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[5339] 日本の軌跡(腕白関白二次創作)
Name: ねぼ◆53618aa0 ID:2697ce7e
Date: 2009/03/27 04:02
――序文――



それまで外部に興味を示さず東洋の小国であり続けていた日本帝国が世界進出を開始した切っ掛けは何だったのか。


豊臣政権による天下統一がその一端であるというのは衆目の一致する所ですが、16世紀後半から始まる世界進出を、何人かの特定個人に焦点を合わせて史実の流れに沿って考察してみる事は歴史研究に新しい観点をもたらす物と思います。



まず、基本認識としておきたい事に次の四点があります。


①潜在していた日本のマンパワーは元々西欧諸国を上回っていた。

(別紙XX頁参照。16世紀末の世界各国の人口比)

②とはいえ、アジア圏においては明国、ムガル帝国と日本を上回る人口を抱えた国も幾つもあった。

③しかしそれらの所謂大国は海外進出を可能とする能力を持ちながら、様々な理由からそれを行うことは無かった。
(一番大きな理由は大陸国家であったことが大きい。)

④日本本体は国内統一したばかりであり、全体的に上り調子であった。



以上の点から見て、日本は海外進出してもおかしくない社会環境を整えていたと言えます。
しかし、してもおかしくない事と実際に進出する事には大きな違いがあります。
例えば豊臣でないもっと閉鎖的な政権であったなら、あるいは鎖国などという歴史に取り残されるような方向に国の舵を取っていたかも知れないのです。


それでは何故、日本は海外を目指すことが出来たのか?
歴史的に見て島国である日ノ本は、国内だけで纏まろうとする傾向がありました。



私たち歴史家はそこに、大きな人の意思を感じざるを得ません。
歴史はいつも人の意思によって積み上げられていくのです。






              ―――――歴史書『日本の軌跡』の序文より抜粋―――――






*この作品は原作者そる様に二次創作おっけーの認可を頂き投稿させて頂いております。


*08/12/19 文体修正および細部の加筆、分割を行いました。

*08/12/27 細部の加筆修正、文字列の位置微修正を行い、チラシの裏からその他板へ移動しました。

*09/03/18 その他板からチラシの裏に移動。2話をアップしました。

*09/03/26 1話、2話の加筆修正を行いました。

*09/03/27 チラシの裏からその他板に移動しました。



[5339] (1)日本海軍・向井正綱の世界探検
Name: ねぼ◆53618aa0 ID:2697ce7e
Date: 2009/03/26 12:45
 向井兵庫正綱(1557~1612年)は徳川水軍の軍監としてその能力を振るった人物でした。彼が歴史に大きく登場するのはその後半生においての事です。


国内統一した豊臣政府は、1599年、海外総合探査計画を発動しました。世界のどこに何があるか、世界の全てを知るための第一歩となる計画です。最終的には太平洋を日本の庭とする事が目標でした。

こういいますと軍事的な海外征服と勘違いする人がいますが、この計画はあくまで海外貿易の為の基礎調査でありました。貿易できる国がどこにあるか知らなければ商売は成立しないのです。


当時はまだ、日本海軍は文禄5年(1597年)に発足した日本国軍の一部門の日本水軍であり、組織再編の真っ最中でした。
日本国軍征夷大将軍、徳川家康の強い意向を受けて、向井正綱が遠征隊司令官に任命されます。


向井が歴史の表舞台に現れた瞬間です。



探査計画は三つに大きく分けてありました。


①太平洋航路の開発。

②樺太を含む北方航路の調査。

③現在主に南蛮貿易に使用している南洋航路の調査。


向井はまず、3つのうち最もローリスクな南洋調査に着手します。



慶長4年(1600年)
様々な調査機材と貿易のためのサンプル、学者による調査隊とそれを守る兵士を乗せて、ガレオン船4隻を中心にした20隻余りの調査船団が出航します。


海図を作りながら船団は南下していきます。
ルソン島、シャム国と立ち寄りながら航路と資源、各国内情調査を行っていきます。

イスパニア、ポルトガルとの小さな衝突があったものの、調査隊は順調に海図を広げていきました。



1603年、調査船団は赤道を越えて南亜大陸に到達しました。
南亜大陸という名称は、東亜に対応して船団の名も無い学者がつけた名前だと云われています。

未だ西欧諸国の手がほとんど入ってない南亜をルソンに続く探検拠点、ゆくゆくは貿易拠点とするべく向井は小規模の入植を開始しました。

何事にも本国から遠すぎた為、ベースキャンプとなる場所が必要だったのです。



1604年、南亜大陸を海岸線沿いに大雑把に調査(内陸部は後回し)し終えた遠征隊司令官向井は、一通りの南方調査資料をかかえて一旦日ノ本本土に帰還します。


その後南亜に残った移民団は、進入してきたオランダ船と接触します。
一時は戦争になるかと思われましたが、オランダはあっさり引き下がります。これは当時のオランダが東方貿易に力を入れており、豊臣日本の実力を知っていたから、もしくはオランダ船の司令官が日本通であったからとも云われています。

南亜への入植は平穏理に進んでいきました。



向井の南方調査成功は日本にかなりの利益をもたらしました。
この成功を受けて日本政府は編成なった海軍の全面協力の下に複数の遠征調査隊を出すことになりました。
(中でも伊達政宗公主導の北洋調査隊が有名。)


北方調査、新設された西方調査(インド、中東航路の開発)を別部隊にまかせた向井は、一番の難所、太平洋航路の調査に着手します。

まだ見ぬ北米大陸(豊臣秀次公命名。大きな大陸らしいのでゆくゆくは米が取れるようにとの事らしい)への遠征はこれまで以上に慎重に準備されました。


最新の西欧の海図、イスパニア人航海士からの情報などを総合して航路が策定されました。
天候不順が常であるアリューシャン沿いの北海ルートを避け、太平洋を真っ直ぐ横断する計画です。
貿易のためには穏やかな航路が必要だったからです。



慶長13年(1608年)、遠距離航海用に編成された少数精鋭の第2次調査船団は、無補給で半年航海できるだけの食料と資材を載せて出航します。



翌1609年、ハワイイ諸島を発見。
当時はハワイイ王国など存在せず、古代レベルの現地人が各島でバラバラに暮らしていました。

無寄航横断を覚悟していた向井は、この幸運を生かすべくここを中継点と定めて基地を設営しました。
(向井調査隊が当時に建造した倭城の遺跡がオアフ島に残されている。)

ハワイイの住民を慰撫して基地を強固なものとした後、向井は再び出航します。



同年10月、向井調査隊は北米大陸に到達しました。

だが、当時の西海岸はほとんど無人に近かったと云われています。

南亜大陸と同じように拠点を設けて小規模入植を行い(現在のムーカイ市)、数少ない先住民との貿易と内陸調査を開始します。


険しく聳え立つロッキー山脈を迂回して、南へ、南へと調査隊は進んでいきます。

やがて調査隊は、ついにイスパニアの勢力圏に接触しました。


当時北米大陸にはイスパニア、フランス、オランダ、イギリスなどの国がそれぞれ所有権を主張して植民地化を押し進めていました。

植民地の人たちは、機会あるごとに先住民を弾圧し、搾取していたのです。


向井調査隊はイスパニア圏内の先住民の要請をうけてトラブルに介入する事が多くなりました。



1611年7月、向井調査隊はイスパニア軍の攻撃を受けます。先住民の一部族扱いされたのだとイスパニア軍の記録に記されています。

大規模な軍隊との戦闘を想定していなかった調査隊は、遅延戦闘を行いながら西海岸まで後退します。

イスパニア軍は調査隊だけでなく、向井が友好を深めてきた周辺の先住民たちにもまとめて攻撃を仕掛けてきました。彼らは明らかに先住民族の追い出しか、もしくは殲滅を狙っていました。


向井は水軍大将であり内陸部での陸戦は本来不得手でしたが、誼を結んだ先住部族の協力もあってかろうじて戦線を維持、一旦は撃退することに成功します。


貿易という本来の目的から逸脱しかけている上、政治的にまずい状況に追い込まれつつある現状を見て、
向井の副官、長谷川長綱は、北米基地を放棄して一旦ハワイイまで後退し本国に状況を報告すべしと進言する。


その時向井はこう答えたという。

「誼を結んだ部族の者たちを見捨てる事は出来ない。一旦乗った船の戦さは途中で放棄してはいけないのだ」



しかし、戦いを続けるにしても本国への連絡だけはやって置かなければなりません。
失ってはならない貴重な北米資料と、非戦闘員を中心に帰還部隊が慌ただしく編成されました。



9月、帰還部隊が日ノ本本土に向けて出航します。

この後、北米向井砦でどの様な戦いが繰り広げられたのか、その資料はほとんど残されていません。



日ノ本本国で急いで編成された陸戦部隊三千を乗せて出航した大型ガレオン船6隻が、北米に到着したのが1612年3月。


向井砦は跡形も無く破壊されていました。


先住民の話によれば、向井たち残留部隊は見たことも無いほど勇敢に戦い、それゆえにイスパニア軍の集中攻撃を受けたといいます。


2月初めまで戦いは続き、最後に敵部隊を巻き込んで砦の火薬を自爆させたものと推定されています。





向井兵庫正綱、享年55歳。

水軍大将らしからぬ陸上での戦死――――――

その時彼は何を思ったのでしょうか。






現在、ムーカイ市郊外に小さな慰霊碑が立っています。
向井と誼を結んだ部族の者たちが、戦死した向井調査隊の霊を慰めるために建てたと云われています。


慰霊碑の表面にその部族の言葉でこう記されています。


「遠方より来たりし真なる友人たちに安らぎあれ」


貿易という誼を結びに来た向井は、形を変えて信頼と友情という誼を得たと云えるのではないでしょうか。







――――――(完)――――――







現時点でやれる限りの修正を完了いたしましたので、チラシの裏からその他板に移行。
初めの方は学術書のつもりで書いていたのに、後のほうは明らかにその時歴史が動いた……。
なので、序文と本編をかっちり分けました。尚、国家は日本、国土は日ノ本で統一してあります。


……ていうかどうにも腕白関白っぽくない。
時代がエンディング後だからか、主役が本編に全然出てなかった人だからか……。
でも、その後の日本の海外展開を見てみたかったんだよう。


それにしてもコレ、面白いのだろうか?
ああでもない、こうでもないと推敲を繰り返していくともうワケわかめな感じに。




(1)とか書いてますが(2)は無いです。多分。






…………と、考えてましたが、
みなさんの感想を読むうちに時間はかかるだろうけど続きを書いてみようか思い直しました。
お題は、
「水戸黄門」「忠臣蔵」「慶安事件」「平賀源内」のどれか。

多分すごい時間かかる。(資料集めたうえで日本全体のシミュレーションしなきゃなんね)






[5339] (2)天下の副将軍・北米風雲録
Name: ねぼ◆53618aa0 ID:2697ce7e
Date: 2009/03/26 12:59
松平上総介忠輝(1592~1683年)は征夷大将軍・徳川家康の六男として生まれました。


彼は幼少時からある種異能者としてのエピソードを多数残しています。
父親の家康本人にはその異能ゆえか、忌避されていましたが、近くで仕える者達にはその大器を期待されていました。
大らかで気さくで親しみ深いその性格は、天下を取った豊臣秀次公によく似ていたと云われています。


慶長13年(1608年)、忠輝16歳の時、豊臣秀次公との対面が実現します。
二人は、24年の歳の差、身分の差を越えて、二言三言言葉を交わすとたちまち親しくなったといいます。


その後、政治の表舞台から身を引いた秀次公と一緒になって、蒸気機関などの科学実験に力を入れていたそうです。


1616年に父親の家康が死去します。

北国の雄、伊達政宗が日本国軍・征夷大将軍を継ぎました。忠輝の大器を期待する一人であった正宗は、補佐役として忠輝を指名します。
いつか忠輝を征夷大将軍にする、その前段階としての副将軍であったと云われています。



この時から、後世に語り継がれる天下の副将軍、松平忠輝が誕生しました。



副将軍・忠輝は本来ならば、正宗の元で国軍の維持、運営を学んでいかなければならない立場でした。
ですが忠輝は、北米方面司令官となるとなる事を強く希望します。


1612年の向井遠征調査隊の全滅以来、日本国軍は根拠地周辺の維持だけに終始しており、上層部では現地部隊の縮小、撤退をも検討していました。
北米は遠すぎて、維持費が掛かりすぎていたのです。現地先住民との貿易も開始されていましたが、まだまだ赤字でした。
この貿易赤字を黒字に転じるためには、動力船の量産が必要になってくるのですが、それにはさらに20年の歳月が必要でした。

ともあれ、忠輝は、


「北米に行きたい。今、行かなければいけない」


と、各方面に訴えます。正宗を含む国軍上層部は初めは渋りましたが、豊臣秀次公も忠輝の北米行きに同意している事を知り、本腰を入れはじめます。
司令官補佐として切れ者として有名な本多正純を、実戦部隊指揮官として立花宗茂が同行します。
立花宗茂は秀次公に、


「北米の動向は国家300年の計に大きく影響する。忠輝を助けてやってくれ」


と説得されたと云います。

2万の兵力、10隻の戦闘用大型ガレオン船が用意されました。
これは当時の日本国海軍が出せる、最大規模の余剰・遠征兵力でした。

北米を侵略、征服するわけでもないのに、これは過剰戦力ではないかと一部の軍関係者から苦情が上がりましたが、忠輝は強行します。


彼は、これだけの戦力が必要になると、その類まれなる戦略眼で見抜いていたのだと、後世の歴史家は云います。



その時まさに、北米は風雲急を告げていたのです。




1618年、忠輝率いる北米方面軍が、北米大陸の根拠地、西ムーカイに上陸しました。

現地残留部隊と合流した忠輝は、向井の墓にお参りしたあと、早速情報収集を開始します。
忠輝はこの時のために、情報機関の主流から外れかけていた伊賀者を大挙して連れて来ていました。

これが後世においてその名を馳せる、北連国情報機関『IGA』の始まりの一歩でした。


北米大陸はとてつもなく広く、健脚の伊賀者でも情報を集めるには時間がかかります。また、言葉の問題もありました。
同行させた言語学者チームに先住民の各言語の簡易手引書を作るように命じると、忠輝は軍をいつでも動かせるように準備をさせます。

この時、忠輝は部下に命じて複数の作業を同時に進行させています。


地図の作成、防衛拠点となる倭城の築城、友好先住民との連絡・交渉……、手が空いた兵士には開墾させます。





年が明けて1619年。

北米中にばら撒いた伊賀者から、そして友好先住民から情報が続々と集まってきました。


そしてその全てが、白人諸国家による先住民の弾圧を示していたのです。
白人諸国家の勢力圏内では恐ろしいほどの速度で、先住民の数が減少しており、このまま放置したら間違いなく絶滅。

北米方面軍参謀本部は情報分析の結果を、忠輝を含む軍上層部に提示します。


立花宗茂の日記には、


「よもやここまで差し迫った事態だとは思わなかった。遠く日本においてこの状況を見抜いた忠輝殿の慧眼には感服するほかない」(現代語訳)

「増長した白人諸国家は、平和的に勧告したところで聞く耳を持たないだろう。我々、北米方面軍が、力を示す時が来たのだ」(現代語訳)


と、記されています。

忠輝は戦争準備を進めながら、実験段階ではあるが帆船を遥かに上回る高速を発揮できる動力船を用いて、日ノ本本土と連絡をとりました。一刻も早く手を打たないと数千万規模で先住民が虐殺されると、北米の状況を本国政府に上申します。

遠すぎる敵国、舞台となる土地が第三国であることもあって本国政府内でも議論が紛糾します。

ですが事情説明のために召喚された、向井調査隊の生き残り(帰還部隊)の言葉が、政府の方針を決定付けます。


「誼を結んだ先住民の方々を見捨てたら、向井司令官に会わせる顔がない。我らは人として、例え政府に止められようと、断固として北米の同胞を救出せん」


戦争の許可が下りました。


1620年、全ての戦争準備を完了した忠輝は、まず弾圧される全ての先住民に、西海岸の日本国特別保護領域に移住を勧める書簡を送ります。
日本国特別保護領域とは、西海岸一帯からロッキー山脈までの広大な地域を示しておりました。言うまでもなく、当時その範囲内には白人は居住しておらず、その権益を侵す心配はありません。

そして、イスパニア、フランス、イギリス、オランダなど各国の領事館に先住民弾圧を中止するように勧告します。


白人諸国は、当初は先住民の一部族が弄した虚言扱いしましたが、見知らぬ大軍がイスパニアの勢力圏から西海岸方面へ続く道を封鎖し、先住民達の移住が始まると事態をようやく理解します。



「インディアン共(当時の先住民はそう呼ばれていました)を破壊し搾取し虐殺するのは神に与えられた正当な権利であり、その権利を侵そうとする、東洋から来た土人を打ち払わねばならない」(イスパニア本国と領事館との間で交わされた文書の一節より抜粋)





戦争が始まりました。

まず戦争の矢面に立つのは国境を接するイスパニア軍。ほか3国はとりあえず傍観の構えをとります。


当時ロッキー山脈方面はほとんど未踏の地であり、主戦場はもっぱら北米南西部になりました。







サンディエゴ沖海戦。

アルマダの海戦で敗れて弱体化の一途を辿っていたイスパニア海軍を撃破。






アレイゾン州、チュク・ションの戦い。

イスパニア軍4万(当時マヤ文明に侵攻中だった兵力を全部かき集めて決戦に投入した)と、北米方面軍2万5千(内1万は先住民義勇兵)の戦いは最後の決戦になりました。

倭城をよく使った防衛戦と、騎兵による夜戦を組み合わせて、勝利。




イスパニア軍の主戦力は完膚なきまでに叩きのめされました。
(これによりマヤ文明の寿命がほんの少しだけ延びたと云われています。)

これで戦争は終わる。あとは先住民が白人諸国家と対等に付き合っていける様に、彼らが独立できる道筋を作っておけばいい。
忠輝ら北米方面軍上層部はそう判断します。




ですが、イスパニア軍はいまだ諦めていませんでした。



倭城内部での和平交渉の席上で、イスパニア代表が突然激昂します。

「神の意思に逆らう悪魔どもめ! 我々は悪魔には断じて屈しないぞ!」


倭城内部から一斉に武装蜂起され、忠輝ら北米軍上層部を狙って襲撃されました。
北米軍上層部さえ確保してしまえばイスパニアの勝利。彼らはそう考えたのです。


が、その時、思ってもみないことが起きました。





「うわあッ!? 天井が! 天井が落ちてくるゥウボア――!」


吊り天井で一網打尽。

「こんなこともあろうかと」

本多正純がしかけた罠が発動し、逆にイスパニア軍上層部が壊滅の憂き目にあうことになりました。





今度こそ本当に戦争(第一次北米イスパニア戦争)は終わりました。


天然の要害であるロッキー山脈を国境と定め、弾圧される先住部族の者たちを招きよせて保護する。
保護された諸部族の代表と話し合い、白人諸国家と対等の立場で付き合える国を建国する。




北米部族連合国(現在の北米連合国)の誕生です。




北連国はその後、北米大陸における先住民族の自由と生存権を守る為の戦いを白人諸国を相手に繰り広げていく事になります。
友好国、日本の支援を受けながら……。


北連国の教科書では、松平忠輝は建国の父とも評されています。
忠輝が介入しなかったら、先住民族は白人諸国家にすり潰され絶滅していた可能性が高いと、後世において分析されており、その意味でも忠輝はまさしく人々を救った英雄といえるでしょう。




建国後の忠輝は、「役割は済んだ」と言い残して日ノ本に帰国。

北米方面軍司令官の座を辞して、秀次公と科学実験の日々に戻ったといいます。


結局忠輝は生涯、副将軍のままで征夷大将軍にはなりませんでした。

忠輝が成し遂げた実績から言って、望めば確実に征夷大将軍になれたはずです。
彼はなぜ、それを望まなかったのでしょうか?


晩年に側近から聞かれた彼は、こう答えました。


「自分は英雄にはなれない事が分かったから。平凡が一番だよ」


後世の誰もが認める英雄、松平忠輝は自分を英雄とは認めていなかったのです。


しかし、彼の成し遂げた結果は、今も歴史の中で輝き続けています。

天下の副将軍、松平忠輝。その名前とその姿は小説、演劇などに幾度も取り上げられ、今尚暴れん坊副将軍として、人々に親しまれているのです。







             ――――――――(完)――――――――





後書き


読者の人の、忠輝転生者ネタを取り上げてみました。


実戦指揮官として本多忠勝出そうと思ったら家康より前に死んでいた。可児才蔵……は秀次公のそばを離れる訳がない。
消去法で立花さんに来ていただきました。歴史が変わっているから寿命も変わった事にしてもいいんですが。




――――秀次公との初対面での会話――――

「ぬるぽ!」
「がッ!」

……というのは冗談ですが、お互いに転生者であることが分かるような会話をしてました。
んでもって、忠輝は深い事はあまり考えてなくて、単にアメリカに行ってみたかっただけでした。
行って見たら先住民弾圧とか発見して、これはひどい。なんとかしなくちゃ! みたいなノリで。


「捨て童子松平忠輝」に見せかけた「宇都宮吊り天井事件」話だったりして。




*追記。フレンチ・ルイジアナの時代を間違えるというミスを読者に突っ込まれた。
資料を改めて調べ直したら修正したい部分が山ほど出てきた……。
北米状況を何度かシミュレーションし直して、とりあえず目に付いた所からちょこちょこ手を入れてみましたが、不自然になっちゃったかも。

次回はどうするか未定。


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