも同じことです。みんなで支えあって、みんなで頑張って、みんなの目的を果たしましょう!」


 煌くような生気に満ちた瞳を見て、おれは思う。
 ああ、関羽も張飛も、この輝きに惹かれたのだろう、と。
 そして、見たくなったのだろう。この輝きにあまねく満たされた、中華の大地を。そこで生きる人々の笑顔を。
 今、おれがそう思ったように。 

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 蒼天已死(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/17 23:57

                  2


 のっけから何ですが、しくじりました。


 今、おれの前に詰め寄る軍師2人。いや、まだ軍師ではないけれど。
 諸葛亮と鳳統は、じーっと上目遣いでおれの顔を見上げてくる。子供のような仕草だが、聞けばこの二人、実際はおれと2歳しか違わないのだとか。それを聞いたときは、口をあんぐりあけて固まってしまった。
 おかげで、その後、拗ねた2人にしばらく口をきいてもらえなかったりしたが、それは別の話。
 今、2人がおれを見つめているのは、また別の理由がある。
 その理由とは、さきほど、おれがつい口に出してしまった一言に求められた。
 伏竜と鳳雛。
 おれが、会話の流れの中で不用意にその言葉を出してしまったのだ。
『え?』
 驚愕の声を同時に漏らした2人は、すぐにおれを問い詰めてきたのだ。
「あ、あの、どうしてその言葉をご存知なんですか? 水鏡先生が、私たちに冗談半分に口にしただけなのに」
 諸葛亮がそう言い、鳳統も不思議そうな顔でおれを見つめてくる。
 当たり前だが、黄巾党が暴れているこの時期に、2人の令名が轟いているはずはない。ましてや女の子。ましてや河北。
 噂で耳にした、などと言ったところで、信憑性はないだろう。


 まずい、まずい。
 下手をすると、今後のおれたちの関係に大きな影を落としてしまいかねない。おれを見つめる2人の眼差しに、疑いが混ざらないうちに、何とかごまかさなくては。
「ああ、それはまあ、なんだ、その……そう、ゆ、夢で出てきたんだ! こう、湖の底に眠る蛟と、鳳凰の雛がな。で、その2匹が『近いうちに、我らはそなたと出会うであろう』とか言ったんだよ、うん。いやあ、まさか本当だとはびっくりだなははは」
 しかし、おれの口から出てきたのは、我ながら、悲しくなるくらいベタな偽りであった。
 これは疑われるな、と覚悟したのだが。
 あにはからんや、目の前のお嬢さんズは目をきらきらと輝かせて喜んだ。
「は、はわわ、じゃあ、私たちが出会ったのは、3人で玄徳様を助けるようにっていう天意に沿った運命だったんですね。す、すごいよ、雛里ちゃん!」
「う、うん、すごい、ね……」
 をを、素直に信じてくれている。
 なんだ、この罪悪感は。良心よ、静まれ。
 子供のように無垢な信頼を寄せてくれる2人を前に、おれは深刻に頭を抱えたくなった。


 


 ともあれ、諸葛亮の言うように、おれたちは玄徳様たちを手助けするべく、義勇軍に加盟することになった。
 劉家軍とも呼ぶべきこの義勇軍は、主の人柄のお陰もあって、内部の人間関係は極めて良い。
 軍としての規律は厳しいと思われているが、たとえば略奪する者は斬首に処す、とか、民を姦淫する者は斬首に処す、とか、おれから見れば、まあ当然だな、というものばかりだったので、窮屈さは感じない。
 で、そこでおれに与えられた役割はというと――またしてもマネージャーだったりする。
 といっても、もちろん、劉備たちの世話をしているわけではない。劉家軍全体を取りまとめる……というと、いささか大げさだが、軍内から出る不満や意見、要望などを処理する役割である。
 ……何というか、黄巾党にいた時の経験が、こんな形で活かされるとは思わなかった。張梁の傍で、その卓越した手腕を実見し、その手伝いを続けてきたお陰もあって、こういった仕事は慣れたものなのである。


 無論、楽な仕事などない。黄巾党とは比べ物にならない規模だが、100名を越える兵士たちが集まれば、喧嘩の1つや2つは毎日のように発生するし、不満も要望も続々と寄せられてくる。
 やれ関羽の訓練が厳しすぎるだの、やれ関羽の要求が高すぎるだの、やれ関羽に恋人はいないのかだの、そういった意見が山のように寄せられてくるのだ……中には妙なのもあるが、それは無視。
 劉家軍は、武の面では関羽、張飛がおり、文の面では諸葛亮、鳳統がいるため、おれに出来ることと言えば、こういったことくらいなのだ。
 ……しかし、なんだな。名前だけみれば、10万の軍勢でも指揮できそうな面子だな。


「しかし、わしら男衆には肩身が狭いところだな」
 額の汗を拭きつつ、そういって笑うのは簡擁だ。
 この人、数少ない男同士ということもあり、おれも何かと良くしてもらっていた。
 簡擁の言う通り、武も文も、その主力は女性ばかりとあって、自然、男たちの肩身が狭くなっていくのは仕方のないことだった。もっとも、彼女たちがおれたちを蔑ろにするとか、そういったことは一切ない。
 言ってみれば、こちらの僻みというか、被害妄想というか、そんな感じの感情である。
 ちなみに、外から見ても、この軍の陣容は特異に見えるらしく、戦いに赴いた先で、敵味方から様々な揶揄や挑発がされることも多かった。
 もっとも、一度でも劉家軍の戦いを目の当たりにすれば、そういった嘲弄をしてくる者はほとんどいなかったが。


 それとは逆に、女性ばかりの軍というところに目をつけてやってくる男共も多かった。軍としては人数が増えるのは歓迎すべきことなのだが――こういった浮ついた連中は、まず確実に関羽の猛訓練で音を上げて去っていった。関羽が意図してやっているかどうかは、おれにもわからないが……多分、あれは素だな、うん。鬼教官恐るべし。
 ちなみに、言うまでもないが、おれや簡擁さんも、この鬼教官に扱かれる立場である。文官だからといって容赦してくれる教官殿ではありません。
 だが、おれとてこの世界で遊んでいたわけではない。奴隷労働やら何やらで鍛えてきたから、逃げ出したりせずに済んだ。偶然ではなく努力の賜物である。まあ、自発的なものではなかったけれども。
 簡擁は結構きつそうだが、本人曰く「もう慣れた」とのこと。ひいこら言いつつ、しっかりと訓練をこなし、自分の職務も果たしているあたり、この人も凡人ではない。



「それでは、第1回劉家軍合同会議を始めたいと思います」
 諸葛亮の言葉に、ぱちぱちと拍手する参加者一同。
 卓の中央には玄徳様、その玄徳様から向かって右側が武官である関羽、張飛。左側には文官であるおれと簡擁、そして鳳統である。
 司会進行を任された諸葛亮は、張り切って現在の劉家軍の状況を説明していく。
 現在、劉家軍の総兵力は300名近くに膨れ上がっている。これは、おれたちと一緒に逃げてきた人たちから、義勇軍に参加する人が多数出たこと。そして、少数で黄巾党の根拠地へ潜入し、打撃を与えた劉家軍の噂を聞いて、周辺の村々からやってくる若者たちが増えたことがあげられる。
 ……まあ、本来ならもっと多数――500くらいはいたのだが、某鬼教官の練成のために大きく数を減じたという裏話もある。
「なにか?」
「いえ、別に……」
 おれの視線に含むものを感じたのか、関羽が硬い口調で問いかけてくるも、おれは慌てて両手を横に振って、他意がないことを示して見せた。
 事実、300名まで絞り込まれた兵士たちは、関羽の猛訓練に耐え抜き、兵士として十分な力を有するに至っている。精鋭とまでは呼べないが、すでに農民あがり、野党あがりが多い他の義勇軍とは、錬度において一線を画する劉家軍であった。


 諸葛亮はこれを受け、いよいよ本格的に動くべき時が来たという考えを述べる。
 玄徳様たちの知らせにより、幽州の太守である劉焉は、敵の擬態にようやく気づき、兵力の逐次投入を止めると、官軍を動かして、この地に進出していた程遠志率いる黄巾賊を撃滅しようと試みた。この時、劉家軍も参軍を願ったのだが、これは太守側に拒否されてしまう結果となった。
 だが、それは不幸中の幸いといえたかもしれない。党首である張角を擁する程遠志は、万に達する数の軍を動かして、官軍と激突。数時間の激戦の末、官軍は破れ、劉焉は命からがら県城まで逃げ延びたという。劉家軍が参戦していたら、何やかやと難癖をつけられ、敗北の責を負わされてしまった可能性もあったのである。
 この官軍の敗北により、幽州における黄巾賊の勢力は拡大の一途を辿りつつあり、その被害はとどまるところを知らなかった。
 当然のように、劉家軍もあたりに出没する黄巾賊を討つために、幾度も出陣しなければならなくなった。しかし、ことおれたちに関して言うのならば、この戦闘は損害よりも利益が大きかった。都合4回の戦闘すべてに完勝した劉家軍に対して、楼桑村のみならず、周辺の村々からも物資の供与がなされるようになったからである。


 ちなみに、おれは常に留守居役をつとめ、戦闘には参加していない。これは加盟の時にあらかじめ断っていたことだが、関羽あたりが、おれに良い感情を持っていないのは、このためであろう。
 もっとも、関羽も軍内を取りまとめるおれの手腕には一定の評価をしてくれているらしく、あからさまにその感情を示したりはしなかったが。
 さて、それはさておき、諸葛亮の言わんとするところは1つ。黄巾党の撃滅である。
 それも、これまでのように小規模の部隊を討伐するのではない。幽州の混乱の源となっている黄巾賊の巨魁、程遠志を討ち取ることだった。
 太守・劉焉の軍を破った程遠志がまずしたことは、党首である張角らを後方へ下げることだった。表向きは党首の安全の為に、ということだったが、実際は太守の軍を破った上は、独断専行するためにも張角たちの存在が邪魔になったのであろう。
 先ごろから程遠志の軍は、県城を包囲して激しく攻め立てているときく。その数は少なく見積もっても3万は下らないとも。周辺の黄巾党や各地の野党が加わり、その軍容は現在も膨張の一途を辿っていることだろう。
 逆に言えば。
 この黄巾軍を撃滅すれば、幽州における賊徒の勢力の大半はおのずと潰せるということでもあった。むしろ、普段は各地で独立して動いている連中が一箇所に集まった今こそ、賊軍を一網打尽に出来る好機であるということである。
 そして、諸葛亮は言う。
 実質、劉家軍とは100倍近い戦力差があるその黄巾軍を、私たちは打ち破れる、と。


 諸葛亮の才能が並々ならないものだということは、この場にいる全員が承知している。だが、さすがにこの提案には、否定的な顔をする者が多かった。
「孔明の言うとおり、賊徒を破れば幽州の混乱も沈静化するだろうが、しかし今の我らの数は最大に見積もっても3百。対する黄巾軍は少なく見積もっても3万。この戦力差はいかんともし難いのではないか?」
 関羽が腕組みをしながら、発言する。
 劉備も控えめに頷いて、関羽の言に賛同する。
「それに、勝てたとしても、犠牲も大きくなっちゃうと思う。もちろん、戦えば犠牲が出るのは覚悟しているけど……」
 黄巾軍は各地で跋扈し、官匪匪賊の害は後を絶たない。中華の各地で、戦乱に喘ぐ民衆を救うという目的のためには、ここで全てを失うかもしれない賭けに出ることはできない。勝てたとしても、再起がおぼつかないほどの損害を受けてしまっては、負けに等しいのである。
 だが、そんな玄徳様の危惧に、諸葛亮は自信ありげに胸を張って、こう言った。
「大丈夫です、玄徳様。私たちは勝てます。関将軍と張将軍がいれば、ほとんど損害もなくなるでしょう」
 そして、おもむろにその策を披露する。
 それは、正確に段階を踏んで行われるべき戦略であった。


 1、県城を包囲する黄巾賊に、城外より援軍が来る、という情報を流布する。なお、この時、来援の軍の総数は3万程度としておくこと。万が一、黄巾賊が情報を鵜呑みにした場合、あまり多数であることを吹聴していると、怯えた黄巾賊が逃げ散ってしまう恐れがあるためである。同数であれば、勢いに乗る黄巾賊は逃げようとはしないだろう。

 2、情報では、県城の官軍は城内に逼塞し、逆撃に出る余裕はないという。救援の軍の存在を知った黄巾賊は、後背を襲われることを警戒し、先に救援軍から片付けるために偵察の兵を放つだろう。それまでに、こちらは万を越える軍勢が進軍している証拠を作っておく。具体的には、野営後を偽造したり、証拠となる旗などを立てておく。

 3、黄巾賊が援軍の存在を確信した後は、賊軍の動きを慎重に確認しなければならない。だが、おそらく、黄巾賊は勢いに乗ったまま、正面から援軍を叩こうとするだろう。その敵を誘い込む場所こそ、今回の作戦の要となる。それは……


「ここです」
 諸葛亮が指し示した場所を、全員が覗き込む。
 県城から程遠からぬ場所に位置する五台山の麓。鬱蒼たる木々が茂る、緑深き山林。
 それは、ここ数日、地図とにらめっこしながら、鳳統と2人、考えに考え続けた作戦の地であった。


「4番として、この場所に、あらかじめ多数の旗を押し立てて、多人数が篭っているものと見せかけます。これには、村の有志の方たちの協力を頼もうと思っています」
 なるほど、山に篭れば、攻め上ってくる敵を、上方から叩くことが可能となる。あらかじめ柵を立て、山の各処に仕掛けを施しておけば、小さな砦に匹敵するだけの効果を得ることもできるだろう。


「5番目として、ここで時間を稼いで県城の包囲を解き、官軍と連携するという姿勢を見せます」
 諸葛亮の策に、関羽が腕組みしつつ口を挟む。
「なるほど、それは確かに1つの策ではあるが、時間をかければ、それだけこちらの偽装が見破られる可能性が高くなるのではないか? 1度、見破られれば、急造の山砦など、1日も保てまい」
 その関羽の意見に、諸葛亮は、鳳統と顔を合わせ、会心の笑みを浮かべた。
「はい。それが、こちらの狙いなのです」


 全員が、2人の小さな軍師に注目した。
「情報は、こちらから流します。そうすれば、私たちに虚仮にされていたことを知った黄巾賊は総攻撃を仕掛けてくるでしょう」
 諸葛亮の言葉を、鳳統が引き継ぐ。
「山林の中では、大軍の利を活かしきることはできません。斜面に足を取られ、上から矢で狙い撃たれ、岩や木を投げ落とされ、大きな被害が出る可能性さえあります」
『だからこそ』
 2人が力を込めて断言する。
「黄巾賊の幹部たちは、この攻撃には加わらないでしょう。部下たちに攻めさせ、高みの見物をするはずです」
 ここまで言われれば、聞いている者たちも、この策の目的が見えてくる。
「ッ! なるほど、そこを少数の別働隊で奇襲をかけるわけか」
 関羽の嘆声に、諸葛亮が頷いてみせる。
「はい。それが6番目。最終段階です。少ない軍を、更に2つに分けるのは危険を伴いますが、篭城を関将軍、奇襲部隊を張将軍にお願いすれば、きっと上手くいくでしょう」


 今回の作戦の肝は2つ。
 1つは、山に篭る部隊の演技力。後方に万の軍勢が控えているということを示しながら、敵の攻勢を耐えしのぐ役割は、なるほど、張飛ではまだ荷が重い。
 もう1つは、奇襲部隊の破壊力。黄巾賊が総攻撃を仕掛けるにしても、手元に護衛部隊を残さないはずはない。間違いなく本陣は手薄になるが、それでも百やそこらの奇襲部隊を上回る数が残るであろう。そこを強引に押し通らなければ、勝利は覚束ないのだ。正面からの、力と力のぶつかりあいならば、関羽でさえ、張飛にはわずかに及ばない。
 この軍の配置は適材適所と言えた。

  
「見事! 確かに、今の我らが黄巾の大軍を相手にするに、これ以上の策はあるまい」
 関羽が感嘆の声を発し、玄徳様と張飛も大きく首を縦に振る。
「鈴々、頑張るのだ! 突撃、粉砕、勝利なのだ!!」
「たしかに、これならいけそうだね。すごいよ、2人とも!」
 口々に誉めそやされて、諸葛亮と鳳統の2人は照れたように顔を俯かせる。
 つい今の今まで、関羽たちと同等に会話していたのだが嘘のようだ。


 それはさておき、おれは1つだけ気になることがあった。あまり作戦行動に口を出したくはないが、黄巾賊を山砦におびき寄せるという所だ。
 敵将・程遠志は賊将といえど、万を越える軍勢を指揮する将器の持ち主である。そう簡単にこちらの思惑に乗ってくれるかどうか。あるいは軍を二手に分け、より確実に援軍を殲滅しようとする可能性も無視できない。
 おれの指摘に、鳳統がこくりと頷く。
「もし、敵が軍を二手に分けるようなら、接敵するまえに、退却した方がいいでしょう。敵が様子を見る場合もおんなじです。大軍に、どっしり腰を落ち着けて対応されてしまえば、寡勢の私たちには手が出せません」
 だろうな。となると、より確実に敵軍をおびき出す方策が必要になってくるわけか。
「で、でも、そんな都合の良い方策があるんですか?」
「ある。他の軍は知らないが、黄巾党なら、まず確実におびきだせるだろうな」
「黄巾党なら……?」
 諸葛亮と鳳統の2人が小首をかしげて考え込む。玄徳様たちも同様だ。
「彼らの主を侮辱してやれば良いんだよ」
「主、というと、大賢良師・張角ですか? それは、確かに有効だとは思いますが……」
 言いよどむ諸葛亮。主を侮蔑して、敵をおびき寄せるのは、いわば戦の常套手段。冷静な敵将であれば、そんなものにひっかかりはしないだろう。
 それはおれも承知している。だが、黄巾党の特異な体制が、ただの罵詈雑言を必中の策略へと変えるのである。
 つまり。

「天和のブスー」
「地和の平坦胸ー」
「人和の冷血女ー」

 とまあ、こういった、彼らのアイドルを貶めるような罵声を浴びせれば、黄巾党は確実に怒る。間違いなく、怒髪、天を突く勢いとなるだろう。それを伝え聞いた本人たちも、きっとそうなるに違いない……背筋に走る悪寒は、気のせいだと思いたいなあ……

 
 
 だが、遠くの姉妹の怒りを思うよりも先に、今、この場の空気を何とかしないといけない。
 会議の場に満ちる、何ともいえない微妙な空気に、おれは少しだけ発言を後悔していた。
 何気に、ここにいる少女たちからも、そこはかとない怒りのオーラが感じられたり、られなかったり。
「ああ、まあ、その、最終手段ですよ。最終手段。黄巾党の、党首姉妹への熱狂は並外れてますから」
 なんとか言いつくろおうとするおれに、冷たい視線を向けた諸葛亮が応える。
「……そうですね、上手くいきそうもなかったら、みんなで叫びましょう。平坦胸ー、って」
 諸葛亮と同じ顔で頷く鳳統。
「うん、私も叫ぶ。平坦胸ー」
 見るからに不機嫌そうな関羽。
「では、私は冷血女と叫ぶことにしよう」
 ちょっとしょんぼり風味の劉備。
「じゃあ、私は、ブスーって叫ぶね……」




 く。のっけからしくじった上に、結局最後もしくじるとは不覚。おれの間抜け!
「にゃはは、お兄ちゃん、顔真っ青なのだ」
 1人、場の空気に染まらずに、茶菓子をぱくつく張飛の存在が、これほどありがたいと思ったことはなかった。

  




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 蒼天已死(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/19 22:38



 少数を以って多数を破る。
 それは古来より、多くの用兵家たちが夢見た偉業であり――そして、その夢と同じ数だけの無残な敗戦を築き上げた禁断の果実である。
 それは歴史が証明する厳然たる事実。
 100ある戦の中で、少数が多数を破る奇跡は1にも満たず。それゆえに、成功をおさめた戦の煌びやかな光彩に、凡庸な将軍たちは迷わされるのだ。
 戦術の要諦とは、敵よりも多数を揃えること。その多数を訓練し、統率し、補給を整え、万全の状態で戦場に送り出すことこそ、勝利を約束する唯一の方策である。


 その点、今回の劉家軍の戦いは、まず前提からして終わっている。なにせ、相手はこちらの百倍に達しようかという、雲霞のごとき大軍なのだから。
 その大軍に対して、劉家軍が優るものといえば、軍としての錬度。そして、強靭な指揮系統である。玄徳様の下に統一された目的を戴く劉家軍のそれは、雑多な寄せ集めである黄巾賊とは比べ物にならない。
 とはいえ、そういった優勢は、数の暴力の前ではあっさりと崩れ落ちてしまうこともある。それに、寄せ集めの軍だからこそ、勢いに乗ったときには手を付けられない力を発揮するともいえた。
 それゆえ、肝心なのは、相手に勝利の確信を抱かせないこと。常に自分たちが攻められているという意識を植え付け、戦の主導権を握り続けることで、相手をこちらの意図する状況に導いていくことこそ、寡勢である劉家軍の唯一無二の勝機であるといえた。


 ……以上、鳳統軍師から聞いた戦術講座の概要でした。いやあ、勉強になるなあ。さすがは鳳統、こと戦術にかけては諸葛亮さえ及ばない冴えを見せる鬼才である。
 普段、あわわあわわ言ってる女の子の頭脳が蓄える知識の海は、いったいどれだけ潜れば底に着くのだろうか。
 その鳳統の冴えを元に、諸葛亮の精緻な頭脳で築かれた作戦を、関・張の2大猛将が指揮するときては、百倍の戦力差さえ恐れるに足りない。おれには、そう思えた。


 そう。彼女らの後の評価を知るおれだからこそ、そう思えたのであり、実際、少女たちの今しか知らない他の兵士たちの中には、不安や動揺がたゆたっている状況であった。
 もちろん、これまでの幾度かの戦闘、そして日常の訓練で示された関・張の武勇に関して疑いを差し挟む者はいないが、百倍の戦力差が、個人の武勇で覆すことは不可能なこと。それは誰しも知るところだ。本来、それをカバーするのが策なのだが、こちらを担当する2大軍師・諸葛亮、鳳統の2人に関しては、まだそこまでの信頼はない。
 そんなわけで、おれは軍のあちらこちらに顔を出しては、不安がる兵士たちのフォローをしてまわった。
 といっても、別に特別なことをするわけではない。


 黄巾賊の、軍としての脆弱さを強調する。
「だってアイドルグループのファンクラブと戦うようなもんだぞ。おれは、演習で関将軍の相手をするほうがよっぽど怖い!」
 黄巾賊に勝たねばならないという意識を煽り立てる。
「あいつら、黄巾党以外の人間は奴隷扱いするからなあ。見ろ、この背中のあざ。あいつらに負けたら、恋人や家族がこんな目に遭うんだぜ? 男なら負けらんないだろ!」
 劉家軍の強さを認識させる。
「あれだけ毎日、関将軍と張将軍にしこたま鍛えられてるんだ。今の自分と、ここに来るまえの自分を比べてみろ。様変わりしてることに気づかないか? 今のおれたちなら、寄せ集めの賊軍なんぞ、万が10万になったところで敵じゃないさ。玄徳様の掲げる正義の御旗に敗北の泥なんてつけさせるな!」


 とまあ、そんな感じである。
 ぶっちゃけると、軍の士気をあげるなら、玄徳様に演説の1つでもやってもらえば良いのだが、これは繰り返すと効果が薄くなるので、戦い直前まで温存せねばならない。
 よって、日ごろの細かいケアを欠かさずに。お肌の手入れが女性にとっての死活問題だというのなら、軍にとっての死活問題は士気の高低に他ならないのである。
 もちろん、この程度で目に見えるような効果があがるわけではないが、そこはそれ、古来から言うでしょう。
「やらないよりはまし」と。


 だが、おれの心配とは裏腹に、劉家軍の兵士たちの顔は、戦いの日が近づくにつれて動揺が消え、その表情は静かでありながら、烈気に満ちた戦士のものとなっていった。
 それは将軍、軍師、そして全員の主である玄徳様も同様であった。
 皆、わかっているのだろう。
 この戦いが、今後の幽州の平和を決めるのみならず、自分たち劉家軍の命運を定め、ひいては後の中華帝国の歴史に影響を及ぼす戦いとなるであろうことを。
 さすがは大志を秘めたる戦士たち。おれの奔走が実ったのかと思ったりしたが、うぬぼれも良いところだったようだ。功績を吹聴するような真似をしなくてよかった良かった。
 これで心置きなく、この村から出られるというものだ。


 ……一応断っておくが、逃げ出すわけではない。さすがにそこまで腐ってはいません。
 おれは、協力してくれる村人たちと一緒に、一足先に、山林の細工を始めることになっているのだ。
 資材や資金が限られているが、出来るかぎり堅牢な物をつくっておかなければ、黄巾賊の攻囲に耐え切れなくなってしまうからな。
 編成としては、本軍が玄徳様、関羽、諸葛亮率いる二百名。奇襲部隊が張飛、鳳統の率いる百名。で、工作部隊(?)がおれと協力者の三百名である。彼らは、武器を持って戦うことこそできないが、平和な世の中を目指して戦う玄徳様を信じ、危険を顧みずに志願してくれた近隣の住民たちで構成されていた。
 おれは砦やら罠やらの知識は皆無だったが、心配はいらない。木材は樵を生業としてる人を中心として、現地の山で切り出してもらう。山に仕掛ける罠などは狩人にとってお手の物だし、柵の組み方は老いて退役した爺ちゃんたちに聞けば良い。
 すでに、彼らの中から中心となってくれそうな人たちとは、話をつけていた。


「じゃあ、五台山で逢おうね、一刀さん」
「なるべく堅牢な陣にしつらえておいてくれ。黄巾賊は、必ずおびき出す」
「わ、私たちも頑張りますので、一刀さんたちも頑張ってくださいね!」
 そういって、こちらの健闘を祈る本軍を率いる3人。
 一方、奇襲部隊を率いる2人は、というと。
「黄巾賊は鈴々たちがやっつけるから、お兄ちゃんは適当に休んでてくれなのだ!」
「あわわ、だ、駄目ですよ、張将軍。それじゃ作戦が~」
「鈴々の辞書に、作戦という文字はないのだ!」
「ますます駄目ですッ?!」
 そこはかとなく不安なやりとりを繰り広げていた。ま、まあ、張飛も一軍の将なのだ。大丈夫だろう……大丈夫だよな? いやまて、そういえば張飛のお目付け役である関羽がいない場合って、誰が張飛を止めるんだろう?
 背中に嫌な汗が流れたが、おれは慌てて首を横に振って、疑念を追い払う。いかんいかん、しょっぱなから味方を疑うようでは、勝利は覚束ない。
「張将軍」
「どうしたのだ、お兄ちゃん?」
「賊将の程遠志は、なかなかの武勇の持ち主だけど、将軍なら余裕で勝てるよな?」
「あったりまえなのだ。野盗の親分なんて、鈴々の敵じゃないよ!」
 自信たっぷりにこたえる張飛に、おれは笑って頷いてみせた。
「そか。じゃあ、そのための舞台は整えておくから、大暴れしてくれ。活躍次第では、なんと県城の食べ物屋くい倒しツアーが開催されるかも」
「おおお、本当?! よし、鈴々、頑張るのだーーー!!」
 蛇矛を天に掲げつつ、虎のごとき咆哮をあげる、小さな猛獣。
 この猛獣に狙われる羽目になる程遠志には悪いが、まあ運命と思って諦めていただこう。







 かくて、おれの戦いは血で血を洗う戦場ではなく、険しい山肌と生い茂る林の中で始まった。
 五台山のあたりは黄巾党の勢力圏ではあったが、重要な資源が眠るわけではなく、これといった都市があるわけでもない。軍の展開を主眼に見ても、この地を確保しておくべき理由もない。
 つまりは、戦略的にみて重要な地点というわけではないので、黄巾党の監視の目もほとんどなかったのである。それでも百名単位の人間が活動していれば、平時であれば何かと人目についただろうが、今は戦の真っ最中。その心配も少なかった。
 傾斜の緩い斜面に天幕を据え、作業を開始する工作部隊の一同。
 木を切り、柵を作り、簡易ながらも屋根のある砦を作っていく。
 同時に、林を切り開いて道を作り、各処の味方との通行の便を少しでも良くしていかなければならない。
 そこらに転がっている邪魔な石も、落石、投石用に使えるし、木材はそのまま武器として用いることもできる。作業は吶喊工事で進められたが、ろくな報酬もないというのに、皆、よく激務に耐えて従ってくれた。
 一週間が過ぎる頃。粗末ながらも、砦と称するに足る陣地が出来上がっていたのは、紛れも無く彼らの努力の賜物であった。
 すでに、山の各処には様々な罠が据えつけられており、要所要所には簡易ながらも柵が幾重にも張り巡らされており、容易に敵の侵入を許さない備えになっている。
 十分だ。
 おれが確信をもってそう言えるほど、五台山の砦は、即席とは思えない堅牢さを形作っていたのであった。
 どれくらい堅牢かというと、作戦通り、山砦にやってきた関羽が、
「これほどまでとは……」
 と密かに嘆声を発するほどであった。




 五台山の麓に集結した黄巾賊。その数は3万を越えていた。それは、幽州の県城を包囲していた軍の、ほぼ全てにあたる。
 ここまでおびき出した関羽たちの手腕はさすがというべきだが、おれはそれよりも気になることがあった。
「おーい、孔明ー」
「何ですか、一刀さん?」
 とことことやってくる諸葛亮に向け、おそるおそる問いかける。
「あのさ、敵をおびき寄せる時、おれの案は使ったのか?」
 使っていないでほしい、と切に願いつつ、問いかけるおれ。
 だが、願いとは往々にして叶えられないものであるらしい。諸葛亮は首を横に振ると、きっぱりと言い切る。
「使いました。これでもか、というくらいに」
「さいですか……」
 ああ、これで張角たちに逢った時は、後ろを向いて全力疾走しなければならなくなった。せめて、その時がわずかでも遅くなりますように。


 さて、聞くべきことは聞いたし、今日もしっかり働くとしますか。
「気をつけてくださいね。敵もそろそろ、こちらの数が少ないことに気づいている頃です」
「ああ、わかった」
 諸葛亮の言葉に、おれも頷いて答える。
 これでもか、とばかりに山中に旗を押したてていようと、実際にそこに篭っているのは二百名足らずの兵士と、百に満たない民間人。万を越える兵士に見せかけるには、明らかに限界がある。ちなみに、本当ならば、作戦が功を奏した段階で工作部隊に参加してくれた人たちは全員、山を降りてもらうつもりだった。しかし、今言ったとおり、百名近い人たちが、おれたちと共に砦に残ってくれたのである。
 兵士として戦ってくれる人もいたし、資材として木を切ってくれる人もいた。あるいは柵の修理や、武具の手入れといった仕事を手伝ってくれる人もいた。それがどれだけおれたちにとって有難いことなのか、言うまでもないだろう。
 おれはそういった人たちの中で、特に森林に慣れた人たちと共に、各処で旗を押し立てる役割を担っていた。旗を立てるだけでは、すぐにばれる。そこに生きている人間が動く気配がなければ、敵の目は誤魔化せないのだ。 
 もちろん、これとて前述したとおり、限界がある。誤魔化せるのは、精々、1日か2日というところか。それだけ時間を稼げれば、おれたちの役割は果たせたも同然なのだ。
 だが、しかし。
 どれだけ作戦が上手く行こうとも、戦にあって、犠牲が避けられるはずもなく……





 その日の夜。
 手から伝わる冷たい感触に、思わず背筋が震えた。だが、手を引っ込めることはしない。否、できない。命をかけて戦い抜いた仲間に対して、そんな礼を失したことができるはずはない。
 この日、砦の防衛戦において、敵の手にかかって果てた人数は10名。あれだけの大軍に攻囲されていることを思えば、驚異的とも言える損害の少なさである。
 だが、元々2百名しかいなかった味方の中の10名と考えれば、それがどれだけ大きな損害かは瞭然としていた。おれにとっても、見覚えのある者たちばかりである。関羽の訓練の厳しさを、共に嘆いた夜の記憶が甦り、知らず、肩が震えていた。


 だが、今は戦の最中。人として当然の感情さえ、封じ込めなければならない。
 おれがしている偽兵の細工など、実際に戦場に立つことと比べたら、危険さは比べ物にならない。そんな安全な場所にいるおれだからこそ、味方の埋葬くらい手伝わねば申し訳がたたないように思えるのだ。
 初めて間近で見る死者の顔と、その感触。その屍は、砦からやや離れた場所にあらかじめ用意していた墓所にまとめて葬られる。一人一人、墓を立てて丁重に弔う、などという余裕があるはずもなく、一列に並べられた彼らの上に、土を放っていく。
 葬られるのは、彼らだけではない。屍毒の発生を懸念して、黄巾賊の連中の死者も、まとめてこの場所に葬っていた。
 敵と味方、区別なく葬られていく様は、正直なところ、吐き気を催す光景だった。みな戦場で果てた者たちばかりとあって、綺麗な屍などほとんどない。顔を射抜かれていたり、腹から臓物をはみ出させていたり、糞まみれであったり。なんというか、トラウマになりかねないです、実際。
 だが、これもまた、この時代の真実の1つ。目を背けることは出来るが、それでは今いる場所から一歩も踏み出せない。おれはそう思うのだ。



 全てが終わったのは、夜もだいぶ更けてからだった。
 風呂に入ってすっきり、などという贅沢は無論できない。せめて身体を拭きたいところだが、山砦の篭城戦にあって、水がどれだけ貴重かは言うまでもない。急造の砦とあって、井戸の1つもないのであれば尚更である。 
 こういったことがあるのは覚悟していたので、着替えはあらかじめ用意していたが……うう、着替えても匂いがとれないな。しかし、我慢我慢。どのみち、敵をここまでおびき寄せることが出来た時点で作戦は8割方、完了しているのだ。
 後は、情報を流し、敵の激昂を誘うだけだ。これに関しても心配はいらないだろう。党首を侮辱された黄巾賊の勢いは凄まじく、彼らの怒りは未だ覚めやらないようだ。
 すでに県城では、逼塞していた官軍が包囲を破っている頃合だろう。この状況で、他州からの援軍がこちらの擬態だと知らせてやれば、虚仮にされた黄巾賊の理性はたちまちのうちに蒸発すること請け合いである。
「後は、張将軍たちの奇襲のタイミングが全てだな」
 張飛の武勇と、鳳統の鬼才。この2つがかみ合えば、敵本陣を陥とすことは容易かろう。
 賊将さえ討ち取れば、勝敗はそこで決まる。
 逆に賊将を取り逃せば、数に劣るおれたちは、たとえ山砦に篭ろうとも、じりじりと磨り減らされ、消滅していくことになる。
「頼むぞ……」
 おれは、ここにはいない少女たちの姿を脳裏に思い浮かべ、その姿に向けて、そっと祈るように語りかけた。




 だが、しかし。
「敵の将軍、程遠志、この張益徳が討ち取ったのだーー!!」
 張飛の高らかな宣言と共に、黄巾賊の本陣を襲撃した奇襲部隊から一斉に勝利を確信した雄叫びが、辺り一帯に響き渡る。
 奇襲部隊が接敵してから、ほんの数十分。正しく、鎧袖一触という感じで、張飛は黄巾賊の本陣を粉砕してのけたのである。
 昨夜の切迫したおれの気持ちは何だったんだ、と思わずそんなことを考えてしまうほどあっけない決着だった。袋の中から、物を取り出すにも似た容易さ。
 これならば、真正面から敵軍と対峙しても、余裕で勝てたんじゃなかろうか??


 決戦当日。
 朝日と共に総攻撃を開始した黄巾賊は、山上を目指して猛進撃を続けていた。その様を遠望していた本陣は、勝利の確信を得ていたであろう。だが、不意に後方から巻き起こった砂塵を見て、何事かと彼らが振り返ったとき、すでに張飛を先頭とした部隊は、恐るべき勢いで、黄巾賊の後衛に喰らいついていたのである。
 百名の奇襲部隊は、張飛を先頭に一点突破のための鋒矢の陣を布く。鳳統によって編成された軍は、張飛の武力を剣の切っ先として、無雑作に展開していただけの黄巾賊の本陣を、文字通り力づくで切り裂いていった。そして、時を置かずに響き渡る勝利の歓声と、敵将戦死の報は、それまでの戦況を瞬く間に覆す。
 山上より、作戦の成功を確認した関羽は、すぐさま乱れたつ黄巾賊に向けて逆撃を指示する。
 浮き足立った黄巾賊は、降り注ぐ矢や岩、木材にたまりかね、砦から撤退を開始、すでに本陣が壊乱したことを知る黄巾賊には、踏みとどまるべき理由も、またそれを指示する指揮官もいなかった。
 そして、劉家軍が追撃をためらう理由もまた、存在しなかった。山上から、そして本陣を撃砕した張飛たちが麓から、呼吸を合わせて、混乱を極める黄巾賊を挟撃する。
 この一撃を以って、黄巾賊の指揮系統は完全に崩壊し、万を越える軍勢は、落雷に怯える羊の群れのごとく、算を乱して潰走をはじめたのであった。


 討ち取った敵兵一千名余。降伏した敵兵五千名余。残余はことごとく逃亡した。
 ここに。
 劉家軍は、旗揚げ以来、最初の困難を克服し、幽州の地にその存在を屹立させたのである。
「やったね、みんな!!」
 玄徳様が微笑んで、勝利を祝う。
 その周りには、関羽、諸葛亮、おれ、そして合流した張飛と鳳統が集まっていた。
 おれを除き、この戦の殊勲者ばかりである。
 玄徳様は、時に怖じけそうになる味方の士気を鼓舞し続けた。剣を持って戦う技量は、並の兵士にも及ばない玄徳様だが、それでも常に先頭に立って、味方と共に戦う姿は、おれには眩しいものであった。
 関羽は、臨機応変な戦いぶりで、始終、黄巾賊の大軍を手玉に取っており、その指揮ぶりは堂に入ったものだった。1人の戦士としての武技もさることながら、1軍を率いる手腕もまた卓絶したものであることは、万人の目に明らかであったろう。
 その関羽の補佐として、軍勢を取りまとめた諸葛亮の手腕も水際立ったものであった。
 張飛の武威に関しては言うにおよばず、だ。だが、将帥として軍を指揮する手腕もまた大したもので、張飛を子供扱いしていたおれは、自分の不明をまざまざと感じ取る羽目になってしまった。
 そして、その張飛の傍らで、張飛の武威を完全に引き出した鳳統の智略もまた、見事の一語に尽きる。


 わかりきっていたことだが、改めて、おれは総身で実感していた。
 今、おれと共にいる人たちが、広大な中華帝国において、なお稀有な輝きを放つ人身の竜たちであることを。
 それは紛れもない事実。
 だが、その一方で、その竜たちでさえ、この時、気づかなかったことがある。
 勝利の後にこそ、真の苦難が待ち受けていることを、勝利に浮かれた彼女らは知らなかった。。
 蒼天は已に死す。
 その真の意味を、劉家軍はまもなく知ることになる。
 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 蒼天已死(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/21 08:57
                     



 五台山の戦で、幽州の黄巾賊をほぼ壊滅させた劉家軍は、時を置かずに五台山から移動を開始する。
 目的は県城の包囲を解くことであった。
 すでに県城の包囲を続ける黄巾賊は1千にも満たない数であり、城内の官軍に撃破されているかと思われていたのだが、官軍は罠を警戒したのか、動きが鈍く、未だ黄巾賊は県城を包囲し続けていることを偵察で知ったからだ。


 逃亡した黄巾賊が、彼らに合流するようなことがあれば、元の木阿弥である。
 それゆえ、速やかに行動をしなければならなかった劉家軍は、降参した5千名を越える黄巾賊をことごとく解き放つことにした。これは、捕虜を連れて行動すれば、機動力が削がれることになるという理由の他に、自軍の10倍を越える捕虜を抱えて歩くことの危険性を考慮した結果であった。反乱でも起こされたらたまったものではないから、当然といえば当然である。
 武具や馬などは当然、没収したが、水や食料の一部はそのまま残した。これは、捕虜たちが暴発することを危惧した諸葛亮の提案であり、玄徳様がすぐさま頷いた為、たちまち実行に移された。もちろん、全部を残すようなもったいない真似はしない。しっかりと頂くものは頂いている。黄巾賊が軍中に用意していた軍資金は、今回の戦に費やした費用を補って余りあるし、3万を食わせるための糧食は、一部を捕虜たちのために残しても、まだ余裕があった。県城を解放したら、城内の民衆に配ることも出来るほどだ。
 かくて、捕虜たちを解き放って身軽になったおれたちは、五台山の砦を離れ、一路、県城を目指すことになったのである。


 結果を言えば、この速やかな行動によって、黄巾賊の再集結という事態は避けられた。
 攻囲軍は、すでに本隊の敗北を知っていたようで、おれたちが姿を見せた瞬間から浮き足立ち、矛を交える間もなく、逃げ出してしまったからである。
 先日から、黄巾賊の予期しない動きに不安を高めていた城内の兵士たちは、その有様を望んで、夢かと疑ったが、黄巾賊はもう戻ってくる気配さえ感じられない。
 慌てて、太守の劉焉に報告がなされると、劉焉もまた信じられない面持ちであったが、事実、県城の周囲には、あれだけいた黄巾賊が一兵も見当たらないという。
 どれだけ信じがたくとも、わずか3百の義勇軍に、自分たちが救われたという事実を、劉焉は認めざるを得なかったのである。








 歓声をあげる民衆に迎え入れられた劉家軍の面々は、太守に招かれ、意気揚々とその御前にやってきた。
 だが、しかし。


「そなたが、劉玄徳殿か。わしが太守の劉焉である。此度の貴殿らの援護、まこと感謝の念に堪えぬ。心より、礼を申すぞ」
 群臣が居並ぶ県城の広間で、劉備、関羽、張飛、諸葛亮、鳳統の5人は、劉焉の前で跪いていた。
 劉焉配下の武官、文官が、威圧するように、彼女らを囲んでいる。
 太守の言とは裏腹に、それは城を救ってくれた恩人たちを出迎え、称えるというような暖かい空気ではない。明らかに、劉備たちを厭わしく思い、またそう思っていることを隠さないことで、義勇軍の者たちに重圧を与えようとしているのであった。
 関羽は、すでにこの広間に案内された段階で、そのことを悟り、表情を厳しいものにかえている。諸葛亮と鳳統の2人は、思わぬ展開に、2人で顔を見合わせ、関羽の陰に隠れるように、身を縮ませていた。
 張飛は、この雰囲気に気づかないほど鈍くはなかったが、同時に、この程度の威圧で怯えるほどか弱くもなかったので、堂々とした態度を崩さずにいた。
 そして、劉備は。
「太守様の恩に報じることは、領民の1人として当然のことでございます」
 広間の冷たい雰囲気に怯みそうになる自分を、内心で叱咤しながら、何とか毅然とした態度をとろうと努力していた。
 助けた恩を誇る心算のない劉備にとって、この対応は考慮のほかであったが、劉焉はじめ幽州の役人たちにしてみれば、いたし方のないことであるともいえた。
 自分たちが手も足も出なかった3万の軍勢を、わずか3百の義勇軍が打ち破り、しかもその義勇軍の主力は全て年若い乙女たち。
 権力者としての立場も、男としての矜持もあったものではない。この上、なお彼女らに頭を下げて感謝し、その恩に報じるなど到底できるものではなかった。
 あるいは、劉備が低くとも官職を持っていれば、もう少し違った対応もとれたかもしれないが、劉備は官職を授かったことのない一介の民間人に過ぎない。
 その民間人に出来たことが、州の最高権力者である太守に出来なかったという事実は、今後の統治に大きな悪影響を及ぼすことは必至である。それゆえ、今このとき、太守はその事実をなんとしても打ち消さねばならなかった。



「ところで、劉備殿。劉姓を持つということは、そなたはいかなる出自であるのかな?」
 劉焉の言葉に、劉備は腰の愛剣「靖王伝家」を示し、その由来を口にする。
 すなわち、中山靖王劉勝の血を引く己の血筋と、この乱世を鎮めたいという己の願いを。
 だが。
 真摯な劉備の言葉を聞いた太守たちから帰ってきたのは、高らかな嘲笑であった。
「これはこれは、武勇に優れた義勇軍の長は、冗談を言うのも巧みと見える。確かに、腰の剣はなかなかの業物と見えるが、それをもって自身を太祖の末裔に連なる血筋と称されるとは」
「いかにも。中山靖王・劉勝様と申せば、御子や御孫を含めれば120名を越えるという艶福家であらせられた。その血筋が草莽に隠れる可能性を否定する術はございませぬな」
「いやいや、それは失礼な申しようであろう。玄徳殿が偽りを申しているともとれる言い方であるぞ? かほどに見目麗しい乙女が、そのような無益なことをするはずもあるまい」
「いや、これは失礼いたした。玄徳殿もお気を悪くされないよう。つい、言わずもがなのことを口にしてしまいもうした。何、最近は、不埒な悪行を働く者どもが横行する世の中ですからのう」
 その文官の言葉に、周囲の諸官が笑い声をあげる。
 聞く者の胸を悪くするような、底意のある笑い方であった。


「これ、無礼なことを申すな、皆。玄徳殿は、我らの戦略を読み、その力を貸してくれた大切な協力者であられるのだからな、のう、玄徳殿?」
「え……は、はい、太守様」
 思わぬ問いかけに、周囲の冷たい態度に萎縮しかけていた劉備は、反射的に頷いてしまう。
「姉者!」
「げ、玄徳様?!」
 それを聞いていた関羽と諸葛亮が、咄嗟にその腕を引くが、すでに遅かった。
 劉備の返答を聞いた周囲からは、すぐに太守の言に対する賛同の声が沸きあがっていたからである。
「確かに、我らが黄巾の賊どもを引き付け、疲弊させた末とはいえ、義勇軍が賊徒どもを撃滅したは事実でありますな」
「然り。出来れば、我ら官軍の手で黄巾賊を追い払いたかったところですが……せっかく志を建てて立ち上がってくれた者たちです。手柄の1つや2つ、立てさせてやらずばなりますまいて」
「ふむ、我らも将軍の武勇を久しぶりに拝見できるかとおもっていたので、ちと残念であったが。かような乙女たちでさえ、賊徒を蹴散らすことができたのも、一重に将軍たちの事前の苦労あってのことでありましょうぞ」
 笑いあう武官と、それに追随する文官。それは劉家軍の功績を掠め取る会話であることは明らかで。
 己の不用意な言がその発端となったことを悟り、劉備は思わず声をあげかけた。


 正直なところ。
 劉備にとって、戦での功績など、誰に譲ったところで構いはしなかった。
 それが、最終的に世の中のためになることなら、文句を言うつもりはない。
 だが、それは劉玄徳個人としての考えである。
 軍を率いる者として、命をかけて奮戦した部下に報いるために。命を失った部下と、その家族の想いに応えるために。彼らが命がけで掴み取った勝利を、他者に譲ることなど許されるはずがない。
 しかし。
「玄徳様……今は、我慢してください」
「ご辛抱ください。今となっては、反論をすれば、逆に罰を与える口実になりかねませぬ」
 口を開きかけた劉備を、諸葛亮と関羽が、短く、けれど鋭い口調で押しとどめた。ここで異論を唱えれば、功績を掠め取られるどころか、あらぬ罪を着せられて投獄されかねない。
 それは、劉備も了解するところであったから、開きかけた口を閉じ、悄然と頭を俯かせた。その心中では、己の愚言に対する後悔が渦巻いていた。


 劉備とて、官吏の腐敗を知らないわけではなかった。商いで旅をしていた時も、各地で役人の横暴に悩まされたこともある。
 だが、こともあろうに1州の太守までが、このような真似をしてくるとは想像だにしていなかった。
 民衆のために。そして、平和な世の中のために、命をかけて戦った。大切な配下の命を犠牲として、ようやく掴んだ勝利の末に、このような現実が待っていようとは。
 過大な褒美を望んだわけではない。地位や領土を欲したわけではない。ただ、勝利のために奮戦した仲間たちを労い、2度と黄巾賊に民が踏みにじられることのないよう努めてもらえれば、それ以上を望むつもりはなかった。ただ、それだけの望みさえ、太守様からすれば、僭越と映ったのだろうか。
 下民の分際で、ましてや女の身で、戦いの場に参じたことを不快に思ってしまわれたのだろうか。
 劉備には、わからなかった。



 そんな劉備たちの様子に気づかない風を装い、劉焉が配下の1人を呼び込んだ。
 やってきたその人物は、手に一振りの旗を持っており、それを劉備たちの前に広げて見せた。
 一瞬。
 それを見て、劉備たちの顔に感嘆の表情が浮かぶ。
 緑地の布に、花と竜の細やかな刺繍細工が施され、その中央に「劉」の字が大書してある旗。
 このあたりでは、まず滅多にお目にかかれない最高級のものであることはひと目でわかった。これだけの品は、洛陽の都でもなかなか見つけることはできないだろう。
「此度の功績に対する、そなたたちへの褒美じゃ。これより、そなたたちはその旗を陣頭に立て、逆徒どもを打ち払い、苦しむ民たちを救うてくれい。今この時より、汝ら義勇軍を劉家軍と命名する。太祖も一介の農民より、天下の主となるを得た。劉の姓に恥じない働きを期待しておるぞ」
 それはつまり、今回の劉備たちの働きに、旗一枚をもって報いるということ。地位や領土はもちろん、恩賞として財貨も糧食も与えないという意味であった。
「……はい、ありがたき幸せでございます」
「うむ。それと、中山靖王の末裔であるなどと、軽々しく口にすることはやめたがよいぞ。聞く者によっては、朝廷への反逆を志しているとも、とられかねぬからな」
「……御意にございます」
 重苦しい返答は、普段の劉備を見知る者たちにとっては、まるで別人のように映ったことであろう。
 少なくとも、この場にいた他の4人はそれを悟り、彼女らの主が深い悔いを抱え込んだことを知ったのである。



 退出を命じられた劉備たちは、言葉すくなに県城の中を歩いていた。
 ここにやってくる時は、期待と興奮で胸が苦しいほどであったのに、今はただやりきれない虚脱感が全員の心を占めていた。
「蒼天、すでに死す……まさか、こんな時にこの言葉を思い起こすことになるとは、思いませんでした」
 ぽつりと呟いたのは諸葛亮であった。唇をかみ締め、無念そうに顔を強張らせている。
 蒼天たる後漢王朝の腐敗を、こんな形で目の当たりにすることになろうとは。
 だが、諸葛亮が気にしているのは、そのことばかりではない。太守の仕打ちに憤慨したことも無論あるが、それ以上にこのことを予測できず、劉備たちにあらかじめ注意しておけなかった自分を責めているのである。
「孔明、まだ城内だ。あまり滅多なことを言うものではない」
「は、はい、ごめんなさい」
 諸葛亮に注意を促した関羽だが、その心情は変わりない。功を立てれば必ず報われると信じ込むほど子供ではないが、それでも一州の太守が、ここまであからさまに他人の功績を掠め取るとは考えていなかった。そして、太守の部下たちの中に、それを非とする者が1人としていなかったことも、関羽にとっては不快な事実であった。儒を学び、礼を修めた者こそ士大夫足りえると考える関羽にとって、彼らの態度は唾棄すべきものと映ったのである。
「うー、ご馳走食べられるとおもったのに、期待外れだった。これなら、お兄ちゃんと一緒にいた方が良かったのだ」
「……そうかも、しれませんね」
 張飛の言葉に、鳳統が少し悲しげに微笑みながら、同意の言葉を発する。
 北郷は、大した功績を立てたわけではないからと言って、劉備たちに同行せず、城内の錬兵場で、他の兵士たちと一緒に待機しているはずだった。


 張飛たちの会話で、そのことを思い起こした劉備は、哀しげに視線を落とす。
「一刀さんや、他のみんなには、残念なことを知らせなきゃいけないね……」
 張飛の言葉ではないが、あれだけの大勝利を得た上は、肉を食べ、酒を飲むくらいの楽しみは味わえるものと思い込んでいるだろう。褒賞だって弾んであげなければいけないのだ。
 だが、実際は太守からは旗一本を授かっただけで、他には何一つ得られず、黄巾賊を打ち破って得た物資についても、退出の際、全て返納するよう求められている。
 元々は、みな幽州の民衆より奪った物。幽州の府庫に戻し、民衆のために活用するのは当然という理屈である。
 関羽らにしてみれば、命がけで奪った貴重な物資を、功績を掠め取るような輩に返す義務はないとおもうのだが、劉家軍の主は、民衆の為、という言葉に極端に弱かった。この要請にも、首を縦に振ってしまったのである。
 結果、今回の戦いで、劉家軍は資金も糧食も、地位も領土も何一つ得られず、ただ一本の旗を得ただけが戦果となりそうだった。元々、貯めていた資金も、山砦の構築などでほぼ使い切っており、兵士たちへの報酬すら払えそうにない有様である。
 せめて、亡くなった兵士たちの家族へ送る分は何とかしなければ。
 劉備は俯きながら、そんなことを考えていた。



 一方。
 劉備たちが去った広間では、劉焉配下の者たちが心地よさげに笑みをかわしていた。
「優れた武勇を誇ろうが、所詮は女子供というところですな。こうもたやすくこちらの思惑にのってくれるとは」
「全くです。黄巾賊の大軍を撃滅させた功績に加え、連中の蓄えていた財貨や糧食まで我らに差し出してくれるとは、まったく我らは運が良い」
「とはいえ、さすがにあれでは連中も不満を覚えよう。早めに潰しておくべきかも知れぬな」
「然り。黄巾賊の捕虜を解放したと申しておりました件、つかえますな。黄巾賊と共謀しているとでも言えば、下民たちも疑問を覚えますまい」
「ふふ、よくもそう悪知恵がまわるものよ。恐ろしい方じゃの」
 好き勝手に言論の自由を行使する役人たちの声に耳を傾けながら、劉焉は今後、どう動くかについて頭を働かせていた。
 黄巾賊に敗れたのは痛恨の極みであったが、奇特な協力者たちのお陰で、挽回は成った。あとはこの功績を朝廷に奏上し、更に上の地位を賜るだけである。
 現在、朝廷の実権を握るのは大将軍・何進。だが、宮中で勢力を保つ十常侍をはじめとした宦官も侮れない力を有している。
 劉焉としては、混迷を深める都よりは、豊かな地方の実権を握り、勢力を肥らせたいというのが願いである。だが、そのためには、いずれかの勢力の覚えを良くしなければならない。
 さて、どちらに近づくべきだろうか。
 そんなことを考えていた劉焉の耳に、奇妙な音が響いてきた。


「む……?」
 はじめ、それは耳鳴りにも似た小さな音であった。
 文武の諸官の中でも気づいた者は少数である。
 だが、その音は少しずつ、しかし確実に大きくなっていった。いまや、広間にいる全ての者たちが、不審げにあたりを見回し、浮き足立っている。
「何事か?!」
 劉焉の発した問いに、答えられる者はこの場にいなかった。答えたのは、広間に飛び込んできた衛兵の1人である。
 彼は、叫ぶように主君に向けて報告した。
「も、申し上げます! 城内の民衆が、大挙してこの建物の前に集まっております! いずれも、口々に黄巾賊を撃破した劉備殿らの名前を声高に連呼しておるとのことです!!」
 その報告を聞き、広間の役人たちの顔に動揺が走った。





「玄徳様、ありがとうございます、あなた様のお陰で、幽州は救われました!!」
「おお、あれが関将軍か。わずか数百で、数万の賊軍を打ち破った女将軍だ! なんと麗しいお姿か」
「きゃー、孔明様、可愛いーー♪」
「おいおい、賊将を討ち取ったってのは、あのおチビちゃんなのか。なんてこった、大の大人がぶるぶる震えている間に、あんなちっちゃな子を戦わせてたのかよ」
「士元様、こっちむいてくださーい! というか、お顔をもっとみせてくださーい!」
 

 浮かない顔で太守の館から出てきた途端、劉備たちは驚きで目を丸くすることになる。
 目の前には人、人、人、とにかく人。老若男女を問わず、数えることさえできない人波が、幽州の救い主をひと目見ようと、大挙して押し寄せてきていたのだ。
 はじめは呆然としていた劉備たちだったが、民衆たちの熱気と感謝の念が本物だとわかると、思わず頬をほころばせていた。
「はわわ、す、すごい人の数です! やっぱり、民はきちんと、見るべき人を見ているのですね」
「孔明の言うとおりだ。我らがやったことが決して間違ってはいないということを、彼らが教えてくれているな」
「うん……うん! そうだよね、愛紗」
「あ、あわわ、は、恥ずかしいです~……」
「おー、すごい人の数。そだ、さっきもらった旗を振ってみるのだ!」
 張飛が思いついたように、抱えていた大旗を大きく振り出した。
 劉の字が大書された旗は、降り注ぐ陽光の下、燦々たる光を放ち、眩しいばかりの輝きで、それを見る民衆の目に焼きついていく。
 図らずも張飛の行動は、民衆の感情の高まりを沸点に到達させる契機となり。
 あたりは、凄まじいばかりの活気で満ち満ちていったのである。









 人々にもみくちゃにされながら、ようやく玄徳様たちが錬兵場にたどり着くと、そこもすでにお祭り騒ぎの真っ最中であった。
 というか、ここはさらに酷かった。すでに所狭しと立ち並ぶ酒瓶の山。食い散らかった料理の皿が、足の踏み場もないほどで、あたりでは歓喜を爆発させた民衆と肩を組んで騒ぐ劉家軍の兵士たちの姿がそこかしこに見受けられたからだ。
 そして、酒で顔を真っ赤にした者が、ここにも1人。
 ……すみません、おれのことです。
 目の前の女性と酒を酌み交わしていたおれは、玄徳様たちの姿を見て、大慌てで立ち上がった。
 そんなおれに向けて問いかけてくる玄徳様。
「か、一刀さん、あのこれは一体??」
「げ、玄徳様?! あー、いや、これには色々と浅くて軽い理由がありまして……」
 おれが、やや呂律のまわらない口調で言い訳しようとすると、関羽がおれの服の襟を掴み、ぐいっと身体ごと持ち上げた。
 借りてきた猫状態のおれ、手も足も出ません。にゃー。
「浅い上に軽いのか?! ふざけていないで、きちんと説明してもらうぞ」
「あっはっは。まあ落ち着いてください、将軍」
「おまえは落ち着きすぎだ、ばかもの!」
 言葉を荒げる関羽だが、その顔は言葉ほど怒ってはいなかった。民衆と共に喜びにひたっている兵士たちを見て、怒鳴るに怒鳴れないので、とりあえずおれに疑問をぶつけてみただけらしい。
「お兄ちゃん、ずるいーー! 鈴々もご馳走食べたかったのだー!」
「案ずるな、張将軍。すでに第2陣の手配は終えてある。援軍はすぐに参るぞ」
「おおー、さすがお兄ちゃんなのだ!」
「ふはは、天才軍師と呼びたまえ。ああ、そうそう、本物の天才軍師さんたち」
 そういって、おれはお祭り騒ぎに参加したくて、うずうずしているっぽい軍師2人に視線を向ける。ふ、まだまだ子供よのう。
「甘味屋さんは、あっちに来てたぞー。張将軍、突撃せよー」
「鈴々、行きます、なのだー!」
「は、はわわ、張将軍、まってくださいー?!」
「あうう、朱里ちゃんも待って~?!」
 たちまち駆け出す張飛と、慌ててそれについていく諸葛亮と鳳統。
 3人の姿はたちまち人ごみにまぎれ、おれの視界から消えてしまった。



「ふふ、賑やかなことですな」
 そういって、含み笑いをもらしたのは、今までおれと一緒に酒を飲んでいた女性である。
 その頬は、これまで飲んでいた酒量に比して赤くなっていたが、切れ長の目に宿る怜悧な光は、酔っ払いのそれではない。先刻などは、長い髪を躍動させながら、持っていた長槍で舞を披露し、人々に喝采を浴びていた。
 関羽は、ひと目で眼前の人物が只者ではないことに気づいたのだろう。おれに問いかける視線を送ってきた。ちなみに、まだおれを持ち上げたままです。さすがは82斤の青竜刀を軽々と操る関雲長である。
 それはさておき、この人の名前……名前は、えーと、何だったっけ? というか、おれは何でこの人と差し向かいで飲んでたんだ?
「いや、何、それがしが貴殿に興味を覚えたので、近づいたまでのこと。他意はござらんよ」
「そうですか。まあ、美人と飲む機会なんて皆無ですし、有難いことにかわりは……って、なぜ首を絞める関将軍?!」
「他意はない」
「絶対、嘘だッ?!!」
 殺る気満々の様子の関羽に、思わず絶叫するおれ。
 傍らでは、玄徳様が口を出すこともできず、あわあわと慌てていた。


 関羽の腕に囚われ、玄徳様の慌てる姿を見ているうちに、不意に強い眠気が襲ってきた。
 冷静に考えれば、飲みなれていない酒を、目の前の人物に負けないペースで飲み続けていたのだ。ぶっ倒れるのは時間の問題だったのである。
 かくて、おれは関将軍に持ち上げられつつ、がくりと脱力する。
「お、おい、北郷殿?!」
「……おやすみなさい、関将軍」
「こ、こんなところで寝るんじゃない、っておい、こら、倒れるな! 抱きつくな! きゃーッ?!」
 慌てて、おれを地面に下ろした関羽だが、すでに眠りの園へ旅立ちかけていたおれの身体は、倒れるように目の前の関羽の胸に倒れこんでいた。
 とっても柔らかい感触と共に、なんだか、関羽の女の子らしい悲鳴が聞こえてきた気がしたが、気のせいだな、きっと。うん。
 ぐー。





 完全に眠りに落ちた北郷を、臨時に割り当てられていた宿舎に運び込んだ関羽たち。
 あたりの騒ぎは一向に静まる様子を見せず、それどころか、これから宴もたけなわ、という感じであった。
「まったく、なんでこんなことになっているのだ。鈴々たちも真っ先に参加してしまうし、こやつはさっさと倒れるし。まったく、みな心構えがなっておらん」
 心持ち、頬を赤くした関羽がぶつぶつ文句を言うと、劉備が微笑みながら宥めにまわった。
「まあまあ、愛紗。皆、楽しそうだし、良いことだよ。あんなに頑張ったんだから、これくらい騒いでも罰はあたらないと思う」
「それは、無論、それがしもそうは思いますが、おのずと節度というものが」
 なおも文句がありそうな様子の関羽に、横合いからからかうように声がかけられる。
 何故か劉備たちについてきた、先刻の女性であった。
「ふふ、黄巾賊の大軍を撃破した、音に聞こえし関雲長殿も、案外、話のわからぬ堅物であったのかな?」


 む、と表情を硬くする関羽。
「話のわかるわからぬではない。何事も節度は必要だと申しておるだけだ」
「それを人は堅物と呼ぶのだよ」
 楽しそうに笑いつつ、自前のものとおぼしき酒を呷る女性に、関羽は厳しい眼差しを向けた。
「そなたこそ、なぜここまでついてきたのだ? かなりの武芸の持ち主と見受けるが、目的は何だ?」
「さきほども言ったであろう。そこで寝こけている者に興味があったから、と。最初は、幽州を陥落させる寸前であった黄巾党を、わずか数日で壊滅させたという義勇軍をひと目見ようと思っていただけだったのだが、な」
 女性の物言いに、自然と関羽の目が細くなる。
「つまり、我らの偵察が目的というわけか?」
「率直に言ってしまえば、そうなるかな? だが、それは私自身の興味からくるもの。ここで見たことが、何処の者であれ、貴殿らの敵に漏れることはないと思われよ」


 その女性の言葉に、ここで劉備が会話に加わった。
「あなたの興味、ですか?」
「ああ。近頃、幽州の官軍が敗れ、黄巾賊が暴れまわっているとの話を聞き、天譴をくらわせんものとやってきたのだが、到着してみれば、すでに黄巾賊は蹴散らされた後だという。しかも、それを成したのが正規の訓練を受けた部隊ではなく、草莽より立ち上がった義勇軍だというではないか。興味を持つなというのは酷であろう?」
 関羽が厳しい表情を崩さず、口を開く。
「だから、酒を飲むフリをしつつ、様子を窺っていた、というわけか」
「否。形だけ酒を飲むなど、酒と、酒を造った者に対して礼を失する行い。心底飲んでおったよ。近頃、これほどに心浮き立つ酒も珍しいゆえな」
 再度、杯を呷ると、女性はくすりと微笑む。
「野に蔓延る匪賊どもには力を示し、官に巣食う貪官汚吏には知恵で対する。乱世の膿を、かくも見事に料理するとは、痛快の極み。今頃、幽州の太守殿も、苦虫を噛み潰している頃合でしょうな」

 
 その女性の言葉を聞き、劉備と関羽は互いに視線を合わせた。
 問いかけたのは劉備の方が先であった。
「待ってください。官に対する、とはどういう意味ですか?」
「おや?」
 劉備の問いに、不思議そうに女性は首を傾げた。
「そこに寝ている者が、民に貴殿らの義勇軍の話を広めていたのを、ご存知ないのか? てっきり、義勇軍として計画していた作戦だと思ったのだが」
 部屋にいた3人の視線が、期せずして一箇所に向けられる。平和そうに眠りについている、北郷一刀の顔に。


 聞けば。
 北郷は劉備たちが城に招かれると、すぐに黄巾賊から奪った糧食の一部を炊き出して、民衆に配ったのだという。
 包囲下にあった城内では物資が不足しており、飢えに苦しんでいる者たちは少なくなかった。ただでさえ解放の喜びに沸き立っていた城内の民衆は、劉家軍の行動に歓喜の声をあげ、錬兵場のあたりは、たちまちのうちに、人波でごったがえす有様となった。
 そこで語られる戦の顛末。
 劉備の徳。関・張の2将軍の武。諸葛・鳳の2軍師の智。乙女たちの活躍は、民衆の心と、そして胃袋にしっかりと刻まれ、その圧倒的な戦果とあいまって、たちまちのうちに城内に知れ渡っていく。
 戦の話を聞きに来る者。解放の礼を言いに来る者。飢えに苦しんでいる者。
 それら全ての民衆に伝えられた劉家軍の偉功は、否が応にも彼らの熱を高めずにはいなかった。まして、それを成したのが、可憐な乙女たちとあっては、なおさらである。
 かくして。
 城内での策謀とは異なる次元で、劉家軍の活躍は既成の事実として確立され、幽州はもちろん、中華の各州に伝えられていくこととなるのであった。




「もしかして、一刀さん……?」
「まさか。読んでいたというのか?」
 聞かされた北郷の行いに、劉備と関羽は顔を見合わせる。
 城内での顛末を知るはずのない北郷は、しかしこれ以上ない形で、太守たちの策謀を覆してしまったことになる。
 勝利を喧伝するだけでなく、食料と共に、彼らの胃に功績を沁み込ませるあたりは狡猾とも言えるやり方だ。これでは、後から太守がどのような布告をしようとも、民衆は素直に信じることはないだろう。
 すなわち、劉家軍の功績を掠め取ることは、もはや不可能となったのである。
 北郷が、それを意図してやったのかどうかは、本人に聞くしかないのだが。
 疑問形を使いつつも、しかし、2人はすでに半ば以上、確信していた。
 劉備たちの懊悩を吹き飛ばした、民衆の歓呼の声。それをもたらした者が、誰であるのかを。


 だが。
「それだけでは、あるまいな」
 女性は語る。
 もし。
 この状況を意図して作り上げた者がいるならば、それを利用することで、更なる高みを目指すだろう。民を飢えさせる者に、民の上に立つ資格はない。黄巾賊に成す術なく敗れた劉焉を放逐し、県城を奪取することも、今の劉家軍には決して不可能ではないのだから。
「はじめ、ここに来たのは、それを危惧したからでな。悪辣な輩であれば、まだ芽の出ないうちに摘み取る心算だったのよ」
 それが杞憂であることは、劉家軍の様子を見れば明らかだったがな、と女性は他意のない様子で肩をすくめた。
 無論、劉備たちはそのような真似をするつもりはない。北郷とて、そこまでする心算はないだろう。劉備の人柄を知る以上、そんな謀略を肯定してもらえるはずはないことはわかっているはずである。


 だから、もし彼に底意があるとしたならば。
 それは、太守らが強行策に出ようとした場合の選択肢を、作っておくことにあったのかもしれない。
 劉備たちの功績を妬んだ官軍が、劉備たちを捕らえたり、あるいは劉家軍を放逐しようとする可能性もないではなかった。
 だが、ここまで状況を作ってしまえば、そんな行動を取ることは難しくなる。仮にその上で強行しようとすれば、その時は力づくでその策謀を跳ね返す。それだけの素地が、民衆を味方につけた今の劉家軍にはあるのだ。
 もちろん、全ては偶然であり、たまたま北郷がやったことが、そういう結果に繋がったにすぎないのかもしれないのだが……




「さて、と」
 聞くべきことを聞き、語るべきことを語ると、女性は静かに立ち上がって、劉備たちに向かって会釈をした。
「それがしは、このあたりで失礼するといたそう。良き酒を飲ませてくれたことに感謝する」
 そして、そのまま、隙のない動作で部屋を出て行こうとするが、不意に立ち止まった。
「そうそう」
 そういって、劉備たちに向きなおる女性は、自分の迂闊さに苦笑しながら、言葉を続ける。
「そういえば、まだ貴殿らには名乗っておりませなんだ」


 女性は劉備たちと向かい合う形で、口を開いた。
「我が姓は趙。名は雲。字は子竜。常山真定の産にて、英主を求めて諸国を旅しております。この地で、貴殿らと言葉を交わせたのは望外の結果でありました」
 その女性――趙雲は、芍薬のように匂いたつ笑みと共に、その名を口にしたのである。  



 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 燎原大火(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/22 22:49
  


「む~」
 何やらうなりつつ、難しい顔で、眉を顰めている姉を見て、張梁は怪訝そうに問いかけた。
「姉さん、どうかしたの?」
「人和~、お茶が美味しくないよ」
「そう? 都の大商人が差し入れてくれた最高級の茶葉のはずだけど」
 張梁は首を傾げ、自分の分のお茶をすする。うん、良い香り。
「確かに香りは良いんだけど。ステージが終わったばかりなのに、こんなに熱いお茶を飲みたくない」
「……ああ、なるほど」
 要するに、お茶を淹れてくれる人に気遣いが足りないのが、姉にはお気に召さないらしい。
 前任者は、こういうときは飲みやすいように温めに淹れ、それが飲み終わるとすこし熱めに、更にそれを飲み終わると、ようやくいつもと同じ熱さのお茶を持ってくる奴だった。
 気が利くのか、如才ないのか、いずれにせよ姉のわがままを細大もらさずフォローしてくれる重宝する人物であったのだが、彼が消えてこの方、この類の問題の処理は、また張梁の仕事に戻っていたのである。
 張梁はそっとため息を吐きつつ、口を開く。
「仕方ないでしょう。新しいマネージャーは、姉さんの傍にあがって、まだ日が浅いのだから。良師様の傍仕えということで、まだまだ緊張してるのよ」


 その言葉に反論してきたのは、張角ではないもう1人の姉の方だった。
「そう、それよ! 一刀の奴、まだ見つからないの?! 折角、使い物になってきたってのに姿を消すなんて。また雑用やら何やら、他の奴に仕込まないといけないなんて、嫌だよ!」
「だから、探してはいるって、何回も言ってるでしょ。でも、見つからないのだから、仕方ないでしょう。例の襲撃の時、死体はなかったって言うから、死んでいないのは確実だし、その上で戻ってこないなら、あいつの意思ってことでしょ」
 自分でも気づいていなかったが、そう言う張梁の顔は、とても不機嫌そうだった。それは何度も同じことを聞いてくる姉に対するものか。いなくなった北郷へ対するものか。
 だが、彼女の姉はそんなことは気にもとめず、なおここにはいない人間の弾劾を続けていく。
「あっりえない!! 今をときめくアイドルたちと、四六時中一緒に過ごせる幸せを、自分で放棄するなんて! いえ、それよりも! このあたしを捨てて、他の女にうつつを抜かすなんて、たとえ天が許しても、この地和様が許さないわ!」
「……まるで、恋人に捨てられた女の台詞だわね、地和姉さん」
 あと、北郷が女と逃げたのが確定事項になっているのはどういうわけだろう、と張梁は疑問に思う。もっとも、姉の思考回路が導き出した結論だろうから、気にすることはないか、とすぐに疑問を忘却したのだが、実はそれがある意味で正鵠を射ているのだとは露知らなかった。


「こうなったら、一刀の奴の人相を大々的に張り出して、大捜索網を布くのよ! 黄巾党の全員を動員すれば、あっという間に見つけられるわ!」
「却下」
「なんで?!」
「あのね、地和姉さん。私たちしすたぁずが人相まで書いて『この男の人を捜してます♪』なんてやってごらんなさい。好きな人でも出来たか、それとも恋人に逃げられたか、そんな邪推されるに決まってるでしょ。男がいるアイドルなんて、ファンがついてきてくれると思うの?」
「う、それは……」
 張梁の冷静な指摘に、言葉を詰まらせる張宝。
 だが、すぐに何事か思いついたように、手を叩く。
「で、でも、マネージャーが逃げたって本当のことを言えばいいじゃない」
「……あのね、たとえ本当のことでも、邪推する人は絶対出てくるし、何よりそんなこと言ったら、一刀の奴、黄巾党の連中に殺されるわよ。間違いなく」
 尊敬し、崇拝する党首姉妹の傍仕えから逃げ出した男。それを追いかける姉妹。
 それを知ったファンが激昂する様が目に見えるようだった。
「うは~、そりゃそうね。死んだら文句も言えないし、結局マネージャーをまた1から鍛えなおさないといけないしね。この案は没にしとこう」
「そうして頂戴。それに、もうそういう気配がないわけじゃなかったから、もしかしたら、一刀もそれで逃げたのかもしれないわ」
 眼鏡の位置を直しつつ、張梁はかすかに肩を落とす。
 現在、黄巾党が行っている横暴については、2人の姉よりもはるかに正確に知悉している張梁は、自分たちが利用されている現状も把握してはいた。
 だから、すでにそれとない監視の目が自分たちに向けられているのも察していたのである。
 その目が、自分たちの傍近くに仕えていた北郷をどう見ていたのかなど、改めて考えるまでもないだろう。
 張梁としても、そろそろ何か手を打たねば、と考えていた矢先のことだったのである。党員たちは、死者の中に北郷の姿はなかった、と言っていたが、もしかして、という疑念はずっと張梁の胸奥に巣食っていた。


 だが。
「大丈夫大丈夫。一刀は死んでなんかいないよ、人和」
 ずずっと、ようやく飲み頃になったお茶をすすりつつ、何故か確信がありそうに言う大賢良師。
「ど、どうしたの、姉さん、急にそんなこと言って?」
「んー? 何か人和が恋する乙女の顔してたから、一応言っとこうと思って」
「こ、こッ?! そんな顔してません! そりゃ確かに一刀の奴の心配はしてましたけど」
 慌てて、姉の言葉に首を横に振る張梁を見て、張宝もにやりと微笑んだ。
「ふふーん、あの人和がね~。そういえば、ずいぶんと一刀にくっついてたもんね」
「あれは全部仕事のためです! それを言うなら地和姉さんだって、一刀をあっちこっち連れまわしていたじゃないッ?!」
「あ、あれは、私も仕事のためよ! 私たちのユニットを更に大きくするためであって、別に一刀と一緒に出歩きたかったわけじゃないわ!」
 ぎゃあぎゃあと言い争いをはじめた妹たちを見て、張角はいつもと同じほんわかとした笑みを浮かべた。
「2人とも、照れない照れない。女は恋をして一人前になっていくのよ……って、太平要術の書にも書いてあったしね」
『どんな本なの、それ?』
 張角の言葉に、それまで言い争っていた2人は、綺麗に声を揃えて、張角に突っ込みを入れる。
 張角は人差し指を顎にあてつつ答えた。
「えーと、太平の世を生きるために必要な術を学ぶ書物、だったかな?」
『意味ないよ、それ』
「えー、そうかなあ」
 妹たちの息の合った突っ込みに、張角はちょっと不満そうに頬を膨らませた。 
「でも、ほら。失せ物探しのお呪いなんかも載ってるよ。これを使えば、なくした物は必ず手元に戻るでしょう、だって」
 どこから取り出したのか、太平要術の書を取り出す張角。
 張梁はほとんど期待せず、その方法を訊いてみる。
「で、どうやるの、それは?」
「えーとね、まずは藁人形を用意して、そこに五寸釘を突き立てて、思いを込めて、こう、カツーンッと力任せに、トンカチで叩くと良いって書いてある。よーし、人和、一刀って書いた藁人形を用意して。一刀が安心して戻ってこられるように、お祈りしないとね♪」
「……姉さん、わざと間違った場所を読んでるでしょ?」

 



  
  
 
 何故か、突然、全身に寒気が走った。
 な、なんだ、今の尋常じゃない鬼気は?!
「ど、どうしたの、一刀さん?」
 慌てて左右を見回すおれを見て、玄徳様が心配そうに問いかけてくる。
「あ、いや、なんか急に寒気がしたので。き、気のせいか、な?」
 正直、とても気のせいとは思えないリアリティだったのだが、その後は特に何もない。何だったんだ、一体??


 とはいえ、すぐに得体の知れない鬼気などに拘っている場合ではないと思いなおした。
 幽州の危機を救った劉家軍は、皮肉にも、その功績ゆえに幽州から逐われることになってしまったからである。
 理由は単純。大きすぎる功績を挙げたゆえに、幽州の人心が、太守よりも玄徳様の方に向けられてしまったのである。もちろん、大殊勲者の玄徳様を文字通りの意味で追放することなどできない。そんなことをすれば、それこそ民衆の怒りに火をつけるようなものだ。
 その意味で、太守・劉焉は狡猾だった。あるいは、老獪だった。先の戦いで、官軍が疲弊していることを理由に、劉家軍に対して、他地方への援軍を依頼してきたのである。
 黄巾賊が暴れているのは、幽州だけではない。そして、そういった地方では、劉焉が黄巾賊を壊滅させたことを知るや、こぞって援軍を求める使者を寄越し、劉焉は、それを劉家軍に押し付けた、というわけである。
 うーむ。功績を横取りできなかったからといって、陰湿な奴め。これで太守というのだから、世も末だな。もちろん、そんなこと、口に出してはいえないけど。


 そして、そういった裏の意味を意に介せず、人々の為になるのなら、と即座に承ってしまうのが、劉家軍の主だった。
 そんなわけで、おれたちは数日の休養の後、県城を離れ、征途に就いたのである。向かうは、黄巾党の大軍が展開している并州である。この地は北方騎馬民族と境を接する地であり、元々、治安のあまりよろしくなかったこともあり、黄巾の混乱も一際大きいのだという。
 そんなところに、装備もろくに整っていない義勇軍を送り込むあたり、劉焉の狙いは明らかだった。
 もっとも、さすがに劉家軍だけでは援軍を差し向けられた方も納得しないと考えたのか、およそ2千ほどの官軍も同道している……まあ、見るからに嫌々ついてきているだけとわかるのが、苦笑を誘うところであるが。


 もちろん、劉家軍にとって朗報もある。
 1つは兵員の増強。劉家軍の大勝利と、玄徳様や関羽たちの勇名を慕って、劉家軍に参加を望む者が、幽州各地から引きも切らずにやってきたのである――まあ、もっとも、その多くが関羽の訓練ではじかれたのだけどな。相変わらずの鬼教官ぶりであった。
 それでも、新たに加わった5百の兵員を加え、劉家軍の総勢は8百近い数となった。もっとも、数だけ増えても軍隊としては意味がない。武具や軍馬がなければ戦うことすら出来ないし、糧食が尽きれば飢えに悩まされることになる。
 このあたりは、太守から多少――というか、むしろ些少だった。ケチだなー、とつぶやくおれに反論する者は誰もいなかった――の援助があったが、それ以上に助かったのが、城内の住民や、あるいは商家から献上された物資だった。これにより、増員分も含めて、劉家軍はとりあえずのところ、軍隊としての形を保つことができていた。


 ただ、残念なことが1つ。
 おれが目を覚ました時、趙雲がすでに立ち去っていたことである。
 玄徳様たちも、引きとめはしたようだが、趙雲なりに思うところもあるらしく、今は劉家軍に加わることはできない、と謝絶したそうだ。
「縁があれば、いずれまた、相会う機会もあるでしょう。願わくば、歴史の大舞台で見えんことを」
 そういうと、趙雲は颯爽と立ち去ってしまったらしい。
 むむ、今の段階で仲間になってくれれば大助かりだったんだけどな。酔っ払う前に、彼女が趙子竜だとわかっていれば……って、無理か。玄徳様が誘って、それでも断ったとなれば、やはりなにがしかの理由があるのだろう。おれが口ぞえした程度で、意見を翻す人ではあるまい。


 冷静に考えてみるに、後の有名どころたちも、この時代はまだ主を得ていない人も多いはず。あるいは、今のうちに人材を捜し求めてみた方が良かろうか。張遼とか、少し遠いが太史慈とか、このあたりだと徐晃とかもいたっけな。
「うーむ……とはいえ……」
 おれの知る歴史とは随分違うし、おれの知る人物が男か女かもわからない。そんな当てのない状態で人捜しをするのは時間の無駄のような気もする。仮に捜しあてたとしても、一介の義勇軍に彼らが魅力を感じるとも限らない。玄徳様の言うことも、聞く人が聞けば、夢想にしか思えないだろうしな……
 張遼なんかは、関羽と意気投合しそうな気もするが、それも推測だ。いずれにせよ、未知の人材を捜し歩くというのは、雲を掴むような話であるのは間違いない。
 それに、まだ人材不足で悩むような時期でもない。むしろ、今の劉家軍の人材は、中華の諸勢力の中でもトップクラスであるのは間違いないのだから、現段階では勢力の伸張を優先する方が良いだろう。


 と、そんなことを考えていたおれの耳に、不意に遠くから鬨の声が響いてきた。
 慌てて周囲を見渡してみるが、敵影はない。どうやら、劉家軍とは別の場所で、誰かが戦っているらしい。
「申し上げます!」
 関羽が放っていた斥候が、馬を飛ばして駆けつけてくる。
「何事か」
「は! この先の丘を越えた草原で、黄巾党と、官軍らしき旗を掲げた一軍が交戦しております。官軍の旗には『董』の文字が!」
「董、か。その姓の将軍に心当たりはないが、黄巾党と戦っているのなら、助勢せねばなりますまい」
 関羽は、玄徳様に問う眼差しを向け、玄徳様はしっかりと頷いてみせる。
 それを受け、関羽は傍らにいた張飛に視線を向ける。
「鈴々、先陣は任せる」
「了解なのだ!」
「よし、全軍、前進せよ!」
 関羽の号令に、兵士たちは力強い雄叫びで応えた。





 董卓軍・本陣。
 黄巾党の猛攻に晒されている董卓軍の本陣では、軍師の賈駆が、突出した武将を声高に罵っていた。
「えーい、しつっこい奴らね! まったく、華雄のバカはどこまで敵を追って行ったのよ?!」
「わ、わかりません! すでに先鋒との連絡は断たれております!」
 賈駆はその報告を聞き、歯軋りしつつ、周囲の兵士に指示を下す。
「円陣を組みなさい! 援軍が来るまで、月(ゆえ)に指一本触れさせるんじゃないわよ!」
「詠ちゃん、私は大丈夫だから……」
「いいから、月はじっとしてなさい! まったく、華雄の奴、あれだけ深追いはするなって言ったのに、まんまと敵の策略に嵌まって、月を危険な目に遭わせるなんて! 帰ったら車裂きにしてやるわ!」
「え、詠ちゃん、それは言いすぎだよ……華雄さんだって、一生懸命戦ってくれてるんだから」 
 む、と董卓に強い視線で見つめられ、賈駆は頭に血が上っていた自分に気がついた。
「う、うん、ごめん、言い過ぎたかも」
 それを聞いても、董卓の視線は緩まなかった。
「かも、じゃないよ?」
「ごめんなさい、言い過ぎました」
「ん。よろしい」 
 にこりと微笑む董卓の顔に、賈駆はほっと安堵の息を吐く。普段は大人しい董卓だが、それだけに怒らせてしまうと、鎮火が大変なのである。


 だが、ほっとしたのも束の間。賈駆は今の状況を思い出して、我に返る。
「……って、ほのぼのしてる場合じゃない! ああ、もう、こんなことになるなら、奉先か、文遠を連れてきたのに!」
 董卓が率いる并州の精兵は、錬度において黄巾賊とは比較にならない。だが、いかんせん、今、この場にいるのは少数であり、敵の伏兵の半分以下の数であったため、精強な并州兵といえど、徐々にその損害を大きくしていた。
 このままでは、じきに本陣まで押し込まれるだろう。それまでに、先鋒として突出してしまったバカ華雄が帰ってくれば良いのだが、下手をすると、まだ敵の狙いに気づいていない可能性すらある。
 董卓に怒られないように、胸中で華雄の悪口を言いつつ、打開の策を練る賈駆の耳に、不意にこれまでとは異なる喚声が響く。


「華雄が帰ってきたの?!」
 賈駆の問いかけに、近くにいた兵士たちは顔を見合わせた。彼らにとっても、予期しない事態だったのである。
「えーい、誰でもいいから報告を持ってきなさい!」
 当惑する周囲の者たちには構わず、賈駆は声高に命令する。
 その声が聞こえたわけでもあるまいが、賊軍と刃を交えていた部隊から報告がもたらされた。
「申し上げます! 敵、黄巾賊の背後より、『劉』の旗を掲げた一軍が攻撃を開始! おそるべき勢いで黄巾賊を蹴散らしつつあります!」
 遠目にも崩れたつ敵兵の姿が、その兵の言葉を肯定していた。
 その様を遠望しつつ、賈駆は首を傾げる。
「劉、というと、幽州の援軍かしらね。にしては、数が少ないし、装備もばらばらのように見えるけど……」
 不審な点はあったが、絶好の機会であることもまた確か。
 賈駆は素早く決断を下す。
「総員、円陣を解き、魚鱗陣を布け! 援軍と歩調を合わせ、黄巾賊を蹴散らすぞ!」
 先刻までの不利を覆す絶好の機会を得て、董卓軍は、軍師の命令と共に、喚声を挙げて突撃を開始する。
 劉家軍の奇襲に混乱した黄巾賊は、両者の挟撃にたちまちのうちに陣形を引き裂かれ、瞬く間に崩れていった。






 劉家軍と董卓軍の挟撃により、黄巾賊は蹴散らされた。
 助けられた形となった董卓軍からの使者に招かれ、玄徳様たちは董卓軍の本陣にやってきたのだが……


 ああ、やっぱり来るべきじゃなかったか。おれは内心で深いため息を吐いた。
 董の旗を掲げているという時点で、予想はしていたのだが、やはり官軍は董卓の軍勢だった。
 あの悪名高い董卓が、素直に劉家軍に感謝の念を寄せるとは思えず、出来れば玄徳様たちは来てほしくなかったのだが、仮にも官軍の招きである。応じなければ、それはそれで問題にされてしまうだろう。
 そして、眼前では、おれの危惧したとおりの展開になりかけていた。
「義勇軍、というと、官軍ですらない雑民の軍か。これは礼など言う必要はなかったようだな」
 傲然と胸を張って言うのは、賈駆と名乗った少女だった。その隣の椅子には、座っているべき人の姿がない。雑民の軍などに顔を見せるのも嫌だということか。
 魏の軍師として名高い賈駆が少女であったということには、今更驚かないが、権高なその口調に、おれは当たってほしくない予想が当たったことを悟った。


 玄徳様たちの顔も、強張っているように見える。前回の劉焉の時と同じく、助けたはずの相手から、かくも礼のない言葉を返されたのだから、それも当然の反応だった。
「幽州の太守殿も酔狂なことをされる。雑民の軍を援軍として他州に派遣するなど、礼をわきまえないことおびただしいな。あまつさえ、女子供のみの軍など、笑止のきわみ! これは、朝廷に報告の必要がありそうだ」
 玄徳様は何か言おうと口を開きかけたが、結局、何も言えずに口ごもった。下手に反論をすれば、また相手の嘲弄に晒され、引いては仲間たちに迷惑がかかると考えたのだろう。
 その玄徳様の様子を薄笑いで見下ろした賈駆が、さらに何事か口にしようとする。
 関羽と諸葛亮が、同時に顔を上げた。さすがに、これ以上の雑言に耐える必要はないと考えたのだろう。
 場の空気が張り詰めたように凍りつく。
 どちらかが口を開けば、その瞬間、緊張は音をたてて弾け飛ぶだろうことは明らかだった。


 だが。
「え~~い~~ちゃ~~ん~~?」
 不意に場に響く、可憐な声……なのだが、今は身震いするような威迫が感じられる。
 おれたちには聞き覚えのない声だった。
 しかし、眼前の賈駆には覚えがあるものだったらしい。
 ビクリッ、と硬直するや、だらだらと滝のような冷や汗を流し始めた。あ、身体がぶるぶる震えてる。
 相手の突然の変化に、おれたちが戸惑っていると、天幕の奥から、静々と1人の少女が姿を現した。
「……ふえー、綺麗な子なのだ」
 張飛がびっくりしたように呟くと、劉家軍の面々が同時にうんうんと頷いた。
 人形みたいな子、という形容があるが、正しくそんな感じだった。にこりとおれたちに微笑む様子は、おれの中のまもってあげたい子リストの上位入賞確定、という感じである。
 その顔に、怒りマークが浮いていても、その可憐さは少しも損なわれてはいなかった――訂正、ちょっとだけ損なわれてた。代わりに、別の魅力が付加されていたけどね。


 絶賛動揺中の賈駆が、かろうじて口を開く。
「ゆ、月、これは、そのあなたの為を思って……」
「詠ちゃん」
 何やら言い訳を試みている賈駆に対して、月と呼ばれた少女は、ただひと言、相手の名を呼んだ。おそらく賈駆の真名なのだろう。
 驚いたことに、ただそれだけで、あの賈駆が凍りついたように舌の回転を止めた。
「は、はい」
「皆さんに、謝って」
「で、でも、月。民衆に頭を下げるなんて、私たちの格が下がってしま……」
「謝って」
「あ、う……」
「謝りなさい」
「……はい」


「部下が失礼なことを申し上げてしまい、お詫びのしようもございません。お腹立ちのこととは思いますが、どうかお怒りを鎮め、私たちの謝罪と、御礼を受け取っていただけないでしょうか」
 少女は、そういって深々と頭を下げる。
 頬を膨らませながらも、賈駆がそれに追随する。
 おれたちを代表する形で、玄徳様がそれに応えた。
「あ、その、怒ってなんていませんので、お気になさらないでください」
「では、お許し頂けるのでしょうか?」
「は、はい、もちろんです」
 若干、しどろもどろになりながらも、玄徳様はそういって、相手に頭を上げるように頼んだ。
 少女は、安堵したようににこりと微笑むと、傍らの賈駆を促す。
「ありがとうございます。ほら、詠ちゃんも」
「う……あ、ありがとう。失礼なことを言って、ごめんなさい……」
 いかにも不平です、というふくれ面をしながらも、賈駆も何とか謝罪を言い切った。


 あー、もしかして、と思うんだが。
 賈駆が従っているということは、つまりこの女の子は。
「申し遅れました。私の姓は董、名は卓、字は仲頴と申します。この度は、危ないところを救って頂き、本当にありがとうございました」
 名乗り終えると、少女は静かに微笑みつつ、もう一度、深々と頭を下げて、謝意をあらわした。




 董卓、董卓ね。えーと、つまりなんですか。この子がいずれ皇帝を殺し、皇后を殺し、洛陽を焼き払うということか?


 断言しよう。
 ありえん!




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 燎原大火(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/01 12:04
 
 



 後漢王朝の帝都・洛陽。
 河南西部、すなわち黄河中流域に位置する大都市であり、人口、文化、さらには1国の帝都としての繁栄ぶりは、中華帝国随一であった。それは欧州が未だ未開の地であるこの時代において、世界随一の都であることを意味する。
 東に虎牢関、西に函谷関という不落の砦を持ち、洛陽自体も高く厚い城壁に囲まれた要塞都市という一面も併せ持つ。
 北は并州、幽州に通じ、東は青州、徐州に至る。西を向けば雍州、涼州を望み、南に目を向ければ、荊州、揚州を視界に収めることが出来る。
 つまるところ、中華各地に兵を発するにおいて、河南ほど便利な場所は少ないのである。それゆえ、旧くから、河南一帯は兵家必争の地とされ、幾多の血が流されてきた。
 兵争と策謀の果てに後漢王朝を興した光武帝が築き、繁栄を謳歌してきた洛陽の都は、しかし、今、長すぎる繁栄の末に爛熟の時を通り越し、腐敗へと至ろうとしていた。
 否。都市自体に罪があろうはずはない。
 罪あるとすれば、それは都市に住まいし卑小なる人間たちの手に帰されるべきものであった。




「忌々しい宦官どもが。大将軍たる余を蔑ろにして、政務を牛耳ろうとするとは」
 煌びやかな官服をまとった巨躯の男は、宮殿から出た途端、そう吐き捨てた。
 後漢王朝において大将軍の位を有する何進。今上帝の皇后何氏の異母兄にあたり、その縁故をもって瞬く間に大将軍の位まで駆け上った人物である。
 だが、政敵である宦官たちから、陰で「豚殺し」と罵られるように、低い身分から立身出世を成し遂げたこともあって、多くの敵を抱える立場でもあった。
 黄巾の乱においても、自身は都である洛陽から動かず、配下の将軍たちを派遣して鎮圧に努めていたが、未だ目覚しい成果は得られていない。
 正確に言えば、最近、黄巾賊の主力である将軍が1人、幽州の地で討ち取られたとのことだが、宮殿にいる者たちにしてみれば、その程度で欣喜雀躍できるはずもない。せめて、党首どもの中の1人でよいので、首を得たいところであった。
 すでに、一向に進まない乱の鎮圧に業を煮やし、宮中でも何進を弾劾する声があがりはじめており、何進も自身の地位に安住していられる状況ではなくなりつつあった。


 血縁で成り上がったとはいえ、何進とて、全くの無能というわけではない。その程度の状況判断は出来るのだが、ではどうするか、という点になると、ぴたりと判断が止まってしまうのである。
 自身が鎮圧に赴くというのは論外だ。都を留守にすれば、残された宦官どもが何をするか、わかったものではない。だからこそ、配下の将軍たちを派遣したのだが、いずれも大した戦績はあげられていない。
 次の一手をどう打つべきか。
 考え込みながら、大将軍府に戻ってきた何進は、なおも懊悩を消せずにいた。
 その何進に向けて、一人の部下が発言する。
「おーほっほっほ! 閣下、何やらお悩みのようですわね!」
 周囲の視線が、高笑いを発した人物に向けられる。
 姓は袁、名は紹、字は本初。河北に本拠を有する豪族、袁家の当主である。
 袁家は三公を輩出した名門中の名門であり、その影響力は大将軍である何進に勝るとも劣らない。常の何進であれば、誰よりも先に排除すべきと考えるのだが、実は当代の袁家の当主は女性であった為、別の思惑あって、好きにさせているのであった。


 簡潔に言えば、いずれ妻として閨房にいれるつもりだったのである。本人の権高な性格はいただけなかったが、その容姿は優れていたし、何より名門袁家の影響力、兵力を丸ごと手に入れられるのだから、その程度の欠点は目を瞑らねばなるまい、と何進は考えていた。
 そんな思惑もあって、女性の身である袁紹を、自身の側近として重用していた何進は、むげに袁紹の発言を遮るわけにもいかず、聞くだけは聞こうと耳を傾けた。


 その発言が、止めようもない燎原の大火を招こうとは露知らず。


「簡単なことですわ。発想を転換すればよいのです」
「なに、どういうことだ?」
 袁紹の思いもよらない言葉に、何進は目を瞬かせる。
「閣下にとっての真の敵は、黄巾の賊などではなく、卑しい宦官どもでしょう? であれば、宦官さえ排除できれば、別に賊徒など放っておいても構わないでしょう。手柄欲しさに、下民どもが勝手に征伐してくれますわ」
「簡単に言うがな、宦官どもは宮中で勢力を保っておるし、自分たちの武力さえ握っている。何より、皇帝陛下は彼奴らの手中にあるも同然。大将軍府の兵力だけでは、手出しはできぬ」
「ならば、大将軍の命令として、各地の将軍や領主たちを洛陽に召し出せばよろしいではありませんか。黄巾退治のためと言えば、宦官たちも邪魔はできないでしょう? そして、諸侯があつまったら、この私が――名門袁家の当主である、この袁本初が、彼らの兵力をもって、宦官ごとき、残らず洛陽からたたき出してさしあげますわ!」


 おーほっほっほ、と再度の高笑いをあげる袁紹。  
 対する何進は、真剣な表情で考え込んだ。
 袁紹の案は、あるいは、稀有の名案かもしれない。確かに賊徒討伐のためと触れれば、宦官どもも邪魔はできまい。現状、どれだけの諸侯が集まるかは何ともいえないが、集まる兵力は、少なくとも数万は下るまい。それだけの兵力があれば、宦官など恐れるに足りないし、宦官を放逐した後、黄巾の賊徒を狩りつくすこともできよう。何より、何進自身の力が削がれないところが魅力的だ。
 それに、諸侯を都に誘い出せば、どう料理するも何進の思いのままである。何進は成り上がりであるがゆえに、宮中での権力はあっても、固有の武力に不足があるのは否めない。重代にわたる家臣がおらず、家自体の兵士もいないからだ。だからこそ、宦官たちに対して、自身の武力で挑むことを躊躇っていたのである。
 だが、参集した諸侯を取り込み、あるいは排除して、彼らの武力を奪うことが叶えば、名実ともに、何進が王朝の主宰者となれるだろう。
 栄耀栄華を謳歌し、漢朝の偉大な臣下として、歴史に名を刻むことも。否、今上帝の愚劣さを思えば、それ以上を望むことさえ出来るだろう。


 この時。何進は未だ届かぬ栄光の蜃気楼に、視界を染められてしまったのかもしれない。
 袁紹の案をただちに受け入れ、各地に使者を発する何進の眼差しは、熱に浮かされたように定まらず、その身体は落ち着きなく揺れ動いていた。 
  



 ……そんな何進を、冷ややかに見つめる視線があった。
 大将軍府の末席。会議においても、発言を許されない下級士官たちの一画から、主たる大将軍に侮蔑の眼差しを送っているのは、一人の少女であった。
「言う方も愚かだけれど、それを聞き入れる方は、更に愚かだわ。各地の諸侯の野心に、わざわざ火をつけて回るなんて、正気の沙汰とも思えないけれど」
 そう言いながらも、少女は気づいていた。自身もまた、野心に火を点した群雄の1人であることに。
 瞳に煌く覇気を隠すため、やや顔を伏せながら退出する少女は、今後の動きに思いを馳せる。
「徳望無き王朝の命令に応じて、根拠地を手薄にしても参集するか否か。それだけで、おおよそ、その者の志操は察することができるわ。今は草莽に隠れている者たちも、時を得て、その姿を現すことになるでしょう……私のようにね」


 少女の目には、自らの前に切り開かれた道がはっきりと映っていた。
 はるか先、時代さえも超えて、無限に続くように見える、その道こそ天道。
 自ら望むと、望まざるとに関わらず、その天道を駆けていくことこそ、我が天命か。
 乱世に生を受け、起たざるは匹夫匹婦に異ならぬ。
 大将軍府を出た少女は、天空を仰ぎ見る。すでに夜の帳が降り、輝ける星々が、まるで人々の命運を興味深く見つめるように、地上に向けて煌きを発している。
 星たちの視線を浴びて、少女は足を止め、静かに口を開いた。
「良いでしょう。この私の生き様、存分に御覧なさい」


 その眼差しに、猛々しき覇気を漲らせ、少女は、誰1人見る者もいない舞台の上で、高らかに宣告する。
「我が姓は曹、名は操、字は孟徳。我は天道を歩む者――天命は我にあり。この地に、天上の煌きと等しき輝きをもたらす者」
 その口から紡がれるは、乱世を終わらせるという天への誓い。そして。
「さあ、英雄諸侯よ。この戦乱の世で、共に舞おうではないか!」
 未だ見えぬ敵手たちに対する、曹孟徳の宣戦布告であった。









 思いもかけず、董卓軍と良好な関係を築いた劉家軍は、董卓軍と共同して并州の黄巾賊を討伐する――筈だった。
 だが、その予定は、都からの使者がやってきたことで一変する。
「董将軍に申し上げます! 大将軍閣下より、至急、都に戻るようにとの命令です!」
 あまりにも突然の命令に、あの賈駆がしばし呆然としたほどであったという。
 慌てて問いただすと、何やら都で動きがあったらしく、大将軍である何進が各地の兵力を集めようとしているらしい。その目的は、さすがに教えてもらえなかったが、賈駆にしても、その情報をおれたちに教えたのは、最大限の好意だったのだろう。
 大将軍の命令である。董卓軍に拒否権があるわけもなく、また拒否する理由もなかった。むしろ賈駆の目を見れば、何事か企んでいることはひと目でわかった。
 また、董卓の意思を無視して、暴走しないと良いのだが。


 その董卓は、突然の命令変更によって、この地の黄巾討伐をおれたちに押し付けることになることを何度も謝罪してくれた。
 もっとも、それを恨むほど狭量な人間は、劉家軍に居はしない。むしろ、せめてものお詫びに、と自軍の物資を大量に供与してくれた董卓には感謝しなければならないほどであった。
 これには賈駆があまり良い顔をしなかったが、少なくとも面と向かって反対はしなかった。賈駆なりに申し訳ないと思う気持ちがあったのだろう。
「それでは、縁がありましたら、またどこかでお会いしましょう」
「ほら、月。早く行くよ! ああ、あんたたちも、精々死なないようにね!」
 丁寧に頭を下げる董卓と、その董卓を急かしながらおざなりに挨拶をする賈駆。
 2人は、自軍を引き連れ、南へ――洛陽へ向けて去っていった。ちなみに、突出していた先鋒部隊は、別方向から洛陽へ向かうらしい。なにがしかの策略を練っているのだろう。まあ、おれたちには関係のない話だが、な。



 さて、そんなわけで旗揚げ以来、もっとも裕福になった劉家軍の面々は、手ごろな場所に布陣すると、哨戒を立てて食事を摂ることにした。
 ちなみに、他所から劉家軍にやってきた兵士たちが、訓練や規律以外でもっとも驚くのは、劉家軍の食事の美味しさであった。
 参加当初から、食事に力を入れてきたおれにとっては、満足すべき反応と言える。
 無論、高価な食材や、珍奇な香辛料など使えるはずもないから、美味しいといっても、他所の軍隊と比較して、という前提がつく。だが、幽州での勝利後、補給部隊の一部に、調理専門の人材を抱えて以後は、これまでささやかであった食事への評価は、うなぎ上りとなっていた。
 本来なら、もっと早くそうしたかったのだが、最初にこれを提案した時――楼桑村で義勇軍に参加した当初――は、関羽のみならず、諸葛亮からも控えめではあったが、否定の意見が出され、あえなく没になってしまったのである。まあ、ただでさえ台所事情の厳しい劉家軍であれば、当然といえば当然のこと。
 ついでに言えば、それに相応しい人材も見当たらなかったということもある。いくら料理上手とはいえ、まさか玄徳様の母君をお連れするわけにもいかんかったし。


 だが、さすがに幽州の県城ほどの規模の都市であれば、募集をかければ、その道に優れた人材を見つけることは出来た。財政的な厳しさは旗揚げ時とは大してかわっていなかったが、名乗り出てくれた者たちも、劉家軍のお陰で命が助かったとあって、報酬に関して欲を出したりはしなかったのである。
「うん、美味い美味い」
「はい! 一刀さんが何度も食事の改善を主張してた理由がやっとわかった気がします」
 諸葛亮が舌鼓を打ちつつ、すこし申し訳なさそうにおれを見る。控えめだったとはいえ、幾度も反対をしていたことを気に病んでいるのだろう。
「だろ? やっぱり食事は気力の源だしな。今の時代、食べることが出来るだけで贅沢だけど、どうせ食べるなら美味しい方が良いだろう」
「……は、はい。こんな風に、兵の皆さんの士気を保つやり方もあったんですね」
 ふうふうと匙に息を吹きかけ、粥を冷ましていた鳳統が、尊敬の眼差しでおれを見つめてくる。
 その横で、一心不乱に匙を動かしていた張飛が顔を上げ、満面の笑みでおれを称えてくれた。
「うん、お兄ちゃん偉い!」
「ふはは、もっと褒めたまえ、諸君」
 わざとらしく調子に乗るおれに、横合いから微妙に不機嫌そうな声。
「別に北郷殿が作っているわけでもあるまい。褒めるなら、料理人たちをこそ、褒めるべきだろう」
 相変わらず、おれに厳しい関羽であった。
「それはそうですね。3杯もお代わりしている関将軍は特にお礼を言わないと、あ、4杯目でしたっけ、それ?」
 ぶ、と食事を噴出しそうになる関羽と、それを見て笑みをもらす一同。
 頬を赤くした関羽が、ぶつぶつと言い訳じみたことを口にする。
「し、仕方あるまい。厳しい軍務を努めていれば、腹が減るのは自然の摂理というものであって、決して私の食い意地がはっている訳では……」
「あはは、愛紗が頑張っているのは、みんなわかってるから、大丈夫だよ」
 にこにこと微笑みつつ、場をフォローする玄徳様。
 いつもの楽しい食事風景は、しかし唐突に終わりを迎える。


「も、申し上げます! 劉将軍はいらっしゃいますか?!」
「何事か!」
 声高に玄徳様を探す声を聞き、関羽は立ち上がって、そちらに歩み寄る。
 姿を見せたのは、劉家軍の兵士と、もう1人、幽州の官軍の士官が同道していた。たしか、おれたちと一緒にここまで来た官軍を率いる将軍の1人であったはずだ。
 その将軍は、無表情におれたちに告げた。
「我ら幽州勢は、これより県城に帰還する」
「どういうことですか。あなた方には、私たちと同じく、この地の黄巾賊を討伐するようにという命令が出ていたはずです」
 諸葛亮の問いかけに、将軍はまたも無表情に口を開いた。
「太守様じきじきの命令だ。大将軍より、各地の官軍に参集命令が下され、太守様はそれに応じられた。すでに幽州各地に展開していた官軍にも同様の命令が下っているとのことだ。黄巾賊なぞに構っている暇はなくなったということだな」
 ここで、はじめて将軍の顔に表情が浮かんだ。露骨な嘲り。
「無論、民草を救うというそなたらに同道は願わぬ。太守様も、貴殿らは自由に行動してよいとの仰せであった。これより先は、我らと袂を分かち、貴殿らは貴殿らの道を進まれよ」
 では、これにて。
 将軍はそういうと、ようやく不快な任務から解き放たれるとばかりに、足早に去っていった。


 突然の状況の変化に、しばし、誰も口を開けなかった。
 ……おれ1人を除いて。もとい、おれと張飛の2人を除いて。
「何事かと思えば、そんなことか」
「敵かと思ってびっくりしたよ。さあ、続きを食べるのだ!」
 おれたちはそういうと、元の場所に座り込んで、飯の続きを口に入れていく。
「あ、あわわ、あの一刀さん、そんなことって……」
 珍しく、最初に口を開いたのは鳳統だった。その顔には、不安の色が濃い。
 劉焉の狙いが、この危急の事態を利用して、劉家軍を切り捨てることにあることは明白であった。
 加えて、これまでは、まがりなりにも太守の命令という権威があったが、これからはそれがなくなる。それらを考え、不安を覚えているのだろう。
 だが。
「士元、劉家軍の目的って何だ?」
「え? そ、それは、民衆を助け、乱世を終わらせること、です……」
「うん。じゃあ、このまま官軍の走り使いをやっていれば、それは達成できたと思うか?」
「あ、え? あの、それは……あうう……」
 答えは出ているが、口には出せない。そんな感じで、鳳統は俯いてしまった。
 おれはその頭に手をやると、安心させるように軽く頭を撫でた。
「ごめんごめん、意地の悪い聞き方だったな。つまり、遅かれ早かれ、この軍は、幽州とは決別しなきゃならなかったってことだ。問題はそれが何時か。どちらから切り出すか、くらいしかなかったんじゃないかな」
 あちらにしてみれば、こちらの名声と人気が目障り。
 こちらにしてみれば、あちらの旧態依然の腐敗ぶりと妬みが足枷となる。
 むしろ、下手に長期に渡って、そんな歪んだ関係を続けるよりは、ここらで決別しておいた方が後腐れがなくてラッキーなくらいではないか。


 おれの言葉自体、別に特別なものではない。他の人たちだって、多かれ少なかれ、同じような考えは胸中にあっただろう。
 ただ、劉家軍の面々は、基本的に人が良く、官や地位に対する尊崇の念が強いから、たとえそういった考えを持っていたとしても、表立って言おうとはせず、あるいは自身でも気づかないようにしていた可能性もある。
 特に玄徳様なんかは典型だろう。
 あらかじめ覚悟していたことならともかく、唐突に官軍から突き放される形となり、動揺を禁じえないようだ。まあ、滅びつつある漢王朝を復興させる、という目的で立ち上がった人たちが、官軍なんか気にしない! とか考えていれば、それはそれで問題だから、仕方ないことではある。

 おれの台詞に、関羽などは気難しい顔をしていたが、言われてみて気づいたのだろう。
 別に官軍の後押しがなくても、劉家軍はこれまで何らかわりなく存立できるということに。
「つまり、鈴々はお代わりをしても良いということか?」
「おう、どんどん食え。幸い、董将軍から物資だけはたっぷりもらったし、しばらくは凌げるだろう」
「おう、どんどん食うのだ!」
 さらにスピードを速める鈴々の匙の動き。
 それを見て、関羽がため息を吐きながらも、元いた場所に座り込んだ。
「まったく、おまえたちは……」
 とか言いながらも、ちゃっかり食事を再開する関雲長。
 つられたように、諸葛亮と鳳統も席に戻る。
 そして。


「玄徳様」
「あ、は、はい! 何ですか、一刀さん?!」
 硬直して立ち尽くしたままの玄徳様は、おれの声に我に返り、直立不動で振り返る。
 その玄徳様に、はい、と粥の入った碗を差し出すおれ。
 玄徳様は、戸惑いながらもそれを受け取った。そんな玄徳様に一言。
「腹が減っては戦は出来ぬ」
「え?」
 きょとんとする玄徳様。
「人間、暗くて寒くて空腹では、ろくな考えは浮かびませんから。食べられる時に食べておくのも、1つの戦ですよ」
 官軍が洛陽に集えば、それだけ治安は悪化する。黄巾の輩だけじゃなく、他の野盗や、あるいは野心家たちにとっては、絶好の機会になることだろう。この軍がやるべきことは山積しているのである。
 これまでと同じく、義勇軍として、そういった輩を征伐していくのか。あるいは、この軍なりの根拠地を手に入れるために動くのか。
 いずれにせよ、立ち止まっている暇はない。それだけは確かだった。


 おれの言葉に、じっと聞き入っていた玄徳様は、小さく、けれどしっかりと頷いた。
「うん、そうだね。これからどうするかを決めるためにも、しっかりと腹ごしらえをしないとね」
「そのとおりです……もっとも、誰かさんみたいに食べすぎは良くないですが」
 誰かさんに聞こえないように、小さく呟くおれ。
 小さく噴出す玄徳様。
 だがしかし。
「ほほう……誰か、とは誰のことだ、北郷殿?」
「げ」
 ゆらりと、目で見えるほどの闘気をまとって立ち上がるは、黒髪の猛将。
「い、いや、何のことでしょう? 誰も関将軍は、食いしん坊だとは言ってないですよ!」
「……」
「あまつさえ、その細腕で、青竜刀を振り回す怪力の謎は、日々の食事量に隠されていたのか、なんて微塵も思っていな……ひぃッ?!」
 それまでとは比較にならない裂帛の殺気を浴びて、おれの全身が硬直する。あー、なんだ、その、関将軍、実は怪力って気にしてたの?
「だ……れ……が……」
 一秒ごとに膨れ上がる殺気。なんだか大気が震え、地面が鳴動しているような気さえする。


 全身が叫んでいた。
 逃げろ、さもなくば死ぬ、と。
 その警告に従おうとした瞬間、関将軍の青竜刀が閃光のごとく閃いた。


「怪力かーーーーーッ!」
「ひぃぃああああーーーー?!」

 


「おー。お兄ちゃん、空を飛んでるのだ」
「はわわ、ど、どこまで行くんでしょう?!」
「あわわ、救助部隊を編成しないと?!」
「あ、愛紗ちゃん! だ、駄目だよ、落ち着いて! とどめを刺しに行っちゃだめだったらーー?!」




 そんな騒ぎの中心から、やや離れたところで、一人のんびり茶を飲む簡擁。
「ふむ。虎の尾を踏みなさったか、北郷殿。口は災いのもとでござるよ」
 ずずっと茶をすすりつつ、やれやれと立ち上がる。さすがにこれ以上ほうっておくのは気がとがめたのである…… 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 燎原大火(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2008/12/25 01:01



 各地の諸侯に対し、黄巾賊討伐の為と触れ、召集を命じた何進であったが、その真意は彼らの兵力を利用して、宮中に巣食う宦官の勢力を一掃することであった。
 だが、その秘中の狙いを、宦官たちは洞察してのける。宮中で生き抜く彼らが、政敵である大将軍府に密偵を置かないはずは無い。
 何進は密偵の潜入には神経質なほどに気を使っていたので、大将軍府の密議が外に漏れるなど考えてもいなかったが、何進が目を配っていたのは、精々、下士官までであり、小者や下働きを含めた膨大な数の使用人を総攬することまで考えてはいなかった。そして、そんな隙を見逃す宦官たちではなかったのである。
 この点、何進には明らかな限界があり、また政敵である宦官たちの能力を軽んじていたことも否定できない。もっとも、これは何進に限った話ではなかった。
 宮廷の士大夫たちは、宦官への侮蔑を根強く抱き続けており、宦官たちはそんな士大夫たちに対して敵意を持っていた。
 両者の争いはしばしば表面化し、党錮の禁(とうこのきん)をはじめとした混乱を招き、王朝の土台を揺るがし続けているのである。


 何進と宦官の争いもまた、その1つであったとするならば、この戦いは宦官に軍配があがったことになる。
 霊帝に召しだされた何進は、自身の策謀が漏れていたとも知らず、宮中に足を踏み入れ。
 そして、待ち構えていた宦官たちによって、あっさりとその命を奪われてしまうのである。
 一介の屠殺業から、大将軍の地位まで上り詰めた人物の、あまりにもあっけない最後であった。


 だが、洛陽を、そして中華帝国全てを巻き込むことになる大乱の、それは序章に過ぎなかった。


 何進の横死を知った将軍たちは、最初、呆然とし、次いで激昂した。中には、演技でそうしている者もいたが、それと悟られることはなかった。
 彼らは諸侯の集結を待たず、それぞれの手勢のみを率いて宮中に乱入する。
 宦官たちは、何進の死後、配下の将軍たちの襲撃を予測しており、手を打ってはいたのだが、襲撃側を率いる袁紹の愚直なまでに突撃一筋の指揮と。
「おーほっほっほ! 宦官ごとき、この私の敵ではございませんわ!!」
 それと対照的な曹操の卓越した用兵に幻惑され。
「正面から相手をしてやる必要はないわ。弓兵隊、斉射三連。その後、騎兵に横撃させなさい。宦官の抱える私兵ごとき、それだけで片付くわ」
 宦官側の手勢は瞬く間に打ち破られてしまったのである。 


 袁・曹をはじめとする武官たちの乱入により、宮中は大混乱に陥っていたが、中でも最も慌てふためいたのが、霊帝である。
 霊帝自身は、皇后である何氏を疎んじているわけではなく、したがって何氏の異母兄である何進暗殺を肯う理由もなかった。何進暗殺は、諸侯の兵が都に参集するまえに先制しようとした宦官たちの策謀による。もっとも、事が成された後、宦官たちに詰め寄られれば、首を縦に振ったであろうことは間違いないだろうが、この段階では霊帝は、何進暗殺に何ら関与してはいなかった。
 だが、霊帝は何進配下の武官たちの狙いが自分であると思い込んだ。実情はともかく、本来、宦官は皇帝の臣下である。その臣下が大将軍を討ったとあれば、上位者である皇帝の命である、と考えるのは当然のことだったからである。


 転げ落ちるように帝座から離れた霊帝は、騒ぎを聞いて参じた宦官たちと共に、混乱を極める宮城を抜け出すことに成功する。
 この時、袁紹は宮中に残っていた宦官の追討に夢中になり、また曹操は皇后何氏、そして皇太后董氏の下を訪れ、今回の兵乱が漢王朝に弓引く意図のないことを説明していた為、皇帝の脱出を止めることがかなわなかったのである。
 2人とも、まさか皇帝が、皇后、皇太后を置き去りにし、帝都を捨てるとは夢にも思っていなかったということもあった。


 洛陽を離れた皇帝の一行が、北に向かったことに、確たる理由はなかった。たまたま、そちらに馬首が向いたからというに過ぎない。
 もし、彼らが異なる方角に逃げていたのなら、この後の歴史は、また違った方角へ流れていったかもしれない。
 だが、全ては推測であり、可能性の内に留まる夢想に過ぎぬ。
 現実として、皇帝一行は北へと向かい。
 そして、北から洛陽を目指す兵馬の一団と遭遇することになる。
 その兵馬の先頭に掲げられたは『董』の文字。
 劉家軍と別れ、一路、洛陽を目指した董卓の軍勢であった。




「こ、皇帝陛下が……ッ?!」
 部下からの知らせに、賈駆はしばし絶句する。それほど、予想外の知らせだったのである。
 隣にいた董卓も、驚きの余り、言葉が出ない様子だった。
 だが。
「ただちに陛下をこちらにご案内……いいえ、私たちが出るべきね。月、行くわよ」
「う、うん、詠ちゃん」
 賈駆の決断は速かった。
 月の手を握ると、引きずるような勢いで天幕の外へ出る。
「え、詠ちゃん、ちょっと痛いよ……」
 転げそうになりながら、何とか賈駆について歩く董卓の声は、しかし、珍しいことに賈駆の耳に届いてはいなかった。
 賈駆の頭は、目の前に転がる千載一遇の機会を、いかに料理するべきかで占められていたからである。


 賈駆の目には炎のような激情が躍り、この後の展開と、採るべき最良の行動を懸命に見定めようとしていた。
 そして。
 どこかうそ寒い雰囲気を漂わせる、そんな賈駆の後姿を、董卓は不安げに、じっと見つめていたのである……







 根拠地を 持たない軍は 根無し草
   花は咲かずに 実は実らずに

               作 北郷一刀


「……我ながら暗い作品だな、おい」
 なんとなく、思いついたままに歌ってみたが、人に聞かせられないので没。
 というか、この時代で俳句や狂歌が理解できる人など、おれくらいしかいないか。
 とはいえ、こんな作品がふと思い浮かぶくらいに、劉家軍のこの先の見通しは暗い。
 今もまた、義勇軍を抜ける連中を見送ったところであった。1人2人ではない。10人や20人ですらない。実に300人以上の脱退者が出たのである。


 理由は簡単。事実上、劉家軍が幽州軍から離れた為に、幽州で加わった新参の兵士たちが、離隊を願い出てきたのだ。彼らにしてみれば、幽州を救った戦果を見て、劉家軍の将来が明るいと考えたのだろう。いずれは玄徳様は将軍に迎えられ、自分たちもその下で栄華を味わえる、とでも思っていたのかもしれない。
 だが、あにはからんや、劉家軍は官軍と決別し、流浪の軍と化してしまった。彼らの多くは幽州に家族がいる。一時の勢いで義勇軍に参加したものの、今後、いつまで続くともしれない流浪の軍路に、その身を託そうとは思えなかったのだろう。確認したわけではないが、おそらく、官軍からの誘いもあったろうと思われる。


 本来であれば、このような勝手を許しては軍隊は成り立たない。彼らは別に参加を強要されたわけではなく、自分たちの意思で義勇軍に加わったのである。1度や2度の戦いで、前途を悲観して離脱したいなどといえば、罰を与えられても文句は言えないところだった。
 だが、言うまでもないが、この軍の主は玄徳様。戦いたくないという人々に、武器を持たせて死地に踏み込ませることを肯うはずはなかった。
 さすがに関羽などは渋い顔をしていたが、おれは特に文句を言うつもりはなかった。玄徳様がそういう方だということはわかっていたことだし、何より、おれ自身、戦いを拒否しているという点では、彼らと同じなのだから、居丈高に責めるような真似ができるはずもない。


「まあ、下手に戦意のない兵士たちを抱え込むよりはましなのかな」
 現実は現実として、問題を処理することが、今のおれの役割である。
 劉家軍の兵力は、これで500人を割ってしまったが、逆に言えば、これだけ不安定な義勇軍に、幽州で参加した500名の中、200名以上が残ってくれたことになる。
 玄徳様の理想に共鳴し、関羽たちの武を信じ、この小さな義勇軍に、命を託すに足る何かを見出してくれた人たちが200名もいる。あるいは、これこそ、他の勢力から見れば信じがたい出来事かもしれなかった。
 残った者たちは、信頼できる戦力として今後も力を尽くしてくれることは明らかだ。
 となると、問題はこの後、どう行動するかということだった。


 黄巾党を征伐し、勢力を蓄えるというのも、1つの手段である。だが、それも幽州以外、少なくともこのあたりの太守である劉焉の影響力が少ない場所で行う必要がある。下手に勇名を馳せれば、今度こそ、官軍が敵にまわる可能性があるからだ。
 他州へ赴くのも方途ではあるが、この場合にも、その地の官軍との関係が問題となる。幽州と同じ轍を踏んだりしたら、目も当てられない。
 適当な拠点を得て、そこを根拠地として勢力を広げるという手もある。隋末唐初の大乱で、勇名を馳せた瓦崗軍みたいな感じで。
 ただ、それだと朝廷からは賊扱いされるだろうから、漢王朝の復興という目的とは合致しなくなる、という問題もあった。ただ勢力が肥ればよいというのでは、玄徳様が正義を掲げて起った意味がなくなってしまうしな。
 となると、1番良いのは、理解ある官軍の下で、劉家軍が動きえる状況を作ることだろう。まあ、たとえ一時とはいえ、あの劉玄徳を配下に抱えるだけの将器の持ち主なんぞ、そこらにいるはずもないのだが。
 おれはそう考え、頭を抱える。
 だが、しかし。
 その苦悩は、次の瞬間、実にあっさりと解決されることとなるのであった。



「申し上げます、玄徳様にお会いしたいと仰る方がたずねておいでなのですが、いかがいたしましょうか?」
 おれをはじめ、劉家軍の面々が考え込んでいる最中、そんな報告がもたらされてきた。
 関羽が訝しげに訊ねる。
「姉者に、か? いずこの者だ?」
「は、御使者は、幽州遼西郡の太守である公孫賛様の配下であると名乗っておられます」
 その名を聞いて、玄徳様が驚いて立ち上がった。
「伯珪様から?! すぐにお通ししてください」
「了解しました!」
 その兵士は立ち去ってまもなく、今度は1人の使者を伴って現れた。
 そして、その使者は、おれたちにとって正真正銘の吉報を携えていたのである。








「やあ、玄徳。久しぶりだな。大層な活躍をしてるようじゃないか。学友として鼻が高いよ」
 数にして300を越える白馬のみの騎馬の一軍。その中から、1人、駆け寄ったその女性は、白馬から降りると、玄徳様に手をあげて、闊達に挨拶してきた。
 幽州は遼西郡の太守である公孫賛であった。
 聞けば、かつての玄徳様の学友で、同じ師について学びあった仲なのだとか。
 玄徳様にそういわれてから、おれもはじめて、そのことを思い出した。迂闊。
「お久しぶりです、伯珪様」
 丁寧に頭を下げる玄徳様を見て、公孫賛は慌てて、両手を左右に振って、玄徳様に顔をあげるよう伝える。
「ああ、やめてくれってば。玄徳に、伯珪様、なんて呼ばれるとくすぐったくて仕方ない。昔どおり、伯珪で良いよ」
「で、でも、太守様に向かって、それでは……」
「何いってるんだい。噂は色々聞いているよ。黄巾賊と戦って敗北を知らぬ劉家軍。あのいけ好かない劉焉の城では、数にして百倍を越える敵勢を打ち破ったとか。あの心根の優しい玄徳が、まさか、とは思ってたんだけど」
 そういって、公孫賛は玄徳様の周りにいるおれたちを見つめ、にこりと微笑む。
「満更、噂倒れってわけでもないようじゃないか。その精鋭を率いる将軍が、そんな自信のないことでどうする? なにより、あんたは中山靖王の血を、つまりは太祖の血を継ぐ人物なんだ。郡太守ごときに、へこへこする必要はないだろ?」
 自身のことならともかく、配下の将兵を称えられ、それを否定するようなことはできない。
 そんな玄徳様の性格を衝くあたり、さすがはかつての学友というところか。
「あ、は、はい……じゃなかった。うん、わかったよ――伯珪、お久しぶり」
「あはは、それで良いさ。さて、こんなところで立ち話もなんだ。あたしの城に招待するよ、玄徳。劉家軍の皆々も、共に来てくれ。その勲、ぜひとも聞かせてもらいたい」
『は!』
 おれたちが一斉に頭を垂れると、公孫賛はもう一度微笑むと、惚れ惚れするような動作で白馬に跨り、配下の兵士たちに指示を下す。
「さあ、あたしの得がたき友が、はるばる遠方より来てくれたのだ。皆、これを守り、そして我が城への道を開けッ!」
『はぁッ!』
 公孫賛の号令と共に、白馬隊は一糸乱れぬ統率の下、動き出す。
 その半分は劉家軍の周囲を囲むように布陣し、もう半分は、おれたちの前方に見える広大な城に向かって疾駆する。
 10年を越える兵糧を有し、難攻不落と謳われる公孫賛の本拠地・易京城であった。


 


 
「いやいや、それはハッタリという奴だよ。実際に貯め込んでる量は、1年にも満たないね。黄巾のバカどものせいで、民に庫を開いたりしたから、今ではそれも怪しいものだけどな」
 公孫賛は、そういって大笑する。その顔が赤いのは、別に照れているからではなく、単に先刻から飲み続けている酒のせいであった。
 公孫賛に招かれ、易京城を訪れたおれたち劉家軍は、そこで城を挙げた歓迎を受けることになった。
 先日、劉焉の城でも大騒ぎしたが、太守主催のそれは、規模が違った。ついでに、出てくる物も大違いだった。山海の珍味が所狭しと並ぶ光景は、正直、涎が出そうです、はい。
 太守の幼年時代の学友とはいえ、いわばプライベートの客である。こんな大規模な宴会を催して良いものかと首をひねったのだが、それも一笑に付された。
 百倍する黄巾賊を破った劉家軍の名声は、すでに幽州各地に知れ渡っている。その劉家軍を率いる玄徳様を、客将として迎え入れるということは、民衆にとって歓迎すべきことなのだ、と公孫賛は笑いながら言った。


 そう。公孫賛の申し出というのは、玄徳様を客将として迎え入れたい、ということだったのである。
 正式に官軍に加わるわけではないが、事実上、漢の旗の下で戦うことが出来る。しかも、その行動を掣肘できる者はおらず、公孫賛でさえ要請という形で玄徳様に依頼をするしかないという、なんとも痒いところに手が届く配慮であった。
 もちろん、その地位に足る令名の通った人物にしか与えられない職責だが、公孫賛は玄徳様がそれに相応しい人物だと確信していたようだ。
 年少時代の交友があり、また旗揚げ後の情報なんかを集めた上での決断なのだろうが、たかだか数百の義勇軍の長を客将として迎え入れるとは、なかなかに懐の広い人物であるといえよう。


 もちろん、劉家軍にとっても、公孫賛の申し出を断る理由はない。
 玄徳様の言葉で、その人柄は大体察してはいたが、間近でその人物を見れば、協力することをためらう要素は何一つなかった。
 ……なかったのだが、実は、ちょっと困ったことが1つだけあったりする。
「ほう、北郷殿ははるばる東夷より参られたのか?」
 おれの隣に座り込み、酒で頬を赤らめながら、おれに話を促してくる公孫賛。
 その吐く息の半分は、酒精で出来ているのではないか。そう思ってしまうくらい、酒の匂いが濃かった。
 ……すみません、ぶっちゃけ酒臭いです。
「このあたりも、洛陽あたりから見れば随分田舎だが、ここより遥か東ともなれば、どれだけ田舎なのだろうな?」
「は、伯珪、そんなこと言っちゃ失礼だよ」
 一緒に飲んでいた玄徳様が口を挟むが、太守様の口は止まらない。
「なんだ、玄徳。おまえは気にならないのか? はるか東の果てより中華の地を踏む者など、少なくともあたしは聞いたことがない。気になる、うん、すごく気になるぞ!」
 そう言いつつ、公孫賛はおれの首に手を回し、ぐいっと己の胸元に引き寄せる。
「というわけで、じっくりたっぷり聞かせてもらおうか、北郷殿? ふふふ、あっはっは」


 呵呵大笑する公孫賛。
 ああ、つまりなんだ。この人、絡み酒なわけね?
 まあ、酒の飲み方は人それぞれだから、別にそれをどうこう言うつもりはない。ないのだが、その標的にされるとなると、やっぱり困るぞ。
(玄徳様、ヘルプ)
 目線で助けを求めるおれ。
(あ、あははは)
 困った笑みを浮かべながら、目線を逸らす玄徳様。あ、逃げた。
(うう、玄徳様がそういう人だったなんて)
(ううう、で、でもほら、私もちょっと興味があるし、なんて思ったりして)
「むむ、何を2人で目線で会話してるんだ? あたしを仲間はずれにするなー!」
 目顔で意思疎通をはかるおれたちに、ご立腹する太守様。


 だが、不意に。
 太守様は、はー、と深々とため息を吐く。
 その隙に、公孫賛の腕から逃げ出しつつ、おれは急な変化が気になって問いかける。
「ど、どうしたんですか、伯珪様?」
「いや、やっぱり北郷殿も、玄徳の方が良いのか、と思ってな」
「は?」
 良いって、何がだ?
 疑問を顔に浮かべるおれに、何やら、木枯らしを吹かせつつ、遠い目をする公孫賛。
「ほら、玄徳の奴、可愛いし、性格は素直だし、何より胸が大きいだろ?」
「ええ」
 素で頷くおれ。顔を真っ赤にする玄徳様。気づかぬうちに酔いがまわっていたのか、その無礼さにおれは少しの間、気づかなかった。
「だから師父の下で学んでいる時から、門下生の子供たちの間でもモテまくってたんだ。まあ、あの頃は今ほど胸は大きくなかったが、それでも十分育ってたし。あたしなんか、玄徳宛の恋文を、一体、何通預かったことか」
 はあ、と当時を思い出したのか、もう一回ため息を吐く公孫賛。
「あたしだって捨てたものじゃないとは思うんだが、相手が悪かったよなあ。そのくせ、この鈍感娘、自分がモテているという自覚がかけらもないもんだから、始末が悪い。玉砕した男どもの屍が、累々と横たわっていたよ」
「ああ……なんか、すごく想像できる気がします」
「だろう?! まったく、さっさと好きな奴を見つけてくっついちまえば、こっちにまわって来る奴もいたろうに。なあ北郷、やっぱり男ってのは、胸が大きい方が良いのか?」
「むう、それは好みによるとは思いますが、やはり大きい方が有利かもしれません」
「やっぱそうだよなあ」
 おれと公孫賛は2人して、玄徳様の胸に目を向ける。慌てて、腕で隠そうとする玄徳様だが、かえってその動きで強調される2つの膨らみ……って、待て! 何を主君にセクハラしてんだ、おれは?!


「うあッ?! も、申し訳ありません、玄徳様?!」
 慌てて首を捻じ曲げ、視界から玄徳様の姿を消すおれ。
「い、いえ、気にしないでください、一刀さん。お酒の席でのことですし……」
 消え入りそうな風情の玄徳様の声に、おれの罪悪感は膨れ上がるばかり。
 だが、そもそもの原因となった公孫賛は気にする様子もなく、その玄徳様の様子に、三度、ため息を吐く。
「これだよ、このしおらしい、守ってやりたくなる仕草。これが無意識で出るなんて、まったくどこのお姫様だって感じだよ」
 漢室のお姫様でしょう、と思ったが、口には出さないでおく。
 下手に相槌をうつと、また公孫賛のペースに巻き込まれかねん。
 こんな下らんことで、玄徳様に嫌われたくはないぞ。





 その後、時に危機を孕みつつも、和やかに進んでいく宴。
 だが、そんな和やかさは、1人の兵士が飛び込んで来ることで終わりを告げた。


「申し上げます!」
 それを聞いた瞬間、おれはどうしようもなく嫌な予感を覚えた。確たる理由もない、根拠なき予感はしかし……


「洛陽にて、政変が発生しました!」
 その報告を聞き、たちまち酒精分を駆逐し、平静な顔を取り戻した公孫賛が応える。
「そんなに慌ててどうしたのだ。何大将軍が宦官どもに謀られた件ならば、すでに報告を受けているぞ」
「ち、違います! 今回は、そのように小さなことではございませぬ!」
「大将軍暗殺が小さなこと、だと? おい、落ち着いて報告しろ。都で何が起こったのだ?!」
 公孫賛の鋭い視線を受け、兵士は悲鳴のように甲高い声で、報告を行う。
「こ、皇帝陛下がお亡くなりになりました!」
 ザァ、っと。
 それまでざわついていた広間から、掃き清めるように、音が消えていった。
 予期せぬ報告に、凍りついたように動けなくなる一同。
 だが、報告にはまだ続きがあった。
 

「御病気ではありません! 何大将軍の弟君である何苗将軍による反乱です!」
「これに対し、先の混乱で皇帝陛下を保護していた董卓将軍が反撃を行い、何苗将軍は戦死!」
「董将軍は陛下のご無念を晴らすと唱え、反乱に協力したとされる何皇后を殺害、更にはそれを止めようとした董皇太后をも手にかけられたとのことです!」
「董将軍の軍勢は何家に関わりのある豪商や富豪の邸宅を次々に襲撃。これにより、帝都洛陽は大混乱に陥っている模様です!!」


 確たる理由もない、根拠なき予感はしかし、哀しいまでに当たってしまったようだった……
 


 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 燎原大火(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/10 00:24

 後漢の帝都・洛陽。その宮城の一室に集まった董卓軍の面々の間には、重苦しい空気が立ちこめていた。
 現在の洛陽において、董卓軍の名は、悪鬼羅刹と異ならぬ。
 董卓軍による富裕層への略奪は、たちまちのうちに洛陽のいたるところに伝染し、無頼者たちは徒党を組んで商家や民家に押し入り、略奪暴行を欲しいままにしている。いまや、略奪は何氏に関わりのある者のみ許す、などという条件を覚えている者はいないだろう。
 強者による弱者の蹂躙、ただその一言が、今の洛陽の全てを物語っていた。


 阿鼻叫喚の巷と化した洛陽。そして、それをもたらしたのが、ほかならぬ自分たちであるという事実を、董卓軍の諸将は認めざるを得なかった。
 皇后と皇太后を殺し、帝都を灰にしようとする董卓軍の悪行が、後の世にどのように伝えられていくか。そして、その軍に与する自分たちの名が、どれだけの汚辱に塗れるのか。いずれも、想像するまでもない。
 文官であれ、武官であれ、中華に生きる人々にとって、名を残すということの意味は、とてつもなく大きく、深い。
 彼ら良吏、汚吏の記録は正史として、この後、数千年を経ても後世に伝えられ、彼らの名声、悪名は千載に語り継がれていくのである。


 かつて、ある国の宰相が、主君である国王を殺した時、宮廷の史官は記した。
「宰相、王を殺す」
 これに怒った宰相が史官を殺すと、その史官の弟はこう書いた。
「宰相、王を殺す」
 怒り狂った宰相が、史官の弟を殺すと、さらにその下の弟、史官の末弟は敢然と筆をとった。
「宰相、王を殺す」
 それを聞いた史官の友人は、次は私の番か、と事も無げに呟き、翌日、宮中に赴いた。
 だが、そこで、生きている末弟を見て、友人は微笑して宮廷から退いていったという。


 これは、前後の事情を省き、一面的な場面だけを取り出した例え話であるが、中華の人々が文字と、記録を重要視すること、かくのごとし。
 文字を軽んじ、記録を疎かにする者は、野蛮人として蔑まれても仕方ない。文化とは文字であるということを、中華の人々は誰よりも早く気づいていたのである。
 だからこそ。
 千載に悪名を残すことは、中華の人々にとって、死に勝る屈辱なのである。


「文和(賈駆の字)、あんた、何を考えとるんや?!」
 その表情に殺気さえ滲ませ、賈駆に詰め寄ったのは、董卓軍の主力である3将軍の1人、張遼、字は文遠である。
 常は闊達にしておおらかな張遼であったが、さすがに今の状況を座視することはできなかった。
 このままでは、董卓軍の悪名は中華全土に達し、諸侯から袋叩きにされ、惨めに敗北するであろうことは、火を見るより明らかであった。のみならず、その悪名ははるか後世まで語り継がれ、自分たちは、決して拭うことのできない汚名を被るであろうこともはっきりしているではないか。その程度のこと、わからぬ賈駆ではあるまいに、一体、何を考えているのか。


 だが、張遼に詰め寄られた賈駆は、顔を蒼白にしながらも、これまでと同じ指示を繰り返した。
 すなわち、何氏の残党の徹底的な掃滅と、軍資金の調達である。
 それを聞き、張遼はさらに激昂し、彼女らの軍師に詰め寄った。
「いつまでふざけとるつもりやッ!」
 賈駆の胸倉を掴み、張遼は大喝する。
「皇帝の仇討ちなんて、もう誰もおもっとらんで! 聞こえてるやろ、街から、昼夜とわずに響いてくる悲鳴と略奪の音を! 誰が都を、こんな地獄に変えたと思うとるんや?!」
「……これは命令よ、文遠、いえ張将軍。従わないというのなら、獄に下すだけだわ」
「……本気で言うとるんか、文和?」
「こんなときに、冗談なんか言うものですか。全ては月の……董将軍の為。もう1度命じるわ。ただちに何氏の残党を掃滅し、その勢力を根絶やしにしなさい。必要とあらば、どれだけの血が流れても構わない」
 董卓軍の勇将として名高い、あの張文遠と真っ向からにらみ合いながら、賈駆は一歩も退くことなく、命令を繰り返す。
「文和、あんた……」
 その瞳に映る、張り詰めた鬼気を前に、張遼ほどの人物が、一瞬だが気圧された。


 張遼が言葉を失ったことで、室内には再び沈黙が満ちる。
 それを破ったのは、先刻より興味なさそうに2人の会話を聞き流していた赤髪の少女であった。
 姓は呂、名は布、字は奉先。張遼をすら上回る、董卓軍随一、否、中華随一の武勇を誇る神武の持ち主である。
 その少女が、はじめて口を開いた。
「月は、どこにいるの……?」
 その言葉の指す通り、賈駆の左、本来なら彼女らの主が座すべき椅子には、今、誰も座っていなかった。
 体調が優れないから、という理由で、ここ数日、董卓は臣下の前に姿を見せていない。
 あの優しい心根の主君が、今の事態をうけて、冷静さを保っているとも思えなかったから、体調が優れないと言われれば、追求しようとする者はいなかったのである。
 今もまた、呂布の言葉だけでは、張遼たちもそれほど奇異に思うことはなかったであろう。戦の時以外は、呂布はほとんど物の役に立たないことは、董卓軍の中でもつとに有名であったから。
 だが。
「そ、それは……」
 ぐらり、と賈駆の身体が大きく揺れた。
 その顔に、ほんの刹那、浮かび上がったのは、飢えた猫に追い詰められ、それでも必死に逃げ延びようとする窮鼠のもの。
 その表情は一瞬で拭われたが、その場にいた者たちが見逃すはずはなかった。


「そうだな。また文和が、董将軍のために、と暴走しているのだと思い込んでいたが……」
 華雄が目を細めて、賈駆を睨む。
「ああ。あの月が、たとえ文和の案とはいえ、こない血生臭い計画を認めるいうのも、考えてみればおかしな話や」
 張遼が再び賈駆に問いかける。
 2人の迫力に押され、知らず、賈駆はあとずさる……が。
「……」
 いつのまにか背後に回っていた呂布が、その逃走を防ぎ止めた。
「あ、あなたたち……」
 追い詰められた形の賈駆が、何事か口にしかけた時だった。




「これはこれは、董将軍の御家来集が、このようなところで、何をなさっておられるので?」
 唐突に、その場に第三者の声が割って入ってきた。
 後漢王朝における有力者の1人である王允、字は子師である。明日、予定されている新皇帝の即位により、司徒(行政の最高位)の位を得ることが決定されている人物であった。
 王允の登場で気勢をそがれた張遼たちの手のうちから抜け出した賈駆は、仮面のような表情のない顔で王允に一礼する。
「これは子師様。将軍たちに、今後の指示を下していただけでございます」
「それはそれは。董将軍と、配下の方々へは、協皇子も期待をかけておいでです。新皇帝即位の暁には、決して粗末な扱いはされぬことは確実でありましょう」
「ありがたきお言葉でございます」
「ところで、明日の即位式の警護に関して、お話したきことがございます。すこしお時間をいただけますかな、文和殿?」
 王允がにこやかに微笑むと、賈駆は硬い顔つきを崩さず、小さく頷いた。


 連れだって出て行く王允と賈駆の後姿を、残った3人の将軍たちは、それぞれに異なる色合いの視線で見送る。互いに、一言も言葉を交わすことなく……




 長々と続く王允の説明を、賈駆は、ただの一言も口を出さず、耳を傾けるばかりであった。
 やがて、その説明も終わり、王允が許諾を求める。
「……というところですが、何かご異存はあるまいか?」
 それに対し、賈駆は無言で首を横に振って、異存ない旨を伝えた。
 王允は、やや不安そうな面持ちで、賈駆の顔を覗き込んでくる。
 今、新帝が有する兵力の大半は、董卓軍のものである。明日にも朝廷を主宰することになる王允としては、董卓軍の動向に細心の注意を払うのは当然すぎるほど、当然のことであった。
 だが、再度の問いかけにも、賈駆はやはり異存ない旨を伝えるだけであった。安心したのか、王允は再び微笑んで、言葉を発する。
「では、そのように手配をしましょう。そちらから、何か申したいことがあれば、お聞きしますぞ」
 その王允の問いかけに、賈駆は、ようやくその重い口を開き、ただ1つだけ問いかけた。


「月は……月は、無事なのでしょうね?」
 

 ――その言葉を聞いても、王允の笑顔は何一つ変わることはなかった。
「もちろんですとも。信頼できる侍女たちに付き添われ、つつがなくすごしておられますよ」
「そう……まだ、会うことはできないのでしょうね?」
 言うだけ無駄だろうけれど。そう言わんばかりの賈駆の言葉に、王允は心底哀しげに眉をたわめた。
「私としても、ご期待に沿いたいところなのですが、典医が言うに、いまだ董将軍は先の一件での心労が抜けきっていないとのこと。今しばらくは、静養が必要とのことで、申し訳ありませんが、たとえ臣下の方といえど、会わせてさしあげることは出来ないのですよ」
 一言一句、予測したとおりの返答を返す王允の平坦な顔を、賈駆は憎しみを込めて睨みつける。
 その眼差しを、王允は涼しげに受け止め、微動だにしない。
「さぞご心配だと思いますが、今しばらくの辛抱です。そうですな……即位式が終われば、協皇子は晴れて後漢王朝の第13代皇帝となられます。新帝が名実ともに皇帝たるに相応しい権限と武力を備えられる頃には、おそらく、董将軍の容態も良くなっておられましょう」
 相変わらず、能面のような笑みを浮かべながら、王允はそう口にしたのであった。







 


「もちろんですとも。信頼できる侍女たちに付き添われ、つつがなくすごしておられますよ」
 それはつまり、月には四六時中、監視がついているということ。



「私としても、ご期待に沿いたいところなのですが、典医が言うに、いまだ董将軍は先の一件での心労が抜けきっていないとのこと。今しばらくは、静養が必要とのことで、申し訳ありませんが、たとえ臣下の方といえど、会わせてさしあげることは出来ないのですよ」
 それはすなわち、董卓軍を使役するためのまたとない人質を、そう簡単に解放する気はないということ。



「さぞご心配だと思いますが、今しばらくの辛抱です。そうですな……即位式が終われば、協皇子は晴れて後漢王朝の第13代皇帝となられます。新帝が名実ともに皇帝たるに相応しい権限と武力を備えられる頃には、おそらく、董将軍の容態も良くなっておられましょう」
 それはもちろん、董卓軍の武力も財力も、何もかもを新帝が奪い尽くた後、董卓を返してやろう、という嘲笑にほかならぬ。




(どうして、こんなことに……ッ?!)
 賈駆は、奥歯を噛みしめる。歯が、砕き折れてもおかしくないほどの力を込めて。
 皇帝を手中に収めたことで、賈駆が幼い頃から見続けてきた夢が叶うはずだった。
 董卓を天下人にする、というそれは夢。
 だが、現実は、賈駆の望んだ未来とは真逆の方向に突き進んでいた。このままでは、董卓軍も、そして董卓自身の命さえ、宮廷の城狐どもに弊履のように使い捨てられて終わってしまう。
 その未来を避ける術を、今の賈駆は持っていなかった。


 最初は、賈駆の思惑通りに事態は進んでいたのである。
 皇帝を迎え、洛陽に入った賈駆は、別行動を取っていた華雄に対し、密使を放つ。近隣の住民たちを徴発しても構わないから、出来る限りの大軍を率い、洛陽に戻るように、と。
 今後のことを考えれば、兵力の増強は必須である。強引にでも構わないので、数を揃え、皇帝を擁する董卓軍の威を見せ付けるのだ。その武威をもって朝野を圧伏し、皇帝の権威をもって、董卓を高位の官職につけ、勢力の拡大を図っていく。
 衰えたりとはいえ、後漢王朝は未だ滅びたわけではなく、その威名は有効であるから、各地の諸侯を討伐するにも役立つはずだ。董卓の勢力が十分に大きくなれば、時を見て、禅譲の空気を作り出し、皇帝の位を譲らせる。
 女帝など、中華帝国に例はないが、十分な実績と民意があわされば、それは決して不可能なことではない。賈駆はそう考えていた。


 だが。
 その賈駆の深慮遠謀は、ただ1人の愚かな男の、愚かな行動によって根底から覆されてしまう。
 愚かな男。賈駆たちが救ったはずの皇帝。
 考えてみれば、あの男が恩を恩として感じる人物であれば、後漢王朝もここまで腐敗することはなかったであろう。
 やはり、賈駆もまた、転がり込んできた幸運に、目を奪われていたのかもしれない。
 皇帝が董卓を招いて酒宴を催そうと言い出した時も、特に疑問を抱かなかったのである。空に近い国庫で、愚かなことを、と馬鹿にしたほどであった。
 まさか、宴の最中、皇帝が董卓を自室に連れ込み、淫らな行いに及ぼうとしようとは、想像だにしていなかった。
 だが、皇帝にとって、董卓は危ういところを救ってくれた恩のある人物ではなかった。
 ただ容姿の優れた女官程度にしか見えていなかったのだろう。だから、特に疑問を差し挟まず、董卓を自身の快楽の贄にしようとして、そして……


 皇帝の行動を聞き、ようやく駆けつけた賈駆が見たものは。
「……………え……い、ちゃん……?」
 半ば以上、肢体をあらわにして、ベッドの上で呆然とこちらを見つめる董卓の姿と。
 その董卓からやや離れた場所で、うつ伏せの形で、奇妙な沈黙を続けている皇帝の姿であった。
 何が行われていたのか。何が行われようとしていたのか。
 聡明な賈駆にとって、答えは明らかすぎるほど明らかなことだった。
 だが、その賈駆でさえ、何が起こったのかを理解するには、少なからぬ時間が必要だった。
 答えにたどり着いたのは、皇帝の頭から流れ出し、床を染める奇妙に赤い色の水溜りを見た時である。
 見れば、皇帝のすぐ近くには固く尖った形の燭台が置かれている。おそらく、董卓の精一杯の力で振り払われ、突き飛ばされた皇帝は、運悪く、それにぶつかって……


「こ、これは何としたことか?!」
 呆然とする賈駆の背後から、1人の文官が飛び込んできた時。
 賈駆は自らの計画が、砂塵のごとく崩れ落ちていく様を、確かに見た気がした。





 その後のことは、語るまでもないだろう。
 董卓は保護という名の監視の下、賈駆たちから引きはなされ。
 賈駆は王允を筆頭とする一部の高官たちの操り人形となることを強いられた。
 王允たちは、それと言明することはなかったが、賈駆ら董卓の臣下たちが、わずかでも不穏な動きを見せれば、董卓の身に危険が迫ることは明らかであった。
 それゆえに。
 董卓の命を助ける。ただそれのためだけに、賈駆は千載に悪名を残す道を選ぶしかなかったのである……








 宮廷の混乱は続いていた。
 董卓が擁立したのが、兄の弁皇子ではなく、弟の協皇子であったからである。
 長幼の序を重んじる意味でも、この決定は批判の対象となるものであったが、董卓はその兵力をもって強引に事を進め、即位式は多くの反対意見を封殺した上で強行された。
 ここに、後漢王朝第13代皇帝が誕生することとなったのである。
 皇帝は即位と同時に、王朝の主宰者たるべき三公を選任する。
 行政を司る司徒に王允を。
 軍事を司る太尉に董卓を。
 裁判を司る司空に張温を。
 それぞれ任命し、ここに新たなる王朝はその基を定めた、と朝廷は高らかに謳ったが、それを真に受けた民衆は1人としていなかったであろう。
 民衆の目から見れば、董卓による専制政治の始まりとしか映らなかったのである。
 その背後に暗躍する者たちの姿を捉えることが出来た慧眼の持ち主は、ほんのわずかしかいなかった。



「災い転じて、福となる、というところですかな、子師殿。いやさ、王司徒」
「まだまだ、王朝の土台を固めるには遠いですぞ、張司空」
 追従の笑みを浮かべた友人に、王允は短い苦笑で応じる。
 確かに董卓軍は事実上、骨抜きにしたとはいえ、手駒として好きに操れるようになったわけではない。今はまだ砂上の楼閣。各地の諸侯が実力をつけ、洛陽に上ってきたならば、たちまち崩れ去る程度の代物に過ぎぬ。
「空の国庫は、董将軍らに行わせた富豪たちの略奪によって、満たされつつある。すでに董卓軍とは別個の、皇帝に直属する親衛隊を編成しはじめているところです」
「なるほど、財力と武力、この2つにあわせて、皇帝陛下の御威光が揃えば、漢の御旗に逆らう愚か者は、天下から消え失せるでありましょう」
「うむ。だが、そこにいたるまでには、なお遠い。すでに太祖陛下の興業に習い、長安への遷都の準備は密かに進めているが、人も金も、そして時も、まだまだ足りぬ。だが、割拠する野心家たちは、我らに時を貸さぬであろう。皇帝という御旗を得たいのは、どの勢力も変わらぬゆえな」
 王允は憂いを込めて、小さく息を吐いた。
「では、どうなさるおつもりで? あくまで董将軍を盾に時間を稼ぎますかな。悪名も汚名も、すべて被ってくれる有難き護符でありますからな」
「それでも良いが、連中とて、いつまでも手綱を我らに預けておくとも思えぬ。ことに、賈駆の智謀と、呂布の武勇が合わされば、厄介なことにもなろう。早いうちに董卓軍の力そのものも削いでおかねばならぬのだ」
「ふむ……なにやら、遠大な計画を考えておられると推察するが」
 張温の言葉に、王允は再び苦笑する。
「なに、そう大したものでもありませんがな。1人、武官の中で気になっておる者がおりましてな。その者を炊きつけて、各地の諸侯と、董卓軍とをかみ合わせようと思っておるのですよ……」








「いかがであろう、孟徳殿。昨今の宮廷を見て、貴殿も思うところはおありと存ずるが……」
「ええ、確かに。この数月で、随分と血生臭い風が吹くようになりましたわね、王司徒」
「……やはり、貴殿もそう思われておいでか。それでは、漢朝の臣として、行動するおつもりなのであろうな? いや、お答えいただく必要はござらぬ。ですが、もし貴殿がその道を歩まれるおつもりであれば、わずかながら手助けが出来るかもしれませぬ」
 宮廷から退出する帰り道。
 王允に呼び止められた曹操は、沈痛な面持ちで顔を伏せる新たな司徒の顔を見て、小さく笑みをもらした。
「これは、はからずも吉報を得て、この孟徳、心浮き立つ思いにござる。されど、惜しむらくはこの身の小ささ。我が力では、宮中に巣食う巨大な狐を退治することかないませぬ」
「いや、それは早計というもの。無論、正面から立ち向かえば、貴殿の仰ることもあながち間違いとは申せませんが、手はいくらもござる。例えば、かの狐が最近、執心しておる財貨をもって、その傍近くに上がれば、あるいは全てを解決することもかなうかもしれません」
 そう言うと、王允は告げた。
 自分が、天下に名高き宝剣・七星の剣を所蔵していることを。
「狐の暴虐には、天下万民、恨み、憎まぬ者はございませぬ。今なら、たとえ背後から突き刺したといえども……」
 正義は、突き刺した者の手に転がり込むだろう。
 王允のその言葉に、曹操は不敵な笑みを浮かべることで応えた。


 それが曹操の応諾の返事であると考えた王允は、心中で密かに哂う。
 これで、準備は整った、と。
 ゆえに、王允は知らない。
 自邸に戻る道すがら、曹操がきわめて不機嫌な表情であったことを。
 そして、自邸に戻り、部下と会話したその内容を。


「お帰りなさいませ、華琳さ……ま?」
「……どうなさったのですか。随分と、ご機嫌が悪いようですが……」
 夏侯家の姉妹は、宮廷から戻ってきた曹操を出迎え――同時に顔を見合わせた。
 彼女らの主君が、滅多にないくらいに機嫌を損じていることを察したからである。
「春蘭!」
「は、はい?!」
「湯浴みをするわ、すぐに準備を。まったく、よくもこの私に、薄汚い顔を近づけてくれたわね、あの男」
「か、かしこまりましたぁ!」
 ただちに駆け去る風一陣。
「秋蘭」
「は」
「先日、抱え込んだ楽師たちがいたでしょう。広間に待機させておきなさい。耳が穢れる話を散々聞かされたから、それを洗い流すわ」
「御意のままに」
 音もなく立ち去る花一輪。
 曹操の不機嫌は、この後、楽師たちの演奏が終わるまで続いた……
 




 湯浴みで身体を清め。一流の音楽で耳を清めた曹操は、ようやく機嫌を直し、宮中での出来事を部下たちに語って聞かせた。
 その内容のあまりの無礼さに、夏侯惇は目をいからせた。
「な?!、事もあろうに、華琳様に暗殺などという下劣な策を薦めたのですか?!」
「……なるほど。それでは、あのご機嫌の悪さも納得が行くというものです」
 姉とは対照的に、夏侯淵は小さく頷くだけであったが、その瞳は凍りつくような冷気を漂わせていた。
「我ながら、あの三文芝居に良く耐えられたものだわ。仕方ないことだとはいえ、三流の相手をするのは、今回で終わりにしたいわね」
 まだ、わずかに不機嫌さを残しながら、曹操は慨嘆するように肩をすくめた。
 英雄たちと武略を競うなら望むところだが、宮廷の権力の亡者どもと舞踏を踊るなど、気色悪いことおびただしい。
「お察しいたします。しかし、王司徒の提案はいかがなされるおつもりですか?」
 夏侯淵の問いに答えたのは、曹操ではなく姉の方だった。
「何をわかりきったことを! そのような無礼な提案、蹴飛ばすに決まって……」
「受けるわよ、無論」
「……な?! か、華琳様?!」
「何、春蘭?」
「あ、いえ、その、まさか華琳様、本当に、董卓めを暗殺されるおつもりで……?」
 至極、冷静に問い返された夏侯惇は、おどおどとした様子で華琳を見つめる。大柄な身体に似合わぬ、どこか子犬のような仕草を愛でるように、曹操は夏侯惇の頬に手をあて……そして、思い切りつねった。
「あ、いたたたッ?! 華琳様、何を?!」
「あら、この私の誇りを侮辱した子にお仕置きをしただけなのだけど、何か不服があるの?」
「い、いえ、むしろもっとして欲しいくらいで……ではない! その、今、王司徒の提案を受けると仰せになったように聞こえたもので、つい……」
 その姉の姿を見て、ため息まじりに夏侯淵が口を開く。
「姉者、私が言ったのは、董将軍追討の先陣に立たれるのかどうかという意味だ。暗殺など、論外に決まっているだろう」
「う、そ、そうだったのか?」
「当然だ」
「当然よ」
 妹と主君の2人から、呆れた眼差しで見られた夏侯惇は、さすがに自身の浅慮に気づいて意気消沈した。


 そんな夏侯惇を他所に、曹操と夏侯淵は計画の詳細を詰める。
「書状で決別を言い渡しても効果は薄いでしょう。やはり、宮中で直接、言明する方が良いわね」
「それでは、都から出る手筈は整えておきましょう。しかし、宮中へ華琳様をお迎えにあがるまでには、少々時間がかかるかもしれません」
「そちらは不要よ。この曹孟徳を止められるだけの器の持ち主など、今の宮廷にはいないわ。私の絶影(曹操の愛馬)と、あなたたち2人が待っていれば良いわ」
「御意。では、陳留にいる桂花に使者を出しておきます」
「ええ、そうして頂戴。ほら、春蘭、いつまでしょげてるの。うっとうしいから、さっさと起き上がりなさい」
「は、かしこまりました……」
「姉者。帰りはかなりの難路になるはずだ。兵士の統率はよろしく頼む」
 妹の言葉に、ふさぎ込んでいた夏侯惇は、大きく頷いて、うってかわって溌剌とした様子となった。
「わ、わかった。そういうことなら任せておけ! 都暮らしで腑抜けている者もいるかもしれん。今から気合を入れなおしてやろう」
 勢い込む夏侯惇に、曹操は釘を刺す。
「念のために言っておくけれど……洛陽から逃げ出す準備だ、などと部下たちに言ってはだめよ?」
「……も、もちろんですとも! わ、私は、そこまで考え無しではないですよ、華琳様!」
「……姉者……いや、何でもない」
「秋蘭も、その気遣わしげな眼差しはやめてくれ! 大丈夫だ、この夏侯元譲、必ずや無事に華琳様を陳留まで送り届けてみせよう!」
 声高らかに宣言する夏侯惇の姿を見て、夏侯淵と曹操はそっと視線を合わせ、はかったように小さくため息を吐くのだった……




  
 かくて翌日。
 曹操の弾劾により、朝廷は騒然とした雰囲気に包まれる。
「そも天下を治めるとはいかなることか。上は国家に奉じ、下は民を安んじ、中華帝国の栄華を地の果てまで轟かせることこそ、それである。それあってこそ、四方より中華を狙う蛮夷は鎮まり、民は平らかに安寧を楽しみ、平和を謳歌し、この世の春を言祝ぎて、朝廷への忠誠に確信を抱くのである」
 百官、皆、声も出ずに曹操の言葉に聞き入るのみである。
 それは、龍服を纏って玉座に座す皇帝も、その脇で蒼白になっている王允ですらも変わりない。
 そして、その弾劾を浴びせられる張本人である董卓は。
 奇妙に表情のない、ガラス球のような眼で、ただ曹操を見つめるだけであった。
「しかるに、近来の政治は、これ全て野盗匪賊の類と変わりなし。礼なく、令なく、ただ奪い、ただ殺す。官匪というもなお足らない有様を、これ以上座視するは、この身には出来かねること。ゆえに、ここに漢王朝に忠誠を誓う廷臣として、そして皇帝陛下にお仕えする臣下として、君側の奸たる董太尉を除くことを宣言させていただく」
 朝廷において、曹操に御前での帯剣は認められていない。当然、今の曹操は身を守る寸鉄も帯びていない身である。
 周囲には、董卓の一声で飛び掛ってくる警備兵たちが立ち並んでいる。
 董卓が一言「殺せ」と命じれば、曹操の命はここで尽きるしかなかったであろう。


 死の顎に、自ら頭を差し出した形の曹操は、しかし、自棄になった様子も、怯える様子もなく、あくまで泰然とした態度を崩さない。そして、そんな曹操に対して、自らの判断で行動しようという人物は、今の朝廷には1人としていなかったのである。
 全ては、曹操が予測していた通り。
 悠然とした様子で退廷する曹操の姿を見送っていた王允らが、ようやく曹操の捕縛を命じる頃には、すでにその姿は洛陽内から掻き消えるようにいなくなっていたのであった。


 朝廷の誰もが董卓軍の兵威に怯え、朝野での暴虐から視線を逸らし続ける中、敢然とその非を指摘し、弾劾した曹孟徳の名は、この挙によって、一躍、中華全土に鳴り響くことになる。
 その名声は、この後、曹操が大を成すにおいて大きな力となるのだが、それはまだ少し先の話。
 今、確かなのは、洛陽から抜け出した曹操が、各地の諸侯にあてて、董卓打倒の檄文を発したこと。
 そして、それを受けとった多くの諸侯が、時の英雄となった曹操の下に集い、大連合を組むことになった、ということである。


 洛陽と、そこにいたる道筋を朱で塗り込める凄惨な死闘の始まり。
 董卓軍と、反董卓連合軍の戦いの火蓋が、切って落とされようとしていた…… 
 
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 天下無双(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/01 12:01


 幽州・易京城。
 太守である公孫賛の下に、曹操の檄文が届いたのは、洛陽の政変が伝わってまもなくのことであった。
 その文面は、董卓の暴政と都の惨状を克明に記し、今にしてこの巨悪を討たねば、洛陽の惨状は中華全土に広まるであろうと告げていた。
「……父祖代々の重恩を鑑み、漢朝の臣たる我は、かかる悪逆を座視することあたわず。曹と同じく忠を戴く英雄諸侯は、よろしく義の旗の下に参集されたし、だそうだ」
 公孫賛は、曹操より送られてきた檄文を臣下たちに披露すると、腕組みをして群臣たちを見回した。
「さて、私たちはどう動くべきか、または動かずにいるべきか。皆の意見を聞かせてくれ」


 公孫賛の一言を皮切りに、群臣たちからは興奮したように、次々と意見が飛び出してくる。
 参加を声高に叫ぶ者がいれば、それに対し、様子を見るにしかず、と言う者が出る。その意見に対して、また反論が出て、その反論にもまた反論が出る、という状況で、傍で見ているおれから見ても、結論が容易に出ないであろうことは明らかであった。


 そう、太守の御前での会議であるが、客将の一行の1人として、おれも玄徳様たちと一緒に参加していたのである。
 もっとも、おれはもちろん、玄徳様とて発言が出来る雰囲気ではなく、そろそろ退席したかったりするのだが。
「百家争鳴、だな」
 欠伸をこらえつつ、ぼそりと言うおれ。
「ですねえ……」
 諸葛亮が少し苦笑しながら頷く。その横では、同じく鳳統がうんうんと小さく賛意をあらわしていた。
「収拾がつきそうもないね……」
 玄徳様も困り顔だ。
 ちなみに、関羽と張飛、そして簡擁はここには来ていない。
 公孫賛の配慮で劉家軍に譲られた騎馬隊の軍事教練中なのである。
 

 公孫賛は北方の騎馬民族から白馬将軍の異名で恐れられており、そちらの方面から多くの産物を得ている。その中でも、もっとも重要なのは軍馬であった。
 元来、草食動物である馬は、わずかな物音にも驚き騒ぎ、これをそのまま戦に連れて行ったとて、物の役には立たない。必然、馬を調練しなくてはならないのだが、それが一夕一朝に行くものではないことは、素人でもわかる。それゆえ、訓練された軍馬というのは非常に高価であり、かつ重要な軍事力であるのだ。
 公孫賛は、その指揮下に白馬のみの騎馬部隊を持っているように、騎馬部隊に関して大きく力を入れていた。軍馬の保有量も多い。領内には牧場も多く、軍馬の教練技術も、積極的に北方から取り入れて、精強な騎馬軍団を形成している。
 一方、劉家軍には騎馬隊を持つための、金も技術も伝手もない。
 そのため、公孫賛から100頭の軍馬を譲り受けたのである。普通、軍事力の源である軍馬を他人に譲るような人物はいないのだが、その点、公孫賛の懐の広さは敬意に値するものだった。


 だが、おれがそう言うと、玄徳様は微妙に困った表情で、
「う~ん、引渡しのとき、伯珪、ちょっと顔が引きつってたんだけど……」
 それに同意する軍師たち。
「笑い顔も虚ろな感じでしたよね」
「……笑い声も乾いてました」
 3人の非難するような視線が、一斉におれに注がれる。
「そ、そんなことはないと思うけどなあははは」
 いや、ほんとに。
 お酒の席で、白馬隊の自慢をしはじめた公孫賛を称えつつ、ちょっとでいいから劉家軍にもまわせないかな、と遠まわしに言ったら、向こうが頷いてくれただけじゃないか。
「……見方を変えれば、お酒の席で絡まれた際、言質を得て、掠め取ったとも言えますね……」
「何か言ったかね、軍師殿?」
 にっこりと笑顔で聞き返すと、鳳統はなぜか怯えたように帽子で顔を隠してしまった。
「こら、一刀さん、士元ちゃんを苛めちゃ駄目だよ」
「い、いじめてなんかいないですってば」
 玄徳様にじっと睨まれ、おれは大慌てで両手を横に振るが、玄徳様の表情は変わらなかった。
 隣の諸葛亮も、玄徳様と同じような眼差しでじーっと睨んでくる。ううう。
「……ごめんなさい、士元」
 圧力に屈して、頭を下げるおれ。すると鳳統は更に顔を赤くして、ますます深く帽子をかぶってしまった。それでも小さく「……いいえ」と返してくれたので、許してはもらえたらしい。よかったよかった。


「……確かに、今のはおれが悪かったんだけど。結局、玄徳様も孔明も、受け取ることは受け取るんですよね」
 ぽつりと呟くおれ。一瞬、2人の顔に動揺が走るのを確かに見た。
「そ、それはほら、折角くれるというのに、断るのは申し訳ないかなー、って」
「そ、そうです。客将である玄徳様への、伯珪様のご厚意をつき返すのは失礼ですし」
「……まあ、良いんですけどね」
 2人の慌てぶりに少しだけ溜飲を下げたおれは、話を元に戻すことにした。
「しかし、参加するかしないかを決めるだけなのに、よくここまで話がこんがらがるものですね」
 おれの視線の先では、連合への参加を決めるために議論が、今まさに最高潮に達するところだった。
 どこをどう巡ったのか知らないが、文官の1人が光武帝の事績を披露し、漢朝へ尽くすことの正統性を謳っている。さすがに公孫賛も疲れた顔を隠せないようだ。
 まあ、それはおれたちも同じなわけだが。しかもおれたち劉家軍の場合、もう結論は出てるから、余計に疲れるのだ。
「え、結論って? これから、みんなで話し合うんじゃ?」
 驚いた顔をする玄徳様。
 しかし。
「出てる、よな?」
 2人の軍師に問いかけるおれ。頷く軍師たち。
「出てますね」
「……出てます」
 おれたちの様子を見て、思いっきりあせった顔をする玄徳様。あたふたとしながら、こめかみに手をあて、記憶を掘り返している様子だった。
 それでも、どうしても心当たりがない様子で、玄徳様が改めて驚きの声をあげた。
「え、ええ?! いつのまに決まったの?」
 一方、おれたち3人は互いに顔を見合わせつつ、首を傾げる。
「いや、いつのまに、というか……なあ?」
「そ、そうですね。それが当然の帰結といいますか……」
「……そうですね、必然の結果といいますか……」 
 いまだに得心がいっていないように見える玄徳様に、おれが質問する。
「玄徳様、行くつもりなのでしょう?」
「そ、それはもちろん! 都の人たちがひどい目に合っているなら、私は行きたい。で、でも、みんなの意見だってちゃんと聞くつもりだよ?」
「ちなみに、全員が反対だって言ったら、行くのやめますか?」
「そ、それは……そのときは、みんなにわかってもらうために、ちゃんと説明して、一緒に来てくれるように頼むことになると思うけど……」
「それでも反対したら?」
「そ、その時は、私1人でもッ!」
 拳を握り締める玄徳様を見て、おれは軽く肩をすくめる。
「ほら、長がそこまで決心しているのだから、もう決まったと同じでしょう?」
「う、それは、その……」
「何より、反対する人なんて、劉家軍の中には1人もいないでしょう」
 そういう意味で言えば、良く似た主従なのだ、劉家軍の面々は。そんなに長い付き合いではないが、その程度のことがわからないほど、短い付き合いでもない。
 幸い、というべきか。
 劉家軍は放浪軍。公孫賛と違って守るべき領土も城も持たない流浪の軍の身軽さが、今回に関しては利点となる。


 幽州とて、まだまだ不安定な状況が続いている。幽州の民と都の民に優先順位など存在しない以上、連合には参加せず、幽州の治安維持に専念するという選択肢もあるし、黄巾の乱は、未だ終息していないのだから、それは非難されるべき選択ではないだろう。
 だが。
 劉玄徳という人物が、今現在、惨禍に喘ぎ、命の危機に瀕している洛陽の民を見捨てるという選択肢を選べるか否か。劉家軍に参加している者たちにとって、それは愚問と呼ぶにも値しない問題なのである。というより、正解が明記されている以上、問題ですらないというべきか。
 だからこそ、劉家軍にとって、結論など、とうの昔に出ているとおれは言い、諸葛亮たちも同意したのである。
 知らぬは本人ばかり、というやつだった。
 



「まったく、ああも延々と似たようなことを繰り返されると、頭が痛くなってくるよ」
 深々とため息を吐く公孫賛に、玄徳様は困ったように微笑んだ。
「でも、みんな伯珪や、領民のことを考えて、智恵を絞っているんだと思うよ」
「もちろん、それはわかっているんだけどな。平時は知らず、今みたいな緊急の時に毅然とした態度で道を示してくれるような有為な人材がいないんだよね、うちは」
 これといった人材がいないので、こういう時の話し合いは小田原評定になってしまうらしい。
 おれも自分の知識を掘り返してみたが、確かに公孫賛のところに有名な武将や軍師はいなかった気がする。いや、そういえば趙雲はこの時期、公孫賛の配下ではなかったかな……でもこの前会ったときは放浪してたし。実は公孫賛の間諜だった、とかは、多分ないような気がする。となると、公孫賛陣営で、もっとも秀でた人物は主の公孫賛ということか。それは大変だろうなあ。


「で、玄徳たちはどうする……って、なんか聞くまでもない気がするな」
「うう、伯珪までそういうことを……私って、そんなにわかりやすい?」
「玄徳以上にわかりやすい人間がいるなら、是非あってみたいと思うくらい、わかりやすいぞ」
 その言葉に、がくりと肩を落とす玄徳様。
 悪い悪いと笑う公孫賛と、後ろで苦笑を押し殺すおれたちに気づき、玄徳様は小さく口を尖らせた。
 しかし、それも長続きせず、玄徳様は気を取り直して口を開く。
「……みんなの予想通りなんだけどね。うん、伯珪。私たちは洛陽へ行く。董将軍、じゃないや、もう太尉様なんだっけ。董太尉が暴政を布いているっていうのは、正直、信用できないんだけど、それでも洛陽に住む人たちが苦しんでいるのなら、私は助けてあげたいって思うから」
「そうか、玄徳らしいな。確かに、玄徳から聞いた董卓の為人からすると、伝えられている情報の信憑性には疑問が残るけど、洛陽が混乱しているということだけは間違いないようだ。ただ……」


 公孫賛は、考えを確かめるように顎をなでる。
「檄文を発した曹操ってやつ。私も深い付き合いがあるわけじゃないが、それでも凡物じゃないってことはわかる。こいつの思惑に乗れば、よいように使われるだけになるかもしれないぞ?」
「それでも、だよ、伯珪。曹操って人がどういう思惑だったとしても、今、大切なのは都の混乱を鎮めること。そして、罪もないのに、虐げられている人たちを助けることなんじゃないかな」
 そう、迷いなく言い切る玄徳様を見て、公孫賛は呆れたような、けれどどこか暖かさを感じる笑みを浮かべた。
「そういうところは、本当に変わらないな、玄徳。ただ、私も太守である以上、都のこと以上に、この地に住む民衆のことも考えないといけない。黄巾のバカどもだって、まだまだ侮れない勢力を持ってるしな。本来なら、そのあたりをお前たちに任せ、私が連合に参加する、というのが戦力を考えると妥当なんだが……賛同はしてもらえなさそうだ」
「うん……ごめんね、伯珪」
「かまわんさ。お前たちは客将。私の臣下じゃないし、それを請うたのは私だ」
 そう言うと、公孫賛は、自身の決意を確かめるように少しの間、瞼を閉ざした。


 やがて、瞼が開かれた時、そこには揺るがぬ意思が、煌くように踊り、その輝きを宿したまま、公孫賛は配下の者を呼び寄せ、決然と命じた。
「陳留の曹操に使者を出せ。遼西太守公孫賛、諸侯連合に参加させて頂く、と」
「はは!」
「文武の諸官を集めろ。参加するとなれば、一刻も早く出陣せねば、参集する諸侯の後塵を拝することになる。また、黄巾の賊徒どもや、他の領主たちへの対応もしなければならん。猶予はないぞ!」
「承知いたしました!」
 配下の者たちが駆け去っていくと、公孫賛は玄徳様に視線を向けた。
「劉家軍は私と共に連合に参加してもらおう。こちらの準備が整うまでには、数日かかるだろうから、それまでにそちらも準備を整えておいてくれ」
『はい!』
 その言葉に、おれたちの返答が重なった。






 連合に参加することが決まった劉家軍。
 これまで連戦連勝であったとはいえ、それは黄巾賊を筆頭とする野盗を相手とした戦いに過ぎない。
 連合に参加すれば、相手となるのは正規軍。それも精強を以って知られる董卓軍である。これまでの戦いと同じように考えていては、手痛い目に遭うのは火を見るより明らかであった。
 そして、それは劉家軍の誰もが承知するところでもあった。皆、来るべき戦いに備え、訓練し、武芸を磨き、戦術を練るのに余念がない。
 ことに、公孫賛の厚意(?)によってまとまった数の騎馬を得たことで、戦術面に関しては幅のある戦いが出来るようになっていたから、そのあたりの詰めは特に入念に行われた。
 だが……


「えーい、だから馬は脚で乗るものだといってるだろう! 漫然と座っていれば、振り落とされるのは当然というものだ!」
「お馬さんは生きているから、ちゃんと気を配ってあげないといけないのだ。乱暴に乗ったら、怒られるのは当たり前なのだ」
 劉家軍の誇る関、張2将軍の叱咤が草原に響き渡る。
 2人の周りには志願して騎馬の訓練に望んだ面々が、累々たる負傷者の山を築いている。馬に振り落とされ、踏みつけられ、蹴飛ばされ、まさに気息奄々という感じであった。
 と、他人事のように言っているが、おれもその屍山のひと欠片であったりする。
 度重なる失敗のために、すでに来ている服はぼろぼろで、廃棄処分が決定していた。
 決して乗馬をなめていた心算はない。ただ、乗る馬が、元の世界で、競馬中継の際などに見かけていたような立派な馬ではなかった為、多少、甘くみていた部分は否定できない。さすがにサラブレッドはこの時代にはいなかった。
 しかし、馬が大きかろうが小さかろうが、乗りこなす難しさに大差はないようだった。


 一方、苦労するおれの近くでは、玄徳様と、2人の小さな軍師が同様に乗馬の訓練をしている。
 ただ、訓練とはいっても、玄徳様は、2人の教師役も兼ねるくらいの腕前は持っているところが、少し意外だった。
「この広い大陸を旅するのに、馬は欠かせないお友達だからね。戦場を走り回ったりはさすがに無理だけど」
 照れたように笑う玄徳様。むしろ売りをしていた時分に頑張って習得したのだそうだ。乗馬の腕前もさることながら、乗る馬にとても好かれる性質なのだろう。馬に語りかけながら、歩を進ませる姿は、普段の玄徳様よりはるかに落ち着きを感じさせた。
 ちなみに、その玄徳様に教えを乞う2人の軍師は、というと。
「は、はわわ、お、お馬さん、もうちょっとゆっくり! ゆっくりお願いしますー?!」
「……ゆっくり、ゆっくり……あわわ、お、お腹すいたんですか? もうちょっと我慢してください」
 なんだかんだ言いつつ、良い感じで馬に乗れているようだ。より正確に言うと、馬が乗せてあげている、という感じ。
 なんとなくだが、2人の馬の表情に「仕方ねえなあ」みたいな感情が読み取れるような気がするのは、おれの気のせいだろうか。



 むむ。
 このまま、おれだけ馬に乗れないままでは、男子の沽券に関わるというもの。せめて並足くらいは出来るようにならねば。
 とはいえ、どうするべきか。この時代、馬の乗り方とは、馬上、両脚で馬の胴体部を挟んで身体を安定させるというものである。騎馬兵ともなれば、その体勢を維持しつつ、戦闘時の激しい動きに耐え、馬上で武器を扱うことが求められるのだから、並大抵の教練では養成できない。
 それを思えば、ほぼ人生初チャレンジのおれが乗れなかったところで、別に恥じることはないのだが、やはり悔しいものは悔しいのである。
「……鐙(あぶみ)でもつくってみるか」
 ふと思いついて、おれはそう呟いた。
 鞍につけ、騎乗時の助けとするアレである。細かい作りは知る由もないが、体勢を支えれば良いのなら、工夫次第で作ることもできるだろう。幸い、馬具の職人は易京城に多くいることだし。
「よし、善は急げだ」
 おれはひとりごちると、玄徳様に声をかけ、ざっと事情を説明してから、訓練の場を離れた。もちろん、関羽に見つからないようにこっそりと、である。
 鐙が思ったとおりの効果を発揮したならば、独自の騎馬隊を編成してみるのも良いかもしれない。 
 白衣白甲の公孫賛の白馬部隊に対抗して、黒馬黒甲の黒旗軍、とか格好よさそうだ。まあ、今の劉家軍は人員、資金とも不足しているから、出来るとしても、当分、先の話だろうけれど。


 ――この時。
 おれは未来を見通そうとしていたわけではない。鐙についても、単に自分に役立てるために思い出しただけで、それ以上の意味はなく。
 その思いつきが何をもたらすのかを知るのは、まだ先の話であった。








 そして、出陣の日。
 易京城外の野原は、公孫賛軍の人馬で埋め尽くされていた。
 各処に乱立する公孫の軍旗と、忠と義の旗。
 公孫賛ご自慢の白馬隊1千を先頭に、展開するは1万2千の大軍勢。
 数のみ見れば、五台山で相手をした黄巾賊がはるかに勝るが、統制のとれた正規軍の威圧感は、数だけの賊軍など足元にも及ばない。
 全軍の前に公孫賛が現れると、大きな歓声が将兵の間から沸き起こり、その響きは大地をさえ揺るがすようであった。


「ふわー、すっごいねえ」
「はい。さすがは伯珪殿。将兵の人望は厚いようです」
 感心したように呟く玄徳様と、それに頷きで応える関羽。
 劉家軍500も、すでに出陣準備を整え、公孫賛軍のすぐ横に布陣している。
 間近で見る大軍勢の迫力に感嘆しているのは、張飛や、2軍師も同じであり、先刻から幾度も感心したように声をあげていた。


 そんな彼女らの姿を、やや後方で見つめながら、おれはこれから始まる大戦を思い、身震いを止められなかった。
 霊帝の後を継いだのは、弁皇子ではなく協皇子であるという事実。
 黄巾の乱が治まる前に発された曹操の檄文。
 それらの意味するところは、すでに今いるこの国の歴史が、おれの知る三国時代の歴史とは大きく乖離しつつあるということである。
 無論、玄徳様たちが女性であることからして、初めから乖離していたといえばそれまでなのだが、それはつまり、おれの知る歴史知識は、もはや無用の長物であるということを意味していた。
 これから始まるであろう泗水関、虎牢関の戦いにしても、連合軍側が敗れることもありえるだろう。逆に予期せぬ大勝を得られる可能性もある。


 いずれにせよ、この時代に生きる人たち次第、ということだ。小賢しく未来を口にすることは、もう慎まねばなるまい。
「まあ、今までだって吹聴していたわけではないけどな」
 おれは苦笑しながらひとりごちる。
 と、おれのすぐ隣から、予期しない声があがった。
「お兄ちゃん、何を1人でにやにや笑っているのだ?」
「うん――ちょっと不気味かも」
「大方、城に残してきた女子のことでも考えていたのでしょう」
『えーーッ?!』
 えーい、何を好き勝手なことを。それとそこの2人、関将軍の言葉を鵜呑みにしない!
「は、はわわ、じゃあ違うんですか?」
「当然!」
「……胸を張って肯定するところでもない気がするんですが……あわわ、な、何でもありません」
 2人の様子を見た関羽が、更に言葉を重ねる。
「2人とも、謝ることはない。先日の訓練も、さっさと抜け出していたのだ。そのあたりの理由に決まっている。それに桃香様とも何やら密議して、資金を頂いていたようだが?」
「げ」
 ばれてるし。
 玄徳様に視線を走らせると、顔の前で両手を合わされた。問い詰められて白状してしまったらしい。
「桃香様は、理由までは教えてくださらなかったが、私に内密で何をこそこそしているのだ、お前は?」
 何を、と言われても、易京の馬具職人に鐙の制作を頼んだだけである。
 が、基本的に楽したいという発想で頼んだだけに、関羽には知られたくなかったりする。「そんなものは訓練で克服すべきことだ! ただでさえ資金は限られているというのに!」とか言われるのが目に見えていたからである。


「つまり、愛紗は仲間はずれにされて怒っているのか?」
 じりじりと追い詰められながら、さてどうやってごまかそう、と冷や汗流していたおれに、思わぬ援護をくれたのは張飛だった。
「なッ?! そそ、そんなことはない! 私はただ、兵たちを率いる身としてだな」
「噛みながら言っても、説得力ないのだ」
「あ、そうだったんだ。なーんだ、愛紗ちゃんってば、可愛いんだから♪」
「と、桃香様まで、何を?! わわ、私は別にそのようなことを考えて問い詰めたわけではなくてですね」
 いつの間にか。
 当事者であるおれを脇に置き、盛り上がる姉妹たち。
 な、何とか助かった、かな?
「そうみたいですね。そ、それで、その……」
「な、何だい?」
「そのですね、お城に残してきたっていう女性とはどこまで……」
「だから残してきてないって言ってるだろうがッ?!」
 おれは声を大にして反論するが、どうもその言葉は届いていないっぽい。
 何やら常ならぬ迫力で迫ってくる諸葛亮。そして、それを抑えようとする鳳統。
「しゅ、朱里ちゃん、だ、駄目だよ。急いては事を仕損じる、だよ?」
「いいえ、雛里ちゃん。これは好機だよ! 機を見て敏ならざるは勇なきなり!」
「あわわ、朱里ちゃん、混ざっちゃってるよ?」
 何やら混乱状態の2人。とても口を挟める状況ではない。
 普段は冷静な2人なのだが、一体どうしたのだろうか?



「しかしまあ、平和なことだ」
 これから、空前の規模の戦いに赴こうというのに、この緊張感の無さはいかがなものかと思う。周りで見ている兵士たちからは笑い声があがってるし。
 けれど。
 今から緊張でガチガチになるよりは、はるかに良いことなのかもしれないな。
 いつのまにか、身震いが止まっていたことに気づき、おれはそう思うことにした。

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 天下無双(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/02 21:35




 陳留の大地は、かつてない大軍を迎え入れ、驚いていることだろう。
 地平線の彼方まで埋め尽くすかに見える兵士たち。
 中空に翻る忠と義の旗は数えることさえ難しい。
 そして、それを掲げる選りすぐりの精兵を統率するは、天下に名を知られた名将たちであった。


 その群英の中でも最大の勢力を誇るのは三公を輩出した名門の出、河北の袁紹である。
 また、その袁紹の従妹である南陽の袁術も大軍を率いて連合に参加していた。袁術配下には、黄巾賊討伐で名声を馳せている長沙の孫堅がおり、その陣容は勇将、策士が集う袁紹に勝るとも劣らない。
 西涼からは太守の馬騰が勇名高き西涼の騎馬軍団を引き連れて参戦しており、幽州からは琢郡太守劉焉、遼西郡太守公孫賛らが参加している。
 その他、数え上げれば20を越える太守諸侯が参加した連合軍の総兵力は、およそ15万。
 これに対する董卓軍の兵力は、密偵の知らせによれば10万に届かぬという。事実上、朝廷を牛耳る立場にいる董卓であるが、曹操の迅速な連合結成により、兵力の増強が間に合わなかったと考えられ、戦略的に見れば、連合を組織した曹操が、董卓軍に一歩先んじた形となったのである。


 曹操の功績は諸侯も認めるところであったが、連合の総大将を曹操が務めることに関しては難しいといわざるをえなかった。
 現在の曹操は、刺史でも太守でもない。朝廷にあっては騎都尉として数千の軍勢を司るに過ぎず、土地の豪商の援助を受けて自軍の兵を徴募し、陳留郡太守であり、親友でもある張孟卓の兵力を併せて、ようやく1万を越える軍兵を揃えたに過ぎなかった。
 連合軍の総兵力の10分の1にも満たない寡勢で、連合軍の主導権を握れるはずもない。そのことは曹操もわかっており、参集した諸侯を集めた最初の会議において、まず最初に提案したのが総大将の選任であった。




「うわー、すっごいねえ」
 玄徳様が感嘆の声をあげる。
「確かにすごいですが、桃香様、もう5度目ですよ、そう仰るのは」
「愛紗は相変わらず細かいのだ。すごいものはすごいのだ」
「鈴々、お前も少しは落ち着け。伯珪どのの客将とはいえ、正規の軍勢ではない以上、他の者たちから侮られぬよう気をつけねばならんのだぞ」
 義勇軍と言えば聞こえはいいが、正規軍から見れば所詮は雑軍である。これまでの経験から見ても、自分たちが他の諸侯にどのように見られるかは明らかだった。
 その玄徳様たちの横で、おれと簡擁はのんびりと連合軍の各処に立った旗を見ながら、参集した諸侯を確認していた。
 簡擁が最も騒がしい一画を指し示して口を開く。 
「袁の牙門旗の下に文、顔、田、か。文醜、顔良の2将軍に、軍師の田豊も参陣し、兵力は3万を越える。袁紹殿も本気と見えますな」
「あちらの袁術殿の旗の下にある孫というのは?」
「おそらく、長沙の孫文台殿でありましょう。女性でありながら、その勇名は江南全土に轟いているとか」
「ははあ、虎が猫に飼われているのですか?」
「はは、案外、北郷殿も口が悪いですな。袁家の本流であり、2万を越える兵力を有する袁術殿を猫扱いとは。ですがまあ、それが一般的な評価でありますな」
 簡擁の口から出てくるのは、どれも聞き覚えのある名ばかり。
 黄巾の乱が終息していないこともあり、どこまで兵力が集まるのかは不分明であったが、どうやら有名どころは残らず参集したらしい。目先の利害ではなく、時代の流れを読むならば、この連合に参加することで正義の名声を得ておくことは、この後、決して損にはならないことをわかっているのだろう。


 さきほどから、何事か考え込んでいた諸葛亮が、ここで口を開いた。
「総大将は、おそらく袁紹さんでしょうね」
「……うん。他に相応しい人は、袁術さんくらいだけど……」
「兵力から見ても、袁術さんはちょっと厳しいかな。それに、正面に立つよりも、後ろに潜んで漁夫の利を得るのが得意な人だから」
「朱里ちゃんの言うとおりだね。だとすると、先鋒は孫堅さん、かな」
 鳳統が頬に人差し指をあてながら推測を口にする。
 すると、横で聞いていた関羽が、訝しげに口をはさんだ。
「何故、先鋒が孫堅殿なのだ? 先鋒は武人の栄誉。袁紹殿が総大将になられたのなら、自分の軍で受け持つのではないか?」
「はぅッ?! そ、それは、ですね……」
 関羽の質問に、鳳統は慌てておろおろとし始める。どう説明したものかと困っているようだ。
「愛紗、士元をいじめちゃ駄目なのだ」
「わ、私は別にいじめてなどいないぞ!」
「ひぅ?! す、すみません、すみません」
 声を高めた関羽に対し、余計に萎縮してしまう鳳統を見て、張飛がもう1度、同じことを口にする。
「やっぱりいじめているのだ」
「うう、そ、そんなつもりはないのだが……し、士元、理由を説明してもらえないだろうか?」
 極力優しい口調をつくる関羽を見て、鳳統はまだうろたえながらも、何度も頷きながら口を開く。
「あ、あの、ですね。連合軍とはいえ、その目的はみんな同じです。少しでも被害を抑えたい、けれど少しでも多くの利を得たい。だから、栄誉あるお役目とはいえ、先鋒を進んで引き受けることはしないと思うんです」
 鳳統の説明を聞き、関羽は得心したように頷いた。
「ふむ、なるほどな。だが、そうすると、どうして孫堅殿が先鋒になるのだ? いや、孫堅殿というより、この場合は袁術殿と言った方が良いかもしれんが」


 関羽の問いに、鳳統は何度か深呼吸して、息を整えてから、説明を続けた。
「それは、袁術さんと、孫堅さんの力関係によります。孫堅さんは、袁術さんの配下から抜け出したい。一方で、袁術さんはそれを阻止し、孫家の力を今後も利用していきたい。その袁術さんにとって、孫家は弱くても用を為しませんが、逆に強くなりすぎても困ってしまうんです」
「なるほど、弱ければ自家の将軍として役に立たず、かといって強くなれば独立されてしまいかねない、か」
 鳳統の言葉に、関羽が頷く。
「はい。ですから、袁術さんは袁紹さんから先鋒の役目を与えられれば、孫堅さんにそれを命じるでしょう。先鋒の栄誉を得られ、孫堅さんの力を削ぎ、要請を受けたということで袁紹さんに貸しをつくれます。もちろん、袁術さん自身の兵は傷つかない。となれば、拒否する理由がありません」
「むー。袁術ってやつは卑怯なのだ」
 張飛は頬を膨らませて文句を言う。
 それに答えたのは諸葛亮だった。
「もちろん、張将軍の言葉は正しいんですが、軍略的に見て、袁術さんの行動は文句のつけようがありません。最小限の労力で、最大限の成果を、という諸侯の思惑とも合致します」
「でも、卑怯なのは卑怯なのだ! 戦は突撃、粉砕、勝利なのだ!」
「あ、あははは」
 張飛の言葉に、諸葛亮は困ったように、けれど、どこか頼もしそうな笑みを浮かべる。軍略的に見て正しかろうが、袁術のやり方に心底から納得できるわけではないのだろう。


「うーん、孔明ちゃんも士元ちゃんもすごいねえ。よくそこまで考えられるよね」
 感心しきり、という感じで口を開く玄徳様に、当の2人は恐縮したように顔を赤くするばかりだった。
 そんな一同の先走りを、簡擁がいつもののんびりとした口調で諌めた。
「桃香様も、皆様も。まだ、そうなると決まったわけではありませんぞ。それに連合軍とはいえ、いずれも互いに知らない者ばかり。となれば、密偵の1人や2人、どの諸侯も放っておりましょう。あまり大声で話をされぬ方がよろしいかと」
「あ、そうだよね。ごめんね、憲和」
「いえいえ。私としても、軍師殿らの見解を否定するわけではありませぬ。ただ、我らは伯珪様の客将。迂闊な言動をすれば、伯珪様にご迷惑をかけることにもなりかねませんでな。注意は怠らないようにしませんと」
 簡擁の意見には、皆、神妙に頷くばかりだった。
 締めるところは締める、というスタンスは、おれも見習いたい。まあ、言ってる本人も、おれと声を潜めるでもなく物騒な話をしていたのが、それは忘れる方向でいこう。
   




 結論を言えば、諸葛亮たちの推測は見事に当たり、連合軍の総大将は袁紹、先鋒は孫堅が務めることに決まった。兵站に関しては袁術が担当し、参謀としては連合の発起人である曹操が務めることに決まった。
 作戦立案を任された形の曹操だが、寄せ集めの連合軍に、一糸乱れぬ連携など期待できるはずもなく、具体的には連合軍の洛陽への侵攻経路を定めることくらいしか出来なかったようだ。
 曹操が提示した侵攻経路は2つ。
 陳留から洛陽へ至る最短の道――すなわち、汜水関、虎牢関をはじめとする幾多の難所が待ち構える直進経路。
 もう1つは、軍勢を南に向け、許昌、宛を抜けて南から洛陽を直撃する迂回経路である。
 前者は最短であるがゆえに、董卓軍がてぐすね引いて、今や遅しと連合軍を待ち構えている。それは曹操の放った斥候によって、すでに確認済みである。
 後者を選べば、高い確率で董卓軍の狙いをはずすことが出来るが、一方で大きく日数を消費することになる。大軍であればあるほど、補給の負担は重くのしかかってくるのは常識である。
 いずれも一長一短、どちらが優れているというものではない。
 議論は百出したらしいが、結局、最終的には直進経路が選ばれた。すなわち、汜水、虎牢の2大難関に挑むことが確定してしまったのである。
 覚悟はしていたが、それを聞いた瞬間、おれは大きくため息を吐いてしまった。







 連合軍・孫堅の陣
 紅の軍装で統一された孫家の陣営の一画。そこでは2人の人物が酒杯を傾けながら、今後の戦の展望を話し合っていた。
 向かい合うのは、共に妙齢の女性である。煌くような覇気を瞳に宿した人物――孫策が、呆れたように口を開いた。
「全く、袁術の奴、また私たちを良いように扱き使う心算ね」
 それに応じたのは、理知的な容貌を持つ人物だった。孫策の盟友にして、親友であり、江南に令名を轟かせる智将・周喩である。
 眼前の孫策が、たびたび酒盃に手を伸ばすのを咎めるように見つめつつも、それに気づいた相手が拗ねたような表情をすると、肩をすくめて、その行為を黙認した。
「仕方あるまい。私が袁術でも、同じことをするよ」
「……まあ、そうよね。袁家にしてみれば、番犬は強いにこしたことはない、か」
「そう。けれど、強くなりすぎて、飼い主に牙をむかれては困るということよ、雪蓮(しぇれん)」
 その言葉を聞き、孫策は、つまらなそうに頬杖をつく。
「まあ、理解はできるけどね。実際、自分たちが番犬の立場に立たされるとなると、腹が立つものね、冥琳(めいりん)」
「腹が立つ程度で済ませてくれれば、私としても重畳よ。いつものように無鉄砲に飛び出されては、また文台様に叱られてしまうわ」


 周喩が主の名を口にすると、途端に孫策の顔がしかめられた。
「あの鬼が何を言おうと知ったことですか。大体、今度の件だって、私たち孫家の軍が貧乏くじを引くことになるなんて、少し考えればわかりそうなものよ」
「ふふ、相変わらず、文台様のこととなると、むきになるわね」
 周喩が小さく微笑む。孫策は居心地悪そうにしながらも、言葉を続けた。
「むきになってるわけじゃなくて、事実を指摘しているだけよ。江東の虎とか誉めそやされて、調子に乗ってるのじゃないかしら?」
「その意見には、首肯しかねるな。たしかに雪蓮の言うとおり、文台様は貧乏くじを引かされたが、おそらく、それは文台様も承知していたことだ」
「え? 承知していたって、どういうこと?」
「今度の戦では、実より名をとるべき、と考えておいでなのではないかな。我々が、いずれ袁術の盟下から脱するためにも、今、董卓軍相手に勇名を馳せておくことは、後日の重要な布石となるだろう」
 親友の言葉に孫策はこれみよがしに肩をすくめてみせる。
「さてさて、そこまであの鬼が考えているかしら?」


「――悲しいわね。その程度のこともわからないの、策?」
「げ」
 天幕の中に響く第三者の声。それを耳にした瞬間、孫策の口から思わず呻きが漏れていた。
 周喩が慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「文台様」
「冥琳、うちの馬鹿娘のお世話、ご苦労さま。あなたにわかることが、この子にはわからないんだものね。尤も、この子にあなたと同じだけの聡明さを求めるのは無理というものなのだけど」
 憂いを込めて、深々とため息を吐く人物こそ、孫文台。孫家の現当主にして、江東の虎とあだ名される稀代の勇将である。
「い、いえ、雪蓮の才は、ただほんのすこし知識を齧っただけの私などとは比べ物に……」
「ああ、いいのよ、冥琳、相手しなくて。まったく、わざとらしくため息まで吐いちゃって、白々しいったら」
「それはこちらの台詞よ、策。冥琳も、昼間から酒をくらう不良娘に付き合わされて大変だったわね」
 それぞれ笑みを浮かべながらも、虎も裸足で逃げ出しそうな迫力をかもし出している母娘を前に、周喩は悟られないように胸中で深々とため息を吐く。
 周喩は、親友である孫策を心から大切に思っているし、主君である孫堅のことは我が母とも思い、固く忠誠を誓っている。2人に不満などはない。ただ願わくば1つだけ。
(親子喧嘩に私を巻き込むのだけはやめてほしいのだけれど)
 これまで、幾度願ったかわからない、淡い願いを思い出しつつ、にらみ合う2頭の猛虎を仲裁すべく、江東の智将は口を開くのだった。







 汜水関はその名の通り、黄河の支流近くにつくられた天然の要害である。
 そこに押し寄せるためには、まず渡河を果たさなければならず、それが成功したとしても、汜水関の左右は崖がそびえたち、敵勢の迂回を許さない。渡河を終えた大軍は正面から関を攻撃するしか手がないのだが、砦正面には大軍が展開できるだけの隙間はない。
 つまるところ、敵がどれだけ多勢であろうとも、砦の守兵は、その一部の相手をすれば良いだけなのである。汜水関が難関と称される所以がここにあった。
 その難関に篭るは、猛将華雄以下3万の董卓軍。その情報はすでに曹操の放った斥候から本営に知らされており、すでに全軍にその旨が伝えられている。
 対する連合軍の先鋒は、江東の虎・孫堅率いる5千。その背後に、袁術軍1万が控え、その更に後方に袁紹から強いられた形の公孫賛の軍勢1万2千が第2陣として控える。


 危惧されていた渡河を無事に終えた連合軍の先陣は、陣形を整えた後、雄叫びを挙げて汜水関に殺到する。
 ここに、董卓軍と反董卓連合軍の戦いは、ついに互いに刃を以って決する最終段階にさしかかったのである。







 開戦から一刻あまり。
 第2陣に位置する公孫賛軍に扶翼する劉家軍は、未だ敵勢と接触する機会を持たない。
 それは先鋒である孫堅の部隊が、どれほど巧みに戦を進めているかの証左でもあった。
 孫堅軍を扶翼するために、袁術は自軍の半数を割いているのだが、その軍は未だに動かない。つまり、孫堅は自軍だけで汜水関と3万の華雄軍を手玉にとっているのである。
「さすがは江東の虎と謳われる孫文台殿。見事な戦いぶりだ。袁術殿の手勢など不要と言わんばかりだな」
 はるか先陣の戦いぶりを眺めながら、関羽が賞賛の言葉を発した。
 諸葛亮、鳳統の2人は、即座に頷いて、その理由を口にする。
「敵軍3万に対して、孫堅軍はわずか5千。城攻めには篭城側の3倍の兵力を要するとされていますが、孫堅さんの軍は、そんな怯みは少しも持っていませんね」
「それに、孫堅さんの軍の渡河の手際は見事のひと言でした。あの手際は、長江流域での戦闘経験が豊富な孫堅さんの軍以外、どこの軍もなし得ないでしょう。その意味でいえば、先鋒に孫堅さんを選んだのは正解でした」
 2人とも、見事な孫堅軍の戦いぶりを見て、やや興奮気味だった。
 それも無理もない。
 敵の渡河に乗じて攻撃を仕掛けるのは、いわば常識。汜水関に立てこもる華雄軍も、孫堅軍が渡河を開始した際はその気配を見せたのだが、鳳統の言うとおり、長江での船戦に慣れた孫堅軍は巧みな操船と、隙のない展開で、寡兵ながらも華雄軍に付け入る隙を見せず、敵前渡河の難行をいとも簡単に成功させてしまったのである。




 汜水関の守将である華雄は、孫堅軍が渡河を成功させるところを指をくわえて見ているしかなかった。
 後方の洛陽から篭城を指示されていたこともあったが、それ以上に華雄は以前、孫堅に敗れたことがあり、その記憶が未だに華雄の脳裏にこびりついているのである。
 迂闊に仕掛ければ、再び煮え湯を飲まされることになるだろう。自分の武に絶対の誇りを抱く華雄にとって、同じ相手に2度負けることは死に勝る屈辱であった。  
「ふん、連合軍め。精々、いまのうちに暴れておくがよい。貴様らが死地にいるのはかわらんのだ。後方から許可が出次第、即座に殲滅してやる!」
 寡兵でありながら、まるで出戦しない華雄をあざ笑うように、幾度も攻撃を仕掛けてくる孫堅の軍勢に苛立ちながらも、華雄は何とか自分を制していた。
 華雄が篭る汜水関。そして、その後方には虎牢関と、猛将呂布と、その指揮下にある5万の兵が、満を持して控えている。
 この二段構えの陣で、連合軍をすり潰すように殲滅するのが、董卓軍の戦略であった。それゆえ、華雄には篭城の厳命が下されているのである。


 元々、連合に参加した諸侯は国許に不安を抱えての遠征であり、長期戦になれば、連合軍は容易に分解するであろう。それは誰が見ても明白な事実であったから、この董卓軍の戦略はある意味、当然のものであるといえる。
 だが、今の董卓軍にとって厄介なことは、敵は連合軍だけではないところにあった。
 主君である董卓の不在、朝廷で蠢動する高官たち、そして各地の民衆の圧政への不満と怒り。
 いつ、どこから不測の事態が噴出するか、予見しうる者はいなかった。それゆえ、有力な将の1人である張遼は配下の騎馬部隊と共に、遊撃部隊としていずれの方面にも対応できるように備えざるを得ず、董卓軍の軍略は大きな制限を受けている状態だったのである。


 それでも、戦況がこのまま推移すれば、連合軍を押し返すことは可能であっただろう。前述したように、汜水関は大軍の利を活かせぬ天然の要害であり、兵糧の備蓄も十分にある。ひたすら敵の攻撃を凌ぎ続けていれば、連合軍は勝手に瓦解するはずであった。
 だが。
 董卓軍の軍師である賈駆が、この作戦を立案した時、最も懸念したこと。それは篭城する将が、作戦に従わずに突出してしまうことだった。
 本来であれば、賈駆は、独断専行の危険が少なく、それでいて、戦略眼を備え、応変の才に富む張遼を汜水関の守将に据えたかった。
 だが、華雄では遊撃部隊を率いるために必要な柔軟な思考は不可能であるのは明らかであり、かといってもう1人の将である呂布を、遊撃部隊に充てるのは、あまりにも役不足というものである。
 結果、懸念を残しながらも、華雄に守将を委ねざるを得なかったのだ。




 華雄とて、決して凡愚な将ではない。統率力に優れ、兵たちの信望は厚く、主君である董卓もその人柄に信頼を置いていた。賈駆などからは欠点と思われている猪突気味な性情についても、武人であれば誰もが持つ自負の為せる業である。
 だが、華雄の不幸は、その性情がほんのわずか、自身の理性の手綱を振り切ってしまう瞬間があることだった。


 そして、董卓軍の不幸は。
 そんな華雄の性情を的確に見抜き、その憤懣を限界まで高めた後、華雄の心理を痛撃せんと作戦を組み立てた稀代の軍師が孫堅軍にいたことであった。
 渡河戦の成功。その後の寡兵による立て続けの攻勢。頃はよしと判断したその軍師は、最後の一手を打つ。


「華将軍! 敵の陣頭に指揮官らしき女性の姿が見えます!」
「なんだとッ?! 旗は?」
 華雄の問いに、兵士はわずかな間を置いた後、返答した。
「旗には、緋に『孫』の文字! 敵先鋒である孫文台の牙門旗ですッ!」
 その報告を聞いたとき、これまで本営の指示に従い、耐えに耐えてきた華雄の自制心が音をたてて崩れていった。
 そして、城壁に駆け寄った華雄が眼下にかつての敵将を見出したとき。
 その沸騰する戦意を収める術を持つ者は、華雄本人を含め、この場には誰もいなかったのである。


 全ては孫堅軍の軍師・周喩の思惑通りであった……    



  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 天下無双(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/04 02:47




 連合軍と董卓軍が戦端を開いてから、2日。
 遊撃部隊を率いる張遼の下に、信じがたい報告が届けられた。
「汜水関が陥ちたーッ?! ま、まだ敵が来てから3日も経ってないっちゅうのに、ほんまかッ?!」
 問われた斥候の兵士は、休まずに駆け続けた疲労で、息も絶え絶えになりながらも、主将の言葉にしっかりと頷いた。
「汜水関の城壁には、すでに『孫』の旗が翻り、敗れた守備兵たちが続々と虎牢関目指して後退しております。すでに報告は虎牢関の呂将軍にも伝わっているでしょう」
「まあ、奉先には陳宮もついてるから、敵の奇襲を受けたりはせんやろうけど、しっかしこんなに早く陥落するとはなー。文和が雷を落とす様が目に見えるようや」
「退却してくる兵たちから聞いたところによると、敗因は……」
「ああ、ええって、聞かんでもわかる。大方、華雄の猪が、敵の挑発に乗って城を出たところを、その隙にって感じやろ?」
「は、はい、仰るとおりです。華将軍ご自身も、孫家の主将と、その御息女と矛を交えられたそうですが、相手は2人、こちらは1人で如何ともしがたかったと……」
 その報告に、張遼は小さく肩をすくめる。
「数の問題やあらへん。江東の虎・孫堅と、その娘っちゅうたら麒麟児とか言われてる孫策やろ。んなもん、一対一でも危ないわ。で……討たれたんか?」
「手傷を負われたのは確かのようですが、その後のことは混戦のため、確認できなかったようです。ただ、その後の退却行でも華将軍の姿を見た者はいないとのこと。おそらくは……」
「……そうか。まあ、それも戦場の習いっちゅうもんやろ」
 そう口にしながらも、張遼はすぐに配下の兵をまとめ、部将たちに指示を下す。
「華雄がおらんちゅうことは、退却する兵士たちの指揮をとるもんもおらんちゅうことや。うちの隊は退却中の味方の援護に向かうで!」
『ははッ!!』  
 張遼の号令一下、鍛え抜かれた精兵はたちまち整然と陣形を整えていく。


 その様子を満足そうに見やりながら、張遼は小さく口の中で呟いた。
「……味方の猪っちゅうんは厄介やったが、死んだら文句も言えへんなあ……華雄、仇は討ったるさかい、成仏しいや」
 


 ■■



「はっははは、何が勇猛名高き華雄軍か! 我ら袁家の軍勢に歯もたたぬ有様で、よくぞそのような大口を叩けたものよ!」
「殺せ、殺せェッ! 董卓軍、何するものぞ! 中華最強たるは我らが主君、袁公路様の軍勢であることを満天下に知らしめるのだッ!」
 主将を失い、成す術なく汜水関から退却する董卓軍に襲い掛かったのは、城攻めを孫堅軍に委ね、後方で待機していた袁術軍であった。
 袁術が率いてきた兵は2万。そのうち、袁術の本隊1万は、兵站を司るために本営に詰めており、この場にいるのは、残りの1万である。率いるは、袁術軍でも屈指の猛将と謳われる兪渉と紀霊の2将軍であった。
 孫堅の軍勢は、汜水関攻めの折りに少なからぬ痛手を被っており、追撃の余力はなかった。華雄を見事に策に乗せたとはいえ、3万の軍勢が立てこもる城に5千の兵で挑んでいたのだから、それも当然であろう。


 袁術軍の2将は、まさか孫堅軍が、孤軍で汜水関を陥とすとは夢にも思っておらず、予想外の事態に狼狽した。彼らの役目は、孫堅軍の戦いを監視し、怯惰な戦いぶりを見せるようであれば、後方から督戦することだったのである。
 それゆえ、あまりにも鮮やかな孫堅軍の勝利に平静でいられなかった。華雄を失い、大混乱に陥った董卓軍を、孫堅軍が追撃し、その勢いのままに汜水関になだれ込んだあたりで、ようやく戦況に気づき、慌てて参戦したものの、すでにこの時点で孫堅軍の戦功は覆しようもないほどに明らかとなっていた。
 孫堅軍にも損害が出たものの、これでは後日、主君から厳しく叱責されることは目に見えている。それゆえ、2将は敗兵を追撃し、少しでも勲功を稼ごうとしたのである。


 指揮官を失った兵士はもろい。ましてや孫堅軍との激闘の後である。
 陣を立て直すことさえ出来ず、ただただ虎牢関を目指して逃げていく華雄軍は、袁術軍にとって、狩りの獲物と変わらなかった。
 降伏を申し出る者もいたのだが、袁術軍はことごとく斬った。天下の巨悪である董卓軍にかける情けはない、と侮蔑の笑みを浮かべながら、容赦せずに。


 少しでも身を軽くするために、武器も鎧も捨て、ただひたすらに逃げ続ける華雄軍の姿は、これが昨日まで精鋭を謳われた部隊の兵士かと疑わせるものであった。 
 だが、当の兵士たちにしてみれば、少しでも生き延びる確立をあげるために必死である。名高い華雄軍とはいえ、常備兵は華雄の本隊と、その配下の部将の手勢くらいのもので、他は徴兵された民たちである。一度、敗北すれば、戦意よりも死への恐怖が勝る。
 そして、そんな彼らの背に、容赦なく突き立てられる矛と、降り注ぐ矢の雨。
 袁術軍の凄まじい猛追の前に、華雄軍3万が殲滅させられるのも、もう間もなくだと思われた。



 ■■



 袁術軍の兵士たちは、武器といわず、鎧といわず、敵兵の血で染め上げた格好で、会心の勝利に浮かれていた。
「は! まったく、狩りの獣の方が、まだ歯ごたえがあるぜ」
「違いない! まあ、たかが5千の軍に負けるような奴らだ。おれたち袁家の軍の敵じゃねえよ」
「お、みろ、あいつ、まだ逃げようとしてるぜ。誰かとどめをさしてこいよ」
 兵士の1人が指差す先には、太ももに矢が突き刺さったまま、何とか戦場を離脱しようとしている董卓軍の兵士がいた。
 哄笑をあげながら、袁術軍の兵士たちがその兵を取り囲む。
 その姿を見た董卓軍の兵士は、小さく悲鳴をあげると、急いで敵の手から逃れようとする。
 だが、足に矢が刺さった状態で、複数の兵士から逃れられるはずはなく、たちまちのうちに周りを取り囲まれてしまった。
「あぅッ」
 身体の均衡を保てず、逃亡兵は倒れ込む。
「はっは、間抜けなやつだな」
「ほら、さっさと逃げないと死んじまうぞ!」
 囃し立てる袁家の兵士たちの中から、1人の若者が逃亡兵に近づく。
「待て待て、矢が刺さってたら逃げられないだろ。ここはおれが助けてやるぜ」
「なんだ、お前、医者の真似事が出来たのか?」
「できるわけねえだろ。なあに、無理やり引っぱれば、矢なんて簡単に抜けるだろ」
 それを聞いて、逃亡兵はもう一度小さく悲鳴をあげる。身体に刺さった矢を抜くのは、医者であっても高い集中力を要する作業だ。素人が力任せに抜こうとすれば、激痛でのたうちまわる羽目になるだろう。
「おら、何を逃げようとしてんだ、せっかく俺様が助けてやろうっていうのに」
 そういうと、男は、地面を這ってでも逃げようとしている兵士の髪をわしづかみにする。
「きゃあッ?!」
「何を女みてえな悲鳴をあげてやがるッ! おら、こっちむけ!」
 怒鳴りつけながら、無理やり兵士を振り向かせた男は、その顔を見て、少しの間、呆然とした。


「おい、どうした?」
 怪訝に思った他の兵士が声をかけると、その男は我に返ったように、はっと目を見開く。
 そして、男は口を大きく開いて、大笑しはじめた。
「はっははは、なんだ、てめえ、もしかして女か?」
 それを聞いて、周囲の兵士たちも色めき立つ。
 男の言ったとおり、負傷したその兵士の顔は、戦塵と血潮で汚れてなお、可憐さを失わない女性のものだった。
「こいつあついてる。おい、おれが気づいたんだ、おれが最初で文句ねえよな?」
 勝ち誇って言う男に、周囲の兵士たちから妬みまじりのやっかみの声が飛んだ。
「ちッ、運が良い奴め。ちゃんとおれたちにもまわせよ」
「おい、他にもいねえか探してみようぜ」
「ああ、そうだな。どこの軍でも、女の兵士は固めて組織するっていうしな」


 三々五々に散っていく兵士たち。だが、女兵士はそれに安堵することもできなかった。目の前の男が荒々しい息と共に襲い掛かってきたからだ。
「い、いやああ、やめ、やめて下さいッ?!」
「誰がやめるかッ! 恨むんなら、女の身で戦場なんかに出てきた自分の浅はかさを恨みな!」
「や、やめて下さい、は、母と弟が、家で待ってるんです……」
「ああん? どうせてめえは死ぬんだ、別に構うこたあねえだろ?」
 そういうと、男は無雑作に女兵士の足に刺さっている矢に手をかけた。
「ひッ?! 痛、痛いです、やめ、やめてェェェ!!」
「くだらねえことをごちゃごちゃ言ってるからだろうが! おら、観念しちまいな!」
「いや、いやああ、誰か、誰か助けて………!!」



 一際高く、女兵士の叫び声があたりに響き渡る。
「バカか、どこから助けが来るってんだよ」
 男はもう何度目かの嘲笑を浮かべた。
 

 ■


 ――放たれた矢が、目標に向けて走る。


 ■


「へへ、こんな好機、滅多にねえしな。将軍たちに横取りされる前に、楽しませてもらうぜ」
 男の手が、女兵士の服に伸びた。


 ■


 ――鋭い音が、中空を引き裂くように疾る。続けて2の矢を射る。


 ■


「さて……」
 何か言いかけた男は、胸のあたりに違和感を感じ、怪訝そうに自分の胸を見下ろし。


 ■


 ――狙いあやまたず、矢は目標を貫いた。射手の強弓ぶりを示すように、その矢は、目標を深く貫き通している。


 ■


「なんだ、こりゃ?」
 自らの胸板を貫く矢を見て、あまりに意外な事態に、男は痛みを感じることさえなかった。そして。


 ■


 ――2の矢もまた、狙いあやまたず、男の右目から貫き、頭蓋を打ち砕く。


 ■


「……」
 どさり、と地面に倒れふす男。彼は確かに今日、幸運だったかもしれない。
 地面に倒れ込んだ時には、すでに命を失っており、苦痛を感じる暇さえなかったのだから。

 
 ■


 最初に異変に気づいたのは、誰であったのか。
 追撃と掃討に夢中になっていた袁術軍の兵士は、稜線の彼方から湧き出るように現れた軍馬の一団にようやく気がつくことができた。
 董卓軍の援軍か、と袁術軍の誰もが考え、陣形を整えようとしたのだが。


 ああ、哀れ。
 この軍に対するに、その展開はあまりにも遅すぎる。


「て、敵襲、敵襲ですッ?!」
「どこの部隊だ?!」
「敵、陣頭に深紅の呂旗! て、敵将は呂布です! 申し上げます、敵将は呂布ッ!!」
「慌てるな! 敵が呂布であれ、我ら袁術軍の力をもってすれば、何事かあらん! 早急に陣形を整えよ!」
「だ、駄目です、敵、先陣、すでに我が軍の眼前まで迫っております! 展開が間に合いません?!」
「馬鹿な?! 見張りは何をしていたのだ、これほどに接近を許すなど!!」
「な、なんだ、あの先頭の騎馬は! は、速すぎるッ?!」



 ■■



「…………遅い」
 呂布は小さく呟くと、味方の軍さえ後方に置き去りにする、凄まじい脚力を誇る愛馬に語りかける。
「…………行くよ、赤兎」
 騎手の言葉を理解しているかのように、赤兎は一瞬だけ身体を振るわせた。
 中華最強を謳われる人と、中華最速を謳われる馬は、一体となり、突撃の速度を少しも緩めることなく袁術の軍に飛び込んでいく。
 呂布の獲物である方天画戟が、目にも留まらぬ速さで振り下ろされる度に、攻撃されたことにさえ気づかないまま、袁術軍の兵士たちが次々と倒れていった。
 敵兵を文字通り蹴散らしながら、それでも呂布の突進はわずかの遅滞も見せることはない。
 その視線が、翩翻とはためく兪渉の軍旗を捉えた時、この袁術軍の将の命運は決した。


 人馬一体となって突っ込んでくる敵将を目の当たりにした兪渉は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
 しかし、将たるもの、兵にそのような弱気を見せることは許されない。
 兵たちの動揺を払い、自身の胸中に飛来する嫌な予感を振り払うためにも、高々と名乗りを挙げようとする。
「我こそは袁家にその人ありと言われし兪渉なり! 敵将呂布よ、袁家に人無しと思ってもらっては……」
 だが。
「………うるさい」
 名乗りを挙げる間もあらばこそ。
 呂布が無雑作に戟を一閃させた瞬間、兪渉の首は宙を飛んでいた。
「しょ、将軍が討ち取られた?!」
「ひ、退け、退けーーッ! 汜水関まで退却しろ!」
 主将が討ち取られたところを目の当たりにした袁術軍の兵士たちは、慌てて呂布軍に背を向ける。


 だが、戦友たちを嬲られた呂布軍の兵士たちが、それを見逃すはずもなく。
 先刻までの戦況は完全に逆転し、追う者と追われる者は立場をかえて、新たな戦場に身を投じることになるのであった。



 ■■ 

 
 
「れ、恋殿~、お1人で突出するのは、いかに一騎当千の恋殿といえど危ないと申したではありませんか~」
 掃討戦を終えて陣営に返ってきた呂布を、小さな人影が騒がしく出迎えた。
 呂布の軍師(と自称する)陳宮である。
「………平気。あの程度の敵なら」
「そ、それはもちろん、恋殿にかなう奴がそこらにいるはずもないですが、それでも万一ということが」
「………あの子は?」
「聞いてくだされーーー……あの娘なら、すでに医者の手当ても済んでおります。敗走の疲れもあったのでしょう。今はぐっすりと寝ておりますが、お顔をご覧になりますか?」
 陳宮の問いに、呂布はわずかに首をかしげた後、小さく頷いた。
「………ん」 
「では、こちらです」


 陳宮が呂布を案内したのは、負傷兵を収容する天幕ではなく、更に奥まったところにある重傷者専用の天幕であった。それだけ、袁術軍の兵士たちに痛めつけられていた傷が深かったのだろう。
 呂布たちが天幕に入ると、意外なことに、娘は目を覚まし、ぼんやりと天幕の内部に視線を送っていた。
 だが、呂布たちが入ってくるのを見て、慌てて畏まろうとし……太ももの激痛に、呻き声を漏らしてしまう。
「ああ、じっとしているのです! 医者は後遺症は心配ないといっていましたが、きちんと休まないと、その限りではないのですぞ!」
「で、ですが、呂将軍、御自らお越しなのに、横になっているわけには……」
「………気にしないで良い」
「そうなのです! 恋殿はそのような些事に目くじらをたてるほど、器の小さい御方ではないのです!」
「……は、はい、申し訳ありません」
 俯き、小さくなってしまった娘を見て、呂布は陳宮をじっと見つめる。
「………怖がらせちゃ、駄目」
「あうう、わ、私が悪いのですか? 恋殿の偉大さを話しただけですのに」
「…………」
「ぐうう、恋殿にそのような目で見られると、心が張り裂けるようなのですよぅ……」
 うちしおれる陳宮の姿は、まるで主人に叱られた子犬を見るようで。
 その愛らしい様子に、間近で見ていた娘は小さく、くすりと笑みをもらした。


「むむ、今、ねねを見て笑いましたね?」
「い、いいえ、とんでもないです!」
「ごまかしても無駄なのです! ねねの地獄耳は3里離れた場所に落ちた雷の音さえ聞き取るのですよ!」
 思わず首を傾げる娘。
「……それは誰でも出来るのでは……?」
「何か言ったですか?!」
「いいえ、言ってません……っ痛!」
 勢い良く背筋を伸ばそうとした娘は、傷口から発する激痛に、再び顔を歪めた。
「………陳宮」
「い、今のはねねが悪かったのです」
 咎めるように陳宮を見る呂布に、今度は素直に陳宮も頭を下げる。
 痛みをこらえながらも、娘は今度ははっきりとした笑顔を見せるのだった。


「姓は高、名は順と申します。未だ若輩ゆえ、字は持ちません」
 助けられた娘はそう名乗ると、改めて呂布に感謝の言葉を述べた。
 肩までしか伸ばしていないのが惜しいと思えるような、艶のある黒髪と、吸い込まれそうな黒の瞳が印象的な少女だった。
 聞けば、兵卒として徴用されそうになった弟の代わりに、兵士として志願したのだという。女ということがばれれば、再び弟に徴兵の令が下るかもしれないため、ずっと男として振舞っていたのだ、と高順は語った。
「………ちんきゅ」
「みなまで言わずともわかっております、恋殿。傷が癒え次第、ただちに帰郷できるように手をうっておきます。それまでは後方に下がっていてもらいますので」
「……ん。でも、虎牢関は駄目」
「な、何故ですか? 恋殿が守る以上、虎牢関は難攻不落。これ以上、安全なところなどないですのに」
「……なんとなく」
「な、なんとなくとは……い、いえ、わかりました! 恋殿の勘に疑義を挟むなど、軍師としてあってはならぬこと。ただちに洛陽まで戻れるよう手配いたします!」
「……ん」
 こくり、と頷く呂布を見て、高順は身体の痛みさえ忘れて、深々と頭を下げた。
「りょ、呂将軍、なんと、お礼を申し上げたら良いのか……」
「……困ったときは、お互い様」
 そう言うと、呂布は病人の療養の邪魔にならないように立ち上がった。


 かくして、高順は負傷兵として後方に移送され、戦線から姿を消すことになる。
 やがて、この少女は、武は呂布に次ぎ、智は陳宮に次ぐと称され、陳宮と共に呂布軍の左右の将となるのだが……それは今しばらく先の話であった。



 ■■



「おのれ、呂布め、おぼえておれよ!」
 僚将を討ち取られ、さらには撤退時に壊滅的な損害を与えられた袁術軍の将軍紀霊は、汜水関の偉容を彼方に望むと、もう何度目になるかもわからない憤懣を口にした。
 すでに率いる兵力は3千をはるかに下回る。あるいは2千を切るかもしれない。歴戦の将軍である紀霊であったが、ここまでの惨敗を喫したことはかつてなかった。
 主君である袁術は、悪人ではないにせよ、気分屋な面があり、罪に過ぎる罰を課してくることは珍しくない。ましてこれほどの大敗とあれば、下手をすれば死罪に処される可能性さえあった。
 袁術の好物である蜂蜜酒を、今のうちから差し入れておくべきか、などと戦後処理に意識を向けていた紀霊は、汜水関を視界に捉えたことで明らかに油断していた。
 ここからならば、たとえ交戦することになっても、連合軍の援軍が間に合うだろうし、何より、呂布軍が退いた今、こんなところまで突出してくる敵軍はいないだろうという予断は、しかし、致命的な失策となって、紀霊に跳ね返ってくることになる。
「しょ、将軍、よ、横合いから騎兵部隊、突進してきます!」
「な、何だと?! いつのまに……ま、まさか、呂布が引き返してきたのか?」
「違います! 横撃をかけてくる軍の旗は『張』! 敵将は張遼と思われます!」
「おのれ、このような場所まで侵出してくるとは、なんと愚かな敵将なのだ!」
 届くはずのない敵将への罵倒。
 だが、あるはずのない返答が、紀霊の耳に届く。


「愚かな敵将ですまんなあ。ただこっちにも、ちいと都合っちゅうもんがあってな」
 青竜刀を模した長刀を掲げ、張遼は気軽な調子で紀霊に話しかける。
「うちの名は張文遠。袁術軍の将、紀霊と見受けた。あんたにゃ恨みはないけど、その首、とらせてもらうで」
 まるで、ちょっと筆を貸してくれとでも言うように、あっさりと言う張遼。
 だが、その顔は次の瞬間、触れれば切れそうな戦意を宿したものに変じた。
「いや、ちゃうな。あんたら、ずいぶんうちらの仲間を可愛がってくれたようやし、十分恨みはあるなあ。ま、どっちにしても、あんたの命運は、ここで終わりちゅうこっちゃ。おとなしゅう、うちの刀の錆になりくされ!!」
「く、な、何をしている、応戦せよ! それと汜水関に援軍を要請するのだ!」
「もう遅い……っちゅうてもわからんのやろな。まあええ、なら、その身体に直接教え込んでやるだけや!」
 愛馬をあおって突進する張遼。それを慌てて迎え撃つ紀霊。
 打ち合いは、ほんの10合足らずで終わった。
 実力どおりの決着。
 宙を飛ぶ紀霊の顔には、最後まで驚愕が張り付いていたという。




 袁術軍は、この一連の追撃戦で、総兵力の半数近くを失うという大打撃を受ける。
 一方で、汜水関を独力で陥落させた孫堅の声望はいやが上にも高まった。
 その2つの事実が何をもたらすのか。この時点で明確に読み取ることが出来る者は、どこにもいなかったのである。
 
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 天下無双(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/10 00:22



 汜水関の攻防において、連合軍は孫堅軍と袁術軍をあわせ、1万を越える死傷者を出した。
 この損害は決して小さいものではなかったが、実のところ、この数字は、大本営が想定していた汜水関攻めの損害をはるかに下回るものだった。
 勇将華雄率いる3万の軍勢が篭る汜水関を陥落させるのは、それだけの難事であると考えられていたのである。
 しかも、その犠牲の多くは、関陥落後の不用意な追撃を、董卓軍に逆撃されたことによるものであったから、汜水関攻めのみを見れば、事実上の大勝利と言ってよい。
 孫堅軍の武名はおおいに高まり、主将である孫堅は、連合の諸侯から滝のような賛辞を浴びせられ、苦笑いを浮かべる羽目になった。
 一方、大きく面目を損なったのは袁術である。汜水関攻めの折りの動きの鈍さ、そしてその後の追撃戦における無様な戦ぶりは諸侯の憫笑を誘うものであった。
 それと悟った袁術は怒りに震えたが、その怒りをぶつけるべき配下の将軍は、2人とも討ち取られており、全ての責は主君である袁術の背に負わされることになったのである。
 袁術軍の大将軍である張勲が、懸命に主君の機嫌を取ろうとしている間にも、軍議は速やかに進められていた。


 孫堅軍の活躍により、連合軍の兵士たちの士気は大いに高まっている。参謀を務める曹操は、この勢いに乗って、速やかに虎牢関に迫るべしと訴え、諸将は全会一致で、曹操の案を採択した。
 同時に曹操は、大勝利を得たとはいえ、先鋒を務めていた孫堅軍の被害が大きく、また配下の兵士も城攻めの疲れが抜けきっていないことを考慮して、陣替えが必要であろうとの見解を示し、これも諸侯に認められた。
 当然、次に問題となったのは、孫堅に代わる先鋒を誰が務めるか、という点である。
 汜水関攻めでは躊躇していた諸侯であったが、孫堅軍の大勝により、連合軍は今、勝勢に乗っている。これに乗じ、虎牢関に押し寄せることが出来れば、天下に勇名を馳せることも可能になるとあって、皆、我も我もと名乗りを挙げた。
 しかし、それら功名に逸る諸侯を制し、先陣に選ばれたのは、西涼の太守馬騰であった。


 西涼の騎馬軍団は勇猛にして精強、それを率いる馬騰本人も、女性の身ながら、優れた統率力と武勇を誇る歴戦の将である。そして、朝廷へ篤い忠誠を捧げるその篤実な為人は、天下に広く知られていた。
 緒戦が渡河を要する戦いであった為、騎馬が主力である馬騰は後衛に甘んじたが、汜水関から虎牢関までの道のりに大きな河水はなく、騎馬軍団がその真価を発揮できる地形が広がっている。となれば、もう後衛にじっとしている理由はどこにもなかった。
「名高い飛将軍とは、1度矛を交えたいと思っていたところよ。ここは、我ら西涼の軍兵に任せていただこうかの」
 そう言う馬騰の言葉は、表面上こそ穏やかなものであったが、その両眼には荒らぶる波濤の如き戦意が飛沫をあげていた。
 先鋒を望む諸侯の中に、その視線をまともに浴びて、なお反駁できるだけの度量を持つ者は1人もおらず、連合軍は馬騰軍を先鋒として、虎牢関へ進軍することを決定したのである。


 なお、第二陣には引き続き公孫賛があてられると思われたが、ここで曹操が再度口を開いた。
「はるばる西涼から参られた寿成殿が先鋒に立たれるというのに、檄を発したこの孟徳が、緒戦のみならず此度も本営でじっとしているとあっては、祖先に顔向けができぬ。この孟徳が第二陣を務めたいと思うが、異存のある方は?」
 それを聞いた総大将の袁紹が、かすかに顔を引きつらせながら、口をはさむ。
「あーらあら、たかだか1万程度の小勢が後詰とあっては、寿成殿も心もとないでしょう。この本初の軍が、第二陣を務めさせていただきますわ」
「総大将が第二陣? 本営はどうするつもりなのかしら?」
「おーっほっほっほ。あいにく、私の軍勢はあなたの3倍。2つに分けたとて、あなたの軍よりはるかに勝りますわ」
「つい先日、軍を分けて痛い目を見た人がいたと思ったのだけど、あなたは大丈夫なのかしら」
「ふふん、私の軍は兵も将も精鋭中の精鋭。同じ袁家といっても、どこかの小娘の軍と一緒にしないでもらいたいですわ」
 ちらりと視線を袁術に向けて、袁紹が余裕たっぷりの笑みを見せる。
「ぐぬぬぬ、妾の子風情が、妾を侮辱するのか?!」
「あらあら、負け犬が遠吠えをあげてますわね」
「なんじゃとーーッ!」


 時ならぬ騒ぎが沸き起こる本営。
 その騒ぎを鎮めたのは、肩をすくめた馬騰のひと言であった。
「ならば、孟徳殿と本初殿、2人で二陣を務めればよろしかろう。どの道、虎牢関は全軍で当たらねば陥落させることは難しい。先陣だろうと、後衛だろうと、大した違いはないゆえな」
「ここで時を費やすのも惜しい。麗羽、寿成殿の提案で良いかしら?」
「ふん、良いでしょう。もっとも、寿成殿と私が続けば、あなたのようなおチビさんに出番はまわってこないでしょうけれど」
「それならそれで、連合にとってはめでたいことよ。では、先鋒は寿成殿に。第二陣はこの孟徳と袁家の一軍が務める。お集まりの諸侯の中に、異議のある方はおられようか?」
 曹操は一座を見渡したが、あえて今の流れに反駁しようとする者はおらず。
 ただ1人、納得いかない様子であった袁術も、視線をさまよわせた末に、小さく賛同の言葉を述べたのである。
 
 
■■


「でもお姉様、私たちに出番ってあるのかな?」
 整然と馬を進める西涼の騎馬部隊の最前列で、まだ顔にあどけなさを残す少女――馬岱が、傍らにいる年嵩の少女に声をかけた。
「あるに決まってるだろ、たんぽぽ。あたしらは連合軍の先鋒の、そのまた先鋒にいるんだぞ。敵が現れれば真っ先に槍をつけられるだろ」
 白銀の武装を身に着けた少女は、そう答えながら、これまで後方に引きこもっていた鬱憤を少しでも晴らそうとするかのように、隆々と槍をしごいた。
 銀閃と名づけられた業物を、少女の細い手足で軽々と操るその様は、圧巻のひと言に尽きる。
 主人の戦意を感じ取った馬が、鼻息あらくいななき、人馬ともに迫り来る戦いを今や遅しと待ち受けている状態であった。
 雄雄しき武者ぶりもまた当然のこと。白銀の武装に身を包むこの少女こそ、西域にその名も高き錦馬超、その人なのだから。


「でもさあ、こっちは少なく見積もっても13万。向こうは多く見積もっても8万くらいでしょ。前の戦いで随分やられてたみたいだし、もうちょっと少ないかなあ? 普通、これだけ戦力に開きがあれば、篭城すると思うんだけど。そうなったら、私たちの出番、なくないかな?」
 騎馬を用いる利はその機動力にある。
 河水の戦はもとより、城に篭る敵に対しても、その利を活かしにくいのは自明のことであった。
「そうかあ? 敵を前にして、戦わずに城に引っ込むなんて、臆病者のすることだぞ」
「敵がいれば猪突猛進するお姉様よりは賢いかも……」
「なんか言ったか?!」
「なーんにもいってませーん♪」
「うそつくな、たんぽぽ! こら、待ちやがれー」
 馬超には遅れをとるが、馬岱もまた優れた武技と馬術の持ち主である。ふざけあいながらも、両者ともに軽やかに馬を操る様子は、馬に慣れぬ者が見ればほれぼれと見蕩れるほどであった。




 この場にいる西涼軍の兵士たちにしてみれば、2人の言い合う姿は見慣れたものだ。誰も特に止めに入ろうともせず、2人の様子をにこやかに見守っていた。
 結果、2人の追いかけっこは止まらず、実力で勝る馬超が、ついに馬岱を捕まえる寸前まで行ったときだった。
「何をしとるんじゃ、おまえらは」
 ガツン、ゴツン、と良い音が2回。
 閃光のごとき槍の一撃は、無論、刃は収めてあるが、十分に痛い。
「あいたたたた……うぅ、ひどいよ、伯母様……」
「あつつつ……母上、少しは手加減してくれよ」
「自業自得じゃ、馬鹿者ども。指揮官たる者が、戦を前に遊び呆けていてどうするのじゃ。敵が来てからでは遅いのじゃぞ」
 馬騰は娘と姪を一喝すると、配下の兵士たちに、周囲への警戒を命じた。
 鍛え上げられた軍勢は、たちまち英気を滾らせ、戦闘態勢を整える。


 それを見ながら、未だに馬岱は首を傾げていた。
「ねえ、伯母様。董卓軍って城から出てくるのかな? 私だったら、虎牢関に篭って出て行かないけど。だって時間を稼げば、連合軍なんてすぐにバラバラになっちゃうの、丸わかりだし」
「蒲公英よ、おぬしの言うことは間違ってはいないが、敵は必ず出てくる。賭けても良いぞ」
「んー、伯母様が言うなら、そうなんでしょうけど、それってやっぱり敵がおバカだからですか?」
 馬岱の疑問に、頭を抑えていた馬超が代わって答えた。
「だから、城に篭るなんて臆病者のすることだって言ってるだろ! さすが母上はわかってるぜ」
「翠……そなたには、西涼に戻ったら、1から兵法を叩き込んでやらずばなるまいのう」
 にこやかに微笑む母・馬騰の顔を見て、馬超の顔から音をたてて血の気が引いていった。
「うげ……」
「うげ? ……ふむ。言葉遣いまで矯正せねばならんか。この際だから、花嫁修業まで仕込んでおくかの」
「ちょ、ちょちょっと待ってくれ、母上?! はは、花嫁って?!」
「おー、たんぽぽ、綺麗なお姉様は好きですよ、なんちゃってー♪」
「こらあ、たんぽぽ! 他人事だと思って茶化すなー!」
「だって他人事だもーん、あはは」
 そうして再び始まる姉妹の喧嘩じみたやりとり。
 馬騰は呆れたようにため息を吐きながら、迫る決戦に向けて考えを集中させる。


 馬岱の言うとおり、董卓軍が現状取り得る最善の策は篭城である。
 本来、篭城は援軍が来ることを前提として用いるべき策であるが、それは攻城軍が統一されている場合である。諸侯の寄せ集めである連合軍に、相互の信頼関係が育まれていないことは童子にもわかること。精々一月も粘れば、国許に不安を抱く諸侯は動揺を示し、連合は瓦解するだろう。
 だが、馬騰は敵がその策をとらないことを確信していた。
 理由は、ほとんど馬超が言ったとおりのことである。ただ、臆病者云々という直感に頼って、その答えを出した娘には、いずれ西涼軍を率いる者として、その思考の危険性を教えねばならなかったため、わざわざ馬超が苦手としているものを掲げて見せたのである。
 では、馬騰はいかなる思考で、娘と同じ結論を導いたのか。
 孫氏に言う。「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と。
 この場合、考えるべきことは、虎牢関の守将である呂布の性向であった。馬騰は、呂布のみらなず、董卓軍の主要な武将たちの戦績や、戦の仕方などをつぶさに調べ上げていた。そこから導きだされた結論は、呂布が篭城策を採る可能性は極めて少ないというものだった。
 すでに袁術軍を痛破して、呂布軍の士気はおおいに高まっていることだろう。わざわざ城に篭って、その士気の高さに水を差すとは考えにくい。
 なにより天下第一の武勇を謳われる呂布にとって、迫り来る連合軍など、蝗の群れにも等しい筈。一戦に蹴散らして連合軍の出鼻を挫けば、その後の戦は董卓軍の圧倒的優位の下に進めることが出来る。敵将はそう考えているだろう。


 馬騰はそのように敵の思考を読み、そしてそこにこそ連合軍の勝機を見出したのである。
 呂布の存在は味方にとって脅威だが、逆にその大きすぎる存在感ゆえに、呂布を失った時の董卓軍の動揺は計り知れない。
 もちろん、馬騰は呂布の個の武勇も、そして兵を率いた際の破壊力も侮ってなどいない。
 だが、長期戦を避けなければならない連合軍に勝利をもたらすために。そして、洛陽におわす皇帝陛下を、一刻も早くお救いするために。西涼軍を率いる己が、為すべきことはただ1つと、馬騰はごく自然に決意していたのである。
 それはすなわち、西涼軍の総力を挙げ、敵将呂布を討つことであった。


 静かな外見の内に、激しい決意を秘めつつ進軍する西涼軍。
 やがて彼らの視界に、彼方から濛々とたちのぼる土煙が捉えられた。
 凄まじい勢いで迫り来るそれが、敵将呂布率いる深紅の騎馬軍団であることを、西涼軍の将兵は戦慄と共に確信したのである。




「太守様! 敵、呂布軍、鋒矢の陣形を保ったまま、突撃してきます!」
「うむ、申し伝えていたとおり、こちらは横列陣をとれ。中央はわしと翠の部隊で受け持つが、わしらが呂布とぶつかったら、頃合を見て各部隊は作戦通りに行動せよ」
「ははッ!」
 馬騰の命令に応じて、伝令が左右両翼の軍に走る。
 とはいえ、すでに左右の部隊は土煙が見えた段階で、作戦通り、横一列に部隊を動かしている。その反応の速さは、さすがに音に聞こえた西涼軍であった。
「ではゆくぞ、翠。名高き飛将軍の武芸、いかほどのものか、確かめさせてもらおうぞ」
「おうよ! 母上に続くぞ、馬超隊、いくぜ!」
 愛馬をあおって突撃する馬騰、馬超の2将の後ろを、西涼軍の精鋭部隊が雄叫びをあげて続いていく。
 ここに、連合軍対董卓軍の戦いの第2幕が始まったのである。


■■


「おりゃあああッ!!」
 気合の叫びと共に、馬超の槍が閃光の如く、敵将に向かって襲い掛かる。西域に名高き錦馬超の疾風の槍捌きは、速いだけでなく、一撃一撃が重く、正面から受け止めれば、受け止めた腕がしびれるほどの豪撃であった。
 その豪撃が、瞬きをする間に幾重にも襲い掛かってくるのだ。並の将ならば、数合打ち合うだけで馬首を転じようとするだろう。
「ふんッ!!」
 その横で大薙刀を振るう馬騰の武芸もまた、娘に迫る見事さであった。速さこそ馬超には一歩譲るものの、長年の戦塵で鍛え上げ、研ぎ澄まされた武勇は、相手の動きを的確に見切り、そして一撃ごとに相手を追い詰める組み立ての巧みさは、今の馬超にはまだ持ちえぬものであった。
 この2人の共闘は、事実上、西涼軍最強の武の競演。


 その演舞の如き流麗な攻撃を、しかし。
 ただ1人の傑出した武の才能が、凌駕しようとしていた。


 馬超の槍が疾風ならば、それを打ち払うは迅雷の戟なるか。呂布はその身に迫る全ての攻撃を弾き返し、のみならず鋭い逆撃を加え、馬超の体勢を揺るがした。
「うわぁッと?!」
 体勢を崩した馬超の首めがけて、呂布の戟が唸りをあげて迫る。
 だが、その一撃は甲高い金属音と共に軌道がそれ、馬超の髪を一房切り取ることしかできなかった。
「ぐ……何という重い一撃か」
 娘の命を間一髪で救った馬騰は、安堵の息を吐く間もなく、呂布の追撃に、わが身を晒すことになった。
 身体を両断せんとする斬撃を受け止め、胸奥を貫かんとする一閃を凌ぎ、喉元を切り裂こうとする一撃から身をかわす。
 戟とは、斬る、突く、払うの全てに特化した武器であるが、呂布はその多様な機能を完璧に使いこなし、相手に反撃の隙を与えない。
 馬騰は死に至る呂布の攻撃をことごとくかわしきったが、顔には出さずとも内心の驚愕は隠せなかった。


 間を置き、再度の攻防に備えながら、馬騰の口からは、思わず感嘆の声がもれていた。
「まさか、これほどとはのう」
「母上、何をのんびりと感心してんだよ、やられちまうぞ!」
「うまれてこの方、会ったことのない才に出会えたのじゃ。武人として、感心せざるをえぬよ。やはり蒲公英は後方に残してきて正解だったようじゃな」
「それは確かにそうかな。今のあいつじゃあ、一合も槍をあわせらんないだろうなあ」
「まあ、それはわしらも大してかわらんがの。このままでは、いずれわしらの首が宙を飛ぶの」
 馬騰が肩をすくめてそう言うと、馬超は図星をつかれて、うっと言葉を飲み込んだ。
 呂布の武は、ただ膂力と天性の才だけで成り立つものではない。天賦の才を、鉄の努力で鍛え上げた、まさしく武神の業であった。


 2人の眼前では、当の武神が、攻撃してこようとしない2人の姿を見て、小首を傾げていた。
「………まだやる?」
「当然だ! この錦馬超をなめるなよッ!」
「………なめてない。おまえたち、強い」
「……へ? そ、そりゃどうも」
 思わぬ素直な返答をうけ、馬超はつい答礼してしまう。
 だが、そういった次の瞬間、呂布の周囲から砂塵が巻き起こった――一瞬、馬超がそう錯覚してしまうほどに、圧倒的な迫力で、呂布が戟を一閃させた。
「………でも、恋の方が強い。そこをどけ」
 呂布の迫力に怖じぬように、馬超は気合を込めて叫び返そうとする。が。
「どけと言われて、はいそうですかと……ッ!」
「うむ、では退くとしようかの」
「母上ッ?!」
 馬騰はあっさりと呂布の言葉に頷くと、驚き騒ぐ馬超の首根っこを引っつかむようにして、さっさと馬首を返してしまった。
 呂布はつかの間、その後姿を黙って見守っていたが、その程度の時間で稼げる距離など、赤兎馬にとっては無いに等しい。呂布は赤兎馬をあおって、背後から馬氏の母娘を討ち取ろうとするが、その眼前をせき止めるように、矢の雨が降りそそぐ。
 母娘の直属部隊が騎射を行って、主君たちの退却を援護したのである。
 矢の雨で怯む呂布ではなかったが、それでもわずかに馬の脚は緩み、馬騰たちは無事に本営までたどり着くことができたのであった。


 主将同士の戦いで敗れた馬騰軍は、呂布軍の勢いに押され、本営奥深くまで押し込まれた。
 天上から俯瞰すれば、現在の陣形は、呂布軍が鋒矢の陣形、対する馬騰軍は横一列の陣形の中央が押し込まれた為、奇しくも鶴翼の形となりつつあった。
 だが、それもごく短い間のみ。馬騰軍の中央は、呂布軍の勢いをとどめることが出来ず、中央突破を許してしまう。馬騰軍は左右に分断され、呂布率いる5万の軍勢は、その勢いのままに連合軍の第二陣へと襲い掛かっていった。
「ちっくしょー、呂布の奴めえッ!」
「うっわー、お姉様と伯母様の2人がかりで勝てないなんて、ほんとに化け物だね」
 本陣にいた馬岱と合流した馬超は、悔しげに身体を振るわせる。
 一方の馬騰は、娘と異なり、幾度も敗北の戦を経験したこともあり、娘よりもはるかに落ち着き払っていた。というよりも、今の状況は、馬騰が考えていた展開から逸脱していないから、慌てる理由がなかったのである。
「翠、たんぽぽもじゃ、無駄口を叩いとる暇はないぞ。たんぽぽはこのままわしと共に中央を指揮するのじゃ。翠は右翼を指揮せよ。左翼は韓遂殿が指揮してくれることになっとる。突破した呂布隊を後背より追尾するぞ」


■■


「さすがは馬騰。そう動いたか」
 連合軍第二陣の一方を担う曹操軍の陣中で、遠目に戦況を窺っていた曹操が、口元に笑みを浮かべていた。
 夏侯惇が怪訝そうに問いかける。
「華琳様、どうなさったのですか。先鋒が敗れたというのに、そのように嬉しそうになさって?」
「敗れた? 春蘭の目にはそう映るの?」
「え? は、はい。大将同士の一騎打ちに破れ、陣形を左右に分断されては、それ以外に言い様がないと思うのですが……」
 夏侯惇はそう言いながらも、どこか不安そうに曹操の顔色を窺う。
 それを聞いた曹操は、今度は視線を夏侯淵に向ける。
「秋蘭にはどう見える?」
「私も、姉者と同じに見えますが……」
 そこまで言いかけた時、夏侯淵の表情がかすかに変わった。
 弓の達人である夏侯淵は、当然ながら視力は抜群に良い。その鷹の眼差しが、呂布軍に突破を許した馬騰軍が、たちまちのうちに軍列を整える姿を捉えたのである。
「これは……華琳様、もしや馬騰は故意に呂布の突破を許したのですか?」
「良く見たわ。その通りよ」
 夏侯淵の指摘に、曹操は会心の笑みを浮かべた。


 曹操には、馬騰の思惑が手に取るようにわかった。
 その目的は、敵将呂布を討ち取ること。天下に名高い呂布を討ち取ることができれば、この戦のみならず、この後の董卓軍との戦いを優位に進められる。敵将を打つという戦術面での目的が、戦略面における優位をも確立することを、馬騰は的確に見抜いていたのだろう。
 まず、馬騰と馬超の2人がかりで敵将呂布を討つ。その組み合わせは西涼軍最強であるが、おそらく馬騰は2人がかりでも呂布には敵しえないと予期していたはずである。これで呂布を討ち取れる、と考えるような人物ならば、曹操ははじめから馬騰など気にもかけなかったであろう。
 馬騰は自分たちが敗れたときのために、あらかじめ横列陣を布いていたのである。一騎打ちに勝った呂布が、中央突破をはかるのはほぼ確実である。それに押し込まれると見せ掛け、左右両翼を包み込むように展開すれば、呂布軍は袋のねずみである。
 無論、5万の大軍を、馬騰軍1万5千で制しうるはずもないが、この際、狙いは敵将呂布ただ1人である。精鋭たる西涼軍の全力を挙げれば、いかに呂布とはいえ、討ち取る機会が出てくるはずであった。
 だが、もしもそれでも呂布を討ち取れないと判断せざるを得なかった場合。つまり、今現在のような状況に陥った時の行動も、馬騰は考えていたであろう。
 それはすなわち、馬騰が自軍を用いて行おうとした包囲殲滅作戦を、連合軍全軍を以って行おうとする試みである。


 曹操の説明を聞き、夏侯淵が深く頷いた。
「……なるほど。連合全軍を以って呂布の鋭鋒を凌ぎつつ、その兵馬を削っていく。そして、呂布の勢いが完全に止まったとき、一斉に包囲殲滅に移るというわけですね」
「ええ、そうよ。中央を分断された西涼軍が、あれほど速やかに立ち直れたのは、あらかじめ馬騰からそのような指示が出ていたからでしょう」
「しかし、諸侯が必ずしも馬騰の思惑通りに動くとは限らないと思いますが?」
「そうかしら。全滅を望む愚か者でもないかぎり、呂布が突進してきたら、嫌でも戦わざるをえないでしょう。馬騰の意図に気づくか否かに関わらず、ね」


 曹操が言い終わると、曹操と夏侯姉妹と馬を並べていたもう1人の人物が話に加わってきた。
 陳留太守張孟卓。炎のような赤髪を持つこの少女こそ、曹操の盟友にして、親友。今回の連合軍において、自軍の指揮権すべてを曹操に委ねた豪の者である。
 その張孟卓は、どこか楽しげに口を開いた。
「それで、華琳。馬騰の思惑に乗ってやるの?」
「もちろんよ、黒華(張孟卓の真名)。そもそも、私がこの連合軍を組織したのは、天下にこの曹孟徳の名と威を知らしめ、天道への一歩を踏み出すため。呂布の武を軽んじるつもりはないけれど、たかが一個人の武に怖気づくようでは、天も私に興味を持ってはくれないでしょう」
 曹操の両眼に煌く覇気の輝きをまぶしそうに見つめながら、張孟卓はくすりと微笑んだ。
「ここから華琳の天道が始まるならば、私の天命はそれを見届けることにあるのかしらね」
「あら、見るだけなのかしら? 友達甲斐のない友人だこと」
「これは失礼。では友人として、盟友として、曹孟徳の覇業に花を添えるよう務めましょうか。とりあえず、呂布の軍を横合いから削りましょう。私の武勇では、飛将軍の猛攻を凌ぐことさえできないしね」
 その言葉に答えたのは、夏侯惇だった。
「華琳様や黒華様の手をわずらわせるまでもありません。呂布ごとき、私が見事討ち取って見せましょう!」
「さすがは私の春蘭、見事な覚悟ね。けれど、呂布の武勇は人間の規格を越えているわ。私はこんなところで片腕を失うつもりはなくてよ――秋蘭」
「はッ!」
「春蘭と共に、呂布の勢いを、少しでも良い、止めなさい。ただし、2人とも決して私の許可無く死なないこと」
 曹操の言葉に、夏侯淵の顔に、小さく苦笑が浮かぶ。
「相変わらず、華琳様は難しいことを平然と仰います」
「あら、出来ない人間にやれと命じたりはしていないつもりよ?」
 その主君の言葉を聞き、夏侯淵は莞爾とした笑みを浮かべて、曹操の前に頭を垂れた。
「御意。姉者と共に敵将呂布の足を止めて参ります」
「頼んだわ、春蘭、秋蘭」
『はッ!!』


 2人の股肱の臣を、虎のごとき敵将の前に送り込んだ曹操は、しばし去り行く部下の後ろ姿に視線を注いでいた。
 その曹操を見ながら、張孟卓は軽く髪をかきあげながら、からかうような声を投げる。
「そんなに心配なら、別の将を向かわせれば良かったんじゃないか?」
「残念ながら、あの2人以外に、呂布の相手が出来る人材は、今の我が軍にはいないわ。それに、あの2人なら、袁紹の軍にも名前と顔を知られているから、丁度良いのよ」
「曹孟徳の剣と弓。たしかに、あの夏侯姉妹が揃って出馬したと知ったら、麗羽あたりが黙っているはずはない、か。『おーほっほっほ、小娘の家臣ごときに手柄をたてさせてなるものですか』、とかやってそうだな」
 それを聞いて、曹操が露骨に顔をしかめた。
「わざわざ麗羽の高笑いを真似するのはやめてちょうだい。それでなくても、あなたの人真似は神業なんだから。思わず首を刈りそうになったわよ」
「おっと、それは勘弁してほしいな。呂布にやられるなら、まだ諦めもつくけれど、華琳の腹いせにやられたなんてなったら目も当てられない」
「そう思うなら、早く配置につきなさいな。あちらも、春蘭たちの姿に気づいたようよ」
 曹操の言葉を確かめるまでもなく、曹操軍の右方に布陣していた袁紹軍に大きな動きが現れていた。
 その陣頭を駆けるのは、曹操も見覚えのある文醜、顔良の2将軍である。袁紹軍の柱石とも言うべき勇将たちであった。どうやら、袁紹は見事にこちらの思惑に乗ってくれたらしい。
 曹操は1度だけ、小さく、深く息を吐いた。


 張孟卓も軍を率いるためにこの場から離れたため、今や本営に1人となった曹操。
 その口からは、どこか楽しげともいえる言葉が漏れていた。
「さあ、飛将軍。この曹操の陣、見事越えられるかしら?」
 言い終わると、曹操は視線を後方の第三陣に向けた。そこに控えているのは、徐州刺史陶謙と、遼西太守公孫賛の2人である。
 曹操と袁紹の第二陣が、曹操の予想通りに突破された場合、深紅の呂旗に対峙することになるのは、あの2人の役割となる。
 曹操は大本営での軍議の際、彼らと、そして彼らの周りに控えていた家臣たちを観察していたが、いずれの君主もそれなりに有能であり、その家臣たちもそこそこに勇猛そうだったが、どちらも英雄と呼ぶに値しない程度の者たちばかりであった。
 呂布と相対することはもちろん、その猛攻に耐えることさえできそうにない。あるいは、第三陣は苦も無く一蹴され、呂布軍は大本営になだれこんでしまうかもしれない。
 そうなれば、馬騰や曹操の思惑など関係なく、勝敗はあっさりと決する。連合軍は敗北し、曹操はその飛躍の機会を逃し、貴重な時を失ってしまうにちがいない。
 それゆえ、本来であれば曹操は、今の状況を危惧し、連合軍が敗れないように、何らかの手を打たねばならなかった。ならなかったのだが……何故か、曹操はそうする必要に駆られない自分に気づいていた。
 そんな事態には絶対にならないという、不可解な確信を、曹操は強く抱いていたからだ。
 曹操自身、何故、自分がこんな気持ちになるのかをわかってはいなかったのだが――


 あるいは、曹操は無意識のうちに気づいていたのかもしれない。
 やがて、自分と並び立つことになる1人の英雄が、自らの後ろに控えていることを。
 だからこそ、こうまで胸が高鳴り、覇気が溢れてくるのだというその事実を……
 

 
  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 天下無双(五) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/10 00:21



「くッ?! こやつ、本当に人間なのか?!」
「さてな。あるいは人外の化生なのかもしれんが……確かなことは、華琳様の大望の行く手を阻む障害であるということだ」
「そうか! ならば人間かどうかなど関係ないなッ!」
 夏侯惇は、大剣を振りかざして眼前の敵手に叩きつける。
 敵将はそれを避けようとするが、夏侯淵の精妙な弓矢の連撃が、敵将に回避を許さない。


 そして、それにつけこむように、袁紹軍の2将も攻撃を繰り出していく。
「隙あり! おりゃああああッ!」
「うう、4対1で、しかも後ろからっていうのはあんまりだと思うんだけど……ごめんなさい!」
 文醜の豪剣が唸りをあげ、顔良の鉄槌が相手を打ち据えんと咆哮をあげる。


 もらった、と4者4様に確信した連合軍屈指の猛将たち。
 しかし。
 呟いたのは、ただひと言。繰り出したのは、ただ一閃。駆け出したのは、ただ一足。
 ただそれだけで、敵将呂布は、その包囲網を破ってのける。


「………邪魔」
 下から上へ。方天画戟が夏侯惇の大剣を宙に弾き上げ。そのまま後ろも見ずに、戟を上から下へ。背後から迫っていた文醜の豪剣を地面に叩きつける。
 かすかに首を傾け、紙一重の間合いで夏侯淵の矢を避け。赤兎のただ一足分の跳躍で、顔良の攻撃を難なくかわす。


『なッ?!』
 必殺を期した一撃を苦も無く避けられ、曹袁両家の猛将たちは言葉を失った。
 そして、その彼らに、ようやく後方から追いついてきた呂布の親衛隊が攻撃を仕掛けた。
「恋殿ーー、陳宮が参りましたからにはご安心を! それ、卑怯にも4対1で敵将を討ち取ろうとする輩に正義の鉄槌をくらわしてやるのです!」
 陳宮が腕を振り下ろすと、たちまち矢の豪雨が4人の将軍たちに襲い掛かる。


 降り注ぐ矢を避けながら、夏侯淵は小さく笑みをもらした。
「まさか董卓軍の将から卑怯よばわりされるとは思わなかったな」
「何を笑っているのだ、秋蘭! 悪逆無道の董卓ごときの臣下に好きなように言わせておく気か!」
「姉者はそういうがな。客観的に見て、今の我々の行いは胸を張れるものではないのではないか?」
「む、むう、確かに多対一というのは公正とは言いがたいが、しかしだな……」
「わかっている。正しいか間違いかではない。我らにとって華琳様の命令こそが正しいのだ。そうだろう、姉者?」
 妹の言葉に、夏侯惇は大きく頷いた。
「その通りだ! 華琳様の期待に応えるためにも、なんとしても呂布めを討ち取らねば……」
「いや、待て、姉者。華琳様は、何も呂布を討ち取れとは言ってな……」
「曹家の大剣、夏侯元譲、参る! 敵将呂布よ! そこを動くなあああッ!」
 夏侯淵の言葉が終わらぬうちに、夏侯惇は雄叫びと共に突撃していた。


 その後姿を見ながら、夏侯淵は小さくため息を吐いた。
「まったく……姉者、人の話は最後まで聞くものだぞ。これだから、桂花に猪などと揶揄されるのだ」
 だが、次の瞬間には、夏侯淵の自慢の強弓は、正確に呂布の眉間に狙いを定めていた。
「だが――それでこそ我が姉、夏侯元譲。姉者が突き進むなら、私がその後背を守れば良い。華琳様の歩まれる天道を祓い清めるのが、我らの務めなのだからな」
 夏侯惇だけではない。夏侯淵もまた、1人の武人として、蓋世の雄に挑みたいという覇気を胸に抱いていたのである。
 だが。
 夏侯姉妹が戦意を高ぶらせ、再度、呂布へ挑もうとした矢先、後方の曹軍本営から退却の銅鑼が鳴るのを、2人の鋭敏な聴覚は捉えていた。
 その銅鑼に込められた曹操の意思を瞬時に悟り、夏侯淵はたちまち冷静さを取り戻す。
「姉者、引くぞ」
 慌てて馬をさおだたせながら、夏侯惇は困惑した様子で妹を顧みる。
「し、しかしだな、秋蘭。ここまでやられ放題で戻っては、華琳様に合わせる顔が……」
「では、華琳様の命令を無視した上で、華琳様の御前に戻るつもりなのか、姉者は?」
「うぐ……そ、それは避けたいな……」
「だろう? なら、早く本陣に戻らねばな」
「うう……わ、わかった。くそ、呂布め、運の良い奴だ! 今度会ったときはおぼえていろ!!」


「あらら、夏侯の姉ちゃんたち、帰っちまうぜ、斗詩」
「ええーーッ?! ちょ、ちょっとちょっと、私たちだけで飛将軍の相手なんて出来ないよ!」
 文醜はがりがりと頭をかきながら、顔良の言葉に頷く。
「そだな。というか、4対1でも勝てる気しないぜ」
「ああ、それは同感かも……どうする、文ちゃん?」
「どうするって言っても、逃げるしかなくないか?」
「賛成」
 2人は同時に馬首を返し、飛将軍の鋒先から逃れる。
 自軍に向かいながら、文醜は天を仰いで慨嘆する。
「ああ、麗羽様がこっちにいないのが唯一の救いだなあ。まあ、戦が終わったら、またぶちぶちと文句言われるんだろうけど」
「でも、元皓さん(田豊の字)も、無理する必要はないって言ってくれてたし、麗羽様にとりなしてくれるんじゃないかな?」
「うーん、あのハゲ軍師さんねえ。いつもみたいに真っ向から麗羽様の間違いを指摘して、余計に手をつけられなくさせそうで怖いなあ」
 それを聞いて、顔良は、うっと呻いた。容易にその場面が想像できたからである。
「……もうちょっと言葉を和らげてくれれば良いんだけどね、元皓さんも。麗羽様も、元皓さんの才能は認めてるんだから」
「いやいや、ありゃもう根っからまっすぐの熱血軍師だから、言葉を柔らかくとか無理だって。あたしらに出来るのは、巻き込まれないように逃げることだけさ」
「文ちゃん、表現が直截的すぎるよ……」


■■


「恋殿、追わずともよろしいのですか?」
 敵将の退却を見送る呂布の姿に、陳宮は不思議そうに問いかけた。
 曹操軍の夏侯惇、夏侯淵。袁紹軍の顔良、文醜。いずれも、今後の障害となるであろう大物ばかりである。ここで禍根を断っておかねば、とは陳宮ならずとも考えるところであった。
 だが、呂布は小さく首を振ると、更なる進軍を指示する。
「………狙うのは、袁紹の首だけで良い」
「た、たしかに、今は欲を出せば敗北を招いてしまいますな。軍師たる身がお恥ずかしいことを申し上げてしまいました。では、敵、第三陣へ突入いたしましょうぞ!」
「………うん。みんな、突撃」
 何の飾りもない呂布の命令。
 だが、呂布の直属部隊は、すでに主将の呼吸を心得ている。
 颯爽と赤兎馬を駆る呂布の後ろを、喚声と共に突撃を開始した。


■■


「敵軍、お味方の第二陣を突破しました! 我が軍に向かって突っ込んできます!」
 報告を受けた第三陣の一方を率いる徐州牧 陶謙はただちに配下の将兵に迎撃を指示する。
 だが、これほど早くに接敵するとは考えていなかった徐州の将兵は明らかに動揺していた。
 陶謙の指示を受けて、おそまきながらに動き始めたが、その動きは鈍く、展開を終えるまでに董卓軍の痛撃を被ることは明白だった。
「曹将軍ともあろうものが、油断しおったか。このままでは、呂布に突入を許してしまうぞ」
 陶謙が口惜しげに、前線の指揮官である曹豹の不覚を嘆く。
 陶謙の傍近くに控えていた孫乾、糜竺は陶謙の背後で一瞬、視線を交錯させた。たとえ万全の態勢で待ち受けていたとしても、曹豹では呂布軍に敵うべくもない。2人には共通の認識があり、互いに相手がそう考えているであろうことを察したのである。
 曹豹に限った話ではない。糜竺の弟であり、もう1人の前線指揮官である糜芳にしても、野戦における手腕には限界がある。呂布を相手に出来るような将器を持った人物は、陶謙軍にはいなかった。


 ここで、孫乾らに並ぶ参謀の1人である陳登が陶謙に進言を行う。
「陶州牧、このままでは我が軍は呂布の軍に蹂躙されてしまいます。早急に本陣を移し、敵の鋭鋒を避けるべきです」
 呂布に勝つことが出来ないのならば、せめて主君である陶謙だけは逃がさなければならない。そう考えた陳登の発案に、しかし強行な反対意見が出た。
「何を腑抜けたことを言うのだ、陳登! 一戦もせぬうちから本陣が後退などすれば、前線で戦う将兵が戦意を失ってしまうぞ!」
「兄者の言うとおり。父上、ここは我ら兄弟に手勢をおあたえくだされ! さすれば必ずや天下に名高い飛将軍の首、あげてみせましょうぞ!」
 そう言って立ち上がったのは、まだ20歳をいくつも越えていないであろう2人の兄弟だった。
 兄を陶商、弟を陶応。いずれも陶謙の息子であり、やがては州牧の位を父から引き継ぐはずの若者たちである。


 2人の言葉を聞いた者たちは、しかしその覇気のある発言を称えようとはしなかった。彼らはそれと気づかれないように目配せをかわしあう。
 兄である陶商の言葉は、なるほど理屈はその通りであると言って良い。だが、陳登がそれを承知の上で言っていることを考慮していない発言は、かえって陶商の浅薄さを示してしまったことになる。
 弟の陶応も、器という点で言えば、兄とほとんど変わらない。
 陶応は武芸を好み、自身を中華でも有数の将の1人であると信じ込んでいる。これまで軍を率いた経験がないのは、州牧の子であるためであり、戦場での働きに関しては飛将軍にも劣るものではない――そう考えている陶応にとって、この連合軍での戦いは、自身の才覚を示す格好の機会としか映っていなかったのである。


 兄弟の発言を聞き、もっとも落胆をあらわしたのは、他でもない陶謙であった。
 陶謙は心中で深いため息を吐くと、あえて息子たちの発言を聞かなかったことにして、陳登の進言に対して首を横に振る。
「陳登の言はもっともである。これが我が軍のみの作戦であるならば、迷うことなく諾と応えるであろう。だが、今、我が軍は連合軍の一翼を担う立場にある。董卓軍にひと当てもせずに退却すれば、諸侯から嘲笑を受け、民からは背を向けられよう。損害は避けられないであろうが、ここは漢朝の臣として、戦わざるを得ぬ」
 陳登は陶謙の発言を聞き、深々と頭を下げた。
「はッ! 浅慮を申し上げました。お許しください」
「よい。元々、そなたらの進言に従わず、老骨の血の滾りにまかせて、第三陣の役目を引き受けたわしの責任なのじゃから」
 陶謙は苦い顔で自身の責任を認めると、迫り来る呂布軍に対処するために動き出した。
「糜将軍に伝令を。呂布の正面に回らず、側面より弓箭兵をもって敵軍を削るのじゃ。本営の指揮は陳登に委ねる」
「それがしに本営を? では州牧はいずれへ?」
「わしは本軍を率いて曹将軍の援護にまわる。前線の将兵を董卓軍の蹂躙にまかせるわけにはいかぬゆえな。孫乾は後方の大本営に居る袁本初殿の陣へ。糜竺は我が軍の隣に位置する公孫伯珪殿の陣にそれぞれ使いせよ。これより陶謙軍は全力を挙げて飛将軍の陣に挑むも、苦戦は必至。援護を請う、とな」
『ははッ!』
 陶謙の指示に、その場にいた諸官が一斉に頭を垂れて頷いた。


「商、応」
 陶謙は最後に息子たちに声をかけた。
「はい」
「父上、何故私に呂布を討てとお命じ下さらないのですか」
 不満げな様子をあらわにする陶応と、言葉こそ少ないが、弟と同じく納得いかない様子の陶商を見て、陶謙は再び心中でため息を吐いた。
 かつて、楚の覇王が都を置いた徐州の要地を継ぐには、陶謙の子息は明らかに役者不足だった。なまじ才覚を見せているだけに、尚更その観が強いのである。
 いっそ、これが才走ったところのない凡庸な者であれば、配下の優秀な文官たちに政事を委ね、一州を維持することは可能となるかもしれなかった。だが、自身の才覚に自信があるだけに、息子たちは人材を活用しようとしない。
 その性向は、1人の武官、1人の文官であればそれでも良いが、人の上に立つ者にとっては明らかな欠点であろう。
「そなたらはわしの近くにおれ」
 本営に置けば、陳登の指揮に口を挟みかねない。兵を指揮させるのは論外である。陶謙は配下の将兵の命を、息子たちの成長のための捨石とするつもりはなかった。
 となれば、自分の近くに置いておくしかない。今回の戦いは間違いなく激戦になる。あるいはそこから成長の端緒を掴んでくれれば、と陶謙は祈るように決断を下したのである。


■■


 劉家軍の中にあって、関羽、張飛の2将軍は、傍目にも明らかなほどに昂ぶっていた。
 戦況をつぶさに観察していた鳳統によって、馬騰、曹操らの戦術はすでに明らかとなっていた。
 呂布を止めること。
 それこそが、この戦いの勝利に直結することを、2人とも理解しているのである。
 そして、劉家軍の存在を――劉玄徳の名を、天下に知らしめるまたとない好機である、ということもわかっているのだろう。
 当の玄徳様本人はといえば、さっきから心配そうにそわそわしていて、落ち着かない様子である。
 さすがに来るべき戦いにむけて集中している関羽や張飛に話しかけたりはしなかったが、不安そうにおれに向かって口を開く。
「ね、一刀さん。愛紗ちゃんも鈴々ちゃんも、大丈夫だよね?」
「大丈夫ですよ。玄徳様が信じてあげないで、誰が関将軍たちを信じてあげるんですか?」
 なるべく頼もしそうに見える笑みを意識的に形作る。5度目の問いかけということもあり、段々と表情の作り方も上手くなってきているのが、自分でもわかった。
「そ、そうだよね、うん」
 自分を納得させるように何度も頷く玄徳様。
 だが、またしばらく経つと、そわそわと身体が動き始めるのだろう。
 しつこい、とは思わない。玄徳様の気持ちはわかるし、こと実戦となると、おれは役立たず以外の何者でもなし。玄徳様の不安を和らげるために役立てるならば、いっそ嬉しいくらいである。


 だから、次の台詞を口にしたのは、おれではない。
 すこしだけ、呆れたように口を開いたのは関羽であった。
「桃香様、良い加減、落ち着いてください。あなたは劉家軍の総大将なのですよ? 将たるあなたがそれでは、我ら兵が安心して戦うことができなくなります」
「う……そ、それはわかっているんだけど」
「だけど、ではありません。わかっているなら、きちんと実践してください。将たるもの、いついかなる時も冷静沈着を保ち、毛ほどの動揺も顔に出してはいけない。そうお教えしましたよね?」
「……はい、教わりました」
「よろしい。ならば、しっかりと私と鈴々の戦いぶりを見ていてください――私たちは、桃香様の矛。あなた様が弱き人々のために戦い続けるかぎり、私たちはいつもお傍におります」
 関羽はそう言うと、玄徳様を見て微笑みを浮かべた。
「ご安心ください。私も鈴々も、このようなところで倒れたりは、決していたしません」
 その言葉に、張飛も大きく頷いた。
「愛紗の言うとおりなのだ! 桃香おねーちゃんは大船に乗ったつもりで、でーんと構えてくれていれば良いのだッ!」
「……絶対だよ? ぜったい、ぜーったい、帰って来てね?」
「もちろんですよ、まだまだ桃香様をお1人にはさせられません」
「にゃはは、おねーちゃんは天然だから、鈴々たちがいないと頼りないのだ! そういうわけだから、おねーちゃんは安心して、おにーちゃんや孔明たちと一緒に下がっているのだ」
「うう、鈴々ちゃん、ひどい……でも、うん、わかった――二人とも、がんばってね!」
「お任せください」
「任せるのだ、突撃、粉砕、勝利なのだッ!」




 玄徳様の会話を聞きながら、おれは1人、すこし離れた場所で、ふと呟いた。
「天下無双の飛将軍、か」 
 呂奉先。三国志において、最強の武将の名を挙げよ、と質問したら、間違いなく上位3人に入る名前だろう。
 個人の勇だけを見るならば最強。虎牢関の戦いにおいて、関羽、張飛、劉備らをまとめて相手どり、なお余裕があったという話は有名である。
 そして、この地の呂布もまた、おれの知る呂布に勝るとも劣らない将軍であるようだった。
 わずか5万の軍で10万を越える連合軍を追い詰めつつある今の状況を見れば、それは明らかである。それらはある程度、策略に拠るものだとはいえ、報告によれば、一騎打ちで馬騰、馬超母娘を退け、夏侯惇、夏侯淵の姉妹と、文醜、顔良の両雄を蹴散らしたというから、連合軍――なかんずく、馬騰、曹操によって仕掛けられた罠を、呂布の武が食い破る可能性は決して低くない。
 否、このまま第三陣が敗れれば、すぐ後ろにあるのは袁紹の大本営である。文醜、顔良の2将を第二陣に派遣してしまっている以上、大本営は呂布の急襲に耐え切れまい。そうすれば、呂布軍の包囲殲滅など絵に描いた餅に等しく、連合軍は敗北の恥辱に塗れることになるだろう。


「……ここで、呂布さんを止めないと、大変なことになりますね」
「ををッ?!」
 てっきり1人だと思っていたところにいきなり声をかけられ、おれは思わず周囲を見回す。
 はて、近くには誰もいないのだが……
「むー。一刀さん、ご自分が背が高いからって、そういう態度はどうかと思いますよ」
「……(こくこく)」
 おれのすぐ横で抗議するような視線を向けてくるのは、諸葛亮と鳳統だった。
「う、ご、ごめんなさい、決してわざとやったわけでは……」
『余計に悪いです!』
 同時に怒られてしまった。すみませんすみません。
 そ、それはともかく、やっぱりここが戦局の山になるか。
「話の転換に、不純な意図が見え隠れしてますけど……まあ良いです」
 なにやら小声でぶつぶつと言う諸葛亮だったが、すぐに気を取り直して、おれの質問に答えてくれた。
「一刀さんの言うとおり、ここで敵の呂将軍を止められるか否かで、この戦いの勝敗は決するでしょう」
「……同時に、今後の大陸の行く末にも大きく関わってきます。連合軍が敗れれば、董太尉の勢力はさらに拡大してしまいますから。ただ、気になるのは……」
 鳳統が軍師の顔で、この戦いでの不審な点を指摘する。
「董太尉の軍を率いる将軍が、とても少ないこと。確認できているのが、華、張、呂の3将のみというのは、明らかにおかしいです……」
 この戦いに参戦している3将は、確かに董卓軍でも雄なる人物たちだが、彼女ら以外にも将帥はいる。李確、郭汜、徐栄などは、華雄らと同程度の地位と職責を有しており、董卓軍にとって一大決戦というべきこの戦いに、彼らが1度も姿を見せていないというのは、言われてみればおかしかった。


「洛陽以外の場所の守備に当たっているっていう可能性は?」
 諸葛亮の問いに、鳳統はわずかに首を傾げる。
「ないわけではないと思うけど。でも曹操さんの話によれば、董卓軍が呼集できた兵力は10万以下だって言ってたでしょ。汜水関の3万、虎牢関の5万、それに袁術軍にとどめをさしたっていう遊撃部隊が1万……董太尉はこの戦いに、ほぼ全力を挙げているって言って良いと思う。その戦いに、主力の将軍を控えさせるようなことをするとは、思えないんだけど」
 おれは鳳統の言に頷いた。
 確かに、危急の事態に備えているとしても、1人いれば十分だ。そんなに何人も後に控えさせておく必要はない。あるいは、曹操の密偵が捉えきれていない兵力があるのだろうか。
 おれは、かつて1度会ったことのある董卓の顔を思い浮かべた。可憐な中に、乱世を生きる確かな芯を感じさせた少女。
 伝え聞く惨状を引き起こせるような子にはとても見えなかった。あの時、董卓の傍らにいた賈駆にしても、戦場ならば容赦ない采配を振るうかもしれないが、民衆に害を与える人物とは思えない。
 あるいは、鳳統の指摘する奇妙な点は、そういった不可解な状況と根を同じくしているのかもしれない。


 とはいえ。
「それを確かめるためにも、まずはこの戦いに勝たないとな」
 おれは気持ちを切り替えて、目の前の現実に視点を戻した。
 諸葛亮たちの真似をして、先を見通すために背伸びするよりも、まずは今日という日を生き抜くことを優先しなければならない。優先するといっても、後方から関羽や張飛の応援をするくらいしか出来ることがないのが、哀しいところであるが。
 おれは自分への戒めのためにそう言ったのだが、2人の軍師たちは同感だというように、おれの言葉に頷いてくれた。
「そうですね。関将軍と張将軍が敵将を止められたとしても、その後の指揮を間違えれば、勝利は遠のいてしまいます。私たち500名の総力を挙げて、この地に劉の旗を立てましょう!」
「……うん。呂将軍直属の部隊にも注意しないと。あと、味方の軍との連携も気をつけないといけないね」


「申し上げます! 敵、呂布隊と陶州牧との部隊が戦闘を開始しました!」
 おれたちがそうこうしている内に、公孫賛の陣から伝令が走ってきた。滝のような汗をこぼしながら、伝令は公孫賛からの要請を伝える。
「我が軍はこれより陶州牧と共に呂布隊にあたります。劉家軍は、頃合を見計らって参戦されたし、と我が主からの伝言にございます!」
「承知しました、と伯珪様にお伝えください」
「ははッ! では、それがしはこれにて」
 伝令が姿を消すと、劉家軍の面々は玄徳様の周囲に集まった。
「今のは、要するに好きに動いていいよーってことだよね?」
 玄徳様が小首をかしげると、諸葛亮が笑みを浮かべて頷いた。
「はい、そうです。さすがは伯珪様。客将、寡兵の私たちの使い方を心得ておいでですね」
 劉家軍は、公孫賛の軍と連携できるような訓練はしていない。下手にその軍勢の下に組み込まれるよりは、自由な判断で動いた方が戦力になるのである。
 もっとも、公孫賛がそこまで劉家軍に期待を寄せている、と考えるのはうぬぼれというものかもしれない。公孫賛は劉家軍の訓練を見たこともあり、それなりに軍としての力を認めてはいるだろうが、まだその真価は知らない。
 勝利を重ねたとはいっても、それは黄巾賊を相手としたもの。今回の戦いに連れてきたのも、玄徳様の性分を知っていて仕方なく、という面は否定できない。
 とはいえ、そんな劉家軍に自由な軍事行動を許すあたり、公孫賛の厚意は玄徳様たちにとって有難かった。これで、思うとおりの場所、思うとおりの状況で呂布を捕捉できるのだ。




 かくて、劉家軍は戦場にその姿を現す。
 正規の官位を持たない雑軍が、無謀にも天下に名を知られた飛将軍へと戦いを挑む。
 それを知った諸侯は、ある者は嘲り、ある者は顔をしかめた。そしてまた、ある者は地面に唾を吐いた。
 天下の諸侯が力と智謀を競い合わせる戦場に、身の程知らずの雑軍が何をしにきたのか、と。
 

■■


 前方で、深紅の呂旗が一直線にこちらに向かって突き進んでくるのがわかる。
 対峙している陶謙軍は、鎧袖一触、蹴散らされているようで、その将兵は明らかに浮き足立っていた。
 そんな彼らを馬蹄の下に蹂躙しようとする呂布軍の横合いから、公孫賛自慢の白馬部隊が突っ込む。そして、公孫賛の本隊も弓矢を浴びせながら接敵しようとしていた。


 おれはそれを確認すると、周囲に視線をはしらせた。
 戦場から距離を置いたこの場所では、行軍中に病にかかった者、怪我をした者、あるいは輜重部隊の者など、戦いに参加できない者たちが、戦況を固唾を呑んで見守っている。
 おれの任務は彼らの護衛である。おれの他にも、10名ほどの兵士たちが、この場に残っており、敵部隊の予期せぬ襲撃に備えていた。
 もっとも、この程度の人数では、まとまった数の敵が現れればたちまちのうちに全滅してしまうのは必至であった為、おれたちは手近の林に身を潜めていた。


 ここからでは、兵士たちは豆粒のようにしか見えず、林立する旗にまぎれて、玄徳様たちが今どこにいるのかも判然としない。
 ただ、旗の数や、あるいは勢いから推して、どちらの軍が優勢なのか。戦況がどうなっているのかを判断するのみである。
 中でも圧巻なのは、やはり深紅の呂旗であった。揺るがず、怯まず、ただただ前に進んでいく様は、その場に身を置いていないおれでさえ身震いしてしまうほどだ。あの鋭鋒を正面から受け止める者たちの脅威はいかほどのものなのか。そして、大切な者をその場所に送りこまざるをえない玄徳様の心中は……
 不意に。
 周囲の兵士たちから大きな声が漏れた。何事か、とあたりを見回したが、皆、視線を一所に固定させている。
「あがった! 『劉』の牙門旗があがったぞ!」
 それらの兵士たちの視線の先には、たしかに緑地の『劉』の字が大書された、鮮やかな大旗が掲げられていた。あの劉焉から与えられた、たった一つの正式な褒美であり、これまでは戦場で掲げられることのなかった劉家軍の牙門旗であった。


「……始まったか」
 『劉』の牙門旗は、天下に向けて劉家軍の――劉玄徳の大志を示すもの。
 今、この時より、劉家軍の本当の戦いが始まるのだ。
 おれはそのことを悟り――その場に立ち会えない自分の不甲斐なさに、少しの間、唇を噛み締めていた。


■■


「………来る」
 陶謙軍を蹴散らし、公孫賛軍を押し込んでいた呂布は、不意に戟を引き戻すと、小さく呟いた。
「? 恋殿、何が来るのですか?」
 呂布の傍を離れずにいた陳宮が首を傾げる。
 呂布の進撃は、文字通り無人の野を征くが如く、止める者さえいなかった。このまま公孫賛軍を突破し、袁紹の本陣になだれこめば勝利は董卓軍のものだった。
 陳宮にはそれがわかる。それゆえ、急に攻撃の手を緩めた呂布の行動を怪訝に思ったのである。
 呂布の視線の先を見やった陳宮は、そこに見慣れぬ敵の旗印を見つけた。
「『劉』? 連合軍で劉というと、幽州の劉焉、ですか? しかし、あやつの軍に、恋殿がお気をとめるほどの将帥はいなかったと記憶していますぞ」
「………違う」
「ななッ?! で、では私の情報網に誤りがあったのですかッ! も、申し訳ありません、恋殿。この陳宮、2度とこのような不手際がないよう務めますゆえ……」
「………それも違う」
 呂布の言葉に、陳宮が頭を上げ、小首を傾げる。
「恋殿?」
「………陳宮、下がる」
 方天画戟を構えなおした呂布が、短く陳宮に下がるように言った。
 その構え、そしてその覇気から、呂布が本気になったことを悟った陳宮は慌てて主から距離を置く。
 やがて。
 高々と劉旗を掲げた部隊が、周囲の戦塵を突き破って、この場に現れた。


「そこにいるは敵将呂布と見受けたッ!」
 劉旗の先頭を駆けてきた関羽は、深紅の呂旗の下に佇む少女の姿を見据えた。
 紅の馬、長大な戟、そして何より、これだけ離れていて、関羽の肌をひりつかせるほどの圧倒的な闘気。
 関羽は瞬時にそれが呂布だと判断した。


「我が姓は関、名は羽、字は雲長! 我が主 劉玄徳と共に、弱き者をまもるために立ち上がった大徳が一の矛! 悪政に苦しむ洛陽の民を救うため、その首、貰い受けるッ!!」


 関羽が乗るのは、公孫賛から譲り受けた軍馬の中でも、特に優れた一頭である。
 名乗りと共に、愛馬をあおって呂布に向かって突進する関羽。
 一方の呂布もまた、赤兎馬を駆って、関羽を切り捨てんと大地を駆ける。
 それを見るほとんどの者が、呂布によって首を飛ばされた関羽の姿を想像したのだが。


 戦場に、一際高い金属音が響き渡った。
 青龍刀と、方天画戟がぶつかりあい、火花を散らす。両者とも、自身の得物に跳ね返ってきた衝撃に、一瞬、手がしびれたことを自覚した。だが、その程度のことで怯む2人ではない。
 互いに馬首を返し、すれ違い様、もう一度、渾身の力を込めて、互いの武器を閃かせる。
 


 再び、甲高い音があたりに木霊する。
 関羽は相手の斬撃の重さに、小さく感嘆した。打ち合ったのはわずか2合。だが、傑出した武勇の持ち主が、相手の力量を測るにはそれだけで十分であった。
 再び馬首を返しながら、関羽は力強く青龍刀の柄を握り締める。
「はああああッ!!」
 雄叫びと共に、呂布の身体に青龍刀を叩きつけるも、相手は先の2撃に勝る勢いでそれをはじき返してきた。
「さすがは飛将軍と言うべきか。だが、この関羽の武、この程度と思ってもらっては困る!」
 三度。関羽は馬首を返した。



 3合、4合、5合、6合………繰り返される激突は、1合ごとに力と気迫を増し、あまりの迫力に、あたりは鬼神に魅入られたように静まり返っていた。
 否、それは2人の周囲だけではない。いつか、董卓軍、連合軍を問わず。将帥と兵士とを問わず。2人の一騎打ちのあまりの見事さに、殺し合いの手を止め、呆然と見蕩れるものが続出していた。



「れ、恋殿と互角……? い、いや、そんな馬鹿な! 恋殿の武勇は天下無双、こんな誰とも知れないような奴に苦戦するはずが?!」
 陳宮は眼前の光景が信じられず、何度も眼をこすったが、その事実が消えることはなかった。
「関雲長? 劉玄徳? ね、ねねはそんな名前、知らないですぞーー!!」



「……秋蘭」
「は」
 曹操はその光景を、ほとんど恍惚として見入っていた。
 夏侯淵に命じる声も、かすかに掠れている。
「関羽、と言ったわね。あの武将に関わる全てのことを、早急に調べ上げなさい」
「御意のままに」
「劉玄徳とは何者? あのような豪傑を配下にしていながら、その名前は聞いたことがない。配下を活かせぬような主君に、あれほどの英傑を与えておくなど、たとえ天が許しても、この曹孟徳が許さないわ」
 その曹操の背後で、夏侯惇と張孟卓が顔を見合わせ、小さくため息を吐いた。互いの心境はまったく別だったが。
「ああ、また華琳の悪い癖が出た。無茶しなきゃいいけれど」
「うう……華琳様、私では不足だと仰るのですか……」



「ほう、見事なものじゃな……」
 馬騰は呂布と関羽の一騎打ちを、惚れ惚れと見つめていた。
 究極の武と、それに迫るもう1つの武。2つの武の衝突は、殺し合いを舞踏にまで昇華させたようであった。
「す、すげえ……呂布もすごいけど、あの関羽ってやつ、なにもんだ? 聞いたこともないぜ」
「うー、たんぽぽも聞いたことないよ。けど、綺麗な髪だねー、美髪公って感じかな。お姉様、勝てそう?」
「あ、あたりまえだ! あたしが本気だせば、負けたりはしないぜ」
「へー……伯母様ー、お姉様、西涼に帰ったら、あの関羽って人に負けないくらい綺麗になるんだって♪」
 それを聞き、馬騰が感心したように手を叩いた。
「おお、さすがは我が娘。見上げた心意気じゃ。これは花嫁修業も力を入れてやらずばなるまいて」
「なッ?! ま、まてたんぽぽ。武芸の話じゃないのか?」
「そんなこと、ひと言も言ってないもーん」
「謀ったなーーーッ?!」



 孫策は食い入るように、その激闘を凝視していた。
「へえ……」
「雪蓮、言っておくけれど……」
「わかってるわよ、冥琳。このままあの戦いに参加したりはしないってば」
 肩をすくめる孫策の横で、周瑜は疑わしげな眼差しを緩めなかった。
「あら、冥琳は私の言葉、信じてくれないんだ?」
「信じているわよ。けれど、あなたの心は、時にあなた自身の言葉さえ振り切ってしまうから」
「う……ま、まあ、今回は大丈夫よ。さすがに、あの名勝負に水を差すような真似、もったいなくて出来ないわ」
「確かに、古今まれに見る戦いぶりだな。呂布と、それに関羽、と言ったか。聞き覚えがない名だが……」
 周瑜がかすかに眉をしかめる。呂布と互角に戦える武将が、この乱世でまったく無名であることなど考えにくい。あるいは、名のある武将が名を変えているのかもしれない。
「冥琳らしい疑り深さだわねえ」
「疑うのは、軍師の仕事のひとつだからな」
「重々承知してるわよ。けれど、あの関羽って子は本物よ。ただ単に、今日はじめて舞台にあがったってだけ」
 本物、という言葉に2つの意味をかけて、孫策はそう断定する。
「根拠は、何かあるの?」
「勘よ、勘」
「はあ……あなたが勘というときは、まず外れない、か。勘で私の仕事を取らないでほしいものね」
「あら、余計な手間が省けてよかったでしょ?」
「そういうことにしておきましょうか――呂布が本営になだれ込めば連合は負ける。念のため、ここまで出てきたけれど、どうやら要らぬ心配だったようね」
「まったくねー、まあ帰ったら存分に母様には文句を言ってあげましょう。もっとも、こんな場面を見られたのだから、差し引きとんとんかな」
「そう思っておいてちょうだい。また2人の喧嘩に巻き込まれてはたまらないからね……」


■■


 すでに30合を越えた呂布と関羽、2人の一騎打ちは、1つの方向に傾こうとしていた。
 今の呂布は、ここに至るまでに連合軍の6将と戦っていた。呂布とて人間である。疲れがないわけはなかった。それ以前に、連合軍との戦いが始まってこの方、呂布は文字通り戦場全体を駆け回っていたのである。その疲労はかなりのものであったろう。
 一方の関羽は、この時に備えて体力を温存し、その力を十全に発揮できる状態にあった。
 その条件の上で、なお関羽は呂布を凌ぐことが出来ない。個の武勇だけで言えば、呂布は関羽に優ると言って差し支えないであろう。
 それでも、関羽はなんとか呂布相手に互角以上の形勢を保てていたのだが、刃を交えていくにつれ、徐々にその優位もなくなっていった。
 これは、呂布と関羽の差ではなく、2人が乗る馬の差であった。


 天下に知られた名馬赤兎。闘えば闘うほど、その精気を滾らせ、騎手である呂布の意を汲んで、関羽に挑んでくるこの馬と。
 いかに劉家軍の中で最も優れた軍馬とはいえ、名も無きただの駿馬とでは、その差は明らかであった。
「……くッ!」
 もう何十度目かもわからない激突の後、関羽の乗る馬がその衝撃に耐え切れず、地面に足をついてしまった。
 関羽は宙に投げ出されたが、軽やかに受身を取って、すぐに立ち上がる。だが、その機敏な動作でさえ、呂布の鋭い死の顎から抜け出すことはできなかった。
 凄まじい勢いで振るわれる方天画戟。脳天から、関羽の身体を両断せんと振り下ろされたその攻撃を、関羽はかわすことができなかった。


 2人の戦いを見ていた全ての者が息を呑む。これで決着、と思われた戦いは、しかしまだ終わることはなかった。



 関羽に向かって振り下ろされた呂布の戟は、一本の蛇矛によって真っ向から受け止められる。
「愛紗、もう鈴々、待ちきれないのだ!」
「あ、ああ、頼む……気をつけろよ、鈴々。聞きしに優る使い手だぞ」
「了解なのだ! 愛紗は下がってみているのだ!」
 張飛はそういうと、呂布の戟を大きくはじき返すと、高らかに名乗りを挙げた。
「我こそ姓は張、名は飛、字は益徳! この燕人張飛の八丈蛇矛、受け止められるものなら、受け止めてみせるのだッ!」
 その言葉が終わらぬうちに。
 張飛の凄まじい勢いの矛の乱舞が呂布に襲い掛かった。
 通常、馬上の呂布と地上の張飛では、馬上の呂布の方が圧倒的に優位である。だが、張飛の長大な矛は、馬上にある呂布の身体を容易くとらえることが可能であった為、呂布の優位は著しく減じていた。
 もっとも、それでも呂布の優位が完全に消えるわけではない。
 赤兎馬をねらえば、その優位を呂布から奪うことも出来ただろうが、張飛は性格的に馬を狙うことができなかった。


 やりにくそうにしながらも、それでも自分に対してのみ攻撃を続ける張飛を見て、呂布はしばしの間、何事か考え込んでいたが、すぐに決断を下し、赤兎馬から地面に降り立った。
 それを見た張飛が、不思議そうに首を傾げた。
「はにゃ? なんで降りたのだ?」
「………礼儀」
「鈴々、別に何もしてないぞ?」
「………(フルフル)」
 張飛の言葉に、呂布は無言で首を横に振る。
「むー……なんだかよくわかんないけど、とにかく勝負なのだッ!」
「………わかった」
 地上に場所を移し変えた2人の一騎打ちが、再び始まろうとしたその時だった。
 時を同じくして、両陣営に動きが起きる。


 連合軍の馬騰、曹操らは、呂布が完全にその足を止めたところを見て、一斉に大反攻に移ったのである。今や呂布軍は後背を馬騰軍、側面を曹操軍と袁紹軍、そして正面を劉備軍、公孫賛軍、陶謙軍に遮られ、完全に包囲された形であった。
 呂布が関羽、張飛との戦いで、当初の勢いを失い、軍勢も足を止めた状態となっている。馬騰らはこれ以上ないタイミングで攻撃を指示したのである。


 出戦をしていた呂布たちは知らないことだったが、この時、董卓軍の下には、洛陽からの軍使が到着したところであった。
 残っていた守備隊の長は、その命令に驚愕し、疑いを覚えながらも、自分の判断で事を処すにはあまりにも重大な案件であったので、呂布たちにそれを伝えて判断を仰がねばならなかった。
 かくして、虎牢関の城壁上に、一本の大きな旗が振られた。
 それが意味するところを悟り、陳宮は知らず、叫び声をあげていたのである。


「こ、虎牢関を放棄ッ?! そ、そんな、どうしてッ!」





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 洛陽炎上(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/12 18:53



 後漢王朝の都として、長年に渡り繁栄を謳歌していた都市 洛陽。
 中華の各地から人が集まり、そして中華の各地へ人が散っていく街。
 光武帝劉秀が築き、歴代後漢王朝の皇帝たちによって受け継がれてきた歴史と伝統ある都は今、繁栄の果てに、斜陽の時を迎えつつあった――きわめて人為的に。


 洛陽の街は今、人々の悲哀の声に満たされていた。
 住民たちは持てるだけの家財道具を持たされ、泣き叫びながら西へ西へと移動しているのである。
 漢の都、花の洛陽を離れることを望む住民など居はしない。その移動は、兵士たちに強要されてのものであり――そして、武器を片手に、住民たちを追いやっているのは、董卓軍の軍装をした兵士たちであった。
 賈駆は遠目にその状況を見やって、唇を噛み締めることしか出来ない自分を呪い、壁に拳を叩き付けた。
 鈍い音を立てて、賈駆の拳から血が滲み出し、瞬く間に腫れ上がる。
 だが、賈駆はそんなことは気にもかけず、更に壁を打とうと、拳を高く振り上げた。
「え、詠ちゃん……駄目だよ、そんなことしたら」
 そういって、慌てて賈駆の腕を掴んだのは、親友であり、主君である董卓だった。
 常は思慮深い賈駆の惑乱を間近で見て、瞳に涙を湛えながら、懸命にそれ以上の自傷行為を止めようとする。
「月……ごめんね。ボクがだらしないばっかりに……」
 虚ろな視線で自分を見る賈駆に、董卓はきっぱりと首を横に振ってみせる。
「詠ちゃん、そんなこと言わないで。悪いのは、わ、私なんだから……詠ちゃんは、悪くなんか、ないんだよ?」
 そう言いながらも、しかし董卓の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
 毅然と話さなければ、と思ってはいても、自分のしでかしてしまった罪を思えば、平静ではいられなかったのである。


 主君殺しは親殺しに次ぐ大罪。その罪を犯した者は、出来うる限り残忍な処刑を行い、後に続く者が出ないようにするのが古来からの習いであった。
 まして皇帝殺しともなれば、本人だけではなく、九族まで探し出して殺戮されかねない。董卓には未だ子供はいなかったが、郷里には父母がおり、幼い弟妹たちが戦乱を避けて暮らしている。その彼らにまで、血塗れの刃は届いてしまうだろう。
 今でこそ、董卓がやったことを知るのは、王允を含めて数名の高官だけだが、彼らは董卓たちに利用価値がなくなれば、すぐにでもその事実を公表するだろう。そのことを、董卓はすでに覚悟していた。ただ、罪を犯した自分が命を奪われるのは当然だが、郷里の家族には無事でいてほしい。今、董卓の望みはそれだけであった。


 そして賈駆は、董卓がそう考えていることに気づいていた。ずっと宮中に幽閉されていた董卓は、朝臣たちの指図の下で、賈駆が洛陽の民衆へ行ったことを知らない。知れば、董卓はもっと苦しむことになるだろう。だからこそ、賈駆は全てを独断で処理していたのである。
 天下に興味を持たなかった董卓を都の政変に巻き込んでしまったのは自分であり。
 政争にかまけて、董卓を皇帝から守れなかったのは自分であり。
 董卓を守るために、手段を選ばなかったのは自分である。
 だからこそ、董卓にこれ以上余計な負担をかけるわけにはいかない。なんとか王允たちの隙をついて董卓を解放し、董卓とその家族を、役人の手が及ばないところに逃がしてあげなければならない。それさえ出来れば、あとは自分が大罪の首謀者として処刑されれば良い。賈駆はそう考えていたのである。


 それゆえ、今日になって王允たちから宮廷の一室に呼び出されたときは、何事かと緊張した。
 華雄が破れ、汜水関が落ちたという報告はすでに届いている。
 あるいはそれに対する叱責かとも考えた。
 今頃、連合軍は虎牢関に押し寄せている頃だろう。呂布と張遼であれば、容易く敗れることはないだろうが、後方からの支援がほぼ皆無である現状では、あの2人とて長くは戦えまい。
 虎牢関を抜ければ、洛陽までさしたる難関はない。王允たちに隙をつくる、という意味ではその状況も都合が良いが、かといって連合軍に董卓を捕らえられれば、結果は変わらない。
 そうして、様々な状況を考えながら、賈駆が呼び出された一室にやってくると、そこにはなんと董卓の姿があったのである。
 予期せぬ再会に戸惑いながらも、喜びを隠せない2人。
 だが、喜びの感情が一段落すると、王允たちが何を考えているのかが気になってくる。
 その理由はじきに明らかになった。洛陽の街全体が騒然とし、住民たちが追い立てられるように城外に出されていくのを見れば、王允たちが何を考えているのかは容易に察することができた。
 長安への退却。いや、住民ごと連れて行こうとしているところから見て、都自体を移すつもりか。200年に喃々とする帝都洛陽の歴史に終止符を打つ愚挙、そしてその罪を董卓に擦り付けようとする王允たちの意図を察した賈駆は、激昂に駆られて、壁に手を打ちつけたのである。


■■


「ふふ、董太尉におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
 言葉もなく立ち尽くす2人の前に、1人の文官が姿を現した。
 端麗な容姿をした男性なのだが、その目に浮かぶ暗い光が、見る者にマイナスのイメージを強く植えつけてしまうだろう。
 賈駆は咄嗟に董卓を背にかばうと、入ってきた人物に鋭い視線を投げつけた。
「李儒、何の用?」
 すると、それを聞いた男――李儒は目を怒らせて、賈駆に罵詈を投げつけた。
「黙れ、小娘が! 貴様ごときが何の故をもって私の名を呼ぶのかッ!」
「なッ?!」
 平時は腰が低く、卑屈ともいえる態度で接してくる李儒の豹変ぶりに、賈駆はつかの間、言葉を失った。
 李儒は董卓の父である董君雅の一族の端に連なる者である。犀利な頭脳の持ち主で、これまでいくつもの献策をし、そのほとんどを成功させてきた。ただ、その策の多くが陰謀に類するものであり、李儒自身、自分の才能に酔い、手段と目的を取り違える一面を持っていた。
 賈駆はその性情を危惧し、董卓の代になってからは極力李儒を董卓から遠ざけてきたのである。もっとも、不当に貶めたわけではなく、一族の1人として、その立場に敬意は払っていた。それは董卓ならびにその父董君雅の心情を賈駆が思いやったからである。
 李儒自身、董卓や賈駆に対して不満をあらわにすることはなく、粛々と自身に課せられた責務を果たし続けてきた。賈駆も、最近は態度を徐々に軟化させており、董卓軍が都を制したのを機に、そろそろ董卓軍の枢機に関わる立場についてもらおうか、と考えていた矢先であった。


「おっと……声を荒げて申し訳ありませなんだ」
 李儒は激情を瞬時に鎮めると、董卓たちの見慣れたいつもの笑みを浮かべる。
 だが、その感情の浮沈の激しさが、董卓たちの背に冷たいものをはしらせていた。
 賈駆が怖気を払うように、声を張って詰問する。
「改めて問う。李文優……何用あって参じたのか?」
「おやおや、天下に名を知られた賈文和ともあろう御方が、私ごときの意図1つ、推察できないのですかな? まあ、貴殿の策が今日の事態を導いたことを思えば、貴殿の才腕など知れたものでしょうけれどね」
「くッ」
 李儒の嘲りに、賈駆は唇を噛み締める。李儒の意図はどうあれ、その言葉はまぎれもない事実であるから。
 董卓が何事かを言おうと、賈駆の前に出ようとするが、賈駆は自分の身体を使って、それを制した。
 今の李儒の前に董卓を出すのはまずい。李儒の様子から、そう判断せざるを得なかったのである。


 その様子を見た李儒の目に、ほの暗い光が差す。
「貴様らのような小娘どもが、この私を軽んじおって。董家がここまで大きくなれたのも、私が政敵をことごとく排除したからではないか。それなのに、父娘そろって恩を知らぬ者たちよ。奇麗事だけで統治が為せると思うておるのか」
 言いながら、顔の右半面を手で押さえ、俯くように顔を下に向ける李儒。
 低い笑い声がその口から漏れ出てきた。
 顔を下に向けたまま、李儒はなおも言葉を紡いでいく。
「そうだ、これは天命。我が才は漢朝の復興をなすためにこそ授けられたる物。ふふ、董家での臥薪嘗胆、これすべて天命ゆえのことと思えば、腹も立たぬ」
「漢朝の復興……?」
 賈駆は李儒の言葉に看過し得ないものを感じた。


 疑問には思っていたのだ。
 そも、住民たちを追い立てる董卓軍の兵士たちは誰の命令で動いているのか、と。
 何故、これまで頑なに董卓と賈駆を会わせようとしなかった高官たちが、急に2人を会わせるような真似をしたのか、と。
 それは、もはや董卓軍を動かすにおいて、賈駆の力を利用する必要がなくなったからではないのか。董卓の存在がなくても、董卓軍を動かせるようになったからではないのか。


「まさか、李儒、あなた………ッ!」
 賈駆がその可能性に気づき、声を高めた。
 顔の半面を押さえたまま、李儒は董卓たちに顔を向ける。隠れていない左の目が、正視しがたい光を放った。
「ようやく気づいたか。すでに董卓軍は貴様らのものではない。李、郭、徐の3将は朝廷への忠誠を誓約した。今や、我らは皇帝陛下の親衛隊、偉大なる羽林の軍よ」
 李儒は半面に嘲りの色を浮かべ、言葉を続ける。
「そうそう、王司徒よりこれまでの労を感謝する、とのお言葉を預かっているぞ。皇帝陛下弑逆の大罪人どもに対して、何とも寛大なお言葉ではないか。ひれ伏して、感謝するが良い」
「なッ?!」
 李儒がその事実を知っていること。それはすなわち、王允らと李儒との紐帯をはっきりと示すことであった。


 言葉を失った賈駆たちを心地よさそうに見下すと、李儒は踵を返して部屋を出て行こうとする。
 だが李儒は、部屋を出る寸前、なんでもないことのように、虎牢関に使者を発した事実を告げた。
 全軍、虎牢関を放棄して、洛陽に戻るように、との軍令を出したと聞き、賈駆が絶句する。
「た、退却命令ッ?! そ、そんなことをしたら……」
 いかに呂布や張遼が優れた統率力を持っているとはいえ、敵前での退却は困難を極める。まして、拠るべき砦もなく、ただ洛陽に戻れと言うことは、全滅しろと言っているようなものではないか。
「ご心配には及びますまい。なにせ軍を率いるのは飛将軍と、神速を謳われる張遼殿ですからな。無事に戻ってこられますよ……さて、では私はこれにて失礼いたします」
 低い笑い声を残して、李儒はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 すぐに扉は閉められ、錠のかけられる音が室内に重く響く。
 賈駆には、その音が、自分たちの未来を閉ざしたもののように聞こえていた……


■■


「本当に虎牢関を放棄したのか」
 信じられん、と言いたげに関羽が呟く。
 玄徳様、簡擁、諸葛亮、鳳統いずれも関羽と似たような面持ちであった。



 関羽と張飛が呂布の突進を止め、連合軍が呂布率いる董卓軍を包囲するという作戦は成功を見た。
 だが、この場合、包囲する側よりされる側の方がはるかに強い。董卓軍を討つために、連合軍はさらなる出血を余儀なくされるものと思われていた。
 だが。
 これから両軍がぶつかる、まさにその時、虎牢関の城壁上で振られた一本の旗。そして高らかに鳴り響く銅鑼は、董卓軍に退却を告げるものであった。
 呂布の補佐をしつつ、後陣で馬騰、曹操、袁紹の軍を一手で食い止めていた張遼は、最初に目を疑い、次に耳を疑い、最後に命令を下した人間の正気を疑った。
 連合軍に四方を囲まれた董卓軍の将兵が、退却の命令を聞けばどのように行動するのかなど火を見るより明らかだったからである。
 しかし、一度下された命令は、もう取り返しがつかない。張遼は舌打ちしつつ、己の手勢を掌握すると、今にも逃げ出しそうな兵士たちに向かい、高らかに告げた。四方は囲まれ、逃げる道はない。生き残りたければ、全軍一丸となって、後方の馬騰軍を突破せよ、と。
 恐慌に陥る寸前であった董卓軍は、その張遼のひと言でかろうじて指揮系統を失わずに済んだ。
 かくて、董卓軍は少なからず混乱しながらも、転進し、馬騰軍に襲い掛かった。
 馬騰は「囲師はめぐらすなかれ、じゃな」と呟くと、先刻と同じように部隊を両翼に分け、敵に突破を許しつつ、その側面および後方をねらい撃ち、更なる出血を敵に強いたのである。


 殿軍をつとめた呂布により、虎牢関への侵入を阻まれた連合軍は、虎牢関攻めに備えて、1度、軍を立て直すために退いた。
 だが明けて翌日、虎牢関は不気味な沈黙を保ち、城壁上にも兵士の姿を見かけなかった。いぶかしんだ諸侯は斥候を放ち――そして、董卓軍が虎牢関を放棄したことを知ったのである。



「孔明、士元、何かの罠ではないのか?」
 関羽の言葉に、2人の軍師は困惑した顔を見合わせる。
「確かに関将軍の仰るとおり、そうとでも考えなければ説明がつかないことなのですが……」
「……虎牢関を差し出すことに見合うような効果のある策が、あるとは思えないんです」
 玄徳様がなにやら考え込みつつ、ぽんと手を叩く。
「そうだ、洛陽で決戦を行うために兵力をとっておきたかった、とかじゃない?」
「それはどうでしょうか。たしかに洛陽は漢の都として栄えた場所。城壁も高く厚いです。けれど洛陽城内には数十万の民たちがいます。篭城するとなれば、彼らの分の水と食料も確保しないといけません」
「……それに、董卓軍の暴政が本当なら、住民たちの反乱にも気をつけなければいけなくなる。兵士たちだけが篭る虎牢関に比べ、守りにくいのは間違いありません」
「うーん、確かに2人の言うとおりだよね。そうすると、相手の狙いは何なのかな?」
 玄徳様の言葉に、劉家軍一同、うーんと腕組みをして考え込んでしまった。


「あるいは、いくつもの思惑が交錯してるのかもしれませんね」
 おれの言葉に、諸葛亮、鳳統が同時に頷いた。
「私もそれを考えていました。董卓軍の動きには、おかしな点が多すぎます」
「……一刀さんの言うとおりかもしれません」
 2人の軍師の賛同を得て、おれは少しだけほっとした。さすがにこの場面で見当違いな発言は恥ずかしすぎる。
「えーと……どういうこと?」
 玄徳様が不思議そうに問いかけてきたので、おれは諸葛亮曰く「董卓軍のおかしな点」を挙げた。
「最もおかしいのは、虎牢関にいた董卓軍の戦略目的が急に変わったことです。呂将軍らは、明らかに虎牢関を死守し、連合軍を追い返すつもりだった。虎牢関を放棄するつもりなら、出戦などしないでしょうから」
 おれの言葉に、玄徳様が疑問を挟む。
「でも、1度、敵と戦ってから退いた方が、追撃の危険は少なくないかな?」
「桃香様にしては鋭いご指摘ですね。その通りです」
「うう、愛紗ちゃん。私にしてはって……」
「ああ、も、申し訳ございません。私としたことが」


 慌てる関羽を尻目に、おれは玄徳様の疑問に答えた。
「玄徳様の仰るとおりだとすると、退却の合図が出たとき、董卓軍が混乱した理由が説明できなくなってしまうんです」
 関羽が、その時の状況を思い出しつつ、おれの見解に賛意をあらわす。
「ふむ。確かに、董卓軍の将兵は、突然浮き足だったように見えた、な」
「うーん、そうだったかな。鈴々はよくわかんなかった。逃げる敵に興味はないのだ」
 張飛らしい言い方に、おれは思わず笑みをもらした。だが、すぐに口許を引き締めると、話を続ける。
「退却が知らされ、動揺するということは、呂将軍らは紛れも無く攻めに出ていたということです。いずれ退却の命令が下るのがわかっていて、わざわざ出戦などはしないでしょう。それこそ、敵の追撃の格好の餌食になってしまいますからね」
「うん、なるほどね」
 玄徳様がうんうんと頷き、納得の表情をした。


「もちろん、洛陽で何か変事があり、董卓軍の方針が急に変わった可能性もあるにはあるんですが……」
 おれの言葉を引き取ったのは、諸葛亮だった。
「呂、張の2将軍の頭越しに、兵士たちにそれを知らせるような真似を、董太尉や賈軍師がするはずがない。そうですよね?」
「ああ。君主の命令とはいえ、敵に攻められている場所で、そんな真似をすれば全軍の敗北にもつながりかねない。実際、董卓軍は大損害を受けました」
 虎牢関への退却時はもちろん、おれたちがこうして話している今この時も、連合軍は洛陽へ退く董卓軍を猛追していた。これまで良いところのなかった袁術や、幽州の劉焉などは、ここが手柄の立て時とばかりに激しい追撃を行っているようだ。
 劉家軍はというと、すでに大本営から追撃には及ばず、との命令が下っているのである。これ以上、雑軍に手柄を立てさせてたまるか、という袁紹の本音が透けて見えるが、そこは大人の態度でスルー。
 すでに劉家軍は、呂布率いる軍を食い止め、関羽は天下無双相手に、互角に近い戦いを演じたことで、連合軍中の評判になっている。当然、その主である玄徳様の名も上がっていた。今の段階で、これ以上、欲張る必要はないと皆の意見も一致していた。


「北郷殿はいくつもの思惑、と言っていたな。つまり、董卓軍以外の何者かが、今回の戦いに介入していると考えているのか?」
 関羽の言葉に、おれははっきりと頷いた。
「はい。おそらく、今のうちに董卓軍の力を削いでおきたい何者かがいるはずです。そもそも、以前、并州であった時の董太尉の御人柄から推しても、今回のような事態を引き起こすとは思えない。初めからおかしいと思っていたんです。そして、今回の戦いで確信しました。董太尉の背後に、董太尉に悪名を押し付け、その力を削ごうとしている誰かがいる。そう考えれば、いくつもの疑問点に答えが出てくるんです」
 喋っているうちに感情が昂ぶってきたおれは、勢いのままに断言してしまった。
 証拠なんぞなく、ただ己の主観と状況証拠だけをもとに組み立てた醜悪なジグソーパズルである。みんなに呆れられても仕方ないところだった――のだが。
「おお、さすがだね、一刀さん!」
「うむ、少しだけ見直したぞ」
「おー、お兄ちゃん、かっこいいのだ」
 おお、なんか予想と違う反応が?
 しかし、さすがに諸葛亮たちからは白い目で……
「はわわ、すごいです。わたしと雛里ちゃんが一生懸命考えて出した答えを、お1人で出してしまうなんて」
「あわわ、そ、尊敬です……」
「かっかっか、やるのう、北郷殿」
 をを、こっちも何か良い反応だ。
 自分で言うのもなんだが、結構穴がある推理なんだけどな。
 おれが首をかしげていると、簡擁がぽんと肩を叩いてきた。
「なに、要点はきっちり押さえておるよ。推測に大きな違いはあるまい」
 簡擁に太鼓判を押してもらい、おれはほっと安堵の息を吐いた。


■■


「ふむ。面白い考えを聞かせてもらったわ」


 不意に。
 おれたちの耳に聞き覚えのない声が響いた。
「何者ッ?!」
 関羽が声がしてきた方向に青龍刀を構える。
 すると、そこには3人の女性が、こちらへと歩み寄ってくるところであった。
 その1人が、武器を向ける関羽に大喝を発した。
「無礼者ッ!! 雑軍の将風情が、曹孟徳様の御前に立つなど、身の程を……!」
「春蘭」
「は、華琳様」
「先触れもなく、相手を訪れたのは私たちの方よ。誰何されるのは当然だわ」
 そう言ったのは、3人の中でもっとも小柄な女性だった。その背格好からいって、少女と言った方がいいかもしれない。
 だが。
 身体が小さくとも、その圧倒的なまでの存在感は隠しようがない。今は穏やかにこちらを見ている少女は、いざ猛り狂えば、その怒りは岩を砕き、地面を抉るだろう。


 人身の竜


 何故か、おれの脳裏にそんな言葉が思い浮かんだ。
「そちらの問いに答えましょう。私は、姓は曹、名は操、字は孟徳。天下の安寧を願い、それをもたらすことこそ己が天命と志した者。天命を知らず、なお過去の栄光にすがろうとする愚か者たちが織り成した、諸侯連合という名の茶番の発起人でもあるわ」
 そういうと、曹操は堂々とした足取りで、玄徳様の前までやってくる。
 対峙する両者。
 口を開いたのは、曹操だった。
「あなたが、劉玄徳?」
「あ、は、はいッ! あの、姓は劉、名は備、字は玄徳です。は、はじめまして、曹孟徳殿!」
「はじめまして――ふーん、あなたが、ねえ」
 どこか冷たい眼差しで玄徳様の総身に視線をはしらせる曹操。
 玄徳様は、かちこちに緊張したまま、黙ってその視線に耐えていた。


 その様子にたまりかねた関羽が、曹操と玄徳様の間に割って入る。
「いかに連合の発起人とはいえ、我が主桃香様に無礼は許しませぬぞ。そも、いかなる用があって、我々の陣にいらしたのですか」
 曹操がその問いに答える前に、またも春蘭と呼ばれた女性が激昂した。
「き、貴様ァッ! 一度ならず二度までも、華琳様に無礼を働くか! そこに直れ、たたっ斬ってやる!」
 背負った大剣を抜き放ち、猛然と関羽に切りかかろうとする女性。だが。
「春蘭、良い加減になさい」
 虎でも慄くだろうその鋭気を、曹操はひと言でせき止めてみせた。
 女性はしぶしぶと言った様子で剣を収めつつも、納得いかない様子で、曹操に訴える。
「華琳様、このような連中、華琳様がお気になさる必要はないと思います。それよりも、早く洛陽に迫った方が……」
「私が何を大切にし、何を尊しとするのか。それを決めるのは、他の誰でもない私自身よ。春蘭、あなたはそれを知っているはずなのだけれど?」
「は、はい! 出すぎたことを申しました!」
 春蘭は恐縮したように曹操の後ろに戻っていく。


「さて、関羽。いかなる用があって、と言ったわね」
「ッ?! 私の名をご存知なのですか」
「ふふ、あの飛将軍 呂奉先と互角の戦いを繰り広げた黒髪の勇将。すでにその名は全軍に轟いているわよ? その武、その覇気、その忠誠、いずれも天下の豪傑たるに相応しい――このような雑軍に置いておくには、あまりにも惜しいわ」
 曹操の言葉に何かを感じたのか――関羽の顔が厳しく引き締まった。
「用件を言う」
 静かに、けれど絶対的な確信を込めて、曹操は口を開いた。



「関羽、あなたは私と共に来なさい。あなたの全てを私に捧げ、私と共に天道を歩みなさい。それこそがあなたの天命。弱き者を救うとあなたは言った。そこに至る最も近い道は、私と共に来ることなのだから」






 静寂がその場に満ちた。
 正確に言えば、誰一人として言葉を発することが出来なかったのだ。
 曹操の覇気に満ちた言動は、それが絶対の真実であるかのように、この場にいた者たちの耳に響いたのである。
 最初に、その硬直から解き放たれたのは玄徳様だった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 愛紗ちゃんは、私たちと一緒に……」
「黙りなさい、劉備。私は関羽に問われ、関羽に答えた。ならば関羽が返事をするのが筋というものでしょう」
「す、筋とかそんなの、関係ないです! 愛紗ちゃんはッ!」
 曹操の言葉に反論しようとした玄徳様を制したのは、関羽だった。
「桃香様」
「あ、愛紗ちゃん」
「確かに孟徳殿が仰るとおり、返事をするのは私の方が筋でしょう。それに……」
 関羽は優しい笑みで、己が主を見つめた。
「私の答えも、桃香様の答えも同じなのです。ならば、このような些事で、主に労をかけるまでもありません」



 傍観者に過ぎないおれだったが、その笑みには心を打たれた。率直にいって、惚れ惚れと見蕩れてしまった。
 関羽の笑みには、関羽を関羽たらしめている全てが篭っていたからだ。
 劉玄徳という主への忠義。
 劉桃香という姉への親愛。
 いかなる難敵にも立ち向かう勇気。
 誰もが笑って暮らせる世の中をつくるという大志。
 そして――それら全てを、一時たりとも揺るがせはしないという誇り。


 ああ、焦がれるように思う。
 そんな笑みを浮かべられるようになりたい。
 そう在れる自分を貫きたい。
 今のおれでは、到底かなわぬ夢物語であるけれど、いつか関羽が立つ場所までたどり着きたい。


 ――おれはそんな風に思ってしまった。 
 


「では、返事を聞きましょう。関羽、あなたは私と共に来るのか否か」
 曹操の言葉で、おれは我に返った。
 いつのまにか、物思いに耽ってしまっていたらしい。
 曹操の問いかけに、関羽はきっぱりと首を横に振った。
「答えは否だ。天命がどうあるかなど、私は知らぬ。私は、私が正しいと信じた道を歩むだけだ」
「……そう。劉備についていけば、それだけあなたの望みが叶うのに時間がかかる。その分、大陸の弱き者たちが虐げられる時間が長くなることになる。あなたにとって、それは正しい道なのかしら?」
 関羽は、その問いに小さく笑みを浮かべた。それは自らではなく、自らの主を誇る笑み。
「孟徳殿。私を、そこまで高く買ってくれたことへの礼として、1つだけ忠告をさせていただこう」
「聞きましょう」
 頷く曹操に、関羽は毅然と言葉を投げかけた。


「我が主を――劉玄徳という人物を、甘く見ないことです。今は雲に乗れずにいても、我が主は、いずれ間違いなく天へと昇られる御方。項羽のような武ではなく、高祖のような謀略ではなく、その気高き優しさを以って、天下全てを満たしてくれる御方なのですから」


 深々と静まり返る空間に、ただ各人の息遣いだけが小さく漂っている。
 やがて、曹操が深々と息を吐きつつ、肩をすくめた。
「そう。今は、これ以上、言葉を重ねても無意味のようね。ただし、私は一時の思いつきで言葉を発したわけではない。いずれまた、あなたの天命を問いただす時が来るでしょう。そのときまで、あなたの考えが変わっていることを期待しているわ、関羽」
「無駄なことです」
「ふふ、その剛毅、その忠義。ますます欲しくなったわ――劉備!」
 突然呼びかけられ、玄徳様は背筋を伸ばしながら、慌てて口を開く。
「は、はいッ!」
「――これから、天下はさらに荒れるでしょう。一刻も早く、名を上げ、大陸にその名を示しなさい。関羽のような豪傑にここまでの忠義を捧げられる人物が、いつまでも無官の義勇軍を率いているなど、このあたしが許さない」
「わ、わかりましたッ! 頑張ります!」
「ええ、頑張りなさい。そしていつか、英雄の1人として、私の前に立ちはだかりなさい。そのあなたを完膚なきまでに叩き潰して、私は関羽を手に入れる」
 曹操の言葉に、玄徳様はきっぱりと首を横に振る。
「――そんなこと、絶対にさせませんから!」
 その玄徳様の顔を見て、曹操は不敵な笑みを覗かせていた。





「さて、思った以上に収穫があったわ。そろそろ失礼するとしましょう」
 女性二人を従え、曹操は踵を返す。
 だが、おれの前に差し掛かったとき、ふと気づいたようにこちらに視線を向けてきた。一瞬、背中が震えたのは、彼女の発する覇気ゆえだろうか。
「そうそう、さっき面白いことを言ってたわね、あなた」
「はッ?! お、おれですか?」
「他に誰がいるの。董卓軍の背後に、その自滅を願っている者がいるという話よ」
「は、はあ、それは確かに言いましたけど」
 おれはわずかに腰が引けた状態で、曹操と対峙していた。背後の2人もさることながら、曹操自身の存在感は空恐ろしいほどだ。さすがは、数千年の時代を超えた英傑である。  
 そんなおれの態度に、曹操は少し興が削がれたような顔を見せたが、そのまま話は続けた。
「正解よ、それ」
「は?」
 あまりにもあっさりとした答えに、おれは思わず問い返してしまう。
 春蘭と呼ばれた女性がまた口を開こうとするが、それは隣のもう1人の女性に無言で制されていた。
 曹操はわずかに表情に険をあらわして、もう一度同じ言葉を口にした。
「だから正解といったの。董卓の背後には、朝廷の高官たちがいるわ。司徒王允、司空張温らがね。連中は漢王朝を立て直すために、董卓を生贄とした。今回の騒乱の筋書きを書いたのは奴らよ」


 苛政を行い、民衆の財力を国庫に吸い上げても、その罪は董卓が担ってくれる。適当なところでその董卓を排除すれば、民衆の感謝は漢王朝に向けられ、それは衰えた漢王朝の信望を高める結果につながるだろう。
 董卓軍の大きな武力を削ぎ、各地に割拠する諸侯の力を減じる意味でも、董卓軍対連合軍というのは、格好のシナリオである。ただ、袁術と孫堅の関係と同じく、強すぎる番犬は危険なものだから、ある程度連合軍を痛めつけ、かつ時間を稼いだところで、連合軍の手を借りて董卓軍を始末しようとした。
 ――筋書きというのは、そういうことなのだろうか。
 おれの疑問に、曹操は再びあっさりと答えてくれた。
「そういうことよ」
「……どうして、そのことを――あ、いえ、何でもありません」
 おれは質問を途中で止めた。
 曹操はさきほど玄徳様に言っていたはでないか。英雄の1人として、早く自分の前に立ちはだかれ、と。この情報を与えられたおれたちがどう行動するのか。そして何を得ようとするのか。曹操はそれを注視する心算なのだろう。
「――理解したようね。では、今度こそ失礼するとしましょう。春蘭、秋蘭、行くわよ」
『はッ』
 そういうと、曹操は堂々とした歩調を崩さぬまま、劉家軍の陣地を後にした。
 残されたおれは、地面に残された巨人の足跡に戸惑うように、しばらく呆然と佇んでいたのである……







[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 洛陽炎上(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/14 21:34


「ちい、うっとうしい奴らやなあ!」
 張遼は舌打ちしながら、切りかかってきた兵士の脳天に、馬上から飛龍刀の柄の部分で一撃を浴びせる。
 昏倒して地面に倒れ込んだ相手には目もくれず、張遼は周囲を見渡した。
 すでに、袁術、劉焉、袁紹らの猛攻に次ぐ猛攻で、殿軍をつとめた張遼の隊は、半数以上が戦死していた。
「他の連中、ちゃんと逃げられたんやろか。まったく、わけのわからんことばっかり続くで、ほんま」
 小声で愚痴をこぼす張遼のところに、同じように殿軍を勤めていた呂布が姿を現す。
 呂布の率いる隊も、すでに張遼の部隊と同じような有様となっていた。


「……文遠」
「おお、奉先か。そっちもだいぶやられたようやなあ」
 張遼の言葉に反応したのは、呂布ではなく、呂布に付き従っていた陳宮だった。
「何を気軽に話しているのですか! このままでは、我らは全滅してしまうのですぞーー!」
「ああ、すまんすまん。どうもうちは、危機になるほど陽気になる性質みたいでな。文和にも、よく不謹慎だって怒られるんよ」
「危ない性格なのです」
「あっはっは、否定できんわ。それは、まあおいとくとして、あんたらはこの後どないする?」
 張遼の言葉に、呂布が目を瞬かせた。
「……?」
「ああ、つまり、このまま洛陽に戻るつもりかっちゅうことや。今回の戦……洛陽に入ってからこっち、きな臭いことばかり起こりよる。文和の奴も、伝令の1人も寄越さんし、月の姿もよう見ん。こら明らかに裏があるで」
「そんなことは子供でもわかるのです。しかし、連合軍を追い返さないことには、身動きが取れないではないですか」
「そら確かに陳宮の言うとおりやけど、このまんまやと、うちら間違いなくお陀仏やで。死ぬのはかまへんけど、袁術だの劉焉だのの雑魚の手にかかるのは気がすすまんのよ」
「こちらは英雄豪傑が相手だろうと、死ぬのはごめんなのです。それに、恋殿はこの乱世になくてはならない御方、このようなところで死なせはしないのですッ!」
「だ、そうやで、奉先。忠義に厚い部下を持ててよかったやん」
「……謝謝、陳宮」
「れ、礼など不要ですぞ、恋殿! この陳宮、粉骨砕身して、恋殿を必ずや天下人にしてまする!」
 感極まって叫ぶ陳宮に、張遼は苦笑いを1つ。
「いや、それ大声で言うんはまずいんちゃうか。今、うちら月の部下やで?」
「………あ゛」


 顔を蒼白にする陳宮はとりあえず置いておくとして、張遼は再度、呂布に問いかけた。
「で、どないするん、奉先? 良い考えがあるなら、うちも1枚加わらせてもらいたいんやけど」
「………洛陽に帰る」
「へッ?! か、帰るっちゅうことは、任を全うするっちゅうことか?」
「………兵はばらばらに逃がす。恋たちもばらばらに逃げる」
「ふむ、分散して敵の追撃をかわすっちゅうことか。で、月を助けるわけやな?」
「………(こくり)」
 下手に軍を率いれば、連合軍に捕捉されてしまう。洛陽に帰るならば、分散するのは良い手だろう。
 もっとも……
「あんたの赤兎を見りゃ、これが天下の飛将軍やってすぐにばれてしまうやろうけどなあ」
 張遼は緋色の雄大な馬体を見て、肩をすくめた。
 ヒヒン、と赤兎馬がいななきをあげる。
「………それに、みんなも助ける」
「みんな? ああ、奉先の邸にいる動物たちやな?」
「………動物じゃなく、友達」
「そうそう、友達やな。ま、いずれにせよ連合軍より早く洛陽に戻らんといかんな」
「………(こくり)」
「よっしゃ、そうと決まれば、さっさと行動に移るでー!」
 張遼はそう言うと、配下の将兵を呼び集め、てきぱきと指示を下し始めた。


■■


 地軸を揺るがすかのような馬蹄を響かせ、白銀の大河が一直線に洛陽に向かって流れていく。
 1千に及ぶ白衣白甲の白馬部隊を先頭に、3千もの騎馬軍団が大地を駆けていく様は、壮観を通りこして圧倒的ですらあった。
 ――ただ、それはあくまで傍から見ていればの話である。実際、そこに加わっている身からすれば、騎馬での長距離移動というのは、かなりしんどいものだった。まして、他人の馬に乗り、ついでに命の危険と隣合わせとあっては尚更である。
 命の危険とは何かと問われれば。
 関羽の背にしがみ付き、その柔らかい体の感触に今にも破裂しそうにバクバクいってるおれの心臓の状態だ、と答えよう。
 何でこんなことになったのか、とおれは深いため息を吐いた。
「ふひゃうッ?! ば、ばかもの、いきなり首筋に息を吹きかけるな!!」
「ぬあッ?! す、すみませんすみません!」



 もちろん、ここに至るには理由がある。
 曹操との話が終わった後、おれたちは慌しく話し合いを行い、今後の方針を見直さなければならなかった。曹操が言ったことが事実だとすれば、董卓は敵ではなく、むしろその逆であることになる。そして真に倒すべきは、漢王朝の高官たちということになるからだ。
 もっとも、話し合いといっても、短時間で済んでしまった。
 劉家軍の面々は、いずれも董卓と会ったことがあり、その人柄の一端に触れている。そして、曹操が来るまえに話していた、今回の戦いの奇妙な点。そういった諸々に対して、曹操の話したことは一定の解答を示しているからである。
 それに、人柄はともかく、曹操はこういうことで偽りを言うような人には見えなかった。軍を率いて対峙すれば、武略として偽言や流言は駆使しそうだったが。


 ともあれ、おれたちは曹操の言葉を受け容れた上で、今後の指針を定めなければならなかった。
 といっても、指針など玄徳様にかかれば1つしかありえない。
「董太尉を救い出そう!」
 はい、予想通りでした。
 劉家軍の面々も心得たもので、すぐにその具体策を話しはじめたものだから、玄徳様は振り上げた拳を所在なさげに下ろすしかなかった。
「……うう、なんだろう、この寂しさは?」
「おねーちゃん、しっかりするのだ」
「……ありがと、鈴々ちゃん」


「1番の問題は、どうやって洛陽に1番乗りするかですね。董太尉の首は、間違いなくこの戦の1番手柄。他の部隊に先を越されると、宮廷にいる董太尉の身が危ういです」
「……それに、王司徒や、張司空の動きも気になります。まさかとは思いますが、全ての罪を董太尉になすりつけて、連合軍を迎え入れることも……」
 諸葛亮と鳳統の顔は、暗く沈んでいる。それだけ、2人とも董卓の救出が難しいと考えているのだろう。
「むう。我らは袁紹殿から追撃を禁じられているからな。軍令を破れば、いらぬ言いがかりをつけられかねん」
 関羽が腕組みをしながら、思案する。簡擁が頭をがしがしとかきまぜながら、それに答えた。
「関将軍の仰るとおり。それに、さすがに徒歩では間に合いますまい。すでに追撃部隊は我らより随分と先行してますしな」
 おれも色々と頭をひねるが、そうそう名案が浮かんできたりはしなかった。それに、こうしている間にも、刻一刻と追撃部隊は洛陽に迫っているのだ。


「……やはり、騎馬部隊で出るしかないですね」
 おれの言葉に、関羽が渋い顔をする。
「しかし、我らの騎馬部隊は100かそこらだぞ。それに、軍令違反の罪で、後々問題となる危険はかわらぬ」
「劉家軍の騎馬部隊を使うなら、その通りでしょう」
「なに? それはどういう……」
 問いかけて、関羽ははっと何かに気づいたように目を見開いた。
 同時に、諸葛亮たちも、はっとして顔をあげる。
「なるほど、伯珪様の部隊がいましたね!」
「……伯珪様の部隊なら、追撃を行っても咎め立てはされません」
 玄徳様も、両手を叩いて喜びの声をあげた。
「なるほど! 一刀さん、あったま良い~! じゃあ、早速伯珪の所に行って、頼んでくるね!」


 玄徳様からの突然の頼みに、公孫賛は最初は目を白黒させていたが、すぐに今が抜き差しなら無い状況であることを悟ったようだった。
「なるほど、話はわかったよ。呂布を止めてもらった借りもあるし、それにこれまで私らはろくな活躍が出来ていないからな。洛陽一番乗りの手柄くらい貰ったところで構わないだろう。呂布に多少やられたが、白馬部隊を含めて3千は動かせる。お前たちがそこに混ざったところで、見つかったりはしない」
「おー、さすが伯珪、話がわかる♪」
「おだてるなよ、玄徳――おっと、こんなことを話している場合じゃなかったな。早急に部下たちに出立の準備を命じよう。玄徳たちも急いで来てくれよ」
 公孫賛はそこまで言ってから、何事か気づいたように言葉を続けた。
「それと、ここから洛陽まで一気に駆けるとなると、馬にも人にも相当の負担がかかる。特に玄徳の軍はまだ馬に慣れていない連中ばかりだろう? そいつらを連れて来るのはやめておけよ。間違いなく途中で脱落する。それなら、慣れた者のみ選抜して、余った馬は替え馬として道々乗り換えていった方が良い」
 そうすれば、馬の負担も軽くなるからな、と公孫賛は真剣な顔つきで、玄徳様に念を押した。
「うん、了解。じゃあ、私はみんなのところに戻るね。またあとで、伯珪」
「ああ、またな」


 と、まあここまでとんとん拍子で話が進んだのは良いのだが、問題が発生したのは、この後だった。
 つまり、誰が洛陽に向かうのかという点で、意見が分かれたのである。
 騎手として、関羽と張飛は問題ない。玄徳様もなんとか大丈夫だろう。問題は諸葛亮、鳳統、そしておれだった。
 おれとしては、董卓の身はもちろん気にかかっていた。あの優しげな女の子が、官匪どもの生贄になるなど、断じて許しがたい。
 だが、そんな気概だけでは、物事を動かすことができないことも、おれはこの地で学んでいた。
 残念ながら、今のおれが洛陽に行ったところで、董卓救出の役には立たない。かえって足手まといになってしまうだろう。となれば、諸葛亮と鳳統は、関羽と張飛の後ろに乗せてもらい、おれは簡擁と共に留守番というのが妥当なところである。
 幸いにも、諸葛亮、鳳統共に小柄で細い体格だから、馬への負担も少ないに違いない。
 おれはそう考えていたのだが。


「じゃあ、一刀さんは愛紗ちゃんの馬。孔明ちゃんは鈴々ちゃん。士元ちゃんは私の馬ってことでいいかな?」
 何の疑いも持たず、おれを面子にいれてしまう玄徳様。
 いや、よくないですよ、とおれは苦笑いしつつ、首を振ろうとしたのだが。
「――ふむ、妥当ですね」
「りょーかい、なのだ」
「はわわ、張将軍、よろしくお願いします」
「あわわ、げ、玄徳様、よ、よろしくお願いします」
 ……あれ、何故にみなさん、スルー?
 意外な成り行きに、1人ぽかんとしていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
 振り返ると、そこには今まで見たこともないくらいに真剣な顔をした簡擁がいた。
「北郷殿」
 その今までにない迫力に、思わず姿勢を正して傾聴の体勢をとる。
「は、はい」
「……くれぐれも、気をつけなされ。関将軍は冗談の通じぬ性格ですゆえ」
「……はい?」
「つまりですな」
 簡擁はおれの耳元に口を寄せて、ぼそりとひと言。
「若さに任せて、馬上、偶然を装って関将軍の胸に触れたりすれば、問答無用で切り捨てられるということで……」
「――んなことするかあッ!!」
「ぐふぁッ?!」
 気づけば、簡擁の鼻面に、裏拳で光速の突っ込みを入れてしまった。 



 その後、取る物も取りあえず、簡擁に平謝りしたおれだったが、そのせいで洛陽突撃部隊から外してもらう暇がなくなってしまった。
 一応、おそるおそるその旨は申し出てみたのだが――
「えー、だって最初に董太尉たちの状況に気づいたのは一刀さんだし、やっぱりついてきてもらわないと」
「そ、そうです。洛陽城内がどうなっているのかわらかない今、一刀さんのお力は必要です!」
「……(こくこく)」
 何かおれを過大評価してるっぽい玄徳様+軍師コンビには上目遣いで迫られ。
「全く、この期に及んで、まだ覚悟を決められないのか。精進が足りん証拠だ。良い機会だ、洛陽までの騎行で、たっぷりと精神力を鍛えてやろう」
「にゃはは、おにーちゃん、諦めるのだ。愛紗がああなったら逃げるのはとーっても難しいのだ」
 何故か関羽には怒られ、張飛には諭されてしまい、観念するしかなかった。


 かくして、洛陽までのデッドレースが幕を開けたのである。
 ――あくまでおれ限定のレースだったが。





■■





 天空に輝く月は、清浄な輝きを湛えて地上に黄金の光を投げかけている。
 いつもは夜空を彩る主役である星たちも、今宵ばかりは煌々たる満月の陰に隠れて、その輝きは朧にかすんでいた。
 だが、今。
 その月の輝きすら凌駕する光が地上に点る。
 星々を膝下にねじ伏せた月の輝きを一身に浴びて、軽やかに舞う1人の人物。
 その者の名は貂蝉。洛陽随一と名高い、踊り娘であった。


「月明星稀……月の輝きの前には、いつもは夜空に輝きを競う星たちも、ただ等しく頭を垂れるのみ。ああ、罪深きは月なのかしら。それとも、そんな月の光を浴びて、なお輝くわたしなのかしら?」


 躍動を止めた身体からは、滝のような汗が流れていく。その汗は、隆々と盛り上がった筋骨逞しい身体を伝って舞台に落ち、台上に小さな水溜りを形作っている。
 肉体美に満ちた身体を包む布地は極端に少なく、見るものはそのあまりの美しさに、知らず目をそらしてしまうだろう。あまりに美しきものは、時に人に畏敬の念をおぼえさせるものだから……
「誰?! 主観的な情景描写はほどほどにしろ、なんて言うのは?!」



「あら、おかしいわねえ、確かに声が聞こえた気がしたんだけど?」
 貂蝉が首を傾げつつ、身体の汗を拭き取っていると、入り口から貂蝉の今現在の主がやってきた。
「何を1人で騒いでおるのだ、貂蝉」
「あらん、王司徒、朝廷でのお勤めはもう終わったのかしら?」
「ふふ、そう簡単に終わるものではない。おそらく、この命が尽きるまで続くのであろうよ」
 王允はそう言いつつ、手に持っていた杯を掲げて見せた。
 それを見た貂蝉は一瞬、目を輝かせたが、すぐに何やら思い惑う様子を見せた。
「困ったわ、深夜の飲食は乙女にとって厳禁なのだけれど……けれど、主の頼みとあれば、仕方が無いとも思うわねん」
「……今宵は、少し昂ぶっておってな。貂蝉、酒の相手をしてもらえぬか?」
「ふふふ、主の頼みとあれば応えないわけにはいかないわ。お相手仕りましょう」


 王允の邸は、三公の1人とは思えぬほどにこじんまりとしたものだった。
 王允が司徒に任じられてから日が浅く、改築するなり新居を建てるなりする時間がなかった、ということもあるが、それ以前に、王允が自分の家に財貨を蓄えようとしないからという理由が大きい。
 自家を飾り立てるだけの金など、王允は持っておらず、また得ようともしていなかった。
 最初の杯を一気に呷ると、王允はしみじみと慨嘆した。
「……なんと美味いものよ。朝廷で飲む酒とは比べ物にならぬ」
「あらん、朝廷は山海の美酒と珍味で溢れているのではないの?」
「あるにはあるが、な。陰謀に明け暮れ、毒殺を警戒して飲む酒が美味いはずもなかろう」
 王允の顔に、苦い笑いが浮かぶ。自ら選んだ道とはいえ、魑魅魍魎の跋扈する宮中での遊泳は、老練な王允をもってしても容易なものではないのである。
「贅沢な悩みねえ。洛陽には食べる物も、着る物も奪われた者たちが溢れているというのに」
「……いたし方ない。時代の節目には戦乱が巻き起こるもの。高祖の創業、光武帝の中興、いずれも然り。そして戦乱が起これば、力なき民たちが犠牲になる。これは世の理であろう」
「そうね、それは哀しい哲理だわね。けれど、それを防ぐことこそ、朝廷の務めなのではないかしら?」


 互いに次々と杯を空けながらの会話である。
 貂蝉は元々酒豪であったが、王允は元来、そこまで酒を好まない。しかし、近年の自らの仕事に対する懊悩が、王允の手を酒杯に伸ばすのである。
「わしとて、出来るものならそうしたかった。朝廷が絶対の威令を保てていれば、万民を救済しうる政策も打ち出せたろう。だが、近年の朝廷と諸侯の関係では、それすらままならなかったのだ」
 王允は窓側に歩みより、月の光を浴びて輝く草木を見た。夜露が月光を反射しているのだろう。
「霊帝は愚昧な方であった。地位に伴う責任というものを理解できぬ御方であった。皇帝は、ただ皇帝として生まれたゆえに皇帝なのだと放言されるような方に、一体何を期待できようか。後漢王朝は斜陽の時を迎えつつある。だが、君臣の力をあわせれば、日没を伸ばすことも可能であるはずなのだ。だが、あの君では、全ての努力が無駄に終わってしまう……ッ!」
 王允はそういうと、杯を呷り、力任せに壁に向かって空の杯を叩き付ける。
 高価な玉杯は砕けることこそなかったが、貂蝉の目には、杯以外の何かが砕ける様が見て取れた。
「そんなあなたの前に、千載一遇の好機が訪れてしまったわけね……天も残酷なことをするわ。何事もなければ、あなたは滅びいく後漢王朝を支えた忠臣として、その名を残すことも出来たでしょうに」
「……名を残す、か。若い頃は、己が名を千載に残すことを夢見たものだが……まこと、ままならぬものだな、人生というのは」
 王允は、貂蝉に背を向けたまま、かすかに肩を震わせた。笑っているのか、それともそれ以外なのか。
 貂蝉は問わず、王允もまた語らなかった。


 貂蝉が、静かに口を開いた。
「――主よ。今1度、問わせてもらうわね。その歩みを止めるつもりはないかしら?」
「――答えは変わらぬ。父祖代々仕えて来た後漢王朝の滅亡を食い止めるためならば、わしはいかなる手段でも、断固として行う。後漢最後の忠臣として名を残すなどまっぴらだよ」
「そのためならば、罪のない女の子たちを生贄とすることも辞さず、洛陽に生きる100万の民衆を血と涙で染めることも厭わない。そういうのね?」
「……貂蝉、今は非常の時なのだ。非常の時には、非常の策が必要となる。高祖は国の基を定めるために、名将韓信を切り捨てた。光武帝は臣下を粛清することこそなかったが、郭皇后の存在が国の安定を損なうものとして、これを廃された。今、後漢王朝はまさに危急存亡の時である。犠牲なくして、何を得られようや」
 王允が口を閉ざすと、2人の間には沈黙が舞い降りた。
 互いの立場、性格、在り方があまりに違うゆえに、逆に2人は互いに友誼に似たものを感じるようになったのだが、その奇妙な縁も、そろそろ終端が近づいている。2人は、そのことを察していた。


「では――」
「ここまでのようだな――」
 貂蝉が卓から立ち上がる。王允は未だ窓の外を向いたままだ。
 互いに子供ではない。ことさら別れを告げることもないまま、貂蝉はしっかりとした足取りで部屋を出て行こうとする。
 だが。
「そういえば」
「――?」
 王允が、低い声を発した。
「連合軍は間もなく洛陽に現れる。我らはそれに先んじて長安に向かうが、董卓軍の主力を羽林軍に引き入れた今、例の2人は用済みとなった。ゆえに、あの2人は連合軍への餌として、宮廷に残されるであろう。あるいは、怒り狂った民衆の手によって断罪されるかもしれぬ」
 王允の突然の独白に、貂蝉は黙って耳を傾ける。
「……だが、妙な動きを見せている者もおってな。あるいはそれ以前に、危険が2人の身に迫るやもしれん。だからどうというわけではないのだが、な」
「――あら、別れいく友への餞別にしては、少し大きすぎるんじゃないかしら」
「なに、ただの気まぐれというものだ。わしの気がかわらぬうちに、さっさと持って帰るがいい」
「では、お言葉に甘えて。いずれ彼岸で会いましょう、後漢の司徒 王子師よ」
「うむ。さらばだ、奇態な踊り子 貂蝉よ」 









 数瞬の間の後、貂蝉の目が光を発したように見えた。
「……だーれが奇態にして奇怪な、世にも怪しげな怪人の如き踊り子ですって?!」
「誰もそこまで申しておらんわいッ!!」






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 洛陽炎上(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/16 23:38



 賈駆は苦々しい表情を隠そうともせず、眼前に立つ2人の将軍の顔を睨みつけた。
 1人は李確、字は稚然。
 1人は郭汜、字は阿多。
 いずれも董卓軍の有力な将帥として勇名を馳せる者たちであった。
 董卓軍における地位で言えば、この2人は呂布をも上回る。だが、賈駆はこの2人に地位に伴う権限を与えることはしなかった。董卓が君主になるや、2人を顕職に祭り上げ、一方で実質的な権力をそぎ落としていったのである。
 はじめこそ賈駆の思惑通り、高い地位に満足していた2人だったが、やがて賈駆の狙いを察し、反撃を試みる。だが、その時にはすでに実質的な軍権は2人の手のひらから零れ落ちており、政治や謀略の枢機に携わる機会も奪われた状態となっていた。


 それでも、彼らの影響力は侮れず、また賈駆や呂布、あるいは張遼といった女性を主力とする体制に不満を抱く男たちも少なくなかったことから、いつしか彼らはそういった不満分子の旗頭的立場となっていた。
 もちろん、賈駆は早い段階で彼らの追放を考えていたのだが、それを実行すると、今度は拠り所を失った不満分子たちを1つ1つ相手にしていかなければならなくなる。それはそれで面倒だと考えた賈駆は、2人を放置することで、逆に2人の周囲に反体制派の人間を集め、それを監視することで暴発を未然に防ごうとした。
 結果的に、その試みは奏功し、董卓軍は李確らから軍権を奪い、賈駆、呂布、張遼、華雄らを中心に優れた統制力を発揮して、中原の戦乱に挑む基礎を築くことができたのである。


 だが、董卓軍が躍進するほどに、その陰にいる者たちの不満は鬱積していった。
 その不満の中には、はっきりとした不安も存在する。このまま時を重ねれば、賈駆らが粛清を断行するのは目に見えていた。座して滅亡を待つことができないのであれば、なんとかして態勢を挽回しなければならない。そう思いつつ、しかし採るべき手段を持たなかった彼らに手を差し伸べた者がいたのである。
 それが、李儒であった。
 李儒の手をとれば、漢朝の皇帝直属部隊、羽林軍へと加わることができる。その指揮官ともなれば、もはや一豪族の家臣ではない。朝廷の重鎮となれるのである。
 李確らに、李儒の手を拒むという選択肢があるはずもなかった。


■■


「よくものこのことボクたちの前に顔を出せたものね、裏切り者ども」
 董卓が卓上の花瓶に水を注ぐのをぼんやりと眺めながら、今後のことに思いを馳せていた賈駆は、荒々しく室内に入ってきた2人の姿を見て、刺々しい声を発した。
 賈駆の罵声を受け、李確たちがたじろいだように顔を見合わせる。
 だが、今の互いの立場を思い出したのだろう。すぐに余裕を取り戻し、李確が嘲るように口許をゆがめた。
「今の我らは皇帝陛下の直属たる羽林の将帥であり、この洛陽を守る大任を与えられた身である。賈駆よ、そのような雑言が許されると思っているのか?」
 尊大ぶった彼らの物言いを聞き、賈駆はふっと呆れたようなため息を吐く。
「ふん、宮廷の狐どもに利用されているだけというのがわからないの? その浅はかさはいっそ哀れだわね」
「な、なんだと?」
「大方、李儒あたりにうまいこと言いくるめられたんでしょうけど、あの王允や張温たちが、おまえ達程度の将軍を重用すると思っているの? 適当に使い捨てられるのが落ちよ」
 郭汜の顔が憤激に歪む。
「どこまでも我らを愚弄するか、小娘が」
「愚弄されるようなことしかしないからでしょうが。ボクがおまえ達を重要な任務で使わなかったのは、何もおまえ達が信用できないからだけじゃない。おまえ達では任務を果たすことが出来ないとわかっていたからよ」
 賈駆は滑らかに舌を回転させながらも、視線を李確たちの後方、部屋の扉に据えていた。


 長安への遷都に伴い、多くの人員が宮廷から去りつつあることは、賈駆もとうに気がついていた。それでも賈駆が行動を起こさなかったのは、董卓を救出する目算が立たなかったこと。そして、何より董卓の皇帝殺しという汚名が表沙汰にされてしまうことを恐れたからであった。
 だが、王允たちは賈駆と董卓を同じ室内に閉じ込め、そして李儒に秘密を漏らしていた。その意味するところは明白で、もはや2人に利用価値を認めていないということ。その事実は図らずも李儒の口から語られている。
 王允たちが、董卓をどのように利用しようとしているのかはわからない。連合軍へ引き渡すかもしれないし、あるいは民衆に差し出すかもしれない。そのいずれにせよ、董卓が無事では済まないことは明らかだった。
 であれば、成功の確率は少なくても、ここから逃げだす以外に手はない。董卓と賈駆を一箇所に押し込めたことからして、2人がそう行動するように仕向けているようにも思えるが、だからといって萎縮していては助かる可能性を狭めるだけだった。


 だが、仮に宮廷から逃げ出せたとしても、どこへ逃げれば良いのか。
 今の董卓は、洛陽の民衆すべてを敵にまわしているといっても過言ではない。
 霊帝を救い、洛陽に入城した際、賈駆は密かに手を回して董卓の絵姿を配らせた。董卓の人気を磐石のものにする布石だったが、そのためにほとんどの洛陽市民は1度や2度は董卓の顔を見たことがあるだろう。
 長安遷都に伴い、民衆も混乱しているだろうが、だからといって、董卓を連れて歩きまわるような真似はできないのである。


 考えれば考えるほどに八方塞がりの状況だが、それでも座して死を待つことはできない。
 皮肉なことだが、李確と郭汜の訪れが、賈駆に最後の決断を下させた。
「演習においては呂布、張遼はもとより、突撃するしか能の無い華雄にすら歯が立たず、無様な戦ぶりを披露し続けたおまえ達を、将軍職から解かなかったのは、ひとえに月の思いやりよ。その恩を恩ともわきまえず、甘言に踊らされて主君に牙を剥くとは、身の程を知らぬにも程がある」
 露骨なまでの嘲笑に、李確たちの顔が朱に染まった。
「それは王允とてわかっているわ。徐栄の姿が見えないのはどうしてか、少しは想像力を働かせてみたらどう?」
「な、なに?」
 賈駆の指摘に、2将は慌てたように視線をかわしあった。
 李確らと同格であり、此度の件でも行動を共にした僚友は、王允らと共にすでに都を出て長安に向かっている。
 そのことに、特に疑問を覚えたりはしていなかったのだが。
「決まっているでしょう。将帥として、徐栄は少なくともあなた達よりは有能よ。王允は羽林の統帥は徐栄に委ね、無能なあなた達を捨石として洛陽に置いたのよ。どうせ洛陽は連合軍に占拠される。あなた達がそこから逃げ出そうが、討ち死にしようが、王允にとっては大した損失ではないのでしょう」
「ふ、ふん、偽言を弄して、我らを謀ろうとしても無駄だぞ。貴様の手口は良く知っているのだ」
「そう思うなら、思っていれば良い。主君を裏切った者の末路として、おまえ達の無様な死に様は永代に語り継がれるでしょう――哀れな道化として、ね」
 賈駆の冷笑が室内に高らかに響く。


 壮年の男2人が、一回り以上年若い娘に、こうまで悪し様に罵倒され、平静を保つのは難しい。ましてや、この2人では。 
『貴様、言わせておけば!』
 異口同音に言い放ち、腰間の剣に手を伸ばす2人。
 それと同時に、賈駆の手が卓上に置いてあった花瓶に伸び、李確の顔めがけて、思い切り投じる。
 陶器の割れる乾いた音が室内に響き、李確は呻きながら床に片膝をつく。額を押さえる右手の隙間からは真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。
「小娘ェッ!」
 それを見て激昂した郭汜が、賈駆に向けて剣を構える。
 郭汜は将帥としては無能であったが、剣を扱えば一般兵並の実力は持っている。対して、賈駆には武芸の素養はない。一対一で向かい合えば、賈駆に勝ち目はなかった。
「嬲り殺しにしてやるぞ、小娘! ひれ伏して我らに許しを請わせてや………がッ?!」
 歯をむき出して賈駆を罵っていた郭汜が急に言葉を途切れさせた。
 ぱりん、という奇妙に乾いた音は、董卓が持っていた水差しが割れた音であった。
 ――こっそりと郭汜の背後に回った董卓が、郭汜の頭に思い切り水差しをたたきつけたのである。


「ゆ、月……?」
 賈駆が半ば呆然としながら董卓を見る。
 完全に白目を向いて気を失った郭汜の姿を見下ろしながら、董卓は今さらながらに恐怖で身体を振るわせつつ、意外にしっかりとした調子で口を開いた。
「詠ちゃんにひどいことするなんて、許さないんだから」
「……あー」
 珍しく、心底から怒っている董卓を見て、賈駆はあちゃーという感じで顔を押さえた。こうなると、董卓は怖いのである。
 だが。
「貴様らァ!!」
 そんなことをしている暇はなかった。立ち上がった李確が剣を構えつつ、扉に向けて大声で呼びかけたのである。
「兵ども、何をしている! 早く、この女どもを捕らえろ!!」
「――ちッ!」
 賈駆は舌打ちしつつ、董卓の手をとって駆け出した。室外の兵士たちは、李確の怒号に慌てながら部屋に飛び込んでくるはず。なんとかそれをかわして、後はもう、逃げ切れるところまで逃げ切るしかない。
 そう考えた賈駆の前に、1人の人物が立ちはだかった。
 慌てた様子もなく、ゆったりと、どこか律動的な歩調で現れたその人物を見て、賈駆は思わず息を飲む。
「――なあ?!」
 その賈駆の傍らでは、董卓が小さく悲鳴をあげた。
「ひッ?!」


 それもいたし方ないこと。
 誰がこの状況で、筋骨逞しい裸体同然の男が入ってくると予想できようか。


 李確もまた、賈駆たちと同じように呆然としていたが、すぐに我に返って詰問する。
「き、貴様、何者だ?! 表にいた兵士たちはどうした?!」
「兵士たちなら、みんなおねんねしてるわよん」
「な、なに?!」
「少し運動不足だったようだから、良い運動になったでしょうね」
「な……」
 今度こそ。
 李確は呆然として声も出なかった。
 李確と郭汜が連れてきたのは、特別に選抜した精鋭10名である。董卓や賈駆に備えて、というわけではない。宮廷を歩く際、2人は常に兵士たちに護衛させているのである。
 その兵士たちが全員倒れたというのか。室内には、それらしい物音は響いてこなかった。つまり、それだけ速やかに制圧されてしまったことになる。
 目の前の奇怪な男、たった一人によって。
 李確は呻くように口を開く。
「……何者だ、貴様?」
「問われて名乗るもおこがましいけれど、2度まで問われれば答えざるを得ないわねん。あなたの足元に無残に散らばった花の声が、私を呼んだものと思いなさい」
 男は先刻、賈駆が投げつけて散らばった花を指しながら、誇り高く名乗りを挙げる。


「花の悲鳴が我を呼ぶ。無垢なる心が我を呼ぶ。絆を守るは我にあり、未来を護るは我にあり! 華の都の一輪花、踊り子貂蝉、ここに見参よぉんッ!」


 名乗りと共に吹き荒れる闘志だか何だかわからないものにあてられ、董卓の身体がぐらりと揺れる。
「……………ふぅ」
「わ、わ?! ゆ、月、しっかりして!」
「緊張の糸が切れたのでしょう、そっとしておいておあげなさい」
「絶対違う! あんたのせいよ!!」
「あら、私の美しさに見蕩れてしまったというの? ああ、花も恥らう美しさは、人の心をすら虜にしてしまうものなのねん」
「ああ、もう! 言いたいことがありすぎて、どれから言ったらいいのかわからないわよッ!!」
 賈駆が現在の状況も忘れて叫ぶ。
「そうね。今はのんびりとお話している場合じゃないわね」
 貂蝉はそう言うと、目立たないようにこの場から逃亡しようとしていた李確に鋭い視線を放つ。
「ヒィッ、ば、化け物?!」
 幾たびも戦場を経験したはずの李確が、思わず悲鳴をあげてしまうほどの、それは殺気だった。
 恥も外聞もなく、李確は貂蝉に背を向けて走り出す――が。
「だーれが、化け物といえば貂蝉、貂蝉といえば化け物、まさしく化け物の中の化け物、すなわち化け物王ですってーー?!」
 かろうじて扉を駆け抜けた李確。それを追って貂蝉も扉の外に姿を消す。だが、信じがたい速度で走る貂蝉に、たちまち李確は捕まってしまったらしい。賈駆の耳に、魂が飛び散るような悲鳴が聞こえてきた。


 その声を呆然と聞きながら、賈駆は小さく呟く。
「……いや、誰もそこまで言ってないし……」

 
■■


 後漢の帝都、華の都洛陽。
 その城門が大きく開け放たれたのを見て、公孫賛軍の将兵は驚きの表情を隠せなかった。
 それはそうだろう。洛陽は漢の都であり、同時に敵の拠点でもある。その拠点が、こうも容易く開城するとは誰も考えていなかったのである。
 だが、その中にあって、おれは1人、無感動に地面に座り込んでいた。許されるならば、今すぐこの場で眠ってしまいたいくらいである。
 公孫賛軍がここに至るまで、無論、幾度もの危機があった。
 道中、董卓軍の残党とばったり出会ったり、同じく一番乗りを目指す袁術軍、劉焉軍の妨害を受けたり、それはもう色々と。
 だが、そこは割愛する。
 ――何故ならば。
 密着した関羽の身体の柔らかい感触とか、風にたなびく髪から薫る芳香とか、そういった物が原因で湧き出る煩悩を抑えるのに忙しく、道中のことなんかほとんど覚えていないのです。それどころじゃなかったのです、いやほんとに。
「おーい、おにーちゃん、生きてるかー?」
 張飛がおれの眼前で手をひらひらと振っているが、それに答える余裕もない。
「全く、この程度で顔を青くしていてどうする。男ならもっとしゃきっとせんか、しゃきっと」
 関羽が容赦なく死者に鞭打ってくる。いや、男だから余計きつかったんですけどね、関羽さん。全然自覚ないようですが。
 色々な意味で、しばらく夢に出そうな経験をさせてもらったおれだった。


 まあ、董卓軍は少数だったから、近づく前に向こうが勝手に避けてくれた。
 袁術軍、劉焉軍にしても、おれたちが劉家軍として行動していたなら、武力を使ってでも止めてきただろうが、同じ諸侯連合の公孫賛相手では、そうもいかなかったようだ。ついでに、歩兵主体の連中の軍が、騎馬のみで編成されたおれたちに、足でかなうはずもない。
 かくて、公孫賛の軍は、諸侯連合の中で最も早く洛陽にたどり着くことができたのである。
 そして、一応、念のためにと放った降伏勧告の使者に対して、なんと相手は城門を開くという解答を送って寄越した。
 諸葛亮が、鋭い視線を城門に向けている。相手の策略を洞察せんとする軍師の顔だった。
「……敵を前にして、都の城門を開くなんて、普通では考えられません。まして、今の私たちはわずか数千、城門を閉ざせば守り抜くことは容易いはず……あれは?」
 喋っている途中で、諸葛亮が不思議そうに首をかしげた。
 何事か、と思ってその視線の先を見ると、洛陽の城内から、白旗を掲げた一団が出てくるところだった。
 董卓の軍使、あるいは朝廷の使者――というわけではないようだった。近づいてくる一団は、皆、見るからに貧しい身なりをした者たちだったからだ。良く見れば、振っている旗もぼろきれを縫い合わせた代物である。
「……どうなってるんだろ?」
 玄徳様の呟きは、まさしくおれたち全員の疑問であった。
 その疑問に答えるように、一団の中から2人の人物が現れ、こちらに向かってゆっくりと進み出てきた。
 見るからに温雅な容貌の男性と、質素な身なりながら麗質を感じさせる女性。似た雰囲気からして、あるいは父娘なのかもしれない。
 その2人は臆する様子もなく、公孫賛の陣営に足を踏み入れてきた。


■■


「ちょ、長安へ逃げただあ?! 洛陽を捨ててかッ?!」
 公孫賛の驚きの声が天幕の中に響いた。
 その驚きはその場にいた全員が共有するものだった。
 なんと、董卓軍――いや、王司徒や張司空たちは洛陽を捨てて、一路、長安を目指しているのだという。洛陽の民衆、特に豪商などの富裕層は強制的に連行されてしまったらしい。
 現在の洛陽を任されているのは董卓軍の李確、郭汜の2将であるが、彼らは最早、統治という形さえとろうとはしなかった。民衆をただ収奪の対象としてしか見ない彼らのやり方に、これまで董卓軍の横暴に耐えて来た洛陽の民衆も、ついに忍耐の限界に達しようとしていた。
 ところがつい先日のこと。
 その董卓軍の2将が、裸同然の格好で、縄でがんじがらめにされて、都大路に晒されているのが発見された。李確、郭汜共に死んではいなかったが、その目は虚ろであり、気力も体力も尽き果てた状態であったという。
 はじめ、呆然とその姿を見ていた市民だったが、やがて彼らはこれまでの董卓軍の蛮行を思い起こし、怒りの声を挙げて報復の挙に出ようとしたのである。
 王允らに強引に連れ出されたとはいえ、未だ、洛陽には数十万の民衆が起居している。彼らが一斉に決起すれば、残留した董卓軍が武力をもって押しとどめようとしても、不可能であったろう。
 だが、一度、反乱を起こしてしまえば、後はもう互いが互いを殺しつくすまで事は終わらない。最終的には民衆が勝利するが、そこに至るまで、兵士、民衆を問わず、一体どれだけの人の血が流れることになるかは誰にもわからなかった。
 もし。
 この時、その事態を憂慮した一組の父娘が立ち上がらなければ、洛陽は血で血を洗う惨劇の巷と化していたであろう。
 父の名は蔡邑(さいよう)、娘の名は蔡文姫。
 すなわち、今、まさにおれたちの前にいる父娘のことである。


■■

 
 蔡邑は、元々、霊帝に仕える漢朝の臣であったが、清廉な性格と仕事ぶりが宦官や高官たちに疎まれ、追放同然の形で野に下った文士であった。
 その娘である蔡文姫もまた優れた才能を持ち、才女の誉れも高い。蔡氏の父娘といえば、知る人ぞ知る洛陽の名士であった。
 王允は1度、蔡邑に対して新帝に仕えるよう説くために、自ら蔡氏邸を訪れたことがある。新帝に仕えるならば、高い地位を確約すると言ったのだが、蔡邑は、あっさりこれを謝絶した。
 その一事が、仕官を薦めたことに留まらず、自分の行動全てに対する蔡邑の返事と悟った王允は、以後、2度と蔡邑の下へ赴こうとはしなかったのである。


 そのように名利を求めようとしない蔡邑だったが、決して隠者になったわけではない。ことに朝臣たちの策略によって苦しみ喘ぐ民衆を見るのは耐え難いものだった。
 とはいえ、蔡邑個人に武力はなく、王允たちの行動を阻止するだけの権謀の才もない。
 心中の焦慮を押し隠し、自らが為せることが何なのかを、冷静に探し続けていた蔡邑は、ついにそれを見出す。
「なるほど、それが今回の出来事、というわけか」
 公孫賛の声に、蔡邑はゆっくりと首を縦に振った。
「御意。洛陽は連合軍の支配下に入りましょう。その代わり、略奪暴行には厳罰を以って処して頂きたい」
「……ご存知だと思うが、諸侯連合とはいっても、所詮は寄せ集まりの集団に過ぎない。諸侯すべてに命令を下す権利は私にはなく、そして、仮に総大将たる袁紹がそれを命じたところで、その命令が守られる保障はないぞ」
 それに応えたのは、蔡邑ではなく、娘の祭文姫であった。
「もし、約定が守られぬならば、洛陽の民は今度こそ立ち上がるでしょう。董卓軍を追討した正義の軍は、洛陽を荒廃せしめた悪逆の軍に転じまする。諸侯の中には、それがわかる方々もおられましょうし、またそれがわからぬ者たちを押さえるだけの力もありましょう」 
 蔡邑と蔡文姫の声は、不安による揺らぎがない。
 穏やかでありながら、凛とした芯を感じさせるものであり、この父にしてこの娘ありか、と聞く者たちに思わせた。


 公孫賛の考える時間は短かった。
「――玄徳」
「なに、伯珪?」
「お前は、配下の将兵を連れて、蔡邑殿らと共に洛陽へ入ってくれ。私は袁紹へ使者を出し……いや、私みずから行った方が良いな。袁紹を説き伏せ、洛陽での軍律を徹底させる。その答えが出るまでは、いかなる軍も城内に入らないよう、後から来る袁術や劉焉たちにも使者を出しておこう」
「……うん、わかった。でも、無理やり入ってこようとしたら、どうしようか?」
「私の部隊はほとんどここに残しておくよ。指揮は、そうだな、越にでも任せるか。まさか後続の連中も、味方の軍を蹴散らして通ろうとはしないだろう。蔡邑殿、四方の城門はまだ閉じてあるのか?」
「はい。開門したのは、こちらのみです」
「ならば、連中がそちらに回っても時間は稼げるだろう。いずれにせよ、袁紹の奴を説くのに、それほど時間はかからないだろうけどな」
 公孫賛はそう言うや、早速立ち上がり、部下たちに指示を飛ばした。


「じゃあ、私たちも急ごう」
 玄徳様に促され、劉家軍の一行はそれぞれ頷いた。
 蔡父娘は、明らかに公孫賛軍とは異なるおれたちの様子に戸惑っていたようだが、玄徳様や関羽らを見て、その人柄を察したのだろう。問い詰めてくるようなことはしなかった。


■■


 かくて、おれたちは、予想だにせぬ形で洛陽城内に入ることになる。
 蔡邑たちと共に城内に入ると、不安と緊張を隠せない様子の民衆に取り囲まれた。
 彼らに向かって、蔡邑が例の如く穏やかに状況を説明し、その不安を取り払っていく。普段であれば感心して、その様子を眺めるところなのだが、今のおれたちはそれよりも優先すべき事があった。
 王允たちが去り、李確らの部隊が武装解除された今、宮廷はほとんど無人と化しているという。
 そこに董卓がいるという確証はなかったが、蔡邑らによれば、少なくとも洛陽を出る董卓の姿は目撃されていないという。
 であれば、まだ洛陽城内にいる可能性は高い。そして、董卓軍のこれまでの行動を顧みるに、市中にその身を潜めることはほとんど不可能と言って良いだろう。
 1番可能性の高いのは、宮中なのである。あるいは、王允たちによって密かに連れ出されている可能性もあるが、それは今からでは確かめようもないことだった。
 おれたちは蔡父娘にも協力してもらい、董卓の姿を捜し求めたが、結局、その姿を見つけることは出来なかった。
 李確らにも尋問しようとしたのだが、未だに2将は自失状態から脱しきれておらず、その護衛であった兵士たちも、昏睡から目覚める様子がない。何やら、時折、悲鳴にも似た呻きをあげているところからして、よほど恐ろしい目に会ったのではないかと思われた。
 もっとも、彼らは宮中で倒れており、そんなに常軌を逸するようなものがあるとは考えられなかったのだが……



 結局、董卓の捜索は不調に終わったが、一方で公孫賛の奔走は正しく実を結ぶ結果となった。
 公孫賛に説かれた袁紹は洛陽における軍律の徹底を諸侯に通達。これに反する者は袁家の全軍を挙げて討つ、との布告が為され、これによって洛陽での袁紹の人気は大いに高まり、洛陽に入城した袁紹の高笑いを誘発することになる。その隣では、ほっと安堵の息を吐く公孫賛の姿があったのだが、袁紹はそれに気づいていなかった。
 袁紹に続いて洛陽に入城した馬騰、陶謙、劉焉らの諸侯も、袁紹の布告に賛同の意を表し、ここに洛陽は董卓軍進駐以後の苛政から、ようやく解放されたかに見えた。
 いつ連合軍による侵略が始まるか、と密かに怯えていた洛陽の民衆たちは歓喜を爆発させた。彼らは董卓軍が残していった物資から、次々に酒や糧食を引っ張り出し、洛陽全体がお祭り騒ぎに包まれていく。連合軍の将兵も巻き込んだその騒ぎは、月が中天に輝く時刻になっても衰えることはなかった。





 解放の喜びに浮かれ騒ぐ人々は、気づかない。
 家々の狭間から。ほの暗い路地裏から。そして天幕の影から。
 喜びに浸る人々を、冷たく見据える者たちの存在に。
 解放された帝都のざわめきは未だ静まらず――洛陽は、奇妙な騒がしさの中にあった。
 






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 洛陽炎上(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/01/24 23:26





 圧政からの解放に浮かれ騒ぐ洛陽の民衆と、予期せぬ無血開城に喜びを露にする連合軍。
 両者の宴は夜が更けてもなお終わる様子を見せなかった。
 董卓軍の襲撃を懸念する声もないわけではなかったが、周辺に放たれた斥候は董卓軍の影さえ捉えることができず、敵は遠く長安へ去り、洛陽を完全に放棄したものと思われたのである。


 勝利を手にした連合軍であったが、敵の首魁である董卓は捕らえられず、また新帝も長安へ連れ去られてしまった為、今後、連合軍をどこまで進めさせるかという問題に直面することになる。
 実はこの時、すでに連合軍内には不協和音が生じ始めていた。
 連合の発起人である曹操が別行動をとっていたのである。
 董卓軍の洛陽放棄が決定的となった段階で、曹操は董卓軍の追撃を主張、しかし、袁紹はじめ他の諸侯は、連戦での将兵の疲れを癒す意味でも洛陽への入城を優先すべし、とこれに反対した。
 馬騰は曹操に同調する素振りを見せたのだが、最終的には洛陽の民心を安定させるために、一時、追撃を断念し、洛陽への入城を選択する。
 孫堅は袁術の意向に沿って、城外で待機となった。いつ董卓軍が再来するかわからないので、という城外待機の名目は誰が見ても孫堅軍の功績を妬んだ故のものであったが、孫堅は不満も見せずにそれに従ったのである。
 曹操は連合軍の決定を受けて、自軍のみでの追撃を選択、洛陽には入らずに西方、函谷関を目指して軍を進ませている最中であった。


■■


 ともすれば閉じそうになる瞼をもみほぐしつつ、おれは視線を上に向けた。
 降るような星空、とでも表現すべきか。深闇に染まった空のキャンバスに、所狭しと星たちが瞬き、輝きを競う光景は、日本では高山の展望台にでもいかなければ、お目にかかれないものであった。
 視線を地上に転じれば、酔いつぶれたり、あるいはまだまだ夜はこれからだー、と気炎を上げている兵士たちの姿が見て取れる。おれたちに遅れて到着した劉家軍の兵士たちである。
 劉家軍が駐留しているこのあたりは、先日までは董卓軍の洛陽警備のための詰め所の1つであったらしい。蔡邑の案内でおれたちはこの場所に腰を落ち着け、戦の疲れを癒しているわけである。


 玄徳様たちは、蔡邑の邸に招かれ、酒食を共にしている。
 短い時間ながら、お互いに相手の人柄に感じる部分があったのか、蔡父娘と玄徳様たちはずいぶんと打ち解けた様子であった。
 その席にはおれも招かれはしたのだが、野に下ったとはいえ、名士である蔡邑や、蔡文姫らの邸とあって、礼儀作法に疎いおれは遠慮することにした。下手なことをすれば、おれだけでなく、劉家軍の品位そのものが疑われてしまう。
 それにくわえて、酒に酔った兵士たちが羽目を外さないように見張るという意味もあった。宴には、周囲の住民たちも多く参加している。まかり間違って、彼らや他軍の兵士と諍いなど起こされた日には、劉家軍の評判は地に落ちる。折角、関羽や張飛が呂布の突進を受け止めたことで、玄徳様たちの名は諸侯の間にも知れ渡ってきたのだから、余計な傷をつけるわけにはいかなかった。
 玄徳様たちは、自分たちも、と言ったのだが、さすがに玄徳様や関羽らがいると、兵士たちも心から騒ぐというわけにはいかないだろうから、そこはご遠慮いただくことにした。


 そんなわけで、楽しく飲み騒ぐ兵士たちを他所に、おれは極力、酒には手を伸ばさなかった。もっとも、未成年であるおれが、この年で酒の美味さを知っているはずもなく、それは大して苦にならなかったが。
 各処に目を配り、行き過ぎた騒ぎにはさりげなく釘をさしておく。酔っ払いの扱いなど知らないが、こと劉家軍に関して言えば簡単だ、耳元でこういえば良いのである。
「あまり騒ぎすぎると、関将軍呼んでくるぞ」
 どれほど酔っていようとも、その効果は等しく同じ。冷水をかけられた――というより、氷の浮かぶ風呂に叩き込まれたように、誰も彼も平静に戻っていく様は、いっそ見事なほどであった。
「さすがは劉家軍の鬼教官、見事なもんだ」
 決して本人には聞かせられない呟きをもらしつつ、おれは手近の料理を手にとった。料理といっても、肉を串にさして焼いただけの代物だが、それだけで十分に美味い。
 終わらない騒ぎに苦笑いをもらしつつ、さてもう少しの辛抱だ、とあたりを見回した時。


 おれは、そいつに気がついた。





 その男は、ごく自然な感じで周囲の兵士たちと談笑していた。着ている衣服を見るに、このあたりの住人なのだろう。武具も帯びず、着ている服も粗末なものであった。酒や料理に意識を向けていたのなら、おそらく何も気づかなかったであろう。それだけ自然な様子だったのである。
 だが、おれはそいつの姿にかすかに違和感を覚えた。
 どこがどう、というわけではない。強いて言うなら、あまりにも自然すぎるとでも言おうか。
 あたりには他の住民もいるし、他軍の兵士たちもいるが、やはり彼らはそれぞれの集団にまとまりがちである。酒に酔った者はその限りではなかったが、男の顔色を見る限り、酔っている様子はない。
 無論、社交性に富んだ性格なだけかもしれないが、少し気になったおれは、その男にしばらくの間、観察の視線をはしらせた。


 そうして気がついたのは、男が話しかけるのは、決まって隊長格の人間や、あるいは酒に酔っていない人間に限られるということだった。彼らを囃し立てたり、あるいは周囲の人間を使って煽ったりしながら、次々と酔わせては、また次の人物へ、という具合に動き回っているのだ。
 そのあまりの手際の良さに、おれは一瞬、背筋に悪寒が走るのを感じた。
 性格の為せるわざ? 否、あれはそんな生易しいものではない。
 おれの見ている前で、男は先刻のおれのように空を見上げ、そして月の位置を確かめている様子だった。その後、男が何気ない様子で、この場を離れ、蔡邑邸の方角に向かうのを見た時、おれは無意識のうちに駆け出していた。


■■


 男はさして急いでいる様子には見えないが、集まった人たちの間を影のようにするすると通り抜けていく。あちこちでぶつかりながら進むおれとの差は開く一方で、気がつけば、その姿を見失ってしまっていた。
 方角的には蔡邑邸に向かっている様子だったが、このまま押しかけて良いものか、とおれが思案していると、不意に前方の暗がりから声が聞こえてきた。
「あれ、一刀さん?」
 そう言って姿を現したのは、誰あろう玄徳様だった。隣には関羽と張飛が控え、玄徳様に危害を加える者がいないか、あたりに視線をはしらせている……と言いたいところだったが、張飛に関しては両手一杯に抱えきれないご馳走を抱え、ひっきりなしにそれを口許に放り込んでいるから、警戒とは無縁の心境かもしれない。
「ちょうど良かった。お勤めご苦労様。私たちが代わるから、一刀さんも宴を楽しんできて……って、どうかしたの、何か慌てているみたいだけど?」
 少し息を切らしているおれの様子に気づいた玄徳様が不思議そうに首をかしげた。
 その言葉から察するに、どうやら玄徳様たちはおれに会いに来る途中だったらしい。


 ちょうど良い、と思っておれは3人に訊ねてみることにした。
 今、こちらから向かってきた人に会わなかったか、との問いに、玄徳様たちは一様に不思議そうな顔をしながら、誰もこちらには来ていない、と答えてくれた。
 その答えに、おれは内心ほっとした。
 下手をすれば、玄徳様たちの命を狙う曲者か、と考えていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 そんなおれの様子に、ますます不思議そうな顔をする玄徳様たち。
 関羽が訝しげに口を開いた。
「北郷殿、何かあったのか? まさか兵たちが何か問題でも」
「い、いえ、そういうことではないんです。ただ、少し気になる人がいたもので……」
 怪しい人物とはいえ、具体的な証拠は何も無く、いわばおれの勘だ。そのため、おれは曖昧な物言いをせざるを得なかったのだが、どうやら関羽は違う意味にとってしまったらしい。
「……ほう。洛陽まで来て好みの女子を探すとは、見上げた心意気だな」
「……は?」
 何故だか刺々しい反応をされてしまった。
 言葉の意味がわからず、一瞬、ぽかんとしてしまうおれ。
 のみならず、玄徳様まで、何やらつまらなそうな顔をしつつ、会話に参加してきた。
「あのね、一刀さん。決して止めろといってるわけじゃないんだけど、そういうことは今は控えた方が良いと思うの。女の子にお酌してほしいなら、私に言ってもらえば……」
「……酌? えっと、玄徳様、一体何を……?」
「え? 好みの子がいたから、お酌してもらおうと探してたんじゃないの?」
「………………おいこら」
 ようやく相手の言いたいことを察して、おれは思わず無礼なことを口走ってしまった。幸い、小声だったので、玄徳様たちの耳には聞こえなかったようだ。やれやれ。


 知らず、深いため息を吐いたおれは、玄徳様たちにさっきの男のことを知らせようと口を開きかけた。
 その視界の隅を。
「ッ?!」
 今まさに口にしようとしていた男が横切っていく。
 このあたりは、蔡邑の邸があることからもわかるとおり、洛陽の中でも富裕であったり、名声を持っている者たちの邸宅が多く集まっている区画である。
 だが、王允らの強制移住によって、そういった人々は強引に長安へ連れ去られており、空き家となっている邸宅が幾つも見受けられるのだが、男が入っていったのは、そういった家の1つであろうと思われた。
 今やおれの中の嫌な予感は、物理的な圧迫感さえ伴って、脳内に警戒警報を鳴り響かせている。おれは玄徳様たちへの説明も忘れ、男が入っていった邸宅へ向かって走り出していた。


「あ、逃げたのだ」
「うん、逃げたね――でも、何か様子が変だったけど?」
「そうですね……追いましょう、確かに桃香様の仰るとおり、様子が妙でした」
「了解なのだ!」
 その背後では、いまいち事態を把握しきれていない玄徳様たちが何やら話し合っていたが、おれのただならぬ様子が気になったのか、すぐにこちらに向けて駆け出していた。
 彼女らの背後で騒々しい音が響いたのは、張飛が持っていた料理の皿を投げ出したからである。もっとも、最後の食べかけの皿1つだけは、しっかりと手に抱えていたりするのだが。


■■


「――風も出てきた。そろそろ良い頃合か」
 男は小さく呟くと、懐から火打石を取り出すと、邸内にあらかじめ用意していた仕掛けに火を投じようとする。
 全て計算どおりに事は進み、後は最後の段階を踏むのみである。
「……200年の長きにわたって漢の帝都として栄えてきた洛陽を滅ぼす、か。その悪名は千載に残るであろうが、それもまた天の命ずるところだ――」
 奇妙に低い笑い声を漏らした男は、背後の人間に口を開く。
「そうは思わぬか、おぬし?」
 背後の人間――つまり、おれに向かって。


■■


 奇襲の隙を窺っていたおれは、相手のひと言で、すでに勘付かれていたことを知り、男の前に姿を見せた。
「さきほどから、私の後をうろうろしていたのは貴様か。どうやら連合軍の将兵らしいが、どこの軍だ?」
「――どこでも良いだろう。確かなのは、あんたの敵だってことだ」
 おれはすでに鞘から剣を抜き放っている。
 男は文官風の長衣をまとっており、武に秀でた様子は感じられない。となれば、余計な会話で時間稼ぎなどさせない。おどりかかって、一撃の下に倒し、しかる後に何のために行動していたのかを問い詰めれば良い。
 そんなおれの意図を察したのか、男はわずかに目を細めると、懐に手を差し入れる。
 おそらく、そこには懐剣が仕舞われているのだろうが、関羽の猛訓練に耐え抜いたおれにとって、その程度、脅威でも何でもない――と言いたいところだったが。
「……ッ!」
 無意識のうちに、おれは男から距離をとっていた。
 その一瞬の躊躇が何によるものか、おれ自身にもはっきりとはわからない。向かい合った相手が、容易ならぬことを企んでいることは、その台詞や行動から明らかであり、ここでためらえば悔いを残すことになることは瞭然としていたのだが――いざ、斬りかかろうとした時、おれの身体は、己が意志を裏切って後ずさっていたのである。
 そして、それは眼前の男にとって、願ってもない隙を生じさせていた。


 一瞬。おれの視界の中で、、男の手元が小さく煌く。
 それは、男が隠し持っていた懐剣が灯火を反射したものであった。
 おれがそれと悟った時、男が投じた懐剣は、まっすぐにおれの喉許に吸い込まれる寸前であった。
「ッく?!」
 慌てて避けようと身体をひねるが、頭のどこか冷静な部分が、その行動が間に合わないことを教えていた。
 今は戦乱の世。そしてここは占領間もない敵の本拠地である。こんな危険が待っていることは十分予期できたはずなのだが、これまで無事に過ごせていたせいか、どこかで現実を甘く見ていたのかもしれない。
 数奇な体験をしている最中とはいえ、おれは物語の主人公ではない。油断をすれば、すぐに死の顎が自分の身体を掴みとることは、黄巾賊に捕らえられた際に骨身に染みた。ロードもコンティニューも出来ない以上、油断も躊躇もしてはならないと、肝に銘じていた筈なのに……
「――つまりは自業自得ということか」
 迫り来る刃を前に、おれは妙に冷静にそんなことを考えていた。





 静まりかえった邸内に、澄んだ金属音が響き渡る。
 おれの命を奪う筈だった懐剣が、張飛が持っていた皿と空中でぶつかりあい、皿が弾けた際に生じた音であった。
 突然の出来事に目を丸くしたおれの耳に、3つの声が次々と飛び込んできた。
「か、一刀さん、大丈夫?!」
「おのれ、何者か、貴様?!」
「お兄ちゃん、鈴々たちが来たからには安心するのだ!」
 言わずとしれた玄徳様たちだった。
 だが、礼を言うのは後回しだ。今は眼前の男を捕まえなければならない。
 玄徳様たちの姿を見て、男は警戒しつつ後ずさる。その手が不穏な動きをするのを見て、おれは咄嗟に声をあげかけた。
「気をつけてください、この男は――」
 何かしようとしている、と言いかけたのだが。
「ぐああッ!」
 どすん、と。
 疾風のごとく踏み込んだ関羽が放った槍のような中段蹴りに、男は文字通り吹っ飛んだ。躊躇も容赦もない神速の一撃。そのまま壁に叩きつけられ、床面に倒れふした男の姿を見て、おれは思わず「……あれ?」と呟いていた。

 
■■


 張飛に呼ばれ、駆けつけてきた諸葛亮と鳳統は、邸内の仕掛けを見て息を飲んだ。
「……これは、火を付ける仕掛けです」
「……それも、時を置いて、発動するカラクリが施されてます。ここにある油の量からして、この邸くらいなら、あっという間に炎に包まれてしまうでしょう」
 それを聞いたおれたちは、2人と同じように息を飲む。
 一般の居住区ほどではないにせよ、このあたりは家々が密集している区画である。もし火が放たれていれば、あるいは大火となってしまった可能性もあった。


 おれたちの視線は、縛り上げられた男に向けられる。
 秀麗と形容できる容姿の持ち主なのだが、底光りのする暗い眼光が、その長所を帳消しにしてしまっている。
 男はすでに意識は取り戻していたが、先刻から薄笑いを浮かべたまま、こちらの質問には何一つ答えようとしない。
「貴様、董卓軍の残党か?! 言え、何故洛陽に火を放とうとした?!」 
 関羽が、何度目になるかわからない問いを向けるが、男はあざ笑うように口許を歪めただけであった。
「――ッ! 事破れたにも関わらず、見苦しく足掻いた挙句、無辜の民にまで被害を与えようとするとは許しがたい。ここでその首、はねてやっても良いのだぞ」
 押し殺した怒りがにじみ出るかのような関羽の声。
 それを聞き、はじめて男の顔に嘲笑以外の表情が浮かんだ。浮かびあがったのは、歓喜。
「……事破れた? くく、面白いことを言う」
「――ほう。ようやく口を開いたか。さすがに死は恐れると見える」
「私はこのような場所では死なぬよ。天命は我にあるゆえに」
 天命、という言葉を聞き、関羽の顔がかすかに強張る。男の不遜な物言いに怒りを覚えたこともあろうし、あるいは先日の曹操のことを思い起こしたのかもしれない。
「己に自信がないから、天にすがり、天に頼ろうなどと考えるのだ。己が道をまっすぐに歩いていれば、天の命など意に介する必要はない」
「野蛮な物言いよな。もっとも、貴様らのごとき下民には、それが相応というもの。天の声を知らぬ貴様らに、私の崇高な使命が理解できる筈もないわ」
 男が吐き捨てる言葉を聞き、関羽の顔が怒りに朱く染まった。





 尋問の様子を眺めながら、おれは奇妙な焦燥感に駆り立てられていた。
 ついさきほどまで、貝のように口を閉ざしていた男が、何故こうも饒舌に喋りたてているのか。
 先刻からおれの胸中にわだかまっている不安感はどこから来るものなのか。
 不審な行動をしていた男を捕らえた以上、案ずる必要はない筈なのに、焦燥感は一向に静まる様子がない。
 まるで――取り返しのつかない事態が、今まさに起こっている最中なのだと、誰かがおれに訴えかけているかのような、それは感覚であった。
 そして。
 1人の人物がその場に飛び込んできたことで、その感覚が間違いではなかったことを、おれは知った。
「……桃香様! 大変でございますぞ!」
「憲和? ど、どうしたの、血相を変えて」
 玄徳様の言うとおり、簡擁はこれまで見たこともないほどに慌てた様子を見せている。
「放火です!」
「え、でも、ここに捕まえて……」
 簡擁の言葉に、玄徳様が戸惑ったように、縛り上げた男を見る。
 男は相も変わらず薄笑いを浮かべたままだ。
 簡擁はそんな男に一瞥をくれると、すぐに報告を続けた。
「この男だけではありませぬ! 城内のそこかしこから、すでにいくつもの炎が上がっております。火の勢いはいずれも強く、風に乗って燃え広がりつつありまする! こ、このままでは、洛陽全体を包む大火となる恐れがございます!!」
『なッ?!』
 簡擁の報告に、おれたちの驚愕の声が重なった。 





 考えてみれば。
 放火の企みがあったとして、実行犯が目の前の男1人だけだとは限らない。
 月の位置で時刻を確認していたのは、あらかじめ仲間と打ち合わせていた時刻を測っていたとすれば。
 そして、関羽らの尋問に、途中から急に饒舌に答え始めたのは、その刻限が過ぎ去り、最早おれたちに状況を止める術がなくなったことを見越した振る舞いであったとすれば。
 だが、今はそんな分析を行っている暇はない。
 簡擁の蒼白な顔色が、事態の深刻さを物語っていた。
 今、洛陽は董卓軍からの解放に浮かれきっている。さらに時刻は深夜。時が時だけに、多くの人々は眠るか酔うか、いずれかであり、消火どころか、避難さえまともに出来るかどうかわからない。
 このまま火が広がれば、城郭と住民を巻き込んだ、恐るべき大惨事になってしまうだろう。
「……まさか、洛陽を放棄したのは、この為?」
「……連合軍を囲い込み、街ごと焼き払う――まさか、そんな……」
 諸葛亮と鳳統の呟きに、おれたちは慄然とした顔を見合わせる。
 一同の視線が、はかったように男に向けられ――男の口許に浮かんだ笑みに、その場にいた全員が答えを悟る。


「い、急いでみんなに知らせないと!!」
 玄徳様がはじかれたように飛び出していく。
「は! 行くぞ、鈴々」
「応、なのだ!」
 玄徳様の後に、関羽と張飛も続く。
「は、はわわ、雛里ちゃん、私たちも!」
「う、うん、そうだね、朱里ちゃん。急がないと、急がないと……」
「このあたりから火が出ていないのは助かりますな。とりあえず、兵士たちをたたき起こさねば」
 諸葛亮らも、対策を練りながら、あたふたと出て行く。
 おれはその後ろに続きかけ、ふと背後に転がされている男に、もう一度視線を向ける。
 男は、この期に及んでなお笑みを浮かべていた。
 その視線が、ただ1人残ったおれに向けられ、おれは男のほの暗い眼光をまともにのぞきこんでしまう。
 男の瞳の奥底に眠る暗い想念に気づいた時、こんな状況にもかかわらず、おれはふと考え込んでしまった。
 ――入念に施されていた仕掛けからして、今回の策謀が個人のものとは思えない。男は間違いなく王允らの息がかかっているのだろう。
 董卓軍に悪名を着せ、その収奪した物資を以って国庫を満たす。さらには、その悪名を利して、諸侯連合軍と董卓軍を争わせ、互いの勢力を削りとり、最終的には勝者を無傷の洛陽に抱き込んで、街もろとも焼き払う。残るのは、新帝を擁する王允たちのみ――それが、高官たちの目論見であるとすれば、今の状況はまさに彼らの思うとおりに進んでいることになる。


 だが、放火を実行した男にとってはどうなのか。わざわざ王允たちが、男や、男の仲間を助けるような手を打つとは思えない。おれから見れば、男たちは王允らに体よく利用され、事が済んだ後は捨てられるだけだと思えるのだが、目の前にいる男はそうは考えていないのだろうか。
 おれは男に向かって口を開きかけ――結局、何も言わず口を閉ざした。
 この乱世において、玄徳様や関羽、諸葛亮らとはまったく異なった生き方をしている人物が、何を思い、何を尊しとしているのかを知りたく思ったのだが、男が正直に答えるはずもない。
 それに、今はそんなことを問いただしている暇もない。
 おれが、玄徳様たちの後を追うべく踵を返そうとした時、後ろから楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「すでに我が策は成った。この大火を消すことは、誰にもできぬ」
「……楽しそうだな。罪もない人たちを焼き殺すのが、そんなに嬉しいのか?」
「くく、下民にはわかるまい。だが、この挙で我が名は千載に残るのだ」
 それを聞き、おれは思わず振り返って声を高めた。
「都を焼き払い、民を虐殺した悪名に、何の価値がある?!」
 だが、おれ程度の怒りでは、男の表情1つ変えることが出来なかった。
「今は悪名であろう。だが、司徒が漢の復興を為せば、すべての行いはそのためのものとして正当化される。我が行いは、都を犠牲として、無道なら諸侯連合を灰燼に帰せしめた勲功となるであろうよ。犠牲なくして、平和は成らぬのだ」
 そう語る男の目には、陶酔の鈍い輝きがちらつきはじめる。
 男が、自ら捨て駒に等しい立場に身を投じた理由が、現れ始めていた。


 だが。 
「……下らん」
 ひと言、そう呟くと、おれは再度、踵を返す。歩みを進めながら、さきほどまでの熱が急速に冷めていくのを自覚する。
 犠牲なくしては何事も得られない。それは真実かもしれない。だが、他者を犠牲にして、それを正当化するような輩のことなど、知りたいとは思わなかった。
 背後で男が何やらわめきたてていたが、すでにその内容は、おれの耳には雑音にしか聞こえなかった。


■■


 立ち去る背に向かって、男は声高に口を開く。
「迷妄と謗るか? ならば謗れば良い。だが、いずれそなたも知るであろうよ。英雄とは、犠牲を恐れぬ剛毅な心を持つ者のことだという真理をだ! 覚えておけ、我が姓は李、名は儒、字を文優。漢の御旗の下に集いし忠臣の雄なる者ぞ!」  
 誰1人、聞くこともない、哀しい名乗りを、男――李儒は何度も何度も繰り返しては、音程の狂った笑い声を発し続けていた……


■■


 おれが邸から出たとき、すでに各処から上がった炎は夜空を赤く焦がすように燃え広がりつつあった。ようやく事態に気づいた人々が、鐘を鳴らし、声を嗄らして、周囲に火災を知らせている。
 洛陽は数十万の人々が暮らす大都市であり、こういった災害に備えた施設も当然ある。今も鐘楼から鳴らされている火災を知らせる鐘や銅鑼、あるいは消火用の水を確保するための井戸などがそれだ。
 だが、宴で酔い騒いだばかりの民衆や兵士たちは、それらを活かすことができず、右往左往するだけだった。彼らを指揮すべき官吏や将軍たちも、突然の事態に狼狽を隠しきれていない。
 一方、そんな人間どもの狼狽など意に介せず、火はますますその勢いを強めつつあった。夜半に入って、強くなっていた風の勢いにのって、瞬く間に炎はその勢力を広げていく。
 一度、燃え上がった紅蓮の火柱は、それ自体が風を生み、その風に乗って炎はますます猛り狂っていく。
荒ぶる火神を鎮める術を持つ者は、もはやどこにもいそうになかった


 おれは遠目にその様子を見て、しばしの間、身体を硬直させていた。
 幸いにも、このあたりの仕掛けは先刻の邸にあったものだけらしく、付近で火の手があがっている様子はないが、この調子では遠からず炎はここまで押し寄せてくるだろう。それどころか、このままの勢いで火が広がっていけば、洛陽全体に被害が及ぶ可能性が高い。おそらく、あの邸にあったように、油を使った仕掛けが大量に据えられていたのだろう。


 おれは玄徳様たちと合流し、劉家軍の兵士たちを正気づかせてまわった。
 具体的に言うと、寝ているやつは蹴飛ばし、酔ってふらついているやつには残っている酒を浴びせてまわったのである。
 この頃になると、火災の発生は洛陽全域に伝わっており、連合軍の将兵や民衆は大慌てで消火や避難を始めていた。しかし、統率のとれていないそれらの行動は、むしろ混乱を助長させる有様であった。
 折からの強風に煽られた火の勢いはとどまるところを知らず、火に巻かれる兵士や民の悲痛な声が各処で木霊していた。
 そんな中、玄徳様たちがいち早く部隊を掌握できたのは、元々劉家軍の兵士数が他軍に比べて少なかったこと――500に満たない兵士数――と、宴の際でも過ぎた騒ぎを戒めておいたお陰であった。


■■


 玄徳様たちの指図の下、兵士らと共に延焼を食い止めていたおれの耳に、不意に奇妙な鳴き声が飛び込んできた。
 ワンワンとこちらに吠えかけて来るのは、一匹の犬。
 細長い胴体から、可愛く伸びる小さな四肢。生憎と犬を飼ったことはなかったが、確かコーギーという種であったと記憶している。
 この騒ぎで主人と離れ離れになったのだろうか。そう思ったのだが、その犬は逃げ去ることもなく、つぶらな瞳でおれの顔を見上げてくる。
 犬は吠えもせず、じっとこちらを見ていたが、おれが動こうとしないのを見て、業を煮やしたように足元に駆け寄ってくると、ズボンの裾を噛み、くいくいと引っ張ってくる。それもしつこくではなく、2度3度と同じ動作をすると、裾を離してもう一度ワンと吠えるのである。
 こんな状況にも関わらず、おれは思わず小さく笑ってしまった。
「賢いやつだな。おれを呼んでるのか?」
「ワン!」
 そのとおり、と言いたげに、その犬はもう一度吠えると、尻尾を大きく振ると、おれを先導するように駆け出していく。今まさに炎が押し寄せて来ようとしている方向に、である。
 一瞬、躊躇してしまったが、おれがついて来ることを疑いもしない犬の様子に、今度は苦笑してしまった。
 周囲はまだ慌しいままだったが、関羽らの指揮によって、徐々にだが人々の動きも秩序だったものになっているように思う。人々を指揮する場面では、おれは大した役には立てず、だからこそ兵士たちに混じって駆け回っているわけだが、今ならば、少しの間、ここから離れても問題はないかもしれない。
 もっとも、これだけの大火だから、風向き1つで事態はすぐに変わるだろうが、あの犬も、さほど遠くまで行くことはないだろう。うん、ないに違いない――おれは心中で様々な言い訳を試み、何とか自分を納得させると、犬の後を追って駆け出した。
 




 そして、ほどなくおれは一軒の邸にたどり着いた。
 見たところ、何処かの貴人の邸宅かと思われたが、門衛はおらず、人の気配もない。先刻の邸と同じように、長安へと連れ去られた富裕層の邸宅なのかもしれない。
 ただ1つ、先ほどの邸と違うのは、すでに火がまわっているところだった。まだ炎が邸を包み込むには至っていないが、それもあとわずかの間だけだろう。
 おれを先導してきた犬はためらう様子も見せずに邸内に入り込む。おれは多少、腰が引けたが、ここまで来て回れ右するわけにもいかない。覚悟を決めて、おれも邸内に飛び込んでいく。
 邸内は、すでに火気に侵食されつつあり、煙が視界に靄をかけている。火事の時は、火よりも煙に注意すべし、と昔、小学校の避難訓練で教わったことを思い出し、おれは服の裾を口許にあて、慎重に歩を進めていく。
 すると、おれの耳に、邸内の一室から弱々しい声が飛び込んできた。
「――セキト、どうして戻ってきたの?! みんなを連れて、早くここから出なさい。急がないと、火に巻かれてしまいます」
「ワンッ!」
 犬――セキトは、強い調子で否定の吠え声をあげた。
「……私のことはいいから。あなたに万一の事があれば、呂将軍に申し訳が立ちません……みんなも、早く……」
 それに対する答えは多彩だった。
 ワンワン、ニャアニャア、ブヒブヒ、ガウガウ、パオーンといった感じである。
 その部屋に入ったおれは、思わず呟いていた。
「……象までいるし」
「?! だ、誰ですか……?」
 時ならぬ訪問者の声に、少女は驚きの視線をおれに向けた。


 その少女の姿を見て、おれは軽口を叩いたことをすぐに後悔した。
 少女の腰から下は、太く重い木材が幾重にも重なり、身動きが取れない状況となっていた。おそらくは、火に侵食された天井の梁が崩れ落ち、運悪くその下敷きになったものと思われた。
 少女の周りを囲む動物たちは、その木材をどけようと、口にくわえたり、長い鼻で絡めようとし、火で炙られた木の、あまりの熱さにそれを離さざるを得ず……そしてまた、木材をどけようとする。そんな行為を延々と繰り返していたのだ。 
「どなたか存じませんが、早く逃げてください。じきに、この邸は崩れてしまうでしょう。図々しいお願いですが、できれば、この子たちを……」
 少女の声は多少の震えを帯びていたが、それ以外は特に苦痛をあらわすようなものは感じられなかった。動物たちが触り続けることが出来ないような高温の木材に下半身を包まれているのだ。それこそ、鉄板でじりじりと炙られるような、気の遠くなる苦痛を感じているはずなのに。


 おれは少女の声に応えず、無言で傍らまで駆け寄る。
 木材を力づくでどけることは出来そうもない。今から、関羽らを呼びに行く時間もない。
「身体は抜けそうにないのか?」
 その問いに、少女はさきほどの願いを繰り返そうとしたようだが――わずかな逡巡の後、首を横に振って答えてくれた。
「――何度か試していますが、無理のようです」
「そうか」
 木材の隙間を覗き込んでみる。熱気が、頬をちりちりとひり付かせ、嗅覚が木の焼ける臭いをとらえた。
 見れば、少女の身体は落下してきた梁でできた隙間にはまる形となっていた。問題なのは、少女の足である。そこは、いくつもの木材が折り重なる形で、足の動きを封じこめてしまっていた。
 とはいえ、完全に下敷きになっているわけではないのなら、あるいは何とかなるかもしれない。
 おれは腰から、鞘ごと剣を抜き放ち、少女の足と木材の隙間へそれを差し込んだ。梃子の原理で、少女を戒める木材を動かすためだ。取り払うことは無理でも、わずかの隙間をつくり、少女を自由にすることならば、可能であろう。
「くぅッ!!」
 全体重を剣に込めるが、生憎、木材はびくともしなかった。
 それでも、おれは更に力を込めていく。腕がぶるぶると震え、剣から鉄の軋む嫌な音が響いてくる。
「ッ!!!」
 視界を包む靄が、更に濃くなったように感じる。もう時間はほとんどない。
 室内の熱気で、おれの額に玉のような汗が浮かび上がる。
 ――この世界に来てから、必要に迫られてずいぶんと身体を鍛えてきた。今のおれの力は、日本にいた頃とは比べ物にならないだろう。にも関わらず。
「ゥゥゥッ!!」
 知らず、唸るような声が口からこぼれ出て行く。今のおれの渾身の力は、しかし木1つ動かすことが出来なかった。
 そんなおれの姿を、間近で無言で見ていた少女は、はらはらとした様子で、何度か口を開きかけては、また閉じるという動作を繰り返している。おそらく「もういいから早く逃げて」と言いたいのだろう。
 だが、はいそうですかと言えるくらいなら、はじめからさっさと逃げている。
 おれは気合の声と共に、ありったけの力を振り絞って再度、木材を浮かせようとする――寸前、おれの胴に、ぐるりと象の鼻がまわされたことに気づいた。


 見れば、像だけではない。動物たちの何匹かはおれの服の裾をくわえ、少しでも力になろうとするかのように身構えている。その他の動物たちは、少女の服をあちこちくわえ、こちらも引っ張り出すのを助けようとしていた。
 おれと少女は、呆然としたように顔を見合わせ――同時に小さく噴出していた。こんな時だというのに、煤けた顔が綻ぶのがわかる。
 おれは軽く首を左右に振ると、顔を引き締めた。ここまで協力な援軍を得て、これで何も出来ないようなら、男じゃない。というか、人間失格である。 
 少女も似たような思いなのだろう。おれたちは顔を見合わせる。
「1、2の3、で行くぞ」
「わかりました」
「ワンッ!」
 おれたちの声に、件のコーギーも唱和する。





「行くぞ――1!」
 右肩に剣の柄を抱える体勢をとり、強く剣を引っ張り込む。
 これまで同じように木材は動かなかったが、それでも、かすかに軋むような音をたてた。





「2!」
 1回目よりも更に力を込める。周りを取り囲む動物たちも、不思議なほどにおれの身体に合わせた動きをしてくれた。
 そのお陰なのだろう――はじめて、剣から木材が小さく動いた感覚が伝わってきた。





「――ッ3!!」
 おれが正真正銘、まじりっけなしの全力を込めた瞬間、少女はタイミングを合わせて足を抜こうとする。
 だが。
「くッ!」
 少女の足からかすかに伝わる障害の感触。ほんのわずか、靴の底の厚さの分、足を引き抜くことが出来ないようだ。
 おれは少女の様子を見てそれを察する。
 この機を逃せば、もう少女を見捨てるしかなくなるだろう。名前さえ知らない子だが――そんなことを認められるはずがなかった。
「――ッあああああああ!!」
 未だかつて、自分でも記憶にないような絶叫が、おれの口から迸った。


■■


 何故だか、いつぞや楼桑村での玄徳様の言葉が脳裏に思い浮かぶ。
『北郷さんが、それに力を貸してくれるなら、とっても心強いです。もちろん、私も出来るかぎり、北郷さんが目的を果たせるように力を貸します。それは、みんなも同じことです。みんなで支えあって、みんなで頑張って、みんなの目的を果たしましょう!』
 東に帰るために、ろくな協力もできないと言ったおれに、玄徳様はそう言ってくれた。
 言葉どおり、これまでろくな協力が出来ていないおれだったが――もし、今ここでも何も出来ないとしたら、それはおれを劉家軍に迎え入れてくれた玄徳様を、そしてあの笑顔を裏切るに等しいこと。
 強く――強く、そう思う。


 そして。
 その想いが、最後の一押しをしてくれたのである。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 洛陽炎上(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:23



「す、すみません。助けていただいた上に、こんなことまで……」
 おれの背で、少女が恐縮したように小さく詫びてくる。
 時折、耐えかねたような苦痛の声が漏れるのは、下半身に負った火傷と、そして先日の戦で受けたという太ももの矢傷のためだろう。
「無理して喋らないでいいよ。とりあえず、火から遠ざかるから」
「は、はい――セキト、みんなちゃんといますか?」
「ワンッ!」
 大丈夫、と言いたげに尻尾を振るセキト。そしてセキトに続く動物軍団。
 大変な事態のはずなのだが、どうにも和んでしまう光景ではあった。


 安全と思われるところまで逃げてきたおれたちは、そこでようやく互いの名を知ることができた。
 少女は、高順と名乗り、何度もおれに頭を下げる。
 聞けば、あの邸は高順が世話になった人物のもので、セキトたちはその人物に飼われていたそうな。犬猫のみならず、象まで飼うとはよほど動物好きの人らしい。
 ただ問題は、どうやら彼女らが董卓軍らしい、ということである。
 今回の放火を企んだ者の目的が、連合軍の掃滅にあることは明らかである。必然的に、今回の挙は董卓軍によって行われたものだ、と人々は考えるだろう。
 火災の被害がどこまで大きくなるかは不明だが、鎮火した後、被害を受けた民衆や兵士たちが犯人探しをすることは必至である。それに捕まれば、無事では済むまい。
 色々と考えてみたが、名案と呼べるほどのものも浮かばず、結局おれはそのまま劉家軍の陣に戻ることにした――高順を見た関羽に怒られるのを覚悟の上で。


■■


「ふわあ、動物がたくさんいるねえ」
「おおー、お兄ちゃん、あの鼻の長いのは何なのだッ?!」
 感激したように目をきらきらさせる玄徳様と、象を見てはしゃいでいる張飛。
 そして……
「無断でいなくなったと思えば……一体、どこで何をしていたのだ、おまえは」
 口許をひくつかせた関羽が、鋭い視線でおれを見据えてくる。
 その視線が、おれの傍らにいる高順にも向けられ、高順はその迫力に身を竦ませる。
「あ、あの、北郷さんは、私を助けてくれて……その……」
 口ごもりつつ、それでもおれをかばおうとしてくれる高順。ええ娘やなあ、同じ黒髪でもえらい違い……
「……何か、言ったか?」
「い、いえ、決して何も、一粒たりとも言ってはおりません!」
 炎も凍りつきそうな極寒の視線に、おれは体を硬直させる。


「あ、あのー、愛紗ちゃん。もういいんじゃないかなー、なんて思うんだけど。ほら、一刀さんも無事だったんだし、この子も助かったんだし」
「――いいえ! 信賞必罰は兵家の基本。この緊急時に、断りもなく部隊を離れるなど、許されることではありませぬ」
 おそるおそる玄徳様が出してくれた助け舟は、関羽の鉄壁の防備に傷1つつけられずに撃沈された。
「う……そ、それはそうだけど、ほら、そのおかげで、高順ちゃんや、この動物たちも助かったんだし。愛紗ちゃんも一刀さんを心配してた分、余計に腹が立つのかもしれないけど――」
「桃香様!」
「は、はひッ?!」
「私の態度に、個人的な感情など露ありません。失礼ながら、それは桃香様の考えすぎというもの……」
 関羽が玄徳様に何やら言い立てようとすると、その足元に近寄ったセキトがワンと一声吠えた。
「む?」
 怪訝そうに足元を見下ろした関羽の視線と、つぶらな眼差しで見上げるセキトの視線が交錯する。
「う……」
「ワフ?」
「む、むむむ」
「ワンワン!」
「……くッ!」
 何やら会話が成立しているらしい両者の様子に、おれは高順と顔を見合わせた。  
「た、確かに桃香様の仰ることも間違いではありませぬ――北郷殿!」
「は、はい!」
「このようなことは2度とないように願いたい。兵ではないとはいえ、そなたはまぎれもなく劉家軍の一員。断りなく姿を消せば、皆に要らぬ心配をかけるのだからな」
「――わかりました」
 関羽の言葉の意味を悟り、すこし言葉をつまらせながら、おれはしっかりと頷いて見せた。


 玄徳様がほっと安堵の表情を見せ、口を開きかける。
 すると、まるでそれを遮るように兵士の1人が血相を変えて、この場に飛び込んできた。
「も、申し上げます! 関将軍はいらっしゃいますでしょうか?!」
「どうしたのだ、そのように慌てて。風向きが変化したのか?」
「い、いえ、それが、消火活動をしていたところ、火の中から化け物が現れまして、兵たちと衝突しております。至急、お越し願えませんでしょうか!」
 その報告のあまりの突飛さに、その場にいた全員が、ぽかんと口を開けた。


■■


 高順を怪我の手当てのために陣に残し、おれたちはその化け物とやらが暴れているところに駆けつける。おれは、火災で混乱した兵士の妄言か、と思っていたのだが――


「ああ、確かに化け物かも」
 おれはそれを見て、小さく呟く。
「うーん、多分人間だと思うから、それは失礼なんじゃないかな?」
 玄徳様は困ったように首を傾げる。
「人間……なのでしょうか、あれは?」
 関羽が疑わしげに、それに視線を注ぐ。
「鈴々知ってる! あれは変態というのだ!」
「はわわ、ど、どうしよう、雛里ちゃん。変態さん用の兵法ってある?」
「あわわ、そ、そんなのないよう、どうしよう、朱里ちゃん?」
「ふーむ、さすがは洛陽の都、けったいな者がおるのう」
 諸葛亮や簡擁までがそんなことを言い出す始末であった。
 しかし、それもまたむべなるかな。
 紐のような下着をつけただけの、筋骨逞しい半裸――というより、あれはもう全裸ではなかろうか――の男を、他にどう形容しろというのだろうか。


「あらあらあらあら、黙って聞いていれば言いたいことを言ってくれてるわねん」
 その化け物――もとい、その男は、掴んでいた兵士の身体を放り投げると、言論の自由を行使するおれたちに向かって、一歩、足を踏み込んでくる。
 その迫力に押されたように、おれたちは一歩後退する。
 戦えないおれは、せめて戦う人を応援しようと声を出す。決して、嫌な役を押し付けるためではない。
「さ、さあ、関将軍、がんばってください!」
「な、なに?! 私にあれの相手をしろというのか?!」
「兵士たちでは相手になりそうもないですし、やはりここは将軍の出番ではないかと愚考する次第」
「なにが『愚考する次第』か! 将軍というなら、鈴々だっているではないか!」
「いえいえ、さすがにここで張将軍の名を出すのは、良心が痛みますゆえ」
「――ほほう、それはつまり、私なら良心は痛まぬということか?」
「そういう解釈の余地もあるのではないかなと思わないでもありません」


 自分でも何を言っているのかよくわからなくなりながらも、おれは関羽に言い切った。
 そんなおれに、周囲からの援護射撃があたえられる。
「さ、さすがに鈴々も、あれにはかないそうもないから、愛紗に譲るのだ」
「あ、愛紗ちゃん、えっと、その……が、がんばって!」
「はわわ、か、関将軍、兵隊さんたちの治療は任せてください!」
「あわわ……しょ、将軍、御武運を」
「飛将軍と伍す雲長殿のお力、思い知らせてやりましょうぞ」
 おれたちの息の合った連携に、関羽が呆れたようにため息を吐いた。
「全くもう……」





「あなたが私のお相手かしら?」
 男は丸太のごとき腕を隆々としごきながら、ずいっと関羽に詰め寄る。
 関羽は青龍刀を握り、構えを取る。
「どうやらそのようだ。悪いが、手加減せぬぞ」
「うふふ、したらあなたの負けよん」
「良くいった。我が名は関羽。冥府で、貴様を討ち取った者の名を問われたら、答えるがよい。自分は劉家軍の青龍刀に討たれました、とな」
「ならばこちらも名乗りましょう。私の名は貂蝉。洛陽一の踊り娘にして、荒廃した世を癒す、美々しき一輪花とは私のことよ!」
 貂蝉のウィンクを受け、関羽がわずかに動揺の気配を見せる。
「そ、そうか、おぼえておこう」
 だが、すぐに立ち直ったのは、さすがに音に聞こえた関雲長。
 関羽は貂蝉を見据えて、声高に告げた。
「――では、参る!」
「受け止めてあげるわあん!」


 かくして、何だか良くわからない死闘が幕を開けそうになる。
 すぐ近くで大火が起こっているというのに、何をやっているんだ、とは誰も思わなかった。皆、多かれ少なかれ、貂蝉の存在に意識の一部を麻痺させていたのかもしれない――あまりにショックなことが起こると、脳が防御作用の1つして行うという、あれである。
 それは、貂蝉と初めて会った者には回避不可能な症状であり、必然的に劉家軍の面々は避けることができなかった。もし、この戦いを止められる者がいるとすれば、それは貂蝉と面識を持ち、なおかつ貂蝉と劉家軍との戦いを止めたいと願う者しかいないだろう。


 それはたとえば。
「ま、待って、待ってくださいッ!」
 可憐な声を張りながら、息せき切って貂蝉たちの間に割って入った女の子のような人物である。
 その声と、そして人形のような端正な容姿を、この場にいる者たちは知っていた。


「あらあら、どうして出てきたの、月ちゃん?」
 貂蝉が攻撃の動作を止め、困ったように腕組みする。


「と、董太尉?」
 関羽が目を瞬かせて、眼前の少女を見つめた。


 そして、貂蝉と関羽は互いに顔を見合わせ、同時に首を傾げるのであった。


■■


 長安を目指し、一路、西へと進む董卓軍。しかし、すでにその実態は、王允が組織した皇帝軍と化している。
 ともすれば、洛陽を懐かしんで足を止める民衆を追い立てながら、王允は函谷関へと急いでいた。函谷関さえ越えてしまえば、後は敵の追撃を恐れる必要はなくなるからである。
 とはいえ、もう追撃の心配はほとんどない、と王允は考えていた。
 今のところ、追ってきているのは、あの曹操だけだということだし、これには味方の徐栄将軍を差し向けているから心配はないだろう。
 未だ10万を超える兵力を抱えている連合軍が、一転して追撃に移る可能性もゼロではないが、洛陽に仕掛けた罠が機能すれば、連合軍は少なからぬ損害を被る筈。少なくとも、追撃を行う余力は残るまい。


 王允が様々に思案していると、後衛からの伝令がやってきた。
「申し上げます! 徐将軍よりの伝令です!」
「申せ」
「は! 徐栄軍が、追撃してきた曹操軍を撃退したとのこと。敵将は取り逃がしましたが、敵軍の食料、武具など鹵獲品が多数あり、曹操は継戦能力を失ったものと思われます!」  
「――そうか。それは陛下もさぞお喜びになることだろう。しかし、敵将を逃したのは、徐将軍らしからぬ不覚よな。ただちに追撃に移るよう伝えよ。曹操の首をとった者には、万金と、将軍の称号が与えられるであろう」
「かしこまりました!」


 伝令が去ると、王允は胸中で安堵の息を吐いた。
 同時に、その口許には小さな笑みが浮かぶ。
「曹孟徳、か。出来れば、こちらに取り込みたかったのだが、あのような覇気の持ち主が籠で飼えようはずもなし。勢力を肥らせる前に討ち取っておかねばならん」
 王允はさらにいくつかの指示を下すと、皇帝の御前に参上した。
 皇帝といえど、まだ年若い少年である。洛陽からこちら――否、皇帝に即位してからこれまで、王允の言葉に従い、強行軍でここまでやってきた為、その顔には疲労と憔悴の色が濃い。くわえて、豪奢な馬車を使っているとはいえ、揺れ続ける車上で満足に寝ることもできず、疲労は蓄積される一方なのである。


 王允は、皇帝の健康を案じてはいたのだが、安全と思われる場所につくまで、足を止めることができなかった。だが、明朝にも、皇帝軍は函谷関を視界にとらえる。そうすれば、ゆっくり休息をとることもできるだろう。
 そのように言上する王允に、皇帝は穏やかな声を投げかける。
「良いのだ、王允。そなたが漢朝と朕のことを思って奔走してくれていることは承知している。この程度の労苦で音を上げていては、幾たびも戦場を疾駆し、楚の覇王と矛を交えた高祖に笑われてしまうだろう」
 だから、自分の身体のことは気にする必要はない。
 そういう皇帝の姿に、王允は知らず瞳を潤ませていた。


「ところで、王允。1つ聞きたいのだが」
「何なりと、陛下」
「洛陽を出てから董卓殿の姿を見かけぬが、何かあったのか?」
 皇帝の問いに、王允は表情をかえずに返答する。
「は。董卓殿は虎牢関より撤退してくる自軍をねぎらうために洛陽に残られました。洛陽には李確、郭汜、李儒らが残っておりますので、心配はいらないと存じます」
「うん……王允、本当にそう思うのか?」
 皇帝は不安げに眉をひそめ、言葉を続けた。
「このようなこと、申すべきではないかもしれぬが、朕はどうもあの者たちを信じることができぬ。主である董卓殿を軽んじる言動も、臣下として褒められたものではないと思うのだが……」
 王允は、皇帝の洞察に感じ入ったように、大きく頷いた。
 皇帝は、王允が行った数々の策略を知らぬ。それゆえ、その言うことは現状からすれば見当違いのことであるのだが、年齢に似合わぬ眼力は、正しく相手の特徴をとらえていた。
 長年、欲と権勢にまみれた宮廷を間近で見続けてきたゆえに、人の表裏には鋭敏なのだろう。


 王允は落ち着いた様子で口を開いた。
「御意、たしかに全幅の信頼をおける者たちではありませぬ。しかし、漢朝が彼らに利をもたらす限り、叛する恐れはございません」
 王允はそう言うと、さらに言葉を続ける。
「陛下、人は皆、我欲を抱いているものでございます。たとえ気に染まない者であろうとも、これから陛下はそういった者たちの欲を見抜き、必要とあらばそれをかなえてやらねばなりません。そして、その者たちの力を用いて王朝の土台を確かなものとしていかなければならないのです」
 王允の言葉に、皇帝は神妙な顔で聞き入る。
「くわえて申し上げますと、陛下ご自身も仰られているように、配下への好悪の念をあからさまにするのは感心できません。皇帝とは、万人の上に君臨する存在。内心はどうあれ、全ての者に等しき態度を示さねば、公平が保てませぬゆえ」
「……うん、そうだな。すまない、王允。要らざることを申してしまった。ただでさえ、そなたには政事、軍事を問わず力を振るってもらっているのだ。せめてこれ以上、余計な負担を強いることのないよう、勤めよう」
「もったいないお言葉です。されど、陛下と、漢朝のために働けるは、臣としてこの上なき栄誉。私ごときのことなど、お気になさいませぬよう」


 王允は恭しく頭を垂れながら、先帝の時代には一度も感じることのできなかった充足感で胸が満ちるのを感じていた。
 新帝劉協は、このまま健やかに成長していけば、稀に見る賢君として歴史に名を刻むことになるだろう。そのことを王允は確信する。
 漢朝の威光があまねく天下を満たし、人々が皇帝万歳を叫ぶ光景を夢想して、王允は小さく笑う。その光景が現実となる頃には、自分はもう生きてはいないだろうが、それでもそこへと至る道筋をつくることこそが自分の天命だと――そう確信したゆえの笑いであった。


■■


 夜陰、眼下に無数の灯火を眺めていた曹操の背後に、静かに夏侯淵が近づく。
「華琳様」
「秋蘭、皇帝の居場所は掴めた?」
「はい。やはりあの大天幕におられるとのこと。密偵がその姿を確認しました」
「そう」
 曹操は小高い丘の上から敵の陣を見つめ、薄い笑みを浮かべる。
「王允もかつては将として野を駆けたのでしょうに、宮廷での生活に慣れてしまったのかしら。どこからでも襲ってくださいと言わんばかりの布陣ね。これが敵を誘う罠であれば、巨大な将器の持ち主なのだけれど」
「それはないでしょう。おそらく、敵の襲撃はないものと考え、警戒を怠っているだけかと」
「でしょうね。黒華に派手に負けて見せて、とは言ったけど、ここまで効果があるとは正直思わなかったわ」
 追撃軍の指揮を委ねた友の顔を思い起こし、曹操は肩をすくめる。
 曹操軍一万の大半を率い、衆目に触れながら追撃を行っていた張孟卓は、徐栄の軍勢とぶつかり、3万を越える敵勢をふせぎきれずに敗走した――王允たちはそう考えているのだろう。
「華琳様、それは仕方のないことではないでしょうか。本軍をおとりにし、わずか数百の騎兵を以って敵中枢を叩くなどという作戦を見抜ける者は、そうそういますまい」
「それ以前の問題よ。いかに敵の姿を見ないとはいえ、野営中の軍が警戒を怠るなど兵を知らぬも甚だしい。その程度の奴らが、中華帝国の最高位にいたのかと思うと、我慢ならないわ」
 曹操は腰に下げていた二振りの宝剣のうち、倚天の剣を抜き放つ。
 鋭利な刀身が、月光を浴びて鮮やかに煌いた。


「華琳様! 出撃準備、整いました!」
 夏侯惇が姿を現し、勢い込んで報告する。その背後には幾人かの将の姿がある。今回の一連の戦いで徴募した兵士の中から、曹操らが見出し、抜擢した者たちである。
 楽進、字は文謙。
 李典、字は曼成。
 于禁、字は文則。
 いずれも、これまで無名であったのが不思議なくらいの人材であり、これから長く曹操軍の中核を担うであろう俊英たちであった。
 夏侯惇を筆頭に、彼らは皆、意気盛んである。それも当然。虎牢関からこちら、戦う機会が一向になかったが、ようやくその機会が訪れたのだから。それも皇帝救出という、これ以上ない晴れがましい戦とあって、特に夏侯惇などは血の滾りを抑えることができずにいた。
「ご苦労様、春蘭」
 曹操は夏侯惇をねぎらうと、将たちの前に歩を進めた。
「みな、ここまでの強行軍によくついて来てくれた。敵は我らの近づくを知らず、未だ夢の中をさまよっている。ゆえに、勝利はすでに約束された。この上は、その勝利を完璧なものにせねばならぬ。逆臣どもに連れ去られた皇帝陛下をお救いし、漢王朝に巣食う亡霊を大地に叩き落とすのだ!」
 曹操の檄に、将軍たちが『応!』と唱和する。


 曹操は煌くような覇気を瞳に宿し、愛馬 絶影に跨ると、持っていた倚天の剣を高々と掲げ――一瞬の後、それをまっすぐに振り下ろした。
「かかれぇッ!!」
 その号令に従い、7百の騎兵が猛然と丘を駆け下りていく。
 その先におぼろに浮かび上がる皇帝軍の灯火が瞬き、時ならぬ馬蹄の響きを聞いて不審そうに動き回る兵士たちの姿を映し出す。
 ようやく「襲撃」という悲鳴にも似た声が聞こえてきたが――
「愚か者、反応が遅い」
 曹操は相手の手ごたえの無さに、失望すら覚えながら、皇帝軍の陣地に突入していくのだった。


■■


 その夜、王允はかつて感じたことのない充足感に包まれ、天幕の中で眠りに落ちた。
 だが、皮肉なことに、夢の中で王允は過去の亡霊を目の当たりにする。
 耳障りな笑い声をあげながら、女官を侍らし、酒食に耽溺する霊帝の姿であった。
 王允らの諌めなど聞く耳持たず、女官に戯れては、彼女らの悲鳴を聞いては心地よさそうに笑み崩れる姿は、どこをとって見ても、中華帝国を統べる男だとは思えなかった。


――元来、霊帝は無能であったわけではない。王允が拡充をはかっている羽林軍編成にしても、霊帝はこれと似た考えを持っていた。羽林軍は、兵を率いる将を皇帝直属とするのだが、霊帝はそれよりも更に一歩発展させ、皇帝直属の軍隊を創ろうとしていたのである。つまり、皇帝が将軍を兼ねる軍の創設である。
 これにより、皇帝は実質的な武力を持つことになる。その影響力の増大ははかりしれない。これが完遂されていれば、霊帝は後漢の中興の祖となりえたかもしれない。
 だが、皇帝の力が大きくなることを好まない輩――宦官や外戚の掣肘により、この案は棄却された。あるいは、皇帝が政治に関心を失ったのは、こういった出来事が多く積み重なっていったからなのかもしれない。
 皇帝とは名ばかりで、自分がやりたいことは何一つできない。何事も為せず、ただ周囲の言葉に頷くのみとあっては、面白かろうはずはない。政治に関心を失い、権力の責任を厭い、女色酒色に溺れていくのはある意味、当然であったのだろう。それは、宦官が強い勢力を持つ後漢王朝の特色ですらあったのである。彼ら宦官にとって、無気力な皇帝ほどありがたい存在はないのだから…… 


 無論、だからといって霊帝が皇帝としての責任を放棄したことが許されるわけではない。
 廷臣、民衆問わず、その施政で犠牲となった者は数知れず、ゆえに皇帝の死後に与えられる諡号は霊という悪名を顕す文字が選ばれたのである。
 あなたは皇帝として劣悪でした、と歴史的に銘記されたのは、他者の影響があったにせよ、当人にその責の多くが委ねられるであろう。
 王允とて、その評価を否定しようとは思わない。もし、ほんのわずかでも、そう思えたのならば――忠誠であれ、同情であれ――あの時、別の行動を採ったに違いないのだから。





「これは何としたことだ?!」
 王允は自らの声を他人事のように聞いていた。
 場所は宮廷。所は皇帝の寝所。
 目の前には呆然と佇む賈駆と、ベッドの上で小さな身体を震わせている董卓の姿がある。
 そして、皇帝は――自らがつくった血溜まりの中に沈んでいた。


 王允は、言葉もなく凝然と立ち尽くす。
 状況がわからなかったのではない。これまでの皇帝の行状から推して、この部屋で何が行われていたのか、そして何が起こったのかは一瞬で理解できた。
 ゆえに、王允が戸惑ったのは、そのためではない。
 王允が戸惑ったのは、状況を理解した瞬間、まるで悪魔がささやくかのように、自らの脳裏に浮かび上がった、この後の計画のせいであった。
 王允は、自身を聖人君子だとは思っていない。しかし、清廉であろうと務めてはきたし、その自己評価に異を唱える人物は少ないだろう。
 だが、今、脳裏をよぎった計画は、清廉とは程遠い。悪逆と言っても良いものだ。それを実行すれば、王允はこれまで築き上げてきた物のほとんどを失うことになるだろう。
 すぐに決断できなかった王允は、信頼できる衛視を呼び、董卓と賈駆の2人を別室に連れ出した。どのように行動するにせよ、2人の身柄を押さえておくことは必要であったからだ。


 そして、王允は事切れた皇帝と同じ部屋で、1人佇む。これからどう行動すべきか、採るべき選択肢が胸奥をかき回し、老練な王允の胸を激しく波打ってくる。
 皇帝の死を事故と処理し、董卓たちに恩を売り、漢朝に協力してもらうか。
 あるいはこの件を盾に、董卓たちを傀儡として、漢朝復興の生贄とするか。
 王允は突然に突きつけられた選択肢に決断を躊躇い、懊悩する。


 だが。


 不意に。


 その耳に、ありえざる声が響いてきた。 


 王允は、両の目を見開いて、声が聞こえてきた場所に目を向ける。
 この部屋にいるのは2人だけだ。王允と、事切れた――事切れた筈の皇帝だけ。
 王允が発した声ではない。となれば、答えは1つしかなかった。
 皇帝は、呻き声を挙げながら、小さな血溜まりで、もがくように身体を動かしている。まだ意識を取り戻してはいないようだが、じきに目が覚めるだろう。
 王允はそれと悟り、足音を立てぬよう、ゆっくり――ゆっくり皇帝に近づいていく。
 自分でも何故そんなことをするのかわからなかった。大声を出し、典医を呼べば良いだけだ。頭ではそれがわかっていたのに、王允はその行動を採ろうとはしなかった。


 足元に、うごめく皇帝を見下ろした王允は、不思議そうに自らの手を見る。皇帝の居室に備えられていた宝剣の1つである。
 すでに鞘から抜き放っていたそれを、王允はゆっくりと刃を下に向け、皇帝の身体に擬する。
 王允にとっては、まるで芝居を見ているかのような、希薄な現実感の中での行動だったが、もし傍らで見ている者がいたならば、王允の一連の動きがすべて一瞬の遅滞もなく行われていることを知るだろう。


 それは、最後まで変わることはなく。
 剣が肉を貫く粘着質な音と、かすかな絶命の声が、皇帝の居室に小さく響いた。


■■


 王允が飛び起きるのと、配下が天幕に飛び込んできたのはほぼ同時だった。
 時ならぬ夢と、許可も無く入ってきた配下の無礼に動揺しながら、王允は叱咤のために口を開きかける。
 だが、顔を蒼白にした配下の兵士は、王允以上に狼狽したまま、報告を行った。
「て、敵です、王司徒、敵が……!」
 その言葉で、王允は瞬く間に我に返る。そのあたりは、かつて野戦の将軍として大地を駆けただけのことはあった。
 だが。
「どこから、どれほどの規模で、どこの軍がやってきたのだ。まずそれを報告せよ! 皇帝陛下におつかえする兵士が、敵襲ごときで狼狽するでない!」
 王允の叱咤を受けた兵士は、しかしなおも慌てたままだ。
「し、しかし、司徒、敵は……」
「だから、敵はどこの誰なのだと聞いておる! しっかりせよ、愚か者!!」
 再度の叱咤。
 その答えは、思わぬところから返ってきた。


「それは貴方自身に向けるべき言葉ね、王司徒」
「な、なにッ?!」
 夢の中に続き、またしてもありえない声を聞いた王允は、天幕の入り口に目をやり――そして、そこに予期したとおりの人物を認め、あえぐような声をあげた。
「そ、曹操……」
「いかにも、曹孟徳である。夜分、失礼とは思ったが、司徒に火急の用件があり、参上仕った。寛大な御心にて、お許し賜らんことを」
 恭しく、まるでここが宮廷ででもあるかのように、優雅に礼をする曹操。
 だが、その剣はすでに血に濡れ、曹操の足元に小さな血溜まりをつくりつつあった。


「どのような用向きあって、このような夜分にやってきたのだ?」
 王允は置いてあった武器を手元に引き寄せながら、ゆっくりと体勢を立て直していく。
「そろそろ、この茶番劇に付き合うのも飽きてきたものだから、脚本の変更を要求しに」
 曹操は王允の動きに気づきながら、まるで意に介することなく、言葉を連ねていく。
「脚本だけではない。英雄たちが覇を競うべきこの演目に、相応しからぬ役者が多すぎるのよ、あなたを含めて」
「……私は役者不足、ということか」
「そのとおり。中華の大地も、そこに生きる者たちも、あなたたちの玩具ではない。女子供を罠にはめ、小細工を弄した挙句、都を落ち延びるがごとき卑怯未練な策略で、どうして一国が成り立とうか。信なくば立たず。これは万世に通じる真理でしょう」
 曹操の言葉に、王允は思わず言葉を詰まらせた。
 それは、儒学を修めている王允にとって、あまりにも基本的な教えだった。
 にも関わらず、反駁することができない自分に気づいた王允は、顔色を蝋のように青くさせる。


 曹操は、そんな王允に射抜くような鋭い視線を向け、ゆるやかに剣を掲げた。倚天の剣が、天幕の中の灯火を反射して、あやしく輝く。
 王允は対抗するように、自らも剣を構え、曹操の覇気に押しつぶされそうな心身を励ますように、口を開いた。
「……漢王朝の復興なくして、真の平和は戻らぬ。そのための犠牲を恐れていては、乱世は深まるばかりなのだ。そして、その間にも多くの血と涙が流れるだろう。だからこそ――ッ!」
 その言葉に、曹操は何の感慨もおぼえず、冷たい口調で応えた。
「――犠牲なくして何事も為しえぬは真理なれど、それを口にして良いのは、自らを犠牲として悔いぬ覚悟と、耐える強さを持つ者のみ。人はそれを以って剛毅と呼ぶの」
 曹操の剣が弧を描き――次の瞬間、倚天の剣は、王允の首のある空間を左から右へ、一閃した。



 闇に沈んでいく意識の彼方――
「――司徒王允。あなたに決定的に欠けていたものは、それよ」
 王允は最後に、そんな曹操の言葉を聞き……苦く、呟いていた。




 然り、と。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/08 12:08



 洛陽城内で発生した火災は、民衆や連合軍将兵の必死の消火にも関わらず、止まるところを知らず広がり続けた。
 炎が消えたのは、発生からおよそ3日後。それも人の手によるものではなく、ようやく振り出した雨による鎮火であった。
 しかし、火は消し止められたとはいえ、3日の間に、炎は歴史ある街並みの半ば以上を嘗め尽くしており、宮殿に至っては全焼の状態となっていた。
 この大火によって、民衆、兵士を問わず、犠牲になった人々は数え切れない。
 都市1つを覆い尽くした大災害であり、くわえて人々が宴で騒ぎ疲れ、寝静まった頃に発生したこともあって、被害は予測をはるかに越えており、被害状況を聞いた諸侯も顔色を失うほどであった。
 これにより、漢の都として栄華を誇っていた洛陽は、事実上、帝都としてのみならず、一個の都市としての機能すら失い、衰亡の道を辿ることになるだろうと思われた……


 一方で、董卓軍追討のために参集した諸侯の間では、別の問題が持ち上がっていた。
 すなわち、連合軍をここで解散するか、それとも長安まで攻め上るか、という問題である。先には曹操が単独で追撃を行い、諸侯は洛陽への入場を選択したが、洛陽が廃都となった以上、このまま駐留し続けることに意味はない。
 だが、長安へ攻め上るという案が、現実性を欠くことは、今や衆目の一致するところであった。大火で失った兵はもちろんのこと、洛陽城内に運び込まれていた連合軍の糧食や武具といった輜重の多くが灰となっていたからである。
 今や、追撃どころか、連合軍を維持することさえ難しい状態なのである。
 すでに諸侯のほとんどが、解散もやむなしと考えていた。
 糧食なしでは戦えないし、これ以上戦う理由もない。何より、国許を長く空けておくことに不安があったからだ。
 黄巾賊をはじめとした賊徒は、ここまで大きな動きを見せてはいないが、ここから先も今まで通りとは限らない。くわえて、賊以外にも注意しなければならない相手はいくらでもいる。連合軍に参加していない領主たちや、あるいは主君の不在をねらう不逞の輩がいつ蜂起しないとも限らないのである。


 だが、連合軍を率いる袁紹は、ただ1人、強行に長安への追撃を主張して譲らなかった。
 袁紹にしてみれば、このままでは総大将をつとめながら、己の利がほとんどないのである。虎牢関を抜き、董卓軍を破ったとはいえ、肝心の董卓は取り逃がし、皇帝を保護することもできなかった。くわえて、洛陽の大火では、占領軍の総帥たる袁紹の責任を問う声すらあがっているのである。
 袁紹としては、明確な勝利の証となるものを欲せざるを得ない状態であった。
 だが、無論、袁紹に賛同する者がいるはずもない。この上は自軍だけでも、と袁紹が考え始めたとき、驚くべき知らせが連合軍にもたらされた。
 それは、董卓軍を追撃していた曹操が、函谷関前の平野にて董卓軍を撃破し、皇帝を保護下にいれたという知らせであった……


■■


「曹将軍が、皇帝陛下を?」
 その知らせを聞き、おれをはじめ、劉家軍の面々は驚きの声をあげた。
 知らせを持ってきてくれた公孫賛は、どこか疲れたような面持ちで、言葉を続けた。
「曹操は陛下を保護した後、徐栄の軍を急襲したそうだ。張太守との連携で徐栄軍は一戦で蹴散らされ、陛下の御名でその兵力のほとんどを傘下におさめたらしい。今や曹操の兵力は、袁紹に匹敵するな」
 お陰で袁紹が大騒ぎをしててな――と、公孫賛はため息を吐きながら言った。
 ああ、なるほど。その疲労の跡はそのせいでしたか。えーと、なんというか、お疲れ様でした。
 おれだけでなく、玄徳様たちからも同情の視線を向けられ、公孫賛は肩をすくめた。
「逆臣曹操から陛下を取り戻す、なんて息巻くものだから、抑えるのが大変だったんだぞ。まあ、そちらは田豊が何とか思いとどめてくれたけどな」
「では、陛下の還御を待つことになりますか?」
 諸葛亮の問いかけに、公孫賛は頷いてみせる。
「ああ、目端の利く者は、すでに曹操に使者をはしらせているよ。連合の総大将だったとはいえ、結局、袁紹軍は大した戦果は挙げられなかったんだ。論功に関しては連合の発起人であり、陛下を擁した曹操が大権を握ることになるだろうからな」
 玄徳様が小首を傾げながら、公孫賛に問いかける。
「伯珪は曹将軍に使者を送らないの?」
「うん。まあ、論功に関しては相応の主張をする心算だが、小賢しいご機嫌取りはしないさ。多分、曹操もそういう輩は好まないだろう。使う、使わないは別にしてもな」
「ふーん。確かに、あの曹将軍なら、恩賞も不公平な扱いをしたりすることはないだろうね」
 玄徳様の感想に、皆、それぞれの表情で頷く。
 おれも間近で見た曹孟徳の姿を思い起こして、小さく頷いた。覇気が顕現したような、あの少女は、今後の中華帝国の動乱の中心に位置するようになるのだろう。おれの知る歴史ではそうなっていったし、そういった知識がなくとも、1度でも間近で曹操と会った人間であれば、その確信を抱くのはさほど奇異なことではあるまい。


 だが、さしあたって焦眉の急となるのは、遠くの歴史ではなく、近くの難民である。
 洛陽が大火に嘗め尽くされ、都市としての機能が半壊状態となった今、数十万の民衆が洛陽城外に焼け出されているのである。
 これには、諸葛亮や鳳統にも成す術がなかった。
 無論、出来る範囲で炊き出しを行ったり、あるいは怪我人の手当てをしたり、といったことは行ったが、全体から見れば本当に微々たるものに過ぎない。
 すでに食料の不足は深刻な状態にあり、一部では疫病の発生も囁かれだしている。
 本来はこういった時こそ、国の出番なのだが、後漢王朝は倒壊したも同然であり、その代理を務めるべき諸侯にしても、自分の領地なら知らず、洛陽の民衆のために資金や糧食を供与しようとする者は少数派である。何より、諸侯にしたところで、余分な物資など持っていないのだ。下手にそんなことをすれば、今度は自分の軍勢を飢えさせる結果になってしまう。
 それは劉家軍も同様だった。
 これ以上、自軍の物資を難民に与え続ければ、兵士たちが飢えにさいなまれることになる。そして、それを覚悟の上で行ったところで、500の兵士を支えるだけの物資が、数十万の難民に対してどれだけの効果を挙げられるかは、甚だ疑問であった。
 何より、そんなことをすれば、劉家軍はここで滅びる。どれだけの大義を掲げようと、飢えを強いるような将についていく兵がいるはずもなかった。


 劉家軍の陣は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
 皆、さきほどから口を開こうとしない。その顔には疲労の色が濃かった。
 中でも、玄徳様はここ数日で明らかに憔悴の色を深めていた。
 玄徳様の性格を思えば、それも仕方のないことかもしれない。悪政に苦しむ洛陽の民を救いに来たというのに、実際には何1つできないという現実。それも、自分が一緒になって苦しむならば、まだ自身への言い訳のしようもあったろうが、玄徳様はじめ劉家軍の将兵は、まだ飢えるには至っていないのである。


 もっとも玄徳様は、自分の食事をこっそり難民の子供たちに分けてあげているため、ここ数日は満足に腹を満たせていないことを、おれは知っていた。いや、おれだけでなく、この場にいる面々は皆知っているだろう。
 本来ならば、おれたちはそれを止めなければならない。玄徳様が一時の情で倒れれば、平和をもたらすという大志そのものが失われてしまうから。そして、巻き起こる戦乱は、大陸全土で、今の洛陽と同じ状況を生み出していくだろう。
 それを食い止めるためにも、今はわだかまりを捨てなければならない時なのである。たとえ不公平であろうとも、心が痛もうとも、目の前にお腹を空かせた子供たちがいようとも、自分たちが倒れれば何もできないのだから。おれはそう思っていたし、またそれは正しいとは言えずとも、決して間違ってはいないはずだ。


 ――とはいえ。
 正しいか否かは別にして、それが机上の空論であることを、おれは学んでいた。
 というか、目の前で子供たちがお腹を空かせて泣いているのに、自分だけはこっそりご飯を食べるなんて出来ないって、いやほんとに。
 というわけで、玄徳様以外の腹の虫も、あっちこっちから響いていたりするのだ。
 ――これが自己満足なのだ、ということは理解している。何故なら、劉家軍の目の届かないところでは、なお泣いている子供たちがいるのだから。おれたちがやっていることは、ただ少しの難民と、自分たちの心を慰めるだけの行いに過ぎないのである。
 だが。
 偽善と言いたい者には言わせておこう。
 目の前の子供の涙すら拭えない人間が、大陸の平和を語ることはできないのだと、そう思う人間が劉家軍には集ったという、これはただそれだけの話なのだと、おれはそう思うのである。
 




「んふふ、なるほどねえ。それがあなた達のやり方、ということなのね」
 野太い声が、卓の沈黙を破る。
 その声を聞くたびに、身体に走る震えは何ゆえか。
 発言の主を見て、誰も問い返そうとしないので、仕方なくおれが口を開いた。
「そういうこと。何か言いたいことがあるのか、貂蝉?」
「ないわけではないけれど、すでにあなた達も理解していることだから、あえてここで、わたしの口から言う必要はないでしょう。ねえ、月ちゃん。詠ちゃん」
 声をかけられた2人――董卓と賈駆はそれぞれの表情で頷いた。
「はい……それに、こんな事態になった責任は、私にありますから……」
「私、じゃないでしょ、月。月は何も知らなかった。洛陽を荒廃させたのは、ボクがやったことだよ。月の所為なんかじゃない」
「でも、詠ちゃんがそんなことをしたのは、私を助けるためだったんだよ。何より、私は君主なんだから、董卓軍の名において行われたこと全てに対して、私は責任をとらないといけないの。そう教えてくれたのは、詠ちゃんだよ?」
 その言葉に、賈駆が小さく呻く。それは確かに、賈駆が言った言葉なのだろう。
 だが、それを認めれば、賈駆は自分の行動の責任を董卓に押しかぶせることになる。それは王允たちがやったことと何の違いがあるというのか。
 賈駆はそう思っているのだろう。ここ数日――いや、宮中で貂蝉に助けられて以来、ずっと董卓と話し合いを続けているようだった。


 すでにおれたちは、董卓たちから今回の事態の裏面を説明されていた。
 そのため、董卓の面に浮かぶ悲哀も、賈駆の焦燥も、理解できている。
 言葉もなく、2人の様子を見つめるばかりであったが、ここで貂蝉が大きく2回、手を打った。
「ほらほら、年頃の乙女が、そんなくら~い顔をするものじゃないわ。少なくとも、今ここで延々話をしたところで、何の解決にもならないのよ」
 貂蝉の言葉に、2人はうなだれるように俯いた。
「それに玄徳ちゃんたちも、そんな憂鬱そうな顔をしてちゃ、ダ・メ♪ 為すべきことを決めたのなら、後は自分が選んだ道を駆け抜ければ良いの。振り返ったり、立ち止まったりしたところで、物事が良くなることなんて滅多にないんだから」
 ね、と貂蝉はおれに向けてぱちりとウィンクする。
 貂蝉の言わんとしていることを察し、おれもそれに同調する――ウィンクで一瞬怯んだのは不可抗力です。
「――だな。ここで暗くなってても、何も解決しないのは確かだしな」
 たとえ空元気とわかっていても、ここはあえて吹っ切れたような明るい声を出す。一介の義勇軍に、数十万に喃々とする難民の救済方法などあろうはずもないが、ここでその現実を慰めあったところで、建設的な案が生まれるはずもない。
 それは、おれのみならず、玄徳様や関羽らも了解するところであった。
「――うん、そうだね。少しずつでも、できることをしていくことしか、今の私たちにはできないんだもんね」
「そうですね。では、私は鈴々と共に民たちの様子を見てくることにします。窮状に耐えかね、粗暴な行いをする者は後を絶ちませんから」
「お腹が空けば、いらいらするのは当然なのだ。けど、だからって弱いものいじめをして良い理由にはならないのだ」
 張飛はそういうと、勢い良く立ち上がり――そのお腹から盛大に空腹を訴える音が鳴り響いた。
 そして、へにゃへにゃと地面にくず折れる猛将 張益徳。 
「うう、でもお腹は空いたのだ」
「天下無双の豪傑も、空腹には勝てないんだな」
 ぽつりと呟いたおれのひと言を聞き、鳳統がくすりと笑みをもらした。それにつられたように諸葛亮が微笑み――やがて、卓の周囲には笑い声が弾けた。


 笑っている場合ではない、というのは皆わかっていた。
 玄徳様が大志を抱こうと。
 関羽や張飛が勇猛を誇ろうと。
 諸葛亮や鳳統が叡智を備えようと。
 目の前にいる民たちを救うための糧食も資金も、おれたちは持っておらず、それはどれだけの才能を結集しようとも、どうにもできないことだった。無い物は無いのである。
 それでも、俯いているよりは、前を見て笑っている方が良いに決まっている。笑みを浮かべる余裕があれば、良い案も生まれるに違いない。
 ほら、言うじゃないか。「笑う門には福来る」と。
 おれは笑い声をあげながら、そんな風に考えていた。


 だが。
 現実は非情であり。
 希望は儚いものである。
「申し上げます。劉将軍にお会いしたいと仰る方々がおみえなのですが、いかがいたしましょうか?」
 報告の兵士の声に、関羽は声に厳しさを滲ませた。
「報告はきちんとせよ。誰がどのような用件で会いに来たというのだ?」
「そ、それが、雑兵に話す必要はない、と仰られていて……ただ、官服を身に着けておられましたから、おそらく諸侯軍のどなたかではないかと推察いたします」
「名乗りもせずに、我らが主に会いたいなどと、無礼な! そのような怪しげな輩、桃香様に近づけられるものか」
 相手の礼のない態度に、関羽は怒り心頭に発している。
 それは全面的に同意するのだが、官軍の者をすげなくあしらったとあっては、後日、厄介ごとの種になりかねないだろう。おれや諸葛亮たちにそう説得され、関羽はしぶしぶではあったが、訪問者をこの場に連れて来るように命じた。





「ここが劉家軍とやらの陣か。なるほど、雑軍らしい粗末なものだな。その雑軍が、我ら州牧の跡継ぎを待たせるとは――多少の手柄をたてたからといって、増長したか」
 天幕に入るや、そう面と向かって言い放ったのは、陶応。
「やめよ、応。無官の将に、礼節を要求するのは無理というものだ」
 その陶応をたしなめる振りをしながら、こちらを侮蔑してくれたのは陶商。
 徐州の牧である陶謙の子息だと名乗る2人の様子を見て、おれは深く、ふかーくため息を吐いた。
 なんだ、笑っても福なんか来ないじゃないか。


 だが、おれの認識は、この時点ではまだ甘かった。否、むしろ甘すぎるぞばかやろう、と自分を殴りつけてもいいくらいだった。
 相手の話を聞くにつれ、おれは関羽を説得したことを本気で後悔し始めていた。
 しかし、神ならぬ身に、この展開を予測しろ、というのはいくらなんでも無理だと思います。だからそんな眼で睨まないで、関将軍。
「……つまり、私たちに、陶州牧の軍に加われ、ということですか?」
 わなわなと震えながら、関羽が確認をとる。
 その背に鬼神を見る思いなのは、おれだけではない。この場にいる全員が同じことを思っていただろう。ああ、馬鹿息子2人は除いて、だが。
 その馬鹿息子の弟が、再度、先の発言を繰り返す。あえて聞こえなかった振りをした関羽の心中を慮る様子もない。光栄のあまり、聞き漏らしたとでも思ったのかもしれない。
「それだけでない。我らが父はそなたらの武勇を高く評価しておる。くわえて、そなたとそなたの主は、なかなかに器量が良い。さすがに平民を妻に迎えることはできぬが、2人は側女として我ら兄弟に仕えることを許そう。そなたらにとっては望外の幸福であろう」
 そういって、陶応は好色そうな視線を、玄徳様と関羽の身体に走らせた。


 ――つまりは、そういう申し出だった。
 婚姻によって有力者と結びつこうとする方策は、日本でも中国でも珍しくはない。身分の高い者の中には、女性とはそういうものなのだ、と考えている者もいるのだろう。
 おれは男女同権をうたう世界から来た上に、当初から、張姉妹や玄徳様たちのような個性の強い女性たちと出会っていたから、どちらの世界であれ、女性蔑視という偏見は持っていなかったが、実際、劉家軍の中にも、軍を率いるのが、玄徳様や関羽といった女性であることに不満を持つ者は少なからずいたのである――もっとも、そういった者たちは大概、すぐに立ち去るか、訓練から逃げ出すかで姿を消したが。
 まして、劉家軍の外を眺めれば、まだまだ女性の身分は低いものであることを悟らざるをえない。曹操や孫堅、あるいは馬騰といった女性の君主というのは稀有な例なのである。
 だからして、陶謙の息子たちのような申し出をする者がいることは、決して不思議なことではなかった。なかったが、しかし、せめて言って良い相手と良くない相手を見抜く眼力くらいは持ってろよ!
 おれは心中で思わず、そう叫んでいた。
 怒り狂う関羽を前に、平然とそう言ってのけるあたり、陶応が女性を対等の人間として見ていないことは明らかだった。
 女性が男性に刃向かう、ということが理解できないからこそ、相手が怒っているということがわからないのである。
 そして。
 いかに相手が州牧の子息であろうと、関羽がこの手合いに遠慮する筈がなかった。ましてや玄徳様を愚弄するような相手の態度を、許す筈がなかった。


 正しく神速。
 瞬きすらせぬ間に、関羽の青龍刀が陶応の喉元に擬せられた。
「……なッ?!」
 数秒の後、ようやく事態に気づいた陶応が驚愕の声を発し、関羽の無礼を咎めようと口を開きかけたが。
「……ひッ」
 真正面から相手の目を見て、陶応は小さく悲鳴をあげた――ようやく気づいたのだろう。自分が竜の逆鱗に触れた愚かな人間であるということに。
 言葉を失った弟に代わり、兄が口を開く。
「ま、待たれよ。自分が何をしているのか、理解しておるのか?!」
「ええ、この上なく正確に。私自身に対する侮辱は措きましょう。しかし、我が主桃香様にたいする侮辱は許しがたいのですよ……貴公らの死を以ってしか償えないほどに」
 それは、かつておれが1度も見たことがないような、冷たい怒りに満ちた関羽の姿だった。
 その姿を見て、関羽の行動が、1州を支配する陶謙を敵にまわすことを理解した上でのものであることを、陶商は悟らざるを得なかった。
 落ち着こうと務めながらも、声が上ずるのを抑えることができない。
「そなただけではない、この場にいる者全てが同罪となるのだぞ。それでも良いのか?!」
 陶商は周りを見渡すが……返って来たのは、関羽と同質の視線と感情であった。
 無論、皆、本気ではない。いまだ陶応の首がつながっている時点で、劉家軍の面々は関羽の狙いを察してはいたのである。
 だが、本気ではなくとも、その感情は真に迫ったものであった。陶応の言に腹を立てているのは、関羽だけではないのだ。
 そして、他者の感情を推し量ろうともしない者たちに、その機微が理解できるはずもなく。
 陶姓の兄弟は、自分たちが思いもよらない窮地に立たされたことを、ようやく実感したのであった。





 そんな、うろたえる兄弟に救いの手を差し伸べたのは、新たに天幕に入ってきた人物であった。
「――愚息の無礼は、この老父がいかようにもお詫びするゆえ、そこまでにして頂けませぬかな」
 緊迫感に満ちた空気の中、姿を現したのは、老年に差しかかった年頃の男性であった。
 その背後には数名の文官が続いている。
 その台詞から察するに――
「劉家軍の勇士らには、初めてお目にかかる。徐州の牧 陶恭祖と申す。愚息の礼を失した行い、まこと申し訳ない。許しがたいところではあろうが、どうかこの老骨に免じて、寛恕を賜れぬだろうか」
 そう言うや、陶謙は玄徳様に向かって深々と頭を下げたのである。
 これには、玄徳様のみならず、関羽も驚いた。
「ひゃッ?! あ、あの頭を上げてください、わ、私、そんなに気にしたりはしてないので! ほ、ほら、愛紗ちゃん!」
「むう……本当なら、もうすこし灸を据えてやりたいところなのですが」
 関羽はそう言いつつも、玄徳様の言葉に応じて、青龍刀を引っ込めた。


 陶謙はそれを見て、小さく息を吐く。
「かたじけない。そして、重ねて無礼をお詫びする。愚息が貴殿らの陣に向かったと聞き、慌てて参じたのであるが……手遅れであったようだ」
 そういう陶謙に噛み付いた者がいる。たった今、救われたばかりの息子であった。
「父上、何をのんびりと! この者らは我らに刃を向けたのですぞ。ただちにひっとらえて、八つ裂きにしてやらねばなりません!」
「応の言うとおりです、父上。孫乾たちも、何をぼんやりとしているのだ。早くこの者どもを捕らえよ」
 陶謙は、遣る瀬無さそうに力なく首を横に振ると、背後の孫乾たちに、目顔で促した。
 心得た孫乾らは、兄弟を囲むようにして天幕の外に連れ出してしまう。2人とも、何か騒ぎ立てていたが、彼らを気にかける者は、もうこの場にはいなかった。


 陶謙は、この場で息子たちが何を口にしたのかを聞くと、改めて頭を下げ、その無礼を詫びた。
「あれらは、戦場というものを知らぬので、貴殿らの勲の意味が理解できぬ。れっきとした将を前に、側女に、などとその場で切り捨てられていても何らおかしくない暴言じゃ」
 ただ、と陶謙は言葉を続けた。
「わしが、貴殿らを高く評価していたというのは、真のこと。未だ定まった官位もなく、領地も持たぬと聞き、かなうなら、我が徐州にお招きしたいものと考えておったのじゃが……」
 陶謙は疲れたような、力ない笑みを浮かべて、首を横に振った。
「愚息のあのような醜行を前にしては、そのようなこと、望むべくもありませぬな。許して頂けただけで大慶と申すべきことじゃ」
 そう言うと、陶謙はさらばと告げて、背を丸めて出て行ってしまった。


 うーむ、実に礼を知る人だ。どうしてあんな父から、あんな兄弟が生まれるのだろう。謎だ。
 おれがそう言うと、皆、うんうんと賛同の意を表した。





 ところで、もしかして、今のは陶謙が徐州を劉備に譲る歴史に関わるやり取りだったのだろうか。
 状況的に、まだその時期はずいぶん先の話だが、すでにこの時期に曹操が皇帝を擁したという点からして、タイムスケジュールは大きく異なっているし、やはりおれの知る歴史の知識は、大して役に立ちそうもないな。
 よくよく考えてみれば、まだ黄巾の乱だって終わってはいないのだ。運良く、連合軍と董卓軍とが戦っている最中は動きがなかったようだが――そこまで考えて、おれは一瞬、嫌な予感をおぼえた。
 考えるまでもなく、今回の戦いは、黄巾賊にとっては、絶好の機会であった筈である。各地の諸侯が精兵を率いて国を出たのだから、賊徒にしてみればやりたい放題だろう。無論、各々、守備の兵力は残しているだろうが、それでもじっとしている理由はどこにも見当たらない。
 そして、黄巾党に属していたおれは、黄巾党がただの賊にとどまらない規模の組織であることを知っていた。兵士たちへの、張姉妹への崇敬は空恐ろしいほどだし、それらを束ねる将軍たちも、決して無能ではない。この機会を利用しようとしない筈はないのだ。


 だが、実際、黄巾党はさしたる動きを見せなかった。
 動かなかったのか。それとも、動けなかったのか。
 動けなかったとしたら、何ゆえに?
 例えば、内部で主導権争いをしていて、それどころではなかった。
 例えば、大規模な蜂起に備え、準備に余念がなかった。
 例えば、連合軍、董卓軍が本格的にぶつかりあい、互いに深い傷を負うのを待っていた。  
 あるいは――その全て……




 この日の夕刻。
 河北に領地を有する諸侯のもとに、次々と国許から急使が来た。
 そして、彼らは皆、一様に同じ報告を届けたのである



 黄巾党、河北諸州にて一斉に蜂起。
 次々と砦を抜き、城を陥とし、その猛攻、沖天の勢いたり。
 速やかなる帰国を願う。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/11 22:33



 

「ぬわあんですってーーーー!!!」
 連合軍の本陣に、総大将袁紹の叫びが響き渡る。
 所領に残してきた部下たちから、黄巾賊蜂起の報告が、悲鳴まじりにもたらされたからである。
 黄巾賊は冀州を中心として、幽州、青州で一斉に兵を挙げ、各地の城に次々と襲い掛かっていった。その兵力は冀州のみでも15万を越えると言われ、今回の蜂起で動員された兵力すべてをあわせれば、30万に達する勢いであるという。
 当然、各地の官軍は大混乱に陥った。ことに袁紹の所領では、主力が遠征に出ているため、雲霞のごとき黄巾賊の大軍に対して、官軍は為す術がなく、ほとんどの領主たちは城に篭って敵を防ぐのが精一杯の状況であった。
 とはいえ、これまでであれば、賊徒の大軍の攻撃に晒された場合、城に篭るその対応が最善の策といえた。敵は大軍といえど、勢いだけの賊徒。糧食も乏しく、城攻めをするだけの資材も技術もない。それゆえ、城に篭った官軍に対して、多くの場合、賊は手をこまねき、食料の欠乏を補うために周辺の村々への略奪にはしり、軍としての統制を失う。そこを官軍が衝き、賊徒を敗退させる、というわけである。
 だが。
 今回、蜂起した黄巾賊は、どこから入手したのか、糧食はもとより、大型の城攻兵器さえ備え、次々と官軍の城を陥落させているらしい。
 すでに黄巾賊の主力は冀州の要衝である平原郡を掌握し、さらに袁紹の本城である南皮城を陥とさんとする勢いであると聞き、袁紹はあまりの事態に叫ばざるを得なかったのである。


 賊徒に所領を奪われ、本拠地さえ危険に晒されるという屈辱をうけ、わなわなと全身を震わせる袁紹の前に、1人の文官が歩を進める。
「袁将軍」
 天幕内の燭台の明かりをそのまま照らせそうなほど、見事な艶を発するこの坊主頭の男性こそ、姓は田、名は豊、字を元皓。多彩な人材を擁する袁紹軍において、文官の頂点に立つ稀代の軍師である。
「事態は急を要します。早急に軍勢をまとめ、冀州に軍を返すべきかと」
「……まだ、曹操が戻ってきていませんわ」
「――袁将軍、このままでは我らは本拠地を失ってしまいまする。仮に曹操と矛を交え、皇帝陛下の身柄を得ることができたとしても、拠って立つ地盤を失ってしまえば、我らが軍は洛陽の地に溶けてしまいかねませぬぞ」
「ま、まだ地盤を失うとは決まっていませんわ。まだ南皮には審配に沮授に、郭図もいるのです。そうですわ、高覧や張恰も南皮にいた筈。文醜さんや顔良さんほどではないにしても、2人ともなかなかの武将。賊軍ごときに敗れる筈はないですわ!」
 袁紹は部下の名を口にしているうちに平静を取り戻してきたらしい。その口調には、常の権高な様子が戻り始めていた。
 だが、田豊は袁紹に追随せず、厳しい表情を崩さない。
「確かに南皮城は堅固な城壁を備え、そこに篭るは袁家屈指の将帥です。本城が陥とされることは、おそらくないでしょう」
「そうでしょう! ならば、心配は要りませんわ。曹家の小娘とじっくり……」
「――しかし!」
 何事か主張しようとする袁紹の台詞を、田豊は強い口調で遮った。
「留守居の者たちとて、たかが2万や3万の軍勢では本城を守るだけで手一杯でしょう。10万を越える賊徒が、南皮以外の地域に侵攻を始めれば、それを止める手立ては彼らにはありませぬ。現に、平原はすでに敵の手中に落ちております。南皮以外の全ての領地が、黄巾賊の大軍に蹂躙されてしまえば、本城のみ安泰であったところで、何としましょうや」
「そ、それは……」
「領民を守るは領主の務め。それを放棄した董卓軍の末路は将軍もご覧になったばかりの筈。曹操に陛下の身柄を委ねるは、たしかに危険なことではございますが……今は、それよりも黄巾賊を冀州から追い払うことを優先すべきでありましょう――麗羽様、ご決断を」
 田豊は、滅多に使わない袁紹の真名を、ここで口にした。


 強い態度と口調で押して来る田豊の舌鋒を前に、袁紹は反論できずに黙り込むしかなかった。
 袁紹とて、田豊の言の正しさがわからないわけではない。というより、田豊が主張するより早く――冀州からの報告を聞いた時点で、すでに袁紹の脳裏には「退却」の文字が瞬いていたのである。
 だが。
 それを素直に受け容れられなかったのは、悔しさの為。ここで軍を返せば、残った曹操が主導権を握り、連合軍と、その戦果を独り占めにすることだろう。袁紹はそれが我慢ならなかったのである。
 無論、個人的な感情だけではない。曹操を小娘と呼び捨てつつ、実はその実力を無意識のうちに認めている袁紹は、現在の曹操の隆盛を放置すれば、後々の大患になるということを本能的に察していたのだ。
 そして、そんな袁紹の心理を、この場にいる人々――文醜、顔良、田豊――はしっかりと悟っていた。真名を許されるということは、そういうことなのである。
 しかし。
「麗羽様、元皓のおっちゃんの言うとおりじゃないですかね?」
「そうです。悔しい気持ちはわかりますけど、ここは一刻も早く冀州に帰るべきです」
 それでも、今、この時、他に採るべき策はなかった。
 ここで選択を誤れば、袁紹軍は存亡の淵に立たされることになるとわかっていたからである。


 そして、袁紹はそういった部下の提言が届かないほど無能な主君ではなかった。もし袁紹が自分の感情を全てに優先するような主君であれば、袁家の勢力がこれほど大きくなることはなかったであろう。
「……仕方ありませんわね」
 ぼそりと呟く袁紹。
 田豊らはそれを聞き、それぞれに安堵の表情を浮かべた。
「では、早急に帰路を策定して参ります」
 田豊はそういうと、速やかに立ち上がった。その脳内には、すでに膨大な量の情報が入り乱れ、最も利の多い帰路の選別に入っている。ただ軍を返すだけでは芸が無い。ここは留守宅に押し入った黄巾賊の心胆を寒からしめるものにしてやらねばなるまい。
 その田豊の後ろに、袁家の2大将軍が続く。
「じゃあ、あたしと斗詩は軍勢をまとめてきますよ」
「麗羽様はご自分の支度をしておいてくださいね」
 顔良の言葉に、袁紹が露骨に顔をしかめる。
「ふん! 顔良さん! 子供ではあるまいし、そのようなこと、いちいち言わないで結構ですわ!」
「す、すみませーん」
 その顔良に、文醜は小声で囁く。
「斗詩、今の麗羽様に余計なこと言うなよ。こっちまでとばっちりが来るだろ」
「文醜さん! 何か言いまして?!」
「な、何にもいってないですよー。ほら、斗詩、早くいくぞ!」
「ああ、文ちゃん、待ってよ~」


 慌しく天幕から出て行く2人。
 独り残った袁紹は、ここにはいない相手に向かって悪態をついた。
「ふん、曹操さん、今回はあなたに手柄を譲ってさしあげますわ。もっとも、いずれ利子をつけて返していただきますけどね。逆境を乗り越えることで、この袁本初はますます輝きを増していくのですわ!」
 おーほっほっほ、と高笑いが響く。それは袁紹のいる天幕を中心に、軍全体に届くかと思われた。


 そして。
「おい、また袁将軍が笑ってるぜ」
「南皮がやばいって聞いたけど、大したことなかったんか?」
「そうじゃねえかな。さすがに本拠地が危ないってのに、笑う奴はいないだろ」
「なんだ、じゃあ誤報か?」
「そうとも限らないが、まあ、将軍には成算があるんだろ。おれたちはこれまで通り、将軍についていけば良いさ」
 そうだそうだと頷き合い、彼らは黄巾賊蜂起の報に浮き足立っていた自分たちを戒めるのであった。


■■


 黄巾賊蜂起の報告は、当然ながら幽州に所領を持つ公孫賛の所にまで届けられた。
 公孫賛にしても、事情は袁紹と変わらない。本拠地である易京城は容易く陥落することはなく、その点に対して心配はいらないが、手をこまねいていれば、易京城以外の地を黄巾賊に蹂躙されてしまうだろう。
 公孫賛は即座に決断する。
「全軍、遼西に帰還する」
 中央の政情――董卓軍や漢帝の動向、そして曹操の今後の動きなど、気にかかる事柄は幾らも残っているが、何よりも優先すべきは太守として治めている領地の安全である。
 この点、公孫賛は袁紹よりも頭の切り替えが早かった。
 ただちに部隊長たちの下に帰国の命令が下され、公孫賛軍は慌しく動き始めたのである。





 当然、劉家軍にも公孫賛からの通達はやってきた。
 だが、劉家軍は公孫賛軍ほど素早く行動することができなかった。玄徳様が帰国の決断を下すことを躊躇ったからである。
 原因は、言うまでも無く、住む所を失った洛陽の難民たちにあった。今、連合軍が帰国してしまえば、彼らを洛陽の城外に捨て置くも同然である。今でこそ、わずかではあっても諸侯から物資の供与がなされているが、諸侯がいなくなれば、彼らはそのわずかな糧すら失ってしまうのである。
 飢えは弱い者たちから容赦なく命を奪う。残された者たちが自棄に陥り、暴徒と化すのは目に見えていた。それこそ、第2の黄巾賊を生み出すに等しいことであろう。
 もっとも、例え劉家軍が残ったところで、その流れを変えることは万に一つもできはしない。それは玄徳様自身も承知しているのだろう。もし、民衆の暴動に巻き込まれたら――いや、この地に残れば、間違いなく巻き込まれるだろう。そして、その結果は言うまでもあるまい。戦う術を持たない草食獣であっても、群れが暴走すれば、肉食獣を容易く蹴散らしてしまうものだ。
 そして、それも玄徳様は理解している筈だ。だから、後は決断を下すだけ。
 金も食料もなく、領土も官位もない雑軍には、民を救う力はないのだと認め、この地から逃げ出す決断を下すだけだった。


 だが、もちろん、面と向かってそんなことを言える筈もない。
 そして、言う資格もおれは持っていない。
 公孫賛軍が帰国の準備で騒然としている中、劉家軍は昨日までと同じように、難民たちと共に様々な作業に従事していた。
 狩りで獣肉を得たり、河に魚を釣りに行ったり、あるいは森から木を切り出し、雨露をしのげる小屋を作ったりと言った具合である。
 そして、玄徳様はいつものように子供たちと楽しげに遊んでいた
「げんとくしゃま~」
「げんとく、あそぼーぜー」
「あうう、服引っ張っちゃ駄目だってばー! 遊ぶ、遊ぶからやーめーて~!」
 ――訂正。子供たちに楽しげに遊ばれていた。
 おれは一応、護衛の名目で玄徳様と行動を共にしている。護衛といっても、おれの腕などたがが知れているが、いないよりはマシ、といったところである。
 もっとも。
「かずともこっち来いよー!」
「お兄ちゃん、またあれやって、あれ~。肩ぐるまー」
 お子様軍団はそんなこと関係なく、容赦なくおれをも遊びに巻き込もうとする。そして、それに対抗するのが不可能であることは、日本でも中国でも変わらない。
「よーし、じゃあ今日は誰から肩車しようか?」
 おれー、ぼく、わたし~、と自分の顔を指差しながら、一斉に主張する子供たち。
 おれは最初に肩車をせがんだ女の子を抱き上げ、肩の上に乗せてあげる。
 頭の上から、甲高い子供の歓声が響きわたった。同時に、足元からは更なる催促の叫びが木霊する。活気に満ちた騒々しさは、しばらく続きそうであった。


「あうう、つ、疲れたよー」
「お疲れ様です」
 両膝をついて、地面に座り込む玄徳様に、おれは苦笑まじりにねぎらいの言葉を発する。
 こんなときではあっても、子供たちの体力は大したもので、おれも玄徳様も振り回されっぱなしであった。
 とはいえ、田舎の甥っ子姪っ子とのやりとりで子供に慣れているおれは、彼らとの付き合い方のコツも、玄徳様よりは心得ている。心身ともに疲れ果てている玄徳様よりは、まだ余裕があった。
 その子供たちも、今は子供同士での遊びに興じており、おれたちには目もくれない。現在の状況は厳しいものだが、今、この時、この場には、穏やかな空気がたゆたっていた。
 その空気に浸りつつ、ぼんやりと子供たちに視線を投じていると、不意に、ぽつりと玄徳様が呟いた。
「幽州に帰るってことは、あの子たちを放り出して行くってことなんだよね」
「……そういうことになりますね」
 唐突な言葉に、おれは一瞬、言葉に詰まったが、ここでおためごかしを言っても仕方が無い。やむなく肯定の意をあらわす。
 玄徳様は訥々と言葉を続けた。
「――わかってはいるんだ。私たちがここに残ったって何もできないってことは。それに、今、黄巾賊が暴れてる場所にだってたくさんの子供たちがいて、戦う術を持たない人たちが虐げられているってことも。本当なら、ここでこんな風にしている場合じゃないんだよね……」


 ――玄徳様はぽつりぽつりと内心を語り出す。
 おれは時折、小さく相槌を打つ以外は、特に自分の意見を言おうとはしなかった。玄徳様はおれに答えを求めているわけではなく、自分の気持ちを吐き出すことで、考えをまとめようとしているのだとわかったから。
 やがて、玄徳様は大きく手足を広げて、大の字になって寝転がった。
 むむ、花も恥らう乙女がその格好はどうかと思うんですが……おれが視線をあさっての方角に向けながら、何というべきか悩んでいると、玄徳様が寝転がった格好のまま、なんだか吹っ切れたような、張りのある声をあげた。
 あー、悔しいなあ、と。
「――玄徳様」
「こんな時、何にもできない自分の力の無さが、すっごい悔しいよ。助けたいって、何とかしたいって思う気持ちだけじゃ、何一つできはしないんだよね」
 その言葉に、おれは咄嗟に首を横に振っていた。
「そんなことは、ないと思いますよ」  
「――そうかな?」
「はい」
 確かに、根本的な問題を解決することはできないだろう。でも、何一つできないわけではない、とおれは思う。
 おれは視線を転じて、遊びに興じている子供たちを見た。
「――だって、あの子たちが、笑顔で遊ぶことができるのは、玄徳様がここにいるからでしょう?」
 不足ではあっても、不公平と言われても、玄徳様がこの付近の難民に劉家軍の糧食を提供したからこそ、彼らは未だ飢えを知らず、遊ぶことが出来ているのである。
 玄徳様がここにいて、一緒に遊んであげたからこそ、彼らは今も笑顔なのである。
「たとえ、それが一事凌ぎなのだとしても。根本的な解決にはならないにしても。それでも玄徳様はご自分に出来ることは一生懸命やっていると思います。何一つできないなんて、そんなことはないですよ」


 時折、思うことがある。
 本当に大切なものは、実はすぐ近くにあって、手を伸ばせば届くものなのだ、と。
 何故そう思うのか。
 それは、実際にそれをしている人が目の前にいて――その人は人並みはずれた武勇も、優れた智略の持ち主でもない、普通の女の子だからである。だからこそ、それは誰にでも出来ることなのだと――手を伸ばせば届くところにあるのだと――そう思えるのだ。
 そんなことを口にすると、玄徳様は機械仕掛けの人形のように、ぎくしゃくした動きで上体を持ち上げ、何故か正座して、おれの顔を見上げてきた。
「ど、どうしました、玄徳様?」
「ううん。そんなこと言われたの、はじめてだから。なんだか、その、緊張したというか、そんな大したことをしているわけじゃないというか……」
 はうー、と慌てふためく玄徳様。
 ――なんというか、照れてる様子がめちゃくちゃ可愛いです。思わず魂抜けそうなくらい。戻れ、我が理性。
 おれはかろうじて意識を繋ぎ止めつつ、口を開く。
「玄徳様にとっては、きっと当たり前のことなんですよね。わかってるつもりです――だから余計眩しいんですよ、おれにとっては」
 台詞の後半は呟くような小声になってしまったので、玄徳様には届かなかったかもしれない。
 玄徳様はおれの言ったことの意味が理解できないのか、小首を傾げているが、そこはごまかそう。玄徳様の前で、はきつかない自分の迷いを吐露したところで意味はない。これは、おれが自分で考え、答えを出さないと意味を持たないものだろうから。






「ん?」
 不意に、大きなざわめきが起きたので、おれはそちらの方角に目を向けた。
 驚いたことに、難民たちが何処かへ移動しようとしているではないか。それも1人、2人ではなく、何百という人が一斉に、である。
 おれと玄徳様は顔を見合わせた。何が起こったのだろうか。
 すると、遊んでいる子供たちを迎えに来た人がいたので、その人たちを掴まえて訊いてみることにした。
 そして、その人たちの口から、驚くべき言葉を聞いたのである。


■■


 劉家軍の天幕の中。
 突然の民衆の行動に驚いた面々が集まった卓で、おれは先刻、聞いた情報を皆に知らせた。
 すなわち――曹操が洛陽の東南に位置する許昌へ大規模な城市を建設しており、その住民の受け入れを開始した、という知らせを。
 それはつまり、許昌へ行けば、住む所も、食べる物も与えられるということであり、双方を失った難民たちが許昌を目指して移動しはじめたのは当然と言えた。


 諸葛亮が、困惑しつつ、疑問を述べる。
「何十万という民を受け容れるに足る都市――曹将軍は、どこからその開発資金を得たんでしょうか。曹操軍は、陳留の張太守の軍が主力と聞きましたけど、財政面でもそちらの協力を得ている……?」
 後半は、自問するような調子で、諸葛亮は考え込む仕草を見せる。
 鳳統も首を傾げている。
「陳留は貧しい都市ではないけれど、一太守の資金で、都市1つ建てられるほど豊かではないはずだよ。まして、1万を越える軍隊を組織したばかりなんだから……」
 そこから別途、都市建設の費用を捻出するなど不可能である。鳳統はそう言い、それには諸葛亮も同意したのである。


 2人の疑問の答えはおれが持っていた。
 曹操は衛弘という大富豪の協力を得ていたのである。
 衛弘は元々張孟卓の配下であった人物だが、思う所あって野にくだり、商人となった人物である。その商才は卓越しており、数年のうちに陳留でも屈指の豪商となり、10年を経た頃には、天下でも指折りの大富豪となっていたという。
 その衛弘が、曹操の為人を見込んで全面的な援助をするようになった理由は不明であるが、聞けば、衛弘も女性であるというから、なにがしかの夢を、曹操に託したのかもしれない。
 いずれにせよ、衛弘の全面的な協力を得た曹操は、しかしそれを軍に活かそうとはしなかった。もし、その資金を以って兵を集めていたら、曹操軍は今の倍を数えていたに違いないが、曹操は軍事に関しては陳留の物資で賄い、衛弘の協力を別の方面で活かすことにしたのである。
「――それが、許昌の建設、ということか」
 関羽が唸るような声を絞り出す。
「はい。曹将軍の配下にいる荀彧という人物が都市建設の全面的な指示を行っているとか。まだ着工して間もないため、都市自体の完成はしばらく先になるそうですが、すでに噂を聞いた周辺の住民の中からも、許昌を目指す動きがあるそうです」
 なぜ、おれがこんなに詳しいかと言えば、許昌から来たと思われる者たちが事細かに説明してくれたからである。
 特に最後の部分を聞いた洛陽の人々は、遅れてはならじと、大急ぎで移動を開始した、ということらしかった。


「なんとも、恐るべき人ですね、曹孟徳という人は」
 感嘆を通り越して、恐ろしささえ感じつつ、おれはそう口にした。
 大規模な都市建設など、一朝一夕で動き出す計画ではない。前々から――それこそ、連合軍が動き始める以前から、水面下で動いていたのではないだろうか。
 何のために? 皇帝を奉戴する新たな拠点とするために決まっている。洛陽の大火は後漢の帝都を失わしめたが、曹操から見れば、新帝都移転のための苦労がなくなったということでもある。おまけに、難民の受け入れをすることで、名声も上がり、人材の確保も有利に進むだろう。
 本来であれば、袁紹などの諸侯がそれを黙ってみているはずもないが、黄巾党の一大蜂起が起こった今、曹操を妨げる者はほとんどいないと言って良いだろう。
 連合軍発足前、後漢の一介の廷臣であった曹孟徳という人物は、今や、押しも押されもせぬ大諸侯へと変じつつあるのだ。
 天の時、というものがあるとすれば、今、それは間違いなく曹操に訪れている――否、それだけであるはずはない。
 全てが曹操の掌の上で行われていたわけではないだろう。だが、あの曹操が漫然と幸運を待って、事に臨むとは思えない。
 許昌建設の情報がここまで完全に遮断されていたことを思えば、こと情報という面で、曹操が1歩も2歩も他の諸侯を上回っていたことは明らかである。各地からの情報を丹念に分析し、現在の情勢を導いたと考えて良いだろう。


 そのことは、劉家軍の面々も理解するところだ。関羽などは露骨に渋面となっている。
 とはいえ、劉家軍にとって、悪いことばかりではないのも確かである。
「許昌には、糧食が山と積まれているそうです」
 民衆を誘導する宣伝文句かも知れないが、許昌開発に携わるのが、あの荀文若だというのなら、底の浅い偽りを以って、曹操の評判を落とすような真似はするまい。
「これで、洛陽の人たちが飢餓に晒されることはなくなりました。おまけに住む所もあるし、城市建設ともなれば、働き口も無数にある筈です。それはまぎれもなく曹将軍の功績でしょう」
 そして、これで劉家軍は憂いなく幽州に帰ることができるようにもなった。
 文句を言うのは罰当たりというものだろう。
 もちろん、そこまでは言わなかったが、おれの言わんとしているところは、皆、わかってくれたようだった。
 玄徳様がゆっくりと言葉をつむぎだす。
「うん、そうだね。私たちには出来なかったことを、曹操さんはやってくれたんだから、感謝しないといけないよね。でも――」
 玄徳様は胸に手をあて、真剣な表情で言う。
「私たちも、もっと力をつけて、曹操さんに頼らないでも、皆を助けることが出来るようにならないといけないよね。みんなが笑って暮らせる、平和な世の中をつくるために――」
 その言葉に、この場にいる全員がしっかりと頷いて応えた。


■■


 かくて、劉家軍は幽州へと軍を返す。
 道々で、黄巾党の動静を探ってみると、事態は考えていたよりも、はるかに深刻なものとなっていた。至るところで黄巾党の勢力が猖獗を極め、官軍はもとより、民衆にも多くの被害が出ていたのである。
 最早、黄巾党は、当初謳っていた民衆の解放という建前すら捨て去り、その膨大な兵力を以って破壊と殺戮を振りまく悪鬼の軍勢と化していた。
 ことに敵主力が集中する冀州と幽州の情勢は、公孫賛がうめき声をあげるほど酷いものだった。何より驚くべきは、黄巾党側の軍備の充実である。敵は攻城兵器さえ用いて、各地の官軍を次々と打ち破っており、留守居の軍隊では、その勢いを止めることはかなわなかったのである。
 だが、幸いというべきか、公孫賛の治める遼西郡には、未だ目立った被害はなく、主要な城砦も健在であるという報告だった。それを聞いて、公孫賛は安堵の表情をあらわにし、劉家軍の面々も、不幸中の幸いと、ほっと胸をなでおろす。
 だが、報告を聞くにつれ、皆の顔に訝しげな色が浮かんできた。
 同じ幽州であっても、遼西郡にほど近い琢郡――あの劉焉が太守を務める琢郡に至っては、すでに県城が陥落したというのだ。琢郡から、公孫賛の治める遼西郡までは大きな城砦もなく、黄巾党が琢郡を陥とした勢いのままに、遼西に向かっていれば、すでに易京城を包囲されていてもおかしくない。
 否、実際、黄巾党が琢郡を陥とした時期を考えれば、逆に今の時点で遼西郡に被害がないというのは明らかにおかしかったのである。


 その理由は、意外なところにあった。
 県城を陥落させた黄巾党であったが、琢郡の一部の地域を制圧することができず、苦戦しているのだという。
 ろくな防備もなく、村人たちが鋤や鍬をもって応戦するという状況にも関わらず、黄巾党の度重なる襲撃のことごとくを撃退しているその村を、いつしか人々は「不落の村」と呼ぶようになっていた。賊は不審と畏怖を込めて。民は、期待と希望を込めて。
 この地方に攻め寄せた黄巾党は、この村に足止めされ、進撃の勢いを大幅に減じていたのである。
 必然的に、おれたちは報告の兵士に問いかける。それはどこの村なのか、と。
 そして、その答えを知り、おれたちは絶句する。


 不落の村――すなわち幽州は琢郡、楼桑村。




 ここに。
 河北の地を巡る黄巾党と諸侯との戦いの中で、後に最大の激戦として知られることになる楼桑村の戦いの幕が上がる。
 そして、そこでおれたちは幾つかの再会と別れを経験することになるのだが、それはいま少し先の話であった……





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(二・五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/01 11:30



 幽州へと急ぐ公孫賛軍に追随する形で、劉家軍は進軍していく。
 場合が場合だけに、ほとんど休息なしの強行軍であった。
 馬に乗れないおれは歩卒と共に移動しているのだが、やはり休憩なしの行軍はかなりきつい。食料がかなり切迫してきたのも頭の痛いところだ。
 ――だが、今のおれにとって、そんなことは瑣末なことだった。


「あの、玄徳様……」
「何でしょうか、北郷一刀殿?」
 ものすごい他人行儀な劉玄徳。
「あの、関将軍?」
「おや、北郷一刀殿。まだこのような無名の義勇軍におられたのか?」
 取り付く島もない関雲長。
「あの、孔め……」
「あ、雛里ちゃん、急がないと」
「……うん、そうだね、朱里ちゃん」
 話しかけることさえ拒絶してくる軍師2人。


 何故だか洛陽を出てからずっとこんな感じなのである。
 ……いや、冗談抜きで、胃に穴が開きそうなんですけど。一体おれが何をした?!
「ふーん、本当に心当たりがないのかな、北郷一刀殿?」
 実にイイカンジの笑顔で問いかけてくる玄徳様。
 うう、顔は笑ってるけど、目が笑ってないですよ……
 為す術がなくなったおれは、洛陽での最後の日の出来事を思い出す。
 多分――いや、間違いなく原因はあれだろうなあ、と思いながら。


◆◆


「本当にお世話になりました」
 そう言って、黒髪の乙女――高順は頭を下げた。
 劉家軍が河北に帰ることをうけ、高順は動物たちを連れて別れることになったのである。
 洛陽で探さなければならない人がいるから、というのが高順の別離の言葉だった。それは偽りではないだろうが、怪我のこともあり、強行軍に耐えられない身を憚ったのかもしれない。
 とはいえ、負傷の身で、たくさんの動物たちを引き連れ、人を捜し歩くというのも大変だろうから、出来るかぎりの協力を、と申し出た。おれたちが残ることはできないが、蔡邑や蔡文姫らに頼めば、1人で探すよりはマシだろう。
 だが、これは高順に困った顔で拒絶されてしまった。はっきりしたことは言わなかったが、高順が探している人というのは、あまり公にされては困る人らしい。ならば、せめて高順と動物たちが安全に暮らせるところ――食料がない場合、犬猫といえど、飢えた人々に狙われかねないのだ――を世話してもらおうと、玄徳様を通じて、蔡邑たちに話を通してもらった。
 すると、そういうことなら、と蔡邑は自邸の一部を快くゆずってくれたのである。大火の際、蔡邑邸周辺は劉家軍の活躍もあり、火災を免れていた為、その恩義に報いたいとのことであった。


「うう、名残惜しいのだ」
「ぱおーん……」
 張飛と子象が別れを惜しむ場面があり。
「ワンワン!」
「うむ、達者でな」
 関羽とセキトが互いの無事を祈り(?)。
「此度の御恩は決して忘れません。いつか、またお会いできたとき、必ずや御恩返しをいたします」
「困った時はお互い様、だよ。それに高順ちゃんも怪我しているっていうのに、炊き出しや子供たちの世話で私たちを手伝ってくれたんだし、助けられたのはこっちも同じなんだから、そんな堅苦しいこと言わないで」
「ですが……」
 高順が、玄徳様とおれに頭を下げた。
 そのお礼に、玄徳様は頭を振るが、高順は納得いかない様子である。短い付き合いでわかるくらい、高順は義理堅い性格なのだ。
 玄徳様はそんな高順の様子を見て、腕組みして、考え込む。
「うーん、それじゃあ……あ、そうだ! もし、どうして恩を返すっていうんだったら、今度会う時まで無事でいること!」
 どうかな? と問うように高順に微笑む玄徳様。
 高順はつかの間、言葉を詰まらせた。こんな時代だから、またいつか会おう、という約束はとても重い意味を持つ。玄徳様は敢えて、再会の約束を、恩を返す、という高順の気持ちに重ね合わせた。
 再び出会うときまで、絶対に無事でいてほしい、という願いを込めた申し出を、高順が断れる筈もない。
「必ずや」
 そういって、握手する2人の乙女。
 うむ、絵になる光景だのう。


 おれが惚れ惚れとその情景に見入っていると、不意におれの頭上に日が翳った。
「あらん、再会を誓い合う麗しの乙女が2人……なーんて美しい光景なのかしら」
 振り返りたくはなかったが、振り返らざるを得なかった。
 そして、振り返ったおれは、予想通り、そこに絵にならない男が立っていることを知る。
「――貂蝉、何か用か?」
「冷たい言葉ねん。用が無ければ、私が話しかけては駄目なのかしら?」
「うん。できれば遠慮してくれ」
 おれが躊躇なく頷くと、貂蝉は両手で胸を押さえて立ちすくむ。
「ああ、その冷たい言葉と態度が、私の胸を貫くわ。ずきずきとうずく、この感情……はッ?! まさか、これが恋のト・キ・メ・キ?」
「絶対違う!!」
 貂蝉のたわ言に、おれは断固として首を横に振る。
 が、貂蝉は委細構わずおれにしなだれかかるような仕草を見せ――というか、実際にしなだれかかってくる。
「だー、やめい! んな筋骨隆々の身体、支えきれんわ!」
「むふふ、それこそ狙い通りだとしたら?」
「――はッ?! まさか既成事実をつくるつもりか」
「そのとぉおおり! 先んずれば人を制すとはこのことよ!」
 ずずいっと迫ってくる貂蝉の巨体から逃れようとするが――すでに敵の間合いの中か!
「ちぃ、しまったッ?!」
「逃がさないわよ、ダーリン♪」
 おれと貂蝉は互いに腰を落とし、次の行動に備える。
 おれは逃げるために。貂蝉は追うために。
 その半瞬前、2人の視線がぶつかりあい、火花を散らし――そしておれたちがまさに行動に移ろうとしたその瞬間。


「何をやってるの、そこのバカ2人! 月に変なもの見せるんじゃない!」
 閃光の如き賈駆の蹴りが、おれと貂蝉の脛にくわえられた。
 おれはたまらず地面につっぷしたが、貂蝉は平然としたものだ。その差が、鍛え方の違いにあるのは明白であった。
「あらあら、詠ちゃん。人の恋路を邪魔しちゃ駄目じゃない?」
「……恋路じゃないやい」
 痛みにもだえながらも、そこだけは訂正するおれ。
 当の賈駆は冷たい眼差しでおれたちを一瞥するだけであった――が、捨てる神あれば拾う神あり。
「だ、大丈夫ですか?」
 董卓が慌てておれの傍らに駆け寄って来て、心配そうな眼差しで問いかけてくる。
「え、ええ、なんとか……」
 可憐な少女の円らな眼差しで見つめられれば、いつまでも痛がっているわけにはいくまい。主に見栄のために。
「月、ほっときなさい、そんな奴ら」
 賈駆が言い捨てるが、董卓は首を横に振る。
「詠ちゃん。貂蝉さんも、北郷さんも、私たちを助けてくれた人たちなんだよ。そんな風に失礼なことを言っちゃ駄目だよ」
 賈駆は視線を逸らせ、呟くように口を開く。
「別に、私たちが助けてって頼んだわけじゃ……」
 ないわよ、と続けかけて、賈駆はハッとしたように董卓を見る。
「……詠ちゃん?」
 そこには悲しそうな目をして、賈駆を見つめる董卓の姿があった。
 瞳に涙さえ湛えるその様子を見て、賈駆は慌てて前言を翻す。
「わ、わかったわ、わかったから。もう失礼なこと言ったりしないから、ほら、月、泣かないでってば!」


 懸命に董卓をなだめている賈駆。間近で見ると、この少女が、どれだけ董卓のことを大切に思っているのかが良くわかった。
 董卓たちは、その素性ゆえに、高順とは逆に、洛陽に留まることが出来ない。民であれ、諸侯であれ、その正体を悟られれば、間違いなく極刑が待つのみであるからだ。
 それは同時に、董卓の故郷である涼州に帰るという手段を失うことをも意味していた。董卓が涼州に戻ったと知られれば、諸侯に侵略の絶好の口実を与えることになってしまうのは明らかなのである。
 とはいえ、これまで宮中で暮らしてきた2人が、いきなり市井に放り込まれて生活していくのも難しいだろう。董卓は案外、適応しそうな気もするが、賈駆はいろんな意味で無理っぽい。


 というわけで、2人は劉家軍に留まることになった。無論、正体は隠して。
 もし、董卓たちのことを誰何されたら、洛陽で家を失った少女2人を助け、陣中に伴ったと言いぬける予定である。不自然な点はあるにしても、言い訳としては成り立つであろう。
 董卓の正体を知るのは、劉家軍の中心にいる人たちのみだが、客将という立場上、公孫賛には知らさないわけにはいかなかった。
 董卓の顔は、多くの人に知られている。どこから秘密が漏れるかわからない以上、最悪の事態を想定しておかなければならない。最悪の事態――劉家軍が董卓を密かに匿ったと知られれば、諸侯から袋叩きに遭ってしまうだろう。そして、劉家軍を客将として迎えてくれた公孫賛は、間違いなく巻き込まれる。それどころか、公孫賛が首謀者だと思われる可能性は高い。
 それゆえ、董卓を保護するに際して、何としても公孫賛の許しを得なくてはならなかったのである。


 ちなみに、おれの中の公孫賛の評価は普通の人。
 勇気も、義侠心も、武勇も、指揮も、政治も、全て可も無く不可もなし。ゲームで言うなら、知力武力政治力魅力オール70といった感じである。
 断っておくが、バカにしているわけでは、決してない。ゲームならともかく、現実において、苦手分野がない、というのはとても大きな強みである。我が身を省みるまでもなく、公孫賛の能力と、それを自らのものとした努力は尊敬に値する。
 しかし。
 だからこそ、過度の期待をするわけにはいかない。公孫賛は玄徳様ほど優しくないし――というか、玄徳様並に優しい人なんて、そこらにいるわけない――諸侯としての立場や目的も存在する。董卓を匿うというリスクを犯すだけの利がない以上、異なる決断を下す可能性もあるのだ。
 もしかすると、客将の地位を捨てなければならないかもしれない、とまでおれは考えていたのである。


 だが、幸いにも、それは杞憂であった。
 玄徳様から話を聞いた公孫賛は、最初こそ驚いていたそうだが、結局は董卓たちを匿うことを黙認してくれた。
「まあ、玄徳は昔からそういう奴だったからな」
 ため息まじりに、公孫賛はそんなことを口にしていたそうだ。玄徳様と昔馴染みの公孫賛は、何やら過去に何度も似たような苦労をしていたようである。
 とはいえ、あくまで黙認であり、いざという時は覚悟しておいてくれよ、ときっちり釘を刺すあたり、やはり太守としての強かさは流石であると言える。


 ともあれ、こうして董卓と賈駆、そして若干1名が劉家軍に加わることになった。
 ……若干1名? あれ、どうして3人になってるんだ?
「細かいことは気にしちゃ駄目よ♪」
 残りの1名がしなをつくりつつ、そう言った。問い詰めたいところなのだが、誰もその役をつとめたがらず、結局……まあ、そういうことになったのである。
 公孫賛の許可を得た上は、なるべく早く洛陽を去り、幽州に帰るべき、とおれたちは結論し、早々に出立の準備を整えた。


 ところが……
 洛陽を発つ際、おれたちは思いもよらない危機に見舞われることになる。
 董卓たちの姿を見咎められたのだ。それも、れっきとした諸侯の1人に。 


 その名を孫文台。汜水関を陥落せしめた、江東の勇将である。


◆◆


 蔡邑邸で高順らと別れを告げたおれたちは、少し用事がある、といって姿を消した貂蝉を残して、洛陽城外の劉家軍の陣営に向かった――決して貂蝉を置き去りにしようとしたわけではない。貂蝉も了承済みである。念のため。
 本来ならば、洛陽の中に董卓たちを連れて来たくはなかったのだが、董卓がどうしても、と頭を下げて同行を願い出てきたのだ。
 賈駆の反対も聞き入れず、おれたちについてきた董卓は、途中、2人が匿われていた貂蝉の隠れ家に立ち寄ったのだが、そこで1つの髪飾りを手に戻ってきた。
 賈駆からもらったというその髪飾りを取りに来たかった、という董卓に、賈駆は最初唖然とし、次いで盛大に文句を言い始めた。
「そんなの、ボクに言えば済む話じゃない! 何も月が自分で来なくたって」
「でも、危険なのは、私も詠ちゃんも大して変わらないでしょう?」
「う。そ、それは……」
 董卓の懐刀として、賈駆の悪名は董卓に勝るとも劣らない。賈駆は言葉に詰まった。
「で、でも、それなら貂蝉に言えば……」
「貂蝉さんにはお世話になってばっかりなんだよ? それなのに、私物を取って来て下さい、なんて頼めないよ。元々、私たちを匿ったせいで、洛陽で普通に暮らせなくなっちゃったんだから」
「う……」
 言葉を失った賈駆に、董卓は小さく微笑む。
「大丈夫だよ。私だとばれないように、貂蝉さんが色々と手伝ってくれたんだし」
 そういう董卓の服は、当然ながら、宮廷の官服ではなく、市井の民が日常的に着るものである。藍色を基調としたその服は、色合い的に目立たないが、董卓の慎みのある魅力を上手に引き出していた。もっとも、今の董卓は頭と左目を覆うように包帯を巻いているため、いつもの董卓に比べれば、その効果は半減していたであろう。
 ちなみに包帯はおれの案である。董卓の服を見て、「会心の出来ね」と満足そうに頷く貂蝉に、おれが「魅力を引き出してどうする。余計目立っちゃうだろ」と突っ込みをいれた末の案であった。


 先日の大火で大損害を受けたとはいえ、いまだ洛陽城内に暮らす人は少なくない。幸い、董卓はそういった人々の目にとまることはなく、無事に洛陽の城門にたどり着いたおれは、我知らず、ほうっと安堵の息を吐いていた。
 ここまで来れば、あとは劉家軍の陣地まで、人目に触れるような場所はない。そう思ったのだが、安心するのは少しばかり早かったらしい。
 厳しい誰何の声が、すぐ近くから発され、おれたちはつかの間、立ちすくむことになった……





「繰り返しますが、この者たちは、我らが軍の一員。いかに孫家の将帥殿のお言葉とはいえ、身柄をお渡しするわけには参りませぬ」
 関羽がそう言いながら、董卓と賈駆、2人の前に立つ。
 関羽だけではない。その隣に並ぶように張飛が、そして顔を蒼白にさせた董卓の横には玄徳様が、それぞれ守るように付き添っている。
 一方、董卓の姿を見咎め、その身柄の引渡しを要求してきた人物は、その関羽の言葉を聞き、あでやかに笑って見せた。
「董卓の顔は、洛陽では童子でさえ知っておる。そなたらが知らぬとは思えぬがのう」
 江東の虎とあだ名される女性は、鋭い視線を董卓に向ける。
 抜き身の剣を突きつけられたような錯覚を覚え、董卓が小さく息をのんだ。
 孫堅の隣にいる黒髪の女性――周瑜が、主君の言葉を引き継いだ。
「それを承知で、己が軍に組み込むというのなら、相応の報いを受けることになろう。その覚悟あっての言葉なのだろうな?」
「くどい。そも、いかなる権限があって、我が軍の者に疑いを差し挟むのか。我らは幽州の公孫賛殿の客将であり、貴殿らの下にいるわけではない。無礼な振る舞いは、それこそ相応の報いを受けることになるぞ」
 その関羽の言葉を、周瑜は小さくあざ笑う。
「一介の義勇軍が、我らに報復すると? 関雲長、呂布と戦ったことで増長したか。孫家の軍を相手どって義勇軍如きがまともに戦えるとでも思っているのか」
「思っているとも。我らは大義を掲げて起ち上がった勇敢なる軍勢だ。相手を知ろうともせず、侮蔑の言を吐くような輩に遅れはとらぬ」


 関羽の視線と、周瑜の視線がぶつかり、あたりには緊迫した空気が満ちる。
 雑軍の将に過ぎない関羽の無礼な物言いに、孫堅を護衛する将兵の顔が怒気に染まっていく。
 その数は名のある者だけで10人を越え、いずれも主の傍近くに仕えているだけあって、かなりの武勇の持ち主と思われた。
 対する劉家軍は、まともに戦える将軍は関羽と張飛のみ。諸葛亮と鳳統、簡擁は陣地で出立の準備に追われているし、貂蝉は用事があるとかでいずこかに消えている。おれと玄徳様の腕は周知の通りである――おれは剣の腕だけなら、流石に玄徳様よりは上だが、殺し合いとなれば足手まといという意味で違いはない。 護衛の兵士たちは5人ばかりいて、他家の精鋭が相手でもおさおさ引けは取らないだろうが、いかんせん、数が相手の半分とあっては、太刀打ちの仕様がない。


「まずいな……」
 予期せぬ事態に、額に汗が滲む。まさかこんなところで、こんな人に見咎められるとは思ってもいなかった。
 孫堅に周瑜。例の如く、歴史上の偉人たちは女性であったが、それは今さら驚かない。だが、こんなところで孫家の軍と敵対してしまえば、取り返しのつかない事態になってしまうだろう。それは防がねばならなかった。
 とはいえ、どうするべきか。董卓を渡すことができない以上、向こうに諦めてもらうしかないのだが――おそらく孫堅は、董卓の身柄を袁術、あるいは曹操へ引き渡すことでなにがしかの利益を引き出す心算だろう。それに見合うだけの代償が無ければ、見てみぬ振りはしてくれまい。そして、そんな都合の良いものがある筈もない。
 どうしたものか、と考え込みながら、おれは孫堅らに観察の視線をはしらせる。


 孫堅と周瑜は、南方の人の特徴であるのか、浅黒い肌をしていた。
 孫堅は外見だけ見れば豪放な感じだが、その鋭い視線と隙の無い身ごなしが、豪放さの中に細心さをも併せ持っていることを告げていた。
 関羽と相対する周瑜は、関羽の威迫を受けても微動だにしない。ただその一事だけで、並々ならぬ胆力の持ち主と知れた。そして、深い知性を宿す眼差しを見れば、この周瑜が、おれの知る史実と同じく智勇兼備の人物なのだと確信できた。
 その周囲にいる男女も、おそらくは後の呉を代表するような武将たちなのであろう。朱治とか、韓当とか、黄蓋とか。錚々たるこの面子と戦うようなことをすれば、関羽と張飛が揃っているとはいえ、ただで済む筈が無い。
 ――そう思い、内心、あせりまくっていたおれは、彼らの中で、1人、この場の空気に染まらず、退屈そうにしている人に気がついた。


 怒気と緊張に染まった孫堅軍の将兵の中にあって、その人は1人、何やらつまらなそうに欠伸なんぞしていた。
 すらりとした長身に、豊麗な肢体。湖水のような瞳は吸い込まれるように深い色を帯び、いざ戦いともなれば、そこには溢れんばかりの覇気が満ちるのであろうと思われた。あと、すっごい美人である。何というか、玄徳様や関羽とは違う「大人な」女性という感じだ。
 華やかで、瀟洒。涼やかで、苛烈。
 そんな言葉が、自然に脳裏に思い浮かぶ。
 いつのまにか、おれはその人に見蕩れていたらしい。おれの視線に気づいた相手が、小首を傾げて、問いかけてきた。
「あら、私の顔に何かついてる? そんなじっと見ちゃって」
「へ?! あ、いいえ、そうではないです。すみません、見蕩れてました」
 やべ、と思った時には、素直にそんなことを口走っていた。この状況で何言ってんだ、おれは。
 だが。
 当の相手は、おれの言葉にぽかんとした顔をした後、小さく吹き出した。
「あはは、この状況でそれを言う? あなた、なかなか肝が座ってるわね。それとも、空気が読めないだけかしら」
「あ、あはは……多分、後者だと思います」
 先刻までとは異なる理由による汗を滲ませつつ、おれは乾いた笑みを浮かべた。
 やばい。素で慌てている。自慢ではないが、こんな綺麗なお姉さん的な人と話す機会なんぞ、元の世界ではなかったからなあ。
 そして、相手はそんなおれの動揺を見抜いているっぽい。これまで退屈そうにしていた湖水の瞳に、悪戯っぽい輝きが宿る――
「……え?」
 不意に。
 その様子に、既視感にも似た懐かしさを覚え、おれはつかの間、言葉を失った。
 繰り返すが、おれは眼前の女性のような人と接点は皆無である。懐かしさなど、覚える筈がないのだが……?


「あなた……どこかで逢ったことがあったかしら?」
 見れば、目の前の女性も、おれと似たような訝しげな表情を浮かべていた。
「いえ、そんなことはない筈ですが……?」
「そうよねえ……?」
 同時に首を傾げる男女2人。
 不思議だが、互いに心当たりがない以上、考え込んでいても納得のできる答えは出てこないだろう。どうやら相手も同じことを考えていたらしい。小さく肩をすくめると、口を開いた。
「まあ、考えていたって仕方ないか――私は孫伯符。あなた、名前は?」
「北郷、一刀です」
「え~と、ホンゴ、ウ、カズト? 変な名前ね」
「す、すみません」
 よくわからないが、相手の威厳に押されてあやまってしまうおれ。
 いや、待て、それよりも今、何か重大な名前を聞いたような気が……って、孫家の軍に孫策がいたって、今さら驚くことでもないか。
 しかし、あれだね。なんでこう、みんな揃いも揃って綺麗な人ばかりなんだろう。まあ、演義では醜男だと書かれている鳳統が、あんな美少女になってるんだから、そこは疑問に思ってはいけないのだろう。いや、あれは病気の名残のせいだっけ? とすると、この後、鳳統は何か大きな病気にかかってしまうのだろうか。これは要注意だ。


 おれが、そんなことをあれこれ考えつつ、孫策と話をしていると。
「北郷殿……」
「雪蓮……」
 いつのまにやら、周囲からは呆れたような視線が、おれたちに向けられていた。
 ――まあ、緊迫した空気の中、のんびり自己紹介を始めれば、それは注目されるよなー、あははは……
「――すみませんでした、関将軍!」
 電光石火の勢いで、腰を90度曲げるおれ。
 今まさに雷を落とそうとしていた関羽は、機先を制され、口をぱくぱくと開閉させた。
 一方の孫策は、というと。
「だって~、退屈だったんだもん」
「だからといって、これから矛を交えるかもしれない相手と和まないで頂戴」
「やめときましょうよ。冥琳だって見てたでしょう。劉家軍の関羽といえば、あの飛将軍 呂布とまともに戦った相手よ? こっちに何人犠牲が出るか知れたものじゃないわ。董卓の身柄を奪ったって、大事な将兵を喪ったら意味がないでしょう」
 周瑜と何やらやりあっているところだった。
 話を聞くかぎり、孫策は董卓の身柄には興味がないようだ。そして、孫策の言に、孫堅軍の将兵の間からわずかなざわめきが起こる。
 関羽の名はすでに連合軍に参加した将兵の間で知らぬ者はないくらいに高まっているが、その容姿については、様々に語られていた。
 曰く、背は巌のごとく高く、その身体は筋肉で覆われた巨躯の女傑である、とか。
 虎も裸足で逃げ出す凶悪の面相をした年嵩の女怪である、とか。
 いやいや、そうではなく、花も恥らう小柄で可愛らしい女の子であった、とか。
 関羽本人が聞けば、色々な意味で顔を真っ赤にしそうなものばかりである。あの呂布とまともに戦ったという武勲は、関羽という名に色眼鏡を付けずにはおかなくなってしまったのだろう。
 その意味では、孫堅軍も例に漏れなかったらしい。眼前にいる乙女が、あの関雲長なのだと知り、歴戦の将兵に動揺がはしっていた。


「策、余計な口出しをするのはおやめなさい」
 苦い口調で孫策を遮ったのは、孫文台その人であった。なるほど、改めてみるまでもなく、この親子、良く似ている。もっとも、母娘というより、姉妹という感じではあったが。
「はーい――と言いたいところなんだけど。母様、これ以上、欲を出しても仕方ないんじゃない?」
「別に欲を出しているわけではないわよ。董卓は此度の乱の首魁。これを捕らえるは、連合軍の一員として当然のことではないの」
「かりにこの子たちが董卓で、その身柄を奪ったとして。その身柄は袁術に差し出すの? 汜水関での恨みは帳消しになるかもしれないけど、袁術の勢力は今より肥ることになるわよ。袁紹にせよ、曹操にせよ、袁術の功績を認めざるを得なくなるわけだもの」
 孫策の言葉はさらに続く。
「逆に孫家が先に袁紹なり曹操なりに董卓の身柄を差し出せば、袁術の面目は丸つぶれ。本腰をいれて私たちを潰しに来るわ。今の私たちじゃあ、まだ袁術たちにはかなわない。袁紹にせよ、曹操にせよ、当分は私たちを援助するほどの余裕はないだろうしね」
 孫策の言葉を聞いた孫堅が渋面になる。反論しないのは、それがまぎれもない事実だからか。それは黙然としている周瑜も同様なのだろう。


 しかし……どうも妙だな。そんなこと、孫策に言われるまでもなく、この2人なら気がつきそうなものなんだけど。
 孫堅と周瑜だけではない。孫策以外の面々は、どうも焦っているような節が感じられる。いや、焦っているというよりは、逸っているのだろうか?
 先刻までの緊迫した空気は落ち着いたものの、まだ双方ともに互いに対する警戒は解いていない。何か言うとすれば今なのだが、しかし、何を言えば、この事態を収められるのだろうか。むむむ……


 ――そういえば。
 ――連合軍が結成された時、孫堅は洛陽で何を得たのだっけか?


 答えは天啓の如く、おれの脳裏に閃いた。
  
 
◆◆


「――なるほど、孫家の方々は洛陽で天命を見つけられたのだな」
 その言葉を聞き、孫策はかすかに目を見張る。
 奇妙なまでの確信をもって断言したのは、北郷と名乗った少年だった。
 今は、一介の兵士が口を差し挟める状況ではなく、劉家軍の者たちは驚いた表情で北郷を見つめている。その中には孫家からの叱責を憂いている者もいた。
 だが。
 孫家の将兵たちは、北郷が言わんとしていることを悟り、咄嗟に口を開けずにいた。あの周瑜でさえ、例外ではなかった。それほどに思いもよらない指摘だったのである。
「――だとしたら、どうするつもり?」
 それゆえ、孫策は自身で、北郷と対峙する。今や、孫家の秘中の秘となった事項をあっさりと看破してのけた相手は、厳しい眼差しでこちらを見据えている。
「別に何もするつもりはありませんし、出来もしません。ただ――」
 ただ――他者に知られれば窮する弱みを握っているのは、そちらだけではないのだと、そう告げるつもりなのだろうか?


 一方で、劉家軍の者たちが、戸惑ったような表情を隠せずにいるところを見ると「そのこと」を知っているのは、北郷1人ということか。
 そのこと――「受命于天 既寿永昌」と記された玉。世に言う伝国の玉璽を、孫家が握っているという事実を。
 つい先刻のことを、どうして一介の兵士風情が知っているのかはわからぬ。だが、天命云々の言葉は、まぎれもなく玉璽のことを指しているに違いない。
 そして、それを知るのは、今のところ、北郷のみ――一瞬、孫策の目に危険な光がちらつく。孫策は、母や他の将兵たちと異なり、玉璽を得たことに、大した意味は見出していない。しかし、このことが他の諸侯に知られれば、孫家が破滅するということは理解していた。それを知る者が、他軍にいてもらっては困るのだ。
 しかし。
「ただ、1つだけ忠告を」
 北郷の口から出た言葉は、孫策が予測していたものとは異なっていた。
「忠告?」
「はい。天命は、人にこそ与えられるもの。それが物に宿ることはありません。どうか、そのことをお忘れなきように願います」
「――へ~、私たちのことを、心配してくれるんだ?」
 孫策の言葉に、北郷の表情が曇った。
「おれは、一時、黄巾党に捕らえられていました。あそこで、乱世がどういう時代なのか……何をもたらすものかを知りました」
 だからこそ、と北郷は言う。
 だからこそ、乱世を終わらせることの出来る可能性を持つ人たちに、つまずいて欲しくはないのだ、と。


◆◆


「……ふふ」
 それは、はじめは小さなものだった。だれの耳にも入らないくらいの、小さな小さな笑い声。
 だが、それはすぐに大きくなり――やがて、その場にいる全員が、孫策の笑い声を聞くことになった。
「あははは!」
 驚きの視線が集中する中、孫策はぴたりと笑い声を止め、視線をおれに据えた。
 射る様な視線を浴び、おれの背筋に戦慄がはしる。なんというか、正面から白刃を突きつけられても、ここまでにはなるまい、と思えるような、物凄い圧迫感だ。あるいは、野生の虎を前にすれば、同じような感覚を味わえるかもしれない。もちろん、檻なし状態で、である。
 おれがそんなことを考えていると、孫策がにこりと――にやりと、かな?――微笑み、口を開く。
「天命がどうとか書いてある石ころを手に入れたからって、調子に乗っていると痛い目に遭う。あなたが言いたいのはそんなところかな?」
「は、はい。あ、いや、そこまで直截に言いたいわけではないんですけど……」
「あはは、言っているも同然よ。実は私も同感だしね――母様はどう思う?」
 笑みを湛えながら、孫策が孫堅に問いを向ける。
 見れば、孫堅は孫策とおれのやりとりに毒気を抜かれたのか、苦笑して肩をすくめている。
「調子に乗っていたつもりはないけれど――少し、逸っていたのは、確かのようね。今、董卓の身柄を得たところで、重荷になるばかり。その程度のこと、気づけなかったとは、不覚以外の何物でもないわ」
「――だ、そうよ。良かったわね。董卓のことは、見てみぬ振りをしてくれるって」
「は、はあ。それは何よりで……」
 あっさりとそんなことを言ってくる孫策に、おれは驚きのあまり、はきつかない返事をしてしまう。
 玄徳様たちも似たようなものだ。皆、思いもよらない展開に目を白黒させていた。


「ところで、えーと、北郷、だったっけ、あなた?」
「は、はい。そうですが……?」
 戸惑いさめやらないおれに、孫策がずいっと顔を近づけてくる。いつのまに近づいていたのか、全然気づかなかった。
「おわ?!」
「ふむふむ……反応は素人同然、か。でも容姿はなかなか。頭の回転も悪くない、と」
 なにやらぶつぶつ言いながら、顎に手をあて、考え込む孫伯符。
 やがて、1つ頷くと、孫策は口を開き――それこそ思いもよらない提案をしてきた。
「ね、北郷。あなた、私たちと一緒に来るつもりはないかしら?」
「……は?」
 思わず、ぽかんと口を開けてしまった。
「雪蓮?!」
 周瑜が驚きの声をあげているところを見ると、幻聴というわけでもないようだ。
 しかし、今、何を言ったんだ、この人??
 だが、孫策はおれの動揺を少しも気にせず、言葉を続ける。
「ねね、どうかな? 乱世を終わらせたいなら、義勇軍にいるよりはずっと近道ができると思うけど。まあ、私たちもあまり良い立場にいるってわけでもないんだけどね」
 そういって苦笑したのは、孫家が袁術の盟下にいることを言っているのだろう。
 おれはようやく回り始めた頭の片隅で、そんなことを考えた。


 ――というか、これはもしかしてスカウトですか? オファーですか? しかもあの孫子の末裔と言われる孫家から? あまつさえ、江東の小覇王じきじきに、ですと?!
 うわあ、これはちょっと本気で嬉しいかも。
「ね、どうかな?」
 答えを促してくる孫策。
 だが。
 嬉しいことはもちろん嬉しいのだが、頷くか否かはまた別の話であった。
「お言葉は大変嬉しいのですが」
 おれは孫策の誘いに、首を横に振る。後ろの方で、ほっとした声があがったような気がした。
 直接の誘いを断られ、気分を害するかと思いきや、思いのほか孫策は上機嫌に見える。
「あら、残念。でも、母様たちの蒙を啓いてくれただけでも有り難いわ、ありがとね♪」
 そういって、孫策はおれに向かって片目を閉じてみせるのだった。




 結局、孫策の勢いに飲まれる形で、その場は何とか収まった。
 孫堅たちは「董卓に似た」少女を見ただけであり、おれたちは――というかおれは、玉璽のことを忘れるという暗黙の了解のもとに。
 孫策たちが慌しく立ち去った後、おれはふと呟く。
「しかし、なんでまた洛陽にあれがあったんだろう。王允たちが置いていくとは思えないんだけどな?」
 たしか、演義では、洛陽が混乱している最中、宮中から持ち出され、それを古井戸から孫堅が見つけるという流れだったように思う。しかし、この時代では、それはあてはまらないだろう。計画的に洛陽を捨てた王允が、玉璽を忘れるわけがない。
 ――だからこそ、孫策たちには「洛陽で天命を見つけたのか」とか無駄に思わせぶりなことを言ったのである。玉璽、という言葉を出して、それが間違っていたらえらいことになると思ったので。


 はて、とおれが首をひねっていると、いつのまに戻ったのか、おれと同じように首をひねっている貂蝉の姿を見つけた。なにやらぶつぶつと呟いている。
「おかしいわねえ。折角、宮廷から持ち出して、誰にも見つからないところに隠しておいたのに、どこ行っちゃったのかしら。玄徳ちゃんにあげようと思ったのにぃ」
 ……あれ、なんかいきなり答えを発見?


◆◆


 ――とまあ、そんなことがあったのである。
 以来、玄徳様たちのご機嫌は極めて悪いのだ。しかし、これはおれが悪いのだろうか?
 思い悩むおれに、簡擁が達観した様子で諭す。
「晴天の日もあれば、雨天の日もあるのが女子というもの。ここはじっと耐えなされ。いずれ晴れ間が見える時も来ようほどにな」
 さいですか。それまでおれの胃がもてば良いのだけど。
 それは結構、深刻な問いかけだったのだが……
「ははは」
 笑ってごまかされました。しくしく。


 その後。
 幽州領内に入るまで、玄徳様たちの機嫌が直ることはなかったのである……



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/17 01:23




 幽州は琢郡楼桑村。
 さして大きくもなく、交通の要衝に位置するわけでもない、ありふれた村である。
 住人は3000人に届かず、村を覆うように作られた土塁や物見台は、昔からある粗末なものだ。近年、治安が低下し、盗賊たちが跳梁しはじめたことを受け、村人たちの手によって何度も補修されてきたが、所詮は素人の手になるもの――つい先日まではほとんど物の役に立たない代物だった。
 だが、今では土塁は整備し直され、柵や物見台なども本格的なものに作り直されている。これは、楼桑村で旗揚げした劉家軍が、自分たちの本拠地を守るために行ったものであった。


 諸葛亮と鳳統の2人が、少数の村人たちを守るためにと考えを凝らして作り上げた防衛陣と、関羽がいざという時のためにと村人たちに繰り返しほどこした訓練の数々。
 もし、このうちの1つでも欠けていたならば、楼桑村は他の村々と同じく、黄巾賊の大軍に瞬く間に蹂躙されていたであろう。
 そして、楼桑村の最大の幸運。
 それは、その2つを完全に活かしきることの出来る指揮官を戴けたことであった……


◆◆


「ははは! 黄巾賊ごときが、何度押し寄せようと、この村を陥とすことなぞ、できはせん!」
 高らかに笑いながら、その人物は馬上、手に持った豪槍を縦横無尽に振り回す。
 凶悪なはずの黄巾賊が、まるで赤子の手をひねるがごとく、次々に倒れ付していく様子は、戦いに慣れた黄巾党の兵たちさえ怖気づかずにはいられない光景であった。
「さあ、この趙子竜の前に立とうという豪の者はもうおらぬのか? 音にきこえた黄巾賊がこの程度の筈はあるまいよ!」
 口を開きながら、休むことなく槍を繰り出す趙子竜。槍が一閃する都度、その穂先には必ず鮮血の糸が引かれていた。
 趙雲のあまりの武勇に気圧された黄巾軍はしり込みし、雪崩をうって後退する。それは楼桑村を巡る攻防の中、何度も繰り返されてきた光景であった。


 その様を遠望し、歯軋りしたのは、幽州の黄巾賊を率いる張曼成である。
「何をしておるか、たかが1人、しかも女如きに良い様にあしらわれおって!!」
 河北各地を劫略している黄巾党の軍勢は、無人の野を行く勢いで官軍を蹴散らしている。すでにいくつかの郡県が黄巾党の手に落ちており、このまま行けば、河北全土を黄巾党が牛耳ることさえ不可能ではないと思われた。
 その黄巾党の中にあって、張曼成の率いる軍のみが停滞してしまっているのだ。歯軋りの1つ2つ仕方ないことであった。
「何故だ! 何故、5万の軍で、たかだか数千の下民が篭る村を陥とせんのだ!!」
 張曼成は波才、程遠志らと並ぶ黄巾党の大幹部の1人である。これまで、官軍を相手にしてさえ、これほどまでに苦戦したことはない。
 だが、すでに幾度もの攻撃が失敗に終わっているのはまぎれも無い事実。それも、いまいましいことに、村人を率いるのは趙子竜とか名乗る女なのだ。


 女如きに、と張曼成は口にした。彼の上に立つ党主もまた女性であるにも関わらず。
 だが、それは張曼成にとっておかしなことではない。何故なら、彼は党主たちを崇拝しているわけではないからである。張家の小娘たちも、人集めに役立つから利用しているだけのこと。それは他の2人――波才にせよ、程遠志にせよ同じことであった。
 そのうちの1人、程遠志は先日、幽州攻略の最中に名も無き雑軍に討ち取られた。今や、黄巾軍を率いる大方(黄巾党の将軍職)は、波才と張曼成の2人のみである。
 2人は密議を持ち、今回の河北蜂起を計画したのだが、その際、張曼成は自身で幽州方面への攻略を選んだのである。程遠志が失敗した幽州攻略を成し遂げれば、相対的に張曼成の功が際立つと考えたからであり、実際、幽州の県城は陥落せしめ、黄巾軍はおおいに意気上がったのである。 


 だが、今。
 黄巾軍は、取るに足らぬ寒村にてこずり、その進撃を完全に足止めされていた。
 はじめ、この村に派遣した部隊が撃退されたと聞いた時には、部下の無能を罵った張曼成であったが、すでに自身が直接指揮を取ること3度。その以前の襲撃を含めれば、すでに6度の攻撃を仕掛け、そのことごとくを撃退され、軍中ではすでに公然と張曼成を批判する声さえ上がりはじめている。
 双方の戦力は隔絶している。何度敗れたところで、黄巾賊にはまだ後があった。
 一方で、楼桑村の方は戦いなれない民たちに武器をとらせている状況であり、1戦1戦に全力を傾けねばならず、このまま攻撃を続けていけば、いつかは勝利することも出来るであろう。
 しかし、これ以上敗北を喫すれば、黄巾党の中の張曼成の立場が失われるであろうことも、また明白であった。それゆえ、張曼成は、この攻撃で、いまいましい寒村での戦いに終止符を打つ心算であったのだ。


 ――その張曼成の姿を、趙雲が捉えた。




「そこにいるは賊軍の首魁と見た。貴様に、この趙子竜と槍を合わせる勇気があるのなら、かかってくるが良い。ないなら、兵士たちの後ろで震えていることだ」
 趙雲が艶やかに微笑む。
「何、案ずることはない。女の槍に怯え、恐れるが黄巾の兵の特徴であること、すでに我ら全員が知っておるゆえな!」
 真正面から嘲弄を受けた張曼成は、激怒した。
「おのれ、雑民風情が調子に乗りおって! 黄巾党にその人ありと言われる張曼成とはおれのことだ! そこを動くなよ、女ぁ!!」
 悍馬をあおって突進する張曼成を、趙雲は微笑すら湛えて迎え撃つ。
「ほう、賊将みずから相手をしてくれるとは有り難い」
 愛馬の手綱を掴むと、趙雲もまた張曼成に向かって突撃した。


 甲高い金属音が戦場に響き渡る。
 張曼成は、自身の得物である槍から伝わる衝撃に顔をしかめた。
「ぬぅ」
「ほう、さすがは賊徒とはいえ、それを率いる将だけのことはある。よく我が槍の一撃を凌いだ――だが」
 言い終わるや、趙雲の槍が立て続けに、張曼成に襲い掛かった。
 閃光の如き一撃を次々と浴びせられ、張曼成はたちまち防戦一方に追いやられていく。
「お、おのれぇッ!」
 吼え猛り、反撃に転じようとするが。
「ふ、甘い!」
 その渾身の一撃を、趙雲は苦も無く絡めとり。
「はぁッ!」
「ちぃッ?!」
 細身の身体から出ているとは信じられない力でもって、張曼成の槍を中空高く跳ね上げたのであった。


 得物を失ってしまえば、戦える筈もない。
 張曼成は趙雲の一瞬の隙をつき、素早く馬首を翻して退却していく。
 だが、わざわざ眼前まで出てきた賊将を見逃す趙雲ではなかった。
「待てぃ! かりにも将たる者が、敵を前にして背を向けるとは何事か!」
 張曼成を追い、愛馬を駆る趙雲。一方の張曼成は、それに反論することもできず、ただひたすら陣地目指して馬を駆けさせる。
「逃がさん!」
 その背を見つめる趙雲の目に、雷光が走った。 
  




 その趙雲の様子を遠巻きに見ている者がいる。
「さて、と。1番厄介なのは鬼ごっこに夢中。今なら、あの忌々しい村にいるのは農民どもだけってわけだ」
 その男――黄巾党を率いる将の1人である趙弘は、そういって愉快そうに笑った。
「張大方も、このような寒村1つに迂遠なことをする。俺に総指揮を任せてもらえば、1刻経たずに陥としてやったものをな」
 趙弘は張曼成の副将格であったが、今回の戦いに関しては、これまで後方の県城を固めていた為、参戦していない。そのため、趙雲の武勇も、楼桑村の奮戦も話半分にしか聞いていなかった。
 その趙弘の下に、張曼成からの使者が来た。これ以上の敗北を許されない張曼成は一計を案じ、自身が囮となって趙雲を誘い出し、その間隙を縫って趙弘の軍に楼桑村を攻め落とさせようと企んだのである。
 趙弘はそれを迂遠なことだと笑ったのだが、これまでのところ、戦況は張曼成の思惑通りに進んでいる。ならば、あえて上役の意向に逆らうこともあるまい。楼桑村を陥としたという功績は間違いなく趙弘のものになるのだから。
「よし、いくぞ、野郎ども! 黄巾党の恐ろしさ、連中に思い知らせてやれぃッ!」
 趙弘の叱咤に、配下の兵士たちは荒々しい喚声で応じる。
 新たに参陣した1万を越える黄巾賊が、怒涛のごとく楼桑村に襲い掛かる。
 頼みとする猛将もなく、残っているのはつい先日まで鋤や鍬を握っていた農民たちのみ。彼らが頼みとする防衛柵も、度重なる襲撃によって、いくつも綻びが出来ている。
 実に7度目に及ぶ黄巾賊の猛攻を防ぐのは、不可能かと思われた。


 ――だが、しかし。


◆◆


 猛々しい雄叫びを共に、村に殺到してくる黄巾賊を、その少女はどこか眠そうな瞳でじっとみつめていた。そこに、怯えや恐怖の影はなく、まるで吠え掛かる子犬でも見るかのように、平然とした様子で、迫り来る軍勢を見つめている。
「おー、来た来た。大漁大漁ー、ですね」
 少女の隣にいた女性は、少女の言葉に同意の頷きをする。
「星殿をおびき出し、新手の軍を呼び寄せて留守を襲う。黄巾賊にしては、良く考えた方かもしれませんね」
 そう言いながら、その女性も少女と同じく、動揺の気配は欠片も無い。
 黄巾賊が、ここまで抵抗を続けてきた楼桑村に容赦する筈がない。村を陥とされれば、賊徒は鬼畜となって村人を蹂躙するであろう、ここまで彼らがそうして来たように。
 それを知らない筈はないのに、2人の乙女は平静を保ったまま、会話を続ける。
「風、皆に合図を。もうじき敵が防柵に取り付きます」
「了解了解ー。ああ、そういえば凛ちゃん」
「ん、どうしたのですか、風?」
「ぐー」
「話しかけておいて寝るな!」
 ぽかり、と風の頭を叩く凛。
「おおッ?! 失敬失敬」
「はあ……ほら、風、ふざけている場合ではないでしょう。早く合図を」
「あいあいさー」
「……なんですか、それは?」
「ふと思いついたのですよー」





 これまで、越えることが出来なかった村の防柵を乗り越えた時点で、賊徒の大半は勝利を確信した。村人たちが粗末な弓を射、石を投じて黄巾賊の侵入を阻もうとするが、その微弱な抵抗を薄紙を破るが如く粉砕し、叫喚をあげて村の内部に突入していく。
 殺戮と略奪の予感に、凶相を浮かべていた黄巾賊であったが、しかし。
 突如、その先頭が崩れたった。


 悲鳴と怒号が交錯し、混乱が巻き起こる。
 先陣を率いていた指揮官の1人が、味方の不甲斐ない様子を見て、苛立たしげに声を張り上げる。
「何をしている、皆、落ち着けぃ!」
 だが、味方の混乱は深まりこそすれ、鎮まる気配はない。
 舌打ちと共に、馬を駆って最前線に出てきた指揮官は、そこで混乱の原因を知る。
「……落とし穴か。下民風情が小癪な真似を!」


 指揮官の言うとおり、防柵を越えた場所、村の内部への突入地点には広い範囲で落とし穴が掘られていたのである。深さはさほどではない。大人の男が立てば、上半身が見える程度のもので、その隠蔽も稚拙なものであった。
 だがそれでも、仕掛ける相手が、ただ勢いに任せて突撃してくる賊兵ならば、効果は十分に期待できるのである。
 先頭で馬を駆っていた賊兵は、馬の哀れな嘶きを聞いたと思った瞬間、馬上から振り落とされた。その後ろを駆けていた歩卒は、目前で騎兵が落馬するのを見たが、足を止める暇もあらばこそ、身体ごと落とし穴に落ちてしまった。
 後はもう全域に渡って似たような光景の繰り返しであった。
 前述したように、落とし穴の深さ自体は大したものではない。だが、その底には、更に罠が仕掛けてあった。木片を鋭く尖らせた物が多数敷き詰められていたのである。
 落とし穴に落ちた賊兵たちから、次々と悲痛な悲鳴が沸き起こる。ある者は足を貫かれて身動きが取れなくなり、ある者はつんのめって落ちたせいで、運悪く額を断ち割られてしまった。
 そして、黄巾賊の苦難はなお続く。
 今回の攻勢は新手の1万の軍勢によるもの。先陣の兵だけでも1千に達しようかという規模だ。まだ罠の存在に気づいていない者たちは、勝ち戦に遅れてなるものかと次から次へと押し寄せて来るのである。
 かくて、落とし穴による犠牲者は加速度的に膨れ上がっていった。





「ふん、やるではないか、雑民にしては」
 前衛からの報告を受けた趙弘は、予期せぬ被害に舌打ちしながらも、相手の奮戦を称える余裕を見せた。敵は村の内部に、落とし穴をはじめとした罠を幾重にも仕掛け、黄巾賊を食い止めようとしているらしい。そして、それが一定の成果をあげていることを、趙弘は認めざるを得なかった。
 とはいえ。
「所詮、悪あがきに過ぎぬがな。雑兵など、勝ち戦を続ければ、いくらでも増え続けるわ」
 極端な話、落とし穴を兵の屍で埋め尽くしながら進軍したところで、黄巾賊と楼桑村との戦力差を覆すことは出来ぬ。事実、少なからぬ犠牲を払って、1つ目の落とし穴を乗り越えた黄巾賊は、その先に2重に仕掛けられていた第2の落とし穴に嵌まり、更に出血を強いられたのだが、ゆっくりと――しかし着実に、楼桑村内部を侵しつつあったのである。
 なるほど、黄巾賊は罠のために予想外の出血を強いられたが――結局、戦力の絶対数が、あまりに違いすぎたのである。どれだけ敵が足掻こうと、黄巾賊の有利が揺らぐことはなく、戦況は刻一刻と黄巾賊の側に傾いていく。しかも時間と共にその勢いは増すばかりとあっては、しぶとく抵抗を続けている雑民どももすぐに限界を迎えるであろう。その時こそ、黄巾党の勝利の刻である。趙弘はそう考えていた。


 趙弘の考えは、決して間違ってはいなかった。
 相手に優る兵力を揃えた以上、力攻めを繰り返し、罠を食い破ることも立派な戦術である。そして、失った戦力はすぐに回復できるという考えも誤ってはいない。事実、黄巾党は、これまでずっと、そうやって戦力を肥え太らせてきたのである。
 そんな無数の例に、今日また1つが加わるだけのこと。趙弘は知らず、そんな風に考えていた。


 ――この戦いにおける趙弘の最大の不覚。それは「不落」とまで謳われた村を、これまでの敵と同一視したことであろう。
 趙雲がいかな武勇に優れた将であっても、1つの村に篭って、黄巾の大軍を幾度も退かせることなどできはしない。そこには当然、戦いを織り成す智略の士がいる筈、と趙弘は気づかなくてはならなかった。
 だが、趙弘は気づけなかった。


 ――それが敗因となる。


◆◆


「おい、土民どもはどこに消えたんだ?」
「わからん。そっちにもいなかったのか?」
「猫の子一匹いやしねえ。家の中にも、金目の物なんぞありゃしねえし」
「おれの方もだ。ある物といえば、干草ばかりだ。山みたいに積んであったぜ」
「こっちも御同様だ。たく、これじゃあ何のために戦ってるのかわからん」
 干草は、主に家畜の飼料として用いられるもので、どこの村でも見かけるものであった。


 報告を受けた指揮官は首をかしげた。
 先刻から、村人からの抵抗がほとんどなくなっている。そして、村からは人の姿が消えている。それが示す事実は――
「もしや、逃げ出したのか? だとしたら、馬鹿なことを。幽州には我ら黄巾党がひしめいているのだ。どこに逃げるつもりなのか」
 薄笑いを浮かべた指揮官のもとに、新たな報告が寄せられた。 
 前方にまたしても落とし穴があるというのである。
 それを知った黄巾賊たちは、唇をゆがめて罵声をあげた。
「馬鹿にしやがって。そう何度も引っかかるとでも思ってんのか!」
「ふん。張角様たちの偉大さもわからない土民どもだ。馬鹿の1つ覚えってやつだろうよ」
「とはいえ、ほっといたら、後続の連中が引っかかるかもしれないぞ」
 報告を受けた指揮官はすぐに決断を下す。
「無視しろ。土民どもが逃げ出してから、さして時間は経っていまい。追えば容易く捕らえられるだろう。我ら黄巾党に逆らった愚かさを、奴らの心身に刻み込んでやるのだ」
 指揮官の命令に、兵たちは歓声をあげて応えた。
 あるとわかっていれば、落とし穴など何の脅威もない。彼らは次々とそこを突破していったが、その中の1人が不意に呟いた。
「なあ、何か匂わないか?」
「別に何も匂わないが。どうかしたのか?」
「いや、気のせいか。悪いな」
 その男は気を取り直したように足を踏み出したが、一瞬、注意が逸れたせいか足を滑らせてしまう。
 周囲の者が咄嗟に手を伸ばすが届かない。仲間たちは次の瞬間、落ちた男の苦痛の悲鳴が響き渡るものと覚悟したのだが。
「な、なんだ、こいつは?」
 悲鳴の代わりにあがったのは、戸惑ったような疑問の声であった。
 落とし穴の底にあったのは、尖った木片ではなく、粘着質の液体であった。先ほど、かすかに感じた匂いは、今や痛いほどに男の鼻腔を刺激している。
「……油?」
 ――男が、自分の言葉の意味を悟り、顔色を蒼白にさせた瞬間。


「今です!!」
 それまで、伏せていた村人たちが一斉に立ち上がり、次々と火矢を射かけ、松明を投げ込んできた。
 火はたちまちの落とし穴の底に達し……そして油に引火した。


◆◆


 趙弘の目には、楼桑村が突如として燃え上がったように映った。
 しかし、趙弘は彼なりの解釈でこの炎を見た。つまり、黄巾党の兵士たちが、村を焼き払うために火をつけたのだろう、と。
 だが、趙弘の下にもたらされる報告は、それとは真逆のものばかりであった。
 敵軍の火計により、先鋒はほぼ壊滅状態となり、さらに風向きから火の勢いまで、計算しつくされた炎は、舐めるように黄巾賊を飲み込んでいく。
 先鋒だけではない。すでに村の内部まで踏み込んでいた黄巾賊は、必死に逃走を図るも、家々を伝う炎は想像を絶する早さでその退路を断ち切ってしまう。そこに炎と煙が容赦なく襲い掛かり、黄巾賊は甚大な被害を出しつつあった。


 ようやく。
 趙弘は自身が敗北の淵に立たされたことを自覚する。
「ば、馬鹿な。土民風情に、おれが負けるだと?」
 呆然とした呟きに、周囲を固める兵士の悲鳴が応えた。
 慌てて趙弘はそちらを振り返り――そして、白甲を着込んだ女性が、血染めの槍を抱える姿を認めて、息をのむ。
 趙弘の側近が主を守るために動き出しながら、突然あらわれた敵兵に誰何の声を向けた。
「何者かッ?!」
「――常山の趙子竜」


 返答は短く。
 反応は迅速だった。


「ぐあッ?!」
「がッ!!」
 呆然とする趙弘の眼前で、趙雲は舞うように槍を振るい、瞬く間に黄巾賊たちを地獄に叩き込んでいく。
 趙雲と趙弘が一対一で対峙するに至るまで、かかった時間はごくわずかであった。
 そして。 


 ひと言も言わず。ひと言も言わせず。
 趙雲の槍が雷光の如く煌いた瞬間、趙弘の首は宙を飛んだのであった。 






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/22 13:05



「――さて、これで少しは時間が稼げると良いが」
 趙雲は呟きながら、村の中を見渡す。
 黄巾賊の新手を打ち破り、その将を討ち取ったとはいえ、極端な話、一寸の金も、一粒の米も、手に入ったわけではない。武器や糧食を買い求めることも、村の防備を整えることもできないのである。
 そして、先刻の戦いでは、村の一部を賊もろとも焼き払うという捨て身の手段に出てしまった。無論、それはそうしなければ勝利が覚束なかったからなのだが、代償として楼桑村に容易に癒せぬ傷跡をつけてしまったことは確かであった。
 とはいえ、勝利によって村人たちの士気が大いにあがったのも事実である。
 村に戻った趙雲は、村人たちから手荒い歓迎を受けた。彼らは度重なる勝利を喜び、黄巾賊何するものぞ、と気勢をあげたが――
 趙雲は彼らに同調することはできなかった。将として有能な趙雲ゆえに、味方の弱点もまた良く見える。連戦の疲労、糧食の欠乏、武具の不足、そして火計の代償として、これまで楼桑村を支えてきた防衛陣が使えなくなったこと。
 次に敵が侵攻してきた時、もう小細工は効かない。正面からの戦力のぶつけ合いとなるだろう。その結果が敗北であること、これは大地を打つ槌が外れないことと同じくらい、確かなことであった。


「それは相手次第でしょうねー。黄巾の将はきちんと逃がしたのですかー?」
「うむ、徹底的に追い掛け回して、死を覚悟させる寸前で逃がしてやったぞ」
 趙雲の言葉に答えたのは風ではなく、その傍らに立っていた稟であった。
「なら、しばらくは大丈夫でしょう。もっとも、そう長い時間ではないと思いますが」
 稟の言葉に、風が眉間に皺を寄せる。
「むむー……」
「どうしたのですか、風?」
「……ぐー」
「だから寝るなというに!」
 拳をふりあげた稟の手を、趙雲が苦笑しつつ押さえる。
「星殿?」
「不眠不休で罠をつくっていたのだ。さすがに、風も疲れているのだろうよ」
 言われてみて、稟はようやく、目を閉ざした風の顔に、疲労が色濃く残っていることに気づく。
「――そうでしたね。それに気づかぬとは、私もいささか平常心を欠いているようです」
「まあ、仕方なかろう。ここまで戦力差のある戦いなど、さすがの私もはじめてだ。心身ともに、常の戦以上の負担がかかって当然」
 そういう趙雲に、稟は小さく微笑みを向ける。
「貴殿は、まるでいつもと変わらぬように見えますが」
「これは心外な。私とて年若き乙女の1人、疲れもするし、全てを忘れて眠りたくなる時もある」
「ふふ、これは失礼を」
 2人は顔を見合わせ、同時に笑い声をあげた。





「あらあら、楽しそうね、2人とも」
 そう言いながら姿を現した女性を見て、趙雲らがわずかに畏まる。
 勇将趙雲をして、畏怖せしめるような威厳の持ち主――ではなかった。年齢は趙雲らよりはるかに上で、それこそ母と子と言っても良いくらいに離れている。だが、その楚々とした容貌と、他者に安らぎを与える笑顔は、年齢の高低に関わり無く、人を惹きつけずにはおかなかった。
 この人物、姓は劉、名は佳という。
 趙雲には、この劉佳という人物に対して絶対に頭が上がらない理由があったりする。それは……
「子竜殿、貴殿の度々の奮戦、楼桑村の者として、心より感謝いたします。その勲に、このような物で報いるのは、まことに心苦しいのですが……」
 そういって差し出したものを見て、趙雲の目の色がかわった。それはもう、速やかに。
「何を言われますか! 劉佳殿の作ったメンマの価値は、それこそ幽州一州に匹敵するほどのもの。賊将を討ち取った功績程度、メンマ一切れで十分と申し上げたい!!」
 烈火の如き勢いで主張してくる趙雲に、劉佳はとても嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、子竜殿ほどの人物にそこまで褒めてもらえると、年甲斐もなく頬が緩んでしまいそうです」
 横で聞いていた稟が小さくため息を吐く。
「……劉佳殿の料理の腕に異議を唱える心算は毛頭ないのですが、メンマ一切れと同等と断言されてしまった敵将が、少々あわれに思えますね」
「星ちゃんの感覚は独特ですからねー。星ちゃんにかかれば、天下の一州も、メンマで例えられてしまうのです」
「おや、風、目が覚めたのですか?」
 風はちょっとだけ不機嫌そうだ。
「耳元でメンマメンマと叫ばれたら、寝ていられないのですよー」
 それを聞き、趙雲が軽やかに笑い声をあげる。
「はっは、すまんな、風。メンマを見て動かざるは趙子竜にあらざるなり。ましてや劉佳殿の一品を見ては、平静を保ってはいられぬのだ」
「ふむふむ。いずれ星ちゃんと戦う時が来たら、メンマの壷を並べ立て、罠に誘導するようにしましょー」
「むむ、たしかにそれはつけ入る隙のない作戦だな」
 深刻な表情で考え込む趙雲に、稟は眼鏡の位置を直しつつ、呆れたように――いや、真実あきれながら、ぼそりと呟いた。
「いえ、隙だらけですから」


 そんな3人の様子を、劉佳は微笑みながら見守っていた。
 そして、頃合を見計らい、風と稟の2人にも頭を下げる。
「程立殿にも、戯志才殿にも、村のために尽力いただき、感謝にたえません。重ねてお礼を申し上げます」
 頭を下げられた稟――戯志才は、恐縮したように首を横に振った。風――程立も同様である。
 2人とも、趙雲とは似て非なる意味で、劉佳には頭が上がらない気分になるのである。それは、武勇や才略ではなく、人としての経験、器の差であったろうか。
 劉佳は趙雲が楼桑村に留まる理由をつくり、同時に年若い乙女である風や凛が考案した作戦に不安を見せた村人たちを、ただひと言で納得させた徳望の持ち主でもあった。


 曰く「琢郡の県城を救ったのは、彼女たちと同じ年齢の、私の娘たちでしたよ」と。


 娘の名は劉玄徳。義理の娘の名は関雲長、張益徳。
 すなわち、劉佳こそ、桃園の誓いで結ばれた3姉妹の母親であった。


◆◆


 趙雲に散々追いかけられる醜態を晒し、頼みの援軍と副将を一戦のもとに蹴散らされた張曼成の求心力は、黄巾賊の内部で地に堕ちた。追いかけられたのは作戦の上での行動だったが、実際、その作戦が功を奏さなかった以上、その事実は敗軍の将兵にとって何の意味も持たない。
 これでは軍を指揮するどころではない、と張曼成は判断せざるを得ず、やむなく、楼桑村を遠巻きに包囲する態勢をとることにした。
 張曼成はじっくりと敵を干しつつ、その間に指揮系統を整え、補給を受けた上で、再度の攻略を計る心算であった。


 何十日かぶりに賊徒の攻撃から解放された村人たちは歓喜の声をあげたが、趙雲たちの表情が緩められることはなかった。むしろ、黄巾賊が持久策に出てきたことは、状況の悪化を招くであろう。すでに村の中に貯蔵していた糧食も少ないのだ。
 くわえて、これまでの黄巾賊の襲撃はすべて撃退したとはいえ、楼桑村は多大な被害を受けている。命を失った村人も少なくない。
 黄巾賊が糧食の尽きるを待って、再度の襲撃を仕掛けてくれば、今度こそ皆殺しの憂き目に遭ってしまうことは明白なのである。
 彼我の戦力差が覆しようの無いものである以上、それは仕方のないことかもしれない。どれだけ戦術上の勝利を積み重ねたところで、最終的な勝利には到達しえる筈もない。
 趙雲たちにできるのは、精々、やがて来る敗北の刻を、少しでも遠ざけることくらいしかなかったのである。


 趙雲たちははじめからそれを知っていた。だからこそ、浮かれ騒ぐ村人たちの姿を見れば、心が痛む。
 ほんのわずかな可能性としては、琢郡の官軍ないし他国からの援軍が来着してくれれば、包囲の輪を破ることも出来るかもしれないのだが……
「まあ、期待するだけ無駄でしょうね。とくに琢郡は、主力が遠征に出ているとはいえ、あっさり県城を陥とされる体たらくですしー」
 程立の言うとおりであった。そして、黄巾賊が各地で蜂起している以上、他所からの援軍が来る可能性も、かぎりなくゼロに近い。
「星殿の御力で、黄巾の将は配下の将兵の信頼を大きく損なっているはず。部隊をまとめ直すには、しばらく時がかかるでしょう。その間に、何とか村人たちを逃す策を講じねばなりません」
 戯志才はそう言うが、ここまで状況が限定されると、いかに優れた才能を持つ3人であっても、策をほどこす余地がほとんど残っていなかった。
 無論、だからといって諦める心算など、3人には欠片もなかったが。


「ここまで不利な戦というのも、また一興といえるかもしれん。罪無き村人たちとメンマのため、この趙子竜の武、黄巾の賊徒どもに知らしめてやらずばなるまい」
「ええ。メンマはともかくとして――民草を踏みにじる無道な賊が、天下を横行するなど許されません。それに、この村が抜かれれば、次は遼西郡の民が踏みにじられてしまう。断じて、負けるわけにはいかないのです!」
「稟ちゃん稟ちゃん。そんなに熱血すると、また鼻血が出ちゃうかもしれないのですよー」
「風!」
 戯志才が声を張り上げ、程立に向かって拳を伸ばす。
 程立は素早く趙雲の後ろに隠れようとしたのだが――その目が、遠く、黄巾賊の陣中に沸きあがった砂塵をとらえた。やがて、その砂塵をかき分けるように、一直線にこちらに向かってくる騎兵の姿が見て取れる。
 数はおおよそ30騎といったところか。
「おや、何だか稟ちゃんみたいに熱血してる人がやってきますよー」
 程立の言葉に、趙雲と戯志才は同時に頷いた。
「ふむ、あの重囲を寡兵で破るとなると、なかなかの武勇だな」
「敵の策略かもしれません。油断はできませんよ」
 それは十分にありえることだったから、趙雲は村人たちに警戒するよう伝えようとする。
 だが、近づいてくる騎兵の顔が目視できるまでになった時、趙雲は完全に警戒を解いていた。
「ふむ。ようやく洛陽から戻ってきたようだな」
 趙雲の視線の先には、かつて県城で顔を合わせた者たちの姿があったのである。





「母さん、母さん、母さん! だ、大丈夫だった?! 怪我は無い?! あ、元お爺ちゃんは平気なの?! そうだ、お向かいの麗華ちゃんは無事?! それから、それから、えーと……」
 慌てふためいて母親や、近所の人たちの心配をする劉備に、母である劉佳はたしなめるような視線を向ける。
「これ、桃香。少し落ち着きなさい」
「でもでも!」
「もうあなたは一軍の将なのだから――この村で暮らしていた時と同じままでは、いけませんよ」
「う……」
 劉佳の声は穏やかなものであったが、娘を諌める言葉には確かな芯が感じられた。
 その劉備の隣では、張飛が不安そうに劉佳を見上げている。
「母者、本当に大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫よ、鈴々ちゃん。趙雲殿たちが私や村の人たちを、しっかりと守ってくれましたからね」
「ふあー、よかったのだー!」
 ほっと胸を撫で下ろす張飛の隣では、こちらも、ほっと安堵の息を吐く関羽の姿がある。
「ご無事で何よりです。助けに参るのが遅れまして、申し訳ありませんでした」
「あなたたちが叶う限り急いで駆けつけてくれたということは、あなたたちの格好を見ればわかりますよ。ありがとう、愛紗ちゃん」
 幾度目かの報告で楼桑村の危難を知った劉家軍は、騎兵のみを選抜して、取る物もとりあえず、村まで駆けつけてきた。劉佳は軍事に関しては素人であったが、汗と砂塵に塗れた劉備たちの姿を見れば、その騎行がどれほど急で、過酷なものであったかは一目で理解できたのである。


 母娘の再会が一段落すると、今度はもう1つの再会が劉備たちを待っていた。
「お久しぶり、と申すべきですかな。琢郡の県城で別れてから、さほど時が経ったわけではないのだが」
 趙雲が口を開く。
「そうですね。私もまさか、子竜さんが私の村にいるなんて思ってもいませんでしたよ」
 劉備はこの予期せぬ再会を心から喜び、そして母と村人たちを助けてくれた礼を述べる。
「なんの、ご母堂には色々と世話になりもうした。それに、黄匪どもの横暴を黙ってみているわけにもいかぬ。礼を言われることではござらぬよ」
「――とさわやかに言う趙子竜だが、実はメンマのために戦ったとは、誰が知ろうや。いや誰も知らないであろー」
 程立が茶々をいれると、劉備の目が丸くなった。
「へ? メンマ?」
 趙雲が、ごほんとわざとらしい咳をする。
「――風よ、余計なことは言わんでよろしい」
「了解ですー」
 顔に?マークを浮かべながら首をひねる劉備に、戯志才が苦笑しつつ声をかける。
「貴殿が、幽州に誉れ高い劉玄徳殿であられるか。私は戯志才と申す。お目にかかれて光栄です」
「ふぁ?! い、いえこちらこそ光栄です――って、あの、誉れ高いって、私がですか??」
「ええ。黄巾賊の大軍を蹴散らし、琢郡を救った乙女たちの武勲は、今や幽州に知らぬ者などおりますまい。不才も、1度、お会いしたいとかねがね思っていたのです。実は此度、我らがこの地を訪れたのも、それが一因でありました。まさか、時を同じくして黄巾党が一斉蜂起するとは思っておりませんでしたが」
「そ、そうだったんですか。じゃあ、戯志才さんと、あと、えーと……」
 劉備の物問いたげな視線に気づき、程立が小さく頭を下げる。
「姓は程、名は立、字は仲徳と申します、ですよ」
 劉備は自らも名乗り返すと、改めて戯志才と程立の2人にも頭を下げ、村を救ってくれた礼を述べた。
「感謝の意は謹んで受け取らせていただきます。ですが――」
「まだ、黄巾党を追い払ったわけではないですからねー。早急に今後の対策を決めておくべきかと。玄徳さんたちが包囲を突破したことで、敵さんも苛立っていることでしょうし」


「心配は要らぬ。村を包囲している黄巾賊どもは、まもなく退くだろう」
 戯志才と程立の言葉に答えたのは関羽であった。
 2人だけでなく、趙雲も、その関羽の言葉に驚きの表情を見せる。
「ふむ? 何故か、と問うてもよろしいか、雲長殿」
「簡単なことだ。これは貴殿らのお陰でもあるのだが――今、県城はがら空きであろう?」
 その関羽のひと言で、聡い3人は状況を察した。
 趙雲たちが蹴散らした黄巾賊は、県城にいた軍。それが出払い、あまつさえ惨敗を喫した今、県城の守備兵力はわずかしかいない。そこを衝けば、県城を取り戻すことは容易であろう。
「しかし、こちらの兵は足りるのですか? 聞けば、劉家軍は千に満たないとのことですが」
「心配いらぬ。遼西の公孫賛殿の軍が翼賛してくれているからな」
「そうそう。鈴々たちがいなくても、おっちゃん(簡擁のこと)や孔明たちなら楽勝なのだ」
「うんうん、一刀さんや士元ちゃんもいるし、伯珪の援軍がなくても勝てるくらいだよね」
「――さて、それはどうかと思わないでもないですが……」
「もー。愛紗ちゃんてば、素直じゃないんだから。本当にそう思ってるなら、愛紗ちゃんはここじゃなくて、城攻めの方にいってるでしょ?」
「む……そ、それは」
「にゃはは。愛紗はおにいちゃんのことが絡むと、途端に辛口になるのだ」
「り、鈴々ッ?! い、いきなり何を言うのだ、おまえは!!」
「そしてそれを指摘すると怒りんぼになるのだ♪」
「――――ッ!!!」
 張飛のからかいの言葉に、関羽は顔を真っ赤にさせて反論しようとするが、口がぱくぱくと開閉するのみで、肝心の言葉は全然出てこなかった。
「あはは、愛紗ちゃんの負け~♪」
「桃香様ッッ!!!」
 劉備のとどめのひと言によって、関羽の絶叫が、あたり一帯に響き渡った……


◆◆


 どこか遠くから、聞きなれた声が聞こえてきたような気がして、おれはあたりを見回した。
 だが、おれの目に映るのは県城の城壁だけだ。はて?
「どうかされたか、北郷殿」
「いや、なんか関将軍みたいな声が聞こえたような気がしまして」
 不思議そうな顔で訊ねてきた人物に、おれは小さく頭を振って答えた。
「関将軍は、楼桑村に行かれたはず。ここにはいないかと思いますが」
「そうですよね? いや、すみません、気のせいだったみたいです」
 おれが頭を下げると、いやいや、とその人は小さく笑みを浮かべた。
「出来れば、このような時は玄徳様や関将軍にいてほしいものですからな。北郷殿が聞いた声が、まことに関将軍であれば、私も心強いのですが……」
 それを聞いて、おれは苦笑する。
「駄目ですよ、陳将軍。劉家軍を率いるのは、今はあなたなんですから、そんな弱気な発言を兵が聞いたら、士気にかかわります」
「むむ、確かにそうですな。しかし、玄徳様も、どうして私ごときにこのような大任をお与えくだすったのやら。私は武器を振るうしか能の無い人間、将軍などという責務には向かぬと思っているのですが」
 心底不思議そうな顔をするその人物から、おれはわずかに視線をそらせた。
 実は、この人物を玄徳様に強く推したのはおれだったりするのである。だが、それを口に出してしまえば、さすがに恩着せがましく聞こえてしまうだろう。
 それに、旗揚げ当初から、目立たぬながらも堅実な働きぶりを示してきたこの男のことは、玄徳様や関羽もすでに気がついており、おれが口を出さなくても、いずれ抜擢されていたことは間違いない。そのことは自信をもって断言できる。なぜならば――


 おれと会話を交わしているこの人物こそ、姓は陳、名は到、字は叔至。
 正史において「趙雲に亜ぐ(趙雲に次ぐ)」と称えられた、蜀漢帝国でも屈指の勇将なのである。





 そんな有名どころが、なぜ演義では登場しないのか。それはおれにもわからないが――あるいは、影の薄さが原因かもしれない、とこっそり思ってしまったり、しまわなかったり。
 陳到は、戦闘では勇敢に戦うのだが、日常ではいたって気弱で、自己主張というものをしない人物なのである。年齢的には、もう壮年といってもよいくらいなのだが、この武勇がありながら、いまだに一兵士の身に甘んじているのは、その性格が災いしてのものだろう。
 もっとも、当人は別に出世や名声には興味がないらしく、自分の境遇に不満を持ってはいないようだ。
 ただ、それは無気力や、怠惰とは一線を画する。劉家軍に参加したことが、何よりの証。この乱世を憂う気持ちは、玄徳様や関羽たちと遜色ないものだった。
 だからこそ、おれが陳到を抜擢できないだろうか、と提案した際、反対する者は皆無だったのである。


 ちなみに、おれが陳到の存在に気づいたのは、単なる偶然だった。おれは戦場には出ないので、戦闘時の勇戦ぶりなど知る由もなく、陳到とはこれまで何度か顔を合わせたことがあったが、影の薄い人だな、くらいの感想しか持っていなかった。
 切っ掛けは先日の孫堅軍との邂逅であった。あの時、玄徳様の護衛をしていた5名の兵士の1人が、陳到だったのである。で、孫策らと別れた後、何となく会話をして、はじめて名前を知った次第であった。
 その時、おれの脳裏にはかの有名な曲が流れたのである――あら、こんなところに牛肉が♪


 幽州へと戻る際、不落の村の噂を知ったおれたちは、ようやくそこで楼桑村が危機に陥っていることを知る。楼桑村には玄徳様の母君である劉佳様がおられるし、劉佳様以外にも、旗揚げ前も、後も、お世話になっている人たちがたくさんいる。何より、玄徳様にとっては生まれ故郷だ。
 ただちに救援を、という玄徳様の言葉に、反論する者はいなかった。
 だが、このままの速度で行軍した場合、間に合わない可能性があった。不落と謳われる原因は、村にいる勇将のお陰らしいが、たった一人で、黄巾の大軍を押し返せる筈もなく、最終的には陥落を余儀なくされるであろうからだ。
 したがって、騎兵のみで先行するという案が採択された。そして、そこに劉佳様を案ずる玄徳様や関羽、張飛らが加わるのもまた当然の流れであったろう。
 馬に乗れないおれは論外として、騎馬の強行軍に耐えられそうもない諸葛亮や鳳統も、この先行部隊からは外されたのである。
 問題となったのは、玄徳様、関羽、張飛が先行部隊に加わると、劉家軍の本隊を率いる将帥がいなくなるという点であった。
 当初、玄徳様は簡擁か、あるいは諸葛亮に任せるつもりだったようだが、これは2人に反対された。軍を進めるだけならばともかく、幽州領内ではどのような作戦行動が求められるか、予断が許されない。ここはやはり、武官、武人たる人に任せ、諸葛亮らはその補佐に廻った方が良い、と。
 とはいえ、劉佳様のこともあり、時間はかけておられず、今から、誰かを探し出すことはできない。苦悩の色を見せる玄徳様に向かって、おれはこう言ったのである。
「陳叔至という人を知ってますか?」と。





 これは結果論なのだが、この決定は劉家軍にとって大きな利をもたらした。
 情報を収集したおれたちは、幽州の黄巾賊が楼桑村近辺に集中していること、そして県城から新たに楼桑村への援軍が出され、県城ががら空きになったことを偵知する。
 普通であれば、5百に満たない軍で城を陥とすなどできようはずもないが、劉家軍が幽州の県城を陥落させようというのであれば、話は別だ。なんといっても、県城は、劉家軍の功をもっとも人々が知っている場所なのである。当然、その人気も高い。くわえて公孫賛からは、軍の一部を割いてもらっている。負ける要素を探すのが難しいくらいのものであった。
 実際、県城の攻撃は速やかに、かつ整然と進められ、劉家軍は難なく県城の奪還を成し遂げたのである。これについては、諸葛亮らの策略や、城内の民衆が呼応してくれたことも大きかったが、何より最前線で奮闘する陳到の功が第一であった、と断定しても異論は出まい。
 総帥が簡擁や諸葛亮でも、城を陥とすことはできただろうが、あれほど速やかに陥とすことは出来なかったにちがいないのである。


 今や、関羽、張飛に次ぐ劉家軍第3の将となった陳到。
 だが、当人はその自覚があまりないようで、未だに自分が将軍という立場にいることに首を傾げている始末だった。
 しかし、どれだけ当惑にとらわれていようとも、将軍のところにはやらなければいけないことが、山のようにやってくる。
 短い間とはいえ、黄巾賊の支配を受けていた県城は治安が悪化し、略奪や破壊の名残が各処に残っている。
 県城に残っていた劉焉配下の高官の多くは、黄巾賊との戦いで討ち死にするか、あるいは敗北後に逃亡しており、以前のように官に掣肘を受けることはなかったが、それは逆に全ての責任が劉家軍の肩にかかってくることを意味した。
 城内の混乱を一掃し、遠からず攻め寄せてくるであろう黄巾賊に対抗するため、軍備を整え、城壁を修復し、兵を募る。
 そのために、陳到は首を傾げる暇もない忙しさに放り込まれることになるのだった。
 そんなことを考えているおれに、諸葛亮から噛み付くような叱責が飛んでくる。
「何を他人事のように言っているんですか! ほら、一刀さんも働いてください!」
「は、はい!」
 おれの返事を受け、鳳統が指示を下す。
「……じゃあ、これとこれと、あとそれと、そうだ、あれとあれもお願いしますね」
「……あの、士元。そんなに並べられても、おれの頭では覚えきれな……」
「……お願いしますね?」
 潤みを帯びた瞳に見上げられ、おれは反射的に声を張り上げていた。
「イエス、マム!」
「いえすま、む??」
「わかりました、ということだ。じゃあ、早速いってきます!」
 脱兎のごとくその場を走り去るおれを見送りながら、鳳統はなおも首を傾げていた。


 劉焉や、その周囲の高官たちはどうしようもない連中だったが、中級以下の官吏たちの中には、能力と志を併せ持った者たちも多かったらしい。黄巾賊の弾圧から逃れ、市井の中に隠れていた彼らは次々と劉家軍に協力を申し出てきてくれた。彼らのお陰もあって、県城を守る劉家軍の勢力は良質の膨張を遂げ、たちまち3千まで膨れ上がった。幽州の黄巾賊との戦力差は未だに大きいが、県城に篭る限り、そうやすやすと敗北することはないだろう。
 かくて、県城を掌握した劉家軍。これを前にしては、幽州における根拠地を奪われてしまった黄巾賊は、もはや楼桑村のような小さな村に拘泥することは出来ず、引き返すしかあるまい。幸いにも、あちらからは急報はなく、いまだ楼桑村は健在であることは確かなのだ。
 あとは、県城に篭って黄巾賊の攻撃をあしらいつつ、その後方を玄徳様たちがひっかきまわせば、大軍とはいえ黄巾賊など恐れるに足らない。易京城に戻る予定の公孫賛も、遼西の黄巾賊を一掃し次第、こちらに援軍を向けてくれると約束してくれている。


 必勝とは言わないまでも、高い確率で勝利はこちらのものとなるだろう、とおれは考えていた。ただ、1つだけ心配があった。
「問題は、黄巾賊が持久戦に出たときなんだよなあ……」
 城壁の上から、遠く楼桑村の方角を眺めつつ、おれはひとりごちる。
 県城には、当然ながらたくさんの民衆が生活している。しかも、黄巾賊の略奪で城内の物資は不足気味であった。物資の多くは、賊将の趙弘が持って出てしまったのだ。
 無論、城の倉庫に残っていた分に関しては民間へ供出するようにしているが、今後の戦いを考えると、少しでも節約しておきたいところ。だが、それも過ぎれば、今度は民の不満が劉家軍に向けられてしまうだろう。
 願わくば、黄巾賊が強攻策に出ることを期待したい。そうすれば、城壁を盾にして有利に戦える。だが、敵が持久戦に出てきた時は……
「『あの手』を使うしかない、か」
 そう。張家の3姉妹を敵にまわす、禁断の挑発戦術を再び!
「……出来れば、それは避けたいよなあ」
 心からの呟きを発するおれ。
 脳裏に浮かぶのは、にこにこ笑いながら、得体の知れない鬼気を漂わせる張角や、目を吊り上げて怒る張宝、そして見た目穏やかながら、退路を塞いでから容赦なくとどめを刺しに来る張梁の姿である。
 ただ、彼女らの姿を思い出したおれが覚えた感情は、恐怖ではなく、懐かしさだった。
 思えば、予期せぬ騒動で黄巾の陣地を抜け出したから、別れの挨拶1つしていないのである。その後も、しすたぁずの活躍の噂は聞いているから、おれがいなくなったところで問題はなかったのだろう。だが、それとは別に、あの3人には色々と恩義がある――まあ、同じくらい貸しがあるような気もするが――ので、その恩義に報いることなく、黙って姿を消してしまったのは、やはり褒められた話ではないだろう。


 今回の黄巾賊の一斉蜂起に、党首たる彼女らが関わっていない筈はない。というか、むしろ関わっていてほしい。
 仮に関わっていないのだとすれば、それこそ問題だからだ。それは、黄巾党の将軍たちが、張角たちを担ぐのをやめたことを意味するからである。そうなっていたら、彼女たちを待つのは、ろくでもない未来だけだろう。県城に篭っているおれには、手を差し伸べようもないしな。


 いささかとりとめもないことを考えていたおれは、視界の隅で砂塵が立ち上ったことに気づいた。
「ん?」
 楼桑村の方角ではない。東南の方角だ。冀州方面の黄巾賊の部隊が来襲したのだろうか。
 見張りの兵士もすぐに気づいたのだろう。城内に緊急事態を知らせる銅鑼が鳴り響く。とはいえ、城壁近くに住んでいた人々は、すでに城の内部へと住居を移し変えている。あとはあらかじめ布告していた避難場所に民衆を誘導するだけで、城内の戦闘準備は完了するのである。


 城内の指揮所に、陳到をはじめとした劉家軍の面々が集う。おれもその末席に腰を下ろした。
 やがて、斥候から状況が報告されたが、その報告は誰もが予期しない奇妙なものだった。
「同士討ち、ですか?」
「は、はい」
 諸葛亮の問いに、斥候みずからも戸惑ったような顔で、見たままの様子を答えた。
「こちらに近づきつつあるのは、頭に黄色い布を巻いた黄巾賊とおぼしき者たちです。それは間違いないのですが、その後ろから彼らを追い立てている者も同じ装束なのです。ただこちらは多くが騎兵であり、甲冑も美々しく揃えており、黄巾賊の主力かと思われます!」
「……他に、何か気づいたことはありませんか?」
 鳳統の問いに、斥候は「強いて言えば」と付け加え、
「追われている側なのですが、装備は追っ手と比べて粗末なのですが、士気はきわめて高く、武威に優る相手に対して頑強に抵抗しておりました。おそらく、相当に人望の厚い人物が指揮をとっていると思われます」
 

 その報告を聞きながら、おれは首をかしげた。
 黄巾賊の指揮官で人望が厚い、か。おれの知る限り、程遠志亡き今、大方は張曼成と波才のみ。張曼成は楼桑村にいるから、あとは波才だけなのだが、あれは人望という言葉の対極に位置する人間だ。
 おれがいなくなった後、台頭してきた人物がいれば話は別だが、大方以外に、黄巾党の中でそこまでの人望を備えているのは、それこそ党首か、その妹たちくらいしかいないのだが――
「まさか、な」
 おれは、自分の着想に小さく首を横に振った。
 まさか、3姉妹が軍を率いて戦場に出てくる筈はあるまい、と。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/22 13:02




「あーッ!! もう、どこまで追ってくれば気が済むのよ! 張家の姉妹に矛を向けるなんて、黄巾党の風上にも置けない連中ね!」
 張宝の苛立たしげな叫びに、張梁が嘆息混じりに反応する。
「まあ、その黄巾党から逃げ出そうとしてるあたしたちが言って良い台詞じゃないでしょうけどね」
 険悪な雰囲気漂う2人の間に、のんびりとした声が割ってはいる。
「もう、2人とも。こんな時に喧嘩なんかしないの」
 張角のひと言に、それまでにらみ合っていた2人は、まったく同じタイミングでため息を吐いた。
「姉さん、状況わかってる?」
 張宝の呆れたような顔に、張角は不満げに答える。
「むー、ちぃちゃん、お姉ちゃんをばかにしてるでしょ。もちろんわかってますとも。わたしたちはー、暴走する黄巾党から逃げ出そうとして、見事に波才さんの罠にはまっておいつめられそうになってまーす♪」
 今度は張梁が呆れたように口を開く。
「それはその通りなんだけど……姉さん、なんでそんなに余裕があるの?」
「それはねー、お姉ちゃんの女としての器が、2人よりも大きいからよ」
「この場合、女の器は関係ないような……人としての器ってこと?」
「あ、そう。それそれ」
 慌てて言い直す張角に、今度は張宝がぼそりと呟く。
「姉さんの場合、器云々じゃなくて、単にお気楽極楽なだけじゃない?」
「あー、やっぱり2人してお姉ちゃんをばかにしてるー」
 ぷんぷん、と憤慨する張角。
 姉妹の命を奪わんとする敵が迫る中、交わされるのはいつもと変わらぬ会話であった。
 


◆◆


 事の起こりは、3人のユニットである『数え役萬☆姉妹』の活動が全面的に取りやめられたことであった。
 これは、黄巾賊大方 波才及び張曼成による決定であり、姉妹は半ば強制的に河北へと連れてこられたのである。
 当然ながら姉妹は抗議したのだが、その時にはすでに姉妹に近しい者は遠ざけられ、波才直属の無愛想な男たちが、面倒くさげに対応してくるだけであった。
 その態度に張角は口を尖らせ、張宝は激怒したが、張梁は姉たちとは異なり、背筋に氷片を感じとった。いつか来るとは覚悟していたが、まさかこうも早く来るとは、張梁をして予想外と言わざるをえなかったのである。
「今の黄巾党の力では、諸国を荒らすことは出来ても、一国を建てることなんて出来ない。波才も張曼成も、その程度の判断はつくと思っていたのだけど……」
 だが、そう思っていた張梁は、征服した平原郡に展開している波才の軍団を見て、慄然とすることになる。
 そこに集うは、黄巾30万の軍勢の中でも最精鋭と呼ぶべき精強なる軍団。整然とした進退は、もはや賊と称することを許さない錬度を示し、統一された軍装はあたかも官の正規兵を見るようであった。
 さらには、各処に見える投石器や、攻城櫓といった兵器は、これまで黄巾党が持っていなかった技術と資材である。
「一体、どうやって……?」
 張梁は呆然と呟く。
 建前とはいえ、大方たちは党首たる張角に従ってきた。彼らが差し出す資料など信用できなかったが、そこからある程度の予測をたてることは、張梁にとって難しいことではない。それに、波才の軍団にせよ、張曼成の軍団にせよ、軍団長とは異なり、その配下には素直に党首たちを敬愛する者たちは多く、そういった者たちから様々な形で情報を仕入れ、張梁は形ばかりの部下の動静を監視し続けてきたのである。
 いよいよ、連中が事に及ぼうとする時は、素早く逃げ出さなければならない。担ぎ上げた神輿は、不要になれば捨てられるだけだ。大方よりも人望の厚い党首たちを、彼らがほうっておく筈はないのである。


 張梁が掴んでいた情報には、実際と比べて多少の誤差はある。それは張梁とてわかっていた。だが、それを計算にいれてなお、ここまでの軍備を整えるだけの資金を、波才であれ張曼成であれ、持ちえるはずがないのである。
 考えられることは2つ。彼らが、張梁の予測を上回って狡猾に軍備を推し進めていた、という答えが1つ。もう1つは――張梁の知らない支援を、彼らが受けている、という可能性である。
 だが、今の張梁たちに、その真相を探る余裕はない。
 平原郡に到着するや、姉妹は幽閉同然に城に押し込められ、外出どころか、城内を歩くことさえ許されなかったからである。幽閉同然といったが、それはすでに幽閉そのものと言ってよかったかもしれない。
「ねえ、ちょっと、どうするのよ! このままじゃ、あたしたちやばくない?!」
「うー、もう何日歌ってないんだろ。ねえ、人和ちゃん、舞台に立ちたいよー」
 張角も、張宝も、不穏な気配を察しているのだろう。閉じ込められた部屋の中で、始終、落ち着かない様子で動き回っている。
「そうはいっても、今は機会を待つしかないわ。あたしたちだけじゃあ、ここから逃げ出せないし」
 淡々と述べる張梁だったが、内心は姉たちと大して違いはない。面にこそ出さなかったが、臍をかむ思いだった。
 波才たちの強引ともいえる行動に、奇異の念を抱いてはいたが、まさか彼らがここまでの力を持っているとは予想だにしていなかった。そのため、脱出に必要な準備がほとんど出来ていないのである。早い段階で側近たちと引き離されたことも、張梁にとっては痛かった。
 口にした通り、今は機会を待つしかない。


 しかし、その機会が訪れなかったなら。
 あるいは、機会が訪れる前に、波才たちが行動に出てしまったら。


 その時のことを思い、張梁はかすかに身体を震わせるのだった……





 だが、幸いというべきか。
 張角たちにとって、機会はほどなく訪れる。
 破竹の勢いで進撃していた黄巾党の大軍が停止を余儀なくされたからだ。
 黄巾賊の前に立ちはだかった巨大な壁。
 1つは幽州の楼桑村。そしてもう1つは袁紹の本拠地である南皮城である。
 大諸侯の1人である袁紹が帰着する前に決着をつけなければと、波才は猛攻に次ぐ猛攻を重ねたが、南皮城の城壁は厚く、高く、ただ黄巾党の兵士たちの屍が山となって積み重なるのみだった。
 城を守る沮授、審配、郭図らは、平時は対立しがちな関係ではあったが、黄巾賊を相手にして、互いに足を引っ張り合う愚を冒すことはなかった。高覧、張恰ら武官たちの勇戦もあり、南皮城は波才の攻撃に小揺るぎもしない鉄壁ぶりを披露することになる。


 この時点で両者の戦力差は大きかった。波才が南皮城は包囲するにとどめ、冀州の各地を劫略すれば、袁紹陣営は致命的な被害を受けたかもしれない。だが、波才は目前の城壁に拘り、平原郡に残していた予備兵力を投入して、南皮城に更なる攻撃を仕掛けようとしたのである。
 必然的に、平原郡の兵力は手薄になった。くわえて、波才配下の精兵のほとんどは南皮に向かったため、平原郡に残ったのは、錬度も装備も二流の部隊のみ。姉妹を監視していた波才直属の兵も、すべて南皮に向かったようである。
 少なくとも、張梁はそう判断し、逃げ出すのは今をおいて他になし、と姉たちを説得したのである。


 張角のおねだりと、張宝の勢いと、張梁の説得を駆使し、城からの脱出を果たした姉妹は、城内の様子など知る由もない一般の党員を集めて、演説をぶつ。
「苦戦を続ける大方2人を助けるため、大賢良師みずから兵を率い、戦場に出る」と。
 何も知らない党員たちは、党首らの決断に感動し、また張角らと共に戦うことが出来る栄誉に感激しきりであった。
 かくして、たちまちのうちに1万近い兵力をかき集めた張角たちは、慌しく平原郡を出る。距離的に近いのは南皮だが、当然、そちらに行くはずがない。
 とりあえず、幽州へと向かい、頃合を見計らって姿を消す。張角たちはそう決めていたのだが――





「それがどうして、こんなことになってるのよー!」
 張宝の絶叫に、張梁が言葉少なに応じる。
「ごめん、ばれてたみたい」
 張梁の言葉どおり、平原を出た張角たちが幽州へと向かってから、一刻も経たないうちに、後方に砂塵が巻き起こった。
 そこに翻るは、張角たちと同じ黄巾党の旗印。「蒼天已死 黄天當立」と大書された旗が翩翻と林立していた。だが、その軍はいかなる使者も送っては来ず、ただ一直線に張角たちに向かってくる。
 その整然とした突進が意味するものを、張角たちは嫌でも悟らざるを得なかった。
 そして……
 1度悟ってしまえば、張家の姉妹とて、やられっぱなしではなかった。黄巾党が結成される以前、貧しさに耐えつつ、各地を流浪していた頃の強かさは、今も失われていない。
「えーい、こうなったら――」
「ちぃ姉さん?」
「みんな、きいてー♪」
 舞台で鍛えた声量は、混乱する兵士たちの耳に、不思議なほどに良く通った。
「後ろから来るのは、恐れ多くも私たちに刃向かって、黄巾党を牛耳ろうとする裏切り者たちなんだ。このままじゃあ、私たちは捕まって、あーんなことや、こーんなことをされちゃうかもしれないの! そんなこと、みんなは許せる?」
 その言葉を聞いた兵士たちは、たちまち怒気で沸騰する。
「許せるものかー!」
「地和ちゃんたちはおれたちが守るぜー!!」
「裏切り者に思い知らせてやるから、安心してくれ!!」
 義憤に燃えた兵士たちの声を聞き、張宝と、そして張宝の意図を悟った2人の姉妹も、心底嬉しそうに叫び返す。
「みんな、ありがとー! そんなみんなのために、地和は一生懸命、応援しま~す!!」
「もちろん、天和も一緒だよーー♪」
「人和も、皆のために、応援しまーす」
 尊敬し、憧れる張家の姉妹たちに頼りにされ、応援されるという栄光を与えられた黄巾党の兵士たちの士気はたちまち沸点に到達した。
『ウオオオオ、やってやるぜーーー!!!』
 1万の軍勢は、たちまち心を1つにして、押し寄せてきた波才配下の精鋭軍と矛を交える。
 錬度と装備の違いから、鎧袖一触、蹴散らされるかと思われた張角軍は、しかし、怒涛の如き勢いでもって、相手を押し返してしまうのであった。


 かくて、見事勝利を得た張角軍だったのだが……
 一旦は引き下がった追っ手は、距離を開けつつも、不気味な沈黙を続けながら、張角たちを追尾してきた。
 張角軍は、姉妹によって士気を高めたのだが、時間が開いてしまえば、高まった士気も元に戻ってしまう。根本的な戦力が違う上に、相手の奇襲、夜襲も警戒せねばならず、その心身の疲労は、戦いなれていない張角軍にとって、きわめて厄介なものであった。
 最初の勝利からすでに数日が経過している。張角軍からは、すでに先日の英気は感じられなかった。
 それでも、党首姉妹を守っているという誇りが、張角軍に属する黄巾党兵士の根っこを支えていた為、軍自体が瓦解するということはなく、それは張姉妹の人望の厚さを改めて示すものであった。
 だが、当の張角たちにとって、事態は困難を極める一方であった。なんとか、最初の攻撃を防げたのは良かったが、今度は自軍の兵士たちが党首姉妹を守るために、常に周囲に人垣をつくるようになってしまったからである。これでは、こっそり陣中から逃げ出すというわけにもいかない。


「どうすんのよ、人和。このままじゃ、私たち、本気で逃げらんないわよ?!」
「落ち着いて、ちぃ姉さん。騒いだって、問題は解決しないわ」
「これが落ち着いていられますか! 姉さんもそう思うでしょ?!」
 張宝は張角に視線を向ける。
 だが、当の張角は普段とあまり変わった様子もなく、のんびりと鼻歌を歌っていた。
「―――ふんふ~ん♪」
「ちょ?! 姉さん!!」
「ふぇ?! あ、なに、ちぃちゃん?」
「なに、じゃないわよ! なんでそんなに落ち着いてるの、姉さんは!」
「んー。なんでだろ?」
 不思議そうに首を傾げる張角に、妹たちの声が期せずして重なる。
『姉さん!』
「うう、2人とも、怖い。お姉ちゃんをいじめないで~」
「怒られたくなかったら、姉さんもちゃんと脱出方法を考えてよね!」
「は~い」
 しゅんとした様子で、言われたとおり、なにやら思案に耽り始めた張角だったが……
「ねえねえ、ちぃちゃ――」
「ね・え・さ・んッ?!」
「え~ん、わかりました、真面目に考えます~」


 その様子を見ていた張梁は、さすがに首を傾げた。
 張角は確かにのんびりとした性格だったが、ただ物事の瀬戸際にあっては、昔から聡いところがあった。
 それは張宝や張梁がまだ小さかった頃から変わらない。
 幼い頃――父母を失い、着の身着のまま、路頭に放り出されながら、決して他人の世話になることなく、幼い妹たちを守り通してきた張角。
 表面上、どのように振舞っていようと、張梁はそんな姉のことを心底信頼していた。そして、それは張宝とて変わらない。
 だからこそ、今の姉の様子はおかしい、と張梁には思えてならなかった。
 まるで、今、迫り来る危機など心配するにあたらない、と安心しきっているかのようにさえ見えるのだ……


 張梁がそれを口にすると、張角は「うーん」と難しい顔で考え込んだ。
 張角自身も、どうしてこんなに落ち着いていられるのか、よくわかっていないようだったが、張梁の指摘には頷けるところがあったらしい。
「言われてみると、そうかもね。なんかこう『危ないぞー!』って感じが、今はないかも」
 張宝が目を剥いて反論する。
「どうして?! あたしたち、今、絶対絶命じゃない!」
「うーん、そうだよね。私も、それはわかってるつもりなんだけど」
 なおも不思議そうに首を傾げる張角の姿を見て、張梁は少し考え込む。
 張角が直感に優れるのは、張梁たちも認めている。張角を信じるならば、今、迫り来る追っ手は脅威ではない、ということになるが、そんなことはありえない。
 では考え方を変えてみよう。
 追っ手は脅威である。だが、それは張角たちの命に危険を及ぼすことはない。つまり、その脅威を払拭するほどの味方が現れれば、張角の言葉に矛盾はなくなる。
 なくなるのだが、しかし、そんな都合の良いことが……


「申し上げます!」
 部下の報告に、張梁の思考が中断した。
 張宝が慌てたように声を高める。
「なに?! 敵が攻撃してきたの?」
「い、いえ、そうではありません。間もなく、琢郡の県城が見えてまいりますが、このまま進軍を続けてもよろしいのでしょうか? 県城の者たちがどのように行動するかがわかりませんので、指示をいただきに参りました」
 その部下の言葉を聞いたとき、張梁の瞳が一瞬、光ったように見えた。
 それには気づかず、張宝ははたと手を叩く。
「そう、それよ!」
「は、はあ?」
「琢郡の連中に私たちを助けるように命令すれば良いんじゃない! あたしってば冴えてる! あんた、ちょうど良いから、ここから県城に行って……」
 目の前の部下にそのまま命じようとした張宝を、張梁が止めた。
「待って、姉さん」
「どうしたのよ、人和?」
「私たちが、直接行きましょう。城の人たちを説得するのは、多分それが1番早いわ」
「そ、そうね。張家の3姉妹が行けば、否とは言わないわよね。よし、それじゃその間、あんたが指揮官ね!」
 張宝の言葉に、部下が仰天する。
「な、ななな?! お、お待ちください! 私ごときが、一軍を指揮するなどとんでもない!」
「天下の地公将軍が良いって言ってるの! あんた、名前は?!」
「は、はい。それがし、馬元義と申しま……」
 馬元義が言い終わらぬうちに、張宝は高らかに宣言した。
「では、馬元義! 本日ただいまより、あんたに黄巾党の大方を命じる!!」
「ええええッ?!!」
 大方とは、黄巾党における最高の役職。あまりの驚愕に、馬元義は呆然とする。
 だが、馬元義の周りにいる人たちは、そんな彼の心を察してはくれなかった。
「うんうん。じゃあ、この大賢良師張角がじきじきに、ここで任命しちゃいます♪」
「それじゃ、人公将軍として、私が見届け人になるわね」
「え、あの、いや、ちょっとお待ちを……」
 目の前で、何かとんでもない事態が侵攻していることを悟り、馬元義は慌てて、それをおしとどめようとする。
 しかし。
「馬元義!!」
「ははあッ!」
 張宝の一喝に、思わず平伏してしまう馬元義。流されやすい性格だと、常日頃から言われていた。
「これより、我らが軍をそなたに委ねる。我らの命を奪わんとする追っ手を、汝の全能力をもって食い止めてみせよ!」
「か、かしこまりましてございますッ!!」
「敵は強大であり、味方は寡兵――我らの命は、もはや風前の灯火。されど、汝であれば、我らの生をつなぎとめてくれると信じる。張家の姉妹の信頼、裏切ることは許さぬぞ!」
「お任せくださいませ!」
 地公将軍の言葉は、濁流のごとき勢いで、馬元義の胸にわだかまっていた感情を瞬く間に一掃してしまう。そこにおしかぶせるように、絶対死守の命令を下された馬元義は、党首らを守ることを誓約した。
 それは、装備も錬度も2流の部隊で、黄巾党の主力とぶつかることを意味するのだが、勢いに流された馬元義は、そこに思いを及ばせることが出来なかったのである。


「じゃ、そういうことで、あとよろしく♪」
「がんばってね~、馬大方」
「よろしく。できるだけ時間を稼いでね」
 そう言い置くと、張角たちはすぐさま本陣を出て行ってしまったのだが――感激に震える馬元義は、そのことにしばらくの間、気がつかなかった……


◆◆


 琢郡の県城へと向かう道すがら、馬上、張梁は小声で姉たちに囁いた。
「姉さんたち、わかってると思うけど……」
「ええ、さっさと逃げ出すわよ」
 張宝は心得たような頷く。
 だが、1人、張角だけは妹たちの言葉に応えようとはしなかった。
「天和姉さん、どうかしたの?」
「んー、ちょっとね~」
「ちょっとちょっと。しっかりしてよ姉さん、下手すると、あたしたち、ここで死んじゃうのよ?」
「それはわかってるんだけどー……なんか、このまま逃げた方がまずい気がするんだよね」
 張角の言葉に、張梁は目を見張る。
「このまま戦うってこと?」
「うそッ?! ちぃたちが勝てるわけないでしょ!」


「そうじゃなくって。物事がうまく行かない時でも、安易にそこから逃げることなく、きちんと現実と向かい合って、対処していくべきなんじゃないかなーってね」
 張宝と張梁は、顔を見合わせた後、異口同音に張角に問いかける。
『姉さん、熱でもあるの?』
「あー、ひっどいなあ、もう。熱なんかありません! ただ、ほら、この書に書いてあるんだよ」
 そう言って張角が懐から取り出したのは、かの太平要術の書であった。
 器用に馬を御しながら、張角が指し示す場所を覗き込んだ張宝が、その部分を声に出して読みはじめる。
「えーと、なになに……『遠き慮り無ければ、必ず近き憂いあり――天命至らざるときは、行き当たりばったりの行動は慎み、ただひたすらに耐え忍ぶべし。雌伏の時、いかほど長くなろうとも、安易に逃避の道を選ぶべからず。天命至れば、必ず道は開けん』――へー、この本、まともなことも書いてあるんだ」
「それだけじゃないよ、ほらほら、ここ、ここ」
 張角が指したところを、今度は張梁が読み上げる。
「『今日のあなたの運勢は絶好調! 行動すれば、すべて良い結果につながります。金運◎恋愛運◎。無くしたものが、ふとした拍子に出てくるかも?』」
 張宝がぼそり呟く。
「……訂正、やっぱり変な本よ、これ」
「えー、そうかなあ?」
 首を傾げる姉の姿に、張梁が冷静に突っ込む。
「そもそも、ここに書いてある『今日』って、いつのことなの?」
「えー、それはやっぱり私が読んだ今日この日って意味だよ~」
「はあ……姉さん、まさかこれを理由に?」
「え? あ、あはは、もちろんそれだけじゃないよ。えーと、あとは女としての勘、かな?」
「……はあ」
 ため息の尽きない張梁だったが、次の瞬間、さらに深いため息をつく羽目になる。
 張梁の視線が、琢郡の城壁に翻る旗の文字をとらえたのだ。


 そこにあるは『劉』の文字。黄巾党の旗はどこを探しても見当たらない。
 その答えは明白であった。琢郡は官軍に奪還されたのだろう。
「はあ……」
「こらー、人和ちゃん。ため息ばっかりついてると、幸せが逃げてくぞー」
「……そうね。ため息をついてる暇があるなら、対策を考えないとね」
 眼鏡の位置を直しながら、姉におざなりの返答をしつつ、張梁は今後のとるべき行動を考える。
 琢郡が官軍の手に戻ったならば、張角たちは敵に他ならない。援軍など論外、最悪の場合、波才の軍と官軍に挟撃されてしまうだろう。
 双方のうち、1つでも厄介だというのに、両者に攻撃されたら、もうどうしようもない。
 ここはもう、逃げるしかないだろう。敵や味方が、それを許してくれるかはわからないが……


 張梁が決断しようとした、まさにその寸前。
「よーし、それじゃ琢郡に向けて改めてしゅっぱ~つ!」
 張角がとっとと馬を走らせてしまった。
「ちょ、ちょっと天和姉さん?!」
 慌ててその後を追う張梁と、わけがわからぬながらに、姉妹の後を追う張宝。
「どうしたのよ、人和?」
「ちぃ姉さんも、あの旗を見て」
「旗? って、ちょっとちょっと、『劉』ってなによ」
「多分、琢郡の劉焉の旗印でしょ。官軍が県城を取り戻したみたいね」
「えーー?! ちょ、ちょっと待って。じゃあ援軍はどうするのよ」
「無理」
「だよねえ……ってもう一回待って。じゃあこのままあたしたちが県城に行けば……」
「飛んで火に入る夏の虫」
 状況がようやく理解できたのだろう。張宝は馬足を速めて姉を追いかけ始めた。
「姉さん、待ってってば! このままじゃあたしたち、官軍に捕まって火あぶりの刑にされちゃうわよ!」
「――八つ裂きの刑かも」
「人和! ぼそっと怖いこと言わないで!」
 妹たちの必死の叫びにも、張角の表情が変わることはなかった。
「大丈夫だよー」
『なんで?!』
 声を重ねる妹たちに、ほらほら、と張角は琢郡の城門を示して見せた。
 見れば、確かに張角の言うとおり、城門がゆっくりと開かれ、城内から数十の武装した兵士たちが、わらわらと湧き出している。
 だが、それはこちらを助けに来たとは限らない。普通に考えれば、城に近づく不審な人間を誰何しにきたのだろう――仮に助けに来てくれたのだとしても、張角たちの正体がばれれば、たちまちのうちに死刑台に直行、ということになるのは間違いない。
 なにせ、張角たちは黄巾党の党首であり、今回の大乱の首謀者とされているのだから。
 黄巾党内部の権力状態がどうなっているのかなど、官の人間が知るはずもなく、また知ろうとする理由もない。敵の総大将を捕らえれば、首を刎ねる以外の決断をする筈がないのだ。


 決断を下す者の近くに、黄巾党内部の事情に通じている者がいて、張角たちのことをとりなしてくれる、などという幸運は、天地がひっくりかえってもありえない。
 張梁はこの時、そう考え、自分たちの未来への扉が、大きく閉ざされる音を聞いた気がした…… 
 



 ――結論から言えば、それは単なる気のせいだったのだが。








[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黄天當立(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/23 17:52




「え゛?」
 思わず、人間には出せない声を出しそうになりました。


 同士討ちを行っている黄巾賊の陣中から、使者とおぼしき一団がこちらに向かってきたのは、つい先刻のこと。
 当然のことだが、こちらは罠を疑ってかかる。城内に入れるなど、危険すぎて出来るはずがないではないか。
 とはいえ、相手が何を交渉しようとしているのかは、やはり気にかかった。まさか眼前で同士討ちをしつつ、降伏勧告でもあるまい。
 一応、相手の主張だけでも聞いてみよう、と衆議一決した劉家軍の面々は、城壁越しに、此方にやって来る使者たちに視線を向けたのだが……


「あれは……」
 呆然と言葉を失ったおれを見て、諸葛亮が怪訝そうに話しかけてくる。
「どうしたんですか、一刀さん?」
 おれの視線が向けられている方向を見た鳳統も、小首を傾げる。
「あの使者の人たち、一刀さんのお知り合いですか?」
「ん、まあ知り合いといえば知り合いかな」
 鳳統に返事をしながらも、どうして黄巾党の党首たちが、こんなところにいるのかを考えてみる。
 見れば、使者とおぼしき者たち――つまりは、張角たちは3人しかいない。
 正式に黄巾党として行動しているのであれば、供の数は10人や20人ではきかない筈、ということは……


「陳将軍!」
 おれは、この場の最高責任者に声をかける。
「どうされた、北郷殿?」
「城外で、あの使者たちと話がしたいのです。許可いただけますか?」
 黄巾党の者を城内に招き入れるとなれば、反対する人が必ず出てくるだろうし、城内の人に変に邪推されて、劉家軍が疑われてしまっては大変だ。
 であれば、おれが外で張角たちと話をすれば良い。最悪、これが敵の罠だったとしても、城の外であれば、他の人たちに迷惑はかからないだろう。
 陳到はおれの突然の言葉に、驚いて目を見開く。だが、おれが冗談を言っているわけではないことはわかったらしい。困ったような顔で、頬を掻く。
「お知り合いの方とはいえ、しかし、それは危険ではありませぬか?」
「それは否定しませんが、あの人たちを放っておくと、もっと危険なのです」
 主に、おれの命が。
 城にいながら、何もしなかったと知られれば、ただでは済むまい。「その時」のことを想像すると、背筋に悪寒がはしる。
「あの3人、それほどの実力の持ち主だと?」
「実力の意味にもよりますけどね」
 とりあえず、張角の魅力と、張宝の行動力と、張梁のマネージング能力は、天下一品であろう。
 その力は、主にアイドルグループ「数え役萬☆姉妹」としての活動に費やされていたのだが、そのおこぼれをもらっていた波才と張曼成、程遠志らでさえ、これほどの乱を引き起こすことができたのだ。もし、あの姉妹が本気で黄巾党として活動していたら、それこそ、今頃、黄巾党の国が出来ていたとしても不思議ではないだろう。
 味方になってもらえれば最善、悪くても敵にまわすのは避けるべし。


 とはいえ、彼女らが黄巾党の党首姉妹であるということを、言明してしまうのも、それはそれで問題がある。そんな厄介な相手なら、さっさと処刑してしまえ、と言う人も出てくるだろう。というか、この時代であれば、それが普通である。
 であれば、とりあえず、張角たちの意図を確認するためにも、直接会って話しておきたい。逃げるつもりなら、時期を見て逃がしてあげれば良いし、それ以外の目的があるようなら、玄徳様に相談しても良い。
 張角と玄徳様なら、なんとなく相性が良いような気もするしな。うん。
 あの、ほけーっとしたところなんかが特に。


 考えたこと全てを説明したわけではなかったが、陳到はおれの言にそれなりの信頼を寄せてくれているらしく、最終的には許可してくれた。もっとも、おれ1人、というわけにはいかず、護衛をつける――というか、陳到たちもついてくる、という条件の下で、であったが。
 後半部分は、ちっこい軍師たちの抗議が実った形である。
 あれですね、陳到さん。「自分は将軍の責務には向かない」とか言っていたけれど、調整と決断の妙は、十分に指揮官たるに相応しいですよ。




 ――かくして、再会の時は来る。




 それは同時に、劉家軍と張姉妹との出会いを意味していたのだが――
 しかし、この時、おれはこの邂逅の意味を、それほど明確に意識していたわけではない。
 その歴史的な意義も。その後にもたらされる勢力の変化も。
 そして何より、その両者の間で身をすり減らすような苦労をする羽目になる自分の運命に対してさえ。
 この時のおれは、気づいていなかったのである。



◆◆



 いち早く、おれの姿に気づいたのは、張角だった。
「あー、一刀だー♪ おーい、一刀~」
 ぶんぶんと両手を振ると、張角は馬から下りて、駆け足でこちらに近づいてくる。
 一応、こちらとは敵対関係のはずだが、ためらう素振りさえ見せない。
 そこまでは、まあ予測してないわけではなかったが、おれのところまで駆け寄ってきた張角が、少しも勢いを緩めず、胸の中に飛び込んできたのは、さすがに予想外だった。


 戸惑いはしたが、しかし、関羽の訓練に耐え抜いた身体は、女の子1人受け止めることもできないほど、やわではなかった。
「っとぉ?!」
 あぶなげなく張角の身体を受け止めながら、おれは今の自分の状況に気づき、思わず赤面してしまった。
 再会した少年と少女。少女はためらうことなく、少年に身体を預ける――これ、なんてラブコメですか??


「わーい、一刀だ一刀だー♪」
 一方の張角は、そんなおれの動揺に気づく様子もなく、ぐいぐいと身体を押し付けてくる。
 女の子の身体の、柔らかい感触がはんぱなく感じられた。それでなくても、張角は美人でスタイルも良いのである。健康な高校生として、この雰囲気に少しの間、浸ったところで誰も文句は言えないのではなかろーか?
 おれが内心でそんな言い訳をしていると。


 不意に、首筋になにやらちりちりとした視線が感じられた。
 まずい――何がまずいかはわからないが、とにかくこのまま相手の勢いに流されると、命に関わる事態が起きる。滅多に働かないおれの直感が、派手な警告音をあげて、おれに自重を強いてきた。
 おれは穏やかに――その実、全身全霊を以って――張角の肩に手をおき、密着した身体を引き離した。
「お久しぶりです、伯姫様」
「うん、ひさしぶりー♪ 一刀が勝手に姿を消して以来だねー」
 にこやかに、きつい言葉をかけられるというのは、結構こたえるものですね、あははは……
 おれは冷や汗をかきながら、いたし方なかったのだと言い訳を述べなければならなかった。
 ちなみに、伯姫とは張角の字である。ついでに、張宝は仲姫、張梁は季姫という。もっとも、アイドルという立場上、みな、おもいっきり真名で呼んでいるため、あまり使われることはない。


「あーーー、一刀じゃん! なんでこんなところにいんのよ、あんた?!」
 張角にくどくどと言い訳を並べ立てていると、おれのことに気づいた張宝が勢い良く駆け寄ってきた。その後ろには張梁の姿も見える。
 おれと視線が合うと、ほっとしたような笑みをのぞかせたあと、小さく肩をすくめて見せた。
 その仕草の意味を悟り、おれはさらにだらだらと汗をかく。
 姉たちを止めるつもりはない、ということか! うう、張梁も結構怒ってるっぽいなあ。
 そう考えていたおれに、後背から穏やかな調子の声がかけられる。
「――北郷殿?」
 諸葛亮のにこやかな声に、おれは救われたように後ろを振り返り――
 そして知る。
 敵は前門の虎のみにあらず。後門に控える狼もまた、おれの命を虎視眈々と狙っているのだ、と。
 諸葛亮と鳳統の眼差しは、木枯らし吹き荒ぶ冬の曇天を思わせる冷たさだった。身体の芯から凍えそう、という意味で。


 おれは瞬時に、孤軍での戦いに限界を見出す。ここは援軍を求めるべきだ。
 だが、おれの視線の先では、簡擁と陳到が、こそこそと馬首を返しているところだった。
「そういえば陳将軍。碁はやりなさるのか?」
「ええ、嗜む程度ではありますが」
「ほほお、それは良い。近頃、相手がいなくて退屈しておったところでして。どうです、これから一局?」
「ふむ、面白そうですな。では早速参りますか」
 声をかける暇もあらばこそ。
 なにやらにこやかに会話を進め、2人はこの場から離れていってしまった。


「これが年の功、か。見事だ……」
 思わず、感嘆の呟きを発するおれに、再度、諸葛亮の声がかかる。
「北郷殿。説明をしていただけますか?」
「……(こくこく)」
「ねえ一刀、あれから何やってたの??」
「ちょっと一刀、こっちを見なさいこっちを! ちゃんと説明してよね!」
 前後からかかる詰問の声に、おれは深く、地の底にまで届きそうなため息を吐くのだった……


◆◆


 その後、色々すったもんだあったのだが、そこは省略する。何故って? もう思い出したくないからに決まってるじゃないですか、あっはっはっは……はぁ。
 簡擁がやや気の毒そうに口を開く。
「北郷殿、この短い間に、ずいぶんとやつれられたのう」
 ええ、あんたたちが、碁をやってる間中、散々に詰問されてましたので。いや、あれはもう詰問というより、尋問と言った方が良かったような気もする。
「慕われておるようで、結構なことではござらぬか」
「本気で言ってるのでしたら、眼医者にかかられることをお勧めしますよ、陳将軍」
「む? それがしはいたって本気ですが、間違っておりましたか?」
 はて? という感じで首を傾げる陳到。
 おれはため息を吐きつつ、肩をすくめた。
「いえ、忘れてください。それより、城内の人たちと、黄巾党の兵たちの様子はどうですか?」
 おれの問いに、2人は表情を真剣なものに改めた。
「城内の者は、混乱はしておるようですが、今のところ、目立った諍いは起きておりませぬな」
「黄巾党の者も同様です。やはり、張伯姫殿じきじきのお言葉が効いているようで」
「――ひとまずは安心、ということですね」
 おれはほっと胸を撫で下ろす。


 先刻、本人たちの同意を得て、おれは張角たちの正体を皆に明かした。今回の乱はもちろん、これまでの黄巾党の狼藉に関しても、彼女らはほとんど関与していない、という事実も含めて。
 反応は――案の定、芳しいものではなかった。
 もっとも、それは当然のことでもある。張角たちが黄巾党を担ってきた以上、たとえ掣肘しようがなかったとはいえ、黄巾党の横暴に対して責任がない、と言い張るのは詭弁に類する。
 実際、張梁などはそれを把握しつつ、自分たちの活動を行っていたのだから、尚更だ。もちろん、おれだって同様である。黄巾党にいた時、おれは黄巾党の暴虐を承知の上で、そこに胡坐をかいて生きていたのだから。


 そのことは承知しているのだが、かといって、ここで張角たちを追い払うのもまずいのである。
 張曼成の軍はなんとかなるだろうが、新たに現れた冀州からの軍勢が合流すれば、その限りではない。しかも、波才直属と思われる軍勢は並々ならぬ強さを秘めているようだ。
 張角を処刑なり、捕虜なりにするのも、同様の危険がある。いや、相手の戦意を高めるという点を考えれば、それは下策と言っても良い。
 逆に張角たちを受け容れれば、少なくとも、敵から1万は引き抜けるし、一般兵たちの動揺を誘うこともできるだろう。張家の姉妹に陣頭に立ってもらえれば、戦わずして勝つことも不可能ではない。うまくいけば、河北諸州で蜂起した黄巾党の勢いすら、断ち切れるかもしれない。


 そういったことを、おれは劉家軍の面々に説いた。ええ、それはもう必死で説きました。
 理由は色々あるが、最も大きなものは、先に陳到に述べたように、張角たちを敵にまわすことは断じて避けたかったことである。もし、これが原因で張角たちが本当に、自分たちの意思で黄巾党を動かすようになれば、大陸の混乱はこれまでの比ではなくなると思えたから。
 率直にいって、波才や張曼成など、本気を出した姉妹の敵ではあるまい。人の心を熱狂へと導く才を持つ3人の力は、それほど恐ろしいものなのである。


 そんなおれの熱弁が功を奏したのか、渋々ではあるが、諸葛亮が賛同の声をあげてくれた。
「もちろん、玄徳様や関将軍がこの場にいない以上、あくまで暫定的なことですが」との注釈付きだったが。鳳統も諸葛亮と同じく、首を縦に振ってくれた。軍略に通じた2人は、ここで張角を引き入れる利を認めてくれたのだろう。
 この2軍師が賛同すれば、今、幽州にいる劉家軍の面々で反対にまわろうとする者はいない。
 陳到と簡擁の同意も得て、張角たちはなんとか県城に入ることができたのである。


 だが、そこで安心してはいられなかった。むしろ本番はそれからだったのである。
 とりあえず、張角たちが引き連れてきた1万の黄巾軍を城内に収容し、なおかつ、それを皆に納得できるように説明せなばならない。
 筋書きとしては――黄巾党の中で傀儡となっていた張家の姉妹が、暴走する黄巾党を自らの手で食い止めるために、意を決して起ち上がった、ということにした。
 で、それに賛同した1万の兵を率いて城を出た張角たちだが、波才にその行動を阻まれ、幽州まで戦いつつ落ち延びてきた、という流れである。
 城内の民や兵には劉家軍から、黄巾党の兵士たちには張角の口から、それぞれ説明してもらった。


 はい、そうですか、と納得されないのは、まあ当然といえば当然のこと。不審をあらわにする者も少なくなかったし、互いに罠ではないか、と疑いの眼差しを向け合う光景が各処で見られた。
 だが、幸か不幸か、互いにとっての共通の敵の存在が、そういった反感や疑念を押さえ込んでくれた。
 張角たちを追尾してきた波才軍2万が、使者を出すこともせず、県城の南と西を扼すように陣を布き、城攻めの気配を見せたのである。
 こうなれば、城内で揉め事など起こしては、敵に乗ずる隙を与えるだけである。
 かくして、劉家軍と黄巾軍は、奇妙な共闘体制をとることになったのだ。


◆◆


「で、一刀……さん。この戦いの後はどうするつもり?」
 張梁の言葉どおり、今の状況はいわば非常事態ゆえの臨時的なもの。敵を撃退すれば、問題は再燃するだろう。なんといっても、黄巾党党首が官軍に与する、というのはあまりにも信憑性がない。
 だが、実のところ、おれはそこまで考えていなかったし、また考える必要もない、と思っていた。というのも……
「玄徳様がどう判断するか。季姫(張梁の字)様たちがどうしたいのか。そのあたりがわからない以上、おれが1人で考えても無駄になるだけでしょう。ただ――」
「ただ?」
「次の戦いで、黄巾党がきちんと戦う姿を見せることができれば、当面の間は季姫様たちを害しようとする者は出てこない筈です」
 おれの言葉に、張梁は小さく笑う。
「――ふふ」
「な、なんですか?」
「いいえ、しばらく見ない間に、ずいぶんと変わったようだから。玄徳、というのが、今のあなたの主君なの?」
「はい。もっとも、おれがやっていることというのは、軍の食事の支度やら不満処理やら、そういったものばかりなんですけどね」
 おれは片手で頬をかく。
「それも、元はといえば、季姫様に鍛えられたお陰で身についたものです。おれにとっては、玄徳様と季姫様たちはどちらも恩人。恩人同士、刃を交えるような事態にだけはさせないつもりです」


 そう言うおれの顔を、張梁はすこし目を細めて見上げてきた。
「私たちは、自分たちの命が危険に晒されない限り、無闇に戦うつもりはないわ。だから、黄巾党に関しても、責任を感じないわけではないけれど、彼らを命がけで止めようとまでは思ってない。もし、あなたが、私たちにそういう役割を期待するようなら……」
 張梁の言葉に、おれは軽く頷いた。
「わかってます。けれど、今、逃げたところで、官からも黄巾党からも追われる身になってしまうだけでしょう? それでは、おちおち歌うことも出来ない」
「……そうね。それは確かに」
「であれば、とりあえず――という言い方はなんですが、官に文句のつけようもないくらいの大功を示して見せては? 黄巾の乱と、張家の姉妹が関わりないのだと認めさせることが出来れば、少なくとも逃げ回る必要だけはなくなるでしょう」
 おれの言葉に、張梁は肩をすくめてみせる。
「朝廷の役人が、そんなに甘い判断をするとは思えないけど。功績を全部取り上げた上で、張角たちを捕まえた、と報告するのが関の山よ」
「ええ、まあ、それが普通ですよね」
 知らず、苦笑がこぼれでる。張梁の予測は至極正しい。おそらく、実体験にもとづくものなのだろう。
 だが。
「――1度、玄徳様と会って欲しいのです。玄徳様ならそういうことはしない、とおれは考えてますし、多分、季姫様たちも同意いただけると思うんです」
「あら、ずいぶん信頼してるのね?」
「ええ。人の好さだけで言うなら、大陸屈指でしょうね、きっと。あとは――」
「あとは?」
「お気楽さは、伯姫様と良い勝負かと……」


 おれの言葉に、張梁は最初、目を丸くし、ついで小さく吹き出した。
「なるほど。天和姉さんと同じ性格の人なら、たしかに功績を盗んだりはしないかもね」
「はい。それに、玄徳様自身は、いまだ義勇軍の長に過ぎませんが、遼西の公孫太守の学友でもあります。そのあたりの縁故で、季姫様たちの自由を保障することは、不可能ではないでしょう」
 それは、口で言うほど簡単なことではない。それはおれも、張梁もわかっていた。
「もし、どうしようもないようであれば、それこそ死んでもらうことになるかもしれませんが――」
 おれがそこまで言った時だった。
『ええーーーッ?!』
 なにやら賑やかな声と共に、勢い良く姿を現したのは――
 張梁が呆れたように、こめかみに手をあてる。
「姉さんたち、盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きじゃないわ。人和が急にいなくなったんで、心配して探してたら、たまたま2人の会話が聞こえてきたのよ!」
「……」


 唐突に始まった姉妹の言い合いをよいことに、おれはこっそりとその場を離れようとしたのだが――
「そこ! 逃げるな!!」
「はいぃッ!」
 無理でした。
「というか、私たちに死んでもらうってのはどーいうこと?!」
 そういって、おれの胸倉を掴み、がくがくと揺らす張宝。
 背はおれの方が大分高いため、力を込めにくい筈なのだが、振り払うことを許してくれない。
「いい、いや、ちゃちゃ、ちゃんとしたり、理由があるんですってばああ?!」
 揺れながら必死に言い訳するも、どうやら張宝の耳には届いていない様子だった。
 のみならず、それまで無言だった張角まで参戦してくる始末だった。
 しかも。
「一刀ッ!!」
「ひぃッ?!」
 滅多に――というか、多分はじめて聞く張角の一喝であった。おれはもちろん、張梁も張宝も目を見張っている。
 じーっとこちらを見据えてくる張角。そこに、いつもの笑みはない。
 怪我の功名というべきか、張宝の攻撃もストップしたのだが、さっきまでとは別種の緊張が、おれの額に汗を滲ませる。
「――私たちに死んでもらうって言ったよね?」
「は、はい、言いました! 言いましたが、でもそれには理由が……」
「言い訳しないッ!」
「ははぁッ!」
 思わず平伏しそうになりました。誰ですか、この曹操なみの覇気をまとった人は。
「それはつまり――」
 おれはがくがくと震えつつ、張角の次の言葉を待つ。
 なんか、裁判官の判決を待つ被告の気分ですよ。いや、そんな経験があるわけじゃないが、なんとなく。


 おれは、畏怖に満ちた目で張角を見る。
 すると――不意に、張角の顔がふにゃっと崩れた。
「死ぬ気でおれについてこい! って意味なんだね~♪」
「ははッ! ……って、へ?」
「わわ、どうしよう、ちぃちゃん、人和ちゃん。私、一刀に告白されちゃったよ~♪」
「えええーーッ?!」
 マテマテ待て! どこをどう曲解すると、そういう結論に達するんですかッ?!
 だが、おれが口を開く間もあらばこそ。
 張宝の口が勢い良く開かれた。
「ちょっと姉さん、そんなわけないでしょ!」
 おお! 張宝、その通り。もっといってくれ!
「一刀は私に向けて言ったのよッ!」
「ちがーーーうッ!」
 思わず絶叫するおれだった。
 張角は頬を膨らませ、詰問してくる。
「じゃあ、人和ちゃんに告白したの?」
「あら、それは嬉しい、かも」
「それも違う! というか、季姫様もわかってて言うのはやめてくださいよ! あと、いい加減、告白から離れてッ!」
 張宝がその言葉を聞いて、なにやらぶつぶつと呟きだす。
「人和に言ったわけでもない……告白でもない……ま、まさか?」
「今度は何ですか?!」
「まさか――結婚の申し込みッ?! しかも3人同時に! 一刀、あんた、いつからそんな大胆に?!」
「うわー、一刀だいた~ん♪ でも、姉妹3人同時にっていうのは、ちょっと節操がないよ?」
「……ぽ」
「ちっがーーーうッ!!」
 おれの口から再び絶叫がほとばしる。
 だが、それに続きかけた言葉は、第三者の乱入によって、未発に終わることとなる。


『えええええッ?!』
 唐突に響き渡る驚きの声。
 今度は何だ、と血走った目で振り返ったおれの目に映ったのは、なにやら驚愕に目を見開いている諸葛亮と鳳統の姿だった。
「は、はわわ、か、一刀さんが結婚の申し込み?! しかも3人同時に?! どど、どうしよう、雛里ちゃん?!」
「あ、あわわ、どうしようと言われても……ここはやっぱり、お祝い? あ、あと玄徳様たちにお知らせして……」
「やめーーーいッ!!!」
 もう遠慮も会釈もあらばこそ。
 おれは本気になって2人の軍師の首根っこを引っつかみ、張角たちと一緒のところに連れて来た。
 そして、小さくひと言呟く。
「……座れ」
『え?』
 5人の声が重なる。
「そこに座れッ!! 今からじっくりとおれの考えについて説明する! 質問はなし! 疑問も不要!! あと、退席は却下!!」
「ぶーぶー、横暴だよ~」
 張角が抗議したが、おれがひと睨みすると、何故だか乾いた笑顔で、そそくさと座り込んだ。
 ひそひそと声が聞こえてくる。
(……ねえ、人和ちゃん。ちょっとやりすぎたかな?)
(……うん、そうかも)
(……なんか一刀の奴、性格変わってるわね)
(……はわわ、あのあの、状況の説明を求めたいのですけれど)
(……あわわ、なんだか一刀さんの目が血走ってますよぅ……)


「……なんか言ったか?!」
『いいえ、何にも』
「よし! では早速説明を開始する! 記録は不要、その脳髄にしっかり叩きこめぃッ!!」
『りょ、了解です!!』 



 かくて。
 おれの穏やかな説得を受けた張家の姉妹は、黄巾の乱を終結させるまで、出来るかぎりの協力をすると約束してくれた。
 もし、民衆や他の官軍が不穏な動きを見せるようなら、それは劉家軍が何とか助ける、ということで軍師たちの許可ももらうことができた。
 いやー、やはり言葉は偉大だな。何事も、まずは話し合いから、という良い見本であった。
 ……なぜだか、すべてが終わったとき、姉妹も軍師たちも、少しやつれていたような気がしたが、多分おれの気のせいだろう。うんうん。


◆◆


 そうして、北郷が立ち去った後。
「……姉さん……」
「……なーに、ちぃちゃん……?」
「これからは、あんまり一刀をからかうの、やめましょ……」
「そうだねーー……」
 語り合う姉妹の語尾に、深いため息が続いたのは言うまでもなかった……



[5244] 三国志外史  六章までのオリジナル登場人物一覧
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/26 22:23
 注意事項


 本編よりもくだいて書いているため、本編の雰囲気を損なうと感じてしまう方がおられるかもしれません。もし、途中でそのように感じられましたら、読むのをおやめくださいますようお願いします。基本的に、すでに本編で書いた、もしくはこれから書くことしか書いてありませんので、この一覧を見なくても、本編にはいささかの支障もありません。



◆ 


 張孟卓

 姓は張、名は莫(バク)、字は孟卓。真名は黒華。陳留太守。曹操とは幼馴染であり、友人。その絆は深く、互いに、相手が死した後は、その家族を養うという約束を交わしている仲である。
 曹操は宮廷勤めとはいえ、一介の武官に過ぎないが、張莫はれっきとした諸侯の1人である。しかし、女性の身で太守になるにあたり、曹操から多くの助けを受けた張莫は、曹操に友情と共に恩義を感じており、曹操が洛陽から戻り、反董卓連合軍を組織すると、張莫は真っ先にこれに参加。のみならず自分の軍権を全て曹操に委ね、自らはその配下になってしまった。
 曹操軍内部では、主君である曹操に次ぐ人物として扱われている。
 張超という妹がいるが、姉があまりに曹操に対して従順なので不満を抱いており、目下、こちらが頭痛の種になっている。
 端麗な容姿と、燃えるような緋色の髪が特徴。
 なお、蛇足ながら、曹操軍にあってはめずらしく、性に関してはノーマルであり、曹操には友情と忠誠を抱いても、恋情は抱いていない。


 追記

 曹操軍の百合状況に一石を投じるためにうまれたキャラ。オリキャラ中、ただ1人、真名まで決めたところに筆者の意気込みが感じられる。当初、バクの当て字で良いものがなく、また筆者が当て字を好まなかった為、本編では「張孟卓」と表記されている。しかし、章が進むにつれ、そういった人物が増えてきたため、当て字に対する違和感が筆者の中で薄れており、そのうち「張莫」になると思われる。





 簡擁

 姓は簡、名は擁、字は憲和。劉備の幼馴染であり、真名を許されるほどに信頼された人物。主に文の面を担当する。女性が主力を占める劉家軍にあって、北郷にとっては貴重な同性の仲間である。
 基本的にのんびりとした性格で、争いごとを好まないが、いざという時はいぶし銀の働きを見せると評判である。最近は北郷のせいで働く場面が増えたとこぼしているとか、いないとか。


 追記

 やはり組織にとって常識人というのは必要だよな、との筆者の考えの下、登場したキャラ。イメージ的には汗を掻き掻き仕事している中間管理職。上(女性陣)と下(北郷)の間で苦労が絶えない意味で。もっとも、簡擁はまだまだ若いが。その働きぶりで、一部読者の間でも評価は高い。





 劉焉

 姓は劉、名は焉、字は君郎。漢王室の血に連なる名門の主。琢郡の太守。劉家軍の功績を目障りに思い、琢郡より追い出した。決して無能ではなく、反董卓連合では、追撃戦で一定の功績を挙げている。黄巾賊の蜂起により、本領を失ってしまったが、帝を奉戴した曹操に服従を誓い、宮廷内で地位を得ている。黄巾賊で荒れた中央や、河北ではなく、他州で勢力を築こうと画策中である。


 追記

 幽州では劉家軍にしてやられ、北郷に策謀を覆され、おそらく将来的には益州で再び敗れることになるであろう悲運のキャラ。張任や厳顔の忠誠を得て、劉家軍に一矢報いることができるであろうか?





 王允

 姓は王、名は允、字は子師。後漢最後の司徒。霊帝崩御の混乱に乗じ、落日の時を迎えた帝国を立て直そうと奔走した人物。実は霊帝を直接殺害した人物でもある。自らの罪を知り、董卓らを利用する策略を卑劣と承知しながらも、王朝復興の大義のため、最後まで道を違えなかった。
 だが、それが他者の理解と共感を呼べるかは別の問題であり、最後は曹操によって「剛毅とは他人に痛みを強いて、平然としていることではない」と、その心得違いを指摘され、歴史より退場することとなる。


 追記

 目的のために手段を選ばない。そんな言葉をあてはめてみたキャラ。王允に関しては一際感想が多く、筆者的に成功したキャラといえる。あの貂蝉を一時、召抱えたという剛の者でもある。それを知れば、曹操も多少は評価を高めてくれるかも?





 李儒

 姓は李、名は儒、字は文優。董卓軍の配下にあって不遇を囲っており、王允の誘いに乗って、董卓らと袂を分かった。洛陽を壊滅寸前にまで追い込んだ大火の実行犯。
 能力的には賈駆に迫るものを持っているが、その酷薄な性情と、手段を選ばぬやり方を先代董君雅や、賈駆に危険視されていた。
 自身の放火は北郷らによって阻止され、その場に打ち捨てられて以後の消息は不明。李儒がいたあたりは火災の範囲から逃れていた為、あるいは……?


 追記

 いわずとしれた董卓股肱の軍師……なのだが、ゲーム内では全てを賈駆にかっさらわれ、当初、筆者の構想にもなかった哀愁ただようキャラ。感想でその存在を思い出した筆者によって急遽登場したのだが、王允とは似て非なる意味で、手段を選ばぬキャラになってしまった。どっかでいきなり再登場しそうで怖いキャラでもある。





 李確 郭汜

 貂蝉の引き立て役である。李確の「確」は当て字である。





 蔡邑 蔡文姫

 大火に見舞われ、動揺する洛陽の人心を見事に鎮めた父娘。父の蔡邑は王允と対立するようになって宮廷から野に下ったが、その政治的手腕は、前述した一事をとってみただけでも、確かなものだとわかる。帰着した曹操の推挙によって、父娘ともども再び皇帝に仕えるようになる。


 追記

 様々に設定を考えているのだが、そのほとんどを活かせなかった父娘。ほとんど名前しか出ていない。娘の蔡文姫に関しては、女流詩人として名声が高く、宮廷の儀礼にも通じた美女なのだが、朝には弱く、寝起きの彼女の姿を見た使用人は、わが目を疑って混乱するとか、しないとか。
 蔡邑の「邑」はあて字である。





 高順

 姓は高、名は順、字はまだない。郷里の弟の代わりに、男と偽って董卓軍に徴兵された。汜水関よりの撤退戦において受傷、その際、呂布に助けられ、呂布の邸で傷を癒していた。洛陽大火の折には、姿が見えない動物たちを一匹一匹探し回っていた為、避難がおくれ、おちてきた梁の下敷きになる。
 だが、助けを呼びに言ったセキトに連れられてきた北郷によって、九死に一生を得る。
 劉家軍と別れた後、無事に呂布たちと出会い、今は傷を癒しつつ、陳宮の教えを請うて軍略の勉強中。そのおそるべき学習能力の高さに、軍師の地位を奪われるのではないかと陳宮はちょっと脅威を覚え始めている。
 黒髪、黒瞳。髪は肩にかかる程度に切りそろえていたが、最近、伸びてきたので、そろそろ切ろうかと考え中。勉学の邪魔になるため。
 傷が治ったら呂布に稽古をつけてもらおうとも思っている。


 追記

 受傷率の高さは作中随一、何気に不幸度はトップクラスのキャラ。しかし、その度に助けられるということは、あるいは幸運度も高いのだろうか? 
 智勇兼備の驍将が生まれるまでは、まだしばらくかかりそうである。





 陳到

 姓は陳、名は到、字は叔至。並外れた武勇と統率力の持ち主――なのだが、功を誇らず、影の薄い性格もあいまって、これまで無名の一兵士に甘んじてきた。北郷の推挙をうけた劉備の命により、ようやく将軍として表舞台に立つことになったのだが、本人はいまだに戸惑ってばかりである。簡擁とは碁仲間。
 また同性の同僚が増えたと、北郷は内心大喜びである。


 追記

 趙雲に亜ぐと称され、劉備の旗揚げ間もない頃から艱難苦闘をしてきた人物――なのだが、なぜか演義では無視されている、本気で悲劇の武将。最近、ようやく三国志のゲームでも名前を見かけだした、かな?
 劉家軍初の男武将として、外史に名を刻んでほしいものである。





 馬元義

 姓は馬、名は元義、字は明昌。黄巾党の一兵士であったが、張宝の命により一躍、大方に昇格する。だが、当然ながら他の兵士たちの間では評判は悪く、苦難の道を歩むことになる。自分を見出してくれた(と馬元義は思っている)張家の姉妹には心からの忠誠を誓っており、いずれ期待に応えられるだけの将軍になってみせる、と日々奮闘の真っ最中である。


 追記

 歴史では、張角の腹心であったが、洛陽潜入の折、部下に裏切られ、黄巾党反乱の事実をばらされてしまい、処刑された。これに激怒した張角は準備不足にも関わらず蜂起。かくして、黄巾の乱が勃発する。
 ある意味、歴史を左右した人物。彼が見つからず、周到な準備を経た上で張角が蜂起していれば、歴史はどのような様相を呈していたのだろうか?





 戯志才

 オリキャラではないが、念のため。
 ぶっちゃけ郭嘉のことである。戯志才は、ゲームで郭嘉が偽名として使っていたのをそのまま使用。





 程立

 これもオリキャラではないが、感想に書かれていた質問に答える意味で。
 程立、後の程昱である。
 程立はある日、日輪を掲げる夢を見て改名、以後程昱と名乗り、曹操に仕えることになる。
 こう書くと、多少話の先が読めてしまいそうだが、現時点で立と名乗っているということは、まだ夢を見ていないということである。



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/02/26 22:22




 大賢良師 張角、黄巾党を離反す。
 その報は、河北の朝野を瞬く間に席巻した。
 大攻勢を仕掛けている最中に、その党首がいなくなったのである。黄巾党内部は大混乱に陥り、官軍でさえ、事態のあまりの意外さに動揺を禁じえなかった。
 当然、情報の信憑性が疑われたのだが、張角が琢郡の県城に立てこもり、攻め寄せる黄巾党と矛を交えたことが確報として伝えられると、人々はそれぞれの立場にあって、決断を下さざるを得なくなっていった。


 中でも、真っ先にその報告の影響を受けたのが、張曼成率いる黄巾賊だった。
 その数は5万に届こうかという大軍勢であったが、楼桑村での戦いにおいて、度重なる敗北を喫し、将兵は指揮官である張曼成の統制に不服を抱くようになっていた。
 それを知った張曼成は、楼桑村への攻勢を一時的に諦め、指揮系統の立て直しに奔走していたのだが、その最中、なんと県城が奪われるという大失態を演じてしまう。
 県城の守備を任せていた趙弘を呼び寄せた末、その趙弘が大敗、討ち死にした後も、代わりの兵力を置かなかった張曼成の致命的な失策であった。


 張曼成にしてみれば、琢郡はすでに占領したも同然であり、まさか県城に攻め寄せるような敵がいるとは思っていなかったのである。それでも一応、各地に斥候を放ってはいたのだが、洛陽から長駆、劉家軍が駆けつけて県城へ攻め寄せることなど、予測できる筈もない。
 結果、張曼成配下の黄巾賊はますます指揮官への不満を募らせていき――そして、そこに黄巾党党首 張角離反の報が届けられたのである。


 張角は言う。
「波才、張曼成、程遠志ら大方によって軍権を牛耳られ、民を幸福に導くべく結党した黄巾党は、罪無き民人を虐げる悪党になってしまった」
「これすべて、彼らの横暴を制することあたわなかった己が罪。万謝しても、償うことあたわず」
「此度、河北における黄巾党の一斉蜂起は我が意にあらず。黄巾党は、もはや大方らの恣意によって動く暴虐の軍と成り果て、結党の意義を失えり」
「大賢良師 張角。ここに黄巾党党首として最後の務めを果たすべく、起兵せり。願わくば、初志を失うことなき士は、我が旗の下に参ぜんことを」


 黄巾党と官軍とを問わず、甚大な衝撃を与えることになるこの布告は、張曼成にとって止めの一撃に等しかった。
 すでに指揮官への尊崇を失っていた張曼成の軍勢は四分五裂の状態になってしまう。
 張角の下へ戻ろうとする者もいれば、黄巾党に見切りをつけ、陣営から姿を消す者もいた。
 あるいは略奪暴行の味を覚え、黄巾党を離脱することはせずとも、張曼成の指揮下は御免だと冀州へ去る者もいた。
 そして――





「――これはどういうことだ、韓忠?!」
 自分に白刃を突きつける部下たちの後ろに、見覚えのある顔を認めた張曼成は、狼狽しつつもそう問いかけた。
「愚問。貴様を殺し、この軍はおれがもらう。それだけだ」
「貴様、大方たる我に背く気か!」
「吼えるな。貴様に付こうとする者など、もはやどこにもいない。それを認めぬは、貴様だけだ」
 否定しようのない事実を突きつけられ、張曼成は歯軋りする。
「……おれを殺し、張角の所へ降伏でもするつもりか。あのたわけた女に這いつくばって慈悲を乞うのか?」
「ほう。良く気づいた。貴様の首は手土産だ。だが」
「だが?」
 それまで、どこか淡々と話していた韓忠の顔に、嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「くく。女ごときに慈悲など乞わぬ。彼奴らをとらえ、その軍もおれがもらう。彼奴らは慰み者として、飼ってくれよう」
 それに追随するように、張曼成を取り囲む者たちの顔に、下卑た笑みが浮かぶ。
 張曼成は、彼らを説得することの不可を悟り、気づかれぬように腰間の剣に手を伸ばそうとするが……
「無駄だ」
 韓忠の言葉とともに、張曼成の死角、背後から一本の槍が突き出され、それは正確に張曼成の腹部を捉えていた。


「ぐふぅッ!」
 腹部から槍の穂先を生やした格好の張曼成は、全身を痙攣させながら、床に崩れ落ちた。
 その口からは、幾度も黒褐色の血が吐き出され、のたうちながら、床の上で苦悶する。
 腹の傷は即座に意識を奪うことなく、死にいく者へ残酷な痛みを与え続ける。
「無能め。貴様のような輩が大方とは笑わせる。貴様も、貴様を選んだ者も、おれが一掃してやる。黄巾党はおれのものだ」
 もはや言葉を発することもできず、もがく張曼成の姿を、韓忠は心地よさげに見下ろしていた。


 韓忠に従った者の多くは欲望ゆえに身を処したのだが、さすがにその様子を平然と見ることが出来る者は少なかった。
 その中の1人。あまりの凄惨さに耐えかね、指揮官の様子から目を逸らした男は、視界の片隅に、この場にそぐわない清涼な白い輝きを捉え――
「……え?」
 次の瞬間、男の首は、驚きの表情を浮かべたまま、宙を飛んでいた。





「まったく……なんと歯ごたえのない連中だ。おまけに美しくもない。これほど不快な戦、滅多にあるまいぞ」
 槍の一閃で兵士を屠った白衣白甲の女性――趙雲は、心底つまらなそうに吐き捨てた。
「……何者だ、女?」
 韓忠は、己が気づかないうちに、ここまでの進入を許していたことに、内心、驚愕しながら問いかける。
 返答は、いたってそっけないものだった。
「間もなく死ぬおぬしが、我が名を知ってなんとするのだ」
「女ごときが、図に……」
 乗るな、と言いかけた韓忠の左半面が、不意に鮮やかに照らし出された。
 天幕の外に、赤々と炎が燃え上がったのである。
 予期せぬ出来事に、再度、韓忠が驚愕の叫びを発する。
「何?!」
「敵の眼前で、あそこまで無様な混乱を見せれば、襲撃があるのは当然であろう。他人を無能呼ばわりするほど、おぬし自身が有能だとは、到底思えぬな」
 そう口にしながらも、趙雲は面倒くさげに槍を振るい――それは閃光となって韓忠に襲い掛かる。
「チィッ?!」
 舌打ちしつつ、韓忠は咄嗟に後退し、趙雲の一撃を剣で受け止めようとする。
 しかし。
「ぐッ!」
 韓忠が後ろに下がるよりも、趙雲の槍の方が速かった。穂先が胸甲を貫き、韓忠の身体に達する。
 だが、咄嗟に後ろに下がった分、傷はわずかに浅くなる。しかし、その一撃は、韓忠に彼我の力量差を思い知らせるには十分すぎる攻撃であった。
「防げッ!」
 かなわじ、と悟った韓忠は配下を趙雲に押しやりつつ、自らは天幕の外に駆け出していく。
 難敵と無理に戦おうとせず、味方を糾合して数で当たろうとした判断の速さは、称されて良いものであったかもしれない。
 だが、迅速を旨とする劉家軍の行動は、そんな韓忠の思惑をあっさりと凌駕する。


 天幕の外に出た韓忠が見たものは、炎上する黄巾党の陣地であった。
 離脱者が出たとはいえ、優に3万を越える陣容を誇っていた黄巾党は、突然の敵襲と、各処に放たれた炎にあおられ、一部では同士討ちすら発生していた。
「何をしているのだ、馬鹿どもが!」
 陣内を見回した韓忠の目に、敵襲の姿はほとんど映らない。おそらく、敵は少数。奇襲をかけ、陣に火を放つことで、黄巾党を混乱させるのが狙いか。
 この地の黄巾党は大軍であるがゆえに、一度、混乱に陥れば容易に立て直しがきかない。ましてや、主将は頼りにならず、党首が離反し、軍内が分裂しつつあった現状では尚更である。
 敵がそこを突いて来るのは、ある意味、当然のことであった。あの女が言っていたように。
 であれば、それを予見できなかった自分が無能だということか。
 そこまで考えた韓忠の口許から、歯軋りの音が漏れる。
「おのれ、下郎共め。生かしてはおかんぞ」


「それはこちらの言うべき台詞だな。黄巾党の指揮官と見受けるが、如何?」
 本来、宙に溶ける筈だった言葉に、返答がなされるのを聞いた時、韓忠はこの日、三度目の――そして生涯最後の驚愕を覚えた。
 振り返った韓忠の目に映ったのは、巨大な青龍偃月刀を構え、鋭い眼差しでこちらを見据える女傑の姿。
「返答なきは肯定とみなす。罪無き民人を虐げてきた所業の報い、今ここで受けるが良い」
 大の男でも扱いが難しいであろう長大な得物を、軽々と振りかざすその姿に、韓忠はこれまで感じたことのない悪寒を覚え、抜き身のまま持っていた剣を頭上に掲げるが――
「ぬぅんッ!!」
 気合の声もろとも振り下ろされた青龍刀の一撃は、韓忠の剣を弾き飛ばし、腕を斬り落とし、そしてその下にあった頭蓋を断ち割った。


 断末魔の悲鳴をあげることさえ許されず。
 黄巾党を私せんとする野望もろとも、韓忠は関羽の手によって討ちとられたのである。


◆◆


「ふむ、少し遅かったか」
 関羽は背後から聞こえてきた声に驚かなかった。ここ数日で耳に馴染んだ声だったから。
「子竜殿か。敵の長を捕らえることはできたのか?」
 趙雲は、関羽の問いに首を左右に振った。
「あいにく、冥府に旅立った者を掴まえる術は心得ておらぬでな」
「冥府? では……」
 趙雲は小さく肩をすくめた。
「味方同士で争うていたのだよ。おぬしが討ち取った者が首謀者であったようだが……」
 言いながら、趙雲は関羽によって両断された屍を見て、もう一度、肩をすくめる。
「こちらも、すでにその後を追ってしまったようだ。そして、見る限り、もうここの軍の中に、指揮をとれる者がいるとも思えぬ」
 混乱し、逃げ惑っている黄巾兵たちの様子を見て、趙雲はそう断じた。
「風と稟の読みどおり、奇襲は成功。指揮をとる者もおらず、この地の黄巾賊は逃げ散るしかなくなろう。これ以上の成果を望むは、欲深との謗りを免れまい」
「そうだな。味方をまとめて、急ぎ退くとしよう」
 関羽らが率いてきた騎兵は百に満たぬ。その寡勢でこれだけの戦果を挙げられれば、文句のつけようがあるまい。


「承知。しかし……」
「どうかされたのか?」
 どこか感心したような調子で、趙雲は言葉を続けた。
「党首が離反した、などと正直なところ、眉唾物だと思っていたのだが――彼奴らの混乱ぶりを見ると、あるいは真のことなのかもしれぬ」
「む――確かに、敵の様子を見るに、そうとも考えられるが……」
「どのように説けば、黄巾党の総大将を味方に引き入れられるのかな。北郷殿は、相も変わらず興味深い御仁よな」
 趙雲の言葉に、関羽は眉間に皺を寄せ、その瞳には雷光が煌いた。
「何を言うか! そもそも、桃香様不在の折に、勝手にそのような決断を下すなど言語道断! 憲和や孔明、士元らがいながら、何をしていたのか! そもそも、張角がこの期に及んで離反するなど、あまりにも都合が良すぎる。罠ではないかと疑うのが当然であり、仮に罠でなかったとしても、城外に待機させておけば良いのだ。それを――!」
 よほど腹に据えかねていたのだろう。関羽はここがどこであるかも忘れたように、口調に険を湛えて言い募った。
 趙雲はそんな関羽の様子を面白そうに眺める。
 時が時だ。さすがにこれ以上続けていると、混乱しているとはいえ、黄巾賊に見咎められないものでもない。


 趙雲はそのことをわかっていたのだが――
「はっはっは、まあ言いたいことは直接会って言うが良い。もっとも、その剣幕では、そなたの姿を見かけた途端、北郷殿は逃げ出してしまいそうだがな。地獄の羅刹もかくやという顔をしておられる」
 関羽をからかう方を優先することにした。この黒髪の女傑、まっすぐ過ぎる気性が、とてもからかい甲斐があるのだ。
「なあッ?!」
「私ですら身がすくむ思いだ。北郷殿では気を失いかねぬ。さすれば、その恐怖の記憶は生涯、北郷殿から離れず、あわれ、そなたは終生、北郷殿から避けられることになるだろう」
「な、なな、なにを突然言われるッ?!!」
 顔を赤くさせたり、青くさせたりしながら、関羽が問うと、趙雲は軽やかに笑った。
「なに、ちとお節介をな。こちらにはこちらの事情があるように、あちらにはあちらの理由があろう。相手を責めるのは、それを聞いてからでも遅くはあるまい。一方的な感情で騒ぐ女子ほど、男に好かれぬものはないぞ」
「す、好かれる必要など、私にはない! それに、どんな理由があれ、通すべき筋というものはあるだろう。主に諮らずして軍の進退を定めるなど!」
「ふむ、それもまた道理。しかし、当の劉将軍はさして腹を立てている様子はなかったが?」
「そ、それは桃香様は心の広い御方ゆえ……」
「であれば、そなたが騒げば騒ぐほど、そなたの器量の小ささを証立てることになってしまおう。まあ、私には関係ないことだが……今後のことを考えるに、それはいささか拙策ではないかな。むしろここは相手の苦慮を慮って、進んで許せば、相手もそなたの器量に感じ入ること間違いなしだ」
「む、そ、そういうものか?」
「ああ、そういうものだとも。しかも、進んで許すというところが重要なのだ。これで、相手はそなたの器の大きさを知ると共に、そなたの優しさに気づくであろう。察するに、そなたは厳しい気性ゆえに相手に避けられがちではないか?」
「そ、それは……」
 ためらいがちな関羽の様子に、趙雲は得たりと頷いた。
「ふむ、やはりな。では、まさに今は千載一遇の好機。この機を逃さば、後で悔いても及ばぬぞ」
「むむむ」


 考え込む関羽に、更に趙雲は言葉巧みに、あることないこと言い募る。
 その光景は、たまりかねた配下の兵たちが退却を進言するまで、しばらく続いたのであった。


◆◆


 黄巾党冀州侵攻軍を率いる大方波才。
 程遠志や張曼成と異なり、一見したところ、粗暴さや無礼な言動などはなく、むしろ挙措進退は礼に則り、話し方も穏やかで丁寧な人物である。
 だが、一度、彼と接した者は、第一印象というものがいかに当てにならないかということを悟らされる。 相手を見つめる視線は氷のように冷ややかで、まるで喋る木偶を見ているよう。波才にとって、礼にかなった作法や、穏やかな物腰は、すべて内面を繕うための仮衣に過ぎぬのだと、いやでも気づかされるのだ。
 それは敵軍との戦いにはっきりとあらわれている。波才の戦い方には、曹操や孫堅のように策と武を巧みに使いこなす用兵の妙はない。呂布のように圧倒的な武で相手を慄かせる威も持たぬ。
 にも関わらず、これまで波才は官軍相手の戦いにことごとく勝利している。朝廷が派遣した皇甫嵩、朱儁の2将軍すら撃破しているのである。
 では、その戦いぶりはいかなるものなのか。
 ――それは督戦隊を用いた、凄惨なものであった。


 波才は多くの場合、侵攻地帯の民衆を追いたて、彼らを盾代わりの先陣として用いる。鋤や鍬などで適当に武装させ、彼らを敵に突撃させるのである。
 その背後には波才配下の精兵が控え、逃げ出す者がいるようなら、たちまちのうちに矢の雨を浴びせられてしまうのである。そして、そういった行動に出た兵の家族は、戦が終わった後に制裁が加えられる。
 老若男女を問わぬ、公平な――死という制裁を。
 そのために、民衆は生き延びるために死に物狂いで戦わざるを得なかった。ろくな武装もない農民兵とはいえ、死兵と化した者たちは正規の官軍をもってしても簡単に打ち破ることはできない。それどころか、どれだけ射ても、切っても、彼らは自らと家族のために次々と押し寄せてくるのである。
 官軍にとって、相手は守るべき民であり、そも官軍の兵士たちの多くは同じ立場の農民なのである。自然、その矛先は鈍り、苦戦を余儀なくされる例が続発した。
 波才にしてみれば、たとえ官軍が勇を奮って、先陣を壊滅させようと、自軍の兵士が傷つくわけではない。農民たちが敗れても、波才の本軍は無傷である。農民兵との戦いで心身に疲労を重ねた官軍に対し、後方で英気を養っていた本軍が突撃を敢行し、敵軍を突き破る。
 これが、波才軍の勝利の方程式であった。


 そういった酷薄な面がある一方、波才はある一点においては極めて公平な人物であった。
 その一点とは、略奪した財貨や物資の分配である。
 黄巾党の中には、そういった戦利品を自らの懐に入れる者が少なくなかったが、波才に限って言えば、その種の専断は一切行わず、財貨は部下たちに公平に分け与え、それは誰にも文句のつけようがないものであった。
 その人を人とも思わぬ性情にも関わらず、黄巾党の部下たちが波才に付き従っているのは、ひとえにこれゆえだといえる。





 その波才は、今、配下からの報告を黙って聞き入っているところだった。
 その表情に激発の気配はなかったが、報告する配下の者は、すでに全身を汗で濡らしている状態であった。
 やがて、ゆっくりと波才の口が開く。
「――つまるところ、2万の精鋭を以ってしながら、1万の――それも、ろくに訓練も受けていない部隊を打ち破れなかった、というのですね?」
「は、ははッ!」
「張角たちが平原を脱出することはあらかじめ伝えてあった筈。いくところもなく、逃げ出すだけの相手を、仕留めきれず、その結果、張角たちは堂々と黄巾党からの離反を宣言してしまった。命を奪ってしまえば、何とでも言いつくろうことができたのですが、相手が健在とあってはそれも不可能。あなたたちの不始末がどれだけの影響を与えたのかは、わかっていますか?」
 その口調からにじみ出る無色の害意を察し、配下の兵は震え上がった。
「ま、まことに申し訳のしようも……」
「申し開きは不要ですよ」
 思いもかけぬ台詞に、その兵は安堵したように頭を上げ――そして、波才の凍るような眼差しが自分に注がれていることを知り、小さく悲鳴をあげる。それは、すでに死者を見る目つきであったから。
 波才が指を鳴らすと、その周囲にいた者たちが、件の兵士を取り囲み、外へと連れ出していく。兵士は何か悲痛な叫び声をあげていたが、すでに波才の耳にその声は届かなかった。




「どういうことでしょうかね、于吉?」
 波才は心底困惑しているように、傍らに立つ青年に語りかけた。
 ただ、先刻と同様、その眼に宿るのは酷薄な感情である。
 しかし、常人であれば震え上がるであろうその眼差しを、于吉と呼ばれた青年は真正面から見返し、怯む様子を見せなかった。
「さて。私はあなたに言われたとおり、張角たちの周囲を手薄にし、脱出を促しただけ。その後のことに関してはわかりかねますな」
 于吉の言葉に、波才はわかっていますよ、と言いたげに何度も頷いた。
「ええ、それはその通りでしょう。しかし、あなた方の力をもってすれば、このような事態になる前に、いかようにも手をうてたのではありませんか? あの左慈とかいう者も、ここのところ姿を見せぬようですね」
 波才の感情のない、蛇のような視線を受け、于吉は小さく肩をすくめた。
「私は左慈の保護者というわけではありませんのでね。その行動をいちいち把握しているわけではありませんよ。それに勘違いしてもらっては困りますが、私たちはあなたに――いえ、あなた方に協力しているのであって、部下になったわけではない。それは双方、承知していることと理解していますが?」
「協力、協力ね。もちろん理解していますとも――ただ」




 そう言った途端、波才の雰囲気が変わった。
 表情が険しくなったわけではない。態度が変わったわけでもない。にも関わらず、波才はつい先刻までとはまるで別人の如き雰囲気をかもし出していた。
 冷徹、犀利、そういった先刻までの軍師然とした姿はそこになく、精悍さと凶猛さの境界線上に立つ蛮人がそこにいた。
「我ら匈奴の策謀を知って近づいた以上、もはや引き返すことが出来ぬということも、理解しておられような? もしも我らが謀計を外に漏らすようであれば、我らは全力でそなたらを捕らえよう。そなたらは、我ら騎馬の民を欺きし代償として、生まれたことを後悔するほどの苦痛を受けることになる」
 それは、相手を威圧するような言い方ではなかった。
 淡々と事実を告げるだけの口調。だがそれゆえに、波才の言葉は聞く者の心胆を寒からしめるものであった。波才が口にする言葉が、誇張のない事実であると、そう悟らされるゆえに。





 だが。
「無論。それゆえ、兵器の製造技術も、河北の朝野の情報も、我らが知りえる限りお教えしているではありませんか」
 波才の豹変を目の当たりにしてさえ、于吉の態度に変化はない。
 その表情を見れば、別に虚勢を張っているわけではないことは、波才には感じ取れた。だからこそ、波才はこの男に対して警戒心を消せないのである。


 単于の密命を帯び、黄巾党に潜入してより、もう幾歳か。
 土をいじくることしかできぬ中華の民に成りすますという屈辱に耐えながら、波才は着実に情報を集め、混乱を広め、来るべき中華侵攻の先駆として活動し続けてきた。
 波才にとって、今回の蜂起は1つの転回点であり、あわよくば河北に同胞の軍勢を引き入れる心算だったのである。そうすれば、この吐き気を催すような任務から解放されることになるであろう。
 だが、黄巾党は所詮は賊徒であり、官軍が本気になって動き出せば、一時的に善戦しようとも、最終的には鎮圧されてしまうだろう。
 単于からの支援を受けるという手段もあるが、大掛かりな挙兵の準備となれば、中華側にこちらの策謀が漏れることになりかねない。本国もいまだ統一が成ったわけではなく、ここで無理をして、全てが水泡に帰することだけは避けなければならなかった。



 波才がこのことで苦慮していた時、2人の訪問者が波才のもとにやってきた。正規の手続きを経た上で、ではない。夜中、いつのまにか枕元まで接近を許していたのである。
 驚愕する波才に対して、2人は波才の悩みなど、掌の内だ、とでも言うようにあっさりと指摘してきた。当然、波才はすぐさま2人を切り捨てようとしたのだが、その2人は何やら幻術でも心得ているのか、波才の大刀がいくらうなっても、死ぬどころか傷1つ付かなかったのである。
 波才は部下を呼ぼうとしたのだが。
「無駄だ。おれたちがどうやってここまで来たと思っている?」
 男の片割れの言葉に息をのみ――そして、自分が絶体絶命の窮地に立たされていることを悟ったのである。
 だが、顔をひきつらせる波才に向けて、男たちは思いもよらないことを提案してきたのだ。
 ――お前たちに協力してやろう、と。


 その言葉どおり、その2人――左慈と于吉と名乗った――は波才にいくつもの貴重な情報をもたらした。それは攻城用の兵器であったり、官軍の分布状態であったりしたが、いずれも極秘事項に属する機密ばかりであることに違いはない。
 それらを利して、波才配下の黄巾党は瞬く間に勢力を広げていった。すでにその陣容は賊という言葉の範疇にはおさまらない錬度と装備を有している。
 全てが、波才にとって都合よく進んでおり、その多くは左慈と于吉の手になるものであることは、波才自身、認めざるをえないところであった。にも関わらず、2人はいかなる対価も要求せず、その望みが奈辺にあるのかを波才に掴ませないのである。


 これまでは、その有用さを鑑みて生かしておいたのだが、どれだけ時を経ようとも、2人への疑心が収まることはなかった。
 何の証拠もないことだが、波才は彼ら2人の行動に、奇妙な違和感を感じるのだ。
 勝利や敗北ではない。
 富や栄誉ではない。
 忠義や義憤ではない。
 そういった既存の言葉では括ることのできない、根本的な価値観の乖離。
 何故そう思うのかと問われれば、波才も言葉に詰まるだろう。
 だが、匈奴と漢族の血を1つの身体に併せ持つ男は、確信に近い思いを胸に抱いている。
 2人の行動は、おそらく匈奴も、漢族すらも埒外に置いたもの。その果てにあるのは、彼ら自身の利でしかあるまい、と。


 そろそろ潮時かもしれない。元々、波才が匈奴の意を汲んで動いているという秘中の秘を知られている以上、長く生かしておくつもりもなかったのだ。
 いかに奇妙な体術を習得していようと、幻術を操ろうと、精鋭10名をもって取り囲めば如何とも出来まい。それでも駄目なら20名を用いるだけだ。
 今、黄巾党は張角の離反で混乱しており、そのようなことをしている暇はないのだが――だからこそ、2人も油断していよう。


 于吉らに退出を促し、1人となった天幕の内で、波才は口許に酷薄な笑みを浮かべたのであった。


◆◆


 波才が1つの決断を下していた頃。
 天幕から外に出た于吉の口許にも笑みが浮かんでいた。だが、それは波才のそれと違い、苦笑に近いものであったが。


「左慈が何を考えているか、ですか。それはできれば私が教えてもらいたいところですね」
 于吉は言いながら、背後にわだかまる闇に向かって、問いかける。
「私はそう思っているのですが――教えてもらえますか、左慈?」
 すると、つい一瞬前まで、確かに誰1人いなかった筈の空間に、1人の青年の影が朧に浮かび上がった。
「――おれが何を考えているかなど、お前が知らない筈はないだろう」
「確かに。黄巾賊を強化し、彼らに暴威をふるわせ、中原に更なる被害と混乱を導く。私たちが表立って歴史に介入することが出来ない以上、それが最善。一見して、これまであなたがとってきた行動と変わらないように見えますが……」
「ならば、それで良いだろう。何が不審なんだ?」
「あなたにしては詰めが甘い。おまけに、何故だか騒ぎを起こす場所が限られている。あの波才ですら、私たちの行動を怪訝に思っているくらいなのです。不審に思うなというのは、無理な話ですよ」
 于吉の指摘に、左慈の口から小さく舌打ちが漏れた。


 それには気づかない振りをして、于吉は更に問いかけを続ける。
「先の戦いから、幾星霜……以前のあなたならば、何を措いても、仇敵のもとに赴いた筈。しかし、あなたはそうしない。むしろ――」
 于吉は何事かを口に仕掛けたが、すぐに口を噤み、軽く肩をすくめた。背後の影から向けられる尖った殺気をいなすように。
「失敬。要らざることを口にするところでした」
「ふん、言わないで正解だ。おれを侮辱するようなら、于吉、お前とてただではおかん」
「わかっていますよ。どのみち、奴らのもとにはすでに貂蝉もいるのです。私たちは、目立った動きがとれない。黄巾党の連中に、精々期待するとしましょうか」
「――ふん」
 于吉の言葉に、影は短くそう言い捨てると、再び闇の中に沈みこんでいった。





「……消滅を願った外史に、再び立ち、かつての敵手と相まみえる。これもまた、老人がたの言う宿命というやつなのでしょうか」
 1人、詩を詠じるかのように于吉は言葉を紡ぐ。
 やがて、その姿は先刻の影と同様に、ゆっくりと闇の中に消えていく。
 そして、影が完全に消え去る直前。
「……さて、此度の外史はいかなる結末を迎えることになるのやら」 
 ただ、その言葉だけが、虚空に漂い――そしてあたりは静寂に包まれた。



 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/01 11:29




 張角の離反により、各地で混乱する黄巾党を引き締めるため、ただ1人残った大方 波才は全軍に平原への再集結を命じる。
 これにより、楼桑村ならびに琢郡の県城の包囲は解かれ、人々は安堵の息を吐いた。
 だが、これが一時のことであることも明白であったから、周辺の民衆の多くは県城へと避難することとなり、琢郡では物資と人馬の大移動が起こることとなる。


 続々と城内に運び込まれてくる物資を見る度に、琢郡の県城からは民や兵を問わず歓声が上がる。
 殊に、短い間に幾度も支配者が変わり、税や略奪という形で財貨や食料を毟り取られてきた民衆にとって、玄徳様たちが張曼成の軍から奪い返してきた物資は、干天の慈雨に等しいものであった。
 そして、もう1つ、県城に集まってくるものがあった。ただ、こちらは民衆からは歓迎されなかったが。
 それは、張角を慕い、その下で働こうとする黄巾党の者たちである。
 日々、引きも切らず、三々五々、琢郡へとやってくるその数は、先に張角たちが率いてきた1万の軍と併せると、すでに3万を越える。当然、その軍勢は、県城内における最大勢力となっていた。


 今、県城の内にいる兵は官軍3千――劉家軍5百、元劉焉配下の兵2千5百――、そして張角を慕って集まった黄巾党が3万。両者の間には、ちょうど10倍の差がある。
 その戦力差をもってすれば、張角たちは、戦いの主導権はもちろん、県城内の支配権さえ奪うことが出来るであろう。すでにそれを警戒する兵士や民衆の間で、黄巾党排除の声が上がり始めているとも聞く。
 おれは、それが杞憂であると知っている。あの張角たちが、そんな面倒なことに進んで手を出す筈がない。しかし、同時に、それを声高に主張したところで納得してもらうことは出来ないであろうことも、おれは承知していた。
 民の信頼を得るために、必要なのは言葉ではなく、行動。
 いかに平和ボケした日本人とはいえ、玄徳様たちと共に行動していれば、その程度のことは理解できるようになっているのである――





「――と、いうわけで、黄巾党の兵士たちや、城内の人たちの間を取り持つべく、それがし、奔走していた次第に御座候」
 正座して畏まるおれ。
 そんなおれの前に、腕組みして立ちふさがる羅刹――もとい閻魔大王。
「あのね、一刀。その『もとい』は色々な意味で一刀の命数を縮めちゃうよ?」
 張角がお茶を飲みながら、そんなことを口にする。
 えーい、心を読むな、黄巾党党首! というか、この迫力を前にして、どうして茶なぞ飲んでいられるのですか、あなたは!!


「――最後の戯言は措くとして。大体の事情は理解した」
 判決を申し渡す、とノタマウ閻魔大王。
「あのね、一刀さん。そろそろ現実を認めないと、本当に愛紗ちゃんが閻魔様になっちゃうよ?」
 おれの切ない現実逃避を許してくれない玄徳様。
 心底心配してくれる様子なのは、素直にありがたいのですが、つまりそれくらい、おれの命は風前の灯火ということですか?
 というか、おれの内心ってそんな簡単に読めるものなのですか?
 首を傾げるおれに、この場にいる皆が一斉に肯定の仕草を返してくれた。
 むう、ポーカーフェイスが苦手なのは知っていたが、まさかそこまで内心が筒抜けだったとは……!


 玄徳様の指摘にもめげず、懸命に目の前の現実から顔を逸らし続けていたおれだったが。
「北郷殿」
「はいッ!」
 奇妙に静かな関羽の言葉に、逃避も諦めざるをえなかった。
 普段であれば、すでに怒号の1つや2つ浴びせられていておかしくないのだが、今日の関羽は一味違った。これはもしかして新スキル「気合溜め」か何かをマスターしたのだろうか。1ターン我慢することで効果が2.5倍になる感じのやつ。
 だとすると、関羽の怒りの堤防は、決壊の時を延ばせば延ばすほど被害は大きくなる計算になる。そろそろ、覚悟を決めないといけないようだ。


 だが。
「――言いたいことは様々にあるのだが。今回の件は不問としよう」
「……………………え?」
 心密かに覚悟を決めたおれに対して、関羽の口からはありえない言葉が飛び出てきた。
 え、不問ってたしか、罪は問わないってことだよな? え、うそ。勝手に黄巾党党首を匿い、兵士たちを城内に入れ、県城の民から陰で非難される現状を招いたおれの行動を、不問にする?
 もちろん、おれの独断というわけではなく、陳到や諸葛亮らの同意をとり、彼らの協力を仰いで実行したから、おれだけの責任というわけではない。
 しかし、発案者はまぎれもなくおれだ。普段の関羽であれば、不問などと口にする筈がないのだが……
「マコトデスカ?」
 つい言葉がカタカナになってしまうくらい、おれはびっくりしていた。
 奇跡の顕現か、神の降臨か。いやいや、そんな都合の良いことが起こる筈がない。きっとこの後、どんでん返しがあると見た!
「なんだ、罪に問われたいというなら、希望に沿うのに吝かではないぞ?」
 きらりと光る関羽の瞳。黒の双眸が悪戯っぽく煌いている。なんかこう、おれの反応が想像通りで楽しくて仕方ない、みたいな感じだ。気のせいか?
「と、とんでもございません! 関将軍の寛大な御心に、感謝いたします!」
 しかし、疑問はたちまち感激に押し流された。
 今後の人生の、たぶん半分くらいの幸運を一気に使い果たしたような気がしていたが、あるいはおれは関将軍の厳しさを不当に評価していたのだろうか。
 玄徳様を押し倒すという最悪の初対面以降、おれは勝手に関羽とは距離があるものだ、と思い込んでいたのだが、今日の関将軍は、何か後光がさしているように見える。綺麗な関羽、降臨。


 おれが関羽の優しさに触れて感動している間、視界の片隅で、当の関羽と、見覚えのある女性がなにやら囁きあっていた。
「ほれ、言ったとおりであろう。良かったではないか」
「う、うむ。貴殿の助言で結論を違えたわけではないが――感謝いたす」
「ほほう?」
 きらりとまたたく、女性の瞳。
「ふむ。それでは、貴殿が楼桑村でどのように激怒していたか、北郷殿に克明に伝え……」
「う――貴殿の助言で正しい決断を下すことが出来、感謝の念に堪えませぬ」
「はっはっは。なに、礼はメンマ1年分でかまわんよ」
「い、1年だとッ?!」
「案ぜずとも、劉佳殿なみの一品を、とは言わぬよ」
「し、しかし、1年はさすがに……」
「では、やはり北郷殿に……」
「ぐぐ……承知した」
 とか言うやり取りが聞こえたような、聞こえないような。


 ――折角の感動が薄れるから、気のせいということにしておこう。うん。





 ところで、関羽と話している女性はひょっとして?
 おれの視線に気づいたのか、その女性が軽やかに微笑みと、こちらに近づいてきた。
「久しいな、北郷殿。入城以来、何かと忙しなかったゆえ、挨拶が遅れて申し訳ない」
「やはり、趙子竜殿でしたか。こちらこそ、色々と立て込んでおりまして、気づかずに済みませんでした」
「ふふ、立て込んでいるのは、見ていれば十分に分かったが――なるほど、なかなかに気苦労が絶えぬと見える」
「あははは……」
 趙雲の言葉に、つい乾いた笑いで応じてしまった。
 その言葉は、黄巾党と住民との間を駆けずり回っていたことを指しているように見えて、その裏にまで言及しているのは明らかだった。
 弁解させてもらうなら、それにかまけて、玄徳様や関羽から逃げていた――というわけでは、断じてない。
 ないのだが、どうやら趙雲の目にはそう映ってしまったらしい。無念だ。
 もっとも、案ずるより産むが易しとはこのことか。玄徳様と張角はなにやら意気投合してしまったらしく、随分仲が良さげであるし、張梁は諸葛亮や鳳統を交えてなにやら熱心に語り合っていた。形は違えど、主君を補佐する立場であったことで、相通じるものがあったらしい。
 張宝は幽閉時の鬱憤を晴らす、と言ってミニコンサート開催中である。今も、遠くから黄巾党の歓声が聞こえてきている。
 ちなみに、一部城内の民衆も参加してたりする。
 さすがはアイドルというべきか、おれが奔走するより、張宝が歌った方が双方の溝は埋まりそうな気がするなあ。





「ようよう兄ちゃん。なにを遠い目をしてるんだい?」
 乱暴な口調に似合わぬ可愛い声を聞き、怪訝に思って、おれが振り返ると。
「へ?」
 頭の上に小さな人形を乗っけた女の子がいました。
 人形といっても、元の世界で女の子が遊んでいたような出来の良い物ではなく、ガラクタを無理やりつなぎ合わせただけのものだった。頑張って見れば、人型に見えないこともない、かな? みたいな感じである。
 そんなことを考えながら、その人形を見ていると、目の前の女の子が険悪な声を出した。
「おうおう兄ちゃん。おれにガンくれるとは良い度胸じゃねえか」
「む?」
 どう反応すれば良いのか、咄嗟に悩み、思わず女の子の顔をみつめてしまう。
 すると、今度はうってかわって、気の抜けるような暢気な声がおれに向けられた。
「おにーさん、おにーさん」
「な、なんでしょう?」
 つい畏まってしまった。決して、目の前の女の子の正気を疑ったわけではない。
「宝慧(ほうけい)にきちんとこたえてあげないと駄目なのですよー」
「ほうけい?」
「この子のことです」
 そういって、少女は頭の上の人形を指差した。
「なんだ兄ちゃん。おれの名前に文句でもあんのか?」
 再びおれに凄む宝慧。しかして、その声は女の子のものだった。まあ、当たり前だが。


 しばし考え込むおれ。ようやく混乱がおさまってきつつある。これはつまり――おれが空気を読めば良いわけだな。
「……なるほど。失礼した、宝慧殿」
「おう、わかればいいんでい」
 宝慧は満足そうにそう答え、すぐあとに少女の声が続いた。
「ふむふむ。おにーさんは案外、素直な良い人なのですね」
 少女の声にふと違和感を覚え、聞き返す。
「初対面なのに、何故に『案外』なんでしょう?」
「それは星ちゃんから、おにーさんが海千山千の役人たちを、面白いように翻弄した希代の策士だと聞いていたからなのです。さぞや腹黒い人なのだろうと思っていたのですが……」
「ですが?」
「その実態は、女の子を恐れて逃げ回る臆病者だったのですねー」
「――どっちもろくなもんじゃないし」
「と思ったら、素直で良い人でもあったのですよ」
「どれなんだ、一体?!」
「つまり、全部?」
「策士で臆病者で素直で良い人ってどんな奴ッ?!」
「姓は程、名は立、字は仲徳と言います、ですよ」
「文脈おかしいだろ?! 自己紹介の流れ、どっかにあったっけ?! あと、おれは北郷一刀と言います!」
「むう、何を言っても怒ってばかり――さては、おにーさんは自分の思い通りに事が進まないと気がすまない、わがままな人ですね?」
「呆れられたッ?!」


 程立と名乗る少女に翻弄されるおれを見かねたのか、もう1人、傍らにいた女性が、程立をたしなめてくれた。
「風、初対面の人をからかうものではありませんよ」
「別にからかっているわけではないのですよー、稟ちゃん」
「……そうですね、あなたにとっては普通の会話でしたね」
「――若干、意図的なのは認めますが」
 からかってるじゃねえか、と叫ぶおれは華麗に無視する程立。く、おのれ。
 その女性は、そんなおれたちを見て、呆れたように小さく1つ息を吐いてから、口を開いた。
「はじめまして、私は戯志才。見聞を広げるため、河北の地を旅している最中、此度の乱に巻き込まれ、星殿と共に行動している者です」 
 さきほどの程立の言い方からしても、星というのが趙雲の真名であるのだということは察しがついた。
 おれは戯志才に一礼する。
「はじめまして。劉家軍の一員で、姓は北郷、名は一刀と言います」
「北郷、一刀。めずらしい姓と名ですね。しかし、字はお持ちではないのですか?」
 怪訝そうに訊ねる戯志才に、おれは用意していた台詞を口にした。
「ええ、私は東よりこの地に来た為、字は持たないのですよ」
「ふむ。河北より東というと、楽浪、あるいは噂では蓬莱なる島があると聞きますね」
 戯志才の問いならぬ問いに、おれは小さく息をのんだ。



「多分、おれの故郷の名を口にしても、この地の人にはわからないでしょうね……」
 答えながら、不意に、胸裏に家族の顔が思い浮かんだ。
 この時代に来てからというもの、郷愁に駆られる暇もなく、駆け抜けるようにここまでやって来たのだが、時折、ふとした拍子に、家族の顔を思い出してしまう時がある。
 さすがに、そういう時は胸に迫るものがあったりするのだが、これまでは、状況がそういう感傷に浸る暇をくれなかった。今のように。
 おれは軽く頭を振って、親父や母さんたちの顔を振り払う。このことについて考えるのは、もっと落ち着いてからで良い。
 今はそれよりも優先しなければならないことがある。状況は好転しているように見えて、実はまだまだ戦力差は絶望的に開いているのだから。
 そして、その戦力差を覆すための鍵となる人物が、目の前にいることも、おれは気がついていた。





 趙雲といえば、説明不要の蜀漢帝国の勇将。その存在は1万の軍勢に匹敵しよう。
 程立と名乗る少女は、多分、魏に仕えたあの程昱のことだろう。日輪の夢を見て改名したという話は有名だが、まだ夢を見ていないらしい。やはり曹操に仕える前あたりに見るのだろうか?  
 最後の1人、戯志才という人物だが――たしか、曹操に仕えたけど、若くして死に、ほとんど事績が残っていなかったのではなかったかな。曹操が心底、惜しんだという話があったから、有能なことは疑いない。しかし、見たところ病弱という印象もないけれど。


 ともあれ、いずれも綺羅星の如き英傑が3人揃い踏みなのである。ここはぜひとも協力してもらいたいところである。
 もっとも、聞けば、不落と称えられた楼桑村の奇跡の源は彼女らの智勇であったということだし、ここまで同道してくれているという事実からして、彼女らも、もとよりその心算ではいてくれているのだろう。
「無論。黄巾の輩を一掃するこの好機。逃すことはできまいよ」
「そうですねー。あの人たちがいると、安心して旅することもできませんし」
「賊徒が横行する世相を改善する良い機会です。我が智恵が役立つのであれば、協力は惜しみません」
 念のために聞いてみたら、頼もしい返事が返ってきた。
 さすがは歴史に名を刻む英傑たち、颯爽とした風姿はまばゆいほどである。


 劉家軍の力、張角たちの人望、そして彼女らの智勇があわされば、黄巾賊など恐れるにあたらない。 
 正直、力を合わせることが出来るのかどうかが、甚だ疑問だったりしたのだが、皆の様子を見るに、なんとなく良い感じである。
「まあ、案ずるより産むが易しってやつかな」
 おれはほぅっと息を吐きながら、そんなことを呟いていた。



◆◆



「それでは、第2回劉家軍並びに黄巾党並びに在野の有志の方々を含む合同会議を行いたいと思います」
 議長の諸葛亮の言葉に、居並ぶ出席者からぱちぱちと拍手が出る。会議名が長い、という異論は出なかった。
 第1回の時――五台山での戦いに先立つ会議――では随分と張り切っていた諸葛亮だが、今回はそれにくわえ、落ち着きと余裕が備わっているように感じられた。軍師としての自信がもたらした変化なのかもしれない。良いことである。
 小さい身体を精一杯に伸ばしている姿がほほえましかったりするが、そこは秘密の方向でいこう。


 出席者の数も格段に増えた。
 玄徳様を扇の要として、武官の席には関羽、張飛、陳到、趙雲、馬元義、鄒靖(すうせい)。
 文官の席には鳳統、簡擁、程立、戯志才にくわえて、おれと張家の3姉妹が座す。
 鄒靖は、劉家軍が県城を奪回した後、元の守備兵らを組織して協力してくれている人物である。劉焉の下では評価はされず、下級の士官に過ぎなかった。ひげ面のおっさんで、昔は北の異民族とも交わって、あちらで暮らしていたこともあるそうな。
 当然、馬術に秀でており、陳到によれば、統率力や状況判断も確かな人物であるという。黄巾党との戦いでは、危なげない指揮を見せてくれたらしいから、陳到の言を疑う理由はないだろう。
 この面子で始まった第2回会議の口火を切ったのは、鳳統であった。


「――つまり、黄巾党に属していた兵士を、3万から1万に減らす、ということか?」
 驚きの表情で関羽が確認すると、鳳統はこくこくと頷いた。
「……先刻、現在の物資と、兵数、それに城内の皆さんの今後の備蓄等を計算したところ、現状、今の私たちに3万もの軍勢を養うだけの余裕はないという結論が出ました。現在の物資では、養える兵力は1万。無理をすればもう3千、というところでしょう」
 鳳統の言葉に、趙雲が疑問を呈する。
「それは妙だな。黄巾党5万の物資がほぼすべて手に入ったはずではないのか? それがどうして、たかが1万を養うのがやっと、ということになるのだ?」
「はい。単純に兵のみを見れば、3万が5万でも、1月は優に支えきれるだけの物資はあります。けれど、それはあくまで兵のみを見た場合、です。今、この城には元からいる住民の方以外にも、各地から避難してきた皆さんが大勢いらっしゃいます。今後のことを考えれば、かなりの量をそちらに割かねばなりません」
 鳳統の説明に、しかし趙雲はなおも首を傾げる。
「無論、それはわかるのだが、それにしたところで、元々、この城にあった備蓄分も、連中から取り返していたのだろう?」
 その疑問には、簡擁が答えた。
「おそらく、太守殿が遠征に根こそぎ持っていってしまったのでしょうな。あるいは、確かなことは言えんのですが、桃香様方が運んできた物資の総量を見るに、それを考えにいれても、随分と少なかったのは事実なので、黄巾党、もしくは官庫に保管されていた時から、闇に消えていた可能性は否定できませぬ」
 張梁が眼鏡の位置を直しながら頷く。
「元々、黄巾党は、軍事に関しては大方たちが全て牛耳っていたから。物資の記録なんておざなりなものだったわ」
「ふむ。そういうことか。まあ焼き払われなかっただけマシと思うべきか」
 肩をすくめて、趙雲は口を閉ざした。


「――よろしいですかな、鳳軍師?」
 次に控えめに口を開いたのは、当の黄巾軍を束ねる馬元義であった。
「……は、はい、どうぞ」
「1万に絞り込む理由はわかりもうしたが、残りの2万はどうなさるおつもりで?」
 わずかに言いよどむ様子なのは、苛烈な答えが返って来ることを、半ば予期していたからであろう。黄巾党がこれまで何をしてきたかを考えれば、自然、その考えは暗い方向に傾かざるをえない。
 だが。
 当の鳳統は、馬元義が何を心配しているのかがわからぬようで、小首をかしげたまま、素直に腹案を語った。
「……元々、住んでいた所に帰ってもらうつもりです。もし、何かの事情で帰れない、帰りたくないという人がいるようなら、軍の手伝いに廻ってもらいます」
 諸葛亮が鳳統の言葉に付け加える。
「絞り込む段階で、そのあたりまで考慮してもらえれば、色々やりやすいんですが、可能でしょうか?」
「は、はい。多少、時間はかかりますが、問題ないかと。ただ、張角様の下を離れるとなると、どれほどの者が離脱を承知しますか……」
 馬元義が不安げに言うと、張梁がそれに答える。
「どうしても応じないようなら、直接私たちが説明するわ」
「えー、面倒じゃない、それって?」
 面倒くさい、と言わんばかりの張宝に、張角が微笑みかけた。
「ちぃちゃん、わがまま言わないの。お仕事お仕事♪」
「お仕事っていっても、単に雑用じゃない。姉さん、なんでそんなにやる気なの?」
「うふふー、久しぶりに一刀に逢えて、お姉ちゃんは元気一杯なのだー♪」
 げふんげふんと咳き込む者が、若干1名いたりするが、それは故意に無視された。
 張梁も、姉に向かって口を開く。
「ちぃ姉さん、ここをうまく乗り越えないと、私たち、本当に手詰まりになっちゃうのよ。そのあたり、きちんと自覚してる?」
「ちぇー、まあ仕方ないか。久しぶりに歌ってすっきりできたし、それくらいはやるわよ」
 なんだかんだ言いながらも、歌うことで鬱屈が晴れたのか、張宝は随分と機嫌が良いようだった。
 そして、張家の姉妹が決断を下せば、馬元義にはそれ以上言うべきことがなく、この件も速やかに処理された。


 その後も幾つかの質問や疑問が出されたが、いずれも討議によって解決、もしくは納得のうちに処理されていく。
 そして、最後にして最大の議題が詳らかにされる。
「……平原郡に集結した黄巾党の軍勢は、およそ10万。彼らは波才将軍の指揮下にあって、冷静にその統制の下に服しているそうです。張伯姫さんがいなくなった事実を知って、なお波才将軍に従っている彼らは、もう黄巾党というより、事実上、波才軍といっても良いでしょう」
 鳳統の説明に、張梁が付け加える。
「同時に、その10万は黄巾党の最精鋭といっていい。大方の中でも、波才は別格だった。その戦いぶりは残酷だけれど、連戦連勝の名将と思われていて、黄巾党内でも、腕に覚えのある人はすすんで彼の下についていたから」
「……そうですね。南皮城では苦戦していたと思われてましたけど、直属の軍は温存していたみたいです。装備も錬度も、もはや賊徒とは思えぬほど充実しており、正面からぶつかるのは避けなければいけないでしょう」
 馬元義がおそるおそる口を開く。
「波才様は、黄巾党内部では恐れられておりましたが、将帥としては尊敬されておりました。敵から奪った財貨は公平に皆に分配しており、ご自身の懐に入れるようなことはなかったです」
「ふむ。民から奪った物を公平に分け与えたとて、何の自慢にもならぬがな」
 鄒靖がきつい口調で馬元義を睨む。黄巾党との共闘は了承したとはいえ、当然、感情的にはおさまらないところもあるのだろう。
「も、申し訳ありません。ただ、それがしが申し上げたいのは、今、波才様の下にいる者たちは、皆、覚悟を決めているということです。栄達を望むにせよ、略奪に味を占めたにせよ、もはや彼らはその未来を波才様に委ねたということ。彼らには、天和様たちの言葉とて、届きますまい」


 鳳統は馬元義の言葉にコクコクと頷き、諸葛亮を見る。
 諸葛亮は心得たように卓上に地図を広げた。
 皆の視線が、吸い寄せられるように、そこに集中する。
「つまり、波才軍にはもう小細工はきかず、実力で破るしかない、ということです。平原で軍の再編成を終えた波才軍の矛先が向けられる可能性があるのは、ここ県城と、南皮城。そして、おそらく、敵はその矛先をこちらに向けると思います」
 その言葉に、戯志才が問いを発した。
「南皮ではなく、ここを狙うという根拠は何かあるのですか?」
「1つは、ここに張伯姫さんがいるということ。今後のことも考えれば、元党首といえど、波才さんにとっては目の上のコブとなりかねません。もう1つは南皮城と、この県城との防備の差です。南皮城は難攻不落の要塞であり、糧秣や武具も豊富にありますが、ここはそうではない。敵にとって、取って利があるのは南皮ですが、より陥とし易いのは県城です。そして、今回は、波才さんがはじめて名実共に総大将として戦う戦、何よりも欲するのは勝利だと思います」
「確かに、勝利は、軍内における権威を確立するために最も手軽な手段ではありますね」
「はい。もちろん、南皮を放って置くとは思えません。平原には最低限の戦力は残していくでしょう。ただ、袁紹さん配下の留守居の人たちが、一転して攻勢に出るとも思えませんので、あちらはおそらく小康状態となりますね」
 その意見に、鳳統が情報を付け加える。
「……それに、伯姫さんの所にも来ず、波才さんの配下にも加わらなかった黄巾党の人たちもかなりの数にのぼります。彼らの動静を偽りの情報として南皮に伝えれば、その動きを封じ込むことは、難しいことではありません」


 張飛が首を傾げる。
「えーと、その人たちはどこに行ったのだ? 真面目に働くことにしたのか?」
「そんなわけがあるか、鈴々。それぞれ独立したり、徒党を組んで動いたりしているのだ。わかっているだけでも、黒山に数万。青州には更にその倍近い数が流れていったらしい」
「むー、往生際が悪いのだ」
「往生際がよければ、そも賊に身を落としたりはせん。戦うことも出来ず、かといって今さら真面目に働くことも出来ぬ、怠惰で、哀れな者たちだよ」
 張飛と関羽の言葉に、何人かが口を開きかけたが、結局、言葉を発する者はいなかった。


 黄巾党と一口にいっても、その中には当然、様々な人々がいる。公然と略奪出来るからという理由で黄巾党に入った者たちもいれば、強いられて仕方なく加盟した者もいる。あるいは、悪政によって蓄えを根こそぎ奪われ、もう黄巾党に入るしか生きる道はなかった、という者も少なくない。
 もし、後漢王朝の政治が適正に行われていたのならば、黄巾の乱がここまで大きくなることはなかったであろう。黄巾党に所属しているから悪人だ、というわけではないのである。
 だが、その一方で、彼らが多くの人々に惨禍をもたらしたのは事実。やむをえない事情があったとしても、だからといってその行動が正当化されるわけではない。
 つまるところ、関羽の指摘は一面的なものであるにせよ、決して間違ってはいないのである。




 そして話は、いかにして波才の軍を迎え撃つのか、という点に移る。
 その作戦の概要が鳳統の口から語られだしたとき、会議の出席者たちの口から、驚きの声が幾重にもあがった――




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/04 01:49



 平原郡より8万の兵力を以って出撃した波才は、偵察によって得た情報に眉を顰める。
 敵の主力と思われる1万の軍勢が県城を出て、南、つまりこちらに向けて出撃した、というのだ。
 波才が握っていた情報では、県城に集った兵は3万を越える。だが、その大部分は黄巾党の兵士であり、城内の民衆との摩擦は避けられないだろうと読んでいた。
 くわえて、仮に官側が彼らを受け容れたとしても、恐れるに足らない理由が、波才にはあった。波才は黄巾党の精鋭部隊はほぼ全て掌握しており、今も麾下に組み込んでいる。その波才の目に留まらなかった部隊ということは、すなわちその程度の部隊ということ。3万が5万でも、撃破する自信はあったのである。
 それゆえ、そのうちの1万が分派行動に出たところで、脅威とはなりえない。とはいえ、ただでさえ少ない戦力を分かつほど、敵は愚劣なのだろうか。


「敵の指揮は、誰がとっているのでしょう、やはり張角ですか?」
 偵察から帰った兵は、波才の言葉に首を横に振った。
「そうではないようです。劉玄徳なる者が、黄巾党を含めた全軍の指揮をとっているらしゅうございます。その旨はすでに大きく喧伝されておりました」
「劉玄徳……?」
 わずかに怪訝そうな顔をした波才だが、その名は近い記憶の中にあった。
「ほほう、程遠志を討ち取った者ですか。たしか、遼西の公孫賛の下に付いたと聞いていましたが……」
 そこまで口に出し、不意に波才は黙り込む。
「将軍、いかがなさいました?」
 訝しげに問いかける部下に、波才は奇妙に低い声で問う。
「県城に、遼西の公孫賛の旗はありましたか?」
「公孫賛、ですか? いえ、公孫の旗は見受けられませんでしたが……」
「――なるほど。そういうことですか」
 波才は納得したように、幾度か頷く。
 配下の者には、その納得が何に対するものなのかを察することは出来なかったが、波才は部下の差し出口を嫌う。ここで問いを重ねるような真似をすれば、不興を買うのは明白だった。
 その予測どおり、波才は短く命じた。
「下がりなさい、指示は追って下します」
「承知いたしました」


 配下が姿を消すと、波才は腕組みをして椅子に座す。
 総大将が劉備ということは、その背後に公孫賛がいることは疑いない。
 おそらく、敵の狙いは遼西の援軍が到着するまでの時間稼ぎであろう。
 しかし、軍を分けた理由はそれだけでは説明できない。県城に篭っていた方が、守る側が有利なのは当然である。
 考え込む波才の耳に、不意に別の人間の声が届いた。
「物資の不足、度重なる戦による城壁の破損、そして黄巾党に対する民の不安と不審……まあ、そういったところでしょうか」
「……于吉ですか。下がれと命じた筈ですが?」
「ご容赦ください。折角の情報を腐らせるのも、何ですのでね」
「情報、ですか?」
「ええ、私の手の者が探り当てたところによれば、現在、県城に篭るのは、元劉焉配下の兵おおよそ3千のみ。残りは城外に出たようです」
 于吉の報告に、波才が訝しげな顔をする。
「張角に従った黄巾党の兵士は3万を越えるという話でしたが? 城外に出た兵士は1万。計算が合いませんね」
「すでに劉備の命により、黄巾党の多くは兵役を解かれたとのことです」
「ほう、一兵も惜しい時期に、わざわざ兵力を縮小させたのですか?」
「大変な時期だからこそ、精鋭を以って事に当たりたいと思ったのでしょうね。残余の兵の大半は城壁の修復に従事しているようですよ。急がないと、あの調子では半月もすれば、毀たれた城壁も元に戻るだろうとのことです」


 波才の問いに流れるように答えを返す于吉。
 その1つ1つが貴重なものであったが、波才は薄気味悪いものを感じずにはいられなかった。
「相変わらず、どこからそれだけの情報を仕入れているのやら。兵力の縮小など、連中にとって最重要の機密事項でしょうに」
 于吉は、波才の言葉に小さく笑う。
「そこは、蛇の道は蛇、と言っておきましょうか。つけくわえれば、易京城にも動きがあるようで。どう動くにせよ、急がれた方がよろしいかと」
「承知していますよ。白馬将軍が出てくるとあれば、こちらにとっても好都合。わざわざ連中が合流するのを待つ必要もありません。おそらく、敵は大清河を隔てて布陣し、こちらの渡河の隙を衝く心算でしょう」
 大清河とは、琢郡と平原郡の中間、やや琢郡よりに位置する河である。黄河や長江などといった河川とは比較にならない小ささだが、かといって渡河の危険は大して変わらない。不用意に進軍すれば、手痛い打撃を受けてしまうだろう。
「しかし、逆にここで劉備軍を撃破してしまえば、公孫賛は孤軍となる。一戦して蹴散らせば、一挙に幽州を制圧することも出来るでしょう」
 于吉の情報は、出所は不明だが、正確性においては信頼が置ける。
 波才は決断を下し、椅子から立ち上がると、声高に外に控えている配下の者たちを呼び集めた。


 それからしばし後。
 波才軍は重厚な陣容を保ちながら、琢郡へ向けて進軍を再開する。
 その陣中には攻城用の兵器も見て取ることが出来、波才が全戦力を挙げて、この戦いに臨もうとしていることがうかがわれるのであった。


 しかし――次に彼らの下にもたらされた報告は、波才の予測を完全に裏切った。
 それは、急進した劉家軍が、一挙に大清河を南に渡り、河を背にして布陣を整えているという報告であった。


◆◆


 鳳統が作戦案の大部分を説明し終えた時、その場にあったのは、沈黙であった。
 それも、決して良い意味のそれではない。
「――玄徳殿」
 会議の場に立ち込める重い空気を破ったのは、鄒靖の苦々しい声であった。
「は、はい、何ですか、鄒将軍」
「我ら琢郡の兵、あなた様には大きな恩がございます。それゆえ、此度の戦、あなた様の指揮に従うことに異論はございませぬが、しかしながら、この作戦には反対させていただきますぞ」
 馬元義も、即座に鄒靖に追随する。
「それがしも、同様でござる。申し上げにくいことながら、この作戦は、我らに死ねと仰っているようにしか聞こえませぬ」


 馬元義の乱暴な例えに、しかし反論する者はいなかった。
 それは、彼の言葉が、この場にいた多くの者の胸に去来したものと等しかったからだろう。
 関羽もまた、彼らと同じく、鳳統の思惑がわからず、訝しげに問いかける。
「――士元」
「は、はい」
「言葉は乱暴だが、馬殿の言い分は、決して理解できないものではない。そなたも、先刻申していたではないか。波才軍は錬度も装備も充実しており、正面から戦うのは避けるべきだ、と」
「は、はい、そう言いました」
「では」
 関羽は視線を卓上の地図に戻した。
 そこには、劉家軍を示す青の駒と、敵である波才軍を示す赤の駒が置かれている。
 そして、劉家軍の青い駒が置かれている場所は――大清河の南。
「では、何故、よりによって背水の陣を布く必要があるのだ?」
 そこは劉家軍にとって、敵を正面に、河を背後に据える、兵法では禁忌中の禁忌とされる死地であった。





 背水の陣――その言葉の意味を知らない者は、この場にはいない。
 そも、なぜ河畔が死地なのかといえば、後背を河水で塞がれた兵士たちが動揺し、戦う前から意気阻喪してしまうからに他ならない。軍の力は、兵の士気によって大きく上下する。河畔で布陣することは、敗北への第一歩であると言って良い。
 それゆえ、多くの兵家は、背水の陣を必敗の陣形として忌避するのである。


 だが。
 往古、この背水の陣によって、巨大な成功を得た人物が、ただ2人だけ存在する。
 1人は西楚の覇王 項羽。
 1人は前漢の名将 韓信。
 いずれも、その勇名を万古に伝える英雄であった。
 項羽は、鉅鹿城の戦いにおいて、秦の名将である章邯を相手に、背水の陣を用いることで、数倍の兵力差を覆し、事実上、天下を手中にした。
 韓信は河北制圧における重要な戦であった趙での戦いにおいて、やはり数倍の兵力差を背水の陣を用いて打ち破り、その勇名を以って、主君である劉邦をすら恐れさせる影響力を持つに至る。


 だが、それはあくまで歴史に名を残す英傑であればこそ可能であった偉業。
 鄒靖や馬元義から見れば、劉家軍の軍師が、机上の兵法に淫し、策に溺れているのではないかとの疑いを禁じえないのであった。
 まして、実際に兵を率いて、その死地に立つことになる馬元義が不服を口にするのは、当然といえば当然のことであった。





 そして、出撃する軍に帯同を求められた者の中には、馬元義以上に不服を抱いている者もいた。
「ちょっとあんたッ! ちぃたちを殺すつもりなのッ?!」
 ビシィッ、と鳳統を指差し、詰問するのは張宝であった。
 白皙の頬が、怒りと興奮で鮮やかな紅に染まっている。
「ひッ?! あ、あわわ、そ、そんなつもりでは……」
「じゃあどういうつもりよ! こんな逃げ場もないところで、こっちの何倍もある敵を相手にどう戦えっていうの?! そもそも――!」
「待たれよ! 文句を言うのは、士元の説明を聞いてからにされるが良い」
 騒ぎ立てる張宝を制したのは、眉間に深い皺を寄せた関羽であった。
 関羽の質問の答えを鳳統から聞こうともせず、声高に相手を責める張宝の態度は、関羽にとって我慢ならないものであったのかもしれない。
 一方の張宝もまた、無謀としか思えない作戦案を聞かされ、あまつさえ、その最も危険な場所に自分がいるとあっては、平静でいられる筈もない。
 関羽と張宝。
 気の弱い者であれば、気死しかねない勁烈な視線が中空でぶつかりあい、火花を散らしたかに見えた。



「……あ、あの、その……うぅぅ」
 険悪な雰囲気でにらみ合う2人を前に、発言者である鳳統は何とか口を挟もうとするが、2人の迫力にそれもなしえない。
 普段であれば、助け舟を出す筈の諸葛亮も、気遣わしげな眼差しを鳳統に向けてはいるが、実際に声をかけることはなかった。
 他の者たちにしても、それは同様である。客将格である趙雲や戯志才は、どこか興味深そうに、会議の推移を見守っているばかり。程立は――
「……ぐー」
 寝ていた。


 その間にも、2人の論戦は熱を増す一方で、ついには張宝がとうとうこんなことを言い出す。
「そもそも、将軍とか言われていたって、たかだか千にも満たない義勇軍なんでしょ! 私たちがそっぽを向いたら、この城なんてたちまち陥とされちゃうわよ?」
 それを聞き、関羽の眼に雷光が煌く。
「ほほう、賊徒の首魁がくちはばったいことを。その罪、いまだ償われたわけではないのだぞ?」
「その賊徒の協力がないと戦えない弱小軍が、大層な口をきくわね」
「なんだと?!」
「なによッ!」


 がるる、と唸りをあげ――たりはさすがにしなかったが、そんな勢いで視線と言葉を応酬しあう2人の剣幕を前に、玄徳様はハラハラしつつも口を挟めず、張角は困ったように首を傾げるばかり。
 場の空気は時と共に重さと暗さを増す一方で、とてものこと、これから協力して敵とあたることが出来そうにはない様相だった。


 だからこそ。


「――くく」
 耐えかねたおれの笑い声は、会議の場に、奇妙に大きく響いてしまった。
 ぎょっとしたような視線が、周囲から幾本もおれに向かって突き刺さる。
 おれはそれを感じたが、しかし、こみ上げる笑いの発作を堪えることは難しかった。
「あはははは!」
 時ならぬおれの大笑は、重苦しい空気をかき乱し、場に戸惑いと不審を撒き散らした。


◆◆


「ちょっと、一刀! こんなときに何を笑ってるのよッ?!」
「北郷殿! このような時に、不謹慎であろう!!」
 張宝と関羽の鋭い叱咤に、さすがに口を押さえて笑いは飲み込んだが、表情はまだにやけたままであろうことは、自分でもわかった。
 そんなおれの様子を見た2人が、更にまなじりを吊り上げる。
 再度、怒声を放とうと口を開きかけた2人に、しかし、おれの言葉が半瞬だけ先んじた。
「玄徳様」
「は、はい??」
 突然のおれの呼びかけに、玄徳様が戸惑いをあらわにする。
 おれは玄徳様の困惑に構わず、静かに頭を下げる。
「今更ながらではありますが――お祝いを申し上げます」
「お、お祝いって??」
 おれの突然の言葉に、玄徳様は目をぱちくりさせる。
「はい。玄徳様は、諸侯が万金を投じても……いえ、そんな例えでは追いつきませんね。彼らが、領土の半分を差し出したところで、得ることが出来ない不世出の人物を、その麾下に置くことが出来た。そのお祝いを、申し上げます」
 そう言って、おれはその人物――鳳凰の雛たる、少女に視線を向けた。


 突然のおれの言動に戸惑っていた人たちの視線も、同様に鳳統に向けられる。
 鳳統は玄徳様と同じように、目を瞬かせていたが、おれの言葉の意味を理解した途端、顔を真っ赤にして、あわわと慌て始めた。
「あわわ、あ、あの、一刀さん、そ、そんな突然何を……あぅぅぅ」
 皆の視線に耐えかねたのか。あるいはおれの言葉に恐縮したのか。鳳統は帽子を深く被って、顔を隠してしまった。
 うむ、なんと言うか、寒気さえおぼえる軍略の才能の持ち主とは思えない可愛らしさである。
 おれが玄徳様に言った言葉は、別にこの場の空気を掃うための芝居ではない。心底からのものだ。
 ただ、そんな巨大な才能が、こんな愛らしい少女に宿ってしまったということ。これは鳳統自身にとって、幸せなことなのかどうか。おれはそこが少しだけ心配になる。鳳統にとっては、余計なお世話かもしれないけれど、な。





 おれはのんびりとそんなことを考えていたが、会議場の空気は奇妙に停滞し、何人かは苛立ちの表情を覗かせていた。おれの発言が、会議の進行を妨げるものととられたのだろう。
 室内が、先刻までとは違った意味で、重苦しい空気に包まれる中、これまで口を開かず、皆の発言に耳を傾けていた人物が、はじめて口を開いた。
「北郷殿」
「何でしょうか、陳将軍?」
 陳到は神妙な顔で、おれに問いを向ける。
「士元殿を不世出の人物だと言われたところを見るに、北郷殿は、士元殿の策の深奥を見極められたと見えるのだが、如何?」
「それは買いかぶりですね。士元の作戦は、おれ程度に見極められるほど、底の浅い策ではないでしょう。ただ、おれなりに理解できたところはあります」
 たとえて言えば、それは海上に見える氷山のようなもの。目に見える部分はほんの一部だけで、海面の下には、どこまでも深く氷は続いているのだろう。
 だが、その氷山は、海上に見える部分だけでも、おれ程度の鈍才を圧倒するに足る偉容を誇っているのである。
「それでは、北郷殿に理解できたところだけでも、説明して下さらぬか。正直なところ、私には士元殿の案が、無用な危険を孕んでいるように思えてならぬのです。何故、わざわざ城を出て戦うのか。何故、河を渡って布陣するのか」
 陳到の言葉に、幾人かが同意、というように深く頷いた。




 彼らの疑問に、おれは莞爾とした笑みで応える。
「それほど難しい話でもありますまい。士元の策の要諦は3つしかないと思いますよ。1つは、城内での不和を避けるために城を出なければならないこと」
 おれは少し苦笑しながら、関羽と張宝に視線を送る。2人は、ばつが悪そうに視線をそらせた。
 今でさえ、さきほどまでの関羽と張宝のような小競り合いが、城内では絶えないのである。篭城戦になり、心身に負担がかかれば、今の状況が加速度的に悪くなるであろうことは、火を見るより明らかなことだった。
 それゆえ、城内に篭るという策は使えないのである。



「1つは、城内の民を、これ以上戦に巻き込まないために、県城を戦術から除外すること」
 単純に県城の防壁が脆くなっているから、というだけではない。程遠志の攻撃を含め、県城は短期間で幾度もの攻撃を受け、主を変えている。その間、城内の民が、落ち着いて生活できている筈はなく、県城の人心は不安定な状態となっている。
 劉家軍は、先の戦功もあって、住民たちに歓迎されているが、それも何かの拍子で反転しないとも限らない。否、すでに黄巾党を受け容れるという決定をしたことに対して、間違いなく民衆は不安と――そして不満を抱いているのである。
 鳳統が、出戦部隊に、全黄巾党兵士をあてたのも、これが理由の1つであろう。



「そして最後の1つは、今回、この勝たなければいけない戦いに、将兵が一丸となって、全力で戦える戦場を選ぶこと」
 今の状況では、劉家軍は戦を避けることが出来ない。劉家軍が戦場を逃げ出せば、残された民衆は、波才の軍に踏みにじられてしまう。それが間違いないからこそ、劉家軍にとって、この戦を避けるという選択肢は、はじめから無いに等しいのである。
 張角たちもまた然り。ここで逃げ出せば、後は波才による徹底した追及が待つのみである。以前のように、大陸を自由に歌い歩くことは、永く出来なくなるだろう。
 無論、官軍については言うまでもあるまい。ここで負ければ、今度こそ、琢郡は賊徒の手に落ちてしまうのだ。
 ゆえに、誰にとっても、この戦いに次などない。どれだけ戦力差があろうとも、今、ここで、勝たなければならないのである。
 そのためには――
「これだけの戦力差です。城を背にする、あるいは伯珪様の援軍と合流することを前提に戦端を開けば、兵士たちはどうしても崩れ易くなるでしょう。だからこそ、士元は背水の陣という最後の手段を用いたのでしょう」
 全滅か勝利か、2つに1つ。使わずにすめば、それに越したことはない。けれど、今のおれたちの状況では、使わずに済むという選択肢が見当たらない。だからこそ、鳳統はその危険性を十分に理解した上で、この作戦を立案したのだろう。
 自らを、渡河部隊に組み入れて。





 おれの言葉に、張宝が慌てたように卓上の地図を確認する。そこには、将たちの配置も記されていたのだが、鳳統の名は、おれの言葉通り、渡河部隊の最後に記されていた。



 会議の場に、沈黙が満ちる。
 だがそれは、先刻までのものとは、明らかに異なる意味を持つものであったろう。
 それを示すかのように、鄒靖と馬元義が、鳳統に向けて、深く頭を下げた。
 馬元義にいたっては、狼狽のあまり涙目になっていた。
 そして。
「ほらほら、ちぃちゃんも」
「うー。わかってるわよ……」
 張角に促され、張宝も渋々といった感じではあるが、鳳統に謝罪の意を示した。
 当の鳳統は、あっちこっちから頭を下げられ「あわわ」と慌てふためいていたりするが、まあ問題はとりあえず解決したようで、良かった良かった。 
 互いに不安と不満を抱えたまま、一大決戦を挑むなんて、遠慮したいからなあ。



◆◆



 鳳統の作戦案が全会一致で採択されると、後は細部を詰めるだけとなった。
 鳳統が立案した作戦の全容は、全員が思わず息をのむほどに見事なものであったが、その分、戦機はごく限られており、時の使い方が作戦の成否を分けるものと思われた。
 それらの作業が一段落し、会議が解散の運びとなった時、すでに夜は更け、月が天上に煌々と輝く時刻となっていた。
 あくびをこらえつつ、廊下を歩いていたおれは、背後から、急ぎ足で近づいてくる軽快な足音に気がつく。
 振り返ったおれの目に映ったのは、諸葛亮と、鳳統という、劉家軍が誇る2大軍師の姿だった。


「さきほどは、本当にありがとうございました」
「……あ、ありがとうございました」
 同時にぺこりと頭を下げる2人を見て、おれは困惑を覚えた。
 多分、さきほどの会議のことを言ってるのだろうが、別に礼を言われることではないんだがな。
 それに、実は1つ気づいたことがあるのだ。
「孔明としては、余計じゃなかったのかな、おれの言ったことは。士元に、自分の口で説明できるようになってほしかったんだろう?」
 そうなのだ。
 陳到の問いに答えながら気づいたのだが、おれがわかる程度のことを、諸葛亮がわからない筈はない。
 普段なら、鳳統のフォローは欠かさない諸葛亮が、何故黙っていたのか。
 おそらく、諸葛亮は、鳳統に軍師としての自信を持ってほしかったのだろう。
 どれだけ優れた策をたてられる能力があったとしても、それを自身の口で説明できなければ、誰も賛同してはくれないし、その作戦に命を賭してもくれないだろう。
 劉家軍は、今後、ますます激しい戦いに身を投じていくことになる。鳳統が軍師として、名実ともに羽ばたく為にも、その一歩は必要にして不可欠なものであろう。
 ただ、おれ自身、そのことに気づいたのが、調子に乗って自分の見解を喋っている最中だというから、間抜けな話である。


 恐縮するおれに、だが。
「そこまで、気づいていらっしゃったんですか」
 諸葛亮は、目を丸くした後、はーっと感嘆の声をあげていた。隣では、同じような顔をした鳳統が、赤い顔でこちらを見つめている。
 うう、なんかむしょうに身体がこそばゆいんですけど。
「確かに、一刀さんの仰るとおりなんですが、でも、私の思惑なんかより、一刀さんが言ってくれた言葉の方が、雛里ちゃんにとっては自信になったと思います。さっきから、雛里ちゃん、ずーっと一刀さん一刀さんって……」
「しゅしゅ、朱里ちゃんッ?! 言っちゃだめーー!」
 慌てふためく親友の様子を、孔明は暖かい眼差しで見つめつつ、くすくすと微笑んでいる。
 遅まきながら、からかわれた、と悟った鳳統は、あぅぅ、と悶えながら、また帽子を被って、顔を隠してしまった。
「孔明、あんまり士元をからかっちゃ駄目だぞ」
「からかってなんていませんよ。だって本当のことですもの」
 おれの言葉に、孔明は腰に手を当て、胸を張って言い返した。
「だから言っちゃ駄目だってばーーッ?!」
 大声をあげる鳳統、というきわめて珍しいものが見れただけでも、会議に参加した意味はあったのかもしれない。
 賑やかな2人の少女を見ながら、そんな風に思うおれであった。


 これで終われば、今日という長い一日は、めでたしめでたし、で終われたかもしれない。
 だが、この後、鳳統が口にした言葉は、長い一日の中で、最も重要なものとなる。
 落ち着きを取り戻した鳳統は、おれに向かってこう言い出したのだ。


「私は、一刀さんが言うような、価値のある人間じゃありません」と

 



 ――とりあえず。えい。
「あいたッ?!」
 おれのデコピンが、鳳統の額にクリーンヒットした。
「はわわ、か、一刀さん、急に何を?」
「いや、とりあえず、士元が寝言を言ってるかどうかの確認を、と思って」
「……あの、雛里ちゃん、本気で涙目になっちゃってるんですが……」
 ううう、と額を押さえて座り込んでしまっている鳳統を見て、諸葛亮は冷や汗を流している。
「やむをえざる犠牲というやつだな」
「そ、そうなんですか?」
 そうなのだ、うむ。


「で、士元」
「はは、はいぃッ!」
 額への一撃が、よほど聞いたのか、諸葛亮の言ったとおり、涙を湛えた目でこちらを見る鳳統。
 ……ちょっとやりすぎたかな、と内心思わないでもなかったが、今は気にしないようにしよう。
「寝言を言ってるわけではないようだけど、今の発言はどういう意味だ? なお、次の発言によっては第2撃が発動するので、ご注意されたし」
「あわわッ?! あ、あのその、決して自分を卑下してるわけでは、なくて、その。私の中には、化け物がいるって、一刀さんに知っておいてほしかったんですッ」


 ……化け物?





 鳳統の周りの空気が、変わったように思われた。
 その口調に、どこか冷たいものを宿しながら、鳳統はおれに向かって口を開く。
「一手うまれれば、また一手。軍略とは絶えず成長を続ける、化け物のようなもの。そして軍師とは、その化け物を飼いならし、主たるべき人物に尽くす者を指します。それは同時に、みずからの内に化け物を抱え込むことでもあるのです」
 軍略とは化け物、か。それを聞いて、おれは先刻、鳳統の策を聞いたとき、背筋に走った寒気を想起せずにはいられなかった。


「一刀さんは、さっき仰いました。この戦いは、勝たなければならない戦いだ、と。私も同感です。この戦いに、敗北は許されない。完璧な勝利を以って、波才さんの軍を打ち破る。そうしなければ、みんなが笑って暮らせる世の中をつくるという、玄徳様の――いいえ、私たちの大志は、ついに果たされずに終わってしまうでしょう」
 これが、本当にあの気弱な少女なのかと思ってしまうほど、今の鳳統は毅然としていた。
「軍師の――私の役目は、その勝利を導くことです。そのためならば、私はどんな手段でも用いるでしょう。たとえ、それがどれだけ危険なものだとわかっていても。たとえ、それがどんなに過酷なものかわかっていても」


 それが、ただ単に今回の背水陣を選択したことを指しているわけではないことが、何故かおれにはわかってしまった。
 おれは直感的に悟る。おそらく、鳳統は、あの会議で策の全てを打ち明けたわけではないのだ、と。
 必要であれば、自分は味方すら欺き、勝利をもぎとる人間なのだ、と鳳統はそう言っているのである。


「勝たなければならない戦いなら、打てる手は全て打つ。尽せる策は全て尽す。それ以外の行動を、私の中の化け物は許さない……だから、私は一刀さんが思ってくれているほど、立派な人間ではないんです。玄徳様はもしかしたら、とんでもない疫病神を味方に引き入れてしまったのかも、しれません……」





 おれの右手が上がったとき、鳳統が顔を強張らせて額を押さえたのは、先のデコピンの影響に違いない。
 またやられる、と思ったのだろう。
 その瞳に溜まった涙は、さて、デコピンのためか、今の話のためか。
 まあ、どちらでもかまわん。
 おれはそう思いながら、右手を鳳統の頭に伸ばし――そっと、髪の毛を撫でてやった。
「ふぇ?」
 予期していた衝撃が来ず、鳳統は呆然とした様子でおれを見上げる。
 おれは、そんな鳳統を見ながら、しみじみと呟いた。
「全く、何を言ってるのかな、このちびっ子軍師は」
「か、一刀さん?」
「まあいいや。とりあえず、おれを見損なっていた罰として……」
 おれは右手だけでなく、左手も鳳統の頭に乗せ、わしゃわしゃとかき回してやった。
「あわわわッ?!」
 鳳統は予期せぬ攻撃に、成す術もなく、されるがままだ。
 おれは思う存分、鳳統の柔らかい髪の毛の感触を堪能してから、両手を放してやった。
「ほい。髪の毛くしゃくしゃの計、完了」
「はぅッ?! ほんとにくしゃくしゃです……」
 鳳統は自分の頭に手をやり、その惨状に驚き、慌てて髪を梳くのだった。





 鳳統が髪を直し終えるのを待って、おれたちは再び、さきほどまで会議をしていた部屋に戻った。
 鳳統の誤解を解いておかないと、今後に差し支えると思ったのである。かといって、こんな夜更けに、女の子の部屋に行ったり、おれの部屋(簡擁との相部屋)に連れ込むわけにもいかん。
 当然のごとく、部屋にはもう誰もおらず、先刻の軍議の熱気もすでに霧散していた。


 その部屋で、卓を挟んで、向かい合う形で腰掛けたおれは、正面に座す鳳統と、そしてさきほどから、ずっと優しい眼差しでおれたちを見つめている諸葛亮に向けて、口を開いた。
「まず言っておくとだな。おれが、玄徳様に、士元のことを不世出の人材って言ったのは、軍師としての力を言ったわけじゃないぞ。いや、もちろんそれもあるにはあるけど、本当に言いたかったのは、そこじゃない」
「……と、言いますと?」
 小首を傾げる鳳統に、おれは更に言葉を続けた。
「会議の時に言ったとおり、士元の作戦に感銘を受けたのは確かだよ。背水の陣なんて、一見、やぶれかぶれの戦法に見えて、その実、これ以上なく現状を見据えた上での作戦だった。伯珪様との連携、大清河の利用、全て見事の一語に尽きた。でも多分、普通の軍師だったら、そこで終わっていた筈だと思う」
 しかし、鳳統は違った。
 自らが立案した作戦が、現状では最善と知りながら、なおかつ過酷なものであることも理解し、その策の責任をとるべく、自分の居場所を最前線に据えた。
「……そ、それは、弱冠の身で、玄徳様から軍師たる地位を与えられたことに対する、当然の責任です。そんな、褒められるようなことでは……」
 本当に、心底そう思っていたのだろう。予想しなかったことを褒められ、鳳統は喜ぶより、むしろ困惑しているようだった。
 そんな鳳統を見て、おれの顔には自然と笑みがこぼれる。
「さてさて、どうして当然なのかな」
「ど、どうしてって、言われても……」


「では訊き方を変えようか。勝つためには何でもするって言ってた化け物さんに質問だ。君が最前線に出ることは、勝利のために、絶対不可欠なことなのかな?」
 おれの問いに、鳳統は、しゅんとして俯いた。
「もちろん、軍師が直接、戦場を見て指図できれば、益することも多いと思う。けど、今回は間違いなく乱戦に――いや、激戦になる。背水の陣を布き、なおかつ冷静に戦局を動かせるほど、今のおれたちの軍は整備されてないだろう?」
「は、はい、その通りです……」
「士元は、兵士としては、新米にすら及ばない。逆に、戦力はわずかだが削がれる結果になりかねない。これもその通りだな?」
「……はい」
「つまり、今回、士元が前線に出ることは、勝利のためどころか、かえって敗北の因さえつくりかねないわけだ――では、改めて聞こう」
 おれは、一呼吸置いた後、鳳統に問うた。
「士元、どうして前線に出ようとした? おれが今言った程度のこと、士元が気づいていないわけはないだろう?」




 ひと言もなく、視線を落として黙り込んでしまった鳳統。
 おれは、簡潔に結論だけ口にした。
「軍師として、期待をかけてくれた玄徳様に、応えたかったんだろう? 自分がたてた作戦が危険なものだとわかっていたから、せめて自分も兵たちと同じ場所に立ちたかったんだろう? たとえ、それが感傷だとわかっていても、その行動が勝利に結ぶつかないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。そうじゃないのか?」
 鳳統は、力なく頷いた。
「……はい。一刀さんの言うとおりかもしれません……」
「なら」
 おれは、破顔した。
「士元は、自分の中の化け物に逆らえるってことだ。どんな策をたてたとしても、人としての誇りがそこにあるなら、それは愚策にはならないし、主君に害を為したりはしないさ。厄病神ってのは、災厄しかもたらさないものだろう? 士元みたいに、勝利をもたらす女の子は、疫病神じゃなくて、勝利の女神って言うんだよ」
 まあ、実際の戦場を知らないおれが言っても、説得力はないかもしれんけどな。
 後、最後はさすがに調子に乗ったかもしんない。



 内心、自分の臭い台詞に、自分で辟易していたおれは。
「……ひっく、えぐ」
 いきなり泣き出した鳳統を見て、凍り付いてしまった。
 え、なに、最後以外はきちんと話が出来たと思ってたんだけど、何か気に障ったり、傷つけるようなこと言ったか、おれ?!
「……ち、ちが……あ、あり、がと……ごじゃ……うぐ、えっく……」
 しゃくりあげながら、鳳統はなにやら礼を口にしているようだが――ごめんなさい、大泣きされながらありがとうと言われても、全然安心できないんですけど。
 
 
「ほら、雛里ちゃん、はな紙」
「ぐしゅ、あ、ありがと、朱里ちゃん……」
 諸葛亮から渡されたはな紙で、チーンと鼻をかむ鳳統。
 そんな鳳統の頭を撫でながら、諸葛亮は嬉しそうに、おれに笑いかけた。
「一刀さん、雛里ちゃんは、うれし泣きしているだけですから。そんなに慌てないでも平気ですよ」
「そ、そうなのか? てっきり、何かひどいことを言ってしまったもんだと……」
「ひどいどころか、まったく反対です。多分、今の雛里ちゃんに、1番必要だったことですよ」
 そんなに大層なことを言ったつもりはないのだが――まあ、親友である諸葛亮が言うなら、間違いはないか。




 なんとか、大役を果たし終えたと、ひとまず、胸を撫で下ろしたおれだったが。
 ふと視線を感じて、もう一度、諸葛亮を見ると、なにやら今までとは違う色合いが浮かんでいるような?
「……一刀さんは、雛里ちゃんのことは、よーーーっく、見てるんですね」
「……なんか今、すごい不自然な箇所があったんだけど。もしかして、孔明、怒ってる?」
「いえいえ、全然、これっぽっちも怒ってなんていません。雛里ちゃんばっかり褒められて良いな、とか。私も雛里ちゃんに負けないくらい頑張ってるのにな、とか、本当に少しも思っていませんから!」
「ああ、えっと、そのなんだ――孔明もすごいな、うん、頑張ってるよ」
「そんな取って付けられたように言ってもらっても、全然嬉しくないです」
 ぷいっと顔をそむけられてしまいました。


 ええと、なんだ。
 もしかして、まだ眠ることもできないのか、おれは?


 思わず呆然としてしまったおれの顔を見て、ようやく泣き止んだ鳳統が、小さく微笑みを見せた……





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/12 01:06


 県城の城外に集った1万の軍勢は、今、正に出陣の時を迎えようとしていた。
 その編成は元黄巾党の兵士を中心とし、その上に劉家軍の兵士たちを据える、という形となっている。劉家軍の兵は、関羽の教練を受け、実戦を経験して鍛えられてきた兵たちであり、元黄巾党の兵士たちを統べることは可能な筈であった。
 部隊は4つ。
 劉備、関羽、張角の中軍。陳到、張梁の右軍。馬元義、張宝の左軍、いずれも3千名の兵士を率いる。
 更に、遊撃部隊として、張飛、鳳統が1千名の部隊を率いる。これは全軍が騎馬兵で編成されていた。
 元々、幽州は北方の騎馬民族と、地理的に近しい関係にある。そのため、遼西ほどではないにせよ、琢郡も騎馬部隊の数が多い。
 この遊撃部隊は、官、劉、黄巾等の所属を問わず、騎馬兵として動くことの出来る兵をことごとく集中させた精鋭部隊であった。


 張家の姉妹が三軍に均等に配されたのは、もちろん、士気高揚の為であったが、その効果は早くも明らかになりつつある。
 出戦する各部隊に、張角たちがそれぞれ帯同することを知った兵士たちは、迫り来る決戦が自分たちに不利なものであることさえ埒外に放り投げ、張角たちに勝利を捧げん、と鼻息荒く雄叫びをあげるのであった――


◆◆


 県城から、意気上がる軍勢が出立する日。
 おれは彼らを見送ることはしなかった。何故なら、彼らより先に城を出ていたからである。
 その目的は、工作部隊を率いて、大清河の流れを堰き止めることであった。


 玄徳様たちが出陣した、という知らせを受け取ったとき、おれは泥と砂に塗れて、土嚢を担いでは運び、運んでは河に放り投げ、せっせと大清河の流れをせき止めている真っ最中であった。
 ――隠しようもないので、正直に明かすと、水攻めの準備をしているところです。
 当然といえば当然だが、河を堰き止める、というのは大変な作業である。
 物語の中でなら、一行が二行で描写されるところであろう。
「鳳統が頃合を見計らって、合図をする。堰き止められていた大清河の水勢が、轟音をたてて解き放たれ、波才軍を次々と飲み込んでいった……」とかいう具合に。
 だが、実際に水計を用いるとなれば、それに先立つ準備というものが必要なのである。
 それも、敵の斥候に見つけられては意味がないから、なるべく短期間に、なるべく目立たぬように造らねばならない。そしていざ発動というとき、なるべく効果的に崩せるように工夫しておかねばならないのだ。ただ土嚢を積み上げれば良い、というわけではないのである。


 懸命に仕事に従事するおれたちに、天に輝く月が金色の光を投げかけてくる。
 すでに戦端が開かれるまでのタイムリミットは始まっている。作業は昼夜兼行で進めなければならないのだ。
 そして、そんなおれを、うっとりした眼で見つめる視線が……
「飛び散る汗、弾む肉体、悩ましげな息遣い……ああ、太陽の光の下のご主人様も素敵だけど、月明かりに映る姿も、また違った味わいがあるわねえ……」
「働け、そこ」
 なにやら身悶えしている貂蝉を半眼で眺め、おれは短く注意した。


 土嚢の他に、河に打ち込み、土嚢を積む土台とする杭やらなんやらも作っておく。どうすれば効率よく流れを堰き止められるか。どう積めば、即席の堰が用を成せるのか等、細かい指示は軍師たちからもらっていたとはいえ、実際にそれを作り、組み立てるのは、おれたちの役割である。
 高校に通っていた時分に、学校に内密で肉体労働のバイトをしたことがあるのだが、当時は、きついなーと思っていたバイトも、今やっていることに比べたら、もう鼻歌交じりでも出来そうだ。
 忙しさも、身体への負担も、全く異なる。やはり、作業の工程を、ほぼ全て人力に頼らざるを得ないという点が大きいのだろう。時代が違うのだから、当たり前といえば当たり前なんだけどな。


 といっても、あくまでそれはおれを基準にしての話であったようで、部隊の中には、ほんの一握りではあるが、この重労働に全然堪えていない人もいた。
 貂蝉なんかは、土嚢をお手玉しつつ運んだりしているもんだから――みんな、目を点にして見ていた――大多数の人は、貂蝉が部隊長だと考えているのではなかろーか。
 ちなみに、本当の隊長は誰かというと。
 ……いや、実はちょっと言いにくいのですが。


 この部隊の隊長、私こと北郷一刀です。
 

 まあ、部隊といっても、たかだか百にも満たない工作部隊なんだけど。
 諸葛亮曰く。おれも、そろそろきちんとした功績をたてる必要があるらしい。
 確かに、劉家軍の規模も膨れ上がり、参画する人数も増大の一途をたどっている。輜重部隊の改善や、不満処理をしているだけの人間が、玄徳様たちの周囲にうろちょろしていては、他の人からの目が厳しくなるのは明らかであろう。
 それが、おれ個人に向けられるならまだしも、玄徳様への不満となってしまえば、冗談事では済まされない。


 そんなわけで、おれは数十人からの若者たちで成る工作部隊の指揮を執ることになった。もっとも、工作部隊といっても、その実態は力自慢たちを集めただけのものであり、別にその道の玄人を配下にしたわけではない。
 気心の知れた劉家軍の人たちは、大半が出撃部隊に加わっている。そのため、部隊員を選ぶにしても、面識のない元黄巾党や、志願兵の中から、選り抜かなければいけない。
 はじめ、おれは次のように考えていた。
 理想を言えば、気は優しくて力持ち、みたいな人が良いのだが、生憎、そううまく事は運ばないだろう。人数自体は、さして苦も無く集められるだろうが、指揮を執るのが、おれのような若造だとわかれば、自分の力に自信がある者ほど、不服を口にする筈だ、と。


 だが、おれの予想は、外れた。より正確に言えば、不服を口にする者は確かにいたのだが、それは表面化する前に解決してしまったのである。
 理由は――
 いつのまにやら、おれの傍で部隊に加わっていた貂蝉が、おれに不平をもらす人間を、片っ端から説得してしまったからであった。
 ……まあ、何人か、顔にキスマークつけて、泡吹いて倒れてたりしたんだけど。どんな説得をしたのかは、怖くて聞けなかった。
 倒れた人たちに関しては、恐れ多いことながら、玄徳様の母君であられる劉佳様が介抱してくれた。
「このくらいのこと、お安い御用ですよ」
 と言って、コロコロと笑う劉佳様に、おれは恐縮しきり。主君の母君に何をさせてるんだ、と怒られても仕方ないところだ。かといって、作戦までの時間を考えれば、おれが介抱するわけにもいかないので、お願いしてしまった。
 ちなみに、劉佳様の傍で、侍女に扮して仕えていた董卓と賈駆も手伝ってくれたそうである。
 多分、賈駆は「なんでボクがこんなことを」とぶつぶつ言っていたのだろうな。
 おれがそう口にすると、劉佳様はちょっと困ったような顔をされた。図星だったらしい。



 任務に就く前から若干の離脱者を出すというハプニングはあったものの、おれは、なんとか初の隊長任務をこなすべく、初日から奮闘した。
 そして前述したとおり、おれ以上に奮闘してくれたのが貂蝉である。
「ぬふふ、ほらほーら、いとしのご主人様の初の檜舞台、失敗は決して許されないわ。みな、全身全霊を込めて、任務を成功させるのよ」
 そう言いながら、率先して土嚢を担ぎ、用水路を築き、貯水池(元々、低地にあった土地を拡張してつくっている)を広げていく。いずれも素早く、手際も良く、文字通り瞬く間に作業は進められていった。多分、貂蝉1人で30人分くらい働いていたと思われる。
 全身、これ筋肉か。恐るべし、洛陽の踊り子。


 最初は、そんな貂蝉を唖然としてみていた他の者たちも、やがて貂蝉の働きを見て発奮し、作業をこなす速度は、全体的に見ても加速度的にあがっていった。
 彼らもまた、県城に残った家族や、自らの故郷である琢郡を守りたいと願い、ここまで来た者たちである。やる気に関しては貂蝉に劣る筈がない。
 この作業が、黄巾党を壊滅させる策の一端であることを知る彼らにとって、この場で力を惜しむ理由はどこにもないのである。



 かくして、交代で休憩をとりながら、部隊としては昼夜兼行で作業を続けること数日。
 お粗末な出来ながら、かろうじて物の役に立つ堰が完成した――一応断っておくと、粗末なのは外見だけで、内実はしっかりした造りになっている。
 その証拠に、眼前の大清河の流れは、しっかりと堰き止められており、用水路を通った河水が、順調に貯水池の水位を上げている。
 後は、戦闘部隊からの合図があり次第、堰を壊し、貯水池を解放すれば、満々と湛えられた水は、怒涛となって下流に押し流されていくだろう。
 城を出る前に聞いていた予定通りに両軍が進んでいるのならば、それは明日。
 作業が完成した今、その戦いの勝敗に直接関与することが出来ないおれにとって、出来ることは、ただ仲間たちの武運を祈ることだけである。
「……長い1日になりそうだわねえ」
「……そうだな」
 おれは貂蝉と2人で、大清河の畔に立ち、川面を流れる水の動きを眼で追った。
 この滔々とした流れが下流に向かい、そこで布陣しているであろう劉家軍のところに辿りつくまで、果たしてどれだけの時間がかかるのか。そんなことを考えながら。



◆◆



 偵察によって、敵軍が大清河の南に進出してきたことを知った波才は、しかし、行軍の予定を変更することはせず、ただ堂々と軍を進めるのみにとどめた。
 なまじ、不利な地点に布陣した敵を討とうと欲を出せば、陣容に乱れが出る。そこを、背水の陣によって死兵と化した敵に衝かれれば、苦戦は免れないと考えたからである。


 波才は別に敵を恐れているわけではない。敵が奇策に出たということは、つまるところ、正攻法では勝てないと判断したからに過ぎない。
 ただ、無用の損害を嫌ったゆえに、無理を慎んだのである。
 勝利の要諦である兵力は、波才軍が敵を圧している。後は、この兵力を正攻法で運用すれば、勝利はおのずと波才の手の中に転がり込んでくるだろう。いつものように。
 ただ1つだけ、いつもの波才軍と異なる点といえば、農民たちを狩り出して先鋒に立たせる、という常の戦法をとっていないことである。
 その理由の1つとして、琢郡近辺の町や村に住む民の多くが、波才軍の侵攻を知って身を隠した為に、道々で人狩りが出来なかったことが挙げられる。琢郡の県城に逃げ込んだ者もいれば、付近の山林に身を潜めた者もいる。いずれにも共通しているのは、県城からの知らせによって逃げ出した、ということだった。


 これは無論、諸葛亮、鳳統らの作戦の一環であった。波才の戦い方は、張梁や馬元義によって詳細に知らされており、それに先手を打った形である。
 ただ、この手は、波才軍の占領下にある平原郡までは及んでいなかった為、波才がその気になっていれば、そちら方面の民衆を駆り立てることは可能であっただろう。
 しかし、そのために要する時間を、波才は惜しんだ。時間をかければかけるほど、琢郡の防備は固まってしまう。そこに公孫賛の援軍が加われば、負けはしないにしても、要らぬ時間を浪費し、無用の損害を被る羽目になりかねない。そう判断した波才は、自軍のみでの出陣を選択したのである。



 そして。
 敵軍を視界の彼方にとらえるに至った波才は、物見の部隊からの報告に、口許をわずかに歪めた。
「誰かは知りませんが、小癪な輩がいるようですね」
 かつて、波才らが主と仰いだ3人の姉妹が、遠くに布陣する敵の部隊に加わっているとの知らせは、波才に敵軍の中の策士の存在をはっきりと伝えていた。
「もっとも、いささか認識が甘いようですがね。今更、張角たちを持ち出してきたところで、こちらの動揺なぞ誘えはしません」
 その言葉どおり、波才軍は動揺も混乱もなく、敵軍との距離を詰めていく。


 
 そして今、両軍は相手を指呼の間に捉える。
 陣頭に将が立って、相手に呼びかけることはない。すでに、互いが不倶戴天の敵であることを知悉するゆえに、戦いの始まりは、言葉ではなく、抜き放たれた剣であり、掲げられた槍であった。





 後に『大清河の戦い』と呼ばれることになる戦において、最初に動いたのは劉備軍であった。
 4つに分けられた部隊の内、陳到、張梁の率いる右軍と、馬元義、張宝の率いる左軍が、波才軍に向かって突撃を開始する。
 数において圧倒的に劣る劉備軍から攻めかかる。この攻撃は、波才軍の意表を衝くかに思われたが、帥将である波才は、この攻撃を予期していた。
 背水の陣を布いた以上、縮こまっていることに意味はない。前進して活路を開く道を、劉備軍は選ぶであろう、と。


「放てぇ!!」
 波才軍の先陣から、一斉に矢が放たれる。矢羽が風を裂く音が、数百、数千と重なり合い、劉備軍に襲い掛かる。
 右軍を率いる陳到は、全軍に盾を構えさせ、次々と襲い掛かってくる矢を受け止め、あるいは払いのけつつ、じりじりと敵との距離を詰めていく。
 陳到にとって、千を越える軍勢を指揮するのは、初めての経験であったが、その指揮ぶりは堂に入ったもので、敵の弓箭兵の攻撃は大した効果をあげることが出来ずにいた。
 陳到が注意したのは、敵の攻撃よりも、むしろ味方が指揮に従わずに突出してしまうことであった。
 人公将軍 張梁を慕う兵たちで構成され、作戦として退路を断たれた右軍の士気は、否応なく高まっているが、それはともすれば陳到の制止を振り切り、遮二無二、波才軍に突撃しようとする動きへとつながりかねない危険を内包している。
 その為、陳到は懸命に軍の手綱をとらなければならなかったのである。
 後方に控えた張梁からも、陳到の指揮に従うようにという命令は出ているのだが、高揚した戦意は、兵士たちの冷静さを少なからず奪ってしまっており、戦局において不安定なしこりを生じさせつつあった。





 右軍が兵士たちの統率に苦慮していた時、そんな苦慮とは一切無縁であったのが、左軍の馬元義、張宝の部隊であった。
 劉備軍は、中左右の3軍に張家の姉妹を配したとはいえ、指揮権は各将軍に与えられている。しかし、ただ左軍のみは、名実共に、張宝が部隊の指揮官として動いていた。


「みんな、もっちろん、ちぃのこと、守ってくれるわよね?」
『応!』
「ちぃに似合うのは、笑顔と泣き顔のどっちかなー?」
『笑顔だ! 笑顔だ!』
「ちぃに相応しいのは、勝利と敗北、どっちだろー?」
『勝利! 勝利! 勝利!!』
 張宝の言葉に、兵士たちの興奮がみるみるうちに高まっていった。その士気は、中軍、右軍を凌駕し、彼らの雄叫びは戦場全体を駆け巡るかのようであった。
 何故ならそれは、作戦として高揚を促されたものとは異なる力だから。
 彼ら左軍の兵士を熱狂させるのは、彼らに訴える少女の言葉。仕草。そして、その心。
 全てが織り合わさって、将兵を華やかなる舞台へ誘い行く。
 敬愛する人を守ってみせるという誓い。
 大切な人に笑顔でいてほしいと願う祈り。
 崇拝する人のために勝利を捧げようとする決意。
 これより彼らが向かうは、その全てが懸かった戦場という名の舞台。張宝の言葉は、彼ら将兵に、その舞台の主役が己であると信じさせる力に満ち――全ての兵士たちの士気を沸点へと導いていく。


 3千に及び将兵の戦意は、今や沖天に達する勢いとなり。
 彼らを導いた戦乙女は、正しく、その戦意を正面の敵へと叩きつける。
「みんなッ! ちぃのために戦い、ちぃのために勝利して、ちぃのために生きて帰りなさい!!」
『おおおおおッ!!!』
 全員の注目を惹き付けるように、張宝は一呼吸置いた上で、高らかに命令を下す。
「全軍、突撃ッ!!」
 
 



 中軍に控える劉備、関羽、張角は、後方にあって、先陣をきった左右軍の動きを見ていた。
 ことに、味方をすら置き去りにして、敵軍深く突っ込んでいってしまった左軍の勢いには、目を見張らざるをえない。
「なんともはや……」
 呆れたような、感嘆したような、どちらともつかない声をあげる関羽。
「うわー……すっごいねえ」
 左軍のあまりの勢いに、劉備は眼を丸くしている。
 その隣で、張角が困ったように、頬に手をあてていた。
「あらー、ちぃちゃん、めずらしく舞台以外で本気出しちゃったのかな?」
 張角の言葉を聞き、劉備が額に汗を浮かべる。
「そ、そうなんだ……ねえ、ねえ、愛紗ちゃん?」
「なんですか、桃香様?」
「もし、伯姫さんたちが本気で黄巾党を率いて天下を狙ってたら、今頃、大変なことになってたかもしれないね」
「……同意せざるをえませんね」
 左軍は、元々、張宝ファンで固めているとはいえ、それを統べる中級指揮官は劉家軍の者たちである。だが、張宝は、ファンという下地を持たない彼らさえ、たちまちのうちに熱狂の渦に巻き込み、戦場へと導いてしまったのである。
 扇動という言葉では到底足らない、それは天与の魅力(カリスマ)に他ならない。そして、その魅力を活かし切ることのできる張宝の手腕は、関羽ほどの猛将でさえ、背筋が寒くなるほどであった。
 武勇を競えば、あるいは軍略で対峙すれば負けるつもりはない。しかし、張宝と対峙した者は、そういった軍事の力量以前に、勢いだけで蹴散らされてしまうのではないか。関羽には、そんな風にさえ思えるのだ。   


「ところで、愛紗ちゃん、作業は順調?」
 劉備の問いに、関羽はしっかりと頷いた。
「問題はありません。元々、孔明たちの準備は万全でしたから、私は指示されたとおりにするだけです」
「そっか。さすがは孔明ちゃんと士元ちゃんだよね。えーと『謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決する』……だっけ?」
「り、留侯(前漢の張良)ですか、桃香様がそんな例えをされるとは……」
「えへへー、私だって、いつまでも昔のままじゃないんだよ。ちゃんと勉強だってしてるんだから――って、愛紗ちゃん、そんな涙ぐまなくても……」
「こ、これは失礼しました。まさか、桃香様の口から『勉強』などという言葉が自主的に出てこようとは……」
 なんだか「我が生涯に悔いなし」とでも言い出しかねない関羽の感激ぶりに、劉備は冷や汗を流しつつ、ぼそっと呟いた。
「――勉強しただけで、ここまで感激されるっていうのも、ちょっと複雑かも……」


 その劉備のぼやきが終わらぬうちに、中軍のもとに県城からの使者が訪れる。
 県城から駆け続け、大清河の流れを泳ぎぬいたその人物の報告は短かった。
 が――
「易京城にて、反乱勃発。公孫伯珪様、動けず」
 その内容は、劉備たちの顔色を奪うに充分なものであった……





 波才軍は、重厚な防御で距離を詰めてくる陳到の右軍に合わせて動こうとした矢先に、矢石の雨を縫って突っ込んでくる張宝の左軍の突撃を受け、咄嗟に対応が取れず、その肉薄を許してしまう。
 このまま弓箭兵を以って敵を削っていくか。それとも、槍先を揃えて、敵を迎え撃つか。
 敵軍に生じたわずかな逡巡を、左軍は見逃さなかった。馬元義を先頭に、一気に突撃をかける左軍は、その溢れる戦意で、敵の第一陣を文字通り一蹴してしまう。
 馬元義によって空けられた陣容の一穴は、左軍の猛攻によって、瞬く間に広げられていった。


 そして。
 波才軍の注意が左軍に惹き付けられた瞬間、陳到もまた、右軍に突撃の号令を下す。
 その判断は絶妙を極め、左軍によって開けられた戦線の穴埋めをしようとしたところに、新手の、それも別方向からの突撃を受けた波才軍は、左右の頬を続けざまに打たれたに等しい状況に陥った。
 波才軍の前線指揮官は咄嗟に下すべき指示に迷い――そのためらいは、瞬く間に配下の兵士たちに混乱をもたらしていった。


 第一陣から「苦戦」の報告を受けた波才は、しかし顔色1つ変えることはなかった。
 戦場の匂いに逸った部下たちは、口々に出撃の許可を乞うが、波才はそれらに冷厳な一瞥をくれるのみで、本営の兵を動かすことはなかった。


「少々、督戦に慣れすぎましたか。民という盾がなくなった途端、この体たらくでは、今後も物の役に立ちませんね」
 胸中でそう呟きながら、波才は敵軍の動きを観察する。
 鍛え上げた筈の軍勢は、敵の勢いにたじろぎ、すでに前線は混戦状態になってしまっている。
 今のところ、戦闘に参加している波才軍は前衛のみとはいえ、その数は優に敵の数倍。勢いだけの敵軍など、覆滅していてもおかしくはない――にも関わらず、現実は敵は思うように軍を動かし、こちらはそれに振り回され、自ら傷口を広げている有様であった。
「率直なところ、少々、甘く見ていましたか。勢いだけと思っていましたが、どうしてどうして、なかなかに有能な将もいるようです。しかし――」
 波才は第二陣へ伝令を飛ばし、突進してきた部隊の後方を脅かすように指示を下すと同時に、第一陣へは、防御に徹し、敵の浸透を許さぬように厳命する。
 敵の両翼と、中央の軍を分断できれば、戦力比は更に開く。勝利は、より確実なものとなるだろう。
 かりにうまくいかなかったとしても、それはそれでかまわない。
 後方を扼す動きを見せれば、敵は動揺する。背水という劇薬の効果に、一時、猛り狂っている敵軍だが、その効果は有限であり、ある時期が過ぎれば、敵兵は疲れ果て、将の指示に従うことさえ出来なくなろう。
 ただ時間を稼いでいるだけでも、勝利は波才の手元に転がり込んでくるのである。


 波才がそこまで考えたとき。
「よろしいでしょうか?」
 いつまで経っても聞きなれない男の声が、波才の鼓膜を震わせた。
「戦闘中の指揮官の耳に入れるに足る情報なのでしょうね?」
「無論。勝敗を決する要素ともなるでしょうね」
「ほう? 何事ですか、于吉」
 于吉の言葉に、常とは違うものを感じた波才が促すと、于吉は口を開き、あっさりと言った。
「左慈の工作が成功しました。遼西の公孫賛は動けません」


 ぎらり、と波才の目に鈍い輝きが宿る。それは漢族ではなく、戦の勝利の匂いをかぎつけた匈奴の戦士の眼差しであった。
 波才の口調が変わる。
「たしか、あの小僧が何をしているのか知らない、と言っていなかったか、貴様」
「私も、左慈から知らせを受け、ようやく知ったのですよ」
「……まあ良い。その情報は確かなのだな?」
「疑うのならば、確認のほどを。しかし、それでは戦機を逸するのではないですか?」
 ふん、と先刻とは似ても似つかぬ粗暴な素振りで、波才は腕組みをする。
「公孫賛はなかなかの善政を布いていると聞く。その領内、しかも本城で反乱を起こさせるなど、幻術でも使ったのか?」
「どれだけ良き政事を行おうと、不満を持つ者はどこにでもいます。女の太守、ということに不服を抱いている者も。幻術など用いずとも、そこを衝けば良いのですよ」
 その言葉を聞いた波才の目が、すっと細まる。言い方を変えれば、波才軍に、同じことを起こすのも容易い、と于吉は言っているに等しい。
(やはり、生かしておくのは、危険すぎる)
 この戦が終わった後、于吉たちは処断する。波才はそう決めた。
 だが、今はまだ戦の最中。勝利を確定させるまで、油断してはならない。
 とはいえ、今の知らせで、波才軍の勝利は、より確実なものになった。ここから挽回するのは、古の韓信が甦ったところで、容易くはあるまい。 
「さて、どう動く、劉玄徳?」
 波才の顔に、酷薄な笑みが浮かんだ。





「敵、第二陣、動き出しました。左右軍の後背を扼すためと思われます!」
 斥候の報告に、張飛は手を叩いて喜ぶ。
「おー、士元の言ったとおりなのだ! やっと鈴々たちの出番~!」
「はい。私たちは左右軍の退路を断とうとする敵の、さらに後背を衝きます。張将軍は、騎馬の機動力を利し、縦横無尽に、燕人張飛の勇名を轟かせてください」
「まかせておくのだッ! 突撃、粉砕、勝利なのだッ!!」
 鳳統の言葉に、張飛は蛇矛を振り回し、勇み立つ。
 だが、つとその動きを止めると、張飛は覗き込むように鳳統の顔を見やった。
「……ち、張将軍、どうかなさいましたか?」
「くふふ、士元が愛紗みたいになってるのだ」
「え、え、ええええ?! わわ、私が関将軍みたいにって、どういうことです??」


「こう、顔がこんな風になって」
 張飛は眉間に皺をよせてみせる。
「目つきはこんな感じで」
 虎も裸足で逃げ出しそうな鋭い眼差しをする。
「あと、口がこうなってるのだッ」
 口許をへの字に曲げて見せたあと、張飛は実に楽しそうに笑い声をあげる。
 一方、鳳統は「がーん」と擬音がつきそうな顔をして、ショックをあらわにしていた。
「あ、あわわ、そ、そんな顔してましたか?」
「なってたのだ。まるで、お兄ちゃんを怒るときの愛紗みたいだなーって思った」
「―――――ッ?!」
 あまりの衝撃に、身体全体を硬直させる鳳統。
「おっと、じゃあ鈴々はそろそろ行って来るのだ! 士元はここで鈴々の大活躍を見ておくのだーッ」
 そんな鳳統を置いて、張飛はさっさと馬足を速め、部下を差し招いて出撃してしまった。
 そのあとに残されたのは――


「……か、一刀さんを叱るときの、関将軍……あの、閻魔様みたいな……?」
 こっそりと不穏な言葉を呟きつつ、呆然と佇む軍師の姿であった。 




◆◆




 戦闘開始から一刻余り。うちつづく戦闘により、両軍の死傷者の数を増す一方であった。
 河畔の地に咲いた花は馬蹄に踏みにじられ、緑萌える草木は、人間の血によって、朱の彩りをほどこされ、愚かなる人間の愚かなる戦いに、河神が怒りの咆哮をあげても、何ら不思議はないかに思われた。


 この時、戦場を俯瞰してみれば、劉備軍の優勢は動かし難い。しかし、未だ、勝敗の行方は杳として知れなかった。
 劉備軍は、緒戦において、陳到、張宝らの活躍によって波才軍の機先を制し、戦闘を優位に運ぶことに成功する。
 それに対し、波才は劉備軍を分断せんと、第二陣を戦場に投入するも、この事あるを予測していた劉備軍軍師 鳳統は、張飛率いる騎馬遊撃部隊に第二陣を要撃させ、敵の作戦行動を未然に妨げることに成功。
 これにより、混乱する敵第二陣に対し、これまで動かなかった劉備率いる中軍が攻勢を仕掛け、勇将関羽と、元黄巾党党首 張角の鼓舞に奮い立った将兵の奮戦により、波才軍第二陣は敗走を余儀なくされる。
 ここにおいて、劉備軍は勝利への階に足をかけたかに思われた。


 だが、劉備軍と対峙する波才は、好転する気配さえない自軍の戦況に苛立ちを見せず、味方が崩れそうと見るや、その都度、援軍を送り込み、劉備軍の鋭鋒を粘り強く受け止め続けた。
 波才は知っていた。
 いかに劉備軍が奮戦し、波才の軍が不利であるように見えたところで、それは一時のこと。
 彼我の兵力比が示す勝利への道は、開戦からいささかも変わってはいない。
 8万の軍が被る1千の損害と、1万の軍が被る1千の損害では、大きく意味が異なる。
 当初の混乱さえ脱すれば、あとは圧倒的な兵力を利して、正攻法で押し込んでいくだけで良い。退くことを放棄したゆえの劉備軍の勢いは、時と共に減じ、連続する戦闘の疲労は確実に将兵の心身を蝕んでいくだろう。
 転回点が来るのは、おそらくもう間もなく。
 そして、一度戦況がひっくり返れば、再度の挽回はもう不可能となる。


 ただ1つ、波才にとって気がかりだったのは、敵の援軍である公孫賛の動向である。
 だが、これは于吉たちの報告で杞憂となった。勇猛名高い白馬将軍といえど、神仙ではない。遼西からこの地まで、一昼夜で駆け抜けることなど、出来はしない。
 油断を戒めつつも、波才はすでに半ば以上、勝利を確信していた。
 その確信は――
「申し上げます! 敵、左軍、崩れました、前衛部隊が押し込んでいきます!!」
 配下の報告によって、全きものへと変ずる。
 開戦当初から、もっとも激しく動き続けていた部隊が、もっとも早く疲れ果てるは当然のこと。
 将としての波才の目に、自軍の勝利が明確に映し出された。
 怜悧さを失わずにいた波才が、ここではじめて吼えるように命令を下す。
「頃はよし。全軍に伝えよ。これより、我が軍は総攻撃に移る!」
 主将の命令に、配下の兵は野太い喚声で応じ、波才軍は怒涛の如き突進を開始するのであった。




◆◆



「敵本隊、動き出しました!」
 伝令からの報告を受け、劉備はただちに両翼の部隊に後退を指示する。
 とはいえ、後退といっても、背後に水を湛える大清河がある以上、限界はある。河で進退きわまったところで、敵本隊の攻撃を受ければ、劉備軍は確実に全滅してしまうだろう。背水の陣を布いた多くの軍が、そうやって滅びたように。
 そのことは、陳到や張宝らも当然わかっている。だからこそ、そんな事態にならないように奮戦していたのだが、やはり兵力の差は容易に覆すことが出来なかった。
 敵は豊富な兵力を背景に、入れ替わり兵力を交代することが出来る。それに対し、劉備軍にそのような余剰兵力はなく、攻撃にせよ、防御にせよ、交代も休息もなく、常に同じ部隊が動かねばならない。死傷者の数は時間と共に増え、健在である将兵も、心身に蓄積した疲労によって、動きを鈍らせている。
 その影響は、すでに無視できないレベルになりつつあった。否、左軍に関しては、緒戦からの奮戦で他部隊より消耗が激しく、すでに限界を越えたというべきであったかもしれない。


 疲労困憊した左軍への追撃は、未だ余力の残る右軍がかろうじて食い止めるを得た。
 それによって出来た、わずかな時間を利用して、劉備軍の将たちは、中軍の陣営にて、一堂に会した。
 そして。
 そこで見たものに、左右軍の将たちは驚愕する。


 それは、橋であった。
 
 
 軽舟を数珠のように並べ、それを板と縄でもって繋ぎ合わせただけの、簡素な橋。だが、それは大清河を南北に結び、劉備軍の退却を可能とするものである。
 張宝などはそれを見た時、呆然とし、次の瞬間、盛大に文句を言い始めた。
「こんなものがあるなら、最初から言っておきなさいよね!」
「し、しかし、それを知っていたならば、我らはここまで奮闘できなかったのではありますまいか?」
 張宝と共に戦いぬいた馬元義が、憔悴の色を浮かべつつ、そう反論する。
「わかってるわよ、そんなこと! ただ、あたしたちに隠し事をしながら戦ってたってのが気に入らないの」
「そ、それは軍略ですから、いたしかたないかと……」
「わかってるっていってるでしょうが! これは単なるやつあたりよ!」
「さ、さようでしたか」
 馬元義は理由のない口撃の対象となったことに困惑しながらも、内心、素顔の張宝が見れてこっそり喜んでいた。


 その後、やってきた陳到と張梁は、橋を見て驚きはしたものの、陳到は深く頷き、張梁は肩をすくめただけで、表立って文句を言うことはなかった。
 そうして、全員が揃ったところで、改めて劉備の口から、今回の作戦が詳らかにされた。
 先日の軍議では、公孫賛の援軍が到着するまで、何とか時間を稼ぐことが主眼とされていた。
 公孫賛の部隊は、騎馬部隊が主である。その機動力を以って、大清河を大きく迂回し、敵の後背を扼す。退路を断たれた敵軍の混乱に乗じ、前後から挟撃する、というその作戦は、しかし、公孫賛が動けなくなったことで、根本的な変更を余儀なくされた。


 そこで次善として用意されていた策が明らかにされる。
 それはすでに全員が見た、あの軽舟による浮き橋を用いて、全軍を北岸に移し、改めて戦線を立て直すというものだった。
 立て直すとはいえ、新たに援軍が来るわけではなく、苦戦は免れないであろうが、河を挟む分、これまでよりは幾分、戦いやすくなる筈だった。何より、激戦に次ぐ激戦に疲れ果てている将兵を休息させることは、絶対に必要なことである。


 はじめに左軍、次に右軍、さらに遊撃部隊を退かせ、殿軍は中軍が務める。
 死傷者の数、疲労の蓄積等を考え、その順番は速やかに決められた。
 かくて、劉備軍は、一斉に退却を開始する。
 作戦ゆえのものではなく、敵の攻勢に押し負ける形での退却は、将兵の心身に積もった疲労をいや増し、その足取りは重く、その顔つきに、開戦当初の猛々しさを見出すことは難しかった。



◆◆



 大清河の河畔まで軍を進めてきた波才は、河面で燃え上がる2本の炎の橋を眺め、嘲りの言葉を発する。
「敗れたときのために、退路は用意してあったか。そのような不覚悟な背水の陣が、用を為す筈がなかろうが。下らぬ、所詮、女子供の軍勢か」
 もっとも、その女子供の軍勢を、完全に捕捉できなかったことに、波才は多少の自嘲の念がある。
 退却を開始した劉備軍を追撃しようとした波才軍であったが、敵の殿軍の堅陣をついに突き崩すことがかなわなかった。
 開戦から、もっとも戦いが少ない部隊であっただけに、左右軍ほどに疲労も死傷者も少なかったのだろう。
 とはいえ、その殿軍もある程度、痛めつけることは出来た。橋を焼かれたといっても、大清河の水量を見るかぎり、渡河にそれほどの時間はかかるまい。
 対岸に布陣する劉備軍からの攻撃は避けられないだろうが、多少の被害を顧みずに前進すれば、ほどなく渡河は果たせるだろう。


 波才はそう考え、配下に命令を下そうとする。
 だが、自身の考えの中で、何かが引っかかった。
 波才は基本的に数字で物事を見る性質だが、匈奴の血がもたらす戦場での直感を等閑にはしない。
 鋭い眼差しで眼前の光景を見つめる波才の脳が、目まぐるしく思考を展開する。



 ――やがて、波才はこの地の出身であるという兵士を呼び出し、訊ねた。
「聞くが、この河の水量は、元々この程度なのか?」
 波才の問いを聞き、兵士は緊張した様子で返答する。
「乾季であれば、この程度の水量になることもありますが、今の季節にしては不思議なほどに水が少なくなっております」
 波才は小さく頷くと、その兵士に続けて命令を下す。
 何名かを引きつれ、大清河の上流を偵察せよ、と。


 それからしばらく後。
 波才の下に、息せき切って報告の兵士が訪れる。その報告は、波才の予想通りのものであった。
 それを聞いた波才は、口を三日月の形に開くと、そこから低い笑声を発したのであった……






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/12 01:04
 



 大清河上流に不審な堰あり。
 その報告によって、波才は敵の策の全容を看破する――看破した、と波才は確信した
「ふむ、敵将は水を使うか。手際はなかなかのものだな。程遠志や、張曼成ならば、あるいは敗北の憂き目を見たやも知れぬ」
 だが、と波才は嘲笑う。自分には通じはしない、と。
 波才の傍らに控えていた部下の1人が、勢い込んで、波才に命令を請う。
「波大方、是非、それがしに一隊をお与えくだされ! 敵の小癪なる策略、未然に潰してくれましょうぞ」
 その声に触発されたように、周囲から我も我もと名乗りを挙げる者たちが続出する。


 だが、波才は部下の熱意に感応しない。
 堰発見の報告をしてきた兵に、その不審な堰を厳重に見張るように命令を下すのみにとどめた。しかも、堰の周囲にいる敵兵に手を出してはならぬ、とまで言い添えて。
 それを聞いた周囲の者たちが、一様に驚きの表情を浮かべる。
 彼らは、当然のごとく、波才が堰を奪え、と命じるものだとばかり考えていたのだ。
 1人が、その疑問を口にする。
「堰を奪わないでよろしいのでしょうか? おそらく、敵兵は百に満たず、一部隊を派遣すれば、すぐにでも蹴散らせましょう」
 その疑問に対し、波才は明確に答えを示した。
「これほどの好機、その程度で済ませるには惜しい――上兵は謀を伐つ。ここで奴らの戦意を根こそぎ叩き潰し、琢郡を制圧する」
 もっとも、と波才は皮肉げに笑う。矛を交えてしまった今、上兵も下兵もないのだが、と。


 だが、部下たちの中に、波才の言葉と、その笑みを即座に理解できる者はいなかった。
 側近の1人が、おそるおそる訊ねる。
「謀を伐つ……と、申されますと?」
「敵に成功を確信させてやるのだ。これだけの苦闘の末に、ようやく見えた光明ゆえ、連中はそこにすがりつくしかなくなろう。その眼前で、我らが敵の策を破って見せれば、そのとき、連中に戦う気力は残るまい」
 おお、とようやく波才の意図を理解した部下たちから歓声とも嘆声ともいえない声がわきあがる。
 具体的に言えば、敵の期待どおり、こちらは大挙して大清河に躍りこみ、渡河の気配を示す。そうすれば、敵は上流に合図して、堰をきりおとすだろう。
 一度それを行えば、もはや後戻りはできない。その時点を見計らって、波才が全軍を退かせる。
 そうすれば、濁流が飲み込むは、ただ河に生きる魚くらいのもの。戦況の挽回を信じた敵軍は、こちらの掌で踊らされていたことを知り、絶望にうちひしがれるだろう。
 仮に敵の将軍たちがなお戦うことを欲したとしても、その時には、もはや兵士たちの気力が尽きている筈だった。


「し、しかし、そこまでうまく行くでしょうか? 全軍反転するとなると、ある程度で侵攻をとめなければなりませんが、敵の狙いは本隊の筈。退却の余裕を保っていた場合、罠を動かさないやも知れませぬ。かといって、敵に罠の発動をうながすために深入りすれば、退き時を逸した場合、甚大な被害を被ってしまうでしょう」
 作戦に対する懸念を示された波才だったが、怒りもせず、あっさりとこう答えた。
「誰が、全軍反転と申したか」
「は、は?! では……まさかッ?!」
「先の戦いで、敵の前衛に良いようにやられた部隊に通達せよ。汚名を返上する機会を与えるゆえ、是が非でも、渡河を成功させよ、とな」
 波才は冷静に、そして冷酷に命令を下す。
 氷の鞭で打たれたかのように、部下たちの表情が一瞬で凍りついた。波才が、不要と断じた自軍の兵士を餌にして、敵の判断を促そうとしていることは、明らかであった。
「他の者たちもだ。理解したならば、疾く、行け」
 これ以上の反駁を許さぬ態度で、波才が配下を叱咤する。
 部下たちは、はかったように一斉に頭を垂れ、すぐさま自陣に引き返した。表情を、硬く強張らせながら。


 たちまちのうちに、自分以外の人間がいなくなった場所に独り座し、波才は不敵な笑みを口許に浮かべた。
「さて、あまり時をおいては、我が軍を待ちわびる敵に礼を失するであろう。期待どおり、追撃してやるとしようか」
 嘲笑を湛えた波才の目には、すぐに訪れるであろう敵軍が絶望する瞬間が、はっきりと映し出されているようであった。


◆◆


 対岸では、波才軍の攻勢に備え、劉備軍が防戦の準備に追われていた。
 北岸にあらかじめ堅固な陣地を築いておくほどの余裕は、資金的にも、時間的にも劉備たちにはなく、急造の柵や土壁をこしらえるのが精一杯であった。
 すでに戦力として計算できない左軍は後方に配置し、河畔で敵を待ち受ける主軸は中軍、及び右軍である。すでに遊撃部隊を率いていた張飛と鳳統は中軍に加わり、すぐにも攻め寄せてくるであろう敵軍を待ち受けていた。


「中軍、右軍、遊撃軍、あわせてかろうじて5千、か。随分、やられてしまったな」
 関羽が首を左右に振りながら、口を開く。
「……そうですね。敵には、その倍以上の打撃を与えていると思いますが、やはり数の少ない我が軍の方が、死傷者の増加は堪えてきてしまいます。これ以上の損害を受ければ、軍としての形を取ることが難しくなってしまうでしょう」
 関羽の言葉に、鳳統がうつむきがちに答える。
 自らの策で戦い、そして死んでいく敵味方の姿を、ずっと目の当たりにし続けてきたせいか、その顔色は青を通り越して、土気色に見えるほどであった。
 そんな鳳統をみて、劉備が心配そうに、その顔をじっと見つめる。
「士元ちゃんも、後ろに下がった方が良いんじゃないかな? 後はもう、例の作戦を実行するだけだから、士元ちゃんが前線にいる必要はないでしょ?」
「……お心遣い、ありがとうございます、玄徳様。でも、私はここにいます……いえ、いさせてください。ここで後方に退がってしまえば、私は多分、いつか自分の中にいる化け物に、負けてしまう……」
「へ? 士元ちゃん、化け物って?」 
 劉備が不思議そうに問うと、鳳統がかろうじて笑顔を形づくり、微笑んで見せた。
「この戦いが終わったら、ご説明いたします。玄徳様にも、みなさんにも。どうか今しばらくの間、私を信じてください……私と、私を信じてくれた、一刀さんを」


 悲痛とも言える鳳統の言葉は、しかし。
「何を今更、なのだ。鈴々は、とっくのとうに士元を信じているのだ!」
 張飛の元気にあふれた声によって、呆気なく、悲哀の色を払拭させられてしまう。
 張飛に同意するように、関羽も劉備も、力強く頷いた。
「鈴々に同感だ。むしろ、今更そんなことを言われるのは心外だぞ、我らが軍師殿?」
「そうそう。そもそも、孔明ちゃんも士元ちゃんも、私がお願いして、一緒にたたかってもらってるんだよ? もっとでーんと構えて、私たちに指図をしてくれても良いくらいなんだから」
 劉備の言葉に、鳳統が戸惑ったように、首をかしげた。
「で、でーんと、ですか?」
「そうそう。こう、椅子にふんぞり返って『これ、玄徳、茶を持ってまいれ』みたいに」
「あ、あわわ、そんな無礼なこと、と、とんでもないですッ?!」
 慌てふためく鳳統に、関羽が穏やかに笑いかける。
「まあ、桃香様の戯言はともかく」
「ざれッ?! 愛紗ちゃん、ひどい……」
「ともかく、士元は士元の考えるとおりに指示してくれれば良い。我らはその指示を全力でやり遂げる。その結果が、たとえ敗北であったとしても、その責は我ら全員が共有すべきもの。どちらが上でも、下でもない。他の軍は知らず、桃香様の理想の下に集った我らが劉家軍は、そういう軍なのだ。そうだろう、士元?」
「……は、はい、そう、ですね……そう、でしたね」
 土気色だった鳳統の頬に、ほのかな紅がさし、その口調には、小さくとも、確かな力が戻りつつあるように思われた。
 この場にいた他の将たちは、そんな劉備たちのやりとりをみて、改めて、自分が所属する軍がどのようなものであるかを確認する思いであった。

 


 そして。
 そんな穏やかな空気を切り裂くように、その報告はもたらされる。
「申し上げます! 敵、波才軍、一斉に渡河を開始いたしましたッ!!」


 それは、河北諸州を巻き込んだ、黄巾党蜂起の最終幕。
 同時に、後漢末の乱世の炎を一際強く燃え上がらせた、黄巾の乱そのものの最終章を告げる声でもあった。



◆◆



「ここで矢が尽きてもかまわん! 撃って撃って撃ちまくれぇッ!!」
 関羽の号令と共に、数千を越える飛矢が一斉に大清河に躍りこんだ波才軍に襲い掛かっていった。
 射撃の範囲にいた兵士たちは一斉に盾を構え、迫り来る矢から身体を守ろうとする。先陣の兵士たちの盾は、たちまちのうちに針ねずみの如き有様となり、盾の合間をぬった矢に、喉を射抜かれた兵士が、苦悶の声をあげながら、河中に没していく。だが、そういった兵はきわめて少なかった。
 波才は、先陣に盾と重甲で固めた歩兵たちを配し、敵の射撃の効果を最小限に食い止めたのである。
 関羽は、矢が尽きてもかまわない、と口にしたが、効果のない敵に、いつまでも貴重な矢石を投じているわけにもいかない。自然、劉備軍の矢の雨はその密度を薄くすることとなる。
 その隙をついて前に出たのが、波才軍の第二陣であった。
 彼らは、なんと次々に土嚢を投じ、河を埋め立てはじめたのである。


 黄河や長江ならともかく、大清河のような中小の河川では、1万人の軍勢を人夫として働かせれば、ある程度の埋め立ては可能であった。完全に河を消す必要はない。渡河を少しでも容易にする程度のことは、さして難しいことではないのである。
 まして、波才は1万が2万でも、その作業に従事する兵士を増やすことが出来るのである。ここに、8万の軍勢の脅威があった。
 当然、劉備軍は彼らに対しても攻撃を仕掛けるが、第一陣の兵士たちがそれを黙って見ている理由はない。第一陣が敵の攻撃を凌ぎ、第二陣が河を埋め立てていく、という単純な、しかし効果的な連携によって、少しずつ、しかし確実に波才軍は北岸へと迫りつつあった。





 波才軍が、河の半ばまで達するのを見た劉備は、懸命に不安を抑えながら、傍らでじっと戦況を見つめる鳳統に視線を向ける。
「士元ちゃん、まだかな?」
 その問いに、鳳統はこくりと頷く。
 だが、その視線は前線に向いたままだ。わずかな気配さえ見逃すまいと、つぶらな瞳を懸命に見開いている。
 鳳統が、この戦いでほどこした最後の策。
 大清河の流れを用いた奔流の計。
 だが、今、堰を切ったところで、波才軍に与える損害は知れたもの。それは劉備もわからないではないのだが、やはり迫り来る敵軍を、そして苦闘する味方を見れば、気が逸ってしまう。
「うぅぅぅ」
 だが、劉備はうなりながらも、それ以上、鳳統の集中を妨げようとはしなかった。
 ただ、祈るように両手を組み、前線で戦う将兵の武運を願うのみであった。



 だが。
 やはり、1人の祈りが、戦況を覆すことなど夢物語でしかなく。
 敵軍はついに河半ばを過ぎ、ついに両軍は互いの顔を認識できる距離まで差が縮まってしまった。
 ここにおいて、波才軍の兵士たちは次々に盾を捨て、河中に身を投じはじめる。
 その彼らに向けて、弓箭兵の斉射が浴びせられ、波才軍の兵士たちは次々と倒れていき、大清河は朱い彩りを帯びる。
 だが、全ての兵士を、斉射で止めることは不可能である。味方の屍を盾に矢を掻い潜る者もいれば、水練に長けた者は水を利用して劉備軍に肉薄する。
 そして、ついに、波才軍の兵士の1人が北岸に達した。
 1人の突破は、それに続く複数の成功を生み、やがてそれは連鎖式に広がっていく。その数は瞬く間に増え続け、たちまち数百を数える兵士が、劉備軍の前面にあらわれるに至った。




 それを見た劉備が、小さく息を飲む。
 ほぼ同時に。
「今です、玄徳様!」
 鳳統の強い声が、策の発動を促した。
「う、うん!」
 奔流の計の真髄は、敵の分断である。半渡に乗じ、敵中軍を水勢で押し流せば、北岸に上陸した部隊は孤軍となる。これを河中に追い落とせば、敵は退かざるを得ない筈である。
 ゆえに、最も重要なのは、計を実行に移す時期であった。早すぎても、遅すぎても、作戦は十分な成果を得られず、結果、劉備軍は敗北してしまう。
 今、北岸に上陸した敵勢は少ないように見える。だが、合図を送り、堰をきったところで、すぐに水が押し寄せて来るわけではない。実行と、効果の間の時差さえ計算にいれ、鳳統は戦機は読みきったのである。
「合図を、狼煙をあげて!」
 劉備の指示によって、陣営の後方から、待機していた兵士によって狼煙が上げられた。
 それは、上流で待つ北郷に、堰を切るように告げる合図。
 すなわち、劉備軍、最後の作戦の合図であった。





 自軍が勝勢に乗っているにも関わらず、波才は1人、平静な面持ちを保っていた。
 それは、前衛の将兵が、ついに北岸に達したことを知っても変化はない。
 その波才の目に、一筋の煙が映った。同時に、部下の1人が声をあげる。波才の作戦など知る由もない、若い兵士である。
「波大方、敵陣より、何かの合図らしき狼煙があげられました! あれは、一体?!」
 兵士の不審そうな声を聞きながら、波才はほの暗い笑みをもらす。
「ふん、なにかしら工夫しているのかと思ったが、狼煙を使うとは。気づかれていないと信じきっているらしいな。侮られたものだ」
 その視線は、大清河の上流に向けられ、微動だにしない。
「波大方?」
「……」
 言葉でなく、鋭い眼光で部下の差し出口を制した波才は、迫る勝利の足音を感じつつ、これまでどおり逸ることなく、その時が至るのを待つのであった。





 普段は穏やかであろう大清河の流れは、今、おれの眼下で怒涛となって下流へ向かって迸っている。その様は、あたかも、人の力によって、不自然に捻じ曲げられていた大清河が、不遜な人間への怒りを示しているかのようであった。
 その怒りに直面することになるであろう波才軍の将兵に、おれはほんの一時ではあるが、同情の念を禁じえなかった。


 そんなおれに、傍らにいた貂蝉が声をかけてきた。
「ご主人様、作戦はうまくいくと思う?」
 おれは、その質問に肩をすくめて答えた。
「戦場に踏み込んだことのないおれに、んなことわかるわけないだろ。ただ――」
「ただ……なにかしら?」
「うまくいって欲しい、とは切実に思う、な」
 おれは下流からあがった狼煙を見て、堰を切った。それはつまり、玄徳様たちが、最後の手段であるこの作戦を、使わなければいけない戦況に陥ってしまったということを意味する。
 この作戦がうまく行かなければ、その時は、敗北が待っているだけだろう。
 敗北は、何もかもを塵に変えてしまう。志も、命も、誇りも、何もかもを。


 硬く握り締めていたおれの拳に、硬い感触が感じられた。貂蝉の手だった。
「……大丈夫よ、ご主人様。ご主人様たちは、こんなところで負けたりはしないわん」
「貂蝉……」
 握り締めてくる掌の暖かさに、おれは少しだけ、心に安らぎを覚えた。
「たとえ、敵がこちらの全てを上回っていたとしても、ご主人様も、ご主人様の大切な人たちも、私が守ってあげる。だから、心配しないで……」
「……ああ、そうかもな。貂蝉が傍にいるなら、何も怖くないって、そう思える」
「あらやだ。照れちゃうじゃない」
 そういって頬を赤らめた貂蝉は、おれの顔を見て、そっと瞼を閉じる。


◆◆


 そして、ご主人様は、吸い寄せられるように、私の顔に唇を寄せ……


◆◆


「るわけないだろうがあああああッッ!!!」
「ひゃあッ?」
 速攻で貂蝉を突き飛ばしたおれは、素早く安全圏に退避しようとする。逃げられそうもなかったら、大清河に飛び込もう。すごい勢いで流れてるから、多分死ぬけど。このまま、貂蝉に捕まると、間違いなく死ぬから、まだマシだ。
 そんなことを考えつつ、おれは、勝手に物語を書きかえようとした貂蝉を問い詰める。
「何をやらせる、何をッ?!」
「あらやだ、ご主人様だって、その気だったくせにん。私が傍にいれば、何も怖くないんでしょう?」
「最大の恐怖が傍にいるから、他のはたいしたことないって意味だッ!!」   
「あらやだ。そんな大声で、私が1番だ、なんて。貂蝉はずかしい♪」
 1人悶える貂蝉を見て、おれは全身から力が抜けていくような気がした。


 実のところ。
 今回の作戦で、おれは貂蝉に対する認識を大きく改めていた。
 貂蝉は、ただの変態ではないのかもしれない、と。
 力仕事で、作戦に協力してくれた、という恩だけでそう言っているのではない。
 貂蝉は作戦の間中、部下への目配りや、配慮の仕方など、そういった今までおれとは縁の無かった事柄を、そうとはわからない風を装って、色々指摘してくれていたのである。
 おれがそれと気づくのは、いつも後になってからで、つまりそれだけ自然に、かつ丁寧に、貂蝉はおれを導いてくれていたわけだ。
 その外見と性格ほどには、貂蝉は奇態な人物ではない。そう考えて貂蝉を見ていると、これまでは見えなかった、あるいは見ようともしなかった面が至るところで見て取れた。
 人としての大きさとでも言うのだろうか。玄徳様とは、また違った器量の在り方が、貂蝉からは感じられる――ような気がするのである。
 貂蝉は、かつて王允の邸に逗留していたというが、あるいは王允もまた、外見からでは測れない貂蝉の魅力に気づいていたのだろうか?
 もっとも――


「今の貂蝉を見てると、微塵も感じないんだけどな」
「あら。何のことかしら?」
 不思議そうに首を傾げる貂蝉を見て、おれは小さく笑うだけで、今、考えていたことを、言葉にして伝えることはしなかった。
 ――もちろん、誤解された挙句、襲われるのが嫌だったからである。





 おれたちが、そんなことを言い合っている最中。
 不意に、貂蝉の目が鷹のように細まった。
 その鋭い視線は、おれの背後を、射抜くように見据えている。
「ご主人様、あれを」
 そういって、貂蝉が指し示す先には、一筋の煙があがっていた。疑いようもない、狼煙。対岸で、おれたちとは異なる勢力の誰かが、合図を送っているのである。


 だれが?
 どこに?
 なんのために?


 その答えに思い至ったとき、おれの顔から、音を立てて血の気が引いていった。
「貂蝉ッ!」
「わかってるわん! 玄徳ちゃんたちが危ない!」
 素早く行動に移りながら、しかし、おれも、そして貂蝉もわかっていた。
 今からでは、何一つ間に合わないであろうことを。
 いかに貂蝉であっても、ここから一瞬で玄徳様のもとへ戻ることなど出来はしない。
 おれたちの策が、すでに敵に見破られていることを、玄徳様に伝える術は、どこにもないのであった……




◆◆




 それは、劉備たちにとって、信じられない光景であった。あるいは、信じたくない光景、というべきかもしれない。
 総攻撃に出た――そう思われていた敵軍が、一斉に踵を返したのである。  
 正確に言えば、敵軍全てではない。河半ばまで達していた敵の本隊が、踵を返し、南岸に引き返していくのである。
 北岸に上陸していた敵部隊にとってさえ、それは予期しないことだったのだろう。彼らは明らかに狼狽し、混乱していた。


 だが、最も驚愕していたのは、劉備たちであったかもしれない。
 すでに奔流の計は実行に移されている。だが、敵の素早い退却を見るに、おそらく――否、間違いなく、間に合わない。
 まるで、奔流の計が実行される瞬間を見計らっていたかのような、あまりにも鮮やかな退却であった。
 そして、それが意味するものは――
「し……士元ちゃん……」
 劉備が震える声で、自軍の軍師に呼びかける。
 だが、その軍師は、口を真一文字に引き結び、主の言葉に答えようとはしなかった。
 その場にいた者たちは、それが、答える術がないゆえだと考え――そして、彼らの眼前に、敗北の二文字が瞬いた。
 誰一人、言葉を発することが出来ない状況の中、地軸を揺るがすような轟音が、大清河の上流から響いてくる。
 自然、この場に集った者たちはそちらに視線を向ける。
 数日間、人為によって溜められた大清河の濁流が、全てを押し流さんと押し寄せてくる。
 だが、それを引き起こした者たちが、その標的としようとした軍勢は、すでに河の南岸へ達しており、その目的を果たすことは不可能であった。


 関羽は、前線部隊の指揮をとりながら、現在の戦況を正確に把握していた。
 すでに、自分たちの軍勢から勝機が去ったことも。
 これから待ち受けるであろう結末も。
 全てを理解しながら、なお、関羽の目から、戦意が消え去ることはなかった。
「皆、聞けぇ!」
 その口から発されるは、闘将と呼ぶに相応しい覇気の塊。最後の希望の綱であった計略が未発に終わったことを知り、意気消沈していた将兵は、その叱咤を受けて、身を震わせた。
「我が軍の奔流の計は、敵の奸智の前に不発に終わった」
 自軍の将兵を前に、関羽はひと言で現在の状況を説明し終える。
 将兵たちの顔に絶望の陰が忍び寄ろうとする、その寸前。
 関羽は言う。
 だが、しかし、と。
「戦が、これで終わったわけではない! 大清河は荒れ狂い、わずかではあっても敵軍の足を止めるだろう。此度の戦で黄巾党は少なからぬ痛手を負い、我らはなお、数千に及ぶ軍勢を有する。くわえて、県城には、鄒将軍の率いる無傷の官軍が控え、公孫伯珪様の援軍も、数日後には到着されるはずだ」


 長大な青龍刀を高々と振り上げ、関羽は兵士たちを鼓舞せんと試みる。
「思い起こせ! 我らが尊き志を! 故郷が、家族が、友が、守らなければならぬ者たち全てが、我らの後ろにあることを! ただ一度の不利を味わった程度で、彼らを黄巾党の好餌とすることなど、この関羽、断じて肯わぬ!!」
 関羽の言葉が、静寂に満ちた陣地の隅々まで届けとばかりに、高らかに響き渡る。
 そして、その声に応じるように、各処で俯いていた兵士たちの顔が、ゆっくりと上げられていく。
 その瞳に、絶望とは異なる意思が瞬きだす。
「劉の旗の下に集いし、精鋭たちよ! 勇気を奮うは今であり、絶望を払うは今である! この関羽、皆の先駆として、この身、尽きるまで戦うことをここで約そう! 我らが後ろに続かんとする勇士は、剣を掲げよ! 槍を突き出せ! その誇りを我らが主に、そして、我らを見守る皇天后土に示すのだ!!」
 黒髪の猛将の猛き叱咤を受け、まず剣を掲げたのは、関羽の周りにいた兵士たちであった。
 何かに迷うように、ゆっくりと。だが、途中からは、自らの怖気を払うかのように、力強く。
 やがて、それに呼応するように、徐々に掲げられる剣槍の数は増していった。
「躊躇うことはない。守るべきものがあるからこそ、我らは戦ったのだ。それが、ただ一度の敗北で捨てられるほど軽いものではないと思うのならば、皆、己が武器を掲げよ」
「勇者たちよ! 欲望よりも正義を選び、経文よりも人物を選んだ勇士たちよ! 我らが勇気を、3人の姉妹に示そうぞ! ここで立ち上がらなくて、我らが姉妹に何の顔(かんばせ)あって見えるというのか!」
 陳到の静かな深みある言葉が、馬元義の甲高い叱咤が、それぞれの軍で響き渡る。


 いつか、劉備軍の将兵は、俯くのを止めていた。
 ある者は剣を、ある者は槍を、また弓を掲げ、腹の底から雄雄しき叫びを響かせる。
 戦況を思えば、それは強がりに類するものであったかもしれない。顔を上げたからとて、勝利が掴めるわけでもない。
 だが、確かに言えることがあるとすれば。
 俯いている限り、勝利という名の天上の星は決して見えないということ。それが、手を伸ばせば届くところにあることにさえ、気づかないということであった。





 関羽の叱咤によって、士気を盛り返したかに見える自軍を見て、劉備は小さく身体を振るわせた。無論、怖気ではなく、それとは対極に位置する感情ゆえに。
 そして、頼もしい仲間たちの様子を見て、劉備自身もまた、気力を据えなおすように、一度、両手で頬を叩く。皆が絶望に負けまいとしているのに、総大将である自分が沈んでいて良い法はない。
「士元ちゃん、これなら……」
 かすかな希望を込めて、先刻からひと言も発しない鳳統に声をかける。
 みんなの勇気が、鳳統に力を与えてくれることを祈って。


 だが、鳳統は劉備の希望を否定するかのように、首を横に振る。
「玄徳様、私たちは勝てません」
「し、士元ちゃん、そんなこと……!」
 慌てて否定しようと、口を開きかけた劉備に、鳳統はもう一度、首を横に振ってみせる。
 その視線は劉備には向けられず、大清河の南。陣容を整え、河の流れが落ち着き次第、決着をつけようと逸りたっている波才の軍に向けられている。
「……戦場において、勝利を決する要諦の第一は兵力です。その点において、私たちは、はじめから大きな不利を背負っていました。そして、結局、最後までそれを覆すことはかないませんでした。私が考えていたとおりに……」
 その言葉を聞いて、さすがに劉備の眉が急角度に上がった。
「士元ちゃん! 軍師のあなたがそんなこと言ったら、一生懸命戦った愛紗ちゃんたちが!」 
「……関将軍やみなさんには、申し訳ないことですが、私たちが出来るのは、精々、時間を稼ぐことと、戦場を限定することくらいだと、私は考えていたんです。今の私たちの力では、それが限界……」


「……士元ちゃん?」
 不意に。
 劉備は傍らに立つ少女が、まるでこれまで知っていた鳳統という名の少女とは別人に思えた。
 周囲の空気が、一瞬のうちに数度下がったかのように、背筋が震える。
 それはきっと、恐れではなく、畏れ。
 人の身に封じられていた何かが解き放たれる瞬間を、自分は見ているのかもしれない。
 何故か、劉備はそんな風に思ってしまった。
 ――もっとも、その奇妙な考えは長続きしなかったが。


「玄徳様!」
 くるり、と鳳統は身体を翻し、主の顔を見上げた。
 一瞬、息を飲んだ劉備だったが、そこにいるのは、劉備が良く知る、鳳士元という名の女の子だった。
 その顔に満ちるのは――



 満面の笑み。



「あの、えっと、士元ちゃん?」
 あまりにも唐突な変化と、そして状況にそぐわない鳳統の表情に、劉備は混乱したように目を丸くする。
「玄徳様、今、言ったように私たちは勝てません。でも、黄巾党は、ここで終わりを迎えます」
「ふえ?!」
 劉備軍は勝てないけど、黄巾党は負ける?  
 なぞなぞのような鳳統の言葉に、劉備は戸惑いを隠せない。
 その劉備に答えを示そうと、鳳統の指が、ある方向に向けられる。
 その方角とは、南。最初に劉備の目に映ったのは、河の水面と、布陣する波才の軍。
「その、もっと向こうです」
「へッ?!」
 波才の軍の、更に向こう?
 劉備が目を細めて、そちらの方向を見やる。
 すると……
「あれ? なんか、すごい砂埃が舞ってない?」
「ええ、舞ってますね」
 劉備の問いに、鳳統が微笑んで頷く。
「あっちって、平原がある方角だよね? え、もしかして、敵の援軍なのッ?!」
「……あわわ、玄徳様、そうだったらさすがに、私も笑っていられません……」
 鳳統は、困ったように首を傾げる。
 一方の劉備は、鳳統の言わんとしていることがわからず、混乱しっぱなしであった。
 だが、不意に、遠方より接近してくる軍が掲げている旗印が、劉備の目に飛び込んできた。


 その旗印は――



◆◆



「ふー……」
 程立は食後のお茶を飲み干し、満ち足りた顔で息を吐き出す。
 窓からは燦々と陽光が降り注ぎ、くちた腹とあいまって、その場にいる者たちの眠気を誘うようだ。
「というより、これはむしろ寝ないと罰が当たりそうなのですよ……ぐー」
「早速寝るなッ」
 賈駆のこぶしが、程立の頭をぽかりと叩いた。


 賈駆が席から立ち上がり、憤然として口を開く。
「というか、なんであんたたちは、そんなに和んでるのよ! ボクたちは大変な知らせに顔を青ざめさせてるのに!」
「ををッ? 失敬失敬、あまりの陽気に、ついうとうとと」
「公孫賛の援軍が来られなくなったって教えてくれたのは、あんたたちでしょうが! どうしてそこからご飯をご馳走になった挙句、昼寝するという状況になるの!」
「え、詠ちゃん、詠ちゃん、失礼だよ。仲徳さんに謝って」
 いきりたつ賈駆の袖を、隣に座った董卓が引っ張り、賈駆は不承不承、席に座る。


 その賈駆に、程立が一行に緊張した様子を見せずに、説明してみせた。  
「それはですねー。ここで風たちが何をしても、もう状況に変化を起こすことは無理だからなのですよー。なら、すこしでも休息をとって、次の事態に備えるのが賢明というものなのです」
 程立の横で、同じようにすました顔で食後のお茶をすすっていた戯志才も、冷静に頷いた。
「風のいうとおりです。もはや賽は投げられました。私たちに出来るのは、何の目が出るかを確認することだけです」
 戯志才の言葉に、賈駆はさらに口を開きかけたが、それより先に、董卓が賈駆を叱り付ける。
「詠ちゃん、他の人に失礼なこと言ったら駄目だよ?」
 め、と言うように睨んでくる董卓に、賈駆は勢いを止められてしまい、小さくため息を吐く。


 賈駆はつまらなそうに再度、口を開いた。
「まあ、私は月さえ無事ならそれで良いんだけど、あんたたちは軍議の席にも出たし、官軍の将軍にも進言できる立場なんでしょ。こんなところで油を売ってて良いの?」
「それなら心配ないですね。鄒将軍には、もう全部、言っておきましたから」
「……みんな押し付けてきた、とも言えますね、あれは」
 戯志才が呆れたように言うと、程立が気の抜けた声で反論する。
「それは誤解というものです、稟ちゃん。苦労が深いほど、報われたときの喜びは大きくなるもの。風は、やがてくる勝ち戦の報を、より深く味わってもらうために、鄒将軍に泣く泣く雑事を委ねてきたのですよ」
「物は言いよう、とはよくいったものです。しかも、自分で雑事といってるではないですか」
 程立の言い分を、一刀両断にする戯志才。
 戯志才の言葉に含まれた意味に、気づかない賈駆ではない。はっとした様子で顔色を改める。
 だが、今度も賈駆より先に口を開く者がいた。
 董卓である。


「あ、あの、あの、勝ち戦って……」
 程立と戯志才は泰然とし、賈駆は憤然としているこの場にあって、董卓は1人、憂色が消せなかった。
 董卓も、賈駆も、事情が事情である為、劉佳の傍仕えという形で日々を過ごしており、軍議の席には出ていない。しかし、一時とはいえ、天下を握りかけた主従である。今の状況が理解できないわけではなかった。
 劉家軍の人たちは、董卓らにとって恩人である。
 そして董卓は、現在の主である劉佳が、娘たちの無事を祈っている姿を何度も目にしている。おそらく、城内の他の人々は気づいていないだろう。人前では、にこやかな笑みを崩すことがない方だから。
 だからといって、心配でないわけはないのだ。そのことを知った董卓は、何とかその憂いを払って差し上げたいと考えていたのである。


 そんなところに、今回の知らせである。
 ただでさえ、不利な戦を強いられている劉家軍。まして、頼みの綱である公孫賛が来られなくなったと聞けば、平静ではいられなかった。
 しかし、今、程立は勝ち戦と口にした。それはどういう意味なのか。
「ふむふむ、では、これを見てみてください」
 問われた程立は、懐から球状のものを取り出し、卓の上に置く。
「……卵?」
「はい、卵ですー。で、これをこう、積んでみるのですよ」
 そういうと、程立は懐から幾つもの卵を取り出し、次々と積み重ねていく。
 程立は意外な器用さを発揮して、卵を幾層も積み重ねていくが、不安定な楕円形をした卵で出来たものは、やはり不安定にならざるを得ない。
 董卓は慌てて、崩れそうになる卵の塔を支えるように手を伸ばす。
「わ、あ、く、崩れちゃいませんか、これ?」
「そう。これがいわゆる累卵の危うきにある、という状況なのです。まさしく、今のこの城ですねー」
 卵塔の珠玉の出来に、程立が満足そうに微笑むと、賈駆がぼそっと呟いた。
「ていうか、そんなにたくさんの卵をどっから持ってきて、どうやって割らずに懐に持ってたのよ、あんたは?」
「さて、質問なのです」
「無視ッ?!」
「今、風が黄巾党になって、この塔を崩そうと近づいていきますー。そして、おねーさんは塔を守る人たち――つまり、私たちです。さて、ここでおねーさんは、塔を守るために、何をするのが1番良いと思うですか?」
 なにやら憤然としている賈駆を華麗に無視しつつ、程立は董卓に問いかける。
「え、ええと、それは……」
 うーん、と董卓は積み重なった卵を見ながら、真剣に考え込む。

 
 とりあえず立ち上がり、ぱたぱたと足音を立てて、程立の前に立ちふさがる董卓。
「こ、こう、でしょうか?」
「でも、そうすると、風はこう動くのですよ」
 そう言うと、程立は同じようにぱたぱたと移動して、董卓がいない方向に回り込む。それを追う董卓、そこから逃げる程立、しばらくの間、何故か鬼ごっこが続いた。
 そして、2人が動き回る微細な振動でさえ、不安定な累卵の塔にとっては致命的であったらしい。不意にがらがらと音をたてて崩れてしまった。
 董卓が小さく息をもらす。
「ああ……」
「……と、まあ、こんなことをしている間にも、塔は崩れてしまうのです。塔を崩したくなければ、とりあえずおねーさんが支えてあげるのは必須なのですよ」
「でも、それだと仲徳さんが崩しちゃいますよね?」
「もちろんなのです。そして、それが、大雑把にいって、今の戦局なのですね」
 ただ守っているだけでは崩される。崩されないように動きまわっても、自然に崩れ落ちてしまう。そんなものを、どうやって守るというのだろうか。


「では、答えは来週発表――」
「引っ張りすぎです」
 それまで話に加わらなかった戯志才が、程立の頭をぽかりと叩く。
「おおう。稟ちゃん、もうちょっと手加減してほしいのですよー」
「何を言ってるんですか、物資が不足しているこの時に、大切な食料を持ち出してきておいて」
 ため息を吐きながら、崩れた卵を1つ1つ手近の籠に入れていく戯志才。ちなみに、ゆで卵なので割れてなかった。
「後で、厨房の人たちに謝りにいきますよ。良いですね?」
「……ぐー」
「寝たふりするな!」
 再度、戯志才のこぶしが宙を飛んだ。 
  

 あわあわと慌てる董卓に向かって、戯志才は眼鏡の位置を直しつつ、口を開く。
「まあ、風の例え方はよろしくなかったですが、言っていることはこういうことです」
「え、え?」
 戯志才の言葉の意味がわからず、一瞬、董卓はぽかんとする。
 そんな董卓に向かって結論を口にしたのは、戯志才でも程立でもなく、それまで蚊帳の外にいた賈駆であった。
「つまり、仲徳――黄巾賊を止めるのは、何も月自身でなくてもかまわない、ということよ」
 そう口にする賈駆に、すでに知らせを聞いたときの動揺の気配はない。
 程立たちの会話の中で、すでに答えに気がついたのであろう。
「つまり――」



◆◆



 波才は、眼前で荒れ狂う濁流を眺めながら、会心の笑みを閃かせていた。
 最後の希望である計略を、見事に打破されたのだ。敵の将兵が受けた衝撃は、並大抵のものではあるまい。張家の姉妹の扇動とて、体力が尽きれば効果も上がらぬ。
「もはや、敵は戦う体力は尽き、気力は果てた。我らはただ、凋落の軍勢を討ち取るのみ。勝利はすでに約束されたぞ!」
 波才自らがその旨を知らしめると、配下の軍勢から歓呼の声があがる。戦えば勝つ。必勝の戦いを前に、将兵は凶熱的に騒ぎ立て、その士気は多いに高まった。
 不要であった脆弱な部隊も、敵の手で排除できた。
 全てが、波才の思惑通りに進んでいる。
 後は、一戦して敵を蹴散らすのみ。
 大清河の流れが鎮まれば、今度こそ、劉備軍を完膚なきまでに殲滅してくれよう。敵が県城まで退いたところで、もはやこちらの勢いをせきとめる術は、敵にはない。
 向こう岸で何やら叫んでいる者がいるが、所詮、最後の悪あがきに過ぎぬ。



 波才が、そこまで考えた時。
「ぬぅッ?!!」
 唐突に。
 波才の全身を、悪寒が襲った。
 かつて、波才が感じたことのない、冷たい感触。
 それは、まるで冥府の羅卒に全身を舐められたかのようで……
「なんだと、言うのだ……?」
 戸惑ったように周囲を見回しても、波才に危険を知らせるものはない。配下の将兵たちも、波才に畏怖と崇敬の念を向けるのみで、害意を宿した者はいない。


 だが、気のせいだと安心することは出来なかった。
 大清河の水流を見た時に感じた違和感とは、比べ物にならないほどの奇怪な確信がある。今、感じたのは、まぎれもなく、この身に迫る危機なのだ、と。波才に流れる戦士の血が、迫り来る絶望的な何かを恐れているのだ、と。
「ばかな! 今、この時に、一体、どんな危機があるというのだ」
 波才は、自分の内心の声を、一笑に付した。
 これまで、決して等閑にすることのなかった直感から、はじめて、波才は目を背けた。
 それも仕方が無いことであったかもしれない。
 ――もう逃げられない。
 そんな直感を受け容れることなど、出来る筈がなかったから。


 だが。
「も、申し上げますッ!!!」
 破局は、目を背けようとも、止まることはなく。
「は、背後から、多数の軍勢が接近中です!!」
「慌てるな。おおかた、平原の留守居どもが、手柄ほしさに参陣してきたのだろう。指揮官を呼べ。勝手に任地を離れるなど、厳罰に……」
 だが、兵士は、波才の言葉など聞いていなかった。
 波才の無意識の逃避を遮り、その兵士は近づいてくる軍勢の名を叫ぶ。
 そして、それを聞いた時。



「敵軍、およそ5万!! 中央に掲げられた牙門旗は『袁』!! 冀州の、袁紹の軍勢ですッ!!!」


 ――はじめて。
 これまで、決して動じることのなかった波才の顔が、はじめて、ひび割れた。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/16 21:34



「おーほっほっほっほっほ!」
 翻る金色の牙門旗の下、袁紹の高笑いがあたり一帯に響き渡る。
「この私の留守を良いことに、人の領土で勝手三昧! たとえ天が許しても、この袁本初が許しませんわよ!!」
 高々と掲げられた袁紹の右手が、混乱する波才軍に向けて、鋭く振り下ろされる。
 それに応じて動き出すは、袁紹軍の誇る2大猛将であった。


「おっしゃあああ! 董卓との戦いじゃあ、ほっとんど出番なかったからなあ。やっと暴れられるぜ!」
 文醜が大剣を振り回しつつ、ようやく鬱憤を晴らせる、と歓喜の声をあげる。
「一応、呂布さんとは戦ったんだけど……4対1で蹴散らされちゃったしねえ」
「こら、斗詩! いやなことを思い出させるな!」
「あ、ごめ~ん、文ちゃん。まあ、呂布さんのことはともかく、黄巾党はさっさと追い出さなくちゃね」
「そういうこと! よっしゃ、文醜隊、いっくぜええッ!!」
「顔良隊も、いっくよー!」
 それぞれが1万ずつの軍勢を率い、2人の猛将は迎撃の布陣を整えることさえ出来ない波才の軍勢の背後に、一斉に襲い掛かっていった。



 波才軍にとっては、天地がひっくり返ったような衝撃であった。
 だが、驚き慌てる暇もなく、敵、袁紹軍は猛然と突進を開始する。指揮官たちは、慌てて迎撃の指示を下そうとするが、その命令に従うべき兵士たちの顔には、すでに恐慌が表れ始めていた。
 奇しくも、波才が口にした言葉は、そのまま黄巾党に向けられることになった。
 敵の策略を、その眼前で打ち破り、その心を叩き折る。
 正にその言葉の通り、波才が宣言した勝利の絵図が、袁紹軍の到来によって、もろくも崩れ去ったことを悟った兵士たちは、矛を交える前から気力を途絶させてしまったのである。
 彼らは、互いに顔を見合わせ、一歩、また一歩と後方へと退いていく。
 そして、ついにその中の1人が、悲鳴をあげて、敵に背を向けた。
 その途端。
「たわけッ! 敵に背を向けるとは何事かッ!」
 怒号と共に、その兵士の直属の上官であった指揮官が、馬上から一刀の下に逃亡者を切り捨てる。
 周囲が息を飲む中、その指揮官は剣を掲げて、兵士たちを叱咤する。
「何を後れているのか! 敵が来たらば、戦うだけのことではないか! 剣を持て! 盾を構えよ! 卑怯な振る舞いをする者は、このおれが斬り捨てる! 勇を奮って戦え、者どもッ!!」
 馬をさおだたせながら、その指揮官は周囲の将兵を鼓舞するように、声を張り上げた。


 だが、その指揮官に対し、味方より早く応えた者がいる。
「黄巾の賊徒にしては、なかなかの気概」
「何ッ?!」
 突然の言葉に、驚いて振り返った指揮官の目に映ったのは、白銀色の閃きと、凍土の如き怜悧な輝きを放つ瞳――
「惜しむらくは、その身を託するところを間違えたところ」
 その台詞が終わる頃には、すでに敵の指揮官は、馬上から切り落とされ、物言わぬ躯を大地に横たえていた。
 袁紹軍の先鋒の、さらに先頭を駆けてきた人物は、長い白銀色の髪を風になびかせながら、配下の兵を差し招き、自身が開けた穴を拡大させていく。
 主将と同じく、その配下の兵の行動も迅速を極め、波才軍は、ただでさえ備えの無かった後背に、より大きな穴を開けられてしまったのである。


 その戦況を覆そうと、一際雄偉な体格をした黄巾党の武将が、その人物の前に立ちはだかる。
「好き放題してくれたな、女ぁッ!」
 並の男では、抱えることさえ出来ないであろう大鉞を振り上げ、その将は白銀の女性を攻撃する。体格に相応しい膂力の持ち主のようで、女性の持つ細剣では、男の攻撃を受け止めれば、剣ごと叩き折られてしまうだろう。
 それゆえ、女性は相手の攻撃を受け止めなかった。
 絶妙の角度で突き出された女性の細剣は、大鉞の剛撃を受け流したのである。火花を発しながら、女性の身体のすぐ横を鉞が通り過ぎた――そう見えた瞬間、細剣が弧を描き、男の頸部に致命的な斬撃をくわえていた。
 たおやかな外見に似合わない正確無比な剣撃を以って、たちまちのうちに2人の武将を斬って捨てた女性に、配下の兵士が声をかける。
「儁乂(しゅんがい)様! このまま、一気に敵本陣まで突っ切りましょうぞ! 黄巾の奴らに、我ら袁家の武、示してやります!!」
 その女性――張恰(こう)は、部下の提言に、静かに頷いてみせる。
 どちらかといえば、張恰は慎重に戦を進める型の指揮官であったが、今、この戦において、最も大切なのは慎重さではなく、大胆さ。味方の不利を顧みるのではなく、敵の隙を見据えることこそ、肝要なのだと、張恰は理解していた。
「このまま、軍を進める。文将軍、顔将軍らの露払いを」
「承知! しかし、お2人の出番はないかもしれませんな。波才とやらいう敵将の御首、我らが部隊が、ここで刈り取ってくれましょう!」
 部下の激語に頷きを与え、張恰は悍馬をあおって、更に敵陣の奥深くへと突入していく。張恰の部隊が、その後へ続いた。
 張恰の武威に圧されていた敵兵は、あえてその前に立とうとはせず、ただ呆然として、その駆け去る後姿を眺めることしか出来なかったのである。




 袁紹軍の猛攻を受けた波才は、何とか全軍を立て直そうと奮闘していた。
 だが、袁紹軍の先手である文醜、顔良、張恰らの攻撃の激しさに、指揮系統の掌握すらままならず、徒に損害が増えていく状況を、歯軋りしつつ見守るしか術はなかった。
 波才軍の中には、友軍との連携を取れない状況で、善戦する部隊も少なくなかったが、その善戦はあくまで孤軍奮闘の勇を称えるという意味でのこと。戦局自体を変える力を持つには至らなかった。
 中華屈指の突進力を誇る文醜の猛撃。
 その文醜を巧みに、そして効果的に支え、かつそれに準じる破壊力を有する顔良の突進。
 張恰によって痛撃を被った後に、この2人の突撃を受けては、指揮系統が崩れた波才軍に、その攻撃をとどめる術が残されていよう筈もない。
 指揮官の制止の声も空しく、波才軍の将兵は次々と馬首を転じ、敗走しようとする。


 だが。
 波才軍の後背にあるは、未だ荒れ狂ったままの大清河の流れ。
 その激流の向こうには、先刻までの敵軍が、矛先を揃えて待ち受けていることだろう。
 前方には精強な袁紹軍。後方には咆哮をあげる大清河――ここにいたって、ようやく波才軍の将兵は、自らが背水の死地にいることを悟る。
 つい先刻まで、劉備軍を相手に、圧倒的に優位に戦闘を進めていた筈の自分たちが、何故、一転して、こんな不利な戦況に身をおくことになったのか。波才軍の将兵のほとんどが、理解できなかったであろう。



 劉備軍軍師 鳳統が心血を注いで築き上げた戦略図は、ここに全き完成を見る。
 劉備軍との激闘を経ても、まだ7万を越える兵力を有していた波才軍であったが、袁紹軍の圧力に抗することが出来ず、後退を余儀なくされていく。
 そこに、満を持して袁紹自身が率いる本隊が戦線に加わったとき、波才軍の命脈は尽きた。その軍勢の多くは敵に討たれ、さもなくば大清河の流れに飲み込まれ、あれほどの勢威を誇っていた黄巾党最精鋭たる波才の軍は、溶けるように崩れていった……



 後に、黄巾の乱に終止符を打った戦いとして知られる『大清河の戦い』は、その名称自体が戦の帰結を雄弁に物語っていた。
 戦火は、ついに県城に及ばなかったのである。




◆◆




「中華を震撼させた黄巾党、幽州にて散る、か」
 袁紹軍の攻勢を、小高い丘の上から見下ろす者たちがいた。その数は3。
 その中の1人――白衣白甲の女性、すなわち趙雲が、感心したように呟く。
「しかし、さすがは、河北にその名を轟かせる袁家の精鋭よ。不意を衝いたとはいえ、敵に立ち直る暇さえ与えぬ連携は見事だ」
 その言葉に、こくりと頷いて、賛意を示したのは、諸葛亮であった。
「はい。いまだ数で上回るとはいえ、今の黄巾党では、袁紹さんたちに立ち向かうことは出来ないでしょう――勝負あり、ですね」
 波才軍は、今や軍と呼ぶことが出来ないほどに散り散りになっている。ここからの挽回は、古の武神 項羽でももない限り、不可能であろう。




 だが、その諸葛亮の言葉に、否定の声がかけられる。
 この場にいる最後の1人。頭上に輝く陽光を映して、きらりと光る頭部の持ち主――袁紹軍の軍師 田豊であった。
「否とよ、孔明殿。勝負ならば、とうの昔についていた。わしらは、ただその勝利を彩るための添え物に過ぎぬ」
 自軍の劇的な勝利を前にしても、その言葉にうわついた様子は欠片もない。
 ただ、冷静に戦況をみつめる軍師としての眼差しが、そこにはあった。そして戦況とは、眼前の戦闘のみを指すものではない。


 袁紹が率いる全軍はおおよそ5万。内3万は半董卓連合軍の際の精鋭であり、残り2万は、河北に領土を持つ諸侯であり、あるいは河北を故郷とする将兵であった。
 幽州琢郡の軍勢などは、太守である劉焉が、黄巾党に占領された本拠を顧みず、朝廷へ仕える道を選んだため、半ば以上が離脱し、袁紹の旗下にはせ参じているのである。
 そして、その中には、袁紹の本拠地である南皮城から合流した部隊も含まれている。それが、張恰の部隊であった。
 彼らは、黄巾党の河北における一斉蜂起後の詳細な情報を袁紹の下に届ける役割も担っていた。
 そこには当然、幽州の戦況も記されている。田豊は、すでに不落の村の事績も、劉家軍の奮闘も、そして黄巾党の分裂も、しっかりと把握していたのである。
「ここまで黄巾壊滅のお膳立てを整えることが出来たのは、孔明殿をはじめとした劉備軍の勲である。そして、その勲を可能としたは、幽州の黄巾賊を、弧軍、押し止めた子竜殿らの殊勲。黄巾党が、楼桑村を陥としえなかった時点で、すでに勝敗は半ば、決まっておったのでしょうよ」
 田豊の言葉に、しかし、諸葛亮もまた、首を横に振る。
「元皓様のお言葉は光栄に思いますが、私たちだけで、黄巾党を食い止める術がなかったのは、まぎれもない事実です。元皓様がご主君を説いて下さらなかったら――袁紹様が軍を出して下さらなかったら、私たちは敗北を免れなかったでしょう。この勝利が袁家のものである所以です。何者が、それに異を唱えることが出来るでしょうか」
 田豊は、諸葛亮の言葉に軽く肩をすくめる。その表情は、苦笑にも似たものであった。
「黄巾党が攻めていたのは、我ら袁家の領土、本城ですぞ。これと戦うは、当然至極のこと。わしが説かずとも、本初様が首を横に振ることはなかったでありましょう。まして、このところ、我らは精彩を欠いており、本初様もご機嫌がよろしくなかったのだから、尚更です――このことは、そちらも、それは計算に入れておられたのではないかな?」
 その言葉は、皮肉ともとられかねないものであったが、田豊の目は陽気な光を放ち、悪意とは無縁の言葉であることは明らかであった。


 田豊は、己の指摘を受けて「はわわ」と恐縮する諸葛亮に穏やかな視線を注いだ後、趙雲の方に視線を転じた。
「わしらは、これより掃討戦に移ることになり申そう。護衛は必要か?」
「気遣いはありがたいが、不要でござるよ。貴軍も、一兵でも多くの兵を必要としておる筈。我らのことは気になさらず、存分に功をたてられよ」
「確かに、貴殿ほどの腕があれば、黄巾党ごとき、歯も立つまいな――まこと、野に置くには、あまりに惜しい」
 田豊の眼差しに、真摯な光が瞬く。
「どうであろう、趙子竜殿。貴殿が望まれるなら、わしが、本初様に――」
 田豊の言葉を聞き終わらぬうちに、趙雲がゆっくりと右手を前に出した。掌を、田豊に向ける形で。
「この身を評価してくれるは嬉しゅうござる。まして、天下の袁家の軍師殿のお言葉とあらば、なお。されど、どうかその言葉は、貴殿の胸にお収めいただきたい」 
 言外に趙雲の言わんとするところを察した田豊は、右手で口許を覆い、苦笑いを漏らした。
「ふむ。いささか性急でありましたかな。あるいは――」
 そういって、田豊は趙雲に問うような視線を送る。
「あるいは、もう見出されてしまわれたのかな?」
「ふふ、さて、どうでしょうな。まあ、黄巾党がいなくなった今、時間は十分にありますゆえ、今少し、様子を見てからでも、遅くはありますまい」
 軽やかに笑って、趙雲はその問いをいなすのだった。


 その時、彼方の戦場から、一際、大きな喚声が上がった。
 それまで、かろうじて抗戦を続けていた波才率いる本隊が、ついに袁紹軍の猛攻の前に崩れたち、大清河の下流へ向けて、敗走をはじめたのである。
 当然、それを見逃す理由は、袁紹軍にはない。
 袁紹、文醜、顔良は猛然と追撃を開始し、張恰は騎兵部隊を統率して、戦場の外縁を疾駆する。敗走する波才軍の頭を押さえる為であろう。



 その様子を見た田豊が、かすかに目を細め、口を開いた。
「――これで長かった黄巾の乱も、ようやく終わりですな」
 さらりと口にした台詞は、動乱の終結を告げる祝うべき言葉である筈だった。だが、田豊の表情はいささかも変わらない。むしろ、先刻よりも厳しく引き締まったかに見えた。
 そして、それは他の2人も同様だったのである。


 あるいは、彼らはすでに知っていたのかもしれない。
 1つの乱の終結は、それに数倍する規模の戦乱の始まりを告げるものでしかないことを。
 大清河の流れさえ凌駕する歴史の激流、それを避ける術が、すでに中華の何処をさがしても見つからないであろうことを。
 眼下の戦場の光景のさらに先。
 それぞれが異なる立場に立ちながら、やがて来るに違いない「その時」を見据える3人は、馬首を返すまでのしばしの間、誰一人として口を開くことはなかったのである。



◆◆



 琢郡の県城。黄巾の乱勃発以後、幾度も戦場となり、そして幾度も主を変えてきた城は、各処に戦禍の跡が生々しく残っており、城壁の修復も未だ終わっていない。
 だが、今、その城門は大きく、そして力強く開け放たれていた。何故、閉ざしておく必要があるというのか。すでに琢郡を――否、河北全土を荒らしまわっていた暴虐なる勢力は、勇猛なる彼の軍の力によって、駆逐されたのだから。




 玄徳様を筆頭に、おれたちが城門を潜った途端、鼓膜が破れるかと思うほどの、凄まじい歓呼の声が沸きあがった。
 城門から城へと続く大路には、県城の民や、各地から避難してきていた琢郡の住民たちが溢れ、口々に劉備軍への感謝の言葉を投げかけてくる。
 子供たちははしゃぎまわり、女性たちは手に手に、花や草木で編んだ冠を兵士たちに渡していく。
 すでにそこには劉家軍や官軍、黄巾軍などという区別は微塵も感じられず、苦闘の痕跡を身体中に刻み込んだ将兵に対する賛辞は、尽きることがないかと思われた。


 そして、そんな彼らを率いる者たちが、一際強く、そして熱狂的に歓迎されるのは、理の当然というものであったろう。
「玄徳様! 貴方様は、我ら琢郡の民の救い主でございます!」
「幽州の青龍刀 関将軍のお通りだ! 武神の雄姿を拝みたい奴らは、さっさと前に出てこーい!!」
「張将軍、どうかこの饅頭をお食べくだされ! 将軍に食べてもらうために、3日前から寝ずにつくっておいたのです!」
「うおおお、天和様がお帰りになった!! やはり、あの方こそ、この乱世を鎮める御方だ!!」
「なんの、獅子奮迅の活躍を為した地和様を忘れてはなるまいぞ! 彼の戦女神の勲なくして、勝利はありえなかったというではないか!」
「何ッ?! 貴様は戦をわかってないな! 地味に、しかし堅実に地和様を支えた人和様あっての勝利にきまってるだろうがッ!」
「えーい、そんなことはどうでも良い! ともかく、おれたちが選んだ御方が勝ったのだ! 今はただ飲むのみよ!!」
 勝利の喜びに浮かれた子女や、早くも酒に酔い、高歌放吟する男たちの口から、絶えることなく歓呼の声が繰り返される。
 やはり、一際大きいのは、玄徳様、関羽、張飛の姉妹と、張角らの姉妹に対するものであった。
 だが、それ以外にも、陳到や馬元義といった将軍や、軍師である鳳統にも賛辞の声は向けられている。
 それは、先刻合流した諸葛亮や趙雲も同様であった。
 趙雲は今回の戦に直接参加したわけではなかったが、すでに県城に避難した楼桑村の住民の口から、不落の村を支えた白甲の女傑の名は、幾度も語られ、城内では知らぬ者とてない状況なのである。 


 そんな民衆の歓迎の大波に飲み込まれてしまったおれたちは、城に到着するまで、予想外に時間がかかってしまった――まさか、最終的に、他の将兵を置いて、勇将たちが道を切り開くことになるとは思わんかった。まあ、それだけ民の中に巣食っていた不安が大きく、そしてそれが解消された喜びもまた、大きかったということなのだろう。
 城に戻ったおれたちを真っ先に迎えてくれたのは、玄徳様の母君であられる劉佳様と、劉佳様の傍仕えをしている董卓、賈駆の両名であった。程立と戯志才、そして留守居の将であった鄒靖も、その後ろに控えている。
 劉佳様にとっては、娘たちを、無事の再会が期しがたい激戦に送り出した後だけに、喜びは小さくなかっただろう。しかし、劉佳様は、玄徳様や、おれたちの顔を1人ずつ等分に見つめ、無事を労うように静かに微笑むと、それ以上、おれたちの時間を奪ってしまうことを避けるように、後ろに下がってしまった。
 その慎みと、公私の別をわきまえた態度は、さすがは旧き王朝の血を繋ぐ方だと、周囲からは敬愛の眼差しが注がれていた。




 かくして、県城に戻ったおれたちは、疲れた心身を癒す間もなく、いつぞや会議の場を設けた部屋に集まっていた。
 結果として戦には勝ったが、それで「めでたしめでたし」となるほど現実は甘くはない。
 今後の琢郡の統治、すぐに訪れるであろう袁紹の使者、今後の河北の情勢、そして張角たちの処遇など、話し合わねばならないことは、山のようにあるのだ。
 だが、そういったことよりも何よりも、会議の席に座った人たちが最も知りたがったのは、今回の戦の顛末であった。
 なにしろ、作戦の全容を知っていたのは、片手の指で足りるだけの人数しかおらず、自分たちがあの激戦でどのような役割を果たしたのかを、皆、知りたがっていたのである。
 そして、今回の戦の事実上の総指揮をとっていた鳳統の口から、はじめて作戦の真の内容が詳らかにされるのであった。





 今回の一連の戦いにおいて、最も重要な要素は言うまでもなく袁紹軍の参戦である。
 鳳統の作戦は、当初から、いかにして袁紹軍を戦略図に組み込むかを考え、策定されたと言って良い。
 最初の――そして最重要の一手は、琢郡の軍勢を率いる者が劉玄徳である、ということを公表したことであった。
 それを聞いて、玄徳様が首を傾げる。
「え、え? それが、最重要の一手なの?」
「はい。本来、連合軍において、作戦指揮者の決定は、多くの場合、兵力の多寡に左右されるものです。反董卓連合軍において、もっとも大兵力を率いてきた袁紹さんが総大将になったように。もっとも、袁紹さんの場合は、家柄や他の要素も大きかったですが……」
 鳳統の言葉を、今度は諸葛亮が引き継ぐ。
「わたしたちの場合、それは関わりありません。ですから、この場合、張伯姫さんが選ばれることが妥当である筈でした。ですが、総大将になったのは玄徳様。確かに、玄徳様の名は、先の戦いで幽州のみならず、河北の各地にも響き渡っていますが……」
 ちなみに、作戦の全容を知っていた数名というのは、鳳統とこの諸葛亮、そして趙雲の3人のことである。趙雲に関しては、諸葛亮が袁紹への使者となるに際し、極秘の護衛を頼むために説明したとのことだから、実質、2人の軍師だけであったといってよい。
「同時に玄徳様の率いる劉家軍が、まだまだ小さい勢力でしかなく、伯珪様のところに身を寄せていることも周知の事実です。そんな玄徳様が、万を越える軍勢を従える張伯姫さんの上に立つ。それを知った敵は、どう思うでしょうか」
 関羽が静かに口を開く。
「桃香様の後ろに、伯珪殿の影を見る、か」
「はい。あるいは、玄徳様を伯珪様の傀儡とみなすかもしれません。いずれにしても、その段階で、敵の目は遼西郡――すなわち北東に注がれます。本来、最も注意しなければならない、南西ではなく」
 南西――袁紹が、本領に戻ってくる方角である。
 再び、鳳統が口を開いた。
「……当然、それは敵に限った話ではありません。お味方の方々も、不利な戦況に対する切り札として、伯珪様の援軍を心待ちにされるでしょう。県城には、各地から張伯姫さんを慕って黄巾党の皆さんが引きもきらずにやってきていました。その中には、間違いなく波才さんの密偵も潜んでいた筈。そんな皆さんの言動を察知しない理由はありません」
 ことさら、軍師たちが噂を広めたり、策をほどこしたりする必要はない。
 事実を見せ、信じさせる。これほど容易いことはない。そして、それが事実であるがゆえに、敵将である波才もまた、信じざるを得なくなる。
「皆さんに袁紹さんの件をお話しなかったのは、このためでもあります。この段階で、敵の脳裏に袁紹さんのことが、わずかでもよぎってしまう危険は、冒せませんでした」
 小さな軍師たちの言葉に、うめきにも似た声が各処から上がる。
 まさか、あの時点で、彼女たちがそこまで考えて行動していたとは、ほとんどの者が気づかなかったのである。


 だが、そんな中、1人の人物が手を挙げる。
「よろしいですかな、鳳軍師」
 陳到であった。
「はい、なんでしょう?
「敵の目を北へと向ける。それは理解しもうしたが、しかし、策としてはいささか……何というのですかな、確実性がないように思えるのですが」  
 陳到の言葉に数名が頷く。
 だが、鳳統はあっさりとその疑問に答えてみせる。
「……そうですね、確かに敵の動きを、これだけで縛ることは出来ません。最悪の場合、こちらの狙いを悟られ、敵に袁紹さんの軍勢が捕捉される可能性もありました」
 そう言って、しかし、鳳統は平然と言い足す。
「それなら、それで構わないんです。洛陽から戻ってくる袁紹さんの軍勢は、最小でも3万。これに対抗するには、少なくとも同数の兵力をそちらに割かねばなりません。平原の押さえ、私たち、そして袁紹さんの軍勢。敵軍が10万に達するとしても、三箇所に兵を分ければ、当然、それだけ陣容も薄くなる。勝ち得る手段もまた増えます」
 鳳統が一息つくと、また諸葛亮が言葉を引き継ぐ。
「ただ、結局、敵は北へと目を向け、袁紹さんの軍勢に蹴散らされましたが。おそらく、仮に気づいていたとしても、軍を分けることはしなかった――いえ、あるいは出来なかったのでしょう」
「出来なかった、とはどういうことだ?」
 関羽の疑問に、諸葛亮は馬元義の顔を見る。
「馬将軍や張季姫さんに聞いた波才さんの特徴は、己1人に権限を集中させ、部下を信じず、ただ手足のように操ること。それは、統率する者の力量によって巨大な力を発揮しますが、欠点も存在します。軍を分けることが出来ない、という」
 関羽が、小さく頷いた。
「そうか、自分を恃み、配下を手足として動かしていたのならば……」
「急に手足に、自分の考えで動け、と言ったところで出来る筈はない、か」
 感心したように、趙雲が呟く。
「その通りです。あるいは、こちらを甘く見ていれば、適当な数の押さえを残して、袁紹さんと決戦する、という手もあるかもしれませんが……」
「伯珪殿の影を見た以上、それも出来ぬというわけだな」
「はい」


「今度の場合、敵はこちらの思惑に乗り、平原に2万を残し、主力の8万をこちらに向けました。その知らせを受けたと同時に、私は子竜殿と共に南へ向かったんです」
「まだ日も昇らぬうちに、いきなり部屋に押しかけてくるので、何かと思ったぞ」
 その時のことを思い出したのか、趙雲は軽く肩をすくめて苦笑いすると、諸葛亮は恐縮して、肩を縮めた。
「す、すみませんでした。事は急を要する上に、みなさんに知られるのは避けたかったので……」
 波才軍が平原に兵力を集中させはじめた時点で、諸葛亮と鳳統は袁紹軍に対して偵察の兵を放っていた為、この時点で、すでに洛陽から取って返した袁紹軍の進路は把握していた。
 当初、諸葛亮と鳳統は、袁紹軍の動きの鈍さは当然のことと思っていた。なにしろ、3万に及ぶ大軍である。騎馬を主力とした1万強の公孫賛軍や、わずか5百の劉家軍に比べれば、進軍速度もおのずと遅くなるだろう、と。
 だが、州の境界線上、波才軍の偵知能力のわずかに外縁部にとどまっている袁紹軍の布陣を知り、その考えを改める。袁紹軍は、戦況をつぶさに眺めつつ、時を待っているのだ。
 であれば、早急に袁紹と話し合わねばならないのだが、各地には波才軍の偵察兵や、あるいは今回の戦いとは関係のない盗賊たちがたむろしており、諸葛亮が1人で向かうのは危険すぎた。かといって、部隊を率いて進めば、要らぬ関心を集めてしまうし、敵に悟られる危険もあるだろう。
 それゆえ、本来ならば有力な将軍となりえたであろう趙雲を、護衛という形で用いざるをえなかったのである。
 かくして、趙雲の駆る駿馬の背に負われ、一路、南西へと赴いた諸葛亮は、袁紹軍の陣営に駆け込んだのであった。


 この時、袁紹軍の軍師 田豊の下には、南皮から駆けつけた張恰により、ある程度の情報がもたらされていた。情報を吟味するに、波才軍が北への進軍を目論んでいるのは明らかであり、田豊は敵の出陣を待って、まず平原郡を奪還する心積もりであった。
 しかる後、各地の兵力を集結させた上で、根拠地を失った波才軍を討つ。それは、袁紹軍の力をもってすれば、さして難しくはなかったであろう。
 その期間で幽州が荒らされる可能性が少なくないとしても、だからといって、数にまさる波才軍に一か八かの攻撃を行うなど、賭博に等しい作戦がとれる筈はなかったのである。
 袁紹の麾下にいる田豊にとって、何よりも優先すべきは、袁紹が治める領土を黄巾党から取り戻し、治安を回復させることであった。


 その考えを変えさせたのは、田豊と対面した諸葛亮の口から語られた、劉備軍の作戦であった。
 詳細を聞かされた田豊は、目を瞠って、しばし無言であったという。
 あるいは、それが当然の反応であったかもしれない。
 鳳統がつくりあげた戦略図は、戦場の最も危険で、困難な役割を自軍が引き受け、その成果のほとんどを袁紹軍に譲り渡すに等しいものであったから。
 作戦通りに行けば、袁紹軍は、河畔に布陣した敵軍を後背から襲うという、必勝の態勢で参戦することになる。ただそれだけで、黄巾党壊滅の第一功は袁紹軍のものになるのである。
 あるいは劉備軍が早々に敗れ、敵がすでに渡河を果たしている可能性もないことはないが、その時は改めて平原に取って返せば済むこと、袁紹軍に犠牲は出ない。
 利、多くして、険、少なし。
 田豊からこの話を聞いた袁紹が、飛びつくように頷いたのは、当然すぎるほど当然のことであった。
 ――もっとも、感謝する諸葛亮に対しては、散々恩着せがましい言動を繰り返したそうだが。
 曰く。
「黄巾賊など、私たちだけで十分。こてんぱんのけちょんけちょんにしてやれるのですが、あなた方のように命をかけた脇役を引き立たせるのも、主役たる私の務め。それに、私の領土ではないとはいえ、幽州の民を見捨てるのは、覇者たる態度とは言えませんしね。よろしいでしょう、河北を統べ、いずれは天下を制するこの袁本初の力、お見せしてさしあげてよ、おーほっほっほっほ!」
 ……だそうである。 
 


 そこから後は、結果が示すとおり。
 劉備軍を追撃する形で、大清河に布陣した波才軍は、自らが死地に踏み込んだことに思い至らず、その後背から襲い掛かった袁紹軍によって、完膚なきまでに叩き潰された。
 すでに、袁紹軍はその勝利を平原に篭る残党に知らしめ、平原奪還にとりかかっている頃合だろうか。
 ここに幽州の、ひいては河北の危機は、その原因ごと取り除かれたのである。





 軍師2人の説明が終わると、室内の各処から、ほぅっとため息を吐くものが続出した。
 それは、感嘆のそれであり、同時に畏怖のそれでもあったかもしれない。
 自分たちが――否、敵でさえ、眼前の戦場の勝利のみを見ていたというのに、軍師たちにとっては、その戦場さえ戦略図を仕上げる一つの要素に過ぎなかったのだ。
 勝てば無論よし。しかし負けたとしても挽回は成る。おそらく、大清河で早い段階で敗退していれば、敵軍に対し、背後から近づく袁紹軍の存在を知らしめる程度のことは、手段の一つとして用いただろう。
 右か左か、その結果に勝敗を賭けていたわけではない。右に行けばこうする。左にいけば、こうする。起こるであろう事態すべてに対応策を定め、その中でも最善と考える結果に行き着くように、軍師たちは動き続けていたのである。
 すべては、この小さく、か弱い軍師たちの掌の上で行われていたことを、他の者たちはようやく悟るに至った。それゆえのため息であった。


 ガタン、と席から立ち上がる音がした。
 突然のことに驚いた人々がそちらを見ると、2人の軍師が顔を見合わせ――そして、はかったように同時に頭を下げたのである。
『勝手なことをして、ごめんなさい』
 と、泣きそうな声で謝りながら。


「え、え、ええ? どうしたの、2人とも??」
「う、うむ。今の話で、何か謝罪するようなことがあったのか? 私は気づかなかったが……」
「2人とも、どうしたのだー?」
 玄徳様たちが、諸葛亮たちの突然の行動に、慌てたように首を傾げる。
 それは他の者たちも同様で、皆、2人の謝罪の意味を解しかねているようだった。
 いや、一人、その意味を解した者もいるようだ。
 趙雲が愉快そうに笑いながら、口を開いた。
「なに、作戦であれだけの苦闘を強いておきながら、その功績のほとんどを袁紹軍に譲ってしまったことを、謝しておるのだよ。主君の許しも得ずに僭越をしてしまった、とな」


 その言葉に、玄徳様はぽかんと口を開き――すぐに、納得したように両手を叩いた。
「ああ、そういうことか~。良いんだよ、2人とも。この前も言ったけど、孔明ちゃんと士元ちゃんは、私たちの軍師なんだから。今回のことだって、多分、はじめから聞いていたら、私、ぜったい顔に出てたと思うし……」
「確かに。桃香様ほど、腹芸が出来ない人はめずらしいでしょう」
「う……否定できない」 
「にゃはは。お姉ちゃんはすぐ顔に出るから、隠し事は無理無理なのだ」
「うう……鈴々ちゃんまで」
 ぼそりとおれも呟いた。
「以下同文、です」
「って、一刀さんまでッ?! みんな、ひどいーー」
 もー、という風に玄徳様が叫び、場の空気はおおいに和む結果となった。
 玄徳様たちだけでなく、陳到も不満をあらわしてはいない。
 一方で、馬元義は少々、張宝は少なからず、異論のありそうな顔をしていたが、そこは姉と妹の2人が、小声でなだめていた。
 実際に戦場に出た者たちが不満を口にしない以上、城に残っていた者たちが意見を言える筈もない。
 ましてや――


「戦乱で苦しみ、虐げられている人たちのためにも、これ以上、黄巾の乱を長引かせるわけにはいかなかった。だから、少し無茶なことをした。孔明ちゃんと士元ちゃんがしたのは、そういうことだよね?」  
 玄徳様の言葉に、2人は顔を見合わせた後、小さく頷いた。
「私は、皆が笑って暮らせる世の中をつくりたい。そのために戦っているの。だから、2人がしたことは間違ってなんかいないよ。少なくとも、私はそう思ってる。それさえ果たせるなら、手柄が誰のものなっても良いの――みんなが平和に暮らすことさえ、出来るなら」
 もちろん、その結果として厳しい戦いに臨んで、亡くなったり、傷ついたりした人たちには、ちゃんと報いてあげないといけないけれどね、と玄徳様は俯きながら言い添える。
 関羽が、主の言に賛同するように、大きく頷いた。
「桃香様の言うとおりだ。それに、お前たちは、その犠牲をさえ、最小限に止めようとしたのだろう? 戦いを前に大きく兵力を縮めたことも、その1つだ」
 それを聞いた陳到が、頭をかきながらも同意する。
「確かに。私の手腕では、あれ以上の兵力を預けられては、統御しきれませなんだ。敵の攻撃を凌げる最低限の兵力と、味方が統御しきれる最大限の兵力。それが、1万という数字だったのですな」
 預けられた3千の混成部隊を、なんとか統御することが出来た陳到の、心の底からの納得の言葉だった。


 無駄な犠牲を出すことなく、作戦通りに事を進めるための兵力削減。
 無論、それだけではなく、あらかじめ鳳統が説明したとおり、糧食の問題もあった。
 だが、何よりも重要だったのは、城内の治安の問題である。
 そもそも、黄巾党とはいえ、琢郡に集まったのは、波才の目にとまらなかった二戦級の部隊ばかり。錬度にせよ、経験にせよ、さほどのものではなく、頭に巻いた黄巾を取れば、普通の民衆とさしてかわらない。
 では、何故そんな者たちが、城内の民衆に敵視されるかと言えば、それは彼らが兵であり、武器を持っているからに他ならない。ならば、その手に工具を持たせ、あるいは農具を持たせれば良い。元々、城内を補修する部隊は必要であったし、そうすることで、琢郡の人心を落ち着かせることも出来る。
 別の言い方をすれば、軍縮というはっきりとした行動をとらなければならないほど、玄徳様たちが黄巾党党首を受け容れたことは、民たちに深刻な不審を抱かせていたのである。


 ――もっとも、実際、3万が1万になったところで、黄巾党が城内最大勢力であることにかわりはないのだが、逆に黄巾党がこの軍縮を受け容れたという事実は、彼らに不穏な野心がないことの証左になったであろう。
 それは民衆に対するのみにとどまらない。あの時点では、官軍、そして劉家軍の中にさえ、張角ら黄巾党への不審は確実にあったであろうから。そういった意味でも、あれは必要なことだったのである。
 あの段階で造反者が出ていれば、戦うどころではなかったからなあ。
 




 不意に。
 室内に笑い声が湧き上がった。
 艶やかで、それでいて軽やかなその声は、趙子竜の口から発せられていた。
「平和な世をつくる。そのためならば、手柄など誰にくれてやっても良い、か……」
 くくっと喉の奥で趙雲が声をたてる。
 それを見て、関羽の目がわずかに細まった。
「……何か、異存があるのか?」
 低く押し殺した問いに、趙雲は肩をすくめて見せた。
「いやいや。貴公らの在り方に口を挟む権利など、私にはないし、その心算もない。だが、それが全ての人に通じるものだとは思わないでほしいものだ」
「――要するに、己の功績にはきちんと報いろ、ということか?」
「ほう、わかったか」
「わからいでか。言われずとも、桃香様は働きにはしっかりと報いてくださる。功を誇るような真似をする必要はない」
 関羽は険しい声音で言い、趙雲を睨みつける。
 並の人間であれば、関羽の視線と言葉に畏服し、押し黙ってしまうところだったかもしれない。
 だが、趙子竜という女性は、あいにく、どこをとっても並という表現が当てはまる人物ではなかった。
「そうは言われてもな。楼桑村を賊徒から守り通し、敵将の趙弘、韓忠らを討ち取った功績を、軽く見られてはたまったものではないのでな。私は貴公らとは違い、功名も名誉も欲する俗人ゆえ」
 平然と言い返す趙雲を見て、関羽の瞳の奥で、雷雲が群がり起こった。
 関羽とて、趙雲の功績は認めているし、楼桑村の人々を守ってもらった恩義は、深く感じている――色々と助言もしてもらったし。
 だが、だからといって、公然と報酬を要求するような人物には、嫌悪の情も湧こうというものではないか。
 関羽の顔を見るに、そんな内心の感情がでかでかと書かれているように思えてならなかった。


 一方、玄徳様は、そういった感情のしこりは持っていないようだ。なにしろ、母や故郷の村の恩人である。出来るかぎり報いたいという気持ちに偽りはない。
 だが。
「えーと、言いにくいんですけど、今、私たち、とっても貧乏で……」
「と、桃香様! 何を言い出すんですか、いきなり」
「で、でも愛紗ちゃん、事実だよ。うん、ちょっと笑ってられないなあ、と思うくらいに」
 戦であれば、官庫を開くのも躊躇うものではないが、さすがに個人の恩賞を用意するために、城の金は使えない。くわえて、元々、城の財貨といってもたかがしれたものなのである。
 今後、琢郡の統治が何者の手に委ねられるかがはっきり決まっていない以上、官庫に手はつけられない。となれば、劉家軍の懐から出すしかないのだが、そちらは玄徳様の言うとおりの状況であった。


 どうしたものか、と困惑する玄徳様に対して、今度は趙雲は笑わなかった。むしろ、真摯といってもよいくらい、真剣な表情で、ゆっくりと玄徳様の前まで、歩を進めていく。
「財貨は不要。今日を生きる糧と、今を楽しむ酒、それにつまみがあれば、それ以上は望みませぬゆえ。くわえて、我が望みは、金で購えるほどに、安くはありませぬ」


 そう言うと。
 趙雲は、玄徳様の前で。
 静かに、片膝をつき、頭を垂れた。




「劉家軍が主 劉玄徳殿に請う。我が槍、貴殿のために振るうことを、お許し願いたい」




 突然の趙雲の言葉に、玄徳様は口と目で3つの0を形作った。
 関羽らも、趙雲の言葉に驚きをあらわにしている。
 ただ2人、先刻から黙ったまま、会議の進行を眺めていた程立と戯志才のみが、まるでこのことを予期していたように、平然としているのが印象的であった。
「あ、あの、子竜さん。それって?」
「無論、この趙子竜を貴殿の配下に加えてほしい、ということです。昨今の情勢を見るに、そろそろ天下を彷徨するのも終わりにせねば、と思っていたところ。此度の功績程度では、この願いは過ぎたものだとわかっているつもりですが、そこをまげてお願いいたす。いずれ、必ず貴殿の槍たるに相応しい力を、お見せいたしますゆえ」


 趙雲の言葉が、ようやく玄徳様の理解に達した瞬間。
 玄徳様はバネ仕掛けの人形のように、ぎくしゃくした動きで、頭を下げる趙雲の肩に手を触れ、上を向くように促した。
 玄徳様の顔からは驚愕が徐々に消えていき、満面の笑みが浮かび上がっていく。
 そして、自分を見つめる趙雲の顔を見ながら、はっきりと頷き、叫ぶように口を開いた。
「よ、喜んで、お許しいたします!! ええ、もうばんばん振るっちゃって下さい!」
 関羽が呆れたように口を開く。玄徳様に対して、そして趙雲に対して。
「――桃香様、その言葉遣いは変です。それに、子竜殿も、まぎらわしい言い方をしないでもらいたい。あやうく誤解するところだったではないか」
 玄徳様に促されて、立ち上がりながら、趙雲は微笑しつつ、口を開く。
「いや、すまんすまん。しかし、ようやく我が槍を振るうに足る場所を見つけることが出来たのだ。多少、もったいぶりたくなるのが、人情というものではないか」
「よくわかんないけど、子竜は鈴々たちと一緒に戦うことになったのか?」
「おうよ。これからは共に戦場を駆けることになろう。よろしくな、益徳殿」
「おう、よろしくなのだ!」


 そんな光景を、おれが傍から眺めていると、不意に、趙雲がこちらを見た。
 ――しかし、何故だかその顔に浮かぶ笑みは、おれの警戒を誘う。怪しいとか、誰かの間者だ、とかそういう意味ではなく、こう悪戯っぽい瞳の色が「さて、どうやってからかってやろうか」と言外に語っているような気がして仕方ないのである。
「北郷殿も、これからは、色々とよろしくお願いする。色々と、な」
「こちらこそよろしくお願いします――時に、何故、2回も繰り返したのです?」
「いや、重大なことだったからだが。ひと言ではとても言い表せぬ」
「ひと言で言い表せないって、何をするつもりですかッ?!」
 相手からの無形の重圧に押され、思わず及び腰になるおれ。
 そんなおれの叫びに、趙雲は意味ありげな流し目をおくってきた。
「せっかちな御仁だ。同輩になったばかりではないか。だが、そんなに私のすることが知りたいのならば、そうだな、今日の夜にでも部屋を訪ねて参られよ。朝までとっくりと、語り明かすとしようではないか」
 女性の部屋で、朝まで語り明かす。
 そのシチュエーションに、一瞬、おれは絶句してしまう。


 はっとその危険に気づき、慌てて、首を横に振ろうとしたのだが――
「……ふむ。味方同士、仲が良いのは結構なことだ」
 そう思うなら、その針のような眼光をやめてください、関将軍。
「……朝まで……朝まで……」
 何で顔を真っ赤にしてるんですか、玄徳様。想像はつくけど。
「ぶーぶー、一刀のえっちー」
 ここで直球ですか、伯姫様?! あと、何で今さら参加してくるんですか、もうすこし黙ってれば会議終わるのに!
「……一刀さん。朝までって何するんですか?」
「だ、駄目だよ、雛里ちゃん。それを聞いちゃ駄目!」
 くぅ、士元でなければ嫌味だと思うところなんだが、その純粋さをどうか失わないでください!
 孔明はもう手遅れっぽいな。いや、人としては正しい成長なんですけどね!


 そんなおれたちの様子を見て、趙雲がくすりと微笑みをもらす。
 その笑みに、なんか底知れない不吉さを感じたのは、きっとおれの気のせいだったのだろう。
 ――気のせいだよな、きっと?




 誰かにうんと言ってもらいたくて、周囲を見回したおれの肩を、ぽんぽんと叩く人物がいた。
「北郷殿」
 簡擁だった。
 頬がげっそりとこけているのは、おれたちが出て行った後の、城内のいざこざを一手に処理していたからだろう。お疲れ様でした。


「何事も、諦めが肝心じゃよ」
「いきなり希望を奪わないでください!!」
 結局。
 おれの悲痛な叫びは、誰の同意も得ることが出来ず、県城の空に吸い込まれていくのだった……






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/16 21:33




 城全体がお祭り騒ぎに包まれた明くる日。
 すでに城内の各処では、戦後の後始末が始まっている。城壁の修復をはじめ、この戦乱で家や田畑を失った人たちに、とりあえず当面暮らすことの出来る仮の住居を用意する等に関しては、元黄巾党の面々に頑張ってもらうことになった。
 実際、彼ら自身にも必要なことであったから、異論は出なかった。むしろ、黄巾の乱さえ起こらなければ、真面目に働いていたであろう人たちも多く、戦いよりもこちらの方が向いているかもしれない。


 度重なる戦闘によって、負傷、あるいは戦死した者たちへの対応も欠かせない。
 ことに、大清河の戦いでは、敵、味方ともに多数の死傷者が出たため、県城には傷病兵が溢れている状態だったのである。


 軽い怪我? つばでもつけときなさい!
 骨が折れたかもしれない? うわ、ほんとだ。あっちにお医者さんがいるから、並んで待っててください。
 腕が使い物にならない?! そっちの人は足?! おーい、憲和殿、障害の表にこの人たちを追加しますよ。皆さん、後で担当から話がありますんで、あちらでお待ちください。足が悪い人は一緒に行きますので、ちょっと待っててね。


 と、まあ、そんな感じである。やってることは、病院の受付みたいなものだった。
 傷病兵の対応が一通り終わると、今度は戦死者の埋葬が待っている。敵味方を含め、数多く出た戦死者の埋葬は、大変な労力が必要となった。
 おれも2日間にわたった作業に参加したのだが、正直、当分、肉は食べられそうにない。さすがに、もう何度もこういった作業をこなしていたから、青くなって倒れたりはしなかったが、慣れを感じることは、きっと一生ないに違いない。


 当然といえば当然だが、この時代に、しっかりとした社会保障の制度なんぞあるわけもなく、兵士としてやっていけないほどに重い怪我を負った場合、補償もなくお払い箱になることもめずらしくはない。戦死した兵士の家族に、その報告がいかないということもざらだった。
 だが、劉家軍に関しては話が異なる。玄徳様はそういったところをおろそかにすることはなく、戦後の補償も出来るかぎり、丁寧に、真摯に行っており、そういった行動が、また兵士たちの忠誠心を高める結果にもなっているのである。


 だが、今回の戦いに関して言うと、文字通りの意味で、これまでとは桁が違った。
 劉家軍に属する兵士のみに限定するなら、何とかなりそうだったが、元黄巾党の方まで目を配るとなると、完全にお手上げ状態である。ぶっちゃけ、金がないのだ。先日、玄徳様が趙雲に断言したように。
 本来であれば、こういう時は太守が責任を以って官庫を開き、行動すべきなのだが、あいにく、今の琢郡には太守が不在である。
 袁紹軍からの情報によれば、なんでも劉焉は、とっとと琢郡を見限って太守の地位を返上し、朝廷に出入りしているとか。
 地位に伴う責任というものを、関羽あたりに小一時間、説教してもらいたいもんである。


 ともあれ、そういったわけで、官庫は開けない。城内では、すでに玄徳様を太守に、という声が、誰はばかることもなく挙がっており、玄徳様自身がその気になれば、太守の座に座ることも可能であったろう。
 だが、玄徳様は、名分なき統治は、戦の火種となりかねないと心配されており、周囲の薦めに軽々と応じようとはしなかった。
 ならばいっそ、朝廷に使者をおくって、琢郡太守の地位を願ってみようか。幸い、元劉焉配下の鄒靖殿などもいることだし。
 おれたちが、玄徳様に聞こえないところで、こっそりそんなことを話し合っているとき、一騎の早馬が、県城の城門を駆け抜け、城内に報告を届けてきた。


◆◆


「あ、伯珪、良かった。無事だった……んきゃあッ?!」
 あ、玄徳様が公孫賛に吹っ飛ばされた。
「と、桃香様ッ?!」
「げ、玄徳様、大丈夫ですかッ?!」
 慌てて、関羽と諸葛亮が玄徳様の傍に駆け寄っていく。
「うー、膝すりむいたー」
 玄徳様が涙目で痛みをこらえている。
 一方。
 玄徳様を突き飛ばした(多分、本人にその意識はないのだろうが)張本人である公孫賛は、荒い息をつきながら、一直線におれの下までやってきた。
 のみならず、おれの肩をむんずと掴むと、何やら血走った目で、顔を覗き込んでくる。


「は、伯珪様?」
 おれは鬼気迫る公孫賛の様子に、しり込みしつつ、肩の手をどかそうと試みる。しかし、よほど興奮しているのか、公孫賛は巌のような力強さで、おれの肩をがっしりと掴んでおり、容易に離れそうになかった。関羽たちには及ばないにせよ、公孫賛はれっきとした武将であり、当然、膂力も強い。肩から、みしみしと音が鳴る。普通に痛い。
 おれがそんなことを考えていると。
 それまで、荒い息をつくのみで、ひと言も発しなかった公孫賛の口から、はじめて人の言葉がもれ出てきた。
「……北郷」
「は、はい、なんでしょう?」
 おそるおそる問い返すおれに――なんと、公孫賛はいきなり、満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。
「……はッ、は?!」
 あまりにも予想外の事態に、おれは「伯珪様」と口にすることさえ出来なかった。
 そんなおれに向かって、公孫賛は興奮したように、顔を真っ赤にして、叫んだのである。
「お前は、天才だッ!!」



 ――とりあえず、皆が落ち着くまで、しばらく時間がかかった、とだけ言っておこう。
 ようやく落ち着きを取り戻した公孫賛が、それでも、まだかすかに頬を紅潮させながらも口にした言葉は、おれにとって拍子抜けするものであった。
 反董卓連合に参加する際、易京の馬具職人に注文していた鐙(あぶみ)が完成した、というのである。
「……ああ、そういえば」
 そんなものも頼んでいたな、というのが正直なところだった。
 戦いに次ぐ戦いで、すっかり頭から抜け落ちていた。これで、多少、馬に乗るのが楽になると思えば嬉しくないことはないが、しかし、それと先の天才発言がどう結びつくのだろう。
 おれがそんなことを考えていると、公孫賛はきっぱりと断言した。
「北郷、お前、自分が空前の発明をした自覚はあるか? おそらく、この一事だけでも、お前の名前は歴史に残るぞ」
「はッ?!」
 あまりにも予想外の言葉に、おれは目を丸くする。
 周りで聞いている玄徳様たち――先の公孫賛の行動のせいで、まだ目が冷ややかだった――も、公孫賛が何を言っているのか、よくわからないようだ。
 そんなおれたちの様子をもどかしげに見ていた公孫賛は、乱暴におれの手を掴むと、厩舎の方向に大またで歩き出した。



 ちなみに、元々、この時代にも鐙というものは存在した。
 ただ、それは鞍に乗り易くするためのもので、鞍のいずれか片方に、鉄の輪をぶらさげておく程度のものだったそうな。
 だが、おれの依頼を受けて職人がつくったものは、鞍の両方にきちんと輪が下がっており、その形状は、半月形となっている。
 足を差し込む易いよう、かつ落馬した時に足が抜け易くするための工夫であった。
 発明というよりは、既存品の改良と言った方が正解だろう。
 おれとしては、多少は乗り易くなるだろう程度にしか考えていなかったのだが――
「何を言ってるんだ、おまえは」
 公孫賛に、思いっきり呆れられました。
「多少どころじゃないぞ、これ。最初、職人から見せられたときは、頭の上に雷が落ちたかと思ったほどだ」
 易京城内での反乱を、一日経たずに鎮圧した公孫賛は、その後始末と、残党の有無を確認するため、身動きがとれない状況になっていたらしい。そんな時、職人の1人が、太守様へ、とおそるおそる鐙を持ってきたのだそうだ。


 騎兵の習熟度をあらわす1つの境目は、騎射が出来るか否かである。
 これが出来ないようならば、どれだけ馬を自在に駆れても、一人前とは認めてもらえない。任務といっても、伝令や偵察として用いられるくらいである。
 弓矢は両手で扱うものだから、騎射するときは足で馬体を挟み込み、馬を御さなければならない。馬が足を止めている間ならばまだしも、疾走中にそれをやるのがどれだけ難しいかは、少し想像してみればわかるだろう。
 北方の騎馬民族の戦闘における強さの1つ。それは、彼らのほぼ全員が、騎射を当たり前のように行うことが出来る点に求められる。
 騎射を行えない者は、狩で獲物をとることすら難しい。彼らにとって、乗馬も騎射も、出来るようになりたい、では済まされない。出来なければ、飢えて死ぬしかないのである。自分も、そして家族も。
 そして、彼らはそれを日常の1つとして行うがゆえに、習熟度は、漢族のような農耕民族の比ではない。


 中国4千年の歴史という。
 その歴史にあって、塞外の騎馬民族を相手として、勝利を得た人物は少ない。
 漢代に限って言えば、有名なところでは、前漢の李広、衛青、霍去病。後漢の班超などの名が挙げられる。多分、史実に詳しい人ならば、もっとたくさん挙げられるだろう。
 彼らはいずれも、その一事を以って勇将としての名を轟かすに至っている。
 それは言い換えれば、それだけ彼らが破った敵が強大であり、精強であることの証左ともいえるだろう。弱い、無能な敵に勝っても、栄誉は得られないのである。
 後に、騎馬民族の国そのものを制してのけた唐代の李靖などは、その筆頭とも言えるだろうか。




 ともあれ、騎馬民族の存在は、それだけ恐れられており、その騎馬民族を制した公孫賛の白馬部隊は、全員が騎射を行うことが出来る兵たちで構成された精鋭部隊であった。
 その精鋭の証たる騎射の難易度を大きく下げたのが、おれの注文した鐙なのだと、公孫賛は言う。
 実際、馬には乗れても、騎射は行えない、という者たちに試させたところ、その半数以上が不恰好ながらも、なんとか騎射を行えるようになったという。おそらく、訓練を経れば、残りの者たちも遠からず騎射が出来るようになるだろう。
 それどころか、見習いレベルの兵士たちの中でも、筋の良い者は騎射が出来るようになったりしたらしい。
 それはつまり、たった一つの道具によって、公孫賛の軍勢は、飛躍的に強化されたということ。鐙の制作費を考えれば、それによってもたらされる効果は破格といえる。
 さらに、その強化は一時的なものではなく、今後も永続的に続いていくのである。
 公孫賛をして、天才と叫ばしめた理由が、ここにあった。




 
 百聞は一見に如かず。百見は一幹(実際にやること)に如かず。
 そういうわけで、鐙を使って馬に乗ってみることになった。
 極言すれば、鐙とは、馬上で踏ん張ることが出来るだけの道具なのだが、それがもたらす効果はかなり大きい。
 元々、騎馬の術に優れていた者たちも、馬体を締め付けながら騎射するよりも、鐙に体重を預けて騎射した方が、命中率が高まることを実感したようである。
 ちなみに、おれはというと……


 ヒヒィンッ! と馬が高々と棹立ち、場上の人間を振り落とす。
「うおぉぉッ?!」
 間抜けな悲鳴をあげつつ、振り落とされるおれ。
 ぬう、騎射どころの話じゃないなあ。やはり乗馬は難しい。まあ、それでも乗っていられる時間は確実に長くなっている。時間さえかければ、何とかなりそうではあるな。
「これで7回目の落馬。おにーさんは、本当に馬に乗るのが下手ですね」
「……別に数を数える必要はないと思うのですが、仲徳殿?」
「いえいえ、己の至らなさを指摘されることも、成長の1つの手段ではあるのですよ?」
「む、確かにその通りですね」
「ついでに言うと、あと3回落ちると、稟ちゃんとの賭けは風の勝ちなので、頑張ってください」
「励ましてるのか、落ち込ませたいのか、どっちだッ?!」
 勝手に人を賭けの対象にしていることに、ひと言物申したいおれだったが、相変わらず程立には柳に風であった――別にうまいこと言ったなんて思ってません、はい。


「ふむ。なるほど、ほんの一工夫で、これだけ効果があるとは驚きです」
 一方の戯志才は、おれを振り落とした馬の鬣を撫でつつ、興味深そうに鐙を観察している。
 眼鏡の奥の瞳が、きらりと光っているところを見るに、その言葉どおり、本当に驚いているようだ。
 董卓から聞いたのだが、程立も戯志才も、鳳統たちの作戦をほぼ見抜いていたらしい。それだけの策士に感心されるというのも、なかなか乙なものだった。
「公孫伯珪殿は、元々、塞外の騎馬民族との戦いで勇名を馳せた方。騎馬部隊の強化に直結する物が得られれば、褒賞もさぞ気前良く払うだろう、と思っていたのですが、なかなか味なものを頼まれたものです」
 戯志才は小さく微笑みつつ、おれの顔を見やった。
 鐙開発の褒賞を問われ、おれが何を望んだのかを、すでに聞いているのだろう。
「玄徳様たちにも言われたんですが、そんなに意外ですかね。物ではなく、人を欲したのは?」
 簡潔に言うと、調教と牧畜の玄人をくれ、と頼んだのである。無論、永続的に。なので、独り身限定である。
 別に奇をてらったわけではない。金銭や軍馬を望んでも良かったのだが、公孫賛とて、反董卓連合やその後のいざこざで、かなり懐はさびしいだろう。であれば、物ではなく、人を望むのが良いと思っただけである。
 ちなみに、おれの言葉を聞いた瞬間、公孫賛の顔は盛大に引きつっていた。
 これも当然といえば当然で、軍馬の増産や、その発育のノウハウは極めて重要な軍事機密に属する。馬が戦力に直結する以上、それは当然のことであり、それに携わる人間を他者に預ける者などいる筈もない。
 劉家軍は、今のところ公孫賛の客将であるが、やがて独立するのはほとんど既定のこと。公孫賛が、自軍の機密を、はいどうぞと渡すことにためらいを覚えるのはいたし方ないことだった。



 とはいえ、ここで首を横に振ろうものなら、君主としての尊厳に関わる、と公孫賛は思ったのだろう。さすがに玄人は寄越してくれなかったが、見所があるという1人の見習いを劉家軍に譲ってくれた。
 姓は田、名は豫、字は国譲。
 おれより、多分、2つ3つ下だと思うのだが、丁重な物腰が印象的な少年である。
 公孫賛の領内でも孝子として名高く、その評判を聞いた公孫賛が召出して、その下で学問を修めていた。その一貫として、馬のことも学んだらしいのだが、これがとても性に合っていたらしく、それからは更に熱心に軍馬に関する様々な知識を習得していったらしい。
 長ずれば公孫賛配下の熟練者に迫る技量を持つに至るだろう、という公孫賛自身のお墨付きであった。
 ただ、その瞳にやや力がなく、頬がこけて見えるのは、先年、流行り病で母を亡くしたからであるそうだ。
「遼西にいれば、事あるごとに母を思い出してしまいます。しばらく、環境を変え、母の死の痛みが和らぐのを待ちたいと思っていたところ、伯珪様に今回のお話をいただき、喜んで志願した次第です」
 おれたちに引き合わされたとき、田豫はそう言って寂しそうに微笑んだ。


 ちなみに、田豫は見るからに紅顔の美少年といった風情の少年である。そこに陰のある雰囲気が加われば、これはもう騒がれないわけがない。不謹慎といえば不謹慎なのだが、張角や張宝などはきゃーきゃー言っていた。
 しかし、本人はいたって生真面目な性質らしく、困惑した様子で助けを求める視線をおれに向けてきたりする。
 うむ、ごめん、ぶっちゃけ無理です。内心で呟きつつ、おれがこっそり顔の前で両手をあわせると、泣きそうな顔になってた。うーむ、個性的な面子が揃うこの軍には、貴重な人材かもしれん。常識人、という意味で。
 そして、常識人が苦労するのが、劉家軍の慣わしである。頑張れ、同士。頑張れ、おれ。
 




「名声よりも民の幸せを願い、一時的な利を措いて、無形の可能性を得る。星殿が決断した理由、よくわかるように思います」
 戯志才の言葉に、程立もゆっくりと頷いた。
「そうですねー。この乱世に屹立する大樹の息吹を、確かに感じるのですよ。まあ、星ちゃんは劉佳さんのメンマも理由に含まれているでしょうが」
「……メンマ?」
 おれは、この状況で耳にするとは思っていなかった単語を聞き、目を点にする。
 そんなおれに向かって、戯志才はため息を吐いた。
「北郷殿も、遠からず知ることになると思いますよ。星殿は武人としては非のつけどころのない御仁なのですが、少々、なんというか、特殊なこだわりを持っているのです」」
「どれだけ特殊かというと、星ちゃんにとって、幽州1州は、劉佳さんのメンマ一壷に匹敵する程度の価値しか持っていないというくらいに特殊なのです」
「……そ、それは確かに特殊かも知れませんね」
 おれは芸も無く、そう言うしかなかった。ほかにどう反応しろというのか。


「そういえば……」
 おれは気を取り直して、この機会に聞いておきたいことを口にしようとする。
 戯志才と程立は、今後、どうするつもりなのか。
 歴史どおりなら、2人は曹操に仕えることになるのだが……
 正直なところ、あの諸葛亮たちの作戦を、県城に居ながらにして見破るような人物が、曹操陣営に参加するのは勘弁してもらいたい。それも、1人ならず、2人も。
 ただ、それはこちらの事情に過ぎない。2人が、玄徳様に仕える意味を見出せないようなら、無理強いするわけにもいかない。
 それに、2人が曹操陣営に参加すれば、間違いなく曹操の勢力は飛躍的に強化される。内政でも、軍事でも。それは、曹操領の住民にしてみれば、願ってもないことに違いない。治安も良くなり、税も安くなり、戦で死ぬ人は減るのだから。今後、拡大の一途を辿るであろう曹操の勢力のことを考えれば、玄徳様に仕えるよりも、曹操に仕えた方が、結果としてより多くの人を助けることが出来るのである。


 まあ、おれが色々考えたところで、事態は何も変化しないのだが。要は2人の気持ち次第である。
 そう思って、おれがそのことを口にしかけた時だった。
 慌しい馬蹄の音と共に、城内から、玄徳様のもとに報告が届けられる。
 それは、平原郡を奪還し、冀州は南皮城に戻った袁紹からのもの。
 今後の河北統治における話し合いの席に、玄徳様たちを招くので、ただちに南皮城まで参られたし、と権高に告げるものであった。




 
◆◆




 冀州南皮城。
 河北最大の商業都市であり、同時にあの波才軍の度重なる攻撃に小揺るぎもしない城塞都市としての面も持つ。
 大諸侯である袁紹の本拠地ということもあって、治安の良さは特筆に価するもので、そのため各地から山海の物資が、南皮城には引きもきらずに集まってくる。
 それを求めて人が集まり、その人を求めて、更に人が集まる。その循環は止まることはないとさえ思われ、南皮の人口は、河北のみならず、中華全土を見渡しても3本の指に入るほどであった。
 その繁栄は、黄巾党の蜂起で途絶えたかに思われたが、袁紹軍によって黄巾党が駆逐されるや、再び人々は河北の野に溢れ出し、南皮はその中心として、めまぐるしく動き出そうとしていた。


 
 活気を取り戻しつつある南皮城にあって、活気とは無縁の重苦しい雰囲気が立ち込めているのが、袁紹をはじめとした河北諸侯の集う会議の場であった。
 その席に座るのは、袁紹とその麾下の文官たちを除けば、公孫賛と玄徳様、諸葛亮、張角、張宝、張梁の他、袁紹軍に協力した河北の諸侯数名のみである。
 関羽と趙雲、そしておれは、かろうじて参加を認められたが、それは護衛役としてであり、発言権はない。関羽は玄徳様の後ろに、趙雲は公孫賛の後ろに、そしておれは張角たちの後ろに立つことになった。
 正確に言えば、おれは遠慮したのだが、玄徳様たちに連れてこられてしまったのだ。
 明らかに場違いじゃないかと思ったのだが、諸葛亮曰く「一刀さんの視点は、とても参考になるので、是非」とのこと。
 どうも鳳統の一件以来、諸葛亮のおれへの評価はうなぎ上りのようだ。そこまで大したことはないんだが、しかし、期待されればやっぱり嬉しいもの。期待を裏切らないように頑張るとしよう。
 ちなみに、諸葛亮の参加は、向こうの軍師の田豊が、是非に、と望んだそうである。



 予想通りというべきか。
 会議の席で語られる内容は、ほぼ袁紹側による一方的な通達に終始し「会議」と呼べるような要素はほとんどなかった。
 最も大きな兵力を持ち、最も大きな手柄をたてたのが袁紹軍である以上、それはある意味、当然のことであったかもしれない。諸侯の多くは、今回の戦によって、袁紹軍が被った被害に対して、多額の物資を供出することを約束させられていたが、諸侯たちは苦い顔をしつつも、それに逆らうことはしなかった。
 そして、いよいよ本題となる琢郡の始末に話が及ぶ。

 
 

 当初、袁紹軍軍師 田豊が示した案は、玄徳様を琢郡太守とし、幽州を統べる州牧に袁紹を据える、というものだった。劉備軍の軍功に報いると共に、それごと袁紹の勢力に加えてしまう、というわけである。
 当然、異論は出た。
 今回の戦いにおける劉備軍の活躍は、すでに多くの者たちが知るところとなっている。しかし、これまで公孫賛の客将に過ぎなかった無官の女性を、一躍太守に抜擢するのはいかがなものか、と。
 しかも、袁紹が幽州の牧となれば、冀州を含め、河北4州の半ばが袁紹の領土となってしまう。他の河北の諸侯にとって、はいそうですか、と了承できることではなかった。
 公孫賛にしても、玄徳様の琢郡太守はともかく、袁紹の幽州牧就任は肯うことはできなかった。それは、事実上、公孫賛が袁紹配下になることと等しいからである。


 とはいえ、今回の黄巾党蜂起において、劉備軍と袁紹軍がいなければ、河北は黄巾党の一党に蹂躙されていたであろうことは、衆目の一致するところ。劉備軍は公孫賛の客将であるが、公孫賛の軍自体は、実質的に参戦したとは言いがたい。
 であれば、その2つの軍が共に利益を得るのは当然であり、何の功もない者たちが、それを妨げることは難しい。
 下手に反対を貫けば、最悪の場合、2つの軍を同時に相手とることになりかねない。そして、この2軍を相手に勝利しえる勢力など、今の河北のどこを探してもいる筈はなかった。


 おれは内心、目を瞠る思いだった。
 言うまでもないが、この流れは玄徳様にとっては福音である。尉だの、県令だのではなく、いきなり太守である。袁紹麾下、というところがネックといえばネックだが、公孫賛との紐帯をしっかりとしておけば、いざという時にも対応出来るだろう。
 もっとも、今後のことを考えると、素直に喜んでばかりもいられない。
 確実に袁紹は曹操と敵対することになるだろうし、実戦となれば、袁紹は間違いなく、玄徳様や公孫賛を前線に据えようとするに違いない。
 そして、おそらくそこまで田豊は見据えている。
 袁紹は、一介の義勇軍に対しても、功績にはしっかりと報いるという公平さを示した上で、なおかつその戦力を有効に、ある意味で狡猾に自軍に組み込もうとするやり方は、流石に音に聞こえた田元皓と言えた。




「では、皆様方、ご異存がある方はおられようか? ご異存ある方がおられぬようであれば、ただちにこの結論を朝廷に奏上し、劉玄徳殿の琢郡太守、並びに本初様の幽州牧の任の裁可を得ようと存ずる」
 田豊はそういって、対面に座した諸侯たちの姿に視線を注ぐ。列席した者たちの表情は、納得と不服が相半ばするものであった。
 だが、積極的に異論を口にして、袁紹軍の不興を買おうとする者はいそうにない。
 そう判断した田豊が、口を開く。
「では、これにて――」
「お待ちあれ。まだ、1つ、討議すべきことが残っているでしょう、元皓殿」
 田豊の声を打ち消したのは、諸侯ではなかった。
 田豊の隣に座す者――すなわち、同じ袁紹軍に属する文官である。
 その文官の姓は郭、名は図、字を公則といった。
「公則殿か。討議すべきこととは、何を指して仰られているのかな?」
「無論、此度の乱の最大の元凶のことでござるよ、田軍師。むしろ、最も重要なこの議題を、何故に挙げられなかったのか、私にはそちらの方が不審に映りますな」
 郭図の言葉に、一座の視線が一斉に1人の人物に向けられる。


 その人物。
 ――元黄巾党党首 張角のところへ。





 河北の諸侯たちが、何故張角のことに触れなかったのか。
 それは、すでに劉備軍と袁紹軍の間で話し合われたと判断したからであった。だからこそ、この場に張家の姉妹が呼ばれているのだろう、と考えたのである。
 だが、今、郭図の言葉で、諸侯はその考えが誤っていることに気づく。
 その雰囲気を察した諸葛亮が、はじめてここで口を開いた。
「それは、張伯姫さんのことを指して仰っておられるのでしょうか?」
「然り、だ。そもそも、大賢良師などと称し、黄巾の乱を引き起こしたは、その女どもであろう。民衆を唆し、中華の各地に戦火と悲哀を撒き散らした者が、なぜこの場にのうのうと席を連ねておるのだ? そなた、劉備殿の軍師らしいが、さては劉備軍は、黄巾賊に与したのか?」
 根拠なき誹謗に、諸葛亮の瞳に雷光がはしった。
「それは邪推というものです。玄徳様と、その麾下の軍は、これまでも、そしてこれからも、民衆に害を為すことは絶対にありません。賊などと呼ばれる理由はどこにもない筈です」
「これは口清く申すものよな。現に、そなたらは民衆に害を為した黄巾賊どもと手を繋いで、この場に座しているのではないか」
 郭図の嘲弄に、袁紹側の人間の幾人かが同調するように笑い声をあげた。


「黄巾の乱における張伯姫さんたちの責任を、すべて否定するわけではありませんが、黄巾党の軍権が大方たる3人にあったのは事実です。それは、超伯姫さんが離脱を宣したにも関わらず、10万を越える黄巾党の兵士が、大方側についたことからも明らかでしょう。そして、その10万を食い止めるために、張伯姫さんたちが戦ったこと。そして、彼女らのお陰で、大方波才の軍を食い止めることが出来たこと。この2つは天下に隠しようのないことです」
 諸葛亮の懸命な抗弁に、今度は郭図ではなく、その隣にいた人物が口を開く。
 姓は逢、名は紀、字は元図。
「今、口にされたな。責任の全てを否定するわけではない、と。正しくその通り。軍権の有無など、蹂躙された民衆にとっては、何の言い訳にもならぬ。黄巾の乱における張角らの罪科は、ただ一度の勝利程度で償えるものではないわ」
 逢紀の言葉に、郭図が間髪いれずに頷いた。
「然り。ましてや、波才の軍を破りしは、我ら袁家の軍。そなたらは、ただその手助けをしたに過ぎぬ。その程度の功績で、天下の動乱を引き起こした罪が許されると知られれば、今度は、中華全土が無法者たちの手によって騒乱に包まれてしまうだろうよ」


 郭図らの言は暴論というわけではない。
 むしろ、正しい指摘と言っても差し支えあるまい。
 これまで、袁紹側から、張角のちの字も出てこなかったから、正直、油断していた。本気で疑っているかどうかは別にしても、張角たちを取引材料の1つとして利用するつもりで、この場に呼んだのか。
 そして、更に別の人物が口を開こうとした時だった。





 冷静で、それでいて鋭利な口調で、張梁が袁紹の文官たちのさえずりを一蹴する。
「得意げに正論を振りかざして、悦に浸っているところを申し訳ないのだけど。そもそも、あなたたち官の人間が、もっとましな統治を行っていれば、何の問題もなかった。そのことは理解しているの?」
 張梁は、別に興奮しているわけではない。むしろ、その顔は冷ややかですらあった。その怜悧な視線が、郭図らを射抜くように見据える。
「後漢の王朝の統治が、どれだけひどいものだったか、あなたたちは想像もつかないのでしょう。私たちの幼い頃の暮らしは、とてもひどいものだった。あなたたち役人は、税を取り立てるだけで、治安も守らず、盗賊を取り締まることさえしない。飢饉があっても、民のことなど考えもせず、戦争ばかり。なけなしの食料を税として取られ、それさえない人たちは、奴隷のように扱われた。たまりかねて抗議すれば、棒で打たれ、ひどい時には切り殺される……」


 張梁の言葉は、官の横暴を訴えるときに良く用いられる言葉の連なりであり、目新しいものはない。だが、その言葉に込められた現実感は、実際にそれを経験したものでなければ、表現できないものであった。
「姉さんが必死に私たちを養い、そして守ってくれなければ、私はきっと、どこかで野垂れ死んでいたか、奴隷として売られていた。いずれにせよ、今、ここにいることは出来なかったでしょう。その私たちが、あなたたちの言葉に、ひとかけらでも罪悪案を抱くとでも思っているの? ここ冀州で――あなたたちの治める、この地で地獄を見た、私たちが?」
 近くで聞いていたからこそ、おれにはわかった。張梁の語尾が、ほんのかすかに震えたことが。
「そうよそうよ! 偉そうに人の罪を問うなら、まずあんたたちが罪に服してみなさい! 黄巾の乱で民衆が蹂躙された? ふんッ! あんたたち役人は、その何十倍もの人たちを虐げてきたくせに、何を正義の味方みたいな顔でふんぞり返ってるの!!」
 張梁に続いて、張宝が文官たちに指を突きつけ、弾劾の言葉を紡いでいく。
 それを聞いて、郭図や逢紀の顔が紅潮していく。その内容に動揺した――というわけではないだろう。賊徒の首魁に、突然、弾劾された怒りと、そしてその言動の無礼さに立腹しているに過ぎまい。


 会議の場は、一触即発の空気に包まれた。
 すでに、袁紹側の警備の兵士たちは、剣に手をかけている者さえいる。
 ならばこちらも――というわけにはいかなかった。それこそ、向こうに実力行使の口実を与えてしまう。
 とはいえ、どうすれば良いのか。
 南皮城内で、袁紹と敵対するなど自殺行為だが、だからといって張角たちを贄にするなど論外だ。
 これが、劉家軍内のことなら、論理立てて説明すれば、わかってくれる人たちばかりなのだが、あいにく、ここにいる袁紹軍の人の大半はそうではない。故意に難癖をつけてくる相手に、正論を言ったところで意味をなすまい。
 重要なのは、向こうの要求が何なのかを理解することである。
 そして、向こうの要求は見え透いていた。


 おれの思考を読んだように、諸葛亮がゆっくりと口を開く。
「そちらの要求は、張伯姫さんたちの処刑、そういうことですか?」
「……それ以外のものに聞こえたか。そちらこそ、何故、今まで張角を野放しにしておったのだ? 天下万民、これすべて、乱の首謀者の処刑を願っておる。それが出来ぬというのであれば、劉備殿に野心があると思われても不思議はあるまい」
 逢紀の言に、諸葛亮の口許が苦りきった。
「もし、私たちが頷かないときは、黄巾党の勢力を利用して、何事かを企んでいる、と布告するわけですね」
「さて、それはわからん。だが、そのような危険のある人物を野放しにするほど、我らは甘くはない。そなたらと違って、な」
 それに対して、さらに何事か、諸葛亮が反論しかけたのだが――




「あー、もう! ちんたらちんたら! いつになったら、このせせこましい会議は終わるんですのッ?!」
 いきなり、唐突に、袁紹が噴火した。
 何やら、かなり怒っている様子である。これまで、そうとう我慢を重ねていたらしいが、その限界を突破してしまったらしい。
「劉備さんとやら!」
「は、はいッ?!」
 突然の袁紹の呼びかけに、玄徳様は慌ててかしこまった。
「張角さんとやらは、あなたの配下になりましたのよね?」
「え、いえ、配下というか、協力者というか……そう、仲間。仲間になったんです」
「仲間でも配下でも、どちらでも良いですわ! 要するに、黄巾の乱の首謀者を自軍に迎え入れる。あなたはそう仰るわけですわね?」
「はは、はいッ!」
「よろしい! ならば、野心なき証として、琢郡太守の地位は辞退しなさいな。それで、あなたたちに野心がないことを信じてあげましょう。いかがかしら?」


 ――ぶっちゃけちゃいましたよ、この人。
 場に満ちる唖然とした空気の中、おれは額に汗を流す。
 おそらく、袁紹が言ったことは、あちらの郭図やら逢紀やらが、時間をかけて誘導していこうとした結論そのものなのだろう。
 その結論を、いきなり目の前に突きつけられた玄徳様は、目を白黒させていたが、やがて相手の言っていることを理解したのだろう。
 微笑み、そしてあっさりと結論を口にした。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 終即始也(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/17 04:58



「ほんとーに良かったの、玄徳ちゃん?」
 もう何度目の問いかけか。
 張角が玄徳様に訊ねている。
「もっちろん。太守の地位と伯姫ちゃんたち、どっちを選ぶかなんて考えるまでもないでしょ? それより、これでやっと、官軍から追われる危険はなくなったんだよ。私、伯姫ちゃんたちの歌、聞いてみたいなあ」
 張角は、胸の前で両手を合わせ、目をうるうると潤ませていたが、唐突に、ばふっと玄徳様を自分の胸に抱き寄せた。
「うう、玄徳ちゃん、なんて良い子なんだろう。一刀が玄徳ちゃんに仕えるって決めた理由、わかるな~♪」
「う、ぶふ。は、伯姫ちゃん、ぐるじ~~」
 張角の豊かな胸に埋もれて、玄徳様が顔を真っ赤にしている――いかん、なんか見てると色々やばいことになりそうだ。
 おれは、慌てて2人の姿から視線をそらせた。


 そちらでは、関羽と諸葛亮が何やら話をしている。
「――つまり、あれで良かったと、孔明はそう言うのか?」
 憮然とした表情で、関羽が確認する。
 ようやく、主の功績が認められ、一躍太守となれるところを、小人たちによって寸前で妨げられたのだ。機嫌が良かろう筈はない。
「はい。あのまま、琢郡の太守になったとしたら、私たちは袁紹さんの配下として扱われることになったでしょう。その後はどうなったと思われますか?」
「どう、とは?」
 そこまで考えてはいなかったのだろう。関羽が小首を傾げた。
「現在の大陸の状況を考えれば、いずれ曹操さんと袁紹さんが対立するのは不可避です。両者とも、間違いなく天下を巡って、中原で争うことになるでしょう。その時、私たちが袁紹さんの下にいれば、否応無くその争いに巻き込まれます」
 諸葛亮は思慮深い眼差しで、予測を述べていく。
「関将軍の虎牢関での武勇、そして今回の戦いを経て、劉家軍の武名は高まる一方です。袁紹さんは間違いなく、私たちを前線に据えるでしょう。両者の戦いが、1度や2度で終わる筈もなく、その度に、私たちは強大な曹操さんと戦うことを強いられてしまう。やがて力尽きれば、今度は袁紹さんに弊履の如く捨てられるのは明らかだと思いませんか?」
 その推測は、現段階では憶測に過ぎない。だが、それぞれの人物と間近に接したことのある者から見れば、確度の高い推測であると認めざるをえないものだった。


「おそらく、私が会議の席に出られるように取り計らってくれた田軍師は、郭図さんや逢紀さんの差し出口を予期していたのでしょう。仮に玄徳様たちが、伯姫さんたちを切り捨てようとしても、私がそれを止められるようにしておきたかったのだと思います。玄徳様が、伯姫さんたちを切り捨てる、なんてことはありえないですけど、田軍師は直接玄徳様と会ったことはないですから、そのあたりの確信は持てなかったのでしょうね」
 諸葛亮の言葉の意味を悟り、関羽はやや憮然とした表情をする。
「ふむ。では、あちらは、最初から玄徳様を太守にしようなどとは思っていなかった、ということか?」
「おそらくは。あるいは、仮に一時、太守にしたとしても、さきほど言ったように、使い捨てるつもりだったのでしょう。名声のある部下というのは、主君にとっては煙たいものですから」
「当然だ。桃香様と袁紹では比べるべくもない」
 どこか自慢げに頷く関羽に、諸葛亮は小さく微笑んだ。
「郭図さんや逢紀さんは、多分、まだそこまで玄徳様を警戒してはいないかもしれません。ですが、田軍師は、私たちの力量を、ほぼ正確に洞察している筈。その上で、味方に抱えておくには大きすぎると判断し、あえて郭図さんたちの言動を引き出したのでしょうね。もし、私たちがまんまとそれに引っかかれば、その程度の人物だと斬り捨てるつもりだったのかもしれません」


「袁紹軍にいるにしては、物のわかった御仁だと思っていたのだがな。田元皓殿も、そのような小細工を弄する人物だったか」
 関羽の激語に、諸葛亮は、どこか悲しげな眼差しで、力なく応じた。
「田軍師にとって――いいえ、私たち軍師すべてにとって、主君は全ての策の根幹。どれだけの策を講じようと、主君の器に余る策は、自らだけでなく、主君すら傷つけてしまう。だからこそ、時に自らの理想や信念に目を背けなければならない時もあるんです。おそらく、田軍師は私たちと手をとって曹操さんと戦いたかったのでしょう。けれど、袁紹様の器では、それがかなわないことを知っていた。だからこそ――」
 あえて、郭図や逢紀の策謀に目を瞑ったのではないか。
 諸葛亮はそう言って、悲しそうに俯くのだった。




「うーん、軍師とは大変なのだなー。鈴々には出来そうもないのだ」
「……そうですね、張将軍のような明るい方は、軍師には向かないでしょうね」
 諸葛亮の言葉に、張飛は首を傾げる。
「何を言ってるのだ。孔明だって明るいのだ。向いていないっていうなら、きっと孔明も向いてないのだ」
「……え?」
「でも、みんなのために頑張りたいから、目を背けずに頑張ってるだけなのだ。鈴々も、本当は戦いなんてしない方が良いけど、みんなが平和に暮らせる世の中をつくるために、一生懸命戦うのだ。それが、鈴々の誇りなのだ! 孔明は、違うのか?」
 張飛の言葉に、諸葛亮はぽかんとした顔をする。
 明らかに、張飛の言葉は、諸葛亮の予期しないものだったのだ。
「まったく、幼い言動ばかりすると思えば、こんなときは急に真理を衝く。まあ、それが鈴々が鈴々である所以なのだろうな」
 苦笑ぎみの関羽の言葉に、張飛は目を丸くした。
「はにゃ? 鈴々、なんか変なこと言ったか?」
「いや、少しも変ではないぞ。それどころか、正しいことこの上ない。出来れば、普段から、今のような賢い鈴々でいてほしいものだ」
「むー、鈴々は普段から賢いのだ。愛紗の意地悪~」
「その言動の、どこが賢いというの、まったく……」
 関羽と張飛のやりとりを聞いていた諸葛亮の顔に、徐々にいつもの笑みが戻ってくる。
 何の飾りもない張飛のひと言が、諸葛亮の心に巣食っていたしこりを1つ、取り去ってしまったようだった。



◆◆



 おれたちが、南皮城から、琢郡の県城に戻る頃、すでに早馬によって会議の結果を知らされた鳳統たちによって、出立の準備は整えられつつあった。
 出立。そう、琢郡太守の地位を辞退した以上、いつまでも県城に居座るわけにはいかないのである。琢郡の太守はまだ未定であり、今後も袁紹と公孫賛らの間で熾烈な駆け引きが行われるだろう。
 だが、劉家軍はそれをのんびりと見ていることは出来なくなってしまった。
 なんと、袁紹は玄徳様に正式に官位を授けてきたのである。


 玄徳様に与えられた官は「都尉」。
 本来の役職は、太守の下で軍事を司ることである。制度上、太守の下に1名のみの役職であるが、戦が絶えない辺境などでは、複数おかれることもある。
 太守の下で軍事を司るわけだから、かなり重要な役職と言っても良いのだが、当然というべきか、袁紹は実権までは与えなかった。官からの扶持ももらえない、文字通りの名誉職である。
 とはいえ、これまで劉家軍が、無官の軍隊であったことを考えれば、これは大きな前進と言えたかもしれない。
 

 だがしかし。
 この名誉職にはいらない物がついてきた。
 それは「黄巾党残党の掃滅」という任務である。
 袁紹側にしてみれば、たとえ太守の地位を辞したとはいえ、玄徳様のような民衆に人気のある人物が、公孫賛の麾下にいるのは好ましくないのだろう。役職を与え、独立させた上で、他郷に追いやろうとする心底は明白であった。
 ただ放逐するわけではなく、一見、功績に報いると見せているのが、この策の狡猾なところだ。くわえて、その任務が、張角たちの存在と関わりがあるのは明らかで、こちらの謝絶を許さない心算であろう。
 つまり袁紹側はこう言っているのである――張角たちを受け容れた以上、この任務は断れないだろう、と。
 


 玄徳様が太守の地位を辞することを口にした後で、そのことを袁紹側から口にされた時は、関羽と張宝が爆発する寸前になった。
 色々とそれまでの鬱憤が溜まっていたのだろう。
 ところが、これを諸葛亮と張梁の両者はあっさりと受け容れてしまう。言い出した袁紹側の郭図や逢紀も、驚きを隠せないほどの即決ぶりであった。
 何故なら、いまだ黄巾党が猛威を振るうところといえば、青州しか存在しない。青州黄巾党は、波才の誘いに乗らなかったとはいえ、その実力は、波才軍に匹敵するだろうという専らの評判であったからだ。
 その青州を、劉家軍のみで制圧しろ、と言われたに等しいのに、諸葛亮などはむしろ、ほっとしたような雰囲気さえあった。郭図らでなくても、戸惑ってしまうに違いない。
 ともあれ、この2人の決断に玄徳様が首を横に振る筈もなく、おれたちは袁紹側の要求をすべて飲む形で会議を終わらせ、急ぎ、琢郡の県城に戻ってきたのである。




 県城では、留守居の鳳統や趙雲、陳到らによって、すでに劉家軍の再編が済んでいた。
 先の戦いから、更に削って、劉家軍の総兵数は3千。
 5百の兵員をまかなうことさえ、ひーひー言っていた劉家軍が、これだけの兵力を養えるようになった理由は、他でもない、袁紹から物資の供出を約束させたからである。
 玄徳様や諸葛亮らが相手の命令をあっさり肯ったことで、逆にこちらからの要請を、向こうは断れなくなった。そんなことをすれば、袁紹軍の度量の狭さを、諸侯たちの前で公言するようなものだからである。
 それに乗じる形で、資金、糧食、武具などの物資をかっさらった諸葛亮と張梁の手腕は、水際立ったものであった。
 ――率直にそういったら、2人から白い目で見られた。褒めたつもりだったが、そうは受け取ってもらえなかったらしい。
「かっさらうって、褒め言葉だったんですか?」
「遠まわしに、けなしているようにしか聞こえない」
 ぐ。すみませんでした。言われてみれば、確かにそうだな。反省。


 そんなことを話しながらも、合流したおれたちは、様々な雑事にてんてこ舞いであった。
 玄徳様と関羽は、突然の決定に混乱する民衆を説得し、諸葛亮と鳳統は、来るべき戦いに向けて、地図を広げて戦略を練る。将軍たちは、新たな部隊の掌握に忙しく、おれはおれで、田豫と相談しつつ公孫賛から受け取った鐙を持って、騎馬部隊の人たちに説明をしてまわる。軍中からは、張角たちの歌声が早くも響いていた――いや、待て待て、将軍たちの邪魔しちゃ駄目でしょうが、とおれは慌てて止めに走らなければならなかった。




 全てが終わって、上空を仰ぎ見ると、月が冴え冴えとした光を放つ時刻になっていました。
 ああ、疲れた。
 そんなこんなで、おれたちが卓につき、お茶を飲みながら、疲れた身体を癒していると、この刻を見計らっていたかのように、訪問者がやってきた。1人ではなく、2人。
 戯志才と、程立であった。





◆◆





 話がある。そういって、おれたちの前に立った戯志才は、開口一番、謝罪の言葉を口にした。
「これまで、私は偽名をもって貴殿らに対しておりました。その無礼を、心より謝罪いたします」
 深々と頭を下げる戯志才。玄徳様は、はじめ、相手が何を言っていたのかわからなかったようで、ぽかんと口を開けていたが、すぐに慌てて立ち上がると、戯志才に頭を上げるように促した。
「そ、そんなのいいんですよ。何か事情があったんでしょう? 頭を上げてください」
「……かたじけないお言葉です。では、あらためて、名乗らせていただきます」
 そういうと、戯志才は正式な礼をほどこしつつ、その本名を名乗る。


「我が姓は郭、名は嘉、字は奉孝。頴川の産にて、この乱世の真実を見据えるべく、名を隠して諸国を放浪しておりました。風や、星殿と出会ったのは、その旅路でのこと。楼桑村にて、此度の戦に巻き込まれ、貴殿らと共に戦う機会を得た次第にございます」
 その名を聞き、思わず、おれはお茶を噴出してしまった。
「ぶッ?!」
「わッ、一刀さん、汚いなあ、もう」
 げふんげふん、と咳き込みながら、おれは呆れたような玄徳様の声に、応えることもできない。
 か、郭奉孝ですと?
 あの神算鬼謀の代名詞?
 マジですか。
 慌てふためくおれの様子を見て、程立が不思議そうに声をかけてくる。
「? お兄さん、どうしてそんなに驚いているのですか? 稟ちゃんの本名は、お兄さんの特殊な性癖を刺激する何かがあるのです?」
「……それは、嫌ですね」
「どんな変態だ、おれは?! そんなもん、あるわけないだろ! それと戯志……じゃない、奉孝殿も本気で嫌そうな顔しないでくださいよッ」
「ちなみに、風は本名なのですよー」
「問いかけておいて、聞いてもいねえしッ?」
「こう、むらむらと来るものはあるのですか?」
「と思ったら聞いてるのかよ?! とりあえず、おれは名前に興奮なんぞしないわッ!!」
「安心しな、兄ちゃん。人には、誰にだって知られたくないことの一つや二つ、あるもんだぜ」
「人聞きの悪いこと言うな、宝慧ッ!」
 おれと程立の、言い合いだか、じゃれあいだかわからないものを聞きつつ、郭嘉は小さく笑った。
「ふふ、こんな時でも、きちんと風に付き合うあたり、律儀なお人です」


 しばらく後。おれは昼間の疲労もあって、叫びつかれて、卓に突っ伏していた。
 その間にも、郭嘉の話は続いていく。
 郭嘉と程立もまた、趙雲と同じように、この乱世に平安をもたらす英主を求めて、旅をしていたらしい。 中華の各地を周り、何名かは期待できる人物とも出会ったそうだが、決断するには何かが足りなかったのだ、と郭嘉は言った。
「古来より言います。大事を為すに必要なのは、天の時、地の利、そして人の和である、と。地の利は、智謀で補うことが出来るでしょう。人の和は、互いの理解で築くことが出来るでしょう。ただ1つ、天の時だけは、人知人心では如何ともしがたく、ただ天の気まぐれに委ねるしかありません」
 語り続ける郭嘉の目が、勁烈な智略の冴えを示すように、月の光を映して煌々と輝く。
「それ以外のあらゆるものを得ながら、ただ天の時を得ることが出来ず、志半ばで力尽きた者たちの何と多いことか。しかし、私はその者たちの轍を踏むわけには行かない。中華の地を、このまま諸侯たちの勢力争いで荒れるにまかせてしまえば、北に盤踞する騎馬民族たちの侵入を招くのは、火を見るより明らかです。さすれば、我らの子孫は、異族の支配の下、過酷な収奪に喘ぐことになるでしょう。いずれは、民族としての誇りさえ、磨耗させられてしまうほどに」


 よどむことなき言葉の波頭、その一つ一つが、明確な目的意識で形作られ、聞く者の心を打たずにはおかない。
「中華の大地に、強い力を。ゆるぎなき威徳に満ちた国を築き上げ、この地で生きる民の平和と、そして未来を守ること。それこそ、我が願い。天より授かりし私の智は、そのためにのみ振るわれる。そして、そのために見出さなければならなかったのです。天命を見出した、真の主を」


 そういうと、郭嘉は懐から一枚の手紙を取り出した。
 その角が折れ曲がっているところを見ると、そう新しいものではないだろう。
「これは、荀文若殿から頂いた書状です。ご存知の方もおられるでしょうが、文若殿は、曹操殿の軍師。これは曹操殿へ仕えよという書状なのです」
 郭嘉の言葉に、場の空気が瞬時に引き締まった。関羽は、曹操という名を聞いて、反射的に顔をしかめている。
「董卓殿と戦う以前でしたから、まだ曹操殿が大を為す以前のものです。しかし、文若殿のことは、私も良く知っております。あの者は、疑いなく王佐の才の持ち主――」
 もっとも、多少、性格に難があるのですが、とは郭嘉の小声の呟きである。
「その人物が認めたのです。曹操殿が、どれだけの人物かはすぐにわかりました。天下広しといえど、天命を知る人物を探すことは、黄河の流れの中に沈んだ輝石を探すに等しいこと。私は、すぐにも陳留へ向かおうと思いました。ですが、当時の私は、まだ2人、この目で確かめてみたい人物がいたのです」


 1人は袁紹。三公の家柄にして、河北の雄たる実力を持つ諸侯。
 1人は劉備。無名の義勇軍を率い、黄巾賊の大軍を撃破したという、気鋭の将軍。
 
 
 そして、郭嘉は風たちと共に、玄徳様の郷里である楼桑村へ赴き――
「あとは、貴殿らもご存知の通りです。玄徳殿らと、共に戦う機会を得ることが出来たのは、僥倖でした。もう1人の袁紹殿には、まだお会いしておりませんが、しかし、此度の仕儀を見るかぎり、会うまでもないでしょうね――これで、心残りはなくなりました」



 郭嘉は言った。心残りはなくなった、と。
 その言葉は、彼女が劉家軍に残るのならば、出ることはない言葉である。    
 皆、おれと同じことを感じたのであろう。あたりは、しんと静まり返った。
 そして、ゆっくりと、関羽が口を開く。
「――往かれるか、曹操の下へ」
 その問いに、郭嘉は一度だけ、小さく頷くのだった。




 おれは、ひょっとしたら関羽が怒りだすのではないか、と心配したのだが、それは関羽を侮辱する考えであったらしい。
 むしろ、穏やかな表情で、関羽は郭嘉を見つめ、口を開く。
「貴殿には、言葉に尽せぬ恩義がある。曹操の下へ往かれるというなら、止める心算はないが、ただ一つだけ聞かせてもらいたい」
「なんなりと」
 関羽は、一度だけ息を吸い込み、郭嘉に問いかける。
「貴殿は、この乱世を治める未来を、曹操に見られたのか?」
「――然り。されど、誤解なきように言っておきます」
 郭嘉はゆっくりと口を開き――
「私は、玄徳殿にも、天命を感じました。風も言っておりましたが、この乱世に力強く枝葉を広げる桑の大樹の息吹が、この地には満ち満ちておりましたよ」
 笑みさえ浮かべつつ、そう言った。


 関羽は、少し驚いたような表情を浮かべた後、問う眼差しを向けた。
 ならば何故、玄徳様よりも、曹操を選ぶのか、と。
「――もう、猶予はないのです」
 郭嘉の顔に、はじめて、切迫したものが浮かぶ。
 何のことか、と不思議そうな顔をするおれたちに向かって、郭嘉は自らの考えを述べはじめた。
「何の確証もありません。あるいは、私の恐れが呼び込んだ妄想かもしれない――けれど、私は感じるのです。北の方角より、中華の地に向けられる野獣たちの視線を」
 何かに怯えるように、郭嘉は自らの両肩を掻き抱く。
「それは、日を追うにつれ、強くなる一方でした。旅の間も、そして、琢郡に来てからも、その視線がやむことはなかった。そして、此度の戦いでは、相手の息遣いさえ感じてしまうほどに、その気配は濃くなっていきました」
 程立が、そっと郭嘉の手を握りしめる。
 目に見えてほっとした様子の郭嘉を見て、周囲の人間は悟らざるをえなかった。郭嘉は、決して嘘偽りを言っているわけではない、と。


「この乱世が、中華の内部で終息するものであれば、あるいは玄徳殿と共に戦おうと思えたかもしれません。しかし、私はそうは思えない。この戦いは、そんな小さなものでは終わらない。一刻も早く、中華を統べ、そして外なる敵に向かって備えなければなりません。そのために、私は曹操殿の下へ参ります」
 皇帝を擁し、これからその勢力は拡大の一途を辿るであろう曹操と。
 ようやく官位を戴いたものの、未だ領土なき身である玄徳様と。
 同じ天命を感じたとしても、今、両者の力は、圧倒的な開きがある。
 郭嘉の願いが、一刻も早い中華の統一であるのなら、その選択以外はありえないだろう。



 郭嘉の危惧を実感することが出来た者は、おそらくほとんどいなかっただろう。
 だが、郭嘉がどれだけの決意を以って行動しているのかは、この場にいる全員が理解できたに違いない。
 関羽もまた、それ以上、問いを重ねることはなく、ただ郭嘉の決意に頷いてみせるだけであった。





 あたりには、寂寥の気配が漂っている。
 単純な別れではない。この乱世において、別々の勢力に別れるということは、すなわち、今度出会うときは敵同士かもしれないということ。
 まして、玄徳様は、曹操からすでに宣戦に等しい勧告を受けている身。
 次に、郭嘉に出会う時は、おそらく――いや、間違いなく、敵同士になっているに違いないのである。
 今は和やかに語り合うことが出来ていても、次に顔を合わせたときは、互いに殺し合いをすることになるのだ。それが乱世の習いであることを、皆、理解してはいても、やはり寂しさは拭えないのだろう。


 誰1人として、口を開かず、重苦しい空気が立ちこめる中、おれはふと視線を感じて、そちらに目をやった。
 すると、頭に宝慧を乗っけた程立が、不思議なほどに透き通った眼差しで、こちらを見つめていた。
 その目を見て、おれはなんとなく、程立の考えが理解できたような気がした。


「ところで、仲徳殿はどうするつもりなんだ? 奉孝殿と一緒に行くのか、ここに残るのか」
「ほほう。それはつまり、風はおれの魅力にやられてるから、稟ちゃんみたいに出て行ったりできないだろうな、ぐへへ、という意味ですね?」
「……いや、どんだけ曲解すればそうなるんだ?」
「ふむ。すると、おにーさんにとって、風は路傍の花だったということですね。主に気まぐれに手折ったという意味で」
「突然何を言い出すッ?! 誤解を招く言い回しはやめてくれ」
 主に、おれの命の安全的な意味で。なんか数えるのも嫌になる不穏な視線を感じるのですよ。こう、首筋にちくちくと。
「大丈夫です。風はおにーさんに捨てられても、力強く生きていくのですよ」
「さらに誤解を深めてるだろ! ていうか、わざとか、わざとだな、わざとと言え!」
「わざと、ですよ♪」
「しらじらしく語尾をあげるな!」
「むう、言えというから言ったのに、おにーさんは理不尽です。でも、風はそんなおにーさんが……」
「言葉を切るな、顔を赤らめるな、胸を手で押さえるな、いやマジで背後からの重圧が洒落にならないんですけどッ?!!」
「……ぐー」
「おのれはああああッ!!」


 思わず拳を振り上げたおれだったが、不意に、その肩をがしりと捕まれ、即座に身体が硬直してしまった。
 たおやかとも言える優美な手の感触。しかし、そこに篭るは鬼神すら怖気づかせる天下無双の怪力だった。
「北郷殿、少々、お話を聞かせていただいてよろしいですか?」
 にこり、と笑いながら、関羽がおれに話しかけてきた。思わず惚れそうになる可憐な笑みだったが、あいにくと、おれの目は関羽のこめかみがかすかに痙攣しているのを捉えている。
「お断りさせていただきたいと存じますような気がしないでも……」
「快諾していただけて嬉しいです。では、こちらへ」
「いえ、実はこの後、大切な用事が……」
 おれが周囲を見やると、はかったように視線をそらす簡擁と陳到の姿が映った。
 ふ、おまえたちが裏切るのは予測しておるわ! 
 おれが探している人物は……いた!
「国譲!」
「は、はは、はい?! なな、何ですか、北郷さん!」
「この後、重要な打ち合わせがあったよな! そう、主に鐙の一件について!!」
「え、ええ、っと……ありましたっけ? さっき、全部済んだような……」
「あったよな?!」
「ははは、はいぃッ! そ、そうですね、ありました。あったような気がしてきました、はい!」
「そういうわけで、残念ですが関将軍、お話はまた今度……」
 などとおれが言い訳していると、のんびりした様子で田豫のところに歩み寄る人が1人。
 張角だった。


「ねえねえ、田くん。ほんとに一刀と約束があるのかな?」
 にっこりと微笑みつつ、田豫の身体にもたれかかる張角。
 田豫は女性の柔らかい感触に、たちまちのうちに頬を紅潮させ、しどろもどろに口を開いた。
「え、いえ、えっと、はい、多分、あった……と思います」
「んー、本当に?」
 張角は更に身体を寄せ、田豫の腕を抱え込む。田豫、頬どころか、すでに顔中が真っ赤である。
「う、いや、その、もしかしたら、なかったかも……」
「どうやったらちゃんと思い出してくれるかなー……こうかな♪」
 ぐいっと田豫に顔を寄せる張角。いや、マテまて待て。それは危ないかも知れない。主に田豫の純情的意味で。


「…………ふぅ」
 ばたり、と糸の切れた人形のように崩れ落ちる田豫。
「――疲れが溜まっていたのね。陳将軍、部屋に運んであげてもらえますか?」
 いつのまにか近づいていた張梁が言うと、陳到は一考もせずに頷いた。
「承知。憲和殿、お力添えを願えるかな」
「うむ、もちろんだ。すぐにも部屋へ運んで、安静にしてやらずばなるまいて」
 おお、男2人で運ぶから、早いこと早いこと。たちまちのうちに、3人ともこの場から姿を消してしまいましたよ。


 くぅ、やはりまだ耐性が足りなかったか。しかし、田豫、お前の死は無駄にはしない。男、北郷一刀、みごと美髪公 関雲長の戒めを突破してみせようぞ。
 関羽の手の力が弱まった瞬間を見越し、おれはその手を払いのけて、逃走しようと試みる。
「隙あ……」
 り、と言うことも出来なかった。肩に置かれた手を払ったと思った途端、今度は素早く腕を抱え込まれ、身動きとれなくされてしまう。
 おれのたくらみはわずか3文字喋る時間しか稼げなかった……いや、それはそれとして、関将軍、あの、この体勢だと、腕に胸の感触がものすごいダイレクトに感じられちゃうのですが?
「こうでもせんと、また逃げようとするだろう、おぬしは」
 う、いや、まあ、その通りなんですけどね。
「――もう逃げないでも良い。そなたの意気に免じて、許してやろう」
「……あー、もしかして、ばれてます?」


「いやいや、なかなか真に迫った役者ぶりであったぞ。ほとんどの者は気づいていないのではないか?」
 おれの問いに答えを返したのは、関羽ではなかった。
 苦笑まじりにおれは、その人物に話しかける。
「子竜殿には、お見通しのようですが」
「ふふ、風や稟とは共に旅をした仲ゆえな。本気の言かどうかくらいは察することが出来る。逆に雲長殿は、そなたの言の真偽くらいは見抜ける、というところだろう。その程度には思いが通じ合っているということだ。ふむ、めでたい」
 感心したような趙雲の声に、関羽がやや頬を紅潮させつつ、反論する。
「なな、何がめでたいのだ、何が?!」
「いや、そなたの成長がさ。このどさくさにまぎれて、北郷殿との仲を深めようなど、とても楼桑村で私の助言を請うた者とは思え……」
「えーい、いつまであの時のことを出汁にすれば気が済むのだ、貴様は?!」
 何やら言いかけた趙雲に対し、関羽がその言葉を遮るように声を高めた。
 いや、何の話かはよくわからないんですが、とりあえず腕が痛いです、将軍。なんかみしみしと鳴って……
「ほほう、幽州の青龍刀ともあろう者が、こうも簡単に恩を忘れるか。少々興ざめだな」
「なに、常山の趙子竜ともあろう者が、小さな恩をいつまでも鼻にかけるほどではなかろう」
「あ、あの、2人とも、ここは一つ穏便に……」
 だが、2人ともおれの言葉など聞いちゃいねえ。
「丁度良い。一度、そなたとは本気でやりあってみたかったところだ」
「それはこちらの台詞だ。そなたの槍を叩き落し、その増上慢に灸を据えてやろう」
 いや、2人して気合を入れるのはいいんですが、関羽はおれの腕を放してからにしていててててッ?!







 北郷の悲鳴があたり一帯に響き渡る中、程立はのんびりと茶などすすりつつ、劉備に別れを告げていた。
「そっかー。仲徳さんもやっぱり行っちゃうんだね」
「はい、稟ちゃんは放って置くと、まだまだ危なっかしいですし」
「でも、なんかすごい状況になっちゃったけど、こんなお別れで良いの?」
「しめっぽいお別れは御免なのですよ。きっと、私たちのお別れは、こんな風に騒々しいくらいが丁度良いのです。それに――」
 程立が、ふと遠い眼差しをして、夜空に視線を向ける。
「それに?」
「風は思うのです。この地で、おにーさんや、おねーさんたちと出会えたのは、天命なのだと」
「天命?」
「はい、稟ちゃんほどではないですが、風も感じることがあるのです」
 程立の言葉に、玄徳様がため息まじりに問いかける。
「天命かー。だとしたら、私たちは、また一緒にこうやって笑ってお話することが出来るかな?」
「きっと出来るのですよー。風が心配なのは、むしろその時までおにーさんが無事でいられるかどうかなのです」
 ちょうどその時、再び北郷の悲鳴が響き渡った。何故だか、関羽にひっついたまま、趙雲の槍をかわしている。あ、かすった。
「ああ、それは……うん、気をつける」


「……そこで真顔で頷かれてしまうおにーさんが、風は本気で心配なのですよ」
 あながち、冗談でもなさそうな顔で、程立はこっそり呟くのだった。






 新たに加わる者。
 この地で去る者。
 人は、それぞれの道を歩んでいく。
 劉家軍もまた、新たな陣容で、新たな戦いに向けて、軍旗を南へと進めようとしていた。
 

 そして、時を同じくして、琢郡の東西で、今後の劉家軍に――引いては、中華帝国の未来に関わるであろう出来事が同時に起こっていた。




◆◆



 琢郡の西、名も分からぬ山中にあって、黄巾党大方の1人である波才は、荒い息を吐きながら地面に座り込んでいた。
 気がつけば、部下の1人も周りにはいない。1人残らず討ち死にしたか、あるいは逃げ出したか。どちらでも、波才にとっては大差ない。どの道、北方に逃げるためには、部下など足手まといになるだけだからだ。
「ふん、馬の一頭もいる方が、よほど役に立つというものだ」
 はき捨てるように、また自らを鼓舞するように、波才はそう言うと、身体を起こす。
 追撃に次ぐ追撃、戦闘に次ぐ戦闘で、さすがの波才も、すでに体力が尽きかけていたが、まだ気力は尽きていない。
 匈奴の血を継ぐゆえに漢族に疎まれ、漢族の血を継ぐゆえに匈奴に疎まれた不条理を糧として生きてきた。この程度の敗北で、心が折れることはない。
 不意に、すぐ背後で草を踏む音が聞こえ、波才は驚いて振り返る。いかに疲労していたとはいえ、山中で物音一つ近づいてくることが出来る筈が……
「……貴様か、今さら何をしに来たのだ」
「ご挨拶だな。こちらの仕込みを台無しにした奴の台詞とも思えん」
 明らかに波才より年少でありながら、波才よりもはるかに透徹した眼差しを持った若者――左慈は、波才につまらなそうに答えを返した。


「随分と痛めつけられたようだな」
「ふ、敗残の身を哂いにでも来たのか」
 頬を歪ませた波才の言葉に、左慈はそっけなく答える。
「あいにく、そこまで暇ではない」
「では、何用だ。貴様らの望みが何なのかは結局わからなかったが、今のおれに渡せるのは、精々、この命くらいのものだぞ。それとて、容易く渡す気はないがな」
 鋭い視線を放ち、腰間の剣に手を伸ばす波才。
 だが、左慈は波才の殺気に反応しようとはしなかった。
「まだ、野性を失ってはいないようだな。もっとも、そうでなくては、意味がない。貴様には、もう少し足掻いてもらわねばならん」
「……何を言っているのだ、貴様は?」
「簡単なこと。貴様を逃がしてやろうと言っているだけだ」
 訝しげな顔をしていた波才の顔に、深刻な疑惑が刻まれていく。
 元々、目の前の者たちが、得体の知れない連中だということは理解していた。だが、それにしても、今の言葉は等閑に出来なかった。


「今のおれは、すでに一兵もいない。そんなおれを逃がしたところで、どうなるというのだ」
「匈奴の王の近くに、漢の情報を知る者が出来る」
「……貴様、漢に恨みがあるのか。であれば、何故、袁紹のことを知らせなかった? どうせ、貴様らは気づいていたのだろう」
 波才の言葉に、左慈はつまらなそうに、首を縦に振る。
「ああ。だが、すでに公孫賛の動きは封じてやっていたのだ。この上、袁紹の情報まで教えるなど、そこまで手取り足取り、戦の指南をしてやらなくては勝てないとは思わなくてな」
「ふん、返す言葉もないとはこのことか。しかし、ならばおれなど見限れば良いだろう。貴様ほどの手練だ。単于の傍近くに座することも、不可能ではあるまい。漢に恨みがあるならば、己の手で晴らせばよかろう」
「おれは誰の下にもつかん。まして、漢など知ったことではない。おれの望みはただ一つ。この外史を終わらせることだ」


「外史、だと?」
 聞き覚えのない言葉に、波才が眉をしかめる。文字はわかるが、その意味するところがわからない。外れた歴史、とは何のことか。
「……貴様が知る必要はないし、知ったとて意味をなさん。今、貴様が考えるべきことは2つ。おれの助けを得ずにここで死ぬか。それともおれの助けを得て、ここから生きて出るかだ」
 左慈の問いに、波才は瞑目した。
 確かに、今は余計なことを考えず、生きることのみを考えるべきか。この左慈という男を信用したわけでは決してないが、不思議とこちらに害を為すとは思わなかった。
 どのみち、このままでは命が危ういのだ。仮に罠にかかったところで、大して違いがあるわけでもない。
 そう考えた波才は、左慈の問いに応じて、答えを口にした。





 波才を導いた後、左慈は1人山中に留まり、何事か思案し続けていた。
 不意に。
 その左慈に向け、虚空から声がかかる。
「……『おれの望みはただ一つ、この外史を終わらせることだ』ですか?」
「……于吉か」
「まったく、相変わらず個人での行動が好きな人ですね。探すのも一苦労ですよ」
 左慈からやや離れた空間に、湧き出るように于吉の姿が現れる。
 左慈の目が、皮肉な光を帯びて、于吉に向けられる。
「それで、覗き見をしていた成果はあったのか」
「ええ、まあ。何故、袁紹の件を波才に知らせなかったのかは、私も疑問に思っていたのですよ。その謎がとけただけでも、成果はあったというべきでしょうね」
「ふん。仮におれが伝えていたところで、あそこまで戦略で詰められていれば、波才の軍では対応しきれんだろう。むしろ、正面から劉備の軍を破る可能性の方がまだしも高い」
「だから、あえて波才に伝えず、正面から劉備と戦わせたというのですか? ふふ、左慈、あなたは心に沿わぬものを言う時は、いつも長広舌になる」
 于吉の言葉に、左慈の目がすっと細まった。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ。波才には手を貸す。けれど一定以上は手を出さない。それで北郷が敗れればそれまで。仮に北郷と、その仲間が、その危機を乗り越えるようならば、再び自分の前に立つ可能性も出てくる。あの時の再戦を望むあなたにしてみれば、後者の方が都合が良かったのでしょう?」
 于吉の物言いに、左慈は強く舌打ちしたが、推測それ自体を否定しようとはしなかった。


「ただ、ここまでは、事の前から推測はしていました。ですが、先刻のあなたの言葉を聞いて、もう一つのことも、分かったような気がします」
 于吉の言葉に、左慈は何も答えない。
 彼方に視線をやりつつ、于吉の言葉にいかなる反応も見せようとはしない。
「――一つだけ問います。あなたは、本当にそれで良いのですか、左慈?」
「――問いの意味がわからんな」
「かつては曹操ほどの者さえ操った我らが、今は波才如きですら操れない。泡沫の如く、現れては消える外史の流れの中、我らの力は弱まる一方……いえ、あなたはそれとは逆に考えているのでしょう。だからこそ、異なる方法で外史を終わらせようとしている。違いますか?」
「意味がわからんと言った筈だ。だが――」
 ようやく、左慈は視線を于吉に戻す。
 その視線を受け、はじめて、于吉がかすかに動揺の気配を示した。
 何故なのかは、于吉自身にもわからなかったが。 
「于吉、おれはおれの望みどおりに動く。そのことは、お前が最も良く知っているだろう」
「――ええ、そうですね。あなたはそういう人でした」
 そういうと、于吉はほぅっと小さく息を吐く。


 しばらく、2人の男たちは言葉もなく、その場に佇んでいたが、やがて、于吉が小さく肩をすくめて、口を開いた。
「あなたが、あなたの望みどおりに動くというのなら、私も私の思うとおりに動いてみることにしましょう。その結果が、あなたの望むものとは異なるものになっても、恨まないでくださいよ」
「何度も言わせるな。おれの望みは外史の終焉。そのためならば手段は問わん……」
「ふふ、そうでしたね……」


 その言葉を最後に、2人の姿はかき消すように、その場から消えていく。
 後には、ただしずかに葉を揺らす山の草木があるだけであった。




◆◆




 琢郡の東。
 青州北海郡太守 孔融の本城。
 今、城は、無数とも思える黄巾賊に囲まれ、文字通り蟻の這い出る隙間もない状況であった。
 眼下に黄巾党の姿を見下ろしながら、太守 孔融はもう何十度目かも分からぬため息を吐く。
 すでに、城がこの状況に陥ってから、1ヵ月近くが経とうとしていた。


 事の起こりは、1ヶ月前。孔融の下に、城外で黄巾賊が暴れている、との情報がもたらされたことに始まる。
 孔子20世の子孫として知られる孔融は、すでに文人としては高い評価を得ていたものの、太守としてはさほどの評価を受けてはいなかった。ただ、それは高い学識が、時に現実よりも理想を選んでしまうという意味での評価であり、孔融自身が臆病であったり、あるいは怠惰であったりしたわけではない。
 報告を受けた孔融は、早速、自ら兵を率いて城外に出陣する。危急の時に備えて、兵力を揃えておいた孔融は、確かに無能ではなかったと言って良い。
 しかし、民を助けようと急ぐあまり、罠への備えをしていなかった一事は、非難されてしかるべき落ち度であったろう。
 青州黄巾党を率いる管亥は、この孔融軍の後背を襲い、一戦でこれを撃滅。ただちに全軍を率いて、北海城を囲む。


 孔融はかろうじて城に逃げ込んだものの、軍の主力はすでに壊滅状態であり、城門を守って、賊の侵入を防ぐしか術はなかった。
 黄巾党の攻撃を凌ぎつつ、孔融は城外へ救援を求める使者を幾人も出したのだが、管亥の重囲を越えることが出来た者は、ただの1人もいなかった。
 備蓄していた食糧も、1ヵ月に渡る篭城によって、大きく減じている。すでに、城内の一部では飢えによる死者も出たという。孔融は何とか状況を打破しようと、日夜、配下と共に対策を練ったが、現在の戦況を覆すに足る名案が簡単に出るはずもなく、今日もまた、黄巾党の攻勢を、ただただ耐え凌ぐことしか出来なかった。



 戦況に苦悩する孔融の下に、1人の少女が声をかけてくる。
 鮮やかな金色の髪と、蒼穹のような碧眼を持つその少女の名を、無論、孔融は知っていた。子のない孔融が、かつて養子としたいと申し出たこともある少女である。
「どうしたのだ、慈よ。このようなところまで来て?」
「お忙しいところ、申し訳ありません。是非とも、太守様のご許可をいただきたく参じました。どうか、城外への使者に、私を用いて頂きたく」
 それを聞き、孔融は最初、目を丸くしたが、すぐに慌てて首を横に振る。
「何を申すか。そなたは弓馬の腕に優れているとはいえ、女子の身。まして、武官として仕えているわけでもないのだ。そのような危険な任務、任せることが出来るわけなかろう」
「しかし、皆、申しております。このままでは、黄巾賊が城内になだれ込んでくる日も遠くない、と。この身は、祖母ともども、太守様のご恩によって、ここまで不自由なく生活させて頂いていたのです。今、恩を返さずして、いつ返すことが出来るのでしょうか」
 少女の言葉に、孔融は口許に苦みを見せた。
「……そうか、そのようなことが言われておるのか。わしが不甲斐ないゆえ、そなたたちには苦労をかけてしまうな。だが、それとこれとは別ぞ。それに、わしは恩を売りたくて、そなたと祖母君を城に迎え入れたわけではない。そなたの孝心に心打たれただけのこと。それに、子のないわしにとって、そなたは我が子の如く感じられるのじゃ。そのような恩に報いる、などと言うてくれるな」
「……太守様、我が身に過ぎるお言葉、もったいなく存じます。されど、ならばなおのこと、この身を使ってくださいませ。死を賭して、必ずや包囲を抜け、援軍を連れて戻ってまいりますのでッ」
「ならぬ。そなたは未だ戦場を知るまいが、あれはそなたが想像しておるような綺麗な場所でも、気高い場所でもないぞ。ただただ血生臭く、欲望が漂うだけの場所だ。そなたのような見目良い女子であれば、なおのこと、戦場は悲惨な面を見せるだろう。今のそなたに、死よりつらいものがあると言ってもわかるまいが、戦場とはそういう場所なのだ。そのような場所にそなた1人が赴いて、何が出来ようか。祖母君を悲しませるつもりか?」
 祖母の名を出され、少女は小さく息をのむ。 
 その隙に、孔融は再度、首を横に振ると、背を向けて歩き去ろうとする。
「太守様!」
 その背に向かって、なおも少女は呼びかけるが、孔融は決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「よいか、慈よ。決してならぬ。案ぜずとも、わしが何とかしてみせよう。そなたは祖母君と共に、家で待っておれば良い」
 回廊に残ったその声は、孔融の意図とは裏腹に、ひどく頼りないものとして、少女の耳に虚ろに響くのみだった。





 城から下がった少女が自宅に戻ると、いつものように帰宅の挨拶をするが、元気良く返って来る筈の祖母の返事が、今日に限ってない。
 篭城が続き、日々の糧も減る一方とあって、最近は祖母の体調も思わしくないため、もしや、また寝込んでしまったのか、と慌てて祖母の部屋の扉を叩くも、返事がない。
 一瞬、最悪の想像がよぎり、慌てて部屋に飛び込んだが、そこにも祖母の姿はなかった。
 安堵のあまり、床に両膝をつきつつ、少女が祖母の行き先を推測していると、物置としている部屋から、何やら賑やかな音が響いてきた。それにまじって「あいやー」という悲鳴も。
「……」
 少女はこめかみをほぐしつつ、騒乱罪の現行犯を掴まえるべく、立ち上がった。


「おばあちゃん、何してるの、こんなところで!」
 腰に両手をあてて、いかめしく怒る孫娘を前に、祖母は悪気のかけらも浮かべず、口を開く。
「おう、慈や。ちょうど良いところに。この鉄屑をどけてくれんか」
「……確か、古の項羽の愛剣とか言ってなかったかしら、この剣?」
 そう言いながらも、少女はあっさりと巨大な鉄塊をどける。
「気のせいじゃよ。おう、あと、そこのぼろい槍もどけとくれ」
「……これは、たしか楽毅将軍の使った槍とか聞いたのだけれど」
 よいしょ、と軽い掛け声だけで、旧いとはいえ、重量のある豪槍を少女はどけてしまった。
「夢でも見たんじゃろ。ふぅー、ようやく抜け出せたわい」
「……なんでこんなものに潰されてるのに、そんなに元気なの?」
「なんじゃ、冷たい孫じゃな。わしが怪我でもすればよかったと思うとるんけ?」
「そんなわけないでしょ! ただ、なまじ最初に心配した分、色々と思うところがあるのよ」
「ほう、ほう。そなたもとうとう色気づきおったか。花の命は短いものじゃ。とっとと良い男を見つけて、わしにひ孫の顔を見せとくれ。弓馬の腕があがっても、男はつかまえられんからのう」
「う……そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ほら、危ないからさっさと出る……って、おばあちゃん、何を持ってるの?」
 物置から出た祖母が、何やら長大な木の箱を抱えているのを見て、少女は不思議そうに問いかけた。


「ふむ、よくぞ聞いてくれた、これはの」
 そういうや、祖母は箱を開ける。
 中から出てきたのは――
「……弓?」
 白銀がちりばめられた、見るからに豪壮な弓が、そこには収められていた。
「そう。我が家に伝わる家宝さ」
 驚いただろう、と言わんばかりに胸を張ってみせる祖母。腰の一つも曲がっていない、矍鑠たる格好であった。
「確かに性能のよさそうな弓だけど……今度は、一体、誰の持ち物だって言うつもり?」
「ふふ、あいにくと、これにはそんな立派な由来はないさ。言っただろう、我が家の家宝って。我が家の先祖に、有名人なんていないだろ?」
「そんなに胸を張ることじゃないと思うけど。うん、いないね、1人も」
「そういうこと。そんなわけで、こいつはまだ世間的には無銘の弓さ。いつか、こいつの本当の使い手が現れたとき、そいつの名前を冠することになるだろうよ」
 祖母はそういうと、ほい、とその弓を少女に渡す。
「つまりは、あんたの名ってことだけどね」


「……え? どういうこと?」
「とぼけるんじゃない。最近のあんたの様子を見りゃ、何を考えているのかなんてすぐにわかるさ。伊達に長生きしちゃいないよ」
 そう言いつつ、少女を見やる祖母の目は、もう笑ってはいなかった。
 決して平穏とはいえなかった後漢の時代を、長く生き抜いてきた賢人の瞳が、そこにはあった。
「正直、孔家のぼっちゃんじゃきついだろうな、とは思ってたのさ。とはいえ、誰か1人くらい、人物がいるだろうと思ってたんだが……いやはや、北海城も、人材がいないねえ。まさか、こんな早くに、珠玉の孫を送り出すとは思ってなかったよ」
「お、おばあちゃん、でも……太守様は駄目だって……」
「ああ、そりゃそうさ。あのぼっちゃんは、まだまだ乱世がわかってないからね。多分、一生わかんないだろうよ。本人はわかった気になってるが、ありゃあ、書物と、ほんの少しの現実を、すべてだと考えているだけさね。だから、いまだに自分が何とか出来ると思ってる。あんたの言葉なんか、聞く筈がない」
「じゃあ?」
「このままじゃあ、遠からず、賊軍は城内になだれこんでくるだろう。あたしゃ、もう十分に生きたから、いつ死んだとしても大して違いはないが、他の奴らは、そうはいかんさね。なんだかんだ言っても、孔家のぼっちゃんには恩があるし、ご近所様には色々と世話になった。見捨てるわけにもいくまい?」


 祖母の言葉に、少女は何度も頷く。
「そ、それはもちろん、そうだけど。でも、私が1人で援軍を求めに行っても、太守様の書状もなしじゃあ、相手にしてもらえないと思う」
「ああ、そうだね。最悪、賊軍の仲間だと思われるかもしれない。だからといって、あのぼっちゃんが現実を受け容れるまで待っていたら、城が陥ちちまう。どっちの可能性がよりマシか、っていう問題なのさ」
 祖母の言葉に、少女は考え込むように俯いた。
 だが、答えは一つしかない。太守の性情については、祖母と同じくらい、良く知る少女だった。


 顔を上げた少女の表情を見た祖母は、満足そうに頷くと、すぐに準備にとりかかった。とはいっても、この時あるを予期して、すでにほとんどの準備は終わっていたのだが。
 半刻後には、凛々しく軍装を整えた少女の姿が、祖母の前にあった。
 少女の鎧が、わずかに大きいのは、まさかこれほど早くに、乱世の波が青州まで押し寄せてくるとは思っていなかったためか。


 わずかに離れて、少女の様子を眺めていた祖母は、目を細めた。娘夫婦亡き後、手塩にかけて育て上げた孫娘の雄姿を、目に焼き付けるように。
 そして、出立を前にした少女に、祖母は一つの言葉をかける。
「良いかい、慈や。これから言うことを、決して破るでないよ」
「は、はい。どういったことですか?」
「まず、必ず包囲の兵を破りな。その弓を捨てたって良いし、腰の金なんて放り投げたってかまわない。ただあんたの命だけは失わず、賊軍を破るんだ」
 祖母の真剣な瞳に、知らず、少女の顔が引き締まる。
「――はい」
「次に、包囲を破ったら、がむしゃらに近くの城に行かず、きちんと情報を集めるんだ。援軍が来た。負けました、じゃ話にならない。青州の黄巾党は精強だ。そこらの将軍じゃ、返り討ちになっちまうだろう。そうすれば、無駄な犠牲が増えるだけだからね」
「わかりました」
「そして最後に。もし、あんたの目から見て、勝ち目がある軍がいないようなら、もしくはいても、あんたの話に聞く耳もってくれないのなら、その時は――あたしのことも、この城のことも捨てて、逃げな」


 少女は、何を言われたのかわからないように、目を瞬かせた。
「――え?」
「いいね。逃げるんだ。もう、この城は長く保たない。最悪の場合、あんた1人でも生き延びな」
「お、おばあちゃん、何を言い出すのッ?! そんなこと、出来るわけが――」
 ない、と叫びかけた少女は、眼前の祖母の目を見て、はっとその言葉を飲み込んだ。
 飲み込まざるをえないほどに、太史家の現在の家長の目は、厳しかった。
「慈や」
「は、はい」
「あんたの姓と名と、字と真名を、言ってみな」
 ごくり、と少女は息を飲む。
 そして、ひと言ひと言、区切るようにはっきりと、言われたことを口にする。


「我が姓は太史、名は慈、字は子義。真名は志遂です」


「そうだ。あんたは太史家の血を継ぐただ一人。その名は今は亡きあんたの両親が、あんたに授けたもの。その字は、親の遺した名を見て、あんたが決めたもの。その真名は、言うまでもなくあんた自身だ――あたしが言いたいことが、わかるかい?」
「……はい」
「よろしい。それは、どれ一つとして、ここで朽ちさせてはならないものだ。何があっても、それだけは決して忘れるんじゃないよ」
「……わかりました」


 瞳に涙を浮かべた孫娘を見て、祖母は、それまでの厳しい表情を一変させ、笑みを見せる。
「何を辛気臭い顔をしとる。要は、あんたがさっさと強い援軍を連れてくれば、みんな笑い話で終わることだろ。ほれ、しっかりせい」
 そういって笑顔を見せる祖母に、少女――太史慈は、瞳に涙を称えながらも、なんとか微笑んで見せるのだった。





 この地で何十年も生きてきた祖母にとって、北海の城は我が家のようなもの。その人脈を使えば、少女の1人をこっそり外に出すことは可能であった。
 当然、話を聞いたすべての者に反対されたのだが、それは一喝で退ける。
 そうして闇夜の中、孫娘を、黄巾賊の居並ぶ城外に送り出した祖母は、家へと帰る道すがら、空に浮かぶ月に向かって、寂しそうに語り掛けた。
「まったく、娘夫婦に先立たれた上は、せめて孫娘に見取られて逝きたいって願いくらい、かなえてくれてもよさそうなもんじゃないかね。どこの誰だか知らんが、何が楽しくて戦なんぞ起こすのか。あの子だけは、平穏に、幸せに生きてもらいたかったんだがねえ……」
 ほぅ、とため息をつくと、祖母は急に老け込んだように見える小さい肩をすぼめた。
「……願わくば、あの子を託するに足る男が、あの子の前に現れてくれるように……まあ、こんな婆のお願いを聞き届けてくれる物好きな者はおるまいがの」
 その声は、北海城の闇の中に、わずかの間、たゆたい、そして、誰の耳にも触れることなく、宙に溶けていった……






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 各々之誇(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/03/19 05:56




「本当によろしいのですか?」
 周りに馬を並べる兵士たちに、太史慈は困惑しながら問いかける。
 兵士たちは、太史慈とは立場が違う。太守の許可を得ずして城外に出るのは、紛れもない軍令違反である。下手をすれば、死罪になりかねない重罪だ。
 だが、それを知ってなお、兵士たちの行動は変わらない。
「そもそも、我らが至らないばかりに、北海は滅亡寸前まで追い詰められているんだ。その危機を救おうとする君に、協力するのは当然だろう」
 先刻、太史慈の祖母に一喝されたその兵長は、長い篭城の心労でやつれた顔に、かすかに苦笑を浮かべる。
「君のおばあさんの言っていた通りだよ。何もしようとしない者が、何かをしようとする者を止めることはできない。まったく、返す言葉がなかったな」
「す、すみません。祖母が失礼なことを……」
「なに、おかげで自分たちのなすべきことがはっきりわかったんだ。感謝こそすれ、怒る筋合いはないさ」
 兵長の言葉に、周囲の部下たちも、それぞれに頷いた。


 恐縮する太史慈を見て、兵長は強面な顔に、意外に柔和な笑みを浮かべた。
「しかし、お嬢さん、随分、豪壮な弓を持っているが、失礼だが扱えるのかい? いや、君が弓馬の扱いに優れているのは、馬の乗り方を見ればわかるんだが、少し君には大きすぎないかな」
「そう見えますか。私としては、むしろ重さといい、大きさといい、丁度良いくらいなんですけど」
「ほう……」
 言葉どおり、兵長は太史慈の外見や性別に相応しからぬ実力を、察してはいた。
 だが、首を傾げつつ、傍目にも重量のあると思える豪弓を軽々と扱う少女を見て、自分が彼女をまだ見損なっていたことに気づく。
 それに――
「どのみち、今更言っても手遅れかな」
「はい、そのようです」
 2人の視線が、群がる黄巾党の陣容に向けられていた。
 包囲軍の間隙を縫う形で馬を進めてきた太史慈たちだったが、これ以上の接近は、確実に相手の警戒網に引っかかってしまうであろう。いよいよ、本当の意味での脱出の難事が始まろうとしていた。




 当初、太史慈は黄巾党の兵のふりをして、行けるところまで行こうと考えていた。黄布を頭に巻けば、連中は敵味方の区別はつけられないだろうと、そう考えたのである。
 だが。
「私のような若輩が考え付くということは、他の誰でも考え付くことだと気づいたのです。黄巾党が、その備えをしていないとは思えません。現に、これまで包囲を抜け出た人がいないのならば、なおのことです」
 太史慈の言葉に、兵長は難しい顔で頷いた。
「確かにそうでしょうな。では……」
 降伏を装うか。あるいは、この10人の集団を囮と本隊に分けるか。兵長の頭に様々な考えが過ぎる。ただ1人でも、黄巾党の包囲を突破出来れば、それで良い。そのために犠牲になる覚悟は、あの烈女に一喝されたときから、出来ていた。
 だが、そんな兵長の決死の覚悟をよそに、太史慈はきっぱりと言い放つ。
「そうです。小細工はいりません。正面突破、あるのみです」
「……は?」
 思わず、間の抜けた顔をしてしまう兵長であった。






 姿を隠すこともなく、堂々と城の方向から、馬を進めてくる集団を見ると、咄嗟に黄巾党の兵士たちは、自分たちの得物に手を伸ばした。
 だが、武装しているとはいえ、相手がこちらと戦おうとする素振りさえ見せないのを見て、首を傾げる。
「おい、なんだと思う?」
「さてな。城側からの使者か、もしかしたら、降伏かもしれん。ただ、そう見せて突破しようとしてくる可能性もある。十分、注意しろよ」
「おうよ。折角の勝ち戦だ、死んじまうのはもったいないからな」
 言いながら、兵士たちは、声高に呼びかけを行う。
「そこの奴ら、止まれ! ここから先に踏み込めば、死あるのみぞ。何ゆえにここに来たのか、目的を言えッ!」


 だが、制止の声にも関わらず、相手は止まる気配を見せない。
 ただまっすぐにこちらに向かってくる相手の様子に、黄巾党の兵士たちが武器を抜こうとする、その刹那。
「あなたが、この部隊の長ですか?」
 はじめて、敵の先頭を歩く者から声がかけられた。
 その声が少女特有の高い響きを帯びていたので、戦意を高めかけていた兵士たちは、気組みを挫かれ、顔を見合わせる。
 声をかけられた長が、訝しげに口を開いた。
「いかにもその通り。重ねて問うが、何用か。使者ならば、話を聞くのは降伏のみだぞ。助命も、和平も、我らはいずれも受けることはない」
「使者ではありません。訊きたいことがあるだけです」
「ほう、それはかまわんが、見逃せというのは聞けぬぞ。ここより先を通ることに関しても――ここから後に引き下がるに関してもだ!」
 長の言葉とともに、周囲の兵士たちは散開し、少女らを取り囲む。少女たちが、城に引き返そうとしても、逃がさないように。


 少女――太史慈は、周囲を取り囲まれたことに動揺することなく、淡々とした口調で問いを続ける。
「あなたにお子さんはいますか? 親や兄弟はいますか?」
「む? それはもちろんいるが、それがどうしたのだ。まさか、家族のために、人殺しなどやめてくれ、とでも言うつもりか?」
 あざ笑うというより、むしろ苦笑に近い表情を浮かべた長に、太史慈は首を横に振る。
「では、部下の方にお願いいたします。ご家族の方に伝えてください。父を、子を、兄弟を殺した者の名を」 





「我が姓は太史」
 家宝の弓を構える。半瞬にも満たぬ間に。
「名は慈」
 矢を番える。刹那のうちに。
「字は子義」
 弦を引く。強弓が、瞬く間に満月の如く引き絞られる。


「これより、あなたたち黄巾党の陣、押し通らせていただきます!」
 放たれた矢は、狙い違わず、敵兵の長の眼窩に突き刺さり、瞬時のうちに、その頭蓋を打ち砕いていた。





 太史慈のあまりの早業に、一瞬、黄巾党は何が起きたのかを理解できず、空白の時を招く。
 どさり、と奇妙に軽い音がしたのは、馬上からくずれおちた敵の長の身体を、地面が受け止めたためだった。
 その音で、周囲の情景が、音を立てて動き出す。
 ようやく事態を飲み込んだ黄巾賊が、怒りの声を挙げ、武器を振り上げて殺到してこようとする。
 だが、その間に、すでに太史慈は二の矢を番え終えている。おそらく副官だと思われる長の傍らにいた兵を、これも一矢で馬上から転落せしめると、馬を駆って、正面から突っ込んでいった。
 そして、その後ろに孔融軍の兵士たちが続く。
 太史慈たちはわずか10数名。とはいえ、すでに敵は包囲の形をとっていたので、正面の陣容は薄い。まして、太史慈の早弓の腕前を見せつけられ、明らかに怯む色を見せている。
 迷うことなく突っ込んでいく太史慈たちとの気迫の差は、瞭然としていた。


 
◆◆



 言葉どおり、正面から黄巾党の陣営に挑み、驚くべき馬術の冴えを見せて、敵陣を駆け抜ける太史慈の後ろに、かろうじてついていきながら、兵長は驚嘆の思いを隠せずにいた。
 すでに、兵長の持つ鉄槌も敵兵の血で赤黒く染められているが、太史慈の矢が射抜いた敵兵の数は、兵長の比ではない。近矢、遠矢、いずれも必中。命は奪えずとも、確実に戦闘能力を奪う技量は、太史慈の年齢を考えれば、空恐ろしいほどであった。


 だが、太史慈がいかに人並み外れた武勇を誇ろうと、少数での敵陣突破が容易く成る筈もない。何より、兵長自身を含め、太史慈の後ろに続く者たちは、そこまで並外れた技量を持っているわけではないのである。
 どれだけ敵を斬り、突き、弾き飛ばしても、その向こうからは敵兵が群がるように沸いて出る。ようやく突破したと思えば、周囲からは、石や矢が間断なく襲ってくる。
「……ぐあぁッ?!」
 また1人。馬を射られ、落馬した味方の兵に、黄巾党の兵士たちが次々と襲い掛かり、その兵士は血塗れになって事切れた。


 それを見た兵長が、奥歯を噛みつつ、こもった声で部下たちに問いかける。
「何人、残っているッ?!」
「半数よりやや上、というところです、武兵長」
 答えたのは、これまで兵長の補佐を務めてきた副長格の男である。兵長とは長年の付き合いであり、沈着な性格をしていた。
 その副長の言葉を聞き、兵長はやや意外さを感じた。
「ふむ、まだそれだけ残っているか」
「はい。ほとんと、あの少女のお陰ですが」
 彼らの視線は、今も単騎で敵陣に穴を開けつつある太史慈に向けられている。矢が残り少なくなったことを考慮してか、すでに腰間の剣を抜き放っていた。
 どうやら、少女は弓ほど剣が得手ではないようだが、それでも、その手腕は凡百の兵士が太刀打ち出来るものではない。少女の周囲に群がる黄巾賊らは、次々に血煙をあげながら、地面に倒れ伏していった。


「……惜しいな。はじめから、あの少女を陣頭に据えていれば、黄匪など、とうに打ち破れていただろうに」
「繰言を言っている場合ではありますまい、武兵長……いやさ、奉民殿。あの少女がいかに優れた技量を誇ろうと、体力が無限に続くわけではありません。女性、まして我らより年少の者に、このまま頼りきりとあっては、男として、年長者として、鼎の軽重を問われることになりましょうぞ」
 それを聞き、兵長は小さく笑って頷いた。
「わかっているさ。この鉄槌が飾り物ではないことを、黄巾党に教えてやろう」
 言うやいなや、兵長は馬を駆って太史慈と並ぶ場所まで来ると、群がる黄巾賊に向けて、大音声で呼ばわった。
「我が姓は武、名は安国、字は報民! 黄匪ども、貴様らを、この鉄槌を赤く彩る血糊にかえてやろう。命がいらぬ者からかかって来い!」
 その名乗りに怒気を示した黄巾賊が数名、武安国に向かってくるが、巨大な鉄槌が一閃すると、まとめて吹き飛ばされてしまった。
 その膂力に、隣で太史慈が目を丸くしている。
 太史慈に向けて、にやりと笑いかけると、武安国は今度は自ら敵陣に向かって駆け出ていく。
 それに並ぶように、太史慈も遅れじとばかりに馬足を速めた。
「みな、武兵長と、子義殿に続けぇッ!」
 副長の号令一下、生き残った兵士たちが雄叫びと共に、黄巾賊の陣営に踏み込み、そして斬り破っていった。


 勇猛を以って鳴る青州黄巾党であったが、長く続く包囲戦の中で、戦意と緊張を常に維持し続けることは難しい。
 まして、勝ち戦にある者は、勝利を味わいたいがために命を惜しむ。
 太史慈の選択した正面突破は、勝利を間近にした軍勢の油断と、兵士たちのためらいを、これ以上なく的確に衝く結果となった。
 命を惜しむ者たちに、命を惜しまない者たちが戦いを挑むのだ。その勝敗は誰の目にも明らかであった。 


◆◆



 その報告が、北海城攻撃の総指揮官たる管亥の下に届けられたのは、太史慈たちが完全に包囲の網を斬り破ってからであった。
「なんだとッ?!」
 わずか10名程度の部隊が、それに数倍する死傷者を置き土産として、包囲を破ったと知らされ、管亥はつかの間、言葉を失った。
「包囲を破った敵は、一路、西へと向かったとのことです。いかがいたしましょうか?!」
 部下の問いに、管亥は我に返ると、怒声を張り上げる。
「馬鹿者、早急に追撃せよッ! たかが10人如きに包囲を斬り破られるとは、なんたる失態だ!」
「か、かしこまりましたッ」
 尻を蹴飛ばされたように、部下はそそくさと管亥の前から姿を消す。


「西、というと、やはり平原か」
 管亥は小さく舌打ちした。
 平原郡が黄巾党の手にあったのは、すこし前までのこと。
 すでに大方たる波才は破れ、主力を失った平原郡の黄巾党は、なす術なく袁紹の軍門に下ったと聞く。
 その後、袁紹は南皮へと戻り、領内の復興に力を注いでいるらしい。だが、北海の戦況が知られれば、その限りではないだろう。
 並の諸侯であれば、反董卓連合から、黄巾党戦まで続く戦闘の連続に、財政は青息吐息の状態であろうが、袁紹ほどの実力の持ち主であれば、まだ府庫に余裕があってもおかしくはない。
 袁紹に北海の戦況を知られることは、断じて避けねばならなかった。
「仕方ない、か」
 管亥は追撃部隊に、直属の精鋭をくわえるように命じ、さらには麾下の全軍に、再度、威令を徹底させる。
「全軍に通達せよ。城内から外に出る者、城内に入ろうとする者、これ悉く殺しつくせ、と。近い日、北海城に総攻撃を行う。勝利を味わいたくば、あとわずかの間、奮励せよ!」
「ははッ!」
 部下たちが陣営の各処に散っていく様子を眺めながら、管亥は内心、これで良い、と自らの判断に頷いていた。
 精鋭まで投じた以上、包囲を破ったという敵兵も、こちらの追撃から逃れることは出来まい。
 また、もし仮に逃れたとしても、袁紹が話を聞かない可能性もある。さらに、もし袁紹が動いたとしても、こちらは2万を越える軍勢なのだ。また、それだけの軍勢を集めるには時がかかろう。
 そして、北海城に、それだけの時間を稼ぐ力は、最早ない。


 管亥の確信は揺らぐことはなく、それは――
「申し上げます! 追撃部隊より、城外に脱出した敵兵を捕捉、撃滅したとのことです!」
 その報告を受け、より確固たるものとなり、管亥の口許に笑みを浮かび上がらせるのだった。


◆◆


 時を少し遡る。


 敵包囲陣を斬り破った太史慈たちは、敵の追撃を避けるため、岩場の陰に隠れた。
 その途端、積み重なった心身の疲労が、一斉に襲ってきたのか、兵士たちは次々に地面に膝をつく。その数は先の戦闘でさらに減り、すでに一行は、太史慈を含め、5名のみとなっていた。


 武安国と副長は、その彼らに聞こえないよう、今後のことを話し合う。
「やはり、袁紹か」
「はい。青州の郡太守は、黄匪の武威に竦んでおります。平原の袁紹に助けを求めるのが1番でしょう。もっとも、それは敵とて承知しているでしょうが」
 北海城は、1ヵ月以上に渡り、黄巾賊の完全な攻囲下にあった。その間の河北諸州の情報は、無に等しい。副長は、そこを危惧していた。
「1ヵ月以上もの間、北海郡からの人の流れが絶えていたのです。不審に思われない筈はなく、周囲の城から偵察の兵の1人くらいは出ていなければおかしいのです。そして、その者の目に、2万もの大軍が映らない筈もない。しかし、結局、どこの軍も動きませんでした。あるいは、それどころではない事態が、河北では起きていたのかもしれませんね」
 武安国は難しい顔で、腕組みをする。
「とはいえ、のんびりと情報集めをしている時間はないぞ。すぐに追っ手もかかるだろうしな」
「それはその通りです。ですが、道々、注意することくらいは出来るでしょう。万が一の話ですが、すでに平原が敵の手中にあるやもしれぬのです。注意するに越したことはありません」
「わかった――が、それは子義殿に言うべきことだな」
 武安国は、奇妙にさっぱりとした様子でそう口にした。
 副長が何か口にしかけるが、片手をあげてそれを制する。
「このまま、漫然と西へ向かうのは危険きわまりない。そうだろう?」
「はい」
「誰か1人でも、平原郡に辿りつけば良い。これもそうだな?」
「はい」
「であれば、もっとも可能性の高い者にその任を委ね、余の者はそのための布石となれば、より可能性は高まるだろう。何か間違ったことを言っているだろうか?」
「いいえ、仰るとおりかと」
 副長の返事に、武安国は満足げに頷いた。
「民である子義殿に、官兵である我らが、何もかもを託すのは気が引けるが、あの者なら成し遂げてくれるだろう。北海城の兵士の底力、黄巾党に見せてくれようぞ」
 武安国の言葉に、少しだけ間を置いて、副長は小さく頷いた。
 
 

 幾重にも張り巡らされた、敵包囲部隊を斬り破ること3度。
 さすがに心身に疲労を覚え、膝をついて休息をむさぼっていた太史慈は、武安国らの提案に声を失った。
「しかし、それでは、皆さんが……」
「なに、我らも死ぬつもりはありません。適当なところで逃げますから、心配はいりませんよ」
 太史慈の言葉を先回りして、武安国はからからと笑う。
「子義殿はわき目も振らず、北に向かっていただければよろしい。適当なところでまっすぐ西へ向かえば、ほどなく袁紹殿の領内です。袁家の精鋭をもってすれば、黄巾党を討ち果たすことは容易いでしょう。我らはその為の囮となる。得られる成果を思えば、黄巾賊に追われる危険など、やすいものです」
 武安国は、意図的に楽観を述べているが、太史慈とて、事態がそんなに簡単にいかないであろうことはわかっている。
 一度は突破された黄巾賊とて、今度は死に物狂いで追撃してくるだろう。その追撃から逃げることは容易くはあるまい。
 だが、同時に武安国らが語った作戦が、もっとも可能性の高いものであることも、太史慈は理解できていた。感情的に納得出来るものではなかったが……だからといって、ここで感情のままに反対意見を述べたところで、事態は悪化するばかりである。
 そしてそれは、太史慈たちのみならず、北海城の官民すべての命に関わってくるのだ。


 太史慈は、しばしの沈黙の後、ゆっくりと首を縦に振る。
「ご納得いただけたか。では、すまぬが、その甲冑を頂けまいか。さすがに貴殿の武勇は目立つゆえ、その姿がないとなれば、黄巾賊も不審に思おう」
 その言葉もまた、反論の余地がないものだった為、太史慈は素直に頷いた。祖母が用意してくれた大切な甲冑ではあるが、こういう事情なら、祖母も許してくれよう。それに、命以外は何一つ惜しむな、と言って送り出してくれたのは、他ならぬ祖母なのである。
 生き残りの兵士の中で、もっとも小柄な兵士が、太史慈の代わりに甲冑をまとう。その兵士は、髪の色も目の色も、太史慈とは異なったが、これはもうどうしようもない。




 その時、まるで太史慈たちの準備が整うのを待っていたかのように、遠くから馬蹄の轟きが、かすかにこの場まで響いてきた。
 黄巾賊の追っ手であることは、確かめるまでもない。
 武安国が、愛用の鉄槌を持って、太史慈に向かって深く頭を下げる。
「子義殿。短い間ではありましたが、貴殿ほどの勇士と戦場を共に出来たことを誇りに思います。北海城の命運は、貴殿の手に委ねられる。かような責任を、年若い貴殿に押し付けるのは気が咎めるのだが、何卒、よろしくお願いする」
 兵長の言葉に、部下たちが一斉に揃って頭を下げる。
 太史慈は、それに対し、ただひと言だけで応えた。
「はい」
 武安国は、その短い返事に破顔すると、踵を返す。
「では、これに……」
 て、と言おうとした武安国。振り向きかけたその隙を見計らったかのように放たれた重い拳の一撃が、甲冑の隙間から、武安国の腹にめりこんだ。
「がぁッ?!」
 予期できる筈もない一撃を受け、武安国はたまらず、膝をつく。
「……な、おま……え」
 急速に薄れいく意識の中、武安国の視界は、拳を構えながら、何故だか穏やかな表情を浮かべた副長の姿を捉えていた。







「さて、では兵長の鉄槌は、私が持っていかせてもらいましょうか」
 まるで何事もなかったかのように、平然とそう口にする副長に、太史慈は目を丸くする以外のことが出来なかった。
 そんな太史慈に向かって、副長が、やはり穏やかに語りかける。
「子義殿」
「は、はい?」
「先の武兵長の言葉は、まぎれもなく我ら全員の思いです。しかし、もう1つだけ、いや、2つだけ、貴殿の重荷の荷物を増やさせてもらいたい」
「それは……」
「お察しのとおり。目を覚ませば、怒り狂うに違いない武兵長をなだめてあげてください。そして伝えてほしいのです」
 副長は一度、言葉を切り、地面に倒れこんだ武安国に語りかけるように、口を開いた。
「子義殿と同じく、武兵長……報民殿もまた、これからの中華に欠かせぬ御方と、我ら配下一同、ずっと考えておりました。最後の無礼は許さずとも結構です。ですが、どうか御命を大切に。この言葉だけは、お守りくださるように、と」


 瞳に悲しみを湛えつつ、小さく、しかりはっきりと頷く太史慈に、副長はもう一度、礼を言うと、今度こそ踵を返した。後ろにいた兵士たちが、一斉にそれに倣う。
 たちまちのうちに馬上の人になった彼らが、馬を駆けさせる寸前、副長が思い出したように、口を開き、最後の言葉を発する。
「そうそう。もう1つだけ。報民殿に、酒は控えめになされよ、とも付け加えて置いてくださいッ!」
 言うや、弦から放たれる矢のように、みな、一斉に駆け出していく。


 太史慈は、胸に手をあて、そっと瞑目した。
 去り行く彼らの武運を、天に祈るために。
 だが、その祈りが通じぬであろうことも、太史慈には何故だかわかってしまった……

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 各々之誇(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/08 23:24


 劉家軍3千が平原郡に到着したのは、つい昨日のことだった。
 何のためかといえば、先日の会議で約束していた物資の受け取りのためである。
 平原郡は、袁紹軍の手にもどった当初、都市としての力が大きく損なわれている状態であった。
 理由は言うまでもなく、黄巾党占領時の苛政、なにより占領地の住民を戦場の盾として用いる波才の戦法のためであった。住民の数そのものが大きく減じた以上、都市としての活力がそれに応じて衰退するのは、避けられないことだったのである。
 平原郡の建て直しは、河北制圧を志す袁紹にとって、何よりの急務。そして、その役目を命じられた者こそ、袁紹軍の軍師 田豊であった。


 田豊は軍略家として優れる一方、民政家としても堅実な手腕を有していた。
 他者から抜きん出た発想や政策を用いるわけではないが、地道に、隙無く、物事を推し進めていくのである。
 そのあたり、すぐに結果を欲しがる袁紹とは、軋轢が生じることもあるのだが、最終的には、田豊が時間をかけても結果を示してみせることで落着することがほとんどであった。
 今回、田豊は武装解除した黄巾賊の中でも、特に悪辣な輩は、民衆の面前で首をはねたが、余の者たちには恩赦を与え、彼らを労働力として平原の再建に取り掛かった。城壁を修理し、戦死者を葬り、家を建て、田畑を耕し――つまるところ、琢郡でおれたちがやっていたことと同じである。
 おれたちと違ったのは、田豊の手元には、無限にも等しい財貨が握られていることであった。


 平原郡をほぼ無血で手に入れた袁紹軍が得たものは、降伏した兵だけではない。波才を含め、これまで黄巾党がかき集めてきた財貨や糧食、その多くを、袁紹は手中に収めたのである。
 これは、今次戦役において袁紹軍が費やした費用を大きく上回るものであり、袁紹軍の府庫は当分の間、尽きることはないと思われていた。
 それにくわえ、先の会議では諸侯に費用の供出を命じたわけであるから、袁紹は笑いが止まらない状態であろう。
 また、だからこそ、劉家軍の物資の要望をあっさり受け容れたともいえる。こちらが望んだものなど、袁紹から見れば、はした金に過ぎなかったのである。
 この資金力を背景として、田豊は満を持して平原郡の復興に取り掛かる。すでに、街とその周辺の治安は大きな改善を見せつつあり、平原郡は、緩やかに、しかし確実に往時の繁栄を取り戻そうとしていたのであった。



◆◆



 劉家軍は鐙の礼に、公孫賛から軍馬を受け取った。軍馬が2百頭に増えました!
 劉家軍は会議の成果で、袁紹から軍馬を受け取った。軍馬が3百頭に増えました!
「――と、ゲームなら表示されるところだな」
「……はい?」
 おれの埒も無い呟きに、田豫が小首を傾げる。
「すまない、独り言だ」
「そうですか? では続けますが、やはり、袁紹軍の馬の質は、公孫伯珪様の軍よりも劣りますね。現時点で、為さねばならない教練の6割程度というところでしょうか」
 袁紹から引き渡された軍馬について、田豫が厳しい評価をつける。
 馬の知識に関しては、田豫が劉家軍随一である。自然、おれも相手の意見を聞く、という形をとっていた。
「実戦に出せないほどではありませんが、やめておいた方が無難でしょうね。とはいえ、質的には十分なものがあると見えますので、ある程度の訓練期間を設ければ、他の馬にひけをとらない域まで押し上げることは出来ると思います」
「そうか。やっぱり、問題なのは時間だなあ」
 おれは頭をかきながら、考えにふける。
 劉家軍には、騎兵になりえる兵士はすでに揃っている。大清河の戦いで遊撃部隊を務めた精鋭たちは、官軍所属の兵を除き、ほとんど劉家軍に残ったからである。
 鐙に関しては、馬と一緒に公孫賛から2百ばかりもらうことが出来た。相手の用意の良さに、おれも驚いたのだが、公孫賛曰く、鐙は、金と資材さえあれば、大した設備がなくても作ることは出来るとのことで、すでに遼西郡でも量産態勢に入っているとのこと。軍馬を引き渡すに際して、馬具をつけるのは当然だろ、と逆に笑われてしまった。


 公孫賛の多大な協力もあって、残るは、馬と人との訓練だけである。
 しかし、今はそのための時間がなかった。
 それに、3千しかいない劉家軍から、騎兵の訓練のために2百もの兵員を引き抜けば、その分、戦力の低下を招くのは明らかである。
 かといって、今度の戦が落ち着いてからゆっくり取り掛かる、などという余裕もない。というか、この戦の相手である青州黄巾党のことを考えれば、そもそも、戦がいつ終わるのかさえ判然としない状況なのである。
 のんびりと時間が出来るのを待っていては、いつまで経っても騎馬隊を編成することは出来ないだろう。


「つまるところ、移動中とか、そのあたりの時間を使うしかないわけだな」
「そうですね。騎兵は偵察、伝令、奇襲、撹乱、あらゆる戦で使えます。それらはいずれも、少数の軍が戦うに際して、重要なものですから、出来るかぎり早く習熟するに越したことはないでしょう」
「よし、決まり――で、騎兵部隊の将軍殿はどこにいったんだ?」
 おれがあたりを見回すと、田豫が困ったように頬を掻いた。
 それを見て、おれは答えを察する。
「……もしかして?」
「はあ。『雑事は2人に任せる』と仰って、その……酒の壷を抱えて、何処かへ」
 それを聞き、おれの眉がしかめられたのを見て、田豫が慌てて付け足す。
「い、いえ、多分、私たちに仕事を任せて成長させてやろうと考えての韜晦だと思うのですよッ?!」
「――まあ、そういう一面もないことはないだろうけど」
 多分、単純に酒が飲みたいだけではなかろうか。
 おれは新たに将軍となった趙雲の顔を思い浮かべ、深くため息を吐くのだった。


 騎兵部隊を率いる将軍は趙雲。
 そう決められた理由は、武芸の腕もさることながら、独自の判断で動くことのできる視野の広さや、応変の才を見込まれてのことだろう。
 その性質、そして少数であることからも、騎馬部隊は遊撃部隊として活動することがほとんどである。これまでは、張飛と鳳統のコンビが務めることが多かったのだが、この2人を少数の部隊に配する、というのは、劉家軍の人的資源を考えても少々もったいないと思われていた。
 新たに加わった趙雲は、武勇も戦況判断も卓抜しており、十分、この2人の代役を務められると、玄徳様や諸葛亮たちは判断したのだろう。
 その判断には、無論、文句のつけようがないのだが、この抜擢には続きがあった。
 田豫と、そして何故かおれが、その補佐につけられたのだ。


 田豫はそのために公孫賛に請い、加わってもらった人材だから当然として、なんでおれが騎兵部隊に配されたかといえば、どうも鐙の開発で、馬に適正あるんじゃないか、とか思われてしまったらしい。
 くわえて、先の戦いで、波才に見破られたとはいえ、奔流の計そのものは発動させることには成功していたので、その功に報いる、という意味もあったようだが、いずれにしても趙雲麾下の騎兵部隊の補佐役というのが、おれの最新の肩書きとなったのである。


「まあ、実際にやることと言えば、趙将軍が投げた仕事の処理だったりするわけだが」
「あ、あはは」
 おれのぼやきに、田豫が乾いた笑いで応じる。
 馬に関する実務面は田豫が、それ以外の仕事――書類だの、予算だのといった分はおれが引き受けている。
 そして、その間、趙雲は酒を飲む――なにかこう、いまいち釈然としないのだが、せめて平時くらいは役に立たねば、田豫はともかくとして、おれがここにいる意味がなくなってしまう。
 ぼやく暇があるなら、手と足と頭を働かせねばなるまいて。


 それに、おれ自身は戦に参加しないとはいえ、馬に慣れておくのは悪いことではない。むしろ、今後のことを考えれば必須であると言っても良い。
 部隊の仕事を処理しつつ、その合間に田豫から馬の扱い方を習ったり、実際に乗ってみるなどしていると、少しずつではあるが、馬に乗る姿も様になってきている……ような気がしないでもなかった。
 まあ、今日だけですでに5回以上、振り落とされているので、単なる気のせいである可能性は、おれも否定しませんが。うう、背中が痛い。
 




 軍馬や秣(まぐさ。馬の餌の干草やわらのことである)の受け取りを済ませ、劉家軍の陣営に運び込む。
 もちろん、おれと田豫だけで出来る作業ではないから、他の兵たちの手も借りてのことである。
 その作業が一段落すると、今度は別の作業が待っていた。


 平原城の一角に、物資の授受を行うために、と田豊が提供してくれた劉家軍の宿舎がある。
 おれはその宿舎に戻ると、早速、仕事にとりかかった。
 騎兵部隊に属すとはいえ、これまでやっていた仕事がなくなったわけではないのだ。劉家軍の兵数が飛躍的に増えたことにより、厄介ごともそれに比例して増え、荒くれ者の兵士たちは、まるでそれが日課ででもあるかのように、次から次へと諍いを起こしてくれる。無論、ほとんどは直属の将軍が処理してくれるが、彼らの手がまわらないものに関しては、別の者が当たる必要が出てくるのだ。
 これまではおれがそれに対応し、手に余る部分に関しては簡擁が処理してくれていたのだが、さすがにここまで人数が増えると、おれたちだけでは、到底、手が足りない。兵が増え、将軍が増えたのは喜ぶべきことだが、同じくらい文官も増えてほしいものである。
 さすがに、こういう仕事で諸葛亮や鳳統に助けを求めるわけにもいかないしなあ。

 

 そんなわけで、今度は陳情の山に埋もれて奮闘する。
 内容を挙げてみよう。
 ――関将軍の訓練は厳しい。心が折れそうです。出来れば張将軍の部隊に移してもらいたいのですが……
 ――是非とも騎兵部隊に配属してくれ。今は馬に乗れないが、趙将軍のために必ず覚えるから!
 ――このまえ、玄徳様に声をかけていただいた。感激した。これからも頑張ります。
 ――先日、廊下を歩いていたら、2人組みの女の子にぶつかって「気をつけろ!」と怒鳴ったら「はわわあわわ」と謝られました。今日、その子たちが軍師だとはじめて知りました。どうしたら良いでしょうか? 死刑ですか?
 ――ちぃ様はとてもよく働いているので、ご褒美をあげるべきだと思います。
 など等、多彩なものであった。多少、意訳あり。
 ほほえましいものもあれば、考えさせられるものもあったが、深刻な不安や不満は見当たらない。まあ、一部、陳情でも何でもない物も混ざってたが……あと、張宝に自演はやめろと言っておいた。
 些細と思われることでも、放って置いては、塵が積もるように不満も蓄積してしまうだろう。出来るかぎり、細かく対応していかなければならない。
「まあ、そうは言っても……」
 おれは隣で積み上げられた竹簡の山を見て、大きくため息を吐いた。
「……いつになったら終わるんだ、これ?」



 答え。
 夕方までかかっても終わりませんでした。しかも、まだ半分以上残ってます。
 物資の授受は数日で終わってしまう。出来れば、青州出陣までには終わらせたいが、根を詰めすぎても能率が下がるだけと考え、おれは宿舎を出た。
 大路を歩く人混みは兵士や民衆を問わず、多種多様だ。復興のための人手をかき集めてるせいか、かなり雑多な観があるが、活気だけは十分に感じられた。夕食時とあって、食欲をそそる匂いがそこかしこから流れてきており、空腹感を刺激する――もっとも、買い食いするほどの余裕はないので、劉家軍の食事の時間までは我慢するしかないところが、ちょっと悲しい。


 日が傾くにつれ、人混みはさらに過密さを増していった。
 城門が閉じられる時刻が迫っているので、帰って来る者、出て行く者が交差しているのだ。
 その波に飲まれそうになり、たまらずわき道に逃げ込んだおれは、城門近くの人の流れに視線を向けながら、外に出たことを少し後悔し始めていた。この中にいると、息抜きどころか、余計に疲れが増しそうだ。宿舎の中でぼーっとしていた方が良かったか。
「……戻るか」
 ぽつりと呟くと、おれは踵を返す。
 そのおれの背後で、閉門を告げる銅鑼の音が鳴り響く。
 夕日で赤く染まった平原の街を歩く人々は、その音にせかされるように、皆、各々の目的地に向かって足を速めるのであった。



◆◆



 太史慈は、平原の城門が閉ざされる、正に寸前、城内へと滑り込むことが出来た。
 重厚な音と共に閉ざされる城門を背に、太史慈は片膝をついて座り込みそうになる。太史慈をして、そうならざるをえないほどに、疲労と空腹感が強かったのである。
「おい、早くどけ。そんなところにおられては邪魔になる」
 城門を守備する兵が、汚れた太史慈の姿を胡散臭そうに見やりつつ、邪険に追い払おうとする。
 だが、その声が、朦朧と仕掛けていた太史慈の意識に、逆に活を入れてくれた。
 顔を上げた太史慈は、その兵士に対して、北海城からの使者である旨を告げ、早急に太守に会いたいと告げたのである。


 だが。
 太史慈の言葉に、兵士は面倒そうな表情をするばかりで、まともに取り合おうとしない。その理由は――
「使者というなら、まず身分を証明するものを提示せよ。手形の一つも見せず、声高に使者だと名乗ったところで信用する者がいる筈ないだろうが。大方、黄巾賊に荒らされた村から、援助を請いにでも来たのだろうが、使者を詐称するのは、本来なら重罪なのだぞ。今回は大目に見てやるが、次は軍律に照らして処断するゆえ、忘れるな」
 兵士は太史慈にそう警告したのだが、その顔にわずかに困惑が混ざりつつあった。
 薄汚い格好のため、わからなかったのだが、太史慈の声を聞いて、兵士は自分が話をしている相手が少女だとようやく気づいたのだ。見たところ、年端もいかない少女が、おそらく、ろくに休息もとらず、食事もせず、駆け続けて来たのだろう。憐憫を感じた兵士は、すこし声を柔らかくして、言葉を続けた。
「太守様に訴えたいことがあるなら、官衛でしかるべき手続きをして、順番を待つが良い。田太守は公平なお方だ。時間はかかるだろうが、話は聞いてもらえるだろう」
 そう言うや、兵士は首を振りながら、城門の警備に戻ってしまい、太史慈は1人、その場に佇むことになった。




 城門の兵士の言葉に理を感じた太史慈は、言われた通りに官衛に足を運んだ。
 ともすれば、疲労でもつれそうになる足を引きずるように、一歩一歩、ゆっくりと進む。
 北海城から、ずっと太史慈を乗せてくれた愛馬が、その後ろに続こうとするが、こちらも疲労は太史慈に優るとも劣らない様子で、その歩行は今にも倒れてしまいそうなほどであった。休息も、食事も、最低限で駆け抜けてきたのだから、それも当然のこと。太史慈は愛馬のたてがみを撫でながら、疲労を押し隠して微笑んだ。
「あなたはここで休んでいなさい。大丈夫、すぐ戻りますから」
 だが、馬は心配そうに太史慈を見つめ、小さく嘶く。そして、太史慈を案じるように、鼻先を押し付けてくる。
 太史慈は、礼を言う代わりに、もう一度、たてがみを撫でてやると、くつわと手綱を外し、鞍を下ろす。
 そして、手近な木まで曳いていき、そこに馬を繋ぎとめた。
 こんなことをしないでも、太史慈に慣れた馬は逃げ出したりはしないのだが、放したままにしておいて、不用意に近づいてくる人を蹴飛ばしてしまったりしたら大変である。
 本当ならば、秣をたっぷり与えて、ゆっくり休ませてやりたいところなのだが、太史慈は今、無一文の身だったりする。
 城を出るときに持っていた分を、追撃から逃れるため、黄巾党の兵士たちにばらまいてしまった為である。
 途中まで行動を共にしていた武安国とも、その戦いではぐれてしまった。
「武兵長、無事だと良いのですけど……」
 疲れた身体に鞭打って、官衛に向かって歩を進めながら、太史慈は小さく呟いた。



 だが、官衛にたどり着いた太史慈は、途方に暮れることになる。
 ものすごい行列が出来ていたのだ。それはもう、何人いるのか数える気にもなれないほどに。しかも、これから夜になるというのに、みな、帰る気配がない。明らかに、夜を越す覚悟であり、ついでに言えば、そのための準備をしている人が大多数を占めていた。
「どうしましょうか……」
 虚空に向けて問いを放っても、答えが返ってくることはない。
 聞けば、太守の田豊は、ほとんど徹夜で陳情の人々の対応をしているそうだが、それでもなお、これだけの人が残っているというあたり、平原郡に援助を請いにやってくる人の数がどれだけ多いのかがわかる。 
 城門の兵士の対応も、そういった背景があってのことだったのだろう。
 本来なら、太史慈もその列に並ぶべきなのだが、北海郡の情勢はそんな悠長なことを許さない。さらに、自分はともかく、愛馬には飼葉を買ってあげなければならない。
 では他にどうすれば良いのか。


 しばし考え込んでいた太史慈は、何かに気づいたように、ぽんと両手を叩いた。
「考えてみれば、城門が閉じた以上、そうそう人はやってきませんね。はやくお金をつくって……といっても、売れる物といったら、この弓くらいしかないのだけど」
 太史慈は布に包んだ状態で、背に負っている弓に手をあてた。
 祖母からは構わない、と言われてはいたが、さすがに、家宝の弓を売るのは気が咎める。本当に家宝かどうかは怪しいものだが。物置においてあったし。
 しかし、この弓が優れ物であることは、ここまでの戦いで誰よりも太史慈が1番よく理解している。家宝云々はともかく、祖母が大事に保管していたことは間違いないのである。
 しかし、他に手はない。
 明日、なんとか官衛の役人にあたってみよう。それがうまくいかないようなら、最後の手段として、騒ぎを起こしてでも太守に掛け合うしかない。
 そのためには、体調をととのえておく必要があり、そのためにも金が要り用になってくる。
 北海城で助けを待つ祖母たちの為に。太史慈を平原に行かせるために、身命を賭してくれた兵士たちのために。ここまで頑張ってくれた愛馬のために――そして今もぐうぐう鳴っている腹の虫をなだめるために。
「うん、それでいきましょう」
 太史慈は握りこぶしをつくり、自分自身に宣言するように、しっかりと頷くのであった。



◆◆



「ほう……これは」
 小さいながらも清潔さを保った門構えに惹かれて立ち寄った武具の店で、趙雲は小さく感嘆の声をもらす。
 店内に並べられた商品――剣や槍などの武具は、みな、灯火を受けて光沢を発するほどに磨きあげられている。
 品質そのものは、良いものでも中程度であるが、一つ一つの品物を、丁寧に手入れしていなければ、ここまでの艶を出すことは出来ないだろう。店主の商いへの誠実さが、そこには見て取れた。


 愛槍である龍牙を持つ趙雲は、別に武器を必要とはしていない。店内を覗き込んだら、後は踵を返してもよかった。
 だが、見えない何かが、外に向きかけた足を引きとめたようであった。
 気紛れさを発揮し、店内に足を踏み入れ――そして、趙雲の鋭い視線は、ほどなく一つの武器に吸い寄せられる。
 作業台と思われる机の上に無雑作に置かれた、一張の弓。
 その弓は、白銀が散りばめられた見事な造りをしていた。手にとってみると、ずしりとした程の良い手ごたえを伝えてくる。
 普通の弓よりも大きい造りをしているため、当然、重量もあるが、それは射手にとって扱い難いと感じるほどのものではない。全体の造作と重量の釣り合いが見事なのだ。おそらく、名工の手になる代物であろうと思われた。


 趙雲がそんなことを考えていると、店の奥から、やや慌しく店主が姿をあらわした。
「いらっしゃいませ。ご入用のものはございましたか?」
 そこまで言ったとき、店主の視線が趙雲の持つ弓に気づく。
「あ、まことに申し訳ございませんが、お客様、そちらは売り物ではございません」
「む、そうなのか?」
「はい。さきほど、当店でお預かりした物にございます」
「それならば仕方あるまい。しかし、かなりの逸品と見たが、持ち主は名のある御仁か?」
 趙雲の問いに、店主は首をかしげた。
「いえ、それがし、商いにて中華の各地を巡っておりますが、聞いたことはないお名前でしたな。しかし、いずれは中華にその名を轟かせる御方と見受けました」


 その店主の自信ありげな物言いが、趙雲の興趣をそそる。
「ほう、利に聡い商人にそこまで言わせるとは、面白い。しかし、それほどの人物が、どうして己の得物を手放すような真似をしたのか」
 そんな趙雲の疑問に、店主は落ちついた態度で答える。
「詳しい事情はわかりませんが、どうやらかなり懐が困窮しておられる様子でした。これだけの品ゆえ、出すところに出せば、大金を得られると申したのですが、時間がないとも仰っておりましたな」
「ふむ? それでは、この弓は、店主が買い取ったのではないのか?」
「形としては、そうです。しかし、私も商いを生業とするもの、それなりの目利きは出来ます。この弓は、しかるべき使い手が用いるべきものでありましょう。ゆえに、売主殿が再びお越しになる日まで、待つことにしたのですよ」


 趙雲は感心したように店主の顔を見た。
 人の好さそうな――つまりは、商人にはあまり向いてないと思われる優しげな面立ちと、直ぐな眼差しがそこにある。
「店主も人が良いな。それでは、そなたの利益がないように思えるが」
「はは、それがしも商人ゆえ、利益のない商いはいたしませぬ。買戻しの際は、多少、上乗せさせていただくことになりましょう。それに――あの少女の力は、戦乱の世を終わらせる礎となりえるもの。我ら商人にとって、戦乱ほど迷惑なものはありませぬからな。それを終わらせるための投資と思えば、安いものです」


 その言葉を聞いた趙雲の両眼に、楽しげな色合いが踊るように煌いた。
 店主の言葉に感銘したのが一つ。そして、店主にそこまで言わしめる人物に、さらに興味をそそられたのが一つ。
「私は趙子竜と申すもの。店主、そこもとの名をうかがいたい」
「……ああ、ただのお人ではないとは思っておりましたが、かの『不落の村』の英雄様でいらっしゃいましたか。ご尊名は、かねがね伺っておりまする」
 店主は趙雲の名を聞き、目を細めて嘆息した。店主なりの、精一杯の驚きの表現らしい。
「お耳を汚すだけと存じますが、お尋ねとあらば、お答えいたしましょう。私は張世平。かつては、平原を拠点とし、青州、冀州を中心として、武具や馬を扱う、それなりの商人でございました。しかし、うちつづく黄匪の跳梁によって、家財を失い、使用人たちは兵士としてとられ、いまや残ったのは、この小さな店と、妻のみ。資金を失っては、大きな取引をすることがかないません。ならばせめて、乱世を終わらせる一助になろうと、ここで武具の修理を行い、安価で売買を行っている次第でございます」


 この時代、商人として大成した者は少なくない。陳留で曹操の資金元となっている衛弘などは、正しく時代を読んで、成功した筆頭であろう。
 だが一方で、その成功が正当に評価されているかといえば、それは否であった。
 巨大な利を博す者が1人いれば、その陰には、損失を被った無数の貧者の姿がある。武器の売買は争いを促し、食料の買占めは米価の高騰を招く。物を作らず、物を使わず、その間で利益を得る商売という行為に対する偏見は、少なからず、人々の心に根ざした感情であった。
 機を見て敏であり、利を見て貪。それが人々の、商人への見方であり、それは趙雲とて例外ではなかった。
 だが、商人の中にも、利ではなく、信を重んじる者がいる。そのことに、趙雲は新鮮な驚きを覚えたのである。そして、そんな人物に、ああまで言わしめた少女とやらへの興味は、さらに募った。 
「その名、その志、覚えておこう。して、張殿が見込んだ、その弓の持ち主の名を教えていただけようか?」
「はい。あの少女の名は――」
 張世平が、ゆっくりと口を開いた。



◆◆



 人の出会いに、星の巡りというものがあるのならば、この日、劉家軍とその少女のそれは、最悪に近いものだったかもしれない。
 与えられた宿舎で仕事に追われている者たちは言うにおよばず。街を歩く者たちは、ほんのわずかの時が重ならず、邂逅に至らなかった。最も近づいた者でも、その名を知るのみ。
 やがて日が改まり、少女が行動に移ってしまっていたら、たとえその後に出会いが訪れたとしても、それは騒乱の罪を犯し、あるいは黄匪の間諜として追われる者との出会いにしかならなかった筈である。
 すれ違い、互いにそれと気づかずに遠ざかろうとする両者を結びつけたのは、万夫不当の将軍でもなければ、神算鬼謀の軍師でもない。あるいは、騎将の補佐としてかけずりまわる東夷の若者でもなかった。
 その人物は――





 普段、温厚な人ほど、いざ怒った時は怖いという――いや、だからといって、普段から怒り気味の人が怒っても怖くないぞ、というわけではない。関羽とか。それとこれとは別の話で、やはり怖いものは怖いのだ。
 それはさておき、もう一度繰り返す。普段、温厚な人ほど、いざ怒った時は怖いという。
 おれはその人物と行動を共にするようになって、まだ日は浅いが、その人物が怒ったり、あるいは気分を害したところをあからさまにしているところを見た記憶はない。
 だが、今、おれの隣にいる少年は、顔中に険をあらわにして、憤りの声を発していた。


「まったく、ここまで馬を酷使するなんて、何を考えているのか! 馬だって生きてるんだ。疲れもすれば、お腹も空くというのに!」 
 一心不乱に秣を食む馬のたてがみを撫でつつ、田豫は先刻から、途切れることなく非難の言葉をつむぎ続けている。
「そ、そうだな。うん、ひどい話だ」
「そうでしょう?! まったく、あと少しで手遅れになるかもしれないところでした。飼い主が来たら、一言いってやらないといけません!」
「う、うん、そうだな、注意してやらないと」
 おれは相槌を打つだけで精一杯であった。それくらい、田豫の怒り具合は凄かったのだ。
 もっとも、それを大げさだと言うつもりはない。おれの目から見ても、その馬はやせ細り、蹄鉄もぼろぼろの状態だった。田豫が調べたところ、蹄の方にも影響があったらしい。かなりの距離を、短期間で駆けさせられたせいだと思われるが、放って置くと、走ることに支障を来たす可能性があるとのことだった。


 田豫は蹄鉄工としての技術を持っているが、さすがにいつも道具を持ち歩いているわけではない。それに、人通りが少ないとはいえ、街中で微細な調整が必要な作業をするのは無理がある。
 そんなわけで、馬を宿舎に連れて行こうとした田豫だったが、これには馬が従おうとしなかった。縄を解き、促しても、その場から動こうとせず、主人の帰りを待つ構えである。
 実に見上げた心意気なのだが、これがまた、田豫の気に障ってしまったらしい。もちろん馬にではなく、飼い主に対するものであるが。
 曰く。ここまで懐いている子を、よくもまあ、こんなに粗略に扱えるものです、と。
 仕方ないので、その場に田豫を置き、おれがひとっ走り厩舎に行って、秣をもらってきたのが、つい先刻のことであった。



 
 おれは田豫をなだめつつ、周囲の風景に目を向ける。
 表通りから離れたこの場所は、人通りが少なく、おれ1人だけでは、木陰にいたこの馬を見つけることは出来なかっただろう。力ない馬の嘶きを聞きつけた田豫の耳の良さに感嘆すると共に、飼い主のことが少し気にかかった。
 元来、馬とはきわめて聡明な生き物である。人の顔を覚えることも出来るし、その相手によって態度を変えたりもする。
 親身に世話してくれる人には甘えもするし、初見の人間はばかにしたり、あるいは馬上から振り落とそうとしたりもするのだ。もちろん、馬術に優れた人物なら話は違うだろうが、たとえば、おれのような素人は、あっさりと見抜かれ、からかわれてしまうわけである……言ってて、少し悲しいが、まあ事実だしなあ。


 そのあたりのことを田豫から聞いたおれは、馬術の向上もさることながら、馬の世話などの基本的なことも習ったりしているわけだが、当然のように、1日2日で信頼を育める筈もなく、今日も今日とて、何度も馬上から振り落とされていたのである。
 それを考えると、この馬の、飼い主に対する信頼は厚いようで、それはすなわち、この馬の飼い主が、これまで馬の世話をしっかりしていた人物ということになる。
 そんな人が、ここまで馬を酷使するということは、そうせざるをえないほどの、大変なことが起こっているのかもしれないと考えられはしないだろうか。
 しかし、おれがそのことを口にすると、田豫からにらまれてしまった。
「どんな事情があるのであれ、馬を苦しめる行為が正当化されるわけではないでしょう。それとも、北郷さんは、急ぐ理由があれば、馬を使い捨てることも辞さないというのですか?」
「や、そんなことはないです。国譲の言うとおりだと思いますです、はい」
 おれは、慌てて大きく首を横に振った。
 田豫、馬のことになると人が変わるなあ。それだけ、馬に親しみを覚えてるのだろう。たとえ見習い扱いとはいえ、この年で、公孫賛が推挙する技量を備えた理由を垣間見た思いであった。
 ここは余計なことは口にしない方がよさそうだ、とおれが胸中で呟いた、その時。



 不意に。
「そこから離れなさい!」
 勁烈とさえ称しえる鋭い声が、おれと田豫の耳朶を貫いた。
 ほぼ同時に、おれの背筋に寒気がはしる。なんというか、爺ちゃんに不意打ちされた時のことを、脈絡なく思い出してしまった。必殺とか必勝とか、そのあたりの気配が向けられる感触である。
 おそるおそる振り返ったおれたちは、そこに、弓を構え、鋭い視線をこちらに向ける碧眼の少女の姿を見出し、凍りつくことになる。 


 
◆◆



 
 太史慈は弓を売って得た金で、何とか買い求めた秣を背負い、ふらつく両脚を叱咤して、愛馬の下に戻ろうとしていた。
 途中、太史慈自身が食事をする機会もあったのだが、まずは頑張ってくれた愛馬が優先だと、空腹を主張するお腹をなだめつつ、愛馬を繋いでいた木陰をのぞむ位置まで来た、そのとき。
 太史慈はそこに2人の男の姿を見つけた。
 それ自体は何ら問題はない。そこは誰かの家の敷地の中というわけではないのだから。
 問題は、男たちが太史慈の馬の紐を解いていることである。しかも、なにやら怪しげな動き(と太史慈には見えた)をしているではないか。


 これが平時であれば、太史慈とて誰何の一つもしてから行動に移っただろう。
 だが、北海城からここまでの道程の疲労。先行きへの不安。そして空腹という悪条件が、これでもか、とばかりに重なってしまい、さすがの太史慈も平常心を保つ、というわけにはいかなかった。
 今、太史慈が持つのは、売り払った家宝の弓の代わりに、あの店で買い求めた弓である。品質自体は良いが、さほど強弓というわけではない。普段の太史慈であれば、鼻歌混じりで引き絞ることが出来るだろう。
 しかし。
 今、太史慈はほとんど全力を使って、弓を引かねばならなかった。正直なところ、向こうが抵抗しようものなら、細かい狙いを定める自信はない。
 それでも、こちらが窮していることを知られれば、相手はそこにつけ入ろうとするだろう。
 油断なく弓を構えながら、太史慈は微動だにせず、こちらを見つめる2人に声をかけた。 
「その馬から離れなさい。武器を持っているようなら、それも足元に投げ出して」


 緊張しつつ放った言葉であったが、相手は存外、あっさりと従った。
 敵意がないことを示すように、両手を挙げた男の1人が、やや上ずった声を出す。
「……一つだけ聞きたいのだけど、良ろしいでしょうか?」
「……なんですか?」
 油断せず、相手を見据えながら、太史慈は促す。
「その馬から離れろ、ということは、この馬はあなたの馬ですか?」
「ええ、そうです。まさか城内で馬泥棒に遭うとは思いませんでした。あなた方は黄巾賊の一味ですか? もしそうならば、太守殿のところに突き出して、罪に服してもらわなければなりません……が」
 そこまで口にした時、太史慈はようやく愛馬の様子がおかしいことに気がついた。
 普段であれば、太史慈が近くに来れば、すぐに駆け寄ってくるのだが、今はそれどころではない様子である。
 ――食事に忙しくて。


「……あの」
 馬泥棒が、現場で馬に飼葉をやるなど、聞いたことがない。
 もしかすると、自分はものすごい勘違いをしているのではないか。ようやくその可能性に思い至った太史慈は、顔を蒼白にした。





 顔を真っ青にして、弓を下ろした相手を見て、おれは誤解が解けたかと、ほぅっと安堵の息を吐き出そうとした――のだが。
「こちらが馬泥棒なら、そちらは馬殺しですね」
 ……なんか、辛辣なことを口にする少年が1人、隣にいるのですが。
「なッ?!」
 その言葉に、愕然としている相手に向かって、田豫は滔々と非難をまくしたてた。
 曰く、馬を何だと思っているのか。
 曰く、おまえに馬に乗る資格はない。
 曰く、そもそも、ろくに確認もせずに相手に武器を向けるなど、武人にあるまじきこと。
 いきなり武器を突きつけられた怒りもあいまって、その詰問はとどまるところを知らない様子である。
 一方、相手も言われるままではいなかった。
 最初こそ、自分の非を認め、唇を噛み締めて俯いていたのだが、途中から耐えられなくなったようだ。
 ことに、馬を酷使した件に関しては、はっきりと言葉にこそしなかったが「事情も知らないのに」との感情を隠しきれていなかった。


「ああ、ほら、国譲。それだけ言えば、もう気は済んだだろ?」
 互いの非難が、感情的な罵りあいになりかけた頃合を見計らって、おれはようやく口を挟むことに成功した。
「でも、北郷さんッ!」
「いいから、落ち着けってば。ほら」
 そういって、おれは少女の方に視線を向ける。そこには、秣を食べ終えた馬が、主の姿に気づいてうれしそうに駆け寄っていく姿があった。
 同時に、田豫は、少女が背負った秣にようやく気がついたようだ。少女がどうしてそれを背負っているのかなど、考えるまでもない。
「あれは……」
「あれだけ懐かれてるんだ。普段から、よっぽど丁寧に世話してあげてるんだろう。そんな子が、無茶な乗り方をせざるをえなかった。事情はわからないけど、よっぽどのことがあったんだろう」
 まして、あの馬はかわらず主を慕っているのだから、おれたちが非難する理由はない――まあ、いきなり矢を向けられたことは、怒っても良いとは思うが、冷静に考えてみると、勝手に他人の馬の綱を外していたわけだから、誤解されても仕方ない一面はあるのではなかろうか。今回の場合、李下に冠を正さず、では済まなかったので、これも仕方ないことなのだが。
「……そうですね」
 田豫は、まだ、わだかまりがあるのか、少しむすっとした顔をしていたが、とりあえず矛は収めてくれた。やれやれ。こんな舌鋒が鋭い子だとは思わんかったよ。


 さて、あとはあの子のことか、と視線を再び少女に戻したおれの目に映ったのは、苦しげに地面に両膝をついた少女の姿だった。
 馬が気遣わしげに、鼻先を少女の頬に寄せている。
「ど、どうしました?」
 慌てて傍らに駆けよると、少女はなんでもない、と言いたげに首を左右に振る。しかし、明らかに少女の様子はおかしかった。どこか怪我でもしているのか、と考えたおれの耳に、その時、いやに緊張感のない音が響いてきた。


 何というか、文字で表現すると「ぐー」としか書きようのない音が。


「あー、その……」
 おれは、顔を真っ赤にしている少女の顔を見かねて、あさっての方向に視線を向ける。
 とっさに気の利いたことなど言える筈もなく、おれは、さて、こういう時はなんと声をかけるべきかと途方に暮れることしか出来なかったのである。





 これが、後漢末期の戦乱において、誠実な為人と、神技に等しい弓術とによって、その名を屹立させる太史慈と、おれとの最初の出会いであった。
 ――のだが。
「なんか、腹ペコキャラという印象が残ってしまったのは、致し方ないことではなかろうか?」
「致し方なくありません! 即刻、正して下さい!」
 顔を真っ赤にした太史慈と、そんなやりとりをすることになるのは、もう少し先のことであった。




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 各々之誇(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/02 01:44



 北海郡北部。
 青州黄巾党 管亥の軍に属する10騎ほどが、付近の偵察を行っていた。
 しかし、開戦からすでに1ヵ月以上。見かけるのは野牛や野鹿くらいとあっては、緊張を維持することは難しい。偵察兵らの顔には、明らかな緩みが見て取れた。
 戦う相手がいないということは、手柄をたてる機会もないということである。先日、城から抜け出た一団がいたらしいが、結局、城外で捕斬されたとのことであり、それ以後は、また元通りの退屈な任務が彼らを待っていた。
 そのため、暇を持てあました彼らは、狩りを行い、あるいは付近の村々で狼藉を働くなどして、無聊を慰め、日々を過ごしていたのである。



「ち、しけてやがんな」
 馬上、今日の戦利品を手にとりながら、賊の1人が吐き捨てる。
 それに答えたのは、その隣で、同じように品定めをしている同輩であった。
「仕方ないだろう。このあたりの田舎村じゃあな。金目のものが欲しいなら、北海城に押し込むまで待てばいいさ」
「ふん。どうせ管亥様の直属部隊が1番乗りをした挙句、美味しいところは全部かっさらうんだろう。おれたちに回ってくるものなんて、知れたものさ」
「まあ、そりゃそうだ」
 手に持った貨幣の、赤黒い何かをそぎ落としながら、男はもう一度吐き捨てる。
「ち、機会さえありゃあな。こんな見回りばっかじゃあ、手柄のたてようがねえぜ」
「そのかわり、命をかける危険も少ないだろう。おれは、母ちゃんとガキが6人いるからなあ。下手に危ないところよりは、暇な部署の方が良い」
「おめえは、そんなんだからいつまで経っても一兵卒なんだよ。見てろよ、おれはもっと上にいってやるぜ」
 それぞれ思うところは異なる兵士たちであったが、現在の状況に飽いているという一点で共通していた。
 そして、それは彼らの周りにいる黄巾賊たちも同じことである。
 青州に盤踞する黄巾党は、官軍ですら、あえて戦いを避けるほどの勢威を誇ってきた。その勢いは、張角と波才が決裂し、黄巾党が事実上、敗亡した現在であっても変わらない。
 自分たちが、青州最強の兵団であるという驕りと慢心。それらが、彼らのうちに巣食うようになったのは、むしろ当然であるといえたかもしれない。


 それゆえに。
 砂塵をあげて、近づいてくる騎兵の姿を見たとき、彼らは咄嗟にそれが味方だと考えてしまった。
 平原郡から袁紹軍が出たという報告は届いていない。北海城の包囲が破れたとは聞こえていない。であれば、敵が来る筈がない。
 危機感の欠如したその思考は、しかし、一瞬で粉微塵に砕かれる。
「がああッ?!」
 黄巾賊の1人が、突然、悲鳴を上げて馬上から転落した。その肩には、矢が深々と突き刺さっている。
 何事が起きたのか、と戸惑いを見せる賊徒の1人が、これも矢に左腕を貫かれ、悲鳴と共に地面に落ちる。
 そこまでされて、ようやく偵察兵らは、向かってくる騎兵集団が敵であることを理解した。
 慌てて、剣や槍を構え、敵を迎え撃とうとするが、向かってくる一団は、わざわざ相手の間合いに近づいてこようとはしなかった。
 彼らは、騎馬の機動力を活かし、猛然と接近しつつ、次々と矢を射掛けてきたのである。
 馬上、矢を放つ騎射は高等技術である。しかるに、接近してくる騎兵集団は、ほぼ全員が騎射を行い、こちらを攻撃してくるのだ。
 これには、偵察兵たちも仰天した。
 騎馬を用いるの利は機動力にある。戦うにせよ、退くにせよ、機動力が優る方が有利なのは言うまでもない。
 だが、その機動力が互角であった場合。つまり、相手も同じ騎馬兵であった場合、勝敗を決するのは騎手の技量に他ならぬ。
 騎射すら出来ない偵察兵と、それを自在に行う兵団との戦いであれば、勝敗の結果は火を見るよりも明らかであった。
 騎射によって足を止められた偵察兵に対し、相手はなおも矢を射掛けながら、たちまちのうちに包囲陣形を作り上げ、逃げ道を閉ざしてしまう。
 突撃すれば離れ、逃げようとすれば詰めてくる相手の動きに翻弄されるうちに、黄巾賊は1人、また1人と味方を失っていった。
 四方から矢を射掛けられ、反撃すらままならない状況に追い込まれた黄巾賊。やがて、抗戦の意欲を削いだと判断した相手からの投降の呼びかけに対し、彼らは首を縦に振る以外の選択肢を持たなかったのである。





 劉家軍の兵士たちが、黄巾賊を縛り上げている様子を傍らで眺めながら、太史慈はただ感嘆するしかなかった。
 太史慈自身の矢によって、戦闘の火蓋が切って落とされてから、まだいくらも経っていない。にも関わらず、勝敗はすでについてしまっているのである。驚くべき早業であった。
 そして、劉家軍の中にあって、そう考えているのは、太史慈1人だけではなかった。


「まこと、水際立った戦ぶりですな。見事というしかない。さすがは子義殿、頼もしき方々をお連れ下さった」
 そう口にしたのは、武安国である。
 平原郡へ向かう途中、賊の猛追にあって太史慈とはぐれた武安国は、その後、敵を何とか振り切ることに成功したのだが、太史慈の後を追って平原郡へ向かおうとはしなかった。
 太史慈より後れて平原についても意味はないと考えた武安国は、援軍を太史慈に任せ、自身は周囲に散らばる黄巾賊の状況、そして偵察の兵士たちの様子を調べることにしたのである。黄巾賊を目にする度に、部下たちの報復を望む心が騒いだが、今はまだ時ではない、とその衝動を押し殺し、武安国は何日もかけて賊徒の状況を調べ上げたのであった。
 そして、平原郡より先遣隊として出撃した趙雲麾下の騎馬隊と、その案内役に立った太史慈の姿を見つけて、劉家軍に合流した武安国は、調べ上げた情報を逐一趙雲らに告げたのである。


 そんな武安国の努力と忍耐は、正しく報われた。
 趙雲は、武安国の情報を得るや、2百騎に及ぶ部隊をいくつかの小集団に分け、黄巾賊の偵察兵をことごとく捕捉、時を選んで、これを一斉に撃滅していったのである。
 その鮮やかな指揮ぶりは、太史慈と武安国をうならせずにはおかなかったが、それと同じ、あるいはそれ以上に2人が感嘆したのは、劉家軍騎馬隊の錬度の高さであった。
 前線から離れた部隊の偵察兵とはいえ、相手は青州黄巾党。その彼らを相手に、ほとんど犠牲らしい犠牲もなく、勝利を得てしまうとは、実際に自分たちの目で見ていなければ、容易に信じることは出来ない戦果であった。
 そして、それを可能としたのが、たった一つの馬具なのだという事実もまた、太史慈たちに衝撃を与えたのである。


「ほんの1つ2つの工夫で、鐙がこれほどまでに役に立つようになるとは、思いもしなかったですな」
 武安国は首を振りつつ、感心しきり、という様子で口を開いた。
 太史慈も全く同感だったので、こくりと素直に頷いた。鞍の両脇に、半月形の鉄の輪を吊り下げる。ただそれだけで、馬の御し易さにこれほどの違いが出ようとは、太史慈は想像したことさえなかったのだ。
「本当にそうですね。玄徳様の騎馬隊の強さ、一因は鐙によるものなのでしょう」
「それは間違いないでしょうな。正直、馬はあまり得手ではなかったのですが、その私でさえ騎射が出来てしまうのですから。これを考え付いた者は、よほどの者なのでしょう」
 武安国はそう言うと、ふと気づいたように、太史慈に問いを向ける。
「そういえば、子義殿は、その者に会われたのでしたかな?」
「ええ、北郷さん――あ、その鐙を考えた人の名前ですが、北郷さんには平原でお会いしましたよ。そも、劉家軍と引き合わせてくれたのも、北郷さんだったんです」
「なんと。それは、重ねて感謝しなくてはなりませんな。その北郷殿は、騎馬隊におられるのか?」


 武安国の問いに太史慈が答えようとしたとき、唐突に、第三者の声が割って入ってきた。
「一刀なら、後方の輜重隊と行動を共にしておるよ。あの者の戦は、敵と矢石を交えることではないのでな」
 白銀の甲冑に、陽光が小さく反射する――あらわれたのは、趙雲であった。
 その姿を見て、太史慈が深く頭を下げる。
「これは、趙将軍。此度の勝利、おめでとうございます」
「見事な戦ぶり、感服つかまつりました」
 太史慈と武安国の賛辞に、趙雲は軽く肩をすくめた。
「なに、子義殿の弓術と、報民殿の情報のおかげだよ。それに、黄匪との戦闘はここからが本番。勝利の祝いは、北海城を取り戻してから頂戴しよう」
 麾下の兵力を縦横に動かして、黄巾賊の哨戒網を一蹴した趙雲は、言葉どおり、この程度の功を誇るつもりはないようで、その顔に勝利の高揚感はなく、次の戦に向けて戦意を高めている様子であった。


 そして、それは太史慈たちとて同じことであった。
 今回の勝利で、平原郡を見張る黄巾党の目は、ことごとく潰すことが出来た。そして、敵はそのことに気づいていないであろう。
 今を除いて戦機はない。
 だが、幾許かの不安も存在しないわけではなかった。
「子義殿から、劉家軍の総数は3千と伺いましたが、北海を攻めている黄巾党は2万に及ぶ大軍でござる。勝算はおありなのですか?」
 武安国の問いに、趙雲は意外なことを聞いた、とでも言うように目を瞬いた。
 だが、すぐに苦笑混じりに、ひとりごちる。
「なるほど。確かに3千対2万では、勝算を気にするのが当然か。ふむ、その当然のことに気づかないあたり、私もいささか不利な戦に慣れすぎたかな」
 戦に不慣れな村人たちを率いて、万を越える黄巾党の攻勢を幾度も耐え凌いだ楼桑村での戦いに比べれば、今回の戦など趙雲にとって難事と呼ぶに値しない。
「だが、心配は無用ぞ。2万の大軍とはいえ、相手は城を包囲している最中。我らが直接、矛を交えるのは北側の部隊のみだ。これは5千、多くても6、7千程度であろう」
 これで、3千の劉家軍との戦力比は1:2。そして、こちらは城を攻囲している敵の背後を衝く優位を保持しているのだから、勝算は大きく跳ね上がる。
「確かに、奇襲の利はあるでしょうが、こちらに倍する敵軍を短期で打ち破ることが出来るかは、賭けではありますまいか。時間をかけてしまえば、異変に気づいた他の部隊が瞬く間にやってきてしまいます」
「なに、敵を全滅させようというわけではないのだ。城までの道を切り開くに、さして時間はかからぬよ。むしろ、敵が半刻以上、陣を保つことが出来たなら、惜しみない賛辞を送らねばなるまいな」
 いまだ不安を消しきれていない武安国に向かい、趙雲は余裕を持った態度で、そう口にする。もっとも、自分の言葉だけで相手の不安が消せるとは、趙雲自身、思ってはいない。
 どのみち、間もなく答えは出るのだから、今、ここで討論をしても仕方ないことであった。それは、武安国にしても了解するところであったから、それ以上の疑問を口にしようとはしなかった。




 劉家軍の第一の目的は、北海城の救援であり、賊徒の掃滅はそれからのことである。まずは城に入り、気息奄々たる北海城に救援の事実を知らしめる。しかる後、城内の軍兵と共同して、青州黄巾党を叩く。それが、劉家軍の当面の作戦目標であった。
 趙雲がもたらした成果については、すでに本隊に連絡が行っている。趙雲たちも、次の行動に移る頃合であった。
「将軍、捕虜はいかがいたしましょうか?」
「縛り上げて、森の中にでも転がしておけ。武器と馬を回収した後、合流地点に向かうぞ」
「は、かしこまりました!」
 趙雲の指示に従い、速やかに行動に移る兵士たち。
 やがて、戦場の後始末を終えた部隊は、馬首を東へ向けて走り出した。
 本隊と合流するなら、北西に向かわねばならない。しかし、将兵の誰1人として、その進路に疑惑を持つことはなかった。


 北海郡の東は東莱郡へと続く。かつては、険阻な地形を防壁として、一国が置かれていたこともある地域である。そして、その名残は、今もまだ東莱郡の各地に残っていた。
 すなわち、騎兵が身を隠すことの出来る場所には、事欠かないところなのである――

 



◆◆



 すでに城が黄巾賊に囲まれてから幾日経ったのか。北海の城壁を守る兵士たちは、その正確な日にちを思い出すことが出来なくなっていた。長引く黄巾賊の包囲と、昼夜を分かたずに行われる攻撃は、将兵の心身を確実にすり減らしていたのである。
 それゆえに。
 その夜、突如として北門付近で発生した敵兵の喚声と、矢石を交える戦闘の物音を聞いて、咄嗟に何事が起きたのかを判断できた者は、城内にはいなかった。


 城壁の上では、兵士たちが長期の篭城に疲れ果てた顔を見交わしている。
「おい、なんだと思う、この音は?」
「戦の音だな。誰かが戦ってるんだろう」
「んなもの、お前に言われないでもわかっとるわ。誰と誰が戦ってるんだって意味だ」
「まあ、片方は黄巾賊だろうな」
「ほんとにわかりきったことしか言わない奴だな」
「わかる筈のない質問をするお前に言われたくはない」
 兵士たちは不毛な会話をかわしつつ、億劫そうに弓を取り、矢を番える。
 誰が戦っているにせよ、北海城と無関係である筈がない。答えはすぐに出るに違いないのである。
 この場にいる兵士たちは、皆、1つの期待を持っていた。だが、誰もそれを口にしようとはしない。口にした途端、その期待は無残に砕かれてしまうように思えてならなかったのである――これまでと同じように。



 奇妙な静寂の中、城門前に弓矢の狙点を定めた孔融軍の兵士の目に、やがて、暗夜の混戦の靄を突っ切ってくる見慣れない旗印が映る。
 そこに記されるは『劉』の文字。
 そして、その旗印の下、黒髪をなびかせ、青龍刀を掲げる女将軍が、声高に城中に呼びかけてきた。
「北海の将兵に申し上げる! 我らは漢の都尉 劉玄徳麾下の軍兵3千、この城が黄巾賊に囲まれていることを聞きつけ、救援に馳せ参じた! 開門願いたい! 繰り返す、劉玄徳麾下3千が北海城の救援に馳せ参じた、開門願いたい!」 
 その声を聞き、城壁上の兵士たちにどよめきが起こる。
 それは、彼らが心密かに望んでいた言葉そのものであったが、だからこそ、彼らは咄嗟に行動に移ることが出来なかった。
「いかがしたか?! まさか城中の兵がことごとく力尽きたわけではあるまい。開門を!」
 度重なる外からの呼びかけに、この場の責任者である年嵩の兵士の1人が、ようやく言葉を返した。
「しばし待たれよ! これより孔太守に伺いを立ててまいる!」
 だが、その言葉に対して、返って来た返答は半ば以上、怒声であった。
「何を悠長なことを言っているのだッ! 我らは3千と言った筈。こちらに展開していた部隊は打ち破ったとはいえ、時を置けば、他方の部隊もやってくるだろう。逃げ道もない城門の前で、それらを迎え撃てとでも言われるのか?!」
 相手の言葉に理を認めた兵士は、一瞬、言葉に詰まった。
 だが、ここで勝手に城門を開け、これが黄巾賊の罠であったとしたら、北海城の命運は間違いなく尽きる。一介の部隊長が決断できることではなく、また、決断する権限もなかった。  


 しかし、城外の相手は、そんな兵士の逡巡に構おうとはしない。
「罠を疑い、我らを受け容れぬとあらば、それもまた良し。我が軍はここから退却するゆえ、城の命運はそなたらの手で切り開くが良かろう。要らざる手出しをした無礼は詫びさせてもらう!」
 開かれぬ城門に業を煮やしたのか、女将軍はそう言うと、さっさと馬首を返そうとする。
 それを見て、城壁上の兵士たちは慌てた。ここで援軍を追い返すような真似をすれば、それこそ後で太守からどのような叱責を浴びるか知れたものではない。なにより、他の兵や、城内の民衆の激怒に晒されることは、火を見るより明らかなことであった。  
 彼らは決断する。
 たとえ、これが罠であったとしても、どのみち落城までの日数が、ほんの数日、短くなる程度であろうから。
「ま、待たれよ! ただ今、城壁を開くゆえ! 我ら北海の軍民、劉玄徳殿の援軍を歓迎する!」
 その声と共に、城門付近に待機していた兵士たちが、慌てて門を開く。
 幾度と無く黄巾賊の攻撃に晒されながら、いまだその機能を失っていない頑丈な門が、きしみをあげながら大きく開かれていく。
 そして、開かれた城門から、劉家軍の兵士たちが次々に城内に駆け込んできた。
 孔融軍の兵士たちは、これが罠ではないかという恐れを抱きながら、彼らの様子を見ていたが、無論のこと、劉家軍の兵士たちが不穏な行動をとる筈もない。
 その様子を見て、ようやく、城内の兵士たちは、真実、援軍が到来したことを悟る。
 やがて、彼らの内の1人が、歓喜の声をあげる。その隣にいた者が、すぐにそれに唱和し、さらにその隣の者へと伝わっていき――やがて、それは北門を守備していた全ての兵士の口からほとばしる歓喜の絶叫となっていったのである。



◆◆



「北海郡太守 孔文挙と申す。貴殿らの救援、心より感謝する」
「劉玄徳です。えーと、その、一応、都尉にしてもらったところです。太守様も、城の皆さんも、ご無事で何よりでした」
 孔融の謝辞に、劉備が緊張の面持ちで答えを返す。
 孔子20世の孫として、孔融の名は広く知れ渡っている。文人として、若いときから令名のあった人物でもある。
 劉備も学がないわけではないが、やはり孔融のような本物の知識を蓄えた者から見れば手慰みのようなものだろう。劉備はどうしても緊張を消すことが出来ずにいた。無学者と思われたらどうしよう。
 だが、この劉備の危惧は取り越し苦労の類であった。
 確かに孔融は学を鼻にかけるところがあったし、正論を振りかざす癖を持っていたが、それはもっぱら上にいる人物、すなわち州牧や、あるいは朝廷の大官に向けられていた。
 目下の者や、民を前に、学識を誇示し、相手を貶めるような悪癖と、孔融は無縁だったのである。


 互いの挨拶が終わると、孔融はやや早口で劉備に問いかけてきた。
「1つ、聞かせてもらいたいのだが、貴殿らは、この城の危難をどうやって知ることが出来たのだ?」
 孔融の問いには、無論、それなりの理由がある。
 先日、城外で数名の兵士たちの首が晒された。これまで、救援を頼むために城外に出て失敗した者たちと同じように。
 黄巾賊にとって、それは城中の士気を挫く手段であったのだろうが、これには孔融も驚きを隠せなかった。何故なら、孔融はそのような指示を下していなかったからだ。
 急ぎ、確認が行われ、黄巾賊に討たれた者たちは、城壁の守備を担当していた小隊の1つということが判明した。
 彼らは、孔融の命を受けることなく、独断で城外に出て、そして捕斬されたというのだ。


 配下の死は痛ましい限りだが、それが軍令違反ゆえとなると、話は変わってくる。
 その行いが、どれだけ真剣に城のことを考えたものであったとしても、命令違反を見過ごせば、それに倣う者が続出してしまうだろう。ただでさえ寡少な兵力を、これ以上、無為に失うわけにはいかない。
 そして、詳しく事情を調べ始めた孔融は、やがて件の小隊が、1人の少女に付き従う形で城外に出たことを知る。少女の正体に思い当たるところがあった孔融は、いそぎその少女の容姿を確認し、己の悪い予感が的中したことを悟ったのである。


 そして、劉備の口から出た言葉は、孔融の予測どおりのものだった。
「太史子義殿の命がけの奔走で、北海郡の危難を知るを得ました」
「……そうか。やはり、というべきなのかな。歴戦の兵士でさえ抜けることが出来なかった重囲を、こうも容易く突破するとは、さすがは慈だ」
 孔融の吐息は、嘆息か、それとも感嘆か。
 だが、劉備は首を横に振って、その言葉を否定する。
「容易く、ではありません。子義殿は仰っていました。自分がここにたどり着くことが出来たのは、命を盾にして道を切り開いてくれた兵の皆さんのお陰だ、と。だからこそ、この使いを失敗するわけにはいかないって、私に頭を下げてくれたんです――太守様は、とても得難い配下をお持ちなのだと思います」
「……かたじけない。それを聞いた者たちも、泉下で喜ぶことであろう。そして、慈の願いに応じてくれた貴殿らの義心にも、重ねて礼を申し上げる」
 瞼の裏に、首だけとなった部下たちの姿を思い浮かべながら、孔融はもう一度、劉備に向かって頭を下げるのだった。





 一通りの情報交換が終わると、話は現在の戦況に戻された。
 劉家軍が城内に入ったことにより、城中の士気はおおいに高まっている。
 当初、北門での騒ぎを聞き、他部署の兵や、民衆は、とうとう黄巾賊の侵入を許したのか、と覚悟をした者も少なくなかった。
 1ヵ月以上、城門が開かれることはなく、賊の昼夜を問わない攻撃に晒され続けているのだ。
 いつそうなったとしても、おかしくない戦況だということは、いまや女子供でも知っていることだった。
 だが、劉家軍の到来は、そんな彼らの不安と諦観を、雲の彼方まで蹴飛ばしてのけたのである。
 兵数にすれば、わずか3千であるが、より重要なのは、援軍が来たという事実。それはすなわち、北海城の危急が、黄巾賊の重囲を破って外に届いたということなのである。
 そんな彼らの希望に、劉家軍は1つの情報をもって応えた。
 河北の雄たる袁紹の軍勢もまた、軍備を整え次第、北海城まで出撃する手筈だ、と。
 それを聞いた将兵や民衆が狂喜したのは、当然のことであったろう。



 しかし、これは偽りの情報であった。袁紹は、北海城の危急を知っても、すぐに兵を出そうとはしない。だからこそ、劉備たちにお鉢がまわってきたのである。
 そしてまた、出してもらう必要もない――それが、劉家軍の誇る軍師 鳳統の見解であった。
 何故、わざわざ将兵を欺くような情報を与えるのか、との問いに、鳳統は次のように答えた。
「……私たちが来たことで、城内の皆さんの士気はとても高まっています。反対に、黄巾党の軍は動揺していることでしょう。けれど、時が経てば、また元に戻ってしまいます。2万対3千。兵数だけを見れば、私たちが、まだまだ圧倒的に不利な状況にいることに、気づいてしまうからです」
 鳳統は、更に言葉を続ける。
「敵の後ろには、まだ多くの兵力が残っています。季姫さん(張梁)によれば、青州黄巾党の総兵力は10万に迫るとのことでした。そのことを思い出せば、敵は余裕を取り戻し、味方は意気を阻喪してしまう。この城を救うためには、冷静にさせてはいけないんです。敵も――そして味方も」
 敵には、自分たちが不利な状況にいるのだという錯覚を与え続け。
 味方には、自分たちが有利な状況にいるのだという幻想を植え続け。
 その上で、錯覚も幻想も、事実に変えてしまわなければいけない。鳳統はそう説くのであった。




 孔融は、信義と正当性を重んじる性質である。
 これが、他の件であったならば、民や配下を欺くような真似は、言下に拒絶したに違いない。いや、戦時である今だとて、完全に納得しているわけではない。しかし、孔融にしても、その配下の諸将にしても、鳳統の、堂々とした論調に圧倒されそうになっていた。否、圧倒されていた。
 軍事に限って言えば、両者が身につけた知識と理論に、大きな差はない。むしろ、長く生きた分、孔融の方が優れているくらいだろう。
 だが、孔融が、学んだ知識を机上でのみ用いることが出来るのに対し、鳳統は、それを現実に活かす術を心得ていた。荊州から旅立ち、中華の地を巡ったこと。実際の戦場で人の生死を目の当たりにし、戦の何たるかを肌で感じたこと。そうやって、自らの目と手足で感じたすべての経験が、鳳統の知識に血肉を与え、発する言葉に力を添えていたのである。


(ねえねえ、愛紗ちゃん)
(何ですか、桃香様)
(士元ちゃん、とっても堂々としてるねえ。ちょっとびっくりしたかも)
 劉備の囁きに、関羽は微苦笑をもらした。
(確かに)
 今の鳳統を見て、いつも「あわわ」と言って慌てている者と同一人物だと考えるのは、なかなかに難しいことだろう。
 もっとも、まるで別人のように変わった、というわけではない。劉備や関羽のように、鳳統と長らく行動を共にしていた者には、それがわかる。
(自信、なのでしょうね。自らの行いと、それがもたらす結果を、顔をそむけることなく受け止めようとする心が、人を前に向かせるのです)
 自信とは、文字通り、自らを信じること。おそらく鳳統は、先の戦いのどこかで、その端緒を掴み取ったのではないか。関羽はそう考えていた。
(それが何なのかを問うのは、野暮というものでしょう。桃香様も、頼もしい軍師に負けないように、精進なさっていただかねばなりません)
(うん、そうだよね)
 鳳統の年齢を考えれば、まだまだこれからも伸びていくことは疑いない。知らず、いつか北郷が言った言葉を、劉備は思い出していた。
(天下の諸侯が、領土の半分を献じても手に入れたいと願う、不世出の人材――鳳凰の雛、鳳雛、だったよね)
 鳳統だけではない。新たに加わった趙雲はもちろん、これまで共に戦ってきた関羽、張飛、諸葛亮、陳到、簡擁らは大陸全土を見渡しても稀有の人材である。形は違えど、あの董卓や張角もまた、劉家軍に協力してくれている。
 これだけの人たちに力を貸してもらっているのだ。立ち止まることも、挫けることも許されない。あの桃園での誓いを果たすために、劉備に出来ることは、全力で走り続けることだけしかない。
 孔融らを相手として、堂々と渡り合う鳳統の姿を見ながら、劉備はそう考え、静かに拳を握り締めるのだった。
 


◆◆



 北海城を取り囲む黄巾党にとって、劉家軍の参戦は予想外の要素であった。
 しかし、この時点で管亥にはまだ幾分かの余裕が残っていた。
 袁紹に北海郡の情勢が知られたのは痛手であるが、万を越える軍勢がすぐに徴募出来る筈はない。やってきたのは、3千にも満たない寡兵であり、兵力はまだまだ黄巾党が上回っている。
 すでに北海城の防壁は崩壊寸前であり、今更、守備兵が増えたところで大きな問題とはなりえない。
 管亥はそう判断を下したのである。



 劉家軍が入場を果たした明くる日、管亥は早くも軍を動かした。
 下手に時間を置けば、味方の兵士が臆してしまうと考えたのである。
 城壁の下に押し寄せる黄巾党の軍と、城壁の上で待ち構える劉備・孔融の連合軍の戦端が、ここに切って落とされた。


 この戦いにおいて、管亥は緒戦から激しく城を攻め立て、城壁上の相手の心胆を寒からしめた。一時は、遂に城壁の一部を乗り越えるかと思われるほどの勢いであり、連合軍は防戦に追いまくられる羽目に陥ってしまう。
 その理由は、両軍の連携不備にあった。昨日、城内に入ったばかりの劉家軍と、孔融の軍は、部隊長級の指揮官たちの話し合いが1度、行われただけで、まだ互いの連携が確立されていなかったのである。
 また、劉家軍の将兵は、攻める戦はともかく、守る戦の経験がほとんどない。時に、孔融軍の防戦の邪魔をしてしまう場面さえ見受けられる有様であった。


 無論、それは黄巾党指揮官 管亥の思惑のうちにあった。
 所属の異なる軍が、すぐに緊密な連携が取れる筈はない。急な援軍は、かえって敵の敗因となりえるのである。
 そして、眼前の戦闘は、管亥の予測どおりの展開を見せていた。
 城中の混乱を見た管亥は、ここが戦機であると睨み、全軍に攻勢を強めるように指示を下す。敵が混乱から立ち直る暇を与えず、一挙に城壁を乗り越え、城中に突入しようとしたのである。


 ――そう動いてくれ、と劉家軍が願っていたとおりに。
 

 攻める兵士が増えれば、守る兵士が減る。それは単純な算数である。
 攻勢に出て、手薄になった黄巾党の陣営の後方から、突如、火の手が上がった。
 何処からともなく放たれた、幾十もの火矢によって、火は瞬く間に燃え広がっていく。兵士たちが慌てて消火しようとするが、二の矢はその彼らに向けて降ってきた。
 悲鳴をあげて倒れ付す守備兵たち。妨げるものもなく、火は目の前にある物資を舐めるように飲み込みながら、更に勢いを増していく。
 後方の火の手に気づいた管亥の口から、悲鳴のような声があがった。
「だ、誰が糧食に火を放ったのだッ?!」


 管亥の問いに答えたのは、猛々しく突進する馬蹄による轟音。
 無論、その部隊は、城内に入らず、城の外で機を窺っていた趙雲率いる騎馬部隊であった。





 この戦いにおいて、鳳統は先の戦いのように、作戦に複雑な含みを持たせることをしていない。
 その作戦の内容は、まず、城の守備には歩兵部隊を、外の遊撃部隊には騎兵部隊を充てる。
 入城と同時に、城外の敵部隊に向け、更なる援軍の存在をちらつかせ、相手の動揺を誘う。相手が大事をとって退却すればよし。あるいはそこまで上手く行かなくても、城攻めを急がせる程度の効果は期待できるだろう。
 敵が攻めてくれば、城の部隊がそれを凌ぎつつ、外に待機させていた騎馬部隊で、包囲軍の外から撹乱を行い、更なる敵の混乱を誘う。
 そして、最終的に、城の内外の部隊が呼応して、敵を撃退する、というものであった。


 鳳統が策を弄することをしなかったのは、それだけの時間の余裕がなかった、という理由もあるが、何よりも、彼我の戦力差を踏まえ、小細工を用いる必要はない、と判断したからに他ならない。
 漫然と1ヵ月以上も城を囲むことしかしない敵軍が相手ならば、今の劉家軍の戦力をもってすれば、撃破することはさして難しいことではない。鳳統はそう考えたのである。
 果たして、その鳳統の考えは正鵠を射た。
 というよりも、鳳統の予測を越える勝利を得ることが出来た。
 実を言えば、鳳統とて、まさか緒戦でいきなり相手の兵糧を焼き払うことが出来るとまでは考えていなかったのである。
 だが、管亥が城攻めを急いだこと、そしてそれを見切った趙雲が、一撃で敵の急所を貫いたことにより、戦況は一気に連合軍の有利に傾くこととなる。 



 糧食の大部分を焼き払われた黄巾党は、しかし、なおも城の包囲を解こうとはしなかった。
 あるいは、緒戦において敵の主力を撃滅するという巨大な戦果がなかったならば、管亥はこの時点で退却なり、増援の要請なりを行うことを考慮したかもしれない。
 しかし、ここまで圧倒的優位な状況をつくりあげながら、肝心の城を陥とせないとあっては、管亥の能力に疑問を抱く者が出てくる可能性がある。否、それはすでに軍内から瘴気のように立ち上り始めていた。
 退却は論外。本隊に増援を要請することも、結果として、管亥の立場を危うくさせるだろう。
 ――その判断と、落城は間近という戦況が、逆に管亥の目を曇らせ、戦機を見失わせるに至っていた。
 

 この上は、一刻も早く城を攻め落とさねばならない。
 そう考えた管亥は、火を噴く勢いで、苛烈に城を攻め立てたが、兵士たちは、指揮官ほどに勝利への執着を保つことが出来なかった。
 包囲は破られ、兵糧は焼き払われ、そして後背からは絶えず敵の遊撃部隊の撹乱が行われる。
 その状況にあって、迷うことなく目の前の城壁に向かうことが出来るほど豪胆な兵士は少なかったのである。


 ことに、黄巾党に恐れられたのが、城外の騎馬部隊である。
 騎馬の機動力を利した一撃離脱の戦法を用い、まるで、動きの鈍い黄巾党をあざ笑うかのように、幾度も攻撃を仕掛けてくる騎馬部隊。
 彼らの昼夜を問わない襲撃に怯え、兵士たちはろくに眠ることさえ出来ない有様であった。
 騎兵自体の数が少ないため、1つ1つの戦闘での死傷者の数はさほどでもなかったが、騎射を自在に行い、奔放のようでありながら、理にかなった戦術を駆使する騎兵部隊の動きに、管亥はじめ黄巾党の誰も、ついていくことが出来なかった。


 その騎兵部隊の中でも、さらに恐れられる人物が2人いた。
 1人は、緋色の槍を振りかざし、鮮血の舞を踊る白衣白甲の将軍。
 1人は、古の養由基の再来かと思われる精妙な弓術を誇る碧眼の武将。
 ことに、後者に関しては、襲撃の度に指揮官を射落とされ、軍内の指揮系統にきわめて深刻な損傷を負わされるに至っており、黄巾党の憎悪と恐怖は、否応なく高まっていった。


 この騎兵部隊が、東莱のあたりから出撃していることは、管亥も掴んでいたのだが、あのあたりは複雑な地形が広がっており、発見は容易ではない。少数の部隊を派遣しても蹴散らされるだけ。かといって大規模な部隊を動員すれば、北海城への押さえが足らなくなる。
 そんな痛し痒しの状態に苦慮する管亥であったが、その対応を考えるよりも早く、糧食が尽きる事態に至ってしまった。
 糧食が尽きれば、戦うことはおろか、包囲を続けることさえ不可能である。
 北海城に固執する管亥は、おそまきながら、ようやく退却を決断するのだが、この決断はあまりにも遅すぎた。


 夜陰、ひそかに陣を引き払う黄巾党。
 しかし、すでにこのことあるを予期していた劉家軍は、瞬く間に敵の退却を察し、ただちに城門を開いて追撃に討って出たのである。
 あるいは罠かもしれない、という危惧を持つ者もいたが、ほとんどの将が敵の退却は真実であると感じていたし、また、それは事実であった。
 退き際を強襲された黄巾党に、振り返って武器を構える気力は、最早残っていない。
 城内の部隊が突出してくることを予期し、逆撃の態勢を整えていた黄巾党であったが、劉家軍の最初の一撃で、その陣列は脆くも乱れたった。さらにそこに、城内の部隊に呼応した趙雲率いる騎馬部隊が追い討ちをかけた瞬間、黄巾党の軍隊としての指揮系統は完全に崩壊した。
 2万を越える軍勢は、算を乱して崩れたち、兵士たちは後ろも見ずに、懸命に逃げ出していく。
 そこに、青州最強の兵団の面影は微塵もなかった。 




 ここに、北海城は長きに渡る青州黄巾党の攻囲を退けることに成功したのである。
 大きく開かれた城門を前に、城内の民衆は歓呼の声を上げ、長い篭城を戦い抜いた兵士たちは、立つことも出来ないほどの安堵に襲われ、その場に膝をつく者が続出した。
 ただ、将兵であれ、民衆であれ、顔に浮かんだ笑みは同じであった。
 苦しい戦いに耐え抜いた喜びと、そして守るべきものを守りきった誇りを満面に浮かべた北海の住人たちの歓喜の声は、いつまでも絶えることはないかと思われた。



◆◆



 明けて翌日。
 北海郡の西方にあって、何とか追撃の手を逃れた管亥は、ようやく自軍を再編することが出来たのだが、そのあまりの惨状に愕然としていた。
 管亥の下に集まった兵士は、2万の軍勢の内、わずか4千に過ぎなかったのである。
 討ち死にした兵士も多く、また今も別の方向へ逃げている者もいるであろう。だが、ほとんどの兵士たちが、管亥を頼むに足りずと考え、自主的に離脱したことは明らかであった。
 たった4千では、再戦もおぼつかず、他所の城市を襲って糧食を奪うことも難しい。
 万策尽きた管亥に出来たことは、青州黄巾党の本拠地に使者を出すことしかなかった。
 本拠地には、いまだ数万の軍勢が控えている。敗北の罪は厳しく問われるだろうが、その問罪をかわすことさえ出来れば、再度、軍旅を催すことも十分に可能である。
 管亥はそう考え、そこに一縷の希望を託したのである。


 
 管亥は知る由もない。
 この時、すでに青州黄巾党の本拠地が、陥落寸前であるという事実を。
 しかし、たとえその知らせを耳にしたとしても、管亥は信じることはなかったであろう。
 青州において、圧倒的な勢威を振るう彼らを相手どり、一体何者が、勝利を掴みえるというのか、と一笑に付したに違いない。




 だが、それはまぎれもない事実。
 青州黄巾党は、今、許昌より発した一軍によって、滅亡の寸前にまで追い詰められていたのである。
 その軍を率いる者の名は、曹孟徳。
 許昌に移された後漢王朝の、事実上の主宰者である。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 各々之誇(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/05 14:15




「兌州(えんしゅう)済北郡太守 鮑信と申します。此度、我らが救援のために、曹将軍御自らの来援を仰げましたこと、まことに感謝の言葉もございません」
 鮑信はそう言うと、曹操の眼前で深々と頭を下げる。曹操の目に、艶やかな漆黒の髪が、天幕の燭台の灯りを映して、鈍く輝いたように見えた。
 兌州八郡の太守を務める者たちの中で、女性の太守は2人だけしかいない。中華全土を見渡せば、あるいは、2人もいる、と言った方が正確であるかもしれない。
 1人は曹操の股肱たる陳留太守 張莫。もう1人が、今、曹操の眼前に参じた済北太守 鮑信である。




 賢主として名高い鮑信は、年齢から言えば、曹操、張莫よりも少しだけ上。
 一見、楚々とした風情の美女ながら、太守の座に就いてからすでに数年。後漢の宮廷を敬して遠ざけ、もっぱら済北郡の発展に努め、見事な成果を出しているなかなかに肝の太い人物であった。
 鮑信の努力の甲斐あって、済北郡は兌州はおろか、周辺諸州を見渡しても、抜きん出て治安が良く、また税も低めに抑えられているため、民は平穏な生活を享受することが出来ていた。
 その意味で済北郡に並ぶのは、張莫の陳留郡ぐらいであろうという専らの評判であった。
 当初は、女性の太守ということで、反発する勢力も多かったが、鮑信は時に強引なまでの力技で、時に柔和な笑みと共に搦め手を用いるなどして、問題を1つ1つ、着実に解決していき、実権を手中に収め、さらにその勢力を伸ばしていき――いまや、兌州において、鮑信の令名を知らない者はいないまでの勢力へと変貌を遂げていたのである。
 だが、その鮑信の名声が、かえって青州黄巾党の攻勢を招き寄せる結果となったのは、皮肉なことであった。



 元々、張角の蜂起によって興った黄巾党は、雑多な勢力の寄せ集めであった。波才麾下の精兵のように、正規軍に劣らない実力を有した部隊もあれば、農民が武器を持っているだけ、という部隊も少なくない。
 それは黄巾党の理念である中黄太乙――黄布を身につけた民による、太平の世の招来という目的が、立場や理念を越えて、多くの人々の気持ちを引き付けたことによる。
 もっとも、実際に画策したのは、張角ではなく、周りの者たちだったのだが、それはさておき、青州黄巾党の存在は、この雑多な黄巾党の中でも、更に異彩を放つものだった。
 青州黄巾党が恐れられた最たる理由。それは、他の部隊ではありえなかった結束力の高さであった。
 曰く「死を恐れず、父や兄が討ち死にすれば、子や弟が群がりおこる」
 青州黄巾党は、済南郡の貧しい民衆を基盤とする戦闘集団であり、それゆえにこそ、他の部隊と一線を画した強さを発揮することが出来たのである。
 自分のためだけではない。彼らの背後には、武器を持たない家族が控えているのである。
 戦で敗れれば、敵の刃が家族に及ぶという脅威。
 敵を打ち破って財貨を得なければ、家族が飢えてしまうという恐怖。
 波才のような図抜けた指揮官がおらず、管亥ら2流の指揮官に率いられているにも関わらず、青州黄巾党を、青州最強の兵団へと押し上げた原動力は、その2つであると断言することが出来るであろう。



 だが、その認識は、他勢力にとっては迷惑なことこの上なかった。領土の支配や、経営といった観点が欠けている青州兵たちは、殺戮と、略奪という手段に訴える術しか持っていないことを意味するからである。
 そんな彼らが、兌州において、もっとも豊かな郡の1つである済北郡に目をつけるのは、自然なことであったのだろう。
 黄巾党の河北一斉蜂起に伴い、彼らは大波となって済北郡に押し寄せた。
 その報告を受けたとき、鮑信は一瞬、奥歯を強く噛み締めた。兌州に名高い鮑信の武略をもってしても、青州黄巾党の猛攻を防ぎとめる術が思い浮かばなかったのである。
 鮑信は、かねてから誼を通じていた陳留に救援を求める使者を発したが、陳留の張莫が、主を曹操と定めたことは聞き知っていた。そして、その曹操が皇帝を保護し、許昌に宮廷を移したことも聞き及んでいた。後漢の王朝から距離を置いていた鮑信のために、彼らが援軍を発するとも思えず、鮑信は先行きの暗さに、人知れず、ため息を吐いたのであった。



 だが。
 そんな鮑信の予測に反し、援軍はやってきた。
 曹操みずからが率いる、漢朝の正規軍。
 しかし、それは陳留からもたらされた情報によって発されたわけではなかった。この時点で、陳留に派遣した鮑信の救援要請は、曹操の下まで届いていなかったのである。 
 では、どうして曹操が援軍として、許昌から離れた青州まではるばる軍旅を催すことになったのか。
 その理由は、朝廷内に蔓延り始めた、曹操の存在を疎む者たちの思惑にあった。



◆◆


 
 洛陽から許昌へ。
 遷都後の宮廷の主宰者は、衆目の一致するところ、曹孟徳ただ1人であった。
 軍権はすべて曹操の掌中にあり、宮廷を動かす財貨は曹操の懐から出されている現状にあって、それを否定することが出来る者は、どこにもいない。
 たとえ皇帝であれ、曹操の行動を掣肘することは出来ないであろう。宮廷の誰もがそう考え、息を殺して、曹操の一挙手一投足に注意を払わなければならなかったのである。


 とはいえ、曹操は、皇帝はじめ百官を蔑ろにしたわけではない。
 曹操は漢の廷臣として朝政に臨み、政策を討議した。
 緻密な政策を立案するに、曹操に優る者はなく、決定された政策を迅速にこなすに、曹操に比肩しえる者もいない。
 曹操の精勤と、それがもたらす種々の成果は、漢朝の権威を確実に高めており、口さがない宮廷雀たちでさえ、曹操の功績を否定することは出来なかった。
 曹操を非難すれば、その曹操に劣る働きぶりしかしていない己の惨めさが際立つのみとあって、小人たちも口を閉ざさざるをえなかったのである。
 だが、それゆえに、一部の廷臣たちの不満は、陰にこもるようになっていった……





 許昌の実権を握る曹操の下には、大小さまざまな案件が持ち込まれてくる。
 中でも最も曹操が注意を払っているのは、許昌の治安であった。
 許昌は曹操が作り上げた新しい都。その住民の多くは、外からやってきた流民である。
 袁紹のように、核となる地盤を持たない曹操にとって、流民の力の組織化は、今後、天下に打って出るに際し、是が非でも成し遂げねばならないことなのである。


「桂花、街の様子はどう?」
 曹操の問いに、許昌建設の全権を委ねられている荀彧は、自信を込めて首を縦に振る。
「万全です、華琳様。流民たちは増え続けていますが、居住地にはまだまだ余裕があります。また、先んじて暮らしている者たちの中から自警団を組織する動きが起きており、自発的な発展を望む良い傾向がうかがえます」
「よし。ただし、行き過ぎて、排他的な力とならないよう、注意を怠らないように。外の力を取り込む襟度のない勢力が、天下を得た例はないわ」
「御意。お任せください」 


 曹操は次に、夏侯惇へ問いを発する。 
「春蘭。流民の中から兵を募る件、どうなったかしら?」
「は! 我が軍に参加を希望する者の数はとどまるところを知りません。すでに数だけは5万を越えております。ただ――」
 そこで、夏侯惇はわずかに躊躇した。
「戦闘経験がある者を優先的に選抜して編成しているのですが、まだまだ烏合の衆です。実際に戦場に立てるようになるまで、まだしばらくはかかるかと……」
 自身の力不足を嘆く夏侯惇に、曹操は、しかし怒りを見せることなく頷いてみせた。
「それは当然ね。いかに春蘭が一騎当千の勇士とはいえ、新兵が1ヵ月やそこらで使い物になる筈もない。慌てる必要はないわ。あなたが納得いくまで、じっくりと鍛え上げてやりなさい」
「御意! おおせのとおり、たっぷりと鍛え上げてやりますよ!」
 曹操の言葉に、たちまち元気を取り戻した夏侯惇の顔を見て、夏侯淵が小さく肩をすくめてみせた。
「……姉者、ほどほどにな。姉者が本気で訓練に身を入れたりしたら、兵舎が怪我人で溢れてしまいそうだぞ。いざ戦という時に、包帯を巻いた怪我人を指揮して戦うなぞ、ぞっとしないからな」
「そ、そんなことはわかっている! きちんと、手加減はする。余計な心配をするな、秋蘭」
 むきになったように言い返す夏侯惇を見て、今度は荀彧が口許を曲げた。
「あら、あなたが手加減なんて言葉を口にするとは思わなかったわ。今日は雪でも降るのかしらね」
「な、なんだとッ?!」


 それを聞いた夏侯惇が激昂する寸前、荀彧を制した者がいる。
 その人物は、荀彧と良く似た容姿であったが、態度は控えめであり、その言葉には棘がなかった。
「姉様、そのような言い方、春蘭様に失礼ですよ」
 この少女、名を荀攸、字を公達、真名を藍花(らんふぁ)という。
 荀攸は荀彧を姉と呼ぶが、実の姉妹というわけではない。荀攸は、荀彧にとって姪にあたり、3ヶ月だけであるが、先に生まれているのである。
 それゆえ、姉という呼びかけは、複数の意味で事実にそぐわないのだが、幼い頃からの関係、そして何より互いの性格の違いが、両者の立場を決定づけていた。


 荀彧と同じ亜麻色の髪を、腰まで伸ばした荀攸は、かすかにその髪を揺らしながら、荀彧を制そうとするが、荀彧はどこ吹く風とばかりに切り返してきた。
「あら、本当のことじゃない。藍花だってそう思うでしょ?」
 荀彧の問い返しに、荀攸は、思わず頷いてしまう。
「た、確かに春蘭様が手加減を知っているというのは驚きました。いつでもどこでも全身全霊、全力を挙げる方だとばかり……って、違います! そういうことを言いたいわけではなくてですね」
「ほら、ごらんなさい。藍花だって同意見だわ」
「ち、違います! 勝手に同意見にしないでください、姉様! 私、そんな失礼なことを考えては……いえ、確かに驚きはしましたが、それとこれとは別の話で――!」
「そうか、桂花はまだしも、藍花にまで私は手加減を知らぬ猪武者だと思われていたのか……」
 力なくうな垂れる夏侯惇を見て、藍花はさらに慌ててしまった。
「ちょ、あの、春蘭様、違います! あ、いえ違わないのかも? あ、でも決して春蘭様のあり方を否定しているわけではなく、むしろその猪突猛進の在り方こそが春蘭様を、春蘭様たらしめているのではないか、と考えていて、その、あのですね」
 フォローしようとしているのか、とどめをさそうとしているのか、わからなくなるような藍花の言動だった。それを聞いて、夏侯惇はますますうな垂れてしまった。


 さすがにこのままでは収拾がつかない、と判断した、夏侯淵がようやく助け舟を出した。
「藍花、後で姉者を立ち直らせる私の苦労も察してくれるとありがたいな。苛めるのは、そのくらいにしてやってくれないか」
「ち、違います、秋蘭様。私、決して春蘭様を苛めているわけでは――ッ?!」
 夏侯淵の助け舟(?)に、何故か横撃を喰らった形の荀攸が、顔を真っ赤にして俯いてしまうのを見て、ようやく曹操がその場を取り静めた。
「ほらほら、まだ話は終わっていないのよ。こんなところでじゃれあうのは止めなさい――本題は、これからなのだから」
 何気ない曹操のひと言に、しかし、この場に集っていた者たちは、たちまちのうちに表情を引き締めた。
 彼らは鋭気を漲らせた表情で、曹操の言葉をひと言たりとも聞き逃さないように、耳をそばだてた。


 そこに、つい先刻まで、この場で戯れていた者たちの姿はなく。
 一国の王朝を支えるに足る気概と能力を兼備した君臣の姿が、そこにあった。







 曹操が本題と口にしたのは、今日、朝廷より下された命令にあった。
 それは「曹孟徳を征東将軍に任じ、兌州及び青州において猛威を振るう黄巾党を討伐せよ」というものである。
 この時期、すでに河北における黄巾党の勢力は、袁紹によって駆逐されつつある。いまだ、黄巾党の残党は平原郡に立てこもっているとのことだが、それもまもなく陥落するであろう。
 しかし、そういった主力の敗退に関わらず、青州黄巾党の勢力は、衰えることを知らず、周囲の太守はおろか、州牧たちも手出ししようとしない状況であった。
 賊徒を公然と野放しにしておけば、漢王朝への信頼は失われてしまう。ついには、賊徒の陣営に駆け込む者たちさえ出てきてしまうだろう。これまでそうであったように、である。



 廷臣たちは言う。
 そんな事態を阻むためにも、しかるべき将軍に兵を授け、黄巾党を漢の御旗の下に跪かせねばならない。それが、宮廷の総意である。
 今現在、許昌における漢朝の戦力は、ほぼすべてが曹操の持つ武力に他ならぬ。
 征討軍の指揮を曹操が執るのは、当然にして自然のことであろう。
 さらに、曹操は皇帝を庇護して以後、いかなる地位も、また恩賞も求めはしなかった。漢朝の臣として、その無欲と謙譲は賞賛に値したが、信賞必罰は宮廷の拠って立つ基盤でもある。
 王朝再興の功労者を賞せざるとあっては、皇帝陛下の不徳ともとられかねぬ。
 曹操殿においては、此度の将軍位授与の件、辞退することのないように。



 曹操から話を聞いた荀彧は、ひと言で百官の思惑を示して見せた。
「体の良い追放、ですね。廷臣たちは、よほど華琳様の存在が目障りになってきたのでしょう」
 荀彧の言に、夏侯惇が首を傾げる。
「華琳様に将軍位に就いて頂き、その御力で、黄巾党を討伐してほしいということだろう。廷臣たちにしては、身の程をわきまえた頼みではないか、うん。ここは快諾を与え、我らの力を示してやろうではないか!」
 自信満々、という様子でそう主張する夏侯惇を、荀彧は呆れたように見た。
「あんた、馬鹿? 宮廷の連中は自分たちの権力を肥らせることしか頭にないことくらい、知っているでしょう。そんな連中が、前触れもなく、漢朝への信頼だの、匪賊の討伐だのと言い出したのよ。裏があるに決まってるでしょう」
「な、なに、そうなのか、秋蘭?」
「ふむ、まあ、十中八九、桂花の言うとおりだろう。付け加えれば、宮廷にいる者たちは、総じて欲が深い。その彼らから見れば、功績が多大であるはずの華琳様が、何の恩賞も求めようとしないことは、不気味に思えてなるまい。今回の件、華琳様を都から追いやると同時に、華琳様が果たして宮廷の命令に素直に従うのか否か、確かめようとする狙いもあるのではないかな」
 夏侯淵の言葉に、今度は荀攸が口を開く。
「今、漢朝が動かせる兵力は5万に足りません。それも、そのほとんどは元董卓軍の兵たちです。漢朝、そして華琳様への忠誠など持っている筈はなく、その統御に苦労するに違いない。朝廷の方々はそう考えていると思われます。軍勢の出立に手間取れば、それを理由に非難してくる可能性もございますね」
 反董卓連合結成時に、曹操軍の主力となっていた1万の軍勢については、すでに張莫と共に陳留に帰還していた。
 この時代、兵卒は、同時に農民でもある。戦が終われば、田に帰らなければならないのである。
 その意味でいっても、董卓軍の兵たちの中で、故郷の涼州へと帰還を望む者は多数に上る筈だ。彼らを統御し、東へ遠征するのは、曹操といえど、容易なことではない。
 廷臣たちはそう考えたのだろう。
 


 3人の意見を聞いた夏侯惇は、なら話は簡単だ、とばかりに腕組みをして、深々と頷いた。
「なるほど。つまり、今回の命令には従わない、ということだな」
「……春蘭」
「は、華琳様、どうかなさいまし……って、痛い、痛いです華琳様。頬をつねるのはお止めくださいッ?!」
 夏侯惇の言葉どおり、曹操はにっこりと微笑みながら、夏侯惇の頬をつねっていた。手加減していないので、地味に痛がる夏侯惇。
「あなた、私に皇帝の命令を真っ向から蹴飛ばせとでも言うのかしら? そんなことをしたら、どうなるか、まさか想像がつかないとは言わないわよね?」
 もし、曹操が皇帝の命令に肯わなかった場合、今はおとなしくしている宮廷の狐狸が、声高に僭越だの不忠だの騒ぎ立てるのは間違いあるまい
 曹操の力をもってすれば、武力も財力もなく、皇帝に寄生する輩など一掃できるに違いないが、今の段階でそれを行えば、今度は曹操が董卓の二の舞になってしまうだろう。
 そして、それを望む者が、舞台の袖に潜んでいることに、気づかない曹操たちではない――若干、1名を除いて。


「で、では、華琳様はどのようにされるおつもりなのですか?」
 なんとなく、蚊帳の外に置かれている自分を認識し、夏侯惇はちょっと寂しそうに問いかける。
「勅命とあらば受けるしかないでしょう。征東将軍の位など、別にほしいとも思わないけれど、くれるというならもらっておきましょう。地位やら官位やらを有り難がる者も少なくないしね」
「そ、そうですか! さすが華琳様です! なんだ、桂花。結局、最初に私の言ったとおりになるのではないか。小難しい理屈で私を惑わせようと思っても、そうはいかんぞ」
「ああ、はいはい。まったく、猪武者は気楽で良いわね。結論だけを見て、そこに至る過程を見ようともしないのだから」
 肩をすくめる荀彧に、荀攸が小さく微笑みかけた。
「ふふ、武人たる者、春蘭様のようにまっすぐに駆けることこそあるべき姿なのでしょう。他の細かいことは、私たち軍師が処理しておけば良いことですよ。それが結果として、華琳様が歩む天道を、もっとも明るく照らし出すことになるのだと、私は思います」
「ふん、春蘭なんかに負けるものですか。華琳様のもっとも近くで天道を歩むのは、私以外にはありえないもの」
「であれば、尚更、不和は謹まねばなりませんよ、姉様」
 荀攸がたしなめるように言うと、荀彧はむっとしたように顔をしかめたが、反論を口にしようとはしなかった。



「では華琳様、軍を出すとして、編成はどうなさいますか?」
 夏侯淵の問いかけに、全員が曹操に注目する。
 不確定要素を抱える朝廷の兵士を用いるか。あるいは、陳留の軍勢のみで討って出るか。最後の手段として、いまだ訓練半ばの新兵を動員するという策もある。
 資金と糧食に関しては問題のない曹操陣営であるだけに、取り得る手段は幾つも存在した。どの道を選ぶにも、一長一短があったのだが、曹操は迷う素振りさえ見せず、決断を下す。
「新兵を用いるは論外。陳留の軍勢だけでは、青州黄巾党との戦いが無駄に長引く可能性がある。ここは、我らが動員できる最大限の兵力をもって、一気に連中を叩き潰す」
 朝廷の兵力を率いて、征討軍を編成する。
 その構成上、全面的な信頼を置ける兵力ではないが、仮にも天下を目指そうという者が、率いる兵士に不安を抱えているようでは、器が知れるというもの。不満があるなら、それを正面から打ち砕き、従わせてみせよう。
 その曹操の決定を聞き、部下たちは一斉に頭を垂れるのであった。




 主君が決定を下せば、あとは全力で任務を果たすだけである。
 勇み立つ部下たちに、曹操は次々に指示を下していった。
「春蘭は、兵1万を率い、先鋒となって山陽郡に進出しなさい。佐には楽、于、李の3将をつける。山陽郡で陣を構え、青州軍の動向を確認し、可能であれば一挙に敵の勢力圏に踏み込みなさい」
「御意!」
「秋蘭は、同じく1万を率い、第二陣として春蘭の後背を固めなさい。道々の領主たちとの折衝は、秋蘭に一任するわ。藍花は秋蘭の補佐をお願い」
「御意、お任せください」
「承知いたしました」
「桂花は引き続き許昌の建設に当たりなさい。無論、朝廷の監視もあなたの任よ。出来るわね?」
「御意、我が能力をもってすれば、容易いことです、華琳様」
「よし。桂花の補佐には、子孝(曹仁)をつける。私は本隊として2万を率い、後詰には子廉(曹洪)の5千をあてる」
 曹仁、曹洪、共に夏侯惇の指揮下にあって、新兵の訓練に当っている将軍である。その名のとおり、曹操の一族である2人だが、実力主義の曹操軍にあっては、一族といえど、優れた人物の下につかねばならないのである。
 もっとも、2人とも、それを屈辱と考えるほど度量の狭い人物ではなく、配置は滞りなく完了することになる。



 曹操が策定した征討軍の総兵力は4万5千。その数は、現在の許昌における、正規の兵力のほぼ全てと言って良い。
 言葉どおり、曹操は動員可能な最大兵力をもって、征討軍を組織するつもりであった。
 だが、それは同時に帝都たる許昌が、手薄になることを意味する。
 曹操の軍が出陣するや、それを知った一部の者たちの動きが慌しくなってくる。
 乱世において、本拠地を手薄にすることが、何を意味するのかを知らない曹孟徳である筈はないのだが――しかし、自らの望む現実のみを見る者たちは、そのことに気づこうとはしなかったのである。



◆◆



「うー、しっかし、夏侯将軍も、人使いの荒いお人やなー。そう思わへん、凪?」
 李典がため息を吐きながら、楽進に同意を求めると、楽進はそっけなく言い返した。
「……荒いんではなく、上手いんだ。放って置くと、真桜も沙和も働かないから」
「うぐ。沙和ー、凪がうちをいじめるんよー」
 于禁は泣きついてきた李典を抱きしめ、背中を叩いてやる。
「あー、よしよし。可哀想だねー、真桜ちゃん」
「ああ、うちのことをわかってくれるのは沙和だけや。薄情な凪とは大違いやな」
「そうそう、凪ちゃんは薄情なの。この前も、約束してた杏仁豆腐をおごってくれなかったしー」
「……給料日前だった。仕方ない」
「おお、じゃあお給料出たら、おごってくれるんだ?」
 于禁が目を輝かせて確認をとってくる。その熱いまなざしから、自然に目をそらした楽進の視界に、捜し求めていたものが映し出された。
「真桜、沙和、あれ」
 楽進が指差した先を見る李典と于禁。
 3人の視線の先には、「中黄太乙」の旗印が翩翻とはためき、その下には無数とも思える軍勢が陣を据えていた。
 済北郡太守 鮑信の城を囲む青州黄巾党の軍勢である。


 3人は、黄巾党の実数、布陣、兵士たちの様子などを確認し終えると、急ぎ、夏侯惇の下へと取って返した。
 夏侯惇は先鋒を任され、張り切って軍勢を進めてくる筈である。
 敵の哨戒網にかかってしまう前に報告しなければ、そのままの勢いで青州黄巾党と戦端を開きかねない、と3人の意見は一致を見たのである。
 しかし、今回は幸いにも、その事態に先んじて、3人は夏侯惇と合流することが出来た。
 夏侯惇への報告の場で、3人は口々に青州黄巾党との戦いが容易でない旨を訴えた。
 済北城を囲む布陣は隙がなく、兵士たちの士気はきわめて高い。何より、8万という大軍なのである。夏侯惇率いる1万では、勝負になる筈はなかった。
 「全軍突撃! 曹家の武力、見せてやれ!」などと夏侯惇が命令した日には、先鋒が全滅してしまうかもしれない。3人は半ば本気で、そのことを心配をしていたのである。


 そんな3人の不安げな視線を浴びつつ、夏侯惇は何やら考え込んでいたが、やがて、1つ、大きく頷くと、3人に向きなおった。
「文則(于禁の字)、おまえ、たしか済北郡で暮らしていたことがあると言ったな?」
「はーい。5年くらい、あそこで暮らしてましたー」
「では、城内にこっそり入ることは出来るか?」
 夏侯惇の問いに、于禁は迷う素振りも見せずに、首を縦に振る。
「簡単簡単、ですよ。子供の頃の遊び場ですから。お間抜けな黄巾賊の目を潜り抜けることくらい、余裕ですのー」
 于禁の返答を聞いた夏侯惇は、小さく頷いた。
「そうか。なら、文則は私の書状を持って、城内に潜入してくれ。城がそう容易く落ちるとは思えんが、万一ということがあるからな。私が包囲を破るまでの間は、持ちこたえてもらわねばならん」


 夏侯惇の言葉を聞いた3人は、互いに視線をかわし合い――そして、自分の聞き間違いではないことを確認する。
「あのー、夏侯将軍、よろしいですか?」
「なんだ、曼成(李典の字)?」
「今『私が包囲を破るまでの間は』って言ってるように聞こえたんやけど……?」
「当たり前だ。そう言ったのだから、そう聞こえるに決まっているだろうに」
「……あのー、まさか、うちらだけで青州の連中とやりあうおつもりですか?」
 李典のおそるおそるの問いかけに、夏侯惇は大きく胸を張って応える。
「はっはっは。曼成はまだまだ猪武者だな。突撃するだけが武将の戦いではないぞ。時には策を用いて、敵を撃破することもおぼえてもらわねば、華琳様の軍勢を任せることは出来んぞ」
 その夏侯惇の台詞を聞いた瞬間、3人の顔に驚愕が走った。


「……夏侯将軍に、猪武者っていわれてもーた……」
 呆然とする李典。
「夏侯将軍が突撃以外をするところを見るのは、はじめてかもー」
 目を丸くする于禁。
「……御教誨、胸に刻んで忘れません」
 感動したように、跪く楽進。


 驚き騒ぐ佐将たちを他所に、夏侯惇は熱心に地図を眺める。
「ふん、私だって策のひとつやふたつ、考えることは出来るのだ。見ていろ、桂花め。それに、先鋒だけで勝利を得られれば、その分、軍の犠牲も減る。そうすれば、きっと華琳様も褒めてくださるに違いない!」
 心中で呟いているつもりだったが、夏侯惇の呟きは駄々漏れだった。
「あー。なるほど、そういう理由があったんね」
「きっと、また会議の場で相手にしてもらえなかったのねー」
「……私は夏侯将軍についていくのみ」
 佐将たちは、それぞれ納得したように頷くのであった。


 そして、夏侯惇は、考えに考えた末の作戦を披露する。
 曹操軍の目的は、青州黄巾党の撃滅であるが、焦眉の急は、済北郡の救援である。
 とはいえ、彼我の戦力差を考えれば、正面からぶつかることは避けたいところだ。では、どうやって敵の包囲を破るのか。
 夏侯惇は、地図上のある一点を指し示した。済南郡――青州黄巾党の本拠地が置かれている場所である。
「私と文謙は、先鋒を率いて済南郡を叩く! これだけの数が出撃している以上、本拠地の防備は薄い筈だ。ここに侵攻すれば、奴らは帰る家を奪われると考え、慌てて軍を退くしかなくなろう」
 敵が退却を始めれば、于禁は城内の鮑信と共に背後から追撃する。
 李典は後続の夏侯淵らに作戦を伝え、協力してもらう。夏侯淵の用兵は神速であり、すぐに援兵を出してくれるだろう。
 済南郡に侵攻した夏侯惇らも、時期を見計らって軍を返し、この包囲軍に加わる。
 かくて、三方から集中攻撃を受け、青州黄巾党は壊滅する、という寸法であった。


 作戦を聞いた楽進たちは、何やら唖然として、言葉も出ない様子である。
 自信満々で説明していた夏侯惇であったが、佐将たちの様子に、やや不安そうに問いかけを発した。
「ど、どうした、何かまずいところでもあったか?」
 楽進らは顔を見合わせ、互いの驚きを確認しあう。
「い、いやー、そうやないんですが……」
「ふわー、夏侯将軍がこんなまともな作戦を考え付くなんて……」
「……完璧です、将軍」
 作戦といっても、あの夏侯惇将軍のこと。「正面突破で城内に突入する!」くらいのものだろうと考えていた李典や于禁は、自分たちが目の前の将軍を、知らず、見くびっていたことを悟る。
 3人は、はかったように同時に頭を下げた。
 夏侯惇の作戦で動くことに、いささかの不満もないことを示すために。





 かくて、先鋒軍を率いる夏侯惇の策によって、曹操軍は動き出す。
 夏侯惇と楽進の率いる1万の軍勢の出現は、黄巾党の留守部隊を驚愕させた。
 まさか、都から長躯、ここまで曹操の軍が出てくるなど考えてもいなかった黄巾党は、ただちに出撃した部隊に対して急を告げる使者を出した。
 済北郡を攻め立てていた軍勢は、留守部隊からの知らせを受け、慌てて城の包囲を解き、退却を開始するが、于禁からの知らせによって、このことあるを予期していた鮑信麾下の済北勢の追撃を受け、多くの死傷者を出すことになる。


 数にまさる黄巾党は、なんとか鮑信の追撃を押し返し、済南郡へと帰路を急ぐのだが、ここで夏侯淵率いる曹操軍第二陣に捕捉されてしまう。
 夏侯淵は黄巾党の正面に立ちはだかることはせず、あえて敵の半ばを見過ごした後、斜め後方から黄巾党を激しく攻め立てた。
 鮑信の時とは違い、この襲撃は完全に黄巾党の不意を衝いた。敵は済南郡を襲った一隊と、済北勢だけと考えていた黄巾党が、夏侯淵の奇襲に対抗しえる筈がない。
 それでも、敗走の中で、なお軍としての秩序を失わないところに、青州黄巾党の真価が見て取れた。


 しかし、それとても、夏侯惇の軍勢が立ちふさがるまでのこと。
 済南郡に点在する諸砦を、文字通りに粉砕した夏侯惇が、時期を見計らい、返す刀で黄巾党の本隊に襲い掛かったのである。
 2度に渡る敵勢の追撃を、なんとか耐え凌いだ形の青州黄巾党であったが、この夏侯惇の一撃が致命傷となった。
 この時点で、曹操の本隊はまだ参戦しておらず、いまだ総兵力は黄巾党が優っていた。
 しかし、夏侯姉妹による挟撃、そして遅れて参じた鮑信の軍も加わった三方からの攻勢により、軍としての指揮系統が寸断されてしまったのである。個々の兵士たちがどれだけ精強であっても、指揮する者がいなければ烏合の衆にかわりはない。
 青州黄巾党はついに軍隊としての形を維持することが出来なくなり、全面的な敗走を余儀なくされたのである。
 彼らは戦場を散り散りになって離脱し、本拠地である済南郡の方角へ向けて落ち延びようとしたのだが、夏侯惇たちがそれを許す理由はない。夏侯惇らの猛追を受け、青州黄巾党は、更なる損害を被ることになった。
 


◆◆



 曹操が本隊を率いて到着した時、すでに勝敗は決していた。
 無論、曹操軍の勝利という形で、である。それも、上に大が付くほどの勝利である。
 その勲の第一が、先鋒を率いた夏侯惇であることは、衆目の一致するところであった。
 しかし、曹操の口から出た言葉は、短かった。
「春蘭――良くやってくれたわ」
 大功を挙げた部下への褒詞にしては、あまりにも素っ気無い言葉である。
 少なくとも、傍らで聞いていた鮑信にはそう思えた。


 しかし。
「はッ!」
 夏侯惇もまた、短く、そう返答しただけであった。もちろんのこと、不平不満など欠片も浮かべてはいない。
 2人の視線は、すでに敵陣に翩翻と屹立する「中黄太乙」の旗印に注がれている。
 その君臣の姿を見て、鮑信は、曹操軍の在り方の一端を、垣間見たように思った。




 青州黄巾党の本拠地である済南の砦を彼方に望みながら、曹操はしばらく無言であった。夏侯惇らに散々に打ち据えられた黄巾党は、本拠地であるこの山砦に逃げ込み、迫り来る曹操軍に対抗しようとしていたのである。
 山中に造られた砦の各処には、幾十もの旗が乱立していたが、それらはいずれも力なく垂れ下がり、それをはためかせる風は、そよとも起こらない。
 あたかも、気候すら黄巾党の落日を悟り、それに追随しようとしているかのようであった。
 

 山砦と一口にいっても、兵士の数よりも多い非戦闘員が暮らしている規模であり、山そのものが敵の攻撃を打ち払う城壁のようなものであった。
 ここは元々、済南郡の貧民たちが、官兵や、あるいは野盗から身を守るために寄り添いあって暮らしていた場所である。そして、一つの山を挙げて、黄巾党の教えに帰依してからは、この場所こそが、青州黄巾党の本拠地となっていたのだ。



 曹操が率いる2万の本隊と、曹洪が率いる5千の後詰が到着したことにより、現在の両軍の兵力は、ほぼ互角となっている。
 具体的に言えば、曹操軍の4万5千に加え、鮑信の軍勢が1万。そして、道々、夏侯淵、荀攸の2人が説いた諸侯らの兵力5千を加え、曹操軍は6万に達している。
 一方、青州側は、度重なる敗戦により、万を越える損害を出しており、結果として両者の勢力はほぼ互角となっていた。
 逆に言えば、曹操側は、夏侯惇らの勝利を経てようやく、黄巾党と互角の形勢に持ち込めるようになった、とも言うことが出来る。
 それゆえに。
 迫る曹操軍を前にしても、砦側に諦めた様子は見えなかった。度重なる敗北に、士気は確実に落ちていたが、それでも降伏など思いもよらない様子である。
 この地で暮らす者の多くは、官軍に搾取され、虐げられてきた者たちである。官の側に立つ曹操への敵愾心の大きさは尋常ではない。
 いざとなれば、女子供に武器を持たせることも辞さない覚悟を秘め、黄巾党は曹操の攻撃を待ち構えているようであった。



◆◆



 夏侯惇らの勝利、鮑信ら諸侯の参戦は、曹操にとって喜ぶべきことである筈だった。
 しかし、今、曹操の顔に笑みはない。むしろ、青州黄巾党と対峙してからというもの、曹操の機嫌は下降の一途を辿っていた。
 鮑信ら新参の諸侯に気づかれるほど、あからさまなものではなかったが、夏侯惇ら古参の面子には、それがひしひしと伝わってくるのである。
「な、なあ、秋蘭。華琳様、何をあんなに怒っておられるのだ?」
「無論、黄巾党の様子を見てのことだろう、姉者」
「それは、あれか。連中が身の程知らずにも、まだ華琳様に刃向かおうとしているから、ということか?」
 夏侯惇の問いに、夏侯淵は小さく息を吐く。
「先の戦であれだけの冴えを見せたのだ。姉者なら、華琳様の心底、察することが出来るはずだぞ?」
「む、そ、そうは言われてもだな」
 敵の立てこもる山砦の様子を見て、微動だにしない曹操の後姿を窺いながら、夏侯惇は困り果てた。


 しかし。
 じっと主の様子を見ているうちに、夏侯惇は、その怒りが向けられた相手が誰なのか、漠然とではあるが、感じられたように思えた。
 その夏侯惇の考えを肯定するように、曹操の口から低い声が漏れてくる。
「これだけの力、あたら黄巾党の如き迷妄の教えによって朽ちさせようとするとは、なんたる愚か。その蒙、この曹孟徳が啓ってくれよう」
 曹操はやおら振り返ると、荀攸に鋭い視線を向けた。
「藍花、どう考えるか?」
 唐突な問いに、しかし荀攸は落ち着き払って返答する。
「青州黄巾党の方々も、党首 張角、大方 波才らが河北で私闘の末にぶつかり合ったのはすでに知っている筈です。その上で、なおこれだけの士気を保つことが出来るのは、彼らが黄巾党の指導者ではなく、黄巾党の教えにすがっているゆえであることは明白。それゆえ、ただ言葉だけでの説伏は困難かと」
 曹操は無言で、荀攸に続きを促した。
「彼らの蒙を啓う方法はただひとつ。黄巾の教えでは、彼らが望む未来は得られないことを知らしめることです。邪教の教えに淫した軍と、天道を歩む華琳様の軍、その格の違いを見せつければ、彼らはおのずと悟るでしょう。そうしてはじめて、彼らは華琳様の言葉に耳を傾けると考えます」
 荀攸の言葉に、曹操は大きく頷いた。
「藍花の言やよし。これより、全軍を挙げて攻勢に出る。青州の愚か者どもに、天道を歩む我らの力を知らしめよ!」
『ははッ!!』
 曹操の号令に、その場にいる者たちが一斉に頭を下げた。



◆◆



 青州黄巾党の将兵にとって、先の戦いの敗北は、不意を衝かれた為のもの。正面から戦えば、朝廷の軍とはいえ、易々と敗れはしないと考えていた。
 まして、こちらは険しい山の地形を城壁代わりとした、堅牢な山砦に篭っているのだ。曹操軍が何度攻め寄せようと、どれだけの奇策を弄そうと、撃退することは可能な筈であった。
 だが、しかし――


「も、申し上げます!! 敵、曹操軍、第2郭を突破しました! 現在、第3郭で迎撃中です!」
「急ぎ、女子供を上層に移せ! すぐにここにもやってくるぞ!」
「第3郭の者たちが、至急、増援を、と。このままでは、第3郭を破られるのも時間の問題です!」
「ええい、敵は幻術でも用いているのか、何故こうも容易く我らが砦を抜くことが出来るのだッ?!」
「そのような繰言を申している場合ではありませぬ! 至急、防備を固めなければ……」
「申し上げます! 第3郭、突破されましたッ! 敵、中層部へ進入してきます!」
「なんだとッ?!! 上層の長老たちに知らせよ! このままでは、我ら青州軍は終わってしまうぞ?!」


 焔が天高く燃え盛るにも似た曹操軍の猛攻撃に、青州黄巾党が鉄壁を謳った山砦の防備は、牛刀で肉を裂く如く、容易く切り裂かれてしまった。
 この時、曹操は、奇を衒わない正攻法を用いた。
 部隊をいくつかにわけ、そのうちの半分を砦の攻略に向かわせ、頃合を見計らって、次の部隊と交代させる。
 交代した部隊は一度、後方に下がり、負傷者の手当てと武器の補給を受けてから、再度、城攻めに参加する。
 これを繰り返せば、敵の正面に立つ部隊は常に気力と体力が満ちた状態になるのは当然であろう。
 正当な――陳腐ともいえる用兵。
 しかし、兵を用いる者の名が、曹孟徳の名を冠する時、凡庸なそれは、姿を一変させる。
 砦の防備の薄い箇所を的確に見抜く眼力、そこに叩きつける戦力の大きさ、その展開の速さ、いずれも黄巾党如きが容易に対抗できるものではなかった。
 部隊同士の入れ替えをするに際しても、曹操がその機を見誤ることは決してなかった。そして、敵との交戦中、整然とそれを行える非凡な統率力――言葉にすれば、簡単なことであったかもしれない。しかし、実際にそれを行える者が、はたしてどれだけいるだろうか。
 


 青州黄巾党にとっては、悪夢に等しい防戦であった。
 どれだけ矢を浴びせても怯むことなく。
 どれだけ石を投げても退くことなく。
 疲労も、損害も感じさせることなく、ただひたすら押し寄せてくる曹操軍。
 その彼らを前に、砦にこもる将兵は動揺を禁じえなかった。自分たちが、人ではなく、悪鬼を相手にしているようにさえ感じられ、それが将兵の動揺をいや増した。
 動揺は疲労を増し、判断に狂いを生じさせる。
 そして、敵はその動揺に乗じて、攻勢を強め、着実に砦の防備を突き崩していく。
 最も防備が固い筈の第1郭が陥落するまで、半刻とかからなかった。そして、それ以後の郭で、第1郭よりも持ちこたえることが出来たところは存在しなかった。
 早朝に始まったこの戦い、日が中天に輝く頃には、曹操軍は、すでに中層を完全に占領し終えていたのである。


 青州黄巾党にとって、最大の誤算というべきは、曹操がいかなる奇策も弄さず、真正面から全戦力を叩きつけてきたことである。
 本拠地である山砦は、一つの山を要塞化したもの。当然、その規模は大きい。それゆえ、守備側は兵力を分散せざるをえなかったのである。
 対して、曹操は砦正面に全戦力を集中させていた。この時点で、曹操軍は敵に対して、数の上での優位を確立させた。
 通常、城を攻めるにおいて、攻城側は、守備側の3倍の兵力を必要とするという。しかるに、曹操軍と黄巾党の兵力は、ほぼ互角であり、曹操軍の不利は免れないものと思われた。
 しかし、戦場を限定してしまえば、局地的にその不利を覆すことは不可能ではない。
 曹操は、これ以上ない形で、それを証明して見せたのである。



◆◆



 山砦の上層部では、将兵とその家族が、不安げに立ち尽くしていた。
 曹操軍の攻勢に、慌てふためいて逃げ続け、ここまで来たものの、曹操軍の魔手は、すぐにここにも届くであろう。そのことを、彼らは悟っていた。       
 それはつまり、青州黄巾党が、今日滅ぶということを悟ったということである。


 文字通り、最後の砦である第7郭には、生き残った将兵が悲壮な覚悟を決めて、守備についていた。
 すでにその数は3万に満たない。逃げ後れた仲間や、戦えない者たちが、どのような末路を辿ったのかは、考えるまでもない。官軍が、賊に容赦する筈がないのだ。
 そして、それは間もなく自分たちの身の上にも降りかかる出来事である。自分たちだけでなく、後ろで怯え、竦む家族の身にも、同様のことが起こるだろう。彼らを逃がそうにも、山頂は、曹操軍の手によって、隙間なく包囲されている。
 もはや、青州黄巾党の命運は窮まったことを、誰もが感じ取っていた。


「長老たちから命令は?」
「なにも。まだ、戦況が理解できてねえのかもしれんな」
「仕方ないか。ほんの何日か前までは、こんなことになるなんて、思いもしなかったわけだし」
 兵士たちは、落ち着いたように静かに言葉をかわす。
 しかし、その落ち着きが諦観ゆえであることは明らかであった。
「一か八か、全員で突撃するわけにはいかないのかな?」
「家族を置いて、か? そんなこと、みんな承知しないだろう。家族を守りながら、突破できるような連中でもない」
「そりゃそうだが、このまま、ここで守っていたって、結果はかわらんだろう。たとえば、そうだな、官軍が火を放ってきたら、おれたちは逃げ場もない山頂で蒸し焼きになっちまう……ぞ」
 言った本人も含め、彼らは蒼白になった顔を見合わせた。
 今、はじめてその危険に気づいたのである。
 黄巾党の教えに従い、家族のために誇り高く戦って討たれるならまだしも、炎と煙に追われた末に、焼き殺されることを望む者などいる筈はない。
 最悪の未来図が、彼らの諦観を払いのけ、戦士としての意識が戻ってくる。
「長老たちに出撃を願い出よう。このままここにいたら、手遅れになる」
「わかった。けど、おれたちだけの意見じゃ、長老は動かないだろう。他の連中にも伝えて、同調してもらおう」
「よし、それじゃ早速――」
 そこまで言いかけた兵士が、不意に、視線を敵陣に向けて凍りついた。
 不審に思った同輩が、その兵士の視線の先を見ると、そこには敵陣から1人、駒を進める者の姿があった。


 金色の髪が、中天で輝く陽光を映して、まばゆく煌く。
 鮮麗な容姿は、凄惨な戦場の中にあって美々しく輝き、敵と味方とを問わず、将兵たちはその輝きに打たれて身動きできぬ。
 駒の名は、影を踏むことなき疾走を可能とする名馬 絶影。
 その背にあって、勁烈な視線で山砦を見据える者の名は曹操、字は孟徳。



◆◆



「青州黄巾党の者どもに告げる。我が姓は曹、名は操、字は孟徳という」
 曹操の声は、決して大きいわけでも、高いわけでもない。
 しかし、その声は戦場の隅々まで響き渡る。いかなる混戦の物音も貫いて、戦場で戦う将兵を叱咤することの出来る、覇王の声であった。
「勝敗はすでに決したこと、すでに理解していよう。汝らに問う。我が旗の下に降る気はあるか?」
 曹操の問いに、兵士たちは互いの顔を見合わせた。


 その彼らにかわって応えた者がいた。
「否とよ。我らが望みは黄巾党の教えに従いて、楽土に至ること。信なき朝廷に屈するつもりはない」
 かなりの高齢と思われるその人物は、腰は曲がり、頭髪は白一色と化している。傍らに立つ少女の支えが無ければ、歩くことも覚束ない様子である。
 周囲からは「長老……」という声が幾つもあがった。
 その姿を見て、曹操はすぐさま馬から降りた。
 呼びかける口調も、改まったものになっている。
「翁よ、尊名を伺わせていただけようか?」
 長幼の序をわきまえた曹操の態度に、長老はわずかに目を瞠った後、ゆっくりと口を開いた。
「この地では、典老と呼ばれておりまする、官の将軍よ」
「では、私もそのように呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」
「かまいませぬよ。されど、貴殿の話を肯うことはないと、心得られよ。我らは、官の横暴に苦しめられた末に蜂起した民。今更、官に膝をついて許しを乞おうとは思わぬゆえ」
 典老の言葉に、曹操は小さく首を横に振った。
「典老、御身は1つ、思い違いをされておられる」
「……む?」
「私はさきほど、こう申し上げたのです。我が旗の下に降る気はあるか、と」
 朝廷に、ではなく。
 曹孟徳に降れ、と。
 そう言ったのだと、曹操は口にする。


 後漢の政情不安定な世を生き抜いた典老の眼光が、一際強くなったように思われた。
「……常ならぬ志を秘めておられるようじゃの。されど、我らが答えはかわらん。『中黄太乙』の旗印を掲げ、起ち上がった志、捨て去るわけにはいかぬゆえ、な」
 その言葉を聞き、典老に語りかける曹操の声がわずかに強くなった。
「今、御身は志と申された。それは、太平の世を築くにあった筈。されど、御身らは我が軍に敗れた。それは何ゆえでありましょう? それは御身らの志が弱かったからではない。黄巾党という器が、その志を満たすに足るものではなかったということではありませんか」
 曹操の決め付けるような言葉に、さすがに典老は憤然とした様子を見せた。
「これは暴論を聞くものかな。我らは確かに貴殿に敗れたが、それは黄巾党の教えが貴殿に敗れたわけではない。貴殿の言葉に従えば、力強き者のみが正しい志をまっとうできることになりはすまいか。そんな理不尽な考えが――」


「そんな理不尽な考えがまかり通る――それが乱世というものなのです、典老」


 曹操の静かな断定が、典老の言葉を奪う。
 そして、それを聞く黄巾党の者たちの言葉をも。
「勝者のみが正義を語り、敗者のそれは土に塗れる。乱世とは、すなわち、そんな唾棄すべき世。御身の仰るように、この戦で勝ったからとて、黄巾党の教えが否定されるわけではない。されど、結果として、黄巾党の教えは、今日この時をもって捨て去られるでしょう。それを信じる者たちが破れ、滅びるゆえに」
 曹操の声が、粛々と山砦に響き渡る。


 いつかその言葉は、典老にではなく、その声を聞く全ての者に向けて語りかけるものにかわっていた。
「それが、乱世の理。我はその理に従い、天道を行く。覇道と謗りたくば、謗ればよい。その謗りさえ、我が天道を飾る徒花となろうゆえ。そして、我が天道には、いかなる邪教、邪宗の教えも必要ないのだ」
 乱世そのものを叱咤するかのごとく、曹操の言葉が気炎をまとう。
「汝らが黄巾の教えに見出した、太平の世。それは、我が天道の先にこそ広がる桃源の園である! 汝らは我が民となり、その時を導け。我が兵となり、天道を祓い清めよ。我が手足となって、太平を妨げる者たちを斬り捨てて見せよ!」
 曹操は腰間の倚天の剣を抜き放ち、高々と掲げた。
 稀代の名剣が、陽光を眩しく反射し、黄巾党の者たちの目を灼くように輝く。
「我が名は曹孟徳。我は天道を歩む者、乱世を終わらせるは我にあり! さあ、選択するは今この時ぞ。黄巾の教えに従いて、ここで果てるか。その志を遂げるために、我が下に降るか。いずれの道を選ぶも、汝らの自由なり。青州黄巾党の誇り、我が前に示してみせい!」




 凄絶なまでの曹操の覇気に撃たれ、砦の将兵は声も出ない。
 それは典老もまた同様であった。 
 情も、理もわきまえながら。乱世の惨さを噛み締めながら。
 それでもなお、その乱世を鎮めるために覇道を歩む少女を前にして、何が言えるというのだろうか。 


 がたり、とくぐもった金属音が、典老の隣から聞こえてきた。
 兵士の1人が、持っていた槍を地面に取り落としたのである。
 それを皮切りに、同じような音が各処から響き、やがてそれは、砦全体に波及していった。
 彼らは視線を典老に据えた。万言を費やすよりも、鮮明な意思を込めて。


 やがて、典老は傍らの少女に支えられ、郭の外にゆっくりと歩み出た。
 そして、曹操の前に立った典老が、静かに頭を下げる。
 青州黄巾党が、曹孟徳の下に降った瞬間であった。



 後に、史書は記す。
 「曹魏の強、これより始まる」と。  
 

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 各々之誇(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/08 23:22




 青州黄巾党が曹操に降ったことにより、曹操軍の戦力は飛躍的に強化されることとなった。
 ただし、そのためにしなければならないことは山積しており、それが完了しなければ、戦力の強化も絵に描いた餅になってしまうだろう。
 両軍の死者を埋葬し、負傷者を治療する。その一方で、軍の再編成にも着手しなければならない。
 曹操は青州軍を独立した部隊として用いるつもりはなく、曹操軍の一部隊とする考えであったから、青州軍の指揮系統を一から組み直さねばならず、軍令も周知徹底させねばならなかったのである。


 青州黄巾党の、兵としての強さに疑問の余地はない。しかし、それは略奪や殺戮を公然と行う獣性を伴うものであった。曹操が欲したのは精強な兵であって、野獣の群れではない。そのため、曹操は自軍の軍律を参入したばかりの青州軍に知らしめ、彼らの意識を根底から変える必要があったのである。
 しかし、当然のごとく、青州軍からは反発が沸き起こった。青州軍の将兵にとって、曹操が課した軍律は、極めて重いものに思われたのだ。
 この時代、軍律を厳しくする将は、むしろ少数派である。略奪暴行は、命をかけて戦った兵士たちの権利として暗々裏に黙認される風潮であった。しかるに曹操軍の軍律は厳正を極める。
 簡潔に言えば、略奪は斬首、暴行は斬首、押し買いは鞭打ち、という具合である。
 これでは、戦うことの報酬が何もないに等しい。青州軍の兵士たちはそう考え、新しい主君のやり方に不満を覚えた。くわえて、両軍はつい先日まで矛を交えていた間柄であり、戦友や親兄弟を失った者も、とくに黄巾党側には少なくない。
 勝者の立場になった曹操軍と、元黄巾党の兵士らの小競り合いは毎日のように発生し、張り詰めた空気が漂うようになったのは、必然のことであったかもしれない。


 ここで、曹操は断固たる態度を取る。
 曹操が受け容れるのは「我が民として我が律令に従い、我が兵として我が軍令に従う者のみ」と布告し、騒擾を起こそうとする者には厳罰を下すと宣したのである。
 曹操は青州黄巾党と戦い、これを降した末に受け容れた。それは青州軍の力を認めたからであり、曹操自らが赴いたのも、相手に対して礼を尽すために他ならない。
 しかし、だからといって、横暴な振る舞いを見過ごすほど、曹孟徳という人物は甘くなかった。青州軍の力は、これからの曹操にとって欠かすことの出来ないものとなるであろうが、それに驕った態度を見せれば、次の瞬間、粛清の刃を振るうことに躊躇いはないのである。





 おりしも、曹操軍の兵士が、諍いの末に、青州軍の若者に腕を斬られるという事件が起こる。
 片腕を斬られた兵士が上官に訴えでたことで、その青州軍の若者はすぐさま捕らえられ、公衆の面前へと引き出された。
 曹操の面前で、相手の非を一方的に詰る兵士に対し、若者はひと言も発さず、ただ俯くばかりであった。軍令に照らし合わせるまでもなく、若者の罪は明らかである。すぐにも誅戮の刃が振り下ろされるものと思われた。
 だが、周囲の予想に反し、曹操は若者にいかなる罰も下さなかったのである。


 当然、訴えた兵士は不満をあらわにする。だが、曹操はその兵士を冷たい目で見据えるだけで、口を開こうともしない。
 かわりに動いたのは、夏侯惇であった。
 夏侯惇は声高に述べた。
 そもそもの発端は、その兵士が、若者の妹に対して戯れかけたことが原因である、と。
 兵士の誘いを拒否した娘に対し、勝者としての意識が肥大していた兵士が乱暴につかみかかり、それを見た兄が止めにはいった、というのがその場の状況であった。


 聞くうちに、兵士の顔がみるみる青くなっていった。
 無論、少し調べれば、この程度のことはすぐにわかる。だが、それにも関わらず、兵士が訴えに及んだのは、勝者としての驕りか。あるいは若者に剣で敗北したことが許せなかったためか。
 いずれにせよ、その兵士は、曹操の軍律の厳しさを甘くみた。元々、涼州軍の一員であった兵士は、実際に曹操の下で敵と戦ったのは、この戦いが初めてであり、他軍と同じように、勝利後の騒ぎは大目に見られるものと思い込んでいたのである。
 しかし、曹操と夏侯惇の様子を見れば、それが思い違いであったことは明白であった。


 誅戮の刃が振り下ろされたのは、その兵士の頭上にであった。
 軍内での虚偽の報告は重罪である。くわえて、この重要な時期に、味方同士の不和を醸成する行いをしたことは、利敵行為に類するものと考えられたのである。
 さらに、曹操は兵士の直属の上官に降格処分を下した。理由は、部下の訴えを調べもせず、鵜呑みにしたことである。
 指揮官と配下の間に信頼関係があるのは好ましい。だが、馴れ合いは不要。曹操は平伏する上官に、短くそう口にするのだった。
 




 この事件で、曹操の厳格さを改めて思い知ったのは、青州軍よりも、むしろ元涼州軍の兵士たちであったかもしれない。彼らは股慄し、曹操の統制がいかなるものかを理解することになる。
 一方で、青州軍の中で、曹操の評価がうなぎのぼりになったのは、当然のことであった。
 典老をはじめとした長老たちも、青州軍の若者たちに対して、状況の変化を受け容れるように説き聞かせ、青州軍の不満は、一応の沈静をみたのである。




 そして、曹操は間髪をいれず、次の布告を出す。
 済南郡の山砦に暮らす青州軍の非戦闘員に、許昌への居住許可を出したのである。




 他者からの攻撃に対抗するための山砦であったが、暮らし向きの不便さは言うまでもない。
 衛生面から疫病の発生が囁かれることもあったし、兵士たちの3倍近い女子供老人を養えるだけの恵みが、山中にある筈もない。青州黄巾党が戦に強いとはいえ、略奪した物資で、すべての者たちの腹をくちさせることは不可能であり、飢えに苦しむ者も少なくなかったのである。
 だが、許昌という都に住むことが出来るのならば、そういった苦しい暮らしからは解放される。それにくわえ、賊として官に怯える必要もない。
 青州軍と、その家族にとって、それは万金にまさる褒賞であった。
 曹操自らが、飴と鞭ね、と苦笑したこの布告によって、青州軍の不満は一掃された。
 編成作業も滞りなく進むようになり、曹操軍の将帥たちは、ようやく人心地がつけるようになったのである。




 そんな曹操軍のもとに、青州軍から1つの情報がもたらされた。
 北海郡攻略のために分派行動をとっていた一軍が、劉備という者の軍に敗れたという、それは知らせであった。



◆◆



 青州軍からその知らせを聞いたとき、曹操は諸将と共に今後の方針について、話し合っているところだった。
 その瞬間の曹操の顔を見た夏侯惇らは、一様に嫌な予感に襲われた。曹操は人材を収拾することに関して、異様なまでの執着を示すことがあるのだが、この時の曹操の顔は、正しくそれだったのである。


 北海攻略軍の指揮官である管亥の下からやってきた使者は、山砦が陥落し、青州黄巾党が正規軍に編入されているという事態に驚愕しながらも、北海城を巡る攻防について、詳細に報告した。
 それを聞き、夏侯惇が首を傾げる。
「確か劉備は、寡兵ながら、黄巾党の主力を破る功績をあげたのではなかったか? てっきりどこぞの太守にでもなったと思っていたのだが、なんでまた青州の救援になど来たのだ?」
 その疑問に対して、夏侯淵が腕組みしつつ、口を開く。
「ふむ。考えられるとすれば、袁紹から要請されて断れなかったか。袁紹としては、黄巾党に荒された領土の復興が急務であり、北海救援のための援兵を出すのは気が進まないだろう。そこで、劉備をあてがったというところではないかな。劉備軍は元々、戦う理由に正義を掲げていると聞くし、劉備本人も柔弱そうでいて、芯はあるように見えた。北海郡の危急を聞き、その援軍を頼まれれば、否とは言うまい」
 かつて、反董卓連合の時、わずかだけ相まみえた少女の姿を思い起こしながら、夏侯淵はそう言った。
「むう、私には、それほど骨のある奴とも見えなかったがな。しかし、配下にはなかなか歯応えのありそうな奴が揃っていたから、黄巾党如きでは太刀打ちすることはできんか」




「劉備殿の状況については、河北へ出した密偵により、ある程度は掴むことが出来ております」
 夏侯姉妹が発言する中、河北の状況について口を開いた人物がいる。
 曹操と同じ金色の髪は、曹操と違って癖がなく、背中を覆うように伸ばされている。
 曹洪、字を子廉。真名を優琳(ゆうりん)。その名の通り、曹家の一門である。そして、曹操の義妹でもあった。


 元々、曹洪と、もう1人の一門衆である曹仁は、曹操と血の繋がりはない。それぞれの生家は後漢の政情の波にのまれて没落しており、2人の幼少の頃の記憶は悲惨なものが多い。
 そんな彼女らに救いの手を差し伸べたのが、曹操の母 曹凛(そうりん)である。
 2人の幼女を自邸に引き取った曹凛は、実の娘である曹操と全く同じ待遇で彼女らを育てあげた。甘やかすことなく、疎むことなく、まっすぐな愛情をこめて。
 曹操たちが悪戯をすれば、曹操も曹洪、曹仁も区別なく本気で叱り付けたし、彼女らが私塾で褒められれば、我がことのように喜んだ。
 そういった幼少時代を過ごした為、曹洪、曹仁の曹家ならびに曹操への忠誠と献身は、夏侯姉妹に優るとも劣らない。
 この場にいる曹洪も、そして許昌で荀彧の補佐をしている曹仁もまた、将として、相として、有能と称するに足る実力をもっている。元々の資質もあるが、何より曹凛の薫陶を受け、曹操を間近で見て育ったことが、2人の才能の幅を大きく広げたのである。
 2人は、だからといって驕ることなく、曹操のため、曹家のために黙々と己が責務をこなし続けており、そういった2人の態度が、曹操軍における曹家一族への敬意と尊崇につながる結果となっているのである。



 その曹洪の口から語られたのは、波才戦後、南皮城で開かれた会議の顛末であった。
 黄巾党党首 張角を助命するため、劉備が太守就任を辞したこと。
 劉備と張角の存在を危険視した袁紹の一党が、半ば追放目的で劉備を青州に派遣したこと。
 それらのことが、ここではじめて、曹操軍の諸将の前に詳らかにされた。


 曹洪の偵知は正確無比。それは曹操軍における常識である。
 偵知のみならず、輸送部隊の護衛、敵の援軍の阻止、誤情報の流布といった、賞賛や注目を浴びることこそ少ないが、軍事において極めて重要な役割を、曹洪は堅実に行い、そのほぼすべてを成功に導いてきた。
 外から見た場合、曹操軍の主力は夏侯姉妹であり、また主君である曹操自身が挙げられることが多いのだが、逆に曹操軍の諸将がしかるべき者の名を挙げよ、と問われれば、曹洪の名もその中に含まれるであろう。


「――今回の北海郡の救援に関しては、劉備軍は大清河のような奇略は用いなかったようです。用いるまでもなく包囲を破れる、と判断したのでしょう。兵の数もそうですが、将もまた良質の膨張を遂げており、いまだ寡兵ながら、劉備軍の動向、注意した方が良いかもしれません」
 そういって、曹洪は報告を終え、判断を促すように主君である義姉に視線を向けた。




 その曹操は、曹洪の報告を聞きながら、苦々しい表情を浮かべていた。
 無論、それは曹洪に向けたものではない。
 勝利を得ながらも、勢力を肥らせようとしない軟弱者に向けたものであった。


 曹操は思う。
 誰もが瞠目する勝利を得たというのに、得たものは袁紹から与えられた都尉の官位のみとは、迂遠もきわまるというものではないか。
 張角を救いたいのであれば、それこそ琢郡に張角と共に篭れば良い。城中の民は、度重なる勝利を挙げた劉備を歓迎するであろうし、遼西の公孫賛も劉備の側につくだろう。
 袁紹は遠征を終えたばかりで、すぐに兵を催すことは難しかろう。その隙に、勝利の名声と、張角の名望をもって勢力を広げることは難しいことではない。
 仮に袁紹との間で刃を交える事態になろうとも、劉備配下には関羽を筆頭として人材が揃っている。戦い方次第では、袁紹の勢力を併呑することとて不可能ではないだろう。
 そうして河北を制すれば、劉備は天下を望むことが出来る立場に立てるのである。
 そう。英雄という名の。


 だが、劉備はその道を採らなかった。唯々諾々と袁紹側の言い分をのみ、言われるがままに北海へと転戦し、そこで黄巾党の一軍を撃破しただけである。
 これとて、おそらく雄飛の機会とはなりえまい。孔融は劉備の援軍に感謝するだろうが、だからといって自領に劉備を迎え入れるほど甘い人物ではない。戦が終われば、劉備軍は、またいずこかの兵乱を鎮定するために転戦を繰り返すしかないだろう。
 曹操の目から見れば、いかにも温い。
 これが、劉備1人のことであれば、それでも構うまい。むしろ、こんな乱世に、そんなお人よしがいることに、苦笑の1つも漏らしたかもしれない。
 だが、そんな柔弱者の陣営に、天下に双びなき豪傑がいるとなれば、話は違ってくる。



 曹操は、かつて劉備に言った。
 一刻も早く名を挙げ、英雄として私の前に立ちはだかれ、と。
 そのあなたを完膚なきまでに叩き潰して、私は関羽を手に入れる、と。
 あの時から、どれだけの刻が過ぎたのか。
 曹操は、劉備が己の言葉を理解していないことを悟った。
 いや、あるいは、劉備は理解はしているのかもしれない。しかし、曹操の期待に沿うことができるだけの器量が欠けているのか。
 いずれにしても、そんな輩を相手に、時を貸しても意味がない。あの時から今日まで、すでに十分すぎるほどの時間が過ぎた。これ以上、待つことに意味があるとは思えなかった。
「……所詮、あなたもその程度だということ、劉玄徳?」
 曹操の顔に、つかの間、失意に似たものが浮かぶ。
 だが、次の瞬間、その顔には猛々しいまでの覇気が躍っていた。
「ならば、これ以上、関羽をあなたに委ねておく必要もない。あなたが掲げた正義の旗、我が馬蹄にかけてくれよう」 


 劉備の陣営に張角らがいる以上、討伐の名分はなんとでもつくることが出来る。勅命を発すれば、孔融軍との分断も容易であろう。
 どれだけ優れた将が揃い、錬度の高い兵がいても、所詮、劉家軍は3千の寡兵。
 一方、いまや曹操の動員可能兵力は10万を優に越えるのだ。劉家軍を、一戦の下に蹴散らすことは可能であった。


 曹操は決断を下しかけた。全軍をあげて、北海郡に駐留する劉家軍を討ち滅ぼす、と。


 もし。
 この時、曹操が軍を出していたのなら、おそらく、劉家軍の命運は、北海の地で尽きていたに違いない。 曹操は、波才などとは格が違う。その曹操の下に、歴戦の勇将と智略縦横の智将たちがずらりと居並んでいるのだ。
 圧倒的な兵力差と、それを完璧に活かしきる錚々たる陣容。この2つを前にして、この時の劉家軍に対抗する術はなかったのだから。



 だが、その事態は寸前で食い止められる。
 ある意味で、歴史を左右することになったその知らせは、遠く許昌から駆けつけた早馬によってもたらされたものであった。
 それを聞いた瞬間、曹操軍の将帥たちは、1人の例外もなく、愕然としてしまう。


 早馬はこう告げたのである。
「陳留郡太守 張莫、叛す」と。 


 ――後に、曹操軍の諸将が等しく「前半生、最大の危機の1つ」と語ることになる受難の時が、訪れようとしていた。
  


 
◆◆




 陳留郡太守 張莫叛す。
 その知らせをもたらした使者は、続けて、張莫の軍勢が兌州各地に兵を発し、次々と城砦を陥とし、領土を広げていると伝えた。
 兌州は天下の要地。くわえて、曹操が今いる青州と、本拠地である許昌の中間に位置する土地である。
 もし、張莫の謀叛が真であれば、曹操は帰路を失ったことになる。無論、それだけに留まらない。曹操を知る張莫が、分断された曹操の勢力を放って置くことはありえず、必ず何らかの行動に出るだろう。
 許昌を衝くか、あるいは孤軍となった本隊を討つために、この地に攻め寄せるか。
 朝廷内には、曹操への反感を持つ廷臣は少なくない。青州軍とて、曹操の窮状を知れば、足並みを乱すこともおおいに考えられる。
 これまで積み重ねてきたものが、一朝の下に潰え去るかもしれぬ。
 張莫の謀叛は、それだけの危険を内包する事態だったのである。


 当初、曹操は張莫謀叛の知らせを頭から信じようとはしなかった。
 張莫は曹操の信頼する配下であり、親友である。だから、張莫が自分を裏切るわけはない――などという甘ったるい考えによる否定ではない。
「黒華(張莫の真名)は誇りを知る者。私の行いが、その誇りを汚したならば、叛旗を翻すことは十分に考えられる。だが、たとえその時でも、黒華は正面からその旨を私に叩きつけ、堂々と戦いを挑んでくるだろう。味方を装い、遠征中の空家を漁るがごとき下種の行いをする者では、断じてない」
 曹操はそう言うと、更に詳しい情報を求めて、次の使者を待った。
 同時に、曹洪には、こちらから情報を集める手筈も整えるよう指示を下す。
 指示を受けた曹洪は、青い顔をしながら、地につくほどに深々と頭を下げた。兌州の情報を掴むことが出来なかったのは、自身の情報網に粗漏があったためである。これは曹洪にとって、自分自身を斬り捨てたくなるほどの、許しがたい失態であった。







 ここで、これまでひと言も発言せず、会議の様子を見守っていた鮑信が口を開く。
 済北郡の太守である鮑信は、曹操の麾下ではなかったが、青州軍討伐戦以後、ずっと山砦に留まり、曹操の下で働いていた。無論、それは今後、曹操に従うという意思表示に他ならない。
 その仕事ぶりは、さすがは済北郡に鮑信ありと称えられるだけのことはあり、曹操は頼もしい味方を得たことを喜んでいた。


 その鮑信の口から、この時、1つの事実が語られた。
 済北郡が青州黄巾党に攻撃を受けた際、陳留の張莫に援軍を求める使者を出していた、と。
 その事実を知った曹操は、驚いたように目を見開く。
 鮑信としては、当然、曹操は知っているものとばかり考えていたのである。だが、張莫謀叛の知らせを聞き、ようやく己の早合点に気がついたのだ。
「それは本当なのね、鮑信殿?」
「はい。青州軍の動きを知って、すぐに陳留に使者を発したことは事実です。あの時点で、私は曹将軍とはいかなる繋がりもなかったので、無益かと思ったのですが、打てる手はすべて打っておこうと考えました。そこに、于禁殿が現れ、夏侯将軍の作戦を伝えてくれたので、てっきり、孟卓殿から、曹将軍へ知らせが届いたものとばかり……ご存知なかったとは存じませんでした。申し訳ありません、もっと早くお伝えするべきでありました」
 語るうちに、鮑信の端正な顔は徐々に血の気を失っていった。
 気づいたのだ。あの時点で、張莫からの知らせが、曹操の下に届いていないという事実が、何を示すのかということに。



 先刻までの和やかな雰囲気は、すでに一変していた。
 曹操は鋭い視線を夏侯淵に向けた。
「秋蘭」
 曹操の問いを察した夏侯淵が、すみやかに口を開く。
「黒華様の軍勢は、対董卓戦以来働きづめであり、今回の戦に参戦は無用。その件を陳留に知らせた使者は、黒華様から、華琳様の配慮に感謝する、との言葉を頂き、無事に戻って参りました。陳留で不穏な動きがあったとは聞いておりません。ただ――」
「ただ?」
「使者は、黒華様本人ではなく、妹の張超様から、黒華様の言葉をお聞きしたと申しておりました。黒華様は、少し体調が優れないとのでしたが……」
「そう。張超が……」


 張超は、張莫の妹である。
 姉の張莫は、公私ともに曹操との関わりが深かったが、妹の張超はそうではない。むしろ、曹操には敵意に近いものを抱いている節があった。
 その件に関しては、曹操は張莫からも幾度か頭を下げられている。張超にしてみれば、れっきとした太守である姉が、曹操に私淑し、配下のように扱われていることが我慢ならないのである。くわえて、張超は曹操に対して、生理的ともいえる嫌悪感を持っていた。
 姉には従うが、曹操には従わない。それが張超の態度であり、その傲慢さに、夏侯惇などは何度も不満をもらしていた。
 だが、これも言い過ぎれば、姉である張莫を謗ることになってしまう。そのため、曹操軍の中で、張超の名は禁句に近かった。



 今回、曹操が張莫の軍を用いなかった理由は、夏侯淵が口にした通りである。反董卓連合以降、陳留の軍勢は曹操の指揮下で戦い抜いた。その疲労はかなりのものであろう。
 ようやく故郷に帰った彼らは、武器を置いて農具をとったところだ。そこに再び戦に出ろと命令を下せば、人心が曹操、ひいては張莫から離れることになりかねないと、曹操は判断したのである。
 鮑信からの救援要請を受けたとき、張莫がこれとまったく同じことを考えたであろうことは、想像に難くない。しかし、だからといって、そこで要請を握りつぶす張莫では、断じてなかった。
 曹操の知る張莫であれば、少なくとも、曹操に報告を入れる筈だし、おそらくは、自身の直属の兵だけを率いて、済北郡に出陣してしまっただろう。
 張莫は、太守としては冷静であり、武将としては勇猛である。多少の不利を見たくらいで、救援を求める者を見捨てるような真似は決してしない。張莫はそういう人物であることを、曹操は知悉していた。
 



 そこまで考えを進めれば、事態の輪郭はある程度見えてくる
 次の使者の報告を待たねば断言は出来ないが、おそらく――
「春蘭」
「はッ」
「青州軍の編成、あとどれほどで終わりそう?」
 曹操の問いに、夏侯惇はわずかに顔を強張らせた。
「敵がそこらの有象無象であれば、今すぐにでも用いることが出来ますが、万全を期すなら、あと半月……いえ、10日は必要かと」
「結構。あなたに全権を委ねるわ。一刻も早く、我が軍に相応しい精鋭を編成しなさい」
「ですが、華琳様。それでは、私にこの地に残れ、と? 兌州に戻られるなら、是非、私に先鋒を――ッ!」
 身を乗り出しかけた夏侯惇の肩を慌てて掴んだのは、夏侯淵であった。
「姉者! 華琳様の命令に逆らうつもりか。落ち着け」
「し、しかし、あの腹黒女が何の勝算もなく、華琳様に叛旗を翻すとは思えん。どんな汚い罠を張っているかわからんのだぞ。そんなところに、華琳様を向かわせるなど、承知できるものか!」
「姉者!」
 檄しかけた夏侯惇に対して、夏侯淵がさらに声を高めた、その時。



 くすくす、と少女のような笑い声をあげたのは曹操だった。
 内心、曹操は怒り狂っているであろうと夏侯惇は考えていたのだが、曹操の笑い声には、怒りをこらえている様子が微塵もない。
「ふふ、腹黒女、ねえ。単純だけど、張超のことを言い表すには、これ以上ない名称だわ」
 曹操の様子に、夏侯惇たちはどう反応してよいかわからず、口を閉ざさざるをえない。
 そんな臣下に向けて、曹操は小さく肩をすくめた。
「春蘭。あなた、まさか私が張超ごときにしてやられる、などと考えているのではないでしょうね?」
「も、もちろん、そんなことは微塵も考えておりません! ですが……」
「なら、素直に私の命令を聞きなさい。私を案じてくれる春蘭も可愛いけれど、あまり聞き分けが悪いと、お仕置きしなければいけなくなるわよ。そうね、桂花あたりに命じてみるのも一興かしら」
「ぐぐ……」
 曹操の言葉に、夏侯惇が声を詰まらせる。夏侯淵も心配そうに姉を見つめるばかりだった。
 冗談のように聞こえるとしても、やると言ったらやる人であることは、2人とも承知している。これ以上、命令に抗えば、本当に荀彧に命じて、夏侯惇に罰を与えようとするだろう。その内容がどんなものになるか、正直、想像したくもない夏侯姉妹であった。


「か、かしこまりました。夏侯元譲、青州軍の編成任務に就きます。ですが、華琳様、私がお守りできないのであれば、せめて秋蘭をお傍にお置きください。これだけは、何としてもお聞き届けくださいますよう……」
 懸命な夏侯惇の進言に、曹操はかすかに顔をほころばせた。
「我が軍随一の将にそこまで言われては、首を横に振ることはできないわね。秋蘭は、私と共に本隊を率いてもらうわ」
「御意。姉者になりかわり、華琳様の御身、必ずやお守りしてみせましょう」
 静かに、けれど深い決意を込めた夏侯淵の言葉を聞き、曹操は満足げに頷く。
「ええ、期待しているわ。それから、藍花は残って、春蘭を助けてあげてちょうだい。青州軍を統御するのは、春蘭1人で十分務まるでしょうけれど、その先の行動に関しては、藍花の思慮が必要になる。2人で最善と思った行動を採りなさい」
「――御意にございます。必ずや、ご期待に沿う働きをしてみせます」
 荀攸は一瞬の間を置いて後、曹操に向かって、静かに頭を下げた。
 その頭の中では、今後、起こりえる事態に対応するための戦略が、凄まじい速さで組み立てられつつあった。


「鮑信殿は、そろそろ自領に戻られよ。あまり長く太守を引き止めては、この孟徳が済北の民に恨まれてしまう」
「御意。お言葉のとおりにいたします。ですが、わたくしの力、必要でしたら、いつなりとご命令くださいませ。済北郡に住む者は、民と兵とを問わず、此度の御恩を忘れることは、終生ございません」
 そういって、一礼する鮑信の言葉には実がこもっていた。それを感じた曹操は、この地において、青州軍に劣らぬ勢力を引き込んだことを確信したのであった。




「優琳」
「……は」
 最後に、曹操は、己の失態に顔を蒼白にさせたままの義妹に向けて、一際厳しい声で命令を下す。
「あなたが率いた後詰の5千は、我が軍の中で最も疲労が少ない部隊。ゆえに、帰路はあなたを先鋒に命じる。いいわね」
 曹操の言葉は短く、その語調は叱咤するにも似たものだった。
 しかし、言葉の表面はどうであれ、先鋒を委ねるという言葉に込められた曹操の意思に気づかない曹洪ではない。
 血の気を失った頬に、再び血潮が流れ始めた。
「ははッ! 必ずや、失態を償う働きをお目にかけてみせます!」
「ならば、ただちに準備をはじめなさい。これは一刻を争う事態よ。すでに先手をとられた以上、敵に時間を与えれば後手になるばかりだわ。神速の行軍をもって、敵の肝を潰しなさい!」
「御意!」





 命令を下し終えた曹操が、行動に移るよう口にしかけた時だった。
 不意に、場の緊張感にそぐわない、穏やかな声が戸口からかけられた。
「何やら、容易ならぬ事態のようですな、将軍様」
「典老でしたか。どうしたのですか、このようなところへ?」
 曹操は典老への敬意を保ったまま、丁重に問いかける。
 それというのも、曹操に降って以後、典老がこういった場に現れることは滅多になかったからだ。
 典老が表立って動いたのは、、不平不満を口にする者たちに対して、状況の変化を説き聞かせ、曹操らに従うように諭してくれた時くらいだろう。
 いまだ青州軍の将兵からは、長老として慕われてはいたが、自身の立場をわきまえ、曹操軍の働きを妨げるような真似をしないように努めていることは明らかであり、曹操軍の諸将も、典老には敬意をもって接していた。
 無論、それは君主である曹操も同様である。むしろ、曹操の方が、配下の者たちよりも人一倍、典老への敬意が強かったと言ってもいいかもしれない。


 その典老が、軍議の場に足を運んできたのだ。何事か起きたのかと曹操が案じても仕方がないことであった。
 その曹操の問いに、典老は予想だにしない言葉を口にする。
「このような重要な場にしゃしゃりでてきたこと、許してくだされ。実は、1つ、将軍様に願いたいことがござってな。何やら御身の軍から、鋭気が感じられたゆえ、今日を逃すと、またいつ機会が来るかもわかりませぬゆえ、場所柄もわきまえず、ここに参った次第でござる」
「願い、ですか。それは典老の願いとあらば、喜んでかなえてさしあげたいが、どのような願いなのでしょう?」
 曹操の言葉に従い、典老は己が背後に控えていた、一人の少女に声をかけた。
「韋や、おいでなさい」
「は、はい、お爺さま」
 典老の言葉に従って進み出たのは、典老の孫娘である典韋であった。
 曹操たちも典韋のことは知っている。典老の傍で甲斐甲斐しく世話するところをずっと見てきているし、なにより、このような山砦で出るとは信じられないくらいに美味な料理を、毎日つくってくれている少女なのである。
 その腕には曹操も感嘆しきりで、かなうなら許昌に連れ帰りたい、と口にするほどであった。


 もっとも、典韋が祖父である典老の傍を離れるとは考えられないため、あくまでかなわぬ希望を口にしてみただけだったのだが。
 典老は、あっさりと言った。
「我が孫を、将軍様のお傍に仕えさせていただきたいのです。身の程を知らぬ、と思われようが、どうか、聞き届けていただけまいか」
 その典老の言葉を聞き、思わず口を開いたのは、夏侯惇であった。
「ほ、本当か?! あ、いや、本当ですか?」
 典韋の料理に、もっとも魂を奪われたのは、他ならぬ夏侯惇である。思わず喜悦の言葉が出てしまったようであった。
 夏侯淵も驚きをあらわにしながら、口を開く。
「それは、我らにとって願ってもないことです。しかし、お孫様を手放されることになりますが、本当によろしいのですか?」
 曹操の傍近くに置く、ということは、典老と離れ離れになる、ということである。
 くわえて、曹操は味方も多いが、敵も多い。その身に危険が迫ることがないとは言えず、その危険が典韋に及ぶ可能性は否定できない。
 もちろん、夏侯淵はそこまで口にしなかったが、曹孟徳に付き従う、ということは、それだけの覚悟が必要となる。そのことに注意を喚起したのである。
 夏侯淵の問いかけに、典老はためらいを見せずに頷く。


 ここで、はじめて曹操が口を開いた。
「それは侍女として、ということですか。それとも、武人として、ということでしょうか?」
 典老は、それを聞いて、呵呵と笑った。
「さすがは将軍様。すでに見抜いておられましたか」
「ええ、典韋が並々ならぬ武芸の腕を持っていることは、少しその仕草を見ていればわかります。おそらく、我が軍でも指折りの武勇でしょう。秋蘭が申したとおり、私の配下に加わってくれるのならば大慶です。しかし、それが典韋にとっても同じであるかどうかは、保証できかねます」
 曹操の言葉に、典老は小さく首を横に振る。
「なんの。この子は小さいながらに、物の道理をわきまえておりまする。自分の道は自分で決めたいと、わしに申してきたのは、誰あろう、この子自身なのですよ。たとえ将軍様に従うことで、傷つくことがあろうとも、それはこの子自身の責。将軍様が気にされる必要はありませぬ」


 その典老の言葉を聞き、曹操は典韋自身に向けて、問いを向けた。
「典韋」
「は、はいッ!」
「この地にいたのなら、戦の何たるかはもう知っているでしょう。私に従うということは、その戦を繰り返しその眼で見て、その手を血で染めていくということ。あなたに行動を促した理由は、その重荷を背負うに足るものなのかしら?」
「は、はい! あの、私は――」
 曹操の真剣な眼差しに応えるように、典韋は訥々と語りだした。


 青州黄巾党の暴虐ともいえる戦いに、ずっと疑問を抱いてきたこと。
 祖父にそのことを話そうとしたこともあるが、そうしなければ皆が飢えてしまうということもわかっていたし、何より、典韋自身も、そうして得られた食料を口にして生き長らえているのだから、と考え、何も口に出来なかったこと。
 その疑問を振り払うために、武芸の腕を磨いたこと。
 けれど、押し殺され、腹の底にたまった疑惑と不信は拭われることはなく、それは、最近では耐え難いまでに大きな感情になっていたこと。


「そこに、将軍様の軍勢がやってきたのです」
 典韋は目を輝かせて、曹操を見上げた。
 青州黄巾党を、ものともしない圧倒的な強さ。それなのに、略奪もせず、暴行も行わず、人としての尊厳を失わずにいる、将兵の姿。そして、そんな将兵の先頭に立って、天道を歩むと昂然と宣言した曹操の姿が、典韋の瞼の裏に焼きついて離れなかったのだ。
 この人についていけば、少なくとも今までのように、自分の感情を押し殺して生きていく必要はなくなる。典韋はそう考えたのである。
「祖父君とは、滅多に会うことは出来なくなる。それでも良いのね?」
「……は、はい。もちろん、寂しいですけど、でも、将軍様についていけば、平和な世の中がやってくると信じます。世の中が平和になれば、またお爺さまと一緒に暮らすことが出来ますから」
 曹操は、典韋の目をまっすぐに見つめる。かすかに揺れてはいたが、その奥底にある真摯な思いは本物だ。曹操はそう判断した。
「よいでしょう。そこまで考えた末の決断ならば、あなたを受け容れることに否やはない。典韋、あなたの真名を、私に捧げなさい」
「は、はい! 流琉(るる)と申します!」
「では、流琉。今ここで、あなたを私の親衛隊に任命する。親衛隊の任務は、我が牙門旗を支えること。曹家の牙門旗が倒れること、それはすなわち我が覇道が潰えること。そのことを肝に銘じて、私に仕えなさい。いいわね」
「はい! 頑張ります!!」


 目を輝かせて、典韋が曹操の前に跪く。
 典老は、そんな孫娘の姿を誇らしそうに、そして少しだけ寂しそうに見つめていた。



◆◆



 新たに典韋を加え、さらに厚みを増した陣容を従え、曹操は済南郡から移動を開始した。
 曹洪の5千を先陣として、そのすぐ後ろに曹操みずからが率いる3万の本隊が続く。
 青州戦において、もっとも奮闘した夏侯惇の隊1万は、青州軍の編成が完了し次第、後詰として行動することになっていた。


 この頃には、すでに陳留ならびに兌州の状況を知らせる使者は、次々に飛び込んできていた。すでに陳留の軍勢は、兌州各地に侵攻を開始しており、その勢力は着々と広がっているという。
 対董卓戦において、張莫は1万の軍勢を徴募したが、補給その他の手間を度外視すれば、その倍は集めることが出来る。くわえて、曹操は勢力こそ巨大だが、一足飛びに成り上がった観は否めない。曹操の下につくことを潔しとしない者たちの中には、太守として実績を持つ張莫へ心を寄せる者も少なくないだろう。そういった勢力も合わせたとすれば、陳留軍の破竹の侵攻も頷けるものであった。


 もっとも、それは張莫が起兵したとすればの話である。
 曹操らの推測どおり、この叛乱が張超によるものであれば、また別の理由が考えられるのだ。
 端的にいって、何者かに唆された可能性が高い。否、おそらくその通りだろう、と曹操は考えていた。
 張超は曹操を嫌ってはいたが、決して無能ではなかった。陳留の軍政両面において、姉である張莫を補佐し、善政を布いていたという実績は確かなものである。それゆえ、曹操の力と自分の力を比べ、いずれが強者であるかという程度の判断は下せるし、また、それが出来るゆえに、これまで表向きは曹操の麾下に留まっていたのである。
 それが、実際に叛旗を翻すに至ったとすれば、張超は、曹操を凌駕するだけの力を得たと判断したのだろう。それは具体的な兵の数なのか。あるいは、名声や権威であるのか。
 後者だとすれば、許昌の堀に垂らした釣り糸に、魚が喰いついたのかもしれない。陳留まで巻き込むとは、よほどに大きな魚なのか。
 曹操はそんなことを考えていた。
 
 
 いずれにせよ、陳留郡が叛旗を翻した以上、制圧するのは当然のこと。
 破竹の勢いで兌州に攻め込んでいるのならば、本拠地たる陳留の防備は手薄であろう。一路、陳留を目指しながら、曹操は唇の端をかすかにつりあげた。
「ふむ。春蘭の二番煎じというのも、なかなか新鮮な体験ね」
「仰るとおりかもしれませんね」
 夏侯淵は小さく微笑んで頷いた。
 しかし、すぐに表情を一転させ、気遣わしげに曹操に問いかけた。
「華琳様、いささか容易すぎるように思えるのですが、いかがお考えですか?」
 夏侯淵の危惧は、陳留が近づいているにも関わらず、曹操軍が、いまだ一度も敵部隊と接触していないことを指していた。
 時折、偵察兵らしき少数の部隊を見かけることはあるのだが、彼らはこちらの姿に気づくと、すぐに背を向けて駆け去ってしまい、追跡することも容易ではなかった。
 曹操たちにとっては、勝手知ったる陳留の沃野である。主要な城や砦を避けて、主城を直撃するのは難しいことではない。
 だが、相手はこちら以上に地理を知悉している筈。曹操軍がとる進路を読むことが出来ないとは思えないのだが。


「誘っているのでしょう、この私を」
 曹操はあっさりと相手の思惑を断定してみせる。
 夏侯淵は、半ば予測していた答えに、困ったような表情を見せた。
「――では、やはり承知の上で、敵の誘いに乗ってみせるおつもりですか?」
「ええ。時を与えれば、相手はますます勢力を広げ、防備を固めてしまうわ。なにより、獅子身中の虫に対して、石橋を叩いて渡るような戦い方をすれば、天下の諸侯の物笑いの種になるは必定。裏切り者には、それに相応しい戦い方で、相応しい罰を与えてやる必要があるのよ」
 夏侯淵は、曹操の言葉に理を認めざるをえない。
 諸侯の中には、勝利を得ることが出来るなら、どんな戦い方でも構わないという者もいるだろう。
 しかし、天道を歩む曹操にとって、ただ勝てば良い、という戦い方は出来ないのである。
 勝敗にも貴賎というものがある。
 曹操がどのような戦い方をして、どのように勝利するのか。それはすなわち、曹操が歩む天道の何たるかを示す指標の一つ。ここで戦い方を誤れば、後々まで禍根となって残ってしまう。そしてそれは、曹操にとって、兌州を失陥することにまさる汚点となるであろう。
 夏侯淵にはそれがわかる。わかるからこそ、曹操の言葉に頷かざるをえない。たとえ、先刻から胸騒ぎが一向に消えないとしても、姉の代わりに曹操に付き従う夏侯淵が、曹操の道を塞ぐことは出来ないのである。


「――構うまい。変事あらば、この身命を賭して華琳様をお守りするのみだ」
 夏侯淵は、誰にも聞こえない声で、古い誓約を口にした。
 幼い頃から守り続けてきたもの。今では魂にまで結びついた、自身の誇りを口にして、夏侯淵は来るべき戦いを待ち受けるのであった。



◆◆



 かくて、曹操軍は陳留城を指呼の間に捉えた。
 先鋒を率いる曹洪からは「陳留城外に敵影なし」との報告が届いている。
 城内は静まり返り、遠くから眺めるかぎり、まるで無人の城のようであった。
 あたかも、本当に全戦力を兌州攻略に向けてしまったのかと錯覚してしまいそうなほどに……



 曹洪からの報告を受けた曹操は、本隊を前進させ、先鋒部隊と合流した後、整然と軍列を保ったまま、陳留城との距離を詰めた。
 そして、城壁を間近に望む位置まで近づくと、全軍を止め、絶影を進ませる。
 それを見て、慌てて曹洪が止めようとする。
「姉さ……いえ、華琳様、お待ちください。華琳様が出るのは危険です!」
「優琳、心配は無用よ」
「しかし――ッ?!」
 曹洪は気づいていた。肌をひりつかせるような圧迫感が城内から発せられていることに。
 その覇気に、知らず気圧されている自分自身に。
 これは、張超などではない。仮に――本当に仮に、張莫が謀叛したのだとしても、曹洪はその姿を見ないうちに、ここまで気圧されることはないだろう。
 曹洪と同じものを感じている将兵は他にもいた。みな、歴戦と称するに足る者たちばかり。その彼らが、はっきりと不安をあらわにしていた。


 ――誰かがいるのだ。陳留には。
 ――歴戦の将兵を、その気配だけで竦ませるような、誰かが。


 曹洪が気づくことが出来たのだ。曹操が、気づかない筈はない。
 しかし、曹操は気負う様子もなく、背後に控える典韋に声をかけた。
「流琉、ついてきなさい。曹家の牙門旗を背負う重み。あなたが知るに、相応しい戦いになるでしょう」
「は、はいッ!」
 続いて、曹操は夏侯淵に短く命令する。
「秋蘭、後ろは任せるわ」
「御意、お任せください」
 その意味を問い返すことなく、夏侯淵は静かに頷いた。



 曹操軍の陣列から、曹操と典韋ら親衛隊が駒を進める。
 高々と翻った『曹』の牙門旗が、陳留の地で誇らしげにはためいた。
 その旗の下で、曹操は城内に向けて呼びかける。
「陳留の民よ! 多言を弄する必要を認めぬ。問うのは、ただ1つ! 汝らは誰が旗の下で戦うのかッ!」
 短い問いかけ――否、それは断罪であった。
 叛旗を翻した者たちには、その理由を囀ることさえ認めない。
 ただ、その結論だけを口にしろ、と曹操は言ったのである。


 その曹操の叱咤が轟いて、わずかに後。
 はじめて、陳留城の中で気配が動いた。
 堤防に堰き止められていた水が、奔騰する寸前のような、そんな気配。
 間をおかず、陳留の城門が、鈍い音をたてて開かれていく。


 そして。
 咄嗟に武器を構える親衛隊を背後に控えさせ、曹操は勁烈な視線を城門からあふれ出てくる部隊に向けた。
 否、部隊に、ではない。
 その部隊が掲げた牙門旗に向けたのだ。




 その色は深紅。
 そこに記されるは『呂』の一文字。 
  




 智将 曹操。
 そして――猛将 呂布。
 兌州の覇権を賭けた、両雄の死闘の火蓋が切って落とされた瞬間であった。




 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/12 11:48



「ふふふ、曹操ともあろう者が油断しましたね。都をがら空きにし、あまつさえ膝元の叛意にも気がつかないとは。これまさに、天が恋殿に覇者への道を開いたということ! 恋殿、天下は目の前に迫っておりますぞーー!」


 曹操軍が刻一刻と近づいてくる現在、陳留城にあって、もっとも鼻息の荒い人物が、両手をあげて吠え立てた。
 しかし、その周りにいる者たちは、意外に冷静である。
「おお、陳宮、気合はいっとるなー」
 張遼が感心したように手を叩く。
 その隣では、高順が困ったように頬に手をあてていた。冷静であるべき軍師が、武将よりも興奮してしまってはまずいのではないだろうか。


 その高順の身体からは、すでに虎牢関と洛陽で受けた戦傷は綺麗に消え去っていた。虎牢関で大腿部に負った傷は、決して浅いものではなかったのだが――
 高順の隣で、赤兎馬に騎乗している人物が短く問いかけた。
「………………高順、平気?」
 言葉だけを聞けば、素っ気ないようにも思えたが、それはそういう話し方しかできない人だからだということを、高順は良く知っていた。
 呂奉先という人物は、他者への気遣いが出来ないような主君ではない、ということも。
「お気遣い、感謝いたします、奉先様。元化様のおかげで、怪我をする前よりも調子は良いくらいですよ」
 高順が挙げた名は、若いながらに医術に通じた、とある人物の字である。
 しばらく前、呂布一行はその人物――華佗と出会い、戦傷の痛みに苦しんでいた高順を治療してもらったのである。


「あの無駄に元気の良い兄ちゃん、ほんまに名医やったんやな。今頃、またどっかで叫びながら治療してるんやろか」
 張遼の言葉を聞き、高順は少し、むっとした様子でたしなめる。
「文遠様、無駄に元気、という評は失礼ですよ?」
「ああ、わるいわるい。けど、医者にしては騒がしい奴やったのは、高順も認めるやろ?」
 診察の時のことを思い出し、高順はすこしだけ言葉を詰まらせ、小さく頷いた。
 「元気になあれぇぇぇッ!」だの「ゴッドヴェイドォォォォ!!!」だのを毎日のように耳元で聞かされていたので、さすがにそれは否定できなかった。


「むむ、何を暢気に和んでいるのですか! この一戦は、正しく天下分け目の戦い。奸臣曹操を打ち破り、天下に恋殿の忠義を知らしめるまたとない好機なのですぞッ!!」
 張遼たちの様子に不服そうな陳宮。
 だが、張遼はどこか納得いかない様子であった。
「けどなあ、奸臣奸臣いうけど、曹操はそんな悪い奴なんか? 天子を擁して勢力を広げるんは、別に悪いことやない。実際、文和(賈駆の字)だって月にそうさせたわけやし、うちらはそれに従った。結局、なんやようわからんことになってもうたけどな」
 当事者をのぞいて、いまだ洛陽における董卓軍の混乱の真相は闇の中である。董卓と賈駆の行方も杳として知れない。
 張遼らも出来る限り探したのだが、元董卓軍として追われる身である彼女たちでは、捜索の手段も限られてしまい、結局、怪しまれる前に洛陽から離れざるをえなかったのである。
 実のところ、劉家軍に身を寄せていた高順は、幾度か董卓の姿を見かけているのだが、その時の董卓は正体を知られることを避けるために変装していた上に、兵卒であった高順は、董卓の姿を遠目にしか見たことがなかった。
 絵姿の董卓であれば見たことはあったが、所詮は絵姿。変装している人間をひと目でそうと見破ることは出来なかったのである。まさか董卓が諸侯連合の一軍にいるとは、つゆ思わなかった、ということも気づかなかった一因ではあるだろう。



「無道にも三公の1人である王允殿を討ち、皇帝陛下を私する。これを奸臣といわずして、何を奸臣というのですかッ!」
 煮え切らない張遼の態度に、陳宮が憤慨するが、それでも張遼は気が乗らないようだった。
 真相が明らかになっていないとはいえ、董卓と賈駆の様子がおかしくなったのは、明らかに洛陽入城以後である。何ら確証があるわけではなかったが、張遼は朝廷の動向に対して、きわめて強い不審の念を抱いていた。
 それは宮廷を統べる三公にも向けられる感情であり――そして、その仇討ちと、曹操の暴挙を声高に主張して、今回の挙兵に至った者たちへの不信に繋がるのである。
 あるいは、張遼は鋭敏な嗅覚で、朝廷の一部から漂ってくる腐臭を嗅ぎ取っていたのかもしれない。


 もっとも、今更それを言っても手遅れであることは、張遼も理解しているから、あえてこの場で言おうとはしなかった。
「わかっとるわかっとる。もう賽は投げられたんや。あとはなるようにしかならんやろ。それに――」
 張遼の目に、刃が陽光を反射するにも似た、物騒な煌きが踊った。
「あの曹操と正面から戦える絶好の機会や。乱世に乗じることしか出来ん奴なんか、それとも、乱世を飲み干すほどに器のでかい奴なんか確かめさせてもらおやないか。楽しみやなあ」
 その言葉を聞いて、陳宮は頬を膨らませる。
「つまり、文遠は強い敵と戦えれば満足ということですか。戦闘狂というのも困ったものなのです。それでよく華雄に猪だの何だのと言えたもの――」
「…………陳宮」
 常より少しだけ強い口調で、呂布が陳宮を制止した。
 華雄は汜水関の戦いで孫堅軍に討ち取られたと考えられている。呂布にしても、張遼にしても、そして陳宮にしても、さして親密だったわけではないが、それでも同僚であったのだ。不用意に口にすべき名前ではなかった。
「も、申し訳ありません、恋殿」
「………………ん」
 陳宮の謝罪に、呂布は小さく頷いた。



 いささか気まずくなりかけたその場の空気は、しかし、伝令の報告によって吹き飛ばされた。
「申し上げます! 東南方に砂塵を確認、偵察に出た兵の報告によれば、数は5千とのこと! 曹操軍先鋒 曹洪の軍勢と思われます!」
「おっしゃ、ようやくおでましか」
 張遼が両手を強く叩く。
 それを遮るように、陳宮が首を横に振った。
「狙うは曹操の首ただ1つですぞ。曹洪なんて、放って置けば良いのです。じきに、曹操みずからやってくるのですから」
 高順がかすかに首を傾げる。
「しかし、ここまで迎撃をしなかった以上、罠の存在は敵も疑っているでしょう。総大将みずからが出てくるでしょうか?」
「ふふん、やはりまだ高順は甘いですなあ。曹操は自分の頭脳に絶対の自信をもっているのです。そんな奴に罠を匂わせれば、挑発されていると悟って、罠を噛み破ろうとするに決まっておるのです! まして敵は、つい先ごろまで味方だった軍勢です。罠を恐れてこそこそ軍を動かしたと知られれば、臆病者と後ろ指さされるのは明白。よって、正面から来るに決まってるのです」
 陳宮の指摘に、高順はほぅっと感嘆した。
「さすがは公台様です。浅慮を申し上げました」
「わかれば良いのですよ」
 陳宮は、えっへん、という風に胸を張った。


「ほんなら、奉先。そろそろ準備しとこか。曹操軍の展開の速さは尋常じゃない言うからな。初っ端から立ち遅れるわけにもいかんやろ」
「……わかった」
 張遼の言葉に頷くと、呂布は馬首を部隊の方向に向けた。
「あ、恋殿、待ってくだされ~」
 陳宮が真っ先にその後ろに続き、肩をすくめた張遼が2人を追って動き出す。
 高順は、一行の1番最後をゆっくりとついていった。
 その手が無意識に腰間の剣に伸びたのは、これから始まる戦が容易ならぬものであることを知るためであるが、もう1つ理由がある。この戦いで、高順はいきなり指揮官に抜擢されてしまったことが、その理由であった。


 今、呂布が率いる兵は、陳留の軍勢も併せて、おおよそ1万ほど。その中で、呂布が信頼を置く虎牢関以来の精鋭は一千に満たない。陳宮は、これを基幹として軍を再編した為、高順もまた、50騎の騎兵の長に選ばれたのであった。
 怪我が治る以前から、暇をみつけては陳宮に軍学の教えを請い、怪我が治ってからは、呂布や張遼に幾度も稽古をつけてもらっている高順であったが、つい先ごろまで、一兵卒であった身が、いきなり50人からの長になるとは考えてもいなかった。
 当然、高順は控えめに――しかし、強硬に固辞したのだが、呂布軍を取り巻く状況が、高順の辞退を許さなかったのである。
 呂布は困惑する高順に対し「…………だいじょうぶ」のひと言で、余計に高順を途方にくれさせてしまったし、陳宮にしても、信頼できる将は喉から手が出るほど欲しかった為「諦めるのです!」とあっさり高順の希望を蹴飛ばしてしまった。
 高順としても、戦が迫っていることは承知している。いつまでも途方に暮れているわけにもいかない。それに、元々、呂布たちに助けてもらった身命である。恩人が望むなら、たとえ力不足であっても、将として戦うことが出来るように努めよう。
 高順はそう決意し、今に至るのであった。


 ただ、決意したといっても、緊張や恐怖が消えてしまうわけではない。気持ちを紛らわせるために、片手で剣の柄をもてあそんでいた高順の脳裏に、ふと洛陽での出来事が思い浮かんだ。
 優しい眼差しで、もう一度、無事で会おうと言って、自分の手を握ってくれた人と。
 焼け落ちようとする邸の中、死を覚悟していた自分の前にあらわれ、颯爽と助けてくれた人と。
「今度会う時まで、無事でいること――そうでしたよね、玄徳様、北郷様」
 彼女らとの別れ際の約束を果たすためにも、こんなところで倒れるわけにはいかない。
 高順はそう考え、気持ちを新たに据えなおすのであった。



◆◆



 そんな呂布たちの姿を、高所から見下ろす視線があった。
 それも、1つではなく、2つ。
 そのうちの1人、燃えるような赤毛を肩のあたりでばっさりと断ち切った女性が、後ろに控える者に問いかける。
「しかし、本当に1万程度で大丈夫なのか? 相手はあの曹操だ。いかに呂布が鬼神のごとき強さを誇るとしても、1人で戦局は変えられまい」
 女性の名は張超。今回の挙兵の首謀者とされる人物である。
 張超の背後に控えている男が、ゆっくりと口を開いた。
「心配は不要です。何故なら、曹操が率いるは元々董卓めの兵士であった者たち。呂布の武勇の凄まじさは、骨髄に徹していますゆえ、陣頭に呂布の姿を見るだけで、意気阻喪するでしょう。そんな兵を率いて勝利を拾える筈はありませぬ」


 秀麗な容姿、礼儀をわきまえた言動、いずれも非の打ち所がない人物である。
 その口にするところも、理に適い、矛盾はない。
 それゆえ、張超は安心してしかるべきであったが、朝廷からの使者としてこの男がやってきて以来、張超は心を許せないものを感じていた。張超の腹心である臧洪も「用心あってしかるべし」とこの男について、警戒を怠ることのないように説いている。
 だが、そういったことを面に出せば、おそらくこの男は躊躇なく、朝廷にその旨を告げ、代わりの太守の派遣を要請するだろう。
 陳留は張莫、張超姉妹の統治に服しているとはいえ、朝廷からの命令とあれば否とはいえない。
 まして――
 張超は傍らにある太守の椅子に視線を向けた。本来、そこに座り、この挙兵の全権を振るうべき人物は、この場にはいなかった。


「姉君は、まだ翻心する様子はございませぬか?」
 まるで張超の内心を読み取ったかのような男の声が、張超の気に障る。
「姉のことに関しては口出し無用。そう言った筈だ、李文優」
 李文優――李儒は、張超の尖った声に気分を害する様子もなく、さらに言葉を続けた。
「とはいえ、そろそろ将兵の間でも姉君の姿が見えないことは語られ出している様子。いつまでも病のせいにしておくことは出来ませんでしょう。疑惑は、容易に不信へと変じます。手を打つならば、早めに打っておいた方がよろしいかと――」
 その李儒の言葉に、張超の瞳に雷火が走った。 
「聞こえなかったか、文優。私は、姉のことに関しては口出し無用、と申したのだ。そなたは朝廷からの使者とはいえ、私に命じるいかなる権利も持たぬと記憶しているが、如何?」
「無論、この身は漢朝に忠義を尽す一人の士大夫に過ぎませぬ。何条、太守様に命じるがごとき無礼をいたしましょうか」
「承知しておるのであれば、差し出口は控えよ。姉上が持つ曹操の虚構も、敗北の事実の上に立てば打ち砕かれよう。案ぜずとも、張家の姉妹は、朝廷に付き、この乱世を平定する一助となる。その旨、司空殿に伝えるが良い。そなたの役目は、それ以上でも、それ以外でもないのだ」
 張超はそれだけ言って、李儒に退出を命じた。
 これ以上、話を続けていると、冷静さを保てる自信がなかったのである。


 李儒が、どこか含みのある笑みを浮かべながら姿を消すと、張超は知らず、大きく息を吐いていた。
 胸中に浮かぶのは、間もなく刃を交える曹操の、自信に満ちた小憎らしい笑みである。難問が山積している張超の現状をあざ笑うかのようなその顔を、張超は激しく首を左右に振って胸中から追い払う。
「孟徳、私は後悔などしていないぞ」
 自身に言い聞かせるように、張超は呟く。
 事実、張超は後悔はしていなかった。朝廷からの密使である李儒がもたらした、対曹操戦を想定した一連の挙兵計画を見た瞬間から、今この時まで、張超は一度たりとも後悔はしていない。
 皇帝を手中におさめるため、三公の1人を手にかけた曹操の非は万人の目に明らかであり、陳留の起兵は謀叛ではなく、正道に回帰するためのもの。張超はそう信じ、将兵にもそう告げて、今回の挙兵に踏み切ったのである。


 作戦は順調に進んでいる。やがてこの地にやってくる曹操を、呂布の武力で討ち取ることが出来れば、時代は張超らに好風を吹かせてくれることだろう。兌州牧の地位を手に入れ、ついには皇帝を補佐する地位にまで登ることも不可能ではない。
 あれほど嫌い、憎んでいた曹操を討ち、張超と張莫の姉妹の名を永遠に歴史に刻みつける。 
 その時は、おそらくもう遠くない。


 ――にも関わらず。
 ――何故、心に浮き立つものがないのだろう。

 
 張超は、わずかに浮かんだその疑問を、慌てて頭から振り払った。
 今は、そんなことを考えている場合ではないのだ、と自分に言い聞かせる張超。
 しかし、同時に張超は知っていた。その疑問が再び頭をもたげるであろうことを――これまでそうだったように。





◆◆




 陳留の戦いは、表面上は曹操と張莫の戦いであった。叛旗を翻したのは、太守である張莫となっているからである。
 しかし、その内実は言うまでもなく、曹操対張超の戦いであり――さらに正確に言えば、曹操と呂布との激突であった。
 張超がどのように考えているかは別にして、それが他者が見る陳留の戦いだったのである。


 ついに、陳留城外でぶつかりあう両雄。
 第一撃は、呂布軍が曹操軍に対して痛撃を食らわせる形となった。
 李儒が推測していたとおり、深紅の呂旗を敵陣に見た元涼州兵が動揺し、曹操軍の諸将の手綱を一時離れてしまったのである。そのわずかな混乱を見逃す呂布たちではなかった。
 呂布と張遼は猛然と敵陣に突っ込み、数にして3倍を越える曹操軍に対して、怯むことなく斬りかかっていく。
 陳宮、高順は乱れた敵の陣列に向かって弓箭兵を並べ、整然と斉射を行い、さらに敵軍に出血を強いた。
 曹操軍の陣営は、呂、張2将の馬蹄に蹴散らされ、矢の雨の中を逃げ惑い、あわや勝敗はこのままついてしまうと思われたのだが――




「まさか、ここで呂布が出てこようとはね。なるほど、張超が強気になるのも頷ける。天下の飛将軍がいれば、この曹操に勝つことも出来ると踏んだか」
 壊乱の気配さえ見せ始めた自軍を目の当たりにしながら、曹操は不敵に笑う。
 陣頭に立っていた曹操は、すでに敵と刃を交えている。右手に持った倚天の剣先からは、敵兵の血が滴り落ちていた。
「けれど、我が牙門旗、あなた如きに折らせはしない。我が戦ぶり、城壁の上から眺めているがよい」
 曹操はそう言うと、背後に控える典韋に声をかける。
「流琉、今からあなたに、牙門旗の持つ意味を教えてあげるわ。しっかりと、両の眼に焼き付けておきなさい」
「は、はい、わかりました!」
 戦況が明らかに味方の不利であることは、典韋にもわかっている。
 曹操はどうするつもりなのか、とハラハラしていた典韋は、曹操のひと言に叫ぶように返事をした。



 呂布軍の猛攻に押される一方の曹操軍だったが、両軍の兵士の錬度にはさして差はなかったであろう。
 ただ、開戦前に李儒が張超に言ったように、元涼州兵が大半を占める今の曹操軍にとって、飛将軍 呂奉先が突如あらわれた衝撃と、その天下無双の武が自分たちに向けられるという恐怖は、他軍の兵士の何倍も強かったのである――実力を、半分も出せないほどに。


 混乱し、畏怖し、ついには敗走へとうつりかけた曹操軍。
 だが、そんな彼らを一喝する号令が戦場に轟き渡る。
「我が将兵に告げるッ!」
 その声を聞いた曹操軍の将兵は、まるで叱咤されたかのように背筋を伸ばし、後退しかけた足を止め、その声がしてきた方向に視線を向けた。
 その視線の先には、曹旗の下、毅然として戦場を睥睨する金色の髪の将の姿があった。
「何を恐れ、何に怯えるのか。敵将、いかに猛勇を奮おうと、見よ、我が旗はいまだこの戦場に立っている。それはすなわち、この曹孟徳が、この戦場にかわりなく屹立していることを意味するのだ!」
 曹操が剣を持っていない左腕を一振りすると、たちまち親衛隊が曹操の前に陣をつくった。その全てが騎馬兵である。
 次に曹操は、倚天の剣を高々と掲げ――
「敵将がかの呂布であろうと、恐れるに足りぬ。この曹孟徳が戦場にあるかぎり、勝利は必ず我が手中に帰するゆえ! 敗北を恐れ怯えるな! 勝利を求め咆哮しろ! この孟徳が先陣を切ろう。我と、我が旗の後に続くのだ、勇敢なる我が将兵たちよ!」
 その言葉と共に、勢いよく振り下ろす。


 間髪いれずに、数百の親衛隊が一斉に動き出した。猛々しい騎馬の突進は、呂布軍らに優るとも劣らぬ猛々しさを感じさせるものだった。
 突撃が始まると、曹操の姿はすぐに騎馬隊の中に消えてしまった。
 しかし、戦場の只中を駆ける『曹』の牙門旗が、曹操の健在をあらわし、曹操の行く手を明確に示しているではないか。
 曹旗が行く先にあるは、深紅の呂旗。
 圧倒的強さで戦場を屈服させんとする、中華最強の兵団である。
 それを見た曹操軍の将兵は、畏怖も恐怖も忘れ、竦みそうになる足腰を叱咤して、牙門旗の下へ駆けつけるべく、各処で一斉に動き出した。
 主君を討ち死にさせるわけにはいかない。
 それに、曹操の軍律の厳しさは、先日の戦の後で思い知ったばかりである。
 くわえて、曹操は軍律こそ厳しかったが、将兵に対する恩賞は公正であり、気前が良い。青州軍の家族に都への移住許可が出たのなら、望めば自分たちも同じ褒賞を得られるかもしれない。
 青州であれ、涼州であれ、生活の苦しさに大きな違いはない。董卓亡き後、混乱している涼州から家族を引き取ることが出来る好機でもあるのだ。
 忠誠ゆえに。利ゆえに。あるいは家族を思う心ゆえに。
 曹操軍の将兵は、呂布の武名への怯えを打ち払ったのである。


    

 張遼は、それまでの劣勢を耐え凌ぎ、瞬く間に態勢を立て直したどころか、一転して攻勢に移った曹操軍に驚いていた。
 そんな張遼へ向けて、曹操軍の騎兵が、馬上、槍を構えながら突撃してくる。突き込まれて来る槍をかわしざま、その頸部を飛龍刀で断ち切ると、敵兵は首筋から鮮血を迸らせて、馬上から転落した。
 しかし、ただ転落したわけではない。その兵士は首筋に埋め込まれた刃を抱えつつ、地面に落ちたのである。
「ぬッ?!」
 完全に討ち取ったと思っていた張遼は、敵兵の思わぬ行動のために、武器を手放してしまう。
 それを好機と見て取ったのだろう。周囲の曹操軍の兵士たちが一斉に張遼に向かってきた。
「チィッ」
 張遼は小さく舌打ちすると、手甲の裏に潜ませていた飛刀を抜き放ち、無防備に突っ込んでくる敵の騎兵の喉許に投じる。
 飛刀は吸い込まれるように敵兵の喉を刺し貫き、敵は悲鳴をあげることも出来ずに馬上から転がり落ちた。
「将軍ッ!」
 その間、張遼麾下の兵士が、地面に横たわる敵兵から飛龍刀を奪い返し、張遼に差し出した。
「おう、ありがとなッ! しっかし、なんや急に粘りが出てきたなあ。さっきまでとは別の軍みたいや。あの劣勢を、この短時間で立て直せるんか。曹操ってのは恐ろしいやっちゃなあ」
 張遼はどこか楽しそうにそう言った。
 敵の巨大さを知るほどに、戦い甲斐が増してくるとでも言うかのように。


 その張遼の慨嘆に、聞き覚えのない声が応えた。
「それは華琳様が聞けば喜びますね」
「む。誰や、おまえ?」
 張遼の視線の先には、鮮やかな金色の髪を背中に流した女将軍がいた。
 その正体を誰何しながらも、張遼は訝しげに口を開く。
「……曹操? いや、ちがうか。あの化けもんみたいな覇気はないな」
「いかにも、私は曹孟徳ではない。我が名は曹子廉。敵将 張文遠と見受けました。華琳様の歩む天道を妨げんとするあなたは、この私が除きます」
 そういうと、曹洪はすでに血に塗れた長剣を張遼に突きつける。
 張遼はかすかに口許をゆがめた。
「曹操自身ならともかく、曹家の一門だっちゅうだけの奴にくれてやるほど、この首は安くないで。命が惜しいなら、とっとと本陣に戻り。そんで曹操連れてくれば、相手したるわい」
「おや、名にしおう張文遠も、人を見る目には欠けているのですね。曹家の一門に、一族の名を売り物にするような無能者がいるとでも思っているのですか?」
「ふん、よう言うた。なら、この飛龍刀の一撃を防いで、大言の責任を取ってみぃッ!!」
「言われずとも、そうさせていただきますッ!」


 言うや、互いに愛馬をあおって突進する2人の将軍。
 甲高い剣戟の音は、幾たびも繰り返され、決着は容易につかないものと思われた。





 一方、別の場所では、別の将軍たちが刃を交えていた。
「ええぃッ!!」
 長大な双鉄戟を構えた典韋が、気合の声と共に呂布に向けて攻撃を繰り出す。
 そこに込められた力と、速さは尋常なものではなく、常人ならば身体を真っ二つに切り裂かれてしまったことであろう。
 だが。
「…………甘い」
 典韋の猛撃を、呂布は方天画戟で正面から受け止める。典韋がどれだけ力を込めようと、呂布の戟は微動だにしなかった。
「そ、そんな……」
 かつてない力量差をまざまざと見せ付けられ、典韋はつかの間、呆然とする。しかし、それは戦場において致命的な隙となる。
 その隙を逃さず、呂布の戟が、典韋の戟をからめとり、宙高く弾き飛ばす。
 そして、呂布の戟はその勢いのままに、まるで命を持つもののように、するすると典韋の首筋めがけて打ち込まれていった。
 戟を弾かれ、典韋が我に返ったときには、すでに呂布の戟は眼前にまで迫っていたのである。


 死を覚悟しかけた典韋は、それでも両目を閉じることなく、敵将の顔に鋭い眼光を注ぎ続けた。
 すると、典韋の視界の中で、呂布が小さく首を傾げた。
 いや、首を傾げたのではない。呂布の額を狙って射放された矢を、その動作だけでかわしてのけたのである。
「流琉、下がれ!」
「は、はい、秋蘭様!」
 夏侯淵の援護を受け、典韋は慌てて後退しようとするが、呂布の追撃はまだやまない。
 夏侯淵が二の矢を番えるより早く、その刃は再度、典韋に迫り――そして、今度もまた、その刃は典韋に届かなかった。
 甲高い金属音と共に、呂布の戟を弾いたのは、この場にいた最後の将。
「…………曹操?」
「いかにも。私が曹操よ。そういえば、こうして言葉をかわすのは初めてだったわね、呂布」
 倚天の剣を構えた曹操は、悠然と呂布と相対する。
 だが、典韋は曹操の腕がかすかに震えていることに気づいた。典韋を助けた際、呂布の剛撃をまともに受け止めたためだろう。あれでは、次の攻撃は受けきれないに違いない。


 典韋は咄嗟に曹操の前に立とうと身体を動かしかけたが、曹操は無言でそれを制する。
 その曹操に向けて、呂布は方天画戟を頭上で一回転させ、曹操に突きつけた。
「…………おまえ、敵。敵は、倒す」
「確かに敵は倒すべきもの。けれど呂布、あなたにとって、敵とは何なのかしら。私が反董卓連合軍を結成したとき、董卓に仕えていたあなたにとって、私は敵だったでしょう。けれど今は?」
 曹操の問いに、呂布は少し考え込むように俯いた。
「…………陳宮が言ってた」
「ふむ。陳宮とやらが敵だと言ったから、私が敵なのだとすれば、私が陳宮を敵だと言うと、陳宮はあなたの敵になるのかしら?」
「…………ならない。陳宮は友達、家族。でも、おまえは違う。だから、おまえは恋の敵」
 その呂布の言葉に、曹操は小さく嘆息する。
「結局、戦う理由を他者に預けるか、呂奉先。それだけの武勇がありながら、惜しいこと」
 そう言いながら、曹操は倚天の剣を構えなおす。すでに、しびれは腕から消えていた。


「呂布、おぼえておきなさい。あなたの武勇は天より与えられたもの。それを振るう理由を他者に預けるかぎり、あなたは天から咎を受けることになる。それはあなた自身のみならず、あなたに近しい者たちも巻き込むことになるでしょう。天は力と共に試練を与えるもの。その試練は、己を持たない者には、決して乗り越えることは出来ないわ」
「…………おまえの言うことは難しい。けど……たぶん、大事なことだというのはわかった。謝謝」
「それは重畳。もっとも、ここで倒れるあなたにとっては、不要の言だったかもしれないわね」
 曹操が言うや、四方に潜んでいた親衛隊が一斉に立ち上がり、弓矢を構える。
 周囲から矢の的とされた呂布は、たちまちのうちに絶体絶命の危機に陥って――しまった筈なのだが、呂布はいたって平然としていた。
「…………恋がお礼をいったのは、もうおまえに礼を言う機会がないから。それは今も変わらない」
 たとえ幾十の弓矢に囲まれようと、曹操を討つ障害にはならないのだ、と呂布は言う。


 両雄の眼光が、中空で衝突し、火花を散らす。
 あたかも、舞台の最終幕のような、奇妙な静謐さがあたりに満ちる。
 もし、誰かが今、この場に通りかかったとしたら、ここが血で血を洗う戦場だとは、とても信じられなかったに違いない。
 だが、そんな静寂は瞬時のこと。
 たちまち、戦場は血風、死臭の漂う修羅の空気を取り戻す。


 曹操の斉射を命じる声と。
 呂布の赤兎馬をあおる掛け声と。
 その2つが同時に陳留の天地に響き渡った……





◆◆






 劉家軍が、陳留で曹操軍と呂布軍が激突したことを知ったのは、両者の最初の戦いが痛みわけに終わって、しばらく経ってからのことだった。
 情報源は孔融である。より正確に言えば、朝廷から孔融に遣わされた使者の口から語られた顛末を、後で教えてもらったのだ。


 それによれば、曹呂の軍勢は陳留城外で激戦を繰り広げ、互いに少なからざる被害を受けて、軍を退かせたのだという。
 両軍の戦力に差があったことを考えれば、これは事実上、曹操の敗北といってよい。
 これを受け、朝廷に逼塞していた反曹操派は、ここぞとばかりに曹操に対する弾劾をはじめたらしい。
 そして、孔融に使者を派遣したのも、その反曹操派の勢力であった。
 孔子の直系である孔融を取り込み、自分たちの主張に正当性を持たせようというのだろう。
 とはいえ、何故、はるばる遠い北海にまで来たのかを疑問に思う者もいた。たしかに孔子の子孫である孔融の発言には一定の信頼が備わっていることは否定できない。しかし、朝廷や天下の事を議するに、不可欠な人物というわけでもないのである。それほどの人物ならば、とうに中央に召還されていただろう。


 その答えは、どうやら皇帝の意向にあるらしい。
 漢帝劉協が、今はなき王允を深く信頼していたのは周知の事実である。その王允を討ち、朝廷の実権を握ったのが曹操である以上、皇帝が曹操に親しみを抱くわけがない。
 曹操の敗北を知れば、むしろ皇帝の方が積極的に曹操の追い落としをはかると、反曹操派は考えていたようである。
 だが、実際には、皇帝は動こうとはしなかった。
 反曹操派の弾劾に対しても、明確な根拠の提出を求め、感情論を並べ立てる者たちへは不穏当な言動は謹むようにという注意まで行ったらしい。
 これには、反曹操派も慌てたようだ。もし曹操が勢力を巻き返すようなことがあれば、明確な敵対を口にしてしまった自分たちの破滅は明らかである。
 そのため、彼らは皇帝に再度、訴え出る一方で、諸州に対しても使者を出し、反曹操包囲網を築こうとしているということらしい。



 なんのことはない。要は董卓が洛陽を制したときの焼き直しである。
 天下国家のこととあって、孔融はかなり張り切っているらしいが、正直、もっと他にやることがあるだろう、といってやりたい今日この頃である。
 そんなおれは、今日も今日とて配膳係として目のまわるような忙しさの中にあった。
 北海城は、黄巾党の長期に渡る包囲によって、ほぼすべての物資が不足しており、なかでも食料と医薬品に関しては、早急に手をうたねばならない状況であった。
 だが、幸いというべきか、今の劉家軍には危急を凌げる物資があった。袁紹軍から受け取った分のことである。
 これを平原から運び込むことで、とりあえず、北海城は一息つくことが出来たのである。


 ――ちなみに、劉家軍が北海で戦っている間、諸葛亮は袁紹軍との折衝を一手に引き受け、物資の受け渡しに懸かりきりになっていたのである。おれはその手伝いをしていた――具体的に何をしたかというと、若い身空で肩こりに悩む諸葛亮の肩を揉んだりしていただけなのだが。
 爺ちゃん直伝の肩揉みは、えらく好評だったのが、ちょっと嬉しかったりする。





 話を戻すが、もちろん、3千の軍隊用の物資だから、10万近い城民にとって十分な量とはとてもいえない。周辺の城邑には、援助を求める使者が各処に派遣されていたが、それらの使者が帰って来るまでには、まだしばらく時間がかかる。
 それまで劉家軍が出来ることといえば、炊き出しくらいのものだったのだ。
 というのも、孔融は劉家軍の救援に関して感謝の意を示してはいるが、城中への出入りや、あるいは城壁の修復などの軍事作業には、劉家軍の手を借りようとはしなかったし、こちらから申し出ても、丁重に断られてしまうばかりだった。
 そんな対応が続けば、嫌でも孔融の心底はわかってしまう。孔融は劉家軍を警戒しているのだ。送り狼になりかねないとでも思っているのだろう――ちょっと例えが違う気もするが、まあ大筋では間違いあるまい。  


 命がけで救援に駆けつけ、貴重な物資を供出している相手に疑われては、快かろう筈はない。
 とはいえ、やはりというべきか、相変わらずというべきか、玄徳様は一向に気にする様子もなく、北海城の民衆の役に立てることを喜ぶばかりであった。
 そんな主を間近に見ているのに、臣下が不満を口にするわけにもいかない。それに、食事を配っている時や、見回りをしている時などには、住民から感謝の声をかけられることも多いのだ。孔融らはともかく、住民が劉家軍に対して、心から感謝してくれていることは明らかであった。
 かくて、劉家軍は今日も笑顔で配膳係をこなしているのである。





「あの、北郷様。少しよろしいでしょうか?」
 おずおずと声をかけてきたのは、田豫と似た年頃――つまり、おれより何歳か年下の女の子であった。
「ああ、大丈夫ですよ、叔治殿」
 おれがつとめて穏やかに応えると、目の前の少女――王修、字は叔治という名の少女は、目に見えてほっとした様子を見せた。
 王修は孔融配下の文官――と言えば聞こえは良いが、要は雑用係、走り使いであった。
 人との対応に慣れていない様子で、よく言葉を詰まらせたり、何を言えばわからなくなって黙り込んでしまったりするため、そういった役目を振られてしまうのだろう。
 最近はもっぱら劉家軍と城との間を駆け回っており、その縁でおれとも顔見知りとなったのである。

 
「で、ご飯は大盛りをご希望で?」
「ち、ち、違います! そうではなくて、ですね」
「なんと、特盛りをご希望ですか?! むむむ、他ならぬ叔治殿のためとあらば、否やはございませんが、その身体のどこに、そんなに入るのでしょうか。子義殿といい、叔治殿といい、おそるべきは北海の女性の胃袋ですね」
「だから、違いますってば! ご飯から離れてください――」
 おれの言葉に、王修はわたわたと慌てて手を左右に振り、頬を赤く染めている。
 うむ、相変わらずからかい甲斐のある子である。なにかこう、見てて微笑ましいというか、保護欲がかきたてられるというか、そんな感じ。
 だが、当人はいたって真面目に職務に就いているので、あまりからかうのも気の毒である。じゃあ最初からするな、と言われそうだが、そこはそれ、王修のような女の子らしい女の子とはあまり縁がなかったもので、つい悪戯心が首をもたげてしまうのだ。
 ――念のために付け加えておくと、決して玄徳様たちが女の子らしくない、と言っているわけではない。断じてない。ただ、劉家軍の女性陣は、武芸であれ、智略であれ、人徳であれ、人並みはずれている人たちばかりであるし、身分的にもおれより上の人たちなわけで、そうそう気楽にからかったりするわけにもいかないのである。
 


 おれが内心でそんな言い訳をしていると、にこやかに微笑みながら、第三の人物が割って入ってきた。
「――私としては、そこでどうして私の名が出てくるのかがとても気になるのですけど、北郷さん?」
 太史慈だった。あと、こめかみのあたりがひくひくと痙攣してた。
 おれは平静を装いつつ、王修に向かって口を開く。
「――駄目ですよ、叔治殿。子義殿にあまり失礼なことを言ってはいけません」
「え、え、私が言ったことになってます?!」
「事実ですし」
「うあ、真顔で嘘ついてます、この人。し、子義ちゃん、私、そんなこと言ってないよ?!」
「ああ、罪を分かとうとするとは、王叔治、おそるべし」
「悲しそうにため息つくのはやめてくださいッ? ほんとに私が言ったみたいじゃないですか?!」


 おれと王修のやりとりを聞き、太史慈が呆れたように首を左右に振った。
「なにか、すごい息があってますね、2人とも」
「いつもこんな感じですからね」
「うう……会う度にからかわれているってことじゃないですか」
「ああ、そうだな」
「普通に肯定しないでください、北郷殿?!」
「いえ、もう漫才は結構ですので」
 再びはじまりかけたおれと王修の会話は、太史慈にばっさりと切り捨てられてしまった。





 太史慈は、叫びすぎて、ぜいぜいと息切れしている友人の顔をじっと見つめた。
「し、子義ちゃん、どうかしましたか?」
「いえ、ただ、叔治ちゃんがこんなに誰かと話しているところを見るのは久しぶりのような気がしたの」
 太史慈が知る王修は、人見知りが激しく、他者との会話に苦労することが多い少女だった。
 身に蓄えた知識は、決して他の文官に劣るものではないのだが、それをうまく言葉に出来ないために、官の評価は低く、同輩からの評価も芳しくない。それは年のこともあろうし、女性であるということも一因になっているだろう。
 北海郡は、多くの郡県がそうであるように、官の人間のほとんどは男なのである。


 それが、劉家軍が来てからというもの、小さからざる変化があったように太史慈は感じている。
 王修の引っ込み思案が、以前にくらべ、あきらかに改善されているのだ。そして、今の会話を聞いて、太史慈はその原因の一端を垣間見たことを悟った。
 友人の変化は、太史慈にとっても嬉しいことであり、それをもたらしてくれたであろう人へ感謝する気持ちはあるのだが――
「私が食いしん坊だという偽りを広げようとした罪は、拭えません」
「申し訳ありませんでした」
 真顔で怒る太史慈に、素直に頭を下げる北郷であった。 

  



 太史慈に深謝した後、おれは王修に話しかけた。
「そういえば、叔治殿は何の用事だったんだ?」
「あ、はい。あの、劉家軍の方々が、間もなく北海郡を離れられると聞いたので、その確認を、と思ったんです」
 なにやら緊張したように、背筋をしっかりと伸ばして、おれに確認を求める王修。
 その格好だと、何気に存在感を主張する胸のあたりに視線が行きそうになるのは男のサガです、はい。ちなみに、王修と同年の太史慈が、ちょっと羨ましそうな顔をしているが、そこも触れたりはしない。死にたくないので。
「ああ、それなら、今、玄徳様たちが話し合ってるところだよ。多分、もうじき行き先が決まるんじゃないかな」
 おれは王修の問いに首を縦に振った。


 元々、劉家軍の目的は青州黄巾党の討伐である。北海郡の一軍を撃破し、城を救った上は長居する必要はないし、その理由もないのだ。曹操によって青州黄巾党が滅びた上は、次の襲来もあるまい。
 それに、このまま長く北海城に居続けると、要らぬ疑惑を招きかねない、という理由も大きかった。
 斜に構えて言えば、北海郡において、劉家軍は用済みなのである。
 民衆はともかく、孔融らはそう考えているだろう。篭城時の無策さとあいまって、今の北海において劉家軍の人望は、太守である孔融を大きく凌ぐ。このまま時が過ぎれば、玄徳様を北海郡に迎え入れようとする気運が民衆から立ち上るのは必至であり、そうなってしまえば、孔融をはじめとした城側の役人たちの地位は大きく脅かされることになるのである。
 なにも孔融たちを非難しているわけではない。もちろん、快い筈もないが、しかし、孔融らの反応は当然といえば当然のことだった。琢郡の劉焉と比べれば、むしろましな対応だとさえ言えるだろう。
 こういう経験をすると、平然と玄徳様を麾下に入れていた公孫賛が特別だったということが良くわかる。おれは公孫賛に対して、普通の人、などと評価していたのだが、少なくとも人を容れる度量において、公孫賛は普通などではありえなかった。


「そ、そうなんですか」
 おれの返答を聞いた王修が、しゅんと俯いてしまった。
 顔中に失望が浮かびまくってるあたり、本当に嘘がつけなさそうな子である。
 王修が食料の心配をしてるなら、問題ない。玄徳様のことだから、食料の大半は残していくに決まっているからだ。
 だから、心配するな、と口にしたおれに、王修のみならず、太史慈からも冷たい視線が注がれた。
 む、なんですか、その空気読めみたいな眼差しは?
 あ、もしかして。
「ああ、ひょっとして、劉家軍に加わるって話を辞退しにきたのか?」
『え?』
 おれの言葉に、2人が同時に目を丸くした。
 だが、そんな2人の反応に、おれの方が困惑してしまった。
「む? もしかして聞いてないのか?」
 またしても同時に頷く2人。
 はて、てっきり話はついていると思っていたのだが。





 要は、恩賞の話である。
 玄徳様が袁紹から官位を授かったため、今の劉家軍は官軍扱いである。
 とはいえ、領土もなく、戦場を転々とする性質は義勇軍の時と変わらない。それゆえ、孔融は袁紹ではなく、玄徳様本人に援軍に来てくれたことへの謝礼をしなければならなかった。
 だが、長きに渡る篭城で、軍費も食料も底をついている今の北海城では、十分にお礼をすることも出来ない。
 そこで、孔融は朝廷に奏上して、玄徳様に新たな官位を賜ってくれたのである。
 それが「別部司馬」という官位であった。
 陳到から聞いたところによると、官位としては都尉より上。軍事を司るという意味では都尉と変わらないらしい。
 簡潔に記すと、この時代、軍を統べる将軍の下に校尉がいる。校尉は、軍の主力を率いる指揮官に相当するのだが、別部司馬とは、その主力に含まれない部隊の指揮官を指すとのこと。ちなみに、都尉は校尉の下に位置する官位である。
 まあ、「別部司馬」はかなり乱発されている官名であり、実質的な権限はないに等しいが、玄徳様の功業が認められている証だと思えば、めでたいことだといえるだろう。


 この使者が北海と朝廷を行き来する間、玄徳様が孔融に求めたものがある。
 北海の府庫に山と積まれている孔家歴代の宝物――万巻の書物という名の、宝物である。これの閲覧許可を、玄徳様は求めたのである。
 孔融はあきらかに気が進まない様子であったが、人と時間を限定した上で、許可を出してくれた。知識を修めるという意味で、またとない機会である。孔明と士元なんかは驚喜して、数日の間は、ただひたすらに竹簡の山に埋もれている有様であった。


 そして、最後に玄徳様が孔融に求めたものが、人材であった。
 もっとも、これは玄徳様の発案ではなかったりする。
 では、誰が玄徳様にそうするように薦めたのかと言うと。
 ――おれが太史慈の顔を見つめると、太史慈はすぐに真相に気づいたらしい。
「……あの、もしかしておばあちゃんですか?」
「正解」
 太史慈の祖母君には、おれも何度かお会いしている。
 最初に会った時には「ふむ、55点じゃな」という謎の言葉も頂いた。辛口ですね、何の評価かわからんけど。
 もっとも、とても気さくな方で、太史慈との会話は自然に頬がほころぶ微笑ましさであったから、悪い印象なぞ抱きようがなかった。
 太史家の家長殿は、孫娘の求めに応じて北海郡に来た劉家軍に対し、丁寧に礼を述べ、炊き出しにも協力してくれたりした。北海郡における劉家軍の評判の良さの一因は、あの祖母君にあるといっても良いだろう。
 北海城に来て、しばらく経ったある日、その人物が、玄徳様に言ったのである。
 今回の褒賞として、北海郡の二粒の宝石を望むように、と。


「え、あの二粒って?」
「もちろん、子義殿と叔治殿のことだろ」
 おれの言葉に、王修は驚いて固まってしまった。
 一方の太史慈は、勝手に話をすすめた祖母に憤慨している。
「私たちにひと言もなく、そんな話を進めてたなんて。まったく、おばあちゃんったら!」
 まったくもう、という感じで怒っている太史慈の姿は、だが、不服があるようには見えなかった。
 王修の方は――まだ固まってるか。
「太守はかなり渋ったみたいだけど、なんでも、祖母君じきじきに一喝したらしいぞ」
 おれは騎馬の調練のためにその場にいなかったが、後から孔明に聞いた話では、それはもう、本当に雷が落ちたかと思ったくらいの声量であったらしい。さすがの孔融も、一も二もなく応諾するしかなかったそうな。
 グッジョブです、おばあちゃん。


 もっとも、おれにとっては大歓迎なことだったが、本人たちが乗り気でないなら、強引に事を進めるのはまずかろう。
 まさか、本人たちが承知していないとは思ってもいなかったしなあ。
 太史慈は大丈夫そうだが、王修にとってはどうだろうか。劉家軍に加わるということは、絶えず戦に巻き込まれるということ。もちろん、剣をとって前線に出るようなことをする必要はないが、この城で不遇を囲っている方が、命の危険はないとも言える。
 そう考えたおれが、王修に声をかけようとした時だった。
「え?」
 思わず、おれは間抜けな声をもらしてしまった。
 王修がいきなり、顔を覆って泣き出してしまったからである。


「ふぁ……ぐす、ず、すみません、いきなり……」
 困惑するおれに向かって、王修はそう言って謝るのだが、涙が止まる様子はなかった。
 立ち尽くした格好のまま、謝りながらも泣き続ける王修に、おれはどう反応するべきかわからなかったので、とりあえず、思い当たることから謝ることにする。
「う、ご、ごめん。からかいすぎちゃったか?」
「ち、ちが……ます。そうじゃ、ぐす、ないです……」
 うう、そうすると何か他にまずいことしたか、おれ?
 おれが動転していると、太史慈がそっと王修の前に足をすすめ、その身体を抱きしめてあげた。
 太史慈の胸に顔を埋めるようにして、さらに王修の泣き声が高くなる。
 うああ、まずい。胸が痛みまくるぞ、良心の呵責で。


 そうやって、おろおろと慌てふためくおれを見かねたのか、太史慈は目線で、おれに落ち着くようにうながした。
 今は何も口にしないで良い、というように、そっと唇の前に人差し指を立てる太史慈。
 それを見て、おれは太史慈の祖母から聞いた話をふと思い出す。
 王修の両親はすでに他界しており、今は城で文官として働き、城内で寝起きしている。これは、娘1人をのこして逝くことを憂えた両親が、孔融に願い出たためであった。
 王修の両親は、さして身分が高いわけではなかったが、今際の際の願いとあって、孔融はこれを承諾し、文官として召抱えたのである。
 ただ、元々、男尊女卑の観が強い北海の城での生活は、まだ若い王修にとって、辛いものであったらしい。王修の引っ込み思案は、このあたりにも原因があるのだろう。
 ともあれ、そんな境遇でこの先、何年も耐え忍ぶよりは、外に新天地を求めた方が、王修のためにも良いだろう、と祖母君は考えたのだろう。
 それは同感だったが、しかし、せめて本人にひと言くらい言いましょうね、おばあちゃん。




 ところで。
 ここは劉家軍が炊き出しをしている場所である。
 太史慈と王修は容姿の整った少女であるからして、各処からちらちらと視線が向けられるのは自然なことであった。
 まして、いきなりその中の1人が泣き出そうものなら、いやでも注意を惹いてしまう。
 それがただの将兵ならば、まだ弁解のしようもあるのだが……


「ふむ、この短期間で北海に女をつくり、涙させるとは――北郷一刀、侮れぬ」
「げ」
 その声を聞いたおれは、額に冷や汗を滲ませた。
 今のは間違いなく趙雲の声。会議に参加していた趙雲が、ここにいるということは……
「うわ、うわ、一刀さん、女の子泣かせるなんて、ひどーい!」
 めずらしく怒ったような調子の玄徳様の声。
「最低です、一刀さん」
「……最低ですね、一刀さん」
 冷たい視線を向けているであろう、軍師2人の声。
 そして。
「……」
 声もなく、背後で響く金属音。
 おれは、それが何の音か、本能で理解した。
「無言で青龍刀を構えないでください、関将軍ッ?!」
「問答無用ッ!」
 それこそ、孔融を一喝したという太史家の家長に匹敵するような特大の雷が、おれの頭上に降り注いだ次の瞬間。
 おれの身体は一瞬で宙に舞っていた。というか、宙を飛んでいた。


「ぬあああッ?!」
「うわわ、ほ、北郷さん?!」
「おー、一刀が空飛んでるー、いいなー♪」
「ふん、自業自得よ」
「仕事をさぼっていた罰として、当然ね」
 田豫や張家の姉妹たちの声が、たちまち遠くなっていった。





 少し離れたところで、その様子を見ていた董卓が、慌てたように隣にいる人に話しかけた。
「あの、あの、助けに行かないと」
「いいのよ、月。放って置きなさい」
「そうそう。乙女の怒りの恐ろしさ、ご主人様に味わってもらいましょう。私というものがありながら、失礼しちゃうわ、まったく」
 興味なさげな賈駆と、ぷんぷんと怒っている貂蝉の2人を見て、董卓は心底困りきった顔で、宙を飛ぶ北郷の姿を見る。
 董卓の足では、どれだけ走っても間に合いそうもないが――せめて、怪我の手当てくらいはしてあげないと。
 そう思って駆け出そうとした董卓の肩を、そっと掴んで引き止めたのは、先刻からずっと苦笑しっぱなしの劉佳であった。
「劉佳様?!」
「大丈夫、愛紗ちゃんもちゃんと手加減してるから」
「え、え? でも、手加減っていっても……」
 空を飛んでいるんですけど、と言いかけた董卓に、劉佳はそっとある一点を指差して見せた。
「ほら、ちゃんとあそこの堀に落ちるようにしてるから」
 その劉佳の言葉が終わらないうちに。
 満々と水を称えた城の内堀から、大きな水柱が立ち上がった。
 ぽかん、とその水柱を見つめる董卓に、劉佳は「ね?」と優しく微笑みかけるのだった。





 余談であるが。
 それから数日の間、北海の住民の中で、空を飛ぶ人間を見た、という目撃談が続出し、怪奇現象として人々の話題を攫うことになる。
 しかし、真相を知る人たちが一様に口を閉ざしたことにより、ついにその正体が判明することはなかったのである……


   
 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/14 23:56
 

 徐州。
 領域の中央を流れる准河の流れによって、豊穣な水と土地とに恵まれた天下の豊州である。
 北は青州に通じ、南は揚州に至る。西に赴けば豫州、兌州にたどり着く。
 東が大海によって阻まれているため、四通八達とはいえないが、徐州が天下の要衝である事実は変わらない。往古、西楚の覇王がこの地にある彭城に都を定めた理由の中には、徐州が各地へ兵を出すに優れていたことも挙げられるだろう。


 覇王 項羽が烏江に散ってから幾星霜。
 現在、徐州彭城を治めるのは、朝廷より徐州牧に任じられた陶謙、字は恭祖。
 その陶謙は、本拠地である彭城で、最近、とみに目立ってきた白髪が、さらに増えるであろう報告を聞いているところだった。


「賊徒の勢い、それほど激しいのか?」
「はッ。琅邪郡の曹豹殿からは、援軍を求める使者が頻々と参っております。城の守備兵だけでは、いかんともしがたいとのことです」
 孫乾の報告に、陶謙はため息を吐く。
「官の正規軍を率いて、賊徒に歯が立たぬ、か……」
「諸方の情報を吟味するに、おそらく琅邪郡を荒らしまわっているのは、青州黄巾党の残党かと思われます。おそらく、大半は北海から逃れた者たちでしょう」
 青州黄巾党の本拠地である済南郡が曹操の手で陥落したことは、すでに徐州にも伝わっている。それに前後して、北海郡を攻撃していた青州黄巾党の別働隊が撃破されたらしいことも、噂としてではあるが、彭城にも聞こえていた。
 青州に隣接する琅邪郡に現れた精強な賊軍と聞けば、その正体は判然としていよう。


 報告によれば、賊徒の数は千を越えるとのことだった。
 野盗にしては大規模だが、琅邪郡に駐留する正規軍で対処出来ない数ではない。陶謙はそう考え、琅邪郡の太守である曹豹に討伐を命じた。
 しかし、敵はそんな陶謙の思惑を覆す。
 正規軍がまとまった数で攻め寄せてくれば逃げ散り、少数であれば進んで接敵し、撃破する。たかが賊とあなどっていた曹豹は、連続する敗報に顔を青くさせることになった。
 かくなる上は、城に篭って敵をおびき寄せよう、と曹豹は考えるが、賊の狙いは略奪であり、わざわざ城の前に姿を見せるようなことはしなかった。
 城内に閉じこもった正規軍を横目に、城外の村々を荒らしまわる賊徒。
 太守である曹豹があしらわれているのは明らかであり、琅邪郡の民衆は財産と命を脅かされ、悲鳴をあげるばかりであった。



「曹将軍は、援兵さえあれば賊軍ごとき、容易く打ち破ってみせると豪語しておられる由ですが、残党とはいえ、相手が青州黄巾党とあれば、さて、そう上手くいくとも思えませぬ」
 どこか飄々とした口調で、辛辣なことを口にしたのは糜竺であった。
「それに、曹操と呂布の争いが、いつ此方に飛び火してくるかわからぬ以上、主力は小沛に置いておかねばなりません。動かすとしたら、ここ彭城、あるいは臨准城ですが、揚州方面では今だ小競り合いが続いており、こちらも兵力が手薄になれば、あのお調子者が何を企むとも知れませぬし……」
 糜竺が「お調子者」と呼んだのは、南陽から寿春にかけての広大な領域を支配する隣国の支配者である袁術のことである。
 あまりといえばあまりの評に、陶謙も孫乾も苦笑するしかなかった。
「つまるところ、曹将軍には、ご自身の手持ちの兵力だけで何とかしていただかねばなりませんなあ」
「それが出来れば、曹将軍とて、援兵など願わぬであろう」
 陶謙が苦笑いを浮かべながら、糜竺にたしなめる視線を送った。
 糜竺は出過ぎたことをわびるように一礼したが、しかし、実際問題、糜竺の言うとおり、琅邪郡に兵をまわすような余裕は、今の徐州にはないのである。
 だからといって、琅邪郡の民を見捨てることなど、無論、出来ぬ。
 どうしたものか、と陶謙が頭を悩ませた時だった。
 

 糜竺の傍らにいた孫乾が、思いもかけない情報を口にした。
「実は、州牧のお耳にいれたいことがございます」
「何事か」
 ややためらい気味な孫乾の様子に、陶謙は先を促す。
「は。実は先日、黄巾党の攻撃を退けた北海郡から、私の友人の私信が届きました。孔太守におつかえしている者なのですが、その者が書簡に記したところによると、北海郡の救援にかけつけた軍を率いるは、あの劉玄徳殿らしゅうございます」
 その情報を聞いた瞬間、陶謙の目が、一瞬、大きく見開かれた。
 次いで、急き込むように問いかける。
「まことか、それは?!」
「はい。友人の文だけでは太守の耳にお入れするわけにもいかず、それがしの独断で情報を集めましたところ、間違いないようです。なんでも、袁紹殿の命令により、青州黄巾党の討伐に来た、と……」
「む。それでは、玄徳殿は袁紹殿の麾下に入られてしまったのか……」
 陶謙は思わず天を仰いだが、孫乾は主君の言葉に、首を横に振った。
「いえ、それが、袁紹殿から官位を授かり、青州に赴かれたのは間違いないらしゅうござるが、袁紹殿の麾下に入ったとも思えぬ節もございまして」
「その理由は?」
「は。袁紹殿の麾下に入ったのならば、北海郡の包囲を解いた後、すぐに冀州に戻る筈でござる。青州黄巾党が、曹操殿の手によって壊滅したこと、すでに玄徳殿もご存知でおられましょうからな。しかし、劉家軍は北海城で復興のために手を貸すだけで、一向に動く気配がないとのことなのです」
 おかげで、城内の劉備の人気は高まるばかりであるらしい。
 その一方で、孔融らとの関係が、ややぎこちなくなっていることを、孫乾の友人は心配していた。
 太守以上の人気を誇る人物が、いつまでも都下に留まっていては、人心が安定しないのである。劉家軍もすでにその空気を察し、移動の準備を整えているらしいから、大事にはなるまいが、と竹簡の最後に友人は記していた。




 孫乾は、知るかぎりの情報を話し終え、主君である陶謙からの言葉を待った。
 実は、孫乾はすでに糜竺には、この話を伝えている。もちろん、劉備を迎え入れる格好の機会だと判断したからである。
 主君である陶謙も、女性ながら文武に秀でた劉家軍を高く評価しており、誘引に反対することはないと思われるのだが――
 孫乾たちには、1つの危惧があった。
 劉備を迎え入れるに際して、陶謙の2人の子息が黙っていないだろうと思われるのだ。
 反董卓連合に参戦していた当時、2人は劉家軍の面々に大きな恥をかかされている。他者の評価はともかく、本人たちがそう考えているであろうことは疑いなく、事実、徐州に戻ってからも、幾度か劉家軍を誹謗する言動を行っていた。
 そんな2人が、劉家軍を徐州に迎え入れるということを知れば、必ず反対の声をあげるだろう。陶謙の嗣子である陶商と、その弟である陶応が反対の立場をとれば、それに追随する者たちも必ず出てくるに違いなく、下手をすれば徐州が分裂する事態にまで発展しかねないのである。


 陶謙がその事態を案じて、劉家軍を迎え入れることをためらうようであれば、孫乾と糜竺は、主君を説得する心算であった。
 はっきりと言ってしまえば、徐州の将軍の質は高くない。
 曹豹は情報収集に長けるも、実戦での指揮能力は、青州軍の残党に遅れを取っている時点で推して知るべし。
 糜竺の弟の糜芳にしても、将器は曹豹と大きく違わない。武官として、兵卒を鍛え、治安を維持することは出来ても、一州の軍を率い、他国と存亡を賭けて争う将軍としての力量は、糜芳にも、そして曹豹にも望みえないのである。


 現在、兌州で覇権を争っている曹操と呂布。
 この2人のいずれが勝ち残るにせよ、勝者の視線はいずれ間違いなく徐州に向けられるであろう。
 准河の豊穣を享受している徐州は、黄巾党に走る兵や民も少なく、必然的に黄巾党の被害も少ない。くわえて、諸州に通じる要地に位置する徐州を放って置く理由は、どこにも存在しない。
 それゆえ、孫乾と糜竺は、いずれ必ず来る兵火から民衆を守るために、何としても劉家軍を引き入れる決意をしているのである。
 今、この時、決断をためらえば、やがて徐州は中原の戦火に飲み込まれてしまう。それは、断じて避けなければならなかったのだ。  
 そのためならば、たとえ太守の子息の不興を被ろうともかまわない。しかし、太守自身が首を横に振ってしまえば、万事窮してしまう。
 そんな臣下の考えを知ってか知らずか、陶謙が、静かに口を開いた。
「公祐(孫乾の字)」
「ははッ」
 息を殺して主を見つめる2人は、視線の先に、明らかな安堵の表情を認めた。 
「よくぞ、その情報を掴んでくれた。感謝する」
「ありがたきお言葉です。では――」
 孫乾が確認するように問いかけると、陶謙は迷うことなく頷いて見せた。
「うむ、早急に使者を――いや、使者では謝絶されるかもしれぬ。公祐」
「はッ」
「子仲(糜竺の字)」
「は」
「両名は、ただちに北海郡に使いせよ。なんとしても、玄徳殿たちを、この徐州にお連れするのだ!」
『御意!』
 陶謙の命令に、2人は同時に頭を下げた。




 孫乾と糜竺が慌しく退出すると、陶謙は周囲の侍女や召使を下がらせ、州牧の椅子に深々ともたれかかった。
 その顔には、臣下には決して見せることのない苦悶の表情が浮かんでいる。
 ここ数年、とみに感じる胸の痛みが、またぶりかえしてきたのだ。
 右手で、胸の中央を押さえるようにして、断続的に襲い掛かってくる苦痛に耐える陶謙。しばし後、ようやく苦痛の波が引くと、陶謙は荒々しい息をもらし、左手で額の汗を拭った。
 典医に診てもらうまでもなく、病魔に冒されているのはわかっていた。陶謙はすでに齢50を大きく過ぎている。この時代では、かなりの高齢である。
 しかも、その老体に、州牧としての責任を背負い、心労を重ねてきたのだ。若い頃、どれだけ頑健な身体の持ち主であったとしても、病魔の1つ2つ巣食うのは当然といえば、当然であった。
 

 だが、今の陶謙は、どこか穏やかに見えた。
 これまでは、胸の苦痛が引いても、自分が倒れた後の徐州の未来を思って、夜も満足に眠ることが出来なかったのだが。
「……天恵、か」
 そう独りごちながら、陶謙は1つの小箱を取り出した。
 かつて、陶謙はこれを手に入れるために、謀略と兵威を駆使して、中華の地を駆けた。
 しかし、それは手に入れてみれば、苦みと嘆きしかもたらさない、自身を縛る枷であった。
「だが、そのおかげで、この地を自分が見込んだ者に譲ることが出来るとあらば、これまで持ち続けてきた意味もあったと思える」
 陶謙はそういうと、ふと何事かに気づいたように、小さく笑った。
「――あるいは、これが天命というものか。ふ、この年になって、ようやくわしも、天の意思を感じることが出来るようになったか……」
 陶謙はそう言うと、小箱の蓋を開いた。
 中には小さな印がしまわれており、そこには、こう記されていた。


 「徐州牧印」と。



◆◆



 陳留城外での戦いで、曹操が事実上の敗北を喫したことにより、兌州の勢力は大きく変化することになった。
 張超の腹心 臧洪が率いる兌州攻略軍の前に、兌州各地の城砦の門は次々と開かれ、張超の勢力が飛躍的に広がっていったのである。
 なおも曹操に忠誠を尽そうとする者もいたが、彼らは呂布率いる軍勢の猛攻によって、城を失い、砦を陥とされ、敗走を余儀なくされた。


 ここに至って、兌州の外でも、これまで曹操の武威に屈していた者たちが、続々と曹操の麾下から離反しはじめる。
 陳留城から軍を退いた曹操が、再戦におよぼうとせずに陳留郡から兵を退いたことも、この動きに拍車をかけた。
 曹操、恐れるに足らず。その確信は、同時に、曹操を打ち破った張超と呂布の武名を高めることにつながった。
 ことに飛将軍の驍勇は兌州全土を席巻し、深紅の牙門旗が進むところ、降らざるはなく、敗れざるはなし、とまで称えられることになる。
 陳留の軍勢が、兌州全土を併呑するのも間もなくだと考えられていた。



 だが、そんな猛威の前に、敢然と立ちはだかる者がいた。
 兌州の他の諸侯が次々と陳留勢に屈していく中、膝を折らず、節を曲げず、反曹操の潮流に逆らい、毅然と曹操に忠節を捧げ続ける城が存在したのである。それも2つ。
 1つは済北郡太守 鮑信が治める済北城。
 そしてもう1つが、東郡の支城の1つである濮陽城である。


 太守自身が立て篭もる済北城はともかく、東郡の本城がすでに開城している今、濮陽城は連携を失った孤城に過ぎない。陥落は時間の問題であるが、城主である鍾遙(しょうよう)は、頑として張超の降伏勧告には応じず、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
 この報を受け、張超は陳留から出撃し、臧洪と合流して濮陽城を包囲下に置いた。
 その上で、最後通告を行い、鍾遙を自軍に引き入れようとしたのだが、城内で使者と対面した鍾遙は、相手にひと言も喋らせる暇を与えなかった。


「わしの目が黒いうちは、貴様のごとき小娘に膝を屈することなど決してないと張超に伝えぃッ!」
 常は温和な為人で知られる鍾遙であったが、まるで人が変わったかのような怒号であった。
 使者は、その威に震え上がり、ほうほうの体で逃げ出してしまう。
 その使者の後姿を見ながら、鍾遙の隣にいた小柄な女性が、首を傾げる。
「鍾太守は63歳。小娘というと、曹将軍もあてはまってしまいますねー」
「む。いわれてみればその通りだな。これは迂闊であったようじゃ。貴様のごとき裏切り者には膝を屈さぬ、と言うべきであったか」
 かっかっか、と高らかに笑う鍾遙。
 だが、次の瞬間。
「あ、痛たたた」
 腰を押さえて、その場に座り込んでしまった。
 慌てたように、もう1人、眼鏡をかけた女性が駆け寄ってくる。
「ああ、元常(鍾遙の字)殿。まだお腰は治っていないのですから、安静にしておかないといけないと申したではありませんか」
「な、なんの。この天下国家の一大事に、のんべんだらりと寝ておるわけには――い、痛ゥ!」
 言葉の途中で、またも激痛に倒れこむ鍾遙。
「ふむ、これは重症ですねー。元化さんがいれば良かったんですけど」
「ここにいない人のことを言っても仕方がありません」
 そういうと、眼鏡をかけた方の女性が、小柄な女性に向かって口を開く。


「風、元常殿を部屋までお連れしますよ」
「あいあいさですよー、稟ちゃん」
「……まだその言葉、使ってるんですか、風?」
「いずれ中華全土に広げるのが、風の夢なのです」
「――なんという不毛な夢でしょう。まあ良いです、手伝ってください」
「了解でーす」
「……あいあいさー、ではないのですか?」
「使いすぎは飽きられるのですよー」


 かくして、鍾遙を部屋に連れて行き、寝台に押し込んだ郭嘉と程立は、城壁の上に登って、城を取り囲む陳留勢に視線を注ぐ。
「おおよそ、4万といったところですか」
「風もそれくらいと見ました。けど、呂布さんはいないみたいですね」
 確かに程立の言うとおり、中原に名高い深紅の呂旗は見当たらない。
 だが、濮陽の城の兵力は3千に満たない。
 城攻めにおいて、守る側が攻める側より有利なのは常識だが、ざっと10倍を越える兵力差があれば、その有利を覆すことは難しくない。まして――
「城主がぎっくり腰とあっては、どうなることやら、だぜ」
「宝慧、口を慎みなさい」
「おうおう、おれっちは事実を言っただけだぜ」
「事実を口にするにしても、時と場所をわきまえなさい、と言っているのです。城内の将兵に聞かれれば、士気が下がります」
「むむ、そいつあすまねえな、鼻血の姉ちゃん」
「誰が鼻血か、誰が?!」
 宝慧の(正確には程立の)言葉に、郭嘉が頬を紅潮させて反論する。
「そ、それに最近は風の世話になることもないでしょうッ」
 それに答えたのは、今後は程立だった。
「戦い続きで妄想するような時間がとれなかったからでしょうねー。聞けば、曹将軍はすごい美人さんだとか。たまりに溜まった血潮の迸りが、風は今から心配なのです」
「む、無用の心配です!」
 郭嘉はむきになって言い返したが、すぐに感情的になった自分を恥じるように、片手で眼鏡の位置を直し、小さく息を吐く。
 

「いずれにせよ、この城が陥ちれば、反乱軍は北の済北郡へ戦力を集中させることでしょう。鮑信殿はなかなかの人物と聞きますが、張超と呂布、2人を同時に相手取るには戦力が足りません。そして、鮑信殿が敗れれば、兌州は完全に敵の手に落ちることになる。さすれば、中華統一までの道のりはさらに長くなってしまいます」
 だからこそ、と郭嘉は決意する。
 なんとしても、敵をここで食い止める、と。
 幸い、鍾遙は話のわかる人物で、郭嘉が持っていた荀彧の書簡を見て、すぐにそれがまぎれもない本物であることを認めてくれた。
 鍾遙自身、政治家、軍人としてでなく、書家として高名な人物であったから、書簡の真偽の見分けは容易かったのだろう。
 そして、鍾遙は荀彧の為人も知っていた。年若く、やや陰湿な面を持ってはいるが、その才能は疑いようがない。なにより――
「孟徳様に惚れておる文若が、若い女子を推挙するなど考えられん。なればこそ、もし本当に文若が孟徳様に女子を推挙したとするならば、その者はそれだけの大才の持ち主ということじゃ。それこそ、あの妬心のかたまりが、それを我慢しなければならないほどの、な」
 鍾遙はそう言って大笑し、郭嘉と、そして程立を軍師として迎え入れてくれたのである。
 もし、鍾遙以外の人物が城主でなかったら、おそらく2人は才能を振るう場を与えられることはなかったであろう。


「それにしても、行く先々で敵が攻めて来るのはどういうわけでしょうか?」
 郭嘉は首をひねる。
 楼桑村の時といい、今回といい、立ち寄った先に敵が攻めてきて、しかもそこが戦局の焦点となってしまうのだ。運が良いのか、悪いのか、と郭嘉は悩んでしまう。
 だが、程立は郭嘉の悩みにあっさりと答えをもたらした。
「さすが稟ちゃん。不幸を呼ぶ女、ですね♪」
「――風、私が本気で怒らないと思って安心していませんか?」
「――という冗談はさておくのです」
「笑えない冗談はやめてください」
 憮然とした郭嘉を見て、程立は現在の状況にそぐわない、穏やかな表情を浮かべた。
「きっと、天命なのですよ――あ、楼桑村に行ったことや、濮陽の城を訪れたことではないですよ? それは風たちが決めたことで、天とは関わりのないことですし」
「む。では何が天命だと言うのですか?」
「それはもちろん、風と稟ちゃんの運の悪さが、ですよ」
「……声を大にして否定したいのですが……むう、否定できないものを感じます」
 程立の言葉には、何というか、説得力がありすぎた。なにせ実際に、企まずして、2度も戦乱の真っ只中へ飛び込んでしまったのだから、反論もできない。


 程立は、頭を抱える郭嘉を見て、口許を押さえて笑いをこらえた。
 だが、不意に真剣な表情になると、歌うように言葉をつむぐ。
「でも、風たちはそのお陰で、たくさんの人たちと出会うことが出来ました。稟ちゃんが会いたいと願った人も、ただ偶然に出会えた人もいますけど、その全てが、とてもとても意義ある出会いだったと、風は思うのです」
「――ええ、そうですね。それは否定する余地がありません」
 否定する心算もありませんけどね、と郭嘉は微笑む。
「戦場に行き着いてしまう運の悪さが天命ならば、裏を返せば、そこでの出会いもまた天命。結んだ絆は、いつか必ず、風たちが望む未来を手繰り寄せるに違いないのです。風は、そう信じているのですよ」
 だからこそ、と程立は考える。
 ここでの戦いもまた、望む未来を得るために必要なことなのだ、と。



 兌州を席巻し、圧倒的戦力を以って押し寄せる陳留勢。
 迎え撃つ濮陽城は、城主が倒れ、戦況は悪化の一途を辿るばかりであった。
 そして、その濮陽の城壁の上で、類を絶した2人の智者が、それぞれの決意を以って参戦の意思を固めた時――『濮陽城の戦い』の幕は開かれるのである。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(二・五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/16 00:56



 時は呂布と曹操の激突前まで遡る。



 荊州南陽郡に本拠地を置く袁術は、きわめて機嫌が悪かった。
 先の反董卓連合においては、さしたる武勲を挙げることが出来ず、それどころか、子飼の将2人を呂布に討たれ、得たものよりも失ったものの方がはるかに大きかったから、当然といえば当然であった。
 一方で、袁術の客将格である孫堅は目覚しい活躍をみせ、その武勲は瞠目に値した。
 戦闘においては汜水関を奪取し、洛陽が猛火に晒されたおりには、難民に食料を施し、洛陽の治安回復に積極的に尽力した。文武における功績は諸侯にも高く評価され、さすがは孫氏の末裔である、と称えぬ者はいなかった。
 無論、それは袁術にとって面白いことではない。
 それゆえ、本拠地に戻るや、袁術は四方に封じた孫堅の家族らの監視を強めた上で、孫堅軍に対し、これでもか、とばかりに戦役を命じ続けたのである。


 手始めは、揚州であった。
 元々、荊州における袁術の領土は、南陽郡以北に限られている。
 南陽以南を統べる荊州牧 劉表と袁術とは犬猿の間柄で、荊州の制覇を目論む袁術は、これまで幾度も劉表と矛を交えてきたのだが、荊州の俊英を配下に多く抱える劉表の防備は厚く、荊州における領土拡大は非常にむずかしくなっていた。
 そのため、近年の袁術軍は、准河上流部への侵攻を行い、着実な成果を挙げていたのである。
 洛陽から帰着した袁術は、多くの家臣の反対を押し切って、すぐさま大動員を発令。大将軍張勲の指揮の下、豫州汝南郡へと侵攻を開始する。
 汝南郡には有力な将帥はおらず、袁術軍の大戦力の前に、汝南郡の城砦は次々と城門を開き、たちまち袁術軍は汝南郡全域を制覇することに成功する。
 勢いに乗った袁術軍はさらに東、揚州へと侵攻を開始した。


 だが、ここで袁術軍の前に寿春城が大きく立ちはだかる。
 揚州太守 劉遙配下の武将 張英は、寿春の防壁と、自軍の兵力をたくみに駆使して、袁術軍の攻勢を寄せ付けなかった。
 これに対し、大将軍張勲は、孫堅軍を先鋒にすえ、強引なまでの力攻めを行い、昼夜別なく攻城を繰り返し、敵に休む暇どころか寝る暇さえ与えなかった。
 攻撃がない時も、城外から何十もの銅鑼を叩き、あるいは嫌がらせのように火矢を打ち込み、孫策曰く「なんて嫌らしい戦ぶり」という戦闘を展開して、敵の心身を攻め立てたのである。


 この張勲の嫌がらせ攻撃に加え、対董卓戦の疲労が抜け切っていなかったとはいえ、孫堅軍の智勇も健在であり、さしもの張英も城を保つことが出来なかった。幾たびかの戦闘の末、先日、ついに孫堅軍は劉遙の軍勢を打ち破り、寿春を占拠することに成功したのである。
 この戦において、一際目立った功績を挙げたのは孫策であり、寿春城主である張英は、孫策の武勇の前に危うく討ち取られる寸前まで追い詰められ、ほうほうの体で曲阿の本城に逃げ帰った。


 この勝利により、袁術は、荊州北部から豫州、さらには揚州にまで及ぶ巨大な勢力を有するに至った。
 領域の広さで言えば、曹操にすら勝り、河北4州に勢力を広めつつある袁紹にも匹敵するほどの大諸侯となったのである。




 南陽城で袁術は得意満面であった。
 反董卓連合の時には、いたって奮わなかった袁術軍の武威を中華に輝かしたのだから当然である。
「ふははは、見たか、麗羽、妾の軍の実力を! 七乃、見事じゃったぞ!」
 袁術は階下に畏まる張勲に賞賛の言葉を投げた。
「お褒めにあずかり光栄です、お嬢様。でもまあ、相手より多い兵力持ってれば、大体勝てるんですけどね、戦なんて。少数の兵で多数を破れるような人間は、そうそういませんし」
「なにかわからんが、勝てればかまわんのじゃ。それに、孫堅の奴もこきつかってやれたしのう」
「はーい。ちゃんとそこそこ強そうな敵にぶつけておきました。でも、孫家の皆さん、顔が怖かったですよ? そろそろちゃんと休ませてあげないと」
 張勲の言葉に、しかし、袁術は首を横に振った。
「いーや、妾を置いて、良いとこ総取りするような連中は、もっと扱き使ってやるのじゃ! 妾を蔑ろにするような奴には、とことん思い知らせてやらねばならんじゃろ!」
「おー! お嬢様、『蔑ろ』なんて難しい言葉、良く覚えることが出来ましたねー」
 ぱちぱち、と手を叩く張勲。
「ふはは、妾とていつまでも子供のままではないのじゃ! 七乃、もっと褒めてたも!」
「よ、美羽様天才、袁家の綺羅星、調子に乗ったら天まで登るその軽さ、素敵です!」
「ふはははは! ――ん、最後は褒め言葉じゃったか?」
「もちろんですとも。で、孫堅さんたち、どこにぶつけるんです? やっぱり劉表さんですか?」


 荊州を巡る長年の対立を考えれば、張勲の推測は妥当だと言えた。しかし、袁術はきっぱりと首を横に振る。
「いーや、曹操じゃ!」
「……はい? お嬢様、今なんと?」
「だから、孫堅は曹操の奴にぶつけるのじゃ! 許昌を陥落させろと命じてやれば、さしものあやつも困り果てるじゃろ!」
「……えっと、それはもちろん困るとは思うんですけど。でも、孫堅さんが曹操さんを攻めちゃったら、自動的に私たちも曹操さんに宣戦布告した形になっちゃいますよ?」
「別にかまわんじゃろ。あんなちんちくりんな小娘1人、袁家の嫡出である妾ならば、簡単に料理してやれるのじゃ!」
「いえ、あの、お嬢様。今、曹操さんに喧嘩を売ると、自動的に朝敵になっちゃうんですよ。皇帝陛下を敵にまわしたら、劉表さんと曹操さんどころか、中華全土から袋叩きにされちゃいますよ?」
 張勲の言葉に、袁術は驚きをあらわにして、確認する。
「なに、そうなのか?!」
「ええ、そうなんです。もちろん、お嬢様の御力をもってすれば、そんじゃそこらの諸侯なんて敵じゃありませんが、数が集まってくると面倒ですし。それに、多分、その隙に河北の袁紹さんが漁夫の利を得ようとして動き出すでしょうねー」
「むむむ。麗羽の奴に良いところをかっさらわれるのは、孫堅よりも腹が立つのう」
「でしょでしょ? だからお嬢様、ここは1つ、順当に孫堅さんたちは劉表さんにぶつけるということで……」
 手を打ちませんか、と張勲が言いかけた時だった。




「――さすがは袁公路様、お見事な策でございます」
 そう行って、手を叩いて現れた者がいた。
 張勲がそちらを見ると、見慣れない男が官服を着て立っている。
「あの、お嬢様、こちらの方は?」
 端正な容姿に、温和な笑顔の青年だった。微笑まれた女性は、10人いれば7.8人は頬を染めるだろう。
 張勲は主君である袁術を第一としており、男に興味はあまりないが、美少年も美青年も嫌いなわけではない。その張勲の目から見ても、その青年はなかなかの器量だと見て取れた。
 だが。
「うむ。七乃が遠征に行っておる間、寂しくてのう。何か紛らわせるものがないか侍女に尋ねたら、なんでも城下で有名な祈祷師がおるとのことでな。天候占いから失せ物探し、はては重病人の平癒の儀式まで、なんでも来いのすご腕だと聞いて招きよせたのじゃ。そうしたら、なんと何も言わぬうちから、妾の大好物の蜂蜜を持ってきたのじゃ! のう七乃、凄かろう!」
「――それは確かにすごいですねー」
 そう言いながら、張勲の視線は探るように青年に向けられた。
 容姿的には何の問題もないのだが――何かが、張勲に警戒を呼びかける。
 それは何なのか、と考え、青年と目を合わせた張勲は、その答えを知った。
 笑みを浮かべながらも、目の前の青年の目は笑っていないのだ。三文芝居でも眺めているような、醒めきった視線と、笑みを浮かべた表情の差異が、奇妙に張勲の胸を騒がせる。


 青年は、張勲に丁寧に一礼してから、袁術に向き直り、もう一度袁術の考えを褒め上げた。
「さすがは袁家を統べる御方。漢朝が斜陽の時を迎えた今、天下の平和を願って、新たな秩序を求めて立ち上がらんとする覇気、まことに素晴らしいと存じます」
「うむ! そうであろう、そうであろう! 七乃もそう思うじゃろ? 」
「え、ええ、そうですねぇ」
 首を傾げつつ、張勲は一応うなずいてみせた。
 絶対、袁術は天下の平和を願っているわけではなく、漢朝に変わる新たな秩序を求めたわけでもあるまい。張勲にはそれがわかる。多分、今も青年の言った言葉に賞賛が感じられたから、ただ喜んでいるだけだろう。
 とはいえ、袁術の喜びに水を差す、という選択肢は張勲にはない。
 甘言に耳を貸さないように諫言する、という思考も張勲にはない。
 袁術が喜ぶこと。それがすなわち、張勲の全てだった。
 だから、張勲は青年の言葉を遮ることをしなかったのである。
 

「よし、では、これより妾の軍の全力を挙げて、曹操めをけちょんけちょんにしてや――!」
「いえ、それは少々お待ちいただきたいのです」
 両腕を振り上げ、命令を下そうとした袁術に対し、青年はあっさりと首を横に振った。
 勢いをそがれ、袁術は頬を膨らませつつ、問い返す。
「む、何故じゃ?」
「今、公路様が許昌に軍を出せば、勝利を得るはたやすいでしょうが、それでは王道を行く公路様にとって、いささか芸がないというもの。やはり乱世の主役には、それに相応しい出方というものがあるのではないでしょうか?」
「ふむ。たしかに曹操ずれの二番煎じは面白くないのう」
「はい。そのとおりにございます。それに、公路様の配下には、なにやら公路様の王道を妨げんとする愚か者共がいる様子。無論、公路様にとっては蚊のごとき存在ですが、夏の夜の蚊はしつこうございましょう?」
 青年の言葉に、袁術は大きく頷いた。
「たしかに、あれは嫌じゃ。ぷーん、ぷーんと煩わしいこと、この上ないのじゃ。そうだ七乃。蚊帳をそろそろ出しておくべきじゃと思わんか?」
 良いことを思いついた、と言わんばかりに、袁術は手をうって、張勲に問いかける。
「わっかりました。早速、今晩からでもご用意しておきます」
「うむ、頼むぞ、七乃! これで妾の安眠は約束されたも同然じゃ。よう言うてくれた、于吉」



「お褒めにあずかり、恐悦にございます」
 変わらぬ笑みを湛え、于吉は非の打ち所のない礼をする。
「で、蚊のごとき輩を排除するには、どうすれば良いのじゃ?」
「はい。蚊帳をかけ、近寄らせぬのも1つの方法でございますが、もっと簡単な手がございまする」
「ほうほう。それはなんじゃ?」
 無邪気な袁術の問いかけに対し――于吉の口が、三日月形に開かれた。


「――潰してしまうのですよ。一匹残らず」  
  

 そう、言った。





◆◆





「の、のう、七乃」
「な、なんですか、お嬢様?」
 しばらく後。
 南陽城の謁見の間で、袁術と張勲は顔を見合わせていた。
 夏が近づくこの時期、外は汗ばむほどの陽気なのだが、なぜか2人は奇妙な薄ら寒さを、互いの表情に見出していた。
「あれは、冗談なのか?」
 先刻、于吉が退出した扉に目をやった袁術が首を傾げる。
 訊ねられた側の張勲は、しかし、袁術と同じように首を傾げることしか出来なかった。





 蚊は一匹残らず潰してしまえば良い。そういった于吉に、張勲はこう返した。
「虎みたいに大きな蚊で、潰そうとすると、こっちの被害も甚大になっちゃうと思うんですが?」
 すると、于吉は頷いて、張勲に返答した。
「承知しておりますよ。なに、公路様の軍を使うまでもありません。虎には虎を用いるまで。幸い、1つ格好の餌を持っていましてね。私にお任せいただければ、手ごろな大きさの虎を、捕まえてきてご覧にいれますよ」
 于吉の視線が張勲と、そして袁術とに交互に向けられる。
「七乃、どうしたもんかの?」
「お嬢様の軍が傷つかないで済むなら、それに越したことはないんじゃないですかね。虎さんがいなくなるまで、軍のみなさんに休んでもらうこともできますし。きっと、お嬢様の心遣いを知った将兵のみなさん、大感激ですよー」
「うむ、下々に恩恵を施すのも、英雄の務めというものじゃな! よし、于吉、万事、そちに任せるのじゃ!」


 袁術の命令を受け、于吉は畏まって口を開く。
「御意にございます。そうそう、適当に弱らせるまで、多少、時間を頂くことになりますゆえ、その間は持参した物で無聊を慰めてください。最高級の蜂蜜と、とれたての蜂の巣があるのです」
「をををッ! あのさくさくぱりっとの蜂の巣か?!」
「ええ、職人から譲り受けたものですが、私ごときにはもったいない珍味ですゆえ、公路様に召し上がっていただこうと思って、本日、持参いたしました」
「でかした、于吉! 七乃、膳の用意じゃ!」
「はいはいー。ちょうどお昼ですし、食後のおやつにお出ししましょうか」 


 大好物を前に、慌しく動き出す袁家の主従。
 その眼前で、于吉が不意に笑い声をたてた。
 不審そうな主従の視線を受け、于吉は無礼を謝すように頭を垂れる。
 その格好のまま――すなわち、表情を見せぬまま、于吉は袁術たちに無礼をわびた。
 そして。
「苦心して築いた巣を砕かれ、せっかく溜め込んだ蜜を奪われた蜂が、ふと哀れに思えまして。彼らはきっと、自分たちがそのような目に遭うとは夢にも思っていなかったのでしょうね。謂れなき暴力が、自分たちの上に降り注ぐ、その瞬間まで」
 くつくつと笑いながら、于吉はそんなことを言ったのである……





 于吉の言葉を思い返しながら、張勲はとりあえず適当に言い逃れることにした。
「于吉さんは、きっとお嬢様に、蜂蜜は蜂さんが苦労して集めたものだから、それに感謝して食べなさいといいたかったんじゃないですかね?」
「お、おお、そうか。なにやら意味ありげに笑うものじゃから、気になってしもうたが、そういうことか。ふむ、確かにこのように美味しいものをうみだしてくれる蜂には、感謝してやらねばならぬのう」
「食べ物には感謝の心。さすがお嬢様、袁紹さんなんかは到底もてない慈しみの心を、湖のような満々と湛えておられるのですねー。きっとお嬢様は、後の世に、美と慈愛を兼ね備えた不世出の英主として、名を残されることになるでしょう。おー、美羽様すごい、さすが!」


 袁術は張勲の賛辞を胸をそらして受け止めると、思い出したように食卓に向けて駆け出した。
「はっはっは。よし、七乃! 蜂に感謝しつつ、速やかに蜂蜜を食べるのじゃ!」
「そのまえに、きちんと昼食を召し上がってからですよー」
 袁術の後を追いながら、張勲はきっちり釘を刺す。
「むむむ。蜂蜜を食べてからでは駄目なのか?」
「駄目ですよー。お嬢様、蜂蜜だけ食べて、他の物をお食べにならないじゃないですか。きちんと食べないと大きくなれませんよ。そうすると、また袁紹さんにからかわれることになっちゃいますけど、良いんですか?」
「む、そ、それは嫌じゃ。わかった。蜂蜜はきちんと食事をとってから食すことにするぞ!」
「はい、了解でーす」
 袁術に笑顔を向けてから、張勲はそっと背後を振り返った。
 何者かの視線を感じたように思ったのだ。
 だが、張勲の視界には、何も映ることはなく、ただ奇妙に閑散とした空気が漂うのみであった。 




◆◆




 孫策は、南陽城外を流れる小さな川の畔で、川面の水の流れを目で追っていた。
 袁術軍による東征がようやく終わり、のんびりとした気分に浸っている――というわけではなかった。
 その視線は鋭く、射るような気迫さえ宿っている。
 その傍らには釣竿が立てかけられているのだが、魚たちは孫策の鋭気に怯えたかのように姿を見せず、竿は先刻からぴくりとも動いていなかった。



「――こんなところにいたのか、探したぞ、雪蓮」
 孫策の背後の草むらから音がしたと思うと、そんな声とともに周瑜が姿を見せた。
「文台様が探している。急いで本陣へ……」
 戻るように、と言いかけた周瑜は、振り返った孫策の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。
 周瑜でさえ、思わず怯んでしまいそうなほどに、今の孫策は荒々しい気配を発しているのだ。
「どうかしたの、雪蓮。あなたがそんなに荒ぶるなんて、めずらしいわね」
 そう問いかけた周瑜であったが、返って来た答えは、予想の外にあった。
「わかんない」
「……雪蓮?」
 思わず問い返した周瑜に、孫策はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「だから、わかんないのよ。なんでこんなに苛々するのか」
 あー、もう、と孫策は髪の毛をかきまわす。
 その様を見れば、孫策自身、自分の感情をもてあましているのだということは明らかであった。


 滅多に見ることのない親友の様子に、周瑜は腕を組んで考え込んだ。
 英雄も人の子であってみれば、体調が悪いこともあれば、気分が優れない日もある。今日は、孫策にとってそういう日である、というのが無難な解釈であろう。
 しかし、孫策の直感が優れていることを知るに、周瑜以上の者はいない。
 あるいは、その直感が、孫策自身でさえ気づくことの出来ない危険を教えようとしているという可能性も否定できなかった。
「――戦場での疲労が、知らず溜まっているということはないか?」
「まさか。汝南郡でも、寿春でも、私が疲れるような戦いがなかったことは、冥琳だって知ってるでしょ。まあ、私たちを扱き使おうとい魂胆が見え見えな袁術たちには腹も立てたけど、これだっていつものことよ。帰ってきてまで、引きずるほどのことじゃないでしょう」
「確かにね。それに、今回の袁術の東征は、ある意味、私たちにとって稀有な幸運とも言えること。雪蓮が荒ぶる理由にはならないでしょう」
「まあねー。わざわざ領土を東に広げてくれたおかげで、目を配らなければならない場所を自分で増やしてるんだもの。袁術たちも、ご苦労さまって感じよね」
 まあ、実際に苦労したのは、私たちなわけなんだけどね、と孫策は肩をすくめた。


「しかし、おかげで各処に種を蒔くことは出来たわ。とくに寿春のあたりは、南陽からでは視線も届きにくいでしょう」
 周瑜のさりげないひと言に、孫策は意味ありげな笑みを浮かべた。
「あらあら。孫呉の懐刀さんは、なにやら暗躍中なの?」
「暗躍、というのはいささか表現が悪いな。帷幄の中に謀をめぐらしている、くらいは言ってほしいものだ」
「さすがは孫家の張子房。期待しているわよ」
 孫策はそう言うと、いまだ胸中を去らない苛立ちを切り捨てるように、勢いをつけて立ち上がった。
「で、冥琳。母様が呼んでいるって言ってたっけ?」
「ええ、そうよ。城から使いが来て、新たな命令を置いていったわ」
 周瑜の言葉に、孫策は露骨に顔をしかめた。
「えー。聞かなかったことにして良い?」
 袁術からの命令が、良いことを招いた例はただの一度もない。
 洛陽から帰着するや、いきなり東征に駆り出されたことなど、その最たるものである。


 だが、孫策の顔を見る周瑜は、どこか楽しげな笑みを浮かべて、孫策に答えた。
「それは別にかまわないけれど。後から文句を言わないでちょうだいね」
「ん? どういう意味?」
 不思議そうに首を傾げる孫策に向けて、周瑜は袁術の命令を口にした。
「洛陽、および此度の東征における孫堅軍の功績を称え、金1万両、兵糧2万石を与える。なお、各地に派遣した孫家の諸将との連絡を許可する。望むのであれば、面会も許すが、これはあらかじめ届け出ること――だそうよ」
 周瑜の言葉に、孫策は口をぽかんと開けてしまう。
 それは、周瑜以外の口から聞かされたならば、到底信じられないものであった。


「……なに、その怪しさ満点の褒賞は? 袁術たち、悪いものでも食べたのかしら?」
 半ば以上、本気で孫策はそう口にした。
 こたえる周瑜も、呆れたように肩をすくめている。
「わからんよ。金と糧食だけでもわからんが、その上、折角、分散させた孫家の連絡を許可するときてはな。正直、袁術たちの狙いが、見当もつけられん」
「そうよねえ。今まで、言を左右にしてふらふら逃げていたのに、なんでまた急に?」
 困惑する孫策に向けて、いつもは思慮深い周瑜が、あっさりと兜を脱いでみせた。
「まあ、考えたところで仕方あるまい。あるいは、今回の大勝利に浮かれた勢いで言っただけという可能性もあるしな。いずれにせよ、金も糧食もそうだが、各地の味方との連絡が取れるのはありがたい」
 その周瑜の言葉に、孫策はかすかに危惧を覚えた。
「油断させておいて、こちらの尻尾を掴もうとしようとしてる――って、そんなもの、あたしが言わなくても、冥琳は承知してるわよね」
「ああ。尻尾を掴ませたりはせんよ。それに、下手に罠を警戒して動かないのも、逆に連中の疑心を刺激してしまうだろうからな。精々、期待どおり踊ってやろう」
 そう言った後、そうそう、と周瑜はあっさりと付け足した。
「蓮華様と、小蓮様を呼び寄せる許可は、すでに城に申し出てある。遅くとも一月後には、会うことが出来るだろう」
 その手回しの良さに、孫策は降参とでも言うように両手を挙げ、帰路を共にするしかなかったのである。






 周瑜と駒を並べて帰路についた孫策は、ふと、釣竿を立てたままであることを思い出し、川の方を振り返る。
 すると、孫策がいなくなったことで安心した魚がいたのか、竿が小刻みに動いているのが見て取れた。
 このまま放っておけば、命を粗末にすることになってしまう。孫策は愛馬に声をかけた。
「騅、ちょっと戻ってくれる?」
 古の名馬の名を継ぐ漆黒の馬は、その孫策のひと言で、心得たように馬首を返す。




 その背に揺られながら、孫策は気づいていた。
 先刻の、理由なき苛立ちが、いまだ胸の奥にくすぶっていることを……
 


 

 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/26 23:27



 北海城を出て、南へしばらく進むと、広々とした平原地帯が広がっている。
 東莱郡から流れてきた野性の牛や馬、鹿などが各処で群れをなす、北海郡でも有数の狩場である。
 今、劉家軍はそこに滞陣していた。
 といっても、狩りのためだけに来たわけではない。
 北海城内における玄徳様の人望が、孔融側の態度の硬化を招きつつあり、両者の関係に本格的なヒビが入る前に、と玄徳様の判断で城を後にしたのである。


 もちろん、獲物の豊富なこの場所で、今後のために糧食の蓄えを得ようという狙いもある。
 野牛や野鹿を仕留めるべく、将兵の多くは、弓矢を抱えて、平原の各処に散っていた。
 趙雲率いる騎馬隊の半数は、田豫の指図に従って、野生馬の捕獲に向かっているところだ。
 おれはというと、王修と一緒に、現在の糧食の総量の把握や、今後、どの程度の消費量で行くのか等を決めるために駆け回っていた。
 北海城を出るのが急だった上に、余剰の物資――言い換えれば、袁紹から分捕った分ということだが――をほとんど置いてきたため、その程度の基本的なことさえ終わっていなかったのである。


 資金と糧食の把握は、軍という組織を維持する為に、必要にして、不可欠なこと。
 これを怠っていたというのは、看過出来ない手落ちと言える。そして、この責任は、諸葛亮と鳳統――なかんずく、諸葛亮の手に帰されるべきものだった。少なくとも、諸葛亮自身はそう考え、自身の失態に顔を 青ざめさせていた。
 軍事の鳳統、内治の諸葛亮という役割分担は、いつのまにやら暗黙の了解として成り立っていたりするのだ。
 これまで、諸葛亮はただの一度として、この役割をおろそかにすることはなかったのだが、一体どうしたというのだろうか。
 その答えは――まあ、諸葛亮と鳳統の荷物に山と積もれた書簡が、全てを物語っているだろう。
 それらは、孔融の書庫に保管してあった竹簡の中で、とくに重要な物を選り抜いて、2人が寝る間も惜しんで書き写した成果であった。


 この時代より少し前、宦官の蔡倫という人物によって、それまでとは比較にならない優れた製紙法が中華にもたらされた。
 それゆえ、紙という文字媒体は、すでに民間にも普及している。
 とはいえ、印刷術が生み出されるには、まだ気が遠くなるほどの時間が必要とされており、紙で書かれた書物が広く流布するには至っていない。
 まして、古来から伝わる貴重な書物の多くは竹簡ないし木簡であり、これが紙に映されて世に流れるまでには、さらに多くの時間を必要とするであろう。
 それゆえ、孔家が累代に渡って保管していた書簡の山は、文字通りの意味で、諸葛亮たちにとって宝の山だった。あの諸葛亮と鳳統が、寝る間も惜しみ、軍務に支障を来たしてしまうほどの、価値あるものだったのである。


 

 実を言えば、そのあたりのことは玄徳様たちはもちろん、おれも承知していたので、あえて諸葛亮たちの邪魔をせず、その負担を減らすためにこっそり作業を進めようとしていたのである。
 少しの間くらい、2人の代わりを務めてみせようくらいに思っていたのだが……
「ここまで手間のかかるものだとは思っていなかったなあ。やっぱり、孔明たちは凄かったんだな」
 特に諸葛亮である。普段、諸葛亮がぱぱっと軍務の片手間で処理してしまうような作業も、いざ自分がやってみると、これがまあ、複雑なこと。とてもじゃないが、片手間で済ませられるようなものではなかった。
 さすがは伏竜 諸葛亮。その政務における実行力の代わりが、たとえ一時であれ、務まると考えるなど、おれも随分と思いあがっていたものだあははは……はぁ。


「あ、あのあの、北郷様も十分に手なれていらっしゃると思いますよ。ただ、孔明様と士元様、あのお2人と比べて遜色のない人なんて、お城にもいないと思います」
 自分の思いあがりを自覚し、へこんでいるおれを見て、王修が握り拳を振り回して、力説してくれた。
 すぐにはっと我に返って、自分の行動に赤面するあたり、実に心の琴線に触れてくる子である。
 そして、自分より年下の子に、そんな気遣いさせた挙句、なおも落ち込んでいるなど、それこそ男子の沽券に関わるというものだ。
「そうだな。よし、それじゃあ」
 おれは両手で頬を強めにたたくと、気を取り直して、輜重の把握を続行する。
「叔治殿はあっちを頼む。そろそろ、武具の方も補充しとかないとまずいだろうしな」
「はい、わかりました!」
 おれの言葉に、元気良く返事をして、王修が奥の方に消えていく。
 感謝の眼差しで、その後姿を見送ると、おれは目の前に山と詰まれた物資に向けて、気持ちを切り替えた。


◆◆


 このままで行けば十日。節約すれば半月。将兵からの非難を覚悟で切り詰めれば一ヵ月。
 それが、おれたちが調べ上げた劉家軍の現状だった。
 これは、おれがひそかに予想していたよりも、かなり厳しい状況であった。
 劉家軍の兵力は3千。これまでのように、各地を転戦しながら、軍を動かすのはむずかしいと考えざるをえなかった。


 もっとも、それは玄徳様はじめ、他の人たちも十分に承知していた。
 劉家軍は、確固たる地盤を得なければならない時期にさしかかっているのである。
 とはいえ、ではどこに本拠地を据えるのかとなると、議論は百出して、容易に結論を出すことが出来なかった。
 今のご時世、豊かな土地には、必ず相応の人物が腰を据えている。かといって、貧しい土地に根を下ろしても、先のことを考えれば、行き詰ることは必至である。
 であれば、それこそ力づくで豊かな土地を奪い取るしかなくなるわけだが――
「それは駄目だよ」
 とは、玄徳様の言葉である。
 これは何も玄徳様の正義心ゆえの否定ではない。もちろんそれもないわけではないが、相手が黄巾党でもないかぎり、武力で土地を奪い取れば、周辺の諸侯から敵視され、既存の勢力の包囲下に没してしまう危険が大きい。どれだけ優れた将が揃っていても、劉家軍の兵力は多寡が知れているのである。


 もっとも、兵力の不足を補う頭脳も揃っている劉家軍であれば、他勢力を力づくで併呑していくことは、決して不可能ではないかもしれない。
 だが、その果てに巨大な勢力となり、天下を取れたとしても――そこに、玄徳様の望む未来は、おそらくないだろう。
 力を以って、力を制す。
 それは覇道に他ならず、その果ての征服に意味を見出せないからこそ、玄徳様はこれまで自分の道を歩いてこられたのだから。


 それは、乱世にあって、甘いとしか言えない考えなのだろうと、おれは思う。玄徳様を否定することは、おそらく誰にでも出来ること。
 けれど、乱世であっても――否、乱世であるからこそ、その甘さを尊いと思う人もいるのである。今、この地に立っている人たちのように。
 そんな主君と、そんな臣下が集まって作られた劉家軍。
 欲望うずまく乱世の奔流の中、ゆるやかに、しかし確実にその規模を大きくしていく劉家軍。
 それは、多分、この時代にあってなお、驚嘆に値する奇跡なのではないだろうか。


 そして、そんな奇跡を目の当たりにすれば、天とて祝福の1つも示したくなるのかもしれない。
 徐州からの使者が到着したと聞いたとき、おれはそんなことを考えていた。



◆◆



 徐州で暴れる野盗を討伐するため、劉家軍の力をお借りしたい。
 孫乾と糜竺、2人の使者によってもたらされた陶謙の依頼に対し、関羽を筆頭に、劉家軍の諸将の顔は厳しいものが多かった。
 その理由が何処にあるのかは明らかであろう。顔をしかめる将帥の大半は、洛陽において、陶謙ならびにその息子たちと顔を合わせている者たちなのである。
 そして、それは孫乾も糜竺も了承するところだった。


 2人は口を極めて、洛陽での無礼を侘び、徐州の窮状を訴え、劉家軍の来援を請うたのである。
 その論旨は揺らぎを見せず、彼らが口先だけのごまかしを言っているわけではないことは、おれにもわかった。それはおそらく関羽らも同様だったのだろう。表情が幾分柔らかくなったように見える。
 それに、ここで陶謙の誘いをつっぱねたところで、劉家軍に行き先があるわけではないのだ。
 一度、2人の使者に下がってもらい、劉家軍の面々が徐州行きの可否を話し合うことにしたのだが、明確な反対を唱える者はいなかった。



 もっとも、だからといって、はいわかりました、と気軽に了承するわけにもいかない。
 問題点を口にしたのは諸葛亮だった。
「問題は、野盗を退治した後のことですね」
 孫乾らによれば、琅邪郡を襲っている野盗は、おそらく青州黄巾党の残党であろうとのことだから、油断は禁物である。
 だが、今の劉家軍の力を以ってすれば、1千そこそこの賊徒など脅威ではない。
 諸葛亮は、賊徒を退治した後にこそ、注意が必要である、と言う。
「おそらくですが、陶太守は劉家軍を徐州に迎え入れるつもりだと思います。さきほど、孫乾さんと糜竺さんも、そのことを匂わせていましたし」
「ふむ。確かに、洛陽でも陶謙殿は、そのことを口にされていたな」
 諸葛亮の言葉に、関羽が過日のことを思い出しながら、小さく頷いた。
「はい。1千程度の賊軍の横暴を許すとなれば、徐州の将軍の質も想像がつきます。兌州の曹操さんと呂布さんの戦いの帰趨次第では、徐州にも戦火が及ぶ可能性は高い。陶太守にしてみれば、劉家軍の武力は、咽喉から手が出るほどに欲しい筈です」
「――なるほど。それは私たちにとっても僥倖、と言いたいところだが」
 諸葛亮の言わんとしていることを察して、関羽は表情に苦いものを浮かべた。
 当然、あの兄弟のことを思い出しているのだろう。



 不意に、とんとん、と肩を突っつかれたおれが、突付かれた方向を見やると、そこには首を傾げた玄徳様がいた。
「ねえねえ、一刀さん。えーと、何か問題あるのかな?」
 小声で聞いてくるあたり、関羽に「そんなこともわからないのですか!」と叱られるのを避けたいのだろう。
 ……しかし、玄徳様はこっそり聞いているつもりらしいが、周りから見れば目立ちまくりである。まあ、主君なんだし、当然といえば当然なんだけど。
「ありますねえ、問題」
「ええ?! だって、徐州の人たちを守ってあげられる上に、陶太守に認めてもらえるんでしょう。良いこと尽くめだと思うんだけど?」
 目を丸くする玄徳様に、おれは頬を掻く。
「ほら、玄徳様、洛陽で陶太守の息子どもに、失礼なこと言われたでしょ」
「……えーと?」
「忘れてるよ、この人」
 可愛く小首を傾げる玄徳様に、思わずため息を吐くおれ。
 洛陽で、陶謙のばか息子どもに求婚――というか、側妾になれと言われた事は、玄徳様にとっては大したことではないようだった。


「あ、ああ! そういえば、そんなこと言われたっけ」
 ぽんと手を叩く玄徳様。どうやら、冗談ぬきで忘れていたらしい。
 側妾になれ、などと言われたことがない(当たり前だが)おれには実感はわかないのだが、随分と失礼な言い草に思える。それでも、やはり太守の息子からともなると、案外、光栄なことだったりするのだろうか?
 その疑問の答えは、玄徳様ではなく、別のところからやってきた。
「ばか者、失礼千万な言い草に決まっておろう。相手が誰であろうと関係あるものか」
 小声で言った筈なのだが、しっかり聞かれていたらしい。関羽が不機嫌そうに口を挟んでくる。
 いつのまにか、関羽と諸葛亮の話は終わっており、おれと玄徳様に注目が集まっていた。
「や、やっぱりそうですよね」
 おれは慌てて、何度も頷いてごまかした。
 関羽が激昂して青龍刀を突きつけたくらいだし、やっぱり無礼な申し出だったのだろう。


 だが、ここでもう1人、会話に参加してきた者がいた。
「いや、一概にそうとばかりは言えまい」
 それを聞いた関羽の眉がぴくりと動き、発言者に鋭い視線を向ける。
「子竜殿、それはどういう意味か?」
「言葉どおりの意味だよ。士大夫の多くが側妾を持っているこの時世で、貴公の言う言葉は、少々感情的に過ぎるのではないかな」
 その趙雲の言葉に、関羽は不快そうな顔になる。
「貴殿は陶太守の子息を知らぬ筈。あれらを見て、同じことが言えるものか」
「そうではない。一刀が言ったのは『側妾になれ』という問いが礼を失しているか否かであろう。その息子どもの為人は、関係あるまい」
「あれら以外の口から出たとしても同じだ。れっきとした将に向かって言うべき言葉ではなかろう。それとも、貴公はそのような申し出をされても気にせぬというのか?」
「はっはっは。面白いことを言う。そのような輩、もし我が前に現れたならば、即座に龍牙で胸板を貫いてくれるに決まっておろう」
 にこやかに笑いながら、物騒なことを口にする趙雲。
 それを聞いて、関羽は気の抜けたような顔をする。
「なんだ、では私と同じ考えということではないか」
「うむ。そも、貴公の言葉を否定した覚えはないぞ」
 軽く肩をすくめ、趙雲は「ただ、な」と言葉を続けた。
「側妾の誘いを無礼と感じるは、我らのように、文武で世に出た者であればこそ。世の女性の大半はそうではない。か弱く、たおやかで、他者によって守ってもらわなければならない存在だ。そして、それは別に悪いことではない。好きな者と添うて子をなし、育むは、天が女子に与えた崇高な役割であろう」
 もっとも、愛する者と添える者は、決して多くはないだろうが、と趙雲はどこか寂しげに付け加えた。




 この時代、自由な恋愛が許されるのは、庶民の、それも貧しい者たちくらいである。身分が高いほど、嫁ぐ先は親によって決められてしまい、それを拒絶すれば、婦徳に背くと言われ、世間に顔向けできなくなってしまう。
 それはある程度の財産を持った庶民でも同じことであり、更に言えば、貧しい家に生まれたとしても、秀でた容姿を持った女性は、貧困から抜け出すために、親や家族、あるいは一族によって将来を決せられることは珍しくないのである。そして、それを当然のことと考えている女性は決して少数派ではない。
 趙雲は言う。
 そういう者たちにとって、太守の跡継ぎから側妾に望まれることは、決して忌避すべきことではなく、むしろ、喜ばしいと感じられることだろう、と。
 その趙雲の言葉には、関羽も反論することが出来ず、言葉を詰まらせてしまう。
 関羽のみならず、この場に集った者たちもまた、異論を口にしようとはしなかった。
 男が女を選べるほどには、女は男を選べない。良し悪しはともかく、それが中華帝国に生きる者たちの在りかたなのである。




 誰も口を開く者がない会議の場において、趙雲はおれの方を振り返って、口を開いた。
「ゆえに、一刀よ」
「はい?」
「雲長殿の言葉を鵜呑みにして、おのが『こうきゅう』をつくってみせるという大志、捨て去る必要はないぞ」
「……………………はい?」
 趙雲の口にした言葉が、すぐに漢字に変換できなかったおれは、頭の中で「こうきゅう」という文字を検索する。
 高級、恒久、硬球、公休……どれも意味が通じない。はて?

 
「女は英雄に惹かれるもの。そして英雄は色を好むものだ。したが、気をつけよ。英雄は色を好むが、色を好むから英雄というわけではない。『こうきゅう』の女子、すべてを満たせるだけの器量と甲斐性を持つのは、なかなかに大変なことだぞ」
 その趙雲の言葉を聞いて、さすがにおれも気がついた。
 なるほど、こうきゅう=後宮ね。皇帝に奉仕する女性たちの宮殿。いわゆるハーレムって奴ですか。うむ、ハーレムは男の夢だあね。




 ………………あれ?




「――ッ? ちょ、ちょ、趙将軍?!」
 周囲からの、それはそれは冷たい眼差しに囲まれ、ようやく今の状況に気がついた。
 いつのまにか、後宮建設がおれの夢になっているッ?!
「む、まずは私からか。ふむ、しかし、今の一刀では、まだ私と並び立つには少々、線が細いな。もう少し骨太な男になってもらわねば、誘いには応じられん」
「誰が後宮に誘っているかッ?! いきなりわけのわからんことを言い出すのはやめてくださいよッ!!」
「なに、恥じることはない。後宮は男の夢というではないか」
「真顔で返答しないで?! 後宮つくろうなんて思ってませんから、おれは!」


 そんな、おれの悲鳴じみた声に、趙雲は何故か恥らうように顔を俯かせた。
 今更ではあるが、趙雲はとても美人である。容姿だけのことではない。色気があると言おうか、艶があると言おうか、女性としての芳香が薫るような魅力があるのだ。
 そんな趙雲が、急に少女のような恥じらいを示したので、おれは思わず息をのんでしまった。
 ――まあ、冷静に考えれば、何か魂胆があるに決まっていたのだが、そんな警戒をしようとする心ごと見蕩れてしまったのである。
「後宮は要らぬ。されど私は欲する、か。そこまで本気の申し出であれば、さきほどの件、少し真剣に考えてみよ――」
「だから何で告白したことになってるんですかッ!!」
 趙雲の言葉が終わらないうちに、再度、おれの悲鳴が部屋中に響き渡った。


 だが、それに対して周囲から返って来たのは、さきほどよりも更に温度が低下した極寒の視線である。一部、同情したような視線もあったが、その人たちも助け舟を出してくれる気はなさそうである。最初から期待はしていませんけどね、ええ。
「ねーねー、一刀」
「……なんですか、伯姫さま。現在、大変な状況につき、出来れば後でお願いしたいのですが」
 話しかけてきた張角にそう言い返したが、いつものごとく、張角は聞いちゃいなかった。
「一刀が後宮つくったら、皇后は玄徳ちゃんに譲らないといけないけど、貴妃の座は私がもらうからね♪」
『ぶッ?!』
 同時に吹き出すおれと玄徳様。
 ちなみに、貴妃とは後宮において、皇后に次ぐ位である四夫人の1つである――などど解説してる場合ではなかった!


 いきなり皇后にされた玄徳様は、ぽかんと口を開けているだけだが(多分、呆れかえっているのだろう)周囲からの視線の温度は低下の一途を辿っている。このままいけば、絶対零度も夢ではないかもしれない。
 おれがそんなことを考えていると、諸悪の根源が、なおも口を開いた。
「ほほう、では私は賢妃(貴妃と同位)の位をもらうことにしようか」
「まだ言いますか、あなたは?! あとついさっき、誘いには応じられんとか言ってませんでした?!」
「なんだ、やはり後宮に誘っているつもりだったのではないか」
「ちがわいッ!」
 そう言った後、おれは思わず趙雲に向かって内心を吐露してしまった。


「大体、自分ひとりの面倒もみられていないんです。後宮どころか、恋人の1人だってつくれるわけないでしょうが! それ以前に、んなおれに惹かれる奇特な女性がいるわけないですけどね!」





 奇妙な静寂がたちこめた、と思った瞬間だった。
 不意に。
 ガタン、と荒々しい音と共に椅子から立ち上がる関羽の姿が、視界に映った。
 反射的に、おれの身体がビクッと震える。どっかの犬みたいである。
 また青龍刀の一撃が飛んでくるか、と覚悟したおれの耳に、どこか平坦な関羽の声が届いた。
「桃香様」
「……ふえ?! あ、な、何、愛紗ちゃん?」
「そろそろ陶謙殿の使者も待ちくたびれている頃でしょう。急いで結果をお伝えしなければ」
「う、うん、わかった――って、あれ。結果って出てたっけ?」
 首を傾げる玄徳様だったが、関羽はその玄徳様の手を引っ張って、ずんずんと先に進んでいってしまう。
「あ、愛紗ちゃん、ちょっと痛……あ、いえ何でもないですー……」
 関羽に引きずられ、玄徳様は口を開きかけたのだが、無言で歩を進める関羽に、何か感じるところがあったのだろう。慌てたように口を閉ざし、そのまま部屋から出て行ってしまった。


「――では、会議は半刻の休憩をはさんで、再開することにしましょう」
 主君と、その腹心が姿を消してしまった会議の席で、議長役の諸葛亮が、奇妙に平坦な声でそう告げる。その口調が、どこかさきほどの関羽と似てる気がするのは、多分、気のせいであろう。うん。
 その声に救われたように部屋から退出していく男が数人――田豫よ、お前もか。
 そして、なんとも言いがたい視線を投げかけて、次々と部屋から出て行く劉家軍の面々。
 気がつけば、がらんとした会議場に、おれは独り、佇んでいた。
 いや、正確には1人ではなく――


「――かくて、北郷一刀の後宮計画は、波乱の幕開けとなったのである――待て次回」
「この空気を続かせる気か、あんたはああああッ?!!」


 わざとらしく柱の影に隠れ、ナレーションをいれる趙雲を怒鳴りつけながら、おれは本気で泣きそうになるのであった。




 
 この後、なんとか再開した会議で、劉家軍の徐州行きが決定した。
 使者である孫乾と糜竺は、その決定に喜ぶべき立場であったが、劉家軍の奇妙な迫力を前に、額の汗を隠すのに精一杯であったらしい。
 らしい、というのは、この時、おれは乗馬の訓練に勤しんでいた為、その場にいることが出来なかったからである。
 ……まあ、尻尾を巻いて逃げ出したともいうが。
「しかし、何か悪いことしたっけか、おれ?」
 ようやく並足が出来るようになった馬の背に揺られながら、おれはそんなことを呟き、憂鬱なため息を吐くしかなかった。
「ヒヒンッ」
 そして、そんなおれを見て、馬が笑ったような気がしたのだが――これはさすがに被害妄想も度が過ぎるかもしれんかった。 



◆◆




 その夜。
 劉家郡の陣営全体が、翌日の徐州への移動に備えて慌しくなっていた。
 その騒がしさから逃れるように、趙雲は独り、陣営から離れ、遮るものとてない平原の只中で、ゆっくりと杯を傾ける。
 初夏の薫風が趙雲の髪を撫でていく。その上空では、星々がさんざめき、見事な光の饗宴を催していた。
 しばし、趙雲は声もなく、その輝きに魅入っていたが、背後から近づいてくる足音に気づき、無粋な侵入者を咎める視線を、現れた人物に向けた。
 その視線を受け、侵入者は真っ先に謝罪の言葉を口にした。
「――お楽しみのところ、ごめんなさいね」
「まったくだ――と言いたいところだが、独りで飲むのも飽いてきたところ。おぬしもどうだ、貂蝉?」
「あら、いいのかしら」
 そう言いつつも、貂蝉は素早く趙雲から酒盃を受け取り、一息に呷った。
「ふむ、良いのみっぷりだな」
「ふふ、お酒は人生の伴侶だもの。気持ちよく飲んであげないと、お酒にも失礼でしょう」
「同感だな」
 そう言って、二人はしばし無言で杯を空けていった。


 やがて、趙雲が目元をほんのりと赤くさせながら、貂蝉に話を向けた。
「――で、何か言いたいことがあって来たのではないのか、踊り子殿?」
「あらやだ。わかってた?」
「大方はな――おぬしの主のことだろう?」
 貂蝉が「ご主人様」と呼ぶ人間は、劉家軍の中でも一人だけだ。
 貂蝉はいかつい顔に精悍な笑みを浮かべ――もとい、繊細な顔に優しげな笑みを浮かべて頷いた。
「何故あんな火種をまくようなことを、と非難しに来たか?」
「いいえ、その逆よ。あなたにお礼を、とそう思って来たの」
「ふふ、これは異なことを。下手をすれば、軍内の不和ともなりかねないことに、礼を言うとは」
 趙雲の言葉に、貂蝉は口許に手をあてて、笑いをこらえた。
「あの程度のことを根に持つような狭量な人は、この軍にはいないでしょう。けれど、今の状態を引き伸ばしてしまえば、その限りではなくなる。あなたも、それがわかっているからこそ、早めに浮き彫りにしておこうと思ったのでしょう――ご主人様の、異質さを」


 少しの間、2人の間に静寂がたゆたう。
 趙雲は、軽くなった酒瓶を惜しむように、ゆっくりと杯に酒を注いだ。
 そして、それを二口ほど含んでから、一語一語確かめるように口を開く。
「あれは、危ういな」
 あれ――が何を指すのか、貂蝉にはすぐにわかったのだろう。同調するように、ゆっくりと頷く。
「ええ。机の端に置かれた陶器のように。あるいは、猫のすぐそばで囀る小鳥のように」
「己がどこにいるのか、わかっているつもりのようだが、まるでわかっておらん。自分が何から逃げているのかもわからぬままに、乱世に食い込んでしまっている。雲長たちは、まだ気づいておらんようだがな」
「玄徳ちゃんや雲長ちゃんみたいに、まっすぐな子たちだと、なかなか影までは見えないかもしれないわね。ご主人様自身も、はっきりと自覚してないんだから、なおさら気づきにくいでしょう」
 貂蝉は、趙雲にならうように、酒盃を満たす。
 しかし、それを口に含もうとはせず、上空に広がる星々に視線を向けた。


「ご主人様にとって、この世界は物語のようなもの。玄徳ちゃんや雲長ちゃんは、こうして見上げる星々の1つなのかもしれないわね。辛い目に遭い、苦しい時を経て、現実を受け容れたつもりではあるのでしょうけど、根元のところにあるその認識が変わらない限り、ご主人様はいつも空の彼方に仲間を見続けていることになる。本当は、すぐ隣に立っているのに、そのことに気づくことさえ出来ないままで」
 貂蝉の言葉に、趙雲は呟くように囁いた。
「天上の星々に比すれば、己のなしたこと、もたらしたことに、価値など見出せまいな。そなたの言葉、言いえて妙であるかもしれん」
 それにしても、と趙雲は言葉を続ける。
「物語、か。我らが春秋戦国の世や、漢楚争覇戦の話を聞くようなものなのかな。東夷は、よほど平穏な場所であるらしい――戻れるものならば、戻った方が、一刀にとっては幸せなのだろうが……」
 そんな簡単な話ではないのだろうな、と趙雲は目を細めて、貂蝉を見た。


「それは私がどうこう出来る問題じゃあないわね」
 趙雲の視線に、貂蝉は肩をすくめることで応えた。
「ふふ、まあ、そういうことにしておこうか。いずれにせよ、一刀の目が空ばかり向いている以上、中華の大地に立つ者たちの姿は、一刀の目に映らぬ道理。感謝であれ、思慕であれ、あるいは憎しみであれ、一刀に届くことはない。先の一刀の言葉は、はからずも、それを皆に知らしめたわけだ」
「『はからずも』という言葉には、少々疑問が入る余地があるわねん。けれど、部下思いの将軍様を持ったことにも、ご主人様は気づいていないでしょう。もったいないわ」
「さて、なんのことかな」
 趙雲はわざとらしく目を丸くすると、貂蝉と同じように空に目を向けた。




 2人のおとめたちは、それ以上、言葉を重ねようとはしなかった。
 言ったとて詮無いことだというのは、2人ともわかっていたから。
 それは他人から教え諭されたところで、意味を持たないことなのだ。
 ただ、願わくば。
 貂蝉たちは考える。
 戦う覚悟がないゆえに、前線には出ず、しかし劉家軍には協力している1人の若者に対して。
 自ら手を下していない以上、己の手は血に汚れていないのだという考えが持つ欺瞞に、手遅れにならないうちに、気づいてほしいものだ、と。




◆◆

  


 兌州東郡 濮陽城。
 張超率いる陳留勢と、鍾遙率いる濮陽勢の戦闘は、激化の一途を辿っていた。
 元々、濮陽城は要害と言えるだけの規模はなく、両軍の兵力も懸絶しているとあって、勝敗は短期間でつくものだと考えられていた。
 だが、守備兵は城壁を支えとして、津波にように押し寄せる兵士たちと粘り強く渡り合い、数度に渡る攻勢を、ことどごとく撃退することに成功していた。
 そして、その功績のほとんどが、卓越した状況判断を下に、巧みな指揮をとる2人の軍師によるものだということは、濮陽城内の誰もが認めるところであった。


「ふはは、まったく、わしの出る幕はないのう」
 私室で横になりながら、鍾遙は大声で笑う。その途端、顔をしかめたのは、いまだ癒えない腰痛のせいであろう。
「しかし、軍師殿たちは、いやに防戦の指揮に手馴れているように見えるが?」
 その質問に、程立が胸を張って答えた。
「ふふふ、防戦の経験で言えば、今の風たちを凌げる人は、ちょっといないのですよ?」
「それは少し言いすぎですが、経験があることは事実ですので、元常殿もお心安くいらしてください」
「ふむ。年端もいかぬ乙女が防衛戦の経験が豊富とはのう。まったく、なんと嘆かわしい世になってしもうたことか」
 深々とため息を吐く鍾遙であったが、すぐに思い直したように首を振る。
 今は、年寄りじみた愚痴を言っている場合ではない。
 程立と郭嘉の手並みは、もはや疑うべくもないが、それでも濮陽城の主は鍾遙であり、城主として、城の防備が薄い箇所も知悉していたのである。


 戦の状況を郭嘉たちから聞いている鍾遙が、もっともに気にしているのが、敵の攻撃が主に南と西の方角から行われているということであった。
 実のところ、濮陽城の北東付近の防備には綻びがある。
 濮陽城を囲む堀の水は、北の黄河から引かれているのだが、先年、黄河が氾濫を起こした折、大量の土砂が押し寄せ、堀を埋め尽くしてしまったのである。
 当然、鍾遙は堆積物を取り除く作業を行ってきたが、堆積物の量は、堀がほとんど埋め立てられてしまうほどであり、それを取り除くのは大変な労力を必要とした。
 それでも、鍾遙の指揮の下、現在では何とか旧に復しているのだが、ただ一箇所、北東部分に関しては、いまだ完全に土砂が除ききれてはおらず、堀を越えて城壁に押し寄せることが容易なのである。


 その程度の確認を、張超が行っていないとは思えない。にも関わらず、敵の攻撃は西と南に重点が置かれている。鍾遙はそれを案じたのである。
「つまりじゃ。敵はおそらく、ぎげ――ふぐ?」
 敵の狙いを口にしようとした途端、程立がさりげない様子で、鍾遙の口を塞ぐ。
 突然のことに、鍾遙は目を白黒させるが、2人の軍師が、同時に唇に人差し指を立てたのを見て、2人の計略を察した。
 考えてみれば、郭嘉らが、城の内外の様子を調べない筈はなく、防備の綻びに気づいていない筈もない。
 それに気づいた鍾遙は、これは本当に自分の出番はないようだ、と悟ったのである。


 鍾遙は、裏切り者に鉄槌を下す役割の一端を担えないことを残念に思ったが、同時に、これだけの人物が、今、この時、濮陽城にいてくれる幸運に感謝した。
 自らのためではなく。
 主である曹孟徳のために。


◆◆


 濮陽城外に展開する陳留勢の本陣では、張超が不機嫌を隠せずにいた。
 その理由は、敵に十倍する戦力を以って攻め立てているというのに、濮陽の城を陥とせずにいるということが1つ。
 もう1つは、目の前に立つちび軍師の言動が気に入らなかったのである。
 そのちび軍師――陳宮は、胸をそらして張超に向けて口を開いた。
「では、お約束の三日が過ぎたので、我ら呂軍も参戦させていただきますぞ」
「――承知している。ここ数日の攻勢で、敵は南と西に向けて防備を固めていよう。東から城を抜くは容易いことであろうぞ」
 張超が面白くなさそうに返答すると、陳宮は鼻をならすように笑った。
「確か、あのような小城を陥とすには、三日も要らぬ、と申されておった気がするのですが、まあ気のせいだったのでしょう。いずれにせよ、心配はいりませぬぞ。天下に名高き飛将軍 呂奉先の力、貴殿にお見せいたしましょう」
 もっとも、見せるまでもなく、ご存知でしょうが、と陳宮は胸をそらして、主の武勇を誇るのだった。





 この会話に先立つこと数日前。
 張超と呂布は一つの約束事をかわした。呂布が張超麾下から離脱し、独立した行動をとることについての約束事である。


 ――陳留城外で曹操軍主力を撃退し、続く兌州攻略戦においては電撃的に各地の城砦を抜き、たちまちのうちに兌州から曹操の旗を駆逐していった呂布の武勇は、天下に隠れないものだ。
 張超は、形式上、呂布の上に立っているのだが、それは呂布が張超に臣従したわけではなく、あくまで奸臣曹操追討の旗頭として、張超が立っているからに過ぎない。それとて、本来、立つべきは張超の姉の張莫なのである。
 それらを踏まえ、曹操を撃退したすぐ後から、呂布の軍は張超の指揮下から離れる気配を見せていたのだが、これまではあくまで水面下での準備にとどまっていた。
 当初、呂布の直属部隊は1千に満たず、その兵の多くは張超に属する兵士であり、独立するほどの武力を持たなかった為である。
 だが、勝報が重なるにつれ、呂布の下に参じる兵士たちは増加の一途を辿り、兌州の諸侯の中からも、呂布を主と仰ぐ者たちが出始めたことが、事態を加速させた。
 そして、陳留の戦いから少し後。呂布側から、張超に向けて、こんな提案がなされたのである。


 濮陽の城を陥落させた暁には、そこを呂布軍の本拠としたい。


 呂布側からの申し出は、上位者に対する依頼や要請ではない。対等な立場にいる者への要求という形をとっていた。
 当然ながら、呂布からの要求は、張超にとって不快であり、また認めがたいことであった。
 呂布は、あくまで張家の矛として用いるべきであり、張超は、呂布を城主として固有の武力を持たせるつもりなど微塵もなかった。
 だが、要求を突っぱねれば、呂布が張家の麾下から離脱する可能性が高かった。それどころか、張超に対して矛を向けてくる可能性すらある。
 もし、呂布がその行動に出れば、陳留勢のみならず、朝廷へも叛旗を翻すことになるのだが、あらかじめ李儒を抱き込んでおけば、朝廷への対応は可能である、と張超は見ていた。
 李儒にしても、旗頭が張莫であるより、呂布である方が何かと都合が良いであろう。まして、張超と呂布では、比べるべくもない。そのことは、張超自身、苦みと共に自覚するところであった。
 それゆえ、張超は呂布の要求を呑むしかなかったのである。


 同時に、張超には一つの計算があった。
 兵力が増えたといっても、呂布軍はいまだ5千程度であり、単独で濮陽城を陥落させることは難しいだろう。いかに呂布の武が人の域を越えていようとも、城壁を砕くことは出来まい。
 呂布軍が攻めあぐねたところを、陳留勢がそれに乗じて城を陥落させてしまえば、呂布の面目は丸つぶれであり、濮陽城を明け渡せ、などと言うことは出来なくなるに違いない。張超はそう考えたのである。
 

 だが、その張超の考えを、呂布の軍師である陳宮は見抜いていた。
 陳宮は呂布の力を信じている。孤軍で濮陽の城を陥とすことさえ、不可能ではない、と。
 だが、たとえ陥とせたとしても、軍の被害も大きくなってしまうことは疑いない。今、呂布の下に集った兵力は、これからの呂布軍の中核となるべき者たちである。陳宮としては、出来るかぎり温存したかった。
 それゆえ、陳宮はここで一つの策をほどこす。
 張超が、呂布を何とか麾下にとどめたいと考えていることを逆手に取り、張超が内心で行っていた計算を、堂々とこちらから持ち出したのだ。
 すなわち、濮陽城を、呂布自身の手で陥とすことが出来たら城をもらう。
 ただし、張超たちが先に城を陥とせば、今後も麾下に留まるという、それは申し出であった。


 ただし、張超の計算とは異なる点が一点だけあった。
 最初に城を攻めるのが、張超である、という点である。
 陳宮が提示した期間は3日間。 
 3日以内に濮陽城を陥落させることが出来れば、呂布軍は張超の武力を認め、今後もその麾下に留まる。しかし、3日経っても城が健在であった場合、呂布軍は独自の軍略にもとづいて行動を開始する。なお、このことについては、李儒を通じて朝廷の許可も得ている、と陳宮は切り出したのであった。


 この陳宮の言によって、張超はようやく呂布軍がすでに水面下で激しく動いていたことを悟る。
 軍師である陳宮は、呂布の独立のために、すでに様々な手を打っており、それは確実に効果をあげつつあったのである。
 張超は、陳宮を侮っていたことを悔いたが、すでに時遅し。
 ここまでお膳立てを整えられてしまえば、舞台から降りることは出来ない。陳宮の提案を断ることは、4万の軍を率いて、濮陽の城ひとつ、3日で陥落させることが出来ないと認めるに等しい。少なくとも、陳宮はそう考え、その情報を活用しようとするだろう。
 兵士に流すにせよ、朝廷に流すにせよ、それは張超にとって致命的な事態となりかねない。両軍の戦力差を理由に、防備の固い西と南をあてがわれたことにさえ、苦情を言うことは出来なかった。
 選択の余地は、すでになかったのである。



 かくて、濮陽を攻めるにあたって、呂布軍は後方に引き下がることとなった。
 事ここにいたって、張超の腹心である臧洪は、ようやく呂布の思惑を察した。
 臧洪は、張超と張莫が幼い頃からの側役である。
 壮年の男性であり、文武に通じている人物だが、どちらかといえば正道の人であり、策略、詭計といった方面には疎い。
 それゆえ、兌州攻略では着実な成果を出すことが出来たのだが、呂布軍の――正確に言えば、陳宮の暗躍を見抜くことは出来なかったのである。


 おそまきながら、陳宮の策に気づいた臧洪は、主君に向かって口を開く。
「濮陽城は、東側に防備の隙があり申す。呂将軍は、ここを衝くために、我らを囮とする心算でありましょう。兵法に言うところの『偽撃転殺の計』にございまする」
「今更気づいたとて遅いわ、愚か者!」
 甲高い声と共に、張超が持っていた酒盃を臧洪の顔に投げつける。
 陶製の酒盃は、臧洪の額に当たって割れ砕け、そこから一筋の血が、臧洪の顔を縦に流れていく。
 だが、臧洪は顔色一つ変えず、張超に向かって平伏し、己が不明を詫びた。
「まこと、申し訳のしようもございませぬ。さりながら、呂将軍――いえ、公台殿の策を未然に封じる手立てはありもうす」
 その臧洪の言葉に、張超は憤然と頷いた。
「わかっている。期日のうちに、城を陥とせば良いのだろう。そのようなこと、おまえに言われるまでもない」
「御意。では、時間を無駄にすることはありませぬ。それがしにお命じ下されませ。必ずや、張家の矛となって、濮陽の城門を貫き通してみせましょう」
「出来るか?」
「出来まする。濮陽城の鍾遙殿は文武に練達した侮れぬ方ではありますが、城に拠っているにせよ、これだけの兵力を間断なくぶつけられれば、いかんともしがたいでしょう。お任せくださいませ。自らの武におごる呂布殿らに、我ら張家の武威、示してご覧に入れます」
「良し、征け、臧洪!」
「御意!」


 かくて、陳留軍は濮陽城に押し寄せることになった。
 先鋒となった臧洪は、この時、城を陥落させられるという確信があった。
 主君に口にしたように、臧洪は鍾遙の名声は聞き及んでいる。
 しかし、同時に鍾遙が老齢であること、配下にこれという人材がいないことも、情報として掴んでいたのだ。
 4万の軍勢をいくつかに分け、昼夜の別なく攻め立てれば、三日間で城を陥とすことは可能。
 臧洪はそう判断したのである。


 その判断は間違ってはいなかったであろう。もし、城を守るのが鍾遙1人であれば、たとえ腰痛の持病が起こらなかったとしても、濮陽城を守りきることは難しかったに違いない。
 だが、臧洪の――そして張超にとっての不運は、濮陽城を守る人材が、鍾遙1人ではなかったということであった。
 郭嘉と程立。
 後に、歴史に巨大な足跡を残す二人の軍師の参戦を知らない陳留勢は、攻め寄せる都度、痛烈な反撃を受けることになった。




 臧洪は間断なき攻勢によって、城を陥とそうとしていたが、兵力を利して力押しを行おうにも、城の周囲には黄河から引かれた水が満々と湛えられており、兵士たちの侵入を阻む。まずこの堀をなんとかしなければならなかった。
 まず臧洪は、兵車に浮き橋を積み、これをもって強引に堀を押し渡ろうとしたが、城壁上から放たれた火箭によって、積んでいた浮き橋も、運んでいた兵車も、たちまち焼き払われてしまった。
 続いて張超の案に従い、地下に穴を掘り、城壁の下を通って城内に出ようとしたのだが、これは堀の深さを見誤ったことにより、堀の水が地下通路にもれ出て、逆に兵士がおぼれてしまう始末であった。
 臧洪は、失策に激怒する張超をなだめつつ、この上は正攻法に拠るしかないと決意し、犠牲を無視して、強硬に城壁に押し寄せていった。
 4万の兵士が1人ずつ土嚢を堀に放り込めば、どれだけ深い堀であろうと、埋めてしまうことは可能である。当然、城側が黙ってそれを見ているはずもなく、雨のように矢が降り注いできたが、張超軍は盾をかざしてこれを防ぎ、ひたすら堀を埋め立てていった。


 多くの被害を出しながら、ようやく堀を突破した軍勢は、勢い込んで濮陽の城壁に群がったのだが、次に彼らを待ち受けていたのは、城壁上から降り注ぐ巨石と、煮えたぎった油であった。
 巨石の下敷きになって、数十名の兵士が原型をとどめぬ骸となり、油によって火ダルマとなった兵士が、奇声をあげて堀に飛び込み、そして甲冑を着込んだままの兵士は、2度と浮かんではこなかった。
 あまりの被害に耐えかねた張超は、一度、軍を後退させようとする。
 だが、これには臧洪が反対した。
 臧洪は、たとえ被害が大きくなろうとも、ここは退かずに力押しすべき、と主張した。なるほど味方の被害は甚大であり、疲労もかなりのものであるが、兵力の少ない敵は、こちら以上に疲れている筈。ここで退けば、敵に猶予を与え、抗戦の力を回復させてしまうだろう。


 だが、その臧洪の意見を、張超は首を横に振って退けた。
 一つに、4万の軍勢といっても、その全てが張超の兵士というわけではない、という理由があった。
 4万の半ばほどは、兌州の諸侯が率いる兵士なのである。あまりに無理な攻撃は、彼らの不満を招き、最悪、呂布のように離脱する者まで出てしまうかもしれない。
 張超はそれを恐れたのである。
 くわえて、張超は城内の矢石の備蓄が、残り少ないのではないか、という予測もあった。元々、濮陽はさして大きな城ではなく、防戦のための蓄えは多くはないだろう、と考えたのである。
 臧洪は、鍾遙ともあろう者が、危急の際に備えぬ筈はない、と張超の楽観を戒めたのだが、結局、張超は軍を退き、休養をとることを決定してしまう。


 結果から言えば、この決断によって、張超は期限内に城を陥落させることが出来なくなってしまう。しかし、あるいは臧洪の策を採っていたとしても、結果は変わらなかったかもしれない。
 濮陽城の防備は、それだけ厚く高く、陳留勢の攻撃を堰き止め続けていたのであった。


◆◆


 濮陽城攻城戦4日目の夜。
 張超の不首尾を受け、呂布軍は後方から急進。城側に気づかれないように距離をとった上で、東側へ回り込むことに成功する。
 呂布の傍にあって、上空を見上げた高順は、ほっと安堵の息を吐く。
 これまで雲ひとつ出なかった天候は、日が落ちてから急激に崩れつつあり、星月の明かりは厚い雲によって閉ざされている。それは、呂布軍の姿が容易に発見できないことを意味した。


 だが、高順がそれを口にすると、同じく、呂布の傍らにいた陳宮がふふんと胸を張った。
「ねねが何のために3日と期限を区切ったと思っているのですか。すべて計算どおりなのです」
「え?! そ、そうだったんですか」
 陳宮の言葉に、高順は驚きの声をあげた。
「軍師たる者、地理と天文を見通して作戦を組み立てるは当然のこと。ねねを甘く見てもらっては困るのです!」
 そういう陳宮の姿に、高順は混じりけのない賛辞をおくる。
「さすがは公台様。わたし、天候のことまで気を配る余裕はありませんでした。お見事です!」
「はっはっは。恋殿の軍師として、これくらいは当然のことなのです!」
 陳宮は、城壁上の灯火によって、朧にかすむ濮陽城を彼方に望み、赤兎馬に乗る呂布を顧みる。
「さあ、恋殿、陳留の軍勢によって、敵の注意は西南に向いており、こちらがわへの備えは薄くなっておりまする。『偽撃転殺の計』は成りました! 時は満ちましたぞ、出陣の合図を!!」
 こくり、と呂布は頷くと、方天画戟を頭上で一閃させると、赤兎馬をさおだたせた。
「……突撃」
 弦から放たれた矢の如く、濮陽城に向けて突進を開始する呂布。
 そして、その背後には、5千を数える呂布軍が雄叫びと共に続いたのである。


 数はわずか5千とはいえ、濮陽城は西南方面からの攻勢に対処するため、他の部署の兵士を限界まで削らざるをえず、北東方面の守備は明らかに手薄であった。
 さらに、厚い雲に覆われ、闇に包まれた彼方から、雄叫びと共に軍勢が突っ込んでくるのだ。守備兵たちの動揺はいかほどのものか、想像にかたくない。
 すわ、新手かと驚き騒ぐ城壁上の兵士たちは、敵の陣頭に立つ深紅の呂旗を見て、悲鳴のような報告を行った。


「東方より、呂布来る」
 その報告を受けた郭嘉と程立は、顔を見合わせて頷き合うと、それぞれ別の場所へ向かって歩き出した。
 兌州の覇権を決定付けることになる『濮陽城攻防戦』は、ここに新たな段階を迎えようとしていた。






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/26 23:26



 濮陽城東方より、闇夜を裂いて現れた呂布軍の猛攻は、たちまち守備側を混乱させた。
 攻め寄せる呂布軍は、たかだか5千とはいえ、守備兵の大部分が西南方面の攻勢に備えているため、東側の守備兵は5百に満たない。
 東側の堀――鍾遙が案じていた、浚渫作業が終わっていない地点を突破し、たちまち城壁に迫った呂布軍は、城壁上から降ってくる石や、射掛けられる矢をものともせず、梯子をかけ、城壁によじ登ろうと群がった。
 同時に、一部の部隊を東側の城門に向かわせ、上げられていた橋に取り付いて、これを下ろすことに成功する。
 轟音と共に、橋が元の位置に戻ると、堀を渡らずに待機していた高順の部隊が、長大な破城槌を運び込み、これを城門に据えつけようとした。


 高順が破城槌をすえつけることに成功すれば、城門自体が破壊されてしまうだろう。
 当然、そうはさせじと城側も果敢に応戦した。
 城壁から幾十もの火箭が放たれ、破城槌を焼き尽くそうとする。
 しかし、どれだけの火矢を浴びせられても、破城槌が燃え上がることはなかった。陳宮はこの破城槌の外面に冷たい泥を塗りこめていたのである。
 城側がそれと悟った頃には、高順は破城槌の設置に成功していた。
 燃やせないのならば、物理的に打ち壊すのみ、とばかりに守備側は巨石を投じようとするが、城壁下からは、させじとばかりに雨のような矢が射込まれてくる。
 ことに呂布の弓は精妙を極め、一矢放つ都度、必ず城壁上では1人が倒れた。
 城壁に身を寄せれば、それをかわすことは可能であったが、それでは破城槌を阻止できない。
 さらには、城壁をよじのぼろうとしていた部隊は、数に任せて突破に成功しつつあり、すでに城壁上に幾人もの呂布軍の姿が見えていた。
 


 このまま行けば、じきに東門は破られる。
 敵味方の目に、それは明らかであった。
 そして。


 弾けるような轟音と共に、破城槌がついに城門の一部を砕くことに成功する。
 呂布軍からは歓声が。守備側からは悲鳴が、同時に沸き起こった。
「今です!」
 高順の合図と共に、城門に兵士たちが突入していく。
 壊れた隙間から、何名かの兵士が城内へと入り込み、城門を内側から開こうと試みる。
 当然、守備側はそれを防ごうと、応戦の構えを見せるが、最初は数名だった侵入者は、たちまちのうちに数十へと膨れ上がり、城門を開こうとする味方を援護する。
 その結果。
 まもなく、城門は軋むような甲高い音と共に、大きく左右に開け放たれていった。
 それを見た陳宮は勝利を確信し、全軍に突入の命令を下す。
「全軍、突撃するのです! 濮陽城を、我ら呂軍のものとするのですーッ!!」
「おおっしゃ、いくで、野郎ども!」
 軍師の命令に応じて、城外で待機していた最後の予備兵力を率い、張遼が猛然と突進し、城内に突入していく。
 城内に吸い込まれていく彼らの姿を見た陳宮は、これで勝った、と確信した。
「ふっふっふ。これで恋殿が天下を取る路が開いたのです。高順などに負けてなるものですか。恋殿、この陳宮、必ずや恋殿を天下人にしてみせますぞッ!!」
 




 これで勝った。
 東門近くに築かれた櫓の上で、押し寄せる呂布軍を見下ろしながら、郭嘉は心中で断定した。


 攻め手を鋭気を面に漲らせ、城内へと侵入して来ている。
 対する守備側は、これまで懸命に敵の攻勢を凌いできたものの、城門が破られたことで意気が阻喪してしまったようで、なだれをうって後退していく。
 城壁という障害物がなければ、敵味方の兵力比は圧倒的だ。まして敵は、天下に名高き飛将軍 呂奉先が率いる軍。
 濮陽城の命運は窮まった、と考えてもおかしくない状況で、しかし、郭嘉は微笑を浮かべていた。


「『偽撃転殺の計』に対するは『虚誘掩殺の計』――最早、あなたたちは私の掌の上で踊るのみです」


 郭嘉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、眼下の戦況に変化が生じた。
 呂布軍の先頭を駆けていた軍馬が、悲しげに嘶きながら、次々と倒れていったのだ。騎乗していた兵士たちは、突然の事態に馬上から投げ出される者が続出した。それでも、さすがに精鋭たる呂布軍の騎馬部隊というべきか、何人かの兵士は、咄嗟に馬体にしがみつくことで落馬を免れた。
 しかし、その彼らも、事態を把握できず、後方から突っ込んでくる味方に押し出されるように、次々と罠に踏み込まざるを得なくなっていった。


 罠といっても、それほど奇抜なものではない。
 城内への侵入路の各処には逆茂木が仕掛けられており、騎兵の通過と共に発動するようになっていたのである。
 逆茂木とは、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵のことだが、これは発動後も騎兵の侵入を防ぐ役割を果たすため、呂布軍の後続は混乱に陥った。
 そして。
 郭嘉が右手を一振りすると、それに応じて待機していた守備兵が次々と姿を現した。
 その数は2千。
 郭嘉は、星月の明かりが閉ざされた夜こそ、敵が仕掛けてくる時だと読んでおり、すでに兵力の展開を終えていたのである。





「ちぃッ! 読まれとったんか?!」
 張遼は四方から打ち込まれてくる矢を飛龍刀で払いのけながら、一度だけ強く舌打ちした。
 しかし、すぐに冷静さを取り戻すと、周囲の戦況を確かめる。
 罠にはまって混乱に陥ったところに集中的に矢石を浴びせられ、呂布軍は多大な出血を強いられているところだった。
 夜闇をついた奇襲攻撃が、完全に敵の思惑の中にあったことは、否定できない事実であるようだ。
 だがしかし。
 罠にはまって、居竦んでいたら、やられるだけである。
 張遼は吼えるように周囲の味方に呼びかける。
「死にとうなかったら、とっととこの場を駆け抜けるで! 敵の兵力が少ないんは確かなんや。罠なんか、気合で噛み破ったれ!」
 張遼の配下は董卓軍の頃から、張遼に付き従っている精鋭である。敗戦を経験したこともあり、兌州で軍に加わった寄せ集めの兵士たちよりも、危急時の胆力に優れていた。
 張遼の激語に応えて、各処から気合の声が沸き起こった。


 張遼の部隊を中心に、何とか混乱の場を突破しようと図る呂布軍であったが、郭嘉と程立によって仕掛けられた罠は、二重三重の構造を持っていた。
 ようやく逆茂木を仕掛けられた地点を突破したかに見えた張遼の部隊の騎兵が、悲鳴と共に横転した。その傍らを徒歩で駆けていた歩卒も、苦痛の叫びをあげて、その場でうずくまってしまう。
 何事か、と張遼が思う間もなく、同じような光景があちこちで繰り広げられていった。
「どないしたんッ?!」
 張遼の疑問に答えたのは、味方を助けに行った兵士であった。うずくまる仲間を助けようとしたその兵士は、同僚の足背を貫く尖った杭を目にしたのである。
 見れば、周囲では人と馬とを問わず、足を地面に縫い付けられた姿が目に入ってきた。
「乱杭(らんぐい)か。ったく、せこせこと罠ばかりつくりくさってからに。堂々と正面から戦わんかいッ!」
 いらだたしげに叫ぶも、これは引っかかった者の負け惜しみ以上の意味を持たなかった。
 再び降り注ぐ雨の矢を、張遼は飛龍刀を車輪のように振り回すことで防いだが、罠にかかった兵士、そしてそれを助けようとしている兵士たちは、そうはいかなかった。
 為す術なくばたばたと倒れていく配下の姿を見て、張遼は歯軋りするしかなかった。
 それでも、周囲の兵士を叱咤し、傷ついた兵士を下がらせ、張遼をはじめとした健在な者たちが、その後退を援護することで、被害を最小限に抑えてみせたのは、張文遠の面目躍如と言っても良かったであろう。
 しかし、後退といっても、すでに張遼の部隊は敵の懐深くに入り込んでしまっている。城外へ出ようにも、後方にはいまだ混乱から抜け切れていない味方が右往左往しており、容易には行くまい。
 かといって、このまま突っ込めば、さらなる罠が待ち受けていることは明白であるように思われる。
 張遼は知らず、慨嘆するように天を仰いでいた。





「…………霞(しあ)」
「恋か! 無事だったんかいな」
 潰走しようとする部隊を懸命に指揮し続けていた張遼の下に、赤兎馬に乗った呂布が現れたのは、そんな時だった。
「見事にしてやられてもうたなあ」
 張遼の苦い顔に、呂布はこくりと頷く。
 だが、まだ敗北したとは考えていない呂布は、飛来する矢を戟で払いのけると、張遼の部隊を追い越して、さらに突進しようとする。
「ちょ、ま、待ちいな、恋。このまま突っ込んでいっても、ますます敵の罠にはまるだけやで。ここは一旦、城外に出た方がええ。張超の軍勢はまだ健在なんやから、逆襲はなんぼでも可能やろ?」
 張遼の言葉は的を射たものだった。
 呂布の軍勢は罠に落ちたが、城外には張超の4万近い軍勢が控えている。破られた東門の修復も一朝一夕には行くまいから、罠を噛み破って抜け出すことが出来れば、濮陽城を陥落させることは出来るだろう。張超のしたり顔を見なければならない、という嫌なおまけはつくにしても。
 しかしここで無理をして、致命的な損害を被るよりは、そちらの方がはるかにましである筈だった。
 くわえて、元々張遼は、味方と駆け引きじみたやりとりをした挙句、戦に掣肘を加えた張超や陳宮の戦い方に否定的であったのだ。城がどうの、独立がどうのという話は、敵に勝った後に好きなだけやれば良いのである。


 だが、呂布は首を横に振った。
「…………たぶん、間に合わない」
「間に合わない? 何にや?」
 呂布の言葉に、張遼が不思議そうな顔で問い返す。
 何と説明したものか、迷うような素振りを見せる呂布だったが、結局、口にしたのは次のひと言だけだった。
「…………今日、この城を陥とさないと、負ける」
 それを聞いた張遼の顔が、鋭く引き締まった。
 呂布が口にしたことは、濮陽城を得られないという張超との駆け引きを指す言葉ではない。それに気づいたからだ。
 こと戦に関しては、呂布の直感は神がかった冴えを見せる。
 ある意味で、武勇よりも厄介なこの直感こそ、呂布が天より与えられた1番の才能ではないか、と張遼は思う。
 ともあれ、勝たなければいけないと主将が言うのなら、勝って見せるのが部下の務めであろう。
 真名を許した相手に対して、張遼はにやりと笑いかけた。
「そんなら、勝つしかない、か。そういうことやな、恋」
 呂布は、張遼の言葉に、こくりと頷いてみせるのだった。



◆◆



 敵の策略を逆手に取り、己の懐に誘い込んだ上で罠に落とす。
 曹操軍の策略『虚誘掩殺の計』は完璧な成功を見たと言って良い。
 呂布軍は二重三重の罠にはまり、多大な損害を被った。その一方で、曹操軍の損害は数える程しかなかったのだから、その評を否定できる者はいないだろう。
 しかし、戦闘開始から一刻あまり。
 曹操軍はいまだ勝利を確信するには至らなかった。否、それどころか、信じがたい光景を見せ付けられ、背筋の震えを隠せなかったのである。
 あれだけの周到な罠。あれだけの不利な戦況。 
 その全てを、ただ武勇のみで突破せんとする、戦場の鬼神を目の当たりにしたゆえに。


 赤兎馬に乗った呂布は、人馬ともに少なからざる傷を負っていたが、それを気にかける様子もなく、平然と前進を続けた。その後ろには、呂布の親衛隊と、張遼らの精鋭が続いている。
 5千を越える兵力は、すでに3百を切っている。
 無論、その他のすべてが戦死したわけではない。後方に残って、退路を確保しようと戦っている高順の兵や、あるいは城外で戦況を聞き、顔面を蒼白にしている陳宮の下にも、まだいくらかの兵力は残っていた。
 しかし、呂布と共にかけ続ける将兵が、突入時の10分の1に満たない数であることは、まぎれもない事実である。
 濮陽城の守備兵から見ても、取るに足らない寡兵である筈の一団は、しかし、凄まじいまでの勢いで、濮陽城の中枢に向け、ひた走っていた。


 それは曹操軍にとって、悪夢のような光景であったろう。
 仕掛けられた罠も、打ち込まれてくる矢石も、この集団を止めることができない。
 このままでは、本城までの突破を許してしまう。
 兵力の大部分を東方に振り向け、なおかつ西からの張超の攻撃に備えている現在、本城の守備兵はわずかしかいない。
 慌てて本城の守備を固めようとする指揮官もいたが、呂布の突進は守備側の展開を凌駕する機動性を有していた。
 当然だが、本城を陥とされてしまえば、曹操軍の敗北となり、濮陽は陳留勢の手に落ちる。
 そして、濮陽城の陥落が与える影響は、ただそれだけにとどまらない。
 策の成功に浮かれ、詰めを誤った曹操軍の致命的失策として、兌州全土の戦況すら左右しかねないであろうと考えられたのである。
 そして、それは当の呂布たちも理解するところであった。
 被った損害はあまりにも痛いが、その犠牲を以って勝利を掴むことは不可能ではないのだ、と。


 かくて、多くの味方の犠牲と献身の上に、呂布率いる部隊は、ついに濮陽城の中心にある本城へと到達する。
 濮陽城は、元々、東郡の支城の1つであり、規模はさほど大きなものではなく、濮陽城の中心である本城も、さして堅固な造りをしているわけではない。
 無論、一通りの防備は築かれているが、それは時間と兵力さえあれば、凡将でも突破できる程度のものであった。
 それはすなわち、中華の最精鋭たる呂布の軍を止めることは不可能であるということ。
 それは、万人が認める事実であった。




 ただし。
 その事実には、1つの前提が先立つ。
 すなわち、ただ設備に頼るだけでは、止めることは不可能である、と。





「つまり、どんな物事も、それに当る人次第、ということなのですよ」
 程立は郭門の上から、迫り来る呂布軍を見下ろしつつ、平然とそう口にする。
 その傍らにいる人物は、ふむふむと二度頷いた。
「反論の余地はないのう」
 そう言って、こちらの人物も迫り来る飛将軍へと視線を向けた。
「中華最強の武人、飛将軍 呂奉先、か。まさか、武神とも称えられる者と、わしごときが直接、矛を交える時が来ようとは、いやはや、乱世とは先が読めぬものじゃ」
「おおう、元常さんは一騎打ちをご所望なのですか? 矍鑠(かくしゃく)たるかな、この翁、というやつですね」
「かっかっか。後漢の馬援将軍じゃな。しかし、あいにくとわしには飛将軍と戦えるほどの力量はないでの。仮にあと40年若かったとしても、断固として拒否するわい」
 もっとも、軍将として渡り合うなら、望むところじゃわい、と鍾遙は大笑する。
 鍾遙の笑い声を聞いて、周囲で待機する将兵から笑い声が沸き起こった。


「――しかし、なんじゃな」
「どうしたですか、元常さん?」
「わしからすれば、本当に恐るべきは、ここまで来る飛将軍ではなく、それを予見してわしをここまで引っ張り出すそなたらのように思えてならん」
 あながち冗談ともとれない口調で、周囲の兵士に聞こえないように、鍾遙は小声で呟いた。 
「それは買いかぶりというものなのですよ。風たちは、もしかしたら起こるかもしれない事態に備えたまでのこと。必ずこうなるとわかっていたわけではないのです」
「ふむ。備えあれば憂いなし、か。簡単なことのようじゃが、それをこういった危急の場で完璧にしてのける者は、そうはおらん。そなたらが敵ではなかったことを、感謝せねばなるまいて。敵の軍師もなかなかやるようじゃが、ちと相手が悪かったのう」
 鍾遙の言葉に、程立は口許を手で覆い、首を傾げて見せた。
「誰だかは知りませんが、少々結果を急ぎすぎているきらいがありますねえ。もっとも、味方同士で功の取り合いをしている時点で、軍師としては失格なのですけど」
「ほ、案外きついことを申すのう」
 鍾遙の意外そうな言葉に、程立は当然のこと、と言わんばかりに深く頷いた。
 そして、程立は歌うように口を開く。


「武人は剣で人を刺し、軍師は舌で人を刺す。その手が血に濡れることはなくとも、罪深さに差異はない。己が智と舌で乱世に挑む者にとって、覚悟とはそれを知ることに他ならぬ。これをわきまえない者は、どれだけ優れた智謀を誇ろうと、半人前にも届かない未熟者なのだ……」


 一息で言い切ると、程立は、常とは異なる、毅然とした態度で言葉を続けた。
「風は、師にそう教わったのです。そして、風自身も、その通りだと思うのですよ」
 それゆえに、程立は敵軍の軍師を恐れない。
 戦場で味方同士で斬りあう武人を、敵が恐れる理由がどこにあろうか。
 程立にとって、同陣営の対立を調停すらせず、敵に挑む軍師とは、そんな程度の価値しか持たない。
 ましてや、そんな人たちに天命が下ることなどありえない。
 ゆえにこそ、迫り来る呂布の軍を前にしても、程立は脅威を覚えることはなかったのである。


 程立が正門の上で右手を挙げると、その姿を捉えたのだろう。赤兎馬を駆っていた呂布が、馬上で素早く弓を番えた。
 その視線は、射るような鋭さで程立に向けられている。
 つかの間、交差する2人の視線。
 だが、それは文字通り、一瞬のこと。次の瞬間には、呂布の一矢は程立に向かって唸りをあげて突き進んでいく。
 右手を振り上げた体勢のまま、しかし、程立は微動だにしなかった。
 目を閉じることもない。恐れも、怯えもなく、迫りくる矢から視線を離すことはない。


 それは、突然に起こった。
 不意に、濮陽中の曹旗が一斉に翻るほどの強風が吹いたのである。
 本城の天頂に、城壁の上に、あるいは櫓の上に据え付けられている曹旗が、一斉にはためくほどの強い風だった。
 そして。
 その強風を受け、呂布の放った矢が、ほんのかすかに狙いを外した。


 呂布の強弓が、うなりをあげて、程立の左頬をかすめ、後方に飛び去っていく。
 同時に、程立は左の頬に強い熱を感じた。頬の一部が削ぎとられ、たちまち半面を鮮血色で染めていく。
 だが、程立は全く意に介することなく、振り上げていた手を、勢い良く振り下ろした。
 それに応じて、兵士たちが一斉に呂布に向けて、ある物を投げつけ始めた。


 それは矢ではない。石でもなかった。大人の握りこぶしより、わずかに大きいくらいの木箱である。
 勢い良く当たれば痛いに決まっているが、無論、それで人が死ぬ筈もない。
 曹操側の予期せぬ攻撃に、呂布は戸惑ったような顔をしたが、投げつけられる木箱の1つを、持ち直した戟をつかって、反射的に斬り捨てる。
「…………ッ!!」
 背筋を走る悪寒に突き動かされ、呂布は咄嗟に服の裾で顔を覆う。
 斬り捨てた箱から飛び出てきたのは、奇妙に粘着質な音を発する液体――油であった。
 それも、煮えたぎる高温のもの。攻城時、城壁上から幾度も浴びせられたあの油を、程立は、木箱につめて投擲したのである。
 固体は砕けても、液体は砕けない。呂布が神域の武を誇ろうと、それは覆せない理である。


 赤兎馬が悲痛な声をあげていななき、暴れ出した。油の一部が、馬体にそのままかかってしまったのだ。
「…………赤兎ッ!」
 呂布は懸命に手綱を引き、なんとか赤兎馬を統御しようとする。
 それでも、しばらく赤兎馬は耐えかねたように跳ね回った。その間、呂布は投げつけられる木箱を、戟の刃ではなく、棒の部分で打ち払う。
「こ、こら、落ち着かんかいッ! って、言っても無理やろなあ……」
 張遼が愛馬をなだめようとしているが、鍛えられた軍馬とはいえ、油をかけられて、すぐに落ち着くことが出来よう筈もない。
 混乱は、静まる気配を見せなかった。


 そして、曹操軍がそれを見逃す理由はない。機動力を奪われた騎馬隊など、格好の矢の的に過ぎないのだから。
「放てィッ!!」
 鍾遙の号令と共に、次々と呂布の部隊めがけて矢が射こまれる。それも、呂布1人に向けて。
 程立の狙いは、徹底して呂布ただ1人だけであったのだ。
 呂布は雨のような斉射をことごとく弾き返していったが、呂布とて人である以上、限界は存在する。そのうちの一本が、何とか平静を取り戻しかけていた赤兎馬の臀部に突き刺さり、赤兎馬が悲鳴をあげて横転してしまった。
 呂布は地面に投げ出され、咄嗟に受身を取ったものの、戟を手放してしまう。
 そして、その様子を見た曹操軍は、千載一遇の好機とばかりに、更に矢石を集中させた。
「恋ッ!」
 張遼が慌てて駆け寄ろうとするも、まだ馬が言うことを聞かず、思うにまかせない。


 飛将軍が、濮陽城に散るのか、と敵味方がはからずも同じことを考えた瞬間であった。
「呂将軍!!」
 後方から、兵馬の一団が現れるや、猛然と曹操軍に向けて騎射を行った。
 一方的に呂布の部隊を攻め立てていた曹操軍の将兵は、慌てて盾を掲げ、あるいは壁の影に隠れるなどして、その攻撃をやりすごす。
 だが、新たに現れた一団の目的は、曹操軍を討つにあらず。ただ彼らの将軍を助けることだけだった。
「将軍様、お早く!」
 高順は、地面にいる呂布に手を差し伸べ、たちまち馬上に引っ張り上げた。
「…………赤兎が」
「ご安心ください」
 高順の言葉どおり、赤兎馬のまわりには、数名の兵士が駆け寄っていった。
「城外で、公台様がお待ちしております。呂将軍、張将軍、ここは急ぎ退くべきと考えます」
「おお、そろそろ、っと、落ち着きぃや」
 まだ少し暴れようとする愛馬をなだめつつ、張遼は再度、口を開いた。
「さすがにそろそろ限界やろ。恋、どうや?」
「…………うん。退く」
「御意!」
 呂布と張遼の同意を得ると、高順は部隊の全員に呼びかけた。
「みなさん、撤退します。後れないように気をつけて!」
 承知、との声が各処から返ってきたことを受け、高順は背中に呂布を乗せたまま、先頭に立って、今通ってきた道を戻り始めたのであった。





 援軍に先導され、呂布の部隊が引き上げていくところを、程立は静かに見送っていた。
「追わずとも良いのかの。飛将軍を討ち取る、またとない好機かと思うたが」
 鍾遙の言葉に、程立はあっさりと首を横に振った。
「呂布さんの星は、まだ天に力強く輝いているので、ここで討ち取ることは不可能だと思うのですよ。撃退出来ただけでも、もうけものというべきですね」
「ふむ、まあ、確かに。したが、敵はすぐに態勢を立て直して襲い掛かってくるじゃろう。次は、此度のように上手くはいかんじゃろうな」
 憂うように、鍾遙は今後の予測を口にした。
 勝ったとはいえ、まだ城外には張超の軍勢が残っている。今回は退けた呂布とて、再度の来襲がないわけではあるまい。
 一方の曹操軍は、濮陽城の東門を砕かれ、本城にまで攻め込まれてしまった為、城内の防備を整えるだけでも、大変な時間が必要となるだろう。そして、敵がその時間を与えるとは考えにくい。
 この次の戦いは更に辛く、難しいものとなるだろう。鍾遙はそう考え、深くため息を吐くのだった。


 その横で、程立は思慮深い眼差しで空を見上げ、鍾遙に対し、肯定も否定もしなかった。
 この時点で、程立は曹操のことも、荀彧のことも直接は知らない。曹操については噂とこれまでの事績を、荀彧については郭嘉からその為人を聞いたのみである。
 だが、それでも、程立の考える人物予測が大きく的を外していない限り。そして、鍾遙が集めた各地の情報が正しいものである限り、張超の軍勢は、再び濮陽に来襲することはないだろう。程立はそう考えていた。
 だが、程立はその予測を口にすることはしなかった。ここで語ったところで、答えは確かめようがない。なにより、すぐに事実は判明するだろうから……




 明けて翌日。
 呂布軍が撃退されたことを知り、密かにほくそえんだ張超の下に、急使が訪れる。
 使者は、息せき切って告げた。
 陳留城での戦以後、兌州からも出て、梁の地で兵を休めていた曹操が、俄かに軍を率いて州境を突破、兌州定陶の地に布陣し、そこに堅固な陣を築き上げたという、それは報告であった。


 報告を聞いて、張超と臧洪は顔を見合わせた。
 済水のほとりに位置する定陶は水陸交通の要地であり、兌州のほぼ中央に位置する要衝である。
 しかし、それは逆に言えば、兌州全域から包囲することが容易な場所、ということでもある。
 曹操が兌州を支配している時ならまだしも、兌州のほとんどが張超率いる陳留勢に従っている今、定陶に出てきて、あまつさえそこに陣を築くというのは、どうか包囲してくださいと言うも同然であった。
「血迷ったか、孟徳?」
 曹操らしからぬ愚挙に、張超は憤りを見せる。濮陽の陥落が間近と見て、状況もわきまえずに進出してきたのだとしても、その軍の進め方は無謀の一語に尽きた。
 この程度の奴だったのか、と吐き捨てる張超。
 だが、張超の乱暴な言葉の裏には、奇妙なまでの圧迫感が存在した。
 張超も、そして臧洪もまた、わかっていたのだ。どれだけ軍事的な危地に陥ろうと、曹孟徳という人物は、我を忘れて軍を動かすような人物ではない、と。


 逆説的に。
 曹操が定陶の地に布陣したということは、そこはもう曹操にとって安全であり、なおかつ当面の敵である張超らを討つに適した場所ということになる――そう、まるで、もう兌州は取り返したと言わんばかりの軍の進め方としか思えなかった。
 そんな筈はない。自身の内からわきあがる不安の声を打ち消すためにも、張超はさらに口を開きかけ……そして、第2、第3の急使を迎えることになった。


 1つは西南より。
「申し上げます! 曹操の本拠地である許昌より、曹仁率いる5万の軍勢が、陳留に向けて進撃中です! 訓練を終えた新兵を総動員したものと思われますが、陳留の守備兵はわずかしかおらず、至急援軍を、とのことでございます!!」


 1つは北東より。
「申し上げます! 済北郡太守 鮑信。麾下の2万の兵力を以って濮陽への救援に出立したとのことです! さ、さらにその背後より、おびただしい数の兵馬がこちらに向けて急進中。数は8万。陣頭には夏侯の旗が掲げられており、曹操に降伏した青州黄巾党を主力とした一団と思われます!」




 声もなく立ちすくむ張超は、この時、たしかに自分を見下ろす曹操の視線を感じたように思った。
 いまだ陥としてもいない濮陽城を誰のものにするかで、張超らが内輪で揉めていた時。
 曹操軍は密かに、しかし緊密な連絡を取り合って、戦略を定めていたに違いない。
 その事実を、ようやく悟るに至った張超の口から、あえぐような吐息がこぼれおちる。
 いまや、存亡の危機に立っているのは、張超の側だったのである。



◆◆



 徐州琅邪郡。 
「来た、見た、勝った、か」
 なんとなく、古代の帝王の言葉を拝借してしまったが、実際、琅邪郡における賊徒討伐はそんな感じで終わってしまった。
 正確に述べれば――張飛が突撃して敵を蹴散らしただけである。
 それに先立ち、関羽と趙雲が陽動を仕掛けたり、馬元義(元黄巾党の武将である)が説得を試みたりと色々あったのだが、最終的には張飛が蹴散らすことで、討伐はつつがなく終了した。


「むー。つまんない、つまんない、つまんないのだー! もっとつおい奴はいないのかーッ!」
 劉家軍は徐州の彭城へ向けて進軍中。今は小休止をしているところなのだが、がおー、と吼える小さな虎が一頭、暴れております。
 言うまでもなく、あっさり勝負がついてしまい、欲求不満が甚だしい張飛のことである。
 関羽がそんな張飛をたしなめるために口を開く。
「鈴々、無茶を言うものではない。敵が弱兵であればこそ、将兵にも大した犠牲は出なかったのだぞ。良いことではないか」
「それはもちろんそうだけど、でも鈴々はもっと、がきーん、やー、みたいな感じで戦いたいのだ! そうだ、子義、鈴々と戦うのだ!」
 そういって、張飛は近くで身体を休めていた太史慈に話しかける。
 だが、太史慈は困惑した様子で、首を傾げた。
「それは構いませんが……私の剣では、益徳殿にかなわないので、弓で戦うことになりますよ。たぶん、がきーん、やー、みたいな戦い方は無理だと思います」
「もう何でも良いから戦うのだー! うがーッ!」
「は、はい、承知しました」
 そう言って、立ち上がった2人は、開けた場所に出ると、互いの得物を構え、向かい合った。


「かくて、劉家軍随一の食いしん坊を決める戦いは、幕を開けたのである――どう思われますか、趙将軍」
 おれがふざけて話を振ると、案の定というか、趙雲は乗ってきてくれた。
「ふむ、本命はやはり益徳殿だが、子義も侮れぬ実力を有している。これは激戦になる、くらいしか言えんな」
「あの趙子竜殿をして、見通すことが出来ないと言わしめる。実力者同士の戦いとは奥が深いのですね。では、ここで主君である玄徳様にご意見をうかがってみましょう」
「ええ、わ、私? えっと、多分、鈴々ちゃんが勝つと思うけど、子義ちゃんもすごいって一刀さん、言ってたっけ。あ、そういえば、叔治ちゃんもかなりのものだって聞いたけど、どうなのかな?」
「ふえ?! あ、え、えっと、子義ちゃんを応援したいです! あ、でも、そもそも、私、別に食いしん坊じゃないんですけど……」
 あたふたとしながら、それでも律儀に応えてくれる2人であった。
 周囲からは軽やかな笑い声が飛び交い、とてものこと、出征帰りの軍隊とは思えないほのぼのさである。
 准河流域は物産が豊かだと聞いていたが、周囲の光景も、その噂を肯定している。のどかな田園風景が延々と続いており、人々が汗を流して働いている。
 突然の軍隊の通過に怯えたような顔をする人もいたが、軍の先頭で掲げている陶謙軍の旗のおかげで、その表情もすぐに消えていった。
 陶謙が民心を掴んでいることは、この一事からも明らかであった。




 彭城への道すがら、同行する孫乾と糜竺から、徐州の状況は一通り聞かされていた。
 やはり諸葛亮が予測していた通り、陶謙は劉家軍の武力を徐州のために用いたいらしかった。
 だが、それは傭兵だの客将だのの扱いではなく、きちんとした領主として迎えたいのだと、孫乾たちは言う。
「今回の野盗退治は、そのための手ごろな武勲稼ぎというところですかな」
 その程度のことでも苦戦するのが、現在の徐州の武力なのですよ、と糜竺は苦笑いしたが、すぐに言葉を続けた。
「陶州牧は、貴君らに小沛に入っていただこうと考えておられるのです。小沛は、兌州、豫州と接する徐州の最前線であり、今も子方――ああ、それがしの弟で、糜芳、字を子方という者が、3万の軍を率いて駐屯中です。兵糧、金銀も豊富に蓄えてありますゆえ、おそらく貴君らをがっかりさせることはないでしょう」
 小沛の城主――それは太守の地位を得たに等しい権限を委ねられるということである。
 重大発言を、あっさりと口にする糜竺に、玄徳様はぽかんと口を開けて言葉が出ない様子である。


 代わりに口を開いたのは、諸葛亮であった。
「それを受ける受けないは別として、他国からの新参者に、そのような重要な役割を委ねるとなれば、反対の立場を取る人たちも少なくないと思いますけど?」
「無論ですな。まあ、なんでそれがしがこんな野天で話をはじめたかというと、彭城でこんな話をすれば、たちまちかぎつけられて、揉め事の種になってしまうからなのですよ」
 探るような諸葛亮の問いに、糜竺はあっけらかんと答えた。
 諸葛亮の隣で、それを聞いた鳳統が目を丸くしている。
「――つまり、私たちは徐州の内紛に巻き込まれる寸前だ、と。そういうことなのかしら?」
 今度は張梁が眼鏡に手をやりつつ、糜竺に確認を取る。
 驚いたことに、糜竺はこれにもあっさりと頷いた。そして、こんなことを言い出したのである。
「いかにも。これは隠す必要もないために申し上げるが、我が主である徐州牧 陶恭祖はもう長くはありませぬ」


 ざわめきが消え、場が静まり返った。
 はっきりと主君の死期が近いと言い切った人物に、驚きの視線が集中する。
 それを承知しているであろうに、糜竺は顔色を変えることなく、言葉を続けた。
「我が主はすでに齢50を大きく越えており、恐れ多いことながら、この先、何年生きられるかは甚だ心もとないのです。おまけにこの乱世です、州牧として心身ともに疲労が積もり、隠されておられるが、おそらくその御身体も病魔に蝕まれておいでなのでしょう。時折、ひどく辛そうな顔をされる」
 そう口にしたとき、糜竺の表情に初めて沈痛なものが浮かんだ。
「本来であれば、とうに楽隠居して良いお年の州牧が、何故、いまだに政務を執っているのか。貴君らには説明の必要はござるまいが……嗣子たる方はその器ではなく、廃嫡しようにも、その下の子も、度量、才腕、いずれを見ても兄に優るところがない。隠居したくても、出来なかったのです。自身が一線を退いたその日から、徐州の民が、苛政に苦しむことは、目に見えているゆえに」


 糜竺は語る。
 それゆえ、徐州は徐々に2つに割れていったのだ、と。
 つまり、陶謙に忠誠を誓う糜竺らと。
 陶謙が倒れた後、州牧の地位を継ぐことになる陶商・陶応に従う者とに。
 今でこそ、陶謙の力はまだ徐州を覆っているが、すでにその影響力には翳りが見え始めている。
 それもその筈で、老齢の陶謙があと何年生きられるかを考えれば、次の時代の支配者に誼を通じておくのは当然すぎるほど当然のことなのである。
 陶商らの器量不足は万人の目に明らかだが、野心家たちはそれゆえにこそ、より積極的に兄弟に取り入ろうとしているらしい。
「馬鹿もおだてれば木に登る、と言いますが、まあ下手に賢い者よりも、愚か者の方が操るには楽ですからな。もっとも、自分が操り易いということは、他人にとっても操り易いということ。そのあたりまで考えが及ばないのが、愚者が愚者である理由なのですが」
 毒舌で、兄弟にすりよる者たちをくさしながら、糜竺は真剣な表情で、玄徳様を見つめた。
「徐州は豊穣の地。これから深まるであろう乱世のただなかで、これまでどおり平穏でいられよう筈もなく、必ず、いずれかの勢力の侵略を受けましょう。その時に備えて、我らは徐州の守りを固めなければならない。そのために、絶対に必要なものがあるのです。おわかりでしょうか?」


「陶州牧に代わり、徐州を守る旗頭――ですか?」
「いかにも」
 諸葛亮の問いに、糜竺は迷う素振りさえ見せず、頷いて見せた。
 そして、姿勢を正し、玄徳様の前に拝跪した。主君に対する臣下の如くに。
 それまで、糜竺が語るに任せ、黙っていた孫乾も、糜竺に倣うように跪く。
 その言葉に熱誠を込め、糜竺は玄徳様に語りかけた。
「劉玄徳殿。我ら徐州が臣、その旗頭を、貴君に務めていただきたいのです。反対する者も多く、あるいは内乱にさえ発展するやもしれませぬ。そのような徐州の政治の濁流の中に、貴君と家臣の方々を巻き込んでしまうことは断腸の思いではありますが、我らには、他に頼れる御方がおらぬのです。なにとぞ、ご了承願えませぬか」
 糜竺の言葉に、孫乾が深く頭を下げながら、口を開いた。
「ただいま、子仲殿(糜竺の字)が申されたことは、みな我が主陶恭祖の言葉と思っていただいて、間違いございません。そして、子仲殿をはじめ、この孫乾、さらには陶州牧に忠誠を捧げる者は、皆、玄徳様に仕えるに、陶州牧に仕えると等しき忠誠を捧げるでありましょう。我らと志を同じくする者の中には、臨准城主である陳元龍殿(陳登)を筆頭に、優れた者も数多くそろっております。決して、玄徳様にとって不利なお話ではあるまいと存じます」




 糜竺、孫乾らの突然の激白に、玄徳様はしばらく目を白黒させていた。
 それは関羽らも同じようで、互いに目配せしながらも、誰も進んで口を開こうとしない。
 これは、陶謙らと、劉家軍の間にある温度差による戸惑いであろう。
 長年、陶謙の後継者たる人を待ち望んでいた糜竺らの熱心な言葉は、決して偽りではない。そのことは、誰もが承知しているだろう。
 だが、その懸命さは、ある意味で無責任なものだった。いや、無責任というのは、少し違うかもしれないが、要するに、自分より優れた人物に責任を背負ってもらいたい。その代わり、自分たちはそれに協力しましょうということである。しかも、あらかじめそれを言うのではなく、徐州の地に来て、彭城を目前にしてから口にするあたり、多少割り切れないものを感じてしまうのは、おればかりではなかったということだろう。


 もちろん、劉家軍にとって損になる話でないことも確かである。
 あの馬鹿息子どもと対立する代わりに、小沛と、陶謙を支える能吏を得られると思えば、差し引き大きな得であろう。
 一長一短どころではない――8長2短くらいだろうか?
 馬鹿息子につこうとする者も、玄徳様たちを女と見て侮る者もいるだろうが、それはどこの土地に行ったとて、大してかわらんだろうしなあ。




「桃香様、いかがなさいますか?」
 黙ったままの玄徳様に向けて、関羽がそっと決断を促す。
 むー、と考え込む玄徳様を見て、おれは玄徳様が引っかかっていることに気がついた。
 なので、代わりに聞いてみることにする。
「――まるで、徐州の内乱が既定のものみたいな感じですけど、実際、それだけの行動力を持っている人がいるのですか?」
 突然、口を挟んだおれに、糜竺と孫乾がいぶかしげな眼差しを向けてくる。
 もっとも、おれが誰かはわからなかったようで、玄徳様の近くにいる以上、信頼された人物だと考えたのだろう。孫乾が丁寧な口調で答えてくれた。
「正直なところ、わかりません。玄徳様を迎えることに関して、こちら側の主だった者たちに話は通しておきましたので、我らが玄徳様に背くことはありませんが、現在、あちら側についている者たちが、玄徳様を見てどう考えるかは、不分明なのです」
「ふむ。つまり、あの馬鹿息子どもに愛想をつかして、玄徳様に従う可能性もあるわけですね」
「ばッ?! あ、いや、確かにその可能性もないわけではありませんが、しかし……」
 おれの無礼な発言に、孫乾は一瞬だが、唖然とした表情をした。
 だが、すぐに表情を改め、慌てて返答するあたり、生真面目な人柄なのだろう。なんかはじめて、おれが三国志を読んでいて想像していた通りの人と会えた気がして、ちょっと新鮮であった。


 おれが言わんとしていることを察したのか、諸葛亮が追随するように頷いた。あるいは、諸葛亮も玄徳様のためらいに気づいていたのかもしれない。
「少なくとも、こちらから敵対の意思表示をする必要はないですね。徐州を守るという目的が同じである以上、陶商さんたちと手を携える道を、こちらから捨てることはないです」
「……そうですね。それに、今、徐州内部で争いを起こせば、余計に他所から付け入られる隙が出来てしまう。陶商さんたちに従っている人たちの中には、そのことに気づいている人もいるでしょう」
 2大軍師の言葉に、関羽がやや渋い表情で口を開いた。
「まあ、それは2人の言うとおりだろうな。もっとも、あの兄弟にすりよる者たちが、そうそう考えを改めるとも考えにくいが」
「その時はその時で、また対処すればよかろう。軍師殿の言うとおり、最初から喧嘩腰で行く必要は、確かにないな」
 趙雲の言葉に、賛同の声が各処から沸きあがる。
「まあ、いざとなったら、ちぃたちの歌で、みんな虜にしちゃうから大丈夫よ」
「そうだねー。平和を運ぶ歌姫たち。それが『数え役萬☆姉妹』なのだー」
「あ、姉さん、それ良いわ。今度の舞台、それで行ってみましょうか。一刀さん――」
「了解です、季姫様。早速見積もりを――」
 そして始まる舞台の計画――あれ、話がずれた? でもまあ、いいか。玄徳様、笑ってることだし、話はついたと見て良いだろう。




 いきなり今度の舞台の相談をはじめた張角らとおれを見て、孫乾はあんぐりと口を開き、糜竺は何やら楽しそうに笑い声をあげた。
「――なるほど、これが幾たびもの苦闘を凌いできた劉家軍の真髄、というわけか。ちとこちらが空回りしたと思っていたが、ふむ、いつもこういう方々なのだとすれば、確かに先刻の物言いはまずかったか」
「し、子仲殿、あの、これは一体、どうしたら良いのでしょう?」
 困惑した孫乾の問いに応じたのは、糜竺ではなく、別の声であった。
「なに、気にせずにそちらの方のように、わらっておれば良いと思いますぞ」
「そうですな。こういうものだと割り切ってしまえば、案外、居心地が良いと感じるでしょう」
 簡擁と陳到が口を揃える。
 糜竺が幾度か頷いて、2人に賛意をあらわした。
「確かに、彭城で気張っておるよりは、こちらの方がどれだけ良いか知れぬ。ただ、公祐(孫乾の字)殿には、少し難しい注文かもしれんな」
 生真面目なおぬしにとってはな、と楽しそうに笑う糜竺。
 なんだか早くも劉家軍に溶け込んでしまったっぽい同輩に、孫乾は困りきった様子で頭を抱えた。
 何故だか思ったのだ。
 もしかして、自分はこれから先、こうやって苦労していくことになるのではないか、と。
 その思いつきは、不思議なほどにはっきりと孫乾の心底におりてきて、容易に消えそうになかった。
 そして、そのことを不快に思っていない自分にも、孫乾は気づいていたのである。







「ふう。今回は、新しい女の子の参戦はないようね。助かったわん」
 貂蝉は糜竺たちの様子を見ながら、ほうっと胸をなでおろした。 
「別に新しい子がいないからって、あんたが有利になるわけじゃないでしょうに。そもそも、あんた男じゃない」
「あら、天下の鬼才にしては底の浅い物言いね」
 ふふ、と軽やかに笑われ、賈駆は額に青筋を浮かべた。
「なんですってーッ?!」
「え、詠ちゃん、落ち着いて」
「人を愛するのに必要なのは性別ではなく、コ・コ・ロ。それがわからないうちは、まだ子猫ちゃんなのよん」
 貂蝉の言葉に、董卓が顔を輝かせた。
「詠ちゃんが猫……わぁ、なんかとってもぴったりかも」
「あら、言われてみればそうね。なかなか人に懐かなかったり。懐いてもわざと邪険に扱おうとしたりするところはそっくり」
「ですよねー」
「って、月、何を和んでるのよッ?! それにボクは猫じゃないし、猫に似てもいないッ! そこ、何を2人して微笑ましそうにこっちを見てるのッ?!」
 がーッ、と激昂する賈駆だったが、それはますます董卓と貂蝉の視線を暖かいものにするだけであった…………



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/04/30 22:31



 ――周知の如く、州とは中華帝国の広大な領域を、司・冀・兌(えん)・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・交の13に分けた統治区分のことである。これを司るのが州牧であり、州を構成する郡を統べる者が太守である。
 すなわち、州牧とは、天下13州の1つを統治する権限を与えられる役職であり、当然ながら、その権威は極めて大きい。今のところ、おれの知っている諸侯の中で、州牧の位を得ているのは袁紹くらいのもので、あの曹操すらいまだ州牧の地位には就いていなかった。
 もっとも、曹操に関しては皇帝を擁しているため、一概に他の君主と比較することは出来ないかもしれないが、いずれにせよ、州牧がかなり高い地位だということは間違いないのである。
 そして、劉家軍は今、その州牧の1人である陶謙の居城・彭城の中に招かれていた。



「洛陽以来となりますな。貴殿らを我が城にお招きできたこと、嬉しく思いますぞ」
「陶州牧もお元気そうで、何よりでございます」
 謁見の広間にて、陶謙と玄徳様は互いに礼を献じた。
 周囲には、徐州の文武の要となる者たちが居並び、玄徳様と、そしてその背後に控える劉家軍の面々に種々の視線を注いでいる。
 好意的な視線もあれば、警戒を露にしている者もいた。だが、中でも最も多いのは好奇の視線であるようだった。彭城内にあって、劉家軍とは何者なのかを知る者は、それほど多いわけではないらしい。
 糜竺たちは、すでに水面下で暗闘が始まっていると口にしていたが、いまだそれを知らぬ者も少なくないということなのだろう。


 おれがそんなことを考えている間にも、陶謙と玄徳様の話は続いていく。
「此度、我らの急な要請に応じ、琅邪郡の賊徒を退治してくれたこと、心より感謝いたす」
「と、とんでもないです。元々、私たちの目的は黄巾党の残党を掃討することでしたから……」
 度重なる陶謙の謝辞に、玄徳様は照れたように顔を俯かせる。
 その様子を見る陶謙の視線は、とても暖かかった。
「たとえそうであっても、貴殿らの軍が徐州の民を救うてくれた功績はいささかも色あせることはありませぬでな。官と民とを問わず、徐州を代表して貴殿らに改めて感謝を申し述べさせてもらいたい」
 陶謙の言葉に、玄徳様のみならず、後ろに控えているおれたちも、一斉に頭を垂れた。



 そして。
 さて、と陶謙が口を開く。
「功績に報いるは、領主の務め。玄徳殿、なんぞ望みはおありであろうか――と、本来ならば問わねばならぬのじゃが」
 陶謙は笑みを引っ込め、真摯な眼差しで玄徳様をじっと見つめる。
「すでに先触れの使者から話は聞いておられるじゃろう。小沛城主の件、承諾いただけようか?」
 陶謙の言葉に、広間に集った諸官からざわめきが起こった。
 小沛城は、彭城、臨准城に継ぐ徐州第三の都市。兌州、豫州に通じる徐州の玄関口の役割を果たし、軍事的に見ても、政治的に見ても、決して失ってはならない最重要拠点である。
 現在の小沛城主は、徐州軍を統べる2将軍の1人糜芳。陶謙の信頼厚い糜竺の弟でもある。
 その糜芳の下、駐屯する兵力は3万を越える。これは兌州の動乱が飛び火することを恐れた為の配備であったが、つまり小沛城主とは、それだけの権限を有する要職なのである。
 陶謙は、それを劉備に務めてもらいたい、と口にしたのだ。
 劉家軍の実力を知らず、そしてここに至る経緯を知らない者たちが動揺したのは、むしろ当然と言ってよかった。
 もっとも、例えそれらを知っていたとしても、外から流れてきたばかりの、しかも女性が主力の勢力に、そんな重要な役割を与えると言われれば、反対を唱える者は出てくるだろ。まして、初めから劉家軍を敵視している者がいるのなら、なおさらである。



「父上! 何を血迷ったことを仰せられるのですか?!」
 広間の入り口から、怒気に満ちた声が聞こえてくる。
 名前を口にするのも億劫になる奴らが来たらしい。
 まあ、洛陽の時とは違い、今回は、こいつらがどういう人物かを知っているから、心の準備は万端である。おれはそう思っていたのだが――
「兄上の言うとおりでござる。このような氏素性も知れぬ輩に、よりにもよって前線たる小沛を委ねるとは! 失ってから悔いても及ばぬのですぞ!」
 ……準備は出来ていた、筈なのだが。
「いかにも。まして女子供の集団に小沛の守備をさせたとあっては、諸侯の侮りを受け、ついには侵略を招くは必定でありましょう。琅邪郡の賊徒を討ち取った功績には、金品でも与えておけば足りまする」
「さよう。女の分際で戦場にしゃしゃり出てくるような、身の程知らずの下卑た輩には、それが何よりの褒美でありましょう」
 ……馬鹿兄弟が現れて、何分も経っていないというのに、たちまち、心の堤防が決壊寸前になってしまった。なんたる未熟さか。当の関羽たちはどこ吹く風と平静を保っているというの……に?



 おれの前にいる関羽の肩が、ふるふると小刻みに震えている。
 視線を横に向けると、唇に危険な微笑を浮かべた趙雲の横顔があった。
 後方の人たちの姿は見えないが、何かこう、胸をしめつけるような不穏な空気が、ひたひたと背後から迫ってくるように感じるのは、気のせいなのだろうか。
 ……ああ、この、小刻みにカチカチなっているのは、田豫が震えて、歯を鳴らしている音か。とすると、うん、気のせいじゃないようですね。あっははは。



 ――どうしよう、なんか皆さん、普通に怒ってらっしゃるのですが。
 さすがに青龍刀や龍牙などの武器は持ち込んでいないから、洛陽の時みたいに、刃を突きつけるような真似は出来ないが、しかし、ここにいる武将たちなら、馬鹿兄弟ごとき、素手でひねることが出来るだろう。
 この場でそんなことをする短慮な者はいない筈だが、しかし、あの兄弟がこれ以上、言論の自由を行使し続ければ、その限りではない。
 もし、本当にそうなってしまえば、さすがに冗談では済まなくなる。洛陽の時とは違うのだ。陶謙とて、多くの家臣が見守っている場で、嗣子に危害を加えられれば見過ごすことは出来ないだろう。


 仮に、だが。
 あの2人が、その状況を現出させ、劉家軍を危地に陥れようと、わざと暴言を吐き散らしているのだとしたら、あの兄弟は、実は侮れない才能を秘めている――わけないか。どうみても、あれが地なんだろう。そして、だからこそ厄介だったりするのだ。
 おれの心の平安のためにも――あと、田豫の心に心的外傷を残さないためにも、この空気は早めに打破する必要がある。
 そう考え、おれが口を開きかけた時だった。



「黙らんかッ!!」
 
 

 凄まじいまでの一喝が、謁見の間に――否、城中に響き渡った。
 広間にいる誰1人として、口を開くことが出来ない。
 それは玄徳様たちもそうであったし、件の兄弟も同様であった。
 おれもまた、あまりの覇気と声量に反射的に姿勢を正して、その叱咤を発した人物に視線を固定させてしまう。
 その人物――徐州牧 陶謙の顔に。


「商、応」
『は、はい』
 一転して、静かな声で息子たちに呼びかける陶謙と、顔をひきつらせて、それに応じる陶商、陶応の兄弟。
 劉家軍を責め立てていた傲慢さは、すでに影も形もない。完全に、父の気迫に飲み込まれ、むしろおどおどとしている、と表現してもよい様子であった。
「そなたら、なにゆえこの場におるのか。今、この場にいるは、徐州の政治、軍事を司る者のみ。そなたらは我が子であるが、政事にも、また軍務にも権限を持たない身であろう。この場にしゃしゃり出てくることさえ許されぬに、あまつさえ口を差し挟むなど僭越きわまる。控えよ」
 陶謙の口調は穏やかであったが、息子たちを見つめる視線は君主としての威厳に満ちたものであり、陶商たちが対抗できるものではなかった。
 それでも、なお陶応が口を開いたのは、勇気でも覇気でもなく、ただ甘えに過ぎなかったのだろう。
「し、しかし父上、徐州の次代を継ぐ我ら兄弟にとっても、無関係な話では……」
 弟の言葉に、兄である陶応も同意だというように頷いた。





 州牧の子として、何不自由なく育ち、周囲にかしずかれて生きてきた2人。
 嗣子を授かるのが遅かった陶謙は、息子たちに期待し、徐州でも指折りの学者や、あるいは武芸の師を招き、2人をひとかどの人物に育て上げようとした。
 その甲斐あって、というべきだろう。陶商も、そして陶応もまた、文武に光るものを感じさせる力量を有するに至る。その成長を、当時、陶謙は目を細めて見守っていた。自身が苦闘して得た徐州の地を譲るに足る子たちなのだと、そう信じて。
 子供たちの文武の才を賞賛する配下の言葉に、満足げに頷く陶謙は、しかし、この時、息子たちに、もっとも大切なことを教えることが出来なかったことを悔いることになる。


 それは謙る(へりくだる)ということ。
 才能を鼻にかけ、相手を見下すような人物に、喜んで仕える者など居はしない。
 古来より、大を成す君主は、身をかがめ、腰を低くして賢人を招き、それによって大望を果たしてきた。
 往古、周の文王が、野人である太公望を敬意を以って迎え、周朝の世を切り開いたように。
 戦国時代、燕の王が、王の身にありながら配下の郭隗に謙り、その評を以って市井に逼塞していた楽毅を招いたように。


 主君が、優れた人物であるに越したことはないだろう。だが、優れた才能は往々にして、主君としての器に限界をつくってしまう。己が優れていると思えば、配下を軽んじる心を生み、また己を凌駕する配下の才能を嫉視する基にもなる。
 そうなることを防ぐためにも、謙ることの意味を、陶謙は息子たちに伝えなければならなかった――言葉にして、行動によって。
 陶謙は、己が行いによって、息子たちに伝えている心算であった。だが、父の器量に不足があったのか。あるいは息子たちの器量が父に及ばなかったのか。それはわからないが、いずれにせよ、確かなことは、陶謙が伝えたいと願ったことが、陶商、陶応らの兄弟には伝わらなかったということであった。




 それでも、陶謙は諦めたわけではなかった。
 いずれ、わかってくれる日が来るかもしれぬ、と。
 古来より、君主として晩成した者は、枚挙に暇がない。無論、晩成することなく、ただ齢を重ねるだけの者は、それよりもさらに多いことは承知していたが、それでも陶謙はかすかな希望を持って、2人を手元に置きつつ、その行動を見守り続けたのである。




 ――その結果が、目の前で戸惑いを見せる息子らの姿であると思うと、陶謙の口から、知らずため息が漏れた。
 本心を言えば、ここで正式に劉備に徐州を譲る、と宣言してしまいたかった。
 徐州のためにも、そして息子たちのためにも、その方が良い。陶商らが徐州を継げば、最終的には配下に裏切られるか、あるいは他勢力の侵略を受け、業火の中で滅びる運命が待つだけだろう。陶謙は後継者として息子たちを見限りはしたが、親として愛情を失ったわけではない。劉備に徐州を譲ることは、我が子を救う道でもあったのである。
 だが、今の劉備たちは、まだ徐州の臣民にとって馴染みが薄い。
 十分な信用と実績を積み重ねた上でならともかく、今の時点で内心を吐露することは、無用な混乱を招くだけの結果に終わるだろう。最悪の場合、配下の分裂を進め、戦火の勃発を促しかねなかった。
 ゆえに、陶謙は順序だてて、事を推し進めていくしかなかったのである。


「――陶商、陶応」
 長く続いた沈黙の末に発せられた父の言葉を聞き、2人は顔に安堵を浮かべたが。
「下がるが良い」
 ただ、短くそう言われ、兄弟は顔を強張らせた。
 再度、反論しようと口を開きかけたのだが、陶謙は厳しい面差しを崩さず、無言で退廷を促している。
 老いたりとはいえ、1つの州を支配する者の勁烈な眼光を浴びた兄弟たちに、それを跳ね返すだけの心の強さは望むべくもなかった。



 かくして、徐州牧 陶謙に請われ、劉家軍は小沛に入城する。
 援軍としてではなく、政軍両面を司る城主として。
 すなわち、琢郡楼桑村で決起してよりはじめて、劉家軍は根拠地となる地を手に入れることが出来たのである。
 これにより、劉家軍の戦いは、新たな段階に進むことになる。



◆◆
 

 
「か、一刀さん、次はどこに行くんだっけ?!」
「は、はい! えーとですね、次は農民たちの代表者と会談ですね」
 おれが予定を確認すると、玄徳様は慌てたように、隣にいる関羽に問いかける。
「愛紗ちゃん、愛紗ちゃん、服、これで良いかな?」
「桃香様! 袖口に油の染みがついた服で民の前に立つおつもりですか?!」
「え~ん、だってゆっくり食べている暇もないんだもん」
「お忙しいのはわかりますが、なりません。民は、上に立つ者を、我らが思う以上に良く見ているものです。まして我らはこの地に赴任してきたばかり。些細なことでも失望させるわけにはいきません」
「了解~、じゃあ着替えるね」
 そういって、いきなり服に手をかける玄徳様を見て、おれは悲鳴をあげてしまう。
「うぉわッ?! げ、玄徳様、すぐ出て行きますから、服ぬぐのはちょっと待って?!」
「きゃッ?! あ、ご、ごめんね、一刀さん」
「い、いえいえ。じゃあ、馬の用意はしておきますので」
 慌てて踵を返すおれの背後で、関羽が玄徳様に、いくら忙しくとも、女性としての慎みがどうのとお説教をしている声が聞こえてきた気がした。



 ――劉家軍の戦いは、新たな段階に進みつつある。
 それはつまり『土地を治める』という戦いであった。
 玄徳様は琢郡でそうしたように、一時的に民衆の上に立ったことはあるが、領主として土地を治めた経験は皆無である。当然、関羽、張飛らもそうだし、諸葛亮や鳳統にしても、統治のための知識は持っていても、それを実践に移すのは初めての経験となる。
 そんなわけで、小沛に入城するやいなや、劉家軍は上を下への大騒ぎとなっているのだった。
 根拠地を得た、と喜んでいる暇もありはしない。
 新しい城主に挨拶しようとする街の有力者やら、今のうちに玄徳様に取り入ろうとする商人やら、はては治安や耕地の要望を持った民衆が押し寄せてきて、小沛城はちょっとしたお祭りなみの混雑状態であった。


 それらへの対応のために、諸葛亮と鳳統、簡擁、王修らは執務室から出ることができず、玄徳様や関羽は前述のとおり、面会を望む者たちへの対応でてんてこ舞いとなっている。
 それ以外、たとえば張飛や趙雲、陳到、太史慈らはのんびりしているかといえば、さにあらず。
 小沛城に駐留している3万の徐州兵が玄徳様の麾下に入ったことにより、劉家軍もまた大規模な再編を余儀なくされており、現在、将軍や武将たちはそちらの作業にかかりきりであった。
 そんな中にあって、張家の姉妹や、董卓たちが比較的落ち着いているのが、随分と印象的であった。やはり、黄巾党、あるいは董卓軍の主として、こういった状況を幾度も経験してきているのであろう。




 で、おれは何をしているかと言えば、玄徳様の傍らでスケジュール管理をしていた。秘書ともマネージャーとも言う。こんなんばっかりだ。
 一応、護衛も兼ねているのだが、これは関羽がいるから、ほとんど必要ないことだと思う。
 とはいえ、外から見れば、玄徳様は新しく城主に立った新参者。しかも女性にして、漢王朝の後継を示す剣を持っている。色々な意味で、危険が予測されるため、気を抜くことは出来なかった。
 黄巾党時代から、こういった役割は慣れているので、まあ適任といえば、適任なのだろう。
 騎馬隊の方は田豫が頑張ってくれているので問題ないしな。
 



 玄徳様の下を訪れる人たちは、様々であった。ただ新しい城主の人柄を知ろうとしている者もいれば、深刻な嘆願を携えてくる者もいる。好意的な視線を向けてくる人もいれば、明らかに玄徳様を侮っている態度の者もいた。
 しかしながら、そういった態度で接してくる者たちは、これまでとていなかったわけではない。問題なのは、その桁違いの数の方であった。
 それこそ、謁見だけで一日が終わってしまう上に、それでも長蛇の列が途切れない状況なのである。


 これでは政務にも影響が出てしまう上に、玄徳様の身体が持たないと判断したおれは、こっそり関羽と相談した上で、玄徳様に会わせる面会の人の数を絞ることにした。
 有力者――いわゆる豪商や土豪と呼ばれる者たち――あるいは明らかに重大な用件を持つ者以外は、お帰り願うことにしたのである。
 何故こっそりとする必要があるのかといえば、玄徳様に知られれば、反対されるに決まっているからだ。自分に会いに来た人々をすげなく追い返すような真似が出来る方ではない。
 まして、有力者には会っても、市井の人には会わないといえば「とんでもない!」と怒られてしまいかねないのである。


 一応断っておくと、門前払いをしたわけではない。
 そういった人たちの相手は関羽にしてもらっただけである。
 玄徳様に会うことは出来なくとも、劉家軍の№2である関羽が相手をすれば、訪ねてきた者たちも満足してくれる筈だと考えたのだ。それに、そういったことは抜きにしても、関羽の誠実さ、凛とした為人は、十分に人を惹き付けるものであろうから。
 実際、ほとんどの人は関羽と話をかわし、おとなしく引き下がってくれたのだが、中にはごねる者たちもいた。
 なんというか、自分は大物であると信じ込んでいる人ほど、その傾向が強かったように思う。たたき出してしまいたかったが、下手なことをすれば、玄徳様の悪評につながりかねない。実際、それを匂わせて、面談を強要しようとする者もいたのである。


 そういった相手には――仕方ないので貂蝉に相手をしてもらい、お引取り願うことにした。
 この人事は見事に成功し、貂蝉が言葉を尽して説明すると、皆、すみやかに納得し、快く立ち去ってくれたのである。
 ――嘘はついてない。嘘はついてない。
 とはいえ、さすがに貂蝉を便利屋扱いしたようで気が咎めたのだが、貂蝉が「もうすこし落ち着いたら、酒に付き合ってちょうだいな。それで十分だわん」と言ってくれたので助かった。
 ともあれ、ようやく玄徳様の負担を減らすことが出来たとほっと胸を撫で下ろすおれたちだった。
 だが、しかし。





「――冷静に考えてみれば、いきなり面会の人数が減れば、それは普通気づかれてしまうよな、と気づいたおれであった」
「一刀さん、誰に何を説明してるの?」
 むすっとした表情を隠そうともせず、おれの前で拗ねている玄徳様。さすがに年が年だけに、頬を膨らませたりはしていなかったが、うむ、可愛い。
「――なんだか、怒られているのに、反省の色が見えないのは気のせいかな? あと、何かすんごい失礼なこと考えてない?」
「とんでもございません」
 ははー、と平伏するおれ。こうすれば表情隠せる、とか素で思ってしまうあたり、いつのまにか、随分性格悪くなったなあ。


 まあ、あれです。明らかに面会の人が減ったことに不審を抱いた玄徳様が関羽に問いただし、関羽が慌てて疑惑を否定するも、結局、ばれてしまったのである。
「関将軍?」  
「……すまん」
 おれの視線を受け、しおれている関雲長。いつもと立場が逆である。ちょっと楽しい、と思ったが、それは口に出さないでおこう。これ以上、話を脱線させると、玄徳様が本気で怒ってしまいかねんし。
 もっとも、玄徳様は玄徳様で、おれたちの行動の理由がわかっているためか、本気で怒髪天を衝く、というわけではないようだった。
 それでも機嫌の悪さは相変わらずのようで、
「もちろん、私のことを考えてくれたのは嬉しいし、感謝してるんだけど。でも、私にひと言もなく、勝手に話を進めちゃうのはどうかと思うの」
「は! 仰るとおりです。桃香様、申し訳ございませんでした」
「配慮が足りませんでした。すみませんでした」
 同時に頭を下げる関羽とおれ。
 玄徳様は、そんなおれたちを見て、一度、小さく息を吐き出すと、気を取り直すように、ぱんと手を叩いた。
「じゃあ、今度からは、きちんと私にも話をして、仲間はずれにしないこと。良いよね?」
『ははッ!』
「うん。じゃあ、この話はここまで」
 玄徳様は微笑んで、この話に終止符を打ったが、やはり、自分に会えなかった人たちがどう感じたかは気になったようだ。
「でも愛紗ちゃん、みんな文句を言ってたりしなかった?」
「はい。桃香様が政務に忙しいのは真のことですし、その旨を申せば、皆、納得してくれました。幾つかの要望は受け取りましたが、いずれもさほど手間のかかることでもなし。官衛の役人に指示して処理させておきましたので、ご心配には及びません」
「そっか。なら良かった」
 ほっと胸を撫で下ろす玄徳様。
 貂蝉の世話になった人たちについては……言わない方が良いだろうな、うん。いろんな意味で。





 時間が経てば、どんな騒ぎも落ち着きを見せるもの。劉家軍が小沛の城に入って半月が過ぎる頃には、城も街も大分落ち着きを取り戻したように見えた。
 諸葛亮と鳳統が、合同会議の開催を呼びかけたのは、そんな時であった。
 混迷する兌州の戦況を掴んだので、それについての報告と、今後の対策を話し合うため、とのことであった。
 

 小沛に着いて間もない頃、おれは玄徳様と軍師たちにこう言った。
 小沛は徐州の玄関口にあたる城である。
 それはすなわち、他国の侵略に真っ先に晒される城ということでもある。
 相手が人間である以上、何の準備もなく兵を起こすことは不可能であり、ある日、突然、国境に雲霞の如き敵の大軍があらわれた! なんていう事態を避けるためにも、情報収集は密に行わなければならないのではないか、と。
 ――なんというか、釈迦に説法も甚だしいとは思ったのだが、おれが知る歴史において、徐州という土地で何が起こったのかを考えると、他勢力の情報を詳細に掴んでおかねば、いつ何が起こるか知れたものではない、と考えたのである。
 今の時点で、曹操なり袁術なりの進入を招けば、かなりまずいことになるのは目に見えているしな。



「――まず、兌州の戦況なのですが」
 会議の冒頭、諸葛亮は集まった面々に、兌州の戦況の概略を説明した。
 濮陽城を攻め立てていた張家の軍勢は、定陶の地に陣を据えた曹操によって後背を脅かされることになった。濮陽城を再び攻撃されれば、背後を衝かれることは明白である。かといって、時を同じくして北東と南西より進入を図った曹操軍の別働隊に当たろうとしても、状況は変わらない。
 これを何とかするには、曹操の本隊そのものを打ち破らねばならないのだが、定陶の陣は堅固であり、一朝一夕には抜くべくもない。くわえて、張家の軍勢が定陶に向かえば、今度は他地域の曹操軍が、その後背を襲うべく動きだすだろう。


「つまり、張家は完全に手詰まり。そういうことか?」
 関羽の質問に、鳳統がこくりと頷いた。
「……はい。まだ呂布さんもいますし、張家に味方する領主もいますから、すぐにも滅亡、ということにはならないでしょう。ですが、これは決着が着くのが遅いか、早いかの違いしかもたらさないと思います」
「これは、私たちにとっても、無関係ではありません。兌州を回復した曹操さんが、次に矛を向ける可能性が高いのは、東の徐州か、南東の豫州のいずれかです。北の袁紹さんと戦うのはまだ力が足りませんし、西の長安に攻め込むのは、時期尚早。もっと足元を固めてからでしょう」
 諸葛亮の言葉に、趙雲が腕組みする。
「たとえ豫州を攻めるにせよ、我らに影響がないわけではないしな」
「はい。私は、曹操さんは足元を固める意味でも、許昌の東の陳、そして梁の地(いずれも豫州)を攻略すると見ています。兌州から一度退いた際、梁の地で兵を休めていたことを考えると、すでにそのあたりの手は打っていると見た方が良いでしょう。そして――」
 言葉を切った諸葛亮の視線に促されるように、地図を見る。
 地図を見れば瞭然としているが、許昌から発して、陳を過ぎ、梁を通れば、次にあるのは徐州の小沛。つまりこの城である。
 その程度の距離なのだ。おれたちと、曹操とは。
「情報によれば、曹操さんが動員した兵力は10万を越え、20万に達する勢いです。今の私たちでは、たとえ城に篭ったところで太刀打ちできる相手ではありません。兌州の決着が着くまでに、出来るかぎり防備を整えておく必要があります」
 諸葛亮がそう結ぶと、皆、一斉にうなずいた。


「次に、もう1つ、気になる勢力があります」
 諸葛亮が卓上の地図の一点を指し示すと、再び、皆の視線がそこに集中した。
 荊州は南陽の主 袁術の勢力である。
「董卓さんとの戦いの後、汝南、寿春と次々と勢力を広げた袁術さんですが、兌州の戦況を横目に、さらに領土拡大の動きを示しています。報告によれば、袁術さんは汝南に兵を集めつつあるとのこと。あるいは陳の攻略を始めるつもりかもしれません。そうなれば、曹操さんと袁術さんの間で戦火が交えられる可能性が出てきます」
 元々、袁術の勢力と曹操の勢力は境界を接している。
 両者はいつ矢石を交えてもおかしくない状況なのである。
 これまでは、互いに動きを見せていないが、同盟を結んだという話も聞かない以上、いつ状況が動き出すかしれたものではない。
「むしろ、あの2人がかみ合ってくれれば、我々としては願ったりなのですが」
 陳到が気難しげな顔で、口を開いた。
 その言葉に賛同した馬元義が、いっそ、こちらからそのように働きかけたらどうか、という意見を口にすると、各処から賛同の呟きがもれた。


 しかし。
「逆に、2人が盟約でも結んだ日には、最悪の事態になりかねないのでは?」
 藪をつついて、蛇が出てはたまらない。正直、郭嘉や程立たちが、そんな策に引っかかるとも思えん。逆に、下手なちょっかいは、曹操の逆鱗に触れる可能性さえあるのではなかろうか。
 曹操は、本気で袁術と盟約を結ぶことはないだろうが、戦略として有効だと考えれば、手を結ぶことをためらったりはしないだろう。曹操・袁術連合軍など、考えるだに恐ろしい敵である。領土だけ見れば、今の袁術は曹操を越えているわけだし。
 おれの意見に、諸葛亮と鳳統が同時に頷いた。
「一刀さんの言うとおり、下手に謀略を仕掛け、それが裏目に出てしまえば、曹操さんと袁術さんが手を携えて徐州に攻め込んでくる可能性さえ出てきます。そうすれば、かえって自分たちで窮地に飛び込むようなものです。まだ謀略を仕掛ける時期ではないでしょう」
 馬元義が、頭を掻きつつ、頼りなげに頷く。
「言われてみれば、その通りかもしれませんな。では、当面は諸方に注意を払いつつ、実力を蓄えることに全力を尽すのが最善ということになりますか」
「……はい。幸い、陶州牧は、この城に潤沢な資金と兵糧を用意してくれています。兵を募り、武器や軍馬を整えるには、またとない環境です」
 鳳統の言葉に、陳到が深く頷く。
「確かに。府庫を見れば、この地の豊かさが良くわかります」
 陳到の言葉に、皆、深々と頷いた。
 徐州の豊かさと、その豊かな土地をあっさりと玄徳様に委ねた陶謙の決断は、劉家軍にとって、干天の慈雨にも等しい意味を持つ。そのことは、全員が心得ていることであった。
 その後も幾つかの報告と質問がかわされ、会議は月が中天に輝く時刻になって、ようやく終了したのであった。


◆◆


 自室に戻ったおれは、水差しから杯に水を注ぐと、窓際から外を見下ろした。
 もっとも、時刻が時刻だけに、すでに街から灯火は消えており、城壁上の篝火が、おぼろに浮かび上がるのみであった。
 視線を転じて、今度は室内を見渡してみる。机と寝具くらいしか置いていない質素な部屋だが、特筆すべきことは、この部屋にいるのがおれ一人という点である。
 これまでは、戦陣の中での天幕暮らしが当たり前、良くて簡擁らと一緒の雑魚寝部屋であったのだが、小沛城に移ってから、晴れて一人部屋をゲットすることが出来たのである。
 こればかりは、本気で陶謙に感謝した。贅沢を言える立場でないことは重々承知しているが、やはり一人になれる時間というのは必要だと思うのである。
「まあ、テレビもパソコンも、本も携帯もない以上、さっさと寝るくらいしか出来ないけどな」
 もう一度、視線を窓の外に移すと、今度は空を見上げた。
 地上が暗いためだろう。天上は星と月の光で、煌々と輝いて見えた。
 もっとも、この世界に来て数月。もうこちらの星空の方が当たり前のように感じられるようになっていたりするのだが――


「この世界、か」
 寝台の上に寝転び、天井を見上げながら、ぽつりと呟いてみる。
 この世界。
 歴史上の多くの英傑たちが、女性となって駆ける世界。
 人の生死が手の届くところに転がっている危うい世界。
 そして、そんな世界に、いつのまにか慣れてしまった今の自分。
「黄巾賊に捕まってから、まだ1年も経っていないのになあ」
 背中に刻まれた傷跡を、服越しに撫ぜてみる。この痛みをこらえながら、黄巾賊の陣からの脱走を考えていた夜から、もう何年も過ぎたような気がするのだが、季節は一巡すらしていない。
 そのことが、とても不思議に感じられた。


 身体を横に傾けると、部屋の壁が視界に映る。染みが少々目立っていた。
 その染みを目で数えながら、これまでの出来事を思い返してみる。
 すぐに気づいたのは、元の世界に戻る手がかりが、これっぽっちもなかったということだ。都合の良い道標はなく、助言者も現われず、ただ劉家軍の中で、生き抜くことに精一杯であった。このあたりは、小説やゲームほどにご都合主義ではないということなのだろう。
 郷愁に焦がれ、涙するほど女々しい性格ではないつもりだが、やはり故郷を思えば、両親や家族の姿が思い浮かぶ。
「母さんは心配してるだろうなあ。けど心配してそうなのは母さんだけか。親父は平静を装って茶を飲んでそうだし、爺ちゃんにいたっては、茶を飲みつつ『あやつなら何かあったとしても、自分で何とかするじゃろ。そのために鍛えてやったんだしのう』とか言ってそうだ」
 言葉にすると、本当にそうだと思えてくるから恐ろしい。
 まあ親父と爺ちゃんはともかくとして、母さんには、せめて無事の便りの1つも送ることが出来れば良いのだが、それは無理な相談か。


「しっかし……」
 徐々に瞼が重くなってきた。
 眠りの淵に落ちていく意識を感じつつ、おれはあくびと共に呟いた。
「どこの誰だか知らないけど……おれに、この世界で何をさせたいのかね……」
 ――そうして、おれの意識は全き闇の中に落ちていったのである。


 どこか遠くで、虫の鳴く声が聞こえたような気がした。



◆◆



 数日後、小沛城に一騎の早馬が駆け込み、兌州の戦況に変化が出たことを告げた。
 許昌から北上し、陳留城を攻撃していた曹仁の部隊が、これを陥落させ、城内で幽閉されていた張莫を救出。張莫は、今回の一挙がおのが意志とは関わりないこと、全ては妹である張超の独断によるものであることを表明、自らこの追討軍を率いることを宣言した。
 これを受け、定陶の地で曹操率いる本隊とぶつかりあっていた張超の軍勢は大きく動揺し、その麾下から離脱する者が相次いで出るに至る。
 時を同じくして、濮陽以北の地をことごとく平定した鮑信と夏侯惇の軍勢が、ついに定陶に到達。張超の軍を指呼の間に捉える。
 ここに、兌州を巡る争いは、ついに最終段階を迎えようとしていた。  


 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 二虎競食(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/05/06 23:25

 兌州定陶、曹操軍本隊。
 その中心に位置する曹操の天幕は、今、氷ついたように静まり返っていた。
 原因となっている人物は2人。
 苛烈な眼差しで眼前の人物を見据える曹操と、その前にひれ伏し、深く深く、地面に頭をつけた女性。
 燃えるような緋色の髪を持つその女性は、今回の兌州の動乱の引き金を引いたと思われていた人物――陳留太守・張莫その人であった。
 周囲に座し、その張莫の姿を見つめる曹操軍の諸将は、沈痛な眼差しを張莫に注いでいた。
 この場にいる曹操軍の諸将の中で、典韋と鮑信を除けば、皆、張莫とは真名で呼び合う間柄である。
 常の颯爽とした張莫の為人を知る者たちにとって、今のうちしおれた張莫の姿は、気の毒で、正視に堪えないものに映ったのである。


 諸将の中から、1人の人物が膝を進めて、曹操に向かって口を開いた。
 曹仁、字を子孝、真名を鵬琳(ほうりん)。曹洪と並び、曹一族の重鎮として、曹操軍の屋台骨を支える1柱である。
 その曹仁は、いつものように歯切れのよい口調ではなく、ひと言ひと言を噛み締めるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ、主君に訴え出た。
「姉者。黒華殿は、妹御の謀叛に巻き込まれただけであること、陳留にて、それがし、城中の者たちより幾重にも確認をとっております。どうか、寛大な処分を下されんことを願い申し上げます」
 今回の戦いでは、経験の乏しい一軍を以って、張超の本拠地である陳留を陥落させるという軍功をたてた曹仁は、当然、自らの目で、現在の陳留城内の様子を確認している。
 反曹操の本拠地と考えられていた陳留であったが、曹仁が攻めかかった頃には、すでにその内部で破綻が生じ始めていた。そうでなければ、あれだけの防備を誇る陳留城が、短期間で陥落する筈はなかった。
 内紛の原因は幾つかあるが、そのもっとも大きな原因が、幽閉同然の扱いを受けながら、曹操への忠節をわずかなりとも曲げることのなかった張莫の態度であったことは、疑いの余地がない。
 張莫は決して曹操に刃向かうことを肯わず、結果、張超は、配下の者たちに、姉は病であると言い続けるしかなかった。
 張莫の名を慕って集まった者たちの多くが、そんな張超の言葉と態度に不審を抱き、それが城内の不和の要因となっていたのである。



 曹操と同じ金色の髪を、頭の後ろで1つにまとめ、そのまま背中に垂らした格好の曹仁は、その髪を大きく揺らしながら、それらの事実を口にして、姉に対して寛大な処分を請願する。
 だが、曹操は、曹仁の言葉に応えようとはしなかった。張莫が天幕の中に姿を現し、地面に頭をこすりつけるように跪いてから、曹操はひと言も言葉を発しようとはしなかったのである。
 それを見た曹仁は、主君であり、姉である人物が、張莫に対し、いささかの手心も加えるつもりがないことを、はっきりと悟ってしまった。
 元々、曹仁と張莫は、そのさっぱりとした気性が似通っていたこともあって、仲の良い間柄であったから、曹仁はさらに言葉を尽して、張莫の助命を嘆願しようとする。


 必死の表情で自分を見つめる妹の姿を見て、曹操はようやく、沈黙を破った。
「鵬琳」
「は、はいッ!」
「あなたの目に、私はそんなに黒華を処分したがっているように見えるのかしら」
 そう言って、かすかな苦笑を浮かべる曹操の顔を見て、はじめて天幕内の雰囲気が少し緩んだ。
 その空気が消える前に、曹操は、目の前に跪く友に向かって、口を開く。
「あなたにしては、随分な不覚をとったようね、黒華」
「……返す言葉もありません。私が頭を下げたところで、此度の不始末の責任、取れる筈もないのですが……本当に申し訳ありませんでした、華琳様」


 曹操は、そんな張莫の姿を凝視しながら、周囲の者が予期しない問いを放つ。
「その謝罪は、姉として妹を押さえることが出来なかったからかしら。それとも、将として、配下の不穏な気配を感じ取ることが出来なかったからかしら」
 曹操の問いに、張莫は少し戸惑ったように、言葉を詰まらせた。
 だが、曹操は張莫の戸惑いに構わず、さらに言葉を続ける。
「張超は幼子ではなく、れっきとした1人の将。その彼女が犯した罪を、姉だからという理由であなたが償わなければならない理由はないわ。他の諸侯は知らず、この曹操の下で、親の罪は子に及ばない。それが姉妹であっても同様よ」
 そして、もし後者であるならば、と曹操は言う。
「すなわち将として、配下の叛逆に気づくことが出来なかったことを詫びるならば、ここで頭を下げるより、やらなければならないことがある筈。それを知らないあなたではないでしょう」
 その言葉を聞いて、張莫は、はっとしたように顔を上げる。
「……華琳。では……」
 張莫の内心を映したかのように、主君への呼びかけから敬称が抜けた。
 それは敬意を欠いたゆえではなく、友としての曹操の温情を感じ取ったからに他ならない。


 張莫の声ならぬ問いに、曹操は冷厳に頷いてみせた。
「張孟卓!」
「ははッ!」
 曹操の叱咤に、張莫が畏まる。
「陳留の軍、ならびに許昌より発した軍の指揮をゆだねる。その兵を以って、反逆者である張超を討て。此度の叛乱を己が責と感ずるならば、その幕は、自身の手で下ろしてみせよ!」
「御意ッ!」
 姉の手で、妹を討てと、そう命じる曹操。
 そして、命じられた張莫は、静かに面を伏せると、はっきりと軍令を首肯したのである。
「鵬琳」
 曹操は続いて曹仁に命令を下す。
「はッ」
「あなたには孟卓の副将を命じる。その勢力は衰えたりとはいえ、一時は兌州を席巻した相手。決して油断しないように。良いわね」
「御心のままに、姉者」
 曹仁はそういうと、張莫に負けないくらい、深く頭を下げたのである。



◆◆



「なあ、秋蘭」
「どうした、姉者。うかない顔をして?」
「やはり、あの華琳様の命令、まずかったのではないか?」
 張莫と、その副将に任じられた曹仁が天幕から去ってほどなく。
 曹操は考え事があるから、と諸将に退出を促し、一人、天幕に残っている。
 夏侯惇らは、歩きながら、互いが持つ情報を手短に交換し合い、間もなく下されるであろう曹操の命令を待つことになった。
 その最中、夏侯惇が、やや言いにくそうに、夏侯淵に向かって口を開いた。
「確かに張超がやったことは許されることではないが……しかし、黒華様自身の手で、張超を討てというのは、さすがに……」
 夏侯惇は、張莫と張超の姉妹を小さい頃から良く知っている。張超の、主君である曹操に向ける不遜な態度には、常々不服を口にしていた夏侯惇であったが、同時に、あの姉妹の仲がとても良好であることも承知していた。
「妹君の追討を命じられた黒華様が、華琳様に恨みを持たれるかもしれない、か?」
「そこまでは言わんが……やはり、わだかまりは残ってしまうのではないだろうか」
 張莫が、妹の張超の態度に関して、幾度も謝罪を口にしたことを知る夏侯惇は、この件が、今後、曹操軍のしこりとなってしまうことを憂慮していたのである。


 曹操の配下に収まったとはいえ、張莫の影響力はきわめて大きい。臣下としての域を越えていると言っても良いほどに。
 そのことは、はからずも此度の件で、誰の目にも明らかとなった。もし、曹操と張莫の仲がこじれ、本気で張莫が謀反を企てた時、巻き起こる混乱は、今回の比ではないだろう。
 たとえ叛乱を鎮圧することが出来たとしても、親友を喪った曹操の悲哀はいかばかりか。それを臣下に悟らせるような曹操ではないことを、夏侯惇は知っているが、それ以上に、親友に死をもたらした自分を平然と許容できる曹操ではないことも、良くわかっていた。
 自らの主に、そんな痛みを負わせることは出来ない。
 そう考える夏侯惇は、それゆえに、今回の張莫への命令に不安を隠せなかったのである。


 当然、それは夏侯淵も同じである、と夏侯惇は考えていたのだが、当の夏侯淵は、小さく頭を振って、姉の言葉を否定したのである。
「姉者、それは違うぞ。むしろ、あれ以外の命令を下せば、その時こそ、黒華様は、華琳様に対してわだかまりを抱いてしまうだろう。たとえそれが、自らの責であると理解してはいても、だ」
「な、なに? それはどういうことだ?」
「今、姉者が言ったとおりだよ。今回の件、張超は明らかにやりすぎた。臣下が不遜な態度をとる程度であれば、華琳様とて見逃しようもあったろう。張超は、黒華様ほどではないにしても、十分に有能であったからな」
 剛腹な曹操は、有能でさえあれば、ある程度の無礼は気にも留めない。事実、これまで曹操が張超の態度をとがめだてしなかったのは、張莫の妹である、ということ以上に、張超自身の才腕に拠る面が大きかったのである。
「だが、一度、反旗を翻してしまえば、これを許すことは出来ん。そのようなことをすれば、今後、華琳様の威令に従わぬ者が続出しかねんからな」
 謀反を起こした者さえ許される。そんな先例をつくれば、今後の統治にどれだけの悪影響を及ぼすかなど、考えるまでもあるまい。
 夏侯惇が言ったように、張超の行いは許されることではない。その死は、もはや覆すことはできなかった。


 姉である張莫もまた、それを理解しているだろう。
 だからこそ、避けられない死であれば、せめて姉みずからとどめを刺させるような真似は避けるべきではないか――それが夏侯惇の考えである。
 しかし、夏侯淵はそれとは異なる考えを持っているようだった。
「仮に私か姉者、あるいは華琳様が直々に張超を討ち果たしてしまえば、黒華様はそれを当然のことと考えはしても、妹を殺した者へのわだかまりは捨てきれないだろう。そして、それは姉者の言うとおり、今後の我らにとって、大きな火種になりかねない危険を孕む」
 その言葉に、夏侯惇だけでなく、周りの者たちも小さくうなずいて、賛意を示した。
 人の心は、理屈のみで動くわけではない。たとえ、それが仕方ないことだとわかってはいても、肉親を討った者への反感を容易く消すことは出来ないし、また容易く消せるような者は、信に値するまい。
「だが、黒華様が自らの手で張超を討てば――妹をとめられなかったのは自分であり、妹を討ったのもまた自分である。すなわち、すべては己が責、誰を恨むことも出来ないと、そうお考えになられるのではないかな。そして、そのことを御自身で知っておられたからこそ、黒華様は華琳様の命令に即座に従ったのだし、華琳様もまた、黒華様がそういう方であるとわかっておられたからこそ、あのような命令を下した。私はそう思うのだよ」


「そうか……秋蘭の言うとおりか。浅慮なことを言って、すまなかったな」
 夏侯惇は小さく息を吐き、そう詫びた。
 そして、すぐに腹立たしげに拳を握り締める。
「それにしても張超の奴め、返す返すも腹立たしいわ。華琳様のような優れた主君を持ち、黒華様のようなお優しい姉君を持ちながら、謀反など起こしおってッ!」
「ああ、それに関しては全く同感だ。愚行というのもおこがましいな。まさしく愚劣としか言い様があるまい」
 こと張超に関する限り、弁護にまわるような者は曹操軍の中にはいなかったのである。





 それまで口を閉ざしていた荀攸が、ここでぽつりと口を開いた。
「あるいは、黒華様がいなければ、張超殿も、ここまで思いつめることはなかったかもしれませんね」
「む、どういうことだ、藍花?」
 夏侯惇の問いに、荀攸は「憶測でしかありませんが」と断った上で、口を開いた。
「張超殿は、黒華様を尊敬し、妹として、部下として、その下で働けることを喜んでいました。その黒華様が、華琳様の部下に収まってしまった。それも自分から。そのことが、華琳様を見る張超殿の目を、曇らせる原因だったのだと思うんです」
 もともと、張超は、姉と曹操の親密な間柄を良く思ってはいなかった。幼い頃は、おそらく他愛ない嫉妬で済ませられた感情である。
 だが、長ずるに従って、その感情は段々と尖鋭化していった。そして、年を重ねるごとに明らかになるそれぞれの力量。
 姉にも、そして曹操にも及ばない自分を自覚した張超は、なまじ他者から見れば優れた力量を誇るだけに、鬱屈していってしまったのではないか。
 それは、長い年月の間に徐々に蓄積されていき、そして尊敬する姉が、自分から曹操に頭を下げた時、おそらく臨界点に達してしまったのだろう。
 そこに、朝廷からの曹操追討の命令が来てしまった。溜まりにたまった感情が爆発してしまったのは、おそらくその瞬間。
 荀攸は、今回の張超の行動を、そのように捉えていた。


 夏侯淵が、やや戸惑ったように口を開いた。
「藍花、いやに確信がありそうだが、どうしてそこまで?」
 自信をもって言えるのか。
 そう問われた荀攸は小さく微笑んだ。
「優れた姉と、優れた主君――秋蘭様、私にとっても、張超殿が落ちてしまった陥穽は、他人事ではないんです」
 その言葉に、夏侯淵のみならず、夏侯惇や曹洪らも、ぽかんとした顔をしてしまった。
 慌てたように夏侯惇が口を開く。
「い、いや、しかし、藍花と桂花では話が違うだろう。そもそも、おまえたちの場合、明らかに妹の方が優れてい……ふが、ふが」
「姉者、話がややこしくなるので、ちょっと黙っていてくれ」
 すばやく姉の口を塞いだ夏侯淵は、改めて荀攸に問う眼差しを向けた。
「藍花が、桂花や華琳様に思うところがあるとは気づかなかったが……」


 夏侯淵の知る荀攸は、その優れた智謀をもって、政治に軍事に主君である曹操を助け、軍師である姉を補佐する、曹操軍にとってなくてはならない人物である。それは夏侯淵のみならず、曹操軍に在籍するすべての者たちにとって、共通の認識であるといってよい。無論、そこには主君である曹操も含まれる。
 また、人柄に癖のある荀彧とは異なり、他者に対しても温和なので、こと人望という点においては、むしろ荀彧を凌いでいるくらいなのだ。


 つまり荀攸は、張超のように姉に依存したり、あるいは主君にたいして隔意を示すような真似をする必要はないのである。
 その荀攸が、張超に対して理解を示した。それは、夏侯淵としても見過ごすことが出来ない事態であった。
 しかし、そんな夏侯淵のひそかな緊張に気づいた荀攸は、慌てたように両手を顔の前で左右に振った。
「あ、いえ、秋蘭様。別に張超殿に同情したりとか、気持ちがわかるとか言っているわけじゃないですよ。あ、でもそう思われても仕方ないようなこと言いました? えーと、そうじゃなくて、つまり私が言いたかったのは、愛情であれ敬意であれ、人の感情には裏面があるということなんです」
 好きな人が、他の人間をほめれば面白くないだろう。
 尊敬している人が、他の人間に頭を下げれば苛立ちもするだろう。
 張超の場合、姉である張莫への敬愛が、そのまま主君である曹操に対する悪感情につながってしまっただけで、姉のことがなければ、張超は、あれほどまでに曹操を嫌うことはなかったのではないか。むしろ、曹操の忠臣となっていた可能性さえある、と荀攸は考えていた。
「多分、心底では、張超殿は華琳様を尊敬しています。あるいは、憧れています。だからこそ、余計に悪意が増幅してしまったのでしょう」
 その意味では、比類なき姉と主君を同時に持ってしまったことが、張超にとっては不運であったのかもしれない。


 無論、それだからといって、張超の採った行動が正当化されるわけではないのだが、しかし、今回の件も、もし朝廷が陳留の姉妹を首謀者に据えようとはかったりしなければ、あるいは未発に終わったかもしれない、と荀攸は考える。
 それゆえ、荀攸の怒りは、張超よりも朝廷の狐狸に向けられていた。今頃は、荀彧によって一掃されているであろうが、あの者たちが余計な火種を投じなければ、張家の姉妹は、危うい綱渡りを、ついに最後まで落ちることなく渡りきれていた筈なのに、と。
 その意味で、彼らは的確に、曹操軍のもっとも弱い箇所を衝いてきたことになる。
 そして。
 そのことが、荀攸の鋭敏な頭脳の片隅で、ずっと引っかかっているのである。


「む? どういうことだ、それは?」
 ようやく夏侯淵の手から解放された夏侯惇が、荀攸の話の展開についていけず、首を傾げる。
「私も気になります。藍花、それはどういう意味ですか?」
 それまで口を閉ざしていた曹洪も、ここに来て黙っていられなくなったようであった。
 彼女らに向かって、荀攸は自らの思考を振り返るように、ゆっくりと語りだした。


「征東将軍任命にはじまる、此度の一連の出来事が、華琳様排斥をもくろむ朝廷の一派によって画策されたことは、もはや疑うべくもありません。勅命によって華琳様を青州黄巾党にぶつけて、その戦力を削ぎ、一方で陳留勢を用いて、兌州の地盤を奪う。張超様はその計画に加わり、呂布殿の武力を切り札として、起兵した。陳留での戦いの後の兌州攻略の手際も見事でした。それら1つ1つをとってみれば、おかしなところはありません」
 荀攸はそう言って「しかし」と言葉を続けた。
 だからこそ、引っかかるものがある、と。


 正式に勅命が発された以上、皇帝の近くに今回の件の首謀者がいることは明らかである。
 だが、現在、皇帝の近くにいる者たちは、宮廷での遊泳こそ優れているものの、軍事の機微など知らぬ者ばかり。しかるに、そんな彼らが、決起の実行者に張超を選んだ。
 張超であれば、曹操軍の諸将は触れることをためらい、姉である張莫も、多少のことは目を瞑ろうとするだろう。結果として、事が露見することはなかった。張超以外の者であれば、こう上手くはいかなかったであろう。しかし、朝廷の狐狸が、そこまで見抜いたということ、荀攸にはこれが解せない。



 次に、事実上、今回の挙兵の最大の要因である呂布のことである。
 張超の下で匿われていたと思われる呂布だが、董卓軍敗亡以後、どこをどのようにさまよっていたのだろうか。
 呂布の武勇、また気性から推して、張超に忠誠を誓うということは考えにくい。おそらく、呂布たちは朝廷の動きを知っていた。知った上で、張超に協力するという形をとったのであれば、呂布が張超の下についてから、さほど時は経っていない筈である。
 呂布なくして曹操軍を打ち破ることは出来なかったことを考えれば、ずいぶんと都合よく、呂布が現れたものだ、と荀攸は思うのである。
 

  
「朝廷が張超殿を選んだことに関しては、あるいは、単に曹操軍の中で、主君である華琳様に不満を抱いていそうな者という程度の理由で選んだのかもしれません。呂布殿のことも、あるいは本当に時期が合致しただけ、という可能性もあります。繰り返しますが、1つ1つをとってみれば、さほど不自然なことではないのです。しかし、青州遠征から今日まで、敵の動きは、あまりにも見事に連動していました」
 荀攸は言う。
 1つ1つをとってみれば、不自然ではない。だが、不自然ではないことが連動し、曹操軍を巨大な陥穽に落とそうとした。
 それはすでに偶然の範疇から大きく逸脱している。敵の策略の、最初から最後まで、一本の芯が通っていると考えなければ、納得しがたいほどに。


「演劇に例えて言うならば、朝廷の狐狸、張超殿、呂布殿。そのいずれも、それぞれの場面においては稀有な力を発揮する名優ですが、しかし舞台全体を取りまとめる力はありません。誰か、脚本を書き、演出をほどこした者が、他にいるように思えてならないのです」
 そして、もし、私の危惧があたっているのだとすれば――荀攸はかすかに身体を震わせた。
「その者の才、尋常ではありません。諸方の事情に通じ、時期を見計らい、なおかつ切り札は戦いの寸前まで伏せられていた。ある意味、華琳様さえ凌いだと言っても言いすぎではないでしょう。にも関わらず、ここまで来て、その名前さえ出てこない。私は、それが怖いのです」
 曹操軍において、1、2を争うといわれる軍師である荀攸。その荀攸が、奇妙な悪寒に身体を震わせている。
 それを悟った同僚たちは、互いに顔を見合わせ、声も出なかった。
 夏侯淵でさえ、それは例外ではない。荀攸の言葉に触発されたように、奇妙な寒気を覚えたほどであった。


 だが。
「はっはっは、藍花、そんなに心配することはなかろう」
 1人、場の空気に染まらず、荀攸の言葉を笑い飛ばしたのは、誰あろう夏侯惇であった。
「そ、そうでしょうか?」
 自身の不安を、あっさりと笑い飛ばされ、荀攸は戸惑ったように首をかしげた。
「うむ。仮に、誰かが何かを企んでいたとしても、結局、我らはその企みを打ち破ったではないか。兌州はほぼ取り戻した。陳留もまた同様だ。朝廷でも、桂花のやつが上手いことやっているのだろう? 黒華様のことだけは、残念だったが……今回の叛乱が起きる前に比べ、むしろ我らの力は強くなっているではないか。それは華琳様を筆頭に、我らが力をつくしたればこそ。こそこそと舞台の裏で蠢いているような奴に、華琳様の天道を阻止できぬ所以だ」
 夏侯淵が、ほう、と感心したように微笑んだ。
 夏侯惇はそれには気づかず、荀攸の頭をぽんぽんと軽く叩いて、もう一度、心配することはない、と繰り返した。
「私には難しいことはわからんが、姿を見せることのない臆病者に、藍花が怯える必要はないと思うぞ。大体、その手のやつは自分の策におぼれて退場していくものだ。あの、王允とかいう奴みたいにな」
 かつての司徒を「とかいう奴」とはずいぶんな言種であったが、夏侯惇の陽気な言葉は、荀攸の感じていた不安をとかしてしまう温かさを持っていた。
「はい。春蘭様、ありがとうございます」
 荀攸が、ほっとしたように表情を緩め、夏侯惇に礼を言った。





「あら、春蘭に先を越されてしまったようね。折角、藍花を慰めてあげようと思っていたのに」
 曹操軍の諸将は、その声を聞き、慌ててかしこまる姿勢をとった。
 夏侯惇がいぶかしそうに口を開く。
「華琳様、お一人になられるのではなかったのですか?」
「そうしようと思ったのだけれど、我が軍の将たちが、何やら深刻な顔で話し合っていると聞いてね。何か意見があるのかと聞きに来たのよ」
 曹操の言葉を聞き、荀攸は、はっと表情を強張らせた。
 話を長引かせたのは、間違いなく荀攸であるからだったが、曹操は別にそれをとがめだてする気はなさそうだった。
 それどころか、つい先刻とは異なり、ずいぶんと機嫌が良さそうに見える。
「やはり、春蘭は素敵ね。あなたがいる限り、曹家の軍が失意と諦観に陥ることは決してないでしょう」
「か、華琳様にそこまで褒めていただけるとは、光栄ですッ! ……けど、私、何かしましたか?」
「ふふ、そういうところが素敵だと言っているのよ」
「は、はあ……」
 首を傾げる姉に、夏侯淵が微笑んだ。
「姉者は姉者らしく。華琳様はそれが良いと仰せなのだよ」
「む、そうか! よし、ならば早速、この手で呂布を討ち取ってみせよう!」
 何やら意気軒昂に叫ぶ夏侯惇に、さすがに夏侯淵も呆気にとられた。
「ま、待て、姉者、今の話のどこから呂布が出てくるのだ?」
「いや、なに。元々、虎牢関での借りを返したくてならなかったのだが、戦の勝利が第一だと辛抱してたのだ。だが、やはり私に忍耐は似合わん。華琳様の大剣として、中華最強の称号、呂布めから奪い取ってやるのだ! どうだ秋蘭、いかにも私らしいだろう」
「む、確かにそれは姉者らしいが、私が言ったのはそういうことではなくてだな……」


 姉をたしなめようとする夏侯淵だったが、賛同の声は、思わぬ人物からあがってきた。
「いいでしょう。春蘭、あなたには呂布討伐を命じるわ。呂布の首、我が前に捧げなさい」
「御意!」
「優琳、春蘭の補佐をお願い」
「はッ、承知いたしました」
 勢いこんで出て行く姉と、曹洪の後ろ姿を気遣わしげに見送った夏侯淵は、物問いたげな眼差しを主君に向ける。
 曹操はそれに答えて、口を開いた。
「おそらく、我が軍に包囲された段階で、呂布は張超と袂を分かつ筈。飛将軍を討ち取るには、今はまたとない好機でしょう」
「は、それはわかるのですが、呂布相手に、姉者と優琳様の二人だけでは……」
「心もとないかしら?」
「……はい。正直に申し上げれば、二人だけでは、呂布を討つのは極めて困難ではないかと」
 夏侯淵の憂慮に、曹操は軽く首を横に振った。
「確かに、虎牢関で戦った当時の呂布なら、春蘭たちだけでは手に負えなかったでしょう。でも、今の呂布はかつてほどの鋭利さはない。むしろ、春蘭一人だけで事足りるかもしれないわ」


 夏侯淵は、曹操の言葉を聞き、確かめるように問いかけた。
「それは、直接、刃を交えられて得た結論でしょうか?」
「ええ。董卓の下で、ただ戦っていれば良かった頃とは違う。一個の勢力の長として、今の呂布は迷走している。それを、呂布自身、わかっているのでしょうね。そのことが、武人としての呂布の枷になっているのでしょう」
「君主たるもの、ただ勝てば良いだけでは済まされませんか」
「そう。いかに味方の死傷者を少なくするか。いかに敵兵を追い詰めるか。敵の兵とて民であり、勝利した暁には自らの力となる。ただ殺し、ただ奪えば良いというものではない。力まかせに戟を振りかざしていた呂布としては、今の戦いはもどかしくてならないのでしょう」
「そして、姉者はそんな迷いとは無縁に、一心に戦える――勝敗は明らかというわけですね」
「そういうことよ。ただ――」
「はッ」
「そんなに心配なら、秋蘭も一緒に行きなさいな。私はこの後、濮陽城の元常殿に会い、状況を確かめてから許昌へ帰還する。秋蘭の補佐が必要になることはおそらくないでしょう」
 曹操の言葉に、夏侯淵は嬉しそうに頭を下げる。
 曹操が自ら戦って感じ取ったことを疑うわけではなかったが、やはり虎牢関で呂布と直接、刃を交えた身には、あの武は脅威に感じられるのである。
「では、華琳様。夏侯妙才、しばし、お傍を離れさせていただきます」
「ええ、春蘭、優琳、そして秋蘭が出るのだもの。戦果を期待させてもらうわ」
「御意、お任せください」
 折り目正しく一礼するや、夏侯淵は踵を返して姉たちの後を追った。


 その背を見送った曹操は、残った配下の一人に声をかけた。
「藍花」
「はい、華琳様」
「あなたが感じたという悪寒、少し気になるわ。秋蘭に言ったように、ここからは少し時間に余裕を持てるでしょう。あなたは、そちらの調査をしてちょうだい。春蘭の言うとおり、気にする必要はないとは思うのだけど……」
 曹操は、めずらしく歯切れの悪い口調で、言葉尻をすぼませた。
 だが、荀攸の言を聞いてから、妙な胸騒ぎがすることも確かである。この件は、あるいは放っておくと、後の大害になるかもしれない。曹操は、自らの直感を信じることにした。
「御意。早急に調べ上げます」
「よろしくね。鮑信殿は、兌州の知人にあたってもらえるかしら。今回の乱で、どのような勢力の、誰が接触してきたのかを聞き出して」
「承知いたしました。ただ、いかなる情報を聞いても、罪とはせぬとのご許可を賜りたいのですが」
「そのあたりの差配は一任するわ。情報を得ることを第一義として、詳しく調べ上げて」
「御意、お任せくださいませ」




「さて……気のせいだと言いのだけれど」
 曹操は、小声で呟きつつ、天幕の方へと引き返した。
 家臣たちを諸方に遣わした以上、曹操のやるべきことは、いくらでも溢れかえっている。
 典韋を従えて、歩を進める曹操の目は、地平の彼方に沸き出でる黒雲の影を、かすかに捉えていた……



◆◆



 張超は、雍丘城の城壁から、眼下に重厚な包囲網を敷く曹操軍を見やった。
 林立するは『曹』と、そして『張』の旗。
「……四面楚歌、か。あるいは、古の覇王も、こんな気持ちだったのかも知れない」
 張超はぽつりと呟き、自らの言を顧みて苦笑をもらす。
 戦い続け、勝ち続け、しかし最後の一戦で敗れた項羽とは異なり、張超は濮陽城からこちら、ずっと負け続けている。比較される覇王も迷惑な話だろう、そう思ったのだ。


「張超様」
 そんな張超に声をかけてきたのは、配下であり、そして腹心でもある臧洪だった。
 陳留での決起からこちら、張家ではなく、張超に忠誠を誓ってくれた、数少ない配下の一人である。
「臧洪、どうだった?」
「は。雍丘に逃げ込んだのは、およそ3百名。残りは討たれたか、あるいは……」
「あるいは、姉上の陣に駆け込んだか、そのいずれか、ね」
「……御意」
 臧洪はかすかにうつむきつつ、首肯した。


「よい。いずれにせよ、こちらの敗北はもう動かない。張家の兵士が、元の主の下に戻っただけのこと。目くじらをたてることでもない」
 そもそも、彼らをあざむいたのは私の方なのだからな、と張超はどこか落ち着いた様子で呟いた。
 それを見て、臧洪はかすかに身体を震わせる。どこか悟ったような張超の姿に、不吉な予感が拭えなかった。
 それゆえ、言わずもがなのことを口にしてしまう。
「呂布殿がいてくれれば、いま少し戦いようもあったのですが……」
 だが、張超は、そんな臧洪の未練を聞き、小さく微笑んだ。
「ふふ、臧洪らしくもないことを。呂布たちに、私に殉じる理由はない。あのこましゃくれた軍師のことだ、いずこかの地で、また再起を志しているのだろうよ」
 臧洪もまた、自らの言に苦笑する。
「御意。今さら、ここにおらぬ者の名を挙げても仕方ありませんな」
 今は、ここにいる者たちだけで、この窮地を乗り切るよう努めねば。
 臧洪がそう続けようとした時だった。


「臧洪」
 主の手が、そっと額に伸び、そこに残った傷跡に触れた。
 濮陽城の戦いに先立ち、張超が憤激のあまり、酒盃を投じてつけてしまった傷だった。
「すまなかった。そして、これまでのそなたの忠勤に、心から感謝する」
 そういって、頭を下げる張超。
 それを見て、臧洪は慌てに慌てた。権高な張超が、姉以外に頭を下げるところなど、臧洪でさえ見たことがなかったのだ。
「ちょ、張超様、おやめくださいませ。この身は御身の臣にござる。忠を捧げるは当然のことであり、感謝されるようなことでは……」
 うろたえる臧洪に、張超は子供のように澄んだ笑みを向けた。
「相変わらず、己への評価が低いな。姉上の下でも、孟徳の下であったとしても、そなたの才は秀でていよう。二人の臣下にとどまっておれば、今頃は、城の一つも得られていたというのに」
 だが、と張超は言葉を続けた。
「そなたがいてくれたからこそ、私はここまで来られたのだと思う。至らぬ主のせいで、そなたまで叛逆者の汚名を着せてしまったこと、返す返すも残念でならぬ――ありがとう、臧洪、もう、十分だ」


「……張超様」
 張超の言葉を聞いた臧洪は、その意を悟って声を詰まらせた。
「この地に残った兵を束ね、そなたは姉上の陣に投降せよ。ここまで主君に忠誠を誓い、戦い抜いた将兵だ、姉上も、孟徳も、むげには扱わぬ」
 姉はもちろん、曹操の度量もまた大きい。張超とて、そのくらいのことはわかっていた。
 臧洪は、張超の言葉を黙然と聞いていたが、しばし後、ゆっくりと頭を垂れた。
「御意にございます――が、兵を束ねる者は、別にそれがしでなくとも構いませんでしょう。それがしは、最後までお供仕りたく」
 臧洪の請願に、張超は顔を綻ばせながら、それでも首を横に振った。
「ならぬ」
「張超様ッ」
「ならぬと言ったら、ならぬ。そなたには、やってもらわなければならぬことがあるのだ」
 臧洪はその言葉に、かすかに戸惑いを示した。
「それがしに、何をせよと仰せられますか?」
「此度の件の詳細を、姉上と……孟徳に知らせること、だ。特に、姿を消した李儒の動き、細大もらさず伝えてほしい。あれは、放って置けば国を腐らせる類の者だ。それに、董卓軍に属していた筈の奴が、どうやって朝廷の大官どもに取り入ったものか、その不透明さも気にかかる。あるいは、奴の後ろにも、まだ誰かおるのやもしれん。そのあたりのことを、姉上たちに伝えてさしあげてくれ」
 張超はそう言いながら、再び眼下の曹操軍に視線を転じた。
「――私が言って良いことではないが。あのような小物に、姉上たちの天道を汚されるところを見たくはない。それがたとえ、冥府からの眺めであったとしても、な」


 しばらくの沈黙の後。
 臧洪は、背を向けた張超に向かって、静かに頭を垂れた。
 そして、嗚咽をこらえ、その場を立ち去ったのである。





 臧洪が、かすかな未練を残しつつ立ち去った後、張超はしばらく、その場にとどまっていたが、やがて本営に戻るために踵を返す。
 もっとも、将兵が去った軍に、本営も何もありはしないだろうが。
「……む?」
 そんなことを考えていた張超は、ふと違和感に気づいた。
 臧洪が去ってから、まださほど時は経っていない。城に残った兵は、投降の準備をしている筈だ。
 それにしては、いやに静かな気がする……


 物々しい甲冑の音が沸き起こり、張超は咄嗟に懐剣に手を伸ばす。
 現れたのは、張超に従って、この城まで逃れてきた兵士たちであった。
 その目は血走り、険悪な雰囲気をかもし出している。間違っても、主に対する態度ではない。
 彼らに周囲を取り囲まれた時、張超はすでに事態を悟っていた。
「――はやまったな、貴様ら」
 後一日、我慢していれば、無事に陳留に戻れたものを。
 張超はそう思いつつ、懐の剣から手を離した。
「貴様らをそこまで追い詰めたのは、私だからな。この首、欲しければくれてやろう。したが、それをすれば、おそらくお前たちの命はないぞ」
 大方、目の前の兵士たちは、命欲しさ、そして手柄欲しさでついてきた者たちなのだろう。そのようなことをせずとも、姉たちは将兵を罰しはしない。むしろ、最後の最後で裏切るような者をこそ、処罰の対象とするに違いない。


 だが、張超の言葉にも、兵士たちは動じる気配はなかった。
 むしろ、薄笑いさえ浮かべて、張超に剣を向ける。
 怪訝そうに眉をしかめた張超の眼前に、どさりと投げ出されたモノがあった。それは、つい先刻、別れたばかりの腹心の――臧洪の、首であった。
「くッ」
 張超は、それを見て、唇をかみ締める。
 大将の首を手柄と考えるならば、その腹心の首もまた、手柄と考えるだろう。
 兵士たちに取り囲まれた時点で、半ば覚悟はしていた張超だったが、実際に臧洪の首を見ると、平静ではいられなかった――自らの命を惜しんだのではなく、臧洪ほどの人物を、こんなところで朽ちさせてしまった悔恨ゆえに。


 悔恨は、時をおかずに怒りへと変じた。
 彼らを追い詰めたのが自分の愚かさゆえであるとしても、股肱の臣を討ち取られた怒りに耐えなければならない理由はない。
「これで、貴様らの死は定まったな。姉上に首を刈り取られるまでのわずかな時間、偽りの栄華の夢でも見ているが良いッ!」
 懐剣を抜き放った張超だったが、周囲の兵士たちが持つ得物に比べれば、貧弱さは目を覆わんばかり。おそらく、一人二人道連れにするだけで精一杯であろうが、それでも構わない。
 そう考え、叛乱兵たちに向けて、足を踏み出そうとした瞬間であった。


 張超の右の横腹に、焼けた鉄を差し込んだかのような、鈍い激痛が走った。
 背後から近づいていた何者かが、声もなく刃を突き刺したのだ。
 それを理解した瞬間、張超の口から、血が溢れ出た。
 背後の人間が、さらに強く刃を抉りこんでくる。
「ぐッ、がはッ!」
 耐え切れず、張超は血を吐き出したが、血はあとからあとからこみ上げてきて、尽きる様子がない。
 胸奥からせりあがってくる不快感と、吐血の苦しさに、たまらず張超は地面に倒れこんだ。


 背後から襲ってきた兵士が、そんな張超の傍らに座り込み、張超の血に塗れた刃を、今度はその首筋にあてる。
 激痛にかすむ視線の先で、その兵士の顔を見た張超が、目を瞠った。
「き、さ……り……」
 だが、その兵士は、張超に何一つこたえることなく、無造作に刃を左から右へ、まっすぐに動かした。
 張超の目から、光が消えていく。
 残された最後の力で、兵士に向かって手を伸ばそうとするが、その手は兵士の身体に達する前に動きを止め、地面に落ちた……




 この日、張超が篭る雍丘城から、突如火の手があがる。
 城内に火の手を見た張莫と曹仁は、状況を悟り、すぐさま城門に攻め寄せ、これを開け放ったのだが、その頃、すでに城内は炎に包まれており、もはや手のほどこしようがない有様となっていた。
 数日後、ようやく火の手が収まった城内に足を踏み入れた張莫は、その惨々たる光景の中、本営があったとおぼしき場所に足を運んだ。
 そこには、味方同士で相討ったと思われる将兵の屍が散乱していたが、いずれも顔と言わず、身体と言わず焼け焦げており、誰が誰であるのかの判別は、すでに不可能であった……




◆◆
 

 
 
「……文遠様、ご無事だと良いのですが」
「…………ん」
 高順の力ない呟きに、呂布は小さく頷いたが、その返事も高順同様、強い意志に欠けたものであった。
 許昌、済北、そして定陶の三方から囲まれた曹操軍の包囲下に置かれては勝算なしと考え、戦場を逃れた呂布軍であったが、曹操軍の追撃は正確をきわめ、どこに隠れ潜もうと、必ず呂布軍を捕捉してきた。
 力ずくで退けようにも、青州軍を基盤とし、猛将夏侯惇に率いられた曹操軍の精鋭を相手に出来るだけの力は、すでに呂布軍にはなく、曹洪の情報網から逃れることも出来ず、夏侯淵の猛追に兵力をすり減らされ、今や兌州で培った兵力の大半を失うに至っていた。


 失ったのは、兵のみではない。呂布に従う将は、高順と陳宮の2人のみ。張遼は、曹操軍の追撃を阻むため、数日前から別行動をとっているのだが、いまだ合流してこないところを見ると、おそらくすでに討たれたか、あるいは捕らえられたか。
 高順はそんな嫌な予感を振り払うように、張遼の無事を念じた。
 

 その高順の隣では、呂布軍の軍師である陳宮が、もう何度目になるかもわからない謝罪の言葉を口にしていた。
「…………うう、も、申し訳ありません、恋殿」
 傷心と悔恨に打ちのめされ、見るも無残にやせ衰えた陳宮。
 濮陽城の敗戦後、陳宮はずっとこんな調子であった。
 食事だけはとっていたが、それも呂布が強いなければとろうとしない有様だった。
 陳宮は一行の中でもっとも年齢が低く、身体も出来上がってはいない。眠ることも出来ず、ろくに食事をとっていないとなれば、身体の調子はすぐに崩れてしまうだろう。


 だが、呂布も、そして高順も、今の陳宮の心に言葉を届かせることは出来なかった。
 濮陽城を陥とすことが出来なかったこと、そして兌州で培った勢力のほとんどを失ってしまったことを、軍師としてひたすら悔やみ続ける陳宮の苦悩は、それだけ深かったのである。
 くわえて、曹操軍に追われ、輜重隊も散り散りになり、そもそも食すべき兵糧にも事欠いているのが現状である。
 わずかに付き従う兵士たちも、休息の度に数を減らしており、もう両手で数えられるだけの兵士しかいなかった。
 もし、今、曹操軍の襲撃を受けてしまえば、凌ぐことは出来ないだろう。一刻も早く、兌州から逃げ出さねばならないが、しかし、兌州を出てどこに行けば良いのか。
 陳宮は今後の方針をたてられる余裕はなく、呂布もまた進んで進路を決める性格ではない。
 となれば、その役割を担うのは、高順しかいなかった。


 だが、幸いにも、高順には一つだけ当てがあった。
 兌州に隣接する徐州・小沛城の城主に任じられた者の名を、つい最近、知ったのである。
「私たち呂軍を受け入れてくれるかどうかはわかりませんが、新しく小沛の城主となった玄徳様ならば、少なくとも、私たちのことを曹操さんに突き出したりはしないでしょう。このまま兌州にとどまれば、曹操さんに捕まるのを待つようなものです。ここは、玄徳様を頼って、小沛に向かいませんか?」
 高順の提案に、呂布は小さく首を傾げたが、傍らでワンと吼えるセキトを見て、こくりとうなずいた。
 一方の陳宮はというと。
「ねねには、反対する資格なんてないのです……」
 と、しょぼくれてしまい、何を言っても力ないため息を吐くばかりであった。


 かくて、呂布たちは曹操の追撃をかわしつつ、徐州を目指していたのだが、度重なる曹操軍の猛追のため、すでに呂布たちの心身の疲労は限界に達しつつあった。
 まもなく、兌州と徐州の州境だが、おそらく曹操軍はそこにも網を張っている筈。そこを突破することが出来るかどうか。仮に突破したとしても、追撃を止めるかどうか。今の曹操は朝廷を背後に背負っている。多少の無理を通すことが出来る立場なのである。
 考えるほどに、呂布たちの気持ちは暗くなるばかりであった。





 陳宮は、とぼとぼと山道を歩いていた。
 上空は厚い雲が垂れ込め、地上は暗闇の腕に抱かれている。
 足元が定かでない山道を歩くのは、危険なことであったが、今の陳宮に、そこまで思慮を働かせる余裕がある筈はなかった。


「……全部、ねねのせいなんだ……」
 歩きながら、出てくる答えは、これまでと変わらない。
 呂布の為に、と精魂こめて練り上げた策は、あっけなく敵に見透かされ、それどころか曹操軍に乗じる隙を与えてしまった。
 あの時、独立だの何だのを考えず、張超と共に力を尽くしていたら、あるいは今、陳宮は濮陽城の城壁に立つことが出来ていたのかもしれない。
 だが、現実は現実。
 今、陳宮らに従う兵は数人。兵糧はなく、天下無双の主は、動物たちに食事をあげているため、自慢の武勇の半分も発揮できない状態である。
「……ううぅぅぅぅッ!」
 呂布の武勇も、将軍としての力量も中華随一のもの。そこに疑問の余地はない。
 であれば、現在の状況を招いたのは、すべて軍師である陳宮の責任である。少なくとも、陳宮はそう考え、己を責めずにはいられなかった。


「結局、高順の方が、恋殿の役に立てるんだ……」
 陳宮が今後の策を述べなかったのは、何もすねていたわけではなく、とるべき道がまったく思い浮かばなかったからである。
 だが、高順はふとした情報と、自分の人脈で、この状況から脱する策を考え付いてしまった。
 セキトたちも賛成だったのか、明らかに嬉しそうだったし、呂布もそんな動物たちを見て、すぐに同意していた。
 自分がいなくても、呂布たちには問題はないのかもしれない。そう思ってしまった陳宮は、こっそり陣を抜け出してきたのである。
 逃げ出そうと思ったわけではなかったが、むしょうに独りになりたかった。

 
 
 だが、それは失敗だったかもしれない。
 闇に包まれた山中は、陳宮の塞ぎこんだ心を、さらに重く、暗い方向へと導いていくかのようだった。
 ふと、我に返った陳宮は、あたりを見回し、自分が呂布たちからずいぶんと離れてしまったことに気がついた。
 あまり離れては、呂布たちに心配をかけてしまうかもしれない。
 そう思って、やや慌てて踵を返した陳宮だったが、すぐに戸惑ったように足を止めていた。
 上空では厚い雲が垂れ込め、星月の明かりは地上に届かない。
 暗闇に包まれた山中にあって、陳宮は、すでに自分がどこから来たのかがわからなくなっていた。
「……れ、恋殿?」
 思わず、主の名前を呼んだ陳宮だったが、その声は、暗闇の中に吸い込まれるように消えてしまった。
 四方にわだかまる闇が、ほくそえんで自分を見つめているような、そんな奇妙な錯覚にとらわれた陳宮は、今度はもっと大きな声で仲間たちを呼んでみた。
「恋殿! 高順ッ! セキト、ど、どこにいるのですッ?!」
 だが、返ってくるのは、耳が痛いくらいの静寂だけであった。そんな静寂の合間に、ときおり、森の獣の奇妙な声が遠くから響いてくる。


「…………ひッ」
 傷心と、寂寥と、暗闇の恐怖が、ゆっくりと陳宮を蝕みつつあった。
 声を出したことが、かえって己の孤独を再認識させてしまったのかもしれない。
 あたかも、呂布と出会う前の孤独な自分に逆戻りしてしまったかのように、陳宮には思われてならなかった。
「や、やだ……」
 両手で自分の身体を抱え込んだ陳宮が、静寂に耐えかね、大声をあげようとした時のこと。


 不意に、暗闇の奥から声がした。


「――陳公台殿と、お見受けする」
 それは、異常な問いかけだった。何故、こんなところに人がいるのか。何故、暗闇の奥から陳宮の姿を見て取れたのか。
 何よりも――何故、陳宮が陳宮であることを知っているのか。
 だが、恐慌に陥りつつあった陳宮は、人の声が聞こえてきた安堵で、そういった種々の疑問を抱くことが出来なかった。
 おぼれた者が、差し出された藁を掴もうとするように、懸命にその声にすがりつく。
「だ、誰、ですか?」
 その問いかけに従って陳宮の前に姿を現したのは、一人の青年だった。
 端整な容姿に、親しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと陳宮に歩み寄ってくる。
 その笑みに救われたように微笑み返す陳宮は、その青年の異様さに、とうとう気づくことが出来なかった。
 そして、青年は、ゆっくりと口を開き、己の名前を告げたのである。



「――于吉、と申します。お見知りおきを」
 


 陳宮の頭上で、雲が風に流され、月が姿を現した。
 夜天から地上に投げかけられた月光に照らされ、于吉と名乗った青年の姿を照らし出す。
 その口元に浮かぶのは、三日月の形をした、微笑み……
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 月志天貂(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/05/06 23:22
 

 それは、劉家軍が小沛に移って、しばらく後のこと。
 ようやく入場当初の騒ぎも下火になり、玄徳様や関羽をはじめとした諸将も、本来の自分たちの役割に戻ることが出来るようになった頃であった。
 城の中庭にある東屋で、おれは見知らぬ少女に声をかけられ、戸惑っていた。


 ――小沛城に住む馬具職人に、公孫賛から譲り受けた鐙を見せ、その機能と使い心地を説明し、兵士たちから集めた改善点を伝えて、小沛での生産体制を整える。
 字にすれば簡単そうな仕事にとりかかったのが、朝早く。だが、実際は結構大変だった。まず、鐙を見た職人さんたちが大騒ぎになってしまったのである。「まさかこんな簡単なことで」とか「どうして気づかなかったんだッ!!」とかいう声が飛び交い、しょっぱなから時間をとってしまったのである。
 一体誰がこれを作ったのか、と興奮したように詰め寄ってくる職人さんたちは、正直怖かったデス。
 これで、おれが発案した、とか言おうものなら、収拾がつかなくなりそうだったので、とりあえず公孫賛からもらった、という事実だけを伝えることにした。
 さすがは白馬将軍殿、と職人さんたちは感心しきりであったが、とりあえず、伝えるべきことを伝えたおれは、量産に必要となる予算を早めに計算してほしいと言い残し、城に戻ってきたのである。


 そこで、ほっと一息ついているところに、件の少女に声をかけられたのだが、正直、ちょっと見覚えがない。ここにいる以上、城の人間だとは思うのだが――しかし、どっかで見た気もするんだよな。
 おれの戸惑いを察したのか、目の前の少女は、どこか困惑した様子で口を開いた。
「あ、あの、北郷さん、どうかしたんですか?」
「へ? あ、いや、そのですね」
 まさか、あなたが誰かわからなくて困ってる、とも言えない。おれの顔と名前が一致してるところを見ると、多分、劉家軍の人だと思うが、はて?


 思わず触りたくなるような、綺麗な白銀色の髪。それを、頭の後ろで束ねた、いわゆるぽにーてーるという髪型をした少女。
 ぱちりと開かれたその瞳は、磨かれたばかりの紫水晶もかくやという美しさ。まるでお人形さんのような愛らしさが――
 と、そこまで考えて、おれはやっと目の前の人物が誰か気づいた。
「仲頴(董卓の字)?」
「は、はい?」
 思わず顔を見合わせるおれと董卓。
 とりあえず、何から聞こうかと考えたが、やはりこれだな。
「イメチェン?」
「い、いめ……? あの、北郷さん、どういう意味なんでしょう、そのいめちぇんって」
 董卓は不思議そうな顔で、小首を傾げるのだった。
 


 聞けば、董卓は、劉佳様から「たまには、羽を伸ばしていらっしゃい」と半ば強引に部屋から送り出されてしまったそうな。
 髪型を変えたのは、万一、董卓を見知った者が小沛にいたとしても、すぐには気づかれないように、との配慮だそうだが……
「かえって目立ちそうだけどな」
「え、ど、どこか変でしょうか?」
 案外気に入っていたのか、ちょっとしょげた様子で、髪に手をやる董卓。
 おれは慌てて、その勘違いを正した。
「あ、いや、そうじゃなくてね。なんというか、似合いすぎてて、注目を集めそうって意味」
「……え、え、ええッ?!」
 今度は照れて顔を真っ赤にしてうつむく董卓。いかん、可愛い。
 とはいえ、もちろん、董卓の可愛さを堪能するために偽りを言ったわけではない。
 実際、おれが董卓と街ですれ違えば、絶対振り返る。
 董卓の淑やかさと、ポニーテールという、どこか活発な印象を与える髪形の組み合わせが、実にこう、心の琴線に触れてくるのである。


 恥ずかしさをごまかすためか、董卓がやや慌てたように口を開いた。
「あの、お茶、おいれしましょうか?」
「え? あ、いや、外に出るんだろ。おかまいなく」
 せっかくもらった休暇なのに、仕事をしないでも、と思ったおれが遠慮すると、董卓は少し困ったように微笑んだ。
「外に出ないといけない用事はないですし……それに、劉佳様は大丈夫と仰ってくれましたが、万一にも私の正体がばれたら、大変なことになってしまいますから」
 その董卓の言葉を聞いて、おれは緩んでいた表情を、知らず引き締め直していた。


 董卓はいまだ世間的には洛陽の苛政の責任者と考えられている。許昌に移った朝廷は、王允を討った曹操の行動に関しては正当性を認める旨の布告を出しているが、その他の王允の策略に関しては口を閉ざし、董卓や賈駆がその下で傀儡にされていたことを知る者は少ない。
 だからといって、董卓たちの方から、それを明らかにすることもまた出来ない。なぜなら、それを主張すれば、どうして王允に唯々諾々と従ったのかの理由を問われることは必定であり――皇帝殺害の大罪が、天下に明らかにされてしまうからである。


 劉家軍に匿われ、賈駆と共に劉佳様の傍で過ごした穏やかな時間で、董卓は、時折、微笑みを浮かべることが出来るくらいには、心の傷を癒せたようだった。しかし、罪の意識から解き放たれたわけではないことは、事あるごとに曇るその表情を見れば、察しはついた。
 そして、おそらく――董卓が完全に解き放たれることは、未来永劫、ないのだろう。皇帝を殺した事実が、消えでもしないかぎり。


 おれは董卓に気づかれないように、胸中でため息を吐くと、董卓にうなずいて見せた。
「じゃあ、お願いしようか」
「はいッ」
 おれの言葉に、董卓は嬉しそうに駆け去っていく。お茶の道具を取りに行く足取りは、どこか弾んで見えた。
 

(良い子だよなあ)
 甲斐甲斐しくお茶をいれたり、菓子を持ってきてくれたりする董卓を見て、自然にそんな感想が湧き出てくる。
 出来ることなら、周りの目なんて気にならないようにしてあげたいものだが、こればかりは話の規模が大きすぎて、おれなどではどうにもならない。
 おれの視線に気づいたのか、董卓が微笑みながら問いかけてきた。
「あ、お代わりですか?」
「――ああ、お願い」
 杯を差し出し、飲み干した分を追加してもらう。
 そうして、二人して、お茶をすすることしばし。特に言葉をかわすこともなく、二人して東屋からの光景をぼーっと眺めていたのであった。



 できれば、そのまま心地よい空間に浸っていたかったが、残念なことに、休憩時間は有限であった。
 職人さんたちの様子を見に行き、玄徳様に陳情する予算表を作成し、時間が余ったら馬の稽古というところか、と午後の仕事の段取りを考えつつ立ち上がったおれに、董卓が思わぬ頼みごとをしてきた。
「あの、北郷さん、私もついていって良いですか?」
 正体がばれないように気をつけますから、と上目遣いで見上げてくる董卓。


 ――断言しよう。この頼みを断れるやつは人間じゃない、と。


◆◆


 だが、職人たちの仕事場について早々、おれは董卓を連れてきたことを後悔しはじめていた。
 いや、董卓を『外』に連れて来たことは全然問題ない。問題なのは、董卓を『ここ』に連れて来てしまったことだった。
 まあ、予測できたことではあったかもしれない。
 馬具職人は、男の園である。そんな場所に可憐な少女を連れてくれば、それは騒ぎになるよなあ。
 さすがに仕事そっちのけで董卓のところに押し寄せて来るようなことはしなかったが、見習いや若い職人の目線は、さきほどから董卓に集中しまくっている。
 視線が固形化するものなら、多分、董卓は全身ハリネズミみたいになっていることだろう。


 もっとも、少し驚いたことに、董卓はそういった視線をあまり苦にしていないようだった。
 この辺は、さすがに元君主といったところだろうか。
 だが、伏兵は思わぬところからやってきた。
 若者たちだけでなく、明らかに妻子もちだろお前ら、と突っ込みたくなる連中までが董卓を見つめていたのである。
 それどころか、その中の一人がとうとう直接、董卓の近くに行き、こんなことを口走った。


「な、なあ、あんた。その、なんだ。良い人はいるのかい?」


 ざわり、と建物全体がざわめいた気がした。
 董卓が頬をあからめながら、首を横に振ると、男は更に勢い込んで、董卓に詰め寄る。
 さすがに洒落にならん、とおれが足を踏み出しかけた時だった。男は大声でこう叫んだのである。
「なら、うちの息子と見合いしてくれんかッ?!」


 その言葉を聞き、おもわずこけるおれと若者たち。
 だが、こけたのは、一定より下の年齢の者だけであった。
 男の言葉に触発された中年、あるいは老年(つまりは職人頭の方々)の男たちが、我も我もと董卓に群がったのである。
「いや、娘さん、うちの息子の方が有望だ! 末は大将軍か宰相かってくらいだぞ!」
「あの放蕩息子が宰相じゃと? 滅亡決定じゃな! そこをいくと、うちの孫は違うぞい。長ずれば、やがて歴史に名をのこす英傑になるじゃろう!」
「あれ、確か去年、お孫さんが生まれたっていってませんでしたっけ、頭?」
「妻が年上の方が、家庭は上手くいくもんじゃ! 実経験じゃぞ!」
「いつまでこの娘さんを待たせる気ですかいッ?! 娘さん、そこをいくと、うちの甥は一味違っててな――」


 あー、なんだ、その。
 なにか、いつのまにか身内の自慢大会になってないか?
 彼らのあまりの迫力に、若者たちも竦んでしまっているし。
 おそるべし、家族愛。
「ほ、北郷さ~ん……」
 などと言っている場合ではなかった。騒ぎのただ中に取り残され、董卓が目を回しそうになっている。
 こんなところで董卓に倒れられたら、あとで賈駆に殺される。
 外出の話をした時でさえ、尋常でない視線でにらまれたというのに。


 かくて、おれは一族の繁栄を願う男たちのただなかに飛び込まねばならなくなったのである。





 かろうじて敵陣からの離脱に成功したおれと董卓は、とりあえず近くの店で休むことにした。
 喫茶店――というほど洒落たものではないが、座って飲み食いできる店である。
 もっとも、さきほど茶も茶菓子も食べていたので、それほど腹が減っているわけではない。
 おれも董卓も、お茶を頼んだだけで、あとは先刻の疲労を癒すために、机に突っ伏していた。


 小さな笑い声が聞こえたので、顔をあげると、向かいの席で、董卓が楽しそうに口元を手で押さえて笑っていた。ポニーテールが、軽やかに揺れている。
「どうかしたか?」
 不思議に思って問うと、董卓は、なんでもない、と言うように首を左右に振ったが、またすぐに、くすくすと笑い出してしまった。
「ご、ごめんなさい。何か、おかしくって」
 董卓はおれに謝りながらも、さきほどの騒ぎを思い出して、なおも笑い続けていた。
 まあ、董卓が領主である限り、絶対に出来なかった経験であることは間違いない。理由はどうあれ、董卓が笑ってくれたのならば、あそこに足を向けたのも失敗ではなかったということか。
 ため息まじりの責任者の補佐をしてた人(結構若いので、争いには参加してなかった)から鐙の生産にかかるであろう金額の試算も受け取ったし、あとはこちらの仕事である。
 お茶をすすりながら、あれやこれやと玄徳様に提出する表の作成について考えるおれであった。





 そして城に戻るや、執務室(文官たち数名が共同で使っている部屋の一つ)に直行したおれだったが。
「いや、ほんとに良いんだぞ。何も休みの時に、他人の仕事の手伝いまでしなくても……」
 しかし、仕事にとりかかるや、困惑の声をあげることになる。
 董卓がここまでついてきて、手伝いをしたい、と言い出したからである。
 ここまで来ると、この娘、おれに惚れてるんじゃないかしらん、と自惚れそうになるおれ。
 思った瞬間に、ありえねえ、と自分で突っ込みをいれてしまったが。


 案の定、そういった艶めいた理由は一切合切、欠片もなかった。
 董卓曰く「私も何か、皆さんのためにお手伝いできれば」とのこと。
 最近、賈駆が無聊に耐えかね「仕事を寄越しなさい!」と諸葛亮と鳳統に詰め寄ったのは、つとに有名な話。あまりの勢いに、劉家軍の誇る軍師二人は「はわわ」「あわわ」と立ち尽くしてしまったとか。
 無論、賈駆の能力は折り紙つきであり、今では、鳳統らと共に、戦術論、戦略論を激しく戦わせている姿を見かけたりする。
 その姿を見て、董卓なりに感じるところがあったのかもしれない。
 もっとも、董卓にしても、賈駆にしても、表立って働くことは出来ないので、どうしても裏方、縁の下の仕事になってしまうのだが――賈駆はともかく、董卓にとってはそちらの方が性に合っているかもしれんなあ。


 洛陽での悲嘆ぶりを思えば、董卓が自分から積極的に行動に出ようとしていることは、手放しで喜んで良いことだろう。
 あとで玄徳様には許可をもらわねばならないが、とりあえず――
「おーい、叔治殿」
 声をかけながら、少し離れた机で仕事をしていた王修に声をかける。
「え? え? あ、あれ、北郷様?」
 竹簡の山に埋もれ、一生懸命仕事に励んでいたため、おれが戻ってきたことにも気づいていなかったらしい。
 ようやくおれの方を向くと、少しびっくりしたような顔をして、おれと、隣に立つ董卓の姿を見た。
「あ、あの、どうかなさいましたか? あ、もしかして、また何か失敗を……」
「あ、いや、失敗してないから、大丈夫。というか、叔治殿が仕事をしくじったところなんて、見た記憶ないんだけどな」
 どうも北海では、失敗とも言えないささいな点をあげつらわれていたりしたらしい。資料集めにかける時間が長い、とかそんな程度のことを。
 そのせいもあるのだろう。劉家軍の中でも、仕事中、王修はすこし萎縮しがちだった。


 だが、実際、その正確な仕事ぶりは驚嘆に値した。
 さすがに諸葛亮や鳳統ほどではないし、多少……うん、多少、のんびりとした仕事ぶりではあるが、計画の策定であれ、結果の報告であれ、王修が仕上げた仕事の見事なことといったら、あの簡擁が感嘆するほどであった。
 綿密な準備と、職務への集中力。この二つは、劉家軍の文官の中でも、五本の指に入るだろう、とおれは考えていた。
 もっとも、急を要する仕事とかだと慌ててしまうので、仕事を選ぶ必要はあるかもしれない。


 ともあれ、新人に仕事を教えるなら、王修以上の適役などいないだろう。
 王修の場合、その仕事ぶりの見事さは、才能というより、誰にでも出来ることを、怠りなくやってのける堅実さに求められる。
 それは言い換えれば、努力次第で、誰でも実践することが出来るもの、ということであった。実際、おれもひそかに王修を見習いつつやっているのだ。


「というわけで、王先生。お願いしますッ」
「ええッ?! というわけでって、北郷様、あのどういうわけです? わ、私、人に物を教えられるような人間じゃ……」
「快く承知していただけて感謝しますッ。はい、生徒さんも」
「あ、はい。あの、王先生、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる董卓。
 そして、つられて頭を下げる王修。
「あ、はい、こちらこそ。至らぬ身ですが……って、北郷様?!」
「では、年寄りはこの辺で失礼させていただきますぞ。あとはお若い者同士で」
 おほほ、と笑って席に戻るおれ。
 王修はわたわたと両手を振り回して、抗議する。
「年寄りってなんですか、北郷様ッ?! お若い者って?!」
「あの、先生、まずは何をすればよろしいでしょうか?」
「ひえ?! あ、あの、先生って、その……う、じゃ、じゃあ、この資料をですね――」
 澄んだ瞳で、自分を見つめてくる董卓の眼差しに、王修は顔を真っ赤にしながら、何がなにやらわからぬうちに、手元の資料の説明をはじめたのであった。



 やがて、二人の間から戸惑いが消えたのを確認し、おれは目の前の竹簡に文字を書き込んでいく。
 近づく夏の季節を感じさせる強い日差しが降り注ぐ、小沛城のある日の出来事であった。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 月志天貂(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/05/13 22:14



 張超の蜂起に始まる兌州の動乱により、小沛をはじめとした徐州の国境付近は長らく緊張を強いられてきた。
 しかし、一時は兌州を席巻する勢いであった叛乱軍は、濮陽城の戦いを契機として、その勢いを大きく減ずる。そして、一度、受身にまわってしまえば、再度の挽回を許すような曹操ではなく、叛乱軍は、曹操軍の圧倒的な戦力の前に、敗亡を余儀なくされたのである。


 張超の死と共に許昌に戻った曹操は、ただちに四方に使者を発する。
 すなわち、今回の動乱が張莫ではなく、その妹であった張超によるものであったこと、その張超は雍丘城で敗死したこと。
 張超の背後には、曹操の専横を恐れた朝廷の大官たちがいたこと、証拠を掴んだ上で、彼らを処罰したこと。
 そういった事実を詳らかにした曹操は、ここに兌州の乱の終結を宣言したのである。
 時を前後して、朝廷は、今回の乱の速やかな鎮圧と、青州黄巾党の鎮定の功績を以って、曹操を兌州牧に任じる旨、天下に公表する。
 その裏に、曹操の報復をおそれた宮中の高官たちの思惑があったことは、誰の目にも明らかだった。



 この知らせは、当然のごとく小沛城の玄徳様の下へももたらされ、安堵と、そして警戒の念を育んだ。
 安堵は言うまでもなく、戦火が徐州から遠ざかったためである。
 張超なり、呂布なりが徐州を自分たちの側へ引き込もうとして、兌州の動乱がこちらに飛び火してくることは、十分に予想できることであったから、そういった事態が起こる前に、叛乱が終結したことに、少なからぬ人々が安堵の息を吐いたのである。


 警戒の念は、無論、曹操の勢力が更なる飛躍を遂げたことによる。
 青州黄巾党を従え、兌州牧の地位に就いた曹操は、叛乱以前よりも確固たる地盤を築き上げており、その配下には勇将、智将がずらりと居並ぶ。
 朝廷は、曹操の顔色をうかがうことに終始する有様であり、今や曹操の勢力は中原を覆わんばかりであった。
 そして、諸葛亮が予測したとおりであれば、その曹操は遠からず、東を目指して動き始めることになり、徐州軍は、正面から曹操軍と対峙することになるのである。
 徐州の敵は曹操だけではない。今や、その曹操に並ぶ勢威を誇る南の袁術とて、いつまでも静穏を保っているとは考えにくい。
 両者と国境を接する徐州にとって、兌州動乱が終結した今なお、油断して良い状況でないことだけは確かであった。



◇◇



 降り注ぐ日差しが、盛夏のそれにかわりつつあった、ある日のこと。
 午前中の仕事を終え、街に戻ったおれは、先日来、新しく加わった務めを果たしているところであった。
 務めといっても別に大仰なものではなく、小沛に暮らす子供たちの、剣の稽古を見てあげることである。
「将来の将軍様を育てる大切なお役目なんだよ」
 とは先ほどまで一緒にいた玄徳様の弁である。そういう風にいってもらえれば、やる気も出ようというものであった。


 切っ掛けは、まあ、言うまでもない気がするが、玄徳様であった。
 徐州でも相変わらず民衆に人気のある玄徳様は、やはりというか、ここでも子供たちの人気はずばぬけて高かった。
 子供好きの玄徳様は、政務の合間をぬっては街に繰り出し、子供たちと遊んだり、あるいは文字を教えたりしているのである。
 子供たちが、なんやかやと騒ぎつつ、しっかりと話を聞いているあたり、つい先日までは子供たちに遊ばれてばかりであった玄徳様も、ずいぶんと成長なさったものだ、と感涙を禁じえないおれと関羽であった。
 そんなおれたちに、玄徳様はどこかじとっとした眼差しを向ける。
「……なんだか、二人の視線が、とっても納得いかないのは気のせいなのかな?」
『無論です。気のせいです』
「う~ん、そうかな~?」
 おれと関羽が異口同音で否定したのだが、やはり納得いかなそうな玄徳様であった。



 それはさておき、おれが教えているのは、勉学や、文字ではなく、身体を動かす方――要するに剣術であった。
 玄徳様の勉強会は、子供たちにもなかなか好評なのだが、やはり、時間が長くなればなるほど、身体を動かしたくてうずうずしてくるのが子供というもの。勉強飽きたー、と騒ぎ立てる子供たちが、玄徳様の授業を邪魔しないように、おれが剣の稽古をつけてやったのである。
 まあ、稽古といっても、それこそおれの感覚で言えば、小学生低学年、もしくはそれ以下なお子様たちに、親父や爺ちゃんに仕込まれたような、本格的な稽古をつけるつもりはない。基礎の、そのまた基礎といったところだ。
 元の世界では、田舎の甥っ子に似たようなことをしていたこともあって、この手の稽古には手馴れている。
 単純な反復作業を延々と続けさせても、すぐに飽きてしまうだろうから、時折、鬼ごっこや缶蹴り的な遊戯も混ぜてみたり、色々工夫してみたおかげか、おれの稽古も、玄徳様の勉強会と同じく、なかなかに評判はよろしかったりする。
 今では、幼い子供たちだけでなく、年嵩の少年たちも、おれの稽古に参加するようになっていた。
 やはり、戦乱の空気を肌で感じる年頃になれば、思うところもあるのだろう。



 そんなわけで、今日も今日とて、子供たちに稽古をつけていたおれは、日差しが強くなってきたこともあって、午前中の稽古を終了させた。
 一部の稽古熱心な生徒たちからは、ぶーぶーと文句が出たが、そこは教師の威厳で黙らせ――ることは出来なかったので、穏やかな笑みを浮かべつつ、騒ぐ生徒のこめかみをぐりぐりして納得してもらった。体罰にあらず、スキンシップである。




「あれ、北郷さん?」
 井戸で冷やしておいた手拭で汗をぬぐっていると、怪訝そうな声が背後からかけられた。
 振り返ってみると、そこには黄金色の髪と、晴れ渡った青空にも似た碧眼の少女――太史慈がいた。
「子義殿、訓練はもう終わったんですか?」
「はい。つつがなく――とは、残念ながら行きませんでしたが」
 太史慈は頬を掻きながらそう言うと、小首をかしげて問いかけてきた。
「北郷さん、確か田殿(田豫)と一緒に軍馬の買い付けに行かれたのでは? ずいぶん、早いお帰りですね」
 太史慈は、田豫の名前を口にする時、すこしだけ憮然とした表情をする。実は、これは田豫も同じで、初対面の時にやりあったことが、お互いに微妙に尾を引いているらしい。
 もっとも、深刻なものではないし、互いに改めようとしているようなので、外野からあれこれ言う必要もあるまい。おれは気づかなかった振りをして、話を続けた。
「いつも、一番時間のかかる価格交渉が速やかに終わったもので、時間が余ってしまって。国譲のお墨付きの良馬が格安で手に入りましたので、交渉自体は大成功でした」
「それは重畳です。そんな良馬を、格安で譲ってもらえるなんて、北郷さん、すごいですね」
 太史慈は賛嘆の視線でおれを見たが、正直言って、それはおれの手柄ではない。一緒に行った田豫のものでもない。
 では誰のお陰か、と言えば……
「今日の取引相手、『数え役萬姉妹』のファンだったんですよ」
 で、秋ごろに予定している公演に融通をはかるのと引き換えに、軍馬の調達に便宜をはかってもらったのである。
 おれが頭を掻きつつ、そう言うと、太史慈は真相を悟って、楽しそうに微笑んだのであった。




 城の軍資金を投じて、建設していた馬具の生産所が、小沛城内に完成したのは、つい先日のこと。
 これにより、これまで用いられていた鞍、蹄鉄、馬銜(ハミ)等に加え、鐙の生産も独自で可能となった。
 鐙は、従来に比べ、騎兵に必要とされる技術習得の難度を、大幅に引き下げる馬具である。それはつまり、習熟に必要な期間を縮め、円熟に至る時間を早めることが出来ることを意味する。
 機動力に優れた騎馬部隊は、軍略において切り札となりうる兵科である。それを良く知る諸葛亮、鳳統の軍師コンビが、玄徳様の許可の下、騎兵の充実のために、多大な人員と予算を割いてくれたお陰もあって、小沛城の騎馬部隊は良質の膨張を遂げていた。
 今や、趙雲麾下の騎馬隊は、その数、千に達するまでになっていたのである。。


 だが、ここで一つの問題が発生する。
 騎兵となりえる人員がいても、肝心の軍馬が不足しはじめたのである。
 元々、准河、泗水流域にある徐州は、幽州をはじめとした河北諸州に比べ、騎兵に力を注いでいない。徐州では騎兵よりも歩兵、水兵の充実こそが急務なのである。
 無論、騎馬部隊が皆無というわけではないが、軍馬を育てる牧場の数は、河北に比べて目だって少なかった。


 そちらの方はこれからの課題ということにして、とりあえず、近隣の牧場から軍馬をかき集めてはみたものの、今度は馬自体の錬度が問題となった。田豫曰く「伯珪様の領内だったら、駄馬扱いされかねない」程度の馬ばかりであるらしい。
 もっとも、田豫はその後でこうも言ってくれた。
「これを何とかするために、私がいるのですよね」と。
 うむ、頼もしい限りである。


 そんなわけで、田豫はここしらばく馬の調練にかかりきりなのだが、一朝一夕で良馬を育てることは不可能であり、持ち馬を鍛えることと平行して、他州から軍馬を買い入れることも必要となってくる。
 おれたちの今日の任務に至る背景は、そういったことであった。





 なんとはなしに連れ立って歩くことになったおれと太史慈は、時間も時間だったので、一緒に昼食をとることになった。
 朝からの仕事や、さきほどまでの稽古で身体を動かしていたので、おれはけっこう腹が減っている。くわえて、隣にいるのが太史慈とくれば、さて、財布の中身が心細い――
「――なにか、ひどく失礼な心配をされているような気がするのですが?」
 そんなおれの心中を察したのか、とても良い感じの笑顔を向けてくる太史慈。
 なんだか、急にあたりの気温が下がったような気がして仕方ないおれであった。
 ともあれ、おれたちはかろうじて席の空いている食事処を見つけて、そこに滑り込むことが出来たのであった。


 適当に料理を注文してから(ちなみに太史慈はごくごく普通の食事量でした)、色々な話をしていたおれたちだったが、やはりというか、話題は自然と軍務に関係するものとなっていた。
 太史慈は小沛城に入ってから、陳到麾下の部隊長の一人に任命されている。
 劉家軍の四将軍――関羽、張飛、陳到、馬元義――のうち、関羽と張飛は主に前線で敵と渡り合い、馬元義は後方を堅守する。陳到はそれらの均衡を保ちつつ、援護する役回りであることから、弓を得手とする太史慈にとっては適所であろうと考えられた。
 ただ、劉家軍は女性の立場が強い軍であったが、太史慈の年齢、そして劉家軍に加わってから、まだ日が浅いことを考え合わせると、これは抜擢といって良い人事であろう。
 組織において、抜擢と嫉視は分かちがたく結びつくもの。それは劉家軍とて例外ではなかったらしく、太史慈も色々と苦労しているようだった。
 一昔前であれば、おれがこっそり部隊に紛れ込んで、そのあたりの嫌な空気を消して回ることも出来たかもしれないのだが、玄徳様の周囲をうろちょろしているせいか、最近、おれも顔と名前を覚えられてしまったので、それも出来なかったりする。


 とはいえ、おれのそんな心遣いは、多分、太史慈にとっては余計なお世話だろう。何故といって、当の太史慈は、その点についてはあまり気にしないようにしているらしいからである。むしろ新参の自分が妬まれることは当然のことと受け止めている節があり、このあたり、年齢に似合わぬ落ち着きと風格さえ感じられて、さすがは名将太史慈だ、と感心しきりのおれだった。
 それに、戦に出るまでもなく、太史慈が訓練しているだけでも、その実力は否応なく目につくだろう。今は太史慈の力を疑っている者も、遠からず、己の不明を恥じることになるだろうと思われた。
「叔治ちゃんも頑張っているんです。私も負けていられませんッ」
 むん、と勢い込む太史慈の顔は真剣で、思わず見とれてしまうほど凛々しかった――頬にご飯粒がついていても気にならないほどに。




 顔を真っ赤にした太史慈をひとしきりからかった後、おれたちは城に戻り、玄徳様に午前中の任務の報告を行った。
 午後になったら、書類仕事を片付けて、また子供たちのところに行く予定だと言ったら、玄徳様が「私も行く」と口にしかけたが、関羽のひと睨みで撃沈されていた。どうやら、午前中のお忍びで、大分苦労していたらしい。
 玄徳様から、なにやら援護を期待する眼差しが向けられたが――すみません、無理です。
 すばやく踵を返すおれ。あ、太史慈もついてきた。
「あー、一刀さんッ?! 子義ちゃんも逃げたーッ」
「桃香様!」
「ふえ~ん」
 ――ご武運を、玄徳様。
 心中で涙を流しつつ、おれは残された主君の無事を祈るのだった。
 多分、横で懺悔するように両手をあわせている太史慈も同じ気持ちだと思われた。
 
 


 重要だけど退屈。
 面倒だけど必要。
 そんな書類仕事は、だらだらやるより、さっさと片付けるが吉。
 というわけで、太史慈と別れたおれは、執務室に入るや、頑張って仕事を片付けていったのだが、予想よりも随分と量が少ない。おかしいな、と首をひねっていると、今日は午前中からこの部屋に詰めていたという簡擁が笑いながら教えてくれた。
 なんでも、王修が出来る範囲でおれの分も片付けてくれていたらしい。
 ……なんか、不覚にも目頭を押さえたくなりました。なんて良い子なんだ。これからは、なるべくからかうのを控えよう。後でお礼も言っておかねばな。
 あと、明らかに王修がわからない部分も片付いていたので、簡擁にもお礼を言っておいた。何のことやら、と惚けられたけれども。
 
 

   
 で、約束通り、子供たちとの稽古に来たわけだが、そこには驚いたことに、さっき別れた筈の太史慈の姿があった。
 太史慈の方は、早朝から訓練をやっていたので、午後は休みの筈であった。
 不思議に思って聞いてみると、前々から興味があったので、様子を見に来たとのこと。わざわざ訓練後の休みをつぶしてまで来るとは、真面目な子だなあ。



◇◇



 太史慈が北郷と共に子供たちに稽古をつけることしばし。
 自然と担当が出来て、北郷は年長の少年たちを、太史慈は年下の子供たちを、それぞれ重点的に見るようになっていた。
 子供たちの目は真剣そのもので、日差しを浴びて、その顔には、玉の汗が光って見えた。
 そんな子供たちを見てまわりながら、太史慈は時折、北郷の方に視線を向ける。
 そちらでも、基本的にやっていることは同じなのだが、北郷は、時折少年たちと手合わせをしてやっているようだ。
 二度、三度と相手の剣を受けてから、軽やかな足捌きで少年たちを手玉にとる姿は、年齢差を考えれば、当たり前とも思えたが、北郷の動きは、そういった年の差以上のものを感じさせた。
 やはり、修練の面だけで言えば、北郷はそれなりのものを積んでいるのだろう。北海の城で、祖母が太史慈に言ったように。
 太史慈はふと、その時のことを思い出していた。
 あれは、劉家軍によって北海城の包囲が解かれて数日後――







 太史慈は、烈火のごとく怒っていた。
 それは、祖母の礼を失した発言をうけてのものだ。
「おばあちゃん、いくらなんでも失礼すぎるでしょッ?! 初対面の人に55点ってなにッ?!」
「う、うむ。それはなんというか、率直な感想というか、年寄りの茶目っ気というか、そういったところではなかろうかと――」
「前者でも後者でも、失礼なことに変わりはありませんッ!! 北郷さんがいなかったら、玄徳様たちだって話を聞いてくれたどうかもわからないんだよ?!」
 祖母の暴言に怒り心頭の太史慈に、さすがの太史家の現家長もたじたじとなっていた。
 それでも、なんとか孫娘の怒りを抑えようと、再度口を開く。
「ほれ、言われた当人も苦笑しておったではないか。そんなに気にすることは……」
 ないのではないか、と言おうとした祖母だったが――
「おばあちゃんッ!!」
「――うむむ、わしが悪かった。そろそろ勘弁しておくれ。このままでは持病の発作が……」


 それを聞いた太史慈は、今度は一転して、にこりと微笑んだ。
「私が生まれてこの方、病気らしい病気をしたことがない人が、何の持病を持っているの?」
「……それはほら、あれじゃ」
「あれって?」
 あくまで笑顔の太史慈。一方、額に冷や汗をにじませる祖母。もはや勝敗は明らかであったが、家長として無条件降伏だけは避けねば――
「いかなる薬も効果をあらわさぬという、おそるべき病気でのう」
「うん、それは?」
「それは、じゃな……」
「なにかな?」
「いわゆる一つの……恋?」
「………………」
「ま、待て、待つのじゃ、慈や。さすがのわしでも、そなたの弓で射られたら避けられんッ?!」
「――じゃあ、言うべき言葉があるよね?」
「――申し訳ありませなんだ」
 まなじりを吊り上げて、一喝する孫娘の前に、ついに無条件降伏を余儀なくされた家長は、目上の者に弓を向けた無礼を怒るべきか、祖母をやりこめた孫の成長を寿ぐべきか、しばし真剣に悩むのであった。



 
 祖母の口から、後日、北郷へきちんと詫びる、という確言をとった太史慈は、ようやく怒りの矛先を収めた。
 すると、今度はどうして祖母があんなことを言い出したのか、その原因が気にかかる。
 問われた祖母は、あっさりとこう言った。
「ふむ、まあ、我が孫を添わせるには、まだまだじゃな、と言いたかっただけだがの」
 はじめ、何を言われたのかわからない様子であった太史慈だが、その言葉がようやく腑に落ちるや、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
「そ、添わッ?! お、おばあちゃん、いきなり何を言い出すの?!」
「なに、いつまでも浮いた話の一つも持ってこない孫を、ちと応援してやろうかと」
「――――ッ、ほ、北郷さんと会って、まだ半月も経ってないのに、そんな関係になれるわけないでしょ?!」
「ふむ、では時を重ねれば、そういう関係になれそうなんかの?」
「そ、そんなことわかりません!」
 頬を紅潮させて、そっぱを向く太史慈の姿に、祖母は内心で手を叩いていた。
 時々、突っついてやらないと、本当に婚期を逃しかねない孫への、ささやかな後押しだったのだが、これは案外、もしかするともしかするやもしれん。そう思ったのである。


 願わくば、年寄りのお節介で終わりませんように、と半ば本気で願った祖母だったが、しかし、今の時点では、まだ北郷を太史家に迎え入れる気には、なれそうもなかった。
 その理由を考えるとき、思い出されるのは、北郷の眼差しだった。
 それは、穏やかな――幾度もの戦を経てきた軍の一員とは思えないほどの安穏とした眼差しだと、祖母には感じられたのである。
 はじめは、まるで軍とは関わりない人間かと思ったのだが、聞けば、すでに何度も功績をたてているのだという。
 その上で、あの眼差しが出来るということは、それこそ古代の聖王に匹敵する器の持ち主か、あるいは――己の所業に、何一つ自覚がないかのいずれかであろう。祖母はそう思ったのである。そして、おそらくは後者であろう、とも。


「このまま平穏な日が過ぎれば、あるいは何事もなく生涯を終わらせることも出来たかもしれぬが、戦乱は深まるばかり。いずれ、その時はやってこよう。それまでに己で気がつくことが出来れば、あるいは化けるやもしれんがの……」
 その呟きは、低すぎて、目の前の孫娘にさえ届かなかった。
「おばあちゃん、何か言った?」
 怪訝そうに問う孫に、首を横に振って見せると、祖母は改めてこう言った。
「じゃからして、今の時点では、まだ婿には物足りぬ若者なんじゃよ」
「だからお婿さんとしての評価をする必要はありませんッ!」
 もう何度目のことか。太史慈の大声が、周囲の家具を震わせるのだった……







 太史慈の視線の先にいる北郷は、楽しげに子供たちと戯れている。
 それを見る太史慈の目には、かすかな不安が見て取れたかもしれない。
 太史慈は祖母が口にした55点という数字の意味を、理解出来ているわけではなかった。不当に低い評価ではないか、と思う反面、人生の先達として、太史慈とは比較にならないくらいの、たくさんの人を見てきた祖母の言を、完全に否定することも出来ずにいたのである。
 そのことが、北郷を見る太史慈の視界に、不安の影を生じさせているのであろう。


「ねえねえ、お姉ちゃん」
 そんな太史慈に向けて、子供たちの一人が話しかけてきた。
 はっと我に返り、その子供と目線を合わせるために、太史慈は腰をかがめた。
「ん、なあに?」
「お姉ちゃんと、あっちのお兄ちゃん、どっちがつおいの?」
 その質問に、周囲の子供たちは静まり返り――次の瞬間、それぞれ自分の思うところを大声で主張しはじめた。
 「お兄ちゃんだろ、男だし」「お姉ちゃんだよ。だって本物のブジンなんでしょ?」「うーん、多分互角なんじゃない?」などなど、喧々諤々の議論になってしまい、それはやがて一つの結論に収束していった。
 すなわち――実際に戦ってみてもらおう、と。


 そして、数分後。
 子供たちで出来た輪の中心で、向かい合う北郷と太史慈の姿が目撃出来た。
「……これはあれですか。腹ペコ疑惑への意趣返しと見てよろしいでしょうか?」
「そんなつもりはなかったんですけど――言われてみれば、良い機会ですね」
 おそるおそる訊ねる北郷に向け、にこりと微笑む太史慈の顔は、限りなく真剣に見えた。
 北郷は思わず天を仰ぎながらも、持っていた木剣を正眼に構えなおす。
「藪蛇だったか……でも、北海の太史子義殿と剣を合わせられるとは、こちらにとっても良い機会かもしれないな」
「そんな風に思っていただけるとは光栄です。しかし、こちらも、謂れなき誹謗を排する絶好の機会。手加減はいたしませんよ」
 北郷の額に、汗が流れた。多分、日差しのせいではない。
「……あの、さすがに子義殿に本気で来られると、危ないのですけど。主に命の面で」
「何を仰いますか。あの関将軍の一撃にすら耐えられる御仁が、私の一撃に耐えられないわけがないでしょう」
 至極、真面目に返され、北郷は頭を抱えたくなった。
「うあ、本気で言ってるよ、この人――って、ちょッ?!」
 だが、北郷がぼやく間もなく、いつのまにやら、俄然やる気を出していた太史慈が、勢い良く前に踏み出してくる。
 ここまできたら仕方ない、と北郷も覚悟を決めて、金色の旋風に対抗するために前に出た。


 弾けるような音を立てて、二人の木剣がぶつかりあう。
 この時、北郷は、太史慈の剣が、弓ほどの腕前ではないことに、一縷の望みを託していたのだが。
 それは結論から言えば、見当違いもはなはだしかった。たとえ、弓には届かずとも、太史慈の剣技は尋常の腕前ではなかったのである。
 かくして、この日、北郷は打ち身と擦り傷で寝られぬ夜を過ごすことになるのであった。



 ――余談であるが、この日以降、太史慈が大食漢だという噂はぴたりと止まることになる……

 
 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 月志天貂(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/05/25 23:53

 玄徳様が小沛城に入ってより数月。
 兌州の乱が終わって後、諸侯は来るべき戦乱に備えて、軍備の拡充をはかりながら、しかし自分たちから戦端を開くことはせず、隣国の情勢を注視するにとどめていた。
 その結果、小沛にいる玄徳様たちは、旗揚げ以来とも言える平穏な日々を享受することが出来たのである。たとえそれが表面だけのものであったとしても、楼桑村での挙兵からこちら、文字通り戦い尽くめだった劉家軍の人々にとっては、得難い休養となったことは間違いのないことであった。


 後から振り返れば、信じられないほどに穏やかな時間は、しかしそれゆえに瞬く間に過ぎ去っていく。
 気がつけば、季節は移ろい、城外に広がる田園は、緑から黄金へと色を変えており、稲穂が重そうに頭を垂れる時期となっていた。
 農民たちにとっては、待ちに待った収穫の季節の到来である。
 小沛の街を歩く人々の足取りも、どこか軽く感じるこの時期、路のあちこちには、人目を引く看板や幟(のぼり)が立てられ、自然、人々の話題をさらうようになっていた。
 そこに記されている文言は次の通りである。


『小沛の空に天女舞う 平和を運ぶ歌姫たち その名は数え役萬☆姉妹!』


 本来、張角たちの公演はもうすこし早い時期に行われる予定だったのだが、どうせなら秋の収穫祭を兼ねて、より盛大に行おうということで、この時期までずれこんだのである。
 その分、舞台の規模は大きく、仕掛けは凝ったものになっている。時間があった分、宣伝効果も抜群で、徐州はもちろん、他州から訪れる人たちも多く、小沛の街は、公演前から未曾有の賑わいを見せているのであった。
 



 そして、公演当日。
 ここ一月ばかり、おれは張梁の下で、この一大イベントの準備のために東奔西走していた。騎馬隊の仕事を、一時的に田豫と王修に委ねなければならないほどの多忙さで、先日、ようやっと準備が終わった時は、そのまま倒れてしまいそうなほどだった。いや、久々に黄巾党にいた頃のことを思い出してしまったな。
 まあ正直、戦争の準備をしているよりは、こちらの方がやり甲斐はあると感じる。
 舞台袖から、張角たちの歌声に耳を傾けつつ、おれはそんなことを考えていた。
 これだけの規模の公演は、黄巾党時代以来であり、最前列に招待された玄徳様たちにとっては、当然、初の経験となる。盛り上がる会場の空気に馴染めず、あたふたしているのがここからでも見て取れて、申し訳ないと思いつつ、少し笑ってしまった。


 舞台の詳細については、いまさら語るまでもないだろう。
 張宝が猛進し、張梁が制御し、張角が包み込む、いつもの「数え役萬☆姉妹」の舞台であった。
 実のところ、張角らは、河北では袁紹に罪を許されていたが、それ以外の地域にあっては、黄巾党の党首だったという過去は、いまだに清算されたわけではない。そのことで、トラブルの一つや二つは出てくるかと覚悟していたのだが、幸いにもそういったことは起きなかった。
 徐州では、比較的、黄巾党の被害が少なかったということもあるだろう。さらにつけくわえれば、ここ何ヶ月かの張家の姉妹の行動が、徐州の民衆によって受け入れられた為とも言えた。
 というのも、玄徳様の配下として、張角たちは、徐州の孤児院や、戦傷病者の施療院に何度も足を運び、その歌声で彼らを元気付けたり、あるいはその絶大な人気で人員を駆り集め、泗水に堤防を築いて農地を広げたり、用水路を浚渫して、水利を整えたりと、大活躍だったのである。
 張角が、その包容力で人心の要となり、張宝が行動力で計画を引っ張り、張梁はその犀利な頭脳で物事の基盤を整える。ある意味で、玄徳様、関羽、張飛の三姉妹よりも恐るべき張家の姉妹たちであった。


 そういった行動もあって、徐州での役萬姉妹の人気は、翳るどころか、うなぎ登りの状態であったのだ。それは、今日の舞台の盛況ぶりを見れば、万人の目に明らかであろう。
 途中、玄徳様が無理やり舞台上にあげられて張角とデュエットしたり、関羽がマイクを持たされて大観衆の前で歌を歌わされたりと、ハプニングは色々あったが、それも舞台を彩る大輪の花となり、役萬姉妹の小沛公演は、予想をはるかに上回る大盛況のまま、幕を閉じたのであった。





「まあ、舞台が終わっても、おれの仕事は終わらないわけだが」
 祭りの後の侘しさとでも言うべきか。舞台会場の後片付けというのは、どうにも寂寥の感を拭えない。出来れば、片付けは明日以降にまわして、今日は舞台の余韻に浸っていたいのだが、小沛城の錬兵場を、ほぼ丸ごと用いて行われた舞台であったから、後片付けは後日、というわけにもいかないのである。
 そんなわけで、打ち上げを泣く泣く欠席したおれは、他の貧乏くじを引いた人たちに指示をしつつ、会場を畳んでいた。
 観客が持ち込んだゴミだけでも、これだけの大舞台の後だ、ものすごい量になる。燃やすにせよ、埋めるにせよ、そこらへんで適当に片付けることは出来ないし、それ以外にもあちこちに残っている舞台器具なんかは、物によっては次回に使えるものもある。
 そのあたりの差配は、やはりある程度、姉妹の傍で公演に携わっていた経験を持つ人でないと難しいのである。



 舞台が終わったのは夜も大分更けた頃。
 そして、錬兵場の片付けが終わったのは、日付がかわってからであった。とはいえ、終わったとはいっても、その前に「ある程度」とつけねばならないのが悲しいところである。
 しかしまあ、錬兵場を本来の目的で使用することが出来る状態になったから、後は後日で良いだろう。おれは疲れ果てた様子の後片付け組を解散させると、自らも重い足をひきずって、錬兵場の外へと向かう。


 ところが、おれが錬兵場を出ようとした時、門柱に背をもたせかけ、所在なげに空を見上げている人がいた。訝しく思ったおれだが、まさか幽霊でもあるまいと、気にせずに近づいていく。
 そうして、その人物の容姿が肉眼ではっきりと確認できるまで近づいたとき、おれは驚きのために目を瞬かせることになる。
 そこに立っていたのは、ここにいる筈のない人物であったからだ、。
 その人物とは――


「……は、伯姫様?」
 その人物は、張角だった。おれの声で、張角もこちらに気づいたのだろう。
 舞台後の打ち上げも、とっくに終わっている時間だろうに、どうしてまた、こんなところにいるのだろう。
 顔中に疑問符を浮かべたおれだったが、張角に近づくにつれ、別種の戸惑いを感じ始めていた。
 張角の顔に、いつものほんわかした笑みが浮かんでいなかったからである。真顔でこちらを見る張角は、なまじ整った顔立ちをしているだけに、冷たく、怜悧に見え、どこか近寄りがたい硬質の雰囲気を醸し出していた。


「あ、あの、伯姫様、どうしてこんなところに?」
 なんだかよくわからないままに、おれは張角に問いかけていた。
 闇夜の灯火に朧に浮かび上がる張角は、笑顔がないだけで、まるで別人のように感じられる。
 思えば、今は草木も眠る丑三つ時。もしやこれは、人外の化生の仕業か。
 立ち止まったおれが、内心でいささか脈絡なく慌てふためいていると、焦れたのか、張角はつかつかとおれの方に歩いてきた。
 そして、おれの前に立った張角は、無言でじっとおれの顔を見上げる。張角の服装は舞台用のものから普段着にかわっており、おれには見慣れた姿の筈なのだが、やはり無言、無表情の張角には違和感を覚えてしまう。


 だが。
 奇妙な緊迫感は、唐突に断ち切られる。張角の表情が、ふにゃっとやわらいだからだ。
 ただそれだけで、あたりに立ち込めていた緊迫した空気は、霧散していく。
 そうして、張角はようやく肉声を発した――のだが。
「もー、一刀ってば遅ーい。約束の時間、とっくに過ぎてるよ?」
「……はい?」
 ようやく言葉を発したと思ったら、何やら素っ頓狂なことを言い出す張角。
 言うまでもないが、約束なんてしちゃいねえのである。
 おれはため息を吐きつつ、張角に口を開いた。
「伯姫様、何のいたずらですか、これは」
「ぶー、いたずらじゃないよ。部屋で待ってたんだけど、一刀の帰りが遅いから迎えに来たの」
「ああ、そうだったんですか……って、えええ?!」
 張角の言葉に納得しかけたおれだったが、その意味に気づいて思わず声を高めた。
 部屋で待ってた? 帰りが遅いから迎えに来た? 張角が?
「なにゆえ?」
 思わず、疑問が言葉になって溢れてしまいました。
 確かに恋人同士とかならわからないでもないのだけど、おれと張角はそういった関係ではない。残念ながら。


 だというのに、張角はあっけらかんと、おれの左腕を抱え込むように抱きついてくると、あっさりと言ってきた。
「え、だって恋人同士ってそういうものじゃないの?」
 あれー、ちぃちゃんにそう聞いたんだけどなあ、と首を傾げる張角。
 左腕に半端なく感じられる柔らかい感触やら、ほのかに漂ってくる女の子の甘い香りやらで、ライブでピンチの真っ最中だというのに、その一言は素でとどめの一撃です。
 やっぱり新手のいたずらかと納得しかけたおれだが、しかし、実のところ、張角のこの手のアプローチは今回が初めてではなかったのである。


 思えば琢郡で再会した時から、張角はおれへの好意を隠そうとしていなかった。もっともそれは、天真爛漫な張角のことだから、再会の喜びとか、劉家軍との調停をしたことへの感謝が行き過ぎたもので、男女のそれではないとおれは思っていた。
 今をときめくトップアイドル(?)に惚れられている、と考えるほど、おれは自惚れてはいないのだ。
 確かに、黄巾党時代からこちら、張角や、張宝、張梁らと近しい距離にあったことは事実だが、それはあくまで傍仕えとしてのこと――の、筈だった。
 だが、最近、どうも自惚れではないのではないか、と思うことが頻繁にあって、困惑することが多かった。自慢ではないが、元の世界にいた時、彼女なんぞおらず、異性からそういう態度を示されたこともなかったので、こういう時、どういう態度をとればよいのかがわからんのである。
 周りの人に相談しようにも、女性陣には言い辛いし、男性陣には尚更言い辛い。数え役萬のファンだったりした日には、間違いなく血の雨が降ることになるだろう。
 かといって、本人に確かめようにも、そうそう二人きりになれる機会などないわけで――あれ、ということは、今、もしかしてチャンスなのか?



「あの、伯姫様、ちょっとお話が」
「んー、なにかな?」
 なんだか楽しそうに笑う張角に、先刻までの怜悧な感じはかけらも見当たらない。やはりあれは、夜の闇が見せた幻だったのだろうか。
 それはさておき、何と聞けば良いのだろう。おれに惚れると火傷するぜ、とか言ってみたい気もするが、さすがに、それはおれの心が耐えられそうもない。
 そんなわけで、単刀直入に聞いてみる。
「その、恋人って……あー、おれのこと、ですか?」
「うん、もちろん♪」
「あ、そ、そうですか」
 なんかためらいなく断言されてしまい、うなずいてしまった。いやいや、そうじゃないだろう、おれ。
「その、いつからそんな関係になったのでしょう?」
 その質問に、張角は小首を傾げて、考え込む。
 だが、それはおれの質問に対する答えについてではなかったようだ。
「ねえねえ、一刀」
「は、はい、なんでしょう?」
「一刀、私のこと、おばかさんだと思ってる?」
「はいッ?!」
 唐突な問いかけに、思わず声を高めるおれ。
 一方の張角は、それを肯定の返事だと受けとめてしまったようだった。
「あー、やっぱり思ってるんだ」
 むー、と上目遣いで、おれをにらんでくる張角。ぷんぷん、という擬音が聞こえてきそうなくらい、わかりやすい怒りっぷりであった。


 おれは慌てて、張角に否定の意を伝えた。
「い、いえ、今の『はいッ?!』は肯定じゃなく、驚きのあまりの言葉でして――というか、なんでまたそんなことを仰る?」
「だって、一刀ってば、私が自分で恋人を決められないと思ってるみたいなんだもん」
「いや、そんなことは思ってませんが――恋人っていうのは普通、双方の合意の上でなるものではないんでしょうか?」
「……え~、一刀は、私と恋人になるのは嫌なの?」
 むすっとしたまま、そんなことを口にする張角に、おれは慌てざるをえなかった。
「そ、そんなことはないですが、その、そもそも、伯姫様がおれに惚れる理由がわからないといいますか、そんなのはおれにとって都合の良い妄想で、今の状況も夢の中の出来事ではないかと言いますか――ああ、もう、何、この状況ッ?!」
 一人、混乱しているおれを他所に、張角は何やら考え込むと、不意に。
「ふんふん、つまり、一刀は言葉ではなく、行動で示してほしいんだ?」
「は? あ、いや、それは……」
「じゃあ――えいッ」
 つま先立った張角の顔がおれの眼前まで迫り――そして、頬に柔らかい感触が。
「ほら、これでもう疑う必要はなくなったでしょ。張伯姫が、北郷一刀を好きだって気持ちは、伝わったかな?」
 呆然とするおれに構わず、張角はにこりと笑って、そう言ったのである。



 確かに。
 張角は黄巾党時代から、ファンの男たちにちやほやされていたが、こういった行動に出たのは見たことがない。その意味でいえば、少なくとも、おれはその他大勢のファンからは、一歩抜け出したところにいるのだ、と理解することは出来たわけだが――って、何をのんびりと分析してるのか?!
「は、はは、はく、きッ?!」
「え、一刀、気持ち悪いの? もう、飲みすぎちゃ駄目だよ~」
「ち、ちがッ?! 伯姫様、あの、えーと、なんだ…………ああ、もう何この状況?!」
 本日二度目の台詞と共に、おれは天を仰いだ。
 おれとて健全な高校生。張角のような美少女から好きだと言われて、嬉しくないわけがない。だが、素直にその気持ちを受けとめられるほど、おれは自信家ではなかった――というか、ぶっちゃけていえば、女の子から好意を伝えられるという、はじめてのシチュエーションに、動揺しまくっていた。
 普段であれば、からかわないでくださいよ、と誤魔化すところだったが、頬への接吻付きということもあって、それも出来ない。今の状況でそれを口にすることが、どれだけ失礼なことなのかくらいは、おれにもわかる。

  
 では、開き直って状況を受け入れるか、となると、それはまた別の話なのだ。
 そもそも、張角がどうしておれに好意を抱くのか、その理由がさっぱりわからんのだから、受け入れようがない。
 河北で張角たちが処刑されないように一役買ったのは確かだが、あれは主に玄徳様の功績だし、そもそも、黄巾党時代、奴隷としてこき使われていたおれを拾ってくれたのは張角たちなのである。恩だの借りだので言うのならば、負債はむしろおれの方に残っているくらいなのだ。
 そんなわけで、口をぱくぱくと開きつつ、しかし言葉を発せないおれを見て、張角は静かにおれを見つめた。
 それは、いつものほがらかな笑みを浮かべた少女ではなく。
「――え?」
 そこにいたのは、先刻、確かに見たと感じた、冷たく怜悧な女性の姿。
 深みのある翡翠色の眼差しは、おれの心底までを見通すかのようで、その視線に囚われたおれは、身動き一つ出来なくなる。


「一刀」
「は、はいッ」
「ちょっと、昔の話をしようか?」
 張角はおれの腕から離れると、そう言って小さく微笑んだ。
 どこか脆さを感じさせる、儚い笑み。それは、やはりおれの知っているいつもの張角ではなかった。
 そんなおれの戸惑いを感じているだろうに、そこを説明しようとはせず、張角は話を始めた。
「それは、今のご時世、どこにでもある家族の話――」


◆◆


 その家には、お父さんとお母さん、そして二人の娘がいました。
 家族は、それはそれは仲良しで、貧しいながらも毎日を幸せに過ごしていましたが、その幸せが更に増えることになりました。
 お母さんに、新しい命が宿ったのです。
 子供たちは、弟か妹が出来ると大喜び。お父さんも、生まれてくる子供のためにも、もっと頑張って働かないとな、とお母さんを見て嬉しさを隠せませんでした。


 そんな、当たり前の幸せは、けれど、ある日、突然に終わりを迎えます。
 この時期、王朝は混迷をきわめ、地方では賊が群がり起こり、官の人間は私服を肥やすのに夢中――要するに、どうしようもない状況だったのです。
 そんな中で、賊徒討伐の兵に徴用されたお父さんは、戦場で死んでしまいました。
 家族の下に届けられたのは、それを知らせるたった一枚の手紙だけ。どこで、どうして、どんな風に命を失ったのかすらわかりません。
 家族は悲嘆にくれましたが、特にお母さんの落胆はひどいものでした。
 あるいは、もう少し詳しいことがわかれば、悲しくはあっても、子供たちのために気持ちを切り替えることは出来たかもしれません。時間はかかっても、お父さんの死を受け入れることは出来たかもしれません。
 けれど、たった一枚の紙だけで記されたお父さんの死を受け入れろ、というのはお母さんには無理な話でした。


 身重の身体で、深い心労を重ねたお母さんは、三人目の子供を産むと身体をこわしてしまい、ほとんど一日中、家から出ることが出来なくなってしまいました。
 それでも、お父さんが残した家と家財を売り払い、小さな家に移り住んだ家族は、周囲の人たちの協力もあり、数年の間は、なんとか平穏に過ごすことが出来たのです。
 長らく身体をこわしていたお母さんが亡くなったのは、お父さんが戦死してから、およそ10年の後。
 まだ幼い娘たちを残していくことを幾度も詫びつつ、お母さんは逝きました。


 そして、不幸はそれだけでは終わりませんでした。
 お母さんの死から、数月。姉妹の暮らしていた城が、戦場になり、城は陥とされ、城内は炎で焼き尽くされてしまったのです。冀州牧の地位を争う袁紹と韓馥の争いの巻き添えをくったとわかるのは、このしばらく後のこと。
 姉妹はかろうじて逃げ出すことは出来ましたが、家もわずかな蓄えも失い、親しかった人たちとは離れ離れになり――賊徒が跳梁する河北の地で、幼い姉妹は、お互い以外、何も持っていないことに気づいたのです……


◆◆


 おれは、何も口にすることは出来なかった。
 平和な時代に生まれ、平穏に生きてきた人間が、張角の話を聞いて、何を言えるというのだろう。
 慰めか、それとも励ましか。いずれであれ、説得力などあろう筈がない。
 悄然と立ち尽くしていると、張角は、そんなおれを見て、くすりと微笑んだ。
「一刀、勘違いしないでね。私が言いたいのは、こんなに大変だったんだよーってことじゃなくて、本当に大切なものは失わずに済んだっていうことなの。どんな時でも、ちぃちゃんやれんちゃんがいて、三人で生きてこられたから、私たちは大丈夫だったんだよ」
 時代の荒波に翻弄されそうになっても、妹たちの存在が、自分を支えていたのだと張角は語る。
 それはきっと、これからもかわらない。
 だからこそ。
「私が選ぶのは、私たち三人を幸せにしてくれて、それでもって、こんな悲しい時代を終わらせてくれる人。こんな条件を満たす人って、なかなかいないんだよね~♪」
 その台詞を言い終える頃には、張角はまたいつものほにゃっとした笑いを浮かべていた。


 張角のあまりの変貌っぷりに、おれはついていくのも容易ではないの……だが?
「なんか、今、さらっとすごいことを言いませんでしたか、伯姫様??」
「え、そうかな? 一刀なら、私たちをまとめて面倒見るくらい出来るでしょ?」
「まとめてって、あの、それは生活の面倒を見るとか、そういう?」
「もー、一刀ってばわかってるくせにとぼけちゃって~。もちろん、一刀の後宮に入れてもらうってことに決まってるじゃない♪」
「いや、『決まってるじゃない♪』じゃないでしょうッ?! おれは後宮なんてつくらな……ああ、そだ、それもそうなんですが、なんかその後にも妙なことを言ってませんでした? この悲しい時代を終わらせる人?」
 おれの問いに、張角は可愛らしく小首を傾げる。ああもう、さっきの大人な女性はどこいったんですか、ほんとに?!
「おれにそんなこと出来るわけないでしょうッ。ついでに後宮つくるほどの魅力も地位も甲斐性も持ってませんし、今後、持つ予定もありませんッ!」
 ぴしゃりと言い放ち、興奮のあまり、ぜいぜいと息を吐くおれ。
 だが、言われた当の張角は、おれの言葉なんぞ聞いちゃいなかった。いや、正確には聞いてくれてはいたらしい。だが―― 

 
「一刀、良いことを教えてあげる」
「な、なんですか?」
 思わず、警戒のあまり顔がひきつる。
 だが、張角は何でもないことを言うように、構える様子もなく、口を開いた。  
「女はね、自分の将来を捧げる覚悟で男の人を見れば、その人の器量を量ることくらい、簡単に出来るの。当の男の人以上に、正確にね」
 だから、きちんと一刀に言っておかないと、と思って待ってたんだ、と張角は言う。
「一刀ってば、こういうことにはとーっても疎いからねー♪」
 とっても、のあたりにえらく力をいれた張角の台詞に、おれは軽く眩暈をおぼえた。倒れそうです、いやまじで。これは本当に現実の出来事なんだろか?



 とりあえず、落ち着くために深呼吸する。
 晩夏の空気が、肺の中に吸い込まれていくが、胸の鼓動はちっとも静まってくれなかった。
 逆にそのことが、この場の出来事が夢でもなんでもなく、現実の出来事なのだと、おれに教えてくれた。
 だが、その認識が、また新たな混乱をもたらしたものか。
 おれは張角に、言わずもがななことを問いかけていた。
「――あー、その、ですね。なんで今この時期に、言おうと思ったんですか、伯姫様?」
「んー、なんでだろ? やっぱり、ちょっと恥ずかしいし、舞台の勢いに乗っかって、っていうのもあるかなあ」
 そう言って、照れたように笑う張角の表情を見て、おれの顔は瞬時に真っ赤になった。いや、すでにここまでのやりとりで顔はとっくに紅潮していたと思うが、これはとどめだった。
 うう、これはおれ一人では手に余るなあ――貂蝉に相談してみようか。よく考えたら、人柄といい、性別といい、格好の相談相手ではないか。なんで今まで考えつかなかったのだろう。


 そんなことをおれが考えていると。
 張角は小声で何事か呟いていた。
「……それに、今を逃がすと、当分、機会がなくなりそうな気がするんだよね」
「え、何ですか、伯姫様?」
 張角は小さく頭を振ると、また、おれの手を抱え込むように抱きついてきた。
「ううん、なんでもないよー。じゃ、そういうことだから、一刀は今日から私の恋人ね♪」
「ちょッ?! いや、返事は少々待っていただけると嬉しいのですけど伯姫様ッ?!」
「それはだめー♪ よーし、明日の――じゃない、もう今日だね。今日の朝会で、みんなにも公表しよっと♪」
「いやまじでそれだけはご勘弁をッ!」
「一刀はどこまで飛んでいくのかな? 楽しみー」
「関将軍に吹っ飛ばされるの確定ですか?! お願いですから、公表するのだけはお許しをーッ!」
「聞く耳もたないもーん♪」
「やっぱり楽しんでるだけでしょう、伯姫様ッ?!」




 小沛城の夜の闇に、張角の楽しげな笑い声と、おれの悲鳴が遠く吸い込まれていく。
 農繁期が終わりを向かえ、農閑期が訪れようとしているある日の夜の、それは出来事。
 農閑期とは、すなわち農民を兵として用いることが出来る時期。
 それはすなわち、劉家軍の戦いが、再び始まることを意味していた……




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 月志天貂(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/05/25 23:52



 許昌より西に二刻ばかり歩くと、広大な荒れ野が広がっている。
 地味が悪いことから、農産や牧畜には向かず、主に演習場として利用されている場所である。
 そして今、その荒野で、新しく編成された曹操軍が、二手に分かれ、演習を行っていた。
 その様子は実戦もかくやと思われる激しいもので、今、この場に通りがかった者がいれば、すわ戦かと慌てて逃げ出してしまったことであろう。



 曹操の姿は、演習地となった荒野を見下ろす小高い丘の上にあった。
 陳留でひそかに喪に服している張莫を除き、傍らにいる典韋の他は、曹操の近くに将帥の姿はない。現在、許昌にいる全ての将軍が、演習に参加しているためである。
 農作物の収穫が終わったこの時期、曹操が演習を行ったのは、無論、近づく戦いに備えてのことである。
 同時に、練成を終えた騎馬部隊の仕上がりぶりを確認するという理由もあった。
 そして、東西二つの軍に分かれた曹操軍は、今、まさに主君である曹操の眼下で、猛々しく矛を交えているのである。


 白の布を巻いた西軍の騎馬部隊を率いるのは、夏侯惇、夏侯淵の二人である。
 一方、その両者と対峙する赤い布を巻いた東軍の騎馬部隊の指揮官は、先ごろ曹操軍に加わった張遼と、曹仁の二人となっている。
 董卓軍、そして呂布軍の中核として盛名を馳せた張遼はいわずもがな、曹一族の中核として名高い曹仁もまた、平凡とはほどとおい統率力を有する指揮官である。
 将帥の力量は、ほぼ互角。だが、西軍の騎馬部隊が、曹操の旗揚げ当初から付き従っている精鋭部隊であるのに引き換え、東軍のそれは、許昌で徴募した新兵たちが主力となった部隊である。
 東軍の不利は、誰の目にも明らかであるように思われた。
 しかし。
 東軍の部隊は、驚くべきことに、夏侯姉妹の率いる騎馬隊と互角に近い形勢を保っていた。全体として、押されていることは否めないのだが、最精鋭たる部隊を相手に、一歩も退かずにぶつかりあっている。
 実戦経験、そして訓練時間の双方において劣る東軍が、西軍と互角に近い形勢を保てている理由。それは、今回、東軍にのみ配されている一つの馬具――鐙に求められた。


 西軍の軍師を務める荀彧は、夏侯姉妹の騎馬部隊の突進力を計算に入れていただけに、序盤でその勢いが食い止められたところを見て、本陣で罵声をあげることになり、荀攸はその怒りを抑えるために、四苦八苦することになる。
 一方、東軍の軍師を務める郭嘉と程昱は、李典、楽進、于禁らに部隊を展開させ、夏侯姉妹の騎馬部隊を半包囲し、その脅威を除こうとした。
 だが、この動きは、ぶつぶつと夏侯惇たちに文句を言いながらも、郭嘉らの狙いをいち早く察した荀彧が、曹洪の部隊に東軍の本陣を衝く姿勢を示させたことで、中途で遮られて終わった。
 それからも、両軍は互いに戦機を掴もうと、部隊を縦横無尽に動かすが、その狙いは相手側の軍師に看破され、その指示の下に動く将軍に的確に対応され、勝敗は容易に決することはなかった。


 そして。
 結局、演習が終了する日没にいたるまで、東軍は西軍の猛攻を凌ぎきることに成功する。
 西軍優勢という戦況は覆らなかったが、新兵主体の東軍を最後まで崩しきれなかったことが、古参の者たち――主に夏侯惇と荀彧――の表情を歪ませることになったのである。





 許昌に戻った曹操は、兵士たちには解散を命じたが、自身は休む間もなく、将軍たちを引き連れて、演習の検討に入った。
 その席上、真っ先に口を開いたのは、張遼であった。
 呂布たちとはぐれて後、麾下の兵士たちの安全と引き換えに曹操軍に下った張遼は、その開けっぴろげな性格も手伝って、たちまち曹操陣営における席を確保していた。
「いやー、いまさらやけど、奉孝と仲徳がつくった鐙っちゅうのは、すごい効果やなあ。元ちゃんたちも驚いたんちゃう?」
「う、うむ。まあ、認めるのにやぶかさではないぞ」
 夏侯淵がため息を吐きつつ、訂正する。
「吝か(やぶさか)、だ。姉者」
「お、おう、それだそれ」
「たしかに文遠の言うとおり、訓練を終えたばかりの者たちが、あそこまで善戦するとは驚いたな」
「そうやろ? 元ちゃんは、なんや、ズルしとるような気がするっちゅうて、あんまり乗り気じゃなかったようやけど、これ、曹操軍に正式に採用されて良かったんちゃうか。なあ、孝ちゃん(曹仁)もそう思わへん?」
 張遼の問いに、今日の演習で同僚だった曹仁も、はっきりと首肯する。
「そうだな。確かに訓練期間を著しく短縮させることが出来るし、騎射が出来るまでの期間も、格段に早くなる。今後のことを考えれば、騎馬部隊は多いに越したことはないわけだから、文遠の言うことはもっともだ。ただ――」
 曹仁が言葉を切り、考え込むように俯いた。


 ここで、はじめて曹操が口を開いた。
「ただ、何かしら、鵬琳?」
「は。鐙を用いれば、様々な利がございます。それは間違いないのですが、同時に欠点もございます。つまり、鐙が無ければ、馬にも乗れず、騎射も出来ない、という騎兵たちを大量につくりだしてしまう、ということです」
「ふむ。便利であるがゆえに、そこに安住してしまいかねない、ということね」
 曹操が頷くと、夏侯惇が手を叩いて、曹仁に賛意を示した。
「そう、それです、華琳様! 鵬琳の言うとおり、これは、兵士たちを、中途半端なところで満足させてしまうのでは?」
「ふむ――稟、風、あなたたちの意見を聞かせてもらえるかしら?」


 曹操に促され、郭嘉は眼鏡に手をやりつつ、口を開いた。
「確かに、元譲殿の仰ることはもっともです。ですが、それは他の馬具――たとえば鞍や、手綱にも同じことが言えるのです。元譲殿も、鞍なし手綱なしで馬を駆るのは難儀するのではありませんか?」
「うむ、確かに。不可能ではないが、常と同じようにはいかんだろうな」
「だからといって、馬具のない状態で馬を駆る修練などはなさいませんでしょう? そのようなことに時間を費やすのならば、他の武芸や、訓練に時間を割いた方がはるかに有益です」
 その郭嘉の言葉にこたえたのは、夏侯惇ではなく、夏侯淵であった。
「つまり、奉孝は、鐙もまた、他の馬具と同じように、あって当然のものになる、と考えているわけか」
「はい、そのとおりです。無論、鐙なしで馬に乗れて、騎射も出来るというのが理想ですが、それだけの錬度を備えた騎兵を育てるのに必要となる資金も手間も膨大なもの。それは皆様方もご存知でしょう」
 郭嘉は卓上に広げられた大陸図の北を指し示す。
「――中原、そして河北の平野を制するために、騎馬隊の充実は不可欠です。やがて来る袁紹、公孫賛らとの戦い、さらにその後のことを考えれば、今この段階から、騎馬の拡充に力を注ぐのは当然のことです。さもなければ、我らは常に敵の後手にまわってしまうことでしょう。詩にもあります――『はやからざれば、すなわち遅し』と」





 濮陽城を守りぬいた郭嘉と程昱は、兌州の動乱が鎮まった後、荀彧の推薦状と、鍾遙の推挙によって、曹操に仕えることになった。
 その段階で、郭嘉は鐙の改良を具申しており、具体的な構造を図面に記してさえいたのである。
 鐙の詳細な図と、それを用いた時の利点および問題点が列挙された郭嘉の具申は、曹操によって即座に取り上げられ、数日後には、許昌において実用化されるに至る。
 それ以後、曹操軍の騎馬部隊の拡充ぶりは目覚しいものがあった。曹仁、夏侯惇らが懸念するように、鐙の普及が、将兵の技量の低下を招くのではないか、との声も少なからず存在したが、実のところ、その点は、郭嘉が最初に曹操に差し出した具申書に明記されており、郭嘉の見解は、すでに述べたとおりのものであった。


 鐙の改良と、それによる騎馬部隊の拡充。
 曹操軍の戦力を大きく高めたその功績が、新参の郭嘉によるものであることは万人が認めるところであった。
 だが、曹操から称された郭嘉は、その功績を言下に否定する。
 郭嘉は言う。
 自分は、とある人の発案を取り入れただけのこと。功績の全ては、その人物のものである、と。
 郭嘉は、自分と程昱が劉家軍にいた時、鐙のことを知ったのだと素直に告げて、曹操の褒賞も、賞賛も固辞した。
 そんな郭嘉の正直さに、曹操はますます、この新しく加わった智者を信じる気持ちを篤くしながら、自然な流れとして、こう問いかけたのである。
 では、その者は誰なのか、と。
 そして、曹操ははじめて、その人物の名前を耳にすることになる。





「公孫賛、劉備、そして私。今のところ、鐙の技術を知るのはそれだけかしら。たしか、袁紹の陣にいたのでしょう?」
 曹操の問いに、郭嘉が答える。
「おそらく、袁紹殿は鐙のことは知らないでしょう。袁紹殿は、玄徳殿を煙たがっておりましたので、劉家軍の陣営では、南皮の者はほとんど姿を見かけませんでした。もちろん、密偵の一人二人はいれていたでしょうが、鐙の形が変わったことの意味を、看破できるほどの者がいたとは思えません」
「そう。もっとも、戦の技術を、いつまでも秘密のままにしておけるわけもない。いずれ、麗羽も、そして諸侯もこの新しい鐙の価値に気づくでしょう。けれど、わずかな間とはいえ、麗羽に先んじたこの優位は大きいわ――北郷とやらに、感謝しなくてはならないかしら」


 曹操の言葉にいち早く反応したのは、郭嘉ではなく、曹操の傍らに侍していた荀彧であった。
「華琳様が、そんな男に感謝する必要なんてありません! その北郷とやら、奉孝と仲徳が華琳様の陣に赴くと告げたにも関わらず、口止め一つしなかったというではありませんか。このように自軍に益のある軍事機密を、平然と他軍に流出されるような愚か者、華琳様が意識する必要すらございませんッ」
 甲高い声で訴える荀彧に、曹操はわずかだが、憮然とした顔をのぞかせる。
「あら、桂花も、鐙の改良については驚いていたじゃないの。北郷とやらが愚か者だったとして、その愚か者でさえ考えることの出来た改良を、これまで想像すらしなかった私や桂花は、なんと例えられるべきなのかしら?」
「そ、それは……そ、そうですッ。きっと、北郷もどこか別の誰かから聞いたに違いありません! そうして、手柄顔で自分の功績として吹聴したに決まってますッ! 男なんて、そんなくだらないことしか出来ない奴らなんですから!!」
「――と、桂花は言っているのだけど、風、あなたの意見を聞かせてもらえる?」
 曹操が、それまで黙っていた程昱を振り返ると――
「――ぐー」
 寝ていた。
 郭嘉の拳と、荀彧の拳が同時に唸る。
「――寝るなッ」
「御前で寝てるんじゃないわよッ」
「ををッ?! 珍しく連撃ですね。風もちょっとびっくりです」
 驚いたように目を瞬かせる程昱を、荀彧はきつい眼差しでにらむ。
「さっさと華琳様の質問にお答えしなさいッ。聞いてなかったなんていったら、この場から蹴りだ――」
「おにーさんが功績を吹聴した、なんてことはないと断言しますですよー」
「……って、しっかり聞いてるんじゃないのぉッ?! い、いえ、それよりそう断定する根拠は何? なんなの?!」


 荀彧の詰問に、程昱は小さくあくびしながら答える。
「おにーさんは、鐙の件、功績だなんて思ってませんでしたから。ただちょっと、楽するために思いつきを言ってみただけだと、笑っていたのですよ。わざわざそんな怠け根性を吹聴する理由がないのです」
「――ちょっと待ちなさい。なに、その北郷ってやつ、自分が何を考え付いたのかさえ、わかってないの?」
 荀彧の問いに、今度は郭嘉が苦笑しつつ頷いた。
「ええ。公孫賛殿から鐙のことで褒め称えられても、ぽかんとしていたくらいでしたから。中華の歴史を変えかねないことをなした自覚は、かけらもないのは間違いないでしょう」
 それを聞き、荀彧は思わず卓上に突っ伏していた。
「……う、うそ。そんなくだらない男が考え付いたことを、この私が……華琳様の軍師であるこの私が、考え付かなかったなんて、うそよ……」


 なにやらぶつぶつと呟きだした荀彧を他所に、なにやら考え込んでいた夏侯惇が、妹に問いかけた。
「なあ、秋蘭」
「どうした、姉者?」
「洛陽で、華琳様と共に劉備の陣に行ったことがあったろう。あのとき、やけに軟弱な男がいた気がするんだが、北郷というのは、あいつのことか?」
「ふむ、可能性はあるな。奉孝たちから聞いた特徴とも一致する。しかし、あいつが北郷とやらだとしたら、どうするのだ、姉者は?」
 夏侯淵の問いに、その姉は勢い良く口を開いた。
「決まっているッ! あいつ、あのときだって華琳様に褒められていたのだぞ! そして今回もだ! 華琳様の一の部下として、あんな軟弱な男に華琳様の感謝を独り占めされてなるものかッ」


 猛獣の如く吼え猛る夏侯惇を見て、夏侯淵は小さくため息をついた。
「あのときは、あの男、確か朝廷の策謀にそれとなく勘付いていたのだったかな。そして今回は馬具の改良。なんというか、どちらも姉者には向かない分野ばかりだぞ。どうやって華琳様に褒めていただくつもりなのだ?」
「むむむ……よし、私も一つ、馬具を改良してやろうッ」
「ほう。何を、どう改良するつもりなのだ?」
「そ、それは、だな……そうだ! 馬にかぶとをつけて、額のあたりに槍をつけてはどうだ? そうすれば、騎馬を集団で突撃させるだけで、槍衾が出来上がるぞ。敵は驚いて、逃げ散るに違いない」
「そうだな。だが、そんな重いものを頭にしばりつけたら、馬自体が使い物にならんだろう?」
 夏侯淵の指摘に、夏侯惇はさらに深く考え込む。
「ぬぬぬ…………はッ?! 思いついたぞ、秋蘭。まさに時代を越える発明を!」
「ふむ。どんな発明なのだ?」
「聞いて驚け! 鞍の両脇に剣をくくりつけておくのだ。剣二本分ならば、たいした重量ではないし、馬が走るのに邪魔にはならんだろう。敵の傍を通り抜けるだけで、敵はばったばったとなぎ倒されていく。実に痛快ではないか!」
「うむ、姉者が想像しているものは、なんとなく理解できるが、しかし、それだと味方が集団で動く際、邪魔になるだろう」
「……むむ」
「小回りの利くのが騎馬の利点でもあるし、それ以上に集団で動いてこそ、騎馬部隊は真価を発揮する。集団行動を阻害する馬具を、華琳様がほめてくださるとは思えんぞ」
「そ、それなら、部隊で動く時以外は、自分で背負っておく、とかはどうだ? そして、いざ戦闘になったら、また元通りにするのだ」
「なるほど。それなら問題は解決するが――しかしそんなことをしている暇があるなら、自分で剣を振るった方が早いのではないか、姉者?」
「あ」




「はいはい、おしゃべりはそこまでにしなさい。桂花も、いつまでも落ち込んでいるのはおやめなさい。私は、萎れた花を愛でる趣味はないわよ」
「は、はいッ、かしこまりました、華琳様ッ!」
 曹操の一言で、たちまちのうちに元気を取り戻す荀彧。その姿を見て、荀攸がほっと安堵の息を吐いていた。
 曹操は、曹洪に問いを向けた。
「優琳、小沛に入った後、劉備たちはしきりに軍備を拡張してると言ってたわね?」
「御意。ことに、今、お話のあった騎馬部隊の増員を急いでいるようです。徐州のみならず、他州にまで軍馬を買い求めに行っているとの報告が入っております」
「ふむ。河北と違い、准河流域の徐州では、騎馬の増員は難しいでしょうけれど、それでも自分たちの利点は心得ているようね。北郷や劉備が凡物だとしても、周囲の人間はそうではないということか」
 曹操は、劉家軍の河北での戦いぶりについては、郭嘉の報告書で精確に把握している。
 そして、北海の救援に赴いた劉備が、陶謙から乞われて小沛城に入った顛末についても、曹洪からの報告で承知していた。


 曹操の顔に、笑みが浮かぶ。
 少女のようなそれではなく、大陸を席巻せんと志す覇王たる者の笑み。
「徐州という要地に腰を据えた以上、遠からず劉備とはぶつかることになる。陶謙という後ろ盾を得た以上、これまでよりも戦い甲斐のある相手になっているでしょう。いいえ、なっていてもらわなければ困る。楽しみね」
 そう。曹操は本気で楽しみにしていた。
 徐州の兵、数万を麾下に従えた劉家軍と戦う時が来る、その瞬間を。
 河北と北海で劉家軍の採った行動は気に入らぬ。しかし、その甘さが、小沛城主という地位を呼び込んだのだとすれば、劉備もまた、曹操とは異なる意味で、天に選ばれた者であるのかもしれない。そんな風にも思えるのだ。
「――劉玄徳。今度こそ、証明してみせなさいな。あなたが、この私と、天下という舞台で共に舞える英雄であるということを。もし、それが出来ぬのならば、今度こそ、関羽は私が頂くわ」


 劉備が英雄であるならば、それもよし。
 曹操の覇気は、相応しき敵を見つけて、天を衝く焔となって燃え盛ろう。
 劉備が英雄でないならば、それもまたよし。
 かの天下の豪傑を膝下にねじ伏せ、その美髪を我が物として撫抱しよう。


 いずれに転んでも、曹操に益こそあれ、損はない。
 ただ、出来うべくんば。
 曹操は思う。
 劉備が、自分と並び立つ英雄であるように、と。
 何故ならば、英雄を倒すという覇気と、関羽を欲する欲と、二つながらに満足させる最良の答えこそが、それなのだから。
 自然、曹操の口から笑いが漏れる。
 めずらしく楽しげな、主君の笑みに見蕩れる部下たちに気づくことなく、曹操は楽しげな笑いをこぼし続けるのであった。




 しかし、その翌日。
 曹操の機嫌を一変させる報告が、遠く寿春から早馬によって届けられた。
 昼夜を問わず駆け続けた使者は、息も絶え絶えになりながら、曹操の下まで案内されてきた。
 そして、曹操はその使者の口から、袁術領寿春で起きた凄惨な粛清を知らされる。
 すなわち。



 ――孫家、壊滅す、と。



◇◇





 小沛の街の中心部にほど近い一画。そこに軒を連ねる酒楼の一つに、おれはいた。
 このあたりの店は、繁華街のど真ん中にあることからも察せられるように、どの店も高い。控えめにいって、ここで飲み食いした後は、次に給金を貰える日まで、爪に火をともす生活を強いられるのは間違いないくらいに。
 つまりは、おれとは無縁な場所であり、無縁な店である筈なのだが、それなのに何故、おれがこんなところにいるかというと……


「あらん、ご主人様。杯が止まってるわよん?」
 おれの目の前で、貂蝉が酒瓶を掲げる。
 普段であれば、即座に踵を返すところなのだが、今日は先日の礼――玄徳様に面会に来た人を追い返すのに協力してもらった件――の席なわけで、そういったことは出来ない。
 付け加えるならば、これが仮に私的な誘いであったとしても、逃げようとは思わなくなっている自分に、おれは気づいていた。その理由が、ここの代金が貂蝉の驕りだから、というわけではないことも。もっとも、その心境の変化に気づいたのは、最近というわけではなかったが。
「ああ、悪かった」
 おれは貂蝉が満たした酒盃をあおる。
 喉の奥が、焼けるように熱い。どれだけのアルコール度なのか、ちょっと心配になるが、さすがは高級店というべきか、出される酒はいずれも癖が無く、飲みやすい酒ばかりだ。さほど酒に強くないおれでも、充分に堪能できる美味さだった。
 酒楼の最上階、夜天の下、卓に並べられた料理から立ち上る芳香は、食欲を誘い、自然、手の動きは早くなる。
 


「貂蝉は食べなくて良いのか?」
 先刻から、酒盃を傾けるばかりで、料理に手をつけようとしない貂蝉に、おれは声をかける。
 すると、貂蝉は酒で赤くなった頬に手をあてながら、くすりと笑った。
「私のことは気にしないで良いわよ。ご主人様こそ、お城ではほとんど箸をつけられないでいたでしょう? 幸い、ここには私しかいないし、ゆっくりとお食べなさいな」
「――不思議だ。貂蝉から後光がさしているように見えるんだけど?」
「あらやだ。ついにご主人様が私の魅力に気づいてくれたのかしら。身体を磨いておかないといけないわね」
「それは不要だと、全力で断言させてもらう」
「相変わらずつれないわ」
 貂蝉とそんな会話をかわしながら、おれは次々に皿を空にしていった。
 なにせ、城では周囲から、なんともいえない視線が突き刺さり、ろくに飯も喉を通らない状況なのである。ご飯って、味がするものだったんですね……

 
 ――まあ、半分くらいは冗談である。逆に言えば、半分くらいは本当のことだったりするのだが。
 その理由というか原因は、張角にあった。
 先日の舞台後のやりとりは、やはりというか、おれの一夜の夢などではなく、朝会において、張角は実にさわやかに恋人宣言をかましてくれたのである。
 あの時のことは、正直、思い出したくもなかった。
 なぜなら……思い出すだけで、背筋が凍るから。悪寒がはしるから。全力で、そこらの地面に穴を掘りたくなるから。何のためか? おれが入るために決まってる。


 背筋が凍るのは、冷たい眼差しによるもので。悪寒がはしるのは、死への恐怖によるもので。穴があったら入りたくなるのは、羞恥心をいたく刺激されたからである。
 それが三つ同時に襲い掛かってきたあの瞬間、よくぞ逃げ出さなかったものだと、おれは自分で自分をほめてやりたかった。 
 もっとも、一言もなく立ちすくんでいるくらいなら、いっそ逃げた方が良かったのかもしれない。


 先日のことを思い出し、知らず、おれが深くため息を吐くと、貂蝉が口を開いた。
「ふふ、憂いは去らず、という様子ね、ご主人様」
「――去ってほしい、とは心底願っているんだけどなあ」
 おれのため息まじりの返答に、貂蝉は首を横に振る。
「願うだけで、かなうものなんて、この世にはないのよ、ご主人様。それがどれだけ小さく、ささやかなものであろうとも、願いをかなえるのは、その人自身の力なのだから」
「……そうはいってもなあ」
 おれは三度、ため息を吐く。
 貂蝉の言うことに理があるのはわかるのだが、実際、どうすれば良いのだろうか。
 張角の想いに応えるか否かというのなら、話はさほど難しいことではない。日本のことを張角に――張角たちに話して、信じてもらえるかどうかはわからない。しかし、いつか帰るべき場所があることを話し、張角の期待に応えられないことを謝するしかないだろう。
 それがどういう結末を呼ぶのかは、正直、さっぱりわからないが、それでも結末は訪れる。
 だが、張角の恋人宣言を聞いた後の、他の人たちの反応はどう考えれば良いのだろう。特に、玄徳様のよそよそしさと、関羽の刺々しさは、かなりきつい。諸葛亮と鳳統も、なんだかあからさまにおれを避けている風であるし、その他の人たちも、おれへの眼差しにきついものが混ざっている気がするのだ――おれの気にせいだ、と思いたいところなのだが――


「――ご主人様。本当にわからない? 玄徳ちゃんや、雲長ちゃんが、どうしてああまでご主人様への態度を変えたのかが?」
 貂蝉の言葉に、それまでとは違う何かを感じたのは、多分、気のせいではないだろう。酒に酔っているとはいえ、そのくらいのことは、まだ感じ取れる。
 そして、貂蝉が言いたいことも理解できる。恋人とか、そういう方面の経験はゼロに等しいが、他の人たち――というか、玄徳様と関羽の態度は、わかりやすいことこの上ないからだ。
「……でもなあ。ありえないだろ、あの二人が、おれに好意を持っているなんて」
 あの劉玄徳が。あの関雲長が。そして、もしかしたらだが、あの伏竜と鳳雛が、おれに想いを寄せている、なんて誰が信じられるというのか。
 たとえば、これが名前が同じだけの女の子である、とかなら、まだわからないでもない。
 しかし、あの人たちは、姿かたちは少女だが、その内実は、まさしく、おれの知る英傑たちと異ならない。
 もちろん、河北での鳳統、あるいは洛陽での玄徳様のように、内に少女としての――いや、人としての柔らかさ、とでも言うべきものを抱えているのは知っている。
 だが、それは男であれ、女であれ、戦乱の世に生きる人であれば、誰もが持っているもの。おれの知る歴史上の鳳統や、劉備とて、迷い、ためらうことはあった筈だ。しかし、彼らはそれに屈せずに戦い続けた。だからこそ、歴史に不滅の名を刻み込むことが出来たのだろう。


 それは、この世界の少女たちとて変わるまい。おれはそう思うのだ。彼女たちは、どれだけの困難が待ち受けていようとも、それを克服し、この時代に燦然たる足跡を記すことになるだろう。
 おれの言葉が、彼女たちを幾許か元気付けることが出来たのだとしても、それはその背をほんの少し押しただけ。たとえ、おれがいなくとも、誰かがやったことだろう。鳳統には諸葛亮がいるし、玄徳様には関羽がいるのだ。
 そんな些細な出来事に調子に乗った挙句、彼女たちに好意を寄せられているなどと自惚れることが、どうして出来ようか。
「……いや、決して出来ないであろう」
 おれはそんなことを口走りつつ、小さく頭を振った。
 貂蝉と話しているうちに、少し酔いがまわってきたらしかった。



 貂蝉は、おれのそんな独白を、ただ静かに聴いてくれていた。
 時折、相槌を打ちながらも、笑うことなく、遮ることなく、ただ静かに酒盃を傾けつつ、おれの言葉を胸に収めてくれている。
 やがて、おれが胸のうちを吐露し終わると、貂蝉はゆっくりと口を開いた。まるで、酔ったおれに理解させるように、穏やかな声が、その口から発される。
「ご主人様の考えは、間違ってはいないでしょう。玄徳ちゃんたちは、疑いなく英傑の名に相応しい子たちだもの。その名前は、もし、この世界の歴史が続くのならば、ずっと語り継がれていくことになるでしょう……」
「……ああ、そうだな」
 おれは、貂蝉の言葉に、一瞬、違和感を覚えたが、それは貂蝉の次の言葉によって、掻き消されてしまう。


 貂蝉は、こう言ったのだ。
「――だから、おれが彼女たちを支える必要なんてない。守ることなんて出来ない。英雄でもなんでもない、おれなんかが、そんな大それたことを思うだけでも失礼だ――」
「――え?」
 その声は、まるでおれの内心が、そのまま言葉となって溢れたものであるように思われた。
 それくらい、貂蝉の言葉は、おれの本心を的確に浮き彫りにしていたのである。
 だが、貂蝉はおれの驚愕を意に介さず、謳うように続けた。
「それは若者にとって、空を飛ぶ鳥、水に泳ぐ魚、あるいは天に輝く星たるか。手を伸ばせど届かぬもの。心焦がれても得られぬもの。同じ場所に立ちたいと、夢見ることさえかなわぬゆえに」
「貂蝉……?」
 突然の貂蝉の行動に、おれは訝しげに問いを向ける。
 その言葉の意味するものがわからないほどに、酔ってはいない。
 だが、貂蝉が今さらそんなことを口にする理由まではわからなかった。


 そんなおれの疑問に気づいているであろうに、貂蝉は笑みを浮かべ、酒盃を呷るのみだった。
 その笑みは、普段の骨太な、漢気のあるそれと違って、やんちゃな我が子を見守る親のような、そんな温かさと苦笑が入り混じったものであるように思う。
 ――いかん、だいぶ酔ってきたか。なんかありえない想像をしてしまいそうになりました。
 おれは頭の中に浮かびかけた光景を振り払うと、貂蝉にならって酒盃を傾けた。



 見上げれば、星たちが、その光を競い合い、煌びやかな天上の饗宴を織り成している。
 そういえば、朝廷には天文を司る官吏もいるそうだ。彼らは、この燦燦たる星々に、一体、何を見出すのだろうか。
 日本から来たおれにしてみれば、天が、人や世界の命運を映し出すなど、迷信だと思える。しかし、ここまで見事な星空を毎日のように眺めていると、夜空にはしる白銀の大河に、人智を超えた何かを見出そうとした人たちの気持ちも、理解できるような気がした。
 おれは、さきほどの貂蝉の言葉を思い起こす。
「――天に輝く星たるか、か。なるほどな」
 その通りかもしれない、とおれは思う。


 この乱世を、身命を賭して駆け抜けて、繚乱たる輝きを放つ英雄たち。
 その傍らにあって、その輝きを見つめる機会を得たおれは、多分、幸運なのだろう。同時に、傍にいるからこそ、他のこともわかってしまう。
 人身で、それだけの輝きを放つ彼女たちが、おれとは比べるべくもない、偉大な人たちなのだ、ということ。少女の姿かたちの奥に、確かに存在する格の差とでも言うべきか。
 おれと玄徳様たちとの距離は、なるほど、たしかに見上げる星々との距離と、さほど違わないのだろう。




 もっとも、だからといって「どうせおれなんてそんなもん」などといじけているわけでは、断じてない。
 あいにくと、打ちのめされるのは小さな頃から慣れているのだ――まあ、打ちのめされるといっても、爺ちゃんや親父との稽古で物理的にやられただけなのだが。
 それに、玄徳様や関羽、張飛あるいは諸葛亮、鳳統、他にも張角や太史慈、それこそ董卓や賈駆たちもまた、偉大と称しえる人物であるのは確かだが、だからといって、彼女たちだけで事務処理全部が出来るわけでもなく、城内の掃除や洗濯が片手間で片付けられるわけでもない。
 農民が作物を育てねば、食は得られず。
 仕立て屋がいなければ、服も着れない。
 税をおさめる民がいなければ、一国は成り立たず、矛を持つ兵卒がいなければ、軍は組織できない。
 彼らが、真に才を発揮するために必要なのは、たいした才もなく、歴史に名前を残すような能もない、無名の人々なのである。そう、おれのような。


 英雄は大衆を救い、大衆は英雄を活かす。


 そう考えたからこそ、おれは玄徳様たちのところにとどまっているのだ。救われた恩は、無論あるにしても、である。
 おれは、玄徳様たちとは違う。
 だが、玄徳様たちのために、何もできないわけではない。
 そう信じているのだ。




 だからこそ、というべきか。
「――ちょっと役に立ったくらいで、惚れられるなんてありえないわけだ」
 おれがそういうと、揺れる視界の中で、貂蝉が困ったように首を傾げていた。
「なるほどねん。それもまた、一つの哲理。ご主人様に、人の想いの何たるかを教授してあげようとおもったのだけれど、そこまで考えていたのね」
 そういって、はあ、と貂蝉は物憂げに身体をくねらせると、やおら、ずずい、とおれに顔を近づけてきた。
「――ますます、惚れたわん」
「ぬあッ?!」
 貂蝉の攻撃(接吻)を、おれは慌てて椅子ごとあとずさってかわした。
 貂蝉を仲間として認めることと、その恋情に応えることとは別問題である――言うまでもないけどさ。


「というか、いきなり何をするか、おのれはッ?!」
「あら、想いが昂じた挙句、私の身体が勝手に動いてしまったのよ」
「信じられるかッ?! というか、身体が勝手に動いたというなら、なんで立ち上がってこっちに近寄って来る?!」
 身の危険を感じたおれは、急いで屋内に戻ろうとするも、予想外の事態が、それを阻んだ。
「くッ。鍵が?」
「あらあら、たてつけが悪いのね。あとで女将に文句を言っておかないと。でも、ご主人様との間に邪魔が入らないように、しばらく人払いをしてしまったのよねえ。晩秋の今の時期、夜は冷えるわ」
 貂蝉はなにやら考え込むように、頬に手を当てて考え込む。そして、やがて解決策を見つけたのか、力強く頷きながら、こういった。
「でも大丈夫。ご主人様、ここは遭難した時のように、二人で裸身になって、お互いを暖めあ――」
『あってたまるかあァァァッ?!』
 ――って、あれ、なんか、声が重なったような?



 と思う間もなく。
 爆砕、とでも表現するべきか。
 さきほど、おれが阻まれた扉が、文字通り、粉微塵になって吹き飛んだ。
「な、な、なッ?」
 突然の事態に、おれは何が何だかわからず、その場に立ち尽くす。
 やがて、扉の残骸と、埃をかきわけて姿を現したのは――
「……おーまいごっと」
「おう、迷子っと?? 迷子はどちらだ。いくら捜してもみつからないと思えば、こんなところに女連れとはッ」
 現れたのは、黒髪も美しい劉家軍の青竜刀――いや、まあ要するに関羽だった。
 何故、こんなときに関羽が現れたのか。なぜこんな破壊行為に及んだのか。状況がさっぱり理解できん。
 だが、関羽は何やら怒った様子で、つかつかとまっすぐにおれに向けて歩いてくる。
 おれは、とりあえず疑問を口にすることにした。
「あの、状況が理解できないのですが」
 そう言うと、関羽は口元をひくつかせながら、顔だけはにこやかに、懇切丁寧に説明してくれた。
「南から早馬がきてな。火急の召集だというのにお前の姿が見えず、心配して捜しまわってみれば、美女を連れて酒楼へ行ったという。しかも、相手は伯姫殿ではないという。子竜に聞かされた時には、一刀両断にしてやろうかと思ったのだぞ。今度は一体、誰をたぶらかし――」
 あたりに鋭い視線を飛ばした関羽は、当然ながら、すぐに貂蝉の姿を見つけ出す。
 戸惑ったように、もう一度周囲を見回すが、これも当然ながら、この場には他に誰もいない。
「これは――どういうことだ??」
 そこで可愛く首を傾げられても、何と返せば良いのやら。


 とりあえず、貂蝉に確認をとる。
「趙将軍に、今日のこと、言ったのか?」
「ええ、そもそも、ここを教えてもらったのも子竜ちゃんにだもの」
「ということは――」
 おれは気の毒そうに、関羽を見る。
 今の短い会話で、関羽も事の真相に気づいたらしい。
 さきほどまでとは違う意味で、顔を真っ赤にしている。
「そ、その、なんだ、もしかして、私は――子竜にからかわれたのか?」
「……」
 肯定の言葉を発しなかったのは、武士の情けというものである。武士じゃないけど。
 関羽は、しばらく、ぱくぱくと口を開閉させていたが、やがて、天にも届けと言わんばかりの大喝が、その口から迸った。
「お、おのれ、子竜ォォォォッ!!!」



 だが、絶叫する関羽は、いまだ背後から迫り来るもう一つの絶望を知らない。
 顔を真っ赤にさせて悔しがる関羽の肩を、おれは軽く突っついた。
 涙目で振り向いた関羽に、屋内の方を指し示す。つられて、関羽がそちらを向くと、そこには無残に破壊された壁面と、笑顔でこめかみに怒りマークを浮かべる女将の姿があった。
 言うまでも無いことであるが、ここは高級酒楼の、最上階の一室。調度をふくめて、全てが一流の物品で占められている。
 関羽の破壊活動が、何をもたらしたのか。想像するまでもないくらい明白だった。  

   
 赤から一転、顔を蒼白へと変じさせた関羽の様子は、少し見物だった。絶対、口には出せないが。
 案の定、女将が差し出した請求書には、なんかとんでもない数字が書かれていた。たとえていうなら、ここでおれと貂蝉が飲み食いした金が、はした金に思えるくらい。
 周囲を見渡せば、調度のいくつかが破片の直撃をうけたか、壊れている。いかにも高級そうな壺やら像やらもあり、桁外れの請求額も仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。


 女将による圧倒的な勢いの攻勢に、関羽はたじたじとなって、時折、こちらに助けを求める視線を向けてくるのだが。
「――無理だよな」
「――無理よねん」
 おれと貂蝉は、たちまち、意見の一致を見て、同時に首を横に振り、救援の不可なるを関羽に伝えた。
「は、薄情者ッ?!」
 慌てふためく関羽に、女将はさらに声を高めた。
「関将軍ッ! いくらお城の方とはいえ、これだけのことをされて、黙っているわけには参りませんよ。この部屋の修繕代、調度の弁償金、いずれもビタ一文たりともまけませんからねッ!」
「う、そ、それはまことにあいすまんと思うのだが、あいにく、全財産を投じても、とうてい、その額には追いつかぬのだが……」
「ならば、お城の玄徳様に訴え出るまででございますッ」
「うぐッ?! こ、このようなことで、桃香様にご迷惑をかけるわけには――ッ!」
「ならば、将軍が何とかお金を工面してくださいッ。さあッ! さあ、さあッ!! さああああッ!!!」




「……なあ、貂蝉」
「なにかしら、ご主人様?」
「あの女将さん。将軍として城で召抱えられないかな?」
 関羽を相手にあの迫力。あの女将、ただものではないッ。
 だが、おれの言葉にこたえたのは、貂蝉ではなかった。


「それはやめてほしいものだな。女将がいなくなると、折角見つけた店がなくなってしまう」
 いつのまに、この場に来ていたのだろうか。
 気がつけば、そこには白の衣を纏った柳腰たる女性――趙雲がいた。
 驚きの感情が、いつのまにか飽和状態になっていたのだろう。おれは大して驚きもせず、怪訝そうに問いかけた。
「趙将軍まで、ですか。一体、何事です?」
「詳しくは城でな。ちと厄介なことが起きたようだ」
「――将軍?」
 てっきり、何かの悪ふざけかと思っていたのだが、趙雲の顔には、そういった雰囲気が欠片もなかった。
 つかつかと、いまだ言い争いを続ける――正確に言えば、一方的に関羽にまくしたてている女将に近づいていく。
 当然、関羽も、女将も、その姿にすぐに気づいた。
「あら、趙将軍ではありませんか。お元気そうで何よりでございます」
「すまんな、女将。粗忽な仲間が迷惑をかけたようだ」
 さらっと言う趙雲に、当然、関羽が黙っている筈はない。
「し、子竜、お主ッ?!」
「すまん、雲長。少々、悪ふざけが過ぎたようだ」
 どんな返答を関羽が予測していたにしろ、この返答はそれ以上に関羽を、そしておれを驚かせた。
「な――?」
 あの飄然とした趙雲が、ここまであっさり自分の非を認めるとは、どういうことか。
 だが、関羽は趙雲の答えを聞き、何かを悟ったのだろう。それまでの慌てた様子から一変して、冷静な将軍としての顔になった。
「私にも責任の一端はある。どうだろう、女将。ここは私の顔に免じて、少し時を貸してくれまいか。無論、その分の対価は上乗せしよう」
 趙雲の提案に、女将の顔に不服の表情が浮かぶ。
 だが、しばらく何事か考え込んでいた女将だが、やがて小さく肩をすくめて、首を縦に振った。あるいは、趙雲と関羽の顔に漂う、ただならぬ雰囲気に気づいたのかもしれない。
「ほかならぬ、趙将軍のお頼みです。承知するといたしましょう」
「恩に着る。ほれ、雲長、お主も礼を言わぬか。普通なら、身包みはがれて、下働きさせられるところだぞ」
「む、むう……礼を言う、女将」
 小沛城の誇る二大将軍にそろって頭を下げられ、女将は苦笑しきりであった。





 結局、飲み食いした分だけを払って、酒楼を後にしたおれたちであったが、関羽と趙雲の雰囲気は酒楼を出てからも変わらなかった。あるいは、女将をごまかす手段なのか、とも思わないではなかったのだが、どうやらそんな底の浅い事態ではないらしい。二人の緊迫感が、無言でそれを教えてくれた。
 つい昨日まで、おれに向けられていたものとは違う。そんな生ぬるいものでは、断じてない。
 これは、たぶん――
「子竜、詳細はわかったのか?」
「お主が街に突撃したすぐ後、第二報が来た。最初の報告に、間違いはない――これは、荒れるぞ」
「そうか。城外に出ている鈴々と叔至も、早急に呼び戻さねばならんな」
「すでに使者は出ている。二日もあれば戻れるだろう。寿春の乱の影響が出るまでには間に合いそうだ」
 関羽と趙雲の会話を、黙って聞いていたおれだったが、聞きなれない言葉が出てきたことで、つい口をはさんでしまった。
「寿春の乱?」
 この時期、そんな出来事があっただろうか、と首をひねったおれに、関羽と趙雲は、歩く速度を緩めずに口を開いた。
「先刻、南の国境から早馬が着いたことは言ったな。報告によれば、袁術領となった寿春で、大規模な粛清が行われたとのことだ」
「粛清、ですか」
 おれはわずかに眉をひそめた。


 粛清とは、敵を破ることを意味しない。味方を切り捨てる時に用いられる言葉である。
 この場合、それは袁術軍の戦力低下を招くことを意味し、徐州にとっては決して損となる話ではない。しかるに、おれも、そして貂蝉でさえも、関羽の言葉に、不吉なものを感じざるをえなかった。
 それは、この一報が、仮初の平穏が終わり、血泥で染め上げた戦乱という名の嵐を告げるものだと無意識に感じ取ってしまったからなのだろう。
 そして。
 趙雲は、関羽の言葉に、こう付け加えたのである。


「第二報で明らかになった死者の名は――孫堅だ」
「えッ?!」
「なにッ?!」
 おれと関羽の驚愕の声が、同時に街路に響き渡る。
「孫堅だけではない。その重臣のほとんどが、寿春城内で横死したらしい。そして、それをなした者の名は――」
 趙雲は一拍置いて、ゆっくりと告げた。
 



「――飛将軍 呂奉先」と。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/07 09:55

 南陽から東へ数日。
 汝南の城にたどり着いた孫堅は、そこで腹心の部下の出迎えを受ける。
 顎から首筋にかけて、見事な髭を生やした壮年の男性は、孫堅に向かって深々と一礼する。
 程普、字を徳謀と言い、黄蓋と並んで孫家の武の要ともいうべき人物であった。
 程普の後ろに控えるのは、韓当と祖茂の二人である。孫堅軍の中にあって、黄蓋と程普に次ぐ勇武の将軍たちである。
 彼らを代表して、程普が口を開いた。
「お久しゅうございます、文台様」
「ええ、徳謀も壮健そうで何よりよ。義公(韓当の字)、大栄(祖茂の字)もね」
 主の言葉に従い、一斉に頭を下げる三将軍。
 彼らは、袁術の命により、陳の攻略を進めていたのだが、今回、急遽、寿春の地への参集を命じられ、軍を返してきたのである。
 彼らだけではなく、荊州から豫州、揚州にかけて、幅広く展開している孫堅軍の多くが、寿春への集結を命じられていた。
 南陽から寿春に向かう孫堅と、陳から寿春へ向かう程普たちが汝南で出会ったのは、あくまでも偶然に過ぎない。少なくとも、建前としてはそうなっていた。


 だが、主君への挨拶を済ませると、そんな建前はたちまちかなぐり捨てられた。
 程普は、孫堅の背後に控えていた戦友に声をかける。
「祭(黄蓋の真名)よ、此度の件、一体どうなっておるのだ?」
「徳謀、それはわしがおぬしらに訊ねようとおもっとったことじゃぞ。わしらは荊州からこの地に着いたばかり。寿春のことは、おぬしらの方が詳しかろう」
 黄蓋の反問に、程普は困惑した様子を隠さなかった。
「わしらも、ほとんど戦場にいたゆえな。寿春の君理(朱治の字)から、ある程度の情報は送られてきていたから、袁術が寿春でなにやら動いておったことは知っておる。だが、それにしても、ここまでの規模で軍勢を集めるとは思っておらなんだ」
 袁術が寿春に集結させる軍の総数は、孫堅の軍を含め、その総数は、5万とも6万とも言われていた。
 何処かへ軍を発するのかとも思われたが、これまでの例で言えば、袁術はまず初手に孫堅の軍を据える。今回は、そういった指示は来ていない。
 そこのところが、黄蓋にも、程普にも解せないところだった。
 

「ふうむ、おぬしたちでも、予測できんほどじゃったのか」
 腕組みして考え込む黄蓋に、程普は誰かを捜すようにあたりに視線をはしらせた。
「伯符様と公瑾の姿が見えないようだが、どうしたのだ。あの二人なら、勘と理詰めの双方で真実を突き止めてくれそうだが」
「後陣で、妹君らを待っておるよ。合流したら、すぐにもこちらに来るじゃろう」
「ふむ。仲謀様と、尚香様か。やはり、お二人も寿春に招かれたのだな」
「うむ、これまでは、神経質なまでに、我らを四方の国境に分散させて張り付かせていたというにのう。袁家の小娘め、一体なにを考えておるのやら」
 黄蓋が肩をすくめると、程普は髭を揺らして、愉快そうに笑った。
「全くだな。したが、此度の件、見ようによっては好機であろう。あまり大声では言えんがな――」
 そこまで口にした程普は、袁術配下の城兵が近づいてくるのを見つけ、つとめて何気ない様子を装い、話題を当たり障りのないものにかえるのだった。




 その夜、汝南城の一隅では、各地に散っていた孫堅軍が一堂に会し、にぎやかな再会が行われた。
「母様、お久しぶりで――」
「わ~い、かあさまーッ!」
 孫権が礼儀正しく母に礼をほどこそうとする、その脇を、小さな旋風が駆け抜けていった。
 その旋風はそのままの勢いで、孫堅の胸に飛び込んでいく。前回、袁術の褒賞の一貫として、南陽の城で顔をあわせてから、まだ三月と経っていない。それでも、まだ幼い孫尚香にとっては、母に会えなかった期間は、とても長く感じられたのだろう。
「ふふ、シャオは相変わらず元気が良いわね」
 孫堅は飛びついてきた孫尚香の身体を何なく受け止め、屈託なげに笑うが、姉である孫権は厳しい表情で妹をたしなめた。
「シャオッ! 母様は一軍の主なのよ、礼儀をわきまえなさいッ」
「えー、実の母娘なんだから、そんなの気にしないで良いでしょう。蓮華姉様、頭が固すぎだよ。ねー、かあさまッ」
 姉に向かって舌を出すと、孫尚香は甘えるように母の胸に顔をうずめた。
 そんな妹の姿をみて、孫権は柳眉を逆立て、さらに何か口にしかけるが、苦笑と共にそれを制したのは、二人の姉である孫策だった。
「蓮華も、そう怒らないで。シャオにとっては久しぶりの母様なんだから、仕方ないわよ」
「しかし、姉様ッ。部下たちの前で、このような真似をすれば、孫家の一族が、公私の別をつけられないものと思われてしまいます」
「そこまで肝の小さな人間は、この場にはいないわよ。袁術の下の、そのまた下にいることに耐えられる物好きばかりなんだから」
 孫策の言葉に、孫堅が孫尚香の頭を撫でながらも、少し憮然とした顔つきをした。
「策、なぜだか当てこすられているように聞こえるのは、私の気のせいなのかしら?」
「ええ、もちろん気のせいよ、親愛なるお母様?」
 あははうふふと笑みをかわしあう孫堅と孫策。
 その様子を見て、孫権と、そしてようやく母から離れた孫尚香は、それまでの経緯を忘れて顔を見合わせた。
 孫権が口を開く。
「あいかわらず――」
「喧嘩ばかりなんだね」
 孫尚香は、ため息まじりに、そう答えるのだった。




 再会の喜びが一段落すると、孫堅は、姉妹の後ろに影のように控える武将に声をかけた。
「興覇(甘寧の字)、蓮華とシャオの護衛、ご苦労でした」
「もったいないお言葉です、文台様」
 甘寧は、主君の言葉に深々と頭を下げると、すぐに口を閉ざし、再び周囲を警戒する態勢にはいった。
 孫堅を客将格として抱える袁術であるが、信を置いているわけでは決してない。
 今、この場に孫家の将帥たちが一堂に会していることも、それと知られれば、後々問題になってくることだろう。
 もっとも――
「内には興覇が、そして外では幼平(周泰の字)が目を光らせております。事がもれる心配はありますまい」
 周瑜の言に、一堂は得心して頷くが、だからといって、いつまでも話し込んでいては、それこそ袁術側の疑惑を掻きたてるだけになる。
 彼らは再会の喜びに緩んだ顔を引き締め直すと、現状の確認に移った。


 孫堅軍の諸将の中で、もっとも長く孫堅に仕え、群臣の首座を占めるのは程普と黄蓋である。
 口火を切ったのはその中の一人、程普であった。
「――さて、我らが一堂に会する機会を得られたは喜ばしきことだが、問題はそれを許した袁術にある。今後、我らがどう動くべきか、皆の意見を聞かせてもらいたい。まず、公瑾に問いたい」
 程普に指名された形の周瑜は、年長の諸将に丁寧に一礼してから口を開いた。
「寿春の君理殿からの知らせによれば、袁術は寿春に大兵を集めると同時に、宮殿を珠玉で飾り立て、路上を花々で敷き詰め、楽師を募るなど、なにやら巨大な催しでもはじめようとしているようにも見えるとのことです」
 周瑜が口にしたことは、すでに朱治を通して程普、黄蓋も知らされていることだった。当然、孫堅もすでに知っている。
 周瑜がことさらそれを口にしたのは、寿春の様子を詳しく知らない他の諸将の為であった。
「それを見るに、今回の命令、一概に戦のためのみとも思えない節がございます。ただ、私が考えるに、この際、袁術の狙いは捨て置いてもよろしいかと」
 周瑜の言葉に、ざわめきがはしる。
 韓当が訝しげに問いかけた。
「公瑾、それはどういう意味だ? 袁術の狙いを知らねば、その対応も決められまい」
「左様、常の公瑾らしくない物言いよな。敵を知らねば、百勝することは出来まいぞ」
 韓当に同意して、祖茂もそう言った。他の諸将も、概ね同意見のようで、皆、しきりに頷いたり、同意の呟きをもらしている。


 周瑜は孫策と義姉妹の契りを交わし、孫堅からも我が子同然に可愛がられている。
 また、その鋭い洞察力と判断力は、孫堅、そして孫策に高く評価され、孫堅軍の軍師として認められてはいた。
 だが、やはり孫家に仕えた閲歴の浅さは覆しようがなく、古参の武将、特に男性の諸将からは、あまり良い感情を抱かれてはいないのも事実であった。
 もっとも、程普のように、先の反董卓連合、そしてそれに続く汝南と寿春の攻略戦において発揮された周瑜の智略を目の当たりにし、これまでの認識を改めた者もいる。程普が、最初に周瑜に問いを向けたのもそのためである。
 だが、そうではない韓当、祖茂をはじめとした諸将は、予想とは異なる周瑜の反応に、難しい表情を隠せなかった。
 韓当が改めて周瑜の発言の意図を問おうと口を開こうとした途端だった。
「おぬしら、そんなこともわからんのかいッ!」
 ぴしゃりと言い放ったのは、それまで、口を噤んで、各人の発言に耳を傾けていた黄蓋だった。


 程普と並ぶ孫堅軍の最古参である黄蓋。その言は、孫堅すら無視できない力を持つ。
 もっとも、当の本人はそういった自分の立場に気づきはしても、気にはしていなかった。その性格は豪放にして磊落、一度弓を取れば、空を飛ぶ燕さえ射落とすとされる精妙な弓術の使い手でもある黄蓋は、周瑜の発言にざわめく若造たち(黄蓋視点では韓当、祖茂もこれに入る)に鋭い眼差しを向ける。
「袁術の狙いが何処にあろうが、わしらが採りえる手段は二つのみじゃ。これまでどおり、臥薪嘗胆、ただ耐え抜くか。それとも、此度の命令を契機として立ち上がるか。前者であれば、袁術の狙いなど知ったところで詮無きことよ。後者であれば、これまた意味のないことでもある。あやつらの狙いの如何に関わらず、我らは戦うことしか出来ぬのじゃからな。ゆえに、公瑾は袁術の狙いは捨て置けと申したのじゃ」
 黄蓋は一息にそういうと、さらに言葉を続けた。
「ここですべきは、袁術の狙いをあれこれ推測することではない。これからも袁術に従うか否か、それを決めることじゃ」


 黄蓋の言葉に、諸将は寂として声も出ない。
 その言葉に理があることがわからないような無能者は、孫堅軍にはいない。
 確かに、袁術の狙いがどこにあるのであれ、孫堅軍のほとんどが一堂に会するような機会は、今後、長く来ないだろう。その意味でいえば、今回のそれは大きな好機であったし、程普と黄蓋もまた、そう考えていたのである。
 程普が口を開いた。
「寿春は、伯符様らが陥落させ、君理が工作を進めている土地。その意味でも、決起の成功率は他所よりも高くなろう。くわえて、敵の兵力は強大といえど、袁術は董卓との戦いで、宿将であった紀霊と兪渉を失っておる。張勲以外の将は大したものではなく、袁家がいかに強大なりといえど、敵の圧力を跳ね返すことは十分に可能であると考えるが、皆の考えは如何?」
 程普に限らず、孫堅軍の諸将の中で、袁術に跪かねばならない現状を、快く思っている者など一人もいない。それでも、これまで孫堅軍が袁術の麾下にとどまっていたのは、孫堅、程普、黄蓋らが慎重に時期を見計らっていたゆえである。
 袁術軍が凡将ぞろいとはいえ、その兵力の強大さはやはりあなどれない。それに、広大な領土を支配する袁術軍は、一度や二度、敗北したところで、まだ後があるが、確固たる地盤を持たない孫堅たちにはそれがない。
 くわえて、頼りになる味方は四方の国境に縛り付けられており、連絡を取り合うことさえ容易ではないとあっては、独立のための行動自体がほとんど不可能だったのである。
 だが、先日来、その警戒も幾分緩んで来つつあった。袁術が孫堅たちを信用した――というわけではあるまい。だが、巨大になった自己の勢力を見て、孫堅たちを軽視しはじめたことは、間違いないように思われるのだ。
 好機至る――程普は、そう考えていたのである。
 常は慎重な程普が、はっきりと意欲を見せたことが、列席の諸将を興奮させた。
 もとより、自らの武勇に自信を持つ者たちである。長らく屈従を強いられた袁術との戦いは、彼らにとって望むところであった。
 彼らは口々に程普の意見に賛同し、今こそ起つべき時と気勢をあげた。


 そんな部下たちの意気盛んな様子に、孫堅は満足そうに頷いた。もとより、その身体に脈々と波打つは、往古、大陸を席巻した覇王と同じ楚の血潮。主君という立場さえなければ、孫堅こそがまっさきに戦いを主張したに違いないのである。
「此度のような好機、そうそうあるものではないでしょう。袁術の麾下より脱し、孫家の旗を天下に押し立てるは、今この時を措いて他になしと見るのだけれど、策、冥琳、あなたたちはどう思う?」




 熱気に満ちた一座の空気に、だが、孫策は感応しようとはしなかった。
「私は、反対ね」
 若くして、江東の小覇王と称えられる孫家の麒麟児は、ただ一言で、母と、そして年配の武将たちの熱意に冷水を浴びせた。
 まさか、あの孫策が反対を口にするとは思っていなかった諸将の間から、動揺のざわめきが起きる。
 孫堅は、娘の顔を見て、すっと目を細めた。
「理由は?」
「それを語るのは、私より冥琳の方が適任でしょ」
 母に問われた孫策は、長い髪をかき上げながら、発言を譲るように周瑜を見やる。
 その様子は、自らと周瑜の意見が違わぬことを確信しているようだった。
 そして、周瑜はそんな孫策の言葉に、首を縦に振ったのである。


 黄蓋が興味深げに小さく笑う。
「ほう、策殿ばかりか、公瑾までが反対にまわるか。いかなる理由によってじゃ?」
 顔は笑んでいても、その視線の鋭さは、歴戦の勇将のそれだった。周瑜を認める者の一人である黄蓋だが、無条件でその言葉を鵜呑みにするほど甘くはない。わずかでも周瑜の言葉に隙があったのなら、容赦なく叩き伏せてくれよう、とその目は雄弁に語っていた。
 その黄蓋の視線を受けながら、しかし、周瑜は臆する様子もなく、あっさりと結論から口にした。
「公覆(黄蓋の字)様、そして列座の方々も、ご承知のとおり、近年、袁術の陣営に大きな変化が起きております――」


 汝南、寿春を陥とした東方遠征からこちら、袁術は、孫堅軍に資金と糧食を与え、各地に散っている同輩と連絡を許可するなど、明らかに孫堅軍への態度を変えつつある。
 これまでは、孫家の勢力が伸張することのないよう戦力を漸減させ、功績に報いぬことも度々であったというのに、だ。
 当初、孫策と周瑜は、この袁術の動きにさして注意を払っていなかった。それは、あの袁術や張勲の考えることを推量することの無意味さを知っていたからでもある。
 その時の気分と感情で、どちらにでも転ぶ主従だとわかっていればこそ、当て推量はかえって害となりかねない。相手が明確な行動に移ったとき、その都度、対処していけば良いと考えていたのである。
 孫策などは、大方、大きな領土を得た袁術たちの気まぐれであろうと思っていたくらいだった。
 だが、あれから数月。
 袁術たちの対応は変わることはなく、孫堅たちは水面下で着々と独立のための準備を進めることが出来たのである――そう、いささか容易すぎるほどに、順調に。


 袁術に、なんらかの変化が起きており、それが今のところ、孫家に有利に働いている。
 その認識は、孫策、周瑜と、程普らの間に大差はない。
 両者が決定的に異なるのは、その変化が何によってもたらされているか、というところであった。
 程普は、それを大身になったゆえの袁術の驕りと判断した。
 そして、周瑜は――その袁術の変化は、孫堅軍を罠へと誘い込む隙だと判断した。
「ここ最近の袁術の動きを見るに、まるで我らに早く起兵せよと言わんばかり。そのために、資金や糧食を与え、監視の目を緩めさえしております。そこまでして我らをけしかけている以上、袁術たちには相応の自信があるのでしょう。孫家の軍を壊滅に導く自信が」


 だが、そんな周瑜の言に対し、真っ向から反論を口にしたのは、程普、黄蓋に次ぐ将である韓当だった。
「我ら孫家の精鋭が集えば、袁術軍ごとき、たとえ10倍の兵力差があったところで恐れるに足りぬ。袁術めが、我らを決起させるために資金と糧食をよこし、一堂に集めたというのなら、それこそ勿怪の幸いではないか。奴らの軍を突き崩し、己が愚行を後悔させてやれば良い」
 たとえ、袁術が何がしかの罠を仕掛けているのだとしても、食い破ってみせれば良いという韓当の勇壮な主張は、この場の多数の賛同を得るには十分な説得力があった。
 そして、それは部下だけでなく、孫家に連なる者も含まれる。
 孫権が口を開いた。
「冥琳の危惧もわからないことはないけれど、袁術の軍ごとき、私たち孫家の軍にかかれば物の数ではないでしょう。ここでためらえば、悔いを千載に残すことになると思うのだけど」
「蓮華姉様のいうとおりだよッ! シャオたちがばらばらにされてる状態だったら、我慢するしかないと思うけど、こうやって一箇所に集まれたんだもん。袁術みたいなお子様に、シャオたちが負けるわけないわッ」
 孫尚香も、すぐ上の姉の意見に賛同の声を発した。
 それを聞いた黄蓋が、楽しげに含み笑いをもらす。
「ふむ、袁術めも、尚香殿には言われとうないじゃろうのう」
「祭、何か言ったッ?!」
「いや、何も言うとりはせん」
「……むー」


 孫尚香のじとっとした眼差しを、しれっとかわしてのけた黄蓋に対して、孫堅が口を開く。
「それで、祭の意見はどうなの?」
「そうですな――徳謀の意見、公瑾の意見、今のところ、いずれにも理があると見ます。じゃが、公瑾は、まだすべてを口にしたわけではないのじゃろう?」
 黄蓋の視線を受けて、周瑜がかすかに苦笑を浮かべる。
「さすがにおわかりになりますか。正直、確証のないことですので、口にすべきかどうか、迷っていたのですが」
「ふん、あの程度の意見しか持てぬ若輩に、孫家の軍師を名乗らせはせんわい。して、何を危惧しておるのじゃ、おぬしともあろう者が?」


 黄蓋の問いに、しかし、答えを返したのは周瑜ではなく、もう一人の起兵反対者である孫策だった。
「むしろ、私がみんなに聞きたいくらいだわね。自分たちの見たいものだけを見てることに、気づいてる?」
 孫策は、苛立たしげに髪をかきあげながら、そう言った。
 孫策の思わぬ語気の鋭さに、黄蓋が少しだけ驚いた顔をする。
「これまで、まあ馬鹿ではあっても最大の障害だった相手が、急に掌を返したように、こちらに有利なことばかりし始めた。おまけに本拠地から最も遠く、自分たちの目の行き届かないだろう寿春にわざわざ足を運んで、こちらの全軍を呼び集めている。さあ、牙をむけと言わんばかりじゃないの」
 性質の悪い罠が仕掛けられているに決まっている。そんなところに、敵の目論見通り、全軍で入っていく必要がどこにあるのか。
 孫策の言葉を、周瑜が引き継いだ。
「これまで、我らの叛心を警戒し続けてきた袁術が、ことさら我らに独立を促すような真似をし始めた以上、そこになんらかの謀計が秘められているは必定。問題なのは、その謀計が何処から出ているのか、なのです」
 これまでのように、袁術ないし張勲あたりの策であれば、察することは出来た筈である。
 だが、今回の寿春召集の狙いが、いまだに明らかになっていないように、今回のそれは、これまでの謀略とは質が違った。
 明らかに、これまでとは別人の頭脳から出ていると考えられるのだ。そして、寿春の朱治の偵知をくぐりぬけ、程普や周瑜にさえ狙いを看破されない深みのある策は、これを講じた者が侮れない人物であることをはっきりと物語っていた。



 そして、周瑜は、その人物に心当たりがあった。
「ここ最近、袁術の下に見慣れぬ者たちが集められております。聞いたことのない名前の者ばかりですが、私が見たところ、いずれも一角の人物。これまでの袁術のように、家の名と格のみを見て、集めたような者たちではございません。そういった者たちを集めている者の名は――あるいは、皆様も聞いたことがあるかもしれません――」


 于吉、と周瑜はその男の名を口にした。


 その名を聞いて、黄蓋はやや眉をしかめた。
「ふむ、たしかどこぞの方士で、そのような名前の者がいたように記憶しておるが――そやつが、袁術のもとにおるのか」
「はい。公覆様は酒ばかり飲んでいるので、南陽城内の情勢にはいささか疎いようですね。この名は、すでに侍女たちにまで広まっているのですが――」
「これ、公瑾。このような場で説教を始めるでないわ。話をすすめんかい」
「は。我らに対する袁術の態度が変わり始めた頃とほぼ同時期に、この男の姿が、袁術の付近で見かけられるようになりました。同時に、袁家の内治、軍事、外交、そういった面でも大きな変化が見受けられます。この男が、袁術に影響力を行使していることは、ほぼ間違いないでしょう」
 周瑜の言葉に、しかし、他の諸将はそれがどうしたのか、と言わんばかりに顔を見合わせていた。
 戦場の生き死にを目の当たりにしている諸将にとって、方士とは女子供を相手にする弁士程度の存在に過ぎず、そんな人間が袁術の傍にいたところで、起兵を躊躇しようと思う筈がなかったのである。


「この際、于吉なる者を方士と侮る気持ちは措いてください。肝心なのは、あの男が袁術の下に現れてから、袁家の綱紀は粛正され、領内の統治もこれまでになく順調に進んでいるということです。それは占領して半年と満たないここ汝南の様子を見れば明らかでありましょう」
 ざわつく諸将に対し、周瑜は押しかぶせるように言う。事実、汝南の統治はほぼ完璧に近く、領民たちも袁家の統治に服しているように見えた。そのことに、諸将はようやく思い至る。
 なるほど、于吉とやら言う男は、なかなかの政治手腕を持っているらしい。だが、所詮、それだけではないか。そこらの見所ある者を召抱えたところで、孫家の誇る精鋭にかなう筈もない。
 多くの者は、于吉を気にするのは、周瑜の取り越し苦労であろうと考えた。


 それと悟った周瑜の顔に、一瞬、焦りにも似た表情が浮かぶのを、孫策は見た。
 周瑜にとって、袁術は恐れるに足りないことを、孫策は知っている。それは、たとえ相手が得体の知れない男であっても同様だ。
 そして、孫策の考えは、事実でもあった。総大将孫堅の下、周瑜が策を練り、諸将がその下で動く。この形が十全に機能すれば、相手がどこの軍であろうと互角以上に戦える自信が、周瑜にはある。
 その周瑜が恐れるのは、敵ではなく、武に自信を持つあまり、無意識に相手を侮ろうとする味方の慢心であった。
 もちろん、平時であれば、孫家の誇る精鋭たちは、そんな愚は冒さない。だが、袁術軍が相手となる今回の戦いにおいても、孫堅軍は平時の冷静さを保てるのか。周瑜をしてさえ、それは甚だ心もとないといわざるをえなかった。だからこそ、周瑜は現状で袁術軍に挑むことに反対の立場をとったのである。



 だが、同時に、軍内における独立に向けた流れが、せき止められないであろうことも周瑜は予見していた。
 独立に向けて、あつらえたように整えられた、今回の状況。
 長年、袁術の麾下で耐え忍んできた孫堅軍の諸将にとって、この好機を見過ごすことは難しい。多少の疑義など吹き飛ばすほどに、年配の者たちの袁家への憤怒は根が深い。それは配下に限っての話ではなく、主君である孫堅にすら及んでいる感情であったからだ。
 孫策にも言っていないことだが、この策略を仕掛けてきた相手は、おそらくそれを知っている。たとえ、己が狙いを看破する者がいたとしても、孫堅軍の大勢を動かすことはかなわない、と。
 それどころか、今、生じているこの対立すらも、相手の思惑に含まれているのかもしれない。周瑜はそんな風にさえ考えていた。


 そこまで考えていた周瑜が、では、何故、あえて孫策と共に反対を表明したのか。
 物事を定める切所にあって、集団を構成する全員が同じ場所を向けば、それは奈落へ至る第一歩である。たとえ少数であっても、異なる方向を見据える者の存在は、集団としての安定性を保つために不可欠だった。
 ことに軍師とは全軍の頭脳にして、最も冷静であらねばならない立場を指す。
 軍内の熱気に感応し、打倒袁術の念に同調することは、周瑜には許されないことだったのである。



 そういった周瑜の考えに気づかない孫堅ではなく、程普ではなかった。
 彼らとて凡愚ではない。孫策と周瑜の指摘どおり、今回の袁術の動きに疑念を感じないわけではなかった。いや、むしろ疑念だらけと言っても差し支えあるまい。
 だが、長の年月、押さえつけられていた反骨の気概は、絶好の機会を得て、各々の心中で、天に沖する焔となって燃え上がってしまっていた――もう、御することが出来ないほどに。
 そして、その種火となるのは、武を重んじる彼らの誇り。袁術であれ、張勲であれ、あるいは得体の知れない方士であれ、張り巡らされた罠など食い破ってみせるという、猛虎の自負であった。


 孫策と周瑜の反対も届かない。単純にして愚直、だがそれゆえに説伏することは困難な感情が、孫堅軍の主従の心に染み渡った時、事は決した。
 孫堅は、ついに決断を下す。
 すなわち、袁家の麾下から脱し、この乱世の空に、己が牙門旗を高々と翻すことを、はっきりと宣言したのである。







 一度、主命が下れば、それに服するのが臣下の務めである。
 孫策はいまだ不服そうではあったが、周瑜は思考を切り替え、現状で採りえる策を披露した。


 上策。ここ、汝南で蜂起し、城を占領する。寿春に集まった袁術軍の主力と、本拠地である南陽との連絡路を遮断することができるため、袁術は間違いなく出陣する。その軍勢と野戦で勝敗を決するも、汝南に篭るも、選択肢を孫堅軍の手中に出来る。万一、袁術が寿春から出なければ、西方を攻略して地盤を固めれば良いだけのことである。


 中策。ただちに全軍で反転し、袁術の本拠地である南陽を制圧する。袁術軍の主力は無傷で寿春に残るが、南陽城の防備を固めれば、それを撃退することは可能である。
 また、南陽は劉表、曹操らと地理的に近い。両者は袁術と友好関係になく、特に劉表に至っては宿敵ですらあるため、彼らと外交上で歩調をあわせることは十分に可能であろう。
 もっとも、その場合、劉・曹に借りをつくってしまうため、それが今後の足かせとなる可能性も否定できない。
 

 下策。あえてこのまま寿春に入り、袁術の膝元で叛乱を起こす。敵の狙いが定かではないという危惧がつきまとうが、敵の総帥である袁術を倒すことが出来れば、戦いは終息する。民も苦しまずに済むだろう。


 周瑜は以上の三つを挙げ、孫堅に決断を請うた。
「上策は速戦。中策は持久。どちらかをお選びくださいませ」
 だが、孫堅は首をかしげた。
「そう、寿春に赴くのは下策か」
「御意。先刻、申し上げたとおり、敵の狙いが奈辺にあるのか、判然といたしません。他に採りえる手段がないのであればともかく、今、我らが軍には行動の自由が与えられております。この状況で、あえて危地に踏み込むは、下策と申し上げざるをえません」
「確かにそうだが――元凶たる袁術を討ち取れば、勝敗は決するでしょう。我が軍と袁術軍の間に多大な戦力差があるのは紛れもない事実。速戦であれ、持久であれ、兵と民とに多大な負担をかけることに違いはない。敗北を恐れるわけでも、犠牲を厭うわけでもないが、ただ一人の死がその困難を帳消しにするのであれば、寿春に赴くのも立派な戦略ではないか」
 それに、と孫堅は続ける。
「寿春には朱治をはじめ、我らの味方が多く残っている。あの者らに今から使いを出し、寿春からの脱出を促すのはいささか迂遠でしょう。それなら、いっそ敵に懐に入り込んで事を起こせば、朱治らのこれまでの準備を無駄にせずとも済む。成功の可能性は大きく高まろう」


 朱治たちを見殺しには出来ぬ、との孫堅の言い分に、周瑜が口を開こうとした時、周囲からはすでに孫堅の意見に賛同する声が次々とあがっていた。
 孫堅軍の将兵は、長き苦難を共にしているだけに、将たちの紐帯は他軍に抜きん出て固い。くわえて、周瑜の作戦にしたがって迂路を取るよりも、孫堅の作戦にしたがって宿敵たる袁術と真っ向から矛を交えることを望む空気が、将たちの間に濃厚にたゆたっていた。
 それが読めない周瑜ではなく、開きかけた口を閉ざさざるをえなかった。
 そんな周瑜と、そして不機嫌そうに佇む孫策に向けて、孫堅は口を開く。   
「万一、敵の備えがこちらを凌駕しているようであれば、朱治たちと共に寿春を出て、冥琳の策をとりましょう。この場の決定が漏れる筈もないのだから、寿春に赴いたところで、問答無用で捕らわれるようなことは、いかな袁術とてしないでしょうよ」
「――そう上手くいけば良いけどね」
「御意にございます」
 孫策と周瑜が、それぞれの表情で孫堅に頷いてみせる。


 確かに孫堅の言うとおり、叛意を示す明確な証拠がない以上、袁術とて問答無用で襲ってくるような真似はするまい。一応とはいえ、客将として己が麾下にいる者にそんな暴挙を働けば、以後、袁術の麾下に加わろうとする者がいなくなってしまうからだ。
 だが、それでも二人の胸中から、懸念が消え去ることはなかった。
 孫堅や程普たちの考えは、あくまでこちら側から見た視点にもとづくものにすぎない。
 袁術側から向けられる視線は、こちらが考えている以上に鋭く、奥深いものではないのか。
 孫策は直感によって、周瑜は推測によって、それぞれそう判断していたのである。




 しかし、結局のところ、周瑜も、そして孫策もまた大勢に従うことになる。
 二人の懸念には確たる根拠がなく、他者を説得しえなかったこともあるが、何より、二人とも――とくに孫策は、表面上はどうあれ、主君であり、母である人物を信じていたからであった。
 孫堅のこれまでの戦歴を振り返るまでもなく、自分たちがまだ未熟な雛鳥であることは、二人とも承知していた。その孫堅が下した決断を、自分たちの囀りで翻せはしないこともまた理解していた。
 その覇気と、武勇によって、江東の虎と称された孫家の長が倒れるところなど想像すら出来ぬ。此度の件、胸のざわつきはいまだ去らないが、それでも過ぎてみれば、そんな杞憂を抱いていたのだと笑って語れる日が来るであろう。
 長年の屈従の日々に決別した母の、紅潮した顔を眺めながら、このとき、孫策は、そう考えていたのである……

 

  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:24
 中華大陸を東西に走る大河として、あまりにも有名な長江と黄河。
 この二大河川の狭間で埋もれがちであるが、准河もまた中華の大地を西から東へとはしる巨大河川の一つである。
 荊州より発して、豫州、揚州、そして徐州を経て海へと至る准河は、長江のように海と見まがうほどの大きさはなく、また黄河のように度重なる氾濫を起こすほどの水勢もない。
 それはすなわち、人に益するという意味において、二つの大河に優る面を持つということであった。


 寿春は、その准河の南――いわゆる准南に位置する領域である。
 北を准河に、南を長江にはさまれたこの地方は、水利に恵まれ、その恩恵の下、農業をはじめとした諸産業が盛んである。
 また、戦乱の中心となっている中原、河北から離れていることもあって、いまだ大きな戦禍をこうむっておらず、その噂を聞きつけて、戦乱を避けて流入してくる者たちが後を絶たず、人口も増大の一途をたどっている。その中には、長安や洛陽、あるいは荊州から逃れてきた知識人たちも含まれていた。彼らを治世に活用することがかなえば、その勢力は後々、大きな飛躍の時を迎えることになるであろう。


 そんな准河以南の豊穣と将来性をいち早く見抜き、動いていたのが孫堅軍の軍師、周瑜であった。
 先ごろまで、このあたり一帯を領有していた揚州太守の劉遙は、袁術軍の猛攻によって寿春を失って以降、揚州における勢威を大きく減じており、准南地方の勢力の多くが、袁術の麾下にはせ参じている。
 その中には、袁術ではなく、実質的に准南攻略の主力となった孫堅に心を寄せる勢力も少なくない。孫堅がいずれ袁術と袂を分かつのは、誰が見ても明らかであり、彼らはひそかに孫堅の下に使者を遣わしてきていた。
 水面下で、その流れを早めている周瑜は、准南のみならず、廬江、丹陽、あるいは長江の南――江南地方にまで、その手を伸ばしており、ゆっくりと、しかし確実に孫家の勢力を広めていたのである。


 その工作に手ごたえを感じている周瑜ではあるが、しかし、まだそれらの勢力を糾合して、袁術と戦えるまでには至っていない。孫家に意を通じている者たちも、その大半は、孫堅軍と袁術軍を天秤にかけている状態であり、現在の孫堅軍が、袁術軍に正面から挑むと伝えれば、ほとんどの者が中立の立場をとるだろう。悪くすれば、袁術側にはしる恐れすらあった。
 その意味でも、孫家が独立を志す時期は尚早である、と周瑜は判断していたのである。
 だが、一度、主君の断が下れば、現状でとりえる最良の手段を模索するのが軍師の務めである。
 寿春に集結しつつある各地の家臣団をあわせれば、孫堅軍は現在の5千から、おおよそ8千にまで数を膨らませることができる。
 だが、それでも寿春の袁術軍の総数を大きく下回ることは間違いない。こちらから敵城に乗り込む以上、野戦でひっかきまわす、あるいは城壁を盾に防戦する、という選択肢もとることが出来ない。
 この状況では、周瑜の頭脳をもってしても、採りえる策は限られてしまうのである。


「――やはり、奇襲しかない、か」
 敵の虚を衝き、袁術の身柄を一挙に押さえ込む。それが目的を達するための最短の道であろう。もちろん、それは同時に、もっとも困難な道でもあるが。
 馬上、周瑜がひとりごちると、その隣で馬を歩ませていた者が同意するようにうなずいた。
「そうですね~。袁術さんの狙いがわからないところが、少し不安ですけれど」
「うむ。あるいは、こちらが手を出すことこそ、奴等の思う壺なのかもしれん」
「十分にありえますね~。ならば、相手の出方をうかがいつつ、こちらも機に臨み、変に応じて動くしかないでしょ~」
「そうね、穏(のん)のいうとおり、それしかないわね」
「は~い」
 ふわふわとした語調、のんびりとした仕草。
 周瑜と話している人物の名は陸遜、字は伯言。真名を穏。外見からは、とてもそうは見えないが、孫堅軍内においても名高い智謀の士であり、その才略は周瑜に迫るとさえいわれている女性である。
 もっとも、その外見や、普段の暢気な様子から、軍内部における立場は決して重いとはいえなかった。本人も、そのあたりのことをわきまえており、決してしゃばった真似はせず、今のところは、周瑜の弟子とでも言うべき立場に収まっていたのである。


 二人の現状からもわかるとおり、現在の孫家の主力は、程普、黄蓋らを中心とした歴戦の武官たちであり、周瑜や陸遜ら智に秀でた者たちは、彼らに一歩譲る形となっていた。甘寧、周泰らの若き武人たちは言うに及ばず、である。
 歴戦とはいえ、程普や韓当らにしても、まだ壮年の域を出ない者たちばかり。彼らを中心とした孫家の軍の在り方は、よほどの変事でもないかぎり、これから当分の間、変わらないものと思われていた。



◆◆



 寿春城の城門は、大きく開かれていた。
 先触れによって孫堅軍の到着を知らされた袁術軍は、何のためらいもなく、孫堅軍5千の前に、道を開いたのである。
 これまでであれば、軍勢は城外で待機させ、武将たちのみを城内に招き入れるのが袁術のやり方であったのだが、今回は孫堅たちを警戒する素振りさえ見せようとはしない。
 そのことをいぶかしんでいる孫堅であるが、それを態度にあらわすことはしない。
 自軍を引き連れて、堂々と城内に馬を進ませる姿に、さすがは音に聞こえた江東の虎である、と寿春の民衆たちは感嘆しきりであった。


 街路の両脇から、酔ったような民衆の歓呼の声が飛び交う。
 孫堅は、寿春の民衆から、先の太守・劉遙による悪政からの解放者として多大な感謝を寄せられており、人気も高い。周瑜自身、それを助長するために、朱治に頼んで細工を試みているのだが、それにしても、この熱狂的な歓迎ぶりは、予想以上のものであると言わざるをえなかった。
 その原因は、と考えて周囲を見渡した周瑜は、たちまち、その一端を掴み取った。
 朱治からの報告にあったように、道は綺麗に掃き清められ、街路の両脇は花々で飾られ、犬猫さえ城内の華やかな空気に染められたように、浮かれ気分で歩いているように見える。
 収穫祭にしては、時期が遅い。やはり、袁術は何か大きな催しを開こうとしているらしい。
 一体、何を企んでいるのか、と考えた周瑜の耳に、小さな、しかしあふれ出る興奮を隠しきれない声が飛び込んできた。


「うわ、うわ、お猫様が、お猫様が楽しそうに歩いてますッ。あっちにも、ああ、こっちにも?! し、しかもなんて見事な白い毛並み――あっちは黒、しかもなんて見事な色艶ッ?! きっと良いものたくさんたべてるんだろうなあ……はあ、モフモフしたいです~」
 あっちを見てはため息をつき、こっちを見ては感嘆の声をあげ、道行く猫に陶然とした眼差しを注いでいる少女の名は、周泰、字を幼平といい、若いながらに、頭角を現しつつある孫堅軍の将の一人である。
 先の汝南での密議の際、袁術側の密偵を排除するために、外の警備を任されていたように、武将としてはもちろん、隠密行動において一際優れた才能を発揮する人物である。
 過去、周瑜の命に従い、敵軍の偵察、あるいは敵城への潜入、情報の流布、破壊工作などに従事し、その多くを成功させて、孫堅軍の勝利に貢献している。
 ただ、その外見から、周泰がそれだけの能力を持った武人だと見抜ける者は少ないかもしれない。
 といっても、別に周泰が格別、妙な姿をしているというわけではない。
 膝元まで伸びた黒髪、小柄な身体と同じくらいの長さの長刀を背に負って歩を進める姿は、さすがは若いながらに孫堅が認めた勇武の将軍であると称えられるに足る様であった――ただひとつ、猫の姿に頬をゆるめてさえいなければ。
 今の周泰の姿は、良く言って、少し猫好きが過ぎた、ちょっと変な女の子、がせいぜいであったろう。


 その周泰に、周瑜は短く声をかけた。
「幼平」
「はひゃッ?! は、はい、何でしょうか、軍師様?」
 突然の周瑜の声に、一瞬、周泰は狼狽する様子を見せたが、すぐにその表情を引き締め、周瑜の馬の近くに寄ってきた。
「すまないが、急ぎ、朱治殿に連絡をとってくれ。新しい情報が入っていれば、すぐに知らせるように」
 前の報告からすでにかなりの時間が経過している。その間、寿春にいた朱治は、すでに袁術の狙いが奈辺にあるか、察しをつけているかもしれない。
 そこまでいかなくても、直近の袁術たちの様子、ことに袁術軍がどの程度の数、寿春に集結しているのかは把握しておかねばならない。
「承知いたしましたッ」
 周瑜の命令に、周泰は即座にうなずくと、さり気ない様子で周瑜から離れ、後続の兵士たちの列の中に紛れ込んでいった。


 周泰が姿を消したのを見届けると、周瑜は我知らず、小さく息を吐き出していた。
 寿春の城門を潜ったあたりから、どうにも嫌な予感が胸中を騒がせるのだ。まるで、巨人の口内に、そうとは知らずに飛び込んでしまったかのような、奇妙な胸騒ぎだった。
 周瑜は孫策とは異なり、自らの直感に重きは置かない。軍師として、精確な情報を集め、的確な分析を加えて、正しい解答を導き出す。そこに直感などという当てにならないものを混ぜてはならないのである。
 だが、周瑜は、直感、あるいは人間の持つ理屈をこえた何かをすべて否定するほど頑迷な性格でもなかった。
 もし周瑜がそんな人間であれば、孫策と友情を育めよう筈もない。友の直感を信頼するのは、周瑜が理のみでしか物事を見られないような偏屈な人間ではないという、何よりの証であった。
 ただ、周瑜が直感を策戦に組み込むのは、あくまで情報と数字で埋められる場所を全て埋めた上でのこと。これまで、周瑜は、はじめから直感をもとに策戦を組み立てたことはなかったし、これからもそうすることはないだろう。

 
 視線を前に向けると、軍の先頭で馬を駆る孫堅の姿と、そこから少し離れたところで、同じく馬を進ませる孫策の姿が目に入る。
 尊敬し、敬愛する主君と、かけがえのない親友。二人の背中を見つめていると、自然とひとつの決意が、その胸に浮かび上がってくる。
 それは、この乱世にあって、周瑜が戦うべき、その理由。幼い頃から、寸毫も変わることなく抱き続ける誇りの形である。
「――孫家の天下を実現するために、我が才の全てを賭す。皇天后土、照覧あれ。この誓い、果たさざる時は、我が真名は永遠の汚辱に塗れよう」


 幾度めか、あるいは幾十度か。周瑜は誓いの言葉を口にすると、この後の動きに思いを馳せた。
 本来ならば、真っ先に姿を見せなければならない朱治の姿が、未だ見えない理由。
 胸を騒がせる奇妙なざわめき。
 そういった不安要素を、この時、周瑜はあえて切り捨てた。
 十分な情報があれば、あるいは周瑜はもっと別な手段を模索したかもしれぬ。おのが直感、あるいは予感を考慮に入れたかもしれぬ。
 だが、未だ周瑜の脳裏には、情報も数字も十分な数が満たされておらず、直感を元に策戦を組み立てようとは考えなかった。
 そうするのは、少なくとも、朱治と連絡をとり、寿春城の現在の戦力を掴んでからのこと。汝南で孫堅が言ったとおり、袁術が問答無用で刃を向けてくるようなことは、おそらくない。もし、袁術がそんな暴挙に出るつもりなら、あえて孫堅の軍を寿春城内に入れたりはしないであろうから。
 であれば。
 まだ、情報を集めるだけの時間は、十分に残されている。周瑜はそう判断したのである。



 ――その判断を、後々まで周瑜は悔いることになる。



◆◆


 
「お待ちしておりました、孫将軍閣下でいらっしゃいますね。我が君が城でお待ちでございます」
 大路を通り、寿春の本城にやってきた孫堅たちを出迎えたのは、見目麗しい一人の少女であった。
 空を映した長江の流れのごとき柔らかい蒼色の髪を短めに切りそろえ、緊張と憧憬をない交ぜにした碧眼を孫堅たちに向けた少女は、まだ若い。否、むしろ幼いと言っても良いくらいかもしれない。
 孫堅が見たところ、おそらく孫尚香と同じくらいの年齢であろうと思われた。
「蒋欽(しょうきん)、字を公奕と申します」
 孫堅じきじきに名を問われた少女は、慌てた様子でそう答えると、改めて孫堅をはじめとした将軍たちに憧憬の眼差しを送った。
 名高い江東の虎と、その麾下の将軍の偉容に目を瞠りつつ、蒋欽は礼儀をはずすことなく、恭しく一礼すると、孫堅たちを城内に誘う。
「将軍閣下と、重臣の方はこちらへお越し願います。兵士の方々は、別の者が案内いたしますので、しばしお待ちくださいませ」
 そういって、蒋欽は、案内のために、一行の先にたとうとした。


 ここで口を開いたのは程普であった。
 いぶかしげな表情で髭をしごきながら、少女に問いかける。
「得物は預けぬで良いのか? いつもは正門で預けるのだがな」
 だが、程普の問いに、蒋欽はゆっくりと首を左右に振った。
「勇猛名高き孫家の方々が、礼をわきまえぬ所業をなさろう筈はなく、したがって武器を取り上げる必要はない、との袁州牧様のお言葉でございます。皆々様、どうぞそのままお進み下さいませ」
 寛大な袁術の言葉は、しかし、孫家の諸将を感激させることはできなかった。
 これまでの屈従の日々が、その言葉の裏に潜むものを感じさせてしまうのであろう。
 だが、武器を持って入ることが出来るのは、程普たちにしても願ってもないことである。いざという時、実力行使に出るのも容易いというものだし、逆に袁術側がなんらかの策を企んでいるのだとしても、力づくでそれを打ち破ることが出来るのだ。


 もっとも、袁術がここまで下手に出てくる以上、この城内で何か仕掛けてくる可能性は薄い。
 この時、程普のみならず、孫堅までもがそう考えた。
 ことさら、孫家への信頼を見せ付ける種々の言動からして、おそらく、何かしら無茶な要求を突きつけてくることは間違いあるまいが、と皮肉げに笑いながらではあったが。
 それよりも、孫堅には気になることがあった。
「今、州牧と申したが、公路殿は朝廷より任命されたのか?」
「はい、つい先日のことです。公路様は、許昌の皇帝陛下より、正式に豫州牧に任命されましてございます」
 孫堅は、一瞬、目を細めたが、すぐに愉快そうに手をたたくと、祝賀の辞を献じた。
「それはめでたい。荊州、豫州、そして揚州にまで勢力を広げた公路殿の武勲は赫々たるもの。此度の州牧叙任の件、心より寿ごう」
「その言葉をお聞きになれば、我が君もおおいに喜ばれましょう」
 心底うれしげに言う蒋欽であったが、すぐに次の質問に晒されることになった。
 これまで黙って会話を聞いていた黄蓋が、ここでようやく口をはさんだのである。
「では、城下の騒ぎは、それゆえか。何の祭りかと気になっておったのじゃ」
 その問いにも、蒋欽はうれしそうにうなずいて見せた。
「その通りでございます――しかしながら、ただそれだけではございません」


 嬉しさをこらえきれぬ、と言わんばかりの蒋欽の様子に底意はない。そのことを、黄蓋は察した。
 この少女は、本心から袁術を尊敬し、そして孫堅たちを歓迎しようとしているのであろう。
 そんなことを考えつつ、黄蓋は、蒋欽に向かって口を開く。
「それだけではない、か。州牧叙任以外にも、何かめでたいことがあると申すか?」
「御意にございます。実は先日、于吉様――ご存知であられましょうか。当代随一と名高い方士様でいらっしゃいますが、その于吉様がひとつの予言をなされたのです」
 方士、との一言に、黄蓋のみならず、並み居る武将たちが一様に眉をひそめたが、蒋欽は気にする様子もなく、言葉を続けた。
「于吉様は仰いました。『天命は当塗高に宿る』と」
 予言に興味はない黄蓋だったが、蒋欽の口から出た聞きなれない言葉が、奇妙に気にかかった。
「『当塗高』とな? それはどういう意味なのじゃ?」
 黄蓋の問いに、蒋欽は頬を紅潮させて、さらに言葉を続けようとするが、不意にあわてたように首を左右に振った。
 自らの役割を思い出したのである。
「わ、私としたことが、大功ある孫家のお歴々を、このようなところで足止めさせてしまうとは、なんて失礼なことをッ。申し訳ございませんでした。于吉様のお言葉につきましては、李軍師様より、ご説明があることと存じます。どうぞ、こちらへおいでくださいませ」
 傍目にも慌てきった様子で、足早に城内に駆け入ってしまう少女の後ろ姿を見て、孫家の将たちは顔を見合わせる。その表情には苦笑じみた、けれど決して不快ではない表情が浮かんでいる。


 これまでの袁術の配下は、一様に優越感をもって孫堅たちと対峙してきたものだが、蒋欽にはそれがない。その実直な立ち居振る舞いは、孫堅たちの心に、好風を吹かせてくれたようであった。  
「ふむ、惜しいな」
 孫堅が言うと、黄蓋がすぐに頷いた。
「そうですな、あの者、なかなかに有為な人材と思われまする」
「そうね、今はまだ未熟だけれど、将来が楽しみという点では、娘たち、あるいは興覇や幼平と同じか。冥琳が、于吉とやらが人材を集めていると言っていたけれど、そやつ、なかなかに良い目を持っておるようね」
「御意」
 黄蓋は同意しつつ、孫堅にだけ聞こえるように、小声で呟いた。
「――侮れませんのう」
「――もとより、侮ってなどいないわ」
 ただそれだけを互いに口にすると、二人は蒋欽の後ろに続き、寿春の本城に足を踏み入れていった。



 孫策は、そんな母たちからわずかに遅れて、城内へ足を踏み入れようとした。
 その顔には、母たちと同じく、蒋欽への淡い好意が浮かんでいたのだが、不意にその表情が厳しく引き締められた。
 自分たちを見下ろす視線を感じ取り、孫策は鋭く上方を見据える。
 見れば、城の一室から、孫家の軍勢を見下ろす者の姿が見受けられた。
 孫策の鋭い視線は、男の額に奇妙な刻印を見つけ出す。その男の名を、孫策は知っていた。別に知りたくて知ったわけではなかったが、南陽にいた頃に、幾度かその姿を見かけていたのである。気に食わない相手であったため、言葉をかわしたことはなかったが。
 同時に、相手も孫策の視線が、自分に向けられていることに気づいたのであろう。柔和な微笑が、その表情を彩った。
 と、思う間もなく、男は踵を返して、窓から離れていき、すぐにその姿は見えなくなる。


「――雪蓮、どうかしたの?」
 そんな孫策の様子を怪訝に思った周瑜が声をかけてくる。
 孫策は、それでもしばらく、視線を窓に固定させていたが、やがて、ゆっくりと首を横に振ると、周瑜に答えた。
「于吉の姿が見えたわ。あいつ、城からあたしたちを見下ろしてた」
「于吉が、か」
 周瑜は孫策が見ていたあたりに視線を注ぐが、すでにそこには影さえない。髪をかきあげながら、周瑜は口を開く。
「ほんの数月前までは名前すら知られていなかった男が、いまや天下の方士にして、三公に連なる名門である袁家の子飼の臣となる、か」
 それは、平時であれば考えられないような栄達であったろう。その意味で言えば、彼の者も疑いなく、乱世の雄なる者と言えるかもしれない。
 だが、周瑜にせよ、孫策にせよ、それを素直に称えることは出来そうになかった。


 乱世にあって、一躍、その名を高めた者は于吉だけではない。一介の廷臣から、皇帝を戴くまでに成り上がった曹操などは、その最たるものだろう。
 だが、曹操が、中華の大地を駆け、凄惨な戦場を潜り抜けて、自らの手でその機会を掴み取ったことに比べ、女子供に阿諛追従を行い、方術などという怪しげな術を用いて成り上がった于吉のそれは、曹操より明らかに格が劣るのである。
 おまけに、いまだにその口から怪しげな言葉を吐き散らして、民を迷わせているとあっては、嫌悪感しかおぼえようがない孫策たちであった。
「『天命は当塗高に宿る』だっけ? ねえ冥琳、当塗高ってなあに?」
「塗は道、すなわち道に当りて高きものに天命は宿るという意味よ。袁術の字は公路。路は道に通じるわ。おおかた、袁術こそ受命の君である、とでも言いたいのでしょう」
 古来より、予言とは偶然とこじつけが大半をしめるもの。于吉の言葉が袁術を利するために造られた偽言であることは、疑いないと周瑜は考えた。
 同時に、寿春の民心を昂揚させるためには、その程度で十分であるという現状に、周瑜は危惧を覚えてもいた。
 寿春の民にとって、劉遙の悪政から解放してくれた袁術が、当代一の方士から、天意にかなう存在だと称えられた――ただそれだけで、喜び騒ぐ理由になるということは、すなわち、袁術の治世が、それだけ民衆に受け入れられつつあることの証とも言えるからである。
 袁術の統治が順調に進んでいることは、朱治たちからの報告で、ある程度は把握していたことではあった。だが、方士の偽言ひとつで、ここまで騒ぎとなるくらい、民衆に受け入れられているとは、正直なところ、周瑜も予測しきれていなかった。このまま時が過ぎれば、袁術の治世はより磐石なものになり、孫家が付け入る隙はますます小さくなってしまうだろう。
 孫堅や程普らは、周瑜が下策と判断した策を採ったが、あるいは彼らは、こういった状況をも予期していたのだろうか。周瑜はふとそんなことを考えたのである。




 一方、孫策は、周瑜とはまったく別のことを考えていた。
 于吉の予言で出てきた天命という言葉が、一つの記憶を刺激したのである。
 あれは、反董卓連合に参加し、洛陽に赴いたときのことだったか。
「天命は人にこそ与えられるもの、それが物に宿ることはありません、か」
 玉璽を得て、逸る孫家の面々に告げられた、その一言を、孫策は呟いた。
 今回の孫家の独立に、玉璽を用いる予定はない。それは、今の時点で玉璽の存在を明らかにしたところで、実質的な勢力を築き上げていなければ意味がないと、孫堅と周瑜が判断したからである。
 だが、その根底には、あるいはあのときの言葉がたゆたっていたかもしれない。


 天命は人にこそ与えられるもの、それが物に宿ることはない。
 孫策は、その言葉をこう捉えていた。
 すなわち、人は、物に従うことはなく、人の志にこそ従うものである、と。


 文字にすれば、あるいは実際に口に出せば当然のことに過ぎぬ。だが、秦の時代より続く伝国の璽を前にし、多くの者たちが、その当然のことを見失いかけた、まさにその時に放たれた言葉ゆえに、あの若者が言った言葉は、おそらく若者自身が考えているよりも深く、孫家の諸将の胸に刻まれたであろう。
 方士が袁術をこそ天命の者だと祭り上げ、それが一時、民衆の歓喜を呼ぼうとも、それは所詮一時のことに過ぎない。
 いかに臣下が暗躍しようとも、主たる袁術に、この乱世を鎮める確たる志などない以上、それは歴史を定める力とはなりえない。
 孫策はそう考えていたのである。


 無論、孫策は、自身が考える「一時の勢い」という言葉の意味を、よくわかっていた。
 どれだけ崇高な理想を抱こうが、猛々しき覇気を秘めようが、人は死ねば終わり、そこまでである。古来より、一時の勢いという名の濁流に飲み込まれ、志半ばで散った者は、数え切れない。そして、自分たちが、その中の一人にならないなど、どうして言い切れようか。
 孫策は袁術を恐れない。だが、決して侮らない――その心構えが、濁流の中で活きることになる。




◆◆




 周泰にとって、寿春は勝手知ったる他人の庭である。
 袁術軍の先鋒として寿春を陥とした時。
 あるいは、密使として朱治の住居に赴いた時。
 隠密行動に優れる周泰にとって、一度、訪れた城の地理を頭に思い浮かべることは容易い。まして、幾度も訪れている寿春の街並みなど、目をつぶっても駆け抜けることが出来るというものだった。


 だが、今、寿春にある朱治の邸に足を踏み入れた周泰の顔に、余裕の色はない。
 周瑜の指示で、朱治の邸に赴いた周泰が目にしたものは、無人と化した家屋であった。家の中が荒らされた形跡はなく、盗賊に襲われた、あるいは袁術に捕らえられたなどといった不穏な気配はどこにも感じられない。
 だが、孫家の重臣の一人が、主君に何一つ告げることなく、家族や従者ごと姿を消す、という事態は、それだけで異常であった。
 背筋を這い登るような悪寒を覚え、周泰が両手で身体を抱きしめた、その時。
 不意に、周泰の耳に小さな物音が飛び込んできた。見れば、どこから入り込んできたのか、一匹の猫が周泰の方に近寄ってきつつある。
 その猫の姿に、周泰は覚えがあった。たしか、朱治の夫人が飼っていた猫ではなかったか。夫人の膝元でのんびりと昼寝をしている姿を見かけた記憶があった。
 お猫様の出現に、周泰は状況を忘れて、たちまち笑みを浮かべてしまいそうになるが、はっとその表情を引き締めた。
 近寄ってくる猫の動きが、奇妙に不自由に見えたのだ。
「お猫様、どうしたのです――ッ?!」
 慌てて駆け寄った周泰は息をのむ。
 そこには、左の前足を刃物で切り落とされた猫の姿があった。しかも、その後、手当てもされなかったのだろう。壊死を、起こしかけている。
「た、大変ですッ。待っていてください、すぐに」
 慌てて懐から傷薬を取り出そうとする周泰に向け、猫は小さく鳴いた――否、小さくしか、鳴けなかったのだろう。
 何かを告げるように、自分を見上げる猫の姿に、知らず、周泰は立ちすくんでいた。
「……お猫様、あなたの主様は、もしや」
 周泰の問いに、猫は、まるでその言葉がわかっているかのように、もう一度、小さく鳴いた。苦しげに、そして悲しげに。


 ――次の瞬間、周泰は背に負った長刀を抜き放った。
 殺到してくる複数の気配に気づいたのだ。
 無人の朱治の邸。そして、そこに踏み入った周泰に向かってくる殺意。その事実が、周泰の予感を、確信に変えさせた。
 猫の怪我を見れば、その傷を負ったのは、昨日今日ではないことは明瞭だ。つまり、敵は――袁術は、あらかじめ準備していたのだ。それも、孫家が考えているよりも、ずっと徹底して。礼なく、令なく、孫家の重臣の命を奪ってしまうほどに、陰惨に。
 そして、孫堅たちは、今まさにその敵の巣窟に足を踏み入れていることになる。
「――ッ」
 唇をかみ締めた周泰の前に、奇妙な仮面をかぶり、白装束を纏った男たちが姿を現す。いや、中には女性も混ざっていた。彼らが、告死兵と呼ばれる袁術直属の精鋭と、周泰が知るのは、この少し後のこと。
 この時の周泰は、その事実を知らないが、しかし、そのいずれもが手練だということは、一目で察しがついた。
 互いに言葉は発さない。事態は、すでにその段階を通り抜けていることを、双方ともにわかっていたからである。


 周泰は自分のなすべきことを理解していた。今はここで戦っている暇はない。一刻も早く、孫堅たちにこのことを伝えなければならないのだ。
 だが、一対一なら知らず、目の前には五人の告死兵が、周泰を囲むように広がっており、すぐに全員を倒すのは難しい。くわえて、部屋の外にも幾人かの気配が感じられる。
 ここまで周泰にさえ気配を悟らせなかったことを考えると、この者たちもまた、隠密行動を得意とする影の兵たちであろう。
 そのことに怯む周泰ではない。戦って切り抜けられる自信はあった。
 だが、ここで時間をかけるわけにはいかない。
 油断なく、長刀――魂切(こんせつ)を構えながら、周泰は内心で臍をかむ。


 それは、突然のことだった。
 それまで、弱弱しく鳴いていただけの猫が、たけり狂うような唸り声をあげながら、告死兵の一人に飛びかかったのである。片足を失っているとは思えないほどの俊敏な動きであった。
「――ッ、お猫様!」
 思わず、周泰の口から声がもれる。
 咄嗟に猫を助けようと動き出しかけた周泰の身体は、しかし。
 甲高い猫の叫びによって、封じられてしまった。


 気のせいではあろう。だが、確かに周泰は、この時、猫の声を理解できたように思えた。
 行け、と。
 主の仇を前にし、残った力の全てを振り絞って挑みかかりながら、猫は周泰を叱咤したのである。


 その誇り高き言葉を蔑ろにするなど、誰に出来ようか。
 周泰の身体が宙を舞い、窓をつきやぶって室外に転がり出た。
 すると、たちまち室内に倍する人数が、周泰を取り囲もうとする。この事あるを予期して伏せていたのであろう。
 だが、周泰は一瞬の躊躇もなく、弾けるような勢いで前に出る。
 ただ一太刀。自分の正面に位置する告死兵を、ただ一太刀で斬り捨てた周泰は、包囲を抜け出すことに成功したかに見えた。
 だが、仲間を一太刀で葬られた告死兵たちは、動揺する様子も、慌てる気配もなく、冷静に周泰を追い詰めようと、その眼前に立ちはだかってくる。


「邪魔です! 私の前に立たないでッ!」


 周泰は、そんな告死兵をものともせずに、道を切り開いていく。
 そうすることが、周泰の主のため。そして、おのが主の仇を討つために、じっと待ち続けたあの猫の想いに報いる術だということがわかっていたから。周泰は、ただまっすぐに寿春本城を目指す。




 ――されど、その熱誠は報われぬ。
 この時、寿春城謁見の間にて、孫堅と袁術は、まさに相対しようとするところであった。
 
  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/12 02:05



 時をわずかにさかのぼる。



 窓際から離れた于吉は、愉快そうに低い笑声を発した。
 そんな于吉を見て、同室の男がいぶかしげに于吉を見やる。
「どうされたのです、于吉様?」
「いえ、雌豹がこちらを睨んでいたもので、その視線からたまらず逃げてしまった自分を哂っていたのです」
 男はほの暗い笑みを浮かべて、追従するように笑った。
「孫堅のことですね。確かに恐るべき人物ではあるようですが、まんまとこちらの思惑に乗ってくれたようで」
 于吉は、男の勘違いをあえて否定せず、ゆっくりとうなずいて見せた。
「ふふ、ここまでお膳立てを整えれば、やってこざるをえない、という文優殿のお言葉どおりというところですか。今日の件が落着すれば、公路様もさぞ喜ばれることでしょう」
「それも、この身を拾い上げてくれた于吉殿あってこそのものですよ」
 逆に阿諛されて、文優――李儒は、愉快そうに笑声をこぼした。
「準備はすでに万端、ととのっております。孫堅らが謁見の間に入り次第、行動に移ります。蟻一匹這い出る隙のないようにしてご覧にいれましょうぞ」
 李儒の言に、于吉は頼もしげにうなずいた。
「さすがは文優殿。かくて、江東に名高き孫家の軍は潰え去る、というわけです」
 

 李儒が、そっと伺うような視線を于吉に送る。
 かつて。
 洛陽に大火をもたらした李儒は、連合軍の兵とおぼしき者たちと戦い、敗れた。
 その場で果てる筈だった李儒を拾い上げ、新しい活躍の舞台に導いたのが、目の前の于吉と名乗る方士であった。
 朝廷の密使として陳留に赴き、張超を扇動して兌州の乱を起こさしめたのも、于吉の指示によるものであった。
 それが成功すると、于吉は李儒を袁術に引き合わせ、そのまま軍師の座へと就かしめた。
 董卓の下で逼塞していた頃と比べれば、今の境遇のなんと恵まれたことか。
 袁術は君主として自身が動く型ではなく、李儒の発案は、ほぼすべてが採用されるのである。自らの手腕を思う存分発揮できる現状に、李儒はこれ以上ないほどに満足していた。
 そして、それを提供してくれた于吉に、李儒は深い恩を感じていた。李儒にとって、自らの才能を認めてくれた上に、なおかつ、それを振るう場を与えてくれる者など、これまでどこにもいなかったからである。
 まして、今回の策の概略を聞かされれば、感謝の念は心酔へと昇華する。
 中原を揺るがした兌州の乱すら、于吉にとっては今日の策への布石に過ぎぬ。さしずめ李儒は、駒の一つと言ったところか。だが、精緻な策略の全貌を知らされたとき、李儒がおぼえたのは屈辱ではなく、感嘆であった。
 帷幄の外に勝利を決する。軍師たる者の本領が、そこにはあったからだ。
 たとえ、その目的が――


「さて、そろそろ孫堅たちが謁見の間に着く頃でしょう。私たちも参りましょうか。中華の地に、新しい秩序を、作り出すために、ね」
 于吉の言葉に、我にかえった李儒は、首を縦に振った。
「御意」
 それは、主君に対する臣下のごとく、恭しいものであった。


 ――たとえ、于吉の目的が、漢朝に叛するものであったとしても、李儒はもはや于吉に逆らう心持ちにはなれなかった。



◆◆



 揚州、寿春城。
 数月前までは、劉遙配下の張英の居城に過ぎなかったこの城は、いまや強勢を誇る袁家の新たなる拠点として、著しい変革を遂げていた。
 袁術は領内にいる名のある職人たちの、ほとんど全てを寿春城の改築に投入していたのだが、謁見の間は真っ先に彼らによって修繕された場所でもあった。
 四方の柱に刻まれた精細な昇竜の図、床一面には大理石が敷き詰められ、玉座に至る階段の左右には、玄武、朱雀、白虎、青竜の四神の彫像が配置されている。
 そして、その奥に座すは、今や中華屈指の勢力を誇る袁家の総帥であった。


「久しいのう、孫堅。元気そうで何よりじゃ」
「公路殿も、壮健のご様子。祝着至極に存じます」
 心の篭らぬ、という一点において、共通する袁術と孫堅の挨拶であった。
 寿春城の謁見の間には、袁術麾下の文武の諸官が集結している。
 袁術の、向かって右には文官が。向かって左には武官が、それぞれの序列に従い、居並んでいた。
 首座に近い位置に座する者たちの顔は、当然、孫堅も記憶していた。
 武官の首座の位置から孫堅を見下ろすのは、例の張勲である。しかし、その張勲と並び、文官の首座にいる男の顔を、孫堅は知らなかった。
 秀麗な、だが、どこかほの暗い輝きを瞳に宿した男を見て、孫堅は不快げに眉をしかめた。
 于吉なる方士ではない。あるいは、于吉が集めているという人材の一人なのだろうか。それにしては、昨日今日出てきた者が、文官の首座に就くとは、少し考えにくかったが。
 

 無論、それは李儒であったが、孫堅がそんなことを考えている間にも、いつもの形式的な謁見は続いていく。
 客将格である孫堅が、軍の活動の内容や、その成果を記した竹簡を袁術に向けて献上すると、先刻の蒋欽が駆け寄り、恭しい態度でそれを受け取ると、袁術の下まで歩み寄り、それを袁術の右に位置する李儒に差し出した。
「軍師様、孫将軍よりのご報告にございます」
「ご苦労」
 そう言う李儒の姿に、孫家の将たちの視線が集中する。みな、李儒が何者なのかを知らなかったのである。
 だが、李儒はそれと知りつつ、あえて何も言おうとはしなかった。そして、渡された竹簡に視線をはしらせていく。
 そこに書かれている内容は、周瑜が作成した非の打ち所のないものであり、矛盾をあげつらわれる恐れはなかったが、どこか傲然としたものを感じさせる李儒の様子に、孫家の面々は、主と同じように一様に不快感を覚えた。


 やがて、李儒は顔を上げ、竹簡を袁術に捧げる。
 袁術が物問いたげに視線を向けると、李儒は一つうなずいた。
「ふむ、問題ないようじゃな。いつもながら、そちらの忠勤には感謝しておるぞ、孫堅」
「もったいなきお言葉。部下たちも励みとすることでございましょう」
 いつもならば、この後、二、三のやりとりをした後で、孫堅たちは退出する。
 しかし、孫堅たちも予想はしていたが、今日はこの続きがあった。


「さて、ここからが本題じゃ。孫堅、そして皆もよう聞けい――七乃!」
 袁術の言葉に、張勲が心得て前に出る。
「はいはーい、では、孫堅さんたちはあちらにお並び下さいねー。今回、孫堅さんをはじめ、美羽様麾下の将兵を寿春に集めた理由をご説明しまーす」
 張勲の言葉に、居並ぶ群臣からざわめきが起こる。
 その様子を見て、孫堅軍の者たちは、やや意外の観に打たれた。どうやら、孫堅軍以外にも、今回の召集の理由は説明されていなかったようだ。
「まず、皆さんにお知らせです。今後、私たち袁家は、准南の支配に専心することになりました。ですが、南陽から准南は遠いため、本拠をこの寿春に移します。報告は南陽ではなく、寿春に持ってくるようにしてくださいね、南陽に行っても美羽様いないですから~」
 その発言に、ざわめきは一際大きくなった。


 その中で、周瑜は表情こそ変えなかったが、内心で舌打ちを禁じえなかった。
 袁術に准南に移られると、これまでの周瑜の工作が水泡に帰しかねないのである。
 もっとも、周瑜が気づいたこと――准南の富、中央から離れているゆえの将来性――に、他の誰かが気づかない筈もない。
 それでなくても、南陽は、南を劉表、北を曹操に封じられており、発展の余地が乏しい。袁術の目が准南地方に向くのは、ある意味で当然と言えた。
 もはや死んだ策であるが、准南へ行幸する袁術を、その途上――准河のあたりで、軍船をもって襲撃する、という案も周瑜は持っていたのである。


 それゆえ、この張勲の発表は、周瑜にとって吉報ではなかったが、予想外、ということはなかった。
 だが、その次に張勲が口にした言葉は、さすがの周瑜も予想できないものだった。
「で、それにともない、南陽城主を誰にするか、ということなんですが――これは、孫堅さんにお願いすることになりましたー。それにともない、荊州における政軍の全権を委任する、との美羽様の仰せです。ついこの間まで、これでもか、とばかりに意地悪していた相手にそんなこと言うなんて、さすが美羽様、後先考えない思いつきと、それを実行する決断力はすばらしいです♪」
「七乃、七乃、ほめすぎじゃぞ。照れてしまうではないか」
「そして今のがほめ言葉に聞こえるその大らかさ、さすがお嬢様、素敵ですッ!」
 袁家の主従のいつものやりとりを、その臣下は呆然と聞き入るばかりであった。


 否、当の孫堅たちでさえ、あまりに意外な言葉に、目を丸くしている。
 南陽城主――いや、政軍の全権を委任する、という言葉が真だとするなら、それはもはや城主ではなく、南陽郡の太守に等しい。
 孫堅をその座に据えるということが何を意味するか、わからないほどに袁術たちは慢心したのだろうか。
 それとも。
 このような好餌をまいておけば、江東の虎など容易く手懐けられるとでも、思ったか。


 孫堅が、静かに口を開いた。
「――公路殿。このような場で戯言を弄するのは、あまり感心できることではありませんよ」
 発言した張勲にではなく、袁術を真っ向から見据えて口を開く孫堅。
 刃の煌きを宿した鋭利な視線に見据えられ、袁術は咄嗟に言葉に詰まる。
「む、む、いや、しかし、じゃな」
 意味をなさない言葉の羅列を口にしながら、袁術が何か言わねば、と言葉を続けようとする。
 その言葉を遮るように、第三者の言が、謁見の間に響き渡った。


「――偽言などではありませんよ、孫文台様」
  
 
 期せずして、群臣の視線がその声の主へ――謁見の間の入り口から、ゆっくりと歩み寄る男性に向けられる。
 額に刺青をした男性のことを、この場の多くの者たちが知っていた。
 袁術が、安堵したように声を高める。
「おお、于吉。孫堅に説明してたも。妾は、嘘偽りを口にしているわけではないのじゃと」
「承知仕りました」
 そういって、孫家の面々の前に歩み寄った于吉は、恭しく一礼する。
「お初にお目にかかる方もおられることですので、名乗らせていただきます。我が名は于吉。方士として袁術様のお傍に侍るものでございます。勇猛名高き孫家の方々と見えることができ、とても嬉しく思いますよ」
 于吉の礼に、しかし、孫家の面々は誰一人答礼しようとはしなかった。
 于吉を知る者も、また初めて見える者も、一様にその慇懃な物腰が、形だけのものであることに疑いを持たなかった。
 何より、この時代、方士とは怪しげな術で女子供を迷わすろくでなし程度の評価しかされておらず、れっきとした武人である孫家の将たちは、対等の礼をする必要を感じなかったのである。


 そんな孫堅たちの、自分を見下す態度に気づかない筈はなかったが、于吉は微笑を浮かべて彼らを眺めるだけである。
 むしろ、孫堅たちの方が、そんな于吉の平静さに苛立ちを隠せない有様だった。
「孫将軍、公路様の言、決して偽りではございません。御身の大なる功績に報いるためには、むしろ南陽郡程度では申し訳ないとすら、公路様は仰っておられたのですよ」
「それは光栄なこと。先ごろからの、我らに対する種々の褒美は、それゆえということか?」
「御意にございます」
 熱のない孫堅の言葉に、于吉は静かに首肯する。
「しかし、大なる功績と、今、おぬしは申していたが、一郡の太守に等しい権限を授けるほどの功績とは、一体、何を指す? 袁家重代の臣たちから、異論が出そうなものだが」
「それにつきましては、今少しお待ちくださいませ。物事には順序というものがございますゆえ」
 于吉はそういうや、袁術の方にむかって歩き出してしまい、孫堅はその言葉の意味を問う機を逸してしまった。
 孫堅は、于吉の背に、なぜか漠然とした不安を感じ取る。しかし、まさか袁術子飼の臣を、群臣の面前で詰問するような真似は出来ず、言葉を胸奥に飲み下すしかなかった。




 袁術の前にたどりついた于吉は、見る者が優雅さを感じるほどに自然な動作で跪き、言上する。
「公路様、例の者たちをお連れしました。お目通りをお許しくださいますか?」
「うむ、うむ、許すぞ。ようやく妾の、妾による、妾のための親衛隊が出来上がったのじゃなッ!」
「御意。しかも、それを率いるは中華最強の将軍です。戦慄する諸侯の姿が、目に浮かぶようでございますな」
 于吉の言葉に、袁術は喜色を満面に浮かべ、催促した。
「于吉、はよう見せてくれい。新しき、我が袁家の精鋭の姿をな」
「御意。それでは――」
 入られよ。
 その于吉の言葉に、再び謁見の間の入り口に視線が集中する。
 今日、幾度目のことか。群臣の間からざわめきが立ち上った。
 それは、少なからぬ戸惑いを含んだものだった。なぜなら、謁見の間に入ってきた十数人の者たちは、皆一様に白装束を身に纏い、奇妙な仮面をかぶっていたからである。


 一糸乱れぬ整然とした動きは、確かに精鋭と称するに足る錬度を感じさせた。
 だが、仮面をつけた白装束の者たちが居並ぶ姿は、袁術が望む華やかさの対極に位置するものであった。
 袁術は戸惑いの表情を消すことが出来ないまま、于吉に問いを向ける。
「の、のう、于吉。あれが、妾の親衛隊なのか?」
「御意。公路様の御身を守り、その敵には等しく死をもたらす無類の精鋭――『告死兵』と名づけましてございます」
 平然とした様子の于吉に、袁術は額に汗を浮かべつつ、とりあえず側近に話を振った。
「む、そ、それはまた良き名じゃ。の、のう、七乃?」
「え、えーと、そうですね。こう、敵が怖気をふるう、という意味では、ふさわしい名前だと思いますよ、美羽様」
「じゃ、じゃが、ちと物々しいのう。もうすこしこう、華やかなものを期待しておったのじゃが……」
「ご案じなさいますな。告死兵は戦闘に特化した部隊です。いずれ、公路様の国が落ち着けば、新しき国に相応しい部隊を編成いたしましょう。公路様のお望みに沿った、美々しく絢爛な部隊を」
「そ、そうか。ならば問題なしじゃ」
 于吉の言葉に気を取り直した袁術は、階下に佇む告死兵たちに向けて口を開く。
「よし、皆のもの、これからは、永く妾に忠誠を誓うが良い。そして、あの忌々しい麗羽と曹操めをこてんぱんにしてやるのじゃッ。さすれば、褒美は思いのままじゃぞ!」
 主君である袁術の激語に、しかし、告死兵たちはしわぶき一つたてず、黙然と頭を垂れるのみであった。





 孫策は、そのやりとりを間近で見ていた。
 告死兵とやらいう大層な名前の兵士たちは、だが、孫策が見る限り、決して名前負けしていない。
(こいつら、並の技量じゃないわね)
 中でも、孫策の目を惹くのは、告死兵の先頭を歩く者の姿である。
 仮面によって覆われているため、顔は判然としないが、歩を進める仕草だけを見ても、その兵の秘めた力は明らかであった。
 仮に剣を合わせた場合、孫策の武勇をもってしても、良くて引き分けが精々であろう。孫策は、虚勢を張ろうとさえせず、彼我の実力差をあっさりと断定した。
 その後ろに続く者たちもまた、侮れない実力を秘めている。孫策であれば、苦戦するほどではない。しかし、妹たち――孫権、孫尚香らであれば、てこずるだろう。そして、孫家の一般の兵士たちでは、おそらくまともに戦うことは出来まい。
 孫家の軍は、猛訓練を経た強兵ではあるが、この告死兵とやらの錬度は、明らかにそれを上回っている。告死兵の全員が、今、孫策の前にいる連中と同等の技量を備えているとは思われないが、それでも侮ってよい敵でないことは確かだった。
 だが、今は告死兵などよりも気になることがある。
 さきほど、あの方士は何を口にしたのか?
 孫策の視線を受け、隣にいる周瑜が、小さく頷いて見せた。
 周瑜もまた、その言葉の意味するところに気づいていたのだ。
 あの男はこう言ったのだ――新しき国、と。



 その疑問を言葉にしたのは、孫策たちではなく、彼女らの正面、袁術に仕える文官が居並ぶ列から進み出た人物であった。
「――州牧閣下に、お尋ねしたき儀がございます。お許しいただけましょうか?」
 この文官、名を閻象(えんしょう)と言う。
 謹厳実直で知られる彼の顔は、今、めずらしく当惑をあらわにしていた。
 閻象は、際立った才の持ち主ではないが、実直な為人と、堅実な処理能力の持ち主として知られており、袁術の無茶な行いの後始末を任されることが多いため、袁術や張勲にも重宝されている苦労人であった。
 その苦労人に、袁術は頷いてみせた。
「なんじゃ、閻象。申してみよ」
「さきほど、方士殿が仰った『新しき国』とは、どのような意味なのでございましょう。不才にお教えいただければ幸いでござる」
 閻象の言葉で、それと気づいていなかった者たちも、はっと顔色を改めた。



 漢王朝は、その勢威を大きく減じているとはいえ、未だ健在である。
 許昌にいる皇帝は、実質はどうあれ、中華全土を支配する漢王朝の主宰者であり、曹操、袁紹、袁術らは、いずれも皇帝の臣下に過ぎぬ。
 その臣下たる身が、『新しき国』なる言葉を用いるのは、大いなる不敬であり、今上帝に対する叛逆であると捉えられてもおかしくはない。否、袁術に敵対する者たちは、必ずそう捉え、天下に袁術の不信を鳴らして、四方から攻め寄せてくるであろう。
 発言した閻象とすれば、そのことに注意を喚起したに過ぎなかった。
 常の袁術たちの様子を良く知る閻象は、于吉が、まさか文字通りの意味で、その言葉を用いているとは考えていなかったのである。
 だが。


◆◆


「天命は当塗高に宿る。天命を受けし者、それすなわち漢に代わる者なり」


 閻象の穏やかな注意に対して、かえってきた言葉は、穏やかとは対極にあるものだった。
 しばしの間、何を言われたのかが理解できなかった閻象であるが、やがて、その意味を理解した時、その口から出た言葉は、悲鳴にも似たものであった。
 閻象は発言した者――微笑を浮かべる于吉に向けて、口を開いた。 
「な、な、何を言われるのだ、方士殿ッ?!」
「先日、方術にて天意を占った際にあらわれた予言でございますよ。皆様もご存知ではあったでしょう? 寿春の街中では、童子でさえ知っておることですからね。もっとも、天命がいかなるものかまでは語っておりませんでしたが」
 あなたのように取り乱してしまう方がおられるから。
 于吉はそう言って、相も変らぬ笑みを浮かべる。


 だが、一方の閻象は、笑うどころではなかった。たしかにその予言、そして当塗高なる造語の解釈は、閻象も耳にしていた。だが、はじめて聞いた時、閻象は、方士が主君におもねっているのだろう、と苦笑しただけで済ませた。天命などといっても、具体性がない曖昧なものであったからだ。だからこそ、追従の類であろう、と判断したのである。
 だが。
 その天命が「漢に代わる」ことであるならば、それはもう追従では済まされない。諸侯にごまかすことも出来ない。袁家は――かつては三公を輩出した名門である袁家は、漢王朝にとって代わることを宣言したに等しいのである。たとえ、袁術が実際に行動に移っていないとしても、その手の流言を放置しているということ事態、漢王朝に叛意ありとされる理由になりえてしまうのだ。
「戯言も大概にされよ、方士殿。そのお言葉、戯れであったでは済まされぬこと、おわかりであられるのかッ?! 貴殿は、我らが主に謀反人の汚名を着せるおつもりかッ!」
 言葉を荒げた閻象に同調するように、幾人かの配下が強い視線を于吉に向ける。


 だが、そんな彼らの怒気に塗れた視線を、于吉は柳に風と受け流した。閻象の格式ばった意見など、反論するに足らぬ、とでも言うかのように。
 そして、于吉は語りだす。それは、荘重と表現するに足る口調であった。





 漢王朝が、すでに建国時の力と理念を失い、ただ惰性によって、中華の大地を支配していたのは、万人が知るところ。
 治安は悪化し、賊徒は群がり起こり。
 官界には賄賂が横行し、官吏はその腐敗を恥じず。
 民の怨嗟の高まりは、沖天の勢いであった。


 治、極まれば乱に至り、乱、極まれば治に至る。
 光武帝によってもたらされた治世はその輝きを失い、時代は乱世という名の煉獄へ変じた。
 それは、力なきことが、罪悪とされる時代。無能が、悪徳とされる世の中である。
 しかるに、漢の王朝は、続発する反乱に目を閉じ、耳を塞ぎ、いかなる対処もしようとはしなかった。
 民を守らぬ国に、いかなる価値があるというのか。
 

 いつの世も、最初に犠牲になるのは、力なき民草である。
 されど、絶望に沈むことはない。
 最初に犠牲になるは民衆なれど、乱世を終わらせる力を持つ者は、その悲劇の中より生まれ出るものだから。
 戦乱の世を嘆く声が。大地に晒された屍の山と血の河が。何よりも、平和を願う民衆の願いが。
 乱世を終わらせる者――すなわち英雄を生み出すのである。





「民の願いが英雄を呼ぶのなら、天はそれを映す鏡であります。私は、その鏡に映った像を、言葉にしたのみでございますよ」
 于吉はそういって、出すぎた真似を謝するように、袁術に向かって、恭しく頭を垂れたのである。





 謁見の広間は、静寂に包まれた。
 詰問していた閻象も、言葉を失っている。
 この場に集った者たちの多くは、漢王朝の廷臣としての意識が根本にある。忠と義を重んじる士大夫として、それは当然のことでもあった。
 中には、時代の変革を感じる敏慧な人物もいたのだが、その彼らとて、ここまで堂々と漢王朝を否定する言葉を吐くことは出来ない。否、しようと思う心さえ、持てなかった。それを考えることは、自ら拠って立つ土台を、自らで揺るがすことに他ならないからである。


 そんな配下の沈黙に対し、袁術は袁術らしい解釈をしてみせた。つまり、自分の一言を待っているのだろう、と。
 袁術の高らかな笑い声が、謁見の間に響き、廷臣たちは驚いたように、その眼差しを主君へと向けた。
「さすがは于吉じゃ。天の意思をそこまで読むとは見事なり。妾の字は公路。当塗高とは、まさに妾のことにほかならぬ。そうじゃな、七乃?」
「は~い、まあちょっとこじつけめいてますけど、美羽様なら、皇帝なんてかるーくこなせちゃいますから、結果よければ全て良し、というやつですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう。妾が、州牧なぞという、けちな地位を有難がると思っておるぼんくらな皇帝などすぺぺのぺぃッ、じゃ!」
「おー。皇帝を皇帝と思わぬその言葉――もう後戻りはできませんねえ、美羽様」
 一瞬。張勲の言葉が、わずかに途切れたことに、果たして袁術は気がついたであろうか。
「もとより、戻るつもりなどないのじゃッ! この袁公路、今日この時より、新たなる皇帝となりて、天下の蜂蜜すべてを我が下に集めるのじゃ! それこそ、妾の天命! そうじゃな、于吉ッ?!」
「御意にございます。御身が味わいし甘味を、御身のみならず、天下すべてに等しくお与えなさいませ。その時、公路様は、歴史に不滅の名を刻まれることでございましょう」
「うむ! やるぞよ、七乃!」
「――はい、美羽様。こうなったら、とことんお供いたしますッ!」


 呆然と、主君らの会話を聞いていた閻象は、ようやく我に返った。
 方士の戯言どころではない。主君たる袁術が、なんと皇帝に唾するような言動を行っているではないか。
 こんな、馬鹿げた妄想の果てに何が待つのか、閻象にはわかりすぎるほどにわかっていた。
 それゆえに、閻象は血相を変えて、主君の前に進み出る。
 主君である袁術のために。許昌におわす皇帝陛下のために。なにより、このままであれば、無用の戦乱で生命を脅かされるであろう、無数の民たちのために。


「お聞きくだされ、公路様。その昔、商王朝に仕えていた周の文王は、天下の3分の2を領有しておりましたが、なお商王の配下であり続けました。それは、主君と臣下の真のあり方を知っていたゆえにございます。ただ力のみが、主と臣を分けるのではありませぬ。それを知る文王は、積徳に励み、その徳があったゆえに、のちの易姓革命において、諸侯は文王を新たな王朝の主として認めたのでございます」


 閻象は、なおも言葉を続ける。
「主が衰えた時、力ある臣下がそれを奪ってよい理などありませぬ。それは簒奪であり、千載に及ぶ悪名を、中華の歴史に刻みつけてしまいましょう。漢の王朝、衰えたりとはいえ、いまだ許昌にて健在であります。方士殿の言、そのすべてを否定するわけではありませぬが、新しき王朝を打ち建てるは、いまだ時期尚早。なにとぞ、お考え直しのほどを、希う(こいねがう)次第でありますッ!」


 その必死の嘆願に同意するように、進み出る文官が幾人もいた。
 一方で、袁術の宣言に興奮し、声を高める武官も少なくない。特に下級の武官たちは、少なからず袁術の言葉に発奮しているように見える。門地を持たない寒門の出である彼らにとって、袁術の建国の宣言は、栄華富貴への扉が開かれたと同義に思えたのであろう。
 無論、武官の中にも、袁術の暴言に憤る者はいたし、文官の中にも、野心で胸を滾らせている者はいた。
 彼らはそれぞれに、思うところを主張しはじめる。他者を罵倒する者、自説を開陳する者、あるいは驚き慌てて、右往左往する者。
 寿春の城は、混迷する人間たちによって、時ならぬ騒ぎに包まれることになる。 

 
◆◆


 そんな狂乱の事態を、冷静な眼差しで見据える者たちがいた。
 孫堅をはじめとした、孫家の将たちである。
 あるいは、冷静という言葉は、相応しくないかもしれない。なぜなら、眼前で起きた、あまりに予想外の事態に、孫堅は内心で笑いをかみ殺していたからである。


 孫堅は、心ひそかに喜悦の表情を浮かべていた。
 まさか、袁術がみずから悪行の衣をまとってくれるとは、思ってもみなかった。
 ここで袁術が偽帝として起てば、中華全土が袁術の敵にまわる。さすれば、孫家は、これ以上ない独立の理由を得た上に、積年の宿敵を討つまたとない好機をも得ることになるではないか。


 そして、ここに到るまでの袁術の数々の厚遇、その目論見も読めた。
 破格の待遇を与えることで、孫堅を新王朝に留めようとしていたのであろう。たしかに、南陽のように豊かな領土の太守の座となれば、多くの者は心を揺らすだろう。漢王朝の腐敗は、否定すべくもない事実であり、新しい皇帝が立ったところで、不思議なことではない。袁術ほどの勢力があれば、あるいは漢にとって代わることも可能かもしれず、その際、はじめから仕えていた者は、袁術と共に、権力と財貨の美酒に酔いしれることも出来るかもしれぬ。




(ふん、この孫文台も、甘く見られたものね)
 そこらの有象無象なら知らず、江東の虎とまで謳われた身が、偽帝の膝下に参ずると、まさか本当に考えているのだろうか。それこそ、孫堅にとって、これまでの屈従の日々にまさる屈辱であるといえる。
 いっそ、この場で逆臣を誅殺すると唱えて、袁術たちをたたっ切ってくれようか。
 孫堅の脳裏に、そんな考えが宿る。もともと、そのつもりで寿春にまでやってきたのである。
 ふと横を見れば、程普と韓当、そして祖茂が孫堅を見つめていた。その目に、決断を求める光がちらついている。
 三人が、共に自らの得物に手を走らせようとしている姿を見て、孫堅は彼らが自分と同じ考えであることを悟った。


 だが。
 孫堅の眼差しが、この状況にあって、動揺の気配さえない者たち――告死兵たちに向けられる。
 この場にいる将軍たちの武勇があれば、彼奴らの囲みを突破して、袁術に迫ることは決して不可能ではないであろう――
「――主よ、逸られるな」
 小声で話しかけてきたのは、黄蓋であった。見れば、孫策と周瑜も、そっと首を横に振っていた。
 これまでの例と照らし合わせれば、袁術と張勲がその気になった以上、皇帝即位はまず間違いなく行われる。閻象たちが反対したところで、中途で止まることはあるまい。
 であれば、袁術が暴走するに任せておけば良い。ここで今一度頭を下げ、南陽に赴いた後、天下に偽帝の討伐を宣すれば、一時、袁術に跪いた恥は雪がれるであろう。
 孫堅は、これ以上の屈従の日々に耐えかねて、独立を決意したのであるが、それをほんの少し先に延ばすだけで、孫家にはこれ以上ないほどの天機が訪れるのである。
 黄蓋と孫策、そして周瑜はそれを悟り、孫堅に自重を願ったのであった。


 そして、孫堅とてわずかでも冷静になれば、そこに思い至らない筈はなく、しぶしぶと、ではあったが、剣の柄から手を離した。
 孫堅の武器であり、孫家重代の家宝でもある『南海覇王』が、鞘の中で小さく音をたてた。
 宝剣が、暴れる機会を逸した不服をあらわしたのだろうか。がらにもなく、そんな子供じみた夢想をしてしまうくらいに、この時の孫堅は、目の前に開かれつつあるように見える天道を前に、心身を昂揚させていたのである。




 ああ、どうか気づいてほしい。
 その音が、覇王の剣を手にした歴代の所有者たちからの、精一杯の警告であることに。




 されど。
 偽帝を討ち、中華の大地に、高々と孫家の旗を掲げる日が、目前まで迫っている。
 その確信を、胸に秘めた孫堅に、その警告はついに届かず。



 ――于吉の声が、した。混迷の色を深めつつある筈の謁見の間に、その声は、透き通るように染み渡っていく。奇妙なまでに、速やかに。
「我が予言に疑いを抱く方々がいるのは、もっともな話です。それゆえ、ここで、我が言葉が戯言でない証拠をお目にかけましょう。ただそれを見ただけで、皆様は天命がいずれに帰するかを悟るでありましょう」


 于吉はそう言うと、にこやかに孫堅を見つめ――そして言った。
 中華の地に、新たなる災厄を振り撒くこととなる、その言葉を。
「さあ、孫将軍。御身が洛陽より持ち帰ったもの、それをお出しくださいますよう。かの秦の始皇帝が、宰相李斯に命じて彫らせた帝権の在り処を示す宝玉にして、天命を宿す、中華でただ一つの秘宝――伝国の玉璽を」


 

 

◆◆




 

 凍りついたような沈黙は、孫堅の声で破られた。  
「――ふ、方士。戯言を肯定するに、戯言を以ってするか。洛陽の大乱にて失われた玉璽を、何ゆえにこの孫文台が秘しているなどとほざくのか。いかに公路殿の賓師といえど、返答次第ではただではおかんぞ」
 孫堅は、突然の于吉の言に、動じる気配さえ見せずに言い返した。
 しかし、平らかな口調とは裏腹に、その目に宿るは、まごうことなき殺気である。
 虎は、獲物に襲い掛かる時、高々とほえ声をあげたりはしない。ただ静かに近づき、刹那のうちに、獲物の喉笛を食い破る。今の孫堅は、まさしく獲物に襲い掛かる寸前の虎を想起させた。


 孫堅は、さらに言い募るつもりであった。
 自らは漢朝の忠実なる臣であり、玉璽を隠し持つ理由はない、と。
 だが、今、この場でそれを口にすれば、袁術の建国宣言に真っ向から衝突することになる。
 天下に孫家の名を高からしめるために、袁術を討つのは、帝号僭称の後が望ましい。それあってこそ、孫家の忠勇は際立ち、孫堅が天下の英雄たちと比肩する立場に立つことを可能とするのである。
 それゆえ、孫堅は、ただ玉璽の所持を否定するにとどめたのであった。


 その孫堅に向かって、于吉は、ゆっくりと語りかける。
「さすがは孫将軍。こと、ここに至って、なお我らの覚悟を試すはお見事であります。されど、ご案じなさいますな。公路様の決意は本物であり、今、この時より、漢に代わる新しき秩序が誕生いたします。中華の平穏を願い、あえて御身が隠し続けてきた玉璽を明らかにする時は、他日になく、今日にあります」
 その于吉の言葉にこめられた、奇妙なまでの確信が、徐々に群臣の間にざわめきをうむ。
 はじめは、于吉が理不尽な言いがかりを口にしているのだと思っていた人々も、その穏やかな口調に耳をくすぐらせているうちに、あたかもそれが真実であるかのように感じはじめていた。それくらい、于吉の言葉には、揺らぎがなかったのである。


「――この身、天地神明に誓って玉璽など持ってはいない。持っていない物を献ずることも、また出来ぬ。そもいかなる証拠があって、私にそのような疑義をさしはさむ?」
 于吉の言に影響される者は少なくなかったが、それでも、孫堅の堂々たる主張に、多くの者たちは理を感じた。
 孫堅と袁術との不仲は、公然の秘密とでも言うべきものであったが、孫堅の為人は誰もが知る。ただ勇猛なだけの武人ではない。その廉直さは、武人の鑑と称えられ、袁家の武将の師表ともなっているのである。
 だが、その孫堅に対し、于吉はあくまで自らの主張を曲げようとはしなかった。
 于吉は思慮深げに、右手を顎に当て、なにやら考え込む仕草をしつつ、なおも孫堅が玉璽を持っていることを既定のものとして話を続けたのである。
「ふむ。玉璽を得て、漢朝に返納するでなく、天命を受けし者に献上するでもなし。であれば、その意図するところは明らかですね」
「――くどい、方士。これ以上、いわれなき侮辱を続けるというのであれば、御前といえど、容赦せぬぞ」
 さすがにたまりかねたのか、孫堅の顔に朱が散った。他者からは、于吉のいわれなき誹謗に、我慢の限界に達しつつあるように見えたであろう。
 無論、これは演技である。あまりに平静を装い続けるのも、怪しまれる原因となると考えた孫堅は、あえて袁術の前での騒ぎも辞さない行動を示してのけたのだ。
 そして、そんな主君の行動に阿吽の呼吸で追随する将軍たち。謁見の間に、緊迫した空気が満ち満ちた。


 この孫堅の態度に、謁見の間に集っていた者たちは周囲の者と顔を見合わせた。
 あの孫堅がここまで言う以上、玉璽を持っているとは思えない。于吉の言葉を信じかけていた者さえ、そう感じた。それくらいに、孫堅の怒り方は真に迫っていたのである。
 その感情は、自然、主君の傍らに立つ方士への厳しい視線となって現れる。昨日今日現れた、しかも方士などという怪しげな素性の者を快く思っている者などいる筈もない。ただ、袁術の信頼が絶大であったから、その言動におもねっていただけなのである。


 場の空気が変じたことに、于吉は気づいたのだろうか。
 顔に張り付いたような笑みが、はじめて苦笑にかわった。
「かなうならば、穏やかに済ませたかったのですが、さすがにそう都合良くはいきませんね。もっとも、それでこそ江東の虎というべきなのでしょう」
 その言葉に、人々が怪訝な表情を浮かべる前に、于吉は一人の人物に向かって声をかけた。
「李軍師」
「何かな、方士殿」
 他者の目があるため、李儒はあえて尊大に于吉に対した。
 軍師である李儒と、方士として袁術に侍る于吉とでは、李儒の方が位階は上なのである。
「例のものを、持ってきていただけますか。それをごらんになれば、孫将軍も、そして他の皆様も、真実がいずれにあるか、わかってくれるでしょう」
「承知した、ただちに」 
 頷いた李儒が、高らかに手を叩くと、心得た様子の人物が二人、新たに広間へと入ってきた。
 その顔につけられた仮面が、彼らの所属を雄弁に物語っていた。





 二人の告死兵は、何やら巨大な物を捧げ持って入ってきた。それは、蓋をした盆のようだ。
 大きさは――そう、大人の頭が一つ、丸々と入ってしまうくらいであった。
 それを見たとき、孫家の者たちは、背に氷片を感じたであろうか。
 于吉はゆったりとした足取りで孫堅たちの近くまで歩み寄った。その于吉をまもるように、告死兵も動く。
 そして、盆を捧げ持った告死兵たちは、孫堅の前で立ち止まった。
「では、ご覧いただきましょう。我が言葉が、偽りではないという証が、これでございます」
 そう言うや、于吉は微塵もためらうことなく、蓋を取り外し、盆に乗せられたものを、明らかにしたのである。
 そこには――





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/14 22:57

「なッ?!」
「ひィッ!!」
「――ッ!」
 

 驚愕が、広間に満ちた。盆に視線を集中させていた袁術軍の者たちが、一様に驚きと――そして、恐怖を顔に浮かべる。
 それも仕方ないことであろう。
 まさか、人の頭部が中から出てくるなど、誰が予想できようか。
 だが、どれだけ信じられなかろうと、それは疑いなき事実。告死兵が持ってきた盆に載せられた首は、瞼は閉ざされ、髪を綺麗になでつけられ、あたかも眠っているかのようであったが、その首を切り裂いた赤い傷口が、この人物に襲い掛かった惨劇が夢ではないことを証し立てていた。


 孫堅軍の者たちの目に、恐怖はなかった。あるのは驚愕と、そしてそれ以上に激しい怒りであった。何故なら、彼らは皆、その首が誰であるかを知っていたからである。
「――朱治ッ!」
 程普の口から、血を吐くような呻きがもれた。程普だけではない。周囲の将たち、そして孫堅もまた、その首が配下の朱治の首であることに気がついた。ここ寿春にて、孫家のために働き続けていた部下。しかるに、今日、何故か一度も姿を現さなかった配下。
 孫堅も、不思議には思っていた。だが、何分、謁見が急であったこともあり、たいして気にとめてはいなかったのだ。


 だが、朱治の首を前にすれば、全ての物事が、一本の糸で結ばれる。
 朱治は、反董卓連合結成時、孫堅にしたがって洛陽に遠征した将の一人であり、当然、玉璽のことも知っている。
 孫家に曇りなき忠誠を捧げる朱治が、玉璽のことをもらすとは考えにくいが、あるいは家族を人質にでも取られてしまったのか。
 だが、手段はどうあれ、朱治を捕らえた者は、朱治の口から玉璽が今、いずこにあるかを聞き出したのであろう。そして、用済みとばかりに、その首を刎ねてしまった。
 配下が騙まし討ちに等しい所業で命を奪われたのだ。朱治の痛み、無念を、その相手に十倍にして返してやることを、孫堅は瞬時に誓った。
 その犯人を見つけるのは、いたって容易い。すなわち、孫堅軍以外で、孫堅が玉璽を秘していると知っている者こそ、その蛮行をなした者。
 つまり――
「――于吉ッ!!」
 認識が理解をもたらし、理解は憤怒へと直結する。孫家の主従が、怒りの咆哮をあげながら、武器を抜き放とうとする、まさにその寸前であった。




 それまで、静黙を保ってきた告死兵の一人が、この時、化鳥のように動いた。
 激昂した孫堅が、剣を抜こうとする刹那、一瞬で間合いを詰めた仮面の兵は、いつの間に抜き放っていたのか、手に持った剣を一閃させる。
 白銀の閃光が、孫堅に襲い掛かる。
 さすがの孫堅が、唖然として、避けることさえ出来なかった。
 孫堅と、その兵士、最初に動いたのは孫堅であった筈だ。にもかかわらず、先に襲い掛かってきたのは、兵士の斬撃であった。
 武人が、相手に切りつけるまでに必要な三つの行程。
 踏み込み。抜剣。斬撃。
 長く戦塵を駆け抜けてきた孫堅であったが、自らが撃ちかかろうと踏み込むまでのわずかの時間で、斬撃まで終わらせるような、神域の武を相手取ったのは、初めてであった。


 音もなく飛び込んできた、告死兵の一撃は、孫堅の右肩から、左の腰までを一撃で切り裂いていた。だが、血飛沫が飛び散ることはない。
 その兵の剣先についたのは、切り裂かれた孫堅の衣服の屑だけである。
 何のためかはわからないが、告死兵は、孫堅の衣服のみを断ち切ったのである。
「ちィッ!」
 孫堅は、咄嗟に後方に飛び、今度こそ、腰に提げていた南海覇王を抜き放つ。
 相手の思惑はわからないが、これは稀有の幸運であった。もし、相手がその気であれば、間違いなく、孫堅は斬殺されていたであろうから。


 不意に。
 謁見の間に、奇妙に透き通った音が木霊した。
 それが、告死兵に切り裂かれた衣服の隙間から、床へと零れ落ちた、一個の玉が転がる音であることを、孫堅は悟る。
「――しまッ?!」
 思わず手を伸ばすが、自ら後方にとびすさってしまった孫堅の手は、床に落ちた宝玉に届かない。
 それを拾い上げたのは――
「『受命于天 既寿永昌』。まさしく、秦の始皇帝が霊石を削って作り出したという、伝国の璽でございますね」
 于吉は、くすりと微笑むと、それを袁家にもたらしてくれた孫堅に向かって、労を謝するように、恭しく頭を垂れた。



 事態を悟った孫堅麾下の将軍たちは、一斉に動き出そうとする。
 于吉の慇懃無礼な態度に立腹したわけではない。玉璽の存在を明らかにされてしまえば、孫家こそ逆賊に堕ちてしまうことを知っていたからである。少なくとも、目の前の方士は、間違いなく事態をその方向へ持っていこうとするだろう。
 何としても、玉璽は取り戻さねばならなかった。


 だが、そんな彼らの眼前を、左から右へ、剣光が一閃する。
 孫堅に襲い掛かった告死兵が、孫家の将軍たちの動きを制するために、持っていた剣を横に振るったのだ。
 否、それはただの威嚇ではなかった。
「がああッ?!」
「義公ッ?!」
 いち早く飛び出していた韓当が、苦悶の声をあげながらも、床に倒れ伏す。なんとか右手に持った剣だけは手放さずにいたが、顔の上半分を覆った左手の隙間からは、暗赤色の液体が、にじみ出るように零れ落ちてくる。
 告死兵の剣は、精確に、韓当の両目を断ち切っていたのである。



 息をのむほどの剣技の冴えに、一瞬、袁家、孫家、双方の動きが止まる。
 その静寂を衝いて、于吉の声が朗々と響き渡った。
「こと破れたり、というところですね、孫家の長」
 その于吉の言葉に続いたのは、それまで、黙然と事態を見守っていた李儒であった。
 底の見えない昏い瞳が、孫堅に向けられる。
「玉璽を隠し持ったるは、主家への義ゆえではなく、漢朝への忠ゆえでもなく、ただ己が野心を満たさんとする我欲、我執の念ゆえであること、すでに明白であるッ!」
 李儒は、謁見の間にいる者たちすべてに届くように、高らかに孫堅を弾劾した。
「諸将よ、何を迷うことがあろうか! 天命に従いて、公路様の剣となるか。逆賊に付き従って、千載に悪名を残すのか。いずれに理があり、いずれに栄光が待つか、赤子の目にさえ明らかではないかッ! 迷いは不要、ただちに逆賊孫堅を討ち取れィッ!」


 冷静に考えれば、この李儒の言は矛盾をはらむ。
 漢朝の臣、という立場からすれば、玉璽を秘した孫堅の罪は明らかであり、その我欲を責められるは当然であろう。
 だが、漢に叛するという点では、袁術たちとて等しい罪業を背負っている。孫堅を討つことと、袁術に従うことは、必ずしも一致しない。
 だが、争気と殺気に満ちた混乱は、人々の心から冷静さを失わせていく。また、この期に及んで、孫堅にもつかず、袁術にも従わない傍観者の立場をとることが至難であることは言うまでもなかった。
 何よりも。
「たわけたことをッ! 逆臣が、我らを逆賊とののしるなど、片腹いたッ――」
 たまりかねて、于吉と李儒を論難しようとしたのは、先刻の傷にも怯まず、立ち上がった韓当だった。
 両眼を断ち切られながら、なおも于吉らを弾劾しようとした、その韓当の首筋に、一本の矢が突き立った。


 常の韓当であれば、避けることは出来たかもしれない。だが、今の韓当に、迫り来る矢を避ける術はなく、韓当は、首筋に刺さった矢を掴みながら、血の泡を吐いて、再度、床に崩れおちた。そして、今度は立ち上がることが出来なかった。


 いつのまにか。
 謁見の間の柱の影からあらわれた弓兵が、群臣に向かって弓を構えていた。
 そのいずれもが、仮面で顔を覆っているのは、言うまでもないことか。
 拱手傍観していれば、その矢は、やがて自分たちに向けられることになるかもしれない。袁術の家臣たちの多くがそう考えた。
 今、この時、命を惜しむのならば、どちらにつくべきかは明らかであった。


◆◆



 次の瞬間、謁見の間に響いたのは、数知れぬ抜剣の音。
 その大半は袁術に従う者のそれであり、孫堅に与する者たちは、ほんの一握りに過ぎなかった。
 たちまちのうちに喚声と怒号が錯綜する争乱の場と変じた謁見の間。
 孫堅たちは、つい半刻前には想像もしていなかった窮地に立たされていた。


「蓮華様、こちらへッ」
 甘寧は、目の前に立ちふさがる袁術軍の武将数名を斬り倒すと、孫権へと呼びかけた。
 このまま、謁見の間にとどまり続ければ、待っているのは斬殺の運命だけであろう。
 それは、孫権にもわかっていた。だが、理性が導き出した逃走という結論を、荒立つ感情が認めようとしないのである。
「わかっているッ、だが、ここまで袁術ごときに虚仮にされてッ!」
「お怒りはごもっともですが、今はこらえてください。ここにとどまれば、死は免れません」
 あくまで冷静に、孫権を諭す甘寧。
 だが、その甘寧の言葉に肯んじないのは、孫権だけではない。
 孫権の近くにいた孫尚香もまた、逃げることをよしとはしなかった。
「思春、朋輩の無念を晴らさずに逃げるなんて、それでも孫家の将なのッ?! 孫家に敵対するやつらなんて、このシャオ様がとっちめてやるんだからッ!」
 孫尚香の言葉に、甘寧の視線が、一瞬、倒れた韓当と、そして首となった朱治に向けられる。
 その視線に、怒りがないなどと誰に言えよう。
 だが、視線を戻した甘寧の言葉に、感情の揺れは微塵もない。
「朋輩の無念を思えばこそ、ここで無駄死にすることは出来ぬのです。そして、お二方を無駄死にさせることも出来ないのです」
 甘寧の言葉に、なおも孫家の娘たちが反論しようとした時だった。
 告死兵の一人が、隙ありと見たのか、孫権に向かって斬りかかってきた。
 甘寧は、咄嗟に孫権の前に立ちふさがろうとするが、それよりも早く、告死兵の身体は、勢い良く謁見の間の床面に叩きつけられていた。


 告死兵を後背から斬り捨てたのは、孫家の重鎮である程普であった。
「お二方とも、何をグズグズとされておられるのかッ! 興覇、おぬしがついていながらッ!」
「――は、申し訳ございません」
 程普は孫家の武将の首座に位置し、若年の甘寧とは親と子ほど年齢が離れている。言い返す言葉などあろう筈がない。
 また、長年、孫家に付従ってきた程普にとって、孫権や孫尚香は我が子に等しい。この危急の時にあって、程普の言葉には主家への遠慮はかけらもなかった。
「で、でも、徳謀ッ! 朱治の仇も討たずにッ!」
 孫尚香は、それでもまだ納得しようとはしなかったが、程普はこの期に及んで、論争に時を費やす必要を認めなかった。
「それがしが、血路を開きまする。お二人はその後ろに続いてくだされ。興覇、おぬしは追いしたう敵兵どもを排除せよッ!」
 言うや、程普は孫権たちの返答も聞かずに、謁見の間の出口へ向けて飛び出していく。
 なおもこの場にとどまろうとすれば、程普を見殺しにする結果になってしまうだろう。孫権たちは、いやおうなく、逃走の道を選ぶしかなかった。
「蓮華様、小蓮様、敵と斬り結ぼうとはなさいませんよう。ただ逃げることだけお考え下さい」
 憎しみにまかせて敵兵を殺そうとすれば、要らぬ隙を生じることになる。
 甘寧の助言に、孫権と孫尚香は、無念さを隠さず、しかし、しっかりと頷いて見せた。





「――さて、飛んで火に入る夏の虫、とは言うけれど」
 孫策は口元に不敵な笑みを浮かべながら、剣を右に左に走らせる。
 その都度、孫策の剣刃は、新たな敵兵の血に塗れた。孫策が持つのは、かなりの名剣であるが、すでに告死兵を含む10人近くの敵兵を斬り倒した刃は、敵兵の血と脂にまみれ、剣としての用をなせなくなりつつあった。
 だが、切れ味が鈍ろうと、孫策の剣撃の脅威はいささかも衰えない。
 鋼の刃は、今や鮮血色の鉄鞭となって、群がり来る敵兵を次々と打ち据えていった。


「――ふむ、実際、その立場に立ってみると、なかなかに面妖な気分ね」
 その孫策の隣では、こちらも孫策に勝るとも劣らぬ武威を見せ付ける孫堅の姿があった。
 宝剣、南海覇王は、その類まれなる切れ味を存分に発揮し、袁家の将兵の血を吸って猛り立つ。
 この母娘の前に、袁術軍の将兵は次々と倒れ伏す。苦悶の響きは絶えず、絶命した屍は、瞬く間に山のように積み重なっていった。


 だが、それだけの奮戦も、状況を変えるには至らない。
 何故なら、袁術側の主力である告死兵の姿が、ほとんど見受けられないからである。
 時折、襲い掛かってくる者もいるにはいたが、韓当を斬った者とは比較すべくもない技量の者ばかりであった。
 それが、孫堅たちの疲労を待つためであることは明白であったが、孫堅たちの後背をまもっていた周瑜は、敵の秘した狙いも看破する。
 おそらく、袁術――あるいは于吉と李儒は、孫家の手を借りて、旧勢力を排除するつもりなのだろう。彼らにしてみれば、ここでどちらが倒れようと気にかける必要はない。孫家という目の上のコブを殲滅し、旧態依然の袁術軍の将たちを排除して、かつ自分たちの戦力を最大限に温存する。
 これまでのところ、腹立たしいまでに、敵の思惑通りになっていることを、周瑜は、そして孫堅母娘も、認めざるを得なかった。



「蓮華と小蓮は?」
 孫堅の問いに、孫策がそっけなく答えた。
「徳謀と思春がついているから、心配いらないでしょ。それより、こっちの心配をした方が良いんじゃない? そろそろ退き時だと思うけど」
「私も、雪蓮に同意します、文台様」
 孫策と周瑜の意見に、孫堅はあっさりと頷いて見せた。
「――そうね、そろそろあなたたちは退きなさい」
 その孫堅の返答に、孫策は、やっぱり、と言いたげに肩をすくめた。
「……あなたたち、というところを見ると、自分は残るとか言いそうね、母様。あいにく、そんな真似をさせるつもりはないわよ。私も、冥琳もね。母様あってこその孫家。こんなところで、神輿を失うわけにはいかないの」
 孫策にはわかっていた。
 袁術の張り巡らした策謀に絡めとられ、自分のみならず部下たちまで、死地に足を踏み入れさせてしまった自らの愚かさを、母がどれだけ悔いているかを。
 だからこそ、争いがはじまってこの方、ずっと孫堅の傍を離れずにいたのである。
 いざとなれば、力ずくでも良い。引きずって逃げられるように。
 そして、そんな孫策の心を、周瑜もまた悟っていたのである。



 だが。
「策」
「なあに?」
 異論なら認めない。そう言わんばかりの孫策の仏頂面に、孫堅は穏やかな笑みを投げかけた。
「私は、死を以って責任をとろうとしているわけではないわ。もっと単純に――」
 誰かがあの将を止めなければ、ここで孫家の柱石は全滅する。
 それがわかっているからこそ、孫堅はこの場に残る心算だったのである。


 いつのまに、そこに来ていたのか。
 孫堅たちの視線の先には、先刻、孫堅をして反応できない剣撃を浴びせてきた告死兵の、おそらくは将軍の姿があった。
 仮面の隙間からかすかに見える緋色の髪が、孫堅にそれを教えたのだが、仮にそんな特徴がなかったとしても、眼前に佇む武人の鋭気と覇気を見誤ることはなかったであろう。
 剣を交えたからこそ、孫堅にはわかる。この人物は、ここで仕留めねばならない。さもなくば、孫堅がここまで必死に築き上げてきたもの、その全てが崩れ去ってしまう、と。
 人が。
 物が。
 何よりも、志が。



「なら、私たちが――」
「雪蓮」
 口を開きかけた孫策に対して、孫堅は娘の真名を呼んだ。
 その意味を、孫策は一瞬で悟った――悟ってしまった。
 共に強情であり、我の強い母と娘である。顔をあわせれば憎まれ口を叩くようになってしまったのは、必然であったかもしれない。それでも、その心底は、暖かく、確かな絆で結ばれていた。
 当人たちに言えば、むきになって否定したであろうが、たとえば周瑜の目から見れば、それは明らかなことであったのだ。


 こうしている間にも、袁術の手勢は増え続け、孫家の味方は次々に倒れてく。
 もはや、一刻の猶予もない。孫堅はそう判断し、眼差しを孫策から、周瑜へと向けた。
「冥琳」
「……はい、文台様」
「これからは、あなたと雪蓮が孫家を背負うことになるわ。この子の世話は大変だと思うけど、よろしくお願いね」
 母とも慕った主君の最後の願い、それに否やをとなえることなど、出来る筈がなかった。
 周瑜は、苦渋の表情を押し隠し、深々と頭を下げる。
「……我が真名に誓って、必ずや」
 その周瑜の言葉に、孫堅はにこりと、心底嬉しそうに微笑むのであった。



 孫堅のすぐ後ろ。それまで、何とか告死兵の猛攻をとどめていた祖茂の巨躯が、崩れ落ちる。
 だが、祖茂は最後の力を振り絞り、眼前の告死兵に突進し、わずかな、しかしかけがえのない時間を導き出す。
 その時間を用いて、孫堅は最後の言葉を、二人の娘に遺した。
 孫家は、今日この時をもって壊滅的な打撃を受けるだろう。再び天下に挑む力を得るまで、どれだけの時間が必要となるかは、孫堅にもわからない。
 わかるのは、新しい孫家の柱石は、目の前にいる我が娘たち以外にいないということだ。
 孫権と、孫尚香、そしてそれ以外の若き将たちを導くのもまた、二人の役割となる。
 それはすなわち――


「雪蓮、冥琳、我が愛する娘たちよ。この母の果たしえなかった夢、あなたたちに託すわ」


 孫家の未来が、二人の手にゆだねられたということだった。
 将軍の、兵士の、その家族の、すべての未来を娘たちに託した孫堅は、軽やかな動作で、孫策に向けて愛剣を放った。
 反射的にそれを受け取った孫策は、ただ一度だけ、奥歯を強くかみ締める。
 だが、すぐにその表情は冷静さを取り戻し、そして、己が剣を、代わりに孫堅に放り投げた。
 それを受け取った孫堅は、それ以上、言葉を重ねようとはしなかった。言うべき言葉は伝えた。そして、背後に迫り来る敵は、もうこれ以上の猶予を与えてくれないであろうから。


 無言で告死兵と向かい合う母の背に、孫策は小さく何事かをつぶやいた。
 それは、近くにいた周瑜にすら聞き取れないほどにかすかな声。
 けれど、何故か孫堅の耳に、それははっきりと聞こえてきた。孫策はこういったのである。
「母様――孫家の宿願、必ず果たして見せるからね」と。
 そして、孫策もまた、その言葉が母に届いたことを知っていた。


 それが、母娘の別離の時となる。
 孫策は素早く踵を返して出口へ向かい、周瑜もその後に続く。
 孫策は母より託された『南海覇王』を、周瑜は得物である鞭『白虎九尾』を、それぞれに構えると、群がる敵兵のただなかに、ためらうことなく突っ込んでいくのだった。



◆◆
 


 かくて、残され、対峙するは江東の虎と、緋色の髪の告死兵。
 周囲はすでにことごとく袁術の手勢に制圧されつつあり、勝敗の帰結はすでに明らかである。
 だが、孫堅はそんな些事を気にかけることはなかった。
 その胸に宿るは、悔いであり、無念であったが、しかし、一人の武人として、目の前にいる、神勇の武人と矛を交えることを喜ぶ気持ちがあることも否定できない孫堅であった。
 孫策が用いていた剣を下段に構え、孫堅は口を開いた。


「我が姓は孫、名は堅、字は文台。孫家の長と対するに、その仮面は無粋ではないかな、武者殿。地獄の羅刹に、己を手にかけた者の名前くらい言ってやりたいものとは思わんか?」
 名乗りをあげはしたが、孫堅は、はじめから、相手の返答など期待していなかった。
 だからこそ。
「…………ん」
 その言葉に、相手があっさりと応じた時は、驚くよりも先に、奇妙な可笑しさを感じてしまったのである。
 かすかに笑みをもらした孫堅の視線の先には、仮面を外した告死兵の素顔がある。
 緋色の髪と、緋色の瞳。
 その茫洋とした眼差しは、何故か、孫堅に、母を捜す迷い子を連想させた。
 そして、孫堅はその迷子が誰であるかを知っていた。
 あれは確か、虎牢関のこと。遠目に見ただけであったが、あの驍雄の武将を、忘れられる筈もない。


「ふむ、まさかおぬしが袁術の下にいたとはな。いや、それとも、おぬしがついたは、あの方士の方か? いずれにせよ、惜しいことだな――飛将軍・呂奉先」
「…………」
 告死兵――呂布は、しかし、もう孫堅の言葉に応じようとはしなかった。
 無造作に構える呂布。しかし、相対する孫堅は、呂布の身体から発する圧倒的な覇気を感じ取っていた。
 だが、物理的な圧迫感さえ伴ったそれを総身で受け止めながら、孫堅は口元にはっきりと笑みを浮かべたのである。
「孫家のことは、次代に託した。最後に、すべてのしがらみを捨て、中華最強の武人と戦う機会をえようとは、ふふ、天も味なことをしてくれるものよ」 
 孫堅の腰が、わずかに落ちる。ただそれだけの動作に、呂布は進みかけた足を止め、剣を構えなおした。
 しなやかな四肢に力を込める孫堅の姿は、相対する者にとっては、その異名たる虎の姿にも似た、危険きわまりないものであったのだ。あの呂布ですら、防御の姿勢をとらざるをえないほどに。
 たちまちのうちに、両者の間に闘気がゆらめき、覇気が渦を巻いた。
 周囲の将兵は、息をすることさえ忘れ、この稀代の激突を両の眼に収めることしか出来ない。この時、孫堅を討つという武名を欲し、ひそかに動きかけていた李儒でさえ、身動ぎ一つ出来なくなっていたのである。
 無論、当の二人は、そんな小者の思惑になぞ気づいていない。気づく必要もまたない。


 軟弱な者ならば、その眼光だけで気死したであろう睨みあいは、実際のところ、ほんの数秒でしかなかった。
 今や、ただ二人だけの舞台と化した謁見の間に、孫堅の気合が轟いた。
「――殺ッ(シャア)!」
 そして、それを真っ向から受け止めた呂布の口から、はじめて、はっきりとした雄たけびがあがった。
「…………アアアッ!」
 圧倒的な武と武のぶつかり合い。
 両雄の激突に、寿春の城そのものが揺れたかのように思われた。
 


 呂布の額を断ち割らんとした孫堅の一刀は、その前髪を一房切り落とすにとどまった。額を断ち割る寸前、呂布がほんの半歩、身を引いたからである。
 そして。
 満を持して、呂布が前に出た瞬間、勝敗は決した。


 ――呂布の剣が、孫堅の胸元から引き抜かれた瞬間、胸の傷口と、孫堅の口とから、暗赤色の液体があふれ出る。それは、たちまちのうちに孫堅の足元に紅い水溜りを形作っていった。
「……天下、無双、か。聞きしにまさる……」
 孫堅の口から出たのは、純粋に他意のない感嘆の言葉であった。
 だが、その数語の間にさえ、孫堅の口からは絶えず血が吐き出されていく。人が死に逝く、それは、凄惨な光景である筈だった。だが、鮮血のただなかで、それでも膝を折らぬ孫堅の姿が、凄惨の一語に優る何かを、はっきりと周囲に知らしめていたのである。それは、誇りというものであったろうか。
 されど、それをもってしても、もはや運命は変えられぬ。
 己が血でつくられた泉の、ただなかに立ち尽くす孫堅の瞳から、急速に生気が喪われていく。
 そのことを、はっきりと感じ取った孫堅は、最後の力をこめて、口を開き。
「――飛将軍よ、礼を言う」
 己が命を奪った相手。生涯の最後に、最高の武を発揮させてくれた相手に向けて、短く礼を口にするのであった。


 それと同時に、その目から、完全に生気が消える。
 ゆっくりと、床に崩れ落ちていく孫堅。
 血溜りの中に倒れ伏そうとするその身体は。
「………………」
 寸前、歩を進めた呂布の腕の中におさまったのである。 
 



 時に、孫堅、38歳。
 江東の虎と恐れられ、荊州をはじめ、中華の各地にその武名を轟かせた孫家の長は、宿願を果たさずして逝く。
 主君の死によって、孫家が受けた影響は甚だ大きく、この後、孫家の名は群雄の列から消えうせる。その名が再び現れるのは、これより一年近く後、江南の地においてである。
 また、孫堅が寿春城で果てた時刻、長江下流域の住民たちの多くが、長江の水面に黄竜の姿を見たとされる。黄竜は、名残を惜しむように、しばらくの間、水面下をさまよっていたが、やがてその姿を再び河の奥底へと隠してしまう。
 孫堅を慕う住民の多くが、この黄竜の姿を見て、孫堅の死を知った、と後の史書は記している……




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/14 22:56



 先刻まで、吸い込まれるような蒼穹が広がっていた筈の寿春城の空は、いまや灰色の雲が重く垂れ込め、いつ雨粒が零れ落ちてきてもおかしくはない様子であった。
 移ろいやすき秋の空とはいえ、あまりにも急激な天候の変化に、お祭り騒ぎであった寿春の民も驚いて空を見上げている。
 そして、そんな彼らの目の届かない街路の一画で、今、長刀と戟が真っ向からぶつかり合っていた。


 飛び散る火花は、二度、三度とほの昏い寿春の路地を照らし出す。周泰は、そのかすかな明かりに照らされた黒髪の武将の姿を見据えた。
 着ている服は、先刻、朱治の邸で襲い掛かってきた敵兵たちと同様であるが、その顔に仮面はない。
 そこには、周泰とほとんど変わらない年頃の少女が、身体に似合わぬ長大な戟を提げて立っている。これまでの袁術軍にはいなかった人物であることを、周泰は見て取っていた。件の方士が集めているという人材の一人であろうか。
「――ッ!」
 だが、そんなことは、この際どうでも良い。目の前に立ちはだかるならば、力ずくで退けるだけだ。
 周泰は、素早い身のこなしで、相手との距離を瞬時に詰める。
 そして、振り下ろされる長刀。
 しかし、相手は、戟の柄の部分で周泰の一刀をはじき返し、なおかつ、一歩踏み込み、反撃に転じてきた。
 左から右へ。首を薙ぎはらうような戟の一閃を、周泰は深く身を沈めてかわすや、こちらもすぐさま反撃に転じた。
 弾けるように前方に飛び出した周泰は、敵の胴を一薙ぎにしようと魂切を振るう。
「――くッ」
 相手は、その周泰の攻撃に、かすかに声をもらしながら、素早く後方へ退いた。
 そうはさせじ、と周泰はさらに相手との間合いを詰めようとするが、体勢を立て直した相手は、猛然と戟を突きこみ、その周泰の動きを牽制する。
 周泰は咄嗟に後ろに飛んで、その一撃をかわす。
 両者は、再び路地の中央で向かい合った。





 傍から見れば、まったくの互角に見えたかもしれない。だが、向かい合っている当人にとって、互いの実力差は明らかであった。
 強い、と高順は心中で感嘆していた。
 目の前の少女の動き、その一つ一つが、研ぎ澄まされた刃にも似て、危険きわまりないものだった。
 袁術領に来てから数月。呂布に一から鍛えなおしてもらい、高順の武力が、以前よりもはるかに高まったことは疑いない。それでも、もし、この相手とはじめから一対一で向かい合っていれば、すでに高順は物言わぬ躯と成り果てていただろう。それくらい、相手の力量は恐るべき域に達していたのである。


 だが、ここに到るまで、幾人もの告死兵を切り捨て、それに数倍する告死兵に追われてきた相手の疲労はかなりのものであり、それゆえに高順はかろうじて伍すことが出来ていたのだ。
「……はあ、はあ」
 今なお、肩で息をしつつも、目の前の少女の眼光は、いささかも衰えない。必ず、この死地を脱するとの確信を以って、高順と向かい合っている。
 その顔を見てしまえば、降伏と口にすることさえはばかられる。
 くわえて、朱治の邸に来たということは、この少女はまず間違いなく孫堅の配下である。あの場所で何が起こったのかも、すでに悟っているようで、こちらを見据える視線には、敵愾心が溢れており、降伏を受け入れる筈はないと思われた。




 高順が戟を握る手に力を込めると、それに応じて周泰も、長刀を握る手の力を強めた。
 中空で激突する二つの視線。
 緊張が、音もなく高まっていき、やがて、それが弾ける、と思われた瞬間だった。


 突然、悲鳴とも怒号ともつかない奇妙な喚声がわきおこり、二人の鼓膜を揺るがした。
 誰か一人のものではない。押し寄せる波のように、時に高く、時に低く木霊するその喚声は、それが数多くの人々の声であることを物語っていた。
 周泰の顔に、戸惑いが浮かぶ。それを見て、高順はややためらいながら、はじめて声を発した。
「孫将軍が、討ち取られたのでしょう。その事実が布告されたのだと思います」
「――戯言です。そのような小細工、私には……」
 通じない、と言いたかったのか。だが、高順を見る周泰の目には、隠しきれない狼狽の色がうまれていた。







 戯言を、と口にしつつ、周泰は高順の言葉に偽りがないことを悟ってしまった。
 相手を信用したわけではない。ただ、すでに朱治が誅殺されているという事実から、今回の寿春への召集の裏にあるものを考えたとき、周泰の脳裏は、その結末しか導き出せなかったのである。
 敵の狙いは孫家の壊滅。城内に入ってしまった時点で、すでに逃れることは至難に違いない、と。
 だが。
「――そこを、どいてください」
 それでも、諦めるわけにはいかない。周泰にとって、孫家は唯一にして無二の主家。孫堅は、数ならぬ我が身を引き立ててくれた大恩人である。その目で確かめるまで、全力を以ってお救い申し上げるのが自らの役目である、と周泰は考えたのである。
 決意をすえなおした周泰の眼差しに力が戻る。
 たちまちのうちに、狼狽を駆逐し、鋭気も新たに敵を見据える視線を、高順はどこか眩しげに受け止めた。


 後方から、複数の足音が殺到してくる。
 それが、朱治の邸から追いかけてきた告死兵の一団であることは明らかだった。
 高順を前に、複数の告死兵を後ろに相手取って、なおこの危地を突破できると考えるほど、周泰は自惚れてはいなかった。
 であれば、目の前の相手を斬り倒して進むのみ。
 わずかに腰を落とした周泰の身体が、次の瞬間、弾けるように前に出る。地面をけりつける音と、斬撃が同時に聞こえるほどの、瞬撃であった。


 だが、高順は予期していたように、周泰の刃を戟で受け止め――
「――え?」
 思わずつぶやいたのは、攻撃された高順ではなく、攻撃をくわえた周泰の方だった。
 これまで、ことごとく周泰の攻撃を阻んできた高順の身体が、あっさりと吹き飛ばされたからである。にもかかわらず、周泰の腕に手ごたえはほとんどなかった。
 ――まるで、高順が自ら後ろに飛んだかのように。



「……どうして?」
 周泰の問いに、高順は答えない。
 黒の瞳に、どこか悲しげな色を湛えながら、その視線を路地の先、出口へと向けるだけだった。
 その意を察した周泰は、困惑を覚えながらも、反射的に先に進もうと四肢に力を込め――駆け出す寸前、自らの名を告げていた。
「周泰、字を幼平と言います」
「……高順、字は伯礼、です」
 ただ、互いの名前だけを告げて、孫家と袁家、互いに異なる家に仕える少女たちは、一時の邂逅を終えたのである。





 周泰の姿が、寿春の街並みの中へと消えていく。
 それと、ほぼ時を同じくして、仮面の兵士たちが、この場に飛び込んできた。
 壁際で倒れている高順の姿を見て、彼らが動きかけるのを制し、高順は指を、先刻周泰が消えた方角へと向けた。
「急ぎ、追ってください。孫家の残党同士、合流されると厄介なことになりかねません」
 諾、と返事をするや、彼らは一斉に動き出した。
 一糸乱れることなき動きは、高順と同じく、呂布の徹底した猛訓練の賜物であった。
 
 
 呂布の方天画戟を模してつくった、自らの愛用の戟を支えとして、高順は立ち上がる。
 不審に思われないよう、加減せずに壁にぶつかっていったので、背中がかなり痛かったりするが、今は身体よりも、心の方がずっと痛む。
 何が、それほどに心を苛むのか。
 袁術の麾下で、心ならずも、その謀略の片棒を担いでいること。それはもちろんある。
 だが、それよりも――


『私が、公台殿を謀った? ふふ、誰よりも公台殿を追い詰めたあなたが、それを口にするとは驚きです』


『不思議そうな顔をするところを見ると、本当に気づいておられなかったようですね。公台殿が、どうしてあれほどに功を焦ったのか――奉先殿のお傍にて、文武に成長著しいあなたに、脅威を覚えたのですよ。このままでは、軍師たる地位が、あなたに奪われてしまうのではないか、と。智を以って仕える公台殿にとって、軍師の地位を失うことは、奉先殿の隣に立つ場所を奪われることでもあるのです』


『あなたは、出藍の誉れ、と世人に称えられるやもしれません。ですが、後から来たものに追い抜かれた公台殿は、奉先殿と共にある理由を失い、独りにならざるを得ない。そう、奉先殿と出会う以前の、孤独な日々に戻らなければならない』


『公台殿は、それだけは避けたかった。だからこそ、勝機が薄いとわかっていながら、兌州の乱に乗じようとし――そして、今また、私が差し出した手を掴んだのですよ。しかし、それはあくまでも公台殿の決断の結果。私を非難するのは見当違いというものです。公路様の下で働くことが誤りだというのであれば、ご自身の口で公台殿に仰れば良い』


『ふふ、もっとも、それを聞いた公台殿が何を思うかまでは、私の知るところではありませんがね……』


 于吉という名の方士の、含んだ笑みが脳裏をよぎり、高順は唇をかみしめる。
 今回の袁術の行動は、はっきり言えば、だまし討ち、闇討ちに類する不名誉な行為であり、どんな形であれ、それに参画してしまえば、天下に悪名を流すことになってしまうだろう。
 策略、謀略などといえばもっともらしいが、その非道は覆うべくもない。まして、相手は江東の勇将として名高い孫堅であるのだから、その非道はなおさら際立ってしまうに違いない。


 高順は、そんな悪行に、主君である呂布が関わることは断じて避けたかった。
 当然、それは陳宮も同じである、と高順は考えていたのだが。
 しかし、陳宮は、兌州の乱よりこちら、呂布や自分たち将兵を受け入れてくれた袁術の恩に報いねばならない、と主張して譲らなかったのである。


 陳宮の言うとおり、今の呂布一行は、袁術の親衛隊の一員という形で扶持を受けており、袁術の命令を拒否できるだけの権限はない。だが、それならこれまでの恩を謝して、袁術領を出てしまえば良い、と高順は思う。ここ数月、呂布たちは遊んでいたわけではなく、将兵の練成につとめていたのだから、何を恥じることもなく退去できる、と。
 そして、揚州に隣接する徐州には劉備がいる。あえて卑怯者の汚名を被らずとも、劉備の下で再び呂布の武名を高からしめれば良いではないか。
 高順は、于吉や李儒、あるいは袁術らの下にいることは、呂布の為にならないと感じていたのである。


 だが、陳宮はあくまで袁術の下にとどまることを主張した。
 そして、陳宮は、ここだけの話と念を押した上で、今回の帝位宣言を呂布と高順に伝えたのである。愕然とする高順と、ぽかんとする呂布に向けて、陳宮はさらに言い募る。
『それを教えられるくらいには、自分は于吉たちに信用されているのです』と。
 そして、陳宮はさらに秘奥の策略を、このときはじめて高順たちに明かした。
 それは、偽帝となった袁術を、呂布の武力を以って討ち取ることで、一躍、巨大な勢力を得ようというものであった……





 高順は、みずからの白装束を、厭わしげに見下ろす。
 袁術麾下の最精鋭と銘打たれた告死兵。
 中華帝国において、喪に殉じる色は黒ではなく白であり、そのせいだろうか、高順は、この衣装が呂布の命運と重なってしまうような、奇妙な悪寒を覚えずにはいられなかった。


 高順は知らなかったが、陳宮の考えた策は、孫家のそれと重なる部分が多い。実現性という意味でいえば、決して低いとは言えないだろう。
 だが、孫家にあって、呂布たちにないものがある。
 それは天下への信義とでも言うべきもの。孫家の名は中華帝国に知れ渡り、その主である孫堅が忠義の人物であることはつとに有名である。孫堅が袁術を誅したとしても、それは漢帝への忠義によるものと考えられるだろう。無論、そうとはとらない者たちも多いだろうが、少なくとも、孫堅がそう主張することに不自然さはない。


 だが、呂布にはそれがなかった。天下無双の驍将として、その武名は天下に鳴り響いているが、逆に言えば、呂布にはそれ以外の確固たる評が確立していないからだ。むしろ、兌州の乱において、張家と袂を分かち、見捨てたことで、自己の勢力を拡げることしか考えない人物である、と思われている節さえある。
 そんな呂布が、仕えたばかりの袁術を弑逆すれば――しかも、袁術の野望をそれと知っていて見過ごし、その上で正義の名をとなえて袁家の勢力を乗っ取ろうとすれば、その後に何が待っているのか。
 そのことに思いを及ばせた高順は、背筋に冷たいものを感じてしまうのだ。
 とはいえ。


 先刻の少女、周泰のまっすぐな眼差しを思い浮かべながら、高順は力なく俯き、つぶやいた。
「もう、賽は投げられてしまいました。私たちは、この道を征くしか、ありません」
 その声に、悔いがないと誰に言えよう。
 孫堅を討ち取り、孫家を壊滅させ、そして帝号を僭称する袁術の麾下に属した呂布たちは、もはや引き返すことはかなわない。
 陳宮の策を、呂布が認めた以上、高順はそれに従うだけだ。


 それでも。
「……今度会う時まで、お互い無事にいること。玄徳様……お約束、守れないかもしれません」
 それでも、ありえたかもしれない未来に、未練が残っていることを、高順は恥ずかしいとは思わなかった。
 
 



◆◆





 一方で、迷いや憂いとは無縁な者もいる。
 寿春城内にあって、孫家の掃討を推し進める于吉と李儒の下に、白装束を身に着けた陳宮が報告に訪れる。
「これは公台殿、孫家の追討はいかがですか?」
「心配は無用なのです。孫家の将たちがいかに強くても、遠方から火と矢を浴びせれば、どうにもならないのです」
 その言葉どおり、すでに陳宮の手勢は、孫堅軍の重鎮である程普を討ち取り、孫権、孫尚香らを追い詰めていた。
 もっとも、これは甘寧の奮戦と、そして後から駆けつけてきた孫策、周瑜の二人によって囲みを破られてしまう。
 それでも、すでに城門は閉ざされ、城壁上には隙間なく兵士たちが配備されている。孫策たちの逃亡が失敗に終わるのは、時間の問題であろうと思われた。


「なるほど、これで孫策たちを討ち取れば、ほぼ計画通り、ということですね」
 陳宮の報告を受け、于吉は満足そうに頷いた。
「さて、孫堅殿、いえ孫堅の叛心が明白になったことで、南陽を治める者がいなくなってしまいました。南陽は、袁家にとって失うことは出来ぬ大切な領土。なまなかな者に任せるわけにはいきません。これは内意ですが、その席には文優殿に就いてもらうことになるでしょう」
 于吉の言葉に、李儒の顔に喜色が浮かんだ。この人事は、あらかじめ知らされてはいたのだが、かつては一介の文官に過ぎなかった身が、いまや太守の座にまで上り詰めようとしているのである。興奮を隠せる筈はなかった。
 于吉は、恭しく頭を垂れる。
「御意。必ずや、ご期待に沿ってみせましょう!」
「期待していますよ。公路様も、そして私もね」


 于吉は次に、陳宮に視線を向ける。
「奉先殿には、ひとまず公路様の親衛隊の総指揮を。しかし、遠からず袁家の軍を総率する大将軍の座に就いてもらうことになるでしょう。江東の虎、孫堅を討ち取った奉先殿の功績は隠れ無きもの。公路様もいたくお喜びでした。大将軍の旨と併せて、公台殿の口から、奉先殿に伝えてあげてください」
 今、その座にいる張勲の存在を無視して、于吉はにこやかに言い放ったのである。
 その言葉に、陳宮の口元に「しめた」と言うように微笑が浮かびかけたが、陳宮は慌てて口元を引き締め、内心を押し隠した。
「し、承知です。では、早速恋殿にお伝えしてまいりましょうッ」
「お願いしますよ。奉先殿は、公路様のお傍にいる筈です」
 于吉の言葉を聞くやいなや、陳宮は脱兎のごとく駆け出すのであった。




 その後姿を目で追いながら、李儒は低声で于吉に問いかけた。
「……よろしいのですか、于吉殿。呂布らを公路様のお傍に置くなど、虎に生肉の番をさせるようなもの。遠からず、食われるは必定ですぞ」
 李儒の懸念に、しかし、于吉は肩をすくめるだけだった。
「そうでしょうか。あるいは、張勲殿が返り討ちにするやもしれませんよ。あの方も、なかなかに底の知れない人ですから」
「で、あれば、何もわざわざ貴重な戦力を噛み合わせるような真似はせずともよろしいのでは? 四方の群雄が、公路様が帝号を唱えることに、黙っている筈もございませぬ」
 怪訝そうな顔の李儒に、于吉は微笑んで答えた。
「なに、今日明日にも内乱が生じるわけではありません。それに、四方の群雄といっても、江南を統べる者はおらず、西の劉表は天下を望む野心なきゆえに、おそらく動きません。東の陶謙は病魔に蝕まれ、後継争いに火種を抱えていると聞きます。注意すべきは、北の曹操のみでしょう」


 于吉の説明を聞いても、李儒の不安は拭われない。
 注意すべきは、北の曹操のみ。それはその通りであろう。しかし、その曹操の武威こそが何よりの脅威ではないのか。
 そして、もし曹操が動くのであれば、もっとも危険なのは許昌に近い南陽郡であろう。
 李儒は己の才覚に相応の自負を抱いているが、曹操や、その麾下の群英と、独りで相対しえると考えるほどに愚かではなかった。
 そんな時に、袁家に内乱でも起きようものなら目もあてられない。


 だが、そんな李儒の不安を、于吉は一笑に付す。
「安心なさい。曹操が、南陽郡に攻め寄せることはありません」
「……それは、何ゆえでしょうか?」
 于吉の言葉に、単なる気休め以上の何かを感じ取った李儒は、神妙に問い返す。
 その問いに、于吉はこうこたえた。「間もなく、曹操はそれどころではなくなるからですよ」と。
 だが、そうなる理由を説明しようとはせず、さらに于吉は言葉を続ける。


「曹操は、間もなく全軍を挙げて徐州に攻め込みます。その時、袁家は劉備の南への出口を塞ぐ。ふふ、さてこの包囲、いかようにして抜こうとするでしょうか。興味深いことです」
 于吉は楽しげに笑う。
 微笑む于吉の姿は、めずらしいものではなかったが、李儒の目に、その微笑はいつもと少し異なるように見えた。いつもの空ろなそれではなく、まるで本当に興がり、楽しみにしているように見えたのだ。
 その言葉が、李儒に向けられたものではないことも明白だった。





 思えば、李儒は于吉の目的が何なのかを知らない。
 権勢を振るうこと。富貴を得ること。己の名を上げること。乱世にあって、何一つ望まぬ者など居はしない筈。だが、于吉はそういったものに、全くといってよいほど興味を示さない。その策謀は、李儒をして戦慄させるほどの冴えを見せながら、その目的が、これまで李儒には見ることが出来なかったのである。
 だが、今ようやく、李儒はその端緒を掴んだように思えた。
 于吉は言ったのだ。曹操が徐州に攻め込む、と。
 徐州牧は陶謙である。ゆえに、人名を出すとき、真っ先に挙げるのは陶謙であるのが自然であろう。
 しかし、于吉が名を挙げたのは劉備。陶謙に招かれ、小沛城の統治を委ねられた、あの幸運な小娘の名であった。
 あるいは、于吉は劉備と何かの因縁があるのかも知れぬ。李儒はそう考えたのである。
 実のところ、自身も多少の因縁を持ってはいるのだが、この時、李儒はそのことに気づいていなかった。




 于吉が、再び口を開いた。
「すでに、手は打ってあります。曹操のことは案ずるには及びません。文優殿は心置きなく、南陽の統治に専念してください」
「はッ」
 于吉の言葉に、李儒は雑念を振り払った。


 あの賈駆ですら扱いかねていた呂布を、于吉は幾重もの鎖で縛り付け、掌中に置いた。
 陳宮の自責の念を正確に衝き、雪辱の機会を与え、袁術の下に赴くように呂布に請願させた。陳宮を家族と考える呂布が、その請いをはねつける筈もない。
 呂布にとってもう一人の家族であり、今の呂布一行の中で、ただ一人、呂布に再考を促すことが出来る高順には、陳宮が思いつめた原因が己にあることを指摘し、その口を噤ませた。
 武力で押さえつけるでもなく。
 金品を与えるでもなく。
 ただ、わずかの会話だけで、あの飛将軍を籠の中に押し込めてしまったのである。


 その手際は、李儒の目から見ても、空恐ろしいものであった。
 その于吉が、すでに手は打ってある、と言ったのである。李儒に出来るのは、かしこまって頭を下げることだけであった。




◆◆




 同時刻。徐州瑯耶郡。


 曹操の父・曹嵩と、その母・曹凛は、曹操が宮廷に仕えるようになった後、故郷の陳留に隠棲していたのだが、中原での戦火を避けるため、さらに遠方の瑯耶郡まで避難していた。
 許昌に皇帝を迎え、勢力の地盤を整えた曹操は、幾たびも母に向けて、許昌へ移り住むようにと願ったのだが、曹凛はともかく、曹嵩の方が娘の頼みに肯わなかったのである。それどころか、曹嵩は許昌どころか、さらに陳留から東へ離れた瑯耶郡に居を移してしまった。
 兌州の乱が起きたことで、陳留を離れた曹嵩の判断が誤りでないことは明らかとなったが、実のところ、曹嵩は陳留の不穏な気配に気づいていたわけではない。娘への、半ば当てつけじみた行動が、たまたま良い方向に転んだだけの話だった。


 このことからも明らかなように、曹嵩は、我が子である曹操に対し、愛情らしい愛情を持っていなかった。その理由は、曹嵩と、曹嵩の父であり、曹操の祖父である曹騰との関係までさかのぼる。
 宦官とは、後宮内における諸事を処理する去勢した者たちのことを指す。その権限は、本来、後宮内に限られるものであったが、漢王朝、とくに光武帝以降の後漢の王朝にあって、その勢力は後宮内にとどまらず、宮廷にも伸張するまでに至っていた。
 曹騰は、その宦官の中でも大身の人物で、宮廷で大きな権限を振るっていた。宦官は去勢しているため、子供はいないのだが、権力や財貨を得れば、それを後代に遺したいと考えるのが人の情である。そんな宦官の願いをかなえるため、ある程度以上の高位の宦官は、皇帝の許可を得られれば、養子を迎えることが許される制度がある。
 そして、その制度を用い、曹騰が養子に迎えたのが、曹嵩だったのである。


 大身の曹騰が、念入りに選んだだけあって、曹嵩は優れた人物であり、曹騰へも常に敬意と忠節を示した。
 ただ、養子とはいえ、曹騰の機嫌を損なえば、すぐにその座は別の者にとってかわられてしまう不安定なもので、曹嵩は義父の歓心をかうことに必死に務めなければならなかった。
 孝心の篤い曹嵩に、曹騰は満足した。孫にあたる曹操が生まれたときは、老いた頬をほころばせて喜んだ。男児でなかったことに、いくらか失望はあったものの、遠からず願いはかなえられるだろう。そう考えていたのである。
 残念ながら、曹騰は男児を見ることなく亡くなるのだが、曹騰が生きている間、曹家には波風一つたたなかったといってよい。


 だが、それは曹嵩にとって、豊かではあっても、破滅と背中あわせの心労の絶えない日々でもあったようだ。
 曹騰亡き後、曹嵩は、娘である曹操への態度を翻した。それまでは、何かにつけて甘やかし、その賢さを褒め称えていたのだが、まるで人が変わったように、曹操に無関心になってしまった。
 まだ幼かった曹操にとっては、突然の父の変心である。困惑し、悲しみ、なんとか父に褒めてもらおうと、これまで以上に勉学に励み、武芸に打ち込むようになったが、父の態度が昔の優しいものに戻ることはなかった。
 父の愛情は、ようやく側妾によって得た男児の曹徳に注がれ、曹操は一顧だにされなかったのである。


 妻である曹凛は、夫の内心の屈折を察してはいた。
 そのことに心を痛め、事あるごとに、父娘の間に生じてしまった捩れを解きほぐそうと努めたのだが、すでにそれは取り返しのつかないものになってしまっていたらしい。
 何故、義父が生きていた頃に、夫の苦悶に気づかなかったのか、と曹凛は己の不明を嘆くしかなかった。



 かくて、曹家の上に時は流れ――
 やがて、長じるに従って、曹操自身も父の内面を察することが出来るようになっていた。
 それと悟ったとき、最初に曹操の心によぎった感情が何であったのか。それを知る者は曹操以外にいない。
 だが、自ら望んで曹家の養子となり、しかしその重圧に心を折られ、娘に八つ当たりする父に対して、愛情も敬意も抱けなかったことは疑いない。曹操にとって、男とはその程度のものだ、という認識が根ざしてしまったのも、あるいはこの時であったのかもしれない。


 いずれにせよ、父との表面だけの関係を、曹操は受け入れた。
 すでに父に愛されぬことを嘆く年齢ではない。周囲には、夏侯惇や夏侯淵といった友がおり、曹仁、曹洪といった妹たちがいた。父に愛されるよう空しい努力をすることより、彼女らと共に野を駆け、机を並べることの方が、よほど曹操を安らがせたのである。
 そして、そんな曹操を見て、ますます曹嵩の愛情は曹徳に注がれるようになり――やがて、曹操が宮廷に仕える日が訪れるのである。







「曹凛さま~、持っていく荷物って、これだけで良いんですかー?」
 『元気』という文字をそのまま声にしたような明るい声音に、曹凛の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「ええ、それだけですよ、季衣(許緒の真名)。ありがとう」
 ありがとう、と言われ、許緒の顔が嬉しそうにほころぶ。
「えへへー、どういたしまして、です。でも、曹凛さま、あの曹孟徳さまの母上なのに、こんな、つつ、つつ……えーと……何でしたっけ?」
「慎ましい、ですよ。季衣には、もっと宿題を増やさないといけないかしら?」
 教師の顔で曹凛が首をかしげると、たちまち許緒の顔に焦りの色が浮かぶ。
「……ううー、あ、あのッ! もっと山みたいに荷物があるのかと思ってたんですけど」
 わたわたと両手を振ってごまかそうとする許緒を見て、くすりと曹凛は微笑んだ。
 はじめて、曹凛が許緒に会った時は、埃まみれの身体と、幼い顔に不似合いな、暗く、辛そうな表情を浮かべていたのだが、すでにその面影は微塵も感じられない。
 そのことに、安堵していたのである。





 陳留領内の外れ、他州との国境沿いに位置していた許緒の村が、野盗に襲われたのは、まだ曹凛たちが陳留にいた頃――反董卓連合軍が、洛陽に攻め入っていた時のことだった。
 幼いながらに並外れた力を持つ許緒は、賊の包囲を破り、陳留城までたどりつくと、村を救ってくれるように兵隊たちに訴えでた。
 これが平時であれば、張莫、あるいは張超の下に訴えが届いたであろうし、姉妹のどちらが聞いたにせよ、捨て置くことはなかったであろう。
 だが、この時、張莫は連合軍に参加し、張超は補給線を確保するために出陣している最中だった。
 残っているのは、治安を維持するための兵士のみ。即断することも出来ず、早急に張超に使者をはしらせることしか出来なかったのである。


 だが、今まさに襲われている村を救うには、その行動は悠長に過ぎた。
 使者が張超の下にたどり着き、張超がすぐさま軍を返したとしても、優に一週間は経過しているだろう。許緒の村が持ちこたえられる筈がなかった。
 そう訴える許緒であるが、それ以上の決断を下すことを、この時、城に残っていた将兵はためらった。臆病ゆえではない。これが陳留を狙ういずこかの敵の策略だという可能性も考えられたのだ。村を救うために兵を出し、その隙に城を陥とされでもしたら、どうするというのか。


 許緒の言葉、兵士たちの言葉、そのいずれにも理があった。
 どれだけ必死に訴えられても、兵士たちは動くことが出来なかったのである。
 許緒の視界が、半ば絶望で覆われようとしていた、まさにその時。
「どうしたのですか、見れば幼子のようですが、そのように埃まみれになって」
「え?」
 傍らから声をかけてきたのは、ちょっと信じられないくらい綺麗な女性だった。
 許緒は、ぽかんと口を空けて、その貴婦人の姿に見入るしかなかったのである……   







 その後の曹凛の動きは、さすがはあの曹操を生み、育てた人である、としか言いようがなかった。
 夫の私兵を駆り出し、たちまち三〇人近い部隊をつくりあげると、呆気にとられる夫や、顔を真っ青にして反対する兵士たちを押し切って、許緒と共に村へ向かってしまったのである。
 この時、すでに張莫は、曹操の麾下にいる。主君の母を見殺しにしたとあっては、後でどのような処罰が下されるか、想像するだに恐ろしい。
 慌てに慌てた陳留の留守部隊は、張超へ事の次第を告げる使者を発し、大至急の帰還を請うや、準備の出来た兵たちから随時、出陣させていったのである。


 かくて、許緒の村を襲った賊徒は、血相をかえた陳留勢の猛攻を受け、わずか半刻で壊滅する羽目になる……



 

 この一件以後、許緒は曹凛に私淑し、曹凛も許緒の人柄を気に入って、手元に置くようになったのである。
 曹凛は、いずれ、許緒がきちんと勉学を身につけた時、許緒が望むなら曹操に推挙しようと考えていた。曹操をはじめ、夏侯姉妹や、曹仁、曹洪の子供時代を知る曹凛は、許緒の姿に、幼いときの彼らの姿が重なって見えた。つまりは、それだけの資質を、許緒は秘めていると見抜いたのである。


 そんなことを考えていた曹凛の耳に、ややためらいがちな許緒の言葉が飛び込んできた。
「……あの、曹嵩さまや、曹徳さまも、許昌までご一緒するんですよね? でも、お二人とも、なんだかすごく機嫌が悪いように見えるんですけど」
「――そう、やっぱり、季衣の目にもそう映ってしまうわよね」
 許緒に心配をかけないように、胸中でため息を吐く曹凛であった。


 風雲急を告げる中華帝国の情勢を鑑み、これ以上、父と母を徐州に置いておくことは出来ないと考えた曹操は、此度、これまでにない強い調子で、許昌への移住を請うてきた。いや、請うというより、それはもう命令に近い。
 使者と共にあらわれた、数十人の屈強な男たち。彼らは服装こそ、そこいらの農民たちと似ていたが、実際は曹操の命令を受けた手錬の兵であることは明白であった。そして、それが父の拒絶を許さない曹操の意思表示であることも明らかだった。否といえば、力ずくで、というわけである。


 かつては、聡明をうたわれた曹嵩である。娘の意図に気づかない筈はない。無理やり連れ出されるという不名誉を免れるためには、みずからの意思で首を縦に振るしかなかったのである。
 だが、当然といえば当然ながら、その心中は穏やかならざるものがあった。そして、父に溺愛された曹徳や、その曹徳の母たちもまた同じ心境であったのだ。


「親への孝は、儒の根本。これまでのような一介の廷臣ならばともかく、朝廷で大身となった華琳は、いつまでも二親を放っておくわけにはいかない。それは仕方のないことなのだけど……」
 もちろん、それだけではないだろう。自らに敵対する者たちが、曹凛たちの存在を知れば、どう動くかわからない。そういった心配もしているに違いない。あの娘は、決して、それを態度にはあらわさないだろうけれど。
 だが同時に、娘に物事を強いられることに、不快をおぼえる夫の心情もまた、無理からぬこと、と曹凛は思う。


 許緒は腕組みしながら、首を傾げた。
「うーん、難しいんですねー。ボクなら、家族と一緒に暮らせるなら、その方がずっと良いのにって思うだけですけど」
 その素朴な言葉に、曹凛は深く頷いてみせる。
「そうねえ、みんなが、季衣みたいに素直になってくれれば、世の中に争いなんて、ほとんどなくなってくれるでしょうにね」
 そう言った後、曹凛は気がかりそうに口を開く。
「季衣。もし望むなら、村に帰ってくれても良いのよ? あなたには、とてもお世話になっているし、お別れするのはつらいけれど、私はあなたを縛り付けるつもりはありませんから」
「へッ?! あ、いえ、そういう意味で言ったわけじゃないですよッ! ボ、ボクは曹凛さまにお仕えできて、とっっっても嬉しいんですからッ!! い、今のは、その、物のたとえ、というやつです」
 ぽかんとした後、慌てて首と両手を左右に振る許緒の姿に、曹凛は暖かい眼差しを向けた。


 それは、曹凛一行が、許昌へと出立する、前夜の光景であった。


   



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/28 16:56


 豫州牧・袁術、寿春にて漢朝に叛旗を翻す。
 袁術、洛陽の大乱において失われし伝国の玉璽をもって、漢に代わるは我ならんと唱え、すでにして皇帝に即位、国号を仲とし、都を寿春に定め、三公を任じ、その勢い、沖天に達するなり。
 

 その報は、瞬く間に中華の各地を席捲した。
 玉璽の所在が明らかになったこと、そして袁術配下の孫家の軍が粛清されたこととあいまって、それを聞く者たちは、庶民と士大夫とを問わず、一様に驚愕の表情を浮かべることになる。
 当然、それは小沛城においても例外ではなかった。
 ましてや、徐州は袁術と境を接している。袁術の動きに無関心でいることは出来なかったのである。



 
「太尉に張勲、司空に袁渙、司徒に閻象、ですか。張勲さんはともかく、袁渙さんと閻象さんは、これまでほとんど表舞台に出てこなかった人たちですね」
「地位も役職も、中くらいだったみたいです。それを一躍、三公に任じるということは、それだけ人材が限られているということなのでしょうか?」
 諸葛亮の言葉に、鳳統が首を傾げつつ、自分の意見を言い添える。やや自信が無い様子なのは、突然に帝号を僭称した袁術の意図が、読みきれていないためだろうか。
 もっとも、この場に集まった劉家軍に所属する者たちの中で、袁渙と閻象という名を知っている者は、二人の軍師以外いなかった為、誰も同意も否定も出来なかったりするのだが。
 そして、実のところ、それよりも注意を惹く名前があり、ほとんどの人の注意はそちらに向けられていたのである。
 その人物とは――


「まさか、あの飛将軍が袁術の下にいようとはな……」
 関羽の言葉に、幾人かが同意するように深く頷いた。
 孫堅を討ち取った功績をもって、呂布は新帝の下で虎賁校尉、すなわち近衛軍の長の座に就いたのである。
 虎牢関の攻防で、呂布と直接に矛を交えた関羽と張飛の二人は、身をもって呂布の武勇を知っている。その顔は、自然、厳しく引き締まっていた。


 そして、もう一人。
「――ッ! なんだって、李儒の奴が、袁術のところにいるのよッ!」
 いらだたしげにはき捨てる賈駆。その視線は、報告書の一節、新たに南陽の太守に任じられた人物の名前から離れない。その声には、隠しようのない嫌悪感が感じられた。まるで、調理場でときおり見かける、黒光りする害虫を見た時のような表情であったかもしれない。
 董卓は、そこまであからさまな表情は見せなかったが、それでも普段は穏やかな表情が、今は張り詰めているように見えた。



 それらのざわめきが落ち着くのを待って、諸葛亮が再び口を開いた。
「この袁術さんの行動で、諸侯は必ず動きます。それは陶州牧も例外ではないでしょう。近日中に、彭城から呼び出しの使者が来ると思いますので、玄徳様は準備をなさっておいて下さいね」
「うん、わかった。じゃあ、愛紗ちゃんと孔明ちゃん、一緒に――」
「あ、ちょっと待っていただけますか」
 玄徳様が言いかけると、ここで鳳統が口を開いた。
 鳳統が、他者の発言を遮るような真似をするのは、かなり珍しい。
 玄徳様は、不思議そうに小首を傾げ、鳳統に問いかけた。
「あれ、どうしたの、士元ちゃん?」
「はい、今回の件、袁術さんの目的がはっきりとしませんが、あるいはいきなり国境を突破してくる可能性も考えられます」
 鳳統は、一言一言、確認するように言葉を紡ぐ。


 乱世とはいえ、民衆は正義を好むもの。大義名分も、宣戦布告もなしに国境を破れば、天下の衆望を損なうことは必定である。
 四方の蛮族ならばともかく、礼教の国である中華帝国の諸侯が、そのような行為に出れば、たとえ一時の勝利を得ようとも、長期的に見れば失うものの方が大きいことは明らかであった。
 もちろん、そういったことを気にしない諸侯も少なくない。しかし、ある程度以上の勢力を築いた者は、人望や栄誉といった無形の力を意識するもの。逆に言えば、そこに意識を向けられない人物は、天下を望むような勢力にはなりえないということでもある。
 まして、袁術は三公を輩出した名門袁家の直系であり、袁術本人もそのことに誇りを抱いていることは間違いない。事実、袁術も汝南、寿春を制した東方遠征の際は、袁家へ無礼を働いたという名分をこしらえた上で、相手方に降伏を促す使者をも派遣しているのだ。
 だが、皇帝即位という強硬手段を選択した袁術が、今なお天下の衆望に目を向けるだけの器量を持ちえているのか。鳳統はそこを危惧していた。


 鳳統の危惧に、賈駆が疑問を呈する。
「考えすぎじゃない? 仲の人事を見る限り、袁術が自暴自棄になったとは思えないけど。人材を抜擢し、律令を整え、新たな国をつくろうとする野心は見て取れるわ」
 その言葉に、鳳統はこくりと頷く。
「はい、対内的には、その通りです。ですが、外を見る袁術さんの視線が、いまだ定かではありません。文和(賈駆の字)さんの言葉どおり、自国の廷臣や民衆には笑貌を見せていますが、一方で敵とみなした孫堅さんを、騙し討ちに等しい手段で誅殺しています。おそらく、仲は今後、孫家の残存勢力を掃討していくでしょうけれど、もし、彼らが他の州に逃げ込んだ時にどのように動くか。引渡しを要求するか、あるいは――」
 力ずくで国境を突破してくるかもしれない。鳳統はそう言う。
 それだけではない。
「孫家の残党が逃げ込んだことを、大義名分として侵略してくる可能性もあると思うんです」
「ふん。いないってことを証明することは難しいからね」
 賈駆の言葉に、鳳統はそのとおり、というように首を縦に振った。


 諸葛亮が、腕組みしつつ口を開く。
「それに、もしかすると、本当に孫家の人たちが逃げてくる可能性もあるね。そういった事態が起きた時、玄徳様と関将軍のお二人が城を離れていると、即応できない可能性がある。雛里ちゃんが言いたいのはそういうこと?」
 劉家軍の将帥は、言うまでもなく玄徳様である。
 では、仮に玄徳様がいない時、誰が決断を下す役割を担うのか。担えるのか。
 衆目の一致するところ、それは関羽しかいなかった。鳳統の発言はそれゆえのものである。
「うん。出来れば、関将軍は小沛に残ってもらって、玄徳様の護衛は他の人にお願いできないかな、と思うんですけど、いかがでしょうか、お二方?」


 鳳統の言葉に、玄徳様はうんうんと何度も頷く。
「あ、なるほど、いわれて見れば、その通りだよね。じゃあ、今回は愛紗ちゃんはお留守番、だね」
「そういうわけには――と申しあげたいところですが、たしかに、士元たちの言うことはもっともですね。では、鈴々、彭城にはおぬしに行ってもらおう」
 関羽に声をかけられた張飛は、それまで退屈そうに椅子に座って手足をぶらぶらさせていたのだが、生き返ったように生き生きとした表情で、元気良く頷いた。
「おう、鈴々に任せておくのだッ! 突撃、粉砕、勝利なのだッ!」
「はわわ、ち、張将軍、粉砕しちゃ駄目です、お味方の城ですッ」
「細かいことは気にしないのが鈴々なのだッ!」
「あわわ、細かくないですよ~」
 軍師二人がかわるがわる諌めるが、ようやく活躍の場を得た劉家軍の虎将軍は、一向にこたえない様子であった。



 
「ふむ、やはり軍師殿といえど、虎を抑えるは至難か。まして彭城へ赴くのは孔明殿だけであるし、ここは我が隊から援軍を遣わすとしよう」
 張飛の様子を見て、趙雲がそんなことを口にする。
 それを聞き、おれは田豫と顔を見合わせた後、趙雲に向かって問いかけた。
「――将軍。援軍というと?」
「お主に決まっておろうが、一刀」
「だと思いました」
 あっさりとした趙雲の言葉に、おれは小さく肩をすくめる。
 今の小沛城の騎馬部隊は一千騎。歩兵に比べれば微々たる数であり、出動態勢を整える手間も格段に少ない。というより、機動力に優れた騎馬隊は、賊徒の退治や、国境付近の偵察等で基本的に常時出動態勢をとっているから、今更準備する必要もないくらいなのだ。
 つまるところ、これから目の回るような忙しさに見舞われることになる他の人々よりも、おれは暇なのである。


 おれと趙雲のやりとりを聞いた諸葛亮が、ぱあっと表情を明るくさせた。
「はうぅ、よろしくお願いします、一刀さん」
「こちらこそ。玄徳様も、よろしいでしょうか?」
 おれの問いには、少なからずためらいがあった。何故といって、張角の爆弾発言、まだ尾を引きまくっているからである。
 とはいえ、さすがにこんな事態になってまで引きずるつもりは、玄徳様にはないらしい。以前のように翳りのない笑みを見せて、頷いてくれた。
「うん、よろしくね、一刀さん」
 その笑みを見て、ほっと安堵の息を吐くおれに向けて、張飛が元気良く口を開く。
「鈴々がいるかぎり、誰もお姉ちゃんたちに手出しはさせないから、安心するのだッ!」
「おお、期待してますぞ、張将軍。報酬は肉まん食べ放題でよろしいか?」
「……に、任務に報酬は要らないのだッ――けど、お兄ちゃんがどうしてもというなら、拒みはしないのだッ!」
「承知しました――店の親父さんに、彭城から戻るまでに、材料たくさん仕入れておくように言っておかないとなあ」
 おれの聞こえよがしの独り言に、張飛が涎をたらさんばかりの表情でわきわきと両手を動かす。
 虎と渾名される武将とは思えない愛らしい仕草に、周囲から暖かな笑いが沸き起こった。



◆◆



 明けて翌日。
 諸葛亮の予測どおり、彭城からの使者が小沛に到着した。
 その内容はもちろん袁術の帝号僭称に関わることであり、玄徳様の意見を聞きたいので、急ぎ彭城まで来てほしい、というものだった。
 小沛から彭城までは、さほどの距離はない。陶謙の善政によって、徐州の主要な街道は良く整備されており、道の両脇には木々が植えられている。この季節であれば、歩いていけば遠足気分を味わうことも出来るだろう。
 もっとも、時が時、場合が場合なだけに、そんなのんびりしている暇がある筈もなく。
 玄徳様、張飛、諸葛亮の三将と、おれを含めた騎兵三〇騎を以って、彭城まで駆け抜けることになっていた。
「お兄ちゃん、大丈夫なのか?」
 張飛が心配そうなのは、おれの馬術の腕に関してだろう。
 張飛は将軍として部隊の指揮、統率、訓練等で多忙を極め、おれはおれで、騎馬隊に配属されてから、これまでの雑用に加え、軍馬の調達等の任務でてんてこ舞いであった。そのため、一緒に訓練する機会がほとんどなく、おれの馬術の腕がどれだけ上がったのかを、張飛は知らないのである。


「ふ、見て驚きなさるなよ、張将軍」
 おれは不敵な笑みを浮かべ、颯爽と馬上に身を移――すことは出来ないが、とりあえず危なげなく鞍の上に身体を置くことは出来た。
 軽く手綱を引くと、心得た馬がゆっくりと歩き始める。
 そこまでの手際を見て、張飛が「おー」と驚いているのが聞こえてきた。張飛のみならず、玄徳様や諸葛亮まで感心した様子で、ぱちぱちと手を叩いてくれている。
 それを見て、おれは調子に乗った。
「まだ小手調べですッ。はいァッ!」
 そう言うや、馬を煽って一気に足を速めた。
 歩いている時とは比べものにならない揺れに見舞われたが、おれはしっかりと両股に力を込めて、馬上での体勢を安定させた。玄徳様たちの驚きが「おー」から「おおッ」に変わった。ふ、どんなもんだい。
 以前のおれならば、こんな乗り方をすれば、たちまち地面に転げ落ちたに違いない。しかし、夏から秋にかけて、ひたすら乗馬の訓練に勤しみ、全身に傷を負った成果がこれである。もちろん、おれの努力を正しく技術の向上に向けてくれた師の存在も大きかった。田豫先生、ありがとう。


 まあ、上達したといっても、馬上、武器を振るったり、騎射を行ったりするレベルにはほど遠い。しっかりと手綱を握っていなければ、あっさり身体を振り落とされてしまうだろう。
 ついでに白状すれば、今、おれが乗っているのは田豫が選んでくれた、気性の穏やかな馬であり、この馬以外だと、こうも上手く乗りこなすことは出来なかったりする。
 ちなみに、名前は月毛。「そのまんまですね」と田豫に呆れられた。というのも、月毛とは、馬体がクリーム色をした馬を指す言葉だからである。
 言い訳すると、いろいろと考えはしたのだ。小雲雀とか、松風とか、超光とか。
 ……馬はともかく、乗る人が名前負けするのでやめました。
 それはさておき、月毛に乗る限り、少なくとも移動時に足手まといになることはない。
 張飛の心配を一蹴したおれは、それが過信ではないことを、彭城までの道のりで玄徳様たちに証明してみせたのであった。



◆◆



 夕陽が地平線に没する少し前に彭城に到着した玄徳様と張飛、諸葛亮は、ただちに陶謙と重臣たちの待つ部屋へと案内された。
 おれが残ったのは、人心に配慮したからである。玄徳様が望めば、陶謙がそれを拒むはことはなかっただろうし、玄徳様はそのつもりだったようだが、今のおれは、良くいって下級官吏が良いところである。
 そんな身分の低い人間を、徐州の行く末を決めるような会議に同席させれば、心無い連中は「劉備めが、州牧の厚遇につけこみおって」などと陰口を叩くことは間違いないと考えたのだ。主に馬鹿兄弟とかが。


 どのみち、会議の内容は後で教えてもらえるだろう。
 実のところ、おれは会議よりも、彭城の様子を調べておきたいと考えていた。
 玄徳様の人気や、今回の事態の民衆の反応、さらには例の兄弟の動向など、知りたいことはたくさんある。
 劉家軍の軍師たちの情報収集に粗漏があるとは思わないが、自分の目で見て、耳で聞けば、また違ったことが見えてくるかもしれない。ことに、兄弟の動向は、注意して、注意しすぎるということはないだろう。
 彭城の街中を歩きながら、おれは周囲を歩く人々の会話に耳をそばだてた。
  
  


 やはりと言うべきか、街の人々の噂話のほとんどは、仲建国についてのものだった。
 もともと、袁術が東方に勢力を伸ばしたことにより、陶謙と袁術は境を接するようになっていた。
 豊かな准南、広陵の地を巡って、両者の間には、つねに火種が燻っているような状態だったのである。今回の出来事が、徐州全土を巻き込む大戦に発展するのではないか、との不安が、人々の会話や、表情のそこかしこに感じ取れたような気がした。


 酒場に足を運んだおれのすぐ近くで、赤ら顔の男の二人組みが、興奮した様子で何やら互いに論難しあっている。
「なあに、新たに小沛の城主になった劉玄徳様は、女性ながら、董卓軍や黄巾賊との戦いで、数々の手柄をたてた勇武の将軍だと聞く。偽帝の軍隊ぐらい、簡単に打ち破ってくださるさ」
「そう上手くいくものか。袁術の兵力は、一〇万を越えるんだぞ。小沛の兵力は半分以下だ。個人的な武勇なんて、この数の差の前じゃあ意味なんぞないさ」
「ふん、州牧様はお前なんかより、はるかに物事が良く見えておられるさ。周辺の領主たちが、偽帝の即位なんか認めるわけない。いーや、袁術軍の中だって、どんなもんか知れたもんじゃない。そういった連中を上手くつかえば、偽帝の軍なんて、数がどれだけ多くても、絵に描いた餅みたいなもんさ。玄徳様があっさり破ってくださるだろうよッ」
「はん、当然向こうだって、そのくらい考えているだろ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。偽帝偽帝と騒ぐだけで、敵が勝手に弱体化するなんて思ってるお前の方が、よっぽど物事に暗いんじゃないか?」
「ええい、言わせておけば。女房に逃げられたお前に、物事に暗いと言われる筋合いはないッ!」
「なにをッ。まだお若い劉備殿に、全部まかせておけばいい、なんて男の風上にもおけん。そんな甲斐性なしだから、お前はそもそも嫁さんさえもらえないんだろうがッ」
 なんだか、妙に白熱してきた口論は、たちまち互いに手も足も出る、掴みあいの喧嘩に発展してしまった。周囲からは、けしかけたり、揶揄する声があがり、酒場の中はたちまち騒然としていく。

 
 おれはそれに巻き込まれないように席を移すと、苦笑しながら、水の入った杯を傾けた。
 酒場に来て、水を頼むのも無粋だと思うが、さすがに小沛から駆け通し、すぐに会議の場に赴いた玄徳様たちを他所に、一人で酔うわけにもいかない。
 そんなことを考えていたおれの視界を、一人の男性が横切っていく。
 おそらく、その男性も、おれと同じような考えで、騒ぎを避けて、店の隅までやってきたのだろう。
 

 男性と言ったが、よくみれば随分若い。おれと同じくらいだろうか。
 男から見ても綺麗な顔立ちをしており、街を歩けば女の子たちが黄色い歓声をあげそうな気がするが、それはあくまで容姿だけを見ればの話。その若者の端整な顔に浮かぶのは、すべてを見下す倣岸な表情である。それを見れば、歓声をあげかけた女の子の口も閉ざされてしまうだろうと思われた。


 その表情や、額に刻まれた奇妙な刻印を見るに、どうみても農民には思えない。一体、何者なのだろうとおれが考えていると、不意に、その人物の視線がまっすぐにおれに向けられた。
 知らず、じろじろと相手の顔を観察していたことに気づき、おれは慌てて頭を下げるが、相手は、答える必要さえない、とでも言うように薄笑いを浮かべた後、視線をそらせた。
 その態度と、無視されたことに、一瞬、腹立ちを覚えたが、最初に無礼を働いたのはこちらであるから、文句を言う資格は、おれにはない。
 おれは、憤りを振り払うように、首を振ると、目の前の皿に集中することにした。
 どうせこの場だけの出会いに違いない、いけ好かない男のことなぞ、考えるだけ時間の無駄だろうからである。


 
◆◆



 袁術の皇帝即位によって、彭城内は日に日に緊張が高まりつつある。
 その一方で、陶商、陶応兄弟の周りは静かなものであった。常は兄弟の周囲に侍っている者たちも、徐州全土を巻き込む大戦が起こるかも知れないとあって、それぞれの勢力を保持するために、各自で動いている為である。


 許昌の漢帝が、袁術の即位を認める筈はなく、それはすなわち、曹操と袁術がぶつかることを意味する。
 両雄と境を接する徐州は、否応無く、この戦いに巻き込まれることになるだろう。
 そして、曹、袁のどちらかにつかねばならないとしたら、陶謙は、まず間違いなく曹操側につくことを選択する。漢の廷臣としては、それが当然であるし、陶謙は元々、隆盛著しい曹操と誼を通じる機会を窺っていたので、その意味で、今回のことは奇貨とも言える。
 だが、陶謙が曹操につけば、当然、袁術とは敵対関係になる。准南、広陵の支配権を望む袁術は、間違いなく兵を出して来るだろう。
 偽帝とはいえ、袁術の兵力は強大である。あるいは、彭城の城壁に、袁家の兵を迎え撃つ日が来ないとも限らないのである。


 そういった状況にあって、兄弟のご機嫌とりに時間を割こうとする者が皆無であったのは当然といえば当然であった。
 そして、その当然のことが理解できる程度には聡いゆえに、兄弟の怒りと憤りはより根深いものとなる。
 そもそも、自州の危機であるというのに、嗣子である陶商が会議に呼ばれないということ自体、兄弟にとっては噴飯ものなのである。
 その一方で、陶謙は、劉備を小沛から呼び寄せ、その到着まで会議を始めようとしなかった。
 陶謙が、嗣子と、一介の客将のどちらを重んじているかは、あまりにも明白であった。



 陶商の私室。
「此度の戦、おそらく、父上は、劉備めに徐州全軍の采配を預けるつもりだろう」
 陶商はそう言いながら、部屋の窓から、彭城の城下を見下ろす。窓に映ったその顔は、あきらかに不機嫌そうであった。
 その言葉を聴いた陶応は、兄よりもさらに内心の不快をあらわにしている。
「余所者、しかも女に軍を率いさせるとは、父上も耄碌されたものですね。兄上、このままでは、徐州を劉備めに奪われてしまうやもしれませんよ」
 弟の言葉に、しかし陶商は首を横に振る。とはいえ、弟が口にした内容自体を否定するわけではなかった。
「そこまで短絡的に動いてくれれば、かえってやりやすいくらいだろう。だが、あの女、なかなかにしたたかな奴のようだ。直接的な手段には出ず、まずは父上や民衆の信望を得ることからはじめるつもりだろう。現に、小沛での奴の施政、貧民どもに大層な評判であると聞く。おおかた、自らの手で噂を広めたのであろうが、そうやって貧民どもの人気を取り、父上に取り入り、やがて合法的に徐州を奪おうとしているのではないか」
 兄の言葉に、陶応は不機嫌そうに舌打ちする。
「たしかに、兄上の仰るとおりやもしれません。父上は下民どもに甘いですからな。奴らに迎合する劉備のような輩を、身辺に招いてしまうくらいに」
「そうだ。だからこそ、徐州の地に根を下ろしてしまう前に、小沛の毒草を刈り取ってしまわねばならぬ。徐州全土に、毒草の種が蒔かれてしまう前にな」
 陶商はそう言うと、弟と視線をあわせた。
 兄弟は、互いの瞳に、昏い感情を認めた。それは、焦りという名の感情であった。


 劉備を排除するという目的は動かぬものであったが、具体的な行動をとることが、陶家の兄弟には出来なかった。
 何故なら、陶商、陶応には固有の武力がなかったからである。二人が独断で動かせる兵は、精々一〇〇名程度しかおらず、その程度の兵力で何が成せるというのだろうか。
 陶家の兵力を用いれば、少なくとも、その二〇倍近い兵士が動かせるのだが、家の全権は、いまだ陶謙が握って離さない。それゆえ、兄弟たちの頼みの綱は、側近の力しかなかった。
 しかし、今はその側近たちも勢力維持のために奔走しており、兄弟の下に伺候しようとしない。時折、姿を見せる者もいることはいたが、兄弟たちが核心を口にしようとする素振りを見せると、すぐに慌しく辞去の言葉を口にし、そそくさと部屋から出て行ってしまうのである。
 その様は、沈みゆく寸前の河船から鼠が逃げ出すにも似たものであったかもしれない。



 だが、そんな状況であるからこそ、幸運を掴みえた者もいた。
 この日、兄弟の下に二人の客が訪れた。
 訪問客の名は、一人は陳蘭、もう一人を雷薄といった。いずれも風采のあがらぬ容姿で、一見したところ、どこの盗賊かと見まがうほどであった。
 だが、外見とは裏腹に、陶商たちの下に跪く二人の言動は堂に入ったものだった。それも当然といえば当然で、実はこの二人、つい先ごろまで袁術の麾下にいた、れっきとした武将だったのである。

 
 陳蘭と雷薄は、かつては袁術の下でそこそこの武功をあげ、一隊の指揮を任されていた。
 だが、その功を誇る言動が袁術の癇に障り、その意を受けた張勲によって、体よく追放されてしまったのである。
 その後、彼らは、荒くれ者を率いて、徐州と揚州、豫州の州境沿いを転々としながら、しばしば略奪暴行を働き、民衆を苦しめた。
 土地の領主たちも、対処をしようとはしたのだが、彼らの本拠地が転々としているため、一網打尽にする機がなかなか訪れなかった。くわえて、下手に州境で大兵力を動かせば、他勢力の疑惑を招くかもしれぬという危惧もあった。


 武将としての経験を持つ陳蘭たちは、そのあたりのことを読んでおり、その狡猾さが今日まで彼らを生き長らえさせて来たのである。
 だが、と陳蘭たちは考えた。
 昨今の情勢を鑑みるに、このままではいずれ自分たちは賊徒として討伐されてしまうだろう。それは火を見るより明らかなこと。であれば、そろそろ新たな主を探すべきであろう、と二人は相談をもった。
 とはいえ、そこらの小領主の下に降っても、うだつがあがらぬのは目に見えている。仕えるならば、大身の者、それも出来れば天下を望める者がよい。この世の富貴と栄華を味わうためにも、その方が良いに決まっていた。
 袁術の下に戻ることは出来ぬ。であれば、この近くで条件にあてはまる勢力は、ただ一つ。徐州の陶謙しかいなかった。


 だが、陶謙が賊徒あがりの自分たちを重用するとは思えず、悪くすれば首を斬られて、袁術の下に送られる恐れさえった。何か上手い手はないものだろうか。
 そんなことを考えていたある日のこと。彼らは一つの噂を耳にする。
 それは山砦を訪れた商人の一人が口にした言葉であった。
 現在、日の出の勢いで勢力を広める曹操。その曹操の家族が、徐州の地を引き払い、許昌へ移住しようとしている、というそれは噂であった。


 曹家は先代曹嵩の時、一億銭を出して太尉の位を買い取ったというほどの大家である。その子の曹操は、今や漢帝を擁し、その勢いはとどまるところを知らない。
 その家族の移住となれば、さぞ大金を抱え込んでいることだろう、と陳蘭たちはまず最初に考えた。
 もっとも、すぐさま襲撃を実行に移そうとするほど、二人は浅薄ではない。仮に襲撃が成功し、巨万の富を得られたとしても、代償として、あの曹孟徳の激怒をかうことは必至だったからである。
 父母の仇とは供に天を戴かず、というのは、中華帝国において当然の思想であった。曹操は、父母を死にいたらしめた者たちを、草の根わけても捜しだし、八つ裂きにしようとするだろう。
 それと知らない二人ではなかったが。
「――だが、ただで見過ごすのは惜しい獲物だな」
「ああ、曹家の先代ともあれば、良い女たちを囲っているにちげえねえしな」
 陳蘭と雷薄は、互いの顔に、自分と似た歪んだ笑みを見出し、さらにその笑みを深めた。


 曹操の怒りは恐ろしい。しかし、ならばその怒りを分散すれば良い。
 曹操に敵対する陣営に従って、曹家の一行を襲撃する形をとれば、それも可能であろう。
 だが、徐州を治める陶謙は、温和で君子な為人で知られており、さらには興隆著しい曹操との友好を望んでいるとも聞き及ぶ。陶謙にこの謀略を持ち込んでも、一喝されるか、あるいはその場で首をはねられるかであろう。


 陶謙は駄目だ――では、その陶謙の下ならばどうだろうか。


 陳蘭と雷薄がそう思考を進めたとき、悲劇は音をたてて動き始めた。





 陶商と陶応の部屋から出てきた陳蘭と雷薄は、互いに顔を見合わせ、満足の表情を形作った。すべては、二人の思惑通りに運んだのである。
 彼らは、すぐさま手勢を率いて北へと向かう。その目的は言うまでもないことだった。



 その彼らに続いて、彭城の城門から、四方の街道に向けて、物々しい格好をした者たちが次々に旅立っていった。
 彼らは城門からある程度はなれると、一斉に北への進路を取った。
 そして、とある地点で集結すると、先発の陳蘭たちの部隊を追うように、さらに北へと向かう。その先頭には、陶家の次子、陶応の姿があった。
 陳蘭と雷薄だけでは心もとないと考えた陶商は、数少ない手勢をかき集め、それを弟に託したのである。
 これは陶家とは関わりを持たない、文字通り、兄弟の子飼の兵士たちである。彼らに統一性のない装備をさせたのも、陶商の指示による。同時に、陶商は彼らの幾人かに、とある部隊との関わりを示唆する品物を持たせた。
 許昌へ向かう一行が、じきに通りかかろうとしている沛郡。そこを治める劉家軍との繋がりをしめす、それは品物であった。


「沛郡を通過中に襲われ、曹家の一族は全滅する。その場から劉家軍の関与を示す物が出てくれば、首謀者は万人の目に明らかとなる。邪魔者を、曹操の手で排除し、さらに実行者を我らの手で捕斬すれば、曹操のおぼえもめでたくなろうというもの。皇帝陛下から官位を授かることも出来ようし、さすれば、兄上が徐州を継ぐに異論など出まい。この身も、どこぞの太守くらいにはなれるかもしれんな」
 陶応は他者に聞かれぬよう、心中でそうつぶやくと、喜色を表情にあらわさないように注意しなければならなかった。


 まさか、このような好機が訪れようとは、と彭城でほくそえみながら、天の配剤に感謝する陶商と、部隊を率いる陶応の二人は、ついに気づくことが出来なかった。
 自分たちの考えが、他者の誘導を受けたものであるということに。
 それゆえに、この後に起こる騒乱において、その人物の名が出ることは、ついになかったのである。





 遠く寿春の地より、ただ一つの噂を広めただけで、悲劇の種を蒔いた人物は、後の南陽太守に笑いながら告げた。
「謀略のために、その人の何もかもを思い通りに動かす必要はありません。ただ、自分の望む方向に、背を押すだけでも事足りるのですよ。その本人にさえ、そうと意識させないでそれを為せれば、完璧と言っても差し支えないでしょうね」


 ――その言葉を借りるなら、この時まで、事態は完璧に進んでいたと言ってよい。
 陶商たちの動きは闇の中で行われ、陶謙をはじめとした徐州の廷臣たちは、誰一人としてきづいていなかった。そして、それは彭城を訪れた劉備たちや、あるいは小沛で軍備を整えている関羽たちもまた同様であった。
 劉家軍に伏竜、鳳雛あろうとも、神ならぬ身に、人界で起こるすべての策略を見通せというのは、無理な話である。
 諸葛亮、鳳統ともに、今回の事態に関して、起こりえる状況を想定し、それに対応する策を定めてはいた。しかし、それはあくまでまっとうな戦略や戦術に則ったもの。武器を持たない女子供を贄として、乱世に名をなそうなどという、下種な策をほどこす者まで想定してはいなかったのである。







 だが、しかし。
 完璧である筈の計画に、瑕をつけようとする者がいた。






◆◆


「――え?」
 おれは、耳に飛び込んできた情報を聞き、思わず声をあげていた。
 それは、聞き流すには、あまりに重大なものであったからだ。余人は知らず、おれにとっては。
 慌てて、声が聞こえてきた方向を見やるが、すでにそれを口にした者は席を立ち、出口へと向かうところだった。
 さきほどの騒ぎが、まだ完全に収まっていない店内は、かなり混み合っているのだが、その人物は、まるで測ったように精確に歩を進め、誰ともぶつかることなく、出口から出て行ってしまう。

 
 おれは席に代金を置くと、慌ててその後を追った。
 途中、何度も人にぶつかり、怒声を浴びせられたが、謝罪の言葉を投げると、後の反応を見る暇もなく走り去る。
 店から出たおれは、彭城の街路に、あの若者の姿を探した。服装はともかく、あの容姿だけでも十分に目立つ人物の筈だが、一行に見つからない。
 おれは右に左に視線を向け、街路を大股で闊歩しながら、さきほどの言葉を脳裏で反芻した。
 あの若者は、店主が向けた何気ない話題に、こうこたえたのだ。


『曹操も、徐州にいる家族を許昌に呼び寄せたと聞く。いよいよ動くつもりなのだろうさ』と。


 店主の質問は、この際、どうでも良い。問題は、若者の返答であった。
 徐州にいる曹操の家族と聞けば、思い当たる事件は一つしかない。
 ――かの徐州の大虐殺、その呼び水となった襲撃事件。
 徐州領内において、一族を殺された曹操は怒り狂い、大軍を催して徐州に侵攻、兵と民とを問わない大虐殺を実行した。
 曹操軍が通った地では、鶏の鳴き声一つ聞こえず、民人の屍が山となり、流れる血は河となって徐州の大地を紅く染めたという。  
 歴史では、曹操の名望を大きく損なうこの一件が、張莫と陳宮の離反を招き、兌州の乱へと通じていくのである。


 忘れていたわけではない。
 小沛に入った当時、諸葛亮たちに情報収集を綿密にするように、と進言した時、おれの頭の中にあったのは、この事件であった。
 それゆえ、徐州の外ではなく、内にも情報網は巡らされているのである。味方であり、恩人でもある陶謙たちの状況を探る理由としては、件の陶家の公子たちの動静を監視しておくためと、玄徳様たちには報告してあった。無論、曹家の方にも注意は払っていた。


 これまでは、まったくといって良いほど動きがなかった為、ほとんど意識から外れかけていたのだが、まさか袁術の皇帝即位による混乱の隙間を縫って、許昌へ向かっていたのだろうか。
 小沛を出るまで、その知らせはまだ届いてはいなかったが、あるいは今頃、小沛の鳳統たちの下へ知らせが来ている頃かもしれない。だが、仮にそうだとしても、鳳統たちが、すぐに兵を派遣して、曹家一行を保護することはありえない。何故なら、曹家の一行が襲撃されることを、おれはほかの誰にも教えていないからである。
 すでに、おれの知る歴史とは、あまりにも異なるこの時代において、おれの知る知識は無益なだけでなく、時に有害でさえあるだろう。そう思ったからこそ、口を噤んでいたのだが、あるいはしくじってしまっただろうか……



 そこまで考えたとき、おれの視界に、見覚えのある後ろ姿が映された。
 それが、酒場にいた例の若者だと気づいたとき、おれは反射的に駆け出していた。
 幸い、今度は見失うことなく、若者の隣に並ぶことが出来たおれは、やや気忙しく問いかけた。
「突然すまないが、さっき、あの酒場で言っていたことは、本当のことなのか?」
 だが、若者はおれの方を見ようともせず、黙々と歩を進める。
 おれを相手にする意思がない。そんな若者の心境を、その歩みが言外に物語っていた。


 だが、だからといって、諦めるわけにはいかない。
 もし、何者かの襲撃が行われ、曹操の徐州侵攻が行われれば、それは徐州のすべてを巻き込んだ凄惨な殺戮劇へと変じてしまうのだ。
 その焦りが、おれの言動を急き立てた。
「すまないが、おれの話を聞いてくれ、大事なことなんだよッ」
 そういって、伸ばしたおれの右腕が、若者の肩にわずかに触れた、その瞬間。


 若者の怜悧な眼差しが、向けられた。そう思った時には、おれの身体はすでに宙に舞っていた。
「なッ?!」
 それは、一体どのような体術だったのか。
 ほとんど体格の変わらないおれの身体を、若者は右腕を軸に高々と宙に放り投げたのだ。


 おれの視界の中で、天地が逆転した。
 若者の体術は、護身などというレベルではなく、相手を打ち据えるためだけのものであったようだ。このまま呆然としていれば、おれは頭から地面に叩きつけられ、大怪我を負っていたことだろう。下手をすれば、頸の骨を折られていたかもしれない。
 だが、ここで一つの幸運(?)がおれの味方する。
 今、全身を襲う宙を飛ぶ感覚。おれは、それを良く知っていた。それゆえ、咄嗟に身体が反応し、受身をとることが出来たのである。そのおかげで、なんとか最悪の事態だけは避けることが出来た――まさか、某将軍にしょっちゅう投げ飛ばされていた経験が、こんなところで活きるとはなあ。


 だが、のんきにそんなことを考えている場合ではなかった。ほとんど身体ごと宙に飛ばされた勢いを、完全に減じることは出来ず、右肩を強く打ち付けてしまったのだ。
 肩から発する、焼けるような痛みが脳髄に至り、苦悶の声をもらして地面を転がりまわるおれの姿を見て、若者の顔にはじめて表情らしい表情が浮かんだ。
 地面で転がっていたおれは、その顔を見ることが出来なかったのだが――そんなおれに向けて、若者の脚が、無造作に繰り出される。
「がああッ?!」
 ただそれだけで、おれの身体は数メートル先の地面まで転がされていた。
 腹部を押さえて、再び地面を転げまわるおれ。
 ここは彭城の街中であり、当然、周囲にはたくさんの人たちがいた。だが、若者は、そんな周囲の視線を気に留める様子もなく、おれに近づいてくる。
 足音から、それを察したおれは、身を縮めて次の一撃の被害を最小限に抑えようとする。
 何故、どうして、何のために。若者の行動に、疑問を覚える余裕は、すでにどこにもなかった。


 そんなおれを、不快げに見下ろしていた若者は、おもむろに手を伸ばし、おれの服の胸元を掴むと、一気に、自分の顔のところまで引き上げた。
 その乱暴な行動に、一瞬、全身を襲う痛みが強まり、おれの口からうめき声がもれた。
「ぐッ!」
 痛みに身体を折ろうとするが、若者の腕力は、そんなわずかな身動ぎさえ許さない。まるで万力に掴まれてでもいるかのような、硬質な感触だった。


 痛みに歪んだおれの視線のすぐ先に、苛立たしげな若者の顔がある。
 その顔に、見覚えはない。今日、初めて会った若者だ。その筈である。
 だが、それならば。
 何故、こちらを見る若者の目に、こんなにも深い憤りが宿っているのだろう。とても、昨日今日会った人間に向ける感情とは思えなかった。
 それは、しかし、痛みをこらえながらの、大した根拠もない推測に過ぎない。若者は、ただ単に、肩を掴まれた無礼にいきりたっているだけなのかもしれない。
 そんな風に思ったおれの考えは、しかし、次の若者の言葉によって否定された。



「今の貴様と、語る言葉は持たん。さっさと、その酔いに濁った目を醒ますがいい」



 そう言うや、若者はすべての興味を失ったようにおれの身体を地面に放ると、踵を返した。
 いつのまにか、周囲に出来ていた人波が、若者の進む先から割れていき、若者の姿は、すぐにその向こうへ消え去ってしまった。


 その後ろ姿を睨みつけながら、おれは奥歯をかみ締めた。好きなようにやられた口惜しさが、胸奥から湧き上がってくる。
 おれは、酒場で一杯の酒ものんでいない。その点を言えば、若者の言葉は、明らかに間違っている。
 にも関わらず。
 おれは、ただの一言も言い返すことが出来なかった。
 全身、とくに肩と腹からの痛みは、いまだにおれの意識を苛んでいるが、それが反論しなかった理由の全てではない。
 これ以上の暴行を恐れる気持ちもあった。だが、それでもまだ理由には届かない。
 あるいは、その言葉を否定できない自分を、自身、そうと気づかぬうちに認めていたのだろうか――


 おれは、なんとか立ち上がりながら、頭を振って、その疑問を振り払う。
 今はそれどころではない、と自分自身に言い聞かせながら。
「……早く、城に、戻らないと……」
 結局のところ、若者の言葉の真偽はわからなかった。突然、暴行を働いてくるような奴だ。本当のことを言ったとは思えないが、かといって、あいつがおれに偽りを口にして、何の得があるのか、とも思う。
 いずれにせよ、真偽の確認を行う必要がある。そのためには、城に戻らないといけない。出来れば、玄徳様たちに直接、知らせたいが、おそらくまだ会議は終わっていないだろう。
 であれば、同行してきた騎兵に事情を説明し、彭城を出なくては。
 周囲から注がれる同情と好奇の視線を振り払いながら、おれは重たい足取りで、城へと足を向けた。
 城への道のりが、やけに遠いように感じた。




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/28 16:54



 彭城に戻る頃には、すでに日は完全に落ち、城内は夜の帳に覆われようとしていた。
 おれはすぐに兵士たちの待機所に向かう。そこには、小沛から同行してきた騎兵たちがいる筈であったからだ。
 もっとも、小沛からやってきた三〇名全員ではない。彼らも、おれと同じく今は自由行動を許されている。残っているのは、貧乏くじを引いた二名だけだった。
 趙雲率いる騎馬隊に所属するおれは、当然、彼らとは顔見知りである。そのおれが、顔と服を泥まみれにして現れたので、二人とも、驚いた顔で駆け寄ってきた。


 そんな彼らに、おれはやや急き込んで問いかける。聞けば、まだ玄徳様たちは、会議から戻ってきていないとのことだった。
 やはり、徐州の命運に関わる会議であってみれば、一刻やそこらで終わる筈もないか、とおれは嘆息する。
 その拍子に、ずきりと肩が痛んだ。
 自然、先刻のあの男の顔が思い浮かぶ。おれは痛む肩をさすりつつ、頭を切り替えた。
 あの男が何者なのか、あの言葉が真のことなのか。そして、本当におれの知識どおり、曹家の一行が襲撃されるのか。そのいずれも、考えているだけでは、決して明らかにならない類の問題である。
 確かめるためには、行動するしかないのだ。


 とはいえ、今の段階では、おれの危惧――曹家襲撃という事態の予測に、何ら物証はない。それゆえ、徐州の官軍に動いてもらうことは難しいだろう。
 今のおれの予測とは、街で聞いた噂話に、元の世界で聞いた知識を重ねただけのもの。他人に話したところで、ホラ話にしかなるまい。
 実際、元の世界にいたとき、おれが、異世界の知識とやらを聞かされる立場にたっていたとしたら、多分、鼻で笑って済ませただろう。それくらい荒唐無稽な話なのである。


 そこまで考えて、ふと冷静になる。
 おれが知っているのは、あの男から漏れ聞いた「曹操の一族が徐州から許昌へ向かっている」という一事のみである。
 襲撃が企てられていると聞いたわけではないし、そもそも一行がどこにいるのかも知らない。
 物証云々以前に、あまりにも情報が不足している。この状況で「曹操の一族が襲撃されるかもしれない」と騒ぎ立てれば、かえっておれが怪しまれてしまうだろう。
 あるいは、玄徳様たちならば、おれの話に耳を傾けてくれるかもしれないとも思う。しかし、たとえ玄徳様たちが信じてくれたところで、今の状況のままでは、動くに動けない。曹家の一行を救い、徐州の虐殺を未然に防ぐために、今は情報を集めるべきであった。
 襲撃があるかどうかもわからない。あるとしても、何も、今日明日に襲撃が起こると決まったわけではない。
 今、無闇に騒ぎ立て、がむしゃらに動き回れば、かえって状況を混乱させてしまうかもしれない。


 ――おれはそう考え、自分を納得させようとしてみたのだが。


「――虫の知らせってのは、こういうことを言うのかな」
 おれのつぶやきに、二人の兵士が怪訝そうな顔をする。
 おれは、彼らのうちの一人に玄徳様たちへの言伝を頼み、もう一人に、急ぎ同僚たちを呼び寄せてもらうよう頼み込んだ。おそらく、皆、街中へ出て行ってしまっただろうから。


 当然ながら、おれには兵士たちへの命令権などない。
 そんなおれからの、突然の頼みに、二人はいぶかしみ、当然のように理由を聞いてきたが、今のおれに確たる答えが返せる筈もない。
 おれは、頼む、と深く頭を下げるしかなかった。


 二人に首を横に振られれば、如何ともしがたい状況であったが、幸いにも二人は、おれの汚れた格好と、切迫した表情に、何事かを感じてくれたようだった。顔を見合わせ、一拍置いた後、二人は同時に頷き、おれの頼みを肯ってくれた。
 後で酒を奢れよ、と言われたのはご愛嬌であろう。


 おれはもう一度、二人に頭を下げると、踵を返して部屋を出る。向かう先は、城の厩舎である。
「すまないな、まだ疲れもとれてないだろうに、無理をしてもらうことになった」
 おれは、先刻はずしたばかりの馬具を、再び月毛に付け直しながら、詫びの言葉を口にする。
 田豫先生曰く。馬と接するの心得は、人と接するが如くなり。
 無理を強いているとわかっているなら、きちんと謝罪をしなければならないのである。
 たてがみを撫でるおれの手に応えるように、月毛は小さく嘶くと、おとなしく馬具を着けさせてくれた。
「ありがとうな」
 感謝の意をこめて、もう一度だけたてがみを撫でると、おれは月毛を引いて、厩舎を出る。
 城門のところで門衛に誰何されたが、小沛城への急使である、と告げると、疑う様子もなく通してくれた。むしろ、敵が攻め込んで来たのか、と逆に訊ねられてしまった。すでに徐州の将兵も、近づく戦の空気を感じているのだろう。
 おれは、その質問に首を横に振り、門衛たちの心配を払うと、馬首を北西、小沛の方角に向けた。
 晩秋の夜、天頂に輝く月は煌々と輝き、あたりの地形を明るく照らし出してくれている。
 その月光の下、快速を飛ばす月毛の背にあって、後方をかえりみると、すでに彭城の城門は、はるか遠くに見えた。


 彭城から十分に離れたと見るや、おれは、今度は馬首をまっすぐ北に向けた。
 曹家が避難していたのは、徐州の北東部、瑯耶郡であるとの報告は、小沛城にいたとき、鳳統経由で聞いていた。
 瑯耶郡は、青州黄巾当の残党退治の際に駐留していたところなので、位置関係はすぐにわかる。
 曹家ほどの大家の移住ともなれば、人数も物資もかなりのものになるはず。瑯耶郡と、許昌を繋ぐ大路を探れば、あの男が言ったことの真偽を確かめることは可能であろう。
 おれはそう考えつつ、胸奥を騒がせる不安にせかされるように、月毛の脚をさらに速める。


 やがて、おれの頭上に月光が蔭った。
「ん?」
 そして、頬に冷たい水滴を感じ取る。
 怪訝に思って空を見上げると、先刻まで頭上に浮かんでいた星月の輝きは、いつのまにか掻き消えるようになくなっており、重く厚い雨雲が急激な勢いで広がってきていた。
 見る見るうちに強くなってくる雨足。あたりを照らしてくれていた月光は、雲に遮られ、周囲を暗闇が包み込んでいく。
「……ついていないな」
 おれは小さくぼやくと、月毛の脚を緩める。整備された街道とはいえ、夜闇の、しかも雨の降る中を、全力で駆けるだけの技量は、おれにはない。
 周囲を見回してみたが、近くに民家はないようだ。ここは、あせらずに進むしかないか。
 おれはそう考え、額の水滴を拭い取った。




◆◆



  
「なかなか止まないな、この雨」
 雨音が屋根を叩く音に耳を傾けながら、曹純はぽつりとつぶやいた。
 曹家の血を引く者の特徴である金色の髪と、端整な容姿が、曹純の、どこか遠くを見るような眼差しとあいまって、見る者の目を奪う秀麗さを醸し出している。
 その様は、あたかも、一国の姫君が窓辺で憂う様にも似ていたかもしれない。


 もっとも、当の曹純は、そういう自分の容姿や雰囲気が好きではない。
 出来れば、もっと粗野で、荒々しい印象を持たれたいと常々思っていた。黄金を梳かしたような髪を、ざんばらにしているのも、それが理由だったりする。
 折角、綺麗な容姿をしているのにもったいない。そう他者から言われる度に、曹純はこう言い返す。
 何が悲しくて、頬を紅潮させた男から視線を向けられなければならないのか――私だって男なのに。




 曹純、字を子和。
 曹家の柱石である曹仁と母を同じくする、まぎれもない曹操の血縁であり、同時に、曹家にあって数少ない男性でもあった。
 現在のところ、曹家にあって若者といえば、曹純と、曹徳の二人くらいしか見当たらない。
 それゆえというべきか、曹純は幼い頃から曹嵩に目をかけられて育ってきた。曹嵩としては、いずれ、曹純を曹徳の腹心とする心算があったのだろう。


 曹純は幼い頃から礼儀正しく、恩に感じる為人であったので、曹嵩の厚遇には感激し、感謝もしていたが、しかし一方で、曹嵩や曹徳のように、曹操への敵愾心を持つことはなかった。
 曹仁と曹純はとても仲の良い姉弟であり、それは曹嵩と曹操の反目に巻き込まれても、いささかも揺らぐことはなかったのである。そして、そんな姉弟は、いつか分裂しかかる曹家を繋ぎ合わせる役割を、曹凛と共に担う格好になっていたのである。
 この姉弟の立場は、ともすれば、曹操、曹嵩両者から不快に思われかねない危険があったのだが、結果を見れば、それは杞憂に過ぎなかった。
 曹仁が、その豪気さと質実な志向で曹操の信頼を受け、一軍を率いる将として活躍している一方、曹純はたおやかな外見と、人当たりの良さが曹嵩に好まれ、徐州への退転にも随行を許されるほどの信頼を勝ち得ていたのである。



 今回の許昌移住は、曹家の一つの転回点になるだろう。曹純はそう考え、瑯耶郡を出立して以来、顔から憂いが消せずにいた。
 これまで、互いに反感は抱いていても、表立った対立は避けてきた曹操・曹嵩父娘であったが、今回、曹操ははっきりと力ずくで相手の選択肢を奪ってのけた。
 これにより、曹嵩、曹徳は不快の塊となっている。すでに曹家の実権が曹操の手に渡っている以上、直接的な行動に出ることはないだろうが、家内の不和は、他家につけこまれる元になりかねぬ。
 そして、それ以上に曹純の危惧を煽るのが、曹徳の為人であった。
 曹嵩は、娘である曹操への隔意を隠さず、現在の曹家が女性を中心として動いている現状に不満を見せているが、やはり他家から養子として入ってきた人物であるだけに、最低限の節度は心得ていた。
 だが、そんな曹嵩の期待と、実母の溺愛を一身に受けて育った曹徳にはそれがない。
 幼馴染である曹純から見ても、曹徳は優秀である。きらと光る才能を感じたことは、一再ではない。だが、惜しむらくは、その才能を統御する自制心に、いささかならず欠けているところであろう。
 節度なき才能の発露は、周囲を巻き込み、自分自身を傷つけることになりかねぬ。
 今回の件で、曹徳が本格的に曹操に対して害意を抱いてしまえば、それこそ曹家衰退の因をつくることになりかねないのである……






 曹純は軽く首を振ると、気分を変えるために視線を転じた。
 日没から降り始めた雨は、夜半になっても止む気配を見せない。それどころか、風雨は徐々にではあるが、強まっているようだ。
 風雨を避けて立ち寄った土地の富豪の邸は、元々、今夜の宿にと決めていたところだったので、一〇〇名近い一行を受け入れて、なお幾分かの余裕が感じられる広さであった。
 その邸の欄干に寄りかかる曹純の顔に、雨滴が数滴、飛んでくる。 
 曹純が物憂げにその雫を拭ったとき、廊下を駆けて来る一人の少女の姿が目に映った。
「子和さまー」
「ん、仲康(許緒の字)じゃないか。どうしたんだい?」
 弾むような足取りで曹純のところまで駆けて来た許緒は、息もきらさずに用件を告げる。
「曹凛さまが呼んでますよ。明日の予定を確認しておきたいんですって」
「わかったよ、伝言、ありがとう」
 そう言ってから、曹純は視線を再び外に向ける。
 いまだ降り続く雨が、今夜中に止むとは限らない。もし、明日まで降り続くようなら、雨の中を許昌目指して歩いていかねばならないことになる。
 それは、曹純や、あるいは護衛兵たちならば苦でもないことだが、瑯耶郡で安楽に暮らしてきた者たちにとっては、耐え難い苦行にしか思えないことだろう。
 今の曹純が説いても、曹嵩や曹徳が肯うとも考えにくい。それを知る曹凛は、そのあたりのことを、あらかじめ決めておきたいと考えたのだろう。


 曹純はすぐに曹凛の伝言に納得を示したが、許緒は今ひとつ理解しきれていないようだった。
「あの、子和さまが曹嵩さまたちに言っても駄目なんですか?」
 農村育ちの許緒にとって、雨の中を出歩く程度のことが、なぜ、それほどつらいのかが理解できない。
 とはいえ、身分の高い人が面倒を嫌がるということは知っていた許緒は、それなら、曹純が言い聞かせればいいんじゃないかな、と考えたのである。
 実際、瑯耶郡にいた頃、曹純の一言が、我がままを言う者たちを諌めた事例は枚挙に暇がなかったりするので、許緒の疑問はしごく真っ当なものであった。
 だが。


 曹純は苦笑いを浮かべつつ、頭をかく。
「孟徳様が、手紙で今回の移住の指揮権を私に委ねてしまったのは知っているだろう。それで、お二人が機嫌を損ねてしまったんだ」
 一行の護衛に現れた三〇名の兵士は、いずれも曹操直属の最精鋭であった。この少し後に「虎豹騎」と名づけられることになる彼らの長は、到着するや曹純に対して曹操からの命令書を手渡した。
 そこには、護衛の差配を曹純に一任する旨の命令が記されていた。曹操は、今回の移住の指揮を曹純に委ね、送った兵士たちの指揮さえ曹純に任せたのである。


 これを知った曹徳などは、言葉にこそしなかったが、曹純を見る目に、露骨な軽侮の色を浮かべていた。曹純が、曹操におもねり、曹徳たちから離れようとしているとでも考えたのだろう。
 そして、この曹徳の考えは、あながち的外れというわけでもなかった。
 曹操は、両親を許昌に招く今回の件を機に、曹純を正式に麾下に組み込むつもりだったのである。


 元々、曹純の人柄、才覚を評価していた曹操が、戦乱が本格化し、一人でも才能ある者を欲する時期にも関わらず、なぜ曹純を招かなかったかといえば、それはひとえに他州に住まう一族の安全の為――もっとはっきりいえば、母である曹凛の為であった。
 つまり、曹純が傍にいれば、母の身に滅多なことはあるまいと信頼するくらいには、曹操は曹純を評価していたのである。
 だが、両親が許昌に移れば、一族の安全は、ほぼ保障される。曹純ほどの人材を、父や弟たちのままごとにつき合わせておくのは惜しい。
 そう考えた曹操は、今回の命令を曹純に送ったのである。それを聞いた父たちが、どういう反応をするかを見越した上でのことであった。




 曹純の言葉は、簡略すぎて許緒には理解しずらかったらしく、小首を傾げている。
 それを見て、曹純は内心で小さく息を吐いた。
 曹純は、命令書を見ると同時に、曹操の思惑を悟っていた。曹操が、父と弟を突き放した目で見るのはいつものことであるとはいえ、やはり心に寒風を吹き込む父娘関係とはいえないだろうか。
 そんな事実を、許緒のように純真な娘に説明する必要はあるまい。
 そう考えた曹純は、笑って許緒の頭を撫でると、曹凛の部屋に向かう。
 その曹純の耳に、雨滴の音を裂いて、やや遠くの方から嬌声が聞こえてきた。おそらく、随行してきた一族の者たちと共に、曹嵩たちが宴でもはじめたのだろう。歩を進めるにつれて、管弦の音らしきものも聞こえてくる。
 その音に、曹純はわずかに眉をひそめながら、曹凛の部屋の扉を叩いたのである。




 ――この時、曹純は襲撃の可能性を考えていなかった。
 それは、決して無能ゆえではない。曹純は実際に戦場に立った経験こそ少ないが、情報の重要さというものはわきまえており、許昌へと到る道々に偵察を出していた。
 善政の基は治安の確保に始まる。徐州を治める陶謙はそのことをわきまえており、その領内に賊徒の影はほとんど見えない。先だって、青州黄巾党の残党が瑯耶郡を暴れまわったが、それも劉家軍によって討伐された。
 無論、どのような善政の下でも、少人数の盗賊は存在する。しかし、彼らを根絶するのは黄河の流れを止めるにも似た難事であろう。
 また、曹操一行は百人近い大人数であり、三〇名を越える武装兵が護衛についている。そういった小規模の賊徒が襲撃してくる恐れはなかったのである。
 そういった事を確認した曹純は、半ば以上、賊徒襲撃の警戒を解いた。
 それを油断と言うのは酷であろう。まさか、方向の異なる国境から、曹家の移住があることを予期して、一〇〇名をはるかに越える賊徒が分散して移動しているなど、誰が想像できようか。
 まして、その賊徒が今まさに集結しつつあり、さらには彭城から発した私兵の一団が、それに合流しようとしているなど、神ならぬ身に、見抜けよう筈はなかったのである。




◆◆




「殿下、準備は完璧ですぜ。獲物はまだ、こっちには気づいていないようで」
 部下の張凱(ちょうがい)の報告に、陶応は不快そうに眉をしかめた。
 陶家の兄弟直属の私兵を率いる張凱だが、その態度や言葉遣いは、礼を知らぬも甚だしいものがあった。
 もっとも、陶応とて、雇われ兵に礼儀作法まで求めはしない。これまで払い続けてきた金額に見合うだけの働きを見せてもらえれば、無礼の一つや二つ、目を瞑るのは容易いというものであった。
 だが、聞き過ごすことができない言葉もある。
「愚か者が。殿下などと呼ぶなッ」
 低く、だが鋭く叱咤する陶応。その顔の下半分は、布地で覆われており、よほどに親しい者でもない限り、外観だけで陶家の次子であるとは気づかないだろう。


「おっと、そうでしたな。失礼しやした、旦那様」
 にたりと下卑た笑みを浮かべる張凱。その表情を見てもわかるように、張凱は、陶家の兄弟に忠誠を誓っていなかったが、ことさら反発したり、逆らったりするつもりもまたなかった。
 なかなかの額を払ってくれる上客であり、今回のように美味い汁を吸わせてくれる場合もある。張凱なりに、ではあったが、兄弟のことは気に入っていたのである。


「――ッ、まあ良い。陳と雷の二人は、そろそろ配置につく頃だな」
「ですな。間もなくでしょうや。しっかし、女子供が混じった、たかだか一〇〇人の集団を、わざわざ包囲する必要なんかあるんですかい?」
 陶応の慎重さを、張凱は密かに哂う。
 張凱の部下だけで、ほぼ同数。陳蘭と雷薄の手勢を加えれば、三倍に達しようかという兵力差である。しかも、こちらは全て武装した戦闘員である。どちらが有利かは論を待たない。
 包囲などせずとも、正面から襲い掛かれば、敵を殲滅するまで、さして時間はかからないだろうと張凱は考える。
 陶応としては、曹家の一行の生き残りが出れば、小沛の劉備の仕業と見せかけようとする策が水泡に帰す恐れが出てきてしまう。そのために、完璧を期し、包囲を布こうとするやり方は、決して間違ってはいないだろう。
 しかし、戦いに慣れた張凱などの目から見れば、それは完璧を期すというよりは、ただの決断力の無さに思われるのであった。




 後は、陳蘭たちの合図を待つばかりとなり、陶応は少数の護衛を引き連れて、その場を離れていった。
 その後姿を見ながら、張凱は周囲の部下たちに笑いかけた。
「野郎ども、こんな美味しい獲物は滅多にお目にかかれねえぞ。山賊どもになんざ、遅れをとるんじゃねえぞッ」
 その声に、部下たちが抑えきれない興奮を表情に滲ませる。
 大声をあげられないため、地面を踏み鳴らしたり、各々の得物を振り回したりと、あたりは一気に殺伐とした雰囲気に包まれていった。
 先刻から降り続く雨に、すでに皆、下着までずぶ濡れの状態であったが、そんなことを気にかける者は、誰一人いない。
 そして――






 星月の輝きが、厚く、暗い雨雲に閉ざされ、地上は闇に包まれている。
 曹家一族の滞在する邸の周囲を、甲冑を身に着けた男たちが、ゆっくりと包囲する姿は、誰の目にも映らなかった。彼らの来ている甲冑の発する音は、雨音に遮られ、闇夜の中に溶けていく。
 男たちの目に浮かぶのは、殺戮への衝動か。蹂躙への欲望か。


 破局へと到る時計の針は、ゆっくりと、しかし確実に時を刻み続ける。
 それは決して止まることはなく。
 止めようと足掻く者の手は、この時、あまりに遠く、あまりに小さく。



 ――やがて、時計の針は、その時を指し示す。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/06/28 16:54


 つい先刻まで、地面を濡らしていたのは、天より降りしきる雨粒のみであった。
 だが、今、そこに鮮紅色の液体が付け加えられる。しかも、その量は時と共に増えこそすれ、減る様子は少しも見られなかった。
「ヒィィ、た、助け――が、グァッァァッ?!」
「や、やめて、お助けを、いや、いやあああッ!!」
 邸内の各処から響く絶命の悲鳴と、絹を切り裂くような叫びが、地面に流れる紅色の水溜りの上を通過していく。
 狂笑を響かせる賊徒たちが、その中を闊歩し、新たな犠牲者を見つけては、死と暴虐を生産していく。
 それは、乱世という名の時代の一つの側面。
 人が、野獣になりうるのだという、悲しい証左の一つであったのかもしれない。
 



 邸内では、護衛の兵たちに囲まれた曹嵩が、狼狽した視線を、落ち着きなく左右に向けていた。
「ど、どういうことだ。賊め、わしらが曹家の人間と知っておるのか?!」
「ち、父上、いかがいたしたらよろしいのでしょうッ?」
 曹徳もまた、常に無い父親の取り乱し方に、混乱している様子だった。
 息子の問いに、曹嵩はようやく責任を問う者の姿を見つけ出す。
「ぬう……純ッ! 一体、これはどうしたことだ?!」
「――申し訳ございませんッ。お叱りは後ほど。今は、急ぎこの場所より逃れることが先決かと存じます」
 砕けるほどに、歯をくいしばりながら、曹純はそう言った。
 そんな曹純に、曹嵩は更に言い募る。
「他の護衛の者たちはどうしたのだ。孟徳の元から遣わされた者たちも含めれば、四〇近い人数がいたのではないのかッ?!」
 周囲にいる護衛は、およそ一〇名ばかり。明らかに数が少なかった。
「御意にございます。ですが、邸内に散った方々をお助けするためには、ここにだけ人数を集中するわけにもいきませんでした」


 その曹純の言葉に、今回の移住の一件で、曹純が曹操に裏切ったと思いこんでいる曹徳が、噛み付くように反論する。
「ふざけるなッ、子和、おまえが何とかしろッ! おまえが責任者なんだろうッ?! お前が何とかしろよッ!!」
「御曹司、お静かにッ! 賊徒に気づかれてしまいまする。ここで立ち止まっていては、危のうござる」
「何をえらそうに言ってるッ! そもそも、お前が孟徳にこびへつらったりしなければ、こんなことにはならなかったんだろうがッ!! さっさと護衛の兵たちを連れて来いよッ」
 混乱と、困惑と、驚愕とが混ざりあい、曹徳は常に無く狼狽した様子で、心に浮かぶ言葉をすべて口にしている様子であった。すでにその論理は破綻している。
 だが、当の本人はそれに気づくことなく、さらに口を開いて、曹純を責め立てようとするが、さすがに曹嵩は、息子ほど狼狽してはいなかった。
 くわえて、曹純の言うとおり、この場で立ち止まっていては、いつ賊徒に包囲されるか知れたものではない。
「徳、口を噤むのだ。確かに純の言うとおり、ここで立ち止まっていては危うかろう」
「で、ですが、父上ッ!」
「黙れといっておるッ!」
 声こそ抑えられていたが、まぎれもなく本気の父の一喝に、曹徳は不承不承、口を噤んだ。それを確認した曹嵩は、改めて曹純に視線を向ける。
「純、急ぎ進むぞ。徳も良いな」
「御意ッ」
「……わかりました」
  

 更に悲鳴と襲撃の物音がしない方角へ向け、移動する曹純たち。
 だが、すでにこの邸は完全に包囲されてしまっているらしい。どちらへ行こうとも、そこには必ず賊徒の目が光っていた。
 密かに脱出することは、すでに不可能である。曹純はそう結論せざるをえず、一旦、邸の中へ引き返した。
 一体、これだけの数の賊徒が、どこからやってきたのか。だが、曹純はその疑問を、頭を振ることで追い払った。今は、賊徒の正体を確かめている場合ではない。いかにして、この襲撃から、曹家の一族を守るかを考えるべきであった。
 すでに、賊徒の手にかかった者たちは少なくないが、少なくとも、曹嵩と曹徳、そして曹凛だけは何としても逃がさなければ、曹操や姉に、なんの顔あって見えることが出来るというのか。


 ようやく、曹純は、なんとか安全と思われるところを見つけた。
 邸内のやや奥まった位置にある一室、今のところ、周囲に敵の気配はない。無論、時間が経てば、賊徒もここまでやってくるだろうが、今少しの間ならば隠れ潜むことは出来るだろう。
 そう判断した曹純は、曹嵩に向かって口を開く。
「私は、曹凛様をお連れしてまいります。しばし、ここでお待ちくださいませ」
「――うむ、わかった。だが、ここは安全なのか?」
「……確実に、というわけではありません。もし、私がいない間に賊徒が寄せてくるようならば、別の場所に避難してください」
 その言葉に、怒りの声をあげたのは、またしても曹徳だった。
 先刻よりは、幾分か冷静さを取り戻してはいたようだが、やはり曹純を見る目には不信感が漂っている。
「護衛すべき者を置いて、どこに逃げるつもりなのだ、子和。自分ひとりならば、賊徒から逃れられるとでも思ったか?」
「……曹凛様をお連れする、と申し上げた筈です、御曹司。どのみち、邸の包囲を抜けるには、この人数では無理です。曹凛様をお連れするのは、その為でもあるのです」
「ふん、口では何とでも言える。元々、おまえは孟徳たちと近しかった。私たちより、あちらを助けた方が、後のためにも良いというわけだ」
 熱に浮かされたように、非難の言葉を口にする曹徳。普段は、多少、倣岸なところはあるものの、ここまで他者を攻撃する性質ではない。突然の襲撃に混乱し、攻撃性がむき出しになってしまっているようだった。
 また、常の曹純であれば、曹徳がここまで強く出れば、事の是非は措いて、かしこまって頭を下げていたであろう。そうすれば、曹徳としても出立以来抱えている不満に関して、溜飲を下げることができる。曹徳はそれを期待していたのかもしれない。つまり、曹純の人の好さに甘えていたのだ。


 だが。
 突然の襲撃と、今も遠くから響いてくる悲痛な叫びに、平常心を失っているのは、曹徳ばかりではない。曹純もまた、すくなからず平常心を失っていたのである。
 普段であれば、繰り返される曹徳の罵詈を受け止めることは、曹純にとって難しいことではなかった。苦笑まじりに相手を落ち着かせることも出来たであろう。
 しかし、今の曹純に、それだけの余裕はない。小さく頭を振ると、曹徳の言には応えず、曹純は踵を返す。
 その背後で、曹徳が何やら言っているのが聞こえたが、その言葉は音として曹純の耳に響いたのみで、意味のある言葉としては聞こえなかった。







「ええーーいッ!!」
 気合の声とともに一閃した棍に、こめかみを直撃された賊徒の一人が、声も無く、廊下の壁に叩きつけられた。
 苦痛の声があがらなかったのは、棍を受けた衝撃で、すでに意識が刈り取られていたからであった。
 ただ一撃で、賊徒の一人を打ち倒した棍の使い手は、荒い息を吐いて、周囲を警戒する。
 すでに、先刻から一〇名以上の賊徒を倒しているが、敵は一向に減る様子を見せない。それどころか、徐々にではあるが、こちらに向けて包囲の輪を狭めているような気配さえある。


「曹凛さま、大丈夫、ですか?」
「ええ、私は大丈夫です。季衣こそ、無理をしていませんか?」
「へへ、このくらい、へっちゃらですよッ。でも、早くこの邸から逃げた方が良いんじゃありませんか?」
 許緒は、不安げに曹凛に問いかける。
 だが、曹凛は許緒を気遣いながら、その言葉には首を横に振った。
 襲撃してきた者の正体も、数も、目的もわからず、勝手の知らない邸を徘徊したところで逃げ切れるとは思えない。いずれ必ず曹純から、何らかの連絡が来る筈なので、それまでは無闇に動き回らないようにしなければ。曹凛はそう考えたのである。
 

「子和は、必ず来てくれます。季衣に危険を押し付けてしまい、申し訳ないけれど、いま少しの間、ここにいる皆を守ってやってください」
 室内には、曹凛以外にも、数名の子供たちや、年の若い侍女たちが震えながら座り込んでいた。護衛の兵士たちが、外の混乱の中から、文字通り命がけで助け出してきた者たちである。
 彼らの姿を見て、許緒は表情を引き締めて、しっかりと頷いてみせる。
「わっかりましたッ! 大丈夫ですよ、このくらいの敵、ボク一人ででも、蹴散らして見せますッ」
「――ありがとう、季衣。そして、護衛の方々にも、御礼を言います」
 その曹凛の言葉に、この場に残っていた数名の兵士たちが、無言で頷く。
 他の護衛たちは、曹凛の求めに応じ、今なお、外の戦場にあって、生き残った者たちを救おうと懸命に働いているのである。
 曹操の親衛隊である彼らにとって、曹凛は主君の母。その命令に否やを唱える筈はない。だが、その顔に不満はなくとも、焦りはあったかもしれない。この襲撃が大規模なものであること。こちらの敗北が時間の問題であること。この二つは、もはや疑う余地はない。
 このまま邸に篭っていたところで、何処からか援軍がやって来る筈もない以上、時を選んで、この包囲を突破しなければならない。時が経つほどに、犠牲者の数が増えることを考えれば、決断は早く下すべきなのである。


 今もまた一人。
「ぐァッ!」
 廊下の先で、外の戦いから、こちらに戻ってこようとしていた一人の護衛が、後ろから賊徒の一人に斬り倒される。
 その護衛兵が助けたのであろう侍女らしき少女の口から、甲高い悲鳴がほとばしった。
 許緒らは咄嗟に助けようとかけだすが、彼我の距離は遠く、口元を歪めた賊徒が、侍女に向けて振り下ろした刃を止めることはかなわない。
 思わず、目を閉ざしてしまった許緒の耳に、澄んだ金属音が響き渡った。と、思うまもなく、くぐもった賊徒のうめき声が沸き起こる。


 瞼を開いた許緒の耳に映ったのは、侍女の手を引きながら、こちらへと向かってくる曹純の姿であった。その服は、賊徒の血を浴びて、紅い縞模様を帯びていた。
「子和さまッ!」
「仲康、無事だったか、良かった! 曹凛様はこちらにおられるかッ?」
「は、はい、子和さまをお待ちしていたんですッ。こっちです!」
 侍女と曹純が室内に入ると、部屋の隅で震えていた侍女たちが怯えたような視線を向けた後、驚きの声をあげる。どうやら、今しがた曹純が助けた侍女の知り合いらしい。
 曹純は、侍女をそっと促して、知り合いのもとへ行かせると、曹凛の前で深々と頭を下げた。
「駆けつけるのが遅くなりました。申し訳ございません」
「良いのですよ、子和。主様たちはご無事ですか?」
 曹凛は、曹純の遅参の原因を察していたのか、前置きもなくそう問いかけた。
 曹純は首を縦に振る。
「はい。今は邸内の一室に隠れておられます。曹凛様たちも、急ぎそちらへ。合流し、賊の包囲が薄い箇所を一気に突破いたします」
「わかりました。ですが、まだ外で戦っている者たちや、逃げ切れていない者たちは……」
 そこまで言いかけ、曹凛はそっと目を伏せた。言っても詮無いことだ、と気づいたのであろう。
 曹純もまた、かすかに俯いた。時折、響いてくる悲鳴に、罪悪感を刺激されながら、それでも曹純は決断を下さざるをえない。
「――参ります。こちらへ」
「――わかりました。皆、お立ちなさい。急ぎ、この邸から逃げますよ」
 後半は、侍女や一族の子供たちに向けたものだった。
 みな、襲撃に怯えていたが、曹凛の言葉に小さく頷き、自分たちの力で立ち上がる。騒ぎ立てる子供がいないのは、僥倖であったと言って良い。
 それは曹凛の穏やかな態度によるものか、あるいは子供たちの幼い胸中にも、今の状況がわずかなりと理解できていたのかもしれない。ここで騒げば、何もかもが終わってしまうのだ、と。





◆◆◆




「何なんだよ、これは……」
 途切れなく耳に飛び込んでくる女性の悲痛な声。
 それとは対照的な、極上の獲物に狂喜する賊徒たちの哄笑。
 地に倒れ伏しているのは、武器を帯びてもいない人たちばかり。その中には、女子供の姿さえ見つけられた。
 そして、そんな人たちの亡骸を踏みにじりながら、いまだ生きている者たちに嬉々として襲い掛かっている賊徒ども。
 強者が弱者を蹂躙する、それは、おれにとって、小説やゲームでしか見ることが出来ない筈の光景だった。現実に見ることがあってはならない光景だった。


 雨の中、方々を駆けずり回り、ようやく掴んだ曹家一行の情報。たどり着いた邸からは、しかし、すでに尋常ならざる声と物音が響いてきていた。
 賊徒が雨に紛れて襲撃を決行したのなら、おれが雨に紛れて侵入することも出来る筈。
 そう考えて、後先考えずに邸にやってきたおれの眼前で繰り広げられていた、予測もし、覚悟もしていた筈の光景。
 それを見ても、おれは、怒りも、憤りも感じることはなかった。ただ呆然とつぶやくことしか出来なかった。眼前のこれが、現実であるという認識が、上手く働かないのだ。
 こんなことがあってはならない。こんなことが、現実で起こる筈はないと、胸中で誰かが繰り返しささやいている。
 ああ、おれは幾度も戦場に立った。実際に剣で殺しあうことこそなかったが、戦の後、身体といわず、手足といわず、切り刻まれた戦死者の亡骸を葬るのは当然の責務であったし、鼻が曲がるほどの死臭に、耐え切れず嘔吐したこともある。
 この世界で、人は戦い合い、殺し合う。それは知っていた。
 だが、おれが知っているそれは、武器を持つ者同士が、夢を、理想を、野望を、志を以ってぶつかりあう戦いだった。
 眼前のこれは、戦いなどではない。虐殺であり、陵辱。武器を持つ強者による、武器さえ持てない弱者に対する蹂躙。そんなものがあって良いのは、ゲームか小説の中だけである筈なのに。


 わかっていた。
 おれが見ている光景は、きっと大陸の各処で繰り広げられているのだということは。いまだおれの背中に残り、そしておそらくは生涯消えないであろう鞭打たれた傷跡。そもそもの最初に味わったあの暴虐こそが乱世の姿なのだと。
 おれは、幸運にも張角たちに見出され、玄徳様たちと出会い、そこから解き放たれたが、あの出来事そのものが無くなったわけでは、決してない。


 わかっていた?
 ならば何故、おれは今、眼前の光景に衝撃を受けているのだろう。悲鳴をあげて逃げ惑う人たちを助けようともせず、賊徒を打ち倒そうともせず、ただ立ち尽くしているのは、どうしてだ。
 無論、おれ一人出て行ったところで、何かが変えられるわけではない。そんなのは当たり前だ。おれは関羽でも、張飛でもない。歴史に名を残した英雄とは格が違うのだから。
 だが、そんなおれでも、これまでは何とかがんばってきた筈。出来ないことは出来ないが、しかし出来る範囲で、自分なりに戦ってきたのではなかったか。
 逃げる人たち全員を助けることは出来なくても、一人二人を助けることは出来るかもしれないのに。
 賊徒すべてを討ち果たすことは出来なくても、一人二人を不意打ちで倒すことくらいは出来るかもしれないのに。 




 腰に差してある剣の柄に手を伸ばす。
 木刀ではない。真剣、人を殺し、命を奪える物だ。
 その扱いを、おれは知っている。その心構えさえ、おれは教えられている。ならば、この場で剣を抜けない理由は、どこにもないのではないか。
「おれは……」
 だが、そんなおれの迷いと呟きをかき消すように、賊の怒号が轟いた。
「いたぞおおッ!」
「逃すな! 曹家の連中だぞッ!!」
 突然、沸き起こったその声に、おれは咄嗟に近くの草むらに身を潜める。
 遠くない場所から、短くも激しい戦いの音が響いてくる。
 怒号と悲鳴が交錯し、やがて、声もなく潜み続けるおれの視界に、二人の男性と、数名の女性が、賊徒に引きずり出されてきた。
 男性は、見るからに争いごととは縁の無さそうな格好をしている。女性たちは、彼らの家族なのだろうか。彼女たちは震え上がって、声すら出ない様子であった。



 男性の一人、年嵩の方が、歯軋りしつつ、口を開く。
「貴様ら、私を曹家の長と知っての狼藉か。このような真似をすれば、ただではすまんぞッ!」
 その言葉で、おれはその人物が曹操の一族であると知る。年齢からいって、曹操の父親である曹嵩か。すると、その傍で顔を真っ青にしているのは、曹家の末子である曹徳だろうか。
 だが、曹嵩の叱咤を受けても、賊徒は怯む様子を見せない。それどころか、あざけるような笑い声さえ起こっているではないか。
 その嘲笑に、曹嵩はさらに声を高めた。
「許昌を治める曹操は、私の娘だ。このような狼藉を知れば、娘は、それをなした者たちを地の果てまで追い詰め、皆殺しにするだろう。その覚悟があってのことかッ!?」
 だが、その叱咤を受けても、賊徒の誰一人として動じることはなかった。
 その中の一人は、むしろ不快さに耐えかねたように、曹嵩の身体を、乱暴に足蹴にする。
「やかましいんだよ、老いぼれッ!」
 曹嵩が苦痛の声をもらし、地に倒れ伏す。隣で震えていた妻らしき女性の口から、甲高い悲鳴が起こる。
 厭わしげに眉をしかめた賊の一人が、女性へも手をあげかけたが、それを止めたのは、同じ賊の一人であった。
 一際雄偉な体格をしているところを見ると、あるいは賊の首魁であるのかもしれない。
 もっとも、それは情けをかけたという意味ではなかった。
「やめろ。こいつらは貴重な人質だからな。あまり乱暴に扱うな。お前もだぞ、雷薄」
「ああ、悪い。しっかし、身分や地位に安住してる奴に、偉そうなことを言われると、腹が立ってしかたねえ」
「まあ、気持ちはわかるさ。もう少し待て。他の奴らもだ。事が終われば、そこにいる女どもも、お前らの好きにさせてやる」
「さっすが、陳蘭将軍は太っ腹ですなあ」
 雷薄のわざとらしい追従に、陳蘭は苦笑した。



「張凱殿、そちらの方は、まだ片がつかんのか?」
 陳蘭の問いに、張凱と呼ばれた男は、頭をがしがしとかきながら、面白くなさそうに頷いた。
「すまねえ。護衛の奴らが邪魔でな。中でも、長らしい男と、小娘の一人が、やたらと手ごわい。まあ、人質のことを持ち出したから、もうじき片がつくと思うが」
「それならば良いが。しかし、小娘といったか? 女子供に苦戦するとは、ふふ、公子たちの部下もたるんでいるのではないか?」
 陳蘭の揶揄に、張凱はちっと舌打ちをする。
「まあ、この件が終われば、我らは同輩。あまり不手際を責めるのはやめておこうか」
 優越感に満ちた笑いが、陳蘭と、そして雷薄の口元に浮かぶ。
 張凱は不快そうに顔をしかめるが、小娘にてこずっているのは事実らしく、言い返すことは出来ない様子だった。



 それからしばし。
 張凱の言葉どおり、手を後ろで縛られた護衛とおぼしき男たちと、一〇名近い女子供が、賊に囲まれながら連れてこられた。
 もっとも年嵩と思われる女性が、曹嵩の姿を見て、わずかに表情を強張らせた。
「ッ、主様! お怪我をなさっておられるのですか?」
「凛か。うむ、だが、大事はない。お前も、よく無事だった」
「はい……いつまで無事でいられるかは、わかりませんけれど……」
 曹凛は、そう言うと、鋭い視線を陳蘭に向けた。
 ほんの一瞬、陳蘭はその視線に気圧されたように、わずかに怯む様子を見せる。
「降伏をすれば、命まではとらぬ。降伏せねば、女子供に到るまで皆殺しだ。そう言われたゆえ、ここに参ったのです。約定は、守っていただけるのでしょうね?」
「……さて、な。おれはそのようなこと、言った覚えがない。雷薄、おまえはどうだ?」
「おれもしらねえ。張凱さんよ、お前さんが言ったんかい?」
「いや、知りませんなあ」
 いやらしい笑みを浮かべながら、張凱は首を横に振ってみせた。


 わざとらしい賊徒たちのやり取りに、それまで黙って立ち尽くしていた男性が、敵意をこめて、三人の賊将を見据える。
「貴様ら、警告もなく襲い掛かってきた上に、約定まで翻すつもりかッ?!」
 その男性、外見だけを見れば、男装をしている麗人のようにも見えるくらい、秀麗な容姿をしていた。
 陳蘭と雷薄は、てっきり女性だと思い込んでいたらしく、その力強い言辞に、意外の観を隠さなかった。
「なんだ、てめえ男か。ちッ、いただくつもりだったのにな」
「おや、雷薄。別におれは譲ってもかまわんぞ?」
「冗談言うな。こんだけ上玉がそろってんだ。何がかなしくて、わざわざ男なんぞを押し倒す必要がある?」
 そう言うや、雷薄は、曹凛の横で震えている侍女たちの所に、ずかずかと歩みより、彼女らの顎を掴み、無理やり自分に顔を向けさせた。
 小さな悲鳴があがるが、雷薄は気にする素振りさえ見せなかった。
「ふん、さすがは天下に聞こえた曹操の一族だ。侍女たちも美人ばかりだな。陳蘭、こいつら、おれがもらってもかまわんな?」
「好きにしろ。小娘に興味はない」
「ありがてえ。張凱は、そっちの年増どもが好みだったな?」
「ええ、まあ。やんごとない身分の女性を、おれみたいな身分の低い野郎が弄ぶのも、面白いんで」
 下卑た笑みを浮かべ、張凱が見据えたのは、曹嵩の傍で震える妾たちであった。当然、そこには曹徳の母もいる。
 これまで、口を閉ざし続けていた曹徳であったが、張凱たちのあまりに礼の無い態度に、怒髪、天を衝く勢いで立ち上がった。
「おのれ、下種どもめ。母上に何と言う無礼をッ! 九族、ことごとく殺しつくされたいのかッ!」
「おやおや、曹家の御曹司は、状況が理解できていないと見える。おれたちを殺す前に、自分たちが殺されるところだということに気づいていないのか?」
 陳蘭のあざけりに、曹徳の顔色は、青を通り越して、土気色にさえ見えた。
「なッ?! 貴様らごとき賊徒が、曹家の一族を手にかけるというのか?! 身の程を知れッ!!」


 甲高い曹徳の叫びを聞き、雷薄の眉間に太い皺が刻まれた。
「……うるさいんだよ、小僧」
 奇妙に低い呟きに、尋常ならざる殺気を感じ取ったのは、当の曹徳ではなく、先の男性であった。
「御曹司、お逃げ下さいッ!」
「な……」
 その言葉に、曹徳が怪訝そうに呟いたその瞬間。
 雷薄の大柄な体躯が、勢いよく曹徳に向かった。
 と、思う間もなく、その手に握られた剣が一閃する。 
「……に?」
 怪訝そうな表情を浮かべたまま、曹徳の首が、宙を飛び、雷薄の足元に落ちていく。
 首を失った身体は、前に倒れるか、後ろに倒れるか、しばし迷うように揺れ動き……やがて、どうっと前に倒れこんだ。
 その首から、あふれるように鮮血が地面に流れていく。その様を疎ましそうにながめながら、雷薄は、足元の曹徳の首を、無造作に蹴り飛ばした。









 そして。
 奇妙に重く、湿った音を立てて、曹徳の首が転がる。止まったのは、偶然にも、おれのすぐ近く。
 こちらを向いた顔は、雨と泥で濡れ、自分の身に起きたことが理解できないとでも言いたげであった。
 曹徳の死と同時に、それまでおとなしくしていた曹家の護衛たちが一斉に動きだそうとしたようだが、後ろ手に縛られた状態では、精鋭といえども如何ともしがたい。たちまち、周囲を取り囲む賊徒たちに斬り倒されていく。
 同時に、彼らは思い思いに女性たちにまで襲い掛かっていき、あたりは表現しがたい鬼気に包まれようとしていた。


 その一部始終を、おれは草むらの陰に、身を潜めたまま聞いていた。見ていた。身動き一つせずに。
 助けたいとは思った。だが、助けられるとは思えなかったから。
 この場にいるのは、三人の賊将だけではない。周囲には、数十、いや、一〇〇名を越える賊がたむろしているのである。
 おれ一人が出て行ったところで、賊将のところまでたどり着くことさえ出来はしない。彼らに紛れて近づいたところで、あの狂乱の中から、誰かを助け出して逃げ出すことも、出来はしない。
 邸の近くに繋いである月毛がいれば、無理やりにでも突っ込むことは出来たかもしれないが、今から月毛のところまで戻っている間に、事態は終わってしまうだろう。
 だから、仕方ない……仕方ない?


「そんなわけあるか、くそ、くそ、くそ、くそ、くそッ!」
 気がつけば、おれは何度も掌を地面に叩きつけていた。
 眼前で繰り広げられる地獄絵図。それを防ぐことが出来ない自分の無力さが腹立たしくてならない。
 そして、その無力さを言い訳にして、暴虐から目をそむけようとささやきかける、自身の弱さに吐き気さえ覚える。
 だが、やはり、どれだけ憤りをあらわにしたところで、立ち上がることは出来そうになかった。


 死にたくない。すべての根にある気持ちは、ただそれだけ。
 

 その気持ちが、正義感とか、見栄とか、意地とか、そういった全ての感情を覆い隠す。
 今、はじめて感じたことではない。これまで、おれが劉家軍の戦いに加わらなかったのは、まさしく死にたくなかったからだ。いつか、日本の家に帰る、そのために。
 だが、ひそかにおれはこうも思っていたのだ。
 もし。どうしても。本当にどうしても、自分の力が必要になる時が来るのだとしたら。その時は、この剣を振るうことになるかもしれない、と。


 だが、それは臆病者の自己弁護に類するものであったらしい。
 戦うべき時は今だとわかっているのに。
 玄徳様が望む未来。誰もが笑って暮らせる世の中をつくるために、今、戦うべきだとわかっているのに。何も、剣をもって突撃するだけが戦いではない。たとえば、大声をあげて注意を逸らせば、立派にかく乱になる。
 だが、おれは、そんなことさえ出来ないでいた。
 いや、言葉を飾らずに言おう。
 出て行けば死ぬとわかっている場所に。
 関われば殺されるとわかっている場所に。
 おれは、出たくなんかなかったのだ。




 背後を振り返る。
 彭城の会議が終わってから、多分、それなりの時間が過ぎている筈。希望があるとすれば、おれからの伝言を聞いた張飛が駆けつけてくれることだった。曹家の情報を教えてくれた人たちにも、この後、張飛たちがやってきたら、同じことを教えてくれと伝えてある。
 だが、雨を引き裂き、救世主があらわれるような、そんな奇跡は物語の中だけであるらしい。
 救いの手が、何処からか差し伸べられることはなく。
 悲劇は、悲劇のままに終幕を迎え。
 おれは、すべてを見殺しにした臆病者の烙印を押されることになるのだろう。




 その筈だった。
  
 

 
 覚悟を定めた曹純の声が聞こえてきた。
「――私たちがここで殺されるにしても、次は貴様らの番だ。孟徳様は、貴様たちを決して生かしておかない」
「ふん、確かにその通り。貴様らを殺した者が、おれたちだとばれればの話だがな」
「……これだけのことをして、隠しおおせるとでも思っているのか?」
「隠せはすまいな。だが、実行した者が誰かはわからぬやもしれんぞ。たとえば、こんなものが落ちていたら、曹操はどう思うかな」
「『劉』の兜――『劉』……貴様、まさかッ?!」
「その通り。まあ、曹操ほどの奴だ。素直に信じはすまいが、疑いを分かつ程度のことは出来よう。それに、おれたちの主は、徐州のやんごとない御方でな。打つ手はいくらでもあるのさ」
「徐州の……」
 その言葉で、曹純は何事かを悟ったらしい。おそらく、徐州の内情について、ある程度の知識はあったのだろう。
 だが、そんなことはこの際、どうでも良い。


 今、あいつは――陳蘭は何を言った?


「小沛城主、乱心す。ふん、正義を掲げようと、その正体は財貨に目が眩んだ愚か者、とでも噂を広めようか」


 だから、お前は何を言っている?


「聞けば、徐州の内部にも、あやつに反感を抱く者も多いという。噂を広めるのは、さして難しいことではあるまい」
 

 おれの視界の中で、曹徳の首が転がっている。
 その向こうでは、おそらくは面白半分にいたぶられたのだろう。身体中に剣をつきたてられた男性の亡骸が、泥にまみれている。
 その隣には、半ば以上、肌があらわになった女性が、空ろな表情を浮かべ、横たわっている。その首は、ありえない方向に曲がっていた。
 ――血と泥と、汚濁にまみれた光景。


「曹操の怒りは、おれたちではなく、小沛に向けられる。そして、おれたちは小沛を討って、曹操の覚えめでたく、漢帝の忠臣となって歴史に名を残すというわけだ。はは、どうだ、なかなかの筋書きではないかッ、なあ、雷薄!」


 おれの脳裏に、初めて会った頃の玄徳様の笑顔が浮かぶ。
 あの時、玄徳様はこう言っていた。
『私だって、まだまだ半端な人間です。平和な世の中をつくりたくて、でもそんな力はなくて。それでも、みんなの力を借りて、少しずつでも、そういう世の中をつくっていきたい』
 あの時、おれは玄徳様の澄んだ眼差しから、目が離せなかった。胸を打つ鼓動が、うるさいくらいだった。
『北郷さんが、それに力を貸してくれるなら、とっても心強いです。もちろん、私も出来るかぎり、北郷さんが目的を果たせるように力を貸します。それは、みんなも同じことです。みんなで支えあって、みんなで頑張って、みんなの目的を果たしましょう!』
 煌くような生気に満ちた瞳を見て、おれは思ったのだ。
 ああ、関羽も張飛も、この輝きに惹かれたのだろう、と。
 そして、見たくなった。あの輝きにあまねく満たされた、中華の大地を。そこで生きる人々の笑顔を。


「まったくだ! 案ずる必要はねえぞ。おまえらの仇は、おれと陳蘭がきっちりとってやるからよ。小沛の城主は、けっこう良い女だっていうし、しっかりと罰も与えてやるさ。おまえたちの分までなッ」 



              ――音も無く、何かが弾けた。








 そうか            

                           右手に泥を浸し、顔といわず、甲冑といわず、塗りたくる。

 おまえたちは

                           徐州の官服を着たままでは、賊将のところに行くことが出来ない。

 あの笑顔に

                           大きく、ゆっくりと、息を吸いこむ。
 
 汚物をなすりつけようと言うのか

                           静かに、深く、息を吐き出す。
 
 ならば、語る言葉などあろう筈もない

                           いつか、恐怖も、躊躇いも、心の中から消えていた。






                ――殺してやる。
                  





◆◆





「申し上げますッ! 街道より、劉の旗を掲げた一団が接近しておりますッ!!」
 狂乱の宴に参加していた者たちの耳に、その報告は唐突に届けられた。
 陳蘭たちにとって、それは予期せぬ報告であった。このあたりは小沛の統治下にあるが、駐留している官軍の部隊はない。それは、陶商や張凱たちにも確認してあることだった。
 襲撃の知らせが行ったにしても、早すぎる。陳蘭は、脱ぎかけた衣服を直しながら、報告をもって駆け込んできた兵士に、鋭い眼差しを向けた。
「偽りを申すと許さぬぞッ! 徐州の軍が、こんなに早く、ここに来る筈がない!」
「はッ、しかし、確かに徐州、それも小沛の劉備の軍ですッ!」
 よほどに慌てているのか、泥まみれの顔と姿をさらしながら、その兵士は怯むことなく、陳蘭に再度、同じ報告をした。
 ためらう様子さえない、その姿に、陳蘭はかすかに眉をしかめた。
 事に及ぼうとしていた雷薄と、張凱も慌てたように陳蘭の下に駆け寄ってくる。


 陳蘭は、二人の姿を視界の端にとらえる。
 周囲の兵士たちも、動揺した視線をかわしあっていた。兵士たちばかりではなく、曹家の一行も、か細い藁を掴んだような表情を浮かべている。
 あたりの視線が、陳蘭に集中する。宴の淫らな雰囲気は、一人の兵士の報告によって、跡形も無く消し飛ばされていた。


 陳蘭は鋭い舌打ちの音をたてると、肝心のことを問いただす。
「それで、現れた兵士の数はいかほどかッ?! まさか千や万の軍勢が現れたわけではあるまい」
「は、現在、確認が出来た兵の数は――一人にございます」
 兵士の報告を聞いた陳蘭は、頷こうとして、失敗した。
「――な」
 思わず。
 ほうけたように問い返す陳蘭。あまりにも予期せぬ報告に、歴戦の武将が、一瞬だけ、自失する。
 開かれた口の、すぐ真下の空間を、一条の閃光が横切ったのは、次の瞬間であった。


「……に?」
 くしくも、それは先刻の曹徳と同じ言葉であったが、陳蘭は果たしてそれに気づいただろうか。
 一瞬の間を置いて、半ば以上、切り裂かれた陳蘭の頸部から、噴水のように血が体外にあふれ出る。
 報告を持ってきた兵士は、自ら切り裂いた傷口からあふれ出た血を避けることなく、半身を鮮血で染め上げながら、ゆらりと立ち上がる。
 そして。


「――小沛城主、劉玄徳が麾下、北郷一刀」
 短い、味も素っ気もない名乗り。
 それを口にするや、北郷と名乗った兵士は、持っていた剣を振るう。
 状況が理解できず、立ち尽くした格好の張凱の顔に、刃についた血が降りかかる。血が目に入るような幸運はなかったが、それでも張凱を狼狽させることは出来た。
「ぬ?!」
 その隙を、見逃す理由がどこにあろう。
 躊躇なく、ためらいなく、陳蘭の血を吸った剣が、袈裟懸けに斬り下ろされる。
 だが、殺到する殺意にかろうじて反応した張凱は、あやういところで、その剣撃を受け止める。
 鈍い金属音が、あたりに響く。
 だが、北郷と名乗る兵士の剣勢を受け切れなかった張凱は、大きく体勢を崩し。
「はああッ!!」
 続く北郷の第二撃を避けることはかなわなかった。
 真正面から振り下ろされた北郷の一撃は、張凱の額を切り裂き、両の眼の間まで断ち割ってのける。


 声も無く倒れ伏す張凱。
 瞬く間に、二人の将を失った賊徒は、いまだ目の前の光景が理解できず、ほうけたように立ちすくむ。
「どうした?」
 静かな声が、静まりかえった邸内に木霊する。
「殺しつくすのだろう。奪いつくすのだろう。その罪を、すべて玄徳様になすりつけるのだろう」
 奇妙なまでに平静な声は、憤怒が飽和したゆえか。
「いいだろう、やってみろ。その代わり――」
 否、飽和などしようものか。その身は、天に沖する怒りの炎に満ちている。
 次に発された言葉こそ、その具現。

 


「事破れた上は、その薄汚い命で償えッ! 殺してやるぞ、貴様らァッ!!」
 大喝と共に、北郷一刀は、ただ一人残った賊将、雷薄に向かって、斬りかかって行ったのである。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十章 偽帝袁術(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/04 01:01

「事破れた上は、その薄汚い命で償えッ! 殺してやるぞ、貴様らァッ!!」


 疑いなく、それはおれの人生で最大の激語だった。
 自らが死地に飛び込んだことを理解しながら、しかし、おれの中にそのことを悔いる感情は沸いてこない。
 猛り狂う感情の荒波が、総身を駆け巡り、恐れも、怯えも押し流し、四肢が思うように躍動する。
 全ての意識が、ただ一つのことに向けて、研ぎ澄まされていくようだった。
 ただ一つのこと――目の前の相手を殺すことだけに。
 おれは、雷薄に向けて、続けざまに剣を繰り出していった。


 だが。
 おれの目の前にいるのは、その品性が、どれだけ下劣であろうとも、意志を持った一人の人間。それも、戦場を踏んだ場数、殺し合いの経験で言えば、おれとは比べ物にならない歴戦の賊将である。
 その賊将は、僚将二人が討たれ、なお呆然としているような腑抜けではありえなかった。
「調子に乗るなよ、小僧ッ!」
 こちらの攻撃を凌いだ雷薄は、声高に吠えると、一転して攻勢に転じてきた。
 当初、雷薄はこちらの剣を防ぐことに終始していた。おそらく、僚将二人を瞬く間に討ち取ったおれの技量を、過大評価していたのだろう。
 だが、今のおれは、はじめて殺し合いの場に出てきた新兵に過ぎぬ。技量とて、知れたものだ。
 賊徒とはいえ、一軍を率いる将である雷薄にとって、おれの実力を見破ることは、さして難しいことではなかったのだろう。


 小沛城で見学した、関羽たち劉家軍の将軍たちの稽古。その時に見た、流麗な、あるいは力強い攻撃と比すれば、目の前の雷薄のそれは恐れるに足らない。その太刀筋は粗く、攻撃は単調だ。関羽や趙雲たちならば、苦もなく雷薄を切り伏せることが出来ただろう。
 しかし、おれにとって、雷薄は脅威を感じざるをえない敵であった。その荒々しい攻撃にこめられた敵意と殺意は、紛れも無い本物。風を裂いて襲い掛かる一太刀一太刀に、死の匂いがまとわりつき、おれの脳裏にけたたましい警告を響かせる。
 自分を殺そうとする人間が、目の前で凶器を揮っている姿は、あまりにも禍々しく、背筋に氷柱をつきたてられたような感覚さえ覚えてしまう。雷薄の攻勢をかろうじて凌ぎながら、おれは一歩、また一歩と後退せざるをえなかった。




 相手を殺す。ただそれだけに集中していてなお、この体たらくである。まして、敵は、目の前の雷薄だけではない。周囲には、なおも百名を越える賊徒がいるのだ。このままでは勝てないことは、火を見るより明らかであった。
 だが、そんな窮地に立って、なお、おれは平静を保ちえていた。それは、彼我の力量の差を、誰よりもおれ自身が承知していたからである。
 灼けるような怒りに胸奥を焦がしながら、凍るような冷静さで戦況を見据える自分がいて、その冷静な部分が認めていたのだ。
 もう、小細工は通じない、と。


 陳蘭と張凱を討ち取ったとはいえ、おれがしたのは、騙まし討ちに不意打ち。誇れるような戦い方ではない。
 逆に言えば、おれにはそうすることしか出来なかった。怒りに任せ、真っ向から戦いを挑んだところで、勝ち目などないとわかっていたから。
 どれだけ望んでも、闇夜を裂いて、援軍があらわれる奇跡が起こりえぬならば。
 どれだけ猛り狂おうと、激情の奥底から、新たな力が湧き出ぬことも、また道理。
 おれが引き出せるのは、おれ自身の力だけ。英雄ならざるおれに、百名の賊徒を蹴散らすような底力は望みえないものだった。
 乱世は、そこまで優しい世界ではない。



 その現実を突きつけようとでも言うかのように、剣撃をかわす度、雷薄の顔は余裕を取り戻していった。
 勝てる、と思っているのだろう。
 そして、それは事実であった。今なお、圧倒的に有利なのは雷薄なのである。彼我の力量差以前に、周囲を囲む百名近い賊徒が戦いに加われば、おれの身体は数秒で肉片に変じてしまうだろう。
 これまで積み重ねた鍛錬が、戦況を覆すこと叶わぬならば、この場に倒れるのは、賊ではなくおれ自身。
 それこそが、乱世の理。強き者が勝ち残り、弱き者が踏みにじられる、弱肉強食の現実である。



 それを理解していながら、何故、勝ち目のない戦いに身を投じたのか。
 繰り返すが、おれには、百名の賊徒を蹴散らす力などない。
 万の兵に匹敵するといわしめた関羽や張飛、その百分の一の力さえ、おれにはない。
 ゆえに、戦況を覆すことかなわず、この地で命を失うのが、おれの運命であり、従容としてそれを受け入れたがゆえに、おれは平静でいられるのだろうか?
「はは、そんなわけあるか」
 おれは、はっきりと声に出して笑った。脳裏によぎった考えが、あまりにおかしかった。戦況を覆すために、この場の賊徒すべてを倒す必要なんて、どこにもない。



 突然笑い出したおれに向けて、雷薄が嘲りの言葉を吐き出した。
「狂ったか? だが、容赦などせん。小沛の雑兵風情が、よくも好き勝手やってくれたものだ。何故ここにいるかは知らんが、貴様はここで殺してやる。そして、貴様の生首、劉備めの眼前に晒してやろう。それとも、貴様の眼前で劉備めを辱めるまでは生かしておいてやろうか。どちらでも好きな方を選んでかまわんぞ」
 勝利を確信した雷薄が、何やらわめきたて、おれに嗜虐的な笑みを向ける。その表情を見れば、雷薄がこれまで敗北した者をどのように扱ってきたかが知れるというものだった。


 その雷薄に対し、おれは一言も言い返さなかった。
 怯えたわけでは、無論、ない。かといって、先刻のように怒りに震えているわけでもなかった。
 深化した戦意と殺意を込めて、ただ、雷薄の姿を見据えていた。
 そんなおれの沈黙をどうとったのか。雷薄が、さらに嘲りの言葉を吐こうとする。
「どうした、恐ろしくて言葉も出ないか。だが、今更、容赦など――」
「黙れよ、下衆」
「――なんだと、てめえッ?! 今、何て言いやがったッ」
 使い古された反駁の表現に対し、おれは、苦笑を禁じえない。その顔が、さらに雷薄の激怒をかってしまうが、気にする必要はないだろう。


 おれは、古今の兵法に通じているわけではなく、あらゆる時代の戦法を熟知しているわけでもない。
 だから、この時、おれの脳裏によぎったのは、元の世界の知識ではない。
 少数の兵で多数を破るを邪道としながら、それを完璧に再現してのけた、年下の軍師たち。あれは、劉家軍の旗揚げ間もない、五台山の戦の時であったか。
 百倍近い兵力差を覆したあの戦い。
 劉家軍は、まず敵を挑発し、山砦へと誘き寄せた―― 


「下衆と言ったんだ。雑兵風情? ではその雑兵に苦戦するおまえは、雑兵以下ということだな」
 おれは意識的に口元に嘲笑を張り付かせる。
 雷薄の顔は、今や赤を通り越して、くすんだ黒色に変化していた。
 それを見て、おれはなおも言葉を続ける。
「武器を持たぬ者しか相手に出来ぬ下衆どもなど、たとえ何百人集まろうと、劉家軍の敵ではないッ! 身の程を知れ、たわけッ!!」
 おれは、嘲りの笑みを、勁烈な叱咤へと変じさせ、雷薄を挑発する。稚拙な手段ではあったが、興奮の極みに達した雷薄には、十分すぎるほどの効果があったらしい。おれの顔を見据える雷薄の両眼が、瞬時に赤く染まった。眼球の毛細血管が、昂ぶる感情で灼き切れたのだろう。




「貴様ァッ!!」
 怒号と共に、雷薄の体躯が、勢い良く前に出る。
 豪剣が唸りをあげて襲い掛かってきた。



 雷薄の攻撃を、おれは一見、事も無げに。しかし、内心では細心の注意を払って、受け、払い、凌いでいく。
 挑発によって、雷薄の攻撃は、これまで以上に猛々しいものへと変じていた。受け損なえば、手足の一本や二本、容易に刈り取られる攻撃だ。
 だが、その代わり、雷薄の太刀筋は、おれの目にさえ稚拙と映る程度のものに成り下がっていた。もはや雷薄は、昂ぶる感情に従い、力任せに剣を振り回しているだけに過ぎない。
 



 その雷薄の猛攻を凌ぎながら、おれは自分自身に問いかける。
 元の世界で、親父や爺ちゃんに半ば強いられた剣術の稽古。
 こちらの世界に来て、死にたくないがために、繰り返した鍛錬。
 おれが、これまで積み重ねてきたものは、この場の賊徒、全てを打ち倒すにはほど遠いものであるだろう。それは認めざるをえない事実である。


 だが、しかし。


 目の前の、怒りに我を忘れた賊将一人を上回れないほど、おれが積み重ねたものは小さなものだったのだろうか。
 武術の技量はもちろんのこと。
 親父や爺ちゃんに鍛えられた精神は。
 玄徳様たちと乱世を駆け抜けてきた経験は。
 眼前の賊徒一人に砕かれる程度の代物だったのか?



 否、断じて否。
 たとえ万人が肯おうと、決しておれは認めない。
 乱世の理が、それを是と断じるというのなら、おれは、おれの誇りを以って、乱世の理を覆す。
 目の前の相手を殺し、この窮地を脱することで、おれはそれを証明する。
 そのための方法を、おれは知っていた。
 少数が多数を破る要諦。挑発は終えている。敵は眼前にあり。残る行程はただ一つ――それは、ただひたすらに、敵の指揮官を討つことのみ!





 雷薄の猛撃を受け、おれの歩調がわずかに乱れた。
 それを好機と見てとったか、それまでも大振りを繰り返してきた雷薄が、それよりもさらに大きく振りかぶる。これで決める、と宣言するように。
 剣が振り上げられた。そう思った時には、その剣は猛然と振り下ろされていた。
 おれの身体を真っ二つに断ち割らんと、唸りをあげて迫り来る雷薄の剣。それを見て、おれはその剣撃が避けられないことを知る。
 立ち止まって受け止めようとしても、雷薄の膂力は、構えた剣ごと、おれの身体を断ち割るだろう。
 後ろに退こうと、その剣先は、おれの身体を捉えるだろう。


 ――それゆえ、おれは前に出る。
 雷薄の剣刃が、泥に汚れた甲冑を打ち砕き、おれの右肩に食い込んでくる。だが、刃の根元であったことが幸いし、振り下ろされた剣勢のほとんどが殺がれる形になった。
「ちィッ!」
 必殺を期した一撃をしくじった雷薄の口から、痛烈な舌打ちがもれる。
 逆に、おれは飛び込んだ勢いを減じることなく、雷薄に身体ごとぶつかっていった。
 大振りの剣を振り下ろしたばかりの雷薄は、その勢いを殺すことが出来ず、後方にたたらを踏む形となる――そこに、致命的な隙が生じた。
「な――ッ?!」
 そのことに、当の雷薄も気づいたのだろう。愕然としたような呻きが口からこぼれでた。
 無論、おれが攻撃をためらう理由は存在しない。
 おれは、自らの剣を雷薄に向けた。
「ま、待――」
 何か言いかける雷薄。その口に、おれは渾身の力を込めて、剣を突き刺す。もはや、一言たりとも、貴様の言葉を聞くことに耐えられぬのだと、そう告げるために。


 剣刃は、歯を砕き、舌を貫き、口腔を切り裂き、なおも止まらず、進み続け――頸の後ろから、刃の先端が飛び出した。
 雷薄の身体が、雷薄自身の意思によらず、二度、三度と痙攣する。おれはその胴に足をかけ、力任せに剣を引き抜くと、雷薄の身体を地面に蹴り倒した。
 どう、と音を立てて崩れ落ちる雷薄の身体。
 地面に倒れこんだ時、すでに雷薄の眼からは、意思の光が消えうせていた。
 



 三人の賊将を討ち取ったおれは、小さく息を吐いた。
 一人目の陳蘭は騙し討ち。
 二人目の張凱は不意打ち。
 三人目の雷薄とは、ようやく正面から戦ったものの、結果は運に味方された上での、かろうじての勝利。
 胸を張れるような戦果ではないが、おれにしては上出来の部類だろう。もう一度同じことをやれといわれても、おそらく無理だろうし。


 だが、そんなことより、問題なのは、今なお周囲を取り囲む賊徒だった。
 ゲームであれば、敵将を一騎打ちで討ち取れば、その配下の兵は霧散するものだが、さすがに現実では、そううまくはいかないようだ。
 とはいえ、さすがに、目の前で大将格を三人、一度に討ち取られてしまったことは、賊徒に大きな脅威を与えていた。
 血まみれのおれの姿に向けられる視線には、畏怖さえ混じっていたかもしれない。
 今、必要なのは武力ではなく、演技力。おれは、冷静に判断し、行動した。 



 
◆◆




「北郷一刀、賊軍の将、三名まとめて討ち取ったりッ! なお、我が剣にて討たれんと欲する者は前に出よ! その薄汚いそっ首、大将どもと同じようにたたっ斬ってやるぞ!!」



 昂然と。
 その若者は、中庭の中でただ一人、犯しがたい威厳をもって、賊徒の前に立ちはだかる。
 その裂帛の気勢は、傍らで聞いていることしか出来なかった曹純の胸奥を貫く。
 息が詰まるほどの鮮烈さに撃たれ、曹純は、しばしの間、呼吸することを忘れていた。
 


 だが、すぐに曹純は我に返り、現状を思い出す。
 周囲を十重二十重に取り囲む賊徒は、明らかに若者の鋭気に気後れしている。
 つい先刻まで、半ば以上、覚悟を定めていた曹純の目に、光が宿った。
 気づいたのである。これは、脱出の好機。それも、おそらくは最後の機会である、と。
「くッ」
 曹純は、賊徒の目に止まらぬように、手を束縛する縄を外そうとするが、賊が力任せに結んだせいで、縄は容易に解けない。
 曹純は焦る。
 今でこそ、賊徒は北郷と名乗る若者に気圧されているが、このまま時間が経過すれば、すぐに気づくだろう。いまだに圧倒的に有利なのは自分たちなのだ、と。
 賊徒たちが、それに気づけば、全ては終わりだ。北郷は賊徒たちに切り刻まれ、それは曹純たちの運命と重なるだろう。結末は変わらずじまいになってしまう。


 賊徒たちが、大将を失って動揺している、今、この瞬間こそ、唯一無二の好機なのである。
 そう考える曹純の耳元で、不意に声がした。
(子和さまッ)
 その声と共に、曹純の右手が軽くなる。両手を縛めていた縄が、切り落とされたのだ。
 曹純はそちらに目線だけを向け、出来る限り小さな声で問いかけた。
(仲康かッ。一体、どうやって?)
(はい、連中、ボクの力を甘く見たみたいです。結構きつかったですけど、なんとか)
 その言葉に、一瞬、曹純の目が丸くなる。
 幼さに似合わぬ許緒の武力に恐れをなした賊徒は、許緒は特に念入りに縛り上げていた筈なのだが……
 許緒は、その膂力と、子供特有の柔らかい関節を駆使して、少しずつ、少しずつ、縛めを解いていったのだろう。
 その許緒によって、密かに縛めを解かれた曹純は、土気色に変じていた自分の掌に血の色が戻っていくことを確認する。
 縛られていたために、両手に強いしびれを感じる。そのしびれが消えるまでの時間が、曹純には、ただひたすらにもどかしかった。



 その合間に、目線だけを動かして、周囲の様子をうかがう。曹家の護衛兵たちの中で、無傷の者は一〇名もいない。皆、手傷を負い、あるいは賊に斬られて地面に倒れ伏している。
 その周囲には、いまだ少なくない数の賊徒がいる。武器が手元にない状況では、話にならない。許緒の力がいかに並外れていようと、武器なしで戦えるものではない。この時、曹純はそう考えていた。
 曹純たちの武器は、当然のように邸で奪われている。なんとか、奴らの武器を奪うことが出来れば。そう曹純が思った時だった。




「――ははは、なんとなんと。いつまで待っても邸に来ないからこちらから来てみれば、なんと大将がそろって討ち死にか。これは傑作だッ」
 奇妙に甲高い響きを伴った声は、邸の中から聞こえてきた。
 現れたのは、陳蘭よりもさらに大柄な体躯の持ち主である。曹純は、その顔に、どこか見覚えがあるような気がしたのだが、次に発された男の言葉で、その理由はあっさりと判明した。
「おれの名は雷緒。そこで転がっている雷薄の一族の者だ。族兄を殺したのはてめえか、小僧?」
「ああ、そうだ」
 雷緒の問いかけに、北郷は言葉すくなにこたえる。
 すると、怒り狂うかと思われた雷緒は、なんと大きく楽しげな笑いを放ったのである。
「はっはァッ! まさか小僧にやられるとは、不甲斐ない族兄だ。まあ、おかげで、おれが好き勝手できるわけだがなッ」
 その雷緒の声に応じるように、邸の中から、わらわらと賊の新手が湧き出てくる。
 どうやら、この場にいた百名と同数以上の兵が、まだあたりにはひしめいているらしいと曹純は察した。一体、賊徒はどれだけの数を動員してきたのだろう。


 だが、今はそんな詮索よりも重大なことがある。
 一時は、大将を討たれて怯んでいた賊徒が、新手の登場に冷静さを取り戻してしまったのだ。
 雷緒と名乗った賊徒は、配下の欲望を煽るように、声を高めた。
「さあ、野郎ども、さっさとその小僧と、曹家の連中を皆殺しにしろッ! 邸内に山と積もれた曹家の財貨の分け前が欲しいのならなッ!」
 その声に応じて、欲望に満ちた歓声が、賊徒たちの間から沸き起こる。
 北郷が構築した戦況は、たちまち一変させられてしまったように見えた。
 それだけではない。
 雷緒は、懐に転がりこんできた幸運に、感情の手綱を制御しきれない様子で、こんなことまで口にした。
「ふん、小僧。女ごときを主にしたのが間違いだったな。精々、あの世で悔やむが良いさ」



 だが、知らず口をすべらせた発言に、冷徹な反応が返ってくる。
「――ほう、どうしておれが玄徳様の配下だと知っている?」
 北郷の声に、雷緒の表情が、一瞬、ゆれた。
「それを口にしたのは、陳蘭を討つ前だった筈だが。まあ、大方、目障りな連中がやられてくれないものかと、陰で様子を見ていたといったところか」
 そういって、北郷はゆっくりと剣を掲げる。
 その顔がわずかに歪んだのは、先刻、雷薄から受けた肩の傷がうずいたからであろう。
 しかし、続いて発された声には、苦痛の陰は感じられなかった。
「下衆は下衆らしく、うごめくものだな。まあ、聞いていたなら、今更言うまでもないだろうが、念のためにもう一度いってやる」
 そういうや、北郷は剣先を、雷緒に向けて突きつけ、冷然と宣告を発した。
「薄汚い策謀の代価は、貴様らの命。百が二百になろうと、貴様らの末路はかわらない。劉家軍を敵にまわしたこと、後悔しながら地獄へ落ちろ」



 圧倒的に不利な状況にあって、なおも昂然と胸を張り続ける北郷。
 誇りもて屹立するその姿に、曹純は知らず惹き付けられていた。
 それは、曹純だけでなく、賊徒たちも似たようなものであったようだ。
 総身に、陳蘭と、張凱と、そして雷薄の返り血を浴びながら、毅然と剣を向けてくる若者の姿に気後れしたように、彼らは顔を見合わせる。


「がァッ?!」
 その隙をついて、動いた者がいる。
 賊徒の一人の身体が、次の瞬間、舞うように宙に浮かびあがり、そして、力任せに地面に叩きつけられたのだ。
 曹純の、手練の早業であった。
 居残った賊の数人が、それに気づいて武器を振るおうとするが、彼らの一人は、悲鳴と共に顔を覆った。何事か、とそちらを向いた賊もまた、仲間と同じ目にあって、眼窩を押さえて地面に転がる。
 彼らの手の隙間から、赤い線が幾筋も垂れてくる。
「よくも、みんなをッ!」
 中庭に転がった石の中から新たな武器を掴み取りながら、ようやく反撃を許された許緒が、怒りに震える声で叫んだ。
 
 
 何も、剣や槍だけが武器というわけではない。硬い石を力任せに投げれば、それは立派な凶器となる。
 まして、それが許緒の膂力によってなされた時、地面に転がる石は、必殺の武器へと変じる。 
 賊徒は、その凶器に目を撃ち抜かれたのである。
「仲康、奴をッ!」
 ほとんど一瞬で無力化されてしまった賊徒を他所に、曹純は、雷緒と名乗った賊将を指差す。
 その曹純の言葉が許緒に届いたとき、その手には、すでに握り拳大の石が握られていた。
「――えーーーーいッ!!」
 気合の声と共に、許緒が投じた石は、放物線を描かず、ほとんど一直線に宙を駆ける。
「なあッ?!」
 迫り来る石に気づいた雷緒は、驚きの声をあげつつも、巧みに身体をひねって、許緒の一撃をかろうじて避けた。
 だが、許緒の武器は、その足元に無数に転がっている。
 次々に投じられる石を全て避ける術はない。
 その膂力だけを見れば、雷薄を越える雷緒であったが、離れたところから、石で攻撃されては戦いようがなかった。
 蛮勇が自慢の雷緒にとって、ただの少女にいい様にあしらわれている自分の姿が、どれだけの屈辱であったのか。
 しかも。
「ぐぬッ?!」
 ついに、かわしきれず、こめかみから強烈な衝撃を受けた雷緒は、その場に膝をついてしまう。


 周囲から失笑が起こる。
 許緒の行動は、傍から見れば子供が癇癪を起こして石を投げつけているだけだ。ことに、雷緒と共に現れた賊徒は、邸内での許緒の猛勇を見ていないので、なおさらにその観が強い。
 そんな子供の一撃を受けて膝をついた雷緒に、軽侮の視線が集中した。
 そして、周囲からの視線が、雷緒の怒りを煽り立てる。
「この……ガキがああァッ! 殺してやるぞォ!」
 憤怒の声と共に立ち上がり、眼光鋭く許緒に視線を向ける雷緒。
 だが。
「――――ぇ?」
 その語尾は、ありえざる光景を視界に捉えたために、奇妙に歪んだ。


 雷緒の視界の中で、許緒は新たな石を掲げていた。
 否、それは石であって、石ではなかった。庭園の光景を構成する巨石の一つ。大の大人が群がっても持ち上げることはおろか、動かすことさえ難しいだろうと思われるそれを、許緒は一人で抱えあげていたのだ。
 さすがに、軽々と、というわけにはいかないようだったが、危なげなく巨石を抱えて立っている。
 それは何のためか?
 その雷緒の疑問の答えは、すぐに明らかとなる。
「やああああああッ!!!」
 大喝と共に、許緒が巨石を勢い良く放り投げたのだ。
 

 あまりの光景に、呆然と迫り来る巨石を見つめることしか出来なかった雷緒が我に返ったとき、すでに巨石は避けようもない距離まで迫っていた。
「ヒッ?!」
 慌てて逃げ出そうとするも、先の一撃の影響か、視界が大きく揺れ、咄嗟に足が地面を離れなかった。


 一瞬の空白。


 その後、大の大人が浮かび上がるほどの衝撃と共に、巨石は地面に落下した。
 濛々と、砂埃が周囲に舞い上がる。
 まもなく、その砂埃が晴れたとき、巨石の下に、物言わぬ躯を、北郷たちは見出すことになるであろう。

 

◆◆




 戦いは終わった。
 その少女の、神域に達したかのような膂力を目の当たりにした賊徒たちのほとんどが、雷緒の二の舞は御免だとばかりに、蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまったのである。
 その場に踏みとどまった者もいることはいたが、縛めから解き放たれた曹家の兵士たちの敵ではなかった。
 中でも、あの怪力少女の奮闘は、凄まじいの一語に尽きた。
 おれが参戦する間もあらばこそ、賊徒たちの姿は、中庭から消え去ってしまったのである。
 あまりの事態の急転ぶりに、おれはほっとするよりも、笑いの衝動がこみ上げてきてしまった。
 笑っていられる状況でも、笑って良い場面でもないことは承知していたのだが、張り詰めていた気持ちが、音をたてて緩んでいくのを自覚する。どこか、酔いから覚めた気分にも似ていたかもしれない。


 しかし、あの子、一体何者なんだろう。
 そう思い、曹家一行に向けたおれの視線が、当の一行からの視線と正面からぶつかった。
 血泥に塗れながら、なお麗質を失わぬままに、曹家の若者はおれに丁寧に頭を下げた。
「曹純、字を子和と申します」
「北郷一刀です」
 ほんとに男か、この人、などと内心で首をかしげながら、おれは曹純に名を名乗った。
 遠めに声を聞いていたから、男だとはわかっていたが、しかし、間近で見ると、つい疑いたくなってしまう。
 そして、その曹純の隣で、こちらを見上げているのが、件の少女である。
 見たところ、張飛と変わらぬ年の少女である。背格好も似たようなものだ。にも関わらず、その膂力と棒術は、おそろしいまでの破壊力を持っていた。到底、ただの少女とは思えない。
 そして、少女の名を聞いたおれは、少女の実力も当然のものと納得した。
 少女はこう言ったのだ。
「許緒、字を仲康って言います。にいちゃん、助けてくれてありがとーッ」
 雨と、泥と、血に濡れながら、そういう許緒の姿は、戦場に不似合いなほど元気よく響いた。


「ここで許仲康か。まあ、もう驚かないけどさ」
 おれの呟きに、許緒が小首を傾げる。
「んー、何か言った、にいちゃん?」
「いや、なんでも」
 おれは頭を振って、許緒に応える。
 ところで、なんで「にいちゃん」なんだろう? 
 思わず和んでしまいそうになりながら、おれは首を傾げるのだった。


 そんなおれに向けて、厳しい眼差しを向ける者が、少なからずいた。
 それも道理で、今回の襲撃、徐州の兵士が、財宝に目が眩み、曹家を襲った――というわけではなかった。
 それすらも、脚本の一部であることは、陳蘭たちの言動で明らかとなっている。そして、奴らが口にした「徐州のやんごとない御方」とやらの心当たりが、おれにはあった。
 端的に言って、曹純たちは、徐州の勢力争いに巻き込まれたのである。
 その意味で、小沛城主の配下であるおれもまた、彼らにとっては仇の一人であるといえる。復讐の刃が、おれに向けられる可能性は、決して低いものではなかったのである。


 だが、そのおれの心配は杞憂だった。曹凛と名乗った御夫人は、険しい表情を浮かべる周囲の人間をたしなめ、そればかりでなく、じきじきにお礼の言葉まで仰ってくれた。
 雰囲気はすこし違うが、どこか劉佳様を彷彿とさせる、品のある御方だった。
 が、事態がようやく落ち着くかと思われた矢先、予期せぬ出来事が起こった。
 それまで、ほとんど無言でいた曹嵩が、不意に急き込みはじめたのである。
 曹凛様が気遣わしげにその背をさするが、全く治まる様子がない。それどころか、ますます咳は激しくなり、ついには、口元を押さえた両手が、赤く染まるほどの量の血を吐いたのである。
 慌てて周囲の人間が曹嵩の下に駆け寄る。
 少しでも楽にさせようと、服を脱がせた途端、周囲の人から悲鳴が起こる。
 曹嵩の左の胸から腹にかけて、青黒い痣が大きく広がっていたのだ。
 おそらく、先刻、雷薄に蹴られた際、肋骨が折れたのだろう。そして、折れた肋骨が肺を傷つけたというあたりか。
 かなりの激痛であった筈だが、これまで、苦悶の声一つあげずに耐え続けていたのか、あるいは、声を出すことさえ出来ない状態だったのかもしれない。


「主様、しっかりなさってくださいッ」
 曹凛が、必死に呼びかけるも、曹嵩の口からは喘鳴がもれるばかりだ。素人目に見ても、良くない状況であることがわかった。
 本来なら、この場で安静にさせ、医者を呼んでくるべきであったが、ここはいつ賊徒が戻ってくるかもわからない場所である。
 まずは、安全な場所に移ることが先決であった。 


 ありあわせの板と布で、応急の担架をつくり、そこに曹嵩の身体を横たえる。
 曹嵩の口からは、いまや絶えず喀血が繰り返されている。土気色に変じつつあるその顔を見て、おれは奇妙な既視感を覚えた。
 おれは、今の曹嵩のような顔をした人たちを、何度となく見たことがあった。
 それはどこであったか、と考えたおれは、すぐに気づき――そして、愕然とした。 
 今の曹嵩の顔色。それは、戦場に横たわる死屍のそれと、ほとんど変わることはなかったのである。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/15 22:34


 徐州牧・陶謙は、居城である彭城の一室で、疲労した顔の中にも、満足の色を浮かべていた。
 先刻、ようやく終わった会議が、ほぼ陶謙の望む結論で幕を下ろしたからである。
 その決定は次のようなものだった。
 みだりに皇帝を僭称する袁術に対し、徐州は断固として、これを認めない立場を明確にし、許昌の漢帝に対し、この決定をお知らせする。
 漢帝を擁する曹操は、今回の袁術の行動を放置しておく筈はなく、必ず戦端を開くだろう。袁術の揚州、ならびに曹操の兌州と、二つながらに接する位置にある徐州の動向は、袁術、曹操、両者にとって無視しえないものである。その徐州が、漢帝に忠誠を尽くすということは、すなわち曹操側につくことを意味する。陶謙の使者は、必ず許昌で歓迎されることになるだろう。


 曹操との友好が確立されれば、陶謙は兌州に接する国境の軍備を、大幅に削減することが出来る。兵役に就いた民を、農村に帰せば、生産力の向上につながり、同時に軍備を維持するために必要な資金を削減することも出来るだろう。
 無論、それは理想である。現状、軍備の削減など、容易く出来る筈もない。だが、少なくとも、南の袁術への備えを、より堅くする程度のことは可能となるだろう。


 陶謙は、これまでの曹操の行動を鑑みた限り、かの者が動くのは、ほどなくのことだと判断していた。曹操は、主導権を他者に握られ、黙っているような人物ではない。時代に従うのではなく、時代を従わせる覇気の持ち主であり、今回のような事態に直面した時、黙って事の成り行きを見守るような消極策を選ぶことはあるまい。
 許昌が動けば、当然、陶謙の下にも出兵の命令が届くだろう。それは、曹操の手先となるに非ず。漢の旗幟の下、叛乱軍を征伐する正義の軍の一翼を担うのである。


 漢帝に忠節を尽くし、偽帝を討伐する。これほどすっきりとした、名誉ある戦いは、そうそうあるまい。その戦いで武功を輝かせた者の名は、徐州のみならず、中華全土に轟くであろう。
 無論、敵は偽りといえど、皇帝を名乗るだけの力を持った者。その麾下には、中華最強の飛将軍さえいると聞き及ぶ。戦い、勝利することは、決して簡単なことではない。まして、徐州軍は、虎牢関の戦で、その飛将軍の軍に鎧袖一触、蹴散らされた苦い記憶があるのだから、なおさら、その観は強かった。


 何者をもってすれば、偽帝と互角の戦いを繰り広げることが出来るのか。
 何者をもってすれば、飛将軍の神勇に対抗することがかなうのか。
 それだけの戦略戦術をたくわえる頭脳を有する勢力。
 それだけの武技驍勇を秘める武将を配下に持つ将軍。


 ――いずれも、小沛の劉玄徳以外にありえなかった。

  
 小沛の劉玄徳に、徐州全軍の采配を委ねる。
 会議の冒頭、そう告げた陶謙の言葉は、居並ぶ群臣を驚愕させた。中でも、最も驚いたのが当の劉備であったことに、陶謙は微笑をもらしたものだった。
 とはいえ、陶謙にとっては自然な人選であったが、当然のように、すんなりとは運ばなかった。
 瑯耶郡の黄巾党征伐、小沛入城以後の野盗退治や、国境周辺での小競り合いなどで、劉家軍の精強なるを知らない者は、徐州にはいない。だが、徐州全軍を率いるとなれば、ただ戦に強いだけではなく、帥将としての力量が求められる。
 それは、戦局全体を見渡す視野の広さであり、的確に将兵を配置し、変事に応じるだけの戦術眼を持つことである。
 また、徐州軍の兵力は当然ながら限りがあり、あらゆる戦場の必要数を満たせるわけではない。時に、味方を斬り捨てる決断を強いられることもあるであろう。その時、将が情にとらわれ、ためらいを覚えては、千変万化する戦場の動きに対応することはできず、徐州軍はついには敗亡の淵に立たされることになりかねぬ。
 それゆえ、そういった事態にあって、怯むことなく対処できる冷厳さもまた、将たる資格の一つなのである。

 
 ことに、最後の点が、劉家軍の実力を知る者であっても、陶謙の人選に難色を示さざるをえない懸念なのである。
 そして、その危惧は、陶謙もまた群臣と等しく持っているものであった。
 無論、劉備とて、これまで戦乱の中を、一軍の将として駆け抜けてきた人物である。一瞬の判断の遅れが敗北を招く、峻厳な戦場の理を知らぬ筈はない。黄巾党との決戦をはじめとして、幾度もの激戦を潜り抜けてきた胆力を侮るつもりはない。
 だが、百や千の軍将としてのそれと、一国の命運を賭け、万余の軍勢を率いて戦うそれでは、根本的に意味合いが異なる。
 敗北は、自軍の将兵のみならず、その背後に控える数十万、数百万の民衆の命運をさえ決する。その重みは、余人の想像を絶しよう。心身に深く重く積み重なる疲弊は、老練な陶謙であっても容易にさばくことは出来ない。いわんや、若く、可憐な乙女である劉備にとっては尚更であろう。


 だが、それと承知してなお、陶謙は劉備を徐州全軍の総帥に推した。
 それに対する臣下の反応は、当然ながらひとつではない。
 孫乾や糜竺、陳登らのように全面的に賛同する者がいる一方で、古参の将である糜芳、曹豹らは新参の将に大役が与えられることに不満の色を見せている。
 また、陶商、陶応らに近しい臣下たちは、表立った反対こそしないものの、内心は何を考えているか知れたものではなかった。


 とはいえ、彼らが声高に反対を唱えないことは、陶謙、そして孫乾たちにとっても意外ではあった。陶謙の代わりならば、余所者に頼らずとも、公子たちがいるではないか、と主張するに違いないと考えていたからである。
 だが、彼らとても、徐州で枢要に携わる身。今回の変事が招く戦乱が、尋常のものではないことを肌で感じているのだろう。陶商たちを担ぎ出すには、危険が大きいと判断したのかもしれない。
 あるいは、誰よりも公子たちを知る彼らのこと、このような時、陶商たちを前面に押し出しては、最悪の場合、自らの利益のみならず、自家の安泰さえ覆される事態になりかねないとも考えたのか。


 いずれにせよ、積極的な反対がなされないことは、陶謙にとって僥倖であった。 
 将軍たちにしても、相手が飛将軍とあって、その一番の標的となるであろう帥将の座を欲するだけの気概を有する者はおらず、結局、劉備が自分たちの上に立つことを認めることになった。
 諸葛亮に促された劉備が、戸惑いながらも承諾の旨を告げるや、武官、文官を問わず、その場に席を与えられていた者たちは、一斉に頭を垂れ、劉備の指揮に服することを態度で表したのである。




 人心の統一なくして、勝てる戦なぞ存在しない。
 それは逆に言えば、人心の統一さえ成れば、いかなる戦にも勝機を見出せるということ。
 ここに、徐州は指揮系統を一新し、来るべき戦乱に対する体制を確立させることに成功する。
 それは、やがて軍のみならず、徐州全土に及ぶ新しい治世の先駆となる出来事であると陶謙は考え、久しく感じることのなかった活力が、身体中を満たしていくのを実感しているところであった。
 後は、偽帝を征伐し、その勲をもって、劉備に徐州牧の印を譲り渡せば、自身に与えられた天命を果たすことが出来る。陶謙はそう信じていたのである。



 ――暁闇を裂いて、一つの報告が彭城に届けられるその瞬間まで。ずっと。







 征東将軍・曹操の父曹嵩、弟曹徳、徐州の軍勢に襲われ、落命す。
 その報を受けた時、陶謙はすでに目を覚まし、起き出す寸前であった。
 昨夜からの風雨は収まっていたが、徐州の空は厚い雲に覆われ、晩秋の肌寒い寒気が、陶謙の私室にも入り込んでいる。
 その部屋の中で、陶謙は、時ならぬ雷鳴を、至近に聞いたかのような表情を浮かべ、咄嗟に言葉も出なかった。
 文字通り、寝耳に水の事態である。州牧である陶謙は、当然、そんな命令を下した覚えはない。一体、何事が生じたというのか。


 知らせをもたらしたのは、小沛城主であり、昨夜、徐州軍の帥将となった劉備であった。諸葛亮一人を連れて、早急に州牧に会いたい旨を告げているという。
 陶謙は一も二もなく頷くと、主だった家臣たちに謁見の間に集まるように命じた。まだ夜明け前の刻限であるが、事態は一刻を争うと、陶謙は判断したのである。


 かくて、慌しく集まった徐州の高官たちの前で、先夜の惨劇の概要が詳らかにされていく。
 北郷と、そして事が終わった後に駆けつけた張飛から、状況をつぶさに聞きだした諸葛亮が語る一連の出来事は、無駄をそぎ落とし、必要な部分を削らぬ見事なものであった。そして、それだけに、より一層、先夜の凄惨な状況が、聞く者の心に印象づけられていくのである。


 諸葛亮が、曹嵩が倒れたところまで語り終えると、それまで無言で話に聞き入っていた陶謙の口から、呻きに似た声が漏れる。
 その呻きが明確な声として発されるまで、しばらくの時が必要であったのは、いたし方のないことであったろう。
 陶謙の口からようやく発された声は、わずかに震えを帯びていた。
「……では、曹嵩殿は、もはや?」
「……はい。先刻、息を引き取られました」
 諸葛亮の言葉に、陶謙の身体が椅子に崩れ落ちる。慌てて侍女がその身体を支えようとするが、陶謙は腕をわずかに振って、侍女に無用の旨を伝える。だが、その様子は明らかに憔悴しており、一気に十以上も年をとってしまったかのようだった。
 諸葛亮が告げた事実が、どのような事態を引き起こすか。陶謙は、瞬時に悟ったのである。


 陶謙が崩れ落ちると同時に、駆けつけた高官たちの口から悲鳴じみた声があがり出す。
 遅ればせながら、彼らもまた、事の大きさに思い至ったのだろう。
「し、しかし、何者がそのような真似をするッ?! 陶州牧はそのような命令を出しておらん。誤報ではないのか?」
 曹豹が言えば、それに応じて糜芳が頷いた。
「う、うむ。あるいは、野盗どもがでまかせを口にしただけやもしれん。いずれにせよ、曹家の一行をこのまま許昌に向かわせるはまずかろう。我らに、彼らを傷つける意図などないことをわかっていただかねば、許昌の曹操の恨みを買うは必定だぞ」
「さよう。玄徳殿、曹家の方々は、今、いずこにおられるのか?!」
 曹豹、糜芳は口々にそう言い立てたが、彼らとは対照的に、孫乾や糜竺らは口を噤み、顔色を蒼白にしていた。


 どちらが現状を認識しているか。それを比べれば、疑いなく後者に軍配が上がるだろう。
 徐州の地で、曹操の一族の血が流れた。それが徐州側の関知しないものであったとしても、それだけの暴虐を許してしまった罪は拭えない。
 まして、命を失ったのは曹操の実の父と、弟である。儒教倫理を持ち出すまでもなく、漢民族にとって、父母は、自身をこの世に産み落とした尊貴の存在である。父母の仇とは、共に天を戴かず、というのは当然であり、自然な考えであった。
 その父の命を奪われたのだ。例え、徐州側が無関係を言い立てたところで、もはや曹操は止まるまい。
 しかも、である。


 そも、本当に徐州側は無関係なのだろうか?


 孫乾と糜竺は知らず、互いに視線を交わしていた。彼らは互いに、とある危惧を共有したことを、その一瞥で確認しあう。
 同時に、それは彼らの主君である陶謙もまた抱えている危惧でもあったようだ。
 陶謙が、再び重い口を開く。
「玄徳殿。今の孔明殿の言うことを聞けば、貴殿の配下は、曹家の方々と共に賊徒らと戦ったと聞いた。教えてくれぃ。一体、何があったのじゃ? 何ゆえ、徐州の軍が手を下したということになったのじゃ?」
 その声からは、いまだに震えが消えていない。
 まさか、との疑惑を禁じえずにいることが、その問いに現れていた。




 劉備は、咄嗟に陶謙の問いに答えることが出来ない。
 だが、問題の大きさと、緊急性を考慮すれば、沈黙を保ち続けることもまた出来なかった。
 それでも、自らの口で、そうと口にすることはつらかったのだろう。陶謙の問いに対する劉備の答えは、事情を知らない者の耳には、やや要領を得ないものとなった。
「陶州牧、あの、その、ですね。ご子息が、彭城にいらっしゃるのか、確認して頂いてもよろしいでしょうか」
 その言葉に対する周囲の反応は、綺麗に二つに分かれた。
 一つは、劉備が何を言っているのかわからず、怪訝そうな顔をする者たち。
 そしてもう一つは――やはり、と言いたげに表情を強張らせる者たちである。


 陶謙は、後者であった。
 両手で顔を覆うように俯くと、表情を隠したまま、劉備の問いに答える。
「……玄徳殿、もそっと直截に申してくだされ。襲撃の現場に、愚息がおったのですかな?」
「い、いいえ。現場にいたのは、陳蘭と雷薄と名乗る賊、あと、もう一人は張凱、という人物だったそうです。ただ、ですね……」
 劉備は、つらそうに声を詰まらせた。
「わしに遠慮は要りませぬ。今は、一刻も早く真相を究明し、対策を練るが肝要。申されよ」
 陶謙の言葉に、劉備はためらいを残しつつ、口を開いた。
「鈴々ちゃ――い、いいえ、私の配下の張飛が、知らせを受け、現場に赴く途中、不審な一行を見つけたのです。夜半、甲冑をまとい、武器を帯びていた彼らを問い詰めたところ、彼らは物も言わずに張飛たちに武器を向けてきて」
 突然の攻撃であった。
 だが、張飛は虎とも渾名される猛将である。そこらの賊相手に遅れをとる筈がなく、たちまちのうちに彼ら全員を叩き伏せ、その隙に逃げようとしていた一行の指揮官らしき人物を捕らえることに成功したのだ。
 そして、その人物こそが――
「……陶応様、と思しき人物だったのです」
 劉備が告げる事実に、それを予想していた者、していなかった者を含め、徐州の高官、誰一人として声を発することが出来ない様子であった。




 さらに劉備は、駆けつけた張飛によって、残存していた賊徒がことごとく討ち取られたこと。邸内でかろうじて生き残っていた者たちを救出したこと等を付け加えた。
 それから、しばし後。
 失意と驚愕から立ち直ったのか、陶謙が静かに配下へ命令を下し始めた。
「――公祐(孫乾の字)」
「は、はいッ」
「子方(糜芳の字)」
「はッ」
 陶謙の呼びかけに、孫乾と糜芳が慌てた様子で応じた。
「すまぬが、そなたたち、急ぎ商を呼んできてくれい。愚息や、その側近たちが妄動するようなら、力ずくで押さえつけてかまわぬ」
「ぎ、御意にございます」


「曹豹」
「はッ」
「そなたは、早急に彭城内の軍兵を束ねよ。不穏な動きをする者たちあらば、ただちにわしに知らせるのじゃ」
「承知仕りました」
 陶謙の命令に、曹豹は戸惑ったような顔をしつつも、その命令に従うため、足早に出て行く。


「玄徳殿」
「は、はいッ!」
「もう一人の愚息を、この場に連れてきていただけまいか。おそらく、貴殿らが匿ってくれているのであろうが、我が身に対する遠慮も斟酌も無用じゃ」
 劉備にそう告げた時、陶謙の顔にはすでに当初の驚きはなかった。その声は、どこか淡々としており、この非常時にあって、狼狽の欠片も見当たらない。
 その落ち着きを保ったまま、陶謙は念のために、とでも言うように、問いを付け足した。
「曹家の方々は、もうすでに許昌に向かわれたのであろうな?」
「は、はい。曹嵩様が亡くなられた後、すぐに。私が、ぜひとも陶謙様にお会いになってくださいと申し上げたのですけど、それも拒否されてしまって……」
 陶謙はそれを聞き、小さく頷いた。
「さもあろう。徐州領内の政変に巻き込まれたのじゃ。その長であるわしを信じることが出来ぬのは当然のこと。じゃが、この上、助かった方々まで、放逐同然に徐州を追い出すわけにもいかぬ……」
 苦悩する陶謙に、劉備は慌てて、これまで伝えていなかった事実を伝えた。
「ご、ご安心ください。私の護衛として彭城についてきてくれた三〇名、今は曹家の方々をお守りするために、ついていっています。張飛もおりますし、襲撃の場で、曹家の人たちと一緒に戦った北郷という人も、頼りになる人ですから、再度の襲撃の恐れはないと思いますッ」


 陶謙にこれ以上の心労をかけまいとする劉備の必死の物言いに、陶謙の顔にようやく柔らかい表情が浮かぶ。それは、笑みと呼ぶには淡いものであったが、凶報を聞いてこの方、陶謙が決して浮かべることのなかったものでもあった。
「さようか。貴殿と、貴殿の配下の方には、どれだけ感謝してもしたりぬようじゃ。ともあれ――」
 陶謙の眼差しに、鋭い光がよぎる。
「不埒者らの処罰は、何にもまして行わねばならぬ。手数をかけるが、応めを連れてきてくだされ」
「は、はい、かしこまりました」
 陶謙の、州牧としての威に触れ、劉備と諸葛亮は、一斉に頭を垂れたのであった。 






 そして、劉備たちが去った後。
 その場に残ったのは、陶謙と、そして糜竺だけであった。
 最後に残った配下に向けて、陶謙は静かに口を開いた。
「子仲」
「は」
 糜竺は、落ち着いた様子で、陶謙に応じる。
「そなたには、これより使者として発ってもらう。何処へ行ってもらうかじゃが、わかるか?」
「さて、それがし、人の心を読む術は心得ておりませぬゆえ、それだけでは如何とも。ただ、推測を口にすることくらいは出来まするが」
 このような事態にあっても、常と変わらない糜竺の物言いに、陶謙は穏やかな表情で頷いてみせた。
「推測で良い。申してみよ」
「されば――偽帝めの、宿敵のところでございましょうや?」


 その糜竺の言葉に、陶謙は、ただ一度だけ、首を縦に振った。





◆◆





「ここまでで結構です。劉家の方々」
 曹純がそう口にしたのは、兌州と徐州の国境にほど近い場所であった。
 互いに馬上にあって、何とも言いがたい表情で、おれは曹純と視線をかわした。
 

 襲撃から、すでに数日が経過している。
 曹嵩が黎明と共に息を引き取ってからこちら、おれはずっと曹家一行に付き従っていた。名目としては護衛であるが、それは後から駆けつけてくれた張飛と、その部隊だけで事足りる。
 おれの役割は、徐州側と曹家一行との間の橋渡しであった。
 もっとも、襲撃に関することに、口をはさむことなど、出来るわけがない。夫をなくした曹凛様や、配下を失った曹純、友達を傷つけられた許緒に対して「あれは陶州牧のやったことではない。だから勘弁してほしい」などと口にする蛮勇を、おれは持ち合わせていなかった。
 おれがやったことは、襲撃後、徐州側に保護されることを嫌った曹家一行に対して、馬や馬車、あるいはけが人を手当てするための薬や、衣服などを提供することであった。


 言うまでもなく、それらの物資は、陶謙からのせめてもの補償の一端であった。徐州の役人から渡そうとしても拒絶されると考えた陶謙は、劉家軍の手を経て、曹家にそれらの物資を差し出したのである。
 陶謙の真情としては、みずから馬を駆って、彼らに謝罪したいところなのかもしれないが、すでに彭城では、今回の一件が公子たちの手によってもたらされたことが発覚していた。そのため、城内の人々は大混乱に陥っており、州牧である陶謙が、城を空けられる状況ではなかったのである。


 護衛の兵士も、当初の三〇騎から、一〇〇騎近くまで増えていた。これは、彭城からの知らせを受けた小沛の関羽が派遣してくれたもので、それを率いていたのは、趙雲だった。
 もっとも、さすがの趙雲も、曹家の人々の沈痛な面差しを前にしては、口を閉ざすことしか出来ぬ。
 さらには、徐州側の新しい将軍の到着は、無用に彼らを刺激すると考えたのだろう、関羽から託されていた領内通行の手形をおれに渡し、そして、おれの口から襲撃の一部始終を聞くや、すぐに小沛に向けて馬首を返したのである。
 その際、趙雲は、どこか憂うような眼差しで、おれの顔をまじまじと見つめた後、一度だけ肩を叩いたのだが、あの動作の意味は、この時のおれには、まだ理解できなかった。




 かくして、ようやく兌州の地を望む場所まで、おれたちはたどり着く。
 数日の行を共にしたとはいえ、おれや張飛は、曹純たちとはほとんど言葉を交わしていない。物資を引き渡す際や、あるいは怪我の具合が悪化し、途上で果てた兵士を埋葬する時に、幾度か会話したくらいか。道程のほとんどは、重苦しく、悲痛な沈黙に包まれたものであった。
 曹純が、どこか淡々とした様子で、おれを見ながら口を開いた。秀麗な容姿からは、隠しきれない疲労と、そして憤りが感じられる。それは、ここ数日で深まりこそすれ、薄まる気配はまるでなかった。
「北郷殿をはじめ、劉家の方々には世話になりもうした。曹嵩様、曹徳様のことは残念でなりませんが、曹凛様お一人だけでもお救いすることが出来たのは、ひとえに貴殿たちのお陰です。このとおり、お礼申し上げる」
 そういって、馬上、頭を下げる曹純に、おれは頭を振って応えた。
「――お役に立てたのでしたら、何よりです。ですが、礼を言われるようなことは、私たちは、何もしていないと思います」
 言葉すくなに応じるおれ。
 それ以外に、何を言えるというのだろう。
 ここで万言を費やそうと、決して意味をなさないであろうことくらい、おれにも理解できていた。


 曹純は、おれと同じ動作をした。つまり、頭を振ったのである。
「繰り返しますが、貴殿たちには、感謝しています。これは、私だけではなく、仲康も同じ気持ちです。そして、曹凛様もまた、貴殿らには感謝しておられる」
 そう言った後。
 曹純は、静かに。静かすぎるくらい、静かに、こう言った。
「――もし、貴殿らに会わねば、我らは徐州のことごとくを焼き尽くしても、飽き足らぬ気持ちになっていたでしょうからね。我らだけではない。徐州の民も兵も、州牧でさえ、貴殿らに感謝してしかるべきでありましょう」



 それは、刃を示さぬ殺意であり、怒気を発さぬ激語であった。
 蒼の瞳が、氷河の凍てつく輝きを具現する。
 その総身から発せられる鋭利な迫力は、見る者の心を粉微塵に打ち砕かずにはおかなかった。
 おれは、一言もなく口を噤むことしか出来ず、張飛でさえ、厳しい表情を浮かべたまま、口を開けずにいた。


 そんなおれたちに対し、曹純は、ようやく感情を顔にのぼらせる。それは、諦めの混ざった、どこか寂しげな表情であるように、おれには見えた。
 曹純の口が、ゆっくりと開かれる。
「次に会う時は、我らは敵同士となっておりましょう。戦場で見えれば、この場での恩義は意味をなさず、互いの生死を賭して戦いあう道しか残されていないでしょう。我らが恩人の、これからを憂うがゆえに、ご忠告いたします」
 一呼吸置いた後、曹純は言う。


「一日も早く――否、一刻も早く、徐州から離れられよ。曹家の長たる曹孟徳、その力は中華全土に遍く響き、その気概は天下を覆いつくしてあまりある。卑劣なる策略を用いて、孟徳様に牙を剥いた愚者共は、雷挺の如き怒りに討たれ、ことごとく徐州の地に屍を晒すことになりましょう。そして、このまま徐州にとどまれば、孟徳様の怒りが貴殿たちにまで及ぶは必定。私は、恩ある方々の命を惜しむがゆえに、心より忠告いたします。徐州を、離れられよ。そう、劉玄徳殿にお伝えください」


 そう言うや、こちらの返答を聞くこともなく、曹純は馬首をめぐらせる。
 その向かう先には、許緒と曹凛様の姿があり、彼女らもまた、気遣わしげにおれたちの方を見つめていた。
 だが、それも少しの間のみ。
 やがて、曹純らは兌州領内に向けて去っていき、おれたちは、言葉もなく、その後姿を見送ることしか出来なかった。



 ……許昌の曹操から、彭城の陶謙に向けた宣戦布告が発される、前日のことであった。
  
     



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/22 02:14
 


 陶謙への宣戦布告を行うや、曹操は即日、五万の兵を率いて、許昌を進発した。
 この時期、曹操の最大動員兵力が二〇万に達することを考えると、この数はやや少ないように思われる。
 だが、軍隊とは、兵士を集めるだけで成り立つものではない。戦略戦術はもとより、武器、糧食をはじめとした物資がなければ、どれだけ精強な兵士であっても、実力を発揮しようがない。
 ことに、外征においては、この物資をいかに滞りなく運ぶかが勝敗を決する重要な要素になる。
 兵法に親しむ曹操は、当然、そのことをわきまえていた。それは、その配下の諸将にも同様のことがいえる。そういった準備をせずに兵を発し、士卒に飢えを強いるがごとき愚将は、曹操軍には存在しない。


 それを考えれば、急報を受け、即日、五万の軍勢が動員されたという事実の、いかに恐るべきかは瞭然としていよう。すなわち、それだけの物資、それだけの準備が、常に許昌では整えられているということの証左なのである。
 軍隊を増強させるだけではなく、それを支える内治における曹操軍の充実ぶりが、この一事を見るだけで明らかであった。
 当然ながら、五万の軍勢が出陣しても、それで終わりではない。
 各地で動員された兵は、準備を終え次第、許昌をはじめとした曹操領から次々に出撃し、本隊に合流していく。
 曹操の本隊は見る見るうちにその数を増し、徐州国境にさしかかった時には、その兵力は十万に達していた。




 一方、迎え撃つ徐州の陶謙は、曹操とは対照的な動きの鈍さを見せていた。
 より正確に言えば、徐州側の人々は、動こうにも動けなかったのである。
 徐州牧陶謙が、病に倒れてしまった為に。


 父として子の暴挙を察せなかったこと。
 州牧として徐州の治安を疎かにしたこと。
 さらには、それらが原因となって、漢帝を擁する曹操と敵対することになってしまったこと。
 そのどれをとっても、陶謙の余命を削り取らずにはおかない重大事であった。
 当初、陶謙は、息子たちと襲撃に加わった兵、さらには自分自身の身柄も含めて、曹操の陣営に差し出すつもりであった。
 陶家の家長として、そして徐州の州牧として、今回の一件が申し開きのしようもない失態であることは、誰よりも陶謙は理解していた。それゆえ、自らの一命を賭して、曹操の怒りを解き、徐州へ向けた矛先をおさめてもらおうとしたのである。


 だが、これには陶謙の配下から一斉に反対の声があがる。
 公子たちの罪は否定しようもないが、陶謙自身が命をもって償う必要があるだろうか。
 これまで陶謙は、徐州牧として、徐州の地を見事に統治してきた。多くの配下が、陶謙の徳を慕い、忠誠を捧げている。次代の権力奪取を狙い、公子たちに近づいた者たちでさえ、それは例外ではなかった。彼らが狙うのは、あくまでも次代の権力。陶謙個人に対して歯向かう気持ちを持っているわけではないのである。


 多くの配下の反対にあい、陶謙は即座に行動に移ることが出来なかった。
 孫乾、陳登らは、襲撃を実行した者たちの身柄を曹操に引き渡すことは当然としながらも、曹操がそれ以上を求めるようなら、戦いもやむなしと訴えた。今回の襲撃に対し、徐州側に全ての責任があることは確かだが、だからといって徐州が曹操の言うなりになる必要はない
 一方で、曹豹などは、活発化している曹操領内の動きに注意を喚起し、曹操軍が大動員をかけてくるであろうことを予測した。曹操軍が本格的に動き出せば、徐州の軍が太刀打ちすることは難しい。無用な抗戦は、戦禍を大きくするだけであると主張した。
 降伏を主張する者、河北の袁紹に救援を求めようと言う者、あるいはこの際、南の偽帝と手を組めないものかと口にする者等が入り乱れ、軍議は収拾のつけようがないように思われた。


 そして。
 唾を飛ばして自説を主張する彼らの耳に、奇妙に鈍い音が響く。
 何事か、と音の聞こえてきた方向に目を向けた徐州の高官たちは、そこにうつぶせになって倒れ込む、州牧の姿を見つけたのである。



◆◆



「――さすがは曹操。疾風迅雷とはまさにこのことだな」
 小沛城内における軍議の間で、開口一番、趙雲がそう口にした。
 徐州国境に姿を表した、雲霞の如き曹操の大軍と、その大軍をこの短期間で集め、編成し、移動せしめた曹操軍の実力に敬意を表してのことであろう。


「敵を褒めている場合ではなかろう。孔明、士元、何か策はないのか。このままでは、この城は瞬く間に曹操軍に囲まれてしまうぞ」
 趙雲の言葉に、苛立たしげに反論した関羽が、二人の軍師に視線を向ける。
 だが、当の軍師たちは、力なく頭を振る。
「残念ながら……小沛の軍を動かす準備は出来ていますが、今の曹操さんの軍勢と正面から戦うのは、危険が大きすぎます」
「……かといって、ここまで時間がないと、ほどこせる策も限られてしまいます。それに、曹操さんの軍は、進軍こそ速いですが、油断も隙も見当たりません。報告によれば、騎兵、歩兵、皆、整然と行動し、まるで一つの生き物のように、徐州めがけて進んでくるとのこと。小細工を弄せば、痛い目を見るのは私たちでしょう」
 諸葛亮と鳳統の言葉に、関羽のみならず、周囲の将軍たちも、うめきにも似た声を搾り出すことしか出来なかった。


 鳳統が口にしたように、曹操軍の進撃ぶりは素早く、隙のない見事なものだった。
 猛々しさもあらわに、復讐に燃えて殺到してくる狂兵の群れ――そんなものはどこにもおらず、粛々と、まるで潮が満ちるように静かに、しかし着実に徐州へと侵攻してくる曹操軍。
 それはあたかも巍巍たる城壁が迫ってくるかのような威圧感を伴い、小沛のみならず、徐州全土を押し潰さんとしているかのようであった。
 劉家軍の諸将にとって、曹家襲撃の凶報に始まった今回の戦いは、予想だにしないものであった。
 それゆえ、戦いの備えが不十分であることは否定できない事実である。
 だがそれ以上に、劉家軍には、ある感情が燻っていた。
 それは――


「しかし、ですな。そも、我らが曹操と戦う必要があるのでしょうか?」
 遠慮がちに、しかし、はっきりとそう口に出したのは、馬元義であった。
 劉家軍を率いる五人の将軍――関羽、張飛、陳到、趙雲、馬元義――のうち、もっとも目立たない人物である。
 それは無理からぬことであった。馬元義の主な任務は、陣地の設営であったり、後方の警戒であったり、あるいは補給路の確保であったりと、重要ではあるが、功績が目立たないものばかり。戦場で華々しく敵将と渡り合うような場面には、ついぞ出くわさずにここまで来たからである。
 くわえて、もともと黄巾党の一兵卒から、張宝によって大抜擢された馬元義は、将軍としての知識、手腕、経験などがほとんどなく、勝敗を決するような重要な局面を預けるには、やや頼りない人物だと考えられていた。


 しかし、河北からこちら、馬元義はうまずたゆまず将軍として研鑽を積み、経験を重ね、功績の目立たない裏方の仕事であっても誠実に勤め上げてきた。
 その堅実な仕事振りは着実な成果を示し、将軍としての信頼を、周囲の人々に植え付けていった。
 馬元義の存在は、未だ脚光を浴びるには至っていないし、おそらく今後もそうなることはあるまいが、、しかし、劉家軍の作戦行動において、欠くことの出来ない人物であると目されるようになりつつあったのである。
 そんな馬元義のもう一つの特徴。それは、その忠誠が劉家軍の長である玄徳様ではなく、張角たち三姉妹に向けられている、ということであった。
 とはいえ、誰かがそれを問題視している、というわけではない。馬元義が三姉妹に忠誠を尽くすのは、その出自から言って当然のことであったし、玄徳様に隔意を抱いているわけでもない。むしろ、こんな自分が将軍職についていて良いのだろうか、と気にしているような人柄であるから、問題など起こりようがなかったのである。これまでは。


 しかし、今回は状況が違いすぎた。
 関羽らは玄徳様の性格を知るゆえに、陶謙に属して曹操と戦うということに異論は唱えない。しかし、馬元義にしてみれば、どう考えても理は曹操にある。その曹操と対立し、張家の姉妹や、あるいは自分の部下たちを危険に晒すことは避けたいと考えるのは、自然なことであったのだろう。
 誰もが口に出そうとしなかった言葉を口にしたのは、そういった背景があってのことだった。

 
 そして、口にこそ出さないが、馬元義と同じ感情を持っている者は少なくなかったのだろう。誰よりも、玄徳様自身、迷いを覚えていたに違いない。
 馬元義の言葉を聞くや、さっと曇った表情が、その心中を如実に表しており、その口から出る言葉にも、いつもの明瞭さが欠けていた。
「そ、それは、その……」
「――もちろん、あるに決まっているでしょう」
「え?」
 玄徳様が、唐突に口をはさんできた人物に、驚きもあらわに視線を向けた。
 つまり、おれに、ということだが。



 相手は将軍。こちらは将軍(趙雲)の部下。立場としては、当然、向こうが上なのだが、おれを見る馬元義は気分を害した様子はなかった。
 劉家軍に加わった時期がおれの方が早いこともあるし、あるいは三姉妹とも近しい関係にあるため、おれには一目置いてくれているのである。
「む、北郷殿、しかしですな。どうみても、今回の件、相手に理がありはしませんか? まして、相手は漢帝を擁し、朝廷の威光を背負っている曹将軍の軍勢です。ここは相手に従うのも、一つの方法だと思うのですが」
「確かに、強風に煽られた際、すなおに屈服するというのは、一つの見識ではあるでしょう。流れる血も、少なくなるかもしれない。それに、馬将軍が仰るとおり、今回の発端、明らかにこちらに非がありますしね」
 おれは馬元義の言葉に頷いてみせた。
 それを聞き、玄徳様が顔を俯かせる。
 馬元義が、何か言おうと口を開きかけたが、おれはそれを押しかぶせるように、さらに言葉を続けた。


「では――」
「でも、です。曹将軍が、家族の仇を討たんとするのは、当然のことで、当然の権利であるでしょう。しかし、それと徐州を侵略する権利とは異なるのではないでしょうか。今、馬将軍は朝廷について言及されましたが、今回の曹将軍の行動は、一族の仇を討つという私(わたくし)のもの。漢朝の臣として徐州を征するに足る公(おおやけ)の理はありません」
 言ってから、おれは肩をすくめた。
 詭弁である、と自分でも思ったからだ。
「……まあ、陶州牧は、ばか息子どもの親という意味で私の存在であり、州牧という立場で公の存在です。あちら側からすれば、おれの言っていることは、罪をごまかすための詭弁になるのでしょうね。けれど――」


 気が付けば、いつのまにか、室内にいる人々の視線は、ことごとくおれに向けられていた。
 そのほとんどが、多かれ少なかれ、驚きの色を浮かべている。これまで、おれは軍議で発言することはあっても、他者の会話に割って入ったり、あまつさえ玄徳様の言葉を遮るような真似をしたことはなかった。
 そんなおれが、滔々と自論を述べ立てることに、皆、驚いているのだろう。
 だが、それと知ってなお、おれは自分の口を塞ごうとは思わなかった。先日来、頭の中が奇妙なまでに冴え渡っており、気分が高揚する一方なのである。状況が状況だったせいもあるが、眠る時間もほとんどなかったにも関わらず、眠気がまったくと言ってよいほど襲ってこないのだ。試験期間など、徹夜明けでハイになることがあるが、あれと同じ理屈なのだろうか?


 ともあれ、おれはなおも言葉を続けた。
「行くあてのない私たちを、確かな縁がないにも関わらず、受け容れてくれた陶州牧や、徐州の人たちをここで見捨てれば、劉家軍の旗は泥に塗れてしまいましょう。まして、今、陶州牧は病で倒れ、徐州は混乱しています。いかに曹将軍に報復という理があり、また徐州側に非ありと言えど、ここは屈してはならないところだと私は思います」
 すなわち。
「襲撃した奴らをひっとらえ、曹将軍に差し出すのは当然。同時に、曹将軍の徐州への侵略は、この地で食い止める。言っていて、自分でも呆れるくらい、難しい戦いです。しかし、徐州の人々の恩に報い、なおかつ天下に義を示すには、そうする以外ないのではないでしょうか。私はそう考えます」


 おれの言葉に、場が静まりかえった。
 呆れられたかな、と少し不安になるが、まあ一つの意見として聞いてもらえればいい。
 それに、自分で言うのもなんだが、実はあまり建設的な意見ではなかった。
 というのも、襲撃者をひっとられることに関しては、彭城の孫乾や陳登らに任せるしかなく、劉家軍は曹操軍を食い止める役割となる。
 そして、その曹操軍を食い止めることは至難である、というのは、とうに語られていることだ。
 つまるところ、全然、具体的な案を出せていないのである。
 今更、おれに戦う心構えを説かれれば、歴戦の将軍たちは苦笑の一つも漏らして当然であった。



 そんなことをおれが考えていると。
「――ふむ。確かに、曹家襲撃の愚劣さに目を奪われていたが、一刀の申しよう、一理あるやもしれんな。曹操の恨みは、あくまで私のこと。徐州侵攻を正当化する理由にはならんか」
 趙雲は言いながら、幾度か頷いてみせた。
 無論、違う意見を口にする者もいた。
「それはどうかな。父母を殺されたとあらば、その仇を討つのに、私も公もない、人として当然の行動であろう。その相手が州牧であれば、その州に侵攻すること、これまた自然なこと。民がそれを是とするか非とするか、安易に結論を出すべきではなかろう」
 そういったのは関羽である。
 それを聞き、趙雲が小さく笑った。
「つまり、どちらに転ぶかは民のみぞ知る、ということか。であれば、ここで我らがあれこれ憂えていても仕方のないこと。玄徳様の命に従い、迫る曹操の大軍をいかにして追い返すか、そのことにのみ、心を向ければ良い」
「そうだな。どのみち、小沛というかけがえのない領地を譲ってくださった陶州牧の恩には、報いずにはおけぬ。それはお主たちとて同意見ではないか、伯姫殿?」


「んー、そうだね。公演も大盛況だったし、のんびりもできたし、ここはとっても居心地良いな~。州牧さんには、感謝しないといけないよね」
「ま、公演の成功はあたしたちの実力だけどねッ」
「それはそうだけど。あれだけの人が集まったのは、平和な徐州だからよ。戦で疲弊した土地なら、そもそも公演に来るお金だってないんだから」
 張角たちは、それぞれに言い分を口にしたが、総じて徐州には居心地の良さを感じているらしい。その土地に住まうことを許してくれた陶謙のために戦うことに、否やはないようだった。
 そして、三姉妹の意見がそうであるなら、馬元義も、これ以上言うべきことはないようだ。頭をかきながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「伯姫様方がさようにお考えならば、私がとやかく口を出すことはありませんな。無用の言を申し上げてしまったようで、皆様、申し訳ございませんでした」
 そう言って、馬元義は慌てて頭を下げたのである。



 結局、この日の軍議で決まったことは、明朝、小沛の全軍を挙げて兌州との州境に出陣することだけであった。
 鳳統が言うように小細工がきかないのなら、正面から当たるしかない。侵攻してくる敵の陣頭には、間違いなく曹操がいる筈。その語るところを聞き、こちらの主張を伝える。
 曹操を説き伏せることは至難の業であろうが、それでも、曹操の侵攻を食い止めるためには、まずはそこから始めなければならないと、将軍たちの意見は一致を見たのである。



◆◆



 その夜は、明日の出陣に備えて、ささやかながら宴が催された。
 兵士たちにも酒や肉が振舞われ、将と兵とを問わず、明日の出陣に備えて英気を養う。
 一昔前は、こういった時は、裏方で走り回っていたものだが、劉家軍が大身になったおかげか、そういった雑務からは少しずつ解放されつつある。
 それはそれで少しさびしいなあ、とか思いつつ、おれは軍議での無礼を玄徳様に詫びたり、曹家の襲撃時、一人で敵中に突っ込んだ無謀さを関羽に叱られたり、あるいは田豫と太子慈、王修、董卓らに身体の心配をされたりしながら過ごした。
 やがて、酒を飲みすぎたのか、すこし視界が揺れるのを感じたおれは、いまだたけなわにある宴から離れ、自室に戻ることにした。



 部屋に戻ったおれは、崩れるように寝台に倒れ込む。
 だが、疲れ、酔っている筈なのに、一向に眠気が訪れない。相変わらず、目が冴え、心が滾るような感覚が、胸奥で繰り返されている。
「……明日の出陣に、興奮してるのかな」
 おれが、ぼんやりとそんなことを呟いたときだった。


 ためらいがちなノックの音が、扉から響いてきた。
 はて、誰だろうと首を捻りながら「どうぞ」と声をかける。田豫か、簡擁か。何か連絡でも伝え忘れていたのだろうか。そんなことを考えているおれの視界に、扉を開けて中に入ってきた人影が映る――


「って、げ、玄徳様ッ?!」
 おれはあわてて寝台から跳ね起き、部屋に入ってきた人物の姿をまじまじと見つめた。
 灯火に映る髪は柔らかい輝きを放ち、女性らしい丸みを帯びた身体が扉のすぐ前に浮かび上がっている。うん、間違いなく玄徳様だ。
 どうしてこんな夜中におれの部屋に、と顔中に疑問符を浮かべたおれは、ようやく玄徳様が両手で抱えている盆に気が付いた。
 その上には、おそらく宴の席から持ってきたのであろう料理が数皿、置かれていた。
「あ、あの、玄徳様、どうしたんですか?」
「えーとね、一刀さん、宴であんまり食べてないようだったから、お腹空いてるんじゃないかなー、と思って」
 そう言って、えへへ、と玄徳様は相好をくずしたのである。


 言われてみれば、確かにおれはほとんど腹に物を入れた記憶がない。
 別に体調が悪かったわけではなく、単純に空腹ではなかったからなのだが――どうやら、玄徳様は、おれが遠慮をしているとでも思ったのだろうか。わざわざ手ずから運んできてくれるとは恐れ多い。
 とはいえ、それよりも言わねばならないことがあった。
「玄徳様、年頃の女性が、こんな時間に男の部屋に一人で来るのはやめた方が良いです」
「へ??」
 何のことだろう? という感じで、玄徳様が首を傾げる。
 その反応を見れば、玄徳様にそういう含みがないことは明らかで、その信頼が嬉しくもあり、また少し悲しくもあり、複雑な心境だ。
 だが、さすがにあの劉玄徳といえど、今は年頃の女の子。間もなくおれの言いたいことを察したのか、両の頬を真っ赤にさせて、慌て始めた。
「え、いや、あの、一刀さん、そんなつもりはないんだよッ?! あ、いや、まったくないかっていうと、それはそれで、少し疑問に思わなくもないんだけど、でもほら、その……そう! とりあえず、これを食べてッ!」
 しばし、一人で言い訳と弁明を続けた挙句、玄徳様は、ずいっと盆をおれに押し付けてきた。
 赤く染まったままの頬が可愛いな、と思ったのは内緒である。


 だが、折角の玄徳様の心遣いだったが、食欲がないのに、物を食べる気にはなれなかった。
 もっとも、素直にそう言う必要もない。おれは玄徳様に礼を言って、頭を下げる。
「ありがとうございます、後でいただきますね」


 ――それで終わり、とおれは思っていた。玄徳様は部屋を出て行き、おれは再び寝台に倒れ込む。料理は、おきてから食べれば良いだろう。もっとも、ここ数日、朝もほとんど食欲がないままなのだが……


 だが、玄徳様は、おれが盆を机に置いた後も、部屋を出て行こうとはしなかった。
 むしろ、さらに一歩、おれに近づいてきたのである。その顔は、先刻までのそれとは、どこか違って見えた。
「ね、一刀さん」
「は、はい、なんでしょう?」
「正直に答えてね」
「は、はあ?」
 何だ、何だ? 玄徳様の顔が強張ってるところなぞ、滅多に見られるものではないのだが。
 最近、何か失敗しただろうか。いや、失敗といえば、曹家の襲撃は色々な意味で失敗だらけだったが、しかし、玄徳様はおれに対して責めるようなことは一言も言わなかったのに。
 あるいは、と、おれはある可能性に気づく。
 もしかして、一番の問題に気づいてしまったのだろうか――つまり、どうしておれが都合よく曹家の襲撃を予測できたのか、ということである。
 事態の大きさにうやむやになったとはいえ、あの時点でおれが曹家の襲撃を予測できたのは、明らかに不自然なのだ。下手をすれば、おれも計画に一枚噛んでいたのではないか、と疑われても不思議ではないほどに。
 そこを問い詰められると、おれは言葉に詰まるしかなくなる。まさか、歴史知識があったからとはいえないし。


 だが、玄徳様の問いは、幸いにもおれの案じていたものとは違った。
「最後にきちんとご飯たべたの、いつ?」
「……はい?」


 玄徳様が案じていたのは――


「鈴々ちゃんから聞いたんだけど。曹家の人たちを護衛している間も、ほとんど食事、してなかったんだよね?」
「は、はあ、まあ」


 不幸にも、おれの案じていたものとは違った――


「私、城に帰ってからも、一刀さんがきちんと食事してるところ、見てないんだ」
「そ、そうでしたっけ? たまたま、玄徳様がいなかっただけだと思いま――」


 玄徳様が案じていたのは――


「ごめんね。田くんに、こっそり見てもらってたんだよ。一刀さん、ちゃんとご飯食べてるかどうか」
「あ、そうでしたか。でもほら、部屋で、一人で食べた時もありましたし……」


 おれが、見ることさえ拒んでいた事実――


「ご飯を食べたのに、何で食器がないのかな。侍女の人も、一刀さんの部屋で食器を片付けたことはないって言ってたよ」
「……は、はあ」


 おれは――


「もう一回聞くね。最後に、きちんとご飯たべたのはいつ?」
「……」


 おれは――


「もしかして――あの襲撃の日から、ずっとそうなのかな?」
「……」


 玄徳様の問いに、ただ、口を閉ざすことしか出来なかった―― 
  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/23 01:12


 少し時が進む。


 江南のとある都市の一画。
 おれはふとした拍子に、世話になっている医者に徐州での出来事を話す機会があった。
 人を殺したという事実が、無意識のうちに、おれの心身に変調を及ぼしていたことを知ったその医者は、真顔で言った。
「そうか。玄徳殿は、一刀の命の恩人なんだな」
 そして、突然の言葉に驚くおれに向かって、医者はその理由を説明してくれた。
「病は気から、というだろう。はじめて戦場に出た兵士が、体調を壊すことはめずらしくないんだ。これの厄介な点は、一刀がそうだったというように、本人に自覚がないところだな」


 彼はこれまで、多くのそういった患者を診てきたのだという。
 人を殺した自責の念で、自分の殻に閉じこもる者、あるいは戦場の狂気に蝕まれ、精神の均衡を崩す者のように、はじめから重度の症状を示す者もいるそうだが、ほとんとは、おれのように、食欲の減退、睡眠の不足などの、一見したところ、大きな異常とは思われないささいな症状から始まるらしい。
 いずれも、患者本人は、戦場での高揚感が持続しているだけだろうと気にも留めない場合が多いのだそうだ。事実、おれがそうであったように。
 だが、それが一定の期間にわたって続くと、状況が大きく変わる。
 食欲がない状態が、普通の状態になってしまうことにより、ご飯を「食べたくない」から「食べられない」に変化してしまうのである。


 腹が空かないため、食物を口にする回数が減り、量も少なくなり、その状態が続いた結果、ついには身体が食物を拒否するようになってしまう。いわゆる拒食症にも似た症状である。
 この状態に到ると、無理に食べ物を口にしても、身体が拒絶して嘔吐してしまうようになる。体調の維持に必要な栄養が補給できないのだから、心身に影響をきたしてしまうのは必然であり、それが高じれば、いずれ命に関わる事態になる。
 ましてこの時代、おれがいた日本のように点滴や注射で栄養を補給する技術は存在しない。食べ物を食べられなくなれば、冗談ではなく、すぐに栄養失調から、衰弱死に到ってしまうのだ。
 死に到る病。
 その医者は――華佗は、おれがそのまさに一歩手前にいたのだと、そう言った。


 そう指摘されて、おれは声もなく頷くことしか出来なかった。
 本物の医者に言われると、説得力が違う。あの頃は、自分がそれほど危険な状態であったという自覚はまるでなかった。
 もっと言えば、そんなことにこだわっている余裕さえなかったのだが。
 時代の乱流に翻弄されっぱなしだった徐州時代のことを思い起こし、おれはかすかに首を振った。今では離れ離れになってしまった人たちの表情や言葉が、昨日のことのように脳裏をよぎる。


 そんなおれの様子に気づいているのか、いないのか。華佗はいつものように、熱い気迫を込めた声で、力強くおれに向かって口を開く。
「再会できたなら、きちんと玄徳殿に礼を言っておくんだぞ。もし、そのまま放置していたら、本当に命を失っていたかもしれないんだ」
「もちろん、玄徳様には感謝してますよ」
 その名を口にするたびに、胸に鈍い痛みがはしるが、おれは首を振って、胸中の想いを振り払う。そして、いささかわざとらしく、華佗に向かって話しかけた。
「そ、そういえば、元化(華佗の字)殿なら、そういう患者はどうやって治療するんですか?」
 そう訊ねたのは、これ以上、玄徳様の名を耳にしたくなかったからだった。
 すると、華佗はあっさりとおれの話に乗ってくる。
「一刀。五斗米道の教えに死角はない。数千の時を経て、研ぎ澄まされた我が鍼の力で、治せぬ病などありはしないッ!」
 大きな効果音と共に、背後になにやら炎を燃え盛らせて、おれに向かって断言する華佗。
 あれ、たしかさっき、死に到る病がどうとか言っていたような……?
 しかし、華佗はおれの疑問にかまわず、自分の言葉が偽りでないことを実証しようと、行動に移っていた。


 懐から取り出した一本の鍼。今、華佗はその小さな鍼に向け、巨大な氣を送り込む。
 そういったものとは無縁のおれにさえ感じ取れる、圧倒的なまでの氣の大きさ。
 中華一との呼び声高い名医、華元化の、これが実力なのか。
「うおおおおおッ! 我が身、我が鍼と一つとなり! 一鍼同体! 全力全快! 必察必治癒……病魔覆滅――げ・ん・き・に、なれえええええええッ!!!」
「はぐぅッ?!」
 氣のこもった鍼に身体を貫かれ、おれはその熱さに思わず叫び声をあげてしまった。
 そんなおれを見た華佗は、今の今までの勢いを綺麗に消し去り、ただ一言、しずかに呟いた。
「――病魔、退散」


「い、いや、そもそもおれは病気じゃないんですが……って、うおおお、なんか腹減ってきたああッ?!」
「天枢という経穴を突いた。身体の臓器の働きが活発となり、滞っていた氣の流れが、音をたてて動き出したんだ。その食欲は、そのためのものさ。一刀は、食が細いからな。倒れるほどじゃないが、そのままだと、身体に良くないぞ」
「な、なるほど、てかすごい勢いで腹の虫が鳴っているッ?! 元化殿、ちょっと飯店に行ってきますッ!!」
「おう、たらふく食べてきてくれ。施療院は、おれ一人でも何とかなるからな」
 にこやかな笑みで手を振る華佗に見送られ、おれは襲い掛かる空腹感にたえながら、なじみの飯店に直行したのである。


 緑豊かな江南の都市に、長江から清涼な風が運ばれてくる。
 これは、そんな穏やかなある日の出来事であった。



◆◆



 そして、徐州、小沛城に時は戻る。
 この時のおれは、数年の後に、そんな出来事が起こるとは露知らない。
 それに、目の前の問題を片付けることに精一杯で、他のことに気を配る余裕も持っていなかった。
 目の前の問題とは何か?
 それはすなわち。


 じー、と。
 料理の盆を前にしたおれを、じっと見つめる玄徳様であった。
 おれが口にするまで、梃子でも動きません、と言わんばかりである。
「あの、玄徳様。まことに申し上げにくいのですが、そう見つめられると、とても食べにくいのですけど?」
「じー」
 今度は口に出して、じーっと見つめられてしまいました。
 案外、お茶目な玄徳様である。
 聞く耳もちません、という意思表明なのかもしんないが。


 さすがにここまで玄徳様に強いられては、この料理、口にしないわけにはいかなかった。
 相変わらず食欲はなかったが、それでも半ば無理やり、口に詰め込む。
「ぐッ」
 一瞬、反射的に、口の中のものを吐き出しそうになってしまったが、そんなことをすれば、目の前の玄徳様に肉やら野菜やらが降り注ぐことになってしまう。気合で我慢し、咀嚼し、水と一緒に咽喉の奥に流し込む。
 ふーっと息を吐き出したおれだったが、今宵の玄徳様は容赦がなかった。
「はい、じゃあ次はこれなんかどうかな。ぴりっとした辛味が効いてて美味しかったよ」
「了解っす」
 言われるがままに、玄徳様の指す皿に箸を向けるおれ。
 今度は吐き出しそうになることもなく、きちんと咀嚼できた。確かに、玄徳様の言うとおり、辛味が素材の味を引き出しているところが美味である。
 ちなみにこの料理、劉家軍の料理人たちがつくっている。琢郡の県城で召抱えた人たちのことだが、軍中の保存の効いた食材からでも、あれだけ美味いものがつくれる彼らであれば、城の新鮮な材料をつかえば、より以上に美味しいものがつくれるのは当然といえば当然であった。


 気がつけば、玄徳様にすすめられる前に、おれは皿に箸をのばすようになっていた。数日間、ろくに食べていなかった影響が、ようやくあらわれたのか、おれはかなりの空腹を自覚した。自然、箸は勢いをまし、皿の上をめまぐるしく動き出す。
 そんなおれの様子を、玄徳様はわずかにまなじりを下げ、優しい眼差しで見つめていた。



 そうして。
 玄徳様が持ってきてくれた料理の全てが、おれの腹におさまると、今度は眠気の方が襲い掛かってきた。牛になるぞ、おれ、と言い聞かせても、ちょっと堪え切れないくらいに強い。
 考えてみれば、ほとんど食べなかった以上に、ほとんど眠っていないんだよな、と思い出す。
 自然に、大きなあくびが口からこぼれでた、おれの顔を見た玄徳様は、やっと安心できた、とでも言うように、柔らかい表情で微笑み、ゆっくりと口を開く。
「色々といいたいことはあるんだけど、それは帰ってきてからだね。今は、一刀さんに一つだけ命令するよ」
「……はい」
 寝ぼけ眼のおれを見て、玄徳様は笑みを引っ込め、真剣な顔でおれに注意を与える。
「一刀さんは、多分、まだしばらくは、食欲もなくなるし、眠るのも難しいままだと思う。でも、そんな時でも、今みたいに無理やりにでも、これまでどおり、きちんと食べて、きちんと眠ること。少なくとも、そうするように努めること。身体をこれまでどおりに保っていれば、いずれ心の方も落ち着いてくる筈だから」
 私もそうだったしね、と玄徳様は小さく呟くが、すでに意識を手放しかけていたおれは、その言葉を聞くことが出来なかった。


 後から思えば。
 この時、おれがしっかりと玄徳様の言葉を聞いていたならば、この後のおれの彷徨はなかったかもしれない。
 おれは、玄徳様が、前線で剣を振るって戦ったためしを聞いたことはない。おそらく、玄徳様は、その手をじかに敵の血で浸したことはない筈だ。
 その玄徳様が、おれと同じような症状を抱えたことがあるということの意味。
 この時、それを知ることが出来ていれば、あるいは――


 だが、それは訪れなかった未来。かなわなかった可能性。
 朦朧とした意識の彼方で、玄徳様の声を聞いていたおれは、ここで一つの可能性から手を離す。
「おやすみ、一刀さん……」
「……おやすみな、さい、です……」
 その一言を呟くや、おれの意識は瞬く間に闇にのまれていったのである。




◆◆



 
 そして、起きたら、日が暮れてました。
「……はい?」
 思わず、呆然と呟くも、それで時間が巻き戻る筈はなく。
 おれは、地平線に没しようとする茜色の夕陽を呆然と眺める。
 就寝したのが、昨日の夜。
 国境への出陣は、今日の朝。
 そして今は、夕方である。
 どれだけ否定しようとも、あの夕陽が、おれに現実を突きつけてくるのだ。
 つまるところ、おれは――
「寝過ごしたーッ?!」


 室内に響き渡る悲鳴は、他の誰でもなく、おれの口から出たものであった……






 当然というか何というか。
 小沛城はとても閑散としていた。
 玄徳様は、小沛の三万の軍勢を引きつれ、とうのむかしに出陣した後だったからだ。
「あ、一刀さん、おはようござ――って、もうおはようっていう時間じゃないですね」
 呆然と立ち尽くしていると、小さな人影が駆け寄ってきて、おれにそう話しかけてきた。
「あ、孔明、か。えっと、だな」
 何からたずねたものか、と寝起きでうまく働かない頭を小突くおれ。
 そんなおれに、諸葛亮はくすりと微笑み、口を開く。
「『今回は、一刀さんはお留守番♪』」
「ぬッ?」
「玄徳様からの伝言ですよ」
 にこにこと笑う諸葛亮の顔を見ているうちに、おれはようやく事の次第が飲み込めてきた。
 そう、これはつまり。
「――孔明の罠?」
「むしろ、玄徳様の罠ですね」
 そういうと、ちびっこ軍師は三度、微笑みをおれに向けたのである。




 諸葛亮が城に残ったのは、出陣した主力の後背を固めると共に、小沛城に篭城する場合に備え、防備を整えておくためである。
 武器、糧食はもちろん、陣地構築用の資材や、負傷兵のための医薬品など、防戦のために用意しておくべきものは、枚挙に暇がない。
 とはいえ、諸葛亮や鳳統、おまけに賈駆まで揃った劉家軍の軍師たちである。当然、こういう戦況になる前からそういった物資は蓄えられており、正確な目録が記され、いざというときの搬出の準備まで遺漏がない状態で、まさしく備えあれば憂いなし、という感じだった。
 だからこそ、こうやって、おれと話している暇もあるのだろう。


「当然、一刀さんが無茶しないよう、玄徳様にも頼まれてますから」
 えへん、とばかりに胸を張る諸葛亮。その得意げな様子に、おれは思わず微笑をこぼしてしまったが、次の瞬間、慌しい足音と共に、この場に現れた兵士の報告を聞き、その微笑はたちまち吹き飛ばされる。
「申し上げます、彭城の孫乾殿より、火急の使いが参っております」
「火急、ですか。孫乾さんが慌てるなんて――もしかして」
 諸葛亮の言葉を肯定するように、その兵士が叫ぶように言った。
「彭城の、陶州牧の意識が戻られたとのことでございますッ!」
 その言葉に、おれは両の目を大きく見開いた。




 つい昨日まで、彭城は主である陶謙が倒れ、情勢を主導するべき人物が不在のまま、曹操軍の侵攻に備えていた。
 一応、孫乾たちが他の家臣を抑え、曹操との対決姿勢を打ち出しているのだが、一廷臣である孫乾では他の者たちを抑えるにも限界がある。
 事実、小沛城には、他からの援軍や物資などは届いておらず、ほとんど孤軍で戦うことを余儀なくされていた。陶謙が健在であったなら、今頃、小沛は他の徐州の軍勢であふれかえっていてもおかしくはないことを考えれば、陶謙の病状は、今後の徐州の運命に直結すると言ってよかった。


 その陶謙の意識が戻ったというのであれば、それは吉報に他ならない。
 本来なら、すぐにも玄徳様は彭城に戻るべきであった。
 陶謙が健在なうちに、指揮系統を一つに束ねておかないと、今後の情勢に対応できなくなってしまうからである。
 聞けば、曹家襲撃時に彭城で行われていた会議では、袁術戦における玄徳様の指揮権の優越がほぼ認められていたらしいが、件の襲撃以降、その決定は事実上保留扱いになってしまった。この際、袁術戦に限らず、劉家軍を徐州軍の上に据える決定をしてもらえないものか、とおれが考えた、その時。



「あーら、ご主人様、目を覚ましたのねん。ちょうどよかった、このあたしの愛と精気がたっぷりこもった晩御飯が、ちょうど出来上がったところよん」
 その声と、姿と、そしていまだ遠く離れているにも関わらず、何故だか鼻を刺激する独特の匂いを瞬時に嗅ぎわけ、おれは咄嗟に踵を返す。
 すると、そこには。


「――一刀、どこにいくの?」
 いつのまに近づいていたのだろう。そこにいたのは、無表情で佇む張角であった。
 いつもの微笑みは浮かんでおらず、いつぞや垣間見た、あの怜悧な眼差しが射抜くようにおれを見据えている。
 その顔は、どうみても怒っていた。
 心当たりは――まずい、山ほどある。


 前後を封じられたおれは、咄嗟に左右を見るが、すでにそこには、張宝と張梁がしっかりと立ちはだかっている。
 冷や汗を流しつつ、その場から動けなくなるおれの背後から、肩に手がかけられた。
「つかまえたわよ。さあ、ご主人さま、遠慮は不要。おかわりも十分に用意してあるわ。存分に、ご堪能あそばせ♪」


 ――その貂蝉の声に、おれは、もうなんか色々諦めざるをえなくなってしまった。
 それでも、その視線が最後の希望を探すかのように貂蝉が持つ盆へと向かい――その上に並ぶ、黒こげになった山椒魚にしか見えない焼き物や、得体のしれない煙をあげる炒飯や、何故だかぐつぐつとぶきみな泡をたてながら沸騰している濃緑色の飲み物を見て、おもわず悲鳴じみた声をあげてしまうのだった……




◆◆




「ん? 愛紗ちゃん、今、一刀さんの声がしなかった?」
「は? いえ、桃香様、お気のせいではありませんか。私は何もきこえませんでしたが」
「そ、そう? おかしいなあ……」
 首を傾げた劉備であるが、すぐにその視線を眼前の軍勢に戻した。
 地平の果てまで続くかに見える将兵の大軍。林立する軍旗には『曹』『夏侯』『張』といった名が大書され、それらが風に翻る様は、相対する軍に恐るべき威圧感を与えるであろう。今、劉備たちがそうであるように。


 曹操軍十万。対するは徐州軍三万。
 数の上では、比べるべくもない差が存在する。そして報告にあったとおり、曹操軍の士気と錬度は恐ろしいほどに高い。今でこそ、整然と静まり返っているが、一度命令が下れば、彼らは鉄血の海嘯となって徐州領内に殺到してくるであろう。


 その曹操軍の先頭に、今、ゆっくりと馬を進ませてくる人物の姿があった。
 腰に差すは倚天の剣。その身をあずけるは中華屈指の名馬、絶影。
 吹き付ける風に黄金の髪をなびかせながら、勁烈な眼差しを緩めることなく、劉備の姿を見据えるその者の名は、曹孟徳という。


 曹操が進み出るに従い、劉備もまた前に出る。
 関羽が後に続こうとするが、それを手で抑え、一人、曹操と対峙するために馬を進ませた。
 そして。
 三国時代を代表する二人の英雄は、はじめて、歴史の表舞台でぶつかりあう。
 両軍あわせて十万をはるかにこえる将兵たち。その全てが見つめる中で、まず口火を切ったのは、曹操だった――






[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/18 23:51

「洛陽以来ね、劉備。久しい、と言うべきかしら」
「……そう、ですね。お久しぶりです、曹将軍」
 互いに、自らの軍勢の先頭に立っての挨拶である。
 一族を殺され、激怒しているかと思われた曹操であったが、劉家軍の前に姿を晒した曹操は、悠然とした態度で、劉備と相対している。その後背に控える諸将、軍勢もまた、復讐を、報復を目論む軍とは思われないほどに静けさを保っている。
 今の曹操軍を見れば、徐州の高官たちは、和平も不可能ではない、と判断したに違いない。


 だが。
「――ッ」
 一人、最前列で彼らと対峙する劉備は、我知らず、奥歯をかみ締めていた。
 そうしなければ、畏怖の声をもらしてしまいそうだった。激しく渦巻く水面より、静かにたゆたう淵の方こそ底が深いことを、凡庸の目は見抜けない。
 劉備の目に、今の曹操とその軍勢は、例えるならば堰を決壊させる寸前の黄河の流れと映った。押しとどめるものが消えたならば、後は地平の果てまで、全てを押し流して進むのみ。その前に立つ者は、ただその流れに飲み込まれ、押しつぶされ、押し流されるであろう。


 曹操の口が開いた。獰猛とさえ形容できそうな、勁い笑みが、その口元に漂う。
「しかし、少し見ぬ間に堕ちたものね、劉備。いつからあなたは、略奪暴行をことにするような下衆どもと、それをのさばらせる官匪と手を組むようになった? みんなが笑って暮らせる世をつくるという志、いずこに置き捨ててきたのか」
「――捨ててなんて、いません。私は、ずっとそのために、戦ってきたんです」
「その言葉がどれだけ説得力に欠けているかは、あなた自身も分かっているのではなくて? 今のあなたは、我が父、弟、一族を虐殺した者たち、そしてその暴挙を許した者に従い、我が行く手を阻んでいる。それはつまり、虐殺を、かかる事態を引き起こした統治を肯定しているということではないの」
 徐々に。
 曹操の言葉に、刃の輝きが見え隠れし始める。
 劉備は、丹田に力を込め、曹操から発される威迫に対抗しつつ、口を開いた。
「そ、それは違います、曹将軍」
「何が違う、劉玄徳?」
「徐州の陶州牧は、曹家の方々を襲う指示なんかしていません。それに、襲撃が起きてしまってからは、すぐにご自分の、その、子息を捕らえて、襲撃に加わった者たちを捕らえるように厳命しています。罪を犯した者たちを罰するために。ですから、決して徐州の人たちが、曹将軍や、一族の人たちに牙を剥いたわけではないんですッ」
 劉備の口から出る言葉を聞いても、曹操は眉一つ動かさない。
 自分の言葉が、相手に届いていないことを悟りながらも、劉備はなおも言葉を重ねた。重ねる以外になかった。
「今、陶州牧はその仕置きの疲労と、心労とで、病の床についてしまいました。けれど、時間さえもらえれば、必ず陶州牧と、州牧に仕える私たちが、襲撃に加わった人たちを見つけて、それに相応しい罰を与えます。曹将軍が自ら処断を望むのなら、もちろん、引き渡すことも拒みません。曹家の人たちには、それを要求する権利があるとは、陶州牧みずから仰ったことです」
 ですから、と劉備は続ける。
「お願いします。徐州に、いま少しの時間を下さい。曹将軍が、お怒りなのは、当然だと思いますが、でも、だからといって徐州の地を侵すことが許されるわけでは――」


「もういいわ、劉備」
 曹操は、必死に言い募る劉備を前に軽く手を一振りすることでこたえた。
 劉備を見る曹操の眼差しは、冷気を宿して凍てついていた。
「あなたにとっては、陶謙は寄る辺なき身を受け容れてくれた恩ある者。その恩人が、愚劣な子息の行いに悩まされ、その治める領土が敵の馬蹄に踏みにじられようとしている。であれば、あなたはそれを止めるために戦わざるをえない。あなたの掲げる正義のためにも。そう言うことなのでしょう?」
「は、はい、その通りです」
 陶謙は、徐州の要である。今の徐州の繁栄は、その多くが、長年、統治に腐心してきた陶謙の功績に帰せられるべきものである。官と民とを問わず、陶謙の徳謀を慕わない者は徐州にいない。無論、劉備たちも同様である。
 その陶謙を、曹操が力ずくで除こうというのなら、劉備はそれを止めなければならない。今、徐州で暮らす人々の笑顔のために――たとえ、心情的に曹操の行動を理解できてしまうとしても。
 劉備は、軍議の際のことを思い起こす。
『いかに曹将軍に報復という理があり、また徐州側に非ありと言えど、ここは屈してはならないところだと私は思います』
 その通りだ、と劉備は思ったのだ。


 しかし。
「愚か者」
 乱世の覇者は、そんな劉備たちの想いを嘲笑う。貴様たちの考える正義とは、その程度なのか、と言わんばかりに。
 劉備は、自らの主張が都合の良い言葉であることもわかっていた。大切な人たちを理不尽に殺された曹操からすれば、奇麗事を、と罵倒の一つもされるかもしれない、とは考えていたのである。
 だが、今、曹操が発した言葉は、明らかにそれとは意味が異なった。
 劉備の口から、思わず疑問の声がもれる。
「え?」
「愚か者、と言ったのよ」
 曹操は再び同じ言葉を口にする。
「劉備、あなたは、私がただ私怨のためだけに、二〇万の大軍を催し、この地まで攻めてきたとでも思っているの? 首謀者の首級を欲するならば、この身が彭城に乗り込んで、不埒者たちをたたっ切れば良いだけのこと。陛下の勅許を得て、将兵に労を強いるような真似をする筈がないでしょう」
 こともなげに言う曹操を、劉備は見つめることしか出来ない。この人ならば、その程度のこと、容易く成し遂げてしまうだろう。そう思ってしまったから。
「無論、此度のこと、このままにしておく心算はない。下衆どもには、いずれ罪に相応しい酬いをくれてやろう。だが、今、最も肝要なのは曹家の報復に非ず。徐州の統治が、民に害をなす暴政への兆しを見せていることである」
 その曹操の言葉には、さすがに劉備も黙っていられなかった。思わず、曹操に向かって反駁しようとする。
「そ、そんなことはッ」
「ないと言えるのか、劉備? 現に、我が一族は、徐州の地で陰謀に巻き込まれ、虐殺された。彼らのほとんどは、武器を持たない者たちであったのに。それと同じことが、今後起こらないと、あなたは断言できるの?」
「……そ、それは」
「断言できるというのなら、根拠を問いましょう。我が一族を襲った悲劇が、今後、徐州の民の上に起こらないという確かな根拠を」


 劉備は言葉を詰まらせた。
 今回のことは、公子たちの暴走ゆえ。ならば、そう断言し、公子たちが罪に服せば、同じようなことは起こらないと言っても良いのだろうか。
 だが。
 公子たちがいなくなれば、本当に万事良くなるのだろうか。昔日の平穏が戻ってくるのだろうか。
 先ほど、劉備は陶謙を徐州の要と言った。
 その要が、そう遠くない時期に失われることは、残念ながら避けられない。その時、徐州の高官たちの誰かが、今回と似たようなことを行わないとどうして言えようか。
 大丈夫、と思うことは出来なかった。孫乾や糜竺、陳登、そして劉備自身も含め、残された者たちがしっかりと後を守れば、そんなことにはならないとは思う。だが、自分や孫乾たちが揃って彭城にいたにも関わらず、今回の件は誰一人として気づくことが出来なかったではないか。


 気づいたのは、たった一人だけ――あれ、でも、どうやってあの人は、このことに気づくことが出来たのだろう?




 劉備の思考が、脇にそれたのを悟ったわけではあるまいが、曹操はその考えを塞き止めるように言葉を続ける。
「徐州は、してはならないことをしてしまった。たとえそれがどのような理由によって惹起されたものであれ、官が民を虐殺したという事実を拭い去ることは出来ぬ。時をおけば、徐州のみならず、中華の各地で同じことが起きかねないのだ。ゆえに、陛下は決断を下された。卑劣なる行いをなした者は、たとえ漢朝に仕える者であろうとも――否、漢朝に仕える者であればこそ、その罪、刃もて償うべし、と。道を違えた者には、それに相応しい末路があるのだと知らしめよ、と。」


 陶謙のこれまでの功業を否定することはない。だが、漢朝に仕える者が、漢の民を害したとき、その罪は功績を上回る。陶謙が、真に漢朝の臣として行動するつもりがあったのならば、最初の召還に即座に応じるべきであった。
 だが、陶謙はそうしなかった。無論、それは、許昌の曹操が今回の事態の中心人物であったことに拠る部分が大きい。陶謙の配下が、主の身を心配したのも無理からぬことであったろう。だが、陶謙が許昌の漢帝の命令に従わなかったという事実にかわりはない。


 民を守るべき官が、その民を害す。これを官匪と、人は言う。
 臣たる身が、主君の命令に従わぬ。これを不遜と、人は言う。
 そして――公私の別なく、恩義を盾に漢朝に歯向かう。これを偽善と、人は言う。


「勅命である!」
 次の瞬間、曹操の口から、勁烈な叱咤が迸った。
「民を手にかけし官匪に、正義の何たるかを知らしめよ! 臣たる分をわきまえぬ不遜に、忠義の何たるかを知らしめよ! 公と私の別なく、義の意味を履き違えたる者たちに、節義の何たるかを知らしめよッ!」
 抜き放たれた倚天の剣が陽光を反射して、まばゆい輝きを発し、両軍将兵の目を灼いた。
 奔騰する覇気の発露は、曹操軍の戦意を押さえ込んでいた最後の堰を取り払う。
「――かかれィッ!!」
 曹操の号令に、曹操軍の天を衝かんばかりの大喊声が応え。
 鉄血の海嘯は、文字通りの怒涛となって、劉備軍に襲いかかってきた――



◆◆



 戦いは、劉備軍にとって不利な形勢で始まった。
 元々、数の上で大きく劣っていたことに加え、戦に先立つ主将同士の舌戦で、相手に圧倒されてしまったことが大きかったのは、言うまでもない。
 虐殺という事実を、陶謙と曹操との関係で捉えていた劉備たちに対し、曹操はさらにその上、皇帝という立場とその論理を以って、劉備たちの拠る義を破砕し、自軍の正当性を謳いあげたのである。
 それを耳にした曹操軍の兵士たちの士気が高まったのは当然のこと。
 そして、劉備軍の兵士たちが、意気阻喪してしまったこともまた当然であったのかもしれぬ。


 曹操軍の先陣を務めたのは夏侯惇と張遼の二将である。
 夏侯惇は劉備軍に真正面から挑みかかる。その数、劉備軍と同数の三万。
 一方の張遼は、劉備軍の横腹を衝こうと大きく展開する。その数は夏侯惇勢に及ばず、一万のみ。だが、その全てが騎兵であり、張遼勢の機動力は劉備軍の注意を削ぐ効果も持っていた。いつ横撃を食らうか、あるいは後背を塞がれてしまうのではないか、という危惧を相手に与えるのである。
 だが、正面から挑みかかってくる夏侯惇勢の圧力は、他に注意をそらしながら、受け止めきれるほど易しいものではなかった。


「義を履き違えた愚将の軍勢ごときが、華琳様の天道を遮ろうなど百年、いや、千年早いわッ! せめてこの曹家の大剣たる我が身の一撃を以って散れることを誇りとし、黄泉路へ旅立つがよいッ!」
 自ら先頭に立って斬りこんで来た夏侯惇に対するのは、関羽と張飛の二将軍である。
 二人の将帥としての能力は、決して夏侯惇に劣るものではなかったが、二人の率いる兵力は一万に満たず、相手の三分の一。しかも、張遼勢の動きと、何より緒戦において気組みをくじかれたことが響き、兵士たちの動きがこれまでになく鈍いため、思うように兵力を展開することさえ容易ではなかった。


「く、おのれ、曹操ッ!」
 周囲に群がる敵兵を斬り倒しながら、関羽が悔しげに言う。
 すでに、将軍である関羽のところにまで、曹操軍の兵士が押し込んできている。そのくらい、敵の勢いは凄まじかった。
「愛紗、このままだとおねえちゃんのところまで行かれてしまうのだッ!」
「わかっているッ! はあああッ!!」
 すでに劉備を本営にまで戻しはしたが、このままではその本営に敵が押し寄せるのも時間の問題である。張飛の危惧に頷きを返しつつ、関羽は手に持った青竜偃月刀を一閃させた。
 その一撃で、関羽に切りかかろうとしていた曹操軍の兵士二人が、たちまち血煙をあげて倒れ伏す。
 だが、その中の一人は、青竜偃月刀の刃に胸を切り裂かれながらも、その刃ごと抱え込むように倒れた。
 その意図するところは明らかで、自分の身と引き換えに、仲間に関羽を討たせようとしたのである。
 一瞬、関羽の態勢が崩れた隙を狙い、曹操軍の兵士たちが殺到する。


「ぐああッ?!」
「ぎああ!」
 だが、今しも関羽に斬りかかろうとしていた兵士たちは、次の瞬間、悲鳴をあげて地に倒れた。一人はその目に、一人はその首に、矢羽を生やして。
「子義か。すまんッ」
「いえ、こちらこそ、援護が遅れて申し訳ありません」
 現れた太史慈は、関羽に応えながらも、更に近矢を放ち、そのすべてを命中させる。
 だが、どれだけ敵兵を討ち取ろうと、曹操軍は次々に後ろから攻め寄せてくる。
 あるいは負傷した味方を抱えあげて後方に連れて行き。
 あるいは味方の骸を乗り越え、関羽たちに襲い掛かる。
 ただの兵士といえど、先の兵士のように、味方のために命を賭けた行動に出る者ばかり。
 その粘性と、戦意の高さは、これまで関羽たちが戦ってきた敵と、明らかに一線を画していた。、  


 だが、そうしている間にも、敵軍は停滞せずに劉備軍に襲い掛かってくる。
 夏侯惇勢が十分に劉備軍に食い込んだと見た張遼が、自分の部隊を敵の横腹にたたきつけたのである。
 劉備軍の軍師、鳳統はこの一撃に対し、騎兵部隊の長である趙雲と、さらに陳到の軍勢を用意していたのだが、ここでも数と勢いの差が如実に戦況に影響を与え、たちまちのうちに防衛線が食い破られてしまった。
 さらに。
「そ、曹操軍の本隊が動き出しましたッ!!」
 その報を聞き、本営で鳳統は唇を強くかみ締める。
 曹操率いる六万の本隊が、満を持して動き出したのである。
 本隊が戦線に加われば、かろうじて持ちこたえている前線が突破されるのは明らかであった。否、仮に本隊が動かなかったとしても、このままでは夏侯惇、張遼の二将だけでも、この本営まで肉薄されてしまうだろう。敵の勢いと味方の勢いを比べれば、それは火を見るより明らかであった。
「玄徳様、ここはもう、退くしかありません」
「う、うん、そうだね……ごめんね、士元ちゃん、私が曹将軍に言い負かされちゃったから」
 劉備の顔色は、前線から戻ってきてからも、ずっと優れないままだった。曹操の滔々たる言い分に、ろくに反論できずに逃げ帰ってきてしまった。そう考え、自分を責めているであろうことは明らかだった。
「……謝らなければいけないのは私の方です。曹将軍が、陛下の権威を用いてくること、想定していなければならなかったのに」
 鳳統は口惜しげに俯く。
 慎重に策を立てたつもりであったが、やはりどこかで冷静さを欠いていたのかもしれない。あの曹操の論調が、曹操自身のものか、あるいは敵の軍師によるものかはわからなかったが、いずれにせよ、自軍の正義を完全に論破された形の劉備軍は、緒戦から不利な戦いを強いられ、敵の勢いに圧倒されてしまった。鳳統が急造で築いていた防衛陣も、敵の勢いの前に粉砕されてしまい、敗北は目前まで迫っている。
 もし、曹操が皇帝の権威を用いてくることに思い至っていたら、また異なる形勢に持ち込むことも出来ていたであろうに。


 だが、今は繰言を言っている場合ではない。鳳統は首を振って、自身の悔いを胸中から追い払う。
 ここまで圧倒されるとは考えていなかったが、それでも、元から不利な戦いになることは予測していたことだ。退路はしっかりと確保している。
「馬将軍」
「は、軍師殿」
 馬元義が鳳統の声に応じて、進み出る。
「本営の兵士を以って、後詰とし、諸将の撤退を援護します。指揮を、お願いしますね」
「承知つかまつりました。お任せくださいッ」
 緊張した表情ながら、しっかりと命令に頷く馬元義に頭を下げてから、鳳統は劉備に向き直った。
「玄徳様は、後方の備えへ退き、退却してくる兵士たちの援護をお願いします。朱里ちゃんには、すでに使者を出しておきましたから、小沛からの援軍も、間もなく来てくれるでしょう」
 劉備がここに残ったままだと、他の将兵の退却が整然と行えなくなる。鳳統にはそんな危惧もあった。そして、その鳳統の危惧は、劉備も察していた。
「――うん、わかった。私がここにいたら、退却するみんなの足手まといになっちゃうもんね」
「……あ、あわわ。足手まといだなんて、そんな。ただ、玄徳様の身を案じるあまり、足が止まってしまう将兵の皆さんは、たくさんいらっしゃると思うんです。だから、その……」
 戸惑ったように顔を左右に振る鳳統に、劉備は申し訳なさそうに言葉を重ねた。
「じゃあ、士元ちゃん。馬将軍。お願いします」
「は、はい、御意ですッ」
「黄巾党の――いえ、劉家軍の底力、奴らに示してやりましょうぞ」
 主君の言葉に、一人の軍師と、一人の将軍は、それぞれに決意を秘めたまま、頭を垂れるのであった。
 



◆◆




 徐州を巡る曹・陶の争い。その緒戦は、大方の予想どおり、曹操軍の圧勝であった。
 州境で激突した小沛城主劉備の軍勢は、曹操軍の鋭鋒に抗しきれず、少なからぬ死傷者を出し、なだれをうって小沛城へ向けて退却していった。
 どうやら城には戻らず、その手前で陣地をつくり、こちらの進撃を食い止める心算であるようだが、今日の戦いの手ごたえを考えれば、次の戦も苦戦するほどではあるまい。
「もちろん、油断は禁物なのだけれど、ね」
 曹操軍の本営にあって、曹操は今日の戦の後始末を終えて、明朝の進撃に備えて待機していた。
 今日の戦いは大勝利と呼ぶに相応しいものであり、普段であれば、酒と肉を振舞うくらいはするところなのだが、今の曹操軍にはそういった浮かれた雰囲気は豪もない。
 その理由は――
「口では何といおうとも、これが弔い合戦であることは、将兵の皆さん、誰もが承知していることですからねー」
「そのとおりね、風。もっとも当事者の一人である筈の私は、これを徐州を征服する好機としか捉えていないのだけど」
「そして、関将軍を麾下に加える好機でもある、ですか?」
「そのとおり。今日の敵軍の脆さを思えば、思ったより簡単に行きそうではあるわね。進言、見事だったわ、風」
 曹操は程昱に褒詞を授けた。


 徐州侵攻において、掲げるべき名分は報復ではならない。そう主張したのは、程昱であった。これには、夏侯惇や曹仁から異論があがったが、曹操は程昱の進言を容れた。
 善政を布く陶謙の領土に攻め込むには、報復というのは口実としては十分だが、その後の統治に支障を来たす。それよりも、徐州の統治体制の不備を、皇帝が譴責するという立場をとった方が、後々のことを考えれば良策であろうと考えたからである。 
 そこまで曹操が考えることが出来たこと。それはすなわち、曹操が今回の襲撃で負った傷が、さほど深いものでなかったことに由来する。少なくとも曹操自身はそう判断していた。
 父と弟、そして二人に従って徐州に赴いた一族は、曹操にとっては遠い存在だった。
 無論、人として、父弟が卑劣な策略で殺されたことに対する怒りはある。だが、それは公人としての曹孟徳を凌駕するほどのものではなかったのだ。
 ただ、もし死者の列に母である曹凛までが加わっていたとしたら。
「あるいは、公人としての私をかき消すほどの怒りに囚われたかもしれないわね」
 もしそうなっていたら、徐州の大地を血と屍で埋め尽くしても、なお飽き足らない気分になっていたやも知れぬ。曹操はそう思い、小さく首を左右に振った。


「我が父弟を殺したのは徐州。されど、我が母を救ったも徐州。功罪半ばする相手に対し、曹家を越えて皇帝を持ち出すことは思い至らなかったわ」
「いつもの華琳様なら、真っ先に思いついたと風は思いますけどねー」
 小首を傾げながら、程昱は曹操の顔に視線を走らせる。
 曹操自身がどう考えているかは知らず、程昱の目には、曹操はどこか戸惑っているように見えた。
 それは、徐州を攻めることに対する戸惑いではないだろう。襲撃の報を聞いてからこの方、曹操は時折遠くを見るような眼差しをすることがある。自身の胸を去らない焦燥の正体を、把握しかねて戸惑っておられるのではないか。それが、程昱のみならず、曹操の近臣たちの見解であった。


 それからしばらく、曹操と今後のことについて意見を交わしあった後、程昱は曹操の天幕を辞した。
 天を仰げば、燦燦たる星海の光が地上に向けられ、静まり返った曹操軍の陣営を覆うようであった。だが、たとえ今日、天が雲に覆われていたとしても、問題はなかっただろう。曹操軍の陣営は、まるで昼間のように赤々と篝火が燃え盛っており、暗闇に乗じたいかなる行動も不可能となっていたからである。
 篝火の中の薪が弾ける音と、規律正しく各所を警戒する歩哨の足音が、たえず程昱の耳を打つ。


「英雄といえど、人の子には違いなし。己が心を従わせることは、華琳様でも簡単ではないのですね」
 程昱から見れば、曹操の戸惑いは明瞭である。
 父と弟、一族を殺された悲しみが、その心を覆おうとしているのに対し、曹操自身は、自分がさして悲しんではいないと思い込んでいる。その差異が、あの方の胸を騒がせているのだと見当をつけていた。
 曹操は自身を非情の人だと思いたがっている節があるが、実際のところ、曹操ほど感情豊かな人はなかなかいないだろう。感情が豊かであればこそ、人に関心を持てる。人に関心を持ってこそ、人の才能を見抜き、その人自身ですら気づかぬ内面を察することも出来る。
 曹操に従う者のほとんどは、そういった曹操に畏敬と忠誠の念を抱き、その天道に殉じる覚悟を決めているのであり、それは程昱とて例外ではない。ただ、曹操は感情を制することにも長けているゆえに、場合によっては非情の人にも見られてしまうのだろう。


 そして。
 そんな感情豊かな人が、実の父と弟、そして一族の悲惨な死を聞いて、何も感じない筈がない。
 その死を悲しみ、その暴挙をなした者たちへの憤りを覚えない筈がない。
 曹操と父弟が疎遠であり、あるいは険悪であったことが事実だとしても、生きてさえいれば、和解する日は来たかもしれない。可能性は高くないとしても、少なくともゼロではなかった。今さら子供時代に戻ることは出来なくとも、それに近しいものを取り戻すことは出来たかもしれないのだ。
 ――だが、その可能性は、愚者の愚行によって費えてしまった。


 それは、覇王たる曹操にとっては徐州侵攻の契機であったのだろう。
 だが、覇王ではなく、一個の人間としての華琳にとっては、どのよう契機になったのか。
 程昱はそこまで考えて、首を横に振った。そこまで考えることは、臣下としての分を越えている。そう思ったのだ。
 それに――
「たとえ戸惑いをおぼえていようと、将帥としての力は巨大なままですから。おねーさん、おにーさんにとっては、山が迫ってくるようなものでしょう」


 かつて、同じ陣営に属していた者たちの顔を、程昱は思い浮かべる。
 河北で別れを告げた時から、今日が来ることは覚悟していたことである。そうでなくても、乱世に生きる者として、昨日の友が今日の敵になることはめずらしくない。
 互いに譲れぬならば、ぶつかりあうしかなく。ぶつかりあうなら、手心など加えられるわけはない。そんなことをすれば、今日の劉備軍の敗北は、自分たちの上にあったかもしれない。
 程昱は本気でそう考えるくらいに、劉備たちを評価していたのである。もっとも、それと同じくらいに、今の自分が属する陣営を評価してもいるが。


「そろそろ、別働隊は瑯耶郡に入る頃でしょうか。子孝(曹仁の字)さんに、子廉(曹洪の字)さんに、子和(曹純の字)さんの曹一族揃い踏み、その背後を固めるのは鮑太守(鮑信)。今の陶州牧の陣営で、これを止められる人はいないでしょうね」
 瑯耶郡で暮らしていた曹純が、付近の地理に通じているのは当然のことである。彼らが率いる十万の軍勢は、たやすく徐州の守りを抜くだろう。そして、彼らが彭城に迫れば、戦とは縁遠い高官たちは小沛の劉備に救援を求めるに違いなく――
「その報が入れば、おねーさんたちは小沛の守りを解かざるをえません。たとえ、私たちが追撃をかけることがわかっていても。そして、おねーさんたちを破れば、徐州はこちらの掌のうちにあり、というわけですが……」
 程昱はそこで小さく首を傾げる。
 ここまでは、程昱ら曹家の誇る軍師たちが立案した戦略図どおりに事態は進んでいる。しかし、それはあくまで曹操軍から見た場合である。
 徐州軍の悲運はそれだけにとどまるまい。程昱は冷静に戦況を見据え、そう結論していた。
 徐州軍の意識は、どうやらほとんど曹操に向けられているようで、必然的に防備もそちらを厚くしている。だが、彼らはつい先ごろまで、正反対の方角に注意を割いていたのではなかったか。


 准南の偽帝袁術。
 間もなく、その軍勢が徐州軍に牙を剥く。
 その時こそ、徐州の次代の支配権を巡る争いは、佳境を迎えることになるだろう。程昱はそう考え、その渦中で翻弄されることになるであろう人たちに思いを馳せた――少しだけ、俯きながら。
  
  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/07/31 22:04



 姓は陳、名は登、字は元龍。
 父、陳珪から臨准城主の座を受け継いだのは二五の時。
 農政に力を入れて、収穫高を高める一方、盗賊を厳しく取り締まり、また官吏の腐敗にも厳罰を以って対処した為、臨准郡の治安は目だって良くなった。
 陶謙の配下には内治に優れた者が多く、領内は良く統治されているのだが、その中でも陳登の名は良く口の端にのぼった。それほどの水際立った手腕だったのである。
 また、陳登は内政のみならず、野盗の討伐や、あるいは他国の侵略に対する策戦立案などでも功績をあげ、若年ながらも文武に練達した傑物だと高い評価を受けるに到る。
 それから数年。今や陳元龍の名は、徐州の高官の一人として隠れもないものとなっていた。


 陳登は、評判に相応しい能力と自負を持ってはいたが、それをひけらかしたり、あるいは他者を押しのけたりする灰汁(あく)の強さはない。彭城にあって、文官としては孫乾、糜竺に次ぐ立場であり、武官としても曹豹、糜芳の後塵を拝する立場であるが、これに不満をあらわしたことはなかった。
 何故なら、それが徐州を平和的に治める上で、最も良い形だと判断していたからである。
 瑯耶郡の曹豹、沛郡の劉備、広陵郡の陳羣らと同格の立場にありながら、華やかな功績から背を向け、堅実に、着実に足元を固め、他者を支えて、徐州を磐石ならしめてきた陳登は、その影働きゆえに、徐州内部の心ある人々から厚い信頼を寄せられていた。その人脈は多岐に渡り、実のところ、陶商、陶応らとも一応のつながりを持っていたのである。
 もっとも、それは陳登が本心から望んだものではなく、あちらの情報が筒抜けになっているわけではない。件の襲撃のことも、陳登はまったく知らなかった。
 そんな陳登であったから、襲撃以後は、徐州を安定させるために彭城に詰めきりであった。臨准城は父の陳珪に委ね、孫乾と共に混乱する徐州の政務を、文字通り、寝る暇もなく処理し続けていたのである。




 ゆえに、意識を取り戻した陶謙が、まず真っ先に、この二人から状況を聞き取ろうとしたのは、当然すぎるほど当然のことであった。
 彼ら二人から事の次第を聞き取った陶謙は、ただでさえ優れない顔色を、さらに悪くさせてしまう。陶謙の顔色は、今や土気色に変じていた。


「まことに、申し訳のしようもございませんッ」
 群臣をまとめ切れなかった罪を謝する孫乾に、陶謙は力なく頭を振る。
「公祐(孫乾の字)の罪ではなかろう。このような時に倒れてしまう我が身の不甲斐なさよ」
 州牧の沈鬱な声に、眼前の二人は声も出ず、畏まることしかできない。
 その二人の様子を見て、陶謙はそれ以上、自責の言葉を発しようとはしなかった。
 何より、今は自分を責めるよりも先に、しなければならないことがある。
「……今、彭城で動かせる兵力はいかほどか?」
「はッ。すぐにも、ということであれば、曹将軍と糜将軍の部隊、あわせて二万がほど。数日いただければ、残りの二万も彭城を発つことが出来るでしょう。おおよそ四万です。彭城の守備を手薄にしてよろしければ、あと一万程度は繰り出せるかもしれません」
 孫乾の言葉に、陳登が隣接する自城の情報を付け加えた。
「臨准城では、父が兵をそろえております。集まった軍は二万近いとのことでございます。もっとも、農民たちを中心とした兵ゆえ、曹操軍や袁術軍とどの程度戦えるかはわかりかねます」
「……そうか」
 陶謙は、寝台の上で上体だけを起こしながら、腕組みをした。
 陶謙の領土は、徐州、揚州、二つの州に及ぶ。本来であれば、動員兵力は十万を越える。無理をすれば、十五万の大軍を編成することも不可能ではない。
 だが、曹操、袁術の二大勢力に挟まれた現状では、陶謙に従うことにためらいをおぼえる者も当然いる。彼らは明確に徐州に叛旗を翻すことはしなかったが、かといって彭城の指示に唯々諾々と従うことはしなかった。
 静観して様子を見る。その態度をとる者は少なくなかったのである。
 とはいえ、ここまで戦力的にも、道義的にも追い詰められた状況にあって、なお七万の兵力を動員できること自体が、陶謙の日ごろの徳望の厚さを知らしめていたであろう。
 そして、その彭城の戦力と、小沛の軍勢をあわせれば十万に届こうかという大軍が出来上がる。数だけを見れば、曹操軍に対抗することは十分可能であった。


 もっとも、兵の質という点で言えば、陳登の言うとおり、両軍は大きく隔たっている。
 曹豹、糜芳の二将麾下の軍勢はまだしも、余の部隊は徐州各地で徴募した農民兵たちが主体となる部隊である。錬度において、曹操軍とは比べるべくもあるまい。
 そんな兵を動かせば、数合わせどころか、味方の妨げになる可能性すらあった。
 そう考えれば、取り急ぎ打てる手は限られてくる。
「――曹、糜の二将軍を呼んでくれぃ。二人には、直属の部隊を率いて、早急に小沛の増援に向かってもらわねばならん」
「御意、残余の兵はどういたしますか?」
「当面は彭城、臨准を中心として防備を固めるのじゃ。曹操殿以外に敵がおらぬわけではない。危急の時に備え、兵力はなるべく集中しておかねば――」
 と、陶謙が言いかけた時であった。
 慌しく扉を叩く音が室内に響き渡る。病状の身の州牧の部屋を訪れるには、あまりに乱暴なその物音を聞き、もたらされる知らせが容易なものではないことを室内の者たちは悟る。
 そして、その考えは正しかった。
 息せき切ってあらわれた文官は、開口一番、こう告げたのである。


「瑯耶郡、曹操軍の別働隊の攻撃を受け、すでにして陥落せり」




 曹仁、曹洪、曹純ら曹一族に率いられた別働隊は、兌州東部で鮑信の軍と合流するや、電撃的に国境を突破、一路、瑯耶郡の県城を目指した。
 太守である曹豹が彭城に出向いているとはいえ、瑯耶郡の将兵は決して勤めを怠っていたわけではない。情報収集には異能を見せる曹豹は、当然のように兌州にも情報網を張り巡らせていたから、十万に迫る軍勢が動けば、それに気づかない筈はなかった。
 事実、徐州国境を突破した鮑信率いる九万の軍勢は、たちまち瑯耶郡の偵察網に捕捉された。
 しかし。
 曹家の三将に率いられた一万の騎馬部隊。これを捉えることは出来なかったのである。
 徐州内の地理に精通した曹純が先頭を駆け、諜者を扱う腕では曹豹以上の曹洪が徐州側の諜者をことごとく排除し、そして曹仁が部隊を完璧に統率する。
 全てが騎兵で編成された部隊は、恐るべき機動力でもって相手の警戒網をかいくぐり、朝靄けぶる瑯耶郡の県城を指呼の間に捉えた。そして、未だ曹操軍がここまで到っていないと考えて、いつものように門を開いた県城に向かって、曹操軍は喊声をあげて突撃を開始する。
 ――勝敗が確定するまで、半刻もかからなかった。


 
 報告は続く。
「曹操の軍は『なべて百姓に罪はなし』として、民には手をかけておりませんが、城に立てこもって抵抗を試みた将兵は、ことごとく討ち取られたとのことです」
 一度切り結べば降伏は許さぬとして、勝敗が決した後、降伏を申し入れた将兵にも、曹操軍は容赦なく刃を突き立てていったという。
 その峻厳な態度が、徐州制圧に対する曹操軍の強い決意を雄弁に物語っていた。
 だが、事態はそれだけにとどまらない。瑯耶郡を制圧した曹仁らは、後始末を鮑信に委ねるや、更に徐州の領内深く進撃を開始したのである。
 瑯耶郡を越えたら、次は東海郡である。しかし、東海郡は他領に接しておらず、当然のように曹操軍を止められるだけの備えはない。
 そして、東海郡を越えてしまえば、その次は――

 
「……この彭城、であるな」
 陶謙の言葉に、孫乾、陳登の二人は顔をこわばらせた。
 しかも、凶報はそれだけにとどまらなかった。
 広陵太守陳羣より、寿春の袁術軍の動きが、にわかに活発になった旨の報告が届けられたのである。
 偽帝の侵攻、不可避なり。
 報告は、その言葉で終えられていた。
 陳羣は剛直な為人で陶謙の厚い信頼を得ている人物であり、准河以南の陶謙領を堅実に治めてきた。袁術が准南に台頭する以前、揚州牧の劉遙が広陵の支配権を欲して、大挙して押し寄せてきたことがあったが、陳羣は単身、敵陣に赴き、劉遙と対等に渡り合い、広陵の地を寸土も侵させず、撤退させてのけた。文武どちらかといえば文の人であるが、その豪胆さはなまじの武官に優ることはるかであろう。
 その陳羣が、急使を発してまで知らせてきたのだ。間違いなく、袁術は動きだすであろう。あるいは、すでに寿春の城を出ている可能性さえあった。


 西北からは曹操率いる本隊が。
 北東からは瑯耶郡を席巻した曹操の別働隊が。
 そして、南からは袁術の主力が。
 いずれも、徐州領を併呑せんとして襲い掛かってくる。
「彭城にて、楚歌を聞く日が来ようとはな……」
 陶謙は知らず、ため息を吐いていた。
 だが、すぐに首を振って、諦念を追い払う。州牧として、その事態を避けることこそ、陶謙の務めであったから。


 漢の臣として、偽帝に屈することは出来ない。ゆえに、陶謙が採れる手段は、何としても曹操と和平を結び、袁術に対抗することである。
 そして、そのための手段も陶謙は持っていた。先頃は、配下の者たちの反対もあって、実行に移すことが出来なかったが、事ここに到れば、彼らも陶謙の行動を認めざるを得ないだろう。
 陶謙の唯一の心配は、曹操が復讐に狂い、徐州の民に害をなす可能性であったのだが、瑯耶郡での曹操軍の行動を聞くかぎり、刃向かいさえしなければ、民も将兵も無事でいられると確信できた。
 無論、陶謙はわかっていた。その条件でさえ、和平がどれだけ成り難いかということは。
 このまま兵を進めるだけで、徐州を征服することも、襲撃者たちを処断することもかなう以上、ここで曹操が和平に傾く理由はないに等しい。
 だが、袁術が動いたことにより、別の方向から曹操を説くことが出来るようになったことに、陶謙は思い至っていた。





 徐州を南北から追い詰めつつある現在の戦況は、あたかも曹操と袁術が手を結んだように見えてしまう。漢の忠臣という立場をとる曹操にとって、偽帝と手を組むことは、すなわち自ら拠って立つ基盤を崩すことである。
 あるいは、他の勢力――袁紹あたりがそこを衝いて、曹操の正当性を否定しようとすることも、十分に考えられた。
 それゆえ、ここで徐州と和平を結び、協同して袁術に当たるという方策を、曹操に説くことが出来る素地はかろうじてあったのだ。
 そのためには――

 
「公祐、元龍」
「はッ」
「はい」
「先の命令を改める。曹、糜の両将軍は彭城に待機。わしが商と応、それに件のならず者どもを連れ、小沛に赴く。護送の兵を含めても、千も要るまい。のこりは彭城の守備を固めよ。そして、小沛の玄徳殿を彭城に呼び戻し、わしが戻るまでの間、徐州全軍を総率してもらうのじゃ」
 陶謙の言葉に、二人は主の意図を悟り、反対の言葉を口にしかけたのだが、結局、その口からは一言も発されなかった。
 


 孫乾と陳登は、先の軍議で、陶謙が曹操のもとへ赴こうとした時、それに反対を唱えた。
 それは、感情的な判断ではなく、きちんとした成算があってのことだった。
 曹操がいかに大軍を擁するとはいえ、陶謙軍もまた、徐州、揚州に及ぶ広大な領土を有する一個の勢力であり、一朝一夕に敗亡の淵に立つことはない。
 小沛の劉備に徐州軍を総率してもらえば、曹操軍を押し返すことさえ不可能ではないかもしれない。また、そこまで都合良くいかなくても、曹操軍の足を止めることは十分に可能であろう。


 そうして時を稼ぎ、手薄になった兌州、許昌を狙って袁紹が動き出すのを待つ。否、待つだけではなく、袁紹に密使を遣わして、曹操の背後を衝くように依頼する。
 そうすれば、曹操はいつまでも徐州に拘っていることは出来ず、遂には兵を退かざるをえまい。
 孫乾たちはそう考えたゆえに、陶謙が曹操の下に出頭することに反対したのである。
 理由はそれ以外にもある。
 徐州の諸将は、先の軍議で、劉備の指揮下に入ることを了承したが、それはあくまで陶謙が上に立っているからこそ。陶謙が、今回の責任をとらされて討たれでもしたら、素直に劉備の指揮下に入るとは考えにくかったのである。
 陶謙がいなければ徐州はまとまることが出来ず、結果、混乱で国力を漸減した挙句、衰亡への一途を辿ることになるであろう。たとえ曹操の不興を買おうとも、今、主を失うかもしれない危険を冒すことは、孫乾たちには出来なかったのである。



 だが、孫乾は、そして陳登も、自分たちが曹操という人物を、大きく見誤っていたことに、ようやく気がついていた。
 その軍勢の圧倒的なまでの強さ。ことに、瑯耶郡の県城を陥落せしめたという一万の騎馬部隊の機動力は、時間を欲するこちらの思惑を根本から覆すものであった。
 そもそも、騎馬部隊は、軍馬の養成から、兵士の育成に到るまで、金も手間も大きく必要となるもの。反董卓連合が組織された時、噂に聞く白馬将軍公孫賛でも、率いていた騎馬部隊は五千に満たなかった。
 それを考えれば、曹操が持つ一万の騎馬部隊が、いかに脅威であるかは言を待たない。しかも、この方面の軍が別働隊であることを考えれば、曹操の本隊もまた、同数、あるいはそれ以上の騎馬部隊を有していると考えられる。
 劉備であれば、ある程度の時間を稼ぐことは可能であろうと楽観視していたのだが、それは戦を知らぬ文官の浅見であったことを、孫乾は認めざるをえなかった。
 袁紹の下に遣わした使者はまだ戻ってきていないが、このままではたとえ袁紹が動いたとしても、それより早く、曹操が彭城に到達してしまうのは確実であった……



◆◆



 陳登は小さく頭を振る。
 結局、孫乾は陶謙の意に従い、曹操に和平を働きかけることに賛成した。陳登もまた、それを否定はしなかったため、すでに陶謙は病状の身をおして、小沛へ赴く準備を進めつつある。
 陶謙が意識を取り戻したことで、彭城もだいぶ落ち着きを取り戻しており、その一事だけを見ても、陶謙の徳望の高さがうかがわれた。


 だが、陳登は、孫乾たちと異なり、今回の決定に少なからぬ疑問を抱いていた。
 正確に言えば、今回の決定というより、今後の徐州の権力のあり方について、というべきであるかもしれない。
 すなわち、陳登はこう考えていたのである。


 このまま、陶家を中心に据えていると、徐州全土が立ち行かなくなっていく、と。


 とはいえ、その考えは、謀反を起こす、あるいは敵国へ通じるという手段を正当化するためのものではない。
 陳登は、陶謙への忠誠という点で、孫乾に優るとも劣らない。それは事実である。
 二人の違いは、孫乾が陶謙個人に対して忠誠を誓っているのに対し、陳登は徐州牧としての陶謙に忠誠を誓っているという点であった。
 別の言い方をすれば、孫乾が陶謙という主君に従っているのに対し、陳登は徐州に住まう民に従っているとも言えるだろう。

 
 陳登は、州牧としての陶謙に心からの忠誠を尽くしていた。それは、そうすることが徐州の民人にとって最善だと考えていたからである。
 そして、その陶謙が、劉備に州牧の座を譲る意向を示したときも、それに孫乾らと共に賛意を示した。これもまた、そうすることが徐州の平穏を維持するために最善だと考えたからである。
 わざわざ外様の劉備に州牧の座を譲れば、無用な混乱が起きるだろうことはわかっていたが、たとえ内部の誰かに譲るにせよ、これまでの陶謙の功績が際立っている以上、権力の譲渡には多かれ少なかれ混乱がつきまとう。陳登が劉備以外の誰かにつき、孫乾、糜竺らと対立すれば、混乱は長引きこそすれ、縮まることはないだろう。
 混乱を最小限に抑えるためには、孫乾らと協力して、劉備を擁立するべき。陳登はそう判断したからこそ、孫乾らと共に積極的に劉備に働きかけたのである。


 だが、陶商たちの愚行によって、全ては水泡に帰してしまった。
 陶謙個人に責があるわけではない。主君にたいして不遜な物言いになってしまうが、陳登は陶謙に同情を禁じえないほどである。
 だが、このまま陶家を徐州の首座にすえ続ければ、陶家の不始末は、そのまま徐州の罪となり続ける。その事実に陳登は思い至り、以来、その胸中から苦悩は去っていなかった。
 陶謙の齢と、見え隠れする病魔の影。この二つを考えれば、陶家の命運と、徐州のそれを、これまでと同じように重ね合わせることの危険さは、誰の目にも明らかである。
 これが平時であれば、まだ平和裏に動くことも出来たかもしれないが、今の戦況では、それも難しい。
 徐州の平和を保つためには、どうするべきか。

 
 そう考え、密かに懊悩する陳登の苦悩を、遠く揚州の地から察している者がいた。


◆◆


 徐州彭城、陳登の私室。
 蒋欽、字は公奕は、今、部屋の主と相対していた。
 相手の名は陳登、字は元龍。徐州臨准城主として、陶謙の信頼厚い重臣の一人。
 袁術に仕える蒋欽にとって、ここは敵地の真っ只中といっても過言ではない場所である。そんな場所で、徐州の高官に対して密書を差し出す。相手の心持一つで、いつ首を刎ねられてもおかしくない状況であった。
 蒋欽は、もちろん、そのことに気づいている。それでも、主君である袁術と、軍師である李儒から直々に与えられた任務である。必ず果たしてみせるとの気概は、臆することなく陳登に向けた瞳を見れば、一目瞭然であったろう。
 たとえ、その心中に少なからぬ疑問が渦巻いていたとしても。



 つい先ごろまで、蒋欽の中で、世の中は単純なものであった。
 自らを見出し、また、先の揚州牧劉遙の苛政から揚州の民を救ってくれた袁術に忠勤を尽くすこと。それが蒋欽にとってのするべきことであり、考えるべきは、そのためにはどうすればよいか、ということだけであった。
 蒋欽は袁術も、大将軍である張勲も、さらには軍師である李儒や、方士である于吉も、みな尊敬していた。于吉の当塗高の予言を聞き、その意味を知ったときには、心から嬉しく思ったし、袁術が皇帝の位についたときも、万歳を唱えるつもりだった。
 自分たち揚州の民を思う様に搾取し、酷使した漢王朝に比べれば、善政を布く袁術が皇帝になってくれた方が、揚州に住まう者にとっても良いことと考え、何の疑問も覚えなかったのである。


 正確に言えば、今でもそう考えてはいる。だが、先日までは存在しなかった疑問もまた、蒋欽の中に生じていた。
 その切っ掛けとなったのは、やはりあの孫家の粛清であろう。
 もし、蒋欽があの時、城内におらず、後から城の発表を聞いただけであれば、驚きはしても、疑い惑うことはなかったかもしれない。
 孫家が玉璽を私し、それを袁術が咎めても改めず、遂には剣をもって叛逆に踏み切ったという袁術の筋書きは、全てが嘘偽りというわけではない。そのことを、あの時、寿春城内にいた蒋欽は知っているからである。


 だが、粛清に到る一部始終を目の当たりにした蒋欽は、それまで無謬と信じていたものに、かすかな疑義を感じるようになっていた。
 それは嫌悪と称するには薄弱で、反感と称するには曖昧な、けれど決して肯定ではない感情。
 袁術と、その側近たちを見る目に混ざり始めた濁点を、まだ蒋欽は明確に意識してはいなかったが、それでも今までのように、袁術への忠勤に一途に専心しきれない自分を、蒋欽は感じていたのである。


 

 一方で、袁術からの密書を読む陳登もまた、内心に懊悩を抱えているという点では、使者である蒋欽と大差はなかった。
 袁術の提案はありふれたもので、要するに、陳登を徐州牧に任命するから、仲に従え、という要求である。
 陳登は考える。
 袁術が、この提案を孫乾や糜兄弟ではなく、自分にしてきたのは何故か。
 陶謙の廷臣という立場である彼らと違い、臨准城と固有の武力を抱える自分を引き抜いた方が効果的だと考えたのか。
 それとも――陳登が内心で抱えている迷いを、見抜いた上でのことなのか。
 後者だとすれば、偽帝といえど侮れぬ。
 そんなことを考えながら、密書の表面を撫でる陳登の視線は、じつのところ、そのほとんどを捉えていなかった。


 徐州の現状。主陶謙への忠節。その子息の処断。迫る曹操の軍。それと命がけで戦っているであろう劉備軍。袁術からの密使。いくつもの事柄が陳登の脳裏をよぎり、音をたててぶつかりあう。
 陳登が望むのは徐州に生きる者たちの平穏である。そのために、今、どう動くべきなのか。
 誰もが満足する結末は、すでに存在しない。そこに到る方途もない。であれば、陳登が守りたいものを守るために、そして望む未来を得るために、効率良く行動していかなければならない。
 誰を、あるいは何を守り、何を、あるいは誰を犠牲にするのか。


 ――やがて、陳登は蒋欽に向かって、ゆっくりと口を開いた。
 




◆◆





 徐州で起こった惨劇を契機とした争乱は、ついに戦火へと発展し、周辺諸州を巻き込んだ大火になろうとしていた。
 小沛城に、玄徳様曰く「お留守番」の身となっていたおれは、留守居の諸葛亮や張角たちと共に、その大火を鎮めるべく、城中を駆け回っていた。
 ――決して、貂蝉の料理から逃げ回っていたわけではない。いや、逃げられるものなら逃げたかったのだが、そうすると張角たちどころか、董卓や賈駆、王修までが包囲網に加わってくるので、余計に大事になってしまうのである。
 劉備軍の人員のほとんどが、対曹操戦に出陣している今、城内のいたるところで人手が不足しており、みな、懸命に働いている。その上に、おれのために迷惑をかけるわけにもいかない。
 よって、貂蝉曰く「愛と精気のたっぷりこもった」料理が並べられた食卓を、おれは甘受していたのである。
 実のところ、貂蝉の料理は、癖の強さと見た目の悪さをのぞけば、案外美味かった。くわえて、見た目の悪さも、弱ったおれの身体のことを考え、精のつくものを選んだためであったらしい。これは、食後の杏仁豆腐をつくってくれた劉佳様がこっそり教えてくれた。謝謝、貂蝉。
 彼らのおかげで、おれの体調は少しずつではあるが、戻り始めているようだ。食欲も、眠気も、まだ薄いとはいえ、時に応じて身体をノックするようになっていた。



 だが、徐州の情勢の方は、一向に好転の兆しさえない。
 迫り来る曹操軍。まとまらない徐州勢。そして、おそらくは後方で爪を研いでいるであろう袁術軍。
 戦況は、正直、絶望的といっても過言ではないだろう。
 だが、それでも、おれは何とかなると考えていた。おれが劉家軍に加わってよりこの方、不利な状況に陥ったことは一再ではない。それでも、玄徳様を筆頭に、皆で何とかしてきたのだ。まして、今や玄徳様の勢力は、人材の数、質、兵力いずれをとっても旗揚げの頃とはくらべものにならない充実ぶりである。
 これで何とかならないわけはない。
 事実、陶謙は意識を取り戻し、わずかとはいえ状況に光が差してきている。徐州の残余の戦力を小沛に集結させれば、いかに曹操軍が巨大とはいえ、食い止めることは不可能ではない。
 あとは襲撃に加わった連中を全てひっとらえて曹操に突き出し、何とか和平に持ち込む。あるいは領土の一部を割譲しても良いだろう。曹操がどうしても和平を肯わないようならば、河北の袁紹を頼んでも良い。
 どのような手段であれ、曹操を退かせることが出来れば、南の袁術が攻めてきても、対抗することは可能である。
 この考えは、根拠のない妄信ではない。諸葛亮もまた、おれと似たようなことを考えていたことからも、それは明らかであった。
 もっとも諸葛亮のそれは、おれよりもはるかに具体性に富んだものであったが、いずれにせよ、徐州がまとまり、曹操と和し、袁術に抗する。その方針は、多くの人が共有するところであったのだ。







 陶謙の意識が戻った。その吉報が届いて間もなく、小沛城に鳳統からの急使が訪れ、おれたちは玄徳様たちの敗戦を知った。
 小沛に入城してからこちら、関羽、張飛ら将軍たちによって鍛えられ、見違えるほどに錬度を高めた劉備軍であったが、曹操軍の猛攻を遮ることは出来なかったのである。


 その知らせを受け取るや、諸葛亮はすぐさま小沛の守備兵力から、増援の部隊を送り出した。
 とはいえ、ほとんど全力出撃であった為、小沛城内に余剰兵力は存在しない。援軍に出せた人数は、千にも満たないものだった。
 そして、その程度の数が加わったところで、勢いを盛り返すことが不可能なのは、誰もが理解するところである。
 くわえて、それだけの人数を出せば、ただでさえ手薄になっている小沛城の防備が成り立たない恐れさえあった。
 それゆえ、諸葛亮は彭城に向けて、援軍を求める使者を送ったのである。陶謙が意識を取り戻した今ならば、あるいは諾の返事が得られるかもしれないと考えて。


 だが、曹操軍の進撃は、その間も止まることはない。 
 玄徳様は小沛城からの援軍と合流すると、州境から小沛城の間に点在する砦や陣地を拠点として、曹操軍の進軍を止めようと試みた。だが、兵力差は依然として大きく、策を用いようにも、あの曹操に夜襲や奇襲を許す隙がある筈もない。
 かといって、正面から矛を交えても、鉄の壁に槍を突き立てるようなもの。かえってくるのは、欠けた鉾先と腕のしびれのみであろう。
 双方、卓越した智者を擁する両軍の激突は、しかし、互いの兵力を叩き付け合う凡庸な力押しの戦となっていた。
 もとより、兵力のぶつけ合いならば、数に優る曹操軍の勝利は揺るがないという事実がある。
 漢帝より勅命を受けた軍が、小沛の寡兵ごときに、わざわざ小細工を弄するまでもない。
 そんな確かな自信に裏打ちされた、曹操軍の堂々たる進軍を前にしては、いかな鳳統といえど、容易に付け入る隙がない。
 結果、劉備軍は善戦しつつも後退を余儀なくされていったのである。


 潮が満ちるように、ゆっくりと、しかし着実に徐州領内への侵攻を続ける曹操軍。もはや劉備軍に残された手段は、小沛への篭城しかないかと思われた矢先。
 小沛城に、一騎の早馬が駆け込んできた。
 その早馬は彭城からのもので、おれたちはその使者が、先の諸葛亮の増援要請に対する陶謙の返事を携えてきたものとばかり考えていた。
 疑いなく信じてしまったのは、おれたちが彭城の動きに気づいていなかったことの、何よりの証であった。


 覇王曹操。
 偽帝袁術。
 成り立ちこそ異なるが、いずれも乱世に雄なる者。
 中華を席巻せんとする両雄の光輝は、相対する者の目を灼かずにはおかない。その両雄に前後をふさがれる形となった劉備軍が、彼ら以外の勢力、まして味方である筈の徐州に目配りが行き届かなかったとしても、それは仕方のないことだったのかもしれない。
 ――そう我が身をかばいたくなるほどに、このとき、劉備軍に迫っていた危機は巨大なものだったのである。


 だが、それとてもまだ序章であったことを、おれは知る。
 真の始まりは、おれたちの眼前に、人の形をして現れた。




「こ、公祐殿ッ?!」
 あらわれた急使の姿を見て、諸葛亮をはじめ、おれたちは驚きを隠せなかった。
 そこにいたのは、彭城で政務をつかさどっている筈の孫乾であったからだ。しかも、その出で立ちは、髪は乱れ、服はほつれ、孫乾本人は息も絶え絶えという様子であったから、なおさら驚かざるをえない。
 そんなおれたちを前に、孫乾は、前置きもなく彭城で起きた一大事を告げた。


 ――徐州牧陶謙、崩御す。


 
 ……劉家軍が分裂を余儀なくされることになる、苛烈な退却戦が始まろうとしていた。


 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/09 23:18


 徐州沛郡。
 曹操と劉備が、それぞれの軍を率いて対峙する戦場において、奇妙な報告がもたらされ、曹操は眉をひそめた。
「劉備の陣が、もぬけの空?」
 報告をもたらした夏侯惇は、自身、怪訝そうな顔をしながらも、陣頭で見たことをそのまま主に伝える。
 小沛城へと到る道筋に、劉備軍が幾重にも築き上げた防衛陣。
 一つ一つの規模は決して大きくはないが、互いに連携をとりやすいように綿密に位置が計算されてあり、一つの陣地を攻略するためには、他方の陣地からの攻撃を常に警戒しなければならなかった。
 またいずれの陣地も主要街道からわずかに離れた位置にあるため、攻略のためには、どうしても時が必要となる。だからといって先を急げば、陣から突出した兵が、侵攻軍の後方を扼し、補給路を脅かそうとするだろう。
 それは、いかにして少数の兵で大軍の侵攻を防ぐのか、その一点に考えを集中させ、つくりあげた、劉備軍の小沛防衛の要であると思われた。


 昨日今日でつくることの出来るものではない。おそらく劉備は、兌州の乱が鎮定されてからこちら、曹操の徐州侵攻が不可避であると考え、この陣地郡をつくりあげてきたのだろう。
 しかし。
 その陣地郡をもってしても、曹操軍の侵攻は止まらない。
 曹操率いる本隊が主要街道を直進する一方、夏侯惇、張遼らが遊撃部隊として、四方に散らばる陣地郡を攻略していく。百の兵をもって、千の兵を防ぎえる陣地であっても、万の兵をもって攻められれば防ぐ術などありはしない。関羽や趙雲ら将軍たちが直接指揮すれば、ある程度持ちこたえることは可能であったが、曹操軍の本隊はかまうことなく小沛城に直進していく。
 味方との連携をとることが出来ず、敵中に孤立してしまえば、いかに関羽らが精強を誇るとはいえいかんともしがたい。
 そのため、陣地を放棄して更に後方へ退避せざるをえず、劉備軍はずるずると後退を続けていたのである。


 それでも、この劉備軍の動きは、確実に曹操軍の足を絡めとってはいたのである。それは、ほんのわずかな時を稼ぐことしかできなかったかもしれないが、決して無為であったわけではない。
 曹操としても、関羽らに指揮された少数の兵に、後方で蠢動されては面白くない。補給路の確保は、軍将としての最低限の責務の一つ。これを怠るような愚将に堕す心算など、曹操には微塵もなかったのである。
 それゆえ、蚊のようにたかってくる劉備軍に対して、夏侯惇、張遼らの将帥をつぎ込み、その抵抗を排除させながら、確実な進軍を行っていたわけだが。
 今日の攻略目的である陣地の一つが、もぬけの空であったと夏侯惇は告げたのである。
 ほどなく、張遼も本営に帰陣し、夏侯惇と同様の報告を行った。



「我が軍に刃向かう無益さをようやく悟った――そうであれば楽なのだけど、あの劉備たちがそうそう簡単に諦めるとも思えないわね」
 曹操の言葉に、荀彧が頷いてみせた。
「御意。華琳様が勅命を持ち出しても、一介の州牧の為と称していまだ抵抗を続けている愚か者。今になって突然に改心するとも思われません。なにがしかの理由があるのでしょう」
 荀彧の言葉に、夏侯惇は、む、と訝しげな顔をした。
「単に兵力分散の危険を悟ったのではないのか? 小癪な防衛陣では我々を止められぬのは、連中も骨身に染みているだろう」
「ふん、そんなことは最初の数日で向こうもわかっていたに決まってるでしょ。でも、たとえわずかであっても、華琳様の足を引っ張ることが出来ていたのも事実。だからこそ、最後には破られるとわかっていても、あいつらは抵抗を続けていたのよ。今の徐州にとって、一刻の時間さえ、万金にまさる価値があるわ」
 そんなこともわからないなんてね、と荀彧が口の端を歪め、夏侯惇に優越感に満ちた笑みを送る。
 夏侯惇が頬を紅潮させて、それに応じようとすると、その機先を制すかのように、それまで黙していた荀攸が口を開いた。


 やや急いた口調だったのは、姉と夏侯惇の舌戦を未然に防ぐためか、はたまた巻き込まれたくないためか。
「か、華琳様。お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ええ。なにかしら、藍花(らんふぁ 荀攸の真名)」
「此度の戦、小沛城の奪取と、劉備軍の撃破、いずれに重きを置くおつもりでしょうか」
 その荀攸の言葉は、やや唐突である観が否めなかった。
 荀彧を睨んでいた夏侯惇も、そう感じたようで、首を傾げる。
「何を言っているのだ、藍花。その二つは同じ意味だろう。どちらを優先するかという問題なのか?」
「猪は黙ってなさい、藍花が無用な言を吐くわけないでしょう」
 またもや荀彧がそれに口をはさみ、再びふたりは真正面から、がるる、と口にしそうな表情でにらみ合う。


「あの姉様、春蘭様、落ち着いて――」
「私は藍花に聞いているのだ。余計な差し出口はやめてもらおうかッ」
「あんたに説明する時間がもったいないでしょうが。それこそ劉備たちの思う壺よッ」
「なんだと!」
「なによ!」
 だが、犬猿の間柄の二人には、荀攸の言葉は届かない。こりもせずににらみ合いを続ける姉と夏侯惇を見て、荀攸はぽつりと呟いた。
「お二人とも、相変わらず仲が良いですね……」


 それを聞いて、荀彧が、キッ、と荀攸を睨むように見つめる。
「藍花!」
「は、はいッ?!」
「なんであたしがこんな単細胞と仲良くしなきゃいけないの、誤解もはなはだしいわ!」
「まったくだ。桂花の言葉だが、これは私も同感だな。私たちはどこをどうみても仲良くはないぞ」
 息を合わせて、自分を睨んでくる二人に、荀攸は、はうぅ、と慌てながらも、つい呟いてしまった。
「――ええと、すごい息があってるように見えるんですけど、気のせいでしょうか?」
「気のせいよッ」
「気のせいだッ」
「すす、すみません?!」
 曹操軍の文武、それぞれの首座に位置する者たちの連携の前に、荀攸は頭を下げて陳謝するしかなかった。


「姉者、落ち着け。桂花もな」
 苦笑しながら、場を取り静めた夏侯淵は、恐縮しきりの荀攸をうながした。
「藍花、先の発言、どういうことか教えてくれ。劉備たちが折角築いた陣地を放棄した意図、察しているのだろう?」
「あ、はい、すみません、秋蘭様。姉様が申し上げたとおり、劉備たちの後方で何事か起こったのでしょう」
 荀攸の言葉に、それまで黙っていた張遼が口をはさんできた。
「何かが起こったっちゅうんは、うちにもわかる。問題なんは、何が起こったかっちゅうことやろ。それがはっきりせんことには、軍を動かすにも限度があるんやないか?」
「張将軍の仰ることはごもっともです」
 そういって、荀攸は張遼の言葉に頷いてみせた。
「しかしこの場合、劉備軍の動きが示す事態は限られています。劉備軍が時間を稼ぐことをやめたというのなら、その理由は一つ。後方の徐州で変事が発生したのでしょう。それも、劉備軍が小沛を放棄せざるをえないほどの凶事が」


 夏侯惇が口にしたように、小沛城に戦力を集中させるため、という可能性もないわけではない。
 だが、篭城は他方からの援軍のあてがあって、はじめて意味をなすもの。今の戦況において、曹操軍に対抗しえる援軍を派遣できるとすれば、それは彭城しかないだろう。
 だが、陶謙が倒れ、混乱している彭城が一転して全力を傾けて小沛の救援に来るとは考えにくい。たとえば陶謙が意識を取り戻し、彭城が意見を一つにしたのだとしても、大軍をまとめるには少なからぬ時日を要する。
 つまり、劉備軍にとって、出来るかぎり時間を稼ぐ、という条件は援軍のあてがあっても変わることのない戦術目的である筈なのだ。
 だが、劉備軍はそれをせず、ただ退いた。そこから導き出される結論は一つしかない。


 荀攸の言葉に、曹操が頷きをしめす。
「それが小沛の放棄、というわけね。その退き際を追い討てば、いかに劉備が多くの精鋭を抱えていたとしても打ち破れる。藍花の言いたいことはそれかしら」
「御意にございます。とはいえ、劉備軍の軍師たちの能力を考えれば、無為に退くような無様を晒すとは思えず、こちらも出血は免れないでしょう。戦の常道を踏むのであれば、我らはこのままの進軍速度を保つべきです。そうすれば、小沛城を無血で手に入れることができるでしょう。この場合、劉備軍を見逃すことになってしまいますが――」
 それは気にすることではない、と荀攸は口にする。
 徐州で何が起こったにせよ、小沛を放棄する以上、それは劉備らにとって凶となるものであり、わざわざこちらが手を下すまでもなく、劉備軍は徐州内で戦力をすり減らすことになるだろう。それを待って軍を動かせば、無用の血が流れることはなくなろう。
 だが。
 荀攸は曹操の顔を見つめ、口を開いた。
「此度の戦は、華琳様の勝利です。劉備軍との雌雄は決したと言って良いでしょう。しかし、華琳様が求めるものが、戦の勝利だけではなく、劉備軍の人材をも含むのならば――今が好機です」
 すなわち、関羽を捕捉するための絶好の機会である、と荀攸は言うのである。


 曹操はそれを聞き、めずらしく苦笑をもらした。
「藍花にしてはもってまわった言い方ね。それは諫言のつもりなのかしら」
「――」
 主の言葉に、荀攸は無言で頭を垂れた。
 その主従の様子を見て、夏侯惇が首を傾げ、夏侯淵が苦笑をもらし、荀彧がむっと顔をしかめ、張遼の顔に戦意が満ちていく。
 曹操が、劉備軍に属する関羽に執心しているのは公然の事実。そして、今回の件は、曹操の想いを遂げるための絶好の機会ともなっていた。
 だが、あの猛将を捕らえるとなれば、相応の出血を覚悟しなければならない。これだけの兵力差があってさえ、打ち破るのに骨を折る武将である。それを生け捕るとなれば、一体どれだけの犠牲が出ることになるか。下手をすれば将帥級の人物さえ失いかねない難事であろう。
 そのことを理解した上で、それでもなお関羽を欲するのか。荀攸は曹操に、そう問い質したのである。
 より正確に言えば。
 曹操の執心で貴重な将兵を無為に失うような真似は避けるべき、と荀攸は曹操に面と向かって言上したのである。


 曹操は、荀攸の諫言の意味を確認するかのように目を閉ざし、しばし黙考する。
 やがて、その口が開かれようとした時、それに先んじて口を開いた者がいた。
 張遼である。
「ああ、それなら心配いらんわ。関羽を捕らえるのに、兵士をつかわんかったらいいんやろ?」
 その言葉に、荀攸は首を傾げつつ、頷いた。
「はい、それはもちろんそうですが……あの関雲長を、兵を用いずに捕らえることなんて出来るのですか?」
 荀攸の疑問はもっともなことであった。
 あの飛将軍呂布と互角に戦った黒髪の勇将。今回の戦いでは、圧倒的な兵力差の前にさしたる活躍はしていないように見えるが、戦局の要所を押さえる関羽によって、曹操軍はあと一歩のところで劉備軍の本隊を捕捉することが出来ていない。関羽がいなければ、曹操軍はとうに劉備を捕らえていたに違いないのである。 
 一人の武人としては無論のこと、一軍の将としても関羽の力量が卓越していること、今や万人の目に明らかであった。


 その関羽を、兵を用いずに捕らえる、と張遼は言うのである。荀攸が疑問を覚えるのは当然であったろう。 
 対して、張遼はあっけらかんと笑ってみせた。
「簡単や。劉備たちが退却しようとしてるんなら、その前に立ちふさがって言うたらええ。勝てば見逃してやる。負ければおとなしくうちらに降れってなあ。そしたら関羽も拒否できんやろ。自分の武に自信を持っているなら、なおのことや」
 そうやって一騎打ちに持ち込み、そして。
「そこで、うちが勝てば兵の犠牲なんぞでんやろ。月(董卓の真名)のとこにいたときから、関羽とはいっぺんやりあってみたかったんや。ふふふ、ようやっと、本気でこの飛竜刀を振るえる相手と戦えるわ」
 張遼の言葉に、夏侯惇がやや憮然とした様子で口を開く。
「ほう、それでは私とやりあった時は、本気ではなかった、ということか、霞?」
「あらあ、惇ちゃん拗ねとるん?」
「す、拗ねてなどおらんわ、ばかもん! しかし、もし片手間に戦われたというなら武人の名折れ。再戦を申し込ませてもらうぞ。お主が本気にならざるをえんような戦いを見せてくれよう」
「おー、こわ。でも心配せんでも、曹家の大剣と片手間にやりあえるようなばけもんはおらへん――ああ、恋ならやりかねんかな。まあそれはともかく、うちは惇ちゃんとやりおうた時、手は抜いてへんよ。ただ、覚悟っちゅうか心構えっちゅうか、そういったもんが少しばかり足りなかったのは認めるわ」


 自分が曹操軍に捕らえられた際のことを思い出し、張遼はそう口にする。
 あの時は、呂布を逃がし、そして配下の将兵を救うという目的があったため、夏侯惇との戦いに専心できなかった。当然、それは武芸にも影響を及ぼしてしまう。結果、張遼は夏侯惇に敗れ、そして曹操に降ることになった。
 その後も、許昌で幾度か矛を交えたが、その時はすでに味方同士、ついでに言うなら直情径行の夏侯惇に浅からぬ好意を抱いていたため(主にからかう対象として)、自然、その矛先からは鋭さが失われていたのである。


 一方、今、関羽との間にそういった縛りはない。向こうもまた、主君を逃がすためとあらば、全力で向かって来るだろう。互いの武を競い合う、絶好の機会と言えた。
 張遼の頬が紅潮するのは、押さえ切れない戦意のためか。あふれる闘気に触れ、思わず荀攸が身を縮めた。
 その張遼の姿を見て、曹操は即断する。
「霞の言やよし! 劉備追撃の全権をあなたに委ねましょう。必ず、関羽を我が前に連れてきなさい」
「御意!」
 張遼は得たりと頷くや、すぐにその場から立ち上がった。
「お、おい、もう行くつもりか、霞。まだ準備もろくに整えていないだろうに」
「神速がうちの部隊の座右の銘や。心配あらへん。みんなも慣れとるしな」
 そういって、一刻も惜しいとばかりに駆け去ってしまう張遼。
 その姿に、曹操は短い笑いを浮かべたが、すぐに表情を改め、集った諸将に命令を下す。


 小沛城の奪取は、いわば緒戦の目的の一つ。それゆえに慎重を期さねばならない。その後の統治を円滑に進めるためにも、ここでしくじることは断じて避けなければならなかった。
 そのことを弁えない者たちは、この場にいることを許されぬ。曹操の指示に従う諸将の顔は、等しく真剣きわまりないものであった。



◆◆



 小沛放棄。
 その決断に到るまで、劉備軍が要した時間はごく短かった。
 何故なら、他に選択肢がなかったからである。
 玄徳様はこれまで少なからぬ資材を投じて、小沛の防備を強化してきた。それゆえ、この城に立てこもれば、いかに相手が曹操軍とはいえ、それなりに防戦することは可能であったろう。だが、どれだけ小沛城で粘ろうとも、援軍が来なければ意味をなさない。まして、篭城は将兵だけでなく、小沛に住む民衆にも苦難を強いることになってしまう。
 今回の曹操軍は、抵抗する者にたいして容赦をしないという。であれば、最悪の場合、曹操軍の刃が民衆にも届いてしまいかねないのだ。勝算があるのならばともかく、確たる勝機も見出せない現状で、小沛に篭城するという手段をとることは出来なかったのである。


 その決断に到った理由は、無論、彭城から駆けつけてきた孫乾の報告である。
 徐州牧陶謙の死。
 その報を聞き、急ぎ小沛に帰城した玄徳様たちの前で詳らかにされた彭城の出来事は、思わず天を仰ぎたくなるほどに遣る瀬無いものであった。
 意識をとりもどした陶謙の決断。玄徳様に徐州を委ね、みずからは惨劇の責任を負って曹操の下へ赴くというそれは、やや時宜を失した観はあるものの、それでも事態を打開する可能性を秘めた案であった。
 だが、その案を実行しようとした矢先、事態はまたも急変する。


「実のところ、私もいまだに全容が把握できてはいないのですが……」
 孫乾はそう前置きをした後、陳登から聞いたという一連の出来事を口にした。
 一夜、息子たちの部屋に赴いた陶謙は、そこで人を払い、今回の決断を伝えた。父の言葉に、息子たちがどのような思いを抱いたのか、その答えは夜半に起きた火災がすべてを物語っていた。
 陳登らが駆けつけるまでの短い間に、すでに火は消しようもない勢いで燃え盛っており、この火事が人為的なものであることをはっきりと示していたという。
 そして、火元となったのは、まさしく陶謙とその子息たちがいる筈の部屋であった。
 そのことに思い至り、顔を青くさせる家臣たちの前に、しかし何故かこの難を免れた陶商たちが姿を現す。父の命により、出立の準備を整えていたという説明は、しかしあまりにも説得力に欠けるものであった。
 さらに陶商と陶応は、父からの命令とは南の袁術に和平を求めるものであると告げ、群臣を唖然とさせる。これまで、一貫して袁術との対決姿勢を崩さなかった陶謙が、急に変心する可能性はないに等しい。さらには、それを内密に、しかも明瞭な罪を犯した息子たちに命じるなどありえない。


 必然的に、彼らは一つの推測をはぐくみ、それは瞬く間に家臣たちの心に根を張っていった。すなわち、曹操の陣門に赴けば死を免れない陶商たちは、父を弑し、その身を炎で焼いて証拠を消した上で袁術に降伏し、身の安全をはかろうとしたのであろう、と。
 すぐにも袁術の下に発とうとする陶商と陶応。その二人の前に立ちふさがったのは、陳登であった。
 そして――


「私がおそまきながら駆けつけた時、公子たちの首はすでにはねられておりました」
 彭城の混乱を少しでも治めるため、孫乾は激務に激務を重ね、その心身の疲労は深く、重かった。それゆえ、城内の騒ぎに気づくのが遅れたのは事実である。
 だが、朝方まで眠りこけていたわけでもない。火事の一報から孫乾が駆けつけるまで、さほど時間は隔たっていなかったのである。
 にも関わらず。
 孫乾が駆けつけた時には、全てが終わってしまっていた。
 そうして、あまりの出来事に呆然とする孫乾を前に、陳登は静かに告げたのである。
 徐州全土をあげて、曹操に降伏する、と。




「降伏だとッ?!」
 関羽の怒声が軍議の間に轟く。
 孫乾が思わず竦んでしまうほどの声量であった。
「は、はい。陶州牧はすでに亡く、後を継ぐ者とてない現状では、徐州が一つにまとまることなど不可能。この状態で曹操軍と戦うことは不可能であり、無益。むしろ下手に刃向かえば、その咎が民にまで及ぶ可能性があり、もはや降る以外に方法はないと元龍殿は申しておりました」
 関羽は奥歯をかみ締める。
「それは、その通りではあろうが、しかし!」
「も、もちろん、私も反論いたしました。後を継ぐ者がないと元龍殿はもうしましたが、州牧の意が玄徳様にあったことは周知の事実。まして元龍殿と私、それに子仲殿はみずから玄徳様に徐州へ来ていただくように請うた身です。ですが……」
 孫乾は力なくうなだれる。
 陳登が言うのは、あの時とはもはや状況が異なる、ということであった。
 特に、今は曹操の猛攻に晒されており、劉備軍であっても、その兵威に対抗しえないことは事実によって証明されつつある。くわえて、勅命を戴き、抵抗する者は皆殺しという曹操軍の方針を考えれば、決断を延ばすほどに被害が増していくのは明らかであった。
 ゆえに、決断を下す時は今をおいて他になし。
 それが陳登の意見であり、そして、陳登はすでにその方針で動きはじめていたのである。陳登の人望は徐州では隠れもないものであり、また臨准城主として固有の武力も持っている。陳登がその気になりさえすれば、一時的に主が不在となった彭城を従えるのは決して難しいことではない。そして、事実、陳登はそう動いているのである。
 孫乾の意見を聞く前から。否、それを言えば、もっと早くに孫乾を呼ぶことは出来た筈なのに。
 そこまで思い到り、孫乾は背筋に氷片を感じた。感じざるをえなかった。


 思わず一歩あとずさった孫乾に対し、陳登はしかし、害意を向けようとはしなかった。周囲の目をはばかったものか、あるいはそれ以外の理由があったのか。
 そして、陳登が口にした言葉は、孫乾が予測したいかなるものとも異なっていたのである。




「元龍殿が申されたことを、そのままお伝えいたしまする。『玄徳様たちは、陶州牧の御恩に報じただけであり、曹将軍に従われるおつもりがあるのであれば、寛大な処遇を得られるでしょう。ですが、もしそのおつもりがないのであれば、手段は一つしかござらぬ。ご存知のとおり、徐州は准河をはじめ、大小の河川が連なる水の国。河川を渡る腕において、徐州は曹操軍に優っておりまする。劉家軍の方々には、この利をもって、南へ――広陵へ逃れていただきたい』。元龍殿はそう申されておりました」


 孫乾が口を閉ざすと、軍議の間はしばし静寂に包まれた。
 皆、与えられた情報をどう咀嚼すれば良いのか、迷う素振りである。
 その中で、もっともはじめに口を開いたのは、諸葛亮であった。
「広陵というと、陳長文殿が太守として治めていると聞きますが、元龍さんは、どうしてそちらへ向かえと?」
 その問いに、孫乾は困惑して首を横に振った。
「申し訳ありませんが、皆目見当がつきませぬ。ただ、仰るとおり広陵の太守である長文殿は、かの地をよくおさめ、また准河流域を巡って、劉遙らと矛を交えてこられた方ゆえ頼りにはなりもうそう。陶州牧に忠誠を尽くしてこられた方ゆえ、易々と曹操や袁術に降るとも思えませぬが、しかし、何故元龍殿がわざわざ広陵の名を挙げられたのかは、なんとも……」
 はきつかない孫乾の言葉に、関羽の顔が険しくなったが、孫乾が心底から困惑しているのは、その表情を見れば明らかであった。ここで孫乾を問い詰めても、事態が良くなることはないだろう。


 はっきり言えば、情報が少なすぎる。だが、その情報を集めている時間がない。
 確かなのは、前面に曹操という外患を据えたまま、後方に陳登という新たな内憂を抱えてしまったということであった。
 だが、小沛にとどまるという選択肢はすでにない。であれば、後は陳登の言葉どおり、南へと逃げるしか方策は残されていなかったのである。



◆◆



 かくして、劉家軍は小沛を放棄し、南へと移動を開始した。
 だが、その数は昔日の半分にも満たない。おそらく、五千に満たない数であろう。
 それというのも、小沛城主となった際、陶謙から預かっていた徐州軍のほとんどがこの地に残ることになったからである。徐州そのものが曹操に降伏するのであれば、それも当然のことであるとはいえ、どうしても寂寥の感は拭えなかった。
 くわえて、小沛城を出る玄徳様たちに対し、城内の民がその姿を見送ろうとさえしないことが、玄徳様たちの表情から明るさを奪っていたのである。


 そんな玄徳様たちの姿を見て、おれはいささかならず心を痛めていた。というのも、この状況、おれにも責任の一端があるからだ。
 小沛放棄が決定してからこちら、玄徳様や関羽らは軍の取りまとめや離脱者への対応でてんてこまいとなっており、領民へこの決定を伝えるのはおれの仕事となった。というより、志願してその任務に就いたのである。
 説明といっても、何万もの民の前に出るわけではない。長老と呼ばれる代表者たちのもとに出向き、今回の決定を伝えるのだ。
 案の定というべきか、玄徳様たちが小沛を放棄して逃亡すると知った彼らは動揺した。噂の中には、曹操軍を復讐に狂う悪鬼の軍勢であると伝えるものもあり、その恐怖が動揺をいや増したのかもしれない。だが、それがなくても、彼らは素直に頷くことはなかったであろう。そのくらい、小沛における玄徳様の声望は高かったのである。
 玄徳様の徳、関羽ら将軍たちの武威、そして諸葛亮、鳳統ら軍師文官たちの知恵。
 それらに裏打ちされた玄徳様の政治は、沛郡の民に陶謙治下にまさる平和と公正さをもたらし、玄徳様が城主となって一年にも満たないわずかな時日で、その評判は他州にまで響くほどだったのである。


 それゆえ、この長老たちの反応は予想どおりであった。
 そして、この次の反応もまた。
 彼らは玄徳様を慕い、小沛を捨ててでも玄徳様についていきたいと願ったのである。
 それに対しておれは――


「いけません。それはあなた方にとっても、玄徳様にとっても、良い結果をもたらしません」
 おれの言葉に、長老たちは慌てた様子で顔を見合わせる。
「し、しかし、このまま小沛に残れば、曹操軍にどんな目にあわされるか?!」
「さよう、それよりも玄徳様についていった方が良いに決まってますじゃ」
「玄徳様ならば、我らを見捨てるような真似は、よもなさるまい」
 その言葉に、おれは頷いてみせる。
「無論です。ですが――」
 だからこそ、あなた方はついてきてはいけない。そう語るおれに、彼らは怪訝そうな顔を向ける。
 おれは言葉をつくして説明した。
 曹操は、抵抗しない限り、民に暴虐を働くようなことはしない。その胸に復讐の思いがあることは事実だと思うが、それをぶつけるべき相手は見定めているだろう。しかし、一度敵にまわった者たちを、容赦しないであろうこともまた事実。
 そして、玄徳様があくまで曹操に屈しない以上、その玄徳様の軍についてくる者は等しく敵として扱われる。武器を持たない民を狩り立てるような真似はすまいが、その民を気遣って追撃の手を緩めることもないであろう。必然的に、玄徳様についてくる者たちは戦に巻き込まれることになる。
「玄徳様はそんなあなた方を助けるために、自ら危地へ踏み入ってしまう方です。そうなれば、もう悔いても及ばない。玄徳様も、あなた方も、徐州の地に屍を晒すことになる」


 おれの脳裏に、曹家一行が襲撃された時の光景がよぎる。
 そして、あの時、地面に倒れていた女性の顔が、玄徳様と重なりそうになり――その寸前、おれは慌てて頭を振って、その不吉な光景を脳裏から追い払おうとする。
 しかし、考えたくもないことだが、現実はその方向に進みつつあるように思えてならなかった。
 長坂坡の戦い。
 時期は違うし、場所も違う。それでも、このまま事態が推移すれば、あの戦いが――あの戦いのような悲劇が起きてしまうように思えてならなかったのだ。
 それゆえに、おれは一人でここに来た。玄徳様のみならず、他の誰をも連れず。迫り来る曹操軍に怯える民衆を、付いて来るなと突き放すことを肯う者など、他にいる筈もなかったから。


 そしておれは、その事実さえ利用する。
 もし玄徳様たちがこの場にいれば、必ず彼らを受け入れ、共に逃げようとするだろう。
 おれはそう言った後、続けて口を開く。
 だがそれは、誰よりも彼らが慕う玄徳様の命を縮める結果になりかねぬ。玄徳様のことを思うのならば、どうか小沛に残ってほしい、とそう言っておれは、何度も地に頭をこすりつけたのである……





 その時のことを思い出し、おれは無意識に額の傷に手をあてた。どうしてついた傷かは、誰に言うことも出来ない卑怯傷。そう思っていたのだが。
「あら、ご主人様ったら、浮かない顔ねん」
「……ここでにこにこしてたら、関将軍に吹っ飛ばされると思うぞ、貂蝉」
 いつのまにか、おれの傍らに貂蝉の姿があった。 
 その姿を見ると、連日食卓にのった料理の数々が思い出され、胸焼けに似た感覚を覚えてしまうのだが、さすがに今はそんな気分にはならなかった。
 そんなおれに向けて、貂蝉はそれとわからないくらい、小さく笑ってみせる。
 その笑みの意味がわからないおれは、戸惑ったように貂蝉を見返したのだが、返ってきた答えに唖然としてしまった。
「ご主人様がしたことが、正しいのか間違っているのかなんて、百年もすれば誰かが決めてくれるでしょう。大切なのは、自分の行為に最後まで責任を持つこと。玄徳ちゃんたちを守り抜いてあげること。ご主人様が出来る最善の方法でね」
「……もしかして、知ってるのか?」
「ふふ、この身はご主人様の影。主の行くところ、どこにでも私はいるのよん」
「いや怖いから、怖いから」
 どこの妖怪ですかあんた。
「まあそれはさすがに冗談だけど。この危急存亡の時、どんな危険がご主人様を待っているとも知れないから、影ながらお守りしていたのは本当よ」
「……それは、礼を言うべきなんだろうな」
 おれはそう言って、そっぽを向いた。


 おれは別に偽りを言って、長老たちを欺いたつもりはない。あの場でおれが口にしたことは、すべておれの本心である。その点で心に恥じるところはない。
 だが、意図的にありえるかもしれない可能性を無視したこともまた事実。
 孫乾から、瑯耶郡を強襲した曹操軍が民に危害を加えなかったことは聞いている。だから小沛は無事。本当にそうだろうか。瑯耶郡と異なり、小沛の玄徳様は、すでに正面から曹操と矛を交えてしまっている。その刃が小沛の民に及ばないと誰にいえよう。
 おれはわずかなりと曹操に接したことがあり、その軍律の正しさも伝え聞いている。曹操に限って、とは思うが、それはあくまでおれの一方的な願望であり、玄徳様の抗戦すなわち小沛の抗戦と曹操が考えたとすれば、悲劇はこの地を覆うことになるだろう。
 事実、おれの知る歴史で、曹操はそれを行ったのである。陶謙の罪を、徐州の民の罪と断じて。この世界の曹操が本当にそれをしないと、断言できる根拠を、おれは持っていなかった。


 まるで沼のようだ、とおれは思う。
 目の前にあるのが、ただの沼か、それとも底なしの沼か。どちらも可能性の話に過ぎず、それを明らかにするためには、実際に沼に飛び込まなければ判然としない。そして、頭まで埋まってから、それが底なし沼だとわかっても、すでに手遅れなのである。
 おれがしたことは、自分が飛び込むかわりに、長老たちを――小沛の民を、その沼に突き落としたようなもの。それがただの沼であれば小沛の民は助かるだろう。だが、もしそれが底なし沼であったなら……


「だから、自分も残ると言ったのね。一緒に沼に飛び込むために」
 貂蝉の言葉に、力なくおれは頷いた。
 貂蝉の言うとおり、長老たちにおれは言ったのだ。決して、小沛の民を盾に逃げ出そうというのではない。その証に、おれは小沛に残る、と。もっとも、おれ程度が残ったところで、長老たちが納得してくれるか、との疑問はあったし、事実、長老たちはそれは不要だとおれに言ってきた。
 それでも、玄徳様についてくることは止めること。また、それを望む者たちはちからずくでも引き止めること。この二つのことは飲んでくれたから、感謝するしかない。これで、玄徳様たちの行軍速度が落ちることはないだろう。


 それでも、やはり長老たちへの後ろめたさは消えない。
 小沛に残るといったのは、おれの精一杯の誠意を示したつもりだったが、あるいは罪悪感から逃れるための自己犠牲に酔っていたのだろうか。長老たちもそれがわかったから、おれが残る必要はないと言ったのか。
 そんなことを思って、鬱々としてしまう。我ながら、はきつかないことだとは思う。貂蝉の言うとおり、おれは玄徳様たちを守るために、たとえ微々たる力しかなくても、全力をつくさなければならない。そうわかっているのだが、それでも、心にしこりは残っていて、それがおれの気持ちを、蜘蛛の糸のようにからめとるのである。
 人を殺したあの時以来、おれを捉えていた躁の感覚は薄れつつある。食欲も、睡眠欲も、元の状態に戻りつつあるといっていい。それは疑いなく、玄徳様や貂蝉、張角たちのお陰であった。
 だが一方で、それがおさまるにつれ、おれの心の中に、くっきりと黒い染みのようなものが出来たように思えてならないのである。
 普段はあまり気にならないのだが、時折、そこから得体の知れない寒気と悪寒が広がり、おれの心身を捉えるのだ。そう、今のように。
 あるいはこれが、人を手にかけた罪悪感なのだろうか。


 そんなことを考えていた時だった。
「玄徳しゃまー」
「おーい、玄徳ぅ」
 甲高い叫び声があたりに響き渡り、こちらに向かって、いやに小さい人影が駆け寄ってくる。
 馬を止めてそちらを見た玄徳様は、びっくりしたように目を丸くした。
「あ、あれ、みんな??」
 人影が小さかったのも道理。そこにいたのは、玄徳様と共に遊んでいた、小沛の子供たちであった。



「玄徳しゃま、ほんとに行っちゃうの?」
「うそだろ、玄徳、おれたちと一緒にいようぜッ」
「そうだよそうだよ、悪い奴がきたって、ぼくたちがやっつけてあげるから。えい、やー」
 口々に騒ぎ立て、いつものように玄徳様を取り囲む子供たち。
 見慣れた光景である筈のそれに、いつもと異なる点を見つけるのは容易かった。誰の目にも、涙が浮かんでいたのである。子供たちだけでなく、玄徳様の目にも、それは浮かんでいた。
「うん、ごめんね、みんな。お別れの挨拶にも行けなくて」
「そんなのどうでもいいからさ、一緒にいようよ! お城を追い出されたのなら、おれんちに来たっていいじゃん!」
 そういって、服の裾を掴む男の子に、玄徳様は涙を拭ってから笑みを向けた。
「あは、ありがと。でも、ごめんね。私はここに残るわけにはいかないんだ」
「なんでなんで?! お姉ちゃん、私たちのこと、嫌いになっちゃったの?」
 そういってすがりつく女の子の頭を、玄徳様は優しく撫でてあげている。
「ううん、違うよ。私はみんなのこと、とーーーっても大好き。昔も今も、それにこれから先だって、それはずっと変わらない」
「なら、なんでッ!!」
「――それはね、私にはやらないといけないことがあるからなの」
 そう言う玄徳様の顔には、別れの辛さと同じ、否、それ以上に確固たる意思が浮かび上がっていた。
 それは、子供たちにも感じ取れたようだ。いや、あるいは子供たちの方が、より鮮明に感じ取れたのかもしれない。
 口々に泣き叫んでいた筈の子供たちの声が、少しずつおさまってきていた。


 ぐすぐすと鼻をすすりあげていた女の子が、小さな声で問いかける。
「……玄徳しゃま、の、やらないといけないことって、なーに?」
「……みんながこんな風に泣いたり、悲しんだりすることがない世の中をつくること。そのために、私は行かないといけないんだ」
 その子の頭を撫でながら、玄徳様は囁くように口にする。それはとても小さな声だったが――そこに込められた勁い想いは、聞く者の心を打たずにおかぬ。
「じゃあ、じゃあ。そんな世の中になったら、玄徳しゃまは帰ってきてくれるの?」
 その声に、玄徳様の瞳が、一瞬、ここではないどこか遠くに向けられたように思えた。まるで、見果てぬ夢を見ているように。
 だが、すぐに玄徳様は、女の子を安心させるために、微笑んで頷いてみせる。
「うん、もちろんだよ。大丈夫、いつかきっと、平和な世の中をつくって、みんなのところに戻ってくるから。だから、それまで、少しの間、待っててくれる?」
「……う、ほ、ほんとに、ほんと?」
「うん、ほんとにほんと」
「わ、わかった。玄徳しゃま帰るの、待ってる。だから、その……」
 約束。
 そう呟いて、女の子は玄徳様に小指を差し出した。心得た玄徳様が、自分の小指を、女の子の小さなそれに絡めた。



 その様子を、半ば呆然と見詰めていたおれの姿に気づき、子供たちのうち、何人かが駆け寄ってきた。
 どの顔にも見覚えがある。おれが稽古をつけていた子供たちだった。
「なーなー、玄徳が行っちゃうってことは、一刀も行っちゃうのか?」
「あ、ああ、うん、そうなるね」
「そっかー、ちぇ、もうちょっとで一刀を打ち負かしてやれるところだったのにな」
 そういって悔しそうにする子に、おれの顔に自然と笑みが浮かぶ。
 おれは小さく笑いながら、その頭をぽかりとやった。
「こら、やる気があるのは良いけど、過信はするなって言っただろ。誰が誰に勝てるところだったって?」
「う、いってーなッ! おれが一刀に勝てるとこだったって言ったんだ。嘘じゃないぞ! 嘘だと思うんなら、もうちょっとここにいろ、すぐに証明してやるから!」
「ほう、それは楽しみだ。ここには残れないけど、そうだな、玄徳様が戻るときには、おれも一緒に戻ってこようか。もちろん、その時はとうにおれなんか追い抜いてるんだよな?」
 おれの言葉に、その子は元気よく頷いた。
「あったりまえだ! みてろよ、目に桃みせてやるぜ!」
「目に物見せてやるぜ、だな。はい、減点十点。書き取りやりなおし」
「う、うっさいな、ちょっと言い間違えただけだろ! 大目にみろ、そんくらい!」
 顔を真っ赤にして反論する男の子のまわりでは、同じ年頃の子たちが楽しそうに笑っている。
 つられて笑いながら、おれはついさきほどまで感じていた得体の知れない悪寒が、いつのまにか掻き消えていることに気がついていた。 


「――曹操ちゃんが小沛をどうするか。たしかにそれは賭けかもしれない。ご主人様は、自分で言うように、沼の底を確かめるために、誰かを沼に落とそうとしたのかもしれない」
 そのおれの耳に、貂蝉の声が優しく響く。
「でも、この場合、沼は二つあるの。そして、ご主人様はより危険が少ないと判断した沼を他の人たちにすすめ、自分はより危険だとわかっている方に飛び込もうとした。それがわかっていたから、長老たちはご主人様の言葉に頷いたのよ。そして、ご主人様のすすめた沼に足を踏み入れる決意をした。でもそれは、あの人たちが自ら選んだことなの。そうではない道を選ぶことも、彼らには出来たのだから」
 貂蝉の言葉は、不思議なくらい、すとんとおれの胸の奥におさまっていく。
「その決断に、ご主人様が責任を感じるのは不遜というものよ。彼らはご主人様よりはるかに人生の経験を積んでいるのですもの。ご主人様が責任をとらなければいけないのは、ただ自分の言葉に対してだけ。あのとき、長老たちに言ったように。そして今、この子たちに口にしたように、ね」


 その言葉を否定することなど、出来る筈もない。
 おれは貂蝉の言葉にただ頷くと、この日はじめて、顔を空に向けた。
 雲ひとつない初冬の空。深みのある青色が、彼方まで清冽に広がっていた。おれを捉えていた暗い予感を吹き払うかのように明るい空の色に、ここしばらく感じることのなかった暖かい感情がわきあがってくる。
 それをただの予感で終わらせるのか、それとも真実にかえるのか。それを決めるのは、青空の下に生きるおれたち次第。ならば、その未来を手繰り寄せるために行動するだけだ。
 おれはようやく、そのことを思い出すことが出来たのである。




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/11 02:45


 小沛を放棄し、南へと進軍する劉家軍。
 その前途は多難だった。曹操軍の追撃から逃れると同時に、彭城の勢力圏を避ける必要があったからである。
 彭城の陳登が敵にまわったと決めつけることはできなかったが、無防備な横腹を見せられる相手でもない。たとえ昨日までの味方であったとはいえ、陳登が曹操に降伏するならば、劉家軍を見逃すことは出来ないだろうからである。


 にも関わらず、おれたちは陳登の指示した場所に向かっていた。徐州を幾重にもはしる淮河の支流の河岸。そこに徐州の水軍が待っているというのが、陳登の言葉であった。
 罠ではないか、という疑問は当然のように出た。しかし、他に逃げ道がないことも事実である。あるいは彭城を急襲し、劉家軍が占拠するという手段もあるにはあったが、玄徳様が許可するかという点を考えると、実現性はないに等しい。
 西へと逃げ延びるという案もあったが、豫州はすでに袁術の勢力が浸透しつつあり、五千に満たない小勢で踏み込んでも勝ち目は薄い。また、仮に袁術軍を退けることが出来たとしても、豫州は曹操と袁術に挟まれた場所であり、発展も飛躍もなしえないであろうことは明らかであった。
 つまるところ、劉家軍の逃げ道は南にしかなかったのである。無論、南に逃げ延びたとて、希望に満ちた展望が待っているわけではない。曹操から離れることは、すなわち袁術の勢力圏に近づくことを意味する。それでも、他の方角へ逃げるよりは、まだ可能性はあると玄徳様たちは考えたのである。
 もしこれが陳登の罠であり、指示された地点に伏兵を設けられていれば苦戦は免れないが、しかし率直にいってしまえば、曹操や袁術の大軍を相手にするよりも徐州の官兵の方がまだしも勝つ可能性は高かろう。率いる者によっては、話し合いの余地もあるに違いない。
 そのように衆議一決した劉家軍は、南へ向けて進軍の足を速めたのである。


 そして、劉家軍は目標とする場所まであと一日たらずというところまでたどり着く。あとは鳳統が放った偵騎の帰りを待ち、そこに陳登の言葉どおり徐州軍が待っていれば、それに合流する。あるいは罠があるようならば食い破るか、それとも迂路をとって更に南下するか。
 何事もなく合流出来れば、それが一番良いんだけどな、などとおれが考えていると。
「申し上げますッ! 後方、小沛の方面より敵影!」
 その言葉どおり、劉家軍の後方からもうもうと砂埃が立ち上っているのが遠望できた。かすかに身体に感じる揺れは、万を越える馬蹄が、大地を蹴りつける影響か。
「やっぱり、そううまくはいかないか」
 おれが舌打ちすると、ほぼ同時に見張りの兵が敵将の名を告げる。
「先頭にある旗印は――ち、『張』の文字! 敵将は張遼と思われます!!」
 その報告を受け、劉家軍に属する将兵の顔が瞬く間に引き締まる。
 進軍のあまりの速さから『神速』の異名をとる驍将。董卓、呂布、曹操とそれぞれに卓越した君主に仕え、そしてその全員に将として重んじられた才略がいかに恐るべきか。その脅威は、先の防衛戦において、劉家軍に属する全員が骨身に染みているところであった。





 曹操軍の陣頭にあって、張遼は奔騰する戦意を押さえつけながら、それでも声がうわずるのを抑え切れなかった。
「よっしゃ、捉えたでーッ!」
 劉家軍の退却は、速やかに進められた。曹操軍に捕捉されれば、兵の数からも、士気の点からいっても勝ち目はない。誰もがそれを知っているゆえに、その足は少しばかり行き過ぎなほどに速かったのである。
 その劉家軍に、張遼率いる軍は追いついた。
 張遼は小沛城を全く無視し、その脇を風のように通り抜けると、ただまっすぐに劉家軍を追撃してきたのである。劉家軍の率いる兵力は一万、その全てが騎兵であるからこそ可能な追撃速度であった。

  
 張遼は部下たちに命じ、左右両翼を拡げ、劉家軍の側面にまわらせ、半包囲の態勢をとる。
 それに対し、劉家軍は全軍を中央に集結させ、円陣を組んだ。
 張遼の軍が、すべて騎兵で編成されているのに対し、劉家軍の騎兵は千に満たず、その他の兵は歩卒である。騎兵の展開の速さに歩卒がついていくのは至難の業だ。
 数において劣り、軍を展開させる速さにおいて劣る以上、劉家軍から仕掛ければ手ひどく叩かれてしまうだろう。敵の攻勢にあわせて軍を進退させ、相手の隙に乗じるのが最善であると軍師たちは判断したのである。

  
 にらみあう両軍の間に、たちまち敵意と殺意がぶつかりあい、それは乱流を生んで、両軍の旗をはためかせる。
 気弱な者ならば、立ち入ることさえ出来ないであろう戦場の真ん中を、だが張遼は動ずる気配もなく馬を進めてくる。
「うちの名は張文遠! あんたら、無駄な抵抗はやめて、とっとと降伏しいや――ちゅうても、どうせ聞かんやろ。面倒やからそれは飛ばすわ」
 そういうと、張遼は歓喜の表情で高らかに叫ぶ。
「関羽ッ! 出てこんかい、うちと勝負やッ!」



「張文遠じきじきの指名とあれば出ざるをえないな」
 劉家軍の陣中から、関羽がゆっくりと姿を現した。
「だが、良いのか。見たところ、他の将の姿はないようだな。私がここで貴様を斬れば、軍を纏める者もなく、貴様の軍は壊滅することになるぞ」
「はッ! 自分が勝つに決まっとるっちゅうわけか? うちもなめられたもんや」
 張遼は手に持った飛竜偃月刀を頭上で一回転させると、その刃先をまっすぐに関羽に突きつける。
 関羽を見据える張遼の眼差しは、離れて見ているおれでさえ、背筋がふるえてしまうほどの闘気に満ちていた。
「最初に言っといたる。関羽、あんたがここでうちを斬っても、残った部下が報復したりはせんわ。その時はあんただけやない、あんたらの軍の一兵卒に到るまで逃がしてやれ言うてあるわ。だから、うちを生け捕って、退却を有利にしようとか余計なことは考えんでええで」
「ほう、それはありがたいな。だが、その条件を聞くかぎり、そちらが勝てば、我らが軍に降伏しろとでも言うつもりか」
 関羽の鋭い詰問に、張遼は小さく肩をすくめる。
「いいや、んなこと言わへんわい。うちが勝ったら、関羽、あんたは華琳の下まで来てもらうで。別に華琳に仕えろっちゅうわけやない。ただ抵抗せずにうちについて来ればええだけや」
 どや、破格の条件やろ。
 そういって、張遼はからからと笑って見せた。


 関羽の目がかすかに細くなる。
 関羽の内心の動きが、おれにはよくわかった。
 相手の言葉を鵜呑みにすれば、たしかに張遼の提案は破格と言える。勝って得るものは大きく、負けて失うものは少ない。無論、一度曹操の陣門に赴けば、そう簡単に帰される筈もないが、それでもその危険に目を瞑ってでも、ここで張遼と戦う価値がある提案であった。


 関羽が、ゆっくりと青竜偃月刀を構えた。
 本当なのかと言質をとることはしない。あの張文遠が口にした時点で、それは誓紙を差し出されたに等しい価値があると考えたのだろう。
 その関羽の動きを見て、張遼はもう一度笑った。張遼もまた、関羽の動き一つで、関羽が今の条件を受諾したことを悟ったのである。


 酷似した二つの偃月刀が、戦場の中央で向かい合う。
 竜虎相撃つ。そんな言葉が、自然と脳裏に浮かび上がる。馬上にある二人は無言。ただゆっくりと進む二頭の馬の足音だけがあたりに響いている。
 おれは我知らず、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
 それはおれだけでなく、おそらくこの戦場を見つめる両軍の将兵すべてが、同じ動作をしたのではないだろうか。それほどまでに、二人の将が向き合う場の空気は張り詰め、咳(しわぶき)の音一つ聞こえない。


 ――そして。二人の距離が、あるところまで縮まった時。


「殺ッ!!(シャアッ!!)」
「殺ッ!!(シャアッ!!)」 
 寸秒も違わず、二人の口から同時に気合の声が迸り、両軍の将兵は、落雷の轟きにまさる衝撃に撃たれたのである。


◆◆


「おら、おら、おらァッ!」
 一声ごとに一閃。張遼の飛竜刀が続けざまに関羽に襲い掛かる。
 受け止める関羽の得物は、重さ八二斤の青竜刀、並の兵士ならば持ち上げることさえ難しい業物である。当然、そこいらの武器では、衝撃を与えることさえ容易ではない。
 にも関わらず。
「ぬッ」
 受け止める関羽の顔に、余裕はなかった。張遼の一撃を受け止めるたびに、関羽の手にしびれるような衝撃がはしる。
 張遼の斬撃の鋭さ、手に持つ武器の威力、いずれも凡百のものではありえない。
 関羽は、内心で舌を巻いていた。
 かつて敵として戦った者たちの中で、今の張遼に匹敵するほどの斬撃を放ってきた人物を、関羽は一人しか知らない。
 すなわち、虎狼関で戦った飛将軍呂布その人しか。


「チィッ」
 短い舌打ちの後、最初の攻勢を凌がれた張遼がわずかに後退する。
 だが、関羽は追撃をかけようとせず、馬上、わずかに乱れた態勢を立て直し、青竜刀を握る手に力を込めるにとどめた。
 そんな関羽を見て、張遼はやや皮肉っぽく笑う。
「どや、とっとと本気にならんと、命とりになるで」
「様子を見ているということに関しては、お互いさまだと思うが……」
 そういってかすかに苦笑した関羽だが、次の瞬間、その目には雷光が煌いた。
「だが、確かに様子見をしている場合ではなかったな。ここで貴様を討ちとり、我らは退かせてもらうとしよう。張文遠、その首、頂戴するッ!」
「はッ、やれるもんなら、やってみいッ!!」
 互いに愛馬をあおり、激突する二人の将。ぶつかりあった二本の偃月刀が、甲高い悲鳴をあげ、中空に火花が散った。



「はああああッ!!」
「おらあああッ!!」
 二将の咆哮が戦場に響き渡り、連鎖する金属音が痛いほどに聴覚を乱打する。
 右、左、正面、正面、右、右、左とみせて右、正面、左。
 時に力任せに斬りかかり、時に技巧を絡めて隙をつくる。ぶつかるのは刃の部分だけではない。柄をもって相手を叩き伏せ、あるいは石突き(刃の反対部分)をもって相手の身体に突きかかる。
 並の兵士であれば――否、一軍を率いる将であったとて、この二人を相手取れば、一合と打ち合うことさえ難しかったに違いない。わずかな隙が、かすかな躊躇が、即座に死に直結する必殺の一撃を、しかし、二人は苦もなく繰り出し、苦もなく避ける。
 両雄のぶつかり合いは時と共に激しさを増し、大気が鳴動する。天地さえその猛気にあてられ、震えたのかと思われた。


「はっはァ、さすが関雲長や、ここまで力を振り絞るんは、いつ以来やろうなあ!」
「そういってもらえるとは光栄、だがおしゃべりしている暇などあるのか?!」
 関羽が青竜刀を腰だめに構える。刃鳴りの連鎖が、ようやくわずかに途切れた。
 関羽の動きが止まったのはほんの一瞬。しかし、張遼は好機と見て素早くその脳天に刃を振り下ろそうとして――
(なんやッ?!)
 背筋をはしる悪寒に、反射的に身をのけぞらせるように、身をかわす。
 それでも、わずかに遅い。
「はああああッ!!」
 一瞬の溜め。だが、関羽が全力を込めるためには、その一瞬で十分であった。
 その一撃は、これまでの斬撃が嵐とするならば、天地を貫く雷挺か。
 右から左へ。八二斤の青竜偃月刀が唸りをあげて振るわれ、その刃先は、とっさに身をかわした筈の張遼でさえ避け切れぬ。
「くぅッ?!」
 張遼の甲冑の胸元よりわずかに下の部分がはじけ飛び、紅の鮮血がそれに続いた。
 それを見た曹操軍からは悲鳴にも似た叫びがあがる。


 だが。
「そうや、こう来んと面白うないわッ!! 関羽、もっとおまえの本気を見せてみィッ!!」
 張遼はいささかも怯まず、飛竜偃月刀を真っ向から振り下ろす。
 全力を込めた一撃の後だけに、関羽の反応がわずかに遅れた。関羽は、とっさにその一撃を柄で受け止めるも、張遼の気迫に押され、馬上で態勢を崩してしまう。
 そして、その隙を見逃す張遼ではなかった。
「おらァッ!!」
 飛竜刀の刃先が弧を描き、関羽の肩口から、その身体を両断せんと袈裟懸けに振り下ろされる。
 その勢いから見るに、態勢を崩した今の関羽では、受け止めようとしても青竜刀ごと弾き飛ばされてしまうだろうと思われた。


 そして、そう思ったのはおれだけでなく、玄徳様も同様であったらしい。
「愛紗ちゃんッ!!」
 思わずあがった玄徳様の悲鳴が、おれの耳朶をうつ。
 劉家軍の人々が息をのむ中、迫る張遼の刃に対し、関羽はその一撃をなんとか受け止めようとし、咄嗟に石突きを突き出した。おれの目にはそう映った。
 だが、そんな力ない動きでは、張遼の猛撃は止められない。事実、張遼の飛竜刀は、関羽の青竜刀を、柄ごと両断する勢いで振り抜かれる――その寸前だった。
 関羽は、わずかに青竜刀の角度を変えた――言葉にすれば簡単なことだが、張遼ほどの将軍の、渾身の一撃を前にして、それを行える者など、中華全土を見渡しても何人いるか。
 青竜刀が角度を変えたことにより、力点をずらされた飛竜刀は、柄を叩き折ることが出来ず、火花を散らしながら滑りおちていく。関羽は、張遼の刃を止められぬと悟るや、受け止めるのではなく、受け流すことを選択したのである。
 そして。
「チィッ?!」
 舌打ちしつつ、咄嗟に刃を引き戻そうとする張遼であったが、先の関羽と同じように、渾身で放った攻撃だ、すぐに持ち直すことは難しい。
 そのために要した、ほんのわずかな時間。だがそれは、関羽が態勢を立て直すには十分すぎる時間であった。


「もらったぞ、張文遠ッ!!」
 叫びざま、関羽がお返しとばかりに青竜刀を袈裟懸けに振るい、張遼を斬り伏せようとする。
 先の関羽と同じ不利に陥った張遼は、しかし、やはり易々と討たれたりはしなかった。
「ッ、そいつはどうやろな!」
 飛竜刀を引き戻していては、関羽の一撃に間に合わない。そう悟った張遼は、なんと得物を手放し、そしてその身軽さを利して、一瞬のうちに馬上から姿を消したのである。
「なッ?!」
 そこらの軽業師など足元にも及ばないような張遼の身のこなしに、思わず関羽は目を丸くする。
 わずかな時間をおいて、地面を蹴る音がしたのは、上半身の力だけで馬上から飛び上がった張遼が、あぶなげなく着地した音であった。


 かろうじて関羽の一撃をかわした張遼。
 しかし、その手に武器はなく、相手の関羽は馬上にある。
「勝負ありだな、張遼」
 だが、その関羽の言葉を、張遼はなおも猛々しい戦意を燃やしながら、真っ向から否定した。
「あほぬかせ。うちはまだ死んどらんどころか、このとおり五体満足や。関羽、おのれは武将を馬から落としたら勝ちだとほざくんか? これは子供の遊びやない。武に生きる者が、互いの誇りをかけた戦いや。勝負ありなんつー台詞は、うちの首をとってからにしい」
「――その武、その覇気、ここで露とするには惜しい。後日、再戦を期すというわけにはいかんか。貴様が死ねば、貴様の主や部下も悲しもう」
 張遼はその言葉を聞くと、笑いながら懐に手を伸ばした。そして、懐剣を取り出し、関羽に向けて構える。
「華琳のことも、みんなのことも大切や。けどな、それ以上に大切なもんもある。うちは強い奴と戦って、自分が一番強いっちゅーのを証明したい。そのために戦こうとるんよ。あんたを前にして、ここで退くわけにはいかん」
「……そうか、ならば」
 そういうや、関羽はひらりと馬上から地面に降りる。それどころか、近くに転がっていた張遼の飛竜刀を掴むと、それを張遼に向けて放ってしまったのである。


 咄嗟にそれを受け取った張遼は、しかし、その顔にはじめて怒気を浮かべていた。これまで、戦意を叩きつけることはあっても、そこに怒りを滲ませることはなかった張遼が、本気で怒っていた。
「……お情けのつもりかい、関羽」
「そうではない。貴様に誇りがあるように、こちらも武人としての矜持がある。一騎打ちで、馬上から、得物を失った者を斬り伏せるなど御免こうむる」
「はん、やっぱりうちをなめてるんやないか。まるっきり弱者に対する強者の態度や」
 はき捨てるような張遼の言葉に、しかし、関羽は冷然と言葉を返す。
「それがどうかしたか」
「なんやとッ?!」
「そう思うのならば、私を倒し、相手の力量を見誤った未熟を思い知らせればよい。我ら武人は口舌の徒ではない。示すべきものは、言葉ではなく、己が武を以ってあまねく示せ」


 その声は決して大きくはない。むしろ小さいとすらいえた。
 しかし、そこに込められた清冽な覇気は、張遼ほどの武将から言葉を奪うほどに深く、重い。
 言い切った関羽は、両の足で地面を踏みしめ、青竜偃月刀を張遼に向けて構えてみせた。


 対する張遼は。
 関羽の言葉を受け、しばし、瞑目していた。その一言一言を吟味するかのように。
 そして、やがて開かれた眼からは、怒気は綺麗に掻き消えていた。
「はは、確かにあんたの言うとおりやな、関羽。ちいとばかし、むきになってたかもしれん。勝負に水を差すような真似して悪かったわ」
 からりとした笑みを浮かべると、飛竜刀の石突の部分で、一度だけ、強く地面を打ち据える。
 次の瞬間、その顔からは笑みが拭われ、先刻にまさる戦意がその顔を覆っていく。それはどこか清爽さを感じさせるものでもあった。


「ほんなら改めて名乗らせてもらおか」
 構えをとりながら、張遼はゆっくりと言葉をつむいでいく。
「我が姓は張、名は遼、字は文遠」
 戦いに望むとは思えないほどに純粋な光を瞳に満たし、張遼は関羽に向けて大喝する。
「関雲長、その青竜偃月刀を叩きおって、うちはあんたの上に行く! 覚悟せィッ!」


 関羽も、構えをとりながら、相手の礼に、礼をもって返す。
「我が姓は関、名は羽、字は雲長」
 その姿は、張遼の裂帛の気合を受けて、微動だにせぬ。
 そうして、黒髪の武神は、しずかに笑んだ。
「張文遠、その大言に見合うだけの力を示してもらおう」


 そして、一拍の間を置いた後、二人は同時に地面を蹴った。
「ゆくぞッ!!」
「こいやァッ!」
 かくて、共に竜を冠する武器を携えた二人の勇将は、今度は地上で、真っ向からぶつかりあったのである。






◆◆






 
 劉備軍が、南へと退くのを見届けた途端、張遼はがくりと地面に膝をついた。
「ち、張将軍、ご無事ですか?!」
「将軍、しっかりなさってくださいッ」
 魏続、宋憲、侯成ら張遼麾下の武将たちが慌てて駆け寄る。その顔はいずれも青い。それも仕方ないことだろう。
 先の関羽との一騎打ちで張遼が負った傷は、傍目にも決して浅くないことがわかったからである。
 事実、左肩をおさえてうずくまる張遼の手から、紅色の液体が今もぽたりぽたりと地面に零れ落ちていた。
「……ああ、騒がんでええって。命に関わるようなもんやあらへんからな」
 だが、そう口にする張遼の顔は、部下たちにもまして蒼白であった。
 魏続らはしかりつけるような勢いで将の手当てを命じると、ただちに敵軍へと追撃をかけようとした。兵力の上ではまさっているのだ。後背から襲い掛かれば、流浪の軍など、容易く打ち破れよう。
 そう息巻く彼らを、しかし、張遼は厳命によって食い止める。
「うちを約定もまもれん下衆にする気かい。負けたら見逃す言うたの、聞いてたやろが」
「し、しかし、このままにすますことは出来ませんぞッ」
「さよう。将軍を傷つけた報いを受けさせねばなりませぬ。それにこのままでは、曹操様からもお叱りをうけましょう」
「侯成のいうとおりでござる。張将軍、なにとぞ、追撃の許可を」
 言い募る部下たちに対し、それでも張遼は首を横に振った。
「あかん。華琳の怒りは、うちがきちんと引き受けるわ。おまえらには累が及ばんようにするさかい、余計な真似はするんやない。それより、誰でもええから、このこと、華琳のところに知らせておき。うちは、少し眠るさかいな」
 そう言うと、張遼はまもなく眠るように意識をうしなった。気力も、そして体力も限界に近かったのだろう。それでも劉家軍が去るまで毅然と立っていたことが、最後の意地だったに違いない。


 張遼を天幕に運ばせ、医療に心得のある者に任せると、魏続ら三将は天幕から出て話し合った。
 とはいえ、語ることは多くない。張遼の言うとおりにするのであれば、本隊に使者を送り、その指示を待つのみである。
 だが。
「――このままでは措けまいよ」
「うむ、張将軍の仇を討つことが一つ。それに、関羽もまた、張将軍によって浅からぬ手傷をおうている。捕らえる絶好の機会だろう」
「いかさま。そうなれば、曹操様のおぼえもめでたくなろうし、将軍の敗北の罪も消し飛ぼうさ」
 彼らは口々に言い合うと、互いの意見の一致を確認し、同時に頷いた。


 このしばし後、張遼の軍から、八千の兵が南へ向けて動き出す。
 彼らは一路、劉家軍の後を追う形で、その距離を縮めていった。
 ただし、急追はせずに。ゆっくりと、しかし確実に相手を捉えながら、彼らは劉家軍を追尾していったのである。



◆◆



「関将軍、食事をお持ちしましたけど……食べられますか?」
 おれは関羽の天幕に声をかけながら入ろうとする。
 が、その途端、なんか固いものが飛んできて、頭を直撃した。食事が載った盆を落とさなかったのは奇跡だと思われる。
 慮外な暴行に、さすがにおれも声を荒げかけた。だが。
「ば、ばかもの! いきなり入ろうとする奴があるか。こちらは怪我の手当てをしている最中だぞ」
「――まことに申し訳ございませんでした」
 関羽の怒ったような、それでいて慌てたような声を聞き、全身全霊で謝罪せざるをえなかった。
 張遼との一騎打ち、関羽はみごとに勝利を収めたのだが、さすがに無傷というわけにはいかなかった。最後の攻防で、二人はほとんど同時に互いに斬りかかり、お互いに肩を負傷していたのである。
 傷自体は張遼の方が重いだろうが、関羽のそれも決して浅くない。
 で。
 その肩の傷を手当てしているということは、甲冑はもちろん、服も半ば脱いだ状態なのであろう。そんなところに男のおれが無遠慮に踏み込んだら、それは篭手の一つも投げられて当然であった。むしろ斬り捨てられなかっただけ感謝すべきかもしんない。


「も、もう良いぞ、北郷殿」
「し、失礼いたします」
 そういっておそるおそる天幕に入ると、中には関羽の他に女性兵がいたが、彼女はくすくすと笑いながら、ささっと出て行ってしまったため、天幕の中に残ったのは、おれと関将軍の二人だけとなった。
 なにはともあれ、おれはすぐに頭を下げた。
「すみませんでした、関将軍」
「む。今後は気をつけるようにな。言うまでもないが、他の天幕に入る時もだぞ。もし桃香様のお着替えをのぞくような真似をしたら……」
 そういって、言葉を切る関将軍。あの、自分で言って、自分でその光景を想像して怒りを膨らませるのはやめてください。
「もちろん、そんなことはしませんよ」
 まだ死にたくないし。とは口には出さねど、心底からの本音であった。


「っと、食事を持ってきてくれたのだったな、すまない。しかし、どうしてそなたがそんな役目をしているのだ?」
 不思議そうに問う関羽。
 一応、おれも趙雲麾下の文官であって、侍女や従者がやるような仕事を振られたりはしない。人手が足りないときに手伝ったりはするが、今日の場合はそうではなかった。
「お見舞いといいますか、怪我の様子をうかがおうかと思いまして。そうしたら、玄徳様が、ついでだからご飯も持っていってあげて、と」
 ちなみに、玄徳様たちはおれが来るまえにここに来ている。おれが遅れてきたのは、広くもない天幕に、あまり大勢で押しかけるのは良くないだろうと思ったためだった。
 無論、怪我の具合が大事に到っていないかどうかは、真っ先に確認したのだが。


 おれの言葉に納得した様子の関羽だったが、しかし、おれが持ってきた食事を並べているうちに新たな疑問がわきあがってきたらしい。
 いや、らしいというか、多分、そうなるだろうな、とおれも予測していたのだが――
「で、北郷殿。このずいぶんな量は、何か意図あってのことか?」
 優に四人分はありそうな食事を見て、関羽の頬が、ちょっとひきつっているように見えたので、おれは慌てて自らの潔白を主張しなければならなかった。
「ち、違います、持って行けといったのは玄徳様ですッ!」
「……桃香様が?」
「は、はあ。私も多すぎませんかと言ったんですが、その『愛紗ちゃんには一杯食べて、はやく元気になってもらわないといけないから』とのことで……」
 決して、関将軍の食事量をあらかじめ計算した上で持ってきたわけではないのです。


「それはありがたいことだが、しかし、さすがにこれは……かといって、折角桃香様が下さったものを残すわけにもいかないし――」
 忠義一徹の関羽は、そこまで悩まないでも、と思うくらいに目の前の食事を見て困惑していた。
 見かねたおれは、すこし控えめに提案してみる。
「あの、少し手伝いましょうか。幸いというか、まだおれも食べていませんし」
 関羽のところから帰った後に食べるつもりだったのである。さすがに怪我した関羽より先に食べて、先に休むというのは気がとがめた。
「……む、そうか。なら頼むとしよう」


 では遠慮なく。
 適当に目の前の皿から料理をつまみながら、おれはふと思いついて口を開いた。
「張将軍も連れてくれば良かったですかね」
「鈴々がいたら、逆にこの程度では少なすぎることになってしまうぞ」
 言われて、おれはその情景を想像し、頷かざるをえなかった。
「なるほど、確かに」
 すると、今度は関羽の方が、ややためらいがちに問いを発してきた。
「……そういえば、北郷殿。かなり調子を崩されていたと聞いたが、その後、どうなのだ?」
「あ、ああ、はい、みんなのおかげで、大分良くなりました。今も、普通に食べられてますし」
 それを聞き、関羽はほっと息を吐いたように見えた。


「そうか、それは良かった。軍の編成で多忙であったゆえ、様子を見ることも出来ず、案じていたのだ」
「そ、そうなんですか? すみません、将軍にまで余計な心配をかけてしまっていたとは」
「余計なというか、その……ま、まあ快方に向かっているのなら、何よりだ。もう少し落ち着いたら、色々と話したいこともあるしな」
 関羽の言葉に、おれは小首を傾げる。
「話、ですか?」
「ああ。これからのことと言えば、察しもつくのではないか?」
「――なんとなくですが、わかったように思います」
 おれがそう言うと、関羽は小さく頷いたきり、その話を掘り下げようとはせず、眼前の料理に箸を伸ばす。


 おれもまた、それ以上拘泥せずに料理に集中することにした。
 二人しかいない天幕は、うってかわって沈黙に包まれる。
 それでも、どこか暖かな空気が天幕内に流れているような気がした。
 その証拠に、関羽の顔も、どこか安らいだものに見える。時折、その顔がしかめられるのは、傷の痛みの影響であろう。
 その関羽の姿を見て、おれはこれから先、無益な戦を避けることが出来れば良いと思わずにはいられなかった。

  



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十一章 徐州擾乱(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/16 17:55


 東の空から、朝焼けの輝きが地平に滲み出る時刻。劉家軍は早々に行軍を再開した。
 元々、一刻たりとも無駄に出来ない戦況であったことにくわえ、後方の張遼軍が動き出したことを、偵騎が発見したからでもあった。
 あの張遼が約定を破るとも思えなかったが、しかし事実は事実である。一気にこちらに襲い掛かろうとはせず、一定の距離を保って追尾してくる張遼軍の動きはこちらの焦慮を誘うかのようであり、事実、劉家軍の将兵は休息もそこそこに出立しなければならなくなった。


 その軍の中にあって、おれは少し戸惑いながら、馬を進ませる。脳裏に浮かぶのは、昨日の関羽の言葉である。
『これからのことと言えば、察しもつくのではないか?』
 関羽の言ったこれからのこととは、これから先のおれの身の振り方であろう。
 おれは劉家軍に参加する時、玄徳様や関羽たちに言った。おれはいずれ郷里に帰るつもりであること。だから、死ぬわけにはいかず、戦に参加することは出来ない、と。
 惰弱と蔑まれても仕方ないようなこの言葉を、玄徳様は快く受け容れ、なおかつおれを歓迎さえしてくれた。その恩に報いる意味でも、おれはこれまで自分の出来る範囲で務めて来たつもりである。


 だが、おれは今回、自分の手をはじめて他人の血で染め、そしてそのために心身のバランスを崩してしまった。玄徳様が気づかなければ、今頃、倒れていたかもしれない。
 その事態は、みなのおかげでかろうじて回避できたが、しかしこれから先、同じことが起こらないと言い切ることはできなかった。
 おれは、あの時陳蘭らを殺したことを後悔しているわけではない。しかし、それでも人を殺したという罪が、おれの心を圧迫してくるのだ。陳蘭らは死んで当然の奴らだったと幾度言い聞かせても、それは決してきえなかった。
 きっと、この胸の染みは、相手がどうという問題ではなく、単純に人殺しという罪が刻み付けた烙印なのだろう。そして、それはおそらく、これから人を殺すたびに大きく、重くなっていくに違いない。


 今の劉家軍の状況を鑑みれば、今までのように文事に専念して戦いに関わらないという態度を続けていくことは難しい。王修のような少女ならばともかく、おれのように戦うことが出来る男を後方で遊ばせておくほどの余裕は、劉家軍にはなくなりつつあるからだ。命を守るために、剣をとらねばならないような状況も訪れるだろう。


 そう、おれが劉家軍にいる限りは、である。ゆえに、生きて郷里に帰ることを優先するならば、必然的に一つの結論が導き出される。それが、関羽がいった『これからのこと』という言葉の意味なのだ。
「覚悟を決めないといけないんだよな……」
 戦いに巻き込まれることを厭い、劉家軍を抜けるか。
 劉家軍の兵として、この手を血で染めていく道を選ぶのか。
 関羽は、今すぐ決めろ、などとは言わなかった。しかし、いつまでも先延ばしに出来ることではない。
 玄徳様の下を離れたいと思ったことはない。
 でも己が手を血で染める覚悟は決められない。
 ――そんな中途半端を許すほどに、乱世は優しくはないのだから。


 むしろ今まで、おれのそんな自侭を受け容れてくれた玄徳様たちの優しさが稀有なものだったのである。
 だが、それももはや限界。関羽の言葉には、その注意も含まれているのだろう。
「おれは……」
 陳蘭の咽喉を切り裂いた光景が。
 張凱の頭蓋を断ち割った感触が。
 雷薄の口腔を貫いた衝撃が。
 そして、彼らの血潮を浴び、剣を振りかざしていた時の高揚感が。
 事が終わった後、おれを捉えた躁が。
 幾重にも重なりあって、おれの胸中を揺り動かす。
 玄徳様のためであれ、生き残るためであれ、あれを日常のものとすることにおれは耐えられるのだろうか。
「おれは……」


 燻る決意。はきつかない心。
 馬を駆るおれの目に、ようやく陳登に指示された泗水流域の河岸が映し出される。そこには、確かに軍船とおぼしき幾艘もの船が接岸し、陶家の旗印を掲げた軍隊がこちらを待ち受けていた。
 しかし、おれは彼らに関心を払えない。
 選びたい未来はわかりきっているのに、それをえらべない未熟さを自覚し、そんな自分に半ば怒りを覚えていたからであった。



◆◆



 烏の濡れ羽色、という古風な表現が良く似合う漆黒の髪をまっすぐに伸ばし、腰のあたりで一つに結ったその女性は、凛とした眼差しで玄徳様たちと対峙していた。
 臆することなく、まっすぐに相手を見つめる黒瞳は、彼女の勁い意思を物語って余りある。
 しかし、それは相手を圧迫する類の眼光ではなかった。ぴんと伸びた背筋、礼にかなった挙措、柔らかな物腰は、対峙する者に落ち着きと、信頼を与えるものであった。
 女性の名は、姓は陳、名は羣、字は長文。
 すなわち徐州広陵郡が太守にして、彭城の陳登が劉家郡救援のために遣わしてくれた援軍を率いる人物であった。


「これまでは馳せ違ってお目にかかることは出来ませんでしたが、ようやくお会いすることがかないました。お初にお目にかかります、劉玄徳様」
 玄徳様を前にした陳羣は、まずはじめにそう口にすると、玄徳様に向かって深々と頭を下げた。
「はじめまして、陳太守。お会いできて嬉しいです」
 玄徳様はにこりと微笑んだ後、陳羣に頭を下げる。
 友好的な挨拶であったが、顔を上げた陳羣の表情はすぐに鋭く引き締められた。それはどこか切迫した様子さえ感じさせるものであった。
「お問いになりたいことは多いことと存じますが、時がありません。劉家軍の方々は、急ぎ船に乗っていただきたいのです。此度の顛末、私の知るかぎりのことは船上でお話ししますゆえ、どうかご了承いただけませんか」


 彭城の陳登の思惑が不透明な現在、その陳登の指示の下で動いていると思われる陳羣に、唯々諾々と従うことの危険性は語るまでもない。まして、船の上では逃げ場もないのだ。
 陳羣は信頼に足る人物であると思われたが、それを言えば陳登だとて十分に信頼できる為人であった。それでも、この危急の際にあって、その人が何を重んじるかによって、とるべき行動に差異が生じる。


 陶謙と玄徳様への節義を守った孫乾が、この場にいるように。
 民衆を戦火から遠ざける最良の選択を模索したであろう陳登が、彭城にいるように。


 そして、陳登の指示に従ってここにいる以上、陳羣が後者に近い立場にいると考えるのは当然であろう。
 陳羣の言葉を聞いた劉家軍の諸将の表情に、否定的な感情が映ったのはそういった事情による。
 そして、そんな周囲の様子に気づかない玄徳様ではなかった。
 おそらく、玄徳様個人としては陳羣を疑いはしていないだろうが、陳羣の請いに即答しなかったのは他者の気持ちを慮ったに違いない。決断を間違えれば、自分のみならず、劉家軍全員が河水の底に沈むとなれば、なおさら決断を慎重に下さなければならない。
 陳羣も、この反応は予期していたのだろう。さらに言葉を尽くして説得しようとしかけたが、その陳羣よりも早く口を開いた者がいた。


「玄徳様」
「あ、なに、孔明ちゃん?」
 進み出た諸葛亮は、ためらう様子もなくあっさりと口を開いた。
「急いで陳太守の船に乗りましょう。ここで時を浪費することは避けなければなりません」
 ざわと周囲の者たちの間から動揺の気配がこぼれでた。
 罠の可能性に思い至っていないのではないかとさえ思われるほどに、今の諸葛亮の言葉には迷いがない。
「あ、それはもちろんそうしたいんだけど、孔明ちゃんは賛成なんだね?」
「はい、賛成です。より正確に言うならば、これ以外の選択はわたしたちにとって鬼門でしかありません。今は陳太守が差し出してくれた手をとることが、唯一の活路なんです」


 諸葛亮の言葉に、ややためらいがちに口を開いたのは孫乾だった。
「し、しかし、よろしいのですか。私が口にするのは筋が違いましょうが、元龍殿の思惑定かならぬ今、船団の状況を確認するくらいのことはした方がよろしいのでは?」
 陳羣に聞こえないように小声で囁く孫乾の顔色は暗い。
 孫乾は徐州の臣として、玄徳様を迎えるために挺身してきた。そして玄徳様が小沛城に入って以降も協力を惜しまず、玄徳様の統治に貢献してくれた。
 それもこれも、主君である陶謙の願いと、また孫乾自身の徐州の平穏を願う志ゆえのこと。孫乾にとって、玄徳様こそが次代の徐州を担う人材であり、その人物のために奔走することこそ、自分の責務であると信じてきたのであろう。


 だが、状況はそんな孫乾の願いと奔走を嘲笑うかのように迷走を続けている。今や、劉家軍は徐州から逃げ出すように小沛を捨て、南へと逃げ続けている。曹操軍のみならず、孫乾が同志と信じていた陳登もまた、その動きに加担している可能性は高い。
 今、孫乾の胸を埋めるのは、玄徳様への慙愧の念であろう。請うて来てもらいながら、自分たちの事情によって玄徳様たちを戦塵に巻き込み、あまつさえ後ろから刺すにも似た手段で逃走を余儀なくさせている。
 これ以上、徐州側の都合で玄徳様たちを不利な立場に置くことは忍びがたい。諸葛亮に対する孫乾の言葉は、そんな思いがにじみ出る苦渋に満ちたものだった。


 だが、そんな孫乾の言葉に、諸葛亮はしっかりと首を横に振る。
「心配はいりません。公祐さんが恐れているような事態にはならないと思います」
 あまりにもきっぱりと言い切られ、孫乾が驚いたように目を瞬かせた。
「し、しかし……」
「……朱里ちゃんの言うとおりです」
 孫乾が疑念を口にしかけると、諸葛亮の隣から鳳統も口を開いた。
「公祐さんがここにいること。陳太守がここにいること。この二つだけで陳登さんたちを信じる理由には十分すぎるほどです。急ぎましょう、玄徳様。おそらく、後方の張遼さんの軍は、私たちが徐州の軍と合流するところを待っているのだと思いますから」


 気忙しく口を開く鳳統の姿は、とてもめずらしいものだった。その言葉に秘められた意味も、深長である。おそらく、即座にその内容を理解できたのはごく少数であろう。
「え、あ、えーと、士元ちゃん、それって――って、話は船の上で、だったよね」
「はい、それがよろしいかと」
「うん、わかった」
 玄徳様は鳳統に頷くと、無言で佇む陳羣に視線を戻す。
「陳太守、どういう風に軍を分ければ良いか教えてもらえますか」
 五千になんなんとする劉家軍である。まとめて乗せられるような巨船が、泗水の支流に浮かべられるわけもない。分乗するのは当然だが、その差配は陳羣に任せた方が滞りなく進むであろう。
 そう考えた玄徳様の言葉に、陳羣はやや戸惑ったようだった。
 おそらく、陳羣はもっと玄徳様たちが逡巡すると思っていたのであろう。劉家軍に対する徐州側の対応を見れば、それが当然なのだから。
 だから、おもいがけずあっさりとこちらの言葉を信じた玄徳様に、戸惑いを隠せなかったのである。


 しかし。
「――ふふ、なるほど。公祐殿や子仲(糜竺の字)殿たちが、こぞって褒め称えた理由が得心できました。陶州牧が、あなたさまに夢を見たことは、決して間違いではなかったのですね」
 陳羣は玄徳様の言葉に虚飾がないことを悟り、小さく笑みをもらした。
 だが、すぐに顔を引き締め、陳羣は言葉を続ける。その表情は、涼やかさの中に、凛とした気品のようなものが感じられた。
「曹家の軍が迫っているのなら、なおのこと急がなければなりません。こちらへ、劉家軍の方々。広陵の誇る水軍は、貴殿らの手足となって動くでございましょう」
 そういって、踵を返す陳羣。
 長い黒髪が風にたなびき、一瞬、えもいわれぬ香気があたりに満ちる。
 将兵の間から、思わずほうとため息が漏れた。ちなみに、おれも例外ではない。
陳羣は見たところ二〇代の半ばか、あるいはわずかに上くらいだろう。劉家軍にはいないタイプの、綺麗なお姉さん的美女の立ち居振る舞いに、ため息を漏らすのは理の当然というものである。
 隣で関羽がなにやら咳払いしているが、それは気にしない方向で、などとおれが思った瞬間だった。


「――きゃうッ!?」


 びたん、と擬音でもつきそうなほど見事に、陳羣がこけた。
 別に地面に石が転がっている様子もないが、それでも陳羣はこけた。なんというか、言い訳のしようもないくらい見事に。あれはもしやすると、顔から地面に突っ込んだのではあるまいか。
 あと「きゃう」って悲鳴あげたのは、陳羣だよな……多分。


 沈黙が場を支配する。
 劉家軍の面々は、皆、何を言えば良いのか、何をすれば良いのかわからず、おどおどと周囲を見渡すばかりであった。あと、孫乾は見なかったふりをしてる。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
 おそるおそる、という感じで玄徳様が地面に倒れふしたままの陳羣に声をかける。
 すると、陳羣はすっくと立ち上がり、服の汚れを払う仕草をしてから、至極真面目な表情で頷いて見せた。
「……はい、大丈夫です。失礼しました」
 目の端に雫が浮いているのは、多分、見ない振りをしてあげるのが優しさなのだろう。


 陳羣は顔からつま先まで、まだら模様の汚れが転々とついている。河岸の土は泥混じりで、払ったくらいで取れる汚れではないようだ。それは陳羣も承知しているのだろう。表情こそ真面目だったが、泥に汚れた隙間から垣間見える頬は真っ赤に紅潮していた。
「だ、大丈夫なら良いんですけど……」
 玄徳様は何か口にしかけるが、陳羣の身体が、おそらくは羞恥のためだろう、小刻みに震えていることに気づき、慌てて口を閉ざす。今は一刻もはやくこの場を切り上げるべきだ。そう判断したのか、玄徳様は震える陳羣の手をとると、早口でまくしたてた。
「さあいきましょう。すぐいきましょう。みんなも急いで準備お願いね。わ、わたし、陳太守と一緒に先にいってるから、それじゃッ!」
 シュタ、と手を挙げるや、玄徳様は常にない機敏さで、陳羣と共にさっさと河船の方に歩み去ってしまった。


 そんな玄徳様を、おれたちは半ば呆然としながら見送る。
「年上、黒髪、どじっ娘か……おそるべし、陳長文」
 無意識にそんなことを口にした瞬間、隣にいた関羽のことを思い出し、無意識に防御の姿勢をとりかけたおれだったが、関羽はなにやら思案げに腕を組んでいた。
「どうかしたのですか、将軍?」
「いや、たいしたことではないのだが――今のはもしや計算なのかと思ってな」
 関羽の言葉に、はじめは首をかしげたおれだったが、すぐにその言わんとするところを察して表情を改める。
 たしかに、今の光景を見た劉家軍は毒気を抜かれた状態で、玄徳様にいたってはさっさと相手の船に歩き始めてしまっている。徐州側と劉家軍の間に横たわっていた溝は、陳羣の転倒一つで埋め立てられてしまった観があった。
 これを意識してやったというのなら、関羽のいうとおり、おそるべきは陳羣だいえる。
 いえるのだが――
「きゃぶッ?!」
「わ、わあ、陳太守、しっかりしてくださいッ?!」
 遠くから聞こえる陳羣の悲鳴と、玄徳様の焦りまくった声。
 それを聞いたおれは、関羽に問いかけた。
「……計算、ですか?」
「……すまない、忘れてくれ」
 言葉すくなにこたえた関羽は、なんか色々な意味で重いため息を吐くのだった。





 思わぬ失態を衆目にさらしてしまった形の陳羣だが、その能力はやはり一郡の太守に相応しいものであったようだ。自軍の統率は言うにおよばず、劉家軍を部隊ごとに分け、次々に軍船に収容していきながら、混乱や遅滞は微塵もない。関羽たちも感心するくらい見事な手際だった。
 劉家軍の将兵は陳羣の指示に従い、次々に軍船に乗り込んでいく。
 皆の顔には、ここまでの道中にはなかった穏やかさが感じられた。
 具体的な援軍が目の前にいるということ。そして、か細くはあっても活路が見出せるようになったことが、その大きな理由だろう。もちろん(?)陳羣のどじも、おおいに心を和ませる役に立ったに違いないが。


 小沛を脱出して以来、ついぞなかった穏やかな空気が劉家軍を包み、おれはほっと安堵の息を吐く。
 しかしそれは、あまりにも早計であったらしい。月毛の背から下り、手綱をとって玄徳様の乗る船に乗船しようとしていたおれは、不意に奇妙な振動が地面を揺らしていることに気づいた。
 まるで小規模の地震が起きたかのように、細やかに揺れるこの大地の感触を、つい先日、おれは体験したばかりであった。そのことに思い至り、おれは慌てて後方を振り返る。
 まるでそれを待っていたかのように、次の瞬間、後方に出ていた偵騎の一人が息せき切ってあらわれ、悲鳴のような報告をもたらした。
 曹操軍、接近と。



◆◆



 劉家軍の追尾を続ける魏続たちの下に、待ちかねた知らせが届いたのは、昨夕のこと。
 それは劉家軍が一定の方向に進んでいることから導きだされた推論を肯定する報告であった。
「――陶謙の軍がいて、我が軍に敵対した劉備らと行動を共にしている以上、これを攻撃するは当然のことよ」
「うむ。我らは劉備を攻撃するにあらず。曹将軍閣下のご一族の仇であり、勅命に従わぬ陶謙めを討つのだからな。その場に劉備がおり、陶謙めに対する攻撃を邪魔するようであれば、それを排除したところで問題はない」
「さすれば、曹将軍のお怒りに触れることもあるまい。文遠様に申し開きすることもできよう――まあ、叱責は免れまいが、な」
 劉家軍の進む先に、徐州の水軍が待ち受けていると知った魏続たちは、そう言って頷きあうと、ただちに行動を開始した。
 麾下の八千の軍勢を率い、全速でもって追撃を開始したのである。
 これまで続けてきた緩やかな進軍によって離れてしまった劉家軍との距離を一挙に縮めるために、彼らは夜の闇を駆け抜け、暁闇を裂いて、ついに劉家軍を指呼の間に捉えるに至る。
 この行軍は、劉家軍の放った偵騎すべての思惑を完全にはずした。夜間の行軍が困難であることは軍事上の常識である。しかも曹操軍にとっては慣れない徐州の地。それをまさかほとんど脱落者もなしに走破するなど予測しえる筈もない。
 あるいは魏続らの遅々とした行軍を見ていたこと、そして彼らの主将である張遼を関羽が倒したことが、偵察に出た兵士たちの胸に、続らが能動的に動くことはあるまいという予断を知らず知らずのうちに育んでしまったのかもしれない。


 諸葛亮と鳳統は、玄徳様に言明したように、魏続たちの狙いを察してはいた。それゆえ、乗船に関しても負傷兵を最優先に、その後、玄徳様やおれのような文官らを順番に乗せつつ、後方への防備は決して怠っていなかったのである。
 しかし、さすがに彼らが現れる時期までは予測できなかった。その予測をするに不可欠な情報が、軍師たちの手元に来なかったのだから当然である。
 そして、ここで皮肉にも陳羣の有能さが裏目に出る。
 偵騎の報告と、ほぼ時を同じくして、稜線から湧き上がる黒雲の如き勢いで襲い掛かってきた曹操軍に対し、この時、劉家軍はすでに後方の部隊も乗船のために動き始めていたのである。もし、いま少し乗船に手間取っていれば、彼らはいまだ守備の列についていたであろう。
 ある意味で、魏続らは完璧な戦機で仕掛けたと言えた。
 もとより魏続らの騎兵を統率する技量は卓抜しており、それは今回の夜間行軍を見るだけでも明らかである。あの張遼の部下として恥ずかしからぬ、彼らは武将であったのだ。
 その彼らの猛襲を受ける形となったのは――




「愛紗ちゃんッ?!」
 船上の玄徳様が顔色どころか声まで蒼白にして叫ぶ。
 後衛を指揮していた関、張、趙の三つの旗印。曹操軍はそのうちの関の旗印に向けて一斉に襲い掛かったのだ。
 無論、張飛、趙雲の部隊にも少なからぬ騎兵が攻撃を仕掛けているが、関羽の隊に『魏』『宋』二つの旗印が向かっているところを見れば、敵の狙いが奈辺にあるかは誰の目にも明らかであった。
 本来、関羽は負傷兵として真っ先に乗船しなければならなかったのだが、あの関羽がそんなことを肯う筈がない。
「これは負傷などといえるほどの深傷ではありませんよ」
 そういって、当たり前のように後詰に参加していたのである。
 

「乗船、急いでください。敵の到達前に船を出しますッ!」
 陳羣ら徐州の水軍が緊張した声を張り上げる。
 騎兵の一部が、後詰部隊を迂回して河岸に接近してくる姿を捉えたからだ。
 さらに陳羣は続けざまに指示を下した。
「弩隊、構え! 敵が射程内に入れば攻撃を開始せよ! 同時に三番艦、四番艦に信号。水上から援護を。少しでも良い、敵の足を止めなさい」
「御意ッ!」
 船上の部下に反攻を命じつつ、すでに離岸していた僚船に水上からの援護を命じる。
 よく訓練された水軍は、主将の命令に速やかに応じるが、曹操軍の奇襲はそんな彼らの動きを楽々と上回る。徐州勢は、この騎兵集団の速度を目の当たりにし、戦慄を禁じえなかった。彼らの知る騎兵とは、あまりにも勝手が違う。
 それを実証するかのように、敵の先頭集団が一斉に馬上で弓を構えた。
「騎射だと?!」
 百や二百ではない。千をはるかにこえる騎兵が一斉に弓を番える場面は、河北より騎兵の充実で劣る徐州軍では決して見られないものであった。



 敵から放たれた矢羽の雨は、徐州軍のみならず、乗船するところであったおれたち文官の列にまで及んだ。悲鳴と絶叫が交錯する中、おれは唇をかみ締めつつ、月毛の背にまたがった。
 飛んでくる矢を弾くような芸当はおれにはできない。それゆえ、おれに出来たのは立ちすくむ仲間たちを叱咤し、船の上に導くことだけであった。
「足を止めるな、船に急げ! 怪我をした人は隣の人が手を貸してあげるんだ」
 そういいながら、おれは手近にいた怪我人をやや乱暴に馬上までひっぱりあげる。その男性の文官は小さく悲鳴をあげるが、すみません、かまっていられる状況ではないです。
 騎射の弓が届くということは、つまりそれだけ接近されてしまっているということだ。まだかろうじて射程範囲に入ったくらいの距離である上に、水上からの援護と少数の劉家軍の兵士たちの奮闘のおかげもあって、曹操軍はまだ本格的にこちらに攻撃の手を向けてはいない。
 だが、相手の狙いはまず間違いなく水陸の分断。ここで水軍を追い払ってしまえば、陸に残った部隊は逃げ場もなく殲滅されるだけなのだ。
 それゆえ、おれは怯え、あるいは痛みを訴える人たちを半ば怒鳴るようにして船へと追い立てる。
 自分でも乱暴だと思うが、しかし、あの襲撃の時のような光景を再び見ることは断じて避けたかったのだ。
「ほ……ごう、さまッ」
 その混乱の最中、耳慣れた声が飛び込んできた。
 一瞬、駆ける人々の中に王修の姿を見た気がしたが、それも一瞬。混乱の中に声も姿も消えていく。
 もっとも、それは王修が無事に船に乗れる波の中にいることを意味するから、安心すべきことではあった。



 そう思って安堵しかけたおれの目に、不吉な光景が映る。
 それは抵抗を突き破って河岸まで到達した数十に及ぶ騎兵部隊の姿だった。
 その先頭を駆ける者が掲げる旗印は『侯』。
「……侯成、か。この前みたいにはいかないな」
 おれの中のイメージ的には陳蘭や雷薄とそうかわらない武将だが、陳蘭たちは略奪をこととした賊将で、こちらは曹操軍に属し、張遼の麾下にあって将をつとめるほどの人物。同列で語ることは出来ないだろう。
 くわえて、あのときのように奇襲や不意打ちが通じる状況ではない。一応、おれも馬に乗ってはいるが、騎兵同士の戦いの訓練なんぞ受けていない。それ以前に、騎射で狙われたら、避けようもない。
 迫りくる騎馬隊に向けて、後方の水軍から弩弓が雨のように降り注ぎ、避け切れなかった敵兵が落馬していくが、他の兵たちはそれに構う素振りも見せない。馬上、身を屈め、盾を構えて猛然とおれに向かって突っ込んでくる。


「ちッ!」
 音高く舌打ちしながら、おれは腰の剣を抜き放った。
 何が出来るとも思えなかったが、何もしないわけにはいかない。
 そのおれの姿に気づいたのだろう。侯成とおぼしき敵将が大喝を発した。
「そこを退けィ、小僧ッ!」
 声に出して返答をする必要を認めなかったおれは、馬上、無言で剣の切っ先を侯成に向ける。
 それだけでこちらの意図を察したのだろう、急接近しながら侯成は持っていた槍を振りかざし、おれの胸に狙いを定めつつ吼えた。
「ならば、死ねッ!」
 掛け違いざま、おれの胸板を貫かんと繰り出される侯成の一撃。おれは落馬しかねないほどに身体を捻り、その矛先をかわしざま、力任せに剣を振るう。


 剣と槍が絡み合い、金属音がおれの鼓膜に響く。
「――つッ」
 右手にはしった鈍いしびれに、おれは無意識にうめきをもらしていた。
 だが、おれの後方で馬首をかえした侯成は、今度こそおれを討ち取ろうと雄たけびをあげながら向かってくる。
 咄嗟に剣をかまえると、賢い月毛はおれが指示するよりもはやく、馬首を転じてくれた。顔中に猛気を滾らせながら、一直線にこちらに駆けて来る侯成の顔が視界に映る。
 一瞬、その視界の隅で、何かが動いたような気がした。
 と、思う間もなく。
「ぬ、ぐあああッ?!」
 こちらに突進していた侯成が、苦痛の悲鳴をあげる。慌てて手綱を引き締め、落馬こそ免れたが、その右肘には一本の矢が深々と突き刺さっていた。


 突如、この馬に乱入してきた者は一人二人ではなかった。気がつけば、曹操軍に倍する数の騎兵が駆けつけようとしていたのだ。
「射よッ!」
 その将軍が命じると、劉家軍の誇る騎馬部隊は一斉に曹操軍へ向けて騎射を浴びせかける。
 不意を打たれた形となった侯成の部隊はたちまち乱れたつ。その乱れに乗じ、劉家軍の将軍――趙雲は名槍龍牙を振り回しながら、その陣列に突っ込んでいった。
「勅命を掲げ他領に踏み込んでおきながら、自らは約を破って奇襲をかける。曹操軍の欺瞞、すでに知れたり。その様で、貴様らは徐州の何を糾すつもりかッ」
 鍛え上げられた曹操の騎兵部隊といえど、趙雲の武勇に抗することは難しい。
 龍牙が虚空を舞う都度、鮮血の虹が宙をはしり、不吉な、だが奇妙に美々しい光景を描きだす。


 その趙雲に対し、苦痛をこらえながら侯成が反論する。
「我らは勅命に従い、徐州の軍を討つのみ。それを阻んだのは貴様らであろう。張将軍が約したは、貴様らが逃げるならば追わぬということのみ。我らの軍事行動を阻害し、あまつさえ武力をもって阻むのであれば、これを排除するは当然のことよ!」
「ふ、なるほど。だから我らと徐州の軍が合流するのを待ったというわけか。小心者らしい小細工だな。いっそ理屈など抜きにして、ただまっすぐに我らを討っていれば、まだ曹操の怒りをかわすことも出来たかもしれぬのに」
 いいながら、趙雲は小さく笑った。
「まあ、ここで討たれるそなたには、無用の言か」
「ほざけ、この首、女ごときに易々とくれてやるつもりはない!」
「女ごとき、か。この常山の趙子竜を相手にして、いつまでその大口をたたいていられるか、楽しみなことだ」
 そういって、駒を進める趙雲。
 悠々としているようにみえて、その実、わずかの隙もないその姿に、侯成はたちまち彼我の力量差を自覚する。万全であっても、何合打ち合えるかもわからないような相手に、利き腕を怪我した状況で戦いを挑むほど侯成は愚かではなかった。
 なにより。
 侯成は、遠くに僚将たちの動きをのぞみ、そこに包囲されつつある『関』の旗印を見出して、趙雲とは異なる意味で小さく笑った。
 もはや目的は果たしたも同然。侯成には、ここで命をかける意味はなかったのである。



◆◆



 後方へ去る侯成を、趙雲は追撃しようとはしなかった。
 そんなことに時間を費やす余裕がなかったからである。
「一刀、無事か」
「なんとか」
 死ぬかとは思いましたが。普段ならそんな軽口を叩くところだが、今はそんな時間さえ惜しい。
「ならば急いで退くぞ。雲長と益徳が時間を稼いでくれているが、それも長くは保たんだろう」
 その趙雲の言葉どおり、騎馬部隊を率いた趙雲が後方へ下がったことで、敵軍の圧力は関羽と張飛の二人に集中していた。今はかろうじて持ちこたえているようだが、彼我の兵力差を鑑みれば、遠からず陣を破られるのは明らかであった。
 そして、慌しく兵を退いた趙雲は、はらはらしながら船上で待っていた玄徳様に向け、こう言った。
 ただちに船を出されたし、と。


「で、でも、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんが、まだ?!」
 趙雲の進言を受け、当然のように玄徳様はためらいを見せる。関羽と張飛だけではない。彼女らの部隊はいまだ船上の只中で戦い続けている。その数は百や二百ではない。
 趙雲の言葉は、彼らを見捨てろと言うに等しかった。
 しかし、趙雲は口を閉ざすことなく、言葉を続けた。
「その二人からの伝言です。『すぐに合流するから、先に行け』と」
 このまま関羽立ちの部隊を船に乗せようとすれば、当然、曹操軍の攻撃はこちらに集中することになる。曹操軍は八千。対する徐州の水軍は船団の動きに支障が出ないぎりぎりの数しかいなかった。これは劉家軍数千を乗せる上で必要な措置だったのだが、いざ戦となれば戦力的に見て無力に等しい。
 あるいは劉家軍の将兵が戦に加わることも出来ないわけではなかったが、水軍は騎兵と同様、あるいはそれ以上に習熟を必要とする兵科である。慣れない劉家軍が水兵たちの代わりを務めることはほとんど不可能であり、また無理にそれをしたところで、ろくな効果は望めないに違いない。


「で、でも……」
 無論、玄徳様もそれくらいのことは弁えているであろう。
 ここで決断をためらえば、被害は関羽ら劉家軍将兵にとどまらず、武器を持たない文官たち、そして陳羣ら徐州の軍にも及んでしまうことも。
「――でもッ、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんを、他のみんなを見捨てるなんてッ」
 だが、だからといって後衛を置き去りにすることを肯うことが出来る劉玄徳ではなかった。まして、今の関羽の体調は万全ではないのだから。
 思わず、といった様子で、玄徳様の手が、腰の宝剣『靖王伝家』に伸びる。
 その手を、そっと掴みとめたのは趙雲であった。
「子竜さん?」
「軍略として、ここで退くは当然。されど、玄徳様に雲長らを見捨てろなどと申し上げるつもりは毛頭ござらん」
 そう言うと、趙雲は玄徳様の前で跪き、命令を請うた。
「我が主よ、この身にお命じくだされ。後ろで戦う全ての者たちを救うように、と。今の雲長と益徳では時間を稼ぐ以上のことは難しいやもしれませぬが、この身が加われば、連中を追い払った上で、この場を脱することもかないましょう」
 気負う様子もなく、そう口にする趙雲に、玄徳様は目を丸くし、周囲の者たちは唖然としていた。
 趙雲が口にしたのは、先刻の侯成など及びもつかぬ大言である。にも関わらず、昂然と玄徳様を見つめる趙雲の顔を見ていると、その言葉がまるで既定の事実のように感じられてしまうのだ。


 そんな周囲の様子には構わず、趙雲はなおも言葉を続けた。
「河北よりこの地まで、御身の槍たるに相応しき力を示す場に恵まれませなんだが、ちょうどよい。御身の槍がどれほどの冴えを示すものか、存分にご覧なされよ――国譲(田豫の字)」
「は、はい」
 突然の呼びかけに、それまで黙って佇んでいた田豫が、慌てて返事をした。
「騎兵の指揮は、叔至(陳到の字)殿にとってもらうことになろうが、その補佐はこれまでどおりそなたの仕事だ。任せたぞ」
「わ、わかりました、お任せください!」
「一刀」
「はッ」
 趙雲の呼びかけに、おれは緊張の面持ちで応えた。
「これよりしばしの間、玄徳様を守る力は薄くなる。そなたの力が必要な時も来るだろう――」
 だから、玄徳様の力になってさしあげろ。おれはそんな言葉が出るものと思い、趙雲の言葉に頷こうとした。
 しかし。
 趙雲の言葉は、おれの予測を完全に覆す。
「――だからこそ、それを言い訳にするな」


「え?」
 思わず、おれは趙雲の顔をまじまじと見つめてしまった。
 吸い込まれるような紫水晶の瞳が、煌くような輝きを放っている。吸い込まれるようなその瞳に、半ば魅入られながら、おれは趙雲の言葉を聞いた。
 もっとも、趙雲が口にしたのは、それほど長い言葉ではなかった。
「なに、誰かのために戦うことと、戦う理由を他者に預けることは似て非なるもの。それを忘れずにいればよい。さすれば、そなたなら、いずれ必ず気づくであろうよ」
 その言葉の意味がわかったかと問われれば、おれは首を横に振っただろう。
 それでも。
「――はい」
 それは、今のおれにとって最も大切な言葉であるという奇妙な確信に促され、おれは深々と頭を下げた。


 それゆえ。
(あと少しの猶予があれば、と思っていたのだが。天は、この者に何を望んでおるのか) 
 おれは、おれの姿を見る趙雲の視線に含まれた懸念に気づけなかったのである……



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2011/01/09 01:59

 揚州寿春城。
 今や仲帝国の都となった寿春は、その歴史上、かつてない繁栄の時を迎えようとしていた。
 淮南の豊富な物産を背景とし、荊州、豫州、揚州に及ぶ大国の支配者となった袁術の下で一旗あげようとする者はあとをたたず、各地から競うように人や物が集まってきたのである。
 そして、その噂がさらなる物と人を呼びよせ、以前は十万を越す程度の数だった寿春の人口は、ほんのわずかの間に倍近くにまで膨れ上がっていた。
 この時期、寿春より多くの人口を抱える都市は幾つもあった。だがその活気と発展性において、寿春に優る都といえば、曹操がおさめる許昌、袁紹の居城である南皮、そして荊州牧である劉表の統べる襄陽くらいであったろう。
 洛陽は先の戦役での痛手が未だ癒えず、長安は群小の勢力が血みどろの争いを続けている。陶謙の治める彭城も規模としては寿春に及ばず、劉焉が州牧として赴いたばかりの益州の成都はいまだ辺境の一都市以上の価値を持ちえず、それは馬騰の治める武威も同様であった。


 漢帝国に叛逆したという点で、仲帝国には反論しようのない倫理上の引け目がある。
 だが逆に言えば、袁術ほど堂々と漢帝国に叛旗を翻した者が今の中華にいないのも事実。漢帝国の支配をよしとせず、積年の暴政に恨みを募らせた者たちにとって、袁術は漢の支配を覆すために、少なくとも藁よりは掴みがいがあるように映ったのである。
 ここで袁術が驕奢にはしるようであれば、それは一時の勢いにとどまり、解放の機運は淮南の地に溶けてしまったかもしれない。元々、袁家の嫡出として家名を誇り、驕慢な言動が多かった袁術である。堕するのは遠い先のことではあるまいと多くの者が考えたのも無理からぬことであった。



 しかし、その予測は外れる。あまりにも意外な方向に。
 新たに三公に任じられた太尉・張勲、司空・袁渙、司徒・閻象のうち、軍事を統括するのはこれまでどおり張勲であった。しかし、他の二人、袁渙、閻象はいずれもこれまで中位にとどまっていた人材である。
 一躍三公に抜擢されたかれらは、偽帝の誕生を止められなかったことを内心で悔やんでいたが、だからといって政務を滞らせることは出来なかった。そうすれば、もっとも困るのは、最も弱き者たち――すなわち民衆であることは明らかだったからである。
 それゆえ、二人は両の肩に負った責任を自覚して職務に精励した。
 袁渙が司空として土地と人民を司り、税制や徴兵等の統治機構の改善に力を尽くし、閻象は司徒として宮中の綱紀を粛正し、賄賂の絶えない政治を改めるために東奔西走する。
 この行動には多くの反対が寄せられるかと思われたが、実のところ、反対は思ったよりもかなり少なかった。
 何故なら、それらは元はといえば、彼らが三公に就任する前に于吉の手によってある程度整地された道だったからである。
 現在、この改革は着実な成果を収めつつあり、仲の政治は外部からの悪評に比べ、はるかに公正に富んだものになっていたのである。


 無論、袁術が国内にあって万人に認められているわけではない。
 ことに孫家の粛清は、袁術の人望を大きく損ね、心ある士の中には宮廷を去り、野に下った者も少なくない。また、孫堅と近しい関係にあった者たちの中には、宮廷の内外に皇帝となった袁術の粛清の鎌が振り回されることを予測し、自領に戻った者もいる。中には、どうせやられるのならば、と仲に対して戦いを挑んだ者さえいた。
 だが、それらの叛乱は仲帝国の新たな軍勢の前に、卵の殻を踏み砕くがごとく容易く撃破されてしまった。そして、その叛乱鎮圧作戦でもっとも武名を高めたのが、かの飛将軍呂布と、呂布の率いる袁術の親衛隊『告死兵』であった。
 告死兵の猛攻の前に戦線を保ちえる武将は存在せず、陥落しない城はない。
 その評は、掛け値なしの事実と共に仲の内部を席巻し、やがて外にまで及ぶ。それは、孫家を粛清した袁術が、いまだ強大な軍事力を有していることを内外に知らしめる結果となったのである。



 
 内治においては順調に地歩を固め、地盤を磐石ならしめんと務める仲帝国。
 その都である寿春城外に、今、仲の旗を掲げた軍勢が集結していた。
 その数、およそ十三万。
 中には、遠く南陽から呼び寄せた部隊もおり、この外征が場当たり的なものではなく、綿密な準備を経て計画されたものであることがうかがえる。
 また、それでなくては、いかに仲が広大な領土を持つとはいえ、短期間に十万を越える軍勢を編成できる筈もなかった。
 やがて、彼らは皇帝である袁術の激励を受け、淮河に沿って東へ向かう。
 東――徐州陶謙領、臨准郡および広陵郡。
 淮南の富を独占し、かつ長江以北に仲の揺ぎ無い威権を打ち立てるためには、臨准と広陵の制圧は不可欠の要素となる。
 今の徐州は曹操との争いの最中にあり、南の防備はきわめて薄い。呂布を中心とする新生袁術軍の勝利は疑いないものと思われた。


 その予想通り、徐州領に攻めかかった袁術軍は瞬く間に国境を突破。圧倒的兵力を利して徐州各地を劫略していく。徐州勢は懸命に抗おうとするも、圧倒的な戦力差の前に、時間を稼ぐことさえままならない。
 袁術軍の侵攻を予期していた陳羣は、彭城の陳登と図り、淮南に位置する臨准郡と広陵郡の防備の強化および州境周辺の民衆の避難を進めてはいた。だが、告死兵と呼ばれる白装束の軍勢と、その先頭に立つ緋色の将軍の猛攻は、徐州勢の必死の抵抗を嘲笑うがごとくに蹂躙し、破砕する。
 袁術軍は捕虜をとることをせず、敗れた徐州軍の将兵の多くは斬首され、屍は野にうち捨てられた。
 残された民衆は、身を守る術とてなく、ただ逃げ惑うことしか出来ぬ。
 呂布率いる主力部隊は、彼らに構わず、一路広陵城を目指したが、その後に続く軍勢は当初の指示通り、思う様に各地を侵略し、豊穣な淮南の富をかき集め、刃向かう民衆を馬蹄の下に踏みにじっていったのである。
 
 
 美しい女性を見つけた兵士は欲望に飽かせて襲い掛かり、それを止めようとした若者は、別の兵士の刃に切り倒される。燃え落ちた家の前で、放心したようにすわりこむ老人。泣き叫ぼうとする子供の口を、必死におさえる母親。そしてそんな人々を踏みにじっていく兵士たち。
 これまで中原の戦乱から遠ざかり、平和を享受していた淮南の人々にとって、袁術軍は地獄よりあらわれた悪鬼の軍勢に等しい。その凶行は瞬く間に淮南各地に広がり、人々は動揺した視線をかわしあった。略奪暴行から逃れるためと白旗を掲げた街もあったが、袁術軍の蛮行は例外を許さない。その街もまた、猛火の下に滅び去っていった。


 この時、袁術軍を率いる楽就、陳紀、李豊、梁剛らの諸将は欲望に飽かせて軍紀を乱したわけではない。彼らは、皇帝たる袁術に命じられたのである。
 至尊の身に刃向かう輩に、懲罰の鞭を与えよ、と。
 それはすなわち、淮南のみならず中華全土に対し、袁術軍に従わぬ者がいかなる末路をたどるのか、それを見せしめるということ。
 一人の方士は、楽就らに語って聞かせた。
 内に慈愛を示し、外に鬼面をあらわす。一城を皆殺しにすれば、他の城は戦わずして陥ちる。そうして降った者たちに恩恵を与えれば、いずれ徐州のみならず、中華全土が仲に刃向かう愚かしさを知るであろう。
 仲帝国百年の計のため、必要なことなのだとその方士から説かれていた諸将は、淮南の人と物とを奪いつくすべく、更なる進撃を続けていった。


 徐州軍の抵抗も届かない。殺戮と暴虐の刃は、とおからず淮南全土を包み込むかと思われた。




 だが、しかし。
 燃え広がる兵火のただなかにあって、袁術軍の猛威に飲み込まれない力もまた存在する。
 押し寄せる袁術軍に対し、勝ち目などないと知りながら、しかしそれでも侵略に刃向かい、暴虐に抗い、迫り来る鉄血の海嘯を前に誇りもて屹立する者たちがいたのである。


 一つではない。
 二つですらない。
 それは三つ。
 

 その一つは――



◆◆



 徐州臨淮郡東城県。
「おのれ、たかが一県の小城一つ、これだけの手勢で攻めて、何故陥とせんッ?!」
 圧倒的な兵力をもって徐州領に侵攻した袁術軍。その将の一人である梁剛は赫怒していた。
 梁剛の前にあるのは、臨淮郡の南、淮河南方に位置する東城県の県城である。
 堀はなく、城壁も厚くない。小さいとはいえ、一県の中心であるため、万を越える民を収容する程度の大きさはあるが、賊徒の侵攻を防ぐことは出来ても、まとまった数の正規軍に攻撃されれば二日ともたないであろうと思われた。
 事実、東城県攻略の任を帯びた梁剛もまた遠目に県城を観察し、たいした時間もかからず城を陥とすことが出来ると踏んでいたのである。


 そうして、県城を囲むこと五日。
 県城は度重なる袁術軍の強攻を受けながらいまだ健在であった。
 梁剛が率いる兵力はおおよそ二万ほど。一方、県城に篭る徐州軍はせいぜい七、八百がよいところであろう。元々の兵力に加え、各地から多少の兵力が加わったようであるが、それでも千を越えることはないと思われていた。
 城に篭るという圧倒的な有利があってなお、両者の兵力差は絶望的であり、梁剛はこのような小城に手間取るとは夢にも思っていなかった。
 しかし、梁剛の前に厳然として存在する県城こそが現実である。
 梁剛は怒りの表情をあらわにしながら、更なる猛攻を指示した。
「間断なく攻め寄せよ! 所詮、敵は寡兵。休む暇を与えず、城壁ごとすり潰すのだ! 孫子曰く、敵に倍すれば戦い、五倍すれば攻め、十倍すれば包囲殲滅すべし! まして今の我らは彼奴らの二〇倍の兵を擁しておる。城を陥とせぬ理由なぞあろうはずもないわッ!」
 味方の損害に構わず、ただ力押しを続ける梁剛の指揮は、一見無謀に見えたが用兵の原則に反してはいなかった。敵より多数の兵を集めたのならば、あとは力で粉砕するのが用兵の常道というもの。梁剛が口にした孫子もその書の中で同様のことを述べている。
 しかし、実は孫子はその以前に城攻めを下策と断じている。孫子を引き合いに出すのならば、梁剛は兵力を利して強攻する前に、城中の情報を集め、これを誘い出し、あるいは戦わずして勝つ方法を模索すべきであった。
 そうすれば、梁剛は東城県にあって袁術軍の猛攻を食い止める人物の名を知ることが出来たであろう。
 だが、梁剛は兵力を恃んで力攻めを続け、県城の頑強な抵抗を突き崩さんと躍起になるばかりで、ついにその人物の名を知ることは出来なかった。


 その人物――姓を魯、名を粛、字を子敬。真名を長恭。
 東城県において、魯粛の名を知らぬ者などいない。だが、それは必ずしも良い面ばかりを指しているわけではなかった。
 魯粛は、見る者によって面白いほどに好悪が分かれる人物であり、その度量の広さを称える者もいれば、その奇矯な行動を嘲る者もいた。だが、そのいずれであっても、魯粛が常識の枠にはめられない類の人物であるという見解では一致していた。
 その評は、魯粛が家を継ぐと、ますます確固たるものとして定着する。
 魯家は東城県随一の豪族であり、その枠を臨淮郡まで拡げても屈指の富貴を誇る家柄であったが、家を継いだ魯粛は家業を放り出し、蓄積された財貨を惜しげもなく投じはじめたのである。
 貧しい者たちのために田畑を開き、無頼の者たちに仕事を与えて彼らを正道に立ち戻らせたことは称賛されてしかるべきであったろう。しかし、大金を投じて私邸に怪しげな食客を養い、家業を放ったまま各地を歩き回っては名士と名のつく者には、人格の高低を問わず、目の飛び出るような高価な進物を献じて、その知己を得ようとする姿は、常人の理解を得られる行動ではなかった。まして当時は、洛陽の漢帝は健在であり、その支配はこれからも続くと思われていたから尚更である。
 さらに魯粛はこれまた高い金を払って各地から武芸に秀でた者たちを呼び集め、剣術、棒術、馬術、弓術を修めんと欲した。
 かねてから魯家と付き合いのある者の一人は、これらの魯粛の行動を見て、ため息を吐きながらこう言った。すなわち――


「魯家に狂児がうまれたようだ」と。





 東城の狂児、魯子敬。生まれ故郷の中でさえ賢愚が定かならぬと思われていたこの人物は、しかし、偽帝の侵攻にさらされた東城県にあって誰よりも毅然と抗戦を主張し、呆然とする人々を、整然とした論理と格調高い弁舌とをもって説得するに至る。
 袁術軍の侵略に怯える民衆をなだめ。
 降伏を唱える者を叱咤し。
 恐怖に震える将兵を鼓舞し。
 魯粛は、東城県の人心を瞬く間に一つにまとめあげてみせたのである。その手腕は、見事の一語に尽き、これまで魯粛を否定的な目で見ていた者たちは、人を見る目のない自らの眼力を恥じることになる。



◆◆



 県城の中央に位置する県令府。
 東城県の最高位者である県令が、政務を執り行うための場所であるこの邸では、今、袁術軍の攻撃をいかに切り抜けるかの議論が昼夜を問わず行われていた。
 その中心となっているのは東城県の県令である張紘、字を子綱である。
 張紘は学識と智謀に優れ、その才は私塾において並ぶ者がなく、師からは「子綱こそ当代随一の士となろう」と感嘆されるほどであった。
 それゆえ若年ながら茂才(中央の官吏となる道程の一つ)に推挙されることになったのだが、しかしそれにしても、と張紘はこっそりとため息を吐いた。


(わたし、まだ一五才なんですけど。そんな小娘をちやほやしたところで、益なんてないでしょうに、まったくもう)
 元々、張紘は官に仕えるために私塾に通っていたわけではない。親の言いつけに従って私塾に入り、懸命に励んでいたら、いつのまにか周りが勝手に期待を高めてしまったのである。
 中央への推挙は名誉なことではあったが、郷里を離れるつもりも、ましてや官界で栄達する意思などかけらもなかった張紘はこれを辞退する。
 師をはじめ、周囲の大人たちはこの張紘の行動に驚きあわて、声を嗄らして翻意を促したが、張紘は頑として首を縦に振らなかった。
 その際挙げた郷里から離れたくない、という理由は嘘ではない。だが、本当のところは幼い頃からの夢をかなえたい一心だった。
 すなわち。
(江南に嫁いだ子布姉様のような素敵なお嫁さんになるんですッ)
 むん、と心中でこぶしを握る張紘であった。


 にも関わらず、なぜ張紘が県令などになっているかというと、張紘の噂を聞いた陶謙にぜひにもと仕官を請われたからであった。
 張紘としては、自分のような小娘が恐れ多い、と謝絶するつもりだったのだが、陶謙みずからの招請とあって、安易に断るわけにもいかなかったのである。
 また陶謙は出来るかぎり張紘の希望に沿う形で、任地も生まれ故郷の広陵に近いところにしてくれるとのことであったので、仕方なく張紘は首を縦に振り、広陵の隣に位置する臨淮郡の東城県に赴任したのであった。


 若すぎる県令の誕生に、東城県の人々は戸惑いを隠さなかったが、張紘の才腕と真面目な人柄、なにより童女のように可愛らしい容姿は、たちまち民心を収攬してしまう。
 どうみても十五に見えない幼い容姿は本人的には悩みの種なのだが、統治には案外有効であったらしい。それもいかがなものか、と張紘は思ったりしたのだが。
 ともあれ、なんとか県令としての勤めを果たしてきた張紘であったが、まもなく東城県、否、臨淮郡はおろか徐州全土を巻きこむ大嵐が襲ってきた。
 袁術軍の来襲である。





 袁術軍の圧倒的な戦力を前にしては、いかに張紘といえども打つ手はほとんどない。
 自室に戻って対策を考えると言っておきながら、その心は知らず過去にさかのぼっていたようである。
 その張紘の下に従者の一人が報告に来た。
「申し上げます。子敬様がお越しですが、いかがいたしましょうか」
 それを聞いてはっと我にかえった張紘は、すぐに口を開いた。
「お通ししてください。それと、何か飲み物を持ってきていただけますか。子敬姉様も度重なる戦でお疲れでしょうから」
「承知いたしました。ただちにお持ちいたします」
 そう言って従者が下がると、しばらくして一人の人物が張紘の前に姿を現した。


 顔の上半分を覆い隠す鉄製の兜を身に着けた人物は、一見したところ、男とも女ともしれない不気味な格好に見えた。かすかに微笑んでいるのか、その唇の端はややつりあがっていたが、それは相手を安堵させるよりも不安を抱かせる類の笑みである。
 この姿を見れば、これがかの東城の狂児かと背筋を震わせる者も少なくないだろう。顔の半面を覆われているせいか、何をするやらわからない人物であるという薄気味の悪さを感じてしまうのだ。


 もっとも、県令に赴任して以来の付き合いである張紘にとって、この姿は見慣れたものであった。従者に口にしたように、魯粛が女性であることも知っている。だから、視線を下に向ければ、女性特有の柔らかい身体の線が見て取れることも知っている……と言いたいところだが、やはりちょっとわかりにくいかもしれない――
「……なんかとっても失礼なことを考えてないかな、子綱ちゃん?」
「は、はひッ?! なな 何にも考えてないですよ?!」
「ほんとにー?」
「ほ、ほんとですってば!」
 大慌てで首をぶんぶんと横に振る張紘の姿を、しばしの間、じっと見つめていた魯粛だったが、やがてそれが冗談であることを告げるかのように軽やかな笑い声をあげ、頭から兜をはずした。


 兜の中に納められていた長い髪があふれ出し、薄い紅茶色の滝が腰のあたりまで流れていく。
 あらわになった魯粛の瞳は明るく生気に満ち、その顔には人好きのする笑みが浮かべられており、つい先刻まで怪しげな雰囲気を漂わせていた仮面の人物とは似ても似つかぬ健康的な美少女の姿がそこにあった。


 この、張紘より一つ年上の少女こそが魯子敬。
 迫り来る乱世を見据えた行動の数々を、狂児と揶揄されながらも貫きとおし、そして殺到する偽帝の軍馬がもたらす惨劇から、妹のような女の子を守るために立ち上がった、誇り高き乙女である。 



◆◆



「ああ、生き返る……」
 はー、と従者が持ってきてくれた茶を口にした魯粛が、しみじみと呟いた。
 兜や甲冑はすでに脱ぎ終わり、髪は頭の後ろで二つに束ねている。そうしてお茶をすする姿は、どこから見ても普通の女の子であった。
 その魯粛に向かって、張紘は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい、姉様にばかり苦労をかけてしまって……って、はう?!」
 張紘の言葉が終わらないうちに、するすると魯粛の両手が張紘の頬に伸びる。
 そして。
「や、やめへくだはひッ」
「んー、どうしようかな。子綱ちゃんは何回いっても、すぐに『ごめんなさい』って言っちゃう癖が抜けないんだよね」
「う、す、すびばせ……あ」
 頬をつねられた格好のまま、張紘が狼狽したように目をきょろきょろと動かしている。
 その様子を見て、魯粛は手を放して肩をすくめた。
「その慎みが子綱ちゃんの良いところでもあるんだけどね。でも子綱ちゃんは県令、この県城で一番偉い人なんだから、簡単に頭を下げちゃ駄目だよ?」
「はい、心しているつもりなんですが……」
 そう言って俯いてしまう張紘を見て、魯粛もまた困ったように首をかしげた。
「ま、まあ性格なんてそう簡単に直せるようなものでもないし、仕方ないのかもしれないけどね。でも二人の時はともかく、他の人たちがいる席では気をつけないといけないよ」
「はい、ご……わ、わかりましたッ」
「うむ、よろしい。やっぱり素直な子綱ちゃんは可愛いなー」
 えい、とばかりに魯粛は胸元に張紘を抱きかかえる。そうして「む、むーッ?!」とじたばたと慌てる張紘の姿に、戦で疲れた心を癒される気持ちの魯粛であった。



 そんなほのぼのとした時間は、しかし長くは続かない。
 今の東城県を取り巻く状況は、それほど厳しいものだったのである。
「やっぱり彭城は動かないの?」
 真剣な顔をした魯粛の問いに、張紘もまた県令の顔で答える。
「はい。陶州牧様が亡くなられてから、彭城をおさめている臨淮郡の陳太守は、各地の城主に『民衆を救うために最善と信じる方法をとれ』と指示を出しています。この指示をうけて、淮北の諸城は次々に曹操軍に城門を開いているそうですが……」
 張紘の表情が曇る。その理由がわかる魯粛は頬杖をつきながら、同じように表情を曇らせた。
「相手が曹将軍ならそれで良いんだろうけど、袁術が相手じゃあね……」
「ええ。白旗を掲げて開城した地を蹂躙したとの噂もありますし。いえ、噂ではないのでしたね」
 その言葉に、魯粛は憂鬱な息を吐いた。
「うん。私の家の食客の一人が調べてきてくれたんだけど、やっぱり事実みたい。袁術の奴、徐州を今後の見せしめにするつもりだね」
「……そうですね。どのみち、もう私たちは袁術軍と矛を交えてしまっていますから、今更和議を、というわけにもいきません。この城に拠って袁術の大軍を退けるしかないんです」
「そのためにも援軍が欲しいところなんだけど――」
 二人は顔を見合わせて、同時にため息を吐いた。


 今のところ、魯粛を中心とした東城勢は袁術軍の猛攻をほぼ完璧に凌いでいるといってよい。彼我の戦死者数は、こちらが一とすれば、あちらは十を越えているだろう。
 数字だけを見れば大勝利の連続とも言える戦果を得ている魯粛たちだが、喜び騒ぐ城内の人たちとは異なり、魯粛と張紘、二人の表情は一向に晴れなかった。
 二人は知っているのである。元々、数で大きく劣るこちらにとって、一人の死傷者は、あちらの数倍、あるいは数十倍の痛手となることを。
 戦いを重ねるほどに、東城勢の離脱者の数は増え、残った者たちに対する負担は増えていく。こちらが常に全力で応戦しなければならないのに対し、袁術軍は軍をいくつにも分けることができるため、表面上は互角に見えても、心身の疲労度を推し量れば戦局は時を経るごとに厳しくなる一方であろう。
 ――そして、遠からず限界が来る。


 まだ、今のところ、事態はそこまでは行っていない。将兵は多大な戦果に喜び、勝利への確かな希望を抱いており、それが東城勢の士気の高さに直結しているのだ。
 だが、繰り返すが、時が経るごとに将兵は勝利への確信を失い、それは容易に悲観へと結びついてしまうだろう。そう、坂道を転げ落ちるように。
 そして、一度、そうなってしまえば、もはや魯粛たちにも手のほどこしようがない。東城県は袁術軍という名の大波に飲み込まれ、蹂躙されてしまうに違いないのである。
 それゆえに。そんな事態に至る前に、袁術軍を追い払わねばならない。目の前の二万だけではない。かりに梁剛の軍勢を退けたとしても、袁術軍は威信をかけて更なる大軍を派遣してくるに決まっていた。それゆえ、梁剛軍だけではない、徐州に侵攻してきた袁術軍十三万すべてを寿春に追い返す必要が生じるのである――この地を守る、そのためには。



「――と、まあ口で言うのは簡単なんだけど」
「――現実にそれをするのは至難の業ですね」
 魯粛と張紘はもう一度ため息を吐き、卓上の地図を見つめる。
 そこには徐州だけでなく、淮河を中心として淮南、淮北の諸城が記されている。
 東城県より西に位置する城の多くは袁術軍の旗を模した針が刺さっており、その地が偽帝に制圧されたことを物語っていた。
 まだ袁術は淮河を渡ってはいないようだ。しかし、淮河の北には曹操軍が袁術軍に優る勢いで殺到しつつある。徐州側の旗は淮河の南北を問わず、ほとんど見ることが出来なくなっていた。かろうじて徐州側が優勢を維持しているのは、東城県の東に位置する広陵郡であるが、これは単純に曹操、袁術、両者からもっとも遠くに位置しているという地理的要因が大きい。
 時を経れば、袁術軍がこの地を侵食していくことは火を見るより明らかであった。



 それでも。
 この二人は、成算もなしに戦いを選ぶほど愚かではなかった。
 魯粛が口を開く。
「私たちがここで袁術軍を、少しでも良い、食い止めて時間を稼げば、その分、彭城の人たちにも余裕が出来る」
「はい。おそらく、元龍様(陳登の字)は、漢帝を擁する曹将軍について袁術の侵攻を食い止めようとなさっている筈。その話がまとまる前に軍を動かしてしまえば、曹将軍に要らぬ疑いを抱かせてしまいます。であれば、和議をまとめる時間さえあれば、遠からず援軍を派遣してくれるでしょう」 
「漢帝を擁する曹将軍にしたら、偽帝とは不倶戴天の間柄だもの。その偽帝を討って、淮南の地に進出できるなら、兵を動かす理と利は十分。曹将軍の軍勢であれば、袁術の軍を退かせることは可能でしょう。賭けるとしたら、この展開しかないね」
「はい。だからこそ、私たちは負けるわけにはいかないんです。この城の人たちだけじゃない。徐州の、ひいては天下万民のためにッ」


 その張紘の言葉を、大言であるとは魯粛は思わない。
 ここで袁術の侵攻を許し、淮南全土が袁術に支配されるような事態になれば、乱世の闇はますます深くなるばかりである。淮南の富は仲の国庫を潤し、戦禍は更に拡大するだろう。その下で踏みにじられる者たちの数が、どれだけ膨大なものになるかなど、誰に知ることができようか。
 今、魯粛たちがいる東城県は、袁術にとって片足で蹴飛ばせる路傍の石程度の価値しかあるまい。
 だが、ここで魯粛らが踏みとどまり、袁術の足をからめとることが出来れば、この後の大きな戦禍を未然に防ぐことも出来るのである。


 くわえて、もっと身近で大切な理由も存在する。魯粛はそう思う。
 袁術軍に敗れれば、この城は陥ち、城内の民は暴虐の嵐に晒されるだろう。
 無論、その嵐が魯粛を避けて通る筈もなく、亜麻色の髪をした可愛い妹の身を避けることもないだろう。
 

 それゆえにこそ、この戦いに敗北は許されない。
 どんな手を使おうとも、必ず勝ってみせる。


 誰に宣言する必要もない。
 ただ自らの誇りに賭けて、魯粛はそう誓うのであった。
 
 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/08/22 08:23


 徐州広陵郡。
 関羽、張飛、趙雲らの抗戦によって、曹操軍の追撃から逃れることが出来た徐州の水軍は一路、南へと船首を向けた。
 入り組んだ水路を、巧みな操船で停まることなく進んでいく徐州水軍の錬度の高さは素人のおれにもはっきりとわかる。
 そのおれの視線の先では、身動ぎ一つせず小沛の方角を見つめている玄徳様の姿があった。祈るように両の手を合わせている姿は、声をかけることをためらうほどに真摯で、そして儚げに見えた。
 二人の妹と、一人の将。彼女ら自身が望み、指示したこととはいえ、その彼女らを置いて逃げ出したことを玄徳様が気にしていない筈はない。
 そんな玄徳様の心を和ませることが出来れば良いのだが、それは今のおれには無理なことだった。玄徳様だけではない。おれもまた、内心忸怩たるものを抱えているからである。そんなおれが声をかければ、余計に玄徳様に気を遣わせてしまうだけだろう。これ以上、玄徳様に重荷を負わせるようなことはしたくなかった。


 今、おれが乗っているのは艨衝(もうしょう)と呼ばれる中型の快速船である。
 船戦においては突撃の主力となって、敵船を破砕する役割を担う。収容人数はおおよそ三百人程度であろう。
 周囲に展開している艨衝以外の船種としては先登(せんとう)というものがある。これは船戦において、敵船への切り込みを主任務とする船であり、おおよそ二百人が乗り込むことが出来る。
 これ以外にも徐州の水軍には、斥候(せっこう)と呼ばれる偵察巡視船、走舸(そうか)と呼ばれる軽舟、赤馬(せきば)と呼ばれる数名乗りの小型舟から、露橈(ろとう)と呼ばれる五百人規模の大船、さらに最大で八百人以上を収容する楼船とよばれる大型艦もあるという。
 もっとも、今回は露橈、楼船の姿は見えない。淮河本流ならばともかく、支流を進むためには、大型船はかえって邪魔になってしまうのである。
 おれが大型船を目の当たりにしてその偉容に息を飲むのは、数日後、徐州水軍が淮河本流までたどりついてからのことであった。


 淮河本流にたどり着いたおれたちは、そこで待機していた大型艦に分乗し、さらにその足を速めて淮河を東に下る。この時、陳羣は劉家軍を大型船に乗せ、かつ大型船の人員を数隻の艨衝と先登に乗せ替えると、これを北に向かわせた。
 北――つまり、小沛の方面である。
 陳羣はこの行動の意図を口にしたりはしなかったが、船舶の動きを見ていれば、いかに素人であるおれたちであっても察しがつく。
 玄徳様は、めじりに雫をうみながら陳羣に向けて頭を下げ、おれもまた出来るかぎりの敬意を込めて、陳羣に頭を垂れるのであった。


 不幸中の幸いというべきか、賊や敵勢力の妨害はなく、おれたちは淮河を下ると、広陵郡の中心であり、太守の政庁が置かれている広陵城へと到達した。
 曹操軍はまだ淮河を越えてはおらず、広陵郡にその姿を見せてはいない。
 にも関わらず、広陵城に入ったおれたちが目の当たりにしたのは、殺気だった容貌で動き回る人々の姿であった。声高にかわされる幾つもの会話の断片を、聞くともなく聞かされたおれは、彼らがどうしてここまで慌て、そして怯えているのか、その理由を知った。


 仲帝袁術の淮南侵攻が始まっていたのである。  


◆◆


 北の曹操、南の袁術。
 二大勢力に挟まれていた徐州にとって、最悪の事態とはすなわち、その両者を同時に敵にまわすこと。
 州牧である陶謙はその事態を避けるために曹操に近づき、そして件の襲撃で道を絶たれてしまった。では翻って袁術と結ぶか、という話になれば、これはほとんどの人間が首を横に振るだろう。
 袁術の勢力がいかに大きく、また勢いが盛んであるといっても、まぎれもない漢の叛臣となることはあまりにも危険が大きかったのである。それは自家の保全や、自己の栄達という意味でもそうであったし、さらには士大夫として、今後数百、数千年に及ぶ歴史の中で叛臣として自分の名を刻んでしまいかねない決断であったからでもある。
 しかしだからといって、曹操と袁術を敵にまわして徐州が独立自尊の道を歩むことがいかに至難であるかは言を待たない。現在の情勢で判断を誤れば、誇りと共に火中に沈む悲運が待つばかりである。
 士大夫に限って言うのならば、その結論も誤りではない。国難にあって粉骨砕身するためにこそ、日ごろ高い禄を食んでいるのだから。
 しかし、民はそうではない。そして士大夫の務めの中で最も重要なものは、民の安全を守ること。  


 陳羣は言う。
 それゆえにこそ、陳登は降伏という手段を採ったのだ、と。


 広陵城に到達するや、早速行われた軍議の席で、陳羣はこれまでの経過をおれたちに説明してくれた。
「元龍殿の申しようが、主に背いて降伏するための口実か、それとも心底からのものか、その判断は話を聞いた方によって異なってくるでしょう。私は心底からのものと信じます。それゆえ、元龍殿からの要請を受けました」
「それが、私たちを救援に来ることだったのですか?」
 陳羣の言葉を聞き、問い返したのは諸葛亮だった。
 その諸葛亮の問いに対し、陳羣は小さく首を傾げて見せた。年が年だけに似合わない、と言いたいところなのだが、やはり美人は何をしても映えるもんです。
「――何か不届きな言葉が聞こえた気がするのですが?」
「気のせいだと思います、陳太守」
 くるりとこちらに視線を転じる陳羣に、おれは真顔で言い返す。
 たまに思うのだが、玄徳様たちといい、なんで女性陣はこの手の話になると人の内心が読めるのだろうか。


 どこか納得いかない様子の陳羣だったが、内心の不満を振り切るように一度首を振ってから、言葉を続けた。
「その通りです、諸葛軍師。しかし、より正確に言うのならば、皆様方のところに赴くことは、元龍殿の頼まれごとの半分です。水軍を出した理由は、もう半分あったのです」
「……もう半分、ですか。もしかして、淮河で待機していたのは、私たちを待つだけではなく、彭城へ?」
 鳳統がそう言うと、陳羣は一瞬、虚を衝かれたように目を瞬かせた。
 だが、すぐにその目には率直な感嘆の色が浮かぶ。
「そのとおりです、鳳軍師。ふふ、私と元龍殿にとっては秘中の秘だったのですが、お二人にはお見通しだったようですね」
「お見通しというわけでは、ありません。ただ、可能性の一つとしてあるかな、とそう思っていたんです」
 そう言いながら、鳳統ははずかしげに面を伏せた。


 可愛い軍師の可愛い仕草に、陳羣と諸葛亮はくすくすと笑みをこぼすが、生憎とその三人以外は話の展開に微妙についていけていない。
 玄徳様が物問いたげにおれの方に視線を向けた。
「えーと、ねえねえ、一刀さん。微妙に話についていけないんだけど?」
「ご安心ください、おれもついていってないです」
 陳登は、陳羣に対し劉家軍の救援と同じ、あるいはそれ以上に重大な何かを託したのだろうことはわかった。
 しかし、それが何かがわからない。
 陳登が曹操に降伏すると決めた以上、物や人を広陵に流すことは曹操への背信に繋がる。であれば、それ以外の何かということになるのだが。


 おれと玄徳様が、仲良く顔を見合わせ、同時に首をひねった時だった。
 慌てた様子の侍女が部屋に飛び込み、陳羣に向けて上ずった声をかけた。
「た、太守様、お客様が、ぜひともこちらに連れてきてほしいと申され、部屋を出て向かわれております! い、いかがいたしましょうか」
「それは本当ですか?!」
 侍女が頷くのを見ると、陳羣も慌てたように立ち上がる。
「わかりました、すぐに私が行きますので、あなたは戻ってお客様についていて差し上げて」
「しょ、承知いたしましたッ!」
 そう言うや、侍女は入ってきた時と同様に慌しく室外に出て行ってしまった。
 侍女だけでなく、陳羣もおれたちに少し待っているように伝えてから、早足で入り口の方に向かう。

 
 お客様、というと誰のことか。陳羣の口ぶりからして、陳羣よりも上位の人間だろうと思うが、太守より上というと、州牧や、あるいは朝廷の高官ぐらいしかいない。
 自然、一同の視線が入り口に向けられる。諸葛亮と鳳統は席から立ち上がり、入ってくるであろう人物に礼を尽くそうとしている。二人は、どうやらその人物のめぼしがついているらしい。
 やがて、一度部屋の外に出た陳羣が、とある人物の手をひくように姿をあらわす。
 その人物とは――


「と、陶州牧ッ?!!」


 期せずして。
 玄徳様とおれ、そしてその場にいた人たちの声が重なりあう。
 現れた人物は、言葉どおり、彭城で焼死したとされていた徐州牧、陶謙その人であった。


◆◆


 彭城における陳登の行動は、単純といえば単純なものであった。
 徐州の民のために、勝ち目のない抵抗は諦める。そのためには障害でもあり、元凶でもある公子たちを排除しなければならない。
 だが、彼らを排除したところで曹操の動きは止まらない。結局のところ、罪は罪として残り続ける上に、州牧である陶謙のためとあらば、抵抗を試みる者は、官民を問わずいくらでもいるだろう。その抵抗が実を結ぶ可能性があるのならばまだしも、今の徐州には、曹袁両者の攻勢を撥ね返すだけの力はない。
 単純な国力の違い。名分の違い。勢いの違い。あるいは、乱世における立場の違い。何もかもが劣っていることを承知すればこそ、排除するべきは公子だけではないことが陳登にはわかってしまったのである。
 否、正確に言えば、公子たちなぞどうでもよい。今、徐州を守るために真に必要なのは、州牧である陶謙を排除することであった。


 答えにたどり着いてしまえば、決意を固めるまでに時間はさほど必要ではなかった。
 陳登はそう考えたが、あるいは、決意はとうの昔に固めていたのかもしれない。これまでは、ただ、その手段から目を背けていただけだったのかもしれぬ。
 かくて、陳登は彭城の実権を一夜にして奪ってのけた。
 公子たちは首を刎ねられ、陶謙は猛火の中で没し、淮北の徐州勢は抗戦の意味を失って陳登の統制に服することになる……



「――それゆえ、ここにいるは彭城より逃れた一人の年寄りに過ぎぬ。州牧なぞというものではないのじゃ。そうお考えくだされい」
 卓についた陶謙は、明らかに体調が優れない様子であり、その傍らには侍女が付き添うように座っている。
 一方のおれたちは、なんと声をかけたらよいやらわからず、口を引き結んで与えられた情報を整理するしかなかった。
 といっても事は単純である。陳登は徐州のために陶謙を除き、しかし命まではとらずに広陵へ逃がしたということであろう。そして陳羣はその陳登の意を汲み、陶謙を匿った。そういうことなのだろう。
 その陶謙の前に、顔中を涙と鼻水で歪ませた孫乾が額を地にこすりつけ、州牧の無事を祝う。
 それに陶謙が応じたのが上の台詞である。




 劉家軍の中で、はじめに口を開いたのは玄徳様だった。
「あ、あの、陶州ぼ……じゃない、えーと、陶翁(陶家のおじいさまの意)、この度は、その……」
 そういって玄徳様が顔を伏せてしまったのは、今回の争乱における陶謙の心身の痛みに思いを及ばせたからであろう。
 これまで守ってきた徐州を失い、息子たちを喪い、徐州を守るためとはいえ配下に叛かれ――その心痛はいかほどのものか。
 それを思えば、安易な慰めの言葉など出る筈がない。また玄徳様のみならず、おれたち劉家軍には、陶謙より任された小沛の城を放棄したという罪がある。陶謙の信頼に応えられなかったという意味では、おれたちも陳登らと大してかわらないのかもしれない。
 

 信頼を裏切られ、配下であった者に州牧の座から力ずくで逐われ、息子たちを処断された陶謙の内心が穏やかであろう筈はない。
 しかし。
 今、目の前にいる老人の目に憎悪はない。
 ただ何か大切なことをし遂げたいという明確な意思だけがそこにある。何故か、おれにはそんな風に感じられた。
 また、それを裏付けるかのように、恐縮する玄徳様に向かって発せられた陶謙の言葉は、ややかすれてはいたが、これまで――彭城で相対していた時と同じように、温かく好意に満ちたものであった。


「顔をあげてくだされ、玄徳殿。貴殿がそのように恐縮する理由などありませぬでな。頭を下げねばならぬのは、わしの方なのです」
 そう言うと、陶謙は深々とため息を吐いた。
「半ば強いるように小沛の地を委ねたわしらに対し、玄徳殿や配下の方々はまことによう務めてくれた。その善政を称える民の声を、彭城で聞かぬ日はなかったぐらいじゃ。わしは、貴殿らに城を与えてやったなどと恩に着せるつもりはないが、仮に恩というものがあったとしたところで、貴殿らはとうに報いてくれておるよ。見事に小沛を治め、国境を安定ならしめてくれたことでのう」
「も、もったいないお言葉です」
 これ以上ないという賛辞に、玄徳様は喜びに顔を輝かせ、再び頭を下げる。
 だが、一方の陶謙の顔は冴えなかった。その顔には苦く、辛いものがまざまざと見て取れた。
「貴殿らがそこまでの誠意と成果で報いてくれたというに、こちらは要らぬ労苦ばかりを押し付けてしもうた。我が子らの不始末はいうにおよばず、その結果として攻め寄せた曹操軍と刃を交え、その進軍を止めようと努めてくれた。相手は勅命をも持ち出したと聞く。この老父を守らんがため、漢の旗に抗してくれた貴殿らの仁義に、この陶謙、心より感謝しておる」
 そう言って、陶謙は静かに、深く頭を下げた。玄徳様にだけではない。その場にいたおれたちに向けても、同様に。


「陶翁、そのようなッ?!」
 思わぬ陶謙の行動に玄徳様はあわあわと両手を振って慌てている。
 だが、その玄徳様の驚きっぷりを笑ってはいられない。相手は仮にも州牧。その州牧に頭を下げられて平静でいられないのは、おれたちも同様であったからだ。
「劉家軍の方々だけではない。わしが不甲斐ないばかりに公祐(孫乾の字)にも、長文(陳羣の字)にも迷惑をかけてしもうた」
「も、もったいないお言葉ですッ」
「主君に忠を尽くすは当然のことです。お気になさる必要はございません、陶翁」
 孫乾と陳羣が、同時に下げた。
「長文の言葉は嬉しく思うが、気にせざるをえぬよ。彭城の元龍には特に、な。あれには辛い役目を背負わせてしもうた。今の状況では、自分がどのような評価を浴びるかなど百も承知していように、徐州の民のためにためらいなく貧乏くじを引いてくれたのじゃから」


 それだけではない。
 虐殺を実行した陶商と陶応の処罰は不可避であり、それは死罪以外にない。
 だが、それを命じる者は必要になる。黙っていては、いつまで経っても刑は執行されないだろう。その刑に諾を与える役割は、本来、陶謙のもの。
 だが陳登は彭城の主権者の位置に座ることで、逆にその責務から陶謙を解放してくれたのである。
 父が子を殺す。そんなあまりにも悲しい痛苦を、余命の長くない陶謙に味あわせないために。


 それだけではない。
 本来、陶謙は彭城で死んでいなければならなかった。少なくとも、陳登が自身の筋書きを貫くつもりであれば、実は州牧が生きていた、などという破滅の種を放置しておく理由はない。
 だが、陳登は陶謙を救った。そして陶謙だけでなく、劉家軍をも救った。曹操に猜疑されるであろう危険を冒してまで。
 それは何のためなのか。



 その答えを語るために、陶謙はゆっくりと口を開く。
「玄徳殿」
 決して強い口調ではなかったが、そこに込められた威厳にうたれ、玄徳様は背筋を伸ばす。
「は、はいッ」
「貴殿にもらってほしいものがあるのじゃ。そのために、ここまで生き恥をさらしてきた」
 そういって、陶謙は懐に手をいれると、一つの布袋を取り出し、その中身を出す。
 それは、掌ほどの大きさの小さな箱であった。おそらく、陶謙が肌身離さず持っていたのだろうその箱に、陶謙がここまでして玄徳様に渡したいものが入っているのだろう。しかし、一体何が入っているのか。
 その疑問は、おれだけでなく、この場にいるほぼ全員が共有するところであった。
 そして、陶謙は特にもったいぶることもなく、その箱をあけ、中のものを取り出してみせる。
 それは――


「『徐州牧之印』――と、陶州牧、これは……ッ」
 玄徳様の驚きの声を聞き、おれはそれが何であるかを知る。
 州牧の証である印章。おそらくは、陶謙がずっと玄徳様に譲ることを欲していたもの。
 それを渡したいがために、陶謙はここまで逃れてきたのだろうか。
 その陶謙の心を知る陳登は、陶謙を広陵に逃し、そしてまた劉家軍を広陵へと逃げるよう指示してきたのだろうか。




 ――正直なところ、少し首を傾げてしまった。
 徐州の今の状況を鑑みれば、印章の授受に実質的な意味はない。玄徳様が印章を得ても、曹操が占領した領土を返す筈がないし、それは侵攻を開始した袁術も同様だろう。
 玄徳様に徐州を譲りたいと願い、それがかなわなかった陶謙は、せめて印章だけでも渡そうと考えたのだろうか。そして、陳登や陳羣はそれを察して協力した。そういうことなのか?
(ただの感傷、そう思ってしまうな)
 陶謙の命が長からぬことを思えば、その配下の人たちが主君の願いのために動くことは不自然ではない。むしろ称えられるべきことかもしれない。
 だが。
 おれはそれとわからぬくらい、かすかに眉をしかめた。
 今の徐州にあって、いかに州牧とはいえ、一人の心情を満足させるために多数の人を動かすことが正しいのか。
 それこそ、そのために割く力を民衆の避難や、防備の強化に使えば、より多くの人々を救うことも出来るのではないだろうか。
 そんな風に考えてしまうのは、劉家軍に根拠地を与えてくれた恩人に対して不敬なのかもしれないが――そう感じていたおれの耳に、陶謙の言葉がすべりこんできた。
 そして、その言葉を聞き、おれは自分の小ささに赤面するしかなくなってしまう。
 すなわち、陶謙は次のように述べたのである。


◆◆


「実はの、子仲(糜竺の字)を荊州に遣わしておる」
 件の襲撃の後、すぐにな、と陶謙は言った。
 戸惑う者たちに対し、陶謙はさらに説明を続けた。
「袁術と荊州牧の劉景升殿は長年荊州を巡って争った間柄じゃ。当然、袁術が勢力を広めることを快く思う筈はない。だが、なかなかに腰の重い御仁での。とおりいっぺんの使者を遣わしても動くとは思えなんだゆえ、子仲に動いてもらった」
 陶謙に視線で促され、心得た陳羣が卓上に地図を広げる。
 淮河を中心として、淮南、淮北、江南、そして西の豫州、荊州までも含めた地図であった。


 自然、皆の視線がその地図に集中する。
 その地図の上で、陳羣の細い指がある一点を指し示す。
 荊州襄陽城。
 陳羣が口を開いた。
「袁術が徐州に動けば、その背後を荊州に衝いてもらう。無論、その逆の時もまたしかり。その盟約を結ぶことが出来れば、袁術軍の動きを大きく制限することが出来ます。実のところ、袁術が淮河流域に進出してこの方、我らは幾度も劉州牧に使者を遣わしているのですが、陶州牧――あ、いえ、陶翁のお言葉どおり首を縦に振ってはくれませんでした」


 陳羣の言葉に、諸葛亮と鳳統が顔を見合わせ、小声で囁きあう。
「確かに、劉州牧様だったら動かないだろうね」
「……うん。攻め込んできたら戦う。でもこちらからは攻め込まない。専守防衛は、国を保つ立派な方針ではあるんだけど」
「うん、それだと平和なのは荊州だけだもの。それに、荊州の外に目を向けない以上、荊州を狙ってくる人たちを抑えることも難しいし」
 その言葉を聞いて、そういえば二人は荊州出身だったな、とおれは思い出した。当然、二人は劉表の施政を目の当たりにしてきた筈だ。
 その上で荊州を出たということは、二人の目には、劉表が乱世を鎮めることが出来る可能性は映らなかったのだろう。二人と、そして陳羣の話を聞くかぎり、ここの劉表は、おれの知る歴史の劉表と大差はないようだった。


 しかし、ならばいかに糜竺の弁舌の才が卓越していようと、彼を遣わしたところで劉表が動くことはないのではないか。
 そう考えるおれの前で、再び陶謙が口を開いた。
「近年の袁術の勢力の伸張は、劉州牧とて心安からぬ思いでおろう。まして玉璽を掲げて帝号を称したとあらばなおのことじゃ。いきなり荊州軍をもって袁術と矛を交えることはしてくれぬだろうが、荊州の戦力を増すための働きかけであれば、耳を傾けることはしてくれようよ。ゆえに、子仲を派遣したのじゃ」
 そう言うと、陶謙は骨ばった指で地図上を流れる一つの河を示した。


 淮河ではない。その南、淮河とは比較にならない水量を誇る、文字通りの大河――長江である。


「袁術は淮河の水軍を有しておるが、いまだ長江には達しておらぬゆえ、あの大河を渡ることは難しかろう。一方、江夏、江陵を有する荊州には長江を渡る大規模な水軍がある――玄徳殿」
「は、はいッ」
「貴殿らをこのような不利な戦場に誘っておきながら、さらにこのような頼みをするは心苦しいのじゃが、まげてご承引願いたい。この印章を受け取り、徐州牧として江都へ赴いてくれまいか」
 江都とは、長江の北に位置する陶謙領最南端の都市である。
「我らが長江に有する水軍の全てを江都に集結させておる。おそらく今のうちならば、袁術軍もそちらまで軍を進めてはおるまい。荊州の援軍が来るか否かはわからぬが、子仲の手腕であれば、荊州が貴殿らを受け容れることは間違いないと思うておる。劉家軍の勇名は荊州にも響いておろうし、徐州の水軍を得られるとあらば劉州牧が拒絶する理由もない。元々、袁術とは不倶戴天の間柄ゆえにな」


 陶謙の言葉は明快であった。
 そして、きわめて説得力に富むものでもあった。
 袁術が勢力を伸ばし、その配下に呂布まで抱え込んだ以上、劉表は新たな戦力を咽喉から手が出るほど欲している筈。その呂布と互角に戦ったという噂の劉家軍を拒絶するとは考えにくい。
 もっとも、今の劉家軍には関羽も張飛も、さらには趙雲までいないのだが、劉表はそのことを知らないし、たとえそれを知ったとしても、劉家軍五千の兵力はそれ自体が大きな力である。まして、徐州が有する長江の船団を無償で手に入れられるとあらば、拒絶する方が難しいだろう。
 仮に。
 劉表が厄介事を嫌って、劉備軍の受け入れを拒絶したのならば、そのまま南下して江南の地で力を蓄えても良い。
 袁術軍の追撃があったとしても、長江の存在はそれ自体が巨大な防壁に等しい。場所によっては対岸が見えないほどの幅があると聞くし、陶謙が言ったとおり、今の袁術には長江を渡る術がない。その侵攻を防ぐことは不可能ではない。少なくとも、淮南の地で袁術軍を迎え撃つよりは、はるかに容易であろう。
 もとより、江南は孫家が一国を打ち立てたほどに豊かな地。もちろん幾多の群雄が割拠しており、皆それぞれに手ごわいが、劉家軍の力をもってすれば彼らを駆逐することも出来るだろう。
 そう考えると、荊州を頼るよりもそちらの方が良いような気さえしてくる。


 いずれにせよ、南に――江都に逃れることを反対する理由はない。
 同時に思い当たる。
 あの襲撃後、すぐに糜竺を派遣したと陶謙は言った。それはすなわち、現在の情勢を、完璧にではなくとも、ある程度予想した上で玄徳様たちを徐州の争乱から逃すだけの手筈を整えていたということである。
 猫の手も借りたかったであろう状況で、最有力の重臣を手元から離してまで陶謙がそれを行った理由。
 それは――


「劉玄徳殿。わしは戦乱を望まぬ。徐州の民が、ひいては中華に住まう民が平穏に暮らすことが出来る世の中こそ望みであった。それは貴殿と同じものであろうか?」
 その言葉に、玄徳様は深く頷いてみせた。
「はい。私は、力のない人たちを苛める世の中を変えたかったんです。そして、みんなが笑って暮らせる世の中をつくりたかった。その一念で立ち上がりましたから――それはきっと、陶翁が夢見たものと同じ筈です」
「うむ。じゃがそれを貫くことの厳しさはわしが語るまでもあるまい。今の体たらくが全てを物語っておるよ。結局、数十年かけてわしがたどり着いたはここであった。中華の民どころか、徐州の民すら守りきれなかったのじゃ。否、民だけではないな。わしは父として、息子たちさえ導くことが出来なんだ……」
 その陶謙の言葉に、玄徳様は首を横に振って反論しようとする。
 だが、陶謙はそっと右手をあげて玄徳様の言葉を遮った。そして、なおも口を開く。
「じゃが、全てが無駄であったとは思わぬ。忠実な配下を得ることができた。わずかなりと、民の笑顔を守ることができた。そして、わしと同じ志を持つ貴殿と出会い、力を貸すことができた。同じくらいに厄介ごとを押し付けてしまったことが悔やまれるが、わしはそう思っておる」
「はい。私も、陶翁――いえ、陶州牧と同じ気持ちです。この徐州の地にこられたことは、かけがえのない経験となりました」
 その玄徳様の言葉に、陶謙は相好を崩した。
 なんというか、可愛い孫娘を前にした好々爺といった感じである。いや、あるいはそのものかもしれんが。


 そうして、陶謙は最後にこう口にした。
「関将軍らが淮北に残されたという話は聞いておる。彼女らはわしが一命にかえても貴殿の下にお戻ししよう。どうか江都に行き、荊州で再起を図ってもらいたい。今のわしや貴殿では、曹将軍にも袁術にも勝ち得ぬが、それは未来永劫そうであることを意味するものではない」
 陶謙はそう言うと、持っていた州牧の印章を玄徳様に向けて差し出した。
「わしが夢見た中華の地……長の年月、追い続けた志を、この徐州牧の印章と共に、そなたに託したい。受け取ってくれようか。我が……我が、娘よ」


 返答は、差し出された陶謙の手を、印章ごと包み込んだ玄徳様の掌。
 万言を費やすに優る返答に、陶謙の目に涙が浮かぶ。そして玄徳様の目にも。
 否、それはこの場にいるほとんどの者たちに共通するものであった。
 誰もが感じた――いや、わかっていたのだろう。
 陶謙が渡そうとしていたのは、ただの州牧の印などではない。中華の平和を願う、貴く尊い志であるということを。それがいつか、この暗い乱世に曙光をもたらすであろうことを。



 それゆえにこそ、多くの人々がこのために動いたのである。
 ただ一人の例外であるおれを除いて、皆、そのことを知っていたに違いなかった。
 おれは自分の小ささを自覚し、赤面せざるをえない。
 そして、知らず呟きがこぼれでた。
「でかいなあ……この差は」
 玄徳様たちは言葉にしなくても理解していた。おれは言葉にされなければ理解できなかった。
 この差は、きっとおれが思う以上に大きいのだろう。そう考えての呟きであった。



[5244] 三国志外史  七章以降のオリジナル登場人物一覧
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/31 21:59

 注意事項――本編よりもくだいて書いているため、本編の雰囲気を損なうと感じてしまう方がおられるかもしれません。もし、途中でそのように感じられましたら、読むのをおやめくださいますようお願いします。基本的に、すでに本編で書いた、もしくはこれから書くことしか書いてありませんので、この一覧を見なくても、本編にはいささかの支障もありません。





 波才

 黄巾党大方の一人。その統率力は、党首姉妹を別とすれば、黄巾党随一であり、その麾下の兵は正規軍さながらの装備と錬度を有する。
 実は北方騎馬民族の血を受け継いでおり、騎馬帝国からの密命を受け、中華帝国の混乱を広げる役割を担っている。常は慇懃な物腰だが、戦が近づくなど感情が昂ぶった時は、粗野な言動に変じる。
 大清河の戦いにおいて敗れた後、袁紹軍の猛追を受けるも、その生死は不明のままとなっている。




 
 太史慈

 北海郡の住人。姓は太史、名は慈、字は子義、真名は志遂。
 北海城が黄巾賊の包囲を受けたおり、武安国らと共に敵包囲を突破し、その危機を伝えた。
 劉家軍を導く役割を担う。
 金髪碧眼。北海郡にあっては、その志を果たすことが出来ぬと考えた祖母の計らいによって、劉家軍へ参加する。
 その誠実な為人と、卓越した弓術を以って評判を高めつつあり、劉家軍内でも重きをなすようになっている。


 真名制定人物その二。ちなみにその一は張莫である。
 本人の設定を決めるや、祖母を含めた周辺環境、平原までの道程などがあふれるように浮かんできたため、執筆に苦労することがほとんどなかった稀有なキャラ。神降臨、とか本気で思ったのは良い思い出である。
 真面目な人柄だが、とある事柄――主に腹ペコキャラ疑惑――を口にすると、いまだに顔を真っ赤にして怒り出す。普段の冷静な太史慈との落差がほほえましいので、こりずに口にする者が約一名いる。口にする度に(稽古と称して)叩きのめされるのはご愛嬌である。ちなみに、この状況を見ているためか、その人物以外は皆、件の疑惑を口にすることはない。
 「弓を持ったセイバー」なる評が出たりもしたが、本物と違い、こっちのセイバーの腹ペコ疑惑は、とある人物の第一印象が尾を引いただけの事実無根(?)である。
 




 武安国

 北海太守孔融に仕える武人。字は報民。
 当初、援軍を呼ぶために、太守に無断で城を出ようとした太子慈を止めようとするが、太子慈の祖母に一喝され、考えを改める。また年若い女性である太子慈の志にうたれたこともあって、その脱出に力添えし、脱出行で倒れた部下ともども、北海解放に多大な貢献を行う。
 鉄槌を武器とし、その武勇は一兵士としてはかなりのものなのだが、下層からの人材発掘に興味の薄い孔融軍では、兵長の地位にとどまっている。
 北海解放後、命令無視、守備放棄の重罪を問われるも、その功績によって死罪は免除される。しかし無罪放免とはならず、現在も謹慎中である。


 筆者がはじめて三国志に触れた光栄ゲーム『三国志Ⅱ』において、一人、北海で気炎をはいていたことを思い出して登場させたキャラ。当初はあっさりフェードアウトする予定だったのだが、副長とのからみ以降、瞬く間に雑魚武将から脱皮を果たし、有望キャラに変身した。副長、あんたすげえよ。





 王修

 北海太守孔融に仕える文官。字は叔治。真名は淑夜。
 才走った所こそないが、地味に、堅実に仕事を片付けていく努力の人。女の身で、しかもまだ若かったため、北海城では仕事らしい仕事を与えられず、その才は埋もれかけていた。しかし、太子慈と共に劉家軍に参加したことを契機に、少しずつではあるが、才能を開花させつつある。
 対人関係を苦手としていたが、徐州に移ってからは、随分と改善されているというのが、親友である太史慈の評である。
 劉家軍においては、貴重な文の人であり、騎馬隊に所属を移した北郷の後を継ぐ形で、様々な雑務を処理している。今では、北郷はもとより、簡擁からも頼りにされているが、本人、仕事に懸命になっているため、そのことに気づいていない。なお、最近は董卓に仕事の手解きをしたりしている。






 管亥

 青州黄巾党の将の一人。北海城を攻囲し、落城寸前まで追い詰めるも、劉家軍に蹴散らされる。





 荀攸

 姓は荀、名は攸、字は公達、真名を藍花(らんふぁ)。荀彧を「姉様」と呼ぶが、血縁上は姪である。
 才略は荀彧に迫るものがあり、時に曹操に対しても諫言を行う厳正な為人である。しかし、平常は穏やかで、姉をはじめとした個性の強い周囲に翻弄されることもしばしば。
 姉と夏侯惇の険悪な間柄を何とかしたいと常々考えているが、なかなか上手くいかない。
 もっとも、荀攸が余計な一言を口にしたせいで二人の間に燻っている火種を燃え上がらせてしまう場面も少なくないのだが……とは夏侯淵のため息まじりの評である。





 曹洪

 字を子廉。真名を優琳(ゆうりん)。その名の通り、曹家の一門である。
 幼少時を曹操と共に過ごし、絶対的な忠誠を誓っている。その偵知は正確無比とうたわれ、曹操軍における情報網を総攬する。
 偵知のみならず、輸送部隊の護衛、敵の援軍の阻止、誤情報の流布といった、賞賛や注目を浴びることこそ少ないが、軍事において極めて重要な役割を黙々とこなす縁の下の力持ち。
 一族の曹仁と共に曹操からの信頼はきわめて厚く、また諸将からも信頼されており、曹一族の名望を支える存在となっている。





 曹仁

 字を子孝、真名を鵬琳(ほうりん)。曹洪と並び、曹一族の重鎮として、曹操軍の屋台骨を支える。
 夏侯惇には及ばないものの、武勇に秀でた雄将であり、曹操軍の作戦計画において欠かすことの出来ない将軍の一人である。
 控えめな曹洪とは反対に明朗快活な為人であり、身分に拘らず配下の将兵と食事をとったり、飲んで騒いだりすることがある。将兵の名前のほとんどを覚えているとも言われ、麾下の兵からの信望はきわめて厚い。
 兌州動乱において、許昌で調練した新兵でもって速やかに陳留を陥として張莫を救出、その後も張莫を補佐して張超を追い詰め、乱の早期鎮圧に貢献した。







[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2009/12/31 22:21


 これまでのあらすじ


 後漢末期。
 天下、麻のごとく乱れ、各地で群雄が割拠する争乱の世。
 後に三国時代と呼ばれる争覇の時代の魁ともいえる大乱の最中、一人の少年がその乱に巻き込まれる。
 その少年の名は、北郷一刀。
 ごく普通の高校生であった北郷は、理由もわからぬままに見知らぬ時代に投げ出され、生き抜くために、乱世という名の濁流に飛び込まざるを得なくなる。文字通りの意味で、命を懸けて。


 当初、時代を遡ったと考えていた北郷だが、幾つもの出来事を経るに従い、やがて今自分がいる時代が、自らが知る歴史とは似て非なるものであることを認識する。
 劉玄徳。関雲長。張益徳。諸葛孔明。鳳士元。いずれも歴史に名を残した勇将智将たちが、みな可憐な乙女であったからだった。
 その事実に驚愕しつつも、彼女らに救われた北郷は、生き延びるため、そして元の時代に帰るために、自らが出来る範囲で彼女らに協力していくことを決意するのだった。


 黄巾党らの賊徒を討ち、その功績を妬む大官を退け、徐々に力を蓄えていた劉家軍のもとに、中央からの知らせが届いた。
 帝都洛陽において大権を握った董卓。彼女に抗う諸侯が連合を組んだのである。いわゆる反董卓連合の結成であった。
 劉家軍は、劉備の学友であった遼西太守公孫賛と共に朝野を震撼させる大乱の渦中に赴く。洛陽の民を救い、乱の真相を確かめるために。


 戦力でまさる反董卓連合軍であったが、飛将軍呂布をはじめとする董卓軍の諸将は敢然と連合軍と矛を交え、両者の戦いは熾烈なものとなる。
 だが、この戦を影で操っていた朝廷の大官の策謀により、董卓軍は思うような作戦行動がとれずに瓦解、連合軍は一気に洛陽へと軍を進めた。その先頭には、乱の深奥に迫った劉家軍と北郷の姿があった。



 ついに解放された帝都洛陽。
 だが、それは偽りの解放であった。董卓軍と連合軍、双方の壊滅を望んだ朝廷の策謀により、洛陽に火が放たれたのである。
 解放の喜びに沸き立っていた洛陽の軍民はこの猛火で大混乱に陥る。
 乱の当事者と思われていた董卓は、自称洛陽一の踊り子貂蝉によって救われ、この混乱の最中、北郷らに救われるも、洛陽の大火は消しとめようもなく、歴史ある大都は炎の中に燃え落ち、数十万とも言われる難民をうみだしたのである。



 この一連の争乱によって、かろうじて保たれていた朝廷の権威は大きく失墜。世は群雄割拠の様相を呈し始める。
 この状況で目覚しい台頭を見せたのが陳留の曹操、字は孟徳であった。
 洛陽大乱の首謀者であった者たちを討ち取った曹操は、皇帝の身柄を押さえると、洛陽の東南、許昌の地に新たな都を創建する。
 皇帝を擁し、また洛陽の難民を受け入れた曹操の勢力は飛躍的な拡大を見せ、一躍大諸侯の一人として中華帝国にその名を知らしめたのだった。




 一方、その頃、河北では董卓の乱に優るとも劣らない大叛乱が起きていた。
 黄巾党が河北諸侯の留守を狙い、一斉に蜂起したのである。
 黄巾党党首、大賢良師張角みずからが指揮する全軍は、その数十万とも言われ、河北は瞬く間に戦乱の巷となっていった。


 劉家軍旗揚げの地であり、劉備の故郷でもあった楼桑村が危難に陥っていることを知った劉家軍は急ぎ洛陽から馳せ戻り、黄巾党と矛を交えた。
 劉家軍の活躍、そして党首である張角らの離脱という予期せぬ出来事もあり、河北全土を焦土と化すかと思われた黄巾党の蜂起は短期間で鎮圧される。
 その鎮圧に目覚しい功績を挙げた劉家軍の勇名はおおいに高まり、河北の朝野に知らぬ者とてない勢力となるのである。


 一躍、名をあげた劉家軍だが、軍師諸葛亮は、劉家軍の名声を妬む勢力の存在と、高い武名ゆえに曹操、袁紹らの戦に巻き込まれる可能性を指摘。河北から離れることを提案する。
 時を同じくして、北海郡が黄巾党の残党勢力によって攻撃されていることを知った袁紹から、劉家軍に対して出陣要請がなされたため、劉備は諸葛亮の進言を採り、劉旗を北海に向けるのだった。


 

 北海救援に赴いた劉家軍、そして朝廷から黄巾党討伐を命じられた曹操軍。この二つの軍の活躍により、事実上、黄巾党は壊滅する。
 この戦でさらに武名を高めた劉家軍のもとに、徐州を領する陶謙から使者がやってくる。
 以前から劉備の為人、そして劉家軍の武勇に厚意を抱いていた陶謙は、自領の一つである小沛城を劉備に譲り、迫り来る大戦に備えて徐州の守りを固めようとしたのである。
 仁君と名高い陶謙の誘いを受けた劉家軍は小沛に入城。ここに旗揚げ以来はじめて根拠地を得た劉家軍は、陶謙の支援を受けながらおおいに軍備を拡充していくのであった。


 しかし、そんな劉家軍の厚遇をよく思わない者たちも少なくなかった。
 やがて、彼らは劉家軍排斥を目論み、一つの暴挙に出る。領内を通過する曹操の一族を襲撃、この罪を劉家軍のものとしようと謀ったのである。
 この曹家襲撃により、時代は一つの節目を迎えることになる。




 とある出来事から、曹家襲撃の事実に思い至った北郷であったが、時すでに遅く、計画は実行に移されてしまう。
 乱世のただ中にあって、剣を振るわずにここまで来た北郷は、はじめて自らの手を血で濡らし、悲劇を食い止めんとする。
 だが、凶刃はついに曹操の父曹嵩、弟曹徳に及んでしまう。
 この暴挙を知った曹操はただちに大動員を発令。公称二十万の大軍をもって、徐州侵攻を開始するのである。


 
 陶謙の恩に報いるため、決死の覚悟で曹操軍の侵攻を食い止めようとする劉家軍であったが、勅命という理、報復という名分、なによりも圧倒的なまでの大軍を擁する曹操軍によって敗走を余儀なくされる。
 そして、このままでは小沛城を抜かれるのも時間の問題と思われた矢先、更なる凶報が劉家軍にもたらされる。
 徐州牧陶謙の死であった。


 陶謙死去の後、実権を握った臨淮郡太守陳登は、曹操軍の侵攻に対して無抵抗を厳命、事実上の降伏を選ぶ。
 味方であったはずの徐州側の援護を失った劉家軍は小沛放棄を決断、そんな劉家軍に対し、彭城を脱してきた孫乾は陳登の言葉と前置きした上で、広陵郡への脱出を提案するのである。


 自身、降伏を選びながら、劉家軍には広陵への脱出を助言する陳登の真意をいぶかしみながらも、採るべき道のない劉家軍は淮河の南、広陵郡へと離脱をはかる。
 関羽を配下とすることに執着する曹操の命を受けた張遼の猛追を受けるも、かろうじてこれを退けた劉家軍は、広陵太守陳羣率いる水軍の助けをうけ、淮河への離脱をはたすかに見えた。
 だが、張遼軍のさらなる攻勢の前に苦戦を余儀なくされた劉家軍は、関羽、張飛、趙雲らの挺身によってかろうじて敵の追撃を振り切ることに成功する。
 しかし、三将は河岸に残され、劉備と北郷はその無事を祈ることしか出来なかった。



 かくて、かろうじて広陵郡に到達した劉備たち。
 そこで、一連の退却ではじめてとも言える吉報に出会う。死んだとされていた徐州牧、陶謙との再会であった。
 そこで劉備は、陶謙から徐州牧の印を授かると共に、陶謙の果たしえなかった理想の実現を託される。
 我が娘。自身をそう呼ぶ陶謙の願いを受けた劉備は、州牧の印を受け取り、陶謙の指示のもと、広陵の南にある江都へと赴こうとする。
 だが、曹操軍の追撃を振り切った劉備たちの前に、更なる難敵が出現する。
 偽帝袁術。そして、その麾下にある飛将軍呂布であった。



   
 仲国を建国した袁術は、その勢力をさらに拡げるため、また自身にはむかう者たちの見せしめとするため、淮南全域の徹底した掃滅を指示。その命を受けた袁術軍の馬蹄により、淮南各地は血と炎で埋め尽くされるかに思われた。
 仲軍は怒涛の勢いで淮南の中心である広陵へと迫る。その先頭に立つは飛将軍。
 対する徐州軍は兵の数、士気いずれも劣り、劉家軍にいたっては主軸とする武将たちが不在のままで、この難敵を迎え撃たなければならない。
 曹家襲撃に始まる劉家軍の受難は、いまだその終わりを見ることが出来ずにいた……




三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(三)




 徐州広陵郡。
 淮河と長江に挟まれる広陵郡一帯の地は、大小無数の河川や湖沼が存在し、騎兵の行動には大きな制限がかかる。たとえ万を越える大軍であったとしても、それら自然の障害を走破することは難しい。自然、騎兵や歩兵の進軍する路は限られてしまうのである。
 当然、そういった主要街道には堅固な城砦が築かれ、敵軍の侵攻を阻むための防壁が築かれてあり、歩卒騎兵の侵攻は不可能ではないにせよ、困難であり、なおかつ時間を必要とした。
 淮南の地を欲するのであれば、何よりも水軍の充実こそが急務であり、それは広陵だけでなく江南においてもまったく同じことがいえる。
 いわゆる『南船北馬』とは、同じ中華という地でありながら、北と南では、地形も、文化も、気候さえも異なるところから生まれた言語であった。


 江南は沢国(たくこく=水の国の意)である。
 そして、江南ほどではないにせよ、淮南江北(淮河の南、長江の北)の地もまた豊潤な水の恵みに満ちた土地である。
 水軍を用いずにこの地を攻略するには、入念な準備と長い時間が必要となる。
 ――そのはずであったのだが。



「も、申し上げます、敵軍、内門を突破しました! ま、まもなくここまでやってまいりますッ!」
「食い止めろッ!! 残っている兵士をすべて投入して食い止めるのだッ!」
「残っている兵士などどこにもおりませぬッ! 全て戦線に投入しております!」
「なッ?! くそ、この路西の防衛線をわずか一日で食い破るだと。あやつは――呂奉先は本当に人間なのかッ?!」
「繰言を申している場合ではありませぬ。急ぎ撤退をッ」
「ばか者ッ、城と民を守ろうとしている兵士たちを置いて守将が逃げてどうするというのだ。わしが呂布を食い止める。貴様は撤退の指揮を執れッ」
「な、何を申されますか。殿(しんがり)はそれがしが引き受けます!」
「だまれッ、よいからはやく――ぐッ!」


 副官を叱咤しようとした守将の口から、真っ赤な液体があふれ出る。
 その液体をまともに浴びることになった副官は、いつのまにか、将の首筋に一本の矢が突き立っていることに気づいた。
 音を立てて倒れる将の身体。
 立ち尽くす副官の視線の先に立っていたのは、全身を紅く染めた一人の女将軍であった。その人物が、袁術軍最精鋭たる『告死兵』を率いる将軍であることを副官は知っていた。
 主力である告死兵は、その軍装を白で統一している。それは主将とて例外ではない。
 では、何故、その身がまるで燃えるように紅く染まっているのか。


 ――簡単だ。血に濡れているのだ。その手にかけた将兵の血に。
 そこに敵将自らの血は一滴も付着していないこともまた、何故だか副官は知っていた。


「……おのれ、呂布ッ。我が将の仇、兵たちの仇、討たずにはおかんッ!」
 副官は持っていた槍を構えなおし、勢いよく床面を蹴って呂布に向かって駆け出した。
 だが。
「――させません」
 呂布と副官の間に割り込んだ者がいる。
 黒髪黒目の女将軍。手に持つは呂布の方天画戟と酷似した戟であり、その身は呂布ほどではないにせよ、敵兵の血を浴びて朱に染まっていた。
「どけェッ!」
「――ッ!」
 激昂して飛び込んでくる敵将を、黒髪の将は哀しげに見つめながら、左足を半歩下げて半身になり、敵の穂先を避ける。
 だが、副官は委細構わず身体ごとぶつかっていった。
 おそらく、体格に任せて押し倒し、組み伏せよういう魂胆であろう。組み合いになれば、体格と膂力にまさる男の方が有利であるのは当然である。


 しかし。
「――はッ!」
 そのことを予期していたように黒髪の将の手が翻り、その手の戟は弧を描いて副官の足を払おうとする。
 咄嗟に飛びのいてその一撃をかわした副官は、機を逃さず振るわれた戟の第二撃もかろうじてかわしてのける。
 勢いをそがれた副官はさらに後ろに下がるが、内心では舌打ちと、そして驚愕を禁じ得なかった。
 黒髪の女将軍の戟の動きは、呂布には遠く及ばぬものの凡百の将を凌ぐことは明らかであった。呂布一人でさえ手がつけられないというのに、その配下にまで人物が集いつつあるというのか。
 足元が凍るような恐れに苛まれつつ、それでも副官は武器を構える。再び対峙する両者。だが勝敗はすでに明らかだった。二人の周囲には、白装束に仮面をつけた兵士たちが幾人も集まっていたからである。


 周囲の様子を見て、副官はここまでと悟った。一瞬だけ目を閉ざし、そして見開いた次の瞬間、副官から発された声には、静かだが、深い覚悟が満ち満ちていた。
「……偽帝に仕え、民を殺し、歴史に汚名を残す。問おう、貴様らの武人の矜持、人としての誇りは何処にあるのかッ?!」
 覚悟を定めた副官の叱咤への返答は、告死兵の一人が懐から放った短刀であった。
 甲高い金属音と共にその短刀が宙を舞う。副官が素早く手にもった槍で弾き返したからである。だが、それが床に落ちる頃には、副官の背後にいた告死兵の槍がその腹を深々と貫いていた。
 さらに両脇から、別の告死兵の刃が副官の体内に突きたてられ……末期の言葉さえ残せず、副官は息絶えたのである。




 黒髪の将――高順は全身を貫かれて息絶えた先刻までの敵手の亡骸に歩み寄り、見開かれた瞼に手をあて、そっと閉ざした。
 同時に、むせ返るような血と臓物の匂いが這い登ってくるのを感じ、口元を手で覆おうとする。
 しかし、その手は中途でとまり、高順は諦めたように血臭の中で立ち尽くした。
 一年前までの高順ならば、顔面を蒼白にして胃の中の物すべてを吐き出していたかもしれない。だが、今の高順はわずかに面差しを伏せるだけで、この惨劇の場に立つことが出来ている。
 武人として、これを成長と呼ぶべきなのか否か。高順にはわからなかった。





◆◆◆





 徐州広陵郡広陵城。
 路西陥落。その報はすぐさま広陵にもたらされた。
 西からの侵攻を阻む城砦郡の一つ。偽帝の侵攻に際しても大きな期待を寄せられていた堅砦が、ここまで呆気なく陥落するとは、広陵太守陳羣にとっても予想外の出来事であったのだろう。
 広陵の防備を固め、袁術軍の侵攻から逃れてきた民を迎え入れるためにも、今はわずかでも良い、時間がほしかったに違いない。
 だが、事実は事実。
 広陵城に到る街道で、路西より大きな砦はない。敵が広陵城の城壁にとりつくまで、あまり猶予はないだろう。
 仲軍の一部は臨淮郡に進んだようだが、主力は間違いなくこの城を目指してくるはずである。民の避難と、戦力の集中を押し進めつつ、同時に劉備らを南の江都へ送る準備も整えなければならず、陳羣は寝る間もないほど多忙の日を送ることとなるのである。


 一方の劉家軍であったが、小沛で曹操軍と戦って以降、ろくに休むことも出来ずに戦い続け、逃げ続けてきたわけで、わずかの間とはいえ、この広陵城で休息することが出来たのは僥倖であった。
 おれを含め、皆、貪るように睡眠をとり、敗走の疲れを癒す。
 曹操軍から逃れたとはいえ、今度はある意味で曹操よりも厄介な敵と渡り合わねばならないのだ。疲労をのこしたままでは、いつ何時、不覚をとってしまうか分かったものではなかった。
 もっとも、自分たちの先行きや関羽らの安否も含め、わからないことが山積み状態の今、のんびりと眠ることが出来るほど、太い神経の持ち主はなかなかいそうになかったが――



「……だからといって、日も出ないうちに目を覚まさなくても良いと思うんだが」
 おれは頭をかきながらぼやく。
 とはいえ、目が覚めてしまったのだから仕方ない。物資の点検でもしておくか、とおれは部屋を出る。
 広陵に入った劉家軍は曹操軍の追撃を受けながらの離脱であったため、資金、糧食、武具、医薬品等の必需品は最低限のものしか持ってくることが出来なかった。
 江都にたどり着くまで保つかどうか。それに、江都に着いても、そこが安全であるという保障はないのだ。


 そんなことを考えながら、広陵城の廊下を曲がろうとした時だった。
「ッと?」
「わ、わあッ?! あ、あれ、一刀さん?」
 出会い頭に玄徳様とぶつかりそうになり、おれは慌てて足を止めた。
「す、すみません、大丈夫でしたか、玄徳様?」
「う、うん、大丈夫、だけど。一刀さん、こんな早くにどうしたの?」
「いや、何故か目が覚めてしまいまして。ぼぅっとしているのももったいないので、物資の確認をしておこうかと」
「そうなんだ。ご苦労さまです」
「いえ、当然のことですので。玄徳様は、どうなさったのですか?」
 おれの問いに、玄徳様は少し困ったように視線をそらす。
「う、うん、一刀さんと同じ、かな。あんまり寝られなくて、河港の様子を見に行ってたの」
 淮河の流れで栄える広陵の中心とも言うべき場所。
 そして、北岸に取り残された関羽らを迎えに行った船舶が戻ってくる場所でもあった。
 
 
 そのことに思い至ったおれは、咄嗟に声を詰まらせてしまう。
 それに気付いたのだろう。玄徳様は少し慌てたように言葉を続けた。
「あ、えと、愛紗ちゃんや鈴々ちゃんなら大丈夫だと思うんだけどね。子竜さんだっているんだし。ただやっぱり心配で……」
 沈んだ表情の玄徳様を元気づけてあげたいのだが、いかんせん、口がまわらない。
 北岸の戦況が厳しいことがわかるだけに、なおさらに安易な慰めを口にすることは出来なかった。


 それゆえ。
「……正直、あの状況を切り抜けることは、かなり難しいとは思いますが」
 おれは安易な慰めでなく、率直な意見に口にすることにした。
 玄徳様の表情が辛そうに歪もうとする、その寸前、次の台詞を放り込む。
「でも、これまでだって似たようなものだったでしょう?」
「え?」
「これまでの戦いで、楽なものって何かありましたっけ?」
「え、えと、どうだったかな?」
 首を傾げる玄徳様。だが、考えるまでもなく、これまでの劉家軍の戦いに楽なものなんてありゃしねえのである。
 そのすべてを切り抜けてきた一番の立役者こそ関羽と張飛。その二人が揃い踏みなのだ。いかに曹操軍といえど、易々と目的を遂げることはできないだろう。


「おまけに、趙将軍までそこにいるとなれば、これはもう鬼に金棒、虎に翼、関将軍に青竜刀ともいうべき……あれ?」
 なんか勢いにあかせて余計なことを口にしてしまった気がする。
 だが、とうの玄徳様は「良いこと聞いたッ」みたいな顔をしていらっしゃる。
「おおー、なるほど。うん、たしかにその通りかも。私が心配しなくても、愛紗ちゃんたちはちゃんと戻って来てくれるよね。そっか、鬼に金棒、虎に翼、愛紗ちゃんに青竜刀、か」
 うんうんと頷きながら、あれ、と玄徳様は首を傾げる。
「でもこれだと、愛紗ちゃんは鬼や虎と同じ扱いなんじゃあ……」


「おお、そうだ!」
 おれの口から、時ならぬ大声が飛び出した。
「うわッ?! な、なに、どうしたの、一刀さん?」
「玄徳様、実はとても重要で大切で欠かせない大切な用事を思い出してしまいました」
「あ、うん、そうなんだ? それなら私も手伝うよ」
 無邪気なほどにあっさりとこちらの言葉を信じ、手伝いを申し出る玄徳様。
 おれは即座に作戦を変更した。
「――しかし、実はあまり重要ではないような気もするので、後にまわしても良いかなと思わないでもありません」
「そ、そうなの? じゃあさっきの愛――」
「さりながら!」
「は、はひ?!」
「やるべきことは山積みであり、私はゆかねばなりません。玄徳様、どうかおとめくださいますな。しからばごめんッ」
「は、はい、ごめんなさいッ?!」
 シュタっと手を挙げて駆け去るおれ。
 その背に、唖然としているのであろう玄徳様の視線をまざまざと感じながら、しみじみと嘆息する。
 ――この危急の時に何をやってるんだ、おれは。




「江都までの距離を考えると、本当にぎりぎりだな」
 物資の目録を手早く作成しながら、おれが言うと、隣の王修がこくりと頷く。
「そうですね。糧食は何とかなりそうですけど、武具や矢石の方が……今のままでは、一度の戦闘に耐えられるかどうかではありませんか?」
「そんなところだろうなあ」
 王修の分析が正しいことを、おれは自分の目で確認する。


 言うまでもないことだが、戦とは人数を集めただけでは出来ない。剣を揃え、槍を集め、甲冑をつくり、矢を調え、それらを兵士に配ることで、ようやく集めた人数は『兵士』となるのである。
 そして今度はその兵士を訓練し、編成し、率いる者を選び、合図を定め、いよいよ『軍』となり、ここまできてはじめて戦をする準備が出来上がる。
 しかるに、急な退却であったから致し方ないとはいえ、現在の劉家軍には武器甲冑の類が大きく不足していた。
 一度の戦闘で破損する武具や甲冑は思いの他、多いものだ。今のままでは、王修の言うように、一度大きな戦闘があれば、その後は劉家軍は軍として十分な力を発揮できなくなるだろう。


「――由々しい問題ですね」
 俺と王修の隣で腕組みしているのは太史慈である。
 王修と太史慈の二人は、玄徳様と別れた後に廊下で並んで歩いているところに出くわした。
 良く眠れなかったのは二人も同様であったらしく、物資の確認を手伝ってくれるとのことだった。二人の手助けもあって、確認は手早く終わったのだが、やはり現状はかなり厳しい。
 広陵も、江都も豊かな街である。袁術としたら咽喉から手が出るほどほしいだろう。
 当然、真っ先に部隊を向けて来る。広陵から江都に向かう劉家軍が袁術軍と遭遇する可能性は高い。最悪、こちらが江都に着いた頃には、城壁に袁術の旗が翻っていたなどという事態もないわけではないのである。
 

「広陵の陳太守に援助を申し出られてはいかがですか?」
「それしかないでしょうね――ただ」
 太史慈の提案を聞いたおれは、頬をかきながら口を開いた。
「玄徳様が請われれば、陳太守は快く応じてくれるでしょうが、広陵城がこれから激戦に巻き込まれるのは、ほぼ確実です。それを分かっていて、戦備を割いてくれ、と玄徳様が仰るかどうか。まして、広陵には多くの民がいますから」
 それを聞き、太史慈がはっとした顔で赤面する。
「そうでした。自分たちのことばかりで、広陵のことまで考えが及んでいませんでした」
 配慮が足りなかった、と悔やむ太史慈。黄金色の髪がかすかに揺れた。


   
 これだけ切羽詰った状況だから仕方ない、と王修と二人で太史慈を慰めつつ、おれは改めて前途が険しいものであることを、胸に刻みつけるのだった。




◆◆◆




 徐州臨淮郡東城県。
 路西砦陥落の報告は、東城県にももたらされ、これを聞いた県令である張紘は顔が青ざめるのを自覚した。
 臨淮郡に侵攻してきた袁術軍は、梁剛率いる二万。
 これに対し、東城県の軍勢は正規軍と魯粛の私兵を併せて一千足らず。
 その数も度重なる戦闘で減る一方であり、すでに張紘麾下の兵力は八百を切っていたのである。
 路西の砦が陥ちたとなれば、袁術軍は一層の行動の自由を得る。ただでさえ不利な戦況が、ますます厳しいものになるのは間違いなかった。
 最悪の場合、路西を陥とした袁術軍の主力がこちらに合流する。そうなれば、東城の県城で敵の猛攻を遮るのは不可能と言って良い。


 だが、この張紘の危惧は、魯粛によって否定された。
 常日頃、私財を投じて食客を養っていた魯粛は、彼らをつかって各地の情報を逐一集めており、路西を陥とした袁術軍が次ぎに向かう先もすでに掴んでいたのである。
「広陵、ですか」
「うん、ほとんど一直線って感じだね」
 魯粛の報告を聞き、張紘の視線が卓上の地図に注がれる。
 ただ、と魯粛は厳しい表情で続ける。
「呂布率いる主力が広陵に向かったのは間違いないんだけど、その他の軍の動きはバラバラだね。長江流域に動いた部隊もいるみたいだし、やっぱりこっちにも援軍が向かったみたい。それも千や二千じゃないって」
「具体的にはどの程度かわかりますか、子敬姉様?」
「おおよそ一万」
 魯粛の断定に、張紘は幼さの残る顔を苦渋に歪ませる。
「一万……今いる二万と併せれば、三万」
 それは今次の淮南侵攻で袁術が動員した十三万の大軍の、実に二割以上に及ぶ。
 東城県のような小城にこれだけの戦力を叩きつける袁術の意図は明らかすぎるほどに明らかだった。すなわち、仲帝たる自分に刃向かう者は断じて許さぬという覇気の顕れである。


 顔を歪ませた張紘の頬に、魯粛の両手が伸びた
 魯粛は、え、という顔をする張紘の頬をぐにっと握りしめる。
「ふえッ?! ね、姉様?!」
「こら、子綱ちゃんがそんな顔してたら、下で戦う人たちが動揺するでしょ」
「わ、わかりました、わかりましたからはなしてくださいーッ」
 ばたばたと暴れる張紘を見て、魯粛はからからと笑いつつ手を放す。無論、手加減はしていたのだが、張紘の頬はかすかに赤くなっていた。


 魯粛の意図がわからず、むう、と頬を膨らませる張紘。
 そんな張紘に、魯粛は表情を改め、意外なことを告げた。
 これは千載一遇の好機なのだ、と。


「ど、どういうことですか?」
「元々、東城みたいな小城、敵も味方もたいして気にも留めていなかった。だからこそ、甘く見た袁術軍の油断に乗じて、私たちは今日まで粘ってこられたわけだけど」
 はい、と頷く張紘に、魯粛はさらに言葉を続ける。
「それでも、精々まぐれか怪我勝ち程度にしか見られてなかったはず。だからこそ敵にも味方にも増援は来なかった。でも、路西を陥とした袁術が万を越える援軍を差し向けて来たのなら、偽帝の陣営も、もう私たちを無視できなくなってきたってことでしょう?」
「はい、そうだと思います。身の程知らずな、小癪な敵だと。でもたとえそうだとしても、東城県の存在を、偽帝が無視できなくなったことは間違いありません――あッ」
 何かに気付いたように、張紘が声を高める。
 聡い張紘は、魯粛が言わんとしていることを察したのだ。


 そんな妹分に、魯粛は器用に片目を瞑ってみせた。
「そ。袁術の動きは今や四方の群雄、すべてが注目してる。その軍の動きも当然そう。淮北の曹操なんかはその筆頭だろうね」
「偽帝の淮南侵略を食い止めたい曹操さんにとって、三万以上の軍をひき付けている東城県は、潰されるには惜しい戦略上の駒です」
「淮北の支配が固まっていない以上、すぐに援軍が来るとは思えないけど、使いの一人二人を惜しむ曹操じゃない」
「このまま守り続けていれば、曹操さんが援軍に来る。その確たる証人なり証拠があれば、皆さんもまだまだ頑張ることが出来ますね!」


 そこまで言って、張紘は不意に表情を曇らせる。
「けど、もし曹操さんが動かなかったら……」
「その時はその時。仲の将で手ごわいのは一部だけだよ。援軍の将が誰かまではつかめなかったけど、梁剛にしてみれば面白いはずはないわ。離間の策をほどこすことも出来るでしょう。かえって梁剛の一軍だけよりも、援軍が合流してくれた方が引っ掻き回すのは簡単だよ」
 魯粛は事も無げにそう言うと、卓上の椀をとって、味わうようにゆっくりと茶を飲みほした。
 篭城中の東城県では、すでに茶の一滴は銀一粒に匹敵する贅沢となっていたのである。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/24 13:50


 広陵城を出る劉家軍は、その数おおよそ三千五百。
 小沛城を出た時、五千に近い数であったことを考えれば、その数は大きく減じていた。
 だが、その多くは関羽らと共に北岸に残った兵であり、さらに五百は別の地に赴いているための減少である。つまるところ、先の見えない逃避行の最中にも関わらず、軍中から逃亡しようとする兵はほとんどいないのだ。
 劉家軍の将兵の中には、楼桑村での旗揚げから付き従ってきた者もいれば、張家の姉妹と共に加わった元黄巾党の者もいる。あるいは小沛城で徴募された者も少なくない。それら出自も志も異なる者たちが、一つの旗の下に集い、勝ち目のない戦から逃げ出すことなく戦い続けようとする。
 その事実こそ、劉玄徳という少女がこれまで歩んできた道が、誰に対しても胸を張れるものであったことの何よりの証左となるであろう。


 広陵城から離れていく劉旗を眺めながら、広陵太守陳羣はそんなことを考えていた。中天に輝く陽光が燦燦と降り注ぎ、広陵の城壁上には淮河から吹き付ける風が通り抜ける。陳羣の長い黒髪がそよいだ。
 その傍らで、孫乾がやや戸惑いの表情を浮かべつつ、口を開く。
「し、しかし、よろしかったのですか? 陶州牧のこと、玄徳様にお伝えせずに」
「……はい。今、何よりも肝要なのは新たな徐州牧となられたお方を、安全な場所に逃がすことです。それこそが陶翁の望み。今、事実を告げたところで、劉州牧を動揺させるばかりでしょう。それより――」
 逆に陳羣に気遣わしげな視線を向けられ、孫乾は目を瞬かせる。
「公祐殿こそ、よろしいのですか。劉州牧も、貴殿が傍にいてくれれば心強いでしょうに」
「いえ、それは」
 孫乾は小さく苦笑した。


「同志であった元龍殿の心を一時とはいえ疑ってしまった私です。今の私が新たな州牧の傍らに侍ったところで、ろくな働きも出来ますまい。劉家軍には私などよりはるかに優れた軍師殿が一人ならずおられるのですから尚更です」
 それに、と孫乾は付け加える。
「これより、広陵は激戦のただなかに放り込まれるでしょう。徐州の臣たる私が、陳太守お一人に広陵を任せて江都へ赴けば卑怯者のそしりを免れますまい。この身は文官、残念ながら戦を左右するような軍才は持ち合わせておりませんが、私の顔は徐州の住民にはそれなりに知られております。民や将兵の士気を鼓舞する役割ならば務めることも出来るでしょう。あるいは、淮北に使いする必要が生じるやもしれませぬ。その時は私にお命じくだされ。この一命をとして、役目を果たしてご覧にいれましょう」


 孫乾の言葉に、陳羣はゆっくりと頷く。
 迫り来る袁術軍に対する防備を整えつつ、淮南各地から逃げてくる民衆を城内に収容する。やるべきことはいくらでもあり、陳羣にとって孫乾の助力は正直に言ってありがたいことだった。
 広陵郡の中心であるこの城は、周囲の水路と高い城壁を利した堅い守りを備えており、陳羣が日頃から心がけていたおかげで、武器や糧食は庫に満ちている。十万を越える袁術軍であろうと、一ヶ月や二ヶ月で広陵を陥落させることは出来ないであろう。


 だが、それはあくまで敵が尋常な相手であった場合の話。
 袁術軍の先鋒三万を率いるは飛将軍。どこをどうみても、尋常という言葉があてはまる敵将ではない。またその麾下の将兵も呂布によって鍛えられた精鋭である。
 淮南支配を目論む袁術にとって、広陵の攻略は必要にして不可欠である。広陵城を巡る攻防が、激しく、そして厳しいものになるであろうことは明らかであると思われた。



 そして、陳羣はこのような情勢になった際の備えも怠りなく進めていた。 
 高家堰――淮河下流域の治水を目的として、陳羣が広陵太守の座に就いた時から進めている工事もその一貫である。
 北の黄河、南の長江に挟まれた中華帝国第三の大河である淮河。その別名を『壊河』という。それは洪水と氾濫が頻発することからつけられた名であるが、ことに淮河下流域では、一際この傾向が強い。
 この河水を治めるべく、陳羣が考案したのが高家堰と呼ばれる堤防である。淮河の水流を分け、その勢いを減じると共に、淮河の流れ自体を狂わせないように計算されたこの堰の完成こそが、広陵太守として陳羣が為した最も偉大な業績である――広陵の人々はそう称え、陳羣の名は広陵のみならず、淮南各地へと伝えられていったのである。


 高家堰は、淮河とその流れで形作られる洪沢湖を鎮める目的で作られた堤防である。
 逆に言えば、高家堰は中華第三の大河である淮河と、その淮河から流れ込む豊富な水量ゆえにたびたび水害をもたらす洪沢湖という、二つの水険に挟まれた難攻の地、ということであった。
 長さ三十里に及ぶこの堰の、もう一つの姿。
 それは広陵城が敵軍に囲まれる事態に陥ったとき、その外にあって、広陵城を守る強固な出城としての姿であった。



◆◆



「なるほど、さすがは陳太守、というべきか」
 高家堰の長大な堤防と、その中心に位置する砦の外観を見やって、おれは知らず感嘆の声を発していた。
 砦といっても、巍々たる城壁が備わっているわけではない。普段は堤防の管理のためにしか使われていないのだから、それが当然である。だが、一度ここに兵を籠めれば、水によって幾重にも守られたこの建物はたちまち難攻の砦と化す。
 まとまった数の兵が入りきる規模ではないから、多数の水軍が押し寄せれば支えきることは難しいだろう。だが、騎馬と歩兵が主力の袁術軍が相手であれば、相当の長期に渡って篭城が可能だと思われた。


 そんなことを考えていたおれの耳に、隣に立つ人物の涼やかな声が聞こえてきた。
「本当にそうですね。ここであれば、寡兵でも戦いようがあるというものです」
 黄金色の髪を川風になびかせながら、太史慈は鋭い眼差しで周囲を見回している。
 すでに太史慈麾下の劉家軍は周囲に展開を始めていた。その数は五百。ほとんどが徐州で徴募した兵士であったのは、水練が得手なもの、という条件のためであった。




 広陵城を外から援護するために築かれた高家堰に、どうして劉家軍の兵を籠めるのか。
 陳羣麾下の軍勢は水軍を含めても二万に届かない。迫り来る呂布の軍三万にさえ及ばず、その後ろに続いているであろう袁術軍の本隊十万を相手にすることはきわめて難しい。
 ただでさえ敵に劣る兵力を、これ以上割くわけにはいかない。くわえて徐州兵は、呂布ら袁術軍ほど戦いに慣れておらず、五百や千の人数を高家堰に割いたところで、孤立し、各個撃破されるだけで、大した効果は得られない。折角の備えであったが、それを活用するだけの時と兵力が不足している以上、高家堰に拘ることは敵を利するばかりであると陳羣は割り切ったのである。


 陳羣が劉家軍に協力を願わなかったのは、言うまでもなく玄徳様を無事に江都へと逃がすためであろう。陶謙の願いを知る陳羣が、玄徳様の身を守る兵力を、広陵のために割いてくれなどと言うわけがなかった。
 だが同時に、玄徳様もまた、袁術軍の苛烈な侵攻に晒されている淮南の民を尻目に、自分と劉家軍のみの安全に汲々とするような為人では、断じてない。
 無論、玄徳様とて、今は自分が江都に赴くことが最優先されるべきであることは弁えている。
 それでも何とかならないか、と考えてしまうのが劉家軍の主であり、その主の下で戦い続けてきたのが、劉家軍の将兵であった。
 高家堰に劉家軍が一軍を籠めることになったのは、ある意味で当然の帰結と言えたであろう。



 問題となったのは、誰を残すかということである。
 高家堰に残る者の役割は、広陵城を包囲するであろう袁術軍の後方を撹乱することである。当然、これは困難を極めることであるし、仮に成功したとしても、今度は大軍を相手にした篭城戦を行わねばならない。
 これだけでも十分に厳しい戦であるのだが、問題はまだまだあった。
 広陵を巡る攻防は、彭城の陳登が、曹操軍を淮南に引き入れ、袁術軍にぶつけるまでるまで続く。だが、その策が成るかどうかは曹操次第である。曹操が軍を淮南に動かさなければ、数に劣る広陵をはじめとした淮南各地は偽帝の馬蹄に蹂躙されるであろう。


 あるいは曹操が淮河を渡ったとしても、それがいつになるかは誰にもわからない。曹操にしてみれば、広陵を救わねばならない理由はない。それどころか袁術軍が広陵を陥とし、その兵力をさらに南に向けた時に後背を衝く方が曹操軍の損耗を考えれば得策であろう。
 あるいはすべてが目論みどおりに進み、広陵陥落前に曹操の援軍が着いたら着いたで、曹操軍と敵対していた劉家軍は、今度はその曹操軍からも逃げ出さなければならないのである。


 高家堰に残る者は、そんな理不尽なまでに難しい戦を強いられる。
 将軍級の人物でなければ、役目を果たすことは到底出来ないだろう。
 だが、劉家軍は関羽、張飛、趙雲の三将を欠き、陳到、馬元義の二将を残すのみ。陳到は当然玄徳様の傍にいてもらわねばならず、馬元義は張角たちを守ってもらわねばならない。
 そこで一躍抜擢されたのが、太史慈であった。
 これは太史慈が北方生まれの人間にはめずらしく、水練に長じていることも関係している。太史慈のみならず、高家堰に残る者は一人残らず水に慣れていることが条件とされた。騎馬で平原を駆けるような戦い方は、この地では通じない。攻めるにせよ、守るにせよ、いかに水をうまく利用するかが鍵となるのである。




 無論、ただ水練に長じているから、という理由だけで太史慈が将軍に据えられたわけではない。北海城から劉家軍に加わった新参の身とはいえ、太史慈の弓馬の実力はすでに将兵に広く知られており、その誠実な為人は、人の上に立つに相応しいものであった。今回のようなことがなくとも、近いうちに将軍に任じられていたことは疑いない。
 太史慈であれば、この難しい戦いを凌ぎきることも不可能ではないであろうとおれは考えていた。


 しかし、とうの太史慈はなにやら厳しい眼差しでおれを見据えてくる。
「どうして北郷さんまで残ってるんですか。叔治ちゃん(王修の字)たちと一緒だとばかり思っていたのに」
「戦いに口は出せませんし、出すつもりもないですが、篭城となればそれ以外にもやらなければならないことは幾らでもあるでしょう。それを手伝うためです」
 高家堰の重要性を鑑みるならば、賈駆は董卓と一緒だから無理としても、諸葛亮か、あるいは鳳統が残るべきであったのだろう。
 だが、今回は攻めるにせよ、守るにせよ、あるいは逃げるにせよ、かなり体力勝負になる。これまでは馬を用いることが出来たが、ここではそうはいかない。
 あの二人は才智こそ図抜けているが、体力は並の女の子とかわらないから、何か変事があった場合、取り残されたり、あるいは最悪、敵に捕らえられる可能性が高いとおれは見たのだ。


「幸い、雑事に関してはそれなりに経験を積んでますから。子義殿が戦に傾注できる程度の働きはしてみせますよ」
 そういったおれを見て、太史慈はなにやら不満げに「むー」と唸っている。
 おや、おれとしては至極合理的な説明だと思ったのだが、何が不満なのだろう。気にはなったが、調べておくべきことがあるため、おれはその場を離れなければならなかった。
 この堰を守る砦には、かねてから陳羣が武器や糧食を蓄えていたと聞いており、その内容も教えてもらっていたが、実際にそれがきちんと庫におさまっているかどうか。
 いざ庫を開いたら糧食が腐ってました、なんてことになったら目も当てられない。大丈夫だとは思うが、時に信じられないうっかりをしかねない陳羣の為人であってみれば、確認を怠ることは出来なかったのである。
 それに――


 おれがとある事柄に思いを及ばせた瞬間、奇妙に低い太史慈の声が耳朶を震わせた。
「まさか、とは思いますが……」
「はい?」
「私が食べ過ぎるのではないかとか、心配しているわけではないですよね?」
「……ぎく」
 思わず視線をあさっての方角にそらせるおれ。
 だが、太史慈は容赦なく追撃をかけてくる。
「……北郷さん?」
 視線をそらせているからその顔は見えないが、多分、今、太史慈はすごい良い笑顔を浮かべていることだろう。いつものように。
「――はっはは、な、何を仰っているのやら。子義殿の大食か――もとい、大食乙女疑惑はとうの昔に否定されたではないですか。その子義殿が糧食を食い尽くさないかどうかを心配して残ったなどと、まさかそんなことが――ぐはゥッ?!」
 ぐわしィッと太史慈に首根っこを掴まれた俺の口から、妙な声がもれる。
 無理やり視線を戻された俺の視界に、予想どおりにこやかに笑う太史慈の顔が映し出された。こめかみがひきつっているのさえ確認できる近距離で、おれたちは見詰め合う。無論、色っぽい雰囲気なんぞ欠片もありません。


「確かに物資の確認は必要ですね。では、私も同行しましょう。その上で、とっくりと話をしようではありませんか」
「は、話とは?」
「無論、これからのことです。恐れ多いことながら、玄徳様に将に任じて頂いた私です。それを補佐する北郷さんは、いわば私の軍師。互いの誤解を解き、親睦を深めておくことは決して無駄にはならないでしょう」
「い、いや、すでに私と子義殿の間には、強い信頼の架け橋が――」
「では参りましょうか。時は限られているのですから」
 次の瞬間、俺の身体がふわりと浮き上がる。女子の細腕から出ているとは信じがたい、太史慈の剛力の為せる業であった。身長の面から言えば、おれの方が随分高いので、傍からみれば、今のおれの姿は随分と間抜けに見えたことだろう。
 というか、周囲からは呆れたような視線が向けられていた。まあ、小沛でも結構似た場面があったからなあ。


「――わ、わかりました、わかりましたから子義殿、とりあえずおろしてくださいッ」
「さて、庫はあちらでしたか」
「聞こえているのに、聞こえないふりをするのは褒められた行いではないと進言させていただきます」
「記念すべき初の進言ですね」
「内容は吟味してくださらないので?!」
 俺の声が川風に流され、周囲に広がっていく。
 そ知らぬ風を通す太史慈と、その太史慈に首根っこ掴まれているおれの姿を見た劉家軍の将兵の口から、こらえきれない笑い声がこぼれでるのであった。



 広陵城に、袁術軍が姿を現したとの急報が届けられたのは、その翌日のこと。
 予測を大きく上回る、飛将軍の進軍速度であった。




◆◆◆




 黎明、東の彼方がぼんやりと白みはじめる時刻。
 未だ輝きを失わない月の明りが、周囲を照らし出す丘陵の上。
 高順は、馬上、彼方の闇に浮かび上がる広陵城の城壁を眺めやって、誰にともなく呟いた。
「あれが広陵城……」
 すると、その隣で赤兎馬に跨っていた呂布がこくりと頷く。
「……ん」
 高順が見る限り、その声と表情からは、路西砦を破ってからこちら、破竹の勢いで淮南の地を横断してきた驍将の武威は感じられない。広陵城を陥とすことは、今回の戦において勲功第一ともいえる大手柄となるのだが、その大功に勇み立つ様子もない。
 これまでどおり、どこか気だるげで、無気力で、にも関わらず勝利を掴み取ってしまう、奇妙な将の姿がそこにあった。


 一方で、そんな呂布とは対照的に戦意に満ち満ちている人物もいる。
 高順は、呂布の隣に視線を向けると、その人物は胸をそらせて主の武勇を誇っていた。
「ふふふ、恋殿の前では陳羣ごとき敵ではないのです。一時は寿春の軍を退かせたからといって、恋殿まで同じにいくとは思わないことなのですッ」
 陳宮はそういって、城壁上の篝火に照らし出される都市をじっと見つめた。
 淮河流域の豊かさを繁栄してか、敵軍が迫っているというのに、水路には船舶のものらしい灯りが慌しく出入りしているのが見て取れる。広陵は淮南の物流の要の一つ、交易で得られる富はたやすく一軍を成り立たせるに足るものであった。


「ねねたちが、いつまでも歩兵と一緒にのんびり進軍してくるとでも思っているなら、それは大きな大間違いなのです。あの様子なら、朝になれば城門を開くのは間違いないですな。恋殿、すでに広陵城は我らが手中にあり、なのです!」
「……ん」
 陳宮の言葉に、呂布は先刻と同じようにこくりと頷く。
 その反応の鈍さを見て、それまでわざとらしいほどに明るかった陳宮の顔が、不意にくしゃりと崩れそうになる。
 その寸前、呂布の手が、陳宮の髪を撫でた。
「れ、恋殿?」
「……陳宮の、お手柄」
 その一言を聞いた瞬間、陳宮の顔が喜びで満ちる。その声には明るさと、そしてそれ以上に安堵がこもっていた。
「は、はいッ、お褒めにあずかり光栄です、恋殿!」


 呂布と陳宮のやりとりを見ていた高順は、小さくかぶりを振る。
 陳宮の態度が、独断で仲国と交渉した自責の念にあることは明らかである。だが、それを指摘したところで問題は何一つ解決しない。むしろますます陳宮を追い詰め、呂布を苦しめる結果に終わるだろう。
 このまま行けば、広陵は袁術軍の手に落ち、淮南制圧の第一功は呂布のものとなる。広陵が陥落すれば、いまだ抵抗を続ける徐州の軍も抗戦の無意味を悟るだろう。袁術とて、淮南の支配がなれば、あえてこれ以上の殺戮を行おうとは考えまい。
 今はそう信じて、一刻も早くこの戦いを終わらせる。それが高順が己に課した役割であった。


 改めて夜闇に浮かび上がる広陵の城壁に視線を向けながら、高順はこの戦いが最後になることを内心で祈る。
 血に染まった両の手を組み合わせたところで、祈るべき相手がどこにもいないことはわかっていたが、祈らずにはいられなかったのである。


 ――そして。
 もしかしたら、その祈りが何物かに届いたのかもしれない。
 数刻後、広陵攻撃を開始しようとした矢先、呂布らのもとに仲帝からの急使が飛び込み、広陵攻略の不可を伝えた際、高順は一瞬、そんなことを考えてしまった。
 だが、話を聞くにつれ、高順の顔は青を通り越して土気色へと変じていく。


 広陵攻略を止めたのは、方士于吉。
 その目的は平和裏に矛を収めることにあらず。広陵から逃れでた一軍を始末することにあった。
 その軍の名を劉家軍という。
 広陵はひとまず措き、劉家軍の後背を衝いて、これを壊滅せしめよ。それが呂布たちに下された于吉の――ひいては仲帝袁術の命令であった。
 しかも、すでに劉家軍が向かう江都には、仲帝国大将軍張勲が率いる五万の軍勢が向かっているという。
 呂布が率いる三万、張勲が率いる五万、この両軍に挟撃されれば、数千の劉家軍は皆殺しの目に遭うことは瞭然としていた。
 否、それどころか、今、この場にいる袁術軍最精鋭のみでも、急追して劉家軍を捕捉すれば、それをなすことは可能であろう。


 ――高順は、自身の視界が再び夜の闇にも似た暗さに覆われるのを感じながら、ただその場に佇むことしか出来なかった。 
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/01/30 00:13


 広陵を出て、一路南を目指す劉家軍。
 そのほとんどが戦いを経験した将兵であり、江都への進軍は速やかに進んでいた。否、速やかというよりは、常識はずれの行軍速度を保っていた。
 今もまた、劉家軍の将兵は厳しい表情で、はるか前方を見据えて歩を進めている。彼らの顔には疲労の色が濃い。
 戦い慣れた将兵でさえ、この有様である。文官たちの中には、疲労のあまり地面に倒れこむ者が続出していた。
 広陵を発った劉家軍は、軍師鳳統の指示の下、ひたすら強行軍を重ねてきた。休息は最小限か、それ以下にとどめ、ただひたすら江都を目指した代償が徐々にあらわれはじめていたのである。


 もとより袁術軍から逃れるための行軍であり、進軍を急ぐのは当然であった。だが、それを考慮してなお、尋常ではない行軍であった。
 もし、今、劉家軍の行軍を目の当たりにする者がいたとすれば、その者の目には、劉家軍が戦に敗れて潰走しているものと映ったかもしれない。
 明らかに将兵の体力の限界を越えた行軍であり、このままでは敵とぶつかっても、ろくに戦うことも出来まい。
 何故、これほどまでに急ぐ必要があるのか。
 その理由はこれから赴く江都にあった。危急の際にあっても、怠りなく偵騎を放っていた諸葛亮、鳳統らは、江都に向けて袁術軍の大軍が向かっていることを察知したのである。
 その数は五万。率いるは袁術の股肱ともいうべき大将軍張勲であるという。その陣容は、広陵に迫る呂布の軍に劣らぬ精鋭であると考えられた。


 張勲によって江都を陥とされれば、長江を伝って荊州へ落ち延びるという陶謙の策を実行することは不可能となってしまう。五万対三千では、江都を奪還する術はないに等しい。
 それゆえ、将兵に無理を強いることを承知の上で、劉備は強行軍を続けた。何としても張勲に先んじて江都までたどり着く必要があったのである。
 そして、その甲斐あって、劉家軍はすでにかなりの距離を稼いでいた。このまま進めば、袁術軍が到達する前に江都へ入ることも可能であろう。
 そう考え、わずかに安堵の息を吐いていた劉家軍の面々。そのもとに、広陵からの急報が届けられた。そして、その報を聞いた者はみな一様に表情を強張らせる。
 広陵の陳羣から伝えられた情報は短く――そして、絶望的なものであった。
   

 ――袁術軍、広陵に二万の後詰を残し、南へと転進す。その数一万。真紅の呂旗はその陣頭に。


 飛将軍呂布が、淮南支配の要である広陵を陥落させることよりも、劉家軍追撃を優先したという、それは報告であった。
 おそらく休む間もなく馬を飛ばしてきたのだろう。使者は、その一事を告げるや、力尽きたようにその場に倒れてしまった。
 慌てた劉備が広陵の使者を休ませるように周囲に命じる。
 劉家軍の諸将は、表情を硬く強張らせながら、使者が運ばれていく様子を見つめていた。


 現在、劉家軍は関羽、張飛、趙雲の三将軍を欠いているため、陣中に残っている将軍は陳到と馬元義の二名のみである。両名とも凡将とは程遠く、とくに陳到は軍を指揮する手腕に関して言えば、不在の三名にそうそう劣るものではない。馬元義にしても、これまでの戦いで大過なく将としての役割を果たしてきたことからも、その実力は証明されている。
 だが、純粋に武人として両名の技量を見た場合、関羽らには大きく届かないことは明らかであった。この二人では、迫り来る飛将軍の鋭鋒を受けとめることは難しいであろう。


 軍中には張角、張宝、張梁ら三姉妹がおり、将兵の信望の面から言えば十分に将たりえる。その下に諸葛亮、鳳統、賈駆らの優れた軍師を配すれば、部隊を動かすことは可能であろう。河北で黄巾党とぶつかりあった『大清河の戦い』の時のように。
 波才率いる黄巾党は、ただの賊軍とは一線を画した存在であった。正規軍なみの錬度と装備を有し、その圧倒的な兵力で河北を席巻して、劉家軍は散々に苦しめられたものであった。
 大清河で対峙した波才の軍は八万。今、近づく敵勢は一万たらず。数の上では大清河の時よりよほど希望が持てるであろう。
 だが、劉家軍の中で楽観を示す者はただの一人も居はしない。それどころか、大清河の時よりも、その顔色は悪かったかもしれない。


 皆が知っていた。
 迫り来る飛将軍と、中原の戦塵で鍛え上げられたその精鋭部隊の恐ろしさを。数の多寡など、何の気休めにもならないことを。
 現在の劉家軍の陣容では、飛将軍を止めることは不可能に近い――否、不可能である。これまで、呂布と対峙してきたほとんどの勢力がそうであったように。




「……玄徳様」
 急遽開かれた軍議で、真っ先に発言したのは鳳統であった。
 河北で劉家軍に加わった当初に比べ、随分と明るくなり、前向きな発言が増えた鳳統であったが、劉備に問われる前に口火を切るのはめずらしかった。それでも、その表情には遠慮も怯みもない。透き通るような澄んだ声が、その小さな口から紡ぎだされた。
「ただちに騎馬隊の皆さんと江都へ向かってください。玄徳様の次は文官の方と、将兵のご家族を。本隊は後方を守りつつ、玄徳様たちの後に続いて江都に向かいます」


 一瞬。
 軍議の席が静まり返った。
 無論、袁術軍がこちらに追撃をかけていることがわかった以上、劉備を先に逃がすのは当然であり、その護衛にもっとも足が速い騎馬隊を用いるのは理にかなっている。劉備自身、騎手として優れているのだから尚更だ。
 また、劉家軍の文官や、数こそ少ないが徐州から従ってきた将兵の家族を先に逃がすことも当然である。
 鳳統の言葉に矛盾も破綻もない。ゆえに、沈黙の原因は鳳統の指示ではない。その前提となる事実そのものが、軍議に参加する者たちの中でいまだに消化しきれていなかったのである。


 そう。広陵という淮南支配に欠かせない戦略目標を無視して、こちらに追撃をかけてくる呂布の行動の奇妙さと、その意味を。



「ちょ、ちょっとちょっと。呂布のやつ、広陵を放って私たちを追って来たっての?!」
 はじめに、そのことを口にしたのは張宝であった。
 鳳統が落ち着いて答えを返す。
「広陵からの使者が事実を語ったのだとしたら、その通りです。そして、広陵の陳太守が私たちを欺く理由はありません」
「それはそうだけど、なんでまたこんな小勢の軍を――」
 そこまで言いかけて、不意に何事かに思い至ったのか、張宝がくわっと両目を開く。
「はッ、さては袁術め、私たち張家三姉妹、なかんずくこのあたしの美しさを伝え聞いて、いずれ強敵となると恐れて、今のうちに討ち取ってやろうってわけねッ!」


 何人かが思わずこけそうになっていたが、意外なことに鳳統はその言葉を否定はしなかった。
「……案外、正解かも知れません」
 鳳統がそう口にすると、張梁が驚いたように振り向いた。
「正気なの、鳳軍師?」
「ちょ、どういう意味よ、人和!」
「そのままの意味だけれど」
 しれっと姉に答えながら、張梁が物問いたげに鳳統を見る。
 鳳統は少し困ったように首をかしげながらも、その視線にこめられた疑問に応えた。
「たしかにありえないと言えば、ありえないのですが……」
「ありえないってどういう意味よ、士元ッ!」
「姉さん、うるさい――ありえないってわかってるのね。良かった、鳳軍師が錯乱してしまったのかと思った」
 しみじみと安堵の息を吐く張梁と、その横で頬を膨らませる張宝を見て、鳳統は何とこたえるべきかわからない様子で、おろおろと周囲を見渡すばかりであった。


 それでも、なんとか表情を引き締めなおし、鳳統は言葉を続ける。
「そうとでも考えないかぎり、この呂布さんの動きはおかしいんです。淮南制圧を目論む袁術さんが、広陵よりも劉家軍の撃滅を優先するはずがありません」
 劉備はこれまで小沛城主として袁術と対峙してきたし、虎牢関で呂布と激突したこともある。だが、それだけの理由で、淮南支配の要である広陵の奪取よりも優先されるほどの恨みをかったとは思えない。
 普通に考えてありえないことが、しかし現実に起きたのならば、そこにはそれなりの理由があるのだろう。鳳統はそう言ったのである。


「……そ、その、袁術さんが仲姫(張宝の字)さんを脅威に思って、というのはさすがにないと思うんですけど、そのくらい予想外の理由があるのではないか、と……」
 少しだけ口ごもりつつ、鳳統が言う。
 その言葉に真っ先に頷いた張梁が、腕を組んで考えこんだ。
「確かに、そうね。逆に言えば、それが何なのかがわかれば、状況を打開できる可能性も出てくるのでしょうけど……」
「……それを探っている時間はないと思います」
 深刻な顔で考え込む鳳統と張梁。
 その隣では、張宝が姉に泣き付いていた。
「うわーん、姉さん。人和と士元が無視するよ~」
「よしよし、お姉ちゃんはちいちゃんの味方だよー」


 深刻なのか和んでいるのか、よくわからない光景であったが、他の面々に状況を確認させることは出来たようだった。鳳統の言葉に戸惑いを見せていた者たちの目に理解の光が灯ったのを見て、今度は諸葛亮が田豫に向かって口を開く。
「国譲(田豫の字)さん、騎馬隊はすぐに動かせますか?」
 陳到の下、騎馬隊を掌握している少年は、その端整な容貌に緊張をはらませながらも、しっかりと頷いてみせる。
「はい。すぐにも動かせます。ただ、偵察に放っている十騎ほどがいまだ戻っていませんが」
「帰りを待つ時間が惜しいです。玄徳様たちは先に出てもらって、帰って来た騎兵は、そのまま偵騎として働いてもらえば、時を無駄にしないで済みますね。陳将軍もよろしいですか?」


 諸葛亮の案を受けた陳到は、田豫の顔を見てから、しっかりと頷いてみせた。
「それで良ろしいかと。したが、軍師殿。飛将軍が広陵からこちらに向かったということは、我らと同じ街道を通ってくるということ。このような平坦な地形で、飛将軍の追撃を受ければ壊滅は必至ですぞ。なんぞ策はおありなのですか?」
 呂布が劉家軍の追撃に出たことは明らかであり、そうである以上、その軍は機動力に優れた騎兵で構成されていると見るべきであった。
 河川が入り乱れる淮南の地であるが、広陵から江都までの道程にはさして大きな流れはなく、迂回も渡河も難しくはない。
 街道を通ってきた劉家軍の面々は、誰よりもそのことを承知していた。そして、強行軍によって疲労の極みに達しつつある今の状況で、呂布に捕捉されてしまえば、壊滅は免れないであろうことも。


 陳到の危惧に、幾人かが同意の頷きを示す。
 呂布率いる一万の軍勢とぶつかれば勝ち目はない。何としても呂布の足を止める必要があった。
 鳳統にせよ、諸葛亮にせよ、当然そのことは承知している。だが――
「……策をほどこすだけの余裕が、今の私たちにはありません。それに、敵はあの飛将軍。なまなかな策をほどこしたところで、かえってこちらを食い破る隙を与えてしまうだけです」
 鳳統は小さくかぶりを振ると、呂布の足を止める策がないことを認めたのである。
 事、ここに到って出来ることは、ただ駆けつづけ、江都の城門を潜ることのみ。呂布が追いつくよりも早く。張勲が攻め込むよりも早く。
 それが、劉家軍の軍師が示した、この事態をしのぐただ一つの方策であった。


 ――表向きは、そうなっていた。


◆◆
 


「表向きは? それじゃあ……」
 劉備が目を丸くすると、諸葛亮がややためらいがちに頷いた。
「はい。呂布さんが私たちの追撃を優先する、という可能性もわずかながらありましたから、備えはしてあります。けれど、それも万全の策というわけではありません。雛里ちゃんの言ったとおり、時も兵も、何もかもが足りない状況ですから」
 ここで下手に不完全な策を披露しては、かえって味方の将兵の判断を誤らせることになるかもしれない。それよりは、敵に追いつかれれば敗北は免れないという戦況を将兵に徹底させた方が、結果として助かる人数は多くなるだろう。諸葛亮はそう言ったのである。


 軍議が終わり、将軍たちは配下の将兵に指示を下すためにすでに退出している。
 残っているのは劉備と二人の軍師、そして――
「その大役を担うは、我がいとしのご主人様よん、玄徳ちゃん」
 何故か、劉備の傍にくっついている貂蝉であった。
「ふえ、一刀さん? だ、だって、一刀さんは子義ちゃんと一緒に高家堰に残ってもらってるはずじゃあ」


 高家堰は、広陵を囲む袁術軍の後背を衝くための備えである。
 率いる兵力は千に満たず。対する敵軍は無数と言ってもよい。厳しく、危険な戦いになることは誰の目にも明らかであり、これを切り抜けるためには尋常ならざる智勇が必要となると思われた。
 主力となる関羽、張飛、趙雲の三将を欠く劉家軍は、それゆえ、北海で加わった太史慈を新たな将軍に任じ、高家堰に配して広陵の援護を行うことにしたのである。


 高家堰が死戦の地となることはたやすく予測することが出来た。それゆえ、当初、劉備はこの鳳統の案にためらいを見せていた。
 勝敗定かならぬ戦場に送り出すのとはわけが違う。半ば以上敗北が確定した戦の指揮をとってもらうように頼まなければならない。それも、将軍に任じられたばかりの少女に。劉備がためらったのは、ある意味当然のことであったかもしれない。


 だが、当の太史慈は怯む色も見せず、あっさりと受諾する。
 太史慈が肯った以上、劉備が出来ることはこの新たな将軍を信頼し、任せることだけである。それは劉備も承知しており、実際にそのようにしたのだが、さらに鳳統が太史慈の補佐として北郷の名を挙げた時には、さすがに同じ行動をとることは出来なかった。




 元々、北郷一刀という若者に劉家軍への参加を請うたのは劉備であった。
 北郷はその願いを受け入れはしたが、それは将や兵として命を懸けて戦うことではなく、自分が出来る範囲で、という条件つきのものであった。劉備はこれを諒とし、北郷に劉家軍に参加してもらったのである。
 実際、北郷は刀槍入り乱れる戦場で大功をたてたことは一度もない。戦に先立つ備え、戦が終わった後の始末、軍内における将兵の不満を静め、人心を収攬し、劉家軍が戦いやすい環境を整えることに尽力したに過ぎず、その手を血に染めたことはない――少なくとも、北郷はそう考えており、そのことを気に病むような素振りを見せることが幾度かあった。


 だが、と劉備は思う。
 それは北郷の心得違いというもの。北郷のやったこととて誰にでも出来ることではない。否、むしろ北郷以外の誰に同じことが出来るというのだろう。
 関羽や張飛、趙雲ら勇将たちが戦う舞台を整え。
 諸葛亮、鳳統らの卓越した才を、幼い外見に惑わされることなく全面的に受け入れ、引き出し。
 黄巾党党首として、劉家軍とは不倶戴天の敵となるはずだった張角、張宝、張梁らを味方とし。
 洛陽で、董卓と賈駆を救ったこと。陳到を将軍に推挙したこと。公孫賛から田豫を譲りうけたこと。平原の地で太史慈と出会えたこと。北海を救い、王修が劉家軍に加わったこと。
 すべてが北郷一人の力によって為されたわけではない。だが、北郷がそれぞれの事柄において、浅からぬ役割を持っていたことは疑いようのない事実である。




 ――時々、劉備は想像する。もし、あの時、黄巾党の陣営で北郷たちと出会っていなければ。今頃、自分たち劉家軍はどうなっていたのだろう、と。
 それは、どれだけ考えても答えにはたどり着けない難問であった。
 ゆえに、高家堰に残る太史慈の補佐として、鳳統が北郷の名を挙げた際、すぐに頷けなかったのは、劉備が北郷を信頼していなかったから、というわけでは断じてなかった。
 戦に出ないことを、北郷が気に病む必要はないし、それをこちらが望むことも出来ない。
 北郷がはじめて自ら剣を手にとった徐州での一件――曹家襲撃の後、北郷が心身の平衡を崩したことを知る身としては尚更である。今ではそれなりに持ち直してはいるようだが、乱刃の真っ只中に立てば、再び同じことが起きないと誰に言えるだろう。
 咄嗟に劉備が考えたのは、そういったことであった。



 この時、劉備が気にかけていたのは、あくまで北郷の内面の問題であった。
 高家堰における袁術軍との戦の駆け引きは極めて難しいものとなる。
 おそらくは城壁が死屍で覆われるような死戦の場となり、進むにせよ退くにせよ、容易に運ぶことはありえまい。
 強大無比ともいえる敵軍に挑む圧倒的なまでの不利な戦況。その戦況に身を投じるは、抜擢されたばかりの年若き女将軍。これを補佐する大役に、ろくに兵を率いた経験もない若造を据えようとしているというのに、劉備の胸には、わずかばかりの危惧すら宿ることはなかったのである。 






 いくつかのやりとりが交わされた後、北郷が太史慈の補佐として高家堰に残ることは決定された。
 無論、北郷の承諾を得た上での決定である。
 だが、それはあくまで高家堰を拠点として袁術軍の後背を撹乱する、その役割に対しての決定であったはずだ。
 今の貂蝉の言葉を聞けば、高家堰の太史慈と北郷が果たす役割が、明らかに増している。それも、尋常ではない方向に。


 ――まさか、高家堰の五百程度の兵で、こちらを追撃する呂布の軍を止めようとでも言うのだろうか。
 ――広陵を囲む袁術軍の撹乱にとどまらず、いざ敵が追撃に出た場合の捨石の役割さえ、高家堰は担っているというのだろうか。


 知らず、劉備の胸中にはそんな疑問が湧き上がってきていた。
 素直な劉備のこと、その内心を察することはさして難しくはない。劉備の顔色がかわったことを見て取った鳳統の口がゆっくりと開かれ――その口から出た言葉は、劉備の望んだ答えとは正反対であった。


「玄徳様の、お考え通りかと」


 劉家軍の小さな軍師は、はっきりと頷き、劉備の疑惑を肯定してみせたのである。





◆◆◆





 高家堰、砦外。
 放っていた斥候の報告で、袁術軍の先鋒を率いる呂布が、広陵を攻めることなく劉家軍追撃に移ったことを知ったおれは、思わず天を仰いだ。
 鳳統らとの軍議で、ありうべき事態の一つとして予想してはいたのだが、それで衝撃が和らぐわけでもない。
 間もなく広陵城の陳羣からも知らせが届き、やはり呂布が南に転進したことは間違いないと確認ができた。
 これはつまり――


「私たちがここで呂布を止めなければ、玄徳様たちのお命が危ない、ということですね」
 そういったのは太史慈で、その表情は鋭く引き締まり、年齢に似合わぬ英気を漂わせていた。
 その言葉に、おれは頷かざるを得ない。
 報告では、向かって来る呂布の軍勢はおおよそ一万。陣頭には真紅の呂旗。飛将軍率いる、中華最強の部隊であること、万に一つの疑いもない。
 兵力、錬度、そして率いる将帥。現在の劉家軍では、この軍に太刀打ちできないことはあまりにも明らかであった。


 言うまでもないが、劉家軍という言葉は、高家堰砦の太史慈とおれも含んでいる。だが、だからといって諦めるという選択肢を選ぶことはありえない。
 とどのつまり、敵が強大であろうが、太刀打ちできなかろうが、とにかく戦うしかないのである。それも全滅覚悟で突撃などという勇ましくも悲壮な戦いではない。そんなことをしても、鎧袖一触、蹴散らされて終わるだろう。
 この部隊が求められている戦いとは、勝てなくても構わないから、とにかく敵に喰らい付き、敵の足を止めること。泥に塗れ、草木を食んでも、ただひたすら足掻き続け、敵の注意を惹き付けること。
 一日稼げれば僥倖、一時間でも十分、たとえ一分一秒でも、その分、玄徳様たちが逃げる時間を稼げるのだから、決して無駄にはならないのである。



 そして、言うまでもないが、そんな戦いにあって、城に篭って雑務だけやっている人間など不要である。
「――頼りにしてもよろしいですか、北郷長史(ちょうし)?」
 わずかに表情を和らげた太史慈が、おれの顔をじっと見つめてくる。
 その視線を受け、おれは小さく笑ってみせた。
「お任せください……自信をもって、そう言うことができれば、様になるのですけどね」


 これまで、おれは玄徳様や関羽、あるいは趙雲の下で文官の役割を務めてきたが、それはもっぱら平時のこと。戦場にあっては諸葛亮や鳳統、簡擁らが諸事隙なく物事を進めてきたため、今回のように戦場の真っ只中で文官として主将を補佐するという立場についたのはほぼ初めてのことであった。
 くわえて今回は、篭城、出撃、あるいは逃走と、どのような事態でも有り得る戦況のため、常に太史慈の指示を仰げるとは限らない。
 太史慈自身も将軍に任じられたばかりであり、経験の不足は明らかであった。太史慈の責任感と任務への誠実さは疑う余地のないものだが、戦局のすべてを支えるのは難しいであろう。ゆえに、補佐役がそれなりの地位職責をもって、太史慈を支える必要がある――それが、軍師鳳統の意見であった。 
 
 
 
 そういった諸々を考えあわせ、おれに与えられた役職が『長史』であった。
 長史とは、文の面で将軍を補佐する役職であるが、その職責は軍務にもおよび、いわば高級副官とでもいうべき立場である。
 権限は飛躍的に増大することになったわけだが、当然、責任の重さもこれまでの比ではない。
 ろくに兵を指揮したこともない――正確に言えば、大清河で工作部隊を指揮した経験しかもたないおれが、そんな重要な役目に就いても良いのだろうか。
 はじめはそう戸惑い、また周りも反対するだろうと考えたのだが……案に相違して反対意見は挙がらず、あっさりとおれの抜擢案は通ってしまった。そして、おれも固辞することはしなかった、というより出来なかったのである。
 常の劉家軍の陣容が揃っていたのならば、断固として辞退したであろう。だが、現在の状況を鑑みれば、おれ一人、のうのうと安全な場所で突っ立っていることは許されまい。それくらいは、おれにもわかる。 



 知らず、関羽に言われた言葉が思い出された。
 『これからのこと、といえば察しもつくのではないか?』
 劉家軍にあって、戦いを日常とするのか。
 劉家軍を去って、戦いを避けて過ごしていくのか。
 その覚悟が定まったかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。状況に流されているだけかもしれない、と思わないではない。


 ――それでも。
「やらねばならないことと、やりたいことが重なっているのは、間違いないからな」
 ――戦うことを決めたおれ自身を、今は素直に認めよう。


 関羽や張飛、趙雲はいない。
 鳳統、諸葛亮、賈駆もいない。
 なにより玄徳様がおられない。
 それはすなわち、戦うことも、策を練ることも、決断することさえも、すべてここにいる者たちだけで行わなければならないということである。
 それは当然のことなのだが、その当然のことが砦にいる五百の将兵の生死を決めるのだから、その重責は生半可なものではない。
 今まで感じたことのない奇妙な圧迫感を覚えながら、おれはふと思う。玄徳様たちは、この重みを感じながら、これまでずっと戦っていたのだろうか、と。
 そして、そう思ったとき、不意に自分が何かに手をかけたような気がしたのだが――


 それは次の瞬間、あっさりと霧消する。緊張もあらわに、報告の兵がこちらに駆けて来たからである。
「申し上げます! 斥候が帰ってまいりました」
「敵の動きは?」
 間髪いれず、太史慈が問いを向ける。
「はッ。敵軍は騎兵を主力としており、おそるべき速さで江都へと向かっています。このままいけば、明日にはこの砦近くまで達するものと思われます!」
「――子義殿」
 兵士の報告を聞き、おれは隣に立つ女将軍に視線を向ける。
 俺の視線の先で、黄金色の髪をした少女は、深く頷くと、高家堰砦へと戻るために身を翻す。
 そのすぐ後に続こうとしたおれは、ふと洪沢湖の湖面に目を向ける。
 清澄な湖水の上に、数羽の水鳥が身体を浮かべている。吹き付けてくる風は、冷たくはあったが、どこか清々しい涼気を感じさせた。
 間もなく血と屍で覆われることになるとは信じられない穏やかな光景から、おれは半ば無理やり視線をひきはがす。そして、太史慈の後をおって砦への道を歩きはじめた。
 今は、物思いに耽っている暇はないのだと、自分自身に言い聞かせながら。






◆◆◆





 
 東の空がようやく白みはじめる時刻。
 広陵と江都を結ぶ街道に、その軍勢は姿を現した。
 高々と翻る『仲』の旗は、この軍がどの勢力に属するかを雄弁に告げている。先頭を走る騎馬隊の将兵は、皆、一様に白い甲、白い面をかぶっており、彼らが一糸乱れぬ統制を保ったまま、暁闇の中を馬蹄を響かせて疾駆する様は疑いなく異様であったが、同時に奇妙な美々しさを感じとる者もいたかもしれない。  


 仲帝国皇帝たる袁術の親衛隊『告死兵』、それはすなわち仲国最強の精鋭部隊であることを意味する。その数はおおよそ一千。この部隊が一万の軍勢の中核となって、ここまで淮南の地を朱に染めてきたのである。
 戦えば勝ち、攻めれば奪る。数にして十を越える戦にすべて勝利してきた袁術軍の士気は高く、将兵の戦意は奔騰せんばかり。自軍の半分にも満たない雑軍を潰すなど、片手間で片付く任であると考える者は少なくなかった。


 やがて東の空の明るみが増し、稜線の彼方から差し込む曙光が、淮南の大地を照らし出した。
 袁術軍の姿が、ゆっくりと暁の光の中に浮かび上がっていく。
 先頭を走る告死兵の幾人かが、仮面の奥で眩げに目を細めた、その瞬間だった。
 黎明の空に顔を覗かせていた朝陽の中に、黒点が混ざる。
 その黒点はたちまちのうちに数を増し、まるで染みのように暁光の中に広がっていく。
 ――風を切り裂く飛矢の音が、黒点の正体を袁術軍に教えた。告死兵らは咄嗟に盾を構えるが、それよりもわずかに早く、潜んでいた劉家軍が放った矢は、天を覆う鉄色の雨となって、告死兵に降り注いでいったのである。




 数百の矢羽の音が連鎖し、交錯する。告死兵の甲冑は厚く、易々と矢を通すことはなかったが、それでも鈍色の矢雨の下、数十の告死兵が落馬していく。彼らは再び立つことがかなわなかった。
 まさか、逃げる劉家軍が、広陵からさほど離れていないこの地で待ち伏せしているとは考えていなかった袁術軍は、思わぬ痛撃を喰らう形となったのである。
 突然の奇襲に驚いたのは人間たちばかりではない。不運にも矢を受けてしまった馬たちが甲高い嘶きをあげて暴れまわる。すると、無事である馬さえ動揺したように馬体を跳ねさせ、告死兵は戦うよりも前に、馬を御すことに集中しなければならなかった。
 待ち伏せしていた劉家軍に、この好機を見逃す理由はない。第二射、第三射が続けざまに放たれ、袁術軍の最精鋭たちは次々と地面に倒れ伏していく。
 この混乱は、告死兵以外の部隊をも巻き込み、加速度的に袁術軍を包み込んでいく。動揺を禁じ得ない彼らに、矢は容赦なく降り注ぎ、袁術軍の混乱がさらに深まるものと思われた、その時。


 轟、と。
 旋風が巻き起こった。


 長大な戟が、唸りをあげて宙を切り裂き、十数本の矢がまとめてなぎ払われたのである。
 降り注ぐ鉄雨のただ中にあって、その人物は、毅然として揺らぐことがなく、その手に持つ戟が振るわれる都度、矢は力なく地面に落ちていく。
 その身を包む白の甲。その顔を覆う白の面。いずれも、なんら他の兵とかわらない。
 されど、この人物こそが告死兵を率いる将であることを悟らぬ者はいないだろう。


 燃えるような赤毛の馬に跨って、手に構えるは方天画戟。
 背後ではためく牙門旗は、真紅の布地に呂の一字。


 すなわち――
「……飛将軍」
 奇襲を仕掛けたはずの側の将兵の口から、怯んだような声が漏れ出でた。すぐ近くから、ごくり、と唾を飲む音がする。    
 今、劉家軍の将兵は、自分たちが中華最強の武将と対峙していることを総身で感じ取っていたのである。




「ふむ……」
 おれは腕組みしつつ、首をひねる。
 呂布の鋭気と武威を前に、味方の将兵が息を飲んでいる最中、不思議とおれは平静だった。
 もちろん、呂布の姿に何も感じないわけではない。今だとて、鉛でも背負わされたような重圧を感じてはいる。
「……それでも、思ったほどじゃないなあ」
 将と兵とを問わず、戦塵を潜った経験でいえば、おれは劉家軍の中でも下から数えた方が早いだろう。そんなおれが、どうして呂布の威迫に震えや怯えを見せずにすんでいるのだろう。
 それは、曹家襲撃にはじまる一連の戦況によって、これまで秘されてきたおれの資質が、急速に開花しつつあったから――などという理由では、もちろん、ない。


 少し考えて、おれはたぶん正解であろう答えにたどり着く。
 人間は慣れるものである。呂布の鋭気を浴びせられたとて、それに準じるものを頻繁に味わっていれば、平静を保つことくらいはできるようになるのだろう。
「――まさか、関将軍に吹っ飛ばされた経験が、こんなところで役に立とうとは」
 この場合、不幸中の幸い、という言葉は誤用なのだろうな、などと下らぬことを考えるあたり、我ながら余裕があるのかもしれない。ともあれ、おれは後背の味方に合図を送る。
 ここでおれが声を励ますよりも、はるかに早く将兵の動揺を消し去ることが出来るものを、おれは玄徳様から預かっていたのである。それはすなわち――
「劉旗を掲げろッ!」
 牙門旗とは、すなわちその軍の誇りであり、命である。これを守ることの意味は、あえて言葉にするまでもあるまい。呂布がいかに強大といえど、その威に怖じて牙門旗を捨てるような将兵が劉家軍にいるはずもなかった。
 風にはためく緑地の劉旗を仰ぎ見る将兵の眼に力が戻ってくる。それを見て、おれは自分の考えに間違いがないことを確信した。



 再び鋭気を取り戻した味方の将兵に向けて、おれは再度の斉射を命じるべく、口を開く。
 高家堰砦を巡る死闘の、これが始まりであった。

 




◆◆◆





 少し、時を遡る。
 太史慈と北郷が、呂布の部隊とぶつかる以前。
 江都を目指す劉家軍の本営で、軍師鳳統は主である劉備に向けて、不意にこんなことを口にした。
「一刀さんは――」
「え?」
「一刀さんは、人の才を見抜く天賦の目を持っています。私や朱里ちゃんみたいな女の子が、軍略に通じているといっても、誰も本気にはしてくれません。知識を示したとしても、それは書物の受け売りだろうと、本気でとりあってもらえません。事実、一刀さんや玄徳様たちと出会うまではずっとそうでしたから」
 当然、実力を示すような機会が与えられるはずもなく、それゆえに二人は荊州から遠く河北まで旅してきたのである。自分たちの力を認めてくれる英主を求めて。
 鳳統の言に、諸葛亮が複雑な顔で、そっと頷いて同意を示した。


 鳳統の言葉は続く。
「一刀さんは、まるでそうすることが当然だというように私たちを軍師として扱ってくれました。私たちだけじゃありません。陳到将軍を推挙し、張角さんたちを迎え入れ、王修さんのような、本人ですら己が才にはっきりと気付いていない人のことまで、はっきりと見抜いてしまう。それが女性でも、自分より年が若くても、まったく気にせず敬意をもって接してくれる。そうして、その人たちが動きやすいように環境を整え、実力を発揮できるようにしてくれる」
 それが、どれだけ難しいことなのか。劉家軍の多くは、そのことに気付き、それを成している人物の価値に気付いていることだろう。気付いていないのは、多分、北郷本人くらいではなかろうか。


「けれど、その一方で自分自身のことに関して、一刀さんはほとんどわかっていないんだと思います。死にたくない、という考えはあったにせよ、周囲の人たちの力を知り、自分を知らない一刀さんは、自分が戦ったり、策を練ったりするよりは、周りに力を発揮してもらう方が良いのだと疑いなく信じていて、これまでずっとそう行動してきたように思うんです」
 それが間違いである、などと言うつもりは鳳統にはない。
 前述したように、これまでの北郷の役割とて、誰にでも出来ることではないのだから。


 ただ、軍師として疑問に思ったことはあった。
 北郷自身の力というのは、どの程度のものなのだろう、と。
 日頃の言動の端々から、北郷が犀利な一面を持つことは、ほぼ確実である。大清河の戦いに先立って、すべてとは言わないまでも鳳統の策に追随してきたことからも、それは明らかだった。
 一方で、武人としてはどうなのか。
 その一端を知ったのは、先の曹家襲撃の時である。あの時、関羽や張飛、趙雲が傍にいなかった北郷は、おそらくはじめて己を頼りに戦いに臨んだはずであった。
 結果として、悲劇を防ぐことはできなかったかもしれない。それでも、あの時の北郷の行動が無駄であったとは鳳統は思っていない。
 その後も、鳳統は北郷を気遣いつつも、その言動を注視し――いつか、鳳統は北郷一刀という人物に対し、一つの確信に近い推測を育むに至っていた。


 迷いもし、ためらいもした今回の高家堰砦に関わる人選、鳳統が北郷を選んだのは、その推測と無関係ではなかった。
 もちろん、鳳統は自分が高家堰に行けるものであれば行きたかった。しかし、能力的にはともかく、体力的に鳳統や諸葛亮、あるいは賈駆では無理がある。最悪の場合、高家堰を捨てて、洪沢湖を泳いで逃げるような事態もありえる以上、足手まといになりかねない少女たちが出向くわけにはいかなかった。
 追い詰められた状況の中で活路を見出すために。最善の結果を導くために――太史慈と、そして北郷に重任を委ねざるを得なかったのである。




 北郷に重任を与えたのは、北郷を信頼するゆえ。
 鳳統の心底を知った劉備は納得して、その場から姿を消した。これ以上、話に時間を割いている余裕がなかったということもあった。
 ――だから。
 劉備は自分が去った後、鳳統の口から漏れた言葉を聞くことはなかった。
「……ねえ、朱里ちゃん」
「なあに、雛里ちゃん」
「わたしって、ひどいよね……」
 唐突な鳳統の言葉であったが、諸葛亮は何も答えようとはしなかった。あるいは鳳統の煩悶に、それとなく気付いていたのかもしれない。気遣わしげな目で、鳳統を見つめている。
「……関将軍も、張将軍も、趙将軍さえいない。水に囲まれた砦で、攻めるにも退くにも、逃げるにも一筋縄ではいかないから、体力が劣る私たちでは行くことが出来ない……今、一刀さんは戦わざるを得ない状況に陥ってる」


 北郷が自分から戦いを望むはずがない。状況が、北郷にそれを強いているのだ。
 しかし、北郷は長史就任も、高家堰砦に残ることもあっさりと肯った。曹家襲撃から、さほど時が経ったわけではない。心身の平衡を崩してしまった影響は、まだ少なからず残っているはずなのに北郷がそうしたということは、今の戦況で動ける者が自分たちしかいないということを理解してくれていたからであろう。



 劉家軍の軍略を司る身として、それは感謝すべきことだった。
 同時に、戦に関わらないと言明している人を、戦場に追い立ててしまったことに、慙愧の念をおぼえるべきであった。 
 だが、と鳳統は俯く。
 今、自分が感じているのは、そのどちらでもない。
「……期待してる。今の状況に胸が弾んでる――ううん、そんな綺麗な言葉じゃ嘘だよね。わたし、ほくそえんでるよ。自分が意図したわけでもないのに、願ってもない戦況になってくれたって」
「雛里ちゃん……」
 両の拳を握り締め、力なく俯く親友の姿に視線を注ぎながら、諸葛亮は悲しげに見つめる。
「……一刀さんは、私は化け物なんかじゃないって言ってくれたけど。でも、やっぱりおかしいよね。その人が死地に立ってるのに、ううん、その人を死地に追いやっておいて、これで一刀さんが誰に遠慮することもなく力を揮うことが出来るってわくわくしてるなんて」


 実績こそ少ないが、太史慈の実力は疑う余地がない。
 一方の北郷は、こと戦に関しては今回が初陣といえるだろう。鳳統は、北郷を案じている。それは間違いない。でも、それ以上に期待している自分を、鳳統は自覚せざるを得なかった。
 関羽や鳳統らの実力を疑うことなく信じているからこそ、自身の力を示そうとしなかった人が、一体どれだけの器を秘めているのか。ようやく、それを見ることが出来る、と。
 今、劉家軍は文字通り存亡の危機に立たされているが、逆にいえば、これほどまでに追い詰められなければ、北郷が自身で兵を率いるような刻はついに来なかったであろう。
 鳳統にはそれがわかる。わかるがゆえに、鳳統の中の軍師としての意識は今の戦況にあってなお心を浮き立たせているのである。



 ――なんて醜い。
 唇をかみ締め、俯く鳳統。
 諸葛亮は、鳳統が内心で自らをそう責めていることを、掌をさすように理解できた。
 だが、諸葛亮がそれを否定したところで、鳳統の自責の念は薄らがないだろう。どれだけ真摯なものであろうとも、親友であるがゆえに、その言葉は慰めへと変じてしまうからである。


 だから、諸葛亮は自身の言葉ではなく、話題の主となっているその人物の言葉で、鳳統の憂いを払うことにした。
 諸葛亮は、震える鳳統の手を、自らの手で包むように握り締めると、ゆっくりと口を開く――




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/01 11:04


 呂布の軍師である陳宮は、高家堰砦の存在は掴んでいたものの、そこの守備兵が少数であることから、まさか砦外に討って出るとは考えていなかった。まして、陣頭には名高い呂布の牙門旗があるのだから尚更であろう。少数の兵で飛将軍の精鋭に挑む。それは玉砕と何らかわらぬ行いであるはずだった。
 かりに高家堰の兵が討って出たところで、呂布率いる告死兵であれば容易く蹴散らせる。それゆえ、陳宮は劉家軍本隊の追撃に眼目を据えていた。広陵奪取は于吉によって待ったをかけられてしまったが、劉家軍壊滅は仲帝じきじきの厳命であり、これを果たせば呂布の武名と功績は誰の目にも明らかとなるはずであったからだ。


 なぜ袁術や于吉が、たかだか数千の徐州の敗残兵を気にかけるのか。
 それが気にならなかったといえば嘘になる。だが、比類なき大功をたて、淮南の地における呂布の武名を確固たるものとしたい陳宮にとって、その疑問は追求するだけの価値を持っていない。
 袁術の命令に逆らい、自立するだけの実力は、今の呂布にはまだない。この戦は、呂布が再起するための力を蓄える第一歩であり、現段階で仲と袂を分かつことはできない。であれば、その命令に速やかに従い、返す刃で広陵を奪えば良い。
 淮南の富を集める広陵は、再起の地として相応しいと陳宮の目に映っていたのである。


 ――だが、戦況は陳宮の思ったとおりには進まなかった。


 暁光を裂いて飛来する矢で思わぬ痛撃をくらう形となった呂布軍。しかし、それにともなう混乱は呂布の威風によって一掃された。
 怯んだように萎縮する敵軍を見て、呂布軍が反撃に移ろうとした矢先。
 潜んでいた敵部隊の中央に、高々と牙門旗が掲げられたのである。竜の躍る緑地に記されるは『劉』の文字。
 牙門旗は、軍の指揮官の所在を示すもの。劉家軍を率いる劉玄徳の旗がここにある、ということは――


 思わぬ状況に戸惑う陳宮の頭上に、一度は勢いを緩めた敵の矢が再び降り注ぐ。
 数十、数百の矢の雨に晒され、知らず陳宮は身を竦めてしまう。まるで敵が陳宮ひとりを狙っているかのような、矢の豪雨であった。
 無論、その陳宮の考えは間違いである。劉家軍の狙いは陳宮ではなく、陳宮の隣に立つ飛将軍呂奉先であった。
 だが、降り注ぐ鉄の雨はことごとく呂布の戟に弾かれ、地に落ちていく。呂布はもちろん、陳宮も傷一つついていない。
「れ、恋殿、ありがとうございます」
「…………ん」
 陳宮の声に、呂布は小さく頷いてみせるが、その目は鋭く研ぎ澄まされたままであった。
 その理由を、すぐに陳宮は察する。何度目のことか、敵が斉射を加えてきたのだ。
 何度射ようと、矢は呂布に届かない。
 そう敵軍を罵倒しようとした陳宮だったが、周囲の状況を見て一つの事実に気がついた。
 それは敵の矢が、呂布のもとに集中しているということである。
 将帥を射落とせば、軍の混乱は避けようがない。ゆえに敵が呂布を狙うのは当然ともいえるのだが、呂布が矢をものともしないことは、ここまでの呂布の様子から、敵軍とて気付いているはず。にも関わらず、懲りることなく矢を浴びせてくる敵の狙いは、すなわち――


「ふん、恋殿の動きを封じるつもりですか。身の程を知っている、と褒めておきましょう」
 しかし、と陳宮は敵の迂遠さを嘲笑う。
「元々多くもない戦力を恋殿の足止めにつかえば、他がお留守になってしまうのですよ。恋殿が手塩にかけて鍛えたこの軍を甘く見るな、なのですッ!」
 その陳宮に応えるように、態勢を立て直した告死兵の一部が、劉家軍と自軍との直線上を避けるように巧妙に弧を描きながら敵部隊へと突進していく。
 呂布に向けて矢石を集中している以上、その他の部隊への攻撃は手薄にならざるを得ず、そんな中途半端な攻撃で精鋭たる告死兵を止められるはずがない。
 刻一刻と明るさを増していく陽光の中に、浮かび上がるは『高』の旗。
 伏兵に襲い掛かる袁術軍の陣頭には戟を振りかざす高順の姿があった。



◆◆



「北郷様、敵部隊、突入してきますッ! 旗は『高』、敵将は高順です!」
 その報告を聞いたとき、おれは一度だけ奥歯をかみ締めたが、動揺をあらわにすることはなかった。
 すでに視界に高順の旗を捉えていた、ということもあるが、それ以上に、こうなることをあらかじめ覚悟していたからでもある。
 知の陳宮と、武の高順。呂布麾下の双璧として、その名が語られるようになったのは、さして新しい話ではない。
 高順という名を聞いて、おれが真っ先に思い浮かべたのは洛陽で出会った黒髪の少女のことである。人探しのために洛陽に残った高順は、どうやら無事に探し人に逢えたらしい。
 それは喜ぶべきことだった。しかし――
(……出来れば、別人であってほしかったんだけどな)
 呂布と対峙すると決まった時から、この時が来ることを半ば確信していたが、はじめて実戦を指揮するときに、知り合いと矛を交えることになろうとは。


 だが。
「弓隊は別働隊に構うな、ひたすら呂布と赤兎馬を狙い続けろ! 当たらなくてもいい、ただ矢を途切れさせるな! 河北の平原なら知らず、淮南の湖畔では赤兎馬といえど思うようには駆けられん!」
「は、ははッ!」
 呂布に動かれれば、万事窮する。おれは率いる部隊の半数以上を、呂布の足止めに使っていた。
 無論、二百の弓隊程度で呂布の動きを完全に封じるなど出来るはずもないが、地の利はこちらにある。矢と水をもって、飛将軍の動きを制さなければ、元々数で劣るこちらは、路傍の小石のように蹴飛ばされて終わってしまうだろう。


 だが、呂布に数をかければかけるほど、他への手がまわらなくなるのは当然であった。
 たとえ呂布を足止めできたとしても、他の部隊に打ち破られれば意味はないのもまた当然。
 ゆえに、おれがやるべきことは、突入してくる高順を止めること。知り合いだからといって手心を加える余裕はないし、そもそもおれにそんな器用な戦ができるはずもない。
 なにより、とおれは敵部隊に視線を注ぐ。
 先頭に立って、小柄な身体に不似合いな大きさの戟を振りかざす仮面の将を見て、思う。
 呂布の下にあって、戦いと訓練に明け暮れ、その名を知られるようになった高順は、こと戦に関しては、とうにおれの上を行っている。
 それが高順にとって本意であったかは知る由もないが、洛陽での前身を知っているからといって、あの頃と同じ心持で矛を交えれば、おれは秒の単位で死屍に変じよう。
 胸を借りる、そのくらいの気持ちで当たらねば勝機はおろか、抗うことさえ出来ないに違いないのである。
 おれは苦笑して言った。



「というか『陥陣営』に手心を加えるとか、調子に乗るにもほどがあるよな――長史になったとはいえ」



 ――しんと静まり返るおれの周囲。戦いの熱に浮かされていたはずの劉家軍の将兵が、なんとも言えない視線でおれを見る。
 兵の一人がぽつりと呟いた。
「大将」
「……なんだ?」
「戦いの最中に気勢を上げて兵を鼓舞する将は何人もいやしたが……駄洒落を言って唖然とさせる人ははじめてでさあ。せめて笑える冗談をいってくださいや」
「……申し訳ありません」


 冬の早朝、湖の方角から吹き付ける寒風が、一際強く将兵の心身を打ち据える。
 今まさに干戈を交えているというのに、わがことながら、何をやっているのだか。関羽あたりに見られた日には、烈火のごとく叱られそうであった。
 とはいえ、将としての実績は皆無といえど、将兵の間でおれはそれなりに知られている。劉家軍の中ではもう古参と言っても良いし、将兵の不満を聞き取り、解消する役もしていたから、結構顔見知りも多い。
 今回、おれが突然に兵の指揮をとることになったことについて、将兵から大きな不満が出なかったのは、そのあたりの理由であろうとおれは考えていた。無論、忠誠を誓う玄徳様の命令である、という点が何よりも大きいのは間違いない。



 一応言っておくと、まったく不満が出なかったわけではない。名を知られているというのは、良い意味もあれば、悪い意味もある。玄徳様や張角と親しいおれには無数の嫉視が向けられていたし、それはいつぞやの恋人宣言の後、ほとんど物理的な圧迫感をともなったものに急成長したりもした。
 今回の選抜は『泳げる者』という大前提があったため、河北出身者が多い元黄巾党の兵士は少なかったが、徐州兵の中にも張家三姉妹のファンは少なくないし、玄徳様や関羽、あるいは諸葛亮、鳳統といった軍の主要な人物と距離の近いおれを妬む者は結構いる。
 そして、これは単に色恋の面だけに限った意味ではない。
 それゆえ、おれに近づいて、彼女らと親しくなろうとする者もいたりするのである。まあ、おれは張角たちの傍仕えをした経験から、そのあたりの見極めには長けているから、そういう人たちには丁重にお引取り願うのが常だったが。



 などと考えている間にも、高順率いる騎馬隊は流れるような動きで二手に分かれていた。高順の率いる部隊は一直線にこちらに向かい、もう一隊は間合いをはかるように移動しつつ、馬上、弓に矢をつがえている。
 おれの見る限り、敵の騎馬に鐙はない。にも関わらず、騎射を行う。ただそれだけで、この部隊の錬度が知れた。
 向かって来る高順の表情は仮面に覆われて定かではないが、その動きに遅滞は感じられない。内心がどうあれ、高順がおれ同様、この戦いに専心しようとしているのは確かだと思われた。
 おれは敵騎馬隊の猛進を見て、小さく呟く。
「望むところ、と言えれば格好がつくんだが――おれじゃあ役者不足もいいところだな」
 だが、易々と突破されるつもりはない。この戦の敗北は、おれの知る多くの人たちの破滅に直結する。


「盾、構えッ!」
 おれの命令に応じて、周囲の将兵が一斉に盾を構える。
 この場の三百のうち、二百には弓を持たせ、ひたすら呂布を狙うように命じてある。彼らは今なお矢継ぎ早に矢を放ち続けており、側面から騎射を浴びせられれば、たちまち乱れたってしまうだろう。
 おそらく高順は、自分の部隊に思ったほど攻撃が向かないことで、こちらの狙いに勘付いたはずだ。敵軍から放たれる矢の多くは、弓部隊に向けられたものであった。
 弓部隊の横面を守るために構えられた盾の表面に次々と矢が突き立っていく。見当はずれの方向に飛んでいく矢は皆無。たちまち、ハリネズミのようになっていく盾に、おれは一瞬寒気にも似たものを覚えたが、その感情が顔に出る前に必死に飲み下す。
 指揮官の動揺は、たちまち配下の将兵に伝わっていく。その程度のことは心得ていた。
 まあ、心得ていたからといって、実際に出来るというものでもないのだが、この時にかぎってはなんとか成功したようだった。



 殺到してくる敵騎馬隊。
 河畔に生える丈高い草むら。そこがおれたちが潜んでいた場所だった。
 敵部隊の先頭が、馬蹄を響かせて草むらに突入してきた、その瞬間。
 突如、草むらが盛り上がったと見えた途端、壁となって騎馬隊の進路を塞いだのである。
 馬が悲鳴をあげて棹立ち、乗っていた騎兵が驚愕の声をあげながら落馬してく。そんな光景が各処で見られた。
「な、なんだッ?!」
 突然乱れたった前衛に、後続の騎兵らは慌てて手綱を引くが、馬が急停止など出来るはずもなく、後続に乱れが生じる。


 その隙を見逃す理由はない。おれは盾を構える百名に向けて命令を下す。
「半数は盾を構え続けろ、残りは弓矢、放てェッ!」
 おれの命令に応じて敵部隊の向けて矢が斉射される。その密度はさきほど呂布に向けて放たれたときほどではなかったが、高順の部隊が接近していた分、命中率は大きく上回る。
 すると、このままでは射られるのと待つばかり、と思ったのだろう。敵の一部隊が強引に突破をはかってきた。
 こちらが用意していた防壁が即席のものであり、抜くことは可能だと考えたのかもしれない。


 事実、それは即席でつくったものであって、冷静に対応されればあっさりと突破される類のものであった。
 だが、防壁、というわけではない。馬での強行突破はこちらの思うつぼである。
「なッ?!」
 悲鳴にも似た、馬の甲高い嘶き。否、それはうたがいなく悲鳴であったのだろう。騎手をふりおとさんばかりに棹立った軍馬の首と前脚からは血が流れている。
 それは逆茂木(さかもぎ)と呼ばれるものだった。先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵のことである。かつて濮陽城の戦いで、呂布の侵入を食い止めるために曹操軍が用いたこともある。
 おれはこの逆茂木に、目くらましのために幾重にも草をかぶせ、敵の侵入と同時にこれを発動させたのである。強引な突破をはかった騎兵は、槍衾に向かってみずから突っ込んでいったも同然であった。


 乱れ立つ敵部隊を見て、好機と感じたおれがさらに命令を下そうとした時だった。
「騎射、そのまま続けなさい! 敵は騎馬への備えがある。私たちは下馬して攻撃を続行します。まだ罠が仕掛けられているかもしれません、先頭の者は注意して進みなさい!」
 聞き覚えのあるその声音が誰のものか――考えるまでもない。
「高順、か。やっぱり」
 おれの呟きに、周囲の兵が怪訝そうな顔をする。何を今さら、と思っているのだろう。
 その疑問はもっともなので、おれはそ知らぬ風を装って剣を抜く。
「ほ、北郷様?」
「もう少し、騎馬に拘ってくれたら良かったんだけどな」
 高順の言葉どおり、逆茂木の後ろには乱杭を敷き詰めてあったりする。濮陽城の曹操軍の猿真似であり、ひっかかってくれれば儲けもの、くらいに思っていたが、馬ならともかく、徒歩ではあっさり気付かれてしまうだろう。猿真似は、所詮、猿真似であったようだ。


 そうとわかれば、これ以上、この戦いを続ける意義は薄い。
 元々、たかが三百で敵を撃破できると考えていたわけでもない。この戦いで肝要なのは、呂布の目を高家堰砦に向けさせることである。
 玄徳様の存在を示す牙門旗を拝借したのもそのためであった。だが、高家堰砦に牙門旗を翻らせるだけでは、呂布が計略を察して素通りしてしまう可能性がある。そうなってから追撃しても、もはや手遅れであろう。ゆえに、より確実に敵をひきつける策が求められた。
 それが、この奇襲である。
 己が武に自信を持つ者であれば、この程度の小勢にいいようにかき回されれば屈辱をおぼえるだろう。そこに敵の牙門旗を見れば尚更である。
 無論、それでもなお、敵が追撃を優先するという可能性もあったが、その場合でも多少なりとも時間は稼げるし、呂布にしても高家堰砦に兵を割く必要を認めるのではないか――否、認めさせるくらいの戦いをしなければならない。


 ここまでの戦いが、敵軍にどのような印象を与えているかは定かではない。まあ、おおかた小ざかしい策を弄してばかりのこちらに怒り心頭ではなかろうか。それならそれで、怒りにまかせて高家堰砦に寄せてくれる可能性も出てくるから問題はない。
 だが、確実を期すために、もう一押しするべきではないか。後から考えれば、それはこじつけじみた言い訳であったが、この時のおれはそこまで考えが至らなかった。
 それゆえ――
「高順ッ!」
 大きく、鋭く。おれは間近に迫った仮面の敵将に呼びかけを放ったのである。


 一瞬。その身体が震えたように見えたのは、気のせいだったのだろう。そんな微細な動きが見て取れるほど目は良くない。それでも、おれの視界の中の高順は、確かに緊張したように映ったのである。
「……北郷さん」
「探し人は見つかったみたいだな。まずは良かった」
「……はい、おかげさまで」
 矢の雨が降りしきる中での会話の内容ではない。敵、味方を問わず、兵たちは戸惑ったように動きを止めていた。
「多くは問わない。が、一つだけ答えてほしい。あの約定を、覚えているのか?」


 おれの言葉に、高順は沈黙をもって応えた。
 言うまでもなく、洛陽での別れ際、玄徳様と高順がかわしていた約束のことである。ここで玄徳様の名を出せば、高順にいらぬ疑いがかかるため、簡略に『あの約定』と言ったが、高順がおれの意を悟らぬはずはない。
 覚えていようが、忘れていようが、おれたちが戦わなければならないのは事実である。それでも、それを確認することに意味はあると、おれは思う。
 高順が答えられないというのであれば、それは――


 と、おれがそこまで考えた時だった。
 不意に、高順は戟を持つ手を放し、右腕を顔に持っていく。
 そして、ためらうことなく仮面をはずすと、その下から出てきたのは間違いなく洛陽で出会った黒髪の少女の顔であった――にも関わらず。
 一瞬だが、おれは目の前の人物が、おれの知る高順とは全くの別人であると思ってしまった。もちろん、すぐにかぶりを振ってその思考は払い落としたが、しかしそのくらい高順は変わっていたのである。
 姿形ではなく、その浮かべる表情が――かつては動物たちの中で煌いていた両眼の生気は、今はどこにも見当たらない。黒い、昏い、眼……
「――覚えています。果たせないと、思いますが」


 何があった、と問うことは出来なかった。敵と戦い、敵を殺し、味方を殺されて、大陸をさまよってきた呂布。その呂布と行動を共にしていたということは、高順もまたその道を通ってきたということだろう。高順の言葉を聞いたとて、今のおれでは何も応えられない。
 ゆっくりと、高順が言葉を紡ぐ。
「――姓は高、名は順、字は伯礼。劉備軍殲滅の命を受け、ここに任を果たします。北郷さんがそれを止めようというのであれば、北郷さんも……」
 殺します、と。
 歴戦の風格さえ漂わせながら。
 高順の暗い眼光が、確かにそう告げていた。




 ――だが。


「高、伯礼、か」
 おれははじめて聞く高順の字を、舌で転がすように呟いてみる。


 ――おれの目には、どうしても。


「良い名だな」
 出てきた感想は、ただそれだけ。それ以外に言いようがない。


 ――高順が、泣いているようにしか、見えなかった。




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/06 21:17


 高家堰砦外周。
 城壁に高々と翻る劉旗を、高順はぼうっと見つめていた。
 そこにはつい先刻まで繰り広げられていた、激しい戦いの痕跡がまざまざと残っている。
 高順の視界に映る砦は一見したところ、高い城壁や投石器などの守城兵器を持たない小砦であるように思われた。しかし、実際に高家堰砦に攻め寄せた呂布の部隊は、この砦が意外なほどに攻めにくい構造をしていることにたちまち気付かされる。
 呂布の部隊は、それを知る代償として、少なからぬ死傷者を出していた。


 洪沢湖の湖底から浚渫した泥を用いてつくられた堤防と、湖水を引き入れてつくられた水路は治水のためのものであったが、その実、攻め寄せる敵兵が一直線に砦に向かうことが出来ないよう巧妙につくられた隘路(あいろ)であった。
 少数の人数であればともかく、数十、数百の軍勢が押し寄せればたちまち渋滞を起こし、敵と戦う前に味方同士で混乱を起こしてしまう。無論、その動きは城壁上から克明に捉えられ、狙い済ました矢の斉射によって、寄せ手は避けることもできずにばたばたと倒れていった。


 水路は思いのほか深く、洪沢湖の流れを再び淮河に注ぐように作られているため、水の流れもある。埋め立てて進撃することは不可能ではないが、通常の城や砦の堀に比べれば、その手間はかなりのものとなるだろう。
 城内からは、絶えず矢と熱湯が降り注ぎ、時には煮えたぎった油や粥までが寄せ手の頭上に落ちてくる。篭城勢にとっては貴重であるはずの燃料や食料まで投じる守り手側の戦い方に、呂布の部隊は呆れと、そしてかすかな警戒をかき立てられた。
 後先考えていないように見える防戦の仕方から、考えられることは幾つかある。もう落城は免れないと自棄になったのか。あるいは、こんな防戦が可能であるほどに豊富な物資が蓄えられているのか。
 それとも――



「…………高順」
 不意に背後から声をかけられた高順は思わず背筋を伸ばし、慌てて振り返る。戦場で気を抜くなど言語道断の所業である。まして、ここまで近づかれるまで、まるで気配に気付いていなかったとあれば尚更だった。
 だが、振り向いた高順は、少なくとも後者に関しては仕方がなかったのだと悟る。そこにいたのは、中華最強の武人であったからだ。そして、その足元には一匹の犬が尻尾を振って立っていた。
「わんッ」
「何をこんなところで油を売っているのですか、おまえは」
 そして、その後ろには呂布の半分ほどの背丈しかない、小さな軍師が唇をとがらせていたのである。


「呂将軍、公台様、それにセキトまで。どうなさったのですか」
 足元に駆け寄ってきたセキトの頭を、高順はしゃがみこんで撫でてやる。嬉しそうに尻尾を振るセキトの姿を目を細めて見やりながら、高順は不思議に思って問いかけた。
「どうなさった、ではないのです。高順の姿が見えないから、恋殿が心配して探していたに決まってるのですッ。ねねはそれについてきただけで、他意などないのですよ!」
「…………ねねも、心配してた。ね、セキト?」
「わんッ」
「な、何を仰っているのですか、恋殿。高順がどこで何をしてようと、ねねの知ったことではないのです!」
 心外だ、と声を高める陳宮を見て、呂布はふるふると首を左右に振る。
 高順に頭を撫でられながら、もう一度、セキトがわんと鳴いた。


◆◆


 黎明を裂いて行われた敵の奇襲によって、呂布の先陣は五十名弱の戦死者と、それに倍する負傷者を出した。一万という兵数から見れば、さしたる痛手ではない。だが、死傷者のほとんどが告死兵であり、総数一千の告死兵、その一割の戦闘力が奪われたと考えれば、小さからぬ痛手を被ったと言える。
 敵軍は奇襲と罠によって呂布の部隊を混乱させた後、告死兵との接敵を嫌うように素早く火を放った。あらかじめ冬枯れの草木をしっかりと蓄えていたのだろう。放たれた火は逆茂木を基点として瞬く間に燃え広がり、告死兵の眼前に炎の壁を作り出した。
 今まさに敵軍に突っ込もうとしていた高順の部隊は、危うくこの炎に包みこまれるところであったが、高順が罠を警戒して下馬を命じていたことが幸いし、すんでのところで逃れることが出来た――高順は呂布たちにそう説明していた。


『おれを殺すか、高伯礼。なら、尻尾を巻いて逃げ帰るしかないな――追うのは自由だが、火傷しないように気をつけろ』
 劉家軍の指揮官が放ったその言葉を聞いたのは、ただ高順だけであった。



 敵は炎で高順の隊を足止めすると、あらかじめ用意していたと思われる軽舟を用いて砦へと退却していった。街道沿いに逃げたならば、騎馬の機動力で容易く追いつくことが出来たであろうが、湖岸に建てられた高家堰砦へ追撃をかけるためには、入り乱れた水路を越えていかねばならず、騎馬隊を主力とした呂布の部隊では追うことさえ容易ではなかった。無理に攻めれば、ある程度の兵の損耗も覚悟せねばならない。それを承知の上で、砦を攻めるべきであろうか。
 元々、高家堰砦自体は大した脅威ではない。補給路を荒らされぬように千人ほどの兵を置き、遠巻きに一月も囲めば、たちまち砦内の食料を食べつくして降伏してくるだろう。
 ゆえに、眼前の敵を無視して仲帝から命じられた劉家軍追撃を続行するのが戦の常道といえたが、敵の陣頭に劉旗があがったことが、呂布の部隊がその選択肢を選ぶことに制限をかけた。


 敵の陣頭に掲げられた旗が、劉家軍の長である劉玄徳の牙門旗であることは誰の目にも明らかであった。
 牙門旗は、長の所在を示し、軍の誇りを掲げる唯一にして無二の旗。その牙門旗が立っているのだ。高家堰砦に敵将劉備がいることは間違いないと陳宮は考え、高家堰砦への攻撃を命じたのである。
 この攻撃は砦の堅牢さに弾き返される結果となり、数百におよぶ死傷者を出した。しかし、迎え撃った砦側も無傷というわけにはいかず、この攻防によって陳宮は高家堰砦の備えの全容をほぼ看破するに到っていた。
「ふっふ、なんでこんなところに劉備がいるのかは知りませんが、自分で袋の中に飛び込むとは愚か者め、なのですッ!」
 城攻めが失敗したにも関わらず、敵将の首は掌のうちにあり、と陳宮の意気が盛んな理由はそこにあったのである。


 高順はそれを見て、呂布と陳宮に悟られないように小さく唇をかみしめながら、反論を口にする。 
「し、しかし、先刻も申し上げましたが、げ……い、いえ、劉備殿の姿は……」
「敵兵の中にはいなかった、というのですか。そんなもの、高順が見落としたか、劉備が兵たちに守られて後方で震えていたか、どちらかに決まってるのです」
 そう言うと、陳宮は目に疑惑の光を灯し、高順に向かって口を開く。
「劉備と知り合いだからといって、かばうつもりなので――」
 途端。呂布の拳が無言で陳宮の頭に落ちた。手加減はされていたが、陳宮の目に滲んだ涙は、その衝撃が決して小さくなかったことを物語る。
「あいたッ?! れれれ、恋殿、な、なにをッ??」
「…………友達を悪くいう人、恋は嫌い」
「う、うう、でも、ですね」
「…………」
「う、れ、恋殿、そんな目でねねを見ないでほしいのです……」
「わん、わんッ!」
「う、セキトまで……」
 呂布とセキトの二人にじっと見つめられ、陳宮は気圧されたように一歩あとずさる。身体を竦め、小さく唸った後、しぶしぶと、という感じではあったが、高順に向けて謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい」
「あ、いえ、その謝っていただくようなことでは……」
 高順もまた、陳宮に謝罪されて居心地悪そうに俯くのだった。


 場に奇妙な息苦しさが漂い、沈黙が周囲を包み込む。その静寂を破ったのは、またしても陳宮であった。
 その声は焦りを帯びて、わずかに高い。
「そ、それに、かりにあの砦に劉備がいない可能性が高いのだとしても、その確証がつかめない限り、どのみちあの砦は攻めないといけないのです。袁術の命令は劉備の首。その劉備の牙門旗を放って置くなど、袁術や于吉が許すとは思えません。江都の方は張勲に任せて、ねねたちは高家堰砦を攻めろ、と命令してくるに違いないのですッ」
 陳宮の言葉を聞き、高順は力なく頷く。
 敵が劉旗を掲げた時点で、呂布の部隊が高家堰砦を素通りする、という選択肢は奪われた。陳宮の言葉は正鵠を射ていると言って良い。


 実のところ、高順にしても劉備が砦にいるのか、それとも江都へ向かっているのかの判断をつけかねていた。劉備の人柄を知るとはいえ、実際に駒を並べて戦った経験があるわけではなく、劉家軍の戦術行動を予測することは難しい。
 くわえて先の奇襲で姿を見たのが北郷だけであるという事実も、高順の心に戸惑いを与えていた。飛将軍を食い止めるための部隊に、関張をはじめとした劉家軍の誇る勇将が一人もいないというのはどういうわけか。
 劉備の身辺を守る必要があるにしても、武将の配置に賭けの要素が強すぎるように思われた。


 奇襲から退却にいたるまでの北郷の兵の進退が思いのほか速やかであったため、このことに疑問を抱いている者は高順以外にはわずかしかいない。元々、劉備の身分は徐州の一太守に過ぎず、その配下の詳しい構成を知る者は限られている。武では関羽、張飛。文では諸葛亮、鳳統。劉備の配下として、他国に知られているのはこの四人あたりまでであろう。
 それゆえ、先の奇襲部隊の奇妙さに思い至ることが出来たものはほとんどいなかったのである。


 高順にしても、洛陽以後の劉家軍の情勢を逐一探っていたわけではなく、噂で聞いた程度の情報しか持っていなかった。それでも、その噂のなかで北郷一刀という名が語られていたことは一度としてなかったように思う。
 その北郷が、部隊を率いて呂布の前に現れた意味は何処にあるのか。
 劉備が北郷を捨石として利用するなどありえない。しかし、戦の経験の少ない北郷を、あえて呂布の前に据える理由が他にあるのだろうか。
 高順にはわからなかった。





 実のところ、この時点で、呂布らは淮北の詳しい情勢を知るに到っていない。
 曹操が徐州に侵攻したこと、そして小沛を守る劉備が淮南にいることから、ある程度の推測をたてることは出来たが、憶測の域を出ることはなかった。
 劉旗を掲げる高家堰砦を攻撃するか、それともこれを策略と見なして江都への追撃を続行するか。
 篭城策の前提は、他方から援軍の存在だが、広陵の陳羣は動けず、江都には張勲ひきいる大軍が押し寄せている今、淮南の徐州勢でまとまった数の兵を動かせる者はいない。淮北が曹操に攻められている今、そちらからの援軍も期待できないであろう。
 そんな危地にある砦に、一軍の総大将がいるはずはなく、追撃を続行すべきであるとの意見は少なくなかった。
 無論、砦には幾ばくかの兵をのこす。かりに劉備が砦にいるとしても、前述のとおり敵に援軍は望めない以上、あえて城攻めに兵と物を空費する必要はなく、残った部隊は時間をかけて砦を攻略すれば良い。結果として、劉備の首は仲の手中に落ちるのだ。
 この意見は聞く者の耳に、一定以上の説得力をもって響いた。高順も、控えめにではあるが、こちらの案を推した。



 しかし、呂布の軍師である陳宮は兵力の分散を嫌った。
 数はまとまってこその力、その分散は愚策にほかならぬ。劉備の牙門旗を無視することが許されない以上、眼前の高家堰砦に全軍を投入すべきである。
 陳宮が示したのは奇策を弄さぬ正攻法であったが、それゆえに先の案にまさる説得力があったといえる。
 また、堅い防備を誇る砦といえど、一当てしたことで、おおよその配置はつかめた。中に篭る兵は精々四、五百人といったところであろう。その程度の兵数ならば、一万の兵力を四方に展開し、間断なく攻め寄せれば、日を経ずして陥落させることは可能であると陳宮は主張したのである。


 結局、呂布は後者――すなわち陳宮の意見を採用する。
 一度、呂布の決定が下れば、高順も異を唱えようとはせず、黙々と陳宮の指示に従って攻城の準備を整えていった。
 告死兵を中核とする一万の軍勢はたちまちのうちに高家堰砦を幾重にも取り囲み、湖にも舟を出して、劉家軍の背後への逃げ道を塞いでしまう。砦は文字通り蟻の這い出る隙間もない包囲の下に置かれることとなった。
 短期間のうちにそれをなした陳宮や高順をはじめとした呂布配下の将軍の水際立った統率力は、砦内の将兵に脅威を覚えさせるに足るものであった。
 静まり返る高家堰砦を遠目に見やりながら、陳宮は胸を張る。
「ふっふ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすのです。なにやら色々と小細工をしてくれましたが、それこそ追い詰められた者のあがきというもの。みずから墓穴を掘ったと切歯扼腕するがいいのですよッ!」
 一万の軍勢があれば、告死兵の一千を抜きにしても三千の部隊を三組つくることが出来る。陳宮はこの三隊をそれぞれ城攻め、後方からの援護、そして休息の役割にあて、この三組を交互に繰り出す間断ない攻勢によって、高家堰砦を磨り潰してしまおうと画策し――そして、それは劉家軍にとってもっとも厳しい戦況をもたらす決断となったのである。
  



◆◆◆




 耳をつんざく悲鳴に、思わず身体が竦む。その悲鳴をあげたのが、敵か味方かも判然としないが、咽喉も裂けよとばかりに放たれた絶叫に、おれは知らず奥歯をかみ締めていた。知らず、萎えてしまいそうな心と身体を、必死に奮い立たせる。
 高家堰砦正門脇の城壁。眼下には立錐の余地もない数の敵兵がひしめき、城門を破ろうと突進し、あるいは長梯子をかけて城壁によじ登ってこようとしている。
 こちらも懸命に応戦しているが、如何せん、数が違う。敵が攻めてきているのは、正面ばかりではないため、全軍をここに集中させることも出来ず、ただでさえ少ない兵をさらに分けなければならない状況であった。


 今また、敵兵が一人、城壁に手をかけてよじ登ってこようとしている。
 おれが急いで駆けつけようとすると、それに先んじて味方の兵の一人が城壁にかかった敵の手を剣で切り飛ばし、手近に備えてあった人頭大の石を、敵兵にむかって叩きつけた。
 敵兵の口から悲鳴と絶叫がほとばしり、中空に血潮が飛び散った。敵兵はそのままのけぞるように宙に投げ出され、すぐ下に続いていた兵士を巻き添えにして落下していく。急ごしらえの梯子は、この衝撃に耐えられなかったのだろう、鈍い音をたてて崩れ落ちた。
 梯子に身体を預けていた十名ちかくの敵兵がまとめて空中に投げ出され、重力に従って地面に落ちていく。無論、無傷で済む高さではなかった。
「休むな! 続けて落とせッ」
 おれはその光景を最後まで見届けることなく、次の敵を捜し求めながら、周囲の味方を叱咤する。おれ自身、手近な石を掴むと、今の光景を見ても怯むことなく攻め上ってくる敵兵に叩きつけようと抱え上げたのだが――


 宙を切り裂く矢羽の音と共に、敵陣の後方から、城壁上に向けて幾十、幾百もの矢が飛んできた。
 おれは咄嗟にもっていた石をほうり捨てると、城壁の陰に逃げ込んだ。
 さきほどから、機を心得た敵の援護射撃のせいで防戦もままならない。おれは舌打ちを禁じ得なかった。
 すると視界の端で、劉家軍の兵の一人が矢を左脚に受けて倒れこむ姿が映った。兵士が倒れた場所が、まだ敵の矢が届く位置であることを確認するや、おれはその場を駆け出していた。
 そのすぐ後ろに、慌てたように味方の兵士二人がついてくる。おれたちは痛みを訴える兵士の身体を引っつかむと、ほとんどひきずるように城壁の陰まで引っ張りこんだ。
「ぐああッ、いてェよ、くっそがッ!!」
 傷口を押さえながら叫ぶ兵士。同僚が傷の手当てをするが、大腿部を貫いた矢は容易に抜けず、矢じりが動脈が傷つけてしまったのか、血が溢れて止まらない。
 このままでは遠からず命を失ってしまうかもしれない。だが、そうとわかっても、ここでおれたちが出来ることは、これ以上、何もなかった。


「怪我人を後方に下がらせろッ」
 おれは砦の中に向けてそう怒鳴ると、応える者がいるかを確認することもせず、再び敵を食い止めるために走り出す。援護を受けた敵兵の姿が、すでに幾人か城壁上に達しようとしていたのだ。「追い落とせ! なんとしても、ここで食い止める!」
 叫びざま、剣を抜き放ったおれは、梯子から身を乗り出していた敵兵に斬りかかっていく。
 城壁に乗り移ろうとした無防備な瞬間を狙われた敵は、おれの攻撃を避けることも、受けることも出来ず、頸部を切り裂かれて、悲鳴とともに地面に落下していった。この高さから落ちたらまず助かるまい。それ以前に、あの傷では、地面に落ちるまでに事切れているかもしれない。


「今日、何人目だ?」
 敵の血と脂で汚れた刃を見て、そう自問しても答えは出ない。片手では数えられない数であることは間違いない。
 六人か、七人か、あるいはそれ以上か。
 おれにとって、人を斬ったのは、徐州での曹家襲撃以来である。敵兵の血を浴びた剣と、血塗られた刃、そして点々と返り血がついた己の甲冑を見て、しかしおれは以前のような怒りや憎しみを覚えていない自分に気がついていた。
 あるいは、これが戦の狂気というものなのかもしれぬ。
 はじめて人を手にかけた時、相手は下劣とはいえ人格を持った人間であった。おれが相手を憎み、殺す理由が、あの時は確かに存在したのである。
 だが、今、眼前で繰り広げられている戦絵図の中にあって、敵はおろか味方でさえ、そこにいるのが人間である、という認識がおれの頭の中で働かない。
 目の前で頭を射抜かれて倒れる兵。熱湯を浴びせられ、地面へと落ちていく兵。先刻、矢で脚を射られた兵や、おれが首を切り裂いた兵――敵と味方とを問わず、勝利を得ようと懸命に繰り返される攻防、その応酬の中で倒れていく命が、自分と同じ人間であると考えることを、脳が無意識に避けているのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、殺し合いという狂気の中で正気を保つことは難しい。
 この場合、正気とは、相手にも親が、子が、妻が、友が、守るべき者がいるのだと認識した上で、相手の命を断つことを意味する。
 自分の意思で戦に身を投じた以上、逃げることなく正気を保って戦うべきだ、ということは理解できる。だが、おれはまだそこまで思い切ることが出来てはいなかった。


 それでも、今は戦うしかない。たとえ狂気という名の逃げ道にすがりつきながらではあっても。


 また一人、おれは城壁に乗り移ろうとした敵に向かって剣を振るい、それは確かに敵の顔を捉えた。
 だが位置が悪かったのか、それとも無意識に力が弱くなっていたのか、敵は戦闘力を失うまでには到らなかった。傷つきながらも、おれに向かって飛び掛ってきたのだ。
「なッ?!」
 咄嗟に避けようと身体をひねったが、敵の勢いが優った。おれは敵兵に押し倒される形となり、仰向けに城壁上に倒れこむ。おれより頭一つ背の高い敵兵の体重と、飛び掛ってきた勢いをまともにぶつけられた格好となり、おれの口から苦痛の呻きが漏れる。
「……じ、じね、じねッ!」
 身体の上から聞こえてくる濁った声、そしておれの胸のあたりにこぼれおちてくる赤い液体。
 見れば、その兵の口は、人間にはありえないほどに大きく裂けていた。先ほどのおれの攻撃が、右頬を切り裂いていたのだ。痛みと、恨みと、殺意に裏打ちされた呪詛の声を、しかし、おれはほとんど聞いていなかった。このままでは殺されるのを待つばかりとあって、必死に敵を振り払おうとしていたからである。
 だが、体格において優る敵は、おれの離脱を許さない。身体ごとおれに向けて倒れこんでくる。当然、刃をおれにむけながら。


 避けられない。一瞬、そう覚悟した。
 だが、次の瞬間。
「ひぐッ?!」
 不意におれの身体を押さえつけていた敵兵の姿が、視界から消え去った。同時に胸を押しつぶす寸前であった圧迫感も霧散する。
 味方の兵が、横合いから渾身の蹴りで、敵兵をひきはがしてくれたのだ。
「わりいが、こんなところで大将をやらせるわけにはいかんのさ」
 おれは慌てて立ち上がりながら、その兵に礼を言う。
「ありがとう、助かった」
「なに、こんな緒戦で大将が死んだら話にならねえ。玄徳様たちも逃げ切れんでしょう。それがわからん大将でもないでしょうに、あんまり前に出ないようにしてくださいや」
 呆れたような兵士の言葉は正鵠を射たものだった。
 だが、おれは苦笑まじりに首を横に振る。
「後ろに立って、的確な指揮が出来るならそうしたいところなんだがなあ」
 あいにくと、そんな統率力の持ち合わせはない。昨夜の動きを見るかぎり、呂布はもちろん、高順でも出来るだろうが、おれには無理だ。
 であれば、せめて陣頭に姿を晒すことで、味方の士気をあげる。おれに出来ることはそれくらいしかなかったのである。


「まあ、おれがいたからといって味方の士気があがるという保障もないわけだが」
「そこは心配無用でさ。指揮官が敵の矢石の中に身を晒しゃあ、おれたち配下も奮い立つってものです」
「なら、無駄にはなってないわけだ。それを聞いて安心した」
 本来、この戦はもう少し楽に進められるはずだった。だが、おれがこの場にいるはずの戦力を別の場所に充てたことで、砦に残った将兵はより一層厳しい戦いを強いられている。
 ゆえに、おれは出来ることをぬかりなく、ためらいなく為さねばならない責務を負っているのだ。
 敵の眼前に立つ程度のことで、怯んではいられないのである。
 ただ一つ気がかりであったのが、すべてがおれの空回りなのではないか、という点だったが、それは今の兵士の言葉で否定された。
 いまやすべてのためらいをほうり捨てたおれは、味方を鼓舞するために声を張り上げる。それまでよりも、一際勁烈な声が、城壁の上に響き渡った。



◆◆



 呂布の猛攻を前に、高家堰砦に篭る劉家軍四百は、休む暇なく防戦にあたらねばならず、休息や食事はおろか、水も満足に飲めない戦況が続いた。
 敵兵が蟻の如く城壁をよじ登り、それを援護するため遠くから雨のように矢石が降り注ぐ。いつ果てるともなく続く敵の攻撃に晒され、砦内では殺気だった将兵が、命令とも怒号ともつかぬ声を張り上げている。
 砦に篭るという利点があってなお、呂布勢の攻勢は劉家軍の防備を穿ち、勝敗は一度ならず決しかけた。


 だが、それでも劉家軍の将兵は寸前まで奮闘し、かろうじて敵を砦外に押し返すことに成功する。
 その要因の一つに、常に最前線で身を晒し続けた指揮官の存在があったことは間違いないであろう。
 並外れた武勇を揮ったわけではなく、際立った指揮を見せたわけでもなかったが、敵の猛攻を前に怯むことなく前線に留まり続けたその気概は、配下の将兵を奮い立たせるに足るものであったから。



 日が地平の彼方に没し、しばらく後。
 ようやく呂布軍が攻撃の矛先を収める頃には、砦内の将兵は疲れ果て、その場に座り込む者が続出した。かろうじて城門は守りきったが、ほぼ一日中続いた敵の攻撃によって、砦外の備えはほとんど棄却され、城内に蓄えてあった物資も大きく減じている。まだ底を尽くにはいたっていないが、今日と同じ規模の攻撃が続けば、三日ともたないであろう。
 だが、これは「出し惜しみするな」という北郷の命令によるものであり、またそれゆえにこそ、かろうじて今日の攻勢を凌ぎきることが出来たといえる。
 もっとも、そういった考察が出来るだけの余裕がある者は砦内にはほとんどおらず、皆、空腹と疲労、咽喉の渇きを癒すだけで精一杯の有様だった。


 守将である北郷も、可能であれば配下と同様にへたり込みたいところだったが、あいにくと立場と戦況の双方がそれを許さなかった。立場の方はいわずもがな、戦況を示す勝敗の天秤は、呂布に傾くことはあれ、劉家軍に傾くことはありえない、それを知るゆえである。
 たしかに今日の攻勢を防ぐことはできたが、呂布とその親衛隊がただの一度も動いていないことに北郷は気付いていた。それはつまり、敵がまだ本腰をあげていないことを意味する。
 おそらく、敵は呂布が動くまでもなくこの砦を陥とせるつもりでいたのだろう。北郷はそう思う。その意味でいえば、今日は敵の思惑を挫いたことになるが、それはわずかな時間を稼ぐ程度の意味しかもたず、明日からの攻勢は激化の一途を辿るであろう。
 北郷は開戦に先立つ陳宮の豪語を耳にしたわけではなかったが、もしそれを聞いていれば、陳宮と同じように口元に笑みを浮かべていたかもしれない――ただし、声をたてずに。



 実際に、今の北郷は心身の疲労で笑うどころではなかった。それでも、その顔には隠しきれない安堵があった。何故なら北郷の目的はすでに達されていたからである。その思いが、言葉となって口をついて出た。
「呂布率いる一万の軍勢を一日、釘付けにした。戦果としては、十分すぎるな」
 元々、北郷は砦を守り抜こうとして戦ったわけではない。呂布の部隊が全軍をあげて高家堰砦に攻め寄せた時点で、策は半ば以上成功していたと言って良い。今日、死に物狂いで稼いだ一日は、劉備たちにとって貴重な猶予となるであろう。北郷はそう確信しており――それは事実その通りであった。


「――そう。十分すぎるくらいなんだが」
 闇夜に瞬く呂布軍の篝火に視線を送りながら、城壁上の北郷は小さく呟く。
 空を見上げれば、そこには厚く重い雲が垂れ込め、星月の光を遮って地上の闇を一層濃いものとしている。
 それを見て、北郷は厳しく強張っていた顔をかすかにほころばせた。
「天の時はこちらの味方、か。これも玄徳様の徳の賜物かな――もう一日、稼がせてもらうぞ、飛将軍」



 そういうや、北郷は身を翻し、砦の中へと戻っていく。
 疲れ果てた将兵に、今日の戦で、最後の勤めを果たしてもらうためであった。 





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/09 00:49


 耳をそばだてると、風が湖面を揺らした時に生じるかすかな水音が聞き取れる。つづいて耳に入ってきたのは、冬枯れの草が風にそよぐ乾いた音。
 それ以外に聞こえるものといえば、歩哨の任にあたっている兵士たちが規則正しく歩いている音と、今も闇夜を払うために煌々と焚かれている篝火が燃える音くらいだろう。
 矢羽の音も、剣撃の音も、馬の嘶きも、人の絶鳴も、今は聞こえない。
 高家堰砦を囲む呂布軍の本営で、高順は小さく、けれど深く息を吐いた。


「…………高順、へいき?」
「あ、申し訳ありません、将軍の前で失礼をッ」
 こちらを気遣う呂布を前にして、高順は慌てて畏まる。
 日の出から、つい先刻まで繰り広げられていた激闘が嘘のように静まり返った本営で、高順は呂布と向かい合っていた。
 先刻、昼間の戦闘の後始末を終えて一息ついていた高順のもとに、ふらりと呂布が現れたのである。


 目を転じれば、夜闇の中におぼろに浮かび上がる高家堰砦が視界に映る。時折、城壁上に兵士の影がちらつく以外は、まるで人の気配がせず、無人の城のように静まり返っている。
 おそらく、昼間の猛攻を凌ぎきったことで、将兵は心身ともに疲れ果てているのであろう。
 あるいは、今、夜襲をかければ砦を陥とすことは容易いかもしれない。


 だが、守備側が疲労しているように、攻撃側であった呂布の軍勢もまた重い疲労を抱え込んでいた。
 劉家軍とは異なり、呂布の部隊は休息と補給を受けながらの戦いであったが、敵に二十倍する戦力をもって攻め続け、結局のところ砦を陥とすことが出来なかった。このことは将兵に少なからぬ失望を与えずにはおかなかったのだ。死傷した者の数も、百や二百ではすまなかった。
 そんな沈滞してしまった将兵の士気を鼓舞し、負傷兵の治療を行い、さらには明日の再戦のために武具や矢、火種の準備を整える。
 呂布が姿を見せたのは、高順が平行して三つの任を為し終えた、その直後であった。
 こういった面に関して、呂布が不器用であるのは衆知の事実である。もしかしたら、高順の邪魔をしないように気を遣ったのかもしれない。



 昨夜と違い、今は陳宮もセキトも連れていない。何の用なのだろう、と高順が内心で首を傾げた途端、呂布は唐突に言った。
「…………戦うの、いや?」
「……え?」
 ぽかんと。
 高順は口をあけて、主を見る。
 高順の視線の先で、仮面をはずし、紅玉を溶かしたような赤髪と紅瞳をあらわにしている呂布の顔には、確かな憂いが見て取れた。
「あの、呂将軍、それは……」
「…………セキトが言ってた。恩人とは、戦いたくないって」
「それは……」
 内心の迷いを直接言葉にされてしまい、高順は言葉を詰まらせる。


 洛陽が炎上したあの日。高順は燃え落ちる寸前の呂布の屋敷から、寸前で北郷に助け出してもらった。それは高順一人の身だけでなく、呂布から預かっていた動物たちも含めてのこと。高順は北郷に対し、尽きせぬ感謝と、淡い憧れさえ抱いていた。その北郷と戦いたいと望むはずがなかった。
 だが、一方で恩義を理由として戦いを厭うつもりもなかったのだ。
 正直なところ、高順は袁術やその側近を信用していない。かつて、董卓麾下の兵士として戦っていた頃、袁術軍の兵士の暴虐を受けたことも理由の一つだが、それを抜きにしても、昨今の袁術のやりようは信用に値しない。この戦で呂布が功をたてたとしても、陳宮が言うような報いがあるのかどうかさえ高順は懐疑的であった。
 それでも高順が戦うのは、今の状況において、戦わないという選択肢を選ぶことが、すなわち呂布の破滅を意味することを理解していたからである。


 もし、今、呂布が自分の判断で動こうとすれば、袁術は即座にそれを敵対行動とみなして呂布を除こうとするであろう。
 当然ながら、現在の呂布の麾下の兵はほとんど袁術の手勢である。告死兵もまた同様。自らの地盤を持たず、自分の兵ももたない呂布では袁術に抗うことは出来ない。あるいは呂布一人だけであれば逃げることが出来るかもしれないが、陳宮や高順、あるいはセキトらは逃げられないであろう。
 望むと望まざるとに関わらず、戦う以外の選択肢を、高順も呂布も持っていなかったのである。


「……出来れば戦いたくない。そう思っていることは確かです。けど、相手に手心を加えたり、将としての責務を放棄するようなことは決して――!」
 高順が抗弁のために声を高めかけた。
 高順は今日の戦では本営を任され、一度として前線に出ることはなかった。あるいはそれも自身の忠信を疑われてのことか、と考えたからであった。
 だが、呂布は高順がすべてを言い終わらないうちにあっさりとかぶりを振る。言いたいことはそういうことではない、とでも言うように。


「呂将軍?」
「…………恋も、セキトたちを助けてくれた人と、戦うのはいや。でも……」
 ――戦わないと、守れない。
 呂布は力なく、そう呟いた。
 その言葉は重く、呂布の眼にも生気が欠けている。そんな呂布の姿を見て、望まない戦いをしているという点で、呂布も自分と同じなのだと高順は気付く。
 それでも呂布が戦うのは、高順と同じように考えているからなのか。呂布はあまり理詰めで考える為人ではないが、今、自分が戟を手放せば何が起きるかということは理解しているのであろう。


「…………恋は苦しい。なら、高順もきっと苦しい。そう思った。だから……」
 今日は、呂布にしてはめずらしく口数が多かった。
 言葉自体は片言で、もし誰かがこの場にいたとしても、呂布が言わんとしていることを汲み取るのは難しかったかもしれない。
 だが、洛陽からこちら、ずっと行動を共にしている高順には呂布が何故この夜更けにここに来たのか――来てくれたのか、はっきりとわかった。


「苦しくとも……」
「…………?」
 高順の言葉に、呂布は小さく首を傾げる。
「苦しくとも、大切な人たちを守るためにはこうするしかないのだと、そう思います。それは私が自分で考え、決めたこと。呂将軍の私へのお心遣い、とても嬉しく思いますが――私、少し、怒ってます。みんなを守りたいと思っているのは、将軍だけではないんですよ?」
 その言葉に、呂布は眼を瞬かせる。
 その顔を、高順はじっと見つめた。己の意思を、主の前に提示するかのように。


 しばし、無言で見詰め合う主従。
 沈黙を破ったのは、主の方であった。
「…………謝謝、高順」
 申し訳なさそうにわずかに身体を縮めた呂布であったが……こころなしか、その眼に宿る生気は先刻よりも輝きを増したかに見えた。



 主従を照らし出すかのように、厚い雲間が裂け、月の光が地上に向けて差し込んだのはその時であった。
 優しささせ感じさせる光は、主従のみならず、その軍勢を、高家堰砦を、そして洪沢湖周辺のすべてを淡く浮かび上がらせる。
 


 不意に。
 眼前で、呂布の眼差しが鋭いものにかわるのを、高順は目の当たりにする。
「将軍?」
 高順の呼びかけにも、呂布は応えない。
 その様子が、戦を前にした飛将軍のものだと気付いた高順は、砦に何事か動きがあったのかと思い、振り返る。
 高順と呂布のいる本陣からは、高家堰砦の細かい様子まではうかがい知れなかったが、それでもここから見る限り、砦の様子は先刻から変わらないように映る。
 少なくとも、呂布が警戒をするに足る異常は認められない。高順はあらためて呂布を見やり、そして自分の行動が的外れであったことを知る。
 

 そう。呂布ははじめから砦など見ていなかった。
 その視線が向く先は、砦とは正反対であったのだ。
 本陣の後方――敵も味方もいるはずのないその場所を。


 呂布はじっと見据えていた。


 ――あたかも、彼方の闇夜から、自らを見据える眼差しに、気がついているかのように。

 

◆◆◆




 太史慈は愛剣を地に突き立て、仁王立ちしながら、じっと夜の闇におぼろに浮かぶ敵の軍勢を睨み据えていた。
 見据えるものを、眼光だけで切り裂いてしまいそうな、鷹の如き視線。剣の柄が軋みをあげるのは、積もりに積もった戦意を抑えることかなわぬゆえであろう。
 太史慈だけではない。その背後に控える百名の兵士にしても、その内心は太史慈と寸分違わない。敵の強勢と、味方の奮戦とをただ眺めることしか出来なかった彼らは、今宵、ようやくその枷から解き放たれるのである。


 太史慈とその部隊は夜闇の中に溶けこみ、その姿を見つけ出すことは難しかった。一方、呂布の軍は煌々と焚かれた篝火の中にあり、その所在を知ることは容易である。
 くわえていえば、すでに敵の目は高家堰砦にのみ向けられ、後背から猛り立つ戦意を抑えて忍び寄る一隊があるなどとは夢にも思っていなかった。
 敵本陣を指呼の間に捉えた太史慈にはそのことがわかる。
「北郷さんの策が図に当たりましたね。それはとても喜ばしいことなのですが……」
 浮かべた笑みは、刃の気配を宿して、いっそ壮絶とさえ称しえる怒気を内包していた。
 太史慈には北郷に怒りをぶつける正当な理由がある。戦に先立ち、策を弄して高家堰砦の指揮権を奪われたのだから、どうして怒らずにいられよう。もし北郷がこの場にいれば、呟く太史慈の顔を見るや、慌てて踵を返したに違いない。


 ――呂布軍の高順が、自分を戦から遠ざけようとした呂布に「少し」怒っているのだとすれば。
 ――劉家軍の太史慈は、自分を乾坤一擲の戦の切り札として将兵の前で祭り上げ、砦の外に出した北郷に「とてもとても」怒っていたのである。


 ……もっとも、指揮権を奪い取ったという言い方はいささかならず語弊がある。太史慈もそのことを知っており、北郷がああした行動をとった理由にも気が付いている。そこに太史慈への気遣いがあることも。
 ゆえに、正確に言えば、太史慈が怒っていたのは北郷ではなく、その北郷にうまく乗せられてしまった自分自身であり――そして北郷にいらぬ気を遣わせてしまった自分の不甲斐なさに対してであったかもしれない。
 ただ、それを承知した上で、それでも太史慈は北郷に言いたいことがあった。北郷に対する認識もきっちりと、きっぱりと改めている。
 太史慈は決意していた。
「今度から、北郷さんの作戦を聞くときは、眉に唾をつけて聞かなければ……!」
 かたくかたく、拳を握り締め、そう決意していたのである。





 北郷が太史慈らに示した作戦は、それ自体は単純なものであった。
 概略は次のようなものである。
 一。一路、江都へと駆ける呂布を足止めするため、劉家軍五百のうち、百名を砦に残し、太史慈率いる決死隊百名を含む四百名を城外に出す。
 二。決死隊を除く三百を北郷が率い、敵の先鋒を奇襲する。成功、失敗を問わず、接敵後は素早く砦に退却する。この時、決死隊は決して手を出さないこと。うかつに手を出したり、味方の援護をすればたちまち呂布に見破られてしまう。
 三。北郷らが砦に戻った後は、敵の動き次第でこちらも行動をかえる。敵が砦を攻囲するようならば、決死隊はその後背を衝く。敵が江都への進軍を優先するようであれば、決死隊は後続の輜重隊を叩き、何としても敵の脚を止める。


 これが北郷の作戦であった。
 言うまでもなく、最初の奇襲は決死隊の存在を呂布に悟らせないための布石の一つ。それゆえ、奇襲が一定の成果を挙げたにも関わらず、北郷は戦果を欲張ることなく速やかに退いたのである。この奇襲と、掲げた劉旗が敵にどんな決断を強いるにせよ、この時点で敵の警戒は砦へと向けられるとの北郷の確信は、結果として正しかった。
 一度、奇襲を受けた呂布軍は、まさか敵が城外に潜んでいるとは思わなかったのだ。無論、だからといって周辺への警戒を怠る呂布軍ではなかったが、太史慈はこの時、部隊を動かさず、じっと敵の様子を窺うにとどめた為、呂布は太史慈を偵知することが出来なかった。
 敵が砦を攻めるにせよ、追撃を続行するにせよ、少なくとも一両日はじっとしていること。これもまた北郷の作戦の一つであった。


 理由は簡単である。元々、百名たらずの部隊なのだ。勝利を欲するならば、完璧に敵の意表を衝く必要がある。
 敵が砦に寄せる場合、砦が包囲下に置かれてしまえば、敵は後背への警戒を薄くするだろう。そこを衝けば、より勝利は近くなる。くわえて、太史慈らがどこから現れたのかという疑念と動揺を与えることも出来るであろう。
 敵が追撃を優先した場合でも、高家堰砦を無視するとは考えにくい。おそらく幾ばくかの兵を残し、砦の包囲と補給路の備えを平行して行うのではないか。
 すぐにこの部隊を攻撃してしまうと、先行した主力もまたすぐに戻ってきてしまう。足止めという観点から見れば、これはこれで成功と言えるのだが、それでは効果が薄い。
 ゆえに、あえて時をかける。その分、敵主力は高家堰砦から離れることとなり、その時点で後方の補給路を断てば、進むにせよ退くにせよ、難しい判断を強いられることになるはずであった。



 冷静に考えれば、この北郷の案には幾つかの穴が散見された。だが、時がないこと、彼我の戦力差を考慮すれば、これ以上の策を考え付くことは、少なくとも太史慈には難しい。
 ゆえに、その案を採るべきである――ただ一点を除いて。
 この作戦でいけば、もっとも厳しい戦況に身を置くのは北郷であり、砦に残る将兵であって、太史慈と決死隊とやらは、城外で味方の死戦を指をくわえて見ていなければならないことになる。
 将軍である自分こそが、もっとも厳しい戦場に身を置くべきである。太史慈はそう考え、また実際にそう主張するつもりであったのだが――


「……く。まさか北郷さんが、ああも口と手がまわる人だとは……ッ!」
 北郷は立て板に水とでも言うべき能弁をもって、太史慈の主張を封じ込めてしまったのだ。
 その言うところはただ一つ。決死隊が作戦に必要な打撃力を持つためには太史慈の存在が不可欠である、という一点だけであった。
 実際、太史慈が砦に篭れば、高家堰砦の守りはより強固になるのは間違いない。だがその場合、北郷なり別の将なりが決死隊を率いることになる。そして、おそらく決死隊は目的を果たすことが出来ないだろう――この北郷の主張は、確かな説得力を持つものであった。
 くわえて、北郷はあらかじめ他の将兵に根回しをしていたらしく、太史慈の反論は劉家軍の総意でもって否決されてしまった。このあたりの機微は実戦経験によらぬものであり、この点、太史慈は北郷の足元にも及ばないことを思い知らされたのである。




 
 かくて、太史慈と北郷率いる劉家軍は、飛将軍率いる袁術軍との間に戦端を開くに至る。
 優れた弓手である太史慈は、当然のことながら極めて目が良い。そのため、彼方で繰り広げられる激闘を瞬きも惜しんで凝視し続けた。
 敵の猛攻と味方の劣勢を遠望し、何度、自分の部隊を動かそうと決断しかけたことか。自身のみならず、麾下の兵からも、幾度も攻撃の可否を問われ続けた。それらを思いとどまることが出来たのは、僥倖以外の何物でもないような気が、太史慈はしている。


 それらの果てに、今宵、ようやく、太史慈たちは動くことが出来る。
 月が隠れ、濃い闇が広がる湖畔を、太史慈率いる部隊は将士一同、心を一つにし、音もなく敵軍に近づいていった。
 奇襲にも加わらず、防衛にも参加せず、体力は溢れんばかりに蓄えられている。押し留められた戦意は、将兵の中で引き絞られた弓のよう。あとはただ飛矢となって敵陣を貫くのみであった。
  

 そうして、半刻後。
 太史慈は、丘陵の上に立って敵軍を望む絶好の位置にたどり着いていた。
 空を覆う雲は未だ晴れず、敵陣も、彼方の砦も静まり返っている。歩哨の動きも、明らかに前方を警戒するもので、自軍の後ろから忍び寄る部隊に気がついた気配は微塵もない。
 頃はよし。そう判断した太史慈が、突撃の号令をかけようとした、その時であった。敵陣の天幕近くに動く者の影を認めた太史慈は眼を凝らす。
 そして、そこに赤髪と黒髪の、二人の少女を見つけた。少女といっても、太史慈より年は上かもしれないが、太史慈の見るところ、黒髪の将はなかなかの腕前と映った。
 もう一人は、と目を転じた太史慈は、すぐに全身の毛という毛が総毛だつのを感じた。それほどまでに、その赤毛の将は尋常ならざる武威を感じさせた。相手ははるか遠くにいるはずなのに、太史慈は威圧にも似た息苦しさを感じ、奥歯をかみ締めて耐え忍ぶ。
 その人物が誰であるのか、太史慈は即座に悟った。
「――飛将軍、呂奉先ッ!」


 仲帝国第一の将。中華最強の武人。そして、太史慈らが命をかけてでも阻まなければならない敵である。
 太史慈は素早く背に負った白銀の弓に手を伸ばし、それに矢を番える。並の兵は知らず、太史慈にとって彼我の距離は十分に射程範囲であった。
 弓を引き絞り、目標を見据える太史慈の眼差しが鋭さを増し、猛禽にも似た鋭利な視線が闇夜を駆ける。




 厚い雲間が裂け、閉ざされていた月の光が地上を差したのは、丁度その時。
 太史慈の頭上にも、淡い光が降り注ぐ。
 もちろん、闇の中に姿が映し出されるような明るさには届かない。月はあくまで月。太史慈の姿はおぼろに闇に浮かび上がるだけであり、篝火のもとにいる呂布たちがその存在に気がつけるはずがない――そのはずであった。
 だが。
「――ッ」
 太史慈の口元が引き締まる。
 闇を裂き、こちらを見据えるもう一羽の猛禽の視線に気がついたからであった。
 気が付けるはずがない、などとは考えない。太史慈が弓を知る以上に、呂布もまた弓を知る。なれば、先方がこちらを見抜くも道理であろう。
 いずれも中華屈指の弓の使い手たる二人の武将が、奇しくも淮南の地で激突せんとする。常人では捉えることも難しい互いの視線を双方が感じ取り、宙空でぶつかりあって火花を散らす。


 眼光を緩めないように、瞳に力を込めながら、内心、太史慈は歯噛みしていた。
(これで、敵に気付かれた)
 たとえ今、呂布が大声で敵襲を知らせても、配下の将兵はすぐに動くことは出来まい。すぐに攻撃に移れば、奇襲は相応の戦果をあげることが出来るだろう。
 だが、それでは足りないのだ。ここまで堪え続けてきたのだ。この夜襲で敵に痛撃を与え、より多くの時間を稼がなければならない。劉備らを江都に逃がし、自分たちが砦から逃げられる程度の時間を。
 そのために、敵将を討ち、兵糧を焼き払うくらいのことを太史慈はしてのける心算であった。敵陣の様子を見れば、それも可能と判断していたのだが、このままではそれもかなわなくなる。


 太史慈の視線の先で、呂布の口が開かれ――そして。




 ――夜闇の中、轟くような大音声があがったのはその時であった。
 幾十もの銅鑼をまとめて叩いていると思しき音は、遠く高家堰砦から響いてきていた。
 それは一度ではなく、二度、三度、四度、五度と続けて鳴らされている。
 まるで刻限を告げるかのように正確に。
 焦慮を与えんとしているかのように徐々に間隔を短くして。
 この頃になると、砦を囲む袁術軍の陣営の各処から、慌しい音が起こりつつあった。敵勢を知らせる歩哨の声、慌てて武具を探す兵士の声、眠りの園から脱しきれず、脚をもつれさせて倒れこむ者までいる。
 彼らは一様に砦に視線を向け――その注目を待っていたかのように、不意にぴたりと全ての音が止んだ。


 戸惑いをあらわに、袁術軍が視線をかわす。
 だが、次の瞬間、砦から凄まじいまでの喊声が轟き、夜の静寂を打ち砕いて迸る。それは、誰が聞いても、篭城勢が城外へ突出しようとする前触れであった。
「敵襲ッ!」
「戦闘準備、急げッ!」
 そんな声が沸き起こり、瞬く間に袁術軍すべてを覆っていく。
 すべての目は、背後の闇でなく、前方の砦にのみ据えられていた。



「――もしかしたら、私は」
 まるで、はかったかのような砦側の動き。それが誰の指示によるものかを瞬時に察した太史慈は、どこか呆れたように呟いた。
「とんでもない人を、部下にしているのかな?」
 その言葉が終わる頃には、すでに太史慈は平静を取り戻している。
 北海の勇士は、無言で弓を引き絞ると、今度はためらうことなく射放った。矢は弧を描くことなくほぼ一直線に闇を駆ける。
 背後の部下を差し招いた太史慈は、突撃の号令を下すや、自身が放った矢の軌跡を追うように、弾けるように地を蹴って駆け出した。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/11 23:24


 臨淮郡東城県。
 とりたてて語るほどの特徴を持たないこの地の名が、人口に膾炙するようになったのは、州牧が一人の少女を県令に据えてからであった。
 張紘、字を子綱。齢二十に満たぬ若き乙女は、その優れた学識をもって衆に知られ、それを伝え聞いた徐州牧の陶謙が半ば拝み倒して自家に迎え入れた経緯を持つ。
 若い、否、若すぎる県令の誕生に不安を覚えた者は少なくなかったが、張紘は職務に精励することで、そういった危惧を抱く人々をゆっくり、しかし確実に減らしていった。
 東城県の人々が新たな県令を認めるまで、さほど時はかからなかったのである。


 そんな人々の信頼こそが、仲帝袁術の淮南侵攻において、東城県を守りきる要因の一つとなったことは疑いない。
 張紘は、仲の将軍梁剛率いる二万の軍勢を、正規兵、私兵を含めたわずか一千の軍で支え続け、業を煮やした袁術が派遣した一万の援軍が敵に合流した後も、一歩も退くことなく城門を守り続けた。
 とはいえ、張紘は学識に秀で、内治に優れた手腕を有していたが、陣頭の猛将ではなかった。張紘の下で、実際に押し寄せる袁術軍と刃を交え、武勇と策略を駆使して、その攻勢を押しとどめた人物は他にいた。
 その人物の名を魯粛、字を子敬という。
 魯粛は常日頃より無頼の者たちと交わり、私財を投じて食客を募り、先祖より受け継いだ財産を蕩尽する生活を送っており、東城県の中には、魯粛のことを『魯家の狂児』と呼んで忌避する者が少なくなかった。
 しかし、その狂児は、新たに県令として赴任してきた張紘をいたく気に入り、また張紘も魯粛の心底が曇りなき志に満ちていることを悟って親交を深めるに到る。
 この奇妙な交友関係を見て、周囲は首を傾げ、張紘に対して魯粛との縁を切るように進言する者は後をたたなかったが、普段は他人の意見をよく聞く若き県令も、ことこの件に関しては一切聞く耳を持たず、魯粛との繋がりを保ち続けたのである。


 そして、袁術の淮南侵攻が始まり――
 東城県の人々は、張紘の慧眼と、魯粛の異能を目の当たりにすることになる。
 圧倒的な数の袁術軍を相手どって、互角以上の戦いを繰り広げる魯粛と、その魯粛に全幅の信頼を寄せ、後方を支えきった張紘。この二人こそ、東城県を守りきった立役者であることは誰の目にも明らかであった。


 張子綱と、魯子敬。この両名ある限り、東城県が陥落することは決してない。
 兵も民もそう信じ、その信頼こそが東城県の士気の柱となっていたのである。


 しかし実のところ、誰よりもこの二人こそが、これ以上の防戦が無理であると考えていることを、人々は知らない。
 要衝であった路西砦が呂布によって陥とされたことで、寿春から臨淮郡、広陵郡へと続く街道はことごとく袁術の手に落ちた。
 兵も、物も、袁術は本拠地から思うままに送ることが出来るのだ。東城県のような小城で、その猛威を防ぎ続けることは不可能であった。
 ゆえに、二人は淮北の曹操の力を利して、袁術を追い払うことが出来ないかと腐心していたのだが――


 一日、その二人のもとに、耳を疑う知らせが飛び込んできた。慌しい物音と共に部下が室内に駆け入ってくるや、よほど慌てているのか、主である張紘に礼をほどこすこともせず、驚愕の表情を貼り付けたまま、その部下は叫ぶように報告した。



「も、申し上げます! 城を囲んでいた袁術軍が――」
「袁術軍が?」
 また攻撃を開始したのか、と張紘は緊張した。
 だが、それにしては部下の声に滲む歓喜の色が気にかかる。
 そんな張紘の疑問に、部下は明確な事実をもって、次のように応じたのである。



「城を囲んでいた袁術軍が、退却していきますッ!!」



 張紘と魯粛が、思わず顔を見合わせる。
 二人は期せずして同時に立ち上がると、城壁に向かうべく歩を進め始めた。
 部屋を出て、廊下を歩く二人の顔に安堵は生じていない。
 そこにあるのは不可解さと、奇妙なまでの焦燥感。
 淮南を巡る攻防に大きな変化が生じようとしていることは疑いない。だが、その動きの核心がつかめない。一体、袁術は何を考えているのか。
 互いにそのことを考え、また相手がそのことを考えていることを知りつつも、声に出すことなく。
 東城県の県令と、その協力者は、部下の報告の真偽を確かめるべく、城壁へと急ぐのであった。
  


◆◆



 東城県を囲んでいた仲の将軍梁剛率いる二万の軍勢と、援軍として派遣された陳紀率いる一万の軍勢。合わせて三万に達する仲国の軍勢は東城県の包囲を解き、東へと去っていった。
 県令である張紘と、事実上の将軍である魯粛は、袁術の意図を訝った。しかし、千に満たない軍勢では追撃もままならない。また将兵の治療や城内の民衆の不安を払い、治安を回復させるなど、やらねばならないことが山積していた為、二人とも数日はそちらに専念しなければならなかったのである。


 袁術軍が反転してくる。あるいは他方から奇襲を仕掛けてくる。そういった策も警戒していたが、東城県の周囲には仲兵の影すら見えなかった。
 それ自体は喜ぶべきことだが、袁術が真っ向から自分に刃向かった東城県を、このままずっと放って置くとは到底思えない。張紘が篭城の後始末に奔走している間、魯粛は食客を使って淮南における仲国の情報を収集し、事態の解明に努めた。


 そして、数日が経ったある日。
 魯家の食客の一人が、信じがたい情報をもたらした。それを聞いた時、さすがの魯粛もしばらく言葉を失ったほどであった。


 ――広陵郡に攻め寄せた袁術軍最強の将、呂奉先が敗れたというのである。


 魯粛は詳細を聞き取るや、ただちに県令の部屋に出向き、事の次第を報告した。
 政務での疲れを隠せない張紘であったが、魯粛のもたらした知らせが淮南全土の戦況に少なからぬ影響をもたらすであろうことは理解できた。そして、東城県が、その動きと無縁でいられないことも。
 しかし、何者があの飛将軍を打ち破ったのか。戦を厭う少女も、そのことに無関心ではいられない。当然のようにその疑問を糾す張紘に向かって、情報を持ってきた魯粛は口を開いた。





「高家堰……というと、洪沢湖の?」
 魯粛の口から出た砦の名前に、張紘が首を傾げる。  
 それを聞き、魯粛は頷いて答える。
「そう。広陵郡の陳太守が、洪沢湖と淮河の治水のために築いた堰だよ。いざというときは砦として利用できるようにつくっていたみたいだね」
「洪沢湖に拠った水上の出城、というわけですね。広陵城と連携すれば、攻城側にとっては咽喉に刺さった魚の骨になる……」
 その例えに、魯粛はくすりと微笑んだ。
「魚の骨、か。お魚好きの子綱ちゃんらしい例えだ」
「う、こ、子供っぽいですか」
「除こうとしても、簡単に除けないあたりは的確だよ。ま、呂布の咽喉に引っかかった魚の骨はえらく太くて鋭いみたいだけど」
 そう言った時、こころなしか魯粛の笑みが深みを帯びたように、張紘には思われた。


 そうして、魯粛の口から語られる戦の顛末。
 砦側の奇襲に始まる一連の攻防に、張紘は瞬きすら忘れて聞き入った。
 その中で張紘が特に気になった点は二つ。
「劉の牙門旗というと、高家堰砦にいるのは劉玄徳様の軍勢ですよね?」
 首を傾げる張紘に、魯粛はゆっくりと頷いてみせた。
「たぶんそうだね。徐州で劉姓を持つ人は少なくないけど、飛将軍を打ち破れるほどの精鋭を率いている、という条件をつけると、小沛の劉備殿くらいしか思い当たらないもの」
「そうですよね。すると、やはり曹操さんの軍勢におわれて淮南にいらっしゃっていたのでしょうか」
 張紘の地位は一県の県令に過ぎず、くわえてこれまで万を越える軍勢と対峙し続けてきた為、淮北の詳しい戦況を知ることが出来なかったのである。


 張紘は、劉備に関する良い噂も、悪い噂も聞いていた。実際に会ったことはないため、どちらが真実なのかはわからなかったが、伝え聞く小沛の繁栄を考えれば、おのずと答えは限られてくる。
 しかし、それらの噂の中に、戦巧者、という項目はなかったように思う。劉備の配下には、対董卓連合や、河北の黄巾党の乱で名を馳せた智将、勇将が居並んでいるが、劉備本人もまた、かの飛将軍を退かせるほどの武略の持ち主であったのだろうか。


 だが、そんな張紘の考えに対し、魯粛はかぶりを振る。
「情報だと、劉家軍の本隊は江都に向かっているそうだよ。劉備殿本人が広陵に残っているとは思えない。牙門旗は敵の選択肢を制限するための策ってところかな」
 あっさりと魯粛は断定するが、将帥の健在を示す牙門旗を囮に使うような真似をすれば、敵軍はおろか自軍をも混乱させることになりかねない。また、たとえその場では成功を収めたとしても、その後の士気に影響を及ぼす可能性もある。
 まっとうな将、軍師であればそもそも考えつかないし、たとえ考えたとしても、実行しようとはしないであろう。
 そんな策にあっさりと思い至るところが、魯粛が『狂児』と呼ばれる一つの理由であるのかもしれない。


 魯粛にも自覚はある。
 かすかに苦笑しながら、言葉を続けた。
「それだけ劉備殿も切羽詰っていたってことなんだろうね。あるいは軍師の建策かな。諸葛孔明と鳳士元、いずれも一筋縄ではいかない娘たちだって評判だし」
「私と同い年くらいの方々なんですよね。すごいなあ」
 羨ましそうな張紘の声を聞き、魯粛は小さく肩をすくめた。
「いや、この年で立派に県令つとめてる子綱ちゃんも十分すごいんだけどね。ま、それはともかく、高家堰砦に劉備殿がいないのはまず間違いないね。実際、劉備殿の姿を見たって報告は一つも届いていないから」
「呂布さんたちは、気付かなかったんでしょうか?」
「気付いてはいても、無視できなかったってところじゃないかな。たぶん、劉家軍の指揮官もそのあたりを見越していたんだろうね。呂布と袁術が必ずしもうまくいっていないってことに気付いていたなら、それは予測できることだからね」
 魯粛はそう言いながら、内心でかすかに首を傾げた。
 結果が出た今であれば、呂布と袁術の不和は確信をもって断言できる。しかし、劉家軍が呂布と対峙した時点ではそこまで推測できる証拠はなかったはずだ。劉家軍の指揮官は、なにがしかの確信があったのか、あるいは――

 


「あの、子敬姉様」
 張紘は小首を傾げつつ、気になったもう一つのことを訊ねる。
 劉家軍が二重の伏兵をもって呂布の軍に夜襲をかけた場面である。
「奇襲と牙門旗をもって敵の目を砦にひきつけ、本隊ともいうべき部隊で再度、奇襲をかける。それ自体はとても効果的だと思います。でも、聞けば本隊は百名たらずの兵だったとのこと。それに砦の兵もその日の戦闘で疲れ果てていたのではないですか? 不意を衝くことが出来たにせよ、呂布さんたちを退却に追い込むのは至難の業だと思います。それどころか、昼間の戦闘に参加せず、鋭気を養っていた呂布さんたちにたやすく撃破されてしまう可能性の方が高いのではないでしょうか」
 くわえて、砦に篭っていた将兵は奇襲を行う前、銅鑼を高らかに鳴らして敵の注意を惹きつけたとのことだが、それは同時に敵に攻撃があることを伝えてしまったことにもなる。
 注意を惹きつける必要があるにせよ、その状態で百名が後背から攻撃をかけても、呂布率いる一万の軍勢にとってはたいした脅威にはならないのではないか。
 張紘が、おっかなびっくり、どこか訥々と疑問を口にしたのは、自分が軍事に通じていないことを自覚しているからであろう。的外れな指摘をしているのかもしれない、と危惧しているのだ。


 だが、実のところ張紘の指摘は的を射たもので、食客からの報告を受けた魯粛も真っ先にそこを気にしたのである。
 もし、ここまでの戦況を聞いた上で勝敗を予測しろ、と言われれば、魯粛は呂布の勝利を挙げたであろう。
 だが、結果は逆。劉家軍は勝利し、呂布の部隊は高家堰砦の包囲を解かざるを得なくなった。
 その理由は――



「白い仮面に、白い戦衣。百名の奇襲部隊は、その格好で統一されていたそうだよ」
 魯粛の言葉に、張紘は目を瞬かせる。
「たしか、呂布さん率いる仲の親衛隊も……あッ!」
 何事かに気付いた張紘は、とっさにあげてしまった驚きの声をおさえるために、両手を口元にもっていった。
 魯粛は頷いて、詩を吟じるようにわずかに声を高めた。
「仲帝袁術が親衛隊、白面白甲の軍装で統一されたその兵を率いるは飛将軍。仲に刃向かう者すべてに死を告げる彼らを『告死兵』と呼びならわす――有名だよね。あらかじめ、準備しておけるくらいには」
 そこまで言った後、魯粛は小さく笑った。
「まあ、劉家軍の用意した面も衣も、実際はかなり粗末なものだったみたいだけどね。それでも百名分用意できたのは御の字だったんじゃないかな。牙門旗と、百名分の白面白甲。砦の指揮官はその二つを駆使して、呂布を止めなければならなかった」


 張紘が驚きのさめやらない口調で、魯粛の言葉を引き取る。
「昼間、散々叩いたはずの敵が、銅鑼まで叩いて夜襲を知らせる。迎え撃つ準備を整えるのは当然だとしても、将兵の皆さんは疑問を覚えますね。なぜ、わざわざ襲撃を知らせるような真似をするのか、と――」
 そこを後方から衝かれたら。しかも、攻め寄せて来る兵が味方と同じ白面白甲の戦装束に身を包んでいたら。
 頷いて、魯粛は続ける。
「奇襲部隊が、裏切り、謀叛、そんな言葉を叫んで斬りかかっていけば、袁術軍の将兵の疑問は、すぐに疑惑から確信にかわってしまう。劉家軍の扮装が粗末だったとしても、光源になるのは陣営の篝火のみ。乱戦になってしまえば、見分けなんてつかなかっただろうしね」


 正確に言えば、夜襲時、空の雲間から月はその姿を見せており、高家堰砦一帯は完全な闇夜に包まれていたわけではない。
 しかし、魯粛の言葉は劉家軍の狙いを正しく言い当てていた。砦部隊と奇襲部隊。細かい打ち合わせをする暇がなかったはずの劉家軍の二つの部隊が、恐ろしいまでのタイミングで同時に行動を開始することが出来たのは、月が完全にその姿を現す前に戦端を開かねばと、両部隊の指揮官が同時に考えたためである。




 この予期せぬ事態に袁術軍は大混乱に陥り、各処で同士討ちが多発した。
 ――もし。
 兌州の頃のように、この部隊が真に呂布の軍であれば、ここまでの混乱は起きなかったであろう。
 だが、この軍の実質は袁術軍であり、仲の皇帝や重臣たちが呂布に全幅の信頼を置くわけがない。その軍には監視や粛清を任とする者たちが少なからず潜んでいた。
 劉家軍の奇襲は、そんな両者の乖離を、これ以上ない形で衝いたのである。




 剛勇を誇る呂布といえど、一瞬で味方の混乱を沈静させることは出来ない。ともすれば、味方の兵士からさえ刃を向けられる始末である。だが、彼らを討ち払えば、混乱はますます深まり、謀叛という言葉が現実となってしまう。
 押し寄せる敵襲を防ぎつつ、味方の混乱を鎮める。呂布麾下の指揮官たちは、二つの相反する任を同時に遂行せねばならず、それが至難の業であったのは言うまでもないことであった。


 この時、劉家軍にまとまった数の兵がいれば、この一戦で呂布を撃滅することが出来たかもしれない。しかし、総数五百に満たない部隊ではおのずと限界があった。くわえて、砦側の兵は昼間の防戦で疲労の極みに達しており、実際、砦から形だけは突出したものの、ほとんどといって良いほど戦果を挙げていなかったのだ。
 それでも、結果として夜襲は見事な成功に終わったことからも、袁術軍の混乱がいかに深刻であったかがわかる。呂布の部隊の被害は、同士討ちによる死傷者も含めてかなりの数にのぼり、また将兵の間で動揺が著しく、呂布をして一時的な退却を決断させるほどの状況に陥ったのである。





 飛将軍呂奉先の追撃を食い止め、あまつさえ一時的に押し返す。無論、砦も保持したままである。これでもう、呂布といえども江都へ向かっている劉家軍本隊に追いつくことは不可能であろう。
 高家堰砦の守将は、これ以上ない形で主君の期待に応えたことになる。その功績は例えようもない。
 感心しきりの張紘が、おくればせながらその人物の名を訊ねる。
 無論、魯粛はその名を承知している――


「将軍は太史慈、字を子義。私たちと同じ女の子で、しかも私よりも年下だって話だよ。その補佐は長史の北郷一刀。こっちは男ね。二人とも、私たちには馴染みのない名前だけど、小沛に詳しい人が言うには、劉備配下の中では結構名前が知られているらしいよ。太史慈殿は武人として、北郷殿はそれ以外の意味で、だけど」 
 魯粛の言葉に、張紘は首を傾げる。
「それ以外の意味、ですか?」
「そう。腰巾着とか、臆病者とか――あと、女たらしとか。結構散々言われてるみたいねえ」
 まあ聞いたのは元黄巾党の人だから、かなり私情が入ってるっぽいけどね、と魯粛はからからと笑う。
 一方で、東城県の県令さまは、なにやらあわあわと慌てていた。
「お、お、女たら……って、一体、何を……?」
「ふふー、純情な子綱ちゃんが聞いたら倒れてしまいそうなことを色々と」
「ふえッ?!」
 と、本人のあずかり知らぬところで悪評を広められていることを北郷が知るのは、もう少し先の話である。





 ひとしきり張紘をからかって満足した魯粛は、あらためて知る限りのことを張紘に伝える。
 それを聞き終えた張紘が、まだかすかに赤みの残る頬を手で押さえつつ、深々と嘆息した。
「……伝え聞く勇将智将のほかに、これほどの人たちが隠れているなんて。劉太守の人徳というものでしょうか」
「否定する要素はない、かな。ただ、今回の戦の二人に関しては、全部が全部、計略どおりってわけじゃないと思う」
 その言葉に、張紘は何度か目を瞬かせた。
「え、そ、そうなんですか?」
「うん。もちろん、結果として見事に成功してるってことは間違いないけどね。たとえば最初の奇襲の後、呂布が砦に押さえを残して追撃を続けていたら。あるいは二日目の夜襲の時に雲が出ていなければ。もし、呂布と袁術の間に今以上の紐帯が築かれていれば――決着は別の形であっさりとついていたはずだよ」


 今回の戦、すべてが太史慈と北郷の思惑通りで進んだのだとすれば、二人は恐るべき将器の持ち主であると言える。
 だが、と魯粛は考える。
 張紘に言ったとおり、情報を伝え聞いただけの自分であっても、劉家軍側の不備は幾つも散見された。不備とは、言い方をかえれば運任せということでもある。
 もし件の二人が真の智者であれば、運などに頼ることなく、敵の思考と行動を自らの望む方向へ到らせたであろう。
 しかし、今回の戦では時間的にそこまでの余裕はなく、おそらく能力的にも無理があったのであろう。ある程度の備えこそあったが、最終的には運に頼らざるを得ない部分が多々あったことからも、それははっきりとしていた。
 おそらく今回の戦で、ここまでの戦果を挙げられるとは、太史慈も北郷も考えていなかったのではないか。大戦果を前にして、もっとも驚いたのは、あるいは彼女ら自身であったかもしれない。
 運が良かった。つまるところ、今回の戦を一言で断じてしまえばそうなろう。



 ――そして、それゆえにこそ、魯粛は戦慄を禁じ得なかった。



 魯粛は人の才智に怯えたことはない。そして、これからもないだろう。
 劉備配下の諸葛亮、鳳統。あるいは曹操麾下の荀彧、荀攸。袁紹麾下の田豊。あるいは行方の知れない孫家の周瑜や、董卓麾下の賈駆等、中華で名の知られる智略の士を相手にしても互角以上に競える自信がある。
 これは自分を過大評価しているわけではなく、どれだけ高みを見通した者であっても、それが人間である以上、対抗することは決して不可能なことではないと考えるゆえである。


 だが、運などというものを相手にした時、それに抗うのは容易ではない。
 魯粛の考えを聞いた者は言うかもしれない。将軍であれ、軍師であれ、運任せの采配を揮う者など恐れるに足りない、と。
 しかし、魯粛は運に優る才能を知らない。
 ましてや、中華最強たる飛将軍を退けるほどの天運を持つ者に対して、どうして虚心でいられるだろう。
 あるいは、この一戦が、結果の見えていたはずの仲国の淮南侵攻に、一石を投じることになるかもしれない。いや、間違いなくなるだろう。
 魯粛は自分でも不思議なほどの確信をもって、その考えを受け入れていた。
 問題は、それが東城県にとって、ひいては張紘と魯粛にとって吉と出るのか、凶と出るのか。ただその一点であった。




 張紘は、考えに沈む魯粛を不思議そうに眺めやる。
 それでも、姉と慕う人物の考え事を邪魔しないように、声を出すことはしない。どのみち、聡明な魯粛のこと、すぐに答えを導くに決まっているのだから。
 そう考えた張紘は、しかし小さくかぶりを振って、自分の中の甘えを追い出した。
 頼ることと、依存することは違う。普段は忘れてしまいがちだが、魯粛とて張紘と十も二十も年が離れているわけではないのだ。
 県令である自分が甘えっぱなしで良いわけはない。軍略においては魯粛に頼らなければならないが、それでもせめて自分に出来ることはしなければ。


 東城県の小さな県令さまは、そう考え、ひそかに拳をにぎりしめるのであった。





◆◆◆





 広陵郡高家堰砦。
 城壁上に立って眼下を見下ろせば、そこには戦の傷跡が生々しく残っており、おびただしい量の血痕が地面といわず、城壁といわず赤々と広がっていた。
 事切れた敵兵の死屍はそのまま放置されており、おれの耳を苦悶とも嗚咽ともとれる低い響きが震わせる――そんな妄想に囚われてしまいそうである。
 無論、気のせいなのだろう。だが、放置された死者を見下ろしていると、押さえられていたはずの罪悪感が、鎌首をもたげるのを感じてしまう。
 先日来、一体幾人を殺し、幾人を殺されたか。それを考えれば、平然としていることは難しかったのだ。


 おれが、そんな明るくも健全でもない思考に身を委ねていると。
「また、こんなところにいるッ!」
 そんな声と共に、どすどすと荒々しい足音が近づいてくる。
 おれは咄嗟に踵を返しかけたが、相手の方が一歩早かった。
「一刀さん! 私、ちゃんと休むように言っておきましたよねッ!」
 おれの前に立つ小柄な将軍は、視界のやや下方から、じっとおれの顔を見上げてきた。
 金色の髪が風にそよぎ、蒼穹を映した瞳がかすかに揺れた――怒りのせいで。


「あ、いや、子義殿、そのこれは、ですね」
「言っておきましたよね?! はいかいいえで答えなさい!」
「は、はい、仰いましたし、承りました!」
 太史慈から迸る烈気に、おれは反射的に敬礼してしまった。
 だが、その程度では将軍さまの怒りは収まらない。
「なら、なんでこんなところにいるんですかッ! 寝室は城の中です!」
「あ、その、もしかしたら、敵が一斉に引き返してくるかも、と……」
「見張りならちゃんと立ててます! 一刀さんのおかげで、まだ私が率いた兵は一回しか戦ってないのですから」
 最後にぴりっと辛味を聞かせるあたり、太史慈も言うようになったものである。
 現実逃避気味に、そんなことを考える。


 すると、不意に太史慈がすねたようにそっぽを向いて、ぼそりと呟いた。
「そんなに私の命令に従いたくないというのなら、昨日言ったように一刀さんが将軍になりますか? 私はそれでも全然かまわないのですけど」
「うぐ……い、いや、決して子義殿に従いたくないなどと思っているわけでは……」
「思ってないって言っても、実際に従ってないじゃないですか。それとも、連日の戦で疲れ切っている人に休めと命令するのは間違っていますか、長史殿?」
 とがらせた口はそのままに、上目遣いをする太史慈。
 ……本人は百パーセント意識してないだろうが、無茶苦茶可愛いんですけど。


「……い、いえ、至極妥当な命令です」
 おれは脳裏によぎった場違いな感想を慌てて追い払う。
 一瞬、怪訝そうな表情を浮かべた太史慈だったが、それも一瞬。
「なら、従ってもらいます。言っておきますが、もしまた別の仕事をやろうものなら、本当に皆の前で北郷将軍の就任を告げますからね」
 玄徳様も理解してくださることでしょう。そう言う太史慈の顔は、かぎりなく真剣であった。
 おれは一も二もなく頷くと、這々の体でその場を離れ、割り当てられた自室の寝具に潜り込むのだった。



 とはいえ、先夜来の興奮がまだ燻っているのか、すぐに眠りに落ちるには至らない。
 やることもないおれは、今後の動きに思いを馳せることにした。
 呂布を退けたとはいえ、それが一時的なことであることはおれも太史慈も承知している。
 玄徳様を江都へ逃がすために、呂布を足止めするという意味では、おれたちはもう十分に役目を果たしたと言えるだろう。だが、それはあくまで劉家軍に関してである。
 広陵城の危機はいまだ去ったわけではなく、おれたちがここから去れば、後顧の憂いをなくした袁術郡は一斉に広陵城に襲い掛かるであろう。少しでも城にいる陳羣や孫乾、そして陶謙にかかる圧力を減じて差し上げねばならない。
 無論、この小勢では出来ることに限度がある。先日来からの戦で死傷した者は決して少なくないため、出来ることは本当に限られているのだ。呂布が態勢を立て直して本格的な攻撃に出てきたら、次は耐え切ることは出来ないかもしれない。そう考えてしまう自分がいた。
 退き時は慎重に測る必要があるだろう。


 ただ、それに関して気になる点がある。広陵の奪取よりも玄徳様たちの追撃を優先する動きを見せたりと、どうも敵の動きに不自然な点があるのだ。あるいは、おれや太史慈のあずかり知らぬところで、何事かが起こっているのかもしれない。
 だが、おれ個人の情報網など持ち合わせていないため、こんな時にはまるで為す術がない。情けない話だが、その都度、状況に応じて動くしかないのである。
 今まではとくに不都合を覚えたりはしなかったが、人を率いる立場に立つと、情報の有無は時に致命的な結果につながりかねない。玄徳様たちと合流したら、鳳統に教えを請うてみるのも良いかもしれない。
「……まあ、出来ればこんな経験は今回限りにしたいのだけども、な……」
 語尾に、小さなあくびが混ざる。
 横になることで、ようやく眠気が訪れたようだ。
 急速に薄れいく意識。何を思う暇もなく、たちまちおれは眠りの園へと引き込まれていった。







 ――だが、その眠りはわずか一刻で中断されることとなる。重い頭を抱え、顔をしかめながら起き上がったおれは、安眠を中断させてくれた人物に不満げな眼差しを向け――そこに太史慈の強張った顔を見て、瞬時に表情を改める。
 そして、太史慈の口から放たれた言葉は、おれの耳に落雷さながらの轟音となって響き渡った。


 広陵城の方角から立ち上るは、天に沖する煙と炎の赤色。
 何が起きたのか。何が起きているのか。誰が見ても、思い浮かぶことは一つしかない。
 そしてほどなく、その知らせは高家堰砦に届いたのである。


 ――広陵城、陥落。
 




[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/02/18 23:13


 徐州広陵郡、広陵城。
 淮河流域でも屈指の規模を誇るこの城には、太守陳羣が率いる二万の軍勢が篭城していた。
 以前より袁術の淮南侵攻が必至と見ていた陳羣は、篭城のための準備を怠りなく進めており、広陵城の府庫には財貨や糧食が山と積まれている。
 それゆえ、各地からの避難民を城内に受け入れてなお広陵城の物資が不足することはなかった。


 そうして敵軍の襲来を今や遅しと待ち受ける広陵城の前に現われたのは、呂布率いる仲国の軍勢三万であった。
 一般に、城を攻めるにおいて、攻撃側の兵力は守備側の三倍以上を要するとされている。その意味で、二万の兵力が篭る広陵城に対し、呂布の兵力は過小であったと言える。
 無論、それはあくまで机上の理論。守将である陳羣は、飛将軍率いる三万の軍勢を過小に評価する愚将ではなかった。だが同時に、過剰な恐れを抱いているわけでもなかった。


 淮南に侵攻してきた袁術軍は、呂布の三万だけではない。広陵城を守り続けていけば、最終的には、袁術が今回の侵攻で動員した十三万の軍勢、そのすべてがこの地に集うことになるだろう。
「――いわば、この戦はそこに到る緒戦です。頭を抱えたくなるほどに不利を極めるこの戦況で、呂布一人に怯えている暇はありません」
 城壁の上に立って、そう口にする陳羣。
 現在の広陵太守は、外見よりもはるかに胆力に富んだ女丈夫である。かつて、揚州牧の劉遙が淮南支配を目論んで兵を挙げた時、単身、敵陣に赴いてその軍勢を退かしめたことは、今でも語り草となっている。
 孫乾も当然、そのことは承知していた。迫り来る呂布の部隊を前に、震えがおさまらない我が身を顧みるまでもなく、陳羣の毅然とした姿には感嘆を禁じ得なかった。




 
 難攻の砦として知られる路西を陥とし、勢いに乗る呂布の部隊は、すぐにも広陵城へ攻撃を仕掛けてくると思われた。
 陳羣の指揮の下、広陵の城壁上にはずらりと弓兵が居並び、矢を番えて敵兵の到来を待ち受ける。その後ろには投石用の大小の石が置かれ、火や油を放つための用意も万全であった。
 城を守る将兵の士気も高い。
 今回の仲国の侵攻で、袁術軍がどのような振る舞いをしているかは広く知られており、この戦に敗れれば、同じ運命が故郷である広陵に襲い掛かることは間違いない。広陵に住まう者は、老若男女の別なく、敵軍に蹂躙されるであろう。
 その中に自分たちの家族や友人が含まれることは明らかで、それゆえにこそ、徐州軍の将兵の眼差しは苛烈なまでに鋭かったのである。


 しかし、待ち受ける徐州軍を前に、呂布の部隊がとった行動は予想外のものであった。
 将の所在を示す牙門旗が、広陵城に到る前に南へと向けられたのだ。主力とおぼしき部隊はそれに続いた。広陵の南側近辺に、三万の軍勢を収容できるような拠点は存在しない。敵の狙いは奈辺にあるのか。
 すぐさま南の各拠点に使者を出した後、予期しない敵の動きに、陳羣は困惑を隠せなかった。広陵を無視して、南の江都を衝く心算であろうか。あるいは――
「まさかとは思いますが、劉州牧を……」
 そう口にしかけた陳羣は小さくかぶりを振る。
 陶謙が密かに劉備に州牧の位を譲ったことは、当然、公表されていない。それでも、その場に居合わせた一人として、陳羣は劉備を州牧として立てていたが、多くの者にとって、劉備はいまだ小沛太守に過ぎない。広陵の奪取より、その身柄を優先するほどの影響力を有しているわけではないはずだった。


 その劉備が、陶謙の命によって江都を目指していることを知る者は、これもわずかしかいないはず。かりに劉家軍の動向を知りえた者がいたとしても、今の劉備の行動は、裏面を知らない者から見れば、敗残の兵が南に逃げているだけのこと、あえて追撃をしなければならない理由はどこにもない。むしろ、呂布が広陵よりも江都の奪取を優先した、と考える方がまだ説得力があるだろう。
 だが。
 束の間、陳羣の顔に不安の影が滲んだ。
 言葉では説明しがたい、奇妙な不安が胸中をよぎる。
 繰り返すが、劉備が徐州牧の印を譲られたこと。江都を目指していること。その理由。いずれも漏れるはずのない秘事であり、呂布が、ひいては袁術がそれを知ることはありえない。
 にも関わらず、呂布の行動を見た陳羣は、こちらの行動、そのすべてが読まれているような錯覚に捉われた。彼方からこちらを見据える視線、そこに含まれた嘲笑――否、憫笑、だろうか。まるで蟷螂のかごに入れられた蝶を見るかの如き視線を、陳羣は確かに感じた気がした。




「……陳太守、どうなさいました?」
 孫乾の怪訝そうな問いかけに、陳羣は、はっと我に返ると、かぶりを振って焦燥を払い落とす。
「すみません、少し考えていました。敵の狙いが奈辺にあるのかを」
「確かに、妙な動きです。このままでは玄徳様が後背を衝かれかねませんが……」
 孫乾は口惜しそうに言葉を切る。敵の追撃を止めようにも、敵軍三万のうち、二万は広陵城に留まっている。呂布を止めるには、まずこの軍を撃破しなければならないが、仮にも敵の先鋒を務めて淮南各地を突破してきた精鋭である。城壁を挟んでなら知らず、野戦で真っ向から戦い、勝利を得るのは、不可能とは言わないまでもかなりの困難を伴うし、時間もかかるだろう。
 また、城兵の突出を誘うのが呂布の狙いである、という可能性も捨てきれない。
 それゆえ、陳羣たちは去りゆく真紅の呂旗を見送るしか術はなかったのである。



 この時、孫乾が自らがいる広陵ではなく、呂布が向かった南の戦況を案じたことを、油断というのは酷であろう。
 飛将軍と、その直属の一万が去った後、残った袁術軍は二万。広陵城の兵力と同数である。城壁の中にいる徐州軍が有利であるのは当然であり、また、残った敵とてそれは承知しているだろう。
 おそらくは遠巻きに城を囲み、糧道を断って、他方からの援軍を待つ作戦をとる。しかる後、まとまった数の援兵が到着するのを待って、本格的な城攻めを開始するものと思われた。
 孫乾だけでなく、陳羣でさえそう考え、束の間、緊張を緩めた。それもまた、責められることではない。長期戦になることが避けられない以上、四六時中、緊張していては体力も気力も続かないのだから。


 事実、その日、袁術軍は遠巻きに城を望んだまま動かず。
 日が沈んだ後、夜襲をかけてくることもなく。
 耳が痛くなるような静寂を保ったまま、両軍は一日を終えようとしていた。



◆◆



 広陵城外、仲軍本営。
 仲の将軍の一人である李豊は、遠く夜の闇に浮かび上がる広陵城の城壁を睨みながら、忌々しげに舌打ちした。
 仲軍の枢要を占める将軍たちの中にあって、李豊はめずらしい女性の将軍であった。他の女将軍といえば、大将軍である張勲と、近衛指揮官の呂布くらいしかいない。
 黙っていれば秀麗といっても差し支えない容姿の持ち主なのだが、今はその容貌は苛立ちに歪み、奇妙に醜悪な印象を、見る者に与えてしまうかもしれない。


 その李豊が見据える広陵城は、現在も大々的な拡張工事が進められている仲の帝都寿春ほどではないにせよ、厚く高い城壁に囲まれ、昼間見た限りでは守城のための防備も充実している様子であった。
 李豊の見るところ、同数の兵で攻め寄せて陥とせる城ではない。強攻したところで、無駄に部下を死なせるだけであろう。


 しかし、李豊はこのままのんべんだらりと城を囲んでいるつもりはなかった。
 寿春を発ってからこちら、呂布の副将格として後陣に置かれていた李豊は、未だ手柄らしい手柄を立てておらず、武勲の量において、呂布は無論のこと、他の戦線の僚将よりも劣っている。
 その李豊にとって、この広陵攻めは千載一遇の好機と映っていたのである。
 南へと向かった呂布、正確にはその軍師の陳宮から、むやみに攻撃を仕掛けて兵を損じないように厳命されていたが、李豊は新参の将の命令になど従うつもりはなかった。
 あるいは抗命の罪に問われるかも知れないが、広陵奪取という結果さえ示せば、皇帝とて仲建国以前から仕える自分をあえて処罰しようとはしないであろう。そういう計算もあった。


 しかし、城の堅固な守備を遠望すれば、安易に攻め寄せても痛い目を見るだけというのは明らかで、結果、呂布に命じられたように遠巻きに城を囲んで糧道を断つことしかできずにいたのである。
 糧道を断つといっても、一日二日で城内の食料が尽きるわけではない。兵糧攻めはとかく時間がかかるものであり、時間をかければ呂布が帰って来る可能性は刻一刻と高くなる。南へ逃げているという敗残の部隊では、呂布と接敵すれば一日も保たないのは明らかであり、李豊に与えられた猶予はごく短かった。
 このまま包囲を続けていても、李豊が手柄をたてることはありえず、かといって強襲するには兵力が足りない。李豊は鉄靴で地面を蹴りつけながら、忌々しげに罵詈を吐き出した。


「これでは赤毛に武勲をたてさせるだけの戦いではないか、面白くない」
 李豊は袁術麾下の中では古参の武将であると言って良い。女だてらに戦場で矛を振るってはや十数年。大将軍である張勲は別格としても、楽就、梁剛らと並び袁術軍の中でも重きをなす存在に成りおおせていた。
 しかし、仲建国以後、袁術は多くの人材を麾下に招きいれており、中には早くも頭角をあらわしている者もいる。李豊は将軍の地位を失うことこそなかったが、軍部での影響力は明らかな減退を見せていた。
 ことに呂布の存在は李豊ら古参の将たちにとって疎ましいものであった。新参の身ながら、呂布はすでにして近衛である告死兵の長として李豊らと同格の地位を与えられ、今回の淮南侵攻では武人の栄誉たる先鋒を任せられた。
 戦えば勝ち、攻めれば奪る。路西砦の攻略を筆頭に、その武勲は枚挙に暇がなく、この戦が終わった後は更なる高位に就くことは確実であった。


 そのことに不服はあるが、一方で呂布の武略を間近で見続けた李豊は、飛将軍の噂が偽りでないことを思い知らされており、自分の意思が嫉妬に類するものであることを自覚していた。そしてその認識が、また負の感情をかきたてるという悪循環を形作っていたのである。
 この悪しき循環から逃れるためにも、李豊は配下に広陵陥落のための作戦を練らせてはいたが、これといった良案は出てきていない。それも当然で、この状況で城を陥とせる智謀の士は、中華全土を見回してもそうはいまい。
「まったく、使えない奴らだ。将を補佐するが貴様らの役割だろうに」
 三度、舌打ちして吐き捨てながらも、李豊は自分が理不尽なことを口にしているとわかっていた。今の言葉は、自分の無能をさらけ出す愚痴に過ぎない。そうと承知しているからこそ、護衛も従えず一人になっている今を見計らって口にしているのである。




 
 これといった思案も浮かばず、李豊が得るものなく陣に戻ると、まるでそれを待っていたかのように部下の一人が息せき切って報告に現われた。
「も、申し上げます、李将軍ッ!」
「――何事です、そのように慌てて」
「は、寿春より、陛下の使者がお越しに御座いまするッ!」
「なに、陛下からッ?!」
 一瞬の驚きが去ると、李豊の表情がかすかに曇った。
 李豊自身の戦勲はともかく、戦の情勢は仲の有利に進んでいる。今この時、急使を遣わすとはどのような用件なのか。あるいは、呂布の後塵を拝するばかりで、目だった功績をたてていない此方への叱責かもしれぬ。そう考えたからだった。


 無論、たとえそうであったとしても、皇帝の勅使を拒むことはできない。やや気重な声で、使者を通すように命じた李豊は、ふと思い立って誰が使者に来たのかを尋ねた。
 部下の口から出た名前は、李豊の予測と異なるものであったが、その名と顔は記憶にあった。李豊の顔に隠しきれない嫌悪が浮かぶ。それは呂布のことを考えていた時より、あるいは強い感情であったかもしれない。
「……一介の方士が皇帝の勅使を務めるなどと、成り上がったものよ。方士ごときと会うのは業腹だが、陛下の使者とあらばいた仕方ない」
 そう言って、李豊は再度、勅使を通すように命じた。
 その声に潜む苛立ちの深さに、李豊の部下は思わず首をすくめるのであった。


 これは当分、機嫌は直るまいと思い、明日以降の労苦を思ってため息を吐く袁術軍の将兵。しかし、勅使を案内して数刻後、李豊の表情が思いもかけず晴れ渡っていることに部下たちは気付くことになる。
 勅使を見送った李豊は、すぐに兵を集めるように命じた。
 すでに夜は更け、月は天頂に煌々と輝いている。将兵も、見張りを除いては寝入っている頃合であった。
 城に夜襲をかけるのか、とも考えたが、それならあらかじめ準備させておくだろう。
 何のための召集か、と首を捻る部下に、李豊はさも愉しげにこう告げた。
「広陵を陥とすための、下ごしらえよ」と。




 ――あけて翌日。
 広陵城の城門前には、手と足、そして首に枷を付けられた者たちが居並んだ……




◆◆◆




 側近を引き連れて陣頭に馬を進める李豊。
 城壁上の将兵の中に李豊の顔を知る者はいなかったが、陽光を浴びて燦然と輝く甲冑を身にまとい、仲の旗を立てる人物が誰であるのか、確認するまでもないことであった。
 やがて城壁上の顔が識別できる距離まで達すると、李豊は高らかに城内に宣告した。
「広陵の城民に告げる! 我は仲国皇帝、袁公路様が配下、李豊である。多言を費やす必要を認めぬ。速やかに城門を開き、我らが軍門に下るがいいッ! さもなくば、この城の城壁すべてを貴様らの血もて染め上げてくれようぞッ!」


 その口上に対し、陳羣は答えなかった。
 その視線は李豊ではなく、そのすぐ後ろに、罪人のように引き据えられている者たちに向けられている。
 代わって答えを返したのは孫乾であった。普段は穏やかな声音が、今この時は、敵を鞭で打ち据えるように、鋭く宙を裂いて響き渡る。
「漢朝に刃向かい、無名の師を起こして民草を踏みにじる者たちに、我ら漢の臣がどうして降伏などできようか。交渉を望むのならば、武器を捨て、兵を退き、捕らえた者たちを解き放すがよろしかろう。しかるのち、我らは交渉の卓に座るであろう!」


 正理に満ちた孫乾の言を聞いた李豊は、無言で背後に控えていた兵士たちに準備を命じる。
 李豊麾下の兵は、荒々しい手つきで枷をつけられた者たちを前へと引き出し、城壁からはっきり見える位置まで来ると、無言で次の行動に移った。
 袁術軍の侵攻に伴い、陳羣は近辺の住民を城内に収容していたが、中には城に入らず野山に隠れた者、水路に舟を浮かべてそこに潜んだ者もいた。李豊が先夜のうちに捕らえたのは、そういう人々だった。
 そのことは陳羣たちも推測することが出来た。問題は、何のために彼らを狩り集めたのか、という点である――否、それもまた推測することは簡単であった。ここまでの袁術軍の蛮行を聞いていれば。


 しかし、まさか、との思いを禁じ得ない陳羣たちの前に、推測はより以上に残酷な現実となって現われる。
「言ったはずだ。多言を費やす必要を認めぬ、従わざればこの城、貴様らの鮮血にて染め抜こう、と」
「なにを――」
「見ていればわかる。貴様らが招いた結果を、じっくりと堪能しろ」
 焦りの滲む孫乾の言葉に、李豊は嘲笑を浮かべることで応じる。
 そして、ためらいなく兵士たちに合図を送った……





 ――鬼宴。


 

 
 血相を変えた将兵が、口々に出撃を願い出てきた。
 城外から聞こえる苦悶と絶叫、そして絹を裂くような悲鳴があがるたびに、将兵の顔はますます鬼気迫るものへと変じていく。このままでは、陳羣らの制止を振り切って、城門を開け放ってしまいかねなかった。
「太守様、出撃しましょう!」
「そうです、こ、このような光景を、黙って見ていることなど出来ませぬ!」
「我ら徐州の民の誇り、あの鬼畜どもに知らしめてやりましょう! ご命令をッ!!」
 殺気だった顔で詰め寄ってくるのは末端の兵士ばかりではない。指揮官格の者でさえ、我慢はならじと口々に出撃を請うてきたのである。
 出撃すれば、守城の有利をみずから放棄することになる。明らかに敵はそれを目的として、こちらを挑発している。はっきりと言ってしまえば、これは罠だった。十中十まで、確実に。
 それでも。
「……出ざるをえませんね」
 歯軋りしつつ、そう言う孫乾の言葉を、陳羣は否定できない。
 青ざめた顔が向けられる先は、城外の袁術軍。その陣頭で繰り広げられる凄惨な情景に釘付けになっていた。




「あああ、やめ、痛い、痛いいたいイタイィィッ?!」
「いや、助け、助けてくださ、もう、やめて、やめて、やめてェェッ!!」
「……あ、も、う、殺し、て……」
「やだ、お姉ちゃ、助けて、助けて、いやああああッ!」
 戯れのように振りかざされる剣と槍。
 剥ぎ取られた帯と衣。
 大釜には煮えたぎった湯が焚かれ。
 兵士たちは、笑いながら口にする。
 次はお前だ、と。



 新たにあがった悲鳴、そこに滲む恐怖の響きにたまりかねた兵の一人が、城壁上から矢を放つ。しかし、矢の射程からはわずかに遠く、その矢はむなしく地面に落ちる。
 ――仮に届いたところで、悲鳴をあげる民たちに当たってしまうかもしれない。城に篭っているだけでは、決して彼らを救うことは出来ない。そのことは万人の目に明らかであった。
「鬼畜どもが……」
 再び、孫乾の口から押し殺した怒りの声が漏れる。
 その言葉は正しく事実を指しているが、この場においては何の意味もなさないもの。孫乾自身にもそのことはわかりすぎるほどにわかっていた。それでも言わずにはおれず、そして実際に口に出してしまうのが、孫乾の軍指揮官としての限界であったのかもしれない。
 陳羣は、顔色こそ変えたものの、それ以外は常の様子を保っているように見えた。しかし、慧眼の者であれば――否、慧眼など持たずとも気付いたであろう。その拳の震えと、その眼差しに込められた怒りに。



「さて、どうする。こちらはいつまで続けても構わぬがッ」
 再びあがる敵将の声。
 陳羣ははじめて自らその声に応えた。
「どうするとは? 城門を開き、城内の民すべてをあなた方の暴虐の宴に供せよと言われるのか」
「敵は殺し、味方は生かす。簡単な、そして単純な真理であろう。貴様らが我らに降るのであれば、貴様のいう暴虐の宴とやらも終わろうよ。太守、貴様には選ぶ権利がある。門を開いて我らに降れば、広陵の民は助かろう。あるいは守るべき民が陵辱されるのを見ながら、城に篭り続けるもよし。さすれば昼夜を問わず、この宴は続けられよう。隠れ潜む民などいくらでも駆り集められるゆえ。貴様らはその光景と声を肴に酒でも飲んでいればよい」
「……かりそめにも皇帝を名乗るのであれば、この中華を治めんとする気概があるのでしょう。その麾下にある者が、かかる暴虐を為して、民がそれに従うとでも思っているのですか?」
 声の震えはかろうじて抑えたが、陳羣の声にはっきりと怒りが滲む。


 それを聞き、李豊はいささかわざとらしく肩を竦めて見せた。
「正言、耳に痛い。だがこの身は武を修める将に過ぎず、上位の者の命には従わざるを得ぬ。広陵を力もて抜くことは難しいが、その士気を挫くことは可能であると、私はこうするように命じられていてな」
 それが誰であるのかを聞け。李豊は暗にそう要求していた。
 そして、陳羣はそれを問わざるを得ない。
「何者が、このようなことを望むというのです?」
「仲帝国虎賁校尉、呂奉先」
 その言葉は、さして意外の感を与えるものではなかった。
 この軍を率いていたのが呂布であったのだから、李豊の口からその名が出るのは当然ともいえる。
 首謀者を知った将兵の口から、一際高い怒りの声があがった。


 だが、このとき、陳羣は小さからざる違和感を感じていた。
 何故、わざわざ敵味方に聞こえるように、その名を知らしめる必要があったのか。暴虐を行ったことに対する自身の責を回避しようとしているとも思われたが、袁術軍はすでに淮南各地を蹂躙し、ここと似たようなことを繰り返し行っている。今さら、その一つを他者の責任としたところで、何の意味もないだろう。


 だが、それ以上考える暇はなく、煮えたぎった大釜から新たな絶叫が迸り、陳羣は唇を強くかみ締めた。
 李豊が採った策は単純で下劣だが、城兵を外におびき出すという目的に照らし合わせれば効果的と言わざるを得ない。
 陳羣は広陵太守として人望が厚いが、戦場の猛将ではない。その補佐である孫乾も同様である。兵書を紐解き、兵を御する知識を持っていても、それを活かす経験が不足している観は否めなかった。まして、このような凄惨な場に居合わせた経験があろうはずもない。
 もし、この場の総大将が曹操なり孫策なりであれば、城外の民を切り捨てるにせよ、あるいは助けるにせよ、明確な方針を打ち出し、的確な方策を練って行動に移ったであろう。しかし、この時、陳羣も孫乾も平常心を取り戻せぬままに決断を下してしまう。
 判断力にかげりのある状態で下した決断には、かならず虚が生じるもの。それを知らない二人ではなかったが、城外から今なお響く絶鳴が、陳羣たちの冷静さを根こそぎ奪い去ってしまったようであった。
「……早急に出撃の準備を。城外の民を救出します」
 陳羣の命令に応じて、麾下の将兵が慌しく動きはじめた。雄雄しく声を高める者もおり、その慌しさは城外から見ても筒抜けであった。


「……ふん、たあいもない。名相、必ずしも名将にあらず、か。方士の言うとおりであったな」
 城壁の士気の高まりを遠望した李豊は、秀麗な容貌に嘲りの表情を浮かべ、新たな命令を配下に下す。それに応じて袁術軍は密かに迎撃の準備を整えはじめた。
「広陵は淮南でも指折りの豊かな城市。金銀珠玉が溢れ、美しい女子も山ほどいよう。これらを手に入れんと欲する者は奮闘せよ! この李豊、功には必ずや賞もて応えるであろう!」
 欲望を煽り立てる女将軍を前に、配下の将兵は歓呼をもって応じる。
 まるでそれを待っていたかのように、地響きをたてて開かれる広陵の城門。
 かくて広陵を巡る攻防が幕を開けたのである。





◆◆◆





 広陵城、城外。
 高家堰砦から戻った高順たちは、そこで見たものに言葉を失った。
 激しく繰り広げられたであろう攻防の痕跡、開かれた城門、今も城内から響いてくる喚声。だが、それ以上に――
「なんですか、これ……」
 高順は、それ以上言葉を発することが出来なかった。その視線は、この場に置き捨てられた死屍に向けられている。
 それが甲冑をまとった兵士であれば、敵であれ味方であれ、高順はここまで驚くことはなかったであろう。
 どうやって城門を破ったかは定かではないが、広陵の押さえとして残った李豊が広陵城を強攻したことは間違いない。あるいは敵を城外に誘き寄せ、野戦に持ち込んだのかもしれない。そのいずれであるにせよ、兵士の死屍が放置されていることの説明はつく。
 だが、どうしてここに、年端もいかぬ女子供の死屍があるのか。否、それだけではなく、とても兵士とは思えない老人の亡骸も見えたし、その隣の壮年の男の亡骸は――まるで壊れた人形のように、あらぬ方向に関節が曲がっているように見える。


「なんですか、これ……」
 もう一度。
 高順はぽつりと呟く。
 問うてはいたが――答えなど、とうに出ていた。
 生きるためではなく、奪うためでもなく、ただ殺すために殺している。見せしめか、あるいは挑発か。いずれにせよ、この蛮行を為したのは高順たち袁術軍しかありえない。おそらくは李豊であろう。
 初めて見る光景ではない。呂布の部隊では戦場以外で血を流すことを禁じているが、一軍の長ではそれが限界。他の部隊を掣肘する権限はなく、袁術軍の侵攻する先々で民草の血が流されていることは承知していた。
 ――正確に言えば、承知しているつもりであった。だが、眼前の光景に、高順の顔が知らず歪んでいく。
 それは怒りなのか、悲しみなのか。高順自身にもわからない感情が、瞳から滴となって零れ落ちようとするその寸前であった。


 広陵城内から、天地も裂けよと言わんばかりの轟音が鳴り響いたのである。
 それに続いて、悲鳴とも喊声ともとれる声が上がり、その叫喚は城外の高順たちの耳にまで達した。
 何事が起きたのか。
 考える暇もあらばこそ、高順は愛馬を駆って広陵城内に駆け入り、一瞬の間を置いた後、呂布と陳宮がその後に続いた。






 高順たちがその場にたどり着いた時、全ては終わった後のようであった。
 おそらくは最後まで抵抗したのであろう。徐州側の兵と思しき者たちが倒れ伏し、まだ息のある者たちを、袁術軍の兵士が次々にとどめを刺している。
 その先には僚将である李豊の姿。そしてその傍らには、袁術軍の兵士たちによって、地面に頭を押さえつける形で拘束された徐州側の高官の姿があった。血泥で覆われ、はっきりとはわからないが、二人のうち一人は黒髪の女性のように見える。おそらくは広陵太守の陳羣であろう。


 その光景の中で、強く高順の目を惹きつけるものがあった。李豊の眼前に置かれている棺である。贅を尽くしたそれを見れば、中に葬られているのが高貴な身分の人物であることが窺えた。
 そんなことを考えていた高順の耳朶を震わせたのは、泥を食まされながら、なお強い口調で弾劾の言葉を紡ぐ徐州側の人物であった。
「貴様、我らに手を出さぬと申したではないか。約定を破るつもりかッ?!」
 首筋を押さえつけられながら、その男性は激昂していた。
 それに対し、李豊はなにやら喜悦の表情を浮かべつつ、足元に置かれている柩を無造作に開く。

 咄嗟に目をそらそうとした高順であったが、一瞬、その視界に中に安置されていた人物のものと思しき白髪が映った。高順のいる場所からは、その程度しかわからなかったが、李豊ははっきりとその遺体の顔を確認できる。
 李豊はわずかに目を細めて棺の中に視線を注ぐと、すぐに厭わしそうに目をそらした。だが、それだけで確認には十分であったらしい。声に奇妙な確信をこめて李豊が口を開いた。
「ふん……洛陽で董卓と戦った折り、見たことがある。こやつ、徐州牧の陶謙であろう? 抵抗を止めれば退去を許すとはいったが、それは太守までだ。州牧を見逃すとは言っていない。何故この城に陶謙の遺体があるのかは知らぬが、これは陛下への良い土産となるわ」


「土産、だと。天命を全うして逝かれた方、しかも帝より州牧に任じられた方の亡骸に、貴様は何をしようというのだッ!」
「往古、伍子胥は王の屍を地中より引きずり出し、鞭打って恨みを晴らしたではないか。今、仲帝に従わず、無用の抵抗をなした州牧の屍を晒し、天下にその末路を示して何が悪かろう」
 李豊の冷笑を聞いた男性――孫乾は、周囲の状況を忘れて掴みかかろうとするが、兵士の拘束を逃れるだけの膂力はなく、逆にさらに顔を地に押し付けられた。その口から、苦しげな呻きが漏れる。


「案ずるな。陛下の御名において誓ったのだ。貴様らは生かして外に出してやる。城に残る者も、抵抗しないのであれば、手をかけることはせぬよ」
「……ただし、陶州牧の亡骸を辱められた者たちが、無謀にも刃向かってきた時は、その限りではない――とでも言うおつもりですか?」
 地を舐めさせられながらも、そう口にだしたのは陳羣であった。嘲笑を浮かべる李豊を睨みすえる眼差しは凍土のように冷たく、そして乾いている。孫乾のように激昂することなく、けれど同じくらいの嫌悪と侮蔑を込めて、陳羣は李豊をじっと見据えていた。
 射るような陳羣の視線を正面から受けた李豊が、一瞬、気圧されたように嘲笑を凍らせる。
 たが、すぐに現在の互いの立場を思い出したのであろう、平静を取り戻した様子の李豊が何事か口にしかけた時だった。


「…………李豊」
 呂布が、はじめて口を開いた。
 決して大きくはない呼びかけだったのだが、その声ははっきりと李豊の耳に届いた。
「りょ、呂布、殿……?」
 振り返った李豊の顔が驚きにひきつる。まさかこれほど早くに呂布が広陵に戻ってくるとは考えていなかったのであろう。これは高家堰砦で敗れたゆえなのだが、李豊には知る由もなかった。
 みだりに動くな、との軍令に違反した身であることは、李豊も自覚している。突然の呂布の出現に肝を冷やしたように見えた。
 とはいえ。
「機を見て動くが武人の器量。広陵は呂布殿の手を煩わせるまでもなく、この李豊が陥としましたゆえ、ご安心くだされ。我らが武勲、皇帝陛下もさぞお喜びくださいましょう」
 自身の功を思い返した李豊は、余裕を感じさせる口調で応じた。広陵奪取の功績は、砦に過ぎない路西や、他の小城とは比較にならぬ。武功の面から言えば、李豊は呂布を凌いだといってよい。
 早くも驕慢を滲ませる李豊に、呂布の左右に控えていた陳宮と高順が咄嗟に表情を固くさせたが、呂布は相手の態度そのものを問題視しようとはしなかった。というよりも、ほとんど気にしていなかった、という方が正確であろう。




 呂布が言ったのは――




◆◆◆




「――約束を破ってはいけない。遺体を辱めることも許さない。飛将軍はそういって、私たちに恭祖様(陶謙の字)の亡骸を伴ったままの退去を許したのです」
「呂布が、そんなことを?」
 高家堰砦内部。
 陳羣から広陵陥落の詳細について話を聞いていたおれと太史慈は、呂布の言動を聞いて思わず顔を見合わせてしまった。
 考えてみれば、おれは呂布の武名については聞き知っているが、個人としての呂布はほとんど知らない。裏切りを常として乱世を渡り歩いた、おれの知る呂奉先とは別人であってもおかしくはない。高順が仕える主君なのだから、それは予測してしかるべきことであった。
「……李豊によれば、あの鬼宴も呂布の命令ということでしたが……今思えば、あれも芝居であったのかもしれません」
 陳羣が苦しげに咳き込みながら、そう口にする。
 その言におれは頷いた。
 確かに陳羣の言うとおり、その言動を聞くかぎり、呂布に対する印象が大きく変わってくる。少なくとも、陶謙の遺体が衆目の前で辱められる事態を避けることが出来たのは呂布のおかげだ。これは感謝してしかるべきであろう。
 李豊が何故呂布を貶めるようなことを言ったのかはわからない。先の戦いでこちらの流言が思った以上に効果を示したことから、呂布と袁術が互いに警戒の念を抱いているのは明らかであったが、あるいは他の将軍との間にも不和を抱えているのかもしれない。


「ともあれ、聞くべきことは聞けました、ありがとうございます。陳太守も今はお休みください。おそらく今日明日のうちに敵が寄せてくるということはないでしょうから」
 呂布のことだけでなく、陶謙がすでに死んでいたこと、広陵での凄惨な攻防、そしてすでに広陵城が陥落したという事実。
 一時に多量の情報を聞かされ、脳が飽和状態になっている。奇跡的に呂布を退け、後は退き際を見計らって、などと考えていたおれの目論見はあえなく潰えてしまった。この混沌とした戦況にあっては、個人の思惑なぞ空を流れる雲のように、風が吹けばあっけなく形を崩され、空に溶けていってしまうもののようであった。




 広陵城から高家堰砦にやってきたのは、陳羣と孫乾、そして彼らの側近やその家族、おおよそ百名近い人たちである。その大半は老人や女性、子供たちであった。
 当初、陳羣は自身は広陵に残り、孫乾に陶謙の棺と傷病兵や民らの避難を託す心算であったらしい。だが、最終的にほとんどが陳羣とその一族郎党のみとなったのは、明らかに袁術側の作為あってのことであった。おそらく、陳羣が自分と一族の安全のみを図ったとして、広陵の人々に太守への不信を植え付け、相対的に仲への敵愾心を削るつもりなのだろうと陳羣は言う。
 そうと悟って、なお陳羣が従ったのは、陶謙の亡骸を袁術軍の手に渡さないためには、あえて敵の思惑に乗るしか手がなかったからである。


 陳羣と孫乾、そして二人と共に広陵から逃れてきた人が休めるように手配した後、おれと太史慈は今後の行動について話し合いを持った。
 あえて冷徹に考えるならば、広陵が陥ちたことで、おれたちは行動の自由を得たと言える。元々、おれたちの役割は広陵を援護することにあったのであり、その広陵が陥ちた今、この砦を守る意味も失われた。それゆえ、江都に向かった玄徳様と合流するために南へ向かうべきであった。
 だが。
「私たちだけならばともかく、陳太守らはすぐの移動は無理でしょうね」
 太史慈の言に、おれは渋い顔で頷く。
「はい。共に江都へ逃げることが出来れば、とも思いますが、広陵を出ることまでは許しても、江都までの道程を袁術が見逃してくれるとは考えにくいです。いえ、それを言うならば、どうしてわざわざ、太守や公祐殿(孫乾の字)を逃がしたのか。不信を植え付けるといっても、その身柄を押さえておけば、いかようにも筋書きを書くことは可能なはずですが……」
 おれは太史慈の言葉に同意しつつ、首を傾げた。城を陥とすために残虐な手段を用いておいて、今さら慈悲を示したところで意味などあるまいと思うのである。陳羣の評判を落とすための芝居であったとしても、いささか迂遠に感じる。
 それとも、この解放には別の思惑があるのだろうか?


「――たとえば、彼らの中に間諜を……いや、でもほとんどが陳太守の一族か、その配下だといっていたし、そんな怪しげな奴がいれば気がつくか?」
 太史慈も腕組みしつつ、首を捻る。
「そもそも、今の私たちをそれほど警戒する必要があるのでしょうか。確かに呂布を退けはしましたが、こちらも兵をかなり失ってしまいました。まとまった数の敵軍に襲われれば、この砦を保つことは容易ではないのです。そんなところに、あえて手のこんだ謀略を仕掛けるとは考えにくいと思うんです」
「確かに。これまでの袁術軍の戦い方は、基本的に大兵力で蹂躙するというもの。今さら、こんな小砦に策を弄するとは思えませんね」
 太史慈と二人で首をひねっても、一向に敵の思惑は読めなかったが、一つ確かなことは、陳羣たちが来たことで劉家軍の行動の幅が狭まった、ということである。


 劉家軍だけであれば、いざとなればどのようにでも逃げ散ることが出来るが、広陵から逃げてきた老人や子供らにそれは無理である。山野に隠れ潜むように言っても、先の戦いの様子を聞けば、彼らは決して頷くまい。何より、そんなことをすれば陶謙の亡骸を袁術の手に引き渡すことになってしまう。
 となると、やはり棺を守って江都まで行くのが最善であろう。
 父母を尊び、主君を敬う気持ちの篤い中華の地では、当然のように死者を葬るには相応の格式がある。こんな砦で性急に行えるものではないのだ。
 聞けば、陶謙が亡くなったのは、玄徳様に州牧の印を渡した翌日であったという。苦しんだ様子もなく、ねむるように死出の旅に向かわれていたのだそうだ。
 陳羣がその事実をおれたちに告げなかったのは、玄徳様たちの心境を慮ったためであろう。
 間もなく袁術軍が姿を現したことで、葬儀をしている余裕は失われ、今に至ってしまったものと思われた。


 おれとしても、陶謙には幾重にも恩を感じている。重荷を背負ったなどとは考えていないが、採るべき手段が少なくなるのは間違いない。
 そして、おれたちがどういう行動に出るにしても、広陵の袁術軍の動向は無視できない。
 広陵を陥落させた呂布たちは、まず広陵の掌握に全力を注ぐであろうから、すぐにここに来ることはないだろうとは思うのだが……
「やはり、袁術の考えを確かめるのが先決ですね。早急に今の広陵の様子を調べて――」
 と、おれがそこまで言った時だった。


 慌しく部屋の扉が叩かれた。許可を得て入ってきた兵士の顔を見て、太史慈は無言で立ち上がり、わずかに遅れて、おれも立ち上がった。
 何かが起きた。一目でそうわかるほどに、兵士の顔が青ざめていたからである。
 その兵士が声を震わせながら口にした報告は、予想に違わず凶報であった。
「ほ、報告申し上げます! 西より、大軍が迫ってきております!」
 太史慈が眉を寄せる。確認のため、兵士を落ち着かせるようにゆっくりと問いかけた。
「西、ですか?」
「は、はいッ! 西の湖上より、か、数え切れないほどの舟が姿を現し、湖面を埋め尽くしております! さらには湖岸にも多数の軍旗が林立しており、その規模は先の呂布の軍と比べ物になりません。お、おそらくは三万を越えるかと!!」
「さ……?!」
 その数に、おれは思わず声を失った。
 だが、すぐにかぶりを振って驚愕を振り払うと、肝心なことを確かめる。
「敵の将帥は?!」
「確認できたところでは『梁』と『陳』! おそらく、別方面を攻めていた梁剛と陳紀の軍勢と思われます!」
 ぎり、と奥歯を噛むおれ。
 しかし、凶報はそれだけに留まらなかった。


 第二の凶報は、まるで計ったかのように、第一の報告が終わった直後にもたらされた。
「申し上げますッ! 広陵方面に砂塵を確認しました。おそらく広陵の袁術軍が再びこちらに寄せてきたものと思われます!!」
「この上、呂布まで来るか……! 数はッ?!」
「はっきりとはわかりかねますが、砂塵の量と範囲からして、二万を下回ることはないかと思われます!」
「な……ッ」
 思わず絶句する。呂布の軍はおおよそ三万であったはず。それもこの地での戦闘と、そして広陵城を巡る攻防でそれなりに兵力を消耗しているはずであった。その呂布が二万以上の兵を率いて現われたということは、陥落させたばかりの広陵を、ほとんど空にして出てきたというに等しい。
 西の大軍だけでも手に負えないこの状況で、どうしろというのかッ。
「――って、愚痴っていても仕方ない。子義殿、ここは無理でも何でも、南に逃げるしかありま……」
「も、申し上げます!」
「今度は何だ!」
 思わず怒鳴ってしまったおれであったが、三人目の報告の兵士は、そんなおれの怒りに気付いた様子がなかった。それほどにその目は驚愕と、怯えに染まっていたのだ。
 そして、その兵士は震える声で、こう告げたのである。



「み。南より、仲の旗を掲げた大軍が北上中! 旗印は『張』、仲の大将軍張勲の率いる敵の主力部隊と思われます!!」



 ――思わず呆然とする。
 何かが起きつつある。そのことを、室内にいた全ての人間が感じたことであろう。
 だが。
「何が起きている……?」
 一番肝心な、その答えを知る者はこの場には誰一人いなかったのである。




 ――その問いの答えを知る者は、遠く広陵の城にいた。



◆◆◆



 時をわずかに遡る。
 南へ去る陳羣らの姿を、城壁上から見送っていた高順は、不意にあることに気付く。
「南……江都が大将軍の攻撃を受けていることを、陳太守たちはご存知なのでしょうか?」
「ふん、知るはずがないでしょう」
 応じたのは、心ならずも呂布らの近くにいた李豊であった。
「別に問われもしなかったしね。まあ、精々頑張って逃げれば良い。結果は何も変わらないのだから」
 李豊が約したのは、広陵からの退去まで。江都への道筋の安全を保障したわけではない。この場で見逃したところで、陳羣らは結局袁術軍の虜囚になる運命なのだ。李豊はそう言って、愉しげに笑みを浮かべた。

 
「そのような不実を!」
 高順は李豊をきっと睨むと、すぐに踵を返した。
 その背に李豊の声がかけられる。
「どこへ行くのだ、小娘?」
「知れたことです、陳太守に江都のことを知らせに参ります。破約は皇帝陛下の御名を損なうもの。逃がすと約した以上、こちらも相応の誠意を示さなければ――」
 誠意というのは、この状況では相応しくない言葉かもしれない。しかし、落ち延びる先が袁術軍の攻撃に晒されていることを黙っていることが不実な行いであることは間違いあるまい。戦いが終わった後の違約行為は、今後の袁術軍の作戦行動にも少なからぬ影響を及ぼすだろう。


 もっとも――高順はそこまで考えて唇を噛んだ。
 その内心を声にしたのは、意外なことに李豊であった。
「今さらそんな真似をしたところで、此度の醜名が拭われるわけではあるまい。無益なことだ」
 その声を聞き、高順の足がぴたりと止まる。
「……醜名を被るような行為を率先して行ったその口で、何を仰せですか、李将軍」
 低い声は、わずかに震えを帯びて、その場に響く。その声に憤怒がないとは、誰も言えまい。
 だが、李豊は動じた様子もなく、小さく嘲った。
「ふむ、まあ道理ではあるか。もっとも私が率先して行ったというのは、いささか事実と異なるな。広陵の民は皆しっておるよ。この城を攻めた軍の総大将が誰であるかということを」
「……ッ?! あなたは、まさか」
 束の間の沈思の後、高順が驚愕をあらわにする。
 わずかに遅れて、それまで黙して立っていた陳宮が声を高めた。
「まさか、恋殿の名を使ったのでは……」


 李豊は、二人の声ならぬ問いに、口元を歪めて応える。
「然り。広陵に攻め寄せた仲軍の指揮官は呂奉先殿。その事実を否定する必要はないでしょうよ」
 その言葉の意味するところを悟り、高順と陳宮は咄嗟に李豊に向けて一歩を踏み出した。
 高順などは腰の剣に手をかけている。しかし、李豊は動じる様子もなく、こう言ってのけた。
「そのことは、陛下も承知でいらっしゃる――そうだな、方士?」
『え?』
 期せずして、高順と陳宮の声が重なる。
 そして、李豊が視線を向けた先。すなわち、高順と陳宮、そして呂布がいるその後方に目を向けると――



 いつの間に、そこにいたのだろう。
 高順らが向けた視線の先には、常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた、白装束の方士の姿があった。
 思わぬ人物の登場に、高順が呆然と呟いた。
「于吉、殿……」
「挨拶が遅れましたね、伯礼殿。それに奉先殿と公台殿もお久しゅうございます。皆様のご活躍、寿春にあって、陛下は大層お喜びであられますよ」
 恭しく下げられた頭に、高順たちは咄嗟に言葉を挟めなかった。
「ことに此度の広陵攻略は素晴らしい功績でございます。その身を民の血と憎しみで緋に染めて、なお陛下のために戦ったその忠武、公に称することは出来ませんが、陛下も嘉して下さることでございましょう」
 于吉の言葉は、広陵攻略における醜行が袁術の指示によるものではなく、指揮官の独断であるとの断定。
 そして。
「策をたてた呂布殿、それを実行した李豊殿。広陵奪取の功績は、お二人のものとして長く語られることになるでしょうね。いや、あるいは公台殿の建策でしょうか?」
 于吉の問いに、陳宮は顔を青ざめさせながら、首を左右に振る。
「ね、ねねは、あんな惨い策を考えたりは!」
「おや、すると広陵陥落のすべての功は李豊殿に帰することになりますが」
「う、そ、それは……」
「公台殿の危惧は察しがつきます。確かに此度の戦が知れ渡れば、一時、将軍方の武名は落ちるかもしれません。しかし、心ある人々は、乱世を終わらせるためにあえて鬼となった皆様の覚悟を察してくださいましょう。仲が天下を制した暁には、醜名は令名となりて史書に記されることでしょう――広陵攻略、見事でありました」



 白の方士は心からの祝福と賛辞を込めてそう言うと、最後にこう付け足した。
「されば、最後の仕上げに参りましょうか――この乱れた歴史を終わらせるために、ね」
 戦乱の世を終わらせる。そういう意味で言ったのだと、聞いた者たちは皆そう考えた。
 それゆえ、その言葉を口にした際、于吉の目に浮かんだ狂おしい煌きに、誰一人として気付いた者はいなかったのである……



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/07 23:23


 徐州広陵郡江都県。
 長江の北岸に位置するこの地は、徐州牧陶謙の淮南支配の要の一つであった。
 江都は、長江を越えて運ばれてくる江南の物資が集まる地であると同時に、江北の物資を江南に送り出す拠点ともなっている。
 物資の集散地であるこの地には、それを目当てとした人も集まる。物と人が集まれば、彼らを相手とした商いも発生する。
 江都の繁栄は淮南でも屈指のもので、それゆえに陶謙はここを治める県令には信頼する趙昱(ちょういく)という人物を送り込み、人心の安定と陶家による支配の確立を図ってきたのである。


 県令である趙昱は才走ったところこそないが、堅実な行政手腕の持ち主であり、江都の特徴を理解した政策を着実に打ち出していき、江都の繁栄の根底を支え続けた。
 同時に治安の安定にも意を用い、江北の民は「江都の内外では盗賊の影さえ見えぬ」と善政を喜び、江都の賑わいは、広陵のそれと比較しても劣らぬほどの活況を呈するようになったのである。


 しかし、治世の能吏は必ずしも乱世の雄たりえなかった。
 仲帝袁術の淮南侵攻が始まり、その非道ぶりが確報として届けられるや、趙昱は震え上がって江都の城門を閉ざしてしまったのである。
 広陵太守である陳羣は、仲の進軍が始まる以前から、来るべき戦禍に備えて物資を備蓄するように配下に通達しており、江都の庫には十分な備蓄があった。
 だが、趙昱は陳羣のように付近の民を収容するということはせず、また交易のために訪れていた人々に事前の通告もなしに城門を閉ざしたため、江都内外では小さからぬ混乱がうまれた。
 さらに趙昱は麾下の軍船を長江に展開させると同時に、一般の船舶を危急を理由として徴発してしまう。これにはさすがに抗議の声が殺到したが、趙昱は頑として譲らず、ただひたすら江都の防備を固めることに専念するばかりであった。




 県城の中央に建てられた県庁から江都の街並みを眺め、趙昱は深々とため息を吐く。
 ほんの数月前までは溢れるほどの人出でにぎわっていた江都の街路は、いまやまったく閑散としたものであった。人の往来がないわけではないが、そのほとんどは厳しい甲冑をまとった兵士であり、仕入れた品を売り尽くそうと声を嗄らす商人も、それをひやかす人々の姿も、そこにはない。
 それどころか、時折、行き交う兵士に声高に食って掛かる者の姿さえ見てとれる。兵士はわずらわしそうに相手にしていなかったが、趙昱が街並みを見下ろして、まださして時が経っていない。にも関わらず、こんな光景が目に映るということは、つまりそれだけ趙昱に対する不満が、街では高まっているということだろう。
 であれば、趙昱の目が届かない場所では、騒擾の一つ二つ必ず起こっていると見て間違いあるまい。
「……これでよかったのだろうか」
 小太りの体躯を揺らしながら、趙昱は再び深いため息を吐くのだった。


「では、城門を開いて仲の軍勢と真っ向からぶつかりますか? 私は別にそれでも構いませんが、敗れた折には江都は城民の血で赤く染まりますよ」
 その声を発したのは、趙昱と同じ部屋にいる女性であった。
 武官の服を着ているが、趙昱へ話しかける言葉に県令への敬意らしきものは感じられない。それもそのはずで、この人物は趙昱の配下ではなかった。
「……窄融(さくゆう)殿」
「刃向かえば皆殺し。それが袁公路殿の理です。そして戦の要諦である兵力はこちらがはるかに劣る。勝ち目がない以上、降伏するが上策。しかし、あなたは降伏は嫌だという」
「……私とて死にたくはない。しかし、陶州牧の信を裏切るような真似は出来ないのだ」
 趙昱は苦しげに声をしぼりだす。


 しかし、窄融は、趙昱の苦心など知ったことではないとでも言うように、何の感情も込めずに言葉を続けた。
「であれば、勝つしかない。城門を開いて討って出るか、城に篭って援兵を待つか。あなたは後者を選び、後者を選んだゆえに今の江都がある。それを悔いるのであれば、自ら出撃しますか?」
「……ぬ」
 窄融の指摘に、趙昱は一言もなく黙り込む。
 陳羣と趙昱は、共に能吏として知られ、広陵と江都は淮南でも一、二を争う交易都市である。陳羣は太守で、趙昱はその麾下の県令であるという立場の違いはあるが、能力という面で見れば、趙昱は陳羣に迫るものを持っていた。


 ゆえに両者の違いは能力ではなく、その器量に求められる。一言で言ってしまえば、趙昱は陳羣より肝が小さいのである。県令として一県を統べるのが、趙昱の器量の限界であった。
 もっとも趙昱は自分でそのことを自覚している。
 そもそもが望んで官に就いたわけではないのである。孝子として知られ、廉直の士として敬われていた趙昱の評判を聞きつけた陶謙が、是非にも、と仕官を望んだのだ。自らの器量を知る趙昱は幾度も辞退したのだが、州牧による度重なる懇請を断りきれず、江都の県令に任じられたという経緯があった。
 このあたり、東城県の張紘とほぼ同じ境遇と言っても良い。それが影響したわけでもないだろうが、父娘ほど歳の離れた二人の県令は交友関係を持っており、趙昱は東城県の戦況も常々気にかけていた。


 とはいえ、趙昱にはそれを知る術はなく、また江都に向けて仲の主力部隊が接近してくるに及んで、他の県を気にする余裕も失われていた。
「……せめて、城外の民は城にいれるべきではなかっただろうか」
「望むならば、今からでもご自由に。しかし、仲の張勲の軍が間近に迫った今、そのようなことをすれば付け込む隙を与えるだけだと思いますが。やるならば、広陵の陳太守のようにもっと早くから取り掛かっておくべきでしたね」
 窄融の言葉に、またしても趙昱は言葉を失い、視線を窓の外に向けてしまう。否定しようのない事実を的確に衝かれ、反論できないからであった。


 だが、それゆえに。
「それに――例の劉家軍とやらがこちらに向かっているのでしょう?」
 ぽつりと、呟くようにそう口にした時の窄融の表情に趙昱は気付かない。
「江都の舟という舟はすでに押さえてありますが、これとて民の不満を相当に高めているのですよ。舟を奪われ、生活に窮している者も少なくないでしょう。かように、すでにあなたは長江をつかって劉家軍を荊州に逃がす、という州牧の命令に従うために民に犠牲を強いているのです。今さら、城外の民を哀れもうと、その罪が消えるわけでもない。なれば、民に犠牲を強いようと、せめて州牧の命令だけは果たされませ。私が言えるのはそれだけです」


 その言葉を最後に、窄融は部屋を出て行く。
 趙昱はそれを止めなかった。
 窄融は淮南に割拠する豪族の一人で、陶謙の麾下にある人物である。だが、明確に君臣の関係にあるというわけではなく、どちらかといえば協力者という立ち位置であった。
 州牧という朝廷の高位にある陶謙が、窄融に対して協力者として対等の礼を用いた理由は、窄融が仏教の熱心な保護者であることに由来する。
 窄融は、領内に仏教の大寺院を建立し、その規模は三千人を収容することが出来るほどだという。この時期、仏教は中華帝国においては新興の域を出ないでいたが、窄融の下には一万を越える信者が集まり、その規模は増す一方であった。
 陶謙は、自身、仏教徒ではなかったが、その教えに感得するものがあり、邪教淫宗が跋扈する南方を教化する一助として、窄融の布教活動を支援していたのである。


 その窄融が、今回の淮南動乱において、袁術軍の侵攻を避けるために一万人の信者と馬三千頭を率いて江都へ逃れてきた。
 趙昱は賓客の礼をもってこれを迎え入れ、以後、様々に助言を請うたのである。
 窄融は仏教の熱心な信徒であると同時に、武略にも通じ、策謀にも長ける一面を持つ。その程度の器局才幹がなければ、この乱世に新しい教えを広めることなど出来ないのだろうと趙昱はさして不審を覚えなかった。
 とはいえ、窄融はあくまで客であり、その目的は戦乱を避けて江南に逃れることである。趙昱としては、水軍は劉家軍のために用いる心算であったから、心苦しく思いつつも窄融を引き止めざるを得ず、その上で助言を請うている以上、その行動を掣肘することはできなかったのである。


「……劉太守が参られれば、窄融殿を江南に逃がすことも出来る。はよう来てくだされ。仲の軍勢が来るよりも早く」
 祈るような趙昱の呟きが、聞く者とてない室内に陰々と木霊する。



 
 ――しかし。
 寿春より発した鋼鉄の海嘯は、そんな祈りを嘲笑うかのごとく、江都を指呼の間に捉えようとしていた。



◆◆



 軍師鳳統の献策によって、騎馬隊を率いて本隊に先行していた劉備は、江都まで一両日中に到着する距離までたどり着いている。稼いだ距離と、それに要した時間を考えれば、目を瞠る行軍速度であるといってよく、仲軍に先んじて江都に入る目的は達せられると思われた。
 仲軍は五万という兵力が足枷となり、劉家軍ほどの速やかな進軍は難しいものと考えられたからである。


 しかし、江都方面の仲軍を率いる張勲は、無策のまま漫然と軍を進めていたわけではなかった。すでに江都を手中にするための策は幾重にも練り上げてあり、その仕上げとして二千にも及ぶ騎馬隊を先行させていたのである。
 この騎馬隊は、すでに明朝には江都を衝く位置まで達しており、確実に劉備らに先んじていた。江都の趙昱が抱える兵力は、急接近してくる仲軍とほぼ同数の二千。現在ではこれに加えて、窄融麾下の千人が江都の防備に協力しているため、二千の騎馬隊のみで城門を破ることは難しいと思われた。
 それでも、張勲麾下の騎馬隊は迷うことなく江都に向けて突き進んでいる。そこにいかなる意図があるにせよ、江都を陥落させるという意思だけは疑いようがないものであった。





 遮る者とてない淮南の地を、一路、江都へ向かって駆けつづける騎馬の一団。
 砂塵を巻き上げて疾駆するこの一団の姿を、今、小高い丘の上から見下ろす視線があった。
 触れれば切れてしまいそうなそれは、あたかも名工が鍛えた剣のよう。もし、その目を覗き込む者がいれば、猛々しいまでの戦意を閃かせる瞳を見て声を失うことであろう。
 そして。
 その人物が腰に提げる剣を見て、震える声で呟いたに違いない。
 『南海覇王』と。
 孫家の宝剣の名を。




「雪蓮」
 背後からかけられた声に、孫策は我に返ったように、数回、目を瞬かせる。
 すると、鬼気迫る迫力をあらわにしていた表情が、わずかに和らいだように見えた。
 対する周瑜は、友であり、今や主君でもある人物の顔を見つめ、訝しさを乗せた問いを放つ。
 雪蓮、ともう一度呼びかけ、周瑜は口を開く。
「袁術に一矢報いたいという気持ちはわかる。だが、このような所でやつらを叩いたところで、意味などあるのか?」


 それは孫策がこの奇襲を企てた時から、周瑜の胸を去らない疑問であった。
 しかし、問われた孫策はいっそ、あっさりと形容できそうな軽さで応じた。
「ないわね。単なる嫌がらせよ。イタチの何とかってやつ?」
 それを聞いた周瑜が、かすかに眉根を寄せる。
「あまり良い例えではないな。それに――」
「それに、なあに?」
 首を傾げつつ問い返す孫策に、周瑜は呆れ混じりに言葉を返す。
「ごまかすな、雪蓮。本当にただの嫌がらせというなら、あなたのこと、自分一人で動くでしょうに。孫家の私兵まで動員して、この時、この場所で奴らを待ち構えた理由を聞いているのよ」


 周瑜の言葉には、韜晦を許さない鋭さが含まれており、孫策は苦笑しつつ両手を挙げた。
「あはは、さすが冥琳――って言いたいところなんだけど、ごめんね、本当にこれといった根拠があるわけじゃないのよ」
「しかし、まったく根拠がないわけでもない、といったところか――いつもの勘か?」
 苦笑しつつ問い返す周瑜に、孫策は小さく頷く。ただ、その眼差しには揺らぎが垣間見えた。孫策自身、内心を整理しきれていないことを示すかのように。
 それでも、孫策は口を閉ざすことなく、周瑜の問いに答えた。


「まあ、ね。我ながら不思議なくらい確信があるの。連中は、ここで叩いておかなければいけないってね」
 それを聞いた周瑜は、腕を組んで考え込む。
 孫策の勘の鋭さに関して、異論をはさむつもりは周瑜にはない。もはや予知の域に近いとさえ思っている。
 無論、だからといって全てを勘に委ねるつもりはない。孫策の勘に情報と思慮を重ね、孫家を再興するために、より的確な道を選び取る。それが孫家の軍師である周瑜の役目であり、自身に課した誓いでもあった。


 ただ、実のところ、今回の襲撃に関してはほぼ孫策の勘に頼ったものとなっている。
 周瑜が淮南の地に張り巡らせていた情報網の多くは孫家壊滅の時に潰えてしまい、ほとんど用を為さなくなってしまっていたからだ。諜報活動に長じていた朱治の死も痛手であった。
 現在、周瑜の手元にある情報は質、量ともに水準を下回るものばかりで、いかに周瑜が卓越した智略の持ち主であろうとも、そこから的確な判断を導くことは難しかったのである。
 そのため、この孫策の襲撃が何を意味することになるのか、周瑜は判断をつけかねていた。襲撃といっても、敵は二千。味方は百。良くて足止めが精々であるのだから。
「……ふむ。私たちがここで袁術の足止めをすることで、何が変わり、誰が救われるのか。明命(周泰の真名)がいれば、いま少し戦況が整理できるのだがな」


 ぼやく周瑜というめずらしい光景を見た孫策は、目を丸くした後、小さく吹き出した。
「淮南全域……これだけ大規模な侵攻だと、各地の情報を集めるだけでも大仕事だものね。明命一人じゃあ時間がかかるのも無理ないわ。かといって、他に人を出す余裕もない」
「祭様(黄蓋の真名)と思春(甘寧の真名)は蓮華様と小蓮様について江南だからな。とはいえ、本来なら私たちもそちらにいるべきなのだぞ、雪蓮」
 孫堅の無念を晴らすために、今、考えるべきは袁術への報復ではなく、孫家の再興。仲による孫家の残党狩りも決して終わったわけではない。その当主がいまだ江北にいるという事実は、決して良手にはなりえない、と周瑜は考えていた。


 無論、その程度のことは孫策も重々承知しているだろう。
 それでも、孫策があえて淮南に留まった理由が根拠定かならぬ勘であるという事実に、周瑜は知らずため息をはいていた。
 そんな周瑜に向けて、孫策は笑みを向ける。
「ほらほら、考えすぎは冥琳の悪い癖よ。袁術の戦力を少しでも叩いておくことは、私たちにとって益こそあれ、害はないでしょ。まあ今の私たちの力じゃあ、連中にとっては蚊に刺される程度のことでしょうけど。それでもたった一匹の蚊が、虎を眠らせないこともあるわ。そのことを袁術たちに思い知らせてやりましょう」
「その言葉は道理だが、そのために当主が矢面に立つ必要はないのだよ、雪蓮。考えすぎは悪い癖というが、あまり考えなしであるのもどうかと思うぞ」
「だからこそ、あたしと冥琳が一緒にいればちょうど良いんじゃない。それに、冥琳だって言っていたでしょう」


 そういうと、孫策は笑みを浮かべた――歴戦の将兵さえ身を竦ませるであろう凄烈な笑みを。
「『袁術に一矢報いたいという気持ちはわかる』って。連中の狙いが何であるにしても、私はやつらの思い通りにさせてやるつもりなんて、かけらもないわ。江南に引き上げるまで、出来るかぎり袁術たちの邪魔をしてやるつもりなんで、よろしく」
「気楽に言ってくれる。あなたは袁術相手に暴れられれば良いんでしょうけど、そこに持っていくまでのこちらの苦労もわかってほしいのだけど?」
「もちろんわかってますって。冥琳にはいつも感謝してるわ♪」
 語尾を弾ませ、にっこりと笑う親友の顔を見て、周瑜は苦笑を浮かべるしかなかった。


 だが、次の瞬間、周瑜の顔に浮かんだのは『江東の麒麟児』孫伯符にまさるとも劣らぬ英気に満ちた表情だった。
「とはいえ、たしかに雪蓮の言うことも一理ある。どのみちいずれは雌雄を決すべき相手。敵の意図を挫くは兵法の基本だな」
「そういうこと。手始めに、江都を目指すあいつらを撃ちましょ。たとえ私の勘が外れていたとしても、ここで連中を叩くことは、決して無駄にはならないわ」
 その声とともに抜き放たれた宝剣が、周瑜の目には、まるでそれ自体が意思を持つように、小さく煌いたように見えた。
 その持ち主もまた、孫家歴代の英傑たちに優るとも劣らぬ勇姿を淮南の地に屹立させている。
 英気に満ちた姿を見れば、孫策が自分の勘が外れるなどと欠片も考えていないことは明らかで、周瑜は苦笑をこらえるしかなかったのである……





◆◆◆




 
 淮南各地で激戦が繰り広げられていた頃。
 淮北での戦乱は急速に鎮まりつつあった。
 徐州に侵攻した曹操軍は、抵抗する者たちに対しては官民を問わず仮借なく刀槍を揮ったが、それ以外の者に対しては略奪暴行を禁じ、その軍令の厳しさは、曹操軍による虐殺を恐れていた徐州の民衆にとって予想しえないものであった。
 小沛郡、瑯耶郡は曹操軍の猛威の前にあえなく陥落し、また彭城での混乱により州牧である陶謙が死去したことが伝わると、勅令を奉じる曹操軍に対して、あえてこれ以上の抵抗を試みようとする者はもはや誰もいなかった。馬を進める覇王の前に、徐州の軍民はあらそって頭を垂れたのである。


 小沛郡から侵攻した曹操率いる本隊は徐州の首府である彭城を目指し、瑯耶郡から侵攻した曹仁、曹洪、曹純らが率いる別働隊はそのまま南下して東海郡を攻略、淮河流域を制圧する。その間、徐州側の抵抗がほとんどなかったのは、前述した理由によるが、実のところ、曹操の支配に抗おうとする者たちは決して少なくなかった。
 その彼らの反抗を未然に封じ込めたのは、陶謙亡き後、彭城にあって徐州の実権を握った陳登であった。陳登は各地の城砦に抵抗の不可を伝えたのだが、それは曹操軍の軍門に降れ、というのではなく、朝廷に対して恭順の意を示せというものであった。


 曹操に従うことに異論がある者たちも、朝廷の名を――ひいては漢帝の名を出されてはそれ以上抗うことは出来ない。まして州牧である陶謙は死去し、徐州の主権者となりおおせた陳登が降伏を言明した以上、どこからも援軍は来ないのである。
 ここであくまで彭城の決断に背けば、待っているのは単独で二十万の曹操軍と戦う道である。否、徐州勢もそれに加わることになるのだから、三十万に迫る軍勢になるだろう。そんな自殺じみた道を選ぶ者が、徐州の官界にいるはずもなかった。
 ――そう、徐州の官界には。



 ゆえに、今、淮河北部流域で刀槍の音が鳴り響くのは、ただ一箇所。
 劉家軍の三将が揃いぶむ、とある山中の一角だけであった。



 ……ただ、より正確に言うならば。
 鳴り響いてるのは、刀槍の音ではなく、とある虎将の腹の虫であったりするのだが。



◆◆



 ぐごごご、と。
 多少おおげさではあったが、劉家軍の陣中にそんな音が鳴り響く。だが、周囲の将兵はさして驚いた様子はない。
 ここ数日ですっかり聞きなれた音だということもあった。だが、それ以上に、皆、戦いに次ぐ戦いで疲れ果て、心身を休めるだけで精一杯だったのである。
 趙雲はそんな将兵の様子を見回し、持っていた愛槍で肩を数度叩く。
「さて、どうしたものか。このままでは殲滅されるのを待つばかりだが」
 趙雲が今むかっている天幕の中では、将軍たちが現状を打破するために幾十度目かの軍議を行っているところであった。
 もっとも、十重二十重に敵に囲まれている今、有効な策を練ることは至難の業であり、もっぱらある将の不満をなだめることに時間を費やすのが常であった


 その将は、今日も今日とて地面に倒れこむように座りながら、義理の姉に向かって不満を訴えていた。
「……ううぅぅぅ、あいしゃ~、お腹すいたのだ……」
「鈴々、今日の割り当て分をさきほど食べたばかりだろう。少しは我慢できないのか?」
「……無理無理なのだ。鈴々は愛紗みたいに、胸に栄養を蓄えておくなんて芸当はできないのだ……」
「こ、これは別に栄養を蓄えているわけではないッ! それに、私の分も半分やっただろう。なんとか明日まで辛抱してくれ」
 関羽の言葉に、張飛は力なくうなだれる。普段であれば、さらに二言三言反論があるのだが、今の張飛にはそれだけの元気もないらしい。


 元々、元気すぎるほどに元気な張飛である。関羽にとっては手のかかる、しかし、愛すべき妹であった。その妹がここまで萎れているところを見れば、関羽とて平静ではいられないし、他の将兵の様子も推してしるべしであった。
 だが、山麓に展開する曹操軍は厳重な陣地を築き、こちらを山頂に釘付けにしている。こちらが攻め下れば陣地にこもって固く守り、こちらが引き上げれば、その後尾にくらいついて離そうとしない。
 淮河北岸で劉備らを逃がした後、関羽たちは追撃してくる張遼の部隊を切り散らしつつ、淮河に沿って東へ向かった。これは徐州の水軍との再合流を期しての行動であったが、張遼軍の追撃は執拗であり、休む暇さえろくになかった。
 また、淮河に沿って行軍するということは、常に背水の陣をしいているようなものであり、全滅の危機と背中合わせである。おりしも、追撃してくる敵軍の中に曹操の牙門旗を見出した関羽は、敵の激しい攻撃から逃れるために、致し方なく淮河を離れ、迎撃に適した地形を求めて、この山腹に陣をしいたのである。


 もっとも、この山に布陣してすぐ、関羽は一つの推測を育んだ。
 それは――
「敵の追撃のしようから見るに、我らをこの山に押し込めるのが曹操の目論見であったか」
 趙雲の言葉に、関羽は頷かざるを得なかった。
「うむ。まんまと追い込まれた、ということだな」
 山に布陣すれば、地形を味方に出来る。しかし、麓を取り囲んだ曹操軍は、あえて強攻しようとはせず、水を絶って持久戦に出たのである。
 どれだけ武勇に優れた将であっても、水がなければ生きていけない。くわえて、ここに到る戦況を見れば明らかなように、糧食もほとんどないに等しかった。
 時が経つほどに劉家軍の将兵から戦闘能力は失われていく。そのことを曹操軍は承知しているのだろう。かといって、曹操軍は漫然と関羽らを包囲していただけではなかった。無理な攻めをすることこそなかったが、深夜や明け方に小規模の奇襲を繰り返し、劉家軍の心身を苛む嫌がらせじみた手際は、いっそ見事だと趙雲がため息まじりに評したほどであった。




「ともあれ、このままではまずかろう、雲長」
「わかっている。わかっているが……ッ」
 天幕内に入った趙雲の第一声に対し、関羽はうめくような声を絞り出し、拳を握り締める。
 このままでは全滅を待つだけということは、関羽とて承知していた。それは、いずれそうなる、などという域ではない。もし今、麓の曹操軍が全軍を挙げて攻め寄せてくれば、今日にも現実になるであろう結末であった。


 これを何とかすることが関羽ら将軍の責務であるのだが、いかんせん、一人は空腹で倒れる寸前であり、他の二人にも良案は浮かばない。
 関羽にしてみれば、むしろ、何故、この好機に攻め寄せてこないのかと敵に問いたいほどに、この地の劉家軍は弱りきっていた。


 関羽がこぼしたその言葉に、しかし趙雲は思いのほかあっさりと解答をもたらした。
「ん、なんだ、そんなことに悩んでいたのか?」
「な、なに? 子竜、お主、曹操の意図がわかるのか?」
「私は方士ではないからな。人の心なぞ読めんが、しかし伝え聞く曹操の為人や、これまでのおぬしらとのやりとりから推測することは出来る――連中の、というより、曹操の目的はお主であろうよ」
「わ、私? 私がどうしたのだ?」
 趙雲の言葉に、関羽が戸惑ったように目を瞬かせる。


 その関羽の様子を見て、趙雲は小さく笑った。
「劉玄徳が一の将、美髪公関雲長。飛将軍と渡り合った武勇、曹操の大軍を寡兵で凌いだ兵略、逆境にあって決して主君に背かぬ忠義――ふふ、いかにも曹操が好みそうな武人であろう。それに一刀に聞いた話では、洛陽で真っ向から曹操に口説かれたそうではないか。これだけ条件が揃えば、敵の奇妙な攻め方の、少なくとも理由の一つはお主であろうさ」
「……な、まさか、私を生かして捕らえるために、わざと攻め手を緩めているというのかッ?!」
 激昂する関羽に、趙雲が今度は苦笑をもらす。
「まさにそう申しているのだよ。もっとも、ここまで戦の趨勢が決した以上、あえて攻めるまでもないと考えているのも確かであろうがな。このまま日を経れば、いずれ我らといえど、戦うことはおろか、立つことも出来ぬようになる。曹操にとって、それを待つのは苦ではあるまい」
 おそらく、もう徐州はほぼ曹操の手におちているだろうしな。
 趙雲は内心でそう呟いた。




「く、おのれ」
 表情に苦渋を滲ませる関羽は、何事かに気付いたように趙雲に鋭い視線を向ける。
「子竜、そこまでわかっていたのなら、何故もっと早く言わなかったのだ?」
 詰問にも似た関羽の指摘に、趙雲は再び苦笑を浮かべた。
「まさかお主が欠片も気付いていないとは思っていなかったのだよ。それに、言ったところで、何が変わるわけでもあるまい。お主が降伏を望んでいたのであれば、話は別なのだが、な?」
 ちらりと流し目をくれてきた趙雲に対し、関羽は頬を紅潮させて反論しようとするが、趙雲はすぐにそれが冗談であることを告げるように破顔した。
「無論、そんなことはありえぬ。であれば、知っていようと知っていまいと、戦況に変化は出まい」
「ぬ、それは確かにその通りだが……」
 いかにも納得いかなげに口をへの字にする関羽。


 それを見て、趙雲はくすりと微笑んだ。そして、秘めていた案を開陳する。
「さて、ここまで話したことを踏まえた上で。活路を開くならば、今、この時なのだよ、雲長」
「な、なに?」
 怪訝そうな関羽に、趙雲は説明を続ける。
「敵に追われ、ここで包囲されて、もう幾日経ったと思う? 我らが限界に達しつつあることは、曹操とてわかっていよう。さすれば必ず動いてくる。お主を欲するならば、そうさな、どれだけ困窮しようと、お主が降伏を肯わぬことは曹操も承知していようから、使者を向けて『他の将兵の命を助けたいならば降れ』とでも言ってくるか。一度、籠に入れてしまえば、いかように篭絡するも思うがままと、曹操ならば考えそうだ」
「き、気色の悪いことを言うな! 私にその気はないッ!」
「ふふ、そういう者を自分の色に染めるのも、また一興と思わぬか?」


 そう口にする趙雲を見て、関羽は思わず趙雲から身体を遠ざける。だが、趙雲が笑いをこらえるように口元を手で覆っているのを見て、自分がからかわれたことを瞬時に悟った。
「し、子竜、貴様……」
「あはは! いや、すまぬ。まこと雲長は素直で可愛い女子よ。その素直さを、もう少し一刀にも向けてやれば、伯姫(張角の字)殿に先んじられることもなかったであろうになあ」
「ぬぐ?! な、なんでここで北郷殿の名が出てくるのだッ! そそ、それに伯姫殿に先んじられたとは、何のことかッ」
「おやおや、顔を真っ赤にさせて。それをもっともご存知なのは御身ではありませぬか、美髪公? よもや夜な夜な、悔いの涙で枕を濡らしておられるのか?」
 その言葉が、趙雲の口からこぼれ出た瞬間、あたりに沈黙が立ち込めた。


 しんと静まり返る天幕内。
 次の瞬間、金属が土にめり込む鈍い音が響いたのは、関羽が青竜偃月刀の柄を地面に叩きつけるように立ち上がったためであった。
 劉家軍の青竜刀は、罪人に刑を宣告する法官のごとき重々しい声で、きっぱりと告げる。
「――よくわかった。つまり、ここで劉家軍一の将が誰なのか雌雄を決しようと、そういうことだな、趙子竜」
「ふむ、それも吝かではないが。よいのか、雲長?」
「何がだッ!」
「いや、なに。恋に破れた上に、武でも遅れをとっても良いのかと、そう思ってな」


 ――趙雲の言葉が終わると、しばし、関羽は無言であった。
 しかし、わなわなと震えるその身体が、万言にも勝る意思表示となっていた。
 そして。
「えーい、うるさいッ! 貴様に遅れをとるつもりはないし、恋に破れた覚えもないわッ!!」
 そんな大喝と共に、青竜偃月刀が雷光となって空気を断ち切り、それを受け止める趙雲の槍との間で、激しい金属音が連鎖する。
 時ならぬ激闘の音に、何事かと数名の兵士が駆けつけるが、竜虎が互いに咆哮する様を見て、皆、慌てて踵を返すのだった。



 そして、二人が武器を交えるすぐ傍で。
「……やっぱり、愛紗の胸には栄養が詰まっているのだ……」
 だから、そんなに動けるのだ、と。地面に転がった張飛が空腹に苛まれながら呟いていた……





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(十二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/14 12:30


 山頂に陣を構える劉家軍の陣に、曹操軍からの使者が訪れたとき、趙雲は驚きを覚えなかった。
 現在の戦況を見れば降伏勧告がなされるのは時間の問題であった。降伏を促す使者の訪れは、すなわち、曹操やその側近が、もう十分に劉家軍を痛めつけたと判断したということを意味する。
 ゆえに、離脱をはかるのであれば、使者が訪れた時こそ好機であろう、と趙雲は考えていた。


 先に関羽を挑発して大立ち回りを演じたのは、何も関羽をからかうためだけにしたことではない。窮乏の淵にいる兵たちに、将がいまだ健在であることを知らしめ、士気の回復をはかる意味もあったのである。
 ――そう主張する趙雲に、関羽は懐疑的な眼差しを向けて問いかけた。
「むしろ、窮したあまり同士討ちでも始めたのだと、動揺してしまうのではないか?」
 この問いに、趙雲は答えて曰く。
「なに、他の軍ならさもあろうが、劉家軍の中にあって関将軍が味方を打ちのめすのは、めずらしい光景ではあるまい。暴れるそなたを見れば、兵たちは、ああ関将軍はいつもどおりだと安心するに決まっている」


 むぐ、と唸って黙り込む関羽。
 訓練の厳しさと、軍律に背いた者への容赦ない対応において、劉家軍内でも関羽の右に出る者はいない。関羽自身はそれを当然と考えているが、それゆえに周囲から煙たがられているという自覚はあるゆえの沈黙であった。
 事実、あまりの厳しさから、兵の中には関羽の麾下にいることを忌避する者もいるほどなのである。しかし同時に、この関羽の徹底した姿勢こそが、劉家軍随一の将の地位を不動のものにしているのも確かなことで、関羽が民衆から篤く敬愛の念を寄せられる理由も、ひとえにここに求められる。
 官が横暴をはたらくことがめずらしくない今の世にあって、軍律厳しい劉家軍の在り様は、民衆から諸手をあげて歓迎されるものであり、関羽は劉備と並ぶその象徴なのである。
 もっとも、こちらに関しては関羽本人にあまり自覚はなく、自分にかけられる民の感謝の言葉は、これすべて劉備の徳と善政ゆえであると考えていたりするのだが。


 そんな関羽の様子を見て、趙雲は悟られないように小さく苦笑した。
 趙雲は北郷と関羽のいつものやりとりを指して言ったのだが、関羽は別のことだと思ってしまったことを察したからであった。
 ともあれ、いささか手荒い方法で将兵の建て直しを計った趙雲は、曹操軍の使者との話し合いにかこつけて、この窮地を脱するつもりであった。
 しかし。
 降伏もやむなしと見せかけ、相手の隙を衝く――そんなとおりいっぺんの策が通じるほど曹操軍は甘くない。また、かりにこの窮地を脱したとしても、どうやって淮河を渡り、劉備たちに合流するのか。
 さすがの趙雲もそこまでは考えが及ばず、その場その場で臨機応変に対処するしかなさそうであった。
 どのみち、このまま、この山陣に留まっていたところで、全滅か降伏か、二つに一つなのである。そして、そのいずれも選べないのであれば、必然的に選択肢は一つに絞られる。
 そんな覚悟を決めて、使者を引見した関羽らの前に現れたのは、初めてまみえる顔ではなかった。




 姿を現したのは、かつて河北を席巻せんとした黄巾党の猛威に晒された楼桑村を、趙雲と共に守り抜いた立役者であり、同時に兌州の乱において、濮陽城に篭って呂布の猛攻を凌ぎきった殊勲者たる二人――すなわち。
「――お久しぶり、と申し上げるべきでしょうか。一別以来です、関将軍、星殿」
「お久しぶりなのですよー、雲長さん、星ちゃん」
 郭嘉と程昱は、そういってそれぞれの表現で、関羽たちとの再会を寿いだのである。



◆◆



 前述したように、曹操軍からの使者が訪れたとき、趙雲は驚きを覚えなかった。その使者が郭嘉と程昱であるとわかっても、それはさほどかわらない。ただ、類まれな智者である二人が来る以上、とおりいっぺんの降伏勧告というわけではあるまいとは考えた。
 そして、その推測は的中する。
 二人の語る内容を聞いたとき、趙雲は動揺を面に出さないために、少なからぬ労力を強いられたのである。


「……広陵が、陥ちただと?」
 趙雲の低い疑問の声に、郭嘉ははっきりと頷いてみせた。
「はい。先日、淮河を渡って徐州の水軍の一部が我が軍に投降してきました。その彼らからもたらされた情報です」
 郭嘉は詳しく述べなかったが、この水軍は関羽らを救出するために、陳羣が差し向けた徐州水軍の一部であった。
 彼らは関羽ら北岸に残った劉家軍と合流すべく、数日来、淮河流域に留まっていたのだが、曹操軍の執拗な追撃を受けていた関羽らと合流することが出来ず、やむを得ずに広陵に引き返そうとしたのである。
 だが、広陵を目の前にした彼らの視界に映ったのは、仲の李豊によって攻め落とされ、黒煙を吐き出す街並みと、その城壁に高々と翻る仲の軍旗であったのだ。


 淮河には、官、民を問わず、広陵から逃れ出た人々の舟が溢れかえり、大小の舟がぶつかりあい、せめぎ合って舳先の向け場もない有様であった。
 そして、仲の軍勢はそんな彼らにも容赦することはなく、兵士たちはそれぞれに舟を出して、手ごろと思える舟に乗り込んでは略奪に狂奔し、奪うだけ奪うと次の獲物となる舟を探した。
 そんな混乱が続く中、何者が放ったのか、一隻の舟から火が生じた。兵士たちの仕業か、あるいは絶望した城民が略奪を逃れるために自ら火を放ち、火中に身を投じたのか。
 いずれにせよ、一度発生した火は、冬の乾いた空気によって瞬く間に燃えあがり、のみならず河上をはしる風に乗って、たちまちのうちに燃え広がっていった。
 広陵から脱した人々を乗せた舟は、河面を埋め尽くすほどに密集していたため、この火をせき止めることは誰にも出来なかった。狂兵に追われ、火に焼かれる人々の悲鳴と絶叫が混ざり合い、淮河の河面には、火と光と血しぶきが舞い躍る阿鼻叫喚の地獄絵図が映し出されていた……





 広陵で起きた惨劇、そのごく一部を語る郭嘉の前で、関羽が右の掌を卓にたたきつけた。
「徐州軍は、それを黙って見ていたのかッ!」
「……水軍といっても、広陵の一部隊。袁術相手に戦う兵力は彼らにはなかったのです。手を出したくても、出せなかったのですよ」
 郭嘉の言葉に、程昱がひとこと付け加える。
「仮に戦ったとしても、すぐに城内の主力が援軍に現われて殲滅されるだけですからねー。逃げてくる人たちを助けて、退くのが精一杯だったのだと思いますよ」
 むしろ、下手に戦って敵の注意をひけば、犠牲になる民の数は増えこそすれ、減ることはなかったであろう。
 そのことは関羽にも理解できた。しかし、理性では理解できても、感情が納得するか否かはまた別の問題――とそこまで考えた関羽は、そこでもう一つの事実を思い起こす。
 すなわち、広陵は劉備がいる場所である、という恐るべき事実に。


 むしろ、真っ先にそのことに思い至らなかった自分に、関羽は愕然とした。
 それは広陵の民に襲い掛かった惨劇を聞いたことが、どれだけ関羽の平常心を奪ったのかの証左でもあったのだろう。
「桃香様はご無事なのかッ?!」
 その問いに、郭嘉は首を左右に振る。それを見て関羽の顔から血の気が引くが、次の郭嘉の言葉を聞き、すぐにそうが早計であることを悟る。
「わかりません。少なくとも、淮北に落ち延びてきた者たちの中に、劉家軍の将兵は一人もおりませんでした。それどころか、玄徳殿らが広陵にいたことさえ知らない者も多く……」


 最悪の想像が杞憂に終わり、関羽は思わず額をおさえて俯いてしまう。
 ここで、趙雲が言葉を挟んだ。
「稟(郭嘉の真名)よ」
「なにか、星殿?」
「今の言葉を聞くに、お主らは我が主の安否を気にかけてくれていたようだが、それは旧情ゆえのことか? それとも、お主らがここに遣わされたことと関わりがあるのか?」
 その言葉を聞き、関羽がはっと顔を上げる。問う眼差しを向ける関羽に対し、郭嘉ははっきりと頷きを示す。
「いずれも然り、と申し上げましょう。この身は華琳様の配下であり、玄徳殿はその敵です。しかし、華琳様に比するほどに天命を感じた御方でもある。その身の無事を願うのは、私の中でいささかの矛盾もはらみません」


「ふむ」
 趙雲は小さく頷き、何事か口にしかける関羽を制し、郭嘉に続きを促した。
「ならば、後者に関してはどうなのだ? そろそろ曹操から降伏せよとの使者が来る頃だとは思っていたが、お主ら二人が来たところを見るに、ただ降伏を促すためだけに来たのではあるまい」
 大陸全土に冠絶する智者。趙雲は郭嘉と程昱の二人をそう見ている。
 関羽らを降伏させることが難事であることは確かだが、それでもこの二人が出張ってくるほどのことか、と趙雲は疑問を覚えた。
 趙雲は、曹操が抱く関羽への執着を直接に見たことはない。それゆえ、曹操が、自軍の智嚢ともいうべき軍師を二人まで出して、関羽を麾下におさめようとしているという図式が、いささか奇妙に思えたのである。


 この趙雲の疑問は、半ば当たり、半ば外れていた。というのも、曹操は疑いなく、関羽を麾下に招くために郭嘉と程昱を遣わしたからである。
 その一方で、二人に与えられた使命が、ただそれだけではないというのも真であった。
 趙雲の問いを受けた二人はそっと視線をかわした後、予想外の行動に出た。
 二人は卓から立ち上がると、ゆっくりと関羽の近くに歩み寄り――そして、その眼前で跪くや、深々と頭を下げたのである。




 関羽はもちろんのこと、趙雲でさえも思わず息をのんだ。
 趙雲はいわずもがな、関羽もまた郭嘉と程昱の二人とは親しく語り合った仲である。たおやかな外見とは裏腹に、二人が内に秘めた、乱世に挑む気概の大きさを知っている。
 その彼女らが頭を下げたという事実。二人が眼前で頭を下げる光景を見ることが出来るのは、今の主君である曹孟徳ただ一人であるはずなのに。
 関羽が驚愕から立ち直る前に、郭嘉の声が天幕の中に響いた。それは先刻までの言葉とは、明らかに一線を画していた。勁烈とさえ称しえるほどに。
「ご不審であろうかと思いますが、この挙は、これより将軍らに伝える言葉が、決して偽りなきことを示すためのものです。我が口が語るを聞けば、将軍は我らを礼なき輩と思われ、話に耳を傾けてくださらぬでしょう。ですが、どうか最後までお聞き届け願いたい」
「ここで雲長さんが下す決断は、この後の大陸の行く末を左右するものになるかもしれません。だから、風たちの言葉を、しっかりと聞いてほしいのです、その上で決断してほしいのですよ。どちらを選ぼうと、雲長さんにとって、とても辛い決断になってしまうと思いますが……」


 曹操への降伏。
 二人の口から、その言葉が出てくるのは確実であろうと思われた。無論、関羽は面識のある二人とはいえ、その言葉に応じるつもりは欠片もない。劉備以外を主とする自分など、関羽にとって想像の地平のはるか彼方にあるゆえに。
 二人のこの言葉も、関羽を頷かせるための手管の一つ――そう考えることも出来たかもしれない。しかし、どれだけ苦難に満ちた退却行が続こうとも、他者の真摯な態度と言葉を見誤るほどに、関羽の目は曇ってはいなかった。
 さすがに視線が鋭くなるのはおさえられなかったが、関羽は二人に卓に戻るように言うと、話の続きを聞くために、腕を組んで自らも座り込む。そして、目線で先を促した。


 応じて郭嘉と程昱がかわるがわるに話を続けていく。
 それを聞くうちに関羽の顔色は赤から青へ、そしてついには土気色へと変じていった。趙雲もまた似たようなものであったかもしれない。関羽ほどはっきりと面に出すことはなかったが、その視線はそれだけで人を殺せそうなほどに鋭利な光を帯びていった。


  
◆◆



 仲帝袁術による淮南侵攻とその凄惨さは、かなり早い段階から曹操軍にも伝わっていた。それは淮河の南に放たれた斥候からもたらされた情報であったが、それ以外にも情報源は存在した。曹操軍に降伏した彭城の陳登らによってもたらされる情報がそれである。
 無論、その求めるところは曹操軍による淮南救援であった。くわえて広陵陥落が確報となり、逃げ延びた者たちの口から落城の様子が事細かに語られるに到って、偽帝討つべしの声は曹操軍内でも大いに高まったのである。
 だが、曹操はすぐに軍を動かそうとはしなかった。淮北の支配が固まりきっていないことが一つ。もう一つは、二十万を越える曹操軍が淮河を渡るための舟の不足であった。


 曹操軍が淮河を渡ると知れば、袁術軍は全力でこれを討とうとするだろう。舟の数が足りないままに強引に渡河を強行すれば、少数の曹操軍は淮河の南で背水の危険に晒されることは明らかで、曹操が兵を死地に突き出すような、そんな愚行をなすはずがなかった。
 曹操が淮河を渡るのは、瑯耶郡に赴いた曹仁らの別働隊と合流し、必要な数の舟を確保してからになる。そのために要する月日が一日二日で済まないのは明らかであり、陳登を筆頭とした徐州の有力者たちは毎日のように嘆願を繰り返したが、曹操が彼らの要請に首を縦に振ることはなかった。
 偽帝は必ず討つ。淮南は必ず救う。だが、そのために自軍を全滅の危機に晒すことはせぬ。今すべきことは、一刻も早く渡河の態勢を整えることである。
 その曹操の言葉に、陳登らは反論をなしえなかった。


 当初、郭嘉も程昱も、曹操の態度に異を唱えなかった。残酷なようだが、ここで無理に軍を進めて、万一にも敗れれば、その混乱は徐州にとどまらず、遠く許昌の朝廷にまで及び、ひいては大陸全土に少なからぬ影響を及ぼしてしまうだろうからであった。
 だが、一つの報告によって、郭嘉らは考えを変えざるを得なくなる。


 高家堰砦に劉旗あり。


 それは、広陵を落ち延びた民の一人が口にした言葉であった。
 袁術軍から逃れるために、物陰に潜んで震えていた時、略奪に狂奔する兵士たちが口々にわめきたてる言葉を否応無しに聞かされた。その中に、その言葉があったのだ。


 そのことを知った郭嘉と程昱は、広陵の城民らに呼びかけを行い、高家堰砦について知っている者がいれば、どんな些細なことでも話すようにと伝えた。
 そうして集まった情報をまとめている間にも、曹操軍の斥候により、淮南から新たな情報が伝わってくる。そうして、洪沢湖畔で起こった戦いの詳細を知るに到った時。
 郭嘉と程昱の二人はまったく同じ行動をとった。すなわち、わき目もふらず、自らの主君のもとへと直行したのである。






「時がありません。単刀直入に申します」
 郭嘉は関羽の顔を見上げ、口を開く。
「関将軍におかれては、どうか許昌へお越し願いたく。陛下に謁見し、此度の劉家軍の行動が、決して陛下に弓引くものではなかったことをお話しいただければ、玄徳殿が朝敵の汚名を被ることはなくなるでしょう。将軍がいらしてくださるのならば、謁見の儀は華琳様が取り計らってくださいます」
 郭嘉の言葉に、程昱が続く。
「――だから、降伏ではない、なんていうつもりはないです。表面はどうあれ、雲長さんが華琳様に跪かねばならないのは間違いないですから。それに、陛下に謁見した後、相当の期間、許昌に滞在してもらうことになると思うのですよ」


 曹操にしてみれば、劉備のために尽力する理由など欠片もない。その労はひとえに関羽を麾下に招くためにあった。謁見の後は、劉家軍が本当に漢朝に従う意思があるのかを示すために、関羽はしばらくの間、許昌へ留まり、朝廷のために戦うことを余儀なくされよう。それは朝廷を牛耳る曹操にとって、関羽が降伏するに等しい。
 また、それだけの時間があれば、関羽の士心を得る機会も訪れるであろう――郭嘉らは、そういって曹操を説いたのである。


 関羽が曹操に降伏することはない。そう考えた郭嘉たちが考えぬいた末に出した方策。関羽を、曹操ではなく、漢朝に従わせること。それは劉備の汚名を晴らす機会を得ることにもつながり、関羽にとっても小さからぬ意味を持つ。
 だが。
「あの曹操が、そこまで歩み寄るとは到底思えぬのだがな?」
 関羽の疑問はそこに集約する。
 曹操と面と向かって言葉を交わした、あの洛陽での出来事。あれだけでも、関羽が、曹操の為人を知るには十分すぎた。
 天に向かって己を謳いあげる覇王の質。惹かれるものはなかったが、それでも、その覇気が尋常ならざるものであることは、関羽とて認めざるえを得ない。
 人中の竜、とは北郷の評であったが、それは関羽も首肯しえるものであった。


 その曹操が。
 ここまで追い詰めた相手に対し、みずから譲歩するとは到底思えないというのが率直な関羽の考えであった。案を出したのが郭嘉らだとしても、常の曹操であれば一笑に付するのではないか。いかに追い求める花とはいえ、なぜこの曹孟徳がそこまで下手に出ねばならぬのか、と。
 関羽の疑問に、郭嘉は頷いてみせる。
「疑念はもっともです。その点に関しては、先の戦における破約の償いもございます。我が軍の張文遠が敗れた折、追撃はせぬとの約定に背き、貴軍を襲ったことへの――」
「本来なら、雲長さんたちはとうに淮南に逃れているはずでした。今の戦況は、破約あってこそのもの。華琳様にしても本意ではなかったのです――まあ、だからといって雲長さんたちを逃がしてやるほど、華琳様は潔癖ではないのですが」
 清濁併せ呑む、という表現はこの場合適当だろうか。
 望ましくはないが、かといってそれを理由に関羽を得られる機会を放棄するほどに、曹孟徳という人物は人が好くなかった。


 とはいえ、それに何も感じないほど無恥な人物ではない。
 郭嘉らはそこを衝いたのである。曹操の面目を損なわず、関羽の忠節を枉げることのない解決策。そして、この案には続きがあった。



「高家堰砦」
 その言葉が程昱の口から出たとき、関羽と趙雲は目を瞬かせるだけであった。
 彼女らの知識にその名はない。それも当然で、その砦は今回の戦役によってはじめて機能を用いられた出城であったからだ。
 にもかかわらず。
 その名はすでに、多くの人々が知るところとなっていた。あるいは、知らない者の方がめずらしくなっていた、と言うべきか。
 程昱が言葉を続ける。
「わずか五百にて、万を越える飛将軍の兵を退けた不落の砦。今、そこに劉の牙門旗が翻っているらしいのですよ。そして、その地に向けて、淮南各地を侵略していた袁術軍が集結しつつある、というのが最新の報告なのです」
「なッ?!」
 その瞬間、けたたましい音が鳴り響いたのは、関羽が勢いよく立ち上がったため、椅子が倒れたせいであった。


 その光景を目に入れながら、郭嘉は淡々と程昱の言葉を引き継いだ。
「その砦に玄徳殿がいらっしゃるかどうかはつかめていません。ですが、その砦を包囲するため、寿春のほぼ全軍が集っているのは確かなことです。その数は――十万を越えます」
「……十万、だと?」
「はい」
 絶望的な兵数を聞いて、うめくように呟く関羽の声に、郭嘉は無慈悲なほどにあっさりと頷いた。
「何故、広陵の出城などに袁術がそれほど拘るのか。呂布を退けたという事実があるにせよ、それは攻めに出た相手を撃退したにとどまります。五百程度が篭った砦など、千の兵を置いて包囲すればたちまち無力化できるはず。あの湖砦が、淮南を押さえるため、絶対に必要な拠点というわけでもないのです。ならば、袁術が欲するのは砦でも、地でもなく、そこにいる人物である。そう推測するしかありません」


 そして、その砦に劉の牙門旗が翻るならば――その人物が誰であるのかは明らか。郭嘉はそう言った。
 ――ただ、疑問は残る。
 将来は知らず、今の劉備は一郡の太守に過ぎない。その名はそれなりに知られているが、しかし袁術が警戒するほどの名声を獲得しているわけでもないのである。
 にも関わらず、袁術は執拗に――全軍を挙げてまで劉備が篭る砦を陥とそうとしている。この図式は、郭嘉にはいささかならず不自然に映っていた。


 とはいえ、それ以外にいかなる理由があるのかと問われれば、郭嘉も言葉に窮する。
 郭嘉は率直にそのことも告げた。
「あるいは、私などでは思い及ばぬ理由があるのかもしれません。ですが、湖砦に劉旗があること。袁術軍がそこに集っていること、この二つは間違いありません。いえ、戦況を考えれば、すでに攻撃をはじめている可能性の方が高いでしょう。あの湖砦は、寡兵にて呂布を退けるという偉功を見せ付けましたが、此度の攻撃はそれとは比べ物にならない規模です。奇跡でも起こらない限り――いえ、奇跡の一つ二つでは、到底、戦況を覆すには至らないでしょう」


 そう言うと、郭嘉は口を閉ざし、立ち上がったままの関羽を見つめた。
 言葉にせずとも、その視線だけで、関羽は郭嘉が言いたいことを察する。
 奇跡の一つ二つでは覆らない。ならば、三つ四つと積み重ねれば良い。
 奇跡とは、たとえて言えば、これまで矛を交えてきた相手が、掌を返して救援に赴いてくれるような、そんなありえざる戦況であろう。
 ありえざる戦況。しかし、今ならば。今、この時ならば。
 その一つを起こすことは可能であるのだ。


 ――ただ、関羽の決断一つで。
 ――その結果、おそらくは年の単位で主から離れなければならなくなるとしても。
   



◆◆◆




 広陵郡高家堰砦。
 陸側からは呂布、李豊の軍勢が、湖側からは梁剛、陳紀の軍勢がそれぞれ一斉に攻めかかる。
 日の出と共に始まった袁術軍の攻勢は、当初の予想どおり、圧倒的な優位さの中で進められていた。
 砦に篭るのは、劉家軍の数百と、広陵の陳羣とその一族ら百名あまり。
 一方の袁術軍は、呂布と李豊の軍勢だけでも二万を越し、梁剛、陳紀らの軍勢をあわせれば五万を大きく越える。湖砦の立地ゆえ、全ての兵が攻撃に加わることはできないが、それでも五万の兵が押し寄せる圧力は相当なものがあるのだろう。
 まして――
「そのすぐ後ろに、もう五万が控えているんですからねー。勝機なんて見出しようがないでしょう」
 そう言って口元をおさえてくすくすと笑うのは、袁術軍の大将軍張勲であった。


 傍らにいた武将の一人が、そんな張勲の姿を見て気遣わしげに声をかける。
「張大将軍、攻撃に加わらずにいてよろしいのですか? 江都を陥とせなかった以上、ここで奮戦しておかねば、皇帝陛下の不興を買うことになるやもしれませぬ」
「はいはーい、その心配は無用ですよー。江都はもう陥としたも同然ですし、ついでに大至急北上してこの砦を囲めって命令してきたのは美羽様なんですから」
 張勲の言葉に、武将は目を瞠る。
「なんと、陛下からの勅命でありましたか。し、しかし、江都よりも、あのような小砦の陥落を優先させるとは、陛下はどのようなお考えなのでしょう?」
「んー、まあ多分美羽様自身の命令というよりは、例の方士――于吉さんの智恵でしょうから、そっちに聞いた方が早いでしょうねー」
 于吉、という名を聞くや、武将の顔には嫌悪が浮かぶ。
 同時に、そこには小さからざる危惧が含まれていた。一介の方士が皇帝の勅令を得ることが出来るという現状。これまで、それが可能であるほどに皇帝と近しかったのは、眼前の張勲だけであった。今の張勲の言葉は、下手をすれば于吉が、張勲以上に袁術の信を得ているという証左ではないのか、との危惧が。


 それに気付かない張勲ではなかったが、あえてそこに触れようとはせず、説明を続ける。
「孫家の皆さんの足取りも掴めましたし、今も言ったように江都は間もなく仲に帰するでしょう。戦果としては十分です。おしむらくは、于吉さんが警戒していたらしい劉備さんを逃がすことになっちゃいましたけど、まあそれは仕方ないですね。まさか呂布さんの追撃が、たかだか五百程度に遮られるとは誰も思いませんし、それにもまして、あんなにはやく江都に入っちゃうとは予想外でしたから」
 張勲の顔に憂慮はなく、むしろ晴れ晴れと笑っている観さえある。
 その言葉どおり、劉家軍の本隊はおそるべき進軍速度で、袁術軍に先んじて江都に入城してしまった。
 張勲らが江都の城壁を望んだ時には、すでに城外には劉家軍の影も形も存在しなかったのである。
 もっとも、もし張勲が先行させていた騎馬部隊が予定どおりに進軍できていれば、城外で劉家軍を撃滅することが出来たかもしれない。
 広陵から江都への道程を、これだけの短期間で走破したとなれば、その疲労は尋常なものではない。疲れ果てた劉家軍を、一戦で屠ることは決して不可能ではなかったであろう。


 しかし、突如として姿をあらわした孫策の軍勢が、袁術軍の意図を挫いてしまう。
 数にして百程度の小勢であったが、この襲撃を全く予期していなかった先遣部隊は、孫策と周瑜の二人に痛撃をくらい、完全に進軍の足を止めてしまったのだ。
 孫家の軍勢は、先遣部隊を散々に引っ掻きました後、速やかに姿を消す。その退き際も見事なもので、追撃を行おうにも、影を踏むことさえ容易ではなく、先遣部隊の武将は歯噛みして悔しがることになる。
 結局、この襲撃の対応に要した時間が、劉家軍にとって福音となった。




 今回の一連の動きを見ると、あたかも孫劉のニ家が協力したかのように思われ、警戒を口にする将も数名いた。
 しかし、張勲はたいして気に留めることはなかった。
 この両家に接点は見当たらないし、接触する時間があったとも思えない。くわえていえば、たとえ両家が手を携えたところで、敗者が傷を舐めあうに等しい。現状では、どちらも脅威とするには足らなかった。
 とはいえ、ながらく孫家を見張っていた張勲は、孫家の底力を甘く見ているわけではない。むしろ、劉家などよりよほど手ごわい相手と認識しており、寿春の虐殺以後、その行方を把握しきれていないことに、不安、というほどではないにせよ、苛立ちにも似た焦燥を抱いていたことは確かであった。



 孫堅が在世中の孫家の雌伏は、張勲にとって掌の内にあったといってよい。人の動き、物資の動き、金銭の動き。それらを追うことで、容易に孫堅の動きを掴むことが出来たからである。
 だが皮肉なことに、孫堅が死に、孫家の影響力が激減した為、かえって草莽に紛れた孫策らの動きを追いにくくなってしまった。様々な情報から、おそらくは江南に逃げ延びたと推測してはいたが、確証を掴むことが出来ずにいるうちに、今回の戦いが始まったのである。
「正直、とうに江南に逃げたと思ってたんですけどねー。孫策さんのことですから、私たちを叩きたくて仕方なかった、というところですか。おかげで劉家軍を討つことは出来なくなっちゃいましたが、でもまあ、これで大体のところは掴めましたから良しとしましょう」



 張勲は劉家軍の目的をすでに掴んでおり、劉家軍を討ちもらしたことが、現在はともかく、将来において問題となる可能性に思い至っている。江都の協力者に使者を出せば、劉備を討つことも不可能ではあるまい。
 しかし。
 何故か劉家軍に固執する于吉の思惑を知る意味でも、ここはむしろ劉備を泳がせておく方が得策であろう。
 笑顔の下に、浅からぬ思惑を秘めながら、仲国の大将軍はかなたの湖砦へと視線を向け続けるのであった。



◆◆◆



 ちょうど同じ頃。
 張勲と同じように、高家堰砦で行われている攻防を見つめる視線があった。
 洪沢湖のほとり――といっても砦がある場所とは正反対の位置である。
 数は二人。仲の軍装をまとったそのうちの一人が、周囲に聞かれないように、小さな声で囁いた。
「……梁剛も陳紀も、水軍には不慣れみたいだね。湖面せましと舟で押し寄せたら、火攻めをしてくれと言っているようなものなのに」
 それとも、砦側にその余力はないと見ての猛攻かとも考えたが、我も我もと砦に殺到する袁術軍を見るに、そこまでの思慮はないものと、その人物――魯粛は断定した。
「じゃ、じゃあ子敬姉様、早く援護してさしあげないと、このままじゃあ……」
 すぐ隣から聞こえてきた声に、魯粛は小さくかぶりを振る。
「今、私たちが動けば、たとて火攻めが成功したとしても、私たちが全滅する。砦の人も助からないよ、子綱ちゃん」
「そ、それは確かに、そうかもしれません、けど……」
 そう言って俯いたのは、東城県の県令である張紘であった。


 魯粛と張紘。東城県を守りきった立役者二人は、今、魯粛の家の食客を率いて袁術軍に紛れ込んでいた。
 梁剛の軍勢と戦い続けてきた東城県である。袁術軍の軍装はとっくに手に入れていた。正規の兵ではなく、食客たちを連れてきたのは、いざという時に臨機応変に対処できるようにするためである。
 袁術軍の不可解な動きに、奇異の念を抱いた魯粛は、危険を冒してみずから袁術軍に潜入した。今回の淮南侵攻は、仲にとって空前の規模であり、互いに顔もしらない将兵が大勢従軍している。くわえて、すでに幾度もの戦を経て、戦死者や増援の軍が入り乱れている今、百や二百の兵が紛れ込む隙はいくらでもあった。


 魯粛は別に高家堰砦を救うためにやってきたのではない。
 その目的は、ただ情報を得る、それだけであった。
 無論、究極の目的は東城県を戦禍から遠ざけることであり、万が一にも袁術軍を討つ機が生じたのなら、それを見逃すつもりはなかった。
 しかし、現在の戦況では、ほぼ確実に機が訪れることはないだろう。高家堰砦の将たちに興味はあれど、この状況で自分と配下と、そして張紘の命を危険に曝すつもりは、魯粛には微塵もなかったのである。


 高家堰砦を攻める袁術軍の戦力を分析する。それは露骨に言えば、高家堰砦を捨石として利用するということであった。
 面識がないとはいえ、高家堰砦に篭っているのは、張紘らと同じく徐州軍に属する人々である。それを見捨て、あまつさえ利用することの是非は問うまでもない。とくに張紘のように心優しい少女にとって、その心苦しさは想像以上のものがあるだろう。
「――だから、子綱ちゃんは来ない方が良いって言ったんだけど」
「そ、それは駄目です。もしどうしようもなくてそうするのなら、その責は私も負わなければならないものです。姉様にばかり、負担をおかけするわけには参りません」
 張紘の真摯な眼差しを受け、魯粛は困ったように首を傾げた。


(子綱ちゃんの気持ちは嬉しいんだけど……)
 正直なところ、魯粛は今回の件で引け目など欠片も感じていなかった。張紘には、無論魯粛にも、高家堰砦を救う責務はない。十分な戦力があるのならばともかく、現状では自分たちの所領を守るだけで精一杯であり、逆に同勢力に属するとはいえ、そこまで求められる筋合いはないとさえ考えていた。
 事実、東城県が攻撃されている間、援軍に来た軍は一つもないのだ。高家堰砦から援軍を要請されたわけでもない今、魯粛らが身命を賭する理由は存在しないのである。


 傍らで憂色を浮かべる県令と異なり、魯家の狂児はいっそ悠然とした態度で、湖越しに繰り広げられる攻防を見守り続けた。訪れることがないであろう機を待ちながら……






 傍らで腕組みをしながら、毅然と立つ魯粛を見て、張紘は内心で小さく息を吐く。
 姉の内心に去来しているであろう思いは、湖砦を見据える鋭い視線を見るまでもなく、何となく理解できた。
 張紘は魯粛と異なり、彼方の砦ではなく、近くの湖面を見る。そこに浮かんでいるのは袁術軍に紛れて魯粛らが集めてきた舟である。その内に蓄えられているのは、火攻めをするに不可欠なもの。
 機など来ないと考えながら、しかし機が訪れたときの準備は手抜かりなく、神経質なまでに完璧に整えた魯粛。
 そこに込められた想いを見れば、一体、誰がこの人に『狂児』などという相応しからぬ名をつけたのか、と張紘は名も顔も知らないその人物への腹立ちを抑えることが出来ずにいたのである。

 
 張追の耳に、もう何度目のことか、湖面を渡って砦から喊声が響いてくる。その声が今までのものよりも大きいところを見ると、少数の兵で奮戦していた砦の防備がついに崩れたのかもしれない。
「あ……」
 視線を向けた先には、砦の各処から立ち上る黒煙が見て取れる。
 すでに袁術軍は城壁の上に達しているようで、それを見た張紘は思わず声をあげ、そちらに向かって手を伸ばす。
 だが、無論、その手は誰に届くこともなく。





 ――高家堰砦陥落の刻は、もう間近に迫っていた。
 ――敵、味方を問わず。
 ――誰もが、そう考えていた。







[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十三章 北郷一刀(序) (一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/22 15:41



 ――傷つき、嘆き、のたうちまわり、終わらぬ悔いに胸抉られて……






 
 泥水の中でもがいたかのような奇妙な疲労感と、粘つく汗の感触。
 目を覚ましたおれが最初に感じたのはその二つと、いつかどこかで聞いた一片の言葉。
 疲労で鈍く痛む頭に手をやりながら、おれは小さく首を振る。残念ながら、すっきりとした目覚めを迎えることは出来なかったようだ。
「北郷殿、こちらを」
 そう言って差し出された一杯の水。視界に映るそれを、おれは反射的に掴み取ると、貪るように咽喉へと送り込む。良く冷えた水が、体内の澱みを洗い流す清涼感は、今のおれにとって何物にもまさる贈り物であった。


 ほとんど一息に水を飲み干したおれは、ほうっと一息ついてから、ようやく水を持ってきてくれた人に意識が向いた。そして、その人が広陵太守の陳羣であることに気付き、慌ててかしこまる。
「こ、これは太守みずから、恐れ入ります」
 おれの言葉に、陳羣は小さくかぶりを振る。
「太守とはいえ、守るべき地を失った無能者。この程度のことでお役に立てるのならば、嬉しいかぎりです」
 陳羣の顔に、一瞬、陰鬱とした表情が浮かんだ。
 広陵の陥落は、陳羣にとって痛恨の出来事であったに違いなく、今も自責の念を抱え続けているのであろう。
 それでも、すぐに暗い表情を押し隠し、常の穏やかな顔に戻ったのは、おれのみならず、周囲の将兵や一族の者たちへの影響を考えた為か。
 その自制心は、広陵を失った事実を差し引いても、陳羣が敬意を抱くに足る人物であることを証明するものであると、おれには思われた。


 だが、そのことを口にしたところで、陳羣にとって何の慰めにもならないことも、おれは承知していた。
「戦況はどうなりました?」
 ゆえに、話を今、目の前にある問題に戻す。
 陳羣は表情に厳しさを湛えて、口を開いた。
「太史将軍が懸命に敵を退けていますが、敵は昼夜の別なく力攻めを続けています。おそらく、外壁は今日の夜までもたないでしょう」
「むしろ、良く今日までもった、と言った方が良いのでしょうね」
 陳羣の言葉に頷くと、おれはゆっくりと身体の調子を確かめながら立ち上がる。


 敵の攻撃が始まって、すでに数日が経つ。
 その間、敵――袁術軍の攻勢は苛烈を極めたといってよい。その脅威は曹操軍に優るとも劣らないものであったが、両軍の戦い方には大きな違いがあった。
 直接、曹操軍と矛を交えた鳳統らの言葉によれば、曹操軍は主君である曹操、そしてその麾下の将軍たちの統率の下、全軍が一つの生き物であるかのような有機的な兵の進退を見せ付けてきたとのことであった。曹操軍の精鋭が一体となって襲いかかってくるなど、想像するだに寒気がはしる。


 一方、おれたちが今まさに対峙している袁術軍は、話に聞いた曹操軍ほど統率がとれてはいなかった。その攻め方は、将軍たちが手柄を競い合うように、各々勝手に動き、勝手に攻めているように映る。
 湖側からは梁剛、陳紀の二将が押し寄せ、陸側からは呂布、李豊の二将が繰り返し砦壁に挑みかかってくる。そして、その呂布らの背後に、仲帝国の大将軍である張勲が無傷の精鋭を率いて控えるというのが、袁術軍の布陣であった。


 袁術軍は、全体として統率がとれていない。
 それは一見したところ、砦側にとって有利に見えるかもしれないが、実のところ、なまじ統率がとれていない分だけ、袁術軍の攻勢はおれたちにとって厄介なものであった。曹操軍を相手にするのと大差がないほどに。
 それは敵の攻勢の時期と密度が推測できないからである。将軍たちが勝手に攻め、勝手に退くのだから、それも道理であろう。
 元々、砦の兵力は五百に満たない。対して、敵の将は各々が万を越える兵を指揮しており、彼らが昼夜を問わず、自分の都合が良いときに攻め寄せてくるので、こちらはろくに休む暇もなく、応戦し続けなければならないのだ。
 おそらく、張勲はそのあたりのことを考慮した上で、あえて前線の将軍たちの好きにやらせているのであろう。下手に彼らを統御するよりは、思うままにふるまわせた方が、結果として戦果を得やすくなる、と――あるいは伝え聞く張勲の為人から推して、単に面倒くさがっているだけかもしれないが。


 ともあれ、実際、砦側にとっては悪夢のような防戦の連続であったのは事実である。
 おれにしても、明確に思い出せるのは最初の半日くらいなもので、後はまるで夢の中の出来事であるかのように、それぞれの場面だけが記憶に張り付いて、それが何時起こったのか、どこで起こったのかを思い出すことは難しい。
 敵の絶鳴と味方の絶叫が交錯し、血と臓物のすえた匂いに鼻が慣れてしまうような、そんな戦いを繰り返しながら、おれたちは袁術軍から砦を守り続けた。


 おれたちの必死の抗戦は袁術軍に少なくない被害を与えたであろう。しかし、たとえ五百の守兵が千人の兵を討とうとも、十万を越える袁術軍にとっては大きな痛手とはなりえない。
 くわえて、敵は幾度も兵を交代させることが出来るのに対し、こちらは常に全力で応戦しなければならないのだ。先の呂布との戦いでも同じような状況であったが、今度はさらに規模が違う。不眠不休で戦い続けるにも限度があり、無理を続ければいずれ必ず破綻をきたすであろう。
 おれが眠っていたのも、それに備えてのことである――まあ実際は「休んでいる暇なんかない」と主張するおれを、太史慈がほとんど無理やり休ませたわけだが。力ずくで。より具体的に言うと、首筋に手刀を落とす格好で。
 ……あれは絶対、先の呂布との戦を根に持っている、とおれは密かに確信していた。


 ともあれ。
「動ける者はついてきてくれ。子義殿らの撤退を援護するぞ」
 同じように休んでいた者たちに声をかけると、おれは陳羣に一礼してから歩き出す。
 遠くから、敵のものと思しき喊声が響いてきた。



◆◆



「放てェッ!」
 太史慈の号令と共に、百以上の矢が眼下に群れる敵軍へと降り注ぐ。
 その的中率は限りなく十割に近い。それほどに押し寄せる敵軍の数は多く、押し合い圧し合いながら砦に寄せてきているのだ。彼らは味方が矢で射られようが、倒れようが、一切構わず、ただひたすらに砦へ向かって進み続けていた。
 圧倒的な物量を背景とした力攻め。
 戦術的洗練さとは無縁の凡庸な攻勢は、しかし、それを受け止める側に立ったとき、太史慈ほどの人物をして、背筋に冷たいものを感じさせる圧力に満ちていた。


 先の呂布の軍勢も多勢に思われたが、今回の敵軍の強大さとは比較にもならぬ。そう考えながら、太史慈は麾下の将兵に向けて声を放つ。
「敵は多勢。ゆえに射れば必ず当たるぞ! 怯むな、射よッ!!」
 口を開きながら、自身も続けざまに矢を放つ太史慈。
 小柄ながら、太史慈の弓勢の強さは劉家軍でも屈指のもの。その矢は唸りをあげながら宙を裂き、指揮官と思しき豪奢な甲冑をまとった者たちを数名、立て続けに射抜いてみせる。
 だが、袁術軍の進行速度はわずかも緩むことはなく。
 それを見た太史慈は、一度だけ、強く唇をかみ締めた。


 その太史慈の近くに走り寄る人影が一つ。
「太史将軍、そろそろ潮時かと」
「元倹殿」
 小柄な太史慈は、声をかけてきた人物を仰ぎ見るように、その男の字を口にした。
 歳の頃は二十代の後半か、あるいは三十に達しているだろうか。戦塵に汚れた顔は、たとえ汚れを洗い落としたとしても秀麗には程遠いものだったが、刷いたような太い眉と、この不利な戦況にあってなお爛々と光る眼差しが、この人物の心根の強さを見る者に感じさせたであろう。
 姓は廖、名は化、字は元倹。
 太史慈の補佐が北郷であるならば、北郷の補佐はこの廖化。その存在はすでに砦中の将兵に知られつつあった。


「一刀さんからですか?」
「は。大将からです」
 廖化の言葉に太史慈は小さく頷く。
 外壁を放棄して内城へ退く。その時期が来た、ということである。
 高家堰砦は、先の呂布との戦によって、少なからぬ損傷を被り、貯蓄していた物資もかなりの量が失われていた。それを考えれば、よく今日まで持ちこたえたと言うべきであろう。


 ただ、それは逆に言えば、いよいよ劉家軍が追い詰められつつある、ということでもあった。
 決して大きくはない砦の外壁を守るだけの兵も物資も失われ、地方豪族の居館程度の防備しかない内城に引き上げねばならないのだから、それは誰の目にも明らかだ。
 当然、敵である袁術軍にもわかってしまうだろう。
 内城には陳羣とその一族がいる。これまで彼らを直接戦火に晒すことはせずに済んでいたが、敵が内城に攻め寄せてくれば、もうその限りではない。流れ矢が飛んでくる可能性はあるし、火が放たれればどうしたって巻き込まれる。門を破られれば、かろうじて広陵から逃げ延びてきた彼らは再び暴虐の宴の贄に供されよう。
 それを避けるためにこそ、太史慈はこの場所で奮戦していたのである。ここを退くことの意味を、太史慈はよくわかっていた。わかってはいたが――
「……わかりました。合図をお願いします。劉家軍の全将兵は内城に退きます」
「承知」
 太史慈の決断を受け、廖化はしっかりと頷いて見せた。





 突如、外壁の各処から立ち上った黒煙は、劉家軍が内城に退くことの合図であった。このことは間もなく袁術軍全体に知れ渡る。
 砦側の抵抗に手を焼いていた袁術軍の一部は、頃は良しと嵩にかかって攻め寄せる。これに対し、太史慈は追撃の先頭に立つ部将の一人を射殺すことで敵の出鼻を挫き、さらにわずかだが休息をとれた将兵が北郷の指揮の下で撤退を援護し、結果として内城への将兵の収容は速やかに終了したのである。




 彼我の戦力を鑑みれば、あまりに容易く撤退が成功してしまったように映るが、これには理由がある。
 高家堰砦における劉家軍の奮戦は、当然のように袁術軍の警戒を誘っていた。容易く蹴散らせると考えればこそ、強引な力攻めで繰り返し攻め立てた袁術軍であったが、劉家軍がここまで頑強に抗戦するとは予想外と言わねばならなかった。受けた被害も無視できるものではない。


 砦が容易に陥とせぬとあれば、次に来るのは無益な損耗を避けたいという打算である。
 勅命が下ったとはいえ、高家堰砦は大して重要な拠点ではない。袁術軍の諸将はこれを知っており、また一部の将軍たちは、その勅命にも件の方士が絡んでいることを察していた。つまりは砦を陥としたとしても、皇帝である袁術に功を認められるとは限らないということである。
 広陵が陥ちた今、淮南制圧において要となるのは江都のみ。その江都にしても、すでに張勲の調略の手が入っている。すなわち、すでに今回の戦役における仲の勝利は確定しているのだ。


 勝ち戦にある者は命を惜しむ。まして高家堰砦のような小砦を陥とすために、命がけで戦おうとする者がいるはずはなかった。少なくとも袁術軍の将官級の人物の多くはそう考えており、自ら前線に立とうとはせず、ただ数に任せて攻撃の命令を下すだけにとどまっていた。
 それゆえに劉家軍の撤退にも速やかな対応は出来ず、また、外壁を放棄したとはいえ、これだけ圧倒的な兵力差があってなお劉家軍が砦を保ちえているとも言えたであろう。


 だが、何事にも限界というものは存在する。絶えることのない袁術軍の攻勢は、鉄の怒涛にも似て、劉家軍将兵の士気を、命を削り取り、陥落へと到る秒針は確実にその時を刻み続けていた。





◆◆◆





「押し返せッ!」
 叫びざま、おれは眼前の敵の肩に剣を叩きつけた。しかし、幾人もの敵を斬り続けてきた剣は、敵兵の肉と脂で汚れ、もはや切れ味など無いに等しくなっていた。狙いあやまたず、剣は相手の肩を打ったが、相手は体勢を崩しただけで、再びおれに向けて剣を振るってくる。
 避けようと思えば避けられたが、おれはあえてこちらから踏み込むことで、敵の勢いを削ぐ方を選んだ。一対一の戦いなら知らず、こと戦場においては器用に戦おうとする方が危険であることを、おれはすでにこの砦で学んでいた。


 右の胴に強い衝撃を受けたが、それだけだ。関羽や張飛のように甲冑を切り裂く、あるいは甲冑ごと吹き飛ばすような豪傑はそうそういない。おれは眼前に迫った敵の頭めがけて、思い切り剣を横なぎに振るう。鈍器と化した剣の至近からの一撃は、今度も狙いあやまたず相手の兜を打ち据えた。
 先の攻撃と同じく、敵の身体に届くことはなかったが、頭部に強い衝撃を受けた敵兵はたまらずその場に崩れ落ちる。
 おれの隣で矛を振るっていた兵士の一人が、その敵兵の背に刃を突き立て、とどめを刺した。


 敵兵の背から溢れ出る血を見ても、もうおれは何の感慨も抱かなかった。
 戦うことを拒み、人殺しの罪業に苦しんでいたことが嘘のように、今のおれは当たり前に戦場に立ち、剣を振るい、兵を指揮して、敵兵を殺している。
「大将、どうしやした?」
「……いや、なんでもない」
 傍らで戦う兵士――廖化の問いかけに、おれは首を振ってこたえた。


 廖化、字は元倹。先の呂布との戦いでおれを助けてくれた兵士は、おれの知る歴史において、蜀漢を支える将の一人であった。
 飛びぬけた武勇こそないが、堅実な判断力と統率力をもって蜀漢軍の一翼を担い、蜀漢の建国から滅亡までを生き抜いた宿将は、この世界においてもそれに準じる力量を有しているとおれは短い間に確信していた。
 粗野な言動にかき消されがちだが、戦場における判断力は冷静そのもの。武芸の腕も並の兵士を大きく凌駕する。廖化がいなければ、すでにおれは一度か二度は死んでいたかもしれん。おれにとって、そして劉家軍にとっても、廖化の登場は吉報と言ってよかった。


 ただ、それもこの戦況を潜り抜けることが出来れば、の話である。
 また一人、目の前にあらわれた敵兵に対し、おれは斬りかかろうと剣を握りなおすが、疲労で棒のように固く、そして重くなった両の腕は、ただそれだけの動作でも悲鳴をあげる。
 そのおれの眼前で剣を振り上げる敵兵。
 咄嗟に剣で頭をかばおうとするが、間に合わない。耳をつんざくような金属音が肩の上で弾け、わずかに遅れて焼けるような痛みが襲ってくる。
「ぐ、このッ!」
 剣を振るっている暇はないと判断したおれは、反射的に右の脚を繰り出して、敵の胴を蹴り飛ばす。
 まさか蹴りがくるとは思っていなかったのだろう。勢いに押された敵兵が、驚いたようにたたらを踏んだその隙に体勢を立て直すと、おれは身体ごと敵兵にぶつかっていった。剣で斬ることは出来なくても、勢いをつければ刺すことはまだ出来る。そう考えた。
 甲冑の隙間を縫った一刺し。腹に突き刺した剣からは、柔らかく、弾力のある感触がはっきりと伝わってくる。
「ぐ、ふあ!」
 敵の口から奇妙にくぐもった叫びが発された。そう思った瞬間、おれの顔には生暖かい感触と、焼けるような痛み、そして鼻が曲がりそうな悪臭が同時に襲い掛かる。それは血と胃液まじりの敵の悲鳴であった。それをまともに顔に浴びたのである。


 だが、その程度ではもう怯みはしない。怯んだ瞬間、別の敵兵が襲い掛かってくる、これはそんな戦いだった。
「どけェッ!」
 知らず、口から怒声があふれ出していた。
 それは疲労で崩れそうになる自分自身を叱咤するためでもあった。
 多少の休息を取れたとはいえ、それは本当にわずかな時間である。この戦いが始まってから、どれだけの時間、剣を振るい続けているのか、おれ自身にもわからなくなっていた。
 すでに作戦を云々することもない。そんなことをする余裕はとうに失われていた。起死回生の秘策などあるはずもない。
 今やおれに出来るのは、いつ果てるともなく襲ってくる袁術軍を、ただ押し返すことだけ。それとて、もう限界だ。ほんの数秒後、ただの肉塊と化して倒れていてもまったくおかしくない。むしろ、まだそうなっていないことが不思議なくらいであった。


 玄徳様は無事に逃げられたのか。淮北の関羽たちはどうしているのか。張角や王修、董卓は泣いてしまうだろうか。太史慈はまだ健在なのか。貂蝉は……案ずるだけ無駄か。内城にいる陳羣や孫乾は。広陵から逃げ延びてきた人々は。城の最奥部に安置してある陶謙の亡骸は。高順は。呂布は。孫策は。曹操は。
 切れ切れの思考が無秩序に浮かんでは消えていく。
 その間にも休みなく剣を振るい、血を浴び、その都度、雄たけびをあげる。
 ただ剣を振るい、敵を屠り、声を張り上げる。そのことに痛みを感じず、それをなす自分に疑問をおぼえない。こうするしかないのだから、悩む必要はないだろう。
 いつか納得していた。これが戦だと。関羽たちも、こんな心境で戦っていたのだろうと。


 ――崩れそうだった。身体ではなく、心が。戦場に降り注ぐ血と死の雨に打たれすぎて。


 だから、一番安易な解決方法を選んでしまった。戦場の狂気に心身を委ねる、という。
 すると、不思議と身体に力が戻り、心が軽くなる。考えることを止めてしまえば、それは当然のことであったのだろう。胸のどこかが軋んだが、この解放感を覚えてしまっては、それを確かめる気にはなれなかった。それに、どうせ死ぬのだから、という諦観もあった。
 だから、おれは。
「あああああッ!」
 感情の赴くままに声を張り上げ、敵に斬りかかっていく。渾身の力を込めて剣を振り回し、当たるを幸いに斬り捨てる。隣で矛を振るっていた廖化が、驚愕の視線を向けてくることにも気付かない。


 それから後は、泥の中でもがいているかのように、全てが緩慢に進んでいった。
 押し寄せる敵兵を斬る都度、心が軽くなる。あるいは虚ろになる、と言った方が良いのかもしれない。これまで積み重ねてきたものが崩れていく様は、決して快いものではなかったけれど、それでも手をとめることは出来なかった。
 当然のように幾度も反撃を受け、身体には幾つもの傷が刻まれていったが、それでもなお止まらない。止まれない。
 傍らの廖化が何か口にしているが、何を言っているのかもわからない。
 玄徳様のために。城にいるお年寄りや子供たちのために。そんな当たり前の気持ちさえ手放して、ただ殺すために剣を振り上げたおれは――





「一刀」





 不意に、懐かしい声を聞いた。






◆◆





「……おのれ」
 ぎり、と奥歯をかみ締めながら、李豊が思わず悪態を口にする。
 外壁を突破した袁術軍は、敵の最後の拠点である内城に対して攻撃を開始。内城とはいっても、外壁のような堅固な城壁があるわけではない。塀と堀で囲まれただけの館に等しく、陥落は時間の問題であろうと思われた。


 だが、ここに到ってなお劉家軍の抗戦は激烈を極めた。
 中でも正門を守る太史慈の武勇は壮絶の一語に尽き、もうよかろうと前線に出てきた李豊麾下の軍兵をほとんど独力で撃退し続けたのである。
 今また、太史慈の剣が続けざまに二人の兵を斬り捨てる。それを見た李豊は、これ以上の無様は晒せぬと自ら陣頭に進み出る。
 その口から高らかな嘲笑が迸った。
「哀れですね、事ここに到って、まだ己が敗北を認められないのですか、小娘」
「その華美な甲冑……しかも女性、か。なるほど、罪なき民を戦の贄とした愚将だな。誇りの意味を知らない輩と、語るべきことなど何もない」
 向かい合う相手が、広陵を陥落させた李豊だと悟った太史慈は、凛然と李豊の罵詈を斬り捨てる。


 李豊の口元が奇妙な捻れを帯びた。
「ふ、戦で誇りを口にするとは、所詮は未通女(おぼこ)か。私の手とあなたの手。染まった色に何の違いがあるというのか。けれど、まあそんなことはどうでも良いわ」
 李豊が手をあげると、後方から部下たちが数名の兵士を引きずるように連れ出してくる。彼らが劉家軍の兵であることを、太史慈は瞬時に悟った。
 皆、多かれ少なかれ傷を負っているようで、苦痛にうめく姿が痛々しい。
「さて、こやつらは言うまでもなくあなたの配下。このまま放っておけば、私が手を下すまでもなく死ぬでしょう。あなたが剣を捨てるのなら、傷の手当てをした上で郷里に返してやっても良い。このように絶望的な戦にあって、忠実に戦い続けた部下を、さて、私と違って誇りを知るあなたは無論助けてあげるのでしょうね?」
「――陳太守に聞いて、想像していた通りの人物のようだな。貴様のような輩が将軍とは、仲の人材の質も知れたものだ」


 そう口にしながらも、太史慈は連戦の疲労で乱れる呼吸を必死に落ち着かせようとしていた。手足の感覚はとうの昔に棒切れ同然になっている。剣よりも得手である弓を引かないのは、戦況がそれを許さないということもあったが、常のような正確な射が不可能であるからでもあった。
 そんな太史慈の体調に気付いているのだろうか、李豊の顔に浮かぶのは余裕とも嘲笑ともつかない笑みである。
「私から見れば、あなたのような小娘が将となれる劉備の軍の方がよほど笑止よ。ともあれ、雑言の対価はもらいましょうか」
 そう言うや、李豊の剣が閃いた。太史慈が止める間もない。その一閃は、近くにいた劉家軍の兵の、右の腕を根元から断ち切っていた。


「あ、え……ぐ、があああああッッ?!」
 束の間、何もない右の腕を凝視していたその兵の口から、すぐに悲痛な絶叫が迸った。腕を失った痛みと悲哀にのたうちまわる姿は正視に耐えるものではない。
「貴様ッ!」
「おや、何を怒るのです? 斬ったのは私だが、斬らせたのは、太史慈とやら、あなただと言うのに。民であれ捕虜であれ、私が容赦などしないということ、あの愚図な太守から聞いていたはずですが」
 まあ、知らなかったとしても、今ので十分に思い知ったでしょう。李豊はそう告げた後、改めて口を開く。
「降伏を。従わざれば、後ろにいる捕虜、その全てを斬り捨てる。言っておくが、一息に命を奪うほどの慈悲の持ち合わせは、私にはないですよ?」



 李豊の言葉は、時ならぬ静寂を戦場にもたらし、周囲は固唾をのんで太史慈の返答を待った。
 重い決断を強いられた格好の太史慈であったが、毅然としたその立ち姿にはいささかの動揺もない。敵味方の将兵の視線を集め、太史慈はゆっくりと口を開く。
 その語りかけるは、李豊ではなく、虜囚となった兵士たち。
「詫びは、冥府でさせてください」
 そして、太史慈は李豊に向けてまっすぐに剣を突きつけた。


 それを見た李豊が嘲笑を湛えて口を開く。
「それが答えということですか。さきほど、誇りがどうとか言っていた割には情けを知らぬ――」
「黙れ、下郎」
 味方を見捨てる決断を下した太史慈の声には苦渋と同程度の怒りと、そして軽侮があった。蒼穹のごとき両眼に、苛烈な光が煌く。
「貴様と話すことなどないと言ったはず。まして、捕虜を盾とせねば砦一つ陥とせぬ愚将如きと、誇りの何たるかについて語る言葉などあろうはずもない――その軽々しい口、すぐにも塞いでみせましょう」
「口では何とでも言えますね。しかし、ふふ、それが今のあなたに出来るのですか?」
「出来ない理由が、ありません」
 なおも嘲弄を続ける李豊に向けて、太史慈が歩を進めようとする。
 それを見た李豊が、心の奥でほくそえんだ、その時だった。



「ぬッ?!」
 先刻、李豊に右腕を斬り捨てられ、地面でのたうっていた兵士が、弾けるように起き上がるや、李豊に身体ごと突っ込んだ。
 さすがの李豊もこれは予期できず、咄嗟に身動きが取れなかった。しかし、李豊の周囲にいるのは選りすぐりの兵士たち。半死半生の兵士では、李豊の身体に触れることさえ出来なかった。
「おのれ、死に損ないがッ」
 罵倒と共に振るわれた一閃が、その兵士の首筋を切り裂き、傷口から溢れるように血が流れ出す。
 それは例えようもないほどの致命傷。
 突然の兵士の行動に、太史慈は思わず言葉をなくす。だが、地面に崩れ落ちようとする刹那、その兵士の目が自分に向けられた瞬間、太史慈はその兵士の意図を悟ったように思った。


 そして、太史慈以外にも、その意図を悟った者たちがいた。兵士と同じく、袁術軍の虜囚となっていた将兵である。彼らは太史慈が止める間もなく、次々と手近の敵に襲い掛かっていった。
 しかし――
「ぐ、おのれ、こやつらッ!」
「死に損ないどもが、血迷ったか?!」
 元々深傷を負っていた上に、剣の一つもない状態で事態が打開できるはずもない。捕虜となった兵士たちは、落ち着きをとりもどした袁術軍によって次々に斬り捨てられていった――自分たちが望んだとおりに。



 その行動が何のためのものか、今や敵味方の目に明らかだった。彼らは自軍の足枷となることを望まず、自ら敵に斬られたのだ。無残に斬り捨てられていく仲間の姿を目の当たりにした砦の将兵の口から、憤激の声が沸きあがる。
 無論、それは太史慈も例外ではなく。
 奥歯を砕かんばかりに噛み締めながら、袁術軍に――李豊に向かって駆け出していく。常の太史慈であれば、李豊がこちらを挑発しようとしていることに思い至ったであろう。しかし連戦の疲労と、間近に迫った敗北とが、太史慈の判断力に曇りを生じさせてた。否、太史慈の年齢を考えれば、よくぞここまで冷静さを保ちえたと称するべきであったかもしれない。





 李豊の口が、まぎれもない嘲りを湛え、開かれる。
「他愛もない。この程度で動揺するようで、これまでよく戦ってこられたものです」
 その声に応じるように、李豊の後方で弓兵が矢を番える。その数は百を越えた。それらが放たれれば、太史慈の命脈は確実にこの地で途絶えていたであろう。
 だが、何を思ったか李豊は彼らを制し、先刻から無言を貫いているもう一人の将軍に向かって声をかける。
「呂将軍、先の戦の借りを返す好機ですが、いかがなさいます?」


 赤兎馬に跨り、陥ちゆく砦を無表情で見つめていた呂布は、李豊の問いかけに首を傾げる。
 その傍らにいた陳宮と高順は、李豊が、先の戦で呂布が実質的に敗れたことを揶揄し、同時に恩を売ろうとしていることを察した。
「天下に名高き飛将軍が、たった一度の敗北に甘んじて膝を屈したとあっては士気に関わります。この場で敵将を討って恥を雪ぐべきではありませんか。ご覧のとおり、死に損ないの小娘一人を討ち取るだけのこと、何の困難もありませんよ」
 掌中の獲物を譲ってやると言わんばかりの李豊の倣岸さに、陳宮の眉が急角度につりあがる。


 心情的には陳宮と変わらない高順であったが、咄嗟に呂布に請うような視線を向けていた。
 呂布が首を横に振れば、李豊はためらいなく太史慈を討ち取るだろう。寡兵で砦にこもり、ここまでの奮戦をしてみせた将器の持ち主である。劉家軍にとって得がたい人物であろうことは疑いなく、ここで彼女を討ち取ってしまえば、劉備や、共に戦っている北郷の悲哀はいかばかりか。
 戦が拮抗しているのであれば、こんな情けは自分たちの首を絞めるだけであろうが、戦の趨勢などとうの昔に決している。今ここで、太史慈の命を救うためには――


「…………ん」
 そんな高順の思いを察したのだろう。
 呂布は小さく頷くと、馬上、弓を番える。
 鳴り響く弓弦の音。放たれた矢は弧を描かずに一直線に宙を切り裂き、迫り来る劉家軍の将兵の一画を的確に射抜く。
「う、ぐゥッ?!」
 太史慈の口から、くぐもった悲鳴が漏れる。その右足と地面は、呂布が放った矢によって深々と縫われていた。


 呂布の強弓は、怒りに我を忘れていたはずの劉家軍の将兵の度肝をも射抜いてしまったようだった。
 凍りついたように立ちすくむ劉家軍の将兵。そして――
「射殺せッ!」
 そんな彼らに向かって降り注ぐ矢の雨。周囲の兵士たちは咄嗟に身動きのとれない太史慈をかばおうと矢面に立って倒れていく。身動きのとれぬまま、そんな兵士たちを目の当たりにしなければならない太史慈の口から悲痛な声があがる。
 それを見て心地良さげに笑い声をあげたのは、呂布でも高順でも、陳宮でもなかった。


「な、何をするんです、李将軍ッ?!」
 高順の詰問に、李豊はようやく笑いをおさめたが、それでもなお愉快そうな表情は消えないままであった。
「何を、とは? 敵を殺して何が悪いのです?」
「敵将は奉先様が押さえました。降伏を呼びかければ――」
「刃向かう者は皆殺し。それが我が軍の方針であったでしょう。仮にも飛将軍の傍らに侍る者が、知らなかったとでもいうつもりですか?」
「そ、それは……でも、この期に及んで、こんな、こんな……」
 そんな高順の反応に冷笑で報い、李豊は今度は視線を呂布に向ける。
「呂将軍にしては不手際ですね、この距離で心の臓を射抜けぬとは。あるいはわざと、でしょうか? 先の戦の手際といい、此度の戦での消極性といい、飛将軍におかれては、なにやら陛下に思うところがあるご様子。この旨、戦の後に陛下にはしかとお伝えすることにいたしましょう」


 そう言い放つと、李豊は踵を返して太史慈の前に立つ。
 すでに周囲で立っているのは袁術軍のみであった。
「さて、どうします? 虜囚の辱めを受けますか、それともみずから首を刎ねますか?」
「……どちらでもない。下郎が」
 呂布の強弓で右足を射抜かれ、地面に倒れ伏しながら、太史慈の言葉はわずかに揺れるのみで、他に苦痛を示すものは見当たらない。その胆力は見事と言ってよかった。


 しかし、李豊にとっては立場をわきまえない頑迷を示すものでしかなく。
 ふん、と鼻で笑うや、李豊は無造作に太史慈の顔を足蹴にする。
 たまらず太史慈はうめき、咄嗟に地面を転がって次の一撃を避けようとするが。
「ぐ、ああああッ?!」
 右足を射抜いた矢が、その動きを阻害する。肉を無理やり引きちぎられるような痛みに、太史慈の口から押さえていた悲鳴が零れ落ちた。
 だが、それを聞いても李豊は眉一つ動かさず、さらに二度、三度と同じ行為を続けていく。
 そして。


「そうですね、ここで命を奪うのでは、陛下に逆らったあなたの罪には相応しくない」
 倒れこんだ太史慈の髪をわしづかみにした李豊は、無理やりその顔を覗き込む。太史慈の顔は泥と血で覆われ、常の秀麗さは完全に失われていた。その太史慈をどこか愉しげに見つめながら、李豊は言葉を紡いでいく。
「その命つきるまで、雑兵どもの相手でもしてもらいましょうか。もっとも、今のあなたの顔では立つものもたたないかもしれませんが、女であれば誰でも良いと考える輩もいるでしょう」
 それを聞いた太史慈が、口を開きかける。だが、もう言葉を紡ぐことさえ出来ないのだろう、その口からはぜいぜいと吐息がもれるばかりであった。
 ただ、碧眼のみが、李豊にむけて侮蔑の意思を叩きつける。


 その眼差しに気付いたのだろう。李豊の顔が大きくひきつった。他者の目にはそう映る表情の変化であった。李豊としては、満面の笑みが浮かべたつもりであったのだが。
 そのことに無自覚ではなかったことが、より李豊を激昂させる。
「ふふ、全員の相手をして命があれば、生き延びることも出来るかもしれませんよ。誇りとやらで、見事耐え切ってみせなさい! ああ、別に後回しにする必要もないわね、まだ中にいる連中にも見せ付けてやりましょうか、あは、はははははッ!」
 笑いながら、李豊の剣が閃く都度、太史慈の甲冑が剥ぎ取られていった。否、甲冑だけではなく、太史慈の血肉も一緒に剥ぎ取られていく。薄皮一枚を断ち切るような精巧さを、李豊は求めているわけではなかったから。
 そして。
「これも――邪魔ですねッ!」



 李豊は太史慈の身体を地面に縫い付けている矢を掴み、力をこめる。無論、力任せに引き抜くために。それがどれだけの苦痛を相手に与えるかを承知した上で。
 生意気な小娘が激痛にのたうちまわり、絶叫する様を思い浮かべながら。


 ――李豊が舌なめずりした、その時だった。 










◆◆◆









 
 どういう流れでそうなったのかは覚えていない。
 多分、子供心に疑問をおぼえたのだろう。剣術というものが人を殺すための術ならば、おれは人殺しの訓練をしているのではないか、と。
 おれが問いを向けたのは母さんだった。さすがに父さんや爺ちゃんには聞けなかった。「ふむ、では身体で教えてやろう」とか言って木刀を取り出すのが目に見えていたからである。
 

「一刀」
 そう言っておれを見る母さんの目はいつもとかわりなく穏やかで、おれは自分がとても間の抜けた質問をしたような心地に囚われたものだった。
 しかし。
「傷つき、嘆き、のたうちまわり、終わらぬ悔いに胸えぐられて――」
「え?」


 母さんの口から出た言葉は、ただしくおれの問いへの答えであった。
「それでも戦うと一刀が決めた時のために、私たちはあなたに剣術を教えることにしたの」
「う、え、え?」
 それでも、まだ小さかったおれには、その言葉は難解だった。
 目を丸くするおれを見て、母さんはくすりと笑う。
「今はお父さんと、お爺様の言うとおりに頑張りなさい。それとも、もう稽古は辛くなっちゃった?」
「う、ううん、そんなことはないけど」
 慌てて首を左右に振る。実際、父さんたちとの稽古は大変ではあったが、退屈ではなかった。
 ただ、爺ちゃんは子供にもはっきりと物を言う人で、剣術というものがどういうものかを常に語って聞かせてくれた。その言葉を理解できるくらいには成長していたおれは、自分がやっていることの意味を知りたくなっただけであった。


「一刀の言うとおり、剣術は他の人を傷つけるものだけど、だからこそお父さんもお爺様も、他の人の痛みがわからない子に教えたりはしないわ。一刀なら大丈夫だと思ったから教えているの。自分の子供だからとか、孫だからとか、そんなことは関係ないのよ」
「う、うん」
 戸惑いながらも頷くおれを見る母さんの顔が、不意に翳りを帯びる。
「一刀は他の人を傷つけたりしない。母さんはそう信じてる。でも、いつかそうしなければならない時が来るかもしれない。一刀が戦わなければならない時が、来るかもしれない。それはきっと、あなたを打ちのめすでしょう。眠ることも、食べることも許されないくらいに強く、強く……」
 でも、それは当然のこと、と母さんは口にした。他者を傷つけたなら、当然の報いだと。
 そして、その上で母さんはこう言ったのである。
 まだ一刀には少し早いかもしれないけれど、と少しだけためらいながら。




 ――傷つき、嘆き、のたうちまわり、終わらぬ悔いに胸えぐられて
 ――それでも戦うと決めた時のために、一刀の剣はある

 

 ――それは傷つけるための力ではなく
 ――傷つけて、傷ついて、それでも守りたいものがあった時、戦うための力







 思い出す。
 はじめて人を殺した時。胸のうちで何かが弾けたことがあった。
 しかし、今回のそれは似て非なる感覚。
 弾け、砕けるのではなく。
 集い、織られていく。
 虚ろに揺れていた胸奥に、散りばめられたものが収束されていくその様は、パズルの欠片を埋めていくにも似て。







「そうそう、最後に一つだけ」
 記憶の中で、母さんが笑う。
「母さんはあなたを産んだとき、もう二度と剣をとらないと決めたから、剣術は教えてあげられないけれど。母さん得意の必殺技を教えてあげる」
「おお、かっこいい! ねえ、必殺技ってなになに?」
「ふふ、それはね――」






◆◆◆






「ォオオオァァアアアアアアアアアアアアッ!!」


 それは、突然だった。
 高家堰砦にいるすべての者が耳にしたであろう、獅子の咆哮。
 ここが戦場である以上、人の声は無数にある。喊声、雄たけび、悲鳴、絶叫、人の耳をつんざくような叫びはそこら中に溢れている。
 だが、その声は、そんな感情を乗せた声とは一線を画する。叫びは感情の発露、しかしそれはそんなものではなかった。
 あたかも百獣の王が、他の獣を従わせんと天地に向かって吼えたかのようで、それを耳にした者は否応なくその咆哮を耳朶に刻み込まれてしまう。


 ただ、耳にしただけの者でもそうなのだ。
 至近でそれを浴びせられた李豊が、平静でいられようはずもなかった。



「な……あ……?!」
「……名は、と聞くまでもないか。いくら袁術が漢に叛旗を翻した逆賊とはいえ、貴様みたいな下郎が二人といるとも思えない――広陵を陥とした李豊だな」
「な、なん、だ、貴様は?!」
 率いる部下はほんの数名。ただそれだけの手勢で袁術軍の将兵で満ちるこの場に現われた若者は、李豊の問いに短く応えた。





 北郷一刀、と。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十三章 北郷一刀(序) (二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/26 02:19


 獅子は獲物を襲うとき、咆哮したりはしない。
 それをするのは、己の存在を誇示せんがため。
 人が戦うにおいても同じです。
 声に乗せるのは、感情ではなく、あなたの意思。
 決して退かぬと。決して屈さぬと。敵の咽喉笛に喰らいついてでも生き延びると。
 それだけの戦う理由があるのだと示しなさい。
 戦う相手に――そしてどこまでも続く天と地に。
 皇天后土に吼えるのです。







 冬の徐州、湖面から吹き付けてくる風は冷たく乾き。
 なのに眼前から押し寄せる空気は灼けるほどに熱く、肌をひりつかせる。
 呂布は方天画戟を構えていた。
 意識したわけではない。それはほとんど武人の本能に従った動作であった。


「な、な、何なのですか、一体?! 誰なのですか、あれは?!」
 傍らで陳宮が口を開く。突然の出来事に、その声はわずかに震えていた。
 それは驚きゆえか、あるいは――


「北郷さん……」
 高順の声が、呂布の耳朶をかすめる。
 それを聞き、また若者みずからの名乗りを耳にして、呂布はそれがセキトたちと高順を救ってくれた人物であることを知る。
 同時に、思う。
 あれは……ここで討っておかねばならない敵である、と。







『まあ、我が家の剣にそれほど七面倒な理屈はないわい。そんなものがあったら、そもそもわしがおぼえきれん』
 かっかっか、というどこぞの副将軍のような笑い方は爺ちゃんの悪癖の一つだった。
 矍鑠(かくしゃく)という言葉を擬人化したような我が祖父は、その言葉どおり、きわめて簡潔に説明した。
『北郷が剣は停滞を忌む。すなわち風よ。風は吹き渡ってこそ風、止まっておればただの澱に過ぎぬ。ゆえに止まらぬことこそ、基本にして究極と知るが良い』
 そう言ってから、爺ちゃんは孫に少しでもわかりやすく伝えたかったのだろう、こう付け加えた。
『停滞とは、なにも足や身体のさばき方だけを言っておるのではない。目を動かすこと、頭を使うことも同様ぞ。戦いに臨んでは、常に動き、常に見、常に考えよ。必ず機先を制し、相手に一秒たりとも主導権を与えるな。さすればこちらは望むままに打ち込むことができ、逆に敵の狙いをことごとくいなすこともかなうであろう』


 致して、致されず。それは確かに剣士としての究極だろう。
 無論、今のおれには遠すぎるものであるのだが、それでも今、この時代において、それを知るおれは誰にも優る立場に立っているのだ。そう、関羽や張飛よりも。
 これより先、千年を越える年月をもって編まれ、練られ、昇華されていくはずの究極を、おれは幼い頃より叩き込まれているのだから。
 だからといって、ただそれだけの事実で、この時代に居並ぶ綺羅星の如き英傑たちに伍すことができるなどとは決して思わない。思わないが――


「貴様らごときを相手にするには、十分ではあるさ」
 さして広くもない内城である。おれが太史慈のところに駆けつけるために要した時はわずかであり、そして敵の血と、自らの血で朱に染まった太史慈を見て、彼女を救うために駆け出したのはほぼ同時。
 身体を苛む痛みと疲労はいまだ消えていない。消えたのは、虚ろであるがゆえに軽かった心の方。
 戦いにあって苦しみ、悩むのは当然だ。それを捨てれば楽にはなれるが、それでは到れない場所もある。そんな当たり前であったはずの真実を、強く、深く、心に刻み付ける。もう二度と、間違えることがないように。
 そうしておれは、廖化らわずかな手勢の先頭に立って、戸惑ったようにたちすくむ袁術軍の陣列に突っ込んでいった。  





 棒立ちのまま、こちらを見つめる李豊に、物も言わずに襲い掛かる。首をねらって繰り出した剣であったが、李豊が寸前で身をのけぞらせたことで、首をそれて胸甲を叩く結果となった。剣と甲冑がぶつかりあい、火花を散らす。
 それで我に返ったのだろう。李豊は慌てた様子で後方にとびすさり、空いた隙間を護衛の兵士たちが埋めてしまう。
 だが、その兵士たちもまだ完全に立ち直ったわけではないようで、続けざまに繰り出したおれの剣は、その中の一人の頸部を正確に捉えていた。硬いものを砕く確かな感触。たまらず倒れるその兵士に目もくれず、おれは身を翻して傍らにいた別の兵士に襲い掛かる。
 止まらず、動き続けること。
 久しく思い出していなかった声が、そう告げた。


 ただ、次の相手はすでに身構えており、急所への一撃を望めそうになかった。しかし、それならそれで、別にかまわない。
 何もすべての敵兵を、おれ一人で討ち取らねばならない理由はないし、そもそもそんなこと出来るはずもないのだから。
 大げさなほどに上段に構えたのはフェイント。動揺していた相手はあっさりとこれに引っかかり、こちらの剣を受け止めるために自分の剣をあげて胴をがら空きにする。その胴につき込まれた矛は、廖化のものであった。


 甲冑の隙間を縫った攻撃で、脇腹を抉られた敵兵の口から悲痛な声がもれ、その手から剣が落ちる。ここでおれが目の前の相手に振り上げた剣を叩きつければ、確実に絶命させることが出来ただろう。しかし、おれは異なる選択をする。
 何をしたかというと――持っていた剣を思い切り放り投げたのだ。縦に回転しながら宙をはしった我が愛剣は、狙いあやまたず、やや後方に立っていた敵兵の鼻面を強打し、予期せぬ投擲をうけたその相手は、痛みというよりも何が起きたのかという驚きの声と共に膝をつく。


「大将ッ?!」
 得物を放り投げたおれに、味方である廖化も驚きの声をあげる。戦場で武器を放り投げるなど、命を捨てるに等しい。
 しかし。
 連続する悲鳴。一人は手首を、もう一人は脛を斬られたためだ。無論、おれに、である。
 いつの間にか、おれの手の中に、先の兵士が取り落とした剣が握られているのを知った廖化の口から、感心したような呆れたような、奇妙な吐息がもれた。
 この剣の持ち主は李豊に従い、ずっと後方に控えていたのであろう。切れ味はまったくといってよいほど落ちていない。油が滴り落ちるような光沢を保ったまま、剣は鮮血に濡れていた。



◆◆



 それは小さな竜巻。
 ともすれば朦朧とする意識の中で、太史慈の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。
「……一刀、さん」
 将軍と長史。小なりといえど、一つの軍の長と副官である。この苛酷な戦況にあって、それぞれが異なる場所で懸命に指揮を続けていたため、互いに相手がどれだけの戦いを経てきたのかなど知る由もない。
 しかし、血と泥に染まった北郷の姿を見れば、太史慈に優るとも劣らぬ激戦を潜り抜けてきたであろうことは疑いの余地がなく――


 もう何度目のことか、響き渡る金属音と、身体を裂かれた敵兵の苦痛の声。
 止まらない、止められない。敵兵の剣を奪い取ってから、さらにその動きは鋭さを増していく。
 それは多分、「斬る」ことができるようになったから。
 相手を討ち取るのではなく、戦闘の継続を妨げることを主眼とする戦い方。指の一本を失ったところで人は死なないが、だからといって平然と戦いを続けられるかと言えば答えは否であろう。必ずしも、殺すばかりが敵を無力化する手段ではない。無論、腕を断ち切られても、怯まず戦おうとする剛毅な人間も世にはいるだろうが、少なくとも、今この場にいる李豊の麾下には見当たらないようだった。


 先日までの北郷の戦い方とは似ても似つかない、と思いかけた太史慈であったが、必ずしもそうではないことに思い至る。
 剣を振るう速さに、目を瞠るような変化はない。
 底流は同じ。すなわち能力があがったのではない。ただ戦い方が、動きが、かわっただけ……
「将軍、お気を確かに」
 そんなことを考えていた太史慈は、みずからに呼びかける声ではっと我に返る。その途端、足と言わず身体と言わず、全身から痛みが襲ってくる。
 だが、太史慈はその痛みよりも、それすら忘れて北郷に見蕩れていた事実に気がつき、かすかに頬を紅潮させた。


 そんなこととは知らない兵士は、気遣わしげに将の姿に目を向ける。
「この場で矢は抜けませぬ。ひとまずは剣で根元を斬って、内城に戻ります。すこしの間、御辛抱ください」
「……気にする必要はありません。遠慮なくやってください」
「は、では――」
 その言葉と共に、兵士は太史慈の足と地面を縫い付けている矢を半ばから断ち切った。衝撃が伝わり、足元から激痛がはいのぼってくるが、太史慈は奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
 

 ともあれ、これで自由は得た。
 太史慈がそう考えた時。
「何をしているッ! 敵はたかだか数人だというのにッ!」
 後方に下がった李豊の叱声が響く。その声はある程度、兵士たちの動揺を鎮める効果があったらしい。幾人かの兵士が敵中に突っ込んだ北郷らの退路を断とうと動きだす。
 同時に、その声は李豊の所在を知らしめることにもつながっていた。
 このまま北郷たちが李豊めがけて突き進んでいけば、敵中に取り残されることになっていただろう。李豊の狙いどおりに。
 だが。
「お前の首などいらない」
「遅いぜ、間抜け」
 北郷と廖化の二人は、李豊の声が発される寸前、すでに踵を返していた。それまで相手を圧倒してただけに、この唐突な後退は袁術軍の意表を衝く結果となる。


 元々、この場に飛び込んだのは太史慈を救う、ただそれだけのためである。その目的が果たされた今、北郷にとって、李豊はあえて深追いしなければならないほどの脅威を持つ相手ではなかった。
 後方を塞ごうと動きかけた敵兵を斬り捨て、突き殺し、太史慈の下へと戻ってくる二人。
 しかし、のんびりしている暇はない。混戦状態がなくなれば、これまで動けずにいた弓兵らが動き出す。
 一秒でも早く内城へ退かねば。期せずして三人が同時に考えた時。


 太史慈は何かが宙を裂く音を耳にした。
 あまりにも耳になれたその音が何を意味するのか、それを悟った時はすでに遅く。
 何者かに背後から突き飛ばされたかのように、北郷が急に前のめりに倒れこむ。咄嗟に足を踏ん張り、地面に倒れることはなかったが、その口からはくぐもったうめき声がもれた。そして、その右肩には緋色の矢が深々と突き刺さっている。
 後方から飛来したその矢は、射手の弓勢の強さを示すように、甲を砕き、肉を貫き、鏃の先が太史慈の視界に映し出されていた。


「大将ッ!」
「……か、かず――」
 廖化と太史慈、二人の声に対し、北郷は歯を食いしばりながら、強くかぶりを振った。
「構うな、いいから早く退け」
 その声は太史慈に、というよりも、太史慈を支えている兵士に向けたものだった。ここで足を止めれば、それこそ矢の的である。
 後ろも見ずに駆け出そうとした北郷は、しかし灼けるような視線を背に感じ、反射的にそちらに視線を向けていた。そして、そこに弓を放った姿勢のまま、じっと立ち尽くす緋色の将軍の姿を見つけ出す。


 燃えるような視線が自分に向けられていることを悟り、北郷の全身が総毛立つ。圧倒的なまでの力量の差は、ただ視線をあわせるだけで相手を畏怖させうるものなのだと、北郷は嫌でも理解せざるを得なかった。
 同時に北郷は知る。
 自分が情けをかけられたのだということを。
 呂布と自分、その彼我の距離を考えれば、呂布が狙いを外すとは考えられない。頭なり、首なり、心の臓なり、射抜こうと思えば射抜けたはずだ。
 にも関わらず、呂布の矢が肩に当たったということは、自分を生かして捕らえるためか、あるいは――
「借りは返す、といったところか」
 北郷は、以前洛陽で、燃え落ちる呂布の屋敷から高順と動物たちを助けたことがある。その事実が、呂布の弓の狙いをわずかにそらす結果となったのかもしれない。
 ただ、それにしては自分を見る呂布の眼差しの強さに違和感が残る、と北郷は思った。離れてなお、飛将軍の威は自分を打ち据えんと欲してるように見えてならなかったから。




 そして、北郷の負傷は想像以上に深刻な事態を招く。
 これまでもっとも奮闘していた北郷の負傷を目の当たりにした袁術軍が、一斉に勢いを盛り返しはじめたのだ。
 それを見て、廖化が頬をかきながら口を開く。
「こいつあ、ちょっとやばいですな」
「今までも、痛ッ、十分にやばかっただろ」
 あまりにも圧倒的な戦力差に、逆に開き直ったのか、いやにのんびりとした様子の廖化に対し、北郷は痛む肩を押さえながら、苦笑して言い返す。
 だが、北郷はすぐに真顔に戻ると、言葉もなく荒い息を吐くばかりの太史慈を見て、生き残った全員に告げた。全員といっても、もう両の指で数えられるだけの人数しかいなかったが。
「子義殿を中心にして退く。元倹、殿は頼む」
「承知。それと、大将もさっさと逃げてくだせえ。なんかあっちのおっかない姉さんが睨んでますぜ」
「……やっぱり元倹もそう思う?」
「あれだけ殺気に満ちた視線を向けられりゃ、馬鹿でも気付くでしょうや――っとお?!」
 言いながら、袁術軍から降り注ぐ矢を矛で払いのける廖化。
 それを見て、北郷は、太史慈を抱えた兵士を促して先に行かせ、自らは左の手に剣を持ちながら、その後ろに続いた。



 当然、それを黙って見逃す李豊ではない。
「逃がすものですか、殺しなさいッ!!」
 激昂して殲滅の命令を下す将と、それに応じて動き出す麾下の将兵。
 十名に満たぬ劉家軍、しかもそのほとんどは手負いである。双方の兵力比を考えれば、勝敗など誰の目にも明らかで――それでもなお太史慈と北郷は内城にたどり着く。配下の将兵の、命がけの挺身によって。
 袁術軍はそれでもなお追撃をやめようとしなかったが、内城では陳羣と孫乾が砦中の油をかき集め、押し寄せる袁術軍に浴びせかけた。広陵から逃げ延びた者たちの中で、動けるものは子供や老人までもがこれに加わった。この予期せぬ反撃によって、袁術軍は追撃の勢いをそがれ、劉家軍はかろうじて敵の侵入を食い止めることに成功したのである。


 この時、内城にたどり着いたのは太史慈と北郷、そして最後には背中に二本の矢を受けても殿の任を果たしぬいた廖化のみ。
 太史慈と北郷が指揮していた兵士は全滅し、各処に散っていた将兵もそのほとんどが敵の猛攻の前に命を落としていた。
 残存兵力を糾合すると、その数はわずか三十七。事実上、高家堰砦に詰めていた劉家軍五百は壊滅したのである。



 ただ、それでも。
 いまだ北郷一刀という人物が健在であるのは、間違いのない事実であった。




◆◆◆




「……驚きましたね。まさか、ここまで粘るとは」
 呆れとも嘲りともつかない、その言葉。その中にほんのわずか、驚愕の色が混ざっていることに于吉は自分自身で気がついていた。
 多少の誤算はあったにせよ、戦局はほぼ于吉の思い通りに推移し、そして外史の要となる者は完璧なまでの死地に入り込んだ――そのはずだった。
 傷つき毀たれた砦、篭るはわずか五百の兵。それを取り巻くは十余万もの大軍勢。勝敗は誰の目にも明らかで、攻撃を開始すれば半日と経たず砦の将兵は朱に染まって地に倒れ付すと思われた。


 だが現実を見れば、多くの将兵が倒れながらも、いまだ高家堰砦は健在であり、劉旗は翩翻と中華の空に在り続けている。
 それでも今日こそは、と于吉は考えていた。信じがたい勇戦を繰り広げている劉家軍であったが、人である以上限界は存在する。于吉の目に、その限界は今日と映ったのだが、その予測は外れた。あるいは、外されてしまった。
 于吉はどこか愉快そうに口元を手で隠しつつ、含んだ笑みをもらす。
「まさかあれほどの武を秘めていたとは――いえ、そういえば、あなたは元々左慈をてこずらせる程度には腕が立つのでしたね。あちらの世界での鍛練が、こちらの世界の経験とあわさってようやく開花した、そんなところですか。ふふ、時と所を心得ているあたり、さすがは我らが宿敵と言うべきですか」


 袁術軍が攻撃をはじめてすでに四日。
 現在の淮河流域の情勢を考えれば、四日や五日で戦況が劇的に変化する可能性は極めて少ない。
 淮南はほぼ袁術軍によって占領されている。これに対抗できるとすれば、淮北の支配を固めつつある曹操軍だけであろう。
 兵力だけを見れば、曹操軍は袁術軍に優る。しかし、淮河を越える舟の数に限りがある以上、全軍をもって渡河することは不可能であり、二万、三万と小出しに兵力を渡していくしかない。曹操ほどの将が、地の利のない淮南に向けて、兵力の逐次投入という愚を犯すとは考えにくく、おそらくこの後は淮河を境界線として、漢と仲の対峙が始まると多くの者たちは考えていた。
 今の段階で曹操軍が淮河を渡る可能性は少ない。ゆえに、劉家軍が文字通り命がけでつくりだした四日という時間も意味を為さない。そのはずであったのだが――


 于吉の目は、今なお砦に翻る劉の旗に向けられた。
「それに意味を持たせてしまうのが、あなたたちだということはわかっています。淮南に翻る劉備の旗、淮北に取り残された関羽、そしてその関羽に執心する曹操、ですか。まったく、ことのほか世界というものは厄介ですね。どれほど追い詰めようと、どこかに希望を残す」
 その言葉に応えるように、遠く広陵の方角から、伝令とおぼしき一体の人馬が急速に砦に接近してくる。そして――
『……于吉様』
 于吉の隣に、影の形をした何者かが姿をあらわず。一瞬前まで、確かに何もいなかったはずなのに。
 しかし于吉は驚く様子もなく、淡々と問いを発した。
「広陵が陥ちましたか」
『御意。未明、漢の旗を掲げた軍船が闇をついて急襲。略奪に狂奔していた守備兵は、ろくに抵抗もできずに制圧されました』
「数は」
『先陣はおおよそ五千。おそらく曹軍の最精鋭かと。後続も次々と広陵に入っており、すでに一万を越える軍勢にふくれあがっております』
「わかりました。引き続き、見張りをつとめなさい。おそらく劉備の側近たちが同道しているはず。あれらはほどなく動き出すでしょう。もっとも、広陵の治安を回復させるためにもそれなりの兵を割かねばなりませんから、こちらに向く兵力は多くても五千、精々三千といったところでしょう」
『承知いたしました』
 その声を最後に、影は姿を消し、于吉は再び一人となる。


「いかに一騎当千の将とはいえ、万に満たない数では何事もかないません。先ごろまで敵であった兵士を率いた身であってみればなおのこと。なにより、広陵からここまで、どれだけ急いだとしても半日はかかる――届きませんよ、救いの手は」
 広陵だけではない。于吉は自分の配下の方士を各地に散らし、情報を集めている。その正確性と伝達速度は斥候や伝令の比ではなく、方術を心得ない者がこれら方士を妨げることは不可能に等しい。
 情報の収集と分析において圧倒的な有利さを保つ于吉の――ひいては仲の軍容を動揺させうる勢力は存在しない。たとえ北郷らの奮戦が予想の外であったとしても、それは于吉が描いた戦絵図を乱すだけの力はなく。
 最終的な結末に変化はないことを知るゆえに、于吉の顔から笑みが消えることはなかった。


「さあ、終局です、北郷一刀」


 洪沢湖から吹き寄せる寒風が、于吉の前髪をそよがせ、あらわれた両の眼には、はっきりと愉悦の色が浮かんでいた。




◆◆◆ 




 おれは廖化に向かって肩をすくめた。
「終局だ――けどそれは、あくまでこの戦は、だ」
 おれの言葉に、馬上の廖化は何か言いたげな顔をするが、結局、開きかけた口は何の言葉も発さなかった。
 廖化の背にくくりつけられるように負われているのは太史慈である。その顔は傷から発する熱で紅く染まり、今も苦しげな吐息が漏れている。医に心得のある陳羣によって一応の手当ては受けていたが、打ち続いた激戦による怪我と疲労、ことに呂布によって射られた足の傷は深く、今の太史慈は戦うどころか歩くことさえ容易ではない状態であった。


 太史慈自身、そのことは承知していたのだろう。意識を手放す寸前、おれに対して指揮権を委ねる旨を告げ、そのことは近くにいた廖化も聞いていた。だからこそ、今もこうしておれの命令に従ってくれているのである。
 ――まあ、その顔はものすごく嫌そうであったが。
「ったく、大将も人がわりい。たとえ包囲を突破できたとしても、太史将軍が起きたら、おれが将軍に殺されかねませんぜ」
「そこはまあ、おれに命令されて無理やりに、とでも言っておいてくれ。なにせ今の指揮官はおれなわけで、元倹はもちろん、子義殿といえど従ってもらわないといけないからなあ」
「そう言って、はいそうですかと納得する将軍の姿が、想像できないんですがねえ。また大将にだまされたと大荒れになりやすぜ」
 あくまで懐疑的な廖化に向かって肩をすくめてみせる。反論の余地がなかったからだ。


 話をそらすためでもないが、おれは今度は人ではなく馬に話しかける。
「頼むぞ、月毛。お前は多分、この砦の劉家軍で一番元気なんだから、何としても包囲を抜けてくれよ」
 そういってたてがみを撫でると、今回の戦いで初の出番を得たおれの愛馬は、なにやら気遣わしげに小さくいななき、鼻面をおれに寄せてきた。元々穏やかな気性の馬で、聡明な性質であったが、その仕草は今の状況を本当に理解しているかのようで、おれは思わず真顔でもう一度「頼む」と頭を下げていた。




 この戦いの敗北はもう避けられない。それがおれの出した結論だった。はじめから勝ち目など万に一つもない戦いであり、この終局は迎えるべくして迎えたものである。
 しかし、それはあくまでこの戦においてのこと。今日の敗北は、明日の敗北を意味するものではない。ゆえに、おれは太史慈を外に逃がすことにしたのである。その護衛に廖化をつけたのは、単純に今の劉家軍の中でもっとも頼りになる人物だから、ということもあったし、同じ名を持つ人物が別の歴史でそうしたように、今後も長く劉家軍に尽くしてくれるだろうという期待があったからでもあった。
「……ったく、大将も強情ですな。おれじゃなく、大将が逃げたところでかまわんでしょうに。陳太守たちだって薦めてくれたじゃねえですか」
「今のおれは劉家軍の将。正義を掲げる劉旗を戴く身で逃げ出せるわけがないだろう。ここには陳太守や公祐殿(孫乾の字)、それに子供や老人までいるんだ」
「死んじまったら、正義もくそもないですぜ。命あっての物種だと、おれなんかは思いますがね」
「それもまた一つの見識。ただおれは――」
 決して退かぬと誓ったから。小さくそう呟くにとどめた。


「……まあ、これ以上は繰言ですわな。仰るとおり、全力で逃げ延びてみせまさあ」
「……頼む。すまないな、嫌な役割をおしつけてしまって」
 陥落する砦から二人を逃がす。これはあくまでおれ個人の勝手な判断だ。かりにうまく行ったとしても、目覚めた太史慈はおれを許すまい。悪くすれば、これが太史慈が劉家軍と袂を分かつ切っ掛けになってしまう可能性さえあるだろう。
 それでも、太史慈には生きていてもらわねば困るのだ。ここで太史慈を討たれでもしたら、王修や、太史慈の祖母君にあわせる顔がないという思いもある――それがたとえ冥府であっても。
 だが、それ以上におれ自身が思っていた。決して太史慈を死なせてはならないと、心から。陳羣でも、孫乾でも、あるいは今も内城で死の恐怖に震えている子供やお年寄りでもなく、太史慈を逃がそうとしている本当の理由は、ただそれだけであるのかもしれない。


 そうして、おれは月毛に跨った廖化と太史慈の元から歩み去った。
 敵の攻撃がいつ始まるかはわからない。戦況を考えれば、次の瞬間に敵の総攻撃がはじまっても不思議ではないのだ。
 数十名まで討ち減らされた劉家軍の兵士たちは最後の一戦に備えて準備の最中であった。
 ここからは見えないが、内城では陳羣らが火を放つ準備をしているところであろう。何のためにそんなことをするのかなど問うまでもない。広陵から逃げ延びた者たちにとって、再び袁術軍の嬲り者になるなど耐えられないであろうから。
 その事実と、そしてそれを止めることができない自分を顧みて、おれは知らず痛めている右の腕で剣の柄を握り締めていた。力を込めるたびに、肩から全身へ向かう痛みが一際強くなる。しかし、今のおれにとって、その痛みさえ激情をおさえるための要素に過ぎなかったのである。


 



[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十三章 北郷一刀(序) (三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/03/31 03:49


 昨日まで傍らにいた人が、今日はもういない。それも一人二人ではなく、数十人、数百人。河北の頃から顔見知りであった人も少なからずいた。だが、今、彼らはその屍を無残に野天に晒している。袁術軍の将兵の死屍は、それに数倍するかもしれない。いずれも埋葬する暇はなく、悼む時すらわずかしかなく。
 おれは劉の牙門旗の下で目を閉じ、両手で顔を覆う。この場に他の人間がいれば、おれが避けられない死に涙をこらえているように見えたかもしれない。
 それは半ば当たり、半ば外れている。おれは確かに胸奥からこみあげるものをこらえていたが、それは死への恐怖や、別離の悲しみ、あるいは肩の傷の苦しみとは別の感情に由来するものだった。
 この時、おれを苛んでいたのは、ただひとえに羞恥の感情だったのである。


「……一体どれだけ、玄徳様たちに甘えていたんだろうなあ」
 思わず声に出してしまう。つまるところ、そういうことだった。


 広陵を脱してから、もう幾日経ったことか。砦に篭り、呂布と戦い、その最中に高順と再会し、戦って、戦って、ついには十万をこえる大軍を一手に引き受ける羽目になり、それでもなお戦って。自らの手を血で染め、あるいは指揮をとって多くの敵を殺し、そして味方を殺された。
 傷つき、嘆き――もう何度目のことか、母さんの言葉が胸によみがえる。
 あの言葉。おれが背負うべき重みは、直接手にかけた相手に限った話ではない。この手で斬り捨てた相手はもちろん、劉家軍が討った袁術軍の将兵も、あるいは袁術軍によって討たれた劉家軍の将兵も、等しくおれが背負わねばならない重みであった。
 ただ、それは長史になったから、兵を指揮する身分になったから、だから背負わねばならないというものではない。指揮官ゆえの責務ではなく、戦い――殺し合いに関わった人間がわきまえるべき、それは当然の覚悟であったのだろう。少なくとも、おれはそう思うのだ。


 そして、おれは気付く。
 戦いたくない、死にたくないと言って戦場から身を遠ざけつつ、それでも劉家軍に協力することで自分の居場所を築いてきたこれまでの自身の行い。
 直接、手を下していないから、自分の手は血塗られていないのだと、疑うことなく信じていた自分の、無邪気なまでの愚かさに。


 直接、人を手にかけたわけではない。策を講じて、戦いの絵図面を描いたわけでもない。
 しかし、それでもおれは劉家軍に参加し、劉家軍の戦いに関与してきたのだ。
 それも、おれがやったことは雑用の一言でくくられるようなものではなかった。兵の士気を保ち、不満を鎮め、不安をなだめた。人を推挙したこともある。敵であった人物を味方に引き入れたこともある。時に他人の策に口を出したことさえあった。
 にも関わらず、おれは、自分は戦っていません、殺していませんと、劉家軍が流してきた敵味方の血に対し、頬かぶりをしてきた。
 敵を斬る痛みは関羽らに任せ、その死を背負う役割を玄徳様に押し付けて、まるで自分一人が無垢ででもあるかのように。



「顔から火が出るとはこういうことか」
 恥ずかしさと、情けなさと、申し訳なさと。戦っている間はあえて考えずにいた。廖化や兵士たちと話している時も。しかし、わずかとはいえ、こうして考える時間を得られた今、胸奥からあふれ出すように湧き上がってくるこの自責と羞恥の念は押さえようがなかった。
 このことに、関羽たちが気付いていなかったとは思えない。気付いて、それでなお見守ってくれていたのだろう。小沛から撤退する最中、関羽が口にした言葉からも、そのことは明らかだった。


 その優しさと、それを可能にする強さが、万言を費やすよりもはっきりと、関羽らの人としての器の大きさをおれに教えてくれた。
 無論、もとより歴史にその名を刻む英傑たちが稀有な人物であることは承知していたが、それを自覚しながら、無自覚にその背におぶさっていた事実が、おれのなけなしの自尊心を刺激してやまないのだ。
 そしてもう一つ、おれを打ちのめしたもの、それは――


「やっぱり、玄徳様は、あの劉玄徳なんだな」
 何を当たり前のことを、と聞く者がいたら呆れられたかもしれない。だが、これが今のおれの偽らざる本音だった。
 玄徳様の器量、その志は理解しているつもりだった。
 それは時に偽善と、夢想とそしられるほどの彼方を望む、高きの心。
 この乱世にあって、その思いを抱き、その言葉を口にし、そのために戦うことがどれだけ険しい道であるのかは考えるまでもないだろう。
 その一方で、玄徳様は、関羽らほどに英傑としての強さを身に付けていないように、おれには思えていた。玄徳様ご自身もそのことを知り、またみずからの志が今のままでは到底果たされないことを知るがゆえに、懸命に自身を高めるために日々努めておられるのだ、と。
 根拠地を持たない流浪の軍に、多くの人たちが身を託したのは、それを率いる者が玄徳様であればこそであるとおれは考えていたし、その考えは多分間違っていないだろう。


 間違っていたのは、玄徳様の器量を測ったつもりになっていたおれ自身。
 玄徳様は確かに未熟ではあるかもしれない。しかし、それすらおれにははるか高みであったのだ。
 ――いつか小沛の城で、人を殺した重みに潰されかけていたおれに、玄徳様はたとえ無理やりにでも食事と睡眠はとるように、とそう言った。身体をいつもどおりに保っておけば、いずれ心も戻ってくるから、と。
 あの時、玄徳様は何故ああも確信を持っていたのだろう。玄徳様が医療に心得を持っている話は聞いたことがない。
 であれば、答えは一つしかないだろう。
 玄徳様もまた、人の死を受け止めるために傷つき、嘆き、のたうちまわったことがあったのだ。それをおれよりも早く乗り越えていたからこそ、その対応を知っていたし、おれの様子に気がつくこともできたのだろう。
 自身で剣を振るわない玄徳様が、人の死を背負ったというのならば、それは劉家軍という、自身の志を果たすために立ち上げた軍が為した行いによるもの。
 すなわち――


「楼桑村で決起したその時から、ずっと……」
 玄徳様は背負い続けていたのだ。自身の志を、それに殉じた味方の将兵の命を、その途上で戦わねばならなかった敵の将兵の命さえも。
 この砦でのほんの短期間の戦いでさえ、おれの心身にかかる負担は筆舌に尽くし難い。
 玄徳様は、桃園の誓いから今日に到るまで、今、おれが感じている以上のものをずっと背負い、その上で語っていたのだ。



 誰もが笑って暮らせる世の中を創る。
 多くの人々が望み、しかしその多くが実現は不可能と首を振る、そんな儚い志を。



 その儚さを知り、その遠きを知りつつも、決して諦めることなく、走り続けていた玄徳様。
 おれは、そんな玄徳様に全てをおしつけて、自分は戦いたくないなどと言っていたのだ。その志の尊さを知ったような気になって、自分に出来ることであればと中途半端な妥協をして、懸命に自分一人傷つかないように立ち回った挙句……おれは玄徳様と笑って話していたのだッ!




 その無知が、その無恥が、その無様が、情けなくて、恥ずかしくて、おれは懸命に嗚咽をこらえねばならなかった。
 泣いているわけではない。泣いている暇などない。泣く資格すら、今のおれにはない。
 母さんは言っていた。
 決して退かぬと。決して屈さぬと。敵の咽喉笛に喰らいついてでも生き延びると。それだけの戦う理由があるのだと示しなさい、と。
 今のおれにとって、その理由を見出すのは、空に太陽を見出すと同じこと。
 だからこそ、皇天后土に吼えたのだ。
 だからこそ、この身は怖じていないのだ。
 肩の傷など、この胸を苛む焦燥に比すれば生ぬるい。


「さあ、いくぞ」
 声を高める必要はない。誰に宣言する必要もない。それはもうやってしまった。
 だから、後は行動で示す。



 ――劉旗を背負う今この時、玄徳様がこの場にいれば守ったであろう全てを、この北郷一刀が守り抜く。



◆◆◆



 月毛(つきげ)とはクリーム色の馬体を示す言葉である。
 その名を与えられた、言葉どおりの柔らかい色の毛を持つ馬は、無論、人の世の事情などわからない。
 彼ないし彼女にわかったのは、ようやく自分が働ける時が来たのだ、ということ。
 そして、主が自分に何かとても大切なものを託してくれたのだ、ということであった。
 『頼む』と頭を下げた主の姿が、そのことを教えてくれたのだ。懸命に自分を乗りこなそうと努め、きめこまやかに世話をしてくれていた主の願いである。ぶるりと大きく身体を震わせながら、月毛は思った。
 ご主人様のために頑張ろう、と。


 そうして、飛ぶように野を駆けながら
 今、自分が乗せているのが主でないことだけが、少し残念だった



◆◆◆



 曹操軍、淮河を渡って広陵を占領す。
 急使によってその事実がもたらされたとき、李豊は小さく舌打ちした。ただ、それはこの後の展開を予期したわけではなく、広陵を陥落させた自分の軍功に、最後の最後で傷がついたことへの不満を示したに過ぎない。
 曹操軍の兵力は精々一万程度。その程度の軍勢であれば、高家堰砦を陥とした後、全軍で広陵に向かえば、すぐにも奪還することは出来るだろうと考えたからであった。
 逆に、この曹操の動きによって、諸将が高家堰砦から兵を退かせた分、李豊にとっては吉報とさえ言えたかもしれない。この戦の後に曹操軍との戦いが待つと知った梁剛らは、これ以上の損害を嫌って、李豊に攻撃を委ねたからである。


 先の戦闘では不覚をとったが、それでも敵の将帥に深傷を負わせることはできた。将は傷つき、兵力のほとんどを失った敵には、もう抗戦する力はあるまい。
 立て篭もった内城はろくな備えもなく、あと一押しで、あの忌々しい連中を皆殺しにすることもかなうと、そう考えた。
「火矢を射掛けて焼き殺してあげるのもいいですが、それでは面白みがないですね。于吉殿の言葉もある。確実に殺すならば、やはりこの手で首を刎ねてやるのが一番でしょう」
 逃げ込んだ連中が、弓箭兵の待ち構える外に突出してくるとも思えず、首を刎ねるには内城に突入するしかない。
 呂布たちを焚きつけようかと考えないでもなかったが、すでに抗戦する力などない敵である。李豊は先刻の失態を糊塗する意味もかねて、麾下の直属の兵士たちに攻撃を命じることにした。


 これで終わりだと、そう李豊が内心でほくそえんだ時。
 一頭の騎馬が突出してきた――宙を裂く飛矢の如くに。


◆◆◆



 それは袁術軍にとって慮外の出来事であった。


 もはや戦う力もないと考えていた砦から飛び出してきた一頭の騎馬。ただ、それが攻撃のためであれ、逃走のためであれ、一頭で何ができるわけもなく、たちまち矢の雨を浴びて、人馬共にハリネズミの如き肉塊と化すはずだった。
 しかし。
「速い……」
 高順は、思わず感嘆の息を吐く。月毛の馬は、人を二人も乗せているとは思えないほどの驚異的な脚力をもって、飛び交う矢に影すら射抜かせぬ。中華随一とも言われる赤兎馬を間近で見てきた高順をして、その脚力は驚嘆に値した。
 あるいは赤兎馬に迫るか。そんなことを高順が考えている間にも、件の騎馬は李豊軍の動きの鈍さを嘲笑うように大きく弧を描きつつ、弓箭兵の注意をひきつける。それと悟った兵士たちは意地になって矢を射掛けるが、それでも馬の脚はいささかも衰えを見せず、人馬一体と化して、袁術軍の陣営を切り裂いていく。


 わずか数名の敵に、将を奪回される醜態をさらした李豊にとって、たかが一騎に陣容を崩されるなど許せるはずはない。高順はそう考え、事実、李豊は度重なる失態に歯軋りしながら、敵の射殺を命じた。
 どれほど優れた脚力を持つ馬であろうと、生物である以上限界は存在する。ただ一矢でも身体に命中してしまえば、それで終わりだろう。そのようなことは、あの騎手も、また内城の中にいる北郷たちも承知しているだろうに、何のためにこんなことをと考えた高順は、一つの可能性に思い至り、息をのむ。


 すると、あたかも高順の考えに呼応するように、新たな喊声が高家堰砦に轟き渡る。
 内城から、喊声と共に劉家軍の将兵が突出してきたのだ。
 ざっと数えただけでも、総数は三十たらず。砦の内外に布陣している兵とは比べるべくもない小数の兵は、しかし、恐れなど微塵も見せず、猟犬のごとく猛然と李豊の陣に襲い掛かっていく。
 その軍装は今日までの戦いのために汚れ、汗血で染まった顔はまるで野盗のようであったけれど。
 爛々と輝く眼差しを見れば、彼らの戦意がいまだ尽きていないことは明瞭で、わずか三十余名の小さな軍の突進は、鋭鋒となりて李豊の陣を食い破る。
 その光景を見て、高順の脳裏には死兵という言葉が浮かんだ。


 知らず、口から声がもれる。
「どうして……」
 戦の先にある死を見据え、なおそれに臨むだけの気概をもって戦う者たちに、勝利に奢った者たちが敵う道理がどこにあろう。高順は、劉家軍の、おそらくは最後の力を振り絞った猛攻に押されまくる李豊の姿を不思議には思わなかった。
 だから、高順が不思議に思ったのは、そこではなく――
「どうして……」
 その彼らと敵対する側に身を置く、今の自分たちの姿。
 それは自分たちの決断の結果。于吉の存在があったとはいえ、それでも高順たちの前には選択肢があったはずだった。民を殺す側ではなく、守る側の陣営に身を投じている可能性があったはずだった。
 それを選ぶことができなかったのは、どうしてなのだろう。
 あの砦の人たちと自分たちでは何が違うのだろう。
 高順は半ば呆然としながら、そんなことを考えていた。



◆◆◆



 洪沢湖の河畔。
 大きな焦燥と、小さな諦めを抱えた張紘の耳にも、その喊声は届いた。
 そして、傍らに立つ人の小さな感嘆の声も。
「自棄になった声じゃない。まだ、士気を保っているんだ、この戦況で……恐ろしい人だね、太史子義。それとも、北郷一刀の方なのかな」
「子敬姉様、あの……」
 請うような張紘の声に、魯粛は小さく首を横に振った。
「確かに信じられない戦いぶりだけど――結局は、ただそれだけ。この戦況をひっくり返すには、到底足らない。私たちが動いたところで、それは同じだよ。あと二手、ううん、せめてあと一手だけでもあれば、なんとかなったかもしれないけれど……」


 正直なところ、魯粛は砦が今日まで持ちこたえるとは考えていなかった。それはつまり、あの砦に篭る将兵は、魯粛の思惑を越える力を持っているということ。あるいは、彼らの長たる劉備の薫陶が、それを可能としたのか。
 そのいずれにせよ、砦にいる太史慈と北郷に対して、そして彼女らを従える劉備に対して、魯粛は深い興味を抱いた。見殺しにするには、あまりに惜しい。


 だが、魯粛の手はそこまで長くはない。太史慈たちは惜しいが、しかし、自分たちの命を賭けるほどの情誼はないとの考えは揺らがず。
 結局、この時、魯粛は動かなかった。



◆◆◆



 広陵から発した漢の軍旗は、征矢となって淮南の地を駆ける。その先頭に立って、馬を駆るは黒髪も美しい女将軍である。
「急げ、急げ、急げッ!」
 関羽、字を雲長。今や河北のみならず、中華全土に勇名を轟かせつつある劉家軍、一の将。
 常は凛とした面持ちを崩さぬ美髪公であったが、今、軍の先頭を駆ける姿は冷静さとは対極にあるもののように思われた。


「まあ冷静でいられぬのは当然か」
 関羽の傍らを、ほとんど遅れずに馬を駆けさせながら、趙雲はひとりごちる。
 漢の軍といえど、その兵は曹操のもの。つい先ごろまで、命がけで戦っていた相手に膝を屈し、その手勢の中に身を置いているのだ。関羽ほど豪胆な者であっても、平静ではいられまい。
 もし今、関羽に問いを向けたら、そんな答えが返ってくるに違いないと趙雲は思う。
 もっとも、それは表向きの理由に過ぎない。関羽が常になく、ほとんど狼狽しながら馬を駆けさせている理由はもっと別のところにあるものと趙雲は睨んでいた。
 それは――


「えーい、遅いのだ遅いのだおーそーいーのーだーッ! 愛紗、子竜、鈴々、自分で走って先に行くのだッ!」
 そう言って、本当に馬から降りようとする張飛を、趙雲は真面目な顔で制する。
「待て待て、確かに益徳なら馬より速く走りかねんが、ここから高家堰まではかなりの距離があるぞ。着いたは良いが疲れ果てて戦えぬなど、笑い話にもならん」
「そんなことを言ってたら、おにーちゃんが死んじゃうのだ!」
 その張飛の叫びに鋭い反応が返る。趙雲ではなく、これまでひたすら馬を駆けさせていた関羽の口から。
「鈴々! 縁起でもないことを言うなッ!」
 頭ごなしに怒鳴られ、張飛の頬が膨れる。元々、一時的とはいえ曹操に屈する道を選んだことへの不満もわだかまっていたのであろう。張飛が何か言い返そうと口を開きかけたとき、趙雲が機先を制して口を開いた。
「雲長も、益徳も落ち着け。高家堰には十万を越える兵と、あの飛将軍がいると聞く。一人で行っても、疲れ果てた状態で行っても勝ち目はないぞ。一刀と子義を助けたければなおのこと、冷静になれ」
 その言葉はまぎれもない正論。関羽と張飛が口を噤んだのは、しかし、その内容もさることながら、そこに込められた趙雲の語気を感じ取ったからであった。
 三人の中ではもっとも冷静に見える趙雲であったが、その瞳には炎が躍るような激情がちらついていた。




 郭嘉、程昱らの周到な準備によって奇襲を敢行した曹操軍は、落城後数日を経過してなお略奪の炎が消えない広陵城を急襲する。
 漢朝に従う、という形で曹操軍に参じていた関羽らもこれに加わり、曹操軍は瞬く間に袁術軍を駆逐した。曹操軍の軍紀は厳正であり、袁術軍などとは比較にならぬ。広陵の城民は予期せぬ曹操軍の到来にはじめは怯え、その後、曹操軍の軍紀の厳しさを知るや、誰からともなく歓呼の声があがり、それは瞬く間に広陵城を包み込んだのである。
   

 曹操軍および関羽らが高家堰砦を巡る一連の攻防の詳細を知ったのはこの時だ。
 広陵の民、逃げ遅れた袁術軍の兵、そして捕虜となっていた陳羣麾下の城兵たち。彼らの口から砦に劉備がいないことも、代わりに誰が立て篭もり、どのように今日まで持ちこたえてきたのかも聞くことができたのである。
 そして、砦を救うためには、もはや一刻の猶予もないことを知った関羽たちは、郭嘉と程昱に了解を取るや、休息もとらずに洪沢湖へと馬を駆けさせた。そして、その後ろには、曹操軍の精鋭二千が続いたのである。

 
 拙速も甚だしい行軍。そして、曹操軍にとって、高家堰砦の安否はさほど重要な関心事ではないことを考えれば、これだけの兵を預けられたのは僥倖といってよかった。
 無論これは郭嘉、程昱の二軍師による差配であり、さらにいえば関羽に執心する曹操の許可であったのだが、その思惑はともかく、兵を貸与してくれたことに関しては関羽は心から曹操に感謝していた。
 この兵は絶対に必要だったからだ。高家堰砦を守るために。そして、そしてその劉旗の下で苦闘を続けているであろう者たちを救うために。


 関羽が本当の意味で許昌へ赴くことを決意したのは、あるいはこの時であったかもしれない。
 無論、約定をたがえるつもりはなかったにせよ、心底から曹操の申し出に肯ったわけではなかった。しかし、ここまで借りをつくってしまっては、それを返すまでの間、曹操の下で青竜刀を振るうことも致し方なしと関羽は心密かに覚悟を定める。
 そして――


「……子義、無事でいてくれよ」
 そんな関羽の呟きに、両脇から声がかかる。
「何もこんな時まで意地を張ることもあるまいに」
「にゃはは、愛紗、素直におにーちゃんも心配だって言えばいいのに」
「え、えーい、うるさいッ! しゃべっている暇があるなら、少しでも馬脚を速めろ!」
 そう言うや、関羽はみずからその言葉を実践し、さらに速度を上げた。追随する趙雲と張飛、そして遅れてはならじと駆ける二千の騎馬兵。
 淮南の原野は、数千の馬蹄の轟きに、その身を震わせるのであった。



◆◆◆◆



 定められた終局に向かって動き続ける戦況。
 それを覆さんと望む者たちは多けれど。
 その手を差し伸べる者は多けれど。
 張り巡らされた策謀は、それら全てを遠ざける。
 ゆえに、外史はここに終焉を



 ………………?



◆◆◆◆ 
 


 視界に映る、地に倒れふした劉家軍の兵士たちの姿。
 その周囲には、それに倍する袁術軍の兵士の死屍がある。絶望的というのも憚られる勝敗の定まったこの戦で、最後の最後まで戦い抜いた兵(つわもの)たちの神武の証。
 そして。
 今、おれを取り囲むのは、地に倒れた兵士たちに数倍する無傷の敵兵である。つまりはそういうこと。どれだけ抗おうとも、どれだけ奮戦しようとも、変えられないものは変えられないのだという、それは厳然たる証左であった。


 彼らを統べる女将軍が、忌々しげにはき捨てる。  
「……よくも、ここまで悪あがきができるものです。付き合わされる配下にとっては、たまったものではないでしょうね」
 正直、今のおれは立っているにも辛い身体だった。
 先に呂布によって射抜かれた右肩の痛みは、引くどころかますます強くなり、熱をもって苛んでくる。利き腕が使えない以上、剣を振るうにも限界がある。事実、この攻撃で、おれはただの一人も敵兵を斬ることができなかった。おれに出来たのは、ただ陣頭に身を晒して味方の士気を盛り上げ、指示を下すだけだったのである。
 口を開くのも億劫であったおれだが、しかしそれでも、その李豊の言葉は聞き捨てならなかった。


「……劉家軍の誇り、たとえ一兵卒であっても、貴様ごときに計れるものじゃないぞ。子義が言っていただろう。誇りを知らぬ貴様と話す言葉は持っていない、と」
「ふん、そのように無礼な口を聞けばどうなるのかも、あの小娘に教わったはずですが」
 言いながら、李豊はみずからの剣の切っ先を、おれの右の腿に突き立てる。
 咄嗟にあがりかけた悲鳴を、おれは奥歯をかみ締めることで堪えきる。たわむれるように李豊が剣先を揺らす都度、激甚な苦痛が全身を貫くが、おれは意地になって、その痛みに耐え、悲鳴を押し殺す。
 そうして、崩れ落ちそうになる身体を懸命に支えていると、なおも李豊の嘲弄は続いた。


「誇り、誇りと小うるさい者たちですね。その誇りとやらのために、勝算のない戦いに臨み、味方を全滅させた愚か者が、何かを成し遂げたかのような顔をすることこそ笑止というもの。あなたたちが素直に地に頭をこすりつけて慈悲を請えば、少なくとも兵士たちは助かったかもしれぬものを」
 そういって、李豊は周囲を見渡し、口元を歪める。
「これだけの血を流し、死を生んでおいてなお戦況はかわらない。広陵の民の生き残りも、あなたたちの無益な抗戦のために死を免れなくなりました。この抗戦に何の意味がありましたか? 何もありませんよ。つまりは、犬死です。そして、そうさせたのはあなたです。誇りとは、無用な戦を引き起こし、配下の将兵を犬死させるものだと、あなたは言っているに等しい。いいかげんに、その無様を自覚したらいかが?」


 ――知らず。おれの口から笑い声が漏れていた。 
 それを聞きとがめ、李豊が眉をしかめる。
「何がおかしいのです?」
「いや……はは、無様を自覚する、か。言っていることは見当違いだけど、その言葉だけは正しいな」
「何を、言っているのです?」
「あんたには関わりないことだ。ついでに言えば、一生わからないことでもあるかな。無様を自覚したからこそ、おれは戦ったんだ。誇りという言葉が気に食わなければ、最後の最後に勝つためにと言い換えよう」
 そのおれの言葉を聞き、李豊は舌打ちでもしそうな顔で吐き捨てる。
「結局、戦況は覆せないという厳然たる事実さえ認められないのですか。もはや狂っているのですね」
「――この砦で、戦い抜いた事実は覆らない」 
 李豊の言葉を無視し、おれは最後の意地とばかりに口を開く。
「勝ち目などない戦いにあって、なお偽帝の軍に抗い、民のために戦い抜いた。たとえここで、おれたちが死のうとも、その事実は中華全土に知れ渡り、それが計り知れない価値を持つ。玄徳様が、関将軍らが生きてあるかぎり、その評価を背景として、劉家軍はいつか必ず貴様らに勝利する。みな、そのことを信じているからこそ、最後まで戦い抜くことが出来たんだ」


 それは、最悪の結果を糊塗しているだけなのかもしれない。無論、おれも太史慈も、勝つことを目的として剣を握っていた。できうれば、広陵の人たちは、陳太守たちは逃がしてあげたかった。それら全てが叶わなかったから、最後に負け惜しみを口にしているだけなのかもしれない。
 それでも、それが負け惜しみで終わらないことを信じている。きっと、倒れていった兵士たちも、みな、おれと同じ気持ちだったのだろう。不思議と、そう信じることが出来た。


 あるいは、これが生涯最後の言葉になるか。
 疲労と苦痛の果て、ぼんやりと揺らぐ視界に李豊の剣が煌く。その輝きを他人事のように眺めながら、おれは腹の底から声を絞り出し、それを解き放った。
「もう一度、言う。貴様ごとき下郎が、その豆粒ほどの視界で、おれたちを測れるものか! 身の程を知れッ!」



 ――視界を染める白銀色の輝き。迫り来る李豊の剣刃が、おれの意識に残った最後の光景だった。









◆◆◆◆



 ゆえに、外史はここに終焉を



 ………………?



 地軸を揺るがし、疾駆するは騎馬の軍。
 その数、万に達するか。
 張り巡らされた策謀を越えるための、最後の一手。
 なれば、終焉はいまだ到らず。
 外史はなおも紡がれよう。



◆◆◆◆





 高家堰砦外周。
 はじめにそれに気付いたのは、張勲麾下の兵士の一人であった。仲間内でも神経質な奴だと評されていたその兵士は、足元から響く振動にいち早く気付いた。何かが――途方もなく数多くの何かが地面を強く蹴りつける振動の正体に、しかし、その兵士は気付かない。淮南の寒村出身であった兵士は知らなかったのだ。数千の騎馬が地を駆け、疾るその様を。


 時と共に、振動は強く、大きくなっていく。その兵士ほど聡くない者たちも得体の知れない揺れに気付き、怪訝そうに顔を見合わせる。否、揺れだけでなく、何処からか鳴動するような音までが響いてくるではないか。
 淮南にも騎兵がいないわけではない。兵の誰かが呟いた。
「随分な数の騎兵みたいだが、どこの軍だ?」
 曹操軍が広陵に達したという情報は、すでに通達されていた。だが、張勲の軍勢は高家堰砦の南に位置し、広陵との間には呂布と李豊の軍勢が布陣している。両軍から急使も来ておらず、また時間を見ても、曹操軍が襲来したとは考えられない。であれば、味方の軍が近づいているのだろう。
 その兵士が、そんな推測を口にし、周囲の動揺を鎮めようとした時。


 一本の矢が宙をはしり。
「――え?」
 兵士の首筋を、正確に射抜いていた。


 声もなく崩れ落ちるその兵士。周囲の兵士たちは咄嗟に声が出なかった。これが呂布や、あるいは李豊の軍であれば、ここまで呆然とすることはなかったであろう。良かれあしかれ、戦っているという自覚がある軍と違い、張勲の兵士たちは、戦場にありながら、自分たちが安全な場所にいるのだという油断があった。
 その油断を衝かれ、兵士はおろか指揮官たちまでが動揺する。そして、その動揺に追い討ちをかけるようにさらに幾本もの矢が飛来し、そのことごとくが正確に将兵の身体に突き立っていった。
 いや、幾本どころではない。降り注ぐ矢の雨は、今や幾十、幾百に達し、あるいは千をすら越えたかもしれない。にも関わらず、その命中率はほとんどかわらなかった。ただそれだけで、相対する敵の錬度を知ることが出来たであろう。


 今や馬蹄の轟きはすべての将兵の耳と身体を揺らし、飛来する矢は動揺を混乱へとかえ、混乱は加速度的に拡がっていく。迫り来る騎兵が敵であることは誰の目にも明らかで、指揮官たちは怒号と共に応戦を指示していく。
 しかし、遅い。
 迎撃の指示を下しても、それに従うべき兵士は混乱して咄嗟に陣を組むことも出来ない有様であった。だが、かりに素早く陣を整えたとしても、この敵の鋭鋒を凌ぐことは不可能であったろう。


 殺到する騎兵集団。その先頭を駆けるは、鮮やかな金色の髪を一つに束ね、それを風にたなびかせる猛き将。
 その旗印は――『曹』
「馬鹿な、何故ここに曹操の軍がいるッ?!」


 驚き慌てる袁術軍の中央に、黄金色の髪の将は高らかに名乗りをあげ、突っ込んでいく。
「我が姓は曹、名は仁、字は子孝。偽帝に従いし下郎ども、その身命をもって叛逆の罪を償うがいいッ!」


 そして、曹仁のすぐ後に、同じ黄金色の髪の将が続く。こちらは曹仁と異なり、髪を結えることなく風になびかせるままにしていた。
「同じく曹洪、字を子廉。曹家が旗、ひとたび戦場に翻る時、何を以っても敵すべからず。道を開けなさい!」




 曹家の柱石として知られる二将の突然の襲撃に、この方面の袁術軍はたちまちのうちに壊乱の態を見せたかに思われた。
 しかし、錐をもって薄紙を突き破るごとき容易さで張勲の陣を打ち破るかに見えた曹操軍であったが、曹軍襲撃の報告を受けた張勲は、ただちに麾下の将兵を掌握すると、五万の軍勢をもって曹操軍を重囲に置くために動き出す。
 この包囲が完成してしまえば、騎馬の利である機動力を殺がれ、四方から数に任せて押しつぶされてしまうだろう。曹仁と曹洪はそう判断すると、すぐに部隊を分けて包囲をきり散らしにかかった。
 一方の張勲は、当然、そうはさせじと軍を展開させようとする。
 そうして、張勲と曹仁らが鎬を削っている最中。
 曹仁らが現われた場所からわずかに離れた地点から、突如曹操軍の一隊が躍り出るや、一路、高家堰砦へ向けて突き進んだ。その数はわずか三百に過ぎなかったが、その部隊が事実上曹操軍の最精鋭であることを、間もなく袁術軍は知ることになる。


 率いる者の名は曹純、字を子和。
 その麾下には許緒、字を仲康。
 そして、二人が率いる部隊の名を『虎豹騎』といった。








◆◆◆








 時を数日さかのぼる。



 淮河下流域において、主君である曹操の許可を得ずに渡河を果たした曹純は、その秀麗な顔に戸惑いを浮かべつつ、姉である曹仁に幾度目かの問いを投げかけていた。
「姉上、よろしかったのですか。孟徳様の許可を得ずに渡河するなどと」
 すると、曹仁は呆れたような眼差しを向けてくる。
「子和、しつこいぞ。母者(曹凛)の命の恩人を救いたいと言ったのはおまえだろうに」
「たしかに、それはそうなのですが。何も騎兵すべてを渡すことはないのでは……」
 曹純としては、自身と直属の部隊のみでの独立行動を許してもらえれば、と思って口にしたことであったから、万に及ぶ騎兵をすべて渡河させてしまった曹仁らの決断に対し、なかなか戸惑いを消せなかった。
 すると、それまで黙っていた曹洪が小さくかぶりを振って口をはさむ。
「聞けば、その方は何万もの軍に囲まれた砦におられるとか。子和さんの虎豹騎は確かに精鋭ですが、数百の軍で、数万の軍が取り囲む砦を救援できるとお思いですか?」
「それは、確かに難しいでしょうが、時間を稼ぐ程度のことであれば可能でしょう。どのみち、偽帝の非道を聞くかぎり、孟徳様が淮南に討って出られることは明らかですし、それまでの間、耐え凌げば」
 ただ一つ、自分はともかく、部下たちまで背命の罪におとしてしまうことが気がかりであったが、それは自身の命にかけても寛恕を請うつもりであった。もし、どうしても曹操が部下まで罪に問うというのであれば、曹凛にとりなしを頼むという手を用いるつもりの曹純だった。


「数は力だ。そうそうお前の思うとおりに戦が進むものか。それに、自分の恩義にばかり目がいっているようだが、母者を助けてもらった恩があるのは私も同様。くわえて、偽帝の所業には我慢がならん。姉者(曹操)の許可なく、とお前は言ったが、戦場にあって、時に将は主君の命に背く場合もあるのは承知していよう」
「そのとおりです。もし姉様がどうしても私たちを許せないというのであれば、その時は共に罪に服しましょう。多分、そんなことにはならないでしょうけれど」
 曹仁と曹洪のかわるがわるの言葉であったが、なお曹純はためらいを消せなかった。
 それでも、ここでためらっていては機を逸するという確信があるのも、また確かであった。


 女と見まがう曹純の顔から憂いが消えたことを悟り、曹仁は話題を転じた。
「で、子廉。偽帝の放った斥候に、我らの渡河のこと、掴まれてはいないだろうな」
「はい。念入りに潰しておきました。斥候であれ諜者であれ、私たちの動きを偽帝に知らせることは出来ません」
 兵の指揮はともかく、諜報にかけては曹仁も曹純も、曹洪には及ばない。その曹洪が自信をもって断言している以上、それを信じるだけである。
 曹仁は頷いて、出発を口にした。
「ならば良し。ただちに出るぞ」
「はい」
「承知しました」
 かくて、曹操軍の別働隊は、淮北に鮑信率いる九万の軍勢を残し、一万の騎兵を渡河させて袁術軍の側面を衝くべく移動を開始する。
 それを知らせるべき斥候は、ことごとく曹洪に排除され、その動きを知る者は袁術軍には誰一人としていない。
 ――そのはずであった。




◆◆



 ――そのはずであったのだが。
「ふん、さすがに曹子廉といえど、方士の存在までは掴めんか」
 その人物は、曹操軍を見下ろす小高い丘の上にいた。
 眼下に騎兵の大軍を見やりながら、白装束の方士は愉快そうに笑う。
 于吉が耳目の代わりに各地に散らした方士の一人である。
 この場所にも曹洪の配下は来ており、それを力づくで片付けることは容易かった。しかし、配下が帰って来ないとわかれば、曹洪に不審に思われるであろうと考え、あえて手出しせずに見逃したのである。


 結果として、その判断は功を奏した。
 この曹操軍の動きを于吉に知らせれば、一万の騎兵といえど、地の利を得ずに袋の鼠となることは明らかであろう。
「所詮は泡沫の命、精々苦しんで死んでいけ。その様、ゆっくりと見物させてもらおう。その程度の楽しみがなければ、このようなこと、やっていられるものかよ」
 忌々しげに吐き捨てるや、その方士は何かの印を結びはじめた。おそらくは于吉と連絡をとるためのものであろう。
 そうして、その印が完成しようとした、その時。
 



 不意に、方士の背後で声がした。
「……まったく同感だ。こんな面倒なことをやっていられるか、という点に関してだけはな」
「なッ?!」
 自らが背後をとられるという有り得ざる状況に、思わず方士は声を高め、後ろを振り向こうとする。
 しかし、勝敗というものがあるならば、それは背後を取られた時点ですでに決まっていた。
 頚骨を蹴り砕くような重い一撃を首筋に受けた方士は、声もなく地面に崩れ落ちる。意識を失う寸前、方士の目には、襲撃者の額に奇妙な印が映し出されていた。


 瞬きのうちに方士を制した若者は、そちらには見向きもせず、眼下の曹操軍を冷たい表情で見下ろす。
 その顔を見れば、若者が別に曹操軍のために行動したのではないことは瞭然としていた。
 すぐにそれにも飽きたのだろう。若者は踵を返すと、その場から姿を消してしまう。
 それはこの場から立ち去ったという意味ではなく。
 文字通りの意味で、宙に溶けるように姿が消えていったのだ。
 そうして、完全に姿が消える寸前、若者の口が小さく開かれ、短い言葉が発された。



「始まりの終わりか、終わりの始まりか。いずれにせよ、後は貴様次第だ……」





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十三章 北郷一刀(序) (四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/09 00:37

 振り下ろされた刃は陽光を映して鈍く煌き、頸部を断ち切らんと唸りをあげる。
 相手はすでに意識を失ったか、逃げることもできずにただ立ったまま。
 数瞬後に剣を通して伝わるであろう肉を裂き、骨を砕く感触を確信し、李豊の口元が大きくつりあがる。


 しかし、次の瞬間、その場に響いたのは、肉を断ち切る湿った音ではなく、斬り離された首が地面に落ちる柔らかい音でもなく。
 撃ち合わされた鋼と鋼、その硬質の激突音であった。


 己が剣を阻んだのは、長大な戟の柄。それを知った李豊は、むしろ静かに問いを放つ。
「――どういうつもりです、小娘」
 だが、戟の持ち主はその問いに答えようとはせず、ただ無言で得物を構えながら、李豊の出方を窺うのみ。
 自然、李豊の口が再び問いの形に開かれる。
「もう一度問います。どういうつもりです。己が何をしでかしているか、わかっているのですか――高伯礼」 


 名を呼ばれても、高順の口は開かない。
 その眼差しは李豊の剣と己の戟が激突した瞬間こそ、かすかに揺れていたが、耳をつんざくようなその音が、かえって躊躇いを振り払ったのであろう。
 今、その眼差しは微動だにせず、鋭く友軍の将に向けられていた。



◆◆



 始まりというものがあるのなら、それはありふれたものだったのだろう。
 河内郡、すなわち中華帝国の要たる中原に生を受けた高順が、兵士として徴用され、郷里を離れることになったのは、朝廷より発した炎が燎原の大火となって大陸に拡がっていく寸前のことであった。
 とはいえ、はじめから女性である高順が徴兵されたわけではない。この時、洛陽を支配下に置いた董卓軍は、近づく諸侯との戦闘に備え、積極的に軍備を拡張させており、その徴兵帳の中に、年若い高順の弟の名があったのである。


 高家の子は高順と弟の二人のみ。両親は晩年になって授かった弟を溺愛しており、この命令を聞いた途端、顔どころか全身を蒼白にして慄いた。そして、これは高順も同様であった。
 弟はようやく十三になったばかり。病弱というわけではなかったが、膂力も武芸も際立ったものは何一つ持っていない、いわばごく普通の子供で、将兵が目を血走らせ、武器を持って暴れまわる戦場に出たところで、何一つできずに殺されるであろうことは明らかであったからだ。
 無論、それを理由にして命令を拒絶する自由などあるはずもない。弟自身は顔を青ざめさせながらも、この命令から逃げれば家族に降りかかるであろう苦難を察しており、覚悟を定めた様子であったが、高順は老いた両親の悲嘆を目の当たりにし、一つの決断を下す。
 弟の代わりに自身が兵士となる、という決断を。


 数日、高家では昼夜を問わず話し合いがもたれた。両親にしたところで、弟を溺愛していても、姉である高順を疎んじていたわけではない。ましてや弟より年嵩とはいえ、高順は女性の身である。親にしてみれば、娘を戦場に送り出すことなど肯えるはずがなかった。
 しかし、結局のところ、誰かが行かねばならないのである。高順はそう両親を説得し、弟にも諭して、自身の身体を甲冑で包んだ。
 これが平時の徴兵であれば、弟の代わりに姉を、などというごまかしはきかなかったかもしれない。しかし、兵力の増強を急ぐ董卓軍は、このとき拙速を貴んでいたようで、一家に定められた人数を出すことさえできれば、細部まで問い詰められるようなことはなかったのである。


 そうして始まった高順の軍歴。
 兵士として参加した諸侯連合との戦。呂布、陳宮との出会い。猛火に晒された洛陽での劉備、北郷らとの邂逅。呂布たちとの再会。兌州を巡る曹操軍との激闘。敗北と流浪。その末におとずれた転機。
 それは、高順が生きてきたそれまでの十数年を凝縮しても及ばないほどの体験の連続であった。故郷にいれば決して味わうことがなかったであろうそれらを経て、高順は兵として、将として、いつか大きな成長を遂げていた。
 呂布に師事して武芸を磨きつつ、将に抜擢されてからは武芸ばかりでは駄目だと陳宮から軍略を教えてもらいもした。その先に明確な何かを思い描いていたわけではないにせよ、努力し続けることが恩人に報いることにつながり、やがて自身が報われる日が来るのだと――疑うことなく高順は信じていたのである。


 だが、時代の乱流はそんなささやかな願いを押し流し、否応なく苛烈な現実を突きつける。
 漢朝への叛逆、孫家の粛清、淮南の劫略。
 仲帝の命じるままに高順は戦い続け、呂布らの教導と経験から培った実力はそれに相応しい成果をもたらした。
 陥陣営――陥とさざる敵陣なしと呼ばれるほどに。
 だが、その武名は誰に何をもたらしたのだろう。それを思うと、高順は胸の奥に鈍い痛みを覚える。
 血と謀略をもって築かれていく仲の国歩。武の面でそれを担ってきた呂布の武名は血に塗れ、飛将の名はいまや恐怖と嫌悪をもって語られるようになっている。その傍らで戟を振るう高順の名もまた同様。
 戦の都度、告死兵の特徴である白衣白甲を緋色に染める自分の姿は、郷里の両親や弟の目にどのように映るのだろう。寝られぬ夜にそんなことを考え、一人、身体を震わせたこともある。


 こんなことのために戦ってきたわけではない。強く、強くそう思う。
 しかし、では何のために戦ってきたのかと自問したある日。
 高順はすぐに答えを見つけ出せない自分に気付いたのである。


 高順がようやく見つけた答えは呂布と陳宮への恩義。陳宮が望み、呂布が選んだからこそ、高順は仲に身を投じることを決めた。于吉の言葉があったにせよ、仲に仕えることへの不安と不審を押さえ込んだのは恩人たちの意に沿い、その願いを果たさんがためである。それゆえ、兌州から落ち延びる際、徐州小沛という選択肢を諦めたのだ。
 だけど、それは本当に正しかったのだろうか。
 陳宮の策と呂布の決断に異を唱えたいわけではない。二人への恩義を理由として、自分が最善と信じる道を諦めた、そのことの是非を、高順は己に問う。
 結果として仲に仕える道はかわらなかったかもしれない。それでもあの時、自分の主張をきちんと述べておけば。
 その後の仲の国歩を見るにつけ、その麾下にいることの不利を感じながらも、恩義を理由として動かなかった。自分が何かを口にすれば、居場所を奪われると感じている陳宮をさらに追い詰めることになるのだから、と心中で呟きながら。しかし、それは本当に陳宮の心情を思いやっていたから、ただそれだけだったのか。


 ――自分はもしかしたら、すべての責任を二人に押し付け、決断から逃げていただけではないのだろうか。


 脳裏に木霊するは、先刻の声。
『勝ち目などない戦いにあって、なお偽帝の軍に抗い、民のために戦い抜いた。たとえここで、おれたちが死のうとも、その事実は中華全土に知れ渡り、それが計り知れない価値を持つ。玄徳様が、関将軍らが生きてあるかぎり、その評価を背景として、劉家軍はいつか必ず貴様らに勝利する。みな、そのことを信じているからこそ、最後まで戦い抜くことが出来たんだ』



 それは、かつて業火に包まれた洛陽で、家屋の下敷きになっていた高順を、決して諦めずに救いだしてくれた人の声。
 それは、雲霞のごとき大軍を前に嬲り殺し同然の戦いを強いられながら、傑出した智勇をもって最後まで戦い抜いた人の声。
 その姿は同じ。その声も同じ。外見はほとんどかわりがないように見える。
 けれど、その内実は。
 決して諦めず、絶望すらねじふせて、自らの望む未来のために全力で戦う心の強さ。洛陽での出会いの時と比すれば、その成長は傍目にも明らかで、あの若者は、どれほどの苦悩と困難の末にそこにたどり着いたのだろう。
 それを思うと、高順は知らず、身体が震えそうになる。若者と同じだけの時を与えられた自分は、多少の智勇を身に付けた以外に、何を得られたのか、と半ば絶望して。
 あまりに開きすぎた互いの差。それを思って高順が唇をかみ締めた、その時。

 
「もう一度、言う。貴様ごとき下郎が、その豆粒ほどの視界で、おれたちを測れるものか! 身の程を知れッ!」


 ――高順が駆け出した理由を、あえて言葉にするならば、北郷が下郎と蔑む者と、いつのまにか同じ立場に立っている今の自分への恐怖ゆえだったのかもしれない。  




◆◆◆




「一気に城内まで突っ込む! 突撃せよッ!」
 曹純は麾下の精鋭に命じるや、自ら先頭に立って馬を駆けさせた。
 周囲の袁術軍は数こそ多いが、突然の敵襲に動揺し、曹純らの突撃の進路にいた兵は慌てて道を開ける有様であった。
 それでも将兵の中には各々で反撃してくる者たちも少なからずおり、彼らは勇敢にも騎兵の進路上に槍を持って立ち塞がり、曹純らを串刺しにせんと待ち構える。
「慌てるな、敵は少数だ! まず馬を突き、しかる後に落馬した兵を討て!」
 曹純はそんな敵の指揮官の言葉を耳にし、ほう、と感心した呟きを発する。
「賢明だな。仲軍にも見るべき者がいないわけではないらしい」
 そう言いながら、愛馬の脚を速めた曹純は、その指揮官に向けて、馬上から槍を突き降ろす。穂先は仲兵の肩を切り裂き、その指揮官は苦痛の声をあげて地面に倒れこんだ。
 手傷を負わせはしたが、討ち取るまでには到っていない。しかし、曹純はあえてそれ以上、その指揮官に拘ろうとはしなかった――曹純の後ろには数百の騎兵が続いている。その前で倒れこめば、馬蹄によって蹴散らされるのみであるからだ。


「仕える主を間違えなければ、共に戦えたかもしれないな」
 小さく敵兵を悼みながら、曹純の槍は遅滞なく右に左にと振りかざされ、突き下ろされ、その都度、周囲には敵兵の悲鳴と絶叫が湧き上がる。
 そして。
「邪魔だって…………いってるだろーーーッ!!」
 曹純に並ぶように駆ける一頭の騎馬。その鞍に跨っているのは年端もいかないと思われる少女であった。
 少女は重さ数十斤もあろうかという鉄球を手に、曹純と共に先頭に立って仲軍に突入する。


 槍や戟などと異なり、馬上で用いるにはいかにも相応しくない得物を、しかし少女は卓越した膂力と馬術をもって平然と駆使してのける。
 ある兵は鉄球に頭蓋を砕かれ、ある兵は胸に直撃を受けて血を吐きながら宙を舞った。そんな光景が繰り返されること数度。はじめは少女の武器のあまりの異様さを見て、恫喝かと考えていた敵兵も、少女の膂力の凄まじさを思い知るに至り、かろうじて保たれていた戦意は霧散する。
 少女の鉄球は、武器で受け止めることはもちろん、盾をかざしても盾ごと吹き飛ばされ、甲冑すら用を為さぬ。そんな敵を相手に、命がけで戦おうと欲する者はこの場にはいなかったのだ。


「子和様(曹純の字)、このまま一気に突っ切っちゃいましょう!」
「わかった、仲康(許緒の字)」
 曹純は許緒に向けて一つ頷くと、背後に続く兵に対し、高々と槍を振り上げてみせる。
「敵は怖じたと見えるぞ! 一挙に押して、城門を駆け抜けよ!」
 曹純が槍で前方を指し示すや、背後の一団から凄まじい喊声が轟き、仲兵の動揺はいや増した。
 曹純が、主君である曹操より預けられた兵団の名は『虎豹騎』。これは曹操みずからが選抜、組織した精鋭部隊であり、たとえ一兵卒であっても、その力量はずば抜けている。
 事実、曹純らに続く兵たちは、曹純や許緒に迫る武勇をもって仲軍を蹴散らしており、城門前に漫然と布陣していた呂布と李豊の部隊は、指揮官の不在を補うことが出来ず、曹純ら数百の敵勢に鎧袖一触、撃ち破られるに到った。




 だが、曹純の顔は晴れなかった。すでに手遅れなのではないか、その疑惑が脳裏を離れなかったのだ。城壁から立ち上る黒煙と、破られた正門。そして砦内に満ちる仲の軍勢が、その疑惑をより一層深めていく。
「北郷殿……」
 かつて自分と、そして自分の敬愛する人を救ってくれた人物の名が口をついて出る。
 将兵が戦う姿はどこにも見えず、ただ突然の騎兵の侵入に驚き、浮き足立つ仲兵の姿ばかりが目についた。
 倒れている兵士を見れば、明らかに仲の軍勢とは違う軍装のものばかり。恐れていたとおり、すでに勝敗は決してしまったのかもしれない。


 だが。
 曹純がいまだ望みを捨てない理由は一つ。
 内城にはいまだ劉家軍の健在を示すかのように、劉の牙門旗が風にはためいているのである。
 砦が真実陥ちたのならば、あの旗が翻っているはずはない。そう考え、曹純はなおも奥へと馬を駆けさせた。
 混乱している仲の兵も、時が経つほどに平静さを取り戻すであろう。曹純らの兵がごくわずかであることも、また曹仁らの兵が一万程度であることもほどなく知られてしまうに違いない。曹操軍の騎兵が精強であるとはいえ、十万を越える仲軍と真っ向から戦うことはできない。ゆえに、目的が果たせないと判断した時点で、速やかに高家堰砦から離脱しなければならないのである。


 あるいは、常の曹純であれば、とうに諦め、退却の決断を下していたかもしれない。曹純一人のことではないのだ。万を越える曹操軍の命が懸かっている以上、ここで無理をして被害を大きくすれば、ひいては曹操の大志にまで影響を及ぼしてしまう。
 そのことを承知しつつ、しかし曹純は退かない。否、退けなかった。
「この程度の劣勢、たった一人で百を越える賊徒の前に立ちはだかることに比すれば何事かあらんッ!」
 毅然と、また昂然と。賊徒の前で自らの存在を謳いあげた人の姿を脳裏に思い描きながら、曹純は湧き上がる戦意で頬を紅潮させ、ただ一心にその人の姿を探し求める。


 そして。
「にーちゃんッ?!」
 曹純の視界にその光景が飛び込んできたのは、許緒の声とほぼ同時であった。



◆◆◆



 それは曹仁らの軍勢が、仲の陣営に突入する少し前のこと。



 一際強まった湖畔の風が魯粛の頬を叩いた。冬枯れの野を駆け、湖面の上を逆巻くように吹き渡る風は冷たく乾き、ただ立っているだけで人の体温と肌の水分を奪っていく。魯粛が、この季節を好まない理由である。
 にも関わらず、今、魯粛の顔には笑みが浮かんでいた。
 そのことに気付いた張紘が怪訝そうに首を傾げる。その顔には小さな憤りもあった。今の張紘たちでは高家堰砦を救うだけの力はないと頭では理解していても、その苦境を目の当たりにしながら笑って良いはずはないのだ。


 もっとも、魯粛がその程度のことをわきまえていないはずもない。
 そう考えた張紘は、ようやく気付く。今、魯粛の顔を彩る笑みは、戦陣にあって張紘が幾度も見た鋭気と戦意に溢れたものとは違うということに。
 それは桃園に盛りの桃花を見るような、柔らかく、温かい微笑であった。


 その視線は高家堰砦を越え、その先へ。彼方に沸き立つ瑞雲は、猛る兵気を示すもの。大地の揺れ、大気の震えが一つの事実を囁きかける。
 魯粛の口から、詩を吟じるような呟きがこぼれでた。
「天に於いて命を受く……もしかしたら、この戦いは千載のちも語られることになるのかもしれないね、子綱ちゃん」
「な、なら、それに相応しい行動を示すべきではありませんか、子敬姉様!」
 張紘は、魯粛が感じ取った兵威を感じることは出来なかった。それも当然で、こと戦において、張紘は才能も経験も魯粛に遠く及ばず、それは張紘自身も承知していることだった。
 しかし、兵威には気付かずとも、姉と慕う人物の変化は敏感に察する張紘だった。ここまで決して動こうとしなかった魯粛の心境に変化が生じたことを悟った張紘は、拳を振り上げて力説する。


「――そう、だね」
 はじめて。
 妹分の請いに、魯粛は肯定の仕草を示した。


「人は天の繰り人形じゃない。天が人の動きを決めようとするなら刃向かってみせる。でも人の想いが天を動かしたのなら、それに逆らうことは誰にも出来ない。この戦いは、きっとそういう類のものなんだ」
 そう言って、再び魯粛は笑みを浮かべた。
 先刻までの穏やかなものではない。それは張紘が見慣れた笑み――否。魯粛の両眼からあふれる生気と鋭気の眩さは、見慣れたはずの張紘でさえ息をのむほどであった。




 元々、すべての準備は整えられていたのだ。行動は驚くほど速やかに進められ、速やかに終わった。
 湖面狭しと浮かべられた梁剛と陳紀の軍船に向け、魯粛の指揮する小船団は緩やかに接近していく。すでに両将は砦への攻撃を止めているが、それでも彼らの注意の大部分はいまだ砦に向けられたままであり、背後から近づく舟の足の軽さを不審に思う者はいなかった。


 事あれかしと望む風神が暴れているかの如く、洪沢湖に吹く風はいよいよ強く吼え猛る。
 船団の先頭に立ち、その強風に身を叩かれながら、魯粛は小さく呟いた。
「……さあ、顔も知らない受命の君。ここまで耐えたんだ、あと少しだけ頑張って、そして示してあげて。仲の侵攻に蹂躙されたすべての人たちに」
 強い風によってその声はちぎり飛ばされ、誰の耳にも届かない。それでも、魯粛は言葉を紡ぎ続ける。
「どれだけの暴虐に遭おうとも、人は屈さず立ち向かうことが出来る。淮南に――私の故郷に、暮らす人たちは、ただ踏みにじられるだけの存在ではないんだって、示してあげて。私みたいな狂児では出来ないの。それは子綱ちゃんやあなたのような人じゃないと出来ないことなんだよ」


 どれだけ風神が荒れ狂おうと、魯粛にとっては郷里の風。それを御する術において、他者の追随を許す魯粛ではない。まして、仲の愚将ごときに劣るはずがあろうか。
 魯粛が一つ合図をすると、滑るように湖面を進む船団から一斉に炎が吹き上がる。それらが一斉に船首を並べて進む様は、あたかも炎の壁が迫るにも似て、その進む先にいる者たちに底知れない恐怖を与えるだろう。
 事実、魯粛の視界には、船上で驚き慌てる仲の将兵の姿が映し出されていた。仲の指揮官たちは突如押し寄せてきた火舟から、自らの船を逃がそうと必死に声を嗄らすが、密集している船団が機敏に動けるはずもなく、それどころか味方の船同士でぶつかりあって、より混乱を助長させるばかりであった。
 そこに、火舟は容赦なく突っ込んでいく。


 魯粛は、仲の船団が回避することが不可能な位置まで火舟を接近させて後、軽舟に乗り移り、配下の兵と共に湖面を進む。
 その行く先は張紘が待っている河畔――ではなかった。


「子綱ちゃんには悪いけど――」
 混乱する仲の船を嘲笑うかのような見事な操船で進む軽舟の上で。
「顔くらい見てきても良いよね」
 くすり、と魯粛は悪戯っぽい笑みを浮かべるのだった。




◆◆◆




 かくて、洪沢湖は炎に染まる。
 炎は時と共にその勢いを強め、更なる風を呼んで荒れ狂う。
 天をも焦がすその火勢は告げていた。
 遠く黄巾党の大乱が終結してより今日まで、中華帝国の未来を遮らんとして織り成されてきた策謀が、今日ここに潰え去ることを。





[5244] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第十三章 北郷一刀(序) (五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/12 01:13


 湖面を埋め尽くした軍船と、将兵の命を糧として燃え盛った炎は淮南の空を紅に染め、その勢いは高家堰砦にも及ぶ。城壁に守られ、火の手が及ぶことこそなかったが、唸る風と猛る炎、そして緋色に染まる視界が、否応なく事態の大きさを物語る。
 砦を守る者、攻める者、そして救う者。立場こそ違え、この予測しえない事態に即応できたものは一人としていなかった。
 ゆえに。
 あるいはこの時が、李豊が逃げ延びることができる最後の機会であったのかもしれない。


 だが、圧倒的に優位な状況にいるという認識が、逃亡という手段を選択肢に含めなかった。目の前にぶらさがった勝利を、掴み取らずにはいられなかったとも言える。
 あまつさえ、目障りこの上なかった飛将軍らを排斥できる絶好の機会までもが訪れたのだ。たとえ自身で逃亡という手段に思い至ったとしても、李豊は一顧だにせず斬り捨てたことであろう。


「は、はは、陥陣営が敵将をかばうッ! これ、飛将が叛逆の証左以外の何物だというのです?! 呂奉先、釈明できるものなら、してみなさいッ!」
 冷静に考えてみれば、ここで呂布が叛逆に踏み切れば、李豊自身とて無事ではすまない。方天画戟の猛威に対抗しえる者など、今この場にはいないのだから。
 だが、胸奥より滾々と湧き出る感情を李豊は抑えきれない。その感情の赴くままに、声高に呂布に詰問の矛先を向ける。


 しかし、その声に呂布が応えるよりも早く、高順を非難する者がいた。
「こ、ここ、高順! 何をしてるですかッ?!」
 陳宮は、顔どころか声まで蒼白にして叫ぶ。
 対して、答える側は対照的に平静そのもの、むしろ穏やかとすら言える口調で応じた。
「過ちを、改めているんです、公台様(陳宮の字)」
「あ、過ち?」
「はい」
 言うべきことを言わず、為すべきことを為さずに来た、自分の過ちを。
 高順は心中でそう呟くと、眼差しを一変させた。
 高順の戟が翻り、李豊の剣に音高く撃ちつけられる。いまや一片の迷いもなくなった鋭利な一撃を受けとめ、その重さに李豊は舌打ちしながら後退する。
「ど、どういうことです?! い、いや、高順のことなんて後でも良いのです。それよりも、このままでは……!」
 呂布が叛逆者になってしまう。
 これでもか、とばかりに襲い来る予期せぬ事態に混乱しながら、陳宮はどうやってこの場を切り抜ければ良いのかと思案する。
 しかし、乱れた頭では適切な答えなど出せるはずもなく。自問は、ただ混乱に拍車を掛けるだけに終わる。


 高順は、そんな陳宮の様子を沈痛な眼差しで見つめていた。
 戟は李豊に向けて構え続けているが、すでに高順は李豊にほとんど注意を払っていない。
 湖の方向から一際激しく炎が燃え上がり、天へと駆け上る。その火勢は城壁を越えて、高順の半面を赤々と染めた。そして、湖とは逆の方向から響いてくるのは、聞き違いようのない馬蹄と剣撃の音。
 いまや、何が起こっているのかは誰の目にも明らかで、常の陳宮であれば、とうに行動に移っているはず。にも関わらず、今、呆然と立ち尽くしていることこそが、陳宮の失調をまざまざとあらわしていた。


「呂将軍、ただちに兵を掌握して砦の外へ」
 李豊や陳宮に言われるまでもなく、高順は自分の行動が、これまでの全てを覆しかねないものであることは認識していた。僚将の眼前で、敵将をかばい、あまつさえその後も僚将に武器を向け続けている。これを叛逆と言わずして、何を叛逆というのだろう。
 仲とは袂を分かつべきと高順は考えるが、それを戦場での裏切りという形で示すのは論外であった。それは呂布の汚名を雪ぐどころか、更なる醜名を被せること。それを承知しつつ、それでも飛び出してしまった高順は進退に窮する――はずだった。


 しかし、続けざまに起こったありえざる事態が、高順の脳裏に一つの道筋を示してくれた。
「何処の軍かはわかりませんが、敵は百や二百ではなく、しかも水と陸、双方から示し合わせて攻めてきています。早急に対処せねば、思わぬ不覚をとることもありえましょう」
 正直なところ、今の状況は高順にとっても予想外である。広陵に進出したという曹操軍にしては速すぎるし、洪沢湖の敵襲に到っては何者が動いているのか、想像もつかない。


 しかし、それでも。
「今、このような小砦に拘泥する必要はないでしょう。いえ、必要がないどころか、危険でさえあります。李将軍は平静を失われ、そのことに気付いておられないご様子でしたので、あえてお止めしました。急ぎ、お退きくださいませ」
 今、この時は。
 名も顔も知らない敵に、高順は感謝していた。
 北郷を助けられるかもしれない、それは無論ある。
 しかし、それだけではない。この場さえ乗り切ることができれば、高順は正面から呂布と陳宮と向かい合うつもりだった。そして、話しあうつもりだった。
 裏切りをもって仲を討つのではない。呂布が――飛将軍が、この乱世に挑む気概を示し、それをもって仲を討つ、その形を整えるために。
 呂布と、陳宮と、高順と。共に居ながら、どこか遠かった自分たちの距離を縮めるために。


 高順は北郷を救うために飛び出し、李豊に刃を向けた。それが、これまでの自分と決別する契機。
 同時に、高順がとった行動は、仲と、呂布との二つを裏切ることでもあった。その結果は言うまでもない。李豊に斬られるか、呂布に裁かれるか、いずれにせよ三人で話し合う時は永劫に持てなかったであろう。
 ありえなかったはずの時を、しかし、高順は得ることが出来る。
 その確信が、高順の心に光を灯す。その身体に力を宿す。
 何事かをわめきながら斬りかかってきた李豊の剣をあっさりと撃ち払い、高順は力と意思の篭った眼差しで、自らの主を見つめた。


 その目に、呂布は何を見たのだろう。
 茫洋とした紅眼の奥に去来する思考は何者にも読めなかったが、ただ一つ、先刻まで確かにあったはずの焦燥は綺麗に掻き消えていた。
 その理由は――
「…………高順は、一緒に、来る?」
「お許しいただけるのであれば――いえ、お許しいただけずとも、この身の主は呂将軍だけです」
「…………ん」
 高順の眼差しと言葉に、呂布は小さく、しかしはっきりと頷いてみせる。
 奪われるという怖れは消え、残ったのは疑ったという自責。
 それゆえの即断――いや、たとえそれがなくても、今の高順の請いに、呂布が首を横に振ることはなかったであろう。
「……ねね、退く」
「れ、恋殿、ですが……」
 いまだ混乱から脱していない陳宮は戸惑いながら口を開きかけた。
 しかし。
「退く」
 短く、しかし断固として言い切る呂布に対し、それ以上の抗弁は為しえなかった。



 この時、この場には呂布や高順、李豊ら以外にも兵はいた。ことに李豊麾下の将兵は、幾度も煮え湯を飲まされた劉家軍に対して深甚な怒りがある。
 だが、彼らにしても戦況に大きな変化が訪れていることはわかりきっており、死に体の砦に拘泥する愚かさは承知していた。敵が小勢であればともかく、空を焦がす炎と、響き渡る馬蹄と剣撃の音は、攻め寄せる敵が仲軍の脅威となる規模であることをはっきりと示している。
 冷静に考えれば、高順の言は矛盾を孕むが、それでも相次ぐ戦況の変化と、その混乱が事態を一つの方向に導こうとした時。


「戯言を言うな、裏切り者どもがァッ!」
 高順に半ば無視されていた形の李豊が吼えた。
 その半面は高順と同じように火勢を映して赤々と染まり、その両眼からは正視し難い光が迸っていた。
「何をしているのです、飛将軍どもの裏切りはすでに明らか! 殺しなさいッ!」
 配下の将兵を叱咤する声は力感に満ち、それでいて奇妙に他者の背に怖気を誘う響きを有していた。
 李豊配下の将の一人が、おそるおそる口を開く。
「し、しかし、李将軍、高殿の言も一理ございます。外の戦況も気になりますし、呂将軍らのことはひとまず措き、ここは部隊を掌握して、外の敵に対処すべきでは……」
「……殺せ、と」
「は?」
「殺せと命じたのです」
 翻る銀光にわずかに遅れ、ひゅ、と笛を吹くような音があたりに響き渡った。
 首を切り裂かれた兵士は、何が起こったのかもわからないまま、目を瞠る。そして、その表情のまま地面に倒れこみ、二度と動くことはなかった。


 氷の鞭で打ちすえられたかの如く、あたりの空気が凍りつく。
「この砦を陥とすは陛下の勅命。多少の被害に怖じて、そのことを忘れ去るような者は我が麾下には不要です。そして、仲の臣下にも必要ありません。飛将軍などとおだてられた新参と、土臭い小娘を将に任命した結果がこの様です。やはり仲帝の傍に立つ栄誉は、長年、袁家に仕えた宿将にこそ相応しい。赤毛と小娘の首を持てば、陛下も大将軍も真に恃むべき者は誰なのかがおわかりになるでしょう」
「あなたは……」
 高順は、ゆっくりと歩み寄る李豊の姿に、先刻はなかった鬼気を感じて息をのむ。
「敵は討つ。砦は陥とす。裏切り者は誅する。方士が執着していた後ろの男も、私が殺す。邪魔などさせない」


 李豊の言葉を聞いて、高順は口を噤んだ。もう何を言っても通じるまいと思えたから。
 胸奥に秘められていた憤懣が、湧出口を見出してしまったのだろう。その切っ掛けは高順自身の行動であったのか、あるいは――
「機を逸したことに気がついてしまいましたか」
 陽は中天に達した後は緩やかに没するのみ。仲の命運も例外ではない。洪沢湖を染めた緋の色と、刻一刻と近づく砦外の戦いの音が、決して無能ではない李豊の脳裏に囁きかけたのかもしれない。


 建国間もない仲に、はや斜陽の時が訪れたのだ、ということを。


 そのことを認められないがゆえの言動か。李豊の行動をそう理解した高順は、油断なく戟を構えた。高順に数倍する軍歴を誇る李豊、その武威は侮れるものではない。まして、今の李豊は明らかに普段の彼女とは異なっている。己の武功と栄達を第一に考えていた女将軍の姿に、言い知れない凄みを感じながら、高順は退くことはなかった。背後にいる北郷を守るために。


 先刻から、北郷は一言も発しない。
 おそらく気を失っているのだろうと思われた。
 だが、それでも剣を地面に突きたてて立っている。それこそ全身を血に浸しながら、なお立ち続けている。
 高順が背後の北郷を守ろうとしているように、北郷は自分の後ろにいる人たちを守ろうとしている。それは内城で怯え、震えている人たちのこと。けれど、きっとその人たちだけではないのだろうと高順は思う。
 ここで北郷が膝を屈さぬことは、多分、もっとたくさんの人たちを救い、励まし、力づけることになるのだ。それこそ、仲軍が――高順たちが踏みにじってきたと同じくらいたくさんの人たちを。


 だからこそ、高順は退けない。否、退かない。
 自分のしたことがこの程度で償えるなどとは思っていないし、先刻の詭弁と称するもおこがましい屁理屈が、仲帝に通じるはずもないとも考えている。繰り返すが、劉家軍の将である北郷を助けようとする高順の行動は、仲帝と、今はその麾下にいる呂布に対する裏切りなのだ。
 それでも、それを承知してなお――
「退けるはずが、ないんですッ!!」
 北郷を助けたいと願うこと。
 呂布と陳宮のために戦いたいと願うこと。
 両者が敵対している今、高順の願いを両立させることは不可能で。
 でも、それを両立させる機会は確かにあった。高順が見逃してしまった、あるいは故意に見過ごしただけで、確かにあったのだ。
 だから、この葛藤は自業自得。遠くない日、裏切り者として罰されることも、また当然。でもそれは、今この時、この場を退く理由にはなりえない!



 そう考え、戟を握る手に力を込めて、高順が李豊を迎え撃とうとした、その時。
 結末は呆気なく――あまりにも呆気なく訪れる。
「にーちゃんッ?!」
 聞きなれない、その声に続き、間髪いれずに鳴り響く弓弦の音。
 放たれた矢は、狙いあやまたず、李豊の首筋を一射で射抜き、李豊は糸の切れた操り人形の如く、不規則に身体を揺らして高順の眼前で倒れ伏す。その目は憑かれたように狂熱に濡れ、自分の身に起きたことを理解していない――理解しようともしていないのは明らかだった。

 
 そして、現われた敵勢の攻撃はなおも続く。
「総員、飛将を狙え! 一射後、抜剣、突撃せよ!」
 高順の視界にあらわれたその将軍は、肩までかかる黄金色の髪を無造作に髪になびかせながら、軽やかに馬を操って一直線に高順のところへ向かって来る。
 思わず息をのむような端麗な容姿の持ち主だが、李豊を一矢で射抜いた騎射の腕は寒気がするほど。その配下の将兵も、告死兵に優るとも劣らぬ錬度を有していると思われた。
 いや、そんなことを考えいる場合ではなかった。
「仲康!」
「はいッ!」
 迫る騎将と、その将の傍らにいる小柄な少女。
 その少女から繰り出された鉄球が、正確無比な軌道をもって高順に向かってきたのである。
 鉄球の大きさも、またそれを軽々と操る少女に対しても驚愕を禁じ得ない高順は、それでも退くことなく真正面から鉄球を受け止めた。避けることなどできないのだ、後ろには北郷がいるのだから。


 無論、この時、少女――許緒は北郷の姿に気付いており、高順が避ければ鉄球を引き戻すつもりであったのだが、当然のこと、高順がそれを知るはずもない。
 許緒の鉄球を、全身の力を込めて受け止めた高順は、戟から伝わる凄まじい衝撃に思わず呻きをもらす。それでも衝撃を支えきれず、戟は高順の手から離れ、宙を舞った。
 そして、次撃は。
 高順が戟を取り戻す暇も、体勢を立て直す暇もなく、目前に迫っていた。


「――さらばだ」
 馬上から発された曹純の声を、この時、高順はどこか穏やかな心地で聞いていた。振り下ろされる槍を、どこか遠くに感じていた。
 それは多分。
「――陥陣営」
 ああ、自分はここで死ぬのだ、と覚悟したからなのだろう。 




 だから。
 不意に、背後から自分を包み込むように覆いかぶさってきた温かい重みが何なのか。
 高順は、しばらくの間、わからなかった。
 たまらず地面に押し倒され、その結果として死をもたらす槍の一撃から逃れられたと悟ったのは、敵であるはずの曹操軍の将の口から、北郷の名が出てからのことであった。





◆◆◆





「ふ、ふふ……なんともはや」
 右の手で顔を覆いながら、于吉はくつくつと笑っていた。
 笑い続けていた。すでのその笑いはどれだけ続いているのだろうか。少なくとも、高家堰砦を巡る攻防が終わってから、ずっとであることは間違いない。


 正確に言えば、戦いはまだ続いていた。于吉の眼下では、曹仁、曹洪が率いる曹操軍と、張勲が指揮する袁術軍とがいまだ干戈を交えている。
 しかし、于吉には戦いの行方が見えていた。西方から押し寄せていた梁剛、陳紀の軍勢は火計によって壊滅し、李豊も曹純によって討たれている。
 高家堰砦に入った曹純率いる虎豹騎は砦内の残敵を掃討するや、壊滅した劉家軍に代わって砦を守備する気勢を示した。高家堰砦は、もう砦としての機能を失っており、呂布ないし張勲の軍勢をもってすれば陥とすことは難しくなかったであろうが、呂布は残余の戦力を砦から撤収させ、李豊の軍勢をもあわせて手元で掌握した後も積極的な攻勢に出ようとはしなかったのである。


 ほどなく、張勲の下に呂布からの軍使が訪れ、李豊の戦死と、これ以上の戦闘の無益なることを訴え、撤退の可否を問うてきた。可否を問う、とはいっても、それは半ば撤退の通知であった。
 それも無理からぬこと、依然、兵力は袁術軍が大きく優っていたが、圧倒的なまでに有利であった戦況を覆され、万を越える死傷者を出したことで、将兵の士気は著しく下がっていた。今なお空を焦がす洪沢湖の火勢を横に見ながら、新手の曹操軍と戦うことは不可能といってよい。それは張勲も承知するところであった。


 くわえて。
「まあ、広陵を失ったとはいえ、逆に言えばそれ以外のぜーんぶ、私たちのものですし。戦果としては十分でしょう」
 張勲の言葉どおり、これ以上戦ったところで、手に入るものといえば守る意味のない砦と、略奪によって荒れた都市ひとつ。戦い続ける理由はなかったのだ。いや、一応、勅命があると言えばあるのだが――
「どうせ、誰かさんが暗躍した結果でしょうしね。そんなに大事にはならないでしょう。ご機嫌がすこーし悪くなっちゃうかもしれませんけど、うーん、あの秘蔵の蜂蜜、ここで使うべきかなあ?」
 張勲は頬に手をあてながら、なんといって皇帝をなだめるべきか思案するのであった。



 その張勲の言葉を聞いたわけではないが、于吉もまた仲の軍勢が間もなく退くであろうと考えていた。戦況を見れば、そう判断せざるをえない。
 いまだ目的の人物は砦に健在。つまるところ、これは――
「……私の敗北。そういうことなのでしょうね」
 手で顔を覆っているため、于吉の表情はわからない。唇からこぼれる笑いはいまだ途切れず、ただ虚ろにあたりに響きわたる。
 仲の方士として、戦闘を長引かせることが出来ないわけではない。これまでそうしてきたように。
 しかし、今、そうしたところで目的が果たせないことを理解するゆえに、于吉はその手段を採れなかった。また、悪足掻きに等しい醜行をなすことに、自身の美意識が耐えられなかったということもあったかもしれない。
「完璧に死地に落としたのです。どれだけ人事を尽くそうと、天命が下ることなどなかったはず。なのに、あなたはまだこの世界にいる」
 そう言って、ようやく于吉は笑いをおさめ、顔を覆っていた手をはずす。
 現われたのは、決意と、殺意と、害意とを渾然とさせた、苛烈な瞳。


「運否天賦……とうとう、天をすら動かしましたか、北郷一刀」


 激情を示す輝きは、しかし、一瞬で去る。
 于吉は瞬き一つで、その眼差しを鎮め、常の怜悧な眼光を取り戻し、小さく哂った。
「左慈であれば喜ぶところでしょうが、生憎と私はそこまであなたに執着していない。いえ、そのつもりでしたが……ふふ、ここまで恥をかかされると、その気持ちも揺らいでくる。忌々しい外史などとは関わりなく、あなたを消したくなりましたよ、北郷」
 そういって、于吉は小さく印を結ぶ。
 それは、配下の方士への連絡。見張らせていたのは、劉家軍の長。
「今回は私の負けです。しかし、自身を守ることは出来たとしても、ここにいない者まではどうでしょうか。多少は意趣返しをさせてもらってもかまわ――」
 かまわないでしょう、そう言いかけた于吉の耳に。


『――あらあーら、なんだか言動が小物っぽくないかしら、于吉ちゃん?』


 于吉はわずかに息をのみ、その野太い声の主の名を口にした。
「……貂蝉、ですか」
『そう、みんなの心の一輪花、貂蝉よん』
「どうして、などと問うのは無意味ですね。あなたの姿がないのは訝しいとは思っていましたが……」
『うふふ、良い漢女は出を心得ているものよ。ご主人様が本当に守りたかったのは、自分ではないんだもの。なら、その心のひだを掬い取ってあげるのが伴侶の役割よん』
「その代わりに、当人がここで死ぬ可能性の方がはるかに高かったと思いますが?」
『でも、死ななかった。そうでしょ? 信じることは、時にとても辛いけれど、それを顔に示さず、言葉に出さず、ただ貫くことこそ漢女の心意気なのよ』


 于吉の顔に苦笑が浮かぶ。
「……ふ、まったく北郷も愛されたものですね。今の言葉をそのまま伝えた方が、私の策よりも北郷に傷を与えられそうですよ」
『あらあら、その皮肉っぷり、やっといつもの調子が戻ってきたかしら?』
「……さて、どうでしょうね。まあ少し平静を欠いていたことを認めるに吝かではありませんが」
『――外史は、なお続くわ。ご主人様とあたしにとって、あなたは敵には違いないけれど、それは互いの信念ゆえのものであってほしいのよ。ご老人方の繰り人形ではなく、ね』
「その信念とやらに基づいて、あなたはあくまで一人の踊り子として、劉家と行動を共にしたわけですか」
『そういうことね。もちろん、これはあたしの勝手な願い。于吉ちゃんがどう行動するかは于吉ちゃん次第よ。ただ、今後も玄徳ちゃんを狙うなら、相応の覚悟をもって来るべきねん。少なくとも、ご主人様を狙う片手間に配下に指示を下すような、そんなやり方じゃ――千年経っても届かないわよ』


 最後の一言に込められた貂蝉の威に、于吉は知らず、息をのむ。
 しかし、次に発された言葉には欠片ほどの動揺も示さない。それは半ば于吉の意地だった。
「――忠告、感謝します。精々気をつけることにしましょう」
『そうしてちょうだい。あ、そうそう、配下の人は無事だから安心してねん。ちょーっとだけお仕置きしておくけど、ね♪』
 何をするつもりですか。そう問いかけた于吉は、どこか遠くから悲鳴とも絶叫ともつかない声を聞いた。そして、やたらと生々しい『ぶちゅ』という音。


 白の方士はしばしの無言の末。
「…………………………さて、次なる策を練るとしましょうか」
 誰に言うでもなくそんな言葉を呟くと、気忙しげに姿を消すのだった。






◆◆◆






 突如響いてきた悲鳴に、劉備は思わず首を竦ませた。
「え、あ、何、今の?」
 きょろきょろとあたりを見回す。
 ここは長江の流れに浮かぶ舟の上、悲鳴をあげている人がいればすぐに見つかるはずなのだが、そんな人はどこにも見当たらない。
「長江には不思議な鳴き声の鳥がいるのねえ」
 そんなことを言ったのは、いつの間にか近くに来ていた貂蝉であった。いつもどおり、筋骨たくましい体に薄布一枚だけの姿なのだが、人間とは慣れるもの、いつか劉備もその姿に違和感を感じることはなくなっていた。時々、目のやりばに困ることはあったけれども。


「ね、ねえ雛里ちゃん、今のって……鳥?」
「う、うーん、鳥……なのかな?」
 軍師二人が可愛らしく首を捻っている。二人の知識にもない鳥がいるとは、やはり天下は広い。感心したようにそんなことを考える劉備は、しかし、すぐに表情を曇らせる。
 無事、長江に出ることができ、追っ手の心配はもうないだろう。たとえあったにせよ、徐州水軍と、そして荊州水軍の主力が集うこの船団にとって、脅威にはなりえないに違いない。


 陶謙の下から荊州への遣いに立った糜竺は、これ以上ないほどに役目を果たしてくれた。
 州牧である劉表は、袁術との直接の対峙にこそ難色を示したものの、音に聞こえた劉家軍と、そして徐州水軍を受け入れることに関しては、糜竺が拍子抜けするほどあっさりと承諾してくれたのである。
 もっとも、荊州内部には劉表の決断に異を唱える者も少なくなく、実際に水軍を動員するまでこぎつけるには多少の時間がかかってしまったが、それでも手遅れになる前に江都へとたどり着けたのは、ひとえに糜竺の手腕であると言って良い。
 ただ、この一行の中に江都の県令趙昱の姿はない。劉備の熱心な請いにも「自分は江都を守らなければならないから」と趙昱は最後まで首を縦に振らなかったのだ。
 そして、関羽と張飛、趙雲、太史慈、北郷らの姿もない。劉備は江都で最後の最後まで粘ったが、結局、北から劉家軍の旗がやってくることはなかった。


 そのことを思うと、知らず劉備の目に涙がにじみ出てしまう。将兵の手前、なんとか平静を装っていたが、それでもふとした拍子に涙腺が決壊してしまいそうになる。
 みんな無事でいる。そう信じていても、これまで当たり前のように傍らにいてくれた人たちの姿が見えないだけで、ここまで心が痛むとは劉備自身思っていなかった。否、想像したことさえなかったのだ、自分たちがばらばらになってしまうなど。
 それでも、まぎれもない、これが現実。
 諸葛亮、鳳統、簡擁、陳到、田豫、それに董卓、賈駆、王修たちはいてくれるし、張角たち三姉妹や馬元義の姿も船上にある。
 流浪の軍にはもったいないほどの陣容で、こんな状況でも従ってくれている人たちに、劉備は深い感謝の念を抱いていたが、それでもここにはいない人たちのことを考えずにはいられなかった。


 すると。
 ばふ、と横合いから柔らかいものに抱きつかれ、劉備は慌ててじたばたともがく。
 その耳に、優しく囁きかける声は張角のものだった。
「大丈夫だよ、玄徳ちゃん。みんな、無事だから。また逢えるから」
「うぶ、は、伯姫ちゃん?」
「そう、みんなの歌姫、天和ちゃんでーす」
 言いつつ、腕の力を緩める張角。
 豊満な胸から解放され、ほっと息をつく劉備に、張角は優しい視線を送る。
「玄徳ちゃんは頑張りやさんだからね、あんまり溜め込むのは良くないよ? 心配なら心配って言って良いし、泣きたいなら泣いても良いんだから」
「で、でも」
「でも、じゃありません」
 何か口に仕掛けた劉備の唇を、張角は人差し指でそっと押さえる。そして、両手を腰にあて、むん、という感じで胸を張ってみせた。
「将の心得がどうとか、そんなことを言って玄徳ちゃんを困らせる人は、この張伯姫さんがじきじきにお説教してあげます。私を怒らせると怖いんだぞう」


 のんびりとした口調でそう言われても、あまり説得力はないかも。劉備はついついそんなことを考えてしまう。
 だが、その言葉に込められた真情に気付かない劉備ではなかった。だから、そっと目じりを拭い、くしゃりと笑ってみせる。
「うん、ありがと、伯姫ちゃん。心配かけちゃって、ごめんね」
「そうそう、やっぱり玄徳ちゃんは笑ってる方が可愛いね。大丈夫、さっきも言ったけど、一刀も、雲長ちゃんも、みんなみんな無事だから。すぐ、には無理だろうけど、いつかまた必ず逢える」
 慰め、というには張角の言葉には迷いがない。少なくとも、張角自身が疑いなくそう信じていることは間違いないだろう。
 その確信は、何によってもたらされるのだろう。劉備はそれが気になった。何故といって、その理由が相手を信じる気持ちの強さに拠るものだとすると、張角に劣るのはいろいろとまずい。そんな気がするからだった。


 そんな劉備の密かな焦燥を知ってか否か、張角はぽやっとした顔でこんなことを口にした。
「ふっふ、玄徳ちゃん、この大賢良師張伯姫を甘くみてはいけません。遠く百里先の出来事さえ、私の霊力をもってすれば掌の内にあるのだー」
「え、そ、そうなの、伯姫ちゃん?! す、すっごーいッ!」
「――なんてね♪」
 ずる、とこけそうになる劉備。
 その劉備を見て、張角はころころと笑った。
「は、伯姫ちゃん?」
「ごめーん。でも、ね。私の勘が冴えてるのは本当だよ、ちぃちゃんとれんちゃんのお墨付き。その勘が告げてるの。みんな無事だって。また逢えるって。ただ、そのためには、きっとたくさんの辛いことがあると思うけど」
 それでも、いつか必ず逢えるから。張角はそう言うと、もう一度劉備を胸元に抱き寄せた。


 柔らかい感触に包まれた劉備は、さっきのようにもがいたりはしなかった。むしろ、伝わってくる温かさに救われた気持ちになる。
「……なんか、伯姫ちゃんってお姉ちゃんみたい」
「ふふ、ちぃちゃんの年が私のお姉ちゃん暦だから、もうあと何年かで二十年になるねー。それに、玄徳ちゃんは一刀の大事な人だから、私にとっては、本当に妹みたいなものだよ」
「え……え、ええッ?!」
 唐突な張角の言葉に、劉備は思わず声を高める。
 だが、上目遣いで見上げた張角の顔に浮かぶ真摯な眼差しを見て、慌てて口を噤んだ。
 その表情を崩さないままに、張角はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「だから、ね、玄徳ちゃん。辛かったり、苦しかったりすることがあったら、遠慮なんかしなくて良いから、私に話してくれないかな。ううん、私じゃなく、ちぃちゃんやれんちゃん、それに他の人たちだって良いよ。ただ、自分一人で抱えて、泣いたりしないで。それは、きっと一刀が何より苦しむことだから」
 ぎゅっと。その名を口にした時、込められたわずかな力が、言葉にするよりもはっきりと、張角の胸の内を劉備に伝えて来る。
 その感情の熱さに、知らず、劉備は頬を赤らめていた。
「伯姫ちゃん、あの、やっぱり……」
 一刀さんのことを、と口に仕掛け、劉備は言葉を飲み込む。それはきっと問うまでもないことだから。
 けれど、張角は飲み込んだ劉備の言葉を察したようだった。優しく、そして力強く肯定する。
「うん、好きだよ。これでもかーってくらいに、好き。元々、格好良い人だなって目をつけてはいたんだけどね。一刀って、なんかこう、一緒にいるとすごい落ち着くんだよね」
「あ、それはわかるかも」
 うんうん、と頷きあう二人の乙女。
「色々あって離れ離れになっちゃったけど、それがまた気持ちを高めちゃったのかなあ。河北で再会してからは、もう一直線だった気がするよ。それで、本人にも言っちゃったんだけど――」
 くすり、と張角は花開くような笑みを浮かべる。
 劉備が思わず見とれてしまうような、恋する者の顔であった。


「一刀ってばあたふたして、ふふ、面白かったなあ」
「そ、そうなんだ」
 張角に告白された時の北郷。その様子を思い描こうとした途端、劉備は胸に鈍い痛みを覚えた。
 どうしてだろう、とどこかぼんやりと考えている間にも、張角の言葉は続く。
「その一刀が一番大切に思っているのは玄徳ちゃんだから、だから私にとっても玄徳ちゃんは大切な人なんだよ。命を救ってくれた恩以上に、ね」
 張角はそう言うと、もう一度、劉備の耳元にそっと囁いた。



 ――だから、もう一人で泣いたりしないでね、と。
 その言葉に対し、頷く以外のことが、劉備にできるはずもなかったのである。




◆◆




 そんな劉備たちの様子を、諸葛亮と鳳統、二人の軍師は遠慮がちに見やっていた。
 実のところ、劉備を励ます機会を窺っていたのだが、見事に張角に先を越されてしまったのである。
 もっとも、劉備が憂いを払ってくれるのなら、それが誰の手によるものであろうと関わりないことではあった。
 少なくとも、鳳統はそう考え、そして張角によって元気付けられた劉備の様子を見て、ほっと安堵の息を吐いていたのである。
 そして、北の方角を見やり、そちらで戦っているであろう人の姿を思い描き、小さく呟いた。
「一刀さん、玄徳様は大丈夫です。私と、朱里ちゃんと、皆さんでお守りしますから。きっと、きっとです」
「うん、そうだね、雛里ちゃん」
 諸葛亮は、傍らの友人の手をそっと掴む。
 その手の震えを、果たして鳳統は気付いているのだろうか、と一抹の不安にとらわれながら。


 江都では、北方の戦況はほとんど掴めなかった。わかったのは、呂布によって高家堰砦が猛攻に晒されているという事実のみ。
 今この時、砦にいる太史慈と北郷がどうなっているのかは、いかに伏龍、鳳雛といえどつかめない。
 そのことが、ことに鳳統の心に負担を強いていることに、諸葛亮は気付いていた。無論、諸葛亮とて砦のことを深く気にかけてはいる。しかし、鳳統のそれは、鳳統自身の内面にも関わることであり、諸葛亮の抱く重みとは、また意を異にするのだ。
 鳳統の心に住まう、飽くなき軍略への思考。鳳統自身が化け物と称するその思考が、鳳統を傷つける。今回の戦いで北郷を死地へと追いやった自らに、鳳統が深い嫌悪を見せたのは、諸葛亮にとっても見過ごしにはできないものだった。


 とはいえ。
「雛里ちゃん、あんまり思いつめると、一刀さんが怒っちゃうよ?」
「あ、あわわ、朱里ちゃん、突然何を?」
 もっとも、とうの本人が、それを抱えて頑張る鳳統を、勝利の女神と笑って称えてくれているのだ。そこまで気にする必要もない、と思ったりする諸葛亮であった。決して、自分より鳳統を見ていると思われる北郷へ意趣などない。うん、ないのである。
「……朱里ちゃん、なんか怒ってる?」
「はわわ、そそ、そんなことはない、うん、ないよッ」
「そ、そう?」
「も、もちろんだよ! さ、さあ、雛里ちゃん、下でこれからのことを考えよう。子仲(糜竺の字)さんに、荊州のお話をもっと詳しくお聞きしないといけないし、淮南の情報を集める手段も考えないといけないよッ」
「そ、そうだね、やることは山積みだね。がんばって、玄徳様をお守りしないと」
「そうそう! それで、一刀さんたちが帰ってきたら、よく頑張ったって褒めてもらおう!」
「しゅ、朱里ちゃん、やる気満々だねッ」
「そういう雛里ちゃんこそ、目の輝きが尋常じゃないよッ」




 言い合いながら、船室に下りていく二人の軍師。
「――まったく、ご主人様も罪作りなんだから」
 その背を見送りながら、貂蝉は小さく肩をすくめるのだった。
  




◆◆◆





 場所によっては対岸さえ見えない雄大なる長江の流れ。
 その中に漕ぎ出していく軍船の一団を見送り、江都の県城で趙昱は静かに安堵の息を吐いていた。陶謙から託された任務を果たし終えた安堵。そして、長らく引き止めていた窄融を解放できる安堵、その双方によるものだった。


 だから、不意に背後で扉が開く音がした時も、趙昱は特に驚くことはなかった。今、県令の執務室に自分以外はいないし、配下の者が確認もなく入ってくるはずもない。であれば、入ってくる者は必然的に限られてくる。
 振り向いた趙昱は、そこに予想に違わぬ窄融の姿を見出し、微笑みながら口を開こうとした。
 だが、それを制すように窄融は右の掌を趙昱に向ける。しゃべるな、とでも言うかのように。言うまでもなく、その無礼は明らかで、さすがに趙昱も唖然とせざるを得なかったが、窄融は気にかける様子もなく言葉を発した。
「あなたは、行かなかったのか?」
「う、うむ、やはり県令の身であるし、それに世話になった貴殿を、仲の攻撃に晒されるこの江都に置き去りにするわけには……」
「無用の気遣い」
「なに?」
 あっさりとした言葉に、趙昱は眉根を寄せる。
「無用の気遣い、と言った。私に報いるというなら、さっさと長江にその醜い身体を浮かべるべきだった」
 さすがにもう聞き捨てには出来なかった。趙昱は険しい表情で窄融に向き直る。
「窄融殿、たしかに私は貴殿に幾多の協力を得た上に、その行動を掣肘した。多大な恩義があり、償うべきことは多かろう。しかし、さきほどよりの貴殿の言動はそれを差し引いてもあまりに礼を失していはすまいか?」


 だが、窄融は趙昱の言葉にいささかの感銘を受けた様子もなく、むしろ嘲るように答えた。
「これから死ぬ者に、何の礼儀が必要と?」
「……なんと?」
 しかし、窄融はそれ以上、何も言おうとせず、小さく手を鳴らした。
 すると、扉から窄融麾下の兵とおぼしき者たちが数名あらわれる。すでに抜き放たれていた剣についた赤色が、いやに趙昱の目を惹いた。
「江都は我らがもらう。趙昱殿には、お望みどおり、県令として最後の勤めを果たしてもらおう。その首をもって、城民どもに主の交代を告げるという勤めをだ」
「な、何を言っている、窄融殿、正気かッ?! か、かりに江都を得たとしても、仲の軍勢相手に貴殿らだけで戦えるはずが……」
「戦う必要もない。すでに仲の大将軍とは話がついている――我らが江都に来る前から」
「なんと……?」
 それは、どういうことなのか。
 そう問おうとした趙昱だったが、すでに窄融は趙昱から背を向けていた。代わりに進み出たのは、名も知らぬ兵士。
 自らが殺されようとしている事実に、趙昱はようやく実感がわき、慌てて身を翻そうとする。
 しかし、狭い室内のどこに逃げるというのだろう。
「ま……!」
 待て、と。そう言おうとしたのだろうか。
 しかし、次の瞬間、鋭利な輝きを映した剣が趙昱の身体に深々と突き刺さる。一本、二本、三本、と。
 その身体が室内の床に倒れこんだ時には、すでに趙昱の目からは一片の生気も失われていた。





 江都において、県令である趙昱の死と、窄融による統治、そして仲への随身が明らかとなったのはそれからほどなくのことであった。
 窄融は仲によって改めて江都の県令に任じられ、そのまま江都を治めることになり、江都は仲の統治下に入る。無論、窄融は正直に趙昱を手にかけたなどとは言わず、仲へ反抗する者たちの策謀によって殺されたことになっている。
 この時、まだ黎明期にあった仏教を篤く信仰する窄融であったが、その評判は決して悪くはなく、江都とその周辺で行われた大規模な催しには、数千人、時には数万もの人が集まるほどの盛況を見せることになる。


 数年の後、この人物によって長江流域は血みどろの戦禍に包まれる。それは仲の命運はおろか、中華帝国の歴史さえ揺るがす大乱となるのだが――この時点で、それを予期できる者は、本人を含め、誰一人としていなかったのである。






◆◆◆






 そして。
 おれは――俺は目覚めた途端、全身を襲う苦痛に、思わず悲鳴をあげそうになった。
 その悲鳴を飲み込めたのは、何故か傍らで眠っている人の姿に気付いたからである。
 関羽は、俺の寝具に頭をもたげるような形で眠っていた。まるで、看病に疲れた恋人のようだ、とは咄嗟に浮かんだ戯言ですよ、関将軍。
「……なんで、関将軍がここに?」
 呟いた声が、自分でも驚くほどにかすれていた。起き上がろうとしても、身体に力が入らず、上半身を起こすことさえままならない。
 というか、動くだけで全身に刺すような苦痛がはしり、動きたくても動けないといった方が正確かもしれん。   


 声も出ず、身動きも出来ずとなれば、精々考えることくらいしか出来ない。
 見上げた天井は見慣れぬ形をしており、場所を知る手掛かりにはならなかった。しかし、天井や壁の精巧な造りを見れば、ここがかなりの規模の家屋敷なのだろうということは察することが出来た。少なくとも、高家堰砦ではありえない。
 関羽がいるということは、劉家軍にいるということなのだろうかとも思ったが、しかしどう考えてもあの戦況から、関羽が合流して劉家軍へ、という流れになるのは無理がある。
 いや、そもそも――
「なんで生きてるんだ、俺?」
 あの時、李豊の剣は確かに俺を捉えていたはずなのに。
 考えれば考えるほどに疑問が渦を巻き、答えの出ない問いばかりが思い浮かぶ。
 このままでは浮かび上がる疑問の海に溺れかねん、と判断した俺が、大人しく関羽の目覚めを待とうと判断した時のこと。


「……失礼する」
 控えめな問いかけと共に、ゆっくりと扉が開かれ、一人の人物が俺の視界に姿を見せた。
 黄金が照り映えるような見事な髪と、蒼穹を映すかのような両の目、そして秀麗としかいえないような容貌は、俺の記憶にある人物の一人と合致するものであった。
 はじめ、その人物はつっぷすように寝入っている関羽を気遣うように見つめていたが、すぐに俺からの視線が向けられていることに気付いたようだった。その目が大きく見開かれる。
「……気付かれたか、北郷殿」
「……お久しぶり、ですね、子和殿」
 再会の言葉を口にしただけで、咳き込んでしまった俺を見て、曹純は慌てたように水をもってきてくれた。
「慌てず、ゆっくりとのまれよ」
 その曹純の言葉に、俺は無言で頷いたが――うん、すみません、無理です。水って、こんな甘かったんだなあ、と思いつつ、貪るように飲み干してしまいました。
 さすがにお代わりを要求するわけには、と葛藤する俺に、曹純は苦笑しつつ、二杯目を持ってきてくれた。今度はゆっくり、味わって飲めました。良く冷えた水だ。よほど良質の井戸があるらしい。


 ますます、この屋敷がどこなのかわからなくなって困惑した俺は、様々な疑問の中で、真っ先にそれを曹純に問うた。
 すると、曹純が答えて曰く。


「ここは許昌です、北郷殿。昨今では許都とも呼ばれていますね。漢王朝の新たな都にして、我ら曹家の夢の源泉、御身は、今、その地にいるのですよ」





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