<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

椎名高志SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[528] 儚き蛍火
Name: z
Date: 2006/01/15 11:05
 世界に刻まれる歴史や様々な人物の生涯は無数の必然と偶然と選択によって綴られている。
 例えば美神令子と横島忠夫の出会いは1000年前から約束された必然と言えるかもしれない。その一方で横島忠夫とルシオラの出会いは間違いなく混沌とした状況が織り成した偶然であった。けれど人を支配し、滅ぼす事を画策する魔神から生み出されたルシオラが、横島忠夫に惹かれるようになったのは果たして偶然だったのか、それとも必然だったのか、それは最高神すらも分からない。
 そしてルシオラが逆天号から投げ出されて死に掛けた所を横島忠夫に助けられてから、数日後。
 あの日から胸の中で急速に育まれていく甘酸っぱい感情をはっきりと認識した彼女はある決断を下して横島を買い物へと誘った。






 ────敵でもいいから、もう一度一緒に夕焼けを

 ────おまえ、馬鹿なの!?

 あれは告白だったのだろうか。それとも………。

「それじゃあ帰るわよ、ヨコシマ」

「!?───ああ」

 その声で横島の意識は現実へと回帰した。
 気がつけば、美智恵と連絡を取って基地の場所を教えるかどうか逡巡する間に、ルシオラは買い物を終えている。
 機を完全に逸した横島は、しかし何となくほっとした心地で荷物を受け取ると、車に乗り込んだ。




 スーパーマーケット『サンデーR』を出て最初の交差点に差し掛かった時、ルシオラはハンドルに向かって何かをボソッと呟いた。
 すると2人を乗せた燃料不詳の車は不気味な声で鳴きながら往路とは別の道を辿りだす。

「ちょっと遠回りになるけどこっちから帰りましょう」

「えっ?でも西側からだと基地に着くまでかなり時間がかかるんじゃ」

「いいの。こっちからなら見たいものが見えるし、それに………」

 回り道すれば、少しでもお前と一緒に居られるから。
 続く言葉を呑み込むとルシオラは黙ってハンドルを握った。
 そして彼女の意を受けた車は交差点を後にすると、山道を往路とは逆の西側から回り込むような道筋で帰途についたのだった。







 


「どう、綺麗でしょう?」

「ああ、高度3000m超の逆天号のデッキからとは違った味があるな」

 澄み切った空は華麗に染まり、散在する落葉樹や野草は夕日に映えて穏やかな緑を情熱を思わせる鮮やかな赤へと変えている。
 山道の頂上付近にあった路肩に車を止めて外に出た2人は、肩を並べるように芝の生えた歩道の傍らに腰を下ろして西の彼方を眺めていた。
 2人の目には、今日一日の役目を終えた陽光が世界に赤を炸裂させながら、溶ける様に地平線に沈んでいく姿が映っている。
 日々繰り返されている終わりの情景。
 それは正しく昼と夜の一瞬のすきまであった。

「ふふ。実は私ね、逆天号のデッキ以外から夕日を見るのって初めてなんだ」

「地上に降りたのは今回が初めてなのか?」

「そうじゃないわ。
 つい最近までは私もベスパもパピリオもずっと魔界にある基地に閉じこもってアシュ様の御手伝いしてたの。
 だから地上から夕日を見た事はなかったのね」

 これは軍事機密だから内緒ね、と屈託なく微笑むルシオラに相槌を打ちながら、横島は己の心が浮き立ってくるのを感じていた。
 コスプレの様な戦闘服を脱いで、カジュアルな服装に身を包むルシオラの姿は触覚さえなければ感情豊かな人間の美少女と何ら変わりなく、嬉しそうに顔を綻ばせる彼女の態度の端々には横島への仄かな好意が滲み出ている。たとえ直ぐ隣にいる相手が気の迷いも同情も許されない人類の敵とはいえ、それでもこうして2人っきりでいる時間は掛け値なしに楽しかった。

 ────敵でもいい。また一緒に夕焼けを見て。

 あの時のルシオラの願いに嘘などなく。
 そして今、隣に居る彼女は横島の目にもはっきりと分かるほど嬉しそうに紅い空を眺めていた。
 どこか儚げな美しさを湛えるルシオラの横顔を見ていると、彼女の期待を裏切らなくて良かったとしみじみ思えてくる。
 美智恵や人類にとっては許し難い怠慢かもしれないが、きっとこれで良かったのだ。
 情が移ってしまった事を自覚しながら、彼は美神達への後ろめたさを誤魔化すように声を出した。

「そう言えばここからだと基地に着くまで相当時間がかかるだろ。
 あんまり遅いとベスパ達が心配するんじゃないか?」

「大丈夫よ。サンデーRを出る時に電話しておいたから。
 それに蜂蜜とタンパク質は備蓄があったから、私達が今日の夕食に間に合わなくても平気なの」

 そう言えばそうだったな、と僅かに苦笑いの成分を含ませながら、横島はサンデーRの公衆電話をちらちらと見ていた己の姿を思い返していた。
 今、あの時の事を思うと幾分の罪悪感と安堵が緩やかに胸を掠めていく。
 けれど結局どこまでいっても、ルシオラが人間を滅ぼす魔神に組している限り、2人の間には決して埋められぬ断裂があるのだ。

 ────せめてルシオラがアシュタロスの使い魔じゃなくてただの魔族だったら。

 視線を地平線に向けたまま、遣る瀬無い感傷に囚われそうになった時、

「今日はありがとう、横島。こんなに素敵な思い出をくれて」

 淡々と感謝を紡ぐ声が届いた。
 振り向けば何かを決意したルシオラの顔。
 まっすぐにこちらを見詰める瞳は彼の胸中の迷いを見透かしているようで。
 何かに押されるように、俺は何もしていないと言いかけた横島の唇を彼女の指がそっと塞いだ。

「この辺りの事が詳しく書かれてる地図よ。これを見ながら歩けば5時間くらいで最寄の駅に着くと思うわ」

 そう言いながら彼女はポケットの中から折りたたまれた紙片を取り出した。
 反射的に手をその紙片に伸ばそうとして───そこで彼はルシオラの瞳を揺らす寂寥と諦念に気がついた。
 良く見れば彼女の指先は微かに震えている。
 それはまるで内心の葛藤を表しているようで。
 その時何故か、

 ────下っ端を使い捨てるなんてアシュタロスと変わらんじゃないか!!
       そんなやり方、俺は認めんからなっ!!

 以前、美智恵に切った啖呵と苛立ちが去来した。
 苛立ちの次に浮かんだのはTV局でパピリオが連れて来たキャメランが美神を圧倒した光景。
 美智恵が駆けつけるまで、稀有な力を持つ霊能力者達が神魔の武具を用いて総力を挙げても
 それは覆せぬ残酷な事実を物語っていた。

 このまま逃げれば次に会う時、まず間違いなく自分とルシオラ達は敵同士として対峙する事になる。
 実力が違いすぎて手加減など考える余地もない恐るべき敵として。
 いや、一緒に夕日を見ている今ですら2人は相容れない間柄なのだ。
 ルシオラだって既に横島の正体が人間側が差し向けたスパイだと気付いているのだろう。

「どうしたの?これがあれば今夜中にでも逃げられるわ」

 促すような彼女の声。けれど注意して聞けば、語尾が震えているのは明らかだった。
 それでもルシオラは、仲間に疑われるリスクを犯してまでも彼を逃がそうとしている。
 傍にいて欲しいという本音を胸に隠したまま、生き延びて欲しいと願って。
 それに気付いた時、横島の目には、ルシオラが寂寥と哀切に苛まれる可憐な少女にしか映らなかった。

 ────それでホントに良いのかよ!

 強く問い返したい気持ちに駆られながらも、横島は必死にそれを抑え込み。
 けれど募る苛立ちは彼の理性を侵食して。
 いつのまにか心底に沈殿していた訳の分からぬ情動が溢れ出して。

「……ねえよ」

「えっ?」

「逃げるのは1人じゃねえよ!ルシオラ、俺と一緒に行こう!!」

「な、何を!?わ、わたしはおまえ達人間の敵で───」

「それが何だよ、俺だってテレビ中継されたせいで人類の敵扱いされてるさ!
 でもきっとそんな肩書きなんかどうにだってなる、絶対に!
 アシュタロスに使い捨てにされるくらいなら俺達のところに来いよ。
 寿命だって神族や魔族がいるんだから何とかなるって!!
 そうすりゃ、夕焼けなんか百回でも二百回でも一緒に―――――!!」

 気付けば横島は叫んでいた。抑えきれない真情をどうにかして伝えようと、支離滅裂気味に言葉を並べ立てていた。

 戦いたくない。
 殺し合いなんかしたくない。
 生きて欲しい。
 それは決して抱いてはいけない思いの筈だった。
 それが分かっていながら………けれどもう、どうしようもなかった。

 ────あいつら、好きだ。

 恐るべき力を示す姿も、他愛無い事に一喜一憂する姿も、生活感に溢れる姿も。
 そんな等身大の彼女達を見続けた末に至った気持ちは、少年期に特有の未熟な感情故の産物だとしても、嘘じゃなかった。
 彼の胸に蟠っているアシュタロスや美智恵への反発とも相まって、その想いを気の迷いだなどと誤魔化し、切り捨てられる筈がなかった。
 それは三姉妹の寿命の事を知った時に初めて生じ、人質を前に土遇羅達が攻撃を延期した時から徐々に膨らみだし、美智恵の攻撃からルシオラやベスパを助けた時に確固とした形になり、そして今はもう決して切り捨てられない想いに昇華した親愛の念だった。

「………本気で言ってるの?」

「ああ、本気さ、ルシオラ。
 俺は嫌だ。これでお前と一緒に夕焼けを見るのが最後だなんて絶対に嫌だ」

「ヨコシマ………」

 半信半疑の面持ちで聞き返す彼女に向けられた横島の真摯な瞳と言葉。
 そこには、気遣いと懇願と誤魔化しようもない彼女への好意が溢れていて。
 だからルシオラの心に名状し難い感情が突き抜けた。
 望むなら何度でも一緒に夕焼けを見ようと、そう言ってくれた横島への愛しさが心の底から込み上げてくる。
 たとえその言葉の根底にあるのが憐れみだったとしても、仇敵である自分に寄せてくれた彼の好意は本物だった。

「ありがとう、すごく、嬉しい。
 ………でも、それはできないの」

 だがルシオラはその愚かしいほど優しい申し出を拒んだ。拒まざるをえなかった。
 裏切りは死を以って報いる。それが彼女達に課されたテン・コマンドメントの楔。
 逆らえば命はない。創造主に逆らう道具に価値など無いのだから。

 ────それでも、たった1年の命ならば、終わり方を選ぶ権利ぐらいは私にも。

 けれど横島という男の心に自らの存在を刻み込みたいという激情は、それが主と妹達とそして目の前の心優しい少年が望まぬ行為だと理解した上でなお彼女の理性を振り切って、もう引き返せない所まで高ぶって。
 ルシオラは疑問を宿す横島の眼差しから隠れるように彼の肩に顔を埋めると、耳元に口を当てて己の決意を囁いた。

 ────おまえの思い出になりたいから、部屋に行くわ。

 あまりにも明け透けな意味を持つ言葉に、横島の心身が完全に凍りつく。
 口をパクパクさせながら必死に何かを確かめようとする彼に向かって優しく頷いてみせると、ルシオラは恥ずかしげに目を伏せながらそっと己の頭を横島の肩に乗せた。
 横島の腕に耳を押し付けると温もりと共にトクントクンと音がする。
 少しだけ速いテンポのメロディーは彼の生きている証。 
 その生命の音に耳を傾けながら、ルシオラは己の死に様を反芻した。
 人間の男に抱かれる事。
 それはコード7への抵触。
 自分の肉体と魂の死を意味する禁忌。
 だが皮肉にも彼女に生きて欲しいと願う横島の優しさが、ルシオラの心に残っていた迷いを打ち消して。

 ────本当は、今日だけなんて、いや。私も、ずっとこうしていたい。

 それはいつの間にか胸の中に芽生えた綺麗な夢。
 誰にも明かせない彼女だけの見果てぬ夢。
 叶わぬと知りながらも、想わずにはいられぬ夢。
 それでも茜色の光に照らされながら横島の手を握る彼女の心は、これ以上ないくらいに満たされて。

「ヨコシマ」

「ん?」

「好き。大好き」

「ふえっ!?」

「答えなくていい。ただ、言いたかっただけだから」

 目を空へ向けたまま呟くと、ルシオラは横島の腕に縋りつく。
 快晴の日の空に浮かぶ雲の様にゆったりとした時間が流れ、心地よい静寂に身を任せる少年と少女の間をそよ風が吹きぬけていく。
 夕暮れの光が、浮かべた恥じらいと畏れを隠そうとするかのように2人の顔を赤く染めている。
 その空を。己の生涯で最後となる夕焼けを。ルシオラは万感の想いを込めて見つめた。
 美しい空だった。目の前に広がる、黄昏と呼ばれる茜色の終焉は最高に美しかった。
 そうして2人は寄り添うように肩を寄せ合い、手を繋ぎながら、世界が闇に包まれるまで黄昏の情景を眺め続けていた。














 すっかり暗くなってから、ようやく基地に戻った二人を迎えたのはご機嫌斜めのベスパとパピリオだった。
 ルシオラの夕焼け好きを知悉しているとは言っても、思いっきり羽を伸ばしたいと思っているのはベスパもパピリオも同じ。
 夕焼け観賞のおかげで真っ暗になるまで帰ってこないのでは、文句を言いたくもなるというものだ。
 ルシオラはベスパを謝罪を織り交ぜながら巧みに宥めすかし、横島はパピリオのご機嫌を取る為に散々ゲームに付き合って。
 ようやく2人が解放されたのは、あと少しで日付が変わろうとする時間だった。




 付近に民家もない山荘は深夜を迎えて静寂に包まれていた。
 既に住人達は皆、寝室のベッドに戻って夢の中にいる。
 けれどその中で、横島忠夫の意識は脳内を駆けめぐる麻薬のような分泌物の作用によって眠気を寄せ付けずにいた。
 どっくんどっくんと心臓が荒々しく鼓動を刻む音がする。
 さっきから喉が渇いて仕方がない。
 ごくりと唾を飲み込むと、その音もやけに大きく反響しながら鼓膜を震わせる。
 既にベッドに入ってから20分が経過しているが、充血した横島の両眼は見開かれ、鋭い視線で虚空を睨んでいた。
 寝室に入ってから一気にテンションを増して、今はもう臨界寸前にまで昂る煩悩と緊張感。
 鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚は、常ならば聞こえる筈のない梟の夜鳴きや虫の声を捉え続けている。

「まだなのかよ・・・・・・・って言うかホントにやっちまうのか、俺?」

 交差する迷いと焦燥感。
 それは彼の興奮を加速させ。
 痺れを切らして立ち上がろうとした時、トントンと控えめな力でドアがノックされた。

「お待たせ、ヨコシマ」

「あっ、ああ」

 戸を開けると、滑り込むようにして現れるネグリジェの上にパジャマを羽織ったルシオラの姿。
 手に抱えた枕はこれから2人がしようとする事を雄弁に物語っていて、横島の心臓がドクンと大きく跳ねた。
 綺麗だった。月明かりに照らし出されたルシオラは本当に綺麗だった。
 思わず目も言葉も心さえも奪われて立ち尽くす彼の横を通り過ぎると、彼女は並べる様にベッドに枕を置いて振り返る。

「ヨコシマ?」

 答えはない。横島は呆けたように口を開いて立ち竦み、血走った目に欲望と共にある種の畏れと保護欲を浮かべていた。
 月光の下に佇むルシオラは何故かとても儚く見えた。

「どうしたの、やっと二人っきりになれたのに?」

 言葉を失った少年にゆっくりと近付くと、彼女は己の思いの丈全てが伝わるようにと、体中を密着させるように彼の胸に頬を寄せた。
 その気になれば一瞬で殺せてしまう脆弱な人間の体。
 けれど抱きついた彼女の肌に伝わる温もりは何もよりも心地よく。
 おずおずと彼女の背に手を回し、抱き返してくる彼の手はあの時の様に優しくて。
 目の前にいる横島の全てが、泣きたくなってしまうほどにルシオラの胸を切なくさせる。

 そして同時に彼女は自覚する。
 抱きとめられた時の胸の高まりとは別に、体の奥がどんどん熱くなっている事に。
 早鐘を打つ心臓と、どんどん熱を増していく己の呼吸。
 今、自分は欲情してる。
 一緒に夕焼けを見て、彼女を助けたいと言ってくれたこの男に心から抱かれたいと願っている。
 胸と腕から伝わってくる、少年の体温と霊波。
 見た目によらず細身でがっしりとした胸板と、そこから伝わってくる少年の心臓の音。
 耳を澄ませば彼の鼓動も自分と同じように激しくなっているのが分かる。

 ────興奮してくれてるんだ。

 ソレを理解した途端、彼女の中の熱情は更に上方へと駆り立てられた。
 もう抑えなど効かない。誰が何と言おうとも止まらない。
 たとえこの逢瀬が今宵限りの朧な夢だとしても、夏の夜に伴侶を求めて飛び回る儚い蛍のように、自分は自分の意志で恋に生きて恋に散る。

 ────私が死んでも、ヨコシマの思い出の中に一緒に夕焼けを見た私と今の私の姿が刻まれるのなら、それだけで私は………。

 ずっと少年と一緒にいたい。その許されざる欲望を振り切るようにルシオラは顔を上げるとそっと少年の口を塞いだ。

「ル……シ……オラ」

「……う、くん………」

 触れた唇の熱さにのぼせ上がったようにルシオラの脳裏が白くなる。
 妹達への罪悪感も主である魔神への畏怖もその心からは消え去って。
 もう何も考えられなかった。
 ただ今の想い全てを伝えたくて、彼女は恥じらいも忘れて横島の唇を激しく求めた。

「っ、ん……す、き………」

 呼吸が既に獣の様に荒くなっているのが分かる。
 唇を離して見詰めあうと自分を見る横島の瞳からも理性が消えかけている。

「ヨコシマ」

 本能から湧き出る恋と言う名の熱情と欲望が少年の体を求め、ルシオラは彼の首にかじりついた。
 彼も躊躇いがちに腕を伸ばし、けれど彼女を受け入れるように確かな力で抱き返す。
 1つになろうとするかの様に、体を、腕を激しく絡ませた抱擁。
 体温と想いの全てを永遠に残るように刻み込みたくて、

「ふうっ………んぁ」

 ルシオラは鼻を鳴らして再び口付けをせがむ。
 雪の様にゆっくりと静かに降ってくる少年の唇。
 緊張のせいか慣れない仕草で戸惑うように与えられるキスは稚拙極まりない。
 けれどそんなぎこちない愛撫すら、極上の砂糖水の様に彼女を酔わせていく。

「ね、ヨコシマ。脱がすわよ」

 肌と肌を隔てるTシャツの裾に手を掛けながら悪戯っぽく微笑む少女に少年は柄にもなく照れながら脱がしやすいように両手を差し上げた。
 Tシャツを脱がせると露になる彼の上半身。
 細身ながらも数々の修羅場を乗り越えたせいか、そこには引き締まった筋肉が付いている。

「……んっ」

 そっとなぞる様に胸板や肩に口付けて舌を這わせると、横島の体がぶるりと震えた。

「ルシオラ、俺も」

 彼女のパジャマのボタンをはずそうと首元に伸びてきた彼の指。

「待って………」

 それを柔らかく押さえると、ルシオラはゆっくりと立ち上がり、少しだけ横島から離れた。

「よく見ていてね」

 ずっと忘れないようにね、と言外に思いを託しながら彼女は白磁のように細く滑らかな指をボタンに掛けた。
 横島の目が淫魔に魅入られたかのようにルシオラの姿に釘付けとなる。
 やがてプチプチとボタンが外れていく音が何度か響くと、ルシオラのパジャマがさらりと落ちた。
 金縛りにあったように静止したまま見つめる横島の前で、肌身が透けている薄手のネグリジェが現れる。
 羞恥に頬を染めながら僅かに目を伏せると、ルシオラはそれも脱ぎ捨てて、彼女の裸体が露わになる。
 傷一つ無い白磁の様な肌。
 妖精のような華奢な全身。

 そして胸を隠すように腕を組みながら、ルシオラは窓から差し込む月光の中に佇んで、彼の視線に己が肢体を晒す。
 恥ずかしくて倒れそうになりながら、けれど己の全てを覚えてもらいたくて。

「綺麗だ………すごく綺麗だよ、ルシオラ」

「………うれしい、ヨコシマ」

 潤んだ瞳、紅潮した頬、
 触れれば消えてしまいそうな儚いルシオラの裸体。
 その彼女の全てがあまりにも美しすぎるから。
 きっと、そのせいだろう。
 こんなにも興奮しているのに、自分が雇い主にセクハラする時の様に飛び掛る事もせず、どこか冷静にルシオラと接触できるのは。




 しばらく見詰め合ってから、ルシオラは横島との距離を詰めると、目を瞑りながらもう一度彼に口付けた。
 裸体になったせいで直に伝わってくる体温と肌の感触が彼女の興奮を更に押し上げていく。
 さっきまでは僅かに余裕の残っていた横島の理性も日光を浴びた雪のように溶けていく。
 差し込まれ、絡まり合い、舐り合う舌と舌。
 唇を触れ合わせたまま目を閉じると世界から景色が消え、口歓の感触だけが彼女の感じる全てとなる。
 それは刹那だけの全能感。

 ────永遠なんてない。

 短い己の生に思いを馳せる時、彼女はつくづくそう思う。
 道具として作り出された自分は用済みになれば役目を終えて消滅する。
 その在り方はシンプルで純粋であるが故に無機質だ。
 でも………それだけでは寂しすぎると感情が訴える。
 だから、だろうか。
 たとえこれが彼にとって刹那の逢瀬に過ぎないと分かっていても、いつか横島忠夫の隣に別の女性が並ぶ事になると分かっていても、こんなにも求められる事が嬉しいのは。こんなにも切ないほどに激しい歓喜に胸が満たされるのは。

「ヨコシマ。ヨコシマ!」

 やがて、肉体の昂りを表す様に喘ぐ声には艶が混じり、彼を抱きしめる腕には力が篭る。
 ただ抱き合っているだけで達してしまいそうになりながらも、ルシオラの体は貪欲に横島を求めて動き出す。
 背中を撫でるように腕を滑らせ、横島の首筋や耳元に唇を押しつけ。
 横島もそれに答えて彼女の顔中に口付けの雨を優しく降らせ。
 それは横島とルシオラの情欲の結晶だった。
 だからもう、抱き合う2人に理性は無く。
 激情に流されるままに絡まりあった彼らの姿態は、いつの間にかベッドへと倒れこんでいた。

 重なり合うと、下になった彼女の体に横島の重みと体温と緊張までもが伝わってくる。
 それは温かくて心地よい感覚だった。
 体を重ねるだけでこんなにも幸せな気分になれるのだと、気付いた彼女は瞼を閉ざして息を吐く。
 太股に伝わってくる灼熱。それは押し付けられた横島の滾り。濡れている自分の女陰。
 
 ────さようなら、みんな。
 
 遂に待ち望んでいた瞬間が訪れた事を悟ったルシオラは瞑目したまま、己の未来とアシュタロスや妹達と、そして横島忠夫と出会ったこの世界に別れを告げた。
 目を瞑ると最後に思い浮かんでくるのは、肩を寄せ合いながら眺めた今日の夕暮れの空。
 一日の終わりを告げる紅の景色に己の宿命を重ねた少女は、黄昏という言葉をこれ以上ないくらいに噛み締めながら、今の自分があの空の様に美しい思い出となって少年の心の中に残り続ける事を想って幸せそうに微笑んだ。

 ────最後に一緒に夕陽を見たね、ヨコシマ………昼と夜の一瞬のすきま。
       短い間しか見れないから………きれい………。






 やがて夜空に輝く月が天頂から緩やかに下り始めた時、少女は少年の腕に抱かれながら想いを遂げた。
 横島を受け入れた彼女の体は引き裂かれるような痛みに震え、その心は至福に咽び泣く。
 同時に始まる魔神の仕掛けた霊体ウイルスの蠢動。
 それは、まるで彼女がこの世界に存在したという事実さえ許さぬかのようにルシオラの幽体を完膚なきまでに蹂躙して。
 消えていく。
 消えていく。
 与えられた使命も、2人の妹達との思い出も、そして少し前に出会った最愛のヒトの記憶も、その何もかもが痛みと共に消えていく。
 強風に吹き飛ばされる砂塵の城の様に崩れ、打ち砕かれ、粉々に散らばって。
 刹那の間に彼女の全てを破壊し尽くして。

 それでもなお────

「ヨコシマ、ありがとう」

 ────呟く声にはウイルスにすら消せぬ想いがあった。

 その命が儚い夏の空に舞う蛍の様に散る定めにあろうと、きっと彼女の姿は横島忠夫の中に残り続け、ずっと傍にいる事が出来る。
 そんな予感があった。
 だからルシオラは穏やかな想いに包まれたまま、優しく終焉を受け入れて。
 妖精の様に華奢で優美な少女の肉体と幼さを残したその一途な魂は、横島忠夫の目の前で跡形もなく消滅した。










「ルシオラ?」

 突然消えたルシオラの温もりと気配に、夢現だった横島の意識が覚める。
 不審に思って見渡すが、やはり寝室に人影はない。
 何故か湧き上がる不安と喪失感に慄きながら、クローゼットの中やベッドの下を窺うが、全てが徒労。依然、彼女の姿は見当たらず。

「夢………じゃねえよな」

 ベッドを顧みれば、濡れたシーツは何よりも雄弁に先刻の秘め事の証を主張する。
 それに加えて、ルシオラが脱ぎ捨てたパジャマにネグリジェが残っている。
 ならばどうして彼女がいないのか。
 徐々に強まる不安と混じり始めた恐怖。
 それを振り払おうと横島は素早く脱ぎ捨てた服を身に付け、ルシオラを探すためにドアに手を掛けて───そこでドアと扉の間に挟み込まれた紙片に気がついた。

 明かりを点して紙片を覗き込むと、飛び込んできたのは彼女の文字。
 ルシオラが書いた手紙だった。




「………嘘だろ?」

 読み進める横島の手に奔る震えが徐々に嵩を増す。
 次から次へと滲んでくる涙に曇った視界が続きを読む事を妨げる。

 手紙の中には、彼の予想を遥かに越えた過酷な現実があった。
 テン・コマンドメントと呼ばれる裏切り防止の為の霊体ウイルスの存在。
 人間との交わりがコード7に抵触する事。
 そしてテン・コマンドメントに逆らった者に対する末路があった。
 にも拘らず。
 これを横島が読んでいる時には、自分自身が死んでいるのだと承知しながらも。 
 簡単な文章の中には、彼女の想いや後悔などないと語る彼女の決意を綴った言葉が溢れていた。
 道具として終わりを迎えるよりも、惚れた男の腕の中で迎える最期への喜びと、恋を教えてくれた横島に対する感謝すら綴られていた。 

 そして、基地からの逃走ルートや逃走手段に関する説明が終わると────




 時々でいいから思い出しで欲しいな。
 おまえの思い出の中にいる私の姿を。

 追伸

 この手紙はこの部屋に置いていってください。
 私が何をどう思って生きたのか、ベスパ達にも知って欲しいから。




 ────彼女の手紙は最後に、そう結ばれていた。




 立ち尽くし、戦慄きながら唖然と虚空を見上げた横島の目に映るルシオラの微笑み。
 闇に溶けていくように消えたルシオラの姿。
 儚げに夕日に見入っていたルシオラの顔。
 思い返せば彼女は何かを悟っていたようで。

「………悪い冗談で俺をからかってるんだよな、ルシオラ?」

 自分でも真実とは程遠い言葉だと分かっていながら、しかし彼はルシオラがそれに応えて姿を現すのを待った。
 返事はない。一分、二分と時が過ぎても返事はない。
 だから茫然自失に陥った横島は、手紙を握り締めたまま部屋の中に立ち尽くした。
 まるでルシオラの残滓を少しでも長く感じとろうとするかの様に。










 真夜中、突如全身を奔った妙な違和感によってベスパの眠りは急速に覚醒へと向かった。
 元々連絡があったとはいえ、夜になるまで帰ってこなかったルシオラに何となく危ういモノを感じていたベスパである。
 直感的に不吉の発生を感知した彼女は、直ぐに起き上がると真っ先にルシオラの部屋に向かった。

「姉さん?」

 ノックをすれども返事はない。
 意を決して部屋に入れば、ベッドの中はもぬけの殻。備え付けの枕もない。
 重なる不審に焦燥感を募らせながらベスパは姉の霊臭を嗅ぐ。
 するとそれは横島の寝室へと続いていた。

 寝室のドアを開けた瞬間、ベスパは嗅覚を刺激する異臭に強い違和感を感じて立ち止まった。
 何かが終わってしまった空間。そんな比喩が浮かぶほどに、室内の霊波は荒々しく乱れている。
 明かりの点いた部屋の中央には、茫洋とした面持ちで横島が突っ立っている。
 その足元には、姉が身に付けていたパジャマとネグリジェ。

「まさかっ!?ポチ、姉さんは。姉さんはどうしたんだい!?」

 想像しうる最悪の事態に怯えながらも厳しい声でベスパは尋ね、けれど耳が聞こえぬかのように横島は彼女に目も向けず。
 埒があかぬとばかりに肩を揺さぶれど答えは無く、業を煮やしたベスパは強引に彼の持つ紙片を奪い取る。
 そして紙片に目を通した彼女は驚愕の内に理解した。
 コード7が発動して、姉の命が失われた事を。

「───おまえが姉さんを!!」

 驚きと悲しみは反射的に赫怒へと変化した。
 横島の襟首を掴んで引き寄せ、渾身の一撃で頭蓋を吹き飛ばそうと振りかぶり。
 唐突に、拳が止まった。

 ぺスパの瞳に映る横島は泣いていた。
 虚ろな目で声もなく、ただ泣いていた。
 故に彼女の理性は悲嘆と憤りに焼かれながらも理解した。横島のルシオラへの想いの深さを。

「よりにもよって両想いだったのかい」

 吐き捨てるように呟くと、ベスパは一歩下がって横島を見た。
 何という皮肉だろうか。
 ルシオラが横島を好きになったように、横島も魔族であるルシオラに好意を持っていたのだ。
 逃げようと思えばベスパが駆けつけてくる前に姿をくらます事など容易かっただろう。
 こんなところで涙を流して貴重な時間を消費するなど愚の骨頂だ。
 なのに目の前にいる男は、心底からルシオラの死を悲しんでいる。
 この場に居れば命を落とすかもしれないのに。
 逃げるには絶好の機会なのに。
 それでもこの場所に居続けて。
 だからこそ彼女の理性は感情の高ぶりにブレーキをかけ、ぎりぎりの所で殺意を押し留めたのだ。

 もう一度、手紙に目を通す。
 彼女の姉が命を捨ててまで一緒の夜を望み、そして生きていて欲しいと願った男。
 彼はルシオラの真実を知らずにその望みを叶え、今はベスパの殺意にすら反応を示さぬ深い虚脱状態に陥っている。
 怒りは収まらず、許せる筈もないけれど、それでも姉がどれほど彼を愛し、その無事を祈っていたのかは分かった。
 どうしようもなく、分かってしまった。

 姉は馬鹿だ。
 姉は愚かだ。
 姉は………。
 次々に浮かんでくる思いにベスパの胸が激しく揺さぶられ。
 耐え切れなくなった彼女は再び横島の襟首を引っつかむと、窓から飛び降りた。

 山荘を抜けて闇へと降り立つと、ベスパは横島を突き飛ばす。
 夜に濡れた砂利が彼の掌と顔面に食い込み、その痛みと冷たさにようやく横島は我に帰った。
 ぺスパの姿を認めた彼の目が一瞬不思議そうに瞬き、直後に諦観と慙愧に取って代わられた。

「行っちまいな、ポチ」

 そんな横島から顔をそらしながら、低い声で感情を押し殺すようにベスパは告げる。
 
「お、俺は………。そ、その良いのかっ!?」

 横島は煩わし気に視線を向けると、何もしてこないベスパにまるで自分を殺してくれと頼むかのように問う。
 抱きしめている内に確固たる想いへと育った情愛と、生まれて初めて心から愛されたという事実。
 それは少年の心に限りない喜びと───その全てを飲み込むほどに深い絶望を与えた。
 だからもう、煩悩も美智恵に捨て駒にされそうになった憤りも生きようとする執念すらも、少年の中から消え失せて。
 そこにはもう空っぽの洞しかなく、冷え切った彼の心はあまりにも大きな自責に耐え切れずに死すら望んでいたのだ。

「ポチ、最後に姉さんはどんな顔してた」

 彼の疑問に答えず唐突に問い返す。

「………」

「………」

 沈黙。
 思い出す事に怯え、伝える事を怖れ。
 けれども彼は嘘偽りのない真実を告げた。

「………笑ってた。幸せそうだった、と思う」

「そう………か」

 答えは彼女の想像したとおりだった。
 哀しげな声音で搾り出された横島の言葉は、忌々しいまでにベスパの想像と一致していた。

(姉さんの………バカ)

 故に彼女は憐れんだ。
 憐れんではいけないと知りながら、至福の内に逝ってしまった彼女の姉を───結ばれる事に至福を見出した姉の儚さを憐れんだ。
 そして一年という短い寿命に縛られた彼女自身と、彼女の妹を憐れんだ。
 憐れみながら………いつの間にか彼女の体は道具として使い捨てられる悲しみに震えていた。
 その姿にルシオラが重なり、思わずベスパに手を差し伸べかけて。

「っ!?」

 次の瞬間、横島はベスパに殴り飛ばされ、10m近くも吹き飛んだ

「いいか、ポチ。次に会った時、あたしもパピリオも絶対にお前を殺す!
 だからお前もあたし達を殺すつもりで戦え!!
 姉さんを死なせておいてあっさり死ぬなんて許さない!!」

 追い討ちをかけるかのように大声で叩きつけるベスパの苛立ち。
 充血に紅く染まった目で横島を睨みつけながら、けれどベスパは切に願っていた。
 早くこの場を去れ、自分の目も霊感も届かぬ場所へ逃げろと。
 少しでも気を抜けば、狂ったように暴れまわる悔恨と憎悪が彼女の体を動かして、姉が愛し、姉の命を奪った男を引き裂いてしまう。
 だからその前に、姉の願いを無にせぬ為に、どこへなりとも行ってしまえと。

 それを読み取った横島は何かベスパに言いたくて、けれど何も言えずに後退る。
 ベスパの激情は、残酷なまでにはっきりと告げていた。
 何をしたってルシオラを蘇らせる術などないのだと。
 彼女は二度と笑わない。二度と夕日を見る事もない。二度と機械を弄る事もない。
 もう何をしたって取り返しなどつくわけもなく。
 ちっぽけな人間に奇跡など起こせる筈もなく。
 だから謝るなんて許されない。意味がない。自己満足ですらない。

 それでも安易に命を絶つ事などできやしない。それはルシオラが望まず、ベスパにも禁じられた。
 ならば彼に残された道は何処にあるのだろう。
 いったいどうやって償えばいいのだろう。
 何も分からず、だが此処に居てはいけないという事だけは理解しながら、横島は飼い主に捨てられた犬の様にとぼとぼと歩き始めた。
 覚束ない足取りで、悄然と項垂れたまま、何度もふらふらとよろけながら。




 横島の姿が闇に消えてからしばらく後、山荘の付近には何度も爆音が鳴り響いた。
 凄まじいパワーの霊力が林や大地に向けて迸り、それに紛れて押し殺された女の泣き声が聞こえてくる。
 それは木霊する姉を失くした妹の慟哭。
 悲痛な叫びはパピリオと土遇羅が飛び起きて彼女を止めるまでずっと続いていた。










 あれからどれだけの時間が経ったのか。
 闇夜の山の中、横島は目的も無く、半ば無意識のうちに、風に吹かれて流される木の葉にふらふらと歩いていた。
 ざらついた山野の涼風が彼の頬を撫でる。
 すると少しだけ明瞭になった彼の意識が、おぼつかない記憶をひっくり返していく。

「うっ。ここ、どこだ?」

 辺りを窺うと、目に映るのは数メートル先も見通せぬ重苦しい闇。 
 あのこじんまりとした秘密基地からどれほど遠くまで離れたのかも、己が何処にいるのかも分からない。
 そこでようやく彼は虚ろな夜の影に呑み込まれている自分に気が付いた。
 暗闇。
 何も見えない世界。
 空を、大地を、ヒトの目から覆い隠す色彩。
 恐怖と不吉を代表するかのような、何もかもを塗りつぶしていくその色を、人は黒と呼んで忌み嫌う。
 蹲るように地面に座り込んだ横島は、その黒の世界の中に独り取り残されたまま痛感した。
 それは、なんという孤独感なのだろうか。
 鬱蒼とした林冠に遮られて月光は届かず、何も見えない目に映るのは流れ去った時の欠片のみ。
 その中で思い浮かんでくるのは、たった一つの残酷な結末。

 少女の艶やかな黒髪は消えた。
 切なげに夕日を見ていた瞳は消えた。
 彼を抱きしめた華奢で温かい腕は消えた。
 少女は、消えた。
 肉体も魂も残さずに。

 今日の夕刻、そして先ほどの逢瀬。
 彼女への好意が愛情へと昇華したあの時の思い出が、今は逆に肌に突き刺さったガラスの破片のように容赦なく彼の心を抉っていく。
 あの時に感じたときめきが、この夜空よりも重く、暗い絶望を齎した。

 手探りでそろそろと歩んで林を抜けると、群雲の向こうにある満ちゆく月と満天の星宿が世界を仄かに照らしている。
 夜空の向こうにある酷薄な朧月を見上げながら彼は自虐混じりの感嘆を漏らした。

「絶望って、すげーな。世界が、無茶苦茶綺麗に、見えやがる」

 彼の目に映る景色は美しかった。
 闇の中にうっすらと浮かび上がった全ては、何故か途方も無く美しかった。
 まるで全ての生きとし生ける者達を賛歌するように月光を浴びながら輝きに満ちていた。

 その世界を目の当たりにして、荘厳ですらある静寂な大気に包まれながら、けれどそれを見つめる横島は震えていた。
 寒かった。
 夏だというのにとても寒かった。
 その凍てついた心は永久凍土の様に固まって。
 立ち尽くしていた彼の体は、やがて糸の切れた人形の様に崩れ落ちそうになって。
 その時、暗闇を淡く掻き分けながら飛翔する光輝が目に映った。

「………ホタル?」

 彼の瞳に移る光はゆらゆらと頼りなげに飛んで、やがて力を失ったかのように大地へ落ちていき、そして彼の目の前で消えた。
 それは生れ落ちてから間もない儚い命のちっぽけな死。
 のろのろと下を向くと横島は大切な物を扱うようにそっと蛍の死骸を掌に乗せた。

 無言のままただひたすら眺めていた彼の虚ろな目から、流れ始める一筋の涙。
 ルシオラ。蛍の化身。
 それは夏の夜を仄かに照らす優しき光。
 地上に出た蛍達は刹那の生をその光の中で生きていく。
 大地に子供を産み落とす事を夢見ながら。

「ルシオラ………」

 呟いた瞬間、心が真っ白になった。
 忍耐という名の鋼で編まれた檻の中に押さえ込んでいた激情が虚空に消えるシャボン玉の様にあっさりと弾けていく。
 それは嵐の前の静けさの様な刹那の空白。
 ゆっくりと空虚な白い思考の中にゆっくりと染み渡る哀惜が、感情を激しく揺さぶりながら横島の胸に溢れ、自責、呵責、喪失感、怒り、やるせなさ、悔恨、その全てが激しく渦巻いて、彼は思わず膝を突いた。
 それは彼の中から今にも溢れそうになり、そして感情が理性を振り切って彼の制御から放たれ………。

「あっ」 

 瞬間、視界が曇る。
 鼻の奥が熱くなる。
 際限もなく涙が溢れてくる。
 それは人間なら当たり前に持っている原初の感情。
 喪失感と悲しみから生まれた涙。
 それは呆れるほどに止めどなく彼の目から流れてゆき、

「ぅぅぅ…ぐぅううぅ…ぐぐぐ…」

 くぐもった声が彼の口から漏れていく。

「う、うう、ううううぅぅっ!!」

 いくら考えまいとしようと事実は変わらない。
 自分の腕の中で微笑みながらルシオラは死んだ。
 どんなに祈っても、もう二度と彼女には会えない。
 どんなに願っても、彼に愛の言葉を囁いたルシオラの言葉を聞く事は叶わない。
 もう二度と、彼女が微笑む事はないのだ。
 だからその残酷な現実を前に彼は叫んだ。
 手の中の蛍の死骸を高々と差し上げながら、静かな暗黒の世界が歪むほどに激しく咆哮した。

「ああ、あ、あああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」

 静謐に包まれた冷たい冬の夜の中、遠く響く悲痛な絶叫。
 彼の両親も、彼の幼馴染も、氷室キヌも、美神令子も聞いた事のない昏い絶叫が夜の空に木霊して、冷涼な山の大気が彼から放たれる悲しみと絶望の波動で震撼した。

 ────おまえの思い出の中にずっと残りたい。

 切なげな顔で彼に縋った少女の願いが去来する。
 今更ながら思い知らされる。残酷なまでにはっきりと理解してしまう。
 彼女の言葉がどれほど痛切で真剣な想いを表していたのかを。
 哀しい運命から生まれた彼女の祈りがどんなに切なくて尊いのかを。
 …………それなのに愚かな自分は欲望を満たす事しか考えられなかった。

「ひと晩とひきかえに命を捨てるなんて…………」

 体が千切れてしまいそうなくらい激しい痛みが胸を貫き、吹き上がる黒い炎が心を焦がす。
 目の前が真っ暗になるほどの怒りと自責と憤り。
 その苦しさに突き動かされながら、横島は何度も何度も全力で地面を叩いていた。
 皮膚が裂け、血が滲み、大地に紅が移ろうとも、彼は両手を打ちつける事を止められなかった。
 無意味だと分かっていても叫ばずにはいられなかった。

「俺に………俺にそんな値打ちなんかねえよ、ルシオラ!!」

 この苦しみから逃れられるのなら、いっそ狂ってしまいたかった。
 両手の痛みと胸を貫く激痛で何も考えられないままのた打ち回っていたかった。
 もしも時の流れを戻してルシオラを助ける事ができるのなら、悪魔にさえも躊躇う事無く魂を売り渡していただろう。

 けれど、どれほど願っても祈っても、やり直しなんか出来るわけもなく。
 悲しみは止まらず溢れて彼の心に灰色の雨を降らすだけ。
 どれだけ大声を上げて叫んでも、悔恨の爪は鋭く胸を抉り続けるばかりとなり果てて。
 だから、たとえこの先に何があろうとも、心身に刻み込まれたルシオラとの逢瀬の記憶と今日の悲哀と絶望を忘却する恩寵が己に与えられる事はないと確信しながら、横島忠夫は彼女の儚い命に涙して。

 やがて叫び続けた彼の声は枯れ果てて、荒れた喉は呼吸するだけで鋭い痛みを奔らせる。
 それでも彼は涙を流したまま、もう取り戻せぬ何かを掴もうと声にならない歪な音を紡ぎだす。
 喉を奔る激しい痛みは気にならない。狂いたくても狂えぬこの胸の痛みに比べれば何でもない。

「………ぁ…………っ!」

 激痛が強引に心底を穿ち、蟠っている自分自身に対する劣等感と不信感を掘り起こす。
 常日頃から抱えていた妄念染みた思い込み故に、横島忠夫は自分自身に対する自信と誇りを見出す事ができずにいた。
 そして今日、その心の裡には自分自身の欲望に対する嫌悪感と彼女の命を奪ってしまった罪悪感が加わったのだ。
 それは少年の心に不可逆の亀裂を奔らせて。
 そうして生まれた断絶を埋める方法など、少年には到底思い至れずに。
 だから少年は赤く染まった両手で頭を抱え、額を大地に擦りつけ、もう会えない少女を思い浮かべながら小さな声で呟いた。

「ごめん、ルシオラ………」

 この時、横島忠夫は、自分自身に、絶望した。










 どれほど泣いていたのだろうか。
 気がつけば叫びすぎたせいで喉はしわがれ、涙腺は完全に枯れ切っていった。
 血に塗れた両手からは我に返った彼に自己主張するように忙しくなく痛みを伝えてくる。

 そう。彼の心からは絶望すら枯れ果てていたのだ。
 代わりにゆっくりと呪詛の様に黒い霧が、虚無感の代わりに胸の中に立ち昇り始めていく。

 憎い。
 こんなものを仕掛けた魔神が憎い。
 こんな結果を起こした自分が憎い。
 ただ、憎い。
 吐きそうなくらい気分が悪いのに、だが憎いという言葉と感情は何故か横島の心に子守唄の様に染み渡っていく。
 ぐるぐる回る視界と思考が徐々に均衡を取り戻し、行き場を失っていた悔恨と自責は新たな目的を見つけて瞬時に憎しみへと集束する。

 やがて焦点の合わぬ虚ろな瞳に昏い光がゆっくりと灯されて。
 鬱積した感情がある方向へ向かって大きく弾けた時、横島は大きく目を見開いたまま、ゆらりと立ち上がった。

 ────やつのやった事が絶対に許せない。やつが生きてる事が容認できない。やつの全てを否定してみせる。

 煮え滾った憎悪と自責は胸の中でどす黒い渦を巻いたまま、遂には常軌を逸した怨嗟と復讐心の嵐へと昇華して。
 ただ一筋に定まった不可逆の感情は、彼の口から獣のごとき唸り声となって放たれた。

「アシュタロスは、俺が殺すっっ!!」

 この時、狂気に侵されながら、横島忠夫は全速力で走り出したのだ。
 甘っちょろい煩悩など全て枯れ果てた歪にひび割れた心を抱えたまま、永久の闇に消えていく決して救われない結末に向かって。



[528] 儚き蛍火 2話
Name: z
Date: 2006/01/18 02:03
「確かに君の言った場所にアジトはあった。だが、既にもぬけの殻だったそうだよ。
 何者かと戦闘した思われる破壊の痕は残っていたけどね」

「逆天号の修理には別に特別な道具がいるわけじゃねえらしいから、連中もあのアジトに拘らんだろうな。
 俺が逃げたから居場所がばれるって気付いただろうし」

「………君が逃げる前に我々と連絡を取っていれば万全の体勢で奇襲する事も出来たんだよ。
 しかも君の情報が伝わった時にはもう手遅れ。これでは不手際だと言われても仕方がないんじゃないかい?」

「そうは言ってもな。さっきも説明したけど、あのアジトに移ってから俺ってかなり厳しい目で見られてたんだぞ。
 ぶっちゃけベスパを隊長から助けてなきゃ、とっくに八つ当たりで死んでたさ」

 ラーメンを啜りながら淡々と語る横島を尋問しながら西条は首をかしげた。
 何かがおかしい。
 散々内通を疑うような意地の悪い質問や挑発するような言葉を投げかけたのに、彼は淡々と同じ事を繰り返すだけだった。
 そんな横島の反応は、西条の予想とはあまりにもかけ離れている。

 横島が齎した情報。
 それは、逆天号の修理が今日、明日にも終わる事。
 空母を使った美智恵の作戦により、三姉妹の長姉のルシオラがエネルギーの奔流に巻き込まれて死んだ事。
 そのせいで蜂の次女と蝶の末妹が人間に対する復讐心を昂らせ、やがてそれが自分にも向けられそうになった事。
 何もせずに大人しくしてたのに、疑いの目を向けられ、仕方なく身の危険を感じて逃げてきた事。
 大まかに纏めると以上であり、そして最後に横島は推測混じりに言った。
 最もメカの扱いに通じていたルシオラを失った以上、修理が終わったとしても逆天号は以前と同様に運用するのは難しいだろうと。

 確証はないものの、状況証拠はあり、証言そのものについても、一応の筋は通っている。
 更に三姉妹の誰かが死んだという情報は、容易く真偽を確かめられる為に偽りとは考えにくい。
 嘘だとすれば余りに稚拙すぎる。
 それに加えて、捜索隊が発見したアシュタロス一味の基地だったと思われる山荘付近では、木々は薙ぎ倒され、地面は何箇所も抉られて、何者かによる凄惨な破壊の爪痕が残されていた。これも横島が話した様に、長姉の死に対する妹達の八つ当たりだと考えれば辻褄が合う。
 曖昧な点や不自然さがないではないが、総合的に見れば、横島の言葉は概ね正しいと判断しても良い筈だ。

 しかし、どうにも違和感が残るのだ。
 感情を感じさせぬ口ぶりや聞かれた事を包み隠さずに話す横島の態度は、一見神妙にも見える。
 自分の問い掛けに答える声音には反感も無ければ、疑われた事への反発も無い。

 ────それが、おかしい。

 横島忠夫とはこんな性格だっただろうか。
 少し前まではどんな重要な局面でも感情が昂れば見っとも無く騒ぎ立てるような慌て者だった筈だ。
 だが目の前にいる男の静かな立ち居振る舞いには、軽々しさも、そそっかしさも感じられず、それどころか重々しい迫力すら湛えている。
 しかし、西条にとってはあまり愉快な事ではないが、スパイ活動中に横島に何らかの成長があった所で何の不思議もない。
 何しろ半強制的にたった一人で敵地に侵入させられ、挙句の果てに訳も分からず死地に放り込まれて。
 そして実際に美智恵によって死の危険に晒されたのだ。
 それは彼の成長を促すには十分過ぎる修羅場だっただろう。
 だが………もしかすると横島がこんなに大人しいのは、目の前の自分などどうでもいいと思っているからではないのか?

 不意に脳裏を掠めた不愉快な想像に刹那、西条は不快そうに顔を顰めそうになった。
 それを悟られぬように口の前で指を組むと、彼は横島の目を覗き込むように視線を向け直し、そして再び尋問を始めようとしたその時。

「横島クン!?」

 予期せぬ乱入者達によって取調室のドアが派手に音を立てながら開け放たれた。
 ヒャクメから知らせを聞いて一目散に駆け抜けてきた美神と、それに遅れじと走ってきたおキヌ。

「っ!!美神さん、おキヌちゃん!!」 

 しばらく会えずにいた2人の姿が横島の目に飛び込んできた。
 息を切らせながら急いで彼の所へ来てくれた2人の態度。
 その気持ちが嬉しくて、心の底から嬉しくて、横島の顔に笑みが浮かぶ。

「……………ただいま―――!」

 女の命である顔に傷を負ってまで戦い抜いた己に対する母からの冷たい言葉に釈然としない思い抱えながらも、久々の明るいニュースに胸を高鳴らせた美神とずっと横島の安全を願い続けていたおキヌは、不意に目に飛び込んできた、落ち着いた佇まいを感じさせる横島の笑顔に中てられ、思わず立ち竦んだ。
 
「お………おかえり」

「よ………横島さん?なんか………感じが………落ち着いたってゆーか………」

 久々に会えた喜びは、予期せぬ横島の変貌によって戸惑いへと変わりながらも、2人の心の隙間に温かいモノを滑らせていく。
 それ故に、彼女達の意識は横島の顔に吸い寄せられて離せなくなり、刹那の間、心地よい自失に陥った。

 彼女達の出現で広がった華やいだ雰囲気に、これ以上の尋問は不可能と悟った西条は、3人を残したまま取調室から出て行った
 とりあえず美智恵に横島からの証言を伝えるために。
 横島の態度から感じた釈然としない感触に首を捻りながらも、廊下を歩いていた西条は一応の安堵を得た。
 再会した時の彼の反応を見る限り、横島がアシュタロスに寝返ったという可能性は皆無だろう。
 あの時の横島の顔には、再会の喜びに溢れ、美神とおキヌに対する後ろめたさは欠片もなかったから。










 少しだけ足がふらついていた。
 熱っぽい頬。きっと鏡を見れば真っ赤に染まっているだろう。
 吐息は絶対に酒臭くて、目も据わっているに違いない。
 ああ、かなり酔っているな。
 どこか冷静にそれを自覚しつつも、美神は母親のいるであろう霊動実験室に向かっていた。

 軽い眩暈が視界をぐるぐると掻き回し、己の知らぬ所で起きている何かに気を取られた思考は感情に邪魔されて働かず。
 歩けば歩くほどに少し前まで痛飲していた酒が、吹き上がるように酔いを回らせる。
 世界の全てがぼんやりとあやふやになる感覚は、現実逃避の一種だと分かっていても、刹那の安楽を与えてくれる。
 そしてそれに逃込みたくなるほどに、悪酔いするほど飲まねば到底処理できぬ蟠りが美神の精神を侵していた。
 美智恵の不可解な焦燥。
 飴と鞭の使い分けは上手かった母の不可解な冷酷さ。
 帰還して以来、セクハラもせずに変に落ち着いた横島忠夫の態度。
 母も横島も、何かを抱えているに違いないと確信しながらも、問いただす事を躊躇って。
 けれど西条相手に散々愚痴っても彼女の気分は晴れなくて。
 限界を超えた不審は酒の勢いとも相まって美神を美智恵の元へと駆り立てた。

「ママ、いるの?」

 きっと今日も夜遅くまでコンピューターに向かっているのだろうと思いながらドアを開けると、予想に反して美智恵は窓ガラスの前に立って何かを見詰めていた。

「ママ?」

 もう一度声をかけるが答えは返らず。
 否、それどころか美神が入ってきた事すらも気付かず、美智恵はガラスの向こうにある光景を食い入る様に注視していた。
 美智恵の顔に浮かぶ喜悦混じりの驚き。
 それを認めた美神は、訝しく思いながらも歩を進めて母の隣に立ち、母の見ているものを見て────そして驚愕に固まった。

「横島クンが、どうして!?」

 そこにはプログラムされた妖魔と戦う横島の姿が在った。
 歯を食いしばり、だが悲鳴も漏らさずに無言のまま、彼は美神すら梃子摺っているプログラムの犬飼ポチと対峙している。
 緊急レバーに目もくれずに犬飼を睨む横島の姿。
 一目見ただけで分かった。横島が伊達や酔狂でプログラムを発動させたのではない事が。

「勝手に入り込んでプログラムを作動させたみたい。私も少し前に気がついたわ」

「なんで止めないでのよ、ママ!!」

 危機感のない言葉に、美神は慌てて母親に食って掛かる。
 誰よりもこの特訓の過酷さと危険を何度も思い知っていたこそ、彼女の口調は荒くなった。
 けれど美智恵は興奮覚めやらぬ表情のまま、カウンターを指差した。

「見なさい、令子」

「47鬼、撃破!?
 嘘……そんな……たった数時間だけで半分近くも」

 今度こそ本当に、心底からショックを受けて立ち竦む美神。
 そんな彼女を他所に、実験室の中では微動だにせぬ横島めがけて狼化した犬飼ポチが襲い掛かっていた。

 美しさすら感じさせる獣の跳躍。
 空気を引き裂くようにして跳んだその姿は、狼と言うよりも、鎌鼬の刃を手にした黒い烈風だ。
 そして奔る犬飼の刀の太刀筋は複数にぶれて。
 弾丸の如き勢いで同時に襲い掛かる八筋の斬撃は、横島に回避する術を与えない。
 だが迫り来る刃を前に、

「ふっ!」

 呼気と共に横島は予め軽く曲げていた膝と足首に込めた力を解放した。
 刹那で彼の体は滑る様に後方に流れ、豪壮極まる八つの剣撃は間一髪で空を切る。
 そこに生じた隙を衝こうと手首を振ると、彼の両手に出現した2つのサイキックソーサーが人狼に向かって放たれた。
 弧の軌道を描きながら左右から襲い掛かる盾状の霊波。
 唸りを上げて飛来するソレをかわそうと身を沈めた瞬間、人狼の頭上に閃光と破裂音が生じた。

「っ!?」

 犬飼の体勢が僅かに崩れる。
 それは横島の意を受け、敢えて犬飼の至近で衝突するようにコントロールされた盾同士の衝突。
 生み出された光と音は、人間よりも遥かに鋭敏な感覚を持つ人狼の五感を狂わせて。
 予想外の事態に目が眩んだ犬飼は追撃を凌ごうと素早く横に転がり────その途中で動きが止まった。
 横島の手から伸びた霊波刀に胸部を貫かれて。

「これで48鬼、撃破ね。戦う毎にどんどん戦術が洗練されているわ」

「………信じられない。
 最小限の動きで霊力と体力の消耗を抑えた無駄のなさ。
 人狼の特性を弱点に変える判断力と冷静に相手の動きを読み取る観察力。
 それに加えて一気に勝負を決める思い切りの良さ。
 どれも少し前の横島クンには全然足りなかった要素なのに!!」

「あのコ……何かが切っ掛けで完全に『化けた』みたいね。
 もしかしたら………もう今のお前を超えている!?」

 母の感想から聞き捨てならぬ言葉が耳に入ってくる。
 だがそれに反応する余裕も無く、美神は思索と分析に没頭していた。
 頭脳が忙しくなく回転して、横島の総合的な戦闘力を過去の事例から洗い出していく。

 思えば、並外れた打たれ強さに覆い隠されがちだが、回避能力は以前から高かった。
 更に、六道のクラス対抗戦では美神や傍にいたおキヌ達よりも早く弓かおりの負傷に気付いた等、観察力にも秀でている。
 これまでは、おたおたと慌てたり、焦って集中力散漫になるせいで、その長所が滅多に発揮されなかっただけだ。
 何かの切っ掛けで除霊や実戦でも感情と恐怖と思考の均衡を冷静にコントロールできるようにさえなれば、戦い方の変化そのものはありえぬ事もない。

 だが霊波をコントロールする技量の向上は更に特異だ。
 犬飼ポチとの戦いで見せたサイキック・猫騙しの遠隔バージョンとでも言うべき離れ業。
 特筆すべきは、2枚のサイキック・ソーサーを同時に生成した事と、投擲後に狙った場所で衝突するように軌道を操作した事。
 どちらも美神には見た覚えがなかった。
 ならばこの数時間で身に付けたのか。
 いくらハードだとはいえ、たった数時間の特訓でコツを掴む事などあるのだろうか。
 ………いや、自分にも覚えがある。
 あれは確か試験に合格してGSの免許を取り、あと少しで唐巣から一人前の許可を得られそうだった時期。
 金銭欲のない師から独立して、単独で除霊に当たる事を想定して、修行を重ねた日々。
 あらゆる局面に対応できる実力を養うために荒行に挑み、集中力の向上やオカルトアイテムのコントロールの研鑽に努めていた時、自分がどんどん強くなっているという確かな実感があった。
 だから成長期を迎えた霊能力者が自信、目標、執念など何らかの強固な意志で過酷な修行を乗り越えれば、見違えるほどに強くなる事があるとは知っていた。
 けれど、それらの要素を考慮しても、目の前にいる横島の変化は余りにも突飛過ぎるのだ。


 ────ドドオオオオッ!!

 そうして美神と美智恵が考え込んでいる間にも、横島は49鬼目を追い詰め、撃破しようとしている。 
 既に彼の霊波の総合・集中力の異常な高まりは、二人の目にも明らかだった。

「………ママ」

 抑揚のない硬い声。
 そこに込められた娘の決意を感じ取った美智恵は頷きながら命令する。

「行きなさい、令子。
 そして彼の実力が本当にお前を上回ったかどうか、自身で確かめなさい!」








 49鬼目の消滅を確認すると、横島は呼吸を整えながら体力と霊力の残存を確かめた。
 息苦しさは徐々に増していくが、体は依然として軽く、思考もクリアだ。
 戦い続けるごとに動きそのものがどんどん改善されていくと、錯覚してしまいそうなぐらいだ。

 何となくその原因は掴めていた。
 あの夜の慟哭と絶望の果てに訪れた、凪の日の湖の様な限りなく静かで分厚く積み重なった憎悪。
 それは心の揺れと恐怖を駆逐した。
 いや、駆逐したのではない。
 きっと、心の何処かが壊れてしまったのだ。
 死ぬことに怯え、戦う事に慄いていた魂の一部もろとも。
 身勝手で愚かだった少年の、ちっぽけな崩壊。
 初めて彼を愛してくれたヒトを自らの手で殺して……償う術すらもないと理解して………耐え抜くことができなくて。
 それまで彼の心に在った大切な何かは、あの儚い少女の魂と共にこの世から消滅してしまったのだ。
 けれどその身体は、ただ1つ残された目的を果たす為にここにある。

 そう悟った時、横島は己の状態と周囲の状況を極めて客観的に見ている自分に気がついた。
 それは煩悩に頼らずとも効率よく霊力を練り上げる術を見出す事に繋がり、更に恐怖が麻痺した故か、戦闘に於いても慌てず騒がずに状況に対処できる心構えを彼に与えた。そして、1鬼、また1鬼と戦いを重ねる毎に、霊的な成長期とも相まって、横島は霊波のコントロールや効果的な戦い方を急速に身に付けていったのだ。
 その結果が49鬼抜き。
 動きに障りが出るような負傷もない。
 ………皮肉にも死にたくないと願う最も原初の本能が絶望に覆われ、生への執着心が希薄になった事が、逆に彼を死から遠ざけていた。




「次はあなた用のプログラムを送るわ、横島クン!」

「隊長?」

 突然掛けられた言葉に状態確認を中断して顔を上げれば、窓には上気した美智恵がいる。
 いつから見ていたのかと尋ねようとして───不意に背後に生じた殺気に横島は素早く振り向いた。

「これがおれ用の………」

 一瞬大きく跳ねる心臓と波打つ動揺。
 横島と緊急停止レバーを遮るような位置には、装甲を着込んだ美神の姿があった。

「プログラムの美神さん?」

「生きてそこを出たければ、倒しなさい!」

 確かめる間もなく、美智恵の宣言と同時に霊鞭が風を切り、音を超えて迫り来る。
 全力の8割程度、直撃しても死なない霊力を込めた一撃。
 けれどソレは横島の霊波刀にあっさりと受け止められた。

「っ!?」

 驚く暇も有らばこそ、美神は彼の返し刃の斬撃を受け止め、距離を殺して文珠の生成・発動を牽制する。
 顔が触れ合いそうな至近の距離で両者は相手の体勢を崩そうと鞭と刀を衝突させ、直ぐに見切りをつけて距離を離した。

「………」

「………」

 鍔迫り合いとなったのは僅かに3秒弱。
 けれど表情には出さぬものの、双方の胸の内には驚きと戸惑いが訪れていた。
 美神は横島の刀から感じ取った霊力と重圧の大きさに。 
 そして横島は、集中力の高まり故に鋭さを増した五感の内の嗅覚が、美神の吐息からアルコールの臭いを感知した事に。

 ────横島クン、マジで強くなってる!?

 ────この美神さん、プログラムじゃない!?

 真偽を確かめるべく、横島はサイキックソーサーを投げつけ、牽制しながら更に後退。
 そのまま完全に間合いの外に出ると、改めて目の前の美神の挙動を観察した。
 口も開かず、無表情。
 それはプログラムの妖魔とも共通する特徴で、口八丁で隙を作り出す美神の流儀とは相反している。
 だが良く見れば、汗のせいで顔の化粧が僅かに崩れていた。
 しかも彼女の唇を彩る口紅は、今朝見た時と同一品だ。

「………ありえねえ」

 呟きながら横島は美智恵の言葉がブラフだと確信する。
 これまで戦った美智恵の組んだプログラムの妖魔は、外見や霊波こそ似ているものの質感や臭い等の細部まではトレースしていなかった。
 そもそも今日施した化粧までがプログラムに反映されているわけがない。

「隊長は反則技なしの美神さんで俺を試そうってコトか」

 適当に美智恵の意図を解釈すると、横島はボクサーの様にトントンとステップを踏む。
 そして間合いの中に入り込まぬ様に慎重に、円を描くように動き出す。
 対して美神は動きを止めて、横島の隙を窺っていた。

 ────ビュッ!ガキッ!

 時折、挑発するように美神の間合いに入った横島に浴びせられる鞭の洗礼。
 霊鞭と刀が交錯して、衝突した霊波が白光を生む。
 それを何度か繰り返しながら、彼は美神の状態を把握していく。

「パワーもスピードも、何とか対処できるレベルだ。
 美神さんが手加減してるのか、それとも飲みすぎたせいで調子が悪いのか」

 動かぬ美神の消極さに、一瞬、罠の可能性が幾通りも思い浮かび、しかし刹那で掻き消える。
 いくらなんでも、美神が彼女らしからぬ真似をしてまで自分如きに罠を張るとは思えない。
 やはり今の美神は己の体を重く感じているのだろう。
 こういう時、いつもならば主導権を握るために多少強引にでも仕掛けるのが美神令子の戦闘スタイルなのだから。
 そして、おそらく所持している道具は手の中の神通棍だけだ。
 お札なり精霊石なり、この状況を打開するアイテムを持っていれば、とっくに使っている筈だ。
 いずれにせよ、敵として彼女を打倒するならばこの状況はチャンスには違いない。

 素早く結論を下すと、彼は霊波刀を消し、文珠の『剣』を右手に発現させると突進。
 鞭の迎撃を左手のサイキックソーサーで弾くと彼女に肉薄し、猛烈な勢いで斬り付けた。

「でりゃあぁぁ!!」

「くっ!?」

 技巧もフェイントもない力任せの斬撃が一合、二合と続け様に飛来する。
 だが刹那に限定すれば数百マイトの出力を得られる文珠の『剣』は、受ける美神に相応の衝撃を与え、徐々に消耗を強いていく。

 相手が不調ならば、勢いで押し切ればいい。
 酒のせいで反応速度と足腰の踏ん張る力が落ちている筈だ。
 それに小細工やセコイ手段は仕掛けたところで、どうせ直ぐに見破られて足元を掬われる。
 そういった事に懸けては、彼女に一日の長があるのだから。
 それが、美神の状態と実力を分析した上で横島が選んだ戦法だった。
 故に一見何の工夫もない彼の攻撃は、理に適っていたのである。

「………まずっ!?」

 横島の狙い通り、人間離れした『剣』のパワーを受け止める度に美神の肩と太股に震えが奔る。
 飲み過ぎたせいで完全に弛緩していた美神の肉体は、限界に達しようとしていた。
 それに加えて、100鬼抜きの厳命の下に連日行われる特訓の疲労は彼女の体から絶好調時のキレを奪い、激変した横島の雰囲気への驚きと労う言葉一つ掛けてくれない母親の態度への苛立ちと不審は、彼女の最大の武器である機転と頭脳の回転を鈍らせる。
 故にこの時に限定すれば、両者の力関係は横島の急成長とも相まって逆転しようとしていた。

「…………!?」

 その状況に慌てたのは、優勢だった横島の方だった。
 動揺を隠すように『剣』を引くと、再び距離をとって美神の様子を窺った。
 余裕のない表情と荒い呼吸。
 とても苦戦した振りで騙そうとしているとは思えない。

 どうやら美神の不調は相当酷いようだ。
 美智恵が何を企んでいるのは知らないが、これ以上は続けるべきじゃない。
 そもそも酔った状態で戦わせるのが間違いなのだ。
 娘の実力を信頼しているのかもしれないが、このまま本気で戦い続ければ重傷を負わせかねない。
 ………重傷を?
 その時、ふと何度も土遇羅から聞かされた話が去来する。

 ────『その女が未来から来たメフィストの生まれ変わりなら、まだ捕まえる事は出来ます』
       おい、きーとんのか、ポチ!?

 土遇羅は、美神が転生するまでアシュタロスは魂の結晶を見つけ出せなかったと言っていた。
 逆に考えれば、美神が生きているからこそアシュタロスは魂の結晶を奪える機会を得たのだ。
 ならばもしもアシュタロスの知らぬ所で美神が死ねば?
 魂は結晶と共にアシュタロスの手の届かぬ所へと行ってしまう。
 そして公然と神魔に反旗を翻したアシュタロスは、冥界チャンネルが復活する一年後に、八つ裂きにされるのではないか。

 つまり───イマ、オレガミカミサンヲコロセバ、アシュタロスニフクシュウシタコトニナルンジャナイカ。

 不意に胸中に響いた甘い言葉が横島の心を奔り抜けた。
 現実味を帯びた囁きは正に悪魔の誘惑だった。
 それは奇しくも美智恵が恐れていた世界GS本部の意向と一致して。
 美神やおキヌと再会して影を潜めていた憎悪は、あっという間に心に溢れて刹那で彼を決断へと誘った。

「…………!!」

 『剣』に霊波刀を重ねるようにして更に霊力を込める。
 すると、これまでで最高のパワーが篭った『剣』は一回り大きくなり、凶悪な波動を帯びていく。
 そして次の瞬間、彼は被弾覚悟で急所を庇いながら距離を詰め、巨大な『剣』を全力で叩きつけた。

「………!!
 うそ………!?」

 受けた美神の両腕が引き攣り、剣と鞭の拮抗が崩れた。
 衝撃を逃がしきれず、彼女は壁際まで吹き飛ばされて片膝をつく。
 回避不能な美神の姿勢。
 対する横島は追撃の余裕を残している。
 眼前に現れた絶好の機会に、冷え切った彼の思考は機械的に最も確実な殺害方法を模索した。

 事故に見せかけて殺すのならば、美智恵の横槍が入る前に事を終わらせる必要がある。
 その為には一撃で致命傷を負わせなければいけない。
 だが内臓は装甲でガードされ、下半身の傷では死には至らないだろう。
 ならば狙うべきは、首筋か頭!

「はあぁぁ!」

 残っていた最後の文珠に『速』と刻んで発動させると、旋風と化した横島は『剣』を振りかぶって疾駆した。
 一瞬で詰まる間合い。
 間に合わない美神の迎撃。
 神通棍の受け太刀ごと粉砕する霊力を込めて振り下ろされる『剣』。
 けれど驚愕と苦痛に歪んだ美神の表情を直視した瞬間、彼の手元が僅かにぶれて。
 決して外れないと確信して繰り出した『剣』の切っ先は、彼女の顔をかすめる様に流れて───床を抉っていた。

「………えっ?」

 自らの行動の齟齬に目を見開いた横島は刹那の放心に陥って。
 その隙を逃さずに体勢を整えた美神は、彼の体躯を蹴り離し、すかさず鞭を一閃。
 弧を描く様に頭上から襲い掛かった霊鞭を辛うじて受け止めた時、既に美神は『剣』の間合いの外にいた。

「そこまでよ、横島クン!」

 その時、2人の間を美智恵の制止が割って入った。
 その声に含まれた裂帛の気勢が2人の纏う殺気を削いで、戦闘を中断させる。
 プログラムを模して直立不動になった美神にちらりと目を向けると、横島はふぅと大きく息を吐いて美智恵に向き直った。

「でも隊長。俺、まだ倒してないっすよ?」

「そうね。でも、問題はないわ。
 あなたの実力はもう十分に見せてもらいました。
 とりあえず今は、これ以上の特訓は必要はありません」

 きびきびした口調は反論を許さずに、言葉に込められた静かな迫力は十分な貫禄を感じさせ。
 逆らっても無駄だと悟った彼は『剣』を消して頷いた。

「明朝9時にミーティングを開きます。
 極めて重要な要件について話し合う事になるので、横島くんも出席するように。これは命令よ?」

「………分かりました」








 横島が実験室を出てからしばし後。
 立ち尽くしていた美神の体が、ぐらりと傾いで、どさりと倒れた。
 深酒の直後に激しく動いたせいで泥の様に体が重い。
 しなやかで丈夫な彼女の肉体も、アルコールと疲労のせいで、さっきからずっと睡眠を要求している。
 けれど様々な感情が錯綜して昂ぶった神経は、忍び寄ってきた眠気を一気に吹き飛ばして、美神の思考をクリアにする。
 そしてぐったりと大の字になりながら、美神は全身に冷や汗を掻いている事に気付いていた。

 有耶無耶に終わった先ほどの攻防。
 けれど当事者にとって勝負の行方は火を見るより明らかだった。
 
「私、負けちゃったんだ。アシュタロスどころか、よりにもよってあの横島クンに」

 口惜しさが胸をむかむかさせて、忘れかけていた酩酊感と吐き気を呼び覚ます。
 あれは限定的な状況での戦い。
 そして自分には深酒と動揺とそしてほんの僅か残っていた慢心というハンデを抱えていた。
 けれど………どう言い繕うとも……結局自分は負けたのだ。
 それに。

「認めなきゃ。もう手加減して勝てる相手じゃないわね」

 数々の修羅場を潜り抜けてきた超一流GSとして研ぎ澄まされた彼女の思考は、感情的な障害を乗り越えて横島忠夫の能力を分析していく。
 サイキックソーサーでこちらの鞭を防ぎながら間合いを詰めた動きの剽悍さ。
 小技に頼らず、こちらに反則技を使わせぬように力で圧倒してきた手際。
 そして最後の、予想を裏切る疾さの突進と斬り下ろし。
 その全てが申し分なく、癪に障るが思い返すと背筋に戦慄が奔る。

 体調を万全にして慢心を捨てた上で再戦しても、今日と同じ条件ならば絶対に勝てるという確信は無い。
 むしろ長期戦に持ち込まれれば、霊的なアイテムを持たない自分の方が不利になる。
 だから、驚きと微量の苦々しさと賞賛等の様々な感情をその顔に浮かべながら、美神令子は遂に認めた。
 霊能力者として横島忠夫の戦闘力が自分の位置まで上ってきた事を。

 顧客との交渉や細かい知識や技術が求められるGSとしてはまだまだ未熟だろう。
 お前はもう1人でもやっていける一人前のGSだと、お墨付きを与えるには身に付けねばならない事だってたくさんある。
 けれど、GS資格試験のフィールドや今日の霊動実験室の様な限定的な条件下では、横島忠夫は間違いなく自分と伍する力を得たのだ。

「いつの間にそんなに強くなっちゃったの?横島クン………!」

 その時ようやく、美神は緩んだ表情になっている自分自身に気が付いた。
 口惜しさと称賛の後から湧いてきた頼もしさが、不可解な母親の態度と焦燥に苛立った気持ちを駆逐していく。
 それはかつて美智恵が感じ取った美神令子の芯の弱さを見えない部分で支えていた横島の優しさとは別のモノ。
 父性的な包容力とは違う鬼気迫る闘争心と断固とした勝利への意志。
 けれど、本物だと知らぬくせに、最後に彼女に剣を振り下ろす事を躊躇った甘さ。
 その姿にパピリオ達に捕まる前の横島の影が重なって、美神はクスリと笑うと目を閉じた。
 視野を遮る暗黒は思いの外心地よかった。

 しかし美神令子は知らない。横島が彼女をプログラムではないと見抜いていた事を。
 そして後に彼女は激しく悔やむ事になる。この時、胸によぎった疑念の解明を先送りにした己の判断を。








 熱めの水滴が程よい速さで噴き出ていた。
 それは髪に降り注ぎ、首筋を流れて、体中の汚れを流し去り、酷使したせいで硬くなった筋肉を解していく。
 だが熱いシャワーを浴びる横島は険しい顔のまま俯いて、何かに堪える様に奥歯をぎりりと噛み締めていた。

「くそっ!」

 思い出しただけで指がぶるぶると小刻みに震え出す。
 さっき彼はかつて命を懸けてまで助けようとした女性に殺す気で剣を向けた。
 それは横島忠夫にとって想像を遥かに超えて衝撃的な体験だった。
 彼の心臓は山道を疾走するトラックのように激しく揺れ続け、そして同時に、美神を殺さなくて心底安心しているのだ。

 ────それが忌々しくて堪らない

「やれねえよ………できねえよ!!」

 毒づきながら、最後の瞬間を思い出す。
 それまで特訓中に致命傷を受けかねない危険状況に陥った時には全く感じなかったのに。
 だが構えを崩した美神に『剣』を振り下ろそうとした時、圧倒的な恐怖が唐突に彼を襲った。
 そして脳裏に美神が死ぬイメージが過ぎっただけで、頭は真っ白になり、体は意思を裏切って勝手に動いていた。
 その結果、横島はアシュタロスに引導を渡す千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。

「それでも俺には……あのヒトは殺せねえ!!!」

 血を吐かんばかりに叫ぶと少しだけ心が軽くなる。
 けれど同時に胸のどこかから聞こえてくる不快な声。

 どうした。何故殺さない。俺如き卑小な人間が正面から挑んだら魔神を殺せるわけがないだろう。
 美神令子1人の犠牲で世界も救えて、俺の復讐も果たせるのなら安いものじゃないか。
 大半の人間がそれに気付いて、けれど悪者になる勇気がなくて黙っているだけだろう。
 結局、俺も同類なのか。
 あれほどルシオラの儚さに泣いたくせに、あれほどアシュタロスを憎んだのに、復讐の為に悪者になる覚悟すらないのか。
 ならば、所詮横島忠夫は悲劇に酔ってるだけの矮小で醜悪な道化だ。

「黙れ!黙りやがれぇぇ!!」

 意地悪く横島自身を貶める声に怒鳴り返すと、彼はずるずるとへたりこみ、両手で顔を覆って肩を震わせた。
 どれ程卑劣で残酷であっても、その言葉は一面の真実を含んでいて。
 それなのに肯定する事もはっきりと否定する事も出来なくて。

「ちくしょう………」

 壁にもたれながら座り込んだ横島の目にみるみる涙が浮かび、溢れ、頬を伝う。
 シャワールームの中に打ちひしがれた少年の嗚咽が木霊した。












 翌朝、9時。
 都庁地下にある一室には6人の男女が集まっていた。
 美神、美智恵、おキヌ、ヒャクメ、西条、そして横島。
 重要な話があると言われて集まっただけに、全員の表情にはいつも以上の緊張感が漲っていた。
 それを見渡しながら、美智恵は深く嘆息した。
 少し前までは、今日知らせるのは良いニュースだけだったのに。
 本当に世の中とはうまくいかないものだ。
 思わず弱音を吐きたくなる気持ちを無理矢理叱咤すると、彼女は立ち上がって備え付けのモニターに向かって毅然と歩き出した。
 美智恵に集まる皆の視線。
 彼女がスイッチを押すと、モニターは悠然とした面持ちで手を組んだアシュタロスを映し出した。

<GS本部ならびに各国の指導者諸君!! 
 私は今、全人類を抹殺するのに足る数の核ミサイルとかいうオモチャを手に入れてみせた。
 もう分かるだろう!?美神令子を私のところによこせ!!暗殺も妨害も許さん!!>

 それだけ告げると映像が消えて画面は暗くなる。
 想像を遥かに超えた一方的な通達に、美智恵以外の全員が度肝を抜かれて言葉を失って。
 だが数分経って全員が事態を把握した後も、重苦しい沈黙は続いていた。

「あの………今の人、初めて見たんですけど………もしかして」

「ええ。あれがアシュタロスよ、おキヌちゃん」

「じゃ、じゃあ………核ミサイルを手に入れたって言ったのは、嘘でも悪戯なんかでもなくて………」

 その先を口にする事を恐れ、おキヌは黙り込んでしまう。
 再び立ち込める沈黙。
 全員の胸には同じ思いが去来していた。
 全人類の命が人質に取られている───それは並みの者ならば即座に倒れてしまうほどの重大事だった。

「3時間前、この映像が世界GS本部と各国の首脳の元に送りつけられました。
 そして2時間前に、核ミサイル搭載の原子力潜水艦が実際に数隻行方不明になっていたのも判りました」

 淡々と美智恵が感情の抜けた平坦な声で事態の急転を説明していく。
 誰もが急に深刻そうな顔になってそれを聞く。
 それも無理はない。

 ────魂の結晶を奪われれば神魔の秩序ある対立構造が崩れる。

 そう言われても、宇宙規模のスケールの違う危機の重大さを想像できる人間などいるわけもない。
 ここに集まっている者の殆どは、美神令子の命が絡んでいるからこそ死力を尽くして戦っているのだ。
 だが、核という人間にも容易に想像し得る破壊の象徴は、人間である彼らの心胆を凍りつかせるに十分な恐怖を持っていた。

 やがて西条が口を開いた。

「アシュタロスによる核兵器の押さえ込み、ですか。
 どうやら横島クンが言ったように、アシュタロス一味が逆天号の使用を控える様になったのは確かなようですね、先生」

「そうね、西条クン。どれほど楽観的に見ても、状況が好転したとは言い難いけれど」

「えーと、それってどういう事ですか?」

 急に逆天号の話題を持ち出した西条と当然の様に頷く美智恵。
 理解が追いつかけなくなったおキヌがおずおずと尋ねると、美智恵は全員に解説するように向き直る。

「元々逆天号は人間界に駐留する神魔族の殲滅を主目的に造られた兵鬼なのでしょう。
 あの兵鬼の特性上、異空間潜行で神出鬼没に移動できるとはいっても、令子の捕獲に向いているとは言えないわ」

「しかし、先生。ならばどうしてアシュタロスは今になって核ミサイルに手を伸ばしたんでしょうか?
 最初の核が投下された直後に始まった冷戦によって世界規模の戦争が無くなってから、既に50年以上が経っています。
 当然アシュタロスもその経緯から、人類を脅迫するのに最も適した武器が核兵器である事を、何年も前から知っていた筈です」

「それは────」

「神魔族の都合、ですね」

 ちらりとヒャクメを見て口ごもった美智恵の意図を汲むと、ヒャクメは彼女の言葉を継ぐように話し始めた。

「アシュタロスが結晶を手に入れれば最高神同士のデタントを含め、既存の枠組みは破壊されるでしょう。
 そうなれば、アシュタロス一味を除けば、神族はおろか魔族すら誰が生き残れるか分かりません。
 ですから強力な神魔族がいる状況では、いざとなれば彼らは人間界の都合に構わず独自に美神さんの保護を強行した筈です。
 たとえ人間界がアシュタロスに滅ぼされてしまおうとも、彼を頂点とした霊界構造を打ちたてられるよりはマシですから」

「そっか。心眼の使えるヒャクメや超加速できる小竜姫、そして圧倒的なパワーを持ち、伸縮自在な武器を操るハヌマン。
 それだけいれば、アシュタロスが確保できる分の核ミサイルくらいなら多分迎撃できるわね。
 散発のミサイルが一定レベル以上の神魔に通じないのは、月の戦いで証明済みだし」

「でも神魔族のいない現状では、核ミサイルはまさしく脅威よ。
 アシュタロスがここまであからさまな方法に踏み切ったのは、機動力の要となる逆天号の運用が難しくなったからでしょう。
 けれど、人間側の追っ手を振り切って令子を確保できる神魔族が無力化した事も大きいと考えるべきね。
 それにアシュタロスが知っているかどうかは分からないけど…………」

 そこで美智恵は一旦言葉を切った。
 彼女が何を犠牲にしても阻止しようとしていたあの決定は、その土台ごとアシュタロスに引っくり返された。
 まるで美智恵の努力を嘲笑うかのようにあっさりと。
 だがそれでも戦いは終わったわけじゃないと、美智恵は無念さを噛み殺しながら口を開いた。

「みんな、落ち着いて聞いてね」

 そして美智恵とヒャクメの説明が始まってからしばらく後に。
 美神達は世界GS本部が下した『美神令子の暗殺』の指令と、霊力の完全同期連係によるパワーアップの可能性を知る。






 ────その日、世界GS本部は美神令子の暗殺指令を撤回し、美智恵達にアシュタロス抹殺の任を託した。
 



[528] 儚き蛍火 3話
Name: z
Date: 2006/01/22 09:33
 紺碧が一面に広がっていた。見渡す限り、目に映る世界は青く、どこまでも続いていた。
 耳を澄ませば、聞こえてくるのはカモメの鳴き声と海鳴りが船を叩く音。

 砕氷船『しばれる』が夏の日本を出港して北半球から赤道を越え、南半球に入ってから数日が経っていた。
 南下を続ける船は、もう冬の寒さに包まれている。
 ひゅうひゅうと吹き付ける潮風は冷たさを孕み、その風の刺激に晒され続けた顔の肌が少し痛い。
 手の平で撫でても痛みは引かなかった。
 その結果に少しだけ顔を顰めると、美智恵は落下防止用の柵に手を置いた。
 天気は気持ちの良いくらいの快晴だった。
 晴れ渡った寒空の下、『しばれる』は順調に海を進んでいる。
 下を見れば、どこまでも続いていく紺碧の海。
 見上げれば、果てしなく広がっている群青の空。
 そしてその狭間には、2つの青に挟まれた人工の船。
 深淵の海が奏でる潮騒の音は、引っ切り無しに船板に押し寄せ、己の偉大さを盛んに主張する。
 広大な空が投げかける日差しは、船を照り付けて温めながら、穏やかに己の優しさを訴える。
 甲板に立って彼らの声に耳を傾けながら、いつの間にか美智恵は刻一刻と近付いてくるアシュタロスの決戦に思いを馳せていた。

「大海の中に在る我、潮騒の音を聞き、根底より生ずる抑え難き戦慄を沈めながら、遥けき大陸を目指す。
 その心、麻の如く乱れ、されども諦める事を知らず、ただ必勝の念のみを抱きて戦場に臨まん」

 不意に浮かんだ感想を口に出す。
 敵地に着くにはまだ時間がかかるとはいえ気を緩めていたわけではないが、それは紛れもなく今の彼女の胸中の一部を表していた。
 そして、神の悪戯か小悪魔の仕業か、間の悪い事に彼女の呟きを耳にした者がいた。

「意外っすね」

「私に詩情があった事が?」

 背後から掛けられた声に、振り向きもせず答える。
 間髪入れない返答。
 まるで声を掛けられるのを予期していた様な美智恵の反応に、近付いてくる相手の足取りと霊波が僅かに乱れた。

「いえ、そうじゃなくて。
 なんつーか、仕事してる時の隊長は散文的だとばかり思ってましたので」

「失礼ね」

 振り向くと、手を伸ばせば届く距離に横島がいた。
 一瞬視線が絡み合い、瞳が揺れる。
 けれど彼は直ぐに目を逸らすと、そのまま美智恵の横に並んで海に目を向けた。

「………」

 訪れる沈黙。
 ふと彼女は徹底的に横島を問い詰めたい衝動に駆られて口を開きかけ、慌てて息を呑んで押し殺す。
 帰還後に、自らの意思で参戦を申し出た横島忠夫という少年。
 彼の様子が変だという報告は、西条からも美神からもおキヌからも受けていた。
 だが以前に探りを入れた時も、横島は「空母との戦いの時に死に掛けたせいで色々と思う事があった」としか言わず、その件を持ち出されると、当事者の美智恵にはそれ以上の詮索が出来なかった。
 それ故に、横島には言いたい事も聞きたい事も無数にあった。
 しかし現状では、美神と同等の霊力を得た横島は、美智恵にとって最後の切り札なのだ。
 下手に彼の心に踏み込んで不信感を与えてしまえば、同期合体にも影響しかねない。
 その危険を犯してまで横島に尋問する事など出来るわけもなかった。
 この船に、美神の代役が務まる者はいても、横島の代役が務まる者は誰もいないのだ
 それを知るからこそ、この航海が始まった直後、美智恵は船に乗り込んだ者達全員に横島について一切詮索せぬように厳命し、その決定に不満気な反応を示した美神やおキヌを冷徹な理屈と態度で黙らせていた。

 頬に柔らかく突き刺さる視線を感じて横を向くと、何か聞きたそうに彼女を見つめる横島の顔が目に入る。
 一見すると静謐を湛えた瞳。
 だがその奥に僅かに燻る炎はどんな激情か。
 尋ねては駄目だと理解しながらも問いたくなる。
 その誘惑を無視して、彼女は何気ない態度を装った。

「どうかしたの?」

「ちょっと南極で俺達を待ってるクソ野郎の事を思いましてね」

 手摺りを指先でなぞりながら、彼はそう言った。
 苦笑を浮かべた表情。
 笑わない眼。
 アシュタロスに言及した時に微かに漏れ出た負の感情。
 それが何なのかと考えようとして、

「そもそもアシュタロスが欲しがってる結晶をどうにかできればこっちの勝ちなんですよね。
 美神さんの魂から結晶を取り出す事って出来なかったんですか?」

 彼女が何かを思うよりも早く、横島の言葉が耳に届く。
 一瞬、虚を衝かれ頭の中が白くなり、けれど素早く横島の問いに意識を戻す。
 横島忠夫の分析は投げかけられた話題に乗る形ですれば良い、と思考を切り替える。
 その明敏さこそが、美神美智恵の最大の武器。

「今の技術では難しいわね。アレはもう令子の魂と同化してるから、無理に摘出すれば令子の幽体が保たないわ」

「美神さんが結晶からエネルギーを引き出すってのは?」

「それも不可能ね。令子の話だと、結晶はアシュタロス専用にカスタマイズされているらしいわ。
 それに、仮に令子が結晶のエネルギーを引き出せとしても、人間である令子の肉体は膨大なエネルギーに耐えられずに崩壊するでしょう。
 ………結局、あの結晶に秘められたエネルギーを扱えるのは、アシュタロスだけなのよ」

 過去に目論んだ手段が挫折した理由を説明し終わると美智恵は思わず嘆息した。
 局面を難解にしている結晶の特殊性について考える時、彼女はいつも複雑な思いに囚われる。
 もしも結晶が大勢の者に扱える代物だったなら、そのエネルギーを目当てに襲ってくる魔物はアシュタロスだけではなかっただろう。

 ────アシュタロスにしか使えないからこそ、手に入れても無意味。
       それどころかアシュタロスに狙われる事になる。
       かといって、アシュタロスに渡れば何が起きるか分からない。

 それが結晶に対する神魔のスタンスだった。
 だからこそ魔族の上層部は、正規軍の士官たるワルキューレを美神の護衛に回して、間接的にアシュタロスを妨害したのだ。
 
「あの特訓。俺も受けたから分かりますけど、美神さんをパワーアップさせたとしても限界があるっすよね。
 それに人間である限り、パワーでアシュタロスに勝つのは無理っすよ。
 だったら俺と美神さんの同期合体を思いつく前に隊長が考えてたアイデアって何だったんですか?」

 特に残念そうな響きも無く、乾いた声で問う横島。
 その疑問はある意味で当然だった。
 世界に神話は数在れど、人間が高位の神を倒した寓話は殆ど無い。
 本気で魔神級の存在に戦いを挑んだ人間など神話にすら出てこない。
 だから、もしもアシュタロスを打ち倒したならば、三界に語り継がれる新たな伝説が生まれるだろう。
 それは荒唐無稽という言葉ですら括れない難業だった。

「横島クンの言うとおり、人間が魔神を倒すのは不可能に近いわ。
 でも私達はそもそも勝つ必要なんてなかった。それは分かるでしょう?」

「ええ。一年間後に冥界チャンネルが復活すれば、他の神様や悪魔がアシュタロスを倒してくれるからでしょう」

「そう。けれどもしもアシュタロスが直接令子を捕らえに来たらどうしようもなかったわ。
 抵抗は愚か逃亡すら覚束ないでしょう。
 でも、幸いにもアシュタロスにはそこまでする余力は無かった。
 あの3姉妹の誰かが延々と結晶の奪還に来たのがその証拠ね。
 だからあの3人を返り討ちにするか、さもなければ逃げきれるだけの実力を身に付ければ、時間切れに持ち込む事もできると思っていたのよ」

 そこで言葉を切ると美智恵は己の誤算と人類の愚かさに対する無念を噛み殺した。
 もう何十年前から、核ミサイルの大量配備がいつか人類に仇となると、圧倒的多数の民衆が認識していた筈だ。
 それと同時に彼らは、使えば自分自身すらも滅ぼす兵器をまさか本当に使う者などいない、と奇妙な安心感をも抱いていたかもしれない。
 だがそれを嘲笑うかのように、アシュタロスはミサイルを奪って平然と人類を脅迫し、各国首脳を屈服させた。
 おかげで彼女達は持久戦の方針を放棄して、不利を承知で魔神の本拠地で戦わざるをえなくなった。
 ………結局人間は自分達の首を絞めたのだ。
 もしも人類が滅亡を免れれば、数百年後に神魔族達は皮肉を交えながらこの事件を語るかもしれない
 『反デタント派のアシュタロスは、デタントに支えられた人類の発展を悪用する事で、デタントへのアンチテーゼを示したのか』と。
 いつの間にか数百年後を見据えた壮大なテーマについて考えていた自分に失笑すると、彼女は視野を『今』に戻した。

「同期合体以外に私達が考えていた手段は2つよ。
 1つは霊波の質を変えること。
 あらゆる抑圧と理性を吹き飛ばして人間の限界を超えれば、令子の霊力は飛躍的に上昇するわ。
 それでどこまで強くなれるのかは算出不明だけど、最低でもあの三姉妹を超える事は出来た筈よ。
 そしてもう1つは相手をコピーすること」

「コピー?」

「霊動実験室で貴方や令子が戦った妖怪や悪霊は、全てプログラムによって生み出されたものよ。
 その理論を応用してアシュタロスをトレースによって再現できれば、理論的には同等のエネルギーを得られる可能性があるの」

「なんでそのアイデアは駄目だったんですか?」

 初めて聞かされたアイデアに秘められた可能性。
 それが発案者自らにあっさりと否定される横島は首を捻った。
 彼には霊力の上昇の幅が不確定な同期合体よりも、コピーの方が互角に戦える様に思えてならなかった。
 けれど美智恵は悲しそうに首を振って否定する。

「まず設備の問題ね。
 魔神クラスの存在を再現するには、あの霊動実験室以上の演算能力と専用のプログラムが必要よ。
 次に戦術に組み込むのが困難な点。
 プログラムの妖魔が実験室から出られなかったように、コピーが可能なのは専用の施設のすぐ近くだけ。
 これでは、遠くから施設を狙って攻撃されれば、アシュタロスと戦う前にコピーが解けてしまうでしょうね。
 最後にコピーでは時間稼ぎは出来ても、勝つ事はまず不可能なの」

「どうしてっすか?」

「コピーするって事はね。
 能力は互角になっても相手の状態をシュミレートし続けるって事だから、与えたダメージが返ってくるのよ。
 だから攻撃すれば自分もダメージを受ける。けれど相手から受けた攻撃は相手に返らずにダメージになるってわけ」

「それは確実なんでしょうか?」

「残念ながら、現存の理論をどう弄っても覆らなかったわ」

 話している内に、彼女の脳裏に娘の命を救うために試行錯誤と挫折を繰り返した日々の苦しみが去来する。
 希望を求めて片っ端から論文を漁り、伝承を調べ上げて、それが役立たぬと分かった時の失望感。
 それは筆舌に尽くし難い苦悩の繰り返しだった。
 けれどそんな感情など少しも表に出さずに、美智恵は淡々と答え終わった。

 完璧な説明。
 異論を挟む余地も無い結論。
 それ以上の議論は無意味と悟ったのか、横島は黙り込み、やがて視線を海に向けた。何かを考えている様な表情だった。
 美智恵はそんな彼の様子を窺っていた。横島忠夫の変化の底にある物を読み取ろうとして。

 しばしの沈黙。
 潮騒が忘れるなとばかりに耳を打つ。

 そのままどれ程の時が流れただろうか。
 唐突に横島の右手から光が漏れた。

「………!?」

 反射的に身構えると、奇妙な波動に包まれた横島の姿があった。
 その波動を感じ取った途端に何故か湧き上がる奇妙な親近感。
 戸惑いながら観察すると、光の発生源だった右手の中に在る『模』と刻まれた文珠が映る。
 その文字の意味を思い浮かべてから数秒後、美智恵は親近感の正体と目の前の現象を理解した。

「その波動は、私と同じ霊波。
 ……私を文珠でコピーしたのね、横島クン」

「そうっす。文珠のコピーなら、隊長の考えたコピーとは違うかもしれないって思って」

「驚いたわ。まさかこんなにあっさりとコピーが可能になるなんて。
 ………うまく運用すれば、設備と戦術面での課題は解決できるわね。
 あとは倒せるかどうか………横島クン、少し力を込めて殴ってみなさい」

 言いながら美智恵は片足を引いて半身となり、すっと腕を上げてガードを取る。
 女性に手を上げる事にたじろぐ横島。
 彼女は首を振ると彼の懸念を制し、促す様に視線を送る。
 それでようやく覚悟を決めたのか、横島は右拳を彼女の肩に叩き込んだ。
 鈍い音がして美智恵の体が僅かに傾ぎ、その直後に横島もバランスを崩す。

「痛いっすね」

 残念そうに俯く横島の頬を襲う平手打ち。
 パーンと甲高い音が響き、驚きと鋭い痛みが横島を奔り抜けた。

「私は痛くないわ」

 顔を上げると、がっかりと肩を落とす美智恵の姿。
 声には、横島の文珠が彼女の理論と同じ結果となった事への失望感が窺える。
 けれど軽く頭を振ってその感情を振り払うと、美智恵はしみじみと述懐した。

「惜しいわね。
 せめて貴方のコピーと併せて使える強力な手札がもう1つ在れば、或いは勝てたかもしれないのに」

「例えば、妙神山が無事ならそこにアシュタロスを誘き寄せてハヌマンと共同戦線を張るとか?」

「あら、良く分かったわね」

「いえ、その………」

 不意に頭に流れ込んできた情報を伝えようとして彼は口篭った。
 無意識にやってしまったとはいえ、思考を読まれたと言ってしまえば、美智恵の気分を害すのではないか。
 だから横島は葛藤し始め、そんな彼の唐突な変異に、美智恵は目を見張る。
 声を掛けようとした時、横島の纏っていた霊波が煙の様に虚空に消え、彼の霊波が元に戻る。
 反射的に腕時計に目をやると、彼が文珠を使ってから10分が経過していた。

「そろそろ訓練の時間よ。文珠のストックは大丈夫?」

「平気っす。まだ6個、残ってます」

 とりあえず話を切り上げると、美智恵は踵を返した。
 横島も先程までの葛藤を忘れたかのようにきびきびとした足取りで彼女に追いついた。
 意識を訓練に切り替えたのか、その表情は引き締まっている。
 一方、彼と連れだって歩きながら美智恵はやや安堵していた。
 交わした会話の中で横島の言葉の節々に漂う感情の中には、彼を死地に追いやった美智恵への反感は無い様に思えた。
 美智恵が感じ取れたのは、アシュタロスへの憎悪にも似た敵意と強い焦燥感。
 それは、程度の差は有れ、この船の乗る人間全てに共通する感情である。
 
 だから美智恵は懸念を捨てて横島の変化を許容した。
 アシュタロスとの戦いにマイナスにならないのならば放置しても構わない───半ば切り捨てるように思った。
 合理的で非情な判断。
 だが、それは正しかった。
 アシュタロスとの決戦に勝利する、という事だけに限れば。










 航海は順調に続いていた。
 既に『しばれる』は南回帰線を通過して、今はオセアニア大陸を東沿いに南下し続けている。
 数日後にはタスマニア島の横を抜けるだろう。
 その後は、南極圏に到達するまで陸地は無い。
 そして刻一刻と近付いてくる決戦を見据え、『しばれる』に乗り込んだ者達は日々研鑽を重ねていた。




 その部屋には11人の男女がいた。
 美神美智恵、西条輝彦、小笠原エミ等、全員が高い霊力、或いは珍しい能力を持つ霊能力者達。
 美智恵が全員に目配せすると彼らの全身には殺気と緊張感が漂いだす。

 ぱちんと美智恵の指が鳴る。 
 その瞬間、パピリオとベスパを模したプログラムが部屋の中央に出現した。

「────っ!!」
 
 全員が己の霊力を一気に解放するのと、ベスパとパピリオの手から霊力を束ねたビーム状の霊波が放たれたのはほぼ同時であった。
 人の限界を軽々と凌駕する威力を秘めた二筋の霊波砲。
 それは容赦なく美智恵達の肉体を消し飛ばそうと襲い掛かり、だが横合いから衝突した別の霊波砲によって強引に軌道を変えられた。
 その余波に乗じてベスパ達に接近した人影が、攻撃後に生じた隙を突いて彼女達の体を吹き飛ばす。

 その光景を横島は緊張に震えながら見守っていた。
 『しばれる』に急ごしらえで設置した霊動実験室の中で美智恵達が行っているのは、横島と美神抜きにベスパとパピリオを倒す為の特訓だった。
 西条と美智恵が考案したフォーメーションは、『柔良く剛を制す』の格言を体現するかのように、ベスパとパピリオの爆砕めいたパワーをいなし、時間をかけてチクチクとプログラムの彼女達を弱らせていく。
 だが、もしも大きなミスを犯せば終わりだ。一時の優勢など容易く覆る。
 それが分かっているだけに、実験室にいる男女には驕りも油断も無い。
 一方、万が一の際の緊急停止を命じられて、制御室に待機している横島は、停止ボタンに指を置きながら、彼らの戦いに目を奪われていた。

 結界を張り続ける唐巣、エミだけでなく、おキヌや西条達の額にも汗が浮かんでいる。
 彼らは一流の霊能力者と比較しても遜色ない霊力と異能を持ち、それを生かす術を知っている。
 だがそれでも、桁外れのパワーと頑丈さを併せ持つベスパとパピリオを相手に互角以上の戦いを続ける困難さは筆舌に尽くしがたい。
 なのに彼らは疲労も苦しい素振りも見せず、緊張感と集中力を保ち続けている。
 その顔には強靭な意志が満ち溢れていた。

 やがて、辛うじてベスパとパピリオを戦闘不能に追い込んだ時、特訓は終わった
 美智恵がそれを告げると、殆どの者達が疲労回復の為に座り込む。
 それを見届けると横島は制御室の電源を落として部屋を出た。
 時刻は夕刻に指しかかろうとしていた。




 甲板に通じる扉を開けると清冽な空気と潮騒が彼を出迎えた。
 空と名付けられた無限に広がるキャンバスは、既に鮮やかな赤色に染め抜かれている。
 舳先まで歩いて手すりに腕を置くと、何故か先ほどの特訓が脳裏に浮かんできた。
 それは必死になって戦う彼らの姿が綺麗だと感じたからだろう。
 未来を求め、前を向いて戦うひたむきな姿勢は輝かんばかりに美しかったからだろう。
 そしてその姿を見ている内に、憧憬とも寂寥ともつかぬ想いに胸をうたれながら、ようやく横島は確信したのだ。
 
 この船に乗り込んで死地へ赴く知人達が、戦うのは未来を勝ち取るためだ。
 生き残って幸福な生を謳歌するためだ。
 刺し違えてでもアシュタロスを倒そうと思い詰めているのは彼と美智恵ぐらいだろう。
 美智恵にしても、絶対に譲れない最終目的は魔神の打倒ではなく、娘の命を守る事なのだ。
 人類の存亡が懸かっていようがいまいがアシュタロスを殺す事だけを目的に戦う自分とは違う。
 前向きな希望もなければ、己の命にすら価値を見出せない自分が彼らの輪の中に入り込んでいけるわけがない。
 おそらく変わってしまったのだ、横島忠夫という人間は。
 何もかも、取り返しがつかないほど。
 彼らは未来の可能性を見据え、地に足をつけて生きる人間なのだ。美神や、おキヌや、認めるのは癪だが西条すらも。
 だからこそ自分と同列視して語る事すらおこがましい。
 だって自分に未来があるなんて、これっぽちも思えない。
 もしも決戦に生き残った自分を想像しても、何も浮かばない。
 復讐を完遂した後に、自分がどんな顔をして生きていくのかを考えても、何も思い浮かばないのだ。
 きっとそれは、頭の何処かが直感に悟っているのだろう。
 この戦いで横島忠夫は死ぬのだと。

「ルシオラ、死んだらお前に会えるかな?」

 視界に飛び込んできた茜色の空と紅に染まった雲に、感傷が痛みを伴いながら零れ落ちた。
 瞼を閉じると浮かび上がってくるのは、初めて彼を愛してくれた女性の姿。
 だが追憶の中の彼女は哀しそうな顔でこちらを見つめていた。
 怖いくらいに真っ直ぐな瞳で。
 何も問わず、何も求めず、全てを理解した上で心から彼の身を案じてくれる眼差しに、罪悪感と喪失感と悲哀が空っぽになった筈の胸を衝く。
 それでも立ち止まれない。
 立ち止まるわけには行かない。
 核ミサイルを奪取したアシュタロスによって人類に逃げ場は無い。小細工の余地もない。
 残された道はアシュタロスを倒すしかないのだ。
 ならば、アシュタロスを殺す。
 ベスパやパピリオがそれを遮るのならば彼女達も。そして横島忠夫がどうなろうとも。
 ………たとえそれが、決してルシオラが望まぬ道だとしても。




 そして一途に夕日を見つめる横島の姿を、少し離れた場所から見守る一対の視線があった。
 揺れた瞳に複雑な感情を宿し、胸の内に不審と好意を封じたまま、見つからぬように佇む少女。
 氷室キヌである。
 彼女は数日前に甲板で紅い空を見上げていた横島を偶然目撃していたのだ。
 その日からおキヌは気がついた。毎日必ず夕暮れ時になると彼が甲板に出て無言で空を眺める事に。
 その時の横島の表情に在るのは、どこか淋しげな翳りを帯びた哀愁。
 うっすら透けて見える哀しみの影は、過去の名残か、あるいは今なお続く傷痕か。

「横島さん………」

 呟くと切なくなる。

 いつからだろうか。
 帰還した横島の尋常ならざる変化。
 それが一過性のものではない事に気付いたのは。

 いつからだろうか。
 ただ見ているだけで、こんなにも胸が熱くなるようになったのは。
 こんなにも───彼が欲しいと思うようになったのは。

 ────何があなたを変えたんですか、横島さん?
       どうして夕日を見るあなたはそんなに哀しそうなんですか?
       ………誰を想ってそんな顔をしているんですか?

 尋ねたい事は山の様にあった。
 けれど横島の心に深く踏み込もうとする度に夕日を見ていた彼の横顔がちらついて。
 だからおキヌは何も言えなくなって立ち竦む。傷つき、傷つけてしまう事を恐れて。
 
「この戦いに生き残る事が出来たら………その時は、私………あなたに」

 おキヌは小さく呟いた。
 口に出すと途端に顔が熱くなった。慌てて頬に手を当てると、誰にも見られぬように俯く。
 そんな自分の臆病な反応が少々恨めしい。
 見ているだけなんて嫌だった。
 本音を隠して、笑顔を取り繕って、言葉を連ねるだけなんて寂しすぎた。
 こんなにも近くにいるのに、見えない壁に遮られて横島が何処か遠くにいるような気がしてならなかった。
 近付いて横島に触れたかった。横島に触れて欲しかった。胸の内の悲しみごと横島を抱きしめてあげたかった。
 だからおキヌは改めて決意した。
 近い未来に必ずこの想いを伝えよう。そして横島の隣に立てる様に頑張ろう。
 もしも想いを託した言葉を堂々と告げる事が出来たなら、いつの間にか生じてしまった彼との距離だってきっと直ぐに埋められるんだ。










 西条達がフォーメーションの特訓に励んでいる一方で、美神と横島には同期合体の訓練が課せられていた。
 とはいっても、文珠を2つも消費する『合』『体』が行われるのは週に一度。
 その日以外は、専ら合体中の意思疎通を円滑にする為の訓練が図られていた。
 それは様々な制約を課された上でのプログラムとの戦闘や、互角に戦い続けろと命じられた模擬戦等である。

 最初の訓練に望む際に、美智恵は2人に命じていた。
 互いの状態を的確に把握し、僅かな身振りだけで次の動作を予測できるようになれと。
 それが出来なければ到底勝利は望めないと。
 確かに美智恵は正しかった。
 例えば言葉を交わす事を禁じられた上でのプログラムとの戦い。
 勝ち抜くためには、パートナーの意図を素早く理解し、呼吸を合わせて動く必要があった。
 1人がミスすれば即座にもう1人がフォローして体勢を立て直す、それぐらいの芸当が出来なければならなかった。
 何度、敗北を喫して無様に転げまわった事だろう。

 それはアシュタロスを殺すと誓った横島にとっても過酷な訓練だった。
 これで勝てるのかという焦りもあった。
 けれどプログラムに向かって先行する美神をフォローするために後ろから追いかけた時、彼は心地良い高揚感を感じていた。
 目の前には迷いも無く疾駆する美神令子の後姿。
 どこまでも引っ張ってやる、だから最後までついて来いと、彼女の背中が語っている。
 それを嬉しく思う自分がいる。
 信じていると背中を任され、それに応えて見せると心が奮い立つ。
 何故ならそれは、

 ────この先、助手なんて邪魔なだけだ!必要なのは戦友なんだ!!

 横島忠夫がいつか辿り着きたいと願った理想のポジションだったから。
 あの時、彼は美神を助けようと命を懸けた。
 そして文珠という横島忠夫だけの力を得た。
 それは美神の足を引っ張るまいと決意した末に手に入れた力の筈だった。
 だからこそ、絶望に打ちのめされようと、復讐に取り付かれようと、彼は美神令子を殺せなかったのかもしれない。
 そして美智恵に課せられた制約を乗り越えた時、2人の『合』『体』時の出力とそれを調整する技量は飛躍的に高まったのである。
 だが束の間の安らぎはやがて終わりを告げた。




 その日、特訓を終えた美神と横島は美智恵に呼び出され、同期合体の成果とそれに伴う危険性について様々な説明を受けていた。

「横島クン。合体中に出力を上げている時、なんだかぼぉとしてくる事はない?」

「ええ、ありますけど。アレって何なんですか?」

「それは同調率が進みすぎると発生する現象よ。簡単に言うと過剰シンクロね」

「過剰シンクロって、あんまりやりすぎると取り込まれちゃうってやつ!?
 横島クンが私の中に入ってくるっていうの!?
 ………ちょっと、ぞっとしないわね」

「落ち着きなさい、令子」

 死を連想させる言葉に美神は戦慄を隠すように興奮を面に表して、美智恵はそれを軽く嗜める。
 しばし黙って時間を与え、それまでの説明を理解させると美智恵は手に持っていた紙を2人に差し出した。
 そこには合体時の出力とシンクロを計測した表と注釈があった。
 2人はそれに目を通し、それが終わると美智恵はシンクロの進みすぎの弊害を指摘していった。

「さっき令子が心配した事は概ね正しいわ。
 霊波のシンクロ進みすぎると、それに引っ張られた横島クンの魂は限りなく令子の魂と同質になって、やがて吸収されるわ。
 そうなれば令子にはすぐに深刻な影響は出てこないでしょうけど、横島クンの魂は消滅してしまうの」

「吸収されるって事は、俺の魂が美神さんの魂に触れてそのまま美神さんの魂を変える事無く一体化するって事ですか?」

「そうね。この場合、令子の魂を水に、横島くんの魂を油にイメージして見ると分かりやすいわね。
 2つの液体は色も味も成分も違う。それを魂ごとの違いと捉えればいいわ」

「指紋やDNAみたいなものって考えればいいわけね。
 でも波長の同期が進みすぎれば、固有の筈の自我は片方に引き摺られてオリジナリティーを失っちゃうって事か」

「そう、問題はそこよ。波長の同期を高度なレベルで実現するには、魂レベルでもより同質に近付かなければいけないのよ。
 けれどそれは、本来は混ざり合わない筈の水と油が混ざり合い、一つの液体になってしまう危険を孕んでいるの。
 水になった油は魂同士を隔てる境界を失い、やがて元々在った水に吸収されて油に戻れなくなってしまう。
 そして後に残るのは何の変質もない水、つまり令子の魂だけってわけ」

 美智恵の説明が終わる。
 意外にも2人に驚きはなかった。
 美神はその豊富な知識からソレを予期し、横島は訓練を通じてその危険性を薄々感じ取っていたからだ。
 合体中、彼だけが感じる途轍もない一体感。
 まるで心身が蕩けてしまいそうになる感覚。
 だがそれは美神の魂の一部として吸収されそうになっている、という事なのだろう。

「………!?」

 その時、彼の脳裏に何かが閃いた。
 過剰シンクロを防ぐ為の注意に耳を傾けながら、記憶を巻き戻していく。
 数日前のコピーの利点と欠点。
 合体中に起こる一体感。
 今日の美智恵の説明。
 そして『しばれる』に乗り込む直前に聞かされた、素人にも分かり易い様に要約された霊力の完全同期連係の理論の基礎。
 それらは横島の頭の中で絡まり合いながら、ある方向へ集束しようとしていたのである。








 次の日、横島は久しぶりに、夕暮れの赤い空ではなく、眩い太陽を従えた青空を眺めていた。 
 よく眠れなかったせいか、頭が少し重い。
 だが気分は軽かった。
 昨日まで、美神や美智恵達とは違う意味合いで、横島の心は焦燥感に焼かれていた。
 アシュタロスを確実に倒せる術は無く、かといって美神を殺すことも出来ず。
 中途半端な自分自身に焦りと苛立ちは募るばかりで。
 けれどそれも昨晩消えた。

「コピーと同期合体。それに魂の同質化の弊害ですか。
 アシュタロスを倒すためには、この程度の危険は仕方ないっすね。
 きっと『許容しうるリスク』ってやつなんでしょう。
 ならば俺も、俺なりに『許容しうるリスク』ってやつの範囲で足掻かせてもらいますよ」

 自然と彼の顔に笑みが浮かんでくる。酷く歪んだ笑みが。
 
「隊長。この時間軸に来るまで美神さんも西条も隊長の事を知らなかったんですね
 って事は、あんたはアシュタロスとの戦いの準備を極秘裏に進めていたのでしょう?
 それなのに、良くもまあこれだけの理論と手段を考え付いたものですねえ。
 あんたは本当に大した人だ。美神さんが隊長にだけは頭が上がらないのも良く分かるっすよ」

 賞賛に込められたどす黒い感情は、抑えきれずに溢れた憎悪という名の歪んだ喜悦。
 それは南極で待ち受けるただ1人の男に向けられて。 

「感謝しますよ、隊長。おかげで、アシュタロスを殺す方法が掴めましたから」

 そこで彼は胸に冷え切った激情を抱えたまま言葉を切った。
 ふと虚空の中に蛍の少女を幻視する。
 もう会えない、かけがえのないヒト。
 心が痛みに疼く。
 ルシオラ。一夜限りの恋人となった儚き蛍火。
 好きだった。一緒に生きたいとさえ思った。
 けれど魔神の野望と己の愚かさが、彼女の命ごとその可能性を踏みにじったのだ。
 ならば贖わせなければいけない。
 踏み台にされた者の痛みと嘆きを思い知らせ、その上で報いを与えよう。

「ククッ……ククククフフフ……アハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 やがて少年の口から笑い声が迸り、厳寒の大気の中にけたたましく木霊した。
 名状しがたい不気味な感情を滲ませた哀しい嗤い。
 もしも横島を良く知る者がこの場にいたならば、常軌を逸した彼の様子に不審を抱かずにはいられなかっただろう。
 けれど冷たい潮風に身を晒す事を嫌ったのか、甲板には誰も居なかった。
 だから少年は嗤う。誰にも遠慮する事もなく、狂ったように哄笑する。
 無人の甲板の上に吹きすさぶ海風だけが、彼の声を聞いていた。 




 この日、胸の奥底でぐらぐらとぐらぐらと不安定に揺れ続けていた横島の狂気は、遂に行き場を見つけて踊りだす。
 不格好に開花した殺意のワルツを滑稽に。
 だが舞台で踊る予定の役者は、彼独りだけではない。
 非常に徹する決意を固めた者。
 生き延び様と足掻く者。
 誰かを守ろうと立ち上がる者。
 信念に因って動く者。
 戦う理由を見つけ、戦場へ赴く覚悟を決めた人間界最高の戦士達。
 そして彼らを乗せた船は、急ぎもせず、止まりもせず、この舞台を演出した強大な魔神の待つ場所へ向かってひたひたと進んでいく。






 ────6日後、砕氷船『しばれる』は南極大陸に到達した。



[528] 儚き蛍火 4話
Name: z
Date: 2006/01/29 16:06
 迸る殺気。
 直後に巨大な氷山をも消し去りかねない破滅の光が極寒の大気の中を奔った。
 連続して繰り出された霊波砲。その数は優に10を超え、全てが必殺の威力を秘めている。
 だがその尽くが、

「「甘いっ!!」」

 横合いから放たれた別の霊波砲に弾かれた。
 またしても標的から外れて着弾する己の霊波砲に、パピリオの胸を苛立ちが叩く。
 忌々しさに震えながら、強引に突進する。

「くっそー!!」

 狙いを一番彼女の近くにいる前衛の女性型アンドロイドへと定め、疾風の如く突進する。
 その距離5m。
 拳を直接叩き込もうと、掌に霊波を篭める。
 あと3m。
 その時、足元に違和感。
 バランスを崩して手をついてしまう。
 スライディング気味に横から飛び込んできたバンパイア・ハーフに足を引っ掛けられたのだ。
 そして顔を上げた瞬間、

「ロケットアーム!」

 アンドロイドの腕から伸びた拳が顔面に命中。
 体ごと吹き飛ばされ、またしても距離を離される。

 それはこの戦いが始まってから何度も繰り返された攻防だった。
 ベスパが美神令子と横島をアシュタロスの元へと連れて行ってから既に30分。
 戦況は著しくパピリオの不利となっていたのだ。

 パピリオ自身、手を抜くつもりはなかった。
 遊ぶつもりもなかった。
 最初から全力でこの場に残った全員を抹殺すべく戦いに臨んでいた。
 しかし現実には、一方的なパワー差にも拘らず、パピリオの攻撃は一撃たりとも相手に届かなかった。
 それは彼女が経験の浅さゆえに失念していたからだ。
 圧倒的な死を前にしても生き抜こうと足掻く者達の執念を。
 人間界のほぼ全ての神魔族を屠った逆天号を墜とした人間の知略を。

 個々人の知恵と勇気と積み重ねてきた経験が合わさった時、群体である人間達は一つのネットワークを作り上げ、一の力を百に変える。
 それが圧倒的なパワーの差を覆しうる対ベスパ・パピリオ用のフォーメーションを生み出し、パピリオに牙を剥いたのだ。
 おキヌの心眼。
 タイガーの意思疎通の転送。
 美智恵や西条の指揮。
 その手足となって攻撃する雪乃丞達。
 それら全てがパピリオの行動を先読みし、攻撃を受け流し、反撃を叩き込んでいく。




 ────ドオォォォン

 そうして繰り返される攻防。
 パピリオの攻撃は尽く跳ね返され、彼女の体は何度も何度も倒れ伏す。
 息が苦しい。声も出ない。
 酷寒に凍りついた大地に叩きつけられた全身が盛んに痛みを訴える。
 じんじんと痛む箇所は限りなく、今すぐ大の字になって休んでしまいたい。
 余りに無様な己の姿に涙が出そうになる。
 だが心中の怒りがその弱音を捻じ伏せた。
 
 許さない。
 自分から姉を奪ったポチなんか絶対に許さない。
 ポチの仲間も許さない。

「よ……よくもっ!!
 やってくれまちたねぇぇぇぇ!!」

 激情のままに、彼女は百を超える打撃を受けた体を無理に立ち上がらせる。
 瞳には映る11人の敵は全員無傷。なのにこちらは無視できないダメージを負っている。
 明らかな劣勢。
 頭の冷静な部分が囁いてくる。
 一挙一動は全て読まれ、こちらから仕掛ければカウンターをくらうのは確実だ。
 残念ながら、このままでは勝てない。ここは自分からは動かず、消耗戦に持ち込めと。

 この状況下ではそれが最善の戦法だろう。
 戦い慣れしたメドーサやデミアン、ワルキューレ達ならば迷わず選んだに違いない。
 けれどパピリオはその声を無視して再び突進した。
 姉を失った哀しみを怒りに変え、渾身の霊力を右手に込める。
 止まれと制止してくる理性を無理矢理捻じ伏せる。

「う……うるちゃーい!!」

 消耗戦など所詮足止めだ。
 負けない代わりに勝つのも難しい。
 だがそんなものではこの怒りは治まらない。
 ポチの仲間を皆殺しにして、ポチに誰かを失う哀しみを思い知らせてやる。

 頑なに彼女を突き動かす原動力。
 それはルシオラを失った哀しみと恨み。
 だからパピリオは諦めない。
 だからパピリオは止まらない。
 何度も何度も立ち上がり、南極のブリザードの様に感情のままに荒れ狂う。
 自らの首を絞めると知りながら突進し、中らぬと分かりながら霊波を迸らせる。
 だが容赦のないGS達の迎撃の前に、戦闘経験の浅いパピリオは手も足も出ず、次第に追い詰められていく。

「───っ!?」

 そうして無数の攻防を経て。
 ようやく彼女は己の体が血に塗れている事に気が付いた。
 見れば擦り傷、切り傷の数は限りなく。
 いつの間にか呼吸も荒くなっている。

「はぁはぁ……うっ」

 吐き気が込み上げる。
 こんなにひどい状態に陥ったのは姉達と本気で喧嘩した時以来だ。
 ならば目の前の敵は姉達に匹敵する実力を持っているというのか。

「信じられないでちゅ……でも」

 認めたくない事実を無理矢理飲み込んで理解する。
 弱っちい人間なんかが。弱っちい人間なんかが。
 そう反論したくなる心を無理矢理抑えて構えを取る。

「はぁぁぁ………ふっ!!」

 呼吸と共に霊波を振り絞る。
 全力で。
 否、全力を超えて。

「………あっ、ぐ」

 一瞬、意識が遠のいた。
 美智恵達の捌きを許さぬ為に最大出力を超えて掻き集めた霊力。
 その膨大なパワーに傷ついた体が耐えられない。
 無理をすれば意識が飛ぶ。
 だから多分これが最後の一撃。
 中れば結界諸共人間達を吹き飛ばし、外れれば人間に捕まって死ぬのだろう。

「────ぅぅぅぅぅっ」

 遠のく意識を強引に繋ぎとめ、忍び寄る恐怖を振り払う。
 だがその瞬間、不意にパピリオの瞼の中に在りし日の記憶と、捨てた筈の横島への好意が去来した。

 ────新しい服を作ってあげたんでちゅ!!
       着てみて、着てみて!!

 好きだった。
 傍にいて欲しかった。

 ────ポチ!!ゲームステーションやろっ!!

 一緒にいると楽しかった。
 もっともっと遊んで欲しかった。

 ────えへへ……!!よかった……!!
       私のこと、ずっと覚えててね……!!

 彼が服を着てくれた事がうれしかった。
 ずっと思い出を覚えていて欲しかった。

 ────もう心配いらないでちゅよ。
       土偶羅様が攻撃をちょっと待ってくれるでちゅ!

 望むなら仲間になって欲しかった。 
 それなのに………どうして私達を裏切ったの。

「────ッ!!」

 慌てて回顧を振り払い、歯を食いしばって思考を閉ざす。
 けれどその間にも怒りは哀しみへと変わっていく。
 怒りに灼熱していた心に冷たい痛みが駆け抜ける。
 本当にこれでいいのかと、誰かが淡々と問いかけてくる。
 その声に押されて挫けそうになる戦意。
 いつの間にか幼い彼女の心に溢れる、姉や横島との絆を別った運命への出口のない嘆き。
 それを振り払い、闘志を鼓舞しようと声を張り上げる。

「人間なんか───」

 叫びながら、涙が出そうになった。
 長姉がいて次姉がいて横島がいて、笑いが絶えなかった逆天号での日々。
 けれどそんな楽しい時間は不意に終わりを告げ、残ったのは長姉の死と横島の失踪という悲しい現実。
 頭では何となく理解していた。
 彼女の主が勝てば、人間が滅ぶ事を。
 パピリオ達がテン・コマンドに縛られている以上、いつか人間とは必ず殺しあわなければいけない事を。
 それでも。こんな思いをしてまで。自分達は戦い続けねばならないのか。

「全部死んじゃえ!!」

 千路に乱れる感情の揺れを吐き出さんとパピリオは絶叫した。
 眩く光る右掌。
 そこに篭められた膨大な霊波は、パピリオの渾身の霊力と果て無き嘆き。
 その一撃が今度こそ敵を殲滅せんと虚空を翔る。
 かつて数千マイトの結界を楽々とぶち抜いた霊波砲をも超えた破壊の鉄槌。
 直撃すればベスパすら甚大なダメージを被る絶大な威力。
 結界の構築に集中している者達に回避の余裕はない。
 だが人間には、受け止める事は愚か逸らす事さえ不可能だ。
 故に理論的には彼らがどう足掻こうと彼女の勝利は揺るがない。
 パワーでパピリオを凌駕せぬ限り、絶対に。

 ────ゴアアァァン

 そして命中。
 生じた閃光に白い大地が明るく輝き、爆音がそこにいる者全ての鼓膜を揺さぶった。
 だが、やがて舞い散った粉塵が消えて視界がクリアになった時、

「嘘でちゅ………ありえないでちゅ!!」

 パピリオの瞳には攻撃前と何ら変わりないGS達の姿が映っていた。

 ────あいつらは誰も傷ついてない。

 信じたくない事実。
 
 ────勝てない。

 それは即座に驚愕となり、屈辱的な認識に心が折れかかる。
 どのような技を使ったのか。どのようなトリックを仕掛けたのか。
 回避不能の筈の一撃はまたしても無駄に終わったのだ。

「────あっ」
 
 怒りとアドレナリンによって無理矢理抑え付けていた痛みが全身を揺さぶり、ぎしりと心身が歪に軋む。
 足から力が抜け、思わず前のめりになる。
 もうだめだと手を突こうとして────死んでしまった長姉の顔が思い浮かんだ。

「ルシオラ……ちゃん」

 萎えた心が熱くなる。
 倒れてはだめだと激情が訴える。
 姉は死んだ。自分たちを残して1人だけ死んでしまった。
 込み上げる無念。
 思わずギリギリと歯噛みする。

「違いまちゅ。ルシオラちゃんは殺されたんでちゅ!!」

 血を吐くようにパピリオは咆哮した。
 それは姉の死に打ちのめされたパピリオが欺瞞だと知りつつも、何度も己に言い聞かせてきた彼女だけの真実。

 姉は自分達を置いて死んでいったりしない。
 姉は自分達を見捨てて1人で死んだのではない。
 姉は殺されたのだ。
 きっとポチに騙されたのだ。

 捻じ曲がった想い。歪に燃え上がる恨みの炎。
 だがそれでも、彼女の胸の中には再び闘志が燃え上がっていき、瞳の中に消えかけていた力が蘇る。
 気付けばパピリオの体は踏み止まっていた。
 そしてその胸に宿った不転位の覚悟。
 
 負けるかもしれない。
 だがそれでも戦って、戦って、最後まで戦い抜いてやる。
 たとえ殺されようとも、姉を殺した人間などに膝を屈するものか。
 まだ自分は何もやっていないのに。
 せめて1人でも多く道連れに。

「ああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 砲弾と化した体躯が突進する。
 稲妻を思わせる疾走。
 自らの身を顧みぬ捨て身の突撃。
 傷ついた足からは、ぶちぶちと嫌な音が聞こえてくる。
 だからどうした。体など気にしていたら、何も出来ずに負ける。
 右斜め前から飛来した霊波砲が頬を掠める。
 両腕を上げて顔を庇う。覚悟を決めれば耐えられない筈がない。

「ああぁぁぁぁっっっ!!」

 体を投げ出すようにして走る。
 無様でもいい。前に。ただ前に。

「……………!!」

 叫びすぎたせいで喉が枯れた。
 だがその甲斐あってか、間合いが詰まっていく。
 結界の間合いまで5mを切った。
 あともう少しで手が届く。
 その時、何かが視界を遮って。 

「「ダブルGSキーーック!!!」」

 前方から飛来した雪乃丞とピートの飛び蹴りが彼女の頭部に炸裂した。
 圧倒的なパワーの差。
 故にダメージは殆どなく。
 衝撃がパピリオの体を僅かに揺らすのみ。
 これでは突進の勢いを弱めるのが関の山。
 けれど、精神力だけで動いていた今のパピリオの足を止めるには十分だった。

「……そんな」

 一度止まってしまった足はもう動かなかった。
 いくら頑張っても微動だにしなかった。

「ごめん。ルシオラちゃん、ベスパちゃん」

 全身から力が抜け落ちる。
 視界が霞んでいく。
 膝が崩れ、最後の一撃は届かぬままに地に落ちる。
 そして遂にパピリオの意識は闇の中に沈んでいった。








 戦いの終わりを告げるように喧騒が止んだ。
 氷の大地に佇む者達と地に伏したまま、ぴくりとも動かぬ幼き少女。
 ここに勝敗は完全決着した。
 ベスパとパピリオの2人を同時に戦う事を視野に入れたフォーメーションは完璧に機能して、一部の隙もなくパピリオを打ち倒したのだ。
 カオスが倒れたパピリオに近付き注射する。
 それで彼女の体は小さな蝶へと変化した。

「ドクターカオス。麻酔の持続時間は?」

「最低でも3時間、というところじゃ。
 しかし3時間毎に投与を続けたとしても、眠らせておけるのは精々12時間が限界じゃろうな」

「とりあえずはそれで十分ですね」

 頷きながらカオスから美智恵は蝶に戻ったパピリオを受け取り、箱に入れる。
 ここまでは計画通りだった。
 全員が無傷のまま美智恵達はパピリオに勝利したのだ。
 だが彼女の背筋はびっしょりと汗に濡れ、その胸は戦慄に震えていた。

 捨て身になったパピリオ渾身の一撃。
 それが予想を遥かに超えたパワーを秘めている事を見抜いた彼女は、即座に軌道逸らしが困難だと悟った。
 秒に満たぬ時の中、思考が反射的に迸る。
 数々の死地を乗り越えた彼女の勘と経験が刹那で答えを言う。
 それに従い、タイガーに意志の送受信と転送を中止させ、別の術を紡がせる。

 勝敗の分かれ目は、パピリオが右手に纏った霊波の制御に意識を没頭した瞬間だった。
 パピリオの注意が外れた数瞬の間に発動したタイガーの術は狙い違わずパピリオを絡めとり、彼女を幻覚の罠に落とし込む。
 故に再びパピリオが狙いを定めた時、彼女の目には美智恵達の虚像が映っていたのである。
 それは対ベスパ・パピリオに用意した幻覚操作。
 事前に最低限の準備はなされていたとはいえ、タイガーは美智恵の指示からパピリオの攻撃までの僅かな時の間にそれを実行してのけた。
 『しばれる』の特訓を通じて成長した彼だからこそ為しえた刹那の早業は、見事に切り札として機能して。
 パピリオの霊波砲は的外れな場所を抉ったのだ。

「あれで勝ったと思ったのに」

 ふと彼女らしからぬ愚痴にも似た独り言が漏れる。
 パピリオとの最後の攻防。
 霊波砲が外れた時点で勝負はつく筈だった。
 ほぼ全ての霊力を使い果たし、その反動でパピリオの体は小刻みに震えていた。
 明らかな戦闘不能の兆候。
 にも拘らず、パピリオは信じられぬ粘り強さで特攻してきたのだ。

「予想よりもずっと………手強かった」

 横島の報告では、3姉妹の体内には裏切り防止のウイルスが仕掛けられているという。
 美智恵の経験上、強制されて戦う者は、多少の差はあれ、どこか投げやりな雰囲気を纏っている。
 故に劣勢に陥れば途端に脆くなり、挽回しようと気力を奮い起こす事もない。
 けれど戦闘中のパピリオが見せた気迫と殺気には、作り物めいた感じがなかった。
 最初から最後までパピリオの執念と殺気は本物だった。
 きっとそれは、長姉の死によって生じたのだろう。
 横島の話ではルシオラは空母との戦いの際に死んだそうだ。
 ならば、たとえアシュタロスを倒してテン・コマンドを外したとしても───パピリオが人間への恨みを捨てるとは思えない。
 彼女にとって人間とは姉の仇であり、それは生涯変わらぬ事実なのだから。

 ────殺すか。今のうちに殺すのが一番安全か。

 判断は一瞬。
 美智恵の理性はパピリオの激情を危険だと断じていた。
 怒りならば、やがて消える。
 けれど怨みになってしまった怒りは、長い間消えずに胸中に燻っていく。
 例えアシュタロスの命令がなくとも、いつか鬱屈した感情が彼女を無差別破壊に駆り立てないとも限らないのだ。
 そうなれば大勢の人間が死ぬだろう。

 横島がいればパピリオを庇ったかもしれない。
 彼だけは知っていたから。
 パピリオがゲームの勝敗や他愛無い出来事に一喜一憂する無邪気な少女である事を。
 動物が成長するという普遍な在り方に憧憬を抱く哀しい少女である事を。
 彼だけは理解できたかもしれないから。
 パピリオが見せた怒りも悲しみも憎しみさえも、未熟な少女が胸中に持て余した運命への理不尽さに我慢できずに足掻いた結果なのだと。

 しかしルシオラの死因を追求される事を恐れた横島は詳しい事情を話さなかった。
 だから美智恵の目には、パピリオが『説得の困難な危険な存在』としか映らない。
 そしてそれだけで理由としては十分だった。

「ドクターカオス。この場でコレを殺すのは可能ですか?」

「体力と霊力は相当消耗しておる。
 じゃが完全に殺し切るには、こちらもかなりの霊力を消耗する覚悟をせねばならん。
 仮に強行すれば───」

「疲弊した我々では不測の事態に備えられませんね。
 ………仕方ありません。止めを刺すのは後回しにしましょう」

 小さな蝶となって眠るパピリオを押し込めた箱から目を離す。
 ふと視線を感じて首を向けると、物欲しそうなカオスの顔。
 研究を続ける為に不老不死となったマッドサイエンティストは、じっと美智恵の手の中の箱を凝視していた。

「………逃がさないでくださいね」

 箱を彼に預けると美智恵は行く手に立ち塞がるバベルの塔を見上げた。
 かつてその不遜さゆえに神の怒りによって崩壊した巨大な建造物。
 今やそれは、冥界チャンネルを封鎖されて何もできない神を嘲笑うかのように堂々とそびえ立っている。
 見れば見るほど、波動だけでこんなものを創り上げてしまうアシュタロスの恐ろしさを感じずにはいられない。
 考えるのが馬鹿らしくなるほどの規格外。
 だがその魔神を倒すために、彼女の娘は横島忠夫と共に命を懸けているのだ。










 決戦が近付いていた。
 アシュタロスの専用通路を通過して、美神と横島が辿り着いた場所。
 そこには広々と開けた空間があり、喉を締め付けんばかりに鋭い霊波の混ざった空気が充満している。
 重々しく張りつめた雰囲気の中、全てを決する為に集った5人の男女。
 様々な想いを秘め、自らの命運を懸けてその場へと辿り着いた選ばれし者達。
 前世からの因縁から魔神に命を狙われた美神令子。
 前世でも現世でも、美神やアシュタロスに深い関わりを持った横島忠夫。
 2人をこの場へと案内したアシュタロスの使い魔・ベスパ。
 最も古くからアシュタロスに使えている側近・土偶羅。
 そして………美神と横島から見て正面に位置する階段の上に佇む黒衣の男。

「……神は自分の創ったものすべてを愛するというが―――――低級魔族として君の魂を作ったのは私だ。
 よく戻ってきてくれた、我が娘よ………!!
 信じないかもしれないが、愛しているよ」

 厳かな声と共に男が振り返る。
 その刹那、解放された途轍もなく膨大で強靭な霊波がその場を席巻する。
 戦意どころか意識すら砕けかねない重圧が乱気流と化して荒れ狂う。
 三界を震撼させた孤高の絶対者が遂に全貌を現したのだ。

 ここに来て明らかになったのは、余りにも隔絶した実力差。
 この空間に悠然と君臨するアシュタロスの威容。
 全ての神魔に反逆する魔の神が奏でる穢れた神々しさ。
 それを感じ取ってしまった人間は否応なしに悟らざるをえないだろう。
 『格が違い過ぎる』と。

 そして、その圧倒的な存在感は周囲にいる者達の心を圧迫する。
 現実世界にバベルの塔を顕現させた力は、美神令子の精神へも多大な影響を及ぼしていく。
 いつの間にか彼女の体が意思を裏切って震えだしていた。
 いつの間にか彼女の心が母親以外誰にも感じたことがない『畏れ』を喚いていた。
 アシュタロスに見つめられ、その言葉を聞き、その波動に触れた瞬間、どんな強敵と対峙しても感じなかった戦慄が全身を駆け巡っていた。
 突然心身に起きた異常に当惑する美神。
 その脳裏に凄まじい勢いで展開していく平安京の映像。

 生まれた直後に与えられた使命。
 初めての任務と高島との出会い。
 彼が言った奇妙な願い。
 彼女や高島の来世との邂逅。
 菅原道真に告げられた廃棄処分。
 高島への恋慕。
 来世への逃亡。
 魂の結晶の奪取。 
 アシュタロスに殺される高島。
 高島との最後の約束。

 そのほぼ全ては、以前に見た情景と同じ。
 だが第三者だった以前とは違い、映し出される映像には確かな実感が伴っていた。
 やがて感情が複雑に入り混じり、美神は己の中のメフィストを強く意識した。
 それは封印していた前世の記憶と想いの復活だった。
 それ故に美神は戦慄してしまう。
 メフィストにとっての絶対者たるアシュタロスへの畏怖に、体が否応なしに震えてしまう。

 そんな彼女の困惑や葛藤を全て見透かす様に、アシュタロスは落ち着いた足取りでゆっくりと美神に向かって歩を進めた。
 次々と奏でられる言葉。
 重々しく、けれど優しく語りかける声。
 その一つ一つが激しく美神の胸を揺さぶって。
 そして遂に、魔神は美神の目の前に辿り着く。

「お前の裏切りを私は許そう。おいで、我が娘よ」

 差し伸べられるアシュタロスの手。
 絶対者が示した慈悲に、美神の体がヨロッと揺らいだ。

「ア…アシュ様………!!」

 潜在的に父性を求める願望に後押しされて、思わず彼女がその手を取ろうとした刹那。

 ────た……高……あ……あ………あ………!!

 絶対者への畏怖を遥かに凌駕する、圧倒的な絶望と喪失感と悲哀が胸の中に爆発する。

 ────こんな……!
       こんなもの欲しくない……!!
       私、

 嘆きの記憶。思い出したくなかった辛い思い出。
 だがそれ故に、美神は完全に思い出したのだ。
 アシュタロスの冷酷な判断を。
 親から捨てられたメフィストの孤独を。
 それを埋めてくれた高島への想いを。
 彼を失った哀しみと、胸に秘め続けた再会の約束を。

「………っ!!」

 理不尽の末に奪われ、踏みにじられた怒りが灼熱のマグマさながらに噴き上がる。
 あっという間に心を満たすアシュタロスへの赫怒。
 
 確かに『私』はこの男の部下だった。
 使い魔として生み出されたばかりだった『私』は、お世辞にも上手くやっていたとは言えまい。
 だが、『私』は私なりに魂の収集に励んでいた。
 魂を奪おうと目をつけた男に興味を持ってしまったのは事実。
 それでも主への忠節は保っていた。絶対者への反逆の意志など、あの時は欠片も持っていなかった。
 なのにこの男は、『私』を切捨て、殺そうとした。
 訳の分からぬ事が起きたというだけで。
 理由を確かめようとすらせずに。

「ざけんな、クソ親父ッ!!」

 心に滾った憤りは美神令子の魂を突き動かして。
 怒りを込めたヘッドバッドがアシュタロスの顔面に叩き込まれる。
 けれど胸を渦巻く激情の叫びは止まらない。

 あの時、『私』とアシュタロスの縁は切れたのだ。
 それが今更になって父親だとほざくのか!
 裏切りを許すと臆面もなくほざくのか!!
 『私』の恋人を奪ったくせに、のうのうと被害者面するな!!
 先に『私』を裏切ったのは、アシュタロスの方だろうが!!!

「冗談じゃないわよっ!!」

 叫びながら後ろに飛ぶ。
 前世でも、今生でも巡り合えたあの少年の元へ。
 ただのお荷物から頼り甲斐のある霊能力者へと成長を遂げた彼女のパートナーの元へ。

「思い出した以上、なおさらあんたをブッ殺す!!
 私を誰だと思ってんの!?」

 いくら言葉を叩きつけても怒りは治まらず。
 燃え広がっていく燎原の炎の様に次から次へと湧いてくる。

 造物主に反旗を翻すのはやつの勝手だ。
 孤独に戦い続けるのもやつ自身の選んだ道だ。
 だがそれを理由に踏みにじるのを是とするならば『私』は……美神令子はそれを全力で否定してやる!!
 私はあいつと共にお前を倒してやる!!

「ゴーストスイーパー美神令子!!
 神も悪魔も恐れる私じゃないのよッ!!」

 自らの怯惰を嘲笑いながら、彼女は高々とアシュタロスに宣言した。
 それは1000年の長きに渡って続いた戦いの果てにも変わらぬ、魂を懸けて紡がれる誓い。
 何度命を狙われようとも変わる事無く。
 そして、これからもきっと変わらぬ彼女自身の誇りと矜持を謳う不屈の精神。
 この瞬間、美神令子とメフィストの意志は1つとなったのだ。

 ────美神さん!!

 そんな彼女の全てを横島の精神が大声で賛美する。
 彼女が魔神へと告げる言葉が胸を熱くする。
 彼も妖魔も魔神すらも美神令子から目を逸らせない。
 彼女がただ其処に居るだけで、完璧なまでに煌びやかな生命の炎を感じずにはいられない。
 美神令子は絶対に諦めない。欲するままに戦って現世利益を勝ち取っていく。不可能なんて言葉は彼女の前では色褪せる。
 魔神ですらその魂を歪める事など出来ないのだ。
 媚びず、退かず、恐れず、ひたすらに前を向いて駆ける辣腕のGS。
 絶対者への怖れを打ち砕き、ただ自分らしく生きる為に戦う最高の霊能力者。
 怖いもの知らずで無茶苦茶な人間。

 何て、格好良い女だろう。
 この人と一緒にいたかった。
 この人が走り抜けていく眩い生の軌跡を見ていたかった。
 パートナーとしてこの人の隣に並びながら、面白おかしく生きていたかった。
 つまり自分は───この期に及んで尚、生きたいと願う心を捨て切れていなかったのだ。

「………はは。そうか。そうなのかよ」

 そうして彼は、ようやく自分が美神令子を殺せなかった理由を知り、己の弱さを知った。
 それが、ルシオラを失った絶望の後も横島忠夫を横島忠夫として留め続けてくれた最後の楔だと理解した。
 だから横島はその想いを涙が出るほど強く噛み締めて。

 ────お別れです。美神さん。

 そして訣別の言葉と共に胸の奥に置き去りにした。
 僅かに口元が吊り上がり、顔には不敵な笑みが刻まれる。
 もう迷いはなかった。
 思い残す事もきっと無いだろう。
 ただ憎悪を糧に、為すべき事のみを為せばいい。
 それで全てが終わるのだ。

 飛び退いた美神が横島の前方に着地する。
 その背中から霊気と戦意が迸った瞬間、横島は両手を広げて霊波を集中させた。
 拙速にも見える迅速な反応。
 だが問題ない。何一つとして誤りはない。
 散々特訓を重ねた末に言葉を交わさずとも互いの意思を読み合える様になった2人に齟齬はない。
 だから何も指示されずとも、横島は一瞬で美神の求めを理解したのである。

「────!!」

 両手に文珠が現れる。
 『同』『期』と刻まれた二つの文珠。
 それらが呼応するように輝き、広げた両手から光が迸る。

「合、」

 その光は横島と美神を包む。
 横島の輪郭がぼやけていき、異なる波長が同期していく。
 共鳴現象の兆候が現れる。

「体ッ!!」

 そして霊波が完全に重なった瞬間、彼らの体が一際眩しく輝いて────人間の限界を遥かに超える霊力を纏った戦士が姿を現した。






 ────キィィィィィン!!

 巻き起こる烈風。
 その只中にあって轟々と燃え盛る魔神の波動を跳ね返す光。

「な……何、このパワーは!?」

「霊力を同期させ共鳴させたのだ。考えたな」

 息の呑むベスパに感心したように呟くアシュタロス。
 運命に抗う反逆者達が、文字通り2人で1つとなってアシュタロスの眼前に立ちはだかったのだ。
 その身から溢れ出す膨大な霊力。にも拘らず感じられるのは、深海の様な穏やかな重み。
 それは横島が見事なまでに霊波の流れをコントロールしている証であった。
 日本から南極に到着するまでの一ヶ月弱の間、美智恵は合体の特訓の一環として美神や横島に様々な訓練を付きっ切りで課していた。
 その指導の下に、それまで疎かだった基本を叩き込まれた横島は更なる成長を遂げたのである。

「アシュタロス!!」

 予備動作もなく彼女達は飛翔した。 
 その手の中には、美神の意を受けた横島が竜の牙とニーベルンゲンの指輪を一つにして作り上げた武具。
 それは彼女の意思一つで鞭にも盾にもなる自在性を秘めた剣。
 銀光燦然とした威容は、かつて天界を震撼させた孫悟空の如意棒やオーディンの神槍グングニルとも遜色ない。

「今すぐ極楽へ───」

 魔神の予想を超えたパワー。
 魔神の予想を超えたスピード。
 放出された強烈なエネルギーが光となって美神達を包みこみ。
 空間諸共アシュタロスを切り裂こうと美神と横島は猛々しい閃光となって虚空を翔る。

「行かせてやるわっ!!」

 光の亀裂が奔り、魔神の胸に刃が突き刺さった瞬間、爆発的な霊力が刃へと集中する。
 刺突の威力を高め、魔神の魂を滅ぼす為に。
 跳ね上がっていく破壊力。加えられていくダメージ。
 それが。

「お前の力は………所詮その程度に過ぎんのか!?」

 あっさりと止められた。

「きゃあ」

 アシュタロスが失望感と共にマントを払う。
 その一動作だけで美神は跳ね除けられ、いとも容易く間合いを離される。
 不意を突いた美神の剣の直撃。しかしそれでも尚、魔神には寸毫の乱れもない。

 ………まるで悪夢の様な実力差だった。
 超えられない壁。蟷螂の斧。焼け石に水。
 そんな言葉ですら表現し尽くせぬ圧倒的な力の差を思い知らされて。
 けれど2人の戦意は衰えない。
 その鋭い眼光に諦観はなく、ただ闘志だけを宿しながらアシュタロスを睨んでいた。

「この程度では諦めん、というわけか、ならばとことん足掻いてみせろ。それが抗う者達の務めだ」

 突き出したアシュタロスの両手が光り、直径2mを超える巨大な霊波砲が迸る。
 命中しても魂を壊さぬ様に大幅に威力を抑えていたとはいえ、命を奪うには十分の破壊力。
 だが次の美神の行動はアシュタロスの予測を超えた。
 彼女は体当たりするかの様に、自ら魔神の霊波に向かって身を躍らせたのだ。 

「なにっ!?」

 回避不能の間合いへの飛び込み。
 自殺行為にしか見えない跳躍。
 そして命中───その寸前に美神の右腕が一閃する。
 霊波砲の軌道が僅かに左にズレる。
 合わせるように美神の上体は左に傾く。
 その横を魔神の霊波が掠める様にすれ違う。
 前方に疾走しながらの回避。
 美神の突進の勢いは止まらず、一連の動きはアシュタロスの意表を突いて。

 その手の刃が再び魔神の体に突き刺さる。
 岩を穿つ、とばかりに刀身が最初に負わせた傷を抉りこむ。
 魔神の胸に刺さった剣から霊波が爆裂して、一度目よりも甚大な破壊を与えていく。

「ほぅ。人と魔の種族差に因るパワーの違いがありながら、メドーサやべスパ達を何度となく退けたのは伊達ではない、という事か」

 それでもアシュタロスは崩れない。
 それどころか感心を表す余裕すら残している。
 事実、アシュタロスは先ほど美神の見せた動きに感嘆していた。
 『霊波砲の軌道を逸らす』、それだけならば美智恵達がパピリオ相手に使っている。
 しかし、結晶を壊さぬ様に手加減したとはいえ、美神はあれ程の超至近距離で前進を止めずに霊波砲を捌ききったのだ。
 その技量と勇気は驚嘆に値する。
 だが。と魔神は再び全身から霊波を迸らせて美神達を振り払う。

「まだ幾らかの余力を残しているのだろう。この期に及んで出し惜しみなどするな!!」

 言い放ったアシュタロスの体から数えるのも馬鹿らしい量の霊波が放出されていく。
 それはあっという間に球形に集束し、100を超えるシャボン玉状の霊波が魔神の周囲に現れる。

「────!!」

 次の瞬間、お前の本気でコレを越えて見せろ、と言わんばかりに、機関銃さながらの正射が美神達を襲った。
 間断なく飛来する霊力の銃弾。
 威力を更に抑えつつも捌きを許さぬ圧倒的な手数。
 それは凄絶な霊波の嵐であった。
 剣を盾に変えて防ぎつつ、けれど美神の頭はあと10秒も耐え切れないと分かっていた。
 そして、この窮地が絶好のチャンスである事も。

「横島クン!!」

 叫びながら策を横島へと伝えた瞬間、世界から音が消えて彼女の感覚時間が数千倍に加速する。
 飛来する霊破砲を含めた横島を内包した美神以外の存在全てが止まって見える。

 ────超加速の世界。

 それは美智恵との話し合いの中で幾通りも立てられた作戦の1つであった。
 横島の霊波コントロールを応用した竜の牙の活性化と其処に宿っていた小竜姫の竜気の増幅。
 その竜気を纏う事で、美神達に刹那の超加速が可能になったのだ。
 今、美神の体は竜気の輝きを帯びていた。

「チャンス───!!」

 恐怖も躊躇いも雑念なく、ただ必勝だけを抱きながら彼女は愚直に突進した。
 1000年間、彼女の魂を脅かし続けた絶対者を超える為に。
 これから手に入れる彼女の現世利益を妨げる者を叩き潰すために。
 美神令子が美神令子で在り続ける為に。

 余りに膨大な数の霊力塊の炸裂は霊波の乱気流を生み出し、アシュタロスの気付きを僅かに遅らせる。
 自らの攻撃が仇となり、魔神が超加速に対応した時にはもう───美神の刃はアシュタロスの目前に在った。

「メフィスト……!!」

「私はっ!
 美神令子よっ!!」

 凄まじい顔で睨む魔神の眼光。
 それを跳ね返すように彼女は咆哮する。

 ────ズビュッ!!

 そして、命中。
 切っ先が、一度目、二度目の攻防で穿った傷口に、寸分の狂いも無く突き刺さり。
 美神は三度目の正直とばかりに全てを賭けて刃に霊力を流し込む。
 コンマ一秒のズレすらなく、彼女の意志を汲み取った横島が出力を一気に高めていく。
 美神の心身が灼熱する。まるで火達磨になったようだ。
 火が火を呼び込んで果てしなく輝くように、彼女の幽体を焼く炎は出力を増すごとに燃え広がり、余りの激しさに美神の全身が軋みを上げる。
 だが出力を危険領域にまで高めながら霊波をコントロールし続ける横島の魂にかかる負荷は、彼女の比じゃない。
 出力を上げるごとに、ぬるま湯の中に揺蕩う様な感覚が、絶え間なく襲い掛かってくる。
 夢幻、或いは桃源郷にいるかの様だ。
 心身がそれに耐え切れずに溶けて拡散してしまいそうになる。
 消える。
 肉体が。精神が。意志が。消えていく。
 意識が曖昧になり、戦う理由を忘れて、ただ恍惚に。
 魂同士が接触して、両者の魂を別つ壁が薄くなり、彼の魂が美神の中に同化して1つになろうとしているのだ。

(まずい。保たないかも)

 歯噛みしながら、それでも美神は出力を抑えさせなかった。
 彼女とて横島の窮状は分かっている。
 『しばれる』に乗り込んでから心を重ねてきた相手なのだ。互いのコンディションの把握など、意識する必要すらない。
 しかし止めるわけにはいかなかった。
 ここで止めたら、待っているのは死だけだった。
 それに今の彼女には、呼びかける事は愚か、声を出す余裕もない。
 だから美神は念じた。死者すら震え上がらせる強固で傲慢な意思を総動員して強く念じた。

(何でもいいから耐えなさい!!自我を保つのよ、横島クン!!
 この美神令子のパートナーなら、意地でも最後まで生き残って見せなさい!!)

「────!?」

 彼女の叱咤に横島が応えた故か、刃に注がれる霊力が急激に勢いを増し、相克に向かって光の速さで突っ走る。
 永遠の様な一瞬。
 臨界に達した出力。
 その瞬間、美神は極限まで高めた集中力によって感知した。
 右手から突き出た刃がアシュタロスを貫いた手応えと、自我の境界線をほぼ喪失した横島の魂が彼女の魂に触れて溶け合おうとする感覚を。

 ────そして光が弾けた。










 激しい霊波の激突から土偶羅を庇いながら、ベスパは目を逸らさずに主の戦いを見守っていた。
 三度の交錯を経て、勝負の行方は明らかになった。
 主に挑んだ2人は、合体が解けてただの人間に戻っていた。
 美神は尻餅をついて苦渋を浮かべ、横島は地に伏している。
 戦いの終わりを告げるように、霊波に煽られて吹き込んでいた風が止んでいた。
 主の目に浮かび上がってくる静謐と虚しい渇望。
 その左胸から肩にかけて深く穿たれた剣の痕。左腕は殆ど切断され、今にも千切れそうになっている。
 だがそれでも尚、主の顔に焦燥感はなかった。
 その背中は、今も剛毅で雄大な力に満ち溢れていた。
 やがて、実感が感慨となって彼女の胸中を吹き上げる。

 ────私達は勝ったんだ。






「健闘したと誇っても構わないよ、我が娘よ。
 お前の最後の足掻きは間違いなく私の芯にまで届き、この私に痛撃を与えたのだから。
 だが、たとえ完璧に制御できていたとしても───共鳴だけでは私には遠く及ばん」

 大人が子供に言い聞かせるようにゆっくりと告げながら、アシュタロスは右手で左胸を撫でた。
 すると霊波が傷口に注がれ、傷が再生していく。
 共鳴した2人が己の限界を超えて刺し貫いた一撃も、魔神を揺るがすだけに終わったのだ。
 負けず嫌いで諦めの悪い美神と言えども、この状況に敗北感を抱かずにはいられなかった。

「そろそろ幕引きの時間だ。
 名残は尽きぬが………この辺までにしよう」

 言葉と共にアシュタロスの右手が光り、霊波が集束する。
 惜しむような、哀れむような瞳で一瞥。
 そしてアシュタロスの手から霊波砲が一直線に迸った。

「くっ………!」

 死を纏ったエネルギーが彼女に向かって迫り来る。
 結晶を破壊せぬように威力を抑えてあるとはいえ、人間には到底防げぬ霊力の奔流。
 中れば死は免れないだろう。
 けれどもう防ぐ手段はない。
 共鳴が通用しなかった時点で既に万策は尽きていた。
 だから無駄だと悟った美神は、それ以上足掻こうとはせずに。

 (人間に生まれ変わって、あいつとまた会って、一緒にバカやってきて………楽しかったな……)

 胸の中で懐古と感謝を込めながら横島に語りかけ。

 (ごめん、横島クン。でも、)

 最後まで自分と生死を共にしてくれたパートナーの姿を目に焼き付けようと振り返り。

 (一緒に終わるのも、悪くな───)

 それよりも速く、後方より放たれた霊波砲が突風となって魔神の一撃を迎撃した。

「えっ?」

 鈍い衝突音と同時に吹き荒ぶ暴風。
 咄嗟に自分の状態を確認した美神の口から驚愕が漏れる。
 傷一つない、五体満足な肉体。
 避けられない一撃に死を覚悟した彼女の予測が覆っていた。
 つまり───何者かがアシュタロスの攻撃を相殺してのけたのだ。
 そして次の瞬間、相殺の余波が治まらぬ中で後ろから誰かが美神の腕を掴んで引き寄せる。

「ちょ、ちょっと!?」

 驚く暇も有らばこそ、再び彼女の直ぐ後ろから、光が莫大な霊波を纏って放たれる。
 それは大気を切り裂きながら三つの軌跡を描いて標的に襲い掛かり、爆音が立て続けに生じた。
 びりびりと振動する大気と舞い上がる余波の煙に前方の様子がつかめない。
 混乱しながらも、彼女は状況を把握しようと振り返り────奇妙な波動を纏い、アシュタロスと同じ格好となった横島の姿を見た。

「よ、横島クン。それって」

「煙が晴れますよ、美神さん」

 硬い声を出しながら前を見据える横島の顔。
 そこに浮かぶ表情が見た事も無いほど厳しかったから、思わず美神は疑問も忘れて前を向いた。
 其処には、変わり果てた広場が惨状をさらしていた。
 荘厳だった壁や柱や床は醜く抉られ、瓦礫の破片が散らばっている。
 その中央には堂々と大地を踏みしめるアシュタロスの姿が在る。
 けれど魔神の後方には、傷だらけになったベスパが倒れ、そのすぐ隣にはバラバラになった土偶羅が転がっていた。
 今の一撃で両者が行動不能に陥った事は明白だった。

「なっ!?」

 予想を超えた状況の急転に、狂ったように思考が回転する。
 アシュタロスの顔にも驚きが浮かんでいるのに、横島だけが落ち着いている。
 ならば眼前の惨状は全て横島の仕業なのか。
 だが合体の解けた彼にそんな真似が出来る筈が。

 その時。

「コピーか。土壇場の思いつきにしては悪くないね。
 まさか1つの文珠だけで為し得るとは思わなかったが」

「───!?」

 悠然とした声が彼女の聴覚に届いた。
 それで美神の頭は一連の不可解な現象を理解した。
 相手の状態を徹底的にシュミレートする事によって、相手と同等のパワーを手に入れるコピー。
 かつて彼女自身もそのアイデアを母親と話し合った事がある。
 様々な問題から、戦場で実践する事すら難しいと却下された方法。
 けれど抱きすくめるように腕を回して彼女をガードしている横島の波動は、確かにアシュタロスのソレと同じものだった。
 そして次の瞬間────状況はまたしても急変した。

 魔神の圧倒的な能力を模した横島からどす黒い霊波が放出され、大気が痛いくらいに張りつめる。
 同時に美神の鳩尾に宛がわれる彼の右手。
 そこに宿った霊力の冷たい感触。
 呆然とした彼女の頭に戦慄が奔る。
 驚きに固まっていた思考が殺意に当てられ、ようやく明瞭さを取り戻す。

「動くな、アシュタロス」

「貴様、何のつもりだ?」

「分かってるんだろ?
 一歩でも動けば結晶は壊れるってことだよ。
 魔神のパワーさえあれば、このまま美神さんの魂にひっついた結晶を一瞬で破壊する事くらい何でもないんだぜ」

 静かな声に宿った禍々しい感情の波。そこに動揺はなく。
 いま横島は躊躇う素振りすら見せずに彼女の命に凶刃を突きつける。
 かつて霊動実験室で激情に駆られた時とは違い、彼の手に迷いはない。

「はぁ……はっ、はぁ……」

 声を出そうとして、しかし彼女は息苦しさに喘いだ。
 背後の横島から溢れ出る濃密な殺意。
 まるで黒い炎が蠢いている様だ。
 それでも美神は横島の言葉を信じられなかった。否、信じたくなかった。
 
 アシュタロスも横島の言葉にブラフとは異なる響きを覚えて動きを止めた。
 横島の全身から放たれる霊波の中からは、針よりも鋭く研磨された殺気が濃密に溢れている。思わず気圧されてしまう程に昏い波動。
 それは永い時を生きた魔神が何度と無く噛み締めてきた感情に酷似していた。
 最も危険で最も非生産的な激情。
 死すら厭わぬ『狂気』がそこに在った。

 ────こいつ、本気か!?

 それまで魔神の頬に浮かんだ余裕の笑み。
 それがこの時、初めて消えた。
 横島の黒い瞳は今にも閃光を放たんばかりにアシュタロスを見据えている。
 刹那で横島の瞳に宿る業火の正体を理解した。
 その炎の源はまさしく憎悪。
 アシュタロス自身が世界に対して燃やし続けた激情。
 それは自分自身すらも焼き尽くしかねない破滅の鬼気。
 故にアシュタロスは動きを止めて躊躇した。
 たとえ人類を見捨てる事になっても、目の前の男は自分を殺すために美神令子の魂を破壊するかもしれない。
 魔神にそう思わせるほどに、横島が露呈した憎悪からは色濃い狂気の芳香が漂っていた。




 この時、人類、魔神双方の目論む歯車の動きは、予想外のファクターの唐突な出現によって狂い始め、ここに奇妙な膠着状態が成立した。
 既に最終幕は開かれて、終焉が直ぐそこまで迫っている事も知らずに。



[528] 儚き蛍火 5話
Name: z
Date: 2006/02/03 00:14
 大広間は静寂に満たされていた。
 決戦に集った五人の中で、ベスパは既に意識を失って倒れ、バラバラになった土偶羅は動く事も喋る事も出来ずにアシュタロス達を見詰めるのみ。
 そして残る3人の間には、針の筵さながらの緊張感と鋭い殺気と探る様な視線が激しく交錯していた。

 美神の命を握ったまま、アシュタロスを睨み続ける横島忠夫。
 横島の真意を測りかねて、どう対応すべきか戸惑っている美神令子。
 横島の狙いを探るように無言のまま視線を送るアシュタロス。
 誰一人として口を開かずに空間から音が消えてから3分間、この3人の間には奇妙な膠着状態が続いていた。

「………」

 しかしこの状況の中で、アシュタロスは徐々に余裕を取り戻しつつあった。
 もしも魔神の能力を模した少年が形振り構わず美神令子を殺そうとしたのなら、その阻止はおそらく不可能だっただろう。
 けれど目の前にいる少年に暴発の気配はない。
 つまり、これは苦し紛れの駆け引きなのだろう。
 この期に及んでもまだ、少年が美神令子に手を出さないでいる事自体がそれを証明している。
 つまりこの少年は、美神令子を助けたいのだ。おそらく何としてでも。
 話の通じない狂犬には脅しも懐柔も効果はないが、それならば恐れる必要はない。
 確かに手を出しにくい状況だが、それも一時で終わる。
 表面的には、横島の奇策のせいで手詰まりになっているが、睨み合いを続けていればいずれ文珠の効果は消える。
 自分はこのままそれを待っていればいい。
 コピーの効果が消えた時、横島が次の文珠を使うまでの間に彼を始末すればいいだけだ。

「………!!」

 3分の危うい拮抗の間に、頭脳のキレを取り戻した美神も、魔神と同様の結論に達していた。
 不意打ちの出来ないこの状況では、コピーがオリジナルを倒す事は不可能。
 それどころか横島があくまで彼女を庇い通すつもりなら、巻き添えの怖れのある攻撃全てが使えない。
 かといってこのまま睨み合いを続けても活路はない。

「よこし───」

 前を向いたまま、何とかコンタクトを取ろうと小さく声をかけた時、不意に頭の中に横島の声が流れ込んできた。

“美神さん。今の俺なら直通路の呼び出しや入り口の分厚い扉の開閉が可能です。
 直ぐに扉を開けますから、合図したら直通路に飛び込んで隊長と合流してください”

 それと時を同じくして、背中にビー玉状の何かが押し当てられる感触。
 巨大な竜巻さながらに猛々しく吹き上がる魔神の霊波に比べればそよ風にもならないが、彼女は其処に慣れ親しんだ霊力の瞬きを感じた。

“これは、文珠?”
 
“気をつけてください。接触した状態じゃないと、一方的に伝える事しかできないんで”

 聞こえてくる言葉から素早く状況を整理する。
 背中に当てられた横島の左手。
 彼はその中にコピー発動前に生成した文珠を隠し持っていたのだろう。
 そして膠着状態に持ち込んでから数分経って漸くそれを発動させたのだ。
 どうして態々そんな回りくどい事をしているのか。
 決まってる。アシュタロスをコピーする前から、この状態になるのを見越していたからだ。

“この場を脱出できたとしても、まだミサイルが残ってるわ。
 あれをどうにかするまでは南極から逃げるわけにはいかないのよ”

“御心配なく。もうミサイルのスイッチは無効になってますので脅しの道具には使えません”

“なっ、どうやって!?”

“すみません。コピーの持続はあんまり長くないんで、説明してる暇がありません。でもこれは確実です”

 その言葉には、追求を拒むかの様に強い意思が込められていた。 

“私が逃げたとして、あんたはどうすんの?
 文珠が切れるまでの数分の時間稼ぎなんて大して意味がないわ。
 あいつの能力なら、こっちが『しばれる』に到着する前に追いついてくる”

“問題ないっすよ。俺がアシュタロスを倒しますから”

 淡々とした声。
 しかしあっさりとした口調とは裏腹に、告げられた内容は余りにも現実離れして。

「………!?」

 美神思わず声を出しそうになり───その衝動を寸でのところで噛み殺す。

 ――――アシュタロスを倒す。

 それが本当に可能ならば、どうして今になるまで実行しなかったのか。
 何故事前に自分や母に何も打ち明けなかったのか。
 尋ねたい事は山の様にあった。
 けれど、彼を問い詰めて時間を無駄にしては駄目だと頭の何処かが冷たく訴える。
 そして彼女の理性がその声に従えと主張する。
 その時、再び聞こえてくる横島の声。

“コピーの致命的欠陥は分かってます。でも大丈夫です。アシュタロスは俺を殺せません”

“………何をするつもりなの?”

 沈黙。
 その時、まるで感情の昂りを表すかの様に横島が放出する波動が一際大きく波打った。
 そして答えが返る。

“俺を信じてください。俺は勝ちます。絶対に”

 それだけを告げると横島の声は途絶え、彼の根拠なき途方もない断言だけが彼女の胸に浮遊する。
 背後から伝わってくるは、彼女を急かそうとする焦燥と魔神に向けられた殺気。
 躊躇いは一瞬。
 その間に、悪魔よりも狡猾で明晰な彼女の頭脳はマリアの演算よりも速く状況を分析する。

 この期に及んで横島が虚言を弄す筈がない。
 それに嘘をついているのなら、心を重ね合った自分に分からぬ筈がない。
 ならば彼には何らかの秘策があるのだろう。
 おそらくこの状況でなければ使えなかった秘策が。コピーしている状態でなければ実行不可能な手段が。

 分析してから決断に要した時間は刹那のみ。
 いかにも美神令子らしい即断即決であった。

“任せたわよ、横島クン。私の命、あんたに預けるわ。
 だから無事に帰ってきなさい。その時は正式に雇ってあげるから”

 答えはない。けれどその時、背後の横島が微かに笑った様な気がした。
 それだけで十分だった。
 彼は勝つと言った。美神はその言葉を信じると決めた。
 だから、横島を信じるのなら、彼女がやるべきはただ1つ。

 次の瞬間、ごく自然な動作で美神の体が反転した。
 そのまま彼女は横島の脇をすり抜けて後方に駆け出していく。

「───!?」

 思わずその動きに反応したアシュタロスを横島の殺気混じりの霊波が貫き、魔神の足を広間に縫いつける。
 その隙に、彼女はアシュタロス専用の直通路に飛び込み、姿を消した。
 直後に破砕音と共に直通路の入り口が砕け散る。
 時間にすれば、3秒と掛かっていなかっただろう。
 彼女は獲物を襲う豹の素早さでまんまと死地から脱出してのけ、横島は後を追わせぬ様に直通路を破壊したのだ。






 そして美神離脱の衝撃が覚める暇もなく。

 ────ゴゴゴゴゴ!

 広場には、天をも圧倒する2人の男が対峙していた。
 一方は、全てに叛いて戦う孤高の魔神。
 もう一方は、身命を埒外に置きながらただこの時だけを待ち続けてきた一介の少年。だが今の彼に宿る力は、魔神アシュタロスに遜色ない。 

 ────ズゴゴゴゴゴゴ!!

 美神が脱出した事で、それまで抑えていた波動を解放した横島忠夫とそれに応えるアシュタロス。
 両者の狭間には破滅の波が渦を巻き、真っ向から互いを相克せんと鬩ぎ合っている。
 悠久を生き、獰猛な魔物達を統べる強大な神の本気。
 触れた空間がぐにゃりと歪み、その中に世界が丸ごと呑まれてしまうのではないかと思わせる力。
 しかし見据える少年の目に恐れは無い。

 魔神アシュタロス。もう1000年に渡って、この男は少年と少年の大切な存在を苦しめてきた。
 メフィストを、美神令子を、ルシオラを。そして、ありとあらゆる人間を。
 だから、たとえこの男がどれだけ強大な力を持っていようと関係ない。
 横島はこの男のやった事を許さない。
 横島はこの男がこれからやろうとしている事を認めない。
 横島はこの男が生きて呼吸する事を許容しない。
 それだけを胸に抱きながら、彼は有りっ丈の意志を込めた瞳で魔神の姿を目に焼き付ける。
 既に煩悶は超えた。迷いも無い。
 何故自分が今此処にこうして立っているのか。言葉にすればたった一言で済む。
 だがそれを押し殺しながら横島は只管に不動。
 睨んだ先に佇む男に向けて挑発的に呼び掛ける。

「追わなくていいのか、アシュタロス?美神さん、逃げちまったぜ」

「追えば君が邪魔をするだろう。私は自分と同等のパワーを持つ者に隙を見せるような真似は好まない。
 それに君が私に攻撃を仕掛けずにいるのは、ダメージが跳ね返るというコピーの致命的な欠陥を知っているからだろう?
 ならば当然、君が勝つには一撃で私を戦闘不能にするしかない事も理解しているはずだ。
 そして隙を見せない限り、私に負けはない」

 淡々と答えるアシュタロス。
 その目は覗き込むように横島の姿を捉え、退路を断ってまでこの場に残った相手の狙いを探らんとする。

「裏を返せば、てめーだって俺の前では迂闊には動けねえ、って事だろ」

「その通り。だが不意打ちができないのなら、コピーに出来る事など所詮は足止めだけだ。
 そして足止めに何の意味があるのかね?
 核ミサイルの脅威がある以上、美神令子達が南極から逃げ出す事は出来ん。
 仮に何らかの奇跡や偶然重なって、君達が原潜の核ミサイルをどうにか出来たところで、それも僅かな延命に過ぎん。
 何故なら人間界の数十箇所に散らばる数千発以上の核ミサイルの全てに、魔神迎撃の対策を立てる事など不可能だからだ。
 言い換えれば、私が生きている限り、核ジャックなど何度でも可能という事なのだよ」

 台風の日の激流さながらに渦巻く霊波とは対照的に、会話を交わす両者の口調はいっそ穏やかですらある。
 しかし両者の気が緩む様子はまるで無い。
 特にアシュタロスは、己の優位を確信しながらも、油断無く横島の動きに備えていた。

 先に美神を逃がしながら、魔神に追撃を許さぬ為に己の身を死地に残した一連の流れ。
 あれは冷静にしか為しえぬ判断の速さだった。
 にもかかわらず横島の目に宿るは激烈な憎悪。
 アシュタロスはその中に、侮り難い強靭な意志を見た。
 垣間見えた少年の心は全力でただ1つの執念だけを告げている。
 お前を殺す、お前を殺す、お前を絶対に殺すと、髪の毛から爪先まで、横島の全細胞が大声で叫んでいるのだ。

「結局、私を殺さぬ限り、人類に勝利は訪れんのだよ。
 人類の絶滅と引き換えに結晶だけを守り通す、という事は可能かもしれんがね」

 叩きつけられる殺意の奔流を受けて尚、アシュタロスの声に乱れはない。
 アシュタロスにとって恨まれる事など日常茶飯事であった。
 命を捨ててアシュタロスに挑んできた者を叩き潰し、命乞いをする者を薙ぎ倒し、生き様と足掻くものを踏み躙る。
 その手は今まで数え切れない命を奪ってきた。
 それが『魔神』という存在だ。
 だからもう、誰に憎まれようとも心を揺らさずに振舞う事など造作もない。
 どんなに心が痛もうとも、それを外に現さぬ術ばかりが上手くなる。

 ────しかし、その境遇に耐えられなかったからこそ、私は。

 見据える先には幾つもの可能性が浮かぶ。
 怨嗟流血の道から抜け出そうと何千年も足掻き続けた末に翻した反旗。
 故に何度邪魔が入ろうとも、最後に勝利するまでアシュタロスは戦う。たった一人で戦い続ける。
 たとえ既存の世界にいる全ての生きとし生ける者達が滅びようと。

「それで君はどうする?
 時間稼ぎに意味はない。
 君がどれだけ私のコピーを続けられるのかまでは知らないが、文珠の効果が切れた時が君の最期だ。
 追い詰められているのは私ではなくて君の方なんだよ?」

 それはどう足掻こうとも覆せぬ真実を言い当てていた。
 『模』の持続時間は約10分。何も起きなければ、あと5分で効果が切れる。
 つまりこのままでは、5分後に横島は死ぬ。
 だがそれを理解して尚、相変わらず横島は無言のまま、逃げようともせずにその場に佇んでいた。
 静かな殺意と強固な意志を貼り付けたその顔には、奇妙な笑いが貼り付いている。
 こちらを嘲笑うような、まるで勝利を確信しているかのような。
 それでいて魔神を睨みつける彼の瞳に宿る憎悪と殺意は些かも衰える事はない。

 それがアシュタロスには不可解だった。
 美神を人質に取った直後にベスパを戦闘不能にしたのは、おそらく此処で自分と一対一で戦う為の伏線。
 それを想定してこの数分で幾つかの対応策を考えていただけに、目の前にいる敵の行動は不可解だった。
 まさか動かぬ事で時間稼ぎに徹しているわけでもあるまい。
 そして不審を覚えて対人間用の脅迫に奪取した原子力潜水艦に潜ませているパピリオの眷族に連絡した瞬間、

「────!?」

 不気味な戦慄がアシュタロスの全身に襲い掛かってきた。
 一瞬で戻ってくる筈の返信がない。眷族達は何も言ってこない。
 否、数秒後にたった1つだけ返事があった。『魚雷とミサイルの発射装置の制御を緊急停止。現在、潜水艦から離脱中』と。

「まさか、私の指示に逆らっただと!?」

 一秒にも満たぬ自失であった。
 自分の気づかぬ間に切り札の1つに起きたハプニング。
 その何かに気を取られたアシュタロスは、一瞬だけ横島から意識を逸らす。
 しかしそれは、横島の前に千載一遇の機会を放り投げたに等しい愚行。
 そして、何も言わずにアシュタロスの気付きと動揺を待ち続けていた横島は、当然その機を逃さなかった。

「────」

 ごく自然な仕草で彼の足はアシュタロスへと踏み出して。
 次の瞬間、魔神の膨大な霊力を用いて加速した彼の体躯は疾風と化して。
 魔神の意識が戻った時にはもう、横島の両手はその魔神の腕に組み付いていていた。

「これで終わりだ、アシュタロス!!」

「き、貴様!?」










 塔の内部と外部を別つ障壁は、途轍もなく分厚い門であった。
 高層ビルの入り口など比較にもならぬ圧倒的な雄大さ。
 加えて生半可な攻撃では掠り傷すら負わぬ腹立たしい程の頑丈さ。
 その威容を以って、パピリオを打倒してのけたGS達の行く手を完璧に遮っていた。
 視線を転じて見上げれば、如何なる方法で創り上げられたのか、最果ての地に生み出されたバベルの塔。
 地上に現界した魔神の巣窟は、門の前で右往左往するGS達の矮小さを嘲笑っているの如く、ただ只管に巨大である。

 途方に暮れて為す術もなく立ち竦むGS達。美智恵もまた例外ではなく。
 それでも彼女は必死に打開策を探りながら、険しい表情で道を閉ざす扉を睨みつけていた。
 既に彼女の娘と横島がバベルの塔の内部に入ってから40分以上が経つ。
 募る焦燥感。 
 美智恵はこの場にいる誰よりも理解していた。強敵との実戦に於いて、共鳴現象を長時間持続する事は不可能だと。
 そんな彼女にとって刻々と過ぎていく時間の経過は、その脳裏にゆっくりと最悪の事態を想起させていく。
 しかし娘を援護したくとも、人間のパワーでは目の前に立ちはだかる扉を破壊する事など不可能であった。
 扉を開ける術を見つけ出せない彼女達は、焦燥を募らせながら扉の前に佇む傍観者でしかないのである。

「令子………くっ!」

 己の無力さに歯噛みしながら、もう一度何か手が無いか考えようとした瞬間、彼女の頭に聞き覚えのある声が届いてきた。

“ベスパは既に無効化しました。もう少ししたら美神さんがそっちに着きます”

「「横島(さん)!?」」

 頭の中に直接響いてくる言葉。
 直後におキヌと雪乃丞の叫びが耳に届く。
 周りを見れば他の者もきょろきょろとあらぬ方向に目を動かしている。

“パピリオさえ黙らせておけば、もう核ミサイルが発射される危険はありません”

 ────ゴゴゴゴゴゴッ

 その時、足元から伝わる鈍くて重い音。
 全員が異変に気付いて動きを止めた。
 その視線の先で、何をやっても微動だにしなかった扉がゆっくりと上がっていく。
 
「───これは一体!?」

 驚きに立ち竦む西条。
 そして内部の様子を窺おうとするピート達。
 その時、マリアの声が彼らの注意を引きつけた。

「誰か・近付いてきます。ミス・美神の可能性・99.9%」

“美神さんと合流したら、直ぐにヘリコプターを全力で守ってください。
 もしかしたらシャレにならない衝撃波がそっちに行くかもしれないんで”

 マリアの報告に続く様なタイミングで届く横島の指示。
 それは何よりも雄弁に扉の開門が横島の仕業だと語っていて。
 だから、こちらに向かって走ってくる娘の姿を認めた美智恵は即座に決意する。

「令子と合流したら一旦ヘリコプターまで後退します」

 途端に美智恵に集中する無数の視線。
 驚き、疑問、不満と非好意的な眼差しを浴びながら、しかし彼女は怯まない。

「ヘリコプターに後退後、令子から事情を聞きます。
 場合によっては、そのままこの地を脱出する事になるかもしれません」

 鍛えた鋼の如き意志を声に込めて、周囲に己の意志を浸透させる。
 横島の帰還を待たず、横島の安否を気遣わず、けれど横島の意を汲んだ、冷たく清涼な湖水の如き決断。
 そこには世界中のお偉方を向こうに回して、美神令子の暗殺計画を延期させた女傑の姿があった。
 
「ドクターカオス。詳しい事情は分かりませんが、パピリオは核ミサイルの発射を操作できるみたいです。
 彼女を確保した箱を決して放さないでください」

 まるで情報が不足する中で、彼女は事態を大まかに推測する。
 そして有無を言わさぬ強行。
 結果的にそれが皆の命を救う事になる。
 もしも指揮官が他の者だったなら、横島の身を危ぶむ余り情に流され、判断を誤ったかもしれない。
 唐巣は言うに及ばず、西条でも美神達に配慮して撤収の機を逸した可能性がある。
 だがそこは流石に美智恵であった。










 魔神の内に秘められた莫大な魔力が轟々と暴風を巻きながら空間を軋ませる。
 不意を突いて距離を詰めた横島と、腕を掴んできた横島の指を払いのけて手四つに持ち込んだアシュタロス。
 横島忠夫が模した彼自身の全力を受け止めんと、アシュタロスもまた全力となる。
 その2人が振り絞った渾身の力。

「くぉぉぉぉ!!」

「づぁっ!!」

 掴んだ手から伝わる互いの波動と打倒の意志。
 そして巨大すぎる霊波に包まれた両者の体が、禍々しく輝いて。
 広場を眩く照らし出す2つの光が相手を飲み込もうと激しく明滅する。
 だがその拮抗は、10秒と続かなかった。

「ちっ!」

 押し込まれかけて、苦しげに顔を歪める横島。

「その程度、かい?」

 その様をアシュタロスは冷ややかに見下ろした。




 パワーは互角。
 死力を尽くす捨て身の覚悟も十分だ。
 押し合いに持ち込んだタイミングも体勢も申し分ない。
 それでも横島では―――魔神には及ばない。

 単純な理屈だ。
 文珠でコピーした能力を手探り状態で使う者と、完全に慣れ親しんだ自分の能力を使う者。
 能力が同じでも、効率よくパワーを引き出して制御できるのがどちらかなど一目瞭然。
 単純な力比べですら、こうなのだ。
 たとえダメージの跳ね返りという弱点がなかったとしても、同じ土俵で戦う限り、横島の勝機は極めて低い。

 ────だから横島は迷わず最後の手段を実行した。

 瞬間、体が内側から生じた衝撃に押し潰されそうになる。
 魔神の能力をコピーして尚、耐え切れぬ悪夢の如き凄まじさ。
 心身が激痛に軋りながら、至る所に亀裂さながらの皹が入っていく。

「ぐぅ……っあぁぁ!!」

 それにも拘らず彼は苦しげに顔を顰めながら、体内に流れ込んでくる膨大な霊的エネルギーの制御を試みる。
 体中の神経が暴れ狂い、血管の中の血液が沸騰し、皮膚が不自然に膨れて波打ち、筋肉に亀裂が走っていく。
 だがもとより痛みなど覚悟の上。

 ────思い出せ。あの日の悲劇を。心が粉々に砕け散ったあの夜の慟哭を。
       たかが肉体の痛みなど、あれに比べればどれほどの事があると言うのか。

 叱咤が記憶を反芻させて絶望を鮮明にする。

 ────数え切れない物を振り捨てて、ここまで来た。

 その絶望が際限もなく執念を生み出そうと狂騒する。

 ────それは何故だ。譲れぬ思いを抱えながら、無様に生きてきたのは何の為だ。

 執念が横島の魂から無限の力を引き出していく。

 ────そんなの決まってる。今、この時、これを為す為だ!!




 その時、横島の体がアシュタロスの圧力を押し返し、押されていた光が均衡を取り戻す。
 否、先ほどまでは相克する2つの霊波が激しくぶつかり合いながら渦を巻き、鍔迫り合いの様に押し合っていたのだが。
 その均衡は増大を続ける横島のパワーによって、今は徐々に逆の方向へ崩れていこうとする。
 
「なんだ、このパワーは!?
 私をコピーしているのなら、君が私以上のパワーを出すなどありえん!!」

 アシュタロスの口から初めて狼狽の叫びが上がった。
 一体それはいかなる奇跡か。
 横島の両腕は、食い込みかねない強さでがっちりとアシュタロスの腕を拘束。
 その霊波はアシュタロスの全力を超えて上昇を続け、魔神の体を束縛する。

「き、貴様、一体何をした!?」

 狼狽は数瞬で焦りとなる。
 それはアシュタロスの立てたあらゆる予測を超えたありえない現象だった。
 冥界チャンネルを閉ざして神魔双方の動きを封じ込めた魔神が。
 いとも容易く核ミサイルを強奪して人間界を震撼させた魔神が。
 たかが100マイト程度のパワーしかない筈の人間を振り切れない。
 それどころか、押されている。あのアシュタロスがパワーで押されている。
 正真正銘の本気になった魔神の波動が、ちっぽけな人間に受け止められ、ソレを凌駕する力が逆にアシュタロスの動きを封じているのだ。

「すげえエネルギーだな、この結晶は。
 何千年かけて何万人分の魂を加工したのか知らねえけど、ホントに大したもんだよ」

 対する横島の言葉には呆れ混じりの賞賛があった。
 その顔を彩るは凄絶な笑み。
 それは箍の外れた激情の現れだった。

「エネルギー結晶だと!?
 何故、貴様がそれを持っているのだ!!」

 手品の種を知り、今度こそ心底から驚愕するアシュタロス。
 だが同時に僅かに冷静さを残した理性が必死に訴える。横島の波動に結晶の波動が混じっている事を。

「同期ってやつは単純に霊波を共鳴させるだけじゃねえ。
 肉体と魂の形質まで相手に近づける事によってより高い相乗効果を生み出すんだよ。
 つまり相手に吸収されそうになるほど同調すれば、俺の魂は美神さんの魂と限りなく同質に近付く。
 だからタイミングさえ合えば、霊体を傷つけずに美神さんの魂の一部となっている結晶を俺の魂に移し変えられるってわけだよ!!」

 それは横島が『しばれる』航海中、美智恵の話を聞く中で思いついた手段であった。
 美神を殺さずに勝つ方法を模索する中で不意に閃いた荒唐無稽なアイデア。

 人間が、魂を構成する霊体をちぎったりくっつけたりすれば、魂が原型を維持できずに変質してしまう。普通の状況ならば。
 しかし共鳴現象による同調を極限まで高めた時、術者の魂は限りなく相手と同質となり、本来ならば不可能なレベルの干渉を可能にする事を、横島は訓練を重ねる中で感覚的に悟っていた。そして美神令子の魂に引っ付いた結晶を切り離して自分の中に取り込み、その分余剰になった己の霊体を使って彼女の魂の欠損を埋めるといった離れ業すらも、出力が臨界に達した瞬間ならば可能になるかもしれないとも。
 更に美智恵の説明を信じるなら、成功した場合に両者の霊体に与える影響は殆どない筈だ。
 異物を取り込んで同化するのは困難でも、ほぼ同質の存在との同化ならば容易いから。

「貴様は最初から………美神令子から結晶を奪うつもりで共鳴を制御していたのだな」

「今更気付いたってもう遅いぜ。コピーの目的は互角のパワーを手に入れるためだけじゃねえ。
 てめーだけしか使えない様にカスタマイズされた結晶から、てめーをぶっ殺せるエネルギーを取り出す為だ!!」

 叫びと共に更に波動が巨大になる。
 拮抗していた状態の魔力が暴風だとすれば、今はもう嵐そのものと化している。
 アシュタロスのガードを破壊して致命の傷を穿たんが為に、横島は結晶から魔力を搾り出しているのだ。 

「貴様、正気か!?今私を殺せば、貴様自身がどうなるのか分かっているのか!?」

「知ってるさ。隊長から聞いたんだ。他人の状態をシュミレートするって事は、その対象が怪我をしたら俺も傷つく。
 お前が死ねば、当然俺はそれに引き摺られる。その結果俺が死んでもおかしくないって事ぐらい、最初から承知だよ!」

 上擦った声に返ってくる凛然とした決意。
 動揺するアシュタロスとは対照的に、横島の顔には冷笑すら浮かんでいた。

 魔神の顔に汗が浮かび、その体から夥しい霊波が放たれる。
 それは蛇の様に鋭く横島に襲い掛かり───横島の放った霊波に防がれた。
 アシュタロスの執念が横島の覚悟とぶつかり合い、耳障りな不協和音が虚空を駆け巡り。

「なにっ!?」

 そしてアシュタロスの霊波だけが掻き消される。

 パワーも持久力も互角なら、先手を取って有利な体勢に持ち込んだ者が勝つのが道理。
 けれど今の横島には魂の結晶によるブーストが加算されている。
 故にたとえ本気を出したところでアシュタロスが彼を力で押し切る事は不可能。
 魂の結晶の圧倒的なエネルギーに拠る拘束を振り切るのも極めて困難。
 だがコピーと結晶の力を無効にするために仮眠モードに入れば、横島は躊躇なく結晶を破壊するだろう。
 
(土偶羅っ!!ベスパっ!!パピリオっ!!)

 苦し紛れの呼びかけに答える声はない。
 パピリオは麻酔を打たれて眠りの世界に。
 ベスパと土偶羅はしばらくは動く事すら出来ずに。
 ならばもう一度潜水艦の掌握を、とパピリオの眷族達に呼びかけても返事がない。
 その姿を、焦りを浮かべながら足掻くアシュタロスの姿を、横島は歪めた顔で愉快そうに嘲笑う。

「分かってねえな。コピーってのは単なる模倣じゃない。
 お前が知ってる事は俺にも分かる。そしてお前ができる事は俺にも出来る。
 パピリオの眷属達には離脱命令を出した時に、これ以降パピリオ以外の命令は聞くなって言ってある。
 あいつらに対するてめーのアクセス権は、とっくのとうに無くなってんだよ!!」

 言葉どおり、今の横島ならば魔神の思惑を読み取って妨害するなど何でもない。
 更に彼我の力差は魔神の抵抗を力で押さえ込んでしまえる程に圧倒的。
 アシュタロスが数千年間かけて集めたエネルギーは、横島が命を懸けて結晶から引き出したエネルギーは、たった数分間限定とはいえ、魔神クラスですら太刀打ちできない化け物をこの世界に誕生させたのだ。

 しかし横島とて、全てがここまでうまくいくと思っていたわけではない。
 合体中にエネルギー結晶を美神の魂から己の中に移し変える前に、己の魂が吸収されてしまう危険性は承知していた。
 核ミサイルの発射阻止もアシュタロスさえ殺せば何とかなると思っていたに過ぎず、南極到着前に綿密な計画があったわけではない。
 故に、死なずに結晶を手に入れた事も、美神を無事に逃がせた事も、魔神に気付かれる前に核ミサイルを無力化できた事も、全ては偶然と幸運の産物なのかもしれない。
 だがその偶然も幸運も、横島の怨念と化した不屈の執念がなければ絶対に届かなかっただろう。

 人間界に駐留する神魔のほぼ全てを行動不能に追い込んだ逆天号、美神令子を圧倒した強力な使い魔の生成、南極に現れたバベルの塔と、魔神の圧倒的な実力を何度も目の当たりにしながら、それでも信じ続けるのは簡単じゃない。
 心の灯火を絶やさぬ様に、闘志の牙を折らぬ様に足掻き続ける道程には、なんと厳しく、辛く、険しい壁が立ちはだかっている事か。その壁を乗り越えるよりも、疑って、諦めて、遂には期待を捨ててしまうほうが楽なのだ。意志というものは、殺し合いの様な極限状態に置かれては、誰であろうと弱くなる危機を孕んでいるのだ。

 けれど彼は信じた。奇跡を生み出そうと頑なに「できる」と信じ続けた。
 信じて、ひたすらに信じ続けて、けれど此処に来るまでの間に彼の理性は己の心を苛む自責に耐え切れずにゆっくりと壊れて。
 それでも横島忠夫には美神令子は殺せなかった。
 魔神を殺すために彼女を殺す───最も簡単に実行できる筈のその選択を、どうしても掴む事が出来なかった。
 だから横島は決意する。
 乱れた思考をひっくり返し。確実とは言えぬ手段と知りながら。懊悩の果てに。

 ────ならば別の物を犠牲にすればいい。たとえその代償として差し出せるのが己の命しかなかったとしても。

 そうして瞳に未来を映す事を止めた横島の胸に去来する想いはただ一つ。
 たとえ未来を捨てようともアシュタロスを殺すという誓いだけ。
 この地に辿り着いた時、既に彼は己の死を確定事項として受け入れていた。

 その狂気に創造主が報いたのだろうか───部下の裏切りを恐れたアシュタロスが全てに対して上位の命令権を持っていた事が幸いする。
 この城の仕掛けも核ミサイルも究極の魔体も、アシュタロスさえ命じれば即座に破棄する事が可能なのだ
 故に思考の読み取りを察知される前に必要な情報を引き出した彼が、アシュタロスの切り札を封じるのは刹那で十分。
 権限を己に集中させすぎた為に、アシュタロスは全てのカードを横島によって封じられたのだ。
 無言のまま対峙していた5分余りの時間。
 時間稼ぎの駆け引きを装いながらアシュタロスの思考を探るのに必要だった5分間。
 それがアシュタロスを致命の窮地に落とし込んだのである。

「おのれ、おのれ、おのれ!!」

「残念だったな。てめぇが小笠原の小島に隠してた魔体にも自爆するように指令を送った。核ミサイルの発射も間に合わねえ。
 コスモプロセッサーって装置で何が出来るかは知らねえが、結局あれも結晶なしじゃ動かねえんだろ。
 だから道連れは俺だけで我慢しやがれ。
 ………さあ、お祈り時間だ。せめて楽に死ねるといいな、俺達」

 無念を叫ぶ魔神を嘲る横島の顔からは徐々に険が取れていった。
 空想の中で何度この瞬間を思い浮かべただろう。
 どれほど無力で美神も殺せない自分自身に歯噛みした事だろう
 それも終わる。もうすぐ終わる。
 そうして、晴れ晴れとした顔の奥で彼は結晶に命令した。

 ────『膨らんで弾けろ』と。

 それは結晶に込められた全ての魔力を破壊エネルギーに変えて解き放つ自爆の指示。
 開放されたエネルギーの奔流は津波と化して両者を飲み込み、その破壊力は魔神すらも覆せぬ死への片道切符となるだろう。

「アッハハハハハハハハハハハッハハハハハハハ!!」

「────!?」

 嗤いながら無理矢理それを握らせてくるちっぽけな人間の激情に、アシュタロスは初めて恐怖した。
 そう。美神やおキヌや美智恵が薄々感じていたように、確かに横島は変わっていた。
 目の間にいる魔神と自分自身への憎悪に掻き立てられ、死の恐怖から身を遠ざける本能を捨てていた。
 美神を逃したアシュタロスと対峙した時から、彼の心はあの夜と同じように完膚なきまでに狂気に取り付かれてただ一筋に純化して、全てを捨ててこの時に命を燃やし尽くそうとする激情は、まるで恋心の様に一途で濁りがない。
 それは魔神の理解を超えた憎悪であった。
 先ほどまで静かに彼を睨んでいた少年の内心は魔界の瘴気よりも毒々しい憎しみを湛えていたのだ。
 そして今ここに、邪悪である事に苦悩を重ねた魔神の永き時が、解れて破綻した人間の破滅を厭わぬ狂気に否定されようとしていた。

「何故だ。何故ここで。貴様は一体!?」

 恐怖と共に何故という疑問がアシュタロスの脳裏に際限もなく湧き上がった。
 まだ自分はコスモプロセッサー発動どころかエネルギー結晶すら手にしていない。
 すなわち宇宙意志の反作用の発動には至らぬ状況下。
 なのに何故自分は敗れようとしているのだ。
 よりにもよって、たった1人の取るにも足らぬ筈の人間に。

 宇宙意志の反作用が発動するまでは自分が負けるわけがない───その奢りがアシュタロスの目を曇らせていた。
 圧倒的な実力差を物ともせず、核ミサイルを奪われた絶望的な状況にも屈せずに戦い続ける者達。
 それは、かつて己の運命を呪って創造主に戦いを挑んだ魔神自身の姿と重なっていた。

「まだだ。まだ死ねんよ!!!」

 遂に虚栄も威厳もかなぐり捨てて、アシュタロスは凄まじい形相となって足掻いた。
 文珠の効果とて、いつまでも続くまい。 
 コピーさえ解けてしまえば、自分の勝ちだ。
 生き残れば。なんとかして生き残りさえすれば。まだ勝ち目は。

「いいや、死ぬね」

 地の底から響いてくるような昏い声。
 瞬間、アシュタロスの腹を横島の手刀が抉った。

「があっ!!」

 余りの痛みにアシュタロスは苦悶を上げ、横島も顔を歪ませる。
 正しく狂気であった。
 敵の思考と動きを止める為に、激痛を与えるのは合理的ではある。
 しかしそのダメージが自分に返って来ると知って尚も実行するなど正気の沙汰ではない。
 それを横島は、躊躇いもなくやってのけた。
 無論痛みは返ってくる。
 だが『復讐』とさえ呼べぬほど歪みきった身勝手な想いは、横島から全ての怖れを奪っていた。

「そろそろ、終わらせるぜ」

 呟きと共に彼は四肢に力を込められる。
 自ら抉った腹の痛みが一層酷くなる。
 無視してすぅと大きく息を吸うと、彼は暴走気味の霊波を足から迸らせた。

 その瞬間、かつて生身の体に竜気を纏って大気圏に突入した少年は、かつて大気圏で灼熱の地獄を味わいながらシベリアの凍土に叩きつけられた少年は、天空の果てに向かって飛翔した。
 結晶から溢れ出す力を利用した上昇。
 それはロケットの打ち上げにも劣らぬ疾さであった。
 飛翔速度は可視領域を突破して、音の壁を突き破る破砕音が続けざまに極寒の空に木霊する。
 余りの疾さに空気との摩擦熱が横島と魔神の体を灼熱させる。
 だが星の重力を振り切った彼の体は、アシュタロスを束縛しながら、凄まじい速さで天に昇っていく。
 群青の空の遥か彼方。横島忠夫とアシュタロスの墓標に相応しい終焉の地に向かって。

「うぁぁ、ぐぉ、ぐぁっ……かっ、くっ!」

 膨大なエネルギー結晶の力に耐え切れず、徐々に崩壊していく魔神を模した横島の肉体。
 それでもアシュタロスを拘束する横島の腕は離れない。
 もはや呪いにまで昇華した憎悪と自責は、たとえ死んでも彼から手を離す事を許さぬだろう。
 そして横島と共に数万人の魂が秘めたる力が魔神を抑えようと纏わりついている。
 それ故に『模』の文珠の効果が途切れるまで、アシュタロスは身動き一つ取れないだろう。

 ────コピーではどんなに上手くいっても相打ちまでしか望めない。

 美智恵からそう聞かされた時に彼の脳裏にある閃きが奔った。
 南極に到着するまでの航海で、密かに『模』の文珠の効果と特性を確かめた時に決めていた。
 この力は全てこの瞬間の為にと。

「すまん、ルシオラ。ごめん、おキヌちゃん。わりい、親父、お袋。
 美神さん、すいません。俺、ここまでみたいっす」

 呟きは風圧に掻き消され、触れた全てを切り裂く禍々しい影が空の果てへと駆け上がる。








 そうしてデタントが成立した瞬間から始まった永き戦いは、遂にフィナーレを迎えた。
 あらゆる可能性を吟味した筈の魔神。
 その抵抗を全て捻じ伏せた横島が辿り着いた場所。
 そこは雲すら存在せぬ天涯だった。
 青色すら消えた空の果て。
 破滅の一途を突き進んだ横島の狂気は成層圏を突き抜け、天涯に至り、生きながらにしてその身を灼熱に焼かれながら、遂に最高潮に達した。
 臨界に差し掛かっている魂の結晶。
 全エネルギー解放まであと数秒間。
 瞼の裏には映像が川の流れのように次々と掠めていく。

 ────横島さん、私、絶対思い出しますから!!
       忘れても2人のこと、すぐに

 ────本人はイヤがってるじゃないですか…!
       それに、そんなこと私が絶対に

 ────敵でもいい、また一緒に夕焼けを見て……! ヨコシマ!

 走馬灯の様に脳裏を駆け巡る己の生涯。
 数々の情景に向かって万感の思いを込めながら、横島は終焉を導き出す最後の言葉を紡いだ。

「さようなら」

 その刹那、逆天号のフルパワーの一撃すら軽く凌駕する膨大な魔力が空間を軋ませながら四方に閃光を奔らせた。
 数瞬後、空の彼方に生み出された小恒星の様な圧倒的な光と熱。
 世界中を飲みこむような光がアシュタロスと横島を包み、生じた閃光が南極を照らす。
 それは奇跡の様な光の渦。
 魔神の膨大な魔力と数万人分の魂を加工して創られた結晶のエネルギー。
 まるで小さな星が誕生した瞬間のような明るさと眩さが空を駆け抜ける。
 けれど超新星の爆発に似た輝きは疾く消えた。

 そして光に遅れる事、約一分。
 結晶から解放された圧倒的な衝撃波が音を伴いながら、空の果てより襲来する。
 世界中からかき集めた巨大な稲妻や竜巻を足してすら到底追いつかぬ轟音と震動。
 そして阿鼻叫喚の地獄を生み出す核兵器にも劣らぬ凶悪な霊波の渦。
 その全てが、其処に在る全てを殲滅せんと牙を剥いて絶叫した。

 滅びと再生を孕んだエネルギーが成層圏を満たしていく。
 駆け巡る破壊の衝撃に呑まれた空が、絶叫するかの様に激しく鳴動する。
 大気圏という優しい毛布がこの青い星を包む前に吹き荒んでいた煉獄の風。それが時を越えて現界する。
 暴動を起こした大気は引き裂く物を探して荒れ狂う。
 それは雄大なる破壊のソナタ。
 それは豪壮なる暴虐のエチュード。
 それは魔神の野望の玉砕を唄う祝福のレクイエム。

「ぬああああああああぁぁぁぁぁ!!!」

 胸中を苦痛と絶望と無念の三重奏に彩られたアシュタロスの絶叫は、星が消えるような眩い閃光と灼熱の爆炎の中に消えていく。

「ざまあ………みろ」

 その圧倒的な奔流の中心で、勝利を確信した横島の顔に会心の笑みが浮かんだ。
 枯渇した魔力はアシュタロスが力尽きた証。
 己の全身を苛む苦痛はあの魔神を死へと誘う福音の響き。
 最高の達成感に身を委ねながら横島は薄れてゆく意識から手を離した。
 ルシオラを失ってから頑なに心を縛り続けていた自責という名の鎖から開放されて。
















「まさかアシュタロスが人間に負けるとはなぁ」

「冥界チャンネルを封じられた時は、流石に人間界が破滅すると思いましたよ」

 その2人は空から産み落とされたかの様に唐突に出現した。
 同時に聖地すら比較にならぬ神々しさが、爆心地の天涯からやや離れた成層圏を覆っていく。
 アシュタロスのジャミングに遮られて傍観者にならざるをえなかった神魔の最高神達である。
 そしてとてつもない神格を備えた二柱の神はのんびりとした口調で会話を交わしながら、ぴくりとも動かぬアシュタロスを拘束した。

 ────冥界チャンネルの復活。

 復讐を誓い、雌伏の時を重ね、雄飛の機を待っていた神魔族達が遂に反撃の狼煙を上げたのだ。



[528] 儚き蛍火 最終話
Name: z
Date: 2006/02/07 23:11
 3柱の神が空に浮かんでいた。
 2柱は悠然と浮かび、残る1柱の拘束された神は、現状を認識する事すら覚束ない瀕死の傷を負っていた。
 それは神魔の最高神に捕らえられた魔神アシュタロス。
 今はもう意識も無いのか、孤独な罪人の如く目を閉じたまま項垂れていた。

 この数千年間、アシュタロスはいつでも孤独だった。
 何故なら世界そのものが敵だったから。
 駒と割り切って造った部下は、役立たずどころか彼に災いを齎した。
 更に戦いを挑んだ者達の中で魔神をここまで追い詰めた者が、反逆を決意させる原因となった『人間』だった事は皮肉というしかない。

 それでもまだ辛うじて生きているのは、孤高の魔神たるアシュタロスならばこそである。
 自爆の寸前、パワーで対抗しても駄目だと悟ったアシュタロスは横島の肉体に直接干渉して結晶の暴走を止めようと試みた。
 横島が浮かび上がる走馬灯に気を取られた一瞬の隙を突いた奇策。
 それは結晶に込められたエネルギーの大半を抑え込み、爆発のエネルギーを大幅に減少させた。
 おかげでアシュタロスの肉体も、横島の肉体も未だに原形を保っている。
 それでも、残りの魔力の全てを防御に回して尚、横島の自爆は両者の肉体と霊力中枢をずたずたにした。
 肉体も幽体もぼろぼろだった。
 たとえ魔神といえども、ここまで傷ついては助からない。
 死ぬのは時間の問題だろう。
 故に彼の戦いは終わったのだ。宇宙意志の反作用を受ける事もなく、神でも悪魔でもないちっぽけな少年の捨て鉢な賭けによって。

 この南極の地に訪れた終焉は魂の牢獄から抜け出す悲願に届かず。
 彼は悔恨に塗れながら近い将来、再び魔神へと転生する筈だ。
 これで1000年以上かけて築き上げた計画は白紙に戻り、再び茶番劇の悪役としての日々が続くのだろう。
 勝ってはならない不毛な戦いを繰り返し、邪悪であるという事を証明する為に神族や人間達を適度に苦しめ、怨嗟の嘆きを浴びながら、呪いと流血で舗装された道に佇む、そんな耐え難い毎日が。
 だから思考すらままならぬ体を引き摺りながら、アシュタロスは闇よりもなお黒い絶望を抱えながら呟いた。

「終った。私の世界創造も、何もかも」

 唇も舌も碌に動かず、その呟きを耳に留めた者はなく。
 けれど漆黒の狭間に沈んでいく意識の中で。
 無念の死を覚悟したその心にゆっくりと染み渡ってくる波動があった。
 それはゆっくりと魔神の頭の中に染み渡っていく。

「しかしとんでもないですね、彼」

「冥界チャンネル封鎖も驚いたけどなぁ。
 コスモプロセッサーに究極の魔体か。万全の状態で発動されたら、わしらでもどうにもならんかったで」

 口調の軽さとは裏腹に二柱の声には感嘆めいた驚きと隠し切れぬ恐怖が混じっていた。
 今、最高神達の前では一連の事件の全貌が次々に暴かれていく。
 彼らは、ヒャクメが行った思考の走査と同様の手段で魔神から情報を引き出しているのだ。
 三千年以上前から始まった魂の収集に結晶の作成。
 既存の世界の破壊と再構築を担う手段の数々。
 そしてその裏に隠されたアシュタロスの苦悩と真の目的。
 それは『アシュタロスの全て』と言っても過言ではない内容であった。
 魔神の頭の中にだけしまわれ、読み取り防止の強力なプロテクトのかかった最高機密。
 ここまで傷ついていなければ、たとえ最高神と言えども読み取る事は出来なかったろう。

「一度、最上級神クラスの思想について厳重にチェックする必要がありそうですね」

「そうやなぁ………こっちの陣営は最低でもアシュタロスの消滅と別の魔神の擁立ぐらいはやらなきゃあかんやろ」

「………」

 目前で交わされる会話にもアシュタロスは何の興味も示さなかった。
 正確に言えば───興味の持ちようがなかった。
 彼の聴覚は既に潰れて機能していないのだ。
 聴覚だけではない。視覚も触覚も………五感の全ては失われて、今の彼は一片の光も差さぬ暗黒の中にいた。
 その中にぽつんと座り込んでもう直ぐ訪れる仮初の死を待ちながら、アシュタロスはふと周囲を見回した。

 黒い世界には誰も居なかった。
 黒い世界には何もなかった。
 誰かを傷つける事もなく、誰かに恨まれる事もなく、救いも絶望もない空っぽな世界。 
 其処は正しく全てを失った自分自身の心象風景であった。

 やがて何も映さぬ闇は柔らかくアシュタロスの体に纏わりつくと、揺り籠の様な心地良さを齎していった。
 その闇色に抱かれて次第に明瞭を失いながら、魔神はふと思い立つ。
 このままこうして眠ってしまうのもいいかもしれない。
 次に目覚める時は邪悪である事に思い煩う事もなく、もしかすると積極的に肯定する気にすらなるかもしれない。

 その時、思念で織り成された穏やかな風が黒い世界の中を駆け抜けていった。
 その風はアシュタロスの心の中に優しく入り込み、厳かに告げた。
 
((お前の───罪を許そう、アシュタロス))

 洗礼にも似た神聖な氣がアシュタロスの魂を包んでいった。

 こうしてたった一人の魔神の反乱は、其々の神々に、新たなる秩序を構築する為の苦渋の道を選択させた。
 それは存在意義の喪失。
 それは邪悪である事からの解放。
 それは彼の悲願の形。

(私は………死ねるのか)

 消えゆく意識の中でアシュタロスは歓喜を抱きながら、去来する幾つもの感情に身を任せていく。
 メフィスト。彼の娘。幸せになろうと足掻く命が愛しかった。
 茶番劇の悪役。邪悪と恐れられる永遠の存在。そんな肩書きを捨て去って光の下を歩きたかった。
 造物主への反乱。たった独りで戦い続ける孤独。けれど自分が想像した命が自分と同じ想いを抱いた事が嬉しかった。
 そして彼の野望を阻んだ人間。その男の前世はメフィストの離反の原因を作り、現世では誰も予想しない形で魔神を打倒した。
 何度も信じ難い事態を引き起こして彼の悲願を阻んだ忌々しい男。けれど今、魔神の胸にはただ純粋な感謝があった。

 ────ちっぽけな人間よ。心からお前に感謝する。私がこの世界を決定的に踏みにじる前に、私を殺してくれて。

 その奇跡の始まりはある1人の少女の死。
 彼女の命の終焉と同時に広がり始めた小さな小さな細波。
 けれど取るに足らない微細な波紋はゆっくりと、でも確実に遥か彼方へと伝わって行く。
 決して諦めずに、執念深く、絶対に消えぬとばかりに、どこまでも。

 そして横島忠夫とルシオラの逢瀬が生みだしたその波は、やがてある結末へと辿り着く。
 天涯に生じた太陽は返り血と絶望に塗装された魔神に、彼が望み続けた死という名の安息を齎した。
 その結末が誰にとって幸せで、誰にとって不幸なのかは分からない。
 ただ確かなことは、最高神がアシュタロスの復活を否定したというその事実。
 今ここに、魔神アシュタロスを捕らえていた魂の牢獄は、その役目に終わりを告げた。
 これより先に広がる未来の中でいつか彼は生まれ変わる。誰も殺さない、誰も殺さなくていい、そんなちっぽけな存在へと。












 ────少しだけ時を遡る。

 ヘリコプターに撤収する途中のGS達の目に、唐突に白い彗星がバベルの塔をぶち破って現れ、そのまま天を穿つ光景が映った。
 それは高緯度と吹雪のせいで微弱な光しか届かぬこの地を、圧倒的な白光と神性に拠って明るく照らしながら天を翔けていく。

「なに、アレ!?」

 誰かが戦慄と共に呟いた。
 誰もが茫然の極みに在りながら同じ想いを抱いた。
 皆が空を見上げる中で、美神令子だけが黙ったまま顔を伏せて足を動かした。
 胸がざわめいていた。中で蠢く感情の正体は焦燥感。
 しかしまだ明確な危機意識はなく。不安ばかりが膨らんでいる。

 やがてヘリコプターに到着した時、またしても起こる異変。
 遥か上空で閃光が奔ったと思うと稲妻など比較にならぬ爆音が南極中に轟き叫んだ。

「最速で結界を展開!!
 全力でヘリコプターを守るのよ!!」

 凛とした美智恵の声に、空に消えた閃光に目を奪われていた者達が慌てたように我に帰り、一斉に霊力を放出する。
 数秒と掛からずにパピリオを防いだ時よりも強固な結界が彼らを中心にヘリコプターを覆っていく。
 白に包み込まれた最果ての大陸が震撼したのはその直後であった。
 天涯で解放されて成層圏を蹂躙したエネルギーの余波が、地上へと手を伸ばし、その直下にあった氷の大地に激震を奔らせたのだ。

「っ!?」

「ぐ……ぅ」

 余波だけで人間を吹き飛ばした余りある衝撃。
 抑え込もうとする者達の口から苦悶が漏れるのも当然だ。
 そして長い長い数秒間が経つと、衝撃は急速に収まった。

「みんな、生きてる?」

 ヘリコプターの無事を確かめながら、皆に問い掛ける美智恵の声。
 其処には隠し切れぬ疲労が滲んでいた。

「なんとか」

「霊力は空っぽだけどな」

「僕もです」
 
 次々に上がる声。
 奇跡的に全員が無事だった。
 だが互いの安否が判明した刹那、緊張感が途切れたのか、GS達は力なく座り込んでしまう。
 無理もなかった。
 ヘリコプターに影響を及ぼさない様に、彼らは己の全霊力で衝撃を相殺をしていたのだ。
 立っている余力を残しているのは、最後方にいた氷室キヌと母親に守られた美神令子だけ。
 その2人にしても霊力のストックは殆どない。
 その時、驚愕の叫びが上がった。

「おい、見ろよ。バベルの塔が崩壊していくぜ!!」

 誰もが声を失った。
 あれほど雄大に聳えていた神への叛逆の象徴であるバベルの塔。
 その雄姿が風に吹き飛ばされる砂の城の様に徐々に薄くなり、崩れていく。
 そして恐るべき魔神アシュタロスの意思に支配されていた筈の南極大陸から、徐々にその気配が消えていく
 それは、デタントという名の新しい時代が幕を開けてから紡がれてきたアシュタロスの蠢動の終焉を予感させた。
 
「アシュタロスは………死んだのか?」

 誰かかがポツリと呟いた。
 その瞬間、美神の全身を悪寒と戦慄が駆け抜けた。

「おキヌちゃん、ついて来て!!」

 振り向きもせずに叫んで美神は走り出した。
 胸中に蟠る恐怖。
 魔神が死んだのならば、最後まで魔神と戦っていた横島はどうなったのだろう。
 コピーだけでは相討ちに持ち込む事すら不可能に近いのに。
 まさか。まさか、まさか。
 行かなければいけない───魂から溢れ出す衝動に突き動かされるようにして彼女は雪原を駆けた。

「み、美神さん!?」

 おキヌも慌てながらそれを追う。
 やがて彼女の霊感にも不穏な気配が伝わり、訝しげな表情に理解の灯が点っていく。
 だがその直後に、直感に従って心眼を開いたおキヌの口から悲鳴が上がった。

「横島さんが………意識を失ったまま空から落ちてきます!!」

 疾走する美神の顔が苦しげに歪む。
 あの閃光はやはり横島の仕業だったのだ。
 あいつは言葉通りにアシュタロスを倒してのけたのだ。
 だがその代償におそらく………。

「おキヌちゃん、距離と方角を教えて!!」

「予想落下地点は此処から南西に約1.8km。落下までは、あと…………1分もありません!!」

 後ろをついてくるおキヌの声には涙と絶望が混じっていた。
 霊力の尽きているこの状況では、誰がどう見ても救出は不可能だった。
 それでも尚、美神の足は止まらない。

「私は美神令子、誰にも負けない、誰にも屈しない」

 己に暗示をかけるように呟きながら彼女は全身に酸素を送り込む。
 心臓と肺が激しく伸縮して足の筋肉を律動させ、美神に息苦しさとスピードを与えていく。
 そうして生み出されるのは、全てを動員した全速力。
 けれど振り絞った力は絶望的だった。

 ────遅い。遅すぎる。

 落下点は遠かった。まだ1km以上も離れていた。
 人間の走る速さでは辿り着くまでに時間がかかりすぎた。
 だから、どう足掻いても間に合わない。
 このままでは、彼は土よりも遥かに硬い氷の大地に叩きつけられて死ぬ。
 全身の骨を無残に砕かれて、虚ろな瞳には何も映さずに。
 そんな末路を全力で否定しようと彼女は氷の大地を滑る様に駆けた。
 しかし無情にも横島の姿は見る見るうちに地上に近付き、今では肉眼でもはっきりと捉える事ができる。

 もう間に合わない、高度はもう500mを切り、数秒後には大地に鮮血の赤い花が咲く。
 いくら横島に並外れた頑丈さと人外じみた回復力があろうと、竜気の補助もない状態の人間がその落下エネルギーに耐えられる筈がない。
 だから諦めて受け入れろ。間もなく目にする最悪の惨状を。
 そう呟いてくる理性を無視して彼女は叫んだ。
 
「横島ぁぁぁ!!」

 かつて恋人を失った前世の自分と、ルシオラを失った横島が味わった絶望に浸されながら、それでも美神令子の足は止まらない。




 ────その数秒後、横島の肉体は氷の大地に叩きつけられ、鈍い音と共に白い粉塵が巻き上がった。








 霞む目には灰色の空が映る。
 それは太陽の恩恵の薄い最果ての地の風景。
 そのぼんやりとした空に、彼はまだ自分が生きている事を知った。

「う……あっ」

 声を出した瞬間、激痛の波が横島を襲った。
 その痛みは黄泉路への案内人であり、同時にまだ彼が現世に居る証でもある。

(どうしてまだ生きてるんだろ)

 酸素を求めて大きく息を吸い込み、全身を苛む苦痛に喘ぎながら、横島は不思議に思った。
 その十秒後。

 ────ぼふっ

 横島の体から霊波が煙の様に飛び散って、彼を苛む痛みが僅かに消えた。
 そこでようやく、彼は少しずつ何が起きたのか理解していった。

(………コピーが解けたのか。でもまだ俺が生きてるって事は、アシュタロスの野郎が土壇場で爆発の衝撃を逃がしやがったのか)

 不思議と悔恨はなかった。
 コピーでダメージを共有していた感覚から、アシュタロスが致命傷を負った事だけは間違いなかったから。
 そして皮肉にも魔神の土壇場での悪足掻きのおかげで、横島も即死せずに済んだのだ。
 氷の大地に叩きつけられても死ななかったのは、魔物の肉体の構成要素の殆どが幽体だったからだろう。
 物理的な衝撃の影響が極めて薄く核兵器にすら耐えられる魔神の体をコピーしていなければ、衝突した時点で間違いなく死んでいた筈だ。

「……づっ」

 周りを見ようと首を動かそうとして………横島は自分が動けなくなっている事を知った。
 力を入れようとしても、指先すら動かせない。
 体はまるで血の通わぬ石像の様だった。

 横島の肉体は確かに死ななかった。だが───それだけだ。
 死は意地悪く彼の目の前に佇んでいた。






「………じょ、冗談でしょう!!」

 ようやく横島まで辿り着いた美神を、希望と絶望が交互に駆け巡った。
 少年の胸はまだ動いている。
 弱々しいけれど、呼吸もある。
 しかし土気色の顔に浮かびあがっているのは、間違いようもなく死相であった。

「あっ、あああああっ!!」

 意味もなく叫びながら手当てしようと横島の体に触れて、彼女はもう一度絶望した。
 傷は肉体だけでなく幽体にまで及んでいる。
 直ぐに手当てしなければ、あと五分も保たないだろう───脳の片隅で冷静な声がする。
 けれど彼女に残された霊力は無かった。

「やだ……やめてよ」

 震えが止まらない。
 歯の根が合わずにカチカチと鳴り、がんがん頭痛がする。

「どうしよう。まず何をすれば……血を止めなきゃ」

 幸い動脈は傷ついていなかったが、全身に及ぶ裂傷のせいで彼の肉体は朱に塗れたかのようだった
 急いでぼろぼろになった横島の服を裂いて包帯代わりにする。
 止血を最優先に強く縛り付ける。

「横島さん!?」

 背後から美神に追いついたおキヌの声が聞こえた。
 次の瞬間、彼女は跪いて横島の体に掌を当てるとヒーリングを開始する。
 掌が光り始めて霊波が治癒のベクトルに向かっていく。
 裂傷が治り始め、少しずつ出血の勢いが弱くなる。
 けれど───その効果を打ち消して余りあるダメージが彼の五臓六腑を蝕んでいた。  
 呼吸が弱くなり、横島の体から力が抜けていく。
 それと共に体温が急激に失われていく。
 『死』が横島を冷たく飲み込もうとしている。

 その光景に美神は既視感を覚えた。
 背筋がゾクリと冷たくなる。
 殺しても死なないと思って何度となく酷使した事もあるけれど、横島だって不死身じゃない。
 中世で一度死んでしまった様に、決して不死身のヒーローなんかじゃない。
 それなのにこの男は、どうしてこうも無理をするのだろう。
 GS資格試験でも、香港でも、月面でも。




「横島さん、しっかりしてください」

 いつの間にかおキヌは泣いていた。
 泣いたまま、懇願するように彼に呼びかけていた。

 逆天号破損から数日後に帰ってきた横島の変化。
 時折侵し難い雰囲気を纏う様になったせいか、おキヌは南極に向かう事になってから殆ど言葉を交わしていなかった。
 だから戦いが終わったら、聞きたい事がいっぱいあった。聞いてほしい事もあった。
 出会ってから重ねた触れあいと共有した時間。
 時には悲しい事もあった。
 でも楽しい事ばかりだった。
 毎日がある意味危険と隣り合わせの生活だけど、それすらもが幸せな時間であった。
 それが、こんなにあっさりと失われていい筈がない。
 
「死なないで!!」

 その叫びは祈りにも似て。
 視界は涙で歪んでいた。




 その時、声も出せぬままに2人の様子を見ていた横島の心が大きく揺らいだ。
 さっきまでは彼はこの結末に満足していた。
 復讐者に相応しい死に様だと思えた。
 だがその満足感は徐々に薄れて。

 ────やがて嗚咽が聞こえてきた。

(おキヌちゃん?)

 おキヌの泣き叫ぶ声。
 横島の回復を求めて祈る言葉。
 紡がれる横島の名前。
 そして、ギリリと食い縛る様な歯軋りの音と共に横島の耳に届いた涙声。

(美神さんまで………泣いてるのかよ)

 霞む目を何度も瞬かせて焦点を合わせると、涙でぐしゃぐしゃに乱れた2人の顔が目に映る。
 涙滴が彼の顔に落ちていく。
 まだ温かいその雫は彼女達の横島に対する思いの深さの様でもあった。

「泣か……な……い……で」

 気がつけば心が言葉を紡いでいた。
 同時に願っていた。
 自分はこの結果に満足しているから、こうなっても良いと決めて戦いに望んだのだ───だから泣かないで、と。

 また涙が彼の頬に落ちた。
 失われつつある感覚に伝わる熱い涙の温もり。
 胸が熱くなる。冷えていく肉体とは裏腹に心が身に余る想いに戦慄する。
 アシュタロスへの復讐を果たして冷たく暗い達成感に溢れていた胸に、陽光の様に明るく温かい火が灯る。
 彼女達の声は、その涙は、そしてその祈りは、徐々に激しさを加え、横島の心を締め付けていく。
 彼は自分の魂が洗われ、浄化されていくような不思議な感覚を覚えた。
 それはまるで、先ほどまで魔神と殺し合っていた横島の心を圧迫し続けていた、鉛の様な重さや泥沼の様な濁りが溶けていくような。
 その瞬間、横島忠夫を突き動かしていた自責と憎悪は別の感情に取って代わられた。
 その温もりにも似た心地よさに彼は笑った。弱々しい、けれど陰りのない明るく幸せそうな笑み。
 自分のために泣いてくれる人がいると感じる事は、とても罪深いけれどどうしようもないくらいに嬉しいのだ。
 そう言えば、何ヶ月ぶりだろう。こうして静かな心の休まりを覚えるのは。

 そうして横島はようやく気付いた。自分が何も捨てられなかった事に。
 彼は感情を捨てたのではない。ただ───封印しただけだった。
 だからこそ最後まで彼は、余計な危険を犯してまで美神を生かそうとしたのだ。
 感情をただ一筋に定めたのは、悲しい事も悔しい事も全て忘れてられるからだ。
 憎悪に身を任せていれば、それ以外を余分な感情だと切り捨てた振りをしていられるからだ。
 ちっぽけな人間が、身の丈を超えた事を為そうと無理をする為に、心を純化させる必要があったから。絶望はヒトを無力にするけれど、たとえ負の感情から生じたものであろうとも、希望があれば深い闇の中に落とされてもヒトは動き続ける事が出来るのだ。
 けれど憎しみをぶつける相手を失ってしまえば、封じていた感情はこうも容易く溢れ出す。
 それは横島忠夫という人間が誰かを大切にしたいと思える証なのだ。

 ────死ねない。

 この時、初めて横島は、はっきりと思った。
 崩壊していく体に黄泉路に引き寄せられていく魂。
 彼が覚悟し、受け入れたはずの結末。
 けれど此処に来て横島はソレを拒もうと霊力を練り始める。
 空っぽの体の中から霊力を振り絞る。

 ここで自分が死んだら美神とおキヌは救われない。
 2人に泣いてなんか欲しくないのに。
 このまま死んでしまえばきっと、この人たちの心を深く傷つけてしまう。
 だから生き延びてもう一度あの日常に還る為に文珠を生成しようと、足掻いて、足掻いて、足掻いて───。

 しかし意識は白い霞に包まれたように希薄になり、右掌に集めた霊波が霧散する。 
 それが結晶を暴走させた報いであった。
 もう無理だった。
 何もかもが手遅れだった。

「そ……んな」

 重苦しい呟きが口を割る。
 アシュタロスを殺せるのなら来世すら要らぬと誓いながら走って、走り続けて。
 だが切望の果てに辿り着いた結末は、じくじくと彼の心を後悔の雨で濡らしていた。
 かつて憎悪の刃を抱いた横島は、星空の下で復讐を誓った。
 その為に数多くの物を投げ捨てて。その果てに横島の願いはこの南極の地で見事に叶う。
 その代償に死んでしまうとしても、自分の意志で選んだ道だ。
 後悔はない───ない筈だ。
 それなのに。ただ1つの目的を果たす為に全てを捧げたつもりでも、死に臨んで胸に去来するのは事務所で過ごした日々。
 そして、思い出に残り続けたいと彼の生存を願ったルシオラの言葉。
 それでも彼は死ぬ。
 美神達の祈りにも応えられず、ルシオラの願いも守れぬまま、彼は死ぬ。
 文珠は既に無くなり、美神達にはヒーリングに回す霊力も残ってない。
 どこで何を間違えたのか、何を誤ったのか、もう分からない。
 ただ今は───死んでしまうのが悔しくて堪らなかった。

「横島クン!!」

「横島さん!!」

 絶望的な悲鳴が上がる。
 横島の口から大量の血が吐き出されたのだ。
 消化器、呼吸器、内臓に傷を負った体は衰弱の一途を辿り、刻一刻と横島忠夫は死んでいく。
 それを目の前にして、さしもの美神令子にも打つ手は残されていなかった

「いや、いやよ、止めてよ!!」

 取り乱す美神の心にゆっくりと絶望感が忍び寄る。
 前世から彼女を付け狙っていた魔神は滅び、彼女は全ての柵から解放された。
 だがその代償がこんな結果なのだとしたら、美神令子は誰を怨めばいいのだろう。
 戦いを仕掛けたアシュタロスか。原因を作った前世の自分と高島か。デタントを決定した神魔の最高神達か。それとも───横島の決意に気付かなかった自分自身か。

 やがてアシュタロスが思い出させた前世の記憶が美神の中で激しく明滅する。
 高島が死んだ時の絶望感にも似た感情が、これ以上ないくらい鮮明に彼女の胸を揺さぶって。

 ────人間の体は脆い。あっさりと人間は死んでしまう。あの時の高島殿の様に。

 大切な何かを失う事への怖れに美神は我を忘れて半狂乱になっていく。

「死んじゃ嫌!お願い、死なないで!!」

 スケベで、臆病で、でも肝心な時は逃げなくて、何処に行こうと影法師みたいに後ろを追いかけてきてくれて。
 そんな当たり前に大切なものが、無くなってしまう。
 一秒ごとに強まる不吉な予感に、心が砕け散ってしまいそうになる。

「助けて!」

 美神の体が揺れて、喉が震えた。
 涙混じりの叫びが氷の大地に伝わっていく。

「助けて。お願い、ママ、先生、西条さん、冥子、エミ、誰でもいいから誰か!!
 お願い、誰か横島クンを助けて!!!」

「助けてください!
 神様……かみさまっ!!」

 その絶叫は真実の祈り。
 縋りつけば今にも壊れてしまいそうに脆く、けれど其処には無限の願いが込められて。
 その一途な祈りに神が答えたのだろうか。

 ────彼女達の目の前で、奇跡が、起きた。
 
 突然が淡く輝き始める横島の胸元。
 直後に浮かび上がってくる幾つもの小さな光り。
 微弱なそれは、けれど良く見れば確かな芯の強さを思わせる。
 その光は横島の体の周囲を舞い踊るようにゆっくりと飛行すると、やがて一箇所に集束して1つの珠を生み出した。
 数々の奇跡を起こせる魔法の珠。文珠であった。
 その表面には『蛍』の文字が浮かび上がっている。
 そして『蛍』からは優しい光が放たれて───光は淡く煌きながら静かに彼の体を包み込み、急速にその傷を癒していく。
 それは温かい愛情に満ちた救いだった。

「ホントに神様が?」

 唖然として呟くおキヌ。
 まるで計っていたかの様なタイミングで訪れた不可解な現象に、美神も同じ事を連想する。
 目の前では肉体にも幽体にも傷一つない横島の体が横たわっていた。
 だが、その癒しは神が起こした奇跡などではない。
 その証拠に、文珠から放たれた光は横島の傷を癒し終えると徐々にあるカタチへと変わっていく。

「ルシ……オ……ラ」

 横島の口からため息が漏れた。
 『蛍』の文珠から溢れた光は1人の少女の姿となる。
 見覚えのある姿に何度も感じた事のある波動。
 間違えようもなく、消滅した筈のルシオラであった。




 あの時、ルシオラは死んだ。
 それは覆しようのない事実であった。
 だがそこには、横島にも、アシュタロスにも、そしてルシオラすらも知らない真実がある。
 横島に抱かれたあの夜。

 ────ずっと一緒にいたい。

 彼女の中の祈りにも似た一途な願いが無意識に作用して、ごく僅かな彼女の霊体が粘膜の接触を通じて横島の体内へと入り込んだのだ。
 それは誰も知らない恋の欠片。
 通常ならばすぐに横島の幽体に吸収されて跡形もなく消えてしまう筈のルシオラの残滓。
 だが横島がアシュタロスをコピーした時、ルシオラの霊体は生みの親の波動を受けて活性化する。
 そしてエネルギー結晶で横島の霊体が著しく傷ついた影響で、横島の霊体から一時的に分離する。
 けれど其処には人格と言えるほど明瞭な意識はなかった。
 ごく微量の霊体に人格が残留する筈がない。

 ――――そう。美神令子と氷室キヌが祈るまでは。

 横島を想う2人の声は。
 血を吐くようなその叫びは。
 ルシオラの霊体の欠片を激しく揺るがして。
 刹那の内に劇的な変化を齎した。
 そうして生み出されたルシオラの残留意識の飛沫。
 そして目覚めた彼女は横島の状態を一瞬で把握すると、横島の霊力と彼女自身のベースとなっている霊体に残留する霊力を合わせて、文珠を創造したのである。

 それを偶然だというのなら、その通りであろう。
 しかし、或いはそれこそが、往々にして運命と呼ばれる必然なのかもしれない。
 横島忠夫のために助けを呼ぶ声が在ったからこそ────奇跡が起きたのかもしれない。
 横島忠夫のために流す涙を浴びたからこそ───美神達の祈りはルシオラの人格を呼び覚ましたのかもしれない。
 確かだと断言できるのはただ1つ。
 ルシオラが再び横島の前に姿を現して瀕死の彼を助けたという、夢物語にも似た事実。
 そして今、蒙昧とした意識の中で。

「………」

「………」

 横島とルシオラは何も言わずにただ見詰め合っていた。 
 永訣した筈の2人の再会。
 朧な夢物語にも似た最後の逢瀬。
 活性化した彼女の霊基の中の人格は、『蛍』の文珠の中に己の全てを込めていた。
 故にその文珠が消えるとき、微かに横島の体の中に残っていた彼女の証は今度こそ完全に横島の中に吸収分解されて消滅する。
 それが奇跡を起こす代償。
 それが恋に全てを捧げた彼女の選んだ道。
 だがその選択に後悔など微塵もなく。
 だから、もう二度と会えないと分かっていながらも、ルシオラの顔には微笑が浮かんでいた。

「ヨコシマ…………ありがとう。
 わた……し…………ヨコシマの……おかげで…………いま……すごく……しあ……わせ」

 途切れ途切れに言葉を紡ぎ、切なげな愁色を宿した瞳で横島を見つめながら、彼女はそっと口付ける。
 重なる口付けは想いの結晶だった。
 横島忠夫とルシオラ。
 2人は埋め難い溝に隔てられながら巡り合った。
 彼女と一緒に夕焼けを眺めた少年。
 一緒に生きようと彼女に手を差し伸べてくれた少年。
 彼女が何よりも愛しいと感じた少年。
 生きる目的が違い、生き残る為には互いを敵に回さねばならぬ定めを負いながら、彼らは短い時を共に同じ道を歩んだ。
 それは生まれて初めて、そして生涯にただ一度だけだった少女の恋。その果てがここにある。

「ヨコシマ………死なせ……ない。
 わたしが………守って……あげる」

 あの夜の様にルシオラの手が横島の髪に触れて頬を撫でる。
 顔中に広がる笑みは、咲いたばかりの花の様な艶やかで瑞々しい。
 天使の微笑であった。
 幸福と寂しさが同居したその表情を、美神令子は美しいと感じた。
 悲恋に終わった彼女の想い。
 一瞬の逢瀬、刹那の温もり、そしてたった一度の交歓と引き換えに失った彼女の未来。
 けれど今、横島を見つめる眼差しには揺ぎ無い恋慕と誇りに満ちていて。
 愛しそうに横島に触れるその仕草は優しく。
 おキヌも美神と同じく、何も言えずに立ち竦んでいた。

 突然、おキヌは今の横島の表情に既視感を覚えた。
 彼女の脳裏に南極に到着するまでの間に何度も見た情景が浮かび上がってくる。
 共鳴の訓練が終わった後、毎日の様に砕氷船の甲板に立って目を細めながら夕日を眺めていた横島の姿。
 その時の横島の顔に浮かぶのは、必ず何かを噛み締めるような哀切で、その目を満たすのは悲哀を帯びた寂寥だった。
 自分の知らない姿を見せる横島の変貌に、何故かおキヌは泣きたいくらいの感傷を覚え、けれど彼を問い質す事に恐怖する。
 そして彼女は、目前に控えた魔神との戦いを言い訳に、横島の心に触れるのをずっと躊躇い続けてきたのだ。

 だから彼女達は知らない。
 見詰め合う2人の間に何が起きたのか。

 だから彼女達は知らない。
 自分の知らぬ間に2人がどんな絆を育んだのか。

 けれど彼女達は、今になって薄っすらと解り始めていた。
 昏い光を宿していた横島の変貌の理由が、蛍の長姉の死によるものだと。
 この時初めて、おキヌと美神は横島があれだけの無茶をした理由を悟った。
 それは横島が帰ってきて以来ずっと抱え続けてきた疑念が全て解けた瞬間でもあった。

「………ふ……ぁっ」

 そんな彼女達の目の前で、蛍の精はもう一度、横島に口付けた。
 いずれ覚める泡沫の夢を噛み締めるように、長い時間をかけながら。

「これからは………ずっと……いっしょ。
 もう……はなれない………えいえんに」

 触れ合った唇が離れると甘い吐息に想いが紡がれる。
 一時の夢は現実に塗りつぶされ、再びルシオラは横島の中に吸収されて二度と表に出ることはない。
 けれど彼女の霊体の欠片は横島の魂と結びつき、時の果てるまで共に在るだろう。
 大量の霊体を与えられたある世界の横島に示された『転生』という別離の可能性もなく。
 抱き合う事も言葉を交わす事すら出来ないけれど、もはや死すら二人を別つ事はない。
 それこそがルシオラの手に入れた永遠であった。




 やがて文珠の霊圧が弱まっていき、ルシオラの姿が薄れてゆく。
 横島の顔色が青褪め、哀しみに歪む。
 そして震える手。必死になってルシオラに伸ばそうとする。
 微笑みながらその掌を握ると、最後に彼女は少しだけ恥ずかしそうに口を開いた。

「─────」

 けれどルシオラの声は届かない。
 消えかけた彼女には既に声を紡ぎだす力は残されていなかった。
 それでもその言葉は、想いと共に横島忠夫の許に辿り着く。
 たとえ声にならずとも、その言葉が伝わらぬ筈がない。
 だってそれは、この世界で太古の御世から使い古されてきた普遍にして究極の魔法なのだから。










 ────アイシテル、ヨコシマ










 そしてルシオラの姿と共に『蛍』の文珠は消えた。夏の夜に散っていく儚き蛍火の様に。
 それを見届けると、横島は口を真一文字に閉じて言葉を詰まらせ、そしてほの白い世界の中、瞼を閉ざすと静かに天を仰いだ。
 哀しそうな、けれどどこか嬉しそうな顔のまま。
 その瞳には、あの夜以来ずっと流れなかった涙が溢れていた。
















 エピローグ

 こうして叙事詩的な1000年以上に渡る魔神の反乱は終わった。
 生き残った人間達は復活した神魔の協力の下に事後処理を進めている。
 各国首脳は潜水艦の回収と点検を、世界GS本部やオカルトGメンは今回の事件の検証を。

 この戦いで中核となった美神美智恵は5年前の時間軸に帰還。その直後に今の時間軸にいた5年後の美智恵が姿を現す。
 その時の、何だかんだと文句を言いながらも嬉しそうな美神令子の姿は、彼女を良く知る友人・知人達の目にも印象的に映った。
 このようにGS達は誰一人欠ける事無く、明るさと落ち着きを取り戻しながら日常へと回帰していった。
 それはこの事件で最も深い傷を受けた横島すらも例外ではなくて。

 一方、神魔の最高神は数千年の時をかけて現在の霊的秩序を崩壊寸前にまで追い込んだアシュタロスの処刑を正式に決定。
 これによりアシュタロスの魂は、魔神に転生する事無く輪廻の螺旋の中へと消えた。
 また一連の戦いの中、人間界に大動乱を巻き起こした尖兵の内で生き残っていたベスパ、パピリオ、土偶羅にも処分が言い渡された。
 ベスパ、パピリオの両名は、寿命が一年に限定されていた事とテン・コマンドを仕掛けられていた事が考慮されて処刑を免れる。
 既に魔界に護送された彼女達は、テン・コマンドの解除と寿命の操作と引き換えに軍に入り、監視下に置かれながら一定期間魔族の利益の為に働かされる事になるだろう。
 そして人間界の或る場所に1人、神魔の上層部が決定した処分を静かに待つ者がいる。






 綺麗に清掃の行き届いた静かな部屋であった。
 六畳の程の広さで床には畳が敷かれている。
 それが土偶羅の為に用意された場所であった。
 家具などは殆ど無く、寝具と連絡用の電話が置かれているだけであったが、処分待ちの身分には十分な待遇だ。
 そんな自嘲とも感傷ともつかぬ思いに囚われながら、土偶羅はもう直ぐ迎える刑罰の実施を待っていた。
 彼に下された処分。
 それはアシュタロスが土偶羅に施したプログラムの改変である。
 素晴らしい情報処理と演算能力を持ちながら、アシュタロスに絶対服従するようにプログラムされている為に、彼を危険視する声がある。
 ならばその部分を変えてしまえばいい、と言うのが処分の建前であった。
 だが土偶羅はその裏に神魔の最高神の意志を感じていた。

「アシュ様が死ぬ事ができたのは………コスモプロセッサーの事が知られたからであろうな」

 あの装置を発動する前に斃れた主が魂の牢獄から抜け出せたと知った時、土偶羅は直感的に悟った。
 最高神はコスモプロセッサーの事を知り、それを恐れたのだと。
 きっと彼の主人は、己に死を与えた少年や人間達に感謝しながら逝ったのだろう。

 もう何千年もあの魔神に使えていた土偶羅は、それ故に最高神の他には何人も知らぬ秘密を知っていた。
 アシュタロスの真の目的が勝利ではなく魂の牢獄を抜け出すという事と、その為に用意された宇宙の理すら覆す究極の装置・コスモプロセッサーの詳細についてである。
 そしてアシュタロスが死んだ今、森羅万象を自由自在に操る事の出来るあの装置の情報を握っているのは土偶羅だけだった。
 だから最高神達は土偶羅だけが知っている秘密をさり気なく消去して抹殺してしまうつもりなのだろう。
 多分あと1時間後にジークが持って来る修正プログラムの中に、何らかの小細工を紛れ込ませる形で。

「そして修正プログラムをインストールされれば、コスモプロセッサーに関する全ての情報は消える事になるのか……ちょっと、待て!?」

 不意に瞑目していた土偶羅の目が大きく見開かれる。
 彼の脳裏にもう1人、コスモプロセッサーの存在を知る男の顔が浮かび上がってきた。

 ────コスモプロセッサーって装置で何が出来るかは知らねえが、結局あれも結晶なしじゃ動かねえんだろ。

 あの時、魔神の能力をコピーして極秘情報を探り当てた横島の叫びが去来する。
 横島はコスモプロセッサーを知っていた。
 その気になれば結晶を使って稼動させる事も出来ると理解していた。
 けれどその機能を知らぬ内に結晶を破壊して、コスモプロセッサーを稼動不可へと追いやったのだ。

「あっ!?」
 
 その刹那、ルシオラが死んだ夜から積み重なった事象が不意に突拍子もないカタチへと集束していく。
 ルシオラは遺書で語っていた。『惚れた男と結ばれて終わるのも悪くない』と。
 横島を問い詰めたベスパは言っていた。『ポチも姉さんが好きだったらしい』と。
 そして彼らの主たるアシュタロスと対峙した時、横島は決死の気迫と憎悪の果ての復讐心に取り付かれていた。
 ならば。ならば、ならば、ならば、ならば。

 ────横島に真実を教えれば、どうなる?

 もしも横島がただ生き残る為に戦っていたのなら、アシュタロスの真意を知ったところで何ともないだろう。
 しかし横島の目的が復讐だったのなら、魔神を苦しめ絶望させて殺す事が目的だったのなら───横島忠夫は、結果的に仇敵の悲願達成に手を貸して尚且つその仇敵に感謝までされた、哀れで滑稽な道化に成り下がる。
 もしも横島がルシオラの事を気にも留めていないなら、コスモプロセッサーの真実について知っても影響はないだろう。
 しかしベスパが以前に告げたように、横島がルシオラを大切に想っていたのなら───コスモプロセッサーの存在を知り、結晶を使ってそれを動かす事も機会もあった横島忠夫は、自らルシオラ復活の可能性を潰した、決して救われない愚か者に成り果てる。
 だから、あと一時間の内に自分が横島に伝えれば…………。
 もうすぐ永遠に消滅してしまうこの秘密は、ようやく光の下へ戻る事ができた横島の心を一生呪い続けるだろう。
 そうなれば横島の復讐は、横島の嘆きは、そしてこれからも続く横島の生涯は、泥塗れで薄汚いモノへと変貌する筈だ。

 自分が横島忠夫の死命を握っている事を感じた土偶羅は思わず身震いした。
 ジークが来る前に電話をかけて数十分も話せば、横島は終わる。
 傷だらけになりながら復讐を果たし、今は周囲の人間達に支えられて明るさを取り戻しつつある少年の心は、地獄に落ちる。
 主を倒して自分の夢を打ち砕いた男の命を、主を倒して主の数千年に渡る願いを叶えた男の命を、自分が握っているのだ。

 ────今ならば、ポチを殺せる!?
       わしが真実を教えるだけで、アシュ様すら倒したポチを死に追いやる事だって不可能じゃない!?

 土偶羅の胸中に湧き上がる、信じられぬほどに残酷な気持ち。
 それに突き動かされるように、彼の手が受話器に伸びた。
 受話器が持ち上がる。
 ツゥーツゥーと機械音が聞こえてくる。
 ボタンを押そうと震える指を動かそうとした時、別方向から懸念の刃が斬り込んできた。

 はたして主はそれを望むのだろうか?
 自分がこの秘密を告げる事を主の御魂は望むのだろうか?
 横島忠夫が導いたこの戦いの結末を、おそらくは喜びと共に受け入れた主が今の自分を見たら何と言うだろうか?

 その思いに気を取られて、土偶羅は追憶の川に身を浸した。
 その川を上流から下流へと下っていく間に思い出が次々に溢れ出す。 
 主の望みと叛逆。
 メフィストの裏切りと結晶の消失。
 三姉妹の誕生。
 横島との出会いから狂っていった歯車。
 そして終焉。

 やがてその心中に、横島への感謝と無念が交錯する。
 感謝は主の密かな悲願を遂げさせた事。
 無念は己の密かな願いを打ち砕いた事。

 ────それはいつからだろう。ただ忠実であれ、とプログラムされた土偶羅に意志らしきものが宿ったのは。

 彼はアシュタロスが創世し、アシュタロスが君臨する世界を見たいという望みを抱いていた。
 アシュタロスの真意を知り、その苦悩を知りながらも、己の望みを捨てきれなかった。
 その為に土偶羅は、アシュタロスの駒として歯車として身を粉にして働き続けた。
 無論、汚い事にも手を染めた。使い捨てにされたまま死ぬだろうと思いながらも、三姉妹には寿命に代わりにパワーを与えた。
 主の命令が主の心を傷つける刃となって返る事を理解しながら、それでも三姉妹を働かせ続けた。
 叶えたい望みがあったから、必要ならば誰かを踏みにじる事を命じて流血を生み出した。

 ────そして終わりの刻が来る。

 夢の終わりを告げる使者が、もう直ぐこの小さな部屋を訪れる。
 今、傍には誰もいない。
 がらんとした小部屋は、主を失って三姉妹とも離れ離れとなった土偶羅自身の現状を何よりも良く表していた。

「アシュ様……」

 喪失の悲しみが込み上げる。
 何のために戦ったのか。誰のために戦ったのか。
 それは間違いなく主の為であり、自分の為であり、その結果、辿りついた場所が此処だった。
 だから後悔なんてある筈がなかった。
 それなのに………ならば何故自分は横島に電話をかけようとしているのだろう。
 その根本に根差した素朴な疑問にぶち当たった時、ううっ、と呻くような声が彼の口から掠れて消えた。

 主が死を望んでいた。だが自分は主の居る世界が好きだった。だから多くのものを犠牲にしながら付き従ってきた。
 けれど望みは果たされることなく。
 あまつさえコスモプロセッサー開発の為に主と苦心を共にした日々の記憶は、今日限りで消し去られる。
 その結末が悔しくて。主に仕えた記憶すら定かでなくなってしまう事が悲しくて。
 だから自分は………。 

 大きく1つ嘆息すると土遇羅はゆっくりと受話器を置いた。
 心が迷いの森を彷徨った末に決断の丘へと辿り着くまでには5分ほどの時を要した。
 普段ならばあっと言う間に流れ去る短い時間が、永遠の様に感じられた。
 その果てに辿り着いた結論を胸に、震える体を抑え付けながら審判の時を待つ土偶羅は思う。

 己が主は既に亡く、人間達は脅威の去った大地の上で魔に脅える事無く日々を送る。
 それは互いに譲れぬ物を巡って戦い抜いた結果である。
 故に踏みにじる事を望んではいなかった主が、この後の及んで誰かの生を穢す事を望む筈がない。
 ここで真実を告げて何になろう。何も変わらず、何も生み出さず、ただ己のエゴが満たされるだけだ。
 それすらもジークの修正プログラムを受け入れればおそらく消えてしまうだろう。
 だから、この黒い欲望は無益だった。自己満足ですらなかった。
 ならば泡沫の夢の様に消え去るのが相応しい。

「さらばです、アシュ様」

 ぽつりと漏らした言葉に濡れていく瞳。
 目を閉じると瞼の裏に潜む闇が土偶羅を見据えている事に気付く。
 深い闇は土偶羅の決断を詰っている様でもあり、嘲っている様でもある。
 けれど彼はもう何も言わず、ドアが開かれてジークが入ってくるまで、ずっと瞑目したまま過ぎ去りし時の流れに身を置いていた。
 そうして土遇羅は誰にも告げぬまま、修正プログラムを受け入れ、アシュタロスに絡む全ての事後処理が終わりを告げたのだ。








 ────その後、しばらくして。

 人間界には以前の様に悪霊が蔓延り、GS達が奮闘する日常が訪れていた。
 その中で、以前よりも更に強い絆を手に入れた美神令子と氷室キヌと横島忠夫は充実した日々を送っている。
 彼らは街を駆け抜ける。金と名声を約束する依頼者のいる現場に向かって。
 彼らは恐れもなく嬉々としながら戦う。依頼者を悩ませる悪霊を屠る為に。
 そして依頼を終えた彼らは笑う。首尾よく報酬を手に入れ、祝杯を挙げながら幸せそうに。

 けれど横島忠夫は知らない。コスモプロセッサーについて詳しい事は何も知らない。
 アシュタロスの思考を読んだ時、成績の悪い高校生に過ぎない彼にとって、その概念は難解すぎて殆ど理解できなかったから。
 それ故に彼は知らない。コスモプロセッサーが死者すら蘇らせる力がある事を。
 アシュタロスが滅び、土遇羅が記憶を失った今、その事を知るのは神魔の最高神のみ。

 かくして横島忠夫が選んだ結末に内包された救いのない真実は消えていく。
 最高神のみが辿り着ける永久の闇の中に。
 ありえたかもしれない未来の姿を誰にも知られぬまま。
 この戦いの当事者達に都合の良い思い出だけを残して。

 だから今日も横島忠夫は生きる。
 魔神から勝ち取ったかけがえのない日常の中で。
 平和という幸せな時に身を浸し、生きる事への喜びを謳歌して。
 ただ一つの結末を受け入れて。

 これからも横島忠夫は生きていく。
 初めて己を愛してくれた少女の面影を胸に秘めながら。
 喪失の哀しみと彼女と交わした言葉を噛み締めて。
 けれど彼が叶えてしまったアシュタロスの願いを知らず。
 そして…………彼が捨て去ってしまったルシオラ復活のチャンスに気付く事もなく。



 


 ─────おまえの思い出になりたいから、部屋に行くわ。

 ただ一度の恋に命を散らした蛍の輝きは、もう二度と戻らない。












 後書き

 この話を終わりまで読んでくださった皆様、感想を綴ってくださった皆様、本当にありがとうございます。
 皆様のご声援もあり、何とか完結にこぎつける事が出来ました。
 話そのものは、原作どおりアシュタロスとルシオラしか死なない話を原作とは別の角度から展開させていく構成ですね。
 第一話の一番最後の「救われない結末」とは『チャンスはあったのにルシオラが生き返る事も転生する可能性すらもなくなった結末』という事です。
 横島達がそれを知らずに済んだために、生き残ったメインキャラ達は皮肉にも幸福に過ごしています。
 つまり、物語内は『幸せな結末』。しかしそれを外から眺めると『決して救われない結末』になる、という訳です。
 この場合、原作で彼女の復活の機会があった事や子供に転生する可能性が示された事を知っている読者の皆様だけが『何故この結末が救われないのか』が分かるという些かなメタ的な視点からの救われなさですが。
 改めて振り返ると最後の落ちは「遥かなる時を越えて」と似ていますね。ベクトルは逆ですけど。

 肝心のエピローグ部分では、この作品の横島の否定を目論みました。
 『復讐に狂った横島ではたとえ魔神に勝てたとしても、頑張って頑張って、でもルシオラの命を犠牲に勝利を掴まざるをえなかった原作の横島には様々な面で遠く及ばない』と。
 この結末では、土偶羅やベスパやパピリオにはまだ幸せになるチャンスはあるでしょうが、ルシオラだけにはそれがない。
 それもこれも横島が暴走したせいだ───と決め付けるのは残酷ですが、責任の一端は間違いなく横島にあります。
 しかも彼はそれを自覚すらしていない。それどころか逆にルシオラに命を救われてさえいます。
 その点で、この話の横島は決して原作の横島には及ばない───というのが私の見解です。
 やはり原作のバカでスケベな横島は偉大です。情けないけど格好良いです。
 原作の横島とは異なる姿を書くほど実感してしまいます。
 前作を含めてそんな横島を描けない自分が恨めしくなるほどに。

 最後に、創作とは関係のない裏話でも。
 元々この話のタイトルは「愛に全てを」をでした。
 これは歴史の影に消えていった愛憎や悲劇を描いたスクウェアのゲーム「FFT」の最終章を捩りました。
 しかし余りにもストレートすぎるので変更した結果が「儚き蛍火」です。
 読んだ後に振り返れば容易に分かりますが「ルシオラだけが救われない」という展開を示唆しています。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.061551094055176