時は、後漢王朝末期。
王朝はすでに建国時の力と理念を失い、ただ惰性によって、歴史を引き摺るだけの存在と化していた。
悪化する治安。跳梁する賊徒。
官界には賄賂が横行し、官吏はその腐敗を恥じず。
罪無き民の怨嗟は、大陸を覆い尽くそうとしていた。
そして、皇帝が、自らの娯楽の為に、国家の要職さえ金銭で購わせるに至って、後漢王朝は中華の民を統べるに必要な信義を自ら手放すこととなる。
治、極まれば乱に至り、乱、極まれば治に至る。
ここに、光武帝劉秀によってもたらされた治世は完全にその輝きを失い、時代は乱へとなだれ込んでいく。
それは、力なきことが、罪悪とされる時代。無能が、悪徳とされる世の中。
朝廷は続発する反乱に目と耳を塞ぎ、群がり起こる賊軍は、ためらうことなく民衆を踏みにじる。
いつの世も、最初に犠牲になるのは、力なき民衆である。それは、人の業が定めた哀しい哲理。
されど、絶望に沈むことはない。
最初に犠牲になるは民衆なれど、乱世を終わらせる力を持つ者は、その悲劇の中より生まれ出るものだから。
戦乱の世を嘆く声が。大地に晒された屍の山と血の河が。何よりも、平和を願う民衆の願いが。
乱世を終わらせる者――すなわち英雄を生み出すこと。それもまた、人の業が定めた輝ける哲理なのである。
後漢王朝の崩壊に始まる群雄割拠の戦乱の世。やがて、それらは3つの勢力に統合される。
正義を掲げた、劉玄徳の興した蜀漢。
覇道を歩みし、曹孟徳が築きし魏。
調和を重んじた、孫仲謀の建てた呉。
三国が覇を競い、中華の大地を鮮やかに彩った時代を、知らぬ者などいないだろう。
それ、すなわち三国時代。
後の世に、永く語られることになる猛々しき争覇の時代にして。
幾多の乙女たちが、その心命を賭して駆け抜けた、繚乱の時代である。
「おら、こんなとこで力尽きてんじゃねえぞ! てめえら奴隷は、ただ働いてりゃいいんだよ!!」
牛馬用のムチを持った威丈高な男は、そう吠え立てると、躊躇うことなく、地面に蹲る若者の背を打ち据えた。
押し殺した苦悶の声と、人の皮が裂ける生々しい音があたりに響き渡る。
打たれた若者は、痛みに耐えかねたように地面に倒れ付す。
それを見た男は、嗜虐の表情を浮かべながら、その背を踏みつけると、更なる懲罰を繰り返した。
繰り広げられる凄惨な仕打ち。だが、周囲にいる人々の中に、それを止めようとする者はいなかった。それをすれば、次に懲罰を与えられるのが己であることを、皆、知っていたからである。
だから、彼らはただ地面を見詰め、暴虐の嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった……
「だ、大丈夫か、お若いの」
ようやく。
監督役の男が、嗜虐心を満足させて立ち去った後。
背中の痛みに耐えながら、立ち上がったおれに、1人の老人が声をかけてきた。
この老人、見た目はすでに60代の後半くらいであり、おれが今日のノルマの一部を引き受けてあげた人でもある。
自分のせいで、という慙愧の念をあらわにしている老人に、おれは余裕を持って、受け答えしようとする、が。
「あ、あんまり大丈夫じゃないですね……」
口から出てきたのは、我ながら、ちょっと情けないひと言であった。
さすがに、ムチで打ち据えられることは、1回や2回で慣れるものではなかった。
「すまんの、見ず知らずのわしをかばってくれたそなたを、惨い目にあわせてしもうて……」
「いえ、気にしないで……ッ痛、い、いえ、気にしないでください。どうせ、あの男からは目の敵にされてますからね」
努めて何気ない風に返答するが、どうやらさっぱりきっぱり上手くいっていないらしい。老人の顔から、自責の念が消えることはなかった。
周囲からも、心配そうな、申し訳なさそうな視線が注がれている。
おれへの仕打ちを見て、憤り、そして止めることのできなかった自分たちを責めている顔であった。
それを見て、おれは改めて知った。
ここにいる皆が、決して人間らしい感情を失ったわけではないことを。
牛馬の如き扱いを受けても、他者を思いやる心を持ち続けていることを。
そして、同時に思い知った。
乱世とは、力さえあれば、そんな直ぐな気持ちを踏み躙ることさえ許すような哀しい時代であることを。
おれが――つい先日まで、聖フランチェスカ学園の1生徒でしかなかったおれが、そんな時代にいるという現実を。
背中の痛みが、今さらながらに、その現実をおれに強いてくるのだった。
北郷一刀(ほんごう かずと)
年齢 17歳
部活 剣道部
所属 聖フランチェスカ学園
特技 爺ちゃんに叩き込まれた剣術以外に特筆すべきものはなし
趣味 剣道 読書 ゲーム
自分で言うのもなんだが、ごくごく普通の高校生、それがおれである。
もっとも、友人に言わせれば「剣術やってる人間が普通とか言うな」とのことだが、剣術といっても、田舎道場の流派を無理やり習わされた程度のもの。剣道部の成績だとて、そう大したものではない。
そんなわけで、そんな普通の高校生以上でも、以下でもありえないはずのおれが、何で、こんな場所で、こんな目に遭っているのかというと――それが、実は自分でも、さっぱりわからんかった。
わからんかったが、しかし、だからといって呆然自失していても、誰も助けてはくれない。実際、気がつけば黄巾族の人狩りに遭って、牛馬のような強制労働に従事する羽目になっている。
この現実は、夢のひと言で片付けるには、あまりにもリアリティに溢れていて、おれは現実逃避を早々に諦めざるを得なかった。
逃避を諦めたのなら、次は現実と向き合わねばならない。わけがわからないなら、わからないなりに、今の状況を掴んでおかなければならないのだ。
おれはこの半月の間、可能な限りの情報を集めてまわり、そして、1つの結論を出すに至った。
自分が、異なる世界に来ているのだ、という、正直なところ、自分でもそれはどうよ、と思う結論に。
黄巾の乱。
三国志を知る人ならば、その名前に覚えがあるだろう。というか、知らない人がいたら、三国志を知っていると言うのは嘘に違いない。
後漢末期の混乱に拍車をかけ、一時は王朝を滅亡寸前にまで追いやる勢いを見せた農民反乱のことである。
もっとも、農民反乱というには、規模が小さく、鎮定に要した時間も、後代のそれとは比べ物にならない短さであったことから、実際は太平道の張角が企てた謀反が、時代の混乱とあいまって大火となっただけという見方もある。
だが、いずれにせよ、この乱が後の中華帝国に少なからざる影響を及ぼしたことは疑念の余地がない。
そして、おれの命運に少なくない影響を及ぼしたこともまた、疑う余地がないことであった。
痛む背中にもだえながら、おれは奴隷たちがすし詰めにされている天幕の隅で小さくなっていた。
ここは黄巾党が労働力として、各地から攫って来た者たちが纏められている一画である。
言うまでもないが、その待遇は最悪で、ぬくぬくと育ってきた現代人であるおれにとっては、正直、命の危機をおぼえる状況であった。
それでも、何とか今日まで生き延びてこれたのは、ひとえに幼い頃から、爺ちゃんや親父たちに無理やり叩き込まれた剣術のおかげである。修行やら稽古やらに不満を漏らしたことは数え切れないが、今となっては、あの日々に感謝したい気分で一杯である。いつか元の時代に帰ったら、2人にはぜひともお礼をしなければなるまい。
とはいえ、問題なのは、そのいつかが、いつ来るのか、ということだった。
正直なところ、このままここに居れば、遠からず死ぬ。それはもう、額縁保証書付きの、時期を未来に設定しただけの、ただの事実であった。
とすると、ここから逃げ出さなければならないのだが、当然ながら、黄巾の連中は昼夜を問わず、見張りを立てて脱走する人間がいないか、目を光らせている。
毎夜のように脱走する人間が出るが、この監視の目を抜け出ることができた者は1人としていなかった。
失敗した人間は、更に悲惨な運命が待っている。
見せしめとして、公開で処刑されるのは、まだ良い方だ。この前の家族は、眼前で妻子を嬲られた挙句……
あの時の光景を思い出してしまったおれは、こみ上げてきたものを、必死に飲み下した。もう幾度、背中に刻まれたかわからない暴虐の、最初の仕打ちを受けた日。思わず止めに入ってしまったおれの眼前で、繰り広げられたあの光景を思い出すと、いまだに背筋が凍る。身の毛がよだつ。
打ち据えられた傷は、いつか癒える時が来るだろう。だが、胸奥に刻み込まれた、あの光景を忘れることが出来る日は来そうにない。
法も秩序もない世の中というものが、これほど醜悪なものであるとは、想像さえしたことがなかった。こんな風に思ってしまい、脱走する意欲を失くしてしまうのは、黄巾の連中の思い通りなのだろうが、生憎と、今のおれは連中の思惑を跳ね返すだけの気力も体力もなかったのである。
誰もが昼間の重労働で死んだように眠っている天幕の中で、おれは先の見えない煉獄に、ひそかにため息を吐いた。
明けて翌日。
その日も、おれたちは朝から休みなく働かされていた。
先日の一件以来、おれを目の仇にしている監督役の男が、今日も何かと文句をつけてくる。
しかし、すでに半月以上、この過酷な環境で生き抜いてきたおかげで、おれも今の状況に多少はなれてきてしまったらしい。連中が課してくる作業をこなすことは、大して難しくはなくなっていた。
もっとも、昨日のように、他人の分まで背負い込むとなると、かなり厳しくなりはするのだが。
相手もそのあたりのことは飲み込んでいるようで、今日も今日とて、また難癖をつけて、おれをいびりに来るかと思ったのだが、今日は少し様子が違った。
昼を少し過ぎたあたりから、監督役の男の様子が、目に見えておかしくなっていった。いや、よく見れば、やつだけでなく、そのまわりにいるいけ好かない連中もそうだし、おれと同じ奴隷たちの中にも、何やらそわそわしている者もいる様子。
はて、何なのだろうか。
おれが首をひねりつつ、それでも作業の手は止めずにいると、不意に、遠方から、遠雷の轟きのようなものが聞こえてきた。
それが、幾多の人々が発する歓声であると知った時、おれは思わず作業の手を止めていた。
そのおれの耳に、ひとつの名前が飛び込んできた。
張角様、と。
大賢良師、張角。太平道の創始者にして、黄巾党の党首。後漢末期の乱において、紛れもなく雄なる者の1人。
その人物が現れたというのか。
いったい、どのような人物なのだろう。今の状況を忘れて、俄然、興味が湧いてくる。
もっとも、奴隷の身で、拝謁することなど許されるはずもないのは明白であったから、おれはその興味を押し殺し、作業を続けようとした。
のだが。
『みんなのアイドル、張家の三姉妹がやってきました~』
「は?」
あまりにも。
あまりにも。
なんというか、あまりにも場違いな台詞に、おれは凍りついた。
幻聴か、と自分を納得させようとしたのだが。
『数え役萬☆しすたぁずの登場で~す!』
ウワアアアアア、とも、ウオオオオオ、ともつかない怒号が、押し寄せてくる。
気がつけば、監督役どもの姿も消えている。
どうやら、辛抱たまらずに、彼らのアイドルを見に行ってしまったらしい。
見れば、周囲の奴隷たちまでが、それに追随している。
誰もいなくなった荒れ野に1人佇むおれ。
吹き付ける風の冷たさと、彼方で高まる熱気の温度差に、なぜか泣きたくなった。