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[5421] イ吏い魔
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:21




 ルイズが死んだ。

 トリステイン魔法学院恒例、〝春の使い魔召喚の儀式〟に最悪のケチがついた。そもそも教師立会いのもとで行われる儀式に、滅多なことで危険などあるはずもない。誰もが滞りなく、それぞれの適性に見合った使い魔を召喚した。例外は学院随一の劣等生ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールだけだ。名門ヴァリエール家の裔ながら魔法の才能に致命的に恵まれなかった彼女は、ほとんどの生徒が召喚を終えたあとで、ようやく「サモン・サーヴァント」の呪文を成功させた。
 この時点で彼女をよく知る生徒たちは驚愕した。ルイズ。「ゼロ」のルイズ。あのコモンマジックさえ成功したためしがないド・ラ・ヴァリエールの末娘が、とうとう魔法を使った。
 やりやがった。でもなんか嫌な予感しない? 天変地異の前触れじゃないか……。
 さざなみ走る生徒たちの動揺を目線で抑え、担当教官のコルベールはどこか自分でも目前の光景を信じ切れていない様子のルイズを促した。草原をくり貫く人垣の環の中で、輝くゲートに少女の眼差しが注がれる。期待に溢れた瞳は、しかしすぐに曇ることになった。
 ゲートを通って現れたのは人間だったのだ。
 何の変哲もない少年。変わっているところといえばその格好と、ハルケギニアではあまり見かけない黒髪黒目の容貌くらいのもの。奇異ではあるが、平凡だ。わけもわからない様子で右往左往する彼は、明らかに尊い血を持つメイジではない。平民だ。
 前代未聞にして恐らく絶後であろう召喚対象。この時点で周囲の生徒達にしてみれば最高のネタだった。やっぱりあいつはルイズだ。今回もやらかしてくれた。いやあ笑った笑った。でもあれどうすんだ。え、ほんとに契約すんの? 平民と?
 ルイズ・フランソワーズも同じ思いでコルベールに儀式のやり直しを訴えた。
 コルベール先生の返答はすげもなかった。否である。「だいたいここまで何回失敗したと思ってんだ。授業押してるんだよ。次成功する保証もないし、とにかく契約したまえミス・ヴァリエール」というくらいのものだった。
 しぶしぶ、ルイズはルーンを刻むための粘膜接触を試みた。召喚された少年はされるがままである。左手にコントラクト・サーヴァントの証であるルーンが浮かび上がるのを見て、ひそかにコルベールは安堵した。こちらもひょっとすれば成功するまでちゅっちゅちゅっちゅと何度もガキどものキスシーンを見せられる羽目になったかもしれなかったのだ。男やもめの彼には酷な仕打ちである。刻印の熱に苦しみ悶える少年を見下ろすコルベールの目は平坦だ。そして事件はその直後に起きた。

 ルイズが吐血した。

 喀血かもしれない。どちらもかもしれない。実際は複雑な顔で使い魔を眺めていた彼女の鼻から一筋の血が落ちたのが先触れだったが、誰もそれに気づいていなかった。彼女自身もだ。ただのたうちまわる少年に向けて口を開いた瞬間、冗談のような量の血が飛び出して大地の草を黒く紅く染め上げた。
 はやし立てていた生徒たちの声が水を打ったように静まった。
 ルイズは跳ねて手と足を汚した血を見て、アンバランスなほどひそかに眉をひそめた。

「え? なにこれ。血?」

 そしてもう一度血を吐いた。ごぼごぼ、と口元を押さえた指の隙間からどす黒い血があふれ出す。パニックに陥る暇もなく、ルイズは白目をむいて膝を折る。がくがくと肩を震わせ、けほっ、とまた血を吐く。右手をお腹に添え、額を地面にぶつけて一言、

「痛い。いたい……」

 それが最期の言葉になった。ルイズの口は呼吸を止め、瞳は閉じられ、心臓も脈を止めた。桃色の長い髪が血だまりに沈んで薄汚れていくのを誰もが呆然と見守っていた。
 いや、一人だけ例外はいる。
 今しがたルイズにキスされた使い魔の少年である。
 彼は全身がこむら返りを起こした挙句両手の爪を順番に引き剥がされてそこに画鋲を刺された場合とトントンの痛みを味わい、はたからみるとウケを狙ってるとしか思えない面白い動きで痙攣していた。左手の甲から駆け巡る感覚たるや、彼が今まで生きてきた全ての痛みを結集してドモホルンリ○クルの抽出方式みたいにじっくり熟成してもこうはならないであろうという痛さであった。
 でも誰も見てなかった。彼の目も誰も捉えていない。そんな余裕はない。
 色を失ったコルベールはぐったりとしたルイズの体を持ち上げ、生徒たちに解散を命じるとすぐさま学院へ飛んだ。ある意味問題児とはいえルイズは栄えあるヴァリエール家の娘。彼女になにかあれば学院も沙汰なしで済むかどうかわからない。何より目の前で失われていく命を見過ごすことが、コルベールには耐え難い。彼は自分でもよくわからないほど必死になって、学院にいる水属性メイジの名手を片っ端から捕まえた。

「ミス・ヴァリエールをどうか!」

 ヴァリエール家令嬢に対する治療は総力を尽くして行われた。無駄だった。ルイズは結局息を吹き返すことなく、二時間後にオスマン学院長によって彼女の死が宣告された。後には物言わぬうら若い少女の亡骸と、公爵家に対する言い訳を考えて頭を抱える教師と、ひたすらにあたら散った命を悼むもの、そして白昼夢のような沈黙に覆われた生徒たちが残った。
 召喚された使い魔こと平賀才人は、誰からも忘れられて、いまだに草原にいた。
 痛みは峠を越えたが左手はまだじんじんと疼いている。放心状態でも痛覚はここが現実であると彼に教えている。草葉に凝固しつつある血痕を見るともなしに見ながら才人は呆然と呟く。

「どこだよここ」

 誰も答えられないし、答えるべきご主人さまはもう死んでいる。



 000 マギカ・スカパラダイス・オーケストラ 前編 000



「どうしたもんかのう」

 白髯を撫で付けて、オールド・オスマン学院長は悩ましげに呟く。マジでどうしようという心境であった。これまでに学院生徒に死者を出したためしがないわけではない。しかしトリステインでも一ニを争う大貴族の身内が血をブチ撒けて死んだなどという猟奇事件のためしは皆無だ。
 こうなると事態は公爵家と学院だけの問題に留まらない。教育態勢そのものの見直しが叫ばれる可能性は充分にある。
 貴族にとって子弟とはそれほどに重い。情云々ではなく、ただ存在するだけで家の資産なのである。もちろん相続争いの危険性を抱えた家や、また食い詰め貴族にとってはいるだけで邪魔な場合もあるし、そんな生徒だっていないことはない。だがその場合は学院としても内々に彼らの「怪死」を処理するし、何よりルイズはそうではない。彼女は成績こそ振るわなかったが、魔法以外の面ではまったく名門に相応しい子女だったのだ。

「若いモンばかり、先に逝ってしまう……なあ、モートソグニル」

 鼠の使い魔をそっと撫でて、オスマンは気分を切り替えた。感傷の時間は終わり。ここからは組織の長として現実的に行動せねばならない。

「いかがなさいますか、学院長」

 泡を食う教師陣をよそに、平静を保って指示を仰いだのはミス・ロングビル。学院長が適当に町でひっかけてきた秘書である。しかしその美しい見た目とは裏腹に胆力は意外なほどあるようで、降って湧いた生徒の死に対面しても動揺はないようだった。あるいは、完全に他人事だと割り切っているのだろう。

「そうじゃな。まずは死因じゃが。これは一応病死ってことになるのかの」
「ほかに考えられないでしょう。件の生徒は矜持が篤く、しかし実力が追いついていなかったとのことです。周囲にそうと気づかせなかっただけで、相当な心労がかさんでいたのではないでしょうか」
「ふむ。悪くはない」

 ストレス性胃炎転じて胃潰瘍高じて胃穿孔により死亡。
 というケースがハルケギニアではっきり成立しているわけではないが、悩みまくると毛が抜けたり腹にキたりするということはよく知られている。その末に血を吐いて死んだ人間も相当数いた。主に宮中に。
 とにかく、使い魔召喚の儀式自体に問題があるなどと勘ぐられてはことである。オスマンは一個の教育人であった。老いてなお青少年を育成しようという気概も志も萎えてはいない。魔法学院の縮小や、取り潰しなどという憂き目だけは絶対に避けなくてはならない。言い方は悪いが、不慮の死のひとつにトリステイン魔法学校の鼎、その軽重が問われるようなことはあってはならないのだ。オスマンは重々しく頷いた。

「では公爵家に使いを」
「すでに手配済みですわ、学院長」ロングビルは折り目正しく一礼した。

  000

 一時的混乱による静寂から回復すると、学院は怒涛のような噂話が飛び交う場所となった。学生なんて基本的に無責任で不謹慎な生き物である。とりあえずショックから友達同士で泣きまくる少女たちがいれば、青ざめた中にも興奮をたたえてあれゼッテー死んでるよだって血ィ超ドッバー出てたもんと吹聴する少年たちもいた。
『微熱』のキュルケことキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは常よりも生彩と色気を欠いた顔で寮から中庭を望む回廊を歩いている。背後をぺったんぺったんとついてくる召喚したばかりの使い魔フレイムにも目もくれず、頭の中ではワンフレーズが連続再生されていた。
 ルイズが死んだ…ルイズが死んだ……ゼロのルイズ、ヴァリエールの娘が死んだ……死んじゃった……嘘みたいだろこれ。ぺったんこな胸してるけど、死んでるんだぜ……?
 今しがた教官のコルベールにその事実を確認してきたところだった。寝台に横たわりぴくりとも動かなくなったルイズ・フランソワーズの顔さえ見た。だが人の死に慣れぬ若者がだいたいそうであるように、彼女のなかでその死はまだ処理しきれていない。

「参ったわね。ルイズ。こんな簡単に死んじゃうなんて。ヴァリエールの名折れじゃないの……」

 ツェルプストーとヴァリエールは仇敵とも言える家柄である。事実普段のキュルケとルイズは犬猿の仲でもあった。それだけに片割れが突然いなくなった衝撃は、学院の誰よりキュルケにとって重い。
 好きだったわけじゃない。
 侮っていたことも否めない。
 けれど、魔法が使えず誰からもからかわれていながら決してめげずにいたルイズを、キュルケは嫌いじゃなかった。キュルケが彼女と同じ境遇だったら、きっと魔法学院になんて来ようとも思わなかっただろう。
 魔法ない男いない胸ない。確かに嫌いじゃないけど――キュルケはぞっとする。立場入れ替わったらあたし死んじゃうかもしれない。そしてルイズは死んでいた。死因は胃らしい。あーやっぱりねという感じであった。
 そういう意味でルイズは尊敬に値する。時代とともに今ではすっかり意味が変わってしまったが、さすがはヴァリエール公爵家、貴族のなんたるかを知っているというわけだ。そんなふうにさえ思っていた。もちろんルイズの場合は、そうでもして支え棒がなければ押しつぶされてしまうという側面もあったのだろうけれど。
 長身に波打つ赤毛。豊かな乳房の谷間を強調しながらも、キュルケは切なげにため息を吐いた。願わくは、あのルイズの魂に始祖プリミルの加護のあらんことを。お願いだから化けては出ないでね。
 初春の空は蒼い。無窮の天よ天、どうしてそうまで青を誇る。キュルケは涙は流さなかったが心で哭いた。完。
 とはならなかった。キュルケは中庭でなにやら不穏な気配を察知する。
 生徒のほとんどは自習となった教室でルイズについて話すか、偶然の休講を喜んで食堂で適当に時間を潰しているはずだ。いったいなにかしら。キュルケは持ち前の好奇心を発揮して交わされる会話の方向へと歩き出す。

「あの、だからここどこですか」
「えっと、ですからトリステイン魔法学院です。貴族さまが魔法を学ばれるところで……」
「いやだからさ、そのトリステインって何? 地図で言うとどこの国?」
「地図ですか? ハルケギニアの……ごめんなさい。わたし学がなくってよくわかりません」

 男と女。すわ修羅場かとキュルケはにんまりしかける。キテレツな格好の男が、学院で何度か見かけたことのある給仕の娘に詰め寄っていた。男のほうは見ない顔ね。田舎から幼馴染を追いかけてきたってところ?
 違うようだった。メイドは困惑しており、少年はそれ以上に混乱している。雰囲気は初対面のそれだ。ついでにキュルケの経験上、少年の顔は酔って前後不覚になった次の日の朝ベッドで目覚めた妻子もち男にそっくりだった。その心境を意訳するとこうなる。
 はわわ。そして少年はまさにはわわであった。

「すみません、仕事がありますので……あの、お困りのようでしたら誰か他の方にお取次ぎしましょうか」
「いや、いい。ありがとう。……マホウ? マホウって魔法? マジかよ。そういえばさっきみんな飛んでたような、でもなんでいきなりこんなところに……いやいや夢だろこれ。ていうかまだ手いてえ!」

 そそくさと離れていくメイドをよそに少年はうろうろとあたりを歩き回り、頭を抱え、しまいにはどすんと地面に倒れこんでうがーと叫んだ。なにあれなんか面白い生き物ね。キュルケは物珍しさも手伝い接触を試みた。

「ちょっとそこなあなた。なにかお困りのようね」
「うわパンツが喋った!」

 がばっと起き上がり、少年は緊迫した顔でキュルケの姿を認める。まず彼女の胸に目が行きそれから顔を見、最後にスカートから伸びる褐色の脚を見る。
 少年は仕切りなおすように寝転んで位置を調整しはじめた。

「欲望に素直な平民ねえあなた。嫌いじゃないけど」出血大サービス精神を発揮して、顔の真横で屈んで見せる。
「うう、それでも隠そうともしないアンタに軽く礼拝したいけど今は前かがみで勘弁してください。ところで平民ってなんだ?」
「あら? あなた平民じゃないの。メイジ?」
「メイジってなんだ?」
「……」
「……」

 キュルケは思った。参ったなあコイツひょっとして頭おかしい系かしら。一応通報したほうがいいの? でも無害そうではあるのよね。さてどうしようかしら。
 敏感にその感情を読み取ったのか、少年はこほんと咳払いすると体を起こし、気持ち前傾姿勢でキュルケに向かい合う。それから質問があるんですがと低い声で切り出した。

「え、エエ。わたしに答えられることならどうゾ?」
「ここがまほー学院とかっていうのはマジ?」
「マジ」
「それはつまり何をするところ?」
「魔法学院で魔法以外の何を学ぶっていうのよ」
「人生の厳しさとか」
「それは人生の基本カリキュラムじゃない?」

 意外と生々しい人生観を持つキュルケである。

「オーケー落ち着け。まだ慌てる時間じゃない。次の質問だ。この国の名前…なんだっけ?」
「トリステイン。ちなみにわたしはゲルマニアの女よ」

 キュルケを見つめる黒い瞳にかすかに希望が宿った。

「ドイツの人か! イヒリーベディッヒ!」
「いやだからゲルマニア人だって」

 輝いた目が即座にしなびる。

「えっと、じゃあプロイセンとか神聖ローマ帝国とかそういう方向?」
「ロマリアじゃないわよ。新興だけど、まさかゲルマニアを知らないなんて言う気じゃないでしょうね。ハルケギニアでいまもっとも勢いのある国家よ?」

 少年は空笑いで答えた。とりあえずキュルケも笑った。
 少年は両手を地面について慟哭した。

「なんじゃそりゃァあああああぁッ!!」
「うるさいわね」

 耳を塞いで顔をしかめたキュルケは、少年の左手に見える青黒い痣のようなものを目に留めた。
 似たようなものをつい最近見た覚えがある。
 使い魔のルーンだ。自分のフレイムとは形状が違うが確かに似てる。
 息を詰めてキュルケは思考に没頭した。でもなんで人間にルーンが? ん。人間にルーン人間にルーン。なんだかこれも聞き覚えのあるフレーズじゃない。そういえばあの可愛そうなルイズは召喚の儀式の最中に死んでしまったのだっけ。何度も何度もサモンサーヴァントに失敗して、ようやく成功したと思ったらそれが平民で、……平民?
 今度はキュルケが叫ぶ番だった。

「あー! ああ、あなた!」
「うるせえなあ。なんだよ」

 捨て鉢な少年の襟首をつかむ。

「あなたでしょ! ルイズが召喚した平民って!」
「ルイズぅ?」

 誰それと少年は言う。キュルケは一瞬拍子抜けする。だが、すぐに思いなおした。コントラクト・サーヴァントの直後にルイズは倒れたのだ。名乗る時間があったとは思えない。

「知ってるはずよ。ちょっと色合い的にどうかなって思う桃色の長髪の女の子。胸の厚さに反比例して態度がでかくて釘宮声の娘よ!」
「あー。いたようないないような。それがなんだよ」
「なんだよって、あなたの主人でしょう? ルイズがあなたをこの魔法学院に呼んだのよ、使い魔として!」

 なにぃと少年の顔が歪んだ。

「そいつが主犯か。黒幕か。一体何が目的で人をこんな、こんな……ああわかんねーけど、こんなところに!」
「だから使い魔として使役するためにだってば」
「使い魔ってなんだよ」

 仏頂面の少年の無知に、キュルケはほとほと呆れる。弟がいたらこんな感じかしらねと思いつつ、フレイムを呼び寄せ、火竜山脈仕込みの勇壮な体を少年に示した。

「こういうのよ。この子はフレイム。本来は人間なんて使い魔になるものじゃないんだけどね。まあ、なんてったってゼロのルイズだから……」
「ななな、なんだよそいつ。燃えてないか。っていうか熱っちィ! うおお擦り寄ってくるんじゃねえ! キモい!」

 フレイムをけしかけてやると、少年は思い切りびびっていた。キュルケは暖かい目で使い魔同士の交友を見つめる。

「だからあなたも使い魔なの。……まあ、今となってはそれも過去形か。どうやらよっぽどの田舎から呼び出されちゃったみたいだけど……災難の上に無駄足だなんて、ホント散々ねあなた。言い換えるとトホホね」
「いいからこいつどけてくれよ!」
「あらゴメンなさい」

 ようやくマウントポジションから介抱された少年は疲労困憊という表情だった。そういえば会話の途中でも何度か左手のルーンをさすっていた。

「そのルーン、まだ痛むの?」
「ルーン? ああこれか。こんなのまで勝手にくっつけやがったんだな、そのルイズとかってやつ。見つけたらただじゃおかねえ」

 変ね、とキュルケは呟いた。ルーンを刻む際には確かに痛みや熱がともなうらしいが、それは一過性のものであるはずだ。フレイムも最初は暴れたが今ではすっかり大人しいものである。
 ひょっとしたらルイズが死んでしまったことに関係あるかもしれない。そうなら哀れなことだ。だがキュルケにはどうすることもできない。
 あれ、だけど……。
 不意にキュルケの胸に引っかかるものがあったが、彼女はまず少年の誤解をとくことを優先した。

「あいにくだけど、ルイズに会ってもどうにもできないわよ」

 少年は剣呑な目つきでキュルケを睨んできた。

「あ? なんでだよ。貴族だとか魔法使いとかそんなの関係ないぞ。ここ、怖くなんかないからな。こちとら日本人だ。いいか、日本国憲法には基本的人権の尊重というものがあってだなぁー」
「ニホン? 聞いたことない国ね。どっちにしろ国外じゃ法律なんてどうしようもないわよ。それにそういうことじゃないの、あたしが言ってるのは。あなたがどんなに頑張っても、ルイズをとっちめるなんてことはもうできないのよ」
「……どういう意味だ」

 キュルケはここまで来て迷う。
 真実を自分の口から彼に告げるべきか否か。
 先送りできる問題ではない。だがそれを他人に対して口にすること、それ自体が、キュルケの中で特異な意味合いを持っていた。
 だがキュルケ・フォン・ツェルプストーは即断の女。憂鬱を流し目に乗せて、戸惑う少年にもはっきりと言ってのけた。

「あなたのご主人さまはね、もう死んでしまったからよ」
「え」

 硬直する少年をよそに、キュルケの内部でようやくルイズの死が消化される。ルイズ・ラ・ヴァリエール。隣人であり宿敵であった貴女。あなたの死を経て、わたしは成長するわ。あなたのことは忘れない。たぶん三年くらい。もしかしたら一年。うーん、とにかくまあ、先週別れたベリッソンよりは覚えておくと思う。
 大人の階段上るキュルケの肩を、そのとき杖が叩く。
 振り返った先には寡黙な瞳が待っていた。

「あら。タバサじゃない」

『雪風』のタバサはこくりと頷く。属性も性格も放課後電磁クラブのS極とN極くらい離れている二人だが、だからなのかなのになのか、一度の喧嘩を経てからはしごく良い友人関係を築き上げている。

「てっきり図書室で本でも読んでいるかと思ったけど、なにか用?」

 タバサは首を傾げる。肯定でも否定でもない。あなたにではない、という意味だろう。では誰に用なのか?
 二人の視線は固まったままの少年へ向かう。タバサは彼の左手に刻まれたルーンを確認すると、改めて頷いた。

「呼んでる」

  000

 まず胸がない。そして血の気がない。脈は当然ないし、体温も今ではどんどん下がっている。そして胸がない。死顔はとても安らかとはいえない。だいたい普段、自意識を保った人間の顔というものは表情筋によってかなり維持されているものだ。そうした力の一切がなくなるとどうなるか。
 こうなる。
 生前は大した美少女だったのだろうと思わせる顔も、死ねば死人の顔になる。
 切なくも悲しい万物の摂理だ。あと胸がない。
 老いるくらいならば死にたいと、キュルケは常々思っていた。だが今ならその宗旨を改めてもいい。美しく老いる。美しい死体になる、なんて目標よりはずっと健全だ。

「彼女がルイズよ」

 まんじりともせず黙して寝台の元ルイズを見つめる少年の背に言ってやる。ぴくりと肩が震えた。
 救護室は静かだった。キュルケ、タバサ、コルベール、そして少年が、室内で生きているにもかかわらず。
 物言わぬひとつの死体が、言葉を奪う。
 死とはそれほど圧倒的だ。少なくとも日常ではそうだ。
 タバサはいつも通りであり、コルベールは沈痛ながらも哀悼以上の異変は見受けられない。
 しかしルイズの死を一度受け止めたキュルケでも、やはり見知った人間の死体を前にすれば萎縮する。少年に至っては、驚きもあるのだろうが、それ以上に途方に暮れているようにも見えた。
 それはそうでしょうね。キュルケは同情を禁じえない。死人を謗るのはどうかとも思うが、これはあまりにルイズが無責任だ。どうせ逝ってしまうのならば、使い魔など召喚しなければよかった。
 メイジと使い魔は一心同体。それは主人がしもべに対してあらゆる責任を負うことに繋がる。ゼロはやはりゼロだったのだと……少年が平民でさえなければ、苦言を呈されてもしかたない。

「君についてだが」

 沈黙を打ち破ったのはコルベールだった。少年の反応は芳しくない。彼の目を横から盗み見て、おやとキュルケは思う。ショックを受けている様子ではない。ただ焦点がどこかに行ってしまっていた。

「召喚者であるミス・ヴァリエールが鬼籍に入った以上、平民とはいえ一個の人間である君を拘束する必要はなくなった。君にしてみればとんだ迷惑だったろうが、故郷までの路銀くらいは用意できると思う。無論、返す必要はない」

 そんなところだろう。妥当な処置だ。とりあえず学院に彼を置いておくという選択肢はない。キュルケでもそう判断する。
 何しろタイミングがまずい。コントラクト・サーヴァントの直後にルイズは死んだのだ。これでは使い魔がなにかして、それを学院が隠しているのだと勘ぐられてもしようがない。
 結果的に、ルイズのサモン・サーヴァントは成功せず、急病で彼女は身まかった。ここにいる平民は『偶然』迷い込んだだけ。カバーストーリーとしてはそんなところだろう。人間を召喚した前例がないのだから、ある意味現実よりももっともらしい。そしてそう仕立てることで、学院は痛くもないハラを公爵家に探られずに済む。
 何しろ『ゼロ』のルイズは高名だ。ラ・ヴァリエールの瑕疵とまで言われた娘なのだから、彼女が心痛を病み憤死したといっても、自殺を勘ぐりこそすれ使い魔の存在を疑う者はいまい。素性の知れない平民をかばうというわけでもないが、余計な波風を立てないというのが、学院の方針なのだ。

「政治」

 タバサが呟く。

「しょうがないわよ。死人に口はないもの」
「不謹慎だが、まあそういうことだ」

 コルベールも重々しく頷いた。
 本来、平民とは在住する領地に帰属する。いわば領主の資産だ。それを勝手に持ち出すと、いろいろと弊害が生じる。現実の日本でも、農民が勝手に土地を捨てて流民となることは基本的に認められていなかった。それは西洋でも同じだ。封建制においての大原則に反するからである。
 領地とは税金で運営される。私兵、裁判、普請、社交、道楽。貴族も暇ではない。それを回すのが領民から回収する税なのだ。
「なんか住みにくいし」という理由で離散されては、制度自体が立ち行かなくなる。
 そうした基本事項を押しのけるとすれば、ヴァリエール公爵家の人間であるルイズの専属、という形式に則った場合のみだ。変則的に召し上げられるようなもので、これならばカドも立たない。
 けれどそれも、少年がトリステイン、ないし歩いて帰れる範囲の住民だった場合である。
 勘だが、恐らく少年が地力で故郷に帰ることは難しい。キュルケはそう考えている。使い魔やメイジのことさえ危うげな知識程度しか持っていなかったのだ。恐らく地図も読めまい。自分の村さえ、『村』だということ以上の情報は持っていない可能性もある。必要ないことは知らない。人間はそれで充分生きていけるのだ。
 これは特に戦乱期の欧州でよく見られた事例である。三十年戦争を生きたグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』の主人公などは、まさにそんな人生の体現者だ。彼、ジムプリチウスは『阿呆』という意味だが、物語の冒頭で彼はまさしくただのアホであった。羊飼いが世界でもっとも尊い仕事だと信じ込み、父と自分とが暮らす領域が世界のすべてだと思っていた。傭兵に家を荒らされ自身も連れ去られるまでそう信じていたのだ。
 そしてここハルケギニアの平民のアベレージも、それよりいささか高い程度にすぎない。
 信仰と労働。
 あとは日々の糧。
 それで十二分。
 政を敷くものは、被支配者に余計な知恵をつけさせてはいけない。生かさず殺さず、それでいて厚遇していると思わせる。トリステインの貴族はそのあたりが最高に下手くそだ。だから今じゃ小国なんぞと蔑まれてガリアにゲルマニアにと、及び腰の外交を強いられるはめになっているのだ。
 少年もその例には漏れないはずだ。だから、学院から適当に追い出されたあとは、どこかで職にありつくか、もしくは野垂れ死にが関の山。今日びそんな人間は貴族にさえいる。そして誰もがゼロのルイズの召喚した使い魔のことなど忘れてしまうだろう。

「ともかく、学院に残る必要はない。折を見て、といってもあまりゆっくりとはしていられないだろうが、帰途につきたまえ。……済まなかったね、君、名前は? わたしはコルベールという。この学院で教師をしているものだ」

 平民に対して腰の低い貴族もあったものだ。やや白けた目でキュルケはコルベールを見つめた。
 少年は乾いた目をルイズの死体から引き剥がし、コルベールを見返した。

「ヒラガサイト」

  000

「参ったなぁ」

 窓越しの月を見て、才人がしんみりと漏らす。

「月が二つあるんだもんなぁ」
「あなたの田舎では三つだったとでもいうの?」
「そんなわけねーだろ」

 忍び笑いのキュルケに半眼を送ろうとして、その首が強張る。初心な反応だ。キュルケは笑みを深めた。

「だいたい、なんで俺、ここにいるんだ?」
「ほかに泊まるアテがあるんだったらそっち行ってもいいけど?」
「ないってわかってていってるだろ」

 憮然として才人。堪えきれずにキュルケは吹き出した。
 場所はキュルケの私室である。位置は故人となったルイズの部屋の真向かいにあたる。なぜ救護室の帰りに才人を招いたのかといえば、単に気が向いたからとしか言いようがない。今のところ彼に魅力は感じていないが、見知ったのも何かの縁。さすがにあの場に放り出すのは気が進まなかった。
 まあこれから辛い目にあうんでしょうけど、わたしと同じ部屋で一晩過ごせるんだもの。それで帳消しじゃない? ルイズのことを胸に反比例して高慢ちきだとか評しながら、キュルケも割りと大概な女だった。べつに貴族全般がこんな性格なわけではない。むしろ女性は控えめなものだ。あくが強い女は結婚相手に不自由するからである。ゲルマニアの気風というものもあるが、なんだかんだいって故ヴァリエール嬢とツェルプストー嬢は相通じるところがあった。
 先ほどからこちらを見ようとしない才人に、キュルケは笑いかける。

「ねえサイト?」
「あんだよ」
「そんなに空が面白いかしら」
「わりと」
「あなたの故郷には月がないから?」
「ないとはいってねー」

 首が振り向きかけ、また戻る。ランプの明かりの元でも、上気した耳が見える。キュルケは微笑を崩さず香に火を灯した。

「不安なら不安って言えばいいじゃない。あなた、帰り道わからないんでしょ」
「言えるかよ。だいたい、だからってどうしようもないし」
「そんなに遠いってこともないと思うのよね。言葉だって通じてるし。トリステイン語圏よ。訛りもあまりないみたい」
「そこなんだよな……」

 わからんとぼやく声が聞こえる。ベッドに身を埋めて、キュルケは目を伏せた。

「本当はあなたをここに置いたのには理由があるのよ」
「ふーん」
「ルイズのことを話そうかと思ってね。わたしたち、どちらかというと仲は悪かったけど、たぶん学院じゃ一番あの娘とよく話してたから」
「ルイズって、あの死んだ子だろ」
「ええ。胸のない子だったわ」
「おまえも遠慮ないね。だいたい、そんなの聞いたって、俺にどうしろっていうんだよ。そいつは死んで、俺はほったらかし。おまけに明日からの行き場所もないときた。なんなんだよ、本当……」
「無礼な平民だこと」

 月光。星明り。窓際でそれらに照らされる才人は、身の置き場もなく、はかない。少しだけキュルケの胸が切なくなる。そのつもりはなかったが、まあ、思い出作りに協力するくらいは構わないかもしれない。そんなことを思う。

「俺は平民じゃねー。貴族でもないけど」
「よほど暢気な田舎だったのねえ」

 くっと、鼻で笑うような音がキュルケの耳に届いた。才人のものだ。おかしくもないのに無理やり笑って見せた。そんな自嘲的な笑いを唇に張り付かせている。

「この国でいちばんの街より、百倍は大きくて狭い田舎だけどな」
「なにそれ。謎かけ? それに貴族がいなかったって、よくそんなところであんたみたいな子が生きてこれたわね。見たところそんなに痩せてもいないし、意外といい体してるわ」
「この国で一番偉いのは誰だ?」

 不意に、才人はそんな質問をしてきた。さて。キュルケは考えてみる。どうやら積極的に話をする気になったらしい。

「今はいないけど、国王でしょうね。わたしの国では皇帝。ロマリアでは教皇。生きていなくてもいいなら、始祖プリミルだわ。もしかしたら、強力なエルフだって言う慮外者もいるかしら」
「じゃあ、一番偉くないのは?」
「……やっぱり、平民かしら。いや、漂白の民かも」
「俺の世界にはそういうの、ないんだ。いや、あるかもしれないけど。ほとんどの人が気づかないくらい複雑で、難しく混みあってる。ごちゃまぜで、とりとめなくて、そもそもがわかりにくい」
「聞いてるとなんだか面白そうね」
「面白くはねえよ。俺はそれが普通だったんだもん」

 会話する内にわかることがあった。
 キュルケは才人を典型的なもの知らずの少年だと思っていたが、それは違う。少なくとも政治に関してかなり高度の認識を持っている。「社会」という概念を理解しているのがその証拠だ。
 才人には教養があり、共同体の形態にも知識がある。
 キュルケはぼけっと夜に向かい合う少年に俄然興味が湧いてきた。

「ねえサイト。ここに残ったら? ほとぼりが冷めるまで隠れていて、あとで学院長に頼み込めば、使用人としてなら置いてもらえるかも」
「はあ? なんでだよ」
「平民も貴族も、働かなきゃ生きていけないのよ」
「……そうだな。それは知ってる」
「何なら、わたしの実家を紹介してあげてもいいけどね。意外と使えそうだし」

 望外の誘いといえた。キュルケ・アウグスタ・フレデリカがこうまで言っている。分際をわきまえた平民なら一も二もなく飛びつくべきだ。
 だが、才人は静かに首を振った。

「それで、使い走りとして生きろってのか」
「ルイズが生きていたら、否応なくそうなっていたのよ。どれほどの違いもないわよ」
「でも、そいつは死んだ。なら俺はまだ奴隷じゃない」

 キュルケは冷たく目を細めた。分からず屋ね。やっぱりバカだわ、こいつ。

「奴隷の幸福を知らないの?」
「押し着せられた幸せだろ。それは幸福って呼ばれてるだけのニセモンだ。俺はだまされねー」
「――サイト。あなたってルイズに似てるわ」

 ため息とともに、キュルケはある事実を認めた。ねえルイズ。あんたの使い魔、きっと「当たり」だったのよ。だってあんたにそっくりだもの。なんで死んでしまったの?
 いつの間にか目を閉じて身を丸めていた才人は、キュルケが与えた毛布にくるまれている。まだ眠ってはいない。静まった表情は、何かしらの覚悟を感じさせる。
 眠る前にキュルケは問いかける。

「あなたどこから来たの?」

 才人は憂鬱そうに答えた。「月より遠い」
 キュルケは笑った。

「なら、帰ったらルイズと会うかもね」
「手がいてえ」と才人がぼやいた。

  000

 ……しくしく……くすん。ぐず、うぅ、どうしてぇ……

 深夜、眠りについていたキュルケはすすり泣く声を聴く。布団の中で目覚めた彼女は、まどろみ半分に、あららとほくそえんだ。サイトったら泣いてるの。まあ無理もないわね。でも強がっていたくせに、ちょっと可愛いじゃない。どれ、このわたしの微熱で慰めてあげようかしら。すすす、と態勢を入れ替え、ベッドの下で横たわる才人の寝顔にたどりつく。

「あれ?」

 少年は大口をあけて眠っていた。
 まったくのんきな表情である。一瞬大物かと勘違いしそうになるほどだ。
 しかし、泣き声は続いている。

「アレ?」

 しかも、耳を澄ますとわかる。
 この泣き声は、女の子のものだ。
 しかもどこかで聞き覚えがあるような。
 キュルケの微熱が一気に冷えた。
 毛布を被り、枕に顔を押さえつける。目をぎゅうっと閉じて、なかば悲鳴のように叫んだ。

「だだ、だから化けて出ないでっていったのに!」

  000

 やはり同じ夜のことである。ケティ・ド・ラ・ロッタ、字は「燠火」。魔法学院一年生の彼女は、見てしまった。
 幽霊ではない。入学したばかりの彼女に色々と優しくしてくれた上級生、ギーシュ・ド・グラモンが、別の女生徒と逢引するシーンをである。それは以下のようなものだった。
 望楼のふもと。入浴後のひととき。かたらう少年少女は、その場をよく選ぶ。
 通りすがったケティは、ギーシュの姿を見つけた。声をかけようと思った。だが止めざるを得なかった。
 彼の隣には、巻き毛の女子が既にいたのだ。不安げに、心細げに、ギーシュに寄り添う上級生。
 ケティは息を呑んだ。

 ねえギーシュ。ルイズが死んでしまったのよ。わたしたち、あまり仲良くはなかったけれど、でもあんなに血を吐いて死んでしまうなんて……ひどいわ。悪い子じゃなかったのよ。
 ああ、モンモランシー。君が泣いているとぼくまで悲しくなる。けれどその涙もまた美しい。月さえけぶる。星さえおののく。ぼくの指は君の涙をぬぐうためにあるというのに、その涙が美しすぎてそれをためらってしまうんだ。まるで宝石のようだよ、モンモランシー。ルイズのことは、残念だった。けれどそれでも愛し合っていかなくてはならない。それがぼくらの、生きるものの務めだ。

 それ以上聞いていられず、走って部屋に取って返し、ベッドにダイブした。
 ショックだった。
 それ以上に屈辱だった。
 女性が浮気を嫌うのは、普通独占欲からではない。独占欲から男をいちびる女というのは、実はとても情が深いのである。大抵は浮気をされた瞬間ナニかが冷める。そのさいの感情たるや、化学変化にも等しい。浮気してもまだ見切りがつけられないパターンには、ほかに「今さら探すのはちょっと」というものもある。これは色々末期なので割愛するが。
 それなのになぜ激怒するのか。
 それはメンツを傷つけられたためである。
 自尊心、と言い換えてもよい。
 あの女に負けたー、とか、よりによってあの女に寝取られたー、とか、あたしあんなのより下なの? 違うでしょ!?的な思いが湧いて湧いて止まらなくなるのだ。
 だから浮気を嫌う。ふられるのも嫌う。それをされくらいならこっちからやってやるぜ、などと考えることさえ普通にある。
 いわゆる見た目がいい女に狭量が多いのは、それが許される環境で育つためだ。かわいいかわいいと当たり前のように賞賛を受けて育つと軽いジャブでもてんぱったりする。
 あの娘に比べるとちょっと、な女性が恋の鞘当に往々にして勝利するのは、彼女が前者よりはいくらか広い懐を持っているためだ。男のほうも負い目を感じずに済む。優越感さえ抱ける。万々歳だ。
 結果、美人があぶれるという不可思議な事態が生じるのである。
 それはともかく、ケティは美少女である。正直自分でもいけてると思っている。あの巻き毛の上級生も綺麗ではあったが、彼女が素直に負けを認めるほどではない。
 舐められたら終わり。それが女の渡世だ。
 ケティもその例外に漏れなかった。これはまだギーシュとの付き合いが浅いせいもある。
 そうだ、みんな言っていたではないか。ミス・ロッタ、あのかたはちょっと…どうかと思います。ねえケティ、あの先輩と最近親しいみたいだけど…。うわー、そういう趣味だったんだ。などなど。
 だがケティは取り合わなかった。不慣れな自分に優しく接してくれたギーシュの誠意を疑うことなど、箱入りの彼女には到底できない。
 愚かだった、わたし。
 ケティは泣き濡れた。漢泣きだった。
 きっとみんな知っていたんだわ。わたくしがもてあそばれていること。それで陰で笑っていたのよ。ああなんてこと。明日からもう授業になんて出られない。どんな顔をして生きていけばいいの? 枕を噛んでいたら中の羽毛が飛び出してきたがそれでもケティは歯軋りをやめない。彼女の癖だった。ぎぎぎ……悔しい……でも……! (怒りを)感じちゃう! 
 どったんばったんとベッドの上で暴れる。昨日までの自分はなんてバカだったんだろう。クッキーなんか作っちゃって。それをあんなひとに渡して勝手に舞い上がっていた。なによ、ギーシュさまなんて、ひょろいし、なよいし、ぶっちゃけドットだし、家柄はいいけど、でも貧乏って話じゃない。
 だがしかし、ケティはそんなギーシュにお熱だったのだ。
 痛烈な恥辱が彼女の体の中で荒れ狂う。とりあえず一発お見舞いしてやらねばなるまい。そのあと、そのあとは……。
 考えたくなかった。ほら見ろと、学友たちは自分を指差して笑うに違いないのだ。
 過去を抹消したい。タイムマシンほしい。助けてドラえもん。このさいキテレツでもいいから。どうでもいいけどキテレツとかブタゴリラとかひどいあだ名だと思うわ。いじめじゃないかしらどう考えても。わたくしだったらもっと典雅なあだ名がいいわ。そう、たとえばハローケティ。体重をりんご換算してしまうような、そんな奥ゆかしさが必要だわ。(甲高い声で)こんにちは! わたしケティ! 心の広さは東京ドーム七個分! 好物はモルヒネ。夢を売る商売だからよー。
 ちょうどその時隣室の女生徒が騒がしいケティの部屋を叩こうとして、その一人芝居を聞いてノックを取りやめていた。
 かように彼女の精神はもういっぱいいっぱいだった。
 目じりに涙をためて、ケティは始祖プリミルに祈った。どうかどうか、この事実を知るものたちをわたくしから遠ざけてください。いっそのこともうこんな学院なくしちゃってください。ギーシュさまもろともどっかにふっ飛ばしちゃってください。お願いします。けっこう本気ですわたし。

 結論から言うと、この願い。
 十五時間後に叶う。
 トリステイン魔法学院最後の一日が始まる。











 ―――

※作者のミスで、掲示板を移転させたと思ったら、削除していました。
※感想欄にいただいたコメントには目を通しましたが、もろともに消去してしまい大変申し訳ありません。



[5421] 吏い魔
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:22
 000 マギカ・スカパラダイス・オーケストラ 後編 000




 恐るべき怪現象に悩まされ朝方まで眠れぬ夜を過ごしたキュルケ。反して間借り人の才人はたっぷり寝たが、どちらもが起きて一番最初にしたことは大きなため息だった。爽やかな朝に似つかわしくない開幕である。

「おはようサイト。朝から不景気ね」
「おまえこそな……やっぱり夢じゃなかったか」

 諦め混じりに立ち上がると、平民はごきりごきりと関節を鳴らして無礼にも大口開けて欠伸する。キュルケは淑女らしく口元を覆う。その目が一瞬才人の体の真ん中あたりでとまった。
 鼻で笑う。

「朝だからってちょっとは隠しなさい。レディの前よ」
「はあ?……あ、ばっ、バカ! 何見てるんだよエッチ!」

 才人は赤面して毛布で体の前を隠す。普通に気持ち悪い反応であった。

「うう、なあ、トイレどこだよ」
「そんなものは存在しないわ」

 突如として能面のような顔で、キュルケは言い切った。才人は当惑して眉根を寄せる。

「意地悪するなよ。おまえだってここで漏らされたら困るだろ」
「そんなものは存在しないわ」

 旅立ちの町にいる住人Aのように頑ななキュルケである。ファンタジー世界の住人は食べても決して出したりしないのだ。特に女性はそうなのだ。これは夢を守るための戦いだった。
 もちろん現実的にそんなわけはないのでキュルケの部屋にはちゃんと処理のための道具がある。ハルケギニアで個人用トイレといえばこれ。
 おまるである。
 総銀製の高級品であった。

「うおお……」

 暗に示されたオブジェクトに才人は戦慄し、一時は青少年としての誇りのため使用を拒否しようとまで考える。しかし結局背に腹は変えられず、こそこそとまたがる羽目になるのであった。
 無言の空間に放尿のSEがつづく。

「なんか喋れよ! 聞耳立てるなよ!」
「照れなくたっていいじゃない」

 排泄と衛生観念については現代でこそ一緒くたにされているが、時代や文化によってはかなりずれが生じる。その危険性は今でこそつまびらかだが、一説によれば過去には排泄物を温床にして増えまくる病原菌が都市どころか文明を滅ぼすことさえあったという。河の上流に汚物ぶち込みまくってたら下流の村が疫病で地図から消えるなんてことも日常茶飯事だった。
 しかし病気の原因と放置されたブツがイコールで繋がるまでにさえ相当の犠牲が払われたのである。無理からぬことであった。
 といっても古くは中国、篭城戦をしかけた敵に対して化学兵器としてブツや死体を敵の陣地に投げ込んで伝染病の発生をあおった例もある。水源や井戸に汚物をぶちこんで使えないようにしてしまうのも常套手段である。そのあたりからして、菌といった具体的な存在には気づかずとも、「放っておいたらマズイことになる」という程度の認識はあったのだ。これは東洋では比較的衛生に関する意識が高かったことにも関係があるのかもしれない。特に史上に名高きパックス・トクガワのエドなどは当時では世界有数の大都市であり稀に見る清潔な都市でもあった。
 それでもなお西洋文化における排泄に関する意識はなかなか変化しなかった。ひとつにその筋では文字通りかなり進んだ価値観を持っていた西ローマ帝国が綺麗さっぱり衰退してしまったせいもある。
 もうひとつが、実はキリスト教の存在だ。信仰とは基本的にマゾヒスティックなものである。あと、支配者的にもそうしておいた都合がよい。というわけで質素で粗末であることが美徳とされた価値観が中世では横行していたのだが、これに加えて「身奇麗にするのはぜいたくなことだ」という観念も広く人口に膾炙していた。
 これがまずかった。
 というか、臭かった。
 一応「トイレは個人的にネ」という旨の教えもあるにはある。だがそれはあくまで羞恥、意識に関する問題である。実際的に街路や河川にぶちまけられたモノをどうにかしてくれるわけではない。だって汚いし、汚れ仕事を進んでやるような奇特な人は今も昔も少数派だった。
 そういうわけで比較的最近まで糞尿は街の景観の一部であったのだ。人とスカトロジーとは切っても切り離せない関係なのである。
 ハルケギニアの下事情に戻る。
 これはなかなか由々しき問題である。魔法学院には浴場などもあることから、そのあたりの文化は日本に近いのかもしれない。だが基本路線はやはりヨーロッパ中世的ファンタジーなのだ。キュルケもタバサも日常会話の行間で垂れ流しというケースも否定しきれない。
 だからといって断定するのは早計に過ぎる。この世界で価値観の基底となっているのはいわばプリミル教。メイジ中心主義的な思想が根元にあるのだ。だから彼女たちはちゃんとトイレ対策をしていることにする。
 その折衷案がおまるである。
 もちろんメイジが総出でかかれば下水の整備なんかすぐさま終わる。だが上水道に汲み水を使っている現状ではそこまで発達した文明は望めない。というよりも、メイジの精神力をタネ銭にする魔法は長期的な運用に絶望的に向かないのだ。上下水道の配備はある程度以上オートメーション化が必須の技術だから、中途半端に便利な魔法が存在するこの世界ではあまり発達していない。
 だからおまるの中身は寮や学院の要所に設けられたダストシュートによって地下に放り込まれることになっている。
 かといって、そのまま放置したらパンドラの箱となるのは明らかだ。よって水属性と土属性のメイジは教員学生問わず持ち回りで大量の汚物の処理をせねばならないのだった。
 こういうヨゴレ仕事こそ平民の仕事のはずだが、いかんせん平民には魔法が使えない。魔法が使えない汚物処理は甚だ非効率である。
 具体的にどうするのかというと、まず天上から降ってきて堆積した夢いっぱいのそれらを、水のメイジが凍らせることから始める。彼ら彼女らは擬似的になら水洗トイレの再現だってできる。そのくらいはお手の物である。
 あとは氷結させたそれらをこっそり外部に持ち出し、土属性のメイジが一致団結して掘った穴に投擲。さらに埋めておしまい。
 この問題に関しては取り分け女性陣が絶対に(自分たちのぶんは)男性陣にはやらせたがらないので、今のところ男女別の作業だ。不経済だがこれも人のサガであった。
 トリステインスカトロジー史においてこの合理的な処理メソッドに至るまでは様々な紆余曲折があった。長い歴史の末、人口増加による糞尿の悪臭悪景観が無視できなくなってきたころ、メイジが最初に取った対応策は現代の先駆けともいえる「糞尿の燃料利用」であった。
 要は火のメイジが集めた汚物を燃やすだけのことだった。
 好奇心豊かな人には心当たりがあるだろう。
 うんこは燃やすと煙がすげえ出る。
「狼煙」という言葉がある。その語源は狼の糞を燃やすと黒煙が真直ぐと高く上がることにある。その特性が、通信網が未発達だった時代には信号として用いられた。
 あといわずもがな、燃やすと死ぬほど臭う。ギリギリ公害レベルである。
 結果、もちろんとんでもないことになった。
 そのときの事実を記してあるという、トリステイン宮中史書にはこんな一節がある。

『霜降りし月紅蓮の火が人の業を焼き払い、天隠さぬばかりの暗雲出でたり。これ始祖の怒りとぞ余人言いけり。我ら大地に伏してただ許しを乞うばかりなり。神威を治めんとして数多霊草霊香の類焼奉す』

 何があったかはニュアンスで感じ取ってほしい。
 それほど容易ならざる相手だということだ。
 伏線終わり。
 謎の悪寒に身震いして、キュルケがうんざりした顔で提案した。

「とりあえず、顔洗いにいきましょ」
「賛成」

  000

「だから、あなた本当に聞こえなかったの? 昨日の夜ずっと誰かが泣いてたんだってば」
「だーかーらー、そんなこと言ってびびらせようったって無駄だってーの。魔法があるから幽霊もいるだなんて信じると思ったら大間違いだかんな」
「わたしだって幽霊の声なんて始めて聞いたわよ! あらタバサおはよう。なんでそんな逃げるようにどこかへ行こうとしてるの」
「急用」
「寝巻きのまま急用もないでしょう。ちょっと聞いていきなさいよ、あのね、昨日の夜……」

 太陽が黄色い。
 そしてなぜ朝っぱらから男が女子寮にいる。
 ケティ・ド・ラ・ロッタは少しならず不快であった。
 昨夜の件についてはとりあえずもういい。いやよくはないが、心の整理はついた。泣いて暴れて眠ったら、乙女は大抵の出来事を乗り越えられるものである。
 それでもまぶたは腫れぼったいし、すっきり爽やかな目覚めとはいいがたかった。そんな矢先に持ち前のボディをぶいぶいいわせて男を侍らせるキュルケ・フォン・ツェルプストーが、いかにも「睡眠不足でござい」という眠たげな顔で男といれば、彼女のささくれ立つ気持ちもいや増そうというものだった。
 なんて世界は無情なのだろう。昨日自分が失意に溺れていたまさにそのとき、シーツの海で溺れる男女が身近にいたというのだ。ケティはやさぐれた気分の命ずるまま淑女らしからぬ仕草で地面を蹴った。

「いたっ」

 柔皮のブーツのつま先が何かに当たる。つんと指を抜ける痛みに、ケティはひどく憤った。路傍の石ころまでもが自分を馬鹿にしているように思えたのだ。
 だが蹴ったのは石ではなかった。もっと大ぶりで、きらきらしている。なにかしら。眉間に似合わない皺を寄せたまま、地面に転がっている銀色の物体を拾い上げる。
 妙につるつるとした手触りのそれは、やはり石には見えない。かといって金属でもない。知的好奇心の旺盛なケティは、寸前の怒りも忘れ物体を四方八方から観察した。よく見るとそれは折りたたみ式の板のようであった。中心に軸が通されており、そこから板を開閉して二つ折りできるようになっている。そこからすると収納性が求められる道具のようだ。中身を見てケティは今度こそ驚いた。

「絵? わあ……」

 見たこともないほど細かくて精緻な絵が、開いた盤面の上半分に描かれている。下半分はチェスボードのような升目で区切られており、何のための道具かなどさっぱり検討もつかない代物であった。 
 誰かの落し物かしら。なら届けなきゃいけないんだろうけど……。
 ちょうどそのとき、先ほど水場を離れたはずのツェルプストーの連れの男が戻ってきた。意味もなく緊張状態になって、ケティは空々しく彼から距離を取る。よく見るとその少年は妙な格好をしていた。立ち居振る舞いにも気品といったものが感じられない。そもそもローブを着ていないのだ。いやだわ、まさか平民なのかしら……。
 ケティの心にツェルプストーに対する軽蔑にも似た思いが生まれた。恋多き生き様には憧れないでもないが、相手が平民となれば別だ。ケティは実家でおひいさんをしていたころから、父に耳にタコができるほど平民のずるさを聞かされていたのだった。いわく、彼らは隙あらば仕事をさぼることばかり考える。教養はないくせに悪知恵ばかり頭が回る。とにかくどうにかして他人を貶め、自分が楽をするかしか考えていない。
 そうこうしている内に少年はきょろきょろと視線をさまよわせて、ついにケティに近づいてきた。
 あまつさえ声までかけてきた。

「あのう」
「ひぎぃ!」
「いやひぎぃって」

 思わず変な悲鳴をあげたケティを、少年は苦笑して見つめた。ケティは精一杯の虚勢を張って堂々と彼に応対する。

「ななな、なんでしょう? わたくしに、ななにかごよう?」
「ああ、うん。このへんでさ、俺の携帯見なかった?」
「ケイタイ?」なにそれ。

 少年、しまったという顔で、

「えーと、このくらいの大きさで、ちょっと見光ってて、中を開くと映像……絵が見える機械、じゃなくて、道具、なんだけど。俺のなんだ。このへんで落としたと思うんだけど」

 知っている。それなら知っている。
 今まさに手の中にあるではないか。
 なんだ、とケティは思った。この少年のものだったのか。ならば返してあげればよい。それで終わりだ。
 しかし、

「知りませんわ、そんなの」

 ケティは答えていた。台詞を終えてから、あれ、と自分で訝った。なんでこんなことを言っているのだろう。これじゃあ、まるで、いやしい盗人ではないか。
 そっか、と少年は頷き、笑った。

「ありがとう。変なこと聞いてごめんな」

 横柄な態度ではあるが、謝りさえして、もと来た道を戻っていく。
 ケティは何も言えずその背を見送った。まだ間に合う。いま言えばわたしはどろぼうじゃない。何食わぬ顔で、たった今見つけましたの、そう言って彼に渡せば、誇りは守られる。こんなつまらないものを盗むなんて貴族の名折れだ。
 しかし、ついに声は出せなかった。ケティは胸に大きなしこりができるのを感じた。いつか、両親におねしょを隠そうとしたときの罪悪感にそれは似ていた。
 どうせたいしたものじゃないわ。平民の持ち物だもの。ケティは自分にそう言い聞かせた。
 今日、学院の授業はすべて休講だ。朝食を食べる気にもなれず、重い足取りで彼女は自室へ向かった。

  000

 その朝、ヴァリエール公爵家からは予想外の人々が訪れた。夜を徹して彼らが旅路を急いだことも驚愕に値するが、公務で不在の長姉エレオノールを除いたすべての家人が集合したのだ。
 彼らはオスマン学院長の案内でルイズの亡骸に対面し、一様に沈鬱な面持ちで言葉も発せずにいた。厳格で知られる公爵や夫人さえもが、永遠に成長を止めた娘を前にして、衆目がなければあらぬ醜態を見せかねない様子だった。
 特に次女カトレアの狼狽振りは、誰もが目をそらすほどだった。生まれて以来ほとんど初めてヴァリエール領を出た目的が、よりにもよって妹の死を確認するためだったのだ。その悲嘆は推して知れる。
 オスマンが気を利かせて部屋を退室したとたん、身も世もない慟哭がほとばしった。

「……ああ! ルイズ、わたしのルイズ! どうして、こんな……」

 まことしやかに流れていた噂がある。
 ルイズ・フランソワーズはヴァリエールの厄介者だというものだ。
 今、家族の悲痛な表情を見れば、誰もそんな言葉は吐けなくなるに違いない。

「たまらないわね……」

 遠巻きにルイズの家族がいる部屋を眺めていたキュルケが、重苦しい声でいった。タバサさえもが、どこか居心地悪そうに顔を伏せている。
 才人だけは、感情の処し方に迷っていた。彼は最大の関係者であり、無関係者でもある。ある意味危うい立場にもいる。内心の懊悩を表すようにかみ締められた唇を横目にして、キュルケは彼に釘を刺す。

「余計なこと考えないほうがいいわよ。あの人たちの前に出て行ってごらんなさい。魔法で八つ裂きにされるくらいならまだいいわ。一瞬で死ねるのだもの。だけど、もしただ見つめられたら、あなた何が言える? 何ができるの? まさか、謝るなんて言い出しはしないでしょうね」
「わかってるよ」憮然と才人は言う。「俺がいきなり出てって何かしたって、あの人たちを困らせるだけだ」

 そもそも、彼は死者と言葉さえ交わしたことはない。繋がりといえば、いまだ消えず痛熱を孕む左手のルーンのみだ。
 キュルケは肩をすくめる。

「そういうこと。べつにあんたの唇に毒があったわけでもなし。気の毒だけど、ヴァリエールは病で死んでしまった。平民のくせにつまらない責任は感じないことよ。その生まれ唯一の長所は、なにごとにつけ無責任でいられることでしょう?」
「泊めてくれたことには感謝してるけど」才人はいった。「俺、貴族ってやつが大ッ嫌いになれそうだ」
「ようやく平民の自覚が出てきたみたいじゃない」
「そうかよ」

 吐き捨てる才人がなおも言い募ろうとする。
 それを杖で制して、タバサが呟いた。

「来る」

 ルイズの姉だというカトレアが部屋から姿を見せる。覚束ない足取り。心がまるでどこかに行ってしまったかのように、瞳の焦点は合っていない。紙のような顔色は、才人たちが昨日見たルイズの肌よりも死人に近く見えた。
 普段は穏和に緩められているのだろうカトリアの目じりは、寝不足のための隈に縁取られていた。廊下で立ちすくむ学生の姿を認めると、彼女はそれでも気丈な足取りで近づいてきた。
 間近で彼女の顔を見た瞬間、才人の左手が激しく疼く。思わず顔をしかめるほどの痛みだ。苦労して表情を押し殺していると、カトレアが茫洋とした声でいった。

「あなたたち、ルイズのお友だち?」
「ええ。フォン・ツェルプストーの娘ですわ、ミス……」
「カトレアでいいわ」
「ではレイディ・カトレア。わたくしはキュルケ・アウグスタと申します。こちらはタバサ。ミス・ヴァリエールとは同窓でした」
「そう。あなたが……いつもルイズの手紙に名前が出ていました」

 キュルケは苦笑した。

「悪口ばかりだったでしょう? 正直申しまして、わたくしたちあまりよい関係ではありませんでしたの。お察しいただける?」

 カトレアはかぶりを振った。

「家同士のことなんて関係ないわ。あの子は気難しいところがあったから、あなたのように正面からぶつかれるお友だちがいて幸せだったと思います。それで、そちらの彼は……?」

 矛先を突然向けられて、才人はとっさに口をつぐんだ。下手なことは口に出来ない。ただ無関係だと言い切ることも抵抗がある。すぐにキュルケが助け舟を出した。

「彼は学院で奉公している平民で、その、ヴァリエール嬢に憧れていたんだそうですの」
「まあ……」

 病んだ瞳が、笑みに細まる。その顔を直視できず、才人は顔を伏せた。相手は勝手に悲しんでいると解釈してくれるだろう。

「きっと喜んでいるわ。あの子も」
「……いえ」

 カトレアが本心で言ってくれているとわかるだけに居たたまれない。才人は今すぐこの場から逃げ出したい気分だった。一人きりになって、そして泣きたいのはこっちのほうだと吐き出したかった。どうして突然見知らぬ世界につれてこられた挙句、人の死に触れなければならないのだ。俺が何か悪いことをしたか? 理不尽だ。納得いかねえ。
 かといって誰を責めることもできない。咎があるとすればそれはたった一人の少女で、彼女はもうこの世にいない。
 行き場を失ったフラストレーションが堆積していく。噛んだ歯は、夢のような現実の味を伝えてこない。

「ねえ。よかったら、あの子、ルイズの部屋を見たいのだけど、いいかしら……」
「ええ、もちろん――」

 頷くキュルケをよそにして、才人は無言でその場を離れた。自分がこれ以上いるのは場違いに過ぎると感じた。背中に頼りない声がかかったが、振り切って歩いていく。左手の痛みはどんどん増していく。朝食で相伴に与ったパンがまるでコールタールに化けたように、下腹部が重たい。
 中庭に出た。
 相変わらずの春模様だ。
 陽気はなんら才人を慰めないが、そもそも慰められる立場に彼はいない。
 だから、昨日少しだけ話したメイドが顔を覗き込みに来るまで、その場で不貞寝を続けたのだった。

 ところでヴァリエールさんちの末娘が母校を消し飛ばすまで残り三時間を切りました。

  000

 しょぼくれた顔で部屋に引きこもったケティは三分で罪悪感も忘れて未知の道具のトリコになった。

「すごい、これ。しゅごぉい……」

 時代が重なるにつれて色々と便利になっていったり逆に不便になっていったりするのが文明だ。逆に人間が有するスペックは、大局的見地に立てば恐らく有史以来劇的な進化は遂げていない。なんとなれば経験の蓄積と継承こそが人類を調子付かせた最大の武器である。
 世界は違っても同じヒト科であるハルケギニア人の、しかも知識層であるケティにかかれば、ケイタイなるあの平民の持ち物が過ごそうな仕掛けのアイテムであることは一目瞭然であった。
 まず記号が印字されてる盤。
 ケティはこれを押すとケイタイの上半分にある絵が反応することに気づいた。あとはちょろいもんだ。操作キーの存在と反応にたどりつくと、詳細はわからないながらもあれこれと機能を引き出せるようになるまで、さして時間はかからなかった。
 まず音が鳴る。これがまず凄かった。風の魔法のなかには音を記憶させて遠くまで運んだりするものもあるが、このケイタイがするのはそんなレベルではない。小さな箱の中に奏者がいるように、さまざまな音色が響いてくるのだ。
 そして震える。これはそんなに大したことはない。ちょっとだけ魔が差していけないことに使おうかとケティは思ったがすぐに諦めた。
 そして、なんとこのケイタイには『目』のようなものがあることにまでケティは感づいた。カメラ機能の発見である。実際には動画も撮れるし見れる機種だったけれど、彼女がそこまでたどりつかなかったのは持ち主にとっても幸いであったろう。データには普通にエロ動画も入っていた。

「なにこれ、なにこれぇ!」

 カシャリカシャリピンピロリンと周囲を乱写して、ケティはわめきたてた。
 余談だが、カメラの原理、つまりカメラ・オブスクラと呼ばれる現象はハルケギニアでも知っている人は知っている。ピンホールカメラのスケールアップ版、暗い部屋に穴を開けると差し込んだ光が壁に逆像を映すあれである。
 地球において『カメラ・オブスクラ』という光学的現象の研究は十世紀ごろすでに始められていたし、カメラ自体の発明も十六世紀と比較的早期なのだが、これは現在のような記録保存用の媒体とはかなり違う使い方をされていた。使用していたのは、主に画家や天文学者。どちらも用途は観察である。
 ここハルケギニアでもその歴史を踏襲している。
 それがなぜかというと、像を写す技術はあっても、それを留め置く手段、つまり写真が、かなり後期にまで時代を下らないと発明されないためだ。これは単に必要がなかったせいもある。
 理由をいくつも陳列するまでもなく、写実主義画家の手によるハイエンドとも言うべき絵を一見すれば真実の一端は悟れる。記録ならば文字で足りたし、記憶も技巧を尽くした筆で足りた。ハルケギニアの思想的潮流や肖像の受容がロマン主義隆盛の西洋に追いつくまでは、というか六千年経ってもだめな以上たぶん追いつかないが、精密さにもいささか過剰の感がある写真は開発されないままだろう。
 しかしそんな瑣末な事情はうっちゃって。
 ケティは感激していた。
 すごいものはすごい。
 メモリも残余電池も気にせず、あらゆる角度から自分を激写しては自分の可愛さを確認したりしていた。ライト機能に気づいてからはもう凄かった。上目遣いかつ美白な自分を見た瞬間には「なにこれどこの絵本から抜け出してきたのこの美少女!」と思うほどであった。
 瞬く間に時間が過ぎていった。しかし、

「ケティ? ミス・ロッタ?」
「あ、はい……」ノックの音に反応し、ケイタイに写る自分の顔から目を剥がす。
「もうじきお昼よ。よろしければご一緒しない?」
「は、はあ」

 隣室から昼食の誘いが来ると、とたんにケティはげんなりとしてしまう。
 本音は無論行きたくない。
 ギーシュや、彼といた上級生と会うかもしれないからである。
 直接会って、がつんとものを言わなくてはならないのは彼女もわかっていた。浮気――どころか、あの調子では自分がまさにその浮気相手かもしれない!――を咎めるにも心の準備というものが要る。できるならばそれは場の勢いで押し切ってしまうのが望ましい。愁嘆場というものは、続ければ続けるほど被害者が「かわいそう」になってしまうからだ。
 ケティは確かに怒っているし、貴族にもそうした性質の子女が多いのは事実だ。
 だが彼女は哀れまれたくなかった。大人しく見えても、蝶よ花よと育てられた彼女は充分以上に自尊心が強い。母親が貴族らしからぬ気丈なひとだったこともあり、めそめそと泣いて哀れを誘ったり異性の歓心を買うような真似はごめんだ。好きなら好き。嫌いなら嫌い。白黒つけたいのがケティの信条であった。
 友人の声がドア越しに響く。許可もなく入ってくるような不調法はさすがにしない。

「どうかしたの? まさか、お加減でも悪いの!?」
「い、いえ。そんなことはありません!」

 そう思っているのに体は動かない。
 何事をなすにもエネルギーがいるのだ。一晩泣いて午前中もカメラ遊びに夢中だったケティにはもう気力が残っていなかった。
 それでも行かねばならないのが付き合いというものである。ただでさえ今朝の朝食には出ていないのだ。わけもなく誘いを断ったりすれば、クラスでの孤立を招くかもしれない。
 昨日死んだというかわいそうな上級生もちょうどそんな境遇であったという。
 ぶるりと身震いして、ケティは身支度を整えますわと友人に返答した。
 食堂には、ケイタイを持っていくことにした。盗んだものを身から離しておくのは、いかにも気が進まないのだった。
 そこで、彼女は伝説を目撃する。



[5421] い魔
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:24

  000

 ハルケギニアがもし百人の村で、才人がイデオンだったら、そろそろ村全体が因果地平に飛ぶ。
 それほどに才人は不機嫌であった。
 彼は今食堂で給仕をしている。

「サイトさん、これはあっちのテーブルにお願いします!」
「おう、任せとけ」
「……あの」
「ん? なんだよシエスタ」
「大丈夫ですか……?」
「全然余裕」ぎこちなく才人は笑う。

 本当は余裕じゃない。
 とっくに限界を超えている。
 昼寝中に現れたメイドはいみじくも名をシエスタと言った。そこで才人と彼女は改めて二三雑談を交わしたのだが、典型的現代日本人として若い身空で奉公にいそしむ少女を見てしまっては、ああそうじゃあ俺は寝るから放っておいて、とはなかなか言えない。
 結果後ろ向きな動機で前向きな感じに手伝いを申し出ることになった。
 恐縮するシエスタだったが、どうやら彼女の頭の中で才人の立場を掴みかねていたらしい。同じ平民でありたまたま迷い込んで不自由しているのだと告げると、快く申し出を受け入れてくれた。かといって専門的な仕事など才人には出来ない。料理は論外だし薪も割れない見事な役立たずである。素人にでもできる配膳を受け持つしかないというわけであった。
 アルヴィーズと呼ばれているらしい食堂は見事なものだった。へたな大学のキャンパスよりも見ごたえはある。そこかしこに置かれたインテリアも嫌味なく空間の雰囲気に映えているし、こんな状態でもなければじっくりと見学でもしたいところだ。
 もちろんそうは行かなかった。
 違和感は始めからあった。才人が配膳ワゴンを引きずって食堂に入った瞬間から、ざわざわと一部の食卓からどよめきが上がったのである。あまりにも耳障りな小声が食堂全体に伝播するまでは一瞬だった。
 あの平民。あいつ、例の。ヴァリエールが召喚したっていう。死神。道理で冴えない顔をしている。目も死んでる。頭も悪そう。やだー今こっち見た。えんがちょきーった。
 視線も陰口も雪だるま式に遠慮がなくなっていく。才人は当然すぐに事情を了解した。そしてこの不快な反応の理由も察した。これで空気が読めないやつは脳が終わっている。彼はひきつり笑いで配膳を続ける。皿をテーブルに置くと大げさに嬌声が上がる。

「うわあ、あいつの皿だぜ、ぼく! なあ、頼むから交換してくれよ!」
「はは、運がなかったな。血を吐いて死なないように気をつけたまえ!」

 才人は動じなかった。いや動じていたが、気にしないふりを懸命に努めた。
 なるほど、なるほど。口中で何度も繰り返し頷いた。
 どうやら自分は疫病神で、遠路はるばる異世界にまで自分を召喚してくれた女の子をとりついて殺してしまったらしい。それでその死も、この連中にとっては食事時の暇を潰すネタのひとつであるらしい。先ほど深刻に悲しんだ美しい女性を見たあとだけに、嫌悪感はひとしおだ。才人はよどんだ目で配膳を続けていく。
 からかいの眼差しと喧騒はなおも続いた。才人は常に無表情を装った。彼らが本気で言っているのではないことくらい、才人にもわかっている。ただそれは才人の怒りに拍車をかけこそすれ、何の冷や水にもならなかった。ここがこういう世界なら、と彼は思った。あんがい、あの子が胃潰瘍で死んじまったっていうのも本当かもしれないな。こいつら全員くそったれだ。人が死んだのをなんだと思っていやがるんだ。それとも、これがこっちの『普通』なのか? おかしいのは俺やあの女の人のほうで、人が死ぬことなんてこの世界じゃ大したことじゃないって言うのか?
 ありえそうなことに思えた。何しろ骨の髄までふざけた世界だ。
 そうだとすれば――いくらか浮ついて、鮮やかに見えていた異界の彩りも、才人の内部で急激に価値を失い始めた。居並ぶ自称貴族でメイジだというおめでたい連中の頭を端から飛ばせればどれだけ爽快だろう。そして今の才人にそうしない理由などない。彼はまだ魔法の恐ろしさを知らない。その存在自体に半信半疑ですらある。
 それでも、ここで暴れては好意で仕事を仲介してくれたシエスタに申し訳が立たない。才人はどうにかもっともうるさい一群をやり過ごした。その先で、キュルケとタバサ、こちら側で数少ない見知った顔が卓についている。

「なにしてるのよ、あんた」キュルケが呆れ顔でいった。「あんな連中の前に顔なんか出したら、いいカモでしょうに」
「なるべくならもう少し早く言って欲しかったな」才人は無表情で答えた。「……あの人は?」
「帰ったわ。公爵家ともなれば葬儀の準備にも色々あるでしょうからね」
「あの……なんとかって子も?」
「もちろん、ルイズの死体も一緒よ」

 そうか、と才人は頷いた。わけもなく肩の荷が軽くなったように思えた。同時に舫を解かれた舟のような、当て所のない寂寞が胸に吹き込んだ。決定的な指標を永遠に失ってしまったのだというような、それは違和感だ。左手の痛みが、いつの間にか治まりつつあった。
 昼食のパンをむしりながら、キュルケは「それで」と才人を流し見た。

「いくあてはできたのかしら」
「目下、考え中だ」
「ま、もう一晩くらいは泊めてあげるから、せいぜい真面目に考えなさいな」
「……さんきゅ」

 才人は素直に頭を下げる。気に入らないところは随所にあるが、キュルケに世話になっているのは事実だ。単純に異性だとか人間に認識されていないだけかもしれない。それでも恩義は感じていた。昨夜は反発心から大口を叩いたが、実際、今のところほかに頼れそうな存在などいはしないのだ。
 もう一度「ありがとう」と言おうとすると、背後から声が割って入った。

「『もう一晩』? 聞き捨てならないな」
「あら、ベリッソンじゃない。ご機嫌いかが?」

 ひらひらとキュルケが手を振る。その目線を追って、才人はマントを羽織った少年を見た。正確には青年の域に届きつつある、体格も顔立ちもいかにも西洋風の、恐らくは男前に分類されるであろう種類の人間だった。ついでに言えば、先ほどまで才人を笑っていた顔ぶれのひとつでもある。
 キュルケとは顔見知りの気配だったので、才人は素直に身を引いた。もともと知り合いなどほとんどいない場だ。友人同士の会話に挟まれても居心地が悪いだけである。
 しかし、ベリッソンと呼ばれた少年は才人を見逃さない。

「待ちたまえ、平民。きみにも聞きたいことがある。このレディの潔白に関わることだ」
「はあ」

 彫りの深い造作の奥で、瞳がするどく光って才人を射抜く。

「今しがた聞いたことだよ。泊まるとかなんとかいっていたが、まさか彼女の部屋で一晩を過ごしたと?」
「まあ、うん」

 やや挑発的だったかもしれない。それでも内心の苛立ちからすればずいぶん控えめに、才人は肯定した。ベリッソンの顔がわずかに歪んだ。

「キュルケ。いくら相手が平民だとはいえ、どこのものとも素性の知れない……それも、あのヴァリエールに害をなした張本人を部屋に泊めたというのか?」
「害をなしたって、ちょっと待てよ」
「サイト、あんたは黙ってて」気色ばんだ才人を制して、キュルケはあくびを噛み殺した。「なんだか誤解があるようね。『ゼロ』のルイズの死に、そこの彼は無関係よ。先生からもそのあたりきちんと報告があったはずだけど?」
「そんな建前はどうでもいい。いいかいキュルケ。きみは貴族だ。そしてこいつは平民だ。軽はずみな気持ちで名誉に傷がつくようなことはするべきじゃない」

『こいつ』呼ばわりされた才人のメーターがまたひとつ上がった。
 キュルケはため息をついて答えた。

「わかったわよ。以後心がける。それで、用が済んだら戻ってくれない? なんだか目立っているみたいだし」

 純粋な善意からの行動を否定されてやや硬化したのだろう、キュルケのベリッソンへの言葉は冷たい。思わぬ反応に面食らって、ややベリッソンがしり込みしはじめる。実際、物見高い貴族の少年少女たちにとって、その一隅はちょっとした注目の的になっていた。

「どうしてそんなことを言うんだ。ぼくはきみのためを思って」
「わかったってば」キュルケがうるさげに手を振った「それにわたし、昨夜あまり寝ていなくて眠いの。さっさと部屋へ戻って仮眠を取りたいのよ」
「な。なな、なんだって? 寝てない? なあ、それはどういう意味だ、おい!」
「ご自由に勘ぐったらいいのではなくて? たぶん、あなたが思ったとおりの意味よ」淑女の微笑で、キュルケが言った。
「こ、この――」ベリッソンの顔がなぜか才人の方を向いた。「平民ふぜいが!」

 ハルケギニアで出会った貴族の一般例に漏れず日本では考えられないほど自尊心が強そうな少年の反応を見て、才人の冷静な部分が判断していた。あ、こいつ、引き際を間違えたな。ていうかこの女、今煽りやがった。ちらりと視線を合わせ、キュルケが舌を出すのを見て、才人は彼女の食わせ物であることを改めて知った。しかもどうやら、結構な『やり手』であるらしい。
 襟首を掴まれても、才人はすぐに反応はしなかった。固められた拳が頬を打っても、ろくに動かなかった。怒る機会を一度逸してしまうとこんなものだ。ともあれ殴られて大義名分は立った。これでやり返せる。意外と好戦的な才人は、嬉々としてベリッソンを見返す。

「やりやがったな」
「なんだ。その目は。まだ足りないのか? 今度は魔法を食らいたいのか、平民! 礼儀というものを、じきじきに教育してやる!」

 魔法? やってみろ。
 才人は拳を握る。
 ベリッソンは杖を抜く。
 悠然とキュルケが割って入った。

「落ち着きなさい。こんなところで決闘の真似事? いまは昼食の時間よ。荒事ならよそで――」

 彼女に誤算があったとすれば、手玉に取った男の激昂が予想以上であったことだ。そして、怒れる恋人がベリッソンひとりではなかったことも。
 拍子を抜かれて拳を緩めた才人の背を、第三の男の足が襲った。衝撃に体がつんのめり、キュルケにぶつかる。

「スティックス、あなたまで」
「あいにくと、ぼくはもう食事を済ませたんでね」野趣溢れる長身の少年が、憎憎しげに才人とベリッソン、そしてキュルケをにらみつけた。「キュルケ、ああ、キュルケ。きみはとても魅力的な女性だ。それは認めよう。ほかにボーイフレンドがいたことだって知っていたさ。それでも耐えた。いつかぼくに振り向いてくれるって信じていたからね」
「あそう」才人を抱くキュルケの顔にはさすがに焦りがほのみえる。「あちゃあ。ごめんね、サイト。もてる女はつらいわ」
「謝るなら逃がしてくれよ。俺、よく考えたら関係ないぞ」と言いつつ胸の感触を楽しむ才人だった。
「乗りかかった船じゃない」キュルケは片目を閉じてみせる。
「聞けよ! キュルケ! ぼくは傷ついたんだぞ!」

 スティックスは震える声で続けた。感情が高まるあまり、彼の肌は赤黒く変色している。

「だが! まさか平民なんぞと! キュルケ・アウグスタ・フレデリカ! ぼくはきみを買いかぶりすぎていたようだ!」

 謎の平民、キュルケ・フォン・ツェルプストー。それに学院の色男二人を加えた修羅場である。もはや注目するなというほうが無茶な状態になっていた。
 しかし一方、このアルヴィーズの食堂では例のイベントもひそかに深く進行している。当事者でありながら目の前の出来事に嫌気がさしていた才人だけは、そちらにも気づいていた。

「なあ、可愛いぼくのケティ。いったいどうしたんだい? 黙っていないでなにか話して、そして花咲くようなきみのあの笑顔を見せてくれ。ねえ、ぼくがなにかきみの気に障るようなことをしたのなら、謝るからさ」

 ケティ・ド・ラ・ロッタは、先ほどからしきりに話かけてくるギーシュ・ド・グラモンに対して沈黙を貫き通していた。まわりの気遣わしげな視線を振り切り、黙々と食事を続ける。
 時おり隣のテーブルで起きる騒動にも視線を投げる。渦中に彼女がパチったケイタイの持ち主と思しき平民がなぜかいるのだ。ギーシュとは別の意味で気になってしょうがなかった。半分は自業自得である。

「あの、ミスタ。ミスタ・グラモン? こちら、落し物を……」

 そして必死にケティのご機嫌を取るギーシュもまた、彼が先刻床に落とした香水を拾ったシエスタを無視し続けている。
 シエスタは才人がなにやら揉め事に巻き込まれているようで気が気でないのだが、ここでギーシュの落し物を放って置くことも奉公人としてあるまじき対応である。どうにか受け取ってもらって誰か人を呼んでこようと、多少礼を失した態度でギーシュに何度も話かける。
 ケティはそのメイドが持つ香水の瓶をじっとりとした目で見つめた。間違いない。あれは昨夜の女、ミス・モンモランシ手製の香水に違いない。女子寮では、彼女の作る香水はちょっとした名物なのである。見間違うはずなどない。
 ますます沈黙を頑ななものにして、ケティはさっきから剣呑な視線を寄越している金髪巻き毛の上級生を見やる。あらあらミス・モンモランシ。あなたもわたくしのことを知らなかったクチですか? もう少し歯噛みしてください。昨夜のわたくしのように。ほほ。ほ。
 がじがじとスプーンを噛んで、ケティは一晩のあいだ溜めに溜めたものを発散するタイミングを今か今かと待つ。なにかきっかけがあれば、平手と言わず魔法のひとつもギーシュの顔にブチ込む覚悟である。
 同時進行中の修羅場も佳境だった。スティックスがあまりにもやばい言葉をこぼしたのだ。

「平民なんぞと! キュルケ! 貴族たるものが、まるで安淫売のように軽薄なことをしでかしたな!」
「――――――なんですって」

 ビッチと売女とアンリエッタ。ツェルプストーの女に対する禁句であった。
 彼女らは、恋多き人生を送る。
 しかし金のために体も魂も売ったことはない。

「もう一度いってごらんなさいスティックス。そのどうしようもない品性ごと焼いてあげる」

 食堂の気温が二度上がった。
 もう誰も引き下がれない。
 遊びでは済まない。
 生徒たちは、ことここに至り、自分たちが火薬庫のど真ん中にいることを悟る。
 遅すぎる理解だった。

「……」

 我関せずを貫きサラダを平らげていたタバサが、卓上の食器を抱え込んで椅子を降りる。身を伏せて大過をやりすごす準備を整えた。
 そして焦りまくるシエスタ。ギーシュをどうにか振り向かせようと、ついに彼の袖に手をかけた。ほんの軽く。

「さっきからうるさいぞ平民のメイドごときが!」

 余裕を失ったギーシュが、その手ももろともに、シエスタの体を払う。「きゃっ」と声をあげて、なすすべもなくシエスタは顛倒した。

「ぼくはそんなもの知らないって言ったんだったら言ってるれ言って……へぇ?」

 そのとき、ギーシュは見た。
 飛んだ才人の靴の裏を。
 見事なドロップキックであった。シエスタの体が弾かれた瞬間、放たれた矢のように才人の体は動いた。一ニ三ジャンプ。大理石の床を蹴って到達した頂点は実に百八十八サント。テーブルひとつを飛び越えて下降線上にいたギーシュの顔面を、才人のスニーカーは見事に捉えた。
 もんどりうってテーブルを巻き込み、冗談みたいに転がっていくギーシュ。ガッツポーズを取った女の子が場に三人いたが、たいていの生徒たちは唖然として今の受け入れがたい光景を見送った。
 食器が床を叩いて割れる。盛大な不協和音と裏腹に、喧噪はぴたりと止んだ。才人はそれに満足する。ゆらりと立ち上がり、

「はあ」

 と、息を吐いた。
 誰もが、固唾を呑んでこの平民を見守っていた。タバサさえ予想だにしない展開にサラダを食べる手が鈍っている。
 平民が。
 貴族に。
 ドロップキック。
 トリステイン史上類を見ない出来事だった。
 トリステイン史など知らない才人でも、封建制で身分の違いがひどく重要らしいこの世界の雰囲気は漠然とつかめる。
 やばいかな、と思う。
 やばいんだろうな、と思う。
 しかし、マヌケ面をさらす連中を見れば、ずいぶん溜飲は下がった。まあいいや。後のことは後で考えよう。それより今はこの煮えくり返ったはらわたをどうにかすることが先だ。絶対にそうだ。「はーあ」と才人はけだるげに唸る。
 それから爆笑した。

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 全員「こいつ狂った」と思った。
 才人も自分でちょっとそう思っている。まったく笑える気分じゃないのに体は笑えるのだ。これは狂ったとしか思えない。脅えるシエスタの手を取ってとりあえず立たせると、彼は笑い続けたままキュルケのもとに向かう。

「さ、サイト? ど、どうかしちゃった?」

 才人は笑って答えない。脳裏に昨日からの色々な出来事や光景が閃き過ぎって消えていく。まるでメリーゴーラウンド。行きたくもない予備校。手に持った鞄の重さ。秋葉原を歩いていたら突然目の前に鏡。それをくぐったのが運の尽きだ。景色は電気街から突然異世界の草原に変わった。そうだ思い出してきたぞ。そこに桃色の髪のすげえ可愛い子がいたんだっけ。なにかいったかと思ったら、その子は俺にキスをした。そこから全部おかしくなった。女の子が突然倒れて血を吐いた。俺は放置された。なんの説明もなかった。おまけに左手は死ぬほど痛かった。正直ちょっと、いやいっぱいちびるほど痛かった。で、ようやく建物に行ってみればここは魔法使いのいる世界だと? 魔法学院だと? なんだそれデキわりー。だいたい魔法の学校ってハリーポッターかよ。しかも俺を召喚した女の子は勝手に死んじまったときた。わけがわからない。セオリー無視にもほどがある。俺はどうすればいいんだ。いきなり放り出されたぞ。右も左もわからない、この世界で。
 独りで。
 そういうこともあるのか。
 あるんだろうな。
 あるんだから。
 才人はぴたりと笑いを止めて、キュルケの目を見た。

「ストッキング脱いで。貸して」
「え、え、え?」

 混乱するキュルケは意外と素直だった。ブーツをズルリと脱がせ、右足を覆うストッキングを奪う。思ったとおり弾性に富んだ素材だった。化繊がないであろうこの世界でどうやってこんなものを作るんだろう。まあそんなことはどうでもいい。
 才人は手近に詰め込みやすくて硬いものを探す。見当たらない。フォークやスプーンではだめだ。皿も大きすぎる。しょうがないかと、ポケットの硬貨入れからすべてのコインをストッキングの中に詰め込んだ。思ったよりも量があった。そういえばゲーセン行こうと思ってたんだよな。せつない気分に一瞬ひたり、袋状になったストッキングの口を縛り、手に持った。
 いい感じだった。
 おまけに、なぜか不思議な力まで湧いてくる。体が熱くて軽い。手中にある即席の錘を、どう扱うべきかも驚くほどよくわかる。たった今触れたキュルケのソックス・ストッキングが、まるで十年来の友人のように親しく感じられる。嫌な親近感だ。
 準備が整った。

「おい、おまえら」

 才人はベリッソンとスティックスのみならず、長いテーブルにつく男子生徒の顔をまとめて指差した。

「さっき俺を笑ったおまえら。全員ぶっ飛ばす。女の子は許す。みんな可愛いから」

 やっぱり気が狂ったとしか思えない平民の言葉に、小太りの少年が色めきだって立ち上がった。

「お、おまえ! 平民のくせによくもギーシュをぶぁふぅぉぱぁっ」

 顔面に錘の直撃を受けて、少年はテーブルに沈んだ。
 あとは鴨撃ちだった。座ったままの少年たちは呆気に取られたまま、なすすべもなく才人による公開殺戮ショーの犠牲となる。才人はなんだかそういうゲームでもするような気分で貴族をひとりひとり血に沈めていった。
 六人目からようやく反撃が始まる。杖を振ると火の玉が飛んできたのだ。さすがに才人は度肝を抜かれたが、なぜか普通にかわせた上にカウンターでやはりあっけなく仕留めることができたので、「魔法恐るるに足らず」と結論づけた。
 七、八、九。
 十、十一十二十三。
 リズミカルにストッキング錘は生徒の顔を吹っ飛ばしていく。
 血しぶきがあがる。
 悲鳴もあがる。
 たまに歯も飛ぶ。
 才人もだんだん手際が良くなっていく。あっという間に二十人めが倒れた。逃げようとしたところで後頭部をもろに打たれたのだ。
 いよいよそのテーブル最後の男子にたどりつく。彼は顔を引きつらせて杖を振る。風の刃が首筋を狙って飛んできたが、すんでのところで才人はそれをかわした。ストッキングを振り上げる。
 その男子は首を何度も横に振った。

「俺、俺は笑ってない……」
「そうだっけ。でもいいんだ。俺、いますげえむしゃくしゃしてるんだ。悪いな」

 ぐしゃり。ずるずる。べたり。おぞましいオノマトペの乱舞である。
 誰かが囁いた。

「人殺し……」
「え、死んではねえだろ」才人が心外そうに抗弁する。顔には返り血がついている。すごく説得力がない。
「人殺しィ――――――っ!!」

 食堂が怒号と悲鳴に包まれる。腕に自信のない下級生は我先にと駆け出した。最初に宣言されたおかげで意外と余裕の女生徒たちも、流れにつられて絶叫し始める。食堂は一瞬で恐怖の処刑場から混乱の坩堝と化した。テーブルがひっくり返される。豪勢な食事が床に落ちる。シエスタが気絶したギーシュの頭にトレイを落とす。ケティが気絶したギーシュの脇腹につま先を叩き込む。モンモランシーが気絶したギーシュの股間を踏んづける。入り口近くで人のなだれが起きた。なんだおいふざけんなこら。おさないかけないしゃべらないだろ。守れよ! いやー犯されるぅー誰か助けてせんせぇー。うわあの女扉にロックかけていきやがった! しかも解けないしこれ! どうなってんの!?
 いよいよカオスな様相を呈しつつある食堂。
 ただでは済まないやつらもいる。
 最初からクライマックスだったベリッソンにスティックスを始めとする、腕に覚えのあるメイジたちである。いまやどう考えてもただの賊と化した才人を見事捕らえんと欲する猛者たちだ。
 キュルケもまたビッチ呼ばわりされたことを忘れたわけではない。じりじりとスティックスと間合いを取っている。
 タバサはようやくサラダを食べ終えたが、人がすし詰めになっている出入り口を見て退室を諦めた。
 無言で、発端となった平民に視線を移す。
 才人はへらへらと笑っていた。ただし暴力と状況に酔って引っ込みがつかなくなったもの特有の、接地感のないふわふわとした笑顔である。彼もばっちり酩酊していた。しかしふと左手を見下ろすとただちにきりりと表情を引き締め、今にも魔法をぶつける気概でいるメイジたちを一望し、破顔一笑、

「おい。おい。俺に礼儀を教えてくれるんじゃなかったのか? てめーらの血は何色だ?」

 あほだ。
 タバサは思った。あれはもう死ぬしかない。どうやら意外に使えるようだが、呑んでかかれた雑魚ならともかく、『やる気』になったトライアングルクラスを含むメイジに平民が太刀打ちできるはずはない。
 自分の死が冷静に計算されているとも知らず、才人が気勢をあげる。

「かかってこいやァ―――――ッ!!」

 叫びを皮切りに、土石が床を突き破って飛び出す。とうとう建物にまで被害が出たわけだ。突き出た石杭によって才人の姿が隠れた瞬間、タバサは考えを変えた。こっちにもすごいあほがいた。これはひょっとするとひょっとするかも。
 群舞する火の玉氷の矢を縫い才人は間隙に踊る。瞠目すべき身体能力だ。彼が即席でつくりあげた武器を一振りするたび、誰かの足が払われる。そして倒れたメイジの頭にもう一度一撃が落ちればそいつは動かなくなる。先端速度が馬鹿みたいに速い上に得物自体が弾性を持っているのでひどく軌道を捉えづらいのだ。しかも体に当たればそれが頭でもなくても砕ける威力。メイジたちはまず武器を奪うべく火系統の者を前衛に立たせた。なにしろ材料はストッキングなので、火をつけてしまえば一瞬で燃え尽きる。連携が致命的にへたくそであることを除けば、彼らは賢明だった。問題は、どさくさにまぎれてキュルケが才人の援護をしたことにある。

「ぎゃああああっづぅっ」

 スティックスが火達磨になって転げまわった。慌てて水系統のメイジが級友の惨状を消火する。その隙に錘の一撃が彼のこめかみを打って昏倒させた。
 何事につけ無関心を通すタバサにも、さすがにそろそろ事態に収拾をつけるべきだという思慮はあった。要はあの平民を殺すか無力化すればそれでよく、そのためには自分ひとりいればよい。キュルケが手伝うならばより万全だろう。もしくは、すぐに壁なり扉なりをぶち抜いて教師を呼び立てるのだ。
 物陰からすっくと立ち上がる。
 その顔面を風で舞い上がった椅子が直撃した。
 シュヴァリエの称号さえ持つ彼女の不意をつく、奇跡のような偶然である。
 タバサは無言でうずくまった。

「…………」

 洒落にならないほど痛い。おまけに眼鏡にひびが入った。鼻筋がじんじんと傷む。意思と関係なく涙が目じりを濡らした。これはノーカンこれはノーカン。タバサは頑なに繰り返す。だってほら、タバサ人形だし。
 しかし――
 ぽたり。ぽたぽた。ぽたり。
 床に垂れる雫を見て、タバサは静かに息を呑む。

「鼻血」

 鼻血であった。
 瞬間、ガリア時代におひいさまとして生きてきた輝かしき日々がフラッシュバックした。
 鼻血。
 鼻血。
 鼻血ですお母様。あなたのシャルロットが、鼻血? これはちょっと、いやかなり、ありえないことではないのか? 許していいのか、こんなことを?
 否。
 否である。
 タバサは今度こそ立ち上がる。小柄な体に勇壮な意気を秘め。
 唱えるのは必殺の呪文だった。
 ひび割れ眼鏡に燃える瞳を携えて、乱戦に飛び込んでいく。

「アイスストーム」

 もう泥沼だった。

  000

 一方学院長室。こちらはヴァリエール公爵家の来訪を問題なくクリアして、すでに一仕事終えたムードであった。オスマン学院長は白髯を撫でて意味もなく頷いており、コルベール先生はなにやら苦悩の様子で、みんな知ってるとおり実は『土くれ』のフーケという盗賊である秘書ロングビルはさてどーやって破壊の杖盗むかなーとか考えている。
 そこに、中年の女性教師シュヴルーズが血相を変えて飛び込んできた。何事かという勢いである。

「たた、大変です学院長!」
「なんじゃミセス・シュヴルーズ。いい大人がみっともない。貴族と平民が決闘でもしとるのかね」
「そそそ、そんなレベルではありません! ね、眠りの鐘の使用許可を――いえ、王都に騎士団の出動を要請してください!」

 オスマンは眉をしかめた。

「冗談にしてはたちが悪いぞい。いったい何があった?」
「冗談などではありません」金切り声で、「暴動です! 大乱闘です! とんでもないことになってます!」
「な、なんじゃとぅ」

 慌てた学院長は、すでに火砲を交わしつつ戦線が中庭に移動したことも知らず、クレアボイアンスの魔法で食堂の様子をのぞきみた。
 死屍累々であった。
 動く者などひとりとしていない。
 もうゼロの使い魔というよりベルセルクみたいな惨状であった。

「え、えらいこっちゃァ……!」

  000

 一寸先を死が飛び交う。
 髪を揺らすのはまごうことなき魔法。
 迫真の幻想。逸脱した超現実が、才人の呼吸する世界だ。
 戦場は何度かのこう着状態を迎えていた。敵方はベリッソンを中心に十人一小隊のメイジが見事にまとまりつつある。いつの間にか蘇生したギーシュ(才人は彼の名前を知らないが)もあちらにおり、青銅のゴーレムを用いて逐一こちらを撹乱しようと暗躍していた。
 なんだかんだでエリートの集まりなのだ。ドーピングでやたら強い才人、もともと優秀なトライアングルメイジであるキュルケ、実戦経験豊かなタバサを相手に真正面からやりあっていれば、才あるものはどんどん覚醒していくという寸法だった。ちなみにこの三人はなんとなく目に付く相手を潰していたら自然にまとまっただけのチームである。
 敵はいま塹壕をつくり、隙を見て牽制の魔法を繰り返し、距離を詰めては包囲の範囲を狭めている。
 こうなると、質的有利が数的不利に覆され始める。いわゆるジリ貧であった。
 壁の陰から火弾を連射しながら、キュルケが荒い息をついた。さすがに消耗が激しいのだ。

「まずいわね。そろそろ押し切られそう。……っていうか、なんでこんなことしてるのわたしたち」
「不思議」

 タバサが心底腑に落ちない、という風に首を傾げる。鼻には才人からもらったティッシュが詰めてあった。

「ちくしょう、これまでか」

 才人がぼやく。すでにキュルケのストッキング錘は失われ、両手にはギーシュのゴーレムから奪った青銅の棒を持っていた。槍でないのはガチの殺し合いにはならないという暗黙のルールが反映された結果であろう。にもかかわらず、生身ひとつが武器の彼はすでに傷だらけだった。
 キュルケがからかい混じりに才人を見た。

「あら。諦めちゃうの?」
「さあな。でもとりあえず暴れたらすっきりしたし、どうせ押し込まれるなら玉砕だ。おまえら、嫌なら降りていいんだぞ」
「それは言わないでおきましょ。まあ、たぶんわたしもここまでやったら放校でしょうし」
「いいのかよ」
「んー、まあ、いいんじゃない? ルイズがいなくて、張り合いがなくなったと思ってたのよね。あんたも面白いし、いざとなったらウチが匿ってあげる」

 才人はまたかと嘆息した。

「ありがたくって涙が出るぜ」
「そうだ、もしなんだったら、タバサもうちに来なさいな。歓迎するわよ?」
「考えておく」

 珍しく「そうしたいのは山々だが」という表情を見せ、タバサはお茶を濁した。キュルケもその意を酌んで、期待しているとだけ伝えるに留めた。
 さてと。才人は棒を支えに立ち上がると、キュルケとタバサを見下ろした。

「じゃあ俺行くわ。短い間だけど、おまえら、悪くなかったぜ」
「それはどうも」キュルケが笑った。存外、幼い笑みだった。
「あなたも」タバサが短く答えた。
「おう」

 才人は遮蔽物から躍り出る。一秒も置かず飛来した火線を横っ飛びでかわした。
 その動きを読んでいたのだろう。回避した先には三体のゴーレムを従える少年が待ち受けていた。

「待っていたぞ無礼な平民め!」
「おまえも懲りないな!」
「借りは返してやる! ゆけ、ワルキューレ!」報復に燃えるギーシュが、一斉にゴーレムを駆動させる。

 棒を腰だめに構え、才人は三体の敵に相対した。左手のルーンが熱い。そして心に語りかけてくるのだ。ちょっと犬、聞きなさい。棒は線と点で使うといいらしいわ。ていうかあんた、ギーシュのゴーレムなんかに負けたらマジクビだから。
 なにかおかしいな、と思ったが、今は気にしているときではない。
 咆哮一声、腰から体を捻転させ、才人の棒は突き出されたワルキューレの得物をからめとる。跳ね上げた腕の隙間をかいくぐり、胸部パーツを痛打。顛倒した一体に足を取られてもう一体もこける。残るは一体。才人は操り主を見据えつつ、一喝した。

「遠慮するな、俺のおごりだとっとけよ!」
「――いや、やはり返しておくことにする」

 不敵なギーシュの笑み。最後の一打が、ワルキューレの首を凪いだ。思いのほかあっさりと抜けていく衝撃。そしてまた声。

『馬鹿! なんで気づかないのよそいつ中身空っぽじゃない。『錬金』で中身を全部精製油に変えられてんのよ!』
「ごちゃごちゃうるせー! てかおまえ誰だよ!」
『……っ、あ、あんたッ、よよよ、ようやく答えたわね! よくも、今まで無視してくれちゃってえ!』
「はぁッ?――うぉわ!」

 ワルキューレが爆発する。焼熱が体の前面を焙る。爆風に体を吹き飛ばされながら、それでもどうにか才人は着地した。
 が、それで終わりだった。一瞬熱気を吸い込んでしまった。肺が焼けて呼吸ができない。聞いたこともない音を奏でるのど笛を押さえつけ、棒を取り落とす。とたんに体にみなぎっていた力が失せた。
 声もそれで聞こえなくなった。
 そして、気づけば目前にベリッソンがいる。杖を眉間に突きつけた彼は、勝者の笑みで才人を見下ろした。

「終わりだな、平民」
「……」

 ものも言えず、才人はメイジを睨み返す。負けだった。認めるしかない。それでも心は晴れやかだ。あれだけ好き放題やったんだからそれも当然かもしれない。

「ここまでやっておいて、まさか死なずに済むとは思ってないだろうな」

 実は思っていた。才人は青ざめる。
 え、え、マジで? せいぜい半殺しとかじゃなくて?

「ちょっとベリッソン! なにもそこまで――っと」

 遮蔽物の陰からキュルケが怒鳴るが、残りの敵に牽制されて身動きとれずにいるようだった。ベリッソンは酷薄な笑みを浮かべる。また、奇妙な親しみの同居した表情でもあった。

「正直、きみを侮っていたよ。間違いなくきみは俺が会った中でいちばんの強者だ。メイジを含んでもな」

 そ、そうですか……。才人は必死でなにか喋ろうとするが、声が出ない。

「だからこそ、敬意を表そう。このままではいずれ重罪人して獄中で拷問を受け残酷に殺される。そうなる前に、このベリッソンがきみに引導を渡してくれる」

 要らない。ちから一杯要らない。しかしベリッソンはひとりで完全に納得している。顔に靴跡をつけたギーシュも思慮深い顔で頷いていた。どうやらその方向でもう決定らしい。
 遅まきながら、才人は悟った。
 本当に、洒落ではない世界なのだ。
 平民が手向かえば、たやすく手折られてしまう世界。
 貴族はよくても、平民は駄目なのだ。
 なんて理不尽な。いや、そうでもないのか?
 彼は結局一度も話したことのない主人を想った。そういえばあの子も、理不尽に死んじゃったんだな。そう思うと、やっぱり一度くらい話したかった気がする。俺をこんなところに呼んだのはむかつくけど、恨むけど、それでも、死んだ以上はもう何もいえない。それで俺も死ぬのか。死んだらどうなるんだろう。元の世界に帰れるのか。それともこれで終わりか。わからない。というより、怖すぎてそれ以上は考えたくない。
 覚悟ではなく諦念から、才人は目を閉じた。
 突然キスをしてきた、あの娘の面影が浮かんだ。髪が長く、胸は薄い。幼く、そして甘い声。名前はなんていっただろう。何度も聞いているのに、どうしても忘れてしまう。そう長い名前ではなかったはずだった。
 その名を呼ぶなら、声も出る。
 そんな気がする。
 確か――

「シャナ」
『違うから』

 訂正された。鼻を啜りながらの、涙交じりの声である。怪訝さに思わず、閉じた目を開いてしまった。

「あのさぁ、さっきからおまえ誰?」

 呟くが、答えは聞こえない。やはり幻聴だったのだろう。なんだかやりにくそうにしているベリッソンをじっと見て、才人は首をかしげた。

「どした?」
「いや、あのな。気のせいだと思うんだが……今、君のな。その左手の」
「うん」左手を見た。

 なんか……手毛? 桃色っぽい毛が、ルーンの周りにファサーッと生えていた。いつのまにか。

「うおっキモーっ!!」
「ああ、そうだな」ベリッソンがしみじみと頷く。「その気持ち悪いルーンが、いま、なにか喋ったような気がするんだよな」
「えー、しかもこれで喋るのかよ。キモいってレベルじゃねーぞ」才人は薄気味悪そうにルーンを見つめた。「なに、ルーンって普通そういうモンなのかよ」
「んなわけないだろう」ベリッソンも困惑しているようだった。

 と、その背に。

「はいチェーック」
「逆転」

 キュルケとタバサが、杖を突きつけ、才人に向けて親指を立てた。ちなみにギーシュは描写もされない内に無力化されている。

「……参ったな」

 とかなんとかベリッソンは渋めに笑うのだが、才人はそれどころではない。いきなり左手から毛が生えたりあまつさえそれが喋るなどと言われれば気になってしょうがない。どうも本当に体毛の一部であるらしい桃毛を引っ張りながら、渾身の嫌さを込めて才人は吐き捨てた。

「なんだこれ……」
「あら。可愛い飾りね。ちょっとルイズの髪みたいじゃない」

『手』を見たキュルケがいかにものんきに言った。自分のおっぱいに謎の毛がファサーッと生えてきたら絶対こんなことは言えないはずなのに。
 しかし才人は異世界にも一日で適応した男である。それに比べれば手から毛が生えたくらいでどうだというのか。世の中には生えなくて困っている人が大勢いるのだ。それに比べれば多少桃色なくらい些細なことだ。
 それよりもと、彼はキュルケを見返した。

「いま言った名前。あの死んだ子の名前だよな。もっかい教えてくれないか? どうも忘れちまうんだよな」
『ルイズよ』

 答えた。
 キュルケではない。
 タバサでもない。
 もちろんベリッソンやギーシュであるはずがない。

「……ねえタバサ。今、ルーンが」
「喋った」

 喋ったのだった。ルーン(毛つき)が。

「まあ、こんなこともあるサ」

 才人はもう全てを受け入れる、お地蔵さまのような表情だった。
 声は、癇癪を起こしたようにさらに叫んだ。

『ルイズ。ルイズ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール! ルイズ。ル・イ・ズ! ルー、イー、ズー! ルイズルイズルイズルイズルイズ!』
「いや何回言う気だよ」お地蔵さまも思わず突っ込むほどのしつこさであった。

 キュルケは絶句して才人の手を見つめる。

「ちょっと待って。ルイズって言ったかしら、今、この毛……」
「正確にはルーン」

 タバサは一気に三メイルほどバックステップしていた。
 しかしルーン(毛)には耳がないだけに声が届いていないようで、ひたすらにテンションを高め続けるのだった。

『あーっ、もぉー! どぉしてえ! なんで聞こえないの!? どうしてだれもわたしに気づいてくれないの! わたしは! ここに! いるのにぃ!』

 なんとも微妙な視線が集中する中、ルーン(毛)がふいに輝きだした。それもちょっと頑張ってみました、というレベルではない。目が眩むほどの光である。

「うおっまぶしっ」

 誰もが思わず目を覆う。しかし、光は強まりつづけ、留まることを知らない。きんきんと才人の脳に響く声と同期するように、どこまでも、無限に――

『わたしはっ、まだっ、死んでないッ!』

 そして爆発した。

  000

 近隣住民には末永く『ピカ』と呼称されることになるその爆発は、極めて不可思議な現象を伴った。熱もあった。風もあった。当然それによる衝撃はすさまじい。実に、トリステイン魔法学院の敷地すべてを巻き込んで余りある規模の爆発だったのである。
 その威力は凄まじく、爆心から半径七百メイルに渡り、およそ原型を留めていられた構造物は存在しなかった。もっとも被害の少なかった学院の図書館でさえ半壊という有様である。校舎にいたっては更地になった。寮も三分の二が消し飛んだ。地面も抉れ、舞い上がった土砂は粉塵となって降り注いだ。
 そして、はい、ここで伏線を回収します。
 地下に埋められたり溜められたりしていた排泄物もいっしょに降ってきた。
 この時点で阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されることになる。
 しかし不幸中の幸いは、それだけの大規模な爆発事故(としかいいようがない)だったにも関わらず、死傷者が存在しなかったことだ。これは奇跡を通り越してなにかの作為を感じさせるレベルだったが、寸前までの大乱闘騒ぎのせいで「爆発での」けが人がゼロだということにほとんどの人間は気づかなかった。気づいた一部の聡い人間も、あえて押し黙っていた。というか臭いがひどくでそんなことを検討している場合ではなかったのだ。
 その後は色々なことが起こった。
 まずどうにか瓦礫から這い出してきたオスマン学院長が、きったねーゴミの山と化した魔法学院の姿に喪神してポックリ逝きかけた。実際に心臓は一度止まったが周囲の尽力もあってなんとか息を吹き返し、一命は取り留めた。なんだか美談のようだが、現実には彼が死んだらほかの誰かがこの事態の責任を取らなくてはいけないから、みんな一致団結してオスマンを助けたのだった。
 コルベール先生はとりあえず研究施設の一部が生き残っていることに安堵の息を漏らしていた。
 秘書ロングビルこと土くれのフーケは、運悪く落下してきた固形物の直撃を受けて昏倒した。命に別状はないが、いまも野外設営治療基地で悪夢にうなされている。
 シエスタや料理長のマルトーといった平民の奉公人たちは、運良く瓦礫の陰でのびていたおかげで助かった。ただし当然職場は消えたし食材も全滅である。
 ほか、大乱闘でけがを負った生徒たちはとりあえず治療を受けている。余力があるものは教員生徒問わず駆りだされ、汚物の洗浄と掃除に苦心していた。遠くで盛大な狼煙を上げて袋叩きにされたのは、「燃やせばいいんだよ!」と言い出したベリッソンである。

「るーるーるー」

 切ない目で体育座りの姿勢で歌うのはケティ・ド・ラ・ロッタであった。彼女はすべてに疲れていた。クソまみれになっちゃったギーシュを見てゲロを吐いてしまったことも脱力感の一因だ。しかし、それを差し置いてもなにかもう途方もない無常観が彼女を苛んでいたのである。
 ケティは人知れず深い懺悔をする。始祖さま、わたくしは「なかったことにしてほしい」と確かに祈りましたが、「余計ひどいことで上塗りしてほしい」なんて断じて願いませんでした。だからこれはわたしのせいではないですよね。ねえ? イエスといってよブリミル! いって。お願いだから……。

 春の夜はまだ冷える。
 あれに見えるかがり火を囲み、軽快な音楽に合わせて肩を組んで歌うのは、昼間平民に端からのされた生徒たちだった。
 宝物庫跡から見つけたという、変わった管楽器(平民は「サックス」と呼んでいた)の演奏者は、まさしく平民である。それで「平民を讃える歌」とかうたってるのだ。あほらしい。
 あんな悲惨な状況を作り上げた関係でよくもまあ和気藹々と騒げるなぁと、ケティは疲れながらも思う。とのがたって本当によくわかりませんわ。それでも楽しそうなので、ちょっと近づいてみようかという気持ちは否定できなかった。
 そうしないのは、やはり胸のどこかでケイタイを盗んだことを気にしているからなのだろう。
 ケティはふかぶかとため息をつく。
 これからどうなるのだろう。
 とりあえず少なくとも向こう一年は、魔法学院の復活は無理だろう。大規模な建築はただメイジの頭数が揃っていればいいというものではないのだ。綿密な図面を引く必要があるからである。
 となると当座生徒たちは実家に帰ることになるのだろうが、あまり気は進まない。なにしろケティは今年の春意気揚々と家を出立したばかりなのである。盛大な見送りは、まだ記憶に新しい。それでどのツラ下げて帰れというのだろう。

「どうしようかしら」

 その鍵も平民が握っている。
 だが今日はまだ明日ではない。
 ケティはしかたなく、ずっと返そうと思ってできずにいたケイタイを広げる。それからカメラの目で、歌って踊って騒いでいる人たちを捉える。

 才人はサックスを適当に吹いている。
 キュルケとタバサは、疲れきって眠っている。

 ボタンを押す。
 パシャリ。


「……よし」

 今度こそ返そう。
 ケティは立ち上がると、明かりのほうへ歩き出す。

  000

 その写真を保存すれば、面白いものが見えたかもしれない。
 たとえば、平民の少年の隣で地団太を踏んでいる、桃色の髪の小さな女の子とか。
 しかしとりあえず、魔法学院を巡る話は、ここで終わる。







[5421] おまけ
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:32




かくて悪徳は巧血を育み
時と働きに結びつき
結構な生活の事々物々
そのまことの快楽、愉悦、安易など
いよいよ高く引き上げる
貧者どもさえ昔の金持及ばぬ生活
これ以上何不足ないというほどだ
(中略)
主人や王様や貧民やみんな瞞して
王候の産をなした一人の男
そらぞらしくも大声疾呼
「積る不正で国家は滅ぶ!」と

(後略)


                    ――マンデヴィル『蜂の寓話』 上田辰之助訳




 ケティとモンモランシーの誘拐から八日が過ぎた。平賀才人がハルケギニアに召喚されてから二週間以上が経ったことになる。これ以上はないだろうと思われた後世『グラウンド・ゼロ』と呼ばれる出来事を終えてからも、彼の道程はいつ見ても波乱万丈であった。
 その仔細は後述するが、いまはとりあえず決行を間近に控えた『ヴォー・ル・ヴィコント作戦』に眼目を置く。
 ヴォー・ル・ヴィコントといえば、在りし日のフランスにおいて権勢を振るいまくったニコラ・フーケさんの落日にたいへんゆかりのあるネーミングである。そしてこちらの計画立案者も当然『土くれ』のフーケ。しかし才人も含めこの場にはそんな事実を知っているものはいない。それにアラのひとつや十や百、もともとざるよりも水ただ漏れかつ力押しバンザイ運頼みサイコーなプロジェクトだからなんの問題もない。
 それでも参加メンバーの顔色は真剣そのものである。
 何しろ人命と人生がかかっている。マジにもなろうというものだった。

「お歴々、いよいよ明日だ」

 クルデンホルフ大公家の名において貸し切られた奢侈な宿のスイートルームに彼らはいる。
 その一室で座の中心に立つのは誰あろうギーシュ・ド・グラモンである。彼はここ最近ですっかり憔悴し、磨耗し、挫折を知り、ゆえに成長を遂げていた。
 とはいえ、経験を得て成長するのは当然のことである。それが一躍雄飛してかつてを眼下に置くほどのものにならぬのもまた道理だ。よってたかって押し付けられた重圧に彼の胃腸は断末魔の叫びをあげつづけている。最近の彼は青銅のおまるを『錬金』する魔法が無駄に上達しているくらいである。

「最終確認をさせていただこう。ここから先はもう後戻りはできない。よろしいか!」

 集ったメンツは思い思いの表情で、まあ全体的に適当な感じで頷いた。

 ここでヴォー・ル・ヴィコント作戦(以下V2作戦)の参加要員を順不同で紹介する。
 まずはいわずもがなのギーシュ・ド・グラモン。わりといいとこの四男であり、今はもうないトリステイン魔法学院の二年生でもあった。
 彼の脇で黙然と張り詰めた空気をふりまくのはアニエス。姓はない。貧民の女である。元トリスタニア衛士であり、諸々の事情で本来関係ないのに首を突っ込んできた復讐鬼である。そうだねそんなのみんな知ってるね。

 そしてそのアニエスにすっかり目をつけられたのが一応主人公の平賀才人。例のルーンはパワーアップして健在だ。しかし彼の眼はスーパーでラッピングされた魚のように死んでいた。理由は右腕を控えめに、だがしっかとつかんで離さない金髪のツインテールの女の子にある。

 その名も気高きベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフ。大公の実子であり愛娘でありV2作戦の成功には欠かせない要の少女である。才人は実質彼女に差し出されたイケニエだった。詳細はやはり追々知れるとして、「他の女の子なんか見ないで話さないで触れないで!」「さもないと殺す」と放言するベアトリスのせいで才人はもう限界を超えていた。むしろ既に三回ほど刺されかけていた。当たり前だが彼女が才人に惚れる理由なんて微塵もない。クスリのパワーである。

 その様子を見てにやにや笑っているのが『土くれ』のフーケやらロングビルやらマチルダさんやらと、実に多彩な名前を持つ妙齢の美女であった。いろいろと面倒で複雑な事情が絡み合った結果、彼女とて命がかかっている事態に陥ったが、その不屈の根性はいまだ折れてはいない。むしろ危地にあって平静を保っている。しかしフーケはいうまでもなく犯罪者。裏切るも逃亡するも自在の立場である。ベアトリスとは違う意味で、彼女は成功の可否を握っている。

 以下キュルケ、タバサ、オールド・オスマンとコルベール先生、シエスタにマルトーと続く。他にもいるがさすがに数が多いので別室で待機している。多士済々というか混沌にもほどがあるメンバーである。おそらくハルケギニア史において、こうまで無節操なパーティが組まれた例は稀であろう。
 この豪華キャストが相手取るのは、果たしてどこの悪漢なのか。
 それを一言ではとても言い尽くせない。各々が敵と定めたものは違うからだ。賭すものも異なる。あるいは未来。あるいは愛。あるいは過去。あるいは金。そしてあるいは人権。
 取りまとめてわかりやすくすればリッシュモン高等法院院長と彼に与する郎党ということになるのだろう。しかし作戦にはトリステイン王国そのものにケンカを売るような条目も含まれている。
 ある意味では彼らは、そう、テロリストなのだった。
 メイジではない。
 平民でもない。
 ましてや異世界だなんてなにをかいわんや。
 私利私欲や打算や執念や好奇心。あと性欲。人を衝き動かすもっとも根本的な要素がより合わせられて偶発的に生まれた集団。それが彼ら彼女らであった。中には普通に無理やり巻き込まれたものもいるが、大きなうねりとは得てしてそういうものである。竜に頭をばっくりと噛まれたと思って諦めるしかない。

「では覚悟したまえ」

 ギーシュが重々しく口を開く。剽軽な性質はすっかり身をひそめ、

「……ぼくは正直逃げたい。勘弁してほしい」

 ビビリが思いきり表面化していた。一週間ですでに二百回は吐いた泣き言だった。

「今さらおせー」才人が生気のない声で呟いた。

 それで不機嫌になったベアトリスが、表面上はそ知らぬ顔を装いつつも才人の左手から生えてる毛をむしる。どうやらもう同性であろうと会話の自由はなかった。

「逃げたいのは俺のほうだ……」また余計なことを漏らした。

 右手にぐさっとフォークが刺さった。

「うわあぁおぉい!?」

 悲鳴をあげるが、転げまわることもできない。ベアトリスの病んだ眼差しが彼を串刺しにしていた。

「どうか、お逃げにならないで平民。あなたが逃げたら、わたくし死んでしまうわ。あなたをコロシテから」

 ありきたりすぎて陳腐な病み具合であった。しょせん魔法で狂った理性である。

「べっ、ベアトリス……」才人は口ごもりながら懸命に運命を呪った。それくらいしかすることがない。
「やだ……っ」

 突然可愛らしい声でベアトリスが囁いた。

「ベティってお呼びになって? いつもみたいに。……ああ、いけないわ、わたくしったらいけないベティだわ、また平民に血を流させて……、この一滴さえ、わたくしのものなのに」

 あまつさえ血の滲んだ肌に舌を這わせた。見ようによっては倒錯的でエロいのだが、才人も含めた周囲の人間にとってはそれ以上にホラーである。
 高慢ちきなベアトリス殿下の姿を知るギーシュなどにとってはなおさらだ。ひきつけでも起こしかねない様子で必死で眼をそらしていた。
 才人はちびりそうになりながらブロックサインでシエスタに向けて「タスケテ」と発信した。同じく泣きそうなシエスタがすごく自分の無力さに絶望した表情で「ムリデス」と返信した。

 才人はこのままではいずれ己の命脈が尽きることをあらためて確信した。
 死にたくない。
 だが、この先生きのこるには。
 なにがなんでも作戦を成功させてケティとモンモランシーを救い出さねばならない。
 そのためならなんだってしてやる。メイジくらい何十人だって相手してやる…。才人は修羅となる覚悟を決めた。

 はああぁ、と産廃でも吐き出すように大仰な仕草で、ギーシュが嘆息する。

「では、今宵これより『ヴォー・ル・ヴィコント作戦』を開始する。各員、時計を合わせたまえ」

 コルベール先生のお手製時計は人数分揃えられている。半犯罪行為にいい顔をしない彼も、この工作ばかりは嬉々として行った。

「手はずは整えた。人事も尽くした。だが天命は待たない。それすら自力でもぎとろう。ぼくはみなの奮闘を期待するものである」
「では、合言葉を。ギーシュ殿」ベアトリスが口を開く。

 ギーシュも含めた全員がすごくイヤな顔をした。彼女が狂った脳みそで考案したこの符丁が一応V2計画のキャッチコピーなのだが、なにしろ狂っているだけに評判はすこぶる悪い。しかし面と向かってベアトリスに文句を言うのは恐怖である。機嫌を損ねるとまずいとかそういう次元でさえなかった。

「合言葉を」とベアトリスは繰り返す。
「う、うむ。わかっているとも」

 たっぷり二十秒の沈黙。気まずい視線が行き交って、痛々しい静寂を織り上げていく。
 そして。
 半ばやけになって、ギーシュが声を張り上げた。

「ファースッキッスから! ふぁーじまれぅ!」
『ふーったりの●いのひっすてぉりー!』

 部屋にいた全員が唱和する。ほぼ全員の心情が「勘弁してください」で一致している。ただしベアトリスとオールド・オスマンだけが乗り気だった。

 なお、以下は著作権法に違反する恐れがあるため、実在のアニメ『ゼロの使い魔』一期OPテーマとは一切関わりのない文章であることをここにお断りします。

You who had this fate to make the start suddenly
  witch it from a live
 kiss to it to it first stood out
  and even the history of love of two stood out.

 (始めに最初にそれにそれに突然ライブキスから
  それまで魔法をかけさせるこの運命を持っていた
  あなたが際立っていました
  そして2の愛の歴史さえ際立っていました)

 ※訳者:エキサイト先生

 最悪だった。
 少女たちはまだいい。しかしいい年して地獄のようなラブソングっぽい文句の絶叫を強いられるフーケやアニエスやコルベールやマルトーにとっては「いっそ殺せ」というくらいの恥辱である。実際あくまで例えばの話だけれども、コルベールにはこんな経験があった。深夜三時ごろ独りカラオケで何を狂ったかメドレーとかタイトルしか知らないのに歌おうとしたらまず高音過ぎて声出ないしそれでも無理して敢行するんだけど「ギュッと!」「ずっと!」とかCサビの手前でバチーン☆てフリつけてたらドアのお外の従業員と目があっちゃってみたいな、「失礼します。ウーロン茶です」「君が突然現れた」みたいな……、そういうことがもしあったりしたら、いやなかったんだけれど、もうそのお店にはいけないと思うコルベールである。わざとらしくどこにも繋がってない携帯に向かってこの罰ゲームきついんだけどー!超イタい人みたいなんですけどー!みたいなことを言っててもあのお姉さんはきっと見透かしていたんだ、とコルベールはコルベールは述懐してみたり。
 だがみんなで歌うと確かに連帯感みたいなどす黒い感情は生まれるので、実はそれなりに効果があるのかもしれない。
 Aメロを叫びながら(当然符丁は緊急時以外フルコーラスで叫ばなくてはならない)、才人の決意は早くも濁っていた。たしかにやるよ。やるっていったよ。命だってかけんよ。

 だけど、と思わざるをえない。

 なんで、こんなことになったんだろうな――。





  000

  000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 000

  000






 時間をかなりさかのぼる。ことの発端、トリステイン魔法学院が崩壊したまさにその日。
 草木も眠る丑三つ時、『雪風』のタバサは本塔跡地への侵入を果たしていた。
 魔法学院はもともと本塔を中心にしていた構造である。周囲にはいくつか他の塔や建造物もあった。しかし昼間の爆発でそうした主だった施設は根こそぎ吹っ飛んでしまい、偶然完全な瓦解を逃れた本塔にしてもクレーターの真ん中に斜めに突き刺さっているというかなり世紀末的状態になっている。
 生徒たちは基本タフでバカなのでそんな本塔に興味しんしんだったが、当然教師陣はそんなデンジャラスな遊びは許さない。夜を徹しての守備態勢がしかれることになった。
 そして、タバサはそこに忍び込んだ。
 ――わけではない。もっとスマートな手段を使っている。こんなときだけシュヴァリエの勲章を持っていることをアピールし、守衛のひとりに立候補したのである。教師たちも本音ではもう今さら生徒がひとり自爆して生き埋めになろうが構わないというくらい疲弊していたから、楽できるのは渡りに船だ。申し出はなんなく受け入れられた。
 彼女の目的は今まで学生の身分では閲覧できなかった『フェニアのライブラリー』跡である。
 廊下があちこち潰れていた上足場が非常に不安定だったので、タバサは『レビテーション』で図書館があるフロアの窓まで浮いてから、窓枠ごと破壊して内部への侵入を図った。
 案の定本棚は倒れ、整然と並べられていた古書はすべて床にばら撒かれていたが、問題はない。タバサは袖まくりして本の山へ向かう。本命以外にも興味をそそられるタイトルがどうせいくつもあるだろうが、何、問題はない。窃盗の準備はもうできている。用が済んだあとは建物にトドメを刺して証拠を隠滅すればよいのだ。
 いや、これは窃盗ではない。夜陰の中でタバサの目が炯炯と光をたたえた。
 文化保全だ。
 稀覯本が今まさに喪われようとしているのに「えらいこっちゃ」としか言わないあの教師どもに代わり、自分がその崇高な使命を果たすのだ。
 だいたい書痴のケがある人間とはこういうものである。
 だから文化保全というのもただの自己弁護ではなく、素でタバサはそう結論付けた。そしてとりあえず『勇者イーヴァルディ』の初版本を懐におさめた。それが二時間ほど前のことである。
 その場に布団と枕とランプと飲み物と菓子でも用意して巣作りしたい欲求をぐっとこらえて、あらかた目ぼしいタイトルを風呂敷に包んでは、逐一使い魔のシルフィードを呼び寄せ急遽作成した隠し場所に運ばせる。論文類はかさばる上にモノによっては題名では予想がつかないテーマで語られていることもあるので、特に念入りに精査した。
 一読して目的にかないそうなものは残念ながらなかったが、それでも現状では大きな助けに成りうる資料だろう。タバサは欲をかかず満足することにした。
 夜も相当深い。一応夕方から夜にかけて仮眠は取ったが、タバサは昼間の疲労も手伝い、さすがに眠気を覚えていた。喧嘩ではトライアングルスペルも使ったのである。普通ならば深い睡眠が必要な状態であった。
 そろそろ支柱にウィンディアイシクルでも叩き込んでお暇しようかと思ったとき、ランプの明かりに照らされた、ある本の背表紙が視界に入った。

『学院全史 1』

 重厚な代物である。しかも保存状態が悪い。おそらく固定化の魔法が切れかけているのだ。相当な年代物だと推察できる。

「……」

 内容は考えるまでもない。重厚なタイトルで中身がエロ本という可能性もあるが、ざっとあらためたところその心配はないようだ。
 そういえば、とタバサは思う。トリステイン魔法学院の来し方について、実のところ自分はよく知らない。異国出身ということもあるが、恐らく大半の生徒が同じだ。オスマン学院長は栄光に合わせてよく未来を語ったが、少なくともタバサは学院の詳しい来歴についての話を聞いたことはない。
 気まぐれに本を手に取る。
 軽くページを煽って紙をほぐすと、彼女は目次に目を通した。

「……これは」

 思った以上に興味深い内容がそこにあった。
 始まりの小題は『王立魔法研究所支部』。それがどうやら、魔法学院の前身であるようだった。悪名高き魔法アカデミーの名を冠されている。教育機関と研究機関は地続きに運用されることが、確かに多い。領地の相続がなければ卒院後アカデミーに進路を取る生徒も少なくないと聞く。両者に関係性があるのは、ある意味で自然なことである。
 しかし、それならばなぜあまり知られていないのか?
 そして教員しか閲覧できないライブラリーに収められていたのか?
 本当に栄えある学院史ならば、一般生徒の目に付く場所にこそ置くべきなのだ。
 タバサの優れた嗅覚が、なにやらきな臭いものを感じ取っていた。
 しかしページを進めようとした矢先、唐突な物音が響いた。タバサは肩を震わせ、一瞬で気を立て直す。そしてすぐさま杖を手に取り身を伏せると、気配を殺して音の出所を探った。

「――」

 緊張の数秒が続く。教員か、もしくは生徒か。そのどちらでもない場合は――ちらりと脳裏に毛の生えた左手が過ぎる――考えたくない。
 直後、聞こえてきたのは妙な歌だった。

『これはこの世の事ならず。死出の山路の裾野なる。
 賽の河原の物語。聞くにつけても哀れなり。
 この世に生まれし甲斐もなく……』
 
 なんだこの電波ソングは。
 夜。
 崩壊した図書館。
 そしてこの歌。
 これはやばい。人間ではない。だって普通、貴族が崩壊寸前の夜の図書館に来て変な歌を唄うなんてありえないだろう。
 決まりだ。
 これはアレだ。
 タバサは全身を硬直させる。固く目を閉じて歌が過ぎ去るのをひたすらに願う。なんてことだろう。周囲を警戒して『サイレント』の魔法を使わずにいたのが悪かったのか。それとも勝手に入り込んで書物を持っていったのがいけなかったのか。しかしだからといってこんな怖い歌を聴かせるのは反則だ。
 まず妙に低い声で歌われるのが良くない。わざわざリスナーに恐怖感を与えるような仕様だ。これでは駄目。売れない。ミリオンは無理。タバサはひたすら駄目だしに集中して恐怖を感じる暇をなくそうと試みる。しかし、

『河原に明け暮れ野宿して。
 西に向いて父恋しい。東に向いて母恋しい。
 恋し恋しと泣く声は、この世の声とは事変わり、悲しさ骨身を通すなり』

 歌は続く。
 しかも泣かしに来た。
 怖い上に欝。
 タバサはもう駄目だった。
 こんな時間にこんな場所に来たことを真剣に後悔する。後悔する間にも歌詞が耳に入ってきて、タバサの実は感受性豊かな脳がまぶたにまざまざと歌の情景を描くのだった。
 荒涼とした砂礫の大地。
 そばには冷たい川が流れている。
 あたりはいつとも知れぬ時間帯であり、霧靄に包まれ視界は悪い。そんな世界の果てのような景色の中で、かわいそうな子供がぽつんと河原に屈んでいる。彼女の表情は冴えない。ひたすら悲嘆と絶望に暮れている。そして両親を思って泣きながら石を積んでいく。なぜだかわからないが、この場所ではそれが唯一できる親孝行なのだ。設定魔的なところがあるタバサはその行為にかなりエキセントリックな意味づけをした。きっとこの石を積み上げて塔を完成させれば、彼女っていうかシャルロットは在りし日の思い出を束の間振り返ることができるのだ。戻れるわけではないところがポイントである。
 だいたい合っていた。
 ひとつ積んでは父のため……ふたつ積んでは母のため……みっつ積んではふるさとの……タバサはすっかり歌の主人公に感情移入していた。ただし無表情だった。
 固唾を呑んで展開に聞き入る。怖いが、今さら聞くのを止めるほうがもっと怖い。しかし一瞬後怖さなど吹き飛ばす衝撃の急展開がシャルロットを待ち構えていたのだった。
 鬼が。
 積み上げた石を。
 崩しやがった!
 なんという外道。義にもとる所業。
 タバサは怒った。怒りのあまり脳内では河原で途方に暮れるシャルロットの前に時空を超越して勇者が現れた。そして勇者が彼のオリジナル魔法であるオクタゴンスペル(四大系統魔法を極めた超メイジのみが使えるガリア王家に伝わる最終魔法奥義。スクウェアスペルを重ね掛けすることによってその威力は大ハルケギニア最終神をも一撃で素粒子レベルにまで分解する。という設定)を駆使して鬼を退治する展開まで空想した。
 しかし鬼は言う。俺を恨むなこれも仕事だ。おまえが先立ったことで悲しみに明け暮れた両親の嘆きこそが、おまえを苦しめるもととなっているんだ。鉄の棒を差し伸べて、彼は決まり悪そうに石塔を崩していく。
 そうだったのだと、シャルロットはとうとう悟ってしまう。ここは死後の世界。そして彼女は地上に両親を残して逝ってしまった。それこそが彼女の罪。未来永劫報われぬ……。そういえば冒頭に伏線もあった。叙述トリックだ。タバサは舌を巻いた。この歌。できる。
 起承転。こうしてバッドエンドで終わるのかと、タバサが認めかけたそのときであった。
 救いの御手が差し伸べられた。
 お地蔵さまの登場である。それもう慈悲深い顔をしてお地蔵さまはおっしゃられた。あとは俺に任せな。面倒は全部見てやる。そしてシャルロットをすくいあげ、こうのたまう。
 南無延命地蔵大菩薩。
 オンカカカビサンマエイソワカ。
 梵語で「ありがたいお地蔵さまよ」という意味である。
 ハッピーエンドだ。起承転転結。これは正しいエンターテイメントである。
 タバサは本能の導きに従い両手を合わせて唱えた。ナムナム。
 ハルケギニア人が史上初めて軽く仏法に帰依した瞬間である。
 歌はそこで終わった。うーん、という唸り声が聞こえてくる。どうして俺は『地蔵和讃』なんかフルで覚えてるんだろうなぁ嫌気が差してきた。という具体的な唸りだった。
 タバサは倒れた本棚の陰から、そっと声の主をうかがう。

「うお。むちゃくちゃでっかい本棚だなぁ。よくけが人が出なかったなこりゃ」

 現れたのは、つまりずっと歌をうたっていたのは、学院崩壊の元凶こと、平賀才人であった。
 タバサはそっと杖を上げると、『エアハンマー』の呪文を唱えた。

「ぱぐッ」

 圧縮された空気の塊がピンポイントで頭部を直撃し、才人は声を残してその場に崩れ落ちる。タバサは立ち上がり昏倒した才人を冷たい目で見下ろす。
 昼間の彼の動きを思い出した。今の一撃を受けるようでは食堂で死んでいなくてはおかしいのだが、さてこれは一体どういうことだろう。平民の雄にもさすがに疲れが見えたということなのか。

「……」

 腹いせでやっただけなので、気絶させた意味は特にない。無言で才人に近寄ると、タバサは白目を剥いた顔をじろじろと観察する。
 体格はそこそこよいが、肉付きは貧弱だ。掌も貴族のそれのように柔らかい。鍛錬の後が見えない。これは道理にそぐわない。
 とすると、単に持って生まれた運動神経とセンスだけでそれなりに「やる」タイプなのかもしれない。もしそうならば、仮に彼がまた凶行に走っても問題はないだろう。下積みがない力は、簡単に足元から切り崩せる。
 しかし。タバサはあえて見ずにいた才人の左手をいやいや見た。
 見慣れぬルーン。それはまだいい。
 ……生えてる。間違いなく生えてる……。
 爆発以降は沈黙を守ったままのルーンだが、誰もあのとき聞こえた声については話題にしなかった。才人の手に生えたこの『毛』についても突っ込まなかった。それどころではなかったし、何だか触れてはいけないもののように思えたからだ。
 タバサは逡巡する。一応、確認すべきだろうか。しかし下手なことをして感染したりしたら目も当てられないことになる。ルーンに触れようか迷った挙句結局止めて、

「!?」

 その手に起こった異変をとうとう見てしまった。
 ルーンが……微妙にふくらんでいる。ボコ(Ω)って感じになっている。
 タバサは思った。
 ――わたしは何も見なかった。

「ん、んん……あれ。ここどこ。俺なんでこんなところに」

 寝ぼける才人の足を引きずって、図書館から出ることにする。
 二人はその帰りに学院跡地をゴーレムを使ってせっせと掘り返すミス・ロングビルの姿を目撃するのだった。

  000

 ロングビルこと『土くれ』のフーケは、過去を振り返る。名門サウスゴータ家のマチルダさんとして生まれた少女時代から、父親が主君に当たる大公の妾をかばったばかりにお家取り潰しの憂き目を見ることになった青春時代。今さらそれを嘆いて足を止めるようなつもりもないけれど、さすがに汚物を顔面に食らって怪我を負えば心が切なくもなる。
 唐突だが彼女は怪盗である。
 トリステイン城下町の貴族を狙う、巷間賑わす時の人なのだ。
 そんな彼女が二ヶ月も前からもぐりこんで目当てにしていた魔法学院の宝、『破壊の杖』の所在も、宝物庫がなくなってしまった今では絶望的になっていた。それでも彼女が諦めずこっそり小型のゴーレムを使って土を掘り返すのは、そうでもしないとやってられないからである。
 無論根拠もなく無為を重ねているわけではない。『破壊の杖』ほどの秘宝ならば、かなり高度な固定化がかけられているはずである。宝物庫そのものの強度は折り紙つきであったから、内部の宝物にも無事なものはあるはずだ。
 実際彼女は既にいくつかの宝を手に入れていた。中でも文字通りの掘り出し物は『眠りの鐘』である。これは訓練を受けた衛士でさえ不意をつかれれば抗う間もなく眠らされてしまうというかなり強力なマジックアイテムだ。早速これを使用して、フーケは見回りに立っていた教師をほぼ全員夢の世界に案内していた。
 邪魔をするものはない。
 宿主を失った土地の夜は寂々として、双つの月のみ変わらず皓々と照っている。そして月光のもと、まだあちこちに臭いが残っているクレーターの中で妙齢の美女がごみ漁り。
 しかも、爆発のためか夕方に一度にわか雨が降った。地面は少しぬかるんでいる。

「あたし、何やってるんだろう……」

 フーケは言ってはいけないことを言ってしまった。
 それを言ったら今の状況全てが成り立たなくなる。
 我に返ったらもう駄目だった。
 馬鹿馬鹿しい。やってられない。あーあ、瓦礫の整理なんかやっちゃって、これじゃ泥棒というよりボランティアだ。こんなものは貴族のガキどもにやらせておけばいいのだ。
 拾い上げた変わった形の筒を拾い上げ、すんすん嗅いでから顔をしかめてぽいっと捨てた。ゴーレムを土に還し、このまま逐電することを真剣に考慮する。久しぶりに故郷に帰ってみるのもいいかもしれない。そろそろ貴族も本腰をいれて討伐に乗り出す頃だろう。フーケとて腕に覚えのあるメイジだが、さすがに衛士隊のエリートや噂に聞くアカデミーの小隊との争いは避けたい。夜空に寄り添うふたつの月を見て、フーケはとある少女(の胸)を思い出した。あの子どうしてるかなぁ。元気かなぁ。たぶん帰ったらまたおっぱい育っちゃってるんだろうなぁ。
 軽いホームシックに駆られたその瞬間、フーケの耳が、物音を捉えた。

「……誰ですか?」

 蓮っ葉な口調を改め、『ミス・ロングビル』としての仮面を被る。貴族向けの喋り方なんか心得たものだ。カーテシーだってどんと来いである。

「あ、どうも」

 だから物陰から平民が現れたときには覚えず気抜けした。が、少年の顔に見覚えがない。二ヶ月のあいだ、学院内では一度も見なかった平民。フーケは目を細めた。

「こんな夜分になんの用ですか。このあたりは危険です。立ち入らないほうがよろしいかと」
「はあ。すんません。だけど俺、なんか寝られなくて。ちょっと不安っていうか」

 テメエの事情なんざ知るかボケ。
 という心の内を見事に隠して、フーケは慈母のごとき笑みを浮かべた。

「まあ。悩み事ですか?」それなら身近な人に相談すると良いですよ、と適当なアドバイスをしようとしたところで、
「俺の友だちのことなんですけどね。ちょっとおねえさん聞いてくれます?」

 機先を制された。
 しかも「俺の友だち」ときた。フーケはあざけりのこもった生暖かい視線を眼前の平民に送った。きたよきた。なんだよ「友だち」って。どうせおまえのことなんだろう。

「え、ええ。わたくしでよろしければ……」

 フーケは渋々頷く。決して「おねえさん」と呼ばれたことが嬉しいわけではない。確かに23歳は適齢期を越えているが、そうではないのだ。

「マジで? おねえさんいい人だなぁ。こっち来て会った中で初対面でそんな対応してくれたの初めてだ。じゃあちょっと聞いてくださいよ。俺、の友だちがある日いきなりここ。じゃなくて、見覚えない場所に連れてこられたんだけど……」

 二人は適当な瓦礫に腰を降ろして向かい合う。
 少年は堰を切ったように喋りだした。フーケは半笑いで彼の身の上話を聞き流していたが、ことが食堂で順繰りに貴族をシメた段階にまで達すると面白いやら呆れるやらで吹き出してしまう。

「あら、失礼。どうぞ続けてくださいな」

 その優雅な物言いに、ほんのりと平民の頬が赤く染まる。フフ。あたしに惚れちゃいけないよボウヤ。ほどなく全てを語り終えて、彼はフーケをうかがう。要約すると彼が気になっているのはこういうことだった。

Q.ひょっとして平民が貴族の顔面をへこませたらやばいの?

 フーケは微笑んだ。

A.死刑です

「ハハハ。そうかあ。ハハハ」少年は空笑いを繰り返した。それからやるせない顔で吐息すると、やっぱりなぁ、と呟くのだった。

 頃合だ。フーケは立ち上がると、杖を手に取った。きょとんとした顔で自分を見上げる少年に、先ほどまでとは色の違う、凄艶な眼差しを向ける。

「さて、ぼうや」
「ぼ、ぼうや?」
「お友だちには、死にたくなかったらさっさと逃げたほうがいいって伝えてやるんだね。もっとも、貴族ときたらメンツばかり大事にする連中だ。ひょっとしたら、地の果てまで追われるかもしれない。なにそれでも、平民だって抗うことはできるさ。魔法がなくたって、あんたたちには考える頭があるだろう?」
「おねえさん……」

 豹変したフーケに何かを感じ取ったのか、平民は態度を改める。
 ――と、不意にその足元に転がる物体に手を触れた瞬間、彼の顔色が変わった。

「な、……なんだこれ」

 フーケは杖を一振りする。大地が鳴動し、瞬く間に視界が移り変わる。魔法がその効果を表したとき、彼女は全長30メイルはあろうかというゴーレムの肩に立っていた。
 その様を見て、平民はなんだかとても疲れたような顔を見せた。あいつの言うとおりかよ。運命だと思ったのにな、とか、俺のヒロインはどこにいるんだ、などという呟きを漏らしていた。

「それじゃ、あたしは一足お先にとんずらさせてもらうよ。じゃあねぼうや。もしもあんたが生きてたら、どうせ日の当たる道はもう歩けまい、縁があれば会うこともあるだろう」

 ゴーレムがきびすを返す。足音響かせクレーターから出ようとしたとき、焦ったような少年の声がかかる。

「待ってくれおねーさん、今コレ拾うからちょっと待って! そうだ! おねーさんの名前をせめて!」
「あたしかい?」

 月をバックにフーケはポーズを決める。肩越しに少年を振り返り、高らかに名乗りを上げる。

「あたしは『土くれ』のフーケ! ちまたを賑わす大泥棒とは、あたしのことさ!」
「ありがとう!」少年は感極まったように叫んだ。「俺、大事なことを学んだよフーケ! この世界じゃ他人に気を許しちゃ駄目なんだ!」
「よしな。照れるじゃないか。礼には及ばないよ。それよりぼうや、その担いでるの何?」

 彼は先ほどフーケが捨てた筒を肩に背負っている。
 その先端をゴーレムの背中に向けて、平民はまったいらな声で答えた。

「M72ロケットランチャー」

 直後、しゅぼっと気の抜けた音が走る。フーケは呆気に取られたままだ。
 ものすごい勢いで走った白煙が尾をたなびかせ、ゴーレムに突き刺さる。
 爆音と衝撃が足元から押し寄せる。一瞬でゴーレムの体は中心から吹き飛んだ。足場が失せる。
 落下していく。
 その最中、フーケは見た。
 頭上に浮かぶ、風竜を。
 竜の背に、佇立する小柄なシルエット。ぱんぱんに膨らんだ体よりも大きな風呂敷を背負った少女が、杖を掲げた。

「謀ったな、小娘……っ」

 皆まで言い切るいとまはない。少女はすでに呪文を完成させていた。

〝エア・ハンマー〟

 激しく頭部が揺れ、脳が攪拌される。
 眩む目。定まらぬ視界。吐気がこみ上げる。受身を思いつく前に、フーケの意識は途絶した。

  000

 ところ変わってゲルマニア領。一夜明けて早朝である。トリステイン王女アンリエッタは、ユニコーンに引かれる絢爛豪華な馬車に揺られて聞こえよがしにため息をつく。宝石と市井に謳われるほどの美貌は、心痛にうっすらと曇り、碧眼からも常の輝きが損なわれていた。
 実質の為政者名代であるマザリーニ枢機卿をともなった、ゲルマニア訪問の真っ最中であった。トリステイン外交として極めて重大な意味を持つゲルマニア皇帝アルブレヒト三世との顔合わせは、今のところ実に好感触である。このぶんでは、目的とされたアンリエッタと皇帝との婚約はつつがなく結ばれるだろう。
 本音を幾重にもヴェールで包んだようなトリステイン側に対し、ゲルマニア側は皇帝をはじめ実に直截的な文句で婚姻の話題に何度も言及した。文化の違いといってしまえばそれまでだが、これにはアンリエッタもげんなりである。元々乗り気ではない結婚だが、なにもここまで憂鬱にさせてくれなくてもいいのに。思わずそんな無体なことを考えてしまうほどだ。

「はふう」

 レースのカーテンを避け、外界の様子をのぞき見る。春の陽気に芽吹く花々や、物見高いゲルマニアの人々が、他国の王女を一目見ようとぶんぶん集っていた。アンリエッタは余計うんざりした。
 水晶の王杖を握り締めて、彼女は嘆息する。

「結婚するのね、わたし」
「そうですとも」

『トリガラ』のあだ名で親しまれたり嫌われたりしているマザリーニ枢機卿は、軍事上たいへん有意義な婚姻に満足している。それは小さい頃から見知ったアンリエッタ王女が望まぬ結婚をするのを見て気分がいいわけではないが、こうまで露骨に欝に入られると正直かなりうざい。
 王族が第一に考えるべきは国体の保持である。血統の保存である。それは引いては王家にかしずく家臣たちへの報いにつながる。封建制とは決して騎士道に見られる精神的関係の体制化ではない。立派なギブアンドテイクの心がけに基づく合理的なシステムなのである。
 王は強い国を作る。そのために多くの部下が必要になる。そして部下は勝ち目のないボスにはつかない。必然王とは強大なものがなる。
 その上で、土地を与えることで忠誠を得るのが大前提なのだ。骨の髄までしつけを叩き込まれた犬でさえ虐待されれば飼い主の手を噛む。自尊心の高い貴族が、自分を自動王女さまお助けマシーンか何かだと思ってるような相手にいつまでも肩入れするはずがない。
 だから、経緯はどうあれアルビオンでの内乱の趨勢がほとんど決した今、この婚約はとてもいい縁談に他ならないのである。トリステインという伝統ばかりいっちょまえの小国が生き残る方策としては、これ以上ないほどだ。ゲルマニアは歴史を手に入れる。トリステインは武力を手に入れる。すばらしい相互補完である。
 なのに、アンリエッタは今日も気だるげ。
 マザリーニが「育て方間違えたなぁ」と思うのも無理からぬことであった。
 枢機卿の白い目に気づきながらも、アンリエッタはぶっきらぼうに訊ねた。

「ところで、今後の予定は?」

 彼女の記憶ではこれからたっぷり数週間をかけてゲルマニア内を巡ることになっていたはずだ。トリステインの十倍近い国土を誇るだけあって、ゲルマニアでは都市や各地の大貴族の権勢が強い。実質の自治を敷いているといっても過言ではないだろう。それらをあまねく訪ねる時間はないが、現皇帝の親派閥に顔を見せて損はない。
 アンリエッタにとっては気苦労ばかりが募る道行になるはずだった。また帰国の段になっても、途上では処々行幸する義務が彼女にはある。最終的にはトリスタニア近くの魔法学院で有力貴族の子弟たちに顔見せして、ようやく息苦しい王城への帰還がなるわけである。
 その魔法学院への行幸について、アンリエッタにはちょっとした腹案があった。古い友人を頼り、してもらいたいことがあったのである。
 マザリーニは珍しく言いにくそうに言葉を濁すと、そのことですが、と切り出した。

「本来の予定では一度近辺の都市に行幸いただくはずでしたが、少々手違いが発生しました。よってまずこのツェルプストーを越えて、その後はヴァリエール公爵領に十日ほど滞在していただきます」
「え?」

 願ったり叶ったりとはいえ、いきなり予定をすっ飛ばして帰国とは、ずいぶんと急な話である。マザリーニらしくもない。ぼんやりと枢機卿の言葉を咀嚼して、アンリエッタは首をかしげた。

「まあ。ヴァリエール領ですか……。あそこには懐かしいおともだちがいるのよ。今は魔法学院にいるのだけど。それにしても十日とはいかにも長いわ。手違いと言いましたが、なにがあったのです?」
「昨日、ヴァリエール公爵の三女、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢が急死しました。姫さまにはその葬儀に参列していただきます」
「まあ。お可愛そうに。そう。ルイズが。………………るいず?」

 アンリエッタは小首を傾げる。ヴァリエールさんちのルイズちゃんって他にもう一人いたかしら? ともだちのルイズは今魔法学院にいるはず。それにしても同じ名前の娘を二人なんて、わかりにくいわ。片方だけに用事があるときはどうするの。

「姫さま」とマザリーニが首を振って言う。「亡くなられたのは、姫さまの幼馴染で、魔法学院に在籍していた、まさにそのルイズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢なのです」
「あら。やっぱりそうなのね」

 アンリエッタは愛くるしい顔で笑った。
 それから白目を剥いて卒倒した。
 マザリーニはため息をついた。誰かどうにかしてくれないかなぁこの姫さま。

  000

 そしてトリステイン魔法学院(跡地)にも、朝が来る。未明に起きたロングビルお縄事件も手伝い、こちらは慌しい始まりとなった。

 ところで宿をなくした生徒たちだが、一晩くらいならばということでかがり火を囲んでの野宿をすることになった。雨露対策として土のメイジが団結して土の屋根に金属の支柱を『錬金』したため、急造のキャンプとしてはなかなか上等な規模である。また運良く自室の消滅を免れた生徒の中には危険を承知で寮で夜を明かしたものあった。友人の部屋に転がりこんだものなどもいたから、全体としては半々の割合である。
 そうして迎えた長い夜を越え。
 曙光とともにメイジたちの一日が始まった。
 当日はなんとか目の前の現実に対処しようと精一杯だった生徒たちも、一夜明けて状況を認識すると、ようやく「これからどうしよう」という不安に突き当たるのだった。

「これからどうしようか?」
「どうしようって、学院がなくなったんだからもうどうしようもないのではなくて?」
「じゃあやっぱり実家に帰るのかい」
「そうなりますわね。……はあ」
「なんだ、気乗りしない様子だね」
「だって……実家になんて帰ったらソッコーで結婚させられちゃうんだもの! いやだわ。わたしまだ遊びたいわ」

 という感じにモラトリアム消滅の危機をなげく人間が大半だが、それでももっとも現実的な行動は、各々の家に帰ることである。しかしそれも実現には難がある。
 実家が近い生徒はまだよい。だが小国とはいえトリステインも広い。着の身着のまま学院から離れたところで無事に領地までたどりつける可能性は、低いとは言わないが、余計な面倒を呼び込む可能性がある。
 史実の中世近世に比べればマシとはいえ、ハルケギニアの治安もそれなりに悪いのだ。魔物や幻獣もいる。表立っての抗争こそなくても敵対関係にある家柄などいくつもあるし、単純に身柄をさらわれて身代金めあての人質にされる恐れもあった。そして何よりアシもないのに長距離を歩くのは面倒である。疲れる。
 加えて学院側の事情も、生徒たちの進退を決しかねていた。
 実は魔法学院の消失は、今のところ外部に漏れていない。近隣の村ではあのただならぬ光を見て物見を派遣したりしていたのだが、そこは一流メイジの集った施設である。警備網を敷いて街道方面の哨戒にあたり、やってきた野次馬を追い返したのだった。『遍在』の使い手であるギトー先生は特に大活躍であった。
 なんとなれば、魔法学院はある意味貴族権威の象徴である。まだひよっ子とはいえ、生徒たちはトリステインの将来を担う人材揃いだ。そんな彼らが所属する施設が「なんかなくなってた」ということになったら、貴族が舐められるどころの話ではなくなる。この期に乗じて学院の宝物を漁ろうとか、メイジを害そうなどという不逞の輩を呼び寄せかねない。そう発言し、各人の巡回を具申したのはコルベール先生である。
 正しい懸念だった。
 ただしこの時点ですでに獅子身中の虫を抱えていたことをのぞけば。
 彼の危惧は実現する。もうイヤになるくらいにビシバシ当たる。そしてハルケギニア全土を後に巻き込むことになる超バカ騒ぎの発端まで、あといくばくもないのだった。
 そんな意味ありげな予感はともかく、現在のコルベールには急務があった。前述したミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケに関する扱いである。

「なんということだ。まさか、まさか、ミス・ロングビルが。そんな。ちくしょう。男の純情をもてあそびやがって!」

 焦眉の急を報せに草原を疾駆する彼の顔色は冴えない。二十近くも年下の彼女を真剣に狙っていた身の上としては、たいへんにショッキングな真相だった。本音では今すぐ一人になって自棄酒でもあおりたいところだが、生徒の安全を預かる身としてはそうもいかない。火元責任者であるオールド・オスマン学院長の姿を探して回る。
 果たして、オスマン学院長は学院跡地であるクレーターにほど近い場所にいた。縁に腰をかけ、靄然として小揺るぎもしない。昨日生死の境をさまよったときは相当危うげな精神状態だったが、一日経ってどうにか整理したのだろう。あるいは長年を過ごした学院を哀惜しているのかもしれない。
 コルベールは息を整えると、咳払いしてオスマンの背に語りかけた。

「オールド・オスマン。報告があります。あなたの秘書であるミス・ロングビルのことですが……非常に残念なことに、昨夜彼女が宝物庫跡を荒らしていたところ、現場を押さえたミス・タバサに捕らえられました。しかも、いまだ自供は引き出せていませんが、彼女の正体はあの『土くれ』のフーケである可能性が高いのです。……学院長? 聞いていますか?」

 反応らしい反応を返さないオスマンに不安になって、コルベールは彼の横顔をのぞき見る。死んだり寝たりしていたわけでもなく、オスマンは静かな瞳を細め、傾いだ本塔を眺めているだけだ。

「起きているのならちゃんと答えてください! われわれはこの緊急事態に際してこそ、正しき指導者としての道を示さねばならないのですぞ!」

 オスマンはいった。

「どうでもいい。もう疲れた。死にたい」
「学院長ーッ!?」

 全然立ち直っていなかった。
 オスマンはため息すらつかない。世の無常を悟りつくしたかのような顔で、穏やかに続ける。

「世界滅びないかなぁ。今すぐ」
「気をしっかり! しっかり持ってくださいオスマン学院長っ!」
「だってさあ。見てよこれ」

 非常にフランクな口調で、オスマンはクレーターを指し示す。つられて目を移したコルベールが見たのは、朝日によってまざまざとその惨状を晒されたトリステイン魔法学院の姿であった。
 傷口はいまだ生々しい。色々な意味でだ。

「ひどいもんじゃ。信じられん。いったいなにがどうしてこんなことになったのか」
「むう……」

 コルベールは老メイジの心中を察して押し黙る。オスマンはその半生を教育に注いできたのだという。その心中は、アカデミーあぶれの自分とは比較にならないほど傷ついているのであろう。
 しかしそれはそれ。これはこれだ。
 コルベールは噛んで含めるように言って聞かせた。

「確かに未曾有の爆発でした。あるいはテロかもしれません。真相の解明は急務でしょう。しかし今は、やれることを一歩一歩こなしていくしかないのではありませんか? 地道に、堅実に。そうしてこそ今後の展望も開けてくるというものでしょう。ですから学院長。どうか一緒に来てください」
「イヤ」
「そんな子供みたいなこと言わないで」
「だってイヤなんじゃもん」オスマンは頑なであった。「この状況をどう王室に報告したものだかもいまだに考え付かないのに、正直ミス・ロングビルが盗賊だからってどうしろっつーんじゃ。仮に彼女がこの事態の下手人だったとしても、学院が元の姿になるわけじゃあるまいし。あーやんなっちゃったわし。もう生きることに疲れたんじゃ。だから死にたい」

 確かに、とコルベールは思う。このタイミングでロングビルが馬脚を表したのは怪しい。だが、だからといって彼女がひとりで爆発を起こしたとは考えにくい。
 爆心地付近にいたものでさえ、死者は出ていないのだ。あの爆発はまず間違いなく魔法によるものだったのである。
 しかし、そんな魔法を使えるような存在は、生徒どころかハルケギニア全土を探してもいまい。強力無比なエルフの先住魔法でさえ恐らくは不可能だ。
 彼らはそれほどに、理解を超えた出来事に直面しているのだった。

「しかしまあ」と呟くと、オスマンはようやく重い腰を上げる。「わしなんぞは老い先短いから死んでも構わんが、まさか子供たちにもそうしろとは言えんしのう」
「それでこそ学院長です!」
「うむ」さすがに消耗した顔で、オスマンは頷いた。「それで、ミス・ロングビル……彼女がフーケかどうかはともかく、彼女を捕らえたという生徒からも話が聴きたい。ミス・タバサじゃったか。なるほど、確かに『シュヴァリエ』の称号を持っておると聞いた記憶があるな。彼女はどこに?」
「朝一番に使用人たちと町へ買出しに行きました。食料がないということなので」
「なに? なぜミス・タバサが買い出しになんぞ行く?」
「さて。それはわたしにも分かりかねますな」

 オスマンは上げた腰を再び戻した。

「なんか水差されてやる気なくなっちゃった」
「……」

 朝の冷たい空気があたりを吹き抜けていく。
 未来はどこにあるのだろうとコルベールは思った。端座する老人を同情的な視線で見つめる。

「そういえば今朝方、見慣れん少年に懐かしいことを聞かれたのう」
「ほう。いったいどんなことです」お義理でコルベールは合いの手を挟む。

 オスマンはうむ、と頷くと虚空を見上げる。
 そして三分過ぎる。

「忘れちった」

 未来はどこにあるのだろうとコルベールは思う。とりあえず空にはない。
 そして学院の下にも、どうやら埋まっていなかったようだ。

  000

 一路、荷を空けた馬車を牽いて王都トリスタニアへ急ぐ。馬丁も含め、ほとんどが学院で働く平民で構成された一団であった。顔ぶれはコック長のマルトーをはじめとした十人ほど。シエスタはいない。買出しならば男手のほうが要るからである。
 例外はそんな彼らにしきりに絡まれる才人と、荷台の上で黙々と読書にふけるタバサだけであった。ちなみにキュルケの姿もない。才人は学院を出る際、まだ寝ている彼女の枕元に『世話になった』と書置きを残していた。日本語で。
 つまり、彼はもうあのクレーターには戻らぬ覚悟なのであった。

「いやぁ、俺もそれなりに色んなもんを見た気になっちゃいたが、おめえほど爽快で腕っ節の強え平民は見たことねえぜ!」

 厨房を預かっていたというマルトー親方は、昨日の才人の暴れっぷりを途中から見学しており、その活躍にたいそう心服していた。この朝「一緒に街まで連れて行ってほしい」と才人が言い出したときも二つ返事で受け入れた。
 驚いたのは、彼ら平民が学院の爆発消滅をさして気にしていない点である。職についてはそれぞれ不安があるようだが、出来事そのものは規模が大きすぎて「またぞろ貴族がろくでもないことやらかしやがった」としか思っていない。才人は土下座して謝りたい衝動を堪えるのに難儀した。ごめんたぶんその原因が俺の左手にいる。

「いや。そんな大したもんじゃないからさ。はは」
「聞いたかおい!」マルトー親方は周囲の使用人衆に向かって大げさに腕を広げた。「ほんとに強いやつってのは、こういうもんだ。無駄に威張り散らしたりしねえんだ。まったくこいつは大したもんだ!」

 褒めちぎられて悪い気はしないものの、いくらか複雑な心境の才人である。
 あれ以上がまんならなかったのは事実だし、今でも自分に必要以上の咎があるとは思っていない。喧嘩をした生徒たちともうやむやの内に和解したような気がする。そこは男同士の独特なノリというやつで、一度拳を交わした連帯感のようなものも芽生えていた。
 しかし全員がそうだとは限らない。
 むしろ、そうであるほうがおかしい。
 才人はすっかり疑心暗鬼に取り付かれていた。
 加えてあの爆発である。

「……」

 憂鬱な眼差しで左手をすかす。
 相変わらずの毛からは心なしかキューティクルが失われている。
 まさかとは思ったけど……今でも思ってるけど……あれってやっぱりコレが原因っぽいよなあ。そしてやっぱりどう見てもキモいなあ。それにしても全然喋んねーなコレ。まさか幻聴ってことはないだろうし……。
 毛つきの手が爆発を起こした。
 事実を切り出すととんでもなくバカらしいが、何しろピッカンピッカン光りまくっていたし、今のところそれを否定する材料がないのも確かである。
 才人は思うのだった。これがもしバレたらどうなるのか? あの場にいたキュルケとタバサ、そして最後までつっかかってきた男は何も言わずにいてくれたが、それは単にまだ思い至っていないだけかもしれないのだ。そして気づいたときが恐ろしい。
 魔法学院はファンタジーなこの世界ではいかにも重要そうな拠点である。才人はとりあえずこの状況が現実だということを切り離して、できるだけ客観的に事態を整理してみた。
 要するに自分はあの死んでしまった学院の生徒に召喚されたわけで、今のところ帰るアテはない。その是非はともかく件の女の子が死んでしまった以上、自分がすがるべき場所はあそこしかなかったのではないか? どうしてもそんな結論に至るのである。しかし学院は吹っ飛んでしまった。もしかしたら才人の手と毛が原因でだ。
 どう考えてもただでは済むまい。ちょっと子供を殴ったくらいで死刑の世界なのだ。
 そこでテロをやらかした。わざとじゃなかったんです、で許してくれるとは思えない。
 夜通しそのあたりを考え込んで、才人は決めたのだった。

 逃げよう。

 何はなくとも、生きていなくては話にならない。そしてなんとかして元の世界に帰るのだ。
 五里霧中の状態であったが、才人は昨晩の出来事でいくらか希望を見出すことができた。それは明らかにこの世界で場違いな、あのロケットランチャーの存在である。
 聞くところによると、あれは『破壊の杖』と呼ばれて重宝されていたが、誰にも使えずにいた道具であるらしい。当然だ。ロケットランチャーを杖だと思っていて正常に作動させられる道理はない。
 ランチャーに触れた瞬間使用法を理解できた自分にも違和感はあるが、とりあえずそれは些細なこととして棚上げにした。もっと重要なのは、思わぬところで拾った帰還の手がかりをどう扱うかだ。
 才人はちらりと読書に没頭するタバサを見た。
『破壊の杖』という名称や、その所以を学院長に聞けばいい旨、そして『使い魔』とやらは一度召喚されるとそれを送還する呪文などは一切存在しないこと。それらを難儀して聞き出した相手が彼女である。
 フーケを捕縛したのち、一方的に連帯感を芽生えさせた才人は、口が堅そうな彼女に考えを打ち明けてみた。そして素直にお金がないから助力をしてほしい旨を伝えた。返すアテが今のところ皆無であることも含めてだ。
 タバサはしばし黙考し、やがてこくりと頷いた。それからおもむろに懐から皮袋を取り出し、才人に手渡したのだった。

「これは?」
「路銀」
「……ありがてえけど、いいのかよ」

 タバサは杖で捕らえたフーケを示して言った。

「協力してくれたから」

 そして朝を迎え、街に行くというマルトーたちに同道した。タバサがなぜついてきてくれたのかはわからない。あっさりとお金をくれたことといい、ぶっきらぼうだが実はいいやつなのかもしれない。
 などと才人は考えていたが、タバサとしては口止め料のつもりもあった。そして恐らくこの世間知らずが極まっている平民が無事に目的を果たすこともまたないであろうと察していた。
 渡した金額は二十エキューほど。平民ならば贅沢をしても一ヶ月は過ごせる金額だ。それをどう使うかは、才人次第である。
 義理と言えるだけのものは果たした。あとは彼と自分、それぞれの人生だ。タバサは若くしてそのあたり、ドライな人生観を意識して持っていた。もちろん、なるべくなら彼の旅路が平穏無事に終わることを祈るくらいはやぶさかではないが――

「おっ。フクロウだ」

 上空を仰いだ才人が呟く。
 タバサは立ち上がり、頭の上に着地したそのふくろうから、いつも通り密書を受け取る。けげんな顔の才人をちらと見て、わずかに杖を上げて見せた。
 才人もなんとなく腕を上げて応じる。 
 その仕草を確認することもなく、タバサは口笛を吹く。ほとんど間を置かず天空から滑空してくる使い魔の姿を認めた。

「おっ、おい? どっか行っちまうのかよ」

 応えることなく、タバサはシルフィードにまたがり、遠く母国へ続く空をゆく。おそらくもうあの少年と出会うこともないだろう。そんな縁が彼女の周囲には溢れている。

 そうしてタバサはガリア国都リュティスへ、さらには吸血鬼の巣食う村へ赴く。
 才人は世間の厳しさを知ることになる。

  000

 トリスタニアは市壁に囲まれた典型的な都市だった。ところが壁の外にも暮らしている人々がいる。彼らはなんだと才人がマルトー親方に聞くと、戸惑い顔で説明された。

「おめえの故郷にはいないのかい? ああそういや結構な田舎、いや悪い、へんぴな所から来たって言ってたなぁ。なに、連中は貧農ってやつさ。街の外で野菜を育てて、収穫したらそいつを市場で売って生計にしてる」
「どうして街の中に住まないんだ?」
「そいつはほれ、トリスタニアは城下町じゃあるけど基本的に都市だからな。簡単によその連中が住み着けるようじゃ困っちまうだろう?」

 何が困るんだろう。
 腑に落ちかねる才人である。しかし、さすがにあれはなんだこれはどうしてだと質問攻めにするのも具合が悪い。せっかく受け取っている好意なのだ。あまり手間をかけて失望させたくない。
 このとき『都市では内部で生計を立てている人間しか定住していない』ということをはっきり聞いておけば、後の失敗は免れたかもしれない。しかし全ては後の祭りなのだった。言葉が不自由なく通じることもあって、どうしても現代的な観点で「都市」というものを認識してしまう才人の失策であった。
 やがて集落を抜け、立派な門構えが見えてくる。その周囲にたむろする人々を見て、またもや才人は物珍しげな顔をした。

「門の前にも人がいる……」
「ああ、行商や芸人だな。あんまり見ないほうがいいぜ。自由気ままな連中で一つところに住み着かないもんだから、あんま好かれてねえんだ、連中」

 被支配者である平民の中にも差別意識は存在する。というか、いわゆる『賤民』が存在するのは封建制の常である。それは民俗的に生じるものでもあるし、人が群れて生活する生き物である以上、避けがたい概念だった。
 と綺麗にまとめるのは簡単だが、時代や地域によっては彼らの扱いはかなり洒落にならないこともあった。とりわけ芸人である。
 漂泊を常とする彼らは当然税を納めず、しょっちゅう犯罪にも走り、お世辞にも治安に優しい人種ではなかった。特に有名なのがリヒャルト・シュトラウスの描いたティル・オイレンシュピーゲルであろう。一応十四世紀なかごろの人物とはされているが、実在したかどうかでは定かではないし、厳密に言うとオイレンシュピーゲルは自身を「道化」ではないと作中で述懐するがタチの悪い奇人には違いない。好き勝手やったあげく結局縛り首で死んでしまうというオチなのだが、行為にせよ扱いにせよ必ずしもフィクションとしての誇張ばかりではない。法整備がいまだ行き届いていないこの時代、あっちへふらふらこっちへふららとする人々は、ただそれだけで迷惑な存在と見なされていた。
 しかし成績は中の中である高校生の才人がそんな裏事情に聡いはずもなく、「いわゆるやくざな人たちなんだな」と納得しただけであった。その認識でも不都合はない。

「へー」
「そら、そろそろ鐘がなるぜ」

 マルトー親方の言葉どおり、すぐに鐘が鳴り市門が開かれる。
 白亜の石が立ち並ぶ町並みが、才人の目に飛び込んできた。
 結果から言うと、トリステインの街市場は微妙だった。
 市場というから才人は築地の魚市のようなものを想像していたのだが、実態は雑然として殺伐とした雰囲気である。活気もあるにはあるが、怒声が飛び交いせりをするような種類のものではない。なんだたいしたことねーなファンタジーと鼻で笑う才人だが、彼がイメージするような国際市はそもそも年中開かれているはずもなく、交易地理上さほど要衝でもない王城の城下町ではあまり催されないので、一寸これは筋違いの不満である。
 ただし音には満ちていた。まず聞こえるのは歌だ。いわゆる手工業者やツンフトに所属する職人がうたう労働歌である。道端では乞食も歌っている。そういえば時計はないのかとマルトーに聞くと、町ではその役割は鐘が担うものだと教えられた。三時間おきに音を響かせて、時刻を報せるのだという。確かに大規模な時計塔のようなものを作れば整備が面倒であろう。なるほど納得であった。
 大道芸人の舞踊。トランペット吹きの音楽。いわゆる華やかさはないが、生活感に満ちている光景である。
 そんなこんなで、才人があちこちに興味を惹かれているうちに、早々とマルトー親方の仕入れは終わっていた。明日には指定の商人から食料が運ばれる予定だから、当座一日をしのげれば充分だということだ。

「毎日豪勢なもんを食ってやがるんだ、たまには粗末なメシを食ったってかまやしねえよ!」

 親方は豪快に笑う。それから才人の肩をどんと叩き、

「それより、俺たちからおめえさんに贈り物があるんだ」
「え? なんで」
「皆まで言うな。もう行くつもりなんだろう? 雰囲気でわからぁ」

 男くさい笑みで笑うマルトーである。才人は何もいえず、この人がよいコックの顔を見返した。機知が乏しい自分がいやになる。なにか、気の利いたことでも言いたいところなのに。

「でも、悪いよ」
「気にするなって。俺たちゃおめえの活躍に心底ほれ込んじまったんだ。シエスタに聞いたらおめ、貴族に無理やり連れてこられたっていうじゃねーか! しかも旅支度もねえときた! いくら腕っ節が自慢でも丸腰じゃあこのご時世渡ってはいけねえ。いくらか見舞いってもんをさせてくんな。なあに、こう見えても給金はそこそこ貯めこんでるんだぜ。どうせ使い道なんかねえしよ……」

 平民でも貴族に虐げられるばかりではない。そんな夢を才人に見たのだ。
 身の丈以上の眼差しは面映いどころではなく、普通なら恐縮しているところだ。しかし才人はアホだった。おまけに調子に乗りやすい。

「いや。あっはっは。そう? そこまでいうならお言葉に甘えちゃおっかな。なんて」
「そうこなくっちゃな!」マルトーは実に嬉しそうに歯をむき出しにした。「まあ、それでも俺らの財布じゃ大したもんは買えやしねえだろうけど」
「いや、いいんだよ親父さん。こういうのは気持ちが大事だと思う。俺、すげえ嬉しい」
「聞いたか、おい! いいこと言うねえ」

 親方はますます嬉しげになる。この人はほんとうに俺を気に入ったのだと、昨夜の教訓を生かしあまり人を信じずにいた才人もようやく認めた。脳内料理人ランキングでケーシー・ライバックの次にマルトーの名が並んだのはこの瞬間である。ちなみに三位は秋山醤。

「それで、贈り物ってなに?」
「まあそう焦るなって。チクトンネのほうに、確か鍛冶屋があったんだ」
 
 さあいよいよデルフリンガー登場かと思いきや、実は別の店である。
 そこでマルトーらが才人のために買い求めたのは、独特の武器であった。
 形状はフレイルに近い。長柄の先端に鎖、鎖の先端に鉛の錘という非常に原始的かつ暴力的な得物である。しかも、普通ならば最低限の遠心力だけ稼げればいいはずの鎖の尺が妙に長い。実に三メイル余。フレイルの亜種というより、棒付鎖分銅とでもいうべき武具であった。
 マルトーははにかみながら言う。

「こいつはな、元々脱穀のための道具を応用して、武器のない農民がどうにか身を守るために作り出した武器なんだぜ。へへ、りっぱな剣とはいかねえが、あの貴族の娘の股引ひとつであんな真似をするおめえさんなら使いこなせるさ」

 正直第一印象は微妙だった。
 才人も男の子である。こんな見たこともないような素朴な武器よりは、見栄えのいい剣がいい。しかしマルトー親方の好意をむげにするわけにも行かず、何よりあったばかりの大人がこうまで自分を買って、彼らの台所事情では決して安くないであろう代物を贈ってくれたことが嬉しい。これで喜ばなきゃよほどのヒネクレ者だ。そして才人は単純だった。

「ありがとう親父さん、俺、こいつ大切にするよ!」どうやって使えばいいかさっぱりわかんねえけど。つか、自分で頭にぶつけそうだけど。

 その後。保存用の燻製と干し肉ならびに親方手製のサンドウィッチを受け取ると、いよいよ別れの時がやってきた。

「それじゃあな! 落ち着いたら顔出せよ!」

 中央広場の前、何度も振り返り大きく手を振るマルトーらを見送る才人の胸は温かい。道行く顔ぶれがみな良い人に見える。
 一時はどうなるかと思ったけど、なんだ俺やっていけそうじゃないか。とりあえず学院長の爺さんに聞いた通り、東の方へ向かえばいいのかな。ああそうだ、地図も買っておこう。とりあえず今日の夜はこの町で宿を取って……いやいや、少しでも節約するために野宿のほうがいいかな。いやいやいや。さすがにろくに寝てなくて疲れてるんだ。今日くらいはまともな寝床で寝よう。
 根っこから楽観的な才人である。実質帰るための手がかりはゼロに等しいし、右も左もわからない世界であることには変わりないし、そもそも左手には桃色っぽい毛が生えている。なのに「なんとかなるかな」と根拠もなく思っている。
 そういう人に対して世界が優しいことも稀にある。
 だが才人に最初の最初からハズレを引かせたこの世界が優しいはずもない。
 才人は爽やかな気分で、教えられた宿へきびすを返す。その懐にタバサから受け取った金貨入りの皮袋がないことに気づくまで、あと三分。

   000

「やっぱり金かのう」

 たそがれて即物的な嘆きを漏らすオスマンを尻目に、キュルケはフレイムを引きつれ、生徒たちがのびのびと群れているキャンプを歩き回る。視線は昨夜まで一緒だったはずの才人とタバサを探しているのだが、二人ともどこにも見当たらない。
 朝起きるとベッドの上になにか妙な絵の書かれた紙が置いてあったが、それが何を意味するのかなど彼女にわかるはずもなかった。まあ当たり前である。
 炊事の煙が随所であがる。いやはやアウトドアな校風になったものねえ。手庇をかざしてキュルケは人事のように思った。
 実際気分はもう無関係者である。学院が消えたことも、わざわざクビになる手間が省けたと思えばいい。
 特に彼女が現実的なわけではなく、オールド・オスマンをのぞいた教師を含めるほぼ全員が、学院の復建の事実上不可能なことを受け入れていた。そもそも土地や大型建造物の占領や建築には王室の認可が必要なのである。どうしようもない。
 そういったわけで、メイジたちは古巣との精神的な決別をすでに果たしていた。
 おかしなことは数あるが、そもそも魔法がある世界なのでこの種の異常事態に対してはみな基本的に大らかなのである。
 キュルケがさていつ里帰りをするかしらと算段をつけていると、向かい側から歩いてくる、同じように人を探している様子のギーシュ・ド・グラモンを認める。

「あらギーシュ。おはよう。ねえ、タバサとサイトどこ行ったか知らない?」
「おはようってもう昼だよ、きみ。……いや、知らないな」ギーシュは首を振り、傾げる。「タバサはともかく、サイトって誰だい?」
「あんたにドロップキックかました平民よ」
「ああ、彼か……」顔を引きつらせる。「いや。やはり知らないな。散歩でもしてるんじゃないか?」
「そうかしらねえ。まあ、タバサがときどきいなくなるのはいつものことだけど。それで、そちらは誰をお探しですの? モンモランシー? それとも例の一年生?」

 にやつくキュルケに不快な顔を見せつつも、ギーシュは素直に答えた。「ケティだよ。朝から姿が見えないんだ」

「ふーん。ま、箱入りっぽい娘だったしそのうち帰ってくるでしょ」

 ところが、結局夕刻になっても三人は帰ってこない。かわりにキュルケが得たのは、サイトは旅路につきタバサは風竜に乗って行方をくらました、という使用人たちからの情報であった。

「ほんとに行っちゃったの? もう。水臭いわね」

 思わずこぼす。同時に、薄情な才人に対しすこし腹を立てた。せめて一言くらいあってもいいじゃない。足元の草をむしり、夕空に葉っぱを投げつけるキュルケだった。

「それに、あのルーンのこと。聞きそびれたわ」あれってほんとにルイズなのかしら。いやいやまさか。そんなバカな。キュルケは首をブンブン振って、奇天烈な発想を頭から追い出した。

 そしてケティの行方は、誰も知らない。あまりにも会う人会う人にギーシュが尋ねて回るので、とうとうモンモランシーが制裁に乗り出した。

 のちに『グラウンド・ゼロ』と呼ばれる事件後の第一日は、こうして表面上なにごともなく暮れていく。



[5421] おまけ2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:33


 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 2 000






 二日後、才人は死に掛けていた。しかもどこへも行けていない。彼が倒れているのはトリスタニア郊外の森である。途方もない駄目っぷりであった。
 そこはいわゆる王室の直轄領で森番に見つかるといかにもヤバイのだが、才人はもちろんそんなことは知らないし知っていてもどうにもできなかったであろう。だって死に掛けているのだ。

「ひゅ…コフー、ひゅ、ふ……」

 げっそりとやつれた顔で才人は地に伏せている。土のにおいが鼻に近い。小川のせせらぎが耳に届く。だがそんなことは知ったことではない。空腹と衰弱と痛みが彼からあらゆる気力を残らず奪っていた。
 そして行方不明のケティ・ド・ラ・ロッタは、木の上でサンドイッチをもぐもぐほおばりながらそんな才人を興味しんしんのキラキラした目で見つめていた。

  000

 いつの間にか持ち金をすべてスられてからの才人の凋落ぶりは笑えるほどだった。唐突に文無しである。とりあえず落ち着いて腹ごしらえをしようとサンドウィッチを食べれば地面に落としただけでもう食べるのを諦めたし(あとで死ぬほど後悔した)、半泣きでどこかに落とした(と思っている)皮袋を探して町を歩いていたらいつの間にか二度目の晩鐘が鳴ってしまった。
 トリスタニアでは一度目の晩鐘が鳴った段階で市内ほとんどの仕事が終わる。例外は宿か居酒屋かアヤしいお店くらいのものだ。そして二度目の晩鐘から先は、そうしたお店も表立って営業すれば取り締まり対象になる。
 以降は町を衛兵や警備隊が練り歩きはじめる。門が閉じられても帰らない不届き者をボコって拘束するためである。才人はボコられこそしなかったが思い切りうさんくさい目で見つめられ、ほとんど犯罪者に対してするようなぞんざいな扱いで町を追い出された。
 その理不尽に彼が憤れたのもごくわずかな時間だけで、町の外に出た才人は一瞬ほかの全てを忘れるほど仰天した。
 暗いのだ。
 冗談抜きで真っ暗。
 街灯なんかあるわけがないので当然だが、それにしても限度があるだろうという暗さであった。なぜかと思えば、巨大な二つの月に雲がかかっているのだった。
 山奥でキャンプをしたことがあれば、その夜より雲間を通る月光のため多少マシな程度の暗さを想像してもらえばいい。鳥目ではないがほどよく現代的に劣化した才人の視力には、いささか荷が勝つ悪視界であった。
 実際は完全な暗闇ではなく、物見の塔や市壁の周囲には明かりがあって人の姿も見えたのだが、近づいて様子を観察した段階で才人は彼らと接触するのを諦めた。
 ガラが悪すぎる。
 才人のような貧弱なボーヤが近寄れば一瞬でカマを掘られかねないほど恐ろしげな雰囲気を放っていた。
 それならばと農村で納屋でも貸してもらって藁束で寝ればいいやと才人は考えた。
 甘かった。
 そもそも貧農の集落に馬とかいなかった。
 仮に馬がおり納屋があったとして、その寝心地は野宿と完全に一致することうけあいだ。においがないぶん野原で寝たほうがまだマシかもしれない。
 普通に収穫高を計算しているような実りある土地ならばともかく、大都市の周辺の土は基本的にすでに痩せてしまっていることが多い。また牛車だの輓馬だのを用いて生産性を高める経営体力があるなら都市にひっついて生活するようなこともない。
 しかし才人は諦めなかった。
 なら羊に囲まれて寝るのも悪くないなアハハと思って放牧場に忍び込むと、すげえ勢いで犬に吼えられた上に羊飼いはどう見ても殺す気で才人を追っかけてきた。才人はまたしても少し漏らしてしまった。
 ほうほうの態でなんとか追っ手を撒き、もう素直に民家に泊めてもらおうとしたがこれまたダメ。マルトー親方がこの世界で最上の善人としか思えないほど冷たい態度で才人はあしらわれた。というか、戸を叩いても応対してくれた家のほうが少なかった。

「どーなってんだこりゃ。渡る世間が鬼ばっかりじゃねーか」

 実のところ才人がもう少し怪しくない、せめて一般的な平民に見える格好をしていれば、まだ話は違った。常日頃都市生活者によって差別され荒んだ気持ちでいたトリスタニア周囲の人々は、どう見てもよそ者である才人に優しくできるほど心に余裕はなかった。彼らに罪はない。どちらかというと才人がアホなのが悪い。
 しかし、ここまで来てなお「今日は日が悪いのかなぁ」としか考えていない才人もさしたるもの。彼は当面雨露しのげればと、ようやく目が慣れておぼろげに輪郭が見え出した森へと足を向けた。
 ここで一連の彼の行動を外部から見た場合、どう取られるか。意訳するとこうなる。

 あぁあー俺なんだか死にてえ。

 この時代、ハルケギニアでの森といえば異界であり、まっとうなヒトが住むところではない。ハルケギニアに人間狼的な伝承や風習があるかは不明だが、古来より万国共通で森に住むのは魔と決まっている。稀に翼人も住むが、彼らは人とは相容れない。だから、結局はそこに棲むのがヒトでもケモノでも同じである。才人は自ら光と法という最大の庇護下から離れたのだった。

「マジかよ。全然見えねえ……」

 森は外界に輪をかけて暗黒の世界だ。才人は手探りで起伏に富んだ地形を歩いた。
 平地はさすがはメイジ社会ということか、ありえないほど整備された道が走っていたが森は違う。生のままの人に厳しく獣に優しい、素人が足を踏み入れれば転ばずにはいられない難儀な世界だった。
 才人は数百メイルも歩かない内に力尽き、ある大木のふもとに腰を落とした。『崩れた』といったほうが近い。手に干し肉の入った袋を、胸にどうしても思いきれないノートパソコンや教科書の入った鞄を抱いて目を閉じる。
 たった数時間の彷徨は才人から思考をあっさり奪っていた。もういいや。寝よう。とにかく寝よう。「これから」のことなど思いつきもしない。
 才人は目を閉じた。

 そして複数の、生臭い気配を感じて目を醒ます。
 周囲が若干とはいえ明るくなっていることにまず驚愕した。体感的には「たった今」目を閉じたばかりだったからだ。しかしパニックになる要素はそんなところにはない。
 野犬か、狼か。とにかくひどく痩せてそれでいて瞳に凶光を宿すイヌ科の群れ。三匹ほどのケダモノが、才人の手にある干し肉の袋を奪い取っていた。

「ばっふぐおっほう!」

 才人は恐懼のあまり素っ頓狂な声を上げる。オオカミたちは堂々たるもので、才人を見もせずガツガツと二週間分は量のあった干し肉を噛んでいた。
 ほの見える犬歯と糸を引く唾液。
 才人はもはや冷静さなど保てない。言葉の通じるメイジなどより起き抜けに出会う狂犬たちのほうが千倍も万倍も怖かった。ただ鞄だけを抱いてずるずると木の幹に体を預けながら立ち上がり、少しずつ、少しずつその場から離れようとした。その動きに気づいたオオカミが一声、
 おん!
 才人は駆け出した。
 オオカミも駆け出した。
 そんな様子を見守る寝ぼけまなこが木の上にあった。

 樹上で一夜を明かした、徐々に人生を間違えつつあるケティである。なぜ彼女がこんなところにいるのか。そのいきさつは少々込み合っている。
 あの平民が、自分が持ち物を盗んだことを周囲の人間にばらさないよう学院からずっと尾行していたのだった。
 例の道具を返したら意外とあっさり受け取られ、しかも「ありがとう」なんて言われたが、ケティは油断していない。もしあの平民が軽々しく貴族の汚点をばらしたら、ばらしたら……。
 どうしようかしら?
 具体的にどうするかは考えていなかったが、とにかく監視の必要ありとケティは認めた。
 もちろん学院にいてギーシュと顔を合わせたくないというのも大きな理由のひとつである。運良く破壊を免れた自室からお小遣いを持ちだし、おめかしをして、ケティはのんびりと先行する平民の一団に続いたのだった。
 町へついてすぐ目当ての平民は見つかった。ケティはとりあえず注文していた仕立て屋へ向かい服を買い取る。そうこうしている内に目的をすっかり忘れ、彼女はブルドンネ街をおおいに満喫した。辺鄙なラ・ロッタ領からのおのぼりさんである彼女は都会に憧れていたのである。
 夕べを告げる鐘が鳴り、あー楽しかったわーさて帰りましょーと門を出かけたところで思い出した。
 そうだあの平民さん。
 もう残ってはいないか宿にいるだろうと思いきや、あっさりと彼は見つかった。しかも一人で、なんだか非常に情けない顔で路面ばかり見下ろしながら歩いている。なんだなんだ。と訝るケティはピンと来る。さては、お金を掏られたんじゃないかしらあの平民さんったら!
 彼女には心あたりがあった。野良メイジによる軽犯罪はトリステインで社会問題化するほどメジャーなテーマである。事実ケティは昼間、一度それらしき野卑な男に目をつけられかけたのだ。ガンをくれてやったらすごすごと退散したが、もしかしたら同じ相手にあの平民も狙われたのかもしれない。
 ほとんど正解に近い推理を展開するケティの脳裏に神算鬼謀が閃いた。

「これは、汚名挽回するチャンスですわ、すわ!」(※類義語:名誉返上)

 でももう暗かったので、宿を取ることにした。
 そのあとでこっそり覚えたての『フライ』を使って、夜の町へ繰り出す。さすがにあの平民も諦めて外に出ただろうかと飛びながら街を見下ろしていると、なんとまだ街路を未練がましくうろついているではないか。
 案の定衛兵に見咎められて街を追い出された彼の後を、ケティはふわふわ飛んで追った。もちろん市壁の物見に袖の下を送って融通させることも忘れない。いかにも上品なケティが逢引でもするのだろうと思ったのか、ケティと同じくらいの年頃の少年衛兵は「がんばってください、貴族さま!」とエールまで送ってくれた。
 門から叩き出された平民は、その後何やら目的が見えない遍路をたどる。とっくに明日に備えて寝に入ってる民家をいきなり強襲したり、羊を囲う柵に忍び込んで羊飼いとその犬に追いかけられたり。
 彼が森へ踏み入る段になると、さすがにケティも「おいおい」と思った。
 結局考えがあるどころか森の中で野宿を始めたのだが、ケティも樹上でぼんやりする内にうたたねしてしまったらしい。騒がしい物音に目を醒ますと、平民がオオカミに襲われていたというわけだった。

「一体なにがしたいのかしら、あのひと……」

『レビテーション』を使って地上に降り立つ。食事を邪魔された残り二頭のオオカミが、剣呑な唸り声を上げてケティをにらむ。彼女はやや眠気を引きずった顔でふにゃっと笑った。

「なに見てるんですか燃やしますよウル・カーノ」

 言い終えない内に杖を振った。そこは『火』属性の女である。舐めた真似をされればたとえ上級生だろうとビンタをかますくらいの胆力はあるのだ。『心に闇を持て』。父、ラ・ロッタ卿の言葉である。
 発動した『発火』の魔法がオオカミのツヤのない尻尾に火をつける。痛々しい悲鳴を残して、二頭のケダモノが森の奥へ走り去っていく。平民の悲鳴も遠くで聞こえた。悲鳴を上げられるあたり、まだ余裕があるのだろう。
 ケティはどうしたものかと首を傾げた。
 おなかがぐーぐーと空腹を主張する。

「まあまあ、はしたないわ、はしたないわ。わたくしったら」

 用事もある。街に帰ってちゃんと一眠りしてから、また平民の様子を見に戻ってこよう。ケティはあくびをしながら飛び上がり、トリスタニアへの帰途についた。
 その頃才人は大立ち回りである。案の定あっさり追いつかれ、灰色の牙が彼ののど笛を狙う。才人は咄嗟に持って逃げていた鞄を楯にする。
 目の前に迫り来る危険。
 鈍化した灰色の時間で、才人の脳細胞が唸りを上げて稼動する。
 ジョジョ一部のパパやキートン先生の教えを思い出した。
 逆に考えるんだ――
 噛ませてから舌を掴むんだ――
 才人はゲロロロと唸る敵に凄んでみせる。来るか。あ? 来るか。来るなら来い。俺は昨日魔法使いどもをぶちのめした男だぜ。犬ッコロの一匹くらいなんでもねえ。さあ来い!
 オオカミが飛翔した。
 才人はごろごろ転げまわって逃げた。

「無理でしたぁ!」

 結局逃げ切るまで一時間くらいかかった。

  000

 宿へ戻りベッドで一眠りしたケティは、起きざまの習慣である杖を用いた整理体操を始める。ロッタ家に伝わる美容・健康にたいへんよろしく体内の『水』の流れにも作用するという由緒正しい民間療法である。

「はっほっふっ。わんもあせっ」

 三十分ほどで1セットを終えて一汗を流すと、宿の使用人に沸かしたお湯と布、石鹸を用意させ、体を清めた。メイジとて新陳代謝はする。これで香水をふりまけば完璧。ニューケティである。
 しかし香水の段で、ケティは嫌な気分になった。理由はいわずもがなだ。

「うう……」

 なんだかんだでまだ吹っ切れていない自分を自覚して、少し欝になった。
 やさぐれた気分で宿を出ると、彼女は市場へ向かう。目的は食料。そして大量の挽かれたライ麦である。この日、仕入れに遅れたトリスタニアのあるパン屋さんは、翌日休業をやむなくされたという。貴族の女の子が、それほどたくさんの粉を買っていってしまったからだ。
 必要な道具をそろえたケティは再び宿の自室へ戻る。
 これなるはド・ラ・ロッタ家秘伝の調合である。
 用意するものは炭水化物系の粉。小麦粉でも構わないが、高価なので今回は倹約のためライ麦で代用した。そしてエプロンと手ぬぐいは必需品。何より口元を覆うマスクが欠かせない。さらには、買い込んだライ麦粉を移すための木製ボウル。以上である。
 ケティはボウルを熾した火にかけて、粉の水分を飛ばしはじめる。勘の良い人はこの時点で彼女がなにをやるつもりか気づいたかもしれない。本当は『水』の魔法が使えればよいのだが、彼女は主に『火』と『土』、そして少しだけ『風』が使えるだけだ。ないものねだりはできない。
 続けて擂粉木で粉が張り付かないよう丹念にまぜる。このときつい独り言を漏らしてしまうのが、同級生などに笑われる彼女の癖だった。こねこね、こねこね……。キャベツーは、どーお、したぁ。良くも悪くも彼女は夢見がちで、作詩もたしなんでしまう乙女である。

「そしてできあがったものがここにあります。……ってあるんですか! ここまでの前フリはなんだったんですか!」独り言もノリ突っ込みを駆使するほど盛り上がってきた。

 すっかり乾燥した粉に、今度は自前の炭塵を4:1ほどの割合で混ぜ込んだ。優れた『土』のメイジならばこんな小細工は必要ないが、ハナマル一年生でかつ『ドット』のケティにはまだ秘薬の補助が必要なのだ。
 そして、ライ麦を『錬金』の魔法でせっせと炭の粉に替えていく。乾燥させた穀物はなぜか炭との相性がよい。家伝の極意の一部であった。もちろん炭塵はこのための媒介である。

「ふうっ。できたっ」

 紙袋いっぱいの黒い粉。ケティは満足げな笑みでそれを眺めた。

「よし、準備おーけー」

 袋の口に封をして、彼女は街に出かける。
 すでに昼を過ぎ、春の日差しは暑いほどになっていた。
 もっとも人通りの多いブルドンネの通りの物陰で、彼女はじいっと目を皿のようにして行きかう人間の行動に注視する。とにかく、不自然な動きを見逃してはならない……。そうする彼女自身もかなり目立っていたのは愛嬌である。
 退屈の極みに達した一時間後、ケティはついに怪しげなそぶりで貴族に近づき、すぐに離れていく男を見つけた。
 年恰好は意外に若く、そして平民同然である。だが確かにどこか、世をすねたような目をしている。ケティは立ち上がると、ちょっと通してください、とおしてー、と声をあげて男の背を追った。
 男は二度三度と進路を折って入り組んだ路地を行く。まだ街になれないケティはついていくのが精一杯だった。やがて、人通りがほとんどない道に出てしまう。ケティはささっと道ばたに積まれた木箱の陰に隠れつつ、追跡を続けた。
 男が足を止めたのは、いかにも『裏』といった感じの建物の前だった。わざとらしく周囲をうかがって扉を開けようとする彼の背に、ケティは声をかける。

「あのう、もし」
「え!? ここでそっちから話かけてくるのかよ!」

 男が拍子抜けを通り越した驚愕の面持ちでケティを見る。胡乱で無礼な眼差しでじろじろ舐められて、ケティは少し怖くなってきた。

「もしかして、あなた、メイジでは?」
「へえ」男がいやらしく笑った。「よく気づいたな。なんでへったくそな尾行なんかしてくるのかと思ったら、そういうことか。そんでどうするんだい貴族さんよ。あんたが、俺になにか文句でも?」
「いえ……。その、もしよろしければ、昨日あなたが平民さんから掏ったお金を返していただきたいのです」
「はあ?」

 戸惑いの視線がさまよう。判断に迷ったそぶりの男に向かって、ケティの背後から「いいじゃねえか」という声がかかった。
 ケティはビクリと震え、ゆっくりと背後を見た。そこには正面の男に輪をかけて人相の悪い男性が立って、ケティを値踏みするような目で見ていた。

「貴族さまがせっかくこんなところまでいらっしゃったんだ。もてなさないわけにはいかねえだろ。なあ?」
「それは恐縮です」ケティは頭を下げないまでも、にこりと笑った。

 男たちが顔を見合わせる。こいつ、頭おかしいんじゃねえのか? 魔法学院の生徒だろ? 虚無の曜日でもないのになんでこんなところに。まあいいや。見た感じ貴族なのは間違いねえ。金になるぜ。そしてあれよあれよという間に、ケティは男たちのあじとへ連れ込まれた。
 中は薄暗く、光が差しておらず、みごとにこもった空間であった。まあすてき、とケティは呟いた。
 男たちが声をあげて笑った。

「聞いたかおい! ここが『すてき』だってよ。こいつはとんだあばずれ貴族だ!」
「まったくだ! きょうびこんなマヌケは平民にだっていやしねえ!」
「それで、お金はどこでしょうか」

 ケティは笑みを崩さず訊ねた。すでにマントの下で袋の封は切っている。さらさらと、粉状の炭塵が床に撒かれ始めていた。

「そいつを知る必要はないのさ。お嬢ちゃん」
「きゃあ! きゃあきゃあ!」

 顔に向かって伸ばされた手を、ケティは強かに杖で払う。男の顔がきつく歪んだ。

「なにしやがる」
「いえ、あの、すいません。だけどもうちょっと待ってほしいんです。ちょっと準備が……」ごにょごにょと呪文を唱える。
「おっと、待ちな。そいつは詠唱だろう」横合いから目前に杖が突き出された。「俺たちだってメイジのはしくれだ。気づかないと思ってるのか?」

 口上の途中でケティは詠唱を完成させる。同時に袋の中身を部屋の容積と比較して、きっちり高濃度になるぶんだけ落としきる。
 そして『エア・ハンマー』を足元にたたきつけた。
 散じた風が密室で荒れ狂う。ケティはとうに呼吸を止めて、次の呪文の詠唱に移っていた。ただし、頭からマントをかぶり、屈むことも忘れていない。小柄なケティの体は、そうするとすっぽり覆い隠されてしまった。

「うお!?」
「なにしてやがるこのガキ!……ぺっ、なんだこりゃ、ほこりか!?」

 杖を振った。

「ウル・カーノ」

 爆発が起きた。
 漫画などではお馴染み、粉塵爆弾である。条件が合致すれば普通に死者が出るほどの威力を発揮する現象だが、実のところ単に小麦粉や砂糖を散布しただけであっさり起こる事故ではない。空気と空間との比率や燃焼のタイミングが意外にシビアなのである。そしてなかなかやんちゃなケティは、幼少時代から幾度もの失敗を経てこの使いどころのない知識に精通しているのだった。

「……」

 マントをかぶったまま、立ち上がる。出口と自分の位置関係は把握していた。
 粉塵だけあって燃焼は一瞬で終わる。もちろん延焼する場合はあるが、とにかくケティは入り口の戸を開けることを優先した。むかし同じことをやって、酸欠でぶっ倒れた経験があったのだった。
 室内に光が射す。ようやくマントを脱いで、ケティは戦果を確認した。
 延焼ナシ。討ち漏らしナシ。香ばしい臭いが食欲を誘う。
 肺を火で焼かれ声も出せずにいる男たちを見下ろして、にこやかに告げる。

「では返してもらいますわ」

 ケティ・ド・ラ・ロッタ。やるときはやる少女である。
 とりあえず家捜しをして、それらしき隠し場所をあらためる。平民の隠し財産を見つけるスキルは強欲領主に必須のスキルだ。厳正かつ敏腕な美人役人を目指すケティにも当然備わっていた。
 花瓶の中ハズレ。床の裏ハズレ。かまどの中アタリ。ケティはにんまりする。木箱の中には金貨や銀貨、銅貨がぎっしり詰め込まれている。大雑把な勘定でも相当な量に上るだろう。そういえばあの平民さんいくら盗まれたのかしら。わたくしったらうっかり。てへっとばかりに舌を出し、ケティは杖を持った。

「ボッシュート」

 男たちが声もなく泣いていた。泣く余裕があるのだ。威力を抑えすぎたかもしれない。反省するケティである。
 長居は無用とばかりに家を出ようとした、そのとき。

「ま、待て……」面影もなくかすれた声で、男のひとりがケティを睨んでいた。憎悪のこもった目である。「てて、てめえ、名前は……どこの貴族だ……」

 ケティはにこーっと笑い、名乗りをあげた。

「『香水』のモンモランシー。モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ」
「ド・モンモランシ……覚えたぜ……」
「ふ。ふふ。よくってよ」

 ちょっとした私怨も兼ねた悪戯心であった。優雅に手を振って、場を後にする。

「ごきげんよろしゅう」

 ケティは合計約1535エキューを得た!
 相当の金額である。よほどあくせく掏りに精を出したのだろう。他の悪事にも手を出していたかもしれない。ゲルマニアにでも高飛びして、貴族に返り咲こうとでも思ったか。それとも盗んだ金で悠々自適の暮らしを送ろうとでも? ふ、悪銭身につかず、ですわ。ケティは正義を働いてたいへんにいい気分であった。
 その後、もちろん木箱を宿に置いたあと匿名で衛士へ通報することも忘れなかった。野良メイジとはいえ貴族からの盗みは死刑。もう二度と会うこともあるまい。ケティはほくほく顔で仕立て屋に寄って、新しい服を注文したのだった。着服? これは報酬だ。
 向こう見ずなこの行動がやはり後々の騒動に繋がる事を彼女は知る由もない。
 そしてケティがふたたび森へ訪れたとき、平民は死にそうになっていた。

  000

 さて、ケティとどっちが現代人かわからないほど惨めな才人である。彼は強烈な吐気と腹痛に喘ぎっぱなしであった。
 理由は水だ。
 早朝、オオカミとの死闘を経た彼は現在地を見失い、森に迷っていた。食料もなく、疲弊しきり、さすがに顔色冴えない彼はあてどなく鞄をひきずりさまよって、小川のせせらぎを聞いたのだ。
 天啓だ。そう思った。俺はまだ生きられる!
 水をがぶ飲みした。
 そしたら下痢Pになった。
 もう下事情はうんざりなので詳細は省くが、とんでもないことになった。上は洪水下も洪水、なーんだ? 平賀才人! ピンポーン! というくらいひどかった。

「な、なんでだ……毒か……ええ、ちち、ちくしょう、毒か、環境破壊か」

 違う。確かに場所によっては川は不潔だが、ことはもっと根本的な問題である。
 水には硬度が存在しており、その度合いによって『軟水』と『硬水』に分類される。日本の水が飲用に耐え、かつ炊飯に適しているのは『軟らかい水』であるためだ。具体的な硬水との差を知りたければ、ためしにエヴィ○ンで米を炊いてみればいい。炊き上がったご飯を前に途方に暮れること請け合いだ。
「だがそれがいい」と言う人もいるかもしれない。それでも構わない。人はしょせん分かり合えないものだ。
 要するに、ハルケギニアの水は基本的に硬水なのだった。硬水にも色々と分類があり含有成分の大小があり、一概に飲むと腹を下すと言い切れるわけではない。才人の運も悪かった。
 しかしもとより体力が低下していただけに、これはたいへんな痛手となった。全身からすべてを出し切って、才人はもうミイラにでもなったような気分だ。痛みの余韻を体が引きずって、ひどく億劫になっていた。
 乾燥した唇。
 虚無をたたえた目。
 毛の生えた左手。
 思春期まっさかりの少年にはあまりにも酷な現実である。

「なんで、俺が、こんな目に」

 真理をつく疑問だった。

 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは…

 中学校のころ古典の時間に強制的に暗記させられた『方丈記』の一節が浮かぶ。川を見て連想したわけではなく、そのとき感じた理不尽さを才人は思い出している。なんの役に立つんだコレと彼は思ったものだった。そして今に至るまで役には立っていない。今後も役立ちはしないと思う。
 目尻から涙が溢れ、頬を伝い土に落ちた。
 それでも彼は生を諦めてはいない。
 ようよう立ち上がると、水辺へ向かう。
 たとえ腹が下ろうと、手元に食物のない今、水は貴重な生命線だ。がぶ飲みしなければ大丈夫だよな。そう自分に言い聞かせ、川面で顔を湿した。
 ケティは生水を煮沸もせずに飲みだした平民を見てぽかーんとしていた。おなかが丈夫なのかしら…などと考えている。今すぐ姿を見せて彼にとっての女神さまになることは容易だったが、なんだか面白いのでもう少し見守ってみよう、と決めたのであった。
 その後才人は丸一日を動けずに過ごした。夕方近くになるとそれでもあまりの空腹に目眩を覚え、なにか食べるものはないかと周囲を散策したが、無駄であった。かわりに見つけたものがあった。
 木に縄で縛り付けられた白骨である。
 しかも体格からしてまだ子供だった。恐らく間引かれた命のなれの果て。

「……」

 ドン引きした。
 ようやく才人の中でリアルな未来としての『死』が現れたのがこの瞬間だ。吐気を覚えたが、もう出すものは残っていない。ただ貧血にも似た目眩に、尻餅をつく。
 ケティは街で買ったジャーマンサンドをむしゃむしゃ食べながらその様子を見ている。むむむ、ゲルマニア侮りがたし。そんな批評までしていた。やがてまた町に戻らなくてはならない時間になる。ちょうどぶっ倒れた平民のもとに、一匹のオオカミがやってきていた。
 才人は寝転んだまま、無気力な瞳でそのオオカミを見た。ひょっとしたら朝やりあったやつかもな。見分けなんてつかねーけど。俺を食べに来たのか? そうはいかねえぞ。勝てなくたって、道連れくらいにはしてやる…。透明な目にかろうじて光をたぎらせる。オオカミはしかし、ぷいっとそっぽを向くとまた森に消えてしまった。……なにしにきたんだあいつ。
 その日の深夜、小ぶりの雨が降った。この状況で風邪にでもかかれば冗談抜きで死にかねない。才人は空腹に耐え落ち葉と枝を集めて即席の屋根をつくる。それでも足りず、木の根元を掘り返し、体を隠せる程度の穴も用意した。少しでも眠ろうと努力したが、胃を苛む飢餓感は痛みを伴うほどで、彼は空が白むまでまんじりともせず木の皮を噛んで過ごした。朝になると同時に動かねばならない。そして可能ならば森を出る。街に行けばなにかしら道はあるはずだ。そう信じた。
 ケティは金に飽かせてトリスタニアでいちばん高級な宿に移り、暖かいベッドでぐーぐー眠っていた。朝の鐘とともにぱちっと目を醒まし体操を始める。非常に健康的な生活習慣であった。
 その頃魔法学院では、

「ケティ。おうい、ケティやあい」

 ギーシュのみならず、彼女を心配した多くの生徒たちが周囲を探索していた。

 魔法学院を出て三日目。
 才人はすぐに森を出ることを諦めた。本当に、無理をすれば倒れかねない。なにはなくとも食べ物を探さないと。どうやら今は春らしいし、なんかあるだろ。あってくれ。そんな心境であちこちを歩く。
 しかし散漫になった意識では何も見つからない。
 だいたい彼は食べられる野草や木の実など知らないし、知っていてもハルケギニアで役に立つはずがなかった。
 ようやく見つけたのはどんぐりに似た固い木の実が五つ。むりやり齧った。石のような歯ごたえにでんぷんの塊を噛み砕いたかのような味。あまりにも不味い。才人は絶対に吐き出すまいと、川の水といっしょにそれらを飲み込んだ。またおなかがくだった。
 ケティはお弁当をつくったあと、おやつのためのお菓子としてスフレを焼いていた。そういえばギーシュさまとも……。無垢だったあのころを思い出して胸がせつなくなる。振り払うように頭を振った。気を取り直し、スフレが焼きあがるのを待つ間に宿の主人に頼んで羊皮紙とペンを買ってきてもらい、『平民さん観察日記』なるものを書いてみようと思い立つ。
 これがのちに国境なき共産党内で聖典とされる『同志サイト・ヒラガ苦衷の時代』の原稿になるとは、現時点で誰一人として予想できないことだ。ていうか予想できたら頭がおかしい。

 午後になる。こころなしか空腹も収まった。
 ここで才人はようやくマルトー親方たちに贈られた鎖分銅の存在に思い至る。
 これを使ってなにかできないかな?
 真っ先に思いついたのはマンガ知識であるガチンコ漁だった。川の岩を石で叩き、衝撃で魚を気絶させるという大雑把な漁猟である。だいたいの河川でこれは禁止されているが、ハルケギニアでそんなことを気にしてもしょうがない。
 希望が見えて欣喜雀躍とした才人は、意気揚々と川面に岩の姿を探した。
 なかった。
 日本は特に石が多いが、外国では場所によってはほとんど見かけないこともある。よく欧州での原始宗教で信仰対象として用いられたのも、そうしたバックボーンがあるためだ。
 しょうがないので、手で取ってやる! と才人は無駄なあがきを試みた。当然できるはずもない。

「川遊び、たのしそう」

 とそんな才人を遠目にしながら、ケティ適当に折った枝に自分の髪を結び、もう片方の先端に鋭い木端と安物のビーズを取り付け、水に垂らした。のんびりと待っていると引きがあり、ひょいっと竿をあげると小ぶりなマスが釣れていた。ここで焼くとにおいでバレてしまうから宿で香草といっしょにパイ包みにして明日のごはんにしよう。にこにこ笑って草で編んだびくにマスを放り込むと、そろそろおやつの時間だった。
 才人は魚をあきらめ地上の動物を狙うことにした。そのための道具は、鎖分銅を使えばよい。そなえのために初めてその武器を手に持って見ると、体が信じられないほど軽くなって、素早くしかも的確に操ることができた。
 だがそれだけだった。
 動物はまったく寄ってこない。いなければ武器なんて振り回しても体力を消耗するだけだ。そうこうしている内に日が暮れて、才人は結局また木の実で飢えをしのいだ。
 ケティの日記の末尾には『平民さんはきょうも楽しそうにがんばっていました』と書かれた。

  000

 さらに二日が過ぎると才人の飢えはますます末期的になり、ケティもようやく彼がふざけているわけではないことがわかってきた。ちなみに魔法学院ではその頃、「ミス・ロッタが誘拐された!」と大騒ぎになって、有志を募った彼女の捜索隊が編成された。

「トリステイン魔法学院が見当たらないんだけど」という噂がようやくあちこちでささやかれ始めたのもこの頃だ。

 しかしマザリーニ枢機卿が不在の王宮では、こんな馬鹿げた噂は一顧だにされない。いや正確には、あまりにも馬鹿げている上に本当だったら誰の手にも負えない噂、と言うべきかもしれない。それよりも城下でますます活躍する『土くれ』のフーケのほうへと、貴族たちの意識は向いていた。
 なんでも先週某所でまた。なんと。こちらでもフーケが。まったく衛士はいったい何を。これはそろそろ本腰をいれねばなりませんな。ええ。それよりも今夜いっぱいどうでしょう。そんな具合である。
 なぜ本体であるかつてロングビルであった女性が捕まっているのに、また彼女は二ヶ月前から学院の仕事に従事していたのに、城下でフーケの噂がこうまで高まっているのか?
 それはカタリが存在するためだ。
 当人が縛に付いたことなど知らぬこの組織的野良メイジたちは、汚名のすべてをはしゃぎ回る正体不明のメイジが引き受けてくれることを利用して、このごろかなり好き勝手に暴れていた。貴族を狙えば何をしてもフーケのせいになるし、逃走中も「フーケだ」と名乗れば馬鹿な平民どもは英雄でも見るような目で彼らをかくまってくれる。まったくフーケさまさまだぜという状態であった。本人もこういう動きを知った上で放置していたのだが、さすがにここまでネームバリューが一人歩きするとは思わなかっただろう。
『土くれ』のフーケ団は絶好調。しかし、そんななかで城下町にある彼らのアジトのひとつが襲撃される。
 すわ当局の手入れかと思いきや違う。
 すんでのところで衛士の追撃をかわしたひとりの仲間の証言で、それが元はといえば義侠きどりの子供メイジがしでかしたことだと明らかになった。
 あとは上へ下への大騒ぎである。金を盗まれたのはまだいい。しかし横領されたと思しき木箱の中には、金銭に混じって決して見逃してはならないものまで含まれていた。
 本来横のつながりなどあるはずもない彼らを結びつける、絆であり牽制のためのライフライン。
 いっきとか自由民権運動で頻繁に用いられたあれ。
 連名血判状である。
 これがもし役人の目に触れたら大変なことになる。下手をすれば彼らの頭越しに、活動を援助していたおっかない上役にまで手が届きかねない。そうなれば待っているのは法の裁きではなくパトロン自らの手による圧倒的な私刑だ。誰一人として逃れられないだろう。あるかどうか知らないが、トリステイン海溝に沈められるくらいならばまだ優しい。アルビオン浮遊大陸を命綱なしでロッククライミングするのもまだまだ。ロマリア本国で「わたしはブリミルがケツを舐めるべきだと思います」という旨のプラカードを掲げて練り歩くくらいのことを思い浮かべてもらえればだいたい適当であろう。
 そして、これは彼らの内でも一部しか知らないことだが、さらに重要な、とある『計画』の重要なカギもまた例の宝箱には収められていた。最悪血判状は諦めても、こちらは是が非にでも取り戻さなくてはならない。

 そんな裏事情から、野良メイジたちは今や人生の岐路に立たされていた。連日連夜、やたら従業員の露出が多い酒場で自棄酒会議である。

「やばいよやばいよ」
「これマジで死ぬよなあ」
「ていうかなんでまだ捕まってないんだろうね、俺ら」
「木箱の奥のほうに仕込んでたし、まだ見つかってないんじゃないかなあ」
「一応助かったってことか」
「むしろこの生殺しの感じがイヤ」
「じゃあいっそ自首しちゃう? 監獄なら大丈夫じゃね?」
「いやそれ死ぬことに代わりないじゃん」
「うう。なんでみんなそんなにのんきなのよ……」
「そりゃおれたち基本アウトローだし。キレっとマジなにすっかわかんねえし」
「ところでジェシカちゃんって俺に惚れてるよね。今また目があったし」
「黙れ。ジェシカ俺の女だし。たまに谷間見せてくれるし」
「おれ一瞬おっぱい触ったことあるもん。手の甲で。あれは誘えばオッケーっつう顔だった」
「マジで? ちょっと手に頬擦りさせて!」
「おまえら商売女になに熱あげてんだよ……仕事だろ、しごと。割り切れよ。でないと、死ぬぜ?」
「童貞はだまれ」
「素人童貞もだまれ」
「貴様らは人としていってはいけないことを言った。表に出ろ」椅子を蹴立てる音。
「じょじょじょ上等だコラァ!」

 何人かが椅子を持って店の外へ出て行く。

「はあ…や、やっぱり死ぬしかないのかなぁ」
「まあ落ち着け。みんな前向きに考えようぜ」
「無理」
「無理無理」
「スカロン死ね。誰かあいつにモザイクかけろ」
「は? ミ・マドモワゼルを馬鹿にするなら俺がおまえの相手になるぞコラ。ケツだせ」
「アンリエッタ姫おれの嫁にしてえ」

 混沌の様相を呈するテーブルで、一応まとめ役のような位置にいる名もなき野良メイジがひとつの提案をした。

「いや無理じゃない。要は血判状を取り返せばいいんだ。そうだろう」

 オー、と一同が賛同の声を上げる。

「ボスがいいこといった!」
「そうだそうだ。取り戻せば良い」
「……で、でも、どうやって?」
「それをこれから考えるんだ」
「そうだ。夢はかなう! 努力すればいつかアンリエッタ姫が俺の嫁にもなる」
「それは無理だろ」
「無理無理」
「無理だな」
「死ね」
「おまえらひどくね?」
「で、突っ込んできたそのいかれたガキの名前はなんていったっけ? モンタナ?」
「たしか女だろ。モンタナはねえよ」
「じゃあアンリエッタ」
「おまえしつけえよ!」
「間を取ってジェシカ」
「ぜんぜん間を取ってねーだろ! 好きな子告白大会じゃねーんだよ! 外で争奪戦エントリーして来い!」
「女にやられたのかよ。だせえな……。名前は、えーともも、モンモン」
「主人公の癖に最終巻で死んだサルじゃねえかよ!」
「いやそんな感じだった。突っ込めばいいってものじゃないぞおまえ。……そうだ、思い出したぞ。モンモランシーだ」
「おお」
「狂ったネーミングだな」
「てか家名じゃね?」
「いや、そっちはド・モンモランシだったはず。伸びない」
「モンモランシー・ド・モンモランシ?」
「富野キャラみてえな名前だな」
「モンモランシー。よしおぼえたぜ。この響き」
「テーブルに書いてじっと見つめてたら異常な速さでゲシュタルト崩壊する名前だな」
「モラモランンシー」
「さっそく間違えてるじゃねえかよ!」

 会議は踊り、やいのやいのと収束に向かう。
 下手人は『香水』のモンモランシーを名乗るメイジの女の子。
 そしておそらくは魔法学院に所属している。
 少ないうえに不確実な情報だけが頼りであった。
 やる? やるか。やるしかねえだろ。死にたくねーしなあ。そもそもなんで血判状なんかつくったんだよ。つくらないとイモ引くからだろ。あと持ち逃げとかよ。実際今回もその寸前だったわけだし。まあなあ……。とにかくやるぞ。絶望の晩餐に、火がともりつつあった。
 追うべき標的。そしてまだかすかに隙間を残す生への道に、一同は希望を見出した。

 頼むぞ……血判状と『あれ』が見つかったら、わずかにあった起死回生の目も消えるんだ……。

 内心で歯噛みしつつ、ボスメイジはどんと力強くテーブルを叩き、クズどもに発破をかけた。

「まだ間に合うかもしれない。一度は諦めかけた命だ。なんとしてもこいつの所在をつかむぞ。地の果てまでも追ってやる」

 話がまとまる。新たな火種である。そして彼らを利用してトリステインの治安悪化をもくろむ悪の組織の名こそ、いま『白の国』アルビオンで革命的闘争まっさいちゅうの『レコン・キスタ』である。

  000 

 才人は鎖分銅の扱いに無駄に熟練し始めていた。しかし的はせいぜい木や葉っぱだ。時折うさぎやオオカミを見かけはするが、生き物を撲殺することには抵抗があり、どうしても武器を振るえない。
 ケティはそんな才人の行動パターンを熟知し始めている。あの平民さんはどうやらかなり興味深い人間みたいと、彼女も認めざるをえなかった。
 いや、『平民』と呼ぶことさえおこがましい。ケティはあんなに弱い生き物を見たことがない。独力では火も熾せず、魚も獲れず、そこらじゅうに生えてる山菜も見逃し、武器の腕前はすごそうなのになぜか動物は殺さない。口にするのは落ちている木の実くらいで、毎度水をナマで飲んではおなかを壊している。ケティの常識では、こんなによわっちい平民なんているはずなかった。彼らは、魔法が使えるメイジよりもある意味したたかなのだ。
 すごい……。
 才人を見ていると、ぞくぞくーっとしたものが、ケティの背を這うのだった。それがなんなのか、まだわからない。しかし眼が離せないと強く感じる。彼の観察日記をつけているときだけは、常に胸をちくりと痛ませる失恋の棘の存在を、忘れることができた。

 六日目、ふいに才人は限界に達した。目覚めた瞬間、四肢に力が入らなくなっていた。さらに、突拍子もない孤独感やさびしさが彼の内部を占領した。
 考えてみれば当然だ。貧相な食生活や自分がすでに五日も人と話しておらず、そもそも言葉も発していないことに気づいたのだった。
 俺、野生にかえりかけてる。才人は青ざめる。このままじゃブランカになってしまう。たまらず叫び声を上げるのだが、それがいっそう彼の姿態を動物っぽく見せていた。

「ぶふっ」
「……?」

 謎の音に首を傾げるが、もとより森の中は雑音でいっぱいだ。才人は特に気にも留めない。
 出所はいわずもがな、ケティである。突如として奇声を発した才人がつぼに入って笑ってしまったのだった。彼女も彼に引きずられて徐々におかしくなりつつあった。
 人恋しさもきわまって、才人はとうとうなんとしても森を出ようという決意を固める。怪物の影のように仰々しい森の木々が梢を揺らし、ひとときの間借り人の旅立ちを祝福した。しかし、この先には更なる苦難がスタッフを待ち受けていたのである。
 ケティが十五分で踏破する道のりに二時間をかけて、昼、才人はとうとう森を抜け街道に復帰した。

「やった。俺はやったんだ」

 遠くには、いまや懐かしくさえ感じるトリスタニアの市壁も見える。道行くまばらな人影に感涙して、才人は町へ歩みを進めた。
 予期せぬ障害は門をくぐろうとした、まさにそのとき起きた。数日間のサバイバルですっかり薄汚れた才人を見た衛兵が、うさんくさげな目で彼を見、話しかけて来たのだった。

「ずいぶんな風体だな。夜盗にでも襲われたか?」
「あ。ああ。うあ。か……はう」

 なんとでも話してうまく切り抜ければよかったのに、才人の口も喉も舌も、思うとおりに動いてはくれない。度重なる酷使に痛んだ喉もむろん原因であった。しかし何よりも重いのは、精神を苛んだ沈黙の病である。
 あれ。なんで声が出ないんだろう。おかしいな。はは。いくらずっと喋らなかったからって忘れたりはしねえよ。ほら、おっさんが変な目で見てる。なんかしゃべれ、俺。
 才人の風体が子供であることも手伝ってか、衛兵はとたんに心配そうな顔をする。

「お、おい。大丈夫か。怪我でもしてるのか?」
「う。うう」

 いっそもっと強く当たってくれた方がよかったのかもしれない。急に人情に触れた才人は胸が詰まり、ますます何も言えなくなる。言葉を出そうとすればするほど焦りがつのった。汗がふつふつと湧き出して額をぬらす。集まりつつある視線に身がすくむ。なにか。なにか言おう。
 意を決して面をあげ、渾身のひとことを発した。

「うぐぅ!」

 体当たりしてきそうなうめきにしかならなかった。

「あ、おい!」

 身を翻し脱兎のごとく逃げる。門前の人々はあっけに取られておかしな少年を見送るしかなかった。
 それを観ていたケティは悪いとは思いつつ今年一番かもしれないというくらい爆笑していた。

「あー。あー。ちくしょうなんだよ。喋れるじゃねーか」

 思い切り走り回って人心地つくと、才人は丹念に発声練習をしてなんとか人語を取り戻した。いくら話し相手がいなくても、声を出さないのはまずい。ひきこもりのようなことを異世界まで来て学習する有様だった。

「けど、今戻ったらまるっきり変なやつだしな……」

 門が一箇所のはずもないのでぐるりと壁伝いに廻ればいいのだが、さすがに現代の感覚で狭いといってもトリスタニアは王都である。外周を歩くのはなかなか骨だった。結局、才人は街道の路傍にいすわり、マンウォッチングやときたま話しかけてくる酔狂な人間の相手をして、夕方までを過ごした。
 普通ならエアパッチンを潰して過ごすくらい無為な時間だが、才人にとっては自分を見つめ直す時間になった。四葉のクローバーを探しながら、なんでまた俺はこんな辛い目にあってるんだろうという疑問がむくむくと湧いてくる。冷静に考えてみれば、やっぱりあの学校にいたほうがよかったんじゃないか?
 遅すぎる後悔である。

「はあ……」

『平民さんは、ためいきとともに、とぼとぼと森へ帰っていきました』

 その夜、宿にて才人の行動を書きつづるケティの胸はキュンキュンきている。惚れたはれたという種の感情とはまた違う。どちらかというとわざわざ売れないアイドルを見つけて一方的に応援しようと決め、悦に入る感覚だ。

「いいわあ。あの平民。いいですわあ……」

 突然だが。
 ケティはだめんずうぉーかーである。
 ギーシュに転ぶんだからそうに決まってる。
 そして尽くす女でもある。駄目なヤツでもがんばればそれなりに養うだけの器量を持ってしまっているのだ。男で一生を棒に振るあまりに典型的なタイプの少女であった。
 そんな彼女にとって、そこらの子犬より貧弱なサイトという平民はなんだか見てるだけで楽しい存在になりつつあった。貴族の中ではあまり蔑視がひどくない性質であるのも影響している。が、同棲相手を失った部屋の主のような物寂しい心のスキマを、この趣味の悪い観察の日々は少しならず癒していたのだった。
 それだけならば構わない。才人がひとりの女の子の心を救うという、なんだかまともな主人公のような出来事だ。
 問題は癒す方向性にある。
 折れた骨をきちんと接いで固定しなければ、おかしなくっつきかたをしてしまうように。
 ケティも才人も、だんだんぶっ飛び始めていた。

  000

 エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールはヴァリエール家の長姉で、きっとルイズ・フランソワーズは彼女のことがあまり好きではなかった。いや好きだったかもしれないが、苦手としていた。故ルイズの苦手な人ランキングを開催すれば、きっとベスト3には入賞しただろう。むしろ一位母親二位エレオノールのワンツーフィニッシュを決めただろう。
 当のエレオノールは、そんなことはとっくに知っていた。彼女は自分をしてほとんど瑕疵のない女であると自負している。そんなエレオノールが、もし「自分のいけないところはどこだと思いますか?」と聞かれたとする。
 無言でそんな質問をしてきた相手の尊厳を粉砕するという選択肢は除外する。その上で、彼女が「ほんの少し、玉に瑕だけど完璧すぎてもそれはそれであれだから欠点のひとつもあるほうがいいかしら」的な譲歩で認めるのであれば、さんざん素面で迷ったあとで「ちょっと意地っ張りで素直になれないところ」をあげるだろう。
 要するに、好きな子を構うあまり嫌われてしまう典型的なタイプの拡大・発展・サイコフレーム搭載型の人格を積んだのがエレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ナントカだと思えばいい。
 彼女は十以上も年の離れた妹が、可愛くて可愛くてしかたなかったということだ。
 結果として上手く想いは伝わらなかった。しかしいつも心配していた。魔法が使えず、いじめられていないか。気にしすぎてはいないか。ためにエレオノールは幼い頃から逃げ癖のついていた彼女によくいい聞かせていたものだった。

「いい? ルイズ。ちびルイズ。あなたはまだちびなんだから、魔法が使えないくらいでいちいち泣くんじゃありません」
「はい、おでえだま」頬をつねられながら、幼き日のルイズは半泣きで頷く。カトレアや婚約者の子爵にははにかんで笑うくせに、自分を前にすると妙に緊張しいになる妹だ。そこがまた可愛い。泣かせたくなる。
「あなたは貴族なんだから、ヴァリエールの名に恥じぬよう振舞いなさい」
「あい」ルイズは鼻をすすりながら頷いて、「でも、おねえさま、あたし、まほうがつかえないの。ほんとはきぞくじゃないのかもしれない」
「ばかね! ルイズ」エレオノールはつんと末妹の額を指でつついた。「魔法を使えるものを貴族と呼ぶんじゃないわ!」
「……え? うそ」
「うそじゃないわ。よくお聞きなさい。わたしのちびルイズ」エレオノールは微笑んだ。たぶん、ルイズにもちょっとそうとはわからないくらいかすかに。「あなたを苛めるすべてのこと。困難や不幸や障害や、あるいはほかの何か。そういう敵に、背を向けないもの。その精神! それが貴族よ! わかって?」
「てきに、せを、むけない」

 本当は言い回しが難しくてわかっていなかったろうに、ルイズはこくこくとエレオノールの顔を見て何度も頷いたものだった。
 そして、今。ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールが不慮の死を遂げて数日後。

「ルイズ」

 トリスタニアにて妹の訃報を耳にした彼女は、もうラ・ヴァリエール領にある自宅について、屋内廟に安置されたルイズの死体の前にいた。
『固定化』の魔法がかけられたルイズの体は、死亡当日から幾晩を経ても腐敗の傾向は見られない。それでも体から血の気がいっさい失われているのは相変わらずで、どれだけ大量のメイジを用意したところで彼女の顔に、もとの薄紅が色づいたような頬を取り戻すことはできないだろう。

「ルイズ。ちびルイズ……」

 エレオノールはもう丸一日、物言わぬルイズの死体のそばで、彼女の顔に手を触れては戻すことを繰り返している。いつ妹が目を醒まし、長姉に脅えた視線を向けてもいいように、エレオノールも顔を崩さない。年長者たる威厳は常に保っている。
 しかし、冷えた頬に指が届くたび、エレオノールはある衝動に耐えねばならなかった。時折横隔膜をふるわせる吐息。発作的に滲みかける視界。それらの生理機能を超然たる自制心で凍りつかせ、彼女はただルイズの亡骸を凝視する。

「ばかな子ね。あなたの心配を、これからもずっとするつもりでいたのよ。誰より先にいってしまうなんて、ほんとうに、あなたって困った娘だわ」

 一息。
 改めて妹の骸を見つめるエレオノールの瞳に、変化が生じた。

「え……?」

 思わずわが目を疑う。錯覚だ。一秒後にそう断じる。だけど…。どういうことだ? ルイズは内臓を病んで急死したと報告を受けている。水のメイズの徹底した透析によっても毒薬の類は検出されなかった。医師の見立てでも胃病で間違いないという。しかしそれは死因に限った話だ。『それ以前』のルイズに関しての精細な情報は手元にはない。授業中に突如として吐血し、意識を失い、そのまま帰らぬ人となった…そんなどうとでも取れる程度の説明だけ、父母は受けていた。
 人は死後、その身を清められる。事実、ルイズも今は身奇麗になっており、血痕の付着した衣服などまとってはいない。
 だが、その長い、よく自慢げにしていた母親譲りの美しい髪に、雑草が一片だけ付着している。場合によってはそんな紛れもあるかもしれない。しかしだ。耳の後ろにある生え際から伸びたひと房のさらに一部にある草はしかし、

「乾いた血で、塗り込められている……」

 その物証が意味するもの。
 ひとつはルイズの死が屋外で訪れたこと。ひとつは草がそんな位置に引っかかるような姿勢でルイズが地面に倒れこんだこと。
 それがどういうことになる? 外で…体を動かす授業の最中に倒れたってこと? エレオノールは息を詰めて思考する。だけどほんとうにこの子が死に瀕するほど重篤な胃の病気だったのなら、いくらなんでも自由に動き回れるほどの余力はなかったはずで……。
 仮定を二重にしていることに気づいて、エレオノールはかぶりをふる。頭が冷静ではないのだ、と自分に言い聞かせた。だからこんなどうでもいいことが気にかかる。
 そう思うのに疑念は止まらない。
 そもそも調子が悪いのならば体を休めるていどの分別が、ルイズに本当になかったの? それはわからない。カトレアにでも聞かないと。でも、だったら見学という線もあるか。講義の時間割はどうなっていたかしら。思い出せない。考えるだけ無駄ね。いえ。待つのよ。確か、魔法学院のこの時期には、『あれ』があったはず。意地っ張りのルイズが、悪い体調を押しても参加せざるを得ないような、重大なイベントが。
 二年生への進級時に行われる儀式。

「使い魔、召喚の儀式」

 魔法学院所属のメイジにとっては極めて重要な意味を持つ、伝統の儀式だ。その最中に、ルイズは前後不覚に陥った可能性がある。
 そして死んだ。
 あまりにも唐突に。
 使い魔の中には、凶暴な存在も稀にいる。召喚のゲートに応じる以上はある程度協力的な意思を持った存在が現れるが、それは主に限ったもので、ルーンを刻んでいない段階では不確定な要素は、いまだ存在するのだ。野生の幻獣というのは、決して油断して相対してよい存在ではない。だからこそ儀式には『トライアングル』以上の監督が義務付けられている。
 また、使い魔自身の意思によらず周囲のメイジに危険を及ぼすケースもある。皮膚や吐息に毒を持つ幻獣の心当たりがエレオノールにはいくつかあった。
 エレオノールの疑心が皮膜に覆われた真相に、かすかだけ触れた。

「考えすぎだわ。そんなこと…あるわけがない」

 呟く言葉がしらじらしい。もちろん、こんな疑惑は言いがかりに等しいものだとエレオノールは知っている。いま、わたしは自分を見失いかけている。正しく彼女は自覚していた。 
 だが止まらない。
 なにかをしていなくては、ルイズのために何かをしてやらなくては、本当にただの口うるさかった姉として、別れることになるだろう。
 それがどうしても嫌で、エレオノールは外的な要因を措定しはじめた。逃避行動の感情の矛先が、学院という特殊な空間の隠蔽体質に向かった。ただそれだけの話である。
 まさか、若干なりとも図星だろうとは。
 色んな人にとって不幸な出来事だった。

「まずは」

 本当にルイズが体調不良だったのか? 手紙などからその痕跡がつかめるかもしれない。

「カトレアに、確認しなくてはね」

 人知れず意思を固めたその直後に、エレオノールを訊ねる声があった。

「ここにいたのか」

 父のものだった。恐らくここ数日でめっきり老け込んだのであろうヴァリエール公爵が、それでもなお威厳を保った声音で告げる。

「エレオノール。アンリエッタ殿下がいらっしゃった。おまえも拝謁して挨拶なさい」
「はい。お父さま」

 短く答え、死体から目線を切る。口中で祈るように、彼女は呟いた。不思議ね。ルイズ。あなたが死んでしまったなんて気がしないのよ。今にも起きだしてきそうなんだもの。それともどこかでわたしを見てるの? ばかなことをしてるって……学院に難癖をつけようなんて。姉さまなんか自分をいじめてばっかりだったのにって、思ったりしている?
 大げさな題目などない。
 妹の死を受け入れるために、こんな無意味な行動がエレオノールには必要だった。それだけのことだ。
 いわばラブである。
 そしてここで、そのラブによってこの先エレオノールさんが失ってしまうものを列挙してみます。

1.婚約
2.職
3.常識
4.平和

「ルイズ……!」

 鼻息荒く追悼のための行動をはじめる彼女もまた、事態をややこしくすることに一役を買う。

  000

 そしてラ・ヴァリエール邸に迎え入れられたアンリエッタ王女はこれ以上ないほどがっくりきている。トリステイン小町と名高い美貌も目が死んでいてはいまいちだった。

「王女殿下におかれましてはご機嫌麗しく……」
「はあ。どうも」

 ヴァリエール家の人々への返礼もほとんど適当である。しかし謹厳で知られる公爵夫人がちょっと青筋を額に浮かべそうになると、さすがのアンリエッタも居住まいを正した。子供の頃にはルイズを通して彼女の恐ろしさをよく聞かされたものだ。

「公爵。このたびの不幸は、なんといったらよいか。ルイズ、ルイズ、あのルイズが……」

 しかしルイズのことを思うと、アンリエッタの目にはじわっと涙が浮かんでしまう。訃報を聞かされてからしばらくは茫然自失、その時点ではどこか友人の死に現実味がなく、むしろアルビオンに関する私用についての心配などが先立ったものだが、領地に入ってからのあまりの喪中っぷりを見て、ようやく意識が現実に追いついた。
 ルイズ・フランソワーズはどうやらほんとに死んでしまったのだ。
 身分や立場もあって気を許せる人間などほとんどいなかったアンリエッタにとって、ルイズという存在はまざしく竹馬の友であった。莫逆の仲であった。刎頚のつながりであった。管鮑の交わりであった。思わず重複表現に無駄に凝るほど仲良しだったのだ。比較対象がいないので彼女がそう考えるのも無理はないことである。

「ルイズは、わたくしのお友だちでした。彼女は美しく、聡明で、気高く、また忠義に篤い……」

 王女としてまっとうな弔辞を述べねばならない。しかしマザリーニが添削した文章はすっかりアンリエッタの頭から飛んでいた。さすがにいきなりダバダバ泣き出すような真似はしないが、モグモグ吐き出す言葉は非常に要領を得ないものになる。

「小さくて、あとピンクで、ああそれに魔法もからっきしでしたわね。それにピンクでした。もも。スモモもモモもモモ」

 公爵家の雰囲気が一秒ごとに「おいおい」という感じになりだして、マザリーニ枢機卿は自室に返ってから頭を抱える覚悟を決めた。
 困り者のアンリエッタとて、今の状況がおよそ上に立つ者として相応しくない醜態であることはわかっていた。だがタイミングが悪すぎた。よりによって、今や自分にはルイズくらいしか頼れる人がいないわ、と思いつめていた段階でその友だちに死なれたのである。

「ええ……いつかの晩餐会では彼女に替え玉をしてもらったこともあるくらいで……」

 お空の上で苦境に立っている従兄殿の進退はもうほぼ決まっている。

「悪いことをして、ともに叱られてしまったこともあったわ……」

 打つ手のなくなった自分が今後たどる道も連鎖的に想像できる。

「ルイズ、公爵の娘ごは、わたくしにとってほんとうの、なにものにも変えがたい、無二の友だったのです」

 そこに単純に幼少のみぎりを共有した親友をなくした哀しみ。
 アンリエッタの心中で過去と未来が虚実の別なく氾濫した。
 笑っていたルイズ。泣いていたルイズ。自分の手をとったアルビオン皇太子ウェールズ。湖のほとりで誓いを交わしたウェールズ。そんなウェールズにしたためたつたない恋文。それをアルビオンをひっくり返そうとしている貴族派に見つけられたあとの展開。ゲルマニアを怒らせたトリステインの末路。ルイズウェールズさまルイズウェールズさまわたくしウェールズさまウェールズさまわたくしウェールズさまわたくしウェールズさま国。あとまあルイズ。

「ルイズ……」呟きとともに、真珠のような涙の雫がアンリエッタの頬をつたう。
「殿下……」さすがに感に堪えたのか、率直な哀惜が周囲に伝播した。身内だけしかいない空間だからこそ作用した幸運である。
「ウェーイズさま……」ごっちゃになっていた。
「誰!?」

 倍率ドンドンドンでアンリエッタはもう自失状態であった。たとえるなら、今からバンジージャンプをしなきゃならないのに明らかに命綱が途中で切れてる、といった心境である。基本的に政治家に向いていないアンリエッタがどうにかなってしまうのは、無理からぬことなのだった。

「もったいなくも、殿下にそこまでおっしゃっていただければ、あれも満足でしょう」

 アンリエッタのたいがいな弔辞がひと段落すると、すごい無難な感じでヴァリエール公爵が綺麗にまとめる。二三事務的なやりとりを交わすと、あまり仲のよろしくない公爵と枢機卿の目と目が通じ合った。
 とりあえず細かいことは明日。
 一同はぐんにょりして、部屋に案内されるアンリエッタを見送った。

「殿下はお若くあらせられる。そしてああまで悲しんでいただけたルイズは果報者だ」

 フォローを忘れない公爵は基本的に王族に忠実である。それからため息をつくと、末席で居住まいを正していた近衛魔法衛士隊のひとりに、老いた父親の顔で話かけた。

「子爵。きみには済まないことになった」
「いえ……。彼女はきっと天に愛されすぎたのです」
「きみが近衛にいたのは幸いだったよ。それとも不幸だったのかもしれんが。ともかく、よければわが娘をともに見送ってくれたまえ」
「は」

 厳粛な面持ちで顔を伏せる彼、ルイズの婚約者ことジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドの内心は、舌打ちにまみれている。そして懸念でいっぱいである。
 端整な顔立ちの奥底で、ワルドは非道な計算を働かせていた。

 さて、どうやってルイズの死体を盗もうか?







[5421] おまけ3
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:35


 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 3 000




 七日目。魔法学院で本塔地下にあった入浴場が奇跡的に原型を留めていることが確認され、雨露をしのぐ即席の建造物が完成をみたころ、今日も今日とてギリギリを生きる才人は、腐葉土に寝そべっている。
 彼は目を閉じて地球のことを考えていた。正しくは、目を閉じると勝手に過去の記憶が再生されるのだった。いわゆる走馬灯である。
 いよいよ身命を侵さんとする栄養不足は、もはや主人をしりぞけ思考の牛耳を執らんとしている。虚ろな双眸が映しこむのはしかし、思い出深い情景などではなく、ぎりぎり忘却の淵に引っかかっているようなエピソードばかりだ。

 平賀の祖父は穏やかな人物であった。若い頃には従軍の経験もある老人で、それなりにやんちゃだった才人は彼によく懐き、珍しい話をねだったものだった。
「日本は情報を軽んじたせいで戦争に負けたんだ」と顧みる眼差しで語った祖父の顔には修羅が棲んでいた。
 死後、祖父の私室の床下から小銃やニトログリセリンや軍刀が発見され、親族一同を揺るがす大騒ぎとなったものだ。結局それらの物品は見なかったことにされた。今も実家の床下の地中に埋まっていることだろう。

 そんな祖父の息子である叔父は、祖父とは別の意味で親族にとっての困り者だった。いつまでも分をわきまえず一攫千金を夢見ているような男で、地道な労働とは縁がない人間だったのだ。
 子供はだいたいロクデナシに懐くもので、才人もその例外ではなかった。金の無心に来る叔父は、よく甥に「この馬はガチで来る」「このくじはガチで当たる」「今度の株はガチで上がる」などと大言を吹いたものだ。
 叔父が家に来るたび才人は喜んだが両親はとても苦い顔をしていた。才人はそれが悲しかった。
 しかし中学の頃あぶなげなところから金を借りて株に全財産突っ込んで失敗したあげく蒸発したと聞いたときは、「ああやっぱりな」と思ったものだった。さすがに中坊ともなればごく潰しとロマンチストの区別くらいはつく。こうして才人はちょっとだけ大人になった。

 次に思い浮かんだのは小学校のときの遠足だ。前日からハイテンションの才人はバスの中でゲロっちゃうようなこともなく、通路を挟んで座ったちょっと気になるあの子をちらちらと過剰に意識しては、小さな幸せを満喫していた。
 悲劇はパーキングエリアで起こった。ちょっと長めのトイレに出た才人がバスに戻ろうとすると、どこを見ても車の姿がない。半泣きになった才人はとりあえずエリアの公衆電話から自宅に電話をかけた。
 家には母しかおらず、そして車はない。結局夕方まで才人はパーキングエリアで過ごした。才人の不在には遠足が終わるまで誰も気づかなかった。

 思い出してはいけない記憶を取り出したせいで、才人はものすごく切なくなってきた。
 かように平賀の血にはデスペラードの命脈が受け継がれている。万事流されやすく血気盛ん、それでいてヌけていると評される才人も例外ではなかった。むしろ最先端である。

「生きる」

 ひび割れたくちびるから空へ向けて、単なる言葉が吐かれ、すぐにしなびて顔に落ちる。
 鈍色の雲を切り分ける梢に鳥が止まる。
 川のせせらぎに感覚が浸る。
 少年は夜郎自大な自分を悟った。都会から離れ、身ひとつで大自然と向かい合う。なるほど生活とは険しい。ただ食べるだけのことがこんなに厳しいだなんて思わなかった。それはわかった。わかったからそろそろ……勘弁してくれ。でないと死ぬ。マジでしんじゃう。
 うめきながら大地をにょろにょと這って、才人は最近食べられることを確認した野草を優しい手つきで掘り出した。都会っ子なのですぐには思い付きが至らなかったのが悔やまれる。草だって食べられるんだ。軽い意識改革が、ここ数日の才人に訪れていた。
 しかしなにぶん葉っぱは苦い。そりゃ生の葉っぱを食って美味く感じるようなら今すぐ人間を辞めて牛にでもなったほうがよい。ぺっぺと噛んでみた子房を吐き出した才人だが、今度は根っこに注目した。根菜とか……イケるんじゃねえの?
 川で洗って食べてみた。
 意外とイケる。
 才人は図に乗って、さらなる食物を探した。もう気分はサバイバーだった。元の世界に帰ろうという考えすらわかない。
 今を生きる。
 刹那的かつ永遠のテーマだった。
 このとき彼が手にしたのは、フキにも似た新芽。洋風に呼ぶとスコルピアというナス科の多年草である。ハルケギニア産なので厳密には全然違う花だが似たようなものだと考えればよい。しかし才人は細かいことは気にしない。むしろこれはフキだ、と彼は確信していた。世に言う確証バイアスである。
 このスコルピア、開花時期は春から初夏にかけての植物で、見た感じは健気で鑑賞にも堪えうる。

「食えるかな。食えるよな」

 才人には「花」というより「野菜」にしか見えていない。かなり末期であった。
 この花は和名をハシリドコロという。
 さらにわかりやすい別名をキチガイナスビという。
 テレビでは放送できないネーミングであった。
 毒草である。
 ハルケギニアではこの根や根茎を乾燥させて煎じたものを、水の秘薬として用いている。
 全身にアトロピンやスコポラミンを含む。ばっちり副交感神経を麻痺させる成分である。なのでふつう食べると食中毒を起こす。症状は嘔吐や散瞳や呼吸困難。ならびに異常興奮による幻覚、譫妄、転じて昏睡。そこから由来して、「食うと走り出す」という命名にちなんだわけである。あと運が悪いと死ぬ。
 が、毒を以って薬を為すとあるとおり、一概に毒草とも言い切れない。瞳孔の散大効果があるので、正しい処方に基づけば、実はあの有名なロートエキスもこの草から抽出できるのである。またヨーロッパでは瞳を美しく見せたい婦人方が、実際にこの草のエキスを点眼していたこともあった。
 一方才人の食べ方は当然のごとく間違っていた。
 ケティはその様子を一から十まで見ていたが、まさか平民が毒草をむさぼり食っているなどという事実には思い当たらない。実は彼女は、八歳の折ヒカゲシビレタケ・トリスタニカ(マジックマッシュルームともいう)を生で食べて半日トリップしまくった経験があるが、そのときの記憶を持っていない。パッパラパーになった人やラリパッパになっちゃう理由などお嬢さまなケティが知るわけもないのだった。

「おお。うめえうめえ」

 と才人は思っているが、実際は美味しいはずもない。普通に野草の根を食べればこうだろうな、という土臭い味である。しかしそうでも言わなければ彼もやってられなかった。いわば自己暗示である。
 ひさびさの水っぽい食物を、彼は丹念にしゃぶりつくした。もう後にはひけない。

「…………あ?」

 のどの渇きを川の水で潤し、つけあわせに保存しておいた木の実も食べた、そのときである。
 才人の眼は虎眼先生のごとく瞳孔を散大させた。
 同時に全身をえもいわれぬ悪寒と痺れが走りぬける。ついで大きな熱のかたまりが彼の体内に生じた。才人は丹田からこみ上げて輝くその光を確かに見た。普通に幻覚だった。

「太陽! 太陽すげえ! すっげー! 太陽! おっほー!!」

 もはや誰が見ても危険なレベルまで、才人はアロンソより早く駆け抜ける。後生大事にしていたパーカーを脱ぎ捨て、デニムジーンズも脱ぎ捨て、それでも下着だけは脱がず、肌寒い四月の風に狂喜乱舞して川へ飛び込む。手にはいつの間にか鎖分銅があった。

「よしこい! かかってこい! 俺はここだぁ!」

 錯乱しつつも左手のルーンは百ワットの電球くらい輝いていた。ひそかに円形脱毛症になっていた桃色の手毛もファッサファッサと風に泳ぎ、水に濡れてはしぶきを散らす。美しいがどこまでも変態的な光景であった。

『なにこれ……』

 と。
 心底頭が痛そうに囁く声がある。
 才人は動きを止めぬまま、意識の片隅で思い出した。聞き覚えがあるなこの声。どこで聞いたんだっけ。
 そうだ。あのときだ。
 大暴れして、あのキザったらしい貴族の魔法使いのゴーレムと戦ったときも、これと同じ声が聞こえていた。そして、そのあとも……。だが才人はもはやそんな些細なことは気にしない。
 幻聴だ幻聴。
 そう決め込んだ。明らかに左手のルーンをスピーカーにして声が聞こえても、彼はそれを夢幻の類と思いこんだ。

『幻覚じゃないわよ。いい。あんた。この犬。わたしの使い魔なんでしょ? ねえ。聞いてよ。聞け平民。おい。無視するな!』

 才人は末梢神経的なケイレンで応じる。

『それ、返事? まあいいわ。とにかくなんとなくわかってきたことがあんのよ。このルーン、あんたが武器を持つたびに機能してる。それでそのときだけ、わたしの声を聞けるようになるのね。いったいどうなってんの? ねえ』

 よほどの寂寞と見詰め合うときを過ごしたのか、その声は一週間前耳にした癇癪めいた性質より、いくぶん柔らかだった。もっとも今回は才人がとち狂っているのであまり意味がない。

『……わかるわけないわね。平民なんかに』

 才人は心の赴くまま、左手を水面に叩きつけ、生えている毛を一房ひっぱった。

『いったい! ああ、あんたききき、貴族の髪を引っ張るなんて! なに考えてるの! こら! やめなさい! いたーッ!』
「なんだコラ! 俺は負けねえ! 生き延びてやる!」
『わかった、わかったから。とにかく聞きなさい。ええい、この……』

 声が一瞬静まったと見えた瞬間、才人の脳裏に刹那だけ女性のものと思われる面影がよぎった。
 桃色の髪で、優しそうな顔をして、スタイルもよい。この世のものとも思えぬほど美しい女性の姿だ。
 ――あら。また泣いているの? しかたのない子ね。
 彼女は微笑して才人の頭を寄せると、その胸のなかで抱擁した。暖かい体温が錯覚ではなく才人に伝わってくる。涙が出そうなほどの安らぎが生まれた。

「……」

 狂態が一瞬だけ停止して、彼はそのイメージをまぶたの裏に探した。何もかも忘れるほど胸がときめいていた。
 これが……恋? 
 素で気持ち悪いモノローグを吐きかけたところで、

『あ、今のね。わたしだから。わたしの姿。ちょっと見えたでしょ』

 何か違うし騙されている気がする。
 しかしそんなことはどうでもいい。才人は釘宮声を黙殺した。
 水面が波紋を幾重も描く。そのすべてを打ち消すほどの波を蹴立てて、呟いた。

「今の」
『え?』
「誰?」
『……わたしよ。すす、すごいでしょ。なんていうかもう、非の打ち所のない感じでしょ! 特にむ、む胸とか!』
「嘘つけ」本能が即座に虚言を見抜いていた。
『なんでわかるのよーッ! 人の名前も覚えてない癖にッ!』

 絶叫するルーン。
 呼応して乱心する才人。鎖分銅を操るその動きだけは常人どころか達人の域を軽々逸脱して入神している。もはや分銅を投げたという殺気だけで獲物を射落とした。
 掌中に極意がある。
 追えば逃げる。
 触れば消える。
 狐狸鳥獣は霞と同じだ。寄せた指には決して触れない。痩せこけた体躯に鋭利な気が充溢し、今や才人は触れれば切れるガラスの十代キザキザハートだった。薬物の助けを借りて開眼した奥義を教示するのは彼が子供のころ見た『ベスト・キッド』のミヤジさんだった。脳内師匠は語る。

 ライトサークル、レーフトサークル。アップ、ダウンねダニエルさん。

 ダニエルはそうした。
 才人もそうした。

「フンハァッ!」

 吃と眼光閃いて、馬手がしなって錘が飛ぶ。とたんに森がさんざめき、頭上からはボッタボッタとカラスだのハトだのが落ちてくるわ野をゆく兎はこてんとショック死するわオオカミたちは理由もなく遠吠えを上げ始めるわと、一帯の森はすごいことになっていた。
 それを見ているケティも大変なことになっていた。

「 エフッ エフッ エフッ エフッ 」

 笑いすぎてひきつけを起こしている。
 淑女なのに鼻水まで出ちゃうほどウケていた。
 なに? いったいどうしたのあの平民さん。わたくしを殺してしまう気なの! ばんばんと地面を叩く彼女は「ググリ」という罠で捕らえたウサギを堂々しりごみせずにかっさばいている真っ最中であった。おかげで鮮血が顔を汚してしまっている。

  000

 ところで、局所的な魔界となった森の近くを通るグループはこのときみっつあった。ひとつはキュルケ、ギーシュ、モンモランシーの三人組である。実質分解状態の学院には見切りをつけた生徒たちだ。
 示し合わせてトリスタニアに向かうわけではない。同道したのは偶然である。キュルケは単なる買い物で、あとの二人は行方不明のケティ・ド・ラ・ロッタを探そうという目的が主な遠出になっている。
 馬を器用に操りながら、キュルケは背後で暗い顔を引きずるカップルを流し見た。

「それにしても、その一年生の子を見つけだしてどうしようって言うの? 単に恥をかかされたって思って家に帰っちゃったのかもしれないじゃない。それを何十人も徒党を組んで探しちゃって……まあ他にやることもないんだろうけどね」
「ひとりで?……ありえないわ」モンモランシーが忌々しげにギーシュを尻目した。「何かあったって考えるのが妥当でしょ。ねえ、ギーシュ・ド・グラモン?」
「うん」

 さすがに苦い顔で、ギーシュは頷く。そこには使命感と悲壮感と罪悪感と、あと一片のめんどくさい感があった。

「あなたたちって変わった恋人だわ。特にモンモランシ。どうして恋敵を探してあげようなんて思うのかしらね」
「恋敵じゃないわ。もうこいつとはなんでもないもの」

 モンモランシーはきっぱりと言い放つ。とたんにギーシュが眉を下げて、

「そんな、モンモランシー。だからそのことは誤解だって言ってるじゃないか……」
「知らない。つーん」
「ああ! モンモランシー!」

 と叫んだところで、彼女たちのまたがる馬が突然興奮しはじめた。襲歩する駒たちをどうにか落ち着けることには成功したが、一斉に鳥が飛び立つ横手の森を見て、一同は首を傾げる。

 ここでギーシュの『モンモランシー』という呼びかけを聞いていたのがもうひとつのグループ、くだんの野良メイジ連合であった。道端の草むらに身を潜めている彼らだが、こんなところにいるのには理由がある。
「最近城下で豪遊する貴族の少女がいるらしい」といううわさを聞きつけ、ケティに目をつけたのであった。このあたりはさすがに地域密着型の集団である。情報が早い。
 しかし宿帳を見れば宿泊している女の子は確かにメイジだが、名前は『モンモランシ』ではなく『ロッタ』であった。だいたい例の義賊が本名を名乗ったという根拠もないので、迷いどころである。しかし迷う暇は彼らにはない。とりあえず即日ガラをさらうことが決定した。
 話によればミス・ロッタは毎日町を抜け出しては夕刻門が閉まるギリギリに帰ってくるらしい。町の外でならば実質法権は働かないも同然だ。野良メイジたちは今まさに、どういうわけかお上が管理する森林へ忍び込んでいるケティの身柄を虎視眈々と狙わんとしていた。
 しかし――
 さていざというところで、『モンモランシー』と呼ばれる貴族の女の子が現れたのだった。あまりにもタイミングが良すぎる。
 一同、合計八人の手勢を率いるボスメイジは、臍を噛んだ。

「動きを悟られたか? ……それはないか。だがどういうことだ」
「どうします」
「とりあえずこっち行っときますか? モンモランシーって呼ばれてるし」
「そうだな、いや、待て」ボスメイジは学院生徒たちの会話に耳をそばだてる。

 モンモランシーと思われる金髪巻き毛の少女と、同伴するいかにも貴族然とした奢侈な身なりの少年。この二人は誰かを探すためにトリスタニアへ赴いているらしい。しかし、今日は『虚無の曜日』ではない。
 学院とは、果たしてそれほど軽々と生徒を自由にさせる場所だっただろうか――気がかりがいくつか生まれ、いずれも無視できない。ボスは愚策と知りつつ、配下のメイジたちに改めて指示を下した。

「三人と五人にわかれろ。三人のチームは予定通り森へ入って小娘をつかまえる。僕を含めた五人はあっちの三人に探りをいれよう。学生とはいえメイジ三人を相手にするなら、万全を期しておきたい。……余裕があればさらうがな」
「オーケーボス」
「そのボスっていうのやめないか?」ボスは顔を歪めて、「まあいい。しくじるなよ。我々には後がない。早晩王都も出なくてはならないだろうからな。――行くぞ」

 号令一下、無法者のチームは妙に統率の取れた動きで散開した。

  000

 そして、第三のグループ。先行する二組からはいくぶん遠い箇所を歩くのは、『土くれ』のフーケを護送する魔法学院職員たちであった。内わけはコルベール先生、シュヴルーズ先生とその他二人の計四人。
 彼らは護送隊でもあると同時に、とうとうしびれをきらし学院長に無断で学院消滅の報を届けるべし、と腰を上げた有志でもあった。
 あの忌まわしき『グラウンド・ゼロ』から明日で一週間(八日)。意外と野外生活に順応しつつある学院メイジたちではあったが、さすがに皆が皆浮動的な状況をよしとするはずもない。いいかげん近場に実家のある生徒の姿がチラホラと消えつつあるのだ。彼らの親御から学院の頭越しに王室へ通報されては、翻意ありと疑われてもいいわけができなくなってしまう。未練がましいオールド・オスマンには付き合いきれんと、現実的な対処を始めることにしたのである。

「おや。鳥が騒がしい……」

 遠い目で森を見やるコルベールは、拿捕されて以降完全に黙秘を貫いているフーケ=ミス・ロングビルを道中ずっとちらちらと意識している。
 杖を奪われ腰と両手に縄を打たれた彼女は、むっつりと前を睨み、自分を囲むメイジたちの姿など目に入らぬかのように振舞っていた。これから衛士に突き出される未来などまるで恐れていない風である。
 正直なところ、彼女が本当にフーケか否かという点には懐疑的なコルベールであった。証人のタバサと才人がさっさといなくなってしまったのも一因である。
 とはいえ事件当夜、夜っぴて番をしていたはずの教職員が揃いもそろって眠らされていたのは確かなので、なんらかの外的干渉があったことは想像にかたくない。あっさり気を失わされた教師たちはこぞって彼女が盗賊であるというタバサの言を容れたが、コルベールはそうやすやすとは納得できない。
 要は、状況証拠だけで、はたして同僚を官憲に突き出していいものか悩んでいるというわけだった。
 もちろん岡目八目には程遠い、どちらかというと判官贔屓な葛藤である。彼もまた脛に傷持つ身。若い頃にはしゃいで村ひとつ灰燼に帰したトラウマを抱えている。
 そんなコルベールだからこそ、特に気品さえ漂わせ、実際に有能だった美しい女性が盗賊などに身をやつす経緯を色々と想像し、勘ぐってしまう。メイジとしても優秀で、おそらくは高度な教育を受けていたからこそ『ミス・ロングビル』は学院長の秘書たりえた。それだけの能力を兼ね備えた人間が、どうして好んでヤクザな稼業に打ち込むというのだろう。けっこう当たっているだけにバカに出来ないコルベールの観察眼である。
 罪、罪か。果たして彼女に罪はあるのか? それを言うならわたしこそ裁かれるべきでは? などと、論点を自分で豪快にジャグリングしつつ答えの出ない思索にふけってしまう。
 さて、フーケはというと、これが意外と楽観的であった。教師クラスのメイジに周囲を固められているという点では脱出は困難だが、正規の衛兵に護送されるよりはまだ望みがある。
 とくに自分が気があるふうだったコルベールは、肌のひとつやふたつを脱いで見せれば、逃がすとまではいかなくとも隙を見せてくれそうな気が、大いにする。
 彼女は絶望しない。より大きな挫折と失意を既に経験しているからだ。しらっとした表情の裏で蓮っ葉な笑みをつくって、まあ、なんとかしてやろうじゃないの、そうでんと大きく構えている。幾度となく『土くれ』のフーケを救ってきた彼女自身の勘が、囁いていた。ここはまだわたしの結末じゃない。終幕はまだ遠い。わたしはこんなところで終わる器じゃない、と。
 この勘は当たっている。

 悪い意味で。

  000

 ひたすらに気分が悪い。げーげーと、ほとんどない胃の中身を戻して虚脱状態の才人は、今もなおルーンから響く声を拾っている。これがまた頭に響く声質でたまらない。いいからちょっと黙れと才人は言うのだが、するとその口の利き方はなによとルーンは烈火のごとく怒るのだった。ひどくたちが悪い。

『それにしても……、今も武器は握ってるとはいえ、ちょっと前まではそれだけじゃまだ足りなかったのに。どういうことかしら。あんた、まさか聞こえないフリしてたんじゃないでしょーね』
「いや、そんなことはないです、はい」

 青ざめた顔で、才人はガタガタと震える。鎖分銅を握っているとどうにか体に熱が灯るので、今やこのプレゼントは彼にとっての生命線となっていた。場合によっては最後まで正式名称が出ないかもしれない伝説の刻印の、意外な使い道であった。

『ひょっとしたら、死にかけてたりしたほうが通りがいいのかしら』

 ルーンの呟きに「携帯のアンテナじゃねえんだから」と答えたいところだが、そんな余裕はない。自らの左手を見て、才人はさめざめと泣いた。ちなみに交信のチャンネルが開きっぱなしになったのはさっき食べた毒草のおかげである。古来よりドラッグの服用はシャーマンの行う儀式と密接な関係を持っていた。だからなんかまあそんな感じで才人の感覚もより先鋭化したのだ。
 極限状態にあっても、彼はさんざんこの「左手と喋る」という現象に言い訳をつけてきた。いわく寄生獣である。しかし左手だった。いわく美鳥の日々である。しかしどう転んでもこれとラブコメはできない。いわく精神を病んだのである。これはちょっと魅力的だった。しかし毛の生えた説明がつかない。
 今まで見てみぬフリをしていた現象と、今こそ直面しなければならない。
 毛の中心が盛り上がって顔っぽいものが出来ている。
 人面疽にしか見えない。
 才人は気持ち悪いとかを通り越して痛々しくなってきた。

「おまえ…終わってるよ。存在として」
『勝手に終わらせないで! こちとら花も盛りの十六歳! ヒロイン! これから!』
「人面疽がヒロインって……。妄言もほどほどにしろ。つかメスかよおまえ。もう黙ってくれ。悲しみが止まらねえ。人面疽だぞ。この世界のブラックジャック先生はどこにいるんだよ。……しかもストレスで十円ハゲできてるじゃねーか」
『それは言わないでッ! だ、だいたいあんたも悪いのよ、わ、わたしを無視するから……』

 よほど話し相手に飢えていたようで、ルーンは実によく喋った。しかしこれが可愛い女の子ならまだしも、実態はルーン(人面疽。毛つき)である。ぐすんぐすんとか言い出した情緒不安定な有様を、才人はまったく意に介さない。

「聞こえねーんだもん。しょうがねーじゃん」
『ご主人さまの声が聞けない使い魔なんてどこの世界にいるのよぉ』
「さっきのひと可愛かったなぁ……あれ誰?」
『教えないわよ。誰があんたなんかに』

 才人は鎖分銅を手放そうとした。

『ちいねえさまよ! わたしのお姉さま!』

 おねえさまときたか。才人はいよいよ自分の左手を心配した。いやもう心配のレベルを通り越した異常な状態なのだが、とにかく心配した。

「人面疽にも血族関係ってあんの?」
『だから人面疽じゃないって言ってるでしょうがアッ!』

 だって……と、才人はルーンあらため人面疽をじろじろと眺める。

「似ても似つかねえし。あのひと、ちゃんと人間だったぞ」
『……わかった。あんた、どうあってもわたしを人間と認めない気ね……貴族をナメた平民がどうなるか、いずれ後悔するときが来るのを楽しみになさい』

 陰湿に含み笑う人面疽の様はさすがに不気味だった。正確には人面疽自体はなにしろ人面疽なので動きを見せているわけではない。あくまでもルーンをスピーカーにして声が聞こえてくるだけである。
 というわけで、人面疽が左手に浮かび上がる必然性が、実はないのだった。才人がこの事実にまで気が回らなかったのは幸いであろう。知ってもより欝になるだけだ。

「わーったわーった」才人はため息とともに妥協を提案した。「おまえは元人間な。それは認めるよ」
『なによぅ。エラそーに。平民のクセに。使い魔なのに』
「さっきから平民とか使い魔とかよくわかんねーけどさ」

 と断る才人は、彼を呼び出した少女と左手の人面疽の関係性にはまだ気づいていない。ちなみに現時点では、才人のことなど九割忘れかけているキュルケと、そしてガリアでまた任務に就いているタバサでさえこのトンチキな現象については「まさかね…」としか思っていない。

「そりゃ大変だと思うよ。そんなふうになっちまって。でも俺はどうなの? どっちかっていうと俺のほうがかわいそうじゃね?」
『それは』口(っぽいもの)ごもりつつ、人面疽がうめく。『悪かったわよ。あんた、遠いところから来たんだものね。右も左もわからなくて、すごく大変そうにしてたの、ずっと見てたわ』

 おお。殊勝じゃねーか。才人はちょっと気分を良くした。だいたい頭から押さえつけるような相手というのが好きではないのだ。これで人面疽がしおらしくなるのなら、どうにか付き合えるかもしれない。なんだかんだといって、会話に飢えているのは才人も同じなのだった。
『だけど』と尖った声で人面疽が反論した。

『たいへんなのはわたしも同じなのよ。というか、どっちが悲惨かっていったらそりゃわたしでしょ!? あんたなんか元々どことも知れない素性の野良犬じゃない。あんた平民。しかも貴族にいきなり喧嘩売るおばか。わたしは押しも押されぬ公爵家の貴族。それはそれは可愛らしいレディなのよ』
「へん。口……クチ? 口……じゃあなんとでも言えるわな」
『言ったわね。……さっきはついついちいねえさまを見せちゃったけど、今度はちゃんと見なさいよ、このぉ。たしかこーやって、強く思い描けば……』

 いったいどういう原理なのか、人面疽がむーんむーんと唸ると、才人の思考にノイズが走り、フラッシュのように像が瞬いた。
 桃色で……髪が生えていて……顔があり……胸がない(物理的な意味で)。
 あとは全てにモザイクがかかっていた。
 才人は気の毒そうに呟く。

「おまえ……存在自体がワイセツなんじゃねーの?」
『あれ!? なんで!? どーしてぇ!?』
「どうでもいいよ」とことん投槍に才人はいった。「どーせさっきのひとのほうが綺麗なんだろ?」

 うぐっと人面疽が言葉に詰まった。

『反論できないじゃない……ッ。でも不愉快だわッ!』
「あぁ、あの人ならいつまでも見てたい。マジで。ガチで」
『だっ、だれがあんたみたいな平民にちいねさまのお姿をみだりにさらすもんですか! だいたいね、わたしだって大きくなればちいねえさまそっくりになる予定なんだから』

 左手から『ちいねえさま』なる女性そっくりのブツが立ち上がってくる様を想像して、才人はげんなりした。

「おい人面疽。それ以上大きくなったらマジで切り落とすぞ人面疽」
『うぅ。あのね……人面疽人面疽って連打されると本気で欝になってくるから……』

 どうにか溜飲を下げて、才人は毒草のショックからも抜け出しつつあった。 
 左手の惨状は生理的にとても不快な光景ではあるが、桃色の毛がファンシーなおかげか、ギリギリのラインで「削り取ろう」までは届かず「どうにか見えないようにしよう」という程度で踏みとどまっている気がする。
 もちろんこれは才人の持って生まれた性格と、例の後付っぽい洗脳効果のなせる業である。このふたつのどちらが欠けていても、才人はヤスリを手に入れようとしたに違いない。

「そうだなぁ。人面疽ってのも確かに自分で言ってて欝入るから、名前でも決めっか」
『いらないわよ。わたしにはちゃんとルイズ・フラ』
「『桃毛』にしよう」
『モモゲェエエエ!?』
「ああ。語呂がいいだろ。名は体をあらわす」
『あんたアタマ沸いてるんじゃないの!? 人面疽とどっこいどっこいでしょそれぇ!』
「かわいいじゃん」
『短絡的すぎるっていってんのよ!』
「それにしてもテンション高いなぁおまえ……びっくりマーク使いすぎだよ」

 よっこらしょと立ち上がる才人。体を冷す水も、どうにか地面の土や葉がぬぐってくれたようだ。ついでだから脱いだ服を洗濯するべきかもしれない。ふらつく頭と体は難ありだが、毒による症状は峠を越えたらしい。これもモモゲの恩恵か、彼の回復力は常より少しだけ促進されていた。
 周囲では墜とされた鳥が徐々に復調を始めていた。かなり薄気味が悪い。才人はヒッチコックの映画みたいな光景から距離を取る。

『自分でやったんじゃない。なんかキエーッとか言って』
「覚えてるけど、アレは俺じゃねーよ、たぶん……」ちなみにいけないタバコを吸って突然シャドウボクシングを始めた場合も、人は我に返ると似たようなことを言う。
『とりあえず、あんたは今すぐ森から出なさい。ここはやんごとなき方々の持つ森なのよ。平民なんかが入って暴れていい場所じゃないんだから。そもそもよく森番に見つからなかったわね』
「え、そうなの? なんだよ……やっちゃいけねえことばっかだな、この世界」
『御料林だからただ入っただけで罰せられるようなことはそうないと思うけど……ここの木を燃料に使う平民にとっては死活問題なんだからね。ていうか、川の水とかもね、勝手に使っちゃだめなんだから。あんた、叩き殺されても文句いえないわよ』
「マジかよ!」

 慌てて立ち上がる才人だが、やはり体力的にはもう限界だった。足腰に力が入らず、すぐその場にへたりこんでしまう。ついでに鎖分銅も手放してしまい、桃毛の声も立ち消えた。
 とたんに静まり返る森である。さっきの大暴れの影響か、いつもなら絶え間なく響いている虫や鳥の声さえないのだ。さすがに不気味さを覚えて、才人はもぞもぞと這いずり回りながら服を着た。
 袖を通し、ズボンを穿いて顔をしかめる。
 一度脱いだ服というものは、民俗学的に言えば「ケガレ」を孕んでいる。それは体と外気という境界面の役割を担っていた衣服が、完全に肉体から離れることによって機能を喪失するためである。などともっともらしいことを言うまでもなく、洗濯もまともにしていない服というのは、才人の衛生観念上かなり問題のある代物であった。具体的には、あちこちがかゆくなってくる。
 それでもまさか野人よろしくパンツ一丁で生きる覚悟が決まるはずもない。深々と嘆息して、彼はその場に腰を落ち着けた。
 静寂が取り戻されると、空腹や消耗がひどく意識の割合を占め始める。同時に彼が懸念するのは、さっきまで会話していた相手は果たして本当に実在しているのか、ということだった。
 ためしにもう一度鎖分銅を握ってみる。

「おい。なあ」

 例によって毛がそよぎルーンは輝いたが、桃毛の声はもう聞こえなかった。

「黙るなって。話し相手になってやるから」

 空寒さと焦りがうなじを駆け抜けて、才人は口早に語りかける。が、やはり返事はない。
 いよいよ自分の正気が疑わしくなってくる。頭痛がひどく、億劫な体を動かすのはどうも外付けくさい熱なのだが、それも栄養素が絶対的に不足した状態では振るわないようだった。

「は」

 はは。と、才人はから笑いを重ねた。こんなことなら鎖分銅を手放すべきじゃなかったかなあ。そういえば条件があるのかもしれないとか言ってたっけ。っておいおい。俺、マジでこんな毛の生えた怪しい人面疽を擬人化しちゃってんのかよ。マジでやばいよ。
 両手で顔を覆う。

「やばくてもいいや。はは。すげえ誰かと話してえ」

 さっきの狂態がほとんど、彼が残していた最後の余力だった。体力メーターのライフはもうドットひとつぶんもない。

「眠ろう……」

 そうすれば痛いくらいの空腹と向き合わずに済む。才人は眼を閉じた。

 000

「あら、目が覚めた?」

 覚めるも何も今寝たばかりなのに……、と思いながら才人は瞼を押し上げる。頭上からする聞き覚えのない声に反応したのだった。
 ところが、開けた視界を前にして愕然とする。寸前までそこにあった森の梢が消えている。青々とした果てしない空がただ広がっていた。おまけにひっきりなしだった小川のせせらぎも聞こえない。虫や鳥や獣の恐ろしげな鳴き声さえ絶えている。
 慌てて上体を起こし周囲を確認した才人の目に入ったのは、広々とした草原と、そして幾分か年上と思しき、きれいな女性の姿だった。しかし、なんだか耳が長い。だが魔法を使う人間よりは不思議ではないので才人もあまり気にしない。なにより美人なので、耳が長い程度問題ない。
 それから彼はふと思い至る。ひょっとしてこれ夢か? まあ現実も夢と変わらないしな……。

「あ、あの、ここ、どこですか?」

 しどろもどろになり、回らない口をもどかしく思いながら訊ねる。空腹は相変わらずで、発生するたびに胃が軋むように痛んだ。なるほどほんとの空腹って痛いんだな、と才人はどうでもいいことを学ぶ。

「さあ。〝サハラ〟でないことは確かだけど。〝イグジスタンセア〟ってあいつは言ってたかしら。あなたたちは旅人?」
「いやただの迷子です。……〝たち〟?」

 応じながら、女性の言葉と視線に促され、才人は背後をかえりみた。
 女の子がそこにいる。
 たたんだ両膝を抱え、背中を丸め、才人とつかず離れずの位置にいて、座り込んでいる。いかにも鬱懐といった横顔を見て受けた印象はふたつだ。小さい。そして細い。桃色がかったブロンドが背中に揺れている。白いシャツと正面に回ればすぐ中身が見えそうなスカートのすそを、小ぶりな手がぎゅっと握り締めていた。
 頼りなげに揺らめく頭部が、ふいに慣性を得て才人の方へぐるりと向いた。
 恨みがましい鳶色の瞳が真直ぐ飛んでくる。

「な、なんだよ」

 少女は無言のまま、ため息をついた。それはもう聞こえよがしに、口からため息の子供でも産む気かと言わぬばかりの大きさである。

「……さいあく」

 なにこの子感じ悪い。
 かちーんと来た才人がけんか腰で口を開こうという間もあればこそ。すぐにまた空腹が意識をわしづかみにした。足も腰も萎えきっている。「そうだ、水でも飲む?」という女性の声に応えなければ、と思ううちに、再び才人は力尽きる。柔らかい草葉が頬を撫でる。
 眼を閉じ、

 000

      また開く。
 すると草原は消えている。
 才人は相変わらず森と腐葉土と川の流れに包まれている。

「幻覚かよ……」

 いよいよ末期だな、と吐き捨てた。ああ死ぬ? マジ寝たらもう死ぬかな? でももういいや。眠っちゃおう。なにしろ今俺、超、ハラ減ってるんだもん……。才人は安らかな眠りに就こうとした。きっと天国ではおなか一杯になれると半ば信じながら。
 しかしそううまく意識が落ちるはずもないのだった。脳裏には次から次へと食べ物のことばかりが浮かんでくる。
 猛烈に米が食いたい。あとは梅干と味噌汁があればいい。湯気がたつ炊きたての白米を茶碗に山盛りよそって……とりあえずなにも考えずにかぶりつく。かつおだしの味噌汁の具は才人が好きなタマネギと油揚げだ。詰め込んだ米を、舌が火傷しそうなほど熱い味噌汁で流し込む。咽喉を熱と飯が通り過ぎていく。口の中にはいっぱいに素朴なうまみが残る。梅干は肉厚でシソがちょっと甘い、母さんがめったに買ってこない紀州の高いやつ。酸味と甘味は最高に米に合う。それだけで一杯や二杯は余裕でいけるほどだ。そうだ。どうせなら海苔もほしい。パリッとした海苔でご飯を巻いて、しょうゆにつけて梅干といっしょに食べる。歯ごたえを思い浮かべるだけで垂涎ものだ。海苔の部分と米の部分の温度差を歯で感じながら噛み締める。それからじわっと梅のエキスと味が舌の上いっぱいに広がって、シソの香りが咽喉から鼻へ抜けていくのだ。ゆっくり味わう暇もなく夢中で飲み下して、残る風味を味噌汁といっしょに流してしまう。タマネギと短冊切りにされた油揚げはよく汁の味を吸っていて、汁物だけどぜんぜん口寂しくなんかない。別々に味わうことに飽きれば、今度はご飯に味噌汁をかけてしまえばいい。母さんにはもう高校生なんだし消化に悪いし下品だからやめなさいと何度も言われた食べ方。だけど時間がない高校生の朝にはマナーよりも効率が優先されることだってある。味噌の香りが鼻をついて、進まない朝の食欲も空腹を思い出してようやくやる気になったものだった。雑炊でも食べるみたいにさらさらと箸で口へ米と汁をいっしょくたにしてかきこんでいく。タマネギと油揚げを噛みながら、ほんの一分で一杯を食べ終えてしまう。ごちそうさま。そう言いながら、歯を磨いて、髪を梳いて、制服を着て、スニーカーをつっかけて家を出ていく……。
 それらはすべて、起きながら見る夢。
 臨死の白昼夢だった。
 眼窩すらくぼみかけて、瞼を閉じる必要もじきになくなる。開いた眼で見る夢はどこまでも優しい。瀕死の双眸は盲窓と同じだ。ただ機能が空回りしているだけ。スピリチュアルな方々が見れば才人の鼻からエクトプラズムがもわもわっと出たりする様子も観察できたかもしれない。
 騒々しくラッパをかき鳴らす天使たち。彼らを率いて天から降りてくるのはパトラッシュではなく、ものすごく不本意そうな顔でぶすっくれる桃色がかったブロンドの女の子だった。断崖絶壁と評するのも生ぬるい、むしろ練達のロッククライマーへ挑戦状をたたきつけるがごとくハングオンしてるのではないかと眼を疑うほど平べったい胸にウクレレを抱えて、ヴァン・ヘイレンばりのライトハンド奏法でぎゃんぎゃんかき鳴らしている。
 激しいプレイのさなか、彼女は神託でも告げるようにのたもうた。

「犬よ犬。死にそうになってる場合じゃないわ。死ぬならわたしの言うことを達成してからにして」

 なんだとこのアマ。

「これから街へ行って、なんでもいいから人工知能がエンチャントされたマジック・アイテムを手に入れなさい。なるべくなら武器がオススメよ。質は問わないから即ゲットすること。しかるのちうまいことどーにかして路銀を手に入れなさい。最後にここから北東に徒歩で数日行った先にあるラ・ヴァリエール領に向かいなさい。いいわね。どっしぇー」

「どっしぇー?」

 最後の台詞だけがあまりにもちぐはぐで、才人は突っ込みのため思わず覚醒してしまった。

「どっしぇー?……なんだ、今のは。悲鳴か?」

 クールな呟きが頭上から落ちてくる。女の声だ、と才人は思う。
 また女か。
 女はもう嫌だ。
 気づけば彼は前のめりに地面へ伏せていて、おまけに両手は背中で拘束されている。首筋にはちょっと楽観できないくらいの重圧もかけられて、完全に身動きができなくなっていた。極めつけは、目の前に突き立てられた白銀の輝きである。
 どう見てもダンビラだった。
 なぜ。
 なぜちょっとアホな走馬灯から0.5秒で、こんな今そこにある危機に出会う。
 才人は一瞬でパニックを起こした。

「なな。なんだこりゃ。どうなってんだ!」

 あまりの急展開に叫びを上げる。と、顔も見えない女の声が、やはりクールに答えた。

「起きたか。死んだかと思ったが、存外しぶといな。この不届きものめ。素性の知れない野良犬め。恐れ多くも王家の森に無断で侵入して勝手に動物を殺して回るとはな。このサイコ野郎、いったいなにが目的だ?」
「ヒィ!」

 女は台詞からしてドSである。潜在的Mである才人にとっては手ごわい相手と認めざるをえない。

「脅えてる場合ではないぞ。さあ、貴様は何ものだ。見たところ平民のようだが、なんでこんなところで自殺オフをひやかしに樹海に行ってみたら自分しか来てなくて悲しくなったあげくちょっと死んで見たくなった、的な真似をしている? 洗いざらい吐け。吐かなければ、フフ」

 そこで急激に声色から遊びが消えた。

「二本ずつ腕を切り落としていってやる」
「腕は二本しかないですからぁ! これ切っちゃったらもう生えてきませんからぁ!」
「口答えするな」

 ぐっさぐっさと顔の前で土が掘り返された。

「すいません……許してください。腕は。あ、左手の甲あたりはちょっと削ってもいいや」

 才人はわけもわからず脅えるばかりだ。ある種肝が据わっているので死への恐怖に関してはもう麻痺しかかっているのだが、気づいたら見知らぬサドっけたっぷりの女の人にまたがられているこわさというものはまた別種である。加えて、背中で押さえられた手が当たるおしりが柔らかいやら微妙にいい匂いがするやらでちょっと興奮してもいた。栄養価が足りなくともそこはサルのような年頃の才人である。解消する余裕もなかった煩悩は溜まりに溜まっているのだった。

 若干とろんとしかけている才人の背でデイパックを漁るサド女の名は、もちろんアニエスという。
 なぜ彼女がここで出てくるのかというと、一昨日付けで王都での勤め先をクビになったためだった。ちょっとしたひと悶着の果てに居辛くなって逐電を図ったのである。
 そこでさて今度は前線に近そうな軍隊にでも入ってやろうかと旅に出たのだが、トリスタニアを出奔した矢先、森へてくてく歩いていく貴族の少女を見かけた。
 もちろんケティ以外に、そんな物好きが近在にいるはずもない。しかし彼女がやらかしたことで間接的に古巣を追い出される羽目になったとは露知らず、アニエスは単純に雇い口の匂いを感じて少女の後をつけたのだった。
 アニエスは魔法学院の存在は知っていても、その制服は知らない。だからケティが貴族の子女だということは一見してわかったが、その所属がここから数十リーグ離れた施設だとは見とれなかった。長旅の風情でもないし、必然近隣の領地にゆかりのある貴族だと当て込んだのである。
 組し易そうな少女だったのでコネを作るべく近づいた。
 しかし森に入ったところで見失った。
 そこで行き倒れていたのが才人だった。
 要は腹いせで襲ったのだった。

 しかし、見たところ自分とは十も離れていそうなガキである。しかも明らかにこけた頬が哀れを誘う。さすがに不憫になって、アニエスはため息をつくと、

「冗談だ」

 と言って才人の背から降りた。見慣れない繊維で編まれた袋の中身は一見して本ばかりである。大方田舎のぼっちゃんが旅に出てみたら右も左もわからなくなって遭難した。そんなところだろうと見当をつけた。
 ほぼ正確に合っていた。
 才人は気慰みに脅されたともしらず、脅えた眼で得体の知れない女剣士を見上げた。

「あ、あの、冗談って」

 なんだかよくわからないが、その弱った目線がアニエスのサド琴線に微妙な力加減で触れた。いじめたい。こいついじめたい。強烈にそう思った。

「冗談は冗談だ」気の迷いを、かぶりを振って散らした。「腹が減っているのか?」
「減ってるというか、無です」
「そうだな……ところでちょうどここにパンがある」
「おお……」

 アニエスが皮袋から取り出したのは、昼食用に購入しておいたライ麦のパンだった。小麦とは比べ物にならないほど味は落ちるが、才人はよだれも垂らさんばかりに眼を輝かせた。

「焦るな。すぐにはやらん。見たところ相当まともな食を断っているな。最後に食べたのはいつで、何だ?」
「え。これ」才人が指差したのは例の野草である。
「……まさか根もか」
「根も」
「…………よく生きてるな。吐いたか?」
「かなり」
「そうか……」

 アニエスは感慨深く才人を見つめた。いるんだなあこんな世間知らずも、という生暖かい目線である。覚えず放浪時代の苦労を思って、なんだかしんみりした。

「……ちょっと待ってろ」

 むしゃっとパンの角を大口でほおばり、咀嚼する。「ああああ」とわめく少年は意に介さない。

「そんな殺生な!」
「もぐもぐ。だまれ。もぐもぐもぐ……」

 リスのようにほっぺを膨らませ、とにかく噛み続ける。硬かったパン生地をほどよくペースト状にしたところで、アニエスは口の中身をぺっと掌に吐き出した。面食らう少年に向かって、差し出してやる。

「え。なんですかそれ」
「そのままでは硬いからな。胃に負担がかかる。本当はパン粥がいいのだが、待ちきれまい? とりあえず腹になにかいれてやれ」
「え、え。マジで?」

 よくこねられた掌中のかたまりを見て、才人は生唾を飲み込んだ。ばっちいなーという感情が五割、ほんとにいいんだろうか、という感情が三割、なにはなくとも食い物だ、という感情が二割であった。一瞬からかわれているのか、とも思う。しかしアニエスの顔は大真面目であった。よく見るとなかなかの美人さんである。こんな人が口の中にいれたものを俺が食う。当然の意識をして才人は顔を赤らめた。
 どう考えてもアブノーマルだ。しかし、しかしだ。興味がないかといえば、そんなはずもなく……。

「いらんなら捨てるぞ」
「いただきます」

 才人はパクッといった。
 下げたくない頭は下げない。しかし善意のほどこしを無碍にするのは文明人ではない。何より妙なエロティシズムを感じては引き下がれない。
 そういう信念に基づいた選択であった。
 掌に口付ける。まるで人慣れしていない子猫がミルクを、差し出した指先から舐め取るような――。
 そんな牧歌的な光景ではぜんぜんなかった。才人は一度タガが外れるともう見栄を忘れてがっついたし、アニエスはサドっ気を満開にして背筋をぞくぞくさせながら賢明にペーストを食べる少年を冷然と見下ろしていた。アニエスのエスはサドのSである。そして才人のサイはどうにでもしてくだサイのサイだ。
 無言の一分が過ぎる。
 才人はそれこそ舐め取るような勢いでパンを平らげた。
 アニエスはあざけりもあらわに呟いた。

「イヌのように食べたな」
「う」才人は羞恥と屈辱に顔を伏せた。
「いいのだぞ。もっと欲しいのならそう言っても」
「うう」
「そのかわり……」声を抑揚させて、「欲しければわんと鳴け。イヌのように」
「ううう……」

 本来の主人を差し置いて、速攻で主従関係が構築されそうになっていた。
 果たしてロザリオ交換のような神々しい空間を割ったのは、甲高い悲鳴であった。

「きあーっ」

  000

 時間を少し遡る。

「うう。やってしまったぁ」

 平民の少年がラリってから小一時間経っていた。小康状態を取り戻したらしい彼からは百数十メイルほど離れた小川に、ケティはいる。うさぎを捌いている最中に笑い転げたせいでマントに血の染みがついたので、必死でごしごし洗っているのだった。
 火龍山脈の火蜥蜴を密猟してその皮を編みこんだこのマントは、ケティのお気に入りであった。室内で炭塵を爆破して彼女がなんともなかったのも、このちょっとしたマジックアイテムの耐火性のおかげである。
 血というのは繊維に染みこむと非常に落ちにくい。だから必死になって手揉みで洗う。小川の水は冷たいが、基本的に学院生は洗濯に慣れている。もっともそれも、シルクといった高級品に限った話だ。大物の洗濯に関しては、たいてい水の魔法を用いて一括で行ってしまう。そもそもこちらの水は洗剤の類が溶けないので、洗濯にはもっぱら沸かした湯を使わないといけない。
 友だちの一人もいないサビシイ生徒は別として、水属性が使えないケティのようなメイジは他人に頼る。そこで共同して、用意された水を温めるのだ。
 寮という空間ではとにかく人間関係が重要である。とくに女子のそれは複雑だ。サロンや派閥に近いものがいくつも構成されている。歴史ある勉強会のようなものもある。そこでOGとの繋がりを得て人脈を築くのは、ケティのような一般的生徒にとってはかなり重要な命題だった。
 こういうグループに属するものは、たいていがメイジとしては凡庸な才しか持っていない。例外はあるが、あくまで例外の域を出ない程度だ。
 反面、孤高を貫いたり爪弾きにされるのは、性向か実力、あるいはその両方が図抜けた生徒である。女子寮ではたとえば、フォン・ツェルプストーやタバサがその筆頭格であった。別の意味で孤立していた女生徒もいたが、その女の子は死んでしまった。
 だけど、今やその女子寮自体が、もうないのだ……。
 現実に思考が及ぶと、水面に写る顔は冴えないものに変わった。頃合かしら。そんなことも思った。
 学院で大暴れしていたあの平民。彼を見ていると飽きないが、それは結局、逃避に過ぎない。ケティには決着をつけるべきことがまだあった。ギーシュ・ド・グラモンとの関係である。
 ケティは事実をありのまま受け止めた。平民との交流が、彼女に新たな強さを与えていた。それは雑草魂である。
 学院はなくなった。どうあがいても、実家への帰参は避けえない。ならばせめてその前に、ひとときの恋の清算をすべきだろう。
 要するに豪遊にも飽きたのだった。

「よし」

 水洗いを終える。
 澄んだ水面を見下ろす。
 可愛らしい自分の顔の背後に、見知らぬ男の顔が見えた。

 彼らはむろん野良メイジ団の別働隊だった。ただのモブだが手練である。本隊と別れ森に入るや息をひそめ、迅速にケティの痕跡を追って川辺の彼女を捕獲するべく行動を起こしたのだった。

 そして、予期せぬ襲撃を受けたケティの対応は。

「どなた?」

 無邪気であった。
 微笑さえ浮かべて、肩越しに野良メイジの顔を直視する。星が飛びかねない必殺の貴族スマイルの直撃を受けて、ケティを捕まえんとしていた野良メイジは一瞬硬直した。
 ケティはその隙を一から十まで無駄にした。きょとんと首を傾げてとりあえず愛想笑いを続ける。野良メイジの手に杖を見つけ、いまだ事態が把握できないながら「ひょっとしてお役人さん?」から「迷子?」まで二十通りの可能性を浮かべた。その中には「人さらい」も含まれていたが、彼女は意識的にその可能性を無視した。もしそうだったら怖いからである。

「わたくしに何かご用でしょうか」
「お、おお」

 硬直から脱した野良メイジAは、背後からBとCにせっつかれてどうにか咳払いする。水辺から立ち上がったケティとお見合いするかたちになって、なぜか彼は赤面しながらあらかじめ用意していた台詞を吐いた。

「う、うごくにゃ」かみまくりであった。
「にゃって」「だせえっす……」BとCが辛らつな批評を下した。
「うるせえ!」恥ずかしさをごまかすためAは大声で繰り返した。「動くな! 声も出すな! さもないと身の安全は保証しねえぞ!」

 ケティは心底不思議そうに垂れがちの眼をぱっちりと見開いた。

「なんであなたがわたくしの身の安全など保証してくださるのですか?」
「い、いやなんでって言われましても当方としては」丁寧語が伝染していた。
「ああ。わかりましたわ!」
「おお!」
「あなた、親切なかたですのね?」
「話通じねえよこの子!」Aが頭を抱えた。
「俺に任せろ」歩み出たのはBである。彼はケティと目線の高さを合わせて、噛んで含めるように言い聞かせた。「いいかいお嬢さん。これまでどんな平和ぼけしたお屋敷の奥で育ってきたんだか知らないが……」
「ちょうど良かったですわ! 今から昼食にしようと思っていたところですのよ。よろしければごいっしょにいかが?」
「あこれはどうもごていねいに……」

 会釈合戦に入ったBとケティをよそに、AとCが密談を交わした。

「なんだあれ……頭湧いてるのか」
「いや、あんなもんですよ世間知らずの令嬢っていったら」
「あん? そういやおめえは没落した家のボンボンだっけな。じゃあああいうのの扱いには慣れてるだろ。どうにかしろ」
「任せてください」自身満々に胸を叩くのはCである。

 えへんえへんと声色をつくって、ランチのメニューを開陳しようとするケティに向かう。Cはそれなりに見れなくもない好青年的なスマイルで、

「やあ。そこなミ・レイディ。ちょっといいかね」
「はい?」

 振り向いたケティの手には足から半ば皮剥ぎされたウサギの死体が握られていた。

「きあーっ」

 森にとどろき渡るCの悲鳴である。彼は蒼白になってかがみこみ、頭を抱えてしまう。

「お、おめ、なんつう声だしやがる。女かよ」耳を押さえ、しかめつらでBが言った。
「ぼくグロ駄目なんすよマジマジマジで! こっち近づけないでお願いだからぁ! 眼! つぶらな眼がぼくを見てる! 見てるよマンマァーッ!」

 一同はのたうち回る彼をぽかーんと見守った。

「どど、どうしましょう」困ったケティは、とりあえず腕の中のモノをかかげて、「ほらー、うさぎさんですよー。かわいいですよー。……あれ? ……こえが、……おくれて、……聞こえる、ゾー?」
「すいません勘弁してくださいほんと! パパ! やめてよ、ぼくはメイドとパパのしていたことなんて見てないよ! だからその怖いのをどけてよぉ……」
「あら……、これもだめですか。それじゃあ、えへんえへん。……きみもシルバニ○ファミリーにあそびにおいでよ! きっと愉快な世界さ!」
「ほ、ほんと……?」

 涙に濡れたCの眼。ケティの嗜虐心に火がついた。

「ただし連れて行くのはおまえの首だけだぁ!」デス声である。
「ひぎい!」

 恐怖のあまりCが身を丸めて親指をしゃぶりだした。
 哀れをもよおしたAが、さすがにこれ以上はとケティを制した。ドクターストップである。

「おい、もうやめてやれ……」
「そうだ」とB。「死体で遊んじゃいけねえな、お嬢ちゃん。そいつは始祖のめぐみだぜ」
「あ、すいません。わたくしったら……。しゅん……」

 ケティはしゅんとした。
 うさぎ(死体)もしゅんとした。
 AとBはげんなりしていた。

「口で言ってるじゃねえか」
「あんなカマトトってありか?」
「とりあえずもういいから杖奪って捕まえるぞ」
「そうだな……」

 疲れの色を見せつつも、二人は任務に忠実であった。立ち尽くすケティを無力化すべくにじりよる。
 そこに朗々たる声が響いた。

「そこまでだ!」

  000

 風上で叫んだのは才人であった。悲鳴を聞いて取り急ぎ様子を見に行ってみれば、そこにはどこかで見た顔の女の子がおり、さらにガラの悪い男たちに囲まれているではないか。しかしそのわりにはなんだか和気藹々とした空気が流れていた。あの子たしか……。木陰に張り付き、才人がほこりをかぶりつつある記憶を取り出そうとしていると、アニエスが固い口調で呟いた。

「男のほうは一人に見覚えがあるな」
「アニエスさんもですか?」すでに互いの名乗りは終わっていた。
「も、とはどういうことだ」
「俺はあの女の子の方に……」
「なんだ。貴様貴族に知り合いがいるのか」不審げな顔でアニエスがいった。
「知り合いってか、ちょっとだけ」
「ならちょうどいい。あの娘の素性を教えろ」
「えっと……」素性と言われても困る。才人はしどろもどろになりながら、「たしか、ケティ、とかっていったような」
「それは名前だろ。家名のほうだ。大事なのは」下心が見えるアニエスの鼻息は荒い。
「すいません。知りません。ただ、こっからちょっと離れたところにある魔法学校の生徒です」
「ほう」

 貴族なのは間違いないと思ったがやっぱりか。きらーんとアニエスの目が光った。やおら荷物を降ろすと、頭陀袋から音を立てぬよう慎重な手つきで装備を取り出しはじめる。彼女の心はすでに決まっていた。復讐達成への早道である立身出世のためにはためらいなど何一つない。そして、目の前の少年を利用することに寸毫の遠慮もない。

「な、なんすか」ねっとりとした視線に絡まれて、才人はアニエスから目をそらす。嫌な予感がビシバシ来ていた。
「喜べ」アニエスは冷笑した。「さっそく、恩を返す機会に恵まれたぞ」

 否応なかった。才人は一言の反論もできないままアニエスの指示に対し唯々諾々する。剣を片手に素早く迂回路を取る恩人に言いつけられるまま、彼はタイミングを計ってケティとそのほか三名の男たちの動静をうかがう。
 アニエスはやる気まんまんだったがまだ悪い連中って決まったわけじゃないし、という常識的な期待はすぐ無駄になった。なぜか地面にうずくまった一人をよそに、残り二人がのんきにうさぎを捌くケティの背後を狙いつつあったのだ。それでもどうすべきか迷っていた才人だったが、ふと見れば向かって左手の高所にいるアニエスがすごく怖い眼でこちらを睨んでいた。
 もうやるしかない。
 彼は右手に鎖分銅を握り締め、力の限り声を張った。

「そこまでだ!」

 まず大声による注意の惹起。それにより意識を逸らし、生じた間隙にアニエスがつけこむ。そういう手順である。
『壊せば壊れる』という最低原則が確保された、互いを有視界に含む原始的な戦闘行為でもっとも重要なのは距離と手番である。『自分は殴れるが相手の手は届かない』間合いでずっとオレのターンをやれるのであればそれが理想的だ。しかし常識的にそれが不可能なので、戦闘者は駆け引きを実行しなくてはならない。
 対メイジ戦において平民が勝機を掴むとすれば、結局不意打ち以外に手段はなかった。それはアニエスの得た結論である。才人におとりをさせた彼女の中では怜悧な計算が進んでいた。
 敵性メイジは三人であり、こちらには手ごまが一人おり、そしてできれば無傷で確保したい要人はメイジである。
 これらの要素を総合的に加味して彼女は「いける」と踏んだ。野良メイジABCがなんだかバカっぽそうだったのも見逃してはならない点である。

 甘かった。

 闖入者を認識した野良メイジ三人の対応は極めて迅速で的確だった。
 まず虚ろな眼でうずくまっていたCが立ち上がり、きょとんとしていたケティを地面に引き倒し杖を奪った。同時にAが杖を振って火球を才人へと放つ。最後に風を生んだBが、今にも木陰から飛び出さんとしていたアニエスの気配を捉える。

「もう一人いるぞ!」

 アニエスは失策を悟る。胸中で痛罵を漏らした。

「――こいつら」

 傭兵上がりだ。それもかなり場慣れしている。まともに戦うのはいかにも不味い。
 だが、既に口火は切られた。火種を焼き尽くすまで両者は止まれない。斬り込むしかないか? アニエスは圧縮された風を勘でかわして自問する。だめだ。一人を斬った時点でほかの二人に殺される。不意打ちは相手を浮き足立たせてこその不意打ちだ。

「無理だな」

 彼女は一瞬で撤退を選んだ。必然貴族のほうはともかくあのサイトと名乗った少年の身は危険にさらされることになる。自分の浅はかな功名心が子供の命をあたら散らす。さっそく重たい罪悪感が胸に生じかけるが、飲み込めないほどではない。
 だが、
 ――生木が火で爆ぜる音が聞こえる。
 アニエスは唇を噛んだ。
 ……それでも、せめて自分に脅されたように見せかけるくらいはできる。もしくはさっさと逃げるよう、今度は自分が囮役を演じればいい。彼女は焦りの中で視線を動かし、才人の姿を探す。そうする間にも野良メイジのひとりは距離を詰めてきている。ようやく見つけたとき、少年は不恰好な得物を手にして、ほとんど無防備に迫り来るメイジのひとりを迎えんとしていた。
 アニエスはたまらず怒鳴った。

「バカ! 逃げろ!」

 その声は耳に届いていたが、「なんで?」としか才人は思わなかった。初撃の火球を一見した瞬間から、とりあえず魔法的な脅威として目の前の三人がキュルケやタバサよりも劣ることはわかっていた。厄介なのは魔法そのものよりも連係と咄嗟の反応だ。だから敵が自分とアニエス、そしてケティとかいう女の子にそれぞれ一人ずつ対応した瞬間、彼の心中にはただ戦闘への恐怖と緊張だけが残った。
 才人は、学生とはいえ百人越えのメイジにいきなりケンカを売ったアホである。加えてここ数日ひっきりなしに危機的状況に置かれたせいで、彼の内部ではいくつか心理的な枷が吹っ飛んでいた。何より、才人の左手にはマルトー親方たちからのプレゼントが握られている。
 逃げる理由はひとつもなかった。

「どこのどいつだか知らねえが、」

 詠唱を終えて掲げられる杖と口上。そのモーションの狭間に、才人は右手のスナップを効かせるだけでよかった。鎖を引いて飛んでいく分銅は野良メイジAの指の爪ごと杖を吹き飛ばした。その場の全員が飛び上がる杖を見ているとき、才人だけが動いていた。とりあえず頭はやばいよなあ。と冷静に思考しながら同じくらいヤバイ首筋に左手の棒を叩きつける。Aは手もなく崩れ落ちた。オオカミより、うさぎより、お魚さんより、鳥より、ずっと簡単に仕留められる相手だった。

『……』

 アニエスも、BもCも、目を丸くして事態の推移をただ見送った。全員が「ドッキリ?」とでも言いたげな面相をしている。ただなんだかわからない内に組み伏せられたケティだけがぱちぱちと拍手を送っていた。

「すごーい」
「いや、どーもどーも」

 照れた顔で応じる才人に向かって、我に返ったCがいち早く杖を向けた。余計な問いは発しない。最善にして最速の行動である。紡がれたマジックアローは一直線に才人の胸を目指した。回避できる距離でもタイミングでもない。
 才人は単純な反射神経でその上を行った。
「やべえよけろ」と思いながら大腿に力を込める。この状態のとき、才人の体は倍速で動くのに認識が通常速度なので、どこか騙されているような感がつきまとう運動になる。それは周囲も同じことだった。歩法や体捌き、または魔法の駆使によって肉眼では捉えにくい挙動を実行することはできる。しかしそれは面と向かった場合の話であり、実際に眼で追えないスピードに到達しているわけではない。
 ところが才人は予備動作からは絶対にありえないスピードで動く。それも一歩目、初速から。座った姿勢からいきなり一メイルもジャンプするようなもので、注視すると酔っ払うほど気持ち悪い機動なのだった。例えるなら人間大のごきぶりがいるようなものだ。いわゆる常識的な人間を相手に戦闘経験を積んだ場合ほど対応を見誤る手合いである。
 瞬時にして視界の外へ消えようとする才人を、泣きそうな顔でCは追う。
 軍のスパルタについていけず野にくだったヘタレな彼だが戦闘のイロハくらいは承知している。だからもう自分に呪文を唱える暇がないことも充分理解していた。それでも詠唱をはじめ、杖を構える。しかしその先にありえない動きを見せる少年は居らず、なぜか伸ばした腕の内側、懐中に黒髪を生やした頭がある。
 Cは諦め混じりに呟いた。

「それはないだろ…」
「俺もそう思う」

 みぞおちに棒の先端が食い込む。衝撃を体内に浸透させる見事な手の内腕の絞りであった。招かれるように地面へ落ちる体をかわし、才人は残る一人をちらと見る。
 じゃらりと音を鳴らして、提げた鎖が地を這った。

 唖然としていた最後の野良メイジBを、ちょうどアニエスが背後からはたき倒したところだった。










[5421] おまけ4
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:38




 000 幕間 少女Aの就職活動  000



 とにかく出世したい。それがアニエス22歳の口癖だった。言わずもがな、子供の頃「滅菌作戦」と称して故郷のダングルテールを焼き払った人非人どもを一人残らず血祭りに挙げるため、彼女は生きている。平民の、しかも女だてらに武の腕前を磨いたのはひとえにその宿願を達成するためである。

 必然物心ついたあたりから、日がな刃物を振っていたアニエスは周囲に札付きとして扱われた。血道をあげて剣の技を磨くのはなにも暴力を誇示するためではないのだが、なんだかんだといって物騒なご時世である。目に付く仁義に反するガキどもを端から並べてぶちのめす内に、彼女は「スケ番」の名をほしいままにした。いつしか同じように周囲からあぶれた少年少女たちの取りまとめ役のような立場に置かれ、トリステイン沿岸部の平民のチンピラ間ではそれなりの顔役にもなっていた。
 成り行きとはいえ、責任感のあった彼女は、仇敵の情報を集める役に立つかもしれないと、居場所のない人間を使ってひとつの組織を仕立て上げた。名前はない。旧来のコンスタブルをさらに展開させ、なおかつメイジたち支配者層の圧力を受けない、まったく新しい自治組織である。
 役人メイジたちが看過しがちな、領主の目が行き届かない村同士の争いやいさかいを治め、仲介し、時には鎮圧するのが彼らの仕事だった。元が追放者の集団である。領地に縛られない彼らは、荒事ばかりではなく、人手が足りない場合は作物の収穫にも助けを出した。
 いっぱしのワルを気取った人間でも、絶対悪さんみたいな根っからのクズはあまりいない。人とは良くも悪くも社会的な動物である。周囲の認識によって外形はたやすく変容するのだ。必要とされ、尊敬され、親愛の情を向けられれば、どいつもこいつもほどよくツンデレを発揮して、「俺、こんな生活も悪くないなって最近思うんだ…」みたいな都合の良い台詞も吐き始めた。
 しかし、その中心にいるアニエスは常に白けた感覚を持て余していた。こんなことをしてなんになる? 答えは最初から出ている。
 なんにもならん。
 彼女は生粋の復讐者だった。
 人の役に立つ。なるほどそれも悪くない。
 だがあの美しかったダングルテールの人々はもういない。
 自分が心から愛した人たちは死んでいるのに、それ以外の人間になどどうして尽くさねばならない? たしかに悪くはない。だがアニエスの心中はずっと空疎だった。日ごとに良い顔になっていく仲間達に、疎外感さえ覚えていた。
 アニエスは出奔を決めた。これまで目的はあまりに気宇壮大で漠然としていた。天空の高みに「復讐の完遂」というゴールはあったが、そのために何をすればいいかずっとわからずにいたのだ。しかし思春期を迎え、環境もそれなりに落ち着き始めたアニエスは、自分の復讐について真剣に考え始めた。

「わたしはなにをすべきだろう」

 まずは世界を見よう。
 そう決めるとあとは一瞬だった。
 彼女はごく一部の側近にだけ真意を明かし後任を任命すると、朝霧のけぶる未明にひっそりと、剣と短銃を手に身ひとつで旅に出た。復讐を遂げるまではと心に秘めた、帰路の見えない門出であった。アニエス十六歳の春である。
 案の定少女のひとり旅は過酷を極めた。渡る世間は鬼に悪魔に蛇に獣に龍にメイジに傭兵にと、たいへん厳しかった。なにしろ「強姦なんかされるほうが悪い」という価値観が平気でまかりとおる鬼畜な世界観である。
 路銀は常に不足していたのでそう頻繁に国外へは出られなかったが、見聞のためできるかぎり色々な場所へアニエスは足を運んだ。修羅場をくぐり、彼女の剣の腕はますます冴え渡る。そしてどうにも理解しなければならない現実に直面した。
 剣では魔法には勝てない。
 これは認めるべき事実であった。間合いも威力も、闘争の術として研磨された時間さえも、剣が魔法に勝つ道理はない。
 だが、ともアニエスは思うのだった。
 平民はメイジを殺しうる。
 これもまた、厳然たる真理であった。頓悟したアニエスは、結局メイジは罠に嵌めて後ろから殴ってこかして囲んでリンチにするのが一番であるという結論に達した。なおかつ、やっちゃってもいいなら速攻で油をかけて燃やす。とどめには必ず頭をかち割る。鉄の掟である。
 アニエスはそれを実践し、結果も出した。すでに彼女の武器は結実しつつあった。
 しかし復讐の対象だけがいつまでも見つからない。
 放浪の開始から三年が過ぎた。アニエスは消えぬ焔に焦がされ続けた。いったい何が自分をこうまで突き動かすのか。すでに幼少時代の三倍近くもの時間を経て、なぜまだダングルテールの虐殺は己を縛るのか? アニエスにはわからなかった。
 遍歴の過程で、出会い、友誼を深めた人間はいずれもアニエスの過去を知りたがった。若くして腕の立つ、しかも平民の女というのはどこに行っても異分子だったのだ。時には男と女の関係を持つこともあった。アニエスとて年頃である。燃えるような恋とは言わずとも、基本的な気質が体育会系なので性欲を持て余すことはある。しかし一度寝たとたんに所有者づらをした男はどいつもこいつもアニエスに言うのだった。
 復讐は何も生まない。気持ちはわかる。おまえは狂っている。
 アニエスはとりあえず相手をボコボコにしてから、一人寝の夜に戻り呟く。
 そんなこと知ってるわボケ。でもやらんとどうにもならんのじゃ。
 血路の先にゴールがある。そこにあるのが虚しさか達成感か喜びか悲哀それとも狂気なのか、今のアニエスにはそんなことどうでもよかった。やらずにはいられないのだ。そうしないとどこにもいけないのだ。いつまで経ってもダングルテールという怨念に縛られて、『アニエス』の人生が始まらないのだ。
 ああ、そうか……。
 アニエスはなんとなく悟るのだった。復讐は誰かのためや、ましてや自分のためにするのではない。そんな叙情的な行為ではない。
 儀式だ。
 過去との決別をはかるためのシステム。
 夜毎夢に出て魘される火の悪夢。目の前で業火に包まれる美しい女。燃える故郷をあとにして男の背を揺籃にした記憶。
 紅蓮の地獄を払拭しなくてはならない。
 すでにこの復讐は私物ではなかった。
 アニエスは考えることを止めて、さらなる炎に身を焦がすことを選んだのだった。

 二十歳になるころ、アニエスはふたたび故郷トリステインの土を踏んでいた。彼女は既に剣士として完成しつつある。肉体的にもこれから五年がピークを保てる限界である。これまでとは異なる焦りが彼女を包みつつあった。
 やはり、公権力に頼るしかないのか……?
 苦手意識や私怨もあって距離を取っていたメイジに、犬として近づくことを選んだのもそんな強迫観念が後押ししたからだった。
 そうなると、奉公先を選ばねばならない。情報といえば人であり、人といえば大都市だ。ならばラ・ロシェールや王都トリスタニアが第一候補となるわけだが、だからといって安易に決めるわけにはいかなかった。
 なぜならばアニエスは平民である。そして平民が公職に就くことは、トリステインでは国法で禁じられている。これまでの調査により、あの『ダングルテールの虐殺』が公的には国軍もしくはそれに類する集団の手によるものだということまでは判明していた。ただ腕を頼りにするのならば適当な貴族の私兵になればよいが、そうもいかないのだ。ならば単純に考えてトリスタニアに身を置くのが手っ取り早い。
 しかし、市民となるには弊害が多すぎた。前述の通りメイジではないので公職には就けない。仮の立場としてどこかの職人の家にもぐりこむにしても、アニエスは二十歳。特別な技術もなく、世間的にはりっぱな年増である。情婦ならばともかく徒弟にはなれまい。
 そうなると、城下に邸を持つ貴族の私兵か、あるいは自警団兼衛士隊に入るしか道はない。なんといっても女であるというハンディを押して荒事専門の連中に仲間入りするには、それなりの準備が必要だった。
 しかしアニエスは迷わない。
 復讐するは我にあり。信念を持つ人間はとにかく諦めない。だから強い。ゆえにしぶとい。
 そして忘れてはならない。
 彼らは往々にして、視野が狭い。
 アニエスは拳を固め、まずはトリスタニアへ向かった。敷居は高いが、最初から諦めるわけにはいかない。

「とりあえずは、職だ」

 幼心に自分を守って死んだ女性に感化されたためか、アニエスは無頼を気取りながらもそれなりの学を修めた少女だった。村から焼け出されて持っていかれた先が救貧院ではなく寺院だったことも幸いした。といってもそれはたまたまアニエスが体力的に恵まれていたから結果的に奏功したという面もある。
 意識や学問で先進的なロマリアやゲルマニアに比べ、トリステインでは識字率が行き届かず、平民は基本的に文盲である。しかし寺院というのは学問を修める場所であると同時に、世俗から隔離され独自の文化を継承する空間であった。坊主や尼は自給自足を実現するため痩せた土地での厳しい農作業に従事し、そのため『文字による技術の蓄積』という高度な作業をかなり早期から行っていたのである。その縁もあってアニエスは文字の読み書きをすることができた。
 もちろん、いいことづくめというわけでもなかった。寺院における体力がない少女はだいたい栄養不足で病気にかかって死ぬし、あまりにも使えない場合は娼館にでも売られて二束三文に替えられるのがオーソドックスな顛末だ。史上の解釈や現代的な感覚との乖離でよく取りざたされる事柄だが、これはいま現在のトリステインでも特に非常な事態ではなかった。『飢饉』『疫病』といった特殊な状態はなくとも、餓死者は毎年当たり前に出る。それが一定の割合を越えて初めて災害になるのである。
 たとえば貴族の平均寿命は男六十歳女七十歳だが、これが平民となると冗談抜きでだいたい半分以下になる。魔法の存在は単純な生物としての格において圧倒的な差を生じさせていた。
 なにしろインフラから農業、工業まで、ハルケギニア全体の産業が魔法による生産力を根本に置いている。メイジが平民をさげすみ平民がメイジを憎悪しているのに社会体制がいまだ続いているのは、結局のところメイジを欠いては現行の生活など維持できないことを皆が骨身に染みてわかっているからであった。
 しかし、時代は変わりつつある。今や魔法よりも容易に明確に、人を支配する存在がある。
 金だ。
 マネーである。
 トリステインではそうでもないが、ゲルマニアなどではメイジすら平民の大商人に尻尾を振るケースがある。誇りでメシが食えた時代はとっくに終わっていた。アニエスも、どちらかというとそちらの価値観に傾倒している。
 そんなわけで、目前の課題には現実的に対処することにしたのだ。
 そうして彼女が向かったのがハローワーク。公共職業安定所である。
 傭兵や貴族の子弟の家庭教師、またはメイドさんなどの職を斡旋するための施設だ。さすがに不景気な顔つきでいっぱいのハロワ内部は空気がよどんでいて、アニエスは少ししりごみした。今までの人生であまり馴染みのない空間であった。

「たのもう」アニエスは手近な従業員を捕まえて、「仕事を紹介して欲しい。このギルドの長に会う必要はあるか」
「いいえ」と従業員は機械的に微笑した。「まずは待合室でご自分の名前を登録した後で、順番が来るまでお待ちになってください」
「そ、そうか。わかった。感謝する」

 言われたとおりにした。二時間待っているあいだ、六人ほどからんできた男どものアキレス腱を切っていると、ようやく呼び出しがかかった。
 窓口で張り付いた笑みを浮かべる中年の平民と、いくつかの質疑応答を交わす。具体的には志望分野、資格の有無である。アニエスは「荒事。文字は読み書きできる。資格は漢検五級。職歴はトリステイン沿岸西部連合初代総長。だから人を使うのもわりと得意だ」と答えた。
 ほどなく、専門の面接官による一対一の面接が行われる旨が伝えられた。そちらでは、窓口で話したことをより詳しく説明するだけだった。さらにちょうど今求人中の枠があるらしい。あまりにもスムーズだったので、拍子抜けしたくらいだった。
 紹介状を手に、さすがに緊張しながらさる男爵の邸宅へ赴いた。呼び出し鈴を鳴らすと、おそらく魔法でだろう、独りでに玄関の閂が外される。

「……これが、わたしの新たな出発だ」

 ごくりと唾を飲み込む。アニエスは強張る手で扉を押し開いた。
 全裸にサスペンダーのダンディーで筋肉質な男が、ワイングラスを片手に待ち受けていた。

「ようこそ」

 アニエスは無言で戸を閉じた。その足で職場を斡旋した面接官の元へ向かった。

「誰が変態の下で働かせろと言った?」
「当方としては就労後の労働条件については一切関知しておりませんので……」
「わたしは衛士、もしくは警備の仕事を志望していると言っただろう!」
「そうは申しましても、アニエスさん。いま現在衛士に空きはないとのことでした……だいたい警備といっても、流れ者をわざわざ長期で雇うような方は、貴族といえどなかなか」

 正論にうめかざるをえない。『一年と一日』というように、都市は新参をやすやすと受け入れるほどなまなかの空間ではないのだった。
 そもそも契約社会なので、どんな不当な待遇だろうが了承した人が悪いのである。もちろんクーリングオフなどという良心的な制度があるはずもない。
 騙されるほうが悪いのだ。世の中は腐っている。自分を棚に上げて嘆くアニエスである。
 唇を噛むと、半眼で凄んでみせた。

「多くは望まん。……マトモなところを紹介しろ」

 ネックハンギングで面接官を吊ってやると、土気色の顔はようやく頷いたのだった。

 そうして次に斡旋されたのは、夫の伯爵に先立たれた未亡人が切り盛りするという商会の邸警護の仕事だった。面接には執事とともに当の女主人が顔を出すほど人材の発掘には熱心で、アニエスもここならばと思ったものだ。
 しかし口頭での試問が行われると聞き俄然不安が募ってくる。とにかくアニエスには時間も余裕もない。予想されうる質問を想定して、正解と思われる応答を一夜漬けで頭に詰め込んだ。

「アニエスさんですか」物腰柔らかな執事が、履歴書を見下ろしながら確認する。
「は」アニエスは寝不足でしょぼしょぼした顔で頷く。
「平民ですね」
「は」
「ご安心を。当会とわが主人は能力を予断することはしません。そのための検分であるとご理解ください」
「は」
「そうですね、まずは、当会を志望した理由をお聞かせください」
「仇が取りたいのです」
「はあ?」

 アニエスは無表情で続けた。

「ダングルテールの虐殺をご存知でしょうか。あのいまわしい事件です」
「ええと、たしか、疫病で全滅したとかいう……」
「嘘だッッ!!!」
「ヒイ!?」

 ひぐらしがなき始めた。
 アニエスは「はっ」と失言に気づくと咳払いを落とす。気を取り直すように居住まいを正し、きりっと発言を撤回した。

「わたしの志望動機は、貴会の経営理念がわたし自身の目標にそうものだったからであります」
「ほう。理念と来ましたか。アニエスさんは学がおありでらっしゃるようだ」
「いえ。滅相も」
「そのあたりをもう少し具体的に喋ってもらえますか?」
「…………」

 アニエスは顔を伏せた。
 気まずい沈黙。
 丸暗記してきましたと如実に語るような間だった。
 そこで初めて、無言を貫いていた中年の女主人が声を発した。

「お年は十八歳とありますが」
「ええ。今年で十九になりますが」さりげにサバを読むアニエスであった。
「特技などはありますか」
「ヒャダルコが使えます」
「そうですか。以前のお仕事はなにを?」

 やすやすとスルーする女主人であった。ただものではない。

「傭兵です。各地を転々としつつ腕を磨いておりました」
「まあ」未亡人はころころと笑う。品の良い笑いであった。「まるで遍歴の騎士さまね。お若いのに苦労してらっしゃるみたい」
「とんでもありません」
「まあまあ。ご謙遜ね? 今日びの平民ときたら、いえ、貴族でさえも礼節をわきまえぬものばかり。なのに貴女は謙虚さをご存知だわ」
「光栄の極みであります」

 メカ・アニエスと化して模範的な応答を繰り返すアニエスだが、意外な好感触に手に汗握りつつあった。いけるか? これはいけるんじゃないか? 
 短期間の傭兵稼業ならともかく長期的なスパンで付き合う相手が傲慢だったり好色だったり変態だったりするのでは困る。だがこの女主人は夫を亡くしているだけあって苦労を知っている。痛みを知ると人は人に優しくできるという。
 荒んだ子供時代を送ったアニエスににも、『勇者』や『騎士』といった存在に憧れた時期がある。主に忠節を尽くす騎士。いいじゃないか。意外と少女趣味な彼女は、早々に「この方ならば」とか思い始めていた。
 その後、二三簡単な質問を受けた。そのいずれもに、アニエスはぎこちなくも穏当と思われる答えを返した。万事滞りない。先の見えない就職活動もこれで終わりだという安堵が、気早にアニエスを包んだ。
 が。
 異常が起きたのは、女主人の目配せでそそくさと執事が退室してからだった。
 ふたりきりになったとたん、女主人はねっとりとした目でアニエスを見つめる。アニエスの危機警報がもの凄い勢いで鳴り始める。しかし今にも職に手が届かんとしているのだ。違和感を噛み殺して、アニエスは椅子から立ち上がる主(予定)の姿を見守った。

「ねえアニエス」すでに呼び捨てだった。「わたくしたち、もっと分かり合う必要があると思いません?」
「あの、マダム?」
「ああ、いけない子……そんな凛々しい瞳でわたくしを見つめて。いったい何を期待しているの? その鋭い目の奥で、わたくしは何度陵辱されてしまったの!?」

 女主人がいきなりトップギアに入った。ショールを脱ぎ捨てると、異様に切れ込みの深い、真紅のドレスがあらわになる。叶姉妹もそれは着まいというような、「ドレス」というより「布」に近い狂った仕立てがあらわになった。

「マダム!? 伯爵夫人、お気を確かに!」
「ダメ、ダメよアニエス! 貴女を見た瞬間からわたくしはもう、もう、辛抱たまらん!」
「バタフライはくしゃきゅふじん!?」
「噛んじゃうくらい取り乱すなんて、可愛いひと!」

 キュルケにキャラがかぶってる彼女こそ、のちにベストセラー作家となる『バタフライ伯爵夫人』そのひとであった。ちなみに彼女はレズではなくバイである。
 筋金入りだった。

「わかりあいましょうアニエス。あなたと……合・体したい」
「いやぁああ」

 半泣きのアニエスの手がとっさに腰に伸びる。しかし当然剣帯などそこにはない。面接に帯剣してくるアホなどいるはずもなかった。
 ずんずんとモンローウォークで迫ってくる女性の肢体に恐れをなして、アニエスは部屋の中を逃げ惑った。仇であれば大統領でもぶん殴る覚悟の彼女だが、真性の変態には耐性がない。生い立ちからしてシリアス一辺倒なので、引き出しのバランスが悪いのであった。
 三十六計逃げるにしかず。必死のアニエスが死中に活を見出した。

「これにてごめんつかまつる!」

 窓を割りながら飛び出した。
 応接室は三階だった。
 着地と同時に受身を取ったが、衝撃が体に与える痛みは少なくない。それでもかなり必死でアニエスは頭上を仰いだ。そこではもの悲しげな顔のバタフライ夫人がたたずんでいた。
 そして彼女も飛んだ。

「アニエース!」
「うわ。うわあああああ!」

 アニエスは疾風のように駆けた。背後で墜落のためと思われる鈍い音が響いても、とにかく走った。

  000

 そんな大立ち回りをしては当然無傷では済まない。アニエスは治療費によってさらに困窮する羽目になる。唯一の救いは夫人がアニエスに対し何の沙汰も与えなかったことだが、そんな事実は彼女をなんら慰めなかった。むしろ気持ち悪かった。
 職人ツンフトの傷病者用厚生施設にもぐりこみ、傷を癒しながら彼女は二度の失敗を顧み、思うのだった。あぁ……むかしからなんか女にモテると思ったんだ。そういえばあのときも。いやあのときも。あんなこともあったなたしか。そーか。わたしはそういうタイプだったのか。いやそうじゃなくてこれからどうするか考えないと。
 受身ではダメだ。

「そうだ。確か……」

 衛士には「欠員がいない」と言っていた。
 つまり、欠員が出ればアニエスにも目があるということだ。
 アニエスは、ふ、とクールに笑った。
 そして血走った目を、自らの愛剣に向けたのだった。

「むざん、むざん」

 一週間後、彼女の就職がようやく決まった。

  000

 そんな感じで殺してはいないが一応手を汚してまで得た仕事も、二年目にとうとうクビの危険を迎えつつあった。
 きっかけは些細なことだった。数日前、チクトンネでちょっとしたボヤ騒ぎがあったのである。アニエスは非番だったがたまさかその近くにおり、顔見知りの通報を受けて現地に急行した。
 現場は悲惨なものだった。爆弾でも放り込まれたかのように家屋が荒らされていたのだ。神妙に検分するアニエスは、ぼろくずのようになっている被害者に、まだ息があることを確認した。

「おい。だらしがないな。死にそうなくらいで死ぬんじゃない」

 ちょんちょんと鞘で体をつついて、反応を確かめる。返事はない。うつ伏せの体を、足で蹴り転がした。
 見知った顔だった。詰め所でも何度か話題になった、近ごろ町でよく顔を見かける流れ者だ。おそらくは野良メイジであり、その力を使って最近城下を騒がす窃盗団に参加しているのではないかとマークされている男でもあった。

「まあとりあえず立て」

 襟首をつかんで引き起こし、そのまま詰め所にしょっぴいた。
 果たして見立てどおり、男はちまたでぶいぶいいわせてる窃盗団の一員であることが証言から明らかになった。

「ふむ……。では貴様が『土くれ』のフーケか?」

 滅相もないと被疑者は返した。あくまで自分はただのスリであると主張したいらしい。それはそれで、貴族から盗みをはたらいたのならばどうにでもして絞首台へ送るなり肉体刑に処し伊達にして返すなりやりようはある。
 しかし、物証がないのだった。おそらく相当な金額に上ると予測された盗みのアガリが、事件現場となった建物のどこを探しても見当たらない。
 どこに隠したのだと聞いても、男は「『香水』のモンモランシーを名乗る魔法学院の生徒にもってかれた」の一点張りだった。
 衛士たちはこれを一笑にふした。どこの世界の学生がこそ泥を半殺しにしたあげく盗んだ金を持って姿をくらますというのか。
 するとどういうわけか、金を持っていったのは独り占めをもくろんだアニエスではないのか、という空気が詰め所に蔓延しだした。


「なぜそうなる…」

 苦い顔でエールをあおるアニエスは酒場にいた。飲まなきゃやってられん。そんな気分だった。
 彼女たちは、衛士といっても王家の秘蔵である魔法衛士隊とはレベルが違う。どちらかというと自治組織の趣が強い集団である。給料も安くはないが高くもない。
 そんな乾いた生活において、犯罪者からせしめ取る賄賂の類がいっぷくの清涼剤以上の価値を持っていたことは、アニエスにだってわかっている。かくいう彼女もちょっとオシャレがしたい気分になったときは、洒落で済むくらいの収賄はしたものである。現金の持つ魔力だって、身に染みて知っていた。人が身を持ち崩すのはたいてい、金か色恋なのだ。
 だが。
 よりにもよって千エキューは下らないと思われる大金を隠匿しようなどとは思わない。理由はひとつ、

「……こういうことになるからな」
「よう、衛士さん」

 食卓に毛むくじゃらの手を置いたのは、いかにも傭兵というふぜいの男だった。見ればその背後にも六人ほど、同種の臭いをまとう男たちが控えている。荒事に慣れ親しみ、暴力を生業とする気配がそこかしこから放たれていた。
 屈強な男七人を前にして、アニエスが真っ先にしたことは傭兵の中に杖を持つものがいないかどうかだった。どちらにしても勝つのは難しいが、メイジひとりと平民の傭兵七人ならば、迷うことなくアニエスは後者を選ぶ。そしてどうやら、彼らの中に貴族くずれはいないようだった。
 周囲から集う視線を意識しつつ、エールをさらに一口ちびりとやって、アニエスは男を見上げた。

「なにか用か」
「羽振りがいいらしいじゃないか。俺たちにもおごってくんな」
「理由がない」
「そうか?」男が下卑た笑みをことさらに浮かべた。「なんなら、俺を一晩買ってみたらどうだ! あんたみてえなおっかねえ女でも、そうだな、百エキューもくれりゃ付き合ってやるぜ!」

 どっと酒場が沸いた。
 アニエスは頬をひくりと震わせる。
 なんで、関係ないやつまで笑ってる?

「おい」アニエスは会心の微笑で男に流し目を送った。「気が変わった。一杯おごってやろう」
「へえ?」

 飲みかけのエールを、ひげ面に思い切り浴びせた。

「おまけだ」

 続けて木製のコップを砕く勢いで顔面に叩きつける。
 酒場が一切、静まり返った。当たり所が悪かったようで、男は白目を剥いて伸びている。アニエスはぐるりと周囲を睥睨し、さりげなく出口に近い場所を位置取りながら、やや演技がかったそぶりでため息をついた。

「誰か伝えておいてくれないか。アニエスは今夜を限りに衛士を辞めると」

 言い捨てざま、背後に回ろうとしていた二人目の顔を椅子で殴り飛ばした。
 ざわめきが波打って、拡大していく。

「……あー」

 うめきには真実意味がない。いつも手を出してから「しまった」と思うのだが、それで後悔をしたことはない。目の前で鼻血を吹いて倒れる傭兵を無感動に眺めながら、アニエスはすぐに気持ちを切り替える。

「こ、この女! やりやがった!」
「無礼な真似を働こうとしたから機先を制したまでだ」

 気色ばんで包囲の輪を広げる男たちに向かって、ことさらに腰帯にくくった剣の存在を強調する。目視できるほど空気の質が緊迫した。さすがに傭兵たちはその道の猛者だ。顔色をあらため、牽制するように思い思いの得物に手を添えていた。アニエスは鼻を鳴らす。運が良くて三人めで斬り死にだ。悪ければ一人も道連れにはできない。
 冷静な分析だった。
 そして、彼女には死ぬ気はさらさらない。
 くるりときびすを返すと、まっしぐらに出口へ走った。

「待ちやがれ!」
「追え!」

 追いかけてくる罵声に、一度だけ振り返る。

「とことんやる気なら、追いかけて来い。命がはした金であがなえると思うのなら試せ」

 もちろんハッタリである。なるべくなら追いかけてほしくはない。さりとて相手にもメンツがある。そう楽にことは運ぶまいと、アニエスは呼吸を落とす。
 抜剣し、夕闇に挑むようにして、トリスタニアへ駆け出した。

  000

「さて――」

 それから数日後、人目を忍んで、アニエスは二年を過ごした街を後にする。不安はなかった。以前とは世界の情勢が変わっている。
 また、腰を据えて情報の収集に励んだおかげか、仇に直結するであろう人物のあたりもついた。今すぐにどうこうできるほど甘い相手ではないが、何の目星もついていないよりましだ。調査の過程でやや派手に動いたのは確かなので、今は標的も身辺を警戒しているかもしれない。ほとぼりを冷ますという意味でも、トリスタニアから離れるのは悪くない手だった。
 あとは着実に追い詰めていく。決して長くはない懐中の剣が、怨敵の喉元に届くまで。
 焦りは無論ある。
 だが心身を焙る妄執の炎は、今や離れがたい隣人である。倦んでも、疲れても、たとえ老いたとしても、決して消えない。燻りでさえ、仇の総身を焼き尽くすには充分だ。彼女には確信がある。
 目深にかぶったフードの下、アニエスは蒼い瞳に昏い光を揺らめかせ、唇を吊り上げた。

「待っていろ、リッシュモン……」

 呟きは、足音のように遠く低く、乾いている。
 見上げた空は、今後の展望を占うように灰色だった。
 苦笑して、できるかぎり気楽に吐く。

「とりあえずは、金づるだな」

 恐らく、近く戦争がある。
 平民が功を立てるとすれば、場は戦を置いて他にない。もしくは、宮廷への推挙に直接権限を持つような大物と懇ろになるかだ。どちらもほとんど不可能事には違いないが、少なくとも前者には芽が出ている。そしてわずかでも可能性があるのなら、アニエスに諦めるという選択はありえない。

 そうして、女は仮の宿りを後にした。腰には剣をはき、胸には宿願を抱いている。その足が踏む前途は多難である。
 決意に燃えた瞳が、はからずもそのとき、小さな背中を見咎めた。

「ん?」

 ここで、森へ向かって歩いていく身なりのいい貴族の少女を目撃し、あまつさえその後を追おうだなんて考えなければ。
 彼女は少なくとも、もう一ヶ月くらいは平穏な復讐道を歩けたはずだった。
 しかしアニエスはやってしまったのだった。おかげで彼女の復讐人生設計は早々に暗礁に乗り上げることになった。
 手始めに何が起こるのか?

 とりえあず、なんかもったいつけて狙いを定めた高等法院長のリッシュモンさんの喉元に剣を突きつけるまで、実はあと少しであった。







  000

 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 4 000

  000


「もし、ミス・モンモランシではありませんか?」
「え?」

 雑踏に立ち止まる。場所はトリスタニアにある大きな通りのひとつである。近所には広場と劇場もある。トリスタニアっ子よりは遠方から来た層の多い名所だった。
 虚無の曜日ではないが、人通りはそれなりにある。といっても物見遊山の気分ではない。目的は立派な人探しである。それも、彼女にとってはいささか因縁を孕む相手だ。
 そんなわけで立ち話をしている暇はないのだが、声をかけてきた相手はとても無視できる手合いではなかった。振り返った刹那、ついついモンモランシーは「げっ」と口に出してしまうところだった。すんででこらえたが、もう遅い。
 結われた二つの金髪が、彼女の顔の幾分か下で揺れている。倣岸を絵に描いたような表情で下から真直ぐ突き上げてくる、少女の視線は強い。まごうことなき超ボンボンのオーラである。
 モンモランシーは口はしをゆがめながら、少女の名を口にした。

「ベアトリス……殿下。クルデンホルフ大公姫殿下ではありませんか」

 ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフは、小鼻を膨らませて再会を喜んだ。

「ああ! やっぱり。お久しぶりね、ミス・モンモランシ? お変わりないようでうれしいわ」
「ええ、その」なんでこの子がトリスタニアにいるの? 眼を白黒させながらもモンモランシーは礼を取った。「殿下もご機嫌うるわしく、なによりですわ。トリスタニアには公務でいらっしゃったのですか?」
「似たようなものです。お父さまのお仕事の手伝いですわ」こまっしゃくれた態度で少女は頷く。
「まあ。お偉くていらっしゃるのね……」
「そうよ! 近々大きな事業があるの。あら、いけないわ。こんなことミス・モンモランシに言ってしまったなんて知れたら大変! 内緒にしておいてくださる?」
「もちろんですわ」

 あーめんどくさいなーという心境をおくびにも出さず、モンモランシーはこの年下の女の子に対して当たり障りのない会話を重ねる。実家との兼ね合いもあって邪険にするわけにもいかず、かといって話しているとやたら疲れる相手だった。
 幸いにして、ベアトリスも暇を持て余しているというわけでもないらしい。十か二十ほど噂話を交換し終えると、

「あらいけないわ。わたくしまだ用事の途中なの」

 と言い残し、挨拶もそこそこに近侍を従えて再び雑踏の中へ消えていく。

 律儀にそのちっこい背中とぶらんぶらん揺れる二つくくりの髪を見届けて、モンモランシーは眉をひそめた。

「……クルデンホルフ大公が王都へ?」

 妙である。クルデンホルフ大公国はゲルマニア寄りの立地。王都から見ればかなりの遠地にある。それが娘連れで参勤するとあれば噂にならないはずがない。確かにここ一週間は噂だとか情報だとかそんなものとは縁がない生活に追われていたが、悪い意味でのハデ好きで知られるクルデンホルフの人間が王都にお忍びでやってくるというのはおかしい。というか、不自然だった。

「考えられるとすれば、商売かしらね……」

 ゲルマニアやガリアでは一笑にふされるかもしれないが、トリステインではいまだ『商売などは貴族がやるものではない』という考えが根強い。そのため領地経営が巧くない貴族などは近年ぼんばか没落しまくっているのだが、クルデンホルフ大公国はゲルマニア上がりの成金だけあってそのあたりには無節操であった。
 領地に鉱山を所有するかの国の大公は、むしろ積極的に利益の拡大に力を入れている。伝統を重んじる家臣にはそれだけでもう煙たがられる家なのだが、あいにくと力はあるだけに誰も表立って非難できない。
 貧乏の痛みを知るモンモランシーとしては、伝統も大切だがお金も生きるためには欠かせないという現実派な認識である。だから特別大公家にもさっきの少女にも「うざいなあ」という以上の感情はないのだが、……。
 モンモランシーはかぶりを振って思考を中断した。気になることは気になるが、やはり今はそんな場合ではない。早いところケティ・ド・ラ・ロッタの行方を探さなければ。

「まったくもう。なんでわたしが」

 いらいらと、かかとで石畳に打つ。なんでわたしこんなことしてるのかしら。そう毒づくのを止められない。実際、恋敵だか同じ穴のムジナだかをこうまで手間をかけて探す意義はわからない。
 ただ、後味が悪いのだった。それに二股自体にはおどおどとしつつも決して謝らなかったギーシュが、今回に関しては本気で気に病んでいるのも腹が立つ。これで軽率なことをしでかしたって理解してくれればいいんだけど、と呟きかけて、モンモランシーはすぐに肩を落とした。
 そんなわけないか。

「お人よしだわ、我ながら…」

 自虐しながら、とぼとぼと待ち合わせ場所へと歩き出す。ついでに中途では、かねてから探していたご禁制の秘薬を作るための材料などを購った。今となっては使い道もないが、学究の徒として製法には興味がある。ただそれも時間を要するほどのものではなく、なるべく遅く歩きながらも、モンモランシーは着々と待ち合わせ場所へ近づいていった。
 同行したギーシュは、方々の宿の宿泊客を当たっているはずだった。モンモランシーは乗合馬車の乗客をさらった。ケティらしき人物の目撃証言は発見できていない。ケティがトリスタニアに来たとすれば、いずれかには痕跡を残しているはずなのだ。だから必然、ギーシュの報告いかんで今後の行動が決まる。

「って、やっぱりいないし」

 中央に人工の泉を置いた広場のどこにも、ギーシュの姿はない。おおかた女の子に声をかけているか女の子にデートの誘いをしているか女の子と手を繋ごうとしているのだろう。
 スタートはともかくその後については意外と晩生の彼のそれが、女癖というよりは実は虫とかの習性に近いとモンモランシーは知っている。彼女自身の身持ちが堅いというのもあるが、なんだかんだで一年近くの付き合いなのにまだちゅーをしただけなのである。
 本当のプレイボーイは違う。もっと享楽的で刹那的で、後先を考えないやからである。
 だから、ギーシュが自分を好きだと言っていることも、嘘ではないのだと感じていた。
 ちょっと前までは。
 学院が吹っ飛んだあの日、ケティ・ド・ラ・ロッタのことを知るまでは。
 モンモランシーにとっては、単に浮気をされたというだけではなく、その相手が問題なのだった。容姿から性格から、ケティは自分とはまったく似つかない。それがギーシュの分際で「きみじゃだめだ」と言われているようでむかつく。もしくはギーシュにとっては女の子でうまいことひっかかりさえすれば個体差なぞどうでもいいのではないか、という可能性が捨て切れなくてさらにむかつく。だってそれではなんか自分がまんまとひっかけられたバカな女みたいではないか、と思ってしまうのだった。
 そうして内にこもって女の情念をむき出しにしていたモンモランシーは、だから彼女に近づく人影のあることに気づかなかった。気づいたのは、やはり声をかけられてからだった。

「もしもし。ミス・モンモランシ?」
「はい?」

 またか、と顔を上げて思考を中断する。瞳がとらえた金髪に一瞬ギーシュを連想するが、果たして全く違う人物であった。

「ご無礼をお許しください。貴女はミス・モンモランシですよね?」
「ええ。そうですけれど」

 誰かしら、とモンモランシーは眼前の人物の身なりを眺める。真っ先に目立つのは、やはりメイジの証であるマントと杖だった。貴族だ。だとすると知り合い? 焦りながらモンモランシーは記憶の人相を検索する。まずい。思い出せない。

「ああ、ぼくは幸運だ。こんなところで貴女と出会えるなんて! これはきっと始祖のお導きですね」にこやかに相手は話し続ける。
「え、ええ。そうね」誰だっけ…。
「ぼくと貴女には、見えざる因縁があるのかもしれませんね」
「ほ、ほほ。ほんとに、奇遇ですこと」

 モンモランシーはますます焦る。どこかの社交場で会った顔だったか? この特徴的な喋り方。一度でも話したのなら覚えているはずなのに……。

「どうかなさいましたか。ミス? 僕がなにか粗相を?」
「いいえ。ごめんなさい」大変な失礼だがしかたない。後々ぼろが出るよりはましだ。モンモランシーは正直に白状した。「申し訳ありません。いずれか知己の方だと存じますけれど、わたくし、あなたのお名前を失念してしまったようで……ほんとに、不躾で」

 金髪のメイジは、まるで気にしたそぶりも見せなかった。鷹揚に笑って何度も頷く。

「ああ。いや、いや。いいんですよ。ミス。お気になさらずとも結構です。無理もない」
「あ、ありがとうございます」寛大な相手でよかった。ほっとモンモランシーは一息をつく。

「何しろ、ぼくたちは初対面ですからね」

「……え?」

 笑顔のまま聞き返したときには、視界を遮られていた。ダンスでも始めるように回された腕がモンモランシーの体を抱き寄せる。何の反応もできない。半秒の内に、彼女の顔に湿った布が強く押し当てられた。水のメイジである彼女、『香水』のモンモランシーはその香りと味におぼえがあった。
 ――眠りのポーション。それも即効性の。
 抗えるはずもない。原液に近い眠りのポーションは麻酔としても用いられる秘薬だ。モンモランシーの意識は一瞬で眠りに落ちる。

「おっと」

 膝から崩れ落ちる細い体を支えて、金髪のメイジ――ボスメイジは素早く周囲を探った。白昼の犯罪行為を気に留めた通行人は今のところいない。せいぜい貴族の友人同士でじゃれているようにしか見えないだろう。それも計算の内である。
 背は高いが肉付きは薄い。少女の体は軽かった。やすやすと腰を抱き肩を支えるようにして、ボスメイジは人目を避けて裏路地へ向かう。いかにも人さらい然としたその後姿を見咎めたのは、

「待て!」

 遅れて待ち合わせ場所に現れたギーシュ・ド・グラモンだった。
 肩越しに彼を一瞥しつつも、ボスメイジは足を止めない。するすると建物の間に積まれた木箱を避けて、より狭い道へと沈んでいく。ギーシュには後を追う以外の選択肢はなかった。

「待て、彼女をどこに連れて行くんだ!」

 早々と杖を抜く。鋭敏とはいえない彼の感覚でも、今が何らかの危機的状況であることはすぐに察せた。

「止まらないのならば!」

 十数メイル先をゆく人さらいの足をめがけて杖を振った。地面に干渉して足止めさせる魔法である。
 地面から生えた土の腕を咄嗟にかわして、ボスメイジは舌打ちを落とす。『土』や『風』のメイジと追いかけっこをするのは得策ではない。腕に抱いたモンモランシーを多少乱暴に地面に置くと、追跡者にならって杖を抜いた。
 弾む息を抑えるギーシュは、すでに薔薇を模した造花の杖を解放している。偽りの花弁が地に落ちるやいなや青銅のゴーレムが立ち上がり、狭い路地を埋め尽くした。
 彼は声色低く問う。

「何ものだ。彼女になにをした? 答えたまえ!」
「そういうきみは何ものだ?」
「賊に答える名なんて、持ち合わせてない。さあ。ぼくの『ワルキューレ』が貴様を貫かずにいる内に彼女を置いて消えたまえよ」
「なかなかしょうね。見たところ『ドット』のようだけど、そのお粗末なゴーレムでぼくをどうにかしようっていうのかい」
「……なんだと」

 明らかな揶揄に、ギーシュの表情が強張った。

「最初の質問にだけ答えよう。ぼくが何ものかと聞いたね」

 ボスメイジはいたって平静な表情で、手中のワンドをもてあそぶ。
 ギーシュの眼が見開かれた。

「まずい……、ワルキューレ!」
「遅いよ」

 ボスメイジは詠唱を既に終えている。1メイル半ほどしか幅のない隘路において、押し込められたゴーレムなどただの的だった。
 ワルキューレを挟み込む両側の壁が、突然鳴動とともにせり出した。レンガの塊は一瞬で『錬金』によって鉄と化し、さらに鋭い錐となってゴーレムを襲う。
 一瞬ののち、五体のワルキューレが串刺しになって朽ちた。からくも逃れたギーシュと残りの二体は、戦慄の眼差しを惨状に向けている。
 次の呪文を唱えて、ボスメイジは杖を標的に突きつける。

「ぼくは『土くれ』のフーケ。――わるものさ」

 ギーシュの眼が見開かれた。

  000

「『土くれ』のフーケ?」
「と、自称している。実際はどうか知らん」

 小川の清水で手を洗うアニエスの顔は涼しい。まったく同じ表情で野良メイジたちを拷問にかけたとは思えない所作である。

 アニエス言うところの『尋問』は、賊がなぜケティに狙いをつけたのかを明らかにするために行われた。その実態は手足を縛った上で被疑者の後ろ頭を引っつかみ、三十秒間顔を水に浸けたあと五秒のインターバルを置いてまた水に三十秒突っ込むだけの暴力だった。シンプルにしてかなりきつい水攻めである。見ているだけの才人も息が苦しくなったほどだ。
 驚くべきことに野良メイジたちは二人も失神するほどがんばった。なかなかの根性である。しかしそれまでだった。すっかり震え上がった三人め(C)に対してアニエスがぽつりと一言、

 よく考えたら二人まではいいのか。

 なにが『いい』のか才人も含めて誰も聞けなかったが、最後の野良メイジはそれで何もかもゲロった。堕ちたりとはいえメイジ。しかしメイジも杖がなければただの人。真性サドのアニエスを相手にするには荷が重い。

「王都では知られた名前だ。貴族を専門にしたメイジの泥棒でもある。別に盗んだものを民にほどこしているわけでもないのに『義賊』なんぞと呼ばれたりもしているな。それが三人組…いや、やつらの話によると『組織』か。とにかく複数人だとは初耳だったが」

 わたしには関係のない話だ。
 そう締めくくり、取り上げた三本の杖をためらいなく熾した火にくべる彼女の眼はかなり怖い。どこがどうとは言えないが何かが狂っている。二メイルほど距離取った才人は、『フーケ』という響きになんとなく引っかかりを覚えていた。フーケ。フーケ。パピプペポーッケ。『土くれ』のフーケ。つい最近どっかで聞いた気がする。

「フーケって、よくある名前なんですか?」
「いつだかの財務卿だか徴税請負人にそんな名前があったかもしれんな。しかしどうせ偽名だろう。もともと、犯行現場に毎度律儀にそう署名することから呼ばれだしただけだ。実際は、凄腕のメイジということ以外は尻尾もつかめていない」
「警察はなにやってんですか?」
「衛士か。うんまあそれはあれだ」アニエスはなぜか言葉を濁した。「ところで、貴様ばかりではなくわたしからも質問させろ」
「はい?」

 アニエスの右手が霞んだ。
 と見るや、鞘走りの音を才人の耳が捉える。一瞬の後、才人の目前には刃こぼれや錆がかすかに浮いた剣尖が突きつけられていた。

「動くな」
「……」
「造作もないな。本当にさっきのと同じ人間か?」

 わずかも切先を乱さぬまま、アニエスがゆっくりと立ち上がる。
 才人は大きく喉を鳴らした。足元に置いてある鎖分銅に視線を向ける。その仕草を目ざとく見咎めて、アニエスは双眸を眇めた。

「マジックアイテムの類か? そうは見えないが……、もしそうなら、宝の持ち腐れだ。悪いが……」

「何をしているんですか」

 アニエスの勧めに従って席を外していた、ケティの声だった。

 固定されていた剣が揺れる。

 才人は迷わず動いた。
 鎖分銅へと手を伸ばす自分を、頭の片隅で疑問に思う。紛れもなく命の危険なのだ。普通ならば体が硬直して動かないはずだ。なのに迷いもなく一か八かの賭けに出ることができる。
 おかしい。
 怖いわけじゃないんだ、と才人は思う。手は震える。足だってすくんでる。だけど心だけはいつも奮い立っている。それが不思議だった。考えてみればずっとそうだったのだ。俺、こんなに根性あったっけ――たとえば、何日も生きるのがやっとの生活をして、それでもまずまずめげずにいられるくらいに? 負けず嫌いの意地っ張りなのは自負していたが、この精神状態はある種異常だった。心の一部になくてはならない感情が、鈍磨してしまっている感じ。だが今はつまらないことを考えている場合ではない。身が危険にさらされているのだ。才人の指先は過たず鎖を引っ掛ける。
 とたんに体が軽くなり熱が入る。ギアがローからトップに入るのに、まるで負担はない。この状態こそがノーマルだとでも言うように。
 横っ飛びに鎖を引いて飛び退さり、無表情のアニエスが振り下ろす直線の一撃をすれすれで回避する。既に分銅は宙を走り推力を得ていた。あとはその充填された破壊力の解放を待つばかりだ。
 微細な手首の返しによって、鎖が波打ち錘が翻る。風切り音を置いて弧を描く一撃を、アニエスは身をかがめてかわす。前傾姿勢から突きの構えで才人を狙う彼女の目論みは距離を潰すことだ。
 才人は左手が命じるままにさらに鎖を握る右の手先を引いた。反動で上空を舞う分銅までのたわみは長い。普通にアニエスへ打ち落とすだけでは間に合わない。即座に左手に握る棒を落とすと、右腕を引いて左手で鎖をつかみ、梃子の原理で落下を加速させた。
 女剣士はその動きを、鎖の軌道ではなく才人の体さばきでなんとか察知した。咄嗟に体を捻って致死の一撃をしのぐ。身が竦むような速度で地面を穿った分銅は短く跳ねて、すぐに才人の手へと返った。
 アニエスは体勢を崩している。次は避けられない。
 だからあっさりと剣を手放して、彼女は両手を挙げた。

「まいった。降参だ」
「へ」

 分銅を振りかぶり、放つべきか否か逡巡していた才人は呆気に取られる。

「あの?」

 アニエスは土を払いながら立ち上がった。無論剣に手は出さない。

「悪く思うな。貴様の実力を試してみたかった。改めて……、とんでもない使い手だと確認しただけに終わったが」
「はぁ……。そっすか」

 なら普通に言えばいいのに。才人はあっさりと矛を収めた。殺気の有無など彼にわかるはずもなかった。

「びっくりしました。突然けんかをなさっているものだから」

 胸の前で手を合わせて、ケティが安堵する。アニエスは少女を一瞥して、目礼した。

「失礼した。ミス・ロッタ」

 当然、アニエスはやれるならやっちゃってもいいかなというくらいの気分であった。なんだかわからないが、このサイトとかいう少年の動きは常識を超えている。達人だとか、才能があるとか、そんなチャチなものではない。基本的な動きからして人間の規格を大きくオーバーしているのだ。
 そのわりにいちいち判断や構えが素人くさい。だからこそインチキみたいなスピードの攻撃もわりと簡単に先読みできる。だがトリッキーな武器の扱いは間違いなく熟練したもののそれだ。いちいちアンバランスである。対峙している間、アニエスは右目と左目で別々のものを同時に見せられているような錯綜した感覚がぬぐえなかった。

「どういう仕掛けだ? その変わった武器のせいではないな」
「いや。さあ……」
「とにかく、貴様自身は半分ずぶの素人だ、というのは間違いないんだな」
「はい」ケンカはそこそこするが、才人には格闘技経験など絶無である。あまつさえ鎖分銅なんていう通信販売で買ってバキに笑われそうな得物を扱った経験もない。
「なら、いったいぜんたいどういうわけだ」

 才人は頬をかく。「武器を持つとむっちゃ強くなる」ということはわかっているが、それが何のためかと言われると困る。一応、心当たりらしきものはあるが……。

「貴様はメイジじゃないようだが、何かの魔法か? それともやはりマジックアイテム? わたしにも同じようなことができるのか」

 宿願がかかっているだけに、アニエスの口調は矢継ぎ早である。
 非常に気は進まなかったが、才人は恥部をさらすような覚悟で彼女に左手を見せた。

「どうも、これのせいみたいで」

 そこで初めて桃毛の存在に気づいたアニエスの反応は。

「なんだそれ……病気?」

 ごく一般的なものだった。
 才人はたださめざめと泣いた。それから一気に自分の身の上を語りだそうとしたが、アニエスは「まあいいか」とあっさり引いた。拍子抜けするほど素っ気無い反動である。持って行き所のない哀しみが才人の中で荒れ狂った。

「さてミス・ロッタ。ひと段落ついたところでお話があります」
「わたくしにですの?」ケティがびっくり顔で自分を指差した。
「いかにも。先刻の賊から得た情報です」
「先ほどの……、悪い人たちではなさそうでしたが」
「いや悪いだろ」

 才人は半眼で呟く。お嬢さまなのか天然なのかブリッコなのか判別できないが(正解はその全部だが)、このケティという娘は彼から見ても呑気すぎる。

「それで、情報というのはいったい?」
「その前に確認しておきましょう」なぜか若干目尻を震わせて、アニエスがいった。「今から五日ほど前になりますが、トリスタニア市中で白昼、スリや物盗りを生業に活動していた一団のアジトが襲撃されるという事件がありました」

 ケティはびくっと肩を震わせる。

「ぎくり!」
「口で言うなよ」

 才人の突っ込みは誰にも拾われない。アニエスは淡々と言葉を続けた。

「現場から発見された容疑者はひとり。しかし供述によるともう一人仲間がいた模様です。彼らは恐らく炎の魔法を用いた技によってミディアムに焼かれました」
「そそそ、それが、どうかなささいまして?」
「おやミス・ロッタ。口調がバグっていますよ」アニエスが肩をすくめた。
「い、いったい何をおっしゃっているのか……、わたくしのような可憐な美少女メイジにはおよそ関わりのないお話です。恐ろしいことですわ」

 だらだら脂汗を流すケティの姿は誰がどう見ても怪しい。才人は過程をすっ飛ばして「こいつやったな」と確信していた。アニエスは水谷豊っぽい仕草を心がけつつさらに畳み掛ける。

「ところでミス。先ほどうかがった、あなたのお泊りになっている宿ですが……、トリスタニアでも一番の高級宿ですね。もしさしつかえなければ、ひとつだけ。御代がいかほどかお教え願えますか?」
「ひ、一晩……、そう、一晩、5エキューほど、ですわ」
「なんと」アニエスが眉を跳ね上げる。多彩な責め方をする女である。「それはお高い。ですが妙だ。わたしの記憶が確かならば、その宿の最上級の部屋は30エキュー、下限でも10エキューはするはずですが」
「ま、間違えたのです。いいまちがいです。だれにだってあるわ。それくらい。ほんとほんと」
「なるほど」アニエスは多いに満足した。「間違えた。なるほど。それにしても豪儀なことだ。ひとばんで50エキューとは。平民には考えもつかない」
「わたくしは貴族の身分ですもの。安宿だなんてそんなの……、じ、自重したんですわ。ケティ自重。ほんとはお財布さんにそうとう無理させてるのよ?」
「つまり、見栄を張っていらっしゃる? 実はそれほど財政に余裕がないと?」
「ですです」

 こくこくと頷くケティ。
 しかし猟犬の足は速く、牙は鋭い。
 喰らいついたエモノは決して逃がさない。

「それはおかしい」
「ひぎぃ!」びっくーとケティが表情を強張らせた。
「ひぎぃ好きだなぁきみ」才人はオーディエンスに徹している。

 アニエスは滔滔と、

「職業柄、失礼、元職業柄、どうも気になりましてね。ミス・ロッタ。あなたの体からはどうもいい香りがするのです。それが気になってしかたない」
「こ、香水ですわ。淑女のたしなみです」
「いえ、違います。香水を髪には振り掛けないでしょう。これでもわたしは鼻が利くのです。香りはあなたのその髪から立っている。そして、くだんの宿の最高のサービスには、水に香料を混ぜた湯浴みが含まれています。あなた、それを利用しましたね? 節制はどうしました……」
「くっふう……っ」

 少女の細面が、徐々に青ざめる。

「たらり!」
「汗の流れる音かよ。だから口で言うなよ」
「そして……話を事件に戻しますが……悪漢二匹を血祭りにあげたメイジは、現場から、なんと金貨にして実に一万エキューもの窃盗品を持ち出したのです」
「そっ」

 そんなに持っていってない、と言ったらおしまいだ。少女メイジはがばっとアニエスを睨んだ。

「そ、そんなゆうどう尋問にはひっかかりませんよ!?」
「思いっきり引っかかってるじゃねえか」

 才人が囁いた。

「あっ……」

 ケティが涙目で才人を見た。たすけて。
 救いを求める眼差しを、沈黙で少年は退けた。だめだこいつ。

「はう、あう」

 ケティはほぞを噛む。どうしよう。ぎぎぎ…。この女。平民の分際でこのわたしをはめるなんて! しかも平民さんにまで裏切られた! あんなに眼をかけていたのに!
 二重のショックであった。
 王手――。
 この状況では最終奥義『雨乞い!雨乞い!と杖を振りながら叫んで転げまわる』を駆使しても逃げられまい。
 ……殺しちゃいますか?
 埋めれば見つからないだろうか。平民の一人や二人、とケティは思うが、さすがにさっきの才人の無双っぷりを見てしまうと容易には踏み切れない。
 がっくーと両膝を地面に落として、ケティはうなだれた。

「――わたくしが、やりました」

 アニエスはかぶりを振る。詰みである。

「その言葉を待っていた」
「こんな、こんなはずじゃなかったの」ケティはしおしおになっていた。「そう、元はといえばわたくし、平民さんにお金を取り戻させてあげようとしたの……ほんとですのよ。ただつい忘れて豪遊しただけで」

『平民さん』が自分のことだとは露知らぬ才人は、すげえ自爆女だなあという感じでケティを見つめていた。とりあえず同情の余地はありそうだが、それにしても可愛い顔して豪快な真似する娘だなあ。
 アニエスが、彼女を落ち着かせるようにして肩を叩く。

「ミス・ロッタ。安心するといい。わたしたちにはあなたを告発する意図はない」
「たち!?」才人がさりげなく含まれていた。
「むしろ、あなたを危険から守るべきだとさえ思っている……」
「え……」

 ケティが、希望に濡れた眼を才人とアニエスへ戻す。託宣を待つ巫女のように粛然とした表情が、彼女の顔には表れていた。

「突然ですが、わたしは遍歴の女剣士アニエスともうすもの。故あって先日辞職しましたが、トリスタニアで衛士の職についていたものです」
「まあ。そうでしたの」
「そしてこちらは仲間のサイト」
「なんで!?」
「つべこべいうな」アニエスは鼻を鳴らした。「貴様の命はわたしが拾った。だからわたしのものだ」

 ひでえ理屈もあったものだった。まったくケティを責められない。
 アニエスは続けて自ら放った剣を拾い上げ、惚れ惚れするような滑らかさで鞘に納める。そして朗々たる声を森に響かせた。

「ここで緊急ニュースです。ミス・ロッタ。あなたは、狙われている!」
「な、なんだってー!」

 驚愕が唱和した。

 000

「お誘いにしては無粋ね」

 キュルケ・フォン・ツェルプストーは胸元の杖をもてあそぶ。眼前では大腿に重度の火傷を負った男がひとり、苦悶してひざまずいていた。そうさせたのはむろんキュルケだ。
 だが仕掛けてきたのは相手である。
 ちょうど町に入ったあたりから、尾行がついてきたのは知っていた。なにもキュルケにそれを察知する技能があったわけではない。メイジがそうしたときに頼るのは、もっぱら使い魔だ。彼女のフレイムが追っ手の存在を主人に報せたのだった。
 性根が好戦的なキュルケである。コナをかけられれば、それが不穏でも、とりあえずは応じる。
 そういうわけでちょっと裏道に入ってわざわざ挑発してみたのだが、しかけてきたふらちものはたったの二人であった。フレイムから受ける感覚ではもう二三人いるようだったのだが、どうも自分は本命ではないらしい。テンションが下がってきたのでのらくらかわすか、と思った矢先、彼女はこんなことを尋ねられたのだった。

「火のメイジだな?」

 うなずいた。
 そしたら問答無用で襲われた。
 ほら、と鑑みてキュルケは思うのだった。焼くしかないじゃない。
 それにしても、属性を確認されたことが不思議だった。ハルケギニア・メイジにおける『属性』という概念は、例えば日本国における血液型性格診断よりもかなり信仰が篤く、また信憑性も高い。『水』は湿っぽく、『火』は苛烈、『風』は自由で『地』は四天王で最初に負ける。
 こうしたテンプレートから逸脱するような例はそれこそ山ほどあるが、キュルケあたりはかなり見たまんまの性格をしていた。だから言い当てられたことは不思議ではない。しかし言い様が気にかかる。ここは普通なら「あなたは火の属性ですか?」という中学英語の構文のような文句が適当なはずである。しかし賊(と、言い切っていいだろう)は『火』の『メイジ』であることを確認してきた。魔法学院の制服を着た、キュルケに対して、である。
 ここまで1.5秒くらいで思考して、キュルケはま、いいかと嘆息した。どうやら人違いのようであるし。
 しかし、それはそれ。襲われたカタはきっちりつけるべきだ。
 キュルケは目を細めて、油断なく杖を構える。

「狙いはあたしの連れのほう?」
「……」

 黙して語らないのは、今しがた焼いた男の後方に位置する女、いやむしろ少女に近い年頃のメイジであった。しかし身なりは町娘そのもの。ただ手にしたワンドのみが彼女の高貴な血を証している。恐らく元は落ちぶれた貴族であろう。
 栗毛を揺らし、少女は顔をうつむかせ、ぼそぼそと口を開いた。
 呪文の詠唱である。
 キュルケは犬歯を剥き出しにして戦意を募らせる。
 が、

「あら」

 杖の行き先は火傷にあえぐ男のほうだった。皮膚の一部を炭化させるほどの熱傷が、見る間に癒えていく。
 秘薬も使わずやってのけた。かなり高度な『水』の魔法である。最高峰の水の使い手は欠損した身体さえ治療するというが、栗毛の少女メイジの実力は練度としてそれに一枚落ちる程度だ。
 低く見てもキュルケと同格の、それも水の使い手。
 なかなかに、そそる。
 しかし仲間を見る間に癒すと、少女はキュルケに対して深々と頭を下げたのだった。

「どうも……、連れが短気を起こしまして」
「謝っちゃうの?」拍子抜けして訊ねる。「ヤらないの?」
「……た、戦いませんよ……、あなた、『トライアングル』くらいあるでしょう? それならそもそも条件に当てはまらないですし。お察しの通り、わたしたちの目的はあなたではありませんから……、邪魔立てなさらないのなら、わざわざ争う必要もありません」
「まあ、ね」

 油断はせず、しかしキュルケは臨戦態勢を解く。思いつきが的を射ているなら今ごろギーシュかモンモランシーはちょっとした危地にある。
 だが、まあ普通に知ったことではなかった。
 基本的にキュルケはその場のテンションに重きを置く女である。選択は一貫するが、行動は風見鶏だ。まだ有効かどうかはともかく、留学生の身分で街中ドンパチやらかすほど、同級生の縁は深くない。誤解されがちだが、キュルケは好戦的なのであって戦闘狂ではない。年中盛るためにも、カロリーは有効活用するタイプである。
 それでは、と一礼し、少女は足を引きずる仲間に肩を貸してきびすを返す。
 その刹那であった。
 手品師のような、出がかりの消えた動作だった。少女の背から、小さな香水瓶が飛んでいた。それは放物線を描いてキュルケの顔面を目指している。瓶をつかもうとして、反射的に手が伸びた。
 ぴりりと皮膚表面をなぶる気配。キュルケは本能的に危険を察し、腕を引き足で地を蹴った。
 回避行動は半分間に合い、半分遅きに失した。
 狙い済まされた小規模な『エア・ハンマー』が正確に彼女の頭部、顎先を揺さぶる。と同時に宙にあった香水瓶が不自然なほど粉々に砕け散った。

「このっ」

 不意打ちとは上等だ。こちらもすでに詠唱は終えている。初弾で仕留め切れなかったことを後悔するがいい。杖をかざしかけたキュルケを制動したのは、突然の立ちくらみと、鼻をつく刺激臭であった。

「ひ、『火』は止めた方が、いい……、ですよ? もうわかってると思いますけど、それ精製油ですから。へたに魔法使うと……、わかりますよね?」

 キュルケは膝をつく。手もつく。本音では倒れこみたい。彼女にそれを留めさせるのは、噛みきった咥内の痛みと、そして目前の少女への敵意である。

「ぬふぅ」

 震える意識に叱咤をかける。すぐにでも上向きかける焦点を必死で当てた。気弱そうな少女は、徐々に後退している。ただし油断はない。すん、と鼻先にまとわりつく油のにおいをかぎながら、キュルケはようよう問うた。

「……あ、ああ、貴女、な名前は? あたた、しは……、び『微熱』のくゆ、……キュルケ。――キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・ツェルプストー!」
「ツェルプストー! ラヴァリエール領の隣の大貴族じゃないですか! こ、怖いなぁ。……って、名前ですか? 突然聞かれても……、えっと、じゃあ『土くれ』のフーケってことにでもしておいてください。……それじゃ」

 おやすみなさい、ゲルマニアの学生さん。声のあとに詠唱と、再度の衝撃がキュルケの頭部を襲った。
 今度こそ完全に白目を剥いて、キュルケは意識を失う。
 そしてほんの束の間を置いて彼女が目を醒ますと、裏通りはほこりっぽい静寂を取り戻していた。がばっと起き上がり、頭痛をこらえ、血の混じった唾をぺっとキュルケは吐き捨てる。それからぎりぎりと歯噛みする。砂を巻いた赤毛を盛大にかきあげ、両肩をいからせて、もちろん彼女は復讐を誓う。絶対の報復を心に決める。そしてたぶんほとんど気づいてる人はいないと思うので補足すると、ここで『フーケ』と名乗った栗毛の女の子は原作五巻であとがきに登場してすごい適当にキャラ付けされたあのジャンヌと同一人物なのだった。

「フーケ……」

 キュルケはひとり、油くさい顔でししくした。

「ぶっころすわ!」




[5421] おまけ5
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2009/01/01 23:48



 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 5 000


 000

 拿捕した野良メイジ三人を無力化し膝を割りアキレス腱を切り前歯を全部折り身包みをはいで放置したアニエスに対し、現代日本代表の才人と箱入り娘見本のケティは震え上がって何も言えなくなった。
 一同は怖いお姉さんの先導に従い、トリスタニアへ続く街道へ復帰する。才人は万感を込めて長年の友のように感じる森を後にした。が、気配を感じて振り返った。ふと気づけば一匹のオオカミが丘陵地からこちらを見下ろしているではないか。
 才人ははっと目をみはる。おまえ、もしかして、あのときの……。へへ、思えばお互い若かったぜ。見送りにきてれたのか? そうさ……、俺たちは犬だ。犬っころだ。けどよ、俺たちには牙がある。ご立派な誇りはないかもしれねえけど、こいつは意地を守れるかもしれねえ牙だ。あばよ、犬っころ。俺は俺で生きていくさ……。
 勝手なストーリーを展開してモノローグに自分で涙ぐむ才人にアニエスから声がかかった。

「おい貴様。なに立ち止まってる。逃げようとしたら真ん中の足を切り落として食べさせるぞ」
「はい! ただいま!」

 ヘッドスライディングばりに平身低頭して、才人は恩人へ追従する。その顔面に浮かぶのは紛れもなくこびへつらいの笑みであった。男はともかく、綺麗なおねえさんとかにしつけられるのは、かなり嫌いじゃない年ごろである。そんな意地もある。

「わたしの推測が正しければ、この連中の狙いはミス・ロッタが略奪、もとい膺懲なされた際始祖ブリミルの名の下に押収した盗品にあるはずです」
「ま、まあそれしか考えられませんわね……」

 渋々と納得するケティに、才人は「こいつまたギったのか」といった意味合いの目を送っていた。

「何はともあれ、まずはその中身を詳しく検めなくては。むろんこれからわれわれも同行して検分させていただきますが、何か心当たりのようなものはありませんか?」

 問われるケティは、いかにも作ってる感じで小首をかしげて指を立て目線を上に向けて「うーん」と唸った。
 ちくしょうかわいいな、と才人は思った。左手が急に痛みを発した。
 ぽんと万引き少女が手を打った。

「ああ、そういえば!」
「おお、やはり」アニエスの双眸が鋭く光を放った。
「なんだか、血文字で名前がずらーって書いてる気持ち悪い紙きれがありましたわ、ありましたわ!」
「それだー!!」アニエスが興奮した。大手柄の予感に目が血走っている。

 怪気炎を上げるアニエスに隠れやれやれと嘆息しながら、才人はいよいよ間近に迫ったトリスタニア市門壁を見上げた。思えば一週間くらいでずいぶん色々なことが起きたものだとさめざめ思う。
 異世界に召喚され、少女の死に目に立会い、魔法使いを相手に大乱闘して、爆発オチで怖気づき、ほのかなあこがれを裏切られ、犯罪者の烙印を恐れ逃走し、有り金を全部なくしてヒッピーになり、森で野生の生活を経て左手の模様と会話して、あげくサディスティックな女の人に拾われ仲間にされた。
 箇条書きマジックも手伝い、才人は素直に思った。
 俺すげえ。なんていうか、意味がない方向ですげえ。
 喉元過ぎればなんとやらで、乗り越えた今振り返れば、それらの日々もなんだかいい思い出になるような気がしてきた。いずれ元の日本に帰り、再び日常に埋没し、やがて長久かがなべ、異世界の出来事を思い返すこともなくなったころ、昔語りをするように孫か何かに話すのだろう。
 おじいちゃんはな、むかしファンタジーな世界にいったことがあるんだぞ。そこにはリアルツンデレとかがおってな……。ママおじいちゃんまた左手を相手に妄想を恥ずかしげもなくベラベラ喋ってるよ、はやく死ねばいいのに。みたいな……。
 才人がそんな微笑ましい現実逃避に没頭することを、許さない流れがある。彼らの向かう先である市門で騒動が持ち上がっていた。見れば、体つきの細く神経質そうな中年の女性が、門に詰めている兵士になにやら詰め寄っていた。

「ですから! この女性がかの悪名高き『土くれ』のフーケだといっているでしょう! はやく牢獄なり裁判所なりに送ってしまってくださいな!」
「そう言われましても、はっきりとした目撃者も証拠も盗まれた物品もないというのでは……、昨今じゃ冤罪も色々と増えてましてマスコミの目が厳しく、一存でそのような重犯罪者をかってに捕まえて名を挙げてしまうのも内外に問題が生じたり……、ええと、ミセス・シュブルーズ? ご理解いただきたいのですが、われわれの職務はこの門の警護と入市の検察です。犯罪者の護送をなさっているのでしたら、あなたがたの魔法学院には元々衛兵が詰めておるはずですが」
「それが! 役にたたないから! われわれ教師が自らこうして足を運んでいるのですよ! いいからもう貴方の上司を出しなさい!」
「ま、まあまあミセス・シュブルーズ」同僚の剣幕に腰を引きながらなだめるのは、コルベール先生である。「実際彼のいうことも正しい。手続きといってもさして手間のかかるものではないのです。それにここまでの道中ろくろくミス・ロングビルからの事情聴取もできませんでした。学院のことを報告するにせよ、ここは一度どこかで宿も取って……」
「だまらっしゃい! このハゲ! 日和見はもうたくさんです! わたくしには家のローンがあるのです!」
「ハゲ! なんですと! わたしのどこがハゲだと? あるでしょう、髪! ここにあるでしょう!」

 やいのやいのと交わされる押し問答である。残りの教師二人はなんだかナアナアな感じで「困りましたなあ」「いやはやまったく」とばかり、既に傍観を決め込んでいた。
 アニエスが辟易しきった様子で渋面を浮かべ、ケティは挙動不審になって才人の背に隠れた。

「また『フーケ』だと?」アニエスが眉根を寄せる。
「あわ、あわわわ」ケティがてんぱる。

 そして才人は、見覚えのある顔をふたつほど集団に見出して青ざめる。コルベールとかいうあの先生はまだいい。問題は、

「ん?」

 と視線に気づいて振り返った真フーケである。いっかな進展しない貴族たちの滑稽を、にやにや見つめていたその頬が才人を認めるやかすかに歪む。
 才人は彼女を騙し討ちにしたまさにその当事者である。
 ついでにいえば、大勢のメイジに対して暴行に及んだ慮外な平民でもある。フーケはそのことを知っている。というか才人が半ば自分から暴露した。
 そして実際のところ瓦礫駆除をしていた彼女を捕まえようといいだしたタバサの思惑は、図書館からの書物接収の罪を押し付けるためである。そのへんの裏を何も知らず気絶から起きて朦朧とする頭で『彼女のゴーレム。あれは城下で噂になっている犯罪者のものである可能性がある。確かめたほうがよい』というたったの3センテンスに納得したのが誰あろう才人であった。
 であるから、当然あのでっかい土人形を操っていた女性がどういう罪を犯していたのかは知らないし、コルベールにその旨の説明を求められても才人には何も話せない。というか、そもそもあの学院に居合わせた貴族と顔を合わせている時点でまずい。
 やっべえ、と才人は思う。
 ほらね、とフーケは嗤う。
 彼女の頭の中には、瞬時にして「狂ったオールド・オスマンに暴行されそうになったところを眠りの鐘で反撃したがかなわずそこをさらにあの平民のボウヤも一緒になって十八禁展開になった上泥棒の罪を着せられた」的な言い訳が思い浮かぶが、そうした詭弁を使うまでもなく、状況は彼女へ味方した。

 才人とフーケの視線が合ったその刹那、運命のもぐらが門前の土中からひょっこりと姿を現したのだった。

 微妙にぬめった茶色の毛並み。つぶらな瞳に大きい手。正直ドットの使い魔としてはもったいないほど高性能なジャイアントモール。いわずもがなギーシュ・ド・グラモンのつい最近召喚されたばかりの使い魔、ヴェルダンデの巨体である。

「でけえ! なにあの超でけえもぐら! あんなんまでいるのかよ! あのレベルのもぐらが地面掘りまくったら地盤沈下しまくりじゃねえか!」

 といまだに未練がましく無粋な方向で驚くのは才人だけだった。各人の目線は、巨大もぐらそのものよりも、もぐらに背負われた土まみれの主人へと向いている。

「あれは……、ギーシュさま!」としゃがんだまま叫んだのはケティである。
「げっ」とうめくのは才人。

 一瞬何かを逡巡しながらも、満身創痍のギーシュを見ると、ケティはすぐに駆け寄って怪我の具合をあらためようとする。顔面血だらけ自慢の金髪も土だらけ服は砂利まみれの姿を見て、「これはひどい」と呟きながら、

「お医者さま! お医者さまはいらっしゃいませんか! もしくは水メイジのかた! 水ポケモンでも可です!」と叫んだ。
「ここにいるぞ!」と歩み出たのは空気だった学院教師の一人である。一瞥するやギーシュの症状を看破して、「なんだかすり傷じゃないか。ほら、頭から水をかければすぐ起きる。きみは離れたまえ」

 さっとケティが離れるや、間をおかずざんぶとギーシュの全身が水をかぶった。うめき声をあげながら薄目を開けたギーシュが、捜し求めた下級生の姿をおぼろに捉える。

「……ケティ? ケティなのかい? ああ、よかった。きみは無事だったのか……」
「ギーシュさま……」

 キュンとするケティである。なんで地面から登場して怪我しているかはわからないが、起き抜けに名前を口にされて悪い気はしない。これでなかなかケティも未練がましいところがあるのである。
 だがその胸キュンも、くわっと目を見開き叫んだギーシュの言葉を聞くとすぐ消し飛んだ。

「そうだ! 寝てる場合じゃない! モンモランシー! モンモランシーがさらわれてしまった! くそっ」
「……」

 ケティは抱き起こしかけたギーシュをすぐ地面へ放り出した。

「なんですと?」とコルベール先生が聞きとがめる。「どういうことかね? さらわれたとは……、それにミスタ・グラモン。その怪我は一体?」

 他方、また厄介ごとか、と内心うんざりしつつ、趨勢を静観するフーケである。タイミングを逸したが、さてどうやってここから逃げ出してやろうか、まずはあの平民の暴力事件をネタに脅して――

「フーケです! 『土くれ』のフーケと名乗る賊が、モンモランシーをかどわかしたのです、先生!」ギーシュが全力で訴えた。

「えっ」素で『土くれ』のフーケ当人が目を丸くした。

「『フーケ』?」とコルベール先生が問い返す。心なしかその声色に真剣味と、そしてわずかな安堵がまじる。「なんと、きみは『フーケ』に出会ったのかね、ミスタ・グラモン? しかもそれがミス・モンモランシを拉致したと」
「そうです、先生!」ギーシュはひとりだけテンションが違っていた。「すぐに官憲に……、いや、この手で、必ず彼女を助けなければ。ああ! モンモランシー!」
「これは……、どういうことかしら?」シュブルーズ先生が話が違うとばかり、『ミス・ロングビル』を見やった。「彼女が『フーケ』だったのでは? まさか、コルベール先生のおっしゃる通り、あの呆け老人……」

 盛り上がるギーシュをよそに、学院メイジ一同は混乱と困惑に包まれた。徐々にオールド・オスマンの正気へ疑心を深めていく輪を後にして、ケティは唾は吐かないが口で「ぺっ」と言いながら砂を蹴飛ばし、才人・アニエスの元へ戻ってくる。

「なんかー、もうどうでもいいって感じですねー、ここはもういいからはやく宿へ行きませんかー」すでに態度が投げ槍だった。
「わたしは構いませんが」アニエスが思案げに呟いた。「なにやら事態が昏迷してきたもようですね」
「どぅおーでもいいですわ!」ケティが頬を膨らませた。「ちょっとミス・モンモランシが誘拐されただけじゃないですか。貴族が身代金目当てに誘拐されるなんて珍しいことじゃないですし、わたくしたちには関係ありませんっ」
「そ、そうだな、うん、なんかよくわかんねーけど、俺たちには関係ないみたいだし、行きましょうか」一も二もなく賛同した才人は、さっきからフーケの視線が怖くてしょうがない。ギーシュとも目を合わせない。

 率先する二人に引かれて、あまり目立ちたくないアニエスも、いいかげん市内へ入ることを決めた。門の衛兵はすっかり学院関係者から興味を失って、雑談や税の取立てに熱意を燃やしている。
 才人はこそこそと一団をやり過ごすべく、身を縮めて歩き出した。が、そうは問屋がおろさないとばかりに、フーケが自由になる足で彼を転ばせる。ルーンの補助もなく無様にすっ転んだ才人の顔を何の気なしに見たコルベール先生が、おやっとばかりに眉を上げた。

「きみはミス・ヴァリエールの? なぜこんなところに。帰ったのではなかったのかね」「いやそのこれはええと」「それよりも『フーケ』を!」「というか結局ミス・ロングビルはなんなのですか?」「泥棒?」「いやでも、こうなると学院長がマトモかどうか怪しいですし」「平民さんなにやってるんですか! おいていっちゃいますよ!」「ん? あれ、おまえアニエスじゃないか。戻ってきたのかよ」「誰のことだか知らないが人違いではないかな。わたしはアニエスではなくマ二工ヌだ」「それよりもなによりも、学院のことを報告すべきだと思うのですが……」「生徒がさらわれているのですぞ! 『それよりも』とはなんですか」「いやいやだからそれはイッツノットマイジョブというやつで」「ぼくが不甲斐ないばかりに、モンモランシー……」「まったく、わたくしにはまだ家のローンが。ローンがあるというのに」

 好き勝手喋りだした一同を、覚めた目で見る女がひとり。誰あろう彼女こそ、今後の身の振り方と、起きている状況と、どう動くべきかを、ゆっくり考えにまとめた世紀の大怪盗『土くれ』のフーケさんである。このままむざむざ囹圄の人となる気はないフーケは、イニシアティブを取るべくして、『ミス・ロングビル』の仮面を再び被りなおした。

「みなさん!」

 腹の底からの大声である。ぴたりと紛糾する平民、メイジ、教師、生徒が口をつぐむ。彼らの意識は自然フーケへ吸い寄せられる。
 見るものを安心させるような微笑を浮かべると、彼女はいった。

「とりあえず、宿でも取って考えをまとめてはいかがでしょう?」

 この提案に、異を唱えるものはいなかった。

 000

「あー気分わっるいですわー」

 いまだにブツクサ言いながら、ご機嫌斜めなケティが漆喰風に偽装された壁をパンチで砕く。凹型の空間から『ロック』をかけた木箱を取り出し、さらにそこから巨大な布袋を取り出した。違法メイジからの収奪物である。
 アニエスは早速真剣な表情でその中身をあらためる。才人は手持ち無沙汰で立ち竦んでいた。その表情は優れない。
 入市後、すぐに一行は、コルベールら教師四名、ならびにフーケ、そしてギーシュの六名とは、ケティが無愛想に連絡先を教えただけで別れていた。べつに同道する理由もなかったからである。勝手に失踪したケティは本来ならば説教のひとつも食らっている立場なのだが、皆彼女ごときにリソースを振りまいていられる余裕はなかったらしい。結局お咎めなしにスルーされていた。

「うう」

 うめく才人である。その脳裏には、別れ際のフーケの言葉と邪悪な笑いがこびりついて離れなかった。

『協力しなかったら、あんたも道連れにしてやるよ。わかってるよねえ、「平民の英雄」さん?』

 一体何がどうなっているのか、事情はわからないが、激しく危険な雰囲気を感じ取っている。これ以上あの悪女っぽいお姉さんに関わるべきではないと、才人の六感が囁いている。ついでにいえばそれはアニエスからもケティからも感じ取っているのだがもうどうしようもない。武器を持ったときの武力以外、彼はただの少年に過ぎなかった。

「……あった」

 苦悩する少年の横で、鼻息の荒いアニエスがくだんの連名血判状をとうとう見つけ出した。爛々と目を輝かせて羊皮紙に記された名前を吟味しはじめる。が、すぐに困惑気味に眉がひそめられた。

「元貴族が多いな。当たり前か。しかし、これだけでは大手柄に、なりうるか?……いや、廃絶されていない実家を探し当て、これをネタに強請るか。あるいは政敵の多い貴族に売るか。さて、乗ってくる輩はいそうだが……」
「なんだかぶっそうなことおっしゃってますけれど、どうかわたくしを巻き込まないでくださいね」

 他人事のように呟くケティ。元凶が自分であるとは、わかっていないようでわかっている。なので、奪った貨幣を仕分けして、すでにどこかへ放棄することを決めていた。金は重要だが度を越えた固執は命を奪う。そこを本能的に理解している少女である。一枚いちまい、残った貨幣を床に並べていく。

「エキュ金貨が一枚、スゥ銀貨が二枚、ドニエ銅貨が五枚、エキュ二、三枚、スゥ四、五、六枚、なんか知らない銀貨が一枚………………え゛?」

 よどみなく動いていた指が、一枚の、真新しい銀貨をつまんだ瞬間、停止した。
 ケティも止まった。
 心臓だけが、急激に彼女の内部で激しくビートを刻む。震えるぞハート。ごくりと唾を飲み込む。はばかるように黙考するアニエスの背を見、腕組み首をひねる才人を盗み見る。二人の意が自分にないことを知りながら、つぶさにその銀貨を確かめる。

 あら、通貨にこんなのあったかしら? ええ、ないわ。見たことないわ。じゃあ新スゥ銀貨? 知らないうちに施行された? いやいやないない。ないはず。じゃあこれはなにかしら。っていうか、なにかしら。そもそもこの肖像画、誰の? 先代陛下? アンリエッタ殿下? そんなバカな。だって男のひとじゃないですかーこれえ。ふふふ、ケティったらおちゃめさん。というかわたくし、これ、もう何回か、買い物に、使ったような……。だって、結構な割合で入ってるし……。ええ、なんで今気づくの。なんでもっと早く気づかなかったの? これ、なに? あれ? あれなの? もしかして。頭に「ニ」がついておしりに「セ」がつくあれ? 落ち着いて、落ち着くのよケティ。まだ慌てる時間じゃないわ。こういうときは、クールにならなくては。落ち着いて、

 ――確かめなくちゃ。
 体温を軽く一度下げたケティは、青ざめつつも呪文を唱え、杖を振る。

 結果は。
 かんぺきに黒だった。

 どごお。
 ケティが床に突っ伏した音である。

「ぎ、ぞ、う、こ、う、か」

 しかも間違いなく『錬金』で作られている。トリステイン国法に照らせば、れっきとした重罪である。造幣大権は国王その人の直轄下にあり、トリステインでは一部の大公や大司教を除いて、独自の貨幣流通は許されていない。王位不在の現状では実質機能していない権利である。
 またたとえ許諾を受けたとしても、既存のエキュ・スゥ・ドニエの規格から大きく逸脱することは許されておらず、含有量はたいてい据え置きである。ここ数十年で新たに流通が認められた新エキュ金貨も、人口に膾炙するまでにはさまざまの紆余曲折と血で血を洗う政争が、その裏にあったとまことしやかに語られている。
 ハルケギニアでは、実に先進的なことに国際通貨制度が運用されている。詳しいことはともかくそうなっている。
 そしてだからこそ、その鼎を脅かすようなまねをした場合、問答無用でアレである。アレ。恐ろしくてケティは関係代名詞をつかわずにはいられない。

「『ディテクト・マジック』?」アニエスが目ざとく気づく。「ミス・ロッタ? 何をなさっているのですか」
「なななな、なんでもごごご、ごーごーごー」杖を取り落とすほど取り乱しながら、ケティは首をぶんぶか振った。

 説得力が皆無である。彼女の手元を眺めたアニエスは、ひょいと一枚の見慣れぬ硬貨をつまみあげた。
 その顔が凍りついた。

「……ミス・ロッタ? これは」
「あーっ、あーっ、きーこーえーまーせーんーわー」耳をふさいで、ケティは暴れた。
「贋貨では?」
「ぎゃおー! たーべちゃーうぞー!」ケティは壊れた。
「これ、使ったのですか?」
「うわーん!」とうとう泣いた。「わざとじゃないの、わざとじゃないのぉ! だって、混ざってたから気づかなかったんですのよ! わたしも、お店の人も!」
「それは……、不幸中の幸いというか」アニエスがことの深刻さにおののいた。「いやしかし、このご時世に……、偽造貨幣を流布したとなると……」

 あまりの醜態を見咎めて、才人がのんきに口を挟んだ。

「なんかまずいんですか?」
「死罪だ」アニエスがためらいもなく言い切った。
「言わないで!」ケティがいやいやした。
「まあ、ばれなければどうということはないが。とはいえ、魔法で貨幣を偽造するのも、あまつさえそれを使用するのも、重罪には変わりない」慰めているのかとどめかわからないアニエスの言葉だった。「とくにメイジの場合、コモン・マジックである『ディテクト・マジック』を使えば防げる被害だからな。店側にも咎めはあるだろうが、支払の際に顔と名前を覚えられている可能性が高いから、ミス・ロッタに司直の手が伸びることは充分ありうる」
「ひいいいい」ケティが脅えきった。

「え、魔法でお金つくれんですか?」
「つくれる」アニエスが頷いた。「土の魔法に『錬金』というものがある。たとえばレンガを真鍮に変える……、そんな平民の理解を超えた業だ。もっともゴールドは、かなりの使い手でも少量変成させるだけで相当疲弊するというから、価値の暴落は免れているがな。しかし銀と銅はそういうわけにもいかん。もとより純粋に鉱物のみでつくられた貨幣などないから、市井のメイジでも造型に心得があれば誰でも硬貨を偽造することができる。その濫造を防ぐために、物質に対して魔力の有無を調べる魔法はかなり密に行われている。そのへんの店はともかくちょっとした大店で調べないということはまずないはずだが……、ミス・ロッタはどうやら上得意だったようだな。現場での露見は免れたというわけだ。もっとも、むろん目の前で探査すれば客の機嫌を損ねることになるから、今ごろは手配が行っているかもしれないが」
「どどど、どーしましょう!」涙目のケティである。

「そういや、お札もコピーしただけで犯罪だっけなぁ」と地球を懐古する才人である。
「とくに今は、貴族も平民も貨幣を用いた犯罪には神経質になっているからな。わりと洒落にならん」一言ごとに反応するケティを眺めながら、アニエスは続けた。

 才人のように紙幣経済を当然のものとして培われた感覚ではわかりにくいが、現在のハルケギニア経済の、少なくとも上流は金本位制(実質は金銀複本位制)を採用している。なぜここで上流に限るのかというと、貴族を除いた市民層に兌換銀行券の流通している気配がないためである。よって特にハルケギニアの『銀行制度』は、貴族ないし富裕層に偏重したものと措定して話を進める。地勢的に考えてもっとも制度が整備されているのはアルビオンだろうが、魔法とか空飛ぶ怪物の存在により、主要交通網と空路に限っては地球なみのインフラが成立しているだろうと思われるため、各国間ではさほどの差異はないであろう。
 現状では金貨:銀貨:銅貨の比率は10000:100:1。この比率からして、かなり造幣益が働いているだろうことは想像に難くない。
 かつ、近年鋳造された新エキュー金貨の市場価値は従来のエキュー金貨の三分の二。これは新金貨における金の含有量が減らされたことを意味する。いわゆる悪貨への改鋳であり、グレシャムの法則に従っていま市場には質の悪い新金貨が流通を始めているが、それでも比率は6666:100:1である。

 ところで、悪貨への改鋳といえば日本とはかなり馴染みが深い。
 よく知られている話だが、トクガワ幕府はエド時代にこれを繰り返しすぎたせいで小判、つまり金の価値が下落した。必然銀高目となって、開国寸前のニッポンでは銀貨の価値が国際相場の実に三倍になったのである。鎖国ゆえの、貨幣史上でも極めてめずらしい価値の乖離が起きだのだった。これが後の金銀の大量流出に繋がった。

 かように貨幣の改鋳は綱渡りの所業なのである。それはここトリステインでも例外ではない。先の貨幣比率で予測がつくとおり、いま国内のあちこちで明らかなインフレの兆候が見られている。

 参考までにいくつか例を挙げておく。たとえば十八世紀末期、ルイ十六世の統治下にあったフランスでは、エキュ銀貨は一枚で労働者五日分の賃金に相当した。また地球版アンリエッタことアンリエット・ダングルテールやルイーズ・ド・ラヴァリエールが生きた十七世紀中ごろに流通していた貨幣はかの有名なターレル銀貨だが、こちらはさすがにハルケギニアほどではなくともインフレの傾向が見られる。
 しかし、実のところ経済史上におけるインフレインフレした市場というのは、ほとんど現代かそれに準じた時代のものである。地球の中近世、特にヨーロッパでは新大陸の発見が物価を騰貴させたと言われるが、今日のインフレと比較すると子猫くらい可愛いものだ。(またこれは学説の一種であり、この時期のインフレは新大陸からの金銀流入のみならず穀物の収穫量に影響されたためである、とする説もある)
 重ねて余談ではあるが、先に挙げた十七世紀中ごろ、フランスはルイ十三世の治世ではちょうど金が騰貴して金銀比価の増加が問題視されていた。そのため1640年には貨幣改鋳令が発せられたというわけである。改訂された比価は14.00から14.50。これは当時としてはりっぱに革新的な試みであった。
 ではハルケギニアではどうなのか。

 まずトリステイン市民の月間消費がエキュー金貨にして10、つまりスゥ銀貨で1000枚になる。次にハルケギニアでの一ヶ月は四週間三十二日なので、週の消費は金貨で2.5枚だが銀貨で250枚。一週間は八日だから、一日あたり銀貨31枚と銅貨25枚の消費をしていることになる。
 秤量貨幣制度下とは異なり、いわゆる地金の『相場』と貨幣の『価値』は相関関係にあるがあくまで別物である。さらにおそらく貴金属の流通総量が違うのだろうから単純比較で換算するのは早計だが、それでも確かに言えることがある。
 銀貨三十枚で一日の生活費、金貨と銀貨の価値に百倍の差。
 贔屓目に見ても、金貨以外の貨幣で過インフレ傾向が生じている。なおかつ均衡を欠いた非常に不便な市場である。べつに実際そうなんだしみんなそれで生活してるんだからそうなんだでもいいとおもわなくもないが、それを言うと始まらなくなるのでしようがない。

「もともとはこんなではなかったんですよ」とケティは言う。ものを知らない才人に説明をすることで、彼女は精神の安定を得ようとしていた。「もう何百年もハルケギニアの物価は安定していたんです。金銀銅の比価もひじょうに市場に優しいものでした。ところが最近になって物価が高騰してしまい金は騰貴して……」

 そこで才人はついこの間、自分がコインでインスタントな凶器を作成したことを思い出した。あのときはせいぜい百円玉が三十枚ほどだったが、それでもコインケースはかなりじゃらじゃらと重かったのである。金の比重は19.3。そして銀は10.5。もっともコインはだいたい3グラム前後が相場だから重量の面では心配は要らないかもしれないが、

「これをいっつも持ち歩いて使うのって、かなりめんどくね?」

 携帯性と利便性。生活必需品としてはなかなかバカにできない点で問題がある。
 ケティは呆れた顔をした。

「いつも持ち歩きはしませんわ。思慮ある貴族はきちんと銀行と手形を使います。もっとも、ご自分の魔法に自信があるかたは厳重に金庫を設けてしまうそうですけれど……。でも、そういうかたはだいたい銀行業務もはじめちゃうそうです」
「平民は?」
「さあ」
「銀行など使えるわけがない。アレはもともと貴族か、それに準じる商人のためのギルドだ。魔法が絡むしな」アニエスが口を挟んだ。「だから給金は誰にも見つからないよう保管するか、それが難しい場合ある程度合同して出納簿をつけ管理することになっている」

 才人が首を傾げて言を差し挟む。

「それも、一応銀行じゃないんすか?」
「そうともいえる」アニエスが頷く。「ただし、魔法が介在しない以上不安な面は残る。特に、メイジの犯罪者相手には平民の金庫など心もとない。おまけに特定職をのぞけば金貨は平民にまではあまり回ってこないから、全体量はかさばっていく一方だ。羽振りがいいのは、そうだな、鍛冶屋か肉屋、賭場くらいか。金庫はどんどんかさを増やさねばならないというわけだ。そうなってくると数も数えられない平民はそれができる者の食い物同然だ。だから揉め事は後を絶たない」
「うげ。平民の中でもそんな感じなのかよ」

 貴族嫌いが板についてきた才人へと、アニエスが頷いてみせる。
 ケティは「ふむん」と数秒沈思し、

「弊害はそれだけではありませんわね?」
「むろんだ」アニエスはいった。「いちばんいただけないのは、月末に支払われた給金が次の月末には元々の価値がだいぶ失われてしまうことだ。物価というのか? とにかくそれが上がり続けているから、そういうことが起きてしまうらしい……わたしも理屈はよくわからん」
「そうすると、結局現物支給が好まれるようになってしまいますね……バーター経済に戻っちゃうから……」ケティが唸った。「結果、下層で貨幣離れが起きて上流との落差がますます大きくなっちゃう。物流も滞る」
「まあ、そうなるよなあ」

 辟易した顔で才人は呟く。詳しいことはともかく、物々交換では流通の効率が悪すぎるということくらいは彼にもわかる。
 どうやらかなりバランスの悪い市場である。
 こうなるとハルケギニアでの金相場自体が特殊である可能性が浮上する。しかし銀貨との比率が百倍であることを考えれば、ゴールドがじゃんじゃん取れるお国柄とは考えにくい。むしろ銀がじゃらじゃら取れて、銅がそれ以上にバリバリ採れる土地なのだろう――と、直截的に考えれば帰結するが、実態はおそらく違う。
 先述したとおり、貨幣は必ずしも純金や純銀と同一視されないためだ。また、この世界では銀や銅が貴金属ではないかもしれないという可能性も低い。もしそうならばそもそも貨幣に採用されないだろう。と、才人はない知恵を絞って考えるのだが、そもそも『錬金』の魔法なんてものがある時点で、そのあたりを常識に照らし合わせることに無理があるのには、まだ魔法に対して無知であるため気づかない。
 そのあたりを鑑みてハルケギニア金銀銅相場の様相を推察すると、銀貨や銅貨といった小額貨幣において、いま現在深刻なインフレーションが起きているという結論に至る。

 極端すぎる例ながら、メジャーどころでは1923年、ハイパーインフレ下にあったドイツの状況に近い。この頃のドイツは年始に二百五十マルクだったパンが年末には四千億マルクになるという、ギャグとしか思えないのに笑えない事態に陥った。ドラゴンボールでいえば初登場のヤジロベーから一年で超ベジット百人分くらいにまで戦闘力インフレが生じたのである。
 さらには百兆マルク札という、こども銀行よりもスケールのでかい紙幣が刷られたりもした。このバカ騒ぎを収束させたレンテンマルクが『アンビリーバボーだ』という評価を受けたのも無理からぬことだった。
 そのさらに上を行くのが同時代のハンガリーで、こちらは物価が一年間で380ジョ(なぜか変換できない)倍になった。ジョとは命数法で垓の上穣の下。
 ゼロを数えようとするといらいらするほどの単位であった。まさにゼロの使い魔である。あと最近ではジンバブエがタイムリー。いまいくらなんだろう。

 そこまでいったらもう奇跡頼みでもするしかないが、しかしドイツなみとは言わないまでも、ハルケギニア流通貨幣はいま湯水のごとくちまたに溢れている。だからこそスゥ銀貨がエキュー金貨の百分の一しか価値がないという市場が成立するのだ。
 そろそろ原作がどんな話だったか忘れてきているかもしれないが、今回はもうこういう路線だと割り切ったほうがいい。なんなら女性キャラの一人称をわっちにすることもやぶさかではない。
 とまれ、それではなぜこんなアンバランスな貨幣状態になったのか。
 新金貨が三分の二エキューというかろうじてマシな体裁を保っているのであれば、諸悪の根源、悪貨はスゥ銀貨とドニエ銅貨にこそあると演繹できる。では、いったいなにがどうしてこんなことになったのか?

 というようなことを、才人はアニエスに尋ねてみた。

「しらん」アニエスの脳は途中で思考を放棄していた。教育を受けているとはいえ出は平民。彼女はひとけたの掛け算でやっとだし、七の段で涙目になるほどの萌えキャラであった。
「それはですね…」そこで顔を突っ込んできたのが目立ちすぎのきらいがあるケティであった。「じつは、ちょっと前まで周辺各国、とくにトリステインでは、少額貨幣がふそくしていたのです。今とは正反対の状況にあったわけです」

 なぜかといえば、平民層に『貯蓄』の概念が広がり始めたせいである。
 それにより小銭の流通がだぶついて、市場の価格設定がわやくちゃになった。
 現代的に言い換えれば、釣り銭も含めて世の中から小銭がなくなった状態を想像すればいい。非常に買い物がしにくい経済状態になってしまったというわけである。

「それだけで?」それだけでも馬鹿にならないのかもしれないが、才人にはぴんとこない。
「トドメに、隣国のアルビオンで内乱がおきたせいもあります」ケティの注釈が入った。
「りんごくって、外国じゃん。為替市場もないだろうし、ああでも、国債はあるかもしれないのか……、にしたって、物価はともかくお金はそこまで関係ねーだろ」
「ありますよ。だってエキューもスゥもドニエもハルケギニア共通貨幣ですもの」
「……ん? んん?」
「そのへんは深く考えると面倒なので気にしないでください」ケティはこほんと咳を口にだして、「内乱とゆーのはとにかく利権をばらまいて味方を増やさなくてはいけません。それでもってへたな対外戦争よりも戦費がかかるんです。なにしろ地元なので適当な大本営発表がしにくく、国民にはもろに負担がやって来ます。また当然国家がにぎってる貿易も先細り状態になってしまいます。戦時国債も発行されましたが……現政府である王党派が劣勢なので、もう紙切れ同然です」

 地球・西洋での公債の概念は近世の幕開けとほぼ同期しており、ここハルケギニアで存在していてもおかしくはない。ただまあ、おかしくないだけで色々ぶち壊しではある。

「でも、ほら、それなら軍需景気ってのになるんじゃねえの」
「は?」平民から軍需景気、などという単語が飛び出してきて、ケティは面食らう。「ああ……。いえ、ちがいますわ。それは一時的にドラッグできぶんがハイになるようなものです。根本的な景気の回復とはぜんぜんちがいましてよ」

 ファンタジーなのに難しいな。才人は顔をしかめてうなった。

「そういえば、日本も同じようなことしたってじいちゃんが言ってたな」
「あの国はなぜか浮いて動くので交易にかなり頼っていますけど、それと同じく、商売をするお金持ちが多いんです。それが軒並み差し押さえられてしまったので、経済は混乱状態にあるというわけです」
「ふうん」才人もだんだんわけがわからなくなってきた。
「日本語で話せ」アニエスの脳はますますこんがらがっていった。

 ケティは続ける。

「さらにさらに、決起した貴族派においつめられた王党派同様、貴族派もとちくるったのか皮算用で空手形を連発したのです。具体的にはアルビオン内でしか通用しない不換紙幣を強引に流通させるという暴挙です。これがとどめになりました」

 西南戦争中の西郷さんも満州事変前の大陸軍閥も、戦費のために似たようなことをしてインフレを招いている。
 その二例に増して有名なのがアメリカ独立戦争でやらかした軍事費捻出のための荒稼ぎ。世に名高いコンチネンタルである。そしてフランス革命で発行されたアッシニャと呼ばれる不換紙幣。両者ともに年率1000%だとか780%の物価上昇を招いた。
 いまのアルビオンはこれらの例を足して二倍したくらいヤバイ状態だと思って構わない。
 実弾がなくちゃ戦争ができないのはどこの世界でも同じであり、そして本位制から離れた不換紙幣は管理通貨制度がととのってこそのものであるという法則は、ハルケギニアでも適用できるらしかった。

 またアルビオンの内乱では、両軍ともに傭兵を雇うために国庫から大量のお金をばらまいた。ただのクーデターならば根回しを万全にすれば、戦闘自体はすぐさま終わる。むしろ内戦を勃発させた時点で、たとえ貴族派が勝利してもクーデターは経営的には失敗なのだ。
 それどころか、今もなお王と皇太子は生き延びているという噂がまことしやかに流れている。さらにそれを仕留めるため、貴族派はやっきになって資金を投入していた。畢竟今やかの国では総計十万を越える傭兵がたむろしており、その維持と報酬のためさらに莫大な支払が発生するだろう。払えなければ、傭兵はセオリーどおり夜盗賊軍の類に落ちる。ますます国土は荒れていく。魔のサーキットであった。
 以上の要素を鑑みて、同国内の政情は今後十年単位で不安定になるだろうことが目されている。
 つまり貴族派が政権を立てても、それだけでは国が立ち行かないことは明らかなのだ。
 よって識者のあいだでは、アルビオンは続けてなんらかの行動を起こすだろうという懸案が広まっていた。
 もっとも可能性が高いのは、おそらく貴族派を扇動したのであろうガリアあるいはゲルマニアとの連合、もしくは併呑。
 次にありうるのが、アルビオンが唯一軍事的に優位に立てる国家、トリステインとの戦争である。
 国政の舵取りことカーディナル・マザリーニはまさにそのあたりを見越してアンリエッタの輿入れを推し進めているのだが、一枚岩ではないのが組織というものである。渦潮に翻弄されるがごときトリステインの運命とともに、ハルケギニア経済は今まさに混乱のただなかにある……。

「とお父さまがおっしゃっていました」

 聞きかじりらしい。
 頭をフル回転させた才人は、とりあえず自分なりに噛み砕いて結論を出してみた。

「つまり、やばくなったアルビオンの連中が質の悪い銀貨や銅貨を出しまくったせいでお金の価値が暴落した。そして不景気になった、ってことかな?」
「いえす」ケティが頷いた。「実例を挙げてみましょう。たとえば現在おおよそ2000エキューほどあれば庭付き一戸建てのお屋敷が変えるとされていますが、では一ヵ月後、二十万スゥでお屋敷が変えるかといえば否であるわけです。額面はお上が保証するのですけれど、それが市場の現実に対して適性でないと、銀貨での支払が拒否されてしまうというわけですね」
「最初からそう言え」アニエスも納得したようだった。
「といいましても、さすがにこの状態はそう長くは続かないと思います」とケティ。
「なんで?」
「いや、政府がほうっておくわけないじゃないですか……。だいたいもうアルビオンの内戦も収束しますし、悪貨につられて地銀の相場まで下落しちゃってるので、早急に手は打つはずです。もっともいつ、なにをどうするのかはわかりませんけど」

 中央と所領、それぞれの経済でかなりの格差が生じているのも問題だ。特に顕著なのは今年の豊作によって単価がすごい勢いで下がっている農作物である。末端ではまだまだ物々交換が成り立つので被害は少ないが、都会では価格の下落は深刻な被害に繋がる。そして先にケティが懸念したとおり、バーター経済は循環率が非常に悪いのである。
 流れが滞ると水は腐る。人離れが起これば経済も腐る。

「というわけでまとめです。具体的ないまのトリスタニアの、ある期間を区切って……、一年としますか。まず実質取得として市民純生産をちっちゃいユル(y)、物価水準をペオース(P)、ちっちゃいユルとペオースの積が大きいユル(Y)とします。次に経済全体の流通貨幣をマン(M)、これは市民の年間消費である120エキューと市民数の積を代入することにしましょう。最後に1ドニエ銅貨が移動する回数をダエグ(D)とするから、貨幣の流通速度は……」

 ケティは木炭を用い、なにやらごそごそと床に落書を始めた。対数を用いたそれなりに本格的な計算式である。才人も一応学校で習った範囲ではあるのだが、図形が違うこともありさっぱりわからない。
 アニエスは腕にじんましんが出始めたので天井の染みを数え始めた。

「ハルケギニアすげえ」才人も似たり寄ったりだった。「そんなのどこで習うんだ? もしかしてあの魔法学校で教えてるの?」
「魔法学院は魔法しか教えませんよ」ケティが文字を並べながらいった。ちなみにトリステイン魔法学院の魔法偏差値は48くらいだと思われる。その代わりトップはきっと70越えだ。「これはアカデミーから株分けされたトリステイン国立・魔法経済シンクタンク予備校の魔法通信教育で習ったのです」
「魔法って頭につければなんでも許されると思ってねーか」

 ブリミル歴6242年は伊達じゃないということだった。

「ともかく!」ケティが叫びを発した。「そういう状況なので! 偽造貨幣とか! ほんと冗談じゃ済まされないんですよっ! ねえっ、どうしましょうっ、ねえ! 正直に謝ったら許してくれないかしら!」
「あ、戻った」
「これである程度合点がいったな」アニエスは懐手してさもありなんとばかりうなずく。「道理で早々と撤退せずミス・ロッタを狙ったわけだ。『フーケ』を自称する連中にとってもこの贋金の露見は痛手というわけか」

 とそのとき、何気なく血判状を見下ろす彼女の瞳が細まった。合計十数名の署名捺印が記された羊皮紙上には、名前以外にも日付と場所の記載がある。日付はおよそ今から半年前。そして場所は、トリスタニア市内を貫流する河川のそば、倉庫街を示す住所である。

「とりあえず、ここに行ってみるか。おいサイト、準備しろ」アニエスは当然のように命じた。
「へーい」あ、考えないでただ人に言われたとおりに動くのって楽だな、と駄目な方向に開眼する才人である。
「うう、わたくしも、いくことにします」ケティがへろへろになりながら復帰した。「ともかくさっさとこの宿は引き払わなくては……」

 そこで一端チェックアウトを済ませ、一行は市街を歩き血判状にある向かった。迷った末、物証となりうる盗品の数々は、貸金庫屋に預けることになった。道中のケティはひたすら挙動不審であった。
 目的地にはさほど時間をかけず到着した。もともとケティが取っていた宿の客層は酔狂な貴族がメインである。大きな商会が軒を連ね日々市場取引が行われている区画は、河をはさんだ向かい側にあった。
 問題の倉庫は、周囲を占めるほかの建造物に比べると、いかにも貧相でこじんまりとした建物だった。名目は穀倉庫で、所有人の名義は『レコ☆スタ』とある。
 鉄製の扉には当然厳重に錠が施されていた。
 徐々に雲行きが怪しくなる空を仰ぎつつ、アニエスは一分に一回ため息をつくケティを無視して、才人に命じる。

「ぶち抜け」
「え?」才人は耳を疑った。
「静かにぶち抜け」アニエスが微妙に言いなおした。
「それは犯罪じゃ……」
「正義だ」そういうアニエスの口ぶりは、正義からもっとも縁遠い感じに、才人には見えた。近視眼的という意味では近いかもしれない。

 才人はため息交じりに鎖分銅を装備する。どんどんどつぼにはまりこんでいる気がした。だが憂いを吹き払うような熱が、武器を持った彼には灯るのだ。細かいこととか、気にしなくていいんじゃねえ? ノーフューチャー上等じゃねえ? 的なデスペラード魂に後押しされた才人は、まず分銅を思い切り投げつけようとしてアニエスにはたかれた。そういえば『静かに』『ぶち抜け』というオーダーである。

「ようし。そんじゃ」

 と、今度は鎖分銅を掌中に握ったまま、扉と真正面から組み合った。錆の浮いた鉄の冷たさが、末端から触れてくる。人智を越えた力を前に、些少の冷気はあまりに無力だった。
 才人は歯を食いしばる。
 腰から、思い切り、体を押し込んだ。
 乾いた、鈍い音がした。才人は手ごたえを感じた。
 さらに力を込めた。やがて限界を迎えたのは、扉ではなく木製の桟である。才人の頭よりも一メイル以上高い位置にある枠組みが悲鳴を上げ、軋み、歪み、拉げ、そして砕けた。ふいに抵抗を失してたたらを踏むが、あわやというところでアニエスが扉に手を添えている。

「……おまえ、なかなか使えるな」
「ど、どうも」思い切り呼吸を乱しながら、才人は複雑な顔で褒め言葉を受け取った。

 屋内には、水路から荷揚げされてそのまま搬入されたと思しき木箱がうずたかく積み上げられていた。かびの饐えたにおいが充満する空間を颯爽と進んで、アニエスはしばし周囲を確認する。地面に手をつき、箱に耳を当て、拳で表面を叩き、抱えて揺すり、一通り満足するまで検証を終えると、最後にケティを呼んだ。

「『ディテクト・マジック』を」
「……これの中身も、アレなんですか?」おずおずと、弱気ケティが問う。
「それは開けてみなければわかりませんが」
「じゃあ、アレだったら通報ですか?」
「それをしたらわれわれも逮捕されます」アニエスが当たり前のように答えた。
「え、じゃ、じゃあ、どうするんでしょう?」ぎこちなくも可憐に笑うケティが、脂汗を流して再度問うた。
「まず証拠を固めます」
「ええ」
「そして首謀者を探ります」
「ええ」
「次に首謀者に取引を持ちかけます」
「んん?」
「バラされたくなければいうことを聞け、と」
「それは死亡フラグです!」ケティが頭を抱えた。
「あなたにしても、それは同じことですよ。ケティ・ド・ラ・ロッタ嬢」アニエスが無表情に告げた。「ここまで関わった以上、あなたももはや部外者では済まされない。最後まで付き合ってもらう」
「えっ……」絶句して、少女は女を見上げた。上背の差、そして明度の不足が、平民の剣士の表情を隠していた。ケティは自分が怪物と話しているかのような錯覚にとらわれた。

 ケティは、ここでようやく、自分たちが頼りにしてはいけない種類の人に従っていたことに気づいた。後の祭りである。少年少女がしり込みする間に、復讐鬼はさっさとバールのようなものを用いて木箱を開封した。
 中身は、果たして、アタリである。
 
 匣の中には、例の銀貨が、「みつしり」と詰まってゐた――

「人生おわった」

 ケティがぺたんと尻餅をついた。震える声で、

「へ、平民さん、どうしま――あら? 平民さん?」

 振り返った先に、平賀才人の姿は影も形もなかった。








[5421] おまけX(本編ではなく、ネタバレを含みます)
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e
Date: 2008/12/21 23:44
 以下は作者による『ゼロの使い魔(著:ヤマグチノボル氏)』の二次創作の、FSS風年表ですが、どちらかというと武士沢レシーブの最終回に近い文章であることを、謹んでここにお断りさせていただきます。


元年 ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール死亡(一回目)。平賀才人召喚される。

フェオの月
      グラウンド・ゼロ」発生。トリステイン魔法学院全壊。(エピソード「マギカスカパラダイスオーケストラ」)
      さらに翌日。才人、逃亡を決意する。直後、トリスタニア郊外の森林にて遭難。
      飢えて死に掛ける。何らかの奥義に開眼する。左手の毛を剃ろうとするが断念。ルーンに「桃毛」と命名。
      平民アニエスに救われる。その後、モンモランシーを巡るトリステインを揺るがす一大事に脇役として巻き込まれる。
      才人、ルーンの極意に開眼。
      才人、ルーンの極意が勘違いだったことにする。
      フーケ、トリステイン王室から盗んではならないものを盗む。
      ハルケギニア全土にフーケが似顔絵つきで指名手配される。
   (「はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィ・コント」)
   
     同時期、ヴァリエール領においてルイズの葬儀。慎ましやかに終了。(「がんばれワルドマジがんばれ」)
     ヴァリエール家長女乱心。
     アンリエッタ失踪。ヴァリエール邸襲撃事件。長姉エレオノール、末妹の墓を掘り起こす現場を発見される。蟄居。
     ヴァリエール領公爵邸が炎上。
     ゾンビルイズ誕生。ゾンビルイズ死亡(二回目)ゾンビルイズ再復活。

ウルの月

     アンさん率いる「国境なきメイジ団」がトリステイン・アルビオンを席巻。
     アルビオンで内戦が激化する。
     才人、ハルケギニアに共産主義を広める。秘密結社「アカい双月」結成。
     ウェールズ皇太子、■■■。アンリエッタ王女の恋文がゲルマニアにもばれる。即刻婚約破棄。
     なんか、アンリエッタが死んだことになる。
    「国境なきメイジ団」、遊学と称しアルビオンへ上陸。共産主義の環が広がる。
     ウエストウッド村にいたティファニア、チラシを読んでその思想にものすごく感銘を受ける。(「アカ・ペラ」)

     ゾンビルイズ、レコンキスタ首領に納まる。
     ゾンビルイズ、才人に惚れる。(「フロムダスクティルドーンオブザデッド」)

六月
   トリステイン六月危機。国府の支持率が面白いように下がる。各地で暴動発生。
   貴族にも共産主義に賛同する人が現れはじめる。
   才人このへんで怖気づく。ラ・ロシェールの乱痴気騒ぎ発生。ワルドが桃毛をキモがる。
七月
   水の精霊と和解。アンドヴァリの指輪について聴く。桃毛、かなりやる気になる。
   翌週、レコンキスタが幅を利かせるアルビオンへ再上陸。
   別働隊のタバサとキュルケ、ダンジョン探索の末浮遊大陸の秘密を解き明かす。
   メイジ団、才人の号令のもと、各地の水源に大量の強化惚れ薬を投入。
   王軍の備蓄が惚れ薬のせいで空になる。
   レコンキスタでホモが大流行する。
   ワルド(才人)、アルビオンならびにトリステイン全土へ名演説。愛の自由を説く。
   光の速さで異端認定が降りる。
   「国境なきメイジ団」あらため「ウラジオストック」決起。第一次平民総決起集会。アルビオン王城奪取。
   才人泣きが入る。(「ツンツンツンツンツンデリート」)

八月
   神聖アルビオン改めアルビオン人民共和国、エルフを含めた全世界に宣戦布告。才人開き直る。
   強制的最終決戦。全艦隊をトリスタニアとゲルマニアへの牽制に向け、超ド級戦艦「アルビオン」ガリアに向け発進。
   タバサ、ガリア王城に「アルビオン落とし」をしかける。
   無能王ジョゼフ、全魔力と命を引き換えに大陸落下を阻止。ミョズニトニルンとともに死亡。救国王と送り名される。
   才人、タバサ、キュルケは全責任と権限をワルドに押し付け逃亡。ワルド、アルビオンを聖地に向け発進させる。
  
九月 桃毛、才人に告白する。才人、桃毛を一蹴する。サイトティファニアに刺される。(ファイナルエピソード「使い魔ほど素敵な商売はない」)



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