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[6434] とある竜のお話 改正版 FEオリ主転生 独自解釈 独自設定あり 
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2017/08/15 11:51
以前ここに投稿していた作品を、もう一度投稿させていただきます。

少しでも皆様を楽しませられる作品を目指してがんばります。

2017年

8月15日 更新しました。

お知らせ。
この作品は「ハーメルン」様にも投稿しております。
向こうでもよろしくお願いします。






[6434] とある竜のお話 第一章 前編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/07/29 01:06




 ドラゴンという生き物を知っているか?

人よりも遥かに強大な力を持ち、巨大な翼で大空を自由に飛びまわり、ブレスを吐き敵対するものを滅ぼす最強の幻獣。

ティアマットやヒドラなどが有名なドラゴンとして上げられる。

誰でも知っているけど、実際には存在する訳がない。(インドネシアにはコモドドラゴンなる種族がいるらしいが詳しくは分からない)




――――しかし、俺の中のこの常識はいとも簡単に覆されてしまった。



自分の命が消えた時の事はあまり良く覚えてない。


ただ、耳に今だにタイヤが急ブレーキをかけた時の耳障りな甲高い音が残っているということは、おそらくは交通事故か何かにあったんだろう。

だからこそ、理解できなかった。












今の自分の状況が。



水? いや、もっと柔らかい液体に気がつけば胎児のような格好で浸かっていた。

熱すぎもなく、冷たすぎもなく、心地よい温度の液体が自分を包んでいることを肌で認識する。記憶にはないが、多分、母親の子宮の中もこんな所なのだと思う。




とにかく、一つはっきりしていることは。





自分は助かったのだ。






強烈な安堵が沸き起こる。





安心感から思わずため息がでるが――――――息が出ない。



「………!!??」



口を開けて呼吸を試みるが、、、、出来ない。

いや、肺に「出す物」が存在しない。今まで経験したことのない感覚に恐ろしい違和感と恐怖を覚えた。


「…!!……!!!!」


何度も繰り返すが、結果は同じことになる。


それでも繰り返す内に、胃の中身が逆流してきた。


瞼をぎゅっとつむり、こらえる。


息を止めていてもいずれは窒息死。かといって息をしても窒息死。


どちらにせよ死。


せっかく助かったのによりにもよって事故死よりも遥かに過酷な死に方。

冗談じゃない。少しでも長くこの世に長く留まる為、呼吸をこらえ、必死に命を繋ぐ。


「……?」

しばらくそうしていて、また違和感を覚えた。


苦しくないのだ。

さっきから一回も酸素を肺に取り込んでいないのに、まったく苦しくない。

いや、冷静に考えれば気絶? していた俺がこの液体の中で生きていられた方がおかしい。

普通なら意識を取り戻す前に窒息死するはずなのに。

だが、俺は今もこうして普通にしていられる。

ゆっくりと頭を回転させる余裕もある。



多分、どんな成分かは知らないがこの今浸かっている液体は特殊な様だ。



今の医療技術って凄いなぁ、と感心しながら、そろーりと眼を開いてみる。




「っ…」


なんか妙に視野が広い? 変な感じがする。

いや、それよりも眩しい。

眼につくもの全てが黄金色。

あまりにも眩しすぎて眼が焼けてしまいそうだ。

「手」の指や「足」を握ったり開いたりなどして、体の動作に何の不備も無いことを確認する。

少し違和感が生じるのは多分、後遺症か何かだと自己完結させた。

まぁ、起きたんだしその内看護婦さんが来てくれるさ。


そんな風にどこか現状をあえて軽く考え、俺は看護婦さんがくるのを待つことにした。





体感時間でおおよそ1時間がたった。




来ない。







それでも待っていて更に1時間がたったと思う。




来ない。









何かがオカシイ。


なんで看護婦さんはきてくれない……?


もう、俺は、起きたのに。







更に1時間が経過したと思う。






それでも看護婦さんは来なかった。





さすがに変だと気づく。
外部の人間に知らせる為のボタンか何かがあるかと思って探すが、何もない。




                           

     
                     ――――閉じ込められた。この、液体の中に。まるでホルマリン漬けの剥製のように。







最悪の現実が頭をよぎり、恐怖が爆発した。


「…っ!!! ……っ!!!!!!」

口の中も液体で満たされている為、悲鳴は出なかった。


体を捻り、もがく。
あらん限りの力を込めて丸まった姿勢から離脱する。


と、大きく広げた手が硬い何かにぶつかる。


思い切りぶつけたはずなのにあまり痛くない。




確認の為、今度は慎重に、ゆっくりと、何かに手をあてる。
ふにふにと柔らかく、羽毛を触ってるようだ。

試しにぐっと、押し込む。

「指」がズブズブと壁の中に入っていく。

壁の中は生暖かく、ヌルヌルしていた。

「指」に続き、「手」更には「腕」まで壁の中に入っていく。

このままやれば外に出れるのだと微かな希望を胸に行為を続ける。

更に力を込めて、「肩」までが壁に飲まれていく。



ばり。


唐突にガラスにひびが入ったような音が確かに聞こえた。

今まで締め付けられていた、「腕」に開放感を感じる。
同時に冷気が「腕」に当たる。


恐らくは貫通したのだ。この壁を。

穴を広げる様に「腕」を左右前後に大きく動かし、捻る。


中を満たしていた液が外に流れ出していくドボドボという音も聞こえてきた。
拡大させた穴にもう一本の「腕」を突っ込み、掻き分ける。

両手を使い、更に大きくした穴に頭を入れて、潜る。


後は流れ出る液体に身を任せればいいだけだったからさほど苦労はしなかった。



そして外に出た瞬間、ガクンと体が落下した。


襲いくる地に衝突する衝撃に備えて、眼をぎゅっと結ぶ。
地に叩き付けられたがやはり痛みはあまり感じなかった。


眼を開けてみると、地には白いカーペットが敷き詰められていた。


いや、ここは屋内のようだから床か。


きょろきょろと辺りを見渡す。


やっぱり何か、眼がおかしい。


そして、背中に何か圧し掛かっているのか、妙に肩が重い。


上を見ると、変な物があった。
金色の卵にも見えるし、繭にも見える。何と表せばいいのか分からない。


鎖などに吊るされてもいないのに床から大体4メートルほどの場所に浮かんでいた。


それでもあれを見て、一つだけ分かった事がある。


俺はあそこから出てきた、ということだ。

完全な球状のあれには俺が出てきた時の大きな穴が開いていて、そこからサラサラと柔らかそうな液が流れ出ている。


それから眼を離し、辺りをぐるっと見渡す。


「首」からコキッと、耳障りな骨が鳴る音がした。


部屋の中はどこから入ってきているか分からない紫色の光に仄かに照らされていた。

この部屋は石で出来ているようで、何処かの遺跡にでもありそうな壁画や意味の分からない文字がびっしりと刻まれている。


天井は暗くて、よく見えない。




ぱっと見たイメージ的には昔テレビでみた神殿の祭壇のようなところかな? ここは。





更に周りを観察していると視界に変なモノが映りこんだ。



最初、俺は、それがそこにいる事を信じられなかった。



もう一度それをよく見てみる。


試しに何度も瞬きをしてみる。



やっぱりそれの姿は変わらない。





                             それは輝く黄金色の羽毛に身体を覆われていた。




                             それの背中には4枚の天使のような翼が生えていた。




                             それは全長7メートル程の巨体だった。




                             
                             それはトカゲに似た姿をしていた。



                              
                             それは、人に、ドラゴンと呼ばれる存在に限りなく近い姿をしていた。





そんな存在が身体を丸めて直ぐ近くで寝ていたら、誰だって自分の眼から入ってきた情報を疑うだろう?



そのドラゴンの後ろには俺がついさっき出てきたばかりの金色の卵と全く同じ物がある。

そして卵には穴が開いている。
とりあえずは、あれから出てきたということで、いいんだと思う。


それに、今は寝てるみたいだし大きな音を立てない限り襲われる心配もないだろう。






……………。








何だろう?



何か、大きなつっかえを感じる。


胸にもやもやしたものが貯まる。



俺は、何か、忘れてないか?





あの卵から恐らくはあのドラゴンは産まれたのだろう。



そして、俺もあれと同じ卵から出てきた。





                           ジャア、オナジカタチノタマゴカラデテキタオレハ?







そう、思った時、身体に感じていた違和感が一気に恐怖に変換された。


それは呼吸できなかった時よりも、外に出れないと思った時の恐怖より深く、暗い、心の奥底から来る恐怖。


恐る恐る、さっきから違和感を感じていた自分の「手」を「顔」の前に持ってきて、見てみた。













金色の羽毛に覆われた、三本の屈強な指と、指から生えた肉食獣を彷彿させる三本の爪があった。



断じて人の物などではない。明らかに大きさと鋭さが違う。



竜の、化け物の、爪……。




時間が止まった。比喩ではなく、本当に。





暫く、手を眺める。


握ってみる。柔軟に動き、爪がかちりと金属的な音を出して、合わさった。
開いてみる。滑らかに、手が開かれ、爪が日本刀のような鋭さを帯びる。





「●#☆㊥Ш《ぁИ」


試しに喋ってみるが、言語とは程遠い、猛獣の呻き声のような奇声が口から流れた。




もう、限界だった。






「■■■■■■■■■――――!!!!!!!!!!!!!!!!」



響き渡るは叫び声とさえ言えない獣の咆哮。
自分から出ているとは信じたくない、化け物の叫び。


竜の雄叫び。
発せられる音により空気が、壁が、床が、全てが震える。






自分の発した咆哮によって更に恐怖に駆られ、発狂したように叫ぶ■■■は気がついていなかった。














                             壁や床が震えているのは咆哮のせいだけではないと。














その存在はありとあらゆる生物を超越した存在だ。


その存在は最強の種族である竜を統治する者。
全ての生物を越えた力を有する者。


それが、ゆっくりと本来の姿で祭壇に近づいていく。



一歩地を踏みしめるだけで、辺りに地震を思わせる振動が響く。


そして、その存在は■■■の前に、その姿を表した。










言葉が出ない。
その存在を始めて眼にした■■■が抱いた感情がそれだった。



もう、咆哮は上げていない。



感情を爆発させて叫ぶ事が許されるほど、その存在が振りまく威圧感は小さくなどなかった。

今、■■■の前に現れた存在、それは余りにも巨大な「神」そのものだった。


頭に王冠を連想させる力強い角が生えており、背中には四枚の飛行用の翼がある。


全身を覆う鱗は、既に鱗とはいえないほど巨大で、分厚い。
余りにも大きすぎて視角に入りきれない。



まるで神話の中から抜け出てきたような「竜」



それが■■■を覗き込んでいた。

蒼く輝く巨大な瞳が■■■を見据える。

全身からは絶えず凄まじい黄金色の光が放出され、薄暗かった周囲が一転して、真昼のように輝いている。



声を上げることも、逃げることも出来ない。否。しようとも思わなかった。


なぜならば本能レベルで理解してしまったから。この存在を前にそんな事は無駄であると。



ゆっくり、苛立つほど緩漫に、「神」がその顎を開いていく。
ただ、口を開いていってるだけなのに、芸術じみた美しさがあふれ出す。

喉の奥から、吹き付けてくる風が■■■に当たり、身体に付着していた水滴が後方へと飛ばされていく。




完全に自分の理解を逸脱した出来事に■■■は今度こそ意識を落とした。


 




意識が引き上げられる様に覚醒した■■■の眼に入ったのは自宅の天井などでは無かった。

起き上がり、状況を把握するために周りを見回す。

フワフワして暖かい床には先ほどと同じように羽毛が敷き詰められている。


そして隣にはあの時の小さい方(それでも十分人間より大きいが)の竜が猫の様に丸まって眠っている。


もう、驚かない。あのでかい竜をみた後にこの小さい竜を見ても特に何も感じなくなっていた。


「ふぅぅぅぅ……」

思わず漏らした、ため息もおぞましい呻き声へと変わる。


泣きたくなってきた。

事故にあったと思えば、生きてて、閉じ込められて、助かったと思えば、別の生き物になってて、踏んだり蹴ったりにも限度がある。


とりあえず、世界には竜はいても自分が思っていた神様はいないと確信した。


少しばかり感傷に浸るが、かぶりを振って今はここから脱出するのが最優先だと考える。

とりあえず、あのでかい化け物が来る前にここから脱出する。全てはそれからだ。


出口らしき大きな鉄の扉へ向けて、そろりと初めて使う前足で一歩を踏み出す。

そして今度は後ろ足。



前足。


後ろ足。


前足。


後ろ足。



トカゲが地面を這いずる時の格好に似ていて、冗談にも格好いいとは言えないが今は関係ないと割り切った。



一歩また、一歩と鋼鉄か何かで作られた巨大な扉へと近づく。



更に数歩。あと少し。

目前の扉が自由への入り口に■■■は見えた。




手を伸ばそうとした瞬間――――体の自由が利かなくなった。


「…っ!」

いくら力を込めてもびくともしない。

足から手の指まで、頭を除く全ての身体の自由が消えた。


唯一自由に動かせる眼で、自分の身体を見てみる。


理由は直ぐに分かった。


光が巻きついているのだ。黄金色の光が霧のような微かな密度を持って身体に巻きつき、自由を奪っていた。


そして耳に男の声が入ってきた。

                                 
「起きたか。思ったよりも早かったな」


いつからいたのかは分からない。最初からかも知れないし、今、来たのかも知れない。

だが、そのどちらにせよ、■■■はその男の接近に気づけなかった。

ぽつりとその細身の男は■■■の頭の隣に立っている。

白い髪が特徴的なその男が語りかける。



「だが、儀式まではまだ時間がある。もう暫くイドゥンと寝ていろ、イデア」


■■■の巨体が浮かび上がる。

ゆっくり、しかし確実に、元の場所へと戻されていく。


そして抵抗も出来ないまま、元の位置に戻されてしまった。



「寝ていろ」


元の位置に戻ったことを確認した男が、懐から杖を取り出し、杖の先から光が迸ると、■■■の意識は闇に飲まれた。





あとがき


皆様、お久しぶりです。


以前ここに投稿していたマスクという者です。


プロットの大幅な変更が完了しましたので再投稿します。


以前より更新速度が遅くなると思いますが、がんばっていきたいです。


追伸 調べてはいるのですが、作者は中世の世の中について知らないことが多いので、出来れば皆様の英知をお借し下さい。







[6434] とある竜のお話 第一章 中篇
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/12 23:30

何やら生暖かい、湿った物が顔をしきりにさすっている感覚で■■■は眼を覚ました。


やけに意識がはっきりとしているのは、何回も眠りについたり起きたりしているからだろうと結論づける。

重苦しい。何かとても重量が在る物が横になった自分の上に乗っているようだ。


自分に何が起きているのか、確認するため■■■は瞼をあけた。





目の前にあの小さい「竜」の顔があった。

左右で色が違う特徴的な眼が光って、じいっと覗き込んでいる。


「~~~~~~~~っっ!!!!!!!!!!!」


いろいろなものがまたもや限界を超えたせいで声も上げられない。結果、口から出てきたのは空気が吐き出される音だけだった。

喰われると、思い息を呑むが、「竜」はただこちらを興味深そうに眺めているだけだった。

いや、脳の妙に冷静な部分が囁く。相手が自分を食べる気ならば、寝ている間に食われていたのではないかと。


そして同時に思い出した。今の自分はもう、人の姿はしていないと。


とりあえず、完全にマウントポジションを取られているので、下手に刺激せず、様子を見る。



しばらくそうしていると「竜」に動きがあった。

幼いながらも巨大な口を開ける。

紅い口内では同じく紅い舌がちろちろとせわしなく動いている。

やっぱり喰われるか? 覚悟を決める■■■だったが…。







ペロリ




そんな間抜けな擬音が聞こえてきそうな程優しく、ゆったりと、■■■の顔を舐めた。

犬が主人に愛情を表現するように、何度も何度も。


そこでようやく気がつく。


(こいつ…。甘えてるのか……?)


少なくとも敵意が無いのは確かだと■■■は思った。


そして一通り顔を舐め終わった「竜」がまた、じいっと何かを期待するように見つめてくる。

大きな、紅と蒼の色違いの眼がうるうると潤んでいる。


(まさか、舐めろと?)


正直。嫌だった。何かの菌とかが着いていそうなものを舐めるなんて。




しかし……。



大きな瞳がどんどん潤んでいく。

眼で訴えかけられているような気がした。

罪悪感が徐々に■■■の心を侵食していく。


(ここで、こいつを不機嫌にさせるのは不味いよな…?)


自分の心にそう言い聞かせて、今だに違和感が拭えない体に指令を飛ばし口を開く。


そうして、「竜」の顔を舐めてみた。


ピチャピチャと舌を動かす音がやけにはっきりと響く。


意外と羽毛が柔らかく、舌触りがいい。


「♪~~~~♪」


「竜」が鼻歌のような唸り声を口ずさむ。そして満足したのか■■■の上から動いた。

予想していた様な悪い気はあまりしなかった。そして腹筋の要領で腰を挙げ、慣れない後ろ足を使い。何とか立ち上がる。




(成るほど。尻尾はこう使うのか)


立ち上がると、尻尾を支点にバランスをとるようになり竜の体の構造に思わず感嘆する。


とりあえずここはどこなのか把握するために周りを見渡してみる。竜の視界は広く、わざわざ首を大きく動かさなくても全体は直ぐに見えた。


淡く紫色に発光する壁や天井。

自分とこの「竜」の大きさから考えると、恐らくはかなりの大きさの祭壇。


壁や床に刻まれた意味の分からない文字と、絵。





どうやら先ほど卵から出てきたのと同じ場所にいるようだ。


但し、あの卵は片付けられていたが。



試しに祭壇の端までよたよたと尻尾でバランスをとりながら歩いていく。



一歩を踏み出す時間は遅いが、歩幅が大きいため端には直ぐたどり着いた。








そして……。












                             そこから見た光景を■■■は終生忘れないだろう。











眼下は巨大な竜の大群で埋め尽くされていた。




文字通り地平線の彼方まで、びっしりと。





ある竜は紅い甲殻と角を生やし、背中から火炎を翼のような形にしてその身に纏っていた。




ある竜は曲線を描いた透き通った蒼い鱗をしており、虹が翼の形になっていた。



ある竜はモグラを思わせる姿をしていた。



ある竜は……。




それら全てが規則正しく、軍隊のように同じ格好でしっかりと並んでいた。


あくまでも目測だがどの竜も自分の10倍以上はあるな、と■■■は思った。


どの竜も呻き声一つ上げていない。




「……」




■■■はあまりの威容に声も上げられない。否。見入っていたのだ。この凄まじい風景に。



敵意は無いみたいだが…。あれらに襲われたら、ひとたまりも無いということは見ただけで良く分かった。


後ろから、あの小さな「竜」がひょこっと顔を出す。

そして猫がするように顔をなすりつけてきた。

こちらもすりつけ返してやる。

とりあえず、落ちたりしたら危険なので、またさっきの場所に戻る。


出口も分からないので、今はここでおとなしくする事にした。


横になり体を動かして楽な姿勢を見つける。


(あぁ、これが楽な姿勢なんだ…)


奇しくもそれは猫などが丸まって眠る時の姿勢そのものだった。

直ぐに隣にあの小さな竜が来て、ころんっと丸まって同じ体勢になり、寄り添うように丸まる。



何かが起きるまで■■■はやることがないので、もう一度隣で丸まっている、竜をじっくりと観察してみる事にした。


もう、この「竜」に対する恐怖は完全に消えていた。



まず眼に入るのが、ふさふさの外観。全身を覆うのが鱗ではなく柔らかい羽毛なのは、まだ幼いからだろうと思った。

しかし、幼いと言ってもその大きさは余りにもでかい。具体的には某怪物狩人ゲームの雄火竜ぐらいかな? と、頭の中で比較をする。



(でも、凶暴性は向こうの方が遥かに上だけどね…)


初めて戦った時、ボロボロにされた記憶が浮かんできて、思わず内心で苦笑いを浮かべる。



何度も非常識を見せられて、既にある程度の抗体が出来た、■■■にはくつろぎながら竜を観察できる余裕が出来ていた。





だが、そんな時間も直ぐに終わりを告げる。





ズン、と。空気が、壁が、床が、そして五感のどれにも当てはまらない、いわば第六感とも言うべきものが【震えた】


■■■は飛び起きて、何が起きたのかを確認すべく祭壇の端へと四つんばいで走った。


隣で寝ていた「竜」も感じ取ったのか、起き上がりついて行く。但し、こちらは四つんばいではなく、二足歩行でだが。

立ち上がるのは初めてなのか、ふらふらと非常に危うい足取りで■■■の後を付いていく。






大量の竜たちが何かの通る道を作るように左右に綺麗に飛んで分かれていく。


同時に辺りに舞い散る、火の粉、羽、虹。


それら全てが薄暗い、部屋と言うには大きすぎる空間を照らす。


幻想的なその光景に心奪われそうになるが、今だ【震え】が止まらない以上、あまり見入ることはできなかった。




ナニかが一歩、また一歩と近づいてくるのを■■■は確かに感じていた。

















                          そしてほどなくして、その存在。「神」が姿を現した。



















幾らか非常識に慣れてきたといってもやはり限度というものがある。■■■は視界を覆う竜の頭を眺めながら改めてそう思った。

何せ、体が自分の意思に反して動けなくなる程の威圧感なのだ。もう少し出てくる姿を考えて欲しい。


そこで、ふと気がついた。どうして自分はこんなに暢気に、かつ冷静にしていられるのだろうかと。


考えてみても答えは浮かばない。唯、■■■は理屈など関係ない、何処かで確信していた。



即ち「この竜が自分達を害することはない」と。



ここで、■■■の頭に疑問が浮かんだ。自分「達」?


他に誰が? だが、この問いの答えは直ぐに出た。


■■■は自分の近くで呆然とした感じで竜を見上げる小さな「竜」を眼球を動かして、盗み見た。


あぁ、こいつはこの大きな竜を見るのは初めてだっけとか妙に冷えた思考で考える。


そして、もう一度巨大な竜に視線を移す。例え予想が外れて殺される事になっても、最後までその神々しい姿をその網膜に焼き付けておく為に。


竜もじいっと確かな知性を宿した瞳で■■■の顔を、眼を、その奥を、眺めてくる。



睨み合うわけでもなく。じっと相手の顔を見つめあう。


そして竜が今度は隣で呆然としている「竜」に向け、巨大な眼球を動かして、視線を移す。

視線を向けられた「竜」が石像のように固まる。

竜はそのまま値踏みするかのように見つめる。




そして。





                                そして、天を揺るがす咆哮が辺りを揺るがした。






低音と高音が見事に融合し、奏でる重音をまともに聞き、■■■は意識が飛びかけるが、何とか意識を繋げる。


これ以上自分の知らないところで事態が動くのは嫌だった。自分の眼でこの後の出来事を見たかった。

魂の底までも響きそうな雄叫びが収まるのを手で耳を塞げないので、目蓋をぎゅうぅっと力いっぱい閉じてじっと待つ。



そして、無限ともいえる時間が過ぎ去り、声が収まる。


頭の中が未だにちかちかするも、意識がまだあることに感動した。


だが、自体は予想もできない方角に進んでいく。



床が激しく輝きだした。


「……!!」


いや、正確には床に刻まれている文字が輝いているのだが、そんなこと■■■には関係なかった。


   







                      逃げる。という考えが浮かぶ前に「竜」と■■■を暴力的な光が無慈悲に覆い尽くした。










光が徐々に小さくなり、やがて完全に収まる。




「……」


何があったのかと、倒れこんでいた■■■は眼を保護していた腕をどけ、素早く回りに視線を走らせる。


そこでまた違和感を感じた。周りの物がさっきに比べて随分大きくなった感じだ。

そしてあの巨大な竜やあの「竜」もいない。


だが、そんなことより。今は体の感覚の正体を確かめるのが最優先だった。


(まさか……)



まさかと思い、期待を込めて、自分の手を顔の前に持っていく。




そこには、まごうことなき人の手があった。




握ってみる。動いた。


開いてみる。動く。






「もどってぃあ!!」


思わず、叫ぶ■■■だが、声が可笑しいことに気がついた。


声の高さも発音も何もかもが可笑しい。

いささか声が高すぎるし、何よりも舌が思うように動かせないことに気がつく。


「あ~~~~~。あっ、あっ、あっ、あっ、」


試しに何度も声を出してみるが、やはり高い。


まぁ、いいか、声ぐらい、と割り切ることにした。その内、風邪みたいに治るだろうと考える。


そこまで考えてはたと、気がつく。





自分が戻れたということは……。




素早く視線を巡らす。





……。





いた。







そして。



「人、間、、、、……?」


思わず、■■■は疑問系を口にした。



「彼女」一糸纏わず、呆然とした表情で地面にアヒル座りをしていた。



確かに「彼女」は人の形をしていた。


だが、人と呼ぶには、「彼女」は美しすぎた。



左右で紅と蒼の瞳はルビーとサファイアを思わせ、薄い紫がかかったショートヘアーの髪は光の加減でキラキラと輝いている。


完璧ともいえる顔の造形は未だ幼いながらも女神さえ凌ぐ美しさを誇っていた。


そしてそれらに違和感なく組み込まれた、人とは明らかに長さが違う耳。




しばらく放心したように「彼女」を文字通り穴が開くほど■■■は見つめる。







そこに。


「術は成功だな」



先ほど■■■の意識を闇に沈めた、男が歩いてきた。


見れば見るほど変な男だった。白い髪に、眼はカラーコンタクトでは出せないだろう鮮やかな紅と蒼のオッドアイ。



そして何より……。



(あの子に、似てる…?)

言葉では言い表せない部分でこの男と「彼女」は似ていた。



立ち上がろうとするが、足に力が入らず立てない。


どんなに力を込めても小さく震えるだけで全く動かない。


まさか、下半身不随!? と、顔を青ざめさせ、懸命に足に力を込める。



何としてでも立とうと悪戦苦闘する■■■に男が声をかける。


「無理をするなイデア、立てるようになるのはもう少しその体になれてからだ」


その声音は自分を気遣う物だった。


不思議と男の言が心にすんなりと入ってきて、■■■はふんばるのをやめる。




そして気になっていた幾つかの疑問の中の一つである次の疑問を口にする。


「い、で、あ、?」


即ち、イデアとは何なのか? である。

部屋で寝かせられる前にも聞いたその単語が気になったのだ。



ゆっくりと、確実に、不自由な舌を動かして、疑問のニュアンスで言う。


努力が功を制したのか、意味は男に伝わり、男は答えた。大したことではないかのように。


「お前の名だ、イデア」


「?、?、?、あ、…「受け取れ」


疑問の声をあげる前に男がナニカを投げよこす。いや、投げたのではない、文字通り「飛んで」きた。


それは綺麗な透き通ったゴルフボール程度の大きさの黄金色の石だった。


■■■の眼前までフワフワと浮かんでくる。手を差し出すと、ころん、と、掌の上に落ちた。


手の中に落ちたそれを注視してみる。まるで上質な蜂蜜を塗り固めた様な色をした石は今までみたどんな宝石よりも綺麗と思えた。


「それはお前のエーギルを圧縮して出来た石だ。大事にしろ」



エーギルという単語の意味は分からなかったが、とても大事なものだという事は分かった。


男がもう一つ同じ石を取り出すと、「彼女」の方へと飛ばした。


それを黙ってみていた■■■だったが、思い切ってまた気になっていた事を聞いてみた。


「あ、ん、た、の、な、ま、え、は、?」


男が眼球だけ動かして■■■を見ると、答えた。
 


「我はナーガ。お前達の親だ」


何やら聞き捨てならない単語があったが、今は無視してもう一つの疑問も問いかけた。


「か、の、じょ、の、な、ま、え、は、?」

自由に声を出せない自身の舌と喉を恨みながら、なんとか声にして問う。


掌に黄金色の石を落とされた、「彼女」を見ながら。

                                
「あの者の名はイドゥン。お前の姉だ」


姉、という単語にピクリと反応する。

だが、男の次の行動で頭の中は真っ白になる。

男、ナーガが小さく指を鳴らす。


ポンッとコルクがとんだ様な音がすると同時に体に何かが付着したと触覚が伝えた。

未だ倒れ付したままの自分の体を見てみる。

いつ着替えたか分からないが、いつの間にか白いマントのような物を着ていた。


それを見届けたナーガが言う。

そして。

「さぁ、お前達はここまでだ。後は部屋で休むといい」

「ま…」

待って、と言うまでもなく指を鳴らし、二人の世界が反転した。







ポスっと柔らかい音を立てて二人が落ちたのは王族もかくやという天蓋付の豪華なベットの上だった。

「あいしゅ…、はなひをきかにゃいで」(あいつ…話を聞かないで)

まだ聞きたいことがいっぱいあるのに、無理やり自分を飛ばしたナーガに一通り文句を言う。

更には間の抜けた声しか出せない自分が嫌になってきた。


「はぁ……」


そうしてまたため息を吐く。それで思考を何とか切り替える。


即ち、なぜ、ではなく。どうするか、に。


と。


“クイクイ”


浴衣みたいなマントの袖を誰かに引っ張られたのでそちらを見る。



「…………」

イドゥンが言葉を出さずともさっきと同じ眼で何かを訴えていた。



片手に枕を持っているということは眠りたいのだろうだと■■■は理解した。


「あぁ、わひゃったよ。さきにねてひて」(あぁ、分かったよ。先に寝ていて)


それで意味が伝わったのかイドゥンがベッドに潜っていく。


自分の枕の隣にもう一つ枕を置いて、眼を閉じる。


すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。


イドゥンが完全に眠った事を確認した■■■はさっきから気になっていた事柄の解を得ようと思い、ベットの近くの鏡まで這っていき、自身の顔をそこに映す。



  



                       



                         ■■■が思ったとおり、そこには■■■の顔は映ってなかった。











金色の柔らかそうな髪。後は何から何まで、姉だと言われたイドゥンそのものだった。




一つあえて違う事をいえばイドゥンは女で自分は、イデアは男だと言う事ぐらいか。








 


ある程度予想はしていたことだと、自分に言い聞かせて、何とか平常を保つ。


そして、また這いずってベッドに戻り、イドゥンの隣に潜り、目蓋を閉じる。願わくばこれが悪い夢だと微かな希望にかけて。


いわゆる不貞寝であった。


そしてイデアは、今度こそ自分の意思で眠りについた。




おまけ


ファイアーエムブレム風キャラクターステータス



名前 イデア


クラス マムクート

LV 1


HP 15


力 1


技 2


速さ3


幸運8


守備1


魔防8


移動4


体格1


属性 理



あとがき


とりあえずイデアのイメージは色違いイドゥンでお願いします。

あぁ、自分には某B氏のような更新は……orz



所で皆様に質問なのですが、イドゥン好きはマイナーでしょうか?


では、次回の更新にて。





[6434] とある竜のお話 第一章 後編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/12 23:36
「う~~~~~~~」


数々の壮麗な装飾が施された家具が並ぶ王族もかくやという部屋に、机に突っ伏した俺の声が響いた。
目の前には象形文字ともハングル文字ともはたまた甲骨文字にも見える奇妙な記号、この世界の文字が書かれた藁半紙のノート。


まだ歩けないので、ベッドの端を椅子の代わりにして座っている。


隣には真面目な表情で万年筆を動かし、ノートを一心不乱に書くイドゥン。そう、俺達は今、文字の勉強中なのだ。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

目前の玉座を思わせる椅子に座ったナーガが声をかけてくる。


「い、や……」


嘘はいっていない、嘘は。


いや、気分は悪くないんだけど……。
むしろ体の調子は最高、今まで感じたことのないぐらい軽い。


でも、、覚えづらい。本当に覚えづらい。
英語ならともかく何なんだこの言語は!?意味が分からないにも程がある。

今の俺を悩ませるのは、知恵熱であった。知恵熱は病気じゃないと、思いたい。


「……ん」

隣のイドゥンがつんつんと突っついて来る。
何かと視線で問うと、彼女がペンで俺のノートの一箇所を示した。


そこを見てみると、文字の形を間違えていた。


「ありがと、う」


まだ少し発音が可笑しいが、眠る前に比べてかなり動くようになってきた舌を動かして礼を言う。
イドゥンが返答として顔を綻ばせた。それがまた眩しい笑顔で、直視できずに思わず顔をそらす。




事の発端は一寝入りして、ある程度体力と精神力が回復したら、まるで見ていたかのようにナーガが部屋に入ってきたことから始まる。


以前は気がつかなかった、腰に挿してあるエメラルドグリーンの装飾が施された美しい剣に思わず眼が引き付けられる。


改めて自己紹介をしたナーガはもう一度俺達に俺達の名前を伝えると、暖炉に火を付けて、簡単にここが何処なのかを語り始めた。
何処からか取り出した茶色の大きな紙を眼前に浮遊させて持って来た机の上に広げる。


ナーガが取り出したもの、それは地図だった。しかしそこに書かれていた大陸は俺の知っているものとは違う形をしていた。
ぱっと見た感じではオーストラリア大陸にも北海道にも似ているが、そのどれとも違う。


『エレブ大陸』

ナーガは地図に書いてある大陸をそう呼んだ。
そして今俺達がいるのは大陸東部の山岳地帯、ベルン地方と呼ばれる場所に築かれた竜たちの故郷ともいえる場所「殿」という建物らしい。

西には人が住むエトルリアという王国。その奥の沖縄みたいな大小様々な島は西方三島という。
他にも、ベルン地方の北にはサカという草原が広がっているとか、更に北に行くとイリアという雪原地域で、ペガサスなどが生息しているとか。



……正直、普通なら信じられないが、あの竜の群れをみた後で感覚が少し麻痺している俺は割りとあっさり信じられた。


そして次にナーガは万年筆と茶色くて硬い紙で出来たノートと何やら意味の分からない記号が書いてある白い紙の本を取り出し、一つ一つ、読んで俺達に聞かせた。
いや、読んではいたが、人の言語では表せない発音だった。少なくとも人間の喉から出せる音じゃない。

次に俺達に今、読んだのを繰り返せと言ってきて、内心発音は無理だと思ったが、案外すんなりその「音」が出せて驚いた。


だが、何よりも俺が驚いたのはイドゥンの声だった。
彼女の声は、一つの楽器としても通用できるほど透き通っていて、オペラとはまた違った美しい声だった。

                           
途中、何度もかんだり、どもったりしてはいたが、無事に言い切ることが出来た。


そして次にナーガが取り出したのは二冊の藁半紙のノート。それを俺達の前に置いた机の上に並べると隣に変な記号が書いてある白い紙のノートを置く。

そして。


「お前達には、これから文字を学んでもらう」


なんて、言い出した。



そして冒頭に戻る。




「あ~~~~~~~~~~~~~」

最初の30分ぐらいは分からない所は聞いたりして積極的に励んでいたのだが、小さな文字をずっと見ていたせいか眼が疲れて眠くなってきた。
気分を紛らわせる為に渡された万年筆を観察してみる。


手触りからして材質は…、木、かな? 所々に金で見事な刺繍がしてあり、それが本体の黒と芸術的に合わさって、いかにも高級品です!というオーラを振りまいている。



…………。



何だか余計に眠くなってきた……。

いくら小さな文字を見続けたからといって、これはおかしい気がするが、眠いものは眠いんだから仕方ない。
ふと、イドゥンはどうしているか気になりもう一度隣を見てみる。


「……」


起きてはいたが、かなりぎりぎりの様だ。その証拠にトロンと薄目を開けて、ゆらゆらと前後左右に揺れながら、ノートに文字を記している。

次にさっきから一言も発さないナーガを見てみる。


……見なければ良かったと本気で後悔した。

ナーガは俺達を「観察」していた。比喩ではなく、文字通り。
かろうじて瞬きはしているものの、じいっと何も言わず、無機質な色違いの一対の眼が唯々、見ている。

背筋に寒気が走り、手や足に鳥肌が浮かぶ。


……正直な話、睨まれるよりも何倍も怖かった。そんな眼で見られるのが嫌で

「な、ぁ、が」

「なんだ?」

試しに呼びかけてみたら、ちゃんと返事が返ってきた。


「ねむ、い」


物は試しと、今の自分の状態とリクエストを告げてみる。

ほんの少しの間だけナーガがまた沈黙した。


すると。


ナーガが指を少し動かし、ノートがナーガの広げた手の上に跳んでいく。
そしてぱらぱらと書き写した文字に眼を通す。


「今回はこれぐらいにしておくか…」


パタンとノートを閉じながら言う。次に視線を完全に座ったまま眠ってしまったイドゥンに向ける。
長い耳がへにゃっと下を向いているのは、寝ているからだろう。次に俺を見て。

「今日はもう寝るといい」

そして本当に少しだが、笑った。他者にはどう写るかは分からないが、俺にはその笑みが人形みたいな作り物に見えた。


暖炉にまたどこから取り出したか太い薪を4本ほど入れ、火を大きくする。



しゅん、と、空気が軽く振動する音だけ残して、一瞬にしてナーガが部屋から消えた。


本当にどうやってやってるんだろ? ワープ。




自分以外誰も動くものがいなくなった部屋でベッドにごろんと寝転がる。
ふと、服にゴツゴツした物が入っている感じがして、ポケットに手を入れてそれを取り出す。


「おぉ…」

手に握られていたその黄金の石を見て思わず声が出る。
改めてよくみたその石はキラキラと輝いていて、相変わらず綺麗だ。

次に座ったまま眠っているイドゥンを見る。
このままではあれなので、起こすことにする。



石を懐にしまい、近くまでベッドのふかふかのシーツの上を這っていき、肩に手をかけて軽く揺する。


「……ふ、ぁ?」


起きたイドゥンは眠気が満たされたぽけぇって言う擬音が似合う眼でこちらをみた。


「……」


ぼおっとしていたイドゥンだが、眼の中に徐々に意思の光が戻ってくると、部屋をきょろきょろと見渡して


「おとう、さん、は…?」


大きな紅と蒼の瞳に不安を浮かべて聞いてきた。せわしなく周りに眼を走らせ、親を必死に探す。


「かえっ、た」


とりあえず、こうとしか、言えない。
まだ少し寝ぼけているのか、俺の言葉を咀嚼するように沈黙する。


そして。


大きな眼が徐々に潤んでいく。まるで幼子が泣く寸前のように。
それを見て、何故か心が痛んだ。まだ出会って数時間しか経っていないのに何故だろう?


だから。


彼女が声を上げる前に素早く行動する。


「ひあ!?」


彼女の両脇を抱える様に掴み、そのままずるずるとベッドの中に引きずる。

「い、いで、あ?」


イドゥンが戸惑いの声を上げるが、今はとりあえず無視。ぽふっと彼女を先ほど寝ていた位置に置くと、その上に毛布をかける。
そして自分もイドゥンの隣に潜る。


「ねむい、の?」


「う、ん…」


それだけを簡潔に言うと、いつもの様に眠りに着く。何度も眠ったりしている筈なのにすんなりと意識が遠ざかっていく。


「おやすみなさい」


完全に意識が落ちる前に彼女の声が耳に届いた。
























神竜族を治める長にして、全ての竜の頂点の竜であるナーガは苛立っていた。だが、その苛立ちを表に出す愚を彼は犯さない。
故にその苛立ちは彼の胸中で更に大きく育っていく。


何が彼をそこまで苛立たせるのか? その答えは簡単である。








                               イドゥンとイデア。






産まれてまだ間もない彼の娘と息子。


誤解されないように言っておくが、この二人は特に何も悪いことはしてなどいないし、彼も初めての自身の子の誕生には歓喜している。


彼が苛立っているのはそんな二人に対する自分の態度だ。


純金で優麗な装飾がされた玉座の前に転移し、それに腰掛ける。
そして手に持った二冊のノートを広げて、そこに書かれたお世辞にも上手とは言えない文字を食い入るように見る。


「ふぅ……」

それを見ていると何とも言えない感情が腹の底で渦巻くのをナーガは感じた。
ナーガには親はいない、人と竜でも、竜同士の交配でもなく、あえて言うなれば世界から産み出されたナーガには親と呼べる者はいなかった。


そして女を抱いたことはあっても、子を育てた事はない彼にとって子育ては全てが未知の領域である。一応知識としては知っているが、経験は無い。


故に、実の子への接し方など分かる筈がない。


先ほどの息子が自らに向けていた視線を思い出す。あの自分に対する怯えが多分に含まれた眼を。


あの後すぐに、息子に言われた言葉、遠まわしに出て行ってくれと言われたと感じたのは考えすぎだと思いたい。

パタンとノートを閉じて、机の引き出しの奥へとしまう。


頬杖をついて、気を紛らすために、今度は自分の子供としてではなく、新たな神竜としてのあの二人の事を考える。





最低限の知恵は外に産み落とされる前に身に付けてはいるようだ。些か弟の方は自我が強すぎるような気がするが、この際それはどうでもいい。
いや、むしろ好都合かも知れない。


次に、能力だが、ナーガが見た限りでは両者とも特に問題はない。このまま成長すればいずれは自分に匹敵する竜になれるだろう。

……果たして、何万年かかるかは分からないが。


だが、ナーガには一つだけ引っかかる事があった。


それはあの二人が双子ということ。

元来、純粋、もしくは純血の竜が世界から産み落とされる時は、決まって一体ずつだ、それが双子。言うなれば、血ではなく、魂を分けた双子。

普通ならば特に気にも留めない些事だが、この時期にこれは何かを示唆しているようにも思えた。



西のエトルリア王国を筆頭とする、人との確執の深まり。そして内部の火竜族の長とその派閥の考えに賛同するもの達。




今、竜という種と人という種のバランスは絶妙なものとなっている。


そんな時期にこの特殊な出生。何かを感じざるを得ない。


無論、自分の眼がある内は何者にもあの二人を害することなど許さないが…。


「長」


誰かに呼ばれる声で思考の海に潜っていたナーガは現実に呼び戻された。

聞きなれた声の主を見る。

ここまで近づかれて気付けないとは、自分も疲れているのだろうと思った。

空気さえも振動させず、いつの間にか自分の隣に佇む、紅いローブを纏った初老の男に話しかける。


「なんだ」

自分でも驚くほど一切の感情を廃した声。やっぱり自分は親には向いてないと思う。



……だからといって、努力をしないわけではないが。


いつも通り初老の男は淡々と抑揚の欠片もない声で応答する。


「【門】と【里】の建設状況をご報告に参上いたしました」


「述べよ」


男が手にした紙に書かれている事を朗々と読み上げる。


「【里】は予定建造物の7割が完成。耕地面積の7割が完成。内訳は…」


それから約5分間に渡り男の報告が続いた。
それらを一門一句、一言も聞き漏らさずに耳を傾ける。

「苦労であった、お前はまた【門】と【里】の建設に戻れ。後日、応援の「モルフ」を送ろう」


「了解」


それだけを言うと男は光に包まれて消えていった。



ふと、何気なく窓の外を見てみる。

何時になく蒼く、綺麗な満月が浮かんでおり部屋に光を注いでいた。



そろそろあの二人が腹を空かす頃だな、と、頭によぎる。
ナーガは自身の子に食事を運ぶため、人を呼ぶべく声を上げるのであった。


何時の間にか、苛立ちは薄れていた。








おまけ


ファイアーエムブレム風キャラクターステータス



名前 イデア


クラス 幼竜 (マムクート)


レベル 1


HP 35


力 13

技 9

速さ 8

幸運 14

守備 14

魔防 14

移動 6

体格 ??

属性 理



あとがき 

今回は少し文体を変えて見たのですが、読みやすくなったでしょうか?

これからも自分のペースでまったりと更新していきますので、これからもよろしくお願いします。


では、次回の更新にて。




[6434] とある竜のお話 第二章 前編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/27 07:51
「殿」の北、サカ草原との境界線間近には、広大な荒野が広がっている。
大地は岩盤のような硬い土に覆われ、若草の1本も生えておらず、そして荒野の地平線には更なる遥かな地平線まで連なる山脈が延々と続いていく。


雲ひとつなく、大きな太陽が日光を地上に降り注がせる快晴の空には無数の小型(それでも人間よりも大きい)の影――トカゲに翼を生やして大きくしたような生き物、飛竜が奇怪な鳴き声を上げて飛び交っている。


そんな荒涼という言葉を明確に表した地に3つの人影があった。



「今日は、お前達に竜の姿に戻る術を教授する」


3人の人影で最も大きな影――ナーガが一切の無駄を廃した声で残りの二人に、ここに連れてきた理由を告げる。
一週間に渡る教育でイドゥンとイデアが文字を完全に覚えたと判断したナーガは自身の子らに次に必要な事を教えようとしていた。


と、まだ歩くのが苦手で、補助の杖を突いて歩行しているイデアがおもむろに杖を持っていない方の手を上げた。
少しだけ顔が青白いのが見て取れる。

そして天を指差してこの一週間で大分饒舌になった発音で言った。


「空が、うるさい」


言われ、ナーガは空を仰ぎ見る。
30ほどの飛竜が遥か天空でけたたましく鳴き喚きながら、互いに激しくぶつかり合っている。


そう言えば、今の季節は飛竜の繁殖期だったなと思い出す。
恐らくは、メスを取り合ってでもいるのだろうとナーガは結論づけた。


なるほど、自分はともかく、これでは子供が怯えるのも無理はない。

自分達を襲うことなどありえないが、確かに子供が怖がる要因としては及第点を超えている。


見れば先ほどから一言も発さないイドゥンはイデアのマントの内側にすっぽりと隠れて、胸の辺りに手を回して、服に皺が出来るほど強く握り締めていた。

ぶるぶると震えながら、尖った耳は何も聞きたくないとばかりに折れて耳の穴を塞いでいる。
時々、こちらをチラチラとイデアの背中から盗み見ているのが見て取れた。


(全く…)

内心、多少、イラつきながらもそれを表には決して出さず、練習の邪魔になるであろう上空の飛竜の群れに対処する。



天の飛竜の群れに向けて、片手を上げる。懐の竜の力を封じた黄金の石が淡い輝きを放ち、同時に掲げる手に力が収束していく。

ほんの数秒で眼を覆いたくなる程の眩い光を放つ、「矢」がナーガの手に出来ていた。そして――――







                   【ライトニング】




放たれたのは、最下級の魔法。まだ魔道を学んで間もない見習いが最初に高確率で習うであろう、いわゆる初心者向けの魔道のひとつ。
精々が人1人をようやく殺傷する程度の、数ある魔道の術の中でも最も威力も効果も低い部類の術。



間違ってもこの術ではベルン地方に生息する獰猛な飛竜には太刀打ちなど出来はしない。


そう、ただ今回は術者が異常なだけだった。


無限と言っても差し支えのない程の莫大な魔力の源であるエーギルを持つ、ナーガの掌から放たれた一本の光で形作られた「矢」は発射と同時に、遥か上空を飛ぶ飛竜の群れの真ん中の空間を貫いていた。
次いで音が遅れて付いていく。「矢」はそのまま光の粉を撒き散らしながら、更なる高み、上空へと消えていく。


飛竜達が甲高い、耳障りな雄たけびを撒き散らしながら、大空をバサバサと翼を忙しなく動かして、自らの群れに攻撃した者をその強靭な爪で排除するため攻撃態勢を取り、急降下するが…。




だが…。



気付いた。       


自分達が何に攻撃しようとしているのか。
飛竜は余り知能こそ高くないが、その野生の獣としての本能は他のどの動物よりも優れていた。


故に後一歩で踏みとどまる事が出来た。


降下の体勢を崩して翼を大きく広げ、先ほどよりも高速で羽ばたき、その場に滞空する。他の飛竜も次々と同じように滞空を始める。


『グギイイイイイイイイィィィイィィィイぃっっ!!!!』


一声、悔しそうに高く鳴くとそのまま巣のある山脈の方向へと飛び去っていく。


「これで邪魔な外野は消えた」


つまらなそうにその光景を眺めていたナーガが二人に視線を戻す。



「いまのは…?」


イデアが眼を瞬かせながら、呆然とした様子で問いかける。
その眼に浮かぶのは初めてみた力に対する、恐怖と好奇心だ。
              

「簡単な術の一つだ、修練すればお前達もすぐに扱えるようになる。それと、そろそろ出て来い、イドゥン」


「……」


呼ばれたイドゥンがひょいっとイデアの胸の後ろから顔を出す。しかし今だに耳は畳まれ、その眼には恐怖が残っていた。


「もう飛竜共はいないぞ」


「……」


彼女は周りに忙しなく視線を走らせると、ゆっくりとマントの内側から出てきた。
片手はしっかりとイデアのローブの裾を握ったままだったが。


「本当に、もう、いない…?」


「ああ」


父が軽く頷くと、イドゥンもイデアの裾を握っていた手も離す。そして、へたれていた耳が少しだけ上昇し、定位置に戻った。



「さて」


ナーガが仕切りなおすかのように咳払いをしながら言う。


「今日はお前達に竜の姿に戻る術を教授する」


パチパチとイデアが無機質な拍手を送り、イドゥンは言われたことの意味が分からず「?」マークを浮かばせ、首を左にかしげた。

片方があまり理解していない事に気付いたナーガが噛み砕いて言った。


「石は持ってきているだろうな?」


「「うん」」


姉弟が揃い合わせたように似た声で返答し、寸分の狂いなく、それが当然のように全く同じタイミングで、同じ場所にしまっていた同じ形、同じ黄金色の石を同じ動きで取り出した。


「おぉ……」


今の動きに気付いたイデアが、奇跡的なシンクロ率を達成した動作に思わず感嘆の声を上げる。
ナーガとイドゥンは特に気にも留めてはいないようだ。そしてナーガが手招き。


「イドゥン、こちらへ来い」


呼ばれたイドゥンがとととっと小走りでナーガの元に向かう。
そして辿りつくとじいっと彼の顔を次の指示を求めるように見つめる。


「石に意識を集中させろ」


言われた通り彼女は眼を瞑り、息を整え、肩を少しだけ上下に揺らしながら、意識を一点に集中させる。

即ち、自らの力の大本、【竜石】へと。同時にナーガがイデアに向けて一言。


「お前も眼を閉じた方がいいぞ」


何だろうと? と、思いながらも言われたとおりに眼をぎゅっと瞑る。


イデアがその言葉の意味を知るのと、変化は同時に訪れた。何故ならば【竜石】が網膜を焼かんばかりの暴力的な輝きを上げたからだ。
そしてイドゥンを中心に巻き起こる暴風嵐。


更に強く石が光を放ち。瞼をきつく閉じていても尚、イデアの視界が白と黄金に染まる。


「もう、開けても構わんぞ」

風が流れる音が響く荒野にナーガの声が耳に届いた。





イデアが眼を恐る恐る開くと――――






       

                            幼い【竜】がそこにはいた。








(改めて見ると、凄いな……)

イデアが内心、驚嘆する。

以前、「殿」の薄暗い祭壇で人の姿になる前に見て以来、この姿は見ていなかったが、やはり何か圧倒されるものがある。

(あぁ……俺も、こいつと同じなんだよな……)

以前は自分も同サイズだったからその大きさと威容はあまり実感できなかったが、こうして人の姿で見ると、自分を襲わないと分かっていても、正直、怖いとイデアは思った。
本来の「イデア」なら何とも思わなかっただろうが、ここにいる「イデア」の中身は自分で、自分は元々人間なのだ、本物の竜に人間の心が恐怖を抱かないはずがない。




ぎょろり、と【竜】――――本来の姿に戻ったイドゥンが大きな眼を動かし、イデアを遥か高みの頭から眺める。









                            




                                    ――見つめられている




そう感覚で感じたイデアの鼓動が早くなる。口の中がカラカラに乾き、背中にはびっしょりと汗が吹き出ている。脚がガタガタと震え、すくんで動けなくなる。






 
がくりとその場にたまらず膝をつく。                                 








                             息が更に苦しくなり、意識が遠のき、「落ちる」寸前に








「おい」

ナーガの声に引き戻された。

世界が元に戻る、

何時の間にかすぐ近くまで移動してきて、自分を覗き込んでいるナーガの表情には幾らか自分を心配している様な感じがした。


「ナ、ァ…ガ……?」

「それ以外の誰に見える?」





暫くの沈黙。









                                        「耳長おじさん」













イデアの顔面の直ぐ横に【ライトニング】が先ほどとは違い、貯め時間なしで放たれた。少量の火薬が爆発したような音がイデアの耳を、そしてその奥を揺るがす。




「~~~~~~~~~~~~~~!!っ」



「問題はないようだな」


辺りの荒地を耳を握り締めるように押さえて、転げまわるイデアを能面のような顔で眺め、言う。


と、おもむろにずしんずしんと、一歩歩くたびに軽く近場の地面を揺らしながら、イドゥンがイデアに徐々に近づいていく。
イデアは、、、、、気がつけない。




ぴたりと、地を転げまわるイデアの回転が止まった。



答えは簡単「上から大きな力を加えられて、押さえつけられたから」だ。


では、その大きな力を加えているのは?

これも答えは簡単。今、この場にそんな大きな力をイデアに加えられるのは二人しかいない。
ナーガとイドゥンである。



そしてこの場で最も大きな力を持つナーガは何もしてはいない、只、人形のような無機質な【表情】を貼りつけてイデアを眺めるだけだ。



消去法で残りは1人(体)になる。


そう、【竜】の姿に戻ったイドゥンだ。


何かの遊びと勘違いしたのだろう、イデアをその巨大な前足でがっちりと押さえ込む。
更にそのまま地面にこすりつけるように転がす。



「~~~~~~~~~~!!!!!」



「~~~~~~~~~~♪」




何やら弟が悲鳴のようなものを上げているが、楽しんでいるからだろうとまだまだ幼い彼女の心は結論する。


結局ナーガがイドゥンを叱り、止めに入ったのはきっちり1分後であった。















「口は時として災いの元となる。よく刻んでおけ」


「で、も、これ、は……やり、す…」



衣服や髪が散々姉に弄られてボロボロのイデアが倒れ付して、抗議の声を、目の前に立っている自称父に、息も絶え絶えに上げた。
それをみたナーガが小さくため息を吐く。何時の間にやらイデアが手にしていた杖は何処かに行っていた。


「全く、情けない…」

「むちゃ、いう、なぁ…」

とりあえずイデアの中ではナーガは冗談が通じない奴、と永久に確定した。



その冗談の通じない男、ナーガがゆっくりと膝をついてズタボロのイデアに右手をかざす。




                      





                            【リカバー】





先ほどの【ライトニング】とは違い、今度は暖かい癒しの力がイデアに照射される。

破壊の魔道ほどの派手さはないが、それでも効果は劇的だった。擦り剥いた傷は瞬時に跡形もなく消えうせ、破れた服や土や埃のついた髪も時間を巻き戻したように綺麗に復元していく。
ほんの数秒程でイデアの全身は汚れや傷が一つもなくなっていた。


「これ、は…?」

先ほどまで頭の奥でキンキンしていた喧しい音も消え失せたイデアがナーガの手を借りて、立ち上がり自分の手や足を動かしながら問う。



「これも魔道の術の一つだ」


「おれも、使える、ように……?」


イデアの問いにナーガは頷いた。


「当然だ。術の使い方などは近いうちに教える」


イデアの眼が輝いた、そこにあるのは純粋な不可思議な術に対する憧れと好奇心、そして自分も使えるという興奮。

ナーガがイドゥンの方を向く。
そこには金色の竜が犬のお座りのような体勢でイデアを見つめていた。



見ればその瞳が揺ら揺らとゆれていた。

ナーガが【竜】に呼びかける。


「人の姿になりたい時は、強く願え」


言葉に従い【竜】が眼を瞑った。


【竜】の全身から溢れた光が一点に集中する。そして光が徐々に個体に変わっていく。

光で出来た個体が大きくなるに連れて【竜】のシルエットがどんどん小さくなっていった。




あっという間に【竜】は幼い少女、イドゥンへとその身を変えていく。
イドゥンが体の調子を確かめるように手や足を動かす。そして黄金色の石をローブの内側にしまうと、少しだけふらふらしながらイデアの元へと歩いていく。

弟の前に到達したイドゥンは


「ごめんなさい」

謝った。

「え?」

イデアが間抜けな声を上げる。

イドゥンは続ける。

「いたい、こと、して、ごめん、な、さい……」

言葉が途切れ途切れなのは、舌が動かないだけではない。声に嗚咽が混じっているからだ。


「ご、めん、な、さい、……」

何時の間にか、言葉は意味を成さなくなり、泣き声だけが出てくる。


イデアが困り果て、視線でナーガに助けを求めるがナーガはより困った顔で肩を小さく竦める

思わず、あんた俺はともかく、この子の親だろうが!という言葉が口から出そうになるが、後が怖いので飲み込む。


慎重に一つ、一つ、言葉を選んで目の前の「姉」に語りかける。なるべくその心を傷つけないように。


「だいじょうぶ、もう、なおったから」

こんな時にも上手く廻らない自分の舌と脳味噌に軽い殺意を覚えながらもイデアは必死に続ける。

「おこってないよ」

沈黙が荒野におちる。
ナーガは姉弟のやり取りに我関せずを決めたのか腕を組んで、二人のやり取りを黙ってみていた。

イドゥンがまるで何かに怯えるかのように歯をカチカチと鳴らしながら、上目でイデアを見つつ、慎重に、びくびくと震えながら、問う。

「ほんとう、に……? きらい、に、ならな、い……?」

「うん」

大きくイデアが頷くと、彼の「姉」はイデアのローブをがっちりと掴んで、声を大にしてわんわん泣き出した。

「え? なん、で……?」

予想外の「姉」の反応に思わずイデアは疑問の声を出し、首を傾げた。
中身の精神年齢が高いイデアには幼子の思考回路を理解できる筈が無かった。














「今日は帰るぞ」

ようやくイドゥンが泣き止んだのを見計らってナーガはそう言った。

「おれの、れん、しゅう、は?」

イデアがナーガに問うが、ナーガはイデアの膝を見て返答した。

「出来る状況か?」

イデアが地に座り伏した自身の膝を見る。


「~~~~~~~~~~~~~~~」


そこには「姉」が安らかな寝息を立てて自分の膝を枕代わりに眠りについていた。あの後10分間ほど泣いていたイドゥンだったが、ひとしきり泣き終えると
電源が切れたように眠ってしまったのだ。

土の上に寝かせる訳にもいかず、担ぐには少々イデアには重かったので現在に至る。


やはり帰ってベッドで寝かせるのが一番だとナーガは判断したのだろうとイデアは考えた。

ナーガが純白のマントを翻す。

「お前の練習は後日とする」

短く、極限まで無駄を廃し、用件だけ伝えると転移の術を起動させようとする。

だが、その前にイデアがイドゥンの柔らかい柴銀色髪を指で弄りながら、一声発した。

「ねえ、ナーガ、一つ聞いて、いい?」

「何だ?」

妙に冷静なその声音に多少の疑問をいだく。

荒野を一陣の風が吹いた。ナーガのマントがばさり、と風に揺られる。


風が止んだのを好機と見て、イデアが口を開き、この世界に来て、この世界をほんの少しだけ知ってから最も気になっていた小さな疑問の解を得るべく尋ねた。









                       「なんで、竜、は人の姿を、とるの?」






 
                       ナーガの全ての動きがほんの一瞬だけ、凍った。









だが、1秒後には何事も無かったかのように活動を再開し、逆に質問を返す。


「何故、そのような事を…?」


探るような、そして鋭い目つきで、自身の子を睨むように視る。
問われたイデアの返答は早かった。

「とくに、理由、はないけど、強いていうなら、好奇心、かな」

「そうか……」

ナーガがイデアに背を向ける。

そして続ける。


「一言などではとても説明しきれないが、強いていうならば、そう、竜が本来の姿で人と共に暮らすには……」


次にナーガが言った言葉は中身が人間であるイデアには十分理解できる事であった。







「このエレブは些か……狭すぎる」






その声の奥深くにどこか絶望に近いものがあるのをイデアは感じ取った。
次の瞬間、一瞬だけ荒野が転移の術の影響で輝くと、3人は消えていた。




あとがき


久しぶりです、皆様。更新が遅れてしまい本当に申し訳ありません。
何度も何度も書いたり消したりしている内に10日もかかってしまいました。

中々プロット通りに話が進みません……orz
以前も言いましたが、小説を書くのは本当に難しい事ですね。

ギャグセンスやネタ、ノリの良さは欠片もないSSですが、暇つぶしがてらにも読んでくださると嬉しいです。

ちなみに竜化の練習に使われた荒野のイメージは、覇者の剣でエトルリアとベルンの決戦があったあの荒野でお願いします。




追伸 家の者で自分以外全員がA型インフルエンザを発症しているのですが、どう対処すればいいでしょうか?




[6434] とある竜のお話 第二章 中篇
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/12 23:42
天蓋つきのキングサイズのベットの中で特上の柔らかさを誇る、シーツと毛布に挟まれてイデアは眼を覚ました。
もう、何度目かになるか分からない新しい世界での目覚めだった。

イデアの朝はそれなりに早い。少なくとも姉のイドゥンより遅く起きたことは今の所ない。

窓に眼をやると、朝の眩い光が部屋に射している。
暖炉の火は消えており、炎が燃え盛っていた場所には炭と灰が積もっていた。


「うぅぅぅぅん……」

ベットの中で横になったまま背伸びをする。朝にこれをしないとどんな世界でも一日が始まらない。

「ふぅ…」

そして力を抜いて、自由な体勢でベットに体を預ける。このまま二度寝してしまいそうな程に心地よい。


ふと、隣に暖かい塊があるのに気がつく。

もうそれが大体なんであるのかも分かっているが、あえて見てみる。

「…………」

予想通りそこには自分の「姉」が安らかに眠っていた。
すーすーと気持ち良さそうに安心しきった表情で寝息を立てている。



「ふふ……」

あまりにも平和的で微笑ましい光景に思わず笑みが口から出た。
そのまま暫くの間、横になったまま隣で熟睡している美しい「姉」の寝顔をじっくり堪能する。


イデアのささやかな朝の楽しみだった。
おずおずと手を伸ばして、柔らかい紫がかかった銀色の髪をゆっくりと撫でる。

さらさらと絹を撫でているようで手が気持よい。



正直な話、こうして何でもいいから楽しみを見つけなければ精神がどうにかなってしまいそうだ。


最初は竜やらイドゥンやら、エレブやらで混乱していたが、人の慣れというものは恐ろしい物で、1~2週間も経てばそれが現実だと受け入れるようになっていた。


そうすると最初は考えられなかった事がイデアの心を蝕んだ。


それは望郷の思い。



イデアの精神、人格ともいう■■■にも家族はいる。いや、いたと言うべきか。
まだ成人はしていないので妻などはいないが、それでも父や母はいる。

だが、もう会えない。何故ならば、最後の記憶が正しければあちらの自分の体は完全に死んでいるのだから。

仮にこの体で会いにいけても、外見が余りにも違いすぎる。家族と認識されないだろう。
それに、第一、会いに行く術さえない。



だが、自然とイデアは悲観こそすれ絶望はしなかった。
その要因の一つに不思議なまでに心の奥底まで入ってきた「姉」の存在があった。

何故だかイデアは「姉」を見ていると精神的に落ち着けるのだ。


やっぱり身体の中を流れる血、ナーガ風に言うなら【エーギル】が関係しているのかな? とイデアは考えている。


眠っている姉の顔を見ながら考え事をしていると、とんとん、と、木を叩く音。ドアが叩かれた。


「どうぞ」

入室の許可の意を伝える。
ぎいっと音がして布こすれの音と共に見慣れた白髪の男、ナーガが入ってきた。

彼の横には銀色の優雅な装飾のされた皿が浮かんでいる。
最初は物が浮くという非現実に驚いたが、この光景にも、もう慣れた。


みれば、皿からは湯気が立ち上っている。
そしていつもの通りの大分聞きなれた無表情なナーガの無機質な声。




「朝食だ」






そうして今日もエレブでのイデアの一日が始まる。











「今回はお前達に歴史を教える」


ナーガが目の前の双子の我が子に今日の授業内容を述べた。これも今や恒例の出来事だ。
二人の子供の神竜は興味深そうに周囲の壁、正確には、そこに納められている途方もない数の書物を見ている。


それも無理はない、ここに初めて入ったら大概はこの膨大な資料に圧倒されると、ナーガはその様子を観察しながら心の奥底で考える。


朝食を「姉」と食べ終えてから歯を磨いて、着替えてから暫くして、イドゥンとイデアはナーガに転移させられた。
転移させられた場所を一言で表すのなら【図書館】、この一言に尽きる。


遥か高みまで続く石造りの円筒状の壁には本棚のような物が埋め込まれていて、そこに数々の資料が収まっている。


何千か、はたまた何万あるかさえ見当がつかない莫大な量だった。

見れば50人ほどの人、否、人の姿を取った竜が本を手に取っている。


「ここは?」

イデアが辺りを落ち着きなく見渡しながら疑問のニュアンスでナーガに問う。
やっぱり息子は姉に比べて好奇心が強いと思いながらも問われた父は答える。


「この場所は「殿」の資料室、もしくは知識の溜り場、過去から現在まで【記す】という概念が出来た時から、歴史、技術、魔道、物語、生活、このエレブの全てが納められている」


「それって、凄いの?」

いまいち言われた事の意味が分からないイドゥンが左に首を傾げる。

ふむ、と少し考えるそぶりを見せて、問われた父親が出来るだけ分かり易く例えて教えた。

「例えるならば、人間の魔道士にここの事を教えたならば、竜の本拠地にも関わらず押し寄せてくるほどにな」

「へぇ~~~~~~」

イデアが声を上げる。以前見た様々な竜の大群、それら全てを敵に回してでも読みたいとは、よっぽど価値のあるものなのだろうと自己完結する。
ナーガがかつかつと大理石の床の上を足音を鳴らしながら近くの木製の椅子と机のある場所に歩いていく。そして椅子が二つ勝手に動いた。双子に座れと言わんばかりに。

イドゥンは周りをキョロキョロと落ち着きなく見渡しながら、イデアは補助の杖を突きながら椅子へと歩いていき、座る。


「では」

ナーガは二人が椅子にしっかりと座ったことを確認すると、声を上げる。

「文字の読み書きはもう出来るな?」

「「うん」」

姉弟が声を完璧に揃えて答える。

イドゥンもイデアもこの世界で生きていく為に必死で学んでいた為、読み書きは完全に覚えていた。
読む事と書く事をしらないと生きていけないとまでナーガに脅されたのも原因のひとつだが。



ナーガが二人の眼前に辞典よりも分厚くて、巨大な本をそっと置く。
茶色をしたそれは所々に染みなどが出来ていて、少し黒くなっており永い時間を経た、歴史的にも価値ある一品である事が素人眼にもすぐ分かった。


「さて、お前達に竜の、神竜族の歴史を教授する」

イデアが竜の歴史という部分に期待で目を光らせ、イドゥンが「おぉー」と声を上げて、好奇心を表した。


「まず最初に」

ナーガがどこからか片目用の眼鏡のようなレンズを取り出して、右目に装着する。

「歴史とは、繰り返されるものであり、死が無きに等しい竜はそれを見続けることになるということを、覚えておけ」

不思議とその言葉には説得力のような、まるで自分が体験してきたような実感が篭もっており、イドゥンとイデアの奥底にすんなりと届いた。
イデアは「不老不死」という言葉を脳内に浮かばせる。

実感は沸かないが、自分はこれから先、何年竜として生きることになるんだろう? ふと、そんな考えがイデアの、もっというなら■■■の頭をよぎった。





「人が産まれる遥か以前、世界の始まりには、【光】と【絶望】があった」

ナーガが朗々と分厚い本を浮かばせて、それを読んでいく。
読み上げる内容は神話のような雄大な話。


「やがて、【光】と【絶望】は姿を変えて、生命となる」

ナーガが言葉を区切って、次の言葉を強調するように言った。

「その【光】が神竜、反対の【絶望】が始祖竜と呼ばれる竜だ」

「始祖竜って?」

イデアが聞きなれない種族名を疑問に思い、聞く。

ナーガは眼を細めながら、イデアに視線を向ける。威圧感に限りなく近いものがイデアを包む。

「全てにおいて、神竜の反対の竜と言っておこう」

そして、とナーガは続ける。

「我ら神竜族と竜の覇権を賭けて争った竜だ」

ナーガが分厚い本のページを捲る。
ペラッという本が捲れるときの独特の音がした。


「奴らは、【絶望】から産まれた、それ故に奴らは攻撃的であった」

まるで実物を見たことがあるようにナーガは淡々と続ける。

「我らが新たな物を創造する存在だとすると、奴らは全てを破壊する、命や世界さえもな」







「それに……」



ナーガの表情が一瞬、暗くなったがイデアもイドゥンもそれに気がつかなかった。





                                      「今、この場におる」










万の言葉を費やすよりも只一回、実物をその眼で見たほうがいい。故にナーガは腰に差しているその剣を抜いた。


えっとイデアが声を上げる前に彼の父はいつも腰に差していた剣を鞘から抜く。シャアンッと金属が擦れる音が鳴る。


「「……」」

抜き放たれた剣の全容を見て、双子は声を失った。
エメラルドグリーンを基本とした見事な装飾の数々を施された刀身は見入る程に美しい、だが、だが、
















                      それでいて、眼を覆い、そらしたくなるような、禍々しい【ナニカ】が剣から溢れ出ていた。












                                「これ」に最も近い言葉、それは【絶望】






確かにこの剣は美しい、それは自他共に認めるであろう、だがそれでもこの剣は、駄目だ。イドゥンとイデア、魂を分けた双子は本能的にはそう思った。
見ているだけでも不安になる、落ち着かない、まるで底が知れない、闇を、絶望そのものを直視している気分だ。













                          駄目だ、この剣の形をした【絶望】は駄目だ。自分という存在の根源レベルで受け付けられない。









「やはり、まだ刺激が強すぎたか」

ナーガの声が何処か遠くから聞こえる。キンッと鞘に剣が収まる音がして、視界から【絶望】が消えた。

「ぁ、はぁぁぁ……」

緊張していたものが途切れるように深く、まるで過呼吸を発症したようにイデアは何度も何度も深呼吸を繰り返す。

息苦しい中で隣の「姉」を見てみる、彼女もまた目尻に涙を浮かばせ、肩を抱いて、【ナニカ】に怯えるように震えていた。



「すまぬな。やはりお前達には早すぎるようだ」

ナーガが声にほんの僅かな感情を乗せて謝罪し、死屍累々な状態の自分の子を助けるために魔道を発動させた。






                                 【レスト】                      


精神の異常や簡単な毒などを排除する際に使用される治療用魔道。今回はイドゥンとイデアの精神の波長を正常に戻すために使用される。
以前イデアに使用した【リカバー】に近い性質の光がナーガの指から二人に照射された。


青白いを通り越して、気味が悪くなるほどの純白だった二人の顔色がみるみると健康的な色に戻っていく。


「その、、、剣って……?」

イドゥンが少しだけ荒い呼吸で父親に聞く。みれば目元には少しだけ涙が溜まっており、片手はイデアの手をがっしりと掴んでいる。
まだ身体の震えは収まってはいない。


内心悪いことをしたと、少しだけ自己嫌悪に陥りながらもそれは表に出さない。

今度は鞘ごと腰から取り外し、イドゥンとイデアの目の前に持って行き、晒す。
双子の息を呑む気配と怯える気配がナーガに机越しに痛いほどに伝わってくる。


「この剣の銘は【覇者の剣】、少なくとも奴らはそう呼んでいた」

「やつ、ら……?」

先ほどよりは遥かに健康的だが、未だに青い顔でイデアが声を絞りだす。

質問されたと判断したナーガの受け応えは早かった。

「始祖竜」

ただ、一言、簡潔にそれだけを言う。

それだけでイデアは理解した、この男は始祖竜に会った事があると。


思えばこの男の正確な年齢なんてイデアは知らない。

外見こそ20代後半だが、竜であるこの男の実年齢は何歳なのかイデアには想像もつかなかった。

そして、同時にまだまだ自分は「父」と名乗るこの男について何も知らない事を改めて知った。

 
ナーガがペラッと頁をめくる。

「奴らと我らは激しく争った、それこそ世界の根源たる【秩序】を破壊するほどに」

遠い過去に思いを馳せるように、まるで語り部のように語る。途中、分からない単語が出てきたが、今は聞いてはいけない気がイデアはした。



「そして、永い戦いの末、我らは奴らを滅ぼした」

そして剣に視線を落とす。

「この剣は、奴らの血肉、骨、そして【エーギル】、始祖竜の全てが内包されている剣だ」

そう言って二回ほど大きく【覇者の剣】を回転させて腰に戻す。


そこで首をんっと傾げる。その仕草は娘のイドゥンによく似ていた。
そして当初の予定より話が脱線したことに気がつく。

仕切りなおす為に声を上げた。


「さて、話が少々、逸れてし「ねぇ……」

ナーガの言葉にイドゥンが割り込み、彼の言葉が切れる。イデアが驚愕を顔に貼り付けた表情でイドゥンを見た。

暫しの沈黙が降りる。図書館に他の利用者が頁をめくるペラッという音がやけにはっきりと響く。

少しして沈黙を破ったのはナーガだった。


「何だ?」

イドゥンを見据え、何を聞きたいのか問う。

決して厳しくはない、しかし優しくもない。何時も通りの無機質な顔と声、声音。故にイデアは恐怖した、もしかしたら怒っているのではないかと。
感情が読めない声ほど恐ろしいものはない。

イデアは身体の奥底が冷えるのを感じた。

口をもごもごして言うかどうか戸惑っていたイドゥンだったが、覚悟を決めたのか親の眼をはっきりと見て声を出す。

「……なん、で、戦ったの、?」

ナーガがため息を吐く。今まで何を聞いていたのだと言いたげに。
そして口を動かし言葉を紡ぐ。

「先ほども述べたように、どちらの種が竜族を率いるかで「違うよ」

イドゥンが首を小さく振りながら言う、吹っ切れたのかそこにはイデアのようなナーガに対する恐怖心は無かった。

「なんで、一緒に、仲良く出来なかったの……?」

それはイデアと違い、本物の子供故の無邪気な質問。まだ世界を何一つ知らない子供の戯言。
ナーガが沈黙し、イドゥンの眼を、そしてその奥を覗き込む、心さえ見透かしそうな紅と蒼の鮮やかな眼球に彼の娘の顔が浮かぶ。


ポツリと呟くように、言葉を投げかける。


「……先ほど、【覇者の剣】を見た時、お前は恐怖を感じたか?」

イドゥンが肯定の意を表すため頷く。



「それが答えだ」


言い放つ。


「……ごめんなさい」

「構わん。疑問を持つことは素晴らしい事だ」

耳をしょげさせ、謝るイドゥンを軽くいなすと、ふと、天井、正確にはその先の太陽の位置を魔道の術を素早く発動させ、天井越しに「見る」
そして空の頂点に近い位置に日が昇っていることを確認する。


(……思ったより時間を喰ってしまったようだな)

時間だ。ナーガも暇ではない。竜族の長としてやるべき事が彼にはある。
正直、こうして子供達と接する為に貴重な時間をすり潰しているのだ。


内心ぼやく。結局教えようと思ったことの半分も教えられなかった。


(子育てとは、ままならぬ物だな……)

人知れず、二人の子に気付かれないように小さく、本当に小さくため息を吐く。
そしていずれ教育係でもつけるか? と、考える。

(まぁいい…)

とりあえずナーガは今最初にすべきことを実行した。

「もう、時間だな」

「「え?」」


唐突に、脈絡もなく、時間と口にした父親に子供二人が声をそろえて疑問の意を口に出して表す。

そんな二人に説明を兼ねて言い聞かせる。

「誠に残念ではあるが、今日はもう時間だ。……我も、暇ではない」

捲られていた分厚い本がドン、と、重厚な音を立てて閉じ、元あった場所へと浮遊していく。
ナーガがおもむろに二人に手をかざす。かざした掌に眩い黄金の光が収束して、転移の術を発動させようとする。



もう、二人は慣れたのかその光景を諦めにも似た表情でじいっとみつめている。


「昼食は給仕に持っていかせる。今日は部屋でくつろいでいろ」

それだけを言うと、二人を部屋に転移させた。









「……」


1人席に残されたナーガは一箇所をじっと観察していた。眼の前のいまだ多少の温もりと、気配が残っている二つの椅子を。
今、彼の胸中では実の娘に言われた一言が、やまびこのごとく、何度も何度もリフレインしている。

                            












                                 「「「なんで、一緒に、仲良く出来なかったの?」」」












子供の言うことをいちいち真に受けるのは馬鹿馬鹿しいとは思うが、それでもこの世界を何一つ知らない娘から投げかけられた言霊が頭の中で反芻する。



「……それが出来れば、どれほど素晴らしいか………」


彼には珍しく、感情を声に乗せて、低く、重く、呟く。



乗せられた感情は暗く深い【絶望】




ナーガは席を立ち、3つの椅子を手を使わず元の位置に戻すと、転移の術を用いてその場から一瞬にして姿を消した。






あとがき



皆様こんばんわ、作者のマスクです。


今回は独自設定全開です、捏造です、厨二病です。

とりあえずこのSSでは始祖竜は神竜に滅ぼされたという設定でお願いします。

今の所はまだまだ原作1000年前、竜殿編が続きます。


所で、感想数が50を超えたらその他板に移そうかな? なんて無謀な事を考えているのですが、皆さんの率直な意見をよろしければ下さい。



[6434] とある竜のお話 第二章 後編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/27 07:50
天高く昇っていた太陽が少しずつ傾いていき、青一色の空が徐々に夕焼けに染まっていく。異世界エレブでも一日の流れは変わりなかった。
バルコニーに続く、窓から入ってきたオレンジ色の光に気付き、イデアが顔を上げる。明かりをつけようと蛍光灯の紐を捜そうとするが、そんなものこの世界にはない事を「また」思い出す。

「はぁ……」

ため息を吐き、ベットの端に腰掛けているイデアが、ナーガが持って来たエレブ大陸の地図を閉じて隣に置く、置かれた地図の隣には歴史やら御伽噺やら、様々な分厚い本が重なっていた。ナーガが暇をつぶす為に持ってきてくれた物である。
瞼を指で軽く揉む。本の読みすぎで少しだけ痛い。首を回す、ゴキゴキと骨が鳴る。最後に背伸びをしてリフレッシュ終了。

ナーガに昼に部屋に転移させられて、昼食を食べてからからずっと本を読んでいたため、かなり疲れた。


改めて、窓から光を部屋に入れている山脈の果ての地平線に沈みかかっているオレンジ色の太陽を見る。夕暮れの空は太陽に近い部分だけ明るくて、その他の場所は暗く、小さな光、星が輝いていた。


「……」

しばらくその光景を眺める。陽が沈むときはどこの世界でも同じだなと考えながら。
今、自分のいた世界もこの光景と同じなのかな? と、故郷に思いを馳せる。


不意に背後からガサガサと音が聞こえてきた。

それは人が布団の中で動くときに発生するあの音に近いものがあった。
誰が動いているかは言うまでもないだろう。何故ならばこの部屋にはイデアの他には1人しかいないからだ。


あえて無視を決め込んでいたイデアの背中に突如、重たい物体が圧し掛かった。


首には細く華奢な白い腕が回されて、肩から特徴的な髪の色をした幼いながらも美しい娘の顔がのぞく。
この部屋のもう1人の主にしてイデアの姉のイドゥンである。


「……姉さん、起きたんだ」

イデアがいつもより数段低い、疲れた声で背後から抱きついてくる姉に言う。
彼の記憶によればイドゥン、自分の「姉」は昼食を食べてしばらくしてから眠いといってベットに潜り、就寝したはずである。



体が抱きとめられて動けない為、眼だけを動かして、もう一度窓の外の更に暗くなっている夕暮れの空を見る。どうやら考えていたよりもかなりの間、本に集中していたようだ。


それにしても。

子供ってこんなに人に抱きつきたがるものなのかな? などと考える。



……まぁ、悪い気分はしないのも事実だが。むしろ、こんなかわいい子に懐かれるのは、正直嬉しい。


「……ふふ」

声をかけられた「姉」ことイドゥンはといえば、口元に笑みを浮かべてイデアの背中に顔を押し付け、ごしごしと擦り付ける。
思わずイデアの頬に朱がさす。恋愛感情ではなく姉と弟のスキンシップに近いものだと分かっていても、かわいい女の子に抱きつかれるのは、やはり恥ずかしいし、嬉しい。


ドクドクと自分の心臓が脈をうつ音とイドゥンの鼓動が布越しに聞こえてくる。
自分の心臓の方が鼓動が早いのは気のせいではないだろう。


背中から心地よい温もりがイデアに伝わっていく。

少しだけ重くて肩がこりそうだが、そんなもの些細な問題だ。


(これはこれで……)


イデアがもう少しこの状況を楽しもうと心の奥底で決めたのと同時に、微かな本当に小さな音が部屋に流れてきた。しかし竜族の優れた聴力は確かにその音を聞き取った。
ピクッとイデアとイドゥン、双子の耳が揃って反応する。


双子が耳を、頭を、その音をより傍受するために音が伝わってくる方向に向ける――――ほとんど沈みきった太陽が映る窓に。




小さな小さな音が風を伝わり部屋に入ってくる。



それは柔らかな音。いや正確には「音」だけではない。

リズムがあり、メロディが奏でられている。それは「音楽」であった。


イドゥンがイデアの背中からゆっくりと離れる。ベットの下に揃えて置いてあるブーツを履き、ととと、と窓に駆け寄っていく。
と、何かを思い出したのか、一度立ち止まり、壁に掛けられているイデアの杖を手に取りイデアの元へ戻ってきた。


「はい」

手に持ったそれをイデアに差し出す。

一瞬、イドゥンが何をしているのかが分からなかったイデアだが、「姉」の行動の意味を理解すると人間だったころの癖で


「ありが、とう」



礼を述べた。


イドゥンがきょとんとする。そしそのまま何かを考え込むように暫く黙り込む。

「どう、したの?」

イデアが突然複雑な顔で黙り込んだ「姉」が気になり、不思議そうに問いかける。

「……なんて、言えばいいか、分からない」

「…はい?」

イデアが思わず間の抜けた声を上げた。イドゥンが俯いたまま構わず続ける。


「…何かを言わなきゃいけない気がするのに、それが分からないの……」


(あぁ…そうか、この子は知らないんだ……)

イデアが納得する。この女の子は自分と違い、産まれて間もない、言うなれば白紙に近い状態だということを改めて実感した。



「『ありがとう』って言われた時は、『どういたしまして』って、言うんだよ」


「『どういたしまして』…?」

イデアが無言のまま笑顔で頷く。そしてイドゥンから補助用の杖をもらう。
まだ少し履きなれない皮のブーツを履いて、ベットの縁から立ち上がる。

そのまま二人で柔らかな音楽が流れてきている窓へと向かう。


窓は押せば簡単に開いた。バルコニーと呼ぶには少々広すぎる空間に出る。

太陽は既に全体の8割以上が沈んでおり、ほんの僅かなオレンジ色の光が地平線からのぞいている。既に山脈は夜の闇に覆われ、見ることは叶わない。
二人の吐く息が白く染まる。

「うぅ……」

山間地方の夜の刺すような冷気に肌がさらされ、イデアが歯を鳴らしながら、自身の肩を抱く。
ちらっとイデアが隣の「姉」を盗み見る。イドゥンは吐く息が白くなるのが面白いのか、何度も息を大きく吸っては吐いていた。白い息が出る度に「お~」と声を上げて喜んでいる。


(寒くないのかな……?)

イデアが疑問に思う。まぁ、風邪さえ引かなければ大丈夫だろうと楽観的に結論づける。



「音楽」はまだ続いている。しかし、曲は変わったようだなと、イデアは思った。さっきまでの曲はまるで水や氷を連想させる柔らかくも冷たい物だったが、今は聞いているだけで活力が湧き上がって来るような曲だ。
この曲を自然に例えるならば、そう、「春風」だ。


音楽の奏者を確かめるため周囲を見渡す。少なくとも風の流れが作り出した音ではないことは確かだ。
イデアの尖った人ならざる耳が本人も気がつかぬ内にピクピクと小さく何度も動く。

眼と首、そして耳を動かし、必死に探す。


「上だよ」

「わっあ、!!?」


何時の間にか隣にいたイドゥンに声を掛けられたイデアが驚き、たまらず悲鳴を出す。


「な、にが…?」


「上から、きてる」


イドゥンがイデアの裾を引っ張りながらバルコニーの端まで小さな歩幅で歩いていき、上を見上げる。
何だろう? と、思い、つられてイデアも見上げる。

竜族が本来の姿でも住めるほど巨大な「殿」の上部は闇に覆われてよく見えなかったが、確かにそこから音楽は聞こえてくる。


「これは、無理だな…」

暗闇に佇む岩壁を呆然とした様子で眺めながら、イデアがぽつりと呟く。

まぁ、奏者に会いたいとは思ってはいなかったから、特に問題ではないが。


と、イデアの裾をまたイドゥンがクイクイと引っ張った。
イデアが彼女の顔を見て、表情でどうしたと問いかける。

「いけるよ」

「え……?」

イデアが疑問の声を上げると同時に、以前見た光と同質の黄金の光が迸った。
しかし、以前のような眼を焼くほどの激しい光ではなかったため、眼を細めるだけで問題はない。

光がほんの数秒で消え、また夜の闇が戻ってくる。イデアが細めていた眼を、ゆっくりと慎重に開く。

「あ……」

視界に入った「姉」の姿を見てイデアが小さく声を漏らした。



何故ならば。











                           イデアの「姉」、イドゥンの背に、翼が生えていたいたからだ













いつか見た【竜】としての姿の時に背中に生えていたものを、そのまま小さくした四枚の翼が、人としてのイドゥンの背中に出現していた。
パタパタと軽くそれが動く。

フワリと、羽ばたきといえる程の動きをしていないのに、イドゥンの体が当然と言わんばかりに中空に浮きあがった。

(深く考えたら、負けかな? これは……)

乾いた笑みを口元に浮かばせながらイデアは思った。つくづくファンタジーな世界では科学の法則とかは意味を成さない事を思い知る。
そして自分もこの子と同じ種族だという事を再び思い出す。


(いつか、俺も、、こんなことが出来るのかなぁ…?)

眼前で地面から2メートル程の位置で滞空したイドゥンが、翼の具合を確かめるようにその場に留まりクルクルと回るのを見ながら考える。


と、楽しそうに回転していたイドゥンの回転が突如とまった。
ふらふらとした様子でゆっくりと降下し、地に降り立つ。

そのままパタリと塞ぎこむ。

「うぅぅぅぅ……」

回転のしすぎで眼を回したようだ。

四枚の美しい黄金の翼と長い耳が揃って力なく萎れている。

「あ~~~~」

イデアが言わんこっちゃないとばかりに肩を竦め、溜め息を吐く。
つい先ほどまでは神々しく見えていたのに、なんだかいきなり身近な存在になった気がした。

近くに寄り、背中を出来るだけ優しく何度もさすってやる。

「あ、ありが、とう……」

教えていない言葉を正しい用法で使われて、イデアが一瞬だけ呆けるが、すぐに言葉を返す。

「どういたしまして」

自然と微笑が顔に浮かぶ。
夜の寒さが少しだけ柔らかくなったような、そんな気がした。



イドゥンがイデアの手を借りて立ち上がる。パタパタと翼と耳が嬉しそうに動く。

そして、そのまま翼から浮力を得て、上昇しようとするが

「ちょっ、ちょっと待った!!」

慌ててイデアが脚に力を込めて踏ん張った為、飛ぶことは出来なかった。イドゥンが頭に「?」マークを浮かばせて首を傾げる。

「行かないの?」

「姉」の問いかけにイデアが歯切れが悪そうに、小さく唸り声を上げた。
少しの間だけそうしていたが、一度深く息を吸い込み決心を決めて


「……最初は、自分の力で……飛びたいんだ」

「……わかった」

暫しの沈黙の後、イドゥンは頷くと、フワリと地に、今度は絵画に出来るほど優雅に左足のつま先から降り立つ。そして繋いでいた手を離す。

かつん、とブーツが地に触れた音がやけに辺りに響く。


1人で奏者に会いに行かないのかとイデアが問う。

彼の「姉」は首をゆっくりと左右に振りながら答える。そしてイデアの頭に何気なく手を伸ばし、優しく撫でる。
金色の髪がさらさらと流れる。

「1人は、嫌。イデアも一緒じゃなきゃ、嫌」

イドゥンが言いきると同時にイデアの頭を撫でていた手を離す。同時に今まで流れていた「音楽」がピタリと止まった。

「1人で暗いとこにいくなんて、嫌」

イドゥンが先ほどまで「音楽」が流れていた「殿」の上部を見上げる。そこは完全に闇に覆われていた。


冷たい夜風が二人に吹き付けてくる。
天には太陽の代わりに端が少しだけ欠けた巨大な蒼い月が昇っている。


エレブは完全に夜となっていた。「姉」がイデアの手を再び握る。直に伝わってくる温もりで心まで温められ、気持ちよい。


天使そのものとも思える笑みを浮かべる。夜空の巨大な蒼い月にも匹敵、イデアにとっては上回る美しさの笑みを。

イデアはその笑みに眼を、心を、魂を、完全に奪われた。

「部屋に戻ろう?」

「う、う、うん」

抱きつかれた時よりも顔を朱く染め、何度かどもりながら何とか意味のある言葉を喉から捻り出す。

小さくイドゥンの体が光ると、翼が消えた。

そのまま手を繋ぎ、部屋に戻る。窓を閉めて、杖を壁に掛け、ブーツを脱ぎ、並べて、ベットに二人でダイブする。


二人はナーガが湯浴み(お風呂)の用意が整った事を伝えに来るまで、仲良く並んで横になり、楽しそうに笑いあっていた。




あとがき

友人に勧められて「蒼炎の軌跡」をプレイしてみました。黒い騎士にぬっ殺されました。

……なんで、あんな所からあんな化け物が。






[6434] とある竜のお話 第三章 前編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/03/27 07:50


太陽が、昇る。ベルン地方に連なる山脈より、その先に広がる広大な海より、ずっと彼方から朝日が顔を覗かせ、天に昇っていく。
朝陽の眩くも神々しい光が窓から射しこんできて、思わずナーガはほんの僅かにその鋭い眼を細めた。

しかし、一瞬後にはまた手元の書類に目を戻す。そして素早く万年筆で必要な事柄を書き込む。

次の書類は? と探すが、何もない。ただ執務机の右端には千枚ほどの処理が済んだ書類がジャンルごとに分けられ、高く積まれている。
気がつけば全ての書類のチェックは完全に終わっていた。


ふと、何気なく視線を向けると執務を始める時につけておいた暖炉の火は完全に消えて、白い煙が小さく上がっている。


それらを興味なさそうに少しの時間だけ見つめる。
おもむろに左手を伸ばし、机の端に置いてある呼び鈴をナーガは軽く鳴らした。

キンキンと二回、金属的な甲高い音が響く。

2、3分ほどして、部屋の扉がトントンと、規則正しくノックされる。

「入れ」

いつものように無駄を廃し、簡潔に一言。
木製の扉が音もなく開かれ、小さな布擦れの音と共に黒いローブを纏った一人の男が静かに執務室に入ってくる。

闇のように黒すぎる髪と不気味に輝く蝙蝠を連想させる金色の瞳が特徴的な男だった。

男はナーガの執務机の前までくると、うやうやしく膝をつき、頭を垂れ、忠誠の意を表す。


「何でしょうか? 長」


ナーガ以上の無機質な声。ここに彼の息子のイデアがいたら背筋が凍るほどの「感情」という物がどこまでも、ナーガ以上に欠落した声。
否。既にそれはもはや声と呼べるものではない。男の口から出たのは言葉に限りなく近い「音」であった。


不気味な、人の姿をした動く、本当の意味での【人形】が、そこにはいた。


「持っていけ」


ナーガも相変わらずの無機質な「声」でそう言って、片手で、【人形】に書類の山を示した。


「ただちに」


頭で深く一礼した男が手を伸ばすと、魔術を発動させ、書類の山を浮き上がらせる。
男が立ち上がり、頭を下げながら後ろ歩きで扉へと向かう。書類がフワフワとその後を追う。

「失礼いたします」


そう言ってもう一度深く礼をすると、男は扉から出て行った。書類がそれに続く。
そして最後の書類の山が部屋から出ると、男が来たとき時と同じように音もなく木製の扉は閉まった。


再び1人になったナーガが何気なく窓の外の太陽に視線を送る。
まだ、2割も地平線から上りきっておらず、空は夜を脱しきっておらず暗い。見ればまだ蒼い月が太陽以上の存在を空に示している。


恐らく、娘と息子はまだ起きてはいないだろう。あの二人は早起きだが、幾ら何でも今の時間は早すぎる。


じわじわと苛立つ程に遅いが、確実に全景を表そうとする太陽を見て、ふと、どうでもいいことだが、かつて竜族の魔道士の1人が『世界は丸く、回転している』と提唱した時を思い出す。
当初は一笑に伏したが、実際に山よりも高く、雲を抜かすまで竜の翼で飛んでいったら、瞳に映った世界が丸かったと知った時を。


……本当に今はどうでもいいことだが



少しの間だけ列火のように赤い太陽を見つめ、一晩中書類と向き合って、硬直した気分を入れ替える。
ゆっくりと玉座から立ち上がる、腰の鞘に入れている、始祖竜そのものとも言える『覇者の剣』がカチャッと金属質な音を立てた。


魔術を発動させ、風の流れ、温度、雲の位置等を「見る」その結果は、今日一日ベルン地方は南部も北部も快晴。




次に彼の聡明な頭脳は今日一日の計画を整理し始める。

その内、娘と息子に関わる事柄は食事と湯浴みを除けば一つ。今日は昨日と違い、歴史などの授業はない。

授業はない、が。やることは一つだけある。


それは以前ナーガがイデアに後日行うと言ったこと。

そう、以前ごたごたが起きて出来なかったイデアの『竜化』である。人の姿を取るようになった竜族にとっての『竜化』は人にとっての歩行訓練に等しいものだ。




同時にその時、イデアがナーガに問いかけてきた言葉も胸の中で復活し、彼の脳内で望んでもいないのに再生される。


馬鹿馬鹿しいと、軽く頭を振って、子供の戯言を頭と腹から追い払う。
しかし、幾ら振り払おうとしても、あの時の息子の顔が、声が、あの口調が、脳裏に焼きついて中々離れない。


まるで質の悪い呪詛のようにナーガに付きまとう。


いや、これは魔術による呪詛よりも数段性質が悪い。呪詛ならば術者を見つけ出して八つ裂きにすればいいだけだが、間違っても自身の子は殺せない。
あの子達には自分がいなくなった後、自分の後を継いでもらわなければならないのだから。


やがて、彼は諦めたように一つ小さな溜め息を吐く。

小さく手を振る。

部屋の隅から純白に金で刺繍が施されたマントが独りでに飛んで来て、彼の前で静止する。ゆったりとした動作でそれを身に纏う。


「たまには、歩くのも悪くない」

誰に言うでもなく、自分だけの部屋で1人呟く。

そして今日の朝、自身の子に与える朝食を自分自身の眼で確かめるため、珍しく転移の術を使わず、扉を使い部屋から出て行った。


















「こ、これって……」

いつもの様にナーガが持ってきた朝食を見て、イデアは震える声で何とか言葉を発した。
歯が脳の意思を無視して小さく痙攣し、カチカチと耳障りな音を立て、その色違いの眼元にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。


やはり気に入らなかったか? と、ナーガは思った。まぁ無理もない、今回の料理は少々特殊な物なのだから。子供にはこの料理の味は少し分からないかもしれない。

かくいう自分は大好物だが……。

気を取り直してナーガは珍しい料理を出された実の息子、イデアの反応をいつもの様にとりあえずは「観察」することにした。



「気に入らぬか?」


別のものを用意しようと、イデアの分の料理をのせた盆を浮かばせるべく、手を伸ばそうとするが。


「いい! 絶対に!! 全部食べる!!!」


今までで最大の声で叫び、イデアが勢いよく盆をつかみ文字通り死守する。その余りの気迫に隣に座ってまだ寝ぼけていたイドゥンがビクッと肩を震わせ、まだ少し残っていた眠気をはじき飛ばした。

その返事に、僅かだがナーガの眼が細められた。


「そうか」


ナーガの返答は相変わらず淡々と無駄を排したものだ。ゆったりと伸ばしかけた手を再びローブの中に戻す。

取られない事に安堵したイデアが改めて盆の上に眼を移し、その上を凝視する。


盆の上に乗っている皿の一つは、独特の形をしている。まず色が黒い、それもただ黒いのではなく、テカテカト綺麗な光沢を放つ上質な漆黒だ。
そして次に眼に入るのはその独特な皿の形状だ、しかしそれは皿と呼ぶには少々底が深すぎる。それは■■■の故郷で“お椀”と呼ばれる食器であった。


そしてその中には薄い茶色のスープが入っており、湯気をほかほかと昇らせている。俗に“味噌汁”と呼ばれるスープ。
その隣の普通の皿の上にはこれまた仄かな湯気を立ち上らせている白い粒――――炊き立てのご飯が山のように盛られている。

もう一つの少し大きな皿には今朝「殿」に持って来られ、塩焼きにされた海に生息する食用の魚――――脂のよく乗ったサンマが二匹横たわっている。


盆の上に乗ったそれらを見るイデアの眼は涙ぐんでいた。何故これがここに? 等の様々な疑問がイデアの中で湧き上るが、今はそんな些細なことは気にはならなかった。
ただ、もう食べれないと半ば諦めていた【故郷】の料理が食べれる。それだけで満足だった。

そして駄目もとでこの料理を食べる際によく使った食器の有無をこれらを持ってきたナーガに聞く。


「箸は、ないの……?」


イデアが潤んだ瞳でナーガに問いかける。いや、問うというよりは懇願するといったほうが正解か。


「何だ? それは」


ナーガが首をほんの少しだけ、左に傾けていつも通り抑揚なく簡単に答える。


「…だよなぁ……」


それを聞いたイデアがあからさまに落胆した。特徴的な耳がペタンと伏せ、彼の内面を的確に現す。
やはり箸はないか、、、日本食が出て来ただけに、少しだけ期待したイデアだったのでショックはそれなりに大きかった。

「……へんなの……」

食事のメニューではなく、食器に対して心底落胆するイデアを彼の「姉」は不思議そうに見つめていた。そして自分の分の盆に置かれた特徴的な皿と料理に眼を移す。暖かくて、今日も美味しそうだ。

イデアが気を取り直して、顔を上げた。

両手を顔の前にピッタリと合わせ、イデアはいつも通りに、食事の前に必ず言わなければならないと以前の世界で教育された言葉を、別世界エレブでもごく普通に口にする。


即ち、「いただきます」と。
イドゥンもそれに習い、同じように手を合わせ「いただきます」と口にした。食べ物を食べるときは食材に対する感謝を表してから食べるんだ、と、イドゥンはイデアに教わっていたからだ。

ナーガも何となく、手を合わせる動作と食事に向ける言葉でこの行為の意味を大体は直感で理解していたので、口を挟むようなことはしなかった。









「「ごちそうさまでした」」

双子が鏡合わせのように全く同じタイミングで、手を合わせる動作をし、同じ言葉を口にする。二人の声が完璧に重なり、震えているような独特の音となる。
朝食時間の終了の合図であった。


黙って二人の食事を見ていたナーガが指をローブの内でほんの少しだけ動かし、二人の盆を宙に浮かせた。そして転移の術を発動させ、いつもの様に洗浄のため、持って帰ろうとする。

と、イデアがその背中に恐る恐る声をかけた。

「今日の、ご飯って、一体……?」

感動の余り、今だ混乱しきったイデアの頭ではそう口にするのが精一杯だった。
それをナーガがどう解釈したのかは知らないが、一瞬だけ、確かに彼の両眼はまた細められる。

ナーガがベットの端に腰掛けているイドゥンとイデアにゆったりと体を向けた。

「まずは、この米だが」

おもむろに盆の上のご飯が盛ってあった黒い“お椀”を術を使わず、直接その白い手でそっと掴み、その中に残った僅かな炊かれた米を示す。


残したな? と、イデアが隣のイドゥンに一瞬だけだが、鋭く厳しい眼を向けた。

「この米は、生物の生命の源である【エーギル】を操作することによって、元来の種にはない独特の粘りっこさを持っており……」

(あ~~~~~~~~~~~~~~~)

なにやら語り始めたナーガにイデアは内心頭を抱えた。違う、聞きたいのはそういうことじゃないんだと。聞きたいのはもっと、こう、日本関係とか、そういう……。
だが、この男の言葉を途中でぶった切ろうとは思わない。理由は簡単。怖いからだ。何をされるかわかったもんじゃない。



するといきなり、今まで黙って、眠たそうな眼で物事を静観していたイドゥンが片手を挙手した。その無謀な行為(イデア視点)にイデアの心臓が跳ね上がる。
ナーガが言葉を一旦切り、どうした? と、聞く。

「【エーギル】って、なに……?」

「「あ………」」

イデアとナーガが何かに気がついたような、それでいてどこか間抜けな声を上げた。
イデアは今まで何度も聞いていた【エーギル】という物について実は何も知らなかった事に、ナーガは二人にまだ詳しく教えていないことに初めて気付いてだ。

暫し、部屋に言葉では言い表せない気まずい雰囲気が降りる。妙に外で鳴いている鳥の声が部屋に響く。


こっほん、と、気まずい場をリセットするかのようにナーガが音を立てて咳払いをした。


数秒の沈黙のうち、ナーガが口火を切った。


「【エーギル】というのは、言ってしまえば生命の持つ力そのものだ」

イドゥンとイデア、双子が新しい知識を得るため、黙ってその長い耳を傾ける。

彼らの「父」は我が子に新たな知識を授けるため、そのまま語り続ける。


「人間の魔道士は魔力を用いて術を行使するが、竜は主にこの【エーギル】を消費して術や力を行使する」

「魔力とは、どう違うの?」

イデアが心臓に緊張という名の負担をかけながら、疑問をぶつけた。聞かれた彼の「父」ナーガが少しだけ小さく頷く。


「【エーギル】は、魔力よりも更に根源的な力、もっと言ってしまえば【エーギル】こそが魔力の素。竜族のブレスはこの【エーギル】を破壊に応用した最たるものと言える」

そうなんだ、内心イデアが【エーギル】の概要に成る程と頷く。同時に自分はどれぐらいの量をもってるんだろうと素朴な疑問が頭に浮かんだ。

ナーガは尚もまるで教師のように二人に話して聞かせる。


「そして、この【エーギル】こそが、人と竜、更には【神竜族】と他の竜族を決定的に分けるものではあるのだが―――――――それは、次の機会に詳しく教授しよう」


そう締めくくり、テーブルの上に置いた盆を今度は手を使わず、術を用いて持ち上げる。

そして、ところで、だ、とじいっと自分を見つめる双子―――正確にはイデアに言った。



今日の予定を。危うく【エーギル】の件で忘れそうになっていたが、無事に思い出せた事柄を。



「……今日はイデア、先日いったようにお前の【竜化】の練習を行う。次に我が来るまでに外出の用意をしておけ」

「え……?」


イデアが素っ頓狂な声を出した。【竜化】の仕方など分からないという、焦りがありありと篭もった声であった。


彼の頭の中で、【竜化】が上手く出来ず、ナーガを怒らせる最悪の未来が嫌というほど鮮明に再生され、彼は、絶望した。
頭を抱えてベットに倒れこみ、右に左にごろごろと転がって、小さく「どうしよう」と口から何度も吐きながら悶える。


そんなイデアに小さく、微かな声で聞こえているかどうかは分からないが、ナーガが呟く。


「………朝食が気にいったのならば、明日も持ってこよう」

何やら、慌てふためくイデアにはまるで届いていないようだが、一応言っておく。

それだけを言い残し、イデアがおろおろと慌てふためき、イドゥンがそれに気を取られている間に、今度こそ転移で音も立てず、そっと、逃げるように姿を消した。









「うぅぅぅ、ああぁぁぁぁぁぁ……」

ナーガが消え、「姉」ことイドゥンと二人だけになった部屋に、イデアのどこまでも深く、暗い、悲痛な声が満ちた。
枕に頭を押し付けて、視界を閉ざし、同時に現実から逃亡を図る。

久しぶりに懐かしき故郷の日本食を食べる事が出来た喜びは、既に遥か彼方へとすっ飛んでいた。

今、彼の頭の中を占めているのはナーガに対する、もっと言うなら彼を怒らせる事に対する恐怖だ。




「イデア……?」

悶える弟に「姉」、イドゥンが声を掛けるが、まるで聞こえていない。否、聞く余裕が欠片もない。


(マズイ、マズイ、マズイ、マズイ――――――!!!!!)

イデアはこの世界に来て、最大の焦燥に駆られていた。下手をすれば祭壇で転生した自分の変わり果てた姿を直視したときよりも気が動転しているかもしれない。





何故ならば、この世界に竜族として転生したのは良いが、あの時、あの祭壇で人の姿にされてから一度も竜の姿になどなったことはないからだ。


もっと言うならば竜としての力を使った事もまだ一度もない。

当然、竜の姿への戻り方など知らない。いや、正確には『戻る感覚が分からない』のだ。


そして、もしもナーガにその事がばれたら、最悪■されるのではないかと思う程にイデアはナーガを恐れていた。

実際、ナーガがイデアに危害を加える事自体がありえないのだが、イデアはそう思い込んでいた。




枕に頭を押し込んでぶつぶつと呟き、数時間後に訪れるであろう自身の破滅の恐怖と戦う。






「だいじょうぶ、だよ」

怯えきった彼の内心を表すように、ペタンと畳まれた彼の尖耳にやけにはっきりと澄み切った美しい、かつ大分聞きなれた声が届く。
イデアが少しだけ枕に埋めていた顔を上げて、声の発信源に紅い方の眼を向ける。

「……何が?」


イデアが枕に密着した口からふごふごと篭もった声を出す。そんな実の「弟」に「姉」は優しく微笑みながら語りかける。

「お父さんは、怒らない、よ……?」


イデアのルビーのような紅い眼が緩やかに細められた。


怒らない? お父さん? あの男のことか……? いや、そもそもなんでこの子はこうも的確に、まるで俺の心を読んだような……。


今度は上手く言葉にできない疑問が湧き出る。


そんなイデアの考えを読んだようにまた優しくイドゥンは微笑んだ。








                                   「だって、わたしは、イデアのお姉さんだから」










イデアがきょとんと、呆けた。何回か紅い眼を瞬かせ、「姉」の顔を凝視する。

そのまま一秒。


二秒。


三秒。


四秒。


五秒。



「はぁ~~~~~~~~~~~~っ!!!」

「ひゃっ!?」

がばっと勢いよく、跳ねるように起き上がり、大きく背伸びをしながら巨大な溜め息を天蓋に向けて放出する。


「ああ分かったよ!! やってやるよ!!! 潰されないように気をつけろよ、あの耳長おじさんがぁぁぁぁああ!!!!!」


その体勢のまま吼えた、両手を天に伸ばし腹の底から咆哮した。


そのまま叫び終わった後も身体を伸ばしきった体勢でいたが、5秒ほどで疲れたのかベットに力なく背から倒れこんだ。

もぞもぞと懐に手を伸ばし、透き通った金色の石、心なしか以前よりも大きくなったようにも見えるソレ――『竜石』を取り出し、眼前に掲げる。


「……本当に、怒られないかな?」

「絶対に、だいじょうぶだよ」

「本当に…?」

イドゥンが寝そべるイデアの手を握った。不思議と安心できる温もりがイデアに伝わる。

「だいじょうぶだよ。だって、お父さんは優しいもん」

イデアにはそうは思えないが、この子がそこまで言うならば、少しだけナーガを見る眼を変えてもいいかな? と、思った。



――――――何時の間にか、覚悟は決まっていた。



あとがき

ようやく、更新できた……。

20日までに更新したいと言っておきながら、こんなに遅れるとは……。






[6434] とある竜のお話 第三章 中編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/04/14 21:37

ピーーーー、、、、、ヒョロロロロロロロロロ……………。


特徴的な鳴き声を上げて、大きな、鷹のような大きな鳥がベルン北部の山々をまるで潜るように飛んで征く。
しかし次の瞬間、横から恐ろしい速度で飛んできた大きな影――飛竜が鳥にその肉食獣の牙が生えた凶悪な顎で勢いよく鳥の喉笛に喰らいつき、肉を引きちぎり、そのまま銜えて巣へと飛んでいく。


そんな弱肉強食、自然界の厳しさを澄み切った青い大空に見たイデアは、まだ微かに生きている鳥を銜えた飛竜が山脈の方へ飛んでいき、完全に視界から消えると小さく溜め息を吐いた。


そして上を向いていた首を水平に戻し、視界を前面に戻す。イデアの視界には白い、ゆったりとしたローブとマントを羽織った白髪の男、ナーガが立っていた。
ナーガはいつもの様にじいっと黙ってイデアとその隣にいる彼の「姉」のイドゥンを見ている。

この数週間でもう見慣れたと思ったその態度だが、今はたまらなく恐ろしい。


がくがくと震えそうになる身体を必死に抑え、自分もナーガと同じ無表情を何とか顔に張り付かせて、「父」を見る。

ナーガが口火を切り、いつも通りに淡々とイデアにこの荒野に再び訪れた理由を念のためもう一度告げる。


「今日は、お前が元の姿に戻る練習を行う日だ」


石はもってきたな? と、その細く鋭い眼で問う。蛇に睨まれた蛙のように一瞬、心臓まで止まりかけたイデアだったが、ギクシャクとした動きで、ローブの懐に手をいれて
金色の石――竜石を取り出す。

イデアの手にあるソレを見てナーガがふむ、と小さく頷く。


そして一言。


「イドゥン、こちらに来い。イデアの近くでは潰されてしまう危険性もあるからな」

イデアの隣に立っていたイドゥンが小さな歩幅で足早にナーガに駆け寄っていく。

「ああぁ……」

唯一の味方だと思っていた「姉」が恐ろしい男(イデア視点)の傍にいってしまい、1人残されたイデアが小さく悲鳴を上げる。
ナーガがなんだ? と、イデアの悲鳴を疑問に思うが、大したことではないと気には止めず、話を進めるべくもう一度息子に元の姿に戻る方法を伝授する。

「イドゥンの時に言った竜の姿への戻り方は、憶えているか?」


イデアが大きく横に首を振った。


「そうか」

余りにも無感情な声にイデアがびくっと怯えて、肩を跳ねさせた。
だが、ナーガはイデアの内心など関係なく、相変わらずも機械的な声音でイデアに語りかける。


「まずは、眼を閉じて意識を集中させろ」


言われた通りに、イデアが瞼を下ろし視界を塞ぐ。自分の心臓の鼓動の音がトクトクと、不気味なぐらいはっきりと聞こえた。


「…………」

そのまま黙って精神を集中させると、ふと、イデアが違和感に気がついた。
意識を集中させる前には気がつかなかった、手の上にもう一つの触覚があるような、奇妙な感覚。

そこに言葉に出来ない『自分の持っている大きな何か』があるのに自分の意思で自由に動かせない何とも言えない巨大な不快感。


「……を……ど……」

ずっと遠くからナーガの声がするが、今のイデアにはそれに気を割ける余裕はなかった。只、不快感を消すべく、感じた違和感の元へと更に深く、精神を集中させる。
感覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、掌の上に乗っている物の存在感が大きくなり、不快感が薄まっていくのをイデアは感じた。



そのまま意識をもっと掌の一点に深く、重く、集束させ、その触覚を動かそうと試みる。




だが、中々動かない。
何度やっても、ほんの僅かしかその『触覚』を揺らせない。徐々にイデアの心の中に苛立ちと焦燥が吹き上がるように込み上げてくる。


無意識に歯をギリッと耳障りな音がするほど噛み締め、その手に血管が浮かぶほどの力を込めて、淡く発光している竜石を握っていた。



そんな『息子』の様子をナーガはどこまでも、無感動な双つの色違いの眼で見守っている。成功するまで何時間かかろうと、イデアが投げ出さない限り執務の時間を削ってでもいつまでも見守つもりだった。


「……だいじょうぶ」


ポツリと彼の「娘」が「父」ではない、頑張っている第三者へと向けて、優しく諭すように本当に小さく独り言を呟いた。






(クソ!! 何で!!!???)

イデアは焦っていた、しかしそれは先ほどまでのナーガに対する恐怖から来る焦りではなく、『触覚』を動かすコツが中々掴めない自分に対する怒りから発生した焦りだ。
何回も『触覚』を動かそうと躍起になるが、ほんの少ししか動かない。まるでその部位が麻痺したかのように動かないのだ。


後少し、後少し、と、力を込めるたびに期待感と苛立ちが積もっていく。


ナーガに対する恐怖心などは完全に頭から消え去っていた。
今彼の頭を占めているのは何としてでもこの『触覚』、または感覚を自由に動かしたいという強い想いだった。
















(……ん……?)


不意に「中から」話しかけられたような気がしたイデアが硬く閉ざされていた双眸を薄く開いた。懐に何気なく視線を落とすと、手に強く握った竜石が力強く鼓動するように光を放っている。
それを見て彼は自分のやったことは効果はあったのだと少しだけ安堵する。


そのまま落ち着きなく眼球を動かし、なんとなく分かっている語りかけてきた声の主を探す。

いつもと何一つ変わらぬ無表情でこちらを見ているナーガが眼に映ったが、不思議と今は恐怖心は欠片も感じなかった。それどころか落ち着いてその顔を観察する余裕さえ不思議とある。



そしてそんな彼に寄り添って立っている「姉」と視線が交差した。いつもの無邪気な二つの赤と青の眼が嫌にはっきりと、大きく見えた。
時間にして僅か2、3秒だったが、イデアには1分間ほどにも感じられた。


もう一度瞼を閉じて視界を暗闇に戻す。先ほどまであんなに胸の中を占めていた苛立ちと焦燥、更には動かしたいと想いさえも清々しいほど綺麗さっぱりと失せている。



意識を槍のように鋭くし、突き刺すように石へと向ける。


さっきとの違いはすぐに分かった。驚くほどすんなりと、針が紙に突き刺さるように、自分の意思が石へと伝わるのがイデアにははっきりと感じ取れた。









                                        




                                        そして変化が起きる。







最初に異変を捉えたのは視角であった。瞼を下ろした暗闇に金色の閃光が迸り、チカチカト闇を眩い金で喰い尽した。

次に彼が感じたのは身体が、手や足が猛烈な速度で大きくなるという奇妙な感覚だった。それに続いて口の端が痛みもなく引き裂けていき、背中に新しく動かせる部位が現れる。






世界を塗りつぶしていた暴力的な黄金の光が収まると、イデアは恐る恐る双眸を開いた。眼に映った世界は変わらぬ荒野と山脈、青空、そして空にて煌々と存在感を示す太陽。

さっきと何も変わらない。




ただ違うと言えば眼前にいたナーガとイドゥンがいない事と、手に強く握りしめていた竜石がなくなっている事ぐらいだろう。


二人は何処に行ったのか探すべく、イデアがキョロキョロと辺りを見回す。
地に着いた二本の後ろ足からミシリ、と、地面の歪む不愉快な音がなる。




その時、遥か下方から聞きなれた淡々とした男の声がやけにはっきり彼の耳に届いた。

「無事に成功したようだな」

首を動かし、眼をそちらに向けてみると随分と小さくなった「父」ナーガと「姉」イドゥンの二人がイデアを見上げていた。
小人のような二人を見て、まるでガリバーになったみたいだと思った。




だがそれよりも彼の気を引いたのは……

(成功……?)

ナーガの成功という言葉に何を言っている? と、一瞬だけ呆けるが、再稼動した脳がイデアの意思とは無関係に今まで自分が何をしていたかを彼に教える。

(そうだ、俺は、ドラゴンの姿に変身しようとして……)

そこまで考えが至った瞬間、弾かれたように両手をまるで殴るような速度で顔の前に持っていく。






そこにあったのはこの数週間で見慣れた幼児の腕ではなかった。

あったのは、金色の鳥の雛を連想させる毛に覆われた三本の鋭利な鍵爪。軽く一振りしただけで軽々と、あの恐ろしい飛竜の頭さえも草のように簡単に刈り取れてしまえそうなほど巨大な爪。












                                        【竜】の爪。












(あぁ……、成功したんだ……)



自分の意思でこれを望んだので、今回は以前の祭壇の時のように取り乱すことはなかった。

それよりもイデアの胸中を満たしたのは、達成感。そして身体の奥底から湧き上る充実感。
さっき、ナーガが言っていたエーギルというものが、どういうものなのかが感じ取れた。


念の為、何回か手を握ったり開いたりを繰り返して、不備はないか確かめる。

一通り確認を終えると、次の指示を仰ぐべく眼を足元にいる二人、正確にはナーガに向ける。

「少し待て」

自分よりも遥かに大きな体躯の存在に眼を向けられても全く動じることなく、ナーガが自分の隣のイドゥンに何事かを囁く。


囁かれたイドゥンが小走りで離れていき、イデアからちょうど6メートル程の場所で立ち止まって懐に手を入れ、竜石を取り出す。

イデアと同質の黄金色の閃光が迸り、一瞬にして彼女は【竜】の姿に戻った。大きくなったことで人の姿のときの6メートルの間合いは消えて、双子は並んでいる形になった。

(早いなぁ……)

自分があそこまで集中してようやくできた事をまるで呼吸するかのように、やってのけた「姉」に少しだけ嫉妬する。

と。

「聞こえるか?」

「ΞΨっ!?」

「姉」の方にばかり注意を向けていて、完全に存在を忘れていたナーガにいきなり声を掛けられ、驚いたイデアが間抜けな声を出す。


最も、その異形と化した口から漏れたのは、人のものとは到底言えないような獣の呻き声に近いものであったが……。

その反応でちゃんと聞こえていると判断したナーガが、満足げに腕を組んで無表情で小さく頷く。


「次は、飛行を教えよう」


そういったナーガが何もない宙に足を伸ばし――――ダンッと、まるでそこに階段でもあるかのように踏みしめた。
そしてそのままカツ、カツ、カツ、と、宙を登っていく。4歩ほどで大体イデアの顔辺りまで上り、そのまま宙空に出来て当然だと言わんばかりに立つ。


(本当に何でもありな奴だな……)


大して驚きはしなかった。このエレブでは人が竜に変身するのだ(実際は逆である、竜が人の姿を取っているが正しい)この人の皮を被った化け物なら空ぐらい飛んでも可笑しくはないだろう。

じろっとイデアの眼を覗き込む。身体は自分の方がずっと大きいのに、飢えた肉食獣の前に無防備でいるかのような錯覚を感じて、ぶるっと小さく身を震わした。


「背に意識を集中させ、翼を動かせ」

言われた通りにしようとするが、これが中々上手くいかない。普段、人の姿で過ごす時に背後ならともかく、背中そのものに意識を向ける機会など滅多にないのだから当然である。


その時、バサッと鳥が羽を広げる時の音に近いものが隣から聞こえた。

音のした方をみれば、【竜】の姿に戻ったイドゥンが調子を見るかのように二対四翼の羽を規則正しく上下にバサバサと動かしていた。抜け落ちた金色の羽毛が舞い散り、辺りを彩る。


(確か昨日も……)


イデアの脳裏に映るのは、昨夜見惚れてしまった天使のような翼を背に生やしたイドゥンの姿。【竜】の姿の時の翼は昨日のあれをそのまま大きくしたものだ。
それと同時に思い起こされるのは、「姉」の文字通り天使のような満面の笑み。


そして一緒に行こうと言った彼女に返した自分の言葉。


(やってやるか)


あの音楽の奏者に二人で会いにいこう。その時に飛べないなんて恥ずかしいじゃないか。
その為の努力なら幾らでも惜しくない。

もう一度、今度は変に意識せず、力を抜き、出来るだけ自然体で背に意識を集中させてみる。






バサリ



「……?」



当のイデアが驚くほど呆気なく、いとも簡単に四枚の翼は動いた。


バサリ


余りにも呆気なかった為、只の偶然かそれに近い何かと思ったイデアが念の為もう一度動かすとちゃんと翼は手足の如く滑らかに動く。



バサリ バサリ

バサリ バサリ


今度は上の二枚と下の二枚を別々に動かす。手足と全く同じように思うがまま、自由に動かせた。
バサバサと翼で煽られた風が頭にかかり涼しい。

鳥になったことはないが、きっと鳥もこのようにして羽を動かしているのだろうと等とイデアは思った。


「最大まで翼を広げろ」


また言われた通りに背伸びをする時に腕を伸ばすのと同じように翼を限界まで大きく広げる。イドゥンも同じように動かし計八枚の翼が風を切り裂く。

それを確認したナーガが宙を歩き、二人の翼の元まで歩いていく。双子の翼をじっと見定めるように、値踏みするかのように見つめる。


「……問題はないようだな」


呟いたのか、それとも二人に言ったのかは分からないが、そう口にすると、また宙を歩いて二人から足早に離れていく。



「翼を開いたまま、力の限り羽ばたいてみろ」

大体二人から10メートル程前方の空中に立つと二人を振り返り、そう指示する。
今から自分は翼を使って飛ぼうと言うのに自身は何も使わず、それどころか竜の姿に変身さえせずに、出来て当然だと言わんばかりに空に立つ眼前の男にイデアが軽く恐怖する。


だが、そんな些細な事は直ぐにイデアの頭の中から消え去った。

今から自分は自分の力で、飛行機も何も使わずに空を飛べる。そう考えるだけで大抵の事は気にならなかった。変わりに気分がどんどん高揚していく。


先ほどの数倍の力を背に込めて、地面に叩きつけるように思いっきり翼を動かす。

バチバチと電気が空気を流れる際に生じる独特の音が響く。雷はイドゥンとイデア、エーギルが雷という形態を取って二人の身体から際限なしに放出されていた。


四対の翼が大きく一煽ぎする度に物理的な破壊力さえともなった雷と光は放出され、辺りを揺らし、荒野の地に亀裂を刻む。


並みの精神を持つものなら腰を抜かし、失神してしまうほどに幻想的な光景だが、ナーガは顔にも動作にも何も浮かべずその光景をじっと瞳に写していた。

やがて、フワリと、二柱の幼いとはいえ10メートル近くの竜の巨体が4メートル程宙に浮かび上がった。高度を維持するためにバッサ、バッサ、と一つ羽ばたく為に空を羽が舞う。



それを見たナーガがほんの少しだけ、自分でも気付かない内に、本当に誰にも普段と見分けがつかないほどに小さいが、口元を緩める。

まだまだ無駄が多いがとりあえずは飛行は成功だ。それに、一度飛行や竜の姿に戻る感覚を覚えてしまえば、後は自分達で勝手に覚えていくだろう。





時間にして約20分、結果として高度20メートル程度の高さに飛び上がった双子はナーガという監視の下、朝の眩い光に照らされて自力での飛行を思う存分堪能した(特にイデア)。



地上に降りたイドゥンとイデアだったが、疲れ果てた様に地に翼を着けて動かない。ハァ、ハァ、と疲労した犬のような荒い呼吸を何度も繰り返す。

答えは簡単。疲労である。始めての飛行で体力を使い果たしたのだ。まだまだ産まれて間もない、人間でいう赤子に近いほど幼い二人には飛行という行為はかなり体力を必要とするものであるのも要因の一つであるが。



「ブレスは……、まだ無理か」


今にも横向きに倒れこんで泡を吹いてしまいそうな双子を見てナーガがポツリと小さく判断を下す。
飛行でこれほど体力を使用するとなれば、純粋なエーギルを破壊力に変換して放つ、飛行よりもずっと体力を消費する行為に二人の体力がついていくとは思えなかった。


寄り添うように倒れている二頭の頭の近くに歩いていき、パンと小さく手を打ち合わせ、二人の注意をこちらに向けさせる。


きょろっと、二対の眼がナーガを見据える。


「今日はよくやった。人の姿になれ」



小さく左の竜――イドゥンが小さく鳴くと、黄金の光が一箇所に集まり、子供の拳ほどの竜石が形作られ、一頭の竜が幼い娘の姿になる。


それを見た右の竜――イデアが荒い息を吐きながら、視線でナーガにどうやればいいか問う。


「人の姿を思い浮かべて、体内の力を一点に集中させろ」


イデアが息を整えながら、眼を瞑り疲労した精神を研ぎ澄ませる。数瞬後、彼の身体から金色の光が放出され、石の形になる。

竜の姿に戻るのにあんなに苦労したのが嘘のように、容易く人の姿に戻る。

光が収まるとそこには一人の幼い少年が倒れていた。


ナーガが早足で駆け寄る。そして脂汗を額に浮かばせ、眼を瞑っている息子を覗き込む。


「……ぅ」

眠っているだけなのを確認する。そして長衣の裾から手をだしてイデアの額に軽く、優しくあてる。




                           



                                 【リカバー】





癒しの魔法を照射し、体力を回復させる。少しだけだが確実に、イデアの寝顔が安らかになった。
隣に寄り添うように倒れているイドゥンにも同じ様に【リカバー】を照射する。



その後30秒程度双子の寝ている姿をじっと瞼に焼き付けるように観察していたナーガだったが、やがて二人をベットで寝かせるため、殿に向けて術を発動させ、転移した。



あとがき


念願のファイアーエムブレム・キャラクターズを購入しました。

火竜ヤアンの頁を読んで、彼への見る目が変わったの自分だけではないはず。後は聖女エリミーヌが極度の竜嫌い等、様々な有益な情報を手に入れられました。



だが、何よりも問題なのは……>ハノンが女性


男だと思い込んで、ssへの出演予定まで入れていた自分にはかなりのショックでした……orz


では、次回の更新にてお会いしましょう!!





[6434] とある竜のお話 第三章 後編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/04/26 22:59

――――ベルン地方南部『殿』玉座の間――――



鮮やかな真紅の王のみに座る事を許された玉座に腰かけ、黙々と、迅速かつ正確に執務をこなしていたナーガは自分に近づく気配を感じ取り、顔を上げた。
注意を少しだけ外に向けて何者なのかを探る。


【人形】ではないのは直ぐに分かった。アレは気配が極端に希薄だ、それこそ竜族の優れた探知能力でないと見つけられないほど。

今こちらに向かって来ているのは燃え滾るような【エーギル】の持ち主――――恐らくは火竜族だ。


そしてもう一つだけ付け加えるのならば、ナーガはこの【エーギル】の主をよく知っていた。



木製の扉の前でピタリと足を止めた気配の主に声をかける。



「入れ」

音もなく滑らかに、定期的に整備されている扉が開き、部屋の主の入室の許可を貰った人物が布擦れの物音一つ立てず入室してくる。
紅い、赤い、まるで火を布にしたらこうなるであろう程の透き通った火色のドレスを着た、後ろで結んだ長い髪も空の星の様な光を宿した両眼も、そして纏う雰囲気さえも“赤い”女であった。


足音ひとつたてず玉座に腰掛けた自らの主の元に歩いていき、彼の前で跪く。


「アンナ。何用だ」

万年筆を横に置き、頬杖をついて何故ここに来たかを問う。少なくともナーガの記憶では彼女が今、ここに来る予定はなかった筈だからだ。

問われた女――アンナが顔を上げ玉座に座する竜の王を見る。


「長に謁見を求める人間の男がおりまして……」

「人間? 数は?」

「一人です」

「用件は?」

「いえ、長に直接話すと……」


ナーガが首を傾げた。その絶大な力で人の生活を守護し、信仰の対象にさえなっている【竜】ではあったが、同時に恐怖の対象でもある【竜】の本拠地に住まう
【竜】の王に一人で謁見を求める者がいるとは。


ほとんどの、否。今までは人が謁見してくる時は必ず3人以上の多数であったのだ。内訳は王族か何かの高位の人間一人にその護衛といった感じだ。
恐らくは絶対に手を出さないと知りつつも一人で竜の本拠地に乗り込むのは恐ろしいのだろう。



……面白い。面白いが……。


その謁見を求めてきた者に対する好奇心が彼の中で頭を覗かせる……。
チラリと机に束ねて置いてある未処理の今日中に終わらせなければならない書類の山をみる。

いきなり来た見知らぬ男に時間を割いては予定通りに終わりそうになかった。

床に膝を突き、自分の判断を仰いでいるアンナに命を下す。


「後日、こちらの指定した時間に来るように伝えろ。今回は引き取らせるのだ」

「仰せのままに」


一礼し、部屋から退室しようとするアンナの背に声をかける。


「……その者の名は分かるか?」


アンナが赤い炎色の髪を揺らして振り向き、頭を下げて伝える。


「はい。確か……アウダモーゼと名乗っておりました」

「そうか。苦労であった」

ナーガがそう言うと一礼し今度こそアンナは来た時同様、音も立てずに退室していった。扉が閉められる。
しばらくして部屋から離れた場所でアンナが転移の術を使用し、彼女の気配が殿から消え去るのを感じながらナーガは考える。



その謁見を求めてきたアウダモーゼとか言う男……。恐らく、いや、高確率で何かを企んでいるのだろう。
でなければ、単純に竜の住処とそこに住むを長を見たいという好奇心か何かか……。


腕を組み、眼を瞑り瞑想する。そしてまだ顔も知らぬアウダモーゼという男について思考を巡らす。


多分、その男は魔道士だろうとあたりをつける。あいつらは自分の知的好奇心を満たす為ならば平気で命さえも分の悪い賭けでも賭ける。自分のも、そして他者の命も。
もしくは単なる頭を患った馬鹿か。


確立としては前者が9割以上、後者が1割未満といった所だ。
自分の命を狙っているというのも僅かにあったが、すぐにこれは思考から排除された。確立として低すぎる。


第一どんな優れた武器や術を持って来ようが、群れない人間一人の力では殺すのはおろか、傷をつけるのさえ難しいだろう、いや不可能といってもいい。



次に対処法として謁見を拒否する。これもすぐに消え去った。高々人間の男一人にこの竜の長が怯えて謁見を断るなどプライドが許さない。
今回は単に書類の処理が終わってなく、予約もなく来た男に割く時間がなかったからに過ぎない。

貴族や王族という事は絶対にないだろう。少なからず護衛を付ける筈だ。一人というのはまずありえない。


何にせよその男に対する情報が少なすぎる。この自分に会いに来た理由さえも分からないのだ。
まずは此方が万全の時に会ってみて、顔を見て、直接話し、判断を下すしかない。最悪、その男を抹殺することも視野に入れておく。



また厄介事が増えたのはまず違いない。



ふと、あの双子が彼の脳裏に浮かんだ。あの酷く純粋で穢れなど一つも知らない笑みが。あのあどけない寝顔が。
自分にもそんな時代はあったのだろうかと考えるが……余りにも馬鹿馬鹿しすぎて止めた。


自分以外誰もいない執務室にナーガの溜め息の音がやけに大きく響いた。皮肉にもそれは彼の息子であるイデアの溜め息の吐く音と酷似していた。














「うぬぬ……」

野生の獣の中でも大柄な飛竜を3体程も寝かせられる巨大なベッドの中心にでん、と、胡座をかいているイデアが唸り声を上げた。
彼の眼の前には長さ50センチ程に綺麗に切られ、表面をササクレ等を削ぎ、ツルツルに加工された杖が無造作に置いてある。


「うぅぅ……」

イデアが片手を前に出して、ありったけの力をその幼児の華奢な腕に込める。


――――カタカタ…………。


杖が独りでに小さく、本当に小さく揺れた。
イデアが血管が浮かび上がるほどの力を腕に込めると更に大きく上下に揺れるが……それだけだ。

「ふぅ……」


腕に込めていた力を抜くと杖の振動も収まった。そのまま一気に脱力し、ベットに後ろから力なく倒れこむ。
仰向けになったイデアが頭をもぞもぞと緩慢に動かし、「姉」を見る。


眼を瞑っている彼女の周りは正にポルターガイストの巣窟だった。
何冊もの分厚い本が宙を舞い、時折ペラペラと頁が捲られている。


何も知らない者がみたら卒倒する光景であるが、イデアは特に驚かない。その全てが霊や得たいの知れない存在等ではなく「姉」、イドゥンによって引き起こされていると知っているから。

いや……、例え霊によって引き起こされていたとしても特にそこまで驚きはしないだろう、あの【竜】に比べればその程度かわいいものだ。

と、見られている事に気がついたイドゥンが瞼を開き、その特徴的な色違いの瞳で弟を見た。


「どうしたの?」

「いや……」

イデアがぷいっと顔を逸らす。そのまま枕に顔を押し込む。
だが、10秒程でまた顔を出して、何だろうと自分を不思議そうに見ている「姉」の顔を見る。

何回かその行動を繰り返していたが、やがて耐え切れない用に口火を切った。

「姉さんは……凄いね」

「……?」

イドゥンが言われた言葉の意味が分からずに頭の上に「?」マークを浮かべる。

「竜のすがたにも一発で戻れるし、物はかんたんに持ち上げちゃうし……」

話している途中、何で自分はこんな事を彼女に言っているのだろう? と、イデアの中に疑問が浮かぶが、答えは出なかった。
ただ一つ言えるのはこの感覚は以前にも前の世界でも味わった事があるような気がした。


……そう、まだまだ幼い子供時代か何かに。


口が意思に反して止まらず動き、今度は一転して自分をなじる。

「俺なんか、全部すごくじかんかかっちゃって……」

きゅっとシーツを強く握りしめる。少しだけ顔を上げると「姉」がどうすればいいのか分からずオロオロしている姿が見えた。

(何を言ってるんだ? 俺は?)

それを見た途端、急に自分の頭が冷めて行くのが彼には分かった。口がようやく脳に従い閉められる。

そして――――――

―――嫌われる。


その言葉が頭をよぎり、イデアの顔がみるみる青ざめていく。
唯一この世界で気兼ねなく話せる彼女に嫌われる事は比喩ではなく文字通りイデアの精神の死に直結していた。

「ぁ……」

何とかして謝ろうとするが、少しだけイドゥンの方が早かった。
布擦れの音と共に素早くイデアに近づき。仰向けの彼の頭の横に座る。彼女の後ろで本がパタパタとベットに落ちていくのがイデアには見えた。

「イデアも凄いよ? わたしの知らないこといっぱい教えてくれて」

彼の手を優しく取り一つ一つ挙げていく。


曰く ありがとう、と、どういたしまして、という感謝の言葉を教えてくれた。

曰く 食べ物を食べると食べた後に言うべき事を教えてくれた。

曰く 食べ物は米粒の最後の1つまで残すな。


全て産まれて一ヶ月にも満たない、まだ白紙といえるイドゥンにイデアが基礎的な事として教えたことだ。

「ぜんぶ、イデアが教えてくれたことだよ?」

「そんなこと……」

誰でも知っている、小さな事だと笑い飛ばそうとするイデアに彼の「姉」は語りかける。

「でも、わたしは知らなかった。イデアは知ってる。多分、もっといっぱい知ってる」

「それは……」

まるで自分の「中身」まで見抜いてそうな言葉にイデアが言葉を濁す。だが、同時にイドゥンにそう思われていたと知って嬉しい気持ちもあった。

(なんだ。結局はおあいこか……。いや、やっかみなんてしない分、この子の方が……)

何だか力を使える、使えないでやっかんでいた自分が馬鹿らしく思えてきた。
そうだ、まだこの世界に来て一ヶ月程度しか経っていないのに自分は何を焦っていたんだろう。

ナーガが言うには竜の寿命は無限に近いらしい。ならばじっくりと磨いていこう。
現に全く動かせなかった杖も少しずつ動かせてくるようになった。無駄ではないのだ。

竜化だってもうあの感覚を掴んで出来るようになっている。恐らくは「姉」を真似してあの背中だけの翼だって出せるだろう。


ちゃんと自分は成長しているのだ。


「あっ、ははははは!」

余りにも今までの自分が馬鹿らしくて、イデアは笑った。自分自身を。
いきなり仰向けで笑い出したイデアを呆然とみていたイドゥンもイデアの何処までも愉快な笑みに釣られて笑う。本当に楽しそうに笑う。


暫くの間、部屋には双子の楽しそうな笑い声が響く。



「姉さん」

笑いすぎて目元に涙を浮かべたイデアが柔らかな笑みを浮かべてイドゥンに話かける。

「なぁに、イデア?」

イドゥンが顔を美しく綻ばせて答える。


「これからもよろしく。俺の、俺だけの『お姉さん』」

本当の意味でイドゥンがイデアの姉になった、そしてイデアが弟になった、その瞬間である。


あとがき

気がついたら更新のペースが二週間に一回になっていて驚いたマスクです。

SSを書いていると月日の流れが速く感じるのは自分だけでしょうか?

それとアウダモーゼに関してですが、彼はまだ人の姿です。原作の骨マスクではありません。骸の民もまだありません。


追伸

恐れ多いながらも皆様に質問なのですが、作品内で烈火、封印、覇者以外のFEシリーズの魔法を登場人物に使わせるのはありでしょうか?

かなり先にイデアにあの公式チート光魔法を使わせたいと思っているのですが……。





[6434] とある竜のお話 第四章 前編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/05/06 14:49

―――ザァァァァァァァァァ…………。


文字通りバケツをひっくり返したような激しい豪雨が窓をガンガンと叩きつける音でイデアは強制的に覚醒させられた。
ムクリと起き上がって、喧しい騒音を奏でている窓を忌々しげに多分の眠気の混ざった眼で睨む。


昼間ならよく見える山々の絶景も見えず、それどころか隣接しているバルコニーさえも見えない。見えるのは窓にぶつかる豪雨と底知れない夜の深い闇だけ。

いつもの癖で時計を探そうとするが、そんな便利な物など、ここには無いことを思い出して止めた。


「ふぁぁ……」


ぐっと背筋を伸ばし、大きな欠伸を吐き、気分を入れ替える。
薄暗い部屋にパチパチと暖炉にくべられた薪が燃える音がやけに大きく聞こえた。

とりあえず、一度厠に行って用をたしてからもう一度眠ることにイデアはした。


まずは明かりが必要だ。足が引っかかったりして転倒したら危険だ。幸い自分はそれを持っている。


懐に手を伸ばし、純金の塊のような美しい竜石を顔の前に持ってくる。
最近、なんとなく動かす事に慣れてきた「エーギル」なるものをほんの少しだけ石に注入した。


音もなく竜石が黄金色に輝く。竜族の中でも自分の力そのものと言える竜石をトーチ代わりに使用するのはイデアぐらいだろう。

それを懐中電灯の様な明かり代わりにして大きすぎるベットから抜け出そうとするが……。


がっ。


何者かに毛布の中の裾を力強く掴まれた。身体がつんのめる。


「ひぃっあっあああ!!!」


予想もしていなかった事態にイデアの口から幼い子供特有の甲高い悲鳴が出る。
一気に背中に冷たいものが溢れてくるのを感じてながら、固まる。いや、どちらかというと凍りつく。

尖った耳が的確に心境を表して、天を突くばかりにそそり立つ。


隣のイドゥンは今、ぐっすりと寝ている筈だ。ならば一体誰が?
はっはっはっと、何度も小刻みに疲労した犬のような吐息を漏らしながら自分の裾をがっちりと掴んでいる何者かの手を見ようとするが……やはり勇気が湧かない。


思い浮かぶのは後悔の念。以前幽霊なんてかわいいものだとか思ってた自分を殴り飛ばしたいと彼は思った。


竜族の術で強化され、決して雨風程度の力では割れないほどの強度を誇る窓に、激しく雨が叩きつけられる音が部屋に響く。


バクバクと心臓が普段の二倍近い速度で鼓動を刻み、血液を猛烈な勢いで身体に送り出しているのをぼうっとした頭でどこか他人事のように感じながら、徐々に気を落ち着かせていく。
そうだ今の自分は竜なのだ、ただの人間ならともかく今の自分なら何とかなるはず。そう必死に自分に言い聞かせて、精神の安定を図る。

チラリと、意を決して力強く掴まれている裾を盗み見る。


小さな、細い、華奢な手が、そこにはあった。


大分引いて来ていた冷や汗がまたもや吹き出て、服を濡らしていくのを実感しながら、その手の先の腕を見て、更にその先にある筈の身体を探す。
長い彼の耳が心境を表すように伏せて耳を塞ぐ。

(まさか……)


腕を辿っていくに連れて、イデアは自分の中から恐怖が薄れていくのが分かった。何故ならばこの白くて細い腕に見覚えがあったからだ。

そして手を動かしていた身体――――姉の顔を見てイデアは喉を震わせた。


「……おきてたんだ、姉さん」


大きく、大きく深呼吸して緊張感やその他もろもろを自分から吐き出す。そして空気と一緒に安堵を吸い込む。
耳が安心したと言わんばかりに、力なくゆるゆると緩慢に起き上がり、いつもの定位置に戻った。

暗闇の中、竜石の仄かな明かりに照らし出されたイドゥンの顔は少しだけやつれていて、眼の下には黒い隈が出来ていた。


「いかないで……」


言葉と共に更に強くガッチリと皺が出来るほど強く力を込める。
イデアが内心やれやれと肩をすくめる。姉の手に自身の手を優しく添える。少しだけ力が弱くなった。


「すこし、かわやに行くだけだよ。すぐに戻ってくる」


柔らかな口調で言い聞かせながら手を離させようとするが、弱くなっていたのにまた強く握られてしまった。服に浮かんでいた皺が深くなる。
まだ、本格的に一日が始まっていないのにそろそろ二桁に到達しそうな溜め息をまた吐く。恐らくかなりの量の幸運が逃げているだろう。


「どうして?」

イデアが問う。どうして引きとめるの? と。少し用を足してくるだけじゃないか、と。


「暗いところに、一人はいや……」


「あぁ……」


なるほどと解を得て小さく頷く。確かに小さな子供が、真夜中にこんな大きくて暗い部屋に一人ぼっちにされるのは怖いだろう。しかも外は大嵐なのだ、余計に恐怖をかき立てるだろう。
もしかして起きていたのも嵐が原因かもしれない。いや、きっとそうだろう。

理由が分かればどうって事はない。対処法も至って簡単だった。


「じゃ、いっしょに行こうか?」


「えっ……?」


二人で行けば良いだけなのだから。



「しかし、まぁ、竜なのにくらい所が怖いとは……」


無事に用を済ませて、ベットの毛布の中に潜りこみ、外気に触れて冷えきった身体に暖を取り入れながらイデアが隣に横たわっている姉に呆れたように言う。
対するイドゥンはガンガンと先ほどよりも喧しく騒音を発生させている窓を勤めて気にしないようにしながら弟に答えた。

「……だって、こわいものは、こわいよ……」


そのままイデアの手を強く握りしめながら雨風の音を聞きたくないと毛布に潜る。
彼女の弟も仕方ないなと内心で呟きながら、姉を追うように自分も毛布に潜り姉の傍に寄り添う。何故だか嬉しくてたまらなかった。

残ったもう片方の手も姉と握る。

スゥスゥ、と、二人分の呼吸音だけが支配する暖かくも暗い空間で双子はがっちりと手を握りあったまま眠りについた。

この後、二人はナーガが朝食を運んで来るまで眠っていた。




これは余談だが、その日の朝食は以前イデアに激しく好評であった「日本食」だったそうだ。










トントンと、木製のドアが規則正しくノックされる。
その音に愛用の杖を何とか地面から1メートル辺りの場所まで手を使わず、超能力の様な力で持ち上げていたイデアが気を逸らした。

カランと、乾いた音を立てて杖が床に落ちる。そのままコロコロと転がっていく。

邪魔をされた事からむっとした表情を一瞬だけイデアが浮かべるが、すぐに表情を直して扉に向かって言う。


「どうぞ」


音もなく木製の扉が開き、幽鬼の様に白髪で細身の男、双子の「父」ナーガが入ってくる。
手に持った分厚い本に二人の視線が否応なく向けられた。

部屋の中の机がひとりでに動き出し、ナーガの前まで滑るように飛んでいく。まるで主に呼ばれた召使のように。そして彼の前でピタリと止まった。
ぱさっと、ナーガがその召使――机の上に手に持っていた分厚い茶色の本を丁寧に置く。


次に椅子が二つ机の前まで飛んできて、二人の前で座れと言ってるかのように停止する。

イドゥンとイデア、二人の子供がそれに座った。

そして、彼が言った一言でイデアのテンションは大いに高まる事になる。


「今日からお前達に魔道を教える」


イドゥンが魔道という単語の意味が分からず、首を傾げて頭上に「?」マークを浮かべた。
対する弟のイデアはというと、小さくガッツポーズを取っていた。


彼の脳内に克明に再生されるのは手から眩い光の矢を射出したり、姉に負わされた自分の傷を薬などを使わずに瞬時に癒した光。
あれを自分自身も使えるようになる。そう思うと不思議と気分が高揚してきて頬が知らず知らずの内に緩む。


「まずは概要からだ」


「へ?」


てっきり術の使い方から教えてくれるものだと思っていたイデアが間の抜けた声を出す。
ナーガがその鋭い眼でイデアを見据えた。ドキンっと睨まれたように錯覚したイデアの心臓が跳ね上がる。


「自分達がどのような力を手に入れようとしているか、それを知るのは当然の事だと思うが?」


いつになく厳しいその口調に肩を落とし、身を縮める。力なく垂れた耳が哀愁を誘う。
それを見届けたナーガが続ける。


「まず始めに、魔道士というのは単純に魔道の術を使う者を示すものではない」


ゆったりとしたローブの裾から片側式の眼鏡を取り出して装着する。まるで理系の教師のような風貌になった。


「【魔道士】というのは探求者だ。限りなく湧き出てくる知識に対する飢えに永遠に苛まれる者達。それが【魔道士】」

「「……」」


ナーガから放たれているいつものとは違う、言葉では言い表せない近寄りがたい独特の気配に完全に呑まれて双子は声も出せずにいた。
それをちらりと見て、一泊だけ空けてナーガが続ける。


「魔力や術など所詮は知識に付随してくるものに過ぎん。そして、これが最も重要な事なのだが――」


いつも通りの淡々とした喋り方が今はとても怖いと双子は思った。まるで人形が喋っているみたいに見えた。


「知識というのは魔物だ。姿もなく形もない、だがいつも魔道士についてまわる魔物だ。魔道士が己の分を弁えずに過ぎた知識を取り込んだ時、知識は魔道士を取り殺す」


「ど、どうなるの?」


イデアが青白い不健康な顔で問う。正直下手なホラー話より怖かった。ナーガはそちらの方面の語り部の才能があると思った。


「簡単な事だ。肉体的な死こそ迎えないが、魂が死ぬ。ただ息をして、食事を取り、排泄する「だけ」の生きた肉と血の塊に成り下がる」


人形と変わらんとナーガは続けた、なんでもないことだと言わんばかりに。それを聞いたイデアの顔が更に青くなり、白に近くなった。


「自分の器を遥かに超える知識を取り込もう等と思わなければ大丈夫だ。最もその見極めをするのは我ではなく、お前達自身であるがな」


そう言って、ポンと何気ない動きでイデアの頭の上に片手を置き、治癒魔法【レスト】を発動させる。イデアの顔色が幾分か健康的に戻る。
イデアが心地よさそうに眼を細めた。


「おとうさん」


不意に今まで黙っていたイドゥンに声を掛けられた「父」がイドゥンの方にその特徴的な眼だけを向ける。


「わたしも、撫でて」


「?……何故だ?」


言われた意味が分からず2、3瞬く。その行為には、何も理由など無いのに何故、撫でなければならないのかという彼の疑問が浮かんでいた。
本当に意味が分からず、固まっていると彼女の眼が潤んで来た。さしずめ決壊5秒前といったところか。


「撫でて……?」


なぜてくれないの? という疑問系。泣かせる分けにもいかず、仕方なく行動の意味も分からないままナーガが手をイデアの頭からイドゥンの頭へと移す。


「~~♪」


小鳥のさえずりの様な声を上げる。5秒ほどそうしていて、もういいだろうと判断した「父」が手を離す。娘がなにやら物足りなさそうな顔をしていたが気にしない。


「知識を取り込み、それを従えられるのは、ほんの一握りだ。だが、そういった者達も自身も気がつかない内に大切な何かを喰われているのが殆どだがな」


それでも、と続ける。


「それでも、その大切な何かと引き換えにしてでも知識を取り込み、力が欲しいという愚者は後をたたん。
  中には自分が力を求めていた理由さえも忘れて、力を求めるというどうしようもない馬鹿もいる。
   まぁ、生きて自分を維持したまま力を手に入れられるの者は述べたように本当に僅かしかおらん……」


ふむ、と、一旦口を止めて肺の中に空気を送り込む。喋るのに必要な分の空気を吸い込むと、また口を開く。


「これは、本当に珍しい事例で、ごく稀に、人の中でも魔道を歩いている内に人の【理】を超えて生を紡ぐ者がいるそうだ」


「【理】って?」


聞き慣れない単語に双子の姉が「父」に問う。


「人の法則ともいえるな。人間という生き物は元来、どんなに環境がいい場所でも100年程度しか生きられないように出来ている。しかし【理】を超えた者は寿命や睡眠等といった生物の縛りから開放される」


無論、そうなる前に殆どは知識に喰われて堕ちてしまうがな、と続ける。


「簡単に言ってしまえば、我々、竜に近い存在になるということだ」


「あぁ、なるほど……」


簡単に纏めたナーガに彼の息子が納得の声で答えた。つまりは人が進化したようなものだと思うことにした。


「名前も魔道に関係があるものだ」


「「……」」


黙って話に耳を傾ける子供達の顔を真正面から見据えながら続ける。


「他者に名乗る名前の他に、真名というものがあり。これはその者の本質を表すものだ。無論、お前達にもあるが……まだ、それを知るのは早い」


恐らくは自分達の真名は何なの? という質問が来るのを予期して最初に答えておく。ナーガの予想通り出鼻を挫かれたイデアが複雑な表情を浮かべている。
カチャリと、落ちて来た片側だけのレンズを上に押し上げる。


「真名を知っているのはその者の親と、番くらいだけだろうな」


「じゃ、おとうさんにも?」


「当然、ある」


当然だと頷く。イデアは少しばかりこの男の真名を知りたいと思ったが、命の危機を感じたので、訊くのは止めた。自殺願望は彼にはないのだ。


「さて、前置きはこれくらいにして……」


本がクルリとひとりでに回転して、双子の前に来る。イデアが何だろうと眼を通すと、そこにはびっしりと小さな文字が書かれていた。少しだけ頭痛がした。


「えぇっと……光魔法、…理、魔法?……闇、、まほ、う?」


あまりにも文字が小さすぎて読むのに手こずったが、苦戦しながら何とか大きめの文字だけを音読するとナーガが満足げに布擦れの音を鳴らしながら腕を組んだ。


「それには、各種系統の魔道の基礎的な説明が書かれている。よく読んで暗記しておけ」


同時に本の上に手を翳し、破れたりしないように魔力でコーティングを施す。これで貴重な本が破壊される恐れはなくなった。


「最後に、魔道の危険性について今まで述べたが、同時に魔道は素晴らしい可能性を内包していると言っておこう」


イドゥンとイデア、二人が本から眼を離し、自分達の「父」にして魔道士であるナーガに眼を向ける。


「食物の生産性を高めたり、飢饉に強い種を作り出したり、薬ではどうしようもない傷を癒す、泥水を飲める正常な水にする、火種無しで呪文1つで火を起こす、正しく無限の可能性を秘めている」


「……戦い、にも?」


遠慮がちにイデアが声を出す。


「もちろんだ。魔術を上手に使えば、味方の損害を最低限に抑えて勝利する事も可能だが、それは側面の1つに過ぎん。むしろそれ以外の分野の方が活用性に優れている」


そう締めくくると、ナーガが窓の外の雨が止んだ空を見る。太陽の位置は彼が来たときよりも少しだけ上昇していた。
音もなく立ち上がる。授業の終了の合図だった。


「では、昼食の時にまた来る」


それだけを言うと、来た時同様、音もなく扉を開いて文字通り幽鬼のようにその向こうに消えていった。


「ふぅぅぅぅ……」


緊張感が一気に途切れ、疲れたイデアが背もたれに脱力して思いっきりもたれかかる。何だか、いつもの数倍疲れた気がした。
危険性は高いが、万能の力、それがイデアのナーガの話を聞いた上での魔道に対する感想だった。

まぁ、自分は最低限自分の身と、姉を守れる力があればいいからそこまで堕ちる心配はないだろうとも考えていた。

よしと、気を取り直し、椅子に座りなおす。


「しかし、まぁ……どうしようか? これ」


眼の前には「父」が残していった分厚い、茶色の紙の頁が何枚も集まって出来た、魔道の術の教科書ともいえる本。まるで広辞苑という辞書のように分厚いそれをどこから読めばいいか少し、悩む。


「イデア」


「ん?」


姉に名を呼ばれて、答える。顔を向けると彼女はどこかワクワクした表情をしていた。自分の彼女にそっくり顔は今どんな表情をしているのか少しだけ気になった。

多分、彼女と同じような顔をしているのだろうとイデアは思った。


「がんばろうね!」


言葉と同時に弟に微笑む。イデアのやる気が内心で跳ね上がった。


「分かったよ、姉さん」


不快ではない、むしろ心地よいドキドキを感じながら双子の弟は分厚い本を読破しにかかった。


あとがき

皆様こんにちは。マスクと言う者です。

大分書きなれてきたので、チラシの裏より移動して来ました。これからよろしくお願いします。







[6434] とある竜のお話 第四章 中篇
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/05/16 23:15

ペラ


小さな音と共に、白く華奢な幼児の手によって頁が一枚捲られる。紙が擦れる音がした。


ぺラ

10分ほどの時間を置いて、また読み終わった頁が小さな手によって一枚捲られる。紙が擦れる音がした。


ペ……。

また10分ほどして新しく頁を捲ろうとした手が何かに気がついた様にピタリと止まった。行き場を失った手は、しばし彷徨うと、頁に置かれ、そのまま表面のザラザラした紙をゆっくり撫でる。


「あれ?」


小さな手の主――イデアが拍子抜けした声を出す。しばらく表面の何ともいえない感覚を味わってから、手を動かし、またペラリと、頁を捲る。
そこにはあの病的に細かい文字は何も書いていなかった。読破したのだ。

念の為、最初から最後までもう一度ペラペラと軽く頁を捲っていく。頁が捲られる度に小さな風が起こり、心地よい。


何枚もの紙が規則正しく捲られていく光景は爽快とも言えた。


ペラ、ペラ

ペラ、ペラ、ペラ…。

ぺラ……。


捲り終わる。最後にパタンと硬い表紙が重々しく閉じた。


読み落とした所は無かった。完全に読破していた。読み終わった本人が驚くほど呆気なく。
実を言うと本のページを構築している紙の一枚一枚の厚さが、イデアの元いた世界のものよりもかなり分厚い事が影響しているのだが、当のイデアはその事には気がついてはいなかった。


一言で言うならば製紙技術の差である。


長時間細かい文字を読むため、酷使した眼を癒すべく一度揉み、外に眼を向ける、日が傾き、オレンジ色の鮮やかな太陽がベルン地方を照らしている。どんな世界でも夕陽の美しさは変わらなかった。
小さな黒い何かが集団で飛んでいるが、恐らくそれは巣に戻る飛竜の群れだろう。


「もう、夕方か……」

今の大体の時間が太陽、夜の場合は月や星の位置で計れるようになったイデアが薄暗くなった部屋で呟く。大雑把に言うならば今は4時か5時、季節が夏ならば6時くらいだろう。
気がつけば一日の大半を読書で潰していた。何かに集中すると時間の流れが早く感じるといった事が真実だと言う事を改めてイデアは知った。


そういえば、昼食は食べた事は覚えているが、何を食べたかまでは思い出せない。


まぁ、そんな事は些細な事だと割り切って眼球マッサージを行う。

「ふぁぁ……」


左手で閉じた瞼の上から眼球をマッサージしつつ残った右手を何かを掴むように伸ばす。
2~3秒ほどその体勢を維持しつつ腰を左右に捻る。


リフレッシュ、終、了。しかしまだまだ身体はだるい。いや、疲れを自覚した分、むしろもっと重くなったかもしれない。



気だるげに、ため息をひとつ吐く。そして数時間座っていた豪華な椅子からひょいっと飛び降りて、床に着地する。壁に掛けられている杖を竜の力で「掴み」こちらに向けて持ってくる。そして手に取った。


ふひぃと、間の抜けた声を出しながらズルズルという擬音が発生するほど緩慢に、補助の杖を突いてベットにヨタヨタ歩いていき、ブーツを脱ぎ散らかし、倒れこむ。杖も床に投げ捨てた。後で戻しておく。
集中している時は身を潜めていた疲労が集中が解けたら、どっと表に出てきて、とても疲れたのだ。


とりあえず、今は眠りたかった。


「………ふ……ぅ」


ポフッとイデアの倒れこんだ際の衝撃に先に寝ていた人物が紫銀の髪を僅かに揺らし、反応を示した。小さな文字を読み続けるのに疲れて先に眠りについていたイデアの姉、イドゥンである。
嵐を恐れて、昨夜はほとんど寝ていなかった彼女にとって今回の読書とは想像以上に大変なものだったのだ。


イデアが首を動かし、頭をそちらに向ける。美しい姉の寝顔が見えた。


「ふふ……」


何度みても飽きない、飽きる事などありえない。天使を思わせる無邪気な寝顔を見て身体の奥底から昇ってくる感情に任せて彼女の弟は薄く笑った。少しだけ疲れが減った気がした。
無防備にスヤスヤと安らかに眠る、自分「だけ」の姉の姿を横目に、仰向けに寝転がったイデアが両の掌を天蓋に向けて突き出す。とりあえず眠る前に、読んだ事を試して見たい。


伸ばした腕に夕日の光が当たり、細い影がベットに伸びて姉の顔にさす。


眼を瞑り、眠りそうな意識を必死に繋ぎとめながら本に書いてあった通りイメージを膨らませる。
イメージするのは“炎”草木を焼き、命を燃やし尽くす業火。多少大げさかもしれないが、これくらいが丁度いい。本に遠慮はいらないと書いてあったから。


今から、発動させるのは最下級の初級魔法【ファイアー】
効果は名の通り炎を生み出し、操るという至ってシンプルなものだ。しかしそれ故に用途は様々だ。


身体の中にある膨大な活力、―――恐らくこれが【エーギル】とナーガが呼んでいたものだろう。


イデアの懐の竜石が仄かに輝く。金色の霧が石から吹き出した。


それを掌に集めていく。細く短い、イデアの腕に蛇のような形の金色の霧――【エーギル】が纏わりつき、掌に向かってするすると腕を這って伸びていく。
蛇が掌の上でとぐろを巻き、身体を徐々に球体へと変化させていく。


やがて光の蛇は消え去り、イデアの手に残ったのは眼を焼くほどに眩く、それでいてとても小さな光球。
ここまでは簡単だ。問題はここから。

光球の形に固定された【エーギル】に思念を送る。燃え滾る炎のイメージを。



だが、次の瞬間。やはり――



“ボンっ!!”


光が間の抜けた音と共に爆ぜた。


「あっっっっ!!!???」


急激に炎に変換された光球が、花火のように爆発した。いや、爆発というよりは弾けとんだといった方が近い。
幸いな事に不完全に変換された火は直ぐに消滅し、元の金色の光となって暫く辺りを漂い、消えた。


「やっぱり、まだ無理だよなぁ……本がないと」


上げていた手をパタンと力を抜き、横に倒しつつ呟く。掌を念の為確認するが、幸運な事に火傷等は負ってなかった。
安堵のため息がイデアから漏れる。



本というのは魔道の術を発動させる際の補助のアイテムだ。さっきの本にそう書いてあったのだ。
高位の魔道士は本が無くても術を発動させられるが、下位の魔道士は本の補助を受けて発動させるそうだ。


更に言うならば魔道には3つの種類がある。



1つは自然の力や精霊の力を借りて使用する【理魔法】

正式な名称は【自然魔法】シンボルは、「炎」、「風」、「雷」を象徴する三つの円。
今、イデアが発動させようとした【ファイアー】もこの理魔法に属する術のひとつだ。


自然の精霊と対話して術を使うそうだが、イデアには精霊の声など少なくとも今は全く聞こえなかった。


この系統の術の特徴は自然に存在する様々な現象を引き起こし、それらを操作することにある。
高位の術者になると天候を操る事さえも不可能ではない。

火竜や氷竜等の竜はある意味、この理属性そのものが意思を持って歩いている存在と言える。



2つ目は【光魔法】

正式な名称は【神竜魔法】
その名の通り神竜族が好んで使用する術。シンボルは太陽とその光を彷彿とさせる円とそこから映える角。


主に【エーギル】を用いて、様々な超現象を引き起こす術が多い。
死にかけた命を救う事や、果ては【モルフ】と呼ばれる人造、否。竜造の仮初の命を創造することすら可能とする神の力。

治癒魔法なども大きく分けるとこの属性に入る。

……中にはかつて神竜族達が自らの反存在である【始祖竜】を葬りさる為に作り上げた攻撃用の超魔法もあるそうだが、詳細は不明。


3つ目は【闇魔法】

正式な名称は【混沌魔法】または【古代魔法】


伝承では主に神竜の反存在である始祖竜が好んで使用した魔法。
おぞましい原初の混沌の力を駆使して、神をも恐れぬ摂理を踏みにじる力を行使する。


三種の属性の中で最も強大な力を得られるが、それ故にリスクも最も高い。即ち【知識】に喰われる可能性が一番高い。


だが、無事に手にした力に比べれば些細な代償ともいえよう。



最後にあくまでこれらは大きく分けただけで、実際にはどれにも属さない術なども多数あるのだが、それらは割愛する。
そして魔法というのは生活を豊かにする為に使われるべきであると考える。


以上、竜族の書物より要約して抜粋。







「ふ、ぁぁあああ……」

ぼ~としながら天蓋を見つめつつ、書物の内容を思い出していたイデアが大口を開けて、欠伸を吐いた。眼から涙が出てくる。眠い。
何気なく隣で寝ている姉を見てみる。

「…………」


……やはり、寝ていた。すやすやと心地よさそうに。先ほどすぐ近くで爆発が起きたのに眼を覚まさない。

イデアが苦笑いを浮かべた。

身体をグルンと何回か回転させ、直ぐ近くまで移動する。

「ごめんね、姉さん……」

聞こえてはいないと知りつつも大きな音を立ててしまった事に謝罪すると、イデアは姉の腕を取り眠りについた。







トントン

双子が寝静まり日が落ちてから暫く立って、部屋の扉がノックされた。

しかし深い眠りに落ちた二人には起きる気配がない。


トントン

もう一度、今度はさっきよりも大分強くノックされる。

双子は起きない。ただ寝息を立てるだけだ。


音もなく木製のドアが開かれる。開かれた扉から白い長衣の男――ナーガが暗者のように物音ひとつ立てず入ってくる。傍には宙に浮く二つの銀の皿があった。
皿からは湯気が出ている。今晩の食事だ。


暖炉の火もなく月明かりだけが照らす室内をナーガが見回す。窓には昨夜の嵐が嘘に思える巨大な月が写っており、太陽の代わりに山々を照らしている。


「…………」


ベットで長年寄り添った夫婦のように眠っているイドゥンとイデアを見つけたナーガが小さく、まるで眩しい者を見る様に眉を顰めた。
起こそうとも思ったが、すぐにやめた。子供の睡眠を邪魔してはいけない。


「……」


傍に浮いていた皿が音もなく転移させられた。恐らくは料理人達のまかない食になるのだろう。


ナーガがゆったりと緩慢に動き出す。
近くに落ちていた杖を壁に掛けて、脱ぎ散らかされたブーツをベットの脇に揃えて置いてやる。


何処からか薪を取り出し、暖炉にくべて火をつける。これで用はすんだ。
何故だか名残惜しい気もしたが、仕事に戻るべく部屋を後にしようとする。



踵を返し、部屋から出ようとするナーガの耳に微かな音が届いた。


しばらく何かと思って耳を澄ましていた彼だったが、やがて誰がこの音を出しているか分かったらしく


「エイナールか……」


ぽつりと、独り言をもらした。


それだけを言うと彼は今晩の分の仕事を片付けるべく、部屋を後にした。
眠る必要のない彼には休む時間などないのだ。




あとがき


今回は短めです。魔道の事はいっぱい書きたいんですが、どうしても書ききれない……。

というか4章は全体的に短めです。はい。


最後に魔道の資料は光魔法は背景が語られていないため、捏造がふんだんに盛り込まれいます。






[6434] とある竜のお話 第四章 後編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/05/26 23:39


“畏怖”

その光景を見て、まず胸に浮かぶのはそんな言葉であろう。
神竜族のシンボルである太陽をイメージさせる巨大な紋章が彫られた壁の前に、紋章に劣らない存在感を誇る真紅の椅子――


否。暴力的なまでの威圧感を振りまいているのは椅子や紋章などといったそこいらの城にもある瑣末なものなどではない。
空間が歪んでいるのでは? とさえ思わせる圧力は玉座に深々と、堂々と、腰掛ける白髪の線の細い男から噴出していた。


神竜王 ナーガ


それが王の椅子に腰を下ろす者の名だ。
外見こそ20代の後半辺りに見えるが、その実、人という種の誕生以前から生を紡ぎ、竜を導いてきた神にも等しい力を誇る最強の【竜】だ。


そして今、彼は一人の男の来訪を待っていた。以前彼に謁見を申し込んだ頭がオカシイ人間だ。
だってそうだろう? 護衛も付けず、たった一人で竜の本拠地に乗り込んでそこの王様に謁見を申し込むのだから。 


少なくとも健全な精神構造はしていない事は確かだろう。健全な精神をもった人間ならばそんな事はしない。
自分をいつでも殺せる人外の化け物の様な奴らがウヨウヨいる場所に、一人で行ったりする等断じてしない。


……例外としては知識欲に狂った魔道士というのがあるが。ナーガは今から来る者はこの種の人間だとあたりをつけている。


竜族の産まれた地にして、本拠地でもある「殿」の玉座の間は今、その役目を果たそうとしていた。
即ち、下々と王の唯一の謁見の場という高貴な役目を。


扉が開く。約束の時間だ。
まず部屋に入室したのは大胆なスリットの入った紅いドレスを身体の一部のように違和感なく着こなす、髪、眼、雰囲気さえも“紅い”女性――――火竜族のアンナ。


そして数瞬遅れて、誘導されるようにもう一人、黒いマントを纏った人間の男が入ってくる。


部屋の空気が変わった。張り詰めていた場が男の近くだけ、ぞぶり、という擬音がなりそうな程に生々しく濁った。
まるで戦争のすぐ後に出来る死体が散乱している場所のような空気だ。気のせいか腐臭もする。これで鴉が来たら完璧だ。




その男は【黒かった】ただ只管に、どこまでも【黒かった】
しかし、どこが? と、訊かれても具体的に答えられる者は少ないだろう。


顔は普通だ、少しだけそこいらの成人男性よりも整っている事を覗けば。
髪も普通だサカに住まう遊牧系の民族とは違った種類の黒い髪。よい生活を送っているのか明かりを反射して艶やかな光が見える。
眼、これも特に珍しくない。魔道士によく見られる煮え滾る狂気を胸の奥底に隠している者特有の、濁りきったどぶを連想させられる眼。



全て、今までナーガは見たことがある。特に三番はよく見る。大抵は自滅していったが。

考える。理解しようとする。読み取ろうとする。この男の何が、この【黒さ】を出しているかと。



何がオカシイ? 一体何が?


入ってきた男をまじまじと観察していたナーガはやがて気がついた。この男の【黒さ】に。

気がついたナーガの眼が射殺すように、まるで矢を獲物に放つ狩人のような冷たい鋭さを帯びた。いつもイドゥンやイデアに向ける物とは程遠い眼だ。



【エーギル】だ。エーギルが黒い。
もっと分かりやすい様、噛み砕いて言えば、魂が、黒い、濁っている。


【エーギル】とは生命力そのもの。その在り方はその存在そのものと言っても過言ではない。
それが濁っているのだ。まともな筈がない。


ナーガの中で、このアウダモーゼという男はかなり危険と判断された。澱んだ魂を持った魔道士など危険人物以外の何者でもないからだ。


見ればアンナはいつの間にかアウダモーゼの後ろに陣取っており、片手は懐の暗殺様の小型の武器へと、もう片方の手は後ろに回されている。
恐らくは、この男の危険性を理解したのだろう。万が一に備えている。


男――アウダモーゼが音もなくゆっくりとナーガの腰掛ける玉座に歩み寄っていく。まるで影が歩いているようだった。

這い寄る様に地を滑って動いていたが、王座の8メートル程手前で止まり、自然な動作で膝を地に突けて、頭を垂らし、玉座の主に臣下の礼を取る。



「お初に、お眼にかかります。偉大なる竜族の王よ」


外見通りの若い男の声。しかしどこか聞いていて不安になる。暗い闇の底から響いていると錯覚してしまいそうな声だった。


「何用だ」


答える玉座の主は簡潔にそれだけを口にする。
濁った空気が吹き飛び、きりきりという音が何処からか聞こえてきそうな程、場が再び張り詰め、空間が歪む。


「貴方様にお頼みしたいことがございまして……」

少しだけ顔を上げ、影がナーガを見る。内心は興奮しているのか、ギラギラと暗く、おぞましく輝いた眼がナーガに向けられた。
見ているだけで生理的な嫌悪感が湧き上ってくる眼だった。


「人間同士の闘争などに興味はないぞ?」


自分に向けられる瞳に若干の嫌悪感を抱きながらも、その感情を一滴たりとも面には出さずに言う。


当然、ナーガ自身こんな男が貴族や王族な訳はないと分かっているが、万が一の為に鎌をかけておく。
人は見かけによらないかもしれないからだ。


そして竜の力を使って国を奪いたい等のそちら方面の願いならば、即刻、お引取り願うつもりだった。



しかし影のような男――――アウダモーゼが首を横に振るい、否定の意を表す。
ナーガが内心、ほんの僅かだが、落胆した。追い出す口実が1つ消えてしまったからだ。


まぁ、元々期待はしていなかったからいいが。


「私めは、貴族や、ましては王族などではありません。私は只のしがない魔道士でございます」


「そのしがない魔道士が、我らに何の用だ」


色違いの瞳の狩人、否。絶対者の一対の瞳が影を射抜く。
深い影が、返事の変わりに懐から束ねられた紙を取り出し、ナーガに差し出す。

その手は少しだけだが、震えていた。

玉座の傍らに立っていた黒い髪と金色の瞳を持った男がそれを受け取り、主に渡した。


ナーガが眼を通す。

一枚、また一枚と、束ねられた紙を捲っていく。


「……ほう」

ナーガが彼には珍しく驚きを表に出す。その声には心底驚いたという気持ちが含まれていた。

ペラリ、ペラリ、と細い指で捲り、眼を通しながら影に疑問を投げかける。



「お前は、この情報を何処で知った?」


影が膝を突きながら恭しく答える。


「恐れながら。我々は貴方達、竜族を研究するものであります」


ナーガが更なる意識を影に向けた。影に凄まじい重圧がかかるが、影は気にせずに語り続ける。
いや、単に気がついていないのかもしれない。


「我々は、竜の、圧倒的なまでな力に魅入られた者。貴方方の忠実な僕……」

「質問に答えよ。お前は、お前達は、どこで、この情報を知った?」


言葉巧みに誤魔化そうとする影に、大きすぎもなく、小さすぎもない声で一喝。


――――部屋が、歪んだ。


彼の腰に差してある【覇者の剣】が金属質な音を立てる。


パサリと、王の手より書類が机に落とされた。


その書類に書かれていた事。それはかつて神竜に葬られた種――――始祖竜の事柄が詳しく書かれていた。
それは「殿」の図書館に保管されている古代の資料の内容に比べれば氷山の一角に過ぎない内容だったが、それでも見過ごす事は出来ない内容であった。


影が、ぶるっと小さく一度震えると、再び口を開いた。


「失礼を、お許しください。その特異な竜――始祖竜と呼ばれる竜の事を我々が知ったのは、最初は偶然でした。正直、今、貴方様にその書類を見せるまでは
 私もその存在を信じる事ができませんでした。しかし――貴方の反応を見て私は確信いたしました。その竜は実在したと」


「我で、試したのか?」


利用されたというのに口元に小さな笑みを浮かべながら王が聞く。
しかし、眼は欠片も笑ってはいなかった。眼球の中には極寒のイリア地方の吹雪もかくやという冷気が吹きすさぶっている。


「はい。恐れながらも利用させて頂きました」


申し開きもなく。只々、真実のみを口にする。この場で嘘を吐く事は得策ではないからだ。少なくとも影は腹を括っていた。
最も、竜の王を利用する時点で得策からはかけ離れているが。


王からの圧力が減衰した。


「………………よい、それで何用でこの殿に来た? 真実かどうか確かめたかっただけではないのだろう?」


ナーガが呆れ半分な口調で問う。内心、さっさと帰ってくれと、思いながら。こんなイカレタ魔道士には正直これ以上関わりたくなかった。
問答無用で殺さないのは心が広いのか、それとも人の間に竜族は尋ねて来た人間を殺した等という変な噂が立つのが嫌だからか。


影が頭をもう一度深く下げる。


「私に、この殿の、図書館を使用させて頂けないでしょうか?」


「いいだろう」


答えは簡潔。影が驚くほど呆気なく許可する。待機していたアンナが顔に驚愕を浮かべるが、直ぐに精神力で無表情に戻す。


「但し、資料紛失を防ぐ為、見張りをつける。それと――」


王が手を広げる。掌にて蒼紫の禍々しい炎が燃え出した。


「これに、今この場で、血で貴様の名を書いてもらう」


炎が消える。彼の掌には年季を感じる一枚の茶色い皮紙が存在していた。
紙がフワフワとアウダモーゼに飛んでいく。


影が皮紙を手に取った。


「これは……?」


アウダモーゼが紙を見て疑問の声を出す。


「その紙の名は【血の誓約書】かつて汝ら人の王族が我らと契約を結ぶ時に使用した一品だ」


ナーガが何時の間にかその手に出現させた銀のナイフを影に向けて柄から投げる。


「契約方法は至極単純。その紙に自分の血で自分の名を記せばよい」



一泊。


王が一度息を吸いなおす。
そして口を開き無表情だが、よく通る声を飛ばした。


「契約内容は『資料室の使用は3ヶ月のみ。それ以上は認めない』そして『資料及び、資料を写生した一切のものを殿の外に出さない』これだけだ。もしもこれが破られれば、契約の縛りによってお前は造作もなく死ぬ。さぁ、どうする」


あぁ、と、思い出した様にナーガが続ける。


「もしも、契約を結ばないのならば帰るといい。アンナに送らせよう。恐らくはもう二度合うこともないだろうな」


淡々と言外にもう来るなと言う。正直な話、この腐臭を纏った影は非常に不愉快な存在だった。


影が考えるように揺れる。否。考えるまでもなく最初から答えは決まっている。例え3月の間だけとはいえ竜の叡智が取り込めるのだごちゃごちゃ考える方が馬鹿らしい。
例えそれが呪いともいえる横暴な契約をその身に受けようともだ。影はつくづくどこまでも典型的な魔道士であった。


「分かりました、その誓約、受けましょう!」


影はそう言い放つと渡されたナイフを指に突き刺す。紅い、どこか粘り気のある液体が滴り、床を朱に染めて汚す。
影がそのまま指を筆代わりにして自分の名前を書き殴っていく。







                                 【アウダモーゼ】 と。

   





インクとして使われなかった分の血が花吹雪のように飛び散る。


「書き終わりました。王よ」


影が何処か興奮した様子でナーガに告げ、サインを書き込んだ誓約書を差し出す。その眼は竜の知識が取り込める嬉しさから先ほど以上に狂気的にギラギラ輝いている。
誓約書が音もなく浮き上がり、玉座に向けて飛行し、そのまま王の手に収まった。


王が近くに控えていた黒い髪の人形のような中性的な人物に影を資料館に案内せよ、と、命ずる。
影は最後に深くナーガに礼をすると人形に案内され、部屋から退席した。










「本当に、よろしいので? 長」

影が完全に部屋から退去したのを見計らって今まで沈黙を続けていたアンナが主に尋ねた。


「構わん。滅びた種の事など幾らでも学ばせておけ」


それに、と続ける。


「資料館の文字は全て我らの言語で書かれている。それもかなり古いものだ」


竜族の古い文字、それは“読む”というよりは意味を“感じる”に近いものだ。あくまで竜族の超感覚で読む、竜族専用の文字を人間であるアウダモーゼは読め……感じられるかどうか。
それに始祖竜等の文献はともかく、竜族の術が記された書などは竜以外がその強大な力を利用できないように半ば暗号じみた物になっている。


いかにあの男が優柔な魔道士でも3月で言語の感じ方を覚え、更には難解な暗号を解き、竜の知識をその身に宿せるかどうか。


「それに、しつこく嗅ぎ回られ、万が一にでも【門】や【里】の事を知られる分けにはいかぬ」


最後にそう言うと、ナーガが眼前に今まで撤去されていた机を呼び出す。その行動は遠まわしにアンナに退室を促していた。
アンナも影と同じく一礼すると、入室時と同様に音もなく退室していった。



いつも通り、部屋に一人になったナーガが考える。



あの影――アウダモーゼという魔道士について。


度胸こそは買うが、愚か者。それがあの影についての評価だった。


もしも、訪ねてきたのが20年程早く、人と竜の関係が今よりも気にせずに良かったら、誓約書と偽り、呪いの書にサインさせていたかも知れない。
それほど不愉快な存在だった。



小さく、頭を振る。そして頭からあの影の見ているだけで不快な眼の記録を消し去る。
もう、あの影には鎖をつけておいた。不確定要素足りえない存在になったのだと自分を納得させる。




――そう、誓約書に書かれている3ヶ月のみといのは、人生全てを含めてだ。二度目はない。一生あの誓約はあの影についてまわる。


勿論、契約の重複など不可能だ。異常を感じ取った誓約の『呪い』は二度目の契約を受け付けないだろう。


一度施行された契約は竜王ナーガでも簡単には覆せない。【血の誓約】などと言う強力にして凶悪な契約ならば尚更だ。
もしも三ヶ月たってまたあの男が資料館に入りたいと言うならばこの事を教えてやろう。無論、一歩でも入ったら誓約で死ぬが。



ナーガの“小さな”嫌がらせであった。



あとがき


今回もいろいろとやっちまった感があります。
それにしても妙に背中がゾワゾワするし頭も痛い……。

こんな状態で書いたので何か変な所があるかもしれません。


もしかして今話題の豚インフルかな?


後、ネットでマスクが4000円で取引されていて驚きましたww





[6434] とある竜のお話 第五章 前編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/07/05 01:37

“ポンッ!!”

どこか拍子抜けしそうな間抜けな音が部屋に響く。
コルクを力ずくで思い切り引き抜いた時に発せられる音に酷似しているそれは、残念ながら上質なワインの瓶の栓を抜いたから発生した訳ではなかった。


ならば何処からあの独特で間抜けな音は響いたか? その疑問に対する解は簡単だ、今暖炉先端からもくもくと煙を立ち上らせている指を向けて椅子に座っている童――――イデアの人指し指からだ。


「あ~~~、難しいなぁ……」


ふぅ、と軽く息を漏らしたイデアが暖炉に向けていた人差し指を眼の前に持ってくる。
少しだけ焦げ臭い、灰色の煙を上げるそれをまじまじと暫く見つめ、分からないと言わんばかりに首を力なく左右に振る。


そう現在は魔道の練習中なのだ。



そして視線を指から下、白い布に包まれた正面の腰に、正確にはそこに置いてある確かな重みを訴えてくる一冊の所々に染みがある分厚い本に送る。
この年季を感じさせる本の名前は【ファイアーの魔道書】 なんて事はない只のそこらへんにある下級魔術の発動媒体である。


そしてこの古ぼけた、最下級の希少価値など欠片もない魔道書こそイドゥンとイデアの魔道の練習の道具にして教科書である。


いや、もしかしたら後々神竜の姉弟が練習に使っていたという理由で価値がでてくるかも知れないが、少なくとも今は只の最下級の魔道書である。


魔道書にエーギルを送り込み、魔道書が送られたエーギルを魔力に変換し、変換した魔力を【炎を生み出す】という事象に変えて、その事象の操作権をイデアに送る。
それと同時にあまった魔力は操作権と同時にイデアに返され、体内でエーギルに再変換される。


そして操作権を得たイデアが炎を操るといった具合だ。
以上が魔道書を使った魔道の発動の仕方とその原理である。




しかし魔道書はあくまでも補助の道具、卓越した魔道士ならば書に頼る必要はない。何よりも術を使うのに大事なのは書ではなく、力のイメージとその力を従える強い精神力なのだ。
なお、余談ではあるが竜族等の最高位の魔道士がエーギルを余りにも書に注ぎこみすぎると、許容量を超えた力を送られた書が壊れてしまうこともあるらしい。


だが、例外というのいつでも、何処にでも存在する。中には補助の道具という枠から著しく逸脱した、それこそ手に取っただけで精神を、魂を侵食し食い荒らす程の
とてつもない力を内包した魔道書というのも確かに存在するらしい。


だが、今姉弟が手に取っているのは世に溢れんばかりにある魔道書、いわば魔術を習うものたちの教科書のような物なので特に侵食されるなどの心配は無い。


ナーガはこの練習用の魔道書を二人に渡し、簡単な使い方と術を使うときは暖炉に向けてやれと言った後水の入った木の桶を置いて、急いでいるのか直ぐに部屋から出て行ってしまった。
何処か慌しいその様子をイデアは「父」に似て意識的に作った無感動な顔で、イドゥンはお父さんが自分に構ってくれない不満を多分に込めた眼で見ていた。



「ま、きらくにやるさ……」


何処かおどけた調子でそう言うと、手を小さく二、三回ぶるんと振るってまだ少し残っていた煙と焦げ臭いにおいを払い飛ばし、何気なく、特に理由などないが、眼を隣の人物に向ける。


そして思わず


「……凄い………」

こう零してしまった。


隣の人物―――自分の姉であり、唯一この世界で気の許せる存在であるイドゥンの練習の進み具合を見たイデアの口からは驚嘆の声が出ていた。
大きな宝石のような赤と蒼の両目が眼前の世界をその二つのレンズに映し出す。



それは本当に幻想的で、何よりも神秘的な光景だった。



補助の【ファイアー】の魔道書は真ん中程度の頁から開かれており、まるでイドゥンを守護しているかのように彼女の胸元近くで滞空していて
彼女から送られるエーギルに反応し淡く、赤い炎のような色を帯びている。


瞼を閉じて意識を集中させている彼女の、暖炉へと伸ばした細い人差し指の先端へと赤い光は集中していき――



【ファイアー】



――ちいさな、本当に小さな、束ねられた藁に火を付けるのがやっとのぐらいの大きさの、炎とさえ呼べないちっぽけ過ぎる火の球が放たれた。


しかし、勢いよく射出された球は暖炉にくべられた薪にも火をつけることは適わず、薪の乾燥した表面に弾かれて、火の球は消えてしまった。効果は薪の表面から少しだけ煙が出たが、それだけだ。


「ぅん……」


最下級の術とはいえ慣れない魔術を行使した疲れを少しだけ宿した眼を開けると、じっと見ているイデアの視線に気がついたのか顔を弟のほうに向ける。
そのまま首を少しだけ、斜めにゆったりとした動作で傾けてその美しい眼にイデアを捉えた。


「どうしたの?」


「いや……あ~……」


ただ、何気なく見てただけとは気恥ずかしくて言えない。ましてはあの光景に見惚れてたなどそれこそ口が裂けても言える分けがない。
何とか元の世界の頃から、お世辞にも余り優秀とは言えない平凡な頭脳を全速力で回転させて言葉を選ぶ。


「ね、姉さんはどういうふうに魔術を、つかったの!?」



そして咄嗟に出て来た言葉がこれだ。


両手と両耳を大きく飛竜の翼のように上下にばたつかせながら半ば叫んで言うイデアの姿は第三者から見ればとても微笑ましく映るだろう。
だが当の本人、いや、本竜はこれ以上ないほどの捻りがない言葉に自身の無学を恨み、自分を殴りたいと思っていたが。


しかし弟の内心がそんなものとは露知らない彼の姉は細い指を顎に当ててイデアに答えるべく頭を動かす。
ある意味ではイデアの誤魔化すという目的は達成されていた。


「こう、ながれてきて、ぽんっ! みたいかな?」


「ぽ、ぽんっ?」


「うん。ぽんっだよ」


忙しなく華奢な手を先ほどの自分のように動かしてその感覚を説明するイドゥンにイデアが聞き返す。
いや、言葉の中の流れてくるものというのは力の流れの事だというのは何となく分かったが、それに続くポンっという擬音がどうしても理解できなかった。


イドゥンの、姉の説明を頭で理解しようとしたが……。


「やーめたっ!」

とりあえず難しく考えるのを放棄した。要は竜化の時と同じ感覚で理解するものだと自身に言い聞かせる。
自転車と同じで何度も諦めずに続けていれば慣れてくるだろうと楽観的に考える事にイデアはした。


「……」

そんなころころと表情を変える弟を不思議そうにみていたイドゥンだったが……。
何を思ったのか、今座っている大人用の足がつかない椅子から飛び降りると、そのまますぐ隣のもう1つのイデアが座っている椅子に歩み寄り。


金色の光を宿した手を一振りした。光が宙で固まり擬似的な竜石となる。


「えいっ」


空中に自分の金色のエーギルを固めて足場を作ると、それを足がかりに弟の椅子に飛び乗る。その衝撃で頑丈なつくりの椅子が少しだけ揺れた。


「ね、姉さん?!」


余りにも突飛な姉の行動にイデアが驚きの声を出す。
だが、彼の姉はそんな事は関係ないと言わんばかりにイデアに擦り寄る。


元々、ナーガ程度の体格の大人が座ってもスペースに結構余裕がある椅子なので、子供二人で座っても特に動きづらくなどはない。


イデアが身体を捻り、隣に当然のように座っているイドゥンを見る。そこに居て、確かな温もりを伝えてくるイドゥンは嬉しそうに、心の底から太陽の様に笑っていた。
それを見ていたら何故かイデアも腹のそこから笑いたいという欲求がこみ上げて来た。



おかしい事なんて1つもないのに、何故か面白くてたまらなかった。
いや、厳密には少し違うか。これは面白いから笑うのではなく。嬉しいから笑うのだ。


そう、こうして二人でいれるのが嬉しいからだ。幸せだからだ。
だから笑う。



ひとしきり小さくクスクスと似た声で笑い合うと、イデアは口を動かし、今度は意味のある言葉を出した。今なら今まで気になっていた事を聞けると思ったからだ。


「ねえ、姉さん。すこしきいていいかな?」


「なぁに?」


イドゥンが何でも聞けと! と、言わんばかりにそのまだまだ発達していない平らな胸を張り、答える。
そんな姉に少しだけ前の世界で言われていた「萌え」なるものを感じながらイデアが言う。


「姉さんは魔術のちからを手に入れたら、そのちからで何をしたい?」


予想外な質問にイデアの姉がほんの少しだけ固まった。てっきりあの魔道の入門書に書かれている事に対しての質問が来ると思っていた彼女には
この質問は本当に予想外だった。


実は彼女、少しだけだが寝る時間も削ってあの本の中身を完全に暗記しているのだ。
……最も、イデアも何とかあの本を暗記していることをイドゥンはまだ知らないが。


だが、予想外ではあったが、決して難しい質問ではなかった為イドゥンは答えられた。要は自分が手に入れた力の振るい方を答えればいいのだから。


彼女は力の振るい方などという哲学染みた小難しい事を理解できる程、成熟などしていないので心のあるがままに答えた。


「なにもしないよ」


「え?」


イデアが驚きとは少し違う、ぽかーんとした顔になった。そんな彼にイドゥンは続ける。


「だって、イデアやお父さんと一緒に入られれば、わたしは満足だもん」


つまり、彼女は、イドゥンは、家族と一緒に居られればそれでいい、と、いうことだ。力を使って何かを手に入れたいとは思わない、それが彼女の答えだった。


「イデアは?」


今度は逆にイドゥンがイデアに問う。力を手に入れたらその力で何をするのかと。
少しだけう~と唸って考えてたイデアだったが、やがて口を動かし答えた。


「とりあえず、自分と姉さんを守るぐらいかな?」


「父」であるナーガは庇護の対象には入れない。あれは守るとかそういう次元の存在ではないからだ。むしろ相手が飛竜の大群だろうと、いつか見た竜の大群だろうと
眉ひとつ動かさない無表情のまま次々と敵対するものを容赦なく八つ裂きにしていく様子がイデアにはまざまざとイメージできた。そんな男を守れる筈がない。


「じゃ、私もイデアを守りたいなぁ……」


「いやいや、それは……」


笑いながらそれは男として色々と面子の問題が、と、言おうとしたイデアだったが……、不意に聞こえてきた音に言葉を止めた。
イドゥンもイデアの裾を握ったまま音が聞こえてくる方向――窓に眼を向ける。














             それは「音」ではなく「音楽」数ヶ月前に一度聴いたあの春の陽気を表した様な音色。イデアが飛べる様になったら奏者に会いに行こうと交わした約束。









「きたね」


「うん」


手短にそれだけを言うと、双子が椅子から降りて窓に向かって駆け寄っていく。大きな装飾の入った窓を手で開けてバルコニーに出る。
太陽はまだ高く昇っており、今日もベルン地方をその暖かい光で照らしている。


窓を閉める前にイドゥンがその手に厚いローブを2つ招きよせる。今は前回の夜とは違い、昼前とはいえ上空では寒いかもしれないからだ。


「はい」


紫と白のローブの内、白い方をイデアに渡す。


「ありがとう」


弟の感謝に笑顔で答える。そして自分は残った紫色のローブを羽織る。予想していたとはいえ、やはり少しだけ暑かった。



「うわぁ……」


イデアがバルコニーからの眺めに心底驚嘆した声を出した。
雲ひとつない今日は地平線の先までベルン地方の山々がはっきりと見えて、姉弟の部屋から望める景色は正にこの世に並ぶものなき絶景としか表せなかった。


もしかするとナーガがこの部屋を姉弟に与えたのはこの景色を見せたかったからかも知れない。
ずっと先に小さく空に見える点は多分飛竜だろう。


「この、上からだね」


イドゥンが音楽が聞こえてくる遥か高みを見上げながら言う。正に断崖絶壁なその城壁の傾斜にイデアが吸い込まれる様な錯覚を覚えた。
しかし、今からそこを飛んで昇るのだ。そう思うと少しだけの恐怖感がイデアを侵食する。



音色が変わった。今度は春の陽気から一転して冬の氷を思わせる音色に。


イドゥンが懐から金色の竜石を取り出す。そしてそこから自身の竜としての巨大な力の一部を引き出す。
光が一瞬だけ周囲を包むと彼女の背には二対四翼のまだまだ未発達とはいえ、立派な竜の翼があった。ローブから顔を覗かせたそれがパタパタと上下に動く。


「ほら? イデアも……」


イドゥンがイデアに翼を出すように言う。


「う、、、ん」


イデアが躊躇いがちな声を出す。正直な話、出来るとは思っているが、あくまでも思うだけなのでもしかしたら失敗するかも知れない事を彼は恐れていた。
だが、そんな彼の心配を彼の姉はいとも簡単に吹き飛ばす。


「ほら、いこ?」


イデアの両手を握りしめ、笑いかける。それだけでイデアの不安は消し飛んだ。
そうだ、自分は姉さんと一緒に奏者に会うんだ、こんな所でチンタラやってる暇はないと。


イデアが力強く頷き、竜石を取り出す。そして竜の姿に戻った時の独特な感覚を思い出しつつ力を引き出していく。






光が、エーギルが、はじけた。
そして辺りに撒き散らされた光がイデアの、主の背中に集まり翼の形状をとる。


最後に光が固まり、固体となる。



それだけ、たったそれだけでイデアの背には四枚の彼の姉と同じ形状の翼が誕生した。



「あれ?」


余りにも予想外れの呆気なさにイデアが小さく首をかしげた。
しかし背中に新たに生まれた4つの感覚は翼の展開に無事成功したことを伝えてきていた。


試しに動けという「意思」を送ってみる。ちゃんと四枚の翼はイデアの脳が命じた通りに動いた。


「きれいだよ」


姉がイデアの翼をまじまじと見つめながら何処か興奮した声音で言う。彼女も弟がまた一歩成長した事が嬉しいのだ。もしかすると当の本人以上に喜んでいるのかも知れない。



「あの、姉さん……手、握ったままでいい?」


その本人、イデアが遠慮がちに姉にお願いをする。竜の姿ではなく人の姿での飛行は初めてだから色々と怖いのだ。何故ならば、落ちたら即死の可能性が竜の姿の時より遥かに高いからだ。
そんなイデアに彼の姉は万人が見惚れる笑みで「いいよ」と返した。


「絶対に離さないでよ?」


二人で並び、音色を響かせてくる殿の山肌の様な絶壁を見上げる。少しだけ緊張でイデアの声が震えた。


「うん」


双子が僅かな誤差も無く、全く同じタイミングで、全く同じ形状の翼を羽ばたかせる。
2、3回慣れるように小さく翼を動かすと、翼が羽を最大にまで広げて地を打つ。


1回


2回


そして3回めの力強い羽ばたき。


フワリと、二人の身体が宙に浮き上がった。そのままグングンと高度を上げていく。
少しづづだが、確実に上昇を続け、風に乗って飛んでくる音色を頼りに奏者の元に近づいていく。


途中何度かイデアが風に煽られるなどしてバランスを崩したが、それらは全てイドゥンが支えて、事なきを得た。


どんどん二人のいたバルコニーが小さくなっていく。


そして、遂に、奏者がいるバルコニーまでついた。奏者がいるのは間違いなかった。何故ならば直ぐそこから音楽が聞こえてくるからだ。
今なら、この音楽がどんな楽器から産み出されているかもはっきりと分かった。



独特な、柔らかい音色。金管楽器では無理な優しい音色。木製の楽器。
恐らくは笛か何かだろう。イデアはそう思った。




「姉、さん……見てみる?」


「う……ん」


二人が恐る恐る、手すりに手を伸ばして、身体を乗り出して、顔を覗かせる。
ごくりと、二人のどちらかが生唾を飲み込んだ。


そこに奏者はいた。イデアの予想通り木製の横笛を吹き鳴らしながら。蒼い髪の女性だった。
バルコニーに置いた木製の黒い椅子に座り、笛を口元にあてて、鳴らしている。



イドゥンが女性の口から音をだしている物体(笛)に興味の視線を向ける。


だが、イデアは笛よりもその奏者を観察していた。そう、彼の「父」であるナーガのように。


イデアの眼を惹いたのは、その、人間離れした美しさと女性の纏っているオーラとでも言うべきものだ。
ナーガと同じようなゆったりと身体を覆う白いローブに包まれても分かる豊満な肉体、深海の澄み切った水を連想させる腰まである長髪。


白く健康的な肌。眼は今は閉じられているが、遠目でも分かる優しそうなまなじり。そして何より纏っている「母性」とでも言うべきオーラにイデアは強く惹かれ、魅力された。


少なくともイデアはこれほどまでに美しい女性はイドゥンを除けば見た事がなかった。いや、まだまだ子供のイドゥンではこの女性の美しさには勝てないだろう。



ぼーと双子が女性を観察している内に曲が終わり、女性が瞼を開け、その特徴的な赤い眼で世界を見る。
そして、視線を感じたのか、首を上げて、バルコニーの手すりに掴まり浮遊している双子を見た。



イドゥンとイデアの視線が女性の視線と交差する。そのまま3秒間三人は時間が止まったかの如く硬直した。
女性が何とか眼だけを動かし二人の背の翼を見る。金色の翼……神竜族の翼を。


「え? ええええぇぇぇ!?」


女性の、戸惑いの声が辺りに虚しく響き渡り、その声は山彦で何重にも反射された。




あとがき

皆さんお久しぶりです。マスクです。覚えていてくださるとうれしいです。
とりあえず雑務は全て片付けたので今回から更新を再開したいと思います。

更新が遅れてしまい誠に申し訳ありません。


久しぶりに執筆してみたら、SSの書き方を忘れていて本当に焦りましたw


何はともあれ、これからもよろしくお願いします!



追伸 ハリーポッターの新作映画のダンブルドアがアトスに見えて仕方がありませんw


では、また次回の更新にてお会いしましょう!!





[6434] とある竜のお話 第五章 中篇
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/07/20 01:34
「情けない姿をお見せしてしまい、誠に申し訳ありません……」




唐突だが、イデアは酷く困惑していた。眼の前の光景にだ。
幻想的な音色に強く惹かれて、その音色を奏でている奏者に一目会いたいと想い、姉と共に空を飛び奏者の下に向かい、無事に奏者である美しい女性に会うことには成功した。




ここまではいい。予想通りだ。何も問題はない。その次に自分達二人を見た女性が驚き、悲鳴とも取れる絶叫を上げたが、これも特に驚く事ではない。
……だって、視線を感じて瞼を開けてみたら、視界に映ったのが宙に浮く子供だったら驚くだろう? 少なくとも卒倒する自信がイデアにはあった。



イデアはそう考えていた。


だが、真実は少しだけイデアの思っていた物とは違う。




本当は女性が驚いた理由は二人が神竜族だったからなのだ。だが、その事をイドゥンとイデアは知る由もなかった。自分達が竜族の間でどのような存在なのか姉弟はまだ自覚してはいない。
女性からしてみれば、眼の前にいきなり人間で言う所の王族、それも第一王子と第一王女が居たことになるのだ。その衝撃は推して知るべきである。



そして、衝撃から何とか立ち直った女性が次に取った行動にイデアは大いに困惑することになる。
反動で椅子が倒れるほど激しく慌てて立ち上がり、少しだけ乱れていたローブを急いで正すと、足早に手すりの奥にいる、姉弟の前に歩み寄り深く頭を下げた。




まるで二人の臣下であるかの様に。





そして、冒頭の言葉につながる。



「え、え~~っと……」



イデアがどうすればいいのか分からず、困った声を出す。前の世界も含めて今まで誰かに頭を下げられた事なんてない彼には、どう対応すればいいのか何て皆目見当もつかなかった。
しかも、初めて自分に頭を下げたのが絶世という言葉が陳腐に思える程の美女なのだ、この状況を如何すればいいのかなんて分かる訳がない。



と、そこで彼の姉が行動を起こした。繋いでいたイデアの手をやんわりと解くと、手すりを飛んで乗り越えバルコニーの敷地内に入る。同時に四枚の翼を消す。
そして女性の前に行くと、弟から習った初対面の人にまず行う「お辞儀」をして声を掛けた。



「はじめまして、わたしはイドゥン。おねえさんの名前は?」



女性がその赤い眼にイデア以上の困惑を宿し、顔を上げた。その顔には今言われた事の意味がよく分からないという戸惑いの感情があった。



「…………」



少しの間女性は呆気に取られて、イドゥンを見ていたが……、数瞬の間を使って、持ち直すと口を開いた。但し、吐き出された声は少しだけ震えていたが。



「わ、私は、イリアのエイナールと言います……」



「よろしくね エイナールさん!」



イドゥンが弟に教わった他人とのコミュニケーション術のひとつである「握手」をすべく右手を伸ばす。
エイナールが伸ばされたその手と自分の手を交互に数回みて、更に困った顔を浮かべる。



しかし上の者が握手を求めているのに、下の存在である自分がそれに応じない訳にはいかない。




更に数秒悩んだ彼女は、緊張でガクガク震える腕を何とか気合で動かし、イドゥンの手を握った。自分の主の娘の手を、だ。



「よ、よろしくお願いします……」



2、3秒、がっちりと手を握り合うと、離す。



イドゥンとエイナールのやり取り……いや、正確にはエイナールを、彼女を食い入るように見ていたイデアが動いた。
翼を小さく動かすと、手すりを飛び越えバルコニーの石畳の上に降り立つ。そして姉と同じように翼を収納する。



小さな歩幅でエイナールの近くまで歩み寄ると



「イデアといいます。よろしくお願いします」



挨拶をしてペコリと頭を下げた。エイナールの動きがほんの少しだけだが、完全に停止した。くどい様だが、この姉弟は人で言う所の王族である。
そしてイデアはこの世界での「頭を下げる」という行為の重要性をまだあまり理解してはいなかった。



「よ、よろしくおねが、、、い、、します……?」



最後が疑問系な口調になったのは彼女の内心の表れだろう。つまり、パニック状態だ。
エイナールが胸にそれとなく手をあてて、姉弟に気がつかれない様に注意して何度か深呼吸をする。混乱しきっていた頭が少しだけ正常になった。



しかし、まだどちらかというと混乱気味だ。



先ずは何でここにこの二人がいるのかを聞かねばなるまい。エイナールは膝を折り、目線を二人に合わせ、口を開いた。



「あの、よろしいでしょうか?」



「なぁに? エイナールさん?」



イドゥンが首を傾げてクエスチョンマークを出す。何? と、全身で聞いてくるその様子はとても可愛らしくエイナールには見えた。



「どうして……このような所に?」



彼女の質問には弟のイデアが答えた。まだ産まれて1年もたっていないのに、目上の人に接する大人みたいな態度でだ。
だが、エイナールはイデアの頬がほんの僅かだけ普段より赤みを帯びていた事に気がつかなかった。



「笛の、音に惹かれてきました」


「あ……」


エイナールがしまったと言わんばかりに声をだす。まさか姉弟の部屋まで音が届くとは思わなかったのだ。



「ふ、不愉快でしたか?」



恐る恐るエイナールが訪ねると……姉弟が違うと首を横に大きく振る。



そして全く同時にズイ、と、身を乗り出しエイナールに顔を近づけた。



「「すごかった!!」」



姉弟が声を合わせ、憧れと好奇心に眼を、太陽の光を反射させている氷の様に輝かせながら、同じ言葉を発する。



その小動物を思わせる姉弟の様子が余りにも可愛らしく微笑ましかった為……。



「……ん……」



思わずエイナールは笑っていた。手を口元に当てて上品にクスクスと美しく笑う。
さっきまでの緊張が自分の身体から抜けていくのが彼女には分かった。



ふぅ、と、今度はさっきよりも穏やかに小さく息を吐き、精神を落ち着かせ、心を完全に平常に戻す。



完全に普段の状態に戻ったエイナールが二人に視線を戻すと、姉弟はまだ彼女を見ていた。竜族の中でも特徴的な紅と蒼の眼が無邪気に輝いていて、とても美しい。



「あの音はどうやって出すの?」



イドゥンが興味深々に訪ねる。まだまだ幼く、ナーガとイデアに教えられた事意外はほとんど知らない彼女は、あの音を出す物体の正体を一刻も早く知りたかった。



「あ、はい。あの音を出していたのはですねぇ……」



ゴソゴソと純白の長衣の懐に手を差し入れ、先ほどそこに放り込んだ笛を探して、取り出す。



「おお~~」



イドゥンが取り出された木製の横笛を見て喜びと好奇心の混じった声を出す。



「えっ、と」



さっきは気が動転していて乱暴に懐に放り込んだため、そのせいで傷などがついてないか心配なのでグルッと一通り回して見る。


「よかったぁ……」


傷1つ付いてない事を確認するとエイナールは安堵の息を漏らした。そのまま笛を愛おしそうに優しく、さするように撫でる。



「大切な物なんですね」


イデアがエイナールの仕草に見惚れながら、言う。
エイナールが頷き、小さな子供がするような無邪気な微笑をその端正な顔に浮かべて答えた。



「はい。すごく、すごく、思い入れがあるものなんです……」



間違いなく万人を魅力する笑みで笛を撫でるエイナールは酷く艶やかだった。少なくともイデアの視線を釘付けにするほどには。



「あの、イデア様? よろしいでしょうか?」



「な、何ですか? エイナールさん」



笛を撫でるのを止めたエイナールに突然自分の名を呼ばれ、エイナールに見入っていたイデアが慌てて答える。



「私に敬語は不要です。エイナールと呼び捨てにしてください」


「なんで?」


イドゥンが眼を瞬かせながらイデアの疑問を代弁した。
エイナールが優しげな、しかし凛とした、確たる意思を宿した赤い眼で双子の色違いの眼を真正面から見る。



声を少し低くして、まるで母が子に言い聞かせるように姉弟に語りかける。




「御二方は神竜族、我ら竜族の頂点に君臨する者。その様な方が私のような一氷竜に気を使う必要など御座いません」



「「……」」



姉弟がエイナールの言葉の意味が分からないと言わんばかりに沈黙する。
びゅうっと一陣の生暖かい風が吹き、姉弟のローブとエイナールの蒼い長髪を揺らした。美しい髪に隠されていた彼女の耳はやはり長かった。



重々しい空気がバルコニーを完全に支配する。



と。



エイナールが破顔し、正しく氷の竜に相応しい凛とした顔が、実の子を見守る母親のような優しげな顔になる。
そして何とか二人でも理解できそうな言葉を脳内で検索する。



そして出て来た言葉が――



「つまりは、気さくに接してくださいという事です」



「「分かった!」」



イドゥンが笑顔で、イデアが少し納得いかない顔で頷く。



「ねぇ、エイナール……神竜って、そんなに凄いの?」



「さん」と続けそうになるのを意識的に押さえ込み、イデアがまだナーガからも詳しく学んでないことを問う。
【神竜】という種族なだけでここまで他に尊重される理由がイデアにはよく分からなかった。




「神竜族は文字通り、我ら竜族にとっての【神】といえます。神竜はその力で竜族を守り育み、知識と知恵で導く。神竜と言うのはそんな存在なんです」




本来は【エーギル】の量と質やら、神竜だけの能力やら、竜族の歴史などの深い部分もあるのだが
そういった小難しい部分はいずれ彼らの父が教える事になるので極力排除して、今は子供でも分かりやすく噛み砕いてエイナールは教える。



「……」



イデアが無言で首を緩慢に上下に動かす。
言われた意味は何となく分かるが、火の玉1つ出すのに四苦八苦している自分が、彼女にそこまで言われるほど強大な存在だとは到底思えなかった。



それに何より思った事が―――


(宗教、なのかな……?)


実際、竜族が神竜に向ける想いと信頼は人が神に向ける物と寸分も違わないのだが、何かを信仰した事など今までで一度もないイデアにはよく分からなかった。
イデアの前の世界の宗教と違う点と言えば、神がその場に形を持って居ると言う事と、その神が責任を負う事もあるという事ぐらいか。



(ま、今考えても意味なんてないか)



どうせ長く生きれば詳しく知る機会もあるだろと思い、今の所は「強大な存在だから他者に頼られる」と自己完結する。



そして同時に









                              


                                 自分がそんな大勢に信仰される様な存在に成るなんて無理だなと、イデアは胸の中で思った。










「エイナール、あのきれいな音はどうやって出すの?」


少しだけ欝に陥りかけたイデアの思考を無邪気な姉の声が強引に現実に引き戻す。見れば、イドゥンがエイナールに「笛」について聞いていた。


「それは、こうして、ですね……」


エイナールが「失礼」とイドゥンに断りを入れて、立ち上がり笛を唇の少しだけ下に当てる。その細く白い指で、細長い横笛の表面にある穴を塞ぐ。瞼を降ろし、集中する。



先ずは基本的な音階。ドレミファソラシドに近い音を出す。そして次はその逆にドシラソファミレドと音階を落としていく。
その次はランダムに低いドから高いドまでの音を吹き鳴らす。



同じ音でも強弱をという表情を付け、決して聞きなれさせない。
轟々と濁流のように激しく、サラサラと湧き水のように優しく、音程を変え、様々な音色を横笛一本で生み出していく。





既にそれが1つの名だたる曲として成立してしまいそうな程にエイナールの奏でる音色は美しく洗練されていた。



「すごいなぁ……」



イドゥンが感嘆の声を出す。イデアも同じ気持ちだった。音楽に詳しくないイデアも、エイナールは非凡な奏者なのだと分かった。


一通り演奏を終えたエイナールが笛を口元から離す。そして瞼を開けて、集中を解く。



「どうでしょうか?」



そして自らの技を二人に誇るように無邪気に笑う。しかし、彼女の言葉に答えたのはイドゥンでもイデアでもなく、全くの第三者だった。







「見事だ」




喜怒哀楽と言う物が全く含まれていないのに、不思議なほどよく通る声がバルコニーに響いた。
三人が声の主の方を見る。





姉弟の「父」ナーガが手すりの外側――――足場などない宙に翼も出さずに立っていた。そして相も変わらず、何も感情を読めない眼で三人を見ている。



ナーガの姿に気がついたエイナールが静かにその場で自身らの主に平伏す。



「面を上げよ」


宙を滑るようにナーガがエイナール達に近づく。
人が歩くとき特有の肩の上下の動きが全く無い、その朧気な動きはナーガの無表情な顔と希薄な気配も合わさってイデアには亡霊が自分達に近づいてくる様に見えた。



ここにナーガが現れた事に関してはイデアは特に疑問には思わなかった。何故ならばこの男ならばどんな所に現れても不思議ではないと思っていたからだ。



「子らが世話になった」



それだけをエイナールに言うと、次は視線を姉弟に移し



「昼食の時間だ。続きは後にせよ」



二人に手招きをする。イドゥンが翼を出現させると大好きな「父」に文字通り飛び込んだ。父の手を取り、甘えるように笑う。
ナーガがイドゥンの背に現れた四枚の竜の翼をみて、その眼をほんの僅かに細めた。



そして探るように自分の娘に聞く。



「もう人の姿のままで飛行できるようになったのか?」



「うん! それにイデアも出来るよ!!」



ナーガが眼を動かし、イデアに向ける。



「出して見せよ」



「う、うん……」



イデアが少しだけ冷や汗で背を濡らしながら頷く。さながらその気分は竜に睨まれた人間と言った所か。
石を取り出し、先ほどと同じ要領で竜の力を操り金色の「翼」を出現させる。


ナーガが一言も発さずにその翼をしげしげと見極める様に眺める。



「…………」



「ど、どう、かな……?」



「いや、目出度い事だ。だが、飛行するのは快晴で吹く風が弱い時だけにせよ。そして夜間の飛行は許可せん」


少しだけの圧力を込めた声で注意する。二人がナーガの怒気ともいえる物を敏感に感じ取り必死に首を縦に振る。
落ちたら即死なのだ。これぐらいの釘は必要だろう。念の為、後で二人の部屋のバルコニーの下方一帯に投網の様な形状の結界をナーガは張って置く事にした。



ぐ~~。



「父」の言葉が終わると同時に、間抜けな空腹を知らせるあの音がイドゥンとイデアの腹から同時に響いた。
何処までも共鳴している姉弟にナーガがやれやれと溜め息を吐いた。



お前もこっちに来いとイデアに手招きし。自分の前に立たせる。



「ではな、エイナール。また暇を持て余した時にでも二人の相手をしてやってくれ」



「またね、エイナール! また笛で呼んでね」


二人が一先ずの別れの挨拶をし、イデアも無言ながら少し青い顔のまま笑顔で手を振る。
そして神竜の父子は自らの部屋に帰っていった。




その光景を見てエイナールがクスクスと上品に笑う。余りにもあの三人が、
強いてはイドゥンと自身の主が幸せそうだったから、何だか自分も胸の辺りがポカポカしてきたから笑った。




そして、また快晴の日にでも笛を吹いて、あの神竜の姉弟と楽しい時間を共にしたいと思った。




エイナールの趣味である笛の演奏に、もう1つの楽しみが追加されたのだった。









あとがき


こんばんは。


書けば書くほど当初のプロットから離れていき、軽く恐怖しているマスクです。
物語を書くのって凄く難しいですね。


では、次回の更新にてお会いしましょう。



[6434] とある竜のお話 第五章 後編
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/07/29 05:10
飛竜も寝静まる月と星だけが煌々と輝く深夜、愛用の横笛の手入れを行っていたエイナールは自室の扉に近づく1つの気配を感じて顔を上げた。
こんな時間に誰かな? と思い、竜族の優れた気配探知能力をそちらに仕向ける。



あの双子の姉弟が近づいてきた時は全神経を音と楽器に集中させるほど演奏に夢中になっていて、二人の接近に気がつく事は出来なかったが
エイナールは、というよりも氷竜全般は、神竜に匹敵するほどの優れた探知力を持ってるのだ。



人で言うところの第6感、神竜を除く様々な竜族の中でも、氷竜族はそれが異常に発達した種とも言えるほどだ。



探知能力が鋭い氷竜や神竜の中には、極まれにある程度確定された未来がはっきりと「見える」という竜もいるそうだが
そんな事が出来る竜をエイナールは知らなかった。全能とも言える成体の神竜でも未来を完全に見通せる存在はほぼいない。



あの最強の神竜ナーガでさえも未来は「予想」することしか出来ない。




だが、未来予知の能力が無くともエイナールは気配を読むことに特化した竜であり、その中でもかなり鋭い部類に入る。
そして裏を返せば、その探知能力がその剣よりも鋭い効力を全くと言って発揮しなくなるほど、エイナールは本気で演奏を行っているという事になる。




話を戻そう。



エイナールはほんの数秒だけ意識を接近してくる気配に向けていたが直ぐにそれを霧散させる。誰が近づいて来ているのかが特定できたからだ。
自分の氷という属性とは正反対――この炎の様なエーギルの持ち主は自身の友だから。



石造りの廊下を、足音どころかありとあらゆる物音1つ立てずその「友」は移動する。そしてエイナールの部屋の前に来ると、ピタリとその動きを止めた。
まるでエイナールが気がついて声を掛けてくれるのを待っているかの様に。




フフフと、小さくエイナールは愉快だと言わんばかりに笑みを零すと、扉に向かって―――正確にはその向こう側にいるであろう「親友」にお望み通り悪戯っぽく声を掛けた。



「入ってもいいですよぉ? アンナ」


ビシリと名前を当てられた扉の向こう側の「友」は少しの間固まった後、諦めた様に扉を開けて部屋に入ってきた。
入室した「友」一目で“紅”を連想させる女性――火竜族のアンナは苦笑いを浮かべながら、後ろ手で扉を閉めて、自分とは正反対の種族である氷竜エイナールに声を掛ける。



「やっぱり、分かっちゃうのね……」


肩を竦めて言うアンナにエイナールが少しだけ意地の悪い笑顔でにこやかに答えた。



「えぇ、それはもう、手に取るように」


アンナが小さく溜め息を吐く。気配を完全に絶つ等つ事を始めとした「そちらの方面」の自分の能力に少なからず自身がある彼女には少し耳が痛い言葉だった。
だが誤解してはいけない。決してアンナの能力が低い訳ではないのだ。むしろその逆、アンナのそういった能力は達人並と言っても過言ではない。



ただ、エイナールの――しいては氷竜の気配探知能力が鋭すぎる。ただそれだけだ。



「笛を吹いてる時なら楽なのに」



アンナが薄ら笑いを口に浮かべ、炎の様な紅い眼でエイナールの手元の笛を見つめて言う。
演奏中のエイナールは全ての集中力を笛にまわしており(自分の世界に入ってるとも言える)無防備なのだ。




「笛の演奏は私の数少ない特技の一つですから」



優しく手元の笛を布で撫でてから、布で柔らかく包み込み、机の上の置き場に安置する。



「一杯いかがかしら?」


どこから取り出したのか、何時の間にか肩に掲げた樽を親友に示してアンナは言った。
樽から少しだけ漏れ出ているワイン特有の独特の葡萄の甘い香りを感じた氷竜は自分の小腹が空くのを敏感に感じた。



「ええ。喜んで」



席から立ち上がりアンナの座る椅子を用意しつつエイナールはそう言うと、ワインを割るための水と氷、そして焼き菓子を用意しにかかった。









「それで、何か話でもあるのですか?」


赤とも紫とも見えるワインの入った銀色の杯を小さく揺らしながら、エイナールが言う。


「ええ、その為に来たんだもの」


そう答えるアンナの顔は何処か暗い。エイナールはこんなアンナの表情は久しぶりに見た。


「どうしたの?」


返事の変わりにアンナは一枚の丸められた羊皮紙を懐から取り出し、エイナールに差し出した。
エイナールがそれを受け取り、広げて中身に眼を通す。


「これって……」



少し読み進めたエイナールの表情が険しくなり、その紅い眼が爛々と怪しい輝きを宿す。



「最終的に完成するのは10年程先になるでしょうが、それまでに【残る】か【行く】か決めておくのね」



エイナールの顔の険が深くなった。残された時間が余りにも少ない。



10年と言う年月は長い様で案外短い。特に人と違い寿命等無いに等しい竜にとってはあっという間だ。
エイナールが羊皮紙を丸めてアンナに返す。



「まだ……正直な話、私には決められませんね……」



その瞳は少しだけ揺れていた。揺れの中にあるのは故郷に対する強い想い。



「……そう」


アンナが何処か無理して作ったと思わせる笑みを浮かべて、羊皮紙を受け取り


「失礼するわね」



“ボッ”



紙が彼女の手から消えた。いや、正確に言うと燃えているという過程が見えない程の速度で燃え尽きた。
残った灰も更に竜の火に焼かれて極小の火の粉になって宙に飲み込まれる様に消えていく。



エイナールがパラパラと消えていく火の粉を遠い物を見るような眼で見ながら、ちびりと杯に口を付けて、ワインを少しだけ飲む。
甘いような酸っぱいような何とも言えない味がした。心なしか、いつも飲んでいる物より味が濃い気がする。



しかし少しだけ胸の中のモヤモヤが晴れた気がした。




「早いうちに決めなさい」



気楽な、しかし何処か強い口調でそう言うと、アンナも用意された自分の杯に手を伸ばして、優雅にワインを飲み干す。
そして次に小皿に盛られた焼き菓子を指で掴み、食す。凄く、甘い。



「まぁ、暗い話は部屋の隅にでも置いといて……今はこの時間を楽しみましょ」



アンナが大丈夫と慰めるように、満面の笑みを浮かべる。あの神竜の姉弟の笑み程の効果はないが、それでもエイナールは胸が少しだけ軽くなった気がした。
グイッと杯を傾け、中身を一気に飲み干す。


「何か、近況で変わった事とかありますの?」



エイナールと自分の杯に新しいワインを注ぎながら、純粋な好奇心でアンナが訊ねる。そして自分の杯をエイナールの方に近づける。



エイナールの脳裏に浮かんだのは今日出会ったあの神竜の姉弟。しかし、幼い子供に気付かれずに接近されたなんて言う気にはなれなかったので違う話題を
記憶から検索する。暫く検索すると1つだけあった。



「そう言えば、面白い人間がいたんですよ」



差し出された杯にエイナールが少しだけ竜の「力」を込めてフッと息を軽く吹きかける、それだけで杯の中身のワインが程よく冷やされた。



「面白い人間?」



アンナが冷やされた杯を傾けて中身を飲む。外見を平常に保ち、内心をなるべく外には出さない様にしながら。
彼女の頭の中には面白い人間と聞いて見ているだけで不愉快に、そして不安になる「あの男」が浮かんでいたのだ。




……もしかして、エイナールに接触したのか?



アンナの脳裏をふと、そんな不安がよぎる。この人間に特別優しい氷竜を騙そうと言うのか? 
もしも、そんな事をしたらナーガが生かしてはおかない。今度こそあの「影」はエレブから完全に消し去られるだろう。


……最も、アンナにはあの「影」がそこまで愚かとは思えないが、もし、という場合もあるのだ。


「画家だそうで、私の絵を描いてくれたんです。それが凄く上手なんですよ……」


嬉しそうに、ある程度語るとワインを飲み、一区切りつける。葡萄が醗酵した液体で喉を潤してから再び口を開く。



「何というか、見ていて凄く穏やかな気持ちになれる絵を描く人でしたねぇ」


「その人の名前は?」


ワインがまわって来たのか、エイナールが少し赤くなった顔で考える。



「え~~、っと、忘れちゃいました」



アンナがハァと溜め息を吐く。印象に残ってるなら名前ぐらい覚えてやれよと内心思った。



「顔は覚えて?」



「はい。そこまでは忘れませんよ~、濃い緑色の髪の毛の、まだまだ少年でしたね」



「具体的には何歳ぐらいですの?」



「えっと……多分、14~5歳だと思いますよぉ?」



エイナールが艶やかな赤い顔で、身体を上下左右に揺らしながら答える。そろそろ本格的に酔っ払ってきたらしい。



アンナがほっと胸を撫で下ろす。以前ここを訪ねたアウダモーゼとかいう男はどう見ても14~5歳には見えないからだ。
自分の考えすぎだと分かって安心したのだ。


アンナが安心していると……。


どさり


エイナールが盛大に椅子から落ちた。そのまま絨毯の敷かれた床に倒れて動かない。見るとスゥスゥという寝息と共に肩が上下に動いている。



「……思ったよりも早かったわね……」


アンナがふぅ、と、息を吐く。この氷竜と長い付き合いの彼女にはエイナールが酒の類に極端に弱いことを知っていた。
それでも合えて、いつも飲んでいる物よりかなり純度の高いワインを持ってきて彼女に飲ませたのだ。


「今はゆっくり眠りなさいな……」



“あんな事”を知って、更には決断をする様に求められたのだ。受けたショックは決して小さくないだろう。今は酒の力でも何でもいいから何も考えずに眠って欲しい。




取りあえず、床に眠っているエイナールを力を使って「持ち上げる」とそのままベットの上に横たわらせ、上に毛布をかける。
アンナがチラリと寝顔を盗み見る。彼女の視界に映ったのはイリア地方の人間達に氷竜様と呼ばれ、崇められているとはとても思えない程、無防備な寝顔だった。



こうなってしまえば、気配探知能力なんて使える訳が無い。



「ふふふ……今度は私の勝ちね?」



見事騙しきってエイナールを寝かせたアンナはそう呟く。これで気配を悟られた時の借りは返したとばかりに。
何も気配の遮断だけが「そちらの方面」の能力ではないのだ。



「お休み」



最後に杯や小皿等を片付けると、アンナはまだ多量のワインの入った樽を持って自室に戻る。勿論部屋に術で外側から鍵を掛けるのを忘れない。





あとがき




今回は番外にするか、後編にするか、最後まで悩みました。
次章は少し年月が飛ぶので幾つか間に番外を挟みたいと思っています。


では、次回の更新にてお会いしましょう。





[6434] とある竜のお話 幕間 【門にて】
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/09/09 19:01
注 少しだけですが、聖魔の光石に出てくる存在が登場します。





ベルンの遥か西方の海に存在する常に深い霧に覆われ、まるで全ての侵入者を拒絶するかの様な風貌の島――『ヴァロール島』
ナーガに賛同し彼に従う派閥の竜族達の「殿」に次ぐ規模の施設が多数存在するこの島に竜族の王ナーガは空間を超越する転移の術を用いて訪れていた。



勿論、「殿」に目くらましとして自身の完全とも言える竜の眼を誤魔化せられる程の出来の分身を置いておくのも忘れてはいない。
万が一にでも対抗派閥の者達にここを見つけられる訳にはいかないのだ。絶対に。




そもそも何故ナーガはこんな辺境の孤島にその足をわざわざ運んだか? そして何故このような場所に拠点を築いたか?



その二つの疑問の答えは彼の眼の前にある。



巨大。その建築物を表す言葉にはこれ以外存在しえない。これの前では人の築く城など赤子の玩具にも見える。



膨大な数のそれ一つ一つに風化を防ぐ術を掛けられた石を積み上げ、組み合わせ、竜の持てうる全ての技術を投入して建造された
一目で人が作ったものではないと理解できる、所々にこれまた巨大な装飾の数々を施された、竜を奉る神殿にも似たどこか神聖な雰囲気を漂わせる外観の灰色の建造物。



それがこの「門」だ。正確に言えばこれはまだ入り口の部分なのだが。




これほど巨大な建造物を人間にも、そして竜にも感づかれず作るのにヴァロールという辺境の島ほど適した場所はエレブにはあまり存在し得ないからだ。
他に挙がっていた候補といえば、西方三島の西南、ミスル半島の西に存在するカフチという島ぐらいだ。




今日はこの「門」の建造具合を確かめに来たのだ。定期的な視察とも言える。
大量の石畳に覆われて整備された道を、純白のマントを翻しながらナーガは悠々と闊歩していく。



見るだけで圧倒される様な建物の入り口をまるで自身の家の入り口のように何の気負いもなく潜り、目的の場所を目指して歩を進める。
石の上を革靴で歩く時のカツカツと言う足音もなく、肩の上下の動きも全く無い、イデアに「幽鬼」と評された動きで滑るように奥へ奥へと向かう。



「門」の中は殿のイドゥン、イデアが産まれた祭壇と同じように壁や床そのものが竜族の技術で薄く発光している為、歩く分には問題ない。



途中幾体かの人影とすれ違うが、彼らは皆ナーガの事が見えてないかの様に、全員黙々と生気を感じられない動きで自身に与えられた仕事を機械的にこなしていた。



……不気味なまでに。



この「門」の建造に従事している者に人間は誰一人居ない。居るのは人間に似せて「創られた」文字通りの人形【モルフ】と人の姿に変身している竜達だけだ。



竜族のエーギルを用いた光魔法の高位の術によって創られる【モルフ】は基本的に思考をしない。創造主の命令に永遠に従い続けるだけだ。
勿論、そこには自分の命に対する執着など欠片もない。



死ねと創造主が命令すれば躊躇うことなく身近な道具を駆使して、自身の生命活動を断末魔の悲鳴一つ上げずに速やかに停止させるだろう。



当たり前だ、竜族の忠実な下僕にして使い捨ての聞く道具に自我など不要だからだ。反抗、そして反逆などされては困るからだ。



だから、【モルフ】は心を持たないし、感情も持たない。笑いもしなければ、泣きもしない。喜怒哀楽は完全に存在しないのである。
ある程度の量産の効く【モルフ】は死を恐れぬ使い捨ての兵士にも成りうるし、建築などの死と隣り合わせの危険な作業をやらせるのにも向いている。




報酬なども請求せずに最低限の装備でどんな事でも黙々と行う【モルフ】は最高の道具と言えよう。



しかし、正直ナーガはこの【モルフ】という存在を余り快く思ってはいなかった。
黒い髪、蝙蝠の様な金色の瞳、これらの外見的な特徴はともかく希薄ながらも、その纏う“気配”が気に入らないのだ。



そう、どう足掻いても所詮モルフは偽りの命。どうしても存在の違和感とも言うものが拭えない。
まるでそこに存在してはいけない、世界にとっての異物にも思える。




その歪んでいるとも言える存在感をナーガは個人的には好きではない。
もちろん長としてのナーガにとってはこれ以上ないくらい便利な道具だったので、モルフを使用をしないという選択肢はありえないのだが。



黙々と布切れを纏い、道具を使って自分達に割り当てられた作業に取り組んでいるモルフを視界の隅からも意識して排除しつつナーガは目的地である
「門」の最深部へと少しだけ速度を上げて向かう。




入り口の長い通路を抜けて、平均的な大きさの成体の火竜が入ってもかなり余裕があるほど広大な面積の大広間に出る。



薄暗く照らされて見える大広間の遥か奥には光の坂があった。否。あれは坂ではない。坂に見えるぐらいの幅と長さを持った石造りの階段だ。
事実、よく眼を凝らしてみれば表面にびっしりと段が存在していて、それら一つ一つが丁寧に発光しているのが分かるだろう。(踏み外しの事故防止のため)



と。その階段の奥から一人の人物が降りてきた。
紅いローブを纏ったその人物は段の上を滑るような速さで降りると、人間には到底出せない速度で床を滑ると400メートルはありそうなナーガとの距離を僅か10数秒で0にする。


そして、ナーガの前に来ると腰を折り、紅い髪が僅かだけ残り、頭皮がむき出しになった頭を下げて忠誠の意を表す。



『お待ちしておりました。長』



しわがれた声だ。男―――それもかなり年を取った老人が出すような声。男は竜族には珍しい、何千、何万もの年を取り身体的、精神的にも老体となった竜だった。
ナーガが片手を動かし、部下の初老の男に面を上げるように促す。



「挨拶は必要ない。それよりも―――」


『分かっております。こちらへ、私がご案内します』


一度聞いたら耳から暫く離れそうに無い、病気で喉を壊した患者のような独特のダミ声で、初老の男は主に一礼した後先導していく。











それは「門」と言うよりもどちらかと言えば絵画を納めている額縁に近かった。
額縁から絵を抜き取ったら丁度こんな感じになるだろう。だだしこの額には絵が入るべきそこには何も無かった。ただ向こう側の壁を晒すだけである。



しかし。




その大きさは圧巻としか言い様がない。
この「門」の主役とも言えるそれは、作業中のモルフ、人の姿をした竜族が米粒どころか、極小の砂粒に見えるほどの圧倒的な大きさだ。



だが、それも仕方ない。この「門」は竜族が本来の姿でも使える様に設計されているのだから。人の視点から見て小山の様に巨大に映るのも無理は無い。



『扉そのものは予定通りに完成します。後は通路の安定にかなりの時間がかかるかと……』




初老の男が黙ったまま門を見つめるナーガに報告する。
ナーガが、門に向けていた眼を男に向けた。



「どれぐらい掛かりそうだ?」


男が門の中に視線を移し、その向こう側の壁の更に奥を見つめながら答えた。



『空間の歪みを直すのには少なくとも10年程度はかかります。何分危険な作業ですから。
 今までもかなりの数のモルフが空間の向こうに消えていきました。我らの同胞をその様な目に遭わせる訳にはいきませんからな』



「……そうか、完遂させよ」



初老の男が恭しく一礼し、『意のままに』と答えた。


「里の方はどうなっている?」


頭を上げた男にナーガがもう一つ、「門」と平行して砂漠に建設途中の重要施設の建造状況について問う。
男が再度頭を下げて、ガラガラの声で主の問い掛けに答えた。



『以前報告書にてご説明した通り、戸籍や、水道の建設を含め7割5分と言った所です。こちらも予定通りに完成させます。食料や衣服、日常品の貯蔵も平行して行っております』


「…………」



ナーガが無言で数回頷く。そして視線を未だ起動していない「門」に向ける。起動していない「門」は不気味な静寂を守ったままだった。
恐らく、これを使うとき、それがこの世界との別れだと思うと、ナーガは複雑な気分になった。



表に出ないだけで、彼にも高等生物が持ちうる感情というものは確かにあるのだ。但し、悲しい事に「息子」には血も涙も無い男と誤解されてはいるが。



沈黙が場に満ちた。何処か遠くから石の切り出しのカーンカーンという槌を振り下ろす音が聞こえて来て、門の中に音が幾重にも反芻し、響き渡る。



その沈黙を破ったのは部下の男だった。


『ところで長、一つよろしいでしょうか?』


「何だ?」


ナーガが門から眼を離さず、声だけで答える。


『イドゥン様とイデア様の件でございます』


ナーガがピクリと、男にも分からないほど僅かにだが二人の名前に反応した。
門から眼を離し、男をその細く、剣の様に鋭い紅と蒼の一対の眼で見やる。


『どちらに、後を継がせるのですか?』


男が声を一段低くし、聞き取るのが難しいほど掠れた声を喉から捻り出して聞く。
視線を再び門に向け、ナーガには珍しく考え込むように数分沈黙した後、男の主にして二人の「父」はその重い口を開いた。



内心を絶対に表に絶対に出さない彼にはこれまた珍しくその声に苛立ちの感情を乗せて言葉を紡ぐ。


「あの二人を番わせる」


それだけ、それだけを言うと彼は口を閉ざし、後は何も言おうとはしなかった。
男がまた一礼した。その一言で全て了解したと言わんばかりに。



『はい。では、そのように』


そして男が立ち去ろうとした瞬間。



空気が一気に重くなった。同時に元々冷えていた門の中の空気の温度が更に下がる。



『また、ですな』


「…………」


男が呆れた様な口調でそう言うがナーガは答えず、額縁の様な形状の門を見ているだけだ。
ナーガがカタカタと音叉が共鳴するかのごとく震えている、腰の『覇者の剣』に手をやる。



そのまま剣を抜き放いて顔の前に持ってくる。銀色の眩しい刀身が毒々しい紫色のオーラに薄っすらと覆われていた。
そして視線を再び門に戻す。向こう側の壁を映すだけだった額縁の中央に奇妙な色彩の光の球が現れていた。



その色は毒々しい紫を基調とした見るもおぞましい虹色。そんな見ているだけで気分が悪くなりそうな色の光球が急速に額縁の中で膨れ上がり、満たした。



「門」の暴走だ。正確には異次元の異形の存在が無理やり「門」を向こう側から開いたのだった。これもまだ「門」中の道ともいえる空間が安定していないからだ。
こういう事は過去何度か起きていたが、侵入を試みた異形達は全て撃退されていた。



『私がやります。御下がりを』



初老の男が手にエーギルで産み出した紅蓮の炎を纏わせ、進み出ようとするがナーガはそれを覇者の剣を用いて制した。



「いや、我がやる。下がっていろ」




ほんの一瞬男が迷うような仕草を見せるが、直ぐに主の言葉に従い下がる。
主の命令というのもあるが、何よりもその声にゾッとするほどの、それこそ永遠に等しい年月を生きてきた火竜を怯えさせるほどの殺意を感じとったから。


【aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!!!!!!】


「門」に満たされた異色の空間から巨大な異形の怪物が姿を現す。
上半身が屈強な人間、下半身が醜く肥大化した禍々しい黒色の蜘蛛の胴体と、そこから生える生気の無い土色の肌の無数の人の足。



「門」の大きさの半分を占める程の巨体のそれは正しく魔物と呼ぶに相応しい。モルフやそこいらの魔道士では傷一つ付けられないであろう程巨大な力を持った魔物。
神竜と正反対の、伝承の中の始祖竜に限りなく近いエーギルを持ったそれが今、エレブに侵入しようとしていた。



間違いなく、今まで「門」の中から現れた異形の者達の中でも最大にして、最強の存在だった。



コツコツコツ……。


ナーガが30メートル程の大きさのそれに散歩でもするかの様に自然体に歩み寄る。
ナーガの存在に気がついた魔物が自身に近づいてくる愚か者を屠らんと、5メートルはあるであろう城壁さえも粉々に粉砕する威力を秘めた握り拳を振りかぶる。



ブォオオンと、猛烈な風きり音を響かせながらナーガにその魔拳を無慈悲に振り下ろす!


が。


普通なら、その次にくるであろう床が粉砕される破砕音も、ナーガの肉と骨が砕け散る音も、辺りに雨の様に血が滴る水の音も一切響かなかった。



異常な光景だった。光が、黄金の光で創られた絹よりも薄く美しい壁が、軽々と魔物の魔拳をナーガの顔面の数センチ前で受け止めていた。
見る限り、魔拳を受け止めた壁に傷は一つも見受けられない。


【!!!!!!!!!!!!!!!!】



魔物がもう一つの拳を動かそうとしたが、動かない。腕所か体が動かない。
何故だ!? と、唯一自由になる頭を動かし、自身の巨体に眼をやった魔物は見た。



黄金の光で産み出された縄が、否、蛇が全身をぐるぐるに拘束しているのを。



【!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!】


怒りの咆哮をあげて、狂ったかの様に身をよじらせ拘束から逃れようとするが、頭と眼球、無数の足の指以外どこも動かない。


そんな様子を暫く昆虫でも観察する眼でナーガは見ていたが、やがて興味を失ったかの様に小さく鼻を鳴らし、片手に持った『覇者の剣』に一つの術を掛ける。
銀色の長い刀身を薄っすらと覆っていた薄紫の色が、円を基調とする魔方陣に覆われ、次いで夜の闇を思わせる純粋な漆黒に染まった。

 







                          【リザイア】




それは混沌魔法の一種。相手から直接【エーギル】を抜き取り己が力に変えるという魔術。
闇魔道の術の中でもポピュラーなこの術ではあるが……ナーガの様な全てに於いて規格外の存在が発動させた場合は……。




ナーガがサクッと何気ない動作で眼の前の魔物の拳、指の付け根辺りに【リザイア】のドス黒い光を纏った剣を突き刺す。
覇者の剣は魔物の固い皮膚など濡れそぼった紙か何かの様に貫いて、その黒い刀身を体内に侵入させた。






そして、体内に埋め込まれた刀身に纏わりつく闇が、【リザイア】がその効果を発揮する。覇者の剣が魔物の【エーギル】を喰らい始めた。



【!!!!!!!!!!!?ΨЬδπξ???】



魔物が耳をつんざく絶叫を上げた。それは魂を直に原初の混沌に喰い荒される者の悲痛な叫び。
無数の足の指が、無茶苦茶に動いて今現在魔物が味わっている苦痛の程を表す。



徐々に、徐々に、足の指の動きが止まり、魔物の巨体が灰とも砂とも、錆とも言えぬ何かに変わってボロボロと崩れ落ちていく。



魂を食い尽くされ消え行く意識の中、魔物が最後に見たのは、紅と蒼の瞳を持った、魔物よりも恐ろしい存在の顔だった。


















「終わったな」


只の砂の山と化したかつての魔物の巨体を見て、ナーガはポツリと呟いた。その様子は今さっき、恐ろしい魔物を世にも残忍な方法で処分したとは思えないほど冷静だった。
次に魔物が通ってきた「門」の中の道を見て背後に控える男に指示を出す。


「処理せよ。フレイ」


『意のままに』


フレイと呼ばれた男も今さっきまでの出来事など無かったかの用に作業用のモルフを呼び出し、指示を出す。




指示を出したフレイが一礼し、何処かに消えるのを見届けたナーガが入り口に向かって歩き出す。殿に帰るのだ。明日もあの双子に様々な事を教えなければならない。
いつか、自分が居なくなった時に二人で生きていけるように、様々な事を教授しなければならない。


幸いな事に殿の効力と自身の神竜の力で双子の肉体的な成長は大分早まっている。後は精神面での成長だ。


自分に出来るのは知識と経験を出来るだけ与えて、成長を促すことだけだ。後は、具体的にどうするかだが……。



多少、歪ながらも双子の事を考え、頭を悩ませるその様は正に「父親」と呼ぶに相応しかった。





あとがき 




祝!!55000PV!!!!


番外編その1をお送りしました。魔物はニニアンの良くない者が来るという台詞から考察した独自設定です。
魔物の外見は巨大化ケンタウロス+蜘蛛だとでも思ってくだされば…。


あぁ……早く、イドゥン、イデアのほのぼのな話を書きたい。



それはそうと55000PV達成です!
ここまで来れたのも皆様の励ましのメッセージがあればこそです。本当にありがとうございます!!


完結まで果たして何年掛かるか見当もつきませんが、これからも宜しくお願いします。


では、次回の更新にてお会いしましょう。






[6434] とある竜のお話 幕間 【湖にて】
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/10/13 23:02
ある日の晴れた昼下がり。
その日の勉強を終えた双子は以前の約束通りエイナールの木笛の音色に呼ばれて、彼女の部屋を訪れていた。


あの、主にエイナールとイデアにとって衝撃的とも言える初対面の日から早くも数週間が過ぎて、双子が彼女の部屋を訪れた合計回数は既に十を軽く超えていた。
最初は人の姿で空を飛ぶ事に軽い恐怖を抱いていたイデアも、エイナールの部屋に頻繁に通うに連れて飛行に対する恐怖心は徐々に薄れていった。



今では、姉の手助けを借りずに一人の力でもエイナールの部屋に行けるほどに進歩していた。
しかし、突如として横からの強風などに煽られると、落ちる恐怖で吹き出る冷や汗で背中をびっしょりと濡らすが……。



何はともあれ大分進歩したとはいえ、まだまだ発展途上なのは確かである。




二人がエイナールと定期的に談話しているのをナーガは知っていたが彼は特に止めようとはしなかった。それどころか、二人がエイナールの部屋に通うことも半ば承認していた。
許可した理由として考えられるのは自分の考えに賛同しているエイナールが信用できる存在と言うことと、双子の飛行の練習と言ったところか。



しかし。
もしかしたら。



『自分は立場上余り時間を取れなくて、二人に様々な事を直接教える時間は少ない。
だからといって、自分が短い時間を作って赴くまで、いつまでも双子をあの狭い部屋に閉じ込めておくのも気が引ける』



そんな事を彼は思ったのかも知れない。あくまでも予想だが。真実はナーガのみが知る。イデアがもしもこの仮定を知ったら、「あの男に限ってはありえない」と、一笑に伏すだろうが。




彼が行ったのは、二人が落下した際に備える為に二人の部屋のバルコニーとその真下周辺一体に捕獲結界をびっしりと念入りに張り巡らせた事と注意事項を伝えたことぐらいである。



結界の発動条件は一定の重さを上回る物体が一定の速度を上回る速度で直上から落下してくる事。つまり、落下する子供をキャッチするのだ。
少々手荒とも言える方法だが、単純で最も効果的と言える。



二人には「夜と風の強い日や雨の日の飛行は許可しない」と、少々大人気ないが普通の子供ならば竦みあがる程の威圧感を滲ませて言いつけてあるので問題は無い。
エイナールも安全面を考えて、そういった日は呼び出しの合図である笛を吹かず、自分の部屋で次の姉弟との雑談の際の話題を整理していたりしていた。














「外の世界か~~」


ふかふかで肌触りがいいクッションに腰を下ろしたイドゥンが、左右に身体を揺らしながら感慨深そうに、羨望が篭もった声を上げた。
エレブに産まれてからまだ一度も切った事がない、紫銀色の上質な絹を思わせる長い髪がゆらゆらと動く身体の動きに合わせて音も無く軽やかに揺れる。



ここは氷竜エイナールの「殿」での住まう部屋。いつもの様にナーガとの勉強が終わり、暇を持て余した神竜の姉弟は彼女の部屋を訪れていた。
勿論空を飛んで、だ。


イドゥンとイデアの部屋に比べれば一回りも二回りも小さいが
それでも人一人が暮らすには十分過ぎる大きさと、ベットや暖炉、調理場やクローゼットを始めとする設備が完璧に整った部屋だ。



双子はいつもこの部屋でエイナールから外の世界――大陸エレブの様々な国や地域についての話や、他には古い御伽噺や魔術に関する話なども聞いていた。
そして今は丁度、エイナールにとって馴染みが深い場所であるイリアについての話を聞き終わったばかりである。


「行きたいなぁ~……」



イドゥンが未だ見た事がないエイナールの話にだけ聞く外の世界に対して、さっきよりも羨望が更に篭もった声で続ける。
尖った耳がパタパタと忙しなく上下運動を繰り返し、彼女の現在の内心を的確に外部に表していた。



エイナールの話すイリアのお話は……いや、外の世界に関する話題の全てと言っていい、は幼い神竜イドゥンの心を強く、強く惹き付けていた。




「殿」の自室からでも窓から山々の頂にあるのを遠目に見るが、未だ一度も触ったことの無い「雪」や、大地を力強く走り抜ける「馬」という存在に白い翼を生やし、天を駆ける「ペガサス」


これまた一度も実物を見たことのないナーガやエイナールの話の中でだけ聞く、自分達が模している姿である「人」がいっぱい居て暮らしている「エトルリア王国」の王都アクレイア。
そして様々な『部族』という「人」の国とは少し違う集団が馬を駆り、自由に駆け巡る一面緑だけという広大な「サカ草原」




どれも触れたり、直接行って見たいと強く思えるものばかりだった。




……何よりも、どんな場所でもいいから思いっきり外の世界を走り回ったり、飛び回りたいと言う強い想いが彼女の心にはあった。



イドゥンとイデアは未だ、ナーガと竜の姿に戻る練習を行ったあの荒野以外の場所に行った事はこれまでなかった。其れゆえの外の世界に対する羨望である。
イデアに限ってはこの世界に暮らす「人間」に会ってみたいと思う気持ちが強くあった。


勿論純粋に姉と同じく外の世界を見て、触れたいと思う気持ちもあるが。


そんな二人に姉弟のすぐ隣のクッションに腰掛けたこの部屋の主――氷竜エイナールが柔らかく微笑みながら語りかける。



「もう少し、大きくなれば見にいけますよ」


「それって、どのくらい?」


イドゥンの無邪気な問いにエイナールが少し困った顔を浮かべ、小さく「うーん」と唸るり思考を巡らす。
2~3秒そのままにした後、彼女の中で問いの答えが出たのか、喉を震わし天使のような美しい声を朗々と紡ぐ。



「この『殿』は神竜族の御力で竜族の成長を促進する効果がありますし、お二人が外に出られるほど成長なさるのはそう遠くはない事と思います」



だから、気長に待ちましょう? とエイナールはイドゥンの顔を見て、丁寧に優しく続ける。
イドゥンがその美しい顔を見て少々の不満が混ざった声で「うー」と暫く唸っていたが、やがて諦めた様にゴロンッと特大のクッションの上に両手両足を広げて、大の字に寝転んだ



それを見て、彼女の弟がフフッと小さく、笑みをこぼした。微笑ましい姉の動きに思わず笑ってしまったのだ。
だが次の瞬間彼も何かに引っ張られるようにイドゥンの隣にドサリ、倒れこむ。



「えっ、え、え!?」



イデアが自分に何が起きたのか理解出来ずに戸惑いの声を上げ、立ち上がろうとするが――立てない。背中に縄を付けられ、グイグイと引っ張られる感覚だ。



そのままクエスチョンマークを頭上に大量生産しながらイデアがゴロゴロと転がりながらもがく。



よく見れば、イデアの背中や肩などに細い、細い、少し引っ張ってしまえば呆気なく切れてしまうのではないか? 
と、何も知らない第三者が見れば思うだろう、金色の光で編まれた糸が数本絡み付いているのが見えるが当の本人であるイデアは気がつけない。それほどまでに混乱しているのだ。




では、一体誰がイデアに糸を纏わりつかせたのか? 
そんなものは最初っから決まっている。この部屋の中で金色の【エーギル】を持っている存在など二柱しか存在しないからだ。



「イデア~~」


もふっとイデアの顔に柔らかい物体が密着した。勿論イデアの姉、イドゥンの布に包まれた胸部である。
彼女はイデアに抱き枕に抱きつくように身体ごとくっつくと、そのままその小さな手で弟の金色の髪をワシャワシャと優しく、且つ力強く撫回し始める。



「ちょ、ちょっと!?」


イデアが抗議の声を上げるが、イドゥンの手は止まらない。そのままイデアの背に両手を回して、ぎゅっと力の限り抱きしめる。
もっとも幼子のイドゥンの腕力などたかが知れてるのでイデアは苦しくなどはなかったが、それでも動けず、そして何よりも恥ずかしかった。


しかし、イデアに出来た唯一の抵抗と言えば、精々耳を高速で上下にバタバタ振る程度だ。


「離して~~」


イデアが情けない声で直ぐ傍にある姉の顔に向けて要求するが。


「いや」


即答だった。おまけに抱きつく力が少し強くなった。イデアが小さく溜め息を吐き、また情けない声をだす。彼の耳が諦めたかの様に動きを止めて垂れる。


「エイナ~ルうぅう~~」


頼りになるであろう大人に向けての救援要請、だが。


「……姉弟の仲がよいのは素晴らしい事です」


顔を少し逸らして、苦笑いを浮かべながら、眼だけを動かしてチラチラと見てくるエイナールに希望は簡単にこっぱ微塵に砕かれた。
イデアが絶望したかの様に真っ赤な顔をしたまま、ぐったりと脱力する。






「イデア」


「うん?」


不意に抱きしめる力を弱めて、自分の顔を後少し近づければイデアにくっ付きそうなほど
弟の顔の直ぐ傍に持ってきたイドゥンにイデアが顔をトマトを思わせるほど赤くして返事をする。


「はやく、大きくなって皆で行きたいね」


「……うん」


イデアが恥ずかしさを堪えてじっと姉の顔を凝視する。
今はまだ幼いこの少女が大人になったらどれほどの美人になるのか想像してみようと思ったが……やめた。後での楽しみに取っておくことにする。



その次に漠然と想像したのが【皆】での旅行の風景。
自分と、イドゥンと、エイナールと……正直、入れたくはないがナーガの四人でエレブの色々なところに行く場面。



悪くない。まるで家族旅行みたいだな、と、イデアは思った。いや、事実イドゥンにとっては家族旅行そのものなのだろう。



……ふと、家族の母が居る場所に居たエイナールと、前の世界の母が重なった。
ゾクリッと嫌な寒気がイデアを襲った。眼と鼻の奥に少しだけ痛みを覚える。このままではマズイと思い慌てて思考を別の話題に逸らそうとするが……。



パンッ。



イデアの思考そのものが唐突に響いた軽い手を叩き合わせる音で無理やり中断させられた。
姉弟が身を少しだけ起こして、音の発生源であるエイナールを見る。


何かを思いついたのか、その眼は外見に似つかわしくキラキラと子供の様な輝きを宿していた。



「もしかすれば、近い内に外に行けるかもしれません。私から申請してみようかと……丁度いい場所もありますし」


「丁度いい場所?」


「はい。ここからの距離も、そして景色も最高と自信を持って言える場所です」


エイナールが相も変わらず子供の様な自慢げな笑顔で姉弟に告げる。


「私にお任せください」


ドン、と、豊満な胸を張るエイナールに姉弟は顔を見合わせ、その子供の様な動作に思わずクスクスと笑みをこぼした。










翌日






「おぉーー!」


イドゥンが始めて見る殿の巨大な入り口に興奮が多く混ざった感嘆の声を上げる。


彼女の眼の前に悠然と存在するそれは、雄雄しい山々と芸術的なまでに一体化し、樹齢千年を超える大木の如き太さを持ち、幾つもの強化の術式を刻まれた強靭な柱に支えられており
何処か神殿の様な神聖ささえも感じさせる灰色の石造りの建造物だ。


そう。これが竜族の住まう巨大な殿の入り口である。



イデアは声も出せずにそれを眺めていた。自分はこんな凄い入り口を持っている建物に住んでたのかという驚愕の気持ちと一緒に。
そして竜と言う種の持っている技術力の高さに驚いていた。イデアの持っていた既存の竜に対するイメージがまた一つ塗り替えられた。
竜は穴倉に住んでるというイメージが、だ。




この姉弟はいつも外に出る時や、逆に戻ってくる時はナーガの行使する転移の術で部屋と外を直接行き来してるため、殿の玄関とも言える箇所を直接その眼で見るのは初めてだった。
それ故のこの反応である。


「では、行きましょうか?」


殿の入り口に期待通りの反応を示してくれた神竜姉弟に心が和みながらもエイナールが声を掛けて、自分に意識を向けさせる。
このままではずっと『殿』の入り口を見続けてそうだ。



「今日は何処に行くの? お父さんも来る?」


イドゥンが興奮で少し赤くなった顔で問う。よほど感動したのだろう。
エイナールが右手の細い人差し指をぴっと音が出るほど素早く立てて質問に答えた。



「長は……恐らく来られないかと。そして今回私達が行く場所はですね……」


姉弟に今日は殿から少し北にある、飛んで約15分ほど、人の足で3~4時間程度の場所にある湖に行くと告げる。


それにしても、思ったよりも呆気なく許可されたものだとエイナールは姉弟に詳細を説明しながら、ふと思った。


彼女が姉弟を湖に連れて行きたいという旨の申請書と、何時に「殿」を出て、何時に帰って来るだけではなく、その他の行動までを事細かく記した「予定表」とも言える
資料をナーガに提出してから、その答えはエイナールの想像をはるかに上回る速度で帰ってきた。



まさか1時間で返答が帰ってくるとは思わなかったのだ。最低でも半日は掛かると彼女は踏んでいた。



結論から言えば二人を連れ出す事は許可する、だそうだ。
勿論遠見の魔術で行動は細かく観察されるだろうが。今この瞬間もナーガに監視されてるのだろう。



イドゥンとイデアは人間に例えれば王族なのだ、当然といえよう。もしも事故などで二人の身体や精神が酷く害されたら
直接的な意味で自分の首が宙を飛んでも可笑しくはない。



……もっとも、そんなことは絶対に起こさせないが。
自分の眼の前で嬉しそうにはしゃいでいるこの無邪気な双子を害する事など、何者であろうがエイナールは許さない。



神竜だとか、長の子息だとかを抜きにしてもだ。



「少し飛ぶので、竜の姿に戻ってください」


二人から歩いて少しの距離をとり、懐に手を差し入れて竜石を取り出す。転移の術なら直ぐに行けるが、それでは味気ない。


「……おぉ」


イデアが取り出されたエイナールの竜石を見て反応する。
エイナールの竜石は彼が以前本か何かで見たサファイアという宝石にそっくりだったからだ。


但し、大の男の拳よりも大きなサファイアはさすがに始めて見たのだが。



「ちょっと眩しいですよ」


エイナールが注意を促して、姉弟が4つの瞼を瞑るのを待つ。
それから5秒ほど経ち、二人が瞼を下ろしたのをエイナールが確認してから彼女を中心に青い光が放たれた。


雲ひとつない澄み切った青い空を思わせる色が周囲に迸り、エイナールの身体が人から竜の姿、本来の姿へと急激に変わっていく。
イドゥンとイデアが更に強く瞼を瞑り、思わずローブの袖を顔に押し当てる。


やがて辺りを塗りつぶしていた光が収まり、イドゥンとイデアが恐る恐る眼を開ける。少しだけチカチカする眼を何度も瞬かせながらエイナールを探す。
エイナールは直ぐに見つかった。否、見失うことなど出来なかった。






何故なら――。          






「エイナール……?」



イデアが何処か呆けた声で眼の前の「それ」に問う。
「それ」――全身をキラキラと夜空の星の様に輝く水色の鱗に覆われ、頭部に一国の女王が戴くティアラに似た角を持った『氷竜』がその細い顔を小さく頷かせ答える。


「……」


イデアは何も喋れなかった。それどころか身体を動かすことさえもせずに、記憶に焼き付けるかのように竜の姿に戻ったエイナールを凝視する。



――綺麗だ。



イデアの胸中はこの単純な想いで埋め尽くされていた。
かつて見た恐らくナーガであろう神竜ほどの神々しさこそ無いが、今のエイナールの姿はあの日祭壇から見たどの竜よりも飛びぬけて美しかった。


正に存在そのものが完成された芸術だな、とイデアは何処かフワフワする頭で漠然と思う。
奇しくも人の姿を取っていたエイナールに始めて出合った時と同じ感情を彼は抱いていた。


なるほど。イリアの人々がエイナールを氷竜様とまるで神の様に敬い、信仰する気持ちが分かった気がする。



「イデア、わたし達も」



言葉を失い、食い入るようにエイナールを見つめているイデアの服の裾をイドゥンがクイクイっと引っ張り、耳元でよく聞こえるように急かす。
何処か間の抜けた声を出して、コクコクと頭を人形のように縦に何度も振ってイデアが答えた。


「え? あぁ……うん」


距離を取る為に小さな歩幅で走り去っていくイドゥンを尻目に、イデアが懐に手を入れたままチラッともう一度エイナールを見る。
視界に入った美しい氷竜は人の姿のときと同じ、優しげな紅い眼でイデアを見ていた。


同時にイデアに一つだけ素朴な疑問が浮かぶ。即ち――――


(どうやって飛ぶんだろ?)


見たところ、翼に該当する部位が存在しないエイナールがどうやって、空を飛ぶんだろ? という物だ。


しかしその疑問はエイナールがその背に水色に輝く光の翼を展開した事によって解消された。









その湖は「殿」の入り口からしばらく北に向けて飛んでいて、直ぐに見つける事が出来た。


「……!」


イデアが風を切るビュウビュウという喧しい音を近くに聞きながら、声にならない声をその巨大なアギトから漏らす。
そして、何気なく直ぐ隣を飛んでいる姉を盗み見る。


金色の竜、神竜の姿に戻ったイドゥンはじぃっと紅と蒼色の瞳で雲の狭間に見える、
眼下に広がる山々に囲まれた巨大な水溜り―――始めて見る「湖」をその大きな眼で眺めていた。



(……ふふ)


一目で姉が何を考えているのか、手に取るように分かってしまったイデアが内心で笑みを浮かべる。
何故分かるって? そんなものは簡単だ。恐らくは自分も同じ事を考えているからだ。



と、イデアの、違う。姉弟の脳内に直接エイナールの声が響く。念話と呼ばれる魔術を利用した交信手段だ。



(着きました。アレが湖ですよー)



見ると、先頭を飛んでいたエイナールが眼下の湖に向けて徐々に高度を下げて行くのが見えた。
それに呼応して直ぐ隣を翼がぶつからない程度の距離を取って、イデアにつかず離れずに飛行していたイドゥンも高度を下げていく。


抑えきれない胸の高鳴りを心地よく感じながら、イデアも翼の動きを調整して姉の後を追った。





「あーー!!!」


地平線まで続く空の色を地上にそのまま映したかの様な湖を見て、人の姿にその身を変えたイドゥンがたまらないと言わんばかりに
子供特有の甲高い大きな声を上げた。



あー…。


あー……。


あー………。


周囲の山々がその声を反芻し、山彦として何度も何度も辺りに響き渡らせる。



「んーー……!!!」


両手を大きく上に伸ばし、深呼吸。何度か息を吸ったり吐いたりを繰り返す。


「行こっ!」


「ちょ、まっ、待ったぁぁあああ……!!」


そして、隣で辺りをキョロキョロと眺めていた弟の手をがしっと掴んでそのまま湖へ向けて引っ張りながら全力で走り出す。



「水の中には入っちゃ駄目ですよー!!」



まるで狩人から逃げるウサギのような速度で走っていく姉弟にエイナールが注意の言葉を投げかける。
遠くから「……わかったぁああぁ」というイデアの声が帰ってくるのを確認したエイナールが、ふぅと小さく息を吐いた。


「見てないと、入っちゃいそうですねぇ……」



この湖の水は温度が低いのだ。下手に入ったりしたら体温を根こそぎ奪われてぽっくりと逝きかねない。
成体の竜ならば問題にもならない環境だろうが、まだまだ幼体から少し成長した程度の姉弟では危ない。




溺れたりでもしたら一大事だ。今の自分はあの二人の保護者とも言える存在だ、二人の行動を監督する義務がある。
力を少しだけ使い、フワリと身体を僅かに宙に浮かばせ、そのままエイナールはゆったりとした速度で姉弟を追うように飛んでいった。







湖のほとり、水の上にイドゥンとイデアは「いた」 文字通り、水面の上に座ってるのだ。
正確には水の上に氷の薄い膜の様に【エーギル】を展開し、その上に座っているのだ。


言われた通り水の中には入っていない。


「ねぇねぇ、イデア」


「うん?」


宙空にエーギルを塗り固めて作った畳み一つ分ぐらいの大きさの足場に二人で腰を下ろし、ブーツを隣に揃えて置いておく。
そして白くて細い素足を冷水に浸しながら語り合う。


どこからか、微かに鳥の鳴き声が山彦となって聞こえてくる。




イドゥンがその足を上下に動かす度にパチャパチャと水音がなる。
イドゥンの着ている紫色のローブは限界までたくし上げられていて、健康的な彼女の太もも辺りまでが露わになっている。


ふっくらとした魅力的なそれをなるべく見ないように勤めながらイデアが返事をする。


「なに、姉さん」


「お父さんは、来るかなぁ……」


イデアが一瞬だけ険しい顔をするが、直ぐに引っ込めて。


「わかんない」


無難な答えを返した。ざぱーん、ざぱーんと、水が動く音を尻目に、二人並んで青い空を反射し吸い込まれる様な青に染まった湖を眺める。どこかで魚が跳ねたのかポチャンという音がする。
いつの間にか、イドゥンの手が強くイデアの手を握っていた。



と。



「私も座ってよろしいですか?」


いつの間に来たのか、エイナールが姉弟のすぐ後ろに居た。イデアがその足元を見ると、彼女の足元にも薄い水色の膜、エーギルで作られたのであろう足場があった。


「どうぞ」


イデアがイドゥンの手をやんわりと解き、足場に新たに【エーギル】を込めて少しだけ強度を上げると、姉から少し離れて、二人の間にスペースを作る。


「ありがとうございます」


エイナールが一礼し、そのスペースに腰を下ろす。そして、どこに仕舞っていたのか赤や青と言った色とりどりの布で覆われたバスケットを取り出す。



「今日は焼き菓子や果物も持ってきたんですよー」


「ほんとっ!?」



ガバッと言う擬音が聞こえてきそうな程素早い動きでイドゥンがバスケットに注意を向けた。
そして、そのままバスケットを熱い、それこそ愛しい存在を見るかの様な潤んだ眼で見つめる。


心なしか、目尻には微かに涙さえも浮かんでる様に見える。


そっとイデアがエイナールに耳打ちした。


「……姉さんは、果物とかが大すきなんだ」


「……そうなんですか」


そして、ふふっと万人を安心させるであろう笑みを浮かべる。
その笑みをまともに見てしまったイデアの頬がバスケットに入っていたりんごの様に赤くなった。













「実は……今日はお二人に言わなければならない事があるのです」


バスケットの中身の焼き菓子や果物をほとんど食べ終え、果汁や菓子の破片で汚れた手をナプキンと湖の水で荒い終えた二人にエイナールは唐突にこう切り出した。


「「うん?」」


姉弟が揃って両脇からエイナールを眺めてくる。二対四つの無邪気な眼に見つめられながらエイナールは続ける。


「冬の季節が近いので、私、そろそろイリアに帰らなければならないのです……ですから」


「居なくなっちゃうの……?」


イデアが瞳を揺らしながら、心に湧いた不安を声にする。
正直な話、自分でも何でこんなにショックを受けているのかがイデアにはよく分からなかった。まだ彼女と出会って1月ぐらいなのに。



「……………はい」


「…………………なんで、冬になった、ら、帰るの?」


上下に揺れる音程が今のイデアの内心を切実に、且つ的確に表していた。 即ち――嫌だ、と。
エイナールがその赤い眼でイデアを真正面から覗き込んで答える。



「イリアに住む人々は冬の寒さや、雪にとても困っているのです。 だから私が助けてあげるのですよ」


涙ぐむイデアの頭にエイナールが手をやり、優しく撫でる。


「また、会え……る?」


「ええ勿論。冬の季節が終わったらまた会えますよ。冬以外ずっと会えますよ」


にっこりと、安心させるように微笑む。でも納得できない。駄々っ子の様に涙ぐんだ眼でエイナールをキっと睨む。
と、突如イデアの手をエイナール以外の誰かが優しく包む様に握った。姉のイドゥンだ。


イデアに変わってエイナールに再度問う。


「すこし、待てば……また会えるんだよね…?」


エイナールが強い意志を込めた声で断言した。まるで姉弟の不安を断ち切るように。


「はい。絶対に会えます」


イドゥンがぎゅっと弟の指を握る手に少し力を込める。そして


「じゃぁ、イデアと一緒にまってる。だから――ぜったいに、かえってきてね」


イデアが姉の手に更に力を込める。爪が少しだけ食い込んだ。


「姉さんは、いいの……?」


握られた手をもっと強く握り返しながらイデアが姉に問う、しかし返答は簡潔だった。


「うん。また会えるから、いいの」


笑顔で簡単に返してくるイドゥンにイデアは毒気を抜かれてしまった。
強く握り締めすぎた手から力を少し抜く。


本来は精神は自分の方が年上の筈なのに、何だか自分の方が子供の様な気がしてきた。いや、第三者が見れば事実自分の方が子供なんだろう。



ふぅ、と溜め息を吐き、気分を落ち着ける。胸の動悸が落ち着いていくのが手に取るように感じ取れた。


「ごめんなさい」


ペコリと頭を下げて謝罪する。が、エイナールは先ほどとは打って変わって慌てた声で。
恐らくはナーガに監視されているのを思い出したのだろう。最初にあった時の様な取り乱しようで必死にイデアに頭を上げるように説得する。



「い、いえ! 謝罪など不要です!! 悪いのは中々言い出せなかった私ですから、だから頭を上げてください!!」



手を上下に振り回して、わたわたするその姿に姉弟は笑みを浮かべ、同時に母親に甘える子供の様に彼女に抱きついた。









その後は単純だ、2人で湖の周りを走り回ったり、飛んだりして遊んでいる内に日は西の果てに落ちていき、周囲の温度も下がり、
遂に帰宅の時間となった。


そして意外な人物が迎えに訪れる。


「えー……?」


「何だ?」


信じられない、と言った声をだすイデアに答えたのは感情の起伏が全くない事務的とも言える若い男の声。
そう、イドゥンとイデアの「父」ナーガである。「殿」には分身を置いて来ており、今ここに居るのは本体(本人)である。


「お父さん、あのね!、あのね!!」


ナーガの足元に駆け寄り、イドゥンが今日という日がどれほど楽しかったか、お世辞にも多いとはいえない覚えている言葉で表そうと四苦八苦する。
それを片手で頭を撫でて制しながら、主の来訪に際して頭を下げ、傅いているエイナールに労いの言葉を与える。


「苦労だった」


「いえ……」


エイナールがいつもの彼女とは違う、主に対する敬意と共に事務的な声で答える。


「イドゥンとイデアが世話になったな。礼を言う……これからも頼んだぞ」


「……はい!」


ナーガの言葉に今度は強く答える。そしてその身が光に包まれて消える。ナーガが「殿」に彼女を転移させたのだ。



「来い。イデア」



クルリと背を向けて立ち去ろうとするナーガにイデアが慌てて駆け寄ろうとするが、今まで散々遊んでいて体力を思ったよりも消費していたのか、ガクッと
膝から崩れ落ちる。


「あれ……?、ん!んん!?」


何度足と腰に力を入れても立てない。力を入れてもスルスルと抜けていってしまう。まるで腰を抜かしたみたいに。
ナーガが足を止めて、その様子を見る。



彼の指に暖かい光が収束する。回復の魔法【リカバー】だ。



「ま、待って!」


魔法を自分に向けて使われそうになったイデアが慌てて叫ぶ、そして次の一言でナーガの手に集っていた光は霧散することになる。



「…おぶってくれない、かな……?」



それを聞いたナーガはイデアの近くまで歩いてくと彼を浮かばせて、自らの背中に優しく下ろす。
娘が自身の手を握ってくる感触を何処か心地よく感じながら彼は転移の術を発動させ、姉弟を連れて「殿」に戻った。










数ヵ月後



「エイナールから手紙だ」


ナーガがイドゥンとイデアに一枚の羊皮紙を手渡す。
朝食を食べ終えた後にいつもナーガが持ってくるこれが姉弟の今の大きな楽しみとなっていた。


結局エイナールはあの遠足の翌日にはイリアに帰ってしまったのだが、こうして定期的に手紙を送って近況などをイドゥンとイデアに知らせている。


イドゥンが一回り、いや、反回りほど大きくなったその白く、美しい手で手紙を受け取り弟にも見えるように広げる。
ナーガは羊皮紙を手渡すと、食器類を周りに浮かべて部屋からさっさと出て行った。どうせ中身は一回読んで知っているのだ。



暫く手紙を黙読していた二人だが、そこに書かれていた事に対して喜びの声を上げる。
手紙を近くの机の上においてから、ベットの上で二人でごろごろ転がりまわり、キャッキャッと黄色い声を出す。



机の上に無造作に置かれた手紙には竜族の文字でこう書かれていた。


『そろそろ冬が終わるので殿に帰れます。お土産を是非楽しみにしていてくださいね』、と。



そして、その下には具体的にいつ頃帰れるか記されている。
偶然か必然か。エイナールが「殿」に戻って来るであろう日はイドゥンとイデア、神竜姉弟の一歳の誕生日であった。







あとがき

お久しぶりです。少し流行病に掛かって入院していましたw
自分は大丈夫だと思ってたら見事に菌をうつされるとは……。


皆様も十分お気をつけください。


今回の湖は封印の剣、23章にあったあそこです。

何はともあれ、これにて第一部の前編を書ききることが出来た……。


しかし、本当に何年で完全に完結させられるのか自分でも検討がつきませんww


では、次回の更新にてお会いしましょう。
そしてこれからもよろしくお願いします。



[6434] とある竜のお話 第六章 1
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/11/11 23:15

時間が経つのは早いものである。
特に一日一日を何かに夢中になり、楽しんで過ごすとそれが良く実感できるだろう。


一時間一時間を24回繰り返し一日が過ぎて、それを約30回繰り返し一月、そしてそれを12回繰り返せばあっという間に一年だ。



特に人より遥かに永い寿命を持った竜族は時間に対する感覚が人間とずれている者も少なくない。
竜にとっては鮮明に思い出せるつい、この間の出来事でも人にとっては何年も昔の事だったという事も多々ある。


だが、それも仕方ないだろう。根本的に寿命が―――生物としての生きる時間が違うのだから。こんな簡単な事、説明されれば子供でも分かる。



それでも。


その何処までも過酷で残酷な現実を分かっていても。
竜と歩む事を選択した身の程知らずだが勇気ある人間、短い時間だが人と歩む事を選択した優しい竜、と言うのはほんの数える程度だが確かに存在する。


そして、人の姿を取った竜との間には子供を作る事も可能だという。
両者の間に生まれた人でも竜でもない新たな種――それらは『竜人』と誰とも無く呼ばれ、それが正式な呼び名として何時の間にか浸透していた。


この種族を超えた愛の結晶に対する反応は竜、人問わず様々だった。強いて言えば竜は喜びと興味と嫌悪、人は畏怖と恐怖だ。全ての者がそうとは言い切れないが。



ナーガは直ちにこの『竜人』の生態――具体的には寿命や身体能力、エーギルの質や量の平均、竜化の可否
身体的特徴、その他、などを徹底的に調べ上げた。勿論、その子の両親には許可はとってある。人体実験などはやってはいない。半分は守るべき同族なのだ。


……裏を返せば半分は人間だが。


調査の結果分かったのは
寿命は竜の血の濃さや種類にもよるが大体が人の寿命の約数十倍から百倍程度――これは半分が竜の血の場合である。
しかし、中には人と全く同じ寿命の者もいた。個体差がとてつもなく激しいのだ。



更に『竜人』が人と交わって、孫やひ孫になれば血は薄くなり、寿命は更に短くなるだろうと竜の魔道師は予想した。
……最も、その孫やひ孫は今のところはほんの片手で数える程度しか存在していないので平均を出そうにも、確かめようがないのだが。


『竜人』が『竜人』と交わるケースも全くとは言わないが、本当に極僅かなため調べようがない。


人と同じ寿命の者についてはさっぱり分からない。俗に言う「お手上げ」状態だ。単に竜の永遠の寿命を受けつぐ確立があるのかもしれないという結果に取り敢えず落ち着いた。



エーギルについては親の竜の属性をある程度受け継ぐ事が分かった。しかも人としてのエーギルとは別にだ。
つまり、『竜人』は人と竜、二つのエーギルを持っていることになる。


竜化が出来るかどうかも寿命と同じく個体差がある。竜化出来る者と出来ない者に分かれた。
原因はまだ不明だ。これも単に確立の問題かもしれないし、そうでないかも知れない。


もしかしたら竜が元の姿に戻る時の、イデアも経験したあの独特の感覚が分からないだけかもしれない。事実、質問では戻れないほとんどの者がそう答えた。
そんな竜に成れない『竜人』も自らの血に宿る竜の力を固めて竜石を作り出すことは出来る。


竜石から力を引き出しても竜化こそ出来ないが、変わりに超人的な身体能力や魔力を手に入れる者が多い。
これも個人差こそあるが、ナーガの調査では大体そうだった。



何せ……こう言っては悪いが『竜人』はサンプルが少なすぎるのだ。平均が取れないので、それなりの人数を調べなければ分からない課題については謎が多いのも仕方ない。



しかし、人から見れば自分達と同じ姿こそしているが中身は全くの別物


―――むしろ人の姿をしながら人外の力を有する『竜人』は畏怖と恐怖とそして羨望の対象でしかない。
人の姿をして、その姿で竜の力が振るえるからこそ恐ろしさが倍増する。そして更にその親である竜への恐怖が増加する。


だから人は信仰というご機嫌取りを表向きは竜へ行うのだ。
どうかその力をこっちに向けないでください。どうかその力を私達を守るために使ってくださいと言いながら。


信仰を受け取る竜もその裏に隠された、いや、隠れてさえ居ないか。人の本心を見ながら信仰を受け取るのだ。今の関係を崩したくないから。
もっと単純に言ってしまえば嫌われたくないから。


だが、中には本心から竜を敬い理解し、共存を試みる人間も居るという事を忘れてはならない。そういった者も確かに居るのだ。


歪な関係の人と竜。その関係が完全に崩壊する日は決して遠くはないだろう。その時は恐らく――未だかつてない大規模な戦争が起きるだろう。
人という生き物は決して自分達を脅かす存在を許しはしないのだ。













そろそろ夏……かな? 


『殿』の自室のテラスからに出て部屋から運び出した木製の椅子に腰掛けて、
頂に万年雪を被った広大な山々の連なりを見ながら、涼やかな風を感じていたイデアはおぼろげにそう思った。
同時にこれがエレブに産まれて大体3か4回目の夏になるという事を思い出した。


しかして、イデアの外見は大体10歳前後。産まれた当時は4~5歳ほどの外見だったのを考えれば、驚異的なスピードで成長を続けているといえよう。
全ては竜族の成長を促進させる『殿』とただその場にいるだけで竜族全ての力を育む空間を形成する神竜の力の恩恵だ。


特にイドゥンとイデアは『殿』や最強の神竜であるナーガの力だけではなく、常に傍にいるため両者が両者の成長を促進させているのだ。当然の結果といえよう。


今の時間はおおよそ昼前。ナーガがそろそろ昼食を持ってくる筈だ。天辺に上った太陽が暖かい日光を届けてくれるお陰で風が吹いても大して寒くない。
エイナールの部屋で焼き菓子作りでも習ってる姉のイドゥンもそろそろ戻ってくるだろう。


本当はイデアも一緒に行きたかったのだが、残念な事に彼にはやりたい事があった。とても熱中できる事が。
物思いをやめたイデアがうーっと両腕をピーンとさせ背伸びをして、少々の休憩時間を終了させると、膝に置いておいた二冊の本の内一冊の古びた分厚い本を手に取る。


竜の文字で書かれた本の名前は【エルファイアーの魔道書】中級魔術の発動媒体だ。もう片方の本には【精霊との交信】と書いてある。
どっちも既に穴が空くほど何回も読みつくした物だ。


下級魔術をほぼ完全に覚えたイデアの今の悩みは思うように中級魔術が思うように使えないことなのだ。
正確には発動そのものは、させる事はできる。しかし、使いこなしているか? と、聞かれれば首を横に振らざるを得ない。


その事について授業の中でナーガに言われた対策と言えばたった一つだった。「経験を積み。失敗を重ねろ」だそうだ。
これ以上ないくらい分かりやすい対策だ。


だが、現に彼が言ったとおり一回一回練習し、失敗を重ね、それを乗り越える度に着実に会得に近づいているのがイデアには分かっていた。だからこそ止められない。
勿論、やりすぎで身体を壊したりしないように適度な休憩を挟んではいるが。そしてナーガが万が一に備えて監視してるだろうという事も知っている。


「よしっ!」


パチンと頬を叩いて渇を自分に入れると、【エルファイアーの魔道書】を開き、細く白い人差し指をバルコニーの柵のはるか先、広大に連なる山々へと向ける。
意識を集中させ魔道書に【エーギル】を注ぐと同時に書が注がれたエーギルの色である金色に輝きだし、【ファイアー】よりも強大な力を持った炎を形成し始める。



産み出された【エルファイアーの炎】が書からイデアの指元へと酸素を燃やしながら移動していく。しかしイデアは全くと言っていいほど熱を感じていない。
当然だ。自分の力で産み出した炎は完全に制御されている限り、術者を傷つけることなどない。


最も暴走したらその限りではないが。特に闇魔道などで術を暴走させてしまったら術者はもれなく世にも悲惨な眼にあうだろう。


指先に創った直径20センチメートル程の火球を見てイデアが満足げに口元に薄く微笑を浮かべる。以前よりも素早く火球を形成し、且つ威力の上昇も達成できたのだ。
だが直ぐに笑みを引っ込めて再度意識を研ぎ澄ませる。今回扱ってる力は昔ベッドの上で爆発させた【ファイアー】よりも遥かに巨大なのだ。
もしもあの時と同じように爆発などさせてしまったら指どころか、手が吹っ飛んでも可笑しくない。


最も今のイデアなら爆発する前に何処かに火球を飛ばしてしまうなりなんなり出来る程度の技術はあるのでそんな事は滅多に起きないが
だからといって真面目にやらない者に訪れるのはいつだって手痛いしっぺ返しだ。


すぅぅぅぅっと、息を吐き、次いで静かにゆったりと大きく息を吸い、そしてまた吐く。
これを何回か繰り返し、精神を落ち着かせてからイデアが指先の火球に渇を入れた。


火球が指先から弓矢のごとく飛び出す。
そのまま視界の彼方に存在する山の肌へと向かっていき数瞬後、草木一本生えてない荒れた肌を晒す山の中腹辺りで赤い小さな光が発生した。


恐らくは今光っているあの場所に着弾したのだろう。遅れて微かにだが、どぉーんという音と共に空気が振動してくる。


「ありゃぁ……ちょっと強すぎたかな?」


イデアが遠く離れた場所からでも分かる程の光を上げるそれを見て、額から冷や汗を流しながら呟く。
当初の彼の予想ではここまで強力な威力で放つつもりはなかったのだ。

もしもあそこに生き物がいたら、恐らくは無事ではすまないだろう。
まだまだ未熟な腕とはいえ、莫大なエーギルと魔力を持った神竜が本気で撃った中級魔術が直撃したら、並みの生き物はこっぱ微塵になること間違いない。


イデアが未だに少し煙を上げている指を顔の前に持ってきて、それにふっと息を吹きかけ煙を消す。
そして、もう一度遥か彼方の着弾点を見て、ぶるっと小さく身体を震わす。


「危なかったぁ…」

もしも暴走したらどうなるか考えてしまい、少しだけ怯える。


と。


パチパチ……。


イデアの後方から手と手を叩き合わせる独特の音、拍手の乾いた音が響いた。
イデアが振り返る。


「お見事ですイデア様」


そこに居たのは口元に人を和ませ安心させる柔らかな微笑を浮かべた、蒼い長髪と紅い眼をした氷竜エイナールと、その隣にもう一人。
イデアにとってエレブで生きていく上で絶対に居なくてはならない人物。彼の半身と言っても過言ではない存在。


「凄かったよイデア」



無邪気な笑みを浮かべてイデアの魔術を称えたのは彼の姉。数少ない純粋な神竜のイドゥンだ。


その容貌は数年という時間を経て、成長し、美しく、可憐になっていた。
上質な絹のようだった紫銀色の髪は質はそのままに腰まで伸びており、リボンの様な純白の布で纏められており
同じく胸の辺りまで伸びたもみあげも、激しく動いても大丈夫な様に布で纏められている。



何処か気品漂う、だが未だ幼さが残る顔には徐々に可憐さとは別に大人の美しさが開花し始めていた。
その身体は女性特有の男性には無い丸みと服の上からでも分かる柔らかさを身につけ始めている。


10歳前後の外見でこの美しさならば、成人したらきっと誰も勝てないだろうなと、一番近くでその成長を見ていたイデアは思っていた。


最も双子の弟であるイデアもそれに負けず劣らずはあるのだが、自分の外見にあまり興味を持っていない当の本人はそのことには気がついていない。
まぁ、仮に気がついたとして特に何も変わらないのだが。


イドゥンの言葉にイデア魔道書を椅子の上に置き頭を掻いて、はにかみながら答えた


「ありがと姉さん。これからも頑張るよ」


素直に褒められるのが嬉ばしく、だがやっぱり恥ずかしいため何とも言えない表情をイデアは浮かべた。


“トントン”


不意に木製の扉を誰かがノックした。
いや「誰か」と言うのは間違いだろう。何故なら既に三人とも誰が訪ねて来たかは知っているからだ。


青い澄み切った空を見れば太陽が先ほどよりも更に高く昇っていた。俗に言う正午である。昼食の時間だ。
そしてこの時間にこの部屋を決まって訪れるのはナーガしかいない。


「では。私はこれで失礼します」


エイナールが深く一礼し、背から水色の光の翼を展開させて自室に戻っていく。


「またねー!」

イドゥンが手を振りながらそれを見送る。イデアも喋りこそしないが、片手を揺らしてそれを見送る。


「……? 姉さん、それは何?」


ふと、イデアが、姉がもう片方の手にバスケットを持っているのに気がついた。ついでにそれからとても甘くて良い臭いがするのにも。
聞かれたイドゥンが待ってましたと言わんばかりに心底嬉しそうな笑みを満面に浮かべた。


「私が作った焼き菓子だよ。お父さんに食べて貰うの!」


何処か興奮した様子でそう告げる姉にイデアが苦笑いを浮かべた。
あのいつでも何処でも無表情なナーガが娘の焼いた菓子を食べたらどんな反応を示すか彼には全く予想できなかった。


いや、さすがに面と向かって「マズイだの」「要らぬ」とか言うとは思えないが。
何年間も顔を毎日の様に合わせて授業などを受けたりすれば、大体の人格はつかめてくるのだ。


『冗談は通じないが、決して愚かではない。むしろ賢人と言える部類』これがイデアの中の彼の評価だった。むしろ愚かでは竜の長は務まらないだろう。
最もそれでもナーガに対する苦手意識は消えないし、色々な感情が大分欠落してる男だとイデアは思っているが。


「勿論イデアの分もあるから、後で一緒に食べよ」


バスケットを見つめながら色々と考え事を始めたイデアを見て
イデアも焼き菓子が食べたいのだろうと思ったイドゥンがバスケットを部屋の隅の机の上に置きながら答える。


「デザートを楽しみにしてるよ」


イデアがバスケットに視線を固定させたまま言う。バスケットから放たれる甘い香りは昼飯前の彼の胃袋に強烈な刺激を与えていた。
後から後から溢れてくる唾を飲み込む。体内から本人にしか聞こえない程度の音量でぐ~っと言う音が聞こえてくる。


「どうぞー」


イデアが扉の先に声を掛ける。早く昼食を食べたいのだ。そして姉の手作りの焼き菓子に早く舌鼓を打ちたい。
ガチャリと扉が開かれ、予想通りナーガが入ってくる。今日もいつもと同じく『殿』の二人の周りはある程度は平和だった。












 






双子の我が子に食事を届けて、執務室に帰ったナーガの手には白い布で幾重にも包まれた焼き菓子があった。これを焼いたのは彼の娘であるイドゥン。
それは知ってる。遠見の術で見ていたから。しかし、これはイデアやエイナールと行った親しい者達と食べると思っていた。

まさか自分に渡すとは思いもよらなかった。


「…………」


じぃーっと片手に持ったそれをしげしげと見つめるナーガ。毒などが入ってない事は分かっている。何せ造っている過程を直接見ていたのだから。
もしも入ってたとしても毒など彼には効果がないが。


「……………」


玉座に腰掛けて、焼き菓子をそっと机の上に置いてそれをまたも見つめるナーガ。その色違いの瞳からは何も読み取れない。


「………………」


おもむろに手を伸ばして、包みを丁寧に取り去る。解き放たれたフワッとした甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。
中から出て来たクッキーの様なそれを一枚掴んで口元に運ぶ。


咀嚼すると濃縮された甘さが口の中を満たす。
正直な話、味や食感などは専門の者が作った菓子の足元にも及ばない。


だが、ナーガはこの菓子を美味だと感じていた。旨いと。
何故かは知らないが、美味いのだ。


もう一枚掴んで口元に運ぶ。やはり美味い。甘い物も案外悪くないと彼は思った。


「…………………」


彼以外誰も居ない執務室で神竜王ナーガは黙々と娘の焼いた菓子を食べ続けた。



あとがき


第一部の後半戦開始です。
既に初期の予定から大分離れていってしまってるので、ビクビクしながら筆の滑りに任せて書いておりますw

何はともかくこれからも頑張って行きます。


では、また次回の更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第六章 2
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2009/12/30 20:57
時は瞬く間に進み行き、季節がまた移り変わった。
今は冬―――それは死の季節。美しき白銀の雪とは裏腹に知恵なき者、貧しき者、そして運なき者に例外なく死を配る残酷な季節だ。


ベルンの南部、「殿」が存在する山岳地帯も山頂よりも尚高き場所に存在する雲々から降り注いだ雪に余す所なく覆われ、今や一面銀世界となっている。


「……はぁ」


そんな一種の神々しい景色を、ピッチリと隙間無く締め切った窓から眺めていたイデアが小さく溜め息を漏らした。
吐かれた吐息が窓を曇らせる。いや、もっと正確にいうなら窓の曇りと同化したというべきか。


眼を動かし、上空を覆う鼠色の雲を見て憂鬱を含んだ声で疲れたように一言呟く。


「早く止まないかなぁ……」


最初の頃こそ雪だ雪だとはしゃいでいたが、それが何日も続けば飽きて嫌になってくる。
ましてやこの景色が続いている間はあのエイナールに会えないなら尚更だ。
そう、氷竜エイナールはこの雪と寒さから人を守るためにイリアに戻ってしまった。帰ってくるのは春になってからだろう。


特に意味もなく手で窓の曇りを拭き取り、もう一度外を見ようとする。曇りが無くなった窓に映されるイデアの顔の後ろに、もう一つ彼に似た顔が映った。
一瞬ドキッとしたイデアだったが、直ぐにそれが誰だか分かり直ぐに気を取り直す。


「何見てるの?」


後ろの人物、イデアの姉が不思議そうに弟に話しかけた。


「外の雪だよ。止まないなぁって思ってた」


「綺麗だよね。白くて、フワフワしてて」



トトトと、イデアに歩み寄り彼の後ろ髪を指でクルクルと弄くる。
イドゥンと違い定期的に髪を切り落としているイデアの髪はそこまで長くないが、それでも艶やかなそれはサラサラと指の動きに合わせて動く。
切った髪はナーガが何処かに持っていったが、どうなったかはイデアの知ったことではない。


「暇だねぇ……」


イデアが溜め息を吐き、愚痴るように呟く。本を読みすぎるのは眼に悪いから現在休憩中だ。
窓の外には変わらず世界を染め上げる雪が降り続いている。恐らくこの窓をあければ部屋の温度は一気に10度近く低下するだろう。
最もそんな事したら冬の山々の冷気によって凍死しかねないので絶対にやらないが。


憂鬱気なイデアの背中を黙って見ていたイドゥンはやがて何かを思い出したかのようにポンッと手を叩きあわせると、弟の手を引っぱり始めた。
そのまま部屋の中央辺りにあるテーブルと椅子に向かう。


「どうしたのさ、姉さん?」


姉の意図がわからないイデアが問う。最も大分予想そのものはつくのだが。


「お父さんが来るまで、遊ぼうよ」


ふむ、と少しだけ考えたイデアだったが特に断る理由も無いし、何より退屈でしょうがなかったので素直に姉の提案を受け入れることにした。


「うんいいよ。で、何するの?」


「それはねー……」


イドゥンが何かを操るかの様に指小さく何度か動かす。
ガタンと言う音と共に物入れの扉が勝手に開き、中からマスが刻まれた白黒模様の板とこれまた白黒の様々な種類の戦場の兵士の種類を模した駒が大量に出て来た。



出てきたのは遊戯板。イデアが元いた世界で言うチェスに近いルールの遊びだ。人竜問わず頭を使って手軽に遊べるという事で人気のゲームである。
ただの暇つぶしの他に金や命、情報などを賭ける者もいるそうだが、勿論神竜姉弟はそんなことはしない。ただ純粋にゲームとして遊ぶだけだ。


イカサマなど不可能に近いこのゲームは純粋に頭の回転の速さ、先を見る才覚などが問われる。それ故に知力を比べるのにこれ以上ないほど適している。


「久しぶりに、やろ?」


何度も弟とこのゲームで戦っても、彼女は未だに一回も弟に勝てないでいたので、この機会に弟から白星を勝ち取りたいのだろう。
そんな姉の内心を手に取るように読めていたイデアは逃げも隠れもせず受けて立つことにした。
外見こそ同じだが精神年齢は自分の方が上なのだ。絶対に負ける訳がないとイデアは自分の勝利を硬く信じていた。

(第三者からみれば大して外見上の精神年齢が変わらないという事を彼は知らない。最も知らない方が色々と都合が良いが)



「いいよ。それでハンデはどうする?」


ニタリと挑発的な笑みを浮かべてイデアが言う。2~3駒ぐらい使用を禁止されても勝つ自信が彼にはあった。
そんな弟の言葉にイドゥンが少しだけ怒った顔で答えた。
怒った顔と言っても100人に聞けば100人が「怖い」というよりも「微笑ましい」もしくは「かわいい」と答える顔であるが。


「ハンデなんて要らない! 今日は私が勝つの!」


必死に自分の勝利を宣言する姉にイデアが心底その様子を楽しんでる笑みを口元に貼り付けた。
そして、彼には珍しく何処か挑発的な口調で


「いやいや……それはどうだろ?」


人差し指を立てて左右にそれを軽く振りながら言う。


「じゃ、私が勝ったらどうする?」


「……どうしよう?」


手をパタパタと振りながらイデアが、からかい半分の笑みで答えた。その様子から自分が負ける可能性など無いと信じきっているのがイドゥンにはわかった。
その動きが彼の姉の対抗心に火をくべ、燃えあがらせる。それと同時に込みあがる弟遊べる事に対しての喜びの感情。何だかんだ言っても嬉しいものは嬉しいのだ。
特に最近だとイデアは魔術とか、歴史とか、それ以外にも様々なジャンルの本を読み漁って、あまり構ってくれなかったのだから。


イデアの手を離して、向かい側の椅子に腰掛け白の駒を手に取り、それをマスの上に配置していく。
イデアも向かい合って椅子に座り、黒いキングの駒を手に持って指で一通り弄くった後、決められたマスの上に置き、他の駒も配置していく。


「じゃ、始めよっか?」


イデアの楽しそうなその声を合図に、ゲームは始まった。











「………」


いつもの通りに昼の分の食事と、エイナールからの手紙を持って双子の部屋を訪れたナーガが眼にしたのは中々に面白い光景だった。
一言で言えば、イドゥンが燃え尽きていた。真っ白に。ぐったりと力なく椅子に腰掛け、「あう~」とか哀れな声で唸っている。
そしてそんな彼女の後ろに立っているイデアが姉の肩を何回も優しく叩いて励すような動きをしていた。その顔には疲労が少しだけ浮かんでいる。



そして彼女の前にある机の上には遊戯版、盤の上の形勢は完全に黒が圧倒していた。駒の配置から察するに白がイドゥン側だろう。
それならばこの彼女の状態にも説明がつく。大方何回も何十回も弟に完膚なきまでに叩きのめされたのだろう。そしてそれに付き合わされたイデアに合掌。
イドゥンとイデアが暇つぶしにこのゲームを何回も楽しんでいたのをナーガは知っていた。


「昼食と手紙だ」


「待ってた……!」


食事と聞いた瞬間イドゥンが放たれた矢の様な速度で白い燃焼状態から回復する。
その回復速度の速さといえばまるで上級回復魔術の【リカバー】を掛けられたかのようだ。
余りの立ち直りの早さにイデアがぼそっと「食い意地はってるなぁ……」、と呟いたのが父には聞こえたが、それはご愛嬌。



ナーガが力を使い机の上の遊戯版をまとめて浮かばせて端によせる。
そして空いたスペースに食事の乗った盆を載せ完成。


「手を洗ってこい」


シャキシャキとした動きでイドゥンが部屋から出て、手を洗いに行く。その後にイデアがもはや癖になったとも言えるため息を吐きながらついていった。







「「ごちそうさまでした」」


今日の昼食である暖かい野菜と肉のスープ、焼きたてのパンとソーセージ
そしてデザートのりんごを無事に完食した双子が既に日課となっている食物に敬意を表す動作をして、食事と言う行為を終わらせる。


「ねぇねぇ、お父さん……ちょっといい?」


「なんだ?」


食事の光景を黙って見ていたナーガに食事を終わらせたイドゥンが話しかけた。
好物のリンゴを食べて弟にコテンパンにされた気分が大分回復したのか、今の彼女は平素通りの様子だ――つまり、子供特有の活発さに満ちている。


「あの遊戯版で何回やってもイデアに勝てないの。どうすればいいかな?」


言われてナーガが先ほど食事を置く際に退けた遊戯版に眼をやる。白の王の駒が黒の駒にチェック・メイト(将棋で言うところの詰み)を掛けられていた。
恐らく黒がイデアで白がイドゥンだろう。それに娘の話を聞くにあの状況に追いやられたのは何も今回だけではないらしい。


「ふむ……」


ナーガが眼を細めて考える。彼もこのゲームは暇つぶしで時々やるのだ。それなりに腕は立つ。
いや、むしろかなり強いと言えるだろう。


「イデア。お前はどうであった?」


不意に話しかけられたイデアがビクッと肩を跳ねさせる。


「どう……って?」


首を傾げて言葉に含ふんだ意味を問う。


「どの様に勝ったか言ってみろ」


うーん、と暫く唸って考えた後、イデアが答えた。


「分かんない。気がついたら勝ってた」


「だろうな。言葉で簡単に説明出来る物ではない」


「まぁ……ねぇ」


イデアが渋々頷く。こういった事はやっぱり言葉にしづらいのだ。どうやって勝ったか? 質問なんて尚更答えづらい。
少なくとも自分には具体的な言葉には出来ない。


それと同時に眼の前の男がどれだけこのゲームが強いのかイデアは気になってきた。見かけはポーカーフェイスの権化とも言える男だが
もしかしたらこう言ったゲームは案外弱いのかも知れない。


そうと決まれば勝負に誘ってみる。何、負けたとしても何もデメリットは無いのだ。ここは好奇心に負けても問題はないだろう。


「ねぇ」


「何だ?」


イデアの声にナーガが反応する。


「一戦、してみない?」


「……」


ナーガが無言で遊戯版に眼を移し、そして次いでイデアに眼を移す。
好奇心と期待に満ち溢れた息子の色違いの瞳がキラキラと輝いていた。


時間は……まだ問題ない。一戦くらいなら余程勝負が長続きしない限り大丈夫だろう。手紙はその後に渡せばいい。



「いいだろう。好きな色の駒を使うといい」


食器が載った盆を浮かばせ、遊戯版を盆のあった場所に持って来る。遊戯版の上の駒が独りでに所定の位置に戻っていく。
あっという間に全ての駒が配置され、いつでもゲームを開始できる状態になった。


イデアがさっきと同じ黒の駒を手に取る。ナーガが彼の向かいに座り、腕を組む。


「先手は俺からでいい?」


イデアの問い掛けにナーガが無言で頷く。それを合図にゲームが始まった。







「あーーうーーー……」


イデアが枕に突っ伏して情けない声を上げる。奇しくもその声は先ほどのイドゥンに限りなく近い声だ。
勝負の結果は惨敗。三回戦って三回ともボロ負けだ。見事に三回ともチェックメイトされて負けたのなんて始めてだった。
自分の強さにそれなりの自信は持っていたが、ナーガの強さは異常だった。それこそ彼に勝つのを諦める程に。


手も足も出ない程の強さ、絶対にこのゲームを100年単位でやり込んでるのだろう。
それほどの経験を積んで腕を磨き続けて来た彼に勝てる訳がない。
それでもあふれ出る悔しさにイデアは唸り続ける。



「まーけたー……」

「あー、よしよし」


恨みがましく唸り続ける彼の頭をイドゥンが慰めるように優しく撫で続けてあげる。
その表情は面倒見の良い姉そのものだ。


「最低でも後100年は経験を積むのだな」


勝利者であるナーガはと言うと、装飾の施された椅子にゆったりと腰掛け、何処から持ってきたのか紅茶を優雅に飲んでいる。その仕草は絵画に出来る程に美しい。
正に勝者の余裕という奴と言えよう。


クイっとカップの中の紅茶を飲み干すと、先ほど渡し損ねたエイナールからの手紙を双子に向けて飛ばす。
ヒラヒラと羊皮紙の手紙が二人の下へと飛んでいき、直ぐ近くに落ちる。


「ほ、ほらイデア! エイナールからの手紙だよ! 一緒に見ようよ!!」


イドゥンが何処か取り繕った表情で必死にイデアに手紙の存在をアピールし、何とか立ち直らせようとする。
イデアがエイナールからの手紙と聞いて、耳がピクッと反応する。顔を上げて、直ぐ近くに置いてあるそれを確認する。
同時に唸るのを止める。


「ほら、読もっ!」


イドゥンが手紙を広げて、イデアの前に持ってくる。
イデアが起き上がり、姉と寄り添いながら手紙に眼を通し黙読する。


一回眼を通す。双子が書かれている言葉の意味があまり理解できず、目を揃ってパチクリさせる
二回眼を通す。徐々に内容が頭の中に浸透してきて、イデアの顔の色が青ざめる。イドゥンはというと、余りよくわかってない。
三回眼を通す。「うっそぉおおおおおおおおおお!!!??」「きゃっぁ!?」イデアが奇声を上げ、イドゥンが驚きの悲鳴を上げる。



ナーガはその光景を二杯目の紅茶を優雅に飲みながら見ていた。あの手紙の内容は既に読んだので知っているのだ。
そう、彼の記憶が正しければあの手紙の内容は―――。










『子供が出来たので、しばらく殿には帰れません。落ち着いたら子供と一緒に会いに行きますね』












「……それが貴女の選択ね……エイナール」


今朝届いた親友からの手紙を読みながら、火の様に紅い眼、火炎の様に紅い髪をした女、火竜アンナは一人呟く。
そして小さく溜め息を吐き、首を左右に力なく振るう。


もう一度眼を通すと、手紙を小さく畳んで懐にしまい歩き出す。


「それにしても……子供、ね。早く会って見たいわね……」


フフフと妖艶に笑うとアンナは手紙に軽く口付けを落とし、その紅い唇を動かして言った。


「……幸せにね。エイナール」


友を祝福する言葉が響き渡った。





あとがき


今年中に更新出来てよかった……。年末の忙しさは異常だと思う今日この頃。

2009年はお世話になりました。
2010年もよろしくお願いします。


後、次話更新の前に気晴らしにチラシの裏に何かネタ作品を投下するかも知れませんw





[6434] とある竜のお話 第六章 3
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/01/09 12:27
月日がまたグルグルと油をさされた歯車の様に軽やかに周り、気がつけばエイナールの驚愕とも言える手紙での告白からまた一年と少しが経過していた。
今は冬の後半とも言える季節だ。


イデアの時間に対する感覚の変化は顕著だった。気がつけば一週間、気がつけば一ヶ月と、凄まじいまでの速度で進んで行ってるのを彼はまざまざと肌で感じていた。
このまま行けばあっという間に年を取って老衰でぽっくり逝ってしまいそうだが、それは人間の話。竜が老衰で死ぬなどほぼ有り得ない。

少なくとも神竜である彼は老化による死を恐れる必要は無いのだ。それが彼にとって幸せなことかどうかは置いておくとして。


イデアが月日の流れを早く感じるようになった原因はもしかすれば感性が徐々に人間のそれから変化し始めているからかも知れないと彼は薄々感づいていた。
しかしこのエレブには人間だった頃の彼を知っている者など存在しないので、考えたところで意味がない事柄なのかも知れない。


とりあえず、イデアは毎日が楽しいから時間が過ぎるのも早いのだと自己完結させている。



その日、イドゥンとイデアの二人はいつにもなく緊張していた。
これほど緊張感を覚えたのはいつ以来だろうか? 

恐らくは誕生した日の竜の大群を見た時や竜化したナーガのあの神々しいまでの威圧感に当てられた時ぐらいだろう。


今日はエイナールが殿に帰ってくる日なのだ。二人の子供を赤ん坊を連れて。



……そう、子供は二人。何の因果かイドゥン、イデアと同じ双子だ。しかもこれまた因果な事に姉と弟という構成。
正直な話イデアは何かの意思を感じて身震いしたほどだ。
神という存在は神竜を除けばあんまり信じていない彼だが、運命というものは少しだけ信じてもいいかなと思った。



エイナールが自らの愛しい子につけた名は、姉は【ニニアン】弟の名前は【ニルス】双子とも氷の精霊であるニニスからもじった物らしい。
エイナールから送られてきた手紙にはそう書いてあった。


その後に続くのは延々と娘と息子の愛くるしさや、夜鳴きはするけど特に苦ではないやら、ニルスは夫に似てるとか、ようやく首が据わったとか、ニニアンは私に似てるとか
夫も子育てを付き合ってくれるとか、俗にいう「嬉しい悲鳴」という奴だ。定期的に送られてくるそれらを姉と一緒にニヤニヤしながら読むのがイデアの今の一番の楽しみだった。


だが、時々手紙の内容があまりにも甘すぎて想像だけで胸焼けを起こしかけた事もある。そんな時はデザートは姉に譲ってあげるのだ。
あぁ、あの時の申し訳なさそうな、それでいてデザートを多く食べれる事に対して何処か嬉しさを隠しきれてないイドゥンの顔もかわいかったなぁ……。


そして今日、遂にエイナールが殿へと帰ってくる。日帰りという条件付だが。
夫との付き合いを考えればまぁ、妥当だろう。そう、何日も一人ぼっちで家の番をさせるというのも酷なものだ。
というか、夫も殿にくればいいのに、何で来ないんだろう?



夫と言えば、そういえば手紙にも一度も夫の名前が書かれてなかったなと、イデアはふと思いだした。直後にだからそれがどうしたと思い、頭をブンブンと大きく振る。
エイナール達にはエイナール達の都合があるのだろう。あまり詮索するのはよそう。嫌われる原因になる。


どうやら自分で思ってた以上に興奮しているようだ。一回冷水に顔を突っ込んで頭を冷やしたくなる。
だから、窓を少しだけ開け、山の空気(雪が降るほどの寒さ)に頭を晒し、降り注ぐ雪を頭に積もらせて冷凍させる。



「イデアー、大丈夫? 少し落ち着こうよー……それと寒いから窓しめよ?」


さっきから落ち着き無く動き回り、その度に何もない所でずっこけたり、家具に身体をぶつけたり、挙句に窓を開け、頭を極寒の外に突っ込んでるイデアに彼の姉が不安そうに聞いてくる。
今の彼の様子はとにかく怪しかった。それでいて滑稽さもある。大道芸人として生きていけるのでは? と思えるほどに。


「だって……ねぇ……? 動いてないと、どうにかなりそうなんだもん」


頭の上に小さな雪だまを乗せたイデアがキッとイドゥンを睨むように言い返す。
が、直後頭上に「頭冷やせ」と言わんばかりに多量の雪がドサッと落ちてきて、イデアの頭を小さくて滑稽な雪だるまに変えた。雪球から耳だけが露出して、パタパタ震えて雪を落とす。
イデアが口の中に入った雪を咳き込み、吐き出す。

そして、何かを悟ったように彼は呟いた。



「・・・・大人しく、待ってよっか・・・・・」

「……うん」


顔面を雪だるまに変貌させた弟の提案をイドゥンは受け入れるしかなかった。










「それにしても、姉さんはどう思う?」


イドゥンに手渡された布で頭をゴシゴシと拭き、暖炉の前で小さく震えながら暖を取っているイデアが、後方のベッドに腰掛けた姉にこの1年で何度も聞いたことを再び問う。
それに答える彼の姉の答えはこれまたいつもと変わらない。



「私は、詳しくは判らないけど、エイナールが嬉しいならそれで……」


ここまでは何時もと同じ。しかしエイナールが子供を連れて『殿』を訪れる今日はこの答えに少しの増量があった。
イドゥンが両手の指をもじもじさせながら顔を真っ赤にさせながら言う。


「それに……赤ちゃんもちょっと見て、許されるなら、触ってみたいし……」


「……ニニアンがエイナールに似てて、ニルスの髪の色は夫そっくりだって書いてあったね」


髪の毛を拭き終わり、後は暖炉で乾かすだけになったイデアが満面の笑みで姉に言う。
何だかんだで彼も早くエイナールの子供達にあって見たいのだ。そしてあわよくば触ってみたい。


それにしても、とイデアは思う。エイナールと結婚できた夫は何て勝ち組なんだろうと。


もしも、もしもだが、彼女を泣かせたりなんかしたら、その男の顔の形が馬みたいに変わるまで殴ってやろうと、密かに彼は思った。






“トントン”


不意に双子の部屋のドアが規則正しくノックされた。双子が飛び上がる。



「あの、エイナールです。入ってもよろしいでしょうか?」


部屋の外から聞こえてくるのはとても懐かしい、聞いていると何処か人を安心させる柔らかい声。
イデアが立ち上がり、姉の横に歩いていき。そこに腰掛ける。



双子の返事は決まっていた。意図せずに自然に声を合わせて叫ぶように答える。
二人の声が合わさり、二重になった。


「「どうぞ!! まってたよ!!」」



「では、失礼します」


ガチャっと部屋の扉が開かれ、一人の青いゆったりしたローブを着た女性が赤子を乗せた揺り篭を宙に浮かばせながら部屋に入ってくる。
その姿を見てイデアは思わず言葉を無くし、見入った。そして何故か唐突に涙が溢れそうになった。


一年ぶりに見たエイナールの外見はそこまで変わってはいない。当たり前だ。人間でも余程のことがない限りは1年では余り外見は変わらない。
外見は変わらない。しかし彼女が纏う気配は大分様変わりしていた。



それはまるで等しく全てを愛する女神の様な。
それはまるで子を立派に独り立ち出来るまで、愛を持って育ててくれた慈愛に満ちた母の様な。
それはまるで道を踏み外しそうになった子を叱り、導こうとする親の様な。
それはまるで自分の為ではなく、他者のために全てを捧げえる程の強い精神を持った天使の様な。


以前から持っていた全てを包むような柔らかく温和な気配は、更に結婚という竜族でもあまり無い経験を糧に
二児の母としての貫禄と、子を持った親の凄みとも言えるものをエイナールに足していた。


1年会わない内にエイナールが何処か自分でも手の届かない場所に行ってしまったようにイデアには思えた。
始めて会ったとき、驚愕のあまり顔を崩して叫んでた彼女が懐かしい。


「ぁ……エイナー…ル?」


イデアが何とか声を振り絞り、眼の前の女神のような人物、いや竜に何ともアホらしい質問を問う。


――貴女はエイナールですか?


エイナールが例えるなら鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。それは姉弟が知っている、驚いた時のエイナールの顔だ。
……あぁ、良かった。この人はエイナールだ。と、何ともどうしようもない事にイデアが安寧を覚える。


「あ、はい。私はエイナールですけど……」


「あ、いや。馬鹿なこと聞いちゃったから、忘れて。というか忘れてクダサイ」


済まなそうな顔で答えるエイナールにイデアが慌てて謝罪の弁を述べ、先ほどの醜態を返上しようとする。
しかし言葉が上手く紡げず、あーでもない、こーでもないと彼の中で論争が始まってしまった。


「久しぶりだね! エイナール」


イデアがあたふたしてる間に彼の姉がエイナールに話しかけた。
彼女にとっても今日と言う日は正に一日千秋の思いで待っていたものなのだ。


「お久しぶりです。イドゥン様、イデア様」


エイナールがローブの裾を小さく持ち上げ、挨拶をする。
その一連の動作がまた絵画に出来るほど美しく、イデアの脳内論争はあっという間に閉会してしまった。
そして今度はその光景を網膜と記憶に焼き付ける作業に全能力を回す。


「今日は赤ちゃんも連れてきたんだよね!?」


イドゥンが期待に眼を文字通り輝かせながら彼女の傍に安置している揺り篭に眼を向ける。
その視線にこもった思いは純粋な子供の持つ自分が未だ見たこと無いものに対する好奇という感情。


「はい。今日は二人とも連れて来ました」

エイナールが揺り篭をゆったりと揺らさないように眼の前に浮かばせ、持ってきて、その上に掛けてあった薄い布のベールを取る。
イドゥンがそこに居た者に対し、イデアの様に声を失う。


二人の赤子が、寄り添うように。――まるで最初の日のイドゥンとイデアの様に、氷竜の姉弟はいた。
スヤスヤと安心しきった笑顔の表情で眠っている。ニニアンと思われる(髪の色でイドゥンとイデアはニニアン、ニルスをを判別した)赤子は
首に小さな、銀色の指輪を紐に通して掛けている。そして氷竜姉弟を守るように薄っすらとエイナールの青いエーギルがオーラのように覆っていた。


恐らくはかなり強力な魔術の守護だろう。迂闊に触ったりなどしたら、どうなるかは眼に見えている。


二人の赤子はまだまだ小さい。が、それでも生きてると一目で判る力強いエーギルを双子は感じた。


「あ、あの! 触ってもいい……?」


イドゥンが頬を朱色に染めあげ、何処か艶かしい表情で勇気を振り絞り己の願望を告げる。
エイナールがそんな彼女を見て、少しだけ考える表情をした後、答えた。



「はい。どうぞ」


彼女が手を軽く横に振ると、赤子達を守っていたオーラが霧散する。


イドゥンが恐る恐るといった様子で手を震わせながら赤子の頬に近づける。
彼女の弟がゴクリと固唾を呑み、自分でも知らないうちにギュッと握りこぶしを作ってその結末を見守る。



「あ……柔らかい……」


ふに。そんな効果音が似合うほど呆気なくイドゥンの手はニニアンの頬に触れ、プニプニとその感触を確かめる様に何度も押したりする。
その度にニニアンの頬は素晴らしいまでの弾力で彼女の指を押し戻す。


「…あぅ……」


ニニアンがくすぐったそうに小さく声をあげ、その小さな指でイドゥンの指を握ってそのまま口元に持っていき、ちゅぱちゅぱと舐め始める。


「い、イデアーー……?」


イドゥンが助けを求めるようにリンゴのような真っ赤な顔で頼れる弟の名を呼ぶが、彼は小さく肩を竦め、俗に言う「お手上げ」の意を示す。
イドゥンが泣きそうな、しかし決して嫌悪ではない表情を浮かべ、視線をニニアンに戻し、その顔を凝視する。


一心不乱に自分の指を舐めるニニアンを眺めていると、何だか狂おしいまで愛おしさが湧いてくるのを神竜の姉は感じた。
まだ歯は生えてないらしく、時折ハムハムと噛まれても痛いどころか、心地よい刺激だ。


「エイナール。一つ聞いてもいい?」


イドゥンの気がつかない内に彼女の傍に接近していたイデアが、ニニアンを愛おしげに眺めかながら、氷竜姉弟の母に質問する。


「何でしょうか?」


エイナールが優しげに答えた。


「ニニアンの首に掛かっている指輪は何?」


イデアがニニアンの首に紐に通されて掛かっている指輪を示す。薄く青白く光る銀色のそれは一目でただの指輪ではない事が窺われる。
まるで氷竜姉弟を守る意思が込められているようにニニアンの首元でゆらゆら揺れている。まるでイドゥンが敵かどうか決めているようだ。

少しすると、敵ではないと解が出たのか揺れが収まった。同時に青白い光も消える。


「それはですね、『ニニスの守護』という名前でして。私の竜石を削って作った指輪ですよ。ありとあらゆる災厄からこの子達を守る力を込めました」


言われてイデアがもう一度、じっくりと指輪を観察する。
魔力さえ込めて観察すると、指輪の中には膨大な量のエイナールのエーギルが吹雪のように渦巻いているのがイデアには見えた。
最早この指輪はエイナールの分身と言っても過言ではないだろう。


……なるほど。子を守ろうとする母の意思が具現化したものか。


理解したイデアがうんうんと関心したように頷く。触ってみたいが、汚したりしたくないのでやめておく。
自分達の一応の父であるナーガは自分達を此処まで思ってくれているのかどうか少しだけ彼は気になった。



「あ……寝ちゃった」


イデアが考え事に集中していると、イドゥンが声をあげ、彼の意識を現実に引き戻す。
現実に帰ってきたイデアがニニアンを見てみると、彼女は握った指を咥えたままスヤスヤと安らかに寝ていた。


「どうしよう?」


イドゥンが先ほどと同じ困った顔でイデアに聞く。イデアが視線をエイナールに向けた。
エイナールが軽く頷くと、手を伸ばし、優しくニニアンの指を解いてやる。
一瞬だけ険しい表情をしたニニアンだったが、エイナールが頭を撫でてやるとすぐに安らかな表情になった。


イデアがおずおずと手をニルスに伸ばし、頭を撫でてやる。イデアと同じ弟の彼も姉と同じく安心しきった笑みで眠り続けていた。


「ねぇ。エイナール」


ニルスの父親似だという薄い緑が掛かった髪の毛を優しく撫でながらイデアが何気ない声音でエイナールに聞く。
答えなど始めから判りきっているが、それでも本人の口から確認を得たいのだ。


「はい?」


「……いま……幸せ?」


「はい」


エイナールは一片の迷いなく、最高の笑みでイデアの予想通りの答えを言った。














「はぁ……」


その日の夜、エイナールが帰った後、イデアは疲れた様にベッドにその身を埋め何度も何度も溜め息を吐いていた。
なにやら胸の中がムカムカにも似た黒い感情に満たされていて、お世辞にも上機嫌とは言いがたい。


「何なんだろ……」


ゴロゴロ、ゴロゴロと身体を回転させながら原因を考えるが、何も判らずに苛立ちが募っていく。
そもそも何故苛立っているのかも自分でもわからない。エイナールに夫と子供が出来たのは喜ばしい素晴らしい事なのに何処にイラつける要素がある?

何もない。無い。絶対に無い。顔も名前も知らない男があの優しい女性と結婚したぐらいじゃないか。
もしも彼女を泣かせたりしたら顔面を竜のブレスで焼いてやると決めた男だ。殴る程度ではやはり物足りない。


「あぅ……」


ゴロゴロと纏まらない思考を何とか纏めようと足掻いていると、イデアは何かにぶつかった。


「イデア、どうしたの?」


そのぶつかった何か――彼の姉の顔が上下逆さまでイデアの視界に映る。
イデアが身体を少し起こし、姉の顔を正常に戻す。イドゥンはベッドの上に座っていた。


「な、なに?」


そのままじぃっとイドゥンの顔を凝視する。少しだけ、気分が楽になった。
しばらくそうしていたイデアだったが、のっそりと身体を動かすと、その頭をイドゥンの膝の上にゆっくりと乗せる。
そのまま微動だにしない。


「イデア、ほんとうに大丈夫?」


「撫でて」


心配そうに声を掛ける姉にイデアがぶっきら棒に一言で要求を伝える。
言われたイドゥンは一瞬眼を瞬かせ言葉をゆっくりと咀嚼し、自分の膝の上のイデアに眼を落とす。


其処に映ったイデアが何やら何時もよりも幼く見えた。そう、具体的に言うなら拗ねた子供だ。
何だかそれが可笑しくて、フフフとエイナールに似た柔らかい笑みを零すと、イドゥンは弟の頭に手をやり、エイナールがニニアンにやったように金色の髪の毛を優しく撫でてやる。


しばらくそれを続けていると、やがて小さな寝息が聞こえてきた。





あとがき


あけましておめでとうございます。作者のマスクです。
今回の話を書いてて、真剣に先の展開を変えてしまおうかどうか悩んでしまいました。


では皆様。次の更新にてお会いしましょう。



[6434] とある竜のお話 第七章 1
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/03/18 18:34
「殿」に存在する神竜王ナーガが執務を執り行う執務室。今、その部屋にはこの部屋の主であるナーガ以外にもう一人の人物が居た。
玉座に堂々と腰掛ける彼の前に一人の女性が膝をついている。

自らの主の前に跪いているのは紅い髪に、紅い眼、そして纏う雰囲気まで“紅い”女性――ナーガの腹心の部下の一人である純血の火竜アンナである。


二人がまとう空気は何処までも重く、そして冷たい。そしてその表情は一切の感情を排除した完全な無表情。
イドゥンやイデアが見たら震え上がるであろう表情だ。少なくとも何も知らない子供に見せて良い類の表情ではない。
そして両者がその身に纏う空気は何処までも冷たく、殺伐としたものだ。


この事からこの二人は浮ついた話や、雑談をなどをしている訳ではないのは判る。
いや、アンナはともかくナーガに至っては既に性欲があるのかどうかさえ怪しいものだが。


「報告しろ」


王座に腰掛け、片肘をついたナーガが気だるげな、ありとあらゆる感情が完全に抜け落ちたいつもの声で彼女に命令した案件の報告を求める。
アンナが膝をついたまま一回小さく頷き、主の求める答えを流暢に、しかし一切の感情が篭もらない凍てつく声で告げる。


「ご指示の通り“知識の溜り場”の各所への転位陣の配置の構想図の企画、及び探索避けのためのダミー456箇所のエレブ各所への設置
 そして【里】の座標設定、その全てを完遂させました」



アンナがその手に持った上質な紙の束をナーガに向けて差し出す。紙束は彼女の手を離れ、ナーガの元にフワフワと飛んでいった。
自らの元に引き寄せた紙束をナーガがその手に取って広げ、竜族の言語でびっしりと刻まれた文章の列を素早く黙読していく。


ものの十秒ほどで数枚の紙に書かれていた文を読みきり、内容の全てを記憶した彼がソレを灰も残さずに焼き払う。
そしてもう一度アンナに眼を視線を向け、口を開いた。



「……エイナールにこれを渡しておけ」


エイナール……親友の名前にピクリと一瞬だけではあるがアンナが反応を示した。
ガタリと、ナーガの執務机の引き出しの一つが開かれて中から一枚の紙が浮かび上がってくる。
ナーガがそれを手に取り、手早くサインをした。そしてソレをアンナの元に飛ばす。


「仰せの通りに」


フワフワと飛んできたソレをアンナが仰々しく受け取り、眼を通さずに直ぐに懐にしまう。


「……気になるか?」


ナーガが彼には珍しく少しだけ感情が篭もった声でアンナに問う。少しだけ凍りつめていた部屋の空気がゆるくなった。



珍しい……アンナはそう思った。


彼女の知る自分の主、ナーガは彼女が知る限り感情という物を極限まで外に出さない男であり、ましてや無駄な問い掛けなどほとんど行わない竜なのだ。
それに行ったとしてソレらの言葉はほとんどが牽制や、威圧、腹の探りあいの際に発する駆け引きの一手である。



それに本当に欲しい情報などは有無を言わさず魔導の力で吐かせるという場合もある。



茶を濁すか、素直に答えるか、一瞬だけアンナは思考を巡らせたが此処は下手に隠し立てしな方がいいだろうと思い、正直に答えた。
エイナールとアンナ、火と氷という対極の属性を司る彼女達の仲が大変良いのはナーガも知っているのだから。



「はい」


「ヴァロール島に用意した緊急時の避難所への地図と、其処に幾重にも張っている加護及び隠蔽結界の通行書だ。……奴は少々有名すぎる」


有名になり、名が知れ渡るという事はそれだけ多くの人間から思われるという事だ。好意にせよ悪意にせよ。
どうしてもナーガはその部分が気にかかった。だから【里】とは別にもう一つの避難所を彼女に用意したのだ。
昔の様にエイナールが独り身ならば身動きも軽いのだろうが、家族が出来た彼女は昔の様には動けない。


簡単に言ってしまえば、神竜王ナーガは配下の氷竜エイナールを心配していて、万が一の時のための避難場所を用意した。
それだけだ。


「渡し方はお前に任せる」


それだけ言うとナーガは手元の書類の山に意識を移し、黙々と仕事に取り掛かった。無言でアンナに退室を促す。
アンナは小さく主に礼をすると、そのまま下がった。


「……………」


アンナが退室した後もナーガは黙々と執務を続ける。その脇に置かれた報告書の一枚には竜族の文字でこう書かれていた。




―――ベルン北東部で飛竜が異常繁殖。そして凶暴化した飛竜達の一団が餌を求めて大規模な移動をしている。

他にはエーギル操作技術で成長と味を変化させた香辛料や食物の生産量の報告書などが机の上にはどっさりと乗っていた。




何を思ったか一旦手を止め、それらをナーガは無感動に眺める。腰の【覇者の剣】の柄を軽く撫でて、そして机の引き出しの一つをあける。
そこに安置してあるのは一冊の古びた本。姉弟が文字の練習に使った物だ。


本の表面を撫でるよう触れた後、机の引き出しを閉めてナーガは再び執務に黙々と取り掛かった。
彼はこれが終わればイドゥン、イデアに昼食を持っていくという大切な仕事があるのだ。















「はぁ~~極楽だなぁ~~」

神竜姉弟の部屋。椅子に腰掛けたイデアは蕩けた顔で思わずそう漏らさざるを得なかった。
彼の後ろでは二本の杖がフワフワと浮かび、淡い光をイデアに浴びせている。


二本の杖の名称はそれぞれ【ライヴ】と【レスト】
【ライヴ】は身体の外傷を治し【レスト】は病気や毒などを身体の中を直す術の発動媒介だ。


そしてこの二つの術は体力を回復させる効果もある。
それらを同時に浴びれば今のイデアと同じ状態になってもおかしくない。



「どう私の術は? 上手く出来てるかな?」


彼の向かい側に腰掛けたイドゥンが何処か心配そうに弟に聞く。
指をモジモジさせ、何処か不安げだ。
これは彼女の術の練習の一つで、ちゃんと回復の術が発動しているかどうかの確認でもあるのだ。


炎を生み出し操る、光を矢に変える、影を支配し命を飲み込む、これらの術ならば発動していると直ぐに判るが回復系統の術は
誰かにかけて意見を聞かなければ発動していると判りづらいからだ。


「だいじょーぶだよぉ……。ちゃんと発動しているさー」


イデアが恍惚とした表情で杯に手を伸ばして、中に満たされたチョコレートに口をつける。
カカオの豆から生成され、人間では一部の貴族や権力者しか口にすることの出来ないソレを贅沢にも飲み込んでいく。
余談ではあるが、カカオ豆の加工方法と類似品の「コーヒー」の生産方法をエレブの人々に教えたのは百年程前の竜族だそうな。


教えた竜族の者は今もどこかでチョコを美味しく飲んでいることだろう。



ソレを見たイドゥンが満足そうに笑った。ちゃんと術が発動して何よりだ。
それに此処まで気を抜いたイデアを見るのも珍しいし、見ていて和む。


彼女が知る限り、イデアがこんな表情を浮かべるのはエイナールに撫でられた時と、好物であろう魚や白米、あの味噌汁とやらを味わっている時ぐらいだろう。
他には自分をからかってる時も恍惚とは言いがたいが、楽しそうな笑みを浮かべている。


一度、イデアがふざけて眠る前に怖い話をイドゥンに聞かせてあげた時は、一晩中イドゥンが眠れなくなったという事もあったのも今となってはいい思い出だ。
特に大きな鋏を持って、金属音を高らかに鳴り響かせながら何処までも追いかけてくる男の話は情けない事に悪夢で再現され飛び起きた程である。


イドゥンがずずーっと杯の中に満たされた黒い液体、チョコとやらを飲む。甘い。しかし彼女はこれよりもリンゴの甘さの方が好きだ。次点で果物のナシとブドウだ。


これは何と言うか……甘すぎる。こういう加工された甘さよりも自然な甘さの方が美味しいと思う。


「……はぁ、ごちそうさまでした」


空っぽになった杯をテーブルの上に置いて、真っ赤な顔をしたイデアがポンッと手を合わせ唱える。
彼の食料に対する敬意の表し方だ。


杯をテーブルの端に力を使って「掴んで」動かすと、自分の横に置いてあった一冊の分厚い本を手にとってそれをテーブルの上に乗せて広げる。


「何読んでるのー?」


チョコを飲み終えたイドゥンが椅子から降りて、弟の横に歩いていく。
そして何気ない動作で二本の杖に向かって指を軽く振る。

【ライヴ】と【レスト】の杖から発せられていた光が消え、二つの杖が彼女の手に吸い寄せられるように飛んでいく。
それらに杖という物の本来の役割道理に体重を預けながらイドゥンは弟が取り出したまだ自分は読んだことのない書物について問う。


イデアが不満げな眼で二本の杖を見るが、直ぐに表情を元に戻した。


「これは竜族とか、ペガサスとかについてまとめられてる図鑑みたいな本だよ。ナーガが新しく持ってきた本の中にあったんだ」


もうずっと前から月に一回程度の周期でナーガは双子の部屋に様々なジャンルの本を持ってくる。
地理に歴史に魔術に初心者向けの魔導書にただの御伽噺に童話、生き方についての考え方、兵法、ありとあらゆるジャンルの本をだ。


ナーガ本人が直接双子に授業をする回数そのものはかなり前からがくっと減ったが、その代わりと言わんばかりに大量の本を持ってくるのだ。
読み終えた本はちゃんと指定された場所に置いておけばナーガが回収して図書館に戻しておいてくれる。


基礎的な事は全て教えた後、自力で発展させるのがナーガのやり方なのだろうとイデアは思っている。
最も、イデアは娯楽の一部として本を読んでいるので魔導と御伽噺、それ以外の興味の湧いた本しかイデアは読んでいなかったりする。
さすがに一冊一冊がとてつもなく分厚く、文字もびっしりと刻まれた本を何冊も読めるほどイデアの気力は多くないのだ。


……余談ではあるが、イドゥンは何気に全ての本を読破し、その内容まで大まかではあるが暗記していたりする。
少しでも多くの知識を取り込みたいという彼女のイデアよりも強い純粋にして根源的な欲求がソレを可能にしているのだろう。



そんな彼女でもまだ読んだことの無い新しい本を弟のイデアが読んでいる。気に掛かる理由としては十分だろう。



「私達について纏めたもの?」


「一緒に読んでみる?」


「うん」


判ったと、イデアは小さく頷くと身体を横に寄せてイドゥンが座れるスペースを作る。
が、彼女のとった行動はイデアの予想しえないものだった。


「ちょっとごめんね」


「え?」


フワリとイデアが座った体勢のまま少しだけ浮かびあがった。
よく眼を凝らせばイデアの下に金色の光が纏わりついており、それが彼を持ち上げていると判るだろう。



スカートの裾を少し持ち上げたイドゥンが浮かんでいるイデアの丁度真下にあぐらに近い形で座る。次にゆっくりとイデアを自分の足の上に降ろす。
更にイデアの肩に頭を乗せ視界を確保。最後にイデアの脇の下から手を通す。これで完成だ。


第三者から見れば今のイデアはイドゥンに後ろから抱きとめられたような格好になっていた。


「ね、姉さーん? コレは、一体、どういうことー?」


顔を先ほどとは違う理由で真っ赤に火照らせたイデアが真横にある姉の顔に向けて何処か力ない声で言う。


神竜の力と竜殿の効力で成長を限界まで促進されたイドゥンの人間形態時の肉体年齢は13~4と言ったところだ。
当然人間と同じ様にイドゥンもそれなりに女性として肉体が変化し始めているのだ。胸は大きくなるし、身体は細いながらも女性としての柔らかさを備え始める。


声もかつての美しさに磨きをかけ、どこかに艶さえ含んだ物になるし、纏っている気配そのものも神竜の神聖さと女としての妖艶さを備え始める時期。
そんな女性に後ろから抱きとめられているのだ。後ろからという事は当然ながら膨らみ始めた胸などもイデアの背にあたるという事だ。

弟の抗議とも言えない言葉にイドゥンはさも当然の様に、それが当たり前だと言わんばかりに答える。
ついでに更に胸部がイデアの背に密着し少しだけ形を変える。イデアの顔面が更に真っ赤になった。今なら神竜なのに火竜のブレスが出せそうだ。


「こっちの方がいい」


「ぁ………そう……」


火照った顔のまま本を浮かばせ、姉も中が読める位置まで持ち上げる。そしてそのまま手を使わずページをめくる。
最初のページには太陽を連想させる光放つ球体を背負い、世界をその手で握っている巨大な竜――神竜が神々しく描かれていた。


「これはお父さんなのかな?」


「かもね」



イドゥンの声に相槌を打ちながらイデアが本に描かれた神竜の絵をじぃっと眺める。

ナーガが竜に戻った時のあの巨大さ、力強さ、そして神々しさをイデアは未だについ先日の出来事の様に思い浮かべる事が出来た。
あの山よりも遥かに巨大な体躯、全身から噴出す圧倒的なエーギルとオーラ、王冠の様な角、魔導を少しかじった今なら判るあの正に神がかった超大な力。
魂が弾け飛びそうな程のあの威圧感。全てにおいて次元違いだ。


あの存在が本気を出せば一晩でエレブを完全に消し去る事が可能なのではないかとイデアは思っている。
ナーガのブレスでエレブ大陸が粉々に砕ける場面をイデアははっきりと想像できた。




…・・・例え自分を害する気がなくてもこんな化け物が隣に居たら、怖くて怖くてたまらない。そんな考えが一瞬だけ彼の頭をよぎった。




次のページには神竜についての説明文が書かれていた。
そこに記されていた内容は神竜本人(竜)をして正直誇張されすぎではないかと思えるほどの物だ。


要約してしまうと、神竜はほとんどの事が出来る。これの一言に尽きる。
最も多少の誇張は入っているだろう、時間が経つと尾ひれ背びれなどが付くのは噂と大して変わらない。



「私達ってこんな事できるんだー」



チラリとイデアが肩に頭を乗せてゴロゴロ言っている姉に眼を向ける。
眼があった彼女が楽しげに弟に無邪気に笑いかけた。この顔をみる限り、竜と言うよりも子猫などの小動物と言った方が近いだろう。


「次のページお願い~」


「はいはい」


脇の下から通した腕をブラブラさせながら頼んでくるイドゥンに疲れた声でイデアが応じる。
本がペラリと捲れた。


次に描かれていたのは神竜と何処か似ているが、決定的に何かが違う巨大な竜。これも世界の上に雄雄しく立っている。
そしてその竜の背後と足元には数え切れない程の無数の火竜と思わしき小さな竜たちがおり、王を守る騎士の様に絵の外側に居るのであろう敵対者に明確な殺意をぶつけていた。
まるで竜の大軍団だ。


「これは何だろう? 何て名前の竜なのかな?」


「ちょっと待ってて…」


ページを捲り、この竜の説明が書かれている場所を出す。そこにはこう書かれていた。



【魔竜】


かつての始祖竜と神竜の戦争の際、始祖竜達は深遠の闇の力を用いて数え切れないほどの異形を生み出し、それらを操り己が兵にした。
それに対抗するため神竜族の一部の者は神竜の王の令と自らの意思で改造を施し魔竜となり、新たな力を獲得して始祖竜とその眷属である異形達と戦った。


【魔】竜と呼ばれこそされど、この竜の本質は神竜である。魔竜が居なければ神竜族の勝利はなかったのかも知れない。
しかし魔竜は全てが戦で始祖竜と相打ちになり、戦死してしまったため今では記述のみが残る。


色々と大仰で遠まわしな文体であったが、要約してしまうとこうなる。



「……お父さん、なのかな? 指示した王様って」


「どうだろう?」


ナーガの持っていた剣――【覇者の剣】を思い出す。確かアレは始祖竜そのものだとか言っていたはず。
同時にあの翡翠色の美しい剣が持っていた禍々しさも記憶の奥底から蘇る。アレを滅ぼすために戦うのに魔竜が必要だったのだろう。
自分の意思でなったとも書いてあるので、戦死したとしても魔竜となった神竜は本望だったのだろう。


……最も、どんなに考えたとしても自分は当事者ではないので魔竜となった者の気持ちなど判るはずもない。
すると陰鬱な雰囲気を壊すようにイドゥンが声をあげた。


「次、いってみよー!」


「へいへい」


気のない返事と共に本に力を送り、ページを捲る。イドゥンが頭を肩の上に乗せてじっくりと食い入るように本を読み始める。
どうやら馬について書かれたページらしく、生息地や生態などが書かれている。何故いきなり馬? とイデアは思ったが口には出さずに胸の内で消化した。
きっと執筆者にしか判らない何かがあるのだろう。そしてイドゥンはその馬の描かれている絵、正確には背景の草原をじっとその瞳に映している。


ずいぶん熱心に読むなと思いながら、何気なく動けないイデアが眼を下に向ける。両膝を椅子につけ、あぐらの形で座っている姉の素足が見えた。




ムクムクと悪戯心が鎌首をもたげてくる。チラリとイデアが隣のイドゥンの顔を盗み見る。本に夢中でどうやら他の事は眼に入ってないようだ。
好都合・・・…ニヤリと小さく笑うと気が付かれないように気をつけながら慎重に身体を動かす。


力を使ってそれとなく羽ペンを手元に引き寄せ、ついでに姉の腕にも薄くエーギルを纏わり付かせとく。


「サカかぁ、ねえイデア……ん? イデア、どうしたの?」


「フフフ……」


何やら弟の様子がおかしい事に気がついた彼女だったが時は既に遅し。
演技10割のわざとらしい笑い声に不吉な何かを感じたイドゥンが腕を抜こうとするが……動かない。がっしりと固定されている様にビクともしない。


「え? え! え!?」


ガクガクと力を込めて脇から引き抜こうとするが、がっちりとイデアの力によって囚われている。


「フフ、残念だったね姉さん。貴女の座り方が悪かったのだよ」


手に持った羽を姉の眼前でヒラヒラと振ってみる。
それを不思議そうに一瞬眺めたイドゥンだったが、羽を足に向けて動かすとその顔が青ざめた。
イデアが何をするか理解したのだろう。足に力を込めるが、やはり動かない。ごそごそと身体を左右に揺さぶるがやはり動けない。


「ま、待って! ちょっと待って!」


涙ながらに訴えるイドゥンにイデアが意地の悪い笑みを浮かべ、指を顎に当てて首をわざとらしく傾げる。
そして笑いながら


「冗談だよ……少し本気だったけど」


ぽいっと手に持った羽ペンを投げる。同時に彼女を拘束していた力を解除する。
イドゥンが自由になった腕でぎゅっと少し痛い程度の力でイデアを抱きしめた。
そのままギリギリと締め上げる。


「イデアぁー、信じてたよぉ!」


「あぁ……はいはい」


イデアが顔をまた真っ赤にさせ、気のない様子で感無量といった感じで抱きつく姉に対応する。
その……強く後ろから抱きしめられると、当たるのだ。アレが。


もう少し味わっていたい所ではあるがこれ以上は理性が危ないので、ここまでとするために話題をふる。


「さっき何か言いかけてたみたいだけど、何て言おうとしたの?」


「ん? あれはね、私達ももうそんなに小さくないし、外の世界に二人で行きたいなーって言おうとしたの」


彼の目論見どおりに抱きしめる力を緩めて、ひょこっと顔を肩の上に出した姉が答える。
それにイデアが答えようとした時、まるで狙っていたかのごとく扉が規則正しくノックされた。






昼食の時間だ。
















「うーん……」


「あーうー……」



イドゥンとイデアは今、数枚の羊皮紙と睨みあいながら唸り声を上げていた。
この紙は何か? と、問われれば答えは簡単である。ただの申請書と予定表だ。

かつてエイナールも書いたあれだ。


いつも通り食事を持ってきたナーガにそれとなく外に二人で出たいという旨の事を言ったらこの羊皮紙を書き方の説明と共に渡されたのである。

全て二人で企画してみろ。破綻してなければ許可を出してやる。
持って行く武器や魔導書、食料や根本的にどこへ何時に向かい何時に帰ってくるのか? などを詳細に書き記せとナーガは言った。
まるで遠足の企画だとイデアはナーガの話を聞きながら思った。


この手の書類は書いたことはないけど、無難にやれば大丈夫だとイデアは信じている。
間違っても行き先に飛竜の巣や恐ろしい黒騎士が居るどこぞの港町の民家などど書かなければ大丈夫だろう。


そう思って万年筆を手に取る。取り敢えずは持ち物に「竜石」と書いておこう。念のため。
次は行き先だ。まずはコレが決まらなければどうしようもない。

ここは姉さんの意見も聞いて――。


「イデア」


真剣な声で名前を呼ばれたのでそちらに顔を向けるとイドゥンが何やら深刻そうな表情でイデアを見つめていた。
まるでこれから戦場に向かう騎士や傭兵の顔だ。そのただならぬ面構えにイデアが思わず生唾を飲み込む。


まさか、もう企画の構想が終わったのか? 行き先から持ち物までこんな短時間で考え終わるとは凄い。
イデアが胸中の興奮を押し込めながらも姉の言葉を待つ。


そして驚愕の真実を、誰も知りえない世界の真理を詠いあげるか如く彼女は言った。


「―――――リンゴは何個持っていけるのかな?」


「……………」


全ての表情を消したイデアが万年筆を筆立てに入れ、羊皮紙をしまうと羽ペンを手に取る。
姉に罪はないのは判る。勝手に期待した自分が愚かだったのも理解できる。


だが・・・・・だが。


「え? イデアーー?」


いきなり身に纏う雰囲気を先ほどの様に変えた弟に怯えるような声で話しかけるイドゥンだったが返事はなく
変わりに全身を簀巻きの様にイデアの力でグルグルに拘束されてしまった。
しかも万が一にも抵抗出来ない様に念入りに「竜石」まで取り上げる。そしてそのままベッドの上まで浮かばせて輸送。



「とりあえず色々と言いたい事はあるけど、まずはたーっぷりと笑い転げようか?」



姉の竜石を片手で弄くりながらイデアが本当にいい笑顔を浮かべる。イドゥンがこれまで見てきた中でも上位に入るほどの顔だ。
そう、例えるならまるで思う存分憂さ晴らしをしてる時の顔だ。



「い、イデア! 落ちついて! 話せばきっとわかるよ!!」


芋虫の様に全身をくねらせながらイデアから距離を取ろうとするが、移動した分だけイデアが距離をゆっくりとつめて来る。
直ぐにベッドの端まで追い込まれた。横に転がって移動しようにも、見えない手で押さえられている様で動けない。



「やめて、そんなことされたら……私ぃ……」


目尻に涙を浮かべ、力なく首を左右にふって懇願するがこれも無視。内心、少しだけ心に届いたが構わず続ける。
そして無情にもイデアはその手に持った神竜を笑い狂わせるであろう羽を彼女の素足に走らせた。



姉弟の部屋から叫び声にも聞こえる笑いが響き渡った。




あとがき


この頃イデアが幼児退行を起こしている気がするけど、きっと気のせいだよね。
では次回の更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第七章 2
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/03/18 18:33
太陽の光が眩しい真っ青で平和な空。


しかし快晴という訳でもなく空には幾つかの巨大な雲の群れが山よりも高く浮いており、それらはゆったりと風の流れに
身を任せて悠々と大空を飛んでいる。そしてその合間を高所を飛ぶ特定の鳥達が水の中を泳ぐ魚のごとく征く。


そんな雲と鳥の中に混じって1つだけ巨大な影が、他の全てを置き去りにする速度で空を飛んでいた。
それの背に生えた4つの黄金色の翼が力強く羽ばたく度に金色の粉を撒き散らし、衝撃を発生させる。


天空の絶対の捕食者である飛竜が塵芥に見えるほど巨大で、神々しい雰囲気を持った影の正体は『竜』
人よりも遥かに強く、優れた叡智と寿命を持った種族だ。
しかも大空を弓矢の様に飛んでいるのはそんな竜の中でも頂点の存在である神竜。超越種の中の超越種だ。


全身を金色の鱗と甲殻に覆われてはいるが、半分ほどは羽毛に近いのを見るとまだまだ幼い神竜だと判る。
紅と蒼の眼に確かな理性と知恵を湛え、猛烈な速度で過ぎ去っていく下界を見渡す。


そして。



(イデア イデア! 凄いよ! 私ってこんなに早く飛べたんだ!!)



「あー、はいはい。凄いね」



鱗に包まれた広大な竜の背にぽつんと置いてある小さな金色の繭
エーギルで編みこまれ、作り出された小さな部屋の中でこの竜の半身とも言える人物、イデアが素気なく返事を返した。


もう何度も同じ内容の言葉を言われて、一々返事を返すのにも飽きてきた。



幾度かの失敗を繰り返してようやくナーガの許可を貰える程度までに計画表を完成させた双子は現在目的地へと向けて飛行中である。
イドゥンの背にのったイデアが色々な物を詰め込んだ大きな皮袋を枕代わりにして寝ころがる。
彼の視界全面に広がるのは青い空でも、遥か下の大地でもなく純粋な金色。


何故二人同時に竜化しないのか簡単に言ってしまうと
まだ双子はエイナールやナーガの様に何もない所からポンポンと本やらバスケットやらを取り出す事が出来ないからだ。
あれも恐らくは何か高度な魔術を使っているのだろう。残念だが双子はまだ其処まで魔道を極めてはいない。



竜化して背中に荷物を乗せて持っていってもいいが、落としたら悲惨な事になることは間違いないだろう。
うっかりしたミスで大事な荷物が空中にばら撒かれるのをイデアはありありと想像できた。


ならばどちらか片方が竜化し、その背中にもう片方が乗って荷物の管理をしようという事になったのだ。
最初冗談交じりにイデアがこの意見を言ったら彼の姉が「面白そう!」と食いついてきたのも大きい。
そして荷物と自分の片割れを乗せて飛ぶことになったのはイドゥンに決定された。


飛行速度などはほとんど同じであるが、決定された理由で一番大きいのは彼女が精霊の声を聞くことが出来るというのがある。


そう、理魔法を行使する者はありとあらゆる場所に存在する精霊の声を聞いてその力を借りる事が出来るそうだが、
イデアには精霊の声が全くといっていいほど聞こえないのだ。

本当にこれっぽっちもだ。精々精霊の存在を感じる事が出来る程度で、そこから先には10年近く経っても到達出来てはいない。


ナーガにその事を相談したら「理魔法への適正が低いのかもしれん」と言われて本気で凹んだりした事もいい思い出だ。

しかし姉の「イデアが聞こえないなら、私が精霊の言葉を教えてあげる」という励ましと
「一応は理魔法も使えなくはない」と前向き思考で持ち直してその事は気にしないようにイデアはしている。



話を戻そう。


イドゥンによると精霊は本当に色々なことを教えてくれるらしい。
今日や明日の天気に風の向きや強さ、何処にどんな鉱石があるか、地下に暖かいお湯があるよ、大地が揺れるから気をつけて、などなど例をあげればキリがない。


そんな精霊達にサカへの道案内を頼んで、イドゥンは精霊の導きに従って飛んでいるのだ。
落ちないようにエーギルで個室をつくり、その中にイデアを格納して彼女はスイスイ飛んで行く。


人や馬なら何日も、何週間も、何ヶ月も掛かって行く道程をまだ幼いとはいえ神竜の翼は僅か数時間で移動する。
飛行の速度で神竜に勝てるのは成長しきった風竜ぐらいであろう。



話はそれるが、かつて存在した風竜フォルセティという竜はその昔ナーガに飛行速度で勝負をしかけた事があるそうな。
結果ははっきりと判っていないのでこの話自体が御伽噺の類である可能性もあるが、真実を知っているであろうナーガは黙して語らない。
後、噂によるとこの名を冠した超魔法が知識の溜まり場には眠っているらしい。
他にも知識の溜まり場にはかつての戦争の際の超魔法や、恐ろしい力を秘めた武器の製造方法などが厳重に封じられているという。



閑話休題。



暇だ。イデアの胸中を埋める感情は退屈であった。
寝転がっても金色。起きても金色。足場は鱗と羽毛、甲殻。しかも移動できる範囲は狭い。


少なくとも今のイデアを取り巻く環境は最悪とはいえないまでも、決していいとは言えないものだった。


「……ふぅ」


半身だけ起き上がり、ぼぉーっと何処か遠くを見る。
そして手に力を込めて、立ち上がろうとした時



パキ



そんな乾いた音が手元からした。
イデアが何だろうと思い、音のした場所に眼を向ける。


「あ」


思わず反射的に気の抜けた声をあげる。


……鱗が、剥がれていた。見事なまでに。


「あああぁ……」


鏡の様にキラキラと光り、自分の焦りに満ちた顔を映し出したそれを見ながらイデアがガタガタと震える。


(どうかしたの? 酔っちゃった? 一回降りて休む?)


弟の姿は見えずとも焦りは伝わってきたのだろう。イドゥンが彼を案ずる声を脳内であげる。
不思議なことにいつも色々教えてくれる精霊はクスクスと悪戯が成功した子供の様に笑って何も教えてくれない。


「いい! 大丈夫だから!! 早くサカにいこう!!」


イデアの腹の底からの叫びを聞きながら、イドゥンは予定通りサカへ向けて猛烈な速度で北上を続けた。











サカ草原はベルン地方の北、エレブ大陸の中央部に存在する大草原地帯だ。
草原の面積はベルン地方の2倍以上の広大さを誇り、そこには厳密な国家は存在しない


国家の代わりにサカに存在するのは部族で、サカの民は部族単位で移動し、共に助け合い生活している。
そう考えると部族というのは一つの大きな家族といえるだろう。


主な移動方法は馬で、馬車などにゲル(サカの住民が暮らす民家であるテント)を積み込んで大規模な移動をすることもある。
そして馬の上から弓を射る技術も日常的な狩りなどで鍛えられているため、かなり高い。


信仰という点ではサカは天や大地、理魔道で言う精霊などを深く信仰しており、これらへの感謝と畏敬の念を強く持っている。
そしてサカの民は嘘などを嫌い、自らがサカの出身である事を誇りに思っている者が多数。


それと同時にサカに住まう彼らは仲間や家族などを何よりも大切にする者が多く、彼らを仲間につけることが出来れば
例え世界を敵に回しても味方になってくれるだろう。


以上 竜族の地図 サカ地方の特色より一部抜粋。







サカの壮大な大地。
地平線の果て、何処までも続く広大な草原に突如影が差す。
太陽の光が雲に遮られた際に発生するソレに近い影だ。


最初は小さな影だったが徐々に大きくなり、同時に辺りに強風が吹きすさび若草達を激しく揺さぶる。


ズドォンと重厚な音を響かせ、影を落としていた物体――金色の竜の巨体が大地にその身を降ろす。
四本のしなやかながらも頑強な脚、そこから生える成長と共に三本から五本に増えた鋭い竜爪で大地をしっかりと握り締め、自重を支える。



二対四枚の見る者を圧倒する翼をたたみ、着陸終了。



竜の全身が輝いた。太陽のごとく暴力的な光を撒き散らす。
光は徐々に小さく収まっていき、やがては拳程の大きさの竜石となって収束する。


「ふぅ……」


竜石を持った紫銀色の長髪が特徴的な少女、神竜イドゥンが竜石を懐にしまうと、身体をほぐすようにグっと背伸びをした。
後ろを振り返り、今まで背に乗せていた自分の最も大切な半身の様子を見る。


彼女の半身であるイデアといえば、荷物を傍らに放置し何やら青い顔で四つんばいになっていた。
簡単に言えば、とある事情から発生した緊張によって酔ってしまったのだ。
さしずめ竜酔いとでも名づけておくか。


「イデア?」

長く美しい髪を翻しながら弟の元に駆け寄り、その顔を覗き込む。


「大丈夫、大丈夫だよ……」


イデアが片手を今にも息絶えそうな老人のごとくプルプル震えさせながらあげて、何とか無事であると主張する。
まるで産まれたての小鹿だ。しかし彼の顔はどちらかと言えば棺桶に片足を入れている顔だが。


嘘だ。少なくともイドゥンには大丈夫には見えなかった。真っ青な顔で四つんばい、声には生気がなく、いつも元気よく存在をアピールしてくる
尖った耳もへたれている。こんな状態を少なくとも彼女は元気とは呼ばない。


特に尖耳なんて全身で「体調は最悪です」と訴えてきているではないか。


いけない。自分はお姉さんなのだ、弟が体調不良なら助けなければいけない。
かつて弟に守ると言ったあの言葉を忘れた訳ではない。

今この場でイデアが頼れるのはお姉さんである自分だけなのだから。


「ちょっと待ってて!」


荷物として持ってきた皮袋の中身を漁り、突っ込んでおいた小さなレストの杖とライヴの杖を手に取る。
持ち運びが便利な大きさに整えられた杖だ。



その二本の杖に彼女は力を流し込んだ。








「本当にありがとう。助かったよ姉さん」


「どういたしましてイデア。後、他に何か困ったことがあったら、何でもお姉さんに言ってね?」



二つの回復の術をかけられ、何とか復活したイデアが自分に術を掛けてくれた姉に感謝の言葉を言う。
正直な話、危なかったのだ。あのままだとサカの澄んだ大地に汚いものを吐いていたかもしれない。


冗談ではなかった。
ブレスでさえまだ、まともに撃ったことがないのに口から胃の内包物を吐き出すなど絶対に嫌だ。


しかし口から出たのは本心とは反対の強がりな言葉。素直に助けてと言えなかった自分を憎み、自己嫌悪に少しだけ陥る。
俺の馬鹿。ゲ○が出そうな時ぐらいは意地を張るなよと。


口には出していないが、内心で考えていることが顔に出ているイデアの十面相をイドゥンが不思議そうに眺め
次いで今まで上空から眺めていたサカの大草原を今度は地上から見る。


「やっぱり、どこまでも草がいっぱいなんだね」


本に書かれていた通りのサカの大地にうんうんと満足したように頷く。
上空からみたサカも地平線の果てまで自然が続く美しい大地であったが、こうやって地に降り立ってみると
また違う世界に見える。



ここから更に北に行けばエイナールが家族と共に住んでいるイリア地方らしい。
エイナール曰くイリアは冬のベルン地方とあんまり変わらないらしいが、いつか弟、そしてお父さんと一緒に行ってみたい。


そしてもう一度弟を見る。イデアは二本の杖を皮袋に戻している最中だった。
そして袋の中から魔道書と何かを取り出してイドゥンに渡す。



「はい【ファイアー】の魔道書と青銅のナイフ」


手渡されたのは少々薄い持ち運びを便利にするためにページを削られた魔道書と皮で作られた鞘に収納された小さなナイフ。
護身用にイデアが持ち物に追加したものだ。幾ら竜化すればどうにかなるとはいえ、備えあれば憂いなしの精神だ。


双子が書とナイフを腰のベルトに固定する。


「サカには人間が住んでいるんだよね?」


「そうだね 確か遊牧民族っていったっけ」


遊牧民……前の世界のとある国ではそういう風に呼ばれた人たちが居た事をイデアは知っていた。
しかしソレは遠い昔の出来事だし、今、この大地にそういった人種が現実に居ると言われてもいまいちイデアは実感が湧かなかった。


「どんな姿なんだろうね? 人間って」


イドゥンの心からの疑問の声。
本で竜の人化の術は人を真似ているなど、色々な記述で人と言う単語を目にした彼女であるが
実際に人間にあったことはないのだ。我々と同じと言われてもいまいち判らない。何せ彼女は人を直接見たことがないのだから。


ナーガはもちろんエイナールも竜であるし、ニニアン、ニルスも竜だ。
イデアは………………少なくとも身体は竜だろう。




「もしかしたら、耳と目が7つあったりしてね……?」


「い、いやだよぉ……」


思わず想像してしまったのだろう
顔が多数の目と耳に覆われ、長い腕をくねらせながら執拗に追いかけてくる『人間』を。


髪を揺らしながらイヤイヤと頭をふって
何とかその魔物と融合した様な『人間』の想像図を脳内から追い払おうとする動作は非常に可愛らしいものだ。


ハハハとイデアがこらえきれない様に笑う。
そして皮袋から取り出した羽ペンで頭を抱えてうーうー唸っているイドゥンの尖耳の先端を軽く一撫で。


「ひゃっあ!?」


艶かしい声をあげてビクンとイドゥンの身が跳ねる。
顔をあげて、イデアの持っている羽を見て顔が青ざめる。


「羽ペン……あ、アレだけは許してぇ!」


簀巻きのごとくイデアの力でグルグルに拘束された状態で足の裏を羽とイデアの細い指でくすぐられた事は彼女にとって
小さなトラウマになっていた。

しかし正直な話、顔を真っ赤にして、自由に動かない身体を苦しそうにくねらせ、荒い息を吐きながら抗議する彼女もイデアの奥深くに存在する何かを
かなり刺激し、くすぐりを助長していた気もする。


羽ペン。ただ文字を書くだけのアイテムに恐怖の視線を向ける神竜にイデアが溜め息を吐き、ソレを袋の中に放り込む。


そして色々と仕切りなおしにすべく口を開く。


このまま小動物のごとく瞳を潤ませた姉を観察してもいいが
……否。何が観察だ。それではまるで彼女が本当に小動物みたいになってしまうではないか。



「帰りの時間までこの草原を自由に探索できるけど、まずは何処へいこうか?」



イデアの魔法の言葉「自由に探索」にイドゥンの眼が宝石のごとく輝いた。








暫く広大な草原を走ったり、気まぐれに背に翼を出して飛んだり、
綺麗な川の水で喉を潤したりして思い思いにサカを満喫していた二人がそのゲルを発見したのは運命だったのだろうか。


ソレは誰にも判らない。


広い広い草原に一つだけポツンと立っているそのゲルに双子が気がついたのは竜化はせずに翼だけ出して
飛行で移動している最中だった。


本来サカの民は部族と呼ばれる何十、何百、何千という大家族で生活し、移動しているのだがそのゲルは一つだけだった。


どんなに小さな部族でもゲルが一つというのは有り得ない。
そのゲルの周りには数頭の馬と羊が人工的に作られた柵の内側に閉じ込められており、人が生活しているというのが判る。


ここは竜の住むベルン地方に近いサカの南方であるため、人が居ること自体珍しいのだが双子はそこまで詳しい事は知らない。
基本的に部族はサカの中央部を誰に遠慮することなく縦横無尽に駆け巡っているのだ。



最もナーガはそれを判って精霊達になるべく人の居ない地域に導くように命令したのだが、イドゥンとイデアはそれを知る由もなかった。
一回目のイデアの計画書には全ての準備が万端ではあったのだが行き先がリキア地方になっていた。
リキア地方にはそこそこの数の人間が住んでいた為、却下にしたのだ。



人が多数群れている中に何も知らない絶大な力を秘めた神竜、それも二柱を放り込むような真似はしたくない。
人が竜に抱く感情は決していいものだけではないのだ。
しかしそれでも世界を直接見て、触れて、経験を積むことは重要なことだ。


だからこそ人の密集率が低いサカへの旅行を許可した。
仮に人に出会ったとしてもサカの人間ならば完全とは言えないが他の地域に比べれば、前述したとおりの人間性からマシともいえる。


最悪ナーガが降臨してしまう手もある。だが、それはあくまで最悪だ。



この旅で困難が双子を襲ってもよほどでない限りナーガは手を貸しはしない。
その事は二人が旅立つ前に何度も言い聞かせておいた。


自分達の力で企画し、自分達の力で向かい、自分達の力で帰って来いとナーガは二人に言った。






そして今の双子は――伏せていた。大地、そして林と同化するためにじぃっと伏せてゲルの様子を窺っていた。
まるでどこぞの国の密偵のごとくに。


「ねぇ、姉さん」


「何? イデア」


「俺達、何で伏せているんだろ?」


「それは……それはぁ……」


明確に答えられず小さく唸り始める。というよりも何故自分達はあのゲルをこんなにも気に掛かっているのだろうか?
それも判らない。


「ちょっと精霊に聞いてみる?」


「それがね、あのゲルの中に凄く強い力を持った精霊が二つ居て、他の精霊は近寄れないみたい」


イデアが眼を凝らしてゲルを見る。よーく集中すれば何となくだが、確かに強い存在感を二つほどゲルの中から感じ取れた。
理魔道士が住んでいるのか? それともサカに住まう呪術などを専門としたシャーマン? ゲルの中に対して疑問は尽きない。


「本当に……7つ目7つ耳の化け物が住んでいたりして……」


「そうだったら、イデアは私が何とか守るよ…!」


言っている事こそ勇ましいがゲルの中で7つ目7つ耳の『人間』が巨大な包丁を研いでいる所を想像した彼女の身体はガクガク震えている。


マズイ 本当にマズイ。イデアは焦っていた。この世界で始めての人間との遭遇だというのに、どうしようもなく恐ろしい。
逃げてしまおうか――出来るだけ逃げるという言葉をオブラートに包み込んで姉に提案しようとした矢先、ゲルの入り口が勢いよく開いた。



「「!!!???」」



双子が同時に声にならない叫びをあげる。
ゲルから飛び出してきた人物も双子の隠れている場所に大声で叫んだ。
まるで最初からそこに居るのが判っていたように。


凛とした声が草原に響き、双子の鼓膜を揺らす。


「そこに潜んでいるのはわかっている! 大人しく出て来い!!」



出てきたのは7つ目7つ耳の化け物などではなく
サカ地方でよく使われる狩猟用の短弓に矢を番えた黒髪の少女だった。




あとがき


3ではようやくこのとある竜のお話で最初の戦闘シーンが入れられそうです。
本当に長かったなぁ……。


SSの投稿から1年が経ちましたが、最初に比べて自分の執筆力はあがっているかどうか不安ですw
これからもよろしくお願いします。





[6434] とある竜のお話 第七章 3
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/03/27 10:40
サカとベルンの境界線上にある命溢れる草原と厳格な山々が入り混じった複雑な地域。
竜族の住まう人間には過酷な大地、竜の人智を超えた恐ろしい技術力によって作られ支配された文明の端の端。


ベルン地方を竜の王国として見て、『殿』を首都兼ね王城とするならばここは辺境の辺境、僻地である。


しかし僻地といえど生物が居ない訳ではない。どの様な場所でも生物は高確率で存在するものだ。
極寒の凍土にも、灼熱の砂漠にもだ。



森の中。
勿論人の手など伸びてなく、道ともいえない道。俗に獣道と呼ばれるうっそうとした茂みの中を何かが全力で走っていた。



走る。走る。走る。



全身の毛穴から止めどなく汗が溢れ、口からは荒い息と共に濁った涎と泡を吐き出し、顔面を涙で濡らしながら走る。



「はぁ……はッ、はッ、はッ………畜生! 何なんだよ、アレは!!!」



一旦立ち止まり、息を整えながら自らの境遇を嘆き、汚い言葉を吐き散らす。
言葉を話せるという事は竜か人間だという事が判る。
少なくとも全ての第三者に聞こえるように話せる種族はこれぐらいしか居ないからだ。


精霊は素質のある者しか声を聞くことは出来ない。



男。何かから逃げる様に全力で走っていたのは人間の男だ。
竜族とは明らかに身に纏っている雰囲気が違うし、何よりも彼が竜であったならば、今の様な状況には陥らないからだ。


男はボロ布同然の衣服に身を包み、片手には血がベットリと付着した手斧を持っている。
この男は全うな市民や何処かの傭兵や騎士などではなく、はぐれ者――盗賊の類であった。



何度も何度も後ろと『空』を探るように恐怖の眼で見渡し、そしてもう一度走り出し、何とか隠れられる場所を探す。
その血走った眼に宿るのは生への何処までも強い執着。生きたいという思い。


が。その思いは直後に最悪の形で裏切られる事になる。運命の女神は男には味方しなかったのだ。



――ギ、ギギギギギギイ。



掠れ、潰れ、思わず鼓膜を捻りたくなる、何かの咆哮と思わしき声がこの僻地におぞましき反芻する。


「ひっ!?」


男が身を竦ませ、情けない声をあげる。
最悪だ。男は自分の不遇をどこまでも嘆いた。


ベルン地方には竜が住んでおり、人はあまり立ち寄らない。
つまり裏を返せば何処かの貴族の兵士などに襲われる心配などが少ないということだ。


だからこそ男達は今まで国家に討伐されず、好き勝手に人々を恐怖に陥れることが出来た。
奪いたい時に奪い。殺したい時に殺し。犯したい時に犯せた。


竜族に眼をつけられない様に地を這う虫ケラの様に卑屈にいきて、竜の怒りを買うことも避けて来た。



だからこそ信じられなかった。本来はベルン地方の奥深くに生息する飛竜達が自分達を皆殺しにしたことを。
そしてその仲間の死体を貪ったことを。


ここはベルン地方の北西の端の端。リキア地方やサカと隣接する僻地なのに何故飛竜がこんな所に?
疑問は尽きないが、今は逃げることが最優先だ。命はどのような宝よりも価値がある。



ふと。ここまで思考を巡らせた男が何かに気がついたように辺りを見渡す。


何か、おかしい。何かが変だ。荒い息で辺りを伺いながら男がその『違和感』が何か必死に考える。



全ての音が、なくなっていた。鳥達のせせらぎも、植物が風に揺れる音も、水が流れる音もだ。




男がソレに気がついたのは全てが手遅れになった時だった。




男に影が差した。森の木々が落とす影よりも尚暗く恐ろしい影が。




「!!」


男が何かに気がついて真上を見るが、遅い。既に遅すぎる。



「うわぁ………!」


断末魔の悲鳴をあげるよりも尚早く、巨大な何かが男の腰から上半分を無慈悲に圧倒的な力でもぎ取った。
残った下半身が、臓物と血を噴水のように噴出して倒れる。


クチャクチャと肉を咀嚼し、血を啜る音が無音の森の中で一際響く。
次いで響くのは男を真っ二つにしたソレが身じろぎ、木々をなぎ倒す音。



――ギギギギギギ、ギギギギイ


ソレの血そのものを固めて目玉にした様な色の瞳が肉を味わい、満足げに細められる。
久しぶりの食事だ。


男の上半身をもぎ取り、肉を味わうソレは飛竜であった。ベルン地方に住まう特徴的な種族。一応は竜の名を与えられた種族。
ペガサスほどの高い知能は無く、竜族ほどの知恵と知識、超大な力もない。


あるのは本能だけ。言うなれば空を飛ぶ獣だ。しかも普通の獣よりも遥かに強い。
その鋭い爪と牙は簡単に人を殺めることが出来るだろう。


しかも今男の上半身を食べ終わり、下半身を食べに掛かる飛竜は普通の飛竜ではなかった。


まず、身体の大きさが異常だ。
普通の飛竜は大きくても全長4メートル程度なのだが、これは有に10メートル以上ある。


そして何よりも異常なのはその飛竜の全身に隙間なくビッシリと刻まれた青白く輝く紋章の様な――否。これは正真正銘の紋章である。


紋章の名は【デルフィの守り】翼の神デルフィの加護を受けている証だ。
この飛竜は産まれ付きこの紋章を身体に刻みこまれており、他の飛竜を圧倒する巨体と他の飛竜よりも優れた能力で群れの王にまで上り詰めた。



そして今、王たる彼は群れの部下を率いて餌を求めて大規模な移動を行っていた。
前居た地域ではほぼ全ての獲物は狩りつくしてしまったのだ。



――ギギギギギギギギギギギギギギギギ、ゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!!!!



咆哮。聞くもおぞましい狂音を血の滴る口から吐き出し、森を揺さぶる。
それに呼応するように、何十、何百の似たような咆哮が空から降り注いだ。


まるで王たる彼を称える歓声のように。
それを聞く彼は人で言う『歓喜』に近い感情を覚える。



ここら一帯に巣食っていた人間はあらかた食い尽くした。良き悪しき関係なく。
彼らがこの賊の一味をおそったのは決して正義感からなどではない。
ただ単純に人数が多く、一箇所に固まっていたからだ。



そう。どんな動物よりも、旨く、多く生息しており、弱い生き物を彼らは見つけたのだ。





















イドゥンとイデア。神竜姉弟は今、このサカ草原に来て初めての困難に襲われていた。

草原に一つだけ孤独に立っているゲルが気になり
近場に身を潜めて様子を窺っていたら、恐らくはゲルの住人と思わしき少女に弓で狙われているのだ。


弓矢。

二人はこの武器を知っていた。
曰く しなやかな木を削って形を整え、そこに弦をかけてその弾力を利用して矢と呼ばれる凶器を射る武器。


これの殺傷力及び飛距離は中々馬鹿に出来るものではなく
射程距離は風向きや射手の技量、弓の種類にもよるが、下手をすると200メートル先の標的に届くそうな。



「そこの草むらに隠れているのは分かっている! 大人しく出て来い! さもなければ射るぞ!!」


双子が応じなかったため、再度の呼びかけ。それと同時に矢を番えた弦を引き絞り、いつでも放てる状態にする。
ギリリリと弦がしなる独特の音が身を隠しているイドゥンとイデアに届く。


(ど、ど、どうする・・・…?)


直ぐ近く所か、隣に居るのに念話でイドゥンが弟のイデアに話しかける。
イデアが隣で伏せている姉に顔を向け、眼と眼を合わせる。


そして本当に小さな小さな声で。


「と、と、取り敢えず、出ていこうよ……このままだと、射られそうだし」


ガチガチと歯を鳴らし何度も声をどもらせながら何とか伝えたい内容を喉から搾り出す。
竜族の敏感な五感と第六感は自分たちに向けられている敵意をこれ以上ないくらいに双子に伝えていた。



――出てこなければ 射る。



即ち この言葉は本音であり、一切の冗談も、嘘も含まれてないという事だ。
このままこの林に篭もっていれば確実に矢が飛んでくるだろう。



ぎゅっと双子が手を強く繋いで、立ち上がり林から出て行く。
もう片方の手は抵抗の意がないことを示すために上げている。




「子供……それにその身なり……」


イドゥンとイデアを見た少女が僅かだけ弦を絞る力を弱め、番えた矢の向きを変える。
そのままじぃっと観察し判断を下すかの様に二人を凝視する。


足元、膝、腰、ベルトに付いた魔道書と鞘に収まったナイフ、胸元、首、顔、尖った耳、そしてその紅と蒼の特徴的な眼、そしてその奥――。



時間にして一分にも満たないが永劫にも感じる時が過ぎ去った後、少女が矢を下ろした。
先ほどの凛とした声とは違う、穏やかな声でガタガタ震える姉弟に子供をあやす様に話しかける。


「もう弓は向けないから、出来れば名前などを教えてくれないか?」


「わ、私は……神竜のイドゥンっていいます」


ガクガク震え、イデアの手をぎゅっと強く握り締めたまま、それでもかつてイデアが教えた通りにお辞儀をする。
エイナールに始めて出会った時と同じだ。


「お……弟の、イデアです」


弓矢が下ろされ、殺気もほとんど霧散した今でも少しだけ震えつつ、何とか返答する。
視界が潤んで見えづらい。気がつかない内にイデアは少しだけ涙ぐんでた。


「怯えさせて済まない。約束の通りに弓は向けんから、その泣きそうな顔をやめてくれないか?」


下ろしつつも矢を弦に番えていたソレを躊躇わずにポイっと投げ捨てる。
ついでに背中に背負っていた矢を大量につめておいた矢筒もゆっくりと地面に置く。


そして一回だけゲルの中に戻り、直ぐに二枚の小さな布を持ってくる。
布はぬるま湯で濡らしており、ほのかに湯気が出ている。


「とりあえず顔を拭いた方がいい。涙などで大変な事になっているぞ?」


少女の態度の変化に固まっている二人に近寄り、その布を手渡した。



「拭き終わったら、私のゲルの中に入ってきてくれないか?」


そして自分は二人を置き去りにしてゲルの中に入ってしまう。
戻る際にしっかりと弓と矢筒を回収するのも忘れない。



顔を拭き終わったイドゥンとイデアが綺麗になった顔を見合わせる。
二人揃って頭上に?マークを浮かべ、何とか状況を整理する。


そして、とりあえず自分達の命が助かった事を確信し二人で揃って大きな溜め息を吐いた。
林の中に置いておいた皮袋を取り寄せて、ゲルの中に入っていく。












「知らなかったとはいえ武器を君達の様な童に向けてしまい、本当に済まない
 だが、分かってくれ。草原で一人暮らしというのも、大変なんだ」



ゲルの中に案内され、
とりあえず中央の絨毯の敷いてある所に座らされたイドゥンとイデアの前で、向かいあって地に座っている少女が小さく頭を下げる。



「あの……私達も覗き見なんてして、ごめんなさい。でも、何で私達が見ているって分かったの?」



イドゥンがおずおずと質問をする。
ちなみに彼女の手はまだイデアとしっかり繋がっている。


少女は笑って答えた。


「私達サカの民は気配を察知することに長けている。
 そうでなければ狩りなど出来ないからな」



「おぉ……狩りって」


狩りという単語にイドゥンが反応を示す。

彼女の頭の中で展開される【狩り】は全身を包む重鎧を纏い
巨大な剣やら槍やらを用いて飛竜などに挑む光景。


想像の中の狩人が何故か獲物を狩猟笛でぶん殴ったり、槍の先端から爆炎を噴出したりしているが気にしてはいけない。
横っ飛びでブレスだろうが、光線だろうが、何でも回避している事も無視だ。


「……多分、お前の想像は間違っていると思うぞ……」



眼を夜空の星のごとくキラキラさせながら別の世界を見ている神竜の姉に少女が呆れた様に言う。
少なくとも弓矢は恐ろしい命中精度で矢を数本同時に発射したり、連射することなど出来ない。


「それはそうと、何で一人で住んでいるのですか?」


別世界で【狩り】を行っている姉を横目にイデアが少女に先ほどまでから疑問に思っていた事を問う。
何故ここに一人で住んでいるのか、他の部族の仲間はどうしたのかと。


少女が大きく溜め息を吐いた。そして口を開き、ポツポツと語り始める。自分がなぜ一人なのかを。



「私の部族の呪い師が星々の占いで何かを見つけたそうだ。そして私に
 『お前には大切なやるべき事がある、それを見つけて来い』そう言って呪い師は私を部族から追い出した。
 未だにその“何か”を探して旅を続けているのだが、困ったことに一向に見つからん」


そして一泊おいて


「もう3年は旅をしているし、半年は他者と会話していない」



「た、大変ですね…寂しくないですか?」



半年間誰とも会話出来ないというのはどの様な状況なのか、少しだけ想像して背筋がゾッとしたイデアが何とか返す。
少なくとも並みの精神では狂ってしまうだろう。
同時にこの少女を部族から追い出したその呪い師とやらに文句を言ってやりたくなった。


お前は何を考えているんだ。もっと具体的な事を言えよと。



少女がイデアの問いに頷きながら答える。



「あぁ寂しいさ。だからお前達をゲルに入れて話している。こうやって他者と話せるのは、かれこれ半年ぶりだしな
 だから、ゆっくりしていってくれ。こうやって出会えたのも母なる大地と父なる天の意思だろう」



イデアが少女の顔を見る。少女が笑った。太陽の様に美しい笑顔だった。
エイナールの浮かべる物などと同じく、見ている者を安心させる笑みだ。


「あの! ちょっといい?」



何時の間にか夢の狩りの世界から帰還したイドゥンが声をあげる。
その視線は壁に掛かっている鞘に収められた二本の剣――エレブでは【倭刀】と呼ばれる種類の剣に注がれている。


二本の刀のうち、上の刀は鞘からして太く、男性用にも見え
下に掛かっている刀はどちらかと言えば細く、女性などが使っていそうな印象を見るものに与える。


「あれって……」



イドゥンに存在を指摘されて始めてソレの存在に気がついたイデアがじーっと興味深そうな物を見る目で
二振りの刀を見つめた。その眼の奥にあるのは懐古に近い感情。



「その倭刀の事か?」


うん、とイドゥンが首を縦に振った。


「上の倭刀を【ソール・カティ】下のを【マーニ・カティ】と言う。旅立ちの時に両親に持たされた、我が一族に伝わる業物だ」


ハハハと、自嘲する様に少女が笑った。


「もっとも、私は剣の才は全くと言ってもいいほど無くてな。
 こうやって壁に飾り、時折家族の事を思い出すためにしか使わないのだよ」


そして刀を食い入るように見つめるイデアに気がつく。



「……鞘から抜いてみるか?」



「本当にいいの!?」


「ひゃっ……」


腕を強く引っ張られたイドゥンが声をだす。


ガバッと勢い良く立ち上がり、叫んだイデアに少女が眼を瞬かせると不思議そうに首を傾げた。
イデアの眼も姉のイドゥンと同じようにキラキラ輝いている。まるで憧れの人などを見る眼だ。



実際、今のイデアの頭の中は本物の刀を見れる興奮と期待で埋め尽くされている。



「抜くだけなのに何故そこまで……まぁいい、少し待ってろ」



立ち上がって、二本の刀が掛けられている壁の前まで行くと。
まずは下の刀【マーニ・カティ】を固定具から外す。


ソレを横において、次は上の刀を持ち上げようとするが……。



「すまんが、手を貸してはくれないか? この【ソール・カティ】は……かなり重いのだ」


「「はい」」


二人がその小さな手を刀に向けて翳す。その手から金色の密度をもった光が伸びた。


「!?」


一瞬だけその光に警戒を抱く少女だったが、光が双子から出ているのと
何よりも敵意を全く感じなかったため、直ぐに警戒を解く。



光は刀の柄や鞘に絡みつくと、ソレをゆっくりと持ち上げた。

そしてそのまま緩慢な動きで先に床に置かれた刀【マーニ・カティ】の隣に安置する。


「凄いな……これも竜の力の一つか?」


「うん! もっと色々な事が出来るよ!」


褒められて嬉しいのかイドゥンが元気良く返事をする。
もう警戒心はなくなったのか、結構前からイデアの手を握るのは止めている。


はぁ、とイデアが溜め息を吐いた。
さっきまであんなに震えていたのに、凄い移り変わりの速さだ。


まぁ、そこがイドゥンのいい所でもあるのだろう。
エイナールと始めてあった時も率先して挨拶をし、良好な関係の礎を築いたのも彼女なのだから。



「では、望みどおり……」


少女が【ソール・カティ】の柄を握り、刀身を引き抜こうとする。

が……抜かれない。


「あれ? おかしいな……」


再度力を込めて刀身を抜き取ろうとするが、抜けない。
フッフッと、気合を入れて引き抜こうとしているが、刀はビクともしない。




「無理だよ……この子、嫌がってる」



【ソール・カティ】をじっと見つめたイドゥンが告げるように言った。
いつもの彼女からはあまり考えられない、冷ややかな声。



「この子達だったんだよ……このゲルの中から感じた強い二つの精霊は。そしてこの子達、私とイデアを嫌ってるみたい」


「姉さん?」


弟の声に、はっと我に返ったかの如くイドゥンが無垢な眼で捉えると、直ぐに笑顔になる。
そして弟の手を再び握って、指を弄び始めた。が、直ぐに飽きたのか手を離す。



「済まない。今の言葉はどうやら真実のようだ……」


足で鞘を固定して柄を思いっきり引き抜こうとしても駄目だった少女が諦めて手を離すと
ふぅと息を吐いて呼吸を整える。


「仕方ないか……」


未練がましい眼で【ソール・カティ】を見ながらイデアが呟く。あそこまでやって駄目なら仕方が無い。
物には魂が宿るというらしいが、その魂に拒絶されたなら、諦めるしかないか。


……何故拒絶されたのか、ほんの少しだけ気になったが、どうでもいい事だと思い直ぐにその考えを消し去る。



「外に居るのは【馬】だよね?」



刀を前あった位置よりも低い位置に置きなおしているサカの少女に
好奇心旺盛な神竜の少女が問う。彼女が刀の次に興味を持ったのは外の馬だった。


さっき林の中に隠れていた時も馬は見たが、あの時はそれどころではなかったのだ。主に7つ目7つ耳の化け物などで。
今冷静になって考えてみると、直ぐ外に本で何度も見た馬が居る。その事実は彼女を動かすに値するものだ。


「あぁ。あれも私の大切な家族だ」


「見てきてもいい?」


「いいぞ。ただし、私が行くまであまり近寄るなよ それと絶対に馬の後ろに立たないことを約束できるか?」


「うん!」


許可を貰うや否や、疾風のような速度でゲルの中から走り去っていく。
それを見てイデアがまた溜め息を吐いた。一つ幸運が逃げていくような気がした。


そして少女に姉の事や刀の事など、諸々の件で改めて謝罪を述べようとしたが……ここで気がついた。



「あの、……名前を教えてくれませんか?」



「ん? そういえば名乗ってなかったな、私の名前はハノンだ。ウルス族のハノンと言う」























「……お尻が、お尻が痛いよぉ……」



「その言葉は色々とマズイと思うよ姉さん」



ゲルの中、イドゥンがうずくまり、痛みに悶えていた。
それをイデアが冷ややかな眼で見つめ、ごそごそと皮袋の中からライヴの杖を取り出す。


何故こうなったかの理由は簡単だ。乗馬したのだ。それも長時間。

ハノンの愛馬を馬自身がが逃げるほど食い入るように見つめていたイドゥンであったが
その余りにも熱い視線にハノンがうっかり「乗ってみるか?」なんて言ってしまったのが事の始まりである。


幼い頃より馬と過ごし人馬一体の技術を持つ、ハノンが見守る中嬉々として馬に乗ったイドゥンであったが、結果は散々であった。


動きやすい服を着て来たため、またがって乗れたのはいいがそこから先は正に最悪の一言に尽きる。


馬が、イドゥンを拒絶するかの様に激しく上下運動を繰り返し彼女を草原に見事に尻餅をつかせたのだ。


頭は打たないように直ぐ横を飛んでいたイデアが「力」でいつでも保護できる様にしておいたので危険性は少なかったが
彼は内心ヒヤッとしていた。



鞍や鐙などがあれば話は別だったかも知れないが、そういった便利な物はまだ発明されてはいない。



「ウィルソンは暴れ馬すぎるよぉ……」


「だから、その言葉はまずいって」


イドゥンがイデアからライヴの杖を受け取り、術を自分に掛ける。
ちなみにウィルソンというのは彼女がハノンの馬に勝手につけた愛称だ。
どういった基準でこの名前になったかは弟であるイデアでさえも理解は出来ない。


……この愛称で呼び始めてからウィルソン(馬)が凶暴になった気もするが、気にしてはいけない。



「きっと、竜と触れるのを本能的に嫌がっているのだろうな……それとあいつに愛称をつけるならゴンザレスの方がいいと私は思う」


回復の術を掛けて、幾らか痛みがひいた臀部をさすっている神竜を見ながらハノンが言う。
さりげなく愛称を悪化させようとしているが、気にはしない。



「それはそうと、本当に竜というのは凄いな。まさか人の姿のまま背に翼を出して飛べるとは思わなんだ」


イデアの背を見つめ、先ほどまでそこにあった翼を思い出しながら語る。
その言葉に篭もる感情は純粋な羨望。黒い瞳から向けられる視線に思わずイデアはドキッとした。


「一度でよいから、私も空を飛んでみたいものだ」



「じゃ、いつか俺が・・・…」



背中に乗せてあげますよと、続ける事は出来なかった。



竜の本能とも言うべき部分が全力で警告を鳴らす。
第六感が冴え渡り、自分達の危機を告げる。


イデアが姉を見た。
彼女もまたイデアと同じ類の物を感じ取ったらしく、青い顔をしていた。


「? どうしたんだ? ……!!」


ハノンが突如、顔色を変えた双子を心配し手を伸ばそうとするが、サカの民の優れた感覚を持つ彼女も
イドゥンとイデアが感じている感覚に近い物を感じ取り、反射的に弓と矢筒を手に取る。




――――ギギギギギギ、ガガガガガガガガアアアアアアア!!!!



何処からともなく聞こえる身の毛のよだつ恐ろしい叫び。それがゲルを揺らした。






あとがき


この話で戦闘を入れようとしたのですが、入れられなかったので次話に入れました。

10万PV記念なので、気合を入れて二話連続投稿なんてしてしまいました。



[6434] とある竜のお話 第七章 4
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/03/27 10:41
彼らは目指していた。もっと大量の餌が取れる場所を。
北だ。もっと北に行けば、暖かい大地に、多くの『餌』が生息している。

彼らは知っていた。最も美味しく、取れやすく、弱い餌を。


一体一体で掛かれば負けてしまうかも知れないが、
多数の群れで挑めば抵抗らしい抵抗も出来ずに喰われてしまう弱い弱い存在を知っていた。


今までその群れるという事そのものを飛竜たちはあまり得意ではなかったのだ。


餌やメスの取り合い。冬を越すための巣の確保などなど協調性がお世辞にも高いとは言えない飛竜達はある程度の大きさの群れを作ってしまうと
そこから群れを大きくすることは無くなってしまうのである。何故ならそれは競争相手を増やすのと同義であるから。


しかし、彼の群れは違った。彼という絶対の支配者の下で一つになった群れだ。
群れの飛竜は彼には逆らわない。本能で勝てない事を理解しているから。


彼に従えば外敵を恐れる心配もなく、尚且つ餌を取るのにも不自由はしない。
少なくとも足りない頭でも飛竜達はソレだけを知っていた。


そして彼は群れの飛竜達の期待通り、理想的な餌の存在を教えてくれた。
千頭近くまで膨れ上がったこの巨大な群れの飛竜達の腹を満たせる数がおり、味もよく、力も弱い餌の存在を。




――その理想的な餌の名前は『人間』という。



















遠くから聞こえる飛竜達の咆哮が音の衝撃となって伝わり、大地を揺るがす。
置いてあった皿などはガタガタと震え、二本の倭刀も揺れる。
普段の双子ならばその揺れる刀や皿を見て、楽しむ余裕があるだろう。

しかし今の双子にはそんな余裕は欠片もなかった。


顔は青を超えて真っ白になってしまい、歯は噛み合わずガチガチと不快な音を鳴らし、
身を寄せ合い身体を小さく震わせている。


竜族の鋭敏な感覚をもって感じ取ってしまったのだ。
今、ここに向かってくる自分達に害を成す『敵』の存在を。
敵意でもなく悪意でもない。純粋すぎる獣の欲望が手に取るように分かってしまい怯えている。



「少し待っていろ。直ぐに戻るさ」


使い慣れた短弓を持ち矢を弦に番え、ハノンが足早にゲルの中から出て行く。
その様子をイドゥンとイデアはただ震えながら見ていることしか出来なかった。










ゲルの入り口を潜り、おぞましい咆哮が伝わってくる方向を見る。
眼を凝らす必要は無かった。直ぐにこの嫌な予感の原因が判明した。


ハノンの遊牧民として優れた視力は遠く離れた『敵』を認識する。


雲、茶色の雲が遥か遠くにあった。そこから狂音は聞こえてくる。
ただし風ではなく翼で宙を飛び、大量の肉を貪る凶暴な意思をもった雲だ。





「……」



ハノンが雲――数え切れない程の数を成した飛竜の群れを睨みつける。


ふつふつと自分の身体の奥底から嫌悪感と敵意が湧き上がって来るのが彼女には分かった。



どうやってこの状況を切り抜けるかに対しての答えを出すべく思考を巡らす。




逃げるか? 


無理だ。相手は翼を持ち、空を飛ぶ。馬で逃げても追いつかれるだろうし、そもそも荷物を纏めるための時間も無い。
それに一番近くの人が住んでいる箇所であるブルガル地方まで、馬を全力で走らせても数時間は掛かる。


隠れる? 何処に? 


このサカの大草原は隠れるための障害物などほとんど無い。
あの双子が隠れていた小さな林や、少し離れたところに川があるが望みは薄いだろう。


見逃してくれるのを期待する。 論外だ。


ハノンの直感は明らかにあの飛竜の群れがこちらを害そうとしていると言っていた。
彼女の狩人としての直感。今度は自分が狩られる側になるとは……。




戦う。 勝てる望みは薄い。いや、絶望的と言ってもいいだろう。


数が多すぎる。2~3頭程度ならば何とかなったかも知れないが、ぱっと見であの群れの数は
数百、下手をすれば千は居るだろう。正に数の暴力というやつだ。



状況は絶望的という言葉さえ生ぬるい程にまずい。遊戯版で言うところのチェック・メイト。
どうあっても生存は不可能だと万人は言うだろう。


「……父なる天と母なる大地よ、今この時ばかりは偉大なる貴方達に御恨み申しあげます……」



肩を落とし、もう一度雲を見る。そして彼女が信仰する天と大地に恨み言を言う。
死ぬのは嫌だが、この状況はどうあっても切り抜けるのは無理だ。


一旦眼を瞑り、心の中で精霊達に祈りを捧げる。
死を覚悟こそしないが、腹を据える。



時間にして数秒の祈りを終えて、瞳を開いたハノンの眼には少量の諦めの色と、決意があった。



彼女がやるべきだと心に誓ったこと。それはあの姉弟を逃がす事。
竜族とはいえ、まだまだ子供だ。


あんなに小さいのに命を散らせることなどない。



あの姉弟も空を飛ぶことが出来るだろう、それで逃げれば逃げ切れるかもしれない。
……否「しれない」ではなく確実に逃がすのだ。


その為に戦えるならば意味がある。
少なくとも草原の端で何も答えを見つけられないまま飛竜達に食われるよりはマシだ。


あの姉弟が自分を覚えていてくれれば、それでいい。
遠い未来にほんの僅かでもハノンという人物が居たことを思い出してくれる事を祈ろう。


サカの民は何よりも誇りを重んじるのだ。
誇りある死と、無意味な死のどちらかを選べといわれたら、迷わずに前者を選ぶ。



「同じ竜でも、こうも違うとはな……いや、それは真の竜族に失礼か」



改めてあの特徴的な眼をした姉弟を思う。
竜と名乗ってこそいたがその実、人と全く変わらない双子を。
矢を向けられ涙ぐみ、そしてまだゲルの中で怯えているのだろう。


そんな二人に指示を出すべく、彼女は急いでゲルの中に戻った。
















「飛竜の大群がこっちに向かってきている。お前達は急いで逃げろ」



飛び込むようにゲルの中に戻ってきたハノンの言葉にイデアはやっぱりなと思った。
あのけたたましい鳴き声は、かつてナーガと竜の姿になる練習の際に聞いた事があるからだ。


同時にあの時生で見た飛竜の姿を思い出す。


神竜などの真の竜族の姿に感じられる一種の完成された芸術性は一切無く、ただひたすら野生で生きることのみを追い詰めたような野蛮な姿。
聞いただけで寒気のする鳴き声。群れの仲間同士であろうと容赦なく食い合う凶暴性。


全てが自分達は違う生き物なのだと一目で理解できる。



そんなものの大群がこちらに向かっているとハノンは言ったのだ。



「ハノンさんは、どうする、の……?」


イデアの服の裾を掴みながらイドゥンが言う。彼女の震えは大分納まってきている。
今、この場で弟が頼れるのは自分、自分がしっかりしなければ、そんな強い考えが彼女の心を平常に保っていた。


「馬でかく乱してくる。少しは時間が稼げるだろうから、その間に飛んで逃げろ。飛ぶときは出来るだけ低空で飛ぶんだ」



「それって……」



「危なくなったらすぐに逃げるさ」



ごそごそとゲルの奥から皮の鎧を取り出してソレを着込み、恐らくはこのゲルの中で最も大きな矢筒にありったけの矢を詰め込むこみ
幾つかの傷薬を懐にしまうと、まるで散歩にでも行くような足取りでゲルから出て行く。


そんなハノンをイデアは何も言えずに見送った。
本当に何も、言葉を掛けられなかったのだ。


そも。あって少ししか経ってない自分が何を言えるというのか。彼女の事を何も知らないというのに。



「イデア」


姉の声が隣から聞こえ、イデアが顔だけをそちらに向ける。
イドゥンが言いずらそうな顔で真実を告げた。



「…精霊が教えてくれたんだけど……飛竜の数、凄いんだって……」


その言葉をイデアはどこか遠くで聞いているような感覚を覚えた。


……。


飛竜の群れ……想像もできない。
ただ、凄く恐ろしいものだという事だけは分かる。



「……どうしよ」


「イ、イデア?」


呆然と、感情の篭もらない声でそれだけを言うと立ち上がり、ゲルから出る。
姉がそれに続く。


南の方角を見た。
雲、全ての生き物を食いつぶす雲があった。何百の飛竜で構築された雲だ。



ここまであの耳障りな叫びは聞こえてくる。しかも複数の声がだ、


そんな悪夢そのものと言える光景を見て、イデアが踵を返そうとする。
そして見てしまった。そんな雲に馬一頭で向かっていく人物を。


雲が、飛竜の群れが、まるで一つの生き物の様に一斉に馬へ降下を始める。


「あっ!」



イデアが思わず声を上げてしまうが、馬の乗り手は予想していたのかソレを馬を操って草原を縦横無尽に駆け回りながら回避する。
そして馬から何度も小さな物体が飛んでいくと、ソレに当たった飛竜はもがきながら落ちていく。


落下する飛竜の怒りの声が聞こえてきた。イデアの心を掻き毟る声だ。
懐に手を突っ込み、そこにある竜石を意味もなく弄びながらイデアが考える。



あって一日も経たない。名前だってさっき知ったばかり。
何でそこまでしなきゃならないんだ、命が危ない。
逃げろって言ったんだ。見捨てたことにはならない。
逃げよう。

きっと姉さんだって賛成するさ。
逃げれるさ。竜化して飛べば飛竜ぐらいじゃ追いつけない。
ナーガはどうしたんだ。助けてよ。
怖い。怖い。怖い。あんなのと戦いたくない。



荒い息を吐きながらイデアが必死に考える。



「痛っ!」


が、その思考は突如竜石を弄くっていた手からの鋭い痛みによって切り刻まれる。
懐から抜き出した手にパックリと切り傷が出来ていた。まるで鋭利なもので切り裂かれたかの様な傷だ。



血がポタポタ滴るそれを見て、イデアが恐る恐る懐にもう一度手を差し入れ、恐らくはこの傷を作ったであろう物を探す。

すぐにそれは見つかった。竜石ではないソレを取り出し、見てみる。


「これって……私の鱗かな?」


イドゥンが取り出された物体をみて言う。


血が付着しながらも金色に眩しく輝くそれは鱗であった。
サカにくる途中、誤って剥ぎ取ってしまったイドゥンの鱗。


二人のこの人の姿が仮のものであり、本来は神竜であることを示す証拠。



鱗を黙って見ていたイデアが突如大きく溜め息を吐いて、そのまま何回か深呼吸をする。
身体をほぐす様に何度か背伸びをして、最後に自分の頬を思いっきり力任せにひっぱたく。


そして赤く腫らした頬のまま、どこか決まらない顔で。


「姉さん。俺はハノンさんを助けたいけど、姉さんはどうする?」


未だ震えの取れない身体でイデアは全く震えていない姉に言った。



















マズイ。
ハノンは矢を弓に番えつつも馬を操るという人馬一体の技術で軽やかに飛竜の攻撃をかわしながら思った。



矢の本数は大体残り半分、矢を撃つ手の指の皮は赤くなり、切れて血が出てきている。
傷薬の残りは後3つといったところ。しかし塗る暇が無い。


馬も疲れてきており、相手もソレをわかっているのかどうかは知らないが距離を取り
最初の様に襲ってこようとはしない。まるで疲れさせようとしているかのようだ。


矢を放っても撃ち落せるのは一頭のみ、しかし相手の群れの数は減っているどころか、さっきよりも増えている気さえした。
それに何よりも気になるのはあの全身に青い刺青を施された様な異常な大きさを持つ飛竜。



巨大な漆黒の体表に青く発光する刺青、赤い翼幕といいまるでサカの童話に出てくる魔物のような飛竜だ。
血のような眼球がこちらを高みから見下ろしている様は見ていていい気がしない。


恐らくはあれがこの群れの長なのだろうとハノンは見当をつけていた。
一定の距離から絶対に近寄ってこないし、こちらを襲うでもなくただただ状況を静観し続けている。


矢で何度も射ったが、不思議な事に全ての矢は見えない力で逸らされているかの様に、狙いとは全く違う見当はずれの方向に
飛んで行ってしまい、当てることが出来ない。


しかもあの刺青の飛竜が一声あげるたびに、飛竜達が動きを揃えて攻撃をしたり、間のとり方を変えたりしている。
まるでハノンの弱点や死角を探しているかのように動く様は不気味さを感じ取れる。



――ギギギキ、゙ギギ、ギギギ!



刺青の巨大な飛竜がまた声をあげた。喉を潰された鳥のような掠れた声であった。
距離を取り、全方位を囲むように飛んでいた飛竜達が一斉に間合いを縮め、その強靭な足、そして足に生えた爪で引き裂こうと襲い掛かる。



「!」


手綱を握らずとも馬が乗り手の意思を感じ取り、右に左にギャロップを繰り返し巧みに降下攻撃を避け、馬の上に半立ちになった
ハノンが連続で矢を数発射り、数頭の飛竜を撃ち落す。残りは後――数百。





飛竜達の波状攻撃をかわし、矢を弦に番えようとした瞬間、指の傷が広がった。
皮が裂け、血があふれ出す。


「つぅ!」


思わず痛みでハノンが眼を瞑ってしまった。



その光景を他の飛竜よりも遥かに優れた視力で見て
それの意味を理解した飛竜が、黒い魔物がうごいた。



天空の黒い飛竜の眼が細められ、人で言うところの笑みを湛えた。
人のそれとは構造からして違う口を大きく開き、赤い舌をチロチロさせる。


そのままハノンに向け凄まじい速度で降下を開始。


そして喉の奥から湧き上がってくる『力』を形にして射出。
吐き出されたのは巨大な炎の塊。規模こそ小さいが、竜族の吐き出すソレと同じもの。
普通の飛竜では出来ない攻撃方法。


中級魔術の【エルファイアー】に匹敵、もしくは上回る威力の業火が立て続けに3発、撃ち出された。


恐ろしい速度で撃ち出されたソレは馬の前方に命中、草原の大地を抉り、炎と衝撃を撒き散らす。


ハノンと馬がその衝撃で空を飛んだ。
馬から弾き飛ばされ何回か草原を転がり、そのまま動かない。


勝利に酔いしれ、自らの力を誇る戦士のごとく刺青の飛竜が天高く咆哮する。
そしてゆっくりと馬とハノンに向けて降りていく。この獲物は自分の物だといわんばかりに。


他の飛竜は撃ち落された、息のあるなしに関わらずに群れの仲間だった飛竜達に喰らいつき、その肉を味わう。



ゾクリ。



何かとてつもなく嫌なものを感じとった刺青の飛竜がハノンと馬を一飲みにしようとしていた口を閉め
牙のスキマから唸り声を漏らす。


『グゥゥゥウゥゥゥ』


赤黒い翼幕を広げて羽ばたき、高度を上昇させる。


――ギイィイイィイイイイィイィイィ!!!



飛竜達が耳障りな声をあげ、それに続く。
彼らも本能で何かを感じとったのだろう。





瞬間、光が爆発した。



爆風も衝撃も伴わない、純粋な光の放射。地上に直接太陽を置いたがごとき光。





これによってほぼ全ての飛竜は視力を一時的に奪われ、無茶苦茶に飛び回り、
仲間同士で衝突などを繰り返し同士討ちを引き起こした。





















「で、出来た、出来たよ! イデア!!」


ゲルの近くにある林、飛竜の雲がよく見え、尚且つ自分達の姿も隠せる場所に双子はいた。
そして光の爆発で混乱している群れを見ながらイドゥンが歓喜の声をあげる。



双子の傍には群れの只中に突っ込み、刺青の飛竜のブレスで吹き飛ばされた筈のハノンとその愛馬が横たわっている。


ハノンは全身が傷だらけで、逆に傷がない場所を探すほうが難しい状態であり
身につけていた皮の鎧は黒く焦げ、今も煙をあげていた。


意識はないようだが、弱弱しくエーギルを感じる事が出来るため、まだ生きている。
馬も足をやられたようだが意識はあるようで全身を震わせ荒い息を吐いていた。



「…………はぁ、良かったぁ……」


一人と一頭の生存を確認したイデアが溜め息を吐いた。

成功するかどうかは微妙だったけど、成功してよかった。



そう。あの光の爆発はイドゥンが起こしたのだ。
とある術を再現しようとしたら発生した計算外の出来事であったが、あの群れの混乱ぶりを見ると
嬉しい誤算といえよう。



イドゥンが使用した術は転移の術の真似ごと。サカの精霊のアドバイスの元実行された。
自分を遠く離れた場所に転移させる転移の術に近い術で、逆に遠く離れた場所にあるものを自分の近くに
転移させる術を『真似』たのだ。




絶大なエーギルを使った力技で“場”を捻じ曲げ、空間を超越させ、ハノンと馬が倒れていた
“場”と今自分達がいる“場”を無理やりつなげて、彼女達を引き寄せたのである。
あの光は“場”を無理やり捻じ曲げた力の一部が引き起こしたものだ。



本来の手順ではない強引極まりない力技であるため、エーギルの消費もとてつもない事になるのだが
純粋、純血の神竜であるイドゥンは全くといっていいほど疲れた様子を見せてはいなかった。


まだまだ成体には程遠いとはいえ、神竜であるイドゥンの力がたかだか“場”を捻じ曲げた程度で尽きるはずがない。



イドゥンが手に持っていた【ライヴ】の杖にありったけの魔力を注ぎ込んで回復の術を発動させる。
全身につけられていた傷が見る見る塞がっていく。


同じように馬にも術を掛けてやると折れていたらしい足も元通りになり、馬は静かな呼吸で眠りについた。



「さて……」



二人の無事を見届けたイデアが覚悟を決めた顔で竜石を取り出す。


彼の胸中にあるのは覚悟と自分の不幸に対する嘆き。


まさか始めての遠出でこんな眼に会うとは思わなかった。
普通に遊んで、普通に帰ることを想像していたのに、この仕打ちは酷い。


自分に幸運値というものがあるとしたら、確実に一桁台であろう。


正直な話、まだやりたくないと思っている。
しかし、やるしかない。


やらないで、後悔するよりは少なくとも何倍もマシだ。




「ハノンさん達のこと、頼むね」



今のところ回復の術を使えるのは彼女だけなので、ここを離れる訳にはいかない。



「うん、気をつけてね。危なくなったら直ぐに逃げてよね? 絶対だよ? 約束だよ?」


「分かってるって」



それだけを言うとイデアが背に四枚の翼を出現させ、群れともゲルとも違う方向に向けて飛び立つ。
見送ると同時にイドゥンがありったけのエーギルで繭を作り、その中に閉じこもった。








しばらく行った所でイデアが竜石の力を完全に解放。
姉であるイドゥンと全く同じ大きさ、同じ姿、同じ力、同じオーラを持った竜に戻る。



蒼と紅の瞳に確かな理性と知性、そして覚悟を浮かばせて大きくそのアギトを開く。
四本の足で地に身体をしっかりと狙いを外さない様に固定する。


標的は、飛竜の群れだ。今からそれに全力でブレスを叩き込む。
あの中に飛び込んで暴れる勇気はイデアにはない。



背の四つの翼が名だたる名剣の様に鋭く変形し、ジジジと雷を帯びて周囲の空気を激しく震わせ、震撼させる。
同時に喉の奥底から湧き上がってきた莫大な力を口内に収束、爆縮し破壊の力へと変換。




視力を何とか回復させた飛竜の群れが散開しつつも黄金の竜――イデアに向けて敵意を剥き出しに襲い掛かる。
精神を直接擦られる不愉快な声をあげ、突っ込んでくる無数の飛竜の群れをイデアは静かに見つめ、そして瞳を閉じた。












刹那。サカを黄金の光が満たした。













音も無く放たれた神竜の吐息は回避しきれなかった飛竜達を黄金の濁流に飲み込み
群れの半数を完全に蒸発させ、エレブから完全に消し去った。



巻き込まれた飛竜達は痛みを感じる瞬間もなかっただろう。一瞬で消し飛んだのだ。



イデアの口から放射状に広がり、範囲内の物体全てを消し去り飛んでいったブレスは最後に
天空の雲々を吹き飛ばすとそのまま彼方に飛んでいってしまった。後に残るのは雲ひとつ無い快晴な空。





イデアが、瞳を開けて成果を見る。



天を埋めるほど居た飛竜の群れがその数を大きく削られていた。
千に迫るほど居た群れが、今や半分ほどにまで減っている。



他の飛竜は死体も残ってはいない。




(これで逃げてくれればいいんだけど……)



かつてナーガが威嚇として【ライトニング】を撃って追い払った事を思い出す。
あの時のように逃げてくれればいいのだが……。




全力でブレスを吐いた事の弊害で喉に焼け付くような痛みを感じながらイデアが考える。




ふと、少しだけ、さっきよりも視界が暗くなった様な気がした。


(!?)


直感的に視線を真上に向ける。



火球。
イデアが認識できたのはそれだけだった。


神竜のエーギルが、【力】そのものがイデアの意識とは関係なく金色の結界を展開し火球を防ぐ壁を創造。




直後、火球が砕け、轟音と共に爆風を轟かせた。




――オオオオォオオオオオオ!!!!




突如の爆発と眩い光によって今度は自分が視力を一時的に失い、混乱に陥ったイデアが巨体を無茶苦茶に振り回す。

そんな暴風に向け、一つの大質量の影が直上から猛烈な速度で迫っていた。



全身に刺青を入れた巨大な飛竜――飛竜の枠組みからも外れた飛竜達の王だ。



赤黒い翼幕は破れ、頭部の角は数本が折れ、全身の鱗に皹を入れて至る所から血を流している彼であったが
その眼に浮かぶ生命力は欠片も薄れてはいなかった。



いや、むしろ先ほどよりもその禍々しさは増大している。
喉が破れ、そこから炎が吹き出ているにも関わらず平然と何度もブレスをイデアに向け乱射。


一回ごとに喉が裂け、血と炎が彼の身体から飛び散るが全く気にも留めない。



全身に刻まれた【デルフィの紋章】がさきほどよりも不気味に強く輝き、彼の全身を治癒する。
イデアのブレスに耐え切った彼は次は自分の番だと言わんばかりに何度も何度もブレスを金色の壁に撃ち込む。



既に高位魔術と同レベルと言える威力の火球を口から吐き出し続け、少しづつだが、確実にイデアの前の壁を削っていく。


二十発程度を撃ち込んだ辺りで金色の壁がガラス細工が砕けた音と共に砕け、イデアを守る物が無くなった。



全身の体重を掛けて、自分よりも巨大な体躯を持つイデアの“頭”に体当たり。
ズズン、と、重い音と共に混乱していたイデアが気を失い、その場に倒れ伏す。



彼の口が不気味に歪んだ。人が浮かべる笑みのごとく。




自らよりも巨大な『獲物』を喰おうと口を開いた瞬間。



彼の本能が、理性が、直感が、全てが濃厚な、どこまでも純粋な『死』を感じた。



『!!??』


いつの間にか、彼の眼の前に一人の男が立っていた。
白いローブにマント。白い長髪に紅と蒼の眼をした男だ。


それが無表情に彼を見ている。



否。



顔こそ人形のごとく何も表情を浮かべてはいないが、その色違いの眼には隠し切れない純粋な……。



彼は見た。錯覚や幻覚の類でもなく、確かに『見た』のだ。



男の後ろに、世界を背負うほどの巨大な金色の竜が座し、その力で自分を飲み込もうとしているのを。



『― ⊥ Б Ξ Χ Ψ Й ∽ П £ ―』



男が口を開き、人には意味を知ることはおろか、聞き取ることさえも不可能に近い言語で何かを唱える。
彼の巨体が軽々と不可視の力によって持ち上がり、上空で待機していた群れの中に放り込まれた。


『力』から抜け出そうともがくが、翼を動かすことさえ不可能。


同時に、世界がズレた。


飛竜達をすっぽりと覆うように、サカの一部が切り取られ、エレブから独立する。
世界を切り取り、新たに小さな閉鎖世界を創造した力の色は『金』



群れの全てがもう仲間意識など関係なく少しでも早く、遠く、男から逃げようと飛び散るが直ぐに元の場所に戻ってしまう。
まるで円の上を走り回っているように、閉ざされた空間を飛び交い、群れの飛竜同士で衝突し、自滅を繰り返す。



『― £ Й Ψ П ξ Χ σ £ ―』



謳うように、流れる様に男が古い竜族の言語で詠唱を続けそして――。



『― Ω Ψ Й ―』




極大魔術を発動させた。



彼の金色のエーギルが翡翠色に変わり、男に最上級の『風』の加護を与える。
今の彼は全ての『風』を支配できるだろう。



だが、これはこの術を使う事による副産物でしかない。









                              



                                   【フォルセティ】








発動されるは竜族の魔法。その中でも最も凶悪で強大な力を持った物の一つ。
竜族が編み出し、かつての始祖竜と神竜の戦争で行使された極大魔術。


山々を切り刻み、海を断ち切り、島を消し去った術の一つだ。
世界の根源たる『秩序』を破壊した戦争の際に使用された術が今、発動する。


男が飛竜達を閉じ込めたのは、この術でサカの大地を抉りたくなかったからだろう。
故に檻に飛竜を封じ込め、その中に放つ。





全ては一瞬で完全に終わっていた。




飛竜達が痛みを感じる事はなかった。
何故なら発動された術は隔離された世界ごと、その魔風によって全てを消し去ったからだ。




後には塵一つ残さず、ただ、平和な青空が広がるだけ。
ついさっき、この空を飛竜が埋め尽くしていたなんて嘘の様な爽やかな空。




そんな空を、鳥が一匹、自由に飛んでいた。





























イデアが眼を開け、一番最初に見たのは真っ赤な顔をした姉の顔であった。
泣いていたのだろうか、目元は真っ赤で鼻水も少しだけ出ている。



「姉さん?」


どうしたの? と続けて起き上がる。
痛みこそ感じないが、頭が少しだけぼぉっとした。



「イ、イ、イ、……イデアぁあ!! やっぱり私が行くべきだったよぉ!! ごめんなさい!!」


わーわーと人目も気にせずに大声で泣き出す。何度も何度も謝罪の言葉を述べる。
顔がぐしゃぐしゃになり、折角の美人が台無しだとイデアは思った。



辺りを見渡す。


見覚えのある調度品に布に骨組みを入れた天井。

壁に掛かった二本の倭刀……。



恐らくはここはゲルの中だろう。



「あぁ……生きてたんだ」



頷きながら何処か他人事の様にイデアがそう呟いた。あれだけ怖がっていたのに。
そんな彼に姉が全力で抱きつき、もう一度イデアの意識を一時的に闇に叩き落した。











「本当に世話になった この恩は感謝してもしきれない」



ゲルの前で傷が一つもなくなったハノンが頭を深々と下げて
眼の前のイドゥンとイデア、そして男―― ナーガに言った。



日はもう沈み掛かっており、太陽が地平線の彼方より半身だけを出して辺りを照らしている。



ナーガが双子より一歩さがる。



「……」


「……」



イドゥンとイデアがバツの悪そうな顔で視線をあちらこちらに飛ばす。


結果的に全員助かったにせよ、自分達はハノンの言葉を破ったのだ。
それは彼女の心遣いを踏みにじった事になるのではないか?


そんな考えが双子の中で暗い尾を引いていた。

しかし、そんな悩みはあっという間に息を潜めてしまう。



「ありがとう。父なる天と母なる大地に誓って、この恩は必ず返す。絶対にだ」


確かに彼女は死を半ば覚悟していたが、助かることを決して完全に諦めていた訳ではなかったのだ。


それに、もしも双子が今日ここに来て、
自分と出会わなければ自分は生きてはなくただの無駄死にで人生を終わらせていただろうと
ハノンは思っていた。



要は、終わりよければ全て良しの精神だ。



そうしてハノンは本当に綺麗な顔で笑った。そして最後にもう一度。




「ありがとう。イドゥン、イデア」



その顔を、イデアは忘れられないだろう。



























殿の自室に転移の術で戻って来た神竜の双子であったが
イドゥンは疲れていたのか早々とベッドに潜り込んで眠ってしまった。


無理もない。精神的にも肉体的にも、疲れて当然だ。


結局、ナーガは何も言わずに二人を寝室に置いていくと同時に何処かへ行ってしまった。
それが逆に怖い。怒られる事も覚悟していたイデアにとってはナーガの沈黙は何よりの恐怖であった。


一人残されたイデアが椅子に座って今日の出来事を振り返る。既に陽は完全に沈み、殿の外は暗闇だ。
眼の前で暖炉の火がパチパチと燃えているのを眺めながら今日の出来事を整理する。




サカ草原にハノンさんにあの飛竜の群れ……。


一つ一つを鮮明に思い出す。
ぶるっと身震いをした。かなり危険な状況だった事を思い出し、今更ながらに恐怖を感じる。




「はぁ……」



溜め息を吐き、立ち上がって自分もベッドに潜り込もうとした時、ドアがノックされた。



「あぁ……そういえば」


今夜の夕飯はまだだったと思い出す。同時に腹が空いている事も。


「どうぞ」


手短にそれだけを告げると、扉が開いて思った通りナーガが入ってくる。
彼の傍には皿やバスケットが浮いており、いい匂いが漂ってくる。



「食事だ。取るか?」


ナーガの言葉にイデアは首を縦に振った。


イドゥンは起こしても起きなかったため、イデア一人で食事を取ることになった。












「ねえ、ナーガ・・・・・・」


食事を食べ終わり、ナーガが皿や盆を持っていこうとする際にイデアが彼に話しかける。
ナーガが動きを止め、イデアをその眼で見やる。



「何だ?」


いつも通りの声が今はイデアを何故か安心させると同時に恐怖させる。



「俺、逃げようとしたした……」


「……」


ポツリポツリと降出した雨のごとくイデアが語る。
その声は今にも消えてしまいそうな程に弱い。



「怖くて、逃げようとしたんだよ……ナーガは、怒らない?」


イデアの父が手を伸ばす。
一瞬だけイデアが眼を瞑り、固まるが――。



「……?」


叩かれることもなく、その手がイデアの頭の上に乗り、優しく撫でる。
サラサラと髪の毛を摩り、とても気持ちいい。



――大きい手だ……。



そんな事を考えてしまう程に心地よい時間。



「遅れてすまない。本来ならば直ぐにでも駆けつけるべきだった」



ナーガが遅れた理由にヴァロールの【門】から以前葬った者よりも強力な魔物が現れ、それに対処するために遅れたというものがあるが
双子はそれを知る由もないし、ナーガもそれを言い訳にするつもりはなかった。



ただ、自分の子供の危機に遅れた事を謝罪する。それだけだ。



恐怖を思い出したイデアが堪えきれずに怖かったとナーガに泣きながら抱きついても彼はイデアを撫で続けていた。
そのまま息子が眠るまでナーガはイデアを撫でていた。














あとがき


随分と長くなってしまいましたが、これで7章は終わりです。


しかし勢いがないと自分でも思う今日この頃。
どうやれば勢いのある文を書けるのだろうか……。


しかもハノンとの絡みもかなり強引だと反省しています。




後はおまけとしてフォルセティの解説を。



フォルセティはFE聖戦の系譜 及び トラキア776にて登場した超魔法です。


威力30と言う狂った数値に


技+10

速さ+20


トラキア776では威力が20に下がってこそいますが、
代わりに技+20 速さ+20と、補正数値が上がっています。

しかもこれに必殺値が30も加算されます。


ちなみにトラキアだとキャラの能力値は20までしか上がりません。


……今のFEシリーズから見ても化け物性能ですね。
これ以上にとんでもない魔法もあるのですが、十分にバランスブレイカーです。



長々と1年以上も続いた第一部もそろそろお終いですが、これからも長く付き合ってくださると嬉しいです。


では、次の更新にてお会いしましょう。



[6434] とある竜のお話 第八章 1
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/05/05 00:13
「驚いたぞ。まさか貴様がその姿を本当に取るとは」


殿の玉座に腰掛けた神竜王ナーガは自らの執務室に入ってきた人物を見るなり感情の一切が入っていない声でそう言い放った。
同時に彼の真剣を連想するほどに鋭いながらも、何処か気だるげな眼に水滴一滴程度の量の僅かな感情が宿る。


彼がこういった感情の機微を表に現すのは自身の子供である姉弟と触れ合っている時ぐらいなのだが
今回は本当に驚いたのだろう。ほんの僅かではあるが、『驚き』の感情が彼の顔に微細だが、溢れていた。




「私とて、必要な時は人の姿を取ります。それともこの私が下劣な人間の姿など取るわけがないとお考えですか?」



ナーガに『驚き』という感情を与えた人物が彼の玉座の前までツカツカと大股で歩いていき、膝を勢いよく地に下ろす。
ズンと膝を当てられた石の床に少なくない数の皹が入った。


男の口調こそ丁寧ではあるが、その言葉には隠しきれない侮蔑の感情が宿り、どこかナーガを小馬鹿にする様に言う。



お前は何もわかっていないのだと言わんばかりに真っ赤な眼で自分を睨みつける男をナーガは真正面から見据える。
仮にも、主に対する態度とは思えない程に横暴な所業だが、ナーガは何も言わない。否。相手にするのも馬鹿馬鹿しいのだ。


ナーガの前に膝を付きながらも、彼を何処か馬鹿にしている人物もやはり『竜』だ。
真っ赤な業火を連想させる雄雄しい髪をまるで鬣の様に生やし、その屈強な体格は大の大人を二人並べても軽々と超す長身。


その丸太よりも太く硬い腕は軽々と人を持ち上げて絞め殺すことさえも可能だと見るものに思わせる。


事実、彼がやろうと思えば人はおろか、飛竜だろうと人の姿のまま術も使わずに素手で縊り殺すことが可能だろう。




「何の用だ?」



「はい。単刀直入に言ってしまうと、【魔竜】の創造を許可願いたい」



ナーガがその鋭い眼を更に細め、眼光だけで生物を殺傷しえるほどの激しさを湛えた。
しかし男はソレに気が付いているのか、ナーガの存在を無視して何処か酔った様に言葉を続け、更に神竜王を苛つかせる。



非常に不愉快極まりなく、目障りな男だが、正当な手続きを踏んでここに居るのだ。一応は話を聞かなくてはなるまいて。



……本当に苦行だが。



「あの二人は、まだまだ幼いですが、持っている力はそれなりです。かつての大戦で活躍した完全な【魔竜】程の力は期待出来ないにせよ
 そこそこの出来にはなるでしょう。ですから――」


あの二人というのが誰を指すのかは言葉に出さなくても判る。
現在、純血の神竜族はナーガと幼いあの二人ぐらいしか居ないのだから。




「【魔竜】を使い、何をするつもりだ」




最後まで言わせずに問う。声こそ無感情だが、その裏に込められた感情は聞くものが聞けば判る。純粋な『苛立ち』
気にいらない。全く以って気分が悪い。ここまで気分を悪くさせられたのはかつてアウダモーゼという魔道士が訪問した時以来だ。


いや、これは更に上を行く不愉快さだ。


戦争を体験していない、文献でしか戦争を知らない若造がさも自分も戦ったと言わんばかりに戦争を語り
戦争に使われた存在を復活させろと身の程も弁えずに言っているのだ。


しかも、よりにもよって子供を捧げろ等とほざいている。これに不愉快を覚えない者は少ないだろう。
不敬罪でその場で手打ちにしてしまってもいいのだが、今そんな事をしたら騒乱の火種になるのがありありと見えてしまい、出来ない。



それに、もう、そんな事をしなくてもいい時期に来ている。



男、ナーガに問われた竜が不思議そうな顔をする。



「何をと言われましても……そんな事は決まっているでしょう? あの増える事しか取り得の無い下等種族共を駆逐するためですよ。
 その後、我ら竜族の恥さらしである竜人と、その系譜を完全に葬るために【魔竜】を『使う』のですよ」



彼の中で決まっているであろう、決定事項を現実でも確定させるために男はナーガに要請する。

貴方の子供を兵器にしてくださいと。冗談でもなく、挑発でもなく、真面目に本心からの要求だから最悪と言ってもいいほど質が悪い。



「神竜は我々竜族の神。故に、我らのためにその身を捧げて貰いたいのです。我らの発展の為の礎となれるなら、本望でしょう?」



「…………」



既に答えを返すのも馬鹿らしくなってきたナーガが黙って男の話を聞く。
冷ややかな眼で見られているのに気が付いているかは知らないが、男が続ける。



「そもそも、我々があんな劣等種と共にこの大陸に居るという事自体が間違っているのです、我らこそ、この大陸の支配者たるに相応しい存在だというにあいつらは――」



「もういい、出て行け。話は終わりだ。ここは議論の場ではない」


ナーガがしっしっと手を払い、男に緩やかに退室を促す。一応は受け入れは聞いた。用件も聞いた。これで用はすんだ。
男が立ち上がるが、言われた通りに退室せずにナーガの眼前まで歩いていく。その顔は自分の我侭が通らず駄々を捏ねる子供の様。





「出て行けと言った筈だが」



「―――――」



男が口をもごもごと動かし、言葉を吐きつけようとするが、必死に動く唇から出るのは空気だけ。
言葉らしい言葉は何も出ない。いや、出させてもらえない。ナーガが無詠唱、無動作で発動させた一つの術のせいで何もいえない。



【サイレス】


煩く、身の程知らずな火トカゲを黙らせるには最適な術だ。




「出て行け。これは命令だ。逆らえばどうなるか、想像は出来るだろう?」



神竜王の一睨み。脅し所か、本気の殺意。竜さえも怯えさせる威圧感。
文字通りの【神の怒り】に触れたらどうなるか想像がついた男がその巨体を縮めるようにして部屋から逃げ出す。



若い竜故に、何処かナーガを甘く見ていた男が脱兎の様な速度で部屋から遠ざかる気配を感じつつナーガが溜め息を吐く。
今の男は極端ではあるが、竜の中にはあの男と同じ様な考えを持っている物も少なくは無い。
竜族至上主義とでも言えばいいか。竜以外の種、全てを軽蔑する者が多いのだ。



最近はあの男ほどでないにせよ、その傾向が更に激しくなっている。

あの男は狂信的に人を見下している様だが。


人が幾ら文明を作っても決して認めず、人が幾ら努力しても嘲笑い。人が精一杯生きているのを虫けら呼ばわりする。
そんな思考を持っている者が若い竜に多いのだ。



中には純粋に竜族の為を思い人を論理的に解析し敵視する者もいるし、彼らの意見には同意する所もあるのだが、
問答無用で排除しようとする輩も多いのが現状だ。


あの者がいい見本だろう。正に体現してくれている。誰も頼んでなどいないが。


そんな彼らの態度は遠い昔、神竜族と始祖竜族しか認めなかったとある竜族をナーガに思いださせ、彼を悩ませる。
あの竜族の辿った道をもう一度見ているようで、恐ろしいまでに既知感を覚え、頭痛さえ感じた。



かの竜族を葬った自分が、守るべき筈の者達にソレを連想させられるとは皮肉が利いているようだ。




いや、守るべき筈『だった』者達か。



竜を恐れ、いつか排除しようと動く人間と、人を見下し蔑む竜族の一部の者達。


正直、千を超える年月も良く持ったものだ。



両者がいずれどうなるかなど、誰が予想しても答えは一つだろう。



























また春が訪れ、エイナールが子供達を連れて『殿』に帰ってくる。
そして神竜姉弟がそれを歓迎し、嬉々としてエイナール親子と遊ぶ。


既に何回も繰り返された平和な日常の光景だ。いつまでも続くと信じられている光景。


ニニアンとニルスの氷竜姉弟もイドゥン、イデアの神竜としての力と『殿』の成長促進の効力。
そして何よりもエイナールとその夫の愛によってすくすくと大きくなり、今や4歳程度にまで成長していた。


4歳。人ならとっくに母乳離れして、二本の足で歩き出し、おぼろげながらも確たる自我を手に入れる年齢だ。



「……?」



湯浴みに氷竜姉弟と一緒に入り、身体を清めたイドゥンが自室に戻って見たのは何処かバツが悪そうな表情で苦笑いする椅子に座ったエイナールと
彼女に向かい合って座る、遊戯版を身動き一つせず睨みつけている弟の姿だった。放っておくと眼からブレスを吐き出しそうな形相だ。


そして、顎に指をやり、深く考える仕草。どうやら姉達が入ってきているのにも気が付いていないようだ。



あぁ……負けたんだ。
イドゥンは弟のその表情を見て、苦笑いを浮かべながらも一瞬で遊戯版上の状況を実際に見ずに理解できた。




「ねえ? お兄ちゃんどうしたのー?」


「すっごく面白いかおしてるねー」



イドゥンの左右に立ち、手を繋いでいるニニアンとニルスがきゃっきゃっと舌足らずな口調で感想を言う。
最近は喋ることを覚えたのか、とにかく喋ること喋ること。


かつての自分もこうだったのかな? とイドゥンは氷竜姉弟を見ていると、時々思うのだ。



「イドゥン様、お湯加減はいかがでしたか?」



「うん。凄く気持ちよかったよ」



三人が入ってきていた事に気がついていたエイナールがイドゥンに微笑みかける。
何処か人を安心させる笑みと独特の雰囲気は始めて会ったときから何も変わってはいない。







「……負けたー」



イデアが肩を落として、ようやく敗北と言う現実を認め打ちひしがれている中
氷竜の姉弟が母に走りより、その胸に抱きつく。



二人の子供を優しく抱きとめ、エイナールは膝の上に乗せる。
そして布を取り出し、湯から上がったばかりで湿り気を帯びた髪を優しく拭く。


次いで櫛を使い、乱れた髪を綺麗に、丁寧に整えてやる。
その間、ニニアンとニルスは母の腰に手を回して、力強く抱きつき、母の温もりを堪能していた。



氷竜姉弟が母に抱かれ、愛情を込めて髪を手入れされているのを見て、対抗心に近い物を感じたイドゥンが弟に素早く駆け寄り
その膝の上にゆっくりと座る。そして。



「私もやって~」



「………いいの? 俺、全然髪の扱いなんて知らないよ?」



「イデアがいいの」



背を向けられてるため顔が見えないのだが、その言葉に含まれた強い物を直感的に感じたイデアが
小さく溜め息を吐いて、まずは布を引き寄せて手に取る。


濡れた髪に、いつもよりも火照った体、そしてバスローブの様な衣服だけを纏った姉は寒気が走るほど艶やかだが
それら全てを意図的に意識しないように心がける。


見よう見まねで優しく優しく、出来るだけ姉に痛みを与えないように、ちょっとビクビクした手つきでイドゥンの紫銀色の髪を
拭いて行き、次に櫛で優しく髪をストレートに整えてやる。



サラサラと滑らかに櫛を通すたびに揺れて、輝いて見える髪はまるで上質な絹だ。



「これでいい?」



「うん。ありがとう!」



立ち上がり、弟の隣の椅子に座る。






そのまま何をするでもなく、上機嫌に鼻歌を歌う。何故そこまで上機嫌なのかはイデアには判らない。
リズムに合わせて左右に体を揺らす度にまだほんのりと湿った髪が光を反射して輝き、とても幻想的だ。



「おや……」



「どうかしたの?」



「いえ……ニニアンとニルスが……」



イドゥンとイデアがエイナールの膝の上で全く動かない氷竜姉弟を見やる。
ニニアンとニルスは体が小さく上下しているだけで、何も言わない。遅れて聞こえてくるは小さな寝息。


氷竜姉弟は、母の胸の中で眠りについていた。
二人にとって恐らくは最もエレブで安心できる場所で。



「寝ちゃった……?」



「みたいです……失礼ながら、部屋に戻っても宜しいでしょうか?」



イドゥンとイデアが合図も無しに同時に首を縦に振る。
そんな様子を見て、エイナールは小さく笑うとニニアンとニルスを『力』で包み込み、立ち上がる。


氷竜姉弟は『力』で持ち上げる。起きる気配はない。
母の力に包まれて、安心しきった表情で眠っている。



出口まで歩いていき、エイナールが一礼。



そして。











「それではまたお会いしましょう。イドゥン様、イデア様。貴方達に天下無敵の幸運があらん事を。氷竜エイナールは、いつでもお二人の味方です」










「「……?」」



何か、妙な突っかかりを覚えたイドゥンとイデアが首を傾げるが、それを二人が問う間もなくエイナールは部屋から出て行ってしまった。



何だろう。何かが引っかかる。
だって、あの言葉って……。



もやもやする感情を胸に押し込めたまま、イドゥンとイデアは眠気を感じたのでベッドに潜り込んだ。

明日も変わらない朝が来ると信じて。










あとがき


出来れば4月中には終わらせたいです。
イデアの物語をこれからも読んでいってくださると嬉しいです。



[6434] とある竜のお話 第八章 2
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/05/05 00:13
夜。世界は変わらず流れ、陽は地平線の彼方に没し、その代わりに月が天に昇り全てを照らす時間。
山岳地帯であるベルン地方の夜は例え夏の季節でも肌寒い。


石造りの廊下、床や壁が竜族の技術で煌々と明かりを放ち、視界を確保している通路をエイナールは自室に向かって歩いていた。
等間隔で配置された窓からは青く巨大な月が見える。まるで空に浮かぶ巨大なサファイアだ。
彼女の背にはニニアンとニルスが、布に包まって乗っている。


当初は『力』で持ち上げて部屋まで運ぼうと思っていたのだが、途中で眼を覚ました双子が母の背に乗りたいと言ったため、こうなった。


あえて転移の術は使わずに徒歩で背に確かな重みと、愛しい温もりを感じながらエイナールがゆっくりと『殿』の自室に向かう。
足を進めるたびに、辺りに視線を走らせ『殿』を隅々まで感慨深く見渡す。


何千年も暮らした故郷であり、家である『殿』をじっくりと脳裏に焼き付けていく。
愛しい家。愛しい故郷。そして数え切れない程の思い出が詰まった竜族の巨大な王都にして城。



「……くしゅ……」


エイナールが足を止めて物思いに耽っていると、背中の双子のどちらかが小さく咳きをする。
恐らくは寒いのだろうとエイナールは思った。早く部屋に帰ってベッドに寝かせなければ。



蒼い長髪を揺らし、背中の子供を背負いなおすと先ほどよりも速度を速めて足早に自室に向かう。



「!」



しばらく行き、部屋まであと少しという所でエイナールの氷竜としての優れた感覚が何かを捉えた。
感覚をいつもより研ぎ澄まし、その『何か』の正体を探る。


エイナールの紅い眼が不気味に輝き、ほんの少しだけ敵意を滲ませた。
背中の双子には気が付かせないように抑えられていても、それでも常人なら失神してしまうほどの殺気。



イドゥン、イデアにはあまり見せたことのない顔。強大な力を持った氷竜としての顔。



が、それも一瞬。『何か』の正体をその発達した気配探知能力で突き止めたエイナールは直ぐに敵意も殺気も霧散させる。
そして先ほどとは一転してその美麗な顔に何処か疲れた様な笑みを浮かべた。



「アンナ……早く出てきなさい、じゃないと『うっかり』凍らせちゃうかもしれませんねぇ?」



溜め息混じりに言い放つ。同時に人差し指を立てて、そこに冷気を集め出す。
パキパキパキと、空気が凍る音が不気味に廊下に響いた。
こんな概念的な“凍結”をまともにその身に受けたら竜族でさえ只ではすまないだろう。


……最も、エイナールはこの攻撃を放つ気など元よりないのだが。
強いて言えば、友人同士のじゃれ合いに近い。



「待ちなさいな。火竜が氷付けにされるなんて、冗談じゃありませんわ」



グニャリとエイナールの後方の“場”が捻じ曲がり、捻れた空間からいつもの紅いドレスを纏った紅い髪、紅い眼の女
火竜アンナがお手上げと言わんばかりに両手を挙げ、微笑を浮かべながら現れた。恐らくは魔術を使って隠れていたのだろう。



エイナールやナーガ等の気配探知能力が規格外な存在じゃなければ通用したのだろうが、些か相手が悪かった。
氷竜の気配探知能力は下手をすれば神竜並に高いのだ。幾ら術を重ねても、安々と誤魔化せる存在ではない。



「久しぶりですねー、アンナ。でも今は急いでいるので用事なら後にしてもらえませんか?」


にこやかに、しかし有無を言わせぬ迫力を持った気配でエイナールが告げる。
鋭く細められた眼はまるで獲物を狙う鷹のよう。


早く子供をベッドに入れたくて、多少苛立っているのかも知れない。
背中の子供の体温が少しずつ下がってきているのも一因としてあげられるだろう。
夜の冷え込む空気に当てるのは健康に悪いのだ。



アンナがニニアン、ニルスを見て、解を得たと言わんばかりに小さく頷く。
今まで何度も繰り返してきた、いつも通りの下らない話題ならここで謝って、おやすみと就寝の挨拶でもして別れる所なのだが、今回はそうも言っていられない。
アンナにはやるべき事がある。


「とても大事な話があるのよ……とても、ね」



口元と纏う空気に浮かべていた何処か胡散臭さの一切を消し去り、重々しい口調で火竜が告げる。
その眼には鋭い光が宿っていた。


そんなアンナに直感的に何かを感じ取ったのか、エイナールの美麗な顔に影が差した。


エイナールが背の氷竜姉弟を背負い直す。


幾ら氷竜といえどベルン地方の夜の空気は寒いのか、少しだけ辛そうな顔をしているように見える。
まだまだ子供の二人には辛い環境だろう。早く暖かい毛布の中で寝かせなければ。
エイナールを焦燥にも似た感情が支配する。



「とりあえず、話は私の部屋でしましょう。この子達も早くベッドに入れてあげたいですし」



その提案をアンナが拒否する理由は何処にも無かった。






















「……この部屋に入るのも久しぶりね」


久しぶり……最後に入ったのはエイナールに“残るか”“行くか”の問い掛けをした時以来
一度も来れなかった親友の部屋に入ったアンナは思わずそう口に出していた。


エイナールは今ベッドの上にニニアン、ニルスを寝かせて毛布を掛け、寝かせつけている最中だ。



強大な力を持った氷竜であるエイナールが子供をベッドに寝かせて、
深く寝入るまでその髪を撫でてやっている光景はアンナに不思議な感覚を抱かせた。


しかも、子をあやしているエイナールの表情は正に幸せの絶頂と言わんばかりに輝いているものであり
そこには嫌々やっている等と言った負の感情は砂粒一粒程度もない。




(……母性、というものなのかしら……?)



エイナールから送られてきた手紙を思い出す。そして其処に書かれていたエイナールの苦労話や痴話話などなどを。
本当に、本当にいっぱい送られてきた手紙の数々だ。



以下にその一部を抜粋。





出産について。


――本当に死ぬかと思いました。あれほどの痛みは数千年生きてきた中で始めてでした。
  でも、今までの生涯で最も達成感があった瞬間でもありましたね。




夜鳴きが酷くて眠れない。


――でも、一緒に寝てあげると直ぐに対応できるし、トイレや母乳以外では泣かなくなった。


オムツの替え方がよく判らない。


――夫と一緒に勉強して、頑張った。今では眼を瞑っても交換できるし、綺麗に洗えます。


湯浴みの入れ方が判らない。


――人肌よりも少しだけ温い温度のお湯で……。



首が据わった。


――これで先ずは一安心です。



喋り始めた。


――始めて「母」と呼ばれた時は天にも昇る気持ちでした。



立って歩き始めた。


――ずっと、私とあの人の後ろを追いかけるんですよ。愛しくて愛しくてたまらない。





会えない代わりにコレらの手紙をエイナールはアンナや神竜姉弟に送っていたのだ。
それはもう結構な頻度で。話題に欠かないから出来た事だろう。




「………」



ニニアン、ニルスを撫でていた手の速度をゆっくりゆっくり落としていき
最終的に双子の頭から手を離したエイナールが暫し様子を見るように沈黙。



スースーと規則正しい寝息だけが無音の部屋にやけにはっきりと響く。



完全に寝たわね……双子の気配を少しだけ探ったアンナがそう判断する。
起きる気配はない。それこそエイナールがこの部屋から出て行かない限りは。



子供は深く寝ている時でも、親の動きには敏感なのだ。これは人間でも竜でも竜人でも変わらない法則だ。



エイナールが足音を立てない様にベッドからそっと慎重に離れる。
少しだけ体を浮かばせているのだろう。肩の上下も足の動きも特に見られない。



スススとまるで闇夜に紛れて走る密偵のような動きでエイナールが軽やかにアンナの対面の椅子に腰掛ける。
何処からともなく杯が二つ飛んできて、二人の前に置かれ、その中に同じように飛んできたワインの入った容器から杯へと紅いワインが注がれる。


「待たせてごめんなさいね。 さて、用事とは何でしょうか?」


「えぇ……」


アンナが用意されていた杯と、その中に満たされた紅いワインを飲み喉と舌を湿らせてから、改めて口を開いた。
いつもならそんな事をせず、さっさと用件を言ってしまうような性格のアンナには珍しい。



「まずはこれを……長からの贈り物ですわ」



アンナが懐から取り出したのは一枚の紙。そしてエイナールに差し出す。
年季を感じさせる外見のソレから魔術的な要素を氷竜は感じ取った。
ただの紙ではないのは確かだろう。


受け取った紙の中身に眼を通す。
あっという間に中身を読み終えたエイナールが紙を折りたたみ、懐に大事そうにしまいこむ。



「ヴァロールですか……確かにあそこは人が居ませんからね……」


何処か他人事の様に呆然とエイナールが呟いた。
杯を手に取り中身を一気に飲み干す。


いつもの彼女なら一気飲みなどせずに少しずつ飲んでいくのだが、今日は違った。
まるで悪いことを酔いで忘れるのを望んでいるかのように豪快にワインを飲む。



「残るのですよね?」



アンナがワインを飲み干すのを見計らい問う。
もう答えなどほとんど彼女は判っていたのだが、あえて聞く。
最終確認をする。



はい、と。問われたアンナの親友が小さく首を縦に振った。
アンナの顔が何処か明るくなる。


「……暫くの間はヴァロールに身を隠していなさいな。 
 貴女はかなり有名だもの。ほとぼりが冷めるまでは下手に動かない方がいい。 ――最悪【里】の存在を知られたりなんてしたら大変だわ」



一気に言い切ると、一度杯に口を付け少し乾いた喉と舌を潤わせる。






「…………」


「…………」



沈黙。長い長い沈黙。ニニアン、ニルスの蚊の羽音程度の呼吸音が聞こえる程の完全な無音。



「……エイナール、ずっと前から聞きたいと思っていたのだけど、幾つかいいかしら?」



「なんですか?」



アンナが続ける。



「何故貴女は人を助けるの?」



口にするはアンナという竜が長年抱いていた疑問。
しかしあえて聞かなかった事。


どうして強大な力を持つ氷竜であるエイナールがわざわざ冬が来る度に遠いイリアまで赴き
そこに住まう人間のために力を行使し、守っている理由。


信仰が欲しいから? 貢物が欲しいから? 否。違うだろう。
彼女の親友はそういった物にはあまり執着を持たないのはアンナが一番知っている。


ならば何故なのだろうか? 


……エイナールという氷竜の性格からしてみれば答えなど判りきったものではあるが、一応本人の口から答えを聞きたいのだ。
直接この長年の疑問を氷解させてもらいたい。




「…………」


無言でエイナールが窓の外を見る。
彼女の視線の先には蒼く美しい月が星夜に堂々と君臨し、夜の空における【太陽】となっていた。


紅い瞳の中に蒼い宝石を映しながら、イリアの人間から絶大な信仰を得ている氷竜が言う。



「何ででしょうね?」


「…どういう意味?」



親友の問いに彼女はしばし唸った後に答えた。



「正直、私もよく判らないんですよ。 ただ……」


「ただ?」



「始めたきっかけはともかく、私は私がそうしたいからやっているんですよ 今も昔も」



これからも、とは言えなかった。



アンナが大きく溜め息を吐く。
予想通りというか、斜め上というか、何といえばいいのやら。
底なしにお人よしなのか、それとも永い時を生きる竜の戯れか、もしくは……いや、やめよう。

もうこの話はやめよう。



「では次の質問ですけど、いいかしら?」



「はい。どうぞ」



「貴女の愛しい殿方の名前は何かしら?」




一瞬だけ呆気に取られた表情をしたエイナールであったが、直ぐに平常に戻った。
そして小さく口を動かし、その者の名前を紡いだ。



氷火の宴はもうしばらく続く。





















――眠れない。



ベッドに潜り、眼を瞑ったイデアは中々寝付けないでいた。
何度も眠ろうと意識を集中させたり霧散させたりするが、逆に眠気がなくなっていくのだ。


まるで蟻地獄に囚われた蟻の如くもがけばもがく程求める安らぎから遠ざかっていく様な気さえもした。
無駄に広いベッドの中をモグラ(土竜)のように這いずり廻り、安眠の地点を求めようとするが一向に見つからない。



気が付けば彼は何時の間にか最初の地点に戻ってきてしまっていた。

毛布から顔を出し、月の光と暖炉の炎に照らされた部屋を見渡す。



苛立ちにも似た感情がイデアの胸中を埋め尽くしていた。
あのエイナールの言葉。そしてこの理解出来ない焦燥感。一体なんだというのだ。


少しだけ外の冷気に当たって、頭を冷やすか。
そう思いベッドからイデアが抜け出そうとするが……。




がっ。



何者かに腕を強く掴まれた。
そのまま毛布の中に引きずりこまれる。


「ひぃああああ!!??」



まぁ、何者と言ってもこの部屋に現時点ではイデア以外の人物は一人しかいないので
それが誰かは考えるまでもないのだが、根っこの部分で臆病な所があるイデアは間抜けな声をあげてしまった。


だが、それも一瞬。次いでイデアが顔に感じたのは柔らかく暖かい感触。まるで上質なクッションに顔を埋めた様だ。
ほんの少しだけ香は上質な花とミルクの様な匂い。人の心を安心させる匂い。




例えるならば母親の胸の中のような。



うん? 


ここでイデアが唐突に気が付いた。こんな事が確か昔にもあった様な気がする。
あの時は確か、凄く平べったかったけど。そして髪の毛を無茶苦茶に撫で回された様な……。


恐る恐る顔を上げてみる。少しだけ布擦れの音がした。



「眠れないの?」



予想通りの姉の顔。蒼と紅の特徴的な眼をした神竜の人間時の顔。
朧な月の光に照らされ映るその顔は身震いする程に美しい。


まだ少しだけ湯浴みでの熱が残っているのか、少しだけ彼女の顔が赤いのがイデアには判った。



「……」




うん。と、小さく頷く。

イドゥンの顔がぱぁっと輝いた。
そして何処か嬉しそうに彼女が言った。



「実は私も眠れなかったんだ~ 眠っちゃうまでお話してようよ!」



興奮しているのか、やけに口調が軽い。


……気持ちは少し判るが。
さしづめ、旅行で泊まった宿などで夜になると無駄に気分が高揚するあれだろう。

イデアも前の世界で経験した事があるからその気持ちは判らなくもない。



「別にいいけど、何を話すのさ?」



「何でもいいよ!」



イデアが小さく溜め息を吐いた。
「何でもいい」というのは……一番困る。



それに何よりも、この柔らかい感触に包まれていると先ほどまでの悶々とした気持ちが嘘の様に消え去り、眠くなってくる。
気分は母親に抱かれた赤ん坊と言ったところか。



(…………エイナールよりは小さいか。 しかし、姉さんも案外………でも、まだまだ小さい部類かな? どうなんだろ?)



そんな失礼な事が一瞬だけ頭をよぎる。彼も男なのだ。



しかし本当に心地よい。
このまま話題を考えているふりをして寝てしまうか? 


しかしそうは問屋が卸さない。現実はいつだって思ったようにはいかないものだ。


ぎゅうっと、イデアの背に回された手が彼をきつく抱きしめて、イデアの顔を胸部に強く密着させる。
もちろんそんな事をされれば呼吸が困難になることは明白だ。柔らかさや温もりなどを堪能している暇などない。



「!! っ!! !!!???」



耳と腕をバタバタさせてイデアが危機的状況から脱出しようと無駄な足掻きを行う。
時間にして僅か数秒、しかしイデアにとっては永い数秒。それを経てようやく力が弱まり、開放される。



「……何か、凄く失礼な事を考えてたでしょ?」



耳元で、そっとそう呟かれてイデアが身を凍らせた。



……ちょっと胸の大きさを比べてただけじゃないか。



まずい。何でかは知らないけど、完全に読まれている。急いで話題を変えなければ。
酸素を体内に取り込みながらイデアが必死で考える。


そしてこれだ、と思った話題を口にする。



「む、昔もこんな事があったよね?」




「? 始めて湖に行った日の前の日のこと?」



イデアの話題逸らしに簡単に引っかかり、イドゥンが答えた。



「日付まで覚えてるの?」



「うん。私とイデアが始めてお勉強以外の為に外に出て、空を元の姿で飛んだ日だしね」



エイナールが企画し、ナーガが許可を出した旅行はイデア以上に彼女にとって特別な日だったのだろう。
はっきりとイドゥンはその日の事を覚えていた。


あの日、弟やエイナールと食べた焼き菓子の味を彼女はしっかりと覚えている。


イデアにとってもエイナールがイリアに帰ると聞いてショックを受けた事を覚えている。
そして子供の様に駄々を捏ねた事も。姉に諭された事も懐かしい。



「お父さんが迎えに来たんだよね。イデアを背負って帰った!」



「あぁ……うん」



イドゥンがその時の様子を脳裏から再生しながら、嬉しそうに語る。
遊びすぎて足腰が疲れてしまい、自力で立てなくなって仕方なくナーガに背負われた事を思い出し、イデアが顔を紅く染めた。


あの時、ナーガは確か回復魔法を自分に使おうとした筈。なのに自分は何故かそれを断って彼におんぶしてくれと言ってしまったのだ。
今思い出すとあれは凄く恥ずかしい。何で素直に魔法を掛けてもらわなかったのだろうか?




……まぁ、ナーガの背中は広かったし、凄く居心地がよかったけど。




「その後、エイナールから『殿』に帰ってくる手紙が来た時は凄い喜んでたよね」



思い出話という花が徐々に咲いてきたのか、先ほどよりも饒舌にイドゥンが弟に笑いながら言う。
凄く楽しそうだ。



「うぅ~~……」



エイナールから手紙が来た時の自分の狂喜乱舞ぶりを思い出し、恥ずかしくなってしまったイデアがベッドに潜ろうとするが
そうはさせまいと彼の姉が背に回した腕に力を込めて、自分の胸と腕で挟み込んで逃がさない。



「あぁあああ……」



逃げられないと悟ったイデアが絶望の声を上げて、力なく姉の胸部に顔を預ける。クッションみたいに心地いい。
尖った耳がせめてもの抵抗と言わんばかりに力なく垂れて耳の穴を塞ぐが、そんなものでは音の侵入は全く防げない。



「他にもね~~」



完全に調子にのッて来たイドゥンが楽しそうに語り出す。





―― お父さんに焼き菓子を作ったこと。


―― イデアに何度も遊戯版で負けたこと。


―― そんなイデアがお父さんに完膚なきまでに遊戯版で負けたこと。


―― エイナールが子供が出来たという内容の手紙を送ってきたこと。


―― 始めてニニアン、ニルスに会った日のこと。


―― その後、イデアが撫でて欲しいと言ったこと。


―― イデアにくすぐられたこと。


―― イデアと一緒に申請書を書いて、サカに行ったこと。


―― ハノンさんと出会った時のこと。


―― そんな中で飛竜に襲われたこと。




一つずつ、まるで全ての出来事が昨日起こったかの様に詳しく、思い出話を語るイドゥンは本当に楽しそうだ。
いつしかイデアもそれに聞き惚れてしまい、一つ一つの話にリアクションを返していた。



「イデアがあの飛竜にやられたって聞いた時は本当に心配したんだよ~? 判ってるー?」



「ちょ、ね、姉さん……息が……!」




うりうりとイドゥンがイデアの背をぎゅぅぎゅぅと圧迫する。
今話しているのはイデアが気絶し、ナーガがやって来て飛竜の群れを殲滅した後の話だ。


ハノンとその愛馬(ウィルソン)の傷をもう一回【ライヴ】を掛けて完全に治癒し
子供が世話になったと、赤い宝玉をナーガがハノンに渡そうとした所、彼女が受け取りを拒否し重い空気になった事などなど。




「しかしまぁ、よく覚えてるね。どこまで覚えてるの?」




「凄くうっすらとだけど……イデアと始めて会った時の事も覚えてるよ」



え? とイデアが返す。じゃ、どんな事があったか覚えているかい? と問う。




「お父さんがちょっと怖かったなぁ……」



記憶の最深部にある竜の姿に戻ったナーガの姿をツギハギで再生しながら彼女がしみじみと言う。
あぁ、確かに最初のナーガの姿には心臓が飛び出る程に驚かされたなと、イデアが思う。




「ねぇイデア?」


「ん?」


不意に彼女が抱きつく力を弱めて、イデアの顔を真正面から見つめる。
綺麗な色違いの眼。理性と知性、好奇心と力強さに優しさと美しさ、その全てが多分に含まれたこの世で最も美しいであろう瞳の一つ。








そして彼女はその美麗な顔に満面の笑みを浮かべた。
太陽の様に輝き、夜空の星のように美しい笑顔を。














「私の弟に産まれてきてくれて、ありがとう。 これからもよろしくね!」



















「…………………………」




顔を真っ赤に染めたイデアが、姉の胸に顔を埋めた。
そして無言のまま頭を小さく振る。




「……ど……ぃ… ま……て」



ボソッと小さく呟くと、そのまま動かない。
まるで先ほどのニニアンとニルスがエイナールに甘えていた時みたいだ。




「うん。どういたしまして」



かつてイデアに教わった返答をし、イドゥンが弟の頭を撫でてあげる。
たしか、これをすれば彼は眠りに付くはずだ。



イドゥンと一緒ならこのエレブでずっと生きていける と、イデアは頭を撫でられながら思った。



これは、そんなイデアのお話。








あとがき




4月中に終わらせるとかほざいといて、このざまだよ!


何か終わりが完結っぽいですが、まだまだ終わりません。
全体の4分の1程度です。



……完結させられるか、ちょっと怖いです。





では、次回の更新にてお会いしましょう。
予定通り行けば、次で第一部完結です。



[6434] とある竜のお話 第八章 3 (第一部 完)
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/05/21 00:29

真っ赤な、血よりもグロテスクで、炎よりも情熱的で、溶けた岩よりも粘質な紅い満月が天に昇っている。
まるで心臓を生物から取り出したような巨大でおぞましい物体が空にあるというのは、見るものに生理的な恐怖と嫌悪を抱かせた。


『殿』の中でもかなり高い階層に位置する執務室の窓から見たソレは地上で見るよりも、巨大で恐ろしい。



ナーガが数え切れない程の年月を共にした執務室はその様子を変貌させていた。


いつもは大量に置かれていた資料も無く、整理されたのか、または知識の溜まり場に送られたのか、その存在の一切がなくなっていた。
部屋の中にある調度品や装飾の類もほとんどなくなっており、部屋の様子は閑散としている。



いつも彼が腰掛けていた金や銀で装飾を施されていた玉座も
その後ろに配置されている神竜族のシンボルたる太陽をモチーフにした紋章も、部屋の中のありとあらゆる物が寂れていた。
かつて感じた威圧感や雄雄しさ、神々しさの一切が失われている。



殺風景。この部屋を一言で表すとそうなるだろう。完全に生気の消えた部屋。生活観の一切を感じない部屋だ。




そんな部屋の窓際に一人の男が立っていた。
男が身に纏うは金で幾つもの装飾を施された白い豪奢なローブに、同じく金で縁取りされた豪奢なマント。
腰に差されたのは金銀やエメラルドで装飾された宝剣【覇者の剣】かつて彼が葬った始祖竜の剣である。



手を後ろで組み、直立不動で赤い月を見つめるその色違いの瞳には何も浮かんではいない。
ただ、じっと月を眺めているだけである。


男――ナーガが音も無く振り返り、今まで自分が永い年月を過ごした部屋を見渡す。
その眼には相変わらず何も浮かんでは居ない。そう、何も。



二本の足でしっかりと歩き、絨毯の感触を堪能する様にゆったりとした足取りで今まで自身が掛けていた椅子に向かい征く。
何処か気だるげに玉座に腰を降ろし、机の上に手を置く。
火の灯ってない暖炉の変わりに、窓から入り込む赤い光が部屋を禍々しく照らす。


まるで部屋の中が血塗れになった様な錯覚を見た者は覚えるだろうが、生憎この部屋にはナーガを除いて誰も居ない。



ナーガが瞠目し、思考を巡らせる。
思い出すのはこの『殿』が作られた時の記憶。



始祖竜との戦争が終わり、一度は崩壊しかけたこの『殿』を当時生き残っていた様々な竜が力を合わせて再建した事。
あの時はまだ人という種はあまりこのエレブにはおらず、竜族もあまりその存在を気に掛けては居なかった。


当時の『殿』は竜族本来の大きさに合わせて建築されたため
現在よりも巨大で、こう言っては何だが少々大雑把な造りであった。
それがどんどん改築や増築などを繰り返し、今の人の姿でも済める構造に変わったのだ。




『秩序』を破壊するほどの戦争の影響で、竜族全体がその力を衰えさせており、その力の回復に専念するために
早急に神竜族の力を増幅させる場が必要だったというのも大きいだろう。
神竜族や魔竜もほとんどあの戦争で始祖竜やそれに加担した地竜達と相打ちになり、残ったのは自分だけ。



そんな自分に従い、この『殿』を竜族総がかりで再興させた時は本当に輝いていた時期の一つだったのだろう。






やがて人と言う種が発展を遂げ、争いながらも国という集団を作り始めた。
西にエトルリアという国がおぼろげながらも出来始めた頃だ。
サカにも遊牧民族と呼ばれる者たちの始祖が生まれ始めた。





この頃だろう。竜族が人間という存在に興味を持ち始めたのは。
自分達とは違う、しかし獣とは違い確かな理性と知恵を持っており、話合える。触れ合える。


永い時を生きる竜にとっては最高の暇つぶしの相手だったのだろう。


しかし姿が問題だった。竜の姿は人にとっては恐怖心と敵意を煽るものだったのだ。
山よりも巨大で、その尾の一振りで軽々と城をなぎ払う竜に恐怖を抱いてもしかたがないといえる。




だからこそ、竜族は編み出した。人と同じ姿を取る術を。



それは急速に広まり、人との接触が始まる。
中には竜本来の姿に誇りを持ち、人の姿にならない竜族も当然ながら存在した。




竜族は人に様々な事を教えた。
しっかりした家の作り方や、統一された文字、魔導の基礎やもっと多くの穀物を育てる方法。
魚の取り方や精霊との対話の仕方。思い起こせばキリがない。



今思えば竜が人を助けた理由は単なるお節介だったのだろう。
見ていて危なっかしくてたまらず、色々と手を加えて育てた。一番近い心境といえば親心か?



……いや、『育てた』のではなく『育った』のだろう。少なくとも今日の人の発達は彼ら自身の努力の賜物であろう。
それを否定し、全て自分達が育て上げたというのはただの傲慢に過ぎない。





――― もしも。もしもここで自分が人に関わらないと決断を下していれば、今の様な事態は避けられたのだろうか?





いやと、ナーガが思い浮かんだ思考に答えをはじき出す。結果は変わらないと。ただ、遅いか早いかの違いだ。
遅かれ早かれ人は竜という種を消しに掛かるだろう。あれの思考は永い年月観察しているので大体は理解できる。



自分達と違った存在が恐ろしくて堪らないというのが人という種の根幹にはあるのだ。
事実、産まれた子が異形だった場合、親はソレを愛さずに捨てたという例をナーガは何度も見ていた。



髪の色が違う。四肢のどれかが欠けている。瞳の色、肌の色、声、どれか一つでも親が気にいらないと化け物と蔑まれ捨てられる。



言ってしまえば、臆病な種なのだろう。人間とは。
『恐怖』の前に理性は消し飛び、道理は踏みにじられ、挙句は損得さえも無視される。



しかも質が悪い事に人間は恐ろしい恐怖の元を消し去るために団結することも覚えているのだ。
いつもはそんな事は滅多に出来ないのに、共通の敵を葬るためには手を取り合い、共に戦う。
本当に困った種族だ。




しかし。しかしだが、同時にナーガは確かに知っている。人と言う種の素晴らしさも。


竜よりも遥かに短い寿命を必死に閃光の様に生きる人間の素晴らしさを。
そんな人間に心奪われ、困難を承知の上で結ばれることを選んだ竜さえも存在するのだ。



竜と人の間に産まれた新たな種『竜人』は一体これからどの様な未来を作っていくのか、それが見れないのが少々残念である。




そして何より、イドゥンとイデア。
あの二人の成長を見れないというのが心残りであると思うのは長としての心残りか、それとも親としての感情か?




ナーガが瞠目しながら、首を小さく横に振った。何とふざけた事を考えているのだ自分は。



親? たった10数年程度の年月を共に過ごし、食事を与え、ほんの僅かながらの知識と経験を与えただけで、親?
そんな都合のいい馬鹿な事があるかと思い、小さく溜め息を吐く。



違うだろう。ただ自分は後を任せる後継者が欲しくて、限られた時間の中でそれを造ろうとしただけ。
結果、まだまだ未完成だが、両者がもう片方を支える形になれば少しは……。後は周りの状況次第だ。






そう。愛など無かったのだ。愛などなかった。自分が両者に抱いていた感情は親が子を愛する感情ではなかった。




そうに決まっている。自分は、間違っても本当の意味でのあの双子の親ではない。自称だったのだ。



言い訳の様に何度も何度も繰り返し思う。



ただ、短い年月の間育てただけ。万人が見ても皆が口を揃えて親ではないというだろう。







だが。




だが、もう少し時間があればもっと様々な事を教えてやれたのだろう。


教えてない術など夜空の星の数ほどある。まだ教えてない学問はそれ以上の数だ。
歴史も御伽噺も算術の式も諺もまだまだあるのだ。10数年程度では教えきれない程の数が。


それこそあの知識の溜まり場の中には文字通り無限の知識が詰まっている。
そして自分の頭の中にもだ。




もしもソレらを教えられたら、あの双子はどの様な反応を示すだろうか?



最初に魔術を教えると言った時にやけに舞い上がっていたイデアを思い出す。
そして先ずは概要だけだと自分が言った瞬間の何処か落胆した表情も。



その後、イドゥンが自分も撫でて欲しいと言って来た時は正直な話、困惑したものだ。
それに定期的に焼き菓子を作ってくるのも困ったものだ。



と、ここで思い出す。



「………真の名を、教えてなかったな……」



それは最初の魔導の講義の際に双子に教えた事。名前も魔術的な要素を含んでいるということ。
そしてあの二人は未だ自身の本当の名前を知らない。


普段呼んでいる『イドゥン』も『イデア』も、人が聞く事の出来ない両者の“本来の名前”の一部なのだ。
最後の機会に教えてやらなくては。



……幾つもの書物を読み漁り、双子の名前に相応しい文字の羅列を考えた時は、楽しかったのだろうか。
少なくとも、最高位の魔導書を読んでいる時と同じぐらいは集中したのは覚えている。




机の引き出しを開ける。そこにあるのは古びたノート。双子が文字の練習に使ったノートだ。
ソレを手に取り、ページを軽く捲っていく。


お世辞にも上手とはいえない基礎的な文字の羅列。
しかしそこに込められた早く上達しようという気迫をナーガは確かに感じた。


ノートを閉じて、片手で持って顔の前に持ってくる。
このまま焼いてしまおう。意味のない物だ。



所持していても、何の魔術も発動などさせられない。
ただの落書きが書かれた書物など不要だ。むしろ何故今まで持っていたかが疑問である。



指に僅かばかりの魔力を集中させ、火を灯す。



指の先端に現出する小さな小さな【ファイアー】の灯火。
これをノートに接触させてしまえば、終わりだ。










「………………」




下らない。


指先から移った炎が凄まじい速度でノートを侵食し、灰に変えていくのを呆然と見ながらナーガはそう思った。


果たしてその“くだらない”という感情が何に向けられたものなのかは彼自身もわからない。考える気もない。
答えが出るのが怖いから。決して自分がこの“茶番”を続ける事を望んでいるなどと認めてはいけないから。




そう。自分は親ではないのだ。そう何度も暗示のごとく言い聞かせる。




座りなれた玉座から腰を上げ、部屋に無言で別れを告げる。
扉に手をかけたナーガは最後まで一回も振り返らずに部屋から出て行く。





病的なまでに徹底的に掃除された部屋に、一箇所だけ灰の山が積もっていた。
そしてその横、部屋に一枚だけポツンと置かれた羊皮紙の報告書にはこう書かれていた。




――― エトルリア王国 王都アクレイアに大陸に存在する人類のほぼ全兵力が集結中。戦支度を始めている。
    かの【大賢者アトス】及び【大魔導師ブラミモンド】【神に愛された少女エリミーヌ】などの姿も見受けられた。





その報告書にも灰から僅かな数の消えかけの火種が飛び移り、紙はやがて炎に包まれて灰へとその姿を変えていった。




















赤い月だ。恐ろしいまでに赤い月だ。真っ赤な光が世界を照らし、昼間の様な明るさを地上に与えている。
イデアは窓から見える今まで一度も見たことがない程の赤い月を見て、何処か酷く胸騒ぎを感じていた。



嫌だ。以前も感じた事があるこの感覚だが、今日のは何処かがオカシイ。
胸を掻き毟られるような焦燥感と粘性な恐怖が心の底から滾々と湧き上がって来るのを感じながらイデアが背後へと振り返る。




そこには椅子に腰掛けたイドゥンが居た。
イデアの視線にも気が付かない程集中しているのか、一生懸命にその白く綺麗な手を動かしていた。
最近彼女は手芸に嵌っているのだ。本をナーガに持ってきてもらい、独学で勉強している。



手に持ったのは先端が緩やかに尖った二本の細くて長い棒針。椅子の正面に置かれているのは白い糸の塊。
二本の棒を器用に動かし、表編みと裏編みを繰り返して何かを作っていた。



長い形状からするとマフラーか何かの類であろう。
編み物について詳しくないイデアでも判るほど、上手とは言えない出来栄えたが、必死に編みこむ姉の顔はとてもかわいらしかった。


思わずイデアは話しかけていた。答えなど判りきっているのに。




「それは誰にあげるの?」



「お父さんとイデアだよ。お揃いにしてあげるね!」



一旦編みこむ手を止めて、イデアを見たイドゥンが花の咲く様な笑顔で答える。
少しだけ、イデアの焦燥感が薄れた。




しかし。




“トントン”




いつもと同じ様に部屋の扉が叩かれる。
いつもと全く同じ叩き方。ナーガの叩き方。



イデアはいつもと同じ様に答えを返していた。




「どうぞ」


ガチャリと扉を開き入ってきたナーガの顔はいつもと変わらない無表情。
全ての表情を失った彫像の様な顔。そして紡がれる言葉もいつもと変わらない声で。










「最低限必要な荷だけを持って、我についてこい」





たった一言。イデアがその意味を問おうと口を開きかけたが、直ぐに口を閉じた。
でなければ彼は無様に恐怖の悲鳴を上げていただろう。



彼が見たナーガの瞳は、ガラス細工の様にどこまでも澄み切っていて、その中に宿していたのは底の知れない虚無だったからだ。
真っ暗な瞳。何も映さず、何も反射せず、輝きもしない瞳。



いつも見ているナーガとは全く違う気配。そして威圧感。何が何だか全くわからなかった。




「あ、あの……」




イドゥンが手に持った出来かけの編み物を恐る恐るナーガに差し出すが、彼は差し出されたソレを視界にさえ入れなかった。




「急げ」




次に放たれた言葉は確かな威圧の色を含んでいた。イドゥンとイデアが震え上がる。
編み物をほっぽり投げたイドゥンがイデアの傍まで来て、その服の裾を掴む。


震えながら、イデアの腕に抱きつくイドゥンは確かに怯えていた。始めて父であるナーガに恐怖していた。
かつてイデアにお父さんは怖くないと言っていた彼女がだ。



ナーガが一歩踏み出す。イドゥンが何日も掛けて必死に編んでいた編み物が彼の足によって踏みにじられた。
糸が解れ、ほとんどバラバラになる。



そんな光景を見てしまい、思わず恐怖心を忘れてイデアが文句を言おうとするが……。








「「!!」」





突如、殿が揺れた。大規模な地震か、間近で火山が噴火したかの様な激しい揺れ。
耳障りな轟音が恐ろしく響く。まるで大量の竜が一斉に咆哮しているように世界が揺れた。





が、直ぐにソレも収まる。時間にして5秒も揺れてないだろう。


ナーガが顔を何処か明後日の方向に向け、無表情、無感動な顔で。



「時間だな。これ以上ここに居ては感づかれる」






激しい揺れが起こるのをまるで始めから知っていたかの様に「父」が語る。
そしてその手をゆっくりとイドゥンとイデアに伸ばして―――二人が何かを言う前に魔術を発動させた。


















【ワープ】











世界が眩い光と共に廻った。大地と空の認識さえも歪み、今自分がどこにいるのかさえも判らなくなる独特の浮遊感。














発生した閃光と浮遊感に眼を瞑ってしまったイデアが、恐る恐る眼を開ける。
腕に感じる姉の確かな温もりが取り乱してしまいそうなイデアの心を何とかつなぎとめていた。



一体何が起きている? ナーガはどうしたんだ? 何がどうなってる?


グルグルと状況に付いて行けずに混乱する頭を何とか正気に保ちながら、イデアが周りを見回す。


辺りは先ほどまで居た殿の部屋とは違い、暗くて周りが良く見えない。
しかし完全な闇という訳でもなく、空の巨大な赤い月から放たれる光がほの暗く周囲を照らしていた。





竜族の優れた眼が人の何倍も素早く瞳孔を無意識に操作し、辺りの景色に素早く適応していく。


赤黒くてよく判らないが、周りに鬱蒼と茂る大量の草や木、花。虫たちのやかましい鳴き声や、この湿り気を多分に含んだ
空気の質からして、どこぞの森だろうとイデアは思った。事実彼の推測は当たっていた。



イデアが突き刺さるような視線を感じて顔を真正面に向ける。




彼の真正面にナーガが立っていた。輝かない瞳でイドゥンとイデアを観察するように眺めている。
瞬き一つせず双子を見つめている彼はまるで、二人の姿を脳裏に焼きこんでいるようにも思えた。




「ついてこい」



それだけを言うと返事は聞かないと言わんばかりに踵を返し、二人に背を向けて歩き出す。
思わずイデアがそれに続こうとするが、腕に強い力を感じて足を止めた。





「離れないで……暗い所に一人は嫌だよぉ……」



今にも泣きそうな声。いつも明るさを失わない彼女からは考えられない程に弱った声だった。
父に拒絶され、訳の判らない状況に放り出されて、今にもボロボロに泣きそうな顔は年相応の少女のものだ。




そんな彼女の手をイデアはしっかりと握り締めると、ナーガの後におぼつかない足取りで続いた。




















しばらく行くと、不意に森は終わりを迎えて開けた場所に出た。
ナーガは既にどんどん先に行ってしまい、今やその気配だけを追っている状況である。




そしてソコに合った物に思わず二人は声を失った。






それは巨大。どこまでも巨大。小さなではなく、正真正銘、山ぐらいの大きさの建物。
屋根を支える柱も、入り口の大きさも、全てが人が使うにはあまりにも大きすぎる。





一目で人が作ったものではないと理解できる、所々にこれまた巨大な装飾の数々を施された、竜を奉る神殿にも似たどこか神聖な雰囲気を漂わせる外観の灰色の建造物。
竜族が長い年月を掛けて作り出した「門」である。



産まれて初めて見るソレを呆然とした様子で眺める二人にナーガの声が脳内に届いた。





(その建物の中に入れ。 中で待っている)




念話を受け取った神竜姉弟が一瞬だけ顔を合わせ、頷きあう。
手を握ったまま二人は「門」に歩を向けた。

























「門」の中は壁や床などが薄く発光していた。
まるで最初の日、イドゥンとイデアが産まれた祭壇の場所を思いださせる造りと造形でもであった。
長い長い通路を抜け、広大な面積を誇る大広間に出る。広間の床には巨大な太陽を模した神竜族のシンボルマークが彫られており
この巨大な建物の所有者が誰なのかをイドゥンとイデアに教えている。






広いという言葉では表せない程の面積を持つ広間のずっと奥に光で作られた坂があるのを二人は見つける。
そしてその奥からまるで姉弟を呼んでいるかの様にナーガの巨大な気配はある。



近づいてみると、それは光で造られた坂などではなく、単に階段の列が一段一段が発光しており、それが何列も重なりまるで光の坂に
見えていたという事が判った。本来ならばこの不思議な光る石に興味を示したのだろうが、今の双子にそんな余裕などない。





二人で並んで一段一段、しっかりと震える足を叱咤しつつも昇っていく。
時に踏み外しそうになるのをもう片方が支えて、助けたりなどする。




何千段昇っただろうか? それとも何万? 


数えることさえも億劫になるほどの段を昇りきった上に白い金で縁取りされた豪奢なマントを羽織り、いつも通りの白いローブを着込んだ細身の男、ナーガは居た。




その容姿はイデアがあの祭壇で始めて会った時から老けても若返ってもおらず、まるで時が止まってしまったか如く同じである。
段を上りきって来た二人を観察する様にじっと見つめている。紅と蒼の瞳にイドゥンとイデアが映っているのが二人にも分かった。



が、しかし。雰囲気は決定的に違った。先ほどの彼の気配は威圧的であったに対し、今は何も感じない。何もだ。


威圧感も殺気も怒気も悲しみも感じない。ただ、無表情な仮面の表情と全ての感情を封じ込めた瞳があるだけ。




「―――ィ――で――ァ―― そして ――ィ―――ど――ゥ ン―――――」



口だけを動かしナーガが竜族の言語で声を発する。人には聞くことも理解することも極めて難しい言葉、発するなど不可能に等しいだろう。
しかし人ではなく竜族であるイドゥンと竜族の身体を持つイデアはその言語をはっきりと聞き取ることが出来た。
不思議と身体の奥深くまで染み渡るような不思議な音として、確かに。

 


「お前達の本当の名だ。知りたがっていたのだろう?」



そう言うと双子に後ろを向け、背後のまるで絵の入ってない額縁を思わせる形状をした巨大な建物を見る。




「お、お父さん! 殿に帰ろうよ!! ここは暗くて嫌だよぉ……」



弟の腕を強く抱きしめながらイドゥンが涙ながらに父の背に向けて叫んだ。
しかしナーガはそんな声さえも耳に入っていないように言う。苛立つほどいつも通りの無機質な声だった。



「暫くここで待っていろ、直ぐに迎えの者が来る。詳細もその者達が言うだろう。そして、我はお前達の父などではない」




無機質な声質に反して、突き刺さるような内容の返答に神竜の片割れたる紫銀色の髪の少女が全身から力が抜け
ズルズルと滑るように地面に膝から倒れこむ。





ナーガが絵の入っていない巨大な額縁――『門』に向かって緩慢に歩き出す。
『門』の内部の空間が淡く発光を始め、稼動。エレブとは違う世界への道を創造する。



そんな事をイドゥンもイデアも知る由も無かったが、本能的に悟った。「父」がどこか遠い所へ行こうとしているのだと。
そして自分達は連れていってはくれないだろうという事も。



ここで今まで衝撃的な事が立て続けで起きたせいで半ば思考能力が停止しかけていたイデアが無意識に動いた。
力なく片手を伸ばし、かつて自分が身を預けたその背に向かってぎこちない足取りで歩き出す。



まるで夢に浮かされたような顔で淀んだ『門』の光に向かい歩を進める「父」に追いすがる。




そして。




「待ってよ、父さん……」






10年以上もナーガの事を只の一度も父とは呼ばなかったイデアが始めて、そう無意識に口にした。


ナーガの歩みが停止した。否。全ての動きが停止した。






1歩。2歩。3歩。イデアが着実に大きな背中との距離をつめて行く。



後、1歩。もう1歩踏み出せば、その背に抱きつける。イデアの手が「父」の背に伸びる――。





しかし。




「がっ……!?」





ドンと、鈍い音が響いた。




いつもナーガが腰に差していた【覇者の剣】の柄がイデアの腹部にめり込んでいた。





―― なんで……?





鈍い痛みと共に意識が消え行く。完全に思考が停止するまでイデアはナーガの背を見ていたが、結局彼は一度も振り返らなかった。















































眼が覚めたイデアは冷たい床の上に倒れていた。
いつも眠っているベッドの柔らかさも何もない。どこまでも無感情で冷たい石の床。




起き上がり、周りを見渡す。




誰も居なかった。ナーガもイドゥンも、誰も。いつも傍に居た者は皆居ない。





「姉さん!? ナーガ!!」




怒鳴るように叫ぶが誰も答える者は居ない。虚しく声が反芻され、その後に訪れるのは完全な沈黙。
腹部に少々の痛みを感じながらも何とか立ち上がる。




カチャリという金属音が響いた。何か金属質のものが擦れたような音だった。



「これって……」




イデアが金属音を響かせた原因を手に取り、多少の重量があるソレを両手で何とか持ち上げる。豪奢な装飾の鞘と柄。
翡翠色のソレにイデアは見覚えがあった。





いつもナーガが持っていた【覇者の剣】だ。



「…………」




暫く呆然と手に持ったソレを見つめる。まだ、僅かであるがナーガの温もりが感じられた。そんな気がした。




「…うぅ・・・・あぁああああああ……」




降出した雨の様に、紅と蒼の瞳から涙が溢れ出し、雷鳴の様にはち切れた声が口から漏れる。
あまりにも理不尽で、あまりにも唐突な終わりに悲しみだけではない混沌とした感情があふれ出てきた。















イデアを除いて誰も居ない『門』に、無力な子供の悲痛な慟哭が響き渡った。






















第一部 あとがき





1年以上も続いてしまいましたが、1部完結です。





最後はかなり駆け足気味になってしまいましたが、
こうでもしないと作者が延々とほのぼのを書きたいという欲求に屈してしまいそうだったのでこういう形になりました。









第二部の件ですが、当初のプロットから第一部が大分脱線していってしまったので、もう一度プロットを隅々まで整理してから書き始めたいと思っております。


恐らく2、3ヶ月ほど掛かると思いますが、それまで気楽に待っていて下さるとうれしいです。
それとようやく小説版FE、エレブ動乱三部作を購入しました。これをじっくりと読解して二部からのプロットを煮詰めて行きます。



 

では皆様。二部の開幕にてお会いしましょう。





最後に全ての読者と、この素晴らしい場を提供して下さった舞様に心からの感謝を捧げます。



[6434] とある竜のお話 第二部 一章 1 (実質9章)
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/08/18 21:57
とある竜のお話 第二部 開幕








ミスル半島はエレブ大陸の南西部に存在する広大な大地だ。大きさは大体サカ大草原の7割から8割程度と言ったところか。




ミスル半島の中央部にはナバタ砂漠と呼ばれる不毛の大地が広がり、ありとあらゆる生命を徹底的に拒絶している。
日が昇っている内は全てを焼き尽くす灼熱の太陽光。月が昇れば容赦ない砂塵の大嵐と、昼との温度差で岩が砕けるほどの極寒が侵入者を襲う。
生物が生きるのに必要不可欠な水や食料もオアシスにしか存在せず、大抵の者はそこまで到達することは出来ない。


砂漠の日差しに焼かれるか、極寒で凍てつくか、または砂の地獄に住まう毒をもった生き物に殺されるかのどれかだ。
そんな死の大地がナバタ砂漠。自然が作り上げた、どんな要塞や城よりも攻め難い地である。




















そこは正に“楽園”という言葉を現実に現した様な場所だった。
青々とした木々が犇き、爽快な青い命を宿した風が豊かな土から生えた草花を優しく揺らす。


砂漠に吹き荒れる生物に死を与える風とは違う、むしろ正反対の命の息吹を感じる涼やかな風だ。



風は駆ける。丸々とした果実を実らせた木々の間を。大きな稲穂を揺らす作物の間を。
明らかに人工的に造られたであろう広大な農作地帯と森を風はその名の通りに風の如く駆け抜ける。



森を抜けるとそこにあるのは様々な石造りの建物が規則正しく秩序を持って並んだ地域――ありたいに言ってしまえば『街』だ。
特徴的なのは家々を構築している石のブロック1つ1つにビッシリと何かの模様が刻まれていることだ。
何かの文字の様にも見えるし、人とは感性の違う画が描いた個性的な絵画にも見える紋章だ。



魔術についてそれなりの知識を持った者がその模様を見ればソレらはかなりの力を秘めた風化や欠損に対する強い魔術的加護だと理解出来たことであろう。
砂漠の熱や砂による研磨などに対しての防護策である。



人などが行き交っているであろう通路は歩きやすい様に石で整備され、砂などはその全てを石の下に押し込められている。
当然、この道を構成している石達にも小さく模様が刻まれている。





しかしこの通路、その大きさが少しおかしい。
人や馬などが通るのに十分は幅は大体5メートル程あれば問題ないのだが、この道はその3倍、いや下手をすれば4倍以上の幅を持っている。




まるで人よりも遥かに大きな存在でも通れる様に調整されていると言えば想像しやすいだろう。




そう、例えば人間の身体よりも何十、何百……特殊な個体によっては山々を覆うぐらいの肢体を持ち
且つ『道路』という概念を理解するほどに高等な知能を持った生き物のために造られた道だ。



最もこの道を使う者はそんな生き物の中でもかなり小さな身体をした者ら――つまり子供とかに限られるのだが。



この道を使う者ら――『竜』の成体ではこんなちっぽけな道は歩けない。



仮にそんなことをすればこの小さな道どころか、たったの一歩で街の区画が丸ごと壊れてしまうだろう。
それでも狭く造るよりはマシであろうと、ギリギリまで街の機能と景観を壊さない程度まで妥協して大きくしたのがこの道だ。



まぁ、今の竜族は巨大な本来の姿よりも小さくて色々と遊べる『人間』の姿をとる事の方が気にいっている者が多いので
あまりこの道を使う際に不便は生じないであろう。








風がそんな巨大な道を通り抜け、街の中心へと突き進む。


真上から見ると、まるで遊戯板の板の様に完全な四角形をしたこの街の中心に建てられた巨大な神殿の様な建物へと。
偉大なる神を奉る神殿と王侯貴族の権力の象徴たる城、そして難攻不落の堅牢な要塞を足して、それらの全ての要素を規則正しく分割したような威容を持つ建造物だ。



視力の優れた者がよーく眼をこらして見れば表面にびっしりと換気のための窓がついているのが見えることであろう。
風が、その開けた窓の一つに飛び込む。そしてそこで眠っている部屋の主を、そっと撫でた。






























眼が覚めるのをイデアは感じた。
身を包む心地よい感覚を全身で味わいながらも決して瞼は開かない。否、怖くて開けないというのが正しい。
どれぐらいの時間そうしていただろうか? 1時間? それとも2時間? もしかすると半日かも知れない。



やがて決心がついたのか、おそるおそる瞼を動かす。
イデアの視界に映ったのは見慣れた天井だった。
10年以上の年月を過ごした『殿』の自室。そこに置かれたベッドの天蓋だ。



「!」



イデアが電流が全身に走った様に飛び起き、キョロキョロと周囲を見渡す。
その顔はまるで親からはぐれた小動物のように不安を湛えていた。
最強の力を持つ神竜が浮かべる様な表情ではない。



グルグルと忙しなく顔を回し、部屋を見る。



衣服が仕舞われているクローゼット。遊戯板を始めとした遊具や色々な小物が収納されている木製の上品な物入れ。
座りなれた些かサイズが大きな椅子。椅子とセットに使われ、食事を取る際などに利用されたテーブル。
竜族の術で強化され、驚くほどの頑丈さを持ったバルコニーに続くガラス窓。そして遥か先に見えるベルンの山脈。


青々とした空に太陽が昇っている。平和そのものな光景。






全てがいつも通りだった。何も問題などない。間違ってもナーガに見捨てられてなど居ない。捨てられてなど……。



イデアが笑顔になった。安堵の溜め息を吐き、いつも通り自分の隣で安らかに眠っているであろうイドゥンを───。








暗転。






















眼が覚める。渇ききった中にどこか優しさを感じる風が頬を撫でるのをイデアは鬱陶しく思った。
瞼を開き、まだあまり見慣れない天井を睨みつける。そして大きく息を吸って、溜め息。
腹の中に溜まった色々な物を吐き出そうとするが……出来ない。



「……はぁ」



眠る前と同じく腹の中がどうしようもなく煮えたぎっている。まるで沸騰している湯を直接体内に突っ込まれた様に。
もっと判りやすく言えば、イデアはイラついていた。どうしようもなく苛立っていた。
それと同時にイデアの肩に圧し掛かる倦怠感と、焦燥。ソレらは姿こそ見えないが、確かにイデアをじわじわと侵食している。



そして何より、自分の半身が、今まで在って当然だった器官を持って行かれた様な嫌悪感と違和感。
無くなった器官の名前はイドゥンという。



複数の負の感情を抱え、どうしようもない状況にイデアはあった。



窓の外を見る。『殿』から見た時よりも遥かに大きくて赤い太陽が見えた。そして眼下には街が見える。
真っ赤な炎の塊は見る者全てに何らかの感想を抱かせるのだろうが、今のイデアにとってはソレさえも目障りにしかならない。



いっそ手を伸ばして握り潰してやりたくなる。神竜族の象徴である太陽を壊せば、少しは苛立ちも収まるのだろうか?
脳内にあの忌々しい男の顔が蘇り、イデアが太陽を睨みつけた。更に腹が立ってきた。





──我はお前達の父などではない。





ナーガの最後の言葉が胸の内で再生される。針で刺されたような鋭い痛みと共に、黒い炎が体内から吹き出てくるのをイデアは感じた。
イデアが窓際まで歩いていき、太陽の光に照らされた『里』を眺める。そして、大きく息を吸って――。




「そんなこと判ってたよ! あぁ、判ってたさ!!  二度とお前の顔なんか見たくない!!!! 死ね!!!!!!!!!」




喉を潰す勢いで思いっきり吼える。言葉に出さなければどうにかなってしまいそうだった。
そうでなければ竜の力でも何でも使って眼下に見える街を焼いてしまいそうだ。


何気なくイデアが『里』を見下ろす。少しだけ叫んだことによって苛立ちは薄れていた。



ここから少しだけ街の住人が見えた。
竜族の優れた視力はその歩いている一人ひとりの髪の色まではっきりと判別できる。




家族なのだろうか? 父と母とその子らしき者が仲良く道を歩いていた。非常に腹正しいことに。




イデアには理解出来なかった。



こんな取るに足らない、名前も知らない……多少汚い言い方になってしまうが
イドゥンに比べれば無価値なゴミでしかない者の命を守る義務が自分にあるなどと。



勝手に戦争して、勝手に死ねばいい。ご丁寧にこんな里まで作って、そこまでして生き延びたいのか? 俺とイドゥンを巻き込むな。
それが迎えに来た者の説明を受けてイデアが抱いた感想だった。


そも、ナーガが本気で掛かれば人間など軽がると殲滅できるだろうに、何故それをしないのかイデアには不思議でならなかった。
たとえ勝った後に竜族同士の内戦が始まったとして、始祖竜を潰した時と同じ様に、ひねり潰せばいいのに何故その選択肢を選ばなかったのだろうか。





何故自分を置いていったのだろうか? 本当に理解できない。



そして驚いたことに、その後継を自分がやれというのだ。
ナーガの跡継ぎとして竜族を纏めろと。本当に笑わせる。


自分がそんな社交的に見えるのだろうか? そういうのは姉のイドゥンの役目だ。そしてソレの影で彼女を必要に応じてサポートするのが自分の筈だ、本来は。
そも、自分は純粋な竜とは少々言いにくい。肉体こそ竜だが、中身は人間だ。



それに自分がそんな大勢に慕われるような存在になれるとは思ってなどいない。
その点イドゥンは完璧だろう。少々天然で世間離れしているところもあるが、あれでいて中々に人を惹きつける才能を持っている。
精霊の声を聴けて、魔術の才能も素晴らしく、記憶力も高い。正に言うことなしだ。




だがイドゥンは居ない。あの日──もう1週間前ほどになるか
ナーガに捨てられたあの日以来彼女の行方は知れない。最初は探索なども行われたのだが、今はそんな余裕はないと直ぐに打ち切りになった。



だがイデアは薄々感じている。今現在姉が何処にいるのかを。繋がりを感じる。直感的であはるが、イデアは確信を抱いていた。
きっと姉さんは『殿』に居る。何故かは知らないが彼女は戻ったのだ。事実、あそこ意外に彼女が行く場所は無い。



どうして? 俺と一緒に逃げれば良いのに・・・…そうすれば今頃は……。




もちろんイデアも何度も『殿』に戻ろうとした。だがその度に捕まっては自室に連れ戻されるのだ。
家に帰ることの何が悪いと駄々を捏ねる子供の様に憤慨するイデアに、フレイと名乗る老人の姿を取った竜は淡々と読み上げるようにこう告げた。


酷く耳障りで、しわがれた声で言った言葉をイデアはまだ覚えている。




『今の殿はナーガ様に反する勢力が事実上占拠しています。貴方をあそこに戻す訳にはいきません 仮にイドゥン様が戻られていても、命の心配は絶対にありません』



これの一点張りだ。まるで人形と会話しているような薄気味悪ささえも感じる。




カチャリと、イデアが首に掛けたお守り代わりのイドゥンの鱗、サカに行くときに間違って剥いでしまった物だ。
どうしても捨てられずに持っている。後々姉に剥いだことを謝ったら「あげる」って素気なく返されたのも理由の一つである。






――─黄金一色であるはずのソレが、ほんの僅かだけ、紫色に光った。美しく、悲しい紫に。







だが、イデアはそれに気が付けない。今の彼は自分の置かれた状況を嘆くことしか出来ないのだから。





否。本当はイデアも判っている。今、自分が何をするべきかも薄々と。そこまで彼は子供ではない。
幾ら現実を表向きは否定していても、深い部分では受け入れて、適応しようとしている。







事実、イデアの脳内の理性的な部分。第三者として客観的な視点を持った箇所が絶えず彼に語りかけてくるのだ。
今は行動するべきだと。後悔したくないなら、自分にやれる事をやれと。ハノンさんを救った時と同じだと叫んでいる。




――お前は何をやっている? ただ泣いてるだけじゃ、何も進展しないぞ? 今は与えられた事をやるべきだろ?
  何が取るに足らないゴミだ。あいつらにだって今までの生涯があるんだぞ? 少し冷静になれ。



全くの正論である。我ながら涙が出るほどの。




「…………帰りたい」




ベッドまで歩いていき、倒れ伏す。もう何日も何も食べてない腹がずきずきと痛む。
涙ながらに呟いたその言葉の意味。果たして“帰りたい場所”とは『殿』になのか、それとも『前の世界』なのか……。




やるべき事を判っていても、精神的な苦痛に耐えてソレを実行できるだけの強さはまだイデアにはなかった。







あとがき



皆様、お久しぶりです。
2部のプロットの芯が大体完成したので、投稿しました。
予定では、烈火の剣本編前まで進めたいと思っています。





しかしながら、今年の夏はFEが熱いですねw 


大全発売に、原点である紋章の謎のリメイク。
恥ずかしながら、やりこんでたせいで随分と筆の進みが遅れてしまいましたw



今は何かと忙しいので更新速度は早く出来ませんが、よろしくお願いします。







[6434] とある竜のお話 第二部 一章 2 (実質9章)
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/08/21 19:09
光。眩いばかりの光。



その場所を満たしていたのは青白い光だ。
屋内、それも地下奥深くに存在するこの場所には当然の事ながら太陽の光を受け入れる窓など存在しない。
ならば、何処からこの光はやってきたのだろうか? 一体どこから差し込んでいるのだ?


この太陽とは種類が違う、どこか柔らかくも無機質な感想を抱かせる光は一体なんなのだろうか。
太陽の光は明るさと温かみを齎すが、この部屋の空気は地上とは違い、酷く冷たい。



いや、こっちの方が過ごしやすい温度といえよう。少なくとも砂漠の太陽の直射に比べれば快適だ。



意識を集中して、光が何処から発生しているのかを探せば、光源は簡単に見つかった。
逆に言えば、意識しないかぎりは光は『あって当然』 そう思えるぐらいに自然に部屋を照らしているということになる。



部屋そのものが発光していた。正確には、よく眼をこらせば見える、天井や床、柱などに刻まれた文字だ。



青い大理石で造られた床も。数々の神秘的な装飾を施された巨大な柱も。絵画の様に紋章を刻まれた天井も。
何もかも全てに刻まれた居る文字だ。青で埋め尽くされた世界が文字によって美しく光っている。



ただの言葉の羅列に過ぎないソレは、まるで意思を持ち、自分の仕事を行っているかの様に光り輝いているのだ。
時々鼓動するかのように光の強弱が変わるのも、独創的な芸術品を見ているようで、また面白い。




そして、轟々と音を立てているのは水の流れ。部屋の周りの空間は水で埋め尽くされていた。
さながら部屋が大海のど真ん中にぽつんと浮いている小島の様、といえば何となくではあるが、どういう場所なのか想像できるだろう。



そう、海と錯覚してしまうほどに膨大な量の清水だ。ソレが部屋の光を反射し、更に明かりを増幅させている。
だが水道が敷かれ、水量を調節されたソレは決して部屋を濡らすことはない。
まぁ、通路や部屋の周りには見えないだけで物理的な結界が張られているので通路や部屋が水没することなどない。




仮に水がこの場全体を埋めつくしたとしたら、さながら水中に透明なトンネルを通した様な状況になるだろう。



そして部屋の床と天井に刻まれた一際巨大なシンボルは太陽を模していた。
この空間を作り上げ、支配する者が誰なのかを示す証だ。
太陽を表す完全な円と、そこから放射される光を表した細い頭を円と融合させた細長い三角の記号。


神竜族の紋章だ。全ての竜を導き、育て、守る。絶対の存在を表す紋章。




そして、その紋章の奥――全ての装飾がソコを中心に広がっている場所には黄金を基色に、真紅の装飾を施された肘掛椅子があった。



一目でただの椅子とは違う雰囲気と、重みを持った椅子だ。
そう、これは玉座。支配者のみが座ることを許された特別な“座”である。


この椅子を取る為だけに戦争が起きることさえもある、選ばれた者にしか腰掛ける事を許されない椅子。
事実、人間はこの玉座に座るために家族を殺す者さえも居た。




王。そう、この椅子に座るのは『王』だ。
しかし、この玉座には今は誰も座っていない。変わりに玉座には鞘に収められた一振りの剣が安置されていた。



上質な漆黒の鞘に収められた装飾剣。金銀と宝石で美麗に彩られた翡翠色の剣だ。
かつてナーガが所持し、常に彼が持ち歩いていた剣。




その名を『覇者の剣』という。
かつてナーガらと袂を断ち、全ての竜、生き物、そしてありとあらゆる世界をその手に掴もうとした竜──『始祖竜』そのものともいえる剣。



根源的な混沌と、闇、そして絶望を無限に内包した剣だ。
神竜が全てを照らす太陽ならば、彼らは全てを覆う夜の闇といえる。




神竜と全てを壊す寸前まで争った竜 【始祖竜】



その戦争の余波で世界の根源である“秩序”は崩壊し
かつては他にもあったといわれるエレブ以外の大陸全てを消し去ったといわれる存在だ。




既に始祖竜の意思はないのだろうが、もしもこの剣に意思が残っているとしたら
かつては狂おしいまでに羨望した竜族の支配者が座る椅子。その上に安置される事に何かを感じているのかも知れない。




まぁ、剣には口も手も何もないのだから、喜びを表すことなど出来ないのだが。









更にもう1つ、部屋に入った存在の気を惹く物と言えば玉座の上に浮かんでいる数冊の分厚い本だ。
4冊の空間ごと固定されているかのように全く、揺れもしないそれらは後ろに透明な壁があって、それに掛けられていると言われても信じることが出来るだろう。





人間の魔道師……それもかなり奥深くまで魔の道を歩んだ者がもしもコレらを見たら、下手をすると喜びと恐怖のあまりに発狂してもおかしくはない。




魔導書だ。この4冊の本はただの本ではない。魔術を発動させるための媒介である魔導書だ。
ナーガが里を守るための力として残した書物である。



“知識の溜まり場”の中にあったかつての戦争で使われた恐るべき竜族の術の一部を、彼は復活させたのだ。守るための力として。



4つの魔道書にはそれぞれ名前がある。




光魔法 もしくは 神竜魔法【ルーチェ】


 
理魔法 もしくは自然魔法 【ギガスカリバー】



闇魔法 もしくは混沌魔法 【エレシュキガル】並び【ゲスペンスト】




どれも使い方を誤れば世界を破滅に導きかねない程の力を持った超魔法だ。
その威力はもはや、対個人どころか、対軍、対竜───対国家と言っても過言ではない領域に到達しているであろう。




ナーガはこれらを里を守るための力──もっと深く言ってしまえばイドゥンとイデアのための力として残したとも見えなくもない。

















部屋……いや、この玉座の間に一人の人間が立っていた。真紅のローブを纏った老人だ。金で縁取りしたそこそこに豪奢なローブである。
老人は玉座には座らず、手を後ろで組み、足を肩幅程度に開いた格好、俗に言う【休め】の体勢で玉座の上に置かれた剣を眺めていた。


火竜の真っ赤な瞳は何も映さず、ただかつての主が座り、いずれ新しい主を迎え入れる事になるであろう玉座を見ている。
彼――フレイが今現在考えるのはもうこの世界から居なくなったナーガの事ではない。




確かに長年ナーガに使えた彼はナーガと最後に対面し、判れた時には悲しみを感じたが、今は違う。


彼が今考えているのは竜族の事だ。
どうすればこの『里』を安定した軌道に乗せられるか。どうすれば里の者に安心を与えられるかだ。




そして同時に彼はどうイデアを説得し、その心を癒す事が出来るかも考えていた。
彼は神竜族の忠実な臣下であるからだ。彼の全ては神竜族のために存在していると言っても過言ではない。




それに、彼も内心どこかで心苦しく思っている。
まだまだ幼いとしかいえない子供にとてつもない重荷を背負わせることを。




本来の予定ならば、姉弟二柱がこの『里』に降臨し、二人で助け合って里を治める。
ナーガから聞いた話によると、両者共権力には興味の欠片もなく、どちらが長になったとしてもイザコザは起きないという見立てであった。


だが、実際『里』に来たのは弟のイデアのみ。姉のイドゥンはどこか(彼はイドゥンが『殿』にいるとあたりを付けている)に行ってしまい行方知れず。
結果、イデアは精神を病んでしまい、とてもじゃないが長になど出来ない。



長という仕事に最も必要なのは強い精神力なのだから。
それさえあれば、後は自分達でフォローして、色々と発展させていくことが出来る。




説明した際のあのイデアの何もかもを諦めた瞳を彼は思い出す。まるで親に捨てられた子供の様な……。



……ナーガは一体何と彼に言ったのだろうか? 何か彼の心を抉る事を言ったのだろうか?



いや、これは関係ないと想いフレイが眼を瞑る。
そうコレは関係ないことだ。今はもっと具体策を出さねば……。



と。



彼の鋭利な感覚は何者かがこの玉座の間に近づいてくるのを感じた。
瞳を開け、意識をその者に向ける。




フレイがその者のイメージとして見たのは【炎】であった。
燃え滾る紅蓮の業火のごとき性質のエーギルを持った竜だ。



火竜……自分の同族であることを知ったフレイがほんの少しだけ全身に滾らせていた警戒を解く。

誰だか目星が付いたからだ。





『アンナ、ご苦労だった。外の状況はどうなっていたかの?』



鳥の喉を潰した際に出そうな、しわがれた声でフレイが問う。
一度聞いたら一週間は耳に残りそうな声だ。しかし声音そのものは孫に語りかける様な妙な優しさが宿っている。


もう大体の答えなど判っていたが、それでも彼は確定的な情報を求めた。



「はい。既に戦争は始まった様です。人の軍が各地の竜族を祭る祭壇や神殿などを破壊し、ベルン地方への進軍を始めました」



答える声は若い女性のもの。フレイとは違い、透き通った美しい声。同じ火竜が発しているとは思えない。
淡々と文章を読み上げるかの様に事実を冷淡に報告する。


報告を行うのは、紅い、赤い、まるで火を布にしたらこうなるであろう程の透き通った火色のドレスを着た、後ろで結んだ長い髪も空の星の様な光を宿した両眼も
そして纏う雰囲気さえも“赤い”女──アンナである。


いつの間にやらフレイの数歩前に立ち、軽く頭を下げて報告を行う。




『……そうか では、イデア様の調子はどうだ?』




「相変わらずですわ。まぁ、当然かと思われますが……食事にもあまり手を付けておられないようですしね。私が話しかけても何の反応も返さないです
 それに私の見立てでは、食事や睡眠を必要としなくなるまで、もう少しの成長が必要かと思われます」



いつもイデアに食事を届けている彼女は、現在里の中で最もイデアの体調に詳しい者と言えた。
イデアをそれとなく観察し、診断しているのだ。


うーんとフレイが額に手を当てて考える。
まぁ、髪の毛そのものがほとんど無いので、どこまでが額なのかは判りづらいが。
コンドルという鳥の頭部を思い浮かべるといい。丁度あんな感じにシワシワで硬質な頭をしている。




『……イデア様は、ナーガ様もイドゥン様も居ない。
 自分がこの世で一人ぼっちになってしまった、孤独になってしまったと思い込まれておる………………さて、どうしたものか。お前はどう思う?』



「………子供を育てた事はありませんから……判りませんわ」


素直に判らないと彼女は答えた。無理に取り繕っても無駄だからだ。

エイナールならどうするだろう? ふと、アンナはそう思った。
あの子供に対する優しい顔。あの包み込むような母性。彼女なら今のイデアを慰める事が出来るのだろうか?


……今は居ない人物の事を考え、「でも」や「もし」「れば」「たら」を考えている暇は無いとアンナが思考を切り替える。




「そろそろイデア様の食事の時間ですわ。……失礼させてもらってもいいでしょうか?」



『構わんよ。それと食事の後にも報告を頼む』



「はい」




アンナが音も無く部屋から退室する。彼女の気配が物凄い速度で遠ざかっていくのを感じながら、フレイが動いた。
術を使い、玉座の隣に小さく、質素な木製の椅子を呼び出す。何の飾り気もないソレは、代行者の椅子だ。
この老火竜の小さな座といえる椅子だ。何万年もナーガに仕え、ようやく手に入れた彼からの信頼の証。


イドゥンとイデアを補佐して欲しいと命令ではなく、頼んだのだ。神竜族の王が、彼に。


そこに座り、何枚かの羊皮紙を手に取り、それに眼を通す。
里の状況や、里の住人からの改善して欲しいと思ったこと、こういう施設を造ったらどうだ? という提案などである。


そしてソレらを吟味しながら、現実的に可能かどうかを考えていく。



彼は彼のやるべき事をやるのだ。























周りに食事の入った皿を載せた盆を浮かばせ、アンナは廊下を歩いていた。
目的地はイデアの部屋。これから食事の時間だから。
足音一つもなく廊下を行く。まるで氷の上を滑っているように。



「イデア様? 食事を持ってきましたわ。入りますよ?」



この歩き方は身体に染み付いてしまい、彼女にとっては足音を立てて歩くということの方が難しい。
やがて木製の扉の前にたどり着き、数回ノックをする。やはり返事は無い。

寝ていのだろうか? いや、この場合は不貞寝か? どちらでも構わないが、まだまだ食事を取る必要がある身体なのだ、しっかり食べてもらわなければ困る。
いつも通り彼女がイデアの返事を待たずに扉を開ける。どうせ帰ってこないものを期待するだけ無駄だ。



食事を彼の近くに置き、イデアに根気良く話しかける。今の彼女に出来るのはそんな事ぐらいだ。

が。今日は少し違った。部屋に入ったアンナが見たものは……。




「これは……困りましたね」


アンナがやれやれと言った感じで呟く。
まるでいつも手を焼いている悪戯坊主がまた何かしでかした、とでも言いたげに。




空だった。いつもイデアが横になっているベッドの上には誰も居なかったのだ。
そして開け放たれた窓。遠くから感じる神竜の黄金の力。ここから推測される答えは大よそ一つだ。
窓からは太陽の光が燦々と入ってきている。



魔術を行使し、フレイに念話を飛ばす。今は直接会いに行っている暇などない。
そして一通りの報告が終わった後に老竜がアンナに出した指示は彼女の予想通りであった。



──探せ。



簡潔にこれだけを伝えられる。
アンナがその場で軽く一礼し、瞬時に答えを送る。もはや脊髄反射の領域に近い速度だ。




──直ちに。



食事を机の上に置く。零れないように、そっと。
アンナが窓まで歩いていき、躊躇いもせずにそこから飛び降りた。
後ろで纏めた赤い髪から火の粉が飛び散り、彼女に纏わり付く。


背からは激しい炎の濁流で形成された翼を出現させ、そのまま飛行に移る。



やはり身体を動かしていた方が気分的に楽だ。少なくとも子供の相手をするよりは。
猛烈な風の抵抗をその身に受けながら彼女はそう思わずにはいられなかった。











あとがき



今回の話は書きたかった話の1つで、書けてとても気分がいいですw


魔法の名前は原作をプレイした事のある人ならば
ニヤリと思った方も居るのではないしょうか。



これからも徐々に原作キャラやその親族を出して行きたいです。


それにしても、感想板での聖戦の系譜の人気にかなり驚きましたw
もう10年以上も昔のソフトなのに、凄い人気ですねww



では、次回の更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第二部 一章 3 (実質9章)
Name: マスク◆e89a293b ID:6de79945
Date: 2010/09/06 20:07
言うまでもないことではあるが、砂漠の日差しは強い。それこそ殺人的と言ってもいいほどに。
砂漠を構築するのは黄色い海と見紛う程に大量の砂と岩石の数々だ。
それら全ての要因は全ての生物の生命力をガリガリと削り取り、死という破滅的な終わりに近づける自然の持つ死神の鎌といえる。


ミスル半島のナバタはそういう場所だ。
太陽の光は残酷で、容赦が無く、差別しない。



真っ赤で鮮やかな太陽は大地に恵みなどを齎すが、それと同時にどうしようもない死を運んでくることもある。
熱せられた岩の上で肉が焼けると言えば、その日差しが如何に凶悪なものであるか大体の想像は付くだろう。




だが、“そこ”は比較的と言える程度だが、砂の海に比べて絶対的に涼しかった。
木々が犇めき合い、緑色のカーテンを天と地の間に掛けられた場所。
オアシスの周囲に作り上げられた森の中は外部の砂と岩の海よりも現実的にも、そして気分的にも涼しかった。













拷問にも使えそうな熱せられた砂とは違う、ひんやりとした確かな冷気と、生命を感じられる土の鼓動に近い物をイデアは感じた。
同時にこの今自分が身を任せている大地がどれほどに生命力――【エーギル】に満ち溢れているのかを彼は神竜の能力で敏感に理解する。



だが、それがどうしたというのだ。それで今の自分の置かれた状況が何か好転するというのか?
答えは否だ。間違っても何も変わらない。自分の中の苛立ちも、黒い感情も、そして違和感も、何も消えなどしない。



そも、イドゥンと離れてしまった時点でイデアの中でバランスの取れていた何かは崩れてしまったのだから。



イデアにとってイドゥンという存在は太陽と同じなのだ。もしくは夜空の月といったところ。

居て当然な存在。自分の隣で無邪気に笑ってくれていた彼女にどれほど救われたことか。
彼女が何かドジを踏み、涙眼になる姿にどれほど愛おしさを感じたか。彼女が母親の様に抱きしめてくれた時、どれほど安堵を得たことか。



一挙手、一動作、その全てがイデアに影響を与えたと言っても過言ではない。
そもそもの話、彼女が居なければイデアは早々とエレブで生きていく事を諦め、僅かな希望と膨大な絶望を抱いたまま即座に自殺していただろう。



あの無表情極まりない、人の感情の欠片もないナーガと暮らしていくなど絶対にごめんだ。
例え、金を山の様に積まれようが、世界中の美女を抱かせてやると言われても、イデアは絶対に引き受けないだろう。





…………。



ナーガ……。

彼は……今頃はどこか別の世界に居るのだろうか? 死んでくれていると嬉しい。イデアはそう思わずにはいられなかった。



話を戻そう。



今の話題は何故イデアがこんなオアシスの真ん中で力なく倒れているかだ。白い服はボロボロで、かつては滑らかだった美しい金髪もごわごわ。
現在の彼は最強の超越種である神竜というよりは、食料などが底をついて行き倒れた貧しい浪人のようだ。


その紅と蒼の眼には大よそ生気というものは感じられない。だが、見る者が見れば、
その奥深くに闇系の上級魔法【ノスフェラート】を連想させるほどに冷たく、黒く、魂を啜り、憎悪と狂気に凝り固まった炎が燃えているのが判るだろう。
その憎悪が誰に向かっていて、その狂気が何処から発生しているのかはイデア本人にもあまり判ってなどいないが。ナーガに向けていると、本人だけは思っていた。



だが、そんなイデアは今は倒れていた。力なく、情けなく、ボロボロの格好で。
ぐぎゅるるるると彼の腹が情けなく鳴いた。そう、イデアは空腹で動けないのだ。


この里に来て1週間程度になるが、まともに食事はおろか、水さえも飲んでない彼がいつも通りの速度で動けるはずがなかった。
まだまだイデアはそこまで成長していないのだ。莫大なエーギルを無から創造できるレベルに彼はまだ到達していない。


そも、転移の術が使えない彼では、どんな風に逃げても連れ戻されるの確定事項と言ってもいいのだが。
事実、この前にも数回程逃げ出そうとしたイデアは、アンナに気絶させられ、自室に連れ戻されている。
【スリープ】は本当に卑怯だとイデアは思っている。注ぎ込んだ魔力を眠気に変えて対象に掛けるとか外道だ。



……本当は、アンナはイデアを一回眠らせるのに、かなりの量の魔力を持っていかれているのだが、イデアはそんなこと知るわけがない。
神竜の魔術に対する凄まじい抵抗力には苦労させられるそうな。




「あー…………」


仰向けに根っ転がり、視界に映る太陽をイデアが憎憎しげに睨みつける。自分の邪魔をするなと。



そもそもイデアが何故、このような無謀極まりない脱走を行ったか? 
臆病で、卑屈で、愚かだが、現実を受け入れ、それに適応する能力を持っている彼が何故こんな事をしたか?
その理由は何なのだろうか? 




──イドゥンの鱗の色が、変わったから。 美しくも、悲しい紫色に。



いつもの様にイドゥンを唯一感じられる鱗を呆然と眺めていたイデアの目の前で、ソレは変化したのだ。
途端、イデアは恐怖を感じた。そして自分の中に救っていた違和感が一気に膨れあがっていくのを感じた。


何かイドゥンの身にとてもよくない事が起きている。彼は本能的にソレを悟ったのだ。



イデアは1も2もなく動いた。恐らく彼女が居るであろう『殿』に向かうべく。
だが結果はこのとおりだ。


普段は海の様に体内を満たしていた己の【エーギル】が今は小さな水溜り程度にまで減っているのをイデアは竜としての能力で知っていた。
エーギルとは魂そのものであり、生命力であり、そして精神力でもある。ナーガはそう言っていた。魔力を産み出す根源的な力だと。



ならば、今の自分はどうだろうか? 精神も不安定で、食事も取らず、やるべき事もせず、違和感と倦怠感、そして憎悪という蟲に内部から蝕まれている自分は。
最悪としか言いようが無い。こんな状態で満足に力を振るえるはずがあるわけない。


必然としか言いようのない結果なのだ。今の自分の惨めな惨状は。



「………うっ…うぅう……あぁああ……」



イデアが声を押し殺してまた泣いた。余りにも情けない自分の状況に。
子供が思うように行かないと駄々を捏ね、親の注意を引くために大声で泣き喚くのと同じだ。声こそ出さないが、それに近い。





「!!」







と、不意に神竜の敏感な5感と、異常に進化した第6感が何かとても大きな存在の接近を感知した。
涙と鼻水を服の袖でゴシゴシと拭き取り、既に体の一部と言ってもいいほどに敏感で意のままに動くソレを動かし、何が近寄ってくるのかをイデアが探る。


大きな、とても大きな存在だった。ナーガには遠く及ばないが、それでも無尽蔵と言っても差し支えのない程の莫大な【エーギル】
今のイデアでは例え全快状態でも勝てないほどの巨大な存在だ。


イデアの顔が真っ青になった。勝てない。殺される。まだ何もしていないのに。
森の木々が風もないのに揺れ、ざわざわと耳障りな音を立てるがイデアの耳にはそんな雑音は入ってこない。否、聞く余裕が無かった。



冷静に考えれば、これほど巨大な存在は【竜】しかありえないのだが、イデアにはそんな事を考えるほどの余裕などない。



「っ!!!!」



眼を瞑り、身を縮こまらせたイデア。死んだふりにも見えなくない体勢だ。



が。



「おい大丈夫か? 怪我でもしちまったのか?」



冷静な、それでいて何処か豪胆な印象を抱かせる“女性の”声だ。
布擦れの音が数度したかと思えば、その存在が自分の近くに駆け寄り、自分を見ているのをイデアは真っ暗な視界の中で感じた。




どうしようか……。イデアが考える。眠ったふりをこのまましてやり過ごしてしまうか・……。




ぐううぅううう。




間抜けな音が彼の腹から鳴った。
しばしの沈黙。とても痛い間。




「……ッ・・・・ははははは!! 腹が減っているのか? 寝たふりなんてやめて起きなよ! あたしが何か持って来てやるからさ、ちょっと待ってな」



堪えきれずに女性が噴出し、それだけを言うと何処かへ行ってしまった。
大きな気配が遠ざかっていく。



それなりに遠くに行ってしまうのを神竜の感覚で“見て”いたイデアがムクリと起き上がる。
どうせ寝たふりもばれているし、無駄な抵抗はやめておこう。



相変わらず身体に力が入らないので、地べたに胡座をかいて座る。




数分後、先ほどの声の主と思わしき人物が帰ってきた。



やはり声の通り女性であった。栗色の長髪を後ろで結び、一まとめにしているのが眼に付いた。
身長は女性にしてはかなり高い。大体ナーガと同じぐらいだろうか? 
そして、女にしてはやけに体格ががっちりしている。細いというよりは、引き締まっているという方が近い。



茶色の質素なローブを着込んでいるが、貧乏人という感じは全くせず
その全身からは気品と、大の男が持っていそうな豪胆なイメージをイデアは見た。



変な人。イデアの第一印象はそれだった。女性なのに、男みたい。
でも、胸は大きい……。




「周りにある果物を持って来たぞ。さぁ、喰え」



「…………」



袋に入れて持って来たソレを女性がイデアに差し出す。
差し出されたのはリンゴやナシ、葡萄に桃、季節感など欠片もない様々な果物の数々。


新鮮であろうソレはキラキラと輝き、甘い匂いを漂わせている。もちろん傷など一つも付いていない。誰が見ても一目で最高級のモノだろうと判る。
もしもこの場にイドゥンが居れば、眼を輝かせながら齧り付いていただろう。その光景をイデアははっきりと想像できた。



「…………………」



無言でリンゴの1つを手に取り、しげしげと眺める。宝石を見定めるように。


「……っ!……っ!!」



口を大にして思いっきり齧りつく。懐の竜石が無意識に輝き、ほんの僅かだけイデアの外見を竜に近づける。
耳の辺りまで口が裂け、より多く、より早く食べられるように。
口内の歯が、雑食動物のソレから、肉食動物の歯に変化する。



ボリボリ耳障りな音を鳴らし、芯まで残さず噛み砕く。そしてその後は丸ごと飲み込んでいく。
手を伸ばす体力さえも惜しいのか『力』を使って2、3個まとめて果物を浮かばせ、ソレを竜の口に放り込んでいく。


そして10秒たらずで芯ごと噛み砕き、喉に流し込む。
数分で大量にあった果物は全てイデアの腹の中に消えていた。だが、まだまだ満腹には程遠い。



「凄い食いっぷりだねぇ……どれぐらい飯食って無かったんだ?」



女性が呆れと感心が混ざり合った声音で言う。
イデアが顔を上げ、女性を見る。果汁やら食いカスなどで酷い有様の顔だ。


そのまま改めて女性を観察する様にイデアの瞳孔が細くなり、鈍い光を放つ。
一般の人間が見たら、思わず後ずさってしまう程に暗い眼。


そんな眼光をまともに浴びても女性は全く怯まなかった。それどころか、肩を揺らし、豪気に高く笑う。
本当に変わった奴、と、イデアは改めて思った。少なくとも今まで見たことのない種類の人間……竜か。




「汚れが酷いね。それにその程度の量の果物じゃ満足出来ないだろ? 家に来なよ、アイツも喜ぶだろうしね」



後半からはイデアに言っているというよりは、独り言に近いものになっていたが。
それでも彼女が片手を挙げ、そこに魔力を集め出すと、イデアは彼女がなにをしようとしているのか何となくではあったが、判った。



あれは何度も見たことのある術だ。いつもナーガが使っていた便利極まりない術。



転移の術だ。




「ちょっとまっ……」



残念だが、イデアの抗議の言葉は最後まで言う事は出来なかった。
途中で転移の術で発生した光と、“場”の歪みが女性とイデアを飲み込んだからだ。



今までに何度も体感した浮遊感がイデアを襲った。





暗転。

















転移した先の場所は何処かの建物の中だった。外とは違い、どこか冷たい空気に満たされている。
眼に映ると物と言えば、何かの紋章がビッシリと刻まれた石作りの壁に天井に床……つまり全部が石だらけの部屋だ。


窓から入る太陽の光が部屋を優しく照らしている。不思議と居るだけで気が落ち着く部屋。
質素だが、何処か懐かしい物をイデアは感じた。



部屋の中心には数人で食事を取るためのそれなりに大きな木製の丸いテーブルが置いてあった。
かなり使い込まれているのだろう。永い年月を経た物だけが放つ“重み”と“歴史”を感じさせる存在感を放っているのがイデアには見て取れた。



部屋の中心まで大股で女性が歩いていき、ぐっと背伸びをする。
そして何処か豪胆で、船乗りなどが久しぶりに陸に上がった時の様な声で彼女は言った。




「やっぱり我が家が一番落ち着くねぇ……ソルトは……遊びに行ってるか」



ぶつぶつと呟く彼女にあえてもう判っていることをイデアが聞いた。そうでもしないと、このまま彼女のペースに乗せられてしまいそうだからだ。
自分は早く「殿」に戻らなければならないのに。



「何ですか、ここ……」



「何って、あたしの家だよ……ちょっと待ってな。
 何か食うものを用意するからさ、出来るまで湯浴みでもしてくるといい。あたしが造った天然の温泉だ、かなり気持ちいいぞぉ。
 そうそう、湯浴み部屋はコレに付いて行くと直ぐに付くぞ」


「え? う……」



女性が淡々と鍋などを取出し、食事の準備を進めながら言う。
ただ喋ってるだけなのに、イデアは何も口を挟めなかった。



ぽいっと大きな布の塊と、干した植物で作った身体を洗うためのブラシ。
そして油と水と灰によって形作られ、魔術によって花の匂いを微弱に、鼻に付かない程度に漂わす大の男の拳程の大きさもあるピンク色の石鹸が投げ渡される。
女性が指を微かに横に振ると小さな火の玉が発生し、ソレはイデアの眼前まで飛んでいき、ピタリと停止する。
そのまま付いてこいと言わんばかりに左右に小さく揺れた。




ふと、何気なく部屋に設置された鏡を見てみる。




……泥だらけの自分の姿が映った。惨めな物乞い見たいな姿が。



……少しくらいなら、いいか。


綺麗になった方が、動き易いだろうし。

























風呂から上がったイデアを待っていたのは、そこそこ大きな机の上を埋め尽くす料理の数々であった。
既存の食器とは違い、底の深い独特の形をした食器“お椀”には湯気を立てている味噌汁。隣のお椀には真っ白な炊き立ての白米。


塩コショウを塗され、じっくりと焼かれた肉、究極的に透明でキラキラと光を反射する飲み水。
そして何故かコップに満たされたチョコなどが並んでいる。




そして女性以外にもう一人、部屋には住人が増えていた。


「………」


女性の腰に力の限り抱きつき、イデアを丸い眼で不思議そうに見ている小さな男の子。年は大体5歳ぐらいだろうか?
紫色の髪の毛が特徴的な子供だ。エーギルの大きさと質、身体的特徴から見て恐らくは人間の子供であろう。
竜にしてはエーギルが小さすぎるし、そして耳が尖ってない。何故人の子が竜であろう女性と一緒に居るかはさっぱり判らないが。



……もう少し髪の色に銀を混ぜて、艶を出せばイドゥンの髪になるな。イデアはそう思った。



「丁度いいときに来たね! たった今出来たばかりなんだ。 それと紹介するよ。これはあたしの息子のソルト、仲良くしてやってくれよ」



ハハハと嬉しそうに笑い、腰に抱きつく息子の頭を撫でる。子供の顔が笑顔に染まった。母に撫でられ、心から喜んでいる顔だ。
イデアの顔が不機嫌に歪んだ。その様子が酷く羨ましかったから。


「さ、食べようか。丁度あたしも何か食べたい気分だったからね」



「あ…」




それに気付いたかどうかは判らないが、女性がイデアの手を取る。凄く暖かい手だった。
じわりとイデアの中まで浸透し、胸の中の暗い物を溶解させる暖かさ。



「これって……殿でも食べた事ある……なんで……」



眼の前に並べられた数々の料理の前にイデアが小さく呟いた。
かなり耳がよいのか、女性はその言葉に自慢げに笑って答えた。




「ふふふ……それはだな。このチョコや味噌などを編み出したのは私だからだよ! 
 それだけじゃないぞ、人間の貴族などが飲む、あのコーヒーの生産方法、カカオ豆の加工の仕方を作ったのもこのあたしだ!!」



味噌や白米はあのナーガ様も気に入ってくれたんだ! と、声を高らかに女性が続ける。
更に立ち上がり、自分の輝かしい功績を自慢しようとした彼女だったが、息子に「早く食べようよ」と言われてしまい、コホンと小さな咳払いと共に席に戻る。




「あの……貴女って、何者なんですか?」


イデアがテーブルの上で強い誘惑をしてくる料理の数々を睨みつけながら聞いた。
彼の中では食欲とその他多数の感情が戦争をしている。勝敗など判りきった戦いであるが。




「あぁ、まだ名乗ってなかったね、あたしの名前はメディアン。偉大なる祖父の名前の一部を貰い受けたんだ。
 種族は地竜で、大地の事に関してはあたし以上の竜なんてナーガ様かおじい様以外の竜は存在しないね。
 この『里』の大地をあそこまで素晴らしい物にしたのはアタシさ! やろうと思えば宝石や金属だって幾らでも作れるぞ?」





「祖父とは一緒に住んでるんですか?」



「いいや、おじい様は昔の戦役の時にナーガ様を裏切らなかった数少ない地竜でね、ナーガ様と共に戦い、そして討ち死にしたよ。立派な最期だったそうだ」




始祖竜と神竜の戦争。地竜族の大半はナーガを裏切り、始祖竜側について戦った。
イデアの読んだ歴史書にはそう書いてあったのを思い出す。確かあの分厚い2000ページぐらいある本を編纂したのはナーガだったはず……。


その中でも裏切らなかった地竜が居たのだろう。彼女の祖父はそういった地竜の一柱だったらしい。





……まだ出会って時間はあまり過ぎてないが、彼女が嘘や裏切りを嫌う性格だろう、というのは大体はわかった。

自分にとってのナーガは裏切り者だが。




「さ、長話はこれぐらいにして、早速食べようか。冷めたら不味くなるしね」




「わーい! お母さんの料理大好き!!」




母の膝の上に何時の間にか乗っていたソルトが喜びの声と共に飛び降り、自分の席に着く。
料理を凝視してしていたイデアががっくりと肩を落とす。やっぱり空腹には勝てなかったらしい。





小さく手を合わせ心の中で「いただきます」と唱え、彼は食事を始めた。実に一週間ぶりのちゃんとした食事だ。



















「ご馳走様でした」



あっという間に全ての料理を平らげたイデアが何処か満たされた声で言う。
腹が満たされた事によって、大分気分は落ち着き、冷静な思考を取り戻していた。



『衣食足りて礼節を知る』とはよくいったものだ。少し意味が違うかもしれないが。



「おーおー、全部食べたのかい? 少し多めに作ったんだけどね。味はどうだい?」



「美味しかったです……ありがとうございました。それじゃ……」




最後にチョコを全て飲み終わり、口の周りを舌で丹念に掃除したイデアが立ち上がろうとするが
「待った!」というメディアンの言葉がその行動を停止させた。



「少し待ってておくれ、折角出会ったのも何かの縁なんだ、杯でも交わそうじゃないか。
 それとも……酒は飲めないのかい? もうそこそこの歳の男の子なのにぃい?」



ははんと、鼻で嘲笑って心底呆れた表情を浮かべる。


余裕を表すかの様に片手で「お酒ってなにー?」って聞いてくる息子の頭を誤魔化すためにゴシゴシと撫でつつ
その紅い眼で妻帯者が未婚の者を馬鹿にしているかの様な視線をイデアに投げかける。



正直に言おう。メディアンの今の顔は男としてかなり馬鹿にされた気分になる顔だ。


イラっと、今までの種類とは違う苛立ちをイデアが覚える。これは違和感とかイドゥンとかナーガはあんまり関係ない。
彼の負けず嫌いな性格から来る苛立ちだ。出会って数時間も経ってない女に何か、とても、男として馬鹿にされた事に対したの腹立だしさ。


音も無くイデアが浮かばせかけた腰を椅子に座らせる。『殿』に戻るのは……そう、少しだけ飲んでからにしよう。
何、たかがお酒だ。神竜である自分が酔うわけなど無い。前の世界でも飲んだことはないし、二度の生涯に渡って口にするのは初めてだが、どうせ大したことはない。



「酒ぐらい飲めますよ。嘘じゃないですよ? 一番強いのお願いします」



据わった眼でイデアがメディアンを睨みつける。
さっき森林で倒れてた時とは違う種類での鬼気迫る眼であった。
どれぐらい凄いかというと、ソルトが本能的な恐怖を感じて自室に逃げ出すぐらい。



ニヤッとメディアンが悪戯が成功した子供が浮かべる意地の悪い笑みをイデアには見えない様に口に浮かべ、奥の部屋に去っていった。



1分も経たずにメディアンが大きな樽とグラスを持ってくる。


樽の中身であるエメラルド色の液体をグラスに注ぎ、イデアに差し出す。つぅうんと鼻を突く匂いが杯から昇る。




中身の名前は『アブサン』
ハーブなどを原料にそこそこに複雑な手順で製造される酒である。




この酒の特徴は、とにかくアルコール濃度が高いことだ……。
種類によって違うが、大体50~68度が平均で、高い物になると何と80を越える物もある。


当たり前だ。水で割ることを前提にした飲み物なのだから。



メディアンが懐に小さな『レストの杖』と『リカバーの杖』を隠し持っていたことをイデアは見抜けなかった。
アルコール中毒対策のための杖だ。



そして、イデアはグラスに少量注がれたソレを、水で割ることもせずに躊躇い無く飲み干した……。






























砂漠を灼熱の地獄に変貌させていた真っ赤な太陽が地平線の彼方に沈もうとしている時間帯。
辺りには昼とは打って変わって、荒涼とした風が吹き出し始めている。


砂漠の向こう側から、風と岩が擦れる音、猛烈な勢いで吹きすさぶ魔風がまるで竜の咆哮の様に聞こえる頃合だ。



建物の窓を木製の板で閉めるパタンパタンという音が鳴り響く通りの中で、一人の栗色の髪をした大柄な女性──メディアンは歩いていた。
その背に乗せられ、真っ赤な顔で幸せそうに眠りに付いているのは言わずもがな、イデアである。



結果から言うと、イデアは頑張った。本当に頑張った。メディアンの持って来た樽の中の3分の1は飲んだのだから。
しかし、彼は酔った。酷く悪酔いした。



大体グラスを三杯ほど飲んだ辺りから、イデアの暴走は始まった。
今まで腹の中に溜め込んでいた不平不満をぶちまけ出したのである。




ナーガは何処へ行ったんだ? 死んでしまえ! と大声で喚き散らし。
姉さんを迎えに行きたいのに! でも、行ってどうするんだ? と、頭を抱え、椅子からずり落ち。
やるべき事は判ってるんだ でも、自信がない。という言葉をぶつぶつ呟きながら、床を何回も激しく腕で叩いたり。



何でこうなったんだ。 と、涙ぐみ。
極めつけには「家に帰りたい」と号泣したり。





………。






数えればキリがない。


普段は不満を腹の底にしまうタイプだったんだろう。それが酒が入った事によって湧き上がったて来たのだ。
途中からは悪口というよりは、イドゥンに対する惚気話に変わっていったが、それも仕方ない。


やれ、髪が綺麗だの、声が癒されるだの、小動物みたいだの、これも凄い量になる。
そんなイデアの話をメディアンは最初から最後までしっかりと聞いてやり、時々会話したり、付き合ってやったのだ。


義務感というか、何というか、そういう性分の女性なのだメディアンは。



そしたら酔っ払ったイデアに懐かれたのも仕方ない。
自分の溜まりに溜まった鬱憤話を最後までしっかりと聞いてくれた彼女に、彼は眼を潤ませながら母親か何かと勘違いし抱きついたまま眠ってしまったのだ。



その後、部屋から出てきたソルトが対抗心を燃やしたのか、自分もと言い出して抱きついてきて、本当に大変だった。
正に混沌といわざる得ない状況、永い年月を生きたメディアンでもどうすればいいかわからず、泣く泣く息子にスリープを掛けて出てきたのだ。



そして今に至る。彼女の顔はやつれ切っていた。主に肉体的ではなく、精神的な疲労が原因である。


神竜、始祖竜、そして暗黒竜に次ぐ力を持った地竜のスタミナはほぼ無尽蔵ではあるが、精神はまぁ、仕方ない。
質の悪い酔っ払いに数時間絡まれ続ければ嫌でも疲れる。まぁ、原因は自分のせいなのだから、自業自得だが。



「やれやれだよ。迂闊に酒は勧めるものじゃないねぇ……何が起こるか本当に判らないねぇ」



背負ったイデアの顔を見て一言。彼は本当に満ち足りた表情で眠っていた。
まるで全ての憑き物が綺麗さっぱり落ちたかのような健やかな顔だ。
自分の息子の顔と、一瞬だけ重なる。確かソルトも遊び終わった後や、泣き疲れた後はこんな風に眠っていたっけ。



もう、大体この男の子の正体が何で、種族は何なのか察しはついたが、それでもこうやって眠っている姿は酷く小さく無防備なものに見えた。



あの叫んでいた言葉の内容と、持っている力の性質から察するに……この子は。
こんな小さな子が、家族から引き離されて泣いていたこの子が……。






……。





「出ておいで。さっきからずっと見ていただろ? 大丈夫、あたしは怒ってなんかないよ」



唐突に足を止めたメディアンが建物の影に向けて明朗な声を飛ばす。
道端でばったり出会った友人に挨拶するかの様な声であった。




「こんにちわ。メディアン様」



建物の影から紅いドレスに身を包み、紅い髪をした女性──アンナが現れ、足音を立てずにメディアンに接近する。
仕草一つ一つに敬意と畏怖を込めてアンナが丁重に挨拶した。明らかな目上の者に対する態度。



当然だ。火竜と地竜では、地竜の方が格上の種族なのだから。
この『里』を創る際に、メディアンの力がどれほど役に立ったことか。
森を作り、大規模な濃紺地帯を創造し、緑豊かな砂漠のオアシスを作りあげられたのは彼女の協力があったのが大きい。





大地に関して言えばほぼ全能の能力を持つ地竜は
神竜や始祖竜などが居なければ竜族の支配者になっていてもおかしくない種だ。


まぁ、メディアン個人(竜)に限っていえば、彼女は権力などにあまり興味などなく、仲間と一緒に楽しく生活するほうを好む性格の持ちなのだが。





ちなみに永い年月を経て“進化”した地竜は暗黒竜と呼ばれる種になるそうだが、その存在まで至った者は本当に少ないし、この里にはいない。





「何となくお前の用事は判っているよ。この子の事だろ?」



チラリとイデアの寝顔を見てから、アンナに言う。
人懐こい笑顔をメディアンが浮かべた。何千年も生きている竜とは思えないほどに幼い笑顔。
少年が友人とふざけあっている時にでも浮かべていそうな顔だ。



「はい。渡していただけませんか?」



「そんな畏まらなくてもいいって! ほら……」



よいしょっと小さく掛け声を出し、背負ったイデアをアンナに渡す。
結構大きな衝撃がイデアを揺らしたが、頬を真っ赤に染めて眠っている彼は起きない。



「本当によく眠っているねぇ」



「飲ませすぎですよ」



「いやいや、この子が飲んだんだ。中々にいい飲みっぷりだったぞ? 今度時間があったらお前もどうだい? 歓迎するよ」



「……考えておきますわ。それでは」




アンナが両腕にイデアを抱えて転移の術を発動させる。
一瞬の内に彼女は遠く離れた里の中心部へと飛んでいった。


後に残ったのはメディアンだけ。



そろそろ本格的に辺りが夜の闇に包まれ始めている。
蒼い月が天に昇り、絶対零度の地獄の訪れが近いことを示唆していた。



ぶるっとメディアンが身震いした。そろそろ寒くなってきた。早く家に帰ろう。
息子を一人残しているのだ。何だか心配になってきた。



転移の術を発動させる刹那、一瞬だけイデアの言葉が蘇った。
即ち。『ナーガに捨てられた』という言葉。親に見捨てられ、絶望した顔。




絶望したという事は、逆に言えば信じていたという事だ。
イデアはナーガを信頼していたのだろう。そして裏切られたと。



ナーガとイデアの間に複雑な何かがあるという事は判った。
メディアンには想像も付かない程に絡み合った色々なものがあるのだろう。


だが、ソレを踏まえても、彼女はもう既に居ないナーガに一言だけ言いたくなった。
たとえ不敬罪に問われる事になってもだ。




『悲しみで子供を泣かせるなよ。父親だろ?』






と。






















冷たい風に頬を撫でられ、イデアは眼が覚めた。
起き上がり辺りを見渡すと、どうやら既に夜になっていたらしく、砂漠の荒涼とした風が部屋に吹き込んでいたらしい。




「ぅう……」



頭が、少しだけ痛い。ズキンズキンと心臓が鼓動を刻む衝撃が響いてくる。
だが、気分はよかった。矛盾しているかも知れないが、頭痛以外に今のイデアを苦しめるのは僅かな違和感だけだ。



胸の奥底にあったあの溶岩みたいな怒りと憎悪も、得体の知れない苛立ちも全てが綺麗に消え去っていた。
頭痛も少しずつ小さくなり、完全に消えた後に残るのは自分でも信じられない程に冷静な思考。



ぼぉーっと窓の外の月を見つめ、考える。



冷え切ってはいるが、奥底に熱い何かを内包した思考が答えをはじき出すのをイデアは何処か他人事の様に感じた。



即ち。


何をするべきか。どう動くべきか。何を信じるべきか。どうあるべきか。




この全ての答えが唐突に判った。否、ようやく認め、向き合うことが出来たというべきか。
答えなどもう出ていたのだ。ただ認めなかっただけで。



信じる者は姉。生きていて欲しいと心の底から願う。念話を飛ばす勢いで何度も祈りを捧げる。神竜に。
生きてさえいればどうとでもなる、死はそれで終わりなのだから。



カチャリと胸に掛けられた紫色のイドゥンの鱗を撫でる。イデアの指の感触に答えるように薄くソレは輝いた。
例えどんなに変わっても自分はイドゥンを受け入れるし、愛し続けるだろう。それだけは確信できる。



自分はイドゥンを信じる。生きていてくれると。まずは大前提にそれだ。


イデアの眼に炎が宿った。ただし、この炎は【ノスフェラート】などではない。
熱く滾った、決意という炎だ。





やるべき事と、動くべき事、どうあるべきかは──決まっていた。






あとがき



SSを書いていて、自分でも時々イデアと言うキャラの性格がわからなくなる時があります。
読者の皆様にはイデアはどういう風に映っているのか、とても気になる今日この頃です。




では、次回の更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第二部 二章 1 (実質10章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/10/04 21:11
蒼白い光に包まれた石造りの部屋。『里』で最も巨大な建造物の地下奥深くに存在する場所。
『里』に住まう者がどれほど使用しても底を付くことなどないであろう程の膨大な量の清潔な地下水が絶え間なく流れ込んでくる空間。
地下奥深くということを忘れてしまいそうな程に光と『力』に満ちた世界。
巨大な……そう、世界そのものが発する無尽蔵のエーギルにこの部屋は満たされているのだ。




ここは玉座の間。
里を統べる者が座する玉座が存在する神秘的な部屋。
そして部屋の奥には真っ赤な最上級の布と大量の金で装飾を施された煌びやかな玉座があった。



そして、つい数日前まで空席であったその椅子には一人の人物が座っていた。いや、正確には“人の姿をした者”が。
金色の無造作に切り分けた髪、手入れもあまりしていないのに、無駄に輝かしく、艶やかな髪だ。
この女性みたいな髪をあまりその人物は好きではなかった。



一回姉に「肩まで伸ばしたらどう? きっとかわいいよ」と提案されて泣く泣く伸ばした結果、色違いのイドゥンになったという事があったのだ。
だが、今となってはもう……彼の姉は傍に居ない。かつて彼女が居た場所にはぽっかりと穴が空いている。



その人物は特徴的な眼を持っていた。紅と蒼という眼だ。彼は交互で眼の色が違った。そしてその眼の下には深い隈が浮かんでいる。



この眼は人間のそれよりも遥かに優秀な視力を持っており、集中すれば遥か彼方の物体の輪郭はおろか、色までもはっきりと認識できる。
動体視力も恐ろしいほどに優秀で、飛んでくる矢の形や色、それに施された装飾さえも見えるかもしれないほどだ。
まぁ、話し合いと誤解の解けたおかげでハノンに矢を撃たれなくてすんだ事もあったが。



椅子に座る者の名前はイデア。この『里』唯一の神竜である。まだまだ幼い少年の姿をした『竜』だ。
この少年の姿はイデアのもう1つの姿であり、彼がこの世界に産まれてから最も長い時間を過ごしている姿ではあるが、本当の姿は違う。



彼は『竜』なのだ。比喩でもなんでもなく。本当の意味で。四枚の翼と小山程度の大きさの体躯を持った『竜』である。
まだ幼く歴代の神竜の中ではナーガはおろか、大戦時の神竜にも負ける程度の力しか持ってないが、それでもその力は凄まじい。


イデアは子供である。人間で例えるならば、ようやく文字や常識を覚え、確固たる自我をもち、自分が何たるかを理解し始めた程度の年齢。
時々癇癪を起こしたり、または信頼する者に甘えたり、ふざけて笑ったりする、そんな少年の竜がイデアだ。



今はその『信頼する者』は誰も彼の傍には居ないが。イドゥンもエイナールも、誰も。
そして、かつて『信頼していた者』が座っていたであろう椅子にイデアは座っている。
もっとも、イデアは絶対にかつてここに座っていた者を信頼していたなどと認めなどしないだろうが。








ペラリとイデアが手に持った羊皮紙の分厚い束を捲る。
薄い茶色をし、手触りなども余りいいとは言えないソレらの束は現在の『里』の状況や住人達の要望や提案などが纏められた物である。


子供達を一堂に集めて、全員に勉学をさせる場所を作ってはどうか? などの提案がそこには書かれていた。
他には『里』の食料やら日常生活品などの生産具合なども書かれている。


一つ一つに眼を通し終えた後、イデアは傍らに立つ人影に話しかける。
まだ自分は経験が浅い。自分の一存で判断を下すのはマズイと知っているからこそ、経験も知恵も知識もある年長者に意見を求める。
イデアは自分が弱く、全くの無知である事を自覚していた。そして同時に、組織の強さも前の世界の経験として知っている。

故に今の長としてのイデアは恐ろしいまでに臆病的で、慎重である。一つ一つ、提示された情報を噛み砕いて、そして誰かの意見を聞き、
ソレラを統合した上で彼は思考を回転させる。少なくとも眼の前に提示された情報を鵜呑みにはしたくない。


「どう思う? 許可を出すべきかな? お前の意見を聞きたいんだけど……」



それに答えたのは傍らに立つ老人。紅いローブでその全身を覆っている“老人の姿をした者”だ。
僅かに残った紅い髪に、硬質でクシャクシャな肌と頭皮、そして真っ赤な眼を持った老竜。
しかし背筋は衰えを感じず、しっかりと真っ直ぐだし、彼の炎を凝縮したような紅い眼は新しい主である幼い神竜に頼られているという事実から来る喜びでぎらついていた。


老人とは思えない程の生命力に溢れている彼の名前は『フレイ』先代の長であるナーガに万年単位で仕えてきた竜である。
そして彼はナーガの命令ではなく、彼の『頼み』を聞き、イデアを補佐していた。そう、命令ではなく『頼み』によってだ。


彼は新しい主の質問に答えた。出来るだけ判りやすく、出来るだけ丁寧に、詳しく。
千年、万年単位で使い続け、既に枯れた喉の奥底から声を絞り出す。一度聞いたら耳に暫くは残りそうな声。


『中々にいい案かと。童らは将来の貴重な人材になりますからね、今の内に勉学に興味を持たせるのはよいことです。
 最低でも文字の読み書きや単純な計算などは覚えさせたい。紙の代わりに砂や岩に文字を書かせ、筆の代わりに石などを使えばあるいは……。
 場所は建物の空いている部屋などを使えば間に合いますね』



いい加減、この声にも慣れたいな、イデアはそう思った。何というか……正直とても聞きずづらい。
フレイの滑舌がとてもいいから言葉の意味は判るが、でも、やっぱり聞きづらいのだ。
玉座に深く座り込み、肘掛に肘を付き、頬杖しながらイデアがフレイの言葉を一言一句逃さず集中して聴く。



『紙の製造も早めなければなりませんね。余った藁や木、そしてケナフなどからの製造を急がせています。メディアン殿が広大な森林地帯とケナフの栽培所を創造してくれたお陰で
 予定よりも多く作れそうです。それと、筆の配備も進めたいところです』



紙というのも案外色々な物から作れる。
木綿や葉や木の幹、更には泥や魚の皮や動物の皮からも作れるのだ。


ちなみにケナフというのは一年草であり(稀に多年草)成長がとても早く、大体120日前後で成長しきる草だ。
この草は紙の原材料として優秀な草として前々から竜族に使われている草だ。但し、茎にトゲがあるのと、生命力が強すぎるのが問題点として上がっていた。
しかし、今のケナフは竜族のエーギル技術によって改造されており、成長の早さはそのままに、茎のトゲや、暴走しがちな繁殖能力は大分そぎ落とされている。



外見のイメージとしては、『緑色の長くて太い野菜の棒』と言ったところか。



しかしやっぱり紙というのは耐久力に問題があるため、人には想像することしか出来ない程の永い時を生きる竜族は製造した紙に魔術的な保護を掛けて使用している。
こうして使用することで竜は本などの資料を気の遠くなるほどの年月の間保管できるのだ。もちろん定期的に魔術は掛け直しているようだが。


どうも竜族は紙という物に対して特別なこだわりがあるようだ。食事などは娯楽の一つでしかないようだが、製紙技術はかなりのものがある。
イデアはこの玉座に座ってまだ数日しか経っていないが、そう思えて仕方なかった。



そして何より竜族の技術全体にイデアは感嘆を抱いてもいた。
あのベルンの山脈そのものを王都と成す『殿』や何処とも知れない場所との空間のつなぎ目である『門』を作り上げた建造技術
更にはこの製紙技術や、戦闘こそ出来ないものの、単調な作業なら行える竜造の人口生命体『モルフ』の生産。



生命力そのものであり、全ての生き物の魂とも言えるエーギル操作による植物の制御とそのあり方の人口的な変質。
まるで遺伝子操作だ。イデアは前の世界の単語でこの技術をそう表した。恐ろしいまでに便利な技術。何かしらのリスクはあるのだろうか?



他にもあげればキリがない。かつてナーガは魔導の本質は知識を追い求めること、と言った理由が何となくわかるものだ。
表面を知れば知るほど、より奥底にある魔道の奥底にある便利な力が見えてくる。
『力』というのは、知識を手に入れてから付いてくるものと言った彼の言葉には悔しいが納得せざるを得ない。



「判った、この子供の教育場所は空いている建物の1室を使って行わせよう。名前は『学校』とし、最初は10名前後の子供を試しに入れて様子を見たい。
 そして紙と食料についてはお前に任せるよ、後々詳しく報告してほしい。これでいいかな?」



イデアが恐る恐ると言った様子でフレイに確認を取る。
正直な話、胃に穴が空いてしまいそうだった。自分の決断に自信が持てないのだ。
何か自分は間違ったことをいってないだろうか? 何か間違ってはいないだろうか? 



恐々とイデアは返答を待つ。返事は直ぐに返ってきた。



『大丈夫ですよ。特に問題はありません、【学校】を作る際の、子らに勉学を教える者の選定もこちらでしておきます。
 それとイデア様、もっと自信を持ってください。貴方はもっと堂々とすべきですよ』
 


食料や製紙の報告は後々、と言い、フレイがイデアに臣下の礼を深々として玉座の間から退室していく。
蒼い水に満たされた孤島の様な部屋にイデアだけが残された。


机の上をイデアが見る。先ほどまでそこに大量にあった紙の束は全て消えていた。
今日の仕事はとりあえず終了だ。これからはイデアの自由時間となる。




「ふー……」




玉座の上でぐっと背伸び。数時間の執務から開放された喜びを噛み締める。その拍子にカチャリと腰に差した『覇者の剣』が金属的な音を鳴らした。
かつてナーガが持っていたこの剣は今はイデアが所有していた。ナーガが残したこの剣の正当な後継者はイドゥンとイデアだからだ。



何故この剣を倉庫に放り込んでしまわなかったのか、それはこの剣が欲しいと思ったイデアにも判らない。
ただ、無性に欲しかったのだ。このナーガが持っていた覇者の剣が。


「はぁ………」



陰鬱な溜め息を一つ吐く。何となく剣の柄に手をやって、滑らかなソレを撫でる。
長という仕事は……予想はしていたが、疲れる。何人もの人間や竜の上に立ち、その生活や安全を守るというのは、予想はしていたが大変だ。



しかし、それでも彼は『長』をやると決めた。ただ部屋で篭もって、泣いているのはもうウンザリなのだ。そんな行動は第三者から見れば道化師でしかない。
イドゥンを迎えに行きたいと心の奥底では思っているが、ソレをぐっと押し込め、今は自分のやるべき事をやる。


それに冷静になったイデアは本当は判っていた。今の自分は外では何も出来ないだろうという事が。
中途半端な力しかもっていない現在の自分は外の戦争に介入したとしても、大して何も出来ないという事が。



戦争の中、多数の敵対する竜が居る『殿』に行き、そこに居るであろうイドゥンを助け出す? 
それは一言で言ってしまえば『不可能』だ。幾らイデアが神竜であろうと、彼はまだ幼い。
今の『殿』にはナーガほど絶対的な力こそ待ってはいないが、それでもイデアよりも強い竜は小数ながらも存在している。



意識をかく乱させるための魔術などはおろか、転移の術さえも使えないイデアにそんな事出来るわけない。
姿を隠す術や技術さえも持っていないのに。




そう、今のイデアに足りないものは『力』だった。『力』があれば、イドゥンを助けることが出来るのに、弱いからそんな単純な事が出来ない。




弱いのだ。イデアは弱い。そしてその事実を自覚している。自分は無知で弱いと。
だからこそ悔しい。助けにいっても無駄だと知っていて、今の自分が何を信じて、何をやるべきかも知っている。



だからイデアは『長』をやっている。
そしてその根本にはイドゥンへの想いと、ナーガへの意地があった。



意地だ。単なる意地。ナーガに長が出来て、自分に出来ないはずがない。
そんな意地が『長』としてのイデアを支えていた。そしてイドゥンが生きていてくれているという願いが彼の今の精神の土台だ。





おもむろに玉座から立ち上がり、イデアの履いているブーツが蒼く光る石で作られた床と接して軽快な足音を鳴らす。
本当に面白い石だ。蒼く輝く石の床や天井、そして壁は、本来は暗闇が支配しているであろうこの玉座の間を夜だろうが昼だろうが変わらず眩く照らしている。


部屋の全体から発せられた多量の光を大量の水が更に幾重にも反射させ、美しく煌かせるこの玉座の間は一つの完成された芸術品と言っても過言ではないだろう。



そしてそんな玉座の間の支配者が自分であると言うのは、どうもしっくりこない。イデアはそう思った。
まぁいい、これから自分はやることがあるのだ。時間と言うのは有意義に使わなければならない。
間違っても部屋で過去を振り返りつつ泣き喚くなどしていてはいけないのだ。ただの時間の無駄である。



カツカツと軽快でリズムのいい足音を殊更大きく響かせて、大股で歩きながらイデアが玉座の間を後にする。





















しかし本当に、よくこんなモノを作ったものだ。
神殿、いや、もう1つの竜殿と言える里の真ん中に存在する建物の廊下で立ち止まり、窓からみえる『里』の場景を見ながら感心した。
魔術で幾重にも強化を施された岩を、大量に組み上げ作られ、作られた建物が規則正しく並んでいるのがここからならばはっきりと見える。
見ていて何処か安心する光景だ。壮大な景色というのはいつ見てもいいものだ。地平線の彼方に沈んでいく太陽がまた美しい。


見れば住人達は皆足早に自分の住まう家に帰っていっている。そしてパタンと窓をしっかり閉め、家の中から灯りを灯す。
もう夜だ。ナバタに極寒の地獄がやってくる時間が来たのだ。



この新しい竜殿も凄い。イデアが自分が立っている足元、正確には自分の体重を預けている石の床を見た。
それにもやはり魔術による強化が施されていた。壁、天井、床、窓の枠、そして外壁、その全てに強化が施されている。
砂漠の日差しや、昼と夜の寒暖の差に耐えるためにされたのだろう。


この景色を見たイデアは改めて一瞬だけ思う。本当に自分が『長』でいいのか? と。
だが、そんな些細な問題は今の彼にはあまり重要ではない。この馬鹿馬鹿しい想いは直ぐに思考の濁流に飲み込まれて消えていく。



今の彼に最も必要なのはイドゥンという全てが解決できる存在を除外すれば
『力』が必要だ。もっと強く、賢くならねばならない。想いだけでは人は助けることなど出来ない。力と知恵と知識が必要だ、それと……少々の勇気が。



残念ながらイデアはこの全てを何一つ持ってはいない。
だから手に入れるのだ。




イデアが足を上げて、窓枠に足を掛ける。もちろん死ぬために身を投げるためなどではない。むしろその逆だ。
目的の場所に向かうための時間は少しでも短縮したかった。歩いていくよりも、飛んだ方が何倍も早いし楽しい。
転移の術を使うのが理想的だが、あれはまだ使えない。




イデアの背に2対4枚の黄金の翼が現れる。天馬の翼よりも壮麗で、飛竜の翼よりも巨大な、力強い黄金の輝きを放つ神竜の翼が。
迷わずイデアが窓から飛び出した。だが彼の身体は遥か下の地面に落下することなく、それどころか目的の場所に向かって弓から放たれた矢の様な速度で飛翔を始めた。



















石畳で作られた地面にゆっくりとイデアが降り立つ。快適な空のたびは少々名残惜しいが、これにて終了だ。
イデアは空を飛ぶのは好きだった。少なくとも飛んでいる時は風が心地よいし、頭の中を空っぽに出来、あれこれ余計なことを考えずに済むからだ。
最初飛ぶ時はあれほど落下や高所に恐怖を感じていたのに。



だが、病的なまでに眠るのを拒んでいる今のイデアには安息と言える時間だ。



そう、彼は『長』になってから一度も眠ってない。本来は睡眠に使うはずの夜の時間を全てとある事に費やしている。
お陰で眼の下には隈が出来、イデアの紅と蒼の色違いの眼球に禍々しく、狂気的な装飾を施していた。



それに眠ると、夢に見るのだ。彼の不安に思っている光景を。
彼が最も、神竜イデアがこのエレブで一番恐怖と感じている最悪の光景が。













               



イドゥンが死ぬ光景を。





苦痛と絶望しか感じない夢を稀に見るのだ。














だから眠るのが怖いというのもある。

それに眠っている間は完全に無防備だと考えると、どうしても眠る気にはなれなかった。





「さて……」




翼を折りたたみ、そして舞い散る光と共にソレを消したイデアが首をコキッと鳴らす。
これからまた一晩掛けた長い本との戦いが始まる。力を手に入れるために。



今、イデアが居るのは巨大な石造りの円筒の形をした建造物の入り口だ。
天高く聳える塔の様な建物は見上げるだけでも首が痛くなる。この空に向かって『里』の中でも一際大きな存在感を放っている建造物の名前は【図書館】という。

またの名を【知識の溜まり場】ともいう。
ベルンに在る『殿』に存在していた超巨大な図書館だ。竜族の全てが収められていると言っても過言ではない場所。
『殿』に居た時、イドゥンとイデアもよくここから資料を借りていた。



何故これがここに? 
イデアの素朴な疑問にあの老火竜は淡々と答えた。
さも何でもない事を言うかのように「転移の術で持ってきました」と言われた時に覚えたあのショックをイデアは未だに忘れられない。



中規模の城並みの大きさを持ち、その中に何十、何百万と言う数の資料を内包しているこの図書館をナーガは丸ごと持ってきたというのだ。



とんでもない。正にその一言に尽きる。だが同時にイデアはナーガなら出来るだろうとも思っていた。
それに何もコレは悪いことではない。むしろイデアにとっては好都合とさえ言えた。いや、最高と言える。


何だか全てナーガの掌の上で踊らされているような気もするが、この際そんなことはどうでもいいことだ。



重要なのはこの大きすぎる図書館の中には素晴らしい力が眠っているということだ。
何万という途方も無い年月に渡って蓄えられた偉大なる知識の数々はイデアを夢中にさせるだけの価値と魅力がある。



かつてナーガはこの図書館の存在を人間が知れば、押し寄せてくるといったが、正にその通りだ。
ここにはそれだけの力がある。


里を守るために作られた【エレシュキガル】や【ルーチェ】を始めとした、あの恐ろしい威力を持った魔導書の数々の製造方法やモルフの製造方法。
建設や薬学、それに算術の演算式の数々、子育て──他にもありとあらゆる分野の秘密や発見の積み重ねが【知識の溜まり場】には在る。
イデアはフレイにここの存在の説明を受けた時から、一日も欠かさず『長』としての仕事が終わってからは通い続けている。
まぁ、まだ『長』になって数日しか経ってないわけだが、これからも通い続けるだろう。それこそ千年でも一万年でも。





無言でイデアが歩を進め、片手を振って、重々しい金属質の扉を『力』で無造作に掴み、動かす。
何十キロもするであろう鋼の扉が音も無く軽快に開いた。ぶわっと部屋の中から暖かい空気が噴出し、イデアの髪を揺らす。



さぁ、今晩も勉強会の始まりだ。



かつてナーガは言った。初めて魔導についての概要を双子に説明するときに彼は言ったのだ。
その時の言葉がふと、唐突にイデアの頭に蘇る。


「大切な何かと引き換えにしてでも知識を取り込み、力が欲しいという愚者は後をたたない。
 中には自分が力を求めていた理由さえも忘れて、力を求めるというどうしようもない馬鹿もいる」と。



イデアが肩を竦めた。そして呆れたと言わんばかりに溜め息を吐き、記憶の中の彼をせせら笑った。



自分がイドゥン、真名ならば――ィ―――ど――ゥ ン―――――の事を忘れるなどありえない。逆にどうやれば忘れられるというのだろうか?
どんな術を使われようと、どんな力を手に入れようが、それだけは絶対にありえない。



まぁ、忠告は胸に留め置いてやるよ。そうイデアは想い、『力』を手に入れるために図書館に足を踏み入れた。
胸の中に知識を取り込むことによって得られる『力』に対しての興奮と期待を抱きながら。







あとがき


皆様お久しぶりです。
このごろ本当に忙しく、更新が遅れてしまい申し訳ありません。
来週が過ぎれば、もう少し更新速度があがると思います。



では、次回の更新にてお会いしましょう。





[6434] とある竜のお話 第二部 二章 2 (実質10章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/10/14 23:58
エレブが燃えていた。何処とも知れない荒野の様な場所で激しい戦いが起きていたのだ。
大地は血の川で塗りつぶされ、天には竜族の作ったモルフ・ワイバーンの軍団が残忍な咆哮と共に飛び交い、
偉大なる竜に楯突いた愚か者を葬ろうとその金色の眼で“獲物”の品定めをしている。


そんな光景をイデアは誰かの眼を通して“見て”いた。恐ろしい戦争の光景を。
この世界の全てが自分を殺そうとしているのだと思い知らされる胃の捻れそうな重圧と共に。


薄く濁った雲で覆われた空には純黒のカーテンを掛けたように、無数の飛竜の姿をモチーフに創られた生命体であるモルフ・ワイバーンの群れが何千と飛び交う。


ソレらはギャーギャーと背筋が凍るような野蛮で戦意を削り取る鳴き声をあげつつ、
地上に敷かれた何万という完全武装した人間で編み上げられた絨毯に向けてその口を開き
ブレスの一斉射撃という名前の火の豪雨を降らせる。その直後に無数の絶望と後悔が入り混じった悲鳴が戦場に轟き、人々は逃げ惑う。
超高度からのブレスの一斉射撃を防ぐ術など彼らにはないからだ。ひたすら逃げ惑うのみ。



共に訓練し、共に笑い合い、共に食事を取った仲間さえも見捨てて、人間達は我先と言わんばかりに必死な形相で逃げ回る。



そして無慈悲に着弾。世にも恐ろしい悲鳴が上がった。断末魔の悲鳴が。
何万という炎の雫は人間の編隊をズタズタに焼き尽くす。第二射、第三射とそれに続き、合計1万を超える炎の固まりが無茶苦茶に炸裂し、地響きと共に爆音を響かせる。


大地はあっという間に火の海に変えられた。人間の油を原料に燃え盛る海だ。人間の肉と油、そしてその絶望を糧にどこまでも広がる地獄。


着弾と同時に何百という人間は火達磨になったり、バラバラになったり、あるい業火の余りの熱量によって地面に影だけを残して着込んでいる鎧ごと蒸発していく。
しかし一発で即死できたものは運がいいといえる。意識を保ったまま炎に焼かれたり、煙に覆い隠され呼吸を阻害されて窒息するよりはマシな死に方といえる。
まぁ、即死したものは原型どころか、肉片の一つも残らないだろうが。




これは戦争、というよりは一方的な虐殺としかいえない光景だ。


遠くからこの光景を見れば神秘的で美しいと思えるかも知れない。叙事詩的な戦いであると判断を下す者もこの光景を見たならば、少なからず居るだろう。
だが、この戦いに実際に参加している者にとっては、コレはパニックと混乱でしかない。
そしてそういう事に考えを向け、注意を逸らしたた者から順に炎の洗礼を受け、このエレブより骨一つ残さず焼けて消えていく。





何だこれは?


一体何が起きている?


戦争? これが戦争? 


こんなことが実際に起きているのか?




イデアは訳がわからなかった。何故自分がここにいるのかさえも判らないし、自分が今は“何”なのかさえも判らない。
今のイデアは自分が神竜なのか、人間なのか、モルフなのかさえもわからない。いや、イデアはその全てであった。


この夢の中ではイデアは殺される人間でもあったし、殺害者であるモルフでもあった。



殺される人間の絶望と、殺すワイバーンの殺意。その二つをイデアは確かに自分の物として感じていた。
正反対のこの感情はイデアの中で混ざり合い、彼の心を困惑という感情で満たしていく。
今のイデアは均衡を失った天秤であった。左右の皿に乗った絶望と殺意で無茶苦茶に揺れ動く天秤。



これは悪夢である。酷く恐ろしい夢。しかし現実に起きている悪夢だ。
今このエレブに住む全ての人間が味わっている絶望でもある。そしてイデアの悪夢である。


そして竜族は総崩れになり、撤退する人間の軍を見て一つの判断を下した。
より人間に打撃を与え、その戦意を粉々にするために彼らは彼らの切り札を投入することにしたのだ。



荒野の奥底から現れたのは“竜”であった。
背から紅蓮の翼を放ち、その一歩で大地を揺らしながら堂々と征く火竜。その体躯はまるで小さな山の様にも見える。
鱗と敵意で構築された頑強な砦が炎を吹き出しながら、歩いているようにも見えるだろう。




しかしその体は普通の竜よりは2回り程度小さいし、少なくともイデアが感じられる力もそこまで大きくはない。
今のイデアでも竜の姿に戻れば難なく勝てるという確信があった。
それでも人間からしてみればかなり危険な存在であることに変わりはないだろうが、何百という人間が結束し挑めば勝てるだろう。


そしてイデアは、何故かこの“竜”に奇妙な親近感が自分の中で湧き上がっていることに気が付いた。
とても……言葉では表せないが、自分に近い存在の様な感じがする。




しかし、その“竜”を見た人間達は更に恐怖した。
鎧兜に包まれた彼らの顔が想像を絶する恐怖によってクシャクシャに歪んだのをイデアは確かに“見た”



何故か? 何故人間は恐怖したのか?



問題はその竜の大きさでも、全身に纏った炎の渦で作られた地獄の鎧でもない。
人々が恐怖した理由はもっと別にあった。





その数だ。



知ってのとおり、竜はその数が少ない。人間に比べれば彼らはあまり生殖などを行わない。
故に子の数も少ないし、必然的に大人の数もあまり多くない。ただでさえ、ナーガが率いていた勢力は根こそぎ戦争から撤退したのだ。
今、人間と戦っている竜の数はかつての全体の3割か4割程度。



だが、今人間の眼の前に現れた“竜”は違った。彼らは……違うのだ。



何十、何百という、途方も無い数の“竜”の群れが、アリの群れがうじゃうじゃと地面を埋め尽くす様に地を埋め尽くし、行進していたのだ。自分たちに向かって。
そのガラスを直接植え込んだような“竜”の眼は、まるで肉食の昆虫のように冷たく、恐ろしい。
何も映さず、何も反射しない眼。ただ眼の前で無様な叫び声を上げて逃げ惑う“障害”を事務的に排除することしか知らない眼だ。
少なくともこの“竜”にはまともな思考能力はないということがイデアには見て取れた。知性の無い眼。人形のような無感動な眼。



が、問題はそれよりも……そんなことよりも。


どこかで、見たことある……。どこかで、自分はコレに近い物をみたことがある。



“竜”を見たイデアの中にあったのは恐怖でもなければ、混乱でもなかった。
疑問だ。イデアは疑問を抱いていた。こんなワラワラと出てくる“竜”をイデアは知らなかったが、彼は直感的にこう思っていた。


この“竜”は自分の部下である、と。もし、この場所に本当に自分が居れば、自分はこの“竜”を支配することが出来る。
そう、感じ取っていた。根拠などない。ただ、事実はそうだろうな、と瞬時に思った。



“竜”の吐き散らすブレスは噴火した山から噴出すマグマの様に鮮やかで、残忍な色彩を荒野に撒き散らし、人の命を溶かしていく。



あぁ、人間はああいいう風にも死ねるのか。煉獄の炎で焼き殺される恐怖を確かに胸の内に注がれながらも、イデアは冷静にこの惨状を観察していた。
顔も知らない。名前も知らない。どんな信念を持っていて、どんな人生を歩んできたかも知らない赤の他人がどんな殺され方で、何人死のうが、イデアには関係ないことだから。


大事なのはこの焼き殺されている存在はイドゥンではない。
それだけだ。それしかない。イデアにとって重要なのはそれなのだ。



正直、イデアの興味は逃げ惑う人間には全く注がれていなかった。
イデアが興味を持っていたのは、殺害者である“竜”だった。



イデアは“竜”に意識を集中させる。その存在を探るために。この訳の判らない存在が何であるかを知りたかったから。
知的好奇心豊かな学者が興味深い古代の書物を読み漁る様にイデアは“竜”の存在を読み漁った。


この“竜”は全くの抵抗もなくイデアの意思を受け入れた。
最初からこの巨大火トカゲには抵抗の意思などなかったが、それでも恐ろしいまでにイデアと“馴染んだ”
まるで最初からこの身は全てイデアの所有物であると言わんばかりに彼を受け入れたのだ。



“竜”の視界はイデアの視界となり、その巨体から撒き散らす炎は彼の意思になり、その全てをイデアの前に差し出す。



そして、この“竜”の根源にあったのは──。























覚醒。やけに生暖かい空気が自分の身体を包み込んでいるのがイデアには判った。
やけにかったるい。肩が重く、喉はカラカラで、今の気分はお世辞にもいいとは言えない。
とりあえず何か硬いものに突っ伏していた頭を持ち上げ、軽くブンブンと左右に振る。
それだけで頭の中を満たしていた眠気は大分減少した。しかし、それでも胸の中にある違和感はまだ消えない。



頭を動かし、辺りをキョロキョロと見渡す。無数の天まで届きそうな巨大な本棚と、その中に収められている整理された資料の数々。
そして付近の椅子に腰掛けた何人かのローブを着込んだ人物は夢中でなにかの資料を読み込んでいた。


あぁ……ここは図書館か。ようやくイデアは自分が何処にいるかを思い出した。
そして自分が何をしていたのかも。



「……はぁ」


一気に息を吐き、次に新鮮な空気を吸い込む。気分が大分楽になった。腕をぐっと頭上に伸ばし、体をほぐし、リラックス。
これで大分気分は楽になった。少なくとも思考ははっきりとした。


そして彼は頭の中にある情報を一つ一つ分解し、順序良く整理していく。


なに、慣れれば簡単な作業だ。簡単に言ってしまえば、これは状況整理と対して変わらないから。
冷静に、粛々と、イデアは何故か覚えているあの“夢”の中の出来事を整理していく。



頭に焼きつけられた様にハッキリとイデアは“夢”の光景を想像の中で再現していく。


荒れ果てた荒野に、無数の飛竜、鎧兜で完全武装した何万という人間の軍隊。そしてあの奇妙な“竜”……。
全てが実体験した記憶のように鮮明に思い出すことが出来た。あまりに鮮明すぎて、恐ろしいぐらいだ。


まるで、全てが“夢”ではなく、現実の光景のようだった。あの戦闘は実際にあったものと言われても、イデアは納得できた。



──しかし、あれが実際にあった光景ならば、人は随分と負けているな。
  まるでトンボ取りのように次々と殺されてたじゃないか。




うーん、と、イデアが考え込む。あの戦闘に対しての感想はとりあえず頭の隅に追いやって、一番大事なことを考える。



即ち、あの“竜”は何なのか? という問題だ。いや、実際は答えは得ていた。
ただ、何とも判りづらかっただけだ。
“何”なのだろうか? あの“竜”は。



イデアはほぅと小さく息を吐き、両手を膝の上で組んだ。少しでも神経を集中させたかった。



本当に不可解であった。あの夢でイデアが得た答えは不可解極まりない。
今のイデアには、理解不能で、納得できなくて、そして、どうも腹ただしい事だった。



夢の中でイデアが感じた“竜”は……あの“竜”の存在の根源にあったのは……。





イドゥンだったから。イドゥンの【エーギル】をあの“竜”から感じたのだ。






だからこそ訳がわからない。
全長50メートル程度の巨大な殺人火トカゲ兵器と、あのイドゥンに接点が全く見当たらない。


あんな……あんな、戦闘兵器みたいな“竜”と、イドゥン、一体何の関わりがあるというのだ?


あの無邪気に笑って、リンゴをこよなく愛し、馬に変なあだ名を付けて振り下ろされたり
意味もなく自分を抱きしめたり、遊戯版でボロ負けしてへこんでたりしていた彼女とあの“竜”は一体どんな関係が?



…………。



何気なく腕を胸元に突っ込み、その中にあるものを掴んで取り出す。
取り出されたのは紫色に薄く発光する煌びやかな一枚の鱗。かつてイデアがイドゥンから剥ぎ取ってしまい、そのまま貰ったものだ。


あの時は鮮やかな金色だったのだが、今は紫色の光を放っている。禍々しくて、綺麗で、悲しい紫色を。
ソレのツルツルした表面をそぅっとイデアが撫でる。壊れ物を扱うかの様に、慎重に、そぉっと。


たった1個の鱗。竜の鱗と言ってもたった1つ。竜族にとって何とささやかで価値のないものだろうか。



が、今のイデアにとってこの鱗は宝であった。イドゥンを唯一感じれる至高の宝。
この小さくて、ツルツルの鱗はエレブに存在する全ての宝をあわせたほどの価値を持っている。
この鱗だけがイドゥンという姉、イデアの家族は確かに居たという証であり、繋がりだ。
時々、一人ぼっちである事に耐え切れなくなったイデアはこの鱗を見て、気分を入れ替えるのだ。



あの彼女と過ごした時間は決して夢なんかじゃなかったと思うことが出来る。
楽しかった時間は確かにあったのだと納得できる。


カチャカチャと音を鳴らしながら、鱗を掌で弄び、イデアは言った。
ありとあらゆる感情を込めて。



「姉さん……? 貴女は一体、どんな厄介ごとに巻き込まれたんだ?」


実際、彼にはもう判っていた。そうとも、心の奥ではもう判っていた。
この数週間という時間で世界の“何か”が変わったことを。そしてイドゥンの身に“何か”が起きたということを。
この変質した鱗、そして自分の中にある奇妙な違和感、更にあの“竜”……恐ろしい“何か”が起きている。




が、自分はそれに対して何も出来ない、弱いから。
だからこそ力が欲しい。想いや愛だけでは誰も救えないのだ。その事実をイデアはこの数週間で嫌と言うほど味わっていた。
圧倒的な力の前には力のない存在など蹂躙されるしかない、イデアは蹂躙されるのはごめんだった。自分は踏みにじられるぐらいならば、踏みにじる側になるほうがいい。



“誰にもイドゥンを奪われてたまるものか。姉さんは、俺だけの姉さんだ。俺だけの家族、俺を愛してくれる唯一の家族だ”



……。


まぁ、どんなに偉そうな事を考えても所詮は子供の強がりの枠を出ないわけだが、少なくとも今は。



「今は、判らない事を考えてもしょうがないか……」



自分に言い聞かせるように呟き、イデアが本に眼を落とす。
びっしりと刻まれた竜族言語は見ているだけで頭が痛くなりそうだが、イデアは文字の羅列を噛み付く様に睨みつけ、読み漁る。
結局のところ、どれほど叫ぼうが喚こうが、今のイデアに力が足りないのは純然たる事実であり、それ故にイデアがやるべき事は決まっていた。


既に殿での生活の最中に魔術の基礎を完成させていたイデアが今目指しているのは更なる高みだ。
恐ろしいほど高い山の山頂を目指して登っている。もしも道を踏み外し、“堕”ちてしまったら、まっているのは植物人間状態という。


イデアは、古代の竜の知識を己のモノにしようとしていた。ナーガが行使していた術の数々を手に入れようとしているのだ。
効率的な術の発動方法。転移の術。モルフの製造。エーギルを用いたマインド・コントロール。あげればキリがない。


現在必死に吸収している竜の知識に比べれば、今まで習ったことなど子供のお遊戯のようなものである。


いや、少し語弊があるか。あの殿での魔道を習った十数年間は、全てが今のためにあったのだ。
イデアは真価を問われていた。そして十数年の努力の結果を求められてもいた。



これこそが。こここそが。いまこそが。その全てを発揮する場だ。
それが無理ならば、イデアは大人しく部屋の隅に引きこもっているべきだろう。



十数年に渡るナーガの教育と、自分の努力で身につけた言語能力、そして魔道の知識を駆使し、
イデアは難解な古代の竜の文字らしきものの意味を直接“感じ”て、次にソレを一度バラバラに分解し
自分の判りやすい情報に組み替え、頭の中に保存していく。



言葉にしてしまえば随分と単純で簡単そうに見えるが、これが中々根気のいる作業なのだ。
本を丸ごと一冊翻訳して、その全ての内容を暗記している、と言えば判るだろうか? 



「………」


黙々とイデアが本のページに眼を通していく。

イデアはこの面倒な作業を途中で投げ出す気など全くなかった。
力を手に入れるのを諦める気など欠片も存在しない。


あの夢で見た人間の軍が彼の邪魔をしても、竜殺しの英雄が眼の前に立ち塞がろうが
このエレブの全てがイデアの邪魔をしようが彼は止まるつもりはなかった。


彼にあるのは単純で、なおかつ至高の目的のみ。



強くなり、イドゥンを助ける。



なんとしても。



そしてもう1つの目的。



もしもイドゥンが……考えるのも恐ろしいが、死んでしまった場合は……このエレブを壊してしまおう。
そう、イデアは密かに決心した。







あとがき



皆様、こんにちわ。
今回はイデアの心理パートです。


予定では次回で戦役は終わりに向かわせたいですね。
……出来るかなぁ。


それとFEなのに戦闘が全くないと、今更気がついた次第ですw
なるべく早く入れたいです。





[6434] とある竜のお話 第二部 二章 3 (実質10章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/11/06 23:30
ナバタの砂漠に建造された『里』──そこに作られた緑豊かなオアシスの外れ。


緑色の草花の絨毯の果てにあるのは何処までも黄色い砂の世界だ。
砂と岩だけで構築された死の世界。太陽光が無慈悲に降り注ぎ、全ての生物の水分と命を干乾びさせていくナバタ砂漠。
熱い。どこまでも熱い。正に焦熱地獄という言葉を体現したような光景。




ミスル半島の大半を覆うその地獄の世界をイデアは一人、砂の上に佇みながら見つめていた。
ジリジリと太陽光が焼き付けてくるが、彼にとってコレは特に問題はない。
常人なら1時間程度で脱水症状に襲われるような環境に居ても、イデアにはそれは問題ではなかった。
生物として人よりも、比べるのが馬鹿馬鹿しくなるほどに優れた存在である竜……その中でも超越種である神竜である彼の肉体はこの暑さには、既に“適応”しているのだ。




今のイデアに暑さを感じせたいのならば、煮えたぎる溶岩でも持ってくるといい。
そしてソレをぶっかければ、イデアもさすがに熱いと感じるだろう。まぁ、どうやって多量の溶岩を持ってくるかが第一の課題になるだろうが。

よってイデアはこの熱砂の海の中でも、汗一つたらさず、その表情は涼しいものだ。
事実イデアはあまり暑さを感じていない。この数ヶ月で完全に、この猛暑に“適応”……本人は慣れたと思っている。
結局のところ、本人がどう思おうが、結果は変わらないので、イデアの認識に意味はないか。




さて、ナバタの里の長でもあるイデアがこんな所にいるかというと。
決して彼はナバタの里から逃げてきた訳ではない。もう、そんな子供染みたことをする時間ではない。駄々を捏ねる時間は終わったのだ。
今の彼にはやらなくてはならない事がある。それには里の力が必要不可欠であり、長としての地位を投げ出すなど論外だ。
権力はわかりやすくて、最も大きな力の一つなのだ。利用しない手は無い。



それにあの図書館の資料は、形式的に見ればイデアの所有物と言っても過言ではない。
イデア自身は一度もそういう風に考えたことなどないが。いや、そういう実感が沸かない、というべきか。


事実、彼は図書館の資料を里の者に完全に公開している。
それと更に追加するなら、竜族は個人が書いた本を完全に写生した後、あの図書館へ納本することを義務づけていたりもする。
ありとあらゆる資料を網羅する情報の大規模な宝庫の作成と、、それの永久的な保存を図るのが目的だ。


事実。あの場所は財宝の山など霞んで見えるほどの、本当の意味での“宝の山”だ。



しかし、知識の溜まり場の資料の写生やら、持ち出しなどには長であるイデアの許可が必要になるし
何人かのお人よしな魔道士は、危険な書物に手を出そうとする者に注意を投げかけることもあるが。




彼の数キロほど背後には砂漠の熱によって蜃気楼の如くグニャグニャに歪んでこそいるが
そこには緑豊かな大森林地帯と農耕地帯の鮮やか深緑色が広がっており、そこから無数の生命の息吹とも思える清涼な風が吹きすさび、イデアの金糸の髪を撫でやる。
イデアの現在の位置は里からそう遠くない場所だ。背に翼を出せば、5分も掛からずにこれる場所。言ってしまえば、ここは近所。


大体これぐらいの距離ならばナバタの里を覆う隠蔽用の結界の外にも出ないし
それこそ【エレシュキガル】などに代表される大禁術レベルの大きな力を使わない限りは外の人間にも気が付かれることはない。
そも、一体どんな発想を持っていれば、死の世界であるナバタ砂漠にそこそこの規模の街とオアシスを作って暮らしているなどと考える?



話を戻そう。



ここは力試しをするには十分な距離だ。これほど離れていれば里に被害が出ることもないし、外に力の行使によって生じた余波が漏れることもない。正に理想の状況。
そう、今イデアがここに立っている理由は1つ。力試しだ。この数ヶ月間の努力の成果を、その結果を直接自分の眼で見てみたいが故に彼はここにいる。



手加減はする。外の世界で今現在戦争をしている人間に見つかったら目も当てられないことになってしまうし、それはイデアの望むことではない。





「…………」



イデアが何かを握りつぶす様に左手をグっと握りこんだ。いや、彼自身の感触では『掴んだ』というべきか。
そう、イデアは掴んだのだ。彼の眼前にある赤茶色をした無骨な岩を。そして彼は掴んだものを持ち上げた。



ゴゴゴという不気味な、巨大な生物の唸り声にも聞こえる音が砂漠に幾重にも響いた。
聞き様によっては死ぬほど腹が減っている飛竜の腹の音に聞こえなくも無い音だ。
同時に大量の、それこそ人間の小さな集落一つぐらいなら容易く飲み込めそうな圧倒的な
量の砂が背筋に寒気が走るほどの勢いで零れ落ち、周囲に擬似的な砂の嵐を作り上げる光景は圧巻だ。




岩が、持ち上がっていた。地中に埋まっていた部分も含め、根ごと毟り取られた雑草の様に丸ごと引っこ抜かれた巨大な岩から砂が絶え間なく血液のように滴っている。
背丈10メートル近い岩が宙を浮いている光景は第三者から見れば何処か神々しくもあり、恐ろしくもある。



岩にはよく見れば、薄い金色の光が纏わりついていた。イデアの手足の延長線上とも言える『力』が。


イデアにとって、これは素晴らしい事であった。それでいて、何処か物足りない。不満ともいう。
そう、足りないのだ。たかが大きさ10メートルの岩を持ち上げた程度では、全然足りない。
かつて小さな杖一つ持ち上げるのに苦労していた時から、これでは全く進歩していないではないか。



故に彼はもう少し力を使った。彼が持っている力の総量から見れば、微々たる物だが。



イデアが更に手を強く握り締める。その爪が白い肌に食い込むほどに強く。
同時にこの哀れな実験体の岩に向け、更に多量の『力』を破壊の意思と共に送り込んだ。



輝きを増した金色の光と共に“場”が神竜の力で捻れ、蜃気楼の様に赤茶の岩の姿が一瞬だけ虚ろになり、次いで岩は粉々に破砕する。
全てはイデアの望んだままに。粉々だ。岩は粉々になった。造作も無く。
背丈が10メートル以上もあり、金属を多分に含んだ頑強な岩がイデアの意思一つで地中から引きずり出され、バラバラになったのだ。
一つ一つが幼児の小指程度の大きさに砕けた岩の破片が雨の様に降り注ぎ、ソレラに多分に含まれた金属が日の光を反射して輝き、虹のような光の橋を作り出す。



ソレを何処か他人事の様にイデアは見ながら思った。足りないと。
ドス黒い隈が谷の様に刻まれた眼が不気味に輝く。


足りない。イデアはまだ満足してなかった。
『力』を使えば使うほど、胸の奥は熱くなり、底知れない力が湧いて来るのをイデアは感じ取っていた。


イデアの心臓のある場所には心臓の変わりに太陽があり、そこから無限に『エーギル』という名前の光と炎が噴出し、爆発し、イデアという神竜に永続的に力を与えている。
そしてその太陽を燃やしている薪になっているのは……イデアの感情だ。もっと言えば、イドゥンへの想いと、ナーガへの怒り。



知識というのはその太陽から吹き出た『力』を増幅させるか、もしくは方向性を与えるものだ。
『エーギル』という純粋で、根源的な力に対する道しるべとも言えるだろう。


イデアは知識をそういうものだとこの数ヶ月で理解した。知識は力であり、力の補助道具であり、そして『力』そのものだと。
知っているという事は力。知らないという事は弱い、罪であるということを。





「……」




イデアが自分の周りに散らばった岩の破片を見渡す。
何百、何千という年月も砂漠の仲に在ったのに、たった今イデアに砕かれたしまった岩の残骸を。
もう1つ、イデアはここでやりたい事があった。それを今から実行する。
これは……里でやったら少々危ない。



「さて、と……できるかな?」



竜石から力を引き出し、その背に4枚の翼を降臨させる。
全身に先ほどまでとは比べ物にならないほどの圧倒的な力の濁流を感じながらイデアはフワリと軽く浮き上がった。
体内に収まりきれずに漏れ出た力が黄金色の電の様な形状で彼の体の地表を這い回り、枯れ枝を踏み潰した様な耳障りな音を立て、空気を震わせる。




そのままイデアは四肢と翼を小さく丸め、母の子宮の中の胎児のような姿を取り──。



「っ!!!」



渇と共に、一気に体内のエーギルを破壊の力として、怒りと共に周囲に開放した。
否。開放などという上品なものではない。ぶちまけたのだ。イデアは怒りを力に乗せて、周囲にぶちまけた。



何処までも純粋で、凶悪な黄金の奔流が“場”を軋ませ、世界が声のない悲鳴を上げる。
長い年月と共に積み上げられた砂山はごっそり削り取られ、辺りに散らばった赤茶色の岩の欠片は白い灰の様な何かへと変化。
イデアを中心に発生した破滅の黄金の球が全てを等しく飲み込む。



砂の中に潜んでいた蟲や爬虫類はその衝撃波に飲まれ、全身を一瞬で焼き尽くされ白い灰となり、その灰さえも黄金は無慈悲に完全に奪い去る。




波動。神竜の波動。これは正にそう呼ぶに相応しい。




暴力的な黄金の放射は、イデアが消し去りたいもの全てを吹き飛ばして、余りある威力を誇る。
が、これは余りにも禍々しい。全ての命をまるで刈り取る光の発現でもあった。



かつて生き物であったモノの成れの果てである白い灰がヒラリヒラリと舞い落ちてくる様はまるで雪のよう。
砂漠に雪が降っている。



翼を一回大きく羽ばたかさせ、この雪を降らせた元凶であるイデアが砂の上に降り立つ。
そして自身が起こした現象をそこそこの満足と共に見やった。



「はは……」



周囲数十メートルは完全に抉られ、巨大なアリ地獄の様な形状に改変された地形を爛々と輝く紅と蒼の眼で見て、イデアが浅く哂う。
白い灰が雪の様に砂漠に降り注ぐ光景というのは中々に風流だな、と思いながら。




溜まりに溜まったストレスは今しがた全て波動として排出したので、頭の中は冷静だ。
そして、もう1つ。彼はこの地形を見て、判断を下した。



駄目だ、と。

まだ。これでは駄目だ。これでは良くて、戦術程度の力。もっと大きな、もっと強い力が欲しい。それこそ大陸の1つや2つ軽々と潰せる程度の。




イドゥン……もう数ヶ月も会っていない愛しい家族。心の底から生きていて欲しいと願う姉。


だが、もしも……この世界の人間が彼女を殺してしまった場合、その場合はその取り返しの付かない愚行に対する報いを与えなければならない。
今、イデアが欲しているのはそのための力でもある。言ってしまえば復讐のための力。



イデアはそろそろ精神的に限界が近かった。
数ヶ月も姉に会わず、それでいて戦争は継続されており、そして変わった鱗。全ての要因がイデアの心を拷問道具の様に締め付けあげる。





幾ら本を読もうが、長としての仕事に集中しようが、終いには絶えず声が聞こえてくるようになってしまう。
冷たい、冬のイリアの風の様に、無慈悲で、淡々と真実を声は告げる。恐ろしすぎて、考えたくも無い可能性を呟く。
声はイデアの頭蓋骨の中身を直接噛み締めるように囁くのだ。



──彼女は死ぬかもしれないぞ? これは戦争なんだ。お前も見ただろう? 戦争で死ぬのは当然のことなんだ。
  彼女は死ぬんだ。お前が一人だけ安全な所で暮らして、その間に彼女は死ぬんだ。
  お前があの時気絶なんかしたから、イドゥンは死ぬかもしれない。





この『里』は確かに安全だ。それは保障できる。
半島の大半を埋め尽くす広大な不毛の大地に、全ての命を拒絶する砂嵐の壁、そして超高度な隠蔽結界。この3つの要素が里を完全に覆い隠してくれる。


それ故にイデアはイラついている。幻聴の言っていることを否定できないのがとてつもなくイラつく。
あの時自分がナーガに歩み寄りさえしなければ……。




自分だけが安全な所に居て、イドゥンは“何か”が変わってしまっている。
それを考えるとイデアは恥ずかしくて、それでいて惨めでたまらなくなる。
自分だけがのうのうとこんな所に居ることを。
本来なら彼女が座るべきであろう長の椅子に座っていることさえ、時々間違いなのでは? とさえ思えてしまう。




が、これらに足を引っ張られるのは許されないことだ。うじうじ悩んで、延々と同じ事で悩み続けるのは愚者だ。
故にイデアは時折こうして、溜まりに溜まった混沌な感情を力と共に吐き出している。でなければ、やっていられない。




それに、いい進展もある。イデアとて遊んでいたわけでないのだ。
まだ確証こそないが。姉についてイデアは少し調べてみた。正確には姉の“変化”について。
紫色の鱗。夢で見た“竜”の群れ。それらは恐ろしいまでに一つの存在と一致した。まだ確証こそないが。




意外なまでに呆気なく、候補は出てきたのだ。
これらの要因は一つの予想を搾り出すに至った。





【魔竜】


かつての始祖竜と神竜の戦争の際、始祖竜達は深遠の闇の力を用いて数え切れないほどの異形を生み出し、それらを操り己が兵にした。
それに対抗するため神竜族の一部の者は神竜の王の令と自らの意思で改造を施し魔竜となり、新たな力を獲得して始祖竜とその眷属である異形達と戦った。


【魔】竜と呼ばれこそされど、この竜の本質は神竜である。魔竜が居なければ神竜族の勝利はなかったのかも知れない。
しかし魔竜は全てが戦で始祖竜と相打ちになり、戦死してしまったため今では記述のみが残る。




これだ。以前イドゥンと一緒に読んだ書物をもう一度発掘して読んでみたところ、こう書いてあったのだ。
あの時の光景はよく覚えている。この先のページに書いてある馬を見て、彼女は外の世界に行きたいと言い出したのだから。




【改造を施し魔竜となり、新たな力を獲得して始祖竜とその眷属である異形達と戦った】




特にイデアの興味をひいたのはこの事柄が書いてあった文節である。


“改造”はイドゥンに起きた変化。“新たな力”はあの“竜”についてのことなのではないか?

まだ憶測の域をでないが……この予想は恐ろしく適切で、状況にあっていて、それでいて……現実味がある。


ナーガが率いていた勢力が根こそぎ居なくなったとあれば、只でさえ絶対数がそこまで多くない竜の数は更に激減するだろう。
その減った数を埋め合わせるために、姉さんは……何かされた? 魔竜になったのか?


が、魔竜云々は正直どうでもいい。神竜だろうが、魔竜だろうが、イデアは彼女を愛している。これからもずっと愛し続けるだろう。
一番の問題はイドゥンが果たしてこの戦争を生き延びれるかどうかだ。それだけが怖い。幾ら信じても、声は聞きたくない事柄を囁き続ける。





──彼女は死ぬかもしれない。お前のせいで。




ぶんとイデアが頭を大きく振って、うざったい声を弾き飛ばした。コレは耳障り極まりない。
いつからこんな声が聞こえるようになったのか、思い出したくも無い。



姉さんはあれでも竜だ。並大抵の事では滅びるわけがない。


では、その並大抵の事が起きたらどうする?




この問いへの答えは決まっている。
報いを与えるだけだ。容赦なく。このエレブを完全に消してやる。



「はぁ……」


もはや癖になってしまった溜め息を吐き、怒りと言うガスを抜いた頭で考える。外の戦争はどうなっているのだろうか、と
背に翼を出し、そのまま里へ向けて飛行を開始。よほど遅く飛ばなければ3分程度で里には着く。


キラキラと太陽光を反射して輝く砂の海の上空を飛びながら、イデアが地平線の果て──東側をその隈が色濃く刻まれた眼で見る。
ここから東に何千キロも先にあるベルンでは何が起こっているのかが気になる。



あれから夢は一度も見ていない。理由は簡単だ。寝ていないから。
イデアはあの“竜”の夢を見てから数ヶ月、一度も眠っていない。
眠気は最初は感じていたが、より強くなった力への渇望がそれに勝った。
そして彼は、何時の間にか眠りという行為を必要としなくなるに至ったのだ。





代価として、彼の眼の下には常に深い隈が浮かぶようになり、紅と蒼の眼が炎の様に爛々と輝くようになったが。
戦争で家族が危ないというのに、それでいて自分にやれることがあるというのに、貴重な時間を眠ってなどいられない。







天空から見ると、規則正しく建物が並んでいるのが判る里の全景が、面白いほどの速さで大きくなっていく。



改めてみると、芸術的な街だ。規則正しく、秩序を感じさせ、それでいて清潔。
住みたいなと第一印象で思うことが出来る。ありがちに言ってしまえば、いい街だ。



自分が治めることになった街。竜と人と、それの愛の結晶である竜人が暮らすある意味での理想郷。
昔イドゥンの言った「仲良く暮らそう」が実現したここを自分が治めることになるとは、皮肉な運命を感じざるを得ない。


最も、彼女がここに来ていたら、彼女がここを統べることになっていたのだが。
本来のイデアは権力にはほとんど興味は無いのだ。精々あったらいいな程度の認識である。


今は権力が色々とあったほうが便利だから、長をやっているというのが本音の一つ。
図書館の資料を読むに当たって、長の権限を使って本棚の奥深くにある危険な術の書物を読むことさえ出来るのだから。


まぁ、まだあれらを読むには早いと、結構年を取ったお人よしな魔道士にイデアは注意されて今はまだ手をつけてはいないが
いずれあれらに記された知識を吸収する気だ。そうすればもっと強くなれる。


それにしても。あの老人の忠告の内容は一言一句ナーガと大して変わらなかったな、とイデアは思い出す。



──知識というのは魔物です。姿もなく形もない、だがいつも魔道士についてまわる魔物です、その魔物を飼いならせる力をまだ貴方は持っていない。
  どうか、おやめください。まだ貴方にはこの先の知識は早すぎる。



あぁ、判っている。イデアは苦々しく思いながら胸の中で答えを返す。
そんなこと、10年以上前から何度も“とても強くて賢い王様”に教えてもらったよ。















雑念を振り払い、飛ぶのに意識を集中させる。少しだけ飛行の速度を上昇させるため翼を力強く一煽ぎ。
エーギルを込められ、更なる力強さと輝きを増した翼はイデアに更なる速力を与えた。


いい気分だ。空を飛んで、風を全身に浴びている時だけは嫌なことは全て忘れられる。
姉がいないことも。ナーガが彼にした酷い裏切りも。自分自身の力の成長の遅さへのイラつきも、イドゥンの“変化”も、全てが風の彼方に置き去りに出来る。




が、直ぐに現実はイデアに追いついた。
イデアの感覚の一部は、前方のそれなりの大きさの建物の中に何人もの竜と人間、そして少数の竜人がいることを捉える。
それともう1つ。とても大きなエーギルの持ち主もその近くにはいる。このエーギルの波長をイデアは覚えていた。あの時、里の外縁部の森林で出会った女性のものだ。


地竜メディアン。神竜、始祖竜、魔竜、そして暗黒竜に次ぐ力を持った種である地竜族の女性。そして今のイデアよりも遥か高みに居る竜。
女性なのに何処か男っぽい印象をイデアはこの竜に抱いていた。まぁ、あの大きな胸部を見れば一発で誰が見てもメディアンは女性だと判るだろうが。



何をやっているのだろうか? 
部屋の中に集まっている人間と竜、そして竜人はエーギルの大きさから見ると、子供のようだ。大人の力の波動はもっと大きく、荒々しい。



……? ますます疑問だ。本当に何をやっている?



とりあえず、少しだけ速度を落として建物の屋根に降り立つ。背の翼を収納し、注意を下層のメディアンらに向ける。
最初はおぼろげにな、次第にはっきりとした声がイデアの聴覚が捉えた。



「……せん……ここはなんて……の?」



「これは……って読んで……と書く……」



「せんせー……ここは……」



せんせー……? あぁ、先生ね。なるほどなるほど。
直ぐにイデアが得心がいったと頷く。そして思い出した。そういえば、子供たちに文字の読み書きや算術を教える“学校”を作ったのだった。
つい数ヶ月前の出来事じゃないか。



そこの講師役としてメディアンが選ばれたのだろう。
確か、そんな内容の書類に眼を通した覚えがある。
この頃本ばかり読み漁っていたから、すっかりそのことは記憶の片隅に追いやられていた。


少しだけ、どんな風に抗議しているのかが気になり、イデアが再び意識を集中させ、子供らとメディアンの会話を聞き取ろうとする。
傍目から見れば、怪し過ぎる行動だがイデアはそれには気が付いていない。


が。聞こえない。何も。いきなり完全に静かになったのだ。先ほどまでの部屋の中での生徒との楽しいやり取りの一切が聞こえない。
不審に思ったイデアが更に意識を鋭く集中させ、下の階層の中の音を聞くだけではなくその中まで具体的に“見よう”とすると──。 




「どうしましたか? イ・デ・ア・さ・ま?」


聞き覚えのある、はきはきとした口調の女性の声がイデアの鼓膜を揺らした。
それもかなり近くで。彼の長い尖耳にその生暖かい吐息が掛かるほどの距離から。



「いっぎゃぁあああああああ!!??」



全ての意識を屋内へ向けていたイデアは完全に不意をつかれ
子供らしい、それでいて面白くもある無様な叫びを上げる。


全身を稲妻が走ったように鋭く跳ねらせ、メディアンとの距離を一瞬で離す。
そして彼女にその細い両腕の指先を鍵づめの様に曲げながら向けて──その指の先端から青紫色の稲妻が迸った。




【サンダー】



理魔法の初歩に習う術の一つだ。
極限定的ではあるが、天候をほんの僅かだけ精霊の力を借りて弄くり雷を任意の場所に落とすという魔術。


その威力はやはり雷というだけあって、恐ろしいものがある。少なくとも魔力に抵抗力の無い生身の人間が受ければ、炭になること間違いなしだ。
純粋に威力と範囲、そして恐ろしいまでに射程を延ばした高位の同種の術には【サンダー・ストーム】や【トロン】などがある。


が、イデアは少々違った過程を経て、この術を発動させていた。いや、サンダーという術に少しだけ自分なりにアレンジを加えて使っているという方が適切か。



彼は精霊と対話していなかった。
存在そのものは感じ取れても、声は聞こえない彼に精霊というのはイデアにとってあやふやな存在であり、どうにも信用できない存在。
一応術の行使そのものは正規の方法でも出来る。しかしそれでもイデアは不安になった。いつか精霊が自分を裏切り、術を発動させないのではないか? と。


ならばもっと効果的に。もっと信頼できるように。イデアはこの術を凡用性を追求して、改変させた。
それもこれも、この術が最下級の術だから出来たこと。全てにおいて基本というのは千差万別の応用が利くものだ。


この改変された術に書はいらない。それの役目はイデアの体そのものが果たす。
そもそも熟練の魔道士は高位の術を使う時ぐらいしか書は使わない。もう、そんな補助道具がなくても普通に術を行使できるから。



体内を満たす【エーギル】を魔力に変換し
ソレに攻撃というイデアの意思と天地を揺るがす雷鳴というイメージを載せることによって魔力は稲妻に変換され、イデアの指先から飛び出る。



威力も効果の範囲もイデアのさじ加減一つで思いのまま。
余分な詠唱もいらないし、魔道書も不要。それでいて稲妻の速度はありとあらゆる矢よりも速い。
もちろん低位の術なので魔力もほとんど食わない。



実に便利な術だ。事実、イデアはこの術をかなり気にいっている。



まぁ、さすがに威力や範囲に限界もあるが。所詮は最下位の魔法の一つ。言うなれば初歩の初歩の初歩の術である。
それでも神竜の圧倒的なエーギルの持ち主から放出される【サンダー】は人間一人を煙の上がるボロ布に変える分には申し分ない威力を誇るが。



そして今回、この術はメディアンに向けて放たれていた。しまった、とイデアが思った時には遅い。
次の瞬間、メディアンは全身から煙を上げるこんがりと焼けた死体に…………ならなかった。



彼女は自分に迫る青紫色の稲妻に軽く片手の掌を差し出しただけだ。それだけ。
まるで子供がじゃれてポカポカと殴って来て、それを笑いながら受け止める親の様な、一種の余裕さえも持った表情で稲妻を見やる。


そして、全ての稲妻は彼女の女性として大きめな、しかしやはり何処か丸みを帯びた白い掌に吸い込まれ、あっという間に球状の魔力塊に変換されてしまった。


パチパチと紫電を放つソレをメディアンは。



「よっと」



クシャ。

そんな音がしそうな程容易く、まるで卵の殻を割るような気楽さで掌の中に収束させた魔力の塊を握りつぶした。
煙こそ少々あがっているが、握り潰した彼女の手には火傷どころか、傷一つない。


「……ごめん、少し気が動転してた。でも、いきなり声を掛ける貴女もどうかと思うよ?」


呆気なく自分の術が砕かれるのを見て、ほんの少しの苛立ちと、特に彼女に傷を負わせずに済んだという安堵をイデアは感じた。
本当によかった。びっくりして人を丸焦げにするなんて嫌だ。翌日の目覚めが悪すぎる。まぁ、もう寝ないが。



「申し訳ありませんでした。あたしも少々悪ふざけが過ぎました」



ペコりと頭を深く下げ、丁寧な敬語でメディアンは言う。
言葉や口調こそ丁寧なのに何故か少しだけ豪胆なイメージをイデアは彼女に対して抱いた。


それに、何か……彼女にこういう風に話されるのは違和感というか、何というか、むず痒い。もっと言うと似合わないのだ。
最初に出会った時のあの豪胆で大胆な、どこか男っぽい第一印象からすると、こういう彼女を見ると何処か騙されている様な気さえもした。


彼女の頭は下げられているため、表情は見えないが、もしかすると自分の様な子供に頭を下げるのを屈辱に思っているのかも知れない。
この仕草そのものも、もしかしたらただの表面的なものかもしれない。そういう風にさえ考えてしまう。
いや、それは考えすぎか。彼女が嘘や裏切りを嫌う性格だろう、というのは最初であったときの会話で何となくイデアはわかっている。



「いや、いいよ。言葉や態度ももっと砕けてくれていい。出来れば普段と同じにしてくれて構わない」


イデアが優しく手をふり、メディアンにそう促す。
事実、彼女の功績や持っている力の大きさを考えると、自分の様な名ばかりの神竜に敬語を使う必要などない。
そう彼は考えているのだ。最悪、彼女がその気になれば今の自分ではあっという間に殺されてもおかしくない。



「…………わかった。それで今日はどうしたのかな? まさか建物の上で行き倒れるわけないとは思うが……またリンゴでも食べるかい?」



クククと意地の悪い笑みを浮かべメディアンが言う。
まるでかわいい孫を弄っている様な心底楽しそうな表情で。


イデアの顔が羞恥で赤くなった。


考えなしに里を飛び出そうとして、空腹の余り倒れてしまいそのままメディアンに救出される。
なし崩し的に彼女の家で入浴し、料理をご馳走になり、挑発にのって強い酒を一気飲み。
そしてグルグルと廻る意識の中で気分の赴くままに何か色々と恥ずかしいことをぶちまけた事はイデアの中では黒歴史認定の印を押されていた。


それと同時に、いつか迷惑を掛けた彼女に謝らなければ、という思いもある。酔っ払いの相手はさぞ大変だったろう。
少なくとも自分が周囲に迷惑を掛けない『いい酔い方』をしたとは到底思えない。


「あ、あの時は少しばかり気が動転してたんだよ! ……でも、色々と迷惑掛けたみたいで、ごめんなさい」


謝罪の言葉と同時にイデアの身体は少しだけ萎んだように小さくなった。
少なくともメディアンにはそう見えた。やっぱりどこかで気にしていたのだろうか?



「いいって! アレを飲ませるように誘導したのはあたしだからね。なんにも長は悪くないさ。むしろ、本来ならあたしが裁かれるべきさね」



そこで彼女は一泊間をあけた。そして行動する。

ゆっくりと栗色の美しい長髪と共に深く頭を下げ、その身に纏っていた質素なローブの左右の裾をほんの少しだけ掴んで持ち上げた。
その動きが余りにも自然体でいて、それでいて美しかったため、イデアは何も言えなかった。

素直に綺麗という感情しか抱けず、それ以外の思いは全て頭の隅に追いやられてしまった。



「本当に、申し訳ありませんでした」



「…………判った。もう判ったから、謝らないで」


それしかいえない。まさか自分が謝られるなんて夢にも思わなかったから。
むしろ今思えば彼女は名前も何も知らない自分を拾い、食事や入浴場の提供さえも無償で行ったのだ。それのどこに非がある?



故に気がつけばイデアは命令とも取れる言葉を言ってしまっていた。
その言葉を待っていたと言わんばかりにメディアンの顔が綻ぶ。
笑顔もやっぱり何処か男性っぽい。イデアは素直にそう思った。


なんとも判りづらい竜だ。身体はともかく、内面がどうも読めない。
包容力が母親の様にあって、それでいて男性の戦士の様な覇気さえも感じる。
何ともチグハグだが、そうとしかいえないから困る。


エイナールの様にほわほわした雰囲気とは違うし、ナーガの様に何も見えない空虚さとも、勿論イドゥンの純粋さとも少し違う。
イデアが彼女について確実に判っているのは、この地竜は決して悪い奴ではないという事と物凄い力を持っているということだ。



「さて、今日は何でここに? 勉学の見学かい?」



さばさばとした口調は凄く聞きやすい。
少なくとも喉が潰れているような声を出すあの老火竜の声よりは。



「いや、単に少し気になったから来ただけ。特に用事はないさ」



そういって背に翼を出してイデアが飛び立とうとする。
事実ここに用はない。ただ単純に何故メディアンと子供らがここにいるか気になっただけで来たのだから。


そんなイデアに声が掛けられる。


「少し見ていったらどうだい? 何なら少し勉学を教えて行くってのもアリだよ? 
 他者に教えるという行為は、単純な復習と同時に、自分の理解も高められる……それに、少し、余裕を持つというのも大事だ」


メディアンがイデアの顔を見つめる。正確にはそこに刻まれた彼の深い隈を始めとする、彼の身体に現れた疲労と切迫を見ている。
気のせいか、彼女の紅い眼の中にイデアは心配そうな光を見た気がした。俺の身を心配してくれているのか?


ふむ。


イデアが少しだけ頭を左右に揺する。確かにこの言葉には一理ある。
余裕、余裕、余裕ね。今までのこの里についてからの自分は……お世辞にもあったとは言えない。



──姉さん姉さん、少しだけ、休んでもいいかい?



はぁ、とイデアが俯き、小さく溜め息を吐く。
僅かに残っていた小さな怒りの種火と、彼の全身を駆け巡っている狂おしいまでのイドゥンへの想いが少しだけ抜けていった。


抜け出ていったその感情をイデアは冷静に頭の奥深くに戻し、その中に慎重に保管する。
これらの感情は決して忘れてはいけない。失くしてはいけないモノだから。
特にイドゥンへの想いだけは絶対に失ってはならない。ゆえ、捨てずに厳重に保管した。


そう、これは少々の休止状態だ。
少しだけ、イデアは休むことにした。ほんのちょっとだけリラックスしてもバチは当たらないだろう。


イデアが年相応の、少年らしい笑顔を浮かべて答えた。
かつてイドゥンに向けていたモノと同じ笑み。



「判った。じゃ、今日は頼むよ!」



「そうこなくっちゃ! 子供達に長を紹介するよ!!」


がっしりとイデアの手を握り、そのままぐいぐいとメディアンは彼を引っ張り出した。
掴んでいる腕の握力はちゃんと痛くない程度の力に加減されている。



イデアは思った。あぁ、こういう強引な所は姉さんに似ているな、と。

昔、エイナールと一緒に湖に行った時の事を思い出しながらイデアは半ば引きずられていった。




















日が沈む時間帯。地平線の彼方に没する夕日は禍々しくもあり、それでいて恐ろしく綺麗だ。
幻想的とも言える光景。うっかり外の世界が戦争中だという事さえもこの太陽を見ていると忘れてしまいそうになる。


が、イデアはその太陽に何か、不気味なモノを感じていた。太陽だけではない。
足早に自分の部屋に戻っていく里の住人らにも、パタパタと木窓が閉められる音、ブーツで叩くとよい音を返してくれる石畳の通路
街の道を薄っすらと照らす石に刻まれた魔術的な文字、その全てが違って見えた。それも、よい意味ではない。


何もかも全てが安定しない。もっと言えば、イデアは嫌な予感を感じていた。
何かが起きる。決していいことではない何かが。かつてナーガに捨てられる直前にもこんな感情をイデアは感じた覚えがある。




胸の内、心臓に直接歯を入れられ、咀嚼されているかの様な不安と恐怖。それをイデアはまた感じていた。



唯一イデアが安心を抱けるのは繋いだ手の温もりと、その温もりを与えてくれる竜だけだった。
この両者はイデアの恐怖をやわらげ、その思考を冷静に戻してくれている。



今、イデアとメディアン、それと彼女の息子のソルトはメディアンの家に向かって歩いていた。
真ん中にメディアン、左右にイデアとソルトが手を繋いで歩いている。


メディアンの高い身長もあり、何も知らない第三者がこの光景を見たら仲睦まじい家族が歩いているといっても不思議ではない。





「今日は楽しかったかい?」



「うん! イデアさまがおもしろかった!!」



「それは何より」



楽しそうに母親の言葉に反応し、きゃっきゃっと笑うソルトにイデアが疲れを、ただしさっきまでの狂気的な
負の方向性しか感じないものではなく、いい意味での爽やかな疲れを宿した顔でやれやれと溜め息を吐いた。


本当に大変だった。子供達に群がられ、教えて教えてと尊敬の眼を向けられるのは思ったよりも疲れる。
あの純粋な眼、あの甲高い声、決して悪い感情こそ抱かなかったが、やはり疲れた。


子供の相手というのは疲れるものだ。
だが、彼らの底なしとも言える明るさからイドゥンを連想することが出来て、有意義な時間でもあった。

結局の話、イデアは子供に物事を教えるという行為を楽しんでいた。
服の裾をつかまれてグイグイと引っ張られるのも、左右で色の違う眼を興味深そうに眺める輝く顔の数々も、全てが何故か新鮮に感じられた。


いや、新鮮なんだろう。
確かにコレは始めての経験だった。愛情でもなく、忠誠でもなく、純粋な尊敬という感情を向けられるのはイデアは始めてだ。
今までそういう感情を自分に向けられたことなどないイデアがそれに何を感じたかは判らないが、決して悪い感情は抱いてないだろう。



だからこそついつい時間を忘れてしまう程に熱中してしまった。
気がつけばもう夜になる時間帯。極寒地獄がやってくる時間はもう間近だ。


そして、尊敬という美酒を煽り、酔っていたイデアが酔いから覚めて次に感じたのは、また不安と恐怖。
理由などわからない。だが、不安と恐怖だけが今のイデアにはあった。


怖い。また何か起こるのか? 何が起こる? また状況に流されるのか。


俯きながら考え込み、歩いていたイデアの手を、一回りも二周りも小さな手が握り締めた。
とても暖かい手。その手から命の脈動が確かに伝わってくる。子供というのは本当に、生命力に溢れている。


イデアが顔を動かし、その手の主、自分の顔を不安そうに握り締めているソルトを見た。
改めて正面から見るとメディアンには似ていない。
まず髪の色は紫色だし、何よりこの子の体内を血液の様に流れ、満たしているエーギルは完全に人間のもので、竜の力は一切感じない。



何故人間の子が、絶大な存在である地竜の子なのか? 疑問は多いが、それを指摘しようとは特に思わなかった。
イデアとて、ナーガと自分の関係をとやかく言われれば不機嫌になるだろう。それと同じだ。



「どうしたの?」



たった一言。しかしこの一言には様々な感情が含まれている。
恐らく、言った本人でさえ把握しきれない程の数の。


イデアは小さく笑って答えた。


「何でもないよ。お母さんと手を繋ぐといい」



やんわりとソルトの手を解き、ほんの少しだけ力を使ってメディアンの手まで持っていかせる。
直ぐにソルトは自分の手が勝手に動いているという今まで経験したことのない事柄に大いに興奮し、またキャッキャッと喜色満面の笑顔で母の腕に素早く抱きつく。
そんな息子の頭を彼女は柔らかく、壊れ物を扱うかのように繊細に愛情を込めて撫でてやる。
サラサラとした深い紫色の髪がメディアンの手の動きに合わせてサラサラと動く。





あぁ、うらやましい。


ふと、そんなことを思ったイデアが急いで頭を振った。何を考えているんだ自分は。
前の世界はともかくこの世界の自分に親などいない。親の温もりなんて欲して何になるというのだ。
そんなものは無駄だ。自分にはイドゥンさえいればよかったのだ。


ナーガは親なんかじゃ、なかった。




「イデア様」



「うん?」



返事をすると同時にイデアの頭の上に手が載せられた。
とても柔らかくて、暖かい、地竜の手が。



「竜の生涯は永い。これからも貴方は色々と大変な目にあうことは間違いないさ。
 でも、頑張りすぎるのは良くない。時には立ち止まって、周りを見渡すのも大事だよ。
 それに、まだ信用できないかも知れないけど、あたしは貴方の味方さ」


信頼はこれからの行動で勝ち取るさ、と続けながら大きく豪胆に笑う。
やっぱり男みたいだ。本当にこの竜は良く判らない。



「……………覚えておくよ」



逃げるようにメディアンから少しだけ離れると、ソルトに小さく手を振ってやる。
この後はまた図書館に……いや、今日は久々に少しだけ寝てみるか。寝れば少しだけこの不安と恐怖も薄くなると信じて。





「じゃ、ばいばい」



「ばいばーい!! また遊んでね! イデアさま!!」



ソルトにもう一回だけ笑顔を返してやり、イデアは自室へと向かい飛び立った。


















夜。砂漠の完全な夜だ。
その寒さはイリアなどの寒冷地帯に匹敵するものがある。
イデアは自室の窓から呆然と夜の闇に覆われた里の全景を眺めていた。
窓の縁に肘を付き、ただ何となく里の明かりを見ている。それと、天に浮かぶ真っ赤な月を。


紅い月は普段見ている月の数倍の大きさはあり、そこから放射される血のような光はまるで夕方の様に辺りを薄く照らしている。



嫌な月だ。あの日もこんな色の月が空を照らしていた。
恐怖と不安は結局、少しだけ眠ったところで消えることはなかった。


むしろ、先ほどよりも悪化している。落ち着かない。
ゆえ、イデアは気分を安定させるために自らが統治することにされてしまった里を見ていた。



──彼女は死ぬかもしれないぞ。



黙れ。お前はとっとと失せろ。
胸の奥底、頭蓋骨の中核、イデアという存在の根源から湧いて来る恐怖を握りつぶすように手をギュッと握り締める。
恐怖や不安など、何の意味も持たない。そう自分に言い聞かせる。
もしも姉さんが、亡くなってしまったら……その時は報いを与えるだけだ。



心臓の変わりに胸の内にある太陽が少しだけ大きく輝きを増した。もっというなら、脅威の到来を伝えたのだ。無意識に。
神竜の優れた直感。気配探知能力。膨大なエーギル。そしてイデアが飲み込んできた知識。その全てが警報をかき鳴らす。


イデアの不安と恐怖の答え、ソレは驚くほどに判りやす形で示された。






ピシッ。最初は小さく、一回。
更に続けて数回ピシッという氷を踏み潰すような音が不気味に世界に響く。


空間がまるで蜃気楼の様に歪み、向こう側に映る光景が滅茶苦茶に屈折を始める。
そして、真っ赤な空に皹が入った。まるでガラスを鈍器か何かで強く叩いたような皹だ。





「……?」




イデアが見間違いかと想い眼を擦る。まだ疲れているのか?空が割れるなど、ありえない。
そしてもう一回見やる。天空の満月を。


「なんだ……?」



しかし何度見ても結果は変わらない。
イデアの優秀な視力は眼の前の光景をありのままに捉える。
そう、巨大な月の輪郭が歪み、空に無数の『皹』が入っている光景を。
空が、割れかけていた。まるで過負荷を掛けられたガラスの様に。



ゾクリと、イデアの背筋を寒気が走り抜けた。
酷く、いやな予感がする。あれはマズイ。



何だあれは? 一体何が起きている?




が、自分は動かねばならない事だけは判っている。あれが何なのかなど自分には知る由も無い。
今の自分に出来るのは補佐のフレイの意見を聞くことだけだ。
あれが何なのか、教えてもらわなければならない。
全身にエーギルを満たし、神竜である彼は自分自身でさえ驚くような素早さで走り出す。




イデアの胸元の鱗だけが、悲しそうに、それでいて美しく光輝いていた。


















イデアが部屋から居なくなったほんの数瞬後。
無数の『皹』が入った空は、『秩序』と共に音を立てて崩壊した。



後に『人竜戦役』と呼ばれ、語り継がれる事になる戦争のクライマックスが始まったのだ。
世界はイデアの存在など嘲笑うかのように激しく音を立てて崩れ、運命は急速に回り出している。






あとがき


皆さんお久しぶりです。ようやく更新できて安心しています。
それと何とか戦役編を畳めそうで安堵してもいますw



では、次回の更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第二部 三章 1 (実質11章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/12/09 23:20


これは、果たして“見ている”と言っていいのだろうか?
いや、そもそもこれは本当に現実に起こっている光景なのだろうか?
それとも、イドゥンが居ないことに耐え切れなくなった自分の精神が見せている身の毛もよだつ幻影?
自分は自分でも気が付かない内にそこまでおかしくなってしまったのか?



全く持ってイデアには意味が判らない。ありえない光景としか言いようが無い。
いつ見てもかつて『空があった』場所にある、ありとあらゆる色を混ぜたような淀んだ色彩を描く今の空を見ると、本当にこれが現実なのだろうか? と、疑いたくなる。
夜空が甲高い、ガラスの砕けるような耳障りな音と共に“砕け散り”エレブの秩序が崩壊した日から既に“数日経ったと思われる”
あの真っ赤な満月の夜を境に世界の全ては大きく変わった。それも悪い方向に、誰もが望まない方向に変わったのだ。


たった数日で世界は壊れた。それも眼に見える形ではっきりと。



まず、季節が無茶苦茶になった。
冬と夏が無茶苦茶に数時間単位でランダムに入れ替わり、岩さえも焦げ付く地獄の如き熱さから、一気にイリアの冬の如き刺す様な寒さが幾たびも襲ってくる。
もしもイデアが竜でなければ余りの変化の激しさに付いて行けず、倒れてしまっていただろう。



そして次に狂ったのは昼と夜だ。
太陽と月が同時に空に昇り、昼と夜の領域をまるで戦争でもしているかのように広めあい、互いが互いの領域を侵食し続けている。
そして夜でも昼でもない隙間の空間には無限に色を混ぜたような、狂った色彩が埋め尽くしていた。


その結果、今が昼か夜かの区別さえも付かなくなってしまった。それどころか、今がいつなのかさえも判り辛い。
何日たったのかさえも正確にはわからない。それにこの淀んだ色彩の空は見ているだけで引き込まれ、魂まで囚われるような、そんな危険な魅力を放っている。



そして変化は竜族にさえ訪れた。世界が壊れたあの日から、多くの竜族が体調不良を訴え出したのだ。
主な症状は重度の倦怠感と脱力感。命に別状はないとは言え、里に存在する大多数の竜がそんな症状に悩まされている。
イデアは特にそんな症状に悩まされることなどなかったが。


だが、フレイ曰く『イデア様がいれば特に問題はない。神竜は存在するだけで全ての竜に絶対的な加護を与える竜の世界を生み出す』だそうな。
以前、同じような言葉をイデアはエイナールの口から聞いたことがある。事実、この言葉の通りイデアは自分の力が『里』はおろか、ミスルの全域を覆っていくのを感じている。
イデアを中心に彼の神竜としての力が絶えず流出し続けている。全ての竜を育み、守護する世界がイデアより流れ出ているのだ。


侵食、という言葉では生ぬるい。そう、書き換え、上書きと言っても差し支えは無いだろう。


イデアの力はあの夜を境にたった数日で更に強大になっていた。まるで世界が壊れれば壊れるほどその力を大きくしていくかのように。
幼い神竜の胸の内にある“太陽”は日ごとにその爆発を大きくし、イデア自身でさえも時折恐怖を感じるほどの力を彼に提供し続けている。


つい先日までは到底不可能だろうと思っていたことも今ならば出来そうな気がした。そう、“大抵”のことなら。
しかし本当に残念だが、この大抵の中にはイドゥンを救うという事は含まれてはいない。
幾ら力が爆発的に、それこそクラス・チェンジ(覚醒)と言っても過言ではない程に膨れ上がっても、無理なものは無理なのだ。



それに今はやるべきことがある。イドゥンを探しに行くのはそれからだ。先ずは長としての責任を最低限果たさなければならない。




神竜としての彼の体と能力は竜族の危機を救うべく、異常なまでに活性化し進化と呼んでも過言ではない程に成長を続けているのだろうか?
イデアはこの身体を突き破る程の力の濁流が、いつか自分さえも滅ぼしそうな気さえもした。
これからはもっと『力』と上手く折り合いを付けて行かなければならない。力に使われるのはごめんだ。


まぁ、どちらにせよ、これは彼にとって好都合な変化だ。


そして最も大きなイデアにとっての変化、これが彼にとって最も重要な事だが──。


イデアはイドゥンの存在を余り感じ取れなくなった。今ではほんの小さな灯火程度の彼女の鼓動を聞くのが精一杯だ。
トクントクンと、一定のリズムで鼓動を刻む彼女の小さな心音と雀の涙程の彼女の『力』を認識するのが限界。彼女の持つ竜としての莫大な『力』と『存在』は
今はまるで何かの容器に密閉されたかのようにほとんど感じられない。



しかし、これはイデアにとって喜ばしいことでもあった。決して最善はないが、最悪でもない。
イドゥンは死んではいない。全くの無事ともいえないが、死んでいない。死んでいない。生きている。彼女は生きている。死んでいない。



イドゥンは生きている。

この事実はイデアの精神をこの狂った世界で安定させるのに大きな役割を果たしていた。


天が割れようと。昼と夜が入れ替わろうが、季節が無茶苦茶になっても
どんなに世界の法則がおかしくなっても、彼女が生きている。
それだけでイデアは正気で居られるのだ。




それに、このうざったい淀んだ色の空とも今日でお別れだ。
そろそろ普通の空が見たいし、一日に何度も季節が入れ替わるのも飽きてきた。




「本当に外の世界に感づかれはしないのか?」



里の中心にある巨大な竜を奉る殿──竜殿の頂上、山の如き高さの現在地から見えるのは規則正しく、まるで一種の芸術品の様に建物が並んでいる里の全景。
砂漠を駆け巡る猛烈な風をその身に受けながら、イデアが涼しげな顔で数歩後ろに控える老竜に問う。


イデアの後ろの控えるのはこの“秩序”の崩壊の詳細を知り、どうすればよいかイデアに教えた者である火竜フレイだ。
相変わらず彼は擦り切れた喉から、擦り切れた声を発する。
彼は神竜であるイデアの最も傍に居るため、秩序の崩壊による影響を全くと言っていいほど受けてはなかった。


いつも通り淡々と彼は言う。どこかナーガに近い口調で。


『ただ、世界をあるべき姿に戻すだけです。それに、外の者は今は、こんな辺境の地のことなど気に留めることなど出来ないでしょうしね』


異常気象という言葉が陳腐に思えるほどの天変地異。昼が夜に、夏が冬に、生が死に、人竜問わずありとあらゆる存在に影響を及ぼすこの大異変は
人間にも深刻な打撃を与えていることだろう。幾つもの大地震により都市は崩壊し、急激な環境の変化で食物は消えうせ、終末思想が跋扈しはじめてもおかしくはない。


里が大地震などに襲われていないのは、メディアンという存在が全力で大地に力を注ぎ込み、ありとあらゆる災害を押さえ込んでいるからなのだ。


が、イデアにはそんな事情は関係ないし、何よりあまり興味なかった。
彼が興味あるのは自身の力とイドゥンについて、それと少々ではあるが、里についてだけだ。


長になったからには責任は果たす。イドゥンの居場所を用意し、それを守る。
そして何よりあの恨めしいナーガから半ば無理やり引き継がされたとはいえ、自分でやると言ったからには最後までやり通す。
じゃないと、自分があのナーガに全ての意味で劣っているということになってしまう。



それに責任を自分の我侭で放り投げる男にイドゥンがどんな反応をするか……。



「そうか、ならいい。それと……」



紅と蒼。対の色を持った瞳がフレイを貫くように見つめる。
狂気と歓喜、そして自分への怒りが篭もった眼。
瞳孔が縦に割れ、人間のものではない残忍な眼が、焚き火の周りをうろつく捕食動物の様に爛々と光っている。


既に人化の術が解けかかっていると言われても納得できる程に竜に近づいた眼だ。
故に老竜は深く頭を下げ、彼に忠誠を表す。その先の言葉は判っていると言わんばかりに。


イデアが顔を空に戻し、淀んだ色の空を空虚な瞳で見つめた。本当に自分に出来るのだろうか?
幾ら自分の力が強くなっているといっても、本当に可能なのだろうか? 
失敗したらどうなる? 俺は本当に神竜の力を使いこなせるのか?


そんな感情がグルグルと渦を巻き、イデアの中で恐怖という形をとり、失敗を囁く。
冷え切った、おぞましい感覚がイデアの内臓を音を立てて凍りつかせ、頭蓋骨の中身を残忍に噛みしめていく。




──お前は自分の家族さえも守れなかった。そんな男が世界を直せるのか?



うるさい。黙っていろ。



これからイデアがやろうとしている行為は簡単だ。一言で表せる。『修復』だ。
直すものも一言で言い表せる。『世界』だ。もっというならば、“秩序”である。

イデアが顔を顰めて頭を小さく振った。恐怖は何の意味も持たない。恐れていては何も出来ない。自分が今感じているのは恐れじゃない、緊張だ。
そう自分に言い聞かせると、直ぐに感情が楽になった。呼吸が平常に戻り、リラックスした状態で空だった空間を見ることが出来た。


中々に面白い光景だが、これで見納めだ。願わくば、もう二度と見たくない。


イデアがその人間の少年の形をした片手をかつては空であった空間に向けて翳した。どうすればいいかは既に“判っていた”
鳥が空の飛び方を知っているように。魚が泳ぎ方を知っているように。人間が呼吸の仕方を知っているように。


イデアは、神竜の力で何をどうすれば変えられるかを本能的に知っていたと言うだけ。ただ、それだけ。何も難しい事じゃない。


懐の竜石が小さく黄金色に輝き、イデアに本来の神竜として力の供給を開始。
ほんの数ヶ月前からは考えられない程の超大な量のエーギルがイデアという存在を満たしていく。


黄金の濁流。正にそう呼ぶに相応しい。黄金、黄金、他の雑多な色を寄せ付けない高貴な神の色。
堰を切られた濁流の様に、エーギルが爆発的に溢れ、零れ、そして生み出され、そして主であるイデアに仕えるのだ。



何だ、これは? 



無尽蔵に湧き上がるエーギルにイデアが感じたのはやはり戸惑いだ。
頭でわかっていても、自分の中で膨れ上がる力を実感すると、やはり……。



が、直ぐにそんな考えは頭の隅に追いやる。
今はやるべき事がある。とても大事なことが……。そう、これはとても大事なことなんだ、と、自分にそう何度も言い聞かせ、無理やり納得し、誤魔化す。


……正直に言うと、こんな世界の事など捨て置き、直ぐにでもイドゥンを探しに行きたくて堪らない。
今の自分ならばアンナだろうがフレイだろうが、例え転移の術が使えなくても力技で突破し、必要とあらば行動不能にでもさせて『殿』に向けて飛び立てる。
そう、確信を抱けるほどの力だ。メディアン相手にはさすがに分が悪いだろうが。



今直ぐにでも暴走しそうなこの気持ちを落ち着かせ、多少は穏やかなモノにするのに、この秩序の修復という長としての仕事はいい口実になった。
そしてイデアは自分が人としてかつて生き、その過程で培われた理性などに深く感謝してもいた。
もしも自分に前世の記憶と意志と理性がなければ、きっと、長としての責務とイドゥンの居ない空虚さ
更にはどうしようもない憎悪にサンドイッチの具材の様に挟み込まれ、押し潰されていたかもしれない。



「ふふっ……」



不思議と自然に笑いがこみ上げる。口元が三日月の様に裂け、チリチリとした黄金色の火の粉が漏れ出る。
しかし何が面白いのか自分でも判らない。ただ単純に自分の力を行使するのが楽しいのかも知れないし
この大仕事をやり遂げた後にようやく、本当にようやく、彼女を探しにいけるのが嬉しいのだろうか。


数ヶ月前よりも明らかな程に巨大に、そして力強さを増した2対4枚の竜の翼を背に開放し
ギリっという軋む音がなるほどに強く腰に差した覇者の剣の柄を握り締め、力を行使。
更に竜殿全体が薄く発光し、イデアの力を何乗にも増幅。




そして。

心臓の鼓動の様な、力強い音が里中に響いた。




巨大な黄金色の“柱”が淀んだ天空に深々と突き刺さり、淀んだ世界に金色の光を放射。
まるで剣を人の臓腑に差し入れるかのように、歪んだ世界を神竜の力が貫いたのだ。
里を、そしてミスル半島を抱き込むほどに巨大な柱が天に昇った。


天の星さえも貫きそうな“柱”はしかし、一瞬の後に崩れ、その全体を億千万もの量の粉に変え、世界に向け風に乗って花の種子の様に流れていく。


神々しさと、禍々しさ、見る者に矛盾した感情を抱かせるソレは、現行世界を満たす淀んだ色彩の天と壊れれた世界
そしてソレが齎す全ての狂った法則をあるべき形に速やかに戻していく。昼は昼に夜は夜に、夏は夏、冬は冬に。
風に乗り、遥か上空を黄金の粉は飛んでいく。まるで気楽な旅でも楽しんでいるかのように。


最初は辺境のミスルから、次にエトルリア王国の南部、そして西方三島。カフチにリキア地方、遅れてイリア地方にベルン地方。
無数に、夢幻に、一つ一つの金の雪の粉が、染み渡り、新しい秩序を作り直す手伝いをしていく。
濁った虹色の空が徐々に青く染まり、月が地平線の彼方に没し、太陽が昇り、あの焼け付くような熱気がナバタを照らしつける。





世界が、元に戻っていく。夏は熱く。冬は寒い。昼は明るく。夜は寒い。そんな当然な世界に戻っていく。




































竜殿の地下大神殿、玉座の間。絶えず水に満たされ、美しい蒼に染め上げられた玉座の間。部屋のありとあらゆる天井、壁、床が蒼く発光している空間。
その部屋の中心に置かれた黄金を基本に真紅で装飾された玉座。そこにイデアは腰掛け、肘掛に頬杖を付いて、報告を受けていた。
玉座の後ろには巨大な太陽をモチーフとした紋章が刻まれており、さながらイデアが太陽を背負っているかのような錯覚さえも抱かせる。





「現状の再確認をしたいんだけど?」



秩序の修復により一度力を使い果たし、回復のため眠りに付いていたイデアが眼を覚ますのに半日ほどの時間を有した。
目覚めたイデアが窓の外から見たのは沈んでいく太陽。いたって普通の光景。しかし、この数日の間は決して見れなかった当たり前の景色。
秩序の修復は問題なく終了したのだ。イデアにそう確信を抱かせるのには十分すぎた。
それからイデアは玉座の間に戻り、今に至る。一つでも多くの情報が欲しいし、何よりコレが終わった後にやるべき事がある。
イデアにとって秩序の修復などソレに比べればおまけのようなものだ。単に長としてやるべきことだから、淡々と行っただけ。


故にこの言葉は形式的なものに過ぎない。
一応は里があの秩序の崩壊で受けた損害や、世界の情勢などを知り、それに対しての対抗策を練らねばならない。


だが、まずその前に……。何よりも前に……。



「あたしが風の精霊達から聞いた話によると、やっぱり戦争はもう終結したらしいですね……勝利勢力は、人間です。
 殿に攻め込んだ特に力の強い人間と武器によって、勝利を収めたと言っていました。あの“秩序”の崩壊はあたしの推測だけど
 人間と竜族の強い力がぶつかりあった結果起こったものだと思う。かつてに始祖竜と神竜の戦いでも同じことは起こったみたいですし」



神々しい玉座の真正面、床に彫られた太陽の紋章のちょうど中心辺りで膝を折り
メディアンが報告を続けるのをイデアは何処か惚けた頭で聞いていた。


風の噂という言葉の通り、風の精霊というのはありとらゆる言葉を聴いている。
イデアには精霊の声を聞くことは出来ないが、メディアンはどうやら聴くことが出来るらしい。


本当に精霊というのは便利だ。かつてイドゥンは精霊は色々教えてくれるといっていたが、まさか世界情勢までも教えてくれるとは。



じぃっと玉座に深く腰掛け、頬杖を付き、もう片方の手の指を意味もなくスムーズな動きで閉じたり開いたりを繰り返す。




彼は思考を巡らす。



竜が負けた。そんな事はどうでもいい。どっちが勝とうが正直な話、興味は無い。イデアの究極的な興味はイドゥンに向けられている。
結局のところ、これは戦争であり、戦争という事は必ず勝者と敗者が生まれる。今回は竜が負けただけのこと。
いや、そもそも竜が負けることなどもしかしたら最初から決まっていたのかもしれない。
ナーガがあの『知識の溜まり場』を丸ごと転移させ、そこに収まっていた数々の禁断の知識を竜族からもぎ取った時に勝負は決まっていたのだろう。


ならば、それが原因で姉さんは魔竜にされたのか?
失った知識の溜まり場の力の変わりに、あの殿に残る竜族共は姉さんを利用したのか?
それとも姉さんは自分の意思で竜族のために戦ったのか?


イデアは内心肩を竦めた。とんでもない話だ。我ながら馬鹿馬鹿しい事この上ない。


あのイドゥンがそこまで好戦的な訳がない。
もしもあの姉さんが好戦的だったら、あのサカの地で自分たちを襲った飛竜の群れはナーガではなく
イドゥンによって吹き飛ばされていただろうし、ハノンさんでさえ危なかっただろう。


そんなイデアの思考をメディアンは言葉によって遮った。


「それと1つ気になる話があるんだけど……」



「言って」



では、と前置きしメディアンは続けた。心なしか、その声には何時もほどの覇気が感じられない。
やはり彼女も秩序の崩壊の影響を受けているのだろうか? それとも疲労?


コレはやはり……労いが必要か?
思えば彼女はここ数日かなりの無理をしていた。ソルトの世話と里の結界の内部の気候や大地の安定。
定期的に来る大規模な地震を彼女は何度も押さえ込み、その上で里の大地と、全ての植物に生命力を注ぎ続けていたのだ。


コレでは幾ら地竜といえど、疲れてもしょうがない。只でさえ動きづらい崩壊した秩序の中でソレを行った。
その疲労は想像を絶するものがあるだろう。



「精霊達の話によると、詳細は不明だけど、8つの大きな力と、ソレらを遥かに上回る1つの力を、その強い人間達が使う武器に感じたそうなんだ」



「8つの力と、1つの力……何だそれ?」


メディアンが頭を上げてイデアの顔を真正面から見据えた。
この豪快な地竜の顔には深い隈が刻まれており、どれほど彼女がこの里のために力を使ったが窺える。
が、肉体的な疲れが表に出ていても、彼女の眼に宿る強い意思は始めて出会った時から全く減衰などしておらず、むしろ逆に燃え滾っている。


この緊急時に頼れなくて、何が大人か。彼女の眼はそう言っていた。そして事実彼女は彼女の仕事を立派に果たしている。


素直にイデアは、メディアンを強い人(竜)だな、と思った。全く彼女の心はぶれていない。
今も彼女は里と息子のために全力で力を使っている。もしかすると、彼女のエーギルはこの強い精神から生み出されているのかもしれない。



「うーん……凄い抽象的になるんだけどねぇ、私が精霊を通して感じた“力”に対してのイメージは……
 “烈火”“雷”“至光”深闇”“氷雪”“業火”“疾風”“武”……こんな所かな? で、あとの残り1つはどうも見えない」



「本当に凄い抽象的だね……というか、“武”って、どんなイメージなんだ?」



玉座に腰掛けたイデアががっくりと肩を落とした。確かに凄い抽象的だ。これでは全く判らない。
だがまぁ、一応は頭の片隅に保存しておこう。後々時間が出来た時にでもこの9つの力が何なのか調べてみるか、と思いながら。
イデアが玉座に座りなおし、声をはっきりと飛ばす。フレイに自信を持てといわれ、色々と思考錯誤した結果
たとえ張りぼてでも堂々としているのがいいと想い至った故の行動。故に彼はこの家臣とも言える竜に命じた。


奇しくも、その声はかつてのナーガのそれに近くなっている。本人はそんな事を知る由も無いが。



「メディアン。お前に命令する」



「はい」



砕けた口調から一転し、メディアンが深々と頭を下げ、主の次の言葉を待つ。



「休め。ゆっくり体と精神を休めて、力を回復させろ」


え? と、思わず顔を上げたメディアンが声をあげるまでもなく、イデアは懐から取り出した自らの竜石の表面をスススっと撫でて……。


「てぃっ」



パキ。そんな小さくて軽い音と共に表面の一部を砕き、剥ぎ取った。
粉末の様な金色の粉がサラサラと飛び散る。



「な、何をやってるのさ!?」


「何って……?」



メディアンが眼を白黒させる様子を何処か楽し気に眺めながらイデアはその剥ぎ取った竜石の欠片を手で弄ぶ。
そのまま玉座から立ち上がり、メディアンの眼と鼻の先まで近寄り、その手を優しく掴んだ。
そして広げさせた彼女の掌の中に、自分の竜石の欠片をそっと握らせた。



「これでも俺は神竜だし、この石の欠片は力の回復に役立つと思う。もう一度言う、ゆっくり休め」



「……はい」


暫くの間イデアの顔を穴が空くほど凝視していたメディアンであったが、唐突にふぅっと息を吐き
力を抜くともう一度深々と頭を下げる。まるで騎士が主に忠義を誓っているような格好だ。

自分はこの強大な地竜の上司足りえているのか? イデアは無条件で自分に惜しみない程の協力をしてくれるこの女性に対してそう思わずにはいられなかった。
いつか、彼女が自分に見切りを付けることもありえる。自分が余りにも長に相応しくないと思われてしまったら。


そんな時はどうすればいい?


それに対しての答えは既に判りきっていた。
もっと、強くなろう。誰もが認めるほどに。結局のところ、イデアの考えはいつも此処にたどり着く。


幾ら話し合えば判るだの、暴力はいけないだの、素晴らしい正論を並べても結局は力は全てに勝る。


只の無力な存在が何を叫ぼうが意味のないこと。きっと彼らは自分たちの意思に何か意味がある
行動によって何かが変わると思っているのだろうが、それは違う。かく言う自分もイドゥンと一緒に暮らしていた時は信じていたかもしれないが……。



世界と言うのは思ったよりも単純だ。大きな力同士が絶えず鬩ぎあい、脈動し続けているのが世界なのだ。
ただの無力な存在など、その力と力の間にただ“ある”だけに過ぎない。
今回は人と竜と言う2つの勢力に自分が挟まれていた。


このエレブというのは力で回っているという単純な事実をイデアはこの数ヶ月で嫌という程に理解し実感させられている。
イドゥンを助けにいけなかったのも力が無いからだし、ナーガが自分をほとんど裏切るような形で捨てたのも自分にそれだけの力がなかったからかもしれない。


もしもあの時の自分に、今の自分と同じ、もしくはそれ以上の力があったのならば……。


本当にくだらない“もしも”だが、自分はナーガと共に戦争で人間と戦っていたのかもしれない。
そして人を滅ぼした後に、自分たちに敵対する愚かな竜の反逆者共を一柱残らず狩っていたのかもしれない。


そしてその後は──。


やめよう馬鹿馬鹿しい。
本当にくだらない“もしも”だが、時々イデアはそう考えてしまうことがある。この頃は特に。




メディアンが恭しく退室していくの見計らって、イデアはパンパンと手を小さく叩き合わせた。


『はい。長。なんでございましょうか?』



瞬時にイデアの眼前に魔法陣が展開され、一人の老人、フレイが転移してくる。
彼はイデアに膝を折り、頭を垂れ、用件をいつもの表現できない声で聞いてくる。



「数日経った後、俺は一度殿に戻る。竜族の生き残りが居るかもしれない」



『アンナを護衛としてどうぞ。彼女は転移が使えます』



フレイの返答が意外だったのか、イデアは思わず呆然、そうとしかいえない表情をしてフレイを見てしまった。
そんなイデアの表情が面白かったのか、フレイはニヤリと口角を上げた。


『はて? どうかしましたか? イデア様』



「止めないのか? 俺が殿に戻るのを」



えぇ。老火竜はそう返事をし小さく頷いた。



『生存者を探すのも大事ですが……これ以上イデア様を殿に行かせなかったら、貴方は狂ってしまいそうだ。
 ただし、何を見ても大丈夫な様に覚悟をしといて下さいね』



く、はははははは。イデアは思わず笑わずには居られなかった。あぁ、そうだ。彼は知らないのだ。
イドゥンが確かに生きている事を。この男とイドゥンはあった事もないし、彼女のエーギルの波動を感じることも出来ない。




「大丈夫さ、もうそこまで弱くないよ」



イデアはぐっと掌を握り締め、その手に確かな力を感じながら答えるのであった。





あとがき




皆様お久しぶりです。



新作のFEは人竜戦役編をゲーム化してくれないかぁ……


でも、下手するとSSが根本的に崩壊するしなぁ、とかこの頃思っているマスクです。


それにしても、急がしてくSSをかけなくて、久しぶりに執筆したら感覚を忘れていて凄く焦りましたww



では、皆様次回の更新にてお会いしましょう。





[6434] とある竜のお話 第二部 三章 2 (実質11章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2010/12/18 21:12

ようやくだ。本当に永かった……。


漆黒の空。イデアは自室から天をじぃっと見つめていた。
その眼は隠し切れない喜びに満ち、捕食動物が獲物を見つけた時のように爛々と光っている。
縦に裂けた瞳孔の中では血の様に真っ赤な炎が轟々と音を立てて燃え、恐ろしい程の威圧感を見る者に与えることであろう。



秩序が修復され、元のあるべき姿に戻されたエレブの辺境、ミスルの夜はとても寒い。
だがイデアの身体はそんな周囲の環境とは裏腹に、体内からマグマでも噴出してしまいそうな程に熱かった。
竜殿の自らの部屋の窓から満点に輝く天の星を眺め、イデアはほぅっと濡れそぼった溜め息を吐いた。
この溜め息は今までの憂鬱気なものではない。むしろその逆、あふれ出る歓喜を抑えるために体が無意識に取った行動。


ぶわっと、砂漠の夜風が吹き、イデアの頬を強く撫でた。
まるで頭を冷やせといっているように。


少し落ち着こう。これではまるでようやく欲しい物を買ってもらえて、喜んでいる子供のようだ。
急にイデアは自分が酷く子供染みた行動を取っていることに気が付く。


気を取り直し、彼は考える。イドゥンは今はどうなっているのだろうか? と。
彼女の力は今は余り感じ取れない。その存在そのものを完璧に密閉された箱の中に収められたような
そんな奇妙な感覚をイデアは彼女の事を探るたびに感じていた。



まぁ、いいさ。生きているのだろう。死んでさえいなければ何とでも出来る。
いや、いずれ自分は死さえも超えるほどの力を手に入れられるのではないだろうか?


くすっと、イデアが小さく笑った。死を超える。何とも馬鹿馬鹿しくて、大仰で、傲慢極まりない考えだが
不思議と絶対に不可能であるとは思わなかった。自分がその力を手に入れると決めれば、結果は自ずとついてくる。
そんな気さえもした。そう、自分は神竜なのだ。世界を修復するのと、死を超える。果たしてどっちが難しいことだろうか?



さて、そろそろ準備を始めなければならない。もって行くと決めたものは幾つかある。
イデアが指を一本小さく動かし、自室のベッドの上に置いておいた『覇者の剣』を力で掴んで自らの眼前まで持ってくる。
鞘に収められた剣はフワフワと空中に浮かんでおり、主に柄を持たれるのを待っているようだった。
無言でイデアが剣を見つめる。かつてナーガが所持し、恐らくは使っていたであろう剣を。


自分は強くなった。まだまだ満足できるほどではないが、それでも以前とは比べること自体が意味をなさない程に。
より敏感に、より広範囲に、より精密になった気配探知能力でこの神秘的な翡翠色の剣を“見て”みると、面白い光景がイデアには見えた。

以前イドゥンと共にこの剣を見た時は深い深闇と、根源的な、寒気さえも覚える絶望しか感じ取れなかったが、今は違う。
もっとおぞましくて、冒涜的で、何よりも魔道士としてのイデアの興味をそそるものが見える。



冷たい。しかもただの冷たさではない。無機質な冷たさだ。
まるで熱を完全に失った死体の様な、どこか虚しささえも感じる凍てつく感じだ。



そして何より、闇がある。



闇、完全な闇だ。何処までも続く闇。寛大な闇である。
全てを覆い隠し、全ての存在を見たくも無い真実から守ってくれる暗がり。
この闇を見ていると、イデアは心地よい気分になれる。
竜としての彼の本能はそれがまやかし、この剣が見せている一時的な錯覚だと言っているが、それでも気分が良くなる。


この剣が内包しているのは無限の闇と混沌、そして絶望だ。
闇は常に存在する。ベッドの下、毛布の下、椅子の下、テーブルの下、昼間日差しの中を歩いていても、闇は足の下に張り付いてくる。
最も強い光は最も強い影を投げかけるのならば、自分は一体どれほどの闇魔道を使えるようになるのだろうか?
神竜たる自分ならば、始祖竜そのものであるこの剣を使いこなせる。イデアはそう考えると興奮してしまう自分がいることに気が付いた。


ふと、ここでイデアが思う。そろそろ時間だ、と。


うぐ、っと小さく咳払いをして、イデアが剣を腰に差し、金で刺繍や縁取りのされた純白のマントを羽織った。




玉座の間に用があるのだ。正確にはそこに飾られているモノに。きっと、必要になる。



部屋を出る前にイデアが気が付く。
おっと、最後に忘れ物をしていた。これも持っていこう。
彼は机の上に置かれていた小さな真っ赤なリンゴを2つ掴み、それを懐にしまった。













『お待ちしておりました。長』




「そうかい、じゃ、俺が何を取りに来たかも知っているよね?」



イデアがその色違いの眼を細めてニヤリと笑う。
フレイも判っていると言わんばかりに口角を上げ、小さな微笑を顔に貼り付けた。



『はい。あの書の封印を解けるのはイデア様だけです』



跪き、頭を下げ、淡々と彼は続け、イデアに手を差し出す。
それを見てイデアが先ほどとは違う種類の笑み、満足気な笑顔を顔に貼り付ける。


イデアが顔を上げて、その空間に固定されているような形で、後ろに透明な壁があり
そこに掛けられていると言われても納得できるような状態の4冊の分厚い書物に視線を向けた。
里を守るために作られた、かつての大戦で使われた魔術の本。とてつもない力を秘めた魔導書を見たのだ。



片手をその書物に翳す。何故だか判らないが、本能が言っている。
今回はコレを持っていったほうがいいと。イデアはその本能に従うつもりであった。
音も無く1冊の本が動き、イデアの手に納まった。
真っ黒な表紙の魔導書【ゲスペンスト】だ。混沌魔法の一つ。かつては始祖竜が使っていた恐ろしい魔法が記された、術の発動媒介。


これ一冊を使いこなせれば、小さな国程度なら瞬く間に滅ぼせるだろう。
最も精神に掛かる負担などを考慮しなければの話ではあるが。


「……」



表紙を人差し指ですぅーっと撫でてやる。滑らかな肌触りがとても気持ちいい。
微かに【ゲスペンスト】から心臓の鼓動の様な音が確かに聞こえ、耳朶を打つ。


まるで本自体が意思を持ち、早く使えと急かしているようだ。
この災いの書物に記された禁忌を行使しろといっている。


普通の魔導書ならば何回か使えば壊れそうだが、この4冊の書物は恐らくは何度使おうが壊れないだろう。
むしろ普通の火や水、武器や術などでは傷を付けることさえも不可能に近いのでは?
頑丈な盾としても使えそうだな。イデアは冗談交じりにそう思った。



『イデア様、知識というのは』


「判っている。判っているさ、何度も教えられたよ、とっても“賢くて強い王様”にね」


フレイの言葉を半ば遮るように、イデアが口を挟んだ。ほとんど叫び捨てるような、そんな口調で。
イラつく。全く持って腹が立つ。幼い神竜の脳内であの白髪の男の顔が浮かび上がり、彼は思わず顔を顰め、フレイを睨みつけた。
しかし瞳孔が割れた狂気に満ちた眼を真正面から向けられてもフレイは微動だにしなかった。
もっと恐ろしいもの、そう、例えるならば万年単位で生きた神竜王の怒りなどを見たことがある彼にしてみれば、この程度はかわいいものだから。


苛立ちの余り、幼い神竜は満足に呼吸も出来ない。
どうもイデアはナーガの事を思い出すと、胸の内にぽっかりと空いた穴からドス黒い感情が噴火するように鎌首をもたげてきて、どうしようもなくなるのだ。


ふぅっと大きく深呼吸をして、気分を落ち着かせる。
その恐ろしいまでの気配探知能力を駆使して、待ち人が何処まで近づいてきているかを瞬時に察知する。
炎のようなイメージを持ったエーギルの持ち主だ。


「そろそろアンナも来る。俺が留守の間は頼んだぞ」



『はい。お気をつけて』



イデアが音も無く笑った。その眼に残忍なあざけりを浮かばせながら。
気をつけて? 随分と面白い事を言う。今のこの俺に一体どんな存在が危険を齎せることが出来るというんだ?



























イデアとアンナ。2柱の竜が転移によって出現した場所は残念ながら『殿』ではなかった。
周囲は完全に夜の暗闇に覆われており、完全に静まりかえっている。周囲に人間や竜の気配は無い。



「なんだここは? 転移に失敗したのか?」



「いえ……確かに殿へ転移したはずなのですが……私は何万回も殿へ転移を行った事があるので、失敗する訳が……」



ふむ。いきなり問題発生か。イデアはキョロキョロと周囲を観察しながら思考を巡らせる。
確か転移という術を妨害する術や結界もあるはず。今回はそれによって失敗したのか?


自分たちは誰かの罠に嵌ったのか? 
それとも単にアンナが秩序の崩壊によって力が弱まり、転移の術を思うように発動させることが出来なかったのだろうか?
神竜がじぃっと失態を犯したかもしれない部下の火竜の顔を見る。すると、このいつも感情の読めない微笑を浮かべている火竜から、珍しい感情の波長を感じた。



即ち“焦り”を。どうしようもなく彼女は焦れていたのだ。
表に出さないだけで、彼女の心の中は嵐の様に乱れに乱れていた。


うん? イデアは訳の判らないモノを見たかの様に顔を小さく傾げた。
彼女は、全く持って意味が判らない事に、この事態に焦っているのではなかった。
表にこそ出さないが、彼女は全く別の事柄にどうやら心を悩ませているらしい……。


と、ここで彼は気が付いた。今、自分は酷く悪趣味な事をしているのではないか、と。
幾ら部下とはいえ、その心の内に不躾に立ち入り、その中身を丸ごと観察するなど、どうしようもないほどに悪趣味なのではないか?
ここでイデアは思考を切り替える。
今はアンナの心の件はどうでもいい。ここが何処で、何故ここに飛ばされたかを知るべきだ。



ふぅ、と小さく溜め息を吐き、イデアは肩を落とし、全身の力を抜いてリラックスした。
その顔に微笑を浮かべ、落ち着き、冷静に思考を巡らす。恐らくは失敗をしたであろうアンナにも怒りなど全く沸かない。
誰にだって失敗はあるものだ。それがとてつもなく大きな失敗でもない限り、彼は怒りなどしない。
つい数ヶ月前まで泣き叫んでいた自分に、誰かの小さな失敗を目くじらを立てる資格などあるものか。


「申し訳ありません。直ぐに」


「いや、いいよ。恐らく、コレはお前が失敗したんじゃない。少し待っててくれ」


アンナの謝罪の言葉を遮り、イデアが言った。何処までも落ち着いた声で。
この言葉を発したイデアでさえ驚いた。自身の言葉の内容に。


アンナの失敗じゃない? ……なるほど、確かにそうかもしれない。


神竜が全身に溢れるエーギルに身を任せ、その気配探知能力と知覚空間の範囲を広める。
瞬時に様々な“気配”が彼の脳内に流れ込んでくる。そしてここら辺一体、その全てが“見える”のだ。


視界が全方位、などという生易しいモノではない。彼を中心に彼の力の届く全ての範囲が今のイデアには“見えて”いるのだ。
視角、聴覚、嗅覚、触覚、その全てが伸びている、といえば何となく想像もつくだろう。


まず見て、感じたのは周囲の山々。どうやらここは住み慣れたベルン地方らしい。少し安心する。まさか北の果てのイリアとかに転移していたら、帰るのも一苦労だ。
山からは生命の反応は全く感じない。眠っている訳ではない。キツネ一匹生息していないのだ。



そして、何より大きく感じるのが“歪み”だ。
場が、歪んでいた。水に光を通すと、少しだけ屈折するのと同じように、空間そのものが無茶苦茶に屈折しているのだ。



「あぁ、なるほど」



思わずイデアは得心がいったと言わんばかりに呟いていた。
『殿』の周囲の場、規模にして大体周囲10キロ程度。殿をすっぽりと覆うように“場”そのものが歪んでいる。


大方メディアンの言っていた、大きな力同士の衝突によって空間が壊れてしまったのだろう。
何とも面白い現象だ。


なるほど。これなら転移の術で侵入しようと思っても弾かれる訳だ。




「理由が判った。やっぱりお前は悪くないみたいだ。ついてこい」


「はい」



手短にそれだけを言うと、純白のマントとローブを翻し、イデアが従者を従え、足早にその場を後にする。









ここから先には確かに殿があったはずだ。
かつてエイナールと共に湖に行った時に見た、殿への入り口がここにはあったはずなのだが……。
うーん。イデアが唸り声を上げ、小さく顔を傾げた。
どうもこの頃、自分の中で世界というの案外壊れやすいモノになっているなと思いつつ。


イデアが見ているのは何とも言葉で形容しがたいモノであった。
“場”そのものが歪んでおり、無茶苦茶に屈折した空間を一体どんな言葉で形容すればいいのだ?


あえて言うなら、これは砂漠などで見られる蜃気楼に近い。
向こう側の空間は光が無限に屈折しているため見えないが、恐らくは殿の入り口があるのだろう。



「イデア様……さすがにコレは……帰りますか?」


「少し待ってろ」


アンナの控えめな提案にイデアがやる気なさげに答える。
こういう時どうすればいいかは、何となくではあるが判っている。


様は世界を修復するのと同じ感覚でやればいいのだ。
それに、少しだけ試してみたいこともある。


腰に差した『覇者の剣』をスラッと抜き。



「っ!」



思いっきり“歪み”に向けてその刀身を一閃。
刹那、碧混じりの、漆黒の光と炎が迸った。


おぞましき始祖の闇が、世界を切り裂いた。


続いて続くはジュウウウウという何かを溶かしたような、恐ろしい音。




「これは……何と言うか、凄いですわ」



アンナが恐怖さえ滲む声で、素直にそう言う。
ついさっきまで場の歪みがあった空間が“熔けていた”


まるで融点を超えるほどの熱量を与えられた鉄や鋼の様に、先ほどまであった歪みの一部が、覇者の剣で切られた場所のみドロドロに熔けているのだ。
更に恐ろしいことに、切り口にこびりついた翡翠の混じった黒い炎が、空間そのものを燃やし紫色の蒸気を上げながら、更に“場”に空いた“穴”を大きくしていく。
闇属性魔術の上位の術【ノスフェラート】にもその炎は似ているが、絶対的に違う。ただ単純に似ているだけで、その効果は全く違う。アンナは本能的にそう思った。



これは、世界を焼く災厄の一部だ。そう、見ているだけで、火竜たる自分が根源的な恐怖を感じる力……。


チラリとアンナが眼だけを僅かに動かしてイデアを盗み見た。


たった今、世界の一部を焼くほどの力を行使した神竜の少年の顔は自信に満ち溢れている。
そこには数ヶ月前、家族と引き離されて泣き叫んでいた哀れな子供の面影は一切無い。


この少年はたった数ヶ月で恐ろしい程に変わった。
身長もほんのわずかではあるが、伸びたし、髪の毛も肩に掛かるほどに長くなっている。

だが、そんな肉体的な変化ではなく、もっと根源的な変化をイデアは遂げていた。



存在感。この若い竜は新しいゆとり。新しい力。そして新しい自信を放っている。


イデアはもう、数ヶ月前の彼とは同じ存在ではなかった。



「さて、行こうか」



まだまだ幼い神竜の少年は、隠し切れないほどに興奮を宿し
爛れた目でアンナにそういい、堂々とした足取りで自らが切り裂いた空間の中に潜り込んでいく。















あの歪んだ空間を抜けた場所に存在する殿はその様子を一変させていた。それも悪い意味で。
至る所に激しい戦いの後が刻まれ、多くの柱が砕かれ、そして、ありとあらゆる場所に人竜問わず様々な死体が転がっていた。
その全てが蒼い月の光に照らされ、無機質な光と存在感を放っている。


まだ殿の入り口だというのにこれだ。中は一体どうなっているのだろうか。イデアには想像も付かなかった。
かつて始めて見た時は感動さえ覚えた灰色の殿の入り口は無残にも破壊され尽くされ
血などがべっちゃりと付着していて、熔けた鉄のような鼻に来る匂いを撒き散らしている。


が、竜族の建築技術の凄まじさというべきか、殿は多量の瓦礫などが埋め尽くしているとは言え、崩壊するには至っていない。
一応の原型は留めている。完全に瓦解してはいないのだ。



戦場の跡地とはかくも無残なものなのか。初めて見る光景にイデアが覚えた感情は恐怖でもなく、虚しさでもなく──怒りだった。

一つ一つを見るたびにイデアはここで過ごした思い出を関連付けて思い出すことが出来る。
それゆえに、ここまで思い出を蹂躙された光景は彼の逆鱗を逆撫でしていく。


よくも俺達の家を。よくも思い出の場所を。よくも、よくも──。


胸の内が熱くなり、“太陽”がジリジリとその熱量を上げていく。
全身に熱が行き渡り、膨大な、それこそ底なしの量のエーギルが満たされる。



と。ふいに殿の内部に自身の知覚能力を差し向けたイデアの動きが一瞬完全に停止した。
何か、いる。誰か、ではない。“ナニカ”だ。それも1や2程度じゃない。何百、下手をすれば何千と言う数の“ナニカ”だ。


何だ? こいつらは。俺達の家で、何をしている?


それに対しての答えは自分自身が答えた。
ガンガンと頭の奥底で竜の本能が答えを喚き続ける。コレは敵だ、と。
敵だ。完全な敵だ。コレは敵。殺してもいい。力を振るえ。なぎ払え。踏み潰せ。



敵。




この単語は今のイデアにとって“許可”に等しい言葉である。



「ふ、、ふふ、、、っ、ははははははは……アンナ、命令だ」


笑いを堪えきれないし、堪えるつもりもない。が、喋るのに邪魔だから、一応抑える。
口の端から摩擦音染みた声を吐き出しながらイデアが何とか声をはじき出し、淡々と言葉を紡いでいく。
しかし、イデアはアンナを見てはいなかった。その視線は殿の入り口、更に言うならその奥に固定されている。
とてつもないほどに恋焦がれた相手を凝視するような熱い視線を絶えず送っている。


紅と蒼の色違いの瞳の奥、瞳孔が縦に裂け、ぎらつくような、恐ろしいまでの熱を宿している。
そんな瞳が爛々と夜の暗闇の中で無慈悲に輝き、標的を定めた飛竜の様な鋭さを帯びていた。


眼の中に残忍な喜びが燃え滾り始める。既に、イデアの顔は人間のものとはいえなかった。

恐ろしいまでに低い声でイデアが言い聞かせるように言う。


「俺が念話で合図するまで殿の中には入ってくるな。ここで待機しているんだ。
 合図したら……そうだな、生存者探索と、多分大量に剣とか鎧、魔道書が手に入ると思うからソレらを持ち帰るためにかき集めておいてくれ」



「はい。判りましたわ」


それしかいえない。誰も好き好んで怒れる神竜に意見をしたいとは思えないし、特に問題があるとは思えなかったからアンナはそう答えた。
護衛として付いていきたいが……恐らく、自分がついていっても、この今のイデアは自分の存在を省みずに破壊を撒き散らすであろう。

















殿の内部は外部よりも酷いことになっていた。無数の死体が積み重なり、それらから発生した腐敗臭に満ち満ちていた。
いや、そこらかしこに死体が散乱した光景というのも慣れてしまえば中々に芸術的なナニカを感じる、イデアはそういう感想を抱く。
後でこれらを片付けるべきか。さすがに死体が多すぎる。目算でもこの入り口近くの大広間だけでも500体近い。
まぁ、彼らの纏っている鎧兜や武器、魔道書は全部持って帰るつもりだが。溶かして日用品にするもよし、直して使うもよし、だ。


この殿は竜族の城。そして自分は竜族。ならば、この殿にあるものを持ち帰ったとしても誰も文句など言うまい。


無造作にイデアが手を振る。
彼の進行方向を塞いでいた夢で見た“竜”の小さな宿屋ほどある巨大な頭部が重厚な音を立てて横に滑り、そのままの勢いで壁にぶつかり砕け散った。
すぐ近くには、あの“竜”の頭部とくっ付いていたはずの首を失くした身体がその全身に武器を突き刺されて横たわっている。


カツカツとブーツの足音だけがやけに反響し、薄暗い殿の内部に響き渡る。
神竜であるイデアが入ってきたからか、殿の機能で壁や床が薄く光り始め、辺りの暗闇は薄闇程度にまで温和されている。



「……そろそろ、出てきてくれないかな? 俺は逃げも隠れもしないよ?」


足を止め、丁度部屋の中央辺りでイデアが虚空に向かって叫ぶ。
両手を大きく広げ、クルクルと姿の見えない誰かを挑発するように身体を回転。



ギリリ、ピュン。



細い糸か何かを引き絞るような音と共に、高速で殺意を乗せられた物体がイデアめがけて飛んでくる。
イデアの胸部を狙われ発射されたソレは寸分違わずイデアに到達……出来なかった。



   



   【オーラ】






黄金色に輝く光の壁がイデアをすっぽりと包み込むように顕現し、高速で飛翔した物体、弓矢を完全に受け止めていた。
矢はギギギという甲高い音を立て、全ての力を【オーラ】に押し当てた後、力なく床にカランという虚しい音と共に落下。



「随分とまぁ、手荒い歓迎だ。というか此処は俺の家なんだけどね」


床に落ちた矢を力を使い持ち上げて、手に掴み、ソレを弄くりながらイデアが呟く。
矢の先端、金属で作られた矢じりの辺りにはびっしりと魔術的な要素……まぁ、大方対竜の魔術的加護か何かだろう、がびっしりと刻まれている。
これならば竜族のエーギルで作られたモルフ・ワイバーン辺りにはそれなりの効果を得られるだろうが、神竜の【オーラ】を貫くには悲しいまでに役者不足だ。
大火に如雨露で水を掛けても無駄な様に、湖に映った月を握ろうとしても無駄な様に、こんな矢ではたとえ何万本打ち込まれようが【オーラ】は小揺るぎもしない。


それに、もしも【オーラ】がなかったとしても……。



一しきり矢の滑らかな感覚を手でたっぷりと味わったイデアが、矢を親指と人差し指で摘みながら顔の前まで持っていく。


「ふっ」


吹き矢の真似事をするかのように一息。
が、それで十分だった。


矢が、黄金の火の粉を纏い、先ほどの数倍の速度でイデアの手から放たれた。まるで光魔法【ライトニング】の様に。
先ほどイデアに向けて飛んできた時と同じ経路を辿り、矢が飛んでいく。ただし、今度は逆の方向に。


グシャ。そんな艶かしい音がイデアの耳朶を打つ。どうやらちゃんと返品できたようだ。


その音が合図になったのか、部屋の至る所から弦を引き絞る音が同時に鳴り響き
次の1秒は発射された何十という弓矢が空気を切る音しかしなかった。

それから、何十という数の殺意がイデアを襲った。



が、届かない。
たとえ部屋中を雨の様に矢が覆い尽くし、何百と言う魔術的加護を与えられた矢が降り注ごうともイデアの【オーラ】は破れない。
奇跡的にほんの僅かだけ光の壁の表面を削り取れたとしても、次の瞬間イデアから供給されたエーギルを持って直ぐに復元されてしまう。


部屋に響くは無数の矢がギギギという悲鳴と共に黄金の壁に体当たりをし、カランという悲しい音と共に力尽き床に落下する音だけ。





「ふぁ……」



小さく欠伸をしながらイデアが休み無く放たれる矢の雨を観察し、判断を下した。
そろそろ飽きた。終わりにしよう、と。



片手をやる気なさげに持ち上げ、矢の雨に意識を集中させる。
次の瞬間、全ての音が停止した。【オーラ】を削ろうとする無駄な努力の音も、カランという力尽きた音も。何もかも全てが。


全ての矢が、空中で静止していた。全ての運動の力も、位置の力さえ奪われ、まるで冗談の様にその場でピタリと停止したのだ。
それだけではなく、床に落下していた数百の矢さえも人形劇の人形の様に浮かび上がり、その矢じりをイデアではない“対象”に向けている。


返すよ。そんな意思を込め、イデアが持ち上げた腕を采配を下す軍師の様に小さく振るった。


全ての矢が、矢じりを最初とは全くの正反対の方向に向け、そして無慈悲に降り注いだ。肉に矢でも突き刺したような音が少しだけした。
そして、矢の一斉射撃が終わった後に、イデアに矢が降ることはもうなかった。


コレで終わりか? 呆気ない。これでは【ゲスペンスト】を持ってきた意味が無いではないか。
微妙に落胆しつつイデアが歩を進めようとするが……停止した。



「やっぱり、アレだけで終わる訳ないか」


どこか暢気で、絶対的な余裕さえ感じられる口調でイデアが言う。
彼の視界の先、薄い暗闇の奥で“ナニカ”が蠢いている。


夥しい数の“ナニカ”は動くたびに金属の擦れあうような重厚な音を立て、沸き立つ様な濃厚な殺気をイデアに向けている。
どう考えてもこの存在達はイデアにとって好意的ではないだろう、むしろイデアを殺したくてたまらない、そんな気配を隠してさえいない。



そして、殿の床や壁の淡い光に映し出されたソレラを見て、イデアは思わず顔を顰めた。


“ソレラ”の顔や体には肌がなかった。腐った肉が少しだけこびり付いており、後は骨が露出している。
“ソレラ”の眼窩には目玉の変わりに紅い光が灯され、その光は確かな視力を持っているらしく、イデアを殺意の篭もった視線でにらみつけていた。
“ソレラ”は全員が何らかの装備で武装をしていた。あるものは槍を持ち、あるものは剣を持ち、あるものは魔道書を片手に担いでいる。
“ソレラ”は肉体的な意味では生きてはいなかった。壊れ、機能を停止した肉体に【エーギル】だけが宿り、動いているのだ。



“ソレラ”の目的は一目瞭然である。即ち【竜の撃破】のみである。



名前をつけるなら、そう……亡霊兵とでも言うべきか。死してなおも戦い続ける哀れな兵士達。


無言でイデアが腰の覇者の剣を引き抜く。右手でソレを掴み、残った左腕を亡霊の軍勢に差出し、その指を鍵爪の様に曲げ──そこから稲妻が放たれた。


重厚な破砕音と共に稲妻が亡霊の軍団の一部を直撃し、鎧兜を溶かし、その身に宿っているエーギルそのものを焼き尽くす。
5体程度の亡霊が稲光に焼かれ、完全に消し飛んだ。だが、それだけ。まだまだ数は多い。残りはざっと、数千ほど。




【リュウダ! リュウダ!! リュウダ!!! コロセ!!!!】


声帯のなくなった身体のどこから声を出しているのか、掠れた声で亡霊達が喚きたて、
各々がやはり魔術的加護を受けた武器を振りかざし、世にも恐ろしい声で絶叫しながらイデアに向けて突っ込んできた。


地響きの様な轟音と共に腐れ果てた死者の軍勢が突撃する様は普通の相手ならば戦意を喪失するような光景であろう。



だが、神竜イデアは普通ではない。
超越種の中の超越種たる彼にとって、コレはさしたる問題ではないのだ。



「あー……邪魔だぞ?」


イデアの声は井戸よりも深く、凍りついた黒曜石の崖よりも冷たかった。



イデアは念の為【オーラ】に更にエーギルを込め、一応頑丈にしておく。
が、あくまでもコレは念の為だ。イデアはこんな面倒くさい奴らとまともに戦うつもりはなかった。
それと同時に、こんな存在をいつまでも自分の家である殿に住まわせておくつもりもなかった。



数の暴力には、数で対抗するか、最強の個体戦力で蹂躙するのが楽だ。
そしてイデアにはこの2つの条件を同時に満たす術があった。



しかし、ソレの発動の為には時間が少々必要になる。囮が必要だ。
出来れば敵をかき乱す程にすばしっこい奴か、とびきり頑丈で何百と言う亡霊兵の攻撃にしばらく持ちこたえれる存在が。


竜化は避けたい。確かに殲滅できるだろうが、果たして今のこの殿が神竜の力に耐え切れるかどうか……。
何よりイデアには手加減できる自信がなかった。自らの家を荒らされた怒りを抑えるのは相当難しい。
イデアが眼を動かし、見る。先ほど自分が退かした“竜”の頭部と胴体がその巨体を部屋の隅に横たわらせていた。



アレは使えそうだ……。

イデアが影のような、ぞっとする笑顔を浮かべた。



エーギルを圧縮し、練り固め、擬似的な竜石を掌に創造。
握っていた手を開くと、ほんの1欠片ほどの小さな黄金の竜石が生まれていた。



そしてイデアはソレを振りかぶって思いっきりぶん投げる。
“竜”の腐敗した死体に向けて。



キラキラと光の粉を撒き散らしながら、小さな小さな欠片は飛んでいき、首を失い、倒れた“竜”の胸辺りに落着。
同時に目まぐるしい変化が起きた。欠片が植物が根を生やすように黄金色の光の“管”を朽ちた“竜”に突き刺し、じわじわとその体内に潜り込んでいく。


ドクンと、死んだはずの“竜”の身体から大きく、心臓の鼓動音が高らかに鳴り響いた。
竜の首の切断面から黄金色の光が植物の蔓の様に噴出し、それらは直ぐ近くに落ちていた頭を見つけると、絡みつき、驚くような速さで巻き取っていく。


ゴゴゴと、小さな家屋ほどもある首が引きずられ、首の切断面と合体を果たす。ぶくぶくと切断面が泡立ち、ほんの数秒で首と頭は接合を果たす。
光を失っていた“竜”の眼窩に燃え滾るような真っ赤な光が宿り……。





【■■■■オォオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!】




咆哮。掠れ、壊れたボイスが殿を揺るがした。



死したはずの“竜”は神竜の力によって不完全ながらもドラゴンゾンビとしての蘇生を果たしたのだ、イデアの予想通りに。
このぐらいならば容易い。ただの人形の様な“竜”を知性のない下僕として復活させるぐらい、そこまで難しいことではない。


ギロリと、竜の真っ赤な光が亡霊兵どもを見渡し、その身をゆっくりと起き上がらせていく。
全長50メートルほどの巨体が4本の足でその腐れ果てた身体の自重を支え、その口をゆっくりと緩慢に開いていく。


喉の奥から灰色に濁りきった黄金色の炎が吹き上がり──。




【腐敗のブレス】



万物を死に追い込む、破滅の吐息が亡霊達の群れに吹きかけられた。
瘴気の濁流をまともに浴びた亡霊達はその全身にこびりついた肉や、残っている骨、そして身に纏った鎧ごと泡立ちながら、熔けていく。

ブクブクと体の全身があわ立ち、腕が、頭が、足が、そしてその身に宿ったエーギルがドロドロに溶かされ、原型を失っていくのだ。



が、亡霊どもも馬鹿ではない。
直ぐにイデアから注意を逸らし、今この場に存在している全体の半数、60体ほどの亡霊兵士ドラゴンゾンビを打ち倒すべく、その巨体に向けて飛びかかっていく。


しかもちゃんとブレスの射線に入らないように気をつけてだ。


ドラゴンゾンビはその巨体を遠慮なくハンマーの如く高速で振り回し、一撃一撃で3、4体程度のうざったい兵士どもを空高く打ち上げている。
が、亡霊らも負けじとその巨体にしがみ付き、なりふり構わず剣や槍、斧で無茶苦茶に切りつけまくってはいるが、ドラゴンゾンビの巨体からしたら、ほんのかすり傷。



しかも傷が付いた場所には黄金色の光が収束し、その腐敗した肉を再生させている。
亡霊兵達が屍竜に傷を付ける速度と、この化け物が傷を修復させる速度はほとんど同じである、故に中々この腐敗した竜は倒れない。
それどころか、怒りさえ感じられる動きで尾を鞭の様に振り、手足を使い、兵達を虫けらのように蹂躙している。





全てイデアの予想道理に。素晴らしいまでにドラゴンゾンビは囮としての役目を果たしている。神竜がほくそ笑んだ。
イデアが覇者の剣を水平に構え、銀色の美しい刀身をつぅっと指でなぞった。



【リザイア】



それは混沌魔法の一種。相手から直接【エーギル】を抜き取り己が力に変えるという暗黒の魔術。
抜き取った力は保存が利かないやら、自分の身体の【エーギル】の収納範囲を超える事が出来ないなどという限界こそあるものの、十分に凶悪な術。
銀色の長い刀身が円を基調とする魔方陣に覆われ、次いで夜の闇を思わせる純粋な漆黒に染まった。




ぶぉん。そんな風きり音が鳴る。
イデアが覇者の剣を握った腕を振ると、剣ごとイデアの腕が消えた。
ただ単純に剣を早く振っただけ。何も難しいことなどしていない。
ただ、ほんの僅かだけ神竜の力を解放している今のイデアは生命体として異常に身体能力が高いだけだ。



黒い剣閃が【オーラ】に群がっていた亡霊兵10名をその着込んでいた鎧ごと軽がると真っ二つに両断せしめる。
それどころか、剣に触れたモノ全てが障害にさえならずに切り裂かれている。剣も槍も、肉も骨も、そして概念的な【エーギル】さえも。


漆黒の刀身はその身に掛けられた術を遺憾なく発動させ
切り刻んだ亡霊兵らのエーギルを貪欲に食いつぶし、所有者たるイデアにその力を明け渡していくのだ。


イデアはそのエーギルを体内に入れることはせず、掌にかき集めて竜石を作るのと同じ要領で亡霊達のエーギルを塗り固めた輝かない黒色の竜石を作っていく。
更にもう一回。イデアの腕が消えた。そして次の1秒に更に10人程の亡霊が両断され、吹っ飛ばされ、そして喰われる。



たまに剣を振ることに飽きたイデアが指を鉤爪の様に曲げ、稲妻を放ち、一気に十数人の敵を焼け焦げた煙を上げるただの残骸に変えたりもする。


そして止めといわんばかりにイデアは背に翼を顕現させ、軽く宙に浮かび上がり身体を胎児の様に丸め……。



「はぁっ!!」



波動。黄金色の神竜の波動がイデアを中心に球状に吹き荒れ、その範囲内の亡霊共を無慈悲になぎ払う。
武器や鎧さえも波動に触れた瞬間にチリチリという音を立てて灰とも錆とも知れない物体に昇華させられ、その存在をこの殿から否定され、消滅。








気が付くと、イデアの周りには死体の残骸で作られた山が出来ていた。後は灰と錆の山だ。
ドラゴンゾンビの方も中々に戦っているらしく、イデアが視線を向けた時と同時にあの屍竜は最後の一体の敵をその前足で思いっきり踏み潰す瞬間であった。


「ふぅ……」


イデアが肩を竦め、首をこきっと鳴らす。思ったよりも、簡単であった。
ぐるりと辺りを見渡し、ついでに気配探知能力を使い、周囲を“見る”


特に何の気配もしなかった。先ほどまでここを満たしていた濃厚な殺気と、敵意は微塵も感じられない。



これでとりあえずここの敵は殲滅した。
まだまだ奥に大量の亡霊の気配と、隠そうともされない殺意を感じるが。



この殿全体に一体何千の亡霊兵が巣食っているのだろうか。イデアには検討も付かないが、一体も残してやるつもりはなかった。


標的の居なくなったドラゴンゾンビがイデアの眼前まで緩慢に地響きを轟かせながら歩き、そしてその巨大な頭を垂れる。
まるで新しい命令を待つ兵士の様に。次の命令を待っているのだ。その全身に刺さった武器や、つけられた傷跡から淀んだ緑色の体液が吹き出ている。



──付いて来い。お前は俺を守り、俺の囮となれ。



体内に埋め込んだ竜石を通し、イデアが簡潔に意思を伝える。
いや、意思を伝えるというよりは、手足を動かす、という表現の方がしっくりくるだろう。
このドラゴンゾンビには元々意思などないのだから。それこそ、ただの“竜”であった時から。



「おっと、忘れてた」



周りに散乱した死体の残骸を見渡し、イデアが手を翳す。
親指と人差し指、中指の三本の指で何かを掴む動作をし、グッと力を込める。



金属の擦れあう音が激しく広間に鳴り響き、亡霊らが纏っていた鎧兜、剣や槍、斧と言った鉄器が独りでに動き出し
広間の中央辺りに山の様に積み重なっていく。後々アンナに頼んで全てを里に転移させるつもりだ。


鉄資源は幾らあっても邪魔にはならない。溶かして使うもよし、修復してそのまま使うもよし、だ。




















殿の奥は正に死霊どもの巣窟であった。天井は余りにも高すぎて見る事など出来ず、横幅は巨大な荒野の様に延々と続いている
竜族が真の姿に戻って通っても大丈夫な程に広大な縦と横の幅を持つ殿の奥の大回廊には、何百、何千にも及ぶ数の亡霊兵達がひしめいていた。
真っ赤な眼を爛々と輝かせ、武器や魔道書で完全に武装した彼らは戦意を高めるためか、不気味な唸り声を高らかに叫んでいる。
まるで黒い絨毯のように回廊の床を完全に埋め尽くし、その総数は刻一刻と増えていく。



イデアという竜族の存在を感知したのか、この殿に存在する全ての亡霊兵士達が集結し、敵であるイデアの首を討ち取ろうとしているのだ。
既に彼らに生前の理性はおろか、自我さえあるのか疑わしい。今の彼らの脳内にあるのはただ竜族を滅ぼす、それだけだ。
彼らの時間は死んだその瞬間に凍り付いている。家族のことや何故戦争で戦ったのか、それさえも忘れ、今は竜を倒すという意思だけで動いている残骸に過ぎない。





「本当に邪魔な奴らだ。人の家を好き勝手荒らしやがって」



苛立ちを隠そうともせずイデアが呟き、その顔を不機嫌そうに歪める。
片手に持った漆黒色の亡霊兵らのエーギルを塗り固めた石を弄び、覇者の剣をクルクルと振り回す。


ここに辿りつくまでに更に数十人分の亡霊を喰い、この石の中には百人程度の人間のエーギルが内包されている。
今はただ消費を待つだけの魔力の塊のようなものだ。



それにしても…………ここはまた、随分と懐かしい所だ。
ドラゴンゾンビの頭部に跨り、高所から周囲を見渡したイデアが溜め息を吐く。


この大回廊には見覚えがある。
この壁や床に刻まれた文字には見覚えがある。この超が付くほどに広大な空間には覚えがある。



この回廊の先を自分は知っている。
この回廊の先には恐らく、それだけで山と見間違える程に巨大な祭壇があるのだろう。
自分とイドゥンが産まれた場所だ。始まりの場所。このイデアという存在の全てが始まった場所。



そしてイデアのイドゥンとの“繋がり”はイドゥンの力と存在がここから奥の祭壇から流れてきていると訴えている。
この何千と言う数の亡霊兵士の先に、彼女は居る。ならばイデアがやることは決まっている。



──突っ込め。出来うる限り、時間を稼げ。



屍竜の頭部から飛び降り、イデアが懐から【ゲスペンスト】の魔道書を取り出し、ソレを開く。
先ほどは戦闘が直ぐに終わってしまい、結局は使えなかったが、この状況なら使用するべきだろう。



【アアァアア●ア●オ●オオオ■■オオ■オ●オオ■!!!!!!!!】




ドラゴンゾンビが狂ったような咆哮を上げ、轟音と共に亡霊の群れに腐敗のブレスを吐きかけ
前列に居た数十人をエーギルごと熔かしつくす。そして闘牛の如く猛烈な速度を持って亡霊の群れに特攻。
黒い死者の絨毯に、朽ちた死竜がその巨体を躍らせ、暴風雨の様に尾を振り回し、一撃で何十もの兵を肉塊へと変貌させていく。








【ゲスペンスト】の書を開き、その中に記された力のある古代の竜の言語に眼を通したイデアが感じたのは歓喜であった。
読める。俺はこの文字を読める。読み、更にはその意味を理解できる。このゲスペンストという術がどういうモノなのかを理解できる。
ニヤリ。イデアが亀裂の様な笑顔を浮かべた。その眼に残酷な喜びを浮かべながら。
手に握った覇者の剣、その刀身が共鳴するように不気味に輝いた。



「そうか、お前も同じような存在だものな?」



薄っすらと黒く輝く覇者の剣の刀身を見つめ、堪能するような声でイデアが語りかける。
当然剣から答えなどなかったが、元よりそんなもの期待などしていない。


剣を鞘に戻し、書を両手で持つ。念の為全身に【オーラ】を張り巡らし、亡霊達のエーギルで塗り固めた竜石の力を書に注いでいく。
百数十人のエーギルが湯水の様に減っていく。ゲスペンストの書は、まるで飢えた獣の様に次々と亡霊の魂を貪っているのだ。




『 ─ б Λ Ψ £ ─ 』



途端に全身に流れ込んでくる莫大な量の力。エーギルでも魔力でもない力の正体は“闇”そのもの。
元始の“闇”が書を通し、イデアの存在そのものを蹂躙し始めるが……。


記憶を食い荒らし、脳内を噛み締め、心臓を鷲掴みにしようと“闇”が暴れるが……。




『 ─ Φ Ω Ш Й Ж ─ 』






こんなものか。




この程度か。
里の魔道士らは闇属性の魔術をさも人の手には負えない禁忌と呼び、使用するには恐ろしい代価を払うような事を言っていたが……こんなものか。
確かに他の術とは比べ物にならないほどの負担だ。数ヶ月前の自分ならば、この闇に屈し、精神を喰われていたかもしれないだろう。


が、今の自分にとって、この程度の闇、大した苦痛にはならない。イドゥンと離れ離れになり、感じていた苦痛に比べればこんなもの……児戯だ。


この数ヶ月イデアを苦しめてきた“恐怖”という本当に恐ろしい怪物に比べれば、始祖の闇など可愛いとさえ言える。



イデアの胸の内の“太陽”が目も眩むような黄金色の炎を吹き出し、恐怖も怒りも、そして苦痛さえも力となっていく。
この“太陽”の放つ圧倒的で、同時に暴力的でもある黄金は何の苦も無くゲスペンストが齎した“闇”を容易く飲み込み、残ったのはゲスペンストという術の支配権のみ。



イデアが眼前の死者の群れと、そこで大暴れをしているドラゴンゾンビを何処か冷めた目で見やる。
その心は水晶だまのように透き通っていた。そんな心では彼は考える。



そして彼は改めて決めた。この亡霊共を殲滅することを。



最後の一句を、発動の為の一句を、イデアは無慈悲に歌い上げた。
それと同時に、掌の中にあった漆黒色の石が、その力の全てを書に吸い取られて完全に消滅した。


それと同時に、今度はイデアの中の力がゲスペンストに喰われ始める。最高の餌として。


『 ─ Χ ─ 』




刹那。世界が変化を起こす。この死にぞこない達に真の意味での滅びを与えるべく。



【オオオオオオオオォオオオオオ!!??】



最初に変化に気が付いたのは術者であるイデアではなく、亡霊兵達であった。


亡霊兵らが……既に死しており、恐怖という概念を持たない亡霊共が……“怯えていた”
元は百戦錬磨の兵であり、騎士であり、魔道士であった彼らが……今は無様にも怯え、幼子の様な叫び声を上げている。




ドラゴンゾンビに蟻の様に集っていた亡霊達がその標的を瞬時に切り替える。即ち、イデアに。
何千と言う矢と【ファイアー】に代表される魔術が豪雨の如くイデアに叩き込まれるが……意味をなさない。


最初は【オーラ】に防がれていたが……後半からはもっと恐ろしいことに“闇”がそれら全ての攻撃を飲み込んだのだ。


既にイデアは【オーラ】さえも張ってはいなかった。その必要を感じないから。
攻撃は全て“闇”が抱き込み、その力全てを自らの力へと還元していく。



形を持った“闇”であった。ドロドロに熔けた鉄のような粘性を持った“闇”だ。
不定形のソレがイデアを囲むように渦を巻き、一つの形を取ろうとしていた。




最も明るい光は、最も深い影を投げかける。
ならば、神竜の光は、始祖の闇の最高の糧となるのだろうか。
逆もまた然り。



概念的な混沌とも言えるその“闇”がその一つに固まり、集まり、収束し、小さな黒い球体を形作る。



小さな“黒い太陽”を。日食を連想させ、見ているだけで不安な気持ちに陥ってしまいそうなほどに、禍々しい太陽。


その輝かない太陽の中心に魔法陣が浮かび上がる。古代の、神話の時代の竜族の力を持った文字。
人間には意味さえ理解できない、複雑怪奇な文字の羅列。円を基調とした魔方陣が浮かび上がった太陽は、まるで巨大な目玉の様にも見える。


同時に周囲を支配するは、先ほどまでとは比べ物にならないほどの濃厚な腐敗臭。純粋な死の、臭い。







【ゲスペンスト】






そして、太陽からあふれ出た黒い運河が、亡霊共に向って濁流のように流れ出した。


この死にぞこないらに、滅びを与えるために。





黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒。




圧倒的で、絶対的な漆黒の“闇”が流れ出す。
自然現象の大洪水にも似たソレは、このエレブに存在する全ての影をかき集め、
塗り固めたような不気味な質感を持ち、確かなる狂気と殺意を持って亡霊に襲い掛かったのだ。


びっしりと隙間無く、この巨大な大回廊そのものを端から端まで飲み込む運河は亡霊であろうが、イデアの下僕であるドラゴンゾンビであろうが、
一切の区別無く、神の様な寛大な心を持ち、一切の差別を許さず裁きの様にその黒い濁流の中に巻き込んでいく。


全ての抵抗が無駄であった。どれほど魔術を撃ち込もうが運河の流れは停止させる所か、一時的に食い止めることもできない。
どれほど武術を極めようが、流動する闇の河の前では無意味。



ありとあらゆる亡霊の抵抗を無感情に【ゲスペンスト】は押し流していく。何百、何千と言う敵を丸ごと飲み込み、その戦列を蹂躙する。
かつてドラゴンゾンビであったものがあまりの流動の速度に耐え切れず、その身をイデアの眼下でバラバラに砕け散らせた。


屍竜に植え込んでいたイデアの竜石を“闇”は吸収し、更に河の流れが速くなる。
土石流の様に急激に流れを増した闇が、必死に守護体形を組んで守っていたアーマーナイト数十人を一瞬で飲み込んでいく。



遥か昔より人間は大洪水を“天災”や“災厄”と呼んできた。
ならば、コレは確かに、真の意味での“災厄”と言えるだろう。



そう仮定するなら、自分は差し詰め【災いを招く者】とでも言った所か。



もしもこの術をこんな殿の中ではなく、もっと開けた場所……そう、例えばエトルリア王国の王都アクレイアなどで発動させたら
一体どれぐらいの被害が出るのだろうか……なるほど、確かにコレは戦略級の魔術だ。




ずっと昔より、人間は完全に暴走した水の流れの前では無力だ。
しかもこの河は水よりも更に残忍な力で形作られている。
そんな存在を顕現させるこの術は確かに禁忌に指定されてもおかしくはない。
たとえ数万の軍勢であろうと、関係なくこの【ゲスペンスト】はほんの十分たらずで飲み込めるだろう。



翼を生やし、上空に退避していたイデアが冷静に【ゲスペンスト】という術に対して評価を下す。
敵味方、術者以外の全ての存在を死の河に飲み込ませる術……【ゲスペンスト】に対してイデアは寒気を覚えた。


これでも全力ではない。まだ、イデアは大分余力を残していた。
やろうと思えば、この大回廊だけではなく、この殿全体をこの黒渦に飲ませることも出来るだろう。


これ以上やったら、本当に殿を食いつぶしてしまいそうだ。
眼下で最後まで雄たけびを上げながら抵抗をしていた亡霊の一隊が波の様に押し寄せる黒に飲みこまれたのを見計らって、イデアは術を解除した。












【ゲスペンスト】が解除され、全ての闇の運河が殿の影の中に溶ける様に消え去り、原初の混沌に還ったのを見計らって、イデアは地に降りた。
辺りは不気味なほどに静かで、先ほどまで蠢いていた亡霊は一体も見当たらない。
変わりにあちらこちらに落ちているのは、持ち主の居ない武器や着る者の居ない鎧、主の居ない魔道書などだ。
どうやら【ゲスペンスト】はイデアの意を汲み取り、丁寧に肉体とエーギルだけを混沌の運河で吸収していったようだ。



辺りに散乱しているのは何千という数の亡霊らの置き土産だけである。
完全な無音。時折風の流れる音がするだけで、後は何もない。


試しに辺りを探ってみるが、小動物一匹居ない。まぁ、当然だが。
殿に巣食っていた亡霊らも、全てゲスペンストに喰われ、今この殿の内部で活動しているのはイデアだけ。



ゴミ掃除は終わったらしい。



この散らばった武器を回収するのは骨が折れそうだ……。
イデアは素直にそう思った。



だが、先ずはそれよりもやるべき事がある。



── アンナ、聞こえるか? アンナ? 



念話を飛ばし、殿の外で待機するように指示していたアンナに命令を飛ばす。


── はい。長。


── “掃除”が終わった。もう入ってきてもいいぞ 生存者探索と武器などの回収を頼む。



── 判りましたわ。




その言葉を最後にイデアが念話を切る。



これで、しばらく彼は誰にも邪魔されずにイドゥンを探索できる。



ようやくだ。本当に、ようやく、永かった……。



全身に抑えきれない程の興奮を宿し、少年の様な純粋な笑顔を浮かべ
イドゥンの家族としての若々しい活力に満ちた足取りでイデアは回廊を鼻歌交じりに進んでいく。


















イドゥンは
思っていたよりも簡単に見つかった。
別にどこかに隠されていた訳でもないないし、だからと言って、見せしめの様にされていた訳でもない。
但し、彼女は眠っていた。いつもイデアが見ていたあの安らかな寝顔で。



唯一違うといえば、彼女の寝顔は安らかではあったが、いつもイデアの隣で見せていたあの完全に安心しきり
涎さえも垂らしていたお気楽さが全くないことであろう。



今の彼女は一種の完成された芸術品であった。これ以上ないほどに美しい。
神秘的で、芸術的で、恐ろしいくらいに神々しい。
彼女は、やはりイデアの感じたとおりに幽閉されていた。
薄い水晶の様な、氷にも見える、半透明な牢獄の中に閉じ込められ、眠っているのだ。


かつて双子が生まれた祭壇の上で、彼女は眠りについていた。
まるでイデアが以前の世界で見た白雪姫の様に。



「………」



イデアが無言で手を伸ばし、力を送る。
この目障りな牢獄を砕いてしまおうとする。
黄金色の光が水晶に殺到し、蛇の様に絡み付いてギリギリと締め上げる。



が……砕けない。それどころか、傷一つ入らない。神竜の力をもってしても、出来ないのだ。
皮肉な事に、大抵の事はできる力の範疇を超えている。



イデアが、拳をギュッと握り締めた。背中に翼を顕現させて、今度は手加減なしで思いっきり力を行使。
先ほどの十倍にも及ぶ力で水晶の牢獄を黄金色の力が締め上げる。


周りの石畳に亀裂が入り、付近の“場”そのものに無数の亀裂と断層面が走り出すが……水晶そのものにはやはり傷一つ入らなかった。


覇者の剣で切りかかろうとして……止めた。



イデアは無駄だと悟り、手を降ろす。
はぁ、と大きく力を抜き、大きく息を吐き出す。


そして。



次の瞬間、イデアは叫んだ。
思うようにいかない子供が駄々を捏ねるように大声で、恥も外聞もなく。




「ふざけるなっ! 何で、何で、こんな事になってるんだよ!? 勝手に俺を置いていって、氷付けか!!?」



収まらなかった。やっと、ようやく会えたというのに、こんな仕打ちを受けたことが悔しくて。
それでいて何も出来ない自分が憎くてたまらなかった。せっかく強くなったのに、肝心の一番大切な事が出来ないのが、悲しかった。



「何で俺を置いていったんだ!!! 何で俺が起きるのを待っていてくれなかった!……そんなに、俺はナーガに比べて、頼りなかったのか!?」



幾ら叫ぼうがイドゥンは答えない。凍りついた牢獄の中で眠っている。
イデアを慰めも、イデアに謝りもしない……出来ない。


はぁーーっとイデアが肩で息を整え、大きく数回深呼吸。とりあえず、溜まっていた鬱憤が吹き飛び、気分が楽になる。
先ほどとは打って変わり、確かな優しさと、絶対の決意が篭もった声でイデアは宣言する。自分自身に対して。



「絶対に、俺がそこから助け出してあげる。もう、姉さんが戦う理由も必要も無い。
 魔竜だろうが神竜だろうが、関係ない。そこから出して、少し説教させてもらうからな……!」
 


それは宣言。イデアの決断。自分はイドゥンを取り戻す、という自分自身に対する絶対の誓い。
いや、誓約と言ってもいい。たとえ幾千の昼が過ぎ 幾万の夜が流れても、自分はイドゥンをこの牢獄から救う。



必ず……絶対に。




ふと、イデアが気が付く。唐突に、いきなり、突拍子もない程に。


もしかすると、自分はこの為に産まれたのではないか? と。
このエレブという世界に自分が産まれたのは……運命が実在すると仮定して、最初からイドゥンを救う為だったのではないか?


この仮定は……恐ろしいまでにイデアの中では辻褄があっている……あいすぎている。


里のフレイやメディアンと言った者らはイデアが居れば特に問題ないと考えている節があるし
そこまでイドゥンを助けようなどとは思ってはいないだろう。


このエレブで、イドゥンと言う存在を一番知っているのは自分、このイデアだ。
このエレブで、イドゥンと言う存在を一番愛しているのはこの、自分だ。
このエレブで、唯一心の底からイドゥンという存在をこの氷の牢獄から開放しようとしているのは、このイデア“だけ”だ。



イデアしかない。自分“しか”いないのだ。



「また来るからね、姉さん。一人でこんな暗い所は嫌だろ?」



かつてイドゥンは暗い所も一人も嫌だ、と言った。
ならば自分が此処に定期的に訪れよう。彼女が一人でも寂しくないように。



ピッと腕を振り、殿の周りの機能を少しだけ弄る。
凍りついたイドゥンの周りの床や壁、天井に刻まれた魔術の文字の部分を地面の下の地脈に接続。


これで、イドゥンの周りは常に照らされ続けることになる。暗闇に一人ぼっちでは余りにもかわいそうだ。



ついでに持ってきたリンゴを2個、彼女の前においてやる。
もしかしたら、リンゴ欲しさに自力で出てきそうだ。



最後にこの水晶の欠片の一部だけでも持ち帰りたかったが、やはり剣で切ろうが、力で圧力を掛けようが傷一つ付かない。
恐ろしい程に頑丈な封印。イデアの敵。これを解かなければ彼女は戻ってこないが、イデアには諦めるつもりなどなかった。



もっと、強くならなければ……。この封印を解けるほどに。




── 長、少しよろしいですか?



イデアの脳内に声が響き渡る。アンナの声だ。心なしか、少し焦っているようにも聞こえる。


── 何だ? 


── 生存した竜を発見しました。 重傷を負っていて、長の力でないと恐らくは助けられないかと。




ニヤリ。イデアの顔が満足気に歪んだ。
さっそく運が巡ってきた。大戦の情報を持っているとあらば、助けない訳にはいかない。
魔竜やらメディアンの言っていた力やら、イドゥンの封印についてやら、聞きたいことは山ほどある。



── 判った。直ぐに行く。



簡潔に返事をし、念話を切断。



踵を返し、アンナが居るであろう入り口辺りの大広間に移動しようとする
最後にイデアが振り返り、もう一度イドゥンを見た。




「待っててね、絶対に俺が助けるから」





今度こそイデアは振り向かずにイドゥンの元を後にした。







あとがき


どうも皆さんマスクです。
やっぱり戦闘シーンというのは難しいものですね………頭の中のイメージを文章で表現するのはやっぱり辛いです。


色々と厨二に片足突っ込んでいましたが、楽しんでいただけたでしょうか?
今までは神竜(笑)だったイデアの、竜としての戦闘力の凄まじさを表現出来ていれば幸いです。

色々と手探りの回でしたので、感想をいただけると非常に助かりますw


次回、現れるは初期のプロットでイデアに絶対に言ってはいけない禁句を言ってしまい、数回ほど殺された原作のキャラです。



さて、色々と術や武器の数が多くなってきたので、今回はおまけとして少しだけ解説を。




オーラ 


光属性の魔法で、初期の頃のFEによく出ていた魔法ですね。
威力は20というとんでもない代物で、やはり重量もそれに見合うだけのモノがあります。


外伝だとHPを消費して魔法を放つシステムなので、外すと一気にピンチになることもしばしば……。
逆に新・暗黒竜では、重さが1になり、威力も18という非常に使いやすい武器になっています。


今回イデアが使用したオーラはこういった攻撃魔法ではなく、どちらかと言えば暁の女神のアスタルテが使っていたオーラで、シールドみたいなモノです。
神繋がりで使用させました。ナーガもさりげなく幕間【門にて】で使っています。

攻撃魔法の方も……もしかすれば使うかも。



ゲスペンスト


烈火の剣にて登場した闇魔法です。
威力23は正に脅威の一言。ラスボスが装備している武器よりも高い威力を誇ります。

が、コレを装備しているのが雑魚だったり、重かったりで色々と不遇な扱いをされていますから、このお話の中では吹っ飛んだ性能にしています。

この話の中での術のイメージはアーカードの零号開放。




ドラゴンゾンビ


聖魔の光石に登場した魔物で、文字通りドラゴンのゾンビです。
ブレスの射程は1~2で、困った事にこのブレスは守備&魔防を無視してダメージを与えるというモノで、HPが低いキャラでは大抵即死してしまいます。

HPが最低ラインの幼女マムクートと会話を用意させたスタッフはマジ鬼です。


しかし弱点も多く、闇属性の神器以外の全ての神器、司祭の魔物特攻
更には飛行系なので弓や風の剣から特攻、更に更にドラゴンキラーからも特攻という
非常に多くの弱点を抱えているので倒すのは意外と楽です。

ただしHPやステはかなり高いので油断は禁物。


とある隠しステージだとこいつが10体同時出現し、作者は地獄を見ました。


余談だが、パラメータの上限値がHPは80、運以外は50とかなり高いのですが
なんと体格とHP以外の上限に至ってはラスボスを超えてしまっているんですよ、こいつ。




亡霊兵士


烈火の剣にて登場。


神将器を祭っている洞窟などを守護する兵士達です。
亡霊なのに何故か毒ガスとか火柱でダメージを受けるお茶目さん達ですね。


20年後の封印で居なくなっていたのは、単に成仏したか、それとも倒されたかのどちらかでしょう。





長々とおまけを挟みましたが、少しでも原作のFEに興味を示してくれれば二次創作家としては最高の名誉です。

それでは次回更新にてお会いしましょう!





[6434] とある竜のお話 第二部 三章 3 (実質11章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/01/07 00:05



イデアは非常に上機嫌であった。
足取りは自然と軽くなり、その口元は緩み、今にも鼻歌を歌いながらスキップをしてしまいそうだ。
少しだけ足早につい先程までは何千と言う亡霊兵士が満たしていた大回廊を進んでいく。


道端に無造作に転がるのは何千と言う武具や鎧、魔道書の数々。
持ち主は全て始祖の混沌に食われ、今頃はこの世界に産まれてきたことを後悔するほどの眼にあっているか、存在そのものが闇に溶かされている頃だろう。



ざまぁみろ。いい気味だ。


イデアはこの墓石の様にそこら中に散乱し、未だ亡霊兵士らの匂いと気配が少しだけする装備の数々を見てそう思った。
勝手に人の家に押し込んで、散々壊して回って、挙句帰ってきたこの殿の主に牙を剥くからそうなる。
もっと数が少なければ【ゲスペンスト】に飲み込ませずに、直接一人一人の首を『力』を使って物を浮かばせる要領で締め上げてやったものを。


首を『力』で捻じ切るのは至って容易いだろう。
一度標的を知覚範囲の中で認識してしまえば、たとえ街の裏側にいようが『力』を使って窒息させたり首をへし折るのは簡単なことだ。



そして何より自分がイドゥンと会うのを妨害したことが許せない。こいつらが居なければ半刻は早くイドゥンと会えた。
アンナの報告が来るまでたっぷりイドゥンにもっと話しかけられた。そんな時間をこいつらは削らせたのだ。
コレはイデアにとってどうしても許せない事だ。あんな、あんな獣よりも劣る存在に姉との逢瀬の時間を削られたのは誠に腹ただしい。


無法で野蛮で、何より理性も無く、ただ自分が“竜”というだけで襲ってきたこの亡霊どもに一切の情けを掛けてやるつもりもない。



が、そんなことはもうどうでもいい。問題はイドゥンだ。
いつまでも混沌の濁流に飲み込まれた死に損ない達について考えてやる時間を与えるのさえもったいない。



あの水晶の様な牢獄は一体何なのだろうか?
今の自分の力では揺るがすことさえ出来ないあの氷の壁は。


“場”そのものを固定するように侵食しているあの氷は勿論見た目どおりの存在ではない。
そんなことは魔道士でもあるイデアからすれば、一目瞭然。空間そのもに皹が入るほどの力を使っても割れない氷などあってたまるか。
しかし問題はアレをどうやって破るか、だ。



あの封印……まぁ、あの水晶は封印だろう。色々な御伽噺で邪悪な魔王やら神を封印するという話はよく聞く。
封印……封印という事は姉さんは生きているということ。事実、あの水晶からほんの少しだけイドゥンのエーギルと存在を感じることが出来る。
人間達はどうやら賢明な判断をしたらしい。封印は恐らくはかなりの時間が掛かるだろうが、決して破れないわけではない。
そして何よりイドゥンは生きている。彼女は死んではいないのだ。



もしも彼女を殺したとすれば、その報復にこのエレブを消してやろうと考えていたが、どうやら自分は魔王や邪神、狂った竜にならなくて済みそうだ。


イデアが壮絶な笑みと共に覇者の剣の柄を撫でる。面白いほどに手に馴染む愛用の剣を。
この剣はこの殿の中だけでも既に数十人も切り殺しているが、その刃には傷一つ汚れ一つ無い。
亡霊らが身につけていた鎧や盾を塗れた紙を破るかの如く容易さで切り刻んだこの剣は本当に使いやすい。


単純に壊れず、何人切っても劣化しない素晴らしい切れ味、それと同時に様々な応用も使えるこの覇者の剣をイデアは随分と気に入っていた。
ナーガが使っていたという点だけは気に入らないが、それ以外の不満などあるわけもない。



「~~♪ ~~~~♪」



やはり内心から湧き上がってくる歓喜を誤魔化すことなどできず、イデアは素直に欲求に身を任せて鼻歌を歌い始める。
足早に、ステップを刻みながら誰も居なくなった殿の大回廊を進んで征く。やはり掃除はしておいてよかった。


と、何かを思い出したのかピタリと停止。ざっとあたりを見渡し、周囲に散らばった武具の数々を見渡し一言。
イデアの口元が薄く裂け、亀裂のような笑顔を浮かべた。口内に生え揃った竜の肉食動物の牙と歯をむき出しにして笑いながら彼は言う。
深く、深く、とても少年が出しているとは思えない程に艶やかな声で。



「そうだそうだ、もって帰るつもりだったんだ。忘れてたよ」



喉の奥で笑い、無造作に、退屈そうに、片腕を上げて親指と人差し指、中指の三本で筆を掴むような動作をする。
三本の細い指。大の男が少しでも力を入れれば呆気なく折れてしまいそうな程に繊細で、白く、女のモノと見間違えてしまいそうな指。


が、ソレはただの見た目だ。


実際、イデアの両手の指はやろうと思えばエーギルの手助けを借りて鋼の鎧だろうが銀の鎧だろうが素手で飴細工の様に引き千切る事が可能だろうと考えている。
その力を試さずに全ての亡霊をゲスペンストに飲み込ませてしまったのは、少々もったいなかったかもしれない。
あの身の程知らずどもをあんなに呆気なく踏み潰したのは、やはり芸がなかったか?



もっと眼に見える形で苦しませてやればよかった。人の家を滅茶苦茶にしたのだ、それだけの事をされても文句は言えまい。



グッとほんの僅かだけイデアが指に力を込める。“持ち上げる”という意思を伴って。



結果は直ぐに眼に見える形で現れた。


ガチャガチャという金属同士が擦れあう、いやに耳に残る音が最初は少し、人間一人が歩いている程度のモノが次第に大きく、そして“多く”なっていく。
路上に石ころの様に転がっていた無数の剣、槍、斧、大剣、魔道書、鎧、兜、旗、その全てが不可視の力に支配され、野原の蝶の如く宙を舞っていた。
もう少し『力』を多く入れればこれらには金色の光が纏わり付くのだが、そんなことしなくてもこの程度のモノならばイデアが思うだけで移動させられる。



もっと言うなれば、今のイデアならば赤子の手を捻るように今“持ち上げている”全てを砕くことも出来うるのだ。
コレも数ヶ月前では出来なかったこと。だが、今ならば出来る。強くなった今ならば。


幾つも浮かばせた武具の内、特に一際眼に付いた剣……刀身が鋸のような鋭角な形状をしている長剣を眼前まで持って来る。
悠然と歩を進めながらもその剣を見定めるようにしげしげと観察し、隅々まで詳しく検査。
案の定、刀身から柄に至るまで
ありとあらゆる場所に魔術的要素を含んだ文字がビッシリと刻まれており、コレはあの“竜”にとってはそれなりの効果をあげることだろう。


あの“竜”には、だ。この剣に名前を付けるとしたら、差し詰め『ドラゴンキラー』とでも言ったところか。


不愉快だ。それと同時に滑稽だ。
こんな遊戯板の駒にも劣る幼稚な玩具で本当の竜を、姉さんを殺そうなどと考えていた者がいるだけで、イデアは嘲笑で笑い転げそうになる。


こんなお粗末なものは、神竜と魔竜に対する侮辱だ。
彼はその華奢な少年の手でドラゴンキラーの未だ傷一つ無い磨き上げられた黒曜石の様な色の刀身を握りこみ、こぶしを作った。
パキンという甲高く、虚しい音と共にドラゴンキラーが握りつぶされ、その刀身がバラバラに砕け散る。


砂を握りこんだ時と同じような、ザラザラとした感触を掌に感じながらイデアがこぶしを解き、手を広げる。
砂粒の様な金属の欠片が僅かな光を反射し、輝きながらイデアの手から零れ落ちていく。


イデアがたった今抜き身の刀身を握りこんだ掌を見る。傷一つ無い。当然、痛みも無い。
神竜が肩を竦めた。少々遊びすぎたかな? と、彼は思った。





ちょっと急ごう。こうやって遊んでいる間に、生存者が死んでしまったら間抜けなどという次元ではなくなる。




















後方に何千と言う武具を浮かばせ、騎士団の行進の様な華やかさをもってイデアは帰ってきた。


亡霊兵士の邪魔を受けなくなり、イデアは行きの時よりも遥かに短い時間で最初に亡霊共に襲われた広間に戻ってくることが出来た。
相変わらず散乱した死体が発する腐敗臭が酷かったが、既にイデアにとってそんなものは問題ではなかった。
アンナはイデアの感じたとおり、部屋の中央部に居るのが現在地イデアの立っている場所からでも見える。


見ると、彼女の足元に紅いローブを着込んだ、恐らくは人の姿を取っているのだろう竜族が倒れてるようだ。




遠目からでも判るがっちりとした体形からすると、多分男だろう。
感じるエーギルの波動の種類はアンナと同じく全てを焼き尽くす『炎』
種族は火竜、それもそこそこの力を持った個体。身に纏う真紅のローブがそれを象徴しているようにも見える。


イデアの竜族としての素晴らしい視力は男の肩から腰に掛けて斜めに、何かとても鋭利な刃物で切り裂かれたような傷が深々と刻まれているのを捉えた。
しかもただの肉体的な損傷ではなく、もっと存在そのものを抉るような傷……。
つい先ほど握りつぶしてしまったが、あのドラゴンキラーでもこんな傷は付けられまい。
もっと力のある武器の仕業か? メディアンが言っていた“力”の件、もっと調べるべきか……。



が、コレは中々にいい状況だ。もしも地竜などであったら、万が一の時に“対処”する際に苦労することになる。
その点、瀕死の火竜など抵抗されようが片手でその首を締め上げられる。



イデアは自信と余裕、この二つの感情を顔に涼やかに浮かべており、まるで散歩でもするかのような軽い足取りでアンナに近づいて声を掛けた。



「その男が生存者?」


自分の声がほんの少しだけ揺れていることにイデアが気が付き、素直にその事実に驚いた。


コレは恐怖? 


いいや違う。純粋な期待感から彼の体は震え、歯は不規則に揺れ、息が少しだけ荒くなる。
貴重な戦争の情報が手に入ると思うと、イデアの心は歓喜で満たされるのだ。
魔竜やあの封印を含んだイドゥンについて、人間について、他様々な情報がこの倒れている男から手に入れる。


いや、例え言うのを拒んだとしてもこの男は知ることになるだろう。自分にそんな権利などないことを。



「はい。一応はライヴなどで応急手当は施しましたが、この傷だけはどうしても治らないのですわ」



アンナが男の胴体を斜めに切り裂いている鋭利な傷跡を示す。
真っ赤な傷口、まるで焼ききられた様に焦げ付き、そして何より薄く紅く発光している傷口。
じっくりと、興味深いモノを見るようにイデアがその傷を観察。
まばたきもせずに凝視し、その本質を探っていく。



まるで重度の火傷をしているかのような傷だ。切り口の周囲は焼け爛れ、炭化している場所も見受けられる。
しかもこの傷はよく見てみると、自らの意思を持っているかのように時間の経過と共に更に深さを増し、この竜に致命的とも言えるダメージを与え続けている。
直感的にイデアがこの傷から感じたイメージは“烈火”……雄雄しく、轟々と燃え続ける魂の焔。
どうも人間たちは面白い武器を作ったらしい。なるほど、あんなドラゴンキラーだけではないというわけか。


メディアンも確か“烈火”のイメージをそういえば言っていた。



が、治せるかどうかと問われれば、答えは可能だ。
出来る、不可能ではない。その程度できなくて、イドゥンをあの封印から救えるものか。



片手を振り、アンナに少し下がっているように指示を出す。

火竜が火傷とは中々に洒落が聞いていると思いながら期待と共に傷口に軽く手を置く。
2対4枚の翼を展開し、更にもう少しだけ神竜としてのエーギルを開放。


黄金色の薄霧……エーギルが男の傷口、肌、口、ありとあらゆる場所から侵入し、この男の隅々まで行き渡っていく。
殿の壁が淡く発光、イデアの力を更に増幅し、その力でこの傷ついた火竜を癒す。


瞬間、イデアはこの男の全てを完全に掌握し、これ以上ないほどの一体感を感じた。
男の手、足、顔、そして竜としての力、その全てを完全に理解することが出来た。
この火竜は、この瞬間だけイデアの一部であった。


火花を上げる雄雄しい黄金色の滝がイデアより溢れ出し、男を完全に飲み込みその屈強な全身を母の子宮の様な繭で覆い尽くした。
イデアのエーギルは水の様に器によってその形と性質を変えて、純粋な生命力となり男の全身に注がれていく。



広間全体が黄金に照らされ、満天の星空の様に輝く様は誰がこの場の支配者なのかを雄弁に物語っていた。





力。




イデアは不意に気が付いた。この火竜の身体を“復元”している最中、彼はふと気が付いたのだ。
今、自分はこの男を好きに出来る状況にあると。


彼にはこの男の存在そのものを如何にでも出来る力がある。エレブ中のこの男を。
例えば、この男の弱弱しく鼓動を続ける心臓を今すぐにでも握りつぶすことも出来るし、この男の頭蓋骨の中身をシェイクすることだって簡単だ。
赤子の首を折るのと同じぐらいに容易くイデアはこの男の命を奪うことが出来る。


それに気が付いたイデアが、今度は別の種類の感情によって震えた。
男に翳していた手とは反対の手、左手が震えていた。イデアはそれを身体の後ろに隠した。




眩く輝く黄金色の繭、自らが作り出したこの繭をイデアは一種の満足感と共に見やる。



「あの男について、お前は何か知っているか?」


今でも少しだけ震える手の指を握ったり開いたりしながらイデアが問う。
指の関節が動かされるたびにパキパキと枯れ枝を折るような音を立て、寒気が覚える程にスムーズに動く。



「何度か会った事がありますわ。余り言葉こそ交わしませんでしたけど……」



「名前は? 知っているか?」




アンナは落ち着いて答えた。イデアが感じた内心の焦りを欠片も表に出すことなく。



「名前はヤアン。火竜族の成竜で、先代の長……ナーガ様と意を違えた者らの一体です」



「そうか、で、こいつはどんな奴なんだ? 何度か会って、お前はこいつにどんなイメージを抱いた?」


このヤアンという火竜の性格などを全く知らないイデアにとって、どんな些細な情報でもありがたい。
幸い、このアンナは何度か言葉を交わす機会があり、小さな時間ながらも共に居たらしい。
アンナは小さく眼を細め、考え込む様に視線をあちこちに飛ばした後、イデアを真正面から見据えた。



「……思慮深いというのは確かです。少なくとも無駄に騒ぎ立てることを嫌う性格でした……しかし」



「しかし?」



暫し間をおいて、アンナが再び語り始めた。



「徹底的に人間と竜は違うと主張し、人間が準備出来ない内に戦端を開くべきだと言っていたのもこの男ですわ。
 竜人が産まれた時もそんな紛い物は殺害すべきだと述べていたのを私は覚えています」




「なるほど」



イデアが頷いた。
今の説明で何となくヤアンという火竜の人となりを理解したイデアが何処か遠くを見るような目線で繭を見る。


傲慢なナーガか。イデアの感想はこの一言に尽きる。
あのナーガにとてつもなく肥大化した竜族のプライドと偏見を混ぜ合わせればヤアンになるのだろう。


参ったな。やれやれとイデアが内心肩を竦めた。

そんなナーガは、絶対に見たくない。そもそもの話、もう一度彼に会える訳もないのだが。
もしも会ってしまったら、勝てない事を承知で殺しに掛かってしまいそうだ。






「イデア様……その、一つよろしいでしょうか?」



「何?」



イデアの後方に待機している無数の武器の列と、山の様に部屋に積まれた様々な道具の数々を見つめつつ言う。
左手の人差し指で武器を指差し、何かを確かめるかのように。



「もしかして、アレを全部転移させるおつもりで?」




イデアの返答はさっぱりとしたものであった。
無邪気な顔で、さも不思議そうに彼は答える。


紅と蒼の眼に純粋な疑問を浮かべ、小首を少し傾げる様は「そっち系」の趣味を持つ者の心を大いに奮わせる事だろう。



「もちろん。俺も力を貸すよ……それとも、無理?」



アンナは思わず、ほんの小さな溜め息を吐いていた。






























里に戻ってきたイデアは少しだけ眠りに付き、消費した力を回復させると、次に考え事に没頭していた。
お題は当然イドゥンの事だ。あの封印の破り方。
そしてあの封印を成したモノ。彼の知っている神話などで出てくる強大な力を持った武器か、それともイデアの知らない怪しげな術か。



イデアの保有する知識はナーガに比べれば子供騙しと断言してもよいぐらいに少ない。
それでも以前に比べれば遥かに知識の絶対量を増やした今のイデアにとって、あの封印はとてつもない強敵だ。



……ナーガならば、どうしただろうか?



ナーガなら、あの大図書館を丸ごと頭の中に写生していそうなあの男ならば
ブレスの一撃で大陸はおろか、世界さえも微塵に砕いてしまいそうな力を持っているナーガならば
あの飛竜の群れを想像を絶する威力の魔法で消滅させたナーガならば



彼ならば、イドゥンのあの封印を解けるのでは?



……馬鹿馬鹿しい。



もうエレブには存在しない者の事を考えても仕方ない。
大きく憂鬱気に溜め息を吐き、イデアは力を抜いて、遊びつかれた小動物の様にベッドの上にごろりと横になった。
かつて殿に住んでいた時に使っていたベッドに比べれば大分小さいが、ただ眠るだけならばコレで十分だ。


ふと見れば、窓の外が明るくなってきている。そろそろ太陽が昇り、また恐ろしく熱い一日が始まるのだろう。
月が丁度天の真上に昇る前にこの里を出て殿に向ったことを考えると、案外思っていたよりも時間の経過は短いらしい。



とてもつもなく濃い時間であった。漠然とした頭でイデアはそう思う。
生存者探索という名目で行った今回の殿への偵察は思っていたよりも多くの情報と事実をイデアに突きつけた。
だが、イドゥンの封印、九つの力、今の所イデアが詳しく知りたいことはコレだけだ。


これ以外の情報も手に入るならば欲しいが、今のイデアにとって余り価値は無い。
もちろん、里の運営なども色々あり、これからは恐らくもっと忙しくなるだろう。



あの殿の歪みの空間はあえてそのまま放置してあり、イデアが開けたあの空間の『穴』の部分も念入りに『力』を使って補強し隠しておいた。
これであの空間に戻れる権利を持つのはイデアだけだ。
神竜の力だけがイドゥンの居る場所にまで繋がる道であり鍵、それ以外は何人たりともあの場を汚すことなど出来ない。


これからは定期的にあそこへ訪れよう。そのためにも早めに転移の術を習得せねば……。



イデアの頭が回転して、これからの自身が取るべき行動を打ち出していく。



新しく出来た、はっきりとした目標は『イドゥンをあの封印から救い出す』こと。
そしてそれに付随して出来た目標は『強くなる』こと。イデアという個体としても、そして里という組織としても。

これからはやるべきことが多い。まだまだ経験不足な自分ではかなりの苦労をするだろう。
だが、それがどうした。そんなもの“ただの苦労”だ。大したことではない。



自分は、望むもの全てを手に入れる。どんな邪魔を排除しても、どんな犠牲を払っても、ソレを掴もうと決意する。



彼女を取り返す。



ゆっくりと瞼を瞑り、暗闇の中に彼女の姿を思い浮かべる。
再度眼を開いたイデアの眼の中が燃えていた。溶けた溶岩の様な色合いの焔が爆発するように燃え盛っていた。



と、自分の中で何かが繋がる感触と共に、ほんの僅かな砂嵐が頭を駆け巡った。
念話の最初の時に発生する、対象と言葉が繋がる時によく感じる感覚だ。





──長、聞こえますか? 長。




「聞こえるよ」



突如として脳内に語りかけてくる罅割れただみ声にイデアが期待感に満ち足りた
欲しいものがようやく手に入り、喜ぶ子供の様な声で返事をする。



───生存者の件で……。



どうやって動いたのか判らぬうちに、いや、動こうとも思わないうちにイデアは行動していた。
ベッドから弾かれたように飛び降り、脊髄反射の如く言葉を叩きつけるように返す。


「今行く。少し待っていろ!」



期待通りの言葉を受け、真っ白なマントを羽織り、念話を途中で切断し、窓に足を掛け翼を背に開放する。
そしてそこから身を躍らせる。心地よいな風を受けながらそのまま里の空に飛翔を開始。
フレイの言葉を最後まで聞かぬまま、だ。


文字通りイデアは飛ぶように彼が眠っている場所に向かう。



あぁ、これでようやく多くの疑問に解が得られる。


















救助されたヤアンの部屋の扉を突き破る様に開けて部屋に侵入したイデアを待っていたのは
見慣れた老人であるフレイと、ベッドの上に横たわり、突然の乱入者である自分を驚きもせずにじぃっと眺めてくるヤアンであった。

どうも無機質な視線だ。何も篭もっていない目というのはこうも気味がわるいものなのか。


イデアが眼と口元を三日月の様に歪めヤアンを観察する。同時に少しだけ力を送り、隅々まで調べていく。
白い薄いバスローブの様な衣服を纏ったその身は恐ろしく鍛えられているのか、歴戦の戦士の様に引き締まった筋肉で覆われている。
胸元に大きく描かれている紋章が取り分けイデアの眼をひいた。大分回復したのか、胸元に深く掘り込まれていた裂傷は既に跡形もなく消えていた。


この男の傷を治し、生かしてやったのはこの俺だ。やろうと思えば、殺すことも出来た。


そう思うとイデアは自身の中に熱く燃え滾る征服感と満足を感じた。
ドロドロに熔けたソレを勤めて表に出さないように気をつけながら、イデアがフレイに眼を向け、視線で問う。


この枯れた大木を思わせる外観を持った火竜は軽く礼をし、そしてから口を開き、淡々と情報をブレスの様に吐き出す。




『見ての通りこの者の傷は完治し、命には全く別状はありません』



「それは何より」



イデアが全く温かみの篭もらない声と微笑を浮かべ、形式上の言葉を吐いた。
哀れな獲物に向かい飛び出した矢を思わせる鋭い眼だけは全く笑ってはいないが。
早く情報という食物を摂取したい獣、それが今のイデアだ。
もしもこの男が自分に協力するのを拒めば地獄を見せてやるつもりさえある。




フレイが一瞬だけベッドの上に横になっているヤアンを哀れみの篭もった目で見やる。


そして。彼は上級魔術並の破壊力のある言葉をさも何でもないかのように言い放った。




『まぁ、問題は彼がほとんどの記憶を失っている事なのですがね』





「───────は?」





たった一言で、イデアは完全に凍りつき、彼の中にあったガラス細工のような期待は粉々に砕けた。
自らの儚い希望が砕ける音を、イデアは確かに聞いた。


世界はそんなに都合よく出来てはいないのだ。









あとがき



少しばかり遅れましたが、あけましておめでとうございます。
2011年もよろしくお願いします。


いつかイデアとイドゥンの立場交換のIF短編でも書いてみようかなぁ、とか思っている今日この頃ですw


それでは皆様、次回の更新にてお会いしましょう。






[6434] とある竜のお話 第二部 四章 1 (実質12章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/02/13 23:09



玉座の間、延々と無限大の量の水が流れる耳障りの良い柔らかい音を聞きながらイデアは考え込んでいた。
腰掛けた玉座の柔らかなクッションの感触に身を委ね、眼を瞑り、彼は思考の渦に没頭する。
瞼の裏側に映るのはあのアンナと同じ真紅の髪をした屈強な肉体のな青年。名をヤアンと言った火竜。


純粋にして純血の火竜である彼は持っている力もそれ相応に強大なモノである。
が、それはかつての話。今の彼はその力の使い方さえも忘れている節があった。
自分の名前やかつての交友関係。行った事や魔道に関しての記憶は綺麗さっぱり無くなっているのに、なぜだかスプーンの使い方や基本的な言葉の意味などは覚えている。
そんな何とも都合の良い記憶喪失状態が今のヤアンである。


つまりだ、判りやすく要約してしまえばこうなる。


イデアが危険を犯してまでも殿に戻り、そこに巣食っていた何千と言う戦争の残党共を滅ぼし、そして救い出した全てを知っていると思われる男。
その男は命に関わる大きな怪我を負っており、その怪我そのものは完治したが、その影響でほとんどの事柄……主にイデアが知りたいと思っていた全てを失ったのだ。
しかし、しかしだ。そうやって記憶を失っておきながら、生きることに必要な最低限の知識……文字の読み書きやら食器の扱い方などは覚えているときた。


ふざけるな。それを聞いたときのイデアは声を大にして叫びたかった。そんなふざけた事が許されるものか。
ようやく姉さんについて、そして戦争について詳しい情報を持っている存在がこの手に落ちたのに、また振り出しか。
全身の血管を猛烈な勢いで流れていく血液と高まる心臓の鼓動。そして体中を循環する怒りを噛み締めて、味わうようにイデアが歯軋りをする。


握り締めた玉座の大理石で作られた腰掛けがギシっと軋みを上げ、どれほどの力がそこに込められているかがよく判る。
もしもこの力で人や獣の首を握れば、そのまま骨まで砕いてしまいそうなほどの剛力。
この力であの男の首を絞めないのはイデアの理性の強靭さ故か。


それとも、単に諦めがついてきたからか。


いっそあの男が……例えばイドゥンを道具扱いするなどの命知らずの馬鹿な発言を言えばイデアは躊躇わず笑顔であの男を絞め殺せるだろう。
いや……絞め殺すでは飽き足りず、文字通りの意味で産まれて来た事を後悔させてやる。古今東西、ありとあらゆる竜の知識とその残虐さを見せてやったものを。


彼は考える。これからどうするか、と。
イデアにとってコレは非常に厄介な問題だ。情報と言うのは知識ともなり、知識は力を齎す。
つまりイデアは一つ力を手に入れるのが困難になったということだ。戦争の情報と言う力を。


まぁ、さすがに入手が不可能になったわけではないが。
他にも幾つか外の世界の書物やら情報やらを取り込む方法は考えてある。

それもかなり危険のない方法で。
問題はその方法が今の自分には実行できるのか、だが。




「……」



青々とサファイアを敷き詰めたように輝く玉座の間を何となく見渡し、小さく溜め息を吐く。
まぁ、とりあえず、今日も様子を見に行ってやるか。
いきなり記憶が戻ることもあるかもしれない。あくまでももしかしたら、の話ではあるが。
絶望的ともいえる可能性ではあるが、ゼロではない。



ソレに……純粋に彼の状況が気になるというのもある。
けだる気に玉座から立ち上がり、身体を揺らす。
金糸が左右にゆれ、部屋の中の光を反射して眩く輝いた。


あぁ、うざったい。イデアが肩よりも少し下程度にまで伸びた自らの髪を掴んで弄くる。
サラサラと流れるように指の間を泳ぐ金色の絹糸は自らの髪とは思えないほどに柔らかい。
どうも気が付くと髪は大分伸びている。そろそろ切ってしまおうか。




そんな事を考えながら彼は悠々とした足取りで玉座の間を後にした。
仕事などは問題ない。既に今日の分は完全にやり終えている。






しかしだ。本当にこの数日はあっという間であった。
一定のリズムで歩を進め、革のブーツが石を叩いていく音を聞きながらイデアは呆然と思った。
彼が殿に戻り、あのヤアンを回収してもう2日になる。陽が二度沈んで昇ったのだ。
本当にこの頃は時間の経過が早く感じる。
秩序を修復して、殿に戻り、あの水晶の牢獄に幽閉されたイドゥンを見つけ、必ず救うと誓い、そしてあのヤアンを助け出した。


おまけとして殿にいた不法入居者を全て滅ぼしたりもしたが、コレは特に大きな事じゃない。
ただ、現状自分が持っている力を確認するための儀式の様なものだった。
その生贄兼ね実験台としてあの死にぞこない達はこれ以上ないほどに見事に役目を果たしてくれた。


ソレに、この剣の使いやすさを知った戦いでもある。
イデアが腰に差したかつてナーガが所持していた覇者の剣の柄を撫でる。


滑らかで艶やかな感触はそれだけでイデアの心に充足感を与えた。
一振りで鎧や剣を紙切れの如く蹂躙する竜の爪の如き切れ味。ありとあらゆる衝撃を受けても傷一つ付かない刀身。
そして長年使い込んだ相棒の様に手に馴染む感触に、魔術を纏わせることさえも可能な利便性。
単純に観賞用として見ているだけでも飽きることのない美しさ。


ナーガのお古だという事だけは相変わらず気に入らなかったが、ソレを抜きにしたら、コレは最高の武器だ。
そう。コレはナーガが残したものだ。彼は回収せずにあの【門】で何処かの世界へと文字通り夜逃げした。



はぁ……と小さく溜め息を吐く。見たくも無い現実だが、逃げていては何もならない。半年経ったというのに未だに割り切れない。
結局の所、自分の今持っている力も武器も知識も全てナーガが残していったモノと、その延長線上にあるものによって齎されたモノばかりではないか。
自分はいつになったらあの男を超えられるのだろうか? いや、そもそも超えられるのだろうか?


時折、思うときがある。
心が弱くなっている時やこういう自問自答を繰り返したり、何かを深く考え込んでいる時にイデアは思う。
自分はまだナーガというあの裏切り者を……やはり、まだ何処かで信頼して頼っているのではないかと?



そんな訳がないのだ。ナーガは自分とイドゥンを深く傷つけ
自分が戦えば人間を殲滅することなど容易かったのにも関わらず逃げ出した臆病者にして裏切り者。
彼は最後の時自分自身の口で言ったのだ。自分はお前達の親などではない、と。



馬鹿馬鹿しい。また、イデアはいつもこの答えに行き着く。
今は居ない男の事など考えても仕方が無い。


以前も何回も考えたことがある思考だ。イデアは自分の精神の不安定さに情けなさと憤りを感じる。
何故、何度思考から排除しようとしても事あるごとにナーガが出てくるのだ。
自分とアレは違う存在だというのに、何故あれを比較の対象としていつも出してしまうのだろうか。



もう最後に彼の顔を見てから何ヶ月も経っているというのに、何故あの男を忘れられないのだ。



「ふふふ……」



知らずと笑いが、零れる。
何処までも自分がおかしくてたまらない。


まだまだ自分は弱い。
たかが何千と言う亡霊を殲滅して少々調子に乗っていたのではないか?
まだ足りない。エレブそのものを敵に回しても絶対的な余裕を持って勝てるほどの力には程遠い。
今回の戦争でも、竜は重いハンデを背負ってこそいたが、それでも圧倒的な力の差は人間とはあったはずだ。
それなのに、人間達は見事に勝利してみせた。人間と言う種は他の種の視点から見ると、かくも恐ろしいものである。


個体としては竜には及ぶべくも無いが、それを補って余りある可能性を秘めている。


そんな人間達を一方的に蹂躙し、戦うことそのものを諦めさせてしまえさせるほどの力をイデアは渇望していた。
前の世界での記憶と知識と論理感さえ邪魔をしなければ、イデアはもっと狂い、今よりも強くなれたかもしれない……。


意外と理性というのは厄介な枷になるのだ。



「ん?」



気が付くとイデアは自分があの火竜の居る部屋の扉の前に立っていた。
どうやら考え事をしている最中にたどり着き、無意識のまま部屋の前を右往左往してたらしい。
我ながら情けない。やれやれとかぶりを振ってイデアが扉に手を翳した。
無数の扉の錠が外れる音と共に、そこいらの民家の木戸と変わらない厚さの木の板から多量の魔法陣が浮かび上がり、ソレが砂の如くボロボロと崩れ落ちていく。


コレは言うなれば保険だ。
万が一にもヤアンが逃げ出さないようにと、ドアや窓、壁には複雑な術による結界が張り巡らされている。
イデアはこんなもの余り必要ないだろうと考えているが。
何故ならば記憶も無く、行くあてもないのに、何処に逃げるというのか?


外の世界に出たとして、既に人が復興を始めており、そこに竜の居場所はないだろう。
そう考えるとイデアは不意にヤアンという男を少しだけ哀れに思っている自分が居ることに気が付いた。



もしも、あそこで自分とアンナが気が付かずにヤアンを放置し、何らかの要因で彼の傷が完治し、記憶も失ってなかったと仮定する。
アンナからの話を聞く限り人と竜の共存など夢のまた夢だと考える彼は人が支配する世界を見て何を思うのだろうか?
自分の居場所が無い世界を見て、あの男はどう行動する?


そして世界に自分の居場所がない。それはどれほど恐ろしく、そして辛いことなのだろうか?
幸い自分にはイドゥンと言う家族がいたし、エイナールという心を許せる存在も居た。


だが、“もしも”の世界で目覚めたヤアンには何も無い。
かつては共に戦ったであろう竜族の同士も。家族も。
彼に残されたのは崩壊した竜殿だけ。



哀れだ。
イデアの胸はもしもの世界のヤアンに対する哀れみで満ちていた。
今度はその哀れみの感情を胸の内側でいまここに居るであろうヤアンに矛先を変えた。
改めて考えてみるが、記憶の喪失というのはどういうものなのだろうか。やはり、怖いのだろうか。





一切の音も無く滑らかに封の解かれた扉を開いてやり、床に敷かれた絨毯のフワフワとした踏み心地を堪能する。
肩を一切上下させずに、床を滑る様に歩いてイデアは部屋の中にその身をもぐりこませた。



「気分はどうだ?」



部屋の隅においてある木製の椅子にゆったりと腰を降ろし、片手に本を持って優雅に読書をしているヤアンがイデアの眼に入った。
何だやっぱり元気じゃないか、と、イデアが肩を竦めた。それと同時に確かな優越感と全能感が体中を駆け巡っていくのを実感する。
この男を助けたのはこの俺だ、俺がこいつの傷を治した、確かに命を一つ救ったという結果はイデアを満足させていたのだ。


特につい数日前までは意識不明で命の危機に陥っていた男がこうやって元気に本を読んでいるのを見ると特にそう思う。



「あぁ、身体の方は何も問題はない。相変わらず記憶は戻らぬがな」



少しだけ書物から視線を上げて淡々と彼は言う。
こういう口調は何処かナーガを思い出させる。
彼もこんな感じに一定のリズムで言葉を吐き出していた。


ふーんとイデアが相槌を打つ。
記憶は失っても性格そのものは余り変わらないのだという事を彼はこの2日で知っていた。
いや、ヤアンが特殊なだけなのかもしれないが。今まで記憶喪失の者を前も含めて見たことのないイデアには良く判らない事だ。



当初は記憶を失ったヤアンは困惑気味であったが、自分の置かれている状況を理解すると冷静になり
今でも失った記憶の部分を埋めるかのように毎日毎日書物を読み漁り、頭に知識を詰め込んでいる。
産まれた時に白紙状態であったイドゥンがそこに思いのままに様々な事を描き、成長していたように。


なるほど。そう考えるとヤアンは新しく生まれ変わった、もしくは新生したといえる。
そういう考えもあるのだ、とイデアが内心で思った。
記憶の消失を死と仮定した場合の話ではあるが。



「そうかい、で、お前はこれからどうする?」


結果の判りきった問い。
それでもイデアは半ば確定しきっているこの問いの答えを彼自身の口から直接聞きたかった。
半ば確信しきった事柄を完全に成立させたかったのだ。


火竜の青年が真紅の瞳でイデアの色違いのオッドアイをじぃっと見つめ、首を傾げながら言った。
イデアが期待していた通りの言葉を。



「どうするも何もないだろう。私はここで生きる以外、生きていく方法などないのだから」


イデアが抉るような視線と共に、ヤアンとは逆向きに顔を傾けて三日月に歪んだ口から言葉を紡ぎ出す。
神竜の瞳孔が縦に裂け、激しい光を放ち、火竜を試すように見つめ返している
大人と子供程の身長の差がある二人だが、放たれる力の量と格は比べるのが馬鹿馬鹿しくなるほどに圧倒的にイデアが上であった。



「仮にお前の記憶が戻ったとして、元のお前が俺と敵対する立場であったらどうする?」



お前の命を救った俺を裏切るか?
里を外の世界に売るか?
そして何より……俺の邪魔をするか?


探りなどという生易しいモノではない。
コレは脅迫もしくは服従の要求だ。俺に逆らえばお前は死ぬと言外に伝えての。



そんなイデアの言葉による処刑の斧を突きつけられたヤアンは少しだけ皮肉な笑顔を浮かべて言った。
椅子の背もたれに身を任せ、ゆっくりと揺れながら。窓から入り込んできた風がイデアとヤアンの髪を撫でた。


遠くから里の喧騒がかすかに聞こえた。



「今は判らぬ。何せ私はまだお前をよく知らないのだ。
 お前が私が裏切らないという保証が欲しいように、私もお前が裏切らないという保障が欲しいのでな」


だが、と彼は言葉を続けた。
威圧するように椅子から鋭く立ち上がり、背筋と関節を伸ばしてイデアの前に直立する。
イデアとの身長差はやはり大きく、イデアはヤアンの胸元程度までの身長しかない故に彼はこの竜を見上げることになった。

だが仮にイデアはこの男と戦って負けるとは思わない。これぽっちも。


「私の命をお前が救ったというのも事実だ。その点は私はお前に非常に感謝している」



「………」


ざわりとイデアの胸の内で何かが確かに蠢いた。
熱い感情を伴い流れていくソレはこの神竜の血管の中を通して全身に染み渡るように流れていく。
真っ赤な炎の様なソレの名は“喜び”
誰かに感謝されて不愉快になるほどイデアの精神は捻くれてはいない。


勤めて表には何も出さずにイデアはひらひらと手を振り答えた。
まるで10代の少年が世界を知らずに大言を吐くように彼は言った。
が、彼は無力な少年ではなく神竜だ。そこには溢れんばかりの自信がある。



「この里に居る間はお前の身の安全は保障する。お前が裏切らない限りは、お前の居場所はこの里だ」




それだけを言うと話は終わったと言わんばかりに懐にしまっていたお見舞いの品であるリンゴを投げるようにヤアンに渡し
イデアは踵を帰して足早に部屋から出て行った。もちろん部屋の扉にはもう一度封を掛けておくのも忘れない。















結局、情報は何も手に入らない、か。
落胆を苦く噛み締めながらイデアは自室の中をとりあえず歩き回っていた。
さっきから何回も同じ場所を行き来し、傍目から見れば今のイデアは単なる不審者にしか見えない。



が、不思議な事にヤアンに対しての理不尽な怒りの炎は見事に鎮火され、今やイデアの中ではどうでもいい事にまで格下げされてしまっている。
あの男はどうでもいい。生きてこの里の中で普通に暮らしている限りはイデアが彼をどうこうすることはありえないだろう。
もうしばらく時間が経ったら部屋の封も解除して住居を提供してやろうと思っているほどだ。


イデアは、ヤアンに確かな哀れみを感じていた。
記憶を失った事への同情。世界で誰も同士の居ない孤独への哀れみ。敗北した残党への情けともいえる。


もちろん裏切った時は……地獄をみせてやるが。
殺すという事さえも視野に入れている。
もしくは竜石を没収した上で門の中に叩き込んでやろうか。



今の問題は、だ。言ってしまえば、イデアの今の力と新しく出来そうな能力についての悩み。
爆発的な竜としての“成長”と“進化”を果たした自分ならば出来る事なのだろうが、やはりコレばかりは……。


じぃーっと窓の外に太陽の光に照らされた里の景色を見渡す。
遠くの景色が歪んでいるのはやはり砂漠の熱のせいだろう。
時折窓からは砂漠の加熱された空気が砂粒と共に吹き付けられ、ざらざらした感触がイデアの頬を削っていった。



そんな窓の外を非常に素晴らしい視力を持って真剣な表情で見つめながら、腰の竜石に手を伸ばして力を行使した。
全体の1割ほどのエーギルを術に注ぎ込み、竜族の力は運用されたのだ。



イデアの足元にベッタリと張り付いていた影が“浮かび上がり”確かな密度と色を塗り付けられ、徐々に変質していく。
黄金の粉が皮の様に変質した影に張り付き、確かな力と生命を影に注ぎこんでいく。
今のイデアの足元には何も無い。それは、とても不気味に思えた。


刹那、イデアは何とも形容しがたい不可思議な体験をすることになる。
自分の視界が幾つにも分断されたような……まるで幾つもの眼を空中に浮かばせて、それによって自分を見ていると言えば判るだろうか。


そう、イデアは、自分自身を見ていた。
ソレも鏡に映った姿などではなく、いつもの場を支配しての根源的な認識でもなく、完全に完璧に、自分自身の眼で自分を見ていたのだ。
紅と蒼の色違いの眼は自分のモノだと判っていながらも改めて観察してみると不気味に見えたし、身体の線の細さと顔の造形を見ると女にも見えた。



イデアが顔を傾げて“イデア”を見る。
そして“イデア”をイデアが多分な好奇心の宿った眼で観察する。


ギラギラと輝く眼は我ながら恐ろしい……。
縦に裂けた瞳孔は自らが人間ではなく、今の姿が仮の姿だということを思い出させてくれた。



「「これは面白い」」



二人のイデアが事前に計画していたかのように同時に相槌をうつ。
全く同じ声は互いに増幅しあい、はもりあったせいで何とも言えないハーモニーとなり、そして消えた。


二人のイデアが左右の腕を持ち上げ、握り締めあうように触れ合う。
確かな肉の感触。通っている血。体温。柔らかな肌。全てが全く同じだ。息遣いさえも同じように感じる。
当然と言えば当然か。二人は同一人物なのだから。



【幻影創造】



今回イデアが発動させた術の名前はこういったモノだ。
竜族の術の一つで、その名の通り自らの影、もしくは分身を創造するといったもの。
かつてナーガも何度か使用していた術だ。
他の火竜などでは実体を持った分身などを作成するのはかなり難しいが、神竜であるイデアには特に問題などない。



しかし……イデアは自らの姿を見て何となくではあるが思った。
まだ子供ではないか、と。普段何度か鏡で自分の顔を見ることはあるが、ここまではっきりとは見ることは余り無い。
故に完全に客観的な視点で自分を見れるとは恐らくほぼ全ての人間では一生体験できないことと言っても過言ではないだろう。



「まさかここまで出来るなんて、竜族の術って何でも有りだな?」


「俺も一応その竜族なんだけどね」



一人二役。自分の問いにかけに自分で答える。まるで何処かの芸者のようだ。
一応“本体”である自分にはイデアの所持する九割のエーギルがあり“分身”である“イデア”には一割ほどのエーギルが分けられている。


自演という言葉がイデアの脳裏を掠めていった。


とりあえずこの分身を操作している時の感覚は何とも言えない。
一つの意思で二つの肉体を動かして、尚且つ五感から受け取る情報量も二倍になっている……当然この術を使って二人同時に動いて戦闘、何て出来るわけない。
但し、一度創ってしまった分身は距離は関係なく破壊されるまで動かし続けられるので、この幻影の操作に集中すれば戦闘なども出来そうだ。



「本当に便利だ」


「全くだ」



もう一度頷きあう。鏡に映った人間の如く全く同じ仕草、全く同じ声、全く同じリズムで。
とりあえず、これで外の世界の情報を手に入れる目処は出来た。

後は転移の術を覚えればいいだけの話だ。
アレは絶対に覚えなくてはいけない術。イドゥンの所にいく為にも、そして時間を有効活用するためにも。
後は里の事も放って置くことは出来ない。ちゃんと統治してますよーというアピールも必要だろう。


古今東西、民を蔑ろにした王様は碌な最後を遂げていない。
王様に必要なのは何をしようとしたか、よりも何をやったか、だ。
簡単に言ってしまえば結果が全て。何とも世知辛いが、やるしかない。


そうだ。自分はイドゥンを助けるために強くなる傍らで、長としての仕事もしなくてはいけない。



やる、と心に硬く誓った以上はやり遂げなくてはならないだろう。
イドゥンを助け、里を強くし、自分も強くなる。
この全てを果たさなければ自分はこのエレブに産まれた意味が無い。


何故ならば、この世界でイドゥンと言う存在を助けると決めたのは自分だけなのだから。
それでもイデアにはこの何千年掛かるか判らない大仕事に対する愚痴を零すだけの人間性はあった。



「やることは本当に多いなぁ……」



「俺なら出来るだろ?」




本体のイデアの言葉に分身のイデアが出来るだろ?、と言わんばかりに言う。
じぃっと本体が分身を凝視する。何だか悲しくなってきた。自分で自分を慰めるなど。
それにこれではまるでナルシストみたいではないか。



ふと、分身の本体と同じように長く尖った耳が眼に止まった。コレは少々人間の耳には見えない。
本体のイデアが小さく手を振り、エーギルを用いてほんの少しだけ分身の姿を弄くる。
粘土を捏ねまわすかの様に耳の形を作り変え、一般的な人間の丸みを帯びた形状に変更。


コレでよし。フードを被って、力を隠して、服装を変えれば何処にでもいる人間だ。
後は少々髪の毛も切るか、髪型を変えるべきだろう。



眼は……どうするべきか? さすがにオッドアイは目立つ。
二人のイデアが自分同士で見つめ合ってそれぞれ顔を逆向きに傾げる。
まぁ、問題はないだろう。そう判断したイデアが分身体を崩して自らの影に戻す。
光の粉となり消えていった分身体は消滅し、沸きあがった影は再度イデアの足元に戻った。



神竜が自らの足元に再び戻った影を何度か踏んで、確かにそこにあるのをはっきりと確認する。
コレで部屋に残ったのはイデアだけ。もう誰も居ない。
さてと、後はまた勉強の始まりだ。ぐっとイデアが背伸びをする。身体の節々がポキポキと鳴った。
時間の許す限りあの図書館に閉じこもり、知識を吸収しなければならない。



当面の目的は転移の術の習得である。
あれがあるのとないのでは、やれることの多さが桁違いになる。
後はモルフの製造などの研究もこの頃は気になっている事柄。


後はメディアンの言っていた“力”の正体……ソレが今は外の世界の情報の中では最も気になる。
9つの力……何となくヤアンの傷跡などから想像は付くが、やはり詳細が知りたい。
イドゥンの封印の事を知るためにも。


パンッと頬を軽く叩いて気合を入れる。
そして彼は窓枠に足を掛け、図書館へと飛び立つべく背に翼を生み出す。
背に表れるは4枚の黄金の翼。骨格、翼膜、大きさ、そして撒き散らす黄金の光は文字通り神の光。



「さて、やりますか。大仕事だ」



世界と戦って勝てるだけの力を手に入れる為にもイデアは今日も図書館へ足を運ぶ。
これからは特に強く、強大に、世界を思うが侭に闊歩できるほどの存在にイデアはならなければならないのだ。




















ナバタの殿の一室。
天には高く蒼い月が昇り、今の時間は夜遅くだという事が判るだろう。
開かれた窓の遥か遠くから吹き付けてくるのは夜の砂漠を支配する砂塵と大気さえ凍りつく圧倒的な冷気。


この部屋の主はそんな光景を何処か遠い眼で見つめながら椅子に腰掛けていた。
この部屋は凍える程の寒さだが、暖炉に火は付いていない。
ただただ、綺麗な暖炉には灰さえ積もっていない。


正確には付ける必要が無いのだ。
何故ならばこの部屋の主は火を支配する存在であるからして、そんな存在が夜の砂漠程度の寒さで凍えるはずがないのだから。
やろうと思えば彼女はこの部屋の温度を好きに上下させることが出来る。


この部屋の主……燃え盛る炎の如き真紅の髪を後ろで纏めこれまた烈火のような色合いのドレスを着込んだ女性
アンナは溜め息を吐いて視線をテーブルの上に戻す。
肘をテーブルに付き、指を組んでソレを弄くる。
まるで待ち合わせ場所で誰かを待っているかの様な仕草だ。



テーブルの上には二人分の中身が満たされた杯が置いてあった。
一つはアンナが飲むためのもの……そしてもう一つは──。




今晩も彼女は待ち続けるのだろう。





あとがき



ここからイデアが様々な術などを覚えてどんどん強くなっていきますが
これからもどうぞ宜しくお願いします。


しかしこのSSって、主人公最強の分類に入るのでしょうか?



それでは皆様、次回更新にてお会いしましょう。




[6434] とある竜のお話 第二部 四章 2 (実質12章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/04/24 00:06



エトルリア王国の王都アクレイアは竜族の王都である殿が戦争によって崩壊した今、名実共にエレブで最も巨大な都市である。

この四方を堅牢な城壁で囲まれ、そして完全に整理された街は地上に作り出された一種の巨大な芸術品とも言える。
きっちりと区画分けされ、神経質とも言える程の密度で並んだ宿屋や民家、酒屋や商店街などのありとあらゆる建物の間を
蜘蛛の巣の糸の様に無数に通路が駆け巡り、その道の上を数え切れない程の人間が闊歩している街……まさしく此処は今のエレブの中心。



何百と言う数の塔や城が天に向って突き刺さるように立っている光景は人と言う種が持つ可能性を見る者に感じさせた。
竜族を打ち破り、完全にこのエレブ大陸を支配する種となった人間の力と知恵と……傲慢を、だ。


今やこのエレブの支配者になった人間に敵はない。そう言外にこの街は述べているのだ。



そして何十万という数の人間が群れた蟲の如く巨大な街道を埋め尽くし、それぞれが、ぞれぞれの人生を、生活を送っていた。
道端で露店を開いている者も居れば、立派な銀色のフルプレートを着込んだ騎士の一隊が歩いていたり、
中には豪奢な鎧を着込み、馬に跨った身分の高いであろう騎士が威張りちった様子で周囲を睨みつけていたりもする。



ナバタの里にある竜族専用のを除けば間違いなく世界でも最大の大きさを誇る石造りの道路にはひっきりなしに馬車が馬の鳴き声と共に駆け回り
それらはガタンガタンと揺れながら数頭の馬に引かれて走り去っていく。その音は近くの者のブーツの底まで響かせるほどだ。
複数の騎士がその馬車を護衛しているのを見る限り、中には相当に身分の高い貴族か、またはソレに匹敵する権力か名声を持つ者なのだろう。
良く見ると、道端には無数の馬の蹄の後が残されており、どれほどの数の馬がこの場を通って行ったかを遠まわしに伝えている。



天から降り注ぐ太陽の光が街の至るところに設置された名高い芸術家達が作った石の彫像を照らし出し、その存在をアピールしている。
全ての彫像に共通しているのは全てがとある場面をモチーフに作られている、というところだ。
即ち、人間と言う種が竜と言う種と戦っている場面、もっというならば、人間が竜に勝っている場面である。


彫像は一つ一つが違う人物を元に作られたらしく、その種類は全部で大よそ8つあった。


ソレは見事な装飾の施された槍を構えた騎士や、鍛え上げられた馬に跨り疾風の様な速度で弓を番え、今にも放たんとする少女。
全てを焼き尽くす業火を操る深い髭をたたえた正に賢者とも言うべき存在感の老人。
小さな身の丈に似合わない巨大な剣を軽々と振るう勇敢な者、神に愛され、全ての光と神の力の元に竜族を裁こうとする聖女。
闇を纏ったような男か女かさえも判らない謎の人物、見ているだけで狂気が伝わってきそうな狂相を浮かべた戦士。





そして……そして、巨大な剣と一振りの長剣を手に竜に戦いを挑む逞しい肉体を持った、正しく英雄と言った風貌の男。
他の7つの像はこの男の像を中心に円形に配置されている。まるでこの男の護衛のように。
場面こそ違うものの、このアクレイアに存在する全ての芸術は彫像、絵画、ステンドグラス、その全てにおいてこの8人の人物が描かれていると言っても過言ではない。
もう一つ共通するのは例外なくこれらの人物は竜族に打ち勝っている場面のみを描かれているということだ。




そして規則正しく円形に広間の中央に設置された彫像を一人の茶色い質素なローブを纏い、フードを被った人物が身動き一つせずに眺めている。
身の丈は成人した男性ほどではなく、どちらかといえば、少し細身の十代中盤の少年のようだ。
筋肉なども余りついておらず、近くで見れば軟弱なイメージを抱くだろう。


そこらへんを歩いている騎士がその腕力を持って力を少し込めれば、折れてしまいそうな程に線が細い。




「お前さん、さっきからじっとハルトムート様の像を眺めているがどうかしたのかい?」



不意に声を掛けられたローブの人物がゆっくりと、一種の余裕さえ感じさせる動きで振り返り、自らに話しかけてきた者に向き直る。
サラサラと黒い髪がフードの隙間から零れて揺れる。そして髪の色と同じ黒曜石の様な瞳が動いた。
サカに住まう民族らと一見同じ様に見えるが、何処か根本的に違った雰囲気を放っている眼と髪だ。




「この像の人物の事を知っているのですか?」


声の主である眼前に立つ初老の男性にローブの少年が問いかける。
やはり声の質からすると少年なのだろう。甲高くもあり、それでいて男特有の深さもある。
それと同時に言葉の端からはまるで歴戦の戦士の様な圧倒的な余裕が見え隠れしている。




「お前、知らないのか?」



男の声に驚愕が混じる。
例えるならばソレは世界の常識を知らない者に向けるかの様な、一種の憐憫さえも感じさせるもの。
何で食べ物を食べないといけないの? と聞かれたかの様な呆れさえ含まれている。


そんな男の反応にローブの少年が小首を傾げた。黒色の瞳が鈍く輝き、唇を尖らせてあからさまに不機嫌だと主張した。



「自分は戦争の時は僻地に隠れていましたからね。街に出てきたのもつい最近なんですよ」



ですから余り今のエレブの事は知らないんですよと、続けながらもフードにその白い手を掛けてソレを頭から降ろす。
真っ黒な絹、それもかなり上等な、そうとしかいえない程に手入れの届いた髪が
フワリと今までフードに押さえつけられていたからか広がり、まるで焼きたてのパンの様な柔らかさを帯びたそれが日の元に晒される。


男がふん、と鼻を鳴らした。まるで頼れる俺が全てを教えてやると言わんばかりに。
しかし不思議と嫌味に感じないのはこの男の根がお人よしだからなのだろうか。
少年はこの何処かくたびれたような感じのする男を見てそう思った。


「よかったら、教えてくれませんか?」


小さく手を振り、宥めるような動作と共に少年が声を発した。
まだまだ熟し切れていない年の子供特有の高いソプラノ音。


「いいぜ、なら俺が教えてやる」


男は上機嫌そうに鷹揚に手を大きく振ると、ついてこいと言わんばかりに少年に向けて顎をしゃくった。
キョロキョロと周囲の人の川や王都アクレイアの巨大な古代からの建築物を一つ一つ丁寧に観察しながらも少年は男に付いていく。


最初に男が向かったのは小柄な人物の像だ。
手には業火を纏った自分の身長と変わらない巨大な剣を握っている。
像なので色はついていない為によく判らないが、この像を作った芸術家はいい腕をしているのだろう。
このモデルになった人物の特徴をよく表しているらしく、この者の瞳は力強く、希望と勇気に満ち溢れている。



「このお方は“小さな勇者ローラン”様。 神将器【烈火の剣】デュランダルを使いこなしたリキアの希望さ」



「神将器?」


少年の素朴な質問に男がやれやれと言わんばかりに肩を竦めて、溜め息を吐いた。
眼を細め、少年を「こいつ、何も判っちゃいない」と言わんばかりに見下した眼で見つめる。
ムッとした表情で見つめる少年の顔の前に男の指が人差し指が突撃槍の如く突きつけられ、小さく左右に振られた。
少年が煩わしそうに手で蚊を払いのけるようにその指を払いのけた。



「神将器っていうのはな、神が俺たち人間に与えてくれた竜族と渡り合うための力を持っている武器だ」



「神様?」



少年がたまらず噴出す。まるで子供が話す夢物語を笑い飛ばす大人の様に。
頬の筋肉を微かに痙攣させつつ彼は綺麗な笑顔で男に笑いかけ、手で男の肩を軽く叩いた。



「俺が子供だからってからかわないで下さいよ! 神様ってのはかつて竜族がそう呼ばれていただけでしょう?」


かつての竜族の中には人間に文明を与えた者も居る。
それだけではなく、食物の効率的な生産方法や、新しい術や言語、病の治し方などを伝授した存在も確かに居た。
災害から人々を守っていた竜も居た、そういう事実を纏めてしまえば、確かに竜族は人間にとっての神だったとも言えるかもしれない。


少年の竜族と言う発言に付近の者達が一瞬だけぎょっとした表情を浮かべるものの、すぐに子供の他愛ない戯言だと自己完結して直ぐに各々の日常に戻っていく。



「いや、俺の言う神ってのは竜族の事じゃないぞ?
 そりゃ、確かにリキアやイリアには物好きな竜が居たって話は聞いたことあるが、基本竜は人に興味なんて持ってないからな、俺は神とは認めてないね」


 
神様っていうのはだな、と呟きながら男が懐に手を伸ばし、ごそごそと何かを探すように手を何度も何度も動かす。
どうやら大分ポケットの中身は整理されていなかったらしく、お目当ての物を探す作業は大分難航しているようだ。
魚の骨。数枚の銀のコイン。何かの汚れた紙。ズタボロの小さな麻袋。
これらがポケットから排出された後、ようやく男は目当てのモノを見つける事が出来たらしく、掴んだソレを少年に突き出した。


ソレは円形に配置された7つのシンボルが線によって繋がっているという紋章らしきモノが書かれた一枚の布だ。
7つのシンボルはそれぞれ、炎、氷、雷、魔術における【理】を意味するマーク、闇、光、風を象徴するかの様なマークに別けられる。

少しでも魔術を齧ったことのある者ならば直ぐにこのシンボルが上記の属性を象徴するマークだと気が付くだろう。
そして少年にはこのシンボル達が魔術的な要素を含んでいる事に気がつくだけの知識があった。


「これは?」



少年が突然眼の前に出された布に困惑の表情を浮かべ、その色白な顔を傾げた。
仕方ないといえば仕方ない。むしろ当然の反応だろう。
いきなり魔術の紋章の書かれた布を得意気な顔で突きつけられたのだから。

普通ならばこいつ何をやっているんだ? という呆れと侮蔑の表情が浮かぶ所だろうが、少年は普通に疑問を浮かべただけだ。



「エリミーヌ様のシンボルマークさ。意味は他者との関わりを大切にしろって訳だ」



「エリミーヌ?」


はぁ、と男がさっきよりも深い溜め息を吐いた。
そして少年の頭をその皺だらけながらも無骨な手でわしゃわしゃと撫でやる。
一瞬だけ嫌そうな顔をした少年だったが、抵抗することなくその手を受け入れ、されるがままになった。
傍から見ればこの光景は孫が祖父にからかわれているようにも見えるだろう。
むすっとした顔で老人に撫でられる少年というのはとても可愛らしいものであり、微笑ましくもある。



「エリミーヌ様もこのローラン様と同じ八神将のお一人さ……まさかお前、さすがに八神将は知っているよな?」



ぶんぶんと少年が首を横に振ると男はさっきよりも大きな溜め息を吐いて、更に激しく少年の髪の毛を撫で回した。
痛い痛い、やめてやめて、と少年が頭を小さく振り抵抗し、男の手を払いのける。




「八神将ってのはだ、言ってしまえば俺たち人間を勝利に導いた……」



「英雄?」


少年の探るような声に男は頷いた。少年の黒い瞳が小さく細められた。
それに対して男の眼には溢れんばかりの憧れと言う輝きが満ちており、まるで誇り高い騎士に憧れる純粋な少年の様な光を放っている。
なるほど。確かに八神将というは本当の意味で英雄なのだろう。そう少年は思った。
その存在を語るだけでこんな初老の男の心を震わせ、憧れさせ、そして支えている。


英雄と言うのはただ強いだけではなれないのだ。
人々に愛され、そしてその活躍を千年、二千年と語らせるだけの存在感と威光がなくてはならない。
英雄は不死身だといわれるのも、何となくであるが少年は得心できた。


英雄はたとえその身が滅んでも、彼らは人々が語り継ぐ物語の中で 精彩を放ち続けていくのだから。



「よろしければ、詳しく教えてくれませんか? 凄く……気になります」



黒光りする真珠の様な瞳が人懐っこい笑みを形作り、少年が期待に満ちた声で言う。
初老の男の顔が更に輝きを増し、よほど気分がいいのだろうか、小柄な子供の小さな肩をバンバンとはたいた。
何も知らない者に自分が憧れる存在を紹介するとき、人は恐らく気分が昂進するのだろう。
どれほどソレが素晴らしいか、どれほどソレがすごいのか、それを誰かに伝え、理解してもらうという行為はやはり心地よいのだ。



「先ずは八神将のリーダーでもあり、倒した竜共の本拠地に新たな国家をお作りになった、ハルトムート様だ」




「────」



無言で少年が笑みを浮かべたまま、顎をしゃくり男に先を言えと促す。
さながら墨で塗りつぶした様な漆黒の瞳が男をじぃっと見つめている。
少年の視線に少しばかり背筋に寒いものを感じつつも
男はそれが気のせいだと思い、自分がそういえばこの数日間あまりよく眠っていない事を理由にして軽く流すことにした。



男が視線を向けるのは最初に少年が見ていた石像、 精緻を極めた人の手によって生み出された芸術の一つ。
精悍な肉体を持ち、その手には身の丈ほどもある巨大な剣と、一目で国宝級だとわかる意匠の凝られた長剣を携えた男の像だ。


この像を仮に誰か第三者が見たとしたら、第一の印象として『神々しい』と恐らく言うだろう。
先のローランの彫像は見ていると、共に戦ってやろうと言う勇気、共に在ろうと言う希望が沸いて来るのだが、コレは違う。


ハルトムートは……違った。
彼は英雄ではあるだろう。偉大な竜族を倒した英雄達のリーダー。
最強の英雄王と言われるであろう人類の救世主。


その全てである彼は……この像を見るだけで判るほどに常人とは根本的に違った。
やはりこの像を創った芸術家は腕が良いのだろう。元はただの石の塊を、一つの完璧な芸術に昇華させているのだから。


ハルトムートという男は、本当に人間なのだろうか? 少年は像を見つめてふと、そういう考えを自分の中で渦を巻いていることに気が付いた。
切れ長の全てを達観していそうな淡い瞳、これはあくまでも模造品である像だというのに、叩きつけられるように感じる圧倒的な存在感と重圧。
それでいて単なる戦士のような野蛮さは一切感じず、それどころか、見ているだけで平伏したくなる王としてのカリスマとでもいうものが全身から溢れている。


彼は戦士というよりも、生まれながらの王と言われたほうが納得できるだろう。


王……なるほど。確かに彼は王様なのだろう。しかもただの王ではない。
竜族を屠り、その地に新たな国家を創造した偉大なる覇王だ。
これから先、千年以上も彼の名と栄光は語り継がれていくことが確定した男、それがこのハルトムートという大英雄。


次に少年はこのハルトムートが持っている二つの武器に眼を移す。
彼の体躯ほどもある巨大な剣と、それと比べれば小さいが、何故かこの大剣よりも存在感のある壮麗な装飾を施された長剣を観察するように見る。
正確には剣の柄のちょうど中心に植え込まれた宝珠らしきものを。何故だか、そこが無性に気になったのだ。


男がハルトムートの像に眩しい視線を送りつつ、言葉を紡いでいく。

                         
「この御方は、神将器【英武の大剣】エッケザックスと、炎の紋章を用いて竜を倒し、戦乱に終止符を打ったんだ」



「───“炎の紋章”?」


男が大げさなまでに肩を竦めた。全く判らないといわんばかりに。
少年も同じように肩を竦め、あからさまに落胆したと言った顔をした。
これ以上ない程失望の篭もった溜め息を大きく吐いて、男を何処か悲しいものを見る眼で見つめる。




「そうですか、では他の神将の事も教えてはくれませんか?」



男は少年の失望に気がつく事なく輝かんばかりの笑顔で頷き
少年に言われるまでもなくハルトムートを中心に配置されている7つの像に眼をやって順々にソレら一つ一つを示していく。
と、ここで少年は気が付いた。この男の眼に宿る感情が単なる憧れだけではないことを。
何と言い表せばよいのだろうか……そう、郷愁に似た感情がその瞳の中で渦を巻いている。
さながら遠い昔の戦友を見ているかのようでもある。



「ハノン、ローラン、エリミーヌ、バリガン、アトス、ブラミモンド、テュルバン、そしてハルトムート」



その名を謳う様に、その存在を称える様に、彼は一つ一つの名を唱えていく。
まるで華麗な詩を読み上げるかのごとく。一つ名称を謳いあげるごとに彼は気分が高揚していってるのだろうか、声が上ずってきている。



「…………」




「【疾風の弓ミュルグレ】【烈火の剣デュランダル】【至高の光アーリアル】【氷雪の槍マルテ】【業火の理フォルブレイズ】
 【黙示の闇アポカリプス】【天雷の斧アルマーズ】【英武の大剣エッケザックス】」


一つは何処にでもありそうな質素な作りの弓。
主の名前はハノン。二つ名は【神騎兵】まだまだ幼い外見の少女だ。ウェーブが微妙に掛かった長髪を翻し、馬に跨っている。
しかしその顔に浮かべる表情は正に歴戦の強者と断言できる程に覇気に満ち満ちていた。


一つは人の身長と同じ、もしくはそれ以上の大きさを誇る簡素な作りの劫火を纏った剣。
他の神将に比べても比較的小柄な男性の名前はローラン。【小さな勇者】と呼ばれる男だ。
彼は自分の身長と同等か、もしくはそれ以上に巨大な【烈火の剣】を片手で軽々と持ち上げていた。


一つは本そのものが太陽の如き輝きを放つ絢爛な装飾の施された書物。
この書の主はハノンと同じ年齢ぐらいの美しい少女だ。
彼女はハルトムートとは違ったカリスマの持ち主でもあった。
何故ならばこの安らかな微笑を浮かべいる像を見ているだけで、自然と彼女自身に興味が湧いて来るのだから。


一つはまるで極寒のイリアで吹きすさぶ、吹雪を連想させる見ているだけで心胆が凍えるような鋭利さを持つ長槍。
これを持つはハルトムートに匹敵する鍛え上げられた逞しい肉体を持った大柄な男だ。
鎧と兜を着込んだその男は威風堂々と馬に跨り、恐らくは敵である【竜】をそのむき出しの剣の様な鋭利な瞳で睥睨している。
まさしくその威圧感、そしてその立ち振る舞いは騎士の中の騎士といえよう。



一つは万物を焼き滅ぼす、竜の吐息の如き炎を内包せしめし魔道書。
この魔道書を持つのは一人の老人だ。恐らく八神将で最も高齢な人物であろう。
彼の名前はアトス。【大賢者】と呼ばれる魔道士。
だが、老人と言うのは控えめに見ても絶対に嘘だろうと少年は思った。もしくは老人の皮を被った若者。それが少年の評価だ。
何故ならばその眼に宿る生気と覇気、そして確かな知識と知恵の輝きは下手をすると全神将の中でも最も強いかもしれないからだ。





一つは深遠に至る闇を秘めた禁忌の書。
この人物は男もよく判らないらしく、ただ一言で全てを括られた。
即ち【謎多き者】本当の意味での【闇術師】である、と。
ローブを着込み、すっぽりとフードで顔を覆っているため容姿は判らない。
ただ、フードの中にある深い闇だけが印象的であった。



一つは狂い荒んだ天で暴れ狂う荒々しい雷を連想させる巨大な斧。
この武器の持ち主は本当に人間なのか? この像を見た少年はそう思わずにはいられなかった。
この斧の持ち主である【狂戦士テ】テュルバンのどう控えめに見ても3メートルを優に超す人外じみた巨大な体躯のせいでアルマーズは小さく見えるが
実の所この斧の大きさはあの【烈火の剣】や【英武の大剣】に匹敵するか、もしくはそれ以上だ。
だがテュルバンはそんな巨大な戦斧をまるで手投げ斧のようにその丸太の様に太い腕と、岩石の如きごつごつとした巨大な片手で平然と持ち上げている。
この男は素手でも人はおろか、飢えた獣でも軽々と屠れるだろう。



そして最後にハルトムートが持つ巨大な大剣エッケザックスと……。


と、ここで少年は疑問に思った。
ハルトムートはもう一つ武器を持っている事に、そしてその武器の名前を男が紹介していない事を。


「ハルトムート……様が持っている、あの長剣は何ですか? アレも神将器の一つ?」



人差し指で刺されるはハルトムートの持つもう一つの剣。
エッケザックスに比べれば小さくて細く、ただの長剣に見えなくも無いが、何故だかこの剣がさっきから無性に気になっているのだ。
もっというならば、この剣の柄に埋め込まれた一つの宝珠が。まるで燃え盛る太陽の如き輝きを内包した様な存在感を放つソレが。



「アレは俺にもよく判らん。何だか炎の紋章”やら魔竜と何か関係があるらしいが……」



「魔竜について詳しく教えてくれませんか?」


「え?」


「魔竜について、貴方が知っている事を、どんな事でもいいから教えて欲しいんです。お願いします」



正に電撃的という言葉が相応しい。少年は男が言葉を話を終える前に待ちきれないと言わんばかりに言葉を放った。
言葉と共に少年が小さく頭を下げる。正しく人に何かを頼み込む姿勢。
有無を言わせない、という事はこういう事なのだろう。男は自らがこんな頭3個分程も小さい体形の子供に妙に威圧されている事に驚き
少しばかり呆気に取られながらも直ぐに、先ほどまでの自慢話の際の高揚感を取り戻して、
必死に自らが保有している魔竜と尊敬する人物であるハルトムートについての情報を頭の中から捻り出して行く。


男は尊大に、出来るだけ偉そうに語り始めた。
何とも大人気ない態度だが、少年は今まで一番真剣な表情で男の言葉に全力で耳を傾けている。


「魔竜ってのは、言ってしまえば竜族の王様さ。他の竜より強いのはもちろんの事、こいつは更にとんでもない事が出来たらしい」


「と、言うと?」


「魔竜は、自らの能力で、竜を無限に作り出せたとか……」


「あぁ」


少年の返答は黒曜石の崖の様に冷え切ったものであった。
まるで、そんな事はたいしたことではない、知りたいのはもっと別の事だ、と言外に判るほどに冷たい声音。
もっと言ってしまえば、そんな事は知っていると言わんばかりの態度と雰囲気を纏った声だ。
もしくは、そんなつまらない事などどうでもいい、と言っているかの様な口ぶり。


竜を作り出す。コレは恐ろしい能力だ。世界を滅ぼせる力とさえ言える。
個体数と繁殖能力以外では人間とは比べることさえ無意味に思えるほどの次元の違う程に能力の差がある竜族。
純粋な身体能力はもちろん、魔力も技術力も、そして知恵もだ。竜はあの恐ろしい外見とは裏腹に、人間よりも遥かに思慮深いのだ。


一柱の竜を神将と神将器抜きで倒すには誇張抜きで数万の対竜の武器と鎧で完全武装した兵士の犠牲を覚悟しなければならない。
最悪、その万単位の軍団が全滅する可能性さえあるのだ。
神将が率いて高い士気を維持し、一人一人の死を恐れない人間達の精鋭が死力を尽くし、念入りに何重にも策を張り巡らし、地形を利用し
各々が与えられた対竜用の武器と強力無比な最上級の魔術を完全に使いこなして初めて人間は竜と対等に戦える。いや、それでも絶望的なまでに苦戦するだろう。


絶大な力を持った竜を無限に生み出すという力は正に人類にとっての悪夢に他ならない。
そんな恐ろしい能力を聞かされての反応がたった一言「あぁ」だけ。


「他には?」



「他?」



「その魔竜はどうなったんです?」


「竜じゃなくて、俺たちが此処に居るだろ?」



つまりは、魔竜はさっきも言ったようにハルトムート様に倒されたという事だ。と男は続けた。
少年がふっと肩を落とし、輝かしいばかりの、安らかな微笑を自然な動作で浮かべた。
綺麗な笑顔だ。まるで純粋無垢な少女が浮かべる笑顔のようでもある。


しかし、何故だか男は、少年に嘲笑われた気がした。
何も知らない無知な存在を嘲るように、少年が笑ったように見えたのだ。
この朗らかな笑みの裏側で、お前はやはり何もしらない、哀れなものだ、そう言われた様に思えた。


「ありがとうございました」


慇懃無礼、そんな言葉さえ浮かぶほど行儀良く少年が深く一礼し、その人差し指を緩慢な動作で男の眼前に軽く突きつけた。
そして一言。彼は決定的な言葉を口にする。指が筆の様にすぅっと小さく左右に振られた。黄金色の軌跡が指の残像を形作り、そして消えていく。
彼の口から放たれた言葉は確かな魔術的な重みを宿し、男の存在の奥深くに根を張り、男の思考回路を毒す。


「今日、貴方がここで俺と話したことはちょっと後には忘れてるでしょうね」


「あぁ、俺はあんたとここで会ったことは直ぐに忘れるだろうな」


鸚鵡返し、そんな表現が相応しい様に男は少年の言葉を繰り返していた。
満足気な表情と共に小さく少年が顔を愛らしく傾げてウィンクした。そしてもう一度彼は魔力が篭もった言葉を放つ。
圧倒的な魔力と共に飛ばされる言霊は魔術に耐性のない男の心を容易く侵食し、その考えを本人さえ認識できない内に捻じ曲げていく。



「家に帰って、ゆっくりしたらどうですか?」


「そうだな。家に帰ってゆっくりするよ」


もう一度同じように男が言葉を繰り返し、裾を翻し、腰に差した小さな剣をカチャカチャと音を立てつつ歩いていく。
そして彼は一度振り返り、そして今思い出したかの様に言った。
いや、事実彼は今思い出したのだ。そして少年にソレを言おうと自分の意思で判断したのである。
この少年は神将の事を知らない。ならば、実物を見るチャンスを与えてやろうじゃないか、という大人の心で。



「そうだ。今日から一週間、このアクレイアでは大規模な祭りがあるんだ。
 神将の方々も集まって会議をした後、祭りに顔を出すらしいから、お前も顔だけでも見ていったらどうだ?」



「それはどうも」



もう一度だけ少年がお辞儀をして、男を見送る。やはり綺麗な笑顔のまま。
男の姿が喧騒賑やかな街の人ごみの中に完全に消えていったのを見計らって彼は笑顔を無表情に変えて、背後の神将たちを模した芸術品に向き直った。
揺ら揺らと体と髪の毛を左右に揺らし、一つずつ、もう一度じっくりとその黒い瞳で値踏みするかの如く観察していく。


『小さき勇者』ローラン
『狂戦士』テュルバン
『騎士』バリガン
『大賢者』アトス
『闇術師』ブラミモンド
『英雄』ハルトムート
『聖女』エリミーヌ


ぐるっと首を回して見上げた視界に蒼い空と共に各々の像を見て、そして少年の視線は一人の英雄の前で停止する。


それは『神騎兵』ハノンの像。


彼女が引き絞っている弓、ミュルグレは恐らくは竜を狙っているのだ。竜の命を、鹿を殺すのと同じ要領で狙っている。
彼女はこの戦争で数多くの“竜”を直接、もしくは間接的に葬ったのだろう。
そして彼女は、イドゥンにもその矢先を向けたのだろうか?



「ハノンさん……」



少年──イデアの意思と自我を持った分身は、小さくハノンの像の表面を、愛おしむ様に、指で優しくなぞった。
随分と違う立場になったものだ。あの時は命がけで俺たちを守ってくれたのに。今や彼女は竜殺しの英雄。そして自分は竜。
まるで御伽噺の中の悪魔とそれを征伐する騎士の様な関係。


それが今の自分とハノンの立ち位置だ。
もしも出会ったら、きっと両者にとって最悪の結果を招くことになる。
もう、あの凛々しい女性に会うことは許されない。


小さくイデアが頭を振った。諦観さえ含んだ眼で最後にもう一度だけ熟視し、そして彼はふっと笑みを零した。
考えていても仕方が無い。今はこの街の探索を楽しんで行うとしよう。


フードに手を掛けてそれで頭をすっぽりと覆うと、彼は何処にでも居る旅人の様な姿になる。
全くと言っていいほど目立たない姿。事実、先ほどまで像の前で男と長々と話していたが、誰一人として彼らに意識を割く者は居なかった。
何百という人間らが隣を歩く中で、堂々と術を使って軽い精神操作を男に施したというのに、おかしいと思う者さえいない。


よく周りの人物の様子を見てみると、心なしか皆々が何かを期待し、楽しみにしているかの様な表情をしている。
もっといえば、現在に余り注意を払っていない。まるでもうすぐで夢が叶いそうな子供の様に、楽しみにしている何かを心待ちにしているのだろう。


そういえば、そろそろ彼らにとっての救世主である八神将とやらがこの街にやってくるらしい。あの男はそんな事を言っていた。
納得を得たと言わんばかりに彼はフードの中で小さく頷いた。様は、その行事を子供がサーカスを楽しみにするように、待ちかねているのだ。




侮蔑するようにイデアがささやかに表情を緩めた。
ならば、自分も少しだけそのイベントに参加してみよう、もちろん観客として。
















しかしまぁ、良くもこんなに騒げるものだ。


アクレイア中を覆い尽くす、物理的な力さえ持っているのではないか、と思えるほどに濃厚な人々の熱気と歓喜を遠目から眺めつつイデアは胸の内でそう判断を下した。
街中を行く者の顔に浮かぶのは笑顔、笑顔、笑顔、そして笑顔。窓から顔を出し、街の入り口辺りを何かを期待した眼で見る者らも笑顔。
誰も彼もがまもなくこの都を訪問する神将達への思いで顔をほころばせている。


そんなにヒーローが好きか。イデアは自分の胸中がやけに黒い感情で埋め尽くされていくのをふつふつと噛み締めた。
どうにもこの熱気に乗り切れないのは、やはり自分のこの身が竜だからか。眼の前を通り過ぎる無数の騎士らの行進を見つめつつ彼は思った。
もしも自分がただの人としてこの世界に生まれることが出来て、ただの人間として生きていれば、恐らく自分はこの祭りに嬉々として参加していただろう。



人間から見れば素晴らしい行事でも、種族という視点を変えてみてば、こうも変わるものなのか。
ふと、ここでイデアは気が付いた。思ったよりも自分は竜族が戦争で負けたという事実を不愉快に思っていることに。
当初はイドゥンが生きているか、否かにしか興味がなかったのだが、これも多少の余裕が出てきたからなのだろうか。


これだけの人口の密集だと、当然付近の温度も上がり、何よりここは人の体臭が入り混じっていて筆舌に尽くしがたいほどに臭かった。

故に彼はせめて口の中だけはマシにしようと思い、背に背負った袋の位置を胸の辺りまで動かし、その中に手を突っ込んだ。
きっちり整理された袋の中に入っているのはエリミーヌ教とやらの聖書に、戦役について人間からの視点で纏められた記録物。

余り物語としての脚色が入っておらず、ただ純粋に各地で発生した戦闘の流れとその結果だけを記した書物を、彼は持ってきた紅い宝玉を金に変換して購入したのだ。
真紅の宝玉を売却して手に入れた2500ゴールドで彼が他に買ったものといえば、幾つかの書物と、数個のリンゴだけだ。
ちなみに3ゴールドあれば、大の男が死ぬほどそこそこに豪華な料理を食えるといえば、2500ゴールドという金がどれほどの大金かはわかるだろう。



皮袋の中からリンゴを取り出すと、袋を背負い直し、彼はソレに口をつけようとする。口の中をリンゴの芳醇な香りで満たそうと思ったから。
何度か服の裾でリンゴの表面を磨いてから、口を大きく開口し、リンゴの真っ赤な皮に被り付こうとし……。



「……?」



クイクイッとローブの裾を小さく引っ張られ彼はリンゴを食することは出来なかった。
不審に思ったイデアが眼を引っ張られた箇所に向けると、そこには小さな、まだ五歳に満たないであろう少年がぽつんと虚しく立っている。
どうにも不思議な気配を纏った少年だ。蒼とも翡翠色とも付かない髪の色をしており、その顔立ちはとても整っている。
その身に纏った純白の衣は素材も作りも良く、一目でかなり上質なものであると予想でき、かなりこの子供の親は裕福な身分なのだろう。


サファイアの様な澄み切った紺青色の瞳に見つめられ、何故だか妙な胸のざわめきを感じたイデアが頭を傾げた。“コレ”は一体、何なのだろうか?
こんな子供に自分は一体何を感じているのだ?


膝を曲げて、少年と向き合ったイデアが勤めて優しい声音を作りつつ少年に話しかけた。


「どうしたんだい? ご両親の所に戻るといい」


リンゴをその小さな手に渡してやり、イデアが頭を撫でると、少年は何かを思い出したかの様なはっとした表情になり、ついでその眼が潤みだした。
正に今から泣き出しそうな表情。まるで決壊寸前の堤防を思い浮かべられる顔色。


まるで、親から引き離された子供が浮かべる表情。


「はぐれたのか?」


うん、と小さく少年が頷くと同時に涙が一滴、その眼から零れ落ち、大地を塗らした。
しかし決して声をあげて泣かないのは男の子だからだろうか。
はぁ、と小さくイデアが器用にも少年に気が付かれないように気をつけながらも溜め息を吐いた。
どうしてこう、自分には面倒事が列をなしてやってくるのだろうか。


もう一度だけ、イデアが少年のしかめ面を見る。
親から離れて泣いている子供を。








何故か、この子供と、あの夜ナーガに拒絶されて、泣いていたイドゥンの顔が眼の前の少年と重なってしまった。








「ハァ……」


今度は隠そうともせずに大きく溜め息を吐く。どうしてこう、自分はあの里の授業といい、子供には妙に弱いのだろうか。
ムシャムシャと泣きながらリンゴにかぶりついている少年を見つつ、イデアは自分に呆れと困惑を抱かずにはいられなかった。


「一緒にお母さんかお父さんを探して欲しいか?」



「…………うん」



もう一度、さっきよりも大きく頷いた少年の頭を撫でると、イデアは彼のその小さな手を握った。
頼れる人物が出てきて嬉しいのだろうか、少年の顔から涙が消え去り、変わりに満面の笑顔を顔全体に浮かべている。
花の咲くような笑顔、もしくは輝く笑顔とはこういう事を言うのだろう。全く、子供と言うのは感情の切り替えが驚くほどに迅速だ。



「ところで君、名前は何ていうんだ?」



「アル!」


元気よく手をあげて、名前を叫んでいるところを見ると、既に彼はイデアの事を信用してしまったのだろう。
全く、この子の親は何を考えているのだろうか。もっと初対面の人間には警戒することを教えるべきだ。
もしも誘拐やら拉致やらされたらどうするつもりなのだろうか。この少年の装いを見るに、それなりの金は持っているだろうし、それを目当てに攫われる可能性もあるだろうに。


まぁ、自分はそんなことはしないが。
神将どもがこの都に来るまでもう暫く時間があるはず。ならばそれまでにさっさと見つけるか、街の騎士たちにこの子を預けるかしてしまおう。
そこそこの金持ちの子供だろうし、悪いようにはされないだろう。


「親御さんが居るかもしれない場所は知っているか? そこに案内してくれ」



「うん!!」


キャッキャッと笑顔を振りまきつつ、自分の腕を引っ張るアルに、イデアは懐かしいモノを感じてしまい思わず苦笑を浮かべるしかなかった。







あぁ、何となくだが、この子は本当にイドゥンに似ている。そうイデアは思った。





あとがき



ようやく生活が安定してきたので、何とか更新完了です。
とりあえず、作者は生きています。

震災の後の仕事が急がしすぎて、更新が遅れてしまいました。
5月に入れば、もう少しだけ更新が安定すると思います。

次はダークサイドの方を更新予定です。


では、こちらかダークサイドの次回更新にてお会いしましょう。






[6434] とある竜のお話 第二部 四章 3 (実質12章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/06/21 22:51

自分は、何故こんな、そう、まるで人間の様なことをしているのだろうか?
そしてこれは、迷子の子供を見つけた大人の対応として、思えばかなり下策なのではないか。
本来なら街をゆく騎士たちにでも預けて、自分はさっさとこのアクレイアを訪問する八神将とやらを遠目から眺めて帰るのが上策というものだろう。



イデアは、改めて冷静に考えれば考えるほど訳がわからない自分が居ることに頭を傾げずにはいられなかった。
自分は、一体何故こんな子供に貴重な時間を割いて、構ってあげているのだろうか。
正直な話、イデアがこのアルという子供を助けようと思ったのは完全な気まぐれである。
そこには一片の利己心も、悪意も無く、ただ何となく助けてやろうと思ったから彼はこの子を助けることにしたのだ。


ならば、何処からそんな”気まぐれ”は沸いてきたのだろうか……?
一体何処に興味が惹かれたというのか。



だが……。



「~♪ ~♪」




一転の穢れも無い笑顔で手を繋ぎ、通り過ぎるモノ一つ一つにその真ん丸いくりくりとした眼で興味を示すアルを見ると、そんなどうでもいい事が薄れていくのだ。
もしかすると、自分は自分でも自覚できていないだけで、子煩悩なのかもしれない。多少言葉の意味は違うだろうが、どうもイデアはそう思えて仕方なかった。
何と言うか、こう、敵意でもなく、忠誠でもない。純粋な尊敬を念を向けられるのはやはりむず痒い。
本当に子供というのは、付き合いづらい。純粋な力だけではどうにもならないからだ。




「ねーねー、リンゴもう一つちょうだい!」



…………。



もう、どうでもいいか。そもそもの話、自分は何をこんなにこの事態を重く捉えてるのだ。
たかだが子供一人が迷子になって、それを自分が親の元に送る、ただそれだけじゃないか。
この子には親が居る。親というのは子供と最も長く共に居る存在だ。だが、その時間は永遠ではない、いつか親というのは子よりも先に居なくなってしまう。
だが、まだアルはそんなことを理解することも出来ない程に幼い。ならば彼が親とするべき事はいずれ訪れる別れに備えるための思い出作り。



………………。



「ほら」




背中に持っている皮袋の中に放り込まれていたリンゴを掴み、それを布で拭いてやってから渡す。
皮の表面がてかてかと磨きぬかれた大理石の様な輝きを放つソレは、見ているだけで涎が出てきそうな程に芳醇な香りを醸し、見るからに美味しそう。



二個目のリンゴに豪快にその小さな口で齧りつくアルを横目にイデアは再度溜め息を吐いた。思えば、自分はさっきから一個もリンゴを食べていないではないか。
自分で食べようと思って買ってきたのに、これでは意味が無い。というか、本当にそろそろ口の中をリンゴの匂いで満たさないと、周囲の汗臭い臭いで頭痛になりそうだ。
素直に手を使って袋の中からリンゴを取り出すと、ソレを一口齧る。じゅわっと果汁が染み出してきて、とても甘い。
それでいて果肉は柔らかすぎず、水っぽすぎず、適度な硬さと甘い果汁を含んでおり中々に美味しい。



中々にアクレイアで売っている果物は舌にあう。また機会があれば買うとしよう。
イデアは胸中で書き続けているアクレイアの観察メモに一言そう書き足した。
ちなみに他に書かれていることといえば「臭いが酷い」とか「まるでローマだ」やら「八神将の作品多すぎ」などである。


後は、もしかしたら、いつかこの都市を自分が破壊するかもしれない、だ。
まぁ、今の所はそんなつもりはないが。どうにもこう、人が生活している様子を見せられると、やり辛いものになる。




イデアは自らの隣をチョコチョコと小さい歩幅で忙しなく歩くアルに声を掛けた。



「しかし、君は一体何処の出身なんだい?」



これは完全な好奇心だ。イデア自身もこの子の出身地や、家族の名前を聞いても何も自分に得はないことは知っている。
問われたアルが小さく頭を傾げた。恐らくはイデアの言っている言葉の意味が判らないのだろう。
こんなまだ5歳かそこらの子供が出身を言えるか? イデアは頭を小さく俯かせ、判りやすい言葉を探し出しはじめた。


出来るだけ、優しく、出来るだけ怖がらせないように。彼は考える。
まずは、何か面白い芸でも見せるとしよう。打ち解けなければ話もしづらい。



アレでも作るか。イドゥンには大変好評だった奴だ。以前遊びで作った時は、確か彼女は食べるのを渋って、結局シオシオになるまで眺めていたモノ。


小さく風系統の理魔法【エイルカリバー】を発動させ、リンゴの一面を皮ごと8つに切り分け、くりぬいたもう使わない芯を口の中に放り込む。
バリバリとほんの僅かだけ開放した竜の牙で芯を噛み砕きながらイデアは作業を続け、皮を切り離さないように切込みを入れて、皮の一部をV字形に切り取る。
耳の様に尖った皮の部分だけを残して他の部位の全ての皮を手早く切り落とすと、それも口の中に放り込む。やはり、皮も甘くて美味しい。


ゴクリと、十二分に噛み砕かれた芯と皮を飲み込んだイデアが、更に数回魔力を行使し【エイルカリバー】を最低限にまで威力と規模を落として使用。


不可視の空気の刃が音も無くイデアの願ったとおりに駆けた。シュッという何かを擦るような音と共に刃はリンゴを削り取り、その形を整えていく。
同じ作業を7回繰り返し、あっという間にウサギを思わせるシルエットをしたリンゴの欠片が8個生産された。
ソレを『力』を用いて宙に浮かばせ、さながら生きているウサギが野原を駆け巡っているかのような動きで動かしてやる。



さながら、ウサギ形のリンゴを使った人形劇だ。後でちゃんと全部食べるのだから、別に食物を粗末にはしていない……はず。



イデアが気になるアルの反応はかなり良好であった。眼を星の如く輝かせ、夢中でリンゴを眺めていた。
時折、手を叩いて賞賛の声も送っているといえば、どれほど彼がこの劇を気に入ってくれたか、判るだろう。
ほっとしたイデアが、器用に力を操り、ウサギを一匹アルの手の上に乗せてやった。


嬉しそうにアルがソレを眺めた後、おそるおそる齧り付き、リスが木の実を食べるかのように何度も何度も小さく噛み付いて実を削っていく。
カリカリという果肉を乳歯が食いちぎっていく音を竜族の聴力は確かに捉えた。



さて、これ以上余りこの街の空気に触れさせておくのもイヤだ。リンゴの味が落ちてしまいそうだ。イデアが未だに宙に浮いているリンゴのウサギを見た。
名残惜しみさを覚えつつ、アルには出来るだけ気が付かせないように一匹ずつリンゴのウサギを丸呑みにして即効で喉を通し、食べてしまう。
多少の罪悪感を感じてしまったが、すぐに胸中を心機一転させ、彼はこのアルという少年の事を改めて観察しはじめた。


次いで手をしっかりと握って自らのすぐ隣を離れず歩くアルの顔を盗み見る。
やはり見れば見るほど、何やら変な感情が胸中の奥底からとめどなく湧き出してくるのをイデアは自覚せざるを得なかった。



サラサラのよく手入れの届いた髪の毛やシミ一つない、ぱっと見でも直ぐに判るほど潤いに満ちた最高品質なクリームの塗りこまれた肌に
しっかりとした造りの衣服等などを見る限り、やはりアルはただの一般市民の子供とは思えない。
何より、仕草の一つ一つから隠し切れない支配者層のマナーとオーラとでもいうものが溢れているのがイデアに見えた。


だとすれば中々の富豪か、もしくは貴族の類の子息という事になる。具体的に何処の、まではさすがのイデアでも判らないが。
イドゥンならば広い精霊の眼と耳を瞬時に呼び寄せて、必要な情報を必要なだけ取り寄せ、この子の出身地を判明させることが出来たかもしれない。




何故あんな場所に居たのだろうか?
捨てられた、とは考えづらい。この子の両親が金銭に困っているとは考えられない。でなければ、こんな良質な服は着ていないし、もっと肌なども荒れているはずだ。
もしくは望まれない子供という線も考えたが、その場合は既に殺されているか、最低でも付き人が居るはずなのだが……。


結局は迷子になってしまったと考えるのが妥当だろう。仮に付き人が探しに来たら、その人物に引き渡せばよい。


そう考えを一通り纏めるとますますイデアはこの子の両親に対して懐疑的になった。
もっとちゃんと見ていろよ、子供というのは、親から離れたくないモノなのに。
ハァ、とまた溜め息を吐いてイデアは半眼でアルをじぃっと見つめた。
何はともあれ、拾ってしまった以上は責任は取らねばなるまいて。俺はナーガとは違う。



「アル」


「?」



不意に名前を呼ばれたアルがイデアを見た。二人の眼と眼が交差し、その奥を確かに見据えあった。


何度か頭の中で言葉と単語をこねくり回し、何とか「これなら判るだろう」と判断した言葉をイデアは発する。
ご丁寧に魔力でその中に込められた意味と、その心が直接相手の中に入るように細工まで仕掛けて、だ。
仮の姿である黒髪の少年が、その漆黒の瞳でアルの蒼い瞳を真っ向から見据え、その奥まで言葉を流し込んでいく。


一瞬だけ、竜族としての力を行使したイデアの影の漆黒の瞳が、彼本来の色である鮮やかな紅と蒼の光を湛え、ソレは不気味に輝きを放った。


「……君はどんな場所で住んでいたんだ?」



今度こそイデアの問いたい言葉の意味はしっかりと伝わったらしく、アルが眼を明後日の方向に向けてうーんと考え始め、しきりに顔を左右に傾けている。
その光景にイデアは安堵を覚え、ほっと胸を撫で下ろした。さすがにこれも無理だったら、色々と辛い。
イデアの視界の端を騎士たちが何やら急いだ様子で走り抜けていく。やかましく騒ぎ立てている騎士達の声が少々耳障りであったイデアが少しだけ術でその音を温和する。
ついでに騎士達に変に目をつけられるのが厄介だと感じたイデアが術で自分とアルの気配を少しばかり薄くした。これで、魔術に対抗のある存在にしか二人は余り目立たない。


暫しの熟考の後、アルは元気よく満面の笑顔で答えた。年齢相応の穢れ一つない笑顔。



「山がいっぱいあるところだよ!」



「山?」



「うん!」



当たり前の話ではあるが、この広大なエレブ大陸には山脈も数多く存在する。イリアにリキア、このエトルリア王国の領地の中にもだ。
山地と一言で言っても多数存在する中から、この少年の故郷を割り出すのは不可能に等しい。というか、そんな労力をわざわざ割いてやろうとはイデアは思わない。
余りにも漠然とした情報に顔を不機嫌そうに歪めてしまいそうになるが、子供の眼の前だという事を思い出して何とか彼はそれを押さえ込んだ。


気を取り直して彼は考える。今日一日の予定表を脳内で加筆修正し、大幅な変更を書き加えた。
八神将が参加するパレードは遠目に見て、その他の時間は全てこの子の両親探しに振り当ててやることにしよう。



次に少しだけイデアは問いを変えてみた。もちろん、ちゃんと魔力で言霊化させた言葉を発して。



「じゃぁ、何であんな場所に一人でいたんだ? お父さんかお母さんと一緒じゃなかったのか?」




アルは先ほどと同じように顔を傾げ、両手を額に当てて考え込んだ。今、必死に記憶の糸を辿っている所なのだろう。
意外と子供というのは記憶力がいいものでもある。


そして暫しの時間を思考に使用した後、彼は元気よく答えた。





「わかんない!」




イデアの溜め息がまた漏れた。














「?」



しばらく二人で歩いていたイデアが歩を進めつつ思わず頭を傾げた。
どうにも、この道はさっき自分が通ってきた道だ。この道を作るために整然と規則正しく並べられた石畳みも、全て見た。しかもついさっきに。
この道の続く先をイデアは知っている。先ほどあの初老の男と話した場所、八神将の像が祀られている場所だ。


その道をアルは笑顔のまま鼻歌交じりに突き進んでいる。
イデアはどうにも自分の腹の虫の居所が悪くなるのを感じた。まるで体内で溶岩が渦を巻いているかのようである。
八神将のことは余り、それこそ文献と噂程度でしか知らないが、どうにも気に入らない。



そうだ。はっきりと言ってしまえば、イデアはハノンを除いた全ての神将がどうにも好きになれない、否、確固たる嫌いという感情がある。
特にアルマーズを用いたテュルバンなどはその最たるものだ。文献を読む限り、彼は単なる戦闘狂で、戦役以前から度々竜族と揉め事を起こしていたらしい。
そんな人格破綻者でも、戦争と言う舞台で活躍すれば一躍英雄になれるというのだから、本当にどうかしている。
あんな野蛮な男の斧がイドゥンに向けられたかもしれないと思うだけで全身に蕁麻疹が走りそうだ。



本当に視点と言うのは大事なものだとつくづく思う。自分が人間として生まれていたならば、まず間違いなく伝説の英雄である神将に憧れを抱いていただろうに。
竜族として在るこの身からすれば、神将というのも単なる潜在的な強大な敵としてしか映らないのだから。



しかし、イドゥンは死んでいない。水晶の中に幽閉されたとはいえ、生きている。
イデアは神将たちを殺そうとは思わない。結局の所、これは戦争であり、その戦争でイドゥンが生き延びた以上、イデアには特に復讐したいという思いはない。
まぁ、もしも奪えるならばハルトムートの封印の剣と【炎の紋章】は手に入れて調べてみたいし、機会さえあれば神将器は是非とも研究してみたいが。


先ほどまで滞在していた神将の広間が徐々に近づいてい来る。周りに人が余り居ないのは、そろそろ訪れる神将らを見にいったからだろう。
遠目に映るハルトムートの像を見て、イデアはまた一つ溜め息を吐いた。もう、この男の顔は見飽きた。



アルが神将らの像の広間に向けてイデアの手を振りほどき、走り出す。小さな歩幅ではあるが、懸命に足を動かし、幼いながらも全力で走る。
しかし、道端にある小石などに何度か足を引っ掛けてしまい、その度に彼の小さな体は左右に小さくぶれる。その姿は見ていて何とも危なっかしい。


何人か道行く人にぶつかりそうにさえなっている。一瞬、相手の男が迷惑そうにアルとイデアをにらみつけるが、怒鳴り散らすのは大人気ないと判断したのか、直ぐに立ち去ってしまう。



「こ……!」



思わずイデアが彼に制止の声を上げようとした瞬間……彼の頭蓋骨の奥、そして胸の内側、心臓の中心部より、けたたましい警告の鐘が鳴り響いた。
まるで、獰猛な今にも飛びかかってきそうな獣を前にしたような、おぞましい感覚。背筋を冷たい刃が通り抜けるかのような、悪寒。










【スリープ】









一瞬の出来事であった。恐ろしく高度な技術を持った魔道師の仕業である。
全ての生物の精神と心に影響を与え、強制的な睡眠に陥れる魔術が行使され、通りを歩いていた魔術に対抗の無い人間の多くがバタバタと倒れ、夢幻の中に囚われていく。
大通りに比べれば少ないとはいえ、それでも十を超える数の人間、それだけではなく都市の上空を飛んでいる鳥などが力なく、糸の切れた人形の様に倒れていく様は何処か滑稽でさえあった。


スリープの魔術は蒼く光る雪として周囲に降り注ぎ、それは遠くから見ればとても幻想的で美しいとさえ思わせるほどの存在感を放っているだろう。
但し、触れればまず間違いなく一般人は深い眠りに落とされてしまうだろうが。
眠るという行為は生物には必要不可欠であるが、同時に最も危険な行為でもある。
何故ならば、寝ている間は完全に無防備になり、その間はどんなに強大な存在でもどうしようもない程に無力と化す。



生物として芸術的に完成されている竜族は成長すると、眠るという行為を滅多に行わないのは、本能的にその無力な時間を恐れているからなのかもしれない。





「アル!!」



アルの小さな体躯が、幼い少年に魔術に対する対抗力などあるはずもなく、呆気なく崩れるのを目の当たりにしてイデアは冷静な思考をかなぐり捨てて思わず叫んでいた。
無力に地に倒れ伏すその姿は、彼の心にさざ波を大きく広げ、かき乱す姿であった。子供が、たとえ死んではいないと判っていたとしても、倒れる姿というのはイデアは嫌いだった。
心底嫌いである。どうしようもないほどに嫌悪感が沸いてくる。子供は何も気にせず、笑っていればよいのだ。



神竜であるイデアに【スリープ】はその効果を発揮できない、舞い散る蒼の雪はイデアに触れても全く影響を与える事が出来ず、ただ宙に溶ける様に消えてしまうだけ。
魔術では影響を与える事は不可能だ、そう、魔術では。


故に、術者達はより“直接的”な手段に出た。より野蛮で、より効果的で、そして何より手っ取り早い方法を選択したのも、彼らの事情を考えれば当然といえる。








『ぐふっ、ぐふふふふふふふふふふふ……』








酷く下卑た笑い声。
聞いているだけで不快、嫌悪、侮蔑、そして吐き気。大よそ人間と言う種が根源的に持っている感情である生理的嫌悪の類、その全てを撫でやる嘲笑であった。
そんな人間が出せるものとは思えない悪魔の声が幾重にも反響、反芻を繰り返し、無数に聞こえてくるのだ。
ある意味アルは眠っていてよかったのかもしれない。こんな不気味な笑い声を子供の時代に聞いてしまったらトラウマ確実なのだから。


まるで耳に濁りきった下水の水を流し込まれたような錯覚に陥りそうな声。



アルに駆け寄ろうとしたイデアが足を止め、その声の発生源を突き止めるべく、周囲を見渡す。
そして……見つけた。



そこから先のイデアが感じた世界は苛立ちを感じるほどに緩慢と時間が進んでいく。
一つ一つの事象がゆっくりと流れ、その全ては連続性を維持したまま起こった。


まず、最初に神竜の気配探知能力が捉えたのは、今まで偽装を施していた野蛮な獣の外装が剥がれていく現象である。
バリバリと何やら分厚い紙を力任せに引き千切っていく光景を連想させる音が鳴ると同時に、イデアの視界の片隅にぽつんと存在する一人の男に変化が訪れる。



その人物とは先ほどアルと衝突しそうになり、迷惑そうな顔を浮かべて立ち去った男であった。今はローブを深く被っており、その顔は窺えない。
中肉中背の、茶色いローブを着込んだ男だ。ゆっくりとアルに向かい歩いていく。
ただ歩いているだけ、それなのに何処と無く冷たいイメージが拭えない。そう、まるで長い間関節などを調整されなかった人形が人形師に操られて歩いているようだ。



一歩。 


一歩。 


一歩。




足を踏み出すたびに男から何かが剥がれ落ち、ソレは紅い雫と共にアクレイアの綺麗に整備された石畳を汚していく。
表が白く、裏がピンクとも赤ともつかないソレ。一つ一つ床に落ちると同時に地面を汚染していくソレは男の“皮膚”だ。
皮膚が、一歩歩くたびに剥がれ落ちていくのだ。血と肉と共に男の顔からこそげ落ちていく。



肉食動物にもしも人間が肉を食われたら、きっとこうなるのだろう。彼らは綺麗に、肉と言う肉を持っていく。



剥がれ落ちた男の皮膚、その代役を務めるべく男のローブの裾から放出され始めたのは“闇“だ。
根源的な”闇” 全てを塗りつぶす純粋にして、一種の神々しささえも感じる禍々しい黒。
イデアの嗅覚はその存在から腐臭を嗅ぎ取った。まるで長い年月放置された死体から嗅ぐわえる吐き気を催す匂い。死のにおい。



その全てが、一つ一つの要素の全てが、常人から正気を奪い取り、狂気に走らせるほどに濃厚な魔道の匂いがぷんぷんした。




イデアの思考は一瞬だけ、余裕に満ちた雰囲気で男がローブに手をかけ、そして降ろした瞬間に凍結させられた。






男に先ほどまであった人間としての顔は無かった。





ただ、飛竜と人間の頭蓋骨を溶け合わせたような形状の白い髑髏が、本来人間の顔がある部分に鎮座するだけであった。
眼窩の部分に宿す、赤黒い狂気を孕んだ光だけが、この存在は確かに生きて動いているのだと伝えていた。
その姿は、あの日殿でイデアが見た亡霊兵士に近い。だが、ここは殿でもないし、亡霊が沸くような戦場の跡地でもない。エトルリア王国の王都アクレイアの一角だ。



何故? 何故? 何故? 一体、こいつらは何なのだ? 何故ここにこんな奴らが居る?
余りにも様々な事が起こり、イデアの頭には無数の疑問が螺旋を描きながら飛び交う。
魔道師としてのイデアは全ての情報を整理しようと、必死に頭を働かせていた。


それにかかる一瞬の時間が命取りであった。
イデアの犯した致命的なミスは、瞬時に思考を戦闘のための冷徹なモノへと変更出来なかった点である。


男、否、怪物のいつの間にか黒く染まっていたローブを着込んだ顔なしがその手を未だに事態の推移についていけないイデアに向けられる。
殺意と敵意を敏感に感じ取ったイデアが気が付いて、咄嗟に【オーラ】を展開しようとするが、既に遅い。ただでさえ分身であるこの身では、様々な面で本体に劣るのだ。





ソレは、数回の瞬きにも及ばない、正に刹那ともいうべき時間の間に起こったことだ。おおよそ、このエレブではほぼ全ての存在が対応は出来ないであろう程の早業だ。
【スリープ】の効力が効いていないと判断した怪物の行動はそれほどまでに迅速で、残忍で、電撃的であった。
魔術、それもイデアなどが普段よく行使する物を持ち上げたり、動かしたりする魔術、怪物が使ったのはそのちょっとした応用だ。



ただ、物体を思いっきり、遠慮なく加速して投げただけだ。



怪物が掲げた腕、その動作に応じて広がった黒いローブはまるで巨大な漆黒の翼に見える。
そして、奈落の底を想起させるであろう袖の奥底から、一本の棒状の物体が凄まじい回転を加えられて発射された。
いっぽんの手槍だ。長さはアルの伸長とほぼ同じぐらいの長さに揃えられたソレが、まるで堅牢な城壁を砕く攻城兵器の如き勢いを持って放たれたのだ。



「が……っ!!!」



不可視の空気の壁を突き破り、魔術の力によって目視するのがほぼ不可能といえるほどの速度に加速されたソレは、イデアにありとあらゆる抵抗を許さず、彼の腹部、鳩尾の辺りに深々と突き刺さった。
しかし、それでもたかが人間の身体程度では槍の威力を殺しきることは叶わず、そのまま槍はイデアを串刺しにしたまま飛び去り、そのまま背後の石つくりの壁に彼を打ちつけた。
余りの激突の衝撃に、幾重にも石を積み重ねて作られた壁に無数の断裂線と亀裂が走り、槍の飛来した後の大地の石畳も捲れ上がり、次いで粉々に砕けた。


イデアが呆然とした様子で自らの腹部を見る。
銀色の無骨な作りの槍が、深々と、まるで冗談の様に突き刺さっている。


まるで磔刑に処される罪人の如き姿だ。貫かれた腹部からは槍の回転と肉が擦れあったために生まれた熱量のために、血が気化して煙となっている。
槍に貫かれた場所から鮮やかな真紅の液体が滲み出、それはあっという間に豪雨の如き勢いで放出され、彼の足元に粘性を持った血の湖を形作った。



「ごっ……あっ……!」



『運が悪かったな。この小僧に関わらなければ長生きできたものを……死ぬまでの時間を後悔に費やすがいい』



ぐふふふふ、とあの聞く者全てにどうしようもない不快感を与えるであろう狂笑を仮面の奥底から漏らす。
怪物が磔にされたイデアをその眼光で見、怪物が嘲り、その無謀を嘲弄する。その声には絶対的な強者が弱者に対して抱く哀れみさえ混じっているように取れる。
既にイデアに対する興味は失ったのか、怪物が踵をかえし、背後で眠りについているアルに近づき、彼のすぐ傍まで行くと、その白骨化した腕で乱暴に首を掴んで持ち上げる。
アルが呼吸を阻害され、苦しそうな顔をした。唇の端からは小さなうめき声さえ聞こえた。目元には薄っすらと涙さえ浮かんでいる。



夢の中で両親に助けを求めているのか、小さく唇を動かし、その動きははっきりと見えた。
そして、イデアの視力と、竜族としての優れた直感能力は、その言葉を読み取ることが可能であった。





「────」




イデアはその全ての光景を黙って見つめていた。胸の奥底で暴れ狂う怒りを必死にかみ殺しながら。どうしようもなく、イラついていた。
彼が見ているのは、苦しそうに顔を歪めるアル。そしてそんな子供を傷つけた怪物。
痛みは既に超越していた。生物の死に対する警告とも言える痛みはもう、彼には関係ない。
今は、この報いをどうやってこの亡霊もどきに与えるかを考えている自分がいるのが克明に判った。


既に、こいつが何処の誰で、何を目的にしているかなど知ったことではない。



息が、出来ない。食道に灼熱の血の塊が存在し、ソレが呼吸を遮る。鼻と口、大よそ顔のありとあらゆる場所から熱を持った血が放出され、命が流れ出ていく。
しかしそれでも、その眼は、その双眸からは全く生命力が失われうることはなく、それどころか激烈な光と共に怪物を睨みつけていた。
その瞳の奥底に宿ったのは怒り。そして明確な敵に対する煮えたぎる闘志。


幾つもの言葉が彼の頭の中を春先の蝶のように飛びまわり、それらは一つ一つがくっつき始め、やがては彼の頭の中で明確な文字の羅列となった……つまり。





───身の程を弁えろ。この死にぞこないが。



たかが、腐臭を放つ怪物如きが、どうしようもない程に醜い気配とエーギルを放つ化け物風情が。
イデアの黒曜石の瞳が血よりも鮮やかな蒼と紅に染まり、縦に裂けた瞳孔の中で危険な光が凄然とした凶光を放ち始めた。
























「申し訳ありません。全ては私の責任です」



王都アクレイアに存在する王城の一室。
床には選ばれた動物の最高の毛並みを利用して丹念に編まれた真紅の絨毯が敷き詰められており、部屋の壁には様々な上質な絵画が飾られている部屋。
部屋を彩る色彩は全体的に明るく、机の上などに置かれた調度品なども趣味がよく、この部屋の厳かながらも、何処か柔らかい空気を演出するのを助長していた。


だが、そのこの部屋に存在する全ては恐ろしく高価なものばかりである。
例えば、部屋の隅に置かれているキングサイズの天蓋付きのベッド一つにしても、大量の金でライオンを至るところに刺繍してあり
これ一つでも並の平民なら1年は遊んでくらせるだけの価値がある代物だ。



他にも壺や絵画、置物、その全てがこのベッドと同等か、もしくは遥かに上回る価値を持っている。



しかし、この部屋、とにかく広い。
どれほどの広さかというと、完全武装した騎士の一個中隊程度ならば容易に全員を収納できるほどに広大だ。
人間が一人で住むにはあまりに広すぎて、逆に不便とさえいえるだろう。



ここは王都アクレイアの中枢、聖王宮。この王宮の面積だけでもこの王都の一割以上を担うというとてつもなく巨大な城だ。
しかし、この城は本来城が持つ要塞という役割を果たすよりも、人間達の自らを飾り付け、その力を誇示する役割に重みを与えられて作られている。
その証拠に城の外壁を彩るために用いられた無数の金銀宝石や、石膏で作られ、敷地の至る所に設置された様々な像の総数はもはや数えるのが馬鹿馬鹿しくなるぐらいだ。



金銀などを提供したのはかつてリキアに住んでいたとある竜だそうな。何でもその竜は自らの力で鉄や鋼はおろか金や銀、ありとあらゆる宝石などを作り出せたらしい。
他にもその年の食物や水の供給など、おおよそ人が生きていく上で必要な全ての要素を自由に操れたその竜は
人間に様々な新しい食べ物の作り方などを伝授していたが戦争が始まる少し前に何処かへと去ってしまったらしい。




話を戻そう。



聖王宮の中でも最も高価な部屋の一室。
たとえ名高い大貴族であろうと勝手に入ることは許されない最上級の、それこそ王族にしか許されないほどの格の高い部屋。
この中に入れるのはそれこそ王族か、国王自身か、またはその血縁者、もしくは前述の者どれかの許可を得たのみ程度というほどの空間である。


そんな部屋に二人の人影が居た。一人は全身を磨きぬかれた銀のフルプレートアーマーで覆った一人の屈強な体格の騎士。
羽織った紅いマントには一本の槍を背負った飛竜……彼の所属する王国の国旗の模様があしらわれており、いかにこの騎士の階級が高いかを示していた。
常人よりも遥かに効率的に引き締まった肉体に、幾つもの戦場を神将と共に駆け抜けたその眼は確かな知性と力強さを宿しており、正に歴戦の兵士と言わんばかりの立ち振る舞いだ。



そんな男性が膝を折り、頭を深く下げる主は意外なことに男ではない。いや、戦士ですらない。
彼が膝を屈している存在は女性であった。今は部屋の中央に置かれた黒い丈夫なつくりの椅子に腰掛け、黙って彼の話を聞いていた。


神秘的な雰囲気の女性だ。蒼く、光の加減によって翡翠色の髪を後ろでまとめており、それらは一本一本に至るまで、まるで芸術品のような輝きと艶やかさを持っている。
身に纏うのは本来、大貴族が身に纏うにしては余りにも質素な黒いドレスを着こんでおり、それでも全く地味という印象は沸かず、むしろ落ち着いた雰囲気を放っていた。
そして何より、この女の目は、とても優しい光を宿してはいるが、その奥には確固たる信念ともいうべき“芯”が在る。



だが、さすがの彼女も今回の話には動揺を隠し切れないのか、膝の上でぎゅっと握り締めた小さな拳の皮膚が真っ白になっている。



話は少しだけ過去に戻る。
彼女とその息子はとある用事でこのアクレイアを訪れていた。息子の見聞を広めるためでもあるし、同時に権力者同士の交流会に彼女達は招待されたのだ。
そうして時間は流れ、祖国に帰ろうと思った矢先に夫が近々この地を来訪するから、ここに滞在して待っていようという事になったのである。



もちろん、超を頭につけてもいいほどの重要人物である彼女達の護衛は完璧だ。
彼女達の故郷であるベルン王国の精鋭の一個部隊と、それらを率いるかつての大戦で活躍をし
今や彼女の王国でも神将らを除けば最強に近い腕を誇る三人の『竜将』の一角、今彼女の眼の前で報告をしている男が護衛についている。



息子も同じように守られているはずだったのだが……完璧であったはずだ。
城の警備兵らも大戦を生き延びた精鋭たち、それにベルンの竜将直々に鍛えられた精強なる騎士達……。



だが、事件は起きた。それも最悪の形で。
息子が、恐らく誘拐されたのだ。護衛についていた騎士達は皆殺しと言う惨状であった。
親衛隊を皆殺しにするほどの力の持ち主が、彼女の息子を連れ去った。
言葉にしてしまえばこれだけであるが、内容は恐ろしいことである。


彼女とその息子の身分を考えれば、最悪、エトルリアとの関係が想像するのも恐ろしいほどにねじれる可能性さえあるのだ。
そうなれば待っているのは今度は人間同士の戦争。かつては竜を打倒するために手を取り合った彼らは、その手にもった刃を同じ人間へと向けることになるだろう。


様々な可能性を一瞬で頭の中で思い描くことが可能なほどに優秀な頭脳を持った女性は、一瞬だけ浮かんだ最悪の可能性に目を伏せ、そして直ぐに何かを決意した面持ちの顔を上げる。
椅子から立ち上がり、跪く男に小さく手を翳して、柔らかな声で彼女は言う。しかし、その言葉の端々からは、子と引き離された母親としての弱さが覗いていた。



「判りました。引き続き、貴方は捜索隊の指揮をお願いします……アルを、よろしくお願いします」



「この命に代えましても。ミリィザ様」


流れるような動作で男が立ち上がり、剣を鞘から抜き、見事な飾りを施されたソレの剣先を胸の前で天に掲げ、誓いを行う。
彼の言った“この命に代えても”という言葉はこれで比喩やおぼろげな表現などと言う言葉遊びではなくなった。



騎士の誓いというのは、それほどまでに重いモノなのだ。
男がピシッと背筋を伸ばした体勢で、部屋からなるべく気配と音を抑えて出ていくのを見送りつつも女性──ミリィザは椅子に再度腰掛けて考える。
あの騎士の事を信頼していないわけではない、むしろ良く尽くしてくれるし、最高に頼りがいの騎士だと思っている。
伊達に竜将を名乗っているわけではないのだ。あの騎士は彼女の祖国において、彼女の夫の次に強いだろう。




ミリィザはチラリと窓の外を盗み見た。この部屋はこの王宮の中でも高い位置に存在するため、ここから見える光景は正に絶景としかいいようがない。
広大な緑色の面積を誇る王宮前広場に、左手に見えるのは太陽の光の加減で夕暮れ時には真紅に輝くことから名づけられた『暁の泉水』
更に奥にはこの王宮と、王宮の庭を区別するための境界として建築された南門があり、その果てに広がるのは聖王領と呼ばれる人口の森だ。


更に更に奥にはこのアクレイアの地平線の果てまで広がる町並みが見える。今日の様に晴れた日にはこの街がはっきりと見えるのである。



彼女は一つだけ確信していた、母親と子の繋がりと言ってもいいし、彼女の誰にも打ち明けていない出生による能力かもしれないが、一つだけ彼女は確かなアルに関する情報を持っていた。
即ち、アルはまだこのアクレイアを出ていないということだ。理屈ではない。確かな真実としてミリィザは愛しい息子の存在をあの巨大な街の中から感じ取っていたのだ。


そしてもう一つ、彼女は根源的に、もう一つの“何か”を感じていた。それは魂に刻まれた記憶と言ってもよい。
生き物が生まれた時から呼吸の方法を知っているように、鳥や魚が泳ぐことや飛ぶことが出来るように、彼女は“何か”の気配を知っていて、尚且つそれを感知できた。
酷く恐ろしい“何か”が、このアクレイアを訪れている。



あの騎士の事は心の底から信頼している。この言葉にうそは無い。
だが、だがしかし……。息子が居なくなったというのに、何もせず、部屋で黙って報告を待ち続けるのは本当に正しい行為なのだろうか?
だからといって、自分の立場や責任を蔑ろにして、感情の赴くまま探しにいくのも正しいといえるのか?


彼女がここに残り、たとえ息子が見つからなかったとしても夫に弁解をすれば最悪の事態だけは回避できるかもしれない。
もしも誘拐犯の本当の狙いが彼女で、息子はミリィザをつるための餌であったならばどうする?
一度に王女と王子を失った祖国は怒り狂うだろう。


それに何より、彼女は立場以外の、“自分たちが狙われる本当の理由”を薄々感づいても居た。
だが、これだけは絶対に認めたくない。



母親としての自分と、立場ある有力者としての自分。二つの側面を彼女は持っている。
もっと言うならば、国か息子か、どちらを取る? という事になる。





「…………」




少しだけ考え込むように顔を伏せた彼女であるが。椅子から勢い良く立ち上がると、黒い木製のクローゼットへと早歩きで近づき手早く開ける。




答えは、既に出ていた。




中から出切るだけ質素なローブを引っ張り出すと、ソレを身に纏う。更に懐から金色の通貨がどっさりと詰まった袋……だいたい3000ゴールドほどを取り出して確認すると直ぐにしまう。
もっと奥から見事な装飾の施された短剣を取り出し、ソレを腰に巻いたベルトに固定。鏡の前で何度か自らの何処にでもいそうな旅人の様な姿を確認し、よしと頷いた。
頭の中を再度整理し、今回自らがやらなければならない事を順序だてて彼女は並べていく。まるでタロットカードを机の上に並べていくように彼女は情報を陳列させていくのだ。



最優先はアルを見つけて連れ帰る。最悪そのためならば、彼女は“奥の手”を使う覚悟さえもあった。
次点、これは大分優先度が下がるが、可能ならば同じ事を繰り返されない為にも相手の正体、もしくはソレに準じた情報を知ることが必要となる。
最後に、自分とアル、両者が揃って戻らなければ意味が無い。どちらか片方でも欠けてはいけない。


こうやって改めて羅列すると、いかに自分がこれから行おうとしている行為が無謀かよく判る。だが、やめるつもりは既になかった。


「……」



次に、彼女はこの部屋からひっそりと抜け出すための準備を始めた。
一般的に高い階層にある部屋から誰にも悟られずに脱出と言うとロープか何かで窓から脱出と連想する者が多いだろう。
だがここは全ての人間という種族の首都であり、ましてやこの王宮はその街での最高の場所であり、警備もそれに見合っているモノとなっている。


もう間もなく八神将がアクレイアを訪れるとあれば尚更、万が一の事態に備えているのだ。
現在、この王宮だけでも何百何千と言う兵士や騎士が欠かさず巡回を行い、警備の死角などはほぼないといえる。



それに、この無駄に広い王宮の領内は、例え聖王宮からの脱出に成功したとしても、
次に待ち受けるのは一つの小さな都市程度ならばすっぽり入ってしまいそうなほどに広大な庭、聖王領だ。
監視の騎士や兵士の眼を一々盗んで進んでいたら、アクレイアの市街地に入るのは恐らくは夜になってしまうだろう。




ならばどうする? どうやってこの部屋から脱出し、市街地に行く?
答えは一つだ。そんな不可能を可能にする力が一つあるではないか。



「……つっ!」




取り出した短剣の切っ先を右腕の人差し指に当てて、刃を走らせる。彼女の白魚の如く可憐な肌に一筋の紅い線が走り、やがてそこから血が滴り始める。
短剣を鞘にしまい、部屋の中でも過剰に装飾の施されたレースのカーテンの裏側に身をもぐりこませる。これで部屋の入り口からは彼女の姿は全くと言っていいほどに見えなくなる。
そして指を一本の筆に見立てたのか、彼女はその未だ止まることなく血が滴る指を壁に走らせ、画家がボードに絵を描くかの如く壁に何かの文様を一片の迷い無く描いていく。



先ずは全てを包み込む円。次にその円の周りに人間達が使う文字とは明らかに違う言語体形の文字を刻み付けるように書き込んでいく。
一連の作業の最中、彼女は一度も指の動きを止めることなく、完全に暗記している内容を確かな形として表現し続けた。
最後にその円の中心点を軸に上下の異なる向きをした三角形を二つ描き、六芒星を製図する。



全ての作業を終えたミリィザが壁から指を離し、懐から一枚のハンカチを取り出して指を拭いた。
魔術の知識があるものが見れば一目でこの絵の正体が判るであろう。次いで、この術式の複雑さと怪奇さに度肝を抜かれるであろう。
転移の術式だ。それも魔力を込めれば何回も使える遠く離れた場所へと通じるための“扉”になる種類のモノ……竜族がヴァロールに建築した“門”を小型化させたと考えればよい。
言うまでもないことだが、かなり専門的な魔術に対する造詣が深くなければまずコレを描くことは不可能と言ってもいい。



だが、何故ミリィザがそんな知識を持っているかは今重要なことではない。いまは彼女が息子を救えるか否かという事だけだ。
彼女が完成したその魔法陣へと手を翳すと途端に流し込まれる魔力。その色は限りなく黒に近い澄み切った蒼。
海の遥か深海。汚れも何もないそこに僅かに太陽の光を通せばこんな色になるのだろう。



見ているだけ寒気が走り、肌が粟立つような、そんな底知れない色の魔力を彼女は放っているのだ。
おおよそ、彼女と言う人物の性質とはかけ離れているおぞましい質と量の魔力、否、これはもっと根源的な……。





そして彼女は、光に包まれて消えた。
























怒り。腹部を図太い槍で貫かれ、人間ならばショック死か大量出血で死んでいるであろう傷を受けてもなお、イデアは激しい列然とした憤りを感じていた。
今の自分の状況は傍目に見れば、壁に打ち付けられた罪人が死を前にしてありとらゆる憎悪を吐き出している姿にも見えるのかもしれない。




『親の方は手中には落ちなかったか……まぁいい、こんなガキでも育てれば相応の利用価値を産むだろうて』



怪物、今や既に人間としての在り方さえも放棄したであろうモンスターがアルの首に手を掛け、まるで奴隷を品定めしているかの様な口調で言う。
言葉の端々からは明らかに侮蔑の感情さえも篭もっているように取れた。もう少しだけ、もしもこの怪物がほんの僅か力を込めれば、それだけでアルの首は呆気なく折れるだろう。
そんな態度がますますイデアの胸の内の“太陽”の光を強めていく。この怪物の挙動の一つ一つがイデアを不機嫌にさせうるものだ。


だが、それと同時にほんの少しだけ驚いても居た。このモンスターは、あの亡霊共と違って確かな知性を持っているという事実に。
会話も出来るだろうし、自らの姿が異形であると自覚し、ご丁寧な“変装”までも行っているのだから。


最後に一回だけ、壁に張付けられ、顔を伏せたイデアに無駄な事に関わった愚かに対しての蔑みの視線を送ると、直ぐに怪物は踵を返し、
アルを肩に担いだまま何処かへと立ち去ろうとする。





が。









「────て」








たった一言だ。
たった一言、文字にして二つの記号で表せる言葉により、怪物はその歩みを止めざるを得なかった。
それも腹部から逆流してきた血と胃の内容物に喉が強く圧迫され、その影響によってがらがらの罅割れた声。
小さくイデアが咳き込むと、そこから新たな新鮮な血が零れ出し、彼のローブをどす黒く汚していく。



その言葉に込められた意味はあまりにも大きすぎた。
憎悪、憤怒、義憤、そして何より、悪意。どうしようもないほどの敵意と織り交ぜられた悪意。







『貴様……?』




怪物が骸の眼窩に光を浮かべた、人間で言う眼らしき場所を再度イデアに向ける。
今度の視線に練りこまれているのは明らかな警戒と疑問の感情。先ほどまで視線の中に存在していた蔑みは身を潜ませ、今度は自らの障害に対する怒りと警戒に取って代わられていた。



醜い。どうしようもなく醜い。見ているだけで吐き気がしそうだ。イデアの“眼の延長線上”が捉えた怪物に対して評価を下す。
白日の元に晒され、改めてみる怪物の“顔”は、醜悪極まりなかった。
真っ白な骸は所々に皹が入り、そこから煙のような“闇”と共に、死体に集る蟲、蛆や銀色に輝くハエ、その他様々な見るだけで鳥肌が立つような蟲達がひっきりなしに湧いて出ている。
怪物が煩わしそうにその顎を金属的な音と共にかみ合わせると、口内に侵入していたのであろう蟲達が怪物の歯にすりつぶされ、濁った緑色の体液と共に残骸が吐き出される。



『しぶとい』



もう一本。現在イデアに突き刺さっているのと同じデザイン、同じ長さ、全く形状の槍をそのズタボロのローブの中からどうやったのかは全くもって見当もつかないが、取り出すと
その切っ先をイデアに向け、しっかりと狙いを定める。鋭利な槍の先端が獲物を狙う獅子の如く向けられた。


投擲の体勢だ。次に狙うは頭部。頭部を破壊されて生存する生物など存在しえない。普通ならば。
この怪物の人間離れした技量ならば、小さな小さな、磔刑にされた子供の頭部を粉砕することなど、手足を動かすのと同義であるはずだ。




が、残念ながら、怪物は出来なかった。否、手を止めざるを得なかった。全身に迸る危機感が怪物の全身を縛り付ける。







「く、ははは、くははははははははは、はははははははははははははははは─────」









笑いだ。天にさえ届くほどの、心胆の奥底に鉄槌の如く叩きつけられるような哄笑。
磔にされ、今死んでいない事そのものが奇跡な状態の男から発せられる嘲り。
血を、胃の内容物を口から吹き出し、真紅の泡を汚らしく撒き散らしつつ、それがどうしたと言わんばかりに轟く狂笑。


場の空気が変わった。怪物が支配し、淀んだ瘴気を漂わせていたこの広場の支配権が移り変わっていく。
思わず怪物は、彼自身さえも気が付かない内に一歩だけ後ずさってしまっていた。
何をされたわけでもない。別に攻撃されたわけでもなく、魔術による干渉を受けたわけでもない。


だが、彼は本能に従い後退したのだ。



怪物は、先ほどのイデアと同じように動きを止めてしまった。胸中に渦巻いていた殺意さえも一時的に消失させ、それこそ呆然とイデアを見ることしか出来なくなった。


何なのだ? 一体、“これ”は何なのだ? 何がどうなっている?
そこまで難しい目的ではなかったはずだ。あの母子を手に入れ、誰にも気がつかれずにアクレイアから離れる。それだけの簡単な話。
母を手に入れることは警備の厳重さから断念し、分断させた息子も親衛隊を片付けている最中に逃がしてしまった結果このような状況になったが、全ての問題は解決されたはずだった。


この怪物たちを相手にそれなり以上に時間を稼げたというのは、さすが竜将直属と言うべきか。



『貴様……このガキの護衛か? あのガキを逃がした騎士の協力者か?』



怪物は問う。あの時、この気絶していた子供を抱いて逃げ出した騎士の仲間か否か、と。
我ながらふざけた質問だ。どちらにせよ排除する敵にそんな事を聞いてどうなるというのだ。

だが、これしか出来ない。身体が、動かない。まるで蛇ににらまれた蛙のように。獅子に対面してしまった鹿の如く既に人外の身と成り果てた身体が機能しない。
違う。人外に成り果てたからこそ、だ。同じ人外に、それこそ自らよりも圧倒的な力に恐怖を抱くのは当然の理。


べろぉっと異常に長い、まるでトカゲを思わせる舌がイデアの口から吐き出された。
ちろちろと不気味な程によく動くそれで自らの唇の周りに付着している真紅の血液を上手に拭き取っていく。
はぁ、と熱を持って吐き出される吐息に、本当の意味での火が灯り、小さな火炎放射となる。


コキッと首の骨を鳴らし、僅かに首を傾けたイデアが答えた。




「さぁて、どうだろぅ?」



返答には、隠す気さえもない嘲りが多分に含まれていた。
同時に今まで伏せていた顔をゆっくりと上げる。黒い髪の毛が、まるで蛇の如く動き出し、前髪のカーテンが開かれた。




瞬間、怪物は既に喪失したはずの肺と胃から何かがこみ上げてくるのを感じ、思わず息を呑んだ。
蒼と紅、鮮やかな対の色を灯した眼は爛れた様に燃え上がり、本来の人間では在り得ない縦に裂けた瞳孔の奥で激しい存在感を示している。
口は大きく裂け、頬の約半分辺りまで亀裂が走っている。まるで顔面に断線が刻み込まれているようだ。


口内に見える歯、牙は、肉食動物のソレよりも遥かに力強く、そして禍々しい。



亀裂の様な笑みを浮かべた怪物。正にそう言うざるを得ない。
その真っ赤に染まった手でイデアが自らを固定する槍に手を掛け……力任せに思いっきり引き抜いた。



途端にせきを切ったように更にあふれ出る血液が彼の体から抜けていく。常人ならば既に死んでいてもおかしくない程の量だ。だが、イデアは平然としていた。
自らを壁に固定していた槍がなくなったことにより、当然の結果としてイデアは地に落下する。
粘性の液体の水溜りを踏みにじる音と共に大地に立つ。



普通ならば、下半身に指示を出すために必要な骨の連結を破壊されては立つことはおろか、動くことさえ出来ないのだが、彼はさも当然の様に動いている。


破壊された背骨や、周囲の臓物が体内で異質な音と共に超速修復され、若干浮ついていた上半身の姿勢が修正され、背筋をしっかりと伸ばす。
未だぽっかりと穴が空いた傷口からは滝の様に赤い液体が流れ出しているが、そんなことは関係ないといわんばかりにイデアは笑いながら直立している。
そもそもの話、ドラゴンキラーやそれに準じた武器での攻撃ならともかく、何の魔術的要素のないただの槍では身体を傷つけることは出来ても
彼の本質、エーギルそのものへの攻撃にはならないのだ。それに、この身体は本体の影である。影を幾ら踏みつけても消えることなどない。




ようやくここで怪物が我にかえった。自分がいかに愚かな行為をしてしまったか瞬時に理解した彼は今度こそ迷い無く槍を投擲。
再度放たれる殺意の矛は、イデアが手に持っていた腹から引き抜いた槍が残像さえ見えない速度で一度だけ振るわれ、全ての力を相殺され、叩き落される。
その結果、想像を絶する力によって行使された二本の槍は刃の先から真ん中辺りまで見るも無残に砕けてしまった。




「脆い武器だ」




自らの手の内に残る、半分以下の長さになってしまった槍の残骸を見つめつつイデアがぼやく。少々力を入れすぎてしまったか。
腹部に多量のエーギルが収束し、内部の修復をおえ、表面の修復を開始したのを実感しつつ、彼は怪物を見据える。
先ほど怪物が自分を見ていたのと同じ、まるで虫けらを見るかのような、鋭利な視線が哀れな骸の者に突き刺さる。


もはや槍としての形状を保っていない手槍を投げ捨てる。


粟立っていた腹部の傷口から、金色の煙が噴出し、最後の締めと言わんばかりに新たな皮を作り出し完全に傷を消す。
更におまけに汚れてしまった服と大地に撒き散らされた血に対して修復魔法【ハマーン】でも掛けたかのごとく、全ての汚れを消し去る。
多少の血の匂いはあたりに残るが、血の池が消えたというのは大きい、後々騎士たちなどに妙な詮索をされずにすむだろう。






『ぐふ、ぐふふふふふ、ぐふふふふふふふふふふふふ……』




怪物が大きく肩を揺らし、またもあの逆鱗を逆撫でする嗤いを仮面の内側から吐き出した。
それにつられたのか、同じくイデアも裂けた笑顔で小さく笑い声を漏らした。
暫しの間、二人の冷笑が互いに響きあい、不気味に木霊する。


小さく怪物が人間でいう深呼吸をした……様にイデアには見えた。



『どうやら、貴様は排除しておかないと厄介なことになりそうだ』



一しきり笑いあい、精神的な落ち着きを取り戻したのか怪物が淡々とした調子で宣言する。
骸の内側で燃え上がる炎が更に攻撃的に、更に冷酷に、そして残忍に研ぎ澄まされていく。
油断も、慢心もない。本気で殺しに来る。それを読み取りながらも、イデアは決して笑みを絶やさない。


むしろ彼は何処か客観的に、まるで歌劇を見る客の様な余裕を持ってこの状況を観察し、何処か楽しんでさえいた。
もちろん、胸の奥で轟々と音を立てて怒りを糧に燃焼を続けるドス黒く燃える太陽の光はある。今は怒りを制御しているのだ。
怪物がその痩せこけた骨だけの手を用いて大きく手を叩き合わせる。何かの合図らしきものを誰かに送ったのだろう。
イデアは何をしている? と、頭を傾けそうになったが、すぐにその理由が判った。




石畳の床が、まるで水面の様に揺れた。急速に複数の気配が接近してくるのをイデアの感覚は伝えた。
頑強な岩を削って作られた石の表面が、ゆらゆらと風になびく湖の湖面の如く揺れているのだ。
そしてそこから這い出してくるのは、この怪物と同じ黒いローブに竜と人間の頭蓋骨を熔かして混ぜたようなデザインの仮面を被った異形のモノ達。
そんな怪物が次から次へと湧いて出てくる光景は、まるで質の悪い悪夢でも見ているかのようだ。もしくは悪魔か魔物が地獄から逃げ出してきたようにも見える。



よくみれば、一人一人、被っている骸のデザインが微妙に違うことが判るだろう。
ただし、イデアからしてみれば、全員が全員、一人の例外も無く悪趣味であるが。

キィンという金属の擦れあう甲高い耳に残る音と共に異形達がそれぞれ武装する。
剣、剣、剣、各々が一つの軍隊を思わせる程に全てが同じ形状の剣をその手に持ち、骸骨の眼窩から殺意に溢れる視線を放っていた。




「またかよ」



ぐるりと全方位を怪物に囲まれ、ハァと溜め息を吐く。何で自分の敵というのはこう……人間の姿さえしていない怪物が多いのだろう。
こいつらといい、あの殿に居た亡霊兵士たちといい。







──ギィイイァアアアァァァァァ!!!!




人間で言う絶叫に近い咆哮と共に、骸の怪物たちがイデアに向けて殺到する。耳栓が欲しくなるほどに耳障りで、不愉快な絶叫のオーケストラだ。
既に人間をやめた彼らの踏み込みの強さは、第一歩を踏み出した時点で石畳の地面に皹が入るほどだといえば、どれだけの加速をもっているかが判る。


文字通り矢の如き素早さで疾走し、イデアを微塵も残さず解体するべく彼らは征く。
イデアが能天気とさえ取れるほど緩慢に周りを見渡し、次いで自らの両手を見た。何一つ武器が無い状況に気が付き、困ったといわんばかりに肩を竦める。
敵にまで後十歩という所で怪物たちが人間では出せない脚力を持って大地を激しく蹴りつけ、飛翔。



空から幾つもの殺意の塊が落下するのを感じて、イデアはますます顔面の亀裂を深めた。




既に撃退するための準備は整えてある。






【シャイン】






発動されるは光属性の術。【ライトニング】よりも一段階上の術である下級魔術。
太陽をモチーフとする円陣の陣と、そこから放たれる光をイメージの角を持った陣、この二つが合さった魔法陣が激しい黄金の輝きを伴い、イデアを中心として8つ展開される。
次いでその魔法陣が術者であるイデアを中心として、まるで風車のようにクルクルと緩やかな速度で回転を始めた。



くるくるくると回り始めた魔方陣にイデアが更に魔力を込めると、直ぐに全てはイデアのイメージどおりの光景となる。
剣だ。黄金の光で形作られた長剣、それが8つ、イデアを中心とし、その刃を外に向けた状態で回転をしていた。
さながら、見えない騎士達がイデアを守るためにその剣を構えているようにも見える。



【シャイン】という術は浄化の光を操り、それで相手を攻撃する術である。
ただイデアは【サンダー】と同じようにこの術にほんの僅かな、自分なりのアレンジを加えただけだ。
神竜の光とエーギルを適当に圧縮し、その形を整えてやればソレはそのままイデアの思いのままに動く武器となる。



この場合は、最も基本的な剣の形に。実体なき剣の舞は、イデアの胸中を代弁するかの如く、激しく、烈火のような殲滅の意を乗せて輝いていた。
羽虫の羽ばたきにも聞こえるブゥンという音と共に展開された剣にイデアが指示を……否、指示を出す必要など無い。自らの手足に指示など必要なものか。
剣舞の回転速度を上げ、まるでひっきりなしに周る水車の如き怒涛の速度をさせると、イデアは傍目から見ると金色の霞を纏っているようになった。


高く飛び上がり、全体重を乗せた猛烈な勢いで最初にイデアに到達した骸の異形の剣がその霞に触れる。
正確にはイデアが、霞の位置を調整し、触れさせたのだ。初めて使うこのアレンジを施した術の威力が早く見たくてたまらない。




『ぉ』



それがこの怪物の最後の声だった。手に持つ剣の磨きぬかれ、よく手入れされた刀身が、次にソレを握っていた白骨化した指が
腕が、そして胸部が、そして最後に全身が、高速回転する実体無き剣の歯車に無慈悲に巻き込まれ、丁寧に、神経質なまでにバラバラに切り刻まれた。
それでも刃の支配する領域は無情にも回転を続け、最後に残ったこの怪物の骸を、その中に内包された仄暗い闇を神竜の放つ光が蹂躙する。


断末魔の悲鳴さえ残せずに、光剣の歯車に飲み込まれ、消滅した同類を見た残りの怪物たちの動きは早かった。
全くうろたえず、彼らは掌から純粋な魔力を放出し、それで何とか刃の歯車から逃亡を図ろうとする。
あの刃の渦の中に飛び込めば、痛みさえも感じる間もなくあの世に旅立てるだろうが、彼らはまだ滅びを選択するつもりはないらしい。




だが。




「仮面か? お前たちの弱点は」





『!』



怪物の視界を埋め尽くす蒼と紅い眼光を激しく輝かせるイデアより、どうしようもないほど軽い調子で質問が投げかけられた。
ただし、声そのものは不気味に、不気味に低い声であった。



まるで処刑台に昇った罪人を拘束する万力を連想させる力を以って怪物の内の一体の骸が神竜の五指によって鷲掴みにされる。
ただ、単にイデアが受身なのをやめただけ。自らも跳躍し、獲物に飛びかかっただけ。
怪物の怪しく発光する眼窩に、キス出来るほどにイデアの裂けた笑みを浮かべる顔が近づけられ、その炎が混ざった吐息が吹きかけられた。




『が? 、アァアァ、イギギィイイァァアアアアアアアアアア!!!!???』




無様な悲鳴。


ガッシリと固定された指を通じ、試験的に仮面の内側に直接魔力を送り込まれ、直接“中身”をかき混ぜられた怪物がまるで屠殺される家畜の如き醜悪極まりない絶叫をあげる。



やっぱり。


イデアは何となく予想をしていた自らの考えがあたり、ついつい上機嫌になる自分がいることに気が付いた。
何らかの方法でこいつらは、自らの【エーギル】と意思、記憶、自我などをこの仮面などに定着させているのだろう、と。


十年以上も前からずっとエーギルや魔術を竜の豊富な知識を借りて勉強してきたイデアだからこそ判った。
こいつらの仮面に異常なまでの【エーギル】が集中しており、他の部分はそこから延びた細い糸のような魔力で動いていることを。



確か、つい最近読んだ書物にもそういった術などが書いてあったはずだ。あの書では確か人間を【モルフ】に……。



あの術の利点は亡霊兵どもと同じような姿に成り果てでも、自らの意思などは残しておけるという事だ。




ある意味転生ともいえる。
いつか限界が来る人間としての身体を捨て、壊されない限り永遠とも言える寿命を持つ物体として生きるのは。
そうすれば病気にも掛からず、もしかしたら食べたり寝ることも必要なくなるのかもしれない。
まるで“理”を超えた魔道士の様に、永遠に存在することも夢ではないのだろう。


転生、この言葉に苦いモノが腹の奥底から湧き上がってくる。だが、直ぐに答えは弾き出される。
自分は、イドゥンを救うためにこの世界に産まれたのだ。それが自分の転生した意味だ。




だが、何故? 何故こいつらは竜の術に近いモノを扱えているのだ?
新たに浮かんでくる疑問だが、その思考を隅においやる。後でいい。今はこいつらが何だろうが興味は無い。



イデアが再度【シャイン】に意思を送り、操作する。
霞が掛かるほど高速で回転をしていた全ての剣が何の前触れも無く完全に停止し、一度その刀身を光に戻す。
輝きすぎる黄金の光球はまるで粘土の様にその姿を再度剣へと移し変えた。但し、今度は剣の配置が違う。



全ての剣が、イデアに頭部を掴まれ、全身を激しく痙攣させている怪物へとその穂先を無慈悲に、無感動に向けている。
怪物の背後から、下から、頭上から、横から、斜め上から、斜め下から、ありとあらゆる場所に1本ずつ剣が配備され、その全てが次の指示を今か今かと持ちわびていた。
ありとあらゆる光剣から純粋な殺意を感じるのは、その全てがイデアの一部だからだろう。




やれ。
一つ、小さく、何処までも冷たくイデアは自らの力を動かした。そこには一切の慈悲は無い。




刹那、ありとあらゆる方向から殺意に満ち満ちた剣が、弓から放たれた矢よりも遥かに速く、正に閃光を連想させる速度で飛翔し、怪物に容赦なくその刃を突き刺していく。


胸部、人間ならば心臓がある場所に剣が背後から突き刺さる。
鎖骨、右斜め上から襲い掛かった一本の剣が、鎖骨のある場所から左の肺があるはずの場所に貫通する。
首、左から飛び込んだ剣の刀身は安々と怪物の首を突きぬけた。



他にも、腕、足、腹部にそれぞれ穴を開け、もしくは切断していく。まるで出来の悪い芸術品を作るように次々と剣が差し込まれていくのだ。
そして最後に頭部を叩き割るように剣がイデアの掌から新たに創造され、射出。それは容易く、欠伸が出るほど簡単に怪物の骸を微塵に砕いた。
ガラスの割れるような金属音が鳴り渡り、役目を果たした黄金の剣が光の粒子となって消えていく。



だが、まだ終わりではない。最初のミンチにされた者を除き、飛びかかった怪物は三体。そして今排除したのが一体。残りは簡単な引き算で二体だ。
イデアの両手が音を立てて変化を起こす。人間の少年のモノであった白く細い指の皮が硬質な黄金色の鱗と甲殻、重殻に覆われ、
その健康的なピンク色の人間の爪が、光を反射して眩く輝く白銀色の竜の剛爪に戻った。



一回、彼がその爪を突風さえも発生する速度で振るった。彼の右の怪物の頭部が粉々に粉砕される。
再度、イデアがもう片方の手の指をぎゅっと纏め、手刀の形状を作り、達人が繰り出すレイピアの刺突の如き、目視さえ叶わない速度で突きぬく。
その一撃は最後の一体の骸の額の部分を的確に貫き、その中で渦巻く闇を卵の殻でも割るように軽々と握りつぶす。



数回大きく身体を震わせ、陸に打ち上げられた魚の如く痙攣していた怪物の全身から力が抜け、操者の居なくなった人形の様に崩れ落ちる。



イデアが両腕を大きく広げ、客から喝采を浴びる役者を思わせる姿で地に足を着けると同時に、彼の背後には3体の骸を破壊された怪物の残骸が無様に大きな音と共に落下。
これで最初の怪物が呼んだ増援は全滅だ。この場に残るのは、未だに深い眠りについているアルや一般人たちと、怪物と神竜だけ。




『その手……そうか、貴様は……』



怪物が何かを理解した様な声音でそう呟くのを聞いて、初めてイデアの顔から余裕が消えた。牙は食いしばられ、眼が細められ、更に敵意と闘争心が研ぎ澄まされていく。
手、今の自分の手は竜としての力を解放したもの、コレを見て“何か”を悟ったというのならば……こいつは確実にここで消しておかねばならない。
今のエレブには、表向き、絶対に竜が存在してはいけないのだ。感づくことさえ許さない。あってはならないのだ。



よって、イデアは確実にこの存在を排除するために、確実を喫する方法を選んだ。
怪物がいつの間にやら両手に刀身が少しだけ反ったサーベルを二本持ち、ソレを眼で追えない程の速度で振り回し始め、イデアへ跳躍。
並の人間、並の達人ならばあっという間に切り伏せてしまいそうな程に苛烈な突撃の速度。



『グゥッ!?』



突如、横合いから飛来した何かが怪物の身体を無遠慮に揺らす。


石畳み、程よい形に切り分けられ、ビッシリと隙間無く地に敷き詰められたソレを
イデアは基本的な力を使い、リンゴを持ち上げる要領で無理やり大地から引き剥がし、放り投げたのだ。
それも1つや2つではない。視界に映る全ての石畳を根こそぎ持ち上げ、人間の胴体程の大きさの石の塊が轟音と共に飛来する。


宙にいる怪物に四方八方から飛来する大小様々な石の塊。
それの一つ一つがフルプレートの鎧を打ち砕き、その下の人体を粉々にする威力を秘めていると言っても過言ではないだろう。


つぶてに全身を打ち付けられ、その仮面に幾つか大きな皹を入れられた怪物が苦悶の声を上げ、サーベルを一閃。
魔術によって強化された刀身はそれだけで、眼前に迫る巨大な自然岩を両断せしめた。恐ろしい程の技量だ。
サーベルが幾ら優秀でも、ソレを使いこなしているこの存在は優秀なのだろう。



だがイデアはここで手を緩め、この醜い存在を休ませる気など無い。





【シャイン】




またもや発動される下級魔術。
但しそこに秘められた魔力は並の人間の魔道士3人分にも匹敵するであろう呆れるほどの魔力の量。
故、この【シャイン】はその質、量共に申し分ないものとなっている。例えば、狂った魔術の力によって生きながらえてる怪物をこの世から消す程度には。


ビッシリと、一点の隙間なく、狂気的とも言える密を持ち、怪物をぐるっと幾つもの輪で囲むように生成された何十もの黄金の光剣は、その刃を全て怪物に向け、優雅に回転を開始。
丁度先ほどイデアが使っていた光剣の円陣回転の穂先を逆、内側にしたもの。明らかに剣の檻に囚われた獲物を無残に処刑するための配列。
怪物が呆然と、まるで信じられないモノを見たかのように、その眼窩の内の光がいっそ笑いを誘うほどに丸くなる。



アレは……人間で言うところの“眼を剥く”とでも言ったところか。



そんな光景を見て、イデアは心底満足していた。腹に風穴を空けてくれたお礼としては、十分すぎる程といえる。
何も遠慮は要らない。お前は何も知らず、何も抵抗できず、消えてなくなってしまえばいい。


そういえば、こういう時なんといえばいいのだろうか?
ほんの一瞬、それこそ瞬き一回程度の時間を思考に費やし、一つ思い当たる。
今の状況と、自らの心境を最も語ってくれる言葉を。











「ざまぁ、ねえな」









歪んだ満面の笑顔と、沸騰するような蔑みの感情と共にイデアは言い放った。
カチカチとその凶悪なフォルムの牙と牙を幾度もかみ合わせ、まるで拍手の様な音を出す。




そして……。



裂けた禍々しい人外の笑みと共に神竜の処刑宣言が宣告され、剣舞の嵐が怪物を襲う。
荒れ狂う黄金の狂嵐が、怪物の纏うちっぽけな闇を切り刻み、蹂躙し、その存在の欠片の一片さえ残さずこのエレブより抹消した。
























さて、この後片付けはどうしようか。眼の前に広がる無残に破壊されつくされた広場。地の石畳は剥がされ、八神将の像にも小さくは無い被害が出ている。
例を挙げるとすれば、ハルトムートの像に皹が入っていたり、バリガンの持つ槍が折れてしまったりしていた。
イデアはつい調子に乗りすぎてしまった自分を恥じていた。どうにも戦いになると手加減がしづらい。



だが、と、イデアはその手に持った黒いローブをじっと見つめる。あの怪物は滅びる際、このローブだけを残し、中身は灰とも錆とも知れぬモノに変化してしまうのだ。



手と顔、それと眼が舌人間のモノにしっかりと変わったことを持っていた手鏡などで確認したイデアが溜め息を吐いた。
広場の端っこに転がっていた表面は血塗れの皮袋を力で掴んで取り寄せ、中身を確認する。
この皮袋はかなり頑丈に作られているためか、中の書物などには特にキズなどなく、無事なのを念入りに確認し、その口をギュッと紐で縛りつけ、背中に背負う。



片手を破壊し尽くされた広場に向けて術を一つ発動させる【ハマーン】を。
あっという間に辺りの無数の瓦礫、砕けた石像、割れた大地などが一人で元通りに、最初イデアがここを訪れた時と同じ状態へと復元されていく。
次いでと言わんばかりに【リブロー】を何度か発動させ、アルを始めとしたスリープで眠りについてしまった人々へと回復魔術を掛けてやる。



自らの力で破壊の傷跡が見る間に癒えていく光景を横目で見つつイデアは考える、即ち、あの怪物達は何だったのだろう、と。




アレは何だったのだろうか? まず間違いなく人間ではないと言うのは確かだが。
自分の正体に恐らくは感づいていたということも気になる……それに何故アルが狙われたのかも、だ。
掌に小さく【ファイアー】の術によって小さな火種を生み出し、ソレでローブを炙る。まるで枯れた葉に火をつけたかの様にあっという間にローブは灰になり、風に流されていってしまった。


まぁ、いいだろう。今は居なくなった奴らの事を気にしてもしょうがない。竜の術に限りなく近い術によってあの姿になった経緯も気になるが、今はどうでもいい。
また来たのならば、また倒せばいい。もしくは捕獲して、情報を吐き出すのもありか。今は、どうでもいい。それよりもやるべき事がある。




今は……。




音も無くイデアが振り返り、右手の人差し指を物陰に向ける。そこに光が収束し一本の黄金の矢が形作られる。
【ライトニング】をいつでも射る事が出来る状態にし、イデアは声を張り上げ、まるで誰かに話しかけるように言葉を飛ばした。





「誰だ? お前もあの怪物達の仲間か?」




明確な声の返答は無い。だが、相手の動揺したであろう些細な空気の変動をイデアは確かに感じた。
再度彼は、先ほどよりも遥かに多量の敵意を混ぜて大きく、既に怒声とさえ言えるものを飛ばす。
これで出てこなければ、本気で彼は魔術を発動させるつもりだった。




「出て来い。隠れている場所ごと吹き飛ばされたいか?」



その言葉が嘘ではないと証明するように指先に形成された【ライトニング】は輝きを増し
そればかりか新たにイデアの背後に8つの【シャイン】が創造され、その切っ先をイデアの視線と同じ方向に固定。
少しでもイデアが意思を送れば、この剣は主の障害をあの怪物と同じように八つ裂きにするであろう。


小さく、風が吹き一枚の木の葉がひらりひらりと何処から飛んできたのかイデアの足元に落ちた。


場に満ちる緊張に満ちた空気も、無視し、その葉っぱは飛んできたのだ。


やがて、物陰から一つの人影がゆっくりと観念したようにその姿を現す。
眼を細め、一欠けらの油断は無く、されど決して余裕は失くさずにその人物を敵意と共に観察していたイデアだったが……。











その人物がその頭に被ったローブを下ろしたのを見た瞬間、思わず彼は小さく眼を見開いてしまった。
主の動揺を敏感に感じ取った【シャイン】の剣列がその姿を蜃気楼の様に薄気にさせ、霧散し消える。









「女……?」




呆然と、間抜けな声でそれだけを呟くのが精一杯。それほどまでにイデアは強いショックを受けている。
同時に、この人物は絶対に先ほどの怪物の仲間ではないという絶対的な確信を一瞬で抱いてしまった。
それと、何処かアルにも感じた“懐かしさ”を覚える自分が居る事に彼は気が付いた。



イデアの目線が宙を当ても無く溺れた魚の様に泳いだ。
今の彼を支配するのはまるで古い故郷の友人に久しぶりに会ったかのような、奇妙な既知感。



もう一度気を取り直し、女性に視線を戻す。



光の加減によって蒼にも翡翠色にも見える長い艶やかな髪の毛。
白魚の如く美しく、透き通った肌は、決して病弱などには見えず、それどころか瑞々しい活力が溢れている。
そして何より、その蒼く透き通った聡明な輝きを宿した眼、最高級のサファイアさえも霞んで見えるその瞳には強い意思が窺え、母親としての決して折れない心と決意が表れていた。



母親? 何処からこの単語は出てきたのだろうか? 自分はこの女性の事を何も知らないのに。内心、わけもわからずイデアは首を傾げた。


母親……? 何故、自分はこんな感想を抱いてしまったのだろうか。
もう一度、イデアは女性をしっかりと見据える。彼女に一瞬だけ、別の女性の影が重なった。蒼い長髪の、何処か気の抜けた笑顔を浮かべる美女を。



……あぁ、判った。エイナールだ。何となく得心がいった。
恐らく、この女性の纏っているオーラとも言えるものが、何処か姉弟、ニニアンとニルスを出産後のエイナールに似ているから、なのだろう。



チラリと、イデアが未だにスリープの効果で眠りに付いているアルを見た。
アルの髪の色は光の加減によって翡翠にも見える蒼、そしてこの女性も……。



イデアの中で全てのバラバラだった欠片が、パズルを解くように繋がった。なるほど、つまり彼女は……。


【ライトニング】の矢を消し去り、両手をだらんとぶら下げる。少しでも彼女に、自分は敵意を持っていないとアピールしたかった。


絶世の美女。正にこんな言葉が相応しいのだろう。それほどまでに彼女は美しかった。
そんな女性が、強い意思を込めた瞳で自らを沈黙を保ったまま見据えているのを見て、イデアは思わず視線をそらす。
逃げるようにローブを被り、出来るだけ動揺を表に出さないように心がけつつイデアは倒れているアルを指差した。



「貴女がアルの母親ですか?」




「──アル?」




何故か口から出たのは敬語であった。
ふっと、女性の視線が柔らかくなるのを全身で感じて、イデアは妙な安心感を覚えた。
まるで親に叱られるのを恐れている子供の様に、イデアは出来るだけ身を竦め、アルを顎でしゃくった。


一刻も早く、この場から離れたかった。




「無事ですよ、ただ眠っているだけです。速く安心させてあげてください」




目を開けて初めて見るのが母親の顔ならば、アルも安心できるでしょう?
言葉の裏に秘めた意思を読み取ってくれたらしい女性は足早に倒れたアルの元へ向い
何かを確かめるように胸に手をあて、ほっと安心したように肩を落とした。




「ここで何があったのですか?」



アルを優しく背中に担いだ女性がイデアに向き直り言う。既にその視線にはイデアに対する敵意などはなかった。
彼女の背中で安らかに眠っているアルの顔が、やけにイデアの眼をひく。


そういえば、自分もナーガに背負われたことがあった。あの時の温もりは……。



小さくかぶりを振り、イデアはなるべく穏やかな口調で答えた。
同時に彼の“眼”と“耳”は遠くから大量の騎士達が鎧を鳴らしながらこっちに来ているという事実を捉えていた。
敵意を感じないところから、どうやら、彼女の迎えらしい。これでここから消える理由が出来た、その事実に多少イデアは安心を覚える。




「奇妙な……黒いローブを着込み、妙な仮面で顔を隠した集団にその子は攫われそうになっていました。
 あいつらはどうやら貴女も狙っていたらしいので、貴女も気をつけたほうがいい」




手短にそれだけを告げると、踵を返し、立ち去ろうとするイデアに女性の声が届いた。
思わずイデアは動きを止め、女性の眼を見つめた。知性を称えた蒼い美しい眼が彼の眼の中にに映った。





「あの……お礼をしたいのですが……」




「いりませんよ。アルと出会ったのも偶然ですし、何よりただの気まぐれでしたから」




一刀の元に有無を言わさず跳ね返す。そのまま、立ち去ろうと思ったイデアだったが、ここで女性は彼の予想を超えた。
何かを決心した表情で彼女はその額に装着している、宝石があしらわれている額あてを外し、ソレを手にイデアの近くへとやってきた。
あまりも一連の動作が優雅に、それでいた流れるような速さで行われてしまったため、イデアは動くことが出来ず、完全に立ち去る気を逃した。



そして、彼女はその額あてを差し出す。まるで何処かの国の王女が、何か武勲を立てた臣下に報酬を与えるように。
イデアが鳩が豆鉄砲でも食らったような、何処か気の抜けた顔でソレを見やり、次いで女性の顔を見た。



「これは?」



「受け取ってください。母として、息子が救われたというのにその恩人に何もお礼をしないわけにはいきません」



彼女の蒼い眼には強い意思が見て取れた。何が何でもお礼をしなければ気がすまないのだろう。
イデアは急に自分が何か悪い事をしてる感覚に陥いり始めた。人の好意を無下にするというのは、余り好ましいことではない。




「……ん」



しばらくの間、女性の眼を見ていたイデアだったが、やがて観念したかの様に小さく溜め息を一つ吐いた。
恐る恐るといった風に手を伸ばし、差し出された額あてを受け取る。そしてソレを目の前に翳し、観察をするように見つめた。



小さく宝石から反射された光が眼に入り、イデアは眼を細める。



感想は素晴らしい。正にその一言に限る。宝石や、こういった装飾品の価値には疎いイデアであったが
この一品は正に超一流の職人が最高の素材で作ったのであろうという事が窺えた。
決して嫌味に感じさせず、それどころか細かい所まで完璧に手を入れられた金の装飾。
メインであるサファイアとルビーの小さな宝石の粒は、太陽から注がれる光を反射し、小さいながらも鮮やかな虹をその中で生み出している。


そればかりか、ほんの微かながら、この宝石からは魔力を感じる。本当の意味でのお守り。
恐らくは、後に人工的に込められたモノではなく、何らかの影響で自然に発するようになったのだろう。まるで小さな竜石といえるだろう……。


これを一つ売ったら、恐らくはどんな貧民でも並の貴族を凌駕するであろう程の資産を手に入れることが可能だろう。そう思えた。




「では……また、何処かで機会があればお会いしましょう」



また、など在り得ないはずなのに、イデアはそう言ってしまった。どうにも調子が狂う。
女性が、この言葉をどう受け取ったかはイデアには判らないが、彼女は美しい微笑を浮かべて頷いたのを見る限り、不快には思ってはいないのだろう。
先ほどはかなり遠くに感じた騎士達の気配が大分近くに迫っている、そろそろ本当にお別れだろう。余り自分は目立ちたくないのだ。



それに、先ほどの戦闘や身体の再生によってこの身体に振り分けた【エーギル】は大分目減りしている。
そして魔力の回復速度が余り速くないのは、やはりこの身体にもガタ来ているからなのだろう。
風穴を無理やり修復したり、一時的に許容量を超えるほどの竜の力を使った代価だ。




転移の術による消耗を考えれば、もう八神将を見る時間はないかもしれない。




だが、イデアは不思議と神将を見れないであろう事に対する不満はなかった。
それ以上にいいものを見れたという甘い充足感がある。




最後に一度だけ、眠っているアルに微笑みかけると、今度こそイデアは転移の術を発動させるべく、人目の付かない所に移動するため、彼女の傍から離れた。




念のため、何度か無茶苦茶な箇所に転移を繰り返してから、最終的な目的地であるナバタへと向うのだ。



























あの後、迎えに来た竜将率いる騎士団の一派に護衛されつつも、アクレイアの王宮に戻る馬車に息子と共に乗り込んだミリィザは考え事をしていた。
今日起こった出来事はまるで当事者の一人である彼女からしてもまるで全く別の赤の他人に起こった出来事の様に感じる。
息子が誘拐され、その息子をあの少年が助けた。言葉にしてしまえばこれだけだが、これが如何に稀な体験だと思うのか。




「……」




隣で、自分の膝を枕代わりに安らかな寝息を立てている息子を見る。
首元に少し締め付けられた様なあざが付いているが、他の部分は全く無傷。
頭をなでてやると、無意識に手を動かし、小さな力で必死に指を掴んでくる。


確かにアルは、ここにいる。生きて、ここに。


小さくミリィザは微笑んだ。今日は色々あったが、この顔を見るだけでそんな疲れも一気に吹き飛んでしまいそうだ。
それにしても意外だったのが彼女が王宮の一室から出る際に感じた力の正体だ。
その力を辿って彼女はアルにたどり着いた。


“恐ろしい何か”……確かに持っている力は恐ろしい。だが、心は普通の人間と余り変わらないあの少年。
恐らく彼は……いや、やめておこう。息子を助けられた自分に出来るのは彼の事を誰にも話さないこと。



自分と彼は言ってしまえば、似た境遇の存在ということになる。




既に彼女の護衛たる竜将のあの騎士にも話は通してある。
誘拐犯は騎士達の手により粛清され、息子は無事に取り戻された。そういう筋書きが既に出来ているのだ。
あの少年の事は黙っておいた。



彼女は小さく、アルの額に口付けを落とした。まるで天使が愛しい存在に加護を与えるかのように。



さぁ、もう今日の事は心の奥底にしまっておこう。
間もなく、彼女の夫がこのアクレイアを訪れる。これからの時間、彼女は王女として振舞わなければならない。







ベルン王国初代国王にして建国者 八神将の指導者ハルトムートの正妻。
初代ベルン王国王女。




英雄王の妻。イドゥンを封じた存在の伴侶。



それが、ミリィザの立場であった。








あとがき


12章はこのとある竜のお話の中でも一番長くなった話です。
何故か書いていたら合計100キロを超えていて驚きましたw



本当に戦闘シーンは書いていて長くなっていきます。
まだまだ戦闘シーンに関しては自信がないので、ご意見を下さるとうれしいです。
次のとある竜の更新はかなり暗くなりそうですが、もしかしたら以前書いてみたいと言っていた
イドゥンとイデアの立場入れ替えのIFでも書いてみようかなぁとか思っています。



しかしイデア……書いていると、年上のしっかりとした女性にはとことん弱い性格になってて我ながら首を傾げてしまいますw



では、ダークサイドかとある竜の次回更新にてお会いしましょう。





[6434] とある竜のお話 第二部 五章 1 (実質13章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/10/30 23:42



仄暗い暗闇が全てを覆い尽くし、一切の音さえも存在しない密閉された世界。
虚しく空気の通る音が響き、それはまるで何か、酷く言葉にするのも躊躇われる存在のうめき声にも聞こえる。
辺りには一切の生物の気配はせず、ただ在るのは激しい戦闘によって粉砕された無数の皹が入った石柱と、壁だけ。


全面の壁は薄く蒼く発光し、何とかこの世界を完璧な闇に飲み込まれるのを阻害する役目を果たしていた。
見れば壁が発光してるのではなく、正確に言えば壁に刻まれた何らかの魔術的な文様や文字の数々が光を発生させているのだとわかる。
ここはかつての大戦で崩壊した竜族の本拠地『殿』の地下施設であり、最深部。端から端が見えない程の巨大な運河の如き大回廊と、その奥にある小山程度の大きさの祭壇。


しかし、もはや誰も使用することのない過去の壮大な遺物と化したこの遺跡は、元来持っていた無数の機能のほとんどが失われ、今では僅かにその残照が稼動しているだけだ。
エレブに残る最後の神竜によって竜脈と言う大地の中を通る、植物や大地そのものが持つ莫大なエーギルの循環道と僅かに線を結ばれ、壁を光らせる力などを供給している。
イデアは近頃気が付いたが、どうやらこの殿はエーギルを供給してやると、まるで一つの巨大な生物の様に呼吸をするのだ。



そして、この隔離された古の巨大な竜族の墓標には一つだけかつての時代の時間のまま止まった存在がある。
全ての時間や空間、概念から切り離され、永遠のまどろみの中を彷徨うだけの存在。かつての大戦によって産み落とされた悲劇の一つ。
そんな存在が、自らが生まれ落ちた始まりの地であるこの場所にはあった。





そう、ここは始まりの場所。イドゥンとイデアという二柱の竜が生まれた地。
イデアは殿に戻ってきていた。イドゥンに会い、彼女に語りかけるため。
こんな暗くて湿った場所にずっと一人で姉を放置するつもりなどイデアにはなかった。




「…………」





冷たい水晶の表面を撫でやる。ゴツゴツとした無機質な感触が手を通して伝わり、思わずイデアはその眉毛を顰めた。
何て硬くて、つまらないことか。これからは何も感じ取れない。人肌の温もりも、心臓の鼓動の音も、そして彼女の心も。
忌々しい。この結晶さえなければ。これさえなければ直ぐにでも彼女を里に連れて帰るというのに。



細い指が真っ白になるほどイデアがギリッと力を込めてこの封印を握り締める。爪が音を立てて軋み、関節と骨が悲鳴をあげた。
暫くそうして、イデアは一つ大きく溜め息を吐くと、水晶から手を離した。見れば、余りにも力を込めすぎたせいで爪が割れ、血が少しだけ滴っている。
鈍い痛みによって現実を嫌になるほど認識しながらイデアは封印の中で冷然とした表情で眠っているイドゥンに声を掛けた。


既に何度も同じを事をイデアは繰り返している。こんな冷たい棺桶に密閉された彼女の気がほんの少しでも晴れればよいと思って。
もしも彼女が闇の中に居たとしても、自分の声が聞こえ、何かを変えられると信じ、イデアは彼女に呼びかける。



普通の声で、念話で、最大の親しみと慈愛と悲哀が入り交ざった言葉をイデアは綴った。




「まだ姉さんをそこから出すのには時間が掛かりそうなんだ。もう少し待っててくれるかな?」 
 



その言葉を皮切りに、竜の顔は綻び、延々と言葉を放つ。それは長は忙しいという仕事の愚痴から、最近あった面白い話
他にはとても竜とは思えない程に人間くさい地竜の話や、自身の笑ってしまうような失敗談、その全てをイデアは身振り手振りを加えて一人語り続ける。




きっと、コレは無駄な行為などではない。絶対に、彼女は聞いているはずだ、イデアはそう堅く信じていた。
話ている最中、彼は一つ手に入れた物を思い出し、ニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべつつ言う。




「凄い綺麗な装飾品を手に入れたんだ。姉さんなら似合うと思うよ」




脳裏に浮かぶのはアクレイアにてアルの母親から貰いうけたあの額あて。
最高級の宝石が湯水の如く使用され、恐らくは世の全ての女性達が羨むであろう一品。
何の因果かイデアの手に渡ったソレは彼女にこそ相応しい。


宝石というのは、その魅力と輝きを共有するか、もしくは価値をより高める存在と共にあるべきなのだ。



いま思えばイドゥンは外見の美しさとは裏腹に余り自身を飾り立てようとはしなかった。
まぁ、彼女の魅力と言うのはそういった外見よりもむしろ、太陽の様に人を惹き付けてやまない心の方にあるのだが。
しかし弟として多少の贔屓はそこに混ざっているかも知れないが、やはりあの額あては彼女が付けるべきだ。



問題はいつ彼女をここから解放するほどの力をイデアが手に入れるか、だが。



しかしコレは問題であって、問題などではない。たとえそれが成されるのに掛かる時間が一万年だろうと、一億年だろうとイデアは諦めないのだから。
成功するまで、彼女を解放するまで、またあの暮らしを取り戻すまで、イデアは絶対に諦めないし、そもそもの話、根本的にそんな選択肢はない。
縦にパックリと割れた爪も無事に修復を終え、健康的なピンクの光を輝かせる爪をイデアは見て、右手の人差し指でツゥッと水晶をなぞった。




まだ、力が足りない。彼女のこの現状はイデアの無力の象徴。幾ら神竜だと言っても、家族さえ助けられないという現実を彼に突きつけてくる。
既に何度も様々な事を試したが、結果はいつも同じだ。



ふと、イデアは思った。
もしも、もしもだが、あの最後の夜、ナーガに気絶させられたのがイドゥンで、殿に戻ったのが俺だったなら、全てはどうなっていたのだろう。



コレを考えるのは今が最初ではないし、恐らく最後でもないだろう。



時々イデアはこんな事を想像する。
彼女は、自分が居なかったら、どうなっていたのだろう。今の自分の様に、弟を探して、取り戻そうとしてくれるのだろうか。
それとも、彼女は自分の事などさっさと割り切って、立派な竜の長として、ナーガの後を継いでいるか。



それでも、自分としては別に構わないが。それが彼女の選択ならば。
だが、結果としてここに居て、戦役を乗り越え、未だに在るのは自分だ。




…………寂しいなぁ。




イデアは眠りについたまま動かない家族を見てそう思う。本当に、何故こうなったのだろうか。
結局の所、自分の願いなどささやかで、大したものではない。例えば竜が再び支配する世界や、人間の絶滅などといった事に今は全く興味はない。
ただ、ただ家族と一緒に居たいだけなのに、何でそれがこんなに難しいのだろう。






「じゃ、また来るから……今度来るとき、面白い話があったら、もって来るよ」




別れの挨拶は短く、それでいて万感の想いが込められているモノであった。なるべく姉を寂しがらせたくないが、今の自分にはやらなくてはいけない義務が多々ある。
それを放棄などしたら、色々と問題が起きる。民を考えない君臨者などと後ろ指を指されたくはないから。
俗に暴君やら、愚帝やら言われる支配者の末路など絶対に辿るのはごめんだ。


それに、ナバタの里は今や自分とイドゥンに残された最後の居場所だ。この人が繁栄するエレブの中にある安息を得られる地。
追い出されるということは、同時に竜族という強大な組織としての力や、他にも数え切れないほどのモノを失うということ。




便利極まりない転移の術が神竜の圧倒的な力によって発動された。イデアの足元に黄金色の魔法陣が花咲き、光を溢れさせる。




転移の術は、一瞬にして殿の入り口、歪められ、全てから隔絶された世界と、通常のエレブの境界線へとイデアを運ぶ。
後は切り開かれた世界と世界の入り口を閉ざしてしまえば、ここはどんな存在にも脅かせない絶対不可侵の領域と化す。
肌に感じるのは無機質な夜の山が吹き付ける寒々しい風。かつてと何一つ変わらない風。
夜の闇に包まれ、荒涼とした雰囲気を纏ったかつての自分の家の門をイデアは暫し見つめ、やがては踵を返す。




悠々と踏み越えるは境界線。時空の歪みであり、あの大戦での激戦の結果、壊れてしまった世界の残影。
今のこの殿はエレブの中にあって、エレブの中にはない状態なのだ。この外れた世界とエレブとの境界線をイデアは踏み越えた。
































そこは薄暗い場所だった。
室内の空気はひやりとしており、部屋を真昼の如く鮮やかに照らす灯りはイデアに創られた小さな小さな太陽。
部屋には無数の書物が規則正しく並べられ、積み上げられ、それらは一定の法則の元に記されたジャンルごとに分けられていた。


外の空気を取り入れるために開けられた窓からは大きな月が雲に隠れながらも、浮かんでいる。
部屋の片隅に椅子と机を置き、腰掛けながらこの部屋の主であるイデアは熱心に本を読んでいた。


宙に浮かぶ、小さな黄金の光源が部屋の中を隅々にまで昼間の様に照らしており、特に書物を読むのに不備はない。


ここは魔道士としてのイデアが使用するいわば自分の研究室。
本を資料庫で読むのはいいが、やはり自分一人の空間が欲しい彼は長の権限を使って、ナバタの竜殿の使われていないそこそこの大きさの一室を自らの物としたのである。
彼が今現在眼を通している書物は意外な事に魔道関連の書物ではなかった。だが、かといって御伽噺などの類でもない。




これはそう、いわば設計図だ。それも人間と言う生き物の。
本にはビッシリと人間の臓器の位置や形、筋肉、骨の形状や役割、その他様々な部位が事細かにイラストと説明文付きで記されている。




そしてこの本の著者は……ナーガだ。



竜族の絶対の王であり、神であり、掛け値なしに異常に突き抜けた魔道士でもあった彼はその昔人間という生物の身体構造に興味を持ったのだろうか
彼は人間がまだまだ文明と言う物を創造していなかった時代に、死体や竜族に敵対した愚か者を解体し、その身体の作りを克明に記したのだ。
彼の息子である神竜はかつては父と思っていた男が無表情な顔で人を生きたままバラバラにする様をありありと見て取れてしまい、当初は顔を顰めたものである。



その時に書かれた書が今イデアの手元にあるコレだ。
正直見ていて気分がよいものではない。一切の娯楽を廃し、ただただ結果と考察だけを淡々と絵画と共に書き連ねたコレは慣れない者が見れば吐き気を催してもおかしくない。



だが、今のイデアにとってこの書物は非常にためになる知識を与えてくれる。
人の身体の作り、血液の循環器系、筋肉の種類、そして何よりも全身にくまなく流れるエーギルという生命力の通り道の構造、その全てが手に取るように理解できる。
優れた芸術家は絵や彫像を作るときに徹底的にその存在の身体の構造を学ぶらしい。人を書く時ならば人間の、馬なら馬の筋肉の付き方といった風に。




そう、イデアは人を創ろうとしていた。もっと言うならば、生物を自らの力で無から創造する術を学び取っていた。
『モルフ』という存在がある。魔道により擬似的に命を与えられ、動く土くれ人形。竜族が作り出す、仮初の命、ゴーレム。
竜族の中でもモルフを創れる者は少なくない。ただ作るだけならば出来るが、その完成度には大きな差がひらく。


ほとんどの竜族が創れる下位のモルフは与えられた単純な命令を延々とこなす事しか出来ない、文字通りの人形だが
モルフに精通し、熟練した術者……そう、例えばナーガなどがその気になって創ったモルフは下手をすれば人よりも遥かに優れた知と力、そして確かな自我を兼ね備えることが可能だ。
一説によれば、ナーガが人間と全く同じように作り出したモルフは人と交わり、子供を産むことさえ出来たらしい。




ただ、何故ナーガは完全に人間と同じモルフを産みだす術を自ら作り上げておきながら、それを禁術指定にしたのかは、その理由はイデアには良く理解できなかったが。





「んぅうー……」





イデアが頭を捻り、顎に指をやって唸る。魔道を本格的に歩み始めて判ったことだが、どうやら自分は中々に不器用らしい。
【ゲスペンスト】などの超破壊魔法は問題なく行使できるが、どうにもこういった補助関連は不得手だ。
一応は【スリープ】や【サイレス】【バサーク】などを始めとした術は一通り使えるには使えるが、魔術に対抗力のある者には余り効果を望めないのが現実。



思えば精霊の声も聞こえない自分は魔道士としてはどうなのだろうか。
ナーガの言葉を認めるようでどうにも苦々しいが、自分はまだ魔道を用いた戦闘という側面しか余り知らない。
魔道というのは、本来は破壊よりもこういった絡め手の方向に優れたモノなのだが……。



それに魔道士はド派手な魔法によって誤解されがちなのだが、その実非常に疲れる職業でもある。



知識を溜め込むのはいいが、中々に思い通りに行かないことの方が多いのだ。
例えば【モルフ】の創造の術も当初イデアは基礎的な事を知って直ぐに実行に移したのだが、出来上がったモルフは到底人間とは言えない冒涜的な“モノ”であった。



きちんと計算されなかった両手と両足は長さが全部バラバラで、腕や足に付いている関節の数も3つから9つ程度あり
顔は人間と犬と頭蓋骨をごちゃ混ぜにしたような世にもおぞましい異形の存在。おまけに発する絶叫は喉が潰された犬の遠吠えの様に耳障り極まりない。
そんな“モノ”を生み出してしまったイデアは即刻ソレを掃除し、同じ過ちを二度と繰り返すことなきよう修練を積んでいるというわけだ。



【モルフ】は必ず将来、大きな力となる。決して裏切らず、知能を持ち、ある程度簡単に量産の効く存在など、まるで夢のようだ。
ただでさえナバタの里は限られた戦力しか持っていないのだ、それを水増しすることも必要だし、それ以外の様々な作業をさせることも出来る。
余り考えたくもないが、もしもナバタが遠い未来にでも外の世界に見つかったら、自衛するための力が必要だ。




特にこんな世界では、抑止にせよ、蹂躙目的にせよ“力”は必要なのだ。それは組織としての力でもあるし、個人としての力でもある。
権力、財力、魅力、武力、知力、組織力、影響力、これらが必要だ。もしくは、これら全てが意味を成さないほどに絶対的で純粋な力が。
いずれ帰ってくる姉の居場所を守るためにも必要なのだ。




まぁ、今の現状を見る限り優れた【モルフ】の量産など夢の様な話だが。
仮にだが優れた【モルフ】の量産に成功したならば、その後は次の段階として、かつての始祖と神の戦争で使われた、神話の中の魔法を更に復活させる事も考えている。



今の所はあくまで全ては理想だが。




ふと、開け放された窓から部屋に差し込む光を見て、イデアは溜め息を吐いた。どうやらもう朝が来てしまったようだ。
少し、疲れた。気晴らしに外にでも出てみるか。そう思い、彼は席を立つ。金糸の髪と白亜のマントが揺れ、主の動きに続く。
この時間なら、もうメディアン辺りは外に出ているか。彼女も睡眠を必要としない存在ゆえ、朝日が昇ると同時に里の周りを歩き回っているだろう。
まだ、時間はあるのなら、少し外で日光浴でもしながら散歩するとしよう。ついでに以前王都から持ってきた手をつけてない本でも読むか。




積み重なった本の山脈に手を翳し、一つのまだ真新しく、分厚い本を力を使って取り寄せる。


術で加工を施されたソレのタイトルは“エリミーヌ教典”
現在、エトルリアを中心として爆発的な勢いで信者を増やしている宗教の教典だ。
教祖は八神将の一人にして、史上で最も美しい光魔法【至高の光・アーリアル】を行使するという【聖女】エリミーヌ。



正直な話、彼女はイデアにとって、否、竜族にとって一番厄介な存在かもしれないとフレイはイデアに助言していた。
宗教をつくり、竜族との戦争を物語として色あせさせることなく語り継がせ、いつか竜が世界を脅かした際に速やかに対抗できる組織としての教団。
彼女の、エリミーヌの意思は文字通り千年単位でエレブに残り続けることになるのだ。




宗教、宗教、なるほど宗教か。
イデアは教典の表紙を指でなぞりつつ思った。恐らくは、仮にだが、その時が来たとしても教団は迅速には動けまい。
どうせ、エリミーヌが死んでしばらくの時が経てば、教団は腐食するか、壮絶な内部抗争の場になるだろうな、と。
彼の脳内に残る記憶によると、こういった宗教系の組織は創立者が他界してしまえば、あっという間に空中分解が始まる確立が高い事を様々な例によって証明していた。



で、いつもそういった宗教が絡むと大勢の人が迷惑を被るというわけだ。



まぁ、竜たる自分はエリミーヌの教えなどに欠片も興味はない。興味があるのは、この本に書かれているエリミーヌ教の単純な概要だけだ。
知らぬよりはマシ、いずれは潜在的な敵になる組織のことならば、知っておいて損はないだろう。
エトルリア王国、ベルン王国、そしてエリミーヌ教団、この三つには気をつけておいたほうがいいだろう。




開いた本を片手に読み歩きをしつつ、イデアは部屋を出て行く。



















まだ日も昇りきらない朝方、里の中央に建築された第二の竜殿を出て、網目状に里中に張り巡らされた道を行き交う住人それぞれに挨拶を交わしつつも
イデアが進んでいると、彼の眼にとても微笑ましくもあり、同時に少しだけ違和感のある組み合わせの者らが映りこんだ。



一人は真紅の髪に、鍛え上げられた身体を持った屈強な青年という姿をした竜の人間形態。かつてイデアが殿から救出した火竜ヤアンという男。
ほとんどの記憶を失い、殿さえも崩壊した今、以前はナーガと敵対的な存在であった彼も、この里の住人の一人となっている。
今はかつて失った記憶が占めていた穴に違う知識を詰め込んでいる最中の青年の竜だ。



確か、少し前にこの男が里を自由に歩きまわれる許可を出したのは自分だった。



そしてもう一人、ちょうどヤアンと向かい合うようにして、話している存在も竜だが、彼女は火竜ではない。
栗色の長髪を後ろで纏め、高位の竜とは思えない程に砕けた笑顔で何かを話し込む彼の者の種族は地竜。
大よそ、大地や、それに関係する全てにおいては万能と言える程の能力を誇る存在だ。


彼女の息子はまだ眠っているのか、何処にも見当たらないし、気配も存在しない。



イデアが足を止め、二柱の竜を暫し黙って見つめる。本を懐にしまい、しげしげと、視線を飛ばす。
懐かしい。そういえば、この頃は色々あって彼女にもヤアンにも会ってなかったし、会う機会もなかったと思う。
それにしてもだ、何故にヤアンとメディアンなのだろうか? イデアのイメージだと、正に水と油の組み合わせなのだが、何故にこの二人が?


と、最初からなのか、それとも今気が付いたのかは定かではないが、イデアを視界に納めたメディアンが恭しく一礼し、次いでヤアンが小さくイデアに頭を下げた。





「おはようございます長……朝の散歩かい?」




前半部分は臣下として恭しく、そして後半部分は彼女らしいさばさばとした口調で地竜は言葉を紡ぐ。
自分で彼女に砕けた口調で話せと命じたイデアは特に気にすることもなく、答えた。彼女の場合はやはり、こういう風に喋ってくれた方が、話し易い。
ふと、何気なく彼女が両手で抱えるそこそこの大きさを持つ壺が眼に入る。





「まぁね、ちょっとした息抜きも兼ねてさ……所で、お前達は何をやってるんだ?」




イデアの言葉にメディアンはうーんとその形の良い眉を顰め、どう返答すればよいか言葉を捜し、そして何か思いついたらしく……。




「新しいモノが出来たから、ちょっと味見してもらっていたのさ」



メディアンが持っている壺を視線で示し、次いでヤアンを見つめた。



「味見?」



言われ、イデアはヤアンを見る。紅い竜の男は相も変わらず無気力な眼でイデアを見据えている。
この青年の竜はもう、睡眠も食事も必要のない段階にまで成長しているはず。
よくも悪くも長い年月を生きて、万物への興味などが薄れて来ている男が食に興味を持つのだろうか。


いや、それは過去の彼の場合か。


記憶を失ったのが、彼にとって何か別の方向へと影響を与えたのかもしれない。
例えば、ガッチガチに竜族を中心として回っていた彼の世界に、少しは人の文化を受け入れようとする柔軟さが産まれた、とか。
それはそれで、喜ばしいことなのかもしれない。




「……」




ヤアンは喋らない。何故ならば、その口をもごもごと動かしているのだから。
何かを口に入れており、食べている。無表情で。
イデアと目線が交差し、さすがにマズイと感じたのか、急いで口内の食べ物を飲み込み、ごほんと咳払いを一つ。




「私に何か用か?」




「……いや」




一言でイデアが抱いた感情を表すとすれば、シュールだとしかいえない。
無気力で、記憶を失ったとしても取り乱すことなく、淡々と現実を受け入れていたヤアンが、顔の表情を一切変えずに何かを食べる姿というのは。
そもそも、彼は物を食べたとしても、味覚で楽しむなど欠片もしなさそうだ、とイデアは考える。



「美味かったか?」




「悪くない。少々、塩辛いが」




冗談とからかい混じりに掛けた言葉に真面目に返され、イデアは不貞腐れた様にぷいっとそっぽを向く。
その様子を見て、メディアンが小さく、それでいて豪胆に笑い
持っている壺の中をスプーンでかき混ぜ、取り出した中身を浮遊させている小さな皿に載せてからイデアに差し出した。


黒茶色の泥の様にも見えるソレは、調味料でもあり、保存食としても使える一品、味噌だ。



「食うかい?」




醗酵させられた豆の芳醇でいて、懐かしい匂いがイデアの鼻腔を刺激し、彼の興味を湧かせる。
この匂いを彼が忘れるはずがない。コレは、彼の好物であり、そして少ない彼の“以前”を思い出させる要素。
本当に、懐かしい。そういえば最後にまともに食事を取ったのは何時だったか?


もう空腹がどんな感覚だったかさえも忘れてしまいそうであったイデアの腹内が、確かに一つ、小さく動いた。



貰おうと一声返事してから、イデアが皿に乗せられた味噌を指で掬い、口内に入れる。
途端に味覚が伝えてくるのは甘さ塩辛さが交じり合った奇妙な味。以前の味噌はもっとしょっぱさが全面に出ていたが、これはそれとは少し違う。
もしもこれを汁にしたら、また違った趣のある味となるだろう。




「悪くない」




ヤアンの声と発声を真似てイデアがメディアンに感想を述べると、彼女はとても長い時間を生きた竜とは思えない程に稚気溢れる笑顔を見せ、光栄と言わんばかりに一礼。
本当にこの女性は竜なのか? イデアはこの人間味溢れる地竜を見ると本当にそう思う。まぁ、決して悪い奴ではないのは確かなのだろう。
それでいてやる時はやるのだメディアンという女は。決して竜としての、強者としてのプライドがない訳ではないのだと思うが。




「しかし地竜よ。お前は何故こうも食に拘るのだ? 人間や半竜ならともかく、お前は特に食事など必要ないだろうに」




火竜の男が腕を組み、本当に不思議そうに顔を傾げて言葉を綴っていく。
ヤアンという火竜にとっては不思議なのだろう、何故メディアンは必要ない行為を行うのかが。
食欲などとうの昔に超越した存在が、何故こうも新しい食料を生み出す事に夢中になっているのか。
何故、そんな無駄な事をやるのだろう? 彼の一度白紙に戻った心は疑問を直ぐに解消することを望んでいる。




そんな疑問に対する地竜の返答は驚く程に簡単なモノでいて、人間の様に情感に溢れていた。




「せっかく味覚を持って産まれたんだから、楽しめるモノは楽しんどかなきゃ、損だしね……食べるモノ一つ一つにも敬意を忘れずにが、あたしのモットーさ」




長い生涯を有意義に潰す方法を見つけた竜の顔に欠片も迷いはない。
それに、と、彼女は続けた。心なしか、彼女の身体が小さくなったように見えた。




「子供にお母さんのご飯マズイーとか言われたら、ショックなんだ……」




恐らくは何度か言われた時は相当ショックだったのだろう。快活な彼女にしては珍しく、顔に雲が掛かり、背を丸めている。
だが、そんな顔も一瞬の内に晴れ、ふと、彼女は地平線の彼方から昇り始めている太陽を見て、次いでこことは違う何処かに意識を飛ばした。
刹那だけ遠く離れた地の状況を把握するために硬直したメディアンだったが、何かを竜族の眼で“視た”のか、恭しくイデアに一礼をした。




「どうやら息子が起きたらしい……これから朝食を作ってやらないといけないんだけど、一緒にどうだい?」




「行こう」




以外なことに彼女の提案に真っ先に答えたのはイデアではなく、彼の隣で憮然と腕を組み、寡黙な態度を取るヤアンだ。
この火竜は決して自分のペースを崩すことなく、ナーガの様に何を考えているか判らない瞳で地竜を見るだけ。
その姿を見て、イデアが誰にも判らない程度に内心肩を竦めた。



どうにも調子が狂う。余り会話などはしていなかったが、ヤアンという男は食事に誘われれば行くような男だったのか?
もしかして、何か別の目的があるのだろうか? 例えば何か料理によって記憶が戻りそうだ、とか……。




イデアには予想も付かないだろう。
まさか、ヤアンがただ料理を食べたい為だけに提案に乗ったなど、彼は考えもしなかったのだから。














懐かしい。この部屋に入るのはかれこれ1年ぶりになるのか。全てがあの日のままだ。
石造りの屋内に、恐らくは長年愛用されたであろう木製のテーブルと椅子。
部屋の中に漂う香ばしい匂いに、この何処か落ち着く空気が満ちた空間は変わらない。



食事を食べ終わった後、ひと段落したイデアはゆっくりと部屋の中を見渡しつつ思考を心地よい速度で巡らせていた。
あの日の思い出はイデアの中では半ば黒歴史認定を受けている。本当に、出きるならば消し去ってしまいたい。
勝手に部屋から抜け出して、迷って、ずたぼろになった挙句に救出されるなど、恥ずかしい事この上ないとしかいえないだろう。




個人的にイデアが意外だったのは、ヤアンの動向だ。彼は本当に何をしに来たのだろうか。
家に着くや否や仏頂面で椅子に腰掛け、黙って食事を食べた後、ただ一言だけメディアンに感謝の言葉を投げてから直ぐに帰ってしまった。
まるで、アレでは普通に食道で食事を採る人間のようだったし、もしくは、遠い過去の時代に忘れ去ってしまった機能を一つ一つ確認しているようにもイデアには見えた。


それに、あの男が、トウモロコシを前にどう食べるか思案している姿など、滅多に見れたものじゃない。


そろそろ自室に戻って、空いた時間を使って研究の続きをした後に、長としての書類仕事をする、という一日のスケジュールを脳内で確認していた
イデアだったが、地竜の弾むような声が響き、彼は考えるのを中断する。



「それは何の本だい?」




「これのこと?」



唐突に発せられたメディアンの声に、イデアは一瞬彼女が何を指して言っているのか判らなかったが
直ぐに自分が持ってきた本の存在を思い出し、懐からソレを取り出すと彼女に表紙が見えるように両手で掲げる。




「“エリミーヌ教典”……あぁ、今流行の新しい宗教ね」




まるで宗教を洋服を論ずるかの如く感想を述べ、そして彼女は大仰に溜め息を吐いた。
本当に残念だと言わんばかりに肩を落とし、メディアンの紅い眼の中に望郷と、そして何処か遣る瀬無い怒りにも似た感情が渦を成していく。
彼女は知っている。精霊の声を聞き、間接的に外の世界を観測できるメディアンは、一つ落胆と諦観が混じった声を紡いだ。




「もう人は竜への信仰は無くしちゃったのかな……」




「……ここに来る前は何かやってたのか?」





リキアでねとメディアンは答え、膝の上に乗せた人間の“息子”の髪の毛を優しく梳いてやる。
紫色の髪を持つ少年とさえいえない童子は、嬉しそうに母親である地竜に抱きついていた。





「色々やったもんさ、人間で言う“領主”染みたことしたり、作物の作り方を教えたり、何処かの国のお偉いさんに宝石を創ってあげたりもしたなぁ……」




一つ一つの言葉を噛み締め、その光景を思い浮かべているのだろうか、彼女の意識はここにはなく、全てが遠い過去へと向けられていた。
彼女にとって、人竜戦役が起きる前のリキアでの時間は掛け値なしに輝かしい時間だったのだろう、そう、イデアにとっての殿で過ごした時間に匹敵するほどに。
淡々と地竜は言葉を続け、気が付けばイデアは聞き入ってしまっていた。正確にいうならば、口を挟んではいけない、黙って聞くべきだと本能が告げていたのだ。




「いつかは起こるって思ってたけどさ、やっぱりアレだ、あたしは戦争は好きじゃないね。土地は荒れるし、作物は枯れる
 血と腐敗の匂いは全てにこびり付いて離れないし、何より、人が戦乱で我を忘れて狂乱する姿が嫌なんだよ」




一種の傲慢ささえ感じさせる言葉をメディアンは朗々と紡ぐ。精霊を通してあの戦役の結果を見て、知った地竜は己の抱いた感情を素直に吐き出していた。



だが、とイデアは悟る。彼女の言葉の裏をおぼろげながらも彼は理解しているつもりだ。
戦闘行為を嫌っているとはいえ彼女は絶大な力を持ち、現状では自分よりも強い力を持つであろう竜。
それに、あくまでも戦いを嫌っている、嫌っているだけなのだ。禁忌しているわけでも、完全に否定しているわけでもない。



もしも、もしもの話だが、絶対にありえないが、自分が彼女の息子を殺そうとしたならば、メディアンは絶対に自分を許すことはなく、殺しに来るだろう、と。
戦いが嫌いだとしても、彼女は戦いそのものを否定していないのだから。



内心で肩を竦め、イデアはメディアンを、自らの家臣を注視する。もっと言うならば彼女とその息子を。
人と竜、竜という存在の中でも最高位に近い地竜と、何の武力も魔力も持たない人の子供。


本当に、どうしようもない程にこの両者の背後関係などが気になったが、何とかソレを表に出さない様にして彼は席を立つ。
時間は貴重だ。確かに癒しの時間は必要だが、それにばかり気をとられてはいけない。




「失礼する。もうそろそろ仕事をしないといけない時間だから」




窓の外を見ればもう太陽は完全にその全景を表し、万物平等に照らし始めている。
夜という闇の時間は地平の彼方に追いやられ、そして今日も本格的に一日が始まるのだ。



「後日、新しい報告書を出しておきますね」



子供を抱きしめたまま、目礼するメディアンにイデアは手を振って答え、そして部屋を後にする。
既にイデアの頭は切り替わっていた。優れた魔道士のソレにして、竜族の長であるソレへと。







地竜の家の玄関を跨いで、少し行った所でイデアは足を止め、無言で道を行く様々な里の住人達を眺めているヤアンに向けて声を掛けた。
それはほとんど無意識に出た言葉。発したイデア自身が何故こんなことを言ったかは判らないが、それでも一度口にしてしまった言葉は取り返せない。




「何を思っているんだ?」



声を掛けられた男は無言でゆっくりとした動作で振り返り、顔を傾げた。
微々とした感情しか宿らない真紅の瞳がイデアを見返している。



「人という種について考えていた」



再度ヤアンが里の道行く人々に眼を向ける。彼の視界の中には人と竜、そして竜人の者らが収まっており
彼らはそれぞれの役目の為に動き回り、協力し合い、そして共に生きている。
人の子供と竜の子供が仲良くじゃれ合いながら走り回り、黄色い笑い声を上げているのが見えた。




「あの地竜は人の子を己の子として育てていたな」



「そうだな」



それっきり、二人の会話は一時途切れる。流れる風に任せてイデアのマントが揺らいだ。
火竜の炎をそのまま凝縮したような鮮やかな瞳が輝く。成体の竜であるヤアンはたとえ記憶を失っていたとしても、凄まじい力を持つことに変わりはないのだ。
既に戦役も終わり、里という居場所がある彼にしてみれば、持て余してしまう力なのだろうが。





「私には人間と言う種が判らぬ、かの戦役の始まりは人が竜に対して行ったものと聞くが、こうして共存を果たす者も居る。どちらが“人間”なのだ?」




判らない。本当に理解が出来ない。ヤアンという男の全身から出るオーラは雄弁に語っていた。
面倒くさい男だ。神竜の眼が細められる。きっとこの男は全ての事象にはっきりとした答えを出さないと気がすまない性分なのだろう。
人がどうの、竜がどうの、など正直な話イデアはどうでもいいと考えている。それは理想を謳う者の考えではなく、本当の意味での“どうでもいい”という感情だ。


争うも勝手、愛し合うも勝手、興味そのものを抱かないも勝手。だが、だ。せめて、自分が居る周りぐらいの平穏は寄越せという、そんな想い。




「ヤアン、知っているか?」


「……」




言葉による返事はない。だが、意識が自分に向けられたのをイデアは確かに感じた。




「当然の話だけど、犬は猫の子供を産めないし、猫が犬の子を産むことも出来ない。仮にどんなに愛し合おうと」



次いで出る言葉をよく吟味し、思わずイデアは少しだけ赤面し苦虫を噛み潰したような表情になる。
あぁ、我ながら何て臭い言葉を吐くんだ、俺は。あんまりと言えばあんまりだが、自分はそれほどロマンチストでもないのに。




「人と竜だけは両者の血が混じった子供を産めるんだ。人化という術が在ったとしても、これには何か意味があると思わないか?」




言ってからイデアはぷいっと顔を背けた。本当に、何を言ってるんだか意味が判らない。
ヤアンの気配が少しだけ変わった、今までが凍りついた硬度の高いダイアモンドだとしたら、少しだけその表面の冷たさが取れたような、そんな気配に。




「お前は存外と、幼いのだな」




「まだ産まれて20年も経ってないからね」



そういえばそうか、自分で改めて言うと確かにまだ自分は20年も生きていないのか。前を含めても40にも届かない若輩者。
他の竜たちから見れば若造もいい所な年齢だ。下手をすれば赤子扱いされてもおかしくない。




「そうか、ならば私は“産まれて”から1年も経っていないことになる」




くっと、堪らずイデアは噴出していた。腹の底からわきあがる愉快な衝動に任せて、肩を揺らし笑う。
それは嘲りでもなければ、侮蔑でもない。一本取られたという事に対しての楽という感情だ。




「お互い幼い同士というわけだ。そもそもお前は何かに付けて小難しく考えすぎる、折角ゆっくりと生きられる環境にあるんだから、もっと色々と娯楽を楽しんで生きてみるといい」




「……考えておこう、そして最後に一つだけ聞いてもいいか?」




「何だ?」




うん? と眠たげな瞳で里人らを眺めていてイデアに一言、ヤアンは告げた。いつも通りの声で。




「娯楽とは何だ?」




そうか、まずはそこから教えなければならないか……。
この日最大のイデアの溜め息が漏らされた。



まずはそうだな、とりあえず遊戯版でも教えるべきか、そう神竜は思った。















夜、ナバタの里の外れ。極寒の死の砂嵐が吹きすさぶオアシスよりも外側の地にイデアは一人居た。
何もない漆黒砂山に向けて腕を翳し、念入りに組みなおした術の構成をそこに黄金の光として刻み込む。
宙に展開されるは黄金色の法陣。それは神の奇跡にして偉大なる御業を再現するための術。
最上級の光魔法の発動を意味する複雑怪奇にして巨大極まりない魔法の計算式が流れ出し、帯びの様なソレら一つ一つに刻まれた文字が輝きを発する。



ここに至って、イデアは正直な話、少しばかり達観していた。恐らく今の自分では高度な知能を持った人間型の独立したモルフは作り出せないと。
悔しくてたまらないが、自分は魔道士としてナーガの足元にも及んでいない事実を再度認識する。





ならば、諦めるのか? 否、否、断じて否だ。いずれ自分はナーガに匹敵、あるいは上回る存在にならねばならない。



どうすればいい?
自分が壁にぶち当たっているという事は自覚している、壁はとても堅く今の自分では突破口は見えない。



では少しばかり迂回しようか。何も意地になって自立モルフの完成ばかりを追い求めるのも愚作。
人型の自立モルフが創れないなら、少しばかりランクを落として、モルフ創造そのものに慣れるべきだという結論。
獣だ。獣を作ろう。自分の意思を与えず、このイデアの手足の延長線上としての単純なモルフを作り出そう。


“人形”をつくり、そこから徐々に“人間”へと近づけよう。
一つ一つ、確かな段階を踏んでいく。自分は竜であり、寿命などないのだから。



もう一つの案として、生きている人間をモルフへと改造し、その経過を記録していくというモノもあるが、これはどうにも気が乗らない。





刹那、黄金の光が物理的な衝撃さえ伴い、激烈にその輝きを増す。その余波だけでうずたかく積もった砂山が一つ丸ごと飲み込まれ消し飛んだ。
黄金の力圏が生み出され、幾重にも円を描いて周る、幾つもの流星が忙しなく魔方陣の中を駆け巡り、一個の仮初とは言え確固たる命を編み上げる。
エーギルが実体化する。根源たる竜しか知り得ない概念が、竜族の秘法を持って、唯一の形となって物質世界に固定されていく。




やがて奇跡は成され、新たな命が産声を上げた。




ソレは獣だった。人間よりも遥かに屈強で巨大な身体を持ち、大空を闊歩するために必要な翼を本来この存在は二枚持っているのだが
自らを生み出した存在の影響により倍の二対四翼へと増加させ、その眼球は煌々と不気味に輝く黄金。
全身を満遍なく覆う鱗は恐らくは歴戦の勇者が振り下ろす斧さえも弾くだろう。



そして特徴的なのは、その飛竜の全身に隙間なくビッシリと刻まれた青白く輝く紋章の様な――否。これは正真正銘の紋章である。



その名を──【デルフィの加護】 翼の神が授ける、全ての天を往く者らに与える愛。
この姿は、イデアの中にある悪夢“だった”存在の姿と瓜二つだった。




「……随分と懐かしい」




追憶にふけるように、創造主たるイデアが囁く。あぁ、この存在は懐古の情を掻き立てる。
かつてこの存在に出会った自分は弱くて何も出来なかったが、今は違う。
恐ろしき飛竜たちの王はかつては恐怖と畏怖の象徴だったが、もう違うのだ。






――ギギギギギギ、ギギギギイ




あの時聞いたのと全く同じ、掠れ、潰れ、思わず鼓膜を捻りたくなる、飛竜の咆哮と思わしき声がこの僻地におぞましき反芻し、イデアの耳朶を揺らす。
少しばかり獣性が強すぎたのか、このモルフのイデアを見る眼には忠誠などなく、ただ只管の飢えを満たそうとする欲望しかない。
ボタボタと口から忙しなく涎をたらす姿には知性の欠片さえ見れない。






こんなもの、ただの有象無象に過ぎない。



持ってきた紙に筆を走らせ、今回の実験の結果と過程、使ったエーギルの量、術式の構成などを書きとめていく。
次いで紅と蒼の眼光が自らの被造物を見やり、つまらなさそうに鼻をならした。何処までも無関心な瞳。
彼が興味あるのはこの被造物ではなく、己の魔術の精度のみだ。



実際の所、この存在を使うつもりはない。こんな、こんな理性もなく制御さえ出来るか不明な化け物を。ただ、作り方だけは保存しておこう。
もう何度か同じようにモルフの創造を繰り返し、慣れていこう。


だが、まずはその前にゴミ掃除をする必要がある。




「崩れ散れ」




一言だけ紡ぐ。余計な手順など踏まず、ただ彼がやったのは自らが結んだ紐の結び目を解いたようなもの。
バラバラに飛竜は抵抗さえ許されず塵とも灰とも錆とも言えぬ粒子へと微塵に砕け、そしてナバタの砂の一部になる。




そんな光景を見ることさえなく、イデアはこれから何をすべきかを考えていた。
既に彼の頭の中には十年単位での計画が練りこまれ、それを確認する。



外界に対して行動を起こすのは、神将が死ぬのを待とう。特にハルトムート、ローラン、バリガン、エリミーヌ辺りは死んでくれないと動きづらい。
こいつらは国や教団という巨大な組織を持っている。敵に回すのは危険すぎる。
アトス、ブラミモンド辺りも居なくなってくれると嬉しい。もしくは人々から忘れ去られるとか。



そして当面の外界に対しての目標は一つ。既にイデアの中で定まっていた。
それを思うだけで彼の心胆は熱を帯び、顔は意識とは無関係に攻撃的な笑みを浮かべてしまう。
何故ならばイドゥン開放への何かの手がかりとなるかもしれないのだから。





彼の当面の目的は竜族打倒となった鍵を手中に収めること。







即ち───【神将器】の入手である。





あとがき



戦闘描写ばっかり書いてたら日常の書き方を忘れてたでござる。



祝!3DS FE発売決定! 
ちょっと人間性を集めたり、仕事してたりしたら、あっという間に季節が過ぎてました。
イドゥンIFは、もう少しイデア編が続いて、ネタが集まったら書くことにします。





[6434] とある竜のお話 第二部 五章 2 (実質13章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2011/12/12 21:53





エレブ新暦7年 




時代は流れる。竜が君臨した神話の時代は既に過去のモノとなり、世界は人の歩みの中でゆっくりと、しかし確実に変化を遂げていた。
覇王の興した国では王の妻と息子が相次いで病気で若くして逝去し、戦乱で活躍した悠久の時を生きる賢者は一人を好み華やかな国の表舞台から姿を消す。
同時期に謎多き者と称された変わり者のシャーマンも影へと消えていく。光の乙女が授ける教えと救済は人々の心に深く根を張り巡らせ、支えとなった。
戦乱にしか生きれない狂った男は新たな戦いを求めて旅立ち、蒼氷の騎士と烈火の勇者、そして草原の騎兵は武器を捨て、故郷の復興に力を注いでいた。




少なくとも今は平和と言える時代だった。人々は竜との戦いの末、永遠ではないが、長い平和を手に入れたのだ。
もう竜は居ない。神の如き力と叡智を持ち、人々を守り、知識を授け、そしてほぼ全ての人間にとって恐怖の象徴であった竜は。



そんなエレブの中で、ナバタの里は存在していた。ひっそりと、竜と、そして竜と共に生きることを決めた者達のゆりかごとして。








地竜メディアンは竜族の中でも特に人間と言う種に対して友好的な存在である。
人に神として崇められる竜は少数ながらも存在するが、彼女ほど人間とコミュニケーションをとり、共存を試みた存在は少ない。
これは非常に珍しい事例だ。竜族としてのプライドと誇りを保ちながらも、彼女は積極的に人とかかわり続けたのだ。




元来、地竜という種族は竜族全体の中でも凄まじい力を保有する種であり“進化”を果たした地竜の上位種である暗黒竜は、神竜、始祖竜に次ぐ力を持っていると言われている。
そんな存在が人に無償で力を貸し、笑いあって生きようとしたのだ、これがどれほど稀有なことか。







夜の暗闇の中、メディアンは自室の椅子に腰掛け、憮然とした表情で一冊の本を読んでいた。
古ぼけた一冊の本。既に表紙などは茶色く年季を刻んだ色になっており、魔術によって保護を掛けられていなければとっくの昔にぼろぼろと崩れていただろう。
そんな本を彼女は優しく丁寧に、いたわるように扱い、眼を通していく。



ほぅ……口の隙間から漏らすのは小さな吐息。それは遠い過去へと向ける懐古であり、そして近い過去に向けた親しみでもあった。
この書は別に特別な魔道書というわけでもなく、誰でも、それこそ富と時間に余裕のあるモノならば持っていてもおかしくない書物、日記である。
長い彼女の歴史の一部を書き綴った書物は、彼女がリキアからこのナバタへとやってきた際に持ち込んだ数少ない私物の一つ。



もう何百、何千年と遠い過去の印象的な出来事から、つい昨日の事の様に思い出せる比較的最近の事柄まで、全てがビッシリと書きつめられている。
時間にして一夜、息子が眠ってしまった後の暇つぶしの時間としてソレを読んでいた彼女だったが、ふと一つ気が付いたことがあった。
正しくは今までは見ないふりをしていたのだが、強制的に過去から現在を辿った結果、見てしまったこと。



そう、時の流れだ。判ってはいたが、やはり人と竜では寿命が、時間に対する絶対的な感覚が違う。
まぁ、仕方ない。メディアンは頭の中で割り切りを付ける。どうしようもない、と。



人の生死に深く触れたのは最初でもないし、最後にもならないだろう。


















ナバタの砂漠の朝は、本当に微妙な時間帯だと彼はつくづく思った。
砂漠の物凄く寒い夜の時間と、灼熱の昼間の境界線となる朝はどちらかというと、夜の極寒のほうが勝っていると体感的に思うし、実際そうなんだろう。
メディアンが言うには、朝と夜の温度の差であの岩に皹が入ったりするらしい。人なんて簡単に粉々になっちゃうんじゃないだろうかと彼は考える。



つまり、だ。言ってしまえば今の状況は一言で片付けられる。




「寒い……ねむいぃ……」



そう、どうしようもなく寒い。寒くてたまらない。そして同時に眠い。
窓に嵌められた板の隙間からは朝の木漏れ日と共に砂漠の熱気が少しずつ吹き込んでくるが、それでも寒いモノは寒い。
このまま二度寝してしまいそうになるが、それはいけない。絶対に。



何でも物凄く寒いところでは下手に眠ってしまうと、そのまま永遠に起きないこともあるらしい。
だから、ソルトがベッドの中で毛布に包まって必死に熱を溜め込むのは仕方ないことなのである。
絶対に間違ってないはずだ。だって人は竜みたいに熔けた岩の中で生きることやらなど出来ないのだから。



全力で眠たいと訴えてくる身体に鞭を打って何とか起き上がると、更に全身を容赦なく冷気が通り抜けていく。
まだ少しぼやけた視界を動かして部屋を見ると隣のベッドは既に空になっている。どうやら母はかなり先に起きたらしい。
いや、そもそもの話、彼の母には睡眠という行為そのものがいらないが、娯楽の一つで眠るのだって聞かされた。



昔は夜鳴きが酷かった乳飲み子だった息子の為に添い寝をはじめ、今では眠るという行為がそこそこに時間を潰すのに有効な手段だと気が付いたらしい。
何とも恥ずかしい理由だが、正直な話、彼は母が隣で眠っていてくれると安心していた。
暗闇というのは、やっぱり一人で相対するにはとても怖いものだから。




さすがに12歳になった今でも一人で眠れないなんて事はないが。



窓に嵌められていた砂避けの板を開けて、太陽の光を部屋の中に差し込ませると少しばかり部屋の中の温度が上昇した。
今の時間帯では丁度良い温度だが、日が高くなるにつれてやがては夜の極寒が恋しくなるほどの灼熱がやってくる。
そして夜になると、今度は昼の炎天下が愛しくてたまならい冷気が満ちる。これの繰り返しだ。



「ぶぇっ!」



窓を開けた時に板に積もっていた砂が少々舞い上がり、口の中に入ってしまい、吐き出す。
じゃりじゃりとした苦味を何とか窓の外に吐き出し、気分を入れ替えてから着替える。



全身をすっぽりと覆う茶色いローブとフードを着込んで、袖を少し捲くった。
6年とちょっとここで生活して判ったことは実はナバタという地域では、薄着をするよりも、全身を布で覆った方が涼しい。
それにこの衣服は彼の母が少々の魔力を込めて織り上げた一品で、着用者にとって最も心地よい温度に服の内部を調整してくれる。



常に母の力に全身を包まれる感覚。ソルトはコレが嫌いじゃない。
お気に入りの丈夫な皮製のブーツを履いて、これで完了。



「よしっ!」




部屋に備え付けられた鏡を見て、自分の姿を確認して、何処もおかしい所がないのをしっかりと見届けてから部屋の扉を開ける。
石造りの廊下を満たすのは香ばしい肉が焼ける匂いと、スープが沸騰した時のグツグツという音。
ソルトは竜みたいに眼で見なくても誰が何処にいるか判るなんて事出来ないが、それでも母さんの気配を感じ取る力だけは誰にも負けないって自負があった。







「おはよう。まずは顔でも洗ってきなさいな」




少しだけ廊下を進み、台所と食卓を兼ねた部屋に到着すると、いつも通り母、メディアンはそこに居て、これまたいつもの様に笑顔を返してくれる。
鍋をぐるぐるとお玉でかき回しいて、見れば鍋の中には肉と野菜のスープが煮えていた。
メディアンの料理の種類は本当に多い、いつも何かしらの新鮮味に満ちた手料理を振舞ってくれて、今までマズイと感じたのはほんの数えるくらいだ。




最初にマズイってソルトが言ったのは、まだ物心さえ付かない程に昔の事らしいのなのだが
メディアンはその一言が相当に堪えたらしくて、その日から一回一回の料理にかなりの工夫を入れるようになったらしい。



桶に貯められた生ぬるいお湯で顔を流して、手を石鹸で洗う。
顔を渡されたタオルで拭いて、元の場所に戻して、ソルトは勢い良く席に着いた。
眼の前で母さんが背をこちらに向けて、料理に最後の仕込をしている姿はもう見慣れたものだ。




食卓の上に置かれていた多くの皿が母さんの力によって動かされ、メディアンの手元に引き寄せられていく。
昔、まだまだ幼かった彼もこれと同じことが出来るって思って結構努力したのだが、魔道士どころか、魔力さえない彼には出来なく、泣いてしまったりしていたのが懐かしい。



ソルトは過去を想い。そして自分と母の種族について考えを巡らす。
もう何度目になるかも判らないお題を、延々と幼いながらに考えるのだ。
物心が付き、ある程度の知能と分別を得て、世界を知った少年の悩み。



もう、自分が実の母の息子じゃない事ぐらいは知っている。
父親は居ない。正確には何処かにはいるのだろうが、もう興味はない。



竜じゃなくて僕は人間。そして母は地竜という、よく判らないけど凄く強くて長生きの竜。
でも僕達は親子。母さんは母さんで、僕は母さんの息子。これは何があっても絶対に変わらない。
今、重要なのは、いかにこの今という時間を大切にするか、それだけ。





気が付けば何時の間にか母の料理は皿に盛られて、食卓の上に並んでいる。
力を使って幾つもの事を同時に出来るからこその早業なんだろう。
便利そうだなぁって思うことはあるけど、別に羨ましいとは思わない。





舞うように全ての準備を終えたメディアンが軽やかに振り返る様にソルトは少しだけドキッとしてしまう。
12になる彼は、男としても順調に成長を遂げており、一般的に見れば美女と呼ばれる存在であるメディアンにそういう思いを抱いてしまうことがあるのだ。



スラリとした長身は女の人にしては凄く高いけど、全く嫌味にならないし、栗色の髪の毛は艶やかに上品な輝きを放っている。
その癖、手足と身体のバランスも完璧で……何より出る所はしっかりと出ている。


顔の造形? そんなの言うまでもない。




「じゃ、味わって食べようか!」




正面の席に座った母さんがエプロンを外して、自分が作った料理に向けて目礼する。
それは母さんなりの食材と敬意の表し方だと彼は知っているから、同じように目礼して心の中で「いただきまーす」と唱えた。
この言葉は時々我が家に来て食事をとっていくイデア様がいつも言っている言葉で、曰く「食事に対しての敬意だ」だそうな。


スプーンを使ってスープを掬って一口。凄く美味しい。
口の中に広がるのは肉のダシと、茹で上げられた野菜の素晴らしいマッチ。コショウのちょっとした辛味と塩加減もいい味を出してる。
今度メニューでも教えてもらおうかな、とソルトは思う。僕の料理を食べて母さんが美味しいって言ってくれると、凄く嬉しいし。




「美味しいかい?」




ニコニコと上品だが、何処か豪気な笑顔で母が問いかけてくる。
細くすぼめられた綺麗な赤い眼の奥には柔らかい光が宿っているのがはっきりと見えた。
紅い眼は人間のモノとは思えない程に綺麗だが、それは文字通り、彼の母が人じゃないって事を示してもいた。




咄嗟に答え様とする部分と、食事を続けようとする部分。
両者はどうやら同時に動いてしまったらしく、結果、ソルトは飲み込んだスープが変なところに入ってしまい、盛大にむせることになる。
器官に入ってしまった異物を排除すべく、当然の如くソルトは激しく咳き込んだ。


色々な液体が逆流してきて、喉が痛い。鼻が痛い。視界が涙で霞む……。




「ほら、水だ。ゆっくりと落ち着いて飲むんだ」




背中を優しく摩られ、杯に満たされた冷水をゆっくりと飲み干して何とか小さな子供は答えた。
未だに鼻水が止まらず、自分でも凄く恥ずかしいと思うけど、何とか罅割れた声を絞り出して。




「ずごぐ、おいじい!」





まさか返事を返されるとは思わなかったらしく、地竜は一瞬だけ眼をまん丸にした後、呆れた様に笑った。
少しだけ、それを見たソルトの頬が涙ながらに緩んだ。






















無事に朝ごはんを食べ終えてからソルトは何時もの様に外出をする。
向うところはその日によって決まってたり、決まってなかったりするが、今日の外出は最初から予定が入っている。


じりじりと太陽が焼き付けるように輝く中、親子はとある場所へと向っていた。
彼の数歩先を歩く母が持っているのは丈夫な木の枝が二本。茶色いそれは単純な一本の真っ直ぐとした棒だ。
大体長剣と同じぐらいの大きさのソレには魔力で加護が施されており、よっぽどの事じゃなければ折れない。



それにしても、と、何気なくソルトは先頭を行く母の背を見てみる。
見れば見るほど大きな背中だ。女性である母さんをこういう言葉で表すのは“しんしてきじゃない”とは思うが
やっぱり母さんの背中は大きい。物理的な意味でも、そして精神的な意味でもだ。



少年にとって母は母だが、父でもあった。それも、とびっきりに偉大な。



彼の年齢を数百倍にしてもたどり着かないほどの時間を生きてる母は、本当に大きな存在だとつくづく少年は思う。
だからこそ、人間ソルトは地竜メディアンの息子として恥ずかしくない男にならなければいけない。
別にコレは母に対する劣等感とか、そういうものから生じた願いなどではない、何と言葉で表せばいいのか判らないが……。



一つだけ言えるのは。
その様な醜い感情などでは、絶対にない。




とりあえず、何かとても強い衝動がソルトという男を動かしているのだ。
そう、つい最近から始めたコレもそういう意思が強いから行っていること──。




「着いたよ。まずは何時もの様に準備運動からだね。判ってると思うけど、しっかりとやるんだよ? こういうのに手を抜くと、後で自分に帰ってくるもんさ」




色々と考え事をしている内にいつもの目的地、鍛錬場にたどり着き、メディアンの凛とした声が少年を思考の海から現実へと引き戻していく。
ここは里を囲むように創られたオアシスの僻地。地面は熱せられた生気のない足引きの砂ではなく冷たくて堅い大地があり、草木が生い茂っている場所。
ひらけたここはまるで広場みたいに広く、丁度中心辺りには大きな見慣れた岩が一つ、でんっと居座っている。


ここならば木々のカーテンに覆われているから、太陽の光もあまり入ってこないから涼しい。
だからこそここは激しく動き回れる場所なのだ。



この場所には2日か3日に一回来る。母との鍛錬の為に。
ソルトとしては毎日来たいのだが、まだまだ小さい彼の身体にはあんまり過剰な無理をさせる訳にはいかないらしく、メディアンは断固として認めなかった。
黙々と持ってきた荷物を降ろして、大地に腰を降ろす。足を二本真っ直ぐに伸ばして、上半身を前に折る。



この準備運動も、汗が出るほどに全力でやらないと意味がないらしいから、無我夢中で行う。
少しでも自分の身体を強くするためには何かをやりたかったから。
ふと、母を見ると、岩に腰掛けた母さんはいつもと同じように真剣ながらも、何処か暖かさを含む眼でじっとこっちを見つめているのが見え、咄嗟に視線をずらす。




正直、少しだけ恥ずかしかった。身体の奥が、運動とは違った何かの熱を持って、じくじくと痛んだ。
















時間にして大体一刻ぐらい、みっちりと準備運動を行って体のありとあらゆる場所を暖め終えてから
持ってきた冷水を飲んで、少しだけ休憩した後、母が持ってきた枝を両手で掴んで、ソレを力を入れすぎないように構えて、向き合う。
同じ様に枝を片腕で掴んで相対するメディアンの眼には、ついさっきまでの温もりは消えてなくなり、何も宿さない、冷たい眼がソレに変わる。






メディアンが本気でこの鍛錬に付き合ってくれているという証拠だ。遊びなどいれず、本当に鍛えてくれるために、彼女はこの眼をする。
仮想の敵として、堂々と振舞うのだ。




ソルトにとってこの眼は正直、あまり好きじゃない。冷たくて、無機質で、凄く見ていると怖くなる。
人ではない竜の眼は、凄い圧力を持って圧倒してくる。少しでも気を抜けば、枝を落として、膝を付いてしまいそうな程に。
恐らくはコレでも最大限に抑えられているのだろうけど、それでも怖くてたまらない。




でも。



コレは鍍金だと彼は気がついていた。その証拠に、少し注意をして観察すれば
冷たい眼の奥底で、無理やり固められたあの温かみが決して消えることなく流動しているのが見えるのだから。



気を取り直す。今は鍛錬の最中で、無駄なことを考えるのはこれぐらいにしておいたほうがいい。
これは鍛錬といっても、両者とも本気でやっているのだから。
死ぬことはないとはいえ、怪我くらいならば十分にありうるし、何より自分が怪我をして、母さんが悲しそうな顔をするのが許せない。




まずは一撃。足が許す限りの疾走で飛び込み、逆袈裟に枝を腰辺りへと向けて身体を捻り、両手で叩き込む。
単に力を入れて打ち込むのではなく、教えられた通り持っている武器の重さと身体の動き、体重の移動、そして最も空気の抵抗が少なく鋭い動きを意識し、切り込む。
カァンという乾いた音と共に手が鋭い振動で痺れる。全力で、これいじょうない程の速度で切り込んだというのに、そこには既にもう一本の枝があり、それが簡単に少年の攻撃を防いでいた。



片手だ。メディアンは全ての体重を乗せられた一撃を片腕で容易く防いでいた。




緩やかな傾斜を付けてそこに配置された枝は攻撃を真正面から防ぐだけではなく、ガリガリと表面が削れる音と共に枝を受け流していく。
まるで斜めに立てかけた板に水を掛ける様に、いっそ面白くなるほどにその斜面を転がり落ちていくのが見える。


受け流されている。彼女は基本いつも攻撃を受け流す。頑丈な盾で防ぐ訳でもなく、こういう風に最低限の力で無力化してくるのだ。
咄嗟に後ろに下がろうとするが、それよりもメディアンの枝が辛うじて目視できる速度で動く。眼では終えるが、身体がついてこない。



円を描くように軌跡を残したソレが突如勢いを無くして、ピタッと息子の首元に当てられた。
冷たい感触が肌越しに伝わり、背筋が気持ち悪い。もしも彼女が殺す気ならば、既に首の骨を叩き潰されていただろう。


魔力もエーギルによるブーストもメディアンは行っていない。竜の力を一切使わずに戦っているのに、ソルトはあしらわれていた。
だが、心は折れない。たとえどれほどの差があろうと、心が折れたら全て終わりだと他でもない眼前の存在に教えられたのだから。




「まずは一回だ。踏み込みは大分よくなったよ」




一回、死んだという意味の一回。最初の頃など七十回近く“死んだ”こともあったが、今はそれの10分の一以下にまでなっている。
よくやったと。母さんは褒めるがまだまだだ。こんなのじゃ足りない。全然足りない。
何故ならば、母は本気だが、全力ではないのだから。





首元から、武器が引かれ、無言で彼女は数歩下がった。まだまだ続けるという意思表示。



急いでソルトが距離を取り、そのまま静寂を守る母を観察する。
片腕でロングソードほどの長さの枝を軽く握り、冷えた眼でこっちを見てくる。



もう一度、今度は先ほどよりも気力を搾り出し、かつ身体をなるべく低くするように心がけ肉薄を慣行。
そんな動きは予想していたと言わんばかりにロングソード並の長さを誇る枝が滑らかに、たかだか10年程度しか生きていない少年では足元にも及ばない技術の元に涼音と共に振るわれる。
綺麗な、まるで何かの道具で描いたかの様な華麗きわまる円形の軌跡を残し、ソレは正確無比にある一点に加速を付けて吸い込まれていく。




ピリピリとした感覚が左肩に向けて伝わってくるのが、はっきりと判った。ここが、狙われている。
それは殺気であり、そして明確な母からの忠告だった。防げ、という意思でもある。



もしも下手に直撃を食らえば、治癒の魔術を使っても数日は腕が使い物にならない事になる威力の一振り。
意地でも直撃するわけにはいかない。これをまともに浴びてしまえば、今日の鍛錬はコレで終わってしまうのだから。



両腕でしっかりと握っていた枝を咄嗟に右手に持ち替え、肩と枝の間に差し込み、無理やり迫っていた枝を上から叩くように動かす。
その瞬間、ズドンという打たれた鈍い音と共に左肩に激痛が走るけど、まだ動かせる。
乾いた音と共に持っていた枝が粉砕されて、無数の破片がやけにゆっくりと宙に舞う中、やってしまったといわんばかりの表情のメディアンが見えた。




痺れていた手から既に握っている部分を残して砕けた武器を躊躇なく放し、そのまま、がむしゃらに全身の体重を乗っけて突っ込む。
まるで怒り狂った猪の如き、単純だが、全てを掛けた疾走だった。一つ踏み出す度に、堅い大地にしっかりと足跡を残すほどの。



ほんの数歩分の距離。だけどこの鍛錬を始めてから一度も縮めたことのない距離を詰めていく。
それは今まで絶対の防衛の線として引かれていた一つの線。どれほど創意工夫を凝らそうが、決して届かなかった距離。
ソレを今正に自分は踏み越えたのだと思うと、充実感が湧き上がり、身体の芯が高揚を帯び、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。



ここで彼は一つミスを犯した。単純に一つの壁を乗り越えた事実に夢中になりすぎてしまい
自分がまだ勝っていないということに気が付かなかったことだ。
秒にも遠く満たない刹那よりも短い時間の間、彼はその事実にようやく気が付き、徐々に迫ってくる母を見て、正直な話、慌てた。



そして、そして……アレ……アレ? 次の手を、次の手をと考えるが出てこない。
武器は壊れてしまったし、自分の身体能力じゃ軽くいなされて終わり。



どうしようか、どうする? いや、そもそも僕は何を──。



考えていた時間は一瞬だったかもしれないし、かなり長い間だったかもしれない。
だけど、どちらにせよ答えは出ず…………視界を白黒させている間に、勢いそのまま、何か柔らかくて、暖かいモノの中に突っ込んだ。



あぁ、始めて鍛錬中に母さんに触れることが出来たんだ。そう思った次の瞬間、達成感やら歓喜やら、色々なものが身体の奥底から湧き出てきて、思わず全身から力が抜けていく。




「先の事を考えてなかったのかい? 全く」




最後に耳朶に届いたのはそんな声。呆れと親しみ、そしてほんの僅かだけの喜悦が混ざった母の声。
瞬間、鈍いが、決して痛みを感じさせない衝撃、魔力による意識に対する攻撃が緩やかに身体を走り、ソルトの意識は暗闇に落ちた。



















その疑問を感じたときの事はよく覚えている。



最初に母と自分が違うと気がついたのは8つぐらいの時だった。
それは髪の色や、身長、筋力や容姿などと言った単純なことから始まり、水が地面に染み込んでいくように時間を掛けて深くなっていくのが自分でもはっきりと判っていた。
纏う空気さえも違い、内包した力はただの人間である自分から見ても強大極まりない彼女はどう考えても、自分の母には見えなくなったことがあったのだ。



自分と親の類似点を探し出して見つけ、親と自分は確かに親子なのだという自己のアイデンティティを確立させるという行為が彼は行えなかった。
そればかりかむしろ、見つかるのは類似点ではなく、見たくもない相違点のみ。


自分の髪の毛と母の髪の毛の色は何故違うのだろうか?
何故、自分には母の様な魔術が使えないのだ?
何で僕は母みたいに強くないのか?



幼心に、親と自分の違いを気にする度に増幅する鬱憤はまるで舞い散る落ち葉の様に積もっていった。



無意識に溜め込んでいたソレが爆発する切欠の一つに、とある火竜との会話がある。
紅い髪をし、屈強な肉体を持った彼は何度かソルトも見かけたことがある青年の竜だった。
両手の甲には不思議な魔術的な紋章があり、胸元には何か鋭いモノで深く切り裂かれた傷跡が残る竜。


メディアンと違い、表だった人間らしさなど皆無の竜との対話はソルトにとって衝撃だった。
彼は何の悪意もなく、同時に一欠けらの気遣いもなしにソルトの心の奥底に言葉という刃で切り込んできたのだ。






お前はあの地竜の子ではない。あの女に配偶者や血の繋がった子など存在しない。何故共に在れる?


恐ろしくないのか? あれはやろうと思えば貴様など容易く殺せるぞ?


アレにとってお前の一生など刹那にも満たない。違う時間を生きる者同士が、家族になどなれるのか?




彼の言葉に、何一つとして明確な返事を返すことが出来なかったのが悔しかった。
それと同じくらいに、火竜の言葉に少しだけとはいえ、共感してしまった自分が居るのが悲しい。
全て、胸の深遠に厳重に仕舞われていた、眼を背けたい現実の数々。





──何で僕は人間で、母さんは竜なの? お父さんは何処にいるの?




これらの疑問が積み重なり、癇癪を起こした彼は酷くメディアンに八つ当たりと共に激しい口調で質問を投げかけたことがある。
里を歩く、他の真っ当な母子、竜と竜、人と人のソレを見て、彼の中にあった暗い情念が爆発した結果のことだ。




母さんは本当に母さんなのか?
何で僕を育てているの?



長い時間を生きる竜の暇つぶしとして自分を育てているのか、結局の所、息子なんて呼び方は表向きだけで
実際は身につける装飾品程度の存在としか思われていないのか? 僕がいつか死んだら、母さんは新しい“装飾品”を探すのか。


全ての思いの丈をぶつけたソルトは、自棄になった思考で、もしもここでメディアンが怒り狂い、その結果自分が殺されたとしても構わないとさえ思うほどに。
結果、メディアンは怒りさえしなかった。怒りに任せて力を振るうことも、竜の力による威圧で煩わしい餓鬼を黙らせもしなかった。




彼女は、地竜は……泣いた。
涙を流し、顔を悲痛の色で真っ赤に染めて。




その時、彼は自分が言ってはいけない事を言ったのだと悟る。
母を泣かせてしまった自分が何かとても悪いことをしているように思えてソルトは泣いた。
泣いて。泣いて。二人で子供の様に泣いて、そして語り合った。



リキアでの生活。何故ソルトがメディアンの息子なのか。どうして育てているのかなど。
自分は元々は彼女が住んでいた神殿の前に数減らしか何かの理由で捨てられた赤子だったことを聞かされたソルトの胸中に驚愕はなかった。
むしろ、あぁ、やっぱりという納得の気持ちが強かったほどだ。


思えばそれからだろう。妙な、しかし決して不愉快ではない向上心が自分の中で鎌首をもたげてきたのは。
短い時間しか生きられないのなら、せめて閃光の様に生きて、竜の心中に残り続けたいと決心するに至ったのだ。




これは、そんな過去のお話──。

















まるで母の子宮の中に満たされた液体の中を漂っている様な、筆舌では表せない柔らかい感触に身を包まれつつソルトの意識は覚醒する。
眼を開けると、視界の暗闇が一気に変わり、瞳孔に飛び込んできた鋭い光に思わず彼は顔を顰めた。
少し起き上がってみるとまだじくじくと肩は痛む。見れば棒の当たった一部が青く変色しており、どうやら痣になってしまっているようだ。


これは数日間痛みが続くなぁ、と思ったソルトが小さく息を吐く。


周囲の空気は、ここがどこかを考えるまでもないほどに親しみに溢れている自室のモノだ。
身に掛けられていた毛布、それもメディアンの力が込められ、常に羽織ったモノの体温を適度に調整する昨日を付与されたソレがふわりと落ちた。
外に眼をやると、少々陽が傾き、徐々に夜へとナバタが向っていくのが判る。





「具合はどうだ?」





母の声ではない、別の、深さと甲高さを同居させたような奇妙な少年の声がソルトに掛けられた。
ソルトがそちらに眼を向けると、彼にとっては馴染み深い……この里に住んでいる者ならば誰でも知っているであろう存在が佇んでいる。
いつの間に、いつから、などという疑問は転移を使える彼には意味を成さない。
見舞い人、ソルトが子供の時から付き合いのあるこのナバタの里の長、イデアはこの里に来た時と全く変わらない姿でそこにあった。





「どうしてここに?」




「用事のついでさ」




あっけらかんとイデアは答え、懐から取り出したリンゴをソルトに放って、そのまま部屋の椅子の一つに静かに腰掛けた。
まるで自分の家の様に振舞うイデアにソルトは特に怒りは沸かなかった。
何故ならば、7年以上も前から彼は時折メディアンの元を訪れ、食事を取ったり、共に書物を読んだりしており、自分もかなりお世話になっていたりするのだから。


渡されたリンゴを片手で弄くりながらどうやって食べようか考えていると、視線を感じ、ソルトは顔を上げた。
紅と蒼の特徴的な眼が鈍く輝きながら自分を見ている。




「なんですか?」




暫し見つめ合っていた後に、痺れを切らしたソルトの声が部屋に響く。



どうする? 



イデアは口こそ開けてはいなかったが、何かを全身から迸る気配で十二分に語っていた。
問題はソレを彼が口にすべきかどうかを悩んでいるということだ。
腕をくみ、ほんの少しだけの間考えていた彼だったが、ようやく決心が付いたのか椅子から立ち上がると口を開いた。


そこから発せられた言葉はまるで何かを探るかのように、慎重極まりなく、同時に触れれば壊れてしまいそうな程に儚い。





お前は、何か夢はあるか?





ソレは、いきなりの言葉。唐突すぎて、困惑するであろう問い掛け。
圧倒的な存在である神竜がただの人間に投げかけるには余りにも訳が判らない質問だ。



だが、ソルトは応答した。一切の迷いもなく。
イデアの、神竜の眼を真っ向から見つめ返し、はっきりと答えた。




あります、と。




そうか、とイデアは答え、満足気に微笑む。



そうして彼は笑顔のまま少しメディアンと話があるから、寝て待っていてくれと言い残し部屋を後にした。
後に残るのは静寂のみ。外から聞こえてくる砂嵐の轟々という音だけが部屋に虚しく反響する。




うん? と部屋にひとり残されたソルトが顔を傾げた。
質問の意図が判らないのもそうだが、何よりも一つだけ気になったことがある。




何でイデアは、神竜である彼は一瞬だけとはいえ、自分を見る瞳の中に子供が見てもはっきりと判るほどの“羨望”の感情を浮かべたのだろうか。


まるで、輝かしい宝石を見るような、そんな眼を。























イデアはソルトの部屋から出るとすぐに顔に浮かべていた微笑を消し、ただのイデアから、ナバタの里の長である神竜の顔を貼り付かせ。
先ほどまで纏っていた空気を一変させた。即ち、自らの目的へとひたすら前進を繰り返す一人の男のソレへと。
ふと、彼はソルトの顔を思い出し、思う。何と羨ましいのだろうと。




嘘偽りなく、イデアは彼を少しばかり尊敬していた。12歳のときの自分よりも遥かに大人びており、確固たる自分の意思を持ってメディアンに食いつく彼を。
彼はソルトが自らの母を目標とし、自身を磨いているという事を知っていた。それゆえに思うのだ。



自分と母が違う種族だというのに叶えるのが困難な夢を諦めない彼は、自分などよりも遥かに高潔だ、と。
失くしてから半身の価値と存在感に気が付いた自分とは大違いといえよう。



扉を一枚開け、メディアンの部屋へと入る。今日はソルトにも言ったとおり彼女に用があってきたのだ。
とても、とても大事な用件がある。




部屋の主である地竜は、椅子に腰掛け、客であるイデアを待っていた。
彼女は手織りのように見えるいつも来ている質素な茶色のローブを着込んでいて、艶やかな栗色の長髪をコレもいつも通りに後ろで纏めていた。
きちんと結った髪は一本も乱れておらず、首元から少しだけ見えるうなじはとてつもない色気を醸している。



ここ数年で彼女は少しだけ変わった。神竜は思う。
イデアと出会った当初は彼女は女性でこそあったが、その身の気配はどちらかといえば豪胆な男性のソレだったのに今では少しずつ女性の顔が強く出てき始めている。


一体何が彼女を変えたのだろうか。今は関係ないことだが。



テーブルを挟んだところにもう一つの椅子があり、そこにイデアは腰掛ける。
大きく溜め息とは近い深呼吸をした後、イデアは切り出した。



爛々と光る双眸が不気味に輝きを発し始め、彼がどれほどこの話を待ち望んだかが窺えよう。




「以前頼んだことだが、何処まで判った?」




「大まか程度ですが、長のお知りになりたい情報はほとんど入りました」




答えるメディアンは低く、冷たい声。一つの竜としてイデアに従う際の彼女の顔だ。
プライベートではイデアにも砕けた口調で話す彼女だが、こればっかりは彼女も譲るつもりはない一線らしい。
どうにも仕事と私事ははっきりと分ける主義なのだ、彼女は。



そして彼女はイデアにはない能力がある。精霊との対話という能力が。
精霊というのは世界のありとあらゆる場所に存在し、全てを見て聞いている第三者だ。
その声が聞けるという事は、彼女はこのナバタにあって、世界のありとあらゆる場所の情報を手に入れることが可能という意味でもある。



だが問題もある。それは、限られた地域ならともかく、エレブ全域の精霊から言葉を聞きだすということは、それだけ多くの言霊が一斉に飛んでくるということだ。
精霊というのは常に精霊以外の話し相手に飢えているらしく、嬉々として彼らは国家規模の陰謀の情報から、ご近所の何気ない世間話までのありとあらゆる出来事を報告してくるそうな。


しかも中には人間と同じように意地の悪い精霊もいて、そういう奴は嬉々として嘘の情報を流してくるらしい。



一度に飛んでくる情報の量が多すぎて、さすがの彼女も必要な情報と不要な情報、
幾つもの囁きの真贋を区別し、無数に並べられたソレを整理した後に、更に判りやすく噛み砕くのには時間が掛かったのだ。




「まずハルトムートの件ですが、彼はどうやら少し前に妻と息子を同時に失ってから明らかに衰弱を始めており、今では戦役時の見る影もないらしいです」




「……………」



イデアはゆったりと椅子に腰掛け、深く思慮を巡らすように指先をあわせた。
無言で彼の眼がメディアンに続けろと述べる。



ハルトムートの伴侶と息子が病死してからもう幾年たったろうか。


王女と王子。確か名前を何と言ったか? 何故かは判らないが、ベルンという国は余り最高権力に限りなく近しい地位にあるこの二人の存在を隠している節がある。
まぁ、名前など知らなくても問題はないだろう。何故ならば二人は既にこの世にはいないらしいのだから。
調べれば名前程度出てくるのだろうが、今はそんな無駄なことに労力を割くつもりはない。





「エリミーヌは知っての通り、今はアクレイアを中心に活動を続け、布教活動を続けているそうです」




イデアは眼を閉じて、何かを深く考え込むような仕草をした。
しかしその実、内心はエリミーヌに対する侮蔑と嫌悪と嘲笑で満たされている。
何が万物全てに平等であれ、だ。竜族を徹底的に悪と断言しておいて調子がいい事をべらべらと。




エリミーヌの逸話の一つ、“フクロウと大鷲”の話は中々に気に入っているが。
このお話で語られる自分の頭でじっくり考え、自分の中に一本の芯ともいうべき考えと信念を持てという言葉には共感も出来るが、エリミーヌそのものは好きになれない。





「次にローラン、ハノン、バリガン、この者らは恐らくはもう故郷から動くこともないかと、
 ローランに至っては【烈火の剣】の力のほとんどを大地の復興の為に使い、既に神将器にはかつての力はないでしょう」




ハノンの名を聞くとどうもイデアは複雑な気になる。彼女が居なければ自分たちは死んでいたかもしれないし、違うかもしれない。
あの時、ハノンがもしも死んでいれば後の竜族と人間の戦いはどうなっていたのだろうか。
ただ一つ確かなのは、あの時ハノンは自分たちの為に命をかけて戦ってくれたことだけ。



ハノンは姉さんに出会ったのだろうか。もしも出会ったのならば、一体どんな顔をしたのか、それが気になるのだ。




「アトス、ブラミモンドは両者の術者としての隠蔽能力が高すぎて精霊でさえ捕捉しきれておらず、行方は不明です」



厄介だなとイデアは言外に吐き捨てた。恐らくは竜族関連の術意外では己の上を行くであろう術者が二人も野放しになっているというのは中々に怖い。
いずれ対策は立てておきたいが、姿さえも掴めないのならばどうしようもない。


だが、いつかどうにかせねばなるまい。消すにせよ、捕獲するにせよ。



残るは一人だ。確か名前をテュルバンと言った男。
単なる戦闘狂で、戦役以前から度々竜族と揉め事を起こしていたらしい男。
彼の事は調べれば調べるほどに好ましいと思う情報が入ってこない。



何でもただの傭兵だったころなどは、敵はおろか、味方にも手を出し、酷いときは無抵抗の市民を虐殺することも躊躇わなかったという。
それでも彼が英雄となれたのは、ただ単純に強かったから。他の何を置いても、圧倒的に力があり、その力は国家にさえ恐れを抱かさせたに他ならない。




「最後にテュルバンについてなのですが…………」





その後の言葉をメディアンは簡潔な言葉で綴った。
余りにも簡単で、俗的すぎる言葉だったせいか、イデアは一瞬何を言われたのか理解出来ず、耳から飛び込んできた言葉によって頭を揺らされるという体験をすることになる。
頭を鈍重なハンマーか何かで叩かれたかのような衝撃を感じ、脳内に閃光が走った後、彼はふわりと身体を左右に揺すった。


様々な言霊が頭の中で嵐のように飛び交っていたが、直ぐにそんなものは意味をなくした。
代わりに沸いてきたのは、煮えるような愉悦。愉快で愉快でたまらない。自分の思い通りに物事を進めている人間が浮かべる晴れ渡った笑顔。



はぁと艶やかな溜め息を漏らし、彼は言った。狂喜に染まった笑みで。
長としてのイデアと個人としてのイデアが混ざった複雑な表情。




「礼を言うよメディアン。お前のお陰で大方の計画は立てられた」



「どういたしまして、というべきなのかね……貴方は“アレ”を手に入れるつもりなんだろ? あたしは碌な事にならないと思うよ」



本来のメディアンの口調に戻った彼女の言葉に込められた感情もまた複雑なものだった。
何故ならば、何となくではあるが、イデアが何をするか予測がついてしまったから。
やれやれと肩を大きくまわして身体を解す。そして両手を頭の後ろで組んで彼女は大きく息を吐いた。




「いずれはね、今はまだ時間じゃない。ゆっくりと衰弱したハルトムート辺りがくたばるのを待つとするさ」



そうだ。こういう事にはタイミングが重要。
例えば、神将器の強奪というハプニングから、人の眼を逸らせるほどの大事件が。



そう、具体的な例をあげるとすれば、人類を率いた英雄の死とか──。




興奮が抑えきれないと言った表情で、イデアが細やかな手つきで覇者の剣の柄を幾度も撫でてやる。
いずれ、こいつはまた血を吸うことになるのだろうと半ば確信めいた予感と共に。
まぁ、その時までゆっくりと知識を取り込んで自分を強くするさ。




話は終わりだといわんばかりにイデアが立ち上がり、足元に転移の陣を展開し、そこに魔力を注ぎ込む。
来た時と同じように、イデアはあっという間に、まるで影の様に去っていった。












ふぅと小さく息を吐いたメディアンが椅子に身を任せ、脱力する。一つの大きな仕事を終え、どっと抑えていた疲れが噴出す。
何せ今まで何百何千もの言葉を頭の中で整理し、それら一つ一つの関係性を並べた後に真偽の判断をし、判りやすい様に要約して、噛み砕いたのだから。
エーギルそのものは余り減っていないが、神経的に疲れた。例えるならば、頭の中で絶えず何百、何千もの雑踏の声が響いていると思えばいい。





ようやくその雑音の海との対話という仕事から解放され、彼女は一息つくことが出来たのだ。
ふと今まで内面に収束させていた気配の探知能力を外側に向けると、彼女は部屋の外に息子の気配を感じた。
何をしているのだろうと思い、メディアンはいつもの様に何気なく、それでいて思いやりに溢れた声で息子の名を呼んだ。



直ぐに部屋の扉が開かれ、紫色の髪の毛を小さくそよがせてソルトが部屋に入ってきた。
ツゥッと地竜の眼が細まり、彼の布に包まれた左肩を注視する。魔力を宿した眼は服を透過し、その下にある傷を認識する。



青あざ、先ほどの稽古で自分が付けた傷だ。たまらず彼女は声をあげていた。
理由はどうにせよ、自分が子供に傷を付けたというのはいい気分にはなれないのだから。




「肩の調子はどうだい? 動かしづらいなら今すぐにでも──」




体内に存在する莫大な量のエーギルを編み上げ、行使されたリカバーの術はこの程度の怪我など瞬きの内に完治させてしまうだろう。
だが、術が行使される瞬間、彼は一歩下がり、首を横に振った。



「大丈夫。少し痛いけど直ぐに治るだろうし、何よりもこの傷は残しておきたいんだ」



だって、今日始めて母さんに訓練中に触ることが出来たんだもん。記念として残したいんだ。
そう言葉を続ける息子に、メディアンは言葉を失くす。
凛とした顔で自分の顔を真正面から見てくる息子に、メディアンはほんの少しだけ驚いていた。
これまで一緒に居たはずで、今までずっと成長を見てきた子が、何故か知らないがこの頃歩みを速めた気がする。




生き急いでいるとまでは言わないが、それでも何処か早期の成長を望んでいるように見える。
まるで何か目的を見出したかのように、彼は方向性を定めて何かに向けて突っ走っていた。



メディアンから見れば短い時間しか生きられない人間だからこそ出来る生き方……その目標として自分を選んでくれたとしたのなら、これほど嬉しいことはない。



「そうかい」




ポンッと頭に手を載せてクシャクシャと撫でてやるとソルトは余り幼く扱われたくないのか
その表情が一気に不機嫌になるが決して、手を払いのけたりはしない。
昔は素直に喜んでくれていたんだけどねぇ、と胸中でもらすが、もちろんそんな事を表に出したりはしない。




そしてそのまま、彼女は力を使い、息子の背を少しだけ強く押す。
いきなり背後から強い力を加えられたソルトは千鳥足を踏み、そのままメディアンの大きく広げられた両腕の中に納まった。



「ちょ、ちょっと!」



もがもがと胸の中で息子がもがいている様を見て、ますます両腕に込められた力が強くなる。
以前は足の付け根辺りにあったソルトの頭が今では胸の少し下程度、早いものだと思う。
幾ら自分が人間の女性の姿としては大柄な部類に入るとはいえ、ソルトの身長も中々の高さになっているとしみじみ実感した。



10年たらずでこれだ。ならば、後10年経てばどうなるのだろうか。
そのまた10年、そして10年先にはどんな姿になる? そして更にそこから10年──。



そこまで考えた瞬間、地竜は寒気に襲われた。物理的な戦闘力、魔術による戦いでは現状のエレブでは最強クラスの力を誇る彼女が、だ。
30年か40年など彼女にとって見れば瞬きにも満たない時間だが、彼女の息子にとっては違う。
40年か、長くても50年60年の後に彼は死ぬのだろう。病気で、怪我で、もしくは寿命で。






両腕に込められる力が、強くなった。
物理的な意味ではほんの僅か。心理的な意味では筆舌に尽くしがたい程に。







あとがき



早いもので今年も後わずかですね。
10月の最後に更新したのにもう12月か、と少し怖くなってます。
来年もよろしくお願いします。




そしてもう間もなくやっと作者の描きたかった話が書ける……。



また、今章も長くなりそうです。





[6434] とある竜のお話 第二部 五章 3 (実質13章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2012/03/08 23:08






その男は不満だった。彼は決して一度も満たされたことがない。
身体の中を流れる血液は常に糧を欲して叫ぶし、荒れ果てた荒野の様な胸の中ではいつも潤いを求めていた。
彼は透明な水の代わりに赤い血を好む。彼は仲間や家族と採る食事の代替として砕けていく骨の音を望んだ。



破壊衝動。憎悪。憤怒。これら負の感情が、理性という鎖などとうの昔に引き千切って溢れ出る。
そして彼はコレらを満たすたびに、常人で言うところの“幸福”を感じる事が出来た。
男はおおよそ人が、思考をする生物が持つ倫理というモノなどもってはいなかった。



たとえ、エリミーヌでさえも男の心を人のモノに戻すのは不可能だ。
彼は聖女の教えを理解したとしても唾棄し、こういうのだろう。



そんなゴミに何の価値がある? と。



赤子、子供、女、老人、畸形、彼は弱者には興味さえ抱かない。気に入らないと感じればすぐに、それこそ使い切った雑巾の様にその命を壊す。
否、彼にとっては弱者とは言うなれば“肴”だ。気がのったときに気まぐれでその命を食い荒らす。




彼は人として産まれたが、幾つか常人とは違う特徴を持ってこの世に生を受けた。
一つ目の特徴として、彼は単純に他者に比べて力が強かった。
純粋にして至高の領域であるその腕力は、彼がまだ幼かった頃から次元が違っていたのだ。




まだ10にも満たない子が、獅子を素手で絞め殺し、小さな山賊のアジト程度ならば一人で殲滅するほどに。
もはや、それは本当に人間かと疑問を抱きたくなるほどの“暴力”を彼は持っていた。




そして二つ目の特徴は、彼は人としての感情の機微のほとんどが抜け落ちていた。
彼は愛を理解しない。彼は情を理解しない。彼は、涙も、人の温もりさえ全てを不要なものと断言する。
多くの人は彼を不完全な人間と言うが、彼からしてみれば感情などという下らないモノに縛られているほうが異常者に見える。



彼にとっては、家族など所詮は自身にとっての糧でしかなく、ある程度の大きさにまで自分を育ててくれた後に、自らの手で皆殺しにした。
その時に彼は家族に始めて心の底から感謝した。あぁ、10年以上も自分を育ててくれてありがとう、と。
これで心置きなく、殺すのを楽しめる。彼は心胆の底から歓喜し、自分が生まれ育った小さな村の住人を一人ずつ
味わうように殺し、その全てを山賊の仕業に見えるように細工した後に旅に出たのだった。



井の中の蛙、大海を知らずという言葉があるが、彼は蛙ではなく凶暴な獣だった。それも見境無く全てを欲望のままに食い荒らす怪物。
井戸は彼を抑える牢獄だったが、既にそれは破壊されてしまった。




傭兵となった彼は、広い世界を知り、やがて人を超えた神の存在を知る。
かつてエレブに君臨せしめし竜族は、彼にとっては崇拝の対象ではなく“挑む”対象だったのだ。
それは熊や獅子を殺そうとするのと同じ感覚。




血が沸き、肉が踊り、狂気と狂喜が胸の内側で爆発していくのを感じながら、彼は一も二もなく挑んだ。
人と竜の危ういバランス?  竜族が恐ろしい? 人では竜には勝てない?



そんなこと、どうでもいい。彼にとって、エレブの情勢など心底どうでもよかった。
全てにおいて、彼の中では自らの欲望を満たすことが優先される。
竜が住まうベルンの地へと足を踏み込み、竜族の住まう巨大な国家にして都市、殿へと彼は行った。













そして、彼は産まれて始めて敗北の味を知ることになる。
いや、もっというならばアレは戦いにさえなっていない。







それは複数の偶然が奇跡ともいえる確立の上に重なったからこそ起こった出会いだった。



彼が数ヶ月の時間を掛けてベルン地方とリキアの境目にまで到達した際、彼はとある山間部で一人の“男の様なナニカ”に出会う。
人の姿をしているが、その本質が全く判らない何かと遭遇する。
しかし、狂者は強者の匂いを嗅ぎ取り、心躍る戦いを期待しながら遠目からソレを獲物を狙う肉食動物の様に眺めていた。


既に日は暮れており、男の顔はよく見えないが、異常に希薄でありながらも強大という矛盾した気配を撒き散らす男に彼は釘付けになったのだ。



月夜に照らされるのは従者に紅い髪をし、派手なスリットドレスを着込んだ女を従えた暗闇の中でも一際映える長い白髪の成人男性。
溶鉱炉の様に闇の中でも輝く紅と蒼の眼をした、人ならざるモノの窮極。


リキアとベルンの境の視察、及び知識の溜まり場の転移箇所のダミーの出来を直接確認しに来た男は、明らかに彼の殺気と殺意に気が付いているというのに見向きもしなかった。
男にとって彼など蟻であり、一々蟻に意識を向ける人間など居ないように、彼も男をそこいらの三下程度にしか思ってはいない。



彼の存在に気が付いた従者の女が力を解放しようとするのを冷たく制し、放っておけと態度で示す彼に狂える戦士の憎悪は瞬間的に最高潮に達する。
今まで自分の力を向けられた存在は恐怖、哀願、対立などの何かしらのリアクションをとったのに、男は何もしない。
ソレはまるで路傍の石ころを見るように冷たく、無関心の極地でしかない。



酷く彼の逆鱗を逆撫でする行為だったのだ。そして同時に彼は喜びもした。何と、何と強い存在なのだろうか、と。
強者との戦いは彼にとって、至上の喜びであり、弱者の殺戮は彼にとっては駄菓子のようなものなのだから。



怒りを爆発させ、対城兵器の如き勢いで男に突撃を行う彼を人ならざる存在は視線さえもくれなかった。
ただ、ほんの少しだけ意思が動いただけ。例えるならば、読書中に顔の周りを飛び交う煩わしい虫を片手で払うのに近い。



ソレにとって埃を払う程度の力が、動く。



【ライトニング】




詠唱も無く、動作も無く、エーギルの塗り固めも無い。無意識に周囲に流している力を適当に固めて発動させただけの呪文。
子供が砂場で泥団子を作って投げるような気楽さで発動させ、ソレは容易く男をねじ伏せた。
何をされたかも判らずに彼は地に伏していたのだ。その全身を焼け焦げさせながら。



満身創痍となった彼をソイツは止めさえも刺さず放置し、挙句は転移の術を使ってその場を従者と共に後にする。
事実、男にとってこの挑戦者の存在などその程度でしかなかったのだろう。




驚異的な執念と生命力で生還を果たした男は傷が癒えた後に深く考え、あの存在は人ではないと結論づけた。
獣染みた嗅覚と直感は、擬態を行っている竜だとあの存在を決定付けたのだ。
気配、力、隔絶した存在感、そもそも根本的に超越していると表せるあの存在を殺すことだけが目的で彼は精進を続ける。
血の川を作り、屍の山を築き、その中で得られる安堵を胸に秘めながらも彼はいずれ訪れるであろう戦争での再会の時を心待ちにしたのだった。



火蓋が落とされた人と竜の戦争において彼は武勲をあげ、英雄と崇められる立場になったが、彼にはそんなことどうでもいいのだ。
彼は戦いたい。殺したい。潰したい。それだけを目的に掲げ、それだけを行ったのだから。



彼にとって、平和など拷問以外のなにものでもない。
その点、戦役は正に最高の悦楽だったのだ。



努力はした。新たな戦いを求めて傭兵に身をやつした事もあったが、耐えられるはずもない。




だが、一つだけ彼はあの戦役に不満がある。自らを蟲のように潰した竜と最後の最後まで合間見えることは出来なかったのだから。
魔竜の殺害もハノンやローランに断固反対され、そこだけが消化不良になったといえよう。
気が付けば人間であることさえも辞めた彼はかつてよりも遥かに強くなった力を手に、再戦を願ったが、終ぞソレは果たせなかったのだ。
やがては狂気をおさえられなかった彼は同属の神将にさえもその力を向け、殺害しようとした彼は付き従う部下諸共僻地の極みに追放という憂き目にあう。




過去に思いを馳せるたびに彼にしては珍しく、男は憂鬱な溜め息を吐く。
あぁ、あの時、魔竜を殺したかったと。直感的に彼は悟っていたのだ、ここで魔竜を殺しておけば後々に面白いことになると。
それは男の野獣としての直感であり、実際にもしもそうしていたら男の予想通りにエレブには極大の災禍が訪れていただろう。





だが彼は追放された地で、高まりすぎた自らの力と飢えに食われ、その血に塗れた人としての生涯を終えた。
神将の一角の、呆気ない最後だった。







そんな彼を人はこう呼ぶ。畏怖と侮蔑と、憧れと共に。人の世に産まれてしまった魔獣に名を与えて──




【狂戦士・テュルバン】と。












エレブ新暦10年




ベルンの建国者にして八神将の長であるハルトムートが死んだという報告をイデアが受け取ったのは、とある日の夜の出来事だった。
ざわめく精霊の声を聞いたメディアンの報告を受けたイデアは一瞬思考が停止し、その手に持っていた書物を落としてしまった。
詳しい話を聞くと、死因は衰弱死。巨大すぎる力を行使する代償に自らの命を戦役中に薪の如く燃やしたのも彼の寿命を縮めた原因だったらしい。


もしくは、彼にとって掛け替えの無い存在だったろう妻と息子を同時に失うという現実が彼にどうしようもない傷を与えたのも一因か。
だが、どちらにせよ戦役が彼の寿命を多分に削ったのは間違いないだろう。



馬鹿馬鹿しいとイデアは思った。魔道にも言えるが、使用に重大な代価を利用される力など力というよりは単なる欠陥品だろうが、と。
ファイアーエムブレムのありかは不明。恐らくはアトスやブラミモンドに代表される究極領域の術者がその存在を隠蔽しているのだと思われる。
その直ぐ後に、その力を存分に行使している自分が何を馬鹿な事をと自嘲を含んだ笑みを浮かべ、あーあーと息を吐く。



一度、自室の椅子に深く腰掛け、リラックスできる体勢になってからイデアは考える。



さすがに、国葬の真っ最中の国に突撃して封印の剣とファイアーエムブレム、そして【エッケザックス】を奪おうなどとは思わない。
そんなことをすれば全てが水の泡どころか、この身と竜族の破滅に繋がってしまう。
だが【神将器】は非常に魅力的な一品だ。竜族を打ち砕くために創られし伝説の武器にして、竜殺しの至宝。




もしかすればイドゥンをあの水晶の牢獄、恐らくは封印の剣が齎した呪縛から開放する何かの手がかりが手に入るかも知れない。
封印の剣は神将器とは違った別の何からしいが、それでも何かしらの繋がりはあるだろう。
全ては可能性の話だが、それでも竜の知識と外部の人間の竜に対する殺意の象徴を組み合わせれば、より魔道の深遠へと至れる。



そうなれば姉を取り戻す未来へと近づく可能性があるのだ。それは決して無視できない。絶対に。




それにしても、だ。随分と世間では魔竜についての間違った考えが広がったモノだとつくづくイデアは思った。
エレブが安定をはじめ、戦役が徐々に過去のモノになるにつれて戦争の記憶は徐々に人々にとって都合のよいモノへと変貌を始めている。
例えば、竜は人を苦しめていたとか、竜が自然災害を起こしていたなど、ソレを神に選ばれた神将が打ち滅ぼし、世界に平和を齎すなどといった詩人の話はもう聞き飽きた。


エイナールが、そんなことをするわけがないだろうに。今は別の世界に親子もろとも旅立ったであろう氷竜の名誉を汚すなど、どうしようもない劣等もいたものだ。
あの日エトルリアで男と会話した際にあの男は魔竜を竜族の王だと言ったが、ソレも事実は違う。
恐らく魔竜は姉さんで、姉さんはあの夜殿に戻った結果自分の意思か、もしくは強制的に魔竜へと変えられて人と戦ったのだとイデアは考える。



実際は前者の確立が1割で、後者が9割ほどだろうと予想は付くが。まぁ、魔竜だろうと神竜だろうと、姉さんは姉さんで何も問題はない。
もう少し自分の術者としての次元が高くなり、仮に戻ってきたイドゥンが種族を研究するならば魔竜を神竜に戻す術を開発するのも悪くないだろう。



もしくは自分が魔竜になるのも悪くは無いかと半分だけ冗談で思い、苦笑する。
大きく息を吸って、そして呪いと共に吐き出す。



嘲笑と共に全ての神将に言ってやりたいものだ。
ナーガと全ての竜族が知識の溜まり場を駆使して戦っていたら、お前らは塵屑の様に吹き飛んでいたぞと。
そしてもしもお前らが姉さんを殺していたら、何もかも俺が終わらせていたよ。ありとあらゆる手段を使って。






さて、ここで話を本題に戻そう。
ハルトムートの死と、それによって発生する国葬。つまり、そこには残りの神将が集まるということになる。
彼らはかつての仲間の死を悼みに間違いなく来るだろう。



……ただ一人を除いて。




テュルバンだけは国葬に出れないし、出されない、出来ない。
何故ならばあいつは、事実上エレブから追放された身なのだから。


戦後、あいつは新たな闘争を探して表舞台から姿を消した後、元通りに傭兵をやっていたらしい。
だが、竜族との全面戦争などという極上の闘争を味わった男がたかが山賊や海賊を刈るだけでは満たされるわけもない。



故に、それは必然だったのだ。彼にとっては当然の行為。



テュルバンは戦役が終わってしばらくした後、よりにもよって神将の暗殺未遂などという暴挙に走ったのだ。
アルマーズを用いてバリガンを強襲した大馬鹿であり、それがハルトムートの耳に入った結果、彼は西の極地、西方三島へと追放されるという罰を受ける。
本当にこのナバタに追放されなくてよかった。そうなっていたら、かなり厄介なことになっていただろう。



だが、あいつはもう一人だ。狙ってくれと言わんばかりに。しかも本人は死に、彼の持っていた【アルマーズ】は西方三島のひとつにある事までは調べてある。
あそこまで莫大な魔力の塊は幾ら必死に隠蔽してもその気配は漏れてくるものなのだ。
世間が英雄の死に涙し、全ての眼がベルンへと集まっている今ならば、辺境の島になど誰も眼を向けないだろう。
神将らの煩い眼を欺くためにもなるべく事は穏便に済ませたい。そのための術も幾つか用意してある。



何年も前からこの時の為に動いていたのだ。メディアンや里の優秀な魔道士たちの協力さえも乞って。




「どうする?」



それは独り言。言葉を掛ける対象は自分であり、動くかどうかを決めている問い。
しかし答えなどもう数年前に出ているが故に、イデアは冷たく頷き、自らの手を見た。



思い立った様に椅子から緩慢に、しかし確たる意思を持って立ち上がり、クローゼットの中から白いマントを取り出して着込む。
とりあえずは、しっかりと準備を整えてから行かねばなるまいて。まずは玉座の間に行くとしよう。



地平の彼方から太陽が昇ってくる。どうやら考え事をしているうちに夜が終わってしまったらしい。






























『本当にやるのですか? 長が博打をするなど、あまり褒められたものではありませんな』




「判ってる、これは俺の我侭だ」




玉座の間に着き、王の椅子に腰掛けたイデアの隣に佇むフレイは既に何もかもを予想しているらしく
若干責めるような口調で自らの主に声を飛ばした。
彼のがらがらと砂をすり潰すような声を受けたイデアが、玉座に頬杖を付いて、その両の眼をこの老人の姿をした竜へ向ける。
10年ほど長という仕事を続けれたのはこの老人のお陰だということも知っているし、これからも続けるとしたら間違いなく自分はフレイの手助けが無ければ出来ないだろう。


表に出ること自体は少ないが、まさしくこの翁はイデアにとっての第二の教師であり、長をやる上で絶対に居なくてはならない存在。
そんな彼が、長い時間を生きて感情というモノをすり減らした彼が珍しくも少々怒った様子で自分へ反抗の言葉を向けてくるのをイデアは仕方ないと思った。



嫌でもこの長という役職をやっていると竜族を任された責任と言うのを感じることになる。
それは竜族を外の世界から守り、秘さなければならないという義務。
対して今から自分がやろうとしているのは、よりにもよってまだ神将が健在であり、外の世界の人間の中に竜という存在がまだ残っているご時勢に
自分自らが外出をし、神将の武器を強奪してくるという正に綱渡りな所業である。




一歩でも間違えれば全てご破算だが、やるしかない。
ハルトムートが死に、神将たちに老化が見られる今なら何とでもなる。
他の神将が死ぬまでも待つという手段はあったが、それでもどうもアトスとブラミモンドが恐ろしい。



竜族の術のありとあらゆる全てを総動員させても成功させてみせる。絶対に、何が何でも。
本人は気が付いてないだろうが、はっきりとした焦燥を胸の内でくすぶらせながらもイデアは玉座に身を任せ、周囲に眼をやる。

もしかしたら、これでイドゥンを開放するための何かが出来るかもしれない。
取り戻せるかもしれない。そんな期待が彼から少々冷静な思考を奪っていた。
弾むように声を発するが、しかし発声とは違い彼の声には熱が篭もっている。暗く、粘性を帯びた期待が。




「済まない。今回ばかりは俺の我侭を聞いて欲しい」



鈍く製鉄所の炉の様に輝く眼を見たフレイは肩を竦めた。全く、困ったと言わんばかりに。




『…………判りました。もう何も言いますまい』



認めてしまった以上、ならば自分のやるべき事は唯一つだろう。
いかに主の計画を成功させるか、いかに彼の安全を図るか、それに限る。
そしてこの里の存在を外に露見させず、万が一に備えてのイデアの留守中の防衛なども考えねば。




未熟で青い神竜に彼は不満を抱かない。
ただ隠さず自分の考えを述べ、それでも主は考えを曲げなかったのならば自分は従うだけだろう。
そも、この世界に唯一である神竜に反抗をしたところで、何も利益などないのだから。



それに、ナーガに彼の補佐を任されたからというのもある。




臣下が思考に入ったのを見やり、イデアは胸中で渦巻く感情を整理し、分断し、そして一つ一つをじっくりと薄めていく。
興奮状態では、色々なことを見落としやすい。冷静を心がけなければ。



まずはアンナとメディアンへと思念を飛ばし、直ぐにこの玉座の間へと来るように通達。
これで数分の後にあの土と火の竜はここに来るだろう。それを待ちながら、イデアは玉座より立ち上がり、踵を返した。
背後の空間に磔にされた四冊の魔道書を観察し、何れかをもっていくか彼は品定めしながら考える。



多少、制御が出来て、威力的には十二分なモノが好ましい。欲しいのは攻撃の規模ではなく、質。
大陸一つを吹き飛ばす魔法ではなく、確実に効果範囲の有象無象を消滅させるだけの威力の重さを持った術。
求めるのは極大の爆発ではなく、全てを処刑する刃。




「だとすれば、これか」




手を翳し、選定の意思を送るのは【エレシュキガル】と【ギガスカリバー】  
禍を撒き散らす闇と万象を切り刻む空間切断を引き起こす術。


闇と理の竜族魔法。効果範囲はともかく、攻撃の質と精度は十分に過ぎる魔法。
必殺と必滅の極致たる術を内包した二冊の書を手に掴むと、ソレの内包する力が伝わり、身震いと共に笑みが浮かんでくる。



二冊を懐に滑り込ませると、イデアは背後に何時の間にか控えていた二人の女性にその身を向けて、貼り付けたような友好的な笑みを浮かべた。
胸の内に秘めたどす黒い期待と力への渇望が透けて見える凶笑を。




「朝早くからで何だが……もう用件は判っているか?」




その言葉に二柱の竜は無言で頷く。アンナは無表情で。メディアンは少しだけ苦く笑いながら。
神将器の入手という計画は既に知っている彼女達は遂にこの日が来たのかと思いつつも、イデアの言葉に耳を傾ける。



「場所は西方三島の一つ、フィベルニアのジュトー地方……これであっているか? メディアン」




名指しで問われた地竜が小さく腰を曲げ、華やかに一礼しつつはっきりと聞き取りやすい声で答え、イデアをしっかりと見返した。




「はい。精霊からの言葉によれば、ですが」



テュルバンかアルマーズと思われる異常なまでのエーギルの質と量、そして普通ではありえない密度が最後に観測されたのは間違いなくそこだったとメディアンは告げた。
魔道の心得もなく、ただ獣の様に彷徨うあの男は超長距離からでも観測できるほどの気配と殺気、そして生命力を撒き散らしながら徘徊しているのだ。
まるで獣が餌をおびき寄せるように振りまかれるソレを精霊が感知し、正確な位置を地竜に送れたのは、彼女が類稀なる術者だからというのも大きいだろう。



正に歩く天災ともいえる男の気配が一度綺麗さっぱり消えてなくなった後、まるで狭い何処かに閉じ込められ、蓋を閉じられた中から少しだけ力が漏れてくるように感じるのはそこらしい。
テュルバンは追放され、死んだとも聞いたが、ここで矛盾が生じる。
何故死んだはずのテュルバンのエーギルがまだ存在しているのか。どうして、そう、まるで誘うように力を垂れ流しているのか、など。




表向き死んだとは言われてるが、人々の間に立つ噂ほど確定が取れないモノはない。





「かなり危険ですわ。以前殿に行った時以上に警戒が必要かと……それに嫌な予感がします」



今までの経験と竜族の優れた直感から導き出された自分の中での答えをアンナがイデアに進言する。
無言でイデアが次いでメディアンを見る。意見を求めるように。


地竜が小さく頷き、そして答える。




「あたしも何度か探りを入れてみたのですが……正直な感想ですが、アレの“気配”は淀んでいるようで、その実純粋でもあります」




淀んでいて、純粋。一聞すると、矛盾しているようだが、その実違うとメディアンは続けた。
紅い視線が遠くを見て、記憶を一つ一つ掘り返しながら彼女は言葉を紡ぐ。




「テュルバンらしき馬鹿でかいエーギルに一つ、限りなくソレに近いながらも違う性質のエーギルが複雑に交じり合っているのですよ。
 遠方から薄っすらと感じる気配の質は理属性の“雷”……あの戦後に精霊を通して感じた力と同種のモノさ。それに、あの島自体が何か妙なんですよ」




だとすれば、候補は【天雷の斧・アルマーズ】しかないとイデアは予想を立てる。いや、むしろそれであることを望んでいる。
狂戦士は生きているか死んでいるかは不明だが。どうなっているかなど予想もつけられないだろう。
厄介だ。実に厄介極まりない。神将といえば聞こえはいいが、その実殺戮衝動と戦闘意欲の塊の様な男と遭遇してしまったら……。




遭遇してしまったら……自分を抑えられる自信が無い。
身体の奥底が痒いのはきっと、神将器を入手できるからという期待だけではないのだろう。






「神将器の奪取は明日の夜に行う。既に転移の超長距離転移の術の準備は済んでいるから、アンナ、お前は明日に備えてよく休め。
 メディアン、今まで世話になった。お前は息子の所に戻っているといい」




それぞれに言葉と激励を掛けて、玉座に深く座り込む。
その後に訪れる沈黙は緩やかな退出を促していると気が付いたアンナとメディアンは一礼するとあっという間に音さえも立てずに消えて言った。




『アンナを消耗させるのは余り得策ではありませんな。もう一人、信頼のおける護衛を連れて行くことをお勧めします』




フレイが思考の後に導き出した答えを耳打ちする。イデアが眼だけを動かして彼を見て、そして次に正面の水晶色の通路を見やる。
確かに、自分が消耗した場合転移の術を使うのはアンナだ。それに彼女には自分の護衛という自分自身に加えてイデアを守る必要もある。
二人だけというのは何かと不便だとイデアは考える。片方が負傷なり消耗なりしたら、もう一人は二人分の動きをせねばならないのだから。



三人。一人が倒れても二人でフォローできる丁度良い人数。二人倒れたら、全て終わりだが。
だとしても誰を連れていくべきかとイデアは考える。そこそこに強くて信頼が置ける部下。



第一にメディアンが浮かぶが却下。自分が留守の間、里を任せるのは彼女しかいない。
圧倒的な力を持ち、経験豊かな彼女は最高の味方になるだろうが何かあったときの為に里に残しておくべきだろう。



第二にヤアンが浮かぶが、それも却下。あの男の戦闘力の程はわからないし
ソレに信頼そのものはあるがあくまでもそれは一歩引いた友人としての信頼であり、命と背中を預けようとは思わない。
里の魔道士や竜族も駄目だろう。彼、彼女らは戦いを好まずこの里に来たのだから。



では誰にするか。ある程度の強さがあり、信頼が置ける存在とは。



咄嗟に浮かんだ顔にイデアは思わずかぶりを振っていた。何を考えているのだろうか自分は。
彼は確かに強いだろうしある程度の信頼もあるが……違うだろう、彼は。そうじゃない、彼の強さはもっと別の所で使うべきだろう。
彼には、血生臭い戦場など見せたくもない。



そんなイデアの耳元で、かつて自分が胸中で囀っていた言葉が呪いの様にリフレインする。
力など所詮は力だと。種類など関係なく、この世は力と力のせめぎ合いで動いているのだ。
そして、力を持たない弱者など、何も知らない愚か極まるゴミのような存在であるとその言葉は囁いた。




憂鬱気な溜め息と共に彼は立ち上がる。とりあえず声だけは掛けてみようかと思いながら。
駄目元で、もちろん断られたらアンナと二人だけで行こうと彼は決めた。



「では、俺の留守の間は」



「お任せください」




阿吽の呼吸という表現がぴったりと来るようなフレイの発言にイデアは小さく笑った。


















天に高く昇る満月を間近で見られる場所、石造りの殿の屋上に上り、その柵も何もない縁にイデアは腰掛けて無言で星空を眺めていた。
そしてそんな彼の隣にはもう一人が同じような格好で腰を下ろし、何処か興味深そうに眼下に広がる里の全景を眺めている。
紫色の髪の毛を適度に切りそろえ、細いながらも引き締められたその肉体は5年以上も圧倒的な存在に鍛え上げられたという事実を感じることが出来るだろう。




ソルトとイデアは、互いに無言で殿の屋上で何ともいえない空気を醸し出していた。
始まりはメディアンの家を訪れようとしたイデアが偶々里の中で彼に出会ってしまい、世間話もそこそこにぶらぶらと歩き回っていたら
何時の間にかこんな所にまで来てしまったという、何とも情けない話になる。




そしてとりあえず一通りの話題を話しきってしまった一人と一柱は恐らく絶景が見たいという理由で訪れたこの建物の屋上で微妙極まりない空気の中、景色を見ているのだ。

周囲に張り巡らされた黄金の薄い膜は、夜の砂漠の冷気の侵入を防ぎ、人間であるソルトが凍死するのを防いでいる。



どうしよう……。



イデアは焦っていた。もう適当に話して場を繋げる話のネタもほとんどないし、それにいざ彼に本題を切り出そうにも
何かが喉の奥に引っかかって邪魔をするのだ。たった一言、一緒に来ないかと提案するだけなのに、どうにも言えない。
それは彼の母であるメディアンの反対を恐れるのではなく、彼自身が何処かに引っ掛かりを感じているが故の事。



彷徨うように視線を巡らせて、最後に頭上の星を見る。途端、思わず感嘆の息が漏れる。
空気が澄んでいるナバタで見る星夜は天を埋め尽くすほどの光のイルミネーションであり、かつてベルンで見たモノにも引けを取らない美しさを誇っていた。



不思議と、見ているだけで心が静寂に包まれるような幻想的な光景。




「イデア様、何を見ているのですか?」




ん、とイデアが視線を動かす。そして、改めて成長した若者の姿に眼を眩しそうに細めた。
自分が里に来た時はまだまだ小さな子供だった彼は今や立派な青年になっている。
ローブを着込んでいる上からでも判る鍛えられた身体に、若々しい覇気がある雰囲気は15歳とは思えない程に大人びた印象を見た者に与えるだろう。




答える言葉は考えもせずに自然に出た。いやあるいは真実、素直な言葉だったのかもしれない。





「ちょっと探してた」



「?」




神竜が紅と蒼の眼で星空を見やる。満天の、何万何億の星が浮かんだ空を懐古の情と共に。
この中のどれかに、あの星はあるのだろうか。





「この中の何処かにあると思うんだが、見つからないんだな。これが」





まぁ、見つけてももう意味はないんだけど。と肩を竦める。
そしてソルトを見ると、彼は困惑を浮かべた顔で此方を見つめていた。
本当に、大きくなったと彼は思う。自分は時間が止まったようにあの日の夜から外見は何も変わっていないが、この人の子は違う。



一年ごと、もっと早ければ半年ずつその姿を変えていくその成長には、イデア自身も驚きがある。
今まで人が竜に勝てたのは単なる偶然が重なった結果かとも思っていたが、もしかしたら違うかもしれないとイデアは思った。



こんな、そう、例えばソルトの様な奴がいっぱい居たとしたら、人が勝ってもおかしくはなかったのかもしれない。
リラックスするように全身を伸ばして、ソルトに身体ごと向き直る。人と竜の視線が交差し、沈黙がまた場を支配した。
その、なんだ、と何度かどもりながら竜は言葉を綴る。場を取りなすようにして。




「それにしても、もうあれから10年も経ったのかぁ……」




それは独り言にも近い。長いようで短い10年を思い、竜は何度も頷いてしみじみと思い出に浸る。
そういえば、もう俺は20歳を過ぎていたのかと思い、少しだけショックを受けながらも。
もう一度天にある星空に眼を移す。姉さんと見た時もあったなぁと昔に意識を飛ばしながら。
この中のどれかに、あの青くて綺麗な星はあるのだろうか。




「あの……少しいいでしょうか?」




「ん?」




何さと仕草で伝えると、どうにもソルトは緊張が見え隠れする気配と共に自分を見ている。
髪の毛と同じすみれ色の綺麗な瞳の中にあるのは強い意思。純粋で美しい芸術品の様な高潔さがある眼。




「僕も、一緒に連れていってくれませんか?」




刹那、イデアの呼吸は確かに止まった。全身に電流のような衝撃が走るが、直ぐに彼はその衝撃を表には出さず胸中でかみ殺す。
まだ何に連れていけと言っているのかは判らない。メディアンがバラすなどとは考えられないが……。
ああ見えて、あの地竜はしっかりとそういうところは分ける女性であり、情報の危険性も深く理解している。




「連れていけと言われても、何処へだ?」




表情が読み取れない、上辺だけの笑顔を貼り付けながら神竜が答える。
最初は様子見だと、あえてはぐらかす様な言葉を選んだイデアの眼をソルトはしっかりと見据えて、今度こそ言い逃れなどさせないと言外に込めて言葉を放った。




「外の世界に行ってやることを僕にも手伝わせて欲しいんです」




「……………」




結界を解いたわけでもないのに、周囲の空気が急激な速度で冷たくなっていく。
何故お前がソレを知っている? どうしてよりにもよって、今そんなことを言うのだ?



今でなければ、笑って流せるのに。
鋭い光を眼の中に湛えはじめたイデアを見て、ソルトがにっこりと笑った。
10年以上前の時代、彼がまだ幼子だった頃によく見せた悪戯染みた笑顔で。





「イデア様、意外と思ったことが顔に出るんですね」




あっと全てに気がついたイデアが思った瞬間には遅く、思わず、破顔して溜め息を吐いた。
まんまと鎌を掛けられて、それに乗ってしまった自分が居ることに彼は不思議と悪い感情を抱かなかった。




ただ、一言くらいの皮肉は許されるだろう。




「それも母に習ったのか?」




溜め息混じりに紡がれた言葉にソルトは顔を横に振り、違いますよと答えた後に経験ですと呟く。
この里にイデアが来た時、彼はまだ童だったが、それでも幼いながらにイデアを見続けていたのだ、と。



「何年もイデア様を見ていますからね……そして、答えをお聞かせください」




「その前に一つだけ教えろ。どうしてお前は俺について来たいんだ?」




怒りもなく、ただ純粋に見極めたいと思う意思の宿る色違いの瞳をソルトに向けてイデアが囀る。
こんなことは問うまでもなく何となく判っている。なぜならソルトは、産まれてからほとんどの生涯をこの里で過ごし、これからも過ごすのだから。
きっと、恐らく、彼は外の世界に憧れを抱いているのだろう。死ぬまでで一度でもよいから、外の世界を見たいと思ってもおかしくはない。




だから、イデアは断ろうと思った。彼の始めてを、今自分がやろうとしている我侭で潰すなんて傲慢にも程があると思ったから。
神竜は首を振って、出来るだけ言い聞かせるような口調でやんわりと断りの言葉を放とうとしたが、ソルトはそれを制する様に口を開いた。


穏やかな口調で人間の子は竜に向き合い、言う。





「僕はただ……」





一拍。区切ってから彼は続けた。それは、今までイデアが聞いた事のない言葉。






「貴方の力になりたいんです」





瞬間、イデアは全身に妙な電流が走るのを感じた。




心の動揺を隠し切ることが出来ず、イデアは思いっきり眼を見開いて唖然とした表情を浮かべてしまう。顔に出てしまったのだ。
もしもこの言葉を吐いたのが例えばヤアンのような男だったらイデアは信頼半分に疑惑半分と云った所で纏めてしまうだろう。
だが、ソルトは違う。彼がまだ幼子だった時代からその成長を見続けてきた若者であり、彼も同様に長としてのイデアをメディアンの傍で見続けてきた男だ。



思わず顔をソルトから背けてしまう。このままでは無様ににやけて、紅葉した顔を見られてしまうことになるだろうから。



今の大切さを知っていて、それを守るために努力を惜しまない少年。
強大な竜を家族に持っていても、それに並べるように腐らず己を磨ける心を持った人間。


自分なんかよりも、よっぽど長に相応しいだろう性質を持っているだろうと
心の何処かで思わざるを得ない彼が、掛け値なしにその生き方に絶賛を送りたい彼が、自分の為にと言ってくれた。




始めてだったのだ。前の世界でも、今の世界でも。純粋に自分の為に何かをしたい、貴方の力になりたいなどと言ってくれた者など。




それがどれほど嬉しいことか。
だけどこれは長として嬉しいのか、それともイデアという個人として嬉しいのかはイデアには判らない。
もう一度イデアはソルトを何とかにやけずに見据えて、彼に告げる。



歯の間から搾り出すように発せられた言葉はまるで罪深い男が神に懺悔をしているようにも聞こえるだろう。




「……まずはメディアンの説得からか」



彼の母である地竜の顔を思い出し、難題だと思う。まずはあれの説得から始めねばなるまいて。
無言で、しかし確かな歓喜を讃えた目をして頷くソルトにイデアは人知れず溜め息を吐いた。
だけどそれは決し悪い意味ではなく、むしろ逆。かつての輝かしい時代に姉に振り回されていた時に漏らしていたのと同じ、温かみが篭もった息だった。








あとがき



かなり遅くなりましたが、何とか更新。
何時の間にか20万PV突破&新年(しかも辰(竜)年!)&作者が書きたかった話というコンボが発生しましたので二話連続更新です。


次の話では、ようやく1000年前編ラストを飾るだろう戦闘の前編です。
主に作者の趣味とファンタジーでやりたかった事と出したかったものを全て出し切るつもりでいきます。






[6434] とある竜のお話 第二部 五章 4 (実質13章)
Name: マスク◆e89a293b ID:4d041d49
Date: 2012/09/03 23:54


西方三島。


文字通りエレブ大陸の西方に点在する島々であるソレらは、未だ奥地まで開拓の進まない、一言で言ってしまえば未開の大地である。
この島は辺境というには余りにも巨大で、その面積はほとんどが山に覆われているといっても全てを合計すればリキア地方全土を悠々と凌ぐ広大さがあるだろう。
ここに住まうのは開拓者精神逞しい者たちか、それとも国家の力を恐れて周囲に隠れ家を築いて現在進行形でその規模を巨大なモノにしている海賊や山賊たち。
この島の海域では年に数回はエトルリア王国と海賊の大規模な捕り物劇が見られることだ。だが、巻き添えを食らうので野次馬はお勧めできない。




無数に島に連なる鉱山からは豊富に金属や宝石、その他の貴重な資源が採掘されることも近頃わかってきた。
だがまだこの島の奥地は気候の変動などが激しく、それに輪を掛けるように凶暴極まりない原生の獣が群れを成して生息することもあって人の手は余り及んではいない。
その結果、三つの巨大な島の内、未だ人間達はその2つにしか足を踏み入れてはいなかった。



皆が皆、この島に夢を求めてやってきていた。賊たちは自由への展望と欲望の発散を、開拓者は豊かな生活を求めて。











イデアは緊張していた。



理由は幾つかあげられるが、やはり一番なのは姉をあの水晶の牢獄から開放できるかもしれないという期待感が大きな割合を占めている。
既に使い慣れた転移の術にいつもより多量の魔力を込めて発動させ、光に包まれた先の空気が
いつも吸っているナバタのソレとは違う淀んだモノを含んでいるのを感じたとき、それは最高潮に達した。



ここは西方三島の一つで、最も広大な領土を誇るフィベルニア島。
他二島であるカレドニア島とディア島などとは違い、この島にはまだ余り積極的な移住は行われてはいない。
何故ならば、この島は民草に語り継がれる歌の中では恐怖の象徴として紡がれてきたのだから。



【狂戦士テュルバン】


人を勝利に導いた英雄に数えられる一人なれど、その実は最も人間と言う枠から外れた男。
彼は戦後に齎された自ら勝ち取ったであろう平穏を自分の手で破壊しようとし、そして流刑に処されたのがこのフィベルニア島。
獣が群れを率いるが如くに彼に従順に付き従う彼の軍も共に流されて、彼らはこの地をまるで亡霊の如く彷徨い、そしてある日を境に忽然とその姿を消したのだ。



それ以来、このフィベルニア島はその顔を一変させる。
確かにこの島には危険な獣が住み着き、付近の海流の影響から船の座礁は多く、天候さえも安定しない地ではあるが、それでももっと違う何かが変わった。
もっと冒涜的で、もっと深淵に通じ、もっと人の心に蛇の様に絡みつく恐怖を伴う何かがこの島の空気を淀ませている。



だが、今のイデアにとってそんなことはどうでもいいことだ。ささやか極まりなく、とるにも足らない。
空気が淀んでいる? 人が足を踏み入れることなど出来ない? おぞましいエーギルの波動?
それがどうしたというのだ。下らない。そんなことで、俺が姉さんを助けるのを諦めるとでも思ったのか。



ハルトムートは死んだ。そして他の神将たちも程なくその後を追うだろう。
一足速くいったモノの残骸どもが何をしてこようとも、全て踏み潰せばいいのだから。




ここまで考えてからイデアは気が付いた。まるで自分がテュルバンと戦いたがっている様な考えをしていることに。
冗談ではない。何が悲しくて危険に自ら飛び込むような真似を望まなければならないのだろう。
だが、だ。少しだけ気になる。無意識に握り締めていた手を顔の前まで持ってきて、ゆっくりと開く。






暗く高く笑いがこみ上げてくるが、それは視界の端にソルトを見た瞬間消し飛んだ。
彼はイデアと眼があった瞬間、小さくはにかむように笑って頭を下げる。
冷や水を被せられたように興奮が収まり、それに変わって冷静な思考がイデアを支配していく。



もう一度だけ、イデアは気配探知能力を使って眼は使わずにその力でソルトを“見た”
そして、思わず瞠目する。彼の着ている鎧と武器に驚きを覚えたのだ。



ソルトがその身に来ているのは何やら複雑怪奇な文字が無数にビッシリと刻まれた皮の鎧。見た目だけは少しおかしい程度のそこいらにある茶色いくたびれた色の皮の鎧。
もちろん刻まれてるのはただの文字ではなく、それそのものが力を持つ竜族の呪文であり、それは鎧の軽量化や防御能力の向上を約束している。
それだけではなく体力と受けた傷の回復速度の上昇さえも見込めるほどの一品だとイデアの魔道士としての知識は予想をはじき出す。



もしもこれを例えばエトルリア王国の権威ある魔道士などに見せたら椅子から飛び降りてから足元にすがり付いて譲ってくれと喉が壊れるほどに叫んでもおかしくない品だろう。
正に地竜の加護を受けた防具。この世で最も頑強に精魂込められて作られたモノの一つだろう。
あの地竜の性格上、身に余る武具などは渡さないだろうから、つまりソルトはこれを着こなせると彼女は踏んだのだろう。



メディアン……そうか、そうだなとイデアは胸中で頷く。今回のこの行為は俺の我がままだからこそ絶対に成功させなければならない。
ソルトが自分についていくと言った際の彼女の悟りきっていたような、それと同時に心配で泣き出しそうな顔を思い出すと胸が針で刺されたように痛む。



成功とは誰も欠けることなく誰も怪我などを負わずにアルマーズを持ち帰り、なおかつソレを誰の仕業か判らないようにすることだ。



だが、とイデアは空を見上げる。そこにあるのは少しだけ雲が多く、決して快晴とはいえない夜空。見れば月は雲の隙間に見え隠れしており、周囲には霧が出始めている。
問題はそこではない。物理的で人間の視界でも見える自然現象ではないのだ。このフィベルニアにある問題は。




先ほども感じたが、やはりここいら一帯、フィベルニアという島全体の空間の異相が少しおかしい。
少し? 否。かなりおかしい。
言うならばあの殿に似ている。激しい戦いによって破壊された世界の狭間へと流された殿と同じようにこの西方三島のフィベルニアは歪んでいた。




これは正直な話、嬉しい誤算である。もってきた術式を使わないで済むとなればその分力を節約できる。
竜の力を使い地脈から力を組み上げるための井戸を掘り、そこから汲み取った力で周囲一帯を
世界ごと擬似的に殿の様にエレブから隔離してしまうつもりだったのだが、それも必要は無くなった。




「目的地の場所は既にメディアン様から聞いていますわ」




アンナが人差し指を立ててその先端に小さな火を灯す。
彼女がふっとそれに息を吹きかけると、産みだされた火の玉はふわふわと浮遊をはじめ、飛んでいく。
鬱蒼と茂る森林の闇を真紅の火が切り裂きながら進んでいくのをイデアとソルトは見て、同時に頷いた。




「付いて来い。ソルト、お前は俺の傍を離れるな」




顔は向けず、声だけを突き刺すように言うと、イデアは自信に満ちた足取りで歩を進め、その背後を人間と火竜が続いた。




















アンナの産みだした火の玉を追って、ある程度歩いた三者はとある洞窟の前でぴたりとその足を止めることになる。
周囲を見渡してみれば、相も変わらず気が滅入ってしまいそうなほどの深い森に覆われており
特にここは樹齢何百か何千もの木が交互にその枝を伸ばして空を覆っているため、まったくといっていいほど月の明かりは入ってこない。



そして何よりイデアが違和感を覚えたのは、周囲に全く命の気配がないことだ。
普通、蟲にせよ、動物にせよ、そこに居れば何らかの音や空気の流れ、呼吸、無意識に放出している熱などでその存在を感知できるのだが、ここには全く何もない。
もう少しだけ範囲を広げて周囲の存在を“見て”みたが、結果は変わらない。動物どころか蟲さえもいない。



彼は既に一度この状況を体感している。あの夜【殿】へと戻った日に。
あの日よりも格段に向上を果たしている気配探知能力は一つだけあの時とは違うモノをイデアへと届ける。
興味深い波長をイデアは捉えた。彼はイドゥンやメディアンの様に精霊との対話こそ出来ないが、精霊の存在を薄く感じることぐらいならば出来るのだ。





そんな彼が精霊から受け取ったモノ、人間で言えば感情とも表せるソレは一つの意思に染まりきっていた。
即ち【恐怖】に。精霊達は何かを恐れていた。怖くて怖くてたまらないと幼子の様な叫びを上げながら、必死にその念を全方位へと飛ばしている。
あぁ、嫌な予感がしてきた、とイデアは内心ごちりつつ勤めて温和な笑みを浮かべてソルトに向き直り、小さく笑いかけた。





「今ならまだ間に合う。帰っても誰もお前を責めないし、俺が絶対に責めさせない。引き返すなら今の内だ」




出来るだけトゲを抜き取り、言葉を選びながら告げる。事実イデアはソルトの事を足手まといなどと欠片も思ってはいない。
だが彼には帰りを待つ母親が居て、ここから先は困ったことによく当たる直感が危機を次げている以上、碌なことにはならないだろうからこその言葉。
絶対などありえない。万が一にでもソルトを失ったら自分はメディアンにどう顔向けすればいいのか。



いや、違う。違うのだ。実際はそんな屁理屈をこねくり回した模範的な答えではない。単純にイデアは、ソルトを失いたくないのだ。
だが、困ったことにイデアはそれとは逆の思いも抱いている。
即ち、出来るならば共に戦いたいと。だが彼を危険に晒すのは嫌だ。



共に戦いたいのに、彼を戦わせたくない。ぐちぐちと理屈ばかり捏ね回す自分に本当に呆れをイデアは覚えた。
まるで駄々を捏ねる子供の如く要領を得ず、矛盾している心を出来るだけ押し殺してイデアはその裂けた瞳孔でソルトを覗き込む。



少しだけ髪と同じ紫がかった瞳を見せる人間は、千の言葉よりも一対の瞳で心象を語った。
無言で、しかし確たる意思を変わらず宿す人間の眼に遂にこの頑固で理屈ばかり捏ねる神竜は根をあげる。
大きく溜め息を吐いて、人差し指をソルトに向けて横に一閃。



宙に一筋の黄金が刻まれる。
指先から迸った黄金の力がソルトに纏わりつき、やがては包み込むように彼の体を覆ってから溶ける様に消える。
黄金の波動による守護。少しでもソルトを守るためにイデアは彼が着ている鎧に掛けられた守護に更に大幅な補正を掛けたのだ。



それは元々あった地竜の加護の効果を底上げさせ、そこに更に神竜の加護を加える。
例えばそれは筋力や体力の増加だったり、精神の安定を保つ守護、動体視力の上昇などなど。
まず間違いなく世界でも最強クラスの高位の術による加護を与えてもなお、イデアは満足できずにその頭をかしげる。


彼の頭に一つの術が浮かぶが、瞬時に彼はそれを却下する。
人間の身に与える加護としては強大に過ぎ、一日も身体が持たずに朽ち堕ちる術など掛けるわけにはいかない。



さて、もういいだろう。気を取り直して神竜はぽっかりと開いた洞穴へとその視線を走らせる。
匂いが、する。独特な肉の腐敗臭が。硫黄の匂い。鼻腔を蹂躙する死臭。
そして、それはこの洞窟の中から漂ってくる。おおよそ人外染みた圧倒的な敵意と共に。



またか、とイデアは思った。どうして、こう、俺の敵は皆が皆、化け物ばかりなのだろうか。
隣に佇むアンナの気配が急激に冷たくなっていくのを頼もしく思いつつも、イデアは大きく深呼吸をした。
二度三度、新鮮な空気を肺に取り入れて気分を丸ごと入れ替える。恐らく起こるであろう戦闘に備えて思考が冷たく冴え渡り始める。




金属が空気を切り裂く甲高い音と共にソルトが腰に固定していた一本の長剣を軽々と引き抜く。
見事な銀色の刀身は実用にも耐えられるほどに頑強であり、この剣にも一つカラクリがある。
刀身が薄っすらと紫色に輝きを放ち始め、その刃に不可思議な文様が浮かび上がった。



ぶぶぶと羽虫が羽ばたく際に発生させるだろうあの生々しい音にも似たうめき声を上げて、剣は発光している。





【ルーンソード】




この剣に切られたモノのエーギルを奪い取り、それを持ち主に還元させる。それがこの剣の能力。
当然、メディアンが丹念に術式を幾重にも重ねて加護を与えたこの剣は普通の剣として使うにも問題ないほどの力があるだろう。
更に言うならば、この剣はメディアンの加護の影響で純粋にこの大きさの剣としては“軽い”のも特徴の一つといえる。




しかし、イデアが一番驚いたのはそこではない。
確かにこの剣は素晴らしいが、殿から様々な武器などを回収してきたイデアにとっては余り珍しいとは思えないから。
メディアンという地竜の力を考えればこれぐらいの武器は、多少時間を掛ければ作れると知っている。




問題は、ソルトの眼だ。意識の切り替えを行った彼の眼は、既に少年ではなく、一人の戦士のソレだった。
冷静に全てを客観的に見る冷めた思考を宿し、周りを冷静に観測し、自らが何をするべきかを模索する眼。
そして、今の彼が纏う気配にはどうしようもないほどにメディアンの影が見える。




こうみると、あぁやっぱり彼は彼女の息子なのだと改めて実感せざるを得ない。
あの地竜に何年も鍛えられているのも知っているし
彼が誰を目標にして必死に自分を磨き上げているのも知っているイデアは眩しいモノを見るように眼をすぼめる。




気を取り直すように一度閉じた瞳を再び開くと、神竜の眼は剣呑な輝きを宿し、黒々とした穴を覗かせる洞窟を見据えた。
竜族の暗闇の中でも見通す眼は、確かにその中に存在する、隠すことなどかなわない狂気の渦を目視する。
殺意。敵意。悪意。狂喜。狂気。そして血と破壊。ただの言葉としての概念でしかないソレを、イデアは確かに物理的に感じて、見た。



それらの密度たるや、かつての殿に巣食っていた死に底ない共とは全てにおいて次元が違う。
もっと規則正しく統率されていて、それでいて戦意よりも更に深い何かが噴出している。




だが、神竜はソレら全てを直視しても平然と鼻で笑う。あぁ、また死にぞこないの掃除が始まるのかと、彼は思っただけだ。
ソルトとアンナの顔を見て、彼は小さく頷くと躊躇いもなく歩を進める。一歩一歩、まるで敵の陣地を蹂躙する騎馬の如く。
目指すはこの万魔殿の深層。そこから漏れ出る力は紛れもなく自らの望みをかなえるのだから。


そして空虚な穴を晒す漂う腐臭の根源へと、悪意に満ち満ちた深淵へ神竜は足を踏み入れた。





















洞窟の暗闇の中をトーチの光で切り裂きながら進みつつ、イデアは底知れない不快感に襲われていた。
針のむしろという言葉があるが、正にソレは今の彼の状況を的確に言い表している。
イデアの持つ能力の一つであり、常に彼を有利な状況へと導いてきた力である広範囲に渡る広く深い気配探知能力、今はその力が彼に負担を掛ける鎖となってしまっていた。



視線で人を殺せるとしたら、既にイデアたちは幾百回も死んでいたことだろう。
それほどまでに苛烈な殺意と悪意が来訪者たちを出迎えていた。


この洞窟に入り込んだ瞬間から一時の休みなく全方位から隙間なくびっしりと殺意を向けられ、その感覚が麻痺してきている。
あぁと溜め息を吐きたい衝動を必死にかみ殺しながらイデアは少しだけこの洞窟に巣食うものらへの評価をあげた。
なるほど、確かに竜を殺す方法はわかっているらしい。先ずはその鋭敏な感覚を封殺するところからくるとは。



だからこそ、自身の背後で意識を戦闘へと極限にまで研ぎ澄ませたことが見なくてもわかる火竜の存在が頼もしく思えた。
そして人間であるからこそ、全方位からの濃厚な殺気の嵐に惑わされず、慎重に明確な害意を探る男の存在もだ。
であれば、自分も遅れを取るわけにはいかないだろう。この身はただ守られるだけであってはならないのだから。




そう考えた瞬間、イデアの頭の中に巣食っていた傲慢な考えは身を潜め、彼の思考の中に人間が持つ臆病さが宿る。
慎重に、神経質なまでに精神を集中させてソルトがやっているのと同じように余分な情報を廃し、明確に、今自分たちを傷つけようとする殺気だけを探す。
それはまるでメディアンが精霊の声を聞き分けて、必要な言葉だけを拾い集めたのと同じ行為にも思える。






惑われてはいけない。周囲に飽和するほどの害意全てを相手にしていたら精神だけをすり減らす結果になる。
こんな単純な事実に気付けなかった自分と、何も言われずにソレを実行していた二人にイデアは内心小さく賞賛を送ると、視線を走らせる。
灯りに照らし出された周囲の壁や床はここがただの洞窟などではなく、何かの神殿であるかのように石のタイルなどに覆われている。
天井は高く、果てが見えず、ただ闇に支配されているだけ。眼を凝らして奥を見ると、時折壁にある亀裂から何やら危険な感じのする白濁したガスが勢い良く吹き出ていた。




どうやら洞窟の中に立ち込める硫黄の臭いはあのガスが原因らしい。
絶対にアレは浴びたくない。心底イデアは誓うと、歩を進める。





暫く歩き続けると、三人は多大な広がりを見せる奇妙な空間に出た。
今彼等が歩いている道は決して狭くはなく、むしろ高級な馬車を二、三台横に並べても大丈夫な程の横幅があり
加えて道そのものもある程度整地されており、歩く分には問題はない。



何故、このような場所に人の手が入っているのかイデアは疑問に思ったが、直ぐにそんな考えは消し飛ぶ。
そこから見えた景色は、ある意味人の記憶に焼きつくだろう。そして同時に、どれほど自分が矮小な存在かを理解させられる。
地獄という場所をイデアは信じていないが、ここをそうだと言われれば思わず頷いてしまうだろう。




ソコは、正にこの世とは思えない程に異界染みた場所だった。



道の端は崖の様に切り立っており、遥か奈落の底に続いている。
その底では流動する濁った川が流れており、竜の視力はその川が赤黒く濁った色彩を放つところまで見抜く。
そう、まるで人の鮮血を垂れ流している色のような。そこから漂う匂いも鉄が錆びた様な、鼻腔を苛める臭い。
よく見ると、川の表面には無数の気泡が発生しており、まるで川底に無数の生き物が居るようにも見える。



深淵から、何かが此方を狙っている。そんな想像が頭をよぎった。
遥か彼方に見えるのは無数の巨大な柱。殿を支えていたのと同規模の柱が幾本も天に屹立しており、この洞窟を支えていた。
柱は不気味に紫色に光りを放ち、この暗闇の空間に一定の光明を与え、視界を確保させる。



この洞窟に入ってから送られ続ける殺意と悪意は減衰するどころか、むしろよりその勢いを増していく。
肌がチリチリと痛み、知らず心臓の鼓動が早まる。だが、決して余裕は失わずにイデアは周囲を見渡して、気がついた。
此方に一際濃度の高い憎悪にも似た、既に怨根という領域にさえ到達する殺意を向ける存在に。




来るな、来るな、来るな、来るな──。



感じるのは明確な排斥の想い。それでいて、そこに混ざるのは矛盾染みたよくぞ来たという歓迎の思念。
二つの対極の意思を送る存在を探すように視線と過去最高の錬度で研ぎ澄まされた“眼”を走らせて……見つけた。





たどり着くのは、ちょうどイデアたちの正面にある巨大な石柱の前に微動だにせず座する存在。正確には台座の上に固定された像だった。



ソレは、人間ではなかった。ソレはもっと言うならば、生き物でさえない。こんな存在を生き物と認めるのは、全ての生物への愚弄だ。
鷲の翼と足を持ち、頭部には山羊の角を生やし、人間と同じ手を持つ存在。
全身に積もったのはこの存在がどれほど長い年月動かなかったのかを示す埃の山。
尾っぽには無数の鱗があしらわれており、その先端は巨大な戦斧となっている。




鷲とも人間とも取れる顔を持つ像が被った仮面の内側より不気味な光が零れる。ソレが全ての合図。



全身を青銅で作られ、ただの金属の塊でしかなかった存在に魔術の外法で仮初の意思を与えられた存在。
本来動くはずのないただの像が不気味に軋み鳴る。ぱらぱらと音を立てて積もりに積もった埃や石礫が像から剥がれる。
像が手に握るのは巨大な、人間が扱うことを想定していない太く、長いハルバード。一振りで、馬車さえも粉々に解体するだろう重量と威力を秘めた武器。
銀製のソレは魔術による加護の影響か、朽ちることなく鈍く輝いている。






───!!!!!





巨大な怪物は喜びの声をあげる。久しぶりの獲物を狩れるという事実に。
飛竜の如き翼が金属の擦れる音と共に広がり、その表面が不気味に、まるで生物の如くさざ波を立たせる。
青銅の羽が踊り、金属の翼が浮力を得て、この怪物は天へと飛び立った。



ソレの名前は、ガーゴイルといった。金属に特殊な加護を与え、作り出される存在。
モルフ・ワイバーンに代表されるモルフへの対策を人間がしていないはずがない。
戦闘竜やワイバーンに対抗するために人類が作り出した兵器が、その本来の役目を果たすべく動き出した。






───!!!!!!!!!





ガーゴイルが再度、巨大な咆哮をあげる。人間の可聴領域を超えた絶叫が洞窟全体へ、そしてこのフィベルニアに轟き、浸透。
万象を揺らす号砲。それこそが開戦の火蓋。今この瞬間に戦いの幕は切って落とされた。



血の川が沸騰するお湯の様に激しく粟立ち、その中から無数の鎧兜を着込んだ亡霊共があふれ出す。
既に全ての者に肉など付いておらず、骨か、よくてもミイラ化している死者の軍勢。だが、肉体は滅べども戦意だけは最高のままだ。
その手に握るのは残らず竜殺しの剣であり、槍であり、斧、弓矢、ハルバードの数々。
各々が、歓喜と憎悪の入り混じった吐息とうめき声を漏らし、狂戦士の眷属らは嬉々として戦いへと赴く。



既に人であったときの精神はなく、今あるのは久方ぶりの戦いに酔いしれ、踊り狂う亡者。
骨しか残らない五指でしっかりと崖を罅割れる程に握り締め、のぼり始める。人であったときの三倍はある速さで無数の骸たちが崖を上る光景は、何ともおぞましい。
地獄の底から這いずってくるような錯覚さえ抱かせる光景を前に、イデアは溜め息を吐く。




イデアが肩を竦めた。三度目の戦いも、やはりまた化け物相手か、と。こいつらはもう見飽きたのだが。
おどけるように背後に振り返り、彼は軽口を叩く。まるでここが酒場で、友人と取りとめのない話をしているように。




「見ての通り化け物相手だが、怖くないか?」



「まさか! 怒った母さんの方が百倍怖いですよ」



「私は先代の長を知っていますので」




各々が、記憶の中にある最強にして最高の存在を引き合いに出し、眼前のガーゴイル、そして死者の軍団などソレの足元にも及ばないと断ずる。
全身に浴びていた殺気が更に膨れ上がり、全方位から先ほどとは次元が違う密度の害意を叩き込まれながらも、イデアたちの行動は早い。
ソルトが剣を引き抜き、片手で持って構え、アンナは竜の力の一部を竜石から引き出し、背から紅い光を吐き出す。眼が爛々と輝き、彼女の周りだけが陽炎の如く揺れる。



そして、イデアは自然体そのものな動作で棒の様に直立しつつ空を飛ぶ魔物の像をその縦に瞳孔が裂けた紅と蒼の眼で睥睨。
力の込められた竜の眼はこの魔道によって産みだされた存在の全てを軽々と解析する。解析妨害の為の術など、神竜の力の前ではゴミの様に破られ、全てを赤裸々に。
次いで、このガーゴイルの全てを“理解”したイデアはつまらなさそうに息を吐くと、右腕を胸の前まで持ち上げる。



神竜が邪魔だと言わんばかりに自らに空中から切り込んできたガーゴイルに狙いを定め、力を行使。
ギギギギギギとイデアの逆鱗を逆なでする、まるであの時の飛竜の如き声を聞いてイデアは顔を顰めた。



あぁ、うるさい。その声はもう俺のモルフ以外からは聞きたくない。
そんな意思と共に、イデア本人からすればささやかな力が発動する。




自らの自重を利用し、ハルバードを上空から振り下ろそうとしたガーゴイルの首に黄金の光が纏わり付き、強引にその軌道を捻じ曲げる。
これは首を締め上げるという行為の逆。首を中心に、ガーゴイルの体躯が強引に“沈む”
まるでそこだけ重力が異常に強くなったかのように、ガーゴイルが地面へと吸い込まれ、必死に空中に止まろうとする行動を嘲け笑う様に背から無遠慮に引きずり落とされた。




刹那、金属が砕けるような轟音が、空間を震わせ、蹂躙。
事実、落下の衝撃でガーゴイルの翼は砕け、半分ほどの大きさにまで小さくなり、これでもうこのガーゴイルは飛行できない。
大地を揺らす振動と共にガーゴイルが地面に縫い付けられ、無茶苦茶に尻尾を振って暴れまわる。


首輪の様に首に纏わり付いた光がガーゴイルを大地に縛りつけ、その動きを阻害した結果、この魔物は飛行能力やその巨大な武器を振り回すことさえも許されない。
尾の先端に植え込まれた巨大な戦斧が風切り音と共に振り回され、ようやく崖上に到達した死者の一部を崖下に叩き落す。
まるで出来の悪いコントの様に亡霊が叫び声を上げて奈落の底に強制退去させられる光景は傍から見れば滑稽にも見えるだろう。


だが、ガーゴイルは必死に自由に動く尾をもって、イデアたちをなぎ払おうとその全身を這い蹲りながらもじわじわと動く、その暴威を侵入者に与えるために。
そしてその行動は、イデアを不愉快にさせるだけだった。ただでさえ、この巨体が道を塞いでいて通れないのに。



この場で最も強い力を持つ神竜が、その尾を目障りと感じた瞬間、その意は速やかに実行された。
ただし、神竜は何もしていない。彼の意を迅速に汲み取り、動いたのは彼の部下であり、心からの信頼を与えられている者だった。


彼は一歩イデアの前に踏み出し、柄をしっかりと、しかし決して緊張などせずに握り締める。
今彼が立つその場所は無茶苦茶に振るわれる破壊の戦斧の次の動線上でもあるが、彼はそんなこと気にも留めない。



ふっと、腹の底から息を吐き出し、動作に乗せる呼吸。
全身の筋肉が収縮し、圧縮された力が一気に開放される気配。
イデアの頬を撫でるのは、小さな空気の揺らぎ。魔剣が暗の軌跡を残し、過ぎ去った残照だけ。



竜の眼は全てを事細かに見ていた。
カマイタチの様に振るわれたルーンソードの一太刀が、見事に無秩序に動き回るガーゴイルの尾を正確に捉えて、先端から半分ほど両断するのを。
切り刻まれたガーゴイルの尾が生き物の如く暫く震えた後、動かなくなるのも。



そのまま彼はガーゴイルの尾を俊足で駆け上がり、既に半分ほどの大きさにまで削られていた翼を根元から切り飛ばし
最後に両手で握った剣の一撃でガーゴイルの仮面を叩き割った後、余裕さえ感じさせる動作で飛び降り、大地に足をつける。


その軌跡を縫うように紫の残光が後を追い走りぬけ、光粉を撒き散らす。
ルーンソードによって奪い取られたエーギルと魔力が撒き散らされた結果だ。



だが、ガーゴイルは生き物ではないが故に痛覚など存在するはずもなく、怯まない。
身体の一部を失ったにも関わらず、取り乱すこともなく動き続ける。我武者羅に手足を動かしてもがく姿は滑稽で、哀れにも思える。
だが、既に手はうってある。そもそもの話、ルーンソードで切られた時点で全て終わっていたのだ。



ガーゴイルに宿る魔力が急速に薄れる。ソレは幻想的な粒子となり、かの怪物の身体から引き剥がされていく。
青銅の身体から青白い光が散華し、それは無数の光の粒子となり飛び交い、そして魔剣へと引きずり込まれて、食われる。
全ての活力を奪い取られ、この石魔は今度こそ二度と動かない、ただの彫像品へと堕ちる。



全身を支えていた妄執とも言える術式が機能を失い、ガーゴイルの四肢が長い年月の歩みの影響を受け、一瞬にしてボロボロと崩れていく。
数秒後には、そこにあったのはただの青銅の山だ。しかも、現在進行形で煙を上げて、猛烈な勢いで酸化していくボロ屑。




これこそ、ルーンソードの能力。刀身に宿る力は闇魔法【リザイア】と同等の威力を誇るエナジードレイン。
しかも厄介な事に本来ならば連続使用などは不可能なはずのこの剣は、地竜メディアンの加護によって無尽蔵の耐久力を誇る凶悪な武具へと化していた。
だが、ソルトはその剣に頼り切ることはない。彼にとってこの剣は母から貰った大切なモノではあるが、同時にただの道具に過ぎないのだから。
一番母が喜ぶのはこの剣を壊さないことではない。自分が無事に家に帰ること。それを理解しているからこそ、彼は何処までも冷淡に戦闘を行えた。



“欲しいなぁ”と胸の奥から燃え上がるように湧いてきた情感を封殺しつつ、イデアは周りに更に“眼”を送り、状況を第三者の視点から見渡す。
ワラワラと獲物に群がるハイエナの様に何百何千もの骸を晒した死人が真紅の川からあふれ出てくるのを“見て” 次いで彼はその瞳を空中に動かす。




──この遺跡に設置されていた全ての像魔から、不気味な唸り声がし、その口元から獰猛な敵意があふれ出す。
   仮面で隠された顔の奥には、隠しきれない、それだけは全てが作り物のガーゴイルの中でも唯一本物と言える殺意があった。



ソレは獲物を見つけた狩人の喜び。そしておぞましき竜族を見つけた防衛行動。
当然、ガーゴイルは、戦闘竜やモルフ・ワイバーンなどに対抗して作られた兵器であるが故に、あの一体だけではない。
そして、この魔窟に配備されているのはかつてテュルバンの軍団に属し、彼と共に戦い、そして彼と共に追放された個体たち。



その戦闘力と団結力は予想が付くだろう。
そしてそんな化外が動いているということは、この魔境の支配者もある程度は予測がつく。




あぁ、不愉快だ。不愉快極まりない。俺はただ、姉さんの為にアルマーズを“貰いに”来ただけなのに。お前達、どうして邪魔をする?
不愉快極まる障害物ども相手に無尽蔵に膨れ上がる不快感を意識しつつも、イデアは軽く腕を振るった。まるでハエを払いのけるように。
瞬間、ボロ屑の山が一つ残らず退かされ、崖下へと堕ちていく。金属の雨によって無数の死者どもを道連れにしながら。





少しだけ気分が爽快になったのを感じながら、一歩を踏み出し、再度宙に眼を向ける。
既に稼動を終えたガーゴイルが何体か、こちらに向けて飛翔してくるまでが認識したが、そこまでだ。



幾筋かの真紅の細い閃光が暗闇を縫うように走った。
竜の眼でなければ捉えられないほどの超高速の光は、狙いを絞られた矢の如くガーゴイルに命中。
周囲の空気が飲み込まれる様に収束し……瞬間、宙を舞っていた3体の青銅の魔物は轟音と共に砕け、無数の破片を撒き散らす。


呆気なく青銅の身体がバラバラに粉砕され、奈落の底へと堕ちていく。
そして最後に追い討ちをかけるように飛び散った青銅の破片が真紅の炎に包まれ、蒸発。周囲に焼けた鉄の嫌な匂いが撒き散らされ、空間を汚染。




通常の数倍の魔力を込めて発動したファイアーを、極限にまで圧縮して攻撃に転化させた結果がこれだ。
放たれた光弾は、着弾と同時に激しい衝撃波と熱を撒き散らし周囲を粉砕するモノ。その威力はこれをまともに喰らったガーゴイルを見れば判るだろう。



何が起きたかなど、考えるまでもない。こんな現象を起こせるのはこの場に居る中でもただ一人だけ。
神竜の背後に控える火竜の眼には何も映ってはいない。ただ、邪魔な存在を破壊した彼女はいつもと変わらないあの微笑を浮かべて無言で先に行こうと述べていた。
ただし気配だけは何時もの様に飄々とした柔らかいモノではなく、冷え切ったナイフの如き冷徹さを帯びている。





そんな火竜を見てソルトが苦く笑い、イデアは一瞥する。次いで神竜は首を傾げた。さて、どうしようか、と。
唸り声とも、喘ぎ声とも知れぬ恐ろしい息遣いをしたモノらが無数に這い上がってきているのを思い出したのだ。



使うか? 



直接戦っても勝てない事はないが、消耗するし、何よりも面倒くさい。それにわざわざそこいらの蚊にブレスを吐きかける竜などいない。
懐に忍ばせた魔道書に手をやって考える。時間にして数秒にも満たない時間だったが、直ぐに答えは出た。
見れば既に亡者の群れの第一波は崖を昇りきっており、その身に携えた武器を手にこちらに切り込もうとしているが、イデアは動じることはなかった。



一番槍を切って突っ込んできた亡者の首を無造作に伸ばした右手で締め上げ、そのままへし折る。
更に力を込めると首の骨が完全につぶれ、付け根から捻じ切られ、そこらへんに転がった。胴体だけが彼の手に残る。


ミイラのように砂が混じった肌にはほんのりと血液らしき液体が付着しており、既に頭部を失ったというのに胴体だけが無茶苦茶に痙攣を起こす。
お返しと言わんばかりにソレを思いっきり群れへとぶん投げてやると、亡者たちがドミノでも倒したみたいに次々と巻き込まれ、奈落の底へ帰還を果たす。



更に左の掌に全方位に今までは全方位に放たれていた波動を圧縮し、ソレを突き出す。
圧縮された黄金の波動は周囲に拡散していた時点で屈強な岩盤を灰に帰していたのだ、それが一点に収束したとなればその破壊力は推してしるべし。
巻き込まれた死者が十単位で塵に、灰に返り、華麗な雪のような結晶となり散っていく。



無論、こんなのでは時間稼ぎにもならないだろう。後列は次から次へとやってくる。




「アンナ」




呼びかけは一瞬。そしてアンナの行動も刹那の後に行われた。そこに言葉の応答はない。
黄金の波動が火竜に注ぎ込まれ、その力を大いに増幅し、何をすべきなのかを直接頭に焼き付ける様に送りこむ。


竜石が赤熱するように発光し、万物を焼き尽くす力が発動。
紅く、閃光を帯びた腕を今正に崖の頂上に到達し、溢れるばかりの狂気を骸に貼り付けた亡者達に向けて振るう。






【オーラ】 【ボルガノン】




神竜の力と火竜の力が合わさり、一つの大魔術を展開する。それは二つの術の複合技。
顕現したのは炎というよりも紅い光の壁であった。それがピッタリと通路の縁を覆いつくすように展開されている。
業火の様に音を立てながら燃えるのでもなく、雷撃の様に電流を纏っているわけでもない、ただの光の壁。



防御の術も、使い方を変えれば牢獄にも堤防にもなるのだ。
万象を焼き焦がす最大にして最上級の炎系理魔法と、神竜が行使するその身を守護する絶対の加護。
この二つが合わさり、その特性を融合させた結果でもある。



ステンドグラスの一種とさえ思えるその壁を見て、亡者は何も思わない。そもそもの話、彼らはこの壁を認識さえしていなかった。
もしも彼等が生前の思考能力を保っていたなら、絶対に何かあると思っていただろうが、それは全て仮定の話だ。



無数の白骨化した身体に鎧兜を纏った死者達が壁に群がり、そして唐突に消えてなくなった。後に残るのは無数の舞い散る粒子だけ。
全身を灰や錆に変えて、その身を瞬時に焼き焦がされていく。彼らは苦痛の声さえも上げずに一瞬の後に滅され、この世からその執念ごと焼却。
そんな光景が何十何百と繰り替えされ、洞窟の中に怨嗟の叫びが満ちた。




剣を、槍を、斧を、下級の魔術を壁にたたきつけ、武器が粘性を帯びた液体にまで溶けると、次は素手で掻き毟りに走り、燃やされる。
既に妄執、執念というべき領域で竜への敵対心を燃やし、強者との戦いを渇望する亡霊は、いっそ哀れにさえ見えた。



何故殺せない。何故竜を切れない。竜は殺さなければならないのに──。



そんな迸る想いを竜の敏感な直感で感じ取り、イデアは鼻で笑った。
喧しい。お前たちの願いなど知ったことか。そもそも、お前達が攻めて来なければ俺たちは平穏を謳歌できたのに。





「先を急ぎましょう。さっさとここから出たくて堪りませんわ」




「それは俺もだよ」





優雅に微笑むアンナに同意するイデア、それに朗らかに苦笑しながらもソルトはルーンソードを掲げ、刀身を空に翳す。
そこに無数に飛び散った先ほどまで亡霊の身体に宿っていたエーギルの残片が吸い込まれていく。
刀身が更に美しく、宝石の如く輝く。それを残光を残しながらくるっと一回転させ、そのまま肩に担いだ。




「そもそもこんな所に長くいたい人なんて、絶対にいませんよ」



「あら? 私達は人じゃありませんわ」



「あぁ……そういえばそうだった」




そういえばそうだ、とソルトは思う。
一見、人間にしか見えないが、その実この眼前の両者は竜であり、もっている力は想像を絶するモノがある。
内心彼は肩を竦めた。それがどうした、と。僕は僕で堂々としていればいいのだ。


だからこそ、この洞窟に巣食うモノらを彼は気に入らない。何故、竜を知ろうとしなかったのか。
何で、排除することしか考えられない? 話をすれば普通に会話は成立するのに。意思の疎通だって出来る。
それは自分が子供で、世界の事を知らないから吐ける大言壮語だと笑われるかもしれないが、それでも彼はその一線だけは決して譲らない。



だって自分は、竜と家族なのだから。そもそも、竜人という種族がある時点で……。



緩んだ場の空気を締めなおすようにイデアが鋭い声で言葉を綴る。





「行くぞ。ここから先、まだまだ厄介な奴がいるかもしれない。気を緩めるのはこれで最後にしよう」



その言葉と同時にアンナは薄ら笑いを消し、全ての感情を封じ込めた能面の様な顔になり、ソルトの顔からも笑みが消え、その眼光が鋭くなる。
配下の様子にイデアは内心で満足を覚えつつ、無数に焼かれる亡霊の群れを見据えた。こいつらに帰りの邪魔などされたくない。
最後にイデアは腕を一振りし、念には念をと【オーラ】に力を注ぎ込み、その強度を万全に補強してから彼は更に奥深くへと足を踏み入れる一歩を踏み出す。



それに、だ。【ボルガノン】は炎系の中でも最上級の術であり、その業火は物理的だけではなくエーギル的な薪をくべてやればその炎は絶えない。
この場合は、自分から火に飛び込む者達全てが薪となる。



背後から響き渡る無数の呪に塗れた絶叫を後にし、彼らは更に深く天雷の斧を求め深淵へと潜行を続ける。
何もかも歪みきったこの世界で一つだけ確かなのはこの世界の最深部より感じる、圧倒的な力の塊の存在だけ。
僅かに感じる力の性質は荒れ狂う“暴風” 何もかも全てを壊さんと猛り狂う狂気の渦。




ふと、何か違和感を感じたイデアがその元凶である腰に眼を向ける。
少しだけ鞘から覇者の剣を二人からは見えない位置で抜き出して、その刀身を見やった彼は眼を鋭く細めた。




本来は磨きぬかれたガラスの様な光沢を放つ銀色の刀身はどす黒く染まり、代わりに無限に濃縮された闇が全てを塗りつぶしている。
その奥に何があるのかは、今は全く見えなくなっており覗き込む気さえも起きない。
コレは極大のイベント・ホライズン。闇という言葉でさえも表しきれない超深淵。



かつて、殿で【ゲスペンスト】を発動させる際にもこの剣は同じ反応を示したが、今のはあの時よりも重く、深い。
懐に忍ばせた【エレシュキガル】から、確かにイデアは心臓の鼓動にも似た音を聞いた。



万象を飲み込む黒い“孔”が剣の形を取っている。
直感的にイデアはこの“孔”の中に何を投げ入れればいいか理解したが、行動には移さなかった。
ジリジリと胸の奥底の“太陽”が輝きを強めるが、それも無視。



彼は剣を鞘に戻すと、そのまま何もなかったかの様に歩を進める。






















この魔窟は外側から予想された広さよりも遥かに広大だった。
そもそもの話、自然が作り出した迷宮染みた構造の洞窟は決して軍団一つを収容できるほどの広さではなかったのだ。
だが、条理を超えた怪物にはその程度のことなど些細な問題だった。



狭いなら広げればいい。住み辛いのならば作り変えればいい。怪物の思考は単純にして困難な答えを軽々とはじき出す。
本来ならば思っても出来ないだろう無理難題だが、この怪物にはソレを成せるだけの力があった。
この“場”をフィベルニアごとねじ曲げ、外界、即ちエレブからという意味で隔離させる。




そしてその内部の空間では絶対の存在として怪物は君臨。
その“モノ”の目的は単純明快にして、それでいて決して常人には理解など及ばないだろう。
第一に、この存在の目的を果たすのにはある程度の広さを持った領域が必要になる。



簡単に占領できて、なおかつ配下の存在を全て内包させることが出来るほどの面積をもった土地が。




次にその獲得した領土ともいえる土地を丸ごと作り直す必要がある。
季節を捻じ曲げ、空間を汚染し、内部の領域の隅々まで自分の眼と鼻が行き届くようにしなければならない。
何故ならば、そうすれば魅力的な獲物が侵入すると同時にその存在の強さを計るために色々な手を打つことが可能になるからだ。


自分が狩るまでもない雑多なゴミなど、眷属の餌にくれてやればいい。



西方三島の中の一つである大島など全ての条件を満たした理想的な地だ。
獲物が入ってきたならば、空間を閉じて閉じ込めればこの島は巨大な殺人瓶の役目を喜んで果たす。



そして最後に抗し難い餌を用意する。人という生き物は好奇心を抑えきれない生物だ。
辺境の島で次々と人が行方を絶っている。あの島にはとんでもない財宝が埋まっている。
そんな噂を流してやれば、彼らは砂糖に群がる蟻の様に夢と栄光を夢想しつつこの地にこぞって足を踏み入れることだろう。



程ほどに殺し、程ほどに生かして送り返してやれば、その噂には信憑性が増すだろう。
もちろん、生還させる者の頭は弄ってやるが。




そして最後に必要なのは思い切りの良さだ。これこそがこの存在がこの地を異界と変貌させた最たる理由。
もしも怪物の願いが叶ったとき、全力での戦いが求められるから。
そうすればこの地は理想的な巨大な闘技場となり、粉々に崩壊しようが構わない。



密閉された世界の中では、どれほどの力を振るおうが問題などないのだから。



それに必要となれば、このフィベルニアをエレブの地図から消し事さえも怪物は躊躇わずに行うだろう。



これらの条件を全てクリアした理想的な強者を選別し、それと戦うための罠が歓迎すべき侵入者を相手に稼動を開始していた。










不気味な金属が無理やり引き千切られるような怪音と共に空間が、千切れる。

















「困ったことになりましたわね」






暗く腐臭に満ちた通路を歩きながら、アンナは彼女にしては珍しく困惑した感情を顔に浮かばせて唐突に呟いた。
周囲には相変わらず飽和するほどの殺意と、吐き気を催すほどの死臭が漂っており、むしろその密度は先ほどより濃く、粘性を帯びている。
床や壁の岩盤などがまるで殿の壁のように紫色に発光し、周囲は薄暗いといっても視界を完全に奪われるほどのモノではない。


それに、ある程度奥まで侵入すると何故かひっきりなしに続いていたガーゴイルや亡霊兵の襲撃はピタリと止んだのだ。
まるで台風の目の中に入ったように。




「どうした?」




三人で一列になり歩く中、先頭を行くイデアは眼さえも動かさずに声でだけ問うと
三者の中で一番後方を警戒しながら歩くアンナは注意力を散漫させず、的確かつ簡潔に答えた。




「洞窟の外の世界との空間の連続性を絶たれたようですわ。つまり、私達はこの腐った臭いしかしない場所に閉じ込められたわけですね」




精霊を通して空間の広がりを感じ取れる竜は、顔色一つ変えずに主に現状を報告。





「それで? それがどうかしたか?」




答えるイデアの声には一切の感情というものが抜け落ちている。根本的に興味さえないのだろう。
何故外に出れなくなったことが問題なのだ? そう暗に彼は言っていた。
それもそうだと、アンナが無言で同意するように頷き、ソルトは周囲を最大限に警戒しているためか何もしないし、出来ない。





「?」




突如イデアが歩を止める。前方の暗闇の中、彼は一つの異物を発見したのだ。
周囲を染める圧倒的な黒の中、それは何気ない様に道の真ん中に配置されていた。
それは木製の四角い箱。上部が開閉するようになっていて、所々に金属で補強を成されている箱。


だがこの箱はどうやら長い間ここにあったらしく、全体に満遍なく埃が積もっており年季を感じさせる。


俗な言葉でそれを表すならば、宝箱と言うのだろう。そんなものが何故か道の真ん中に安置されている。まるで開けてくれと言わんばかりに。
速く開けろ。中身が欲しいのだろう? 取れよ。無機物の箱の全身から迸るのはそんな言葉の奔流。



何だこれは? ふざけてるのか?  



じぃっと宝箱を見つめるイデアは思わず胸の内側から失笑が零れそうになるが、それを押し留め、ゆっくりと宝箱に近づいていき、そのまま無視をして横を通り抜けた。
ただの箱から凄まじいまでの悪意を感じるのは恐らくこれが産まれて始めてになるだろうし、出来れば二度と経験したくない。





イデアに続いてソルト、アンナが箱の横を通り抜けて一安心したと思った瞬間……。




箱に変化が訪れる。ガタガタと内部に凶悪な生物でも閉じ込めたかの如く振動し、くぐもった呻き声を盛らし開閉部分がパカリと開いた。
多量の水が一度に落ちて大地を汚す。少しばかり白く濁った液体はまるで唾液のようだ。糸を引いてその液体は止め処もなく箱の開閉部分から落ちる。



本来ならば宝物が収まっているであろう箱の内部は完全な暗闇を孕み、その奥は窺えない。
変わりに箱から飛び出し、強烈な自己主張を行っているのは人間のソレと酷似した一枚の巨大な舌。
大きさで言えば成人男性の半分ほどの長さを誇る舌がべろべろと虚空を舐め回している。



強烈な飢餓にでも襲われているのか箱は忙しく息を吐き出し、涎をぼろぼろと撒き散らしてその全身を激しく揺らす。
その姿は子供がご飯を食べたいと駄々を捏ねている様を連想するだろう。
だが、幾ら凶悪な外見をしていようとも、箱は箱だ。既にあの舌が届く範囲からは外れているし何も問題はない。



そうイデアは想い、ならば一応倒しておこうかと手を掲げ、魔力を収束させる。空気が揺らぎ、鉤爪のように広げられた五指に雷が宿る。


だが彼の予想は裏切られた。それも最悪の形で。だが、彼は悪くないだろう。誰がこんな事を想像できたというのか。




まず、最初に、箱に手が生えた。何の前触れもなく箱の側面から人間と同じ形をした石灰色の手が。
そして次に箱の地面と接している面から腕と同じ石灰色の長い足と胴体が。ツルツルと表面が光るソレに毛は一本も生えておらず、そこだけを見れば美しい彫像のようだ。
あっという間に胴体をもった人間がそこに産まれ、指を海洋の捕食生物の触覚の如くたゆまなく動かす。


見れば箱の開閉部分の淵には無数の肉食動物の牙が生え揃っており、それらは涎で濡れそぼっていた。



8頭身の宝箱が舞う。



奇怪な呻き声と共に、箱面をした人間がイデア達に飛びかかった。くるくると踊るように片方の足を軸にし、もう片方の足で回転蹴りをかましながら。
無駄に華麗で、優雅で、そして何ともコミカルな姿だったが、これに襲われる方としては堪ったものじゃない。





「────っっ!!!!!!!!」





絶叫。恐らくは、イデアの生涯最大の。



それも余りに感情が篭もりすぎて声と言う形さえ取れない息の放出を漏らしながらイデアはとにかくありったけの力を込めて【サンダー】を指先から噴出させ、バックステップで距離を取る。
入れ替わるようにソルトが【サンダー】を浴びないように注意を払いながら数歩前に出て、先ほどルーンソードに吸収させた力を解放。


紫と黒をかき混ぜた色彩に刀身が染まり、先ほどこの剣に食われた亡者らのエーギルが解放を求めて暴れ狂い、空気を淀ませる。
そしてソルトは音に匹敵する速度でソレを躊躇なく横に振りぬいた。
雷の濁流の中をくるくると独楽を思わせる動きで突き抜けてくる箱面に紫色の刀身から伸びた透明の“斬撃”が大顎を開けて噛み付く。



エーギルを取り込めるルーンソードが、エーギルを放出できないという道理は何処にもない。
三日月を思わせる形をした純粋なエーギルの刃が箱面を真正面から殴りつけ、その全身を安々と吹き飛ばし、その身体を大きく損傷させた。



更に追い討ちとばかりにアンナの指先から圧縮されたファイアーが放たれ、それはピンポイントで箱面の足に命中。
紅蓮の爆砕が、そのおぞましい彫像染みた足を下半身ごともぎ取る。もちろん彼女は周囲に埃を撒き散らすという愚などおかさない。





「イデア様、落ち着いてください。あんなのただの……」




ソルトが冷え切った眼で箱面を視界に納めながら言葉を紡ぎ、一旦彼はこの存在をどう形容していいのか判らず、何とか言葉を見つける為の間をあけた。
そうだ。母さんは確かああいう存在をこう表していた。





「変態じゃないですか」





その姿を横目で見て、イデアは心底胸を撫で下ろしていた。あぁ、本当にこいつを連れてきてよかった、と。
眼を箱面の変態に移すと、どうやらあの存在は先ほどのガーゴイルと同じく無機物らしく血などは一滴も出しては居ない。
それに、よく見てみると意外と可愛いではないか。まぁ、今はどうでもいいことだが。



箱面は息のあがった犬の様に涎を撒き散らしながら無様に地面に這い蹲り、ナメクジの這うような速度でこちらに向ってきている。




だが、既にイデアはソレをみていない。視界には納めているが、彼の直感は別の存在を見ていた。
こんなモノよりも遥かにおぞましく、醜く、そして強い存在を。それも一つではなく、無数の。それでいて全体で一つの意思を共有している。
完全に連携の取れた、最高のコンビネーションを誇る存在。先ほどの亡霊兵など、これに比べれば赤子だ。



いや、そもこれは一つの脳しか持っていない。それも多数の脳髄を無茶苦茶にかき混ぜた混沌とした。




何かに試されているのか? そんな考えがイデアの脳裏をよぎる。
出し惜しみしているのか、それともこちらが四苦八苦する様を見て愉悦に浸っているのか。どちらにせよ、気に入らない。




べちょりと、重量のあるヘドロのようなものが天井から落下し、箱面に圧し掛かる。
最初は一つ。二つ。三つ。最後は夏場のスコールの様に無数のヘドロがびちゃびちゃと下品な音を立てて大地を埋め尽くしていく。
洞窟内に蜂の羽ばたきの様な音が響く。事実それは蟲の羽音だ。しかし蜂ではなく、死体に集るハエの。




それは泥ではない。肉だ。腐りきった、死体の肉。それらは意思をもっているように蠢いている。
見る見る箱面が腐肉の豪雨に飲み込まれ、悲鳴を上げながらその存在が塗りつぶされ、最後は軽い破砕音が聞こえた。




次に腐肉の中から腐乱汁をたっぷりと塗された盾が浮き上がり、成人男性3人分ほどの長さの鋭利な槍が突き出される。
それも一本ではない。何本も何本も。神経質なまでに盾と盾の隙間という隙間から槍が現れ、それは獲物を求めて鈍く輝く。



全身をハリネズミの如き装甲と槍の殻に守られた異形がそこにはあった。
この陣形の名前を取るならば、この異形の名はファランクスと言うべきだろうか。何十もの人間の腐肉をかき集めて、意志をもたせた存在。
異形は表面を無数のさざ波と蛆の群れが蠢きあい、至る場所から腐って体液を撒き散らし、ただその場にあるだけでその身体がボロボロと崩れ落ちていく。


だが、崩壊と同じ速度でファランクスは再生も行っているらしく、その全体の質量は変わらない。



臭い。臭い。臭い。もうここの死臭にはなれたかと思ったが、とんでもない。これは異常だ。死体と糞と蛆を鍋の中で腐乱汁で煮込んだかのような臭いだ。
鼻がおかしくなりそうな感覚にイデアは顔を限界まで顰め、魔術を発動するべく意識を更に深く研ぎ澄ませて行く。





【シャイン】





太陽を連想させる魔方陣が展開され、そこに光を凝縮して形作られた光剣が5本ほど生まれ落ちる。
小手調べとして、それらを無造作にファランクスへと叩きつける様に降り注がせた。



破砕の振動が空気を揺らす。腐乱した液体が飛び散り、槍が折れる。



あっさりとシャインの刃はファランクスの盾を粉砕し、その奥にある肉をそぎ落とし、不浄を浄化させるが……それだけだ。
口も何もないファランクスは悲鳴もあげず、淡々と動き、反撃に転ずる。肉の塊であるこの怪物が痛みなど感じるはずもない。
火力が足りない。一部の傷などこの存在には何の意味もなく、その全てを同時に滅さねばこれは幾度も復元を果たすだろう。



全身から焼き焦げた肉の香ばしい臭いと、どす黒い煙をあげながらもファランクスは動く。
もぞもぞと人間の何百倍の質量をもった身体をナメクジの様に動かしながら。
折れた槍と砕けた盾の代わりはすぐにファランクスの体内から湧き上がるように吐き出され、すぐに欠けた場所が補強される。




大本の肉の塊から、幾つかの子供とも言うべき大きさの肉塊が分離し、それらは一つの兵士の様に大本の数倍の速度で動き出す。
ただ早いのだけではなく、気が付けば接近される速度。一番意識の外を上手く掻い潜れる厭らしい動きだ。
それが数体、大地に粘液の後を残しながら迫る。槍のリーチを考えれば、後数秒でイデアは攻撃範囲に入る位置。



既に筋肉の繊維などないのに、ファランクスの振るう槍は強固な岩盤さえも打ち抜く。
竜殺しの術と、穢れた液を滴らせる銀槍は一度の攻撃で対象を即死に至らせなくとも、その毒をもって苦痛に満ちた緩やかな死を与えることだろう。



だがイデアは欠片も心配などしていない。あの槍は絶対に自分を害することが出来ないと判っていたから。



真紅と紫の閃光が踊る。イデアの両脇をすり抜けるように、人と言う姿が出せる限界ギリギリの速度で。
紅蓮の爆砕が飛び、小さなファランクスを粉々に打ち砕く。すみれ色の吸魂が発動し、ファランクスを物理的ではなく、エーギル的に削り取り、その機能を奪う。



吐き気を催すような音と共に、泥の塊にも見える肉がばら撒かれ、次の瞬間容赦なく炎の抱擁を受ける。。



消えろ消えろ消えろ。
粉々に打ち砕かれた腐肉を超高温の炎舞が飲み込み、その存在の一片さえも許さぬと滅却。
瞬く間に小さなファランクスが打ち砕かれ、削られ、食われ、消えた。



残った最後の異形がアンナへ槍を突き出すが、アンナは手さえも使わない。
口から吹き出した竜の息吹、灼熱のブレスを躊躇なく吐きかけ、攻防一体と成す。
槍が刹那の時間ももたずに溶解し、気化。次いでソレを持っていた異形が紅蓮に包まれて消える。




根源的に削られ、自身の身体の一部を抹消された異形の群れが声なき悲鳴を吐き出し、憎悪という感情をむき出しに動く。
竜が、竜が、殺さなくては。竜という種などあってはならぬ、と。




もぞもぞ大地を這い蹲る肉塊をアンナは一切の感情が窺えない瞳で見下し、
彼女にしては珍しく微笑みを消し去り、聞く者の心胆を凍えさせる声音で声を小さく発した。
ファランクスの持つ憎悪など、そよ風程度にしか感じられぬほどに濃密な憎悪と共に。



隣にいるソルトがその身を思わず竦めたといえば、それがどれほどのモノか判るだろう。
敵ではなく味方に恐怖を与えられた少年はやれやれと言った表情で小さく息を吐き、心を整える。





「醜いわ。本当に、見ているだけで吐き気がする」





それは、外見だけではない。この存在の全てを否定し尽くす言葉。アンナという女が吐ける最大の侮蔑用語。
こんな奴らが竜に戦いを挑んだのか。こんな奴らが数万年と続いていた竜と人の平穏を崩したのか。
おぞましい、何と醜い。気持ちが悪い。どれほど先代の長であるナーガが人と竜の関係について悩んでいたのか知らない痴愚が。



そして、こんな奴らに。




瞬間、火竜の中で何かが破裂する。表には出さない様に細心の注意を払いつつもそれは押さえが付かない。
平常を装いながらソルトに目配せをし、ルーンソードの刀身へとその手を翳し、胸中から吹き出る暴風をそこに注ぐ。
紅い粒子がアンナから飛び散り、刀身を血で濡れた様に染めあげ、火の力はそこに宿っていた地竜と神竜の加護との融合を果たす。
ルーンソードの刀身から業火が立ち昇り、激しい音と共にソレは破壊の意を秘めて雄雄しく輝く。




それを熱など欠片も感じてないように人間の少年は水平に構える。
あのファランクスと同じ、人間が。




はっきりと見据えるのはおぞましい肉塊。
目さえもないそれは既に直感で獲物を探し出しているのだろうか、ありとあらゆる場所にその槍を突き刺し、こちらの居場所を探っている。
人は、こんな姿にまで成っても生きていけるのか。一種の感動とさえ言える感情を一瞬だけ彼は抱くが、次に湧き上がるのは明確な嫌悪。





「吹っ飛ばしてやれ。安心しろ、俺も手伝う」





背後から掛かる優しげで、それでいて熱を帯びたイデアの声に心中で頷き、ソルトは剣を最大最高の速度で振り切る。
母から言われたことを全て守り、腰を入れ、腕を撓らせ、体重の移動を最大にし、それでいて身体のバランスは絶対に狂わせない。
そして何よりも大事なのは絶対に勝つという揺るがない意思と、敵に飲まれない強い心。



紅蓮の光が三日月の形を成して宙を征き、そしてドス黒く濁った肉に着弾。
着弾。正にその言葉を冠するに相応しい。巨大な攻城兵器の一撃が炸裂したかのような重低音を響かせ、洞窟全体に衝撃が行き渡る一撃。




かつてない規模で大地の岩や砂が熔解し燃え上がり、空気が更に収束。
強引にかき集められた気体が薪となり盛大に、豪快に轟音を響かせ燃え上がる。




地獄の焔の中、バラバラになったファランクスの肉体が再度再生を果たそうと醜く
往生際が悪く蠢くが、火葬に処された肉体は物理とエーギルの両面から崩壊を始めており、活動を徐々に停止。



それでも執念深く足掻く一際大きな残骸が幾つかあり、それらはまた一つになろうと蠢く。
後に完成するのはさっきよりも二周りほど小さいファランクス……。






【アルジローレ】





天から飛来する極大の光魔法。それは神竜のエーギルを塗り固め創られた裁きの鉄拳。
それは余りにも見るに耐えない存在への慈悲だったかもしれない。
無様な生を晒す怪物を終わらせてるのが、せめてもの情けか。




誰が存在を許した。さっさと消えて無くなれ。目障りだぞ。
この魔窟に足を踏み入れた際から感じていた全ての嫌悪と、絶対存在の傲慢さを混ぜ合わせた意と共に裁きが下される。
天と言う天を埋め尽くす光の柱とも言える超質量が堕ちると同時に、ファランクスの黒が黄金に飲み込まれ、末端から先ほどとは比べ物にならない規模と速度で浄化に犯された。




光。光。光。傲慢傲岸、お前の存在など知ったことではない。邪魔をするな。
愛おしく全ての存在を照らす太陽の光が一点に収束されれば、その顔は反転する。
砂漠の太陽と同じ、全ての命を枯れさせる滅相の光へと。







────!!





声なき悲嘆の絶叫をあげてファランクスは遂に完全にその存在を浄化される。
その最後にかつては人であった彼らの心に過ぎったのは何だったのだろうか。























暴虐の後、音という音が根こそぎ消え去った空間でイデアは先ほどまでファランクスが汚していた大地を見つめていた。
ぽっかりとクレーター状に深い穴が空いたそこには何もなく、先ほどまで巨大な質量の物体があったという痕跡さえない。




人間ね、あれは人間といえるのか。
嫌だと言っても忘れられないだろうファランクスの姿を思いやり、イデアは少しだけ、今までとは違う感情をあの亡者どもに抱いた。
即ち、哀れみを。あんな姿になってまでも死ねない存在への哀憐。人としての名残さえも残さない異形への哀悼。
同時に抱くのは底なしの暗い嫌悪。そこまでして竜を殺したかったのか? そこまで戦いが欲しかったのか?


消えてしまえばいいのに、一切合財全て。


本当に訳が判らない。そんなに平穏が嫌いなら、自分たちだけで殺しあっていればいい。
今は全てどうでもいいことだ。周囲に満ちる殺気はファランクスの退場と同時に幾ばくかは薄くなってきており、大分先ほどに比べれば居心地はよくなっている。



先へ、先へ。もう間もなく、この洞窟に入るときから感じていた力の場所へ到達する。
後はそこにあるであろう目当ての品を奪えばこの不愉快な旅行も終わる。
もう間もなく、この探索も終わるであろう事をイデアは確信していた。そして、一番疲れる作業がまだ残っていることを。




どれほど亡霊を倒そうと、ガーゴイルを打ち砕こうが、大本を潰さねば意味はないのだ。
そしてイデアは、その大元に用があった。




















そこから先は、異常なまでに何もなかった。
ひっきりなしに浴びせ続けられる悪意と害意の暴風はその勢いを衰えさせ、変わりに深淵から飛んでくるのは、まるで獲物を品定めするかのような観察の視線。
獰猛で、貪欲な獣が舌の先から涎を垂らしながら草葉の影から欲望に満ちた視線を飛ばしているようにも思える。



亡霊兵の攻撃もなくなり、一切の障害がなくなった為かすんなりと探索は続き
やがては永遠に徘徊するのではとさえ思われた魔境の最深部へと到達。
途中幾つか宝箱があったが、イデアはその存在そのものを完全に無視して歩み続けた。



受刑者が一歩ずつ執行場へ送られる気分を味わいながらも三者は歩を進め、やがてとある箇所で足を止める。
魔窟の最深部にあったのは巨大な神殿。神を奉り、その加護を祈願する巨大な建築物。
所々の壁に幾多の戦士が闘争を行っている絵が刻まれており、それらは皆、人が竜を打ち払う壁画。




これは偉大な戦士を讃える神殿であると、直感的に見る者に悟らせる雰囲気と空気。
そして、筆舌に尽くしがたい存在が座する王宮でもある。
コレも殿に存在するあの祭壇に似ている構造をしており、その事実はいっそうイデアを不愉快にさせる。




既に周囲にはむせ返るほどの腐臭も殺意も何もない。あるのは永遠に続く平らな平穏。
音もなく、鼓動もなく、息遣いもない。全てが静止した清浄な世界。




一つずつ、慎重に真正面からその神殿へと足を踏み入れ、昇る。
一歩ごとに肌を焼くほどの念が神殿の最上部から吹き付けてくるが、それがどうしたと言わんばかりに三者は行く。



不意に空気が微かに揺れて、振動ではない魔術的な思念が確かに人の言葉として脳髄に突き刺さり、その意味を強制的に焼き付ける。




【ツワモノ ツワモノ リュウ? ナンダ? シラヌ シラヌ ナンダ キサマハ?】




それは疑問なのだろうか。微かに滲むのは未知の存在に対する戸惑いらしき感情。
声帯から発せられてないだろう言語は聞いているだけで壊れたカラクリを連想させるほどに歪んでいる。



その声を認識してるだけで、何故かイデアは全身に蕁麻疹染みた痒みが走るような錯覚を覚えてしまう。
薄皮の一枚下を、無数の蛆が這い回ってるような、そんな不快感。



【ワレハ “カイム” アノ オカタ ノ ダイイチ ノ シモベ】




飛ばされる思念は既に会話という意図など放棄した単語の羅列。
ただ意味だけ判ればいい。判らなくても構わない。コレはオマエタチを殺す者の名である。




神殿の頂点に到達した二人を迎えたのは広大な空間。一切の遮蔽物がなく、まったいらな床が延々と続くだけの頂点。
ここは一つの意思に基づき、とある場所を参考に設計をされた場所。
即ち、巨大な闘技場。ここは戦士たちがその命と誇りを賭けて死合を繰り広げる地。



もしくは、哀れな弱者を嬲り殺す処刑場か。人は高みの見物をしながら無力な人が死ぬところを眺めるのを愉悦とするのだ。



そしてこの戦場の主役がゆっくりとその鎌首をもたげて稼動。巨大な肉体が莫大なエーギルを血液の如く循環させ、緩慢に。
古く、無骨な甲冑がこすれて軋んだ音を甲高く叫ばせながら、それは何年ぶりに自分の足で動き出す。
漂うは無粋な死臭にあらず。その身に纏ったのは大気さえ焼ききるほどの高濃度の闘気。



既に朽ち果てた玉座から立ち上がり、ソレは大地を蹂躙するように踏み鳴らしながら進む。
ボロボロと表面の錆が崩れ落ち、体内に入り込んでいた蟲が次々と沸騰したように弾け飛ぶ小気味いい音をさせながら。



チリチリと喉の奥底が焼かれていく感覚をイデアは不思議そうに受け止めていた。
どうにも始めての身体の状態にどういう反応を取ればいいかわからない。
感じるこれは殺気ではない。もっと純粋で、もっと高揚を混ぜ込ませた感情。




闘技場のいたるところに配置された蜀台に次々と青い火が灯され、
視界が徐々に晴れ渡るに連れてその近づいてくる存在の全容が朧ながらに白日に晒されていく。





ソレは、全てにおいてこの魔窟に存在するありとあらゆる存在とは次元が違った。
外見はともかく、その圧倒的な威圧感、宿すエーギルの量と密度、そして確かな知性。



全身に着込むのは無骨で、それでいて機能美に富んだ若草色の分厚いフルメタルの甲冑。
頭部にも同じ色の兜があり、それはその存在の顔をスッポリと覆い隠す役目を果たしていた。
ただ、兜の覗き穴から覗く紅く丸い眼光だけが熟しきった果実の様に残酷に輝く。


あまりに人間離れした巨躯は、下手をすれば小さな小屋よりも大きいかもしれない。
両の腕は、それだけでも立派な凶器になりうるだろうほどに太く、引き締まり、何より人としての肉が付いている。



腰にぶら下げている幾つもの人間と思える存在の頭蓋骨がカタカタと乾いた音を叫ぶ。



柔らかな光の反射によって煌くのは、その手に持つ巨大なトマホークと、鋼鉄の盾。
いずれもかなりの業物であり、名の知られた武器なのかもしれない。
ただ、それに染み込んだ血の臭いだけは隠しようもないほどにこの存在がどれほどの数の敵を屠ったかを雄弁に語っているのが全てだ。


そして、その敵とは……考えるまでもない。



かの戦役で一躍全人類にその名を轟かせた八神将。だが、決して勘違いしてはならない。
人類は彼等がいただけで勝ったのではないと。その下にも、知名度こそ低いなれど、神将に次ぐ力を持ち戦った将がいることを。



彼の目的などただ一つだけ。彼は、戦うために存在している。この地に座するとある存在の為、そして自らの快楽の為に。



話し合いなど出来る訳がない。そも、言葉など通じないのだから。狩られる獲物と狩人が対話など馬鹿馬鹿しい話だ。



大きく迎え入れるように神竜がその手を広げ、抱擁を求むかの如く熱い視線をカイムと名乗ったこの勇士に底なしの殺意と共に向け、
彼は力を行使。蔑みと親愛が入り交ざったどうにも形容しがたい表情を顔に張り付かせ、術を使う。





【シャイン】




ファランクスを攻撃した際の数倍にも及ぶ量の光剣が次々と十数本ほど生み出され、その場でクルクルと螺旋を描くように回転。
その全てはイデアが指を動かすよりも速く心の中で願えば即座に八つ裂きにするだろう。
そして彼はその半分をけん制としてカイムに放ち、もう半分を自らの後方に待機。



切っ先を頂点にし、閃光へと変貌を遂げた神竜の意にカイムは鋭敏な反応を見せ、その手に持った盾でおもっきり剣を殴りつけ、全ての光剣を一撃で叩き割る。
どれほどの速度でその事象が引き起こされたのだろうか、彼の周囲の床は今のカイムの行動で発生した衝撃波で小さくひび割れが走った。
そのまま彼は身体を独楽の様に遠心力に身を任せて一回転させると、躊躇いなくその手にもった巨大なトマホークを投げつける。




大気を高速で切り裂く唸りと共に戦斧──あのガーゴイルの尾に付いていたモノよりも数段巨大で鋭利な斧が飛来。
馬車並の重量が、怖気を誘う速度で飛んでいる。



まず人間が喰らえば肉屋においてある肉塊の仲間入りは免れないだろうソレを三者は各々の判断で横に身を投げて回避。
弦を描く様に飛び去ったトマホークは、そのままカイムを発端に綺麗に円をなぞり、彼の手中へと回帰を果たす。
カイムの兜の中の紅い光が心なしか愉悦の色に染まる。それは強者への敬意か、もしくは歯ごたえのある獲物への冷たい欲望か。




まず一つ。見たことのない竜へ向ける未知の獲物への興味。
全てが未知数であり、久々にここまで来れた存在たちの恐らくはリーダー。
次に彼が見たのはあの戦役で戦った業火を宿す竜、これも魅力的な獲物だ。
その紅い首を切り落とせばさぞかし気分がよくなるだろう。



全て、彼のコレクションに加えるに相応しい。
全員腰から吊るされた存在の仲間入りを果たさせると彼は決めた。



そして、最後に彼は侵入者たちの中で最も弱いと思われる存在へ顔を向け、小さく頭を傾げた。
彼の頭脳はまだ人間であった時の思考を維持しており、見掛けによらず彼は他の異形に比べれば“頭がいい”



故に、彼は疑問に思う。何故、人間が竜と共にあるのだ? と。
どうでもいい。全て殺せば皆同じだ。彼の頭は直ぐに答えをはじき出す。
何でもいいのだ。相手の都合など。全て殺し、壊し、潰してしまえばいい。





彼の戦斧は、愉悦の為にある。



そしてそれは、彼の主も同じ……。





「判ってると思うけど、こいつの斧には気をつけろ。後、盾での殴打も……あぁもう! こいつの一挙手一動作、全部注意しろ!!」




「様は攻撃に当たるなって、ことですね……!」




叫ぶようにソルトに告げ、同じように銅鑼を叩いたような音量で叫び返すソルトにイデアは判ればいいとだけ返すと、カイムに視線を戻す。
流麗に腰から剣を抜き、柄を片手で握り締める。力は程ほどに、それでいて肩にも余計な力は入れすぎず、あくまで自然体に。
見よう見まねでソルトの握り方を真似してみたが……意外とこれはいいかもしれない。




純粋に、黒を塗り固めたような刀身をクルクルと弄ぶように回し、大きく下から振り上げる。
ちょうど、馬車の歯車の回転を想像すればよい。
先ほどファランクスへと向けてルーンソードから放たれたモノと同種の斬撃が覇者の剣より吐き出され、飛ぶ。
一つ、二つ、三つ。手首の動きにより縦へ高速回転する剣から次々と禍々しい三日月が放出。



その尽くをカイムは小賢しいと断じ、その手の巨大に過ぎるトマホークを大きく振り払う。
幾度も幾度も、三日月の着弾にタイミングを合わせて彼はその豪腕を薙ぐ。
交差の度に、ガラスが割れるような音と共に三日月が砕け、その残滓たる粒子を撒き散らし、周囲に漂う。



何発か、確かにその三日月は彼に突き刺さっているのだが、彼はビクともせず、気にも留めることはなかった。




しかし、粒子は消えない……空気が吸入されるように掲げられたルーンソードに引き込まれ、その中で鼓動を刻む。
ハエが。カイムの内心に宿るは不快な念。人間が、この狩りを邪魔するな。
その巨大な体躯から想像も出来ないほどの跳躍力。カイムは大地が砕けるほどの踏み込みを以ってその肉体を空へと舞わす。




空中で腰から上を器用に捻り、その反動を最大に利用し、ソルトの足元に向けてトマホークを投擲。
1にも満たない時間の中でソルトの頭脳は時間を切り分ける様に動き、今自分が何をすべきかを判断し、身体がそれに付随して動く。
一番簡単な回避動作、左方に飛び、4歩か5歩分の距離を一気に後退。






次の瞬間、今まで彼が立っていた場所に轟音と振動を伴いトマホークが突き刺さる。
全てがカイムの予想通りに。



カイムが着地する。“床に突き刺さったトマホークの柄の部分に”
鋼の武器が過度な負担をかけられ、軋んだ悲鳴を上げるが、まだ壊れない。
そこを基点とし、方向転換の後、足に力を込めて思いっきりソルトに飛びかかる。



衝撃でトマホークが弾け、大地を抉りながら宙を踊る。クルクルと回転しながら。
それをカイムは器用に頭の後ろにやった手で安々と掴み、そのまま処刑者が罪人の首を刎ねるように振り下ろす。
無慈悲に、作業染みた動作ながらも全ての無駄が省かれ、その上で神がかった技術と経験によって成せる行為。






──数の不利を何とかするには、まずは一番弱そうな相手を潰せばいいのさ。それを繰り返すと、あら不思議! 1対1さね。
   



──もしくは、逃げちゃえばいいのさ。




ソルトが思い起こすのは母の言葉。そして現実にあるのは一番自分が楽に倒せそうだと想い、追撃を欠ける巨大なる亡霊たちのリーダー。
舐められている。そんなことはどうだっていい。殺し安そうな相手だと思われている。むかつくが、ソレも今はどうでもいい些事。
身体が勝手に動く。幾度も幾度も圧倒的な存在に叩きのめされた経験を積む肉体は、既に条件反射を超えた脊髄レベルでの反応を可能とする。




咄嗟に持っていた武器、不気味に輝くルーンソードをカイムへとあらん限りの力を以って放り投げ、自分は全力で右方へ吹き飛ばされたように跳躍。
音速を超過した狂速で叩きつけられる巨大な凶器に相対して、放られたルーンソードのいかに儚げなことか。
事実、狂戦士はコレを障害とさえ思ってない。こんなものを放って何をしようというのか。
横に回避したところで、攻撃をつなげる手など幾らでもあるのだ。少しばかりの延命に何の価値がある。



やはり、人間……それも子供などこの程度か。カイムの胸を満たすのはささやかな落胆。
空中できりもみ回転を続ける剣は、腕の一振りで虚しく叩き落されるだろう。このままならば。



火竜が、小さくその裂けた瞳孔を残酷に輝かす。それは間違いなく、獲物を狩り殺す捕食者の眼。



彼女の人差し指から閃光が放たれ
それは熟練のスナイパーでも無理だろうと思わされる精度によって命中──ちょうど、ルーンソードの柄の先端、そのの真ん中を叩くように中規模の爆発が発生。
杭をハンマーで打ち出す要領でルーンソードの回転がとまり、一点に全ての力を結集させた無人の槍とそれは変貌する。






【ウ、ウ グ ウ ゥ ウ ウ ──!!!】





突如“爆発的”な加速を得て飛来する槍に、さしものカイムが反応が遅れる。
しかし彼は驚愕を顕にする愚こそ侵さず、鼓膜を蹂躙する咆哮と共に盾を構えようと……腕が、何かに縫い付けられた様に動かない。
見れば、黄金の光が蛇の如く纏わり付き、盾を構えた腕をその空間に磔刑にでも処しているかの様に固定。




【───!!!!】




意識の外で、イデアが舌を出して嘲笑を飛ばしているのを感知し、彼は獣染みた絶叫を発する。
残った片腕でトマホークの無骨な金属部分を自らの胴、心臓を守るように動線上へ配置。



瞬間、金属同士が擦れあい、削りあう奇音。飛び散る火花は無数の花になり、鮮やかにこの祭壇を彩るだろう。
カイムの長年使用され、幾重にも対竜の術式を刻まれたトマホークの盾はジェネラルの纏う屈強な鎧にも勝る防壁であり、安々と突破は不可能といえる。



実際、流星となったルーンソードの切っ先をこのトマホークの腹部は事も無げに防いでいる。
竜の剛爪を仮想の敵として精製されたのだからこの結果は当然だろう。








謳うように、神竜が更にその嘲りを深くした。
彼に一対一を守るなどという騎士道染みた心などないが故に、彼は何処までも戦闘という行為に対して残忍になれるのだから。
第一に、自分の部下であり、自分の為に何かしたいといってくれた男を少しでも死の危険から遠ざけることの何が悪いのだ。



既に魔力とエーギルの注入は完了。ソルトはいい時間を稼いでくれた。後は、締めの言葉を語るだけ。




── ξ Φ ψ θ Θ ──




片手に持って開いた書のページが捲られる。その内に孕むは、未曾有の大災厄か。それとも神の御業か。
ゲスペンストを発動した時とは違う感覚がイデアの内側で花咲く様に産まれ、充実感を彼に与えていく。



力、力、力。今、自分は圧倒的な力を支配しているという事実によって征服欲が満たされている。



その小さな口から紡ぎ、謳われるのはまだ人が居なかった時代の言語。
人には聞こえず、唱えることさえ不可能に等しい神の言霊。
だがこれは短い。ほんの一唱節に過ぎない。本来ならば十全の力を発揮させるには完全な形で詠唱を行わなければならないが、今回はソレはどうでもいい。


威力も規模も落ちるが、精度だけは確かならばいい。間違って味方ごと巻き込むなど、笑い話にもならない。



無理やりに、鋭利に研ぎ澄まされる魔術の刃。何百、何千、何万、億もの圧縮を加えて飛ばされる大気は、文字通り世界を切り裂く魔剣となる。
生み出されたのは都合一本の不可視の刃。長さはルーンソードにも満たない程度のソレだが、その存在感と密度は常軌を逸脱し、正しく神話の武器と評されるに相応しい。




見えざる神の刃が、征く。




【ギガスカリバー】




何が起きたのか、その場にいる誰もが……そう、術を発動させたイデアでさえも理解出来ない現象が、次の瞬間現実にその姿を晒す。
ナニカが駆け抜け、何かが変わり、何かが壊れる。全ては、誰も認識できない内に終わっていた。




最初に異変に気が付いたのは、他ならぬカイムだった。
彼は、自らの体に違和感を覚える。腕に、力が入らない、と。



始まりは唐突に、彼の右腕に小さな線がまるでキャンパスに描かれた直線の様に走った。
次いで、その断面から紅い液体の粒があふれ出し、最後に彼の体に内包されていたエーギルが間欠泉の様に噴出す。


紅い光の噴火はいっそ美しくさえあった。漂うどうしようもない鉄の臭いさえ気にしなければ。


彼のトマホークを握っていた右の腕は、二の腕辺りから宙を舞っていた。紅い液と光を放出しながら、滑稽に。
何千、何万もの戦いを乗り越えた、頑強な鎧にも勝る耐久力を誇る彼の体は、濡れた紙の様に切断されていた。




抵抗のなくなったルーンソードがトマホークごとカイムの身体を後方へと押しやる。




【──?】





理解できない光景を見た人間の様に彼の兜の中の光が真ん丸く見開かれる。
そして産まれるのは、あまりに大きすぎる隙。そのチャンスを逃すほど、イデア達は温情豊かではない。
まず最初に彼の体に四方八方から突き刺さるのはイデアの力によって精製され、彼の後方で待機を続けていた【シャイン】だ。



容赦のない剣の壮烈は彼の鎧に決して浅くない傷を刻み込み
間髪をいれずアンナのエルファイアーが爆砕し、彼の傷口辺りを更に深く抉り取り、肩口まで吹き飛ばす。


堪らずたたらを踏みながら数歩後退するカイムにイデアが先ほど亡霊達に向けて放ったのと同じ様に
掌に圧縮した波動を叩き込み、彼の巨体が打ち上げられた魚の様に吹き飛び、重厚な破砕音と共に墜落。
いや、よくもったというべきか。並の存在ならば波動を受けた瞬間に灰となっているのだから。



何度か地面に叩きつけられながら、先ほど座っていた玉座にカイムの巨躯が沈み、その全身を力なく垂らす。
宙に舞い上がって、堕ちて来たルーンソードをソルトが無造作に掴んだ。




しかし、まだ満足がいかなかったイデアはその“力”で、無造作にそこらにある石柱を根元から引き抜き、それを石弓の様に、ハンマーの様に投げつける。
一本の図太く、長い年月を重ねていたその柱は、まるで嵐の日に風に踊らされる木の葉の様に宙を踊り、先端からカイムに抉りこんだ。
甲殻類の殻を叩き割ったような音が絶叫し、濛々と土煙があがる。灰と黴と、火花が飛び、暫しの沈黙が場を支配する。




 
これで、終わりか?  本当に? メディアンが感じたという、アルマーズとテュルバンの気配は、どうなった?




イデアの脳裏をよぎるのは、その言葉。


どうにも、嫌な予感が消えない。背筋を凍りつかせる、この不愉快な冷たさが、なくらならない。
身体の中を無数の蛆が走りまわるような、そんな粘ついた感覚。








【────】





土煙が晴れ、そこに晒されるは無様ともいえる光景。
鎧には無数の皹が走り、片腕は喪失し、胴体を巨大な柱で半ば押しつぶされているカイムの姿。
盾など既に半分以上が砕け、その役割を行うことはできないだろう。


まだその手足が小さく動いているのを見ると、完全に二度目の死を迎えたわけではないらしい。



そして、彼の座っていた玉座──ここが神殿だとしたら、神体があるだろう場所は粉々になっており、哀愁さえも感じる。
何気なく、イデアがその場所に対して“眼”を向け、解析を行う。




──瞬間、イデアの中の危機感が極限にまで引きあがる。爆発するように溢れる感情は間違いなく“戦慄”だった。






「!!!」




イデアの中で、全てのピースがぴったりと嵌まる。何故、この島はこんなにも異界と化しているのか、その力の、発生源は何なのか。
そもそも、メディアンの言っていたあの気配の正体は何か。全て、全て、判った気がした。





マズイ、あの狂戦士を欠片も残さずに消し飛ばさなければならない。彼の心を満たす戦慄はそう謳う。
【エレシュキガル】の書を半ば投げるように取り出し、開き、魔力を込める。余りに乱雑な行為だったためか、必要以上に力を持っていかれるがそんなこと気にしていられない。




カイムが、残った隻腕を力なく振り、小さな瓦礫をどかして……何かを掴んだ。
ソレは瓦礫の奥底に埋まっていた。そしてソレは、元はここの神体とも言える存在で、奉られていた。
ここの全ての亡霊と、全ての悪意と殺意、狂気と死を支配しているのはカイムではなく、真実ソレだった。




ソレは意思を持っている。確固たる自分の意思を。
そして、ソレは歓喜していた。強者を迎え入れたことを。戦えることを。殺せることを。



膨れ上がる気配。そして、広く薄くフィベルニアに分散していた何かが収束する。
意思が集まり、確固たる形を得て、そして器を得る。カイムという男は非常に優れた器であり、ソレが生前の力を十全に振るうことが出来るに値する英雄の身体だ。




いや、最初からカイムはそのためにあったのだ。彼は言うなれば、【彼】の予備の身体で、戦いの為の道具だ。
視認出来るほどの雷が爆発し閃光を生み出す。余りの光にソルト、アンナ、イデアが思わず眼を腕でおさえ、顔を逸らす。
周囲の塵が炎上し、パチパチと不快な音を立てて燃える。



エレシュキガルの書が閉じ、術の発動が中止。









──あァ 見つけた。






紡がれたのは誰の言葉だったか。カイムの罅割れた声帯の壊れた声なのに、はっきりと認識できる声。
人間の声だった。重く、深く、そして根源的な不快感を覚える声音。




閃光が過ぎ去り、辺りに暗闇が戻ると同時にイデアは予想外の光景を眼にした。




先ほどカイムの身体を半ば踏み潰すように圧し掛かっていた石柱が、浮かび上がっている。
圧倒的な重量のはずのそれが浮いていた。もちろん、それを成したのはイデアではない。




たった一本の、カイムの丸太の様に太い腕が、石柱を鷲掴みにして、持ち上げていた。
石の中に深く食い込んだ五指が、どれほどの力を以ってそれを成しているか証明している。
先ほど奪われた片腕、肩まで喪失したそこに、彼の手にある眼に悪いほどの輝きを放つ武器から力が流れ、変わる。
骨、筋肉、血液、そしてエーギルが瞬く間に循環し、何もなかったかとでも言うように新しい腕が生えた。




彼の手にあるのは、夥しい量の稲妻を発生させ、それを支配する一つの巨大な斧。
ただその場にあるだけで空間が焼ききれるほどの天雷を纏うソレ。
斧の放つ波動は瞬く間にカイムの脳髄を焼き去り、彼の人格を滅した後に、そこに自らの思考を植え付けていく。




全身に負っていた傷は冗談の様に全て消え去り、彼の体には何の欠損も見当たらない。




兜の内側から覗くのは、先ほどと同じ紅い光。しかし、何かが決定的に違う。
理性もなく、知性もないのは変わらないが、そこに何か先ほどとは違う感情が宿っている。



イデアを熱に浮かされた様に凝視し、まるで極上の美女を前にした男の様な欲望がその中で渦巻き、歓喜と狂喜がかき混ぜられ、吐き気を催す視線を織り成す。
彼は……アンナも、ソルトも、もっと突き詰めるならば……イデアさえも見ていない。



やがて一度白紙に戻されたカイムだった身体の脳髄に新たな意思が植えつけられ、その息吹をあげる。
視界が右往左往し、そして……見つけた。




彼としての意識を完全に定着させた存在は呟く。複雑で、壊れた感情を滲ませつつ。





──見つけた。






静寂の中で落とされた言葉の一滴。最初は小さく、しかし徐々にソレは勢いを増して激しく燃え上がる。
彼の眼にイデアは映らない、映るのはあの男の影。あの男と同質の力を撒き散らす存在だけ。
故に彼は吼えた。待ち望んだ相手との再会を祝し、やっと殺したかった存在と出会えた、と。



擬似的な音の断層が全方位にたたきつけられる。



猛烈に、濁流の如く感情が吹き荒れ、眼球を焼く光と共に雷が走る。
膨れ上がるエーギルと魔力、それはこの世のモノとは思えないほどに暗く淀みきり、ただ一つの目標の為に統率されていく。
これは怪物。斧という姿を取り、神将器と持て囃されたソレの真実は、おぞましいほどの妄執と狂気によって形を成す異界の存在だ。








───見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。





かつてカイムと呼ばれていた男の手にあるソレ【天雷の斧・アルマーズ】は動き出す。その中に孕みし主……テュルバンの意志と共に。
願うのはあの日の再戦にして、強者との命を賭けた戦い。骨が砕け、血飛沫が飛ぶ闘争。
かの者の視線はイデアを見ていない。その後ろに存在するとある存在だけを射殺すほどに暗く、抱擁するほどに熱く見据えている。



竜にも及ぶほどの超質量を持ったエーギルの塊は一つの意思に従い、その全てを純粋な力へと変換。
狂戦士の体内を血液とエーギルが駆け巡り、戦意と殲意が膨らむ。
枯れ枝を踏み潰したような弾けた音と共に一本一本がサンダーストームにも匹敵する稲妻が幾本も生えて世界を揺らす。



三桁にも届くだろう稲妻がアルマーズを中心に吹き荒れているのだ。天も地も焼かれ、いたるところで“落雷”が発生している。




殺す。殺す。殺す。我を楽しませろ。我と戦え。
魔境全土を満たすのはそんな狂いきった思念。
この魔窟に存在していたありとあらゆる亡霊たちのエーギル……魂とでも言うべきモノが集まる。



豪雨の様に激しい地鳴りの音と共に至る場所から光の球が飛来する。
そして紫色の光の球になった魂たちが我先にとアルマーズの中に飛び込み、その燃料へと身を捧げていく。
百を超え、千を喰らい、狂戦士はかつての力を取り戻していく。薄く広くあった存在が、厚く、一点へと戻っていくのだ。



いっそう、天雷の密度が増す。物理的に、殺意さえ伴う莫大なエーギルの渦を伴い。



そこに居たのは“怪物”だった。人の皮を被ったおぞましき存在。
躊躇なく邪悪だと断じれる戦争と闘争の申し子。




ソレを見て、イデアの中にあった“戦慄”も“恐怖”も根こそぎ消し飛ぶ。あの狂い乱れる天雷の暴雨風に弾かれたように。
これが「誰」で、何を成そうとし……そして、直感的に「誰」を見ているか判ったから。



熔けた鋼鉄のような、熱く、粘性を帯びた感情が胸中で鎌首をもたげるのをはっきりと彼は感じた。
それに比例して、口から出る声は何処までも情感に満ちていて、それでいて友好的な響きを伴っている。





「俺も、お前に会いたかったよ」





一歩、神竜が踏み出す。空間を埋め尽くす雷が捻じ曲がり、イデアに襲い掛かる。
竜が黄金を纏った左腕を思いっきり振るうと全ての雷撃が弾かれ、あらぬ方向に飛んでいった。




竜が黒く染まりきった覇者の剣を構え、主の後ろで彼の部下達が構えを取る。
おぞましい。お前みたいな奴が姉さんにその斧を向けたと思うだけで気分が悪くなる。
イデアの口が開き、紡がれるのは一つの言霊。内容とは裏腹に心底この状況を楽しんでいる愉悦が含まれた言葉。




奇しくもそれは、アルマーズに宿った存在がカイムを通して三者に通告した言葉と同じ内容だった。一言一句、全てが。






───殺してやる











あとがき



趣味をふんだんに盛り込んだ結果、滅茶苦茶長くなりました。しかも、続きます。
それにしてもダークファンタジーって……いいですよね。





[6434] とある竜のお話 第二部 五章 5 (実質13章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/04/05 23:55

注意 今回の話にはほんの少しばかりグロテスク&カニバリズムな表現がございます。ご注意ください。










コレが神将器か? これは聖なる武器と言うよりも、魔王の扱う魔装の類ではないのか?


眼前の光景を何処か他人事の様に見つめつつ、竜はふと思考の隅にそんな言葉を浮かばせた。
幾重もの魔術的な雷が大渦を巻き、一箇所に収束する光景は世にも華麗で、神々しいとさえ思えるだろう。



まるで灯火に引き寄せられる羽虫の如くこの魔窟に存在していた全てのエーギルが、亡霊の魂が全ての災禍の中心であるアルマーズへとその身を捧げる。
炎を燃やす薪に、自ら喜んでなっていっているのだ。どうせ、彼らの主はそんな彼らに労いの言葉一つかけないだろうに。
恐らく、こいつらはただこの存在の強さだけに惹かれたのだろう。つまり、その強さの為ならば何でもする。



それは一種のカリスマなのか。圧倒的な力というのは人を惹きつけるものか。






空気はおろか、空間さえもが超質量の存在に悲鳴をあげているかのように微細な振動を起こし、それは世界があげる声にもならない絶叫となる。
あの秩序が崩壊した時にも感じ取ることが出来た空間の振動。何処にいようが逃れられない根源的な揺れにイデアは脳幹を揺らされながら、ただ一つの思いを噛み締めていた。




ソレを見た時から、イデアは想像を絶する不愉快さに襲われている。全てが気に入らない。
その竜族の全てを否定しつくす斧も。その全身から物理的な破壊さえ伴って放出される闘気も。筆舌に尽くしがたい死の臭いも。
自分の後ろに明確に自分ではない“誰か”を重ねて見ていることも。





更にイデアにとっては腹ただしいことに、直感的にその“誰か”の正体を予想できてしまったことも苛立ちを増幅する一因だった。
しかし、ソレと同時に楽しいとも思っている。今からその気に入らない存在を躊躇なく叩きのめしてもよいのだから。
噛み締めすぎて、血の滴る唇から漏れるように言葉が紡がれる。竜の奥歯がひび割れ、顔面の神経が壮絶な笑顔を形作る。





真実、視線だけで殺せるほどの圧力を込めて、イデアは眼前の敵に声を掛けたのだ。





「お前は……」




誰を見ている? お前の視線にはどうにも“あいつ”の存在の匂いが漂うんだよ。あの裏切り者の、不愉快な存在を感じるんだ。

兜の内側で轟々と奔流を起こす混沌そのものを象徴した光を見つめて発した声に“彼”は……射抜くほどの圧力に対してとった行動はただ一つだった。







────。






即ち、無視。神竜の波動も視線も、全てどうでもいい。彼の思考はただ一つに埋め尽くされているのだから。
あの日、自分を虫けらのように踏み潰した存在への逆襲。遥か高みにあった存在を引き摺り下ろして踏み潰す愉悦。
力を振るって、他者という存在を潰すのがどれほど楽しいことか。



飢えている。飽いている。弱い存在を潰すのは飽きたのだ。
血が沸き、肉が踊る戦いを彼は心底求めている。
骨が砕け、命が失われていく光景と感覚を見ると、彼は……興奮さえ覚える。





相手の事など考える必要はない。この世の森羅万象全て“彼”にとっては全てが獲物なのだから。
それは延々と一人で独演を続けるのに等しい。全て壊れてしまえ。この世に平穏はいらない。




一切の装飾が廃された黄金の巨斧……今なお無尽蔵にエーギルを狂気と共に増幅させる【天雷の斧】が強く脈打つ。
奇しくも斧より放出されるエーギル、彼の存在全てを表す力の色は【黄金】
黄金の竜と同じ、人智を超越した領域にあるソレは紛れもなく最強にして最高の竜殺しであると同時に、最悪の魔性を帯びている。





極大の悪意が既に可視できるほどの渦を巻き、一点に収束し、主の下へと集う。
この洞窟に在った、全ての彼の配下たちが、全ての彼の犠牲者たちが、彼へと繋がる隷属の鎖を引き寄せられ、食われていく。
万来の拍手喝采にも聞こえる無数の唸り声が周囲に響き渡り、狂戦士の再誕を心の底から呪い、祝福し、新しい戦いの幕開けを楽しむ。




その身に幾千もの死を喰らいながら、この地獄の王はゆっくりと行動を開始。
余裕と傲慢と、力強さを感じさせながら、彼は動く。




あたかも羽毛の様にその手にある巨大な石柱を彼は事も無げに横に放り投げる。
馬車数十台以上の重量はあるだろうソレが軽々と放られて、けたたましい轟音を響かせながら奈落の底へと堕ちていく。
千の年月を歩んだ巨木にも劣らない豪腕を、先ほど弾け飛んだトマホークに翳す。



支配者の意を受けた戦斧はまるで忠実な飼い犬の様に王の元に飛び、その柄を強く握り締めさせる。
具合を確かめるように彼は何度か柄を握り締めた後、ぶらんと重力に従って腕を垂れさせる。
大地にトマホークの刃が抉りこみ、深々と亀裂を作った。




悦を含んだ息が彼から漏れる。その息にさえ紫電が這いずり、空気を乾かす。




途端に流れるのはアルマーズからの超大な波動。目視さえ叶う血流の様に太々しい波動の流れ。
先ほどの戦闘によって消耗していたトマホークの傷が見る間に復元され、それだけでは収まらずに新たな加護を、新たな力をトマホークへと付与し、その存在を変質させる。
即ち紫電と黄金の雷を鎧の様に纏うもう一つの斧、小さなアルマーズへ。





コレは大戦時に少数量産されてた【ボルトアクス】に近いのだろう。しかしソレが内包する力は比べ物にならぬ。
雷光を撒き散らし、耳朶を爆砕する轟音を発する魔斧へ、トマホークは生まれ変わる。





二本の巨大な竜殺しの斧を短剣の様に軽々と両の腕に握りこみ、構えなどいらんと言わんばかりに彼は自然体に直立したまま“敵”を改めて見た。
途端に湧き上がる憎悪と歓喜、そして狂気。その全てが渦潮の如く円を描いて激しくかき混ぜられ、彼の心の中で盛大に爆発する。
さながら、最大にまでストレスをためられた火山が、その怒りを溢れさせるように、彼の胸中が真紅の破壊衝動に染め上げられる。




兜の内側の瞳が更に熱く、愛とさえ言える粘性を帯びて、蛇が獲物に抱くような冷たい欲望を覗かせつつ彼はイデアを……否、その後ろに見える存在“だけ”を見据える。
ようやく見つけた。どれほど、この時を待ったか。




見つけた。そう、見つけたのだ。あの日、あの時、あの瞬間、この身に決定的で、絶対的な敗北を叩き込んだ存在を。
顔さえ忘れ、声さえも判らず、噂さえも判らない存在。だが、彼は覚えている。あの圧倒的な力の性質を。あの力の色を、匂いを。
ソレが今、眼の前に居る。あの日と同じ力を以って帰って来たのだ。これを喜ばずに何とするのだ。




アルマーズが、より大規模な数の雷光と稲妻を纏め上げ、支配する。更に多く、更に深く、アルマーズは力を生み出していく。
不死身の心臓、そう評されるべき神将の器は主の意識を汲み取り、全身全霊でそれに答える。答え続ける。
故に今の彼がある。神将器との融合によって、人外の極地に至った彼が。






吹き出る喝采と共に、彼はアルマーズを緩慢に持ち上げ、それを一振り。
その容易さと気楽さは、まるでコキリが薪を割るが如く。しかし、それによって破壊に消費される力は絶大。
それが、全ての始まりだった。もしくは、再開されたというべきか、あの戦役の最後を。





彼が、満足するための戦いが。延々と続く狂おしいまでの願いを叶えるための戦い。





直感でもなく、経験でもなく、生物としての本能に従い、イデア達が全力で彼の斧の刃、その直線上からの退避。
もしも、ここで彼等がこの行動をとらなければ全てが終わっていただろう。
しかして、彼らはここでは終わらない。当然、そんなことは彼も知っている。そんな弱者がここまでたどり着けるはずがないのだから。




故に、これは挨拶のようなもの。ほんのささやかな小手調べ。
狂いきった魔人が繰り出すのは、ただの遊戯だ。





残像さえ残さない、正しく稲光と形容するしかない速さで斧が天から“落雷”すると、全てが変わる。
最初に発生するのは、超質量の存在が超速度で大地にたたきつけられて発声する衝撃波。
だがしかし、それは投石器から放たれた岩が撒き散らすような全方位に対するモノではない。





先ほどイデアやソルトが多用した三日月型の斬撃と同じように、衝撃波が一つの形を成して炸裂する。
縦に──すなわち衝撃波の“線”である。



神業じみた技術により果たされる力の一箇所への収束は、正に最強の戦士が振るう武の象徴。





それは、音よりも遥かに早く伝播し、全てを通り抜けて征く。先ほどの【ギガスカリバー】の意趣返しとでも言うように。





極点にまで圧縮された切断という概念が駆け抜けてほんの半秒後に、現実が追いつく。
ピシッと、何かが割れる音がする。そして、何かが軋む音が、虚しく響く。
世界が困惑の声を上げているように、幾度もその音は発せられた。





恐ろしい程に熟達した剣士に切られた者は、自らが切られたことにさえ気付かないという──今の状況は、まさしくソレだった。
自らが切り裂かれたと認識した万象が、弾ける。空間そのものが、爆砕する。アルマーズの刃から直線上に、順を追って何度も何度も。
それは先ほど必死に回避したイデア達を無視するように彼方にまで飛んでいき、何十、何百もの岩盤を打ち砕き、捻りつぶしていく。



後に残るのは一本の虚空に刻まれた“線”のみ。それが果てなく続いていき、遂に目標点に到達。
ソレは狙い違わず、数え切れないほど亡者の波をせき止めていた【オーラ】を薄い膜の如く粉微塵に打ち砕いた。
濁流の様に暴走する雷が、真紅の光の壁をそこに群がっていた亡者諸共粉砕し、ようやくこの斬撃の蹂躙進行がとまる。





ただの一振りで、アルマーズは魔境を切り裂いたのだ。そしてその後に訪れるのは暫しの無音にして平穏に満ちた刹那。
次に魔窟を満たすのはブーツの底から響くような鬨の声。主の力を讃え、その全てに酔いしれる亡者どもの“神”を敬う祈り。
たった今、その主は自分たち諸共壁を崩したというのに彼らは抗議の声さえあげず、熱に浮かされた様に支配者に対し喝采を叫んでいる。




堤防にせき止められていた全ての亡者が自らの身体を純粋なエーギルの収束体に変え、その身を主の業火の中に投げ込み、更に彼の力は増していく。
心臓を握りつぶすほどの存在感と殺気、殺意を彼は心地よくその身に滾らせてイデアの「後ろ」を見やる。さぁ、どうする? と。
彼はあの人智を超えた術と力が激しく喰らいあった戦役で英雄と呼ばれた男。故に、竜の力など見飽きている。
ほんの少し並の竜よりも強いなど、馬鹿らしい。そんなものは、ただの……獲物で、あの蝿の如く沸いて出てくる戦闘竜と何も変わらない。





ク、と英雄は嗤う。胸の奥底が躍るのを愉悦と共に実感しながら。明らかに彼は、相手が自らの予想を上回るのを期待し、懇願していた。
追い求めてきた最上級にして最高の敵が、有象無象と変わらないなど、彼は認めないのだから。



彼を中心にして噴出す彼の戦気が、圧力として周囲の床に幾筋かの亀裂を刻んだ。













化け物が、とイデアが胸中で吐き捨てる。こんな存在の何処が英雄だというのだ。
確かに彼が振るう力も化け物染みているが、この男はもっと根源的な所が人間ではない。
あのかつてカイムと呼ばれていた存在の兜の中から覗く赤黒い光は、確固たる意思を感じ取れる辺り、この存在は言わば生前の“あいつ”そのものなのだろう。


ならばこいつは既にカイムではない。テュルバンと認識すべきか。



狂っている。彼は、亡霊兵の様に脳味噌に蛆が沸いている訳でも、長い年月を生きた末に心が擦り切れたわけでもないのに
死を貪り、部下を平然と燃料として使い捨て、挙句には自分の為に戦っただろう存在の体を強引に奪い取っている。
質が悪いのは、彼はそれに後悔を感じるどころか、悪いとさえ思っていないことだろう。




断言してもいい、この存在はきっと、今まで生きてきて一度も反省などしたことはないだろう。
それどころか、他人の言葉に耳を傾けたことさえない。
そしてそんな奴が、ずけずけと土足で自分の心の中で最も触れたくない思い出の中の存在に触れている。その事実はどうしようもない程に痒い。




“眼”で仰ぎ見ればそこに映るのは激烈なまでの存在の強度。脳を焼かれるほどの暴威の光を撒き散らしている。
いったいアルマーズに宿る力は常人に換算すれば何人分に匹敵するのだろうか想像も付かない。
表層だけでこれほどの暴威だ。いったいこの存在の本質は何なのだろうか。





不意にイデアの脳内を掠めたのは、あの日、エトルリア王国の王都にて分身を通して出会った男の姿だった。
アクレイアを彷徨っている自分に声を掛け、見ず知らずの自分に自慢げに八神将の事を話して聞かせるあの初老の男性……。
あの輝く瞳、あの弾む様な声、そしてわが子を自慢するように神将を誇るあの姿が何故かこの今になって記憶の海から浮上してきた。




男の笑顔と、眼の前の怪物が重なる。それだけで、イデアの怒りは乗数的に跳ね上がる。まるで焚き火に薪を注いだかのように。
こんなモノを。こんな奴を。こんなありとあらゆる意味で救われない正真正銘の屑を、あの男は敬っていたのか。
名前も知らない男だが、それでもやはり多くの人間があの男と同じ気持ちをこの存在に抱いているとしたら、コイツは存在そのものが裏切りの塊だ。



ガタガタと、覇者の剣が震える。無論これは恐怖などではない。



ふと、力が入りづらいという違和感を感じた腕を見ると、先ほど天雷を打ち払った左腕が服諸共焼け焦げている。二の腕辺りまで表面が真っ赤に爛れ、幾つもの水ぶくれが出来ていた。
恐らくはこの腕に宿した力よりも、あちらの放った雷撃の力の方が強大で、弾ききれなかったのだろう。
無理やりに指を曲げると鈍痛が走り、幾つか水ぶくれが潰れて汚い液体を吐き出す。




即時に腕に少量のエーギルを集めて【ライヴ】を発動。とりあえず痛みは消え、外観的にも多少軽度の火傷ぐらいにまでは復元できた。
内心イデアが眉を顰めた。回復の効果が薄い……やはり、あの斧によって受けた傷は回復の阻害効果などがあるのだろう。




覇者の剣を水平に構え、いつでも突発的に動けるように全身をエーギルで満たす。
威嚇の様に数本【シャイン】を背後に生み出し、凄然とした輝きを放たし、意識だけをアンナに向ける。
相対しているのは間違いなく最強の竜殺しの一つであり、アンナは火竜。ならばイデアが言うべき言葉は簡潔に一つだけ。



イデアにとって、アンナもソルトとは違う方面で……仲間なのだ。少なくとも背中を任せられるほどには。
それに彼女にはまだまだいっぱい借りがある。自分が不貞腐れていた時、どれほど彼女に迷惑を掛けたことか。



まだ、彼女にそれを返せていない。





「気をつけろ。アレはお前にとって鬼門だろ? 火竜が火傷なんて笑えないぞ」




だから、無茶をするな、と、締めてからイデアは気が付いた。言葉のニュアンスが自分が予想したのとは違うことに。
口から出た言葉は、自分で思ったよりも柔らかく、それでいて気楽だった。
仲間かぁと心中で何度か反芻する。そうか、仲間か……こういう時にこういう軽口が叩ける相手がいるというのはいいものだとイデアは思った。




返すアンナは視線だけは鋭く怪物を睥睨したまま、声音だけはいつもと変わらずに返す。
淡々と事務的でありながら、何処か熱を帯びた声。




「えぇ、判ってますわ。火傷なんてしたら、肌が痛んでしまいますもの」




視線だけは固定し、アンナは何か妙な感覚を抱いていた。何か、眼前の存在と過去の記憶が重なる。何かが。
この男……恐らくは十中八九テュルバンの意思を宿した存在なのだろうが……何処かで会ったことがあるように思えてならないのだ。
だが、と直ぐにそんな考えは遮断し、クシャクシャに丸めて頭の中から消し去る。
ただでさえ相手の武器は此方にとって致命になりかねない攻撃を飛ばしてくるというのに、無駄な思考を挟んで戦闘なんてしたら、それだけで危険は数倍に跳ね上がる。



竜化は却下。あのアルマーズの攻撃は防ぐのではなく、回避に徹するべきだと既に彼女は判断を下していた。
あの状態でも迅速に動く自信はあるが……ここは竜の体躯では狭すぎるのだ。故に回避のしやすい人の姿で彼女は戦闘を行う。




竜石を、魂を燃やすように輝かさせて彼女は紅蓮の概念染みた“炎”をその身に蛇の様に纏わり付かせて踊るように
先ほどカイムの腕を根こそぎ吹き飛ばしたファイアーを飛ばす。しかしその全ては大本である怪物には届かない。
全てが宙の中でアルマーズの発する雷に打たれ、破壊される。無数の火の弾丸に向かっての“落雷”がおきているのだ。




アルマーズが発する一つ一つの雷の密度が更に濃くなる。無数の線が光の速度で斧の周りを飼いならされた猟犬の如く飛びまわる。
これがある限り、この存在への飛び道具などは一切通用しないだろう。稲光と共に発生する光速の迎撃など、誰が抜けるのだ。






一本一本がバラバラに動き回る稲妻が、一つに束ねられ、一振りの神々しい天雷の槍へと変貌。
持ち手など居ないそれが一人手に猟師が狙いを定める様に切っ先をアンナへと向けて飛翔。
物理的な重さなどに囚われない雷槍は、正に閃光と述べるしかない速度で飛来し……命中。




そう、命中したのだ。但し、アンナの心臓ではなく途中で打ち払われるように振るわれた一本のルーンソードへ。
音さえも発生しない。ルーンソードの朧に輝く刀身に触れた瞬間、雷の槍は糸の解れたマフラーの様にその魔力を霧散させられ、魔剣へと飲み込まれた。
排水溝に水が流れ落ちていくように、雷の束が引力に従って刀身の中に吸い込まれていく。





ルーンソードが再びその顔を変質させた。先ほどアンナの力を食らった際は業火に包まれた刀身が、次は迅雷を宿す神々しい剣へと。
しかし、ソレを握るソルトの顔に余裕などない。何故ならば剣と違い彼は生身の人間であり、彼には魔剣の様な吸収能力などないのだから。
吸収しきれず、あぶれた小さな稲光たち、そこから生じる火花は彼の皮膚を焼いている。



神竜と地竜の加護を得てもこれだけの傷を負っているという事実が彼の心胆を冷めさせる。
それでいて彼は冷静にカイムだった存在と、それが握っているアルマーズを観察し、自分なりの答えを出した。



即ち。このままだとマズイということだ。どうやってもジリ貧で、こちらの体力と命を削りきられる可能性が高い。




遠距離戦では埒があかない。鉄壁とも思える雷による遠距離攻撃へ対する防御に加えて本体の恐らくは規格外のエーギル保有量から成される次元違いの耐久力。
そしてアルマーズという想像を絶する量の魔力とエーギルを内部に渦巻かす存在が有する魔防能力は……それこそ最大出力で放たれた竜族魔法かブレスぐらいしか通さない。
しかも更に加えるならば、この魔境はテュルバンの領地であり、隅々まで彼が戦いやすい様に作り変えられている。



では、どうすればいいのだろうか。諦めて命を散らせてこの存在に食われるか? 
それこそありえない。倒すのだ。何としても。少なくとも、倒せる確率は零ではないのだから。



溜め息と共にイデアが剣の柄を握り締める。一度大きく息を吸い、そして吐く。呼吸と共に全身に満ちるのは凍りついた殺意と戦意。
先ほど口にした言葉は紛れもない自分の本音だった。楽しくもある。神将と戦え……違う、殺すのはと表現すべきだろう。
胸の奥底に十年以上も秘し続けてきた殺意が、眠りから覚めて鎌首をもたげてきている。





だが、駄目なのだ。同時にイデアは判っている。仲間と共に戦っているこの場で、自分だけがこの感情に身を委ねて暴走してはならないことを。
それに非常に厄介なのだが、今回自分たちはあの斧を手に入れなくてはならない。つまり、何とか無力化させなくてはいけないのだ。





重低音と共に狂戦士が大地を踏みにじり、神殿の石床を粉砕する。巻き上がる砂煙と狂喜。発した衝撃が、小規模の地震さえも引き起こす。
疾走する。空気を引き千切り、ありとあらゆる障害を踏み潰して前進するその様はまるで大規模な火砕流、逃れることの出来ない災厄。




兜の中に宿る光はイデアだけを狙い、その他の存在など視界にさえ止めていない。
処刑執行の如く下されるのはアルマーズの刃、正真正銘、この世で最強の力の権化。
巻き上がる瘴気、吹き出る殺意、叩き潰すという殲滅の意思。その全てを十二分に乗せた神将器の刃が竜へと向けて振り下ろされる。





再度放たれるは、先ほどの破壊の断線。世界さえも置き去りにする一撃。
しかも多量の亡霊を喰らって放たれたソレは、先ほどよりも威力、速度共に上だ。
回避する暇など与えない。防御する術などありはしない。故にイデアが取った選択肢は一つだった。





黒翡翠色の閃光と共に覇者の剣が神竜によって振るわれ、迫る破壊を真正面から叩き切った。
暗黒色の刀身と黄金が交差した瞬間、確かに二つの力は互いに喰らいあい、相殺しあい、そして弾きあう。
大規模な破壊を一点に圧縮した様な閃光の爆発が幾度か発生し、イデアの踏みしめた石床が弾き割れ、その身が少しだけ沈んだ。




全身が古びた歯車の様な軋む音を立てているのを聞きながら、イデアは思いっきり覇者の剣を振り切る。
瞬間、刀身に宿る暗黒が暴走するように膨らみ、拮抗に押し勝ち、天雷の破壊の軌道を叩き曲げ、あらぬ方向へと吹き飛ばす。



未だ激突地点に漂うのは強大な力同士が衝突し、喰らいあった残照。数本の稲妻と黒泡が満たす空間を掻き毟るように狂戦士の携えるもう一つの魔具が切り裂く。
堕ちる刃は変異させられたトマホーク。ボルトアクスへと作り変えられた巨大な殺「竜」道具。
アルマーズと比べれば格段に劣るといえど、その威力は生き物を殺すには十二分に過ぎる。




後方に控えた【シャイン】が迎撃に飛び、斧の刃を砕くべくその猛威を以って襲い掛かるが、止まらない。
トマホークの刃に宿る力は、たかが数本の下級魔術ではそぎ落とすことは出来なかった。




薄い氷の膜を踏み割ったような音と共に剣が砕け、斧が迫る。




イデアの頭を狂刃が叩き割る寸前、それを邪魔するように覇者の剣が下から抉るように振るわれた。
ガァンという空気を濁らせる音と共に剣と斧は確かに衝突し、彼我の質量差など無視して剣の暗黒がトマホークを強引に上へ弾く。
竜の腕の筋肉繊維が悲鳴を上げて、確かに何本か千切れる。幾ら竜の力を使って強化しようとも限界というのはあるのだ。




力任せに振り下ろした武器を無理やりに跳ね上げられるという本来ならばありえない事態にもテュルバン、アルマーズは混迷さえ見せない。
彼は体勢さえ崩さず、次はもう片方の腕に握ったアルマーズを横合いからイデアに向け、叩き割る様に凪いだ。



周囲に収束していた稲妻が、アルマーズの刃に収束し斧が黄金に、眼を焼くほど光り輝く。それを迎え撃つのは夜よりも暗い、深すぎる闇を宿した覇者の剣。
暗黒の刃と、神将器が激突すると、両者の力が食い合いをはじめ、瞬時の拮抗の後に翡翠の暗黒が天雷に飲み込まれ……暗黒を蹂躙した雷は、次いでその持ち主の腕を焼く。




肉の焼ける音と、灰色の煙が上がった。それは肉が炭に変わる音。





「……ぁ……っ!!!」




噛み締めた口から絶叫が迸りそうなのをかみ殺す。視界が真っ白に染まるのを何とか防ぐ。
痛い。痛い。腹に風穴を開けられたこともあったが、ここまでは痛くなかったぞ。
竜殺しの力で体を焼かれるというのは、かくも激痛が走るとは。




視界に映るのは、次の攻撃で首を刎ねるべくトマホークを鎌の様に持って薙ぐ怪物の姿。
腕が動かない。先ほどの電流で腕の神経を焼かれたように。




痛い。痛い。痛い。痛みが……怒りに変わる。
コイツはこんな痛みを姉さんに味合わせようとしたのかと、そう思えば無尽蔵に怒りが吹き上がり、それは激しく渦を巻いた。
その衝動に任せてイデアは大きく口を開いた。過度な力を加えられた唇の端が千切れて、口が思いっきり裂け……その奥から黄金の火の粉が噴く。




噴火するように、光輝く黄金が咲いた。圧倒的な圧力と共に。ソレはトマホークで致命の一撃を叩き込もうとしていた狂戦士を後退させる成果を出す。



擬似的なブレス。喉が焼けることさえ計算に入れて口から放出されたソレは、アルマーズの誇る稲妻の鎧を貫通し、確かにテュルバンへと届いたのだ。
僅かに体に残っていたカイムの鎧が水あめの様に紅く溶解し、気化を始めるが……テュルバンは何も反応を示さない。



むしろ邪魔だと言わんばかりに赤熱する金属の塊である鎧を素手で掴み、脱ぎ捨て、その傷だらけの肢体を晒す。
黄金の炎はイデアの殺すという意思を持っているのか、未だ彼の体に蛇の如く纏わり付き、しつこくその全身を焼いている。



肉が焼け、炭化し、ボロボロと崩れ落ちているというのにテュルバンは苦痛さえも感じさせずに両腕の斧を掲げ──高く咆哮した。



それは、聞くだけで並の人間ならば死んでしまうほどの重圧と威圧、そして狂気に満ち溢れた絶叫。
音波は、全身に絡み付いていた炎を消し飛ばし、大地を割り、破壊の衝撃波となって全方位に飛散。
何枚か石畳が捲りあがり、それらは秋風に弄ばれる木の葉の如く吹き飛ぶ。




竜の咆哮を連想する音の破壊を巻き上げ、彼は再度斧を握りなおす。
赤黒い眼窩の光は、何処までも愉悦に満ち溢れていた。




【リカバー】




アンナによって唱えられるのは最上級の回復魔術。それの淡い光がイデアに降りかかり、焼けた腕を復元させようとするが……やはりというべきか、完全な回復にはならない。
表層を覆っていた炭化した皮膚が剥がれ落ち、さながら蛇の脱皮の如く、その下から新しい……しかしまだ多少爛れてる皮膚が顔を見せた。
どうにも違和感が拭えない。腕の皮膚が何かに引っ張られてるように痛く、幾つか感覚が抜け落ちているようだ。




先ほど焼いた喉がまだひりひりとした鈍痛を訴えかけてくる中、裂けた口を治癒で復元させる。




仕切りなおし。両者の距離は互いに相手の行動に迅速に対応できる絶妙な間合い。
覇者の剣を構えなおすイデアの隣に、ソルトのルーンソードが揃えられる。
その刀身に絡みつくのは先ほど飲み込んだ天雷。




眼を向けるまでもない、誰かなど考える必要も無い。判るのは、頼りになるというだけ。
もちろん、背後で術を幾つも唱えているアンナもだ。








強者を殺すのは、お前が初めてではない。そして、最後でもないだろう。言葉を使わずとも、その情感だけが痛い程にわかる。
テュルバンのむき出しの殺意が更に肥大化する。そこから迸るのは、身の毛もよだつ程に熱を帯びた殺気。
大きく両腕を広げ、彼は興奮状態にある獣の様な唸り声を発する。呼応するように二つの斧がまばゆく輝き、更にその破壊力を高める。




そして彼はイデアとソルトに向い“全軍突撃“を慣行。内部に存在する全ての亡者ども全ての殺意を乗せたその行進は正に、一つの軍団の総攻撃に等しい。
彼は、ある意味では一人ではないのだ。その内部に数え切れないほどの他者のエーギルを抱え込んでいるという点では。





ソルトが構える。剣を片手で握りこみ、体の何処にも無駄な力などない自然体な構えを。
まるで柔軟性のある木のようにも見える構え……メディアンが使う防御のスタイルだ。
真正面からの打ち合いなど欠片も想定せず、ただひたすら水の様に流れる型。




対してイデアは違う。彼には型などない。それどころか、剣術さえも知らない。
両手で剣を握り、大きくそれを振り上げる。黒く染まった刀身が更に純化する。まるで主の怒りに応えようとするかのように。
ただ、ただ攻撃。ソルトが防御を重視するなら、彼は何処までも攻撃的に剣を使う。まるで殺人道具の使い道などそれしかないと断言するように。



竜の力を解放した身体能力と直感、圧倒的な力と速度に身を任せて彼は戦う。









テュルバンのその豪腕は、見かけに反してかなり繊細で迅速な動きを行うことが出来る。
人間だった時から既に怪物の領域に片足を踏み込んでいたその稼動速度は、彼が真に怪物と成ったことによって更にその速度を上昇させた。
彼の腕は、そこに通る神経の伝達速度は僅か瞬き一回の間に四回もの速度で二本の斧を動かす事を可能とする。




アルマーズに宿り、自分と同化している何千もの下僕達のエーギル(魂)から無数の攻撃の知識と経験を引きずり出し、彼はその全てを使う。
雷の刃が半秒に四回ずつ、死を感じさせる大気を焼き切る音と共にソルトとイデアに向けて、その牙を剥く。
まるで、芝を刈るように軽々と命を狩る天雷の霧が、二人に向けて迫った。




異なる傾斜、異なる角度、異なる速度、異なる威力、異なる癖でアルマーズとトマホークがバラバラのリズムを刻みつつ電光石火で踊った。
切る、潰す、殴る、抉る、雷で焼く、感電させる、この全ての攻撃は正に嵐の様な激しさでソルトとイデアを飲み込もうと襲い掛かり
仮にこのうちの一つでも浴びてしまったらイデアはともかく、ソルトは一巻の終わりだ。




だが、その全てのどれ一つ、ソルトに致命の一撃を与えることは叶わない。
彼一人では、数秒でミンチになっていただろうが、攻撃の対象が彼だけではなく、イデアにも向いた結果、彼は一秒に8回の攻撃を浴びずに済んだ。
それに彼はメディアンと言う同じく規格外の存在と何度も模擬的な戦いを行っていたというのも大きい。
彼女が本気でソルトを叩き潰すために行った攻撃の激しさの早さに慣れていたからこそ、テュルバンの常軌を逸脱した速度に反応が出来たのだ。





その身に宿る守護がその機能を最大にまで高め、既に眼ではなく、勘ともいえる領域で彼は攻撃をやり過ごす。
流麗に、一切の無駄を排した踊りを彼は舞った。





イデアが斧を力任せに弾き返し、ソルトが巧みに体の重量を移動させながら、ルーンソードを用いて斧の軌道を逸らした。
撒き散らされた電光をルーンソードの刃が吸収し、それは彼の体力として還元される。
疲れなど感じず、彼はトマホークの刃を眼と鼻の先でやり過ごしていく。




避けきれない、意識の隙間を縫うように飛んだ斧は後方に陣取ったアンナが放つ【エルファイアー】に叩かれ、その軌道をずらされ、両者の体を掠る。



これは正に舞踏。一人でも欠ければ一瞬で命が飛ぶ生死の境を綱渡りで突き進む踊り。
全員が歯車の様に踊り、永遠に続くとさえ錯覚させられる舞い。







テュルバンが怒りと震えるような戦きと共に更に速度を上げる。
攻撃の速度が早まり、精度を落とさずに更に激しい蹂躙を開始。
赤、黒、黄金が更に激しい色のワルツを刻む。




彼の攻撃は、既に線でも点でもない。領域を塗りつぶさんとする剛烈な勢いを宿した、面単位の殲滅行動だ。




瞬き一回に付き10回。11回。12回。
実際はこの攻撃は半分ずつ両者に加えられたモノになるのだが、それでも6回の攻撃を一本の剣で防ぎきるのは難しい。
さすがのソルトもこんな馬鹿げた速度で放たれる刃を守りきるのは酷く疲れるし、綱渡りの芸当。





だからこそ、彼は少しだけ意欲的に挑戦してみることにした。どうせこのままでは守りきれないのだから、やってみよう、と。
微妙に構えの角度を変え、高速回転する風車の如く繰り出されてきたトマホークの刃とルーンソードの刃を接触させる。
守りを攻撃に使う、ただそれだけ。剣士としては基本中の基本。故に大事なことなのだ。




視界の端でイデアがアルマーズの刃を渾身の一撃で弾き、邪魔伊達を防いでくれるのを見て、ソルトの心は満たされた。
力の流れと方向性に気を払いながら彼は慎重に斧の表面を刃でなでる様に滑らせ、柄まで到達し、そしてその先へと至らせる。
ギリっと、岩石に剣を埋めたような重い手ごたえ。大よそ人の皮膚とは思えない程に密度を感じる堅さ。普通の武器ならば、刃が砕ける頑強な鎧。



しかしルーンソードに宿っていたのは撒き散らされたとはいえ、曲りなりにも天雷の斧の力であり、いわばこれは今だけは神将器に通ずる切れ味を誇っていると言ってもいい。




「──っぅううらあああ!!」





腰、呼吸、力の方向、その身に宿る全ての加護。これらの力を全力で振り絞り、ソルトは全力で刃を押し込んだ。
二分の一秒後、トマホークの刃が宙を舞う。それを握り締めていた指ごと落ちて、遥か祭壇の下まで落下していく。




やった、と。ソルトは一瞬だけ達成感に満たされ……それが決定的な隙になってしまった。
意識の空白から戻ってきた彼が見たのは、幾つかの指が欠落した握りこぶしだった。
瞬間、眼の前で真っ白な火花が炸裂する光景を見て、彼の意識が叩き割られる。




体に感じるのは、奇妙な浮遊感。朧気に、自分が今空を飛んでいるのだというところまでしか彼は判らなかった。




──先の事を考えてなかったのかい? 全く。



あぁ、僕はまたあの時と同じ過ちを犯してしまったようだ。
最後に彼の意識に映ったのは、自分へと落ちてくる刃を食い止めるように覇者の剣を振るうイデアの姿だった。


















重低音を轟かせ、アルマーズを覇者の剣が受け止め、電流を流される前にその刃を横へと弾き飛ばし、イデアはほっと胸を撫で下ろした。
テュルバンに痛覚はなく、指を切られた程度で動きが鈍ったり、思考に乱れが生じることなどありえない故に起こった反撃でソルトは顔面に拳を叩き込まれたのだ。
意識を向けると心臓の鼓動と呼吸を感じる。確かに彼は生きているのが見えた。




ソレに、彼は全く無駄に倒れたのではない。二振りあった怪物の武器の一つを奪い取るという仕事を彼は成していた。
あのふざけた回数の攻撃が半分になったのは正直嬉しい。
瞬時にイデアは力でソルトの体を掴んで、ソレを後方に陣取っているアンナへと向けて多少乱雑に放る。




これで一先ず彼の安全は確保されたといっていいだろう。
安堵を覚えて、次にイデアが感じたのは憤怒。よくも俺の仲間と言う憤り。




見れば数歩離れた距離に座するテュルバンの指は既に再生を果たしており、残ったアルマーズを手斧の様に片手で構えて此方をじっくりと品定めするように見据えている。
集中。今は集中しなければならない。自分に深く言い聞かせ、イデアは呼吸を整える。ここからは前線組みは自分ひとりだけ。
後方からアンナの支援が入るだろうが、それでもコイツと刃を交えてアルマーズを分捕るのは自分の役目だと彼は考える。






まさか火竜のアンナに神将器の相手をさせる訳にもいかない。例えるならば、それはペガサスに弓兵と戦えというものだ。






深く、深く、深奥を覗き込むようにアルマーズを、テュルバンをその探知能力で見つめる。
その一挙手一動作、その全てに対応できるように全身の神経を張り巡らせて観察。



膨大なエーギルの塊であるアルマーズは、いわば剥きだしの魂ともいえるだろう。



アルマーズ。仰ぎ見るだけで吐き気を催すほどのエーギルの混合具合と、驚嘆を感じ得ない力の総量。
だが違う。もっと深く、鋭く、この存在の本質を、存在概念を、その全てを理解せねばならない。
この神将器という存在が何なのかを理解するということは、イデアの目的に近づくことを意味するのだから。



メスを差し込むように、気配探知能力を限界まで鋭敏化させて彼はアルマーズへと潜った。






そこで刹那見えたモノに、思わずイデアは込みあがってくる甘酸っぱい液体を堪える。





ソレは巨大な体躯を持つ男。紛れもなく、あのアクレイアにあった像の一つ。
剛健な肉体、人間離れした狂気とエーギルを宿す男が……アルマーズの中に……違う“彼が”アルマーズなのだ。





この二つに既に境界線はなく、彼はテュルバンであり、アルマーズである。
アルマーズはテュルバンを極限の人外へと変貌させ、彼を地獄の悪鬼として新生させた存在。
神将器は、全身全霊で主の願いをかなえた結果、今の彼らがある。





天雷の狂戦士は震えている。総身を震わせ、よくぞ来たという喝采を飛ばしていた。
恐怖ではなく、万来の夢を果たせるという、全力の開放に涙している。
殺戮への飽くなき欲望と欲求に満たされた双眸が、イデアではなく、その後ろに誰かを重ねて“見て”禍々しく窄められた。




彼の眼に覗いているのは、冷たく、無慈悲な死だ。それがこちらを見返している。




そう、深淵を覗き込み、深淵に覗き返されたのだ。
純粋なエーギルの塊である存在、ソレを読み込んだイデアの脳髄を莫大な情報が駆け巡り、彼を痺れさせる。






砂嵐のように視界が乱れ、何も見えなくなるが、イデアはここではない別の何処かを確かに視聴していた。
まるで壁に飾られた絵画を見ているような、そんな光景。色彩もなく、白黒の世界に無数の砂嵐が走り、全景が見えない。






一人の巨漢の男が、何かを見下ろし、蔑みに満ちた声で言葉を紡ぐ。





────そうだ。コイツは殺すべきだ。殺してしまおう。バラバラに犯して殺すべきだ。見せしめとして、コレはいい役目を果たしてくれるだろう。







脳を焼くように呟かれた言葉は、イデアに向けられたものでも、このテュルバンが発したものでもない。
いや、彼が発した言葉なのだが、それは“今ではない時”に彼が紡いだ言葉。
誰にかは判らない。何故、このような言葉を? 










────やめろ! やめてくれっ……私は……!!






若い女の声。何処かで聞いた、声。懇願するように、喘ぐように紡がれたソレは隠し切れないほどの苦痛と苦悩に染まっている。
草原を吹き行く春風の様な明瞭とした声をイデアは確かに何処かで聞いた事があった。








いや、知っている。自分はこの声の主を知っている。そう……これは。









思考はそこで中断された。幾つもの場面が瞬時に巻き戻されて、イデアの思考は現実へと引きずり込まれた。
時間にして半秒にも満たない時間だったが、それは場が変化するのに十二分な時間。







怪物がトマホークを失った腕を見やり、顔を傾げる。一度切断され、再生を果たした自らの指を。
雷が集まり、密度を得て、槍となる。その数実に4本。それが怪物の背後に控えるように浮かび上がる。
魔術ではない。ただ周囲にある力を固めて投げつけるだけ。かつてあの存在が彼にそうしたように。






殺気を漲らせ雷槍が襲来。それは回避さえ許さない速度。
辛うじて竜族の動体視力で見えるほどの速度を伴い飛来する殺気の具現化を2本を叩き落し
3本目を手で掴み握りつぶし、4本目は大きく顎を開き……食いちぎるように噛み付く。




口内を痺れる痛みが走り、舌が裂け、歯に皹が走るのを客観的に感じつつイデアは思いっきり上顎と下顎をかみ合わせる。
バチィと小さな爆発が起こり、灰色の煙を口から吐き出す。苦々しい液体を吐いて捨て、間を置かずに覇者の剣にエーギルを通して風車の如く高速で回転。





黒い剣閃が円を描き、やがて速さを増したソレは唸りを発する盾となる。
一瞬の間もおかず、破壊の雨が頭上より到来し、イデアを軽々と捕食するように飲み込んだ。
それは先ほどの雷の矛。十、二十、三十、それ以上の暴威をもって神竜を引き摺り下ろそうとするのだ。




石床が熔けて粘性を帯びた液体と化し、巻き上がった残骸が彗星の尾の様に荒々しく煌く。
熱量を帯びた嵐の顕現により、間違いなく周囲の気温が数度ほど上昇。
金属が弾きあう快音。ガラスが叩き割られる狂音。肉が焼け焦げたおぞましい匂い。






雨が一時的に勢いを収めたかと思えば、次の瞬間に天より墜落してくるのは身の毛もよだつ巨大な雷電の尖塔。数百本の雷槍をかき集めて作られた魔艙。
先ほどイデアがカイムへと放り投げた石柱の数倍……樹齢千年を超えた大樹であろうと到達できない巨大さを誇る特大の稲妻の収束体が叩き込まれた。
ファランクスを滅した光系統上位魔法【アルジローレ】でさえ、コレと比べればまるで爪楊枝だ。





アンナが咄嗟に背に渦巻く業火の翼を生やし、ソルトを抱きかかえて宙へと逃亡。
そこに待っていたと雰囲気で述べる数体のガーゴイルに、アンナは思わず溜め息を漏らし、その瞳を鈍く輝かさせる。
しつこい奴は男女問わず嫌われますわ、と小さく呟くと火竜の背から噴出す業火が勢いを増した。







爆音と共に、大爆発が発生。




雄大で、馬鹿馬鹿しい火力が周囲を狂わせ、神殿の上部を完全に破壊し、滅しきる。
食い取られたように大きく円形に上層が抉られ、クレーター状に綺麗さっぱりと無くなる。







埃が晴れ、視界が満たされる。そこに居たのは全身に数本の槍を突き刺しながらも、全ての攻撃を耐え切ったイデアの姿。
しかし無事ではない。全身に負うのは幾つもの物理的な傷と、竜殺しによって負わされたエーギルへのダメージは確かに蓄積している。





荒い息を吐き、彼は必死に頭を整理していた。アルマーズを見てからどうにも調子がおかしい。
何かが勝手に頭の中に入ってくる。とめられない。痛い。苛々する。
悶々とした感情を渦巻かせながらも彼は覇者の剣を腕が消えるほどの速度で払い、眼前に迫っていたアルマーズを何とか弾く。




体内で嫌な音がなり、神竜の腕の骨に亀裂が走る。
雷が彼の体を更に深く、残忍に焼いていく。激痛が体の奥底から走り、イデアが顔を顰めた。
間を空けずに追い討ちとして放たれたテュルバンの拳がイデアの鳩尾に深々と入り、その体がよろめく。



内臓がひき肉に変わっていく音を聞きつつ、イデアは無意識にアルマーズへ意識を向けた。
何故なのかは判らない。ただ、極自然にそれが当たり前だといわんばかりに。
打ち合える程の距離でアルマーズと接触した結果、この存在の深奥へと“眼”を向けていたイデアへ、更に情報が流れ込む。




頭部にナイフを突き刺されたような激痛と共に、神竜は眼を回す。



視界に、先ほどよりは薄い砂嵐が入り、イデアの眼は別の誰かの眼へと変わり。今ではない何処かへと意識が飛んだ。



次に瞳に映った世界は、しっかりと色彩が施され、今、眼の前でその出来事が起こっているような、現実味を対象に与えるものだった。












イメージのイデアの眼前に、一人の少女が座り込んでいる。紫色のローブを着込み、腰まで届く紫銀色の髪をした美しい少女。
その双眸の色は、紅と蒼。何も映さない眼だけが、ただ空虚に空を眺めている。まるで、誰かを待っているかのように。
あぁ、とイデアの意識が、大きく溜め息を吐いた。エーギルの中で、彼女を確かに感じ取れて、イデアの胸は一瞬だけ満たされた。



だが直ぐに現実が追いつき、その満足を奪い取っていく。彼女は“ここ”に居るのであって、お前の傍らには居ないと囁く。
その髪も、眼も、声も、意識も、全てここだけであって、お前の家族は居ないのだと、毒を注ぎ込んでいる。





少女が誰かなど考える必要さえなかった。
忘れるわけがない。忘れられるわけがない。彼女の事を思わなかった日は一日もないのだから。




取り戻す。何を犠牲にしようと。




────生かしておいてはならない。一時の情で、後に災禍を残してはならないだろう。こんなモノ、生きている価値などない。





それはイデアの口から出ていたが、イデアのモノではなかった。そしてその言葉は、言葉だけを見れば人類の未来を案じている様に聞こえるだろう。
未来の者達に脅威を残してはならないと、そういう崇高な理念を感じ入ることが出来るだろうが……その本性は違う。
彼は、この声の主は、楽しんでいた。この存在を殺せば、後に何かよくない事が起こると直感的に理解しながら、彼はそれを望んでいる。
平穏を壊そう。平和を潰そう。血みどろの戦争を、嘆き悲しみを撒き散らす闘争。不幸が起こることを彼は喜んでいた。




抵抗もしない女子供を殺すことは、彼にとっては所詮は駄菓子をつまみ食いするようなもの。
事実、イデアは感じていた。この男の顔の頬が緩んで、喜悦と孕んだ笑顔を浮かべているのを。




その果てに自分が死ぬことになろうと、彼は気にしない。その程度だったのかと自分に見切りを付けるだけだ。
一切の躊躇いなく、彼は天雷を纏った戦斧を少女へと向けて、無慈悲に翳す。斧に宿る輝きは、断頭台にも似た、血を求める鈍い光。






止めろ。止めろ。止めろ。止めろ。止めろ。止めろ。止めてくれ。





喉が潰れるほどの音量でイデアが叫ぶ。何度も何度も。自分の眼を抉りたいとさえ思った。
何だ、ふざけるな。何だこれは。止めろ。よりにもよって、この視界で、この状況だと?
俺が、姉さんを殺す? 違う。殺すのは別の狂った男だ。





殺す? 誰を? 誰が? 何故? 止めろ。
纏まらず、半ば狂熱した思考で彼は幾つもの言葉を喚きちらし、絶叫をあげるが何も変えられない。
神とさえ謳われた竜達を殺す力を、戦意さえない存在に叩き込めば、結果はどうなるかなど考えるまでもない。





刃が堕ちる。断頭の意想を乗せて。落雷を思わせる畏怖と共に神将器の力が行使された。
絶望、イデアの心中をそれが津波の如く満たし、隅々まで黒く染め上げていく。




黄金の閃光。全てがソレに塗りつぶされた。




最後に見えたのは、眼に悪いほどの光を放つ炎の渦。その色は、烈火。




全ては過ぎ去った過去の残影。だが、それでも……。















世界が戻る。先ほどの様に、幾重もの光景を置き去りにして。
そして、そこにあった光景は、イデアを瞠目させていた。
信じられないと、自分の体に起きた異変を見て口を開けて呆然とした表情を浮かべる。




刃が、この世で最も忌憚すべき竜殺しの刃が深々と自分の右の肩に抉りこんでいる。
何時されたなど、考える必要はない。ほんの一瞬でもアルマーズの情報で翻弄されていた自分は、さぞや怪物からみれば格好の的だっただろう。
全身に突き刺さっていた雷槍が、傷口周辺を食いちぎる様に爆発し、体内からズタズタに食い荒らし、壊す。





眼前に相対するは、視界を埋め尽くすほどの巨漢を持った怪物。喜笑を讃える赤黒い光が、更にその深度を増す。




爆発の衝撃で、内臓がかき混ぜられ、骨が軋み、体内のエーギルの流れを無茶苦茶にされて、思わずイデアがたたらを踏み、倒れこみそうになる。
しかし、テュルバンは、そんなことは許さないと更にアルマーズに力を込め、残ったもう片方の掌でイデアの顔面を口を塞ぐように鷲掴みにし、がっちりと拘束。
赤熱する雷電の刃が、肉屋の肉をなで斬りにするようにイデアの肩から深く潜り込み、彼の衣服を蒸発させ、骨を微塵に砕き、肉と神経を引き裂く。


お前はカイムの腕を奪った。ならばお前も腕を失うべきだ。狂戦士の眼は喜悦と愉悦、快楽と陶酔に満ちている。



イデアの右腕が、根元より胴から切り離されて、肉と骨が焼け焦げる匂いと共に床に落ちた。超高熱の刃で切り離された傷口からは血さえも出ない。
痙攣する手が、何かを掴むかのように小さく指を曲げて、それっきりその腕は動かなくなった。





「───!!!!」




声さえあげられず、くぐもった甲高い悲鳴が轟く。



左腕に握った覇者の剣を動かし、何とかテュルバンを引き剥がそうとするイデアを見て、狂戦士の心は大きく歌った。
嗜虐心。彼の心を支配するのは言葉にしてしまえばそんな感情か。苦しんでいる。痛がっている。実に素晴らしい、と。
竜の頭部を万力の如く締め付ける豪腕、その掌に力が集う。紫電を纏い……掌の中で眼も眩むような稲妻の爆発が産声をあげた。





それは灼熱を一点に集めた暴災。鋼鉄をも溶かし尽くす熱量の閃光。アルマーズの宿す純粋な竜殺しの力をふんだんに宿す一撃。
握り締められた掌の中という密閉空間で熱量と雷は荒れ狂い、顔面を焼き焦がす。
悲鳴さえ出ない。恒星の光の様な眼を焼き潰す閃光と熱波により皮膚が焼け爛れ、眼球が乾いていく。





焼き切られたロープが落ちて、イデアの首に掛けられていたとあるモノが床を転がり落ちる。




皮膚がひび割れ、頭蓋骨に断裂線が刻まれ、脳味噌が釜戸に入れられたチーズの様に熔けていく感覚は、知覚さえ出来ない。
痛覚さえ凍るように麻痺していく中、覇者の剣を落とし……イデアは力なくアルマーズを掴んだ。
既に先ほどの様な莫大な量の情報の濁流は起きない。そんなものを受け入れる余裕がイデアにはなかったから。




小さな針のように細まったイデアの思考に、アルマーズから湧き水の如き繊細な一つのイメージが流れ込む。











ただ、彼が見たのは一つだけ。一個のイメージだけだった。恐らくは、このアルマーズが最も強く、深く、執着する相手だろう。
長い白髪の男。純白のローブに身を包み、こちらに背を向けた男。イメージの中での自分は倒れ伏して、その背中をただ見つめている。






まるであの時の様に。





誰よりもその姿を、顔を、声を……そして男が持つ“力”の大きさをイデアは、この存在の“息子”は知っていた。
何処まで追いかけても、届かない背中。力を手に入れれば手に入れるほど、この男がどれほど異次元の高みにあったかが判ってしまう悔しさ。
どうして残ってくれなかったのか。お前が全て潰せば、それで終わっていたじゃないか。







どうして人間にそこまで肩入れするんだ。お前のせいで姉さんは……。





───我はお前たちの父などではない。





その言葉を聞いた瞬間、イデアの中で薄れていた彼への憎悪がその質量を爆発させた。
黒く、濁った液体がぶちまけられ、冷たくねばねばした嫉妬が無残に破壊しつくされた内臓を凍らせていく。



呪いの言霊。真実、人を心の底から抉るのは剣や槍ではなく、言葉だという事を実感させてくれた形のない凶器。
故にイデアもこの一撃にこう切り返す。お前なんて、俺の父親じゃないと。俺の家族は姉さんしかいない、お前など消えてしまえ、この裏切り者が。
俺はお前とは違う。いつか、絶対にお前を越えてやる。お前を超えるほどに強くなって姉さんを取り戻す。





それこそ、彼の原始の思い。
真実イデアはあの日から誓っている。ナーガに捨てられたあの日から。






そう、だからこそ。
だからこそ、こんなところでこの程度の存在に足を引っ張られるわけにはいかない。
瞬間。イデアの中で一つの線が音を立てて切れた。彼は、足を一歩外に踏み出し、踏み外す。





勝つ。イデアはそう決めた。圧倒的な力で、身の程をこの怪物に教えてやると、彼は決定した。
胸の奥底に秘めた心臓が、神竜の太陽がその勢いをかつてない程に高みへと至らせる。






苦痛が武器に。怒りは剣に。絶望が黒い炎へ。




“太陽”が暴力的な光を生み出せば出すほど、ソレによって産まれる黒は純粋に、美しく成長を遂げていく。
最も強い光は、最も深い影を投げかける。ならば、神竜が刻む影はどれほどの深度となるのか。



瞬間、イデアは小さな妖言を聞いた。確かに聞いた。全てを解決する方法をその原始的な言霊は宿していた。













怪物──狂戦士テュルバンは咄嗟に竜の顔面を鷲掴みにしていた五指を静電気でも流されたかのように離していた。
そのまま彼の足が大地を蹴り、5歩分ほどの距離をイデアから取る。
彼は人として産まれてこそいるが、その性質は何よりも原初の獣に近い。だからこそ、体が考える前に動いたのだ。



彼に恐怖という感情は存在しない。ただ不思議そうに何が自分をそうさせたのかを知るべくイデアへ眼を向ける。
如何なる鋼鉄よりも強固な拘束具で顔面を押さえ込まれていた竜の顔面は半分が崩壊していた。






顔面の左半分が大きく焼け焦げており、電撃傷が無残に晒されている。
落雷にも匹敵する電流と、それに対する抵抗によって生じる太陽の表面温度にも匹敵する熱が彼の顔面を蹂躙した結果だ。
皮膚から油が垂れ、その下にある筋肉さえも焼き焦げてしまっている。



左の眼が瞼さえ焼きおちた結果、行き場を失ってギョロギョロと不規則に動いているのが見る者に嫌悪感を与えるだろう。
イリアの雪山でさえ及ばないであろう絶対零度の瞳だけが爛れた輝きを放っているのがテュルバンには愉快だった。
素晴らしい。まだ闘志を失っていない。何処まで壊せばこの存在は死ぬのか、彼には興味深い問題に過ぎない。





覇者の剣を残った左腕で拾い、握り締める。彼の切り落とされた右腕が黄金の光に纏わり付かれ、イデアの胸元まで持ち上げられる。
ソレに……イデアは齧り付いた。口元の焼け焦げた皮膚がボロボロと崩れ落ち、飛び散った紅い液体が彼の服を染め上げた。
耳元まで裂けた口が真紅の肉を飲み込み、むき出しになった骨を齧り、細い糸のような血管の中身を啜り、味わう。





意外と、不味いものだとイデアは思う。脂身も何もない。味もなくて、サバサバしている。
血液は苦く、粘性を帯びていて口の中でも重くて溜まるから水の様に一気に飲むわけにもいかない。
だが、その全てを置いても一度体から切り離され、苦痛と共に持っていかれた血肉を取り戻すのは……恍惚さえ覚える。




邪魔をするなと背に生えた2対4枚の翼で宙へ浮き上がり、彼は器用に口だけでハイエナが餌を貪るように腕を素早く腹部へと収め、最後に小さく血の匂いに満ちた溜め息を吐いた。
失った血肉とエーギルの回収。喉に詰まった血の塊を吐きだし、彼は背後に眼を向けた。
熔解した青銅のガーゴイルが数体入れ替わるように大地に墜落していくのをイデアは横目で見やり、口角を吊り上げて言葉を飛ばす。



ポタポタと唇にこびり付いた血液が滴り落ちた。





「アンナ……ソルトはどうだ?」




発せられた声はあの老火竜を思わせるほどにしわがれており、飛竜の唸りのように低く、冷たい声だった。



振り向く、悪夢の中でしか出会えない怪物の様な顔を見てアンナが一瞬だけ息を呑み、彼女は直ぐに意識を切り替える。
紅と蒼、濁った瞳の中で強烈な光が渦を巻いているのを彼女は確かに見たが……気にせず言葉を発する。
ただ、非常に今のイデアからは嫌な予感がした。言葉に表せない、とてつもない危機感を。





「ソルトは無事です。ただ、少し気を失っているだけですわ」





小さく、アンナがソルトの頭を撫でやり、イデアが安堵の息を吐いて自分の顔に負った火傷を残った左腕の指でなぞる。
感覚さえ焼けてなくなったのか、触っているのに触っているという実感が、触感が一切感じられない。
骨が膨れ、熔解し、製鉄所から零れ落ちた粘着質な液体の様にくしゃくしゃで硬い肌触りの肉が張付けられている。


真実、竜さえもたじろぐ顔だった。




「まだ自分とソルトの身を守るだけの余力はあるな?」





「はい」






頷くアンナを見て、イデアの顔面が恍惚を孕んだ笑みを浮かべた。
口元が大きく裂け、眼が哀れな獲物を狙う捕食生物の如く爛々と狂った色彩の光を放っている。
その眼の奥で揺れている炎の名前は憎悪。




あまりの異貌に、アンナは直視できず思わず顔を小さく背ける。
恐ろしささえも感じる、敵であるアルマーズよりも。




「なら、出来るだけ俺とあいつから離れて、知る限りで一番強力な結界を張っていろ。直ぐに終わらせる…………それと、ごめん」




小さく、最後に付け足されるように放たれた言葉は泣いている様に火竜には聞こえた。
思わずアンナがイデアを見ると、彼の眼はソルトだけをじっと見据えている。視線で、謝る様に。
火竜が次には下界に視線を向ける。そこに座すのはアルマーズを掲げ、無尽蔵にエーギルを食いつぶす怪物。



あれほどの力を誇るのに、彼は更なる力をその身に蓄えていた。まるで、もっと強大な存在と戦う下準備をするように。




囁くような声でアンナにはこう聞こえた。逃げろ、と。
彼女はそうした。翼から得る浮力でソルトを抱きかかえたまま上空へと逃げていき、転移の術を使う。
テュルバンもイデアも、彼女をちらりとも見なかった。





イデアが片腕を広げ、なくした腕と、その断面から生じる痛みを感じ入るように瞳を閉じて艶笑を飛ばす。
今は、苦痛さえも力に変わる。それが素晴らしく心地よかった。



何となく、朧に彼は考えた。先ほどの映像の意味を。あれは何処なのかを。
姉さんは生きている。あの封印の結晶体に幽閉されているとはいえ、生きている。




ならば、あれは何だ? この男は何をした? あれは過去の行い? それともありえた未来?


確かに判るのは、どちらにせよこの男に対する処断は決まったことか。
テュルバンはイデアの逆鱗を踏みにじったのだから。





夢に浮かされたように覇者の剣を、その黒々とした刀身を見つめる。
全てここにあった。神将器など求めなくてもよかったのだ。




覇者の剣をゆっくりと動かし、その切っ先を向ける……自分の心臓へ。
何をすればいいかなど判りきっていた。今まで散々に求められてきたではないか。
夜を切り取ったような闇を浮かべる刀身をイデアは見つめ……迷わずソレを胸に突き刺す。




激痛。だが、構わない。この程度の痛み、コイツが先ほど姉さんにやろうとしたことに比べれば痛いというカテゴリーにさえ入らない。
一瞬、寒気を覚えたが、次いで襲ってくるのは猛烈な熱さ。胸が、文字通り焼けるほどに痛い。




始祖の力を象徴し宿す剣の刃が肉体的ではなく、概念的な意味で神竜の心臓に到達し、その奥で燃え盛る神竜の“太陽”に接触した瞬間──変化が起こった。
“始祖”と“神”決して交わることのなかった神話さえも霞むほどの過去の種族たち。対極の属性を司る、ある意味では根源的な存在。
喪失した右腕、心臓、全身の至る場所に負わされた傷口から、濃密な、質量さえも有する原初の“闇”が絶え間なく、煙の如く吹き出て彼の体を繭の様に優しく、労わりを持って包み込む。




黒く、輝く太陽。日食に食いつぶされた太陽の縮図の様な、繭だ。その中にイデアは内包された。
それは見たくも無いモノを覆い隠し、夜に抱かれた者に心地よい錯覚を与えてくれる闇……。





竜石が黄金の光を放ち、闇と化合し反応を引き起こす。
神竜のエーギルが性質を変貌させ、星の瞬きの様に激しい熱波と光を支配しながら過剰膨張を引き起こした。
一の光と一の闇が反応し十に、百に、千に、遥か彼方にまで混ざり合い、力を膨らませる。
それはクラスチェンジ。神竜という種からの変容。現状の力では満足できず、更なる上位の次元を目指した際の当然の帰結。




それは言ってしまえば“多少は”制御された暴走。荒れ狂う大海の如き力の総量を一つの意思で纏め上げる行為だ。




息が出来ない。いや、そもそも呼吸をする必要が無い。瞬きもいらない。慈悲も必要などない。
暗闇の太陽の中でイデアは嗤っていた。絶倒したいほどに。力だ。力だ。力が今の自分にはある。
最大と言う概念が破綻していくのを感じる。心底、今の自分に限界などありはしない。




音を立てて、自分の中の限界が崩壊していくのをイデアは確かに聞いていた。
耳の中でアルマーズが発生させるのとは違う雷鳴が轟き、黄金と黒があべこべに混ざった奇怪な色が背筋の下でとぐろを巻く。






先も見えない闇の中に、イデアは自分の未来を見た気がした。






───竜化───








そういえばここ暫くは行っていなかったか。最後に戻ろうと思ったのは何時だったか。
思い出した、確か飛竜の群れを殲滅したときだったか?



あの時とは違う。たかが飛竜の群れに敗北を喫したあの時とは。





イデアの体が人としての姿を失い、黒い不定形な黒金色の煙となって崩れ落ちる。
さながら、エーギルの結合を解かれたモルフの様に。




酷く、歪で耳障りな不協和音をかき鳴らしながら、かつてイデアであった煙がその姿を変異させていく。
無尽蔵に顕現する黄金と漆黒が絡み合い、溶け合いながら言語では言い表せない色彩を奏で、その形状を変質。
ミシミシとアルマーズによって支配されていた空間が弛み、歪んだ後に亀裂が入る。




それは物体としてそこにあるのだけではない。一個の存在として超高密度に圧縮されたエーギルの量は既に一つの自分の思考を持った世界と評していいだろう。
アルマーズの支配する世界に、もう一つの異界が生まれ落ち、その規模を急速に拡大させているのだ。
テュルバンがアルマーズを一閃させ、放つ切断の断線を輝かない黄金が飲み込み、ソレに込められた殺意を咀嚼する。












瞬間、一度とある領域を超えた竜化の速度が劇的に速まった。翼が、脚が、腕が、頭部のシルエットが形作られ、繭の内側より孵化を開始。
最初に爪が現れる。繭を内側から絹を引き裂くように現れたのは神々しく輝く五本の神爪。
一本一本の全て、例外なく神将器に匹敵する刃でもあるそれが、薄い暗黒の膜を引き千切る。



更にもう一つの腕……新たに構築された右腕が繭からその姿を覗かせ、煩わしいと残った暗黒の殻を薙ぎ、球体の半分ほどが消し飛ぶ。
頭部がのっそりと貌を覗かせ、辺りを睥睨。紅と蒼の鋭光が、闇の中で浮かんでいる。視界に入った物体が、尽く視線に宿った力に耐えられず崩壊。
周囲を腐臭と死臭が満たす。先ほどよりもなお濃い破滅の匂いが。唯一ソレに逆らえたのは天雷の斧と狂った英雄だけ。






生まれたのは竜の姿をした始祖竜。
誕生したのは竜の形を持った神竜。
降臨したのは生物と言う枠に嵌められ、形をもった一つの異界。



この竜に、この竜と形容していいかさえ判らない怪物に種としての名を付けるならば──その誕生方法より神祖竜とでも呼ぶべきか。




巨大。何処までも巨大な竜だ。黒と黄金の力が混ざり合い、いかなる魔性も及ばない最凶最悪の邪性を帯びつつも、美しく気高い神聖さが同時に矛盾なく存在し、双方を高めあっている。
不気味に漆黒の太陽の様に輝く全身に纏った重竜殻は神竜の丸みを帯びながらも何処か芸術的な印象を与えるソレと
始祖の攻撃的で鋭利な特徴が同居しており、時折全身を想像も出来ないほどの莫大な力が流れているのか、不気味に輝く真紅の線が走り、常に赤黒く帯電。




これはまだ、生まれたばかりの幼生。新たな種としての始まりだ。
無数にスパイクの様な魔棘が生え揃った尾が、音もなく左右に小さく揺れた。



腹部の鱗の一枚一枚がまるで呼吸をするように点滅を繰り返し、不気味な光のイルミネーションと共に周囲を真昼へと塗り替える。
側頭部から二本の捩くれた角が大きく前方に突き出し、螺旋状の窪みが掘られているそれは
万年を超えて存在する霊峰の如き存在感と共に、周囲の空間に対して恐ろしいまでの敵意と害意を撒き散らして、相対する存在の心を粉々に砕く役目を果たすだろう。




かつてエレブに君臨していた神竜王を思わせる王冠の如き四本の小さなカーブを描く王角が、後頭部から後方に向けて左右から二本ずつあった。
イドゥンが竜化した際にも見せるソレは、イデアと彼女の共通した部位でもある。




地震を想起させる重振動を鳴り響かせ、二本のしなやかな脚を大地に根を張るようにして降りたつ。
天井まで悠々と届くその身を窮屈そうに身を屈めこませ、背にある4枚の骨格だけのやせ衰えた枯れ木の如き翼を広げて帆船が帆を掲げるようにその骨格の内に薄い膜を生じさせる。
極光に輝く翼膜の色は、黄金に輝く黒。この表現は矛盾していない。黒を基本色としながらも太陽の如き魂を焼き尽くす輝きを孕んだ光なのだから。




人にはこの色の本質を言葉や文字で表すことは決して出来ない。どれほど優れた芸術家だろうと、不可能と断じられる。





その巨体に反して随分と細い首をゆっくりと動かし“大きさ”の比でいえばダニ以下、微生物にも等しくなってしまったテュルバンを見て、確かにその気配が嗤った。
吐き出される吐息は、黒紫色の炎と共に空気中に熔けていく。ただそれ一つをとっても、溜め息でさえ最上級の魔法を遥かに置き去りにするエーギルの濃度。
隠そうともせず、新たに生まれた竜は嗤う。蔑むように、哀れむように、滑稽な道化師を大衆が指差して笑うように。





煌々と炎を灯す眼から発せられるのはそんな感情。しかし、それと同時に研究者が眼鏡越しに虫を観察しているときに浮かべているような色が見えた。
あぁ、小さいな。こいつはこんなに小さかったか? うっかり潰してしまうかもしれない。
胸中で含み笑いを転がしながら竜は清々しい気持ちでテュルバンを見下ろす。






実に爽快な気持ちだ。素晴らしい。
事実、欠片も注意を払わずにテュルバンと相対する今の竜に先ほどまで彼は悩ませていたアルマーズからの情報伝達は綺麗さっぱりなくなっていた。
脳幹をかき乱す厄介な砂嵐が消え去った上に、更には今の竜は満たされている。





消えたのだ。全て。この10年以上彼を悩ませ続けた欠落感、イドゥンが居ないという半身の喪失の違和感が。
ナーガに捨てられてから抱き続けたあの嫉妬と狂おしい憎悪もなくなり……違う。ふと神祖竜の脳内をナーガの背がよぎり、彼は小さく呻く。
これでも、及ばない。まだ、自分はナーガの領域に到達していない。足元ではなく、やっとその背を視認するに至っただけだ。




考えると竜の胸の内側にて無限の活力を無尽蔵に生産し続ける“黒い太陽”が狂おしく盛る。
血の一滴一滴が並の竜の全エーギル分に相当するほどの力を内包。細胞の一つ一つが呼吸をするたびに強くなっていく。
とりあえず、だ。今は壊るべき事を殺ってしまおう。黒く染まった白目の中に浮かぶ真紅と群青の光が動き、小さな生き物をもはや哀れむように認識した。




大人が子供の目線にあわせてあげるように、神祖竜はむしろ友好的な空気さえもってテュルバンへと頭を近づける。
巨大な氷山が眼の前に落ちてくるほどの威圧を伴い、わざわざ竜は狂戦士にあわせてやった。



テュルバンが壊れた羅針盤のような唸りと絶叫を上げながら斧を大きく振り上げ、それを鉄槌の如く叩き降ろす。
吹き荒れるは天雷の裁き。その一閃は戦闘竜程度ならば纏めて数体消し飛ばすほどの猛風。




破壊の一撃が神祖の頭部へと迫り……。








【マフー】  【オーラ】





届かない。



挑戦者の一撃を阻むのは暗黒と黄金の絶壁。流れる運河の様に悠々と方向性をもって表面が絶えず流動を繰り返す光と闇そのもの。
神祖竜が鎧の様に纏うソレを超えなければ、この存在に傷どころか、埃をつけることさえ叶わない。
その表面にさざ波を立たせることさえ叶わずに、アルマーズの攻撃が弾かれる。飛び散り、四散した天雷の波動が周囲をなぎ払った。



神祖竜の双眸に気だるげな失望が宿り、つまらなさそうに首を傾げる。




首を上げようとして、天井があることを思い出し竜が思考する。どうにもこの空間は動きづらい。
折角の翼もこのままでは空を飛べないし、この身に今なお渦巻き増大していく力を思う存分に使えないのは嫌だ。




故に神祖竜の頭を答えを簡単に出す。では広くすればいいと。
幸いここはアイツが外界との接続を断ち切った閉鎖空間だ、幾ら暴れても問題はないだろう。






【─Υ─ ─Π─ ─ψ─ ─Σ─】





竜の巨大な口より吐息混じりに朗々と紡がれるのは神話の言語。
混沌としていながら、理路整然と理屈塗れな言語体形のソレが唱えられる。






【─ζ─ ─δ─ ─λ─ ─∀─ ─δ─】





美麗な詩を詩人がハープの音と共に歌い上げるように、超音域の言葉は一語一語が力を持ち、世界を変質させる。
神祖の全身を羽衣の様に覆い守っていた【オーラ】と【マフー】がその流れの性質を変化。
杯から零れ落ちた水滴が大地に小さな水の粒を作るように、神祖の鎧から豪雨の如く黒と黄金の光が零れ落ち、幻想的な光の滝となった。



滝つぼともいうべき場所には巨大な光の塊、光球が生まれ落ち、その規模を雪だるま式に大きくさせていく。



次から次へと、止めどなく、尽きることをしらないように。互いが互いを増幅し、一つの永久機関となる。
その総量に比べれば水滴一つなど、あってもなくても変わらない。
テュルバンが大きく後方に飛びはね、先ほどカイムが破壊した玉座の残骸へと着地。




衝撃で唯一残っていた玉座の上部の飾り、巨大な斧を模した彼の軍団の象徴であるマークが崩れ落ちた。
警戒は無い。彼は眼前の素晴らしい獲物……違う。自らの命を奪い取れる存在に対して敬意を払うように斧を胸の前で掲げた。
ここからが本番だと。前戯は終わり。今までのは言うなれば馴れ合いにも等しいと。





防御として使われた【オーラ】や【マフー】は圧倒的なまでのオーラを
物理的な干渉さえ可能な程に高密度に圧縮し物理、魔法、呪術、その全てに対して絶対的な防御性能を得る術だ。
そこに宿る意思は拒絶。全ての自らに降りかかる害を否定し尽くす思い。



様はその反転だ。守護、拒絶によって構築されていた力を外部へ、力の性質を結合から分離へ。防御から攻撃への転換。








【スターライト】  【マフー】





それは神々しき奇跡と、吐き気を催すほどの魔性の複合魔法。
テュルバンの領域を浄化し、殲滅する極大の裁き。



光塊がその姿を変化。上下に大きく引き伸ばされ、一本の尖塔になり、そして天地を衝く柱となる。



柱。一本の黒金色の光の山が音もなく大地を割って聳え立つ。数え切れない程の粒子を周囲に振りまきながら。
全方位に放たれる雪化粧のみではなく、光に少しでも照らされた物質が“崩れた”
パラパラと、虚しく音を立てて洞窟の壁、床、天井、ありとあらゆる存在が白亜の砂と化して崩れ落ちていく。





光が広がる。全方位を灰燼に帰しながら何処までも。竜と英雄を除くありとあらゆる存在を滅しながら。
洞窟の入り組んだ地形を形作る全ての通路がその区切りを消し去られ、一つの大空間へ。
巨大な球体の世界。島ほどの大きさを持った卵の型を地面の奥底で取れば、ちょうどこんな感じの空間が作られるだろう。



光源などないはずの世界が不気味に隅々まで照らされる。神祖の放つ名伏し難い光によって。
遥か遠方に感じる火竜の気配に竜が内心頬を緩ませる。役目を終えた破壊の柱が宙に溶ける様に掻き消えた。





竜が翼膜を広げ、浮力を発生させた瞬間、その場からその山脈の如き体躯が消えうせた。
転移したのかと思わせるほどの速度で上空に舞い上がった竜が慌てたように体勢を立て直し、尾をゆらゆら振る。
今までとは全く違う飛行速度にほんの少しだけ戸惑ってしまった彼は、何かを確認するかのように竜の巨大な鋭爪が揃った指を握り締める。




意識だけが落ちていく。遥か下界に存在する敵へ向けて。十年以上前から隠れていた彼はむせび震えながら見下ろす。
テュルバンの真紅のまん丸な眼光と神祖竜の視線が交差し、一瞬の後、テュルバンが駆け出した。
人間の限界など遥か超越し、馬よりも速く。崩壊する瓦礫を足場に、次から次へと宙へ軽々舞い上がる。




耳障りな怪音を叫びながら生き残った青銅のガーゴイルが何処からか飛来し、その背を主に捧げ、飛翔。
更にしつこいことに、残存したガーゴイルたちが次から次へと稼動し、彼らにとっての怨敵である竜へ向けての突撃を行い始める。
何処にそれだけの数が残っていたのか、数十にも及ぶ編隊が巨大なハルバードを手に巨大な竜へ挑む光景は雄雄しく、一枚の絵として完成するだろう。






だが……蝿が、煩い。竜が思ったのはソレだけだった。
耳障りな音を立てて、目障りな姿を晒す像魔にそれ以外の何を感じろというのだろうか。
ジジジと何かが帯電する音。大気が焼き裂かれ、あげる悲鳴。






【レクスボルト】





赤紫色の電流が竜の側頭部から前面へ大きく突き出た二本の角の間を巡る様に誕生し、その規模を巨大化させ、眩く恐ろしい輝きを発する。
竜の眼窩に宿る光が小さく細められると同時に、ソレは裁きの天災として一片の容赦なく降り注いだ。
天空に赤紫色の光で編まれた蜘蛛の巣が投げかけられ、それは自らに迫る哀れな蟲を撃滅する役目を果たす。






少しでも稲光に触れてしまった哀れなガーゴイルが次から次へと爆散し
更に落雷によって生じる急激な空気の膨張がダメ押しと言わんばかりに砕けたガーゴイルの欠片を粉微塵へと変える。
一体だけ、その体に殺意の稲光を浴びせかけられたにも関わらず無事なガーゴイルが存在していた。



背の翼の片方を持っていかれ、数歩分の距離を竜に迫るだけで四肢が次々と爆散しつつもそれは飛行を続行。



普通の像魔とは一線を画す巨体を持ち、所々に人の頭蓋骨をぶら下げたソレの背にテュルバンが騎乗しているのを竜の眼は捉える。
喧しいと腕を一振り。音を遥かに超過し目視できない速度で飛んだその一撃は隊長と思われるガーゴイルを蚊でも潰すように粉砕。
うん、と竜が首を傾げる。潰した感触が足りない。少なくともテュルバンは潰れていない。





瞬時にその疑問に答えが出る。眼だけが動き、テュルバン見つける。直ぐ眼の前、ちょうど頭部に向って落下している彼を。
何も難しくは無い。ただ彼は蹴ったのだ、空気を。狂戦士の身体能力、神将器による大幅な補正を考えればこれぐらい出来て当然なのだろう。
神祖の眼に映るのはアルマーズの中に飲み込まれた何千ものエーギル。彼の軍団と彼とアルマーズの魂を見て、竜は気持ち悪いと断じた。





まるで、蛆だ。何千もの小さな蛆と、少し大きな蛆がうじゃうじゃしている。
小さく聞こえる怨嗟の声は、お前を殺してやるという竜殺しの者達の叫び。
どうして、自分はこんなものを欲しいと思ったのか。こんな汚らわしい痴愚の極みを。




あぁ、と竜は気軽に思い出す。確か、自分に力がないから、姉さんを取り返せない。
アルマーズならば、何かソレに進展を齎せるかもしれないと思ったんだっけ、と。
だが、もういい。これは不要だ。いらない。必要ない。





だって自分は力を手に入れたのだから。もう、いらない。
ならコイツは殺すべきだ。殺してしまおう。
お前が姉さんにしようとしたことを、その身で味わうといい。




最初に殺してやると宣言した。アレは一言一句違えるつもりは無い。




隕石のように自由落下し、迫るアルマーズの刃を呆けたように見つめ、竜は暢気に考える。
全身を羽衣の様に流動し覆っていた【マフー】と【オーラ】が頭部の部分だけ消えさった。
ここにうって来いと言外に述べているように。明らかに挑発の意を込めて。




渾身の一撃。体の捻りと落下、斧の重量にカイムの体の重量が加わり、神域の一撃と化す。
エーギル的な質量ではテュルバン、アルマーズンの竜にも匹敵する魂と、彼に付き従う軍団規模の存在の量が加わっているその重量は想像を絶するだろう。
世界さえ認識できない速度。幾多の竜を屠った竜殺しの斧が落雷を思わせるほどの破砕音を伴い炸裂する。





その、空前絶後の神将と神将器が織り成す必滅の斧を神祖竜は、頭部で受けた。
一切の防御術を用いず、純粋な外殻の強度だけでアルマーズの一撃を眉間に深々と。




重爆音。空間さえ振動させる破砕の響き。飛び散るのは黄金の粒子と、散華した稲妻の残照たち。
そして何か硬質な物体に皹が入るような、軋音。





テュルバンの眼光が、微かに揺れた。それは驚愕か、または歓喜か。
彼の眼に映るアルマーズの刃に、微細ながらも亀裂が幾つか走っている。まるでただの鉄の斧で強固な岩盤を叩いて刃こぼれを起こしたように。
対して、凄まじい破壊を叩きつけられた竜の頭部を覆う剛竜殻に付いたのは、ほんの一つの小さな切り傷のみ。




竜殺しなど意味を成さない程に絶望的なエーギルの質量の差、それが齎した結果だ。
例えるならば、たった一本のつるはしで、ベルンの山脈を削りきろうとするのに等しい。




蚊にでも刺された程度の傷。こんなもの損傷とさえ言えない。テュルバンの眼の前で、与えたその変化さえも瞬く間に消えてなくなる。
それと同時にアルマーズに走った亀裂が生き物の再生の様に修復。




竜の頭部を蹴り、テュルバンが落下。追撃が可能だというのに竜はそれをまるで他人事の様に眺めるだけ。
むき出しになっていた頭部を光と闇の衣が包み込み、こんな機会など二度と与えぬと竜が嗤う。



そして、一つ。竜は語りかけた。イデアの声で、溢れるような感情と一緒に。







“──終わりか?──”







精々足掻け、と。遥か高みに座する絶対者のような声で竜は念話を飛ばす。
その声音には子供が蟲の手足を千切って遊ぶ光景が連想されるほどに無邪気で、禍々しい気が充満している。







──咆哮。





応、と、一人で何千分もの人間の鬨の声を狂戦士が答えるようにあげた。
それでこそなければならないと。自分が求めたのはこういうモノだったのだ、と。
条理を超えた化け物などあの戦役で腐るほどに見てきたのだから、お前こそ我を落胆させるな。




竜の拳が空気を引き千切るようにテュルバンに迫り、盾の様に構えられたアルマーズの腹に炸裂。彼の落下の速度を十倍以上に速め、天からの失墜を果たさせた。
空気との摩擦で全身から火花さえ飛び散らせながら大地に巨大な落下跡を刻みつける。
人間ならば十度は完全に死んでいてもおかしくはない衝撃をその身に受けながら、テュルバンはクレーターの中心で平然と立ち上がる。
脚部、腹部、臓物、骨格、ズタズタにされた全ての部位がアルマーズからの力の供給によって刹那の内に再生。






テュルバンの正面に、竜が着陸。
力という言葉を具現化させたようなその身が降りてくる。高密度の殺意と愉悦を滾らせて。
後ろ足で立ち上がり、首を天へと伸ばすとテュルバンから顔が見えないほどの巨大さ。





大きく上下左右に伸ばされた四翼が極光を吐き出し、産みだされた光が羽衣のように竜の体に纏わり付く。
【オーラ】と【マフー】の鎧はこのように絶え間なく生産されているのだ。






通常の精神をもった者ならば抗おうと思うことさえしない力。
魔導を知らない者でさえ一目瞭然な無尽蔵のエーギルの波動。
どう足掻こうと、人ではどうしようもない超生物。





だが、狂戦士にとっては極上の敵でしかない。傷が付けられない? エーギルの総量が違う? それがどうした。
全身に漲るエーギル、彼の配下らの魂は先ほどよりもその勢いを増し、敗北などありえぬと叫ぶ。
もっと鋭く。もっと圧縮を。まだ足りない。足りえない。アルマーズの内部の力を研ぎ澄ませ、圧縮。




凄絶な笑みをテュルバンは湛える。赤熱した眼窩の光が燃え上がり、喉の奥底で狂い笑う。
戦い。闘争。正真正銘、自分を殺せる存在との戦いは最高だ。どんな女を抱いた時よりも興奮し、燃え上がれる。
彼我との絶望的な質量の差さえも彼にとっては戦いを彩るスパイスにしかならない。




死、滅び、終わりと隣接し戦うのは、最高の娯楽なのだから。それに元より彼はそれしかしらない。




見据えるのはおぞましくも美しい竜。あの時と同じ気配を漂わせる圧倒的な存在。何処までも彼はイデアを見てなどいない。
地震さえも発生させる脚力で大地と空気を抉りぬき、竜へと肉薄。翻される神将器の断頭刃は先ほどより更にその力の密度を高めた魔力の塊。
一冊の書物が音もなく竜へと向けて飛来。狂戦士より早く、竜の前に駆けつけそのページを捧げるように展開。





書物へ豪雨の様に膨大なエーギルが注がれると同時に、書から黒く濁りきった炎が現出。
竜の超大な力によって本来必要な詠唱さえ省略され、その結果だけをもってくることが可能になる。




最初は蝋燭の様に小さく。しかしソレは次の瞬間には山火事を想起させるほどに雄雄しくその規模を拡大。






【エレシュキガル】






吹き荒れ、狂い咲くのは黒い炎。轟くのは見ているだけで眼球が腐り落ちそうになる負の波動。炎の様に見えるだけで、実際はもっと恐ろしい。
冥府の奥底、地獄よりも深い始祖の深淵から零れ落ちる瘴気は、もしも触れれば対象の命を安々と腐滅させる神話の魔法。
負の業火がその形状を変化させ、竜の爪に飲み混まれてそこで燃え盛る。先ほどソルトがルーンソードにアンナの力を宿して燃やした様に。




大地が腐る。空気が腐る。黒に触れた部分が、熔けて塵になる。例外はこの術の書と、竜だけか。




黒々と煌く滅却の力を宿した剛爪、右腕の指が関節を弾き鳴らしながら滑らかに動かし、人間で言うところの人差し指だけを立て、他の指を握り締める。
ピンッと伸ばされた指に、そこから連なる黒爪は覇者の剣を思わせるほどに研ぎ澄まされ、蹂躙への喜悦に溢れていた。
他愛もない無い雑草を刈る程の気楽さで爪の一本が天雷の死刃を薙がれて、迎え撃つ。お前など、この程度で十分だという囀りを含みながら。
刃と爪牙が激突し、莫大な力と力の衝突によって大地に亀裂が走りぬけ、空気が蹂躙され、稲光が迸り、耳を抉るような奇音が産声をあげる。





瞬き三回分。それが、アルマーズの全てが神祖竜の魔爪と拮抗を果たすことが出来た全ての時間だった。どうやら、コレがこの生き物の限界らしい。
指一本程度の力に神将器の力が押し負け、黄金の雷は黒い炎に飲まれ掻き消え、それでもなお微笑ましい抵抗を感じた竜が更にほんの少し力を込めると……。





魔爪はそのまま振りぬかれた。




進行方向上の物体全てを枯れた枝か何かの様に呆気なく両断して、だ。





つまり……。





斧が力なく飛ぶ。刃の部分を上半分ほど両断され、それは木の葉か何かを思わせるようにクルクルと回転し落ちていく。
それに追従するように、テュルバンの体が浮遊。腹部から上部を切り分けられ、残った下半身が一瞬で【エレシュキガル】に飲み込まれて塵となり霧散。
大地に崩れ落ちる男の隣に、斧の残骸が堕ちる。未だ胎動を収めないソレは切断された部位から小さな光を出血のごとく噴出し、ズルズルと動き出す。




再生など、誰が許した、エレシュキガルの炎が斧の断面より燃え上がる。
黒い炎が斧に纏わりつき、その内部に宿るエーギルを胃液で食物を溶かすのと同じ理屈で腐らせ、負滅させ、溶かす。
抵抗として斧より生じた黄金の雷光が炎をかき消さんと紫電を放ち、黒を塗りつぶす。




アルマーズが可愛らしい努力と共に再度の再生を試みている中、そこに影が差す。
テュルバンが見上げたのは巨大な竜の姿。そこに重ねるは、かつて自らを踏み潰した存在。
無数の傷跡が残る手を伸ばす、届かない存在へ向けて、祈るように。





その祈りへの返事が天より返される。最後にテュルバンが見たのは自分へ向けて残影を残しながら堕ちてくる竜のスパイクが生えたしなやかでありながら、強靭な尾。
やはり、届かなかったか。末期に彼が思ったのはそんな感情。しかし彼は最後の最後まで満足など得られない。




殺してやる。殺してやる。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
何処までも後悔など感じず、殺意一色に染まった思考で腕を伸ばす。
血でさえない黒い腐汁を口の端より零れ出させ、テュルバンは一句を繋いで。





【──我 ト 戦え──】






彼は、粉々になった。





潰す。潰す。何度も何度も神祖竜はテュルバンが倒れこんだ場所にその尾を鉄槌として裁断する。
踏んで、踏んで、踏み砕いて。存在の欠片さえ残さないように。この愚物が姉に行おうとしたことへの報いを刻み付ける。
音速を超えて叩き込まれる尾が大地を殴りつけるたびに地割れが起こり、地形が変わっていく。





技巧などいらない。技術など不要。物理、エーギル、双方共に桁違いの質量をたたき付けるだけ。
悲鳴さえかき消す地鳴りを絶叫させ、神祖竜は念入りに、一片の慈悲さえも見せずにテュルバンとアルマーズを殴打。





二十ほどその塵殺行為を繰り返してから竜がその運動を停止させ、背の黒金色の翼膜が薪を添えられた火の様に力強く、美麗に輝き始めた。
翼を広げ宙へと飛び立つと、その口を大きく広げ、胸郭いっぱいに息を吸い込み、この地にあった瘴気を根こそぎ吸引。
絶望という言葉を三次元世界で顕現させたかの様な色彩を叫ぶ光が竜の口元より零れ落ちる。それは炎のようであり、同時に不定形の影のようでもある。



剣を思わせる鋭利な形状に変化した四翼の間で赤黒い電流が駆け巡り、その膨大な力の奔流が胴へと向けて流出。



破壊が訪れるだろう地点にあるのは潰されたクッキーのようにバラバラになったアルマーズ。
破片が死体に集る蛆虫と同じように動き、今この瞬間に再生を果たそうとする神将器。




腹部に走る光の線が引っ切り無しにその勢いを強め、喉部へ流れ、それが竜の体内で移動する圧倒的な力を指し示し、これから何が行われるのか宣言。
竜が大顎を開く。喉の奥底で燃え盛るのは黄金と黒をごちゃ混ぜにしながらも、その美しさは欠片も損なわれていない摩訶不思議な色の炎。
純粋な“力” この世で最も単純で、圧倒的で、全てをねじ伏せる力、その名前を“暴力”という。




比較対象などかつてのナーガ以外存在しない破壊の暴力が、吐き出された。
もはやブレス(吐息)とさえいえない。吹き付ける風とは到底呼べない黒金色の光の魔嵐。
図太い光の線だ。業火ではなく、それは夜の闇を切り取った黒と、全ての命を焼き滅ぼす滅相の太陽光。この二つを高次で融合させた色彩の閃光が口より放たれる。





着弾。





一瞬の間をおかず、真実光と等速の破壊が地に這いずる蛆を浄化すべく炸裂。
刹那、全ての音と色がこの世から切り取られたように消滅した。
光らない太陽がテュルバンとアルマーズを侵食し出現。最後の足掻きとしてアルマーズが発生させた稲妻の群れを飢えたイナゴの如く軽々と食い荒らし、暗黒が膨れ上がる。




正しくそれは地上に顕現した異界の太陽。今現在、竜の心臓として無尽の暴虐を刻む影。




外側ではなく、内側へと破壊を収束された黒い天体がこの密閉された地下の空間の半分ほどを塗りつぶすと、突如それは収束に転ずる。
数え切れない程の大気を巻き込み、岩盤を引きずり、それどころか“場”そのものごと収縮し、果てなく押しつぶす。
何千もの人間の魂を、神将器に施された超難解にして、破壊不可能とさえ思える術式も、そして狂戦士の意思さえ、それがどうしたと絶対の力で圧殺、圧滅。




最後は昆虫の脚に乗るほどの小さな球体となり、それさえも宙に霧の様に霧散して消滅。





終わりは呆気ないものだった。爆撃地点を天から眺めると映るのは歪んだ空間。
ブレスの影響で擬似的に世界が歪曲し、あの殿のように無茶苦茶に法則ごと捻られた箇所。




全ての暴虐が去った後、そこに残骸の様に漂うのは微塵に砕け、小さな小さな幾つもの破片となってしまったアルマーズ。
キラキラと日光を浴びた砂浜の様に輝いているソレに既に先ほどまで宿っていた何千もの人間の波動は微塵も存在しない。
あのブレスの一発で存在ごと消し去られ、ここにあるのはただの残骸だ。




欠片でもこの世に存在を残せたのは奇跡だろう。




戦いは、終わったのだ。
それは竜と英雄の互角の戦いではなく、様々な絵画などで描かれてる人が竜を打倒する結果でもない。





絶対の存在が、ちっぽけな蟲を潰したというありきたりな結末だけがあった。





咆哮。勝利した竜が天を揺らしてその終戦の鐘を鳴り渡す。
金属同士が歪に擦り合わせるような音と共に空間が亀裂を走らせ、主を失った世界が崩壊していく。











さて、どうしようか。呆然と竜は考える。回収するか、否かと。
もうコレは必要ないが、戦利品として持ち帰るのは構わないか。
存外につまらない決着になってしまい、少々拍子抜けしたのもの事実。



熱が、収まらない。神祖竜の内側で更に暴走を続ける熱が更にその熱量を膨らませる。
神将を殺し、神将器を砕いても、まだ、まだ足りない。




端的に言ってしまえば、竜は何かをやりたかった。新たに手に入れた力で。
竜の思考は既にここにはない。彼はこの後の未来を思い描いていた。これから何をしようか、何を成そうか。





このまま殿へと飛んでいき、幽閉されたイドゥンを開放するか。それとも……?
事実、今の自分にソレは可能なことのように思えた。あの程度の封印など力技で軽々と砕いてしまえばいい。
その後はどうする? 姉さんを助け出した後はどうするか。




全身に漲り、今なお膨らみ続ける力。かつてない程の全能感に全身で浸りつつ、彼はゆったりと考える。
ナバタに戻り、二人で一緒に暮らすのもいい。そのままの穏やかな生活というのは想像するだけで素晴らしい。




だが……。




思考を黒い霧が覆い、ソレは甘言を耳元で蕩けるように呟いた。



ソレは始祖の意思などではない。ソレはイデアだった。イデアの一部が、彼の何処かがソレを呟く。
野心、虚栄心、欲望、傲慢、利己心、その全ての集合体が。力を手に入れて満たされた怪物たちが騒ぐ。
狂乱し、力を使え、使えと絶叫を轟かす。




その程度でいいのか? お前ほどの存在ならば何が出来るか考えてみろよ、と。




竜は瞬きさえせず、虚空を眺め続ける。旗を織る様に思考を織り込みながら。その先の空間にひび割れが走り、急速にアルマーズの気配が消えうせていくのを見やりつつ。
主であるアルマーズ、テュルバンが滅んだ今、この世界は急速に外界との接続を取り戻してきており
速く竜化を解かなければ神祖の身から漏れ出る力は世界中の魔道士に感づかれてもおかしくない程に巨大なのだ。





ここで気がつく。自分はもっと大きな事が出来ると。
何故、自分が、自分たちが隠れ住まなければならないのだ?





身の程を教えてやることが出来る。勝った、勝ったと騒ぎ喜ぶこの世界の人間に真の意味で竜の力を刻み付けることが出来る。
あのアクレイアを、無駄に飾り付けていたあの王都を消滅させることも、口では平等を唱えながらも竜を排斥するエリミーヌを捻り殺すことも
かつては竜の土地だったベルンに王国を築いた無価値な存在達を全て消し去ることも全て可能な事実に彼は気がついた。





今の自分は“何でも”出来る。
もっと深く、黒い感情が鎌首をもたげ、竜は壮絶な嗤い声を漏らす。
ぶるっとその総身を震わせ、燃え盛る眼でアルマーズだったガラクタを見る。





何でも、だ。イデアの脳裏に鮮やかに光景が浮かび上がる。
次々に血祭りにあげられ、皆殺しにされる神将どもに、一撃でこの世から消滅するアクレイアに、それを成す自分の姿が。
正しく理想郷。何処にも隠れなくてよく、何にも怯えなくてよい世界。




今の自分なら、それを作れる。そうしたらナーガを探しに行くことも出来るだろう。
ナーガを見つけたらどうしてやろうか。償わせてやらなければならない。




クルクルと思考の歯車だけが回転し、これからの未来に思いを馳せ、竜は深く、深くナーガへの憎悪を滾らせ……。










「イデア様」












唐突に耳元で聞こえた声に竜は現実へと戻る。熱波を放ち燃え盛る鋼鉄に、大量の清水をぶっ掛けられたような感覚。
紫煙を上げながら、急速に炎が鎮火され、思考が冷たくなる感触をイデアは以前にも味わっている。
これは何だっただろうか。何故だか知らないが……自分が酷く悪いことをしているように思えた。


エレシュキガルの炎が消え去り、書物が力なく落下。



子供が親に怒られるのを恐れているかのような心境で竜が眼を動かすと、足元に二つの人影があることに気がつく。
一つは竜のモノ、そしてもう一つは人間の、小さな小さな生命の灯火。




既に全方位、隙間など存在しない次元にまで極まった気配探知能力の“眼”が機能しなかった理由は単純。
竜自身が考え事をしていたのと、単にその声を出した存在のエーギルの総量が矮小に過ぎたのが原因。
それに今まで何千人分ものエーギルの集合体を相手にしていて、そういった単位の基準が狂ってしまったのかもしれない。




“眼”を向けるとソルトが自分を見上げているのが判る。その表情から、その不思議なほどに揺れていない内心までくっきりと。
二本の脚でしっかりと立って自分を恐れずに真正面から見返してくる姿は……輝かしく見えた。
胸の内側で“黒い太陽”が大きく揺れて、その勢いを減退させる。





「……終わったのですか?」





あぁ、と竜が頷くとソルトは粉々になったアルマーズだった欠片を一度見てから、次いでイデアを見た。
ぐっとその手に握っていた何かを差し出して。







「これ……イデア様のものですよね」







疑問ではなく、確信を内包した言葉と共に彼は手を開く。
握り締めた手を開くとそこにあったのは微かに発光する紫色の物体。
小さな小さな切れ端。蛍の光にも通ずる見ているだけで安心できる光を放つ光源。





しかしその光は何度もついたり消えたりの繰り返し、明滅していて、必死に自分の存在をアピールしている。
それを眼にした瞬間、イデアの中で先ほどまで存在していた黒い太陽はその勢いを無へと落とした。
たった一枚の鱗。イドゥンの一部。強く点滅を繰り返すその光は、まるで怒っている様にも見えて……。



遥か昔、イドゥンと力についての問答を行った記憶が唐突に蘇る。
あれは確か、ナーガが始めて自分たちに魔道書を与えた日より幾らか後の出来事だったか。




そして自分は姉に何と質問し、何と答えたか。





そこでイデアは、自分が考えていたことの恐ろしさに気がついた。
自分は眼の前が濁っていたことにさえ気がつかなかったことに思い至り、寒気が走る。
揺れる。絶対無敵と呼称してもいいほどの力を秘めた神祖竜の巨体が立ちくらみを起こした人間と同じく。




いらない。いらない。コレは違う。明確な拒否の念がその全身を崩す。
何故だかは判らないが、とても嫌な予感と違和感。
例えるならばそれは、数術の問い掛けで計算と言う過程を省いて、直接答えだけを見せられたというに近い。




始祖の力を否定する念が大きくなるほど自分の力の総量が減衰していくのを感じるが、イデアは迷いなどしなかった。
胸の中の空洞を満たしていたあの無尽蔵の活力が消滅するにつれ、ぽっかりと空いた冷たい空洞、イドゥンが本来居るべきであろう孔が再度姿を見せる。
疼く。姉がいないという現実がイデアを満たし、心が軋む。だが、それで構わなかった。




だって姉の事をこの喪失感が絶対に忘れさせないから。





始祖の力が拒否され、黒から黄金へ色を変えた太陽に弾き飛ばされる。
無謬の闇が押し流され、それは元の姿──覇者の剣へと戻った。
神祖竜が大きく天を仰いで無声音で何かを叫び、その巨体が黒と黄金の入り混じった光として散華。





一際高純度の黄金の光球が収束し、人の形を取る。胴体に先ほど切断された右腕を含む四肢。
纏っていた衣服に髪の毛、左右で色彩が異なる双眸、人とは違った尖った耳、その全てが形成される。
黄金とは対を成す無限の黒を纏った剣の刀身が黒から銀へと移り変わり、覇者の剣は大人しくなった。





人の姿に戻ったイデアが痛みを感じる顔面の左側に手をやると、熔けて固まった金属を思わせる質感の皮膚に触れる。
どうにも左の顔の火傷はまだ完治していないらしい。





【リカバー】





アンナが最上系の回復魔術を行使し、皮膚が幾らか元の感触を取り戻すが、やはりそれでも竜殺しの力に負わされた傷は中々完治にいたらない。
まぁ、いいかとイデアは考える、里に帰ってから本格的な治療を始めよう。瞼だけでも再生できたのは嬉しい。
復元した右腕でソルトからしっかりと鱗を受け取り、切れてしまったロープに【ハマーン】を掛けて修復すると、イデアはそれを首からぶら下げた。
すると、鱗は満足したのか発光するのを止めていつも通り、ただの装飾品の様に黙りこくる。



触ると、ツルツルしていて冷たいそれを撫でてやってから行動に移る。
虚空に手を翳し【エレシュキガル】と【ギガスカリバー】の書を手元に手繰り寄せてから、この二冊の兵器をローブの内側に滑り込ませ、覇者の剣を鞘に収める。





踵を返し、イデアは改めて二人に向き直り、言葉を紡ぐ。
視線の先に見えるのは、自分が粉々に砕いたアルマーズ。
既に先ほどまでの気配は感じず、今ここにあるのはただの死骸。




やはり、もって帰るべきだろう。少なくとも、それならば成果はあげられたことになる。




「アルマーズの破片を回収したら、帰るぞ」





はいと返事をして、行動に移そうとする二人をイデアが視線で静止し、二人がイデアを見た。
自分に向けられる視線を肌で感じながら神竜が言葉を続けようと努力を行う。




どうにかコレだけは言っておきたかった。
こんな地の底まで付いてきてくれた二人に。
散々に迷惑を掛けた自分が掛けられる言葉はこれしかなかった。





「今回は……ありがとう」





ソルトが直ぐに笑って返し、アンナが一瞬だけ停止した後にあのいつもの全てを見透かしたような微笑を浮かべて答える。
フフフと上機嫌に笑う火竜の眼には暖かい炎が灯っていた。





「そうですね。長ったら、私たちがいないと駄目駄目ですもの」




思わず否定できないとうな垂れるイデアにアンナの人差し指が突き出され
ぱちぱちと眼を瞬かさせる神竜の前で、その人差し指を口元に当ててアンナが笑った。





「だからこれからも、千年単位でお供させてもらいますわ」




「僕も十年単位だけど、ずっとあの里にいますよ」




チクリと、その言葉に胸が痛んだ気がした。十年、十年か。
今は考えない様にその想いを何処かに投げやり、イデアはアルマーズの残骸を手早く手元に引き寄せて、それを掴んで眺める。




暴虐によって徹底的に蹂躙された神将器だったモノは欠片となってもその美しさを失わない。
焼け焦げた黄金色の欠片、恐らくは刃の部分を構築していた部分の残骸を見て、素直にイデアはアルマーズに施された装飾を美しいと感じた。



感じる力は本当に微量。残滓ともいえない残り滓程度のエーギル。
だがコレの中に刻まれた式は解析できるかもしれない。これも里にかえってみたらハマーンか何かで復元できるか試してみるとしよう。




不意に周囲に響くのは不気味な唸り声。天地を支える力を失った閉鎖世界が崩れる音。
地鳴りがする。天井の岩盤に音を立てて亀裂が走り、無数の埃と石粒が落ちてくる。





「では、さっさと脱出しましょう。私、速く里に帰って湯浴みしたいですもの」




それは切実な願い。この腐臭と死臭に満ちた閉鎖空間より速く脱出したいし、体にこびり付いた匂いを早く落としたいのだろう。
アルマーズの消滅と同時に、外界との接続は回復し、今なら転移での脱出も可能だろう。
アンナが足元に転移の魔方陣を展開し、一同が光に包まれると全ての光景が彼方へと消え去る。






全員が消えると同時に、地底に築かれた地獄は、轟音と共に瓦解した。




























里に戻った後、アルマーズの欠片の処遇やら、受けた傷の治療やらで時間を取られ
ようやくイデアが自分の部屋に着いた頃には、朝日が地平線の彼方より昇っている時間帯だった。
あの全ては一晩の出来事だというのが現実味が無い。



限界の底が抜けて、新しく嵌めなおされた違和感がどうにも拭えず、イデアは瞑目する。




今日一日はゆっくりと休むべきだとフレイに言われ、その言葉に従いイデアはベッドに倒れこんでいる。
じくじくと疲れが体の深淵から湧き出てきて、心地よい疲労と共に眼を閉じ、一晩の出来事を反芻。
あれほどの力を使ったのだから、睡眠をとるのは仕方が無い。




顔の左半分が潤いに包まれているのが何とも気持ちいい。
今のイデアは顔の左半分を黒いターバンでグルグル巻きにして隠している状態だ。
このターバンには特殊な回復術の加護と、水性の医薬品が染み込んでおり、ただ巻いているだけで傷の治療になる。




神祖の力を否定したことを、今考えてみればもったいないとは思わなかった。
確かにあれならば姉さんを救い出せるだろうが……なにやら非常に嫌な予感がするのだ。
第六感が全力で警報をかき鳴らし、あれは危険だと騒ぎ立てる。





事実、自分が考えていたことを考えればそれは間違いないのだろう。
意識の外にぼんやりと存在を感じる覇者の剣を“見て”少年は溜め息を吐いた。
カランと、胸にぶら下げられたイドゥンの鱗が揺れる。




思考が鈍くなっていく。全てに霞が掛かり、暗闇が少年を塗りつぶす。
ナーガの背中、さきほどは遠く見えたソレに自分が乗っている光景、いつぞやの湖への旅行を思い出しながらイデアは眠りについた。






最後に少年の瞼の裏に映ったのは、ナーガの後ろ顔と、自分の手を握っているイドゥン、そして隣で微笑んでいるエイナール。




いつか、またこんな日に戻れたらいいのに、とイデアは朧に思った。













あとがき





ふぅ、ようやく終わったぁあああああああああ!!
テュルバン戦は何年も前から書きたかったので頑張りました。
イデアは竜なんだから、全力戦闘をするときは竜じゃなきゃ駄目だろとか、ただ神竜に変身してもつまらんとか、色々考えた結果が神祖です。




それにしてもファイアーエムブレム覚醒が今から物凄い楽しみでたまらない。
邪竜ギムレーのデザインと巨大さが竜大好きな自分としてはクリーンヒット過ぎて困ります。
過去作との繋がりもあるみたいですし、早く買ってプレイしたいですね。




それに自分はイドゥン一筋ですが……まさかの結婚システム……懐かしい、惹かれる。



それでは皆様、次回の更新を気長にお待ちください。




以下、登場した魔法や武器などの解説を。








エレシュキガル





原作の烈火の剣に登場した闇魔法です。使用者はほぼラスボスといってもいいとある男。
威力は20とゲスペンストよりも下ですが、重さと命中率の点ではゲスペンストよりも使いやすいです。
このお話の中での術の効果は、エーギル(魂)ごと相手を焼き払い、腐らせる黒い炎、な感じですね。



ちなみに作者のお気に入りの魔法です。





マフー




暗黒竜と光の剣、紋章の謎、後はこの二作のリメイクにて登場した闇魔法です。
使用者もこれまたほぼ物語の黒幕的な存在の男。
威力は14で命中が70という数値ですが、この術の恐ろしいところはスターライト以外の一切の攻撃を受け付けないシールド能力でしょう。



闇のオーブから作られたというなら、根源的な闇を持つ始祖竜なら使えるだろうということで登場。
オーラとマフーで身を固めるというロマンを追求した結果、物語に登場させ、イデアに使わせました。



それにしても原作で偽者が量産されて出てきた時は初見では吹きましたが。






スターライト



正式名称 スターライト・エクスプロージョン。
上記のマフーを打ち抜ける唯一の光魔法。登場作品もマフーと同じ作品です。
威力は13とオーラやマフーに劣りますが、発動時のBGMと戦闘アニメが凄く壮麗で、見る価値があります。


リメイク前の暗黒竜ではオーブ返せ!との声が多々ありましたが、リメイク後では、ルナ攻略などでは無くてはならない存在になったのが嬉しい限りです。



これまたマフーとコラボさせたいという作者の粗製エムブレマー脳が活性化した結果、イデアが使用。
作中ではマフーと混ざって効果やエフェクトなどが変わっています。




アルマーズ



登場作品は封印の剣と烈火の剣。
神将の一角、狂戦士テュルバンが使用する斧で、その異名を天雷の斧といいます。
威力は1000年の時が経ち、かなり劣化が進んだ状態でも18という破壊力を誇り、更には装備者の守備を+5させる効果があります。




アルマーズにはテュルバンの思考が宿っており、それは元々あったアルマーズの意思と入り交ざって原作では自分の事をアルマーズと呼称していました。
この作品のアルマーズは劣化なし、テュルバン補正+飲み込んだ配下補正+竜殺しに対する特攻&執念でとんでもない領域にまで変化しています。



威力は……作中の表現と、皆様のご想像にお任せします。






覇者の剣



登場作品は漫画版ファイアーエムブレム 覇者の剣より。主人公が所持している剣。イデアのソレも同じデザインです。
作中ではイデアがナーガからなし崩し的に受け継いだ剣。威力や射程などはご想像にお任せします。


実は全てのエムブレムの武器の中で一番作者がデザインを気に入っている武器だったりします。
漫画版ではエッケザックスの一撃を弾き返したりしますが、その直後封印の剣に反撃されたりと、中々にいい所がないのでこのお話の中では重要なキー・アイテムとして登場。




使用の効果などは……作中にて。







神祖竜




この作品オリジナルの存在です。単に神竜と始祖の名前を繋げただけ。
今のイデアは神竜形態でも以前感想返しで述べたように軍団を率いた神将には勝つのが難しいので登場。
作者のロマンを求めた結果、作中では勝手に動き出して大暴れされたので困りました、文字数が膨らんでいく的な意味で。


テュルバンの最後は色々考えましたが、あいつに綺麗な死に様なんて似合わないと思ったのであっさり風に。



この形態のまま神竜に戻らないと完全にバッド・エンド一直線です。
余談ですが、もしも殿でイドゥンが死んでいた場合は、その時点でイデアが神祖竜と化してしまい、そのままエレブ終了です。
姿のイメージは覇者の剣のラスボス+イドゥン+ギムレーとでも言ったところか。


作中で上手くソレを表現できてたらいいなぁ。


しかし戦闘力は、まだまだナーガには遠く及びません。






レクスボルト



蒼炎の軌跡、暁の女神に登場した魔法です。
威力は軌跡では15で技に+3の補正が掛かり、暁では威力が12、同じく技に3といったところ。


竜鱗族に特攻があり、高い威力に安定した命中を誇るので、大活躍の魔法です。
しかしとあるキャラの専用武器ですので、そこはご注意を。







ガーゴイル



登場作品はファイアーエムブレム外伝、そして聖魔の光石。
外伝ではただでさえステージが狭いのに7マス移動なんというふざけた数値をもっていて、こちらをかく乱してくる敵です。
しかもちゃんと小隊を組んでくるのが腹ただしい。しかしドラゴンゾンビと同じく弱点が多いので、意外とあっさり落とせます。



この作品の中では、ファイアーエムブレムというよりは、ダークソウルに出ていたあのガーゴイルをイメージして描いています。
ちなみにテュルバンが騎乗していたのは、上位種のデスガーゴイルという存在。






ミミック



ご存知ミミック。ドラクエやFFなどでは大人気のアイツです。
コイツも悪ふざけて登場。その姿かたちは判る人は判る元ネタありです。



ちなみに、ミミックではありませんが、封印の剣ではとあるステージで宝箱の中にマムクートが入っていたりします。
チキやファ、ミルラみたいなかわいい少女ではなく、バヌトゥやメディウスのような爺さんが宝箱の中に無言で体育座りして入っていたというのを考えると、中々にシュールですね。





ファランクス 



これの元ネタは完全にファイアーエムブレムではありません。
とある心を折られるゲームのボスです。


中々いい中ボスを考えられなくて、ゲスト出演してもらいました。
執筆しながらファイアーエムブレムとの思っていた以上の相性の良さに驚きましたが。







では、皆様、またの更新にてお会いしましょう。

追伸 ちょうど今までのとある竜のお話の総合文章量が1MBに達しました。
これからもよろしくお願いします。






[6434] とある竜のお話 第二部 六章 1(実質14章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/07/07 19:27







ソルト、たった一人の息子である彼を拾った時のことを、時々、何となく思い出すことがある。
冬の冷たい季節、朝露に覆われた世界はリキアという比較的温暖な地域でも時折雪が降り積もり、世界を白銀に染め上げることがある。
比較的、自分が統治する領域の人間は裕福であったから恐らく口減らしだったとしてもかなり遠くから持って来られたのだろうとメディアンは考えている。



もしくは旅人が旅の最中に捨てて言ったか、または人身売買という線もあるかもしれない。



少なくとも、自分の統治する土地では、子捨てが横行するような飢餓など起こさせたことなどない。
道端に塵の様に子供の飢えに飢えた、その身を襲った飢餓感とは裏腹に、おぞましく腹だけが膨らんだ死体が転がっている光景など絶対に見たくはないのだ。





丁寧に藁で編みこまれた籠に入れられた赤子。
布切れと毛布でグルグル巻きにされた彼は、まるで神に捧げる生贄を思わせる程丁重にメディアンの住まう殿の入り口に置いてあった。
あたしが人間でも食べていると思ったのかと、思わずメディアンは一瞬抗議の声をあげそうになったが、すぐに冷静になると彼女は次いで赤子を観察した。




やろうと思えば食べられないこともないが、もっと美味しいものなど探せば星の数ほどあるし、自分でそれを産み出せるから人を食ったりはしないが。





身に纏っている衣や籠の中に布かれた布は一目でそこまで高価なモノには見えず
近づいてみてみるとどちらかといえばそこいらにありそうな、ツギハギだらけの使い古しの布が小奇麗に纏められているだけという事実に彼女は気が付く。
何となくだ。最初は本当に今だから言えるが、どうでもよかったのだ。




赤子の一人や二人ぐらい適当に育てて、ある程度の大きさに育てたら後は何処かの孤児院に送るつもりだった。




結果から言えば、メディアンは子育てというモノを最初期は舐めていたのだろう。
長い年月を生きて、多くの子供や人間の家庭、竜の家庭などを見てきた彼女は絶対に自分なら楽にその程度は出来ると思ったのだ。
何せ人間と違って自分の体力は無尽蔵にあるし、経験だって普通の人間の数百倍は積んでいる、故に子供の一人や二人ぐらい育てるのは容易いと考えた。




それが間違いだと知るのにそう時間は掛からなかった。
身をもってメディアンは子育てというのがどれほどの苦難の連続なのかを知ることになる。






夜は絶対に数刻に一度は夜鳴きするし、しかも何を言っているのかが全くわからない。
何を要求されているかさえ理解できず、絶大な力を持った地竜がたった一人の赤子の前でおろおろする光景など、誰が想像できるだろうか。
母乳など出ない彼女が赤子に丁度いい栄養の乳を手に入れるために自分の領土とでも言うべき場所を駆け巡ってソレを手に入れるのに四苦八苦したり
首が据わっていない状態で湯浴みに連れて行った結果、少々困った状況に陥ったり、苦難をあげればキリがない。





たった10何年か前の出来事だ。全てが懐かしい。
何時の間にか時間は過ぎ、彼は赤子から少年へと変わり、そして青年となっていた。




今、かつての自分が存在していた土地にふと、精霊を通して朧気に“眼”をやると、そこには既に見知った顔も、住み慣れた神殿も何もかもが存在していない。
集落は潰され、荒廃し、神殿は基礎の部分を残して完全に消えてなくなっている。
この事実が何を意味しているか、理解できないほど彼女は幼くない。




竜の力を使い“眼”を用いり、その“場”の過去で何があったかを見て……彼女は思いっきり顔を顰めた。
心の奥で燃え上がる怒りを何とか沈静させ、大きく息を吐く。
馬鹿だ。馬鹿だよ。さっさと竜への信仰など捨てればよかったものを。あたしはそんなもの求めていなかったというのに。





手元に置いてあった分厚いエリミーヌ教典を殴りつけるような気配と共に閉じて、しまう。




唯一、息子だけがあそこに自分が居たという証明になるような気がした。





光。柔らかく、心地よい冷たさを持った青い光。
自室の椅子に腰掛けて一人で夜の暇な時間帯を物思いで潰していたメディアンの眼に、一筋の光が差し込み、その眩さに彼女は眼を細める。
真紅の眼光だけが煌々と輝き、ふと鏡に眼を移せば猫の様にそこだけが異常にはっきりと暗闇の中で存在感を発しているのが見えた。





冷たい風が開け放した窓から侵入してきて、頬を撫でていく。ほんの少しだけ砂が混じったソレは砂漠特有のモノ。
眠気などとうの昔に超越した彼女であるが、それでも暇つぶしや娯楽の一種として睡眠をとる事そのものは可能故に、もうそろそろ寝ようか、と椅子から立ち上がる。
最後に、四肢を動かすのと同じ要領で竜族の“眼”を使って隣の部屋で眠っている息子を感知。





確かにそこにいて、生きているのを確認してから彼女は自分のベッドに横になった。



























「じゃあ、あたしはちょっと長に呼ばれてるから行ってくる。子供たちの方は任せたよ」





翌朝、とりあえず荷物をまとめた皮袋を肩から下げて、出立の用意を済ませたメディアンは
入り口の扉を開けて、部屋の中で幾つもの本を皮袋に詰め込んでいる息子に向けて声をかけた。
里の子供たちに学問を教えるという任をメディアンは自分から引き受けたのだが、それでも用事などが重なって出られない時は彼女の息子がその代役を行うのだ。



近頃では、学問の他に剣術なども教えているらしく、木の枝をもった子供たちに絡まれて困惑する息子を見るのが、メディアンのささやかな楽しみとなっていた。




時々長であるイデアがひょっこりと顔を覗かせて子供の相手をしていくときもあるのだが
今日は生憎そのイデアに呼ばれており、多数の子供にじゃれ付かれて慌てる神竜を見ることは出来ないことは確定している。





「夕方には帰ってくるんだよね?」




何処から取り出したのか、金属性の鍋を手で弄くったり、頭に被ったりしながらソルトが問う。
よく判らないが、どうも彼はあのアルマーズの洞窟から帰還してから妙に頭に何かを被りたがるようになった。
宝箱が手足を生やして走ってきたとか、案外ああいう格好も悪くないとか、よく思い出してみると
結構可愛かったとか訳の判らないことを漏らす様になった息子に彼女は一抹の不安を覚えたが、まぁ、そこまで問題ではないだろうと水に流すことにした。





さすがに頭に木箱だけ被って踊り始めるようなことになったら、全力で道を踏み外し掛けた息子を止めるだろうが。





「早ければ夕方どころか昼には戻れるね。それぐらいの時間に戻れたら、また鍛錬でもするかい?」






「いいね、でもその前に一緒にお昼食べようよ。僕が作るからさ」




眼を嬉しそうに細めて笑う姿は、少年から一人の男性の、そして戦士への成長を感じさせるほどに逞しい気配を放っている。




だけど鍋を掴んだままそんなこと言われても説得力がなぁとメディアンが溜め息を吐き、息子が笑顔で「いってらっしゃい」と送り出しの言葉を放つ。
悪くないモノだとつくづく竜は思った。家を出る時と帰る時に一言掛けてもらうだけで、大分違うのだ。
胸が喜悦で高鳴るのを心地よく受け入れつつ、メディアンは息子に一声返事をしてから家を出た。





















転移の術は使わずに早歩きで里の中央に位置する竜殿の中に入り、
玉座の間についたメディアンをイデアは玉座に座り悠々とした態度で出迎えた。
アルマーズを入手する戦いで負った傷はまだ癒えておらず
頭の半分を薬品と医療術によって加工されたターバンでグルグル巻きにした姿は何処か奇抜でそれでいて妙な禍々しさを感じる。





どうにも気配が変わったことをメディアンは感じ取っていた。イデアは、この神竜はあのアルマーズの入手から戻ってきて、何かがまた変異したと。
性格でもなく、態度でもない。言葉ではうまく言い表せない何かが変わった。深く、深く、深淵のそこで何かが蠢き、その姿を変えたような錯覚を彼女は覚えたのだ。





「待ってた」






メディアンの姿を認めると、イデアが玉座から立ち上がる。
彼の隣には何時もの様に老火竜が控え、イデアとメディアンに小さく一礼してから、玉座の脇に設けられたもう一つの椅子に腰掛けて、黙々と書類に眼を通し始めた。
これは変わらないなとメディアンは小さく喉で笑いを転がす。この老竜と若竜のコンビによってこの里が動いていると思うと、どうも微笑ましい気持ちになるのだ。




少なくともイデアの治世は飛びぬけて優れているという訳ではないが、下劣というわけでもない。
評価は完全な平行線。中の中から上の間を横一文字にずっと飛翔し続けるような、そんな統治だ。
衣食住と少々の娯楽には不便しない生活というのは刺激を求める者には物足りないだろうが、メディアンは現状に十二分に満足している。



イデアは衣食住の大切さを深く理解しているのか、絶対に食糧難だけにはならないように様々な策をメディアンと共にやっていたりするのだが、それは今は関係ない。



「ちょっとお前に見せたいものがあってね。ついて来てくれ」




はい、とメディアンが頷くとイデアが足早に彼女の脇を通り抜け一度振り返りついてこいと視線で訴え、小さな体を翻して進んでいく。
大体、向う先は予測がついている。知識の溜まり場の近くに彼が作ったイデアの研究部屋だろう。
殿の中で使われてない部屋を一つ自分専用のモノに改造し、研究するための空間に変えた場所。




普段は幾つもの術式で防御されたその部屋の中でイデアはいつも何かの実験を行ったり、研究をしたりしていることを彼女は知っていた。
実際、そこに入るのは始めてだが、何があるのかは想像に難しくない。
アルマーズ。それを手に入れるためにイデアはここから海さえ隔てた何千キロも離れた地へ赴き、そしてソレを入手したという情報ぐらいならメディアンも小耳に挟んでいる。





何せ、その戦いに参加した一人は彼女の息子なのだから。詳しくは語らなかったし、聞かなかったが、それでもそれぐらいならば判っていた。
アルマーズを巡る戦いでイデアが顔の半分に大火傷を負ってしまい、その回復に時間を掛けていることも、だ。





「長……その、傷の具合はどうなんですか?」





「ん? あぁ、これね」





何気なく発した問いの言葉にイデアが軽い動作で振り返る。巻きつけられたターバンを指で軽く撫でて、その下にある傷を指した。
既に痛みはないのか、ふにふにと布の上から何度も傷口を触り、硬化した肌の感触を楽しむ。






「後一週ほどすればターバンを取っても大丈夫みたい。それにしても……正直な話、アレは痛かった」





今思い出すと自分はあの戦いで随分と無茶をしたものだとつくづく思う。
全身にアルマーズから漏れ出た魔力の雷……【トロン】に近い性質の雷槍を全身に突き刺された挙句
テュルバンの狂った竜殺しの力をまともに顔面に浴びせられた痛苦は未だに記憶に焼き付けられ、忘れることは出来ない。






──その後に自分が溺れ掛けた絶対の力、それの齎す甘美な衝動も。全てを木っ端微塵にするあの愉悦の味。






勝てば正義なのだ。
どんな手を使っても、どれだけ卑劣なことをしようが、どれだけ犠牲を出そうが勝利さえすれば、何をやっても許される。
それがどれだけ残忍で、無情なのかをテュルバンはその身をもってイデアに示してくれた。





腰に収まる覇者の剣に一度だけ視線を移し、胸から下げられた小さな鱗の存在を確認してからイデアは小さく自虐するように内心でほくそ笑んだ。
アレでよかった。神祖の力は無敵で絶対だが……それほどのご都合主義な力を使うのに当然何も代償がない訳がない。
あの力は……酔ってしまいそうな程に魅力的過ぎる。酒を辞められない者の気持ちをイデアは理解したような気がした。





「あたしの息子はどうでした? お役にたてましたか?」





小さな言葉。ソレは滴る水滴の様にささやかで、儚い。
おおよそメディアンの性格からは余り想像出来ないほどに繊細な感情が篭もった言霊を浴びせられ、イデアが硬直する。
だが、直ぐに彼は口を開いた。これだけは彼女に伝えなければならない。






「アイツは強いよ。本当に助けられた、連れて行ってよかったと心から思ってる」






「……それは大げさじゃないかい?」





本当に? 眼と気配で訴えかけてくる彼女にイデアは今度こそ苦笑いを表に出しつつ肩を竦めた。





「貴女が鍛えたんでしょ? その貴女がそんなこといってどうするのさ」





貴女ほど彼を信じている者なんて居ないだろう。
そう訴えかけると地竜は照れたようにぷいっとそっぽを向いてしまった。





イデアが首を小さく傾げる。
何だろう、どうも彼女が変わったような気がする。
始めて出会った時はもっとこう、大胆で男らしさが目立つ性格をしていたと思ったが。



丸くなった、というべきか、もしくは──。



どうも居た堪れなくなったのか、メディアンがわざとらしく咳払いをすると、これまたわざとらしく全く違った話題を持ち出した。




「しかし、長が怪我をしたって話を聞いて、正直焦ったんだよ?」





「死んだり死なせたりしてなければ安い代価さ」





腕が片方もげたけどね、と口の中で継ぎ足すと、イデアは自分の腕をもう一度体の中に戻した時の感覚を思い出し溜め息を吐く。
あれは不味かったと。大分興奮していたとはいえ、まさか自分で自分の腕を食う日が来るとは。
絶対に人間の肉は食いたくない。やろうと思えば竜の姿ならば人を食うことも出来るだろうが。







「そりゃ、そうだけどさ……何度も言うけど、あたしはこんな無茶は本当に今回だけにして欲しいって思いますよ……待っている方も待っている方で、色々と辛いモノがあるんだからさ」





「…………」





貴女は息子を待っていたんでしょう? そう口から飛び出しそうになるのを何とかイデアは堪えた。
表向きの、ご尤もな装飾で飾られた言葉ではない。心からの“長ではないイデアを心配する言葉”いや、彼女の場合は自分よりも息子の方を心配しているのか。
どう答えを返せばよいか判らずイデアが沈黙し、何気なく周囲を見渡すともう間もなく目的地である自分の部屋にかなり近づいている事に気がついた。




少々の時間の沈黙の後、二人は目的地にたどり着き、イデアが小さく背伸びをする。
殿の上層階の部屋を一つ貰い受けて使用するココはイデアの研究室。
その扉の前にイデアとメディアンは立っていた。





ドアにイデアが軽く触れて、そこに掛けていた幾つかの侵入者対策の術を解除すると、木造の頑丈な扉が音もなく滑らかに開いた。





「さ、入って」




部屋の主が、最初に自室に足を踏み入れ、指を一閃させると、カーテンが開けられ、次いで木窓が勢いよく開放される。
外から差し込まれる、ナバタの日差しが部屋の中を照らすとその全貌が明らかになった。




「ありゃ……?」




メディアンが何処か拍子抜けしたような、間抜けにも聞こえる声を思わず漏らす。
彼女の予想では、もっとこう、研究室というのは資料や書類などが散乱していて、混沌とした空間だと思っていたのだが
現実に眼の前にあるイデアのソレは、普通の部屋。壁には幾つか本棚があり、床には何も落ちていない。




ただ部屋の奥に配置された机の上には数冊の本と、何かを書き込んでいる最中の紙が何枚かあるだけだ。
他にあるモノといえば、部屋の中央には座り心地の良さそうな来客用の4つの椅子と、窓際に何故か置いてある複数の果物ぐらいか。




「もっと本とかがいっぱいあると思った?」




意外とこういうのは片付けないと落ち着かなくてねと呟くように告げると、彼は動く。



少しばかり恥ずかしそうな笑みを浮かべつつ、イデアが部屋の真ん中まで歩を進めた。
座ってくれと、椅子を一つ“力”を使って動かし、メディアンの前に置いた。
ゆらゆらと覇者の剣の柄を撫でながらイデアが部屋の置くに向って進んでいく。





「ちょっと待ってて。取ってくるから」




それだけを言うとイデアは入ってきたのに使ったのとは違う扉……物置に繋がる扉に神経質なまでに何十にも仕掛けられた強力な術と呪を解除して、その中に入っていく。
たった一枚の扉にどれだけ強力な術を掛けたのさと地竜は少しばかり呆れると、気を取り直して椅子に座り、部屋の中を見回す。



生活感が無い部屋だ。そう彼女は思った。
まぁ、ここはあくまでも魔道士としてのイデアが使用している部屋であって、個人としての彼の部屋は別にちゃんとあるからそこらへんは仕方ないのだろう。
椅子に深く腰掛けて、部屋の中を適当に“眼”を走らせると、そこらに漂う熱とエーギルの残照から、イデアが何処で何をしていたかまで、ある程度判る。




例えば、あの机の上に置かれている羊皮紙からは神竜のエーギルの残り香がするし
それを辿って更に奥深くまで“解析”し理解していくと……そこから導き出されるのは、恐らくはモルフ関連の術式だろうとメディアンは予想をつけた。
頑張ってるねぇと、メディアンは一人ごちると、刹那、動きを止めた。



彼女の“眼”に映ったのは、とある一節の文字。






人間ベースモルフ。






“眼”を使用するまでも無い。それの中身は彼女自身、かつては学んだことがあるからだ。
だが、学んだだけ。一度も彼女はこの術を使ったことが無い。人間を、モルフに変えたことなどない。
肌が粟立つような感覚に襲われた。何故だか判らないが、これ以上は、見たくなかった。
胸の奥底でちりちりと小さな種火が灯り、焦らすように心を内側から焼いていく。炎の中に見えたのは……顔だ。





逃げるように視界を動かし、次は先ほどから奇妙な存在感を放つ、並んだ果実たちに眼をやる。
普通の紅いリンゴと、血色の悪い青いリンゴ、焦げた色彩の黒いリンゴに……何やら普通のリンゴの倍以上のサイズの金粉を塗りたくった様に、眩く黄金色に光るリンゴ。
他にも似たような特異なリンゴが何個も無造作に置かれている。






「…………」





気になる。何なのだろう、あれは。
こう、全力で自分の注意をひきつけてやるといわんばかりの存在感を持ったソレ。
しかもよく注視すれば、何やらエーギルを纏っている……違う、あのリンゴは普通の果物ではなく、人工的に作られたモノだという事まで判った。




と、ここで朝から昼へと時間帯が変わっていくに連れて太陽の位置が変わり、それによって光が部屋にさっきより多く差し込む。
窓際に置かれていた摩訶不思議なリンゴに光が当たり、照り返しによって美しく輝くが…………。






グ・・・ギギェ・・・・・・。




篭もった声の様な、音。
声帯を酷く痛めた老婆が、何とか絶叫を出そうと喉を絞っている姿を想像できてしまいそうな声。
一番左に置かれていたリンゴの真ん中にすぅっと横線が入る。さながらナイフで真っ二つに切ったが如く。




え? 何なの? 何なのさ、これは?



何千年生きてきた中でも、見たことのない光景にメディアンは眼を白黒させながら、何が起こるのかとリンゴから眼を離さない。
何故だか判らないが、眼を離したら絶対に駄目な気がしたのだ。




パカッと、間抜けな音が聞こえたような気がした。それは、リンゴが完全に上下に真っ二つに分かれた音。




オヒルデス オヒルデス オヒルデス




甲高い、九官鳥を想起させる声音が部屋に響く。




「──っっっ──!!?」





絶叫をかみ殺したのは、さすがといえよう。それほどにおぞましくも、衝撃的な光景だったのだ。




ソレはリンゴの中に閉じ込められた小人だった。人間の胴体……ミイラのように萎びたソレを持ち、同じように枯れ枝を思わせる腕と足を持った小人。
頭は無い、首まではあるのだが、肝心の頭部はリンゴの中に埋もれているのか、はたまたリンゴの上半分がこれの頭部なのか。
両足も頭部と同じように太ももまではあるのだが、膝からその先は全てリンゴの下部に埋もれている。



口など、何処にもないのに確かにソレは声を発していた。




アナタアナタアナタアナタアナタアナタアナタアナタアナタアナタアナタ




コノケダモノ! コノケダモノ! 




……ユダンサセトイテ バカメ! シネ!!



ヒトゴロシー!




ウム ヨクノボッテキタナ!




次々とリンゴが綺麗に割れて、中から先日イデアが目撃したミミックに近い存在が現れ、壊れたように腰を左右に振り回し、何かの呪術を思わせる不気味な舞を披露。
延々と眺めていたら、例え竜であろうと精神をすり減らすこと間違いなしの光景が展開され、地竜の頬を冷や汗が伝う。





「………長……あの……これ、は?」





引き攣った笑顔、いつでも全速力で部屋から脱出できるように
少しばかり腰を浮かした姿勢で彼女は隣の部屋のイデアに声を飛ばす。




「モルフ創りに難航しててさ、少し息抜きで創ってみたんだ。よく見ると可愛いだろ? よかったら目覚ましに一つもっていく?」





「…………」






声だけで返してくるイデアの言葉は、子供が自身の工作物を誰かに誇っているような喜悦に満ちている。
言われて、何とか心を落ち着けながらメディアンが奇妙なダンスを刻む、イデア曰く目覚ましを直視し……やはり耐え切れず眼を逸らした。
本当に、アルマーズを手に入れる過程で何があったんだ。そう叫びたくなる衝動を堪えつつ言葉を紡ぐ。






「いやいや、あたしは遠慮しとくよ……正直な話、寝起きにコレを見たら……怖いし」





ぐっすりと寝ているところをこんな名伏しがたいモノにたたき起こされたら、腰を抜かしてしまうかもしれない。





「残念……非常食としても使えるのに」




「…………え?」




突っ込みたい思いを鋼の意思でねじ伏せる。一体あの奇妙な踊りは何なのか、というか、アレ食べれるの? やら




モルフは活動を停止すると、その全身に編みこまれたエーギルが霧散し、ボロボロと砂とも錆ともつかない粉になり、崩れてしまう。
故に、食べることなど不可能のはずなのだが……。
イデアが隣の部屋から布に包まれた何かを手に出てくると、彼女の前の席に座る。




造物主が指を一振りして、意思を送ると小人たちは瞬時に大人しくなり、すごすごとリンゴへの擬態形態に戻っていく。





「アレは食料問題対策の研究の一つでもあるんだけど……何故かコレが人間型モルフの研究より進んでしまって困る」




野菜やら果物、稲作はお前が何とかしてくれるけど、肉類とかの供給をね、とイデアは笑顔で続けた。
いや、そもそも食べられるモルフをモルフといっていいのかとメディアンは思ったが、それは今すべき話題ではないと思考を切り替え
ここに自分が来た理由を単刀直入で切り出す。





「それよりさ、速く目的の物を見せてくださいな。正直、あたしも気になるんだ」





「判ってる、話が逸れそうになってた」





布の包みを解き、中から取り出すのは黒焦げた、かつては黄金に輝いていたであろう金属の断片。
煤けた表面にはビッシリと何らかの魔術的な文字が刻まれてこそいるが、既にコレは亡骸。
かつてはその身に宿していた何千と言う殺意も悪意も無い、残骸、燃えカスだ。



子供が見れば、うっかり焼き菓子の一部だとか思ってしまってもおかしくはない塵。




メディアンの背筋に冷たいモノが走る。
だがそれは、かつて神将器と呼ばれていたコレに対してではなく、むしろコレをここまで砕いた存在に対して。
彼女はアルマーズではなく、神竜の、正確には彼が行使した力へ恐怖を抱いた。





一体、どんな圧を掛けたらここまでこの存在を粉砕できる?
どれほどの敵意と殺意をぶつけたら、こんな破壊痕が残るのか。
彼女の竜としての“眼”は、この残骸に未だに残留する凄まじいまでの害意を、見ること可能だ。




まず最初に感じたのは底無しの憎悪。噴火し、ドロドロと溢れてくる溶岩の如く赤黒い感情。





死ね、死ね、死ね、砕けろ。誰が存在することを許した。俺が死ねといっているのだから、さっさと消えて無くなれ。




凶念と狂念が深すぎる憎悪と共にまだこの残骸に宿っている。
それはかつてこの武具に存在した全ての力と意思を踏みにじり、今なお残骸を犯し続けていた。
神竜の力、のようにも見えるが、これは全く対極の性質。いや、神竜の力でもあるが、そうでもないという、無茶苦茶な何か。




イデアは、気が付いてはいないようだ。
自分の髪の毛の先端まで意識できるモノなど居ないのと同じ理屈なのか、彼はここにこびり付いた残影を全く感知していない。



正直な話、竜殺しの神将器よりも、この深淵の底を覗き込まされるような、名伏し難い力のほうが恐ろしい。
訳が判らない。だからこそ、彼女は一旦それについては考えるのをやめて、神将器の解析へと力と思考を振り分ける。





宿る凶念を掻き払い、奥へ、纏わり付く竜の力ではなく、神将器を解析するために深く潜る。
金属、元を辿れば大地から産まれてきた存在である以上、大地を統べる地竜の観察眼から逃れることなど不可能に等しい。



瞬時に彼女は理解する。地竜であり、魔道士である彼女は直ぐに判ったのだ。




コレがどういう存在なのかを。
神聖という言葉の対極に位置する、吐き気を催す存在は確かにこの世にあることを。






「……長、コレはやっぱり使わない方がいいみたい。あたしの勘は当たってたよ」





納得。今まで判りづらかった事が急に理解出来たような口調。
淡々と彼女は解析結果と、自らの感想を言葉に乗せていく。




「コレはね、言ってしまえば一種の生き物だったんだね。
 元はただの金属の塊に過ぎない斧に、命を吹き込んで、血と肉とエーギルを与えて成長させていったのが、この神将器の正体。
 宿る竜殺しの力の根源は、大方内包した存在の竜に対する圧倒的な敵意による、エーギル、魂への直接攻撃と吸収能力の応用、かな?」




余りにも膨らみすぎた悪意と狂気が、空間さえ侵食する領域へと到達した結果、あの西方三島で創世された地獄にして魔境を生み出していたのだ。
ゆっくりと、地竜が焦げた金属片を指で撫でてから、トンっと叩いた。




「生き物なんだよ、コイツは。しかもとびっきりに大食いの。
 多分、コイツはテュルバンもそうだけど、使用者の精神を無意識の内に操作して
 使い手を死地に追いやるんだろうね。使って、斧に魅入られたら最後、持ち主は絶対にベッドの上じゃ死ねないだろうよ」




テュルバンが神将の一人を襲うなどという凶行に走った原因の一つかもしれないと地竜は朗々と続ける。




忌々しいとメディアンは内心で吐き捨てた。こんなモノまで生み出して竜を殺したかったのかと。
だが同時にコレが砕けててよかったと心底安堵する。万全な状態でコレをここに持ち込んだら、まず間違いなく災禍の原因になるのが予想できるからだ。






「今じゃそんな呪いも、それがどうしたって砕かれて、正真正銘コレはただの死骸さね。研究しても
 手に入るのは……狂った男の妄執と狂った術者のイカレタ術式だけさ。まぁ、貴重ではあるんだろうけど」






「なるほど」




言葉の続きが胸の中で木霊する。


彼女をあの水晶から解放する役には立ちそうもないか。
いや、やろうと思えば今すぐにでも彼女を開放は出来るだろう手はある。




だが……ソレをやってしまえば、もう後戻りは出来ない気がする。
相変わらず腰にある覇者の剣は一切の言葉も、主張もせず、ただそこにあり、何も変わらない。




思わず深い溜め息が出そうになるが、堪える。神将器の一つ、残骸とはいえそれがこの手にあるのだ。





「ありがとう。色々と参考になったよ。それで、次、なんだが……」




既にイデアの興味はアルマーズには欠片も注がれていない。
神将器と封印の剣、ファイアーエムブレムは何か類似点はあるだろうと思ってこそいたが、それが無いと断言されてしまえば、彼がこの狂った武器に意識を裂くはずなど無い。



「なんだい?」





一瞬、メディアンが再度アルマーズの欠片に“眼”をやると、既にそこに宿っていたあの狂おしいまでの狂念と憎悪は、綺麗さっぱりなくなっている。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。主が憎悪ではなく完全な無関心へと移行したからか、この存在には既に憎悪さえ抱く価値がなくなったからか。





「ソルトの事なんだが……あの戦いから何週かしたけど、夜眠れないとか、傷が痛むとか……後遺症とか、ない?」





じっくりと、言葉が胸と頭に染み込んでいく。
意味を理解してから、彼女は笑った。
何処か誇らし気に、頬を高揚で少しだけ紅くさせながら母親は、語る。







「アイツが強いって言ったのは貴方じゃないか。大丈夫さ、今まで通りだよ、行く前と何も変わってない、むしろ何処か調子づいてる程だよ」










無言、はにかむ笑顔でイデアが頷く。





「じゃ、話も終わったことだし、あたしは失礼してもいいかな?」




「意見を聞けてよかった。やっぱりお土産に、一つもってく?」





ほら、とイデアが指を向けるのは先ほど踊り狂っていたリンゴたち。
どうやら自信作らしく、否が応でもメディアンに一つ渡すつもりなのだろう。





「い、いいです……気持ちだけありがたく受け取って…………」





断りの言葉。
だが、自分を見つめるイデアの眼がどうにも痛ましく、贈り物を受け取ってくれない事を少しばかり嘆いているような光が見える。
例えるならば、自分の作品を母親に自慢しているのに、母は全く興味を持ってくれない……そんな子供が浮かべる落胆の感情が宿った瞳。



息子と重なる。始めて自分で料理を作って失敗してしまい、申し訳なさそうにしているあの顔と。
そうして遂にメディアンは折れた。




「あ、、ありがとうございます。大事に使わせてもらいます……」




輝かんばかりの笑顔でイデアが手渡ししてくる果実型モルフもどき……よりにもよって一番巨大でド派手な黄金のソレを彼女は引き攣った笑顔で受け取った。
ヨロシクヨロシクと内部からくぐもった声が聞こえてくるのを呆然と認識し、地竜は手に握ったソレを見て少しだけ、そう、ほんの僅かばかり思う。




最初は驚いたが、接してみれば、意外と可愛いじゃないか、と。
思えば、コレは息子へいいお土産になるのではないか、地竜の頭に浮かぶのは母親がもってきた贈り物を喜んで受け取る息子の姿。
想像するだけで気分が高揚するその顔を楽しみに、彼女は一礼して部屋から去っていく。






これは余談だが、彼女と入れ違いに部屋に入室したとある火竜の男は
もしかしたら記憶を取り戻す切欠になるかもしれないと見せられたアルマーズの欠片を何か新作の菓子と勘違いし、食べようとした所を慌ててイデアに止められることになる。






























地竜は上機嫌で里の中を歩いていた。
手に持った黄金リンゴは食べる気はしないが、よくよく考えれば、中々に珍しい存在を手に入れたとほくそ笑みながら歩く。
里の中の活気はいつも通り。自分の畑を耕すために出歩くものや、遊びまわる子供たち、ただ散歩をするもの、色々な者が様々な生活の中で活動している。





その中に幾人か見かけるのはかつて、まだ里が始まった頃に自分が教えていた子供達。
ソルトよりも少しだけ年上の彼らは今や立派な青年、及び女性として自分たちの人生を謳歌している。
メディアンに気がつくと彼、もしくは彼女達が満面の笑顔で一礼し、去っていく。




恐らくだが、一組の寄り添うように歩いている青年と女性は……そういう関係なのだろう。
何も珍しくなど無い。エレブの結婚適齢年齢を考えれば、至極普通の光景といえる。
輝くように生きている後姿、そんな人間達を眼を細めながらメディアンが見送り、次は恐らく息子が待っているであろう自宅へと顔を向けた。





恐らく子供たちへの講義の時間は昼前に終わっているはず。
先ほどより少しだけ足取りを速めて、彼女は自宅へと向う。






ここで唐突にメディアンの中に一つの考えが浮かんだ。
自分も息子を送り出す日がいつか来るのだろうか。相手はどんな女性になるのか。
頭の片隅に雨粒のようにポツンと振って沸いた疑問に、少しだけ地竜の機嫌が悪くなる。






















「それで結局、これからどうしよっか」




帰宅し、予想通りに子供たちへの授業を終えた息子が家で作っていた昼食を食べ終えて一段落した後、ソルトはメディアンにこう切り出した。
満腹感をゆったりと堪能し、だらだらとした様子で椅子に腰掛けて、机に突っ伏す二人の姿は何とも平和的な印象を見る者に与える。





「正直な話、腹ごなしの運動に鍛錬は…………嫌だねぇ」





息子と同じく机に突っ伏す地竜は、自身の豊満な胸部を机に押し付けつつ、うとうとした思考の中で言葉を返す。
既に太陽は高く昇っており、外の気温は言うまでもなく猛暑だ。
対して自宅の中はメディアンが少しばかり“場”を弄っているため、熱が篭もるなどはせず、常に「人」が生きるのに快適な温度と湿度を提供している。





出たくない。外に出てもどうせ汗をかくだけだと判っているからこそ、外に出たくないのだ。






「でも、少し外を歩いてみたいなぁ」






うーんと唸りながらソルトが母が持ってきた土産……テーブルの上の黄金リンゴを指でトントンつつく。

押された衝撃でコロコロと転がるが、それは芯を軸としてグルッと転がるだけで、決して倒れたりはしない。
内部からなにやらくぐもった悲鳴が聞こえるが、それは無視した。





「…………」





メディアンが外を“見る”と、何体か、恐らくはまだ子供の竜族が竜の姿に戻ってヨチヨチと歩いている。
その近くに感じる大きなエーギルの波動は、恐らくはその子供の親なのだろう。
地竜が息子を横目で見やり、小さく息を吐く。









「一ついいかい」




「なに?」





一泊。地竜は、眼を白黒させながら言葉を搾り出した。
何でもないように見せかけた声を。





「やっぱり何でもないよ」





息子が首を傾げて変な母さんって呟くのを見やりながら、彼女は立ち上がった。
うっ背伸びをして、肩に掛かっていた自らの長髪をもう一度しっかりと後ろで結わえる。




「このまま此処でうだうだやってたら一日があっという間に終わっちゃいそうだからね。少しついて来ておくれ」





それだけを伝えると、彼女は足早に玄関へと向ってしまい、ソルトが慌ててその後を追う。
声を大きく飛ばし、今にも家から出て行ってしまいそうな母親に彼は訪ねた。




「木刀とかもっていく? 鍛錬するの?」





それに関しての母親の返答は柔らかく、それでいて一切の有無を言わさせない程に強い意思が篭もったもの。
溜め息を吐くような、撫でるが如く息遣いと声音でメディアンは言う。
流されるように動かされた視線に、思わず息子はビクッと肩を浮かせてしまった。




真紅の眼。そこに収められている縦に裂けた瞳孔が息子を映し返し、鈍く光っている。





「いや、それは必要ないよ。ちょっと散歩するだけだからさ」





だから、速くついておいで。確かにソルトは、母親のその声を聞いたような気がした。
これまで母の頼みを断ったことはない。故に彼は当然の行為としてメディアンの後を手ぶらで追うことにした。
しっかりとローブを着込み、全身を布で覆うことを忘れない。母と違って彼はそこまで砂漠の熱に耐性があるわけではないのだから。






里の大通りを抜け、周囲に広がる広大なオアシスを出て、里の活気が遥か遠くに聞こえる砂丘の上までメディアンは歩いていく。
砂漠地帯に出ると同時にソルトは眼に皮製の眼を守るゴーグルをしっかり装着し、全身を竜の加護を受けた布でグルグル巻きにし、その後を追いかける。



しかし、徐々に距離は開く。それは竜と人の絶対の差。砂に足を取られ、それなりの傾斜を持つ砂丘に足を取られて悪戦苦闘するソルトと、人の姿であろうと悠々と砂丘を闊歩する地竜の差。





「ちょっと待って!」





人間が声を上げる。
地竜が後ろを振り返り、砂に足を取られてもがく様に歩いている息子の姿を認めて、指を小さく横に一閃。





たったそれだけの行為。しかし地竜の力は緩やかに世界を変質させた。





流れるように力を拡散させ、踏むことさえ困難なこがね色の砂が四角い箱の形、例えるならば家などを構築する石の様な形状と硬度にかたまり、それがいくつも敷き詰められる。
膨大な量の砂が海水の如く流動しその性質を変異させ、たった一人の人間の為に動き回っているのだ。
ソルトが思わずたたらを踏む。足場そのものが動き回る感覚は、常人には形容できない程に異質な感覚として彼の三半規管を揺らす。





しかし、それも一瞬。直ぐに全ては完成。
あっという間に砂漠の中にソルトの為だけに一つの道が形成され、それは彼の母であるメディアンへと通じていた。




たった今作られた新たな“道”はその硬度を何度か調整され、最終的には若草が敷き詰められた道を想起させるほどに柔らかく、それでいて踏み応えがあるモノとなる。
人はおろか、馬車さえも揺らさずに走らせることが出来るほどに理想的な大地。





「歩きやすくなったかい?」





手を差し出し、小山並に積もった砂丘を何とか登ってくる息子を引っ張りあげてからメディアンは笑った。
後ろを振り返れば大分遠くまで来たことが判るほどに里の全景が小さく見える。
遠くから見える里の全景はまるで小さな箱庭の様に四角い。
里の中央に存在する竜殿は此処からでもはっきりと見えるほどに大きかった。







「何処まで行くの?」




その言葉にメディアンは少しだけ考えるような間をおいた後、口を開いた。
彼女は里のある場所とは逆方向を向いて、そこに延々と果てなく広がる熱砂を見つめる。
余りの熱量によって大気中の光が屈折し、ぐにゃぐにゃに歪んだ光景はこのミスル半島でしか見られないものだ。



彼女の竜としての“眼”はその先にあるこの里と外界を隔離している結界の範囲や、その構造さえも容易く見通す。
そうして彼女は内心頷いた。ここなら、問題ないと。





「……この辺なら、丁度いいか」







周囲の大きさを確認するように視線を走らせ、呟く。
そうしてから、彼女は息子に真正面から向き合う。






「アルマーズ探索の時……長の竜化した姿を見たって言った、それは間違いない?」





朗々と発せられる言葉には一切の感情が篭もっていない。ただ、事実を確認するだけの無機質な声。
返答として無言で頷く息子に地竜が小さく息を漏らした。






「怖かったかい?」






一切の装飾を廃し、彼女は直接的に問う。誤魔化しなど許さないと。眼に見えない確かな圧を込めて。
それを前にして彼は……息子は大きく息を吸って……吐いた。
瞼の裏側に思い起こすのは神祖竜の絶対という言葉を顕現させたかのようなあの姿。
捻れた双角、全身に走る真紅の光線。既に生物と言う範疇を超えて、別次元へと上り詰めた……“次元が違う何か”





やろうと思えば、溜め息一つ、指の一本、いやさ、意識などせずに自分を殺せる存在。
指の一本程度の力で神将と神将器を容易く踏みにじり、数言で隔離異界を吹き飛ばす術を行使する存在。





あの時は戦いがあって、自分の精神状態も多少は高揚していたのも向き合えた理由の一つかもしれない。







「……何となくだけど、何で戦争が起こったか、判ったような気がした」






自分は神祖竜をイデアだと判っていたし、イデアという男がどんな性格や思考をしているかも知っていたから神祖竜の前に立てた。
だが、そんなことを知る由もない者達は……見た目とソレがもっている力しか見えない。
そしてその者達にあの姿がどう映るかは想像するに容易い。






そうか、と胸中で呟く地竜の声をソルトは聞いた気がした。




「だけどさ」





「?」







思いがけない続きの言葉に頭と耳を傾ける母を真っ向からソルトは見据えて、少しばかり恥ずかしそうにその続きを発する。





「僕はこの里に竜族の知り合いだっているし、今でも普通に遊んだりする。近くで見ると意外と竜と人間って中身は変わらないと思うなぁ。竜って、絶対に外見で損してるよ。
 人になる術を作った竜は、きっとそこらへんを凄く判ってたんだろうね」





最も、この考えは相手が自分を一つの存在として対等に近い関係で見てくれなければ成り立たないけど。




そう人間は最後に付け足した。
彼は当然の事ながら全ての竜が母と同じようだとは思っていない。




“普通の”……外の世界の人間が普通竜を想像する場合、まず始めに竜という存在は人間など眼中にもないと考えるだろう。
無限の寿命と超大な力、そして人を超えた叡智を持つ存在が地べたを這いずり回る人間などにそもそも関心を持つことさえない、と。





これは半分正解で、半分間違いでもある。答えは簡単。
“竜それぞれ”としか言い表せない。




ソルトの中での人に近い竜の代表は言うまでもなく、母親である地竜や、この里の唯一の神竜であるイデアなどだ。
普通に笑ったり泣いたり、怒ったりもするその様子はやはり人と対して変わらないように見えた。





対して、大勢の人間が抱く竜というイメージ通りの存在の彼の中での代表は、火竜ヤアンである。
人形の様に動かない顔の筋肉に、抑揚のない声、いい意味でも悪い意味でも人の心、というのを考えていない振る舞い。
いや、アレは考えていないのではない。興味などないのだ。だから、彼は悪意もなくそれでいて躊躇いなく言葉と言う刃を突き刺してくる。




自分の言葉がどんな影響を相手に与えるか考えないというのは、こう、きっといけない事だろう、そうソルトは考えていた。
そういった人間と竜の思考のズレも、あの戦役発生の一端を担ったのではないか。
もしくは、余り気分がよいモノではないが……イデアが持ち帰ったエリミーヌ教典の中にある人間賛歌と銘をうった人間至上主義なども影響があったのだろう。



あの教典を見て、呆然とソルトはこの宗教は何百年かしたら、きっと歯車がずれるんだろうなぁと感想を抱いたものだ。




「…………」






脱力したように地竜が気楽な雰囲気をまとって、息子を見つめる。
先ほどまで張り詰めていた何かは既に霧散し、いつもの様な温和で、親しみ溢れる空気に戻る。







「それで、今日はどうしてこんな所に? 周りには何もないよ」





「なに、大した用事じゃないさ。ちょっと見せておきたいものがあるんだ」





懐、袖の袖の内側より地竜が取り出すのは成人男性の握りこぶし程度の大きさがある角ばった宝石。
純度の高い高級蜂蜜を塗り固めたような色彩を放つ、巨大なガーネット。
しかし、眼を凝らしてみればその内部には火山の内部を切り取ったような、激烈な炎と力の演舞が宿っているのが見える。





地竜メディアンの、竜石だった。
幼い頃から、現在まで通しても、数える程度、それも遠目や一瞬しか見ることの叶わなかった石。




遊ぶように悪戯染みた笑顔を張付けた地竜が屈みこみ、砂漠の砂を片手で掬い取る。
指の間から流れ落ちていく熱砂を一度握りこみ、開くと……そこには色とりどりの宝石があった。
湯水の如く砂粒程度の大きさの宝石が次から次へと生み出され、零れ落ちていく。





サファイア、ルビー、金、銀、エメラルド、オパール、ダイア、アメシスト、
大よそこの価値あるものとして人に認識されたありとあらゆる希少鉱石がメディアン手の平から零れ、光を反射して虹を作る。
遊び、そう、遊びだ。彼女の手に掛かれば、何気ない砂粒から金銀や宝石、鉱石の類を延々と作り出すなど、大地の化身たる地竜には造作も無いこと。
イデアが以前王都にもっていった紅い宝玉も彼女が作ったのだ。






しかし彼女自身はあまりこういった宝石や財宝の練成を好まない。以前、財宝の奪い合いで人間達が殺し合いにまで発展したことがあるからだ。
宝石など、見方を変えればただの石ころなのに、地竜はそう思わざるを得ない。





「昔、人間達に宝石を作ってあげてたこともあるのさ。今もエトルリアの王都にでも行けば、あたしの作った宝石が結構見られるだろうね……何か欲しいものでもあるかい?」





今なら何でも作ってあげるよ。竜が試すように微笑み、粘土でも捏ねるように手を動かす。
掌から落下し、砂の上にぶちまけられた宝石達が全て見えない手で持ち上げられ地竜の拳の中に握りこまれていく。
パンッと大きく手をたたき合わせると、そこには先ほどまであった宝石の数々は既になく、ただの砂だけが指の間から音もなく流れ落ちていく。






「じゃあ、僕はそれが欲しい」






ソルトが指差したのは彼女が作った宝石ではなく、メディアンの竜石。
その輝きと、吸い込まれるような存在感に比べれば、ただの宝石など石くれにも満たない、そういう風にソルトの眼には映ったのだ。
一瞬メディアンの眼が丸くなり、そうしてから彼女は此処に来て始めて余裕のあった笑みを崩す。
何処か焦った様な声と仕草で竜石を庇うように体を捻ってから、親が子を叱る声音で答えた。





「コレは駄目だよ。それに……人間じゃ石の力は引き出せないさ」





人間、という部分を殊更強調するような声。しかし人間はそんなことを気にせずに続ける。





「見せたいものって、それだけ?」





そろそろ熱砂の中で立ち竦むのに飽きてきたのか、もったいぶるなと言外に込めて発せられた声。
真昼の砂漠の中、里からも離れた地でただ立っているというのは人の身には辛いのだ。





「……いや、違う。ここからが本番だよ」






一泊。地竜は全身に力を溜めるように体を強張らせて、声帯から声を絞り出す。
自分は今、息子を試そうとしている。脳裏をよぎるそんな声を無視。






「竜の姿、お前はまだあたしのを見たことがないだろう」






淡々と、努めて冷静を装いながら彼女は声を発し続ける。しかし胸の内側が不愉快に熱くてたまらなかった。
きょとんとした息子の顔がやけにはっきりと映る。たった10年かそこいらで、幼子から少年、そして青年の段階へと足を踏み込んだ顔。
竜の“眼”には、彼のエーギル、命の波動は紫色の小さな炎の様に見える。それが少しだけ揺れている。








「何年も一緒に居て、一番身近なお前があたしの本来の姿を知らないっていうのは、何というか……嫌でね」






不公平だ。心の中で反芻し繰り返される言葉はそういう意味をもっている。
長と息子の仲が良いのは知っているが、イデアの本来の姿を知っていて、家族である自分の竜の姿を知らないのは、不公平だ、と。





今の人の姿は神話の時代に作り出された竜族の術によって得たもの。
好奇心旺盛な竜達が人間と言う種に興味を持ち、人と同じ目線で世界を見たいがためにこの術を作った。




それに、意外と人の姿というのは便利なのだ。
竜の姿では腕を何気なく振るうだけで地形が変わってしまう事もあるが、人の身ではそういった気遣いは不要だし
外の世界の情勢や新たに構築された“秩序”の中では人の姿のほうが活動しやすそうだ。





あくまでもこの姿は仮初のモノ。真の姿は竜のソレであるからして……つまりソルトは一度も母の本来の姿を見たことがないのだ。
故に彼女はその一歩を、今日ここで踏み出そうと思った。







見て欲しかった。本来の自分の姿を。そして、その上でこの子がどのような反応をするか見たいのだ。








足に軽く力を込めて後方へと跳躍、風に流されるように上空へと舞い上がり、自分を見上げる息子の姿がどんどん小さくなっていく。
念のため、更に周囲一体に隠蔽と遮断の結界を念入りに張り巡らしながら彼女は意識を深く、竜石へと落とす。




一定の高さまで飛翔した後、重力に引かれて落下を始める中、彼女は眼を閉じていた。
何十、何百と緻密に張り巡らされる気配遮断の結界の中、久しく地竜は自分の本来の力を味わっていた。





まず感じたのは灼熱。神竜が胸の内側に宿す“太陽”とは別種の熱。
これは、例えるならば溶岩だ。神竜のソレが光という触れられない熱だとするなら、これは粘性を帯びて流動する液体がもつ熱。
森羅万象が始祖の絶望と神竜の光に別れた後、概念より物質が形作られた時に齎され、その時から決して冷めたことの無い世界の体温。





熱、砂漠の熱砂などそよ風に感じられるほどの熱が全身を満たす。
体が膨らむ。火竜の力よりも濃厚で、心臓から鼓動する度に体を駆け巡るエーギルと熱量が乗数的に跳ね上がっていく。
人としての肉体が術の解除と同時に熔けた。さながら、星空を舞う蛍の如く無数の光りの粒子となって砕けたのだ。







そして、再構築。

















「────。」

















息が、口の間から漏れた。それほどまでに、ちっぽけな人間の前に顕現した存在は……途轍もなかった。





彼女がどうしてここまで里から距離を取ったのか、その理由が判った。
もしも里の内部などでこの姿を開放すれば、竜が大地に足を付けるだけで里の半分以上は崩壊するからだろう。
頭を限界まで持ち上げて、更には腰を後方に反らしても視界に収まりきれない、竜。




しかしながらその姿はソルトが今までに見た火竜等とは全く違う。





基本の姿は同じだ。4本の足、一対の翼、全身を隈なく覆い囲むのは竜の強靭な外殻と岩を熔解させ、癒着させた様な重量感を感じる煉黒の鎧。





まず最初に眼に付くのは地竜の赤黒い体の色。それはまるで熱が失せて、冷え固まった溶岩を連想させる色合いをした無骨な構造。
何百、何千年という途方も無い年月の間、地殻の底で活動し、遂には地上を侵食したマグマが様々な物質と混ざり合い、そして固形となった色彩だ。
しかし、まだ火山は死んでいない。地竜の全身を不気味に光らせるのは表皮のすぐ真下を流れ続ける莫大な量のエーギルと、迸る溶岩。
血肉の変わりに地竜はその肢体にマグマを巡らせている。それも、膨大な量のエーギルを含んだ、原初の活力を宿したソレを。





ただ、その場にあるだけで周囲の温度が何段階か上昇する。砂漠の照りつける熱など生易しく感じさせるほどに。
全身に光りを巡らせる竜、ソルトの脳裏を過ぎるのは神祖竜へと変貌したイデアの姿。







火竜が薪を糧に激しく燃え盛る炎としたら、この存在はその完全なる上位存在。
余りにも凄まじい炎が凝縮し、物質とまでなってしまった存在。薪などなくとも、永劫に燃え続ける事が可能な規格外。





恐怖はなかった。元より彼にとっては“そんなつまらないこと”に時間を費やす余裕などないのだから。
何故ならば知っていたのだから。最初から己の目指す存在は最強、最高の存在の一つだということを。
人間である自分が、彼女の隣にあることを目標とする男にとって、姿形など大した問題ではない。





二本足で地竜が立ち上がると、ソルトが今までに見てきたどんな山の頂上よりもその頭は高い所に行ってしまう。
純粋な大きさならば、地竜メディアンの巨体は神祖と化したイデアさえも上回るかもしれない。
恐らくだが、一度か二度、足を跨ぐだけでこの竜は里を軽々と横断するだろう。





人間で言う所の胸の中心部、心臓が収まる位置に見えたのは赤を通り越して白亜となった球体。
全身を駆け巡る灼熱の体液の循環道は全てそこに繋がっており、この球体が全身へ膨大な量の液体を供給しているのを見る限り、差し詰め、地竜の心臓というべきか。
人の心臓でさえ何十年という年月の間、一瞬たりとも休むことなく血液を全身に送り続ける作業を行えるだけの力があるのだ
竜族の中でも上位種の彼女が誇る心臓は、正に活動を停止することなど永劫にありえない、不死の心臓と評すべき力が宿っているに違いない。





肩より伸びる翼は既に飛行能力を失って退化……否、これは進化だ。地竜に飛行など必要ないと新たな段階へと上り詰めた証。
一対の竜翼は双子の山の如く同じ形状をし、翼膜などは存在しない。その頂点には活火山の山頂の様にぽっかりと穴が空き、その奥では粘つくマグマが渦を巻いている。




火山が二つ肩から生えている、ソルトは最初それを見てそう思った。
事実、この重翼は既に飛行能力を失った変わりに、新たな攻撃の手段として体内を巡る力の発射口としての役目を持っている。
彼女がもしもこの姿でやる気になったら、文字通りこの一対の重翼は動く火山となって大陸中に火山灰と、それに伴う様々な災禍を撒き散らせるだろう。








竜が、見下ろす。眼下に佇む小さな小さな人間を見るために。二つの眼と“眼”は砂粒程度の大きさの人間でさえはっきりと捉えた。
その仕草、心臓の鼓動、瞬き、胸の上下に……いつも通りの顔に、少しだけ熱っぽさを含んだ視線を送ってくる眼までも。







「…………」






無言、全くの無言で息子が寄ってくるのを認識したメディアンは彼を潰さない様に細心の注意を払いながらゆっくりと動いて、頭を降ろす。
大地に四本の手足を使って這い蹲り、出来るだけ衝撃を出さないように心がけながら。





ペタリ、そんな音が竜の鋭敏な感覚によって聞こえた気がした。
ソルトが竜の顎の下辺りに恐る恐る触れて、その感触を確かめるように何度か平手を押し付ける。
人肌程度の温もりが掌から伝わってくるのを感じながら彼の顔はほくそ笑む。




地竜の全身の熱、溶岩のような体液、彼女が纏う煉火、その全ては彼女の一部であるが故に彼女の意思一つで他者への効力を変えることが可能なのだ。
敵対する存在ならば、根源的なエーギルさえも飲み込むだろう竜の煉火の溶岩は、家族である息子の前ではただのぬるま湯に等しくなる。






興味津々と言った顔で灼熱の花びらと化した地竜の重殻にある彫りを指でなぞったり
頬を押し付けてその奥の鼓動を感じ取ったり、ソルトは親にじゃれ付く子供の様に竜の体に接する。
実際、彼にとってこの竜の姿は非常に興味深い。今まで見たこともない竜の姿は、彼の好奇心を刺激し、その行為を助長。




表層から止めどなくあふれ出る熔けた液を手で掬い、その温度を確かめたり、黒曜石の如く切り立った竜の外殻をコンコンと叩いてみたり、様々な事を試す。
古今東西、これほどまでに地竜の体に触れた人間はまず居ないだろう。






「母さん、声、聞こえてる?」





緩慢な動きで頭が持ち上げられ、ソルトの眼前に人で言う所の鼻が突きつけられ、ソルトはようやく真正面から竜の、母の顔を見ることが出来た。
縦に裂けた瞳孔を宿す凶眼は本来ならば敵対するもの全てを深い後悔の底へと誘うだろうが、今は凶悪な輝きはそこにはなく、ただ、春風の様な柔らかな輝きだけがある。







“聞こえているよ”






声帯から発せられる音ではなく、直接頭の中に送りつけられる言葉を用いて地竜は返事を返す。
正確に言うならば、これは言葉でさえない。伝えたい事柄の本質を他者へと伝える術だ。






「頭とか、背中に登ってもいい?」






眼と“眼”で見た息子の顔は、意気軒昂な様子で頬などが赤くなっている。
恐怖など微塵も存在しない顔を見て、地竜は何かを確かめるように眼を緩やかに窄めた。
手を、小さな砦なら乗せることが可能な程に広い掌をそっと息子の前に置く。





ひょいっと手の上に人間が乗ったのを確認した竜は暫くの間、身じろぎもせずに手を眺め続ける。
今ここで例えばの話だが、もしもこの手で拳を作ったら、それだけでこの人間の命は潰れてなくなる。
ハエや蚊の様に呆気なく、その生命を終わらせることが出来るのだ。





無論、メディアンはそんなことを絶対を幾つ重ねても足りないほどに、やりはしないが。
しかし掌の上で羽毛の如き軽さで存在を主張する人間の、どれほど儚いことか。
持ち上げてそっと頭の上に降ろしてると、彼はタンポポの種のような身軽さで頭部へと足を下ろす。
頭部を人間に足蹴にされた竜というのは、世界の開闢から歴史を見ても恐らく自分だけだろうなと思い至り、地竜は内心微笑する。





頭の上を這いずりながら動き、首を辿り、そのまま背に息子が到達したのを“眼”で確認すると
彼女はまた一つ力を使用した。
背中辺りの空間を弄り、上下、地面と言う概念を操作。絶対に自分の背中から取り落とさないように、地竜の背こそが大地であると定義。
これでどの様な動きを、仮に空中で逆さまになろうとも息子が落下するという危険はなくなった。



ついでに砂漠の熱を思い、彼が居る場所だけは春の如き適度な温度へ調整。





“よくもまぁ、竜の頭に乗せてとか言えるものだねぇ。 あたしがもしもやろうと思えば、羽虫の様に潰せるんだよ?”







笑い混じりに送り込まれた言霊。
座り心地のいい場所を探し、丁度椅子にも似た甲殻の凹凸を探し当てたソルトはそこに腰を降ろした。
ふぅと小さく息を吐き、周りに見える光景に感嘆しながら彼は答える。



ここからは世界が本当に広く見える。地平線の果て、丸みを帯びた大地……。




「僕を潰したいの?」





あんまりと言えばあんまりな言葉に地竜は一瞬だけ呆気に取られる様に言葉をなくし、次いで慌てるように思念を送った。






“あくまでも例えさ。本気にしないでおくれ。……一応、あたしは外の世界じゃとんでもない悪魔ってことになってるらしいからね、悪魔は人ぐらい簡単に潰すものだろうからさ”





最後に放たれた言葉には様々な感情が渦を巻いて篭もっていた。
背中に乗る息子が少しばかりの異変に気がつき、その気を引き締めるほどに。





怒り、悲嘆、そして諦観。それは自分の半生を否定された人間が漏らす感情にも似ていた。





悪魔、そう悪魔だ。エリミーヌの教えの中で、彼女はリキアを不毛の地へと変えた悪魔呼ばわりされている。
あの戦役の終盤で起きた秩序の崩壊、ローランによって立ちなおされたあの地を苦しめた魔王、それが地竜への最終的な人の評価だ。
エリミーヌ教は今や大陸中に布教され、それを信じる者の数は数えるのも馬鹿らしくなるほどに多く、大陸に生きる人間達に絶対の救済を約束している。





しかし物事には表と裏があるものだ。エリミーヌの教えの広まり具合は確かに凄まじいが……一つの思想の元、自分たちが正義だと信じて群れた人間は途端に恐ろしい存在となる。






そういった者達が竜への信仰を捨てなかった人々に何をしたかは想像するに難しくない。
異端を裁くと言う行為をエリミーヌ自身が認めなかったとしても、既に巨大な組織となった教団は止まらないのだから。
末端の者など、結局は自分の都合の言いように噛み砕いて、行動しているのが顕著である。






“まぁ、人が勝った時点でこうなるのは判ってたんだけどねェ”





人が勝つにせよ、竜が勝つにせよ、今までの楽しかった生活が送れないのは判っていたこと故に
楽しかった幻想だけを抱いてエレブから消えるという選択肢も確かにあったと竜は内心で思い
この地から離れなかった大きな理由である背中の存在に再度意識を送り、観察する。






“それで、だ。あたしのこの姿を見て、お前はどう思う?”





この問いへの答えは刹那の後に帰って来た。いつも通り、まるでこれが日常的に行われている親子の会話の様に軽い調子で。





「なぁんにも変わんないよ。そもそもの話、僕が今まで育ててくれた存在を怖がるとでも思ったの? 今更、しかもこの里の中に住んでいる僕が、人と竜とか、そんな事を気にするとでも?」





貴女を目標に生きている僕が、たかが竜の姿如きで今まで20年近くも抱いていた感情を捨てるとでも?




はぁっと大きく息を吐いた息子は、今まで竜が見てきた中で最も……呆れているように見えた。
背中の外殻を優しく撫でながら彼は言葉を飛ばす。






「母さんが母さんじゃなくて、見ず知らずの竜で、僕が竜って存在を知らなかったとしたら怖がるかもしれないけどさ」





それに、と彼は胸の中で言葉を自嘲混じりに続ける。




仮に怖がったりなんかしたら、意地でも認めたくない言葉を認めるのと同じだ。
基本的に人の好き嫌いは余りしない彼でも苦手な……深く述べるなら嫌い、に近い感情を抱いている相手がいる。
そいつが言った耳障りながらも、一種の心理を射抜いた言葉は、今でも覚えている。






背中で横になり、ソルトは耳を竜の鱗へと押し付ける。敏感な感覚を持つ耳が捉えるのは力強い鼓動と、溶岩が体内を流れる重低音。
こうして聞くだけで判る、絶大な力の波動。母の命の脈動を意識にたたきつけられながら、眼を瞑る。
自分が目指す存在は、憧れる存在は、こんなにも強い、と。






竜、かぁ……。大きいなあ。子守唄の様に耳に伝わる鼓動を思いながら、考え事をしていると、眠気が思考に侵入してくる。
それさえも心地よく思いながら、彼は更に脳を動かして思いを紡ぐ。





竜、人。僕は人。母さんは竜。
人の寿命は精々長くても50か60年、奇跡的に長寿を実現出来たとしても100に届けばそれは人という種の限界であり、その先に進みたいなら、人間を捨てる必要がある。
それは仕方ないし、変えようとも思わないが……。





では、母さんは僕が死んだらどうなるんだろ? 
本来ならば親が子に思うはずであろう疑問を彼は抱いた。




その先を考えようとして……やめた。まだだ。まだ、コレについて考えるのは早いと眼を逸らす。
あの気に入らない言葉の内、2つまでは克服したし、堂々と自信をもって否定できるが……最後の一つが毒矢として突き刺さり、その毒が心を犯す。
ただし、この矢が刺さっているのは自分ではない。




未来が見える能力がなくとも、その先がどうなるかは判っている。
“もしも”など通じない、絶対の未来の先は……。





眠い。竜の背で横になって眠気を感じている人間など世界広しと言えど自分だけだと優越感に浸りながら瞼を瞑る。
ここは……究極的に安心できるのだ。何処よりも快適で、安心できて、そして……愛しい。
幼い頃は見えていなかった不安や、恐怖も忘れて眠る事が出来る。




ほんの少しだけ、一刻の4分の1にも満たない時間だけなら、休息しても許されるだろう。




そうして眠りに付こうとする息子を“見て”地竜は小さく、不安を覚えた。
眼を瞑って、腹部に両手を重ねて眠るその姿が重なってしまったのだ。







“どうしようもない。仕方ない”







家族に先立たれて涙を流す人間は多く見てきた。




ならば自分は、どうなるのか? ただの人間とは違い、力がある自分は。





人に近づき過ぎた、今の竜にはその答えは終ぞ見つからなかった。






あとがき





覚醒をプレイしました。面白いです。BGMは個人的に歴代で最高だと思います。
アーマーナイトのグラとDLCの内容には少々おや、と思うところもありますが、ソレを差し引いても素晴らしい出来でした。
ギムレーのデザインが本当に好みで、たまりません。



そして今回の章は恐らくはかなりの難産になりそうです、また更新がかなり滞ることになることが予想されますが
更新停止だけはありえませんのでご安心を。








それでは、次回更新にてお会いしましょう。






[6434] とある竜のお話 第二部 六章 2(実質14章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/09/03 23:53



英雄、という言葉がある。



それは人々に希望を与え、物語の中で悪の魔王を滅ぼし、世界を平和へと導く存在だ。
彼らは輝かんばかりの存在感を持ち、書物と御伽噺の中で語り継がれ、不滅の勇者として後世まで人の心の中で生きて、終いには神話となる。






そして、英雄と言う存在にも実は二つ種類がある。まず一つは圧倒的なまでに他と隔絶した力を持つ英雄。
覇王などとも称されるその者らは一人で何でも出来るほどに優れているか、もしくはとある一部分の才能が、ありとあらゆる全てを凌駕するほどに突出している事が多い。
ハルトムート、テュルバンの様にその圧倒的な力と存在感に惹かれて人が集まってくるのが彼らだ。






正に太陽とも言える彼らは、苛烈な生き様を晒し、その熱を多くの人々に与えることだろう。





二つ目は、不思議なことに、その者自体は大して大きな力を持っていることは少ない種類。
全てを踏み潰す武力もなく、知力もそこそこの彼らは……とても不思議な存在だ。
求心力を持っている、というべきなのか。彼ら、もしくは彼女達の周りには様々な人が集まり、一枚の岩となってその力を高めあうことになる。
まるで例えるならばそれは物語の主人公の様に全ての出来事の中心となり、世界を動かしていく存在。




覇王と違うのは、部下達がそのリーダーを積極的に助け、そして時には間違っていると叱咤できることなのか。
覇者というのは、往々にして自らの考えを中々に曲げないのに対し、二つ目の種類は、自分を冷静に省みることが出来る。




それを意思が弱いと見るか、それとも思慮深いというかは、後世の歴史研究家が決めればよい。




蟻が巨大な生物を殺すのと同じ様に、完全に連携を取り合い、一つの勢力を、巨大な生き物へと昇華させた際に産まれる力というのは竜でさえも脅威を感じることになるだろう。

個の英雄と群れの英雄、真に恐ろしいのはどちらか。












しかし、どうでもいい。個だろうが群れだろうが関係ない。少しだけ強い微生物と群れた微生物の違いなど、人間には意味をもたないだろう。
真実、怪物にとってはその程度でしかない。




そんな些細な違いなど、今イデアが視界を借りている存在には全てがどうでもよかった、そんな念が流れ込んでくる。
喉を乾かし、腹を鳴らさせる飢餓感。心を侵食させる狂おしいまでの狂気。そして全てを塗りつぶす絶対の力の波動に身を委ねながら、怪物は全てを見ていた。
夢だ。夢を、見ていた。見ず知らずの誰かが見ている光景をイデアはその誰かの眼を通して重ねて“見て”いたのだ。



それは正に神の視点。文字や絵として描かれた物語を読者が見ているが如く、万象を隅々まで理解し、見下ろし、観測している。




かつて大戦の最中に見ていたあの光景と同じように、イデアは地獄を見ているのだ。
燃え盛る街……この大きさ、この設計、いたる所に作られた塔や教会などは此処が以前訪れたアクレイアだとイデアに次げている。
しかし……その様子は全くといっていいほどに変わっていた。





王都周囲の大地は以前は草木に満ち溢れ、森や川、果ては小規模な湖まであったというのに、今ではその全てが不毛の荒地となり
何も感じない、荒涼とした死の大地が果てなく広がっている。それどころか、所々が裂けた大地は至る箇所から毒々しい色の煙、瘴気を吐き出して世界を汚染していく。
鳥が死に、馬が死に、川が枯れ、水がなくなり、空気が穢れ、人を含むありとあらゆる存在がたった一つの例外を除き、全て滅び、世界が終わる。




退廃的で、退嬰という字を体現した風景。世界が病み衰え、万象は衰弱し、全てが貪り尽くされていく。
蒼天に昇る太陽は異常なまでに丸々と巨大で鮮血の様に紅く、爛々と輝きを発しており、朽ちる世界とは裏腹にその輝きだけが圧倒的に容赦がなくなっている。
見ようによればソレは巨大な、想像を絶するほどに超大な、神と形容するのさえ憚られる存在の眼にも見える。





これは、自然なことなのか? 人が年老いて衰えていくのと同じく、世界にも寿命が来て、緩やかな死へと向っているのか?
否、だ。全ては否。違うのだ。これは世界に寿命が来たからこうなったのではない。




喰われている。世界は、自らが生み出した存在にその生命力を丸ごと貪食され、抵抗さえ出来ていない。
既に力関係は逆転し、やろうと思えば世界を喰らっているその存在は片手間で全てを終わらせる事が出来るというのに
あえて残忍な喜びを浮かべて世界に生きる生命達を虐げている。




絶叫と絶望を限界まで搾り出し、その味を楽しんでいるのだ。そして、それから産まれるささやかな抵抗さえも怪物にとってはただの茶番だ。




歓喜、狂気、退屈、そして底なしの飢餓と不足感をイデアは今視界を同調させているモノから感じた。
次いで覚えるのは絶対の力。神竜の波動に近くもあり、始祖の波動にも近いソレは、紛れもなくあの神祖の力。
しかし、その質量は想像を絶する。かつてテュルバンとの戦いで神祖となったあの力が全くの笑い話になってしまうほどの力の総量。
正しく無限と形容する他にない、全てを押し潰し蹂躙する究極の暴力の具現。





しかし、不思議と恐怖は感じなかった。
眼の前に神さえも殺す刃物があったとしても、ソレを握って、支配しているのが自分ならば、何を恐れる必要がある?




まさか、自分の力が恐ろしいなどと世迷言をほざくモノはいないだろう。
それに、だ。何故かは判らないが、理屈を超えた所で怪物は自分を傷つけるようなことは決してしないと、判っていたのかもしれない。




王都アクレイアの中枢、人類で最も最高位の存在、エトルリア王国の国王が本来ならば座するだろう聖王宮の玉座に堂々と腰を降ろし
あえて人の姿を取った怪物は手を組み、悠々と鼻歌さえ歌いながら楽しんでいた。
怪物は眼を通す。たった一動作、頭の奥底で見たいものを見たいと考えるだけで、その願いは叶う。





彼の視界はそれと同調しているイデアと共に様々な場所へと飛んでいく。
市街地の至る所であがる争いの音。元はこの都には100万にも及ぶ人間が住んでいたが
この都の現在の住人達は……死さえも慰めとなる姿へと変わり、怪物の奴隷へと堕とされていた。





腐った体を無理やり固定され、魂さえも術で縛られて戦い続ける哀れな姿、舞台上で幾つもの糸に絡められて動く人形と同じ存在。
時折、口から零れるのは獰猛な獣を想起させる息遣い。



屍兵。全身をツギハギだらけの異形の亡霊兵に創りかえられたソレは、蠢くように小隊単位で侵入者を迎撃すべく襲い掛かり、呆気なく切り伏せられる。
銀の鎧に身を包んだ騎士達は絆を胸に、戦友に背を預けながら戦い、瞬く間に屍兵達を駆逐していく。
その者達の胸に熱く灯る“希望”を見て、怪物は心底嬉しそうに、嗤った。




至る箇所、至る場所、ありとあらゆる地で人々が立ち上がり、怪物を滅ぼすために人間賛歌を高らかに歌い上げつつ自らへと迫ってくる。
鬼気迫る気迫、凄然と燃え上がる勇気と、絆の光、絶対に折れない信念、全てをしっかりと“見て”怪物はその嗤みを残忍に深めた。





王宮に配備しておいたそれなりに強い屍兵もたちどころに滅ぼされ
永遠の命を与えてやると吹き込み、堕落させた人間の部下たちさえも打ち破った英雄達が一呼吸ごとに向かい来るのを手に取るように把握しながら
怪物は玉座に座りなおし、リンゴの焼き菓子を乗せた銀の皿を手に取り、ソレを口にする。





扉が勢いよく開け放され、怪物が展開していた防衛線を突破した幾人かの英雄達が部屋に烈風の如くなだれ込む。
喉元に処刑斧を突きつけられたとさえ思えるほどの圧迫感を怪物に浴びせかけている英雄達の顔は……よく見えない。
顔に砂嵐が掛かっている。体形や鎧の装飾、もっている武器などははっきりと判るのに、顔だけが認識できない。







“あなたを倒して、全てを終わらせる──!”






青い鎧を着込んだ英雄が、手にした宝珠を宿す名剣の切っ先を突きつけて叫ぶ。それに続くように、英雄と同じく顔が見えない部下達が各々の武器を構える。
声も顔と同じく水の中で聞く音と同じ様にくぐもって聞こえたが、何とかこの声の主はソルトと同じぐらい年の少年だという所までは予想できた。
顔も見えない。声さえも判らない。なのに、何故か知らないがイデアは一目でこの少年がどういった存在か理解する。





少年は、英雄だ、と。それも掛け値なしに規格外の英雄。
このソルトと大して年も変わらないだろう勇者は、きっと、恐らく、ありとあらゆる災禍を打ち払うための象徴、旗印になる。
思えば、彼の後ろに控えている者達は全てがバラバラに見える。騎士の甲冑に身を包むもの、軽装で最低限の防具しかつけていない剣士。
少年の様な体形の魔道士……他にも外には世界中から集まった英傑達が集っているのだろう。





正に群れの英雄の極地、そう断じてもよい存在感。




試しに一際怪物の興味をひいた存在、先頭の英雄のすぐ後ろに控えて、高位の魔導書を構える膨大な魔力を内包した少女へと“眼”を向けると……玉座の主の口角が小さくつり上った。





その少女の内心は、先頭に立つ英雄への……陳腐な言い方だが信頼と愛に満ちていた。




“大丈夫、私達は絶対に負けないわ。だって、皆あなたを信じているもの、ねぇ、そうでしょう───”





恐らくは彼女と彼は、そういう関係なのだろう。英雄には、伴侶が必要だ。





苦笑交じりに、怪物は口を開く。もごもごと口の中で焼き菓子を溶かしながら、見世物を楽しむ観客の様な声音で剣呑な敵意と殺気を向けてくる英雄達に言った。
イデアの口が勝手に動き、イデアの意思とは別に怪物の思考によって打ち出された言葉が声帯を震わす。
茶目気を出したつもりなのか、怪物が小さく肩を竦めたのまでイデアは余さず感じた。







“ご飯の邪魔をしないで欲しいなぁ、……アァ、所で何か言ったのかな? ごめんね、全く聞いてなかったよ───”





くぐもった声。確かに自分が発したというのに、怪物の声も濁っており、男か女かさえ判らない。
微かに視界の端に映るのは、怪物の細く白い手。大人が力を込めれば折れてしまいそうな程に細い腕だが……実際は違う。
怪物の保有する力を考えれば、この腕を一振りするだけで天変地異が起こってもおかしくない。




“しかし、煩いな。もう少し落ち着いたらどうかな。そんなに慌ててても──”




続きの言葉は紡げなかった。何故ならば、莫大な魔力が篭もった火球が怪物へと叩きつけられたから。
通常の十数倍にも及ぶ魔力を注がれた【エルファイアー】が着弾し、玉座の間の空気を沸騰させる。
装飾に使われていた金属が気化し、肺を焼く気流が周囲に立ち込めた。





術を放った少女らしき人物が魔道書を開き、身動ぎもせずに怪物の居た場所を注視。
彼女の全身を流れる魔力のなんと強大なことか。





気流が晴れると、そこには無傷の怪物がいた。
先ほどまでと違うのは、その手に一つの武器を握っているということか。
あぁ、とイデアは自分が視界を共有している存在が握る武器を見て、思わず溜め息を吐いた。




もちろん、今のイデアは全てが朧であり、夢の中で意識だけが溜め息を吐いたところで、誰も判るものなどいない。
彼は今まで全てを見ている、あの魔力の塊が直撃する直前に、怪物が虚空に無造作に手を突っ込み、位相がずれた異界から一つの武器……、否、兵器を取り出すところを。
濁った湖の底から物体を引き抜いた時と同じように、取り出された存在は此方の世界に引っ張り出されてから急激に全景が判るようになる。




取り出した黒い刀身の長剣を一振り、ただそれだけで火球の魔力は霧散し、その熱だけが周囲に拡散する結果となったのだ。






【ヘズルの魔剣】






兵器の銘はそういった。元は偉大なる神話、系譜の中に登場するソレだ。
神が人に与えたとされる力は今や怪物の愉悦の為にだけ振るわれている。
最も、これ自体はオリジナルではなく、過去の記憶から再生したレプリカだが。



しかし怪物にとっての“木偶の棒”ぐらいの威力はある。





愉悦、怪物にとって今のこの戦いは戦いではなかった。





武器など使う領域を遥かに超えた段階にある怪物があえて剣を取り出した理由は一つだけ。
対等の地平線で戦ってやろう、遊んでやろうと思ったからだ。例えるならばそれは、父が子と遊んでやるために加減をするのと同じ。



そして、更にもう一押し。怪物は、英雄達を試すように力を発動させる。






【──神祖の絶叫──】





爆発的に広がる『正』の気と『負』の気がごちゃ混ぜになった混沌とした波動、それが場を重々と塗りつぶす。




怪物を中心に黒金色の光が迸る。光はやがて薄い霧となって、広がる。玉座の間から、外へ。
王都を軽々と黒金の霧は覆いつくし、その先へと吹きぬける。
轟音が、響く。それは無数の、何万と言う数の屍たちの鼓舞の声。





怪物は、屍兵達に加護を与えたのだ。効果は単純な全能力の大幅な底上げのみ。
その単純な強化は……怪物が倒れない限り永遠に続く。
念押しだ、と怪物が指を鳴らすと、朽ちた王都の上空に千を超えるほどの無数の円形魔法陣が展開され、黒金色に発光するソレの中央が、人間の瞳孔の如く開いた。





転移の術式が、甲高い音を立てて回り出す。底なしの穴倉の奥からこちらを侵食するように現れるのは名伏し難き異形達。
混沌の海から引き上げられ、殺意と狂気をもって世界を蝕む者ら。





灰色の人間の骨だけの剣士、真紅の色で体を彩る、馬車ほどの大きさの蜘蛛、ハルバードを軽々と振り回すデス・ガーゴイルの群れ
三つ首の獅子ほどの大きさの魔犬、人間と同じ大きさの眼だけの怪物、巨大な戦斧を振るう半身人間、半身馬の男
一つ目の筋骨隆々の巨人、全身が朽ちてなお動く、ドラゴンゾンビ、そして人と同じ姿をしながらも、その実何倍にも強化された戦闘モルフ達に
怪物の力で変異させられ強制的に怪物へ従属させられている各属性の精霊ども。





おおよそ、悪夢の世界でもご対面は叶わないだろう魔の軍勢、その全てが新たに屍たちの増援として天から雨の如く無尽蔵に降り注ぐ。
戦闘竜のゾンビ、屍兵、魔物、モルフ、その全てが怪物の軍団であり、手足だ。もちろん、神祖の絶叫は彼らにも大幅な能力補正を与えているだろう。




英雄達が、呆けた様な雰囲気でその魔雨を見つめているのを怪物は観察し、一言告げた。






──戦うなら急いだほうがいいぞ? 速くしないと、皆死んじゃうよ?





頬を吊り上げて怪物が嗤うのをイデアは感じた。そして、それが決戦の火蓋を切っておとす。





一方的な死闘が始まった。
玉座から立ち上がり、動き出した怪物と、それを討伐しに来た英雄達の戦いが。
魔法が飛び交い、剣術同士がぶつかり合い、血飛沫が舞う。
1対多数という本来ならば多勢に無勢という言葉が当てはまる状態は、多数が一に終始圧倒されるという摩訶不思議な逆転現象を引き起こしていた。




魔剣が一振りされる度に生み出される強力な衝撃波が玉座の間を、王宮そのものを切り刻んでいく。
幾本もの尖塔が木の枝の如く丸ごと切り落とされて、崩れていく光景は、冗談じみていた。
だが、少年が、英雄が握る剣は魔刃が吐き出す衝撃を全て受け止め、逸らし、時には弾き返しさえする。





英雄達の心は折れない。
その心を象徴するように、少年の剣は清浄な炎を宿し、怪物が全方位に存在するだけで撒き散らす瘴気を焼き払う。





魔法を打ち払い、切り込まれる剣や槍を軽々と回避し、怪物は中空全体を悠々と這い回って、ありとあらゆる場所から魔法と剣での攻撃を行う。
それを英雄の仲間たちが数人掛りで魔法を弾き、振るわれた剣を何とか受け止め、生じた隙に追撃を許さないために魔法で怪物をけん制。
背を預けあい、互いに叱咤激励し、各々の長所を合わせて戦う人間達の姿は人の持つ可能性を感じさせる程に光り輝いていた。





しかし、終わりは訪れるものだ。古今東西、英雄譚というのは勇者が魔王を倒して完結するものと相場が決まっている。
一本の剣、青い鎧に青いマントを装備した勇者……最初に怪物に剣を突きつけた少年の剣が、深々と怪物の胸に突き刺さり、その奥で鼓動を続ける心臓を破壊。




傷口が燃え上がり、炭化していくと同時に……水晶の様な固形物が怪物の全身を侵食し、存在の全てを否定し、封じようとする。




イデアは自分であって自分ではない存在の心臓に剣が付きたてられ、そこから血液が漏れ出て行く感触を感じ首を傾げた。
おかしい。おかしい。滑稽でたまらない。何故、何故、何故──。
血を吐き散らし、それでもなお笑みを崩さない怪物。指でつぅっと燃え上がる剣を撫でて、そこを伝う自分の血液を拭う。





真っ赤な液。紅い、凄く紅い。熱い、熱い……。
少年の剣が、更に激しく燃え上がる。封印など生温いと叫びを上げ、その刀身が清廉な業火を纏い大炎上。
怪物は悲鳴さえあげることが出来ずに、完全に世界から消えてなくなる。





しかし、イデアの観測はまだ続いている。寄り所となっていた怪物が消滅したというのに、変わらずイデアはまだ光景を“見て”いた。
床に突き立った魔剣が光の粒となって消えていく様も、王都中に展開させていた軍団の活動が一斉に停止するところも、何もかも全てを。






顔こそ見えないが、英雄達の傷だらけの体から喜びと勝利が溢れる。
誰もが顔を見合わせ、頷きあい、自分たちが成したことの素晴らしさを噛み締めていた。




少年と少女が手を取り合い、喜びを分かち合う。
そのまま二人は仲間たちを引き連れて歩いていき、王都全体を展望できるテラスに寄り添うように並び立つ。
眼下に広がるのは人間の軍隊。幾つもの旗を掲げ、一つとして同じ顔のない何万という数の人々が歓喜の叫びと共に二人を祝福する。





皆々が口を揃えて叫ぶ。万歳、やった、伝説を作ったんだ、と。
さざ波の如く興奮が伝播し、それらは混ざり合い、影響しあって一つの巨大な津波となり、世界を熱気で包む。
普通の英雄譚ならばここで完結する。舞台の上で踊り、謳われていた演目は終了し、残すはカーテン・コールのみ、のはず。






その、全てを“見て”“聞いて”その上で……イデアと同化している存在は人知れず嗤った。以前の戦役はここで終わりだったなァ、と。
だが……今回は誰も知らない続きを用意したのだ。戦役と同じ結果を繰り返すだけというのは、余りにも馬鹿馬鹿しい。




歓喜の声が、止まった。音が消え、声が消え、空気の流動が停止する。
全ての人間の顔が笑顔のまま、凍りついた。世界は……絶望を知ることになる。




天にある太陽が、太陽ではなかった。何時も柔らかな光りを降り注がせ、世界を包む太陽が……違う。
紅蓮の色をした太陽に、真ん中から真っ直ぐ縦に二本の黒線が入り、大きく左右に開く。
円の中にもう一つ縦長の円が生まれ、それは生物的な動きと共にぎょろぎょろ動き回り、少年達を見てから……細まった。








瞳孔、それは眼だ。とてつもなく巨大で、絶対存在の瞳。この瞳だ、この瞳が今まで全てを“見て”いたのだ。
何時から入れ替わっていたのか、本物の太陽は既になく、今まで世界を照らしていたのはこの瞳だ。
ただ、誰もその事実に気がつかなかっただけ。





ピシッ。最初は小さく、一回。空虚な音が、鳴った
更に続けて数回ピシッという氷を踏み潰すような音が不気味に世界に響く。
空間がまるで蜃気楼の様に歪み、向こう側に映る光景が滅茶苦茶に屈折を始め、蒼が歪む。





青い空に無数の断線が走る、さながら重量に耐え切れずに割れる銀の硝子の如く。
崩落。天が崩れ落ち、無数の断片となって、蒼天が瓦解。
一つ一つが青い空を映した無数の欠片が地上に墜落し、突き刺さる。





砕けた天の奥に座すのは、竜。



屈みこみ、窮屈そうにその身を丸めて、世界を見下ろす巨竜。
夜と昼をそのまま溶かした様な黒金の色彩の重殻に身を覆い、体の至る所に赤黒い光が走る……竜。
天蓋と化した喰世竜は、地上を隅々まで観察し、口角を吊り上げて不気味に嗤った。






軍団が、再度稼動を開始する。武器を、触手を、前足を振り上げ、魔軍が喝采の声を叫ぶ。
それは、己たちの絶対神に対する信仰の表れなのだろう。





遊戯版というゲームのボードの大きさをエレブとするならば、竜の大きさは成人男性程度の大きさになる。
空に隠れていたもう一つの眼が浮かび、“二つの紅と蒼の太陽”がその姿を現す。
眼の前に置かれた食事に対しての冷酷な欲望と、絶対零度の侮蔑の念によって歪に細まる。




余りにも大きく、余りにも馬鹿馬鹿しい。怪物をまともに見た兵士達の半数以上が思考を停止し
怪物が何なのかを理解した小賢しい者達は、恐怖に引き攣った掠声を叫び、そのまま発狂し絶命。




この存在の前には化け物、という言葉さえ生ぬるい表現に成り下がる。




全身に纏う紅い文様が走る黒く濁った黄金色の鱗は、それ一つだけで小島よりも大きく、一つ落とすだけで、極大の災禍を巻き起こす。
ソレは責任を放り出し、世界を背負うのをやめ、自らの快楽と欲望、願いだけを追及する存在。他の一切合財全ては、既に、ない。
永劫に飢餓に苛まれ、決して満たされない哀れな怪物。誰も怪物を止められず、怪物は誰も見ていない。




しかし、怪物を見る者には掛け値なしの、最悪の絶望を叩き付ける。一体、どうすればよいのか。
眼前に聳え立つ霊峰を動かそうと思うものなどおらず、天に浮かぶ月に矢を当てようと思うものなどいない、つまり、怪物と戦うというのはそういった行為と同義だ。





力。力。ただ絶対無比の力。規格外、次元違い、逆らうという行為など意味をもたない。
神将器? 魔法? 神将? 英雄? 封印の剣? 炎の紋章? その全てを怪物は嘲る。それがどうした。
既に怪物にはこの後の事を考える余裕さえあった。足りない、足りない、足りない、腹が減った。満たされない。





まだ“餌”は至る所にあることを怪物は知っている。
ここから飛び立てば“食べ放題”だということを。既に門など不要。




世界に響く終焉の鐘の音の如く、怪物の狂嗤が天から全てに叩きつけられ、英雄達の戦いそのものを無意味だと嘲笑した。
最初から最後まで、お前たちは私の掌の上だったんだよ、と。そして怪物は付け加える……もう、お前たちに振り回されるのはうんざりだ。





“本当の意味で私が平穏と安寧を得るためには、お前たちが居ないのが最も都合がいい”




ソレは真実、この喰世の竜が掲げて信仰する正義。




信念、勇気、希望、英雄達を支えていたモノが全て砕けていく音を捉え
怪物は、イデアは、心が満たされていくのを心地よく受け止めながら、その巨大な顎を開けて───────人間がパイに齧り付く様に、一口で何もかもを喰い尽くした。





呆気ない幕切れだった。心も光も希望も、全て“齧られ”“咀嚼され”“嚥下”された。
英雄譚は終わった。ただし、終わったのは物語ではない。物語を展開する土台、即ち舞台が終わったのだ。
























「──────!」






掠れた声を上げてイデアがその瞼を無理やりこじ開ける、動悸が激しく高鳴り、全身からはヌルヌルとした気持ちの悪い汗が吹き出ている。
眼の奥がずきずきと痛み、喉がカラカラに乾いているせいか、口蓋の皮が突っ張ったような、鈍痛が彼の意識を現実へと引き戻す。
ふと、服が引っ張られているのを感じて、襟の辺りを見ると、自らの創造物たるモルフ、
リンゴの姿をしたソレらが声さえ出せないものの、心配そうに服の裾を器用にリンゴの切断面を使って引っ張っていた。





頭を動かすと、ここは自分の研究室であることを思い出す。どうやら、机に突っ伏して眠っていたらしい。
しかし、眠った記憶は自分にはない。眠気を感じた覚えさえないはずだ。
その事に思い至り、背筋に寒いモノが走り抜けていく。





……既に自分には睡眠は必要じゃないはずだが、どうして?





いや、そもそも寝ていたのか? 夢にしてはあの光景を自分は、はっきりと覚えている。
戦役の最中にも同じ様な光景を見たことがあるが、あれははっきりと眠っていたと認識しているのだが……。
それに夢、の一言を片付けてしまうには、アレは少々現実味を帯びすぎている。





「……未来予知?」





自分で呟いておいて、それはありえないと即座に否定する。
確かに過去の竜族には未来を断片的に見ることが出来る存在も居たらしいが……自分は違うと断言できる。
そもそも、そんな力があれば今頃長は自分ではなく、イドゥンがやっていただろう。





あれは予知、等と言うあやふやなモノではない。もっとはっきりと、確実で、まるで何処かで起こった出来事を見ているような──。
所詮は夢だと割り切るのは簡単だろうが、どうにもそういう気が起こらない。
ならば何なのか、あれは。夢の一言で切って捨てるには、余りにも生々しいあの映像は。




全て覚えている。英雄達と戦ったことも、化け物どもの支配者になったことも、そして英雄達の心を念入りに砕いたことも、だ。
白昼夢、なのか。だが、と予想を幾つも立てている内に同じところをグルグルと周ってしまう。
思考が歯車の中で回っている、同じところを延々と。





答えは出ないと判断したイデアは速やかに考えるのをやめると溜め息を吐いた。






「疲れているのか?」





ポツリと呟いた言葉は、自分でも不思議な程に胸の内側に染み込んで行く。
そういえば、最後に休日を謳歌したのは何時だったか。
思えば、この頃は酷く無機質な生活を送っている。




アルマーズとの戦い、その後のモルフ研究と封印研究、他には食糧問題などへの対策、研究、研究、研究……。
余りにも心休む時間がない。





つい最近完治したばかりの顔面の半分を撫でてみる。火傷の痕など全く残ってない皮膚は、少しばかり白く、衝撃に対して僅かに敏感だ。





自分で作った食用モルフの試作、リンゴを撫でてやると嬉しそうに擦り寄ってくる。
思えば、何故かは判らないが食用モルフの研究の方が完全自立モルフの研究よりも進んでしまっているのだ。
知性を与えるというのは、本当に難しいのだ。自分で考え、自分で成長し、自分で進化するモルフというのは思えば人間や竜と大して変わらない。
それならば、まだ子供を作ったほうが手っ取り早いだろうが、やはりモルフは量産が効くというのが一番の利点だ。




あぁ、駄目だと頭を振るう。息抜きするつもりなのに、また変な方向へと流れている。
これは少しばかり、息抜きを入れたほうがいいだろう。はっきりと自分でも判る程に、精神の何処かが悲鳴をあげているのが聞こえる。
眠るわけでもないのに、瞼を閉じると、その裏側の闇に複雑な魔術の文様が小さく浮かんだり消えたりしているのを見るに、色々とたまっているのだろう。





ならば何をしようか。





疲れや先ほどの夢の事は別にしても少しばかり、モルフ研究や封印開放、ファイアーエムブレム、神将器のことを忘れて思いっきり無駄な何かやりたい。
うーんと腕を組み考える。何か、娯楽はないか。ないのなら作れば言いとして……何をしようか。
開け放された窓から吹き込んでくる荒涼とした風が頬を撫でていく、イデアが無言で窓の外の月夜を見て……閃いた。



あぁ、と息を吐く。思えば、アレを最後に見たのは何時だったろうか。見てみたい、という衝動がこみ上げてくる。
やろうとしていることは恐らく、かなり難しいだろうが……いい気分転換になるはず。




そうと決まれば、行動は速くしたほうがいいだろう。
とりあえずは計画から、とイデアは手元の何も書かれていない紙に、素早く書き込みを始めた。















明朝、いつもの様に玉座に腰掛けたイデアは一枚の紙をフレイへと渡し、彼がそれに眼を通すのを黙って見つめていた。
時間にして一刻の4分の1にも満たない時間で老火竜が全てを読み上げると、彼は紙をイデアに返して言った。




『なるほど、確かに面白そうですし、住民達に対してもよい娯楽の提供が出来そうですが幾つか問題があります』





ふぅと息を吐くと老火竜はガラガラの声で続ける。





『とりあえず技術面と構想やらの問題がありますが……これは今は置いといて、一番の懸念事項は賊共です。
今は結界の補強の時期ですし、下手をすれば気が付かれる可能性も考慮したほうがよいかと』







ナバタは不毛の大地であるが故に、国家の手なども入ってはいない。
だからこそ賊が根城にすることもあるのだ。そして現在イデア達が確認しているのは
小規模の賊たちがナバタのとある場所を根城にしているということ。



だが賊の拠点は里からは恐ろしい程に離れており、間違っても賊の者達が里に気がつくことはありえないだろう。
そう、普通ならば。だが、イデアが行おうとしている行為は、今の結界の状態では距離が離れていても気付かれる可能性がある。
そして、どうやら賊たちの中には魔道を齧ったモノもいるらしく、本当に微弱だが魔力を感じるのだ。



最も、メディアンやヤアン、里のそれなりの魔導士達と比べれば苦笑しか出てこない魔力量だが。
だが、何か妙な気配を感じるのも事実であり……いずれは駆除が必要だと考えている。




そしてナバタの里を覆い隠す結界や“場”を歪曲させる術式も既に十年以上が経ち、更には終末の冬と呼ばれる『秩序』の崩壊による空間へのダメージや
『秩序』を修復させる際にイデアが行使した莫大な力による影響などを考えるに、もうそろそろ補強と強化を考える時期になっていた。






『万が一にでもコレを実行する際に気が付かれたら……問題が起こります』






「目障りだな。厄介な事になる前に消すか」





口の隙間より漏れた言葉はとても軽い調子だった。賊たちの命など、どうでもいいという意思の表れ。
居場所と根城の位置は既に把握している。
この自分の力に溢れたナバタの地で竜の眼から逃れることなど出来ないのだから。




それに消したとしても、このナバタは不毛の大地。たかが賊が消えたとしても、誰がソレを調べに来る?
よっぽど不審な消え方でもしない限りは、自然現象に飲み込まれたと考えるのが普通だろう。




だが、と。イデアは思考を続ける。害虫と同じように消せども消せども、そういう輩は湧いて来るだろう。
根本的な解決策を練っておく必要があるかもしれない……少なくとも、姉を取り戻したら、絶対に誰にもこの里を侵されないようにする必要がある。
既に幾つか考案があるが、まだそれは技術的にも自分の能力的にも実行は難しい。





「とりあえず、だ。先ずは結界の補強、強化と術式の完成を重視する。賊共への対処は後回しにするが、いいか?」




『はい。そして結界の補強の際には重々ご注意ください、一時的に結界の何処かに小さい穴が空くことも考えられますから……。
 里の住人達に補強の最中は出来るだけ居住区から離れない様に言っておいたほうがよろしいかと』





「判った、実施日を決めた後、立て札を幾つか立てておこう」





とりあえず、物事を整理する。まずは実行に必要な技術の会得と、練習。その後に結界の補強の日程を決めて、里へと通達。
最後に……これが一番難しい作業である具体的な構想や準備作業を行い、計画の見直しをした後に実行、簡単に纏めてしまえばこんなところだろう。





『構想作業と実行時は里の魔道師や火の扱いに長けた竜族の何人かに声を掛けて協力してもらうといいでしょう。さすがにイデア様お一人ではコレを全て実行するのは難しいと思われます』






「協力してくれると思うか? 我ながら突拍子も無い計画だと思うんだが」




『彼らは……時間を持て余しているものがかなり居ますからね。里を賑わせる為だと言えば喜んで食いついてくる者たちもでしょう』





その返答にイデアは思い当たる節があるのか恥ずかしそうに笑った。
決して悪政を行っているつもりはないが……少々里での生活には刺激がないのだ。
毎日毎日同じことを繰り返す生活は安定しているが同時に退屈でもあるのだから。





「所で、お前は紅い炎以外の炎や爆発を出せるか?」





玉座の上で腕を頭の上で組み、リラックスした姿勢でイデアが問いかける。





『出そうと思えば……。蒼、オレンジ、緑、黄……後は赤を含むコレらの色を混ぜあわせて調整しながら色彩を変えていく、というところです』





万の年月を生きた火竜が彼には珍しく楽しむような口調で語る。
恐らく、火という現象に対して最も理解がある竜にとって、炎の色だけを温度や燃焼している物質とは無関係に変えるなど容易いことなのだろう。




「俺にも出来るかな」





『様は魔力のコントロールと術の効果を左右させるイメージの問題です。
 単純な最下級魔法の『ファイアー』の色を変える練習から始めてみるとよいかと……慣れてしまえば、案外簡単ですよ』





イデアが人差し指を立ててその先に炎を灯す。その色は紅。次に人差し指を立ててその先に同じく炎を灯す、ただし色は蒼。
中指、薬指、小指、それが終わったら逆の手の指を順々に立てて点火。その全ての炎の色が違う。
色とりどりの炎を瞳に映しこみ、竜は笑う。





「なるほど」





よしよしと満足気にイデアが頷く。全ての指を拳の形にして握りこんで炎を消すと
彼はこの話はここまでだ、と態度で示し、今日の長としての仕事に取り掛かるべく書類に眼を通し始めた。

























長としてのとりあえずの仕事を終えた後、イデアは殿にあるヤアンの部屋を訪れていた。
時間は昼を過ぎた辺りで、里の中ではそれなりの活気に満ちているが、彼の部屋は外界から切り離されたように静寂に満たされている。
そんな時間が凍りついた様な部屋の中で、テーブルを挟みつつ二人は向き合っていた。




彼はイデアから手渡された書類を何枚か読むと、顔をあげた。





「今日来たのは、コレに私を協力させるためか?」




少なくとも表層からは何も読み取れない声で、火竜ヤアンは言葉を発した。
相変わらずこの男は変わらない、イデアは淡々と言葉を返してくるヤアンにそういう感想を抱く。





「そうだ」




少しばかりヤアンに似せた口調でイデアが返す。一切の無駄を排して、単純な返答のみを。





「判らんな。これをして何の意味がある? 準備に掛かる時間、労力などを考えるに、非効率的だ。それどころか、万が一というデメリットさえもあるではないか」




一定のリズムで、高音低音とリズムの変化なく吐かれる言葉は棒読みの様にも聞こえるし
もしくは感情と言う機構を超越した存在のお告げにも聞こえるが、イデアは既にコレは聞きなれている。
全身の力を抜いて、リラックスした様子でイデアは返した。





「じゃ、断るのか? 俺はそれでも別に構わないが」





一泊の間が空いた。ヤアンが再度紙に眼を移し、そうして顔を上げる。
彼の真っ赤な眼の中にはイデアが映っている。





「私は一度も断るなどと言った覚えはない」





ヤアンが右手の人指し指を少し動かすと、そこから“力”が放出されるのをイデアは見た。
数本の紐の形状をした真紅の力は、部屋に置いてあった物置の扉を開けると、そこから幾つかの物体を持ち上げて取り出す。
持ち出されたのはかつて殿でイデアが遊んだ遊戯盤とその駒。それらが机の上に置かれ、駒が指定の位置へと配置されていく。




娯楽としてヤアンにこのゲームを教えたのはイデアだ。そしてヤアンは今まで一度もイデアに勝ったことは無い。
そういえば、最後に彼とこうして遊んだのはいつになるだろうか。負けるたびにもう一回だ、とせがんでくる火竜を見ると、イデアは肩を竦めそうになる。
全ての駒の用意が整い、ヤアンは無言で白い駒を掴んだ。





「これも非効率的だな」




イデアが皮肉を混ぜた口調で黒い駒を掴んで、手の中で弄くる。
非効率的だというなら、そもそもこういったゲームを持ちかけてくること自体が無駄だろうと含み笑いしながら。




「娯楽を楽しめと言ったのはお前だろう。勝負が終わった後で答えを返そう」




一人で戦う相手が居ないから、相手してくれと素直に言えばいいものを。イデアは辟易しながら言葉を紡ぐ。




「お前が勝つまで勝負を続ける、とかは無しだぞ。俺も忙しいんだ、一回だけしか相手しない」




チッと、ヤアンの心の中で舌打ちが鳴った様な気配をイデアは確かに捉えた。
これは心の舌打ち、とでも名づけるべきか。
だがと、神竜は意識を切り替える。勝負は勝負だ。絶対に負けるつもりはない。





無言で先攻をヤアンに譲り、イデアは手に持っていた駒を所定の位置へと置く。
















思ったよりも時間が掛かってしまった。イデアは里の図書館の通路を歩きながら胸中で溜め息を吐いた。
ヤアンとの対戦は一回だけで終わったのだが……その一回がかなり長引いた。
持ち時間を明確に決めていなかったため、両者の1ターンの時間が長くなり、想像していた数倍は時間を食うはめになったのだ。




いつの間にあいつはあそこまで遊戯版が強くなったのやら、と呆れ半分、驚嘆半分な感傷をイデアは抱く。
勿論、勝負は自分の勝ちで終わらせたが。ヤアンが無言で詰みとなった盤面を何とか出来ないかと見ている顔は面白かった。




そして先ほど、里の魔道師たちに協力を持ちかけて、無事にソレの承諾を得てきたばかりだ。
フレイの言ったとおり、里の魔道士たちは研究熱心ではあるが、娯楽と刺激に飢えていたらしく、その知識を貸してくれとお願いしたら即答で構わないと言われた。
天に炎で華を咲かせる、そう形容した計画を魔道士達に話したところ、やはりというべきか大声で笑われてしまった。




最初、イデアはそれが嘲りの笑みだと思った。
魔術、魔法でそんな下らないことをするのかと聞かれると想像していたイデアに掛けられた言葉は一言「面白そうだ」というモノ。
後はとんとん拍子に話が進み、気がつけば大よその予定や計画の書類作りにまで至ってしまった。





……そこまで、自分は里に娯楽を与えていなかったのだろうか。やはり、熱中できるイベントというのは集団には必要なのか。





「ところで、何でお前は俺の後をつけてくるんだ?」





イデアが少しだけ顔を横に向けて、背後の人物へと声を飛ばす。
先ほど、里の者との会談を終えてから自分の少し後ろを黙ってついてくるヤアンに、イデアは少々うざったさを感じていた。
まぁ、遊戯版で勝った後、返答として協力するという言葉を貰ったのは感謝しているが。





「ただの気まぐれだ。気にすることではない」





返答はそれだけ。簡潔に言葉を飛ばすと、彼はまた黙ってしまう。
視線だけが背中に突き刺さるのを感じて、イデアは溜め息を吐く。



が、直ぐに気を取り直してイデアは振り返って言葉を紡ぐ。




「好きにしろ」





にこやかに、自分でも不思議なほどの満面の笑顔を浮かべて神竜は言う。




「…………」




返答はない。だが眼だけで答えを返すとヤアンは首を左右に動かし、真紅の瞳でイデアと、その奥を見る。
新たにこの場に現れた気配とエーギルの波長はよく知っていた。





「こんにちわ、長。」




ふふふと、感情が読めない笑顔を浮かべて笑う紅い女性、アンナが片手に何かの本を掴み、立っている。
チラリと、イデアの背後のヤアンに眼を向けて会釈をすると、彼女はイデアへ視線を移す。




「何やら、刺激的な行事を行うつもりと聞いたのですが、確かですか?」




まだこの里の中でも一握りの者しか知らない情報を手に入れているというのはさすがといったところか。




「確かだよ。お前も協力してくれるか?」





冗談めかしにイデアが言うと、アンナは笑みを深くして答える。
艶笑と表現する程の色気に満ちた顔で彼女は言葉を紡いだ。





「私の炎は、焼き滅ぼし、砕くためのモノです。どうやっても見世物にはなりませんわ」




そうかい、とイデアが頷く。
彼女の炎をあのアルマーズ入手の際に見たことがあるイデアは無駄な口を挟まないことに決めた。
アレは炎と言う名の破壊現象そのものだ。屈強なガーゴイルを粉々に粉砕する爆砕の華は美しいが……決して見世物には相応しくない。




何よりも彼女自身が嫌だといっているのなら、無理強いする必要は無いだろう。
既に一度、自分の我侭につき合わせているのなら、尚更だ。






「所で、その本は何だ? 随分と分厚いけど」




「これですか? 溜まり場で見つけた面白い本で──」




ひょいっと親指ほどの厚さを持つ本の表紙をイデアへ向ける。
そこには古い文字でこう記されていた。





「“商人アンナの記録”……?」





お前、本になってたのか。視線でそう訴える呆然とした様子の上司に彼女は苦笑して答える。




「私のことではありませんよ。あくまでも物語のタイトルですわ。
 この本に少し、興味が湧いちゃいましてね。偶然とはいえ自分の名前が本の題名になっているなんて面白いことですもの」





触りだけ読んだが、内容もそこそこに面白いらしく、彼女は饒舌に語り始める。
曰く、アンナという名前の女性の商人が商人という立場から物語の中に出てくる勇者や英雄達を見つめる、というものらしい。
しかし面白いのが、このアンナというのは個人の名前ではなく、一族の名前だとか。




物語中の彼女は全て姉妹で、全員同じ顔の商人達が活躍する……という内容の物語。
しかも奇妙な事に、物語のアンナの姿はここの火竜アンナとそれなりに似ているというのだ。
かつての始祖が作り出した魔の眷属にビグルという巨大な眼に触手をはやした存在があり、その魔物は、ヒトデの如く分裂して増殖したらしい。




何故だかは判らないが、頭の中でピグルの様に増えるアンナを想像してしまい、イデアは身震いした。




「……長、何をお考えですか…………?」




ジーっと粘性を帯びた視線を飛ばす部下の女にイデアは目を逸らし、わざとらしく咳払いすると。




「何でもないぞ。あぁ何でもない」




誤魔化すようにそっぽを向いて喋るイデアにアンナは小さく笑った。
今度は先ほどの様な感情が判らない、本音を隠す笑みではなく、本物の愉快な笑み。
親が子をからかう様な口調で彼女は楽し気に話す。






「変な長。まさか、私がビグルみたいに増えるんじゃないか、とか思ってないと言いのですが?」





「ビグルか。確かアレは雌雄同体で、単一で増えることが出来たらしいな」






唐突に今まで沈黙を続けながらイデアとアンナのやり取りを黙って見ていたヤアンを口を開いた。
アンナが意外なモノを見るような、それこそ滅多に見られない珍しい存在を呆然と見る眼でヤアンを見たが、彼は気にすることなく言葉を続けた。





「大きさは大体成人男性と同じ程度の目玉…………丸焼きにすれば、美味かもしれん。いや……焼き加減や使用する調味料にもよって味は変わるのだから──」





目玉焼き、卵で作るそれとは少しばかり違うが、それはそれで悪くない、しかも減れば勝手に増えてくれる、悪くない、と続ける。。
淡々と話を続けるヤアンがここでようやく自分に向けられる2対4つの視線に気がつき、本当に不思議そうに頭を傾げた。





「なんだその眼は?」





「……何でもありませんわ。失礼しますね、長」





くくっと上下に小刻みに揺れる肩……必死に笑いをかみ殺しながらアンナがイデアとヤアンに一礼し、今度こそ足早に去っていく。
彼女の姿が廊下の角を曲がって見えなくなるまで見送った神竜は火竜へと眼を向ける。




「なんだ?」




「俺はこれからメディアンの所へ行くが、お前もついてくるか?」





顔面の表情が引き攣り、妙な表情を浮かべたのを自覚しながらイデアが喋る。
ヤアンは少しばかり考え込むように沈黙すると、図書館、知識の溜まり場に続く道を見つめてから口が動いた。




「私もここで失礼するとしよう。少しばかり、やりたいことが出来たのでな」




火竜の炎を凝縮したような眼がイデアを見据えて、細まった。
イデアが溜め息を吐き、うっと背伸びをしながらその視線を受け流す。




コイツ、まだ遊戯版でボロ負けしたことを根にもってるのか。
この男、自分では絶対に否定するだろうが……相当な負けず嫌いだ、と内心で肩を竦めながら思う。
確か、里の図書館には遊戯版を趣味としてやりこんでいる者が何人か居たはずだし、それをこの男にさっき教えたばかりだ。






「好きにしろ。俺はもう行くよ」




あぁと一言だけ返し、ヤアンが自分とは正反対の方向に歩き出すのを見てから、イデアは歩を進める。
頭の中で巡らせるのは結界の補強に対する考え。音と熱と振動と魔力の波長、その他諸々を完全に遮断する結界を作るのに必要な魔力や日数などを計算していく。





















考え事をしながら歩くと時間はあっという間に過ぎ去っていく、という事をイデアは改めて実感した。
遠くに感じるメディアンの巨大なエーギルの箇所へと歩を進めながら歩きつつも
気晴らしに周囲の景色を眺めつつ、結界に関する詳細をまとめていたら、あっという間についてしまったのだ。




里の外れ、この里を覆う様に広がる巨大なオアシスのとある一帯にイデアは居た。
周囲の木はよく見れば様々な果実の実をつけており、ここら辺の空気は香水を少しだけばら撒いた様に甘い。
木々が太陽の強烈な光りを温和してくれるこの場所は、メディアンとソルトの鍛錬場の一つ。






そこに彼女の存在を感じる事が出来たということは……何をしているかは考えるまでもない。
故にイデアは気配を消し、物陰に隠れながら状況を窺っていた。母子の大切な一時に水を差す気にはなれなかった。





……後、単純に一つ好奇の念があった、ソルトがメディアンと鍛錬を行っているのは知っているが、ソレを直に見たことはあんまりなかったから。
ソルトの努力と強い意思が前提としてあったとはいえ、たった一人の少年をあの歳で神将テュルバンの片腕を奪い取るまでに成長させた稽古というのは興味深い。
既に四半時近い時間、メディアンとソルトはイデアの眼前で“舞って”いる。ソルトが握っているのは木刀でも枝でもない真剣。
あの戦いに使用したルーンソードではなく、ただの鋼の剣だが、彼はソレを手足の一部の様に巧妙に扱い、母に攻撃を仕掛けていた。




リズムよく放たれる攻撃を地竜はたった一本の剣で作業をするように軽々と弾き
隙さえあれば剣を手首だけで器用に動かし、最小限の動きで息子を翻弄するように攻撃を加えていく。




両者共、本気の戦い。殺気さえも漂う勢いで武器を振り、相手に攻撃を叩き込む。
だが、その根底にあるのは信頼だ。貴方は、お前は、この程度では死ぬわけないだろうという一種の戦友に向けるモノと同質の信頼。




鋼の剣の刃が光を反射しながら地竜の首を刈り取ろうと踊る、ソレをメディアンは素手の甲で受け止めるべく、動かす。
普通の人間ならば骨が砕け、肉が両断されてもおかしくないはずの攻撃だが……竜の人としての腕は少しばかりの変化を遂げ……。
フルプレートの鎧を金槌でたたいた時に発せられるような、金属音が叫び声をあげる。



少年の眼が一瞬だけ見開かれ、そして次には満足気な笑みを湛えた。自分は、彼女に竜としての力を使わせるまでに至ったという喜びと共に。




彼女の手は……人としての5指の形を保ってこそいたが、その様は人のソレとは全く違う。
肌の色と質感は紅い筋が幾重にも走るドス黒い黒曜石の如く変貌しており、正に金属の如き硬質な異形へと“帰化”していた。
鋼の剣の刀身に皹が入り、ボロボロと崩れていく。自分よりも堅い存在に思いっきり叩きつけられたのだから、当然の結果だ。





武器を失ったソルトが後ろに飛びのこうとしたが……それよりも速くメディアンは動いた。
風を引き裂く音と共に、蹴りがソルトの腹部に炸裂する。ズンっという重音が靴底までを揺らし、少年の体が投石器から発せられた岩のように吹っ飛ぶ。



若草が生え茂る柔らかい場所に落とされた少年はゴロゴロと何度もわざと回転しながら蹴りの勢いを殺し……。





「~~~!!」




咄嗟に立ち上がろうとして、腹部に走った激痛に悶える。
腹部を押さえたまま、その場にしゃがみ込んでしまうのを見れば、どれほどの力で蹴り飛ばされたか大体の想像はつくだろう。


それを認めたメディアンから、全ての敵意が消え失せる。
無言で彼女が人差し指をソルトに向けると【ライヴ】を発動させ、息子の呼吸が落ち着いたのを見計らってから声を掛けた。







「今日はここまでにしようか。まだ腹は痛いだろう? 下手に動かして悪化しちゃいけないからね。……それに、どうやら長も来ているみたいだし」





迷いなく木の陰に隠れていた自分へと視線を向けて、声を掛けてくるメディアンにイデアは驚きはしなかった。
彼女ならそれぐらい普通に出来ると思っていたから。
稽古が終わったのを確信したイデアは物陰から堂々と二人の前に姿を現す。




「いつから気がついた?」





ブラブラと黒曜石の手を揺らしながら彼女は答えた。
竜石が一度輝くと彼女の腕に電流が迸り、人化の術が行使される。
一瞬にして
黒い炭化したような風貌の腕が元の白い肌の健康的な腕に変わっていく。






「来てちょっとしてから、かな……エーギルの気配は消せてたけど、呼吸音と心音、体から出てる熱で判ったよ。
 ……もっとも、あたしは息子との戦いにかなり意識を裂いてたから、何時もより気がつくのがかなり遅れちゃったけど」




戦いの時は眼の前だけじゃなくて、周りにも警戒を張り巡らせないといけないからね、と彼女は続ける。
事実、戦場などでは何時、どこから攻撃が飛んでくるのかわからないのを考えるに、彼女の言っていることは正しいのだろう。





「なるほど」




そこまで考えなければ駄目か、と一人ごちる。心音、呼吸音、全身の熱にも今度からは気を使ってみようと決断しつつ、イデアはここに来た目的を話す。





「今日は開催しようと思っている行事関連で来たのだけど……少し休んでからの方がいいな」





見ればメディアンは全身にビッシリと汗をかいていた。息こそ乱さないが、全身からは湯気の様に熱を放出している。
当たり前だ。かなりの間、精神を尖らせて殺すつもりだが絶対に殺さない様に加減しながら戦いを行っていたのだから。
叩き潰すのは簡単だが、しっかりと相手を育てるための戦いにするというのはかなり難しく、体力と精神力を削るものなのだ。





「少しあたしも休んでからゆっくりと話をしたいね。ちょっと待ってておくれ。今、少し周りから幾つか美味しそうな果物を見繕ってくるよ」





そういうと彼女は一礼し、早歩きで立ち去る。残されたイデアとソルトは顔を見合わせた。
よっこらせ、とソルトが立ち上がるとふらふらした足取りで歩き出し、近くにあった腰ぐらいまである岩へと腰掛ける。
誰に言われるまでもなく、イデアがその隣へと腰を降ろした。




イデアが“眼”を使って彼の腹部を観察すると、青い痣が出来ているのが見える。
それでも彼女は加減はしたのだろう。全力で蹴っていたら、恐らく腹に穴が空いているはずだ。




「稽古は毎日やってるのか?」




「いや、今やってたみたいなのは1日やったら1日の休憩時間を挟んでやってます。母さん曰く、体を壊しちゃったら元も子もないとか」




そうか、と頷く。
服を捲って腹部を確認したソルトが溜め息を吐いた。大きな青痣が鍛えられた腹筋にしっかりと刻まれている。






「受け流せたと思ったんだけどなぁ……まだちょっと痛いなぁ」




「一回の【ライヴ】じゃ治りきれてなかったか? なんなら俺がもう一回かけてもいいけど」




ぴんと立てた人差し指に【ライヴ】の光を灯しながらイデアが言う。術が発動を完了する前に少年は手でそれを制した。





「お気持ちだけ受け取っておきます。この傷も僕が生きている証みたいなモノですから……自分の力で後は治します」






無言でイデアが【ライヴ】を消すと、横目でソルトを見やる。
この里に来たばかりの時は母親の後ろに隠れていた幼子が、ここまで大きくなるとは。
15歳になった彼の体は鍛え上げられており、細身ながらも引き締まった筋肉で全身は覆われている。
獅子や虎のようにしなやかなその体は無駄というモノが一切合財そぎ落とされているのだ。



夢がある、そう答えた少年は着実に夢に向って努力を続けている。その結果が今の彼の体だ。



まぁ、服を着れば年頃の子供と一切変わらない体形に見えるだろうが。
後はここから青年になり、中年、壮年、老年と変わっていくのだろう。




ふと、唐突に頭の中に浮かんだ言葉をイデアは口にした。本当に、何の前触れもなく浮かんだ言葉を。






「なぁ、お前、長生きしたくないか?」





「? そりゃ、長生きはしたいですよ」





違う、そういう意味じゃなく、とイデアは頭を振った。





「人間という種よりもずっと、それこそ竜と一緒に生きられる程に長生きしたいかって意味さ。正直な話……やろうと思えば出来なくないぞ」





一瞬だけ間が空いた。
そして彼は答えた。





「結構ですよ。僕には必要ありません」






即答。何の迷いもなく返された言葉に、イデアは一瞬だけ完全にぽかんとした表情を浮かべてしまった。
次に腹の底から膨れ上がってくるのは、猛烈な笑い。思わずイデアは肩を震わせ、小さく噛み締めるように笑う。
いや、半分冗談、半分ほど本気で誘ったというのに、ここまで見事に断られると笑いしか出てこない。



不老不死。
不老に限定したとしても、戦争を起こしてでも欲する者など腐る程いるだろうというのに、眼前のただの少年はそれを一言でばっさりと切り捨てた。





「そうかい、じゃ、質問を変えるけど、お前は欲しいモノとかはあるのか?」




足を伸ばして、ぶらぶらさせながらイデアは言う。
こいつにそういう物欲はあるのかね、などと思いながら。



数瞬の空白を置いてから、彼は答えた。恥ずかしそうに眼を背けながら、妙に熱が篭もった声で。





「欲しいものなら、ありますよ……ただ、秘密ですけど」





満面の笑顔で断言する少年にイデアは溜め息を吐いた。
ふと、顔を上げてみれば、もうすぐそこまで地竜の気配が近づいているのを感じる。
どうやらソルトもそのことを察したらしく、呆然と母親の気配を何となく感じる場所に視線を送りはじめた。




「とりあえず周りにあった食べごろの果物を取ってきたよ。皿も持って来たから、食べようか」




3枚の小皿とバスケットいっぱいの色とりどりの果物を手に、メディアンは戻ってくる。
バナナに、桃、葡萄、リンゴ、椰子の実、季節感など無視している様々な果物から立ち込める芳香な気配が場を染める。




ふぅと息を吐いて岩の上にバスケットを乗せて十歩ほど岩から離れると、後ろで結んでいた髪を解いて下ろす。
音もなく彼女の固定されていた栗色の長髪が地面に引かれて落ちていく。
髪の毛をストレートに戻すと、メディアンは懐から取り出した木製の櫛で梳きはじめた。



抵抗なく櫛が髪の毛の間を流れていく。
先端までサラサラと流れ落ちていく毛は見ているだけで一本一本が柔らかく、艶があるのが判る。
イデアが物珍しそうに彼女を眺めていると、それに気がついた地竜は苦笑しながら言った。





「珍しいかい? ちょっと頭皮が痛くなってきたからさ、少しだけ見苦しい光景を見せてしまうね」





すぐに元に戻すからさと続ける彼女にイデアは間髪いれずに言う。




「いや、俺はそんなことは気にしないよ……頭が痛いんだったら、何なら今日はずっとその髪型でいたらどうだ?」




「あたしはあんまりこういうのは似合わないよ」




乾いた笑いを浮かべて彼女がまた髪の毛を先ほどの様に後ろで固定するべく手を動かし始める。
紐を巧みに扱って手馴れた感じで髪の毛を弄ろうとした彼女に息子の視線が突き刺さる。
何だと手を止めてソルトを見たメディアンに無言の抗議が送り届けられた。




真実、その瞬間彼女と少年は目だけで会話をしたのだ。
イデアでさえも気がつかない、一瞬を更に十分割した程の刹那の会話。





一瞬、メディアンは固まるが直ぐに髪を弄ろうとしていた手を降ろす。






「………………まぁ、今日ぐらいは…………気分転換するのも悪くないかな」






不承不承に何とか言葉を腹から搾り出した地竜は息を吐くと、紐を懐にしまう。
体が先ほどよりも少しだけ、不自然に熱かった。彼女の竜としての尖耳が僅かにだが、上下にピクピク、犬の尻尾の様に動いた。





いきなり彼女が意見を変えた事にイデアは頭を傾げるが
すぐに気を取り直して果物を手に取り、それをかつてアルにやってあげたのと同じ様に極小規模の【エイルカリバー】で切り分けて小皿の上に乗せていく。
まぁ、とりあえずいいか。イデアは内心肩を竦める。




切り分けたリンゴを一つ、口の中に放り込む。適度な硬さがあり、甘みも利いていて美味い。
アクレイアで食べたアレよりも数段に美味しい。
やはり地竜が作ったというだけあって、何処をどうすれば作物が美味くなり、なおかつ豊作になるのか彼女は判りきっている。




チラリとイデアがメディアンを盗み見て考える。髪を下ろすとかなり印象が変わるな、と。
何処となくエイナールを感じさせる気配を今の彼女は纏っている。結婚前の母としての貫禄が出てくる以前の彼女に何故かそっくりだと思った。
うん? 首を傾げる。メディアンはもう母親だというのに、何故結婚前のエイナールを想起したのだろうか。
普通なら、子を産んだ後のエイナールと同一視してもおかしくないというのに。





リンゴをもう一つ口に含み、咀嚼する。甘みを楽しみながらイデアは少しだけ考えた。
ソルトは欲しいものが確かにあると言った、ならばそれは何なのだろうかと。
きっと、自分ではどう足掻いても彼に渡すことは出来ないもの、という所までは予想できるが。





結局幾ら考えても自分では答えは出そうにない事をイデアは察すると、二人で並んで座って談笑を始める親子を眺め続けていた。





まぁ、たまにはこんな風に骨休みを挟むのは悪くないと彼は思った。








あとがき





やはり今回の章は難産だとつくづく思ってます。
当初の筋道からは大分離れたとしても、それは道が違うだけで、行き着く結末は一つと決めているのですが、中々そこまでいかせるのが難しいです。
今回の章をしっかりしないと、後の展開やキャラの行動にちょっとした違和感が産まれたりするかもしれないので、じっくり書いていきます。





それはそうと覚醒のDLC第二弾が始まりましたね。
速く絶望の未来編をプレイしたいです。
どうぶつの森といい、ルイージマンション、スマブラ、そして新ハードといい今年の任天堂は本気過ぎる。







[6434] とある竜のお話 第二部 六章 3 (実質14章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2012/11/02 23:23

注意 今回の話にも少しばかりグロテスクな表現があります。お気をつけ下さい。




屋内に咳が木霊する。激しくむせ返り、息を何度も吐き出すのはこの部屋の主であるソルトだ。
体が不自然に熱いのに、背筋は寒気を覚えており、心臓の鼓動が早くて煩い。
平行感覚がおかしくなっているのか、横になっていれば楽なのだが、立ち上がると世界がぐにゃぐにゃに歪んで見える。



足元の床が崩れ落ちていくような浮遊感は、嘔吐を誘発させかねない程に不快感を抱かせる。
はぁっと何時もよりも数段湿気の篭もった溜め息を漏らすと、喉がひりひりと痛んだ。
最初の頃は鼻水のせいで呼吸さえも満足に出来なかったことを考えると、今はまだマシな方だ。




部屋の扉が開く音を何処か遠くでの出来事の様に感じながら、彼は頭を左右に小さく揺すった。
聞きなれた足音と共に母親が入ってくるのを呆然と見やる。



手には湯気を立てている桶と、濡れた布を持って、彼女は息子へと近づく。
未だに力が入らない全身を何とか気力で動かそうとして、不意に彼は自分の体が温かい光に包まれているのに気がついた。
体を労わるように包み込む力の色は、赤黒い光……色だけを見れば禍々しいイメージを抱くが、それは間違いだ。






家族の力を恐れるなど馬鹿馬鹿しい。

ソルトが全身の力を抜いて全身に纏わりつく“力”に身を任せると、

その力はゆっくりと彼の上半身を起き上がらせてから、彼の上半身の服をゆっくりと剥ぎ取っていく。
多量の汗に塗れたソレが部屋の隅にあった篭の中に落ちると、次はソルトの全身が宙へと浮き上がる。




ちょうど成人男性一人分程度の高さまで持ち上げると、ベッドのシーツが勢いよく一人手に引き抜かれ、新しいシーツが“力”によって布かれていく。
他にも枕などが次から次へと移動し、あっという間にベッドメイキングは終了。気がつけばソルトは、汗の匂いなど全くしない、真新しいベッドの上に横になっていた。
眼を動かして、母を見るとメディアンは微笑を返す。





「気分はどうだい? まずは体を拭いて、着替えようか。その後に飲む薬とかも持って来たよ」





病など絶対に掛からない存在である地竜が軽い足取りで息子の横まで歩いていくと、彼女はその手に持った湯で湿った布でソルトの体を適度な力を込めて拭いて行く。





「い、いいよ。自分で拭くからさ……」





恥ずかし気に布に手を伸ばそうとする彼の手を、メディアンはやんわりと、しかし抵抗を許さない程に強い意思を込めて掴んだ。
地竜の真紅の鮮やかな瞳が燃えるように輝く。




「真っ直ぐ歩く事も出来ない病人が何を言ってるんだい?」




有無を言わせない。いいから黙って看病ぐらい受け入れろと視線で伝えると、息子は諦めたのか脱力して、眼を閉じる。
せっせとその体を拭いていく。半刻の半分にも及ばない時間で上半身の全てが拭き終わり、それに次いで乾拭きも終わる。
新しい上着を手際よく着せ替えると、メディアンは一つ息を漏らす。




「下はどうする? 拭いてあげようか?」




「いやだ! 絶対に、駄目! やめてぇ!!!」




熱のせいか、真っ赤な顔をしながら呂律の回らない舌で必死に叫ぶ息子を見て彼女は肩を竦めた。
微かな光を灯す右腕の一指し指を、息子の前に翳す。発動される魔法が何なのかを朧に理解したソルトの顔が引き攣った。
以心伝心、魔法のことなど何も知らない彼だが、こういうときにメディアンがどういう術を使うかは彼が一番よく判っている。




【スリープ】





魔法の発動と同時にソルトの掠れた悲鳴があがった。


















「仕方がないじゃないか……全身をしっかりと拭かないといけないんだから、ほら、果物とかも持って来たんだから、食べて元気だしなよ!」






無言で自分に背を向けて横になる息子にメディアンは弱弱しい笑顔を浮かべて、ソルトの機嫌を取るように言った。
手に持ったリンゴを勧めるが、ソルトは涙眼でソレを一瞥し、また顔をぷいっと逸らしてしまう。
効果を限界にも絞って発動されたスリープは半刻の4分の1にも満たない時間でその効力を失い、彼は眼を覚ましたのだが……。



目覚めたソルトはまず最初に自分の下半身の衣服が全て着替えさせられた事を確かめてから、一気に泣きそうな顔になり、そのままずっとこの調子だ。
メディアンが何を言っても無視し、そのまま眼を合わせてくれない。





困ったと地竜は小さく肩を落とす。
まだ体を拭いただけなのに、やることはたくさん残っている。
ここは少しばかり強引に行くべきだろう、そう決断した彼女は即座に動いた。





“力”を使わず、自分の手でソルトの肩を掴むとそのまま引き込むように動かし、彼の体を仰向けにさせる。
病気のために判断能力がおちていて、自分が何をされているかまだ飲み込めていないソルトが眼を白黒させるが、メディアンは気にしない。




「な、なに……?」




熱のせいでリンゴを想起させるほどに真っ赤な顔をしたソルトが視界を埋める。
髪の毛をかき上げて、竜特有の尖った耳を露出させると息子の胸へと押し当てる。
リズムよく打ち寄せる鼓動の音と振動を感じながら、彼女は言った。





「何回か、大きく息を吸ったり吐いたりしてごらん」





母の声に含まれているモノを感じ取ったソルトは、大人しく従う。
現状で出来る限り胸と腹を動かして、何回も息を吸って吐く。
呼吸する度に喉から枯れた音が鳴るのがなんとも不愉快だと彼は感じた。





あぁ、これは少し胸がやられてるね。喉の方にも爛れがある。
呼吸するたびに爛れた胸の内側から発せられる“軋み”を敏感に聞き取ったメディアンはそう判断する。
人間が呼吸するのに使用している臓器は胸の内側にあり
その器官は無数の小さな袋が寄り集まり、一つの巨大な袋の姿を取っているということまで竜族は解析していた。





人間はよくこの部分に炎症を発生させることも知っている。
それが下手を打てば死に直結する病だということも。





竜族の知識を頭から引っ張り出しながら冷静に彼女は対処する。
まずは体力が肝心だ。病に対抗するために何よりも大切なのが体力なのだから。
顔を上げて、息子の顔を見る。真っ赤な顔で自分を見ている息子を。



ぜぇぜぇと息を苦し気に吐く息子を見て、メディアンは思った。




死なせるものか、絶対に。今更決意するまでもない当たり前の事を彼女は改めて確認すると。
胸に右手の人差し指を当てる。体内に直接【ライヴ】を発動させ、ソルトの炎症を起こした胸の内側を癒していく。
指先から伝わる感触が全てを告げている、体内の血液の流れ、エーギルの流れ、呼吸の流れ、体液の循環……それら全てを総合すると、彼女は人の内側を“見る”ことが出来る。





数瞬の間【ライヴ】を発動させて、あらかた息子の胸と喉の爛れが解消されたのを確認したメディアンは少しだけ脱力した。
とりあえず、これで一安心だと彼女は確信したのだ。
ほんの少しの時間で呼吸がかなり楽になったソルトは今まで満足に出来なかった呼吸を、水を飲むように堪能し、大きく胸と腹を動かす。






「かなり楽になった……何したの?」





「胸の内側と喉にある傷を治したんだ。とりあえず、そこを治しておけば命に関わる危険性は一気に下がるからね」





まぁ、だからといって油断しちゃ駄目だよ。
そう続けながらメディアンは何処から取り出したのか一つの湯で満ちた杯と、薄い紙の上に積もった粉末を取り出す。





「この粉は薬だよ。これを何日かお湯で飲み続ければ、治る。でも、体が楽になったからって、直ぐに外に出るのは禁止だけど」





完全に治るのには時間が掛かるのさ、そう伝えると息子は無言で判ったと頷く。
ソルトに杯と薬を差し出すと、彼がそれを飲み干す。途端に顔を薬の苦さによって歪める息子を見て、彼女は薄く笑った。





「後はもう寝ているだけさ。ゆっくりと休みな」




洗濯する予定のベッドのシーツと汗が染みた衣服が入った篭をもってメディアンが立ち去ろうとして……手を捕まれた。
ここで始めてメディアンはその顔に驚愕を浮かべて息子を見る。ソルトが掴んだ腕を放し、そのまま指をメディアンが持って来た果物にむける。





「食べさせて……駄目?」





赤い顔で、弱った調子に言葉を紡ぐ息子に少しばかり彼女は見惚れてしまった。
半秒ほど硬直した後に、彼女は何とか動き出しす。異常なまでに活力が体の底から湧いて来る。





「…………あ? あぁ、悪かったよ。そうだそうだ、しっかりと食べないと」




木製のバケットの中に入っている果物を取り出し、持って来たナイフで切ろうとして彼女はまたもや固まった。
幾つか果物を無造作に入れたのだが……いつの間に紛れ込んだのやら、普通のリンゴの倍以上はある黄金色のリンゴがそこにはあった。
ガタガタと食べられることに恐怖して震えているのか、小さく振動しているソレの隣にはよく研がれたナイフ。




中の小人は露出こそしていないが、視線を此方に送っているのが彼女にははっきりとわかった。
これ、やっぱり食べるのには向いてないね。地竜は小さく胸中で呟くとリンゴを優しく撫でてやった。




──お前は食べないよ。その代わり、息子の看病を頼む。




意思を込めたエーギルを送ってやると、リンゴの震えが止まり、内部からくぐもった鼻歌が聞こえてくる。
ゆらゆら左右に揺れているのを見るに、かなり上機嫌なのが窺えた。






そうして幾つか果物を切って食べさせてやると、何時の間にかソルトは眠りについており、ぐったりと動かない。





満腹になり、薬を飲んだ結果、体が休眠を求めたのだろう。
規則正しい寝息を吐く息子を見ながらメディアンはもう一度だけ、彼の胸へと耳を当てる。
鋭敏な感覚によって彼女は息子の体内を流れる血液の流れや、心臓の鼓動、筋肉に僅かに走る電流さえも読み取れた。





鼓動を聞いていると判る、エーギルの光、命の灯火。それは彼女にとっての炎の紋章だ。
だが、この炎はいずれ消える。死なない人間がいないように、絶対に。
しかし、だ。病になど絶対にくれてやるものか、この炎だけは絶対に渡さない。





念入りに胸の内側に炎症がないのを確認。
言葉では言い表せない微妙な気持ちに自分が陥るのを感じたメディアンが起き上がる。





「それじゃ、ソルトを頼んだよ」





息子の枕元に転がるリンゴに一声かけてから、彼女は部屋を後にする。
心の奥底にしっかりと息子の姿を焼き付けた彼女は意識を切り替えた。



この後に長と重要な話がある。




















玉座の間にいつもの様にイデアは待っていた。
水晶を切り取ったような青白く透き通った石作りの玉座に腰を降ろした神竜はやってきたメディアンをこれまたいつもの様に歓迎する。
玉座の正面にある謁見者用のスペースで彼女は立ち止まり、そのまま頭を下げた。




「結界の補強と拡大、隠蔽術の展開、そしてその確認と微修正、全ての結界に関する仕事は完了しました」




朗々と自らが完了した仕事を伝え、彼女は沈黙する。
玉座のイデアがふぅと一息吐いたのを察して、彼女は長を見た。






「ご苦労だった。結界の件は何の問題もなく終わったようで何よりだよ……正直な話、少しだけハラハラしてた」






「……絶対に失敗なんかしませんよ。ここはあたし達の最後の居場所ですから、絶対に誰にも奪わせません」






無機質に答えるメディアンの眼を見て、イデアは頷く。
ここは誰にも渡さない。そのためのモルフ研究、そのための力の獲得なのだから。
姉と自分の家を誰にも侵されないための力が、それゆえに必要なのだ。





「さて、ここにお前を呼んだ最大の理由なんだが……お前は“アレ”についてどう思う?」




アレ、それが何を指しているのか理解しているメディアンは小さく俯き、考えを纏めてから口を開いた。
ローブの中の手がぎゅっと握り締められ、全身が強張る。





「かつてのテュルバン、アルマーズが撒き散らしていた波動に比べれば余りにもちっぽけだけど……あの“匂い”が気に入りません」




意図的に家族の前では隠していた、嫌悪に歪んだ表情。



遥か遠方からここまで漂ってくる気配は彼女も嗅ぎなれた匂い、腐肉の匂い、振りまかれる鮮血の香り。
しかもそれは、男や戦士のではなく、女や子供、老人といった弱者のソレ。
ただの賊にしては少々、血と魔道の匂いが強すぎる。



イデアとしてはテュルバンという極大の例外を見てしまったが故に、血と腐肉の匂いに嫌悪こそ感じるが、そこまでの脅威は感じていないが。




「早いうちに駆除すべきだと思います。絶対にアレは碌な物じゃないかと……アレの周囲の村々のエーギルの気配が凄い速さで消えていっている事を考えるに、油断なりません」






「だろうな」





さて、とイデアが続ける。誰が行くべきかと。
何があるか判らない以上、それなりの実力があり、咄嗟の事態に対応できて、様々な応用の利く魔道を収めた者が適任だろうと。
かなりの確率……いや、確実に戦闘が発生するのが見えているのだから、信頼できる強さを持った存在が必要だ。




俺が行くべきか、そうイデアの脳裏を考えがよぎった瞬間、彼の眼前の地竜は口を開いた。
見計らったようなタイミングで、淡々と彼女は言葉を紡いでいく。




「あたしが行きます。お一人ほど、念のため同伴を連れて行ってもいいでしょうか?」





言葉そのものは普通なのに、何処までも冷たい。普段の彼女とも、仕事中の彼女とも違う、凍りつくような低い感情を隠しきれていない声。
メディアン自身、自分が本当にこんな声を出しているのかと疑ってしまうほどに凍結した声だ。
腹の虫の居所が悪い。あの匂いの中に子供のソレが混ざっていると確信した瞬間から、どうしようもない。





しかも質が悪いことに、村人と思われる者達のエーギルが消えるたびに、アレから感じる歪な波動がどんどん増えているのだ。
この現実が何を意味しているかは……大体の想像が出来る。





「判った。では、アンナをお前に宛がうとしよう」




イデアが彼女の名前を出したその瞬間、既にこの場にアンナは現れていた。
最初からここに居たような気楽さでカツカツとメディアンの背後から歩いてきて、そのままイデアへと頭を下げる。
彼女が転移の術を使って後方へと現れるのも、少し離れた場所から術を使って自分たちの会話を聞いていたのも察知していたメディアンは慌てず、平然とした様子でアンナを見た。





「心強いね。あんたなら信頼できるよ」




「ご冗談を。私の力なんて、貴女に比べれば微々たるものですわ」





快活に笑いかける地竜に火竜は浮遊するような微笑で返す。
その様子を見ながら、イデアは彼女そっくりに無感動に言葉を発した。






「詳細は後で……そうだな、今日の夕方までには連絡する。それまで二人は諸々の準備を進めておいてくれ」






はい、と異口同音の返事を受け止めて、イデアは解散の意を二人に伝える。
玉座の間から退室するとき、メディアンが思ったのは息子に自分が人を殺すことになるだろう、この仕事をどうやって伝えるか、だった。















「と、まぁ。そういうわけだから、今夜のご飯は作り置きにするよ。鍋に火を通せば直ぐに食べられるはずさ」




火種は残しておくと続けながら彼女は手早く準備を進めていく。



動きやすい軽装に黒いマントとローブで身を固めた地竜はベッドの上に横たわっている息子へと向けて声を掛ける。
髪の毛をしっかりと後ろで結び直し、手ごろな槍を一本持つと、それに力を注入していく。
力を注入した瞬間、ただの鋼の槍に過ぎなかった槍は、不気味に赤黒く光を放ち、表面が沸騰する溶岩の如く粟立ち始める。



溶岩を塗り固めた様な槍、人間ではまず持つことさえ出来ない煉獄の魔槍を彼女は背負う。
出来栄えに満足したのか、地竜は数回頷くと、鼻歌交じりに準備を進めていく。




念の為、竜石を全体を半分に割って、2つの内の一つを体内に口から体内に送る。これで竜石を奪われたり、なくした場合でも安心だ。
もう片方はいつもの様に術で幾重にも防御を施し、懐に仕舞っておく。全てが終わったら、体内の石は一度エーギルに戻してから、外部へと放出し、固形化させればよい。
彼女の息子はと言うと、先ほどの彼女の治療の効果があったのか、大分顔の色も健康的になり、今では家の中を少しだけ歩けるまでになっていた。




だが、やはりまだ体調は万全とは言えないらしく、ベッドの上へ身を預けている。
上半身だけを起こし、自分の話をしっかりと噛み砕いている彼を見て、彼女は少しだけ肩を竦めた。
一応、自分が今夜留守にする事とその理由を話したのだが、どうにも反応がおかしい。





正直な話、色々とぼかして伝えたのだ。どうしてそうなったのかは彼女には判らなかった。
賊を殺す、ではなく討伐するといいまわしたり、やっつけると言ったり、極力【死】という言葉を連想する単語は避けて説明した。
後はさっさと仕事を片付けて終わらせればいいだけの話のはず。



何故かは知らないが、息子に自分が人を殺すと伝えることに彼女は躊躇いを覚えていたのだ。




「…………」





無言でソルトが手招きをする。
凄く軽い雰囲気で、取りとめのない会話を誰にも聞かれたくない人間がやるような空気と共に。
疑問に思いながら彼女は息子へと近づいていき、ベッドの隣で膝を付いて頭を近づける。




瞬間、ソルトは彼女の頭を抱きこんだ。そのままクシャクシャと髪を撫で回し始める。
余りの事態に頭が停止した彼女だが……瞬時に我に変えると思わず素っ頓狂な声が口から飛び出そうになるが、何とか必死に押さえ込む。
訳が判らない、全くもって理解が出来ない。




「───な………………!」




抵抗する、という選択肢はそもそも浮かびさえしなかった。その気になれば脱出など簡単なのに。
思えば、息子を抱きしめたことは多々あれど、その逆は今までになかった。
意外と悪い気分にはならないと彼女は思いながらも、どうしても恥ずかしいという感情が捨てきれない。



さわさわと頭部を弄くる掌の熱が、心地よかった。



メディアンにとっては心地よささえも感じる手の感触が突如頭部からなくなり、彼女は思わず息子の顔を見やる。
ソルトの、彼の顔は何処まで真剣で、矢の様にその視線が竜へと突き刺さった。



「いってらっしゃい」





胸中で溜め息を吐く。どうにもこの頃は、息子に色々と振り回されている気がしてならない。




「それじゃ……」





行って来る、そう伝えようとした瞬間、息子ではない第三者の視線を感じてメディアンをその方向を見て……見つけた。
あの黄金リンゴ型のモルフが、物陰から此方をじーっと眺めている。ご丁寧に置物の陰に隠れて、体の半分だけを此方に露出させながら。
まるで秘密の密会を見た家政婦の如き雰囲気で、リンゴは内部の小人を露出し、彼女と息子のふれあいを見ていたのだ。





「………………」




「………………」





地竜の視線と自らの視線が交差した事を自覚したリンゴは上半分に埋まっていた片腕を力技で引き抜くと、そのままひらひらと振るう。
「あ、どうぞ、続けてください」と言わんばかりに。
メディアンがわざとらしく咳払いをすると、力を使ってリンゴを持ち上げ、息子の膝の上にそっと降ろす。



息子の頭や首を冷やす布の取り替え、新鮮な冷水の調達、様々な面で今回助けてくれたこのモルフに彼女は感謝していた。
だが、それとこれは別だ。





「盗み見なんて、趣味が悪いね……コレは少しばかりお仕置きが必要かな?」





笑いながらリンゴを指で何度も突っつきまわし、悲鳴を上げさせつつ、今度こそ彼女は息子の顔を真正面からはっきりと見て言った。





「いってくるよ」

























予定の時間よりも少しだけ速く、アンナとメディアンは里の外周へと出ていた。
既に日は傾き始めており、砂漠は熱砂の地獄から、極寒の地獄へと変わりつつある時間帯。
二人に手渡されている数枚の紙には今回行う仕事の概要と、詳しい内容、その他諸々が書かれており、二人はその内容を確認している最中だった。



今回赴くのは、ミスルの西南、カフチ地方に近い場所だ。
賊たちはそこにある小さなオアシスに建てられた砦の廃墟を根城にしているらしい。
その砦というのは、戦役が始まるよりも遥か以前から存在しており、まだ里が出来るよりも昔に人々が砂漠の開拓を夢見た跡地のようなものだ。
長らく放置されており、幾ら砂漠の劣化を対策されている砦とはいえ崩れていてもおかしくないのだが……。




今は西方三島の開拓も進んでおり、砂漠を横断せずに島から船でカフチへと移り住む者達も多い。
賊はどうやらそうやって移り住むものを標的にしていると推測される。



念のため、イデアから渡された神竜の竜石の欠片を懐に仕舞うと、彼女は頭を傾けた。




「妙だね」




メディアンは思わず声に出していた。それは独り言に近いモノだったが、どうやら隣のアンナにも聞こえていたらしく返事が返ってくる。




「……そうですわね。何かが引っかかります」




同意の声に地竜は頷いた。賊達の居場所はわかっている。
イデアの神竜としての力が満ちているナバタで、しかも地竜である彼女が気配を読めないはずがない。



だが、妙に何かが引っかかった。




ナバタで賊……確かにここで賊をすれば国家にも眼を付けられないだろう。
不毛の砂漠にわざわざリスクをおかして軍を派遣して賊を討伐する余裕など貴族や王族にはないはず。
長年の経験で、メディアンはそういった人種はほとんどが自らの利益になることしかしない事を知っている。
その短絡的思考が自分たちの首を絞めていることを理解している人間がほとんどいないことも。




話を戻そう。




ならば、何故南方なのだろうか。西方の開拓者から更に飛来してきたモノを狙うとしてもそれでは余りにも実入りが少ないではないか?
幾らオアシスとはいえ、食料の入手の難しさや、砂漠の砂嵐、蟲害、温度、ありとあらゆる環境が敵になるそんなところで賊?
エトルリアの領土に比較的に近い北方ならば、商人たちを襲いながら、砂漠へと逃走の繰り返しで国家をかく乱することも出来るのに。




自分が賊だったら、こんな所じゃ絶対にしない、そう思いながら思考を巡らせていく。




ある程度頭を程よく回転させてから彼女はフードを深く被った。
チリチリと昼の熱によって暖められた砂がローブを撫でていく。
判らない、ならば今は自分がやるべきことを考えよう。決断するとメディアンは横目でアンナを見やった。




どうやら彼女も同じ結論に達したらしく、此方を澄み切った紅い眼で見返してくる。
頷き合うと、二人同時に紙を焼却し、灰へと変える。足元に転移の術による円形の魔法陣が展開され、ゆっくりと回転を始めた。



最後に、もしも誰か人間と遭遇した場合を考えて人化の術を弄くる。
長く尖った耳を普通の人間と同じような丸みを帯びた耳へと変更。



一瞬、閃光が膨らみ、二柱の竜を飲み込むと直ぐにその光は役目を果たした蝋燭が燃え尽きるように消える。















転移を完了し、目的地の直ぐ傍に到着したメディアンが一番最初に感じ取ったのは、濃厚な死の匂いだった。
熟れて腐りきったトマトと、腐敗を極めた金属をかき混ぜたような鼻腔を苛める匂いが周囲に散乱している。
しかも、この匂いの強さからすると、まだ新しい。



既に太陽は沈み、周囲は暗闇が支配している。
ほんの少しだけ遠くに薄っすらと見えるのは、幾つものかがり火を掲げた小さな砦。
匂いはそこから漂ってくる。




無表情で地竜は精霊と会話をし、今までこの場で何があったかを問う。
直ぐに周囲を漂う精霊達は喜びながら、竜のエーギルへと直接自分たちが見た“イメージ”を送り込み始めた。
まず浮かぶのは、傷だらけの人間達。歳も性別も、全てがバラバラの人間達は一様に傷を負っている。




それも擦り傷などではなく、片腕の喪失、眼の喪失や他にも槍が突き刺さっていたり、傷口に蛆が沸いている者もいた。
人間達を強引に引きずりながら砦に連れて行くのは、屈強な体格の男達。
よく注視すると、男達の眼には光がない。それどころか、眼には黒目がなく、全員が全員、白濁した輝きを灯している。




感じる波動は、人に限りなく近いが……組み合わせが違う。
まるで人間という素材を使って、人間の姿をした出来損ないを作ったようなチグハグなエーギルの波長。
出来の悪い工作品を見た気がする。




【モルフ】か? それにしては随分とお粗末な出来だね。竜は胸の内でこれの製作者を蔑む。
恐らく遠くからはモルフと気がつかなかったのはこのせいだろう。
しかしモルフのなりそこないみたいな出来の人形達が【モルフ】よりも優れているとしたら、そこだけだ。





無言でアンナが全身に魔力を漲らせるのを傍で見つつ、メディアンは砦を見た。
砂嵐が吹き荒れ始め、人間ならばほんの少し先でも見えなくなるだろう状況下だが、竜の眼は目的の場所をしっかりと見据えている。
血と腐肉の濃すぎる匂いも、妙なエーギルの波動も、全てあそこから感じられた。





「アルマーズの時に近いのかね、コレは。お前さんは直接まだ“生きてた”頃のアルマーズを見たそうだけど、どうだい?」




話に聞くアルマーズ入手の際、息子達が体験した状況と、今のあの砦から漂う気配は似ているのか、そう問うメディアンにアンナはそっけなく返す。
苦笑いさえも込めた彼女の返事は、簡単に言えば侮蔑と嘲笑が多分に含まれていた。




「とんでもありませんわ……比べるのが馬鹿馬鹿しいくらいです」





あの極限まで濃縮された殺意の視線と、死の匂いに比べればこの程度児戯にも等しいとアンナは語り聞かせる。
神将という名の怪物テュルバンの魔界、アレを超えるモノなど滅多に見れるものじゃない。
否、あんな存在は有ってはならない。アレは滅ばなくてはいけなかったのだ。



その結果、あの怪物を超える【“怪物”】が産まれる可能性もあったが……。




「そうかい」




地竜が笑うと、そのまま堂々と進んでいく。
吹き荒れる砂嵐も、力を逃がして歩行を困難にする砂の足場も、二柱の竜には全く意味をもたない。
あっという間に砦の入り口にまでたどり着くと、閉められている砦の扉に竜は触れた。




金属の重厚な扉。裏側に“見える”閂の状態、扉の稼動部の錆具合、その全ての情報を読み取りメディアンは判断した。
この扉の使用状況から感じて、ここが賊の本拠地だというのは間違いない。
深く、遠く、そして精確に“眼”を使って扉の向こう、砦の内部へと意識を潜らせていく。



まず、感じたのは苦痛。想像を絶する程の肉体的痛苦によって生じた怨嗟の念が地竜の頭を焼いていく。
が、そんなもの歯牙にもかけずメディアンは読み取りを続ける。
哀れだとは思うし、何とかしてやりたいとは思うが……もはや手遅れならば、気に留める必要など無い。





血、血、血、肉、肉、臓、臓、骨、精肉店でもここまで濃厚な血の匂いと気配は味わえない。
この砦の主は、完全に狂っている、そこに一切の異論など挟む余地がない。
扉の向こう側、この砦の主となる内部の広間は製作者の狂気に満ちていた。




無数の金属の棘が床、壁、天井、ありとあらゆる場所に生えており、さながら湖に浮かぶ孤島の如く中央部だけは棘のないスペースがある。
だが……そのスペースには無数の血に塗れた拷問道具が設置されていて……つい最近まで使われた形跡さえあった。
砦の中には、やはりというべきかあのモルフもどきがうじゃうじゃいる。ざっと数は30程度か。




砦の中央にはっきりとした人間のエーギルの波長を捉えて……竜は脳裏をよぎった考えに苦笑した。
何とちっぽけな魔力量だと。だが次の瞬間に彼女はしっかりと意識を引き締める。




どれほど魔力がなかろうと、決して油断は出来ない。
彼女は紛れもなく強者だが、弱者が強者を倒すためにはどんな手をも使うだろうという事を知っている。
油断はしない。余裕は持つが、慢心はいらない。




魔力がなくても、自分を目標に成長を続け、今や育てた自分でさえも驚かせる男が一人いるのだから。
内部の構造と、賊の配置をほぼ読み取ったメディアンはゆっくりと扉から離れる。
この四角い構造の砦は何処から入っても、結局の所、目的の人物の所までは同じ時間しか掛からないのだから、ならば真正面から入るとする。




背負った槍を取り出して、その赤熱する刃先を扉へと近づけて“軽く”突っつくと、扉が熔けた。さながら炎の先端に炙られた砂糖菓子の如く。
真っ赤な熔けた鋼鉄が流れるのを、メディアンはゆっくりと事も無げに跨いで通ると、アンナを手招きする。
これぐらいならば出来るだろうと予想していたアンナは黙ってその後を続く。








砦の中は、薄暗い闇が支配していた。光源になるのは、壁に掲げられた松明の炎と、開け放された窓から入る月の光だけ。
通路のいたるところに、何かを引きずった痕が残り、そこには必死に理不尽な暴力に抵抗した残り香さえ漂う。
しかし……どうやらその抵抗は何も意味を成さなかったらしい。




痛い、痛い、やめてくれ。どうしてこんな事をするの──竜の鋭敏な感覚は此処をどのような表情をした人間が何を叫びながら引きずられていったか見えてしまう。
少し進むと、外でメディアンが“見た”通り、大広間に出る。狂気に溺れた空間の全面に据え付けられた棘は、新たな獲物を歓迎するように鈍く光っている。
一体、何人の血を吸えばこんな濃厚な死の気配を撒き散らせるようになるのか、メディアンには判ろうとも思わない。



鉄で錆びているが……逆にその方が人を苦しめるのに丁度よい切れ味になるのだ。



ここだ、ここに外から感じたこの砦で唯一の人間のエーギルの反応を感じた。メディアンが物理的、概念的に眼を走らせると直ぐに対象は見つかった。
直ぐ、近く、それこそ会話が出来るほどの距離に……。






「ようこそ、私の砦へ」





その声は、聞くだけで不愉快になる類の声。
初老の男の声だというのは判るが、人を小馬鹿にした感情を孕んだ言葉。





「よくここが判ったな、歓迎するよ客人たち。私のエリミーヌ様へと捧ぐ作品達をゆっくりと堪能していってくれ」





ブーツが石をたたく音と共に人影が歩いてくる。背丈はメディアンよりも低く、腰も少し曲がった人間の男が。
メディアンとアンナは暗闇の中でもはっきりと男の顔を認識する。
眼光は爛熟した光を放ち、顔は歳による年輪が深く刻まれた男性。





そして何より
気になったのは、男の服装。所々に金で刺繍の施されたソレは華美な純白のローブだった。
俗に司教服と呼ばれる祭服。何故、そんなものをこの男は着ているのだろうか。
胸元には円形に配置された7つのシンボルが線によって繋がっているという紋章らしきモノが刻まれている。
7つのシンボルはそれぞれ、炎、氷、雷、魔術における【理】を意味するマーク、闇、光、風を象徴するかの様なマークに別けられるソレは……エリミーヌ教のシンボル。



イデアがアクレイアから持ち帰ったエリミーヌの教典を彼女は全て読んでおり、そこに確かにこの紋章は描かれていた。





「作品?」





怪訝な顔で、メディアンは男を見る。無表情で、心底興味なさそうに。
だが、男はそんな彼女の心境を汲み取れなかったのか、火がついたように語り出す。
その魚の様な大きな目をぎらぎらと輝かさせ、腸を振動させて声を絞りながら。





「そうだ! 私が作る、私のエリミーヌ様の為に働く作品、私の信仰を捧げるための道具達…………。 この竜を倒した英雄である私と共に歩む存在たちだ」





男はぱたりと口を閉じて、わざとらしく口元を両手で押さえながら含み笑いを零し、周囲の存在の鼓膜を汚していく。
無機質な眼で自分を観察する2対4つの視線へと彼は高らかに喋り続けた。




「しかし困ったな、私の信仰を俗人どもは理解できない……どうせお前たちもそうなのだろう? いけないけない、コレでは生かして帰すことは出来なくなってしまった……」




「白々しいね。どうせ、最初からそんなつもりはなかったんだろ」





一切の感情がそぎ落とされ、事実のみを突きつける言葉を浴びせられても男は余裕の表情を崩さない。
そこに今まで沈黙を貫いてきたアンナが始めて口を開いた。





「ここら辺の人たちを攫っていたのは、貴方?」




「そうだとも。私は無神論者である事に対しての神罰を彼らに下し、そして彼らを栄光ある存在へと生まれ変わらせたのだ」




嬉々を満面の笑みで
表現しながら、男は両腕を大きく天へと向けて広げる。さながら、神の抱擁を受けているかのごとくに。
彼の意識の影響を受けたのか、何時の間にか周囲を取り囲むように出現していたモルフもどき達が低い唸り声と共に武器を構える。




片腕がないモルフのなりそこないがいた。眼が腐り落ちているモルフのなりそこないがいた。皺くちゃの皮膚から骨を飛び出させている老人のモルフのなりそこないがいた。
まだ年端もいかない子供のモルフのなりそこないが全身傷だらけな姿で剣や槍、斧などの武器を構えていた……。
全てのなりそこないの胸元に金属のプレートが釘で縫い付けられ、そこには何かの名前が書かれているのが見える。



開いた瞼の奥、眼球にビッシリと木製の小さな針を突き刺されているモルフのなりそこないが調子の外れた笛の様な、甲高い音で啼いた。





“アイザック” “ロンド” “カース”“シェーラ”“リコール”…………。





多数のなりそこない達の金色の眼だけが煌々と輝き、広がりきった瞳孔が焦点も合わずに空虚な視線を両者へと注いでいる。
“眼”を用いてそれら全てを見渡し、理解し、その中で渦巻くエーギルの波長と叫ばれる意思を観測した竜は相変わらずの無表情。




更に眼を通すと砦の奥に一つの小部屋があるのが見える。
その中にはまだ産まれて間もないだろう●●が世にも醜悪なオブジェとなり幾つも幾つも飾られている、見世物にでもするかのように。
オブジェにされたその子はまだへその緒さえ切れていない。




ただ思った。何て無様。犠牲者達が、ではない。




「正直な話……私は君たちのような存在に構っている時間はない。時間と言うのは有限で、君たちに使うにはもったいない」





会話などせず、一方的に自分の言葉だけを喋り続けてから男は単純に一言、自分の作品達に言葉を飛ばす。
生きていた頃から、徹底的に痛めつけ、反抗する心を砕き、死してモルフに少しばかり似た存在に創りかえられ、死後も男に従う下僕どもに。
男──かつてのエリミーヌの使途は本気で信じていた。これは救いなのだと。エリミーヌの教えに従わない異教を裁く行為は正当で、素晴らしいことだと。
だから、自分を破門などの処置にしたあの教団の者らは間違っている、自分こそが教団の為に最も必要なことが出来るというのに。






「殺すのだ。出来るだけ速くやれよ」





言葉が終わるよりも速く、幾体ものモルフのなりそこない達は飛び出していた。
何故ならば、侵入者を排除するのに時間を掛ければ掛けるほど主に酷い仕置きをされるのを、こんな姿になってまで恐れていたから。




真紅の閃光が走る。さながら、黒い紙に筆で紅い線を走り書きでもするように。
少なくとも、男の眼には何も見えなかった。何時の間にか槍がメディアンの腕ごと消えたまでしか彼は認識できない。




極点にまで圧縮され、形を持つに至った“熱量”がその軌道上の全てを燃滅させる。
轟と空気が瞬時に暖められ、小さな気流が発生。





飛びかかったなりそこない共が瞬時に蒸発する。痛みも、何も感じずに永遠の安息へと旅立つ。
気がつくまでもない死、崩壊したなりそこないの体から微量なエーギル、元となった存在の命が粒子となり零れていく……。
その光を優しく、包み込むように炎が覆い隠し、やがてソレも宙に熔ける様に消える。




空気を焼く音と共にひんやりとした砦の内部の温度が上昇をはじめ、周囲から砂漠に存在するなけなしの水分が根こそぎ奪われ始める。
皮膚が乾燥し、唇が裂け、肺が苦しくなるほどの熱量。





「…………」





たった今、数体のモルフを文字通り“消し飛ばす”のに使用した赤熱の溶岩を固めたような槍を片手で容易く振り回し、地竜は小さな声で背後のアンナへ声を掛けた。
背中越しにしっかりとアンナが耳をすまして聞いているのを感じながらメディアンは淡々と零す。
まるで、必死に湧き上がる何かを懸命に堪えているような口調。男ではなく、なりそこない達に向けられる溢れんばかりの感情が隠された言葉。




「アンナ。この“人達”を倒す際は、出来るだけ苦痛を与えずに一気にやるよ。もう痛みを与えられるのは、ごめんだろうからね」





その言葉に無言で火竜は頷き、構える。両手に宿り轟々と燃え盛る炎の色は、夕焼けの様な紅。
男は暫し呆然とした後、瞳を輝かさせて舌をもつれさせる様な早口でまくし立てる。
まるで子供がお気に入りの玩具を壊された時に見せる怒りのような、そんな利己に満ちた怒りを男は撒き散らしていた。





「……何という事を……アレらは、あれらは出来損ないとはいえ、私の聖女に捧ぐ供物だというのに。 アレラの生殺与奪を握っているのは、私だけ──」






「もう喋るな」






思わず、途中で言葉を切ってしまう。それは脊髄の反射に近い。
自分の意思とは別に体が勝手にいう事を聞いてしまったのだ。
メディアンの言葉、つぅっと細く変えられた彼女の眼を見て、一瞬男は錯覚を覚えた。




縦に裂けた猛禽類の瞳孔が男を捕らえて離さない。
あの眼、確か何処かで見たことがある。あの大戦で似たような眼を見た気が……。




一瞬、記憶の淵を過ぎるのはあの恐ろしい悪魔の姿。
何万の人間を焼き尽くし、平然と揺らぎもしない煉獄の怪物ども。




足が無意識に後退しているのを認識し、男は言葉を紡ぐ。
ありえない、そんなことはあってはいけないのだ。




「さっさと片付けろ。肉片の一つも残すなよ」






魔力を行使し、逃げるように極短距離だけの転移の術を発動。
あっという間に砦の奥へと逃げ込んだ気配を絶対に逃さないと“眼”で追いかける地竜はこの砦に入り始めて感情を顕にした。
怒り……ただしソレは烈火の如く怒り狂うものではない。




冷たい、氷結した絶対零度の憤怒。
もしもここに彼女の息子がいたら、一目散に母から距離を取っているか、もしくは彼女と同じような怒り方をしただろう。





「絶対に逃がさないよ。ここで仕留めておかないと、里にさえ犠牲者が出る可能性もある」





返事の代わりにアンナは人差し指をメディアンへと向けた。その先端に魔力が収束し、開放。
放たれた【エルファイアー】の術は、メディアンの背後へと迫っていた一体のなりそこないを瞬時に蒸発させる。
当然、その程度の接近になど気がついていたメディアンは満足気に頷くと、槍を一振り。




轟と空気中に含まれていた塵や埃が発生した熱波により瞬時に燃え上がり、軽い小枝を踏み潰す音と同時に弾けた。
先ほど消したのは10体、アンナが吹き飛ばしたのは1体、砦の内部に感じた気配は30すこし……ならば、残りは20程度かそこらだろう。
“眼”を用いてしっかりと数を確認した彼女は自らの手札を確認する。出来るだけ苦痛を与えず、効率的にかつ確実に葬る術を探して……見つけた。




一体一体相手をしていたら、あの男はその間に恐らく逃げるだろう。
ああいう人間は自分への危機に関しては素晴らしい嗅覚を見せるのだから。
そしてメディアンにはあの男を逃がすつもりなど毛頭ない。




槍を地面に突き刺す。岩畳を圧縮された溶岩の穂先が安々と貫通し、そのまま粘土に指でも埋めるように槍が完全に柄の先まで地面へと沈んでいく。
膝を降ろし、片手を槍の埋まった白熱する穴へと触れさせて彼女は念を流し込んだ。






──大地よ、我が分身たる大地よ。




それは口から放たれたモノではなく、エーギルに直接宿され、流された思念の詠唱。
かつての終末の冬の最中、彼女が必死に押さえ込んだ大地の変動、巨大な地殻の移動によって生じる力。
大半は全て地殻の“調節”によって霧散し消えたが、まだ僅かばかりに残っていた力の一つを彼女は引き出して支配する。




念話によって浮遊して避けろと伝えられたアンナが流麗な動作でほんの少しばかりの力を使って、大地から拳一個分ほど浮上。








【メガクエイク】







最初は小さな揺れだった。壁に掲げられていた松明の炎が僅かにぶれる程度の微振動。
例えるならば、大地に亀裂が走り、少しづつその裂け目を広げていく際に生じた力が漏れ出して起こしているような振動……。



今の状況は決壊直前の堤防を連想させた。亀裂が走り、その断線より水が零れ落ちている状況。
溜まりに溜まった力は、開放の喜びに打ち震えその猛威を振るう。




突如、臨界点を超えた世界が地の底より“叩き上げられる”
足の底から思いっきりハンマーで突き上げられた様な衝撃が砦そのものを貫いた。
極小規模だが……一点に対しての圧倒的な破壊の振動波が建造物の隅々まで行き渡り、砦を軋ませ、至る所に軋みを入れて……振動は止まった。




終わりか? いや、まだだ。
本来の【メガクエイク】は大地の奥底、人間には想像も出来ない程の深淵に干渉し最低でも小島、最大になれば全大陸規模での大震災を発生させる極大の禁忌呪文。
それを考えるに、この規模は余りにも小さすぎる。いや、わざとこの程度で抑えたのだ。





そう、終わりではない。ここからがメディアンが行使したかった、“別の魔法”の本来の効果が発揮される時間なのだ。





砦の石畳の床が、蒸気を吹き上げた。熔けた石の一部が気化し、周囲に飛び交う。
表面がブツブツと粟立ち始め、赤熱し、そこから生み出される熱量は砦の内部の温度を火山もかくやと言うほどに上昇させ、人には住めない環境へと変貌させる。
もはや、人ならば触れただけで手が燃えるどころか“消える”程の熱を下部から加えられ、砦の床は熔け落ち、物質から液体へと変化を始めた。





ゴォオオオという重低の音波が砦の遥か大地の下から不気味に響き……深淵から真紅の破滅が鎌首をもたげ、現出。
世界が鮮やかに染め上げられた。まるで昼間の如く眼を焼く光が闇を飲み込んだのだ。




それは、緩やかな火山の噴火だった。仄暗い狂気と血肉で埋め尽くされた世界が、焼き滅んでいく。
至る箇所で噴火が始まり、濃縮された地竜のエーギルを濃厚に含んだ赤黒い液が噴出す。
石を安々と蒸発させ、進行方向上の存在全てを焼き潰し、飲み込みながら煉獄の行進は止まらない。




本来ならば、ここに火山噴火により噴出される汚染物質の拡散も追加されるのだが、今はアンナのことを考えてソレはない。
幾多もの人間を貫き苦しめ、死後も恐怖させてきた砦中央部、無数の金属の棘が生え茂る空間に煉獄から流れ出てきた粘性を帯びた溶岩が流れ込み、蹂躙。
恐らくは魔法で強化した鋼であろう棘が真っ白に変化し、次いで水に漬けた砂糖菓子を連想するほどに呆気なく液体として崩れ落ちていく。





叫びはなかった。苦痛による怨嗟の声もなかった。
砦の中に存在していたほぼ全てのモルフのなりそこないは流れる溶岩に抵抗も逃げることもせずに飲み込まれ、消えていく。




死を望むように、安らかな様相で。




メディアンが片手を溶岩へと翳すと、急速にその手に粘性を帯びた熱液が集い、一つの槍となる。
白熱していた流動体の槍は、やがて冷えて固まり、表面上は黒曜石と同じ漆黒の鉱石の地槍に変わり、ソレは彼女の手にしっかりと馴染んだ。
ぶんと空気をかき混ぜながら盛大に何回か地槍を回転させ、調子を確かめつつ竜は砦の内部へと再度“眼”を送り……瞳孔が細まる。






「何体か、新しいモルフを動かしたようだ。さっきのよりも結構強いね」





「では、私が全て潰してきますわ。貴女様はあの男を」




あくまでも強いといっても基準は先ほどのなりそこないだ。あの西方の魔境に跋扈していた異形達に比べればなんて事はない。




ありがとう、地竜は頷くと視線をアンナから逸らし、次の瞬間に彼女の姿と気配がこの場からなくなったのを感じながら、男が砦の奥底で蠢いているのを認識する。
その中にある“焦り”“恐怖”“狂信”そして相反する“羨望”を読み取り…………表情は変わらなかった。
男に対してはまあ、遅かれ早かれこうなるのは判っていた。それが少しばかり速く来ただけだな、としか思えない。




宗教というのが人を支えるのも知っていたし、それが人を狂わせるのも知っている。
あの男は極端な例になるだろうが。そもそもあの男が何故ここにいるのかも大体の見当がつく。
大方、ここでやっていたような事をエリミーヌに知られて、破門されたのか、もしくは教団内での権力闘争に負けたか。




処刑されなかったのか、処刑から逃げたのかは判らないが、そんなものは意味がない。何故ならば、あの男の死は既に確定しているから。




この地竜メディアンが逃がさないと言った。もはやその時点で全てが遅い。
地竜の瞳孔が裂けて、一つの魔法を更に追い込みとして発動させた。生物である以上、絶対に逃げれず、防ぐことも困難極まる最悪の魔法を。
恐らく、相手が生き物ならば……どんな魔法よりも極悪な効力を発揮する術。余りにも残忍で、極悪非道の術。





メディアン自身、この術を使う機会は滅多に訪れることはないだろうと思っていた。






【ウォーム】







極小にまで濃縮した悪意が、真紅に染まった地獄の中で黒く蠢いた。



絶望が、ここに降臨する。
















かつてはナバタを探索、開拓するための拠点として作られた砦は、彼の支配地となってからは大幅な改造を行われていた。
ここを守護するのは芸術的とも言える、かつての竜族が使用していたモルフ・ワイバーンの技術を応用して作り出された素晴らしき武装信者の群れ。
それは正に彼にとっては理想の権化だった。



武装し、揺るがない信仰を与えられ、痛みを感じず、一切の異教徒への不要な情を“奪ってもらえた”者らは慈悲深き聖女エリミーヌの忠実な私兵となる。
あの【モノ】達は使い捨てにされることに喜びを感じなくてはならない。




エリミーヌは優しく、心が広いお方だ。きっと彼女は他者を殴ることなど出来ない。優しすぎるから、異端のものを認めてしまう。
だからこそ、自分たちが必要なのだと彼は未だに心の底から信じていた。
異教徒の【モノ】には知らしめる必要がある。自分たちは人間などではないということを。




人間とそっくりな姿をした、罪深き塵以下の存在だということを知らない【モノ】を彼は救ったのだ。
高貴なエトルリア人の血を引き、エリミーヌ教への死をも厭わない忠誠を持つ者だけが【人間】といえる。




だからこそ彼は正当な裁きを行ったのだ。エトルリアに存在する異教徒──。
未だに竜族、邪神への信仰という愚行を行う屑を刈り取り、その子孫を全て根絶やしにすべく彼は動いた。
自分の完全に完成したモルフ製造……正に神から賜った奇跡を用いて彼は準備を行ったのだ。




竜という邪神は滅ぼした。ならば次の敵は異教徒という人間の姿をした塵共だ、彼はそう思っていたのだから。
だが、世界は悲劇で満ちているという言葉の通りに、エリミーヌは騙されていたのだ。




なのに教団はよりによって、この私を! 自分を破門し、しかも処刑するなどと教団の上層は過ちを犯してしまった。
だからこそ彼女を救わなくてはならない。そして自分こそが教団の頂上に立つべきなのだと男は思っている。
私こそが教団をよき方向へと進ませることが出来る。私だけが異教徒をエレブから消し去ることが出来ると確信して疑わない。




あの忌々しいエリミーヌ様の護衛などとほざく、騎士団長め。彼女に上手く取り入り、彼女を惑わす塵め。




自分こそ、世界に、エレブに信仰を広めることの出来る存在。従わない者は悪であり正義と神の名の元に裁くべし。
だらこそ、今は雌伏の時。暫くの時間を置いて、彼はアクレイアに戻るつもりだった。










しかし、彼の夢は今正に粉々に砕かれようとしていた。










莫大な力が砦を震えさせる。モルフたちの気配が次々へと消えていく。血涙が流れた。どす黒く腐敗した肉汁があっという間に蒸留し、消えた。
感謝があった。謝罪があった。喜びがあった。無念があった。そのどれもが等しく形容することさえ出来ない力に抱かれて消えていく。
結果は既に出ていたのだ。何故ならば、この砦に来たのは竜……それも全ての竜の中でも上位に位置する存在だったから。





開いた口が塞がらない。正にそういう状況。精魂込めて作り出した作品がまるで路傍の塵の様に消し飛ばされ、戦いにさえならない。
剣、槍、斧、魔法、弓矢、全てが無意味だった。迫り来る混沌の熱海の前では何の慰めになるか。
まだこれでも地竜は手加減をしている。本来ならば“噴火”と同時に高濃度の有毒物質を撒き散らすことも出来たのに、それをしていないのだから。








いつでも脱出できるように正門の裏側、中央部の棘の間を挟んで入り口の向かい側にある小さな個室に彼はいた。
戦況は不利などという言葉さえ生温い、絶望。





彼は現実を直視していなかった。
何故、私がこのような眼にあっている? 何故、正しいことをしている私があのような存在に襲われている。
いや、そもそもあの者達は何者なのだ。既に正気を失っている男の脳は冷静に状況を見ることさえ困難となっていた。




逃げるべきだ、ただ漠然とそう判断した夢見る男は鋼で作られた脱出口の扉に触れて──。





「っ!!」




蒸気があがる。同時に、肉を熱した鉄板の上に落とした様な音が響いた。
掌を焼かれ、思いっきり手を離す。熱によって接着された皮が音を立てて剥がれ落ち、激痛が走る。
扉の至る場所が紅く光を放ち、鋼鉄さえも熔解させる熱がそこに篭もっているのが見て取れた。




何時の間にか、恐らくは噴火が扉の向こう側でも起こっていたのだろう。
そして押し寄せた熱海はこの扉を熱によって溶接し、男を閉じ込めることに成功した。
せめて砦の外へとと思い、転移の術を使用するがこれも不可能。術の発動を何かが押さえ込んでいる。




既にこの砦そのものが今や閉じた牢獄と同じ役目を果たしていた。





「……嫌だぞ! 私は、まだやることがある!」




逃げられない、事実を悟った男の口から迸ったのは無様な声。




ヒステリックな叫びが口から無意識に生まれてくる。
ここで死ぬのは嫌だ、心の奥底から彼は願っていた。
自分は立派な「人間」だ、誰よりもエリミーヌ教を信仰し、誰よりもこの世界に必要とされる男なのに。




「おい、何をしている? さっさとこの扉を開けろ!!」





懐に控える並の人間の倍以上の背丈はあるモルフに彼は命令を飛ばす。
全身傷だらけの、至る箇所に矢、針、槍が突き刺さり、ツギハギだらけの最高傑作のモルフ。
幾多もの異教徒の肉体を一度分解し、ソレをつなぎ合わせたこのモルフは男の作品の中で最も強い。




男の、自らを恐怖で縛り上げる存在の命令に従いモルフは緩慢とした動作で動き出し、扉をその豪腕で殴りつける。
一度、二度、三度とと繰り返す度に皮が焼け、肉が零れ、筋肉がむき出しになるが、扉は壊れない。
斧を持ち出し、思いっきりその刃をぶつけるが、結果は散々だ。斧の刃は刃こぼれし、柄から折れてしまう。




扉は既に赤熱さえしていたが……それでも壊れない。




この、出来損ないが!





感情が篭もりすぎて、彼の口から発せられたのは声ではなく、掠れた、喉を枯らした鶏のような怪奇な音。
この塵屑が、せっかく私がそのような姿にしてやったのに、まだ使い物にならないのか──。




ここで彼は気がついた。何か、違和感を感じる。口の中、何か、小さな砂粒でも飲み込んだような、じゃりじゃりした感触……。
ペッと違和感の発生源を手の甲に吐き出す。かがり火に翳して見たソレは……小さな黒い砂粒。
極小の砂粒が、動き出す。わさわさと柔肌を撫でている感触を甲に感じるにコレは蟲か。




砂漠の繊細な砂よりもずっと小さく、それなりに視力はいいと自負する男が集中してようやく目視できる蟲。





蟲か、そうか………………脳髄が凍りついた。





ソレを意識した瞬間、彼は酷い痒みを覚えた。足、腕、顔、胸、全身が酷く痒く、チクチクする。
こう、無数の小さな蟲が全身を這いずり回っているような……感触。
叫び声さえもあげられず、彼はローブの裾を捲くり、自らの腕を見た。




はっきりと、見えたのは無数の小さな小さな常人ならば目視も出来ない黒い蟲。ゴマ粒にも似ている何匹もの蟲が皮膚の上を這いずり廻り───そのまま皮膚の内側に潜り込んだ。
毛穴に入ったのか、それとも皮膚を食い破って中に入ったのか。一つだけ確かなのはあの小さな針で刺されるような痛みは蟲が体内に入り込んだ際の痛みだったということ。




「あ……あ……」




口から声が漏れた。腕の内部が痒い。体の内側が痒い。そして、少しだけ痛い。
チクチクチクチク、小さな顎で絶え間なく噛まれている様に、痛い。





「───ぁあああああああ! ふざけるな! ふざけるな!! この、虫けらが!!!」





絶叫をあげて、自らの腕を、足を、腹を思いっきりたたきつける。衝撃を与えて中の蟲を殺すために。
腫れ上がり、肉が裂けて血が滲んでも拳をたたきつける。溢れた血の中から蟲が湧き出し、また自分に寄ってくるのを必死に何度も何度も踏み潰す。
狂ったように床を悶え転がりながら、手足を振り回していたその動きがぱたりと止まる。




違う、動けなくなったのだ。内部に潜り込んだ蟲達が召喚主から受け取った魔力を用いて人間の頭部から発せられる信号を阻害したから。
必死に魔力を搾り出して抵抗する男は何とか微動程度には動ける状態だが、既に立ち上がることさえ出来ない。



全身の自分から付けた傷跡から、黒い絨毯の様に床を埋め尽くす蟲達が雪崩の如く侵入してくるのを見る。
寒気が走り、激しい痒みと痛苦が全身を貫く。血管の中を蟲が移動しているのが判ってしまう。





「嫌だ……嫌だ!」






蟲が昇ってくる。腕から、足から腹から。
顔の頬の内側を蟲が移動し、皮膚が引っ張られる。
視界の中に黒い点が映る。それは外部に捉えた映像ではなく、網膜の内側を移動する蟲の影。






「何故、何故私がこんな眼に────」





音が聞こえる。水の中で認識するようなくぐもった音。それは、鼓膜の内側が捉えた音。
耳の奥、脳と頭蓋骨の外周を何かが這いずっている。




ゴリゴリゴリゴリゴリ───。




頭部の皮膚の内側から堅い何かを削る音が鳴る。
蟲達の小さなアギトが、凄く硬質な物体を削る響き。


蟲の顎の力は見た目よりも遥かに強い。
そう、やりようによっては大型の動物の皮膚を食いちぎり、時間を掛ければ鋼鉄さえ削ることが出来るほどには。




突如、激痛が走る。今までの痛みなど比ではない極限とさえ形容してもよい鈍痛。
頭が痛い、頭が痛い、頭が痛い。削られる、削られる、削られる──。




わ……私が死ぬ? いやだ……だれか、たすけ…………。




そこから先は思考だけがはっきりとした地獄だった。
思い通りに動かない体を震わせて、頭をかき混ぜられる激痛に耐えるのに言葉など不要、しかし考えることだけは出来る。


















地竜メディアンは眼の前で横たわり痙攣をしている男を何処までも冷めた眼で見下ろしていた。
彼は眼や鼻、口から濁った粘性のある液体を絶えず噴出しており、眼球は既に内側から食い破られた後なのか、大きな穴があいている。
だが、それでも生きている。死など許さないとメディアンは蟲を通じてエーギルを送り続け、最低限の生存だけは保障しているのだから。




もちろん、善意からなどではない。




確たる思考は残っている。
どれほど痛かろうと、体が動かなくても、何も見えず聞こえず喋れずも、生きて、しっかりと自我を保っている。
皮袋から空気が抜けるような空気の軽い流れと共に、男の腹部から何かが抜けていく。




腹が萎む。中身を食い荒らされた草食動物の残骸と同じように。
血が純白のローブを汚し、泥に塗れる。





そっとメディアンが男の傍に待機しているモルフの腕にそっと労わりをもって触れた。
攻撃はない。既に命令を与える存在がいなくなってしまった以上、ここにあるのは糸の切れた人形のようなものなのだから。
モルフのなりそこない。それに宿っている【エーギル】をメディアンは竜石を作る要領で抜き出し、そのまま霧散させた。




エーギルを抜かれた巨体のモルフが倒れる。手足の先からその体が崩れ落ちて、砂の山となる。
ものの数秒でモルフは白い灰に変わり、消え去ってしまった。





次いで彼女は未だに黒い臓物を溶かした液を全身の穴という穴から流出させている存在へと無遠慮な視線を送りその中身を“感じ取る”
まず、感じたのは底なしの、それこそ悲痛とさえ感じ入れる程の願い。




死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、私は永遠の命が欲しい──。
何故、私ではないのだ。何故、私は【理】を超えられない。私の何処がアトスやブラミモンドに劣っているのだ。




絶え間なく撒き散らされる念。彼の脳髄に侵入し、生きたまま喰らっている蟲達を通して伝わるのは彼の悲嘆。
彼が倒した戦闘竜との戦いの記憶、彼が行ったこと、彼の思想、彼の願い、その全てを追体験しメディアンは……鼻で笑った。




男が頭の中で絶叫をあげた。
自らの記憶を盗み取られていく感覚、脳幹を蟲に齧られる不快感、そして……自分が今まで何と戦っていたかを朧に理解してしまった絶望。
髄液の中を夥しいの数の蟲が泳ぎまわり、気まぐれに脳を刺激する激痛が彼の魂まで蹂躙する。




頭を破壊されつくされて死んでもいいはずなのに、竜の治癒の力がソレを許さない。
既に限界寸前にまで齧られて、溶かされた彼の脳髄はもう間もなく液状となり彼の顔面にある穴から流れ出す事となるだろう。




竜が無言で“力”を使い、砦の中央部で煌々と滾り続けている熔解した鋼鉄を手に引き寄せる。
今までどれほどの人間を苦しめてきたのか判らない拷問道具。粘性を帯びた液体となり、水あめの如く絡みつくソレをメディアンは涼し気に素手で持ち上げた。
熱せられ、表面が粟立つだいだい色の鋼だった液を彼女は……躊躇いなく垂らした。




それは、彼女なりの意趣返しなのか。散々に自らが使用した道具で、その最後を与えるというのは。








──。








言葉もなく、かつてはエリミーヌ教団の高位司祭にまで上り詰めた男が
その輝きに満ちた人生とは裏腹に何処までも滑稽に死んだのを確認すると地竜は溜め息を吐いた。
地槍を片手で弄くりつつも、彼女は砦の内部へと眼を走らせて、全てのモルフが機能を停止したのをしっかりと確認。




再度、今や冷えて固まり始めた鋼に覆い隠されている、さっきまで男が倒れ伏した場所を見やり、思う。
この男は“先駆け”だ。今はエリミーヌが生きているからこそ自浄効果があるが……彼女が死んだらどうなるかは容易く想像できる。
いや、既に腐敗は始まっているかもしれない。人の集まりで、一つの思想の元に集うといっても宗教と言うのは個々の認識によって教義など無視されるかもしれないのだから。






だが、どちらにしても。





「度し難いね」





結局、この男を殺そうと何も変わらない。ナバタにおける当面の危機は消えたが、だからといってエリミーヌ教団はあり続けるだろうし
何よりもコレを殺そうと、苦しめようと、この男が殺した者達は蘇らないのだから。







永遠に生きたい、か。




彼女は、息子とイデアの会話を聞いていた。そして息子がイデアに何と言ったのかも。



末期に男が祈るように紡いだ思考、それを反芻させながら地竜はやれやれと頭を振って、振り返る。
そこには当然の様に先ほど別行動を取ったアンナが立っており、いつも通りの弾む様な笑顔で言葉を発した。
メディアンの優れた“眼”は彼女が懐に幾つか資料を回収して、仕舞いこんでいるのを目ざとく見つけたが、彼女はそれに対して何も言う気はない。




「砦の内部のモルフの殲滅はほぼ完了しましたわ。……ほとんどは貴女様の力に飲み込まれてしまってましたけど」




「ご苦労だったね。この砦そのものの後始末は私がやっとくよ、一度、外に転移をしてくれないかい?」





アンナが頷き返し、術を発動させる刹那、メディアンは最後に砦の全景を眼に焼き付ける様に“見る” 
恐らく、これから先、歴史上で発現する事となるであろう宗教の恐ろしさをしっかりと認識するために。
絶対に、誰にも自分たちの居場所を奪うことなど許さないと願いを込めて。












暴風が、吹き荒れる。
何億、何京にも及ぶ熱砂が絶え間なく砦の外郭を削り取り、その形状を虫食いに晒された紙と同じように変貌させていくのだ。
音はなかった。砦の基礎の部分が砂に飲み込まれ、やがて徐々に砦そのものが地面の底へと沈んでいく。



さながらあり地獄に囚われた獲物が、深淵へと引きずり込まれるが如く、砦は四半時もせずに地竜が生じさせた大規模な流砂に飲まれ、消えてしまう。
最初からそこには何もなかったと錯覚するほど、綺麗に砦はなくなり、後に残るのは昼の暑さを未だに残した砂粒が、夜の冷気と共に叩き込まれる砂嵐だけ。
既にシナリオは書きあがっている。砂漠に発生した巨大な砂嵐により、賊達は消滅、砂漠を根城にしている以上、自然環境によって淘汰されるなど珍しくもない。



地竜が発生させた砂嵐は夜遅くまで吹き荒れることだろう。



それを全て見届けて、地竜は今度こそ里へと転移を行った。























夜、何となく眼が覚めたソルトはふとした気配を感じて周りを見渡した。
既に付近での砂嵐はやんでおり、開かれた窓からは荒涼とした冷風が吹き込んでくる。
体は既に何時もの調子を取り戻しており、特に頭痛などの不快感はない。



だが、遠方から聞こえるのは不気味な風の唸り声。
遮蔽物など何もない砂漠では遥か遠くで発生している嵐の音も聞こえることがあるのだ。




月夜の光が部屋を照らしているお陰で人間の彼でも部屋の中を把握することが出来た。
だからこそ、直ぐに判った。枕元、肘掛椅子に腰掛けた母がうつらうつらと船を漕いでいるのを。
何時もならば部屋に戻るか、何か書類を書いて夜の時間を過ごす母にしては珍しいとソルトは思った。






既にほぼ完治した体を動かして上半身だけを起き上がらせる。
何となく、そういえば別々に寝るようになってからは母さんの寝顔を余り見たことがないという事に思い当たり、何となくその顔を見やった。






──思わず、息を呑む。





ただ、一言の言葉も紡げなかった。
一まとめに結んでいた髪を下ろし、はらはらと風に任せて揺れる栗色の髪も、真紅の眼を閉じて心地良さそうに揺れる姿も、全てに魅了される。




眼を瞑り安らかな様子で眠る母を見て、ソルトは無意識の内に見入ってしまっていた。
心臓が痛い、既に病は治まったというのに体が熱い。
この感情に襲われるのは初めてではない。もう、かなり昔から、彼が子供から大人への階段へ足を差し出したその瞬間からだ。




かつて母に問われたことがある。何か欲しいモノはあるか、と。
そうして自分は答えた。あの答えは本気だ。決して冗談なんかじゃない。
ソレの意味することを自分で考えて赤面したこともあるが、今でもあの答えは変えるつもりはない。





イデアに聞かれたこともある。長生きしたくないか、と。
そうして自分はその申し出を断った。アレに後悔はない。
きっと、長く生き続けたら、それは素晴らしいことなんだろうけど、自分が自分ではなくなるかもしれない。そんな思いがあったから。




とりあえず、母をこのままにしておくわけにはいかない。そう思いたったソルトは起き上がり、ベッドから降りると、母を部屋まで運ぶべく持ち上げるためにその手を差し出して……掴まれた。
反射的に全身が萎縮しビックリするが、直ぐにそんな感情は消えた。薄っすらと明けられた母の眼が自分を見ていることに気が付いたから。
今の母からは石鹸の華の匂いに混じって僅かに焼け焦げた肉の匂いがした。





「どうしたの? ……部屋に戻らないの?」





答えはない。代わりに母の眼が薄っすらと細まり、自分に向けられる意識が数段、鋭利さを増した。
ただ、何となく眼を離してはいけないような気がして彼は真正面から母の顔を見返す。
長い、長、それこそ一晩という時間の中では永遠にも感じられるほどの沈黙の後に地竜はようやく喋った。





「……最後に一緒に寝たのは何時だったかねぇ」





それはまるで独り言。語りかけている様でもあるが、自分に言い聞かせて、答えを探している様でもある。




「7年くらい前だったかな。……確か、僕が今みたいに病気で寝込んでて、夜に咳とかが酷くなるから一緒に寝たんだよね」





しみじみと思い出す。あの時は今よりも大変だった。
里と言う閉鎖された世界で病気を蔓延させるわけにはいかないから自分は何週かの間、完全に治癒を完了するまで閉じ込められた。
今はあの時よりも体力があるからそこまで酷くはならないが……それでも病気は恐ろしい。






「そうか……7年か」




また眼を瞑って、過去に思いを馳せる竜を見て、ソルトは釈然としない気持ちとなるのを自覚する。
僕はまだここにいて、こうして貴女と話しているのに、過去ばかり見ていないで欲しい、と。
一度や二度ならまだいいが、この頃彼女は、ちょうどあの竜の姿を見せてもらった日以来から過去を振り返ることが多くなった。





まるで、今の時間は楽しくないと言っている様に。それが気に入らない。
故に、少しばかり彼は意地悪をすることとする。




ぐっと足に力を込めて、椅子に腰掛けた母の首元と膝の裏に手を回して、思いっきり全身の筋肉を用いて、持ち上げる。
よく、絵本の中で王子様がお姫様にするように、彼はメディアンを持ち上げた。
決して軽くはないが……それでも持ち上げて運ぶのに苦労はない。



この頃病気のせいで余り立ってなかったせいか、足元が少しだけふらつく。




「へ?」




ソルトは吹き上がる笑いを堪えるのが精一杯だった。
今、自分の腕の中で眼をまん丸と見開いて、呆けた顔をする母の何と愉快なことか。
陸に打ち上げられた魚の如く口をぱくぱく動かしていたメディアンは状況を理解してから悶えた。




「どこにつれていくんだい!」




舌が上手く回らないせいか、口調が少しばかり幼くなったような声が自分の口から出て心底驚く。
長い間生きているが、こんな声を出したのは今日が初めてだ。
尖った耳が喧しいほどに上下に刎ねて、パタパタと音を立てる。





「何処って……母さんの部屋だけど?」





得意顔で悪戯染みた笑顔を浮かべる息子は、心底楽しそうだった。
いけない、いけない、どうにもこの頃は主導権を握られっぱなしだ。
何故かは判らないが、対抗心の様なモノを感じた彼女はやり返すべく、ほんの少しだけ力を使う。





一瞬だけ光が煌き、極短距離だけの転移は発動する。
ほんの少しの距離、同じ部屋の、極近くへの移動。




同じ部屋のちょうど先ほどまでソルトが眠っていたベッドの上に魔法陣が開かれ、転移は完了。




ぎゅっと胸に抱きしめた感触を楽しみながら彼女は頭を撫でてやる。さっきの仕返しとして思いっきり。
モガモガ暴れる感覚さえも楽しみながら彼女は胸に抱きしめていた息子を解放してやった。
開放されて、ぷはぁっと息を大きく吸う息子を見てクスクス笑う。




むっと怒った顔で自分を見つめ返してくる彼は今でも昔と変わらない。




「ねえ」



「なんだい?」





短い言葉でのやり取りさえ楽しみながらメディアンはソルトへ眼を向ける。
真剣な眼で自分を見ている彼に彼女は臆せず向き合った。
月明かりの暗闇の中でさえ判るほどに彼の顔は真っ赤、まるで病気がぶり返したみたいに。
喘ぐように、照れが多分に混ざったそれ一つでは何の意味もない言葉を途切れ途切れ彼は吐き出し、何とか言葉として成立させた。






「今から昔を懐かしんでたりしないでよ。僕は20年も生きてないし、まだまだ貴女と一緒にいたいのに」





「母さん」ではなく「貴女」と呼び、かつてないほどに熱い感情を入り混じった言葉を彼は吐いた。
その中で渦巻き、彼が自覚し始めている感情を「見て」「理解」し、メディアンは思わず顔が綻む。
決して不快ではない。むしろその逆だ。かつてない程に清々しい感情を味わいつつ内心で彼女は一つの諦めを抱いた。



認めよう。自分は彼に人ではない存在になってほしいと願っているが……それは無理だ、と。
永遠の命が欲しいとほざいたあの男。そして……彼に長寿を与えたいと何処かで考える自分。
昔、自分とソルトは喧嘩をしたことがある。今でもはっきりとその時に叩きつけられた言葉は思い出すことが可能だ。





“装飾品”として自分を育てているの? 僕がいつか死んだら、母さんは新しい“装飾品”を探すの?




同じだ。モルフのなりそこないを作り出して、道具として扱っていたあの男と
息子に、彼に望まないだろうモノを押し付けて、結局の所自分の為だけに長寿を無理強いすることを密かに考える自分。




自分は彼を“装飾品”として扱うところだったのだ。
それこそ、最もやってはならない事。絶対にそうはなるまいと誓った禁を彼女は犯しかけていたという事実を認めるに至るしかない。





だからこそ、彼女は言わなくてはならない。
ぼそぼそと耳元で、吹きかける様に流麗に言葉を紡ぐ。愛の告白をしているとさえ思えるほどに熱を込めて。
たった一言放つだけなのに、今までの生涯で最も緊張しながら竜は謝り、告げた。




自分の非を認めるというのは大人にとっては難しいことだが……それでも言う。






───。






余りにも感情が入り込みすぎたせいか、自分でも何を言っているのかがよく判らない。
自分の言葉に彼が満面の笑みを浮かべて、ごそごそと毛布に包まって逃げるように背を向けるのを微笑えましく思いつつ、メディアンは溜め息を吐いた。
一気にではなく、ゆっくりと肺から空気を吐き出すと、幾らか気分が晴れ渡ったのを感じ、地竜は瞼を閉じる。





全身に緩やかに満ちるのは倦怠感と疲労。
発生することを許した柔らかな眠気。




今日は、少し疲れた。いつもよりもちょっとだけ長く寝ようと思う。
竜は本来は睡眠など不要なのだが……ソルトの隣ならば話は別だ。






エリミーヌ教。神将器。里。寿命。エレブ。そして竜と人。
何もかもを忘れて今は眠りたい。























「あっという間だったな……正直な話、もう少しばかり時間が掛かると思っていた」





玉座の間にてアンナが持ち帰ってきた資料を受け取りつつイデアは竜石を通して見ていた光景に対して端的に感想を述べていた。
圧倒的、今までイデアが見てきたメディアンと言う存在の力を考えれば妥当な結果なのだろうが……それでも彼女の力は里のどの竜よりも頭一つどころか、桁が違う。
今でこそ保有する力の総量では自分が勝っているが、切れる手札の数は彼女には格段に劣るだろう。
地震と火山活動を自由自在に操り、猛毒を宿す極小の蟲を無数に召喚し支配するなどもはや質の悪い冗談にしか見えない。






強い上にえげつない手段を幾つも隠し持っている彼女は、絶対に敵には回したくない存在だ。
石を通して見ていたあの男は本当に不愉快極まりない存在だったが……それでも少しばかりの同情を感じずにはいられない程にメディアンの力は凄まじい。
こう、道端を行く一匹の蟻を巨大な闘牛か何かの群れが蹂躙していくような、そんな殲滅光景だった。




新しい暇つぶしの術もほぼ完成を見て、鬱陶しい賊も消え、結界の構築も終わった現在の状況に大きな満足を覚えつつイデアは口を開く。
パラパラと手元の書類を捲り、流しながら中身を見ていくに連れてイデアは苦笑を浮かべた。




何だ、これは。全てが無茶苦茶だ。
中に記されていたあの男の研究の全容は幾らか参考になる所こそ少量程度はあるが、竜族の叡智を貪るイデアにとっては子供だましもいい所だ。
余りにもお粗末だが、師匠も資料も何もない独学だっただろう事を考えるにこれでもよくやった方だろう。





「下がっていいぞ。部屋に戻って休むといい」





アンナを退室させたイデアはグッと背伸びをしてまどろみながら思う。
たまにはこんな風に全てが順調に進むのも悪くない。
思えば今まで生きてきた中で、物事が思い通りに進んだことなど極僅かだった。




ふふふと苦笑いを滲ませて全身をリラックスさせつつイデアは懐古した。
そもそも、順調に全てがナーガの描いた通りだったら、俺は長なんてしていない、と。
あぁ、と溜め息を吐く。そういえば、この頃は忙しくて余り姉さんの所へ行っていない。





近々行くのも悪くない。色々とこの頃は報告することが多くて何を言おうか迷ってしまいそうだ。
そうだ、花火を行う前に一度彼女の元へ行ってみるかと決断した所でイデアは少しだけ違和感を覚えた。





花火、そうだ。花火だ。自分が行おうとして、もう既に決行まで時間の問題となっている花火……。
それがどういうものかは知っているし、見たこともある。その時の感動も変わらずに自分の中にあるが。





“自分は何処で花火を見たか”がよく思い出せない。
胸の内側に黒い霞が掛かっていて、情報が引き出せないのだ。
まるで虫食いに会ったように記憶が出てこない。



もやもやとした闇だけが記憶の中で渦を巻いている。



知識は残っているのに、それに纏わる記憶が出てこないという事態は異常だった。
物忘れとは違う、何かに記憶を持っていかれたと表現できる感覚。





小さく肩を落とす。ここで、こう来るか、と。
後悔はしない。その程度の記憶ならばくれてやる。





むしろコレはいい機会だ。
魔道という力のメリットとデメリットを再確認する上での。




あーあーと声をあげて欠伸交じりに彼は言の葉を紡いだ。
腰の覇者の剣を鞘ごと眼の前に持ってきて、撫でてやる。
自分に言い聞かせるように、あの白昼夢で見た怪物を思い浮かべつつ、明確にはっきりと。





俺は、目的を絶対に忘れないぞ。
俺だけならともかく、姉さんやソルト、メディアンにアンナ、フレイ、ヤアン、里の者達の居場所を守るのに力が必要なんだ。
力を手に入れる為にソレを壊すなんて本末転倒で馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。




忌々しいが、ナーガのあの言葉は今になって判る。
個人的にはあの流れ込んできた“怪物”の思想は判らなくもないし、むしろ肯定的な思いさえ抱けるが……状況が違う、自分はそこまで自棄になるような状態ではない。






少しだけ鞘から抜いた剣の刀身に自らの顔を映し出して言うと、イデアは笑った。








あとがき





納得できるまで書き直しなどを繰り返した結果こうなりました。
後1話か2話でとりあえず1000年前編はひと段落かなぁ。
難産だけど、その分執筆作業が楽しいです。






そういえば以前
一時話題になった「彼女にしたい子、見ていたい子」という画像がありましたが
それの「見ていたい子」が作者の中のメディアンのイメージとあまりに一致していて驚きました。




髪を下ろすと本当にあんな感じです。




では、次回の更新にてお会いしましょう。







[6434] とある竜のお話 第二部 六章 4 (実質14章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/03/02 00:49







火花が夜空を彩る。
地面に描かれた、いや、設置された魔法陣から噴出した【ファイアー】の光球は
夜空へと向けて勢いよく残光を刻みながら跳ね上がり、小さな山の頂ほどの高度に到達すると“弾けた”



緑色の無数の小さな炎の花弁で空を彩り、幾つもの炎の球が空気の間で燃え尽きながら落下していく。
さながらそれは炎で描かれた華。正に花火という名前に相応しい。
冷砂が風に乗って全身に吹き付けてくるのを鬱陶しく思いながら、イデアは何度かその結果を見て頷いた。





砂の上に“配置”された魔法陣。たった今、花火を打ち上げる役目を果たした赤色の円形魔法陣は緩く回転しながらまだ火花を零している。




これの名は【フレイボム】
本来ならば、戦争用に作られた魔法の道具だが、今は火球を直上へ垂直に打ち上げる発射台の役目を果たすものだ。




この【フレイボム】の通常の用途は隠蔽の術を掛けた後に、地の中に埋めておき
その上を人に順ずる体重の存在が通った時に起動し、内部に込められた炎の魔法を最大出力では城壁をも削る威力の爆発と共に勢いよく打ち出し死傷させるというもの。
出力しだいでは負傷させるだけに抑えられる所がコレが優秀な理由なのです、と【フレイボム】を遥か昔に開発していた老火竜が無表情でイデアに説明した。






あの火竜はコレの設計図を“知識の溜まり場”から掘り出してきて、イデアに具体的な花火への改造図と共に渡したのだ。



威力も、爆発と炎の強弱のバランスも全てが意のままに調整できるのもボムの長所の一つ。
やりようによっては、民家や城壁を吹き飛ばす程の威力を発揮もするし、他にも人や馬をあえて生かしたまま、体の一部を欠損させる程度の出力に抑えることも可能。
ファイアーの炸裂と共に発生する爆破の破壊力は重厚な鎧に身を包んだジェネラルでさえも負傷させることだろう。





この世界にも前の世界のモノに運用思想が似通った兵器の様なモノはあるのか、使いようによっては非常に便利だなとイデアは思いながら
常日頃自分を支えてくれる男の意外な一面を見て、ありがたく【フレイボム】の量産に移ったのだ。
改良は非常に簡単だった、元々そういった改造や大量生産されることを前提に作られた品なので、手間隙はあまり掛からない。





【フレイボム】の器を一個作るのに必要な魔力は最下級の【ファイアー】一発分。そして更に器として作られたボムの中にファイアーの魔法を込めて使う。
しかも一つ器を作ってしまえば、何回も魔力を込めるだけで使いまわせるという優れもの。
解除したい時はかつてモルフを“崩した”時と同じように術そのものを靴紐の様に解いてしまえばいい。





魔力を陣へと送り込む。器である陣に中身が注ぎ込まれ、それに付随する意思の力により炎の色が変化する。
赤から青へ、そして緑を経て、黄色になり、最後は桃色へと。
全て思い通り。色の変化に爆発の多様性、炸裂した後の火の粉の飛び散り方、全てを1から里の者達と作り上げて調整した花火用の【フレイボム】は完成だ。




一個で何度も使いまわせるボムは花火大会をするのに数百から千ほどあれば十分に足りる。
他にも里の者がどういう風に爆発させるかの企画書も作成し、今はそれを設計図代わりにボムを生産し、力を込める作業の途中だ。
どちらにせよ、最終的な調整も考えれば後1週程度で大会は実行できるだろう。





それはそうと……。



イデアは横目で自分の斜め後方に居座る者達を見る。
最初からここに居て、それでいてフレイボムの調整に一役買った者を。



少しばかりイデアから離れたその者達は焚き火の様に展開した【フレイボム】の周りを囲んでいた。
ボムの中央からは花火ではなく小さな火柱だけが煌々と上がっていて、本当にそれは焚き火のようでもある。
それはまだいい。砂漠の夜の寒い中、ここまで完成と調整を確認しに来たのには感謝している。




だが問題は。





「食うか?」





長身にして屈強な成人男性並の身体を器用に丸めて、加工された木の棒に芋を突き刺しながら火で炙る男……ヤアンはイデアの視線に気がついたのか
頭だけを此方に向けて視線だけで現在進行形で焼き芋へと進化を遂げつつある紫色の芋を示した。
フレイボムの火力で芋を焼きながらその人物、ヤアンは無表情だ。
彼の周囲をイデアの作品であるリンゴたちがギャーギャーと何やら叫びながら手足を露出させてキャンプファイアーでもしているつもりなのか、転がりまわっている。




何も知らない人間が見たら絶対に叫びをあげて、逃げ出すような禍々しい光景。




何の儀式だ? これは。
咄嗟に頭を過ぎるのはそんな思い。何かの魔物でも呼び出す気か、こいつらは。
こんな儀式で呼び出されたら魔物の方もたまったものではないだろうが。




だが、これはいいタイミングだ、ちょうど小腹が減ったような気分なのだ。
食事の必要はないが、様は気分の問題。食べたいから食べる、ただそれだけ。




手に火傷防止の為、術で加護を掛けた後、少しだけ黒くなっている芋を受け取り、パカッと真っ二つに割ってみる。砂漠の夜と言う氷点下の世界では、こういう暖かい食べ物は貴重だ。
よく火が通っている黄色い焼き芋の内部をじっくりと見回す。鼻をくすぐるのは甘くて何処か懐かしい香り。
メディアンが作っている作物の一つで、何処に出しても恥ずかしくない一級品の品物。



一口食べてみる。何度か息を吹きかけて冷ましてから。




「───」





感嘆の息が漏れる。甘い、だがしつこくない。それでいて歯ごたえもそこそこあり、ぼそぼそと身が崩れない。
幾らでも食べれる味と食感。地竜の作品は伊達じゃない。




「この術は便利だ」




火の放出を調整しながらヤアンは黙々と芋を焼いている。真紅の瞳を細めながら、何処までも真摯に。
ここまでこの男が集中した姿は遊戯版で遊んでいる時ぐらいにしかイデアは見たことがない。
思えば、この芋の焼き加減もいい味を出している要因の一つだろう。






本来は地雷として、他者を傷つけるための魔法を花火や焼き芋に使っていると思うと、イデアは愉快気に笑った。
こういうのもありじゃないか、と。




「当たり前さ。里の色んな魔道士が協力してくれて出来たんだから」





「私も協力したぞ」





丁度手ごろな感じに焼けた芋を火から離しててしげしげと眺めながらヤアンは言った。
ぐぅっという音が鳴ると、イデアは自らの腹を見てみる。自分ではない。
周囲のリンゴたちも否応に頭を横に振る。そもそもの話、こいつらには胃さえない。



イデアの視線がヤアンに向けられると彼は涼しげな顔で告げる。





「それも私だ」





芋のコゲを取ってから齧り付くと……彼の動きが止まった。
はふはふと熱の篭もった息だけを口から漏らして、何とか口内の芋を飲み込むと彼は頭を傾げる。



熱いな、そう零す彼にイデアは肩を竦めて笑う。
もってきた皮袋の中の水を少しずつ飲んでいくヤアンを見て呆れ混じれに言葉を紡いだ。






「焼きたてを作ったのはお前だろうに」






自分が猫舌だと知った火竜が解せぬと頭を捻り続ける光景の隣で
リンゴたちは彼の真似をして一様に解せぬと言いたげに頭を傾げて遊ぶ。
なんとも奇妙な光景だが、これも悪くないとイデアは思うと同時に、この男は何処へ進んでいるのだろうと一抹の不安を抱くのだった。























さて、と。イデアは無事にボムの最終調整とその効果の確認を終えて殿に帰宅すると、背伸びをして考える。
そろそろイドゥンの所に行ってみるか。ちょうど用事もなくなり、今夜は暇でしょうがない。
時間はたっぷりあるし、何か話の種を幾つか考えておくのも悪くない。



開けられた窓からは月夜の光が差し込み、イデアの部屋を柔らかく照らしていた。
肩に一体だけ真っ赤なリンゴが乗っており、何やら小さく鼻歌を歌っている。



他のりんごは全て窓際で機能を停止し、仮眠状態だ。




イデアはふと思いつく。
あのテュルバンとの戦いの際に起こった出来事……もっというなら、テュルバンを潰してからの思考の時間の時に起こった出来事を。
首に掛けられた鱗を撫でてみる。鮮やかな紫色……本で読んだ魔竜のモノと同一の色へと変化をした鱗はツルツルとしていて、金属の様な光沢を放っている。




何度か触り心地を確かめてから手を離し、眼の前に持ってきてじっくりと眺めてみた。
肩に乗っていたリンゴが乗り出してじぃっとイデアと同じように鱗を観察する。




あの時、この鱗は光っていた。必死に、小さな光を放ちながら自分と言う存在を主張していたのだ。
あれは一体なんだったんだろうか? アレ以来この鱗は全くうんともすんとも言わない。
覇者の剣の柄を触り、片手で持ち上げて鱗と並べる。





神竜。





自分を胸中で指差し、その指を別の場所へと向ける。





魔竜。






鱗へと意識を向けて、思う。変化した神竜。モルフを創造するのと同じように戦闘竜を作り出す竜。
一個の完成された戦闘の為だけの命を延々と作り出すその役割はまるでそういった道具だ。
もちろん、イドゥンを道具だなどどほざいた者がいたら、無尽蔵の地獄を見せてやるが。





幸いな事にもはやその存在は全てこの世にはいない。全てあの戦役で死んでしまったのだから。
それに神竜だろうと魔竜だろうと自分にとって大した違いなどない。
魔竜よりも遥かにおぞましい存在に変貌を遂げようとしていた自分にとっては、魔竜は可愛いものだ。








大方戦闘竜の製造は強制されたのだろうとイデアは思っている。それは戦役から10年を経て確信に昇華させた答え。
幾らナーガに捨てられて気が動転していたとはいえ、彼女が自分から進んで戦争に参加するとは考えづらい。
そして竜族の術には思考を封じ込める、心の揺らぎを抑える術があるのだ。
外部からソレを破るのは簡単なのだが、自分の意思で術を破るのは相当に困難なモノが。




あのアクレイアでイデアが神将の像の前で男に使った術はそれのちょっとした応用だ。




馬鹿なことをしたと思う。嘲笑もなく、嘲りも感じずにイデアは淡々と断じた。
何も判っていない。イドゥンから心を奪ったであろう存在は何も判っていない、どうしようもない痴愚だと。
馬鹿だろと心から言葉を突き刺してやるとイデアは首を振った。




神竜の力の原動力をわかっていない。竜の絶大な力の源であるエーギルとは何か、よく考えてみるといい。
感情の強さ、意思の強さこそがエーギルの輝きに比例するというのに。
比類なき強さを発揮させるのに必要なのは正にせよ負にせよ、莫大な感情の渦。






強い願いと感情の揺らぎが胸の内の“太陽”を爆発させる燃料。それさえあれば本物の太陽の様に凄まじい活力を生み出す。
それを断たせるということは、剣士から剣と腕を奪い取り、画家から視力を奪い去るようなもの。
つまるところ、神竜の力の源泉をなくしてしまったのでは、改造神竜たる魔竜はその真価を発揮することは出来ない。






言われた通りに動くだけの人形のような魔竜など何だというのだ。さぞや人は呆気に取られただろう。
殿に攻め入って、そこにいた魔竜が……。





不意に脳裏を映像が飛んでいく。テュルバンのアルマーズを覗き見た時に映った絵が。
思い起こす。あの絶叫を。柔らかい草原の風の様であり、その実確たる信念を宿した女性の声を。
悲痛な色で、懇願の言葉を紡ぐあの声は一体誰のだったのだろうか。






ふぅと白い息を吐いて感情を逃がすと次に覇者の剣に視線を向ける。





始祖竜。






言うまでもない。神竜と対極の位置に属する竜。
一時的にだが、この存在を取り込み同化したことで、イデアは朧に一つ判ったことがある。
何故始祖は強いのか。始祖と神の戦争で、なぜ始祖は神と互角以上の戦いを繰り広げ、魔竜とさえも争えたのか。




始祖の強さの理由が何となく理解できた。
あの熱に浮かされたような力に酔った状態を思えば思うほど、あの時の自分は始祖に近づいていたのだろう。




始祖は恐怖を超える。始祖は禁忌を恐れない。
始祖は感情を爆発させ、エーギルの桁を跳ね上げることに、制御できないという恐れを抱かないのだ。
だがそれは勇気じゃない。イデアは小さく断ずる。違う、それは単なる無謀だと。




現に始祖は敗れたではないか。滅んで自我も意識も身体も、何もかも全てを失いこんな一本の剣になっている。
これが始祖の末路だ。感情が枯渇したのか、それとも自分の感情と力に飲まれたのか、はたまたナーガによって滅ぼされた結果がこのざまなのか。
はたまた“始祖”という概念そのものがこの剣の形をとっているのか。



もしくはその全てか。仮に神竜に勝っていたとしても、今度は始祖同士での頂点を巡る争いが起こっていたかもしれない。
クックと喉の奥でイデアは笑った。それではまるで人間のようじゃないか、と。





髪の毛を小さく引っ張られる感じがして、イデアは肩に乗っているリンゴを見る。
剣を腰に戻し、鱗から手を離す。リンゴが何やら興奮した様子でしきりにイデアの髪を引っ張り、そのまま飛び降りた。
何をしたいんだ? 自分の被造物の内部にエーギルを流し、その思考を“読む”とイデアの頬が笑みを作る。




ゴロゴロと球体故に床を暫く転がってから止まったリンゴは何とか体制を立て直すと扉に向ってはねていく。
扉は閉まっているので、その前でゴロゴロと左右に転がるとしきりに開けろという念をイデアへと飛ばし始めた。




近場にメディアンにあげたあのリンゴが来ている。会いたい、久しぶりに会いたい。
言葉にせずとも伝わる感情を受け流しつつ、イデアは微笑みつつ扉を開けた。
木製の扉がぎぃという掠れた音と共に開閉し、廊下の冷えた空気が部屋に流れ込んでくる。




飛び出すように転がり出て行くリンゴの後を大股でゆっくりとついて行くと、やがては殿から出てしまった。
雲ひとつない荒涼とした夜空に、真っ青な三日月、遠くから不気味に木霊するのは砂嵐の轟音。
そこに黄金のリンゴはいた。何やら月夜の光を反射してキラキラと輝いているのが無駄に神々しい。




そしてそのリンゴをここまで運んできたのか、ソルトもいる。
全身を暖かい毛布の様な厚手の服でぐるぐる巻きにした彼を見てイデアは少しばかり非難するような視線を向けた。
病み上がりなのにあんまり夜風にあたるのは感心しないなと思いながらイデアは声を掛ける。






「お前か。どうしたんだ、こんな時間に」






「えっと、こいつがどうにも騒がしくて……」





肩に乗っかっていた黄金リンゴが飛び降り、イデアの足元に擦り寄って、そのまま甘える子猫の様に頬ずりを始める。
自らの造物主に対して親愛の情を向けてくる黄金リンゴにイデアは屈みこむと、両手で掴みあげ、赤リンゴの傍へと降ろしてやった。
ギャーギャー喚きながら再開を喜ぶモルフに夜なのだから静かにしろと念で命じておくと、リンゴたちはしゅんっと黙りこくってしまう。




ふーとソルトが真っ白な息を吐く。彼の全身を包んでいる茶色い毛布の様な服を“眼”で見ると、そこに掛けられたメディアンの術が見えてしまい微笑ましい気分になる。
なんともまぁ、贅沢な一品だ。感想はその一言につきる。
自動で持ち主の体温を最良の状態に保ち、それでいて泥や埃、その他諸々の汚れを受け付けない品など、エトルリアの貴族でも所持してる者はいないだろう。



だがそれにしも問題はリンゴ達。薄々思うのだが……自分はあの食用モルフにあんな自我を与えたか? と。
生命を作るということは、一種の親になることなのかもしれない。
ならば作り出された子供が親の予想を超えるということも珍しくはないのか、そうイデアは思った。






「……それ、食用なんだけどなぁ……食べるモノのはずなのに、何時の間にか飼い犬みたいになるとは」





ポツリとイデアが呟くとソルトの顔が真っ青に染まる。先ほどまで黙り込んでいたリンゴ達が命令さえ忘れて全力で騒ぎ出し、騒音を発する。
いやだぁああと涙ながらに叫んでいるようにも聞こえる二重の絶叫。
とんでもないとソルトが首を何度も横に振ると、黄金色のリンゴをがしっと胸に抱きしめて、イデアから庇うように腕で隠す。






「やめてください! こいつは僕の友達なんです!!」





友を庇うという感動的な光景なのに、何故か喜劇染みているのは友がリンゴのせいか、それともソルトの表現力が高いせいか。




黄金色に輝くリンゴが友達だと息子が叫んでいる所を見たらメディアンはどうなるのだろうか、そうイデアは思った。
イデアがリンゴへと眼を向けて、そこから流れ込んでくる思念とリンゴの記憶を読み取ると
知らず知らずの内に神竜の眼には憐憫の念が浮かびあがり、生暖かい微笑と共に首をかしげた。






……病気の時、見られちゃったんだな。





男として幾ら相手が母とは言え、かなり心に傷を負ったことだろう。
更に深くリンゴの記憶を読もうと思い……やめた。他人の家庭を覗く趣味などない。
ただ一つ、朧気に浮かんだ彼の家庭のイメージは幾らかリンゴの脚色が入っているとはいえ、とても暖かい家庭だということ。
そこに一抹の嫉妬と羨望、そして祝福を覚えたイデアは言葉を発する。







「そいつはメディアンにあげたもので、彼女からお前に渡ったなら、俺にそれをどうこうする権利なんてないよ」






さすがにリンゴと友達になるとは思わなかったけど。どちらにせよ、大事に扱ってくれるなら製作者としては何も文句などない。
満面の笑みでリンゴと笑いあうソルトという図はなんとも言いがたいが、微笑ましくもある。




「そういえばメディアンはどうしたんだ、お前が夜一人で出歩くことを許可したのか?」





「母さんは、今夜は用事があるみたいでちょっと外周の畑の方に行ってます。何でも新しい食べ物を豆と小麦から作るんだ、とか」





最近味噌だけでは物足りなくなったあの地竜は豆や小麦から新しい何かを作るために色々とやっているらしいという事を
息子から教えられたイデアは、彼女が最近提出してきた許可を求める書類の中に
タルや豆などを醗酵させたりするのに使用する小屋の建築の許可を求める資料があったのを思い出す。




今度は何を作るつもりなのか。チョコといい味噌といい、彼女の作るものは色々と独創的だ。




「完全に出来るのには寝かせる時間も含めて1年は掛かるとか言ってましたね」





1年なんて竜族からすればあっという間なんだろうなぁと続けるソルトにイデアは少しだけ視線を細めた。
じわりと胸の中で何かが動いたのを感じ、頭を少しだけ揺らす。



この後の予定を考えて……降ってわいた考えにイデアは自分でも判らないほどに混乱を覚える。
考える時間は一瞬。だが……答えを出すとイデアはすぐに喋った。





「……なぁ、ソルト。ちょっと今晩、時間あいてるか?」






きょとんとした顔でイデアを見つめると、ソルトは答えた。
抱きしめていたリンゴを放すと、紅いリンゴと一緒に殿の中へと走り去っていく。





「ええ、一晩ぐらいなら大丈夫ですよ。……何か僕の力が必要なんですか?」




「いや、そういう訳じゃない……ちょっと……うーん」






妙に口の回転が悪い自分を呪いつつ、イデアは唸りつつ頭を傾げて思う。
何と言えばいいのだろうか、上手く自分の感情を表現する言葉が出てこない。
結局口から出たのは他愛もない、何の飾り気も施されないありふれた言葉だった。





「少し……ついてきて欲しいんだ。朝方までには絶対に帰れる。 メディアンには俺から言っておくよ、そういう術も使えるからさ」





イデアの言葉に眼を瞬かせると、ソルトは小さく笑う。暖かく、友に向けるような親しみに満ちた笑顔。





「イデア様。そんな事言わなくても僕は貴方が来いって言ったなら、付いていきますよ」





うーとイデアが小さく唸ると、頭を掻く。どうにも子供扱いされたような気がしたのだ。






「武器とかは必要ですか?」






「いや、武器はいらない。敵とかと戦う訳じゃないんだ」





何だろう? そう言いたげな視線を送ってくるソルトにイデアはようやく相応しい言葉を見つけて発した。









「ちょっと、家族に会いに行くだけさ」








何かが胸の中で吹っ切れた清々しい感情と共にイデアは無邪気な笑顔を見せてそう言い放った。
ソルトはその笑顔を見て、急に眼の前の神竜が若返って、幼子の様な雰囲気を出しているのを感じ、それが楽しくて小さく笑って答えた。

























世の中には、自分の想像を絶するモノがあるということを改めてソルトは思い知った。
母に竜を持ち、友や知り合いにも多くの竜やその血を受けついだ者がいる自分は
外の世界の人間よりも多少は超越的なモノと触れ合う機会が多いと思っていたが、この場所は彼の想像を遥かに超えている。





イデアに誘われ、転移の光と共に空間を越えた彼は次の瞬間、巨大な魔都の入り口の前に立っていた。
人智の及ばない、絶大な存在が作り出した芸術の前にちっぽけな人間は晒されていたのだ。





ここはかつての【竜殿】、その入り口。




風が吹きすさぶ。山間特有の、天から直接冷気を流し込むような突き刺す寒風。
思わず身体を縮めると同時に、纏っていた衣服が込められた魔力によってソルトの体温を調整していく。
身体の芯から熱が灯されていくのを心地いいと思いながら、ソルトは眼前の建物……竜殿の入り口を首を大きく動かして観察。




天に浮かぶのは朧な、蜃気楼の様に幾つも、さながら湖面に映り込み揺れているように不規則に左右に振動する蒼い月。
ここはかつて人竜戦役の最後の戦いがあった地、神将と竜族たちの激戦区。この場所から古い“秩序”は崩れていったと母に教えられた。




そして母の故郷でもあると。




異様な雰囲気だった。竜の神々しさとその叡智、積み重ねてきた途方もない時間を形としてこの世に顕現させたような巨大な建物。
入り口の時点で既にその大きさは、母であるメディアンが竜化してでも何とか通れそうな程に大きい。
それも当たり前か、この建築物は竜族が自分たちの大きさに合わせて創造したものなのだから。





微かに漂うのは死の匂い。10年も以前に行われた戦いの残り香はまだこの世界に染み付いている。
ただの人間の自分など、この地には相応しくない。そう、眼前の真っ黒な闇を孕む【竜殿】は自分を拒絶しているようにも見えて足が動かない。




そんなソルトを見て、イデアは気さくに笑った。彼の腕を取り、多少無理やりにでも入り口へと引っ張る。




「この建物は、名目上はもう俺のモノなんだ。家主の俺が入って良いって言ってるんだから、遠慮はいらないよ」





殿の入り口が鮮やかに黄金色の輝きで彩られ、壁が発光を始める。主であるイデアの力に反応し、殿が鼓動を開始。
魔力を持たない彼でさえも判るほどの力の奔流が【殿】の中で巻き起こる。
壁や床が眼に優しい柔らかな光を湛えて胎動し、主の友を歓迎するように点滅。






意を決して踏み出す。殿の入り口から漏れ出る冷たい空気は仄かに血潮の匂いが混じってる、それは人のものか、それとも竜のモノか。






「イデア様は里に来る前はここで過ごされたのですか?」






自らの少し前を歩く竜へと訪ねると、イデアは何処か機嫌が良さそうな空気と共に振り返り、語った。
視線にほんの僅かな過去への羨望を込めながら。





「そうだよ。産まれてから10年……と、ちょっとかな、それぐらいの時間をここで過ごしたんだ」






最も、余り自分の部屋から外には出なかったけど。そう言いつつイデアは迷うことなく進んでいく。
神竜が一歩進むたびに、殿が鼓動するように微弱に振るえ、彼の足元、隣接する壁、巨木の様な柱、その全てが発光し、複雑怪奇な竜族文字を蒼く表面に映し出している。





「……何か、凄く建物が震えてるような感じがするんですけど」





害意はないと言っても、地震の様に建物そのものが打ち震える様は不気味極まりない。
いや、何となくではあるが、地震とは違う感じがする。
直感的に思ったのは、竜化した母の心臓。あれのような鼓動だ。



一回脈を刻むたびに流し出される力の総量はもはや計測することさえ叶わない。






「この【殿】は神竜の力によって動く一種の生き物みたいな存在でね、俺が入ってくるといつもこうやって動き出す。どちらにせよ、お前に害は絶対にないから気にしなくても大丈夫だ」






所々に散乱する瓦礫を乗り越え、紫の光で彩られた道を進んでいく。
しばらく進むと二人は巨大な回廊へと足を踏み入れた。
余りにも巨大な回廊。開けた平原の様な横幅に、天の高さはもはや目視することさえ叶わない程の地。



光源は壁や床だけという日の光さえ入らない場所。




「お前は【殿】の事をメディアンから聞いたことはあるか?」





「……何度かは、最も母さんは戦役が始まる少し前からはほとんど寄り付かなくなってたみたいですけど」






大戦直前時には殿の空気が変わっていたと語る母を思い出す。
先代の長に従う者達と、彼に反抗的な態度を見せて積極的に交戦論を主張する竜の派閥との間で水面下で争いが起こっていたと母は言っていた。
地竜族として、竜の中でもかなり強い部類に入る母はそういった争いごとは嫌いらしく、巻き込まれるのを避けたのだ。




今となっては全てが過去の話だが。もう何もかもが遅い。
時々母が竜族についての昔話を語ってくれる時、ふとした拍子にその顔に影が入るのをソルトは知っていた。





気持ちを入れ替えてソルトはもう一度回りを見渡す。
延々と何処までも続く果ての見えない回廊の果てを見据えて、彼はふぅと溜め息を吐く。
大きいなぁ、いや、そもそもここってどんな用途で作られたんだろう。
頭を回転させてこの場所が何に使われるかを考えて遊ぶ。






本で見たことのある神殿と言う建築物にそっくりな風貌だと思う。
神を祀り、お祈りを捧げる為に人間がよく作る建物。





昔はエレブの各地に竜を祀るための神殿は多数あったらしいが、今ではエリミーヌ教がそれに取って代わっている。
ならばだ。竜の本拠地である竜殿の地下に作られたこの施設は何の役目を果たすのだろうか。





竜にとっての神とは……?  





物珍しそうな目でソルトはイデアの背を見た。
神竜。文字通り神の如き力を以ってこの殿を支配する超越種の中でも次元違いの種。
ならば、ここはイデアにとってどんな場所なのだろうか。







「イデア様……ここは、何を行う場所だったんですか?」





どうしようもなく気になってしまい、思わず問いを発してからソルトはしまったと思った。
今、自分はイデアという男の根源的な部分へと足を踏み入れているのではないか、迂闊な事をしてしまったら、彼との関係が拗れるかもしれない。
そんな恐怖感を噛み締めながら返答を待つと、イデアは頭だけで小さく振り返ってはにかむ様に笑った。





「俺もここについては詳しく判らないんだけど……多分、ここは竜が産まれる為の場所だな。……俺達もここで産まれたんだ」






イデアが視線を遠くへと飛ばす。最も自分が満ち足りていた時間、楽しかった時期を見る。
母さんみたいだ。ソルトはその眼に見覚えがある。メディアンが自分と過ごしていた過去を感傷と共に振り返る時に見せる眼。
今を見ていない眼、その瞳は心の中にだけ存在する輝かしい記憶を眺めている。






それほどイデアにとって大切な存在、先の言葉を借りるならば、イデアの家族がここにはいる。
慎重に、繊細に、割れ物を扱うように精神を研ぎ澄ませると歩を進める。





四半時ほど発光する石畳の道を辿っていくと、やがて一つの祭壇の姿が映る。
祭壇はそこだけが爛々と輝いており、それなりの距離があるにも関わらず人間の眼でも遠くから認識できるほどに眩しい。





山登りでもしているような傾斜と長さを持つ階段を昇りきり、小さく息を吐き出した少年は祭壇の上部を見渡して……気がついた。
何かが奥に……あれは、水晶? 丁度馬車一台分ほどの面積が凍り付いていて、殿の光を反射している。
妙な結晶だ、ソルトが知る氷や水晶とは何かが違う。






まるで空間そのものが凍り付いているようだ。
そこに向ってイデアが無言で歩いていくと、無意識にその数歩後ろを付いていく。
段々はっきりと水晶の形状が判って来るに連れて……息を呑む。






中に、何か、いや、違う、誰かが入っている。
重ねて数歩近づき、今度こそソルトは驚愕した。



唇が震え、意識が呆然とし、思わず呟くほどに。






「イデア様……?」






いや、違うとすぐに頭は認識する。イデアは眼の前にいるし、何より朧に判る髪の色や長さが違うし、体格も少し違う。
となると……この人? それとも竜か? 彼女がイデアの言っていた家族?
何を言えばいいのか、どう行動すればいいのか、何が最も正しいのか、全てが判らずに行動を停止させるしかない。





「…………似ていますね」





瓜二つという程ではないが、それでも結晶の中の少女はイデアとよく似ている。
閉じられた瞳、顔の造形、纏っている空気の様なものまでも。






「双子の姉だからね……魔竜の事は知ってるだろう? 彼女──俺の姉のことだよ」







姉……そうか、そういえばと回想する。神竜と近い種である竜……。
【魔竜】のことを。外界からイデアが持って来た書物、戦争関連のソレに記された存在の記述を。
確か本には無尽蔵に竜を作り出し、それら全てを支配する竜の王だと書かれていた。





そして母はその事柄を幾つか修正するように教えてくれたっけ。
魔竜は竜の王なんかじゃないよ、いや、そもそも人間でソレを知っている人なんて恐らくほとんどいないだろう。
同時に母は悲しそうな顔をして言っていた、ほんの小さなすれ違いが、あの悲しい竜を産んでしまったのだ、と。







改めて食い入るように少女を見てみる。
こんな小さな子が【魔竜】なのか。この少女があそこまで人間達に悪の権化の如く描かれていたのか。
全く、困ったものだ。内心でソルトは肩を竦めた。





幾らなんでも無理があるだろう、どれほど事実を捻じ曲げたのか想像もつかない。
姉が封じられた結晶に竜がそっと手を触れさせる。愛しむ様に、撫でる様に指で表面を辿った。







近くにいるのに触れられないその光景を見て、少年は少しだけ胸がざわつくのを呆然と感じる。
石畳の上を音を立てて歩き、イデアの横に並ぶ。
最初に少女を見て、次にイデアの顔を見比べ、似ていることを再び実感。






「生きて……いるんですよね、この方は」




「生きているさ、とりあえずの問題はこの封印なんだけど」





解けない、今の所色々やってるんだが中々進展できない。
続けられた言葉に少年は心をはっきりと揺さぶられた。
大切な家族と触れ合えない。すぐ傍に居るのに、話す事さえも出来ない。



それは語呂の少ない自分では上手く表現できないが……とても悲しいことだと思った。




隣のイデアの視線を感じ、頭を動かすとイデアが自分に向き直って、眼を見つめてくる。
紅と蒼の眼に自分の顔が映っていた。




「もう一度お前に謝らせて欲しい。俺がアルマーズを手に入れたかったのは、里の為じゃない、姉さんを助ける為だった……私事に巻き込んで……ごめん」





小さく、しかしはっきりと頭を下げて謝罪する竜に人間は頭を掻いて、苦笑を浮かべた。
紫色の髪が揺れる。





「謝ることなんてないんですよ……僕はあの時“貴方の力になりたい”って言ったじゃないですか。
 長であるイデア様と家族として姉を助けたいイデア様、どっちにだって僕は自分の意思で協力するんだから、謝罪なんてされたら……それこそ困ります」





少年の言葉に硬直したイデアの隣に並ぶと、ソルトは悪戯でもするような表情を浮かべて一言。





「背、抜かしちゃいましたね」




「え?」







ちょうどイデアの頭はソルトの肩ぐらいにあり、イデアがソルトを見上げる形となる。
いつの間にそんなに伸びたんだ──イデアの心の呟きが聞こえた様な感じがして面白い。
くっと、たまらず笑い出すと、釣られて竜も笑う。空虚な殿の中に二人の笑いだけが木霊していく。





一通り笑い終えて場を仕切りなおすと、ソルトは声をあげた。
視線が結晶に向けられ、息を大きく吸う。





「……一つだけ、聞いていいですか?」





「何だ?」






一泊。意を決して彼は問いを投げかけた。
吐き出される息が白く虚空を染める。






「どうして僕にこの方を見せたのですか?」





イデアが沈黙し、眼を伏せさせ、言葉を捜すように視線を泳がせた。






「何でだろう」





自分でも何を言っているか理解できないようにイデアは首を傾げて、困惑の視線を飛ばす。
特に大きな理由なんてない、そう言外に述べるような仕草。







「あえて言うなら……知って欲しかった、のかな?」





首を捻りつつ考え込み、もう一度水晶に、姉に視線を向けるとイデアはそのままソルトを見ない。
理解できない感情に翻弄されながら、彼は溜め息を吐いた。





「幸いなことに、俺には時間があるから彼女を助けるのに手間隙は惜しまないで済んだけど……」





視線が自分に向けられる。真っ赤な眼と、蒼い眼が自分を見ている。
寿命という言葉を避けて、時間と言う単語に置き換えている所にイデアの労わりを感じつつも、人間は内心で別にそんなこと気にしていないと笑った。





「お前は、その、なんだ。後悔しないように、ね。 世の中には取り返しの付かないこともあるからさ」
 




少年の心が微かにざわめく。自分のやりたいこと、自分に残されている時間、欲しいモノ、何をすればいいのか。
答えは朧に判っているが、決断が出来ない、勇気が足りない。
胸の中で軋みをあげながら考えを巡らせ、少年は竜の聖地で悩みに悩むのだった。






「お前が生きている内に、姉さんとあわせてあげたいなぁ……」





イデアのその呟きがやけに印象的に耳に焼き付けられた。






















その日、ナバタの里は普段とは少しばかり様相が違った。
道を行き交う人々は何処か興奮した趣で、いそいそと自らの仕事に取り組んでいる。
太い木製の柱を地面に突き刺したり、何かの荷物を満載した箱を持ってきたり、中には簡易な椅子を道の端においてそこでゆったりしている者もいる。




太陽は既に地平線の彼方に沈みかけていて、辺りに暗闇が差しているというのに里の活気だけは昼間以上に溢れていた。
街のいたるところに松明や、発光する壁などが取り付けられ、その灯火によって夜の闇を跳ね除けているのだ。




ざわめかしい人ごみの中を何処で覚えたのかは定かではないが、トンボ取りだなどと騒ぎながら蹴鞠をトンボに見立てて蹴って遊ぶ子供たちが親に注意される
そんな里の道を幾つかの荷物を持ってソルトは歩いている。左肩には何本かの細い丸太、右肩にはテント用の布を纏めたモノを乗せて彼は悠々と行く。





草で幾重にも編みこまれた縄をぶんぶんと回して「縄跳び」などをして遊んでいる子供を見ると彼はほくそ笑みたくなる。
昔は自分もあんなことをしたっけ、確かあの時は3重飛びの更に上を目指して色々やったなぁ。
その結果、安定感を出すために重みを足した縄が勢いよく足に当たったときのあの痛さときたら……。






ぶるっと痛みを思い出して身震いし、彼は喧騒を横目で眺めつつ進んでいく。
途中、何人か、自分の同級生……母と一緒に幼少時代に勉学を習った者達とすれ違う。
皆と軽く挨拶をしながら荷物の輸送を続けると、ふと一組の男女が眼に留まる。





彼と彼女のことは知っている。確かあの二人は幼馴染で昔から仲がよかったはず。
記憶では、彼女は彼に対して中々素直になれなかった子で、小さい頃からよく喧嘩をしていた。
好意を抱いているのに、ついつい本音とは違う言葉が出ると嘆いていたっけ。





ふと、目ざといと我ながら自嘲する。気がつけば今の彼らの空気を読み、どういう関係なのかを推察してしまうのだから。
どうやら暫く見ない間にあの二人は、かなり“密接”な関係になったらしい。
以前では考えられない事に腕を組んで、仲睦まじく歩いている。




結ばれたのか。一瞬で答えを出すと、少年は意識的に視線を逸らし、興味のないふりを装いつつ、二人に会釈をしてすれ違う。
ペシペシと頬をたたかれてソルトが眼を向けると肩の荷物の上に何時の間にかリンゴが乗っていて、何かいいたげに左右に揺れて、鳴いていた。
リンゴに眼はないが、確かに存在するだろう視線だけである程度は何がいいたいか判る程には仲がいい彼は理解する。






───妬いてる? 





かもしれない。違うかもしれない。どうだろう? 
踊り狂う感情の渦を整理しつつ少年は頭を捻る。今の自分は満たされてこそいるが、明確に欲しいという願いもある。
彼には夢がある。彼女と並び立てるような存在になるという夢が。最初は子供の親に対する憧れから始まった願い。




何年も努力を続けて、彼女が存在している高みがどれほどの位置にあるのかを理解すればするほど彼は諦めとは対極の感情を抱くことが出来るのだ。
何度も何度も鍛錬で叩きのめされる度に彼女の強さを知って、手を伸ばして起こされるたびに優しさを実感する。
そんな彼女とずっと一緒にいられない事も知っている。母が、彼女がつい最近までは自分に人から外れた存在になってほしいと願っていた事も。




十五年程度、物心ついた時から数えれば十年ちょっとの時間だが、自分はこの世界で最もメディアンという存在を知っているという自信があった。
普段の時と仕事の時、戦闘の時ではガラリと印象を変えることも、意外と涙もろいところも、探究心旺盛なところ、大胆な様に見えるけど、実は繊細な心をもっているところ……。





今自分の胸で周っている感情を何となくだが理解しているからこそ、怖い。
そして決断するための時間は有限であるという事も怖い。
ふぅっと息を吐き出して深呼吸。今はこういう事をうだうだ考えても仕方が無い。




自分のやるべき事を全て果たしてから頭を巡らせよう。お世辞にも自分は頭がいいとは言えないのだから、考えるより行動あるのみ。




目的の場所…比較的広く、塗装されていない地面は砂ではなく土である──新しいテントの建設予定地にたどり着くと丸太と布を下ろす。
後は流れ作業の様にクイを地面に打ち込み、丸太で基礎の部分を作って、縄で縛った後に布を固定していくだけ。
黙々と無心で作業を続けていた彼がさて次はと思った思って回りを見渡すが、持って来た一式の道具は全て無くなっていた。




変わりに眼の前にあるのは4人は入れそうな小型のテントだけ。屋内で言う所の“壁”のない、屋根とそれを支える柱だけの吹き抜けの奴だ。


どうにも気がつけば全ての作業は終わってしまっていたようだ。後は待つだけ。






「あれ? もう終わってたのかい。手伝おうと思ったのに」




後ろから掛かる声は母のモノ。普段より幾らか声が高いのは、やはり彼女も祭りは楽しいからだろう。
振り返ると、宙に幾つもの鍋や机、食材を等浮かばせて、更には両方の手にいつも家中で使っているシンプルな構造の椅子を持っている彼女が居た。
机をテントの真ん中ぐらいの場所に宙から降ろすと、椅子を配置し、フワリと彼女は腰を降ろす。





両肘を机について、一息つく竜の隣の隣の椅子に座ると、リンゴが肩から飛び降りて机のど真ん中に鎮座。
ゴロゴロとくつろぐ姿を見て、親子は和んだように笑った。
笑いが収まった後に訪れるのは長い沈黙。




だが、決して場を淀ませる不快なものではなく、むしろ暖かい空気の満ちた無音の世界。







「母さんは、長のやる“花火”ってなんなのか、知ってる?」




「う~ん、知ってるといえば知ってるになるんだけど……アレをどう言えばいいのか」





一応魔道士としてイデアの使用する術が気になり、詳細を見せて欲しいと頼んだ彼女はある程度の概要を把握しているために言葉を詰まらせる。
爆発が花になる、なんてよく考え付いたものだと感嘆しつつ、ここでソレを言うべきかとどうか悩みを覚えた。
物語の先の内容を楽しみにしている者に無情にも告げてしまうような、そんな罪悪感に囚われたのだ。






「見てからのお楽しみさ。 最初はあの大きな音とかに驚くかもしれないけど、凄いモノだってのは確かだね」





そういわれると余計に気になる。顔にありありとそんな文字を浮かばせている息子を見てメディアンは頬を緩ませた。
顔に当たる風はそろそろ夜の冷たさを宿してきており、間もなく夜がやってくることを予感させる。
自分は大丈夫だが、息子は違うだろうと思い、言葉を続けていく。




「それはともかく、寒くないかい?」





「……そういえば、もう夜なんだっけ」






言われて始めて今の時間のことを思い出したソルトは自らの腕を摩った。
昼の日射対策に全身を布で覆っているとはいえ、それはあくまでも太陽光の直射を避けるためであり、寒さを温和する目的のではない。
夜の時間帯は基本は外に出ないのだが、今日だけは特別だ。





再度訪れるのは、暫しの沈黙。
生暖かい空間は居心地がよいが、同時に何とも言えない気恥ずかしさをソルトは感じる。
どうにもむず痒いのだ、胸の内側が。





メディアンから意識的に視線をそらしつつ、空を眺めてみて、彼はため息を漏らす。
砂漠の夜は、砂嵐などがない日は一つの芸術として成立するほどに美しい。
こんな下地の時点で完璧に等しいキャンパスに花火はどういう風に発現するのか、全くもってわからない。





「……【殿】に行ったんだってね、長から聞いたよ」





びくりと知らずに肩が跳ねた。だがすぐに気を持ち直すと、素直に頷いて答える。
そんな息子にメディアンは眼だけで笑いかけると、言葉を続けていく。
過去を見ずに、息子だけをしっかりと眼の中に写し取りながら彼女は言った。






「あそこの入り口には何度か頭を酷くぶつけたことがあってさ、それ以来竜の姿では戻らないことにしてたんだ」





どんな話が飛んでくるかと思いきや、とんだ失敗談を聞かされた息子は破顔し、ぐたぁと机に上半身を突っ伏す。
確かに彼女の本来の姿の巨体さを考えると殿のあの入り口でも入りきりそうにはない。
その時、ちょうどソルトの視界の端で里の外れから小さな光が空に向かって打ち上げられる。




瞬間、空に“花”が咲いた。




ドンと、一泊遅れてから空気が重低音の波によって揺れる。
反射的に机から跳ねるように身を起こし、身構える彼に竜は苦笑と共に視線を動かし、空に咲く“花”を見上げて言う。






「だから言ったでしょうに、絶対に驚くって」





楽しそうに、心の底からこの会話を楽しんでいる表情でメディアンはソルトを見てから、空へと眼を戻す。





一人と一柱の眼の先では巨大な紅蓮の炎が空中に炸裂し、さながら花弁のごとく雄大に広がっている。
花の輪郭が崩れ落ち、一つ一つの小さな火の粉となって大地へと落下していく光景さえも心を揺らす切ない何かがあった。
続けて数発、色は青、緑、黄色、これらを含んだ数色の火の玉が打ちあがり、炸裂。色とりどりかつ、大きささえも違う花が幾つも空に咲く。







とたん、歓声が里に響く。男と女も、老いも若いもそこに関係はない。
生まれて始めてみる圧倒的な芸術に魅力され、心を揺らされた者たちがあげる歓喜の声。
例外があるとすれば、これを作り上げた里の魔道士たちの誇らしげな、一仕事なした職人の笑みぐらいだろうか。





太陽が完全に地平線の彼方に没し周囲を夜が覆っていくのに比例して、花火はますます大きく、派手になっていく。
天を埋め尽くすほどの巨大な花火があがったと思えば、野花のごとき可憐な小粒の花が周囲を彩り、決して見るものを飽きさせない構図を展開。
円形だけではない、少しばかり楕円の形や、どうやって火力を調整しているのやら、四角い花火などなど、様々な火花が夜空を埋め尽くす。







熱気が里を覆っていく、それは人が放つものではなくもっと根本的で単純な熱量。
花火が上空で幾度も炸裂した結果起こる、熱の放射による温暖化。
いつの間にか机の上に置かれていた冷水が入っている2つの盃のうち、自分の側にあるモノを手に取って飲み干す。








何気なしに周りを見渡す。周囲にあるのは笑顔、笑顔、笑顔───。
始めてみるものに興奮を覚え、それに圧倒される者たちの顔。





しばらくの間、無心で花火に見入っていた彼は、ここで我に返る。







───凄い。







無意識に唇が紡いだのは、まぎれもない本心。
イデアが何かしようとしていたのは知っていたが、まさかこれほどまでとは。
エレブ広しといえど、こんなモノを見た人間は自分たちだけだという優越感と感動を噛みしめる。







「…………!」






顔を綻ばせながら、無邪気な子供に帰ったような気持ちで言葉さえ発さずに空を指さして、あれ、あれ、と身振り手振りで訴える。
もしも後で自分の行いを振り返ったならば、必ず顔を真っ赤にするような仕草。







「わかった、わかったから、少し落ち着きなって……あたしも花火も消えないからさ」






光の玉を手のひらから生み出し、それを明りの代わりにテントの内側に漂わせながらメディアンは子を見て安らかな表情を浮かべていた。























花火大会は完全に成功しているといっていいだろう。
万が一火災などが発生した場合の対策もあり、その際の対策計画までもしっかりと練りこまれたこの大会はイデアにとってよほど楽しみだったのだろう。
一刻ほどの間、空を彩つづけた花火は今はなく荒涼とした夜空に、ただ人々の活気だけが響き渡っている。





里の道のいたるところで、人々は肉を焼いたり、いい具合に焼かれたとうもろこしに特殊なタレを掛けたのをほお張ったりしている様が多い。
現在途中休憩を少しはさんでいる最中なのだ。イデアは恐らく計画の再確認や、現状の把握などを行っているのだろう。







そんな中、ソルトは一人でふらふらと里の外れ、里をぐるっと囲んでいるオアシスの森林部分を歩いていた。
周囲は薄暗いが、里の明りがここまで朧に届いているのと、月夜の光があるため、完全に暗闇に閉ざされているというわけでもない。
じゃりじゃりっと足を動かすたびに鳴る音は、砂ではなく土を踏みしめる音、周りから聞こえるのは虫の鳴き声たち。





正直な話、少しばかりソルトは疲れてしまったのだ。花火は素晴らしいし、大勢の人間と騒ぐのは楽しいが……それでも少しばかり熱を冷ましたくなる時ぐらいはある。
今頃メディアンは里の中で大勢の教え子たちと共に宴でもしているはずだ。確か、結構な数の教え子に絡まれていたと記憶している。





「お前までついてこなくていいのに」






親しみと笑いが混ざった声を飛ばす対象は、肩にでんっと乗っかる黄金リンゴ。
いつの間にか家族の一員と言っても過言ではない立ち位置にいるこのモルフは、時折妙な行動をとる。
決して自分たちの不利益になるような事はしないが、どちらかといえば場を仕切りなおしたり、新たな局面に移したりしているような気がするのだ。







リンゴが乗っているのとは反対の肩には木で作られた水筒、干し肉やとうもろこしなどを詰めた袋を乗っけてソルトは歩く。
暫く歩いて着いたのは、いつも自分と母が鍛錬の際に使っている空き地。ちょうど周囲の木々によって太陽の光をちょうどよく遮ってくれる秘密の場所。





そこにある大きな岩にいつも休憩の時に座るような動作で腰を下ろすと、空を見上げる。
やはりというべきか、星空は木々の枝に囲まれてよく見えないが、花火を見る分ならば何とかなるだろうと当たりをつけて、一息。
まどろみに浸りつつ、少年は未だ興奮が冷めない体をごろんと岩の上に転がす。






背中にあたる冷たい感触が冷たい、自分の中の熱が岩へと移っていくのがじわじわと伝わってくる。
地竜の背に横になった時とは全然違うなぁと思いつつ、空を見つめていると、リンゴが顔にへばりついた。
ゴロゴロと興奮した猫の様に存在しない喉を鳴らして絡んでくるのを手でつかんで胸の上に下ろす。




おとなしく胸に鎮座するリンゴを見届けてから、天に視線を戻すとゆったりと時間を感じるように目を閉じた。
まだまだ夜は始まったばかり、しかも今日はある意味ではお祭り騒ぎの様な日で、遠くからは喧騒と熱気の気配が伝わってくる。





瞼の裏の闇を見つめつつ、安息に身を任せると頭の中で言葉が浮かぶ。自分の時間は有限ではないという言葉が。
後悔しない生き方とは何だろうか。決まっている、自分のやったことに責任を取る生き方だ。
そして責任を取った上で自分が、もっと言えば自分の周りの者たちを幸福にして、満足させられるような生き方。







難しいなぁ、そう無意識に愚痴る。どうすればいいのか。いや、知っているのだが行動に移せない。
眼を胸の上に居るリンゴに向けると、視線が交差……したような気がした。
さっきまであんなにはしゃいでいたのに、今のリンゴは何も言わず、ただ見つめてくるだけ。




ただ、何を言いたいのかは分かった。自分の勝手な妄想かもしれないが、このリンゴはきっとこういっている。







───好きにしろ。応援している。








感謝の意を込めて撫でようとすると、リンゴは拒否するように胸から飛び降りて、あっという間に暗闇の中へと転がり去ってしまう。
それと入れ替わるように自分に近づく気配を一つ認識して、ソルトは胸が跳ねた。
のそのそと起き上がり、暗闇の中の一点だけを打ち抜くように見つめてしまう。





休憩時間が終わり、打ち上げが再開された花火が空中で炸裂しその人物の顔を照らす。
そして天に舞う花の色は、紫。







「疲れちゃったのかい?」





メディアンは何時もと変わらない顔、いつもと変わらない口調で近づくと、ソルトの隣に腰を下ろした。
一枚の毛布を手に持ってきて、それをソルトの肩にかける。





「どうしたの? あっちですごい盛り上がってると思ったけど」





そう聞くと、竜は恥ずかしそうにそっぽを向いて髪の毛を弄りつつ答えた。




「何というか……その、疲れちゃってね、抜け出してきちゃったよ」





そのまま言葉を彼女は続ける。






「それに、こういう本当の意味で素晴らしい出来事は家族と一緒に水入らず見たいからさ」







花火がまた一つ打ちあがる。今度の形は少し歪んだ円形、真っ赤な花に僅かに混ざる緑色。
アレはリンゴの形状をした花火だ、巨大な炎のリンゴが空に浮かんでいる。





彼女の言葉が胸に染み込むとたまらない歓喜が押し寄せてくる。嬉しいのだ。





メディアンが髪の毛に手をやり、後ろで一つで結んでいた髪の毛を解く。
音もなく、キメの細かい砂の様に髪の毛が重力によって広がり彼女が息を吐いた。
天から響く轟音と閃光によって二人の顔が浮かぶ。





暫しの間、二人で花火を見続ける。
どれほどの時間が経ったのかは知らないが、もうそろそろ花火も終わりの空気が見えてきた頃、ソルトは沈黙を破り捨てた。





口が勝手に動いていく。まるで心と喉が直結したように。



ここで、今、この状況で、言わなければ一生自分は変わらない。確信めいた予感と共に。
心の何処かでイデアからもらった言葉が浮かんでは消えてを繰り返していく。







「……以前、欲しいモノがあるって言ったの、覚えてる?」






それを言い放った時、ソルトは緊張していた。普段と変わらないはずの家族の会話なのに。
手が震えない様に意識し、平然とした様子を装う。
顔を動かしたメディアンの眼が見つめてくる。真っ赤な眼、微かに発光する縦に裂けた瞳孔。






吸い込まれそうな眼を毅然と見つめ返し、彼女の言葉を待つ。







「覚えているよ」






言葉と共に細められた竜の眼は、優し気な光を灯している。
ふざけてる様子も何もなく、ただ自然体で自分の言葉を待っていた。






「本当は、欲しい“モノ”なんて、ないんだよ。装飾品なんて僕はいらない」





無言で、地竜は懐に手を入れて何かを取り出す。
拳程度の大きさの、巨大なガーネットに酷似した石。
純度の高い蜂蜜を濃縮した様な色彩のソレは星空と、花火の色を映して輝いている。





少しだけ間を開けて竜は喋りだした。あの泣いてしまった日には告げられなかったことを。






「……あたしはね、正直な話、最初はお前を最後まで育てる気はなかったんだ」








ソルトの前に竜石を翳し、とつとつと語る。
唇の隙間から吐いた息が白く染まった。








「好奇心、だったのかな。子供を持った竜や人はたくさん見てきたし、自分なら簡単に育てられる、そしてある程度育てたら何処かの孤児院にでも預けようって思ってたのさ」







竜はかぶりを振った。自分の過去を悔いるように。







「思い返すと、最初はお前の事を本当に“装飾品”として見てたんだね。産みの親にせよ、育ての親にせよ、子供にとって親ってのは絶対的な存在なのに」






思い出すのはこの里に来た当初のイデア。ナーガに捨てられ、自暴自棄にさえなっていた子供。
あの時酒を飲んでぶちまけた彼の悲嘆と憤怒は忘れてはいない。親に捨てられた子供の嘆きは、見ているだけで辛い。
自分はそんなことをしようとしていたのだ。何が孤児院に送るだ。何がある程度育てたら、だ。




竜として無意識に人という種族の事を見下していたのかもしれないが、そんなことは今は関係ない。




「……」





少年が竜石に触れた。仄かな熱を宿す竜石は、彼がふれるとその輝きを少しだけ弱めて点滅を始める。
これは竜としてのメディアンの力そのもの、それに触れているというのに彼女は抵抗さえせず竜石を握らせ、その上から自らの手で包み込んだ。







「もちろん、今はそんなことこれっぽちも思ってない。あたしは最後の最期までお前の傍に居るよ……どんな関係であろうとね」







龍の真っ赤な眼が爛々と光っている。内側に秘めた激情の大きさに比例するように。
100年後か、はたまた明日か、どちらにせよ絶対に逃げられない運命をその眼は見ている。









「今も欲しいかい?」






視線で示すのは二人で握りしめている竜石。地竜の力を孕む極大のエーギルの塊。
そしてこれは竜としての彼女そのもの。
少年が、答える。言葉を震えさせつつ、全身を緊張で固くしながら。






「全部──」






一泊言葉を切って、彼は息を吸いなおした。その瞳はゆらゆらと揺れている。
それは息子という立場を捨て去ることへの恐怖か、それとも……。










「僕の全部をあげてもいいから、欲しい」









竜が真っ直ぐな眼で彼を見つめる。彼はそれから逃げようともしなかった。
メディアンが震えた。何か言わなくては、何か、何かと必死に言葉を探そうとして……何もないことに気が付く。
つまらない問い詰めやこの場から逃げる為の言葉はそれこそ星の数ほどあるが、その全てが無意味だということに。




この必死な気持ちで言葉を絞り出した彼に対してあまりに失礼で……そしてそのすべてが自己解決してしまっているのだから。
否定の言葉が溢れる度に、悉くが自らの中で自己解決していく感覚は産まれて初めての体験だった。





自分は竜だ 本当の姿はあの竜の姿で、この人としての姿も仮初のもの。






それが理由で彼が自分を怖がるとでも そんな些細なことで。
竜の背中の上で昼寝までした男に何を言うのか。






寿命だって違う。あたしは老けないけど、あんたはあたしより先に死ぬのは確定し、絶対に覆せない。
そんなこと、あたしよりも遥かによくこの人は知っているし、受け入れて、見据えている。
その上でその時間を全部捧げてもいいと言い放った。







竜と人が? 結ばれるなどありえるのか。




誰も禁じてなんていない。この里にだってそういった者達はいる。







平穏を装う気など当の昔に吹き飛んでいた。
心臓が破裂するほどの鼓動を刻んでいるのを感じつつ、メディアンは震える手に力を込めた。









「今なら、まだ冗談で間に合うよ? あたしは、本気にしないし、笑って流せる」







酷い言葉を吐きつけたと激しく自嘲しつつも、言わなければならない。この子の人生の為にも。
世界は広い。例えこの里の中に限定してもいい女性はいっぱいいるのだから。



遠くで音が聞こえる。花火が炸裂する音が、閃光と共にやってきて、ソルトの顔を照らしていく。








一息吸ってから、少年は決定的な言葉を紡いだ。
もう親子という関係に戻れなくても構わないという覚悟を乗せて。
真っ赤な頬、潤んだ瞳、少しだけ乱れた呼吸というお世辞にも恰好よく決まっていない顔と出で立ちで少年は思いを吐き出した。









────。








何と言われたのかはわからない、頭は既に沸騰していて言葉を認識できない。
だが、はっきりとその意味が分かるという矛盾。
ただ、ずっと前から知っていた。見ていたし、理解していたし、そしてある意味では自分は待っていた。








無意識に答えた言葉は何だったか。わからない。わからない。
ただ、一つだけ思い出す。まだ、自分が彼に教えていないことがあることを。






それは人の耳では聞き取れず、人の口では発することの出来ない竜族言語の羅列。
歴史上において、彼女に関わりの深い地竜族達の極一部の存在だけが知っているモノ。
今は既にエレブに彼女を除いて無き竜族達。






少年に対して謡うように竜の口が単語を紡ぎだした。
詩人がハープと共に流す物語の内容の様に鮮やかな“音”を流麗に。






聞こえなくともいい、意味が判らなくとも構わない。ただ、知ってほしいから。
彼女の本来の、竜としての“真の名前”を歌い上げたのだ。




























エレブ新暦 13年








イデアはその日、仕事を早めに切り終えると一つの場所に向かっていた。
わざわざ転移の術を使わず徒歩で里の中を歩き、沈みゆく夕日を視界に収めながら目的地へと向かう。
片手にはリンゴなどを収めたバスケットをぶら下げて、イデアは無心で歩き、やがてはメディアンの家の前で止まった。






一回だけ大きく深呼吸をすると、意を決して扉をノック。
規則正しく木製の扉を叩き、中からの返事を待つ。





気配が家の中で動き出し、扉の前に移動するのを“眼”で見つつ、イデアはほくそ笑んだ。
思えば、出会うのは久しぶりだ。最近は仕事などが忙しかったのだ。
そして今日来たのは一つ、彼らを祝うために。




ほどなくして扉が開かれて、家主の一人であるソルトが顔を見せるとイデアの笑みは深くなった。






「どうぞ、お待ちしていましたよ」






そう言って家の中に入るように促してくる彼は既に少年から青年へと成長を遂げている。
3年前にはイデアを抜かしていた背はさらに伸びて、今ではイデアと並ぶと親子と言われてもおかしくない程の身長差が開いていた。
温和な笑顔を浮かべ、イデアが差し出したバスケットを受け取りながらソルトはイデアを見下ろす。




ぐっと首を上にあげてかつては自分の足元にじゃれついてきていた幼子だった者を見上げてイデアは苦笑する。






「暫くあってない間に、また背が伸びたんじゃないのか?」






「関節とか、いろんな所が痛い限りです」






なんて贅沢な痛みだ。
この里に来てから余り外見が変動していないイデアが取ってつけたような怒った顔でそういうと、青年は快活に笑った。




手に渡されたフルーツで満たされるバスケットを見て頭を下げつつ青年は、ソルトは喋る。







「本当に、ありがとうございます」







いや、気にすることはない、
そう伝えようとしていたイデアの顔面に何かが飛びかかり竜の視界を塞ぎ、顔を、正確には何かに挟まれた頬が強く圧迫され、顔に生暖かい吐息が吐きかけられた。
まるでリンゴの皮をお湯と蜂蜜で煮た時に出てくるような甘ったるい匂いだった。






「お前も元気そうだな」






当然だ! そう言いたげに一鳴きするのはソルトの家にもはや住み込んでいると言っても言いほどに馴染んでいる黄金リンゴ。
久々に創造主に会えたのが嬉しいのか、ゴシゴシとリンゴの真ん中の胴体部分を擦り付けて叫んでいる。



そのたびに撒き散らされる果汁がイデアの顔を汚していくが、リンゴはそれに気が付いてない。





無言でイデアがリンゴを引っ張るが……取れない。
仕方ないから、このまま喋ろうと思うが、頬を圧迫されているせいで舌がうまく回らない。
そもそも、里の長の竜が顔面をリンゴに圧迫されるというのはどうだろうか。





リンゴの表肌を指でなぞり、エーギルを一つのイメージと共に送り込む。
バスケットの中に入れておいた果物を切るのを専用とするナイフのイメージを。






ひぎぃ! 等と汚い叫びをあげてリンゴが震えながら落下。
イデアが受け止めるとそのまま手のひらから飛び降りて部屋の奥まで全力で転がって逃走していくのを見やり、イデアはため息を吐いた。





気を取り直してソルトに眼を向けると青年は部屋の奥へとイデアを誘導する。
それに従って屋内の開けた空間に入ると、ソルトが用意してくれた椅子にイデアは一言断ってから座った。
目の前の食事用のテーブルの上にソルトがクッキーなどで満たされた篭と茶が入った盃を置く。





最後にテーブルを挟んだ正面の席にソルトが座る。





「そういえばメディアンはどうしたんだ? 家の中には居ないみたいだけど」





「少し散歩に出かけてて……。 もうちょっとしたら帰ってくるかも」




何でも新しく作っている液状の調味料の調子や、砂糖生産の為に育てている食物の様子を見てきてるんです。
そう彼はつづけた。






「…………大丈夫なのか? 余り激しい運動とかはさせないほうがいいと思うけど」






心配と不安を入り混ぜたイデアの声にソルトは頬を小さく掻くと
疲れたように、それでいて少しばかりの怒気を混ぜた声で喋る。






「自分の中に結界を張って、外部と遮断してるとか……それでも今度一回、しっかり言っとかないと」






ふぅとイデアがため息を吐いて、クッキーを手に取って一枚食べる。甘く、それでいて口に残らない味が美味しい。
お茶を飲みつつ、膝元に転がり込んできたリンゴをあやしているソルトを観察するとイデアは心が温まるのを感じ、少し笑った。







メディアンとソルト。竜と人の家族は月日の経過と共に思わぬ発展を遂げた。
すなわち、母と息子の関係から、一組の伴侶へ。





両者の関係が変わり始めたのは3年前から、いや、もっとその前からかもしれない。
判らないが、3年という時間は表面的には劇的にこの2者の関係をつくりかえると同時に、イデアは何処かで納得もしていた。





メディアンの3年以上前から薄々匂わせていた気配の変化。ソルトの言葉と彼女を見る眼に宿っていた熱量。
そして二人に残された時間と思いの強さを考えれば、そういう選択も十二分にありうると思ったから。





羨望。はっきり言ってしまえば、胸の奥底の深い場所でそれが疼いているのをイデアは自覚していた。
姉も父もエイナールも、ニニアン、ニルスさえも手元から失った自分と比べてしまったが為の感情。
だが、すぐにそんな感情は圧殺された。余りにちっぽけで愚かな感情など、消えてなくなる。







はっきりと断言できる。自分は彼を尊敬していると。真っ直ぐに生きている彼を羨ましくも好ましいと思っている。
だからこそ、イデアは背筋を伸ばし、ソルトの眼を真っ直ぐ見据えて言葉を祝福と共に紡いだ。






「何かあったら、何でも俺に言ってくれ。他の誰でもない、この俺がお前の力になるから」






それは本心だった。自分の力になりたいと言ってくれた男への自分が出来る最大限の感謝の示し方。
言ってみた後に、少しだけ恥ずかしいモノを感じたイデアがごほんと咳払いをすると、輝くような笑みをしながら自分を見ているソルトと視線を合わせた。





強い眼だった。澄んだ瞳と視線を合わせるだけで背筋がピシッと引き伸ばされる。
感じるエーギルの波動は、霊山から流れる清流の如く明澄としたもの。
彼の髪の毛と同じ、すみれ色の澄んだ炎が彼のエーギルの、魂の形。







彼は、少年は青年になり、そして父になるのだ。
竜と人の奇妙な関係は、家族という関係はそのままに、形を変えて、ここにある。






「そうだ、まだ聞いてなかったことがあった」





ん? と首を傾げる友人に、イデアは前々から聞こうと思っていて聞けなかったことを口に出した。






「名前はどうするんだ? 男の子の場合と、女の子の場合でいくつか用意しておかないと」





「あぁ、それは……もう決まってるんですよ。どうにも彼女が言うには、“女の子だよ。名前は二人で決めよう”って言って、その後は女の子が前提として名前を固めていきましたね」






自分の内側に“眼”を使って性別を確認したという事を理解したイデアはほーっと関心の息を吐いた。
まさか“眼”をそういう風に使うとは思ってもいなかったのだ。
確かにそれならば確実に調べられるだろう。もうそこまで大きくなっているはずなのだから。





「で、肝心の名前だけど……聞かないほうがいいかな」





「……いえ、イデア様だけには伝えておきます」





ふふふと、誇らしい笑顔を浮かべるその様はまだまだ少年にも見える。
だが、彼もまたどこかで雰囲気が変わってきている。活発な少年から、落ち着いた青年、そして温和な大人へと。





竜族としての言語の意味は【知恵】【知識】そして【輝く未来】という意味の名前。
人の耳で聞き取れる部位を繋ぎあわせて彼は新しく産まれてくるであろう娘の名前を説いた。








“ソフィーヤ” と。




















あとがき





とてつもなく新年の挨拶などに遅れましたが、何とか更新です。
やっと、やっとここまで書けた……と今は感無量ですね。




恐らくIDなどが変わっていると思いますが、作者のマスクです。



メディアンとソルトの関係は最初からここに落とし込むつもりでした。
それこそ一部で竜人の話に少し触れられた時から予定では決まっていたんですが、思ったよりも二人の親子としての絆が強くなってしまい
どうやってソレを男女の愛に変えようかと四苦八苦しました。




いわば二部1000年前編はほぼ全般にわたってメディアンとソルトの支援会話みたいなものなんですね。
ゲーム中ではSにすればすぐ結婚と行きますが、物語としては、しかも最初の出発点が親子ならばもっと骨太く書かなくてはと頭をひねった結果がこの更新の遅さの原因ですw






地味にメディアンとソルトが互いを男女として意識している文章をそこらへんにばら撒いたのですが、それでもかなりゴリ押しだったと思います。
さて、次回でおそらくソルトの出番は最期になると思います。今回の話に比べればかなり書きやすいと思いますが、ごゆっくりお待ちください。
次回の話といつか書きたいと言っていたIFを書き、プロットを修正した後にようやく原作の前日譚が書けると思います。






まーた長くなると思いますが、何とかコンパクトに纏められるように善処します。





[6434] とある竜のお話 第二部 幕間 【草原の少女】
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/05/27 01:06







雨。






その光景を見てまず最初に目に付くのは地平線までだくだくと音を立てて降り注ぐ豪雨。
奇妙な雨だった。普通の雨は降ってくると冷たいのに、その雨は“人肌の様に暖かった”
そして何よりこの雨が普通とは違うのはその色と、肌に絡みつくような粘性。






その雨は“黒い” 
岩盤などを巻き込んだ土石流などとは全く違う性質の黒。
墨でもなく泥でもない。始祖が司る根源の闇をこの世に顕現させたが如く、何処までも純粋な暗黒色。





黒を極限まで圧縮した結果、液体になったようなおぞましい色彩と濃度。





降り注ぐだけで世界は漆黒に塗りつぶされる。夜が丸ごと墜落したように。そして堕ちた空の変わりとなってソレはいた。






雨が一滴大地に落ちるたびに世界が悲鳴をあげていた。食べられる、取り込まれる、弄ばれる、声もなく音もない悲鳴を確かに彼女は感じた。
父なる天をその巨躯で覆い隠し、母なる大地さえもその指先一本で微塵に砕く“怪物”が全ての災禍を操り、そして太陽の瞳を燃やしながら万象を嘲っている。
ただその場に居るだけだというのに、意識はおろか、魂さえも叩き割られるほどの圧倒的な波動をもって世界を駄菓子の様に易々と食いちぎるどうしようもない災厄。







全てを喰い潰すモノ、“胃界”の竜がそこには、居た。
何もかもを喰い尽くし、力と成して滅相するモノが。






“怪物”が息を漏らすたびに口内にズラッと並んだ凶悪な牙の隙間より吐息が漏れ出て……それが霧となり、黒い雨を降らせる災厄の暗黒雲へと変異。
余りにもこの存在は巨大すぎて、全景など把握は不可能。さながら人が世界の大きさを測ることが出来ないように。






かの存在にとって人との戦いは戦いでさえない。いうなればすべてが自らの気分を紛らせる暇つぶしか、もしくは食事の前の運動程度。
烈火の剣は砕け、天雷の斧は微塵に磨り潰され、氷雪の槍を芯から両断し、英武の大剣は鱗に傷一つつけられずに刃こぼれし、業火の理を吐息一つで産み出す黒雨でかき消して、温いと囀る。
黙示の闇は更に深い極限の闇に溶かされ、至高の光はそれさえも上回る“怪物”の放つ魔光に塗りつぶされ効力を発揮できない。






そして今、最後の希望だった封印の剣がその刀身を破砕されていた。
柄に嵌められていた炎の紋章は光を失い、剣を持っていた者はバラバラに消し飛ぶ。
知覚さえ許さない速度で“怪物”の力が発動し、降り注いでいた黒雨が刃の如き鋭さを以て剣の持ち手を攻撃し、微塵の肉塊へと変貌させる。






周囲に転がるのは無数の死体、死体、死体。屍山血河が世界の果てまで続いている。
流れる血が海を作り、うず高くある肉の山は城の尖塔よりも天に向かっていた。






彼女は自分の持っている弓矢を見やった。【疾風の弓】と呼ばれる神将器を。
最大級の風の加護を持ったソレは本来ならば三千世界の何よりも早く矢を放ち、矢は自らの意思を宿したような軌道を描いてどんな敵でも打ち抜くはずの神の武器。
だが“怪物”相手にそんなもの何の役にたつ。無限大に爆発し増加を続けるエーギルの質量の前にそんなもの、意味がない。






既にすべての神将器を用いての竜の力の“封印”は試されている。
確かにあの喰世竜の力は少しは堕ちているはずなのに、勝機が見えないのだ。
それどころか、封印を試みた神将器は内部から歪み、悲鳴を上げた所を彼女は夢とはいえ覚えている。





震える手で矢をつがえて“怪物”と向かい合う。
勝機などない。こんなつまらない玩具では何の痛苦も与えられずに終わるのは目に見えている。





心の底から噴き出る恐怖、恐怖、恐怖。
絶望と入り混じった負の感情さえも咀嚼するように巨大な紅と蒼の眼を細め、自分を観察する“怪物”と視線が交差する。





何処かで見たような眼をしている“怪物”の世界を見通す瞳はこう言っていた。
まるで無垢な少女の様に、無邪気な子供が好物を前にした時の様な眼で……。








──いただきます、と。







彼女が見たのは天から堕ちてくる、あまりにも巨大な“怪物”の指。それが彼女の目の前で何かを握るように大きく開いた。
そこに砕かれた封印の剣の破片が招かれたように引き寄せられ、微塵となった刀身の破片と“怪物”のエーギルが混ざり合い、新たな力となる。
人類を守るための希望が、人類と世界に最後のダメ押しとなる絶望を与える、その因果を喰世竜は好んだ。






誕生したのは世界を切るための巨大な剣。黒く輝く黄金の光を刀身とし、周囲に紫色の雷撃を纏う極大の世界という【食材】専用の“包丁”
“怪物”は自分なりにアレンジした封印の剣を満足そうに竜の巨大な5指で握りしめ、低く喉の奥底で嗤う。
飢えと渇きに満ちた太陽がその勢いを増す。延々と膨れ上がり、肥大化を続けるエーギルの総量が、更に数十桁単位で跳ね上がった。







もはや剣といえない。轟々と噴火する溶岩の様に噴き出る喰世竜の無尽蔵のエーギルが、ただ巨大な棒状の形をとっているだけ。
そこに封印の剣の力である意思を効力へと変える能力が付加され、増幅しているに過ぎない。









──剣が、天が、万象を押しつぶしながら光さえも遥か彼方に超過した速度で堕ちてくる。それが彼女の夢の、幕引きだった。


























覚醒の瞬間、彼女は叫んでいた。わめき散らすように、子供が親に許しを請うように。
喉から血が出るほどの音量で叫んだ彼女は自分を心配そうに抱きかかえ、背中を撫でさする男の腕の中で正気を取り戻す。







「大丈夫か?」







心配そうに自分の眼を見つめてくるのは一人の男。彼女が愛し、そして愛してくれる存在。
周囲に眼をやるとまだ時間は夜なのだろう。灯された蝋燭の灯だけが怪しくゲルの内部を照らしていた。
薄着の自分を心配したのか、一枚の毛布を肩からかけてくれる気遣いに彼女は優しく微笑んだ。







「もう大丈夫だ。ありがとう」






彼女──ハノンはゆっくりと寝床から立ち上がると夫の頬を撫でる。
無骨だが、確かな優しさを持つ愛しい伴侶の顔を見て、心が落ち着いていくのを感じた。
汗でべたついた黒髪が胸にへばりついているのを指で退かしながら彼女は起き上がる。




「少し夜風にあたってくる……夢見が悪くてすまない」





「気にしていない。それよりも、お前の体の方が心配だ。余りこんなことが続くのなら」






その先の言葉をハノンは言わせなかった。
人差し指で男の口をそっと押えると、一回だけ微笑んでからゲルを後にする。






持ち物として愛用の弓であるミュルグレとその矢を一本だけ掴み、彼女はサカの夜の中を歩いていた。
質素な木を削りだして作ったようなその弓は、おおよそ神将器とは思えない程に地味だが、そんなこと彼女はどうでもよかった。
名前は大事だが、この弓は私の第二の相棒。ただ、それだけでいいじゃないか。






またあの夢だ。ハノンは全身に打ち付ける夜風の冷気によって思考を冷やしつつ思う。
あの夢を見るのは初めてではない。もう何度もあの“怪物”を彼女は見ていた。
そしてその度に叩き付けられるのは極大の恐怖と絶望。あの戦役で味わったすべてを置き去りにする絶対的な悪夢。







初めてそれを見たのは、あの日飛竜の群れと戦い、そして竜の双子と出会って数日後の事だった。
最初はわけもわからない光景に泣き叫び、ただ恐怖した。まだ神将でさえなかった彼女は少しばかり気の強く、大人びた少女でしかなかったから。
次に“怪物”を見たのは戦役が始まる寸前の事。彼女が崇拝するサカの大地と天から虫の知らせの如く部族に帰るのだとお言葉を頂いた日の夜だった。







彼女は恐怖した。世界の終焉を何度も見せられるたびに感じる戦慄と絶望、そして虚無感は一人の人間が背負うにはあまりにも大きすぎたのだから。






かつて部族を追い出されたときシャーマンは言った。お前にはやるべき事がある、それを探してこいと。
自分は何年もの間、サカを彷徨い続けてその自らの使命を探したのだ。そして結局、それは見つけることが叶わないままにあの戦役は始まった。






帰還した彼女を部族の者たちは手厚く迎え入れた。自分の中での明確な目的こそ見つからなかったが
数年という期間は一人の少女を立派な一人前へと変貌させており、皆がそれを認めたのだ。
そして何より、サカの天と大地の声を聴くことの出来る部族の者たちは彼女が飛竜の群れに挑んだ事を知っていた。






実の両親にはその成長ぶりを褒め称えられた時に流した涙の感覚は忘れられない。





サカの部族の者たちは皆が口をそろえて言う。お前の成すべきことは、あの飛竜の群れを阻止することだったのよ、と。
どういう理屈かは判らないが、あの双子の父親がやった飛竜の群れの殲滅は、自分がやったという事になっていた。
曰く、ブルガルに移動していた群れの頭目を自分と数人の仲間が倒し、群れを撃退、したとか。





朧に理解した。世界の声さえ捻じ曲げることが出来るだろう存在に、彼女は一度会っていたのだから。






違う、それは自分じゃない。そう言おうとしてやめた。
誰が信じられるか。たった一人の人間の姿をした竜が世界ごと千を超えるほどの飛竜の群れを消し飛ばしたなど。
まだ群れの頭目が倒され、残った竜たちはベルンへと帰って行った、という筋書きの方が信憑性がある。







夜風が頬を撫でていく。少しばかり歩いた彼女がたどり着いたのは馬小屋。彼女には馴染の深い匂いが鼻孔をくすぐった。
無数の馬が寝息を立てている中、一頭だけが起き上がり、こっちに向かってくる。
嬉しそうに鼻を鳴らしながら頭を擦り付けてくる馬を優しく撫でてやると、ハノンの顔は綻んだ。





多少年こそ取ったが、こいつは何も変わっていない。あの頃のままだ。




愛馬、そう、確かあの双子の姉に「ウィルソン」と名付けられそうになっていた第一の相棒に鐙もなく跨ると、ハノンはゆっくりと馬を走らせた。
背中にミュルグレとその矢を一本だけ質素な皮の矢筒に入れる。




手綱をもって走り出そうとする彼女を部族の者は止めようともしなかった、
いつもの散歩だという事を知っていたし、何より彼女は部族最強の存在であり神将の一角なのだ。人間では彼女に勝てるものなどほぼ居ない。





暫く集落から離れるように月夜の中を馬で走り、小高い丘の上で彼女は相棒から降りた。
ちょうど緩やかな山の様な形状の丘を相棒を先導しつつ歩き、その頂点で彼女は胡坐をかいた。
天に浮かぶ月と、周りを取り囲む微小な星々の光。そして周囲を流れる優しい風。その全てを彼女は愛している。





この為に自分は戦った。自分と同じく世界を愛し、そこで生きていきたいと願う全ての人の為に。
チクリと胸が痛む。違う。全ての人ではない、全ての存在の為にだ。





相棒が音もなく座り込み、彼女を温めたいのかその身で包むように陣取る。





世界がそんな綺麗ごとだけで回っているんじゃないことを知ってこそいるが、それでも彼女は何時もここに来ると黙とうを捧げる。
あの戦役で死んだ竜も含める全ての命に対して。せめて、母にして父なる世界の中で永遠の安らぎを得られますように。





一しきり黙とうを捧げた後にハノンは薄目を開けて後ろをふりかえらずに声だけを飛ばした。
凛とした声だった。サカの巨大部族をまとめ上げ、戦役で竜を相手に大立ち回りを演じた英雄に相応しい格のある声。








「どうした。隠れる必要などないだろうに」






「やはり、お主にはこういう小細工は意味をもたないか」






答える声は男だった。しわがれている声。
しかし滑舌は素晴らしくよく、それでいて確かな知性と落ち着きを感じる老荘とした声。
空気が曲がり、風が歪む。魔術によって操られていた光の反射術が解かれて一人の人間が姿を現す。





空を溶かし込んだような青く上品なローブを身に纏い、長い白髪を後ろで纏めた初老の男だった。
全身は枯れ枝の様に細く、肌は無数の皺が刻まれている程の年長の男だが、全身から感じる英気と精力は部族のどの男よりも強く、若く、雄々しい。
獲物を見つけた鷹の如く鋭い眼だが、その中に宿るのは知性と友情の念。それがハノンに向けられていた。





ハノンは小さくため息を吐いた。昔からこの翁は変わらない。何処か子供のような悪戯や行動を時々起こす。
だが、久しぶりに戦友にあえて嬉しいのは確かだった。






「すまないな、こんな場所では歓迎の茶も出せん。部族まで来るといい、皆も喜んでくれるだろう」





「お主ならそう言うと思っていた。 だから、ほれ」






男が人差し指で空中に円を描き、そこに魔力を込めると赤い魔方陣が浮かび上がり、何かを取り寄せる。
次の刹那に男が握っていたのは小さな二人分の小さな陶器の湯呑。湯気が漂ってくることを見るに、中身が入っているのだろう。




差し出してくるそれを受け取り、中を見ると少しだけ赤みの掛かったお茶が入っていた。
いい香りだった。満開の花の様な、飲み物というよりは、そういう娯楽品と言われても通用するような素晴らしい茶。
確かエトルリア王国の貴族、それも王族に連なるほどの大貴族はこういう茶を飲んでいるらしいが、今ハノンが持っている茶はまさにそれだった。






「いいのか?」





「構わんよ、そもそもワシはお前と話すために来たのだからな。土産の一つも持ってこなくては礼を欠くというものだ」






失礼と一声を入れてからハノンは茶を飲み干す。少しばかり彼女は頭が陶酔しそうになるのを何とか堪える。
美味しい。今までいろんな茶を飲んできたが、ここまで美味しいのは初めてだ。
舌が疼き、菓子の類をよこせと訴えてくるが、残念なことに今は所持しておらず、真面目に集落にまで取りに戻ろうと考えてしまうほどの茶。





「ほれ、こういうのも持ってきたぞ」






男がまたもや転移の術を利用し、今度はバスケットを取り出す。
中身はエトルリア王国の王族が愛好する最高級の菓子類。
どういう原理かはわからないが、まだ焼きたてのころの熱を維持しているように仄かな熱気が籠から漏れている。






ハノンは少しばかり小腹が減っているのを思い出し……視線がバスケットにくぎ付けにされそうになりながらも男を見る。そして言った。







「気持ちはありがたいが、話とは何だ?」






「そのことなんだがな……まぁ、いい。食べながら話すとしよう」





彼女の友であるこの男にしては珍しく歯切れが悪い様子を不審に思いながらもハノンは相棒を引き連れて立ち上がり、男の正面に座った。
男も腰をよっこいしょと下ろすと、今度は家畜を育成するための牧草を取り寄せて、ハノンの相棒へと与える。
上機嫌に鼻を鳴らしながら牧草を咀嚼する馬を横目で見やりつつ、ハノンはわずかに背中が震えているのに気が付く。





何だろうとみると、ミュルグレが薄く翡翠色に発光し振動を起こしていた。
目の前の男も同じような現象が起こっているらしく、彼はそれを予想していたみたいで軽く笑うと懐から一冊の魔道書を取り出す。




所々に貴金属で美麗かつ、繊細な装飾を施され、本全体を金属で塗り固めたような質感を持つ真紅の魔書。
表紙さえも金属で固められたそれはもはや本というよりは、何か別の道具のようだった。






本の名前は【業火の理】フォルブレイズ。
八神将が一角【大賢者】アトスが用いる理最強の対竜の最強魔法にして戦略兵器。
万象全てを焼き尽くす究極の熱を孕んだ魔書だ。





【業火の理】と【疾風の弓】二つの神将器はまるで再開を喜ぶように震え、そして放たれる翡翠と真紅のオーラが混ざり合う。






「共鳴、だな。神将器同士のこの現象を見るのも久しぶりと言ったところか」





冷静に、見た目の派手さに惑わされずにこの現象を説明する男はさすが【大賢者】というだけの事はあった。
それでいて、妙に説明臭さが抜けないのは、今現在この男がエトルリアで大量の生徒を相手に教鞭を振っている事実が透けて見える。





「しかしアトス、いいのか? お前は確か今はエトルリアで後進を育ててると聞いたが、勝手に王国を離れても」





アトス、八神将の一人であり今はエトルリア王国の魔道部門の頂点にたっている老人は頷くと、腕をぐるっと回した。






「ちょっとした息抜きだ。あそこの資料はもうほとんど読みつくしていてな……新鮮味がない。 
 それに、対等に語り合える友が居ないというのもつまらないものだ」





同じエトルリア王国に定住しているエリミーヌは今や、巨大な組織の頂点となってしまい、暇な時間などゼロに等しい。





「それで、私に話とは?」






「お主、以前、ワシに夢見が悪いとぼやいていたことがあったな?」







考える。確かに自分は戦役の最中、アトスに夢の事を話したことがある。
何気なく、世間話でもするような気軽さで話したが、まさかそれだけが用事でこの男はここまできたのか。





そんな彼女の内心を見透かしたようにアトスは口を開いた。





「夢、というのはお主が思っているよりも、魔道の中では重要なモノなのだ。
 無論、ただの夢ということも多いが、人が近い未来や、ありえたかもしれない世界を朧に夢として見るという事もある」





「シャーマンの占星術に近いものなのか?」





「その解釈で大体はあっとるよ」






さて、と。アトスは一息吐くと、懐から人間の頭部ほどの大きさがある水晶球を取り出す。
水晶は表面が白く濁っていて、まるで埃でも被っているように表面はかさかさだった。







「これは?」





ハノンが頭を傾げる。
大体何に使うのかは判るが、このアトスが取り出したからには何か別の意味があるのかもしれない。





「お主の夢をワシが見るための道具だ。人は忘れたと思ったことでも、必ず断片としてでも頭の何処かで覚えているものでな。
 これはワシの魔力でその記憶を呼び覚まし、そのイメージを此方に送るための媒介だ」






「一つ聞きたいが、なぜそこまで私の夢に拘る? 
 確かにアレは普通の夢とは思えないが、お前がそこまでして見てみたいと思うものでもないと思うのだが」






指摘にアトスの眼が細まった。好々爺として雰囲気はなりを潜め、そこにいたのは魔道士としての彼。
人の為にではなく、竜族が保有していたという莫大な書物、至高の知識を求めて戦役に参加した魔道の鬼だった。







「……アルマーズ、いや、テュルバンが何者かに倒され、神将器の一角が行方不明となった」





一瞬、ハノンの全身に得も言えぬ衝撃が駆け巡り、小さく肩が跳ねあがった。





ハノンは思わず耳を疑う。よりによって、アルマーズが? あのテュルバンが、倒された?
単純な戦闘能力ならばハルトムートに次ぐ力を持つあの狂った戦争狂が?





彼らは知っていた。西方へと追放されたテュルバンが異形の存在と化して生きながらえていたことを。
もはや竜と同等の脅威として世界に存続していた怪物を、神将の者たちは何時か倒そうと考えていたのだ。








そしてテュルバンという名前を聞くと、彼女は胸の内側が深く痛み出す様な思いを感じる。





正直に言ってしまおう。ハノンはテュルバンが嫌いだった。
あのあり方をどうしても受け入れることが出来なかったのだ。







命への敬意を欠片ももたず、全てを自分中心に考え、人の幸せを嘲り、嬉々として不幸を撒き散らすあの男を彼女は心底唾棄している。
戦役の最中にもあの男は幾度も問題を起こしてきた、味方を巻き添えにしての神将器の力の行使、物資不足となれば近場の住人を虐殺しての調達、口減らしと称しての自軍内のけが人、病人の大量殺害。
女子供を何処からか拉致してきては、おそらくは親族同士のそのもの達を殺しあわせてそれを己の肴にし
気に入った女がいたら無理やり犯し、飽きたらゴミの様に部下どもの性欲処理の道具と成したり、あげればキリがない。





そんな横暴が許されたのは、彼が強かったからだ。強く、凶暴で、その力を人々は必要とした故に彼の罪は一切咎められなかった。
力は正義、力こそが全てを支配する。その言葉を体現したような男だった。





魔竜……彼女にとってはどうしても越えられない一線、誰にも侵食されたくもない領域さえあの男は犯しつくした。







魔竜を始めてみたとき、ハノンは固まった。
事前にハルトムート等から魔竜がどういう経緯で誕生したのかを聞かされていた彼女は嫌な予感はしていたのだが、それは最悪の結果となって目の前に現れることになる。
それを、あの男は殺そうとした。それも人類の為などではなく、己が欲望のためだけに。それだけは許せなかった。






自分は正しいことをしたとは思えなかった。だが、あの状況では出来うる限りの最善を尽くしたと信じていたい。
もしも、もしもだ。自分が【彼女】にしたことを“彼”が許さなかったら? 
その報復として世界を再び混乱に落とすため、今は準備をしているとしたら?





彼女は忘れてはいない。自分が握りしめた封印の剣によって“彼女”に傷をつけ、封印していく様を。



絶対に犯してはならない裏切りを行った。それはどうしようもない事実。







「……それをやったのが何者かはわかっていないのか?」






無意識に震える唇と体。音を立てて自分の顔が青くなっていくのがありありと判るのが、恐ろしい。
今の自分の状態をアトスは神将器が奪われたことによるモノだと予想しているだろうが、実際は違う。





確信だ。確信を得ていた。自分は知っている。誰がテュルバンを葬り、アルマーズを奪い去ったか。
だが、それを言うつもりなどない。絶対に。
例えそれがかつての仲間であり、今も親しく思っている親友の一人だろうと、世界を終わりへと導きかねない決断であっても。






「判らぬ。そもそも、アルマーズの領土だったあの島は外界から隔離されていたからな、あの中で何があったのかは判らんのだ」





精霊の声さえもあやふやで何を言っているかわからない、こんな現象は初めてだ。そう大賢者は漏らした。






「今は全くと言っていいほどに手がかりはない。
 そんな中、何気なしにお前の夢の話を思い出したのだよ。直感の様なものだが、やってみる価値はあるとワシは判断した」





「なるほど、では早速頼む。私は何をすればいい?」





アトスは水晶玉をグイッとハノンへと近づけて、その手に持たせた。
両腕でしっかりハノンが水晶玉を持つと、彼は数回頷く。






「眼を瞑り、意識を深く落とすのだ。瞑想をして、夢で見た光景をどんな断片でもよいから、思い起こせ」






言葉に従い、瞼を下ろすと視界が闇に染まる。慎重に、それでいて必死に思考を冴え渡らせ、無心へと至る。
何時も彼女が愛するサカの風の声、大地のささやきを聞くために到達している領域へ、堕ちていく。





堕ちて、堕ちて、その最深部。そこにたどり着くと同時に、ハノンは無意識に身震いしていた。
無我の極地。真っ白な世界に“怪物”は居た。彼女の頭の片隅に根を張り、恐怖という毒で魂を嬲る化け物が。
紅と蒼、対となる色彩を滲ませた瞳が煌々と輝き、自分を見返してくる。




全身に走る赤黒い光の線を不気味に輝かさせ、太陽そのものを凝縮したような眼が、哀れでちっぽけな女を淡々と観察し、細く窄められた。





吐息を感じ、自分との生命力の質量の桁の違いを理解し、狂気を送り込まれ、ハノンは呼吸が荒くなる。
激しく揺れる胸、嫌な汗が止まらない、全身が震え、意識が朧に霞んでいく……。
この化け物はただの自分の中に作り上げたイメージ。夢という幻想を構築する欠片でしかないはずだというのに、ハノンは必死に無意識の内に謝っていた。





しかしそれは命乞いではない、むしろその逆、何一つ約束を果たせなかった自分の命などどうでもいい、ただ、ひたすら謝罪の言葉を心の底から振り絞っている。





断罪する様に喰世の竜は咢を開く。
世界を咀嚼するための口を大きく展開し、ハノンという一人の人間の世界を蹂躙しようとし……その瞳を別の所に向け、焦点を合わせた後に、歪めた。


























ハノンは目の前のアトスの顔さえ最初は認識できなかった。呼吸が出来ず、何度もむせ返りながら、務めてゆったりと周りを見渡す。
ここはサカの草原の小高い丘の上。時間は夜。そうだ、自分はアトスと話をしていて……。
ぺろぺろと自分の顔を心配そうに相棒が舐めてくれる。大丈夫だと一声かけてから頭を撫でてやり、大きく深呼吸し呼吸を整える。





一瞬だけ暖かい光が走ると体がだいぶ楽になったのを見るに、アトスが【ライヴ】でも使ったのだろう。




最後に視線をさりげなくアトスに戻すと、彼の顔は今まで彼女が見たどんな顔よりも皺深く、疲れと焦燥、そして恐怖と好奇の念がにじみ出ていた。
大賢者ではなく、ただ一人の魔道士としてのアトスが、極めて重要な未知を理解しようとする際に浮かべる顔だ。
滅多に見れない顔、それほどまでにアレは重要な存在なのか。





ハノンでなければ見抜けない程の刹那の間にアトスは顔を変えた。温和で人当たりのよい好々爺然とした顔へ。





「……見たか?」





「ああ」





返答は軽いものだった。ただの日常会話で使われていてもおかしくない程に呆気ない口調。
そして彼は一つずつ、言い聞かせるようにハノンに向けて言葉を発した。
まるで泣きわめく子供をなだめるように、お前は悪くないと親が慰めるかの如く。





「アレはお前の中に、お前自身が作り出した存在だな。戦役などでたまった心的な負担が、今になって噴き出てきたのだろう。事実、戦を経験した兵士などにそういった症状はよく見られる」






無言で言葉を聞くハノンが頷いた。否定できない部分は確かにあるからだ。あの戦役で彼女は……疲れた。
竜との戦いもそうだが、人間にも疲れたのだ。英雄となった彼女を利用しようとする者、人類の総力戦だというのに、自らの利益だけを考える者。
更には彼女が草原の生まれだからといって、野蛮人扱いし、挙句には罠に嵌めようとした愚者に、ハルトムートの怒りを買ったとある魔道士たち。






心理的な負担は体内の生命を乱すというのはサカにも伝わる健康の考え方の一つ。
そうやって彼女は自分を無理やりにでも納得させた。






「忘れろとは言わん。だが、戦役に囚われ過ぎて自分で作った未来に目を向けないのは愚かなこと」





「……判っている」






自分は自分で出来る範囲内で最善の行動を行った。そのはずだ。何度も何度も自分の心に言い聞かせ、彼女は答えた。
心の片隅でアトスは何かを誤魔化している。追及しないのか? そう問うてくる声を黙殺しながら。






「さて、辛気臭い話題はここまでにしよう。ここからは、両者の思い出話にでも花を咲かせるとするかの」







小気味のいい笑顔を浮かべたアトスがまたもや虚空から何かを取り出す。それは人間の子供の胴体ぐらいはあるタル。
ハノンの嗅覚はそこから漏れ出る甘い匂いと、発酵仕切った果実の匂いが複雑に入り混じった酒独特の香りを敏感にかぎ分けることが出来た。



いつの間にか目の前には青銅製の盃が浮いていた。ハノンに取れと言わんばかりに。





「たまにはハメを外して飲むといい。部族の方にはワシが送ってやる」





アトスの友に対する心遣い、自らへの労り、それらを受け取ったハノンは無言で頷くと、盃を両手で握りしめて、少しだけ力を込める。
少しばかり視界が滲むのは気のせいではないだろう。戦役が終わり、悪夢に苦しめられていた日々の中で、初めて本当の意味で安らぎを得られた気がした。




























あの後、ささやかに行われた宴会によって酒に酔ってしまったハノンを部族へと無事に送り届けたアトスは、集落のゲルを一つ貸し与えられていた。
ゲルの内部を灯すのは幾つかの蝋燭のみで、部屋の隅まで灯は届いては居ない。風通しもよく、それでいて適度な温度の室内は、安眠を提供してくれるだろう。
最も、既に睡眠という人間的な行為を超越している彼にとってはゲルの中の安眠性などどうでもいいことだが。






最初はハノンと共に集落に現れた彼に対して警戒の念が向けられたが
ハノンの紹介と、そしてアトスを知っていたものが部族に居たことによって、彼は歓迎を受ける事となったのだ。




純粋に自分へ対する尊敬の念をアトスは心地よく感じ取っていた。実に清々しく、清純な意思を向けられるのは気持ちがよいものだ。
エトルリア王国で様々な人間が自分へと向けてくる感情は様々な不純物が混ざっている。さながら、無茶苦茶な鉱石で剣を作った時の様に。
しかもそのどれもが不愉快極まりないものだ。






侮蔑。軽視。嫉妬。悪意。時と場合によっては殺意さえも感じることがある。
エトルリア王国にとって彼は重要な人物だが、同時に邪魔な存在でもあるのだから。
いや、正確にいうならば、近頃力を付けてきた貴族達と、エリミーヌ教団の一部の者たちからすれば、だ。





彼が育てる教え子は非常に優秀だ。魔道的な意味だけではなく、知力的にも、人格的にも。そして家柄さえも高位の者が多い。
それらが集まり、アトスを中心とした派閥を作り、発言力を高めているというのが気に入らないという存在が多いのだろう。
特に戦役でも活躍した、彼の弟子であるリグレ公爵家の現代当主など、次期魔道軍将の地位は約束されているも同然。






神将の陰に隠れがちだが、あの男も立派な英雄の一人だ。





賄賂でも落とせず、脅しもできず、知力の差で策略さえ通じない強力な力と叡智をもった派閥……不愉快と思われても仕方ない。
結局の所、竜という共通の敵がいなくなったら、今度は人間同士で争いが始まりかけているのだ。




少し昔では、エリミーヌ教団から過激な思想を持つ男が一人、処刑されかかったのを逃げたらしいが。
竜族の技術の端くれを手に入れて狂喜乱舞していたその男をアトスは冷たい目で見ていたことがある。
身の程を弁えずに力を手にしようとする男の末路など、どうせ大したことはないと思いながら。








アトスは一枚の紙を取り出し、眺める。
そこに描かれているのは、エレブ大陸。至るところにバツ印が付けられたそれは、もはや大陸の全景が見えなくなるほどにバツで埋め尽くされている。






最近、アトスはテュルバンの件とは別に大規模な力の行使を朧に感じたのだ。もしかしたら、ただの気のせいなのかもしれないが、調べてみる必要はあると感じた。
それは小さな小さな地震。大陸の奥底で流動する溶岩が動いたような気配。






これは、精霊を通してその力が感じ取れた場所なのだが……おかしい。
“ありとあらゆる場所”から反応が出ているのだ。北はイリアの極北、南はミスル半島の先、西は西方三島に、東はベルンの果て、文字通り世界全体からだ。
まるで攪乱されているようだ。全く訳が分からない。何をされているのかさえ理解できない。







しかも精霊は日によっていう事が違う。
ある日はリキアが原因だ。とある日は力の発現などなかった、また違う日はイリアが──。







考えられるとしたら、幾つかの予想が浮かび上がってくる。




一つは自分の気のせいだった。力の行使などなく、自分も人の子で、間違いを起こすこともあるということ。
二つ目は本当に何者かが力を使った。それもかなり大規模な範囲で。そしてそれを隠すための妨害を行っている。
三つ目、原因は何者かという一個人が負っているものではなく、あの終末の冬の時と同じように、世界にはまだ自分の知らない現象が起こっていて、それを自分は追いかけているということ。







1か3であればよいとアトスは願った。もしも2だったら、相当に厄介なことになる。
一応は、人間という範囲の中では魔道を最も深く身に着けているだろうと自負する自分さえ超えかねない魔導士が存在するということになるのだから。
自分と互角、もしくはそれ以上の魔道の知識と力を持つ存在が世界に対して害意を以て行動をすれば、どうなるかを瞬時に考え、予想しうる被害規模に背筋が寒くなる。





心当たりがあるとすれば、彼の友であるハルトムートの怒りを買ったあの男。しかし、アレも違うだろう。
竜と人、双方に通じて利を得ようとしたあの男は今や地獄の底へと送られてしまった故に、今回とは無関係だろうと彼は断じた。





「アトス、少しいいか?」






風の様に澄んだ声がアトスの耳朶を打つ。
先ほどに比べて幾らか音程が高くなっているが、芯となっている力強さは変わらない声。
先ほどと少し違うのは、その腰に差した一本の倭刀。鞘の上から見ても刀身は太く、恐らくは男性用の武器だろう。






「どうした? 寝ているのではなかったのか?」





ゲルの入り口に立つハノンは黒い長髪を指でかき上げると、堂々とした様子で中に入る。
少しばかり頬が赤く、酒が抜けきってない彼女はアトスの前に腰を下ろすと、懐の倭刀を鞘ごとアトスへと差し出した。








「これを持って行ってくれ」






「…………」





アトスは頭を傾げた。何故だろうか。この倭刀をアトスは知っている。
彼女が戦役の最中に使っていた女性用の倭刀【マー二・カティ】の姉妹剣、確か銘を【ソール・カティ】と刻まれていた刀。
彼女は接近戦になると【マー二・カティ】【ソール・カティ】の二本の刃を軽々と振り回して敵を薙ぎ払うのだ。






「いいのか? これはお前の家に代々伝わる家宝の様なものなのだろう?」





「二言はない。持って行ってくれ、きっと何処かで役に立つときが来るはずだ……それに、私にはもう必要がなくなるものだからな」





それは彼女の意思。少なくとも、自分が生きている間にこの刃を人に向けて使うことは起こさせないという決意。
永遠の平和などないが、神将たる己が生き残っている内ぐらいはサカの部族同士の抗争も、外部との戦争もゼロにしたい。
そしてサカの部族の象徴という意味なら【疾風の弓】が果たしてくれるだろう。





アトスが刀を受けると、思わず驚く。刃と柄の厚みから知っていたが、うっかり落としそうになるほどの重量感を感じたからだ。
考えていたよりもずっと重い。こんなものを彼女は女の身で振り回していたのか。






「ではな、私の用事は本当に終わりだ。何か欲しいものでもあったら、ゲルの外に警備の者がいるから、彼らに言ってくれ」







それだけ言うと、ハノンは足早にゲルから出て行ってしまう。
一人残されたアトスは渡された倭刀を少しだけ鞘から解放し、その刀身を眺めてみる。
磨き抜かれたガラスの様な刀身に自分の顔が映り、青白く発光。







強い【理】の力、刀に宿る精霊の力をアトスは読み取り、刀身を鞘に戻す。






眼を閉じて、座禅を組み、彼は何時も夜にやっているように瞑想を始めた。少しばかり頭を整理したい。
この頃は物事が多く起こりすぎた。ハルトムートの死。アルマーズの強奪。得体の知れない力の行使……。






そして、そして、あのナニかだ。






彼は嘘をついていた。
あの“ナニか”はハノンのイメージではない。戦争で脳裏に刻まれた悪夢ではない。





もっと具体的で、近くて、遠い存在にも見て取れる。
未来か、過去か、何処かに確かにアレは存在して、確実に万象を蝕んでいる。





アトスは見た。ハノンの脳裏に焼き付けられた姿を。力を。
一目で理解した。アレは産まれた時点で全てが終わる存在だと。
今のエレブには居ない。これからも産まれるかは判らない。






深淵を覗き、アトスは逆に深淵そのものを凝固させたような存在に覗きかえされた。
そこで全てが途切れ、その先には何もなかった。





何故ハノンがアレを見ていたのか。全て判らない。
この世には判らないことがまだまだある。真理には程遠い今の自分ではこの問題を解き明かすのは難しいだろう。
もっと知識を。もっと力を。更なる高みを目指さなければならない事態。






必要ならば、友に相談することさえ視野に入れる。
アレは自分と同等の魔道士だが……少々話しづらいのが問題だが。




























ハノンは自らのゲルに戻ることなく、集落から少しだけ離れた草原の丘の上に直に倒れこみ、微睡の中で回想をしていた。









まだ世界が平和で、自分がただ一人の少女だったころの思い出。
神将器もなく、英雄でもなく、戦争もない世界に自分は一人で旅をしていた。








何処までも続く空と大地に抱擁を受け、一人と相棒の一頭でサカのあちらこちらを行き来していた時代。
そして奇妙な出会い。まさしく天啓とも思えるほどの偶然にして必然の出来事。
自分は、弓矢を携え、その訪問者に矢を向けていた。






視線の先に居るのは、小さな小さな幼子二人。
自分に向けられる眼は、余りにも弱弱しく、懇願するような眼。紅と蒼の鮮やかな瞳は吸い込まれそうな程に綺麗だった。
姉弟の二人は、人間の子供が恐怖に怯えるのと同じように手を繋ぎ、決して離れまいとしている。







悪いことをしたと思う。今考えても少しばかり自分は焦り過ぎていた。
幾ら勘違いしたとはいえ、明確な敵意を浴びせかけてしまったのだから。









自分は謝罪をし、二人を自分のゲルの中に案内する。
正直な話、他者と話すのが久しぶりなことで、楽しみでもあったのだ。
弓矢を置き、倭刀に興味津々な弟の要求に答えようとしたのだが、何故か倭刀は鞘から抜けずに失敗。






面白い時間だった。様々な事を話した。
自分の身の上話、相棒の事、二振りの倭刀の事、そして竜の姉弟の事。





正直な話、弟と姉は最初は逆だと思ったものだ。
しっかりとしている何処か大人びた弟と、天然気ままを絵に描いた様な姉。
だがやはり姉弟というべきか、根本的な所の“気配”は酷似しており、呼吸の間隔なども似通っている。






そして訪れるのは飛竜の群れ。自分は必死に戦い、そして敗れた。
当時の自分はまだ少しばかり腕の立つ少女でしかなく、とてもじゃないが勝てるはずのない戦いだった。
飛竜に貪られ、世界は少女一人の死など関係なく回るのが運命のはず。





本当ならばあそこで自分は死んでいた。
神将ハノンは、生まれる前に消えるはずだったのだ。
あの姉弟が、そして姉弟の父が、自分の命を繋いでくれたから今の自分がある





だからこそ歯がゆい。自分は何をやっていたのか。










ふと、何かが頬に触れたような感じがした。
眼を覚まし、それを確認してハノンは息を呑む。
紅い宝玉が、そこにはあった。いつもは大切に棚の奥にしまっておいたはずのソレが。





あの日、姉弟の父親より譲り受けた品だ。
最初は拒否したのだが、あの男の有無を言わせない雰囲気に負けてもらい受けた逸品。
内部に炎の如き煌めきを宿す宝玉は、まるでかの“炎の紋章”の様だった。







何時の間に? いや、自分はこれを動かしたか?
考えても答えは出ない。朧に周囲の気配を辿り、彼女は嬉しさの余りに微笑む。
活力だけが湧き上がってくる。久しぶりに心の底から、自然に発生する喜の感情を得た気さえもした。






全く。不器用なのだから。





数少ない自分の気配探知の隙間を縫うことが出来る存在。自分が完全に心を許している“彼”の微かな残り香。
言葉を濁してゲルを出た自分への繊細な気遣い、心配と信頼、何時までも帰ってくるまで待つという意思。





宝玉を胸の辺りに持ってきて、力強く、そして優しく握りこむ。





ハノンは大きく息を吸って、眼を細めた。視界の先にあるのは何万もの星の光。
鼻をくすぐるのは風に乗って運ばれる草の匂い。
瞳を閉じると思い出すのは、あの双子の姿。






手を繋いで、こちらを見ているあの子達。自分があの時、守ろうとした命。
あのおぞましい“怪物”の姿はなかった。綺麗に消えてなくなっている。
何処にもいない。さながら蜃気楼の様に。




全てからの解放感をハノンは味わっていた。もう、やるべきことはすべてやり遂げたような奇妙な満足に体と心を揺さぶられる。





本当に久しぶりに、ただの草原の民に戻れたハノンは、ゆっくりと眠りに吸い込まれ、視界が心地よい暗闇に染まる。
最後に見た天には時間外れの鳥が一匹、自由に舞っていた。あの日の様に。
























後の歴史では、他の神将と比べて【神騎兵】ハノンの伝承は少ないとされている。
王国を築いたハルトムート。全ての騎士達の見本となったバリガン。魔道を究めし2人の賢者。
教団を作り上げたエリミーヌ。狂いし獣と仇名されたテュルバン。絵本ともなった小さな勇者。








彼らの生涯の物語に比べてハノンの戦役の後の資料は本当に大雑把に纏められた程度だ。
だが、サカの民達は例え千年経とうとも、決して彼女の信念と、彼女から脈々と受け継がれた草原への愛を忘れることはなかったという。










あとがき






ハノンのお話でした。
時間軸としてはメディアンが賊を殲滅して少ししたぐらい、だいたい花火大会の前後らへんですね。





そしてここから一気に時間を動かします。





次はソルトの最後のお話。




気合入れて二話同時更新です。




[6434] とある竜のお話 第二部 幕 【とある少年のお話】
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/05/27 01:51


朝の時間、彼はこの時間が好きだった。人間は何十年も生きるが、実際はその半分は寝て過ごすのだから
本来の寿命はもっと少ないもので、朝というのは自分が活動できる貴重な時間の始まりを意味するのだと思っていた。
ベッドから起き上がると、腰のあたりに何かが触れている様な妙な気配と、熱を感じる。





毛布を退かすとそこにあるのはかつての自分と同じ淡い紫色の髪の毛。
そして相も変わらずいつの間に紛れ込んだのか、黄金色のりんごが居た……いや、これは捕まっているというべきか。
小さな両手でガッシリと鷲掴みにされて身動きが取れなくなったリンゴは、もはや真っ白に燃え尽きていた。






何かやり遂げたような気配と共にリンゴが自分を見つめてくる気配を感じ、ソルトは目元を緩めた。
こいつは、全く、いつまでも変わらない。変わらず隣に居てくれるのは嬉しいことだ。








「ほら、起きようか」







動くのは程よく筋肉が引き締まった細い腕。
皮膚には幾つかの皺が年輪の如く刻まれており、その昔と比べれば思うように動かなくなった手が娘の頭を小さく叩いた。






「…………」







娘が目を開ける。十歳前後の少女の外見をした娘、ソフィーヤは父親の顔を見ると
小さく息を漏らし、眼を閉じて再び眠りの世界へと旅立とうとする。





やはりというか、竜と人の混血の彼女は成長の速度が変則的だ。
ある程度は人と同じように成長するが、そこから先はいきなり停止するというような成長を彼女は経ていた。
八歳から十歳の間程度の姿から、ソフィーヤはもう何年も変わっていない。




そして精神面も、十歳の子供にしては成熟しているが、やはりまだまだ子供相応のモノだった。
今も、駄々を捏ねるように全身を丸めて、毛布を握りしめている。





ソルトはやれやれと言わんばかりに息を吐くと腰を起こしてそのまま……思いっきり自分と娘に掛けられていた毛布をはぎ取った。






「…………!」







外気、それも夜のナバタの冷気が色濃く残る部屋の室温はどうやら相当に堪えたらしく
ソフィーヤは無言で体を胎児の様に更に小さく丸めて、両手でリンゴを強く握りしめてしまう。
既に意識は覚醒しているはずなのに、絶対にベッドの上から退かず、いまだに体温の残る暖かい所を探し回るのを見るによほど彼女は起きたくないらしい。






「起きなさい。さ、朝だ」





「………………」







無口な娘は渋々といった様子で起き上がると、眠気が濃く残った眼で父を見つめてくる。
朝はいつもこうだ。寝室は皆同じ部屋で、寝る際のベッドは3個にわけて寝ているはずなのに、娘は時々自分の寝ているところに潜り込んでくる。
母親の所にも時々潜り込むのだが、やはり自分の所に来る回数の方が倍近くあった。









「…………」





観察するような視線を感じ、右側の隣のベッドが置いてある場所を見ると、メディアンがじぃっと自分を見ていた。
真っ赤な眼を半分ほど開けて、ソルトを見つめている。視線が交差すると、彼女は微笑みを浮かべて柔らかく言葉を紡ぐ。
もう何百回、何千、何万と言い続けてきた言葉を。






「おはよう。今日もソフィーヤはそっちに行ってるのかい?」






「困ったことに……コラ」






メディアンに返事を返そうとする途中に娘はまたベッドに倒れこみ
夢の世界へと旅立とうとするのを見て、ソルトは諦観と苦笑の入り混じった声をあげる。






「……一日特に大きな予定もないからね。もう少しだけ、長く寝ていてもいいよ。今日の朝の料理とかはあたしがやっとくからさ。準備が出来たら起こすよ」






よっこいしょと掛け声をあげてベッドから起き上がると、その身に掛けていた毛布がはだけて、彼女の体が露わになる。
露出の多い衣服でも気負いせずに着こなす彼女は、寝るときは白いキャミソール等を身に着けており
外気に晒されている程よく引き締まった鍛えられた体と、綺麗に整った女性としての体つきを見ると、昔はいつも目のやり場に困ったものだ。







もう何年も一緒にいるが、自分が物心ついたときから彼女は変わらず、美しい。
長い髪を後ろで手際よく結わえると、彼女は一度ベッドから降りて、此方に歩み寄ってきた。
一度小さくソフィーヤの頭を撫でると、メディアンはソルトの顔を満足げな笑みと共に見やりそのまま扉の奥へと消えていく。







さて、どうしようか。自分は今日の予定はと考えるが……そこまで大きなことはない。
ただ里の少年や青年たちに剣や槍での戦い方を教えるぐらいか。
教えられる側であった自分が他者に教える側となるなんて最初は思いもよらなかったこと。






メディアンとの戦闘訓練は彼女と結ばれた後も続けていたのだが……ある日突然にやめることになったのだ。
理由としては、これ以上やると手加減、というよりも相手を殺さずにやるというのが難しくなったせいだ。





剣を使った状態の彼女ならば、例え竜の力を使われたとしても何とかなるが
彼女本来の武器であり、リーチの差で剣に対して圧倒的優位性を持つ槍を持ち出されるとその勝率は一気に半分以下になり
それを補うために意識を集中すると、今度は殺さないというのが難しくなる。






そう、メディアンがソルトを、だ。
ソルトではメディアンを殺すことは万が一にも出来ないが、その逆は可能なのだ。
彼女は良くも悪くも戦闘時には思考を切り替え、容赦というのが無くなるため、もしかしたらの場合も十分にありえる。






それに何より、一度訓練を行っている自分たちをソフィーヤが見てしまい
喧嘩をしていると勘違いを起こして泣いてしまうという事件があったというのも大きい。
子供の前で親同士が争っている姿を見せるのはよくないと思ったのだ。






ソルトは自分のベッドを堂々と占領して眠る娘に毛布を掛けてやった。
無口で表情さえも余り動かさない子だが、その分、この子は身に纏っている雰囲気と視線などで色々と訴えかけてくる。







娘が寝返りを打つ。長い艶のある紫色の長髪が乱れてベッドに広がる。
まだ髪の毛に色素が宿っていたころの自分と同じ色の毛を見ると、ソルトは満たされるような高揚を覚えることが出来た。
この子は自分の娘だという確たる事実と共に愛おしさがこみ上げてくる。








娘に毛布を掛けてやり、大きく欠伸を吐いたソルトは周りを見渡しながら、今から何をしようかと考えを巡らしてみる。
とりあえずは体を動かしてみようと思い至った彼は、ベッドから降りて、手早く上着を羽織るとそのままメディアンの元へ向かうことにした。
この頃やけに気怠さを感じ、動作が鈍くなってきた体を動かし、ソルトは不自由に思えてきた体を面白く思いながらも進む。








まだ杖はいらない、いや、死ぬまで杖など使わないぞと心に決めている。
台所でこちらに背を向けながらも作業しているメディアンを見つけると、彼女の少し後ろ、テーブルを挟んで彼女と向かい合う場所においてある椅子を引く。









「もう少し寝ててもいいのに……出来るのに、少し時間かかるよ?」








メディアンが背を向けつつも声を飛ばしてくる。いつも通りの覇気に満ちた声。
自分への自信と、家族への信頼と愛情がふんだんに篭った声音。何十年聞いても飽きない声。







「いや、出来るまでここで待っているさ」







椅子に座ったソルトは小さく息を吐くと、眼を細めつつ答えた。
事実、ここに座って彼女が料理を作る光景を見ると、落ち着くのだ。






だってそれは自分が物心ついた時から見ていた景色なのだから。











エレブ新暦 55年











家族三人での食事を終えた後、ソルトは娘を伴って里の中を散歩していた。
本来、まだ時間に余裕があるから一人で散歩しようとしたところ、ソフィーヤが付いてきてしまい、断る理由もなかったので二人で当てもなく歩き回っている。
周囲はまだ朝の冷気が残っているために涼しいが、もう少しすればあの馴染の深い猛暑が顔を覗かせることだろう。





落ち着いた色彩の薄い青色のドレスを着こみ、その上から紫色のマントを羽織って、ソルトの隣を小さな歩幅で娘が歩く。
傍から見たら孫と祖父が散歩でもしているような微笑ましい光景。実際は父子なのだが、それもこの里では対して珍しい光景ではない。
ソルトの肩に腰かけたリンゴは何時もの様に妙な鼻歌を口ずさみ、そこから動こうとはしない。






「何か行きたい所とかはあるか?」






自分の服の袖を掴みながら、半ば隠れるようにしている娘にそう問いかけると、彼女は周囲を一瞥し、首を横に振った。
特に行きたい所はなしか、そう判断したソルトが何歩か進むと、長い付き合いとなった気配を感じて足を止めた。






「散歩ですか?」






もうこの気配にはなれた。軽い口調で声を掛ければ、帰ってくるのはこれまた何時も通りの淡々とした声。







「そうだが」






感情という要素を極力そぎ落とし、無気力と無機質を合わせたような声の主は、火竜ヤアンだった。
ソルトの中の彼の大まかな今の評価は、メディアンが味噌や新しい調味料、料理や食材を作るたびに家に押しかけては味見と称して大量に食べていく男というもの。
しかも後日、羊皮紙何枚かに分けて感想と改良点を指摘してくるという徹底ぶりには呆れさえも通り越している。






昔は、それこそ子供だった頃はヤアンという男をソルトは好んではいなかった。
見たくもない現実を突きつけ、人の心に土足で踏み込み、他者の心の機微というものを全く考慮しない男。
知性を持った人形の様な、温かみのない竜、それがかつてのヤアンに対する評価だった。





だが、年を取り人の心の機微を読み取る技術を磨けば磨くほど、ソルトはヤアンという男を面白く感じていた。
それはさながら、子供が大人になり、食わず嫌いを克服するかのように。





「娘か、こうして見るのは久しいな」





ヤアンが視線を向けるのは背に隠れているソフィーヤ。
ほんの僅かだけ、火竜の瞳の奥底で感情が動いたのをソルトは見逃さなかった。





「…………」




「………………」







ソフィーヤが父親の背後から顔だけ出してヤアンの無機質な瞳を見つめ、視線と視線を混ぜ合わせる。
しかし数舜もしない内に顔を引っ込め、後はじっと服の裾を全力で握りしめているだけ。



昔のソルトの様な反応を見て、ヤアンは顔を傾げて一言だけ言葉を発した。






「やはり親子だな。行動がよく似ている」






「そうだろうさ」







しかし人見知りな所があるのも事実。
里の中にもソフィーヤの友達などはそれなりに居るが、余り深い交友ではなく、表層的なお付き合い程度だ。
ソフィーヤが本気で気を抜いて接することが出来るのは父であるソルトと母であるメディアン、そして彼女が赤子だった頃から何かと世話を焼いてくれたイデア、アンナぐらいだろう。






「では、私はここで失礼する」






ソルトが小さく頭を下げるとヤアンは踵を返し、身長相応の大きな歩幅で立ち去っていく。
向かう先は里の中心部である殿であり、用事があるとすれば、そこにいるイデアにだろう。






きっと、長と遊戯版をしにいったのだろうとソルト当たりを付けた。
ヤアンは結局、半世紀以上掛けても一回もイデアに遊戯版では勝ててはいない。
それはヤアンが弱いのではなく、イデアがヤアンに負けてたまるかと、努力を怠っていないからだ。






負けず嫌い同士の戦いというのは本当に長引く。人ではなくそれが永遠の寿命を持つ竜とくれば、尚更だ。






ここで、ソルトは娘が服の裾を小さく引っ張っていることに気が付いた。何かを訴えかけるような視線も合わせて感じる。
腰程度までの身長しかない娘に目線を合わせてやるために屈みこみ、眼を見て、言ってごらんと促す。






「あっち……」





ソフィーヤは振り返ると、片手の人差し指を使ってある場所を示した。
指を差す方向は里の外れ。娘が行きたいと言っているのは、かつてメディアンと鍛錬をしていた場所のことだろうとソルトは直感で悟る。




地平線の彼方に目をやる。そこから漏れ出てるのは狂わんばかりに輝く太陽の光と、空気を沸騰させる程の熱量。
もう間もなく、砂漠の熱砂の時間が始まる。おそらく体の弱いソフィーヤでは半刻程しか耐えられない程の熱世界が。





ソフィーヤの歩幅や、彼女のお世辞にも優れているとはいえない体力、到達にまで掛かる時間などを考慮し……。
長い付き合いとなる友人の意を察したリンゴが肩から飛び降りると、そのまま家へと戻っていく。まるで親子二人の時間に水を差さないように配慮するかのごとく。






「あ…………!」






娘を背負う。長い髪の毛を服などで絡み取らない様に気を付けつつ、彼女の細い両足を脇の下から通し、両腕で固定し、首に手を回させる。
持ち上げた際、娘は困惑したような声をあげたが、すぐに自分が何をしたいのかを理解したらしく、黙って肩に顔を埋め、成り行きに任せていた。
少しだけ、重くなったか。いや、それとも自分の筋力が落ちたのか。どちらかは判らないが子供の成長を肌で理解し、味わいつつも父は黙々と歩を進める。





足腰はかなり鍛えているため曲がるなどという事はなく、体力もこの里の人間の中では未だに最上位だと自負している彼は老いなど感じず歩く。











半刻を更に4分の1程度にした時間が経過した後に、二人は里の外れに到達していた。
地平の彼方から上ってきた太陽は本格的に地面を焼き尽くし始めている。
ソルトはソフィーヤが直射日光に当たらない様に注意を払いながら、昔自分がよく座っていた大きな岩の上、木の陰で覆われ、日の当たらない場所に彼女を下ろす。





緑のカーテンで覆われたこの場所は日光を程よく軽減し、近場に水場があるために真昼の砂漠の中でも余り温度が上がらない休憩などには理想的な場所だ。
帰りはどうするかと少しだけ考えを巡らせたが、どうするかは後でいいと判断する。




岩の上に下ろされた彼女は、どうやら背中の上で船を漕いでいたらしく、眼は虚ろで、頭は上下に小さく揺れていた。
半分以上眠りに付いている頭を霞みがかった意識の中で動かし、目的地に着いたことを理解した彼女は左右に小さくかぶりを振って眠気を追い払ってから、周囲を見渡す。






「………」






岩から降りると、ソフィーヤは周囲の探索を始める。何度かここを訪れたことはあるが、今日の様にじっくりと見て回るのは初めてだから。
母と父の思い出がつまった場所をソフィーヤはゆっくりと歩き回る。少し後ろから父が付いてきているのをしっかりと感じ取りながら。





大きな木が目の前にある。成人男性の胴体ほどの太さを誇る木が。
そしてその表面についているのは、薄くなったとはいえはっきりと判る殴打の後。
瞳を瞑り、傷痕に触れて……息を吐いた。父が幼かった頃につけた傷を見て、そこに込められた思いを理解し、彼女は微笑んだ。








「どうしたんだ?」







父が後ろから語り掛けてくる。振り返って見上げた顔は老年の域に差し掛かっているためか、肌などに皺が出始めているが、全身からあふれる覇気はまだまだ若者に劣ってはいない。
自らの無造作に伸ばしている髪の毛を掴んで目の前に持ってくる。視界を満たすのは紫色の鮮やかな色彩をした髪。
今では白髪になってしまっているが、ソルトの昔はこの色だったと母は言っていたし、自分もかつての父の姿を覚えている。





自分と親の似ている場所を探し当てて、確かに自分は父と母の子供なんだと確信を得ること。
それは全ての子が行うアイデンティティ確立のための行動。それを行い、ソフィーヤは微かな満足を覚えた。






ふと、頭の片隅に映像が走る。今迄何回か見ていた映像が。
頭を力強く、安心させるように撫でられて彼女は体を眼を細めて、体を竦めた。
こうして伝えられる感触と温かみを忘れまいと脳裏に焼き付けていく。






眼を見ると、真正面からしっかりと父は見返してくれた。







父は知っている、自分が竜化できない代わりに生まれ持った力の事を。
魔道の才能とは違う、もう一つの特異な能力、制御さえ出来ない力を。
自分が何を見ているのかも理解して、変わらずに育ててくれている。






それがソフィーヤにとっては嬉しかった。







「そろそろ帰ろう。もう少しすると、陽が完全に昇りきる」









ソルトが背を向けて、付いて来いと促すが、ソフィーヤは動かなかった。
父が不審げに自分を見て来るのに対し、彼女は両腕を小さく広げ、差し出した。
まるで子供が親に抱っこをねだる様に。








「もう一回……」






滅多に見られない娘の我がままに、彼は満面の笑顔で答えた。


































夜、既にソフィーヤは眠りに就いた時間帯、ソルトは一人自宅の居間で寛いでいた。
日が落ちて、やることも特になくなった時間、彼は本を読んだり、軽く酒を飲んで気分を整理することが多い。
あえて夜風を感じるためにあけられた窓からは荒涼とした風が流れ込んでくる。寒く、何の命も育てない砂を含んだ風が。






メディアンは自室にこもって何かを書いているため、今この場にはいない。
居るのは机の上で丸くなって眠っているリンゴだけか。





盃を2割ほど満たす酒に冷水を足して割ってから、一気に飲み干す。余り酒に強いとはいえないこの身では、これくらいの分量が丁度いい。
椅子に腰かけた彼は何回か瞬きをした後に、思いっきり背伸びをした。体の各所から異音がなった後、少しだけ全身を包む倦怠感が晴れる。





扉の近くに誰かが近づく。さながら砂を運ぶ風の様に自然かつ、軽い動作で。ソルトはその気配を感じて椅子から立ち上がる。
誰かは考えるまでもない。何日かに一度は彼はこの家を夜に訪れるし、何より自分もその時間を楽しみにしているのだから。
扉がノックされる前に音もなく開けると、やはり予想した通り、そこにはイデアが立っていた。



手に土産としてのフルーツが入った籠をもった神竜は屈託のない笑顔を浮かべている。





「こんばんわ。今の時間は大丈夫か?」





「もちろんですとも。どうぞ」






何時もの様にソルトは笑顔でイデアを家へと迎える。もう何十年も繰り返された光景だ。
あの時からイデアの姿形は一つも変わっていない。金色の髪の毛も、紅と蒼の眼も、何処か人間臭い仕草も、何もかも。






バスケットを受け取り、歩こうとして……彼は躓いた。腰から妙な音が聞こえ、少し遅れて激痛が走る。
足が絡まったともいう。今、自分がどちらの足を動かそうとしたか判らない程に混乱し、目の前に床が迫って………止まった。
体に黄金の光が絡みついていた、それが支えるようにソルトの体を空間に固定している。







「大丈夫か?」








イデアが後ろから腰を支え、姿勢を平常の状態に戻す。体に照射された【ライヴ】の光が、体の痛みを消し去り、通常へと戻していく。







「ありがとうございます。少しばかり、油断していました」





「少しだけヒヤッとした………」




昔ならば躓いたとしても、自分一人の力で何とかなっただろう。
そんなささやかな場所にさえも時間の経過を感じたような気がして、イデアは少しだけ寂しい気持ちに襲われる。
しかしそれに関しては絶対に何も言うものかと彼は決めていた。






ふぅっと冷や汗を拭うイデアを横目にソルトは困ったような顔をした。
全く、ずいぶんと不便になったものだ、と。
だが、すぐにソルトはその顔を消し去ると、笑いながらバスケットを机の上に置いて、軽い調子で言葉を綴った。





「自分なんて走馬灯が見えました、うっかりお星さまになるところです」





「その調子じゃ、まだまだ長生きしそうだな」





イデアもつられて笑い返し、ふっと肩の力を抜く。外面はともかく、内心彼も焦ったのだろう。
お座りくださいと引かれた椅子にイデアが腰かけると、大きく息を吐く。まるで一日の疲れを吐き出すように。
もはや自室で寛いでいるような態度のイデアにソルトは内心微笑んだ。実際、この家にイデアはよく入り浸っていて、ある意味ではここはイデアの第二の家だ。








「そうだ、これをソフィーヤに渡しておいてくれ。お前が読んでも構わないぞ」






イデアが無造作に懐から取り出すのは一冊の本。古ぼけた表紙に、分厚いページ。
微かに匂うのは誇りに混じった歴史に匂い、遥か以前に書かれた物語が書かれた本だ。
これは上下の内の一冊。下巻であり、上巻は既にソフィーヤが読破していた。






「アレの続きですか。上巻はかなり気になる所で終わってましたね」






これの内容は遥か以前の時代の神話の聖戦をモチーフにした話だ。
主人公は一人の立派な騎士で、彼は紆余曲折の内に様々な乱を平定し、英雄と称えられ、精霊の森で出会った一人の美しい女性と結婚するという内容だが……。





普通はここで終わりだが、この物語には続きがある。
主人公の騎士は上巻の最後のシーンで彼の仲間諸共に裏切られるのだ。
凱旋のパレードの最中に魔法で焼き殺されるという結末について、ソフィーヤは涙目で本を睨んで無言で抗議していたのをソルトは覚えている。





何気なく表紙に著者がナーガと書かれているのを見て、イデアはその文から眼を逸らす。
前々から思っていたが、俺が読む本の作者がナーガばかりなのは、何故だろうと思いつつ。








「娘も喜びます」






「結構重い内容だったし、子供には余りお勧め出来ないけど……」







本を手渡しながらイデアは悩んだ。
ソフィーヤは外見はまだまだ十にも満たない子供だが、実年齢となると話は別だ。
既に人間で言えば30は超えているが、ソフィーヤそのものの精神年齢と外見年齢はまだまだ幼い。






それを考えた瞬間、イデアはかぶりを振った。







竜人。ハーフ。かつての一部の竜族が使っていた汚い言葉では穢れた半端者──。






人と竜の混血。色々な呼び名はあるが、結局のところ、一つだけ確かなのは彼女の命もまた果てがないということだろう。地竜という最高位の竜の血を引いているとなれば、尚更に。
赤子だった頃のソフィーヤに対してソルトは、夜泣きへの対応、泣く娘のあやしつけ、おしめの交換、ありとあらゆる全てを
嫌な顔一つ見せずにメディアンと共にやり遂げ、年老いた今でも何も変わらず接している事をイデアは知っている。






子育ての経験など自分にはないが、言葉にするだけでも大変さがよく伝わってくる。






突然物音が部屋に響いた。木と木が擦れあうような、独特のドアの開閉音。






「………………」





いつの間にか眠りから覚めていたソフィーヤが眠たげな顔でソルトを見ている。
どうやら彼の目の前にいる自分の事さえも見えていない程に意識は朧としているらしく、彼女はつたない足取りでソルトの近くへ歩いていくと……倒れこんだ。







その動きを予知していたのか、ソルトは素早く椅子を一つ自分の隣に引き寄せると、その上にソフィーヤの体を横たえて、椅子からはみ出た頭に対しては自らの膝を枕の代わりにする。
ほんの少しの時間の後、部屋にはソフィーヤの規則正しい寝息だけが木霊した。







娘の背中を優しく、さする様に叩き、ソルトは苦笑交じりに言う。






「どうも、寝室に僕とメ─デ──ィが居なくて、寂しかったみたいです」







間延びされたメディアンの名前の一部。それは彼女の本来の名前の一部を言葉して発したもの。
本来人間には絶対に聞き取ることも、発言することも出来ないソレを彼は言葉として発音していた。
それを可能とした要因の一つはメディアンの力による補正。彼に自らの名前を語って欲しいという願いからのほんのささやかな加護。
そしてもう一つの要因は、単純な彼の努力だ。四苦八苦しながらも魔道の知識など全くない彼は、竜族の言葉の内、メディアンの真名だけは発音し、何とか聞き取ることが出来るようになっている。







他者に一部とはいえ、真名を教えるような行為をしてもいいのか? というイデアの疑問は既に解決している。
メディアン曰く一部だけなら、長でも知っていてもいい。らしい。
逆を返せば自分の名前のすべてを知っていてもいいのは、彼だけ、という事なのだが。








「イデア様、この子の力の事は……」





「知っているさ、安心しろ、俺は何も思わない」






眼を伏せがちにし、幾らか音程を落として発せられた彼の言葉にイデアは何時も通りの調子で答えた。
ソフィーヤには一つの力がある。彼女自身にも制御できず、いつ、どんな時に発生するか判らない力が。
それに対する懸念が混ざっている父親としての彼にイデアはしっかりと返す。






「差別も起こさせない。第一そこらへんはメディアンが上手く立ち回るだろうし、俺も長だ。娘一人くらいならば何とかするさ。それに、お前やフレイ考えた案もある」






彼女は、時折、本人の言葉を借りるならば“見える”そうだ。あやふやな未来の絵が。
それは明日の天気かもしれないし、自分か他者の運命かもしれない。
何を見るかを彼女は自分の意思では選択できない。





最初は信じる者など少なかったが、事実ソフィーヤが“見た”という未来は全て的中している。
天気の移り変わり、怪我への注意、賭け事の結果、食物の実りの量……等々。





あのかつての神竜王ナーガでさえも未来を読む為には幾つかの予想を交える必要があったというのに。
対し、ソフィーヤは未来を直接読み取っているという違いがある。
数多くある竜でも氷竜はそういった方面への能力特化が激しいのだが、何故地竜とのハーフであるソフィーヤがそういう力を持ったかは不明だ。






つまり、ソルトの懸念としてはソフィーヤがうっかり凶兆の未来を読み取り、其れを口にして、
いざ現実となったならば、ソフィーヤ自身に言われのない恨み等が向うかもしれないという事だ。
不幸と災害を前に冷静でいられるモノなど少ないのだから。






だからこそ、ソルトとイデアは遠い未来についての案を張り巡らせていた。
予言の力を気持ち悪いモノではなく、尊いモノと里の者に認識させる方法を。




だがイデアはどうしてもソフィーヤの力について考えると、もの悲しい気持ちになることもある。
彼女は“見えて”いるのだろうか。どうしようもない一つの未来さえも。
更に、父の膝枕の上で小鳥の様に眠る彼女を見ると、どうもイデアは“重ねて”しまう。








「大丈夫です、この子は強い子ですよ」






確信をもって放たれたソルトの言葉にイデアは言葉を詰まらせた。
まるで心を読まれたような気分だった。視界の中ではソルトが眠っている娘の頭をいたわるように撫でている。
イデアが何と返そうか思案していると、再び扉の開閉音が響いた。








「家へようこそ、今夜もゆっくりしていって下さいな」







明朗とした声。部屋の中に入ってくるだけで空気が塗り替えられるような存在感、それでいて明快な笑みを浮かべた顔。
地竜メディアンが作業を終えて部屋から出てきて、ソルトの背後に寄り添うように佇む。
夫の膝枕で眠っているソフィーヤを見て、彼女の眼が優し気な光を放つのをイデアは見た。







どうにも居辛い。家族団欒の時間を邪魔している様な気がする。
もっと付け加えるならば、メディアンとソルトが二人そろって寄り添うと、こう、何とも言えないオーラが出るのだ。
場違い感をひしひしと感じてしまい、妙に居づらい。





「いや、今夜はもう帰るよ、実は、結構やり残した仕事があるんだ……」







悪戯が発覚した子供の様な顔でイデアがいうと、ソルトは「さぼってしまうのもアリですぞ?」 と妙に演技が掛かった老人口調で返し、神竜は思わず吹き出してしまう。
こいつの流れるようなこういった冗談にイデアはどうも弱い。
立ち上がると、そのまま自分の家から出るような気楽さでイデアはメディアンに笑いかけて、家の扉から出ていく。
扉を閉める瞬間、玄関まで出てきて送り出してくれるソルトと、その胸に抱きしめられながら眠っているソフィーヤ、そして夫の隣で微笑んでいるメディアンと、その肩で揺れているリンゴの姿をイデアは見た。








「では、また明日。おやすみなさい。イデア様も、お体を大事にしてくださいね」




ソルトは手を振って長年連れ添った友を見送る。片腕でしっかりと娘を揺らさないように抱きしめつつ。






労りの言葉を投げかけられて、神竜は満足を覚えた。
明日からも長として頑張らなくてはという気概が膨れ上がっていく。
胸の底から無性に笑いたくなる衝動を抑え込みつつ、彼は答えるように片腕をひらひらと振り返す。






ささやかな幸福に満ちた家族から送り出され、イデアはしっかりと扉を閉める前に一言──。








「おやすみ」



































75年








一柱の神竜が、里の外れにある巨大な石碑の前に立っていた。夜の時間帯、周囲には何の気配も感じられない中、彼は無言で石を眺めている。
自分の身長の十倍近くもある黒光りする石は、ある程度の時間が経過すると同時に必要となって、里に作られたものだ。
幾つもの文字……名前が刻まれたソレに“彼”の名はない。まだ刻まれていないし、埋葬さえもされていない……いや、これから行う予定である。





だが、神竜には困ったことに実感がわかない。悲しみはある。理解はある。現実を受け入れてはいるが、何処か懐疑的だ。
あいつが子供を作ったのなど、つい少し前の出来事に思えてしょうがない。あいつが大人になったのは数週前程度にしか思えない。
あいつが全身を少しずつやせ衰えさせたのなど、ほんの前だったはずなのに。






花を二輪、石碑の前に置く、一つは長としてここに名前が刻まれた者達へ、そしてもう一つは自分個人として未だに名前が刻まれていないあいつへと。
遥か彼方へと意識を向けると、そこに彼女とあいつが居た。





もう、何も語るつもりはない。
神竜は踵を返し、殿へと歩を戻す。






視界が滲み、胸が苦しいのは、半身を奪われ、ナーガに捨てられたとき以来の激しい喪失の痛みのせいだった。
一つ身に沁みて理解したことがある。ナーガの時よりも、姉の時よりも、はっきりと。






それは亡くすのは、痛いという事だった。
























砂塵が舞っている。しかし天に雲は一つも存在せず、煌々と輝く月の光だけが、砂漠を照らし出している。
幻想的で、美しい光景だった。流れる風が砂を運び、夜の寒砂が無数に宙を舞い、月からの照り返しによって輝きを放つ。






無窮の黄砂の中に、巨大な影が直立していた。二つの足で立ち上がり、両腕で何かを掬うような形にした手を眺めている存在が。
その存在の周りだけが昼間の如く暴力的な紅蓮の灯に照らされ、凄まじいまでの熱量が砂をガラス化さえもさせていた。
両方の肩口から生え揃った巨大な火山の噴火口から、通常の火山の何倍、何十倍までの溶岩を砂漠に垂れ流す竜は、ただ一点だけを見つめていた。






掌の中、黒曜石を切り出したように無骨で、所々に赤黒い煮えたぎった液体を走らせた竜は
小さな小さな、それこそ人間にとっての砂粒程度の比にしかならない物体を感情の篭らない眼で見ている。





それは赤黒い光で編み込まれた長方形の“箱”だった。
丁寧に多量のエーギルで形作られたそれは、縫い目や繋ぎ目など一つも存在しない完全なる箱。
表面を無尽の地竜の力が脈動し、赤黒い線を延々と走らせる様は神々しくもあり、眼を逸らしたくなるほどの熱量を帯びている。





この中身はとても軽い。さながら燃え尽きてしまった薪の様に。
人間としては破格に過ぎる人生を歩んだ結果としての軽さ。ありとあらゆる命と時間を燃やした“重い軽さ”だった。






竜はソレをただ見ていた。何かに耐えるように、感情を抑え込むようにただ黙々と。
決して長い時間ではないが、それでも彼女にとっては今までの生涯の中で最も思考を巡らせた時間だった。
どうするか。どうするか、判ってこそいるが、彼女は踏ん切りをつけるために意思を固めていく。





モルフ、モルフ、モルフ、延々とふざけた術の理論式が竜の頭部を、心を、回り続けていた。
その全てを彼女は……胸中でまとめて握りつぶすと、最大の注意と敬意、そして最高の愛情を込めて……“棺”に力と意思を送り込む。
燃え尽きた炎の紋章に再度火が灯される。既に炭となっていた命の薪が跡形もなく焼け落ち、消え去る。







突如、小さな一つの陰が炎上する棺に飛び込んだ。今まで地竜の体をその小さな体躯で必死に登っていた存在だった。
人間の拳よりも大きい程度の何時も騒ぎ立てていたソレは声一つあげず、寄り添うように“棺”に飛び込むと、一瞬で地竜の力に焼かれ、燃え去った。
霧散した黄金の光、ソレ……何時もソルトと共にいたリンゴ型モルフの灰が飛び散る様を見て、地竜は小さく、感謝するように唸る。





そして同時に羨ましかった。躊躇いもなく、そうやって後を追う事が出来ることが。





咆哮を竜は上げた。結界で隔離される世界全てを揺るがすほどの音量と感情に満ちた絶叫を。
それが鎮魂歌の代わりで、感謝だった。筆舌に尽くしがたい程の激情を滲ませる爆発を竜は繰り返し……その体の一部に空虚な音と伴わせて罅が走る。






ほんの微かな部分の鱗、背中の一部が、まるで脱皮するように剥がれ落ちてその下から新しい甲殻が顔を覗かせる、その色は暗黒色。
一定以上の力と、感情の、エーギルの爆発を成しえた竜が到達できる極地へ、彼女は上りつめていた。
竜はそれを“感じて”拒否した。必要ないと。まだ自分は地竜でいい。彼を背にのせたこの姿のままが良いと。
その念にこたえるように地竜の赤黒い溶岩が竜の全身を覆い隠し、新たな地竜としての鱗と竜殻を構築していく。







竜は、ほんの少しの時間の間だけ、唸り、眼を閉じた、全身から噴き出る猛火と紅蓮の地獄が空気をかき混ぜ、気圧が歪む。
発生した猛烈な風が頬を撫でていくのを彼女は感知しつつも、眼を瞑りひたすら回顧していた。






怒っていた顔。笑っていた顔。必死に挑んできた顔。真っ赤になってでも意思を伝えてきた顔、自分を叱ってきた顔、そして娘を抱き上げて、ひたすら喜びと感謝を繰り返していた顔。
その全て脳裏とエーギルに焼き付けつつ、彼女は自分がやらねばならない事をやる。






意識を送るのは里の外れの一か所。里が出来て、ある程度の年月が経つと同時にその必要性が出来た為に作られた、二階建ての家屋ほどもある巨大な石碑。
黒曜石を切り出したような硬質とした表面には幾つもの文字が刻まれている。そこに、彼女の力の一部が、細い、人の指と同じぐらいの線となり叩き込まれる。
赤黒い光の線がのたうち回り、恐ろしいまでの熱線が黒い表面を削り取り、溶かしていく。









丁重、丁寧に、最大の注意を払い、他の文字を一切傷つけることなく石碑に新しい文字の羅列が焼き付ける。
その全ての作業が終わった後に竜は最後に一つ、巨大な“泣き声”をミスル全土へと叩き付けるように上げ、その終いに何かを竜族の言語で呟いた。
まるで夜眠るときに告げるような口調で、また明日会えるのを期待しているかのように。






後は任せな。







そして──。





忘れない。





それだけが、今の竜の全てだった。







遥か彼方で自分を見ている娘の姿を認識し竜は人の姿に戻ると、懐から一冊の分厚い本を手に取った。
ソルトを拾ってから、いや、それよりも前からずっと書き続けている本、彼との思い出が詰まった日記。
それを抱きしめるように胸元で握りしめると、懐へもう一度しまう。








メディアンは歩く。
自分の元へと頼りない足取りで、それでいてしっかりと向かってくる娘の気配を感じつつ、その昔歩幅をあわせてあげたことを思い出しながら。





泣いた。悲しんだ。だからもういい。泣いてばかりではダメだということを彼女は知っている。
親が泣いていたら、子供はもっと悲しんでしまう。それはいけないこと。
まだ自分は生きているし、娘も生きている。先に逝ってしまった大切な存在を偲ぶ大事だが、それに浸ってばかりではだめなのだ。








だって親が子供を悲しみで泣かせるなんて、あってはいけないのだから。










とある少年のお話は、これにておしまい。






















第二部、幕。







あとがき







これにて1000年前編完結です。まさか数年かかるとは……。




ハノン、ソルトと1000年前編にて活躍したキャラ&何かをやり遂げたキャラの最期のお話でした。
次は 立場交換のIFの一部を区切りのいいところまで書いて投稿してから、ようやく原作前日譚を書きます。
プロットの修正や新しい構築などがありますので、IFの後の原前日譚の投稿はかなり遅くなるかと思いますが、ゆっくりと待っていてくださると幸いです。





では、これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。







↓ に1000年前編の主だった登場キャラのちょっとしたキャラ紹介や作者の寸表等を書いてみました。
興味のある方はどうぞ。FEのEDの後日譚と同じ感覚でお読みください。
































イデア  





主人公。




おそらく2部の始まりから、終わりまでで一番性格が変わったキャラ。
最初は子供っぽさ全開だったのに、いざ2部が終わってみたらかなり落ち着いた性格になっていたのには驚いた。
後はいかに精神年齢を落とさずに前日譚から烈火編への繋ぎを書くかが次の課題である。






ソルト 





事実上2部のメインキャラクター。
最初はソフィーヤへと繋げるためだけのキャラだったが、書いている内に入れ込んでしまった。
コンセプトしては烈火におけるエリウッドみたいな純粋で真面目系なキャラ。





彼の死因は老衰。エレブの人間としては破格の80代まで生きた。
最初はローランと血縁関係とかにしようかと思ったが無粋ということで、彼は正真正銘ただの捨て子で、ただの人間という設定に。
ソフィーヤの父親にするという予定は1部で竜人に少し触れた時から決まっていたが、どうやってそこに着地させるかが本当に難儀しました。





メディアン  





事実上2部のヒロイン。純血の地竜。
コンセプトとしては「人に絶望しなかったメディウス」
結構メディウスよりも冷めている所もあるため、案外ソルトがいなければエレブから去っていたかもしれない。




最初は男性らしい所を強調していたが、口調も含めて気付いたら結構乙女になっていたのが印象に残っている。
戦闘には遠近魔法回復武器万能で強すぎる為に参加させ辛いのが難点。
余談だが、彼女が賊討伐戦に使った「メガクエイク」は敵味方識別のMAP全体攻撃で威力15という壊れ性能。




数々のえげつない能力と技の持ち主。






ソフィーヤ





ソルトとメディアンの娘。ハーフにして原作キャラ。
原作でも正確に何歳か判らないから、思い切って1000年ほど前に誕生させてみた。





前日譚ではそれなりに出番がある予定。









ヤアン






純血の火竜。封印の剣におけるラスボスの前座。原作キャラである。
このSSでは結構天然が入った負けず嫌いかつ、美食家という性格へ。どうしてこうなった。
原作通りの性格では、イデアにミンチよりもひどい状況にされるために記憶喪失という事にした。
本来はイデアに殺される予定だったが、キャラクターズを読んだら哀れみを感じてしまい、味方に。




書いていると意外と面白いキャラ。




ハーフであるソフィーヤに対して観察対象として興味がある模様。
設定ではメディアン程ではないにせよ、かなり高位の竜。
前日譚編では高位の竜という設定を生かして、見せ場がある予定。









フレイ





影こそ薄いが第一部から出続けているキャラ。イデアの補佐にして知恵袋。
いきなりイデアが長としての仕事なんて出来るわけがないだろうという作者の思いにより登場。
ナーガからの命令でイデアを補佐している。キャラとしては堅物に見えるが、結構砕けた所もある爺。



コンセプトとしてはエルフィン+マーカスを足した様なキャラ。









アンナ





1部からも登場しているキャラ。FEではお馴染のアンナさん。このSSでは火竜。
2部ではテュルバン戦や賊討伐戦などで活躍するが、彼女の本格的な活躍は烈火編からの予定。





ハノン






1部で登場した女性。2部の〆にて登場。
このSSではローランと共にイドゥンの殺害に反対したという設定。
ハルトムートから封印の剣を借りて彼女を封印したのは彼女である。



そのことを知っているのはともに殿に殴り込みをかけた八神将の仲間と、ほんの一握りの者たちだけ。
世間には神将の長であるハルトムートが魔竜を倒したという風に公表しています。
ロイが使える以上、封印の剣そのものは別にベルン王家でもなく使え、何より持ち主の意思を威力へと変える効果なのでそういった内容へと変化させています。










テュルバン




神将の一角ですが、おおよそ英雄という言葉からはかけ離れた残虐極まりない男として書きました。
世が世なら間違いなくラスボスクラスの腐れ外道として世界を荒らしまわっていたはず。
原作ではまだ理性がありそうな性格でしたが、このお話では徹頭徹尾、自分の欲望と闘争本能に忠実な化物として登場。




そして彼の残したアルマーズの破片ととその術式は後に…………。





アル




原作の一つ、漫画「覇者の剣」の主人公。その幼いころ。容姿などは原作8巻をどうぞ。
ほぼゲストとして出演。彼の本格的な出番はまだまだ先。






ミリィザ 





アルの母親、再登場は遥か先。






モルフリンゴ






最初は出落ちキャラだったが、書いている内に暴走しだしたキャラ。
コミカルな動きをして場を躍らせる狂言回しの役割をいつの間にか担っていたのには驚きました。
余談だが、リンゴ自身はイデアのエーギルで出来ているため
かなりイデアの無意識の影響を受けており、彼がやりたい事を代替わりしてやっている節があります。









ではでは、それではIF編か前日譚でお会いしましょう。
最後に、ここまで付き合ってくださり、誠にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。





[6434] とある竜のお話 異界 【IF 異伝その1】
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/08/11 23:12
何度かかなり以前より書いてみたいと言っていたイドゥンとイデアの立場交換IFで、イドゥン主役です。
時系列的には、一部の7章(サカへの旅行&飛竜の大群駆除)終了後、8章突入寸前と言ったところから始まります。
第一部のキャラの心情を書くのが久しぶりなため、一部のあの雰囲気を出せるかどうかは微妙ですが。





結構暗い話になりそうですが、あくまで異界、IFだと割り切ってお読みください。
そしてIFなので、色々と出来事や、イドゥンの性格なども少し変わっています。




























夢というのは彼女にとっては好きで嫌いなものだった。
イデアが自分に焼き菓子を作ってくれる夢や、遊びに行く夢、エイナールと一緒に氷竜姉弟と戯れる夢、そういった夢を彼女は好いていた。





しかし、当然、その反対もあった。






常に瞼の裏にこびり付いて離れない光景が神竜の片割れにはある
ソレは彼女が必死に生きたこの短い十年と少しの時間の中でも、最も恐ろしい記憶だ。
幾ら忘れようとしても、それは彼女と言う存在の奥底に深く刻み付けられ、延々と離れることはない。




彼女は未だに幼い竜であり、まだまだ睡眠や食事などを必要とする存在である。
そして、彼女の抱く恐怖はいつも眠りに付いた彼女の夢の中で小さな竜を貪りつくす。



頭蓋骨の中に、そして心臓の奥底に根を張った恐怖という蟲は、いつも彼女を苦しめている。
じわじわと傷口が化膿し、膿を撒き散らし、鈍い痛みを与えるようにイドゥンを苛むのだ。




まるで水の中に浮かんでいる様な感覚を神竜は味わっていた。
意識は定まらず、今、自分が何を考えているのかさえも判らない。視界さえもぼやけ、ただ純白の光しか見えない。
この現象を最初に体感したとき、何も知らなかった彼女は大いに動揺したが、後々イデアにコレは夢であると教えられたことがある。




夢なのに、眼が覚めても彼女はいつもはっきりと全て覚えている。
深く、深く、柄まで剣を体内に刺された痛みが決して消えぬように、心に残された痛みも消えないのだ。




世界が変わる。景色が、音が、温度が、匂いが、何もなかった世界に色づけされていく。
しかし、決してそれらはいい方向になどではなく、むしろ彼女を傷つけるものだ。
激しい変動の中、イドゥンは何も出来ずに、ただ成り行きを見守っていた。見守ることしか出来ない。




それはあの日のサカの光景。世にも恐ろしい怪物達が明確な敵意と殺意を浴びせかけ、襲ってきた悪夢。
今までは絶対に敵意など向けられることなどなかった彼女が、始めて負の感情を浴びせかけられた時だ。




最初に見るのは傷つき倒れた弟の姿。力なく倒れ、眼を閉ざした姿。飛竜の群れを相手にし、やられてしまったイデア。
ずたぼろのマントにローブ、手足には酷い火傷さえあり、小さく弱弱しい息を繰り返すだけの弟。
見れば、右肩から、腕に掛けてはブレスの影響なのか黒く焼け焦げ、炭化している場所さえあった。




焦げ臭い匂いと、血の何ともいえない匂いがイドゥンの鼻腔を暴力的なまでに刺激する。
頭からは真紅の血を流し、少しずつ死へと向うイデア、こうなってしまった原因は彼女は痛いほどにわかっている。
飛竜の群れの中に居た、明らかに別格のワイバーン、イデアはその存在にやられてしまった。



その時、自分は何も出来なかった。ハノンさんを守るという大義名分の元、結界を作り出してその中に閉じこもってただけだ。
イデアは必死に命を賭けて戦っていたのに。自分は逃げていた、助けることが出来なかった。
何も出来ない子供は、泣き喚いて、ただ弟の生存を祈ることしか出来ず、全ては父であるナーガが来たから大事には至らずに済んだのだ。


















覚醒。柔らかい毛布に包まれた、そんな安らげる感覚を少女は覚えた。
途端、彼女はガバッと音を立てて激しく起き上がり、激しい息をつきながら、暗がりを見つめ、部屋の奥で燃えている暖炉を見る。
血に塗れたイデアが末期の疫病に犯された患者の如く弱弱しく呼吸を繰り返し、少しずつその身のエーギルをすり減らしていく姿が眼に焼きついて離れない。



そしてそのエーギルが底を付き、雄雄しく燃え盛るイデアという存在が燃え尽きれば……後に残るのは冷たい燃えカスだけだ。



あの日、震えながらハノンを助けに行くと勇気を振り絞ったイデアが消えない。
恐怖という感情を激しく掻き散らすおぞましい飛竜達の絶叫が耳からこびり付いて離れないのだ。
何も出来なかった自分に対する遣る瀬無さが減衰することなど在り得るわけがない。



夜の闇に優しく抱きしめられた寝室、胸の中で激しく千切れんばかりに鼓動を繰り返す心臓の音以外、何も聞こえず、彼女は刹那自分が何処に居るかさえ忘れていた。
左手が腰に絡まるたっぷりと水を含んだシルクを想起させるベッドのシーツに触れ、ようやく神竜の思考は本格的に稼動を開始した。
ここは自分の部屋。自分のベッド。そして自分はいつもイデアと一緒に寝ている。



全身から出てきた汗が、気持ち悪くてたまらなかった。



横を向くと、そこにはいつもの調子で眠っているイデアが……いない?
親からはぐれた子鹿の様に幾度も視線を慌しく部屋のありとあらゆる場所に巡らすが、いない。




……どこ?








頭部を鈍行な鉄製のハンマーで殴打されたような鈍く、それでいて身体の芯までを振動させる衝撃が彼女の身体を駆け抜け、眠気が吹き飛んで、一瞬にして意識が完全に覚醒する。
更に汗が激しく吹き出し、全身の体温が急激に降下していくのを自覚しながら、必死にイデアの姿を部屋の中に求めるが、やはり彼はいない。
既に彼女の頭の中には、気配探知能力を駆使してイデアを探すという選択肢は存在しない。思いつかない。
一刻も早く、気配などではなく、もっと物理的に、もっと直接イデアの存在を認めたくてたまらないからだ。





それもあんな夢を見た後ならばなおさらだ。







銀紫の長髪の森から突き出た尖耳が上下に忙しなく動き、周囲の音と気配をかき集め、その全てをイドゥンへと流す。
濁流の様に頭に流れ込む周囲の状況を無意識の内に一つずつ丁寧に、かつ素早く整理した神竜は次いで精霊に頼った。
理と呼ばれ、世界を構築するありとあらゆる要素の端末たる精霊達は、言語ともいえない言語を以ってその“意思”を返す。
火が、水が、氷が、風が、雷が、そしてそれらを構築する細胞とも言うべき精霊達は特殊な位相の波を神竜に送り、あっという間に答えをこの小さな竜に教えた。







開け放された窓の外にあるバルコニー。そこに弟はいる。見ればカーテンが冷たい夜風に揺らされ、仄かな月明かりの向こうに黒いシルエットが見えた。
バスローブの様な形状の衣服の裾を引きずり、暗闇の中四苦八苦しながらも何とかサンダルを履いた彼女は駆け足でバルコニーに彼女は駆け寄る。
途中何度か裾を踏んでしまい、前に倒れそうになるが、咄嗟に背に顕現させた翼の浮力で身体を立て直す。






黄金の光で室内を照らし出す4枚の翼が音もなく揺れ、空気を静かにかき混ぜた。
発生した風により、閉められたカーテンが捲れ、その向こうに居る人物の後ろ姿を映し出す。
肩口辺りで大雑把に切り揃えられた金色の髪と、紅と蒼の色違いの眼、自分と同じ特徴的な瞳を“眼”で見つけた竜の顔が綻ぶ。




何やらイデアは澄み切った夜空を、空に浮かぶ満面の宝石と、夜を照らす月の光と、すぐ近くに置いた蝋燭の灯を光源に本を読んでいる。
ほっと胸を撫で下ろし、氷の様に冷たい空気を肌に浴びながら彼女はイデアの元へ余裕を持って歩み寄り、声を掛けていた。




「どうしたの?」




イデアの肩が一瞬だけ跳ね上がり、小さく息を漏らすが、すぐに落ち着きを取り戻したのかゆっくりと振り返り、眼を瞬かせた。
読んでいた本を懐にしまってから、彼は口を開いた。




「起こしちゃった? ごめん」




「違うよ。私が起きたのはイデアのせいじゃない」






じゃあ、どうしたの? 眼で問いかけてくる弟に恥ずかしさを混ぜた声で答えた。
バスローブの襟をギュッと掴み、それで顔を半分隠してぼそぼそ喋る。
伏せられた眼があちこちを見渡して、落ち着かなく動き回った。





「その、寝汗が気持ち悪くて……」




「なら、速く部屋に戻って着替えた方がいいよ。汗かいたまま夜風に当たったら、体が冷えるだろうし」





着替えが終わるまで、俺は向こう側を見ているから、イデアは背を向けて夜空に眼を向けてしまう。
此方を見てくれないのを少しばかり不満に思いながら、さっさと着替えるべく部屋に戻る。
急いで汗で濡れたバスローブや下着を脱いで洗濯物を入れる籠に放り込み、新しい下着などを取り出してさっさと着替えてしまう。




何故か彼女は自分が焦燥に駆られるのを感じていた。速く、速くイデアの元へ戻らなければと思った。
時間にしてほんの僅か。心臓の鼓動が20回鳴ったか鳴らなかったか程度の時間。
全身を未だ太陽の残り香がする新しいバスローブに包んだ彼女は、早歩きで弟の下へと向かう。





「着替え終わったよ」




判ったと答えるだけでイデアは振り向かない。変わらず星を眺めている。
そこに微妙な違和感をイドゥンは感じた。自分を見ていない。それ所か、こことは全く違う場所にその意識を飛ばしているのだと彼女は直感的に悟った。
本当に稀に、イデアはこの様な状態になるのを彼女は知っていた。その視線の先が、何処か別の場所へと向けられているのを。




自分とほぼ同時に誕生し、最初に出会った自分以外の存在であり、そして自分の片割れである弟を彼女はもっとも近くで、最も長く観察しているのだ。
そのまま、何処かへと飛んでいってしまうのではないか、たんぽぽの種の様にふわふわとこの時のイデアは存在があやふやになる。




「何してるの? こんな時間に本なんて」




見ているの、ではなく、何をしているのと彼女は聞いていた。
思えば、さっきの問いは寝汗云々のせいではぐらかされた様な気がしたから。




「ちょっとした考え事のついでさー」




ふぅっと重い息を吐きながらイデアは答えた。やはりその眼は姉を見ていない。
夜の星さえも厳密には見ておらず、その言葉には何も篭もっていない。
無言で弟の隣に立つと、少しだけ彼の意識が自分へと振り向けられるのを肌で感じて、僅かに安堵する。




しっかりとイデアはここにいる。その証明が出来たような気がしたのだ。





「…………」




何を考えていたの? そう聞きたかったが、ぐっと我慢する。
どうにかして会話がしたかった。どんな下らない内容でも、イデアと会話がしたい。
猛烈に湧き上がるその欲求に任せてイドゥンは口を開く。





「ハノンさん……元気かな? ウィルソンも足、怪我しちゃってたし……」




「ナーガが何とかしたんでしょ? それなら何も心配なんていらないと思う」





普通の術者ならともかく、ナーガならば死んでさえいなければどうとでも出来るはず、そう確信しているからこそイデアの言葉は軽い。
小さく弟が息を漏らすと、白い吐息が口から漏れて夜風に流されて消えていく。




今回、一歩間違ってたら大変な事になってた、それぐらいの事は自分でも判る。
運が悪かったといえばそれまでだろうが、もっとあの状況で自分に出来たことはあるのではないか。
そんな考えが浮かんでは沈みを繰り返している。




姉の胸中を読んだのか、弟は軽快に笑うと言った。





「そもそも死ぬなんて冗談じゃない。始めての遠出でそんなことになったら、姉さん、絶対にトラウマになっちゃうでしょ」








「…………」






思わずイドゥンは弟の顔を覗きこんでいた。肩をつかんで、自分の方を無理やりにでも見させる。
その手に篭もる力は未だに幼い彼女の全力、少女が必死に搾り出す程度でしかないが、それでもイデアを少しばかり怯ませた。
口をパクパクと酸欠の魚の如く動かすが、言葉が出てこない。何て言おうとしたのか考えることさえ出来ない。






やんわりとイデアが姉の手を取り払うと、彼は部屋の中に戻っていく。手招きしているのが月夜の灯りで見えた。
ベッドの上に乗っているイデアの眼の前までいくと、イデアはその手に何かを持っている。
細長い木の棒、それは先端が少しだけ返されており、土を掘る道具の一種にも見えるが大きさが違う。



表面を魔力で覆われて、ささくれなど一つもなく、ツルツルとしているその棒の名前は耳かきと言った。




耳かきを見た瞬間、自分の顔が引き攣るのを彼女は感じる。
自分の眼に見えない所で、自分の体の一部を好きにされる感触があんまり彼女は好きではないのだ。
だが、耳掃除が嫌いなわけではない。あのなんとも言えない心地よさは素晴らしい。




それにしても、何故弟はちょうど自分が今、耳がムズムズしているのが判ったのだろう。




「…………!」




ゴクリと喉を鳴らす。冷や汗が一滴、頬を伝う。
失敗した時の痛みは凄まじいが、それと同時にあの恍惚とした感触はどうしようもないほどの魅力がある。
半身である弟は、何故かとても耳掃除が上手で滅多に痛い思いなどさせない。





コロンと弟の膝の上に子猫の様に寝転がると、耳が僅かに震える。
耳に掛かっていた邪魔な髪の毛を退かされ、露出した耳管の中に棒が緩やかに入っていく。
感覚が鋭敏なのも困ったもので、恐らくは人間の数倍の感度で棒の居場所がわかってしまうため、どうもむず痒い。



だが、それを補って心地よいのだ。完全に安心できる場所で、最も信頼している者が居るのだから。





「痛いと思ったらすぐにいってね」





ごわごわとした音と共に耳の内部に冷たい感触を覚えて、少しだけ身動ぎしてしまう。
緊張を逃がすためにふぅと小さく息を吐くと、瞼が少しだけ重く感じる。
唯一自由な足だけがモジモジとどうしても動く。



「……ん」





眠気を振り払いながら、彼女は頭を回転させて必死に話題を考える。
何だか無性に、イデアと喋りたかった。
夜の自由な時間に、家族と取りとめもない話を出来るというのは、彼女にとっては最高の幸福なのだから。




「ねー」




なに? と弟の声が耳元から返ってくる。
考えて、考え抜いた結果、出てきた質問は簡単なモノ。



ずっと前から知りたかったこと。





「夜の空って、凄く光ってるけど……あの光って何なんだろう?」




本を読んで調べたのだが、難しい単語ばっかり並んでいてよく判らないというのが正直な感想だ。
重力やら、光年やら、重力歪曲空間、食変光星、その他にも様々な専門的な用語がビッシリと書き詰められた本は読みづらい。
ただ単純に自分はあの空で光っているモノが何なのかを知りたいだけなのに。




「あれは“星”だよ。物凄く離れた場所で光ってたり、他の“星”の光で照らし出されたりしてるのさ」






「遠いって、どれぐらい?」






うーんとイデアが頭を捻る気配を出す。手元は休まずに耳の中を探り、こりこりと優しく耳管の表面を掻いて行く。
その行為に全く痛みなど感じない。しかしやはり緊張は残るのか無意識に足の指をぎゅっと握りこんでいた。





「一番近い星まで竜族で一番早い風竜が、全力で休みなく飛んでいっても何年以上も掛かるぐらいかな」





凄いと素直に思った。一番近いところまでそんなに掛かるなんて。
自分が行くとしたら、そんなに遠いと迷子になってしまうかもしれない。






「じゃあ、大きさはどうなの。その“星”っていうのは、実際はどれぐらいの大きさなんだろ。ここからじゃ、凄く遠くて光ってる点にしか見えないけど」





「……かなりそれぞれに差はあるけど…………基本的に多分、エレブよりも何百倍も大きくて、もっと凄いのになると太陽よりも光ってて、大きいのがいっぱいあるよ」






やっぱり凄い。この世界よりも大きくて明るい。ただその一言に魅力を感じてしまう。
エレブよりも大きい、実際自分はエレブの形を地図で見たことはあるが、自分の眼でしっかりとその大きさと形を確認したことはない。
サカに行く際に雲よりも上の部分を飛んで見たエレブは地平線の果てまで広がる大地だったというのに、それよりもずっと大きいとは、もはや想像の限界を超えている。




恐らくその星々の世界から見れば自分たち竜でさえもちっぽけな存在になってしまうのかもしれない。
興奮が伝播したのか、彼女の尖耳がパタパタと動き始めるが……イデアはソレを許さず先端を指で摘むとそのままぎゅっと弱い力で耳全体を引っ張って伸ばす。
耳の外部、人間のソレよりも必然的に長くなる溝を耳かきがぞりっと走ると、思わず身震いしてしまう。




くひぃっと悲鳴が漏れそうになるのを必死におさえた自分を内心で彼女は褒めた。
そんな情けない声を出したら、姉としての威厳が丸つぶれではないか。




「はい、片方終わったよ。もう片方もする?」




ボロボロの紙切れで耳かきを拭きながらイデアが言う。
まだまだイデアと話足りない。だから、返答は一つだった。
頭を逆にして、さっきとは違う耳を上に向ける。ピクピクと耳が機嫌よさ気に揺れるが、イデア笑い混じりに溜め息を吐く。



期待するのはいいが、そう器用に動かされるとかえってやりづらい。
“眼”を使って弟の顔を認識しながら彼女は弾むように声を掛ける。






「“星“……“星”…………」




行って見たいなぁと口内で言葉を転がす彼女の耳を伸ばしたりして具合を確かめつつイデアが少しばかり意地の悪い笑顔を浮かべる。





「今行っても、あっちに着いた時にはもう無くなってるかも」




「え?」




全身を預けてる為、身動きが取れない彼女は耳で自分の感情を表現する。
ピーンと伸びきった耳はまるで猫が警戒をしている姿にも似ていて、イデアは苦笑した。
驚きすぎだと呟きながら、ゆっくりと耳掃除を続けていく。





「とにかく凄く遠いから、向こうの光景がこっちに届くまでにも途方も無い時間が必要なんだ。つまり……」




「わたし達が見てるのはずっと前の光?」




そうだよと、答えながらイデアは的確に耳かきを操り、内部の皮膚を傷つけないように掻いて行く。
外部から飛来した塵や、老廃した皮の残骸などを精確に取り除き掃除する。
痛くない様に最高の注意を払いつつも、会話に答える余裕は決して失くさない。






「……見にいける自信がなくなったよ。それに、“星”も、死ぬの?」







「死ぬ、というのかな、アレは……すごい長い時間が経つと、炎が消えて、熱が冷めちゃう様に、星も冷めて固まっちゃうんだ」






心地よさに負けてこみ上げる眠気と必死に戦いながら、何とか思考を回転させて語る。
光の速さは彼女も十分に知っている。
稲光のあの目視できない速度……あれでも想像できない時間が掛かるとなるとサカまで飛んでいくのに1刻ほど時間を掛ける今の自分ではとても無理だ。





そして、何より永遠とも思える“星”さえも死ぬという言葉が深く、印象に残った。





稲光……そういえば稲光といえば、この殿があるベルンでは雷の音は山々で反響して凄まじい音量になるなぁと彼女は思った。
そういう時は怖いからベッドに潜り込んで頭から毛布を被ってしまえば恐怖は半減するのだ。
あの暗黒に包まれながらも暖かさを失わない世界は素晴らしい……。





そうだ。朦朧とする意識の中で口だけが勝手に動く。言葉を話せたかは判らない。
だけど、確かに自分は喋ろうとしていた。




一緒に見に行こう、と。





黒く染まる視界の端でイデアが確かに頷いた。判ったよ。そう苦笑交じりの声が確かに耳朶をたたいた。
小さな小さな夢が産声を上げる。子供の夢見物語で、とても幻想的な願望が。





最後に頭に誕生した念だけを朧に感じて、彼女は睡魔の闇に落ちていった。






















自分が見ている世界って、もしかしたら凄く小さいのかもしれない。
イドゥンはこの頃よくそういう考えをしていた。世界は広いと思ったが、その先は更に広い、ならばその果てはどうなってるのだろう、と。






イドゥンという竜は興味のあることに対しては異常なまでに好奇心と向上心を見せる性質がある。
彼女の中には自由に何でも書き込める白紙の様な部分があるからなのかどうかは判らないが、知りたいと強く思ったことに関して彼女は凄まじい速度で学習することが出来るのだ。
イデアと会話して理解を欲した“星”や世界の成り立ち、その他様々な学問について彼女は再び本を読んで調べたのだ。





父であるナーガに頼んでもってきてもらった本の難易度も最初はその手の学問の入門書から始めたのだが、今では専門的で、今尚竜族の間でも議論が
交わされるであろうほどに最先端の内容を彼女は読み進めていた。
尊敬するお父さんの感心した様な視線をよそに彼女は何とか分厚い本と格闘して、様々な事を学んだ。





その中でも特に興味が湧いたのはとある二つの論文。



第一異界理論。エレブを基準に今のエレブとは違う“もしも”のエレブの存在の可能性をあるという前提から語られる理。
第二異界理論。上記とは違い、エレブとは全く別の新天地の可能性を考える理。
そんな異界に行くための世界を渡る為の術式の基礎理論は夢物語としか思えないが、何となく何処かでコレは可能なのだろうなぁと彼女は思った。




例えば、竜族が全ての技術と労働力を惜しみなく注ぎ込めば可能なのだろう。
お父さんならばきっと可能だと何処かで確信している自分がいた。



そして彼女は本を読んで知識を蓄えていく内に愕然とし、興奮を覚える。
この世界は可能性に満ち溢れていることを実感し、その可能性の全てを理解し、知るのは竜の無限の時間をもってしても困難だと判って彼女は笑った。





もしも、違う世界があったとして。そこに自分がいたらどんな生活をしているのか、それさえも気になってしょうがない。





弟と一緒に見られるモノが増えた。一緒にいつか、こういった謎を解いていきたい。
イデアは凄く頭がよくて、自分なんかよりもずっと謎解きは上手そうだ。






「…………はぁ」





思わず身体の底から息が漏れる。イデアはよく溜め息を漏らしているが、もしかしたら自分も似ているのかもしれない。
動くたびに身体に適度な暖かさのお湯が肌に刺激を与えてくれる。湯浴みが好きなイドゥンにとって、湯に使っている時間と言うのは実に心地よい。
長髪が濡れたせいで肩や胸などに張り付いているのを指先で退かしながら彼女は全身の力を抜いてゆっくりと湯に身を任せる。





よく磨かれた白亜色の岩盤の床と、それをくり抜いて作られた巨大な温泉。殿の地下に造られた巨大な浴場。
壁や天井などが眩い光を放っているために足元が見えないという事もない場所に彼女は居た。





ちゃぽんと湯の中から露出させた白くて細い腕を見やり、更に視線を動かしていく。
小さな子供から成熟を始め、女性への道に着実に歩を進める身体に視線を走らせて彼女は笑った。
気がついたら、大きくなってる。速く大人になりたいな。そうすればもっと色んなことが出来るようになるのに。





温い湯は、体の奥底まで染み込むように熱を伝えてくる。その中で彼女は考えを回す。





そうだ、大人になったら、今よりもずっと色んなことが出来る様になる。
またあの時と同じような状況になったとしても、ハノンさんもイデアも両方守って、ウィルソンも助けられて、皆で逃げることも出来るようになる。








ぐぎゅぅーとお腹が鳴ると……彼女の両隣から無邪気な笑いが響いた。
一つな女の子の、もう一つは男の子の声。
二つともかつてのイドゥンの様に舌ったらずではあるが、それでも喜色に満ちた声。





「おなか……へった?」




「リンゴ、たべる?」





ニニアンとニルス。エイナールが殿へと連れて遊びに来る彼女の子供たち。まだまだ幼く、ようやく喋って歩くことを覚えた程度の年齢。
イドゥンにとってこの双子は特別な存在だ。始めて出会うイデア以外の自分よりも年下の存在。
この二人を見ていると、過去の自分もこうだったのかな、と彼女は時々思うのだ。





姉と呼んで慕ってくれるのも嬉しいし、一緒に遊んだり本を呼ぶのも楽しい。
こう、見ていると無性に保護欲求が湧いて来る困った子たち。





イデアは弟だが、こう、何と言うか時々自分が面倒を見られている感じがするのだ。
だからこそ、もっと自分はお姉ちゃんとしてしっかりせねばならない。





右隣で湯に浸かっているニニアンが母親譲りの綺麗な蒼い髪を揺らし、おどおどしながら遠慮がちにだが、笑みを浮かべながら喋りかける。
左隣のニルスは何処から取り出したのか、リンゴをイドゥンへと差し出した。
何処からそんなもの持ってきたの? そう聞こうと思ったが、その理由を思い出した。





イデアが渡していたっけ。お風呂あがりに食べなよとニニアンとニルスに真っ赤でおいしそうなリンゴを手渡していた。
湯浴みをしてスッキリした所に食べる僅かな酸味と甘みを併せ持ったリンゴの破壊力は凄まじいモノがある。




今自分たちが使っている浴槽とは別の浴槽にはのぼせた身体等を冷やす為の冷水がたまっていて
そこで冷やしていたのだろうか、リンゴは雫に塗れながらもひんやりとした空気を放っている。




年下の子たちから施しを貰うの? でも、でも、とてもリンゴは美味しそうで……仄かに漂う匂いがたまらない。
口内が物凄い速度で潤ってくるのを感じつつイドゥンは悩んで……誘惑に負けた。
ぷるぷると震える腕を伸ばしてリンゴをつかみ、眺める。




「ありがとう」




しっかりと感謝の言葉を述べるのも忘れない。イデアに教えられた通り、何か嬉しいこと等をしてもらったら絶対に言わなくては駄目だ。
指を一本立てて、そこからエーギルを放出。黄金色の光が編みこまれて一枚の皿を作る。
その上にリンゴを乗せて湯の上に浮かべながらイドゥンは頭を捻った。




このまま自分だけが食べるつもりは毛頭ない。
脳裏で思い出すのは昔イデアが作ってくれたモノ。凄く可愛くて、改めて弟の発想に驚かされた芸術。





【エイルカリバー】





最近何とか覚えた術を極小規模で発生させて器用にリンゴを切り分けて、皮を剥ぎ取っていく。
空気がかき混ぜられ、不可視の真空の刃はその役割を果たす。
しゅっと言う皮を摩り下ろす音が耳に届き、果肉諸共彼女が望んだ形へと形を整える。





8つに等分されたリンゴの白い果肉に、そこに僅かに切れ込みを入れられて残った紅い皮の部分……ピンッと伸ばされたそこはウサギの耳のように見えた。
リンゴウサギ。以前イデアが作ってくれた時はその愛らしさから食べることが出来なくて、結果しおしおになってしまった苦い記憶がある。
眼の前でイデアが一口でうさぎを食べてしまった時は思わず叫んでしまった。






耳の様に尖った部分をさわさわと撫でてみて、満足げに頷く。いい出来だ。
同じ作業を数回繰り返すと、8匹の真っ赤な耳が可愛らしいうさぎが産まれる。
それを先ほど構築した黄金色の皿の上に乗せて、お湯に浮かべてニルスとニニアンに差し出した。





無言で、しかし喜色を浮かべながらリンゴをシャリシャリと食べる双子を見て、イドゥンは楽しそうに笑う。
自分で食べるのもいいが、やはり食事は大勢で食べるとその分楽しい。
外の世界の人間達は収穫祭などでそういった事をするらしいが、一度自分も参加してみたいものだ。







考え事を一旦やめて、自分もリンゴを食べようと水に浮かぶ皿を見て彼女は固まった。
最後の一個を今まさに、ニルスが掴み取ろうとしている。自分はこのままではリンゴを食べられない。
その隣でリスの様に頬を膨らませてリンゴを幾つも食べているニニアンの姿も見える。




「ま……」






待ってと、そう抗議の声をあげようとしたが余りにもニルスとニニアンの顔が嬉しそうで、リンゴを食べることを楽しみにしているのがありありと見て取れて……彼女は逡巡した。
ここでリンゴを取るのは簡単だが、それでは……大人らしくないし、何より姉として、年上の頼れる存在として非常に駄目だろうと。
ならば、少しばかりのリンゴは我慢し、ここは「おとなの女」の余裕という奴を見せてやるべきではないか。






仕方ないから、片腕の親指と人差し指で輪を作り、その外周によく石鹸水を練りこむ。
そして一息吹きかけると、石鹸水は泡のような形状になり宙を舞う。これもイデアが教えてくれたもので、確か名前を……。





結局、そうこう考えているうちに全ての大好物がなくなっているのに気が付いた彼女がふぐぅという不満とやるせなさに満ちた唸り声を漏らすのはこの少し後である。




















湯浴みを終えて自分の部屋に戻った彼女と双子を迎えたのはエイナールとイデアだった。
二人は何やら悪戯が成功した子供の様な顔でイドゥン達に笑いかけている。
部屋に充満しているのは、先ほどまでにはなかった甘い匂い、リンゴの匂い。






ピィンと耳が逆立つ。リンゴだ。しかも一個ではない、幾つもの──。





「お疲れ、湯加減はどうだった?」





「すっごく気持ちよかったよ、イデアも一緒に入ればよかったのに」





いつもよりも少しだけ上機嫌に問いかけてくる弟に返す。
何年か前までは一緒に湯浴みに入っていたのだが、最近は絶対に一緒に湯浴みは嫌だと拒否ばっかりしてくる弟にべーっと舌を出してやる。
ははんとイデアが流すように鼻で笑うと、彼女が湯浴みに入る前にはなかった大きなテーブルと椅子を指差す。





そこには綺麗な純白のベールで覆われた皿とバスケットが幾つも置いてあり、甘い匂いはそこから漂ってくるのを彼女の鼻は捉えた。
リンゴ、リンゴ、頭の中で想像されるのはリンゴを素材とした焼き菓子の数々。
エイナールが時々作ってくれるソレは彼女の好物の一つ。弟と一緒に食べると更に嬉しい。





「食べる?」





「食べる!」





即答で返すが、一つ気がつく。
髪の毛がまだ濡れていて、気持ち悪いという事実に。
毛の先を指で弄ると、まだ落としきれていなかった水滴が滴る。




傍目ではニニアンとニルスが突進するように競ってエイナールに抱きつき、その頭を差し出している。
彼女達の母は、微笑みを絶やさずに椅子に腰掛けると、膝の上に二人を乗せた後に大きな布を使ってその頭を優しく拭き始める。




もやもやしたモノが心の中に広がっていく。
自分は母親という存在を知らない。父と弟がいるが、母は自分にはいないという事実を改めて直視した気分だった。






「!」





急激に心が冷めていくのを感じ取りながら、自分も頭を拭こうと布を取り出した所で、自分を見ていたイデアと偶然眼があった。
視線と視線が交差し、眼だけで会話をするとイデアは溜め息を吐く。
おいでと手招きする弟に突進するように飛び込み、背を向ける。






「わたしもやって」







櫛と布を手渡して自分でも不思議な程に強い口調で頼み込む。
事実、自分の髪の毛を弄らせたいと思う相手はイデアしかいなかった。






「髪の扱いとかあんまり知らないけど、いいの?」





「イデアがいい」





身を後ろに微かに倒して、背中をイデアの手へと押し付けてみる。
やんわりとバスローブの上からでも弟の手の形状が判り、竜は少しだけ自らの心が軽くなるの心地よく感じて、口を開いた。




「ゆっくりでいいから、お願いね」





返事はなく、その代わりとばかりに髪の毛を労わりをもって扱われていく。
指先が髪の毛の先を掴み、櫛が流れて、水気が払われる。
湯で芯から温められた今の身体にはあまりに甘美な刺激、それが眠気に変換されると、視界が徐々に狭まり、意識が朦朧にうつろぐ。




時間にしてほんのわずか、本のページを5か6枚めくる程度の時間だったが、それでも効果はすさまじい。



イデアから見れば、彼女の背中はぐらぐらと頼りなく揺れていることだろう。





極楽という言葉があるが、正に今、彼女を包んでいる状況はソレだった。
最も安心できる場所で、気を抜くという事の何とすばらしいことか。
眠りそうになる頭を必死に稼動させて眠気を追い払おうとするが……ほぼ敗北確定の状況。




と、ここで彼女が眠る寸前、完全に意識が闇に染まる瞬間にイデアの手が止まった。
肩を2回ほどたたかれて、海底から錨を持ち上げるかの如く眠気が消えうせて、思考がはっきりとしていく。





「今寝たら、夜に眠れなくなるよ……それに、起きたら焼き菓子はぜーんぶ無くなってるだろうね」






ぐぬぬと唸りでもあげそうな顔の姉に対し、イデアは平然とした様子で告げて、そしてその次に小さな声で言う。





「出来立てを食べて。……結構、自信作なんだ」






少しばかり興奮した調子に見えるのは、気のせいだろうか。
当然、甘いモノが好物の身としてはそんなこと言われなくても食べるつもりだったが。
頷いて答えた後に、自分の為に作ってくれたのだと理解し、頭と胸が熱くなった。






「わぁ……」







視線を動かし、バスケットにかけられた布を“力”を使ってまで取り払った彼女は、無意識に感嘆の声を漏らす。
適度な甘い匂い、クッキーの様な歯ごたえのある硬さ、そして練りこまれたリンゴの気配に、バスケットの周囲を飾る小さな鳥たち。
掌程度の大きさの紙を折って作り上げられたソレに彼女の眼は惹きつけられた。





「これは……どうやったの?」





紙で作られた鳥、何処かで見たことがあるようで、見たことのない“折り紙”の鳥を手に取り、イデアの前に晒す。
イデアがふふんと鼻で笑うと、一枚の四角形の紙を懐から取り出す。
どうやら彼はあらかじめ姉に聞かれることを想定していたらしく、その紙はイドゥンが持っている折り紙をちょうど広げたようなサイズだった。





「これを」





イデアの指が物凄い速度で動き出す。
蜘蛛の足の如き正確さと、こなれた感じで指が踊り、一枚の紙がみるみる姿を変えていく。
姉がいきなりの弟の動きに驚きの視線を巡らせる中、イデアは黙々と紙を折る。




何かの記録にでも挑戦しているのか、驚愕し息を呑む姉の前で紙が、あっという間に一羽の鳥へと変貌。
体感時間としては、呼吸10回分程度だろうか。





「こうするの」





掌の上で完成した折り紙をイデアは淡々とした顔で見せつける。
差し出されたソレを受け取ったイドゥンは、手に持った折り紙を下から覗きこんだり
羽の部分を壊さないように恐る恐るいじくったり、とりあえず興味がわくところ全てを余さず観察。






「私も、作れるかな?」





「手順さえ覚えちゃえば、簡単だよ」





力を使って、折り紙の鳥をパタパタと羽ばたかせつつ問う姉にイデアは笑いながら答え
視線をもの珍しそうに空を飛ぶ折り紙を見ている氷竜姉弟に向けた。
イデアが何を言いたいか瞳だけで理解した彼女は、二羽の鳥をニニアンとニルスの方へと向けて飛ばす。






黄色い歓声が聞こえる。心の底から喜ぶ無邪気な声を聴きつつ、弟が作ってくれた焼き菓子を“力”を使って一つ掴み、食べた。







「どう?」





ちょっとばかりおどおどした様子で、感想を求めてくる弟に彼女は少しばかり時間を置く。
口の中で咀嚼し、味わい、嚥下してからイドゥンはじわりと湧き上がってくる甘味に身を委ねつつ口を開いた。






「……美味しい、すごく、美味しい!」






甘く、美味しく、彼女は満たされていた。
お腹いっぱいまで食べたいが、それはしない。
この後にやってくる晩飯の料理も素晴らしいものだとしっているから。







リスの様に頬に焼き菓子をつめていく姉を横目で見つつ、イデアは小さく苦笑した。
この頃、彼女が夢見が悪いのはしっている。何度か彼女がうなされている光景を見たこともある。
そんな姉にほんの少しでも喜んで、楽になってもらいたかったが、どうやら成功のようだ。





バスケットが置いてある机の椅子にイドゥンは腰かけると、興奮を隠し切れない様に小皿に焼き菓子を盛り付けていく。
いつしか寄ってきていた氷竜姉弟にも焼き菓子を分け与えつつも、笑顔を見せる姉にイデアは安心したように肩を揺らした。






「イデアも、食べる」






イデアを手招きと“力”を使って呼び寄せながら、神竜は心の底から笑いながら次々と焼き菓子を口の中に放り込んでいく。
ニニアンとニルスも遅れまいと必死に焼き菓子に手を伸ばすが、そこがやはりまだまだ幼い子供。
先ほど食べてしまったリンゴの影響による満腹感のせいか、思うように食べられないらしく、1個か2個食べたぐらいでもう無理だと倒れこんでしまう。





そんな氷竜姉弟を見つつ、イドゥンはどこか勝ち誇った顔をしながら、余裕綽々と焼き菓子を味わうように食していく。






結局、一人で大半を食べてしまい、お腹がいっぱいになってしまった彼女がどうやって晩飯を全部食べようかと悩むのは余談である。
































ベッドの中、イドゥンは一人考え事をしていた。この頃眠れない夜はこういうことをする日が多い。
今日は単に苦悩がどうとか、そういう理由ではなく、単純に眠れないのが原因だ。
自分の隣ではイデアが背を向けて眠っている。呼吸するたびに聞こえる寝息と、上下する体の動きを夜の暗闇に鳴れた眼で見て彼女は安堵を覚える。






それもこれも、イデアが怖い話をするからだ。
いつの間にか夜隣で眠っている人間が恐ろしい怪物に入れ替わっている話は未だに思い出すだけで恐ろしい。






少しだけ寒くなってきた。毛布を強く握りしめて体を丸める。
眼を少しだけ細めると、イデアの首の裏に紐が見える。ぐるっと首に回されている紐は一つのアクセサリー。
忘れるわけがない、あれは自分の鱗だ。何でもサカに行く途中に誤ってはがしてしまったとか。








「…………」






手を伸ばし、弟の背に触れてみる。背中から伝わる心臓の鼓動が、指先を伝わる。
弟に対して思考を巡らせるとき、イドゥンは何時も測定しきれない程の感謝の念を感じる。
数えきれない事を教えてもらった。数えきれない程に助けてくれた。






だから早く大人になりたいという渇望につながる。
大人になって、今度は自分がイデアを助ける番だ。
もうサカの時の様に泣いているだけは嫌だった。








舌と腹でイドゥンは回顧する。
父がもってきてくれた料理とイデアが作ってくれたお菓子の味、得られた満足感の高揚を。
自分の居場所で得られる温もり、無くしかけた時の怖さ。







結局の所、自分はまだまだ子供だと彼女は痛感する。
イデアの様に様々な知識を知っているわけでもない、お父さんの様に強くもない。
そんなに深く考える必要などない事柄なのだが……彼女はそういう年頃だった。






急激に膨れ上がった知識に対して、体、精神が適応するために成長を行おうとしている。
その為に発生した様々なしがらみだが……まぁ、いいかと彼女は判断した。
イデアがいて、お父さんがいて、エイナール、ニニアンニルスがいる、何もおかしいところはない。






不意に力を使って一枚の何も書かれてないボロ紙を引き寄せると、彼女は横になったままそれを折り始めた。
さっきイデアがやってみせてくれた手順を脳内で一つずつ思い出し、ゆっくりと確認するように折っていく。
イデアの10倍近くの時間をかけて完成した折り紙の鳥を見て、彼女は満足げに小さく含み笑った。






実はイデアを驚かせるための計画を彼女は遂行中だ。
いつも使っているクローゼットの奥に彼女はそれを隠し持っている。
イデアが溜まり場に直接本を取りに行くときや、逆に一人であの溜まり場に篭って彼女は黙々と糸と棒を使って編んでいるものがあった。







アレを渡したとき、どんな顔をするのだろうか。
そう思うと彼女の含み笑いはより深くなった。
















血の様な毒々しい色合いの月が宙に浮かんでいた。今まで見たことがない程に鮮烈な色彩をもって世界を染め上げる月が。
イドゥンはそれを見て、とても美しいと思った。見るだけで心がざわめくのは、それが一種の芸術だから、だと。
真っ赤な血のような光が、ベルンを、エレブを照らしている。まるで昼と夜が逆転した様に。





アレを渡すならば、今夜か明日の朝にすべきだろうか。彼女は朧に考え続ける。




気分を直すように彼女は一冊の本を手に取り読もうとして……表紙を見る。タイトルは「異界理論3」
この本はもう何回も読んで、中身は覚えてしまったと思いながらイドゥンはごろんとベッドに身を任せる。
足を延ばし、そのままゴロゴロと転がりながら彼女は本を開くでもなく、本を掴んだまま回転を続ける。






何か知らないが、こうやって回転を続けていれば新しい技でも覚えることが出来そうだーとか思いつつ。
ふと、唐突に自分を生暖かい眼で見てくる弟に気が付き、彼女は回転を止めた。







「あんまり回りすぎると、頭が痛くなるよ」






ベッドの端に腰かけたイデアは相も変わらずマイペースに話す。
もうそろそろ夜も深まってきた時間帯だろうからか、少しばかり目元が緩んでいるようにも見える。
そんなイデアの視線が彼女の握っている本へと移り……。







「……続きが見たいの?」







「いい、また今度にする、今夜はもう寝る」







毛布をめくって自分のスペースを確保すると、その中に滑り込む。
とりあえず、今は少し眠りたい。そして弟も眠ったら、自分はその間に起きてアレの最後の仕上げを行おうと思った。
だが今は……彼女はベッドの端の方、自分から離れた場所に潜り込み寝ようとする弟に対して力を使う。





寝る時は、近くに誰か信頼できる存在がいないと彼女は安心できないのだ。
がっちりと掴んだのを確認し、そのまま自分の所へ引きずり寄せて……彼女は丸められた毛布を抱きしめた。
ぎゅうっと両腕を回しながら彼女は頭を傾げて一言。






「あれ?」




私が引き寄せたのはイデアだったはずなのだが……。
よく引き寄せた毛布を見てみようと思ったら、視界に飛び込んできたのは毛布の表面に刺繍の如く刻まれた黄金色のエーギルの羅列。
「へ」、「の」、「も」、「じ」、という形をした怪奇な何かの字にも見える絵がまるで人の顔のパーツ、鼻、口、眉の様に配置され、毛布の塊にくっついている。






簡易的な人の顔だった。もっとも、本職の芸術家たちが見たら怒り狂いそうな人の顔だが。





円筒形に丸められた毛布にそれはぴったりとあっているようにも思えたが……。
どことなく人を馬鹿にしたような表情のそれとイドゥンの視線がぴったりと合う。
次いで彼女はベッドの毛布から顔を出すと、ベッドの端っこからこっちを見ているイデアを見て、弟も自分を見た。







「………………」







「……………………………っ…くくっ」







ほんの数瞬の時間の後にイデアは堪え切れなくなったのか
無表情だった顔を堪え切れないように歪めてからベッドの中に潜り込み、モグラの様に丸まってしまう。
ベッドの中から溢れる噛み殺した笑いを聞きながらイドゥンはもう一度奇妙な案山子のごとき毛布の塊を見る。





意外とかわいい。こう、言葉にしづらい愛嬌の様な、間抜けなのだが、何処か癖になる顔だ。





「これって、顔、だよね?」





そう何時もの様に問いかけると、イデアは顔だけをちょこんとベッドの端から出した。
ごそごそ動き、ベッドから抜け出して、こちらに這いよって来る。
彼女は知っている。弟がこういった事を語りたがりなのを。そしてそれが隙になるということも。






不用心に自らに近寄ってくる弟を見て彼女は口の端を上げるのを必死に堪えつつ機を伺い……。






ある程度の距離まで近寄ると……黄金色の光がイデアに絡みつき、グルグル巻きに拘束。
巨大な蛇が小動物を締め上げるように徹底的に、それでいて痛みや息苦しさは極限まで排除するように気を使う。
ばたばたと体を何回か捻り、脱出が不可能だと知った弟は涙交じりの眼で姉を見る。





そんな弟に見せつけるようにイドゥンは指を蠢かせた。
両腕の細い指がわきわきと稼動するのを視界に収めたイデアの顔が引きつった。
奇しくも彼はこの光景に見覚えがある。あの時と立場が逆だが。






まずい。やり返される。そう判断した彼の行動は早かった。たとえ悪あがきだったとしても。







「ま、待って! ちょっと待って!!」







もじもじと体を捻りながらベッドの上を転がり、逃げていく弟を膝歩きでイドゥンは追いかける。
ベッドの端まで到達し、腕さえ使えない為に落ちると痛いという事が判っているイデアは震えながら頭を捻って姉の場所を確認し……馬乗りに伸し掛かられる。
布擦れの音を鳴らしながら無理やり体を仰向けにした弟と姉の目が合う。





姉の眼はとても楽しそうだった。指がどんどん首やわき腹に近づくと……イデアは観念したように目をぎゅっと閉じる。
と、唐突に体が自由になり、眼を開けると視界いっぱいに悪戯成功といったような表情の姉の顔が見えた。






「“冗談だったよ…………少し本気だったけど”」






あの時の状況を思い返しながらイドゥンは一言一句同じ言葉を返す。
呆けたような表情で見てくる弟の手を取って上半身を起き上がらせると、彼女は決意した。渡すのは今しかないと。
ベッドから素足のまま飛び降りて、そのまま部屋の隅に置いてあるクローゼットを開けて、何枚か布を引き出し……その下に隠しているそれを手に取ろうとして固まった。






「あ……れ?」






ここで気が付く。イデアに渡そうとしていたもの……マフラーがない。
どうして? なぜ? 一瞬で幾つもの疑問が脳裏で産声をあげる。
顔から血の気が抜けていくのが自分でも判る。







「どうしたの?」






後ろから飛んでくる弟の声に答える。少しばかり震えてしまった声が出たのはしょうがないだろう。
必死に行動を思い返し……気が付いた。そうだ、そういえば、昨日ぐらいに溜まり場で編んでいたっけ。
そのまま持って帰ってくるのを忘れたかもしれない。思えばあの時は翌日にエイナールやニニアン、ニルスと会えると思っていて、少々舞い上がっていたからそれが原因か。








「何でもないよ!」







自分の背に弟の生暖かい視線が突き刺さっていることにイドゥンは気が付けない。
背後で弟が今度こそ眠るために寝転がる動きをしたのを“見て”彼女はほっと安堵の溜息を吐いた。
幾らなんでもこんなのはあんまりだと思いつつ。






これは寝静まってから、取りに行く必要がある。
最悪、捨てられているかもしれないが。その時はまた1から作り直せばいい。





とりあえずは一度眠るためにベッドに戻る。イデアの隣に潜り込んだが、弟は先ほどの様に拒絶しなかった。
へのへのを消して、丸めていた毛布をぴっしりと伸ばしてから、手渡してくる。







「はい、アレ、なかなかに愛嬌のある顔だったでしょ?」







先ほどとは違う純粋な笑顔で毛布を渡してくる弟の顔には、わずかばかりの、何処か遠くを見るような哀愁染みた気配さえ感じ取れた。
何故だろうか、いつも彼女は弟のふとした拍子に漏れ出るこの顔に疑問を抱く。一体、どこを見ているのだろう。






「記号の羅列で、絵って書けるんだね」







「明日、色々教えてあげるよ。結構種類があるんだ。楽しみにしてて」








本当に楽しそうな顔をするイデアに自分も釣られて笑い出してしまう。
弟の頭を何回か撫でる。掌に流れる金糸とその温もり、手触りを確かめた後、彼女は今度こそ眠るために瞼を閉じた。

































夜中、彼女は唐突に起き上がる。
上半身だけを起き上がらせて室内を見ると、眠る前よりもその色を濃くした月の赤が部屋を薄暗く照らしていた。
グロテスクとも取れる、煌々とした紅。今まで見たことがない程に濃い色の満月。







「よし……」






隣で眠りについている弟の姿を確認し
熟睡している所までを確かめた彼女はなるべく物音をたてないように細心の注意を払いつつベッドから抜け出す。
しかし毛布から体が離れた瞬間、全身を凍える空気が包み込み、思わず小動物の様に身震いしてしまう。






とがった耳が体温を逃さない為なのかは判らないが、意思とは無関係にぺたんとへ垂れる。
がちがちと震える歯を意思の力で抑え込みながら彼女は四苦八苦しつつ紫色の厚手のローブを着こむのに成功した。
ふーと息を吐き、全身を抱きしめるように身を竦ませて体内に熱を貯めてから動き出そうと決意。





足も暗がりで躓いて転倒などしないために何時も履いているサンダルではなく、しっかりとした革製のブーツを装着。





ある程度外で活動するための熱を蓄え終えた彼女は自分の竜石を手に持った。少し意思を送ればそれは松明の様に光を放つ。
これで深夜の竜殿を歩く準備はできた。多少暗いとはいえ、竜の眼は暗闇の中に猫の様な速度で適応する。







目的はただ一つ。マフラーを回収し、イデアが気が付く前に戻って、それを隠すこと。
なかった場合や、一定時間探し回っても見つからなかったら、素直に諦めよう。






ふと、ここでイドゥンは一つ思い出す。最近お父さんが自分たちに言っていたことを。
余り部屋から出るな。夜の時間は部屋に籠っていろ。そして、我以外の竜を見かけても近寄るのはやめろ。
どうしてそのような事をナーガが言ったかは判らないが、きっと何か意味があるのだと彼女は判断した。







だからもう一つ彼女は目的の中に書き足す。誰にも見つからず、誰にも話しかけてはいけないと。当然、いや出来ればの話ではある、父にも。
見つかったら怒られるかもしれないけど、その時は全て正直に話そう。
それでも怒られたら、甘んじて受けるしかない。





もう一度だけ彼女はイデアに目をやった。こちらに背を向けているからどんな顔をしているか判らないが、ゆっくりと眠っている弟を。
明日、お昼でも食べてゆっくりしている頃に渡そう。そうイドゥンは決心した。





使いなれた扉を開き、彼女は部屋の中よりもひんやりとした空気に包まれた廊下に出る。
竜石を使って光源を確保した彼女は数歩歩きだして、首を傾げた。
紫がかった堅牢な大理石の様な素材で作られた通路の奥をじぃっと見つめる。





縦に裂けた瞳孔の奥底が広まり、捕食動物の様な鋭敏さを以て周囲の空気と気配を読み取るが……。
不気味だ。彼女はそう判断した。何もいない、何も感じない。空気の流れも、他者の気配も、それどころか物音一つ、熱源一個ない。





怖い。今自分の置かれている状況を再認識して恐怖が湧き上がってくる。
一人で暗闇の中を歩く。近くには頼りになる弟も父もいない。
何時も色々と教えてくれる精霊さえも、今日は周囲には存在しなかった。







「……うぅ…………」







今自分が最も嫌いな状況に陥っているという事実を理解してしまい、戻ろうかどうか考える。
部屋に戻れば弟がいる、暖かいベッドがある、安息できる空間があるが……。
刹那の思考の後、続行を決意。ここで戻ったらきっと自分はずっとそのままだと思った。





足元に注意しながら進んでいく。昼間の時とは全く様相を変えた殿の中は……彼女の知る限り、今まで見てきた中で最も異質だ。
歩を進めるたびに胸の中での違和感と恐怖が膨れ上がっていく。
何度も歩いたはずの通路でさえも全く知らない樹海の中と同じように見える。






自分の家はこんなにも恐ろしかったか? そうした考えが頭をよぎる。
ただ暗いだけではない、何か筆舌に尽くしがたい別の要因さえあると思えた。






やっぱり部屋に戻ろうか。何か、嫌な予感がする。
丁度自室と溜まり場の中間地点程度にまで到着した時、彼女の心の内側は戻ろうかという感情が徐々に顔を覗かせてくる。
それは恐怖というにはあまりにも鮮明で、深く、近い。







それは一瞬だった。






自分が通ってきた道を振り返り、また顔を正面に戻した時に変化は起こっていた。まるで何度も弟に聞かされたちゃちな怖いお話の様に。















戻した視線、目の前にいたのは深い影。比喩ぬきで自分の数倍もの体躯をもつ大男。
男の真っ赤なローブが真紅の月光を浴びて、まるで返り血の如く凄惨な輝きを放っている。
筋骨隆々の肉体に、真っ赤な髪をした男は竜独特の真紅の眼で自分を値踏みするように見ていた。






転移の術? それとも自分が気づけない程に隠れていた?





唐突に男が、手を伸ばし、腕を掴む。遠慮も何もないその動作によって、細い腕が軋み、骨が悲鳴をあげる。
そのまま腕を無理やり引っ張り出し、自らへと近づけようとする。そして男の足元に浮かび上がる転移の魔方陣。






「っ! 離してくださいっ!!」







とっさに“力”を使って男を突き飛ばし、距離を取る。本気で放たれた神竜の波動は男を蹴鞠の玉の如く軽々と弾き飛ばし、通路の端まで吹っ飛んでいく。
一瞬遅れて硬質な物体が破損する怪奇な音と、破砕音が殿を揺るがし、黄金の閃光が周囲を染め上げた。
胸の内側が痛い程に鼓動を刻み、全身の筋肉が委縮する。紛れもない恐怖を感じつつ、イドゥンは男が吹っ飛んでいった場所を注意深く睨みつけ……。







「───!!」





神竜の第六感。極限まで研ぎ澄まされたソレが危機を警告し、とっさに頭を下げて床に這いつくばる。
半秒後、矢の様に飛んできた炎の玉がほんのさっきまでイドゥンの頭があった位置を突き抜けて飛び去り、廊下の一部の床を溶解させた。
髪の毛の先端の部分が焼け焦げたチリチリという音が耳朶を突き抜け、遅れて届いた振動が背を打ち付ける。







【エルファイアー】だ。
冷静な頭脳の一部がそう判断を下す。かなりの魔力を込めて撃たれたソレは当たればただでは済まないだろう。
避けられると確信して撃ったのか、それとも殺す気で撃ったのか、判らない。








「どうして……!?」







舌がもつれたせいで大きな声は出なかった。
その代わり、腹の底から雑巾を絞るような力む感じと共に噴き出た言葉は何重もの感情に染め上げられたモノ。
顔も声も聞いたことがない男に襲われている。何か恨みを買うようなことをした覚えさえないというのに。








「知る必要はないですよ。貴女はただ、神竜として産まれた勤めを果たすために弟君共々、我らの元に来てもらわなくてはいけない」






男の低く重い声が無音の殿を振わせる。淡々と紡がれた言葉の抑揚はお父さんに似ている様で、決定的に違う。
その言葉を聞いて、今度こそ背筋に今まで経験したことがない程の恐怖が走るのを彼女は感じた。
飛竜に感じた獲物としてのモノとも違う、怒った父に感じる罪悪感の混じったモノとも、弟の悪戯に感じる暖かいモノでもない。






生理的な嫌悪と恐怖。明らかに何かがおかしい。絶対にひどいことをされる。






若い竜の男。恐らくは火竜であろうと推測されるその男は首をゴキッと鳴らした。
凄まじい速度で壁に叩き付けられ、人間ならば全身の骨が粉々になっている程の衝撃を浴びながらも男には全く堪えた様子など見えなかった。





丸太の様に太い腕がゆっくりと音もなく動き出し……そして横凪に振われた。






【エイルカリバー】 【エルファイアー】








発生した莫大な熱と風の断層と嵐。疑似的に目視さえ可能なソレが風速でイドゥンへと迫る。
当たれば竜である彼女でさえも四肢の欠損は免れない威力の大渦。
だが、死にさえしなければ男には特に問題ではなかった。





後でどうせ治すのだから、死なない程度に弱らせてから連れ帰る、それが男の考え。
幾ら神竜とはいえ、まだまだ幼い竜。しかも戦い慣れさえしておらず、戦うための気構えさえない。
そんな小娘に後れをとるつもりなど男はなく、そしてだからといっての油断もない。






どれほど幼かろうが、相手は神竜。全ての竜の頂点。何をしでかすか判らないからだ。
そして時間を掛ければかけるほど、もはや竜という言葉でさえ括れないあの王が戻ってくる可能性が高まる。
男は胸中の苦い思いを噛みつぶす。あの時、ナーガに謁見した時の思い出を。















目の前に熱と風の壁が突き進んでくるのを見て、神竜の頭はかつてない程に冴えていた。






どうしてこんなことに。
私が何をしたの。
助けてお父さん。助けてイデア。







竜の頭を流れるのは、普段の彼女が考えそうな以上のどれでもなかった。
すなわち、どうやってこの場を切り抜けるか、だけ。純粋な生存の為だけに脳髄は過負荷を与えられ、稼動。
そのちっぽけな勇気の源泉は……これまたちっぽけな意地だった。






ここで泣いたら、あの時と同じ、弟とハノンさんの陰で震えていたあの時と。
そんな少女のちっぽけな意地が神竜を支え、奮い立たせている。






無意識に体が動く。何とかするという意思が、精神を超えて体を直接動かす。
両手でしっかりと自らの竜石を握りしめ、それを熱の壁に向けて真正面から翳すように構える。
そして彼女は思いっきり念じた。自らの力を信じるように。





刹那、胸の内側で燃え盛る“太陽”が主の生存の為、そして願いの為に爆発した。
竜石が黄金に輝き……そこから放たれた一条の光が熱風の断層を引き裂いた。
中位魔法同士の混合魔法、威力にして上位魔法にも匹敵するソレを単純なエーギルの放出だけで千切り取ったのだ。






熱壁の断層を突き抜けた光は霧散し周囲の殿の壁を粉々に粉砕する。
巻き上がる埃、溶けた石の煙、ちぎれ飛んだ魔法の残骸、全ての要因が重なり、通路は一寸先も見えない闇に覆われる中、必死に走った。
自室とは違う方へ。確信があった。部屋まで逃げたら、この男は確実についてくると。






そうしたらイデアまで巻き込んでしまう。ならば何処か遠くへ、男を巻くしかない。






だが男は飛竜ほど甘くはない。同じ竜である以上、男は視覚や聴覚だけで物事を見ているわけではないのだから。
床を蹴る気配、必死に逃げようとする小さな思惑、全身から汗と共に漏れ出る熱量、そして……宿した恐怖、全てを手に取る様に読み取る。
指が一本動き、ほんの小さな力が動く。小さな赤い光が固形化し、獲物を追いかける猟犬の如く残光を残して疾走。






それは男の予想通りに逃げようとする神竜の足を“躓かせ”る役割を果たす。
ただでさえ冷静とはいいがたい中、しかもこの場は力の衝突によって足場が滅茶苦茶になっていて、そんなところで一回でもバランスを崩したらどうなるか。






その結果、神竜は回った。
思いっきり右足を固形化したエーギルにぶつけた彼女はそのまま顔面から地面に叩き付けられそうになる。
慌てて突き出した両手によって手首を痛めながらも顔面を地面にぶつけることそのものは回避したが、その代わりに倒れこんだ拍子に左の膝をローブの上から擦り剥く。





四つん這いの態勢となったイドゥンはすぐに動こうとして、止まった。ぶるりと身を震わせて、歯を思いっきり噛みしめ、額には脂汗さえも浮かび上がり、小さく震える。
じわっとした寒さの後に、激痛がやってくる。今まで生きてきた中で痛みを経験したことのない彼女にとっては初めてと言ってもいい経験。






「っうぅぅ!!」







鋭利な痛みによって悶絶し、涙さえ溢れてくるが、彼女はそれを飲み込んだ。
神竜の体が答えるように傷口にエーギルが収束し、即座に皮が作り直され、跡形もなく復元。





そして未だわずかに残る鈍痛が竜の感覚を更に研ぎ澄ませていく。さながら追い詰められた獣の様に。
神竜は痛みの中、頭脳だけは明晰に動かし、状況を理解、分析、把握を繰り返し続ける。
落ち着かなければ、冷静に周りを見なくては。泣く前に、祈る前に、困惑する前にやることがある。







まだ周囲には埃が漂い、視界は悪い。逃げるには今だろう。
逃げる、これがベストだと彼女は判断している。戦って勝つ可能性など皆無以前に、自分は戦い方さえ知らない。
しかも相手はあの男一人だけではないかもしれない。いや、一人の可能性の方が少ない。
何故ならば、さっきあの竜は「我々」と言った。何らかの集団が後ろについていて、この行動もその集団の差し金……なのか。







我々? いや、待って。さっき、あの竜は何て言ったの?




冷静に考えを整理する中でイドゥンは気が付く。
先ほどはただ襲われていたという事で頭がいっぱいだった為に思い至らなかった言葉の意味に。





我々と共に。神竜として産まれた勤め。弟君共々。








──弟君共々──。






今度こそ、顔から血の気が完全に引いた。今迄とは異質の恐怖が体を蝕み、冷や汗が止まらない。
何でさっき気が付けなかったのだろう。イデアも、私と同じように狙われている。しかもイデアは今は眠っていて、抵抗さえできない状況だ。
巻き込む以前の問題。最初からイデアは危ない状況に陥っている。







弟が、危ない。
それだけで足元が崩れ落ちていくような、文字通り心の底から自分という存在に罅が走っていく恐怖を覚え、歯がかみ合わず、視界の焦点さえも揺れる。





思い起こすのは、サカの時のあの光景。悪夢の光景が、現実へと寝食を始めている。
だが、それをすぐに振り払いながら行動に移す。






彼女の胸中を支配する思いは一つだけだった。
イデアに、伝えなければ。違う、一緒に逃げなくては。
逃げて、何としても何処かにいるお父さんに助けを求めるしかない。






目を鈍く輝かさせながら神竜は、再度走り出す。
逃がさないと言わんばかりに足元に蛇の如き執念深さをもって絡みつく紅いエーギルの光を、彼女は竜石から放つ黄金の光で塗りつぶすように打ち消す。
轟々と噴き出る黄金の閃光は、火竜の真紅の光など意にも返さない様に消し去り、神竜と火竜の格の違いを教え込むように念入りに消し潰していく。








既に廊下を走って逃げ切るつもりなどなかった。彼女は、走るのに邪魔なローブを破る様に脱ぎ捨てて、手近の窓から思いっきり躊躇いもなく身を投げた。
ここは竜殿、ベルンの山脈そのものをつくりかえて作られた巨大な王都であり、城でもある、故に窓の外は切り立った崖。
頭から真っ逆さまに雲を風を切り払いながら落下しつつ、竜石を握りしめて力を発動。







背に顕現させた4枚の翼で浮力を生み出し、逆さまだった頭を上に向けて態勢を立て直し、彼女は飛翔した。
薄いワンピースだけを着こんだ今の姿では夜のベルンの風は寒くてたまらなかったが、そんなことを気にする余裕はない。






高く、高く、まずはどこまでも高く。
山々を飛び越え、雲を突き抜けて、月光だけが支配する星空へ。
遥か眼下に見えるのは地平線の果てまで続くベルンの巨大な竜殿。






彼女の“眼”と直感が幾つかの物体の接近を捉えた。赤黒い夜天を舞うように軽やかな速度で移動する存在が近づいてくる。
意識として向けられるのは無機質な、そう、それこそ石造の様な冷たい害意。
そしてイドゥンの耳朶を揺らすのはあの、もう聴きたくないと思っていた掠れた鳴き声。






───ギ、ギギギギギギギギギギ、ギィイイ







黄金の眼が、爛れた光を放っている。空気をかき混ぜて羽ばたくのはただ飛ぶという事のみに特化した野生の獣の翼。
赤黒い色彩の甲殻に包み込まれ、宙を悠々と征服する存在達が造物主の命令によって神竜を追撃し、追いすがる。







【モルフ・ワイバーン】





ソレは劣化型戦闘竜であり、量産の出来る使い捨ての航空戦力。
一体一体の力は人間の戦士数人分程度だが、この存在は……使い捨てであり、その数はとてつもなく多い。
本物の飛竜と同じく数頭単位の群れで行動するモルフ・ワイバーンが涎を撒き散らし、その萎びた果実の表皮の如き喉を鳴らし、神竜に食い掛かる。






ズラッと口内に規則正しく並んだ鋭利な牙は肉を噛み千切り、咀嚼するためのもの。
彼らは神竜を殺すなとは命令されてるが、傷つけるなとは命令されていない。
殺しさえしなければ、どうなっても構わない。このモルフの思考ではその程度しか理解は不可能だ。







「ぅ、ぁっ!」







小さな馬車程もある体躯が勢いをつけて突っ込んでくるのを擦れ擦れでかわしながら、イドゥンは思わず毀れ出る悲鳴を堪えた。
掠っただけだというのに、風圧で体がグルグルと回り、長髪が振り乱れ、視界が狭まる。
エーギルの力を収束し、輪っかを作る。両手で未だに背中でブラブラと揺れている髪の毛を根元から掴み、輪を用いて固定。





先ほど転倒した際に痛めた両手の手首が鈍痛を発し、顔を歪める。視界と“眼”に映るモルフ・ワイバーンは3体。
だが更に“眼”を広めると、殿の内部に数えるのさえも億劫に感じるほどの莫大な数のワイバーンの反応が見えて、頭痛さえ覚えた。
まるで、そう、これではまるで戦争の準備でもしているようじゃないか。






一定の距離を保ちつつも淡々と狙いを定めていたワイバーンの一体が我慢の限界だと飛びかかってくる。
首を伸ばし、猛禽類が獲物を捕食する際に見せるのと同じような一切の慈悲のない攻撃。
それはまるで、あの日サカで見たアレらを彷彿……否、全く同じ動きだった。






ハノンさんを食べようとした。弟を、家族を傷つけた。あの飛竜たちと同じ存在が、今度は自分を狙っている。
その事実にふつふつとよく判らない、しかし決していい感情ではないモノが湧き上がり、喉元から飛び出しそうになるのを抑え込む。
竜はその感情を理解できない。産まれて初めて味わう心の動きを、竜は判らない。







エーギルの質量が跳ねあがる。感情の荒波を燃料に、燃え上がり、膨らんでいく。
黒い、理解できないソレが解放を求めて暴れ狂う。ほんの少しだけ、抑えきれない一部の感情をエーギルに込めるようにイドゥンは飛竜へ打ち込む。






黄金の波動。圧縮された光は物理的な破壊さえ伴い、一つの大岩となり飛び立ち、光速の嵐となる。
ギギギギギギという何か、金属質なモノが捩じれて行くような音と共に波動は神竜へ反逆した愚者を飲み込むべくその勢いを増した。
大渦を巻き、嵐を極小化したような様相の光の波動は、飛竜2体をまとめて飲み込み、その存在の一欠けらも残さずに世界から消去。






幾つかの雲を突き抜けて光の渦は地平線の彼方に消えていってしまう。





「……はぁ……はぁァ……ハァ……」







それを見届けると同時に全身を虚脱感が襲う。呼吸をすることさえ億劫な程の脱力状態。
魔力として計算して放出したわけでもなく、竜化さえしていない状況での純粋なエーギルの放出の負荷が一気に体に伸し掛かり、神竜の体を苦しめ、視界をぼやけさせた。







残り一匹のモルフ・ワイバーンは仲間が跡形もなく消えてなくなるのを見て、逃げるように距離を離す。
戦闘では勝てないという事を理解し、ならば攻撃をよけつつ監視の役割を果たすべきだと判断したのだ。
上空に自らの存在位置を示すように何発か火球を吐きつけ、黄金の眼で神竜を睨みつけ、唸りをあげる。








後1体、あれを急いで何とかして、逃げなければ……そう、彼女が考え付いた瞬間──。








「ご苦労」







ワイバーンの首が唐突に“捩じり飛んだ”
間抜けとさえ見える顔をしたまま飛竜の顔が真っ逆さまに落ちていく。
特殊な力でも何でもなく、純粋に握力で握って、捩じっただけ。





鉄程の硬度が鱗にはあったが、男の腕力の前にそんなものは意味をもたない。




一泊遅れて、飛竜の体が錆の様な微細な粒子となり、霧散し落下。






虚空にはいつの間にか男が“立っていた”
浮いているのではなく、その場、空間に足を付けて平然とした様子で上空に男は悠々と有る。
深夜の山場の冷気など微塵も感じてないように彼は周囲に暴力的なまでの存在感とエーギルを撒き散らしていた。






ついさっき出会ったばかりの男にイドゥンは無意識に、我慢しきれず問いを投げた。
彼女の澄んだ声は、かなりの距離があるのも関わらず男に届く。







「……どうして、私の邪魔をするの?」







ただ私は忘れ物を取りに行きたいだけなのに、なぜ? そんな子供のふざけた問い。
おおよそ場には似つかわしくない呆れるほどに状況を理解していない言葉に男は首を傾げた。






「……? 邪魔? 先ほども言ったが、貴女は神竜であり、我らはその力を必要としているからですよ。何も言わずについて来てくだされば、手荒な事をしなくて済むのですがね」








何でもないかの様に男は言葉をつづける。淡々かつ、浪々と。






「最悪、片方だけでもいいのです。貴女が抵抗をやめてくれるのなら、弟君には手を出さないと──」







言葉が完全に終わる前にイドゥンは叫んでいた。喉が割れるほどの声量で吠えるように。
敏感に、神竜の“眼”は火竜の内心で渦を巻く虚偽を見抜き、叫んだ。







「そんな口約束、後でどうにだって出来るじゃないですか!!」






信じられるわけがない。
幾らなんでもこっちの立場が圧倒的に悪い状況で、圧倒的に有利な相手が不利益を被ってまで約束を果たす義理なんてないと思ったから。






いきなり【エルファイアー】を打ち込んでくる様な奴のいう事など信用するに値しなかった。
それに何より、直感が告げている。ここが運命の分かれ道だと。ここで男達の元にいってしまえば……後戻りは出来ないことになる、と。
イデアも自分も何とかするにはこの火竜を何とかするしかない。その結論は簡単に出たが、どうすればいいかなど皆目見当がつかなかった。







ぎゅっと竜石を握りしめる。やってみようか。
竜化は今まで何回もしたことがあるが、戦いに使ったことは一度もないが……新しい可能性に賭けなくては、今の状況は打破できないかもしれない。
そんな必死の覚悟の神竜を男はやれやれと、聞き訳が悪い子供を叱る親の様な口調でなだめるように言葉を告げる。



表面上だけ感情があるように見せかけた、何とも薄気味悪い嘲笑を顔に張り付ける男。
見ているだけで胸の奥がムラムラするような、熱さに焼かれて気分が悪くなる。







「やめなさい。貴女は自分の価値に気が付いていない。そんなことをして、何になるというのですか?」






男の真紅の眼にはそれが当然だという考えが色濃く映し出されていた。
神竜とは竜族の神。ならば、竜族の為にその身を捧げるのが当然の事だと。
ある意味ではそれは正しいのだろう。だが、イドゥンは訳も分からずいきなり弟と共にそんなことに巻き込まれるのは絶対に嫌だった。







「仕方ない」






男は懐に手を入れる。取り出すのは、真紅に、血にまみれた心臓の如く輝く竜石。




再度腕を男は凪ぐ。引き起こされるのは【エルファイアー】と【エイルカリバー】の複合魔法。
風と焔が融合し、燃え上がる竜巻が男を中心に発生。それは竜化を行う際の無防備な姿を守るための壁となった。





火と暴風の向こうから、声だけが淡々と飛んでくる。つまらなさそうに、ほんの少しばかり面倒な仕事を押し付けられた人間が漏らす愚痴の様に。





「先ほども言いましたが、殺しはしません。だが、手足の一本くらいは覚悟するのですね。私も、幼いとはいえ神竜の相手は骨が折れる」







そして……。





……暴力的に竜の力が膨れ上がる。






森羅万象を塗りつぶし、焼き尽くす極光の紅がベルンを月に代わって照らす。
大気の熱が瞬時に暖められ、気圧が狂い、小さな竜巻が幾つも巻き起こり、ベルンの山々を削り取り、幾つもの草木を巻き上げた。
腹の底を揺さぶる重低音が空間を揺らし、放電現象さえ雲々の内で発生。







熱地獄。その言葉以外に今の状況を形容できるものなどない。
男が竜の力と姿を解放した結果、穏やかな上空の世界は噴火寸前の火山の火口を思わせるほどの熱によって重々に塗りつぶされたのだ。






その熱源となる【火竜】の姿は……多くの人間が竜と言われてまず初めに思い浮かべる姿そのものだった。






山など一跨ぎで超えてしまいそうな、天を突く巨躯。炎を凝固した真紅の鱗と甲殻。
背から噴き出るのは膨大なエーギルを具現化した物質はおろか、空間さえも焼いてしまう生命の炎、そしてそれによって形作られた翼。





古の時代から存在し続けた純血の火竜の、完全なる降臨だった。
真紅の縦に裂けた瞳孔がギョロギョロと動き回り、イドゥンを見つめて……吊りあがった。
冗談のような規模のエーギルの塊が、ちっぽけな少女を見たのだ。その威圧感は、並の人間ならば眼を合わせただけで狂うか、もしくは生命活動を停止してしまう。








透き通るほど澄んだ瞳の中に映る自分の顔は、恐怖と絶望が絶妙なさじ加減で混ざったモノ。
闘いの方法など、彼女は判らない。どうやって相手を倒せばいいかなど、覚えていない。
だが、やるのだ。やるしかない。やらなければ……私だけじゃなく、イデアさえも酷いことをされる。









それは、ダメだ。絶対に阻止しなければならない。何時も何時も苦労を掛けてばかりの弟に、また何も返せないなど、嫌だ。
今、弟を助けられるのは自分だけなのに、その自分が諦めてどうする。
既に何回も念話による呼びかけは行っているのに、何かに妨害されているように声は届かない。





ならばこそ、自分の手で助けに行かなくてはいけない。今、この場で動けるのは自分だけなのだから。





強く握りしめた竜石に祈る。
竜化を行う為の前準備、石から力を引き出す為の前動作。
けた違いの量の黄金のエーギルが石から体に流れ込み、力があふれ出る。






黄金色の球体が現れ、それはイドゥンを包み込み、その身を変化させていく。
爪が、翼が、鱗が、そして四肢が人のソレから、竜のソレへと回帰する。








もしも、イドゥンにもう少しだけ、実戦経験などがあれば、敵の前で呑気に竜化を行う等という隙だらけの行為はせず、男の様に何か防護策を打つのだが……もう遅い。






……火竜がその咢を開いた。口内で蠢くのはこの世の何よりも熱く、防御など意味を成さない竜の極火。
竜は、神竜の力を決して軽んじてなどいない。故にもっとも手っ取り早く倒すための方法として、この瞬間を狙っていたのだ。




動けず、竜化さえ完全ではない状態の神竜を、火竜はためらいなく攻撃する。





瞬間、絶大な量の火がベルンの空を“焼いた”
紅という紅が、灼熱のブレスとして竜より放出され、それは原初的な燃焼という概念を世界へと刻み込む。
防御など無意味。回避など不可能。ましてや相殺など出来るわけがない。






絶対の終わり。竜の怒りに触れた全てを消し去り、消滅させる吐息。
それが容赦なく竜化を行っているイドゥンへと吹きつけられた。
業火に対応するように黄金が膨れ上がったが、それさえも焔は容赦なく飲み込む。






時間にして瞬き数回分だろうか。
だが、一瞬でいかなる金属でも気化するほどの熱の暴力の前に、その刹那はあまりにも長すぎた。
竜がブレスの照射を停止する。ガァンという重厚な音を響かせ、凶悪な形状の牙が上下でかみ合わされ、漏れ出る火を噛み砕いた。







未だに熱を孕んだ空間が沸騰している中、徐々に焔の残滓が消え去り、視界が戻っていく。





姿を見せるのは、黄金の発光体。
薄い布の膜を塗り固めたようにも見える球状の繭に、罅が走り、中から神竜がその姿を現し、掠れたうめき声と共にイドゥンは何とかその場に滞空する。





全身が引きつる様に痛い。体内の大切な何かを丸ごと持っていかれた様な重大な喪失感。





「い、……いぃ……うぅぐぅ…………」






竜化を途中で妨害された結果、その姿は人と竜の姿が入れ混じったモノとなってしまっていた。
背から生える翼は4枚とも大きさが無茶苦茶になり、頭部からは何本かの角が突き出ている。
ぼろ布同然となってしまった衣服の所々から見える素肌は竜の鱗に覆われてこそいるが、それは黒く焼け焦げ、痛々しい火傷の後を晒している。





ブレスが直撃する寸前、彼女は完全な竜化を放棄し、竜化に使用するはずだった全ての力を全力で防御に注ぎ込んだのだ。
魂という概念さえ焼き尽くす焔を前にありったけの力を込めた防御の膜はボロボロと崩れ落ちていったが、それでも彼女は諦めなかった。
光の膜が崩れる度にそれを補うために新しい膜を編み上げ、それを以て熱から身を守り続けることを繰り返し続けて、何とか命を紡ぐことには成功した。






命だけは、だ。正直な話、今の彼女は気力だけで意識を保っている。
最後の半秒は、膜の生成が間に合わず、まともにブレスを浴びることになったが、幸運な事に一部竜化した部分で顔などを守ることによって失神こそ免れたが、全身は今も熱によって犯されている。
火竜のブレスは、物理的にだけではなく、エーギル、魂さえも焼いてしまう効果があり、その力は神竜の持つ力を何割という単位で削り取っていた。







全て、火竜の計画通りに物事は進んでいた。力の消耗具合も、何もかも。
これは戦いではなく、作業だった。獲物を弱らせ、捕獲するための。




イドゥンは竜の眼を見る。そこにあるのは冷ややかな観察の視線と、もう諦めろという通達。
モノを見る目だった。知的生命体を見る目ではなく、利用できる剣や書物を見るのと同じ瞳。
その眼の中に、もしも捕まればどうなるかの末路が見えた。








「…………!」







痛みが多すぎて、体の何処が痛いかさえ判らない。
お気に入りだった衣服は黒く炭化し、焼け焦げた布が肌にひっついて動くたびに皮を引っ張られるような違和感と鈍痛を刻む。







「これぐらい……!!」






全然痛くない。まだ大丈夫。そう言葉に出そうとしても舌が動かない。
腕を振るわせ、拳を握りしめる。少しでも気を抜けば視界は暗転し、体は崩れ落ちそうだった。
体内に“眼”を通せば、吹き付けられた火竜のブレスの炎は今も深く心身を侵食し、体細胞からエーギルへと刻まれた火傷を悪化させていくのが見える。








ここで、この竜を退散させて、イデアを連れ出し、お父さんの元へ行く。
そして、そして明日も変わらない日常を送る、そのために、今自分は頑張っているし、これからも頑張れる。
愛すべき平穏の謳歌と、何処までも続く愛しい家族との生活、それこそがイドゥンの願いの全て。




なけなしの力を振り絞り、体内に残ったエーギルを片手に収束。圧縮された波動は極小の黄金の玉となり浮遊。
力を手に集める度に竜化が崩れ落ちるように解けていくが、そんなことは気にしてはいられなかった。
最低限翼だけを残し、全ての力と意思をかき集めた純粋な力の収束体を見て、神竜は悔しさに顔を歪める。








ニニアンの握りこぶしよりも小さく儚い光の玉が、今自分が持っている力の全て。





火竜が再度咢を開く。深淵を思わせる喉の奥から吹き上がってくるのは竜の業火。
殺しを目的としないソレは先ほどに比べて多少威力こそ落ちているが、それでもまともに受ければ今度こそイドゥンは全ての力を削り取られ、動くことさえできなくなる規模の力の濁流。
そして竜は最後の締めとして吐息を一切の慈悲を含まない思考の元に発射。





イドゥンに迫るのは“焔”という概念を抽出し、濃縮した真っ赤な壁。大気を凄まじい速度で消耗し突き進む熱波。
無慈悲に吐きかけられたブレスに向かい、神竜はただ一つ、全てを込めた球を撃ち込んだ。
黄金と紅が空で衝突する。一瞬の膠着の後に、黄金は熱の壁を切り裂く。






焔が切り裂かれ、真っ二つに裂けていく中、黄金の波動玉は勢いを全く落とさずに天を駆け抜け、そして竜へ直撃。
轟音と閃光が世界を埋め尽くす。そして、次に訪れるのは完全なる無音。






世界から、一切の音が消えてなくなったのだ。







一泊の時が過ぎ去り……世界が戻る。
そして怒りに満ちた号砲がベルンを揺らした。






光が収まり、現れた火竜は頭部の一部の外殻を砕かれ、肉が露出し、片側の眼球は潰れてしまい、血が噴き出てこそいたがそれでも致命的な傷ではない。
潰れかけた瞳に力が収束し、修復を開始。不気味な肉がうごめく音と共に眼球が膨れ上がる様に再生し、ギョロリと動き回った。
瞼の再生を行う最中の真ん丸な眼が神竜を無機質に見つめ、その瞳孔が何度も何度も収縮を繰り返した後、血涙と共にぐるんっと回転。







竜の背から噴き出る炎の翼が形状を変える。巨大の人の手に。
火竜が宙を歩き、神竜へと迫っていく。一歩一歩踏みしめる度に、焔の腕が神竜へと絡みつこうとのたうち回る。
徐々に感じる熱波が激しくなり、火竜より感じる圧迫感が跳ねあがっていくのを理解しつつも、そんなことイドゥンはどうでもよかった。









どうすれば? どうすればいい? 私が、今何とかしないと……何でもいい、誰でもいい───。






眼前、目と鼻の先にまで迫った竜の顔が、不気味に笑ったような気がした。真っ赤なエーギルの嵐が周囲を取り囲んでいく。
さながら、今の彼女は鳥籠に引きずり込まれた小鳥、しかも逃げられないように念入りに翼を手折られた──。







「あぁ…………」







イドゥンは息を小さく漏らす。火竜はソレを最初は諦観だと思った。諦めの悪い子供がやっと自らの使命を受け入れたのだと。
だが、彼女の左右で色が違う眼を見て、違うと理解する。






それは絶望ではない。安堵だった。怯えていた子供が、悪夢にうなされていた子供が、親に抱きしめられて浮かべる顔。









そして───狩る者と狩られる者、その立場の逆転を意味している合図でもある。








いつの間にか、火竜とイドゥンの間に一人の男がいた。気配も何もなく、本当に誰も気が付かない内に。
最初からいたと言われても納得してしまいそうな程に男は、一片の遠慮も見せずに割り込んだのだ。
男は空間を跨いでここに居る。それこそ遥か西の彼方、絶海の孤島に建造された人知を超過した地より現れた。





竜殿全体に張っていた空間転移を阻害するための大規模結界さえ軽々と砕いてナーガは降臨したのだ。





幼い神竜の体を男の黄金色の力が繭の様に包み込み、保護する。
同時に発動されたリカバーとハマーンの力によって全身に受けた傷と、衣服の損傷が再生し、全ての痛みがイドゥンの体より消えてなくなった。





紅と蒼の眼が、虫でも観察するような無機質な視線を火竜へと向けている。
人の幼子と成体の竜の間に存在する絶望的なまでな力の壁の比率は、このたった一人の男……ナーガと火竜の間に存在する壁と同じ高さだった。






ナーガは、殿へと“眼”をやる。そこに居るもう一柱の神竜を感知し……。









火竜は叫びを絞り出す。
音波が膨大な波となり、不可視の壁は世界を叩き割る声量と共に周囲を吹き飛ばしていく。
そこに込められたのは純粋な怨嗟と憤怒。






なぜ、何故邪魔をする。事は竜族全体に関わるというのに、よりにもよって、何で貴様が邪魔をする──。






かつての臣下であり、民であった火竜の全てを込めた叫びに、業火が重なっていく。
産まれるのは先ほどイドゥンへと放ったモノとは比べ物にならない規模の力が篭ったブレス。
焔の、熱の色は紅が青へ、そして白へと変貌し、その度に熱の力は数桁単位で跳ね上がり、限界知らずに放たれた際の破壊の規模だけが膨らんでいく。







既に紅蓮を超えて、白色化している熱の塊を神竜王は表情一つ変えずに見つめ、首を音もなく傾げた。
左手の指で小さく円を描く。ただそれだけ、たったそれだけの動作でナーガは術を完成させるに至る。
膨大な、とてつもなく膨大な純粋な“力”が数えきれない程の竜の術により増幅され、一つ一つが神域の【奥義】さえ伴い発動する。




その全てが各々の特性を合致させ、一つの術となったのだ。





【陽光】【流星】【太陽】






現れた5つの三角を基調とした魔方陣に黄金の光が収束。文字通り地上に5つの【太陽】が【流星】の如く現れ【陽光】がベルンを真昼間へと変える。
夜の領域は消え去り、空は青く染まり、陽気が周囲を見たし、昼間へとベルンは変貌したのだ。
昼夜の区切りなど、ナーガの意思一つで覆せるという事を証明するように。









5つの太陽から放たれる黄金の閃光が世界を染め上げ、強制的にたった今創世された隔離世界の中に火竜は太陽諸共飛ばされてしまう。
問答無用の力、竜という領域を超えた正真正銘神の御業の前に、火竜の存在など意味はない。
ナーガが別の世界に火竜を送ると決めた瞬間に、彼の命運は定められた。








夜に帰った世界。後に残るのは荒涼としたベルンの闇夜だけ。


















無音。無風。突如として目の前に現れた世界に火竜は言葉も思考も失った。ナーガもイドゥンもおらず、自分だけがある世界。
人も竜も、虫や木々もない世界。宙を浮く火竜が見るのは遥か下界に波を打つ果てのない真っ黒な大海。
上を向けば、空には無数の星々が輝く夜空があり、天には幾つもの華麗なオーロラが走っている。







幻想的な世界。平穏と静寂を究極まで求めた結果創世されたような世界。
月は、なかった、あの真っ赤な月はこの世界には存在していない。







竜が見たのは夜空の果てに、なぜか夜なのに輝く“太陽”
神竜の象徴であり、竜族が掲げるシンボルでもあるソレが……堕ちてきていた。
オーロラはソレが原因だった。太陽の膨張と爆発による影響で発生したモノ。






いつの間にか存在していた三角形の赤色魔方陣が今まで見たこともない規模、天を覆い尽くす巨大さをもって残酷に歯車として回り続けている。





海が、蒸発する。無音の世界が轟音に塗り替えられ、白く、白く染まる。
真の熱地獄、火竜でさえ熱さに悶え、声や息さえ出ない世界。
熱の塊は更に膨張する。融合、融合、融合、爆発、爆発、爆発を果てなく繰り返し、その先にまで至りながら。









──【ファラフレイム】──。







3つの奥義が完全に融合を果たした結果、生み出されたのは【ファラフレイム】を更に進化させた新たな禁忌。
ナーガのみが扱いこなせる魔道の究極の一つ。いかな防御も無効にし、いかなる回避も不可能。
【流星】のみならば本来乱射出来ない規模の術を5回同図に発射可能な分、そのリスクとして威力の低下もあるが、ナーガはそんなものを気にしない。






威力の低下はなく、それどころか他の奥義により数倍、数十倍の威力に高められ、更には一定の力量差のある存在の魔術的防御を完全に無効化するという効果をもった【ファラフレイム】が動く。
神竜王の【逆鱗】を踏みにじった存在への、神罰。










飛竜の群れを消し去った際に放ったフォルセティと同位階の魔法。
アレの属性は『風』であったが、これは『火』の属性。
単純な火力ならばナーガが持つ魔法の中でもトップクラスの術。







世界に対する影響を考慮し、限界まで威力を削いだ【フォルセティ】とは比べ物にならない次元での破壊。
エレブで使用すれば、竜、人、はおろか大陸そのもの、否、エレブが存在する世界というレベルで甚大な被害を発生させ、何も残さない破壊を齎す術。
かつてこの術が行使された【始祖】と【神】の戦いの激しさを雄弁に物語る技。







火竜など、神竜王という絶対の神の前には何の意味ももたない。それを見せつけるようにナーガは竜を焼き殺すという手を選んだのかもしれない。




吹き付ける超高温高濃度のガスと生物の体細胞を微塵に粉砕する光が竜の鱗を沸騰させ、溶解させていく中、竜は叫んでいた。
“太陽”が更に膨張し、この隔離異界ごと竜を吹き飛ばし消滅させるその瞬間、意識が消えてなくなるまで、火竜は胸中で絶叫をあげて叫んだ。
眼球が破裂し、舌が溶けて、鱗、甲殻が気化する。臓腑が沸騰し、手足、肉体、細胞、エーギルの欠片に至るまで原始の彼方に完全消滅する刹那、竜の胸中を占める思いは一つ。









何故、あなたは我らと共に人と戦わないのだ、と。










閃光。白亜の光が万象を消し潰した。煮えたぎる混沌の太陽が、炸裂。
薙ぎ払い、世界を削り取っていく死の光と嵐。







そして、後に残るのは何もない完全なる無だけ。


























「……おと……う、さん」






イドゥンは何とか言葉を絞り出す。体の傷こそ治ったものの、今や限界ぎりぎりの彼女は呼吸さえも辛く感じていた。
膨大なエーギルの放出、灼熱のブレスの直撃、初めての戦闘による精神的な緊張感に、弟に対する不安。そしてナーガの出現による安堵によって、今にも意識は暗闇に落ちそうなのを必死に繋ぎとめている。







「イデ、アを……」






助けて。






口だけが確かに動いたのを最後に感じつつ、イドゥンは今度こそ意識を手放し、暗闇に落ちていった。
彼女を黄金色の繭が包み込み、ナーガはその繭の中に覇者の剣を柄から放り込む。
覇者の剣が漆黒色に発光し、空間を侵食。発動した特殊な転移の術、一切の追跡も探知も許さないソレがイドゥンを【里】へ剣諸共送る。





ナーガは無言で、たった今火竜の一柱を消し去ったとは思えない程に何の感情も見せない顔で殿を見やる。
もはや隠すのは不可能、いや、予定よりも計画が狂った時点でナーガは幾つかを諦めていた。
何十、何百の“眼”がこちらを見ている。いつでも戦闘が出来るほどに力を高めた全ての竜がナーガを注視しているのだ。





そこに宿るのは、純粋な恐怖と憤怒。王に、神に逆らう竜達は勝てないことを承知で、念を飛ばしている。






ナーガは、その光景を眉一つ動かすことなく見ていた。彼の頭にあるのは冷静に計画をどう修正し、どう動かすか、だけ。
既に演じていた親としての念など捨て去った彼はメリットとデメリットを天秤にのせて測る。
「門」と「里」の最終確認を行い、殿へと戻るのが遅れた結果がこれだ。





片割れは確保したが、もう一柱は既にあちらの手に落ちていると見ていいだろう。







助けるか? 否か? 





ナーガは既にイドゥンの言葉に対して考えることさえしない。彼女の手は届かない。彼女の心は届かない。
既に割り切ってしまったナーガは、姉弟を我が子として見ていない。





一瞬で答えは出た。
神竜とはいえ、“代わりはいる”たかが子供と、竜としての種族全体、どちらが大切か。
無駄ともいえる戦闘を行った場合の消耗。負けはないにせよ、少しばかりこの後に響くだろう。






時空の狭間を超える民達を導くためにも、自らの力は十分でなくてはならない。
それに、どちらにせよここでこの敵対する竜を根絶やしにしても、人との戦争はもはや止まらないところまで来ている。
自分に従わない人と竜を全て駆逐し、ナーガが絶対の支配者となり君臨する世界を作るという選択肢もあったが、彼はそれに見向きもしなかった。




それではまるでかつての“始祖”と同じではないか。自らが滅ぼした存在と同じことをするなど、実にバカバカしい。






もう、世界はどうしようもない状況になってしまっているのだ。人と竜が混じってしまった時点で、こうなるのは必然。
世界に存在できる知的生物は一種のみ、それが真理。






ナーガは踵を返し、転移を発動させる。黄金色の光が全身を包み込み、空間を跨ぐ刹那に、僅かな苦痛を彼は感じたがナーガはそれを気のせいだと揉みつぶした。







そう。愛など無かったのだ。愛などなかった。自分が両者に抱いていた感情は親が子を愛する感情ではなかった。
便利な道具を使える領域まで育てて鍛える、それが自分のやっていた事。
竜王は導き出していた答えを確認するように反芻させ、そしてエレブからいなくなる。









何百もの竜の怨嗟の咆哮だけがベルンを揺らし続けていた。















あとがき








IFは基本的に本編と同時間軸まで進めていく予定です。
一度本編の二部の中盤ぐらいの時間軸まで書いてから、今度は本編の方を烈火前日譚、烈火本編まで進めたいと思っています。
構想の段階で色々やっていたら、どんどん暗い話になってしまいましたが、それでもよろしかったら、どうぞ。





さりげなくイドゥンと火竜の対決は、封印烈火のラスボス対決だったりします。
このIFを書くに当たって、結構これが書きたかった節もあったりします。





続きは数日中にでも。遅くとも1週間か2週間、8月の前半には更新したいですね。
納得できなければ、書き直ししたりするので、どうしても更新の幅が長くなってしまう……。





[6434] とある竜のお話 異界【IF 異伝その2】
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/08/13 03:58



注 今回の話も一部グロテスクな表現や、ちょっとだけ暗い展開があります。苦手な方はご注意ください。











真っ白な夢。暗い暗い闇の底で、彼女は白く、それでいて温かみに溢れた願いに漬かっていた。
お菓子があった。本があった。思い描く夢があって、家族がいて、心を通わせた友達がいて、自らを慕ってくれる姉弟がいた。
弟が、様々な話を聞かせてくれる。知りえなかった知識と、幸福、そして笑顔を与えてくれた。





父は何時も無感情な顔の裏に、確かな愛情を与えてくれた。仕事の合間に現れては、いつも自分が興味をそそる内容の本を見繕い、渡される。
友達は、母性を感じさせてくれた。母親を知らない自分にとって、母と言われてまず第一に浮かべるのは彼女だった。
姉弟は自分にイデア以外の妹と弟という存在、自分を頼ってくれる、信頼しついて来てくれる二人は自分にとって新しい家族にも等しい存在。









覚醒。体力の回復と同時に全身が活力に満ち溢れ、意識が引上げられて行く───。











「………………」







瞼を開けると視界に入ったのは最近ようやく見慣れてきた新しい天井。
閉め忘れた窓からは地平線の彼方に近づいた月の穏やかな光と、夜の砂漠の冷風が吹き込んでくる。
隣に手を伸ばし、掴むのは【覇者の剣】これが隣にあると落ち着く。







段々、睡眠時間が短くなってきている。
以前は一回夜に眠れば朝まで起きることはなかったのだが、一日一日ごとに夜の睡眠時間は失われていく。
睡眠不足などには、なるはずもない、何故なら純粋に体が睡眠を不要としてきているからだ。






力が、エーギルの総量が爆発的に跳ね上がってきていることをイドゥンは感じていた。なくなった部分を埋め合わせるように。
そしてそれに比例するように、時折彼女は猛烈な食欲、飢餓を味わうことがある。
リンゴを食べて紛らわせて誤魔化しているが、一体、どうして飢餓を覚えるのかなど判らない。





彼女がこの【里】に送られて数か月が経っている。
ナーガによって送り込まれた当初、彼女は我を失うほどに取り乱し
必死にイデアを探し回るほどに狂乱する様を見せたが、今は落ち着いて現実を考えるだけの余裕があった。





正直な話、お父さんには幾つか言いたいことがあるが、その全てを抑え込み、彼女はやるべきことをやる。





里の竜達……フレイやアンナ、メディアンなどに大体の説明を聞き、外の状況を把握した彼女は今は自分がやるべき事を見つけたのだ。
長になり、里を、イデアを招くべき場所を守る。ただ泣いているだけでは、帰ってきたイデアに何を言われるか判ったものではない。





里はいい所だった。フレイは一から判りやすく長としての仕事の仕方、心構え、大事な事などを教えてくれるし
アンナやメディアンとは色々と女性同士の会話を行うこともある。
部下、臣下としての誠実な態度を崩さず、それでいて親身になってくれる彼女たちにどれほど助けられ、正気に返るのを助けられたことか。







用意されていたベッドは殿にあった奴に比べれば小さいが、それでも寝心地はとても良い。
その上をゴロゴロ転がりながら彼女は思う。一体、何処からおかしくなったのか。
お父さんは、どうしてイデアを助けてくれなかったのか。






確かな事は、もう自分は子供のままではいられず、それではいけないという事。
ほんの少し前までは隣に居た半身がいない。
その痛みは果てのない傷として彼女の中に残っていて、時折“膿だして”じわじわと胸の内側を蝕む。







長としての仕事で時間を潰し、残った時間は殿から持ってきた知識の溜まり場で書物を読んだり
里で知り合った竜族のメディアンやアンナに接近戦の技術を習うなど、自らを高めることに彼女は暇な時間を費やしてその痛みから得る鬱憤を貯めないように努めているのだ。
全力で挑むと、彼女たちもまた全力で返してくれる。大地に何度もたたき伏せられながらも、真摯に向き合ってくれる彼女たちの存在は救いだった。






ただ部屋に籠って延々と思考を回転させるだけでは、必ず自分はおかしくなってしまう。
そんな確信めいた予感をイドゥンは抱いている。







何度眠ろうとしても眠気が全く湧き上がらないことに仕方ないと割り切りをつけると、起き上がる。
窓の外から見える月を見やり、彼女は力を発動させて背に翼を生やし、防寒のために力を使って殿から唯一もってこれたモノであるお気に入りの紫色のローブを取り寄せて着こむ。
2対4翼の浮力が見えない力場を発生させ、彼女の華奢な肉体を空へと舞いあがらせた。







上に、上に、上に、里に張られている結界ギリギリの所まで飛び上がり、静止し、そのまま滞空。
ふわふわと上下に風に揺られるように浮きつつ、イドゥンはぐるっと首を回して前後左右を見渡した。
見渡す限りの広大な砂漠。空に光り輝く無数の宝石。直下で細々と幾つもの灯を燃やす【里】の全景。







流れる風が髪をすくい上げ、優しくさらっていくのがとても気持ち良かった。風の精霊が語り掛けてくる。
大丈夫だと、きっと家族とまた会えるさ、と。






神竜はゆっくりとした動作で顎を上げ、星夜を眺める。
星はいつもそこにある。綺麗で、壮大で、竜としての自分でさえも置き去りにするほどの時間を過ごす存在。
彼女は星に憧れていた。無限の神秘と可能性を内包した圧倒的なソレに心を奪われていたのだ。









竜石を胸の前で握りしめ、意識を集中させる。
遥か東の果て、世界の正反対に居るであろう唯一の家族を感じ取るために。






イデアは一枚自分の鱗を持っている。かつてサカへ行く際にはぎ取ってしまったものを。
自分の一部を通じ、蜃気楼を掴むような不確かさの中に彼女は弟の命を“見る”事が出来た。
見るだけで、会話も、触れ合うことも、助けることも出来ない。








幻惑の中の弟の力の波動は、彼女が知っているモノとは大分違っていた。
白が黒に、黄金が紫に、自然が不自然に。変異したとしか思えない程にその力は強大なものとなり、それでいて禍々しい。
その力を以て、イデアは今は戦争をしているのだろうか。あの優しい弟が。







戦争、そういう言葉で片付けられてこそいるが、今外界で行われているのは種の絶滅を掛けた闘争だ。
そして恐らく竜は敗北するであろう。ナーガは竜族から様々なモノを奪い取り、消し去っていったのだから。
竜族の最大勢力であったナーガの勢力が根こそぎ消えてなくなり、更には創世期から存在する古代の竜族魔法の数々、その源泉さえナーガは取り上げたのだ。






死。





想像するだけでも恐ろしい。家族の死がありえる現実が怖くてたまらない。夢が現実となるかもしれない。
それが怖い。半身の、家族が消えるなんて事は、嫌だ。ナーガもエイナールもニニアン、ニルスも今はいないのに、最後に残った大切な存在まで……。
あの時自分の周りに居た存在だけが彼女の全てであり「世界」だったのだ。それが何もかもはぎ取られ、今彼女は一人だった。







語り掛けてくる精霊は言った。【死】というのは、もう会えないという事だと。
だからこそ、必死に生き物は生きるのだって。







帰りたい。帰りたい。あの優しい時間に戻りたい。
心の中でささやく声を彼女は黙殺した。今の自分は見習いとはいえ、竜族の長なのだ。
大勢の人や竜族の居場所を守り、管理し、維持するという事の責任の重大さを彼女は理解している。






「重い、なぁ……」






単純な物質的な重みではない。自分の両肩に乗っている命と尊厳、想い。
この世の何よりも重厚な幾多の「世界」を肩に乗っけた彼女は思わず呟いていた。





強いって、疲れる。そう、胸中でイドゥンは愚痴をこぼした。




お父さんがこの世界を捨てて別世界へと旅立った理由をイドゥンはその身で体験していた。
今の自分とは比較にならない規模の命と責任と重圧を背負い、道を間違えることなく統治をし続ける……それは物凄く疲れる事なのではないか、と彼女は思うのだ。
しかもフレイなどの話を聞くに、最後の時点では明確な翻意を抱いていた者達さえあったようだ。





息を大きく吐くと、白い息が口からブレスの様に尾をひいて漏れ出る。
それが面白くて何回か息を吐いてから、何気なく上空に視線を移すと……光が走っていた。






「……あ」






流れ星を見たイドゥンは眼を輝かせる。何か願いを託そうと、口を動かそうとするも咄嗟に言葉は出なかった。
星が消えてなくなるまでに願いを3回、いや4回か? とにかく早口で噛まずに言えればその願いは叶うと弟は冗談めかして言っていた。
正直な話、言っているイデアさえ信じていないような内容だったが、それでも彼女は戯れに行おうとして、失敗してしまう。






「ん…………」






あっという間に暗闇に溶けて消えてしまい、もはや残骸さえ残っていない流れ星に彼女は落胆の息を漏らした。
気を抜くとぐぅーっと腹部辺りから空腹を知らせる音が鳴り、イドゥンはお腹を押さえて肩を落とす。
ローブをまさぐってみるが、何も食べ物などあるはずもない。






飢餓と渇き。餓鬼が常に孕み続けるソレが心のそこで蠢いた。
もうこの感覚には慣れてきたとはいえ、それでも決して味わいたいと思うものではない以上、どうにかしなければならない。
朝になったらメディアン辺りから美味しいリンゴでも貰おうと考え、彼女は自室に戻るべく里へと降下していく。







そういえば、と。彼女は思い出した。
弟が作ってくれた焼き菓子はとても美味しくて、とても癖になる味だったのを。
アレの作り方、知りたかったなぁ、と彼女は思った。


























天が割れていく。青空は瓦解し、世界の秩序が崩壊する。
森羅万象を崩壊させるだけの力の衝突は、土台である世界そのものに重大な損害を与え、時空が歪み、狂い、壊れていく。
蒼天が消えてなくなり、ありとあらゆる色をごちゃ混ぜにしたよどんだ空が世界を支配し、森羅の法則がおかしくなる。






冬が夏に、夏が冬に、昼が夜に。そして生が死に。
億万兆京の死が世界を覆い尽くし、人竜問わず平等な破滅を振り分けていく。
発生した大災害により、多数の都市が崩落し、作物は枯れ果て、民草に広まるのは終末思想。






余りにもわかりやすい、世界最後の光景。
これは後に【終末の冬】と語り継がれる、世界【秩序】崩落の日である。
















星が見れない。
イドゥンは世界【秩序】が崩壊し、淀みきって混沌とした色彩となった空を眺めながら呆然とそんな事を考えていた。
これじゃ、今が夜なのか、昼なのかさえ判らず、星夜も太陽も見えない。





世界がこうなって、早くも数日が経過している、と“思われている”
昼も夜も意味がなくなった世界で、日数などという単位に拘るのは無意味だろうが、経過した時間はおそらくそのぐらいのはずだった。
何時もは無邪気に世界を漂っているように感じられる精霊たちでさえ、まるで狂ったように意味の分からない思考と波動を撒き散らしている。






そして何より、イデアの存在と力は感じられるものの、何か違和感を感じるのが気になった。






しかし今はそれどころではない。





一種の現実逃避とも言える感情の中、イドゥンは露骨に混沌と化した世界に嫌悪を示す。
何だろうか、あれは。背筋に寒気が走り、腹の奥底から濁った黒いモノが噴き出てくる。





殿の自室、その窓から眺める世界の様相は、余りにもおぞましい異界のモノとなっていた。
空から感じるのは歪んだ空間の法則が崩れ落ちていく音、大地から感じるのは、地殻が無茶苦茶に変動し発生する大規模な地震を必死に押しとどめる地竜の力。
ただ見ているだけで不安になる世界。吸い込まれていきそうな程に濁っていて、底なし沼の様に果てがない混沌がそこにはあった。





時折混沌の狭間より真っ黒に燃え盛る太陽のようなモノと、真っ赤な月らしきモノが昼と夜の領域を奪い合うように顔を覗かせあう。







「本当に……私の力で治せるのですか?」







口から出たのは独り言ではない。しっかりと対象を認識し、彼女は声を飛ばした。
自室の扉の前にいつの間にか移動してきていたフレイとアンナに扉越しに声をかけたのだ。
長として作った口調、演技としてだいぶ定着してきた丁寧な言葉、全て自分ではない他人が発した様なモノのようだった。





彼女が参考にするのは父親であるナーガ。
父の様に冷静で、取り乱さず、淡々と判りやすく喋るのが長としての口調だと思ったから。






『はい。今の貴女ならば、間違いなく可能です』






ドアの向こう側から聞こえてくるしわがれた声で耳朶を揺らし、彼女は頷く。
自分は、先代、父から竜族を守り、導く使命を与えられた者。自分の手にすべては掛かっている。
未だに自信も覚悟も足りないなれど、この手で【里】を正しい方向へと進めなくてはならない。





もう、何をすればいいか判らないで泣いていた、子供だった自分とは決別する時が来ている。



そんな思い込みという鎧で彼女は身を守っていたが……。







「……!」






真っ白に皮膚の色が変わるほどに拳を握りこみ、必死に誤魔化す。小さな小さな白い手は無様に震えていた。
彼女は何度も何度も自分に言い聞かせていた。怖い、本当は出来るなんて自信は欠片もない。
だって自分の力が真実役にたったことなどないのだから。







サカの時も、竜殿の時も、結局は誰かに助けられていて、自分だけでは乗り切れなかった。
その代償としてもっていかれた存在はあまりにも大きすぎて、また何か失敗して大切なモノを失うかもしれない、そんな悪夢を神竜は恐れている。
逃げてしまいたいという気持ちがこみ上げる。それを消し去るのは一つの簡単な事実。ここから逃げても何処にも行く場所などないという結果だけ。





幾ら世界の崩壊と共に自らの力が際限なしに増大していっているとはいえ、世界を修復することなど、本当に自分に出来るかどうか判らない。
失敗したらどうなってしまうのかさえ理解できないというのに。





グルグルと頭を何十もの思考が巡り巡る中……唐突に彼女の頭の上に暖かい……これは、手、だろうか? が、乗せられた。






「あんな……?」





呆然と、余りに予想外すぎる展開に口走った名前は間の抜けた音程の声。
しかしそれでもしっかりと相手には伝わったらしい。
自分が考え事をしている間に何回もノックをして、それでも返事がないから入ってきただけのこと。






柔らかく、労りをもって頭をアンナは撫でている。その眼にあるのは柔らかい光。
まるで親が子を見守り、背中を押すような眼だった。








落ち着いて、きっと、貴女なら出来ますわ──。




貴女様なら、きっと出来ますよ──。








アンナと、一瞬だけエイナールの姿が重なる。
種族、性格、外見、そのすべてが正反対だというのに。






神竜は、大きく息を吸って……吐いた。そして確認する。
自分は神竜だ。お父さんの、ナーガの後継者で、二代目の長。そして、イデアの姉で、エイナールの友達で、ニニアン、ニルスのお姉さんでもある。
そんな自分が胸を張ってまた大切な存在と再会するのは、己の責務を果たしてからだ。





これは誰に強制されたわけでもない、自分の意思。
緊張を脱ぎ捨て、精神を落ち着かせ、神竜は言葉を吐いた。








「案内してください……私が、やります」








しっかりとアンナとフレイの眼を見て、言葉を紡ぐと2柱の火竜は頷いてくれた。
それがとても頼もしかった。










フレイが術を発動させ、空間の転移による光が部屋を満たしていく。
一月前に朧ながらも体感した浮遊感をイドゥンは再度体験することとなる。









光と共に足場が消え去り一瞬後には先ほどとは違う質感の大地に足を付けているという
奇妙な体験をした神竜は眼を開けようとして、思わず顔をしかめる。
転移の光により、一時的に落ちた視力をエーギルを用いて瞬時に視力を回復させた彼女は、眼下の光景に思わずよろめいてしまう。






ふらつく彼女の体をアンナが肩を掴んで支え、しっかりとその場に固定。
彼女の行動がなければ、イドゥンは落下していたかもしれない。
頬を撫でるのは、真昼の砂漠ではありえない極寒の風。降り注ぐのは、深雪。






殿の屋上、最も高い位置からは里の全景がはっきりと見えた。
そして、砂漠の向こう側が降り注いだ雪によって真っ白に染まっているのも。





果て無く続く不毛の、ナバタ砂漠を眺めた後に顎を持ち上げて天を仰ぐ。
歪んだ世界の、歪んだ天蓋が色彩の濁流を伴って世界を狂わせている。
紫とも黒とも、はたまた白か、もしくは黄緑……壊れた虹色とでも名付けるべきか? 







そんな狂った空をイドゥンは見据えて決意した。
私がやるのだ、と。







足を肩幅に開き、竜石を握りしめて彼女は天へ片手を翳す。
あ、と息を吐く。何をどうすればいいのか、ここにきて彼女は完全に“知っていた”自分が居るのに気が付いた。
それは鳥が空の飛び方を、魚が泳ぎ方を生まれながら知っているのと同義。








瞬間、彼女の心は、その“爆発”を強めた。精製されるのは無尽蔵のエーギル。






竜石が、黄金の輝きを放つ。瞬間、天へと石から一本の光柱が伸びていく。
混沌を貫き、世界に秩序を齎す力が行使され、其は万象の法則を縫い合わせる。
空間のひび割れが、消え去る。青い空が戻り、雪が止んだ。







砕けた世界が再生され、時間が戻り、太陽と月は地平の彼方に消え、昼夜が世界に戻った。






まだまだ、とイドゥンは更に力の放出を強める。
しかし疲れはない。想像を絶するほどの力の濁流を吐き出しながら、彼女に疲労はないのだ。






黄金の光柱は更に巨大になっていく。天と地を結ぶ巨大な柱は、里さえも飲み込み、拡散する。
何億何兆、何京もの光の粒子に枝分かれし、世界へと飛び立っていく。
ミスル、エトルリア、リキア、サカ、イリア、ベルン、エレブ、世界の秩序が……回復する。






朝。夜。春。夏。秋。冬。生。死。空間。時間。
全てが戻る。あるべき姿へと。神竜の力により、世界が回帰。
最後の欠片をはめ込んだ様な感触を覚え、イドゥンは力の放出を停止させて……黄金色に染まった空を見た。






莫大な、途方もない程の純粋な“力”の残照が渦を巻いて空を覆っている。
黄金色のエーギルの雲と形容できるソレを放出したのが自分だというのがにわかには信じられない。
世界に溶け込み、最初からそんなものなどなかったように消えていく力はかつての自分とは次元が違う質量を誇っている。









全てが元に戻った。
耳に木霊するのは、無数の精霊たちの感謝の言葉。
初めて、彼女は自分の力で自分のやりたいことを成し遂げた。





充足感と自信が漲ってくる。だがソレに溺れない様に彼女は努めつつ動く。
新しい長は背中の翼をしまうと、振り向き、背後の二人に強い意思が宿った眼で確認する。
次の自分のやるべきことを彼女は既に理解していた。








「里の人達を安心させましょう……私が直接行きます」







里の者たちに秩序を修復したのは自分だと説明し、長としての支持と説得力を得る。
その後は現状の確認、そしてその次は───。
果て無く胸中で続く問いかけと回答の連鎖。神竜は的確に次やるべきことを求め続け、動いている。



































『では、現状の詳しい確認を行いたいと思います』





殿の地下。ナバタ中の無尽蔵の水資源が循環する静謐な玉座の間にフレイの掠れた声はよく響く。
水晶を切り出したような神秘的な玉座に腰かけた二代目の長の前に、火竜は跪いている。
淡々としわがれながらも中身を認識出来る程度には発音のよい言葉が、次々と淀みなく吐き出される。







神竜はかつてのナーガとは真逆な、紫や灰色を基調とした質素な色彩のローブに身を包み、自然体で玉座に座し、報告を神妙な表情で聞き取っていた。






里の現状。食料の問題。衣服。水。人心。建物の被害状況。竜の力の状態。
一つ一つ丁寧にわかりやすく伝わってくる情報を神竜は噛み砕き、理解していく。





秩序の修復を終えたこと。里の運営状況に問題はないこと。そして外の状況……。
外界の状況は、まだよく判らないが、おそらくは人の勝利だということ。
詳細を知りたい。彼女は瞬時にそう思い、世界に遍在する身近な“隣人”に手を伸ばした。




この“隣人”は様々な事を教えて、見せてくれる。
だが、幾つか例外はある。事実、精霊は弟の姿を見せてはくれない。
何故、と問うと、意地悪しているわけではなくイデアが居る殿に張られている強力な防衛術のせいで精霊さえも干渉は出来ないそうだ。








イドゥンは眼を閉じて、無数の精霊たちへと協力を乞う。
一瞬にして様々な種類の精霊が喜びと共に世界の各地の情報を頭に流し込んでくる。







それは鮮明なイメージであったり、言葉であったり
もっと不確かであやふやな“認識”だったりするが、イドゥンはその全てを頭の中で整理し……幾つかの映像に戦慄を覚えた。








一つは戦時中の映像。まだ世界で戦争が行われていて、それを見ていた精霊が記憶した映像。
大勢の人々が荒野を歩いている。汚れきって灰色に変色した鎧に身を包んだ騎士達が、何千と歩いている。
その顔と、纏う空気は一様に皆が皆、暗い。隠し切れない疲労と、何時襲ってくるか判らない死への恐怖が色濃く噴き出ていた。






荒野のいたるところに力尽きた兵士が倒れている。撃墜されたモルフ・ワイバーンの残骸が山と積み重なり、湧き出たウジが耳障りな羽音を響かせる。
竜と人の闘争。そして人と人の戦争。この2つの決定的な違いというのは、竜は全くと言っていいほどに人に容赦をしないことだろう。
人同士の戦争ならばある程度戦ったところで双方ともに落としどころを探し始めるものだが、竜にはそれがない。





竜は徹底的な人の排除を望んでいた。
後から大陸に湧き出て、あっという間に繁殖し、そして今まさにここまで人の繁栄を手助けてしてやった神へと牙を剥いて恩を仇で返そうとする愚か極まりない種族。
そんな塵にどうして手心や情けなど必要なのか。






竜の尖兵に季節など関係ない。それどころか、天候も、地形も、記念日や昼夜さえ関係ない。
なぜなら“ソレ”を作り出したモノは人という種の嫌がる事を知っていたから。
“ソレ”を作ったモノは、何処までも悪辣に、悪意と狂気を込めて己の仕事をやり遂げていた。







地平線の彼方から影が落ちる。それは空を舞う無数の悪意。
人類が今まで積み上げてきた人間同士の戦争のノウハウを根本から吹き飛ばし、蹂躙するもの。
ただただ純粋に、単純に、圧倒的な数と、それでいて恐ろしいまでの質の高さを両立させた戦闘兵器たち。






モルフ・ワイバーンの何倍もの巨体を持ち、真っ赤な鱗をした“ソレ”は火竜にそっくりだが幾つか違う箇所がある。
一つはその大きさ。小さく纏まった体は成体の火竜よりも何周りか小さく、黄金色の目だけが忙しなく動き回っていた。
二つ目は背中に生えた真っ赤な飛竜のモノと同じ翼。ただし翼膜は肉ではなく、赤い光。力により浮力を生じさせる力場の生成箇所がそこにはあった。






四肢をもち、天空を縦横無尽に支配する怪物たち。
爪や牙は鋭利で、禍々しく紫色に光の照り返しを受けて不気味に輝いている。
鋭利なソレを伝うのは、半透明の液体……これは、涎や汗ではない……触れたモノを鉄でさえも溶解させる酸だった。





最後にこの異形の“ソレ”が火竜などと大きく違うのは……その数だ。
竜は人に比べて繁殖能力が低く、それでいて子供を作ることに興味を持つ竜さえ少ない……これが人の考えであり、間違えではない。
事実竜族は元々少なかった数をナーガ派の離脱によって更に縮小させている。






だからこそ人はそこに勝機を見出していた。数を以て竜を圧倒し、勝利すると。
今迄蓄えた竜殺しの全てをここでぶつける、そういう意気込みだった。






その全てを“ソレ”は嘲る。真っ青な空を真っ黒へと変貌させる規模の群れで襲い掛かる“ソレ”の名前は【戦闘竜】
ただ戦うために作られた古の竜族の兵器。だが本来【戦闘竜】は空を飛べないはずだが造物主は改造を施した。
未だ上空への攻撃手段の乏しい人類に対する絶望を与える為。剣も槍も、矢や魔法さえも届かない超高度からの奇襲。






モルフ・ワイバーンなどとはケタが違う、殺戮に特化した兵器の力は絶大だ。






【戦闘竜】が何処から飛び立ったのか、を精霊からのイメージとして受け取ったイドゥンは顔を歪めた。
【戦闘竜】達を放出した山は山ではない。あれは……巣だ。自己判断で何処までも無限に増えつづける悪夢の象徴。





数の暴力と、残虐な見せしめによる士気の低下。そして、徹底的に戦いにくい存在。この【戦闘竜】はそこに拘られて作られていた。
数的有利という戦争の根幹要素を、ただ純粋に突き詰めた兵器、人類を殲滅しようとする悪意の化身といっても過言ではない【戦闘竜】が、天空を支配する。







そして外部からのエーギルの接種の最も効率的なやり方とは──捕食である






天空から急降下した【戦闘竜】がすれ違いざまに何人かをその足でつかんで空中へと連れ去る。





この航空戦に特化した【戦闘竜】に備わる牙はその役目を果たした。
引き裂かれる鎧の音、腹の底から吹き上がる恐怖の悲鳴、捕食対象とハンターの関係は絶対だ。
数瞬後に何か固いモノをかじり取った様な音が響き、比例するように悲鳴が消えた。







次に出てくるのは、いつか見た本にも書いていた成体の竜よりも小さく、感じる力さえも劣る小山程の体躯を持つ竜の群れ……。
これが本来の【戦闘竜】の姿なのだが……これも少し様子が違う。
【戦闘竜】の眼はぎらついた狂気と闘気に満ち溢れており、とても無感情の戦闘兵器とは思えない。





これは、そう、まるで興奮した牛……それもとびっきりに凶暴で巨大な。
大地を踏み砕き陸戦に特化した【戦闘竜】が突撃を開始する。
どんな馬よりも早く、どんな闘牛よりも破壊力のある、小山程の体躯をいかした純粋な体当たり。







人の視点から見れば、真っ赤な地平線、山々が空気を焼き潰しながら迫ってくるように見えただろう。
アーマーナイト、ジェネラル、そんな防御陣などお粗末な遊具の如く踏み砕き、走破。






走破。走破。圧死。潰死。悲鳴。絶望。





背から噴き出た炎を身に纏い、人間の陣を業火と物理的な質量を以て磨り潰していく。
アリの群れをつぶして回る人間の様に、一切の慈悲的感情をもたない【戦闘竜】の死の行進は誰にも止められない。
死を恐れず、味方の残骸を踏み越えて堰を切った濁流の如く襲い掛かる死の波は、等しく全てを押しつぶす。






槍、剣、弓、魔法でさえ流れ込む波を抑え込むことは出来ない。






即死できたモノは幸せだった。何故ならば地獄を見ずに済むのだから。
生き残ってしまった者は、窒息の苦痛、全身を火傷が侵食する恐怖、そして……人類が崩れていく絶望を味わうことになってしまうのだから。





重厚な破砕音。グチャグチャという粘質な粘土でもこねまわしているような怪音。
苦痛に喘ぐ声。愛しいモノの名を叫び続ける絶叫。空しく木霊する笑い声……。








地獄は、ここにあった。







イドゥンはその光景から眼を逸らした。正気の沙汰ではない光景だった。
ただ純粋な数の暴力で人が、まるでテーブルの上に置かれた食事の様に取り上げられ、喰われていく。
血と肉、臓腑の雨が降り注ぎ、狂った晩餐が続く。多くの人間がゴミの様にその命を散らし、逃げ惑う。





灰色の荒野が血と炎舞によって紅く狂わされた。そして天さえも染まり尽くす。
空から降り注ぐは破滅の雨。【戦闘竜】の放つブレスは純粋種の竜程の威力こそないが、豪雨の様な苛烈さと、芸術家の様な繊細さがある。
人間だけを徹底的に狙い、その逃走経路さえも閉ざすように焔は死を齎す為に振り下ろされる。








死、死、死、何千の骸が積み重なる。それ一つ一つに人生があったものが、瞬く間に塵と化す。
何も残さない、万死が支配する世界が産声をあげる。








こみ上げてくる吐き気を押し止め、精霊にもういい、別の光景を、とお願いすると彼女に送られてくる“イメージ”が瞬く間に移り変わる。
今度は映像ではない、純粋な【力】と、それが纏う属性、戦争で人を勝利に導いた決定的な要素。
かの絶望を打ち破り、人々に希望を失わせなかった元。







“火”“雷”“氷”“業火”“風”“光”“闇”“武”
8つのイメージと、朧に現れるのは理解の出来ない“力”……エーギルにも近しい性質にも感じられるソレに号を与えるならば……“意思”とすべきか。







凱旋する人間たちと、【7人】の英雄。手を振り、民衆へと安堵を振りまくその姿は力強く、神々しいものでさえある。
顔こそよく見えないが、懐かしい気配をその中に感じて神竜は安心を覚えた。あぁ、生きててくれたのか、と。
だが、英雄たちの“中身”は疲れ果てていた。竜との激戦を勝ち残った彼らは、竜を屠るためにありとあらゆる力を行使し、満身創痍だった。







正に紙一重の勝利。下手をすればこの英雄たちは全滅していたかもしれない。






イドゥンが目を開ける。精霊たちから情報を受け取るのに有した時間は、現実にして呼吸数回分程度の刹那。
視線を感じた方向に顔を向ければ、フレイがいつの間にか正面から移動し、右隣に立っている。
気配がどうもお父さんに似ているという感想を彼女は抱く。長年仕えていたから、似てしまったのか、それともこれはこの火竜の素なのか。








『今回の秩序崩壊への対処。里の者たちへの配慮、お見事でした』





唐突に呟くように紡がれる言葉にイドゥンは一瞬だけ間の抜けた表情をしてしまう。
余りに自然に、何時もの何気ない会話の様に褒められた少女は、思わず口元を抑えていた。
喜びで口角が歪み、何とも言えない滑稽な表情になってしまうのを見られたくなかった。






一瞬、父に褒められたような気がした。それがたまらなく嬉しかった。







「…………そういえば、メディアンがかなり力を消費していましたね」







顔が笑みを形作るのを噛み殺しながら、イドゥンは一つ思い出す。
この里があの秩序の崩壊でなぜ壊滅的な打撃を受けなかったのか、その理由の一つを。
大規模な地殻変動、大地震、作物が枯れ果てる飢饉、全てが起こらなかったのは地竜がその力を以て全てを抑え込んでいたからだ。





息子の為、里の子供たちの為、そして人と竜の為、惜しみなく力を振い、強く気高い彼女をイドゥンは尊敬さえしていた。
神竜は竜石を取り出すと、その表面を指で削り取る。小さなかけらを幾つか見積もると、それをフレイに手渡す。







「これを渡しておいてください。今の私にはこれぐらいしか出来ませんが、それでも力の回復には役立つはずです」






『確かに、承りました』






頭を垂れて、厳粛とした態度を維持しつつフレイは竜石の欠片を受け取る。
そのままイドゥンは丁寧に、出来るだけゆっくりとした長としての口調でフレイに今後の予定を伝えた。
ある意味自分にとっては、最も大切で重要な事を。






「そして……近いうちに、私は殿に一度戻りたいと思います。生存者などがいれば、救助したい、です」





言葉が震えない様に、気を付けるのはとても大変だった。生存者とぼかして言ったが、その実それが誰かなど言うまでもない。






『はい、ではその様に。アンナを護衛としてください。彼女は転移なども使えますし、優秀な戦闘力なども有しています』






帰ってきた答えがあまりにも呆気なかった為、イドゥンは肩からがっくりと力を抜いて、乾いた笑みを浮かべた。






「止めないのですか?」






『止めませんよ。ただ……覚悟はしていて下さい。戦場の跡地は、眼を覆いたくなるモノですから……死は、決して綺麗なものではありません』







後ろの魔道書をもっていくといい。そう言葉をつづけるフレイを見つめつつ、イドゥンは頭の片隅で今言われた言葉を反芻し続けていた。
死は、綺麗なものではない。死は、絶対だ。彼女が知る限り、最も巨大で最も永遠に近い世界の存在……“星”さえも死ぬ。
それに比べれば、家族の命などとても軽々しく散ってしまう、儚いモノにさえ思える。






縋る様に“力”を使って弟の存在を見ると……何とかその力を感じることが出来た。闇の中で薄く点滅を繰り返す、小さな灯の様に。
安心と安堵を覚えると同時に彼女は空腹を覚えた。そういえば、何時の間にか喉が渇いたような気もする。
玉座の肘掛の所、ちょうどイドゥンの手が届くような場所に置かれた小さな机、その上に置かれている盃、その中に満たされている冷水を彼女は一気に飲み干す。





喉から胃へ、そして臓腑にしみわたる冷たさが彼女の心を落ち着かせてくれた。
ただし、腹の底は、まだ熱を持っている。熱した鉄の内部が冷めるのに時間を有するように。






『本日はもうお休みください。まずは力を万全の状態に戻しますように』






「……判りました」






紙束の書類を纏め始めたフレイの行動は、イドゥンの退室を促すもの。
事実、幾らか余裕があるとはいえ、それなりに消耗している彼女にとっても休んでよいという言葉は魅力的なものだった。
疲れていては、思考能力も落ちるし、心の余裕さえもなくなってしまう。






玉座からけだる気に立ち上がり、フレイに後を任せるという言葉だけを告げるとイドゥンは自室へと歩を進める。
長い紫銀の髪が揺れて、光を反射して、妙に周囲が眩しかった。神秘的なこの玉座の間と、その通路を彼女は好いていた。
ここを通るたびに、彼女は故郷である竜殿を思い出すことが出来る。ここと殿の雰囲気的なモノが似ているのは、ナーガの指示だろうか?






もうすっかり慣れてしまった水晶の様な透明感のある、発光する通路の上を行きながら神竜は漠然と思い出す。
里の者たちのあの、輝かしい眼を。子供たちが向けてくれた感謝の言葉を、長という仕事をやってきた中で得られた達成感。
初めて、自分の力が誰かの役に立った。その事実は、彼女に確かな自信を与えていた。








とりあえず、眠ろう。
夢を見ても見なくてもいい。起きたその後にいろいろな事をまた考えよう。






秩序は戻り、世界に安息と安定は戻ったが、半身はまだ戻らない。
その事実だけが、彼女の心を虫食いの如く蝕んでいた。































やっと、やっと帰る事が出来る。





イドゥンは天にある月の位置を見上げながら、そう内心で呟いた。
紅と蒼の色違いの瞳は、隠し切れない興奮で爛々と輝きを放ち、普段の長としては物静かな姿を演じている彼女しか知らないモノが見れば、驚くほどの覇気を彼女は纏っている。
手足を震わせ、頬は高揚の為に紅く染まっている彼女の姿は、欲しいモノを手に入れた子供そのものであり、女性としての艶やかさを手に入れ始めた少女にも見える。





自室の窓から見た月は、とても大きくて美しい。黄色に光るソレは、天空に巨大な眼が現れたようにさえ思えてしまうほどだ。
秩序が修復されたナバタの夜を駆け抜けるのは、人の体ならば数刻で死に至らしめる荒涼とした夜風。
微小な砂を孕んだソレが頬を撫で、髪の毛を揺らし、駆けていく。








懐に忍ばせた一冊の本。ナーガが幾つか残していった、里を守るための力。古代の禁忌が刻まれたモノの一冊を彼女は改めて手に取って眺めてみる。
黄金色の表紙、分厚いページの枚数、内部に神経質なまでに書き込まれた術の発動術式の数々。強力な竜の加護を与えられたこれは、幾ら使おうと破損などを発生させない兵器だ。






【ルーチェ】







表紙を撫でてから、この本を“眼”で見てみる。その結果彼女が認識したものは、書の内部に渦巻く途方もない力。
天から降り注ぐ裁きを支配し、断罪を行うこの術を発動した際の世界への影響を“理解”してしまった彼女は思わず身震いする。
発動させるような時が来ない事を祈りつつ、彼女は魔道書を腰のベルトの、魔道書をしまい込む箇所に固定。






今の彼女の服装は何時もの質素なローブ姿ではない。動きやすさだけを重視し、アンナ等に意見を求めた所、勧められたのは男性用の衣服。
もしも戦闘などが発生した場合、普段着ているローブの様な、丈の長いワンピースではとてもではないが動きづらいと言われ
その結果、彼女は男性用のズボンなどを履くことにしたのだ。







黒い絹のズボンを皮のベルトでしっかり固める。
ブーツもいつもとは違う、騎士などが好んで使用するような頑丈な作りのロングブーツを履き込み、何歩か歩いて調子を確かめた後に、悪くないと頷く。
後は、お気に入りの紫色のフード付きマントを頭からすっぽりと被って、何度か鏡の前で色々と微調整。






調子に乗って色々とポーズを決めてみるが、どれもしっくり来ない。
メディアンなら、こういう男性用の服も似合いそうなものだが、自分では駄目だと結論する。






飾りっ気がない。その一言に尽きた。
自分は余り服装などに興味はもたない方だとは思っていたが、それでもこれは怪しいような、つまらないような。
それに、上の服まで男性用のモノにしたせいで、胸の部分が苦しくてたまらない。






家族を迎えにいく今夜だけの服装だと割り切ってから、腰に差した覇者の剣を引き抜いてみる。
半年間体を鍛えたおかげか、剣の重さに振り回されること自体は少なくなったものの、それでもやはりこの長剣は重い。
透き通るような銀色の刃に自分の顔が映りこんでいるのを何となく見つめた後、剣を鞘に戻した。







よく判らない剣。怖いのか、怖くないのか。
始祖そのものであると父は言っていたが、意味がよく判らなかった。
剣を“眼”で見ても見えるのは真っ暗闇だけ。何も感じることが出来ない。






ただ、冷たい闇だけがこの剣の中にはある。他には、何もない。







闇は、好きではない。
余り思い出したくないが、家族も、友達も、半身さえもいない状況で闇の中に放り出された時の恐怖は未だに焼き付いて離れない。
それが凝固したようなこの剣を、ならば自分は怖がるべきだろうか。






「…………」







イドゥンは最後にもう一度、確認するように繋がりを辿り、イデアの存在を確認する。
その結果、何時もと同じように小さな灯の様な、ちっぽけな力の波動が点滅を繰り返し、その存在を主張していた。
呼ばれている。きっと、イデアは私を待っている。余りに自分でも都合がよすぎると思いながらも、そう願うと少しは気が楽になった。





実際、怒っているだろう。勝手に捨てていったと思われても仕方ない。どんな罵詈雑言でも受け止めるつもりだった。
一緒に居たくないと言われても、ただ生きててくれれば、それが最高の結果だ。







…………………………。







手が、震えている。歯が、かみ合わず、全身を寒気が襲う。
本当に? 本当にイデアは生きているのだろうか? この目で見るまでは信じられない。
恐怖という怪物が、頭の奥底で不気味な死を囁き、絶望を振りまこうとするのをイドゥンは頭を振って追い出す。





そろそろ時間だ。いかなくては。アンナが待っている。





部屋を出る前に一つ気が付く。そうだ、これをもっていこう。
机の上に置かれた真っ赤なリンゴを二つ、自分とイデアのモノを掴むと懐にしまい込み、彼女は自室を後にした。

































留守中をフレイに任せて、アンナと共に殿へと転移を果たしたイドゥンが見たモノは、殿の姿ではなく、何の変哲もない森の景色だった。
木々が鬱蒼と生い茂り、月の光さえも届かない森の中は完全に静まり返っている。
全方位を見渡しても、木、木、木しかない。




更に“眼”を使い、広範囲を立体的に確認してもやはりここは森だった。
突如として来訪した竜に周囲の精霊たちが声をかけてくるが、今はそれに付きあう時間はなく、イドゥンはアンナへと視線を向け、喋る。
彼女が転移の術を使用した以上、やはり彼女に聞くしかないと思ったから。







「ここは……? 転移地点を、間違えたのですか?」





「いえ、確かに、殿へと直接転移を行ったはずなのですが………………」






普段は泰然自若を素で行くアンナが頭を傾けて考え込む。真っ赤な髪の毛が揺れて、ふわふわと舞う。
何気なく彼女に“眼”を向けたイドゥンは彼女の内心に巣食う【焦り】を見てしまい、アンナと同じように頭を傾げた。
彼女は、全く持って意味が判らない事に、この事態に焦っているのではなかった。
表にこそ出さないが、彼女は全く別の事柄にどうやら心を悩ませているらしい……。






表に出さないだけで、彼女の心の中は嵐の様に乱れに乱れていた。
更に深く力を使って探究すれば、その理由もわかっただろうが、イドゥンはそれをしようとは思わなかった。





やめよう。悪趣味だ。





アンナの心はアンナだけのモノであり、それを勝手に盗み見することはよくないという考えに至り
神竜は改めて周囲に更に広範囲に“眼”を走らせ、原因を探る。
山があり、川があり、森があるのに、不思議なまでに動物たちがいない。







視覚 聴覚 嗅覚 感覚 
その全てを蜘蛛の巣の様に張り巡らせて、一切の異変を見逃すまいと全てを刀剣に等しいまでに研ぎ澄ましていく。
理由はすぐに見つかった。それと同時に納得した。転移の術でなぜ殿まで至れなかったのかを。






空間が、歪んでいた。殿を構成する大規模な山脈群一個が、丸ごと空間の歪みに飲み込まれ、エレブから隔離されていた。
“眼”を通して見えるその景色は圧巻だった。大地も、空も、そして世界を流れる血管である竜脈でさえぷっつりと歪みの地点を境に途切れている。
途切れた先に感じるのは、完全な虚無。何があるか判らない、深淵だけがあった。





───おおきなちから ぶつかりあって こわれちゃった。 みんな、みぃんな こわれちゃった。






周囲の精霊が耳元で囁きを発した。あの【秩序】が壊れた時に起こったことを。
世界の根源が崩壊する規模の力の衝突が殿で発生し、その余波で殿は完全にエレブから脱落してしまったと。
空間が断絶するほどの力の衝突、ここがどれほどの激戦区だったかを雄弁に示す事態。







だが、イドゥンはこの程度で諦めるつもりはなかった。
“場”を弄るのは初めてではない。かつてサカでハノンを救助した際にも空間を捻じ曲げて、無理やり彼女を引き寄せた事もあるのだ。







少しの時間歩くと、かつては殿の入口へと続く整備された道へと二人は出る。
かつてはエトルリア王国の王都の大通りにも劣らない幅を持ち、何百年経とうと使用が可能な程にしっかりと作られた街道はその顔を変えていた。





石畳の街道は、所々にひび割れが走っており、大地には無数の巨大な足跡や、蹄の跡が存在している。
大戦の際、ここを何が通ったかよく判る様相。そして辺りに少しばかり残るのは、発酵した肉の腐敗臭。
ブーツを履いて来てよかったとイドゥンは改めて思う、今のこの道は少しばかり歩きづらい。







デコボコだらけの街道を四苦八苦し、しばらくいくと、これまた不可思議な光景を彼女たちは見ることになった。







殿の入り口へと続く、森の出口から山脈地帯の入り口周辺が、丸ごと“削られて”いる。
ないのだ。物理的に。向こう側を覗き見ようとしても景色は蜃気楼の様に無茶苦茶に屈折し、理解に困る景色を映していた。
試しに小石を一つその歪みの中に放り込むと、投げたはずの小石が、こちらに“戻って”飛んできてしまう。






家に入ったのに、家から出ている、進んだはずなのに、戻っている。
無限螺旋にとらわれた男の話をイドゥンは弟から聞いたことがあり、今目の前のこれがそれなのだと彼女は思った。
あの話では確か、結局男は無限の捩じれから出ることが叶わなかったはずだ。







壊れた世界の歪んだ蛇の輪が、ここにはある。





「どういたしますか?」






「………………」






アンナの言葉にイドゥンは一瞬だけそちらに目を向けると、音もなく小さな歩幅で一歩踏み出る。
砂利を踏みしめる音を鳴らしながら、彼女は歪みに対して無造作に手を翳した。
歪んだ空間と正常な空間、両方の“場”の境界線を見極め、その境目に彼女は指を掛けた……扉の取っ手を掴むように、空間を神竜は両手で掴む。






そのまま力を込めて、左右に開いていく。長年油を差していない扉をこじ開けるように、時間をかけて空間をこじ開け……欠落した世界が何処にあるかを“眼”で確認。
崩落した狭間の世界、位相のずれた世界の海、エレブという安定した世界から脱落した殿は、言ってしまえば“浮島”だ。
壊れた狭間を浮かびながら彷徨う殿は、余りにも遠い場所にある。人や魔道士ではまず到達できない場所、徒歩ではどう足掻こうとたどり着けない異界。







神竜の血が、答えを教えてくれる。誰に教わったわけでもなく、彼女は答えを自分の内部から引っ張り出していた。
橋を架ければよい。やり方は、秩序を修復した時と同じ要領だ。
神竜から放出される黄金の波動が“場”を固定していく。海が大地に、大地が橋に。





人では到達できない領域の奇跡を神竜はいとも容易く引き起こす。





七色の色彩の歪んだ世界に、一つの“道”を創造する。距離という概念さえも弄られたソレは、限りなく長いが、一跨ぎで目的地にたどり着ける程に短いという、矛盾した存在。
イドゥンはこじ開けた空間の狭間に足を踏み入れて……自らが作り上げた新たな大地を踏みしめた。
何回か調子を確かめるようにその場で足踏みをした後に、彼女はアンナを振り返ってからまるで命令するように言う。







「行きましょう」







その言葉にアンナは無意識に頭を下げて従属の意を示していた。
【秩序】を修復し、自分への自信を身に着けてから、目の前の少女は少しずつ竜族の長に相応しい存在へと成長していることを理解したから。



























歪んだ世界を抜けた先にたどり着いた生まれ故郷は、既にかつての栄華など見る影もない程に退廃的としたものだった。
空に蓋をするのは淀んだ灰色の雲。夜空を埋めるソレは星の光さえも遮断し、殿を完全な闇へと染め上げている。
殿を支える巨大な柱は幾つも砕け、その破片は周囲に無造作に転がり、通行の邪魔立てをしていた。





だが、何よりも【死】がここにはあった。何重にも折り重なって、無造作に【死】は道端に転がっていた。
それは柱の隙間、街道の至る箇所、殿の広間、ありとあらゆる場所にうち捨てられている。
戦役での死者たちの亡骸が至る所に放置し、それらは異臭を放ち、鼻孔を狂わせ、壊す。






仄かに灰色の雲の隙間より漏れる星の光を、亡骸たちが纏う銀色の鎧が反射しキラキラと点滅する光景は禍々しくも美しい。
もう動くことのない人や竜の死体は、誰にも弔われずにここで朽ちていくのだろう。






砕けた大地。
強力な魔法が炸裂し、抉り取られた場所は谷の様な地形に変化している所さえもある。
そういった場所に注意しながらイドゥンとアンナは慎重に歩を進めていた。






視界に映っている範囲だけでこれだ。殿の中となればどのような状態になっているかわかったものではない。
イドゥンはこみ上げてくる甘酸っぱい液体を精神力で抑え込みつつ、弟の力を感じる方向へと進んでいく。
死体から誕生した羽虫たちが纏わりついて来ようとするのを、アンナが微量の力を用いて焼き払い、神竜の美しい髪などに虫を触らせないようにする。






そういったアンナの心遣いをイドゥンは嬉しく思い、感謝の言葉を掛けると彼女は年上の女性らしい余裕のある笑顔で「どういたしまして」と返してくれた。







「随分、変わってしまいましたね……」






立ち止まり、周囲を見渡す。変わり果てた殿の姿は痛々しい。柱に刻まれた傷痕、いたるところに散乱した死体に、血の跡──。
彼女はこの殿で育ち、この殿で生まれた。ここは幼い彼女にとって絶対の安息の地だった。それが今や見る影もない。
体が震える。これは恐怖ではない、どうしようもない悲しみのせいだった。






無残に砕かれた巨木の如く柱の群れを見る。
あの柱を私は知っている。昔イデアと殿から出た時に初めてみた柱だ。
凄く太く、大きくて圧倒されたのを覚えている。




弟が目を輝かせながらじぃっと見ていた姿は印象的で、眼に焼き付いている。





あそこにあった装飾品の数々を自分は知っている。エイナールが色々と説明してくれたモノ。確かエトルリア王国の高名な芸術家が竜の為に作っていった彫像とかだったはず。
それが今はバラバラに粉砕されて、何も残っていない。





何万年、何十万年と続いていた殿の歴史は、たった1年足らずで全てが灰となった。
そこに暮らしていた全ての竜族と一緒に、ガラクタになり下がった。






竜族と共に。




全てが灰になった。




灰と塵に。






更に、もしかしたら……。







人、竜、双方にあった願いも、想いも、意思も、信念も、何もかも全てが根こそぎ壊され、奪われ、踏みにじられた。
なぜなら戦争とはそういうものだったから。あの戦争は種の存続をかけた絶滅競争だったが故に、そこには一切の理性も慈悲もなかった。






アンナがそっとイドゥンの震える手を握ってくれた。
暖かい火竜の手は、この不気味な程に無機質な荒涼さに支配された廃墟の中にあっても、沁み渡る程に心地よい熱を発していた。
数秒経って、震えと恐怖を体から追い出した竜の新しい長はしっかりと前を見据える。殿の奥へと続く通路、そこに広がる闇を彼女は色彩の異なる双眼で眼光炯々し、逃げないと意思を固めた。




弟の力は微弱だが、殿の深淵から発せられていた。頭の中の冷静な部分が、何かおかしいと伝えてくるが、イドゥンはそれでも、と受けいれる。
恐怖はある、期待もある、そして僅かな戦意と覚悟もある。ならば、もういくしかない。結局のところ、行動するしかないのだ。






「アンナ……私について来てください」







「当然ですわ」







当然だと言わんばかりにアンナは即答する。
不敵に、優雅に笑う火竜の姿はとても頼もしく感じられた。


















殿の内部は、外部よりも凄惨とした光景の巣窟だった。
無数の死体が積み重なり、それらから発生した腐敗臭に満ち満ちており、ともすれば嗅覚がマヒしてしまいそうな程の悪臭が立ち込めている。
100か1000か、数えることさえ放棄したくなるほどの無数の死体、死体、死体。





二人分のブーツの足音だけが殿に反響する。
神竜であるイドゥンの帰還によって、殿の一部の機能が作動し、床や天井、壁などが淡い光源となり、周囲の光景を照らし出していた。
この死体1つ1つに人生があり、家族があり、想いがあった。そう考えるとイドゥンはいたたまれない気分になる。





命に価値がない。そんなことを思いたくはない。






殿の地下に存在する大回廊、かつて自分と弟が生まれ落ちた場所。知らず、足はそこへと向かっていた。
竜殿の一部の機能が動き出し、視界を妨げるものは山と連なった死体だけ。
戦闘竜の死骸、首を絶たれて機能を停止したソレをイドゥンは横目で見やりつつ、少しだけ“眼”を用いてこの竜を構築している力を調べる。






「……………」






やはり、この戦闘竜を創りだしたのは、イデアだ。
理屈と本能、両方がその答えを告げている。
戦闘竜を構築するエーギル。かつて宿っていた意思、神竜の力はこの残骸全体からイデアの気配を感じ取ることが出来てしまう。







この戦闘竜に孕んでいるとてつもない悪意さえも、弟のモノなのだろう。
陣形を踏みにじり、ただ人を殺すだけの兵器。そんなものをイデアが作ったという事実は受け入れがたい……。





自分の意思で? それとも強制されて?
どちらにせよ、再会したら話をしなくては。そして言ってあげるのだ。もう戦う必要などないんだよ、と。






少しずつ、弟の元に近づくたびに神竜は胸にざわめきを覚えていた。
本能と理性が、分裂を起こしていた。心は半身との再会を期待し、歓喜に打ち震えているというのに
本能はおかしい、と冷静に状況をまとめ上げ、危機感として主に伝えている。






幾つかの小部屋を抜け、四半時ほど歩いた先に大回廊へと二人は出た。
ここもやはりというべきか、無数の亡骸に埋め尽くされている。
周囲に漂う死臭は、殿の中で最も濃厚で、魂を犯すほどの濃度。






毒霧、地雷、自爆用の戦闘竜、小蟲による集団感染病の散布
ありとあらゆる手を使ってかつて殿に引きこもった存在は応戦し、その結果この地には夥しい骸が転がることになった。
もはや甘美。死地という地の一つの到達点。何万、何十万という死者を積み上げた地獄の底、それがここだ。





イドゥンは腕を使って鼻を含めた顔の下半分を覆い隠しながら進む。余りにも酷い匂いはそれでも嗅覚を刺激するが、それでも少しはマシになる。
ほんの少しでも吸い込むだけで、胸の中から体が腐り堕ちる幻覚さえ見てしまいそうな程の死臭。
竜の視力で大回廊の果てを見ると、何かがそこにはあった。





成体の竜と比較してもなお巨大な生誕の祭壇、その奥に祭壇よりも巨大な何かが転がっている。






そしてちょうど、弟の力もそこから発せられている。奇しくもそこは、正真正銘、姉弟の生誕の祭壇。
少しずつそこに近づく。少女の歩幅は、余りにも小さいが、それでも懸命に差し出される両足はなかなかの速度となる。
匂いが濃くなるのも構わず神竜は歩み寄っていく。








ソレの全景が見えてきた。どうやら巨大な竜……おそらくは戦闘竜ではない純粋種の体の一部のようだった。





階段を駆け上がる。ソレは切断された巨大な竜の下半身だった。上半身は無く、腹部の辺りから綺麗に両断されている。




階段が終わりに差し掛かる。何処かで見たような竜の姿に、彼女の心は軋みをあげた。




段を上り終える。ソレは今はくすんでこそいるが、鮮やかな色調の、紫色の重殻を身に纏った巨大な竜の残骸だった。








かつて殿の最深部に籠城し、英雄たちと激戦を繰り広げた魔王の亡骸、それがこの竜の正体。
本来は不滅に等しい存在である神竜を完全に殺しきった英雄たちの功績の象徴、人類の栄光の陰。












「───で──ぁ?」











その声は誰のものだったか、イドゥンには全く判らなかった。
眼を疑う? 違う、自分の眼は、誰の視界を映している? いや、違う……彼女は、自分の眼を抉りたいと思った。
ふるふると震えた両手の指を目に押し付けて爪を立てようとすると、アンナがそれを力強く腕を握りしめてやめさせる。





パァンという軽快な音が無音の殿に木霊した。途端に頬に走るのは鋭い痛み。
痛みという刺激が、濁った思考を消し飛ばし、頭にかかる霞みを消し去る。







「……私は」







我に返った神竜が、今自分が何をしようとしていたかを考える前に、無意識に“眼”を使用し、目の前の竜の残骸を冷静に観察。
心は何処までも冷たく、鋭利だった。無駄な雑念、感情を全て封殺し、淡々と事実だけを確認。





その結果が出る。
違う。これはただの残骸だった。何も感じず、何も発しない。もう喋る事も、動くとこもない、死骸。
呼吸を落ち着けながら、彼女は諦めずに半身の力の場所を探す。









近くだ、すぐ近くに居る。何処だろうか、何処にいる。
もっと深く、正確に。かつてない深度と精密さで“眼”を行使し……。









イデアの気配が、イデアのモノではない嘲りを浮かべた。獲物を罠に嵌めた狩人の如く。
陰惨に、無尽の狂気と狂喜、殺意を孕んだ笑みは、断じて弟のモノではない。
正にそれは擬態だった。蛹が脱皮するように、外郭を脱ぎ捨て去り、獲物をおびき寄せた化け物はその本性をむき出しにする。







蜘蛛だった。化け物は蜘蛛の巣として極上の獲物をおびき寄せるために彼女の大切な存在を食いつぶし、その皮を被っていただけ。
そして見事にイドゥンはそれに引っかかってしまった。
逃れられないエサに引っかかった羽虫、いや、極上の獲物。それが化け物から見た神竜への評価だった。





弟の力が、ボロボロと崩れ落ちる。半身の気配を飲み込むように、今までは巧妙に隠れ蓑の中に息を潜めていた存在のエーギルの質量が跳ねあがる。






雷光、吹き荒れるは世界さえも打ち壊す膨大な量の【天雷】
かつての最終決戦にて唯一落命した8つの英雄の一つ。英雄であり、英雄ではない、人の世に生まれた獣。
その思念と力を宿した存在はたった一つの目的の為に生にしがみ付き、異形の存在に成り果て、動く災いとなってまでも変わらない。






すなわち、戦いのみを追い求めていた。それ以外の全てなど、一切合財どうでもいいし、気にもとめる必要はない。
殿の暗闇が、黄金の極光で薙がれる。色だけ見れば神々しいが、その実態は吐き気を催す程の凶年とエーギルの集合体だ。
一本の斧、巨大な、余りにも巨大な、人が使うことは想定されてない黄金のソレが浮遊する。









今までは無数の屍の中に潜り込み、息を潜めて獲物が掛かるのを待っていた化け物が動き出す。
ズルズルと、液体の詰まった皮袋を固い道で引きずるような音と共に、無数の屍が斧へと引き寄せられる。
骨が折れ、肉が砕け、粘土を捏ね回すように、死体のまだ“使える”部分が不可視の力によって引きちぎられ、無理やり他の肉体との再結合を果たされていく。







何本もの腕をかき集めて作られる常人の数倍の密度と太さを持った巨腕。
幾重もの名も知らない兵士たちの足を引っこ抜き、骨を継ぎはぎし、作り上げられる頑強な足。
多々の胴の肉と骨、贓物をごちゃ混ぜにして創りだされる人間離れした巨躯の胴体。







神を侮辱する光景だった。人間の残骸を再利用し、ただ自分の思い通りに動く人形を作り上げる。
異常極まりない精神構造をした獣だからこそ、そこに躊躇いはない。







「っ!!」







呆然と異形の肉体が構築されていく様を棒立ちで眺めているイドゥンとは別にアンナは直感で危機を悟り、何発もの【エルファイアー】を今まさに体を組み立て上げている魔物へと放つが
その悉くが斧から放出される【天雷】の、稲妻がその全てを雷速で迎撃し、叩き落とす。
下級、中級魔術程度など、放出される力だけで消し去り、何の意味も齎せない。






そして、最後の締めと言わんばかりに新たに喰って取り込んだ存在の能力を行使し、継ぎはぎだらけの新しい体を確固たる一つの存在として固定。
戦闘竜を創るのと同じように、存在を自らの力だけで産み出したのだ。
そうだ。魔竜と同じことをこの獣は出来る。何故ならば、もはや魔竜など彼の血肉の一部でしかないのだから。







伝説の英雄らに討ち滅ぼされた魔竜。
魔竜との激戦によって人としての生を終えた男は、己が武器との同化により異形の化け物としての第二の生を得ることに成功した。
意識を取り戻した獣の目の前には、極上の“エサ”が落ちており、片や己は力などが足りなかったとき……結果、獣は魔竜の残骸を、更に壊しつくしす。





死者への尊敬など、獣にはない。






巡りに廻った因果の輪。かつて人であった頃の屈辱の記憶。ソレを超えるために獣は何でもした。
そして遂にたどり着くに至る。竜の頂を飲み込み、その先に居る神を殺す。
今やこの世界に神はいないのなら、出向いて行って殺してやる。







組み込んだ竜の砂嵐が掛かった記憶を読み込み、獣は行動に移す。
我が子の力で殺されるとき、あの男はどんな顔をするのだろうか。ソレを想像するだけで疼きが止まらない。
まずは弟から、その後に姉も飲み込んでやる。






殿の機能が動き出す。魔竜の波動に呼応し、その隅々までに力を循環させ、膨大な意思が駆け巡る。
竜族の王都にしてかつての戦役の際に、8人の英雄たち率いる人類の総戦力を半ば壊滅同然まで追い込んだ最悪の竜族への能力補正が、獣に加えられ……獣から一つの号令が下された。






殿に転げ落ちるありとあらゆる屍、人、竜、大小問わない全てに殿から力が供給。
不気味な唸り声と共に、強制的に死から帰還させられた残骸たちはノロノロと立ち上がると、生前使っていた、武器、魔道書などを構え動き出す。
そこに彼らの願いや思考など存在しない【私】というものをそぎ落とされた彼らは今や人形だ。







哀れな英雄たち。
人類の為、世界の為に命を懸けて懸命に戦った輝かしい魂の持ち主たちは、最後の最後に、理性など欠片もない狂える獣の走狗に落とされ、汚される。
うじゃうじゃと殿のいたるところからアンナとイドゥンを殺すために歩み寄る死者達の姿は、上空から見ると獲物に群がるアリにも見えるだろう。





「長、一度逃げますよ! ここにいたら、私達の命はありません!」






目の前で創造した体の具合を確かめるように手足を軽く動かし
フルフェイスの兜で覆われた頭部を怪音と共に左右に振る獣に最大の注意を払いつつアンナは茫然自失とした様子のイドゥンへと叫ぶように告げた。
だが、イドゥンの反応は何もない。焦点の合わない瞳で、彼女は獣を凝視し、静止したまま。





紅と蒼の眼は、獣の一点だけをじぃっと見つめ、動こうともしなかった。





「長!! 長ッ!!!」






肩を掴んでゆさぶっても、言葉は帰らない。つまらなさそうに獣が黄金の斧を振りかぶる。そこに集うのは目視さえ可能な絶大な“力”の渦。
何重もの稲妻が吹き荒れ、空気を掻き毟りながら圧縮され、一本の“線”となる。
周囲には一切の破壊を発生させないが、その進行方向の存在全てを飲み込む破壊の権化。





斧を獣は振り下ろした。竜の眼でも見きれない、真実雷速と呼応すべき速度で。
稲妻の断層が轟雷を伴い迫りくる光景を前にしても、イドゥンは獣から眼を離さない。








【ファイアーテイル】





アンナが竜石を輝かさせ、全力で純粋なエーギルをふんだんに練り込んだ術を発動させ、エルファイアーの数十倍にも及ぶ威力を誇る火球を断層へと翳した両手の掌から産み出し、勢いよく放つ。
発射の衝撃で踏みしめた足元が陥没し、周囲の水分が急速に蒸発、多量の水蒸気を発生させながらも火球は飛び……稲妻の断層の前に呆気なく両断された。
竜殺しの極地と、竜の頂点を飲み込んだ獣相手に、火竜など太刀打ちできるわけがない。それが真理。






アンナが咄嗟にイドゥンを抱えて横に飛ぶと、半秒前に二人が居た地点を稲妻が空間ごと焼き滅ぼし“場”に亀裂が走る。
空間に隙間の様な亀裂が走った場所の先は、淀んだ色彩のあの壊れた秩序と同じ空の色が見えた。
何回も玉の様に転がりながらも、力を使って着地の衝撃を和らげ、イドゥンを庇うように全身で彼女を覆い、傷がないかを確認する。





投げ出された衝撃で彼女の腰に固定していた覇者の剣が飛び去り、何処かへと消えていく。






背中を周囲に拡散した稲妻が焼き、激痛が走るがアンナはそれでも新しい竜族の長だけには傷をつかせまいと守り通す。
汗と血が入り混じった液体が体に降りかかるのを感じて、ようやくイドゥンは正気に返る。
目の前には息を荒げ、苦痛に染まった気を撒き散らす臣下の顔があった。





サカのあの時の弟と、彼女の顔が重なった。






「怪我などはありませんか?」






息を整え、背中の傷の痛みなど感じてもいないような、いつも通りの口調で彼女は言う。
嘘だ、痛いに決まっている。ただ、心配をかけさせまいと意地を張っているだけ。
事実、彼女の背からは肉の焼ける音と、黒い煙があがっている。








「……」





眼の焦点が合う。今度こそしっかりとアンナを見据え、彼女に手を伸ばして術を発動。
危なかった。あの時と、同じ過ちを犯す所だったことにイドゥンは気が付く。







【リライヴ】






まだリカバーを使う事が出来ない自分ではこれが精いっぱい。
彼女の顔から苦痛の色が消えるのを見て、イドゥンは一つ行動に移す。






頭の中の、氷山の様に冷静な部分が囁く。
激情が膨れ上がり、胸が引き裂けそうな自分を見ているもう一人の自分は何処までも冷めきった思考で判断を下していく。
相手は今までに見たことのない存在だ。あの戦役で感じた竜を滅ぼした9つの内の1つ。しかもその存在は竜の力さえ得ている。





アンナはむしろ一緒にいたら危険な状況に陥るぞ、好ましく思っている存在がもしも命の危機に陥ったら、冷静でいられるのか。
そもそもこの場ではアンナではどうあっても力不足だ。竜殺しと、決して逆らえない格上の竜の力相手では、分が悪すぎる。






黄金の力がアンナを包み込み、その身を強制的に神竜の上から引きはがした。
宙へと浮かばされた彼女は驚愕に眼を剝いているが、そんなことをお構いなしにイドゥンは力を使う
ハノンを救出した時とは全くの逆のことを行う。ただそれだけ。






「……外で、待っていてください。絶対に私は戻りますから」







何かを言いたげな顔の火竜に一言告げると、彼女は小さく項垂れた。
先ほどの攻撃で開いた空間への隙間。その中にアンナを放り込む。
彼女を覆う神竜の力は、空間の狭間を渡り、エレブへと帰還させる船の役割を果たしてくれるだろう。






アンナが空間の向こう側へと消えるのを確認すると同時に、殿が慄いた。
直後、金属がきしむ様な音と共に空間の連続性が断たれ、転移の術などによる逃亡はこれで不可能となる。
ここから出る方法はただ一つ、目の前の異形を滅ぼすしかない。









起き上がり、観察するような気配でこちらを眺める獣へと向き直る。
ズボンなどについた汚れを払落し、イドゥンはただ一点だけを最初と同じように見つめる。
先ほどとは違う、自分自身が篭った眼、それを見て獣はほぅっと感心したように息を吐いた。






獣の事を見ているのに、獣を見ていない。イドゥンの興味は違う所にある。
それは獣の体から飛び出した一本の布きれ、ボロボロの状態になってこそいるが、見間違うはずがない。
無数の屍の肉の間から飛び出たソレだけを神竜は眺めて、観察している。






全ての元凶ともいえる、あのマフラー。
アレがなければ、自分とイデアの立場は逆だったかもしれないし、もしかしたら二人揃って里にいけたかもしれない。






イドゥンが、家族へ作ってあげようとしたマフラーだった。
そして、所々ほつれた布に絡みついているのは、腐液などで汚れてしまったせいで、黒く染まった金糸。
返して、と。“手”を伸ばそうとした彼女の腹部に、深々と拳が突き刺さる。





目の前には、何時の間にやら肉薄していた獣の巨体があった。





獣の剛腕はそのまま振りぬかれ、肋骨に罅が入る音、臓物がかき乱される吐き気を催す痛覚と共にイドゥンの身は軽々と宙を舞う。
無様に受け身も取れずに台座の端に落下した彼女は、そのまま音もなく立ち上がり、腹部へとエーギルを収束させる。
体内で骨が軋み、臓腑の肉が再生していく異音を響かせながら、彼女は初めての実戦に無我で挑む。






追撃を掛けようとした獣の動きが止まる。そのまま警戒するように一定の距離を保ち、唸りを漏らす。まるでおあずけをされた肉食動物の様に。








脳内で再生されるのは、自らに戦闘技術を教え込んでくれたメディアンやアンナの言葉。
相手が自分よりも多勢だったら、何としても数を減らせ。もしくは一対一の連続になる様な状況を整え、地の利を得るべきだと二人は言っていた。
神竜の規格外の気配探知能力は夥しい数の亡霊どもを捉え、それらに襲い掛かられた場合の危険性を彼女は考える。





人刺し指を一本立ててから、彼女がクルット舞踏するようにその場で回る。残光を散らしながら拡散するのは、竜の力。
そこに含められたのは、拒絶の意。何人たりとも通過を許すことのない、防御領域を神竜は展開する。







【オーラ】








半透明の光の壁がイドゥンと獣が存在する祭壇の頂上部分を完全に封鎖。
四角形の巨大な箱の中に閉じ込められたような形となった獣は、そんなこを意にも返さずにその竜殺しの斧を構えて淡々と竜に狙いを定める。
元より、他の者にこの獲物を与えるつもりなどなかった彼にとって、この隔離された闘技場の様な空間は願ったり叶ったりだ。






斧が唸りをあげて振われる。稼働する腕ごと消滅するほどの速度で薙がれる刃は、破滅の領域を生み出す。
稲妻を孕んだ天雷の軌跡を阻むのは、隔離結界を構成する【オーラ】とは別にイドゥンが自分自身を守るために編み上げた【オーラ】
片手で装備する盾の様に、小さな傾斜のついたオーラを手の甲に装着するように創りだし、それを使って斧の攻撃を少しずらして受け切る。
まともに浴びたら【オーラ】ごと粉砕され、腕を両断されてしまうという事実を彼女は理解していた。







体重を移動し、両足でしっかりと地面を踏みしめ、常時体にエーギルを循環させて身体能力を強化しながらでも、一撃ごとに【オーラ】に罅が走り、腕が歪む様な衝撃を与えられ続ける。
殿の竜族への能力補正がなければ、彼女は既にバラバラになっていたかもしれない。何とか見切りながらも、彼女は必死に英雄の攻撃に耐える。
体が悲鳴を上げるが、歯を食いしばり、膨れる願いと、そこから手に入る力のありったけを【オーラ】に込めて立ち回った。








「返して、返して、返して───!」






嵐の様に何十も押しては返す攻撃を受け流しつつ、イドゥンの口から洩れるのはその言葉。
それは貴方のモノではない。何故、私から奪い取る? そもそもここは私たちの家なのに、何で勝手に上がり込んで、無茶苦茶にする?
吹き上がるのは理不尽に対する憎悪と、この現実を認めたくない回顧の念。







小さな神竜の必死の叫びに獣は、腹の底から這いあがるような不気味な嘲笑を撒き散らし、一つ思いつく。
体内を駆け巡る欠けた記憶の数々をくみ上げ、最も効率よくこの哀れな竜を挑発する方法が閃いたのだ。









───そうか、ならば返してやろう。








不意に、獣の攻撃が止んだ。
たった一歩下がるだけで常人の数歩分の距離を悠々と後退した獣は、兜の奥で燃え上がる瞳を凝らしてイドゥンを眺めていた。





水面が高温で泡立つような、水泡が破裂する音が周囲に響く。
実際に泡立っていた、獣の腹部当たりの無数の屍肉の塊が、泡立ち、黒い血液を垂れ流す。
マフラーの端っこが、絡みついていた物体諸共獣の肉体から盛り上がり、地面に汚い音を立てて落下。









眼を逸らしたくなるほどの惨状だった。






見るも無残で、強さのみが全てを支配するという世界の理の中で、負けたらどうなるかを最もわかりやすく教えてくれる【モノ】がそこにはあった。







獣はソレを片腕で掴み上げると、見せつけるようにイドゥンへと晒す。まるで勝者が討ち取った敵の首を掲げるように。







【モノ】の首に掛かっているのは、小奇麗な黄金色の鱗。






「っ……!」







最初にまず漏れたのは込みあがる嘔吐感を抑え込むための嗚咽。
次いで、自分の内側の“太陽”に、無数の断裂線が入る。
獣が誰を見せつけているのか、本能で理解したから、そう、理解してしまった。






「……あ?  ──え? …………え?」





脳髄が理解しても、心が理解を拒む彼女が間の抜けた声を漏らしてしまったのは仕方ない事だろう。





半分どころか、3割程度の大きさにまで小さくなってしまった【モノ】を獣は足元に落とすと、それを一切の躊躇なく踏みつけた。
轟音と共に【モノ】が痙攣するように跳ね、その下の石に亀裂が走る。






「何を───」







言葉の続きが放たれるよりも先に獣の足は何度も何度も残骸を踏みにじる。
残った手を、腹部を、頭部を念入りに、執拗に、存在そのものを否定するように。







潰れる。ベッドの中で何度も握ったあの腕が音を立てて形を失った。




壊れる。確かな鼓動を刻んでいた胸部が、丸ごと陥没する。





砕ける。ゴリュっという固いナニかが削れる音、頭部が歪な方向へと首の骨ごと向いた。







凄惨な光景だった。止めて、とさえ言えない程に衝撃的で、人の道を外れた行い、残酷な肉食の獣でさえこんなことはしないだろう。
魔竜は確かに人類の総数を何割という単位で削り取り、数えきれなほどの死者の海を創りだしたが、その遺骸までも徹底的に蹂躙される謂れはないはずだった。
獣の眼がイドゥンを再度見て、細められた。彼女の元に向けて【モノ】が蹴りつけられる。





空中で幾つかに四散しながら“遺骸だったモノ”は彼女の前に落着。






「…………」






震える体を押しとどめながら、イドゥンは膝を折った。違う、折れてしまったのだ、全身に力が入らない。
敵意のある存在が目の前に居て、今まさに自分を殺そうとしている事実さえどうでもいいと思うほどの衝撃が彼女を襲う。
頭が麻痺したようにぼーっとする。まるで寝起きの時の、意識が覚醒しきってないときの様に。






そういう時はいつも先に起きていた弟がお湯で濡らしたタオルを持ってきてくれた。






這いつくばり、四つん這いになりながらも【モノ】に彼女は近づき、少しだけ躊躇ってから触れた。
爪が剥げ、何本か指が欠損し、原型を失いかけている残骸の手に触れてみる。土気色の肌、冷たくて固い肉の塊。
昔、手を握った時に感じた命の脈動、体温はそこには存在しない。






死は無残だった。いつか見ていた夢での光景など比にも出来ない程に残忍で、冷たい。







「……イデア……いであ……ぃ………あ……あぁぁあぁ………」






低い声で、縋る様に半身の名を呼んだ。ほんの少し前ならば、それだけで返答は帰ってきたはずだった。





今は名前を呼んでも何も返らない。






数えきれない恩がある、計り知れない程に教えてくれたことがある。
何時か恩返しをしたかった。長として頑張る自分を見て、ただ一言労いの言葉でもいいから、褒めて欲しかった。
自分が長としてどんな仕事をしているかを話し、強くなるために頑張っていることを話し、それからお父さんを恨まないで、と伝えたかった。






返せていない。果たせていない。そしてその機会は永遠にもう来ない。






これは何か間違いなのではないか。きっとそうだ、こんな、こんなバカなことがあるわけない。
何度か揺さぶっても【モノ】は起きなかった。何時もならば、昼寝などを邪魔されると不機嫌そうに眉を顰めながらでも起き上がるのに。
せめて眼だけでも見たいと頭らしき部分の前髪をかき分けて……イドゥンはそっとマフラーを引っ張ると【モノ】の頭部を覆うように巻きつける。






その場に蹲り、縋る様に【モノ】に顔を埋めて、両手で強く握りしめた。
色違いの瞳にはあらゆる種類の感情が轟々と渦を巻いており神竜の存在そのものに無数の破壊線が走っていく。
どんっと、後ろから背中辺りを強く押されたような衝撃を彼女は感じる。同時に背中から胸部に掛けて違和感を覚えた。







一本の剣、先ほど弾き飛ばされた覇者の剣が、胸から生えている。柄を握りこむのは獣だった。
獣は茶番など見飽きたと言わんばかりに刀身を心臓に深々と突き刺し、柄を回し込み、傷口を抉る。
真っ赤な血液が、残骸に垂れて、あっという間に真紅の血だまりを作り上げ、祭壇を汚す。





そのまま刃は貫通し【モノ】へと突き刺さる。マフラーが切り裂かれ、黒い液体で汚れた。





今の彼女は祭壇の上に捧げられた供物のようだった。
獣は愉悦に満ちた笑いを漏らし、イドゥンは茫然とした様子で刀身を指でなぞりながら思う。
口と、眼から真っ赤な血があふれ出し、脳髄まで溶かしていく中、思った事は一つ。







真っ赤な液。紅い、凄く紅い。熱い、熱い……。









獣は、愛を語るような熱さを宿した視線を彼女に向けながら、その唇を竜の耳元に近づけ───























獣から放たれる波動が、そこに宿った映像が頭に直接流れ込む。







金色の髪をした、自分そっくりの顔立ちの少年。対峙する8人の英雄。
膨れ上がる闇。現れる巨大な魔竜とその軍勢、激戦、そして敗北。一本の長剣と、そこに宿す意思によって両断された───の姿。
残骸となり、放置される彼。何日も何日も。闇の底に一人ぼっちで。






だがこれは仕方ない。それだけの事を───はやったのだから。ここまでなら、彼も覚悟の上だったのだろう。








問題は……。








そんな───を、この獣は……踏みにじり、喰った。
嘲笑い遺骸を踏みにじり、砕き、汚し、唾棄しながら。



























“お前の弟は、中々に美味かったぞ”



























小さな小さな囁きをイドゥンは聞いた。獣が人の言葉で“飲み込んだ存在の声”で告げるソレは嘲笑と侮蔑の毒に塗れ、果てもない程の悪意に満ちており……何より弟の死を嘲るものだった。
悲嘆を絶望に変換させ、力へと成し、そして戦意へと至らせるに足る言葉。真実、竜の逆鱗と呼ばれる箇所。






覇者の剣の銀色の刀身が、暗黒に染まった。
深い、深い、深淵へと至る色彩に。




















暗黒の“太陽”が、爆発を開始する。
同時にエーギルの、無限連鎖が始まった。
胸中の、冷静な部分が深く、黒く、亀裂の様な笑顔を浮かべ、次いで逆鱗を踏みにじる存在への殺意へと変換された。




















半身と引き離された理不尽に対する怒り、この獣の存在、故郷を破壊された憤怒、人に対するささやかな失望。
長になってから貯めこんでいた感情の悉くが無尽の反応を発生させる燃料だった。























色違いの眼に確かな願いと、強靭な意思が宿る。口から噴き出る血が止まる。
冷静な心が、砕けた部分を継ぎはぎし、流入してきた闇を用いて悲嘆に満たされる胸の中身を丸ごと入れ替える。
メディアンという地竜が行う意識の切り替え、それを模倣し、竜は脳髄の中身を切り替えていく。







嘆きよりも怒りを。絶望を支配するほどの憎悪を。そして憎悪を超越した冷酷さを。
今、やるべきこと。これからすべきこと。その為には何をすればよいか。







死ぬのは嫌だ。まだ自分にはやることがある。例え家族がいなくなっても、やることがある。
違う、自分が死ねば、本当の意味でイデアは消えてしまう。誰もイデアの事を知らない。
どんな顔で笑っていたか、どんな顔で怒り、泣いたか、それを知っているのは自分だけ。






私まで消えたら、イデアは存在そのものが消えてしまう。それだけは絶対にダメだ。







吹き荒れるほどに跳ね上がる力の総量を理解し、何処か他人事のようにソレを感じながら竜は思考を回していた。
弟の亡骸を供養しなくてはいけない。こんな場所に一人ぼっちで置き去りにする気など毛頭ない。
その為には帰らなくてはいけない。ならば、それを邪魔するコレはさっさと排除すべきだ。







神竜。始祖竜。両者の力を強制的に混ぜ合わせ、新しい種へと異次元の領域でクラスチェンジしながらもイドゥンは変わらない。
流れ込む闇を片端から制御し、奪い取り、支配。絶対に自分の大切な記憶などには触れさせない。
ただ一念。弟を連れて帰るという願いだけが、始祖の闇を支配する程の強さを生み出していた。








竜化を行うつもりはなかった。家を壊したくない。
何よりイデアを傷つけてしまうかもしれない。
これは戦いではない。作業だ。自宅から害虫を駆除する作業。







獣は静電気でも流されたように覇者の剣から手を離し、後ろへと飛び去る。彼の見ている前で覇者の剣は竜の体の中に“巻き込まれて”いく。
刀身が貫通した部分も含めて突き刺したはずの心臓へと飲み込まれていく、鼓動を刻むたびに刃は音もなく竜の胸の内側に沈み、柄の先端まで飲み込まれ、消える。







ここで獣は喪失感を抱く。今までこの殿を支配し、思うがままに操っていた彼から、奪われる。殿を支配できない。
竜の殿は、真の主にその支配権を譲渡し、獣を拒んでいた。そればかりか──。









「──!」






体から紫色の小さな光の玉が飛び出し、それは目の前の獲物へと吸収されるように華奢な体に溶けて消える。
見間違うはずがない、自分が取り込んだはずの魔竜の力の一部だった。それが独りでに体を飛び出し、奪われている。
驚愕に立ち尽くし、体から飛び出る光を必死に掴もうとする獣に無機質な声が掛けられた。






「元々貴方の物ではないでしょう…………」






立ち上がり、血で濡れた服を纏いながらも彼女は獣に向き直る。
大きく露出した胸元、、そこにあった傷は既にない。








獣は見た。暗闇の中で爛々と捕食生物の様に輝く紅と蒼を。自分を見ている様で、その実見ていない眼を。
何処までも父親そっくりの眼だった。興味どころか、存在そのものを認識していない眼。
憎悪もなかった。弟の死骸を踏みにじった獣に対し、彼女は憤怒を一時は抱き、そして超越した。






振り切りすぎた感情は、既に無我の領域へと至っていた。






そんな領域は既に超越している。もはや彼女の中で、獣の駆除は決まったことだ。
冷静に、冷酷に、弟や里の同胞たちには決して見せない凍り付いた思考と、行動。
自らの平穏と安息を壊す存在に、彼女は絶対に容赦しない。






無限に膨れ上がる力を、竜は味わい、観察し、理解し、至って平常心でその扱い方を決める。
力の再分配を、攻撃、防御、回復、補助、周囲への威嚇、平等に振り分ける。







掲げた彼女の右腕、その骨が変形する。
華奢で白い少女の細腕から、黄金色の甲殻に覆われた巨大な竜の前足に。
一部分だけの限定的竜化。極限まで力の解放を抑えつつ、彼女は軽く前足を振った。







竜の五指が、空間を撫でやった。鋭利極まりない、竜の爪が躍る。砦の城門さえ木端微塵にして有り余る破壊力をもった、単純質量の一撃。





衝撃波が巻き起こる、轟音と共に“軽く”撫でるように振り払われた前足は獣の体を軽々と跳ね飛ばし、無数の肉塊を砕いてぶちまける。
【オーラ】の壁に直撃し、背中を焼き上げられた獣がうめき声をあげたのを見てから、イドゥンは気が付く。そういえば、外には無数の敵がいたのだった、と。







「……少しだけ、待って。直ぐに新しい家に連れていくから」







この場には不釣合いな、労りに満ちた声。精一杯頑張った弟への労いが篭った声。







【オーラ】を新たに弟を覆うように展開。
四角形の箱。継ぎ目のない棺の様な形状で編み上げられたソレを竜の剛腕でいたわる様に撫でてやってから、右腕を元の人の姿へと戻す。
棺の上に、彼女はもってきたリンゴを一個、置いた。







竜の長として命令を彼女は飛ばす。取り込んだ魔竜の、異常なまでに馴染の早い新たな力を以て。





当然の帰結だった。半身ともいえる存在との力の融合は、自分との融合ともいえる。
真実イドゥンとイデアは、二人で一つの竜だった。それが、あるべき形に、2つのピースがかみ合っただけ。






強く 美しく そして哀しい竜。
その力の扱い方は、遥か前より知っている。






彼女の号令は殿の壁や天井、空間を伝わり、あっという間に拡散する。
【戦闘竜】達が、慄き叫ぶ。新たな、真なる主の命令をうけたことへの歓喜を孕んだ絶叫を。
金色の瞳が、亡霊兵たちに向けられ……腐敗のブレスが吐きかけられた。






絶叫、絶叫、絶叫。鏖殺が始まる。
英雄もおらず、貧弱な竜殺しの武器しか持っていない亡霊兵たちは次々と改造された【戦闘竜】達に血祭りにあげられていく。
ブレスで、牙で、爪で、喰われて、戦役の最中に経験したありとあらゆる万の死を再現し、滅び去る。








竜の咆哮。亡霊の怨嗟。さながら、それは戦役最後の戦いを再現したような光景。だが、竜はそれを見てもいない。








壊れた車輪があげるような、奇怪な叫びをあげて突っ込んでくる獣を前に、竜は片手の指を何か、剣を握るような形状にし、構える。
集うのは深淵。質量をもった闇が集まり、古の記憶を再現。それは始祖の記録。かつて使われた神話の武器をここに再現し、使う。
現れたのは一本の長剣。黒曜石を削って創りだした様な漆黒の刃に、多少の飾りを施された柄。







【ヘズルの魔剣】







生き血を啜り、世界へと災いを齎すとされる魔剣。
竜が剣を振り払い、迫る【天雷】の斧を真っ向から迎撃。
発生した衝撃が殿を揺らした。膨れ上がる稲妻を魔剣が生み出す漆黒の気泡が飲み込み、膨れ上がる。







金属同士を高速で衝突させた際に発生する、表面を削りあうような音。
黒と黄金が跳ね飛び、周囲に拡散する破壊。






さっさと片を付けよう。新たに生まれた別次元の力を持つ竜は時間を掛けることを嫌った。
残りの半身の力を直ぐにでもあのけだものから解放してあげたかった。
意識を向けるのは、懐にしまった一冊の魔道書。古代の禁術が収められた書に無数の力が集う。







一切の詠唱も、動作も省いて発動される古代竜族魔法。
光を圧縮し、力を収束し、まん丸いの、太陽の様に輝く円形魔方陣が黄金色に輝く。







【ルーチェ】








本来ならば天から無数の光を降り注がせ、世界に平等なる裁きを与える術。
広範囲、世界規模の術を竜は“圧縮”して扱うことに決めた。
殿に被害を出さない為、これ以上、自分の故郷を壊すことに彼女は耐えられなかった。






白亜の光が編み上げられ、一つの像を成す。
奇しくも、その形は今手にもっている剣と同じ形状……長剣。





黒と白。二つの対となる色彩の剣を竜は扱う。
この純白の、無垢とさえ取れる美しい剣に竜は始祖と神の血が教えてくれる古の記憶を読み取り、咀嚼し、銘を付けた。
神々しい光を放ち、羽毛の如き軽量さで手に吸い付いてくる光の剣の名は、これしかない。






【バルドの聖剣】







剣を握った瞬間に漲るのは、不屈の闘志と、廃滅の意。
お前はここで消えてなくなれ、竜の願いに呼応するように聖剣は退魔の光を放ち、殿に巣食う闇を照らし出す。
稲妻の斧と聖剣が打ち合う、数回打ち合っただけで斧の刃が欠け、総体に罅が走った。





絶望的な力の質量差による違い。巨大な岩に、剣を打ち付けたら刃こぼれするのと同じ原理。





間髪入れずに振りぬかれる魔剣が獣の体を切り刻んでいく、血と魂を啜り、その中にため込んだ魔竜の力を簒奪し、竜の力は更に強くなっていく。
奇跡の光景。本来決して交わらないはずの3つの窮極の力が混ざり合い、創世期よりどんな存在でさえ成しえなかった融和を果たしているのだ。






始祖の闇と神の光の間に、潤滑油の様に魔竜の力は流れ込み、竜としてのイドゥンの存在を安定させ、決して始祖の闇に蝕まれることの無いように盾となり、力を安定させ、循環させる役割を果たした。
まるで、力そのものが意思を持っているように、驚くほどに少女に力は馴染み、溶け込む。






産み出される力を込めて彼女は剣を振った。一切の技巧も駆け引きもない、純粋な力と速度を用いて。
相手がどう動くか、どう反撃するか、そして戦いの幕はどうなるか。何もかも全てが“見えている”
これは戦いではない。たった一つの結末があり、そこに向かう過程と作業だ。







体は考える前に動いた。まるで、自分の体を使って全くの別人……歴戦の戦士が動いているようだった。
これが誰が為の戦いなのかさえ、本人は判らない。





黒と白が霞を創りだしながら踊る。黄金の稲妻はそのたびに存在を削り取られ、徐々に小さくなっていく。
勢いを増すのは、黒と白。そして両方が混ざりきった混沌の波動。
自らの体そのものである斧が磨り潰されていく様を見て、獣は歓喜に満ち溢れた呻きを漏らしていた。






素晴らしい、素晴らしい、この存在が外の世界に仮に出たら、とても楽しいことになる。
獣が思うのはソレだけ。仮に自分が滅んでも構わない。ただ、願うのはこの“怪物”が世界にとても楽しい戦禍を撒き散らしてくれること。







竜は一切の感情を見せず、ただ存在を削ぎ取る作業だけを延々と繰り返し────。


































「っ……ぐっ……」






背が焼けるように痛かった。竜殺しの武器から与えられた傷は、治りが遅く、重度の火傷の如くジワジワと染み込んでくる。





殿の存在する隔離異界から強制的に放り出されたアンナは、未だに動くと激痛が走る背中を気にしつつ、自分を殿から排出した、空間に刻まれる裂け目を凝視していた。
背の痛みなどこの際どうでもいい。問題は長だった。彼女はこの世界に残された唯一無二の神竜であり、失うという事は竜族の緩やかな滅亡への引き金を引くという事だ。
下手をすれば全てが無駄になる、ナーガが作った里も、知識の溜まり場を転移させたのも、そして“彼女”の事も。





深夜の森に一人、大木に背を預けながらも彼女は竜石を取り出す。




何が何でも戻らなくてはいけない。
彼女は戻ると約束したが、それを黙って信じる程アンナはイドゥンの力を凄まじいモノとは思ってはいなかった。
確かに強いだろう、確かに神竜に相応しいモノだ。だが、彼女はまだ10代なのだ。







たった10年。竜の10代は人の10代とは全く違う。赤子の様なものなのだ。
メディアンも、フレイも、そしてアンナもそこに負い目を感じている。
子供を長として祭り上げ、全てを押し付けてしまっている現状が恥ずかしくてたまらなかった。






だからこそ、アンナは思う。自分が彼女を支えなくては、と。
彼女の親友が愛し、誇っていた神竜を支えるのは自分たちの役割なのだ。






何としてでも殿に戻ろうと力を使おうにも、うまく竜の力が引き出せない。
背中の傷が激痛を発し、集中と体内のエーギルの循環を乱す。
命が削れて行くような痛みは、余り経験したことのないもの。






だが、それでも必要なことをしなくてはならない。痛みを原因にするなど、ただの言い訳だ。







「!!」






歯を食いしばり、漏らす声は普段の彼女にはあり得ないもの。
火竜の力を引き出し、空間の狭間を再度渡るための“船”を編み上げようとする彼女の眼前で“場”の歪みから何かが出てくる。






「長……!」






所々が破けた黒い服に、夥しい量の血液を付着させた少女……イドゥンは背後に何かを背負いながら出てくる。
白銀の長髪を靡かせ、その足取りは背負うモノの重さを確かめるように深く、遅く、重厚だった。
アンナは咄嗟に彼女が背負う……神竜のエーギルで編みこまれた棺らしきモノに眼を向け……息を呑んだ。






ここに来る前は紫銀色をしていた少女の髪は、色素が抜けきり、白く染まり、白銀色と化している。
彼女の父親とうり二つの色、間違いなく親子と断言できるほどにその色は似ていた。




何も言えなかった。少女が何のためにここに来たかアンナは知っている。そしてその期待が最悪の形で裏切られたことも。





竜の色違いの瞳が臣下を見つけると、その背にある傷口に視線が刺さった。







「アンナ、傷口を見せてください……」






イドゥンはよっこいしょという小さな掛け声と違うに棺を傍らにそっと降ろすと、細く白い指を一本向ける。
力が集い、一つの術が発動する。先ほどの【リライヴ】とは次元が違う回復術。死んでさえいなければ、ありとあらゆる状態からの回復を可能とする、復元術。
大量の竜の力を飲み込んだ彼女にとって、この程度の術は容易いものだった








【マトローナ】







竜殺しを更に上回る規模の力が傷口の呪いを押し流し、消し去る。放射される黄金の暖かな光は、正に太陽光。
焼け爛れた真っ赤な皮膚が、根元から巻き戻され、復元する。後に残るのは純白の、手入れされた皮膚だけ。
全ての痛みと倦怠感が一気に消し飛びアンナは内心驚愕を覚えていた。術の凄まじさに、ではない。







目の前の竜の成長に、だ。もはや殿に入る前と今の彼女は別の存在といえる程に違う。
神竜、なのか? と疑問を挟む程。確かに神竜の力なのだが、何処か違う。大きすぎて力の全景が見えない、氷山の一角を眺めている様な気配。





そして何より気にかかったのは、彼女のわざとらしく作り上げられた無表情な顔。
明らかに、無理をして作った顔だった。堪え切れない激情に蓋をし、抑え込んでいる顔。








長になってからこの少女は父であるナーガを真似してか、あまり表情を表には出さなくなったが……これは違った。
何かを我慢している顔だった。その裏側にあるのは……後ろめたさ、諦め、納得、敗北感さえも入り混じっている。
理屈ではない。同じ女だからこそわかる。彼女は、とてつもなく重いモノを一人で背負っているのだ、と。







イドゥンが懐に手を突っ込み、何かを取り出す。小さくて丸いソレは、精巧なガラス玉の様だった。
だが実際はもっと抽象的で、彼女の手のソレは物質ではない。
圧縮された“場”だった。切り取った異界を圧縮し、掌に収まるほどの大きさにまで縮めただけ。






それを竜は一瞬だけ躊躇うような動作をし、大口を開けて飲み込む。
殿を、彼女は、喰った。もう誰にも手を出されたくない、故郷を竜は“胃界”に飲み込む。
故郷が宿す竜族に対する能力補正が“太陽”と融合し、乗数的に力を上げていくことさえ竜にとっては些事だった。





そこに居たはずの、僅かな生存者さえも消化し、力と成すが……彼女は気が付かなかった。
気が付いた所でどうでもいいと、思うだろうが。






アンナに背を翻し、棺を背負おうとした彼女に背後からアンナは声を掛けるべく口を開けた。
ここで、何か言わなければ、決定的に彼女は道を違えそうな気がしたから。
彼女の顔は見えない。その果ても見えない。暗闇に続く道へ、一人で入り込んでいくようだった。





今しかなかった。彼女が完全に心を閉ざす前に、たった一人で鬱屈とした念を抱く前に、何としてでも、彼女の心に刺激を与えなくてはいけないと思った。
アンナには未来は見えないが、それでも嫌な予感があった。このままでは“怪物”が産まれるのではないか。
慕っていた父を失い、全幅の信頼と愛情を向けていた家族を失う。子供が歪んでしまうには十分すぎる。








何か言わなくては。言葉を掛ける必要がある。






「長……何が、あったのです?」






びくっとイドゥンの背が揺れた。まるで親に悪さを見つかった子供の様に。
振り向きたいが、振り向けない。彼女は葛藤しているように小さく震えると、リンゴを取り出し、食べようとして、落としてしまった。
掴み上げようとして……思い切ったようにそのまま彼女はリンゴを蹴り飛ばした。癇癪を起した子供のように。
これを食べるのは弟と一緒になってからだと決めていた彼女にとって、もう必要ないものだから。







うつむく。
世界で最も強大な力を持つ竜は項垂れ、絞る様に、喘ぐように言葉を吐く。
淡々朗々と、些事を吐き捨てるような声音を取り繕いながら。







「………お腹が、減りました。はやく、帰って何かを食べたいよ」






静かな言葉には億千万の感情がこもっていた。長としての口調と、彼女本来の口調がごちゃ混ぜになっていた。
一泊おいて、彼女は続けた。言葉の節々が震えながらも、しっかりと単語を吐く。





「アンナ、焼き菓子を、作れますか? エイナールとイデアはよく作ってくれたんだ」






自分で言っていてチグハグな言葉を列挙しているという事実に気が付いたイドゥンは顔を傾げた。
アンナが蹴り飛ばしたリンゴを力で包んで差し出してくれる。近くの流水で洗ったリンゴの表面はてかてかと光沢を放っていて、とても美味しそうだった。
蹴り飛ばした場所が、少しだけへこんでいる。骨が折れて陥没した頬を思い出す。






「長──」






続きの言葉をアンナが語る前にイドゥンは口を動かし、絡繰りの様にしゃべり始めた。一切の感情を感じさせないように努めながら。
じくじくと胸が痛んだ。余りに大きすぎる喪失感が彼女を蝕み、心を齧りとる。火傷をしたような熱と、体の一部を抉り取られた違和感が、消えない。






「私は、彼らを全て葬りました」






切り替えが終わり、冷酷な思考を引っ込めた彼女は、ただの少女だった。
失った痛みが戻ってくる。麻酔が切れた病の如く。






「彼らは、獣です……」






徐々に、抑えきれなくなった感情が顔を覗かせる。
たった一人の少女、一人の姉に戻っていく心に引きずられるようにその言葉は勢いを増していく。






「だから、獣と同じように………!」






初めての覚悟を決めた戦闘。そして勝利。そこに勝利の高揚はない。あったのは虚しさと、圧倒的な力による蹂躙。
少女にはその空虚さが何なのか理解が出来ない。だから感情のままに叫びを上げ、心で渦を巻く理解できないモノを片っ端から放出していく。



堰を切った濁流の様に彼女は絶叫と憤怒をぶちまけた。
もしも異界理論通りの世界があれば、そこに逃げ込みたい程の念が噴き出る。









「私が魔竜になっていればよかった……! そうすれば、少なくとも───」







例え抵抗し、そのせいで心を奪われようとも、そっちの方が遥かにマシだったと彼女は声を捻る様に絞り出す。






「長は、弟君を今の自分と同じ目に合わせたいのですか?」






突き刺すようなアンナの声にイドゥンは萎んだ様に身を縮め、今自分が言った言葉を反芻し、何かを堪えるように顔をしかめる。
何故ならば、それはイデアの行い全てを否定するものだったから。あの戦役で弟がやったこと、彼の犠牲になった者……。






「違う……それは、違い、ます、絶対に、ぜ、ったい……」







言葉という明確な形で心を表現する。
自分は弟と最後に何を話たのかさえ朧にしか覚えていない。
その事実に思い当り、今度こそ彼女はその場にしゃがみこみ、肩を震わせて啜り泣きはじめる。





アンナが屈みこみ、視線を彼女に合わせてその手を握ると、涙をこぼしながら少女は大声で泣き声ををあげた。





エイナールならば、もっと気の利いた慰め方もできるだろうが、自分ではこれが精いっぱいだ。
胸元にしがみ付きながら、泣いている少女の頭を撫でながらアンナは無力感を噛みしめ、少しだけ先代のナーガを恨んだ。







こんないい子に理不尽を押し付ける、ナーガを一人の女性としてほんの少しだけ軽蔑し
同時にそうなってしまった世界の構造が判っているからこそ、何も出来ない自分が憎い。





そして一つ決意する。この少女が成長し、自分の意思で選択し、未来を創れるようになるまでは自分だけは彼女の絶対的な味方でいよう、と。
自らの親友がそうした様に、彼女の跡を継ぐなどとは言わないが、それでも何かが出来るはずと信じて。







少女の慟哭が木霊するベルン地方、その夜空には何時の日か半身と一緒に見た星たちだけが瞬いている。























あとがき 




とりあえずIF編はいったんここまで。一度書くと止まらなくなりそうなのでここいらでストップです。
また本編が進んで烈火編、もしくは封印編、つまり全ストーリーを終了させたらその裏で進むIFとして書くかもしれません。
それにしても暗闇の巫女を聞きながら書くと、筆が進むこと進むこと。






彼女は出来れば泣かせたくはありませんが、やはりイデアが魔竜になった場合、どうやっても生き残るビジョンが見えずこういう話となりました。
そして彼女の口調なども原作の無機質な喋り方とこのお話での第一部の混ざり具合の調整には結構苦労しました。






姉と違ってイデアは自分の意思で戦いそうで、そうなるとやはり本編でも少し触れた通り、本領を発揮した魔竜の地球防衛軍ばりの数と質の暴力や、前の世界の知識を利用した悪辣な戦い方
そしてエーギルを感情で爆発させた全力の、殿による補正を得た魔竜イデア相手では、ハルトムート達でも苦戦し、一歩間違えれば負けてしまいかねないので、手加減や哀れみをかける余地が残りません。
そもそも自分の意思で戦っている時点でイドゥンと違い、ハノンやハルトムートが哀れみをかけられず、そのまま封印の剣による力で戦死、という流れになります。




獣ことテュルバンは……少々かませになってしまいましたが、今回の話でかなりこいつは好き勝手動いてくれました。
次回はプロットの再構築や調整などを経てからの投稿となるので、かなり遅くなりそうです。年内には更新したいですが、気長にお待ちください。




もしくは久々に息抜きとしてダークサイドを書くかもしれません。






↓ に少しだけ蛇足があります。ほんのちょっとだけ、お話は続きます。





































イドゥンは瞼を閉じ、瞑想をしていた。空けはなされた自室の窓から流れ込む冷気と、果てのない空に光る星夜は、彼女に癒しを齎してくれるが今の彼女はそれらを意識していない。
深く、自分の内側に意識を潜らせ、自分という存在を客観的に見つめる。神竜、始祖竜、魔竜、そして殿、おおよそこの世に存在する竜の力の源泉全てを取り込んだ彼女は、それらの安定に努めていた。
超大にして絶大無比な力は、使い方を間違えれば己さえも滅ぼしかねない力。それを彼女は判っているが故に、心を強くするべく鍛錬を続ける。





考えることをやめるな。流されるままになるな。感情、心、エーギルを理解し、制御しろ──。
繰り返し思うのはその信念。失って泣いているままでは、変われない。もうサカで泣いていた子供ではない。





まずは心の揺らぎを制御する術を会得しなくてはいけない。
胸中の“黒い太陽”の爆発を支配し、噴き出る力の量を制御しなくては、いつか自分自身が内側から焼かれてしまう。





始祖の闇を見つめかえし、頷く。闇は悪く思われがちだが、適度な付き合いさえ守っていれば心強い隣人だと彼女は思っている。
神竜の光を見据え、思う。光とは輝き、眩しいモノ。だからこそ気を付けなくてはならない。太陽でさえ、この砂漠では死を齎す故に、時として光は恐ろしい焼き尽くす暴力を生み出す。






神と始祖の間に存在する魔竜の……弟の力を眺め、読み取り、彼女は俯く。
そこに宿る念に姉や父への負の感情はなかった。様々な思いが飛び回り、要領を得ない言葉の羅列ばっかり
諦観、不屈、否定、全てイデアが自分自身へと向けたものだ。







残骸が告げる思い。アレにこびりついていた感情は、所々が破けた日記帳の様なモノ。
彼は捨てられたと思ってこそいたが、恨みを抱かず、全て自分の責任だと受け入れていた。
それどころか、死に瀕して安堵さえあった。一体、何に安心したのか。負い目の様なモノさえ感じていた弟は、何を思っていたのか。






捨てたわけではない。私が家族を捨てるなどありえない。そう訴えてあげたいが、もはや今になっては無駄な事。
思いに返す存在はいないが、もう慣れ始めた自分がいることに彼女は気が付いていた。
慣れはある、だが穴は塞がらない。穴の大きさは皆目見当さえつかない。






弟が存在していたという証は、自分の中にしかない。宿した魔竜としての力だけがイデアの存在証明。







瞼を開け、天の光を見る。小さな手を伸ばし、それを掴みとるような仕草をしながら竜は思った。
私一人でも、いつかあの星を見に行って見せる。そうして記憶に残した光景を本として残したい。
その為にはもっと大きくならなければ。今のままでは、自分は小さすぎて、星の全景を瞳に映す事さえかなわない。








“眼”にありったけの力を込めて夜空を望遠すると、そこには異次元の光景が見て取れる。
無数の光が、無限の色彩と共に流れ、巨大な渦を形成する幻想の世界。
何万、何十万、何億という悠久の過去の光を可視化し、観察する映像は竜という存在さえちっぽけなモノだと思うに十分。








窓際から身を乗り出し、望遠を停止し肉眼でナバタの里の全景を眺める。そして果てに続く砂漠──数日前に火葬した弟の灰をばら撒いた砂漠。
ここだけが最後の安息の地。ここを守るためならば、何でも出来る。安息と安定を求める心は時として猛毒ともなる。
一番簡単に永遠の安息と安寧を手に入れる方法は、多少強引な事になるが、一つ思いついた。






だが、やる気はない。安息と安定が欲しいのに、世界中に混乱を撒き散らすことになる。
自分と同じ目に誰かを合わせるつもりなどない。








戦争があった。イデアは戦った。そして居なくなった。
戦死は……仕方ない、無理にでも割り切りをつけなくてはいけない。
復讐は、不毛だ。理屈を唱え、心を納得させる。イデアはそれだけの事をやったのだ、と。







サカでは死者は星や世界の一部になり、生者を見守っているという教えがあるらしいが、今のイドゥンは少しばかりその教えを信じてもいいかと考えていた。
だって、そういう考え方は凄く素敵だと感じたから。星はいい、いつも変わらずそこにある。







ベッドに歩み寄り、全身を預ける。白銀の髪が柔らかくシーツの上に広がった。純白のバスローブの柔らかい肌触りが全身を包み込んでくれる。
包み込まれるような安息と安心の中で、本当に久しぶりに彼女は熟睡するために意識を手放す為に努力をするが、中々寝付けない。
お腹が空腹を訴えるように小さく鳴き声をあげたが、彼女はそれを黙殺する。







物理的な意味では満たされているのに、何かが足りない欠落感と飢餓だけが残り、離れることなくへばりついてなくならない。
欠落感を埋め合わせようと力を生み出し、一時的に満たされたと錯覚しても、すぐに飢餓は戻ってくる。
更にまた埋め合わせようと力を爆発させ……無限に続くエーギルの連鎖の正体は、空腹と飢餓、欠落感。







一枚の黄金色の鱗を懐から取り出し、眺めた。最期の最期まで弟の傍にあった自分の一部。
黄金の光を生み出し、形を捏ね回して整える。形成されたのは一羽の鳥。弟が作ってくれた鳥と同じ姿をしたもの。





生きているように部屋の中を飛び回り、最後はイドゥンの腹部に降り立ち、そのまま胸辺りまで昇ってくる。






胸元で鱗と鳥を抱きしめ、竜は今度こそ眠りにつく。明日からまた忙しくなる。
長として、イデアとお父さんに恥じないような、立派な存在になるべく修練の日々が始まるから。





やることはまだ残っている。絶望して全て投げ出すのは、嫌だ。
それでは、この世界からいなくなったお父さんと一緒、私はお父さんみたいに全てを捨てる気はない。







暗闇の底に意識が落ち、白い夢が幕をあける。




夢と現実が切り替わる刹那、家族と友の姿を一瞬だけ、見たような気がした。










これは異界の物語。とある竜のお話。




もしも続きがあれば、それは何時の日か──。




























[6434] とある竜のお話 前日譚 一章 1 (実質15章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/11/02 23:24



錆びついた島。外界からは隔離された絶海の孤島、その森の奥に一つの屋敷があった。
立派な石造りの建物は、千年の年月を経ても大丈夫なように、魔道の技術さえも練り込まれて建造されたものだ。
十人単位の人間が住んでも大丈夫な広さの建物に、貯蓄された大量の保存食と飲料水、そして菜園。





屋敷の中には幾つもの絵画が飾られてある。
決して名画と言えるほど素晴らしいモノではないが、何処か閲覧した人の心を癒すような色彩の絵たち。





人の気配というモノが存在しないこの島に何故、こんな建物があるのか、その理由を誰も知らない。
足音が森に響く。固い土と枯れ葉を踏み抜く音が、やがては整備された石畳をたたく音へと変わる。






現れたのは、一人の成人男性と、幼子が二人。少女、少年というにはまだ小さすぎる子供たちであった。
男は二人の子供の歩幅を考えつつ、それでいて急かす様に足を動かし、早歩きで屋敷の扉に手を掛けるが……開かない。
父親と思われる男が、何かを思い出したように懐から一枚の羊皮紙を取り出し、それを掲げると、扉は薄く発光し、光が消える。






同時に響くのはガチャという金属が動いたような音。扉に施されていた封印が解除され、音もなく開いた。
男は二人のまだ弱い10代にも満たない幼子を屋敷の中に入れると、背中に持っていた袋を渡し、動く。
既に何度もこの屋敷を男は利用していたのだろう、手慣れた様子で暖炉に火を付け、食料庫の中身をしっかりと確認してから子供たちに向き直った。





膝を折り、目線を合わせて、ゆっくりと一つずつ言葉を掛けていく。







「……お前たちはここに隠れていなさい。食べ物と飲み物は、食料庫と、その袋に入っている……食料庫の場所は判るね?」







二人の子供が言われている言葉の意味がよく判らないながらも、父親が大切な事を言っていると理解し、頷くの見て男は満足したように笑い、子供たちの頭を撫でた。
子供たちの顔が綻び、無邪気に抱き付いてくる。男は子供たちに抱擁を返し、背中を摩ってやった。
味わうように、堪能するように子供たちの温もりと、愛しさを確かめた男は、暫くそうした後に二人の肩を掴んで、やんわりと自分から引き離す。






真紅の2対の眼を見据えてから、男は更に言葉を吐く。







「少しずつ食べれば1月程度は持つはずだ」






二人の子供のうち、女の子の方が顔を傾げ、男に尋ねる。
肩口で切りそろえられた清流を思わせる水色の髪の毛が、不安そうに揺れていた。







「おとうさん……どこに、いくの?……おでかけ?」






男の顔がほんの少しだけ歪んだ。
子供たちに悟られないように、必死に押し隠した感情が行き場所を失い、胸中へと逆流する。
無音の世界はどれほど続いただろうか。男は感情を整理し、抑え込み、子供たちに安心を与えるような笑顔を浮かべた。






子供たちの大好きな笑顔。いつも守ってくれて、一緒に居てくれる父親の顔。






「父さんはね……お母さんを、迎えに行こうと思う」





「おかあさん……どこ?」






真っ赤な眼。高品質の宝石よりも美しい眼が男を見つめている。
瞳の奥は不安で揺れていた。母親が消えてしまい、今正に父親さえ消えてしまうかもしれない。
そんな喪失の恐怖で子供たちの顔は不安に染まっていた。






男は胸中で渦巻く憎悪を憤怒を愛しい子供たちに見せないように努力をする。
少しでも気を緩めれば顔は歪み、歯をむき出しにし、感情を爆発させたい衝動が抑えきれなくなる。







「悪い奴らのせいで、離れ離れになってしまったんだ……大丈夫、絶対に連れて戻るから」






子供たちが無言で見つめてくる中、男は更に言葉を続けた。
残酷な事になるかもしれないが、言わなくてはならない。






「10日待って、もし父さんが戻らなかったら……お前は弟を連れて“あちら側”に逃げなさい」






女の子の頭を撫でると、彼女は唇をつぐんだ。目元には涙が溢れている。
必死に男の服の袖を掴み、嫌だと顔を振った。






「……おと、うさん……」







強く抱きしめてやると、少女は小さく頷いた。
耳元で柔らかい声音で男は喋りかける。






「お前は賢い子だ、【門】までの地図の読み方は判るね?」






一泊おいてから、少女は涙を拭いながら答える。
ぐずぐずの声で、しかしはっきりと。





「……うん」





「……いい子だ」







次に男が男の子に向き直ると、彼は子供ながらにも強い意思を宿した瞳で男を見つめていた。
深緑が混ざった青色の髪の毛を揺らし、父親をじぃっとみているのだ。
だが、瞳の奥では父と離れたくないという願いが見て取れる。







「ぼく、まってるから。ぜったい、ぜったい、かえってきてね」






「……お姉ちゃんを、しっかり守るんだぞ?」






少年が頷く。だが、やはり子供というべきか、その決心は直ぐに崩れ落ちる。
涙が床を揺らし、少年がすすり泣く。父親と判れる事など絶対に嫌だ、と。
裾を力の限り握りしめ、絞り出された声が男の耳朶と心を叩く。








「とぉちゃ……いっちゃ、やだ……」






男が少年を抱きしめ、そして懐から取り出した布に包まれた物体を優しく手渡す。
少年は未だに涙を零しながらも、ありったけの力を込めて男からの贈り物を受け取り……胸元で抱きしめた。






姉が弟の手をそっと握り、二人で父親に向き直る。







愛しい子供たち。
この世界で最も愛する家族を男をは眼に焼き付けるように見つめ、そして、本当に名残惜しそうに双子から離れた。
腕の中に残る温もりと気配、愛しさの残照を抱きしめ、男は唇をわななかせながら言葉を紡いだ。







「いい子だ……二人とも。……きっと迎えに来る、約束するさ、父さんは絶対にお前たちを迎えに来るから……」







男は踵を返し、一度も振り返らずに屋敷の扉を潜り抜け、固く門を閉める。
最後の最後まで隙間からじっと自分を見つめる子供たちの視線を感じながら。












魔道書を片手に、男は歩く。そろそろ日も落ち、周囲に夜が漂う。
諦めるつもりなどない。こんな現実、認められるわけがない。彼女が何をしたというのだ。
彼は力を求めていた。まだ足りない。もっと、もっと大きな力を。







家族を、愛しい者を守る力が欲しい。
エレブが、夜に包まれていく中、男は闇の中へと消えていった。









これは時の垣間、激動の時代の中の一幕である。



































新暦480年


















ナバタの砂漠の熱砂は数百年前から何一つ変わらない熱を以て旅人を歓迎する。
照り付ける太陽の輝きは、岩をも焼き焦がし、一切の命を炎上させるだけの熱を以て全ての来訪者を焼き尽くすのだ。
そんな砂漠の中を、1人の旅人が背筋を伸ばし、無尽の砂に全く足を取られることなく歩いていた。







まるで平らな、整備された街道を歩くが如く旅人の男は往く。
身に纏っているのは蒼いローブに、これまた蒼いフード。僅かに覗く白髪は、手入れの行き届いた見事なモノ。
大空の澄み切った蒼を溶かした色彩に身を包んだ男は、何かに気が付いたように歩みを止めると、懐から一枚の紙切れを取り出し、確認するように眺める。







エレブ大陸の全景を記した地図だった。
しかし幾つか普通の地図と違うのは、至るところにバツ印が付けられていること。
もはや大陸の全景が見えなくなるほどにバツで埋め尽くされ、他にも多様な様々な殴り書きが記されているせいで、一目では地図と解読する事さえ難しい事だろう。






だが彼はこの地図に書き込まれた文字の一つ一つを全て暗記しその内容、意味を完全に理解していた。
何故なら、これを書いたのは他ならない彼なのだから。
もう何枚も書き写しを繰り返し、その上で洗練させてきたが、それでもまだ紙面を埋め尽くすのは夥しい文字、文字、文字──。








気が抜けるような息を吐く。男は回想し、想いに浸る……ここまで来るのに本当に長かったと。
いや、途中からは彼は間違いなく楽しんでいた。未知を求める心は、彼という男を構築する根幹要素なのだから。
一つの謎を解けば、十の謎が浮かび上がる。彼は他の者よりほんの少しだけ強い探究心に突き動かされながら真理を探究していただけ。







気が付けば人の【理】を超え、何百年と生き続けている彼を、第三者は畏怖と敬意を込めて【大賢者アトス】と呼んでいる。
だが、本人はどうにも大賢者という称号はしっくり来ないと思っていた。彼は自分にはたくさんの短所があることを理解していたし、自分の精神構造は他の人間と対して変わらないとも考えていた。





神将という呼び名さえ、勝手に誰かが付けたものだ。人類の希望をわかりやすくするために。






素晴らしい魔導士で、やろうと思えば一国を潰せるほどの魔力と知識を持つ術者であり【神将】と呼ばれる人類の頂点の一角だが、彼は戦うのは余り好きではない。
出来れば戦わずに済ませたいというのがアトスの本音だ。闘いというのは、面倒くさい。
エトルリア王国の歴史に名を刻む偉大な魔道の教師であるが、どちらかといえば大勢で騒ぐよりは、一人で静かな洞窟の中に籠って瞑想をする方が好きな男というのがアトスの本来の姿だ。







自分が他人と少しばかり違う所があるかと問われたら、特にないと答えるような老人だ。
ただ、ほんの少しばかり常人より好奇心が強い───かつて竜族が所持していたと言われる無尽の知識を求めて戦争に参加する程度は。
結局、竜族の知識は手に入らずじまいで終わってしまったのは、彼の長い生涯の中でもかなり衝撃的で、苦い記憶として刻まれている。








エトルリア王国で後進を育てるのも確かに楽しかった。だが……彼はもはやあそこに戻ろうとは思っていない。
いや、そもそも一度は引退を考え、表舞台を去った彼を引きもどしたのは弟子の労力によるものだったのだ。
華やかな社交の世界よりも、古臭い書物に囲まれる方が好きな彼ではあるが、それでも愛弟子の必死の頼みとあれば断るわけにもいかなかった。




だが、楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去っていくものだ。最初の弟子が【理】を超えられず、人として死んでから徐々に変化は起こる。
時が経過し、戦役が過去のモノとなるにつれ、彼に向けられる眼は日に日に悪意を増していた。
老人と軽蔑する眼、掛け値なしに突出した術者である彼への嫉妬、発言力を持つ男へのすり寄り……ただの魔道士として真理の探究を命題に掲げるアトスにとってはどれも鬱陶しくてたまらないモノだ。






彼の弟子の家系は彼を引き留めたが、もはや王国を見限る決意を固めていた男は、幾つかの手紙を残してエトルリアを出た。
教団を作った友が逝き、騎士の見本だった男が死に、気が付けばかつての仲間は一人しか残っていない事に気が付いた彼は……旅をするという決断を下すに至る。
金、名誉、権力、全て捨て去っての一人旅は素晴らしいモノだと噛みしめつつ、流離い、以前よりやろうと考えていたことを実行しているのだ。







数百年前に感じた一つの力の波動の探索。人間では最高位に術者だと自他共に認める彼をしても難問とする問題。
最初は危機感を抱き、我武者羅に世界中を探し回ったが、結果は振るわずに終わる。
今は少しばかりゆったりとしつつ、課題を一から見直し、黙々と男は解決に向けて取り組んでいるのだ。






500年、何も動きはなかった。
世界に異変はなく、むしろ災禍を撒き散らしているのは、人間たち自身でさえある。





アトスは首だけ動かし、周囲を見回す。地図と現在地を照り合わせてその誤差を算出する為に動く。
大地に膝をつき、数時間前に大地の中に埋め込んでいた一つ鉄球……赤子ほどの大きさで、黒光りするソレを掘り起し、手を翳した。
魔力を注ぎ込むと、鉄球は蒼く、仄かに輝きを放つ。アトスはその光景を満足気に見やり、次いでエレブの全景が描かれた地図とは違う、もう一枚の地図を懐から取り出す。









縮尺が一枚目の地図とは違う地図はミスル半島の詳細な地形を記したものだった。
地図の2か所が薄く光を放った。一つは赤く、そしてもう一つは蒼く。
二つの光の位置は遠く離れており、徒歩で歩いては数日は掛かる距離はある。







アトスは頷く。一つの確信を得て、大賢者は楽しそうに頬を緩めた。まるで子供が新しい玩具を見つけたように。
コレは鉄球の位置を表している。赤い光の場所は最初に自分が鉄球を埋めた個所。そして蒼い個所は、現在地、つまり今目の前に存在する鉄球の地点を示しているのだ。
今までは鉄球の移動さえも何らかの術式によって誤魔化され、移動などなかったと記されていたが……遂に一歩を踏み出せた。







移動している。間違いなく。
もちろん、自分は手を触れてもいないし、誰かがわざわざ砂の中から掘り出して移動させたとは考えられない。
砂漠の砂嵐ならば鉄球でさえ吹き飛ばすだろうが、今日はまだ見ていない。そもそも、数時間でこの距離を移動させるのは不可能だ。







だからこそ、疑惑は確信となる。人の世界において魔道を究めている彼は、認めざるを得なかった。
自分よりも優れた術者が、何らかの力、自分では予想も出来ない能力でこのナバタ砂漠、いや、もっといえばミスル半島の“場”そのものを歪めていると。
しかも自分でさえ気が付くのに時間を要するほどに巧妙に偽装を行える……歪みそのものを隠す程の力と技術を備えた存在。







面白い。会って、話をしてみたいと単純にアトスは思う。
どの様な存在なのか、どんな思想をしていて、どんな力と知識を持っているのだろうか。
相手が危険かどうかさえまだ判別がつかないのに、何とも気楽な思考だと我ながら楽観的な自分を笑いつつ、アトスはため息を吐いて、肩を落とす。







正直、お手上げという現状だ。尻尾は掴んだが、その先に居るのは獅子か、はたまた竜か。
隠蔽されているという事は判るが、どんな術をどういう風に使って、どんな現象を発生させて“場”を捻じ曲げているか判らない。
もはや魔術を通り越して、人知を超えた“奇跡”と評したくなる現象が目の前にある。







故に“面白い”という感情をアトスは抱く。
目の前にあるのは未知の現象であり、自分はそれを解読しようと試みる探究者……この関係はまるで長年連れ添った夫婦の如く密接なのだから。
子供が新しい玩具を見つけたような顔……探究者として未知を見つけた時のアトスの顔をかつての仲間はそう評していた。








焼き付ける日光が体を焼いていくが、それさえも気にならない程に彼は熱中していた。
一度拠点としている近くの集落に戻るという手もあるが、彼はそれを却下する。
まだだ、もう少しだけ、粘る必要がある。







相手はこれほどの術者だ。尻尾を掴まれたことに気が付いているはず。
時間は掛けられない。また違う方法で隠遁されたら、今度こそどうしようもなくなる。
だが、どうすればいいのか、判らないから考える。







指を顎に当てて思考を熱中させる中、アトスの魔力を用いた気配探知能力が接近してくる誰かを捉えた。
感じたことの無い魔力の波動、読み取れる魔力の質からして……おそらくは闇魔法の使い手だろうと予測した。
闇魔法、古代魔法とも言われる深淵の力を行使する術者というのは、一種独特の気配と魔力を持っており、遠方からでもその気配は判りやすいのだ。









顔を気配がする方向へと向けると、蜃気楼が発生している地平の彼方から、小さな人影がこちらに近づいてきているのが見える。
アトスの猛禽類の如き眼が窄められると、そこに魔力が収束し、視力を強化。遥か彼方の人間の具体的な身長や、骨格、体型を瞬時に読み取っていく。







男。身長は平均的な成人男性並。体つきからすると、武術などの経験は特にない。
魔力の質、量は……とてつもなく巨大。下手をすれば自分に匹敵するかもしれない程に。
黒いローブとフードで全身をすっぽり覆っているのは、砂漠で過ごす際の基本的な姿だ。








敵、という発想は一瞬で破棄した。戦う理由がない。
もしも闘いになったとしても、自分は迷わず空間転移で逃げることが出来る故に、危険性は低い。







名のある術者なのだろうか? 
よく判らないが、自分はあの男を知らない。あれほどの魔道士ならば、有名でもおかしくないはずなのだが。
逆に山奥に隠遁し、自分の探究したい事をしたいだけ自由に行う術者も少なくはないのだが、そういうのは基本的に我流になるため、壁にぶつかりやすく、あそこまでの存在に成長するのは稀だ。







まずは一度話をしてみよう。全てはそこからだ。
考えを巡らすだけならば何時でも出来るが実際に見て、聞いて、感じる事が出来る機会というのは少ないモノで
そうしないと広がらない世界があることを彼は知っていたからこそ、行動に移す。




腰にぶら下げた。かつての友から譲られた倭刀の柄を一撫でしてから、アトスは足を踏み出す。
砂に覆われた大地を踏みしめ、老人とは思えない程に軽快な動きで人影に向かい歩き出すのだった。






未知との出会いを期待し、歩を進めるその姿はまるで友達と遊びに行く少年を想起させる程に軽い。








太陽は、変わらず全てを照らし出し、光の及ぶ範囲全てを照覧していた。

































ナバタの里、悠久の黄砂に覆われ、外界から隔離された神秘の地。その中心部に座する、巨大な殿の地下奥深く。
膨大な、何万年使おうと底をつくことなどない、無尽蔵の水資源が循環し、神話の時代の術によって浄化されていく竜殿の中心部にソレはいつの間にか誕生していた。
いつからそこにあったのかは誰にもわからない。何故そこにあるのかもこの殿の主さえ答えを導き出すのは困難だろう。





ただ、そこにあり、時を刻むごとに力強く脈動を繰り返す、新たな可能性の塊。
玉座の間の裏の空間、ちょうど正面からは見えない位置にそれはあった。





ソレは新たな命を宿した“繭”だった。数百年間生まれることのなかった新たな生命、超越種を宿した卵。
ミスル半島、ナバタの里に満ちている神竜の力を、まるで母の胎内で栄養を貪る赤子の様に飲み込み、成長を続けている。






ナバタの里の中枢に存在し、貪欲に力を削り取っていく“繭”を見つめつつ少女は微笑んでいた。
華奢な体で殿の階段を四苦八苦しながらも上り下りし、彼女は毎日この場を訪れている、全てはこの繭を見るために。





余り体力的に優れているとは言い難い彼女は、ここまで来る道程でかなり体力を使ってしまう。
故に、いつも持ち込んでいる一枚の手頃な大きさの毛布を床に敷いて、その上に彼女は膝を抱えて座り込む。
そのまま身じろぎせずに、じぃっと小動物が興味のあるモノを見つめるような視線を、ソフィーヤは放っていた。






彼女の眼は、現在と未来を繋ぐ糸、断層の境目ともいえる箇所を映す事が出来る。
任意ではなく、何時どこでどうして発動するのかさえ分からない力だが、一つだけ今映っているモノがあった。






きっと、私はこの子の家族の様な存在になるのだろう。
とても、優しくて、好奇心に満ちた子が生まれるはずだ。
そう思うと彼女の口元には、小さな笑みが浮かんでしまう。






滅多に表情を動かさないことから誤解を受けやすいが、彼女はかなり感受性が豊かな少女なのだ。
水晶と水面が発光する壁や天井、柱の光を照り返して彼女の淡い紫色の長髪を鮮やかに輝かさせる。
腰よりも更に下まで延ばされた髪は、紛れもなく少女の父のモノ。








彼女は表情を曇らせる。その先が見えない。深く、想像さえも出来ない程に暗く濁っている。
“眼”を覆うように雲が被さり、闇がトグロを巻いて通せんぼをしているようだった。
未来の囁きは閉ざされ、眼前の繭から放たれる黄金の波動でさえ一寸先までしか照らす事が出来ない。







判らないという事は恐怖だが、それ以上に知っていても対処する術がないというのは絶望だ。
首を切り落とされる罪人が抱くのと同種の絶望。逃れられない苦痛と死。
だが、と彼女は思う。きっと、その先に何かがあるのだと。諦めの先に何かがあるはず。






自分の父が冷静に自らの死を見つめ、そして安らかに受け入れたのと同じように。






頭の中に母の言葉が響く。早く家に戻って来いという言葉が。
平時と変わらない口調の言葉だが、その裏にある硬いモノを敏感に感じ取ったソフィーヤは迷わず母の言葉に従う。
最後に一度、未だ胎動を続ける繭を見やってから、彼女は踵を返し家へと向かう。





胸の奥で響くのはこれからの未来に対する淡い期待だった。

































砂漠の中、二人の男が立っている。照り付ける太陽も、吹き荒れる砂の礫にも彼らは全く意にかえすことはない。
陽は、もう間もなく地平線の向こうへと消えようとしている時間帯。






一人は空を溶かしたような青いローブとフードを着こみ、白髪を背後でまとめ上げた老人、大賢者アトス。
もう一人は、くすんだ翡翠色の髪の毛をした、青年と壮年のちょうど間程度の年齢の男性。
灰色のローブとマントを纏い、しっかりと背筋を伸ばして屹立する何処か気品と覇気がある男だった。






ネルガル。彼は、アトスにそう名乗った。
アトスの見立て通り、やはりというべきか彼も魔道士であり、このナバタに足を踏み入れたのは特に理由などないという。
何となく、何かに惹かれるように彼はここに来たとネルガルはアトスに語った。






彼は素晴らしい魔導士だった。
ほんの少しだけ言葉を交えただけだが、アトスは既にこのネルガルという男の技量の凄まじさを見抜いている。
言葉の節々からにじみ出る深い教養、そして知識に屈しない強さと、己の分を弁えた気高さ……その全てがもはや人間離れした領域に至っていた。







ブラミモンド以外に初めて遭遇する【理】を超過した魔道士。それでいて彼の様に闇に溶かされることのない強靭な自我。
気が付けばアトスはネルガルとの議論に熱中している自分が居ることに気が付いた。
子供が友達との会話に時間を忘れてしまうのと同じく、アトスもまたたった一人の人間として新たに出来た友との会話に夢中になり、時間を忘れていた。










世界の成り立ち。竜族。神の存在。
禁忌、人とは、竜とは、他にも数えきれない程の話題を交換し合う内に、アトスは一つの話を切り出す。
最初は躊躇こそあったが、ネルガルの人間性を考慮した上で問題ないと考えた結果であり、同時にもう一つ打算的な思考もある。






相手の術者がどれだけの力量をもち、どのような術を使うか判らない以上
もしも戦闘となった場合、優秀な味方は大いに越した事がないという将としての計算結果。
最悪、本当にどうしようもない場合は、囮に使うか、という考えさえ脳裏に浮かぶのはあの激戦の経験のせいかもしれなかった。






このミスル半島全域を覆う“場”の歪みの件を簡略的に説明した後にアトスが見たのは、眼を伏せ、何かを考え込むネルガルの顔。
視線は外には向いておらず、深く自分の内側へと意識を向けた顔だった。有する知識を活用し、結果を探す姿は正に探究者の名こそふさわしい。





太陽が頂点から落下し、徐々に地平線の彼方に消えようと緩慢に移動している中、ネルガルは顔を上げて口を開いた。







「秩序そのものに、何らかの方法で術者が干渉しているのかもしれないな……だとすれば私達がとれる手など、博打以外はないだろう」






「博打か」







博打、秩序、この2つの単語だけでアトスはネルガルが何を言いたいのかを察することが出来た。
その上で、頭の中でピースがぴったりとあるべき場所に埋め込まれる。
場を歪ませ、思うがままに支配する、それが可能な理屈を見つけたから。







魔道士が使う【秩序】とは国家が支配領域に提供する安定した状態の事を示しているのではない。
根源的な、世界を構築し、運営する要素の事だ。命が産まれ、死に、そして新たに紡がれる世界を支える巨大な摂理を【秩序】と呼ぶ。
そしてこれは一度壊れている。人竜戦役の最後の時に破壊され……神将器と“何らかの作用”によって【秩序】は再構築されたのだ。





その結果、竜は竜としての姿を保つことが難しくなったのも戦役が終戦となった理由の一つ。
だが、アトスは古い文献を読んだことがあり人が産まれる遥か以前にも【秩序】が壊れたことがあったという記述を目にしていた。







竜の頂点、神竜。あの哀れな少女。それと対を成す存在があったという微かな神話。
そしてもう一柱……彼の友の怒りを買った愚かな魔道士達が語っていた存在……。





アトスは思う。秩序に干渉出来る存在などおとぎ話の様な存在だ。
ありえない、あってはいけない。
事実、それが可能な神将器は自分と友が所持しているモノを除くすべては封印されている。






それは使い方一つで世界を左右する力。
間違いなく、人類にって脅威となるだろう存在。








────。








──何と、素晴らしい力なのだろう。それだけの力をもつ者は、どのような存在か。







禁忌を理解し、力がもたらす恐怖と悲劇を認識しつつも、好奇心は止まらない。
枯れることなどない、無限の知識欲と好奇心。それを鋼の理性で制御し、アトスは懐から一冊の本を取り出す。






金細工で装飾され、鎖で雁字搦めにされた分厚い書物。微かに噴き出るのは紅い魔力光。
【業火の理】と称される、理系統の頂点に位置する兵器。使い方次第では、国家さえ揺るがす魔書の極み。
音もなく鎖が解かれ、砂の上に落下する。宙に滞空する神将器をネルガルは興味深そうに見つめた。










「それが、神将器なのか……」







キラキラと輝く瞳で興味津々と言った様子の熱い視線を送るネルガルの顔は、少しばかり赤く、声は上ずっていた。
魔導士として非常に神将器は“そそる”研究対象なのだろう。
アトスがフォルブレイズを空中で操作し、左右に移動させると、彼の視線はピッタリとそれについてくる。




舐めるような、という表現があるが、ネルガルの場合は更に粘性でありながら、何処か英雄にあこがれる子供の様な無邪気ささえも内包していた。
エサを目の前にした犬や猫と同じ仕草。ただし、それを行っているのが大人の男性という何とも奇妙な光景。







「これが見たいから、博打をするなどと言い出しのだろう」






問いかけではなく、断言するように言ってやるとネルガルは苦笑いを浮かべる。照れたように頬をかきながら、彼は言う。







「……白状すると、そんな所だ。我々の様な魔道士にとって【神将器】というのは……その、なんだ? 魅力的なのだよ……少し触ってもいいか?」







身を縮めるように背を丸めるネルガルの仕草に思わずアトスは吹き出してしまいそうになる。
純粋な少年の様な気配を纏いながらそんなことをやられてしまうと、余りの外見とのギャップに笑いのツボを刺激されてしまう。
決して悪人ではないのだが、少しばかり好奇心を抑える術が未熟なのが玉に瑕な男だ。大賢者はネルガルを見て、そう判断を下す。









「少しだけならいいぞ?」





「本当か!? 礼を言う!」







息を荒げながら、頬ずりする勢いでフォルブレイズに指を這わせ壮年の男性。
第三者が見たら間違いなく関わりをもとうとは思わない姿。
ブツブツと呟きながら、眼だけは獲物を狙う猛禽類の如く研ぎ澄ませ、ネルガルはフォルブレイズを調べ上げていく。







「──書物自体に特殊な資材を使用し、魔力を内包するための容量を上げているのか? いや、もしかするとこれは紙という姿をとった高密度の魔力の塊なのか? 
   だとすれば、けた違いの威力と特殊な加護を使用者に与えるという話も頷ける。事実、そういった精霊などの眼に見えない存在の加護を得た武器の存在もあることだが…………」







指を這わせ、匂いを嗅ぎ、感触を確かめ、魔力を感知する。愛しい女を抱くような繊細さと大胆さを用いてネルガルはフォルブレイズをくまなく確かめて“味わう”
アトスが苦虫をかみしめたような顔を浮かべる。何故ならば、フォルブレイズとは彼にとって半身に等しいものだから。





「ネルガル、その辺にしておいたらどうだ。時間など、後で作ってやる」






放っておくと一日どころか1年でも続けてしまいそうなネルガルにアトスは声をかけて制止させる。
フォルブレイズに意思を送り込み、ネルガルを拒絶するように空に飛翔させると彼は悪いことをしたという自覚があるらしく、すぐに顔を切り替えた。温和な、物腰が穏やかな姿へと。







「すまない。熱中すると周りが見えなくなるのが私の悪い癖でね」






「それは今しがた理解したよ。だが、その好奇心は薬にも毒にもなる。……最も、ワシも人の事は言えないが」






自嘲するようにアトスは口元を歪め、自らの髭に手をやった。




人の事など戦役で彼は考えてはいなかった。
八神将という同格の友が出来たからこそ丸くなったものの、当時の彼は人など別に滅んでもいいとさえ思っていた節がある。
望んだのは竜族が保有したという無尽の知識を集めた巨大な、それこそ創世記から存在する至高の保存庫。






それを手に入れることしかアトスに考えがなかった。だが、結局のところ、それは手に入らず、代わりにできたのが掛け替えのない友たち。







「さて、では…………」







あぁとネルガルが頷くと彼もまたマントの内側に固定していた自分の愛用する魔道書を取り出し、広げる。
黒い拍子に、銀で縁取りされた書は、凡百の魔道書などを遥かに超えた力を孕んでいるのが一目で判るほど。
自作の魔道書か、何処からか入手してきた書なのはか判らないが、それでも凄まじい威力を誇る事は明らか。





かの【黙示の闇】には及ばないまでも、間違いなく今成そうとしていることを行うには十分すぎるだろう。








「これの名前は“バルベリト”という。神将器には到底及ばないが、それでも力ある術だ」








魔力を感じるために眼を凝らすとアトスにはバルベリトがどういった術なのかが手に取る様に見える。
まず第一に見えたのは、静かな、それこそ深海と評すべき闇の塊。緩やかに流れ、回転を続ける巨大な闇の塊……それがバルベリトという術の本質。
高位の術を扱う術者は使用する力に飲み込まれて、操り人形となってしまうこともあるのだが、ネルガルはバルベリトを完全に支配し、制御していた。








魔道士には常に自己責任という言葉がついてまわる。
取り込んだ知識に振り回され、自我を無くしたり、ましてや別人のように変わり果ててしまってもそれは全て身の丈に合わない力と知識を取り込んだ自分が悪いの一言で片づけられる。










二人は頷きあうと、同時に書を大きく開いた。そこに集うのは、膨大な魔力。その色彩は紅蓮と黒。
相反する属性である【理】と【闇】巨大な二つの力の衝突は、世界に影響を当たるまでに至る。
それこそが、二人の狙いであり、目的。






世界の秩序を操作する【理】属性と法則を破綻させ異能を行使する古代の【闇】属性をぶつけ合わせることで疑似的な秩序の崩壊、つまり限定された小規模な終末の冬を引き起こす。
かつて竜と神将器の衝突で壊れた時に比べれば遥かに小さく、もしも何もなかった場合の修復を可能とする範囲での世界法則の崩落。
相手が秩序を支配しているのならば、これに何も反応を起こさないはずはないのだから。






秩序を崩すということは、相手の城の土台を崩壊させるのと同義で、ある意味一種無謀ともいえる賭け事。
アトスには思い付きもしない、大胆な作戦だが……だからこそやってみる価値はあったのだ。







巻き上げられた魔力の圧によって世界が、軋みを上げる。蜃気楼とは別な要因で景色が歪み、暴風が吹きあがっていく。
砂利を踏みにじるような音と共に“場”に亀裂が走り、断層線が産まれる。巨大なそれは世界を、ミスルの理を砕くほどの勢いで歌い上げ、空に罅が広がる。





3つの丸い魔方陣から放たれる漆黒の魔風、黒い魔力で満たされた術【バルベリト】が放つ暗黒の大嵐がナバタを抉る。
轟々と音を立てて万象を焼き壊し、魂さえ残さない熱を生み出す【業火の理】が黒渦に食らいつき、術者二人の眼前で拮抗するように衝突し、力場が発生。
手入れされていない床が軋んでいく光景を連想させる音を響かせ、秩序に断層が走り、ミスルが歪む。







もう少し、もう少し……。







二人は慎重に魔力を練り上げ、冷静に、焦ることなく秩序に少しずつ負荷をかけつつも周囲への注意を怠らない。
拮抗を崩すことなく、自分と相手への負荷を均等に分散させつつ、世界を切り開いてく。
正に神がかり的な集中力と魔道の技量。頂点に並ぶ二人だからこそ、可能な芸当。











二人は息を合わせ、更に魔力の噴出を高めた。
放出される力はそれだけで、ナバタの小山程度の高さをもつ砂山を吹き飛ばし、地鳴りを発生させた。







後、一歩……………。







感覚として、秩序が後薄皮一枚まで圧を掛けられ、悲鳴を叫んでいることを察した二人が、最後のダメ押しとして術を更に激しくさせようとした瞬間───。








視線を、二人は感じた。
前後でも、左右でもなく“頭上”から、さながら神の様に自分たちを観察する視線を。
魔力の放出を安定させ、術同士を衝突させながらも二人は上空を見て……その存在と視線が交差した。









それは“太陽”だった。
頭上にもう一つ太陽が浮かんでいる。今、地平線の彼方に沈もうとしている太陽とは違う、別の“太陽”が、天から自分たちを見つめていた。
真っ赤で、鮮やかな、ルビーよりも遥かに紅く、燃えたぎる【眼】が自分たちを見ている。







アトスはアレを一回だけ見たことある。正確には、彼女が通してみていたのを覗き見たことが。
だが、正確には違う。似ているが、あそこまで禍々しく、狂気と愉悦に満ちたものではない。







普通の太陽よりも3周り程度も小さいソレが、今は無性に危機感を煽った。
【眼】から零れ落ちるのは、無尽の黄金の光。滝の様に諾々と落下する光は、もはや雨ではなく、一本の柱となって天と地を繋げる。
バカバカしい程の力の奔流。笑ってしまうほどの【力】が、そこにはあった。







光の洪水は、勢いを更に激しくさせると、跳ねまわるように周囲に夥しく粒子となって拡散。






光が、あっという間に世界を覆い尽くし、修正する。そんなもの認めないと術によって負担を掛けられた世界をあるべき形へと戻していく。
天の亀裂が消え、地鳴りは収まり、全てはあるがままに。想像を絶する【奇跡】が、今、成されていた。
刹那、背筋を電流が走り抜ける。周囲に拡散させていた意識が一つの事態を捉える。大規模な“場”の断絶を二人は感知した。







そっくりそのまま、ミスルそのものを外界から隔離する大規模な術の行使。もはやこれで空間転移でさえ逃げることは叶わなくなる。
即座に術へ回していた魔力を打ち切り、術を停止させ、書物を手でしっかりと握りしめると、事の成り行きを見守ることを選択。
既に、想像の域を超えている。そんな光景を前にしても思考を停止させずに堅実な判断を下すのはさすが大賢者と言えた。










一条の閃光が二人の背後で炸裂すると、そこから人影が現れる。
転移の術による光だと気が付いていたアトスとネルガルは黙って視線をそこに向け、集中。






現れたのは女だった。真っ赤な髪の毛を背後で一まとめにし、優雅な真紅のドレスに身を包んだ妙齢の女性。
端正な顔立ちに、纏う気配は嫌みのない高貴さと優雅さ。女性としては高めの身長に、その身のこなしは歩き方一つをとっても軽く、それでいて洗礼されている。








だが、それ以上にアトスが眼を疑ったのが、女性の耳と、彼女の内包する力の性質。
先端が尖った耳は人のモノではない。竜族が人化する際によく見られた特徴、そして彼女の持つ力は……紛れもない【竜】のモノ。
あの戦役で、人類に絶望を見せた存在と同じ力の持ち主が、今、目の前にいた。







しかし、眼前の彼女はアトスの知る【竜】とは、かなり違う。人の事など路傍の石ころ以下にしか見ていないのが竜という種族なのだが
女性は、アトスとネルガルに恭しく一礼し、自分と対等、もしくはそれ以上の存在と付き合う時の様な礼儀を見せている。








「初めまして。私の名前はアンナと申しますわ。……【大賢者】アトス様とお見受けいたします」







頷くと、アンナは次いでネルガルを見やった。そのまま彼女は言葉をつづけていく。
朗々と流れる言葉は、とても聞きやすく、心地よい。






「そちらの方も素晴らしい術者と存じます。本日は主の命により、お迎えにあがりました」





「迎え? 我々をか?」






ネルガルが意味が判らないと頭を揺らしながら呆然とした様子で口を開く。
そんな彼にアンナは微笑みかけると、友好的な態度を崩さずに優しく語り掛けた。






「はい。我が主は、貴方たちにお会いしたいそうです……最も、強制ではありません。
 しかしながら、必ずや、お二人をご満足させることが出来ると確約いたしますわ」






アトスを見て、アンナは再度一礼する。強制ではないと彼女は言ったが、事実これは強制だった。
絶対に二人が断ることなど出来ないと確信しているからこそ彼女は友好的な顔で、友好的な言葉を吐いている。
彼女はあえて竜の力を隠してはいなかった。ネルガルはともかく、アトスは必ず気が付くと理解していたから。









アトスに竜の事をちらつかせ、おびき寄せようとしているのだ。
いわばこれは撒き餌。絶対に食い掛かる確実の罠。
そしてそれらを全て理解した上でアトスは判断を下す。






「判った。だが、これは持っていても構わないか?」






アトスの隣でネルガルも無言で肯定の意を表す。
手元の魔道書を視線で示すと、アンナは頷く。
一瞬だけ、神将器を見るその眼に鋭利な光が宿った。





だが、それも直ぐに消える。





「構いませんわ。自衛は当然の権利です」






そして、とアンナはネルガルに向き直った。







「失礼ですが、お名前をよろしいですか?」







「ネルガルという」







火竜はネルガルという名前を何かを確認するようにおうむ返しすると、踵を返してから数歩歩きだす。
何時の間にやら世界を満たしていた黄金の光は消えてなくなっており、太陽は地平の彼方に没していた。
もう間もなく訪れるのは砂漠の夜。極寒の世界。その中にあっても彼女の周囲だけは輝くような真紅の光で照らされている。






3者の足元に現れるのは黄金に発光する魔方陣。円形のソレが回転を行いながら更に光を強めていき……転移の術は発動し、時空を超過して移動。



































諾々と流れる無限の水資源。発光するのは水晶と同質の蒼い壁と天井、そして床。
その全てにアトスは見覚えがある。例えば、この床と天井、そして壁を流れる光たちは殿にも同じ機能があったことや
この空間全域を埋め尽くし、染め上げている力の源流がたった一柱の存在から零れ落ちたものでしかないことも。







間違いない。全てが繋がった。何もかも。500年近くも前からあり続けた謎が綺麗さっぱり消えてなくなった。
自分を超える魔道士。全く理解不能の理論体系、そしてあの“怪物”の片鱗。全て、ここにある。







アトスという男、彼という魔道士の真価を問われる瞬間だった。
彼の魔道における知識、優れた術者としての力、そして素晴らしい教師としての適性。
今まで生きてきた人を超えた時間の全てを収束させる時は、今だった。






だが、彼は気負いしていなかった。
自分の判断が、自分はおろか、新しく出来た友の命さえ脅かすモノとなるかもしれないが、全く怯えていない。






戦いは起きる時には起き、終わるときには終わる。
そういうものであり、そして自分から起こそうとは思ってはいなかった。
リラックスし、彼は周囲に忙しなく視線を走らせ、興奮した様子のネルガルを伴いながらアンナの後を付いていっていた。





水の上に浮かぶ水晶の橋と言える通路を足音を立てながら歩きながら、アトスは全て理解していた。
戦役の際に自分と戦った竜たちとは何処かが違う竜たちがここに拠点を築いて逃げ込んでいたのだろう、と。






竜といっても、一枚岩ではない可能性を彼は知っていた。あの哀れな竜の様に。





やがて、たどり着くのは巨大な玉座の間。膨大な水が循環する地下水路の中の孤島。
水晶を切り出したような圧倒的な威圧感と美麗さを兼ね備えたソレはエトルリア王の玉座さえ霞むほど。
そして玉座の頂点に飾り付けられている4冊の魔道書に含まれる力はアトスでさえ絶句する領域。






水晶の玉座に誰かが腰かけている。隣に一人の老人を従わせたあの存在こそがアンナの主だと推察できた。
老人の力をアトスは知っていた。この焼き尽くすような魔力の波長は、アンナと同じ種……純血の火竜だ。
戦役で何万、何十万という人間を殺戮し尽くした、恐怖の権化、破壊と絶望の化身だった存在。






だった、のである。彼の知っている竜と、この二人は明らかに違う。こちらを一つの知性ある存在と認め、丁寧に接してくる。
あの戦役で戦った竜というのは、もっと無機質で、冷たく、それでいて傲慢な存在だったというのに。






玉座に座る存在から感じる波動を感知し、アトスはほぅと息を漏らしたいという衝動を抑えるのに持ち前の忍耐力を総動員させなくてはならかった。
彼は……“太陽”だった。莫大な力と熱、そして存在感を周囲にふりまく引力の中心。この存在の力の質と規模はかつて戦役の最後に見た敵の竜の長や魔竜でさえ悠々と超えた絶大なもの。






そして、何処となく想起されるのはあの竜の存在。事実、性別こそ違えど見た目がそっくりだった。
純エトルリア人の様な色彩の肩口で切りそろえられた輝く金髪。知性と理性を宿した色違いの瞳。真っ白な肌。
少年と青年の中間程度の顔立ちをした竜の片眼は、先ほど見た真っ赤な太陽の眼と同じ……つまり彼が先ほどの眼の持ち主なのだろう。





白い上質な素材で作られた質素なローブを着こんだ竜は、リラックスした様子で玉座に腰かけている。






素晴らしい、と。ネルガルが隣で誰にも聞こえない様に呟いたのをアトスは耳ざとく聞き取った。
彼ほどの魔道士が釘付けになるほどの力を、眼前の竜は誇っている。
竜が穏やかな空気を纏ったまま玉座に腰かけつつ、口を開いた。






まだ声変わりもしていない少年の声だ、しかし声を聞いているだけで胸の奥まで届き、いい意味で揺さぶる声音なのが不思議だった。








「ようこそ、ナバタの里へ───少し、話をしようじゃないか」









【大賢者】とネルガルを前に、神竜は全く動じることなく、むしろ人懐っこしささえ漂わせた空気で笑いかけた。










あとがき








おそくなりましたが、前日譚編開幕です。




ここから徐々に原作キャラなども出てきます。
キャラが多くなりますが、何とか捌けるように頑張ります。







[6434] とある竜のお話 前日譚 一章 2 (実質15章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/11/02 23:23






最初にイデアが感じたのは、思ったよりも冷静な自らの胸中だった。
そこには憎悪も何もない。ただ、純粋に長としてこの二人をどうやって扱おうかと考える思考だけだ。
敵対するつもりはない、もちろん、向こうが牙をむいてきたなら相手してやってもいいが、問題も幾つかある。






アトスが最初にこの地に足を踏み入れた時からイデアはこの男を“見て”いた。
何故ならば、このミスルは今やイデアの体同然と言ってもいい程に神竜の力が満ちており、そこを歩くアトスは、さながらイデアという巨大な竜の体の上を歩いていたようなものなのだから。
一挙手一動作、その全てを鑑賞していた。あの太陽の眼は、イデアの眼でもある。







アトスがもしもまだエトルリア王国との繋がりを残していた場合、かなり厄介なことにはなるが……それはないとイデアは断じた。
500年という年月は、人類をつくりかえるには十分すぎる。例えば、対竜の為に作られたエトルリアのエリミーヌ教団は今や強烈な内部抗争の場と化しているし
つい最近あった出来事ではエトルリア王国はサカに侵攻をし、見事に返り討ちにされたことか。






小規模な小競り合いを人間同士で繰り返し続けている世界は混沌の庭だった。






確か、異教徒撲滅のためにサカを攻略したという話だが、似たような話をイデアはどこかで聞いたことがあった。
何処かは思い出せないが、宗教とは似たようなモノなのだろう。







竜が存在した等と信じるモノは、今や存在しない。眼前の経験者を除けば、だ。
そもそも何十、何百世代もの間を一つの理念がわたっていくことなど不可能なのだ。
ただでさえエレブの人間の平均寿命は短く、世代交代の速度はすさまじいモノがあるというのに。




何故アトスがここに来たというのも、納得のいく推察などいくらでも出来る。






アトス程の術者ならば【理】を超えていても仕方がなく、それでいて永遠や絶対などどんな世界にも存在しない。
里の隠ぺいにむしろ500年近く成功した方が驚きだ。だが、まだこの二人だけ。どうとでもなるし、させる腹積もりだった。







事前にイデアはフレイと打ち合わせを行っていた。開示してもいい情報とダメな情報を分ける必要がある。
最も秘匿すべき情報は、【門】関連だ。あれを人間が稼動させることは出来ないが、だからといって知られてはいけない。
次は、イデアたちが外界の情報を仕入れるのに精霊の協力を得ていること、里の防衛戦力。








そしてイデアが魔竜イドゥンの親族であるということも隠すつもりだった。イデアとしては姉の力で戦争を起こすつもりなどないが、誤解される可能性は多々ある。







そもそも、今の自分の力は姉を超えている。必要ないのだ。
500年という年月を全て自らの力を高めることに費やしたのだから当然だが。






最も、聞かれた場合は平然とそうだと答えるつもりだったが。その場合は下手に隠すより、そちらの方が後々の問題は少なくて済む。
他にも古代竜族の禁忌なども秘匿の対象となる。あれらは、人間ではまず使いこなせない。
里の4つの魔書さえ可愛いモノだと笑い飛ばせる領域の術たち。ナーガが行使する次元の術は、もはや術ではなく、神の御業と言った方が正しい。






疑似世界の創世。再現ではなく、本当の星の超爆破。超高出力の風の魔法は天と地を断ち切った原初の境界線の再現。
例としてあげるならばフ──ァ──ラ、セ──テ──ィ、神話に名を残す超古代の竜族の名の一部。ナーガの最初の家臣の名を冠した術はもはや一発一発が世界を壊して余りあるものなのだ。
神と始祖の戦いで使用された術の余波で数えきれない程の大陸がや空間が“消えた”という表現は決して誇大ではなく、むしろそれだけで済んだことが奇跡という次元。






イデアでさえまだ完全にモノに出来ていないというのに、例え【大賢者】と言えど知識に飲まれる可能性は無ではないのだ。






最悪の可能性としては問答無用で戦いを挑んでくるという可能性。そして恭順したとみせかけて内部から探りを入れて、崩しにかかってくる可能性などもある。
前者の場合は、最も簡単な“解決法”をイデアは取ることが出来る。この自分の力が満ちたナバタ、ミスルにおいては例え相手が神将だろうと、勝利するのは容易い。
今の力が衰えた神将器ぐらいならば、発動そのものを抑え込むことも可能だろう。事実、先ほどの【秩序】修復の際にそれが可能だと実演してみせた。




場を支配することがどれだけ自らの有利につながるかは、かつての西方三島の例を見ればわかりやすい。







【秩序】の崩壊を狙ってくる可能性も考慮し、迅速に動いた結果がアレである。






しかし不安要素はあるが。イデアは玉座の間の背後の空間──ちょうどアトス達には見えない場所で貪欲に自分の力を貪る繭を想起し内心肩を竦めた。
何ともまぁ、大ぐらいな子供だ。乳飲み子とはこんなにも貪欲だったのか。






後者の場合の対処法もあったが……イデアは、それはないだろうとアトスの眼を見て直感的に悟った。
彼の眼は、余りに純粋過ぎた。深海と同じような鮮やかな瞳は、好奇心でキラキラと星の様に輝き、こちらを見つめている。
数百年前、アクレイアで見た像の作者はやはり素晴らしい腕前だったのだろう。あの時見た光景と彼の顔、眼はうり二つだった。







その眼を見ると、どうにもイデアは敵意など抱けないのだ。そんなもの、元々無に等しいのだが、完全な無へとなる。
500年前のもう終わってしまった戦争の事をグダグダいうつもりはない。当時は少しばかり不快に思ってもいたが、今となってはもうどうでもいい。
家族が生きているという事実があり、いずれ自分が解放するという結果がある。それで十分すぎる。








「ようこそ、ナバタの里へ───少し、話をしようじゃないか」







思ったよりも自分の出した声が高音だったことにイデアは驚いていた。まるで、道端でばったり友人に出会った時に出すような声だ。
眼下の二人の反応をゆっくりと観察する余裕を抱きながら神竜は少しばかり身じろぎし、玉座に座りなおす。
アトスは懐のフォルブレイズに忍ばせていた手をそっと解放し、ブランと両腕を垂らすと小さく深呼吸をする。






うーむと唸りを上げ、彼は気が抜けたような顔でイデアと懐のフォルブレイズを見比べると、小さくため息を付いた。
彼は……あろうことか【業火の理】を取り出すと、何でもないかの様にソレをぽいっと目の前の床に投げた。
まるで投降した兵士が武器を捨てるような動作に、イデアはあぁ、と小さく息を吐く。







そう来たか。それはそれでやり辛いが、同時に楽しい行動だ。平和的というのは、素晴らしい。
彼の動きだけで全てを察したのか、アトスの少し背後で控えていたネルガルも同じように魔道書を投げた。
最高位の書物に対してあんまりと言えばあんまりな扱いだが、彼らは物と命の優先順位を間違えることはない。








「降参じゃ、降参。わしらはお前たちに従うことにするよ」







「降参も何も、ただ話をしたいだけなんだけどね」







苦笑いをするイデアにアトスはさも当然の様に呑気ともとれる口調で答えた。
演技ではなく、心の底から思っている声、好奇心を刺激された結果、今の彼は少年の様な覇気と若々しいオーラを纏っている。






「ならば尚更だ。話をするのにこんな物騒なものはいらんだろう」






フォルブレイズやバルベリト等と言った兵器を向け合っての話し合いなど、精神がすり減るだけだ。
ならば、こんなものは今は無い方がいいし、下手にこの里の竜族を刺激するぐらならば一度手放した方が動きやすい──アトスは淡々と答えをはじき出していた。






「……まずは、そちらから何か聞きたいことはあるかな?」





世間話でもするような顔と声でイデアが問いかけると、アトスは一泊だけ間を空けてから返す。






「やはり……【竜】なのか?」






予想通りの質問にイデアはあっけらかんと答えを返した。何でもないことの様に。






「そうだよ。あの戦争に参加しなかった派閥さ」







視線で了承を得てからイデアはフォルブレイズとバルベリトを“力”を送って手元に取り寄せる。
ずっしりとした重量感ある書を片手で軽々と扱うと、神将器からは否定の意が送られてきた。
昔、アルマーズに触れた時と同じような感覚。所有者であるアトスが許可しようと、フォルブレイズはイデアと“相性が悪い”のだ。






手が火傷するように熱いがそれを上回る速度で竜の手は復元を行い、何食わぬ顔で二冊の本を近場のいつも執務を執り行う時に使う机の上に置いた。







「竜と一言でいっても色々あってね。開戦そのものに反対的な竜たちもいた……いや、どちらかというと好戦派の方が少数だったんだよ」





暗にこの里に存在する竜は今この場に居る者達だけではないと教えてやる。それが何を意味するか分からないアトスではないと理解して。
そういったところは人間と同じだろ? とイデアは続けるとアトスは何回か頷いた。






「なるほどな。得心が言ったよ……色々と、あったのだな」






アトスの脳裏をかすめるのはかつての友の泣きそうな顔。そして眼前の竜と重なる哀れな少女。
あの話を聞いて知った時から、アトスは今イデアが言った通りの事を推察し、事実それは正しかったことが証明された。







「それで、だ。こちらから聞きたいんだが。…………お前たち、これからどうする?」






ほんの少しだけイデアの視線が鋭くなったのを感知しつつも大賢者は動じない。背後のネルガルが少しばかり怯んだ気配を放ったが、それも致し方ないだろう。
目の前にいるのは、伝説の魔竜よりも強い存在。戦闘になったら万が一にも勝ちはなく、先ほどの様に場を隔離されてしまえば逃走も不可能。
だが、言葉が通じる。会話を求め、表面的だけかもしれないが友好的で、砕けた態度を取っている。




そしてアトスはかねてから、ナバタを歪めていた存在──眼前のイデアと会話をし、どういった存在なのか理解を深めたいと思っていた。
故に、吐き出される言葉は最初から決まっていた。仮にここで死ぬことになろうと、彼は後悔がない。ただ自分が判断を誤った結果だと粛々と受け入れるだけ。







「全て、そちらに任せる。焼くなり煮るなり好きにしてくれ。わしはそれで構わない」






「私もアトスと同じだ。好きにしてくれ」






ネルガルが言葉を続けて一泊だけ間があくと、アトスは付け加えるように喋った。






「ただ……願わくば、もう少しお主と話がしたいのだが」






そういえば自分の名前をまだ教えてなかったことに気が付いた竜は淡々と名を告げた。
同時にそれはまだ会話を続ける意思があるということの表明。







「イデアだ。今更だけど、俺の名前はイデアという。この里の長をやっている神竜だ」






神竜という単語にアトスは成程と相槌を打ち、ネルガルはその名前から推測される竜族の中での役割と力の強大さを想像し、理解する。
王ではなく“神”を冠するということは……やはりその力の凄まじさは唯一無二の領域にあるのだろうと推測し、思わず彼は興奮で少しばかり震えてしまった。






大賢者はそんな友の様子を少しばかり逸らした視線で見つめた後、もう一度神竜に目を戻す。
イデアは少しの間だけ考え込むように眼を瞑り、そして開いた。
その眼の中に宿っていたのは挑発的な光。魔道士としての彼は選択肢など最初から存在しないことを理解しつつあえて底意地の悪い質問を投げかける。








「外の世界に帰りたいか、色々と制限が掛かるが、この里で……竜族と一緒に暮らしたいか、どちらがいい?」






竜族と一緒に暮らす。明らかにこれは誘導だと判る質問。
外の世界で自由に生きてもいいが、そうなったらもう二度とイデアと出会う事は出来なくなる可能性がある。
エトルリア王国に報告し、攻め込むという手などは愚の骨頂だ。既に500年の間に対竜の為のノウハウは全て消えてなくなってしまっている。





今やドラゴンキラーや覇王軍の剣さえ扱える形で現存していれば奇跡という次元だというのに、純血の竜を、それも派閥が作られるほどの数を相手にするなど正気の沙汰ではない。
確かに終末の冬で竜の力は大きく衰えることになったが、このミスル、引いてはエトルリアの南方の一部は既にこの神竜の力が及ぶ範囲であり、そこで待っているのは一方的な蹂躙。
その上、眼前の竜の力は紛れもなく伝説の竜に匹敵凌駕する。そんな存在が技術と知恵、知識を駆使しその全てを悪意のある方角へと向けたらどうなるのかは……恐怖と絶望の極みだ。






更にいうならば今の貴族達が竜族が存在している等という話を本気で信じるかどうか。
信じたとしても、己の名誉しか考えない、私利私欲でまとまりの欠片も存在しない軍勢がこの存在と竜族に挑めばどうなるかは火を見るより明らか。







だが、もう一つの道は可能性に満ちていた。未知と可能性。そして幾ばくかのスリルが漂う選択肢。
竜と共に暮らす? まるで戦役が起こる時代以前の様に。そんな経験はアトスですらない。おそらくネルガルにもないだろうと大賢者は思った。
好奇心と知的欲求、探究心に何処までも二人は真摯であり、貪欲だった。





脅しやはったりなど通じない以上、彼らは正直に言葉を紡いだ。まるで少年が親に訴えかけるように。
しっかりとイデアの眼を見て、背筋を伸ばし、礼儀正しく。






「里に身を置かせてもらいたい。……当然、我らの書はそちらが持ったままで構わない」








「神将器──愛用の武器にしては扱いが軽くないか?」






ちらっとアトスはイデアの隣に置かれたフォルブレイズを見る。
数百年前からの相棒であり、自らの魔力に馴染み、もはや半身と言っても過言ではない存在の魔書を。






「確かにそれは強力な力だが、ただ普通に生きる上では必須という程でもない物だからの……それに、だ。それがなくても身を身を守る術くらいは体得しておるよ」





「もしかしたら、俺が解体でもして調べ上げてしまうかもしれないぞ?」





口元に穏やかな笑顔を浮かべてこそいるが、眼だけは捕食生物の如く危険な光を宿し、イデアは問いかけを発する。
それに対してもアトスは変わらない。いつも通り、飄々としながら、気品のある声で返した。






「その時は、その時だ。しかし、それはわしの半身ともいえるものでな……やるなら、わしの身体も同時に調べてくれてもいいのだぞ?」






そう言ってアトスは妙齢の女性が怖がるように身を竦め、自分の肩を抱きしめた。もちろん、少しばかり過剰な演技を伴って。無駄にリアリティ溢れる動作だった。
言葉だけを捉えれば【理】を超えた術者の身体構造がどうなっているか調べるという意味のはずだが
何故かイデアの脳内には一瞬だけフリルが付いた女性の服を着たアトスが浮かび上がってしまい、吹き出すのを堪えるのに多大な努力を消費せざるを得なかった。






500年ほど前にも同じ様な、同類の冗談をかつての友が言っていた事を竜は想起し、すっかり毒気が抜かれてしまう。
いや、これはちょうどいいかもしれない。毒気が抜かれたというよりは、少しばかり冷静になれたと思うべきか。
余裕と警戒の些事加減に気を使いつつ、イデアは更に言葉をつづけた。







「では、この2冊は暫くこちらで預かっておこう。それと……」







イデアが名前を呼ぶ前に、既にアンナはこの場に現れていた。
今までは玉座の間の裏、玉座の影となる場所から様子をうかがっていた彼女が、自分の出番が来たと判断し、動いたのだ。
玉座に腰かける主に優雅に一礼し、そのまま彼女は踊る様に身軽な動きで二人へと近づいていく。







「二人の扱いが正式に決まるまで、別室で待機してもらう。部屋までの案内や、何か問題が起こった時は、アンナに言うといい」






アンナが踵を返し、二人を先導していく中、イデアの眼がある一点で止まった。声こそあげなかったが、彼は内心驚愕する。
それはアトスが腰に差した一本の剣。魔道士である彼が剣などを扱いこなせるはずはないが、問題はそこではない。
“眼”を通してみたそれは、非常に懐かしいモノだった。500年も前に一度だけ見たことがある。





あの日の思い出は強烈過ぎて、未だにはっきりと思い出せるほどだった。






「──────」







あえて何も言わない。思えばハノンとアトスは同胞であり、交流があっても不思議ではないのだから。
そうこうしている間に二人の姿と気配が殿の地下から完全に消え失せ、殿の地上部に移動していったのを把握しつつ、竜は直立不動で隣に立つフレイを見やり、次にフォルブレイズとバルベリトを見た。
アルマーズにはテュルバンが宿っていた。ならば、これにはアトスの意思が宿っているのか?






「しばらくの間、完全に安全と判断されるまで……そうだな……大体数年は監視を付けておく。既に人選は終わっているか?」






主の問いに彼は淡々と答えた。
ガラガラの声は、砂利を噛みしめているような不快な音波を喉から放っている様であり、既にイデアにとっては聞きなれたモノ。






『里の魔道士の中でもそういった方向に特化した術者数名を見繕っております。定期的な報告などをはじめとして指示書は既に渡しています』





「アトスがエトルリア王国等とまだ関わりを残していると思うか?」






『絶対とは言い切れませんが、可能性としては限りなく低いかと。500年という月日は人々の英雄という記憶をただの記録に、そして紙一切れたらずの歴史へと変えてしまいます。
 それに直接見た所……彼は、私の見立てではそういった政治的な世界とは無縁な男に思えます』






同感だとイデアは頷いた。あの自分を見る眼、少年の様な眼差し。あれは典型的な魔道士の眼だ。
そしてそういった輩は政治よりも何よりも己の知識欲を優先させる、不器用と呼んでも差支えのない人種なのだ。





『念のためモルフ・ワイバーンは待機状態にしておきます。
 そしてイデア様の“眼”でミスルとエトルリア南部の境界線付近を暫しの間は監視しておいたほうがいいでしょう』







「そうするとしよう」







里を守るための戦力としてではモルフ・ワイバーンは少しばかり心もとないが、存在しないよりはマシだと言って作成したのだ。
一体一体に昔サカで見たデルフィの加護を付けたワイバーンたちを見ていると、どうにもむず痒い気持ちに襲われるのが問題だが。




結局、自律稼動する人型モルフの研究は停滞し、その代わりに食用モルフ……いや、もはやあれはモルフではない。
過去にナーガが創造したとされる子を成せ、そして死んでも灰に返らない竜造生命体の作成をイデアは今は行っている。
彼らはただ作られ、繁殖し、そして食べられるだけの存在だ。そんな牛や豚などを模した命を『創造』していた。






嘘偽りではなく、正真正銘の無からの命の創造。神竜の御業の一端。モルフという偽りではない、本物の命の制作。






それらをただの家畜と呼ぶのをイデアは嫌い、敬意を称して彼らに“マンナズ”という名前を与えている。
これは竜族の古い言葉で、確かな者たち、という意味であり、彼らはただの偽りの命ではないというイデアからの敬意の現れ。
彼らは血を流し、涙もあるし、子供も成せる。寿命だって本来の牛等と変わらない。そんな彼らがこの里の食糧事情を支えているのだ。





思えば、ナーガはモルフを嫌っていたのではないのか、と、彼の、形式上の息子であるイデアは予想していた。
どうにも古い書物を見る限り、あの男はモルフという生き物を徹頭徹尾、ただの人形、消耗品として見ていた節がある。
彼は子供を成せるモルフ……イデアから言わせればそれはもう人間と変わらない存在の創造を禁忌に指定していたし、あの『門』を作る最中にも多数のモルフの犠牲者が出ている。





その禁忌をイデアは半歩犯している。人ではないが、獣を創るという領域において。





知能の与え方。思考能力と人格の付与。深く掘り下げると「魂」や「心」という概念の作り方。
マンナズを産み出す中、イデアは朧にそれがどうやってやるのかを理解していたが、どうしてもその一歩が踏み出せない。
恐怖していたのだ。そこから先に踏み出してしまえば、禁忌感が薄れてしまい、命に価値を見いだせなくなるかもしれないと。







『お力の方は、どうでしょうか?』






「問題はない。今の所、吸われる分より生み出す分の方が多い……それに、もう少しだと思う」






フレイの眼が玉座の間の裏の空間に向いたのを見て、イデアはありのままの事実を返す。
いつの間にかあそこに誕生して存在を思い起こし、彼はどうにも複雑な気分になった。
家族が帰っていないというのに、新しい家族が出来ようとしていると思うと喜べばいいのか、困惑すればいいのか判らない。






実際、姉の解放への道のりは遠いが、間違いなく進んでいると断言はできるが、それとこれは別問題だ。
過去に比べてあの水晶体へと力を掛ける際の手ごたえは得られるようになっていたり、様々な術を用いてのより精密な解析も緩慢ではあるが、進行中だった。







……案外、子供が出来たよ、と話しかけたら驚愕の余り内側から水晶を突き破って出てきそうではある。
物凄い顔で、相手は誰だー、等の言葉を叫び散らす姉の姿は容易に想像できた。
首に掛けた紫色の鱗を弄りながらそんなことを考えると、一瞬だけ光を反射したのか鱗が光った様な気がしたが、すぐにそれは気のせいだと判断する。







「…………子供、ねぇ。どうにも実感が沸かないぞ」







思わずポツリと漏らした神竜の言葉に老竜は何も答えなかった。
彼は一度礼をすると、自らの仕事を果たすために消えていってしまう。おそらく行先はモルフ・ワイバーンの収容所だろう。
普段は休眠状態になっているアレラを起こし、稼動に問題がないかの確認をしにいったのだ。






モルフ・ワイバーンはマンナズにしてはいない。
あのある意味では戦闘竜と形容出来うる存在達に繁殖能力を与えたら、恐ろしい事になりそうだという確信が創造主にはあった。
最悪、己の命令を離れて暴走でもされたら眼も当てられない。







そして正直、少しの時間だけ一人になって考え事をしたかったので、彼の気遣いはとても嬉しいものがある。





イデアは立ち上がると、軽い足取りで玉座の裏へと向かった。
巨大な壁の裏側のそこは、まるで大舞台の裏の様な空間となっており、開けたスペースがある。
水晶の床と、流れる水の音だけが聞こえるそこは、幻想的な浮き島だ。







馬車数台は止められる広大な空間の中央に、ソレはあった。悠々と置かれたソレは“繭”だ。
心臓の鼓動にも似た音を響かせ、イデアの力を貪る新たな存在。
“眼”で見ると、自分と繭の間に巨大な繋がりがあるのが見て取れる。






懐の竜石が、共鳴するように薄く振動した。石から、一本の光の糸が繭へと伸びる。
やはりそこからも力を吸い取られていく。





まるで、母子を繋ぐへその緒だ。それを通して繭に自分は“力”を取り込まれているのがはっきりと見える。
かつて殿では一定以上の竜の力が高まると新たな竜、正真正銘の純粋な竜が世界から産まれ落とされていたという。
つまり、眼前の繭はこのナバタの里に満ちる神竜の力がかつての殿に少しずつ追いついてきたという事の証明。







まだまだナーガの領域には程遠いが、それでもこれはイデアが成長を続けていることの証でもあった。
ならばこそ、自らの力の高まりによって産まれることになるこの竜は、イデアの子供だといっても過言ではない存在。







──もう少しあいつから子育てのイロハを聞いとけばよかった。






いや、もっと直接的な手としてメディアンに預けるのも手かもしれない。
その方が長としての仕事、姉の解放、全てに支障が出ることなく進む最良の手だろう。
自分にそんな経験はなく、ならば二度の経験を持つ彼女にこの子を渡すべきか……。





だが、とイデアは一瞬でその考えを切って捨てた。






「それこそバカな話だ」






無意識に口に出した言葉は、対抗心に溢れていた。
自分達を捨てたあいつと同じことを俺がやる? 絶対にそれだけはありえない。
全部やりきってやる。アドバイスを求めることはあっても、投げ出すというのは、論外だ。






ふわっとした空気の揺れを感じたイデアが“眼”を背後に向けると、壁の端からチラチラと淡い紫色の髪の毛が見えている。
イデアはため息を吐いた。あれで隠れているつもりなのだ、彼女は。







「ソフィーヤ、メディアンの所にいなくていいのか? 心配していると思うぞ」






壁の奥からビクッと震えた様な気配を感じ、次いですみれ色の長髪を振りながらソフィーヤが顔を出した。
彼女は少しの間だけ、イデアと視線を交差させると、そのまま小さな歩幅で近づいてくる。
すみれ色を基調としたワンピースに、かつて彼女の父が使っていた体温を調節する機能付きのマントを着こんだ彼女は足を引っかけないように慎重に歩いている。





イデアの隣で立ち止まり、彼女は視線を繭に一瞬だけ向けた後、イデアの顔を見た。





小柄な彼女の背は、イデアの胸元にも満たない。故に、イデアと目を合わせる時、彼女は頭を持ち上げる必要があった。






「母には……言ってあります」






「ならいい。……それにしても、お前は毎日これを見ているな」






こくん、と、ソフィーヤは頷く。
既に500歳近い彼女だが、外見は10代前半程度のため、動作の一つ一つが、小動物を想起させるものだった。






「何か新しい光景が見えるのか?」






「………………」






今度は横に首を振る。既に彼女はイデアにこの繭から感じる“未来”の事は全て話している。
先が見えづらいという事も含めて、全て。
今の所それ以上の事は見えていないと、彼女は言葉にせず動作で伝える。







「あの……これ、今日取れたモノです……すごく、甘くておいしいから……」







懐から取り出すのは、大きな梨。光沢のある表面がてかてかと光っているソレは、彼女の掌よりも大きい。
イデアはリンゴが好きだが、梨も好物であることを知っている彼女からのささやかな差し入れ。
大好きな母が作ったそれを彼女は誇らしげな顔で差し出す。





小さな体と平たい胸を精いっぱい逸らし、彼女はイデアに梨を渡した。
寒くなってきた里の中を移動してきたため、彼女の息は白い。






「ありがとう。お前も後で食べるか?」





「切り方は、いつもの……ウサギでお願いします……」





はにかむ様に恥ずかし気に微笑むソフィーヤの頭に、イデアは手を置いてから撫でやった。祖父が孫にでもするような繊細さを以て。
艶やかな髪質はメディアンを、髪と瞳のすみれ色はソルトを、両親の特性をしっかりと受け継いでいる彼女の髪と瞳を見ると、どうにもイデアは懐古の情を抱く。
イデアは彼女がまだ乳飲み子で、父親に愛されていた時からずっと見ているのだ。






「また髪が伸びたんじゃないか?」







人間を凌駕する寿命をもつ彼女の髪は、気が付けばとんでもない長さになっている事が多々ある。
腰までならばともかく、一回地面をズルズルと引きずるまでになった時はメディアンが術を用いて髪に汚れなどが付かなくなるようにしたが、それでもあの長さはない。
日常生活を送るのに不便が生じるまでになってしまったら、さすがに切り落とすしかなかった。





全部バサッと切った時の爽快感に打ち震えるソフィーヤの顔をにやつきながら見るメディアンの顔は印象深かった。







「……もう少ししたら、切ります」






腰より少し下まで到達した髪の先端を掴み上げながら彼女は何かを測る様に眼を細めながら答える。
全部切り落としたとき、もっとも爽快感がある長さになるのを彼女は待っているのだ。
ぶるっと少しだけ寒さで体を震わせるソフィーヤに、自室から転移の術の応用でこの場に移動させた毛布を肩から掛けてやる。




毛布にソフィーヤが身を包み……ミノムシの如く全身をグルグル巻きにしていくと、何が嬉しいのか彼女は上機嫌に眼を輝かさせた。









さて、と。これからまた忙しくなる。





竜の長はソフィーヤを眺めつつ、胸中でこれからの計画を組み立て、見直しながら“繭”を見つめている。































アトスとネルガル、二人が案内された部屋はとても事実上の軟禁状態のモノが送られる部屋とは思えない程に広々としていたものだった。
ダブルサイズのベッドが二つに、落ち着いた雰囲気を醸し出す木製のテーブルと複数の椅子。開け放された窓から見えるのは殿の全景。
部屋そのものは、とても大きい。2人どころか、倍の4人でも十分に生活できそうな程だ。






案内の任を与えられたアンナが部屋の簡単な間取りと、食事等の説明を行うと、部屋から出ていく。
カギなどは、掛けられていなかった。それは仮に抜け出しても直ぐに見つけ出せるという意思表示か、この期に至ってそのような愚かな事はしないという計算か。
やろうと思えば両者は、窓の外から飛び降りて脱出さえも出来るが、そんな気力は今は無かった。




ネルガルとアトスは魔力を用いて体のあちこちに付着した砂漠の砂や汚れを落として固めると、それを暖炉の中に放り込む。
二人揃って椅子に腰かけるとため息を吐いて、ようやく濃密な時間が過ぎ去ったことを実感した。







「……アトスよ、これは夢ではないのだよな?」





イデアとの対話の最中には最低限にしか口を開かなかったネルガルは、何処か上の空の口調でアトスに声をかけた。
彼は腰につけていた幾つかの荷物入れをベルトから取り外すと、そのまま机の上に丁寧に並べていく。






「現実だ。受け入れるしかあるまい」






答えるアトスは淡々とした様子で、自分の髭を指で弄りながら手持無沙汰な様子で腰辺りにしきりに手をやっていた。
やはりいつもそこにあったフォルブレイズがないというのは、彼にとって違和感を感じる状態なのだろう。





ジャラジャラと音を立てて動かされるネルガルの所有物にアトスは眼をやった。アレは何だろうか?
脳内に仕舞われた大量の知識をかき分け、答えを探し出し、回答を求める。この答えを得る瞬間がアトスは好きだった。






あれは……絵具か。そして袋は豚の膀胱などで、あの中には乾燥を避けるために羊皮紙に包まれた絵具が入っているのだろう。
他にも別の袋の中には色彩を出すための鉱石や、植物の種などが仕舞われているはずだ。
豚の膀胱袋に詰まった絵具。高価な、青や赤などの色は個別にそうやってしまわれている。









この男がどんな絵を書くのかも非常に興味深い。思えば自分は魔道の探究ばかりで、そうった芸術関連への理解は浅いが、絵というのは面白い心情表現の一つだと彼は思っていた。









ネルガルが何気なく窓の外を見ると、既に薄暗くなってきた里の中を遠目に巨大な影が移動しているのが見える。
その存在の周囲だけが昼に切り替わったように圧倒的な力を撒き散らし、移動しているため、かなりの距離があってもはっきりと判った。







焔を纏い、建造物を壊さないように注意を払いながら移動するソレは……竜だ。
この距離からでも感じ取れる絶大な力に彼は眼を輝かさせると、窓まで歩いていき、身を乗り出してその竜をしっかり観察する。






落ちないか心配になるほど興奮っぷりだが、さすがにそこまで我を忘れることはないはずだと信じたい。








「おぉ……本当に竜だ! 竜がいるぞ!!」






「……そうだな」







憧れの英雄を眼にした少年の様に興奮するネルガルを横目にアトスは先ほど己が撒いた“仕込み”を確認するために眼を瞑り、意識を飛ばす。
あの竜に渡したフォルブレイズの中には膨大な量のアトスの魔力が込められており、あれは言わばアトスの半身の様なモノだった。
ほぼアルマーズと同化していたテュルバン程ではないが、それでもアトスは離れながらでもフォルブレイズに影響を与えることが出来る。







意識が地下奥深く、あの竜の傍らに置かれた神将器へと飛翔し、一冊の魔書が今置かれている状況を読み取っていく。
本に眼など存在しないが、それでも彼は“イメージ”として本の周囲を探ることが出来る。遠見の術として、フォルブレイズは最高の媒介なのだ。







まず、最初に浮かんだのは、床の上を移動する神将器。誰かが持ち歩いているにしては、随分と視点が低い。
だがしかし、猫が歩く程度の速度で移動している。まるでフォルブレイズに足でも生えたように。
徐々に無人となった玉座から離れていく。恐らく輸送されているのだろうが、よく判らない。





原因を探ろうと色々と視線の向きを切り替える。上を向くと先ほどまで自分たちがいた殿の地下……神々しい水晶の天井が見える。






左右を見渡し、そして最初の視点を基準としての、背後を見て……見つけた。








それは────真っ赤なリンゴだった。成人男性の拳程度のリンゴが、歩いていた。
果実に手足をはやした様な訳の分からない存在がフォルブレイズを背負って移動している。
ゼェゼェと何処にあるかさえ判らない口から吐息を激しく漏らしながら、せっせと荷物を輸送していた。








アトスは、頭の中に流れ込んできた光景に思考を一瞬停止させた。ここまで訳が分からない光景を見たのは初めてだったのだ。
同時に…………興味深い。訳が分からない存在程、彼は好奇心を抱くことが出来る。






一目でわかるが、この存在は既存の生命体という定義からはかけ離れている。
ならば、人工的に作り出されたという事になる。かつての魔竜が戦闘竜を創造したように。
規模こそ違えど、同じ竜族が行使する術である以上、その根本の原理は同じはずだという所までアトスは推察した。






……そして、その技術がこの里に理論体系としてまとめられている可能性が高い事、もしかしたらその知識が手に入るかもしれないという事。
久しくなく胸の奥が疼くが、アトスは一旦大きく息を吸って……吐いた。
新たな可能性と知識に対し、少しばかり熱くなろうとしている身を冷やす。






蒼いローブを揺らし、彼は机の上で頬杖をつくと書から流れ込んでくる映像を切った。
何度も何度も教師として教え子に放ってきた言葉を今度は自分に対して胸中で語る。





枷の外れた探究心は、身を滅ぼす。魔道においては、慎重さと臆病さこそが骨子である。





もう少し、ゆっくりと考えを纏めよう……それには、多少ばかり時間が必要かもしれない。
そう、アトスは思いながら里に見とれているネルガルを見て……一瞬だけ違和感を感じた。
先ほどまではしゃいでいたのが嘘みたいに彼は里を穏やかな眼で見つめていた。






視線の先にあるのは、耳が尖った人間の少女……人化をした竜が人間の男性と手を繋いで歩く姿。
この里では特に珍しくない光景だが、それに彼は何か感じ入ったのだろう。






「素晴らしいな。ここは、本当に素晴らしい」






紡がれる言葉は淡々としているが、温情に満ちたモノ。
彼は、心からこの光景に思いを馳せていた。人と竜が共に在る光景に。
人を背に乗せて歩く竜。人と竜の混血の子供が人の子供と遊び、一緒に家に帰る光景。






「ちっぽけな言葉になるが……理想郷、という言葉が浮かんだよ」






肩を震わせ、感動に心を満たしながらネルガルは呟いた。
彼は、それに頷き、思った…………かつての友にこの光景を見せてやりたかった、と。






ソール・カティの柄を撫でて、アトスは胸中でかつての友を想起し、黙とうを捧げた。











あとがき





なるべくコンパクトに前日譚はまとめていきたいと思います。






[6434] とある竜のお話 前日譚 一章 3 (実質15章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2013/12/23 20:38



ネルガルは眼前に置かれた一つの芸術品を前に言葉もなかった。






彼は優れた術者であると同時に、何処か芸術家に近い気質を持つ男だ。
拘りというべきか、それとも単に趣味の一言で片づけるべきかは判らないが、彼は【理】を超えた長い人生の中で、芸術という分野に重点を置く珍しい魔導士である。




サカやエトルリア、ベルンなど様々な場所で彼は魔道の他にも芸術を学んだことがある。
芸術とは、その地域に住む人の心をよく表すものであり文化や独特の思考回路を知りたければ芸術を学べばよい、というのが彼の持論だった。





そんな彼を以てしても、眼前の光景は想像だに出来ないものだった。
黄金の“繭”……新たな竜の命を宿した竜の母胎。心臓の鼓動の様な音を間隔よく刻み、力を組み込み、活力と変えていくソレは正に神秘の塊だ。
感動さえ覚えることが出来る極限の神秘性と神々しさ。そして力強く脈を吠え鳴らす膨大な力の流れ……全てが規格外。






既にこの里を訪れて数か月が経った二人は、出歩きなども許可されている。最初、二人は様々な場所を歩き回った。
里の中心部を歩き、外延部のオアシス、農園地帯を散策し、そして殿の地下部分をアンナという付き人と共に探索し、彼らは改めてこの里に建築技術の高さに驚くことになる。
様々な里の人と竜が好奇の目でこちらを眺めてくるのが印象深い。竜の縦に裂けた瞳孔は恐ろしいながらも、人とは違うという確定的な象徴にネルガルには見えた。






その中で紹介されたのがこれだ。最初イデアと対面した玉座の間の裏側、さながら大劇場の舞台裏の様に開けた空間に安置される巨大な……“繭”
新たな純粋な竜が産まれる瞬間というのは竜族にとっても貴重な光景らしく、そこにはいまだに多くの謎が残っているという。
貴重という言葉を幾ら繰り返しても足りない程に稀有な瞬間に、自分は立ち会っている。ネルガルは渋るイデアに何度も懇願し、こうやって定期的に繭を観察してもいいという承諾を得たのだ。







監視されていようと関係ない。自分にはやましい事など何もないのだから。
彼は黙々と小さな木の机とイーゼルを設置すると、椅子に腰かけ、一枚の少しだけ黄味掛かった紙を平たい木製の板にかぶせて、動かないように重りを乗っける。
何度か紙を触って感触を確かめてから、ネルガルは棒状の木炭を取り出し、黙々と線を走らせていく。







音楽家が譜面に新たな曲を創造するように。
剣士が愛用の剣を磨くように、彼は緻密に満足がいくまで木炭を紙の上で躍らせ、新しいデッサンを書き上げるべく指を稼動させた。
大方の輪郭をまずは整え、次に全体に走る血管の様な皺、脈動する力の線を一本一本に至るまで神経質に書き込み、再現。






内部で胎動する巨大な新たな竜……脳が処理できる限り、今まで会得した技術の数々をつぎ込み、現実と胸の中に思い描く完成図をしっかりとかみ合わせる作業を続行。






どれほどの時間が掛かったかは判らないが、少なくともネルガルの感覚を主観とするならば“少しだけ休もうか”と思える程度の時間が経過し
彼は小さく息を吐き、額の汗などを拭うと、一通り完成したデッサンを見て満足したように眼を細め……次いで、少しばかりの不満と失望を抱いた。
違う。こうではない。ここが、違う。もっと、アレなのだ。幾千万の言葉でも表せない程の差異を彼は感じ、自らの表現能力の薄さに憤怒さえ覚えてしまう。







気を取り直して、椅子への座り方などを整えるネルガルが何気なく横に視線を走らせると………そこには描き始めた時にはいなかった人物が床に敷いた毛布の上に膝を抱えて座っていた。
長いすみれ色の髪を床の上に垂らしながらも、その人物は微動だにせず繭を眺めていた。
まるで人形の様に整った顔に、何処か普通の人間とは違う、異質な空気を纏った少女……ソフィーヤはゆっくりと顔を動かしてネルガルの顔を窺うように見ると、また繭に視線を返してしまう。






「…………………」







確か、何度か里でこの少女を見たことがあったはずだ。
ネルガルは必死に記憶を探り、里を案内されたときに遠目にこの少女が母親と思わしき存在と一緒に自分たちを眺めていたのを思い出すに至る。
母親の方は、とても印象深い存在だったから直ぐに思い出すことが出来、そのまま芋づる式に彼女の存在も引っ張り出されてきた。






艶やかな栗色の髪の毛。平均的な男性よりも高身長の女性。感じる力と圧は、まぎれもなく竜、それもかなり高位のモノ……。
そんな女性の腰に抱き付くように寄り添ってこの少女は、佇んでいたはずだった。
よく見れば、成程。確かに親子だろうと思えるほどに顔の基本的な作りは似ていた。






「…………」






どうすればいいかとネルガルは咄嗟に考えた。まだまだ自分はこの里に来て日が浅く、言わば下っ端中の下っ端の様なものだ。
それにこの殿がどういう場所かは大体想像がつく。人間でいう所の王が座する王城と同じ役割をもっていることまでは推察可能。
ならば、そんな殿にふらりと足を踏み入れることが出来るこの少女もまた、この里の中では……かなり特別な存在なのだろうという所までは予想できた。




無視か、それとも友好か。下手に機嫌を損ねるという事は、そのままイデアと、彼女の母親の不興を買うことになる。
どう扱えばいいか、決めあぐねていると……不意に遠方から響く軽快な足音が耳朶を叩いた。
テンポよく刻まれる軽い音は、女性の足取りを想起させる。事実、この足音の主は女性だ。





柱の影から一人の女性が姿を現す。真っ赤な髪に真っ赤な眼、そして真紅のドレスを着こなす女性……アンナが。
彼女はネルガルとソフィーヤ、そして胎動を続ける繭を見ると、にっこりとほほ笑んだ。






いつの間にか近くにいる女性、というのがネルガルの彼女への評価だった。
恐らく監視の役目というのもあるのだろうが、それを抜きにしても彼女は様々な面で助言を与えてくれる。
イデアがアンナを重視するのも頷ける程に彼女は万能な上に、社交的に動く事が出来るのだ。






「御機嫌よう。やはりここにいたのですね」






相変わらずの、何を考えているか読めない笑顔。彼女はこういう風に心を隠す術にも長けている。






「ああ……飽きが来なくてね。つい、夢中になってしまうんだ」






「少し、見せてもらってもいいですか?」






アンナが軽い足取りでネルガルに近寄ると、視線で承諾を得てから彼のデッサンを覗きこんだ。
何度か“二人”の頭が頷いた。一人はアンナの、そしてもう一人はいつの間にか彼女の横から割り込んでいたソフィーヤのすみれ色の頭。






彼女はデッサンと実物の繭を見比べて、眼を輝かさせていた。
芸術という文化を知ってはいるが、こうやって直に見るのは初めてだからこそ彼女は夢中になれる。
正直、最初からネルガルの絵を見たいとは思っていたのだ。だが、中々その機会が訪れず、アンナの行動に便乗するに至った。







「………」







無言でアンナとネルガルに視線を向けられて、むふんとソフィーヤは満足気に息を吐く。絵の想像以上の出来栄えに、キラキラと瞳を輝かさせ、ぐっと手を胸の前で握りこむ。
次いで、今自分が余り知らない人物……ネルガルに凝視されていることを理解した彼女はアンナの背中に脱兎の如く回り込み、顔の一部だけを露出させてネルガルの様子を伺う。
500歳前後という年齢だけを見れば老人にも思えるのだろうが、半分竜である彼女にとっての500年など大したものではなく、それゆえに彼女はまだまだ子供染みた所がある。






彼女は……人見知りな部分がある。内気で顔だけは無表情だが、内面は感情豊かという少し矛盾した彼女は、他者へと気を許すまでが長い。
里の中の気心しれた幼馴染といった者や、家族、まだ赤子だった頃から面倒を見てくれたイデア、アンナ以外には中々寄り付かないし、隙も見せない。
そんな彼女がなぜここに居るのかというと、やはり絵が気になったのと、繭が見たかったからだ。





人間で言う10歳程度の彼女は、好奇心が旺盛でもあるのだから。






「……私の作品に感銘を受けてくれたようだね。ありがとう」






優しく、包み込むような声でネルガルは語り掛けた。
芸術に興味を持つのはいいことであり、何より、自分の絵に興味をもってもらうのは嬉しい事だから。
お世辞にも自分が名高い芸術家ほどの感性も、技術力もないとしっている彼にとって、こういったファンの卵というのは……掛け替えのないモノだ。





しかしソフィーヤはアンナの裏から出てこようとしない。
がっしりと彼女の腰を掴んだまま離れず、そのせいで両腕が塞がっているため、眼にかかった前髪を退かせなくなり、ふすーふすーと息を吹きかけて髪の毛を揺らして対処。
あらあら、と、アンナは朗らかに笑ってからソフィーヤの前髪を指で優しく退かす。






ソフィーヤと手を結び、何とか背後から引っ張り出すことに成功したアンナは再度ネルガルの絵に視線を返す。







「以前より思ってましたが、絵がお上手ですね……外界では画家を?」







「趣味みたいなものさ。本業には及びもしない」








小さく笑いながらも、何処か恥ずかしそうにネルガルは頬をかきながら言う。
何処か子供らしさ、無邪気さを感じる仕草だとアンナは思った。この男には、とても純粋な所がある。
年相応……最も外見はあてにはならないが……の冷静さもあるが、彼はとても……興味深い男だとアンナは考える。








「しかしだ、竜族というのは本当に……どうやって産まれるのだろうね? どこから来て、何処へ行くのだろう」







「行く場所───どうやって生きるかを決めるのは自分ですわ。
 何処から……と、言われると少し返答に困ってしまいますね。竜族の生まれ方には色々ありますから」





一つは純血の竜同士の婚約による出生。だがこれは少ない。
そもそも竜という種族そのものが子供を成す、という行為に余り興味をもっていないからだ。
果てのない寿命と莫大な力をもつ竜は、次世代を産み出す必要がない程に、生物として完成されすぎている。それゆえの弊害といえよう。






普通に産まれるだけならまだしも、中には生命操作、これも神竜のエーギル支配の技術の賜物ではあるが……によって産まれた存在さえいたと古い文献にはあった。





自分が産まれた時の事を思い出しながらアンナは語る。もう何千年も前の話になるか、想像さえつかない。
確か、この身も眼前の“繭”と同じように産まれたはずだった。
詳しくは覚えていないが、物心ついたときに見た景色の一つとして、最後にみた姿と全く変わらない先代の長……ナーガやその傍らに補佐としてあったフレイの姿がある。





産みの親、という存在は自分にはいない。育ての親ならばいるが……彼らは既に門を使ってナーガと共に旅立ってしまった。






産まれた時、世界はどうだったかを思い出そうとして……やめた。
そこにあるのは、気心知れた蒼い竜だけだった。




意味がない。今は過去に思いを馳せても何の利益もない。








「むずかしい、話ですね……」






ソフィーヤが腕を組んで大人の真似をするようにうんうんと頷きながら語る。自分が賢者になったように。
この人と竜の混血の少女は、ときどきこうやって背伸びをして、大人になった感覚を味わうことがあるのだ。
眼を光らせながら顎に指をやり、恰好をつけるソフィーヤの頭をアンナはくしゃくしゃと撫でまわしてやる。







低く唸る声で抗議をしてくる幼子にネルガルが苦笑し、アンナは手を止める。すると、ソフィーヤから恨めしい念が篭った視線が放たれ、彼女はうふふと含み笑いを優雅に浮かべる。
乱れたソフィーヤの髪の毛を懐から取り出した櫛で手早く正すと、ソフィーヤは嬉しそうに体を左右に揺すり……そして唐突に繭を見て動きを停止。
少しだけ乱れていた呼吸さえも完全に平常に戻り、瞬きの回数さえ半分以下に落としたソフィーヤはただ、黙って繭を見つめていた。







「……これは?」






ネルガルがソフィーヤの変化に戸惑いを覚えつつ発した言葉にアンナは一回頷くと、膝を折って彼女の顔を真正面から覗きこんだ。
真摯な光を宿した紅い眼で、少女を見据えつつ、アンナは一言一句を大事にしながら語りかける。
何度かこうなったのを彼女は見たことがある。そして、今までそれは全て的中し、外したことはない。






イナゴをはじめとした害虫の大量発生、気候のちょっとした変化、感染病の散乱、そして彼女の父の死……その全てを彼女は“見て”当てたという実績がある。






「何か“見え”ました?」






言葉でソフィーヤは返さなかった。代わりに、彼女は片腕の人差し指で繭を指さした。
アンナとネルガル、両者が指を眼で追いかけて、ちょうど繭に視線が至った瞬間、繭が、力強く鼓動を刻んだ。








瞬間、可視さえ可能な膨大な、とてつもなく多量の“力”が大渦を巻いて、繭に流れ込み始める。
最後の締めとして必要な分の力を必要なだけ暴食し、この世に確固たる自らの存在を築き上げる最終工程が、今始まったのだ。





































ここは、そう、とても面白い場所だとアトスは改めて思った。
里の一角にある休憩所……二階建ての石造りの建物の内部は、外部の熱や冷気を完全に遮断する術を組み込まれ、常に人が生存するのにちょうどいい温度を維持する空間となっている。
幾つかそろえて置いてある椅子と長いテーブルのセットは、まるで街角にある食堂を思わせ、気さくな空気を演出する役目を果たしていた。





里の中は、何とも言えない平穏な空気に満ちている。平和で、そこそこ活気のある辺境の町の様な──老後を過ごすとしたらこのような場所が最適だろう。
休憩所の端の方に腰かけたアトスは、特にやることもなくそこから見える里の光景を見つめていた。
走る子供、行きかう大人、雑談する人と竜、おおよそ外では絶対にありえない場面がそこらかしらにある。







数か月経ち、ある程度の自由を手に入れた彼は時折こうしてぶらった里の中を意味なく散歩する。
ここにある現実を観察し、咀嚼し、理解するために。ありえない、なんて言葉はバカバカしい。
ゼロでない限り、どれだけ小さくても確率があるならばソレは起こり得るのだから。






いつの間にか手元に置かれていた果実のジュースに手を伸ばし、喉を潤わせると
彼の視線は自分の斜め前方の席にいつの間にか腰かけて遊戯版を延々と眺めている妙な男に向けられた。







屈強な肉体をした長身の男だ。
アンナと同じように紅い髪をした男は灰色のローブに身を包んでおり、ちらっと見えた両手の甲には特徴的な刺青が掘られている。
ルビーの原石の様な眼で男は遊戯版の上にある白と黒の駒を眺めた後、不意に幾つもの駒を手早く動かし、やがては白の陣営が詰みをかけられた所で停止。







そうして男は顔を傾げた。敗因が理解できないと。
言葉にこそしていないが、全身から敗北を認められないといった空気が痛い程に溢れ出ていた。
ふと、男が顔をあげるとアトスと視線が交差した。






暫し、無言の重圧が場を塗りつぶす。
男の表情は欠片も動かず、彼はやはり外見通りに冷静な口調で喋る。
その姿はアトスが戦役で戦った際に見た竜のあり方にそっくりだった。







「アトスか。確かこの里に長が長が招き入れたという人間の片割れ。八神将の一角」






「そうだ。そういうお主は……竜か?」






男は肯定として、言葉の代わりに一回だけ頷いて答えた。







「私の名前はヤアン。あの戦役の最後に殿で戦って、お前たちに敗れた竜の一柱だったらしい」






らしい、という言葉にアトスが引っかかりを覚えたが、彼は忍耐を発揮してじっとヤアンの次の言葉を待った。
ヤアンは一回言葉を区切って、首を少しだけ傾けた。そうしてから彼はそのまま何事でもないように言葉を発する。
他人事のように、つまらなさそうに。これは今の自分がアトス達と敵対する気はないという意思表示の一つだと言わんばかりに。






「戦役の最後に負った怪我……おそらくデュランダルあたりにつけられた傷によって私は生死の境を彷徨い、そして記憶のほとんどを無くしたのだ」





アトスが何と答えようか思案を巡らす中、ヤアンは更に淡々と言葉を紡いでいく。
ちらっと遊戯版に向けられた視線の中に、悔しさが混ざっているのをアトスは垣間見る。
誰かと戦って負けたか。だとすると、先ほどの負けた陣営を動かしていたのは彼か。






「ところで人間よ。お前は遊戯版は出来るか?」








「出来るぞ。それなりに強いと自負している」







これは事実だった。アトスはそういった娯楽にもそれなりに手をだしていた。たかが娯楽、されど娯楽だ。
人が遊ぶために創りだしたものというのは中々に侮れない。魔道と同じく、奥が深く、様々な用途があるし、精神を安らげるためには必要な事の一つだと彼は認識している。
そしてこの手の遊びはエトルリア王国に居た際にも弟子たちや、遊戯版が好きな貴族等とかなりの数をこなしたものだ。






あえて負けた時以外、アトスは滅多に負けたことがない。これも事実。
大賢者としての知識や、素晴らしい魔道の腕など全く関係ない遊戯の世界でもアトスは正しく天才的だ。








ヤアンが無言、無動作、視線だけで目の前に座る様にアトスを促す。
指示されたとおりに動くと、遊戯版の上の駒たちがヤアンの“力”によって動き出し、全てがゲーム開始前の所定配置に置かれた。
もはや問答無用だった。意地でも突き合わせる気の竜にアトスは微笑みを浮かべ、場の流れの赴くままに身を委ねる。







「持ち時間を測るのには、これを用いる」






ヤアンが小さな砂時計を二つ取り出し、一つを自分の所に、もう一つはアトスの傍らに置く。
両者の順番が来るたびにひっくり返し、全ての砂が下に落ちる前までにどこの駒を動かすか決めなくてはならない。






「先手は譲る。何せ竜との対局など初めてだからな……年甲斐もなく緊張しておる」







ぶるぶる震えそうになっている拳を握りしめ、アトスは笑顔でヤアンの顔を見た。対して竜は何処までも鉄面皮を貫き、わかったと頷く。






竜は、駒を掴んで動かす。












勝敗は思ったよりも早く決まった。結果だけ言うならば勝ったのはアトスだった。





確かにヤアンは強い。
判断能力、先を読む能力、そして確固たる勝利への方程式を頭の中に築き上げ、綿密に駒を動かす腕は間違いなく今までアトスが戦った者の中でも最上位に位置する。
だが、一つだけヤアンには欠けているものがあることをアトスは気が付いていた。それは彼の性格上どうしてもなってしまう、いわば癖の様なものなのかもしれない。






ヤアンは余りにも計算通りに駒を動かしすぎる。彼の戦い方には、感情がない。
定石通りに、勝つために最短経路を通る。それは素晴らしい事だが、逆に言えばその道を知っている相手からすれば、返り討ちにする為に動かれてしまう。
今回の対局もそれが原因だった。ヤアンは素晴らしい打ち手だが、柔軟さが足りない。







恐らく彼が負けたのはそこに原因があるだろう。もちろん、基礎的な能力でも相手も十分に化け物じみた強さがあるのは間違いないだろうが。







「私の負けか。礼を言う。参考になった」







無表情でヤアンは小さく頭を下げた。両手を顔の前で組んでから、彼は黙々と低く、重い声で呟き続ける。
真っ赤な眼がアトスに向けられて、その奥で小さく火花が散った。
負けは認めるが、まだ終わりではない、と。







子供の様な負けず嫌いな性分。かつてソルトが苦笑した火竜の人間味溢れる感情の渦がそこにはある。
アトスはそれを好奇の目で覗きこむ。貴重な宝石を鑑定する鑑定士の様に、楽しそうに、味わいながら。
かつて見た竜とはもっと感情がないものだった。人形の様に淡々としていながらも、その実傲慢だったが……彼は少し違う。





かつて見た冷たい竜と、この里で暮らす人間と全く変わらない暖かい竜の中間地点に位置する性質とも見える眼前の竜を理解すれば
竜の本質的な性質とは何か、という疑問に幾つかの面白い問いを投げかけることが出来るかもしれない。
それに、もっと単純に竜と親交を深めるというのも悪くない。だからこそアトスは言葉を発する。







「お主がよければ、まだ付き合うが……どうだ?」






「頼む」








言葉は簡潔に、そして行動は迅速に。ヤアンは素晴らしい速さで駒を所定の位置に戻すと、アトスに先手を譲った。
彼の観察するような、研究者染みた視線を浴びせられながらもアトスは平然と動く。こちらも覗くのだ、相手に覗かれもするさ、と。







微笑ましい。アトスは胸中で浮かんだ感想に満足を覚える。
巨大な力をもっていて、かつては戦争さえした竜とまさかこうやって遊戯版で遊ぶことになるとは、夢にも思わなかった。
長生きはするものだ。本当に世界とは未知と刺激に溢れ、決して自分を退屈させることはない。









微笑みながら、孫でも相手する気分でアトスは駒を動かし始める。













その後も何度か戦ったが、結局アトスはヤアンに1回しか負けることはなかった。
ヤアンが勝ったのは最後の一回だけだ。当然、これはアトスが手加減したなどではなく、純粋にヤアンがアトスに読み勝ったのだ。







「改めて礼を言う。有意義な時間だった」







腕を組み、自らが勝利した盤面を満足げに見つめる竜の姿は少しだけ尖った耳を除けば人間と全く変わらない。
単純に今回アトスに勝てたのは、ヤアンがアトスが知らない定石を使ったからだ。
次は恐らく通用しないだろうという事は彼自身が誰よりも知っている。






抑えきれない勝利の喜びを、無表情ながら全身で表現する竜をアトスは眺めていた。







「こちらこそ礼を言う。まさかこんな手があったとは……」






「500年近く負け続けてきたからな。経験だけはあるのだ」






竜が少しだけ口角を釣り上げて笑う。初めて見た竜の表情変化にアトスはやれやれとため息を吐きたくなった。
これではまるで、本当に人間と変わらない。それはそれで興味深いが……ただ単純に楽しいだけではないか。







ヤアンが不意に視線をアトスから離し、施設の入口へと向ける。
アトスも同じく視線を動かし、ヤアンと同じ場所を見た。
階段を上ってくる足音の後に、金糸が開いたドアから覗く。







部屋に入ってきた存在……神竜イデアはアトスとヤアンを見ると、ほんの僅かばかりの驚きを顔に浮かべた。
すぐに余裕に満ちた笑顔に顔を切り替えると、彼は二人の近くの席に座り、何かの飲み物を頼む。
給仕がもってきた清水の入った盃を手に取りながら、彼は言う。







「何とまぁ、珍しい組み合わせだな」






竜のあんまりと言えばあんまりな言葉に老人は軽口を叩くように返した。
真っ白な髭を弄りながら、少しだけ疲れた顔でアトスは言う。








「自分でもそう思う。世の中何があるか本当に判らんものだ」







相も変わらずヤアンだけはイデアに軽く会釈をするだけで、何も言わない。
手早く、隠すように遊戯版を片付けるのをイデアは見つめながら、ふふんと鼻で笑い、懐から一つの道具を取り出した。
それは纏められた50枚程度の紙の札だ。一枚一枚に剣やこん棒、貴族、王様などの絵が描かれたカード。







外界のエトルリア王国で遊戯札と呼ばれ、流行りの、様々な遊びや賭け事、予言などにも使われる道具だった。
それを見てアトスは確信した。この竜は何度か外の世界にも出て行って行動したことがあると。
もちろん、それをアトスに教えるためにイデアがこのカードの束を見せたというのもあるだろう。





ただ里に引きこもって、外界の情報を知らない等という愚か者ではない、そうイデアは言いたいのだ。






ヤアンの眼の奥が轟々と燃えているのをアトスは見た。中にあるのは対抗心。
アトスは知らない事だったが、ヤアンはイデアにこの札を用いたゲームで散々に打ち負かされたり、賭け事で無慈悲に搾り取られたことがある。







「どうする? やってみるか?」







イデアがアトスとヤアンに問う。まるで友達と遊ぶ子供の様に。







「……………………」









若い火竜が腕を組み、不承不承に頷き、アトスも同じように賛同の意を示そうとする瞬間……イデアは徐にその顔を里の中心、この里の“殿”へと向けた。
物理的ではない、概念の“眼”を使ってそこで何が起こっているのか把握した彼は、物静かにカードをしまった。
イデア程ではないにせよ火竜であり、極めて高位の竜であるヤアンも直ぐに気が付いたらしく、無言で了承したと告げる。





人間であるアトスは目の前の竜たちが何かを感知した、という所までは見えたが、判らずに眉を動かし首を傾げた。
よく判らないが、何かが起こっているらしい。目の前の神竜をしてここまで反応する何かが。







「悪いね。これはまた今度にしよう」






余裕を感じる動作で立ち上がると、イデアの足元に魔方陣が浮かび上がる。
転移の術だ。高位の術を無詠唱で、呼吸でもするように使いこなしている。







「何が起こったのだ? わしに出来ることならば力になるが」







アトスの言葉に、イデアは沈黙で返した。暫しの間アトスの鋭く、美しい蒼い瞳を竜の双眸がじっと真正面から眺める。
イデアの頭の中には色々な考えが大手を振りながら飛び交っているらしいが、アトスはそれが何なのかまでは見抜けなかった。







「判った。一緒に来てもらう。……お前も来るか?」







アトスに答えてから、ヤアンに向けてイデアが問うとヤアンは無言で立ち上がり、イデアの魔方陣の中に踏み込んでくる。
それを答えとして受け取ったイデアは、更に幾つかの思念を里の中の何人かに向けて放ちながらもまとめて全ての術を平然と行使。
長距離の思念通達、近距離転移、そして“繭”に注ぎ込まれる力の量の微量な調整。全てに余すことなく意識を配分し、竜は動く。






あらかじめこういった事は予想されており、全てが計画通りだった。
幾つかのイレギュラーが発生はしているものの、それも大きな問題にはらないし、むしろこれはチャンスだとさえ思っている。
そう、これは一つの“テスト”になる。自分にとっても、アトスやネルガルにとっても。








転移が発動した瞬間、その刹那、イデアの顔が僅かに高揚し笑っていたのをアトスは確かに見た。




























一切の過程を無視して転移の術はイデアたちを里の中心部、殿の地下、玉座の間の背後へと輸送する。
青白く空間が光明を放ったと同時に、光さえ超えた速度でイデアたちは目的地へと到達した。
堂々と背後にヤアン、アトスを従えるように連れたイデアは繭の前へと歩を進める。





思念を受け取ると同時に、直ぐに転移を果たしていたメディアンとフレイが一歩前に踏み出て
傅き、恭しく主を出迎えたが、イデアはそれに手を振って今はいいと止めさせた。







「状況は?」





ちらりとイデアが繭に眼をやると、その表面には無数の断層が走り、そこからは半透明の液体が漏れ出ている。
あの液体を神竜は知っている。自分もあの中に漬かったことがあるのだから。
ドン、ドン、と中から何かが膜を突き破ろうと蠢く音をイデアの耳は確かに捉えた。








『既に力の吸収は安定化し、後は孵化するのを待つだけです』






「万が一ということもあります。ですが長がこの場にいれば……“子供”が産まれた際、何かがあっても迅速に対応できます」







ひび割れた声と、女性の凛とした声が簡潔に状況をまとめ上げ、主に報告を行う。
フレイとメディアンからの言葉を聞き、イデアは満足そうに肩をゆすった。





返答を行おうとしたが、その言葉は最後まで続くことなく、途切れてしまう。







「そうか……それは……っ」








が、ふとした拍子に立ちくらみの様なモノが頭部を駆け抜け、視界がぐるっと回った。
倒れ込みかけるその刹那、誰も反応できない光の速度でイデアの“眼”が、アトスと、少し離れた場所で様子を見ているネルガルに向けられ……敵意がないのを“見た”
何度かたたらを踏み、倒れ込みかけた彼の肩を支えたのはヤアンだ。彼の太く、引き締まった筋肉質な腕がイデアの肩と腰を掴み、支えている。







少しばかり力を与えすぎたかもしれない。
いわば、この新しく産まれる竜は自らの子供であり、イドゥンに次ぐ半身。むしろ子供を産む苦しみがこの程度で済むならば安いほうだろう。
何しろあのメディアンでさえソフィーヤを産む際には苦痛で喘いでいたのだ。
想像を絶する痛みの代わりに、全てを根こそぎ奪われたような虚弱感をイデアは味わうが、この程度何の問題もないと竜は思った。








だが、幾つか計算通りだったとはいえ、嬉しいこともある。
例えば眼前の地竜と老火竜、そして少し離れた位置で見守っているもう一柱の火竜は自分が倒れ掛かった時、真っ先に意識をネルガルとアトスに向けたことだ。






もしもこの自分が少しでも弱みを見せたチャンスにアトスかネルガル、もしくは両方が自分に襲い掛かろうとした瞬間……。
否、そういった考えを頭の何処かに沸かせた瞬間、彼らの肉体は一切の抵抗を許さずエレブから消滅していたかもしれない。
だがとても喜ばしいことにこの二人はそんな事を欠片も思ってはいなかったようだ。知らずの間に彼らは“テスト”に合格する事に成功したのだ。







視線だけでヤアンに礼を言うと、この500年の付き合いがある火竜は何も言わずイデアから手を離した。
竜は内面の脱力感を一切表に出さず、背筋をしっかりと伸ばし、堂々とした体制で繭へと歩み寄る。







ネルガルが近くにまで歩きよってくる。彼の隣に立つのはアンナと、ソフィーヤ。
ソフィーヤが母であるメディアンの元へと走り寄り、その手を握るとメディアンは娘に優しく微笑みかけ、彼女を背後に庇うようにして立った。









ビキン、と更程よりも大きな音が響く。
耳の奥まで届く特殊な音波が空気を震わせ、新たな命の誕生を祝福するラッパの様に高らかにその産声を主張。
割れた繭のスキマからこぼれ出るのは液体と、うめき声。甲高く、そして重い、新しい竜が発するこの世で最初の言葉。









大きく繭の上半分が砕け、その全体の3割ほどが崩れ落ちると内部の様子、ひいては内部の竜の姿までもがはっきりとこの場に居る全員の眼に映った。
更にそこから竜は勢いよく内部から繭を砕き、遂にこの世界へとその身を晒す。母の子宮から生れ落ちた赤子が産声を上げるように、竜は一度、大きく、そして美しく鳴いた。








頭の上に乗せた繭の殻を放り投げ、竜は落ち着いた様子で好奇心の宿った眼で初めて直接、外界を見る。







濡れそぼり、てかてかと光を反射する全身の羽毛は黄金色……まだ鱗さえ竜はもってはいなかった。
まん丸く見開かれた眼は、少しばかり紫がかった翡翠色で、その中には確かな知性が見える。
背中に生えそろった翼は、イデアやイドゥンのソレとは違い一対だけだ。しかもまだ小さく、飛行が可能になるまでは時間が掛かるだろう。






馬車程の大きさの小さな小さな竜。飛竜よりも小さく、愛らしささえ見るモノに感じさせる新たな神竜。
しかしその幼い身が発する波動は紛れもなく神竜のモノ。間違いなくゆくゆくは世界に絶大な影響を与えることが可能になる存在。
至高の素質を生まれながらに持ち得る超越種の中の超越種。この竜は間違いなく最高の環境で育てて経験をつまされることが確定している。








後継者は必要だ。
いつか、それこそ数千年か、数万年、家族を取り戻した後も長としての仕事は終わらないが、この目の前の新しい神竜を育て切れば、後を託すことが出来る。







明らかにイドゥンやイデアが産まれた時に比べても竜は小さかった。
ナーガの力の影響をふんだんに受けて生まれた双子とイデアの力により誕生したこの竜では、やはり差があって当然だ。
ここでもイデアはナーガと自らの格の違いを見せつけられた気持ちになったが……直ぐにそんな感情は流れて消えた。








無言で一歩、更に一歩、竜へと向けてイデアは近づく。竜化をするつもりはなかった。そんなことをしたら里の中心部が崩壊してしまう。
竜の目の前まで来ると、イデアは竜と見つめあう。首を持ち上げ、見上げると、竜は見下ろしてきた。







遠目から、アトスやネルガル、メディアン、フレイ、アンナ、ヤアン、ソフィーヤ、全ての者が声も上げずに見守っている。これは素晴らしい安心をイデアに齎す。








視線を交わすと、竜は首を下げてイデアの差し出した手に、その顔を載せる。匂いを嗅ぎ、初めて嗅覚を用いる。
口の端からは繭の中に循環していた液体がこぼれ、床に落ちると同時に宙に溶ける様に掻き消えた。
さらさらとした液体はまるで、伝説の中に存在する金属、ミスリルでも溶かしたかの如く柔らかく、粘性がなかった。








イデアは顔を寄せてきた竜の耳元に唇を押し当て、そっと呟く。今から言うべきことを知っているべきなのは、自分とこの竜だけだから。
これはもう、ずっと前から決めていたこと。繭に気がつき、あれが何なのかわかった時から考えていた。







お前の名前は────フ───────ァ─────、だ。






長いが、おそらく人の耳では全体の8割も聞き取れないことは判っている。
その結果、人間からしてみれば、かなり滑稽に近い名前になることも理解しているが、これしかないとイデアは感じていた故に、躊躇いはない。






脳裏に一瞬だけ甦ったのは今はもう居ないあいつと、今この場にいる彼の娘。
彼の娘の名の由来をイデアは知っている。そこから更に繋げて名前をイデアは竜に与えた。
彼女が【輝く未来】の意を冠するならばこの子は【未来を照らす】という意味をもった竜族の名を授けようと思った。









新しく誕生した竜──ファは己に与えられた名前に満足したように、歓喜するように、一鳴きしてイデアに答え、その瞼をそっとおろした。
繭を砕き、出てきた時点で竜は体力を使い果たしたのだろう。疲れた子供が眠る様に、あっという間に眠りについてしまう。







イデアが指を一振りし、術を発動する。500年前にナーガに掛けられた術を今度は自らが他者に掛ける。
黄金の光に包まれたファの身体が、馬車程の大きさから、小さく、小さく、圧縮された。
翼は消え、羽毛も全てなくなり、四肢をもった人の姿へと。







やはりファは小さかった。まだまだ幼子の姿、それも幼児からようやく抜け出した程度の外見。
人間の年齢にして、4歳程度の外見の姿だろう。赤紫、暁色にも見える髪の毛に、額に竜族の言語の様な紋章が存在する童女……それがファの人間としての姿だった。
竜族が人化した際に見られる尖った耳も当然ファは持っているが、今はペタン伏せていて長さなどはよく判らない。





眠りについているその姿を見て、イデアは自分が何を思っているのかさえ分からなくなりかけた。
何だろうか、何を言えばいいのだろう。どう接するべきか。





結果、彼の行動はとてもありきたりなものとなる。






手元に取り寄せた毛布で一糸まとわないファを包むと、両手で抱き上げる。とても軽い。力を使って体を強化する必要もない程に軽い。
あらかじめ用意していた部屋にこの子を連れていき、そうしてからネルガルやソフィーヤなど、この繭が変化を起こした瞬間に居合わせた者達に話を聞くつもりだった。





ファの小さな手が握っていたのは、幼児の掌にすっぽりと収まってしまいそうな程に小さな黄金の竜石。これが今のファの力の全て。
それをイデアはアトスやネルガルが気が付かない内に何食わぬ顔で自らの袖の中にしまい込み、振り返ってから部下に声を掛けた。






「少しの間、頼んだ」







フレイに命ずると、老火竜が恭しく腰を折り、答える。
それを見届けてからイデアは転移を発動させ、その体は飛んだ。


































殿の中の一室、新しく産まれた神竜ファをそっと柔らかく、真っ白なベッドの上に横たわらせたイデアは
自分がナーガと同じことをしていると思い出し、思わず顔を顰めそうになり……その代わりに乾いた笑みがこぼれた。
俺はあいつが嫌いだ。いや違う。今でもはっきりと断言できる程に“大嫌い”だ。






全く、笑い話でしかない。嫌い、嫌いといいつつ意識してしまう。まるで初恋をこじらせた乙女のようではないか。





年を重ねれば重ねる程に、いかにあの男が父親としてダメだったのかを採点出来るようになる。
言動、行動、思考、まとう空気、挙動、何もかも全部イデアは覚えているし、その全てにダメ出ししてやりたくてたまらない。
もう幾らそんな事を思っても無駄でしかないが、それでも腹ただしい男だったというのは確かだ。






眠り続けるファを、観察するように“眼”を向けると、そこには面白い光景があった。
彼女はまるで……宝石だ。黄金色に輝く原石、純粋で、純血の神竜の彼女の潜在能力は計り知れない。
ほんのわずかでも経験を積めば、この娘は文字通り神の名を継ぐに相応しい存在へと成長するのが見て取れる程に。







イデアは肩を竦めた。まだそんな何千年も先の話を考えても意味がないか、と。





成長の途中においてソフィーヤ辺りと絡ませるとよいかもしれない。イデアは思う。
あの娘はどうにもファがまだ繭だった頃、それもかなり初期の頃から気にかけていたし、彼女にとっても、ファにとっても、互いに刺激しあうよい関係になれるだろう。
自分がきっとファにとって必要になると、彼女は確信している部分がある。






次いでイデアはファの近い未来に対して頭を回す。どういう風に接するか、何を教えるか、まずはそこからだ。
まずは文字の読み書きを教えなくては。その次に力の使い方や竜の姿への戻り方。力を扱う際の注意事項、ここらへんは特に重要だ。
特に力の使い方や心構えに対しては手を抜くことは出来ない。強大な神竜であるからこそ、責任の重さは知らなくてはいけない。




経験も大事だ。イデアは彼女を部屋の奥深くに閉じ込めて外界から隔離するつもりはまるでない。
色々な経験という上質な食材を彼女の成長へと捧げる予定だ。世界の広さを知るという事は大事だから。







一通りの考えをまとめ上げた後、イデアはため息を吐くと今度は肉眼でファを見て、手を伸ばす。
艶やかな赤紫色の髪の毛を無意識の内に撫でてやると、少しだけ、イデアは自分が昔に戻った様な気がした。
まだ自分が何も知らなかった子供の頃。姉やナーガ、エイナール達と一緒にいた時代に思いを馳せ、胸の中の長として感じている重圧が少しだけ和らいだ。







ナーガの様に、俺はこの子を捨てない。絶対に。
そしてイドゥンを解放した際には、この子を紹介してやろう。その時姉はどんな顔をするかがとても楽しみである。
もう少し時間が掛かりそうだが、永遠ともいえる竜の命はそれを可能にする。






懐からファの竜石と、自分の竜石を取り出し、見比べるとやはり色々と大きさなどが違う。
自分のそれは成人男性の握りこぶし程もあるが、ファのそれは例えるならば小さな小さな小石で、石の内部の力も今は種火程度でしかない。
眼前で二つの石が共鳴するように輝きあい、発生させた黄金の光と光を絡み合わせ、その存在を称えるようにイデアの竜石からほとばしる力がファの石を包んだ。






念には念の為、母乳代わりに直接力をファに与えると、いっそうイデアは強い虚脱感を覚える。
代わりにファは、母親に抱かれてるかのように安らかな笑顔さえ浮かべて寝ていた。







さて、ここからが忙しくなる。イデアは気を取り直し、意識を新たにする。
アトスとネルガルの件はひと段落してきたが、ここからも慎重に対処しなくてはならないし、長としての仕事も当然なくなるわけはない。
平行して姉を解放するための研究も続け、ファの教育などの子育てにかかる時間もここに加わるだろう。






つくづく竜が睡眠を必要としない種族でよかったと彼は痛感した。人間ならば間違いなく倒れてしまうだろう。






首に掛けていた鱗を取り出し、見てみるとそれは二つの石に照らし出されて何とも言えない輝きを反射していた。
蒼紫に、黄金色の光が纏わりつき、輝く。紐に結ばれて揺らされながらもそれは、奇妙な存在感を発している。
ただ照らし出されて揺れているだけだというのに、イデアにはまるでソレが頑張れと言っているようにも見えてしまった。







これはますます少し何処かで休暇を取るべきかもしれないな。
苦笑交じりに自嘲するように思い、最後にファをもう一度見てからイデアは二つの石と鱗を懐にしまった。
ファの石はまだ渡すつもりはない。彼女が力の使い方をある程度覚えたら返すつもりだ。









転移の術が発動し、そしてイデアは500年生き続ける竜の長の顔になった。

































イデアが玉座の間を離れたのは時間にして半刻の更に半分程度の時間でしかないが、そのわずかな時間の間にフレイは全ての仕事片付けていた。
繭の残骸の撤去と、玉座の間の裏の掃除や状況をまとめた文章の作成、必要と思われる人物の選択、後はイデアが戻ってきて必要な所だけを行えばいい程に玉座の間の場はまとめ上げられていた。
フレイ、ネルガル、アトス、ソフィーヤとメディアン、アンナ、玉座の間でイデアを待っていたのはこのメンバーだ。






ヤアンは既に帰ってしまったらしく、この場にはいない。
元より彼は気まぐれの様なものでついてきただけで、この場に居ようと居まいと問題はないから、フレイも彼を帰らせたのだ。
ネルガルとアトス、ソフィーヤとメディアン、フレイとアンナ。見事に組み分けされたようにそれぞれの人物、または竜は玉座の間でそれぞれの場所で待機していた。










2柱の火竜は玉座の隣、主に付き添う様に、地竜の親子は玉座から離れた場所で主の声が掛かるまで待機し
そして2人の魔道士はこの里に来た当初の様に玉座の真正面、臣下が礼を尽くす場所で、竜の言葉を待った。






「正直、報告は色々聞いているから、あまり直接話をする意味はないんだけどね」





玉座に座り、この空間において絶対的な主導権を容易く握り取るイデアは内側にたまる疲労を一切感じさせないはきはきとした様子で喋った。
紅と蒼の眼はこれ以上ない程に煌々と輝きを孕み、その奥では意思という炎が猛っている。目の前に存在する、例外なく世界でも強大な存在達に彼は全く怯みさえしていない。






「一つ聞いても?」





ネルガルの言葉にイデアは無言で言葉の続きを促した。






「竜が誕生する光景というのは、その……竜の間でも珍しいものなのかい? 特にああいう形で産まれるというのは」







イデアはその言葉に頷き、発話した。






「正直に言ってしまえば、珍しいものだよ。竜族というのは、子供を創る能力や、そういった意欲が少ないモノが多い。
 特にあの神竜の様に世界から産み落とされた竜はこの500年間では初めてだな」





旧時代の最後の神竜が自分たちだとすれば、彼女は新時代の神竜となる。ナーガの殿時代から、イデアの時代への移り変わりの象徴に。
少しばかり詩的に、気取った表現でファを表すならば、始神竜とでも称号を与えるべきか。






その言葉にネルガルの顔が輝き、アトスも隠し切れない好奇心をあらわにしていた。
一人の学者として竜の生態を竜から聞かされる事は、素晴らしい経験なのだろう。
しかも、これから一柱の竜の成長を、この目で見続けることが出来るとなれば、尚更。







「あの存在は神竜か。となるとあの竜は……」





アトスがイデアを見つめながら遠まわしに問いかけを発してくるが、イデアはそれに泰然自若とした様子で答える。






「お前の想像している通りさ」





一切の口を挟めない強い念が篭った声に、ネルガルとアトスは何も言わなかった。
ただ、少しだけイデアはこの言葉に幾つか継ぎ足す。玉座から身を乗り出し、悪戯っぽく笑う。





「孫でも相手するような気分で機会があったら接してやってくれ」





「孫か、わしには子供はおらんのだがなぁ……」








老人が自分の頭を撫でると、彼はやれやれとため息を吐いた。
何百年も生きてきたが、全て魔道と趣味、探究に費やした結果として生涯孤独になった自らの身を顧みて漏らした息は重く、切ないが、彼はすぐに顔を切り替えて堂々とした立ち振る舞いに戻る。
アンナは一瞬だけネルガルを見ると、すぐにその視線を逸らし、いつも通りの余裕を湛えた微笑みでイデアに頭を垂らす。







イデアがソフィーヤに眼を向けると、彼女はおずおずとした様子で母の隣から、一歩を踏み出した。
小さな歩幅で、ネルガルとアトスの隣を通り過ぎると、イデアの目の前で彼女は深く頭を下げる。
途切れ途切れの言葉だが、その声そのものははっきりとイデアは聞き取れる。






「……私も……時々でいいですから……」






伝えたい事実の、全体の一部程度の言葉だが、彼女が赤子だった頃から知っているイデアにとってソフィーヤの言いたいことを理解するのは欠伸が出る程に簡単な事だ。
500年の付き合いというのは、本当に長いもので、彼女は顔色を余り変えないが、その実内面の変化は非常に激しいものを抱く。






「判っている。むしろこちらから頼もうと思っていた」






その言葉にソフィーヤの顔が隠し切れない程の歓喜で輝いた。
眼がキラキラと輝き、その小さな全身は雷にでも打たれ、痺れたように震えている。
言葉を出そうとして出てこないのだろう。しきりに顔を縦にぶんぶんと振り、両手でしっかりと握りこぶしを作った彼女は感無量と言った言葉を全身で表していた。







ほぼ無意識で頭を下げて、下がるソフィーヤの足取りはもはや半ばスキップと化していた。
飛びつくように母の腕を掴むと、親子はそろって一礼し玉座の間から退室する。
手の動作でネルガルとアトスに退室を促し、イデアは玉座に深く座り、小さく、ふと思う。







明日、初めてファと会話するとき、どんな感じで話しかけようか、まだ決めていない。
教育方針などは決めてあったが、どういう風に話すかはまだ未定だったことに今更イデアは気が付いた。
さすがに父と自分の事を呼ばせるのは……まだまだそこまで自分は老人ではない……はず。










かなり下らない事だが、これはとても大事だ。
決めなくてはならない。







竜はまだ見ぬ明日に対して頭を悩ませる。












あとがき







これが今年最後の更新となります。
ファが産まれるところまでは今年中に書きたかった。
キャラが増えてきて、イデアと原作キャラとの絡みを書くのが楽しいですね。




その分色々とキャラ管理も難しくなってきましたがw



少しばかり予定より長くなりそうですが、これからもよろしくお願いします。






[6434] とある竜のお話 前日譚 二章 1 (実質16章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2014/02/05 22:16




ナバタの里の外れ、緑が広がる木々の中にある、開けた空間。
その大地は熱された砂漠の砂ではなく、しっとりと濡れそぼり、栄養を蓄えた土で覆われているオアシスの土壌だ。
幾つもの草木が生い茂るこの場は、太陽光が程よく木々によって軽減されるため、砂漠の中にあるとは思えない程に涼しい。







ネルガルは、しゃがみこむと、片手で何かを探る様に地面に手をやった。
掌に伝わる冷たい感触と、適度な柔らかさをもった土の豊かさを彼はしっかりと測る。彼は農家ではないが、長い人生の中でそういった方面の知識も多少は取り込んでいた。
その結果わかったのは、ここの土壌は素晴らしい栄養を含み、木々などを育てるのには最高の環境だろうということ。







遠くから聞こえてくるのは里の喧騒と、森に生息する小さな動物たちの鳴き声。
そこに混じる足音をネルガルは敏感に聞き分けて、振り返るとそこには紅い髪の……逞しい青年がいた。
珍しいものだと彼は内心で漏らした。アンナではなく、まさかこの人物が来るとは。





名前だけならば知っている。最近アトスとよく話をしている竜で、確かヤアンといった名前だったはずだ。
純血の火竜、高位の竜であの戦役で戦争に参加し、敗北した後にイデアに拾われたという男。






ヤアンは片手に何やら木製の……小さな槌の様なモノをもっている。
子供でも容易く扱えそうなソレの先端は研磨され、丸みを帯びながらも尖った形状をしている。
仮にこれをハンマーと称するならば打撃力を与えるための「皿」は左右に二つくっついているが、この「皿」はハンマー全体に対して不自然に大きい。






殴るため、というよりはそこに何かを乗せるためにこの「皿」はあるように見えた。
そして最も眼を引くのはハルバードにも見えるソレの中央、胴体の部分からは一本の紐が伸びており、その先には子供の握りこぶし程度の大きさの真っ赤なボールがくっついている。
このボールには一か所だけ穴が開いている。これだけでネルガルはこのボールの穴の存在する理由をある程度は把握した。







ボールも含めた茶色のそれの原材料は恐らく木、だろう。表面には木目などがある。
これはたぶん、自分が知らない玩具の類なのだろう。恐らくはバランス等を取って遊ぶ玩具……のはず。







「珍しいね。まさか君とここで会うとは。何か私に用事かな?」







ネルガルの声は何時も通り、温和な口調だった。
知的で、程よく低音の声音はとても聞き取りやすく、万人が耳を思わず傾けてしまうだろう。
それに対してヤアンは全くと言って変わらない。泰然自若を絵に描いた様な性質の竜は淡々と言葉を返した。






「否。ただの散歩だ。出会ったのも偶然だが……お前こそ何をしているのだ?」






「少しばかり趣味に使う用具を自分で作ろうと思ってたのさ」







趣味、という言葉にヤアンは反応し竜族の“眼”を用いてネルガルを“見た”
その結果彼の探知能力はネルガルが持っている袋の中に、植物の種らしきものを発見し、竜は頭を回転させる。
アトスから聞いたネルガルという男の情報、この場でしか出来ない事。この男の思考を考え、咀嚼し、そして答えを導く。







その結果吐き出された言葉は単純なものだった。







「絵具の原材料を育てるのか」








歯に衣を着せずに言葉を発する竜に対してもネルガルは変わらない。
温和な、何処か人懐っこい印象を与える苦笑を浮かべると、かぶりを振り、次に頷いた。








「既にイデア殿には許可は取っているよ。あとは何処で育てるか決めるだけだ」






それにしても、と言葉をつづける。
続けて口から出た言葉と声は、品のよい、エトルリア王国の貴族が発しているといわれても信じてしまうほどに優雅な響きをもっていた。








「その手に持っている小さな“槌”は何だい? 見た所、何か遊びに使うものに見えるが」





「これか」







ヤアンは眼で“槌”を見ると、徐に返事の代わりとしてそれをもっている腕ごと大きく振りかぶり、括りつけられたボールを振り回す。
腕を逆さにしたり、手首を巧みに動かし、彼はボールを空中で躍らせ、左右の「皿」の上に乗せたり、器用にも穴の開いた部分に“槌”の先端、緩い傾斜で尖った部分を差し込んだりしていく。
さながらそれは曲芸師の行う大道芸だった。ヤアンは軽々とボールを弄んでいるが、それが並大抵の努力では成しえない事をネルガルは見抜いた。







この玩具は……外見の単純さに対して、遥かに奥が深い。更にいうなら遊び方も一つではないだろう。文字通り、自分で遊びを創ることも出来る。
単純故に、創意工夫によって無尽の楽しさを発掘できる遊具だ。








「長が以前に作ったものでな。比較的単純な造形故に製造も容易で、なおかつこれは飽きがこない」







淡々とボールを遠心力によって振り回しながらヤアンは語る。
糸によって“槌”と結ばれたボールは縦横無尽に飛び回るが、その動きは全てが規則正しく、計算され尽くしたものだ。
左右の「皿」や槌の中央部分、ちょうど十字状になっている形状の中央にボールを落とし込みそこに鎮座させるヤアンの技量は素晴らしいものがある。







余りにも高速で回転させた為、もはや糸が見えなくなってしまう。
それほどの速度でヤアンはこの遊具を使いこなす。しかも片手で、顔色一つ変えずに。







その光景に思わずネルガルは拍手を送っていた。磨き抜かれた技術は、それだけで称賛に値するのだ。
ヤアンが手の動きを止めると同時に、見計らったかのようにキィンという音を立ててボールが“槌”の先端部分に穴をはめ込み落下し、彼の曲芸の終わりを告げた。
流れるような仕草で彼は遊具を懐にしまい込むとネルガルを真正面から感情の浮かばない瞳で見据える。





ルビーを思わせる瞳が人間に向けられた。
火竜は口を開く。あれだけの運動、芸をこなした後だというのに息一つ上がらせずに、全くいつも通りの平坦な声で。








「絵か。どういうモノをお前は描くのだ?」






ネルガルが質問し自分は答えた。ならば次は自分の番だと彼は含ませながら問う。
この不愛想極まる火竜がそんなことに興味を持つとは思えないと考えていたネルガルは少しばかり驚きながらもしっかりと答えた。








「基本は趣味で、何か決まったものを書いているというわけじゃない。人だったり、景色だったり、デッサンや、ふと頭に沸いた“イメージ”を書いたりする」







例えば……そう、ネルガルは頭の中に唐突に沸いてきた“イメージ”を口にする。最近少しだけ打ち解けてきたあの混血の少女とその母親の竜の姿を。
何であの光景が今、この瞬間に出てきたかは判らなかったが彼は自分でも驚くほど自然に口に出していた。






「竜と人の親子、等をね」





「なるほど」







ヤアンの一言はいつも通りだった。
興味がないようにも聞き取れるし、心の内側では理解したと述べているようにも聞こえる。
火竜はそれっきり何も言わず無言でネルガルを見つめ始め、ネルガル自身も早くここに来た用事を済ませてしまいたいために黙々と土壌の確認などを行う。






まずは作物を育てる場所を決め、その後にもってきた柵でその場所を囲む。今回やることはそれだけだ。
まだまだ準備なども足りず、時間なども惜しい……この後はとても心待ちにしていた事がある。








ファ───産まれたあの幼い神竜に対する教育が今日から始まるのだ。
そして自分とアトスはそれに出席……もっと言えば、基礎中の基礎の基礎、人間で言えば幼子が文字や数字の読み書きの初期段階程度ではあるが、それでも竜族の知識の一端を学んでもよいと判断された。
もちろん、イデアは自分たちに竜族の全てを教える気がないことを知っている。ファが学ぶ範囲内だけしか自分たちには与えられないだろう。





部外者である自分たちに竜族の技術を与えるなど、ありえない事だと長としての彼は判断するはずで、仮に自分がイデアの立場だったとしてもそうするはずだ。
だが、それでもよい。竜族の事をほんの僅かでもいいから知れるのならば、この際何を教えてもらうかなど知ったことではない。





そうだ。これは正に天からの祝福と評すべき出来事、偉大なる一歩の更に先。
このエレブで生きる人間の中で、今まで竜族と対話し、しかもその知識を一欠けらでも与えられた魔道士など、歴史上をくまなく探しても両手の指で数える程度もいないと断言する。
イデアを神とするなら、これは神からの贈り物だ。人では身に過ぎたかもしれない叡智の結晶が自分たちを待っている。







興奮する手を押さえつけながらもネルガルは冷静に寸法を測りながら将来使うことになるだろう畑の大きさを考えだし、柵を地面に打ち込んでいく。




その光景をヤアンは何も言わず、人形の様に見つめていた。




























ファの基礎的な最低限の教育は里の中心部である殿で行われることになっている。
まずは読み書きなどを教え、基本的な常識などを教え込んだ後に次は里の中でメディアンが教師を務める【学校】……イデアがこの里に来た初期の頃に作成した施設に移す予定となっていた。
イドゥンとイデア、この両者と同じくファは生まれながらにして僅かではあるが、言葉の意味や喋り方などを理解していたのは嬉しい誤算だった。







その様な状況の中、ネルガルは殿の中の廊下を足早に進んでいた。規則正しく並んだ殿の廊下、その窓からは昼に差し掛かりかけた太陽の熱光が入り込んでいく所を駆け足で進む。
一度自室に戻ってから様々な紙や筆などを用意してこれから勉強会が始まる部屋を目指しているのだが……正直な話、彼は道に迷っていた。






イデアの力を感じる場所などで大体の方角は判るのだが、通路が思ったよりも入り組んでいてわかりづらい。
この里に来て数か月になるが、彼は基本殿の中は自室から入口か、地下の玉座の間までしか歩いたことはない。
どうするべきかと首を傾げつつも彼は足を止めない。幾つもの階段を上り下りし、通路を往ったり来たりしつつも一向に目的地に着けない。








まずい。このままでは遅刻する。だが、焦ってはダメだ。焦ったら、見えるモノも見えなくなる。
ここは一度歩みを止めて、冷静に今の状況と情報を整理すべきだとネルガルは判断し足を止めて神経を集中させ……そして何かが頭の中で囁いた。
余りにも小さく、普通なら気のせいだと片付けてしまうちっぽけな囁き。





脳裏に何かが引っかかったのだ。深く脈動する闇の中から、得体のしれないモノが声を掛けてきたように。
何だろうか、これは? まず初めに直感で悟った願いは……“親近感” 次に底なしの欠落感とそれを埋めるように膨れ上がる充足の念。





深淵の底に、どす黒く、全てを燃やし尽くす太陽が見えた……ように思えた。
あのイデアが作り上げた“太陽の瞳”を禍々しく、反転させた塵殺の太陽が。








「…………?」






ふらふらとさざめきたった心の赴くままに足を進めようとすると、すぐに頭の中にあった違和感ともいうソレは消えた。
さながら砂漠の蜃気楼と同じように。だが、これは気のせいだとは思えなかった為、もう一度ネルガルは意識を集中し、周囲に魔力を走らせて探索し……すぐに納得のいく答えが出た。






恐らく、近くに自分がイデアに渡した魔道書【バルベリド】がある。恐らくそれが自分を呼んでいるのだろう、と。
あの書物は非常に強力な魔道書であり、自分の魔力がふんだんに込められた書物だ。
アトスのもつ【フォルブレイズ】程ではないが自分とは繋がりがあり、それが手放した自分を求めているのだろうと彼は答えを出す。





きっと、そうに違いない。ネルガルは自分に言い聞かせると背後を向く。
そこにはいつの間にかアンナが立っていて、温和な微笑みをネルガルに与えた。
彼女の眼は真っ直ぐと対象を見つめ、離されない。







「もう間もなく始まりますわ。お迎えにあがりました」






エトルリア王国の貴族達でも一握りの者しか出来ない程に優雅に一礼し、火竜の女性はネルガルに手を伸ばす。
それに対して手を差し出すと彼女は悪戯っぽく笑った。情熱的にも思える程に麗しい笑みは世の男性を間違いなく虜にするだろう。






「もしかして、迷っていましたか?」






「恥ずかしながら……」






素直にそう答えるとアンナの笑みが更に深く、優しくなる。
口元に手を当てて上品に笑う姿からは一切の嫌味も感じ取れない。
もしかしたらこの女性はどこかの人間の国で貴族として生活していたことがあるのではないか、そんな思いがよぎってしまうほどに。









それでは行きましょう。手短に告げると彼女は迷いなく踵を返した。
アンナが先導するように背を向けるとネルガルはそれに追従する。
既に先ほど感じた黒い太陽の事など彼は思考の濁流の中に流し込み、頭の中から消し去っていた。
























アンナの道案内によってファの勉学が始まる一室にようやくたどり着く。
どうにも彼は階層を致命的に間違っていたらしく、ここに至るまでに何回も階段を上り下りする羽目になった。
そこでネルガルを待っていたのは木製の、それも子供用の小さな机と椅子に腰かけたファとソフィーヤの挨拶だった









「……こんにちは」





しっかりと背筋を伸ばして椅子に座るソフィーヤの眼は何時もよりも大きく開かれ、そこには常に浮かべている眠そうな様相は一切ない。
すみれ色の髪の毛に巻き付けられたのは純白の鉢巻。少しだけ結び目が解けたソレの位置を彼女は時折手を伸ばして整える。





ソレは彼女のやる気を表しているのだろう。
理由はわからないが、彼女は今、とてもやる気を出していた。
例えこれから行われる講義の内容が数百年前に教わったものだとしても、彼女は全力で取り掛かる気なのが見て取れる。







そして、彼女の隣に用意されたソフィーヤのモノよりも一回り程度小さな椅子と机に座っているのは、人の姿を取ったファだ。
耳辺りまで延ばされた赤紫色の髪の毛は艶やかに輝き、翡翠色の瞳は忙しなく周囲を見ている。
部屋に入ってきたネルガルの姿に驚いた様に身を竦ませた彼女は、ソフィーヤの手をぎゅっと握りしめた。









「────!」







まだ舌が上手く回らないが故に、彼女はソフィーヤの影からネルガルの様子を窺うように顔を覗かせて、片手をあげて挨拶をする。
小さな小さな竜のあどけない姿にネルガルは微笑みを浮かべると同じように片手を上げて会釈した。
よく判らないが、彼女の姿を見ると胸の奥底で何かを感じる。





ネルガルが用意された机、ファとは反対側のソフィーヤの隣に座ると見計らったかのように扉が開き、そこからイデアとアトスが入ってきた。
ファはネルガルの時とは打って変わって、イデアに対して眼を輝かさせながら席を立ち、そのまま彼の元へと走り寄る。
突進するように産みの親の腰に抱き付いたファをイデアは困ったような顔で受け入れて、次いでこの部屋に集った者ら、一人一人に視線をやった。







「随分と……奇妙な光景だ」







それは心からの声だった。大賢者と、それに匹敵する術者がまるで子供の如く学習机に向かい、こちらを眺めてくる姿は……とてもユーモラスだ。
アトスが席に座り、イデアが彼らに向かい合うように立つ。竜の背後にあるのは教壇と、黒板。片手を伸ばして手に取るのは、鉱石を削って作った白いチョーク。
イデアは膝を折り、内心しどろもどろになりつつもファに目線を合わせ、話しかけた。




ゆっくり、手探りながらも頭の中でかつての“あいつ”と“アイツ”──ソフィーヤの父とナーガを思い起こしながらもイデアは言葉を組み立てていく。







「これから俺と“勉強”をしよう」





「べ……きょ、う?」







眼を輝かさせながら自分を見つめてくる童女に重なるのは遥か昔の姉の姿。
自分と彼女が初めてナーガに教わった時もアイツにはこのように見えていたのだろうか?






「そう、とても楽しい事さ。勉強をすれば、本を読むことも出来るようになる……皆と一緒に本を読むのは楽しいぞ。“本”が何なのかは、わかるか?」






イデアが優しく問いかけると、ファは一瞬だけ瞼を閉じて、頭の中に産まれもって植えつけられた情報を検索し……そして彼女は答えた。
大粒の宝石を想起させる瞳を煌々と好奇心で輝かさせ、彼女はまだ使い慣れない舌を必死に動かす。






「“ほん”……ふ、ぁ、しってる……よみ、たい」






「頑張れ。そう難しくはない。俺もすぐに覚えられたさ」






ファの頭を撫でてやると、艶やかな赤紫色の髪の毛が指の間を流れていく。
気持ちよさそうに眼を細めるその姿はやはりかつての姉にうり二つだった。








幼い竜が席に戻ると、イデアはふぅと息を吐いた。長の仕事とこの授業二つを“同時”にこなすのは少しばかり骨が折れるかもしれない。
気合を入れなおすと、イデアはまず、最も簡単な竜族の言語と、エレブにおける人の言語について、出来るだけ判りやすく黒板に書き連ねていった。

































「っ! こ、れ……!」






小さな竜が無邪気な喜色を全身から放ちながら、勉学用の白紙だった書を両手で広げて、イデアに向けて大きく差し出す。
びっしりと文字が書き詰められたソレを見せびらかしてくるファにイデアは微笑みを浮かべてしまうのを抑えきれなかった。







そこにあるのは、エレブの言語と竜族の基礎中の基礎ともいえる言語の一つ。
二つの文法や法則性、用途などを細かく纏めた内容の文字列だった。とても綺麗とは言えない文字だが、それでも今日覚えたと考えればこれは目覚ましい進歩の証である。
至らなかった場所はソフィーヤが丁寧に、イデアが手の届かない場所などを補強する形で教え込んだ結果、彼女はこの数刻で基礎のほとんどを理解するに至ったのだ。







彼女は実に物覚えがよい。やはり生まれたての神竜というのは文字通りの可能性の塊なのだろう。
何でも覚えられるし、何でも出来る。才能等という言葉では到底表現できない
いや、違うとイデアは内心で思った。これはそんなつまらない言葉で片付けていい問題じゃないのは簡単に判る。







全ては目の前のファの努力と根気があったからこそだ。
途中何度か休憩を挟んだ際にも彼女は判らない所は舌ったらずながらも必死に聞いてきたり、ソフィーヤに話しかけたりするなどをして努力を怠ってはいなかった。
さすがに幼子に何時間も集中させて頭に負担をかけるわけにはいかないと何回かお開きにしようとしたのだが、それを拒絶したのは他らないファ自身なのだ。







もっと、もっと知りたいと訴えてくる彼女の姿は、貪欲に知識を貪る獣にも見えた。
ならば、とそれにこたえる形で教え込んだ結果が、今目の前のこれだ。
幾つか細かく間違っている点こそあるが、それでも十分に及第点を付けられる出来……いや、今日が初日だと考えるとこれは末恐ろしい。






明らかに彼女は同じ頃の自分よりも優秀だ。






「よくやった、凄いぞ」






どういう風に褒めてやればいいのか判らなかったイデアの口から出たのはとてもありきたりな言葉。
無造作に伸ばした手でファの頭を撫でてやる。嬉しそうに鼻息を漏らす「娘」を見つつイデアの内心は苦いもので染まっていた。
どうやって接すればいいのか、まだ彼はファとの距離感を掴み損ねていた。






ますます“あいつ”が生きていれば助けになっただろうと思わざるを得ない。
内心イデアは肩を竦めた。こればかりは仕方ない。
何処かの言葉で確か“当たって砕けろ”というのがあったはず、とりあえず全力で取り組むしかない。






書を受け取り、イデアは膝を屈めてファと向かい合った。







「今日はこれぐらいにしよう。少し待っててくれ……部屋に戻ったら、色々美味しいモノを作ってやる」






「!」






美味しいものと聞いたファの耳がピーンっと嬉しそうに逆立つ。
産まれて暫くたった彼女は既に人と同じものを食べても問題ない程度には成長している。
具体的に言うならば、乳歯は既に揃っており、固形物を噛み砕くことも出来た。




それでもイデアはファの消化器官に負担をかけない様なモノを作るつもりだが。






他にもイデアは衛生関連にもかなり気を使っている。
石鹸を用いての手洗い、うがい、熱湯消毒、高濃度のアルコールの利用、部屋や里の清掃などそういった事は徹底している。






「美味しいもの……ですか。わたし、気になります……」







ファの隣にいつの間にか並んで立つソフィーヤが無表情ながらに、眼だけを輝かさせながらイデアを見つめる。
両手を当てられた彼女のお腹から低く空腹を訴える音が鳴っているのを神竜は耳ざとく聞き取ってから、苦笑いを浮かべた。
ソフィーヤの細い外見や、大人しい性格からは余り考えられないことだが……意外と彼女は食べることをイデアは知っている。








ファがソフィーヤの手と自分の手を握りしめ、楽しそうに笑っているのをひとしきり眺めてから、イデアは目線だけを二人から外す。
先ほどから全く声も出さないでいる二人……アトスとネルガルを見て……竜は少しだけ後悔するはめになった。




彼らは無言で椅子に腰かけ、机に対面している。カツカツ、という筆だけが高速で紙の上を走りまわる音だけが妙によく響く。





その眼は真剣そのもの。鋭く研ぎ澄まされた眼光は磨きたての銀の剣にも例えられる。
飢えに飢えた肉食動物でさえこんな眼にはならない……それほどまでに彼らの眼には剣呑な光と、集中が宿り、何人たりとも近づけさせない空気を全身から発散していた。
イデアはこういった姿になった魔道士がどれだけ集中しているか身を以て知っている。もはや外界からの刺激に反応しない領域にあることを。







最初の方はまだこんな状態ではなかった。
エレブの基礎的な文字や単語を習っている間は、彼らはファやソフィーヤに眼を掛けて、イデアの補佐をするだけの余裕があった。
問題は、イデアの授業が一回の休憩を挟んで竜族の文字の講義に差し掛かった時から始まる。






この二人の魔道士は当初浮かべていた余裕のある笑みを一切消し去り、夢中でイデアを食い入るように見つめ始めたのだ。
物理的な圧力さえ想像できるほどに鋭利な瞳、獲物を狙い、その味を堪能する肉食動物の様な気配。
しかしイデアはそんな視線に対し、僅かに動じることもなく、ファに対して淡々と授業を、飽きさせないように気を付けつつジョークを交えながら教え込みつづけた。








二人はあくまでもファに対するおまけだというイデアの方針は一切揺らがない。
アトスとネルガルもそこは重々承知しているため、彼らの質問の回数はかなり少なく、基本はファの教育を優先的にしている。
更に補足するならば、両者のプライドの問題というのもあるのだろう。







産まれて僅かしか経ってないファが竜族の言語をあっという間にモノにしていくのを横目に
人の世界では大賢者等と言われたアトスや、間違いなく人間では最高位の術者であるネルガルが幼子でも判る問題に四苦八苦するなどあってはならない、というプライドが。







黙々とイデアが授業で述べた内容を反復する二人の姿にイデアはため息を吐いた。
ファは二人の異質な空気に飲まれ、イデアの背中に隠れ、ソフィーヤは空腹を訴えるお腹を両手で摩る。
窓の外を見れば、もう間もなく太陽が沈みきる時間だ。ここからは極寒の時間がナバタを覆う。





ずれた鉢巻を弄りながらソフィーヤはどこか満足気な顔をしてファをじっと眺めていた。
彼女にしてみれば、ファは妹の様なもので、そしてファに色々と教えることが出来た事実は大いに彼女の欲求を満たすものだったのだろう。






イデアはソフィーヤとファに視線を戻してからもう一度頭を整理する。




ソフィーヤを家に帰さなくてはいけないし、ファの相手をしつつ、自分の個人的な魔道の研究や“幻影”がまとめた長の仕事に眼を通さなくてはいけない。
イデアは睡眠を不要とする分だけ、人間の倍の時間を動けるが、それでも時間を無駄にする気はなかった。







「今回はこれでお開きにする。お前たちも続きは自分の部屋でやるといい」







イデアがほんの僅かばかりの“力”を声に乗せて放つと、さすがの二人も筆を置き、ふぅと口の端から疲労と充足に満ちた息を漏らす。
面を上げたアトスとネルガルの眼は……輝いていた。比喩でも何でもない、本当に彼らの眼は少年があこがれの英雄と出会った時の様に喜び光っているのだ。
額を流れる汗を拭い、アトスは今まで熱心に書き込んでいたノートをそっと閉じて、イデアの言葉に従う。






ネルガルもそれに続き、脱力して肩を下ろすとアトスと同じようにノートを閉じる。
少しだけ彼の姿は小さくなったように見えた。眼の下には深いクマが刻まれ、疲れが伺えるが、全身から発せられる覇気は微塵も衰えてはいない。
まるで何かに夢中になった子供が寝る間も惜しんで没頭するような、無邪気な好奇心の塊がそこにはいた。








ファが伸ばしてくる指に自分の指を絡めて手を繋ぐと、イデアは帰宅の準備を始めたネルガルとアトスに対して話しかけた。






「感想は何かあるか?」






余り授業など行った事がない故に、生徒として完全な第三者の意見を聞いてみたいが為の言葉。
そういえば500年くらい前、まだメディアンと出会って間もなかった頃に子供たちの相手をしたこともあったなぁと思い起こしながら。






「特に問題はなかったと思うぞ。むしろかなり丁寧な講義だった……うむ、足りないのはこちらの覚悟だったようだ。全く未知の言語というのは、こうも……難解とは」






楽しそうに老人は苦笑する。難題を前にして興奮した彼の顔はうっすらと赤みさえかかっていた。
大賢者という称号さえ取り払った今の彼はただの探究者、未知の知識の一端に触れて狂喜する学問の申し子。






そしてもう一人、彼に匹敵する男も続いて言葉を返した。
覇気に満ち、若々しさを多分に孕んだ声で。






「これはかなりの復習が必要になりそうだ」







冷静な口調を装ってこそいるが、その口元は引きつり、膨れ上がる笑みを抑えきれてはいない。
彼はある意味ではアトス以上に知識に貪欲な面があるのだ。だからこそ危ういとアトスは彼を評した。





予想通りすぎる二人の姿にイデアはあらかじめ用意しておいた言葉を言う。軽く、囀る様に高音の声が響いた。








「次回以降も参加を希望するか?」






その言葉に二人の姿は一瞬だけ固まった。
まさかこれでお終いになるのでは? そんな不安が彼らの中をよぎったのがはっきりと見て取れた。
エサを食べる直前に奪われた肉食動物。悲しみと切なさと怒りとやるせなさを合わせこんだ顔を刹那二人は浮かべる。





そして彼らは即答した。




是非もないと興奮した様子で答える両者にイデアは頷いた。うん、これはいい傾向だ、と。





























殿におけるファの部屋はイデアの部屋の隣にある。これは万が一何かあっても直ぐに駆けつけることが出来るようにするための処置だった。
ファの動向は常にイデアの“眼”によって観察され、保護されている。
小さな神竜をイデアは出来るだけ一人にしたくはなかったが、長の仕事などでどうしようもない時などはファは自室でおとなしく待機している事が多い。





昼間の時間はソフィーヤなどがよく訪れて遊び相手になっているみたいだが、夜になるとイデアを除けば誰も彼女の部屋を訪れたりはしない。





イデアは夜の時間、ファが眠るまでは出来るだけ彼女の傍に付き添うようにしている。
暗闇の中に一人だけというのは、子供にとっては恐ろしい事だと思ったから。






部屋の隅に置かれた純白のシーツを敷き詰めたベッドの非常に上で、イデアはファを寝かしつけていた。
ベッドのすぐ隣に置かれた質素な木製の椅子に腰かけ、特に何かをすることもなくファを眺め、話しかけられれば答えを返す。
だが、中々眠ろうとしないファにイデアは手を焼かされている。





純白のバスローブに身を包み、ちょこんと毛布をかけてベッドの上に仰向けで転がっているファは、お人形のようだった。





この小さな神竜のお姫様は少しでも長く起きているために、瞼をくわっと見開き、イデアの裾を掴んだ手の力を緩めようとしない。
空腹は満たされ、眠気に襲われているはずだというのに、必死に彼女は抗っている。






産まれた初期のころ、まだ“恐怖”や“孤独”を知らなかった時期は一人でも眠れたファだが成長するにつれて変わった。
イデアに世話をされ「家族」と認識してしまった彼が自分の傍を離れるのをこの竜の子は非常に嫌がる。
それを見ると、イデアはどうしようもなく昔を思い出してしまい、冷静に切り捨てる事が出来ないでいた。




やはり、というべきか。自分は子供を相手にすると強く出れないらしい。しかもそれが女の子となると尚更。





「そろそろ眠くならないか?」





ファは首を横に振った。幼子の指に込められた力が更に強くなり、彼女の指の先端が赤く染まる。
絶対に離さないという意思の表れ。一対の翡翠の眼がじぃっと生みの親を見つめ、行かないでと訴えかけ続けていた。
これは困ったとイデアは思ったが、同時に悪い気もしないのが事実。ため息は零れず、代わりに片腕をファの頭の上に置いてやる。




少しだけ“反則”をイデアは行った。掌から放射されるのは黄金色の粒子。密度を薄めて使用されたのは【ライヴ】と【スリープ】の複合魔法。
この二つの術を混ぜて使うと、対象者は心地よい眠りに落ちるのと同時に体の中から修復される効果も得て、体力を大幅に回復させることも出来る。





【ライヴ】の心地よさと【スリープ】の強制睡眠効果を混ぜたこれをイデアは内心“麻酔”のようだと考えてもいた。
事実調整を変えれば対象者は体をバラバラにされても痛みを感じることなくあの世いき……ということも出来るだろう。





彼女の瞼が徐々に落ちていくが、それでもファは安心しきれないといった様子で眠るのを拒んでいた。
自分が眠った後、イデアが部屋から出ていくという事を知っている彼女は意地でも眠ろうとしない。
さすがは神竜というべきか、彼女はイデアの行使する術に抗うほどの高い魔法的な防御能力を誇っている。






「大丈夫、そんなに力を入れなくても、出ていったりはしない」






椅子から立ち上がったイデアはファとの手を離さずにもう片方の手を掲げ、この場に幾つかのモノを取り寄せる。
淡い黄金色の光が迸り、掌の中に幾つかの書類の束を持ってきた竜はソレを娘の前に翳して見せた。
それらはまだ片付けていない簡単な長としての仕事。幻影が処理しきれなかった量だが、その量は余り多くない。






とりあえずイデアはそれを机の上に置いた。これは後回しにして、少しだけ遊び心が沸いてきた為、それに彼は従う。
小さな、小石程度の光の玉を創りだしてそれをファの前に浮かべる。ファはそれが何なのか判らず首を傾げたが、次いで眼を見開いた。








光が、巨大な影を壁に映し出している。
大きな巨人の影が壁に貼り付けられ、動いていた。
イデアが両手の指を結びあわせて光に翳すと、それはさながら犬の頭部のような形状となり指の動きに合わせて“口”をパクパクと動かす。





これは勉強と遊びを兼ねたイデアのちょっとした気まぐれ。





「これが“犬”だ。そして次に……」







言葉を語りつつ、指を更に違う形へと組み替える。
次は両手の指をピンと伸ばしつつ、親指を重ねるように揃え、左右に4本ずつ指を逆向きに突き出す。
光が壁に描いたのは翼を大きく広げた鳥の姿。翼をはためかせ、生きているように挙動をする黒い鳥。







「……!!」







ファがベッドから身を乗り出して見入る。
眠気が吹き飛ぶほどの衝撃を彼女は味わったらしく、瞳の奥では好奇心が煌々と燃えていた。
ぎゅっとシーツを握りしめ、次は、次は、と態度で急かすのをイデアの手がやんわりと抑え、指を小さく左右に振って落ち着かせた。






まだまだ種類はいっぱいある。寝るまで付き合うぞ。
父親の言葉に何度も何度も嬉しそうにファが頷き、二人だけの見世物が夜の帳の中、つつましく始まった。






神竜は求められるままに芸を披露していく。一つ一つの動物に説明を挟みファが興味を引くように仕向けながら彼女が眠るまで根気強く。
ウサギ、カニ、フクロウ、リス、カタツムリ、ウマ、人間の男、女、ただ形を作るのではなく流動的に動かして、まるで舞台役者が躍る様にそれを操作する。







影絵の舞台を娘が寝るまでイデアは上演し続けた。






















全ての仕事を片付けた頃には、既に月は天の真上を通過した後だった。
机の上を照らしていたキャンドルランプの灯を消すと、部屋の中は窓から差し込む月の光だけが照らす薄暗い闇に支配されてしまう。
既にファはベッドの中で寝息を立てており、仮にイデアが出て行っても……おそらくは気が付くことはないだろう。






いや、判らないか、と頭を振る。
イドゥンがまだ小さかった頃、彼女はイデアがベッドから抜け出ただけで、どれだけ深い眠りについていようと目覚めていた。
子供の直観を侮ってはいけない。特に幼い少女のカンはよく当たる。







ベッドの隣の椅子に腰かけ、イデアはファの寝顔を見る。
竜の瞳孔は暗闇など全く問題ではない。







小さく胸を上下させて穏やかに眠る小さな神竜。自分とイドゥンに次ぐこの世界における同族。
新しく自分の心の中に入ってきた存在。自分の娘、後継者、家族───。






自分達を捨てた者。奪われた半身。



命を全うして自分の元を去った者。去った者が残した者。



そして目の前に現れた者達と、産まれてきた者。




色々なことが今までの生涯であった。そしてこれからも経験するだろう。
ソフィーヤと違って自分には未来は見えないが、それでもただ一つ、イデアは純粋に思い、誓う。







この子にはせめて、理不尽な、自分が味わったような痛苦を与えないと。
ふと、竜の脳裏にナーガがよぎったが、彼はそれを何時もの様にうっとおしいとは思えない。







もしもナーガと出会えたなら少しだけ水入らずで話し合ってもいいと竜は夢想し、思わず苦笑を零すのだった。

















あとがき




あけましておめでとうございます。
1か月ほど遅れに遅れた挨拶ですが、今年もよろしくお願いします。






[6434] とある竜のお話 前日譚 二章 2 (実質16章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2014/05/14 00:56


ソフィーヤはその日、いつもよりも早く目が覚めた。
長いすみれ色の髪の毛をベッドに敷き詰めるように仰向けで眠っていた彼女は瞼を開けた後、上半身を起こすと部屋の中をぐるっと見回す。
部屋の中は薄暗く、まだ地平線の果てに太陽が出ていないナバタの冷気が突き刺すように肌を刺激してくる。





既に眼は夜の暗闇に慣れてしまっている為、薄暗い中でも部屋の中の様相は眼を凝らせば見える。
ただでさえ何百年も住んでいる部屋だ、暗がりの中で足を躓くなどということはありえないが。




一度髪の毛を伸ばしすぎて、自分の毛髪を踏んづけて転倒しかけたことは彼女の中では思い出したくない記憶となっていた。




夜の闇に包まれた寝室、すぐ隣のベッドに確かに存在していると感じるのは母であるメディアンだ。
彼女の寝息が雫に部屋の中に、規則正しく木霊している。娯楽として彼女は夜の時間を睡眠に用いる。
そして家族と同じ行動をするというのは彼女にとって大切な事でもある。





はぁ、と息を両手に吹きかけると、生暖かい吐息は白い煙となって手を湿らせる。
どうしても、もう一回眠る気にはなれない。妙な活力が体の中で渦を巻き、何とかして発散したい気分だった。




ちらっと隣の様子をソフィーヤは伺う。
少しばかり離れた位置のベッドで眠っている母は熟睡しているようで、起きる様子はない。





少女の視線は母から逸らされ、自分と母の中間にある空白の空間で止まった。





ソフィーヤとメディアンの間には不自然なスペースがある。
何世紀も前に撤去された、一つのベッドを置いていた空間が。
もう百年単位で時が経っているというのに、その場所を見ると彼女はふと違和感を覚えてしまう自分が居ることに気が付いていた。






自分の生涯の中で最も自分に影響を与えた存在。
一緒に過ごした時間は竜の寿命を持つ自分にとっては短かったが、永遠に心の中であせない“人”の血が自分には流れている。
それはソフィーヤにとっての誇り。竜と人の混血である自身を肯定し、前に生きる為の信念ともいえた。







ソフィーヤは眼を擦った。子猫の様な仕草で何回か腕で顔を拭うと、零れた涙が服を濡らす。
冷たい空気のせいで眼が痛んだせいでこの涙は出たのだ。そうソフィーヤは決めつけた。
どうにも今朝は心の動きが不安定だ。どうして今になってこんな事を考えるのか彼女には判らなかった。




もしかしたら、長とその娘であるファの関係を何処か自分に投影してしまったのかもしれない。
胸の奥底で活力が流動している。無性に体を動かしてこの得体の知れないエーギルの乱れを発散したいと思うが……。






「…………!」




試しに複数枚掛けている毛布を少しだけ肌蹴させて青白い薄い布のワンピースに包まれた身体を空気に晒してみる。

まだ耐えられる。
肌から冷気が体内に浸透するように熱を奪っていくが、それでも何とかなる。
次に意を決して素足を毛布から露出させ、磨き抜かれた床にそっと降ろす。


「~~~!!!」


瞬間、ソフィーヤは声にならない悲鳴をあげた。


やはりというべきか、結果は判っていたが……寒い。
足の裏に氷竜のブレスでも受けた気分だ。


逃げるように、ミノムシという本の中で見た虫の如くソフィーヤは毛布に全身を急いで包み込んだ。
顔だけを毛布の塊の中から出して自らの長髪をマフラーの様に首に巻き付けてみる。気休め程度にはそれで暖を取り、落ち着いてから彼女は悩む。





外に出てみたいと。ひとしきり散歩でもすれば、この胸の中にくすぶる理解できない高ぶりも消えてなくなるはず。
未だに夜が色濃く残る夜の中、ゆったりと散歩をしてみたい気分なのだが……一人というのは危険という事を彼女は理解している。
外見こそ10代前半よりもやや幼く他人には映るソフィーヤだが、実際の年齢は500歳近くであり、その生涯の中で様々な事を経験した彼女はその程度の道理は弁えるだけの能力はあった。





事実、メディアンは一定の時間以降の一人の外出を禁止していた。
武力もないソフィーヤでは、何か問題が起こった場合、対処できないかもしれないからだ。
実際里の治安はかなり良く、問題などそれこそ滅多に起こりはしない。だが、世の中には“絶対”はない。







里の者達ほぼ全員に顔と名前が知れ渡り、有名人であるソフィーヤだが……万が一は何処にでもある。
ソフィーヤには知り合いは多くても、気心知れた者というのは余り多くない。
例えば事故や予期せぬ何かが起こる可能性だって0でなければ、それは起こるのだ。
彼女は未来が“見える”力をもって産まれたが、一度だってこの力が万能だと思ったことなどない。





極端な話、結果だけを見せられることもあり、何故、どうしてそこに至ったのかが判らないこともある。
結局のところ、未来が判ったところで、それが災厄ならば防げる力がない限り、どうしようもない。
例えば逃れられない死の未来を見た場合は、断頭台に送られる罪人の様な気持ちを味わうことになる羽目になってしまう。







だが、その逆もある。災厄を防げる力がある場合だ。
この場合、未来が変わる可能性も決してありえないわけではない。対策すればどうとだってなる。






この数百年の間、父亡き後に母とイデアは親身になってそのあたりを模索してくれた。
“力”との折り合いの付け方、自らに与えられたナバタの巫女、予言者という立場と生じる責任。
だが最終的に巫女の立場を望んだのは彼女自身の意思でもある。自分の力から彼女は逃げることは嫌だった。それは父への裏切りになるから。






ファの未来、自分と母の未来。イデアや、アンナ、フレイ、ヤアン、そして里の仲間たち。
皆がいるという事実は、何物にも代えがたい宝だ。故に彼女は自分を全て肯定する。混血も力も、何もかもを。







今のところは中々に順調に行ってるのではないかと彼女は思っていた。
母がいて、幼い頃から傍に居てくれる長が居て、そして何より……妹の様な存在まで出来た。
とても優しくて、好奇心に満ち溢れたあの神竜をソフィーヤは気になってしょうがない。






出来れば将来、一緒にファと外の世界を見てみたい、それがソフィーヤのささやかな夢。
母が居たという豊富な大地を持つリキア、父が長と共に戦ったという遥か彼方の西方の島々。






幼い娘の中でそれらの話は眩いばかりの輝きを持つ黄金となり、魅力してやまない。







そう思ったらますますソフィーヤは外に出たくなってしまう。
外が未だ夜に天秤が傾いた朝方という事実も、そこは極寒の冷気が蔓延している気候があるという事も忘れてしまうほどに。
童心が沸き起こす気まぐれ、行動力の高さが彼女を支配していた。






ファは寝ているだろうから恐らく会う事は出来ないし、睡眠の邪魔をするつもりはないが……少しだけ、少しだけ散歩するぐらいなら問題ない……はず。
母にばれる前に戻ってきて、ベッドにもぐりこめば何も問題は……おこらない、きっと、そうだ、たぶん。
ぐっとソフィーヤは唾を飲み込み、毛布を頭から被り直し、母の様子を伺うべく顔だけを出すと……そこにはリンゴがいた。






いつの間にか、ポツンとソフィーヤの枕元に人間の拳程度の大きさのリンゴが“居る”






“あった”でも“ある”でもなく“居る”のだ。
かれこれ長い付き合いになっている、その昔にイデアが作り上げた最初期の食用モルフだった存在。
いわばマンナズの始祖と形容しても何ら問題がない存在たち。





作りだした神竜でさえ想像できなかった程の高い自律性と知性を手に入れた彼らは今や里の中では一定の人気さえあるほどだ。
曰く、不気味な外見に最初は驚くが、接してみると小動物の様で案外可愛いらしい。




聴けば一番最初に母が長から譲り受けた黄金色のリンゴモルフが発端となり、徐々に里の中に父を通してその存在を広めていったとか。
事実ソフィーヤの過去の記憶の中には普通の数倍の大きさを誇る、黄金色に輝くリンゴと和気藹々としていた父がいた。
もうあの黄金色のリンゴはいないが、他の別個体がソフィーヤの家には住み着いている。




器用にも家事の手伝いや、ソフィーヤのお目付け役としても働くため母はあのリンゴ達に敬意さえ払っていた。





真っ赤で、てかてかとしたリンゴの表皮に横一文字に線が伸びて、それはやがてリンゴを赤道の如く一週し、果実は音もなく真っ二つに割れた。
中から出てきたのはやせ細った小さな人間の手足と胴体、首はリンゴの上部に埋もれる形で存在していない。
眼などないはずのリンゴから視線を向けられてソフィーヤはたじろいだ。紛れもなくそれに含まれた意思が抗議の念だったからだ。





「……………」





このリンゴは、間違いなくソフィーヤの内心を読み取った上で、注意をしている。やめておけと。
少女はほんの少しだけ考え込むように眼を閉じて……リンゴを引っ掴むと胸の前で抱きかかえてから、そっと上下に手をやって挟み込むようにリンゴを閉じた。
むぐぅと内部から漏れる唸り声を抑え込むように毛布で包むと、布の塊と化したそれを服の内側にしまい込み、手で押さえて外部に声を到達できないようにする。





そっと音をたてないようにサンダルを履くと、彼女はリンゴを包んだのとは別の毛布でくるっと体を包み全身に力と熱を貯めてから動き出す。
一歩、一歩、密偵が敵の見張りを交わすように慎重を究めつつ扉に向かい歩いていく。扉のすぐ近くのベッドで眠っている母を常に気に掛けながら歩を進めていく
心臓の鼓動がうるさい程に高鳴っている。扉に向けて手を伸ばし、ドアに手が触れた瞬間にソフィーヤはふと母を見て、固まった。





暗闇の中、いつの間にか気配もなく上半身だけを起き上がらせた母が、真紅の瞳でこちらを覗いている。
じぃっと粘着質な視線が絶えずソフィーヤへと突きつけられた。




寝ぼけているのかどうかは判らないが、メディアンはソフィーヤの行動の真意を測りかねているようだった。





「…………………………」






混血の少女の反応は早かった。父親譲りの反射の速さで思考を回す。
くるっと片足を軸にし、ソフィーヤは踊る様に踵を返し母に向かい合って何でもない、と態度で告げた。
お手洗いです、とでもいいたげな気配を全身から発してから、両手を頭の前でひらひらと振って無罪を主張する。






が、両腕を頭の横にもってきたせいで、彼女はリンゴを捕えていた毛布の塊を服の裾から落下させてしまう。
不幸なことに母の目の前に見せつけるか如く毛玉は落っこちたのだ。






「…………ぁ」






もぞもぞと中身がもがき、ソフィーヤの足元から這いずり出る。その動きをメディアンの視線が追いかけていく。
リンゴは一つ掠れた鳴き声を上げ、力尽きた様に転がり……そのまま部屋の隅で眠ったように一時的に活動を停止。





今の一言には恐らく、魔力的な何かを込めていたのは明らかだった。何故なら、それを聞き取ったメディアンの瞳の中の気配が明らかに変わったから。
にっこりと輝くような満面の笑顔をソフィーヤは見た。麗しい美女の笑みを。悪戯っぽく笑っているが、その内心で少しだけ母が怒っている様を娘は敏感に感じ取る。
全身にやんわりと地竜の“力”が絡みついてくる中、ソフィーヤは諦めたように脱力した。















夜の時間が終わり、ナバタの里の至る所から窓に嵌めた木の板を取り外す音が鳴り渡り始める。
各家庭から生活音が発生し、それは里の目覚めを伝播させていく。次から次へと人、竜、竜人達が活動を開始する音。
柔らかな太陽光が夜の間に発生した冷気や、霜を緩やかに解凍し、発生させた蒸気が太陽光に当てられて七色の光を反射する光景は幻想的だ。







そしてソフィーヤもその生活音を発生させる存在の一人だった。彼女は今自宅の鍋の前にたち、日課の家事を行っている。
よく彼女はメディアンの手伝いとしてかつての父と同じように家事を行うのだ。
最初の頃は失敗続きだったが、今では料理、洗濯、掃除、裁縫等々、おおよそ家庭で行われるあらゆる仕事の技術を身に着けるに至っていた。





はねた油やスープなどで火傷を負う。包丁で誤って指に切り傷を付ける。裁縫で針を肌に突き刺す。
掃除で倒れてきた荷物の下敷きになる……ありとあらゆる経験が彼女を成長させ、今に至っている。
よく大事につながらなかったものだと我ながらソフィーヤは感心するほどだ。






外見相応の腕力しかない彼女は、母やアンナ、イデアの様に竜の力を解放しての身体能力の底上げは出来ない。
僅かばかりの魔道への適性がある事と、長命なこと、そして“予知”の力を取ってしまえばソフィーヤは人間と全く同じだ。






長いすみれ色の髪の毛を母親と同じように後ろで一括りに纏め、三角巾と白い前掛けを装備し、今や彼女の料理に対する姿勢は万全となっている。
グルグルと鉄のおたまで鍋をかき回すと、鍋の中に放り込まれた野菜や肉が出汁を放出しながら浮き沈みを繰り返す。
その中にうかぶ一つの野菜……青く、固い表皮をした野菜……とても苦い野菜の欠片を見て少女の瞼が少しだけほころんだ。





意外な事に彼女は年頃の女性の様に甘いお菓子や母が作るチョコよりも、苦い野菜やしっかりと味付けされた肉などを好んでいる。
以前に母が作ったとてもすっぱい調味料……果実酒を改良して出来た“酢”と名付けられたモノなども好物の一つだ。




ただし彼女は母の作る食物について余り詳しくはない。母である地竜のおこす生命の神秘は奥が深すぎる。
……正直“酢”と一口で言ってもその派生が多すぎた。リンゴ、穀物、砂糖、合成……ぱっとあげるだけで片手の指を超える程の種類がある。






ソフィーヤの舌は大いに母であるメディアンの影響を受けている。
地竜である彼女は穀物、果実、その他様々な大地の恵みを用いて食道楽を追及し、そして出来上がった代物を真っ先に食べるのは彼女なのだから。
まだ父が存命だった時に作られた“醤油”やそれ以前からあった“味噌”……似て非なるこの二つも彼女は好いていた。






最低限の音と共に赤黒い光が舞い、様々な食器や水の入った桶などを移動させていく。
竜の“力”によって部屋の様子があっという間に整えられ、その姿を変える。
力の主である母はソフィーヤの隣で手際よく使い終わった包丁やまな板などを乾燥させた食物で作った皿洗いで擦り、磨く。






正しく流れるような仕草だった。
何百年もの経験を積んだ竜の動き、久遠の過程で磨かれた技術は既に王宮でも働けるほどの質を誇っている。
洗練された彼女の調理場での動きは、舞踏と評されるほどに優雅で、余裕に満ち、見るモノに安心を与えることが出来るだけの“格”を感じさせた。






だがソフィーヤにとっての問題はそこではなかった。
家事ならば自分も出来る。仮に一人で暮らすことになったとしても男性の腕力が必要な力仕事以外は一通りこなせるだろう。
もっと切実で、もっと根が深く、そしてどうしようもならない現実が彼女の問題。









「……………………」







彼女が横目で流す様に見るのは……自らの血縁者である母親の胸部。次に視線を移すのは、自らの胸部。
余りに圧倒的な差だった。バカバカしいと大多数の者は思うのだろうが、本人にとっては切実な問題なのだ。
もう500歳近いとはいえ、いや逆に常人10人分の人生経験を積んだソフィーヤだからこそ、自らの成長速度、発育に関して不安が産まれる。




寿命も何もかもを含めて自分だという自負こそあれど、これは生き物ならば誰でも考える根源的な疑問。




あくまでも胸部の差というのは外見における代表的な一例に過ぎない。彼女の悩みの根は、深い。
結局のところ、竜人である彼女は自分の寿命がどのくらいなのか、どの程度の速度で大人になるのか、いや、そもそも寿命が母の様に存在していないのかさえ判断が難しい。
少なくとも人間を超えた寿命があることだけが確定しており、ソフィーヤはそこに安堵の息を吐き、母を一人にしないで済むと喜びを感じていた。






嫌なのだ。母を泣かせるのは。





一人、また一人とかつての教え子の名前が里外れの墓標に刻まれる度に母は表情こそ変えないが、心の底で誰よりも痛みを感じていることをソフィーヤは判っている。
ファと外の世界を見たいという願いの他に、彼女はいつか大人になって母と……こう、“大人同士の会話”をしたいという願望を小さな少女は抱いていた。
その未来は見えないが、それでいい。真実欲しい未来は自分の力で勝ち取るものだ。







ん?、と ここでソフィーヤは顔を傾げた。何やら焦げ臭い臭いがする。
考え事をしていて余り手元を見ていなかった間に、鍋が酷い事になっていた。
ようやく彼女は手元の鍋が沸騰し、零れた汁が周囲に飛び散り、鍋の中から具材などが飛び出し掛かっている事態に気が付く。








「……あ」






冷静に慌てずまずは火へと対処。顔色一つ変えずにソフィーヤは動いた。
足元に用意していた非常用に用いる桶に入った水をシャクで汲み取り、慎重に燃え盛る火種へと被せて鎮火。
じゅううっという乾燥した音と蒸気が噴きあがる中、鍋の底をお玉で軽く突き、焦げ目などがないかを手に当たる感触で把握していく。







「火傷とかはないかい? 料理の時に気を抜くのは危ないよ」





母が優しく、それでいて少しだけ語気を強めにして語り掛けてくる。
その注意の言葉にソフィーヤは頷いて答えた。今日は集中力が余り高まらない。
竜の“眼”がくまなく全身を駆け巡っていく。火傷した個所などがないかを確認するための母の力の行使をソフィーヤはあるがままに受け入れる。







「そういえば、今日はこの後どうするんだい?」





痛覚が存在しない“力”を用いて水に濡れながらも未だに熱を保持している火種と薪を炉から取り出しながらメディアンは言う。
水に満たされた桶に薪などを放り込みつつ彼女は同時に“力”を使って料理の為の皿の準備なども行っていた。
一人で正しく十人分以上の働きを見せながらも、和やかに会話する余裕さえ見せる母に対しソフィーヤも何時もの様に答えた。






「……今日はまたファと、お勉強。お昼には……一回戻る」





「結構多めに昼食の用意をしておくからさ、よかったら長とかも呼んでもいいよ。久しぶりに皆で食事というのもいいと思ってさ」





楽しそうにメディアンは口元を緩めて柔らかく笑う。
多くの人と笑いながら食事をすることが好きな竜としての顔。
たまに彼女は里の子供たちの為に“学校”で皆で食べる食事を作っていくことさえあった。





母に言われてソフィーヤの頭に浮かんだのは、騒々しくも、活気と楽しさに溢れた宴会の光景。
長、ファ、アンナ……みんなが揃って席に付き笑顔で談笑しつつ食事をする姿。アトスやネルガルももちろんその中にはいる。






うん。悪くない。いや、むしろ好ましい。凄く楽しそうで、是非ともやってみたい。
ごほんと大人らしく、それでいて淑女らしさも忘れないように小さく咳払いをすると彼女は言った。
これはとても大事な事だ。絶対に聞いておかなくてはならない。





「……その……私の好物も」





遠まわしにソフィーヤが自分の好きな食べ物……絶妙な加減で塩と“はじかみ”と呼ばれる調味料を肉にもみ込み、焼き上げた肉と炊き立ての白米を所望している事を伝える。
だがメディアンはあえて判らない風を装って首を傾げ、片手の人差し指を顎に当ててわざとらしく考え込む様な顔を見せた。






「リンゴの丸焼きだっけ? 焼きすぎて炭にならない様にしないとねぇ」






テーブルの上で食器類の配置の微調整を行っているリンゴに対し少しばかり鋭い、肉食獣が如き視線を向けつつ竜は語る。
わきわきと彼女が両手の指を動かすと、視線に気が付いたモルフはぎゃぁーと悲鳴を上げて机の上から飛び降りて脱出を図るが……直ぐに“力”に捕まり、竜の手の中に納まってしまう。
諦めたようにぐったりと俯き脱力したリンゴに彼女は唇を近づけてから囁いた。






「冗談さ。お前を食べるなんてとんでもない。これからも末永くお付き合いさせてもらうよ」





嬉しそうにかすれた鳴き声を上げるリンゴと、それをあやす母を見てソフィーヤは思った。
これが日常だと。また楽しい一日が始まる、その事実だけで混血の少女は微笑みを浮かべてしまうのだった。

























その後臨んだイデアの授業は予定よりも早く終わりを迎えることになる。
何故ならば最初にイデアが行った前回の復習をファが必要としていなかったからだ。
基礎的な下地を完全にモノにしていたファは貪欲にイデアの言葉を基礎の上に吸収し、噛み砕き、養分と成す。





恐ろしいまでの吸収力だった。
全ては彼女の努力が前提としてあるが、それでもイデアをして急速すぎると思わせる程に。




アトスやネルガルが四苦八苦する壁をファは軽々と飛び越え、その先へ、その先へと飛翔を続ける。
やったーと両腕をあげて喝采を叫ぶ童の隣で、大の男二人がうんうんと首を捻る光景はとても愉快でもある。





子供というのはよくも悪くも記憶の流れが速い。
それを見越してイデアは復習を最初に行ったのだが、ファは文字通り一言一句まで父の言葉と講義の意味を理解しその上で気になる箇所、質問したい箇所を纏めて質問さえしてくる。
イデアが幾つか答えていくとファは笑顔で礼を言い、熱心に白紙だった書に色々と書き込み、自らの努力を形にして表す。






イデアとファは親子であり、ある意味では師弟関係でもある。
書に残った頁は、与えて間もないというのにもはや残り僅かな所まで減少しているのがイデアには見えた。






授業が終わりを告げると同時にファはイデアに飛びつき、その腰に顔を埋めると、褒めて褒めてと全身で発する。
困惑した様子で視線を向けてくるイデアにソフィーヤは器用にも目線で答えた。
イデアは彼女の視線だけで何を言っているのかが理解できるだけの洞察力と経験……付き合いはあるのだ。






「……ファは、すごい頑張り屋さんです……」





興奮した子猫の様にイデアから離れようとしないファを見つめつつ呟く。
父親に認められたくて、褒められたくて頑張る少女の気持ちをソフィーヤは少し判るような気がした。
彼女の言葉の裏に込められた感情を理解したのかは判らないが、イデアは遠く、過去を見るような眼でファの頭に恐る恐る手をやる。





艶やかな髪を指の間に流されながらファは顔を顔を上げて父の眼を見る。
翡翠色の眼と、色違いの眼、3色の視線が交わり神竜は覚えた言葉を用いて心を表現。
彼女は父からのご褒美である“なでなで”を希望する。徐々に流暢になっている言葉使いは、彼女の進歩の象徴に思えた。






「“おべんきょう”って、たのしいね!」




内に秘める白紙の部分に次から次へと父から与えられる情報を書き込み、糧にする竜は心からの笑顔で告げた。在りし日の彼女の様に。





「そうか。よく頑張った」





イデアにはそれだけ答えるのが精いっぱいだった。
アンナがその姿を見て何やらくすくすと上品に笑っていたがあえて無視した。
一瞬だけ場が柔らかく、暖かい空気と共に沈黙に染まるが、決して不快ではない風が流れる。





そんな中、ソフィーヤはおずおずと片手を上げながら発言した。いうなら今しかないと直感で理解したから。
自分に視線が集まる中、彼女は周りをぐるっと見渡し、この場にいる全員へと提案をする。






「あの……この後の話なのですが……」





続くソフィーヤの言葉にイデアとファ、そしていつの間にやら何処からか現れていたヤアンが同意した。














「るー、るるる~~」




ファは楽しそうに歌っていた。幾つか音程を思いっきり外しながらもそんなこと全く気にせず即興で歌を口ずさむ。
里の大通り、メディアンの家へと向かう通り道の中、彼女はイデアに肩車をしてもらい、そこから見える視線の高い世界に胸を躍らせている。
文字通り彼女には世界が輝いて見えている。イデアやソフィーヤ、ヤアン等には見慣れている里の日常も、ファにとっては全てが未知の世界なのだから。




彼女の口から出る歌は、文字通りの上機嫌の証。大好きな父に肩車されて、隣には友達がいて、見渡す世界は未知で溢れている。
正しく今の彼女は幸せの絶頂にいた。




身体の弱いソフィーヤやファの為に二人の周囲にはイデアが術を用いて半透明の膜を生成し、熱気と飛び交う砂粒などを防ぐ。
そのおかけで彼女たちはゆっくりと散歩でもするように歩を進める余裕がある。





宝石の様に輝く翡翠色の眼が忙しなく動き回り、里の全てを見る。
そんな幼い神竜に里の者達は手を上げて挨拶をし、通りすがる皆が皆、微笑ましいものでも見るような視線と共にイデアに労いの言葉を掛けていった。
新たに産まれた神竜は里の者にとっても新しい希望なのだ。ナーガ時代からのイデア、そしてその先を継ぐ者がしっかりと形として現れたことはとても大きい。





中には食べ物の方のリンゴをイデアに手渡してくる者や、何処からとってきたのか巨大なカボチャをくり抜いた被り物を貢いでくる里人さえいる。
イデアは里を歩きつつ周りに肉眼の方の視界を向け、そこいらにあふれる活気、談笑の声、子供たちの起こす喧騒……全てを心地よく受け止めていた。





この場に残念ながらネルガルとアトス、そしてアンナは今はいない。彼らは後々からの参加ということになっている。
男性二名はどうやらまだイデアが教えた授業の内容を完璧に理解出来てはいない様で、とりあえず復習が一区切りつくまで保留ということになった。
ああいう人種は心につっかえがあると、食事も喉を通らない事が多い。中途半端な気持ちで会食をするというのは失礼なことだ。





やるなら思う存分、満足いくまで復習して納得してからの清々しい気持ちになってからだ。




……その“復習”に日単位で時間を掛けなければいいが。
短い付き合いだが、両者とも時間に対する感覚が人間とはずれているのは容易に想像できる。
加えて言うならばイデアは魔道士という人種の職業病を知っていた。





睡眠や食事などの生理的行動を超えたあの二人がやろうと思えば何年でも研究に没頭するだけの肉体と精神を持っていることを考慮すると、思わずそんな心配が浮かんだ。
間違っても行きすぎた魔道士というのは夫には向かない。あの二人もその点で色々と苦労したのだろうなぁと竜は考察する。
夫が探究者じみた魔道士だった場合、妻の言葉や子供の教育を無視して延々と研究に没頭したらどうなるかは目に見えていて、思わず眼を覆いたくなる家庭になるだろう。






だが彼らもいい年をした大人だ。それも常人の何倍もの人生を歩んだ。
更にいうならば探究心に満ち溢れた彼らが竜族と食事を共にするなんて機会を台無しにするはずがない。
ほんの少しの時間の後、割り切りをつけてこちらに来ることは容易に想像できる。





アンナに関しては簡単だ。彼女は少しだけ化粧直しをするといっていた。
女性にとってこういった食事を兼ねた社交の場というのはとても重要な意味があり、化粧を嫌味にならない程度に行ってから出席したいという彼女の気持ちはイデアにも判らないでもない。







「ねーねー、おとうさん、これからどんなのを食べるの? みんなもいっしょ?」






肩に乗せたファが俯くように体を曲げてイデアの顔を覗き込みつつ声を発した。
甲高いが決して嫌味にならない、上質で、なおかつよく手入れされた琴の様な優雅な声が耳朶を叩く。
娘が誤って落ちないように“力”で彼女の身体を固定しつつ、イデアは肉眼の視線を頭上のファに向けて答えた。








「そうさ。父さんもファも、ソフィーヤとヤアン、メディアン……みんなと一緒にご飯を食べるんだ。何を食べるかはお楽しみだ」






実際の所、イデアもメディアンが何を食べるかは知らされていないし、ソフィーヤに聞くこともなかった。
彼女の事だから、ファの消化器官の事や、彼女程の子供の好物等々全てを考慮してくれるという信頼がそこにはある。





ぐぅと小さく腹部から鳴き声を発したすみれ色の少女は何時もの調子で、その上で隠し切れない欲望を混ぜ込んだ声を発する。
視線がうつろに彷徨い、虚空の中に紡いだ夢想の好物に彼女は夢中だった。





「…………お肉のはじかみ焼きと、ご飯……味噌のスープ」






ぼそっと隣でソフィーヤが好物の名前を述べると、今度はそれにヤアンが喰いついた。
奇怪な事に、混血の少女と純血の竜は食事の話題になると意気投合し、遠慮の欠片もなく意見を交え始める。
声だけは何処までも淡々とした二人だが、その中に含まれた熱意はとてつもないものが見え隠れするほどだ。







「“若草焼き”か、悪くない。焼きたてで、香辛料を多く入れたモノを私は望む」






お前は猫舌だろうに。結構昔に焼き芋を作ってひどい目にあってたことを神竜は思い出した。
熱いモノはダメでも辛いモノは好きなんだなと内心イデアは苦笑すると、更にソフィーヤが続けていく。
息が合ったテンポで二人は声を紡ぎだし、食事という話題で盛り上がる。





「……辛いのは、美味しいです」






ヤアンがソフィーヤを、判っているじゃないかとでもいいたげに、満足感を湛えた視線で見やると少女は大きく頷いて答える。
意外と思われるかもしれないが、この二人は仲が悪いわけではない。むしろ父親の代から交友がある両者の仲は良好とさえ評せる。
言葉にしてしまえば友人関係、という文字が一番しっくりくる。そして彼と彼女の交流の糸を繋いだのはメディアンの料理や彼女が作り出す食材だ。





“彼”が生きていたころかちょくちょく地竜の元に“試食”という名前のただ飯食い……いや、“品評”を行っていた時代まで二人の交友の起源は遡る。
まだ父が健在だった頃、ソフィーヤは両親の背後に隠れて、いつも家にやってくるヤアンを遠巻きにみているだけだった。
当時のソフィーヤのこの偏屈で、よくわからない思考回路をしている火竜に対するイメージは「怖い、見知らぬ人」だったというのも仕方がない事だろう。





お世辞にもヤアンの外面はよくない。そんな彼が子供に第一印象で好かれるのはまず不可能だ。
事実、余り人の好き嫌いをしなかったソフィーヤの父親でさえ当初は苦手意識をもっていたのも事実。





彼女がヤアンと向き合い始めたのは父が没してからだ。
何度も何度も家に訪れていた彼と勇気を出して話をし、理解を求めた。
母とは違う思考と思想をしたヤアンは、聞けば元は戦役で戦った竜だという。






人竜戦役、外界ではもはや伝説となってしまった戦争だが、今隣を歩くヤアンは記憶を失ってこそいるものの、まぎれもなく当事者の一柱。
純血である事に誇りを持ち、混血を排除しようとする思想さえ抱いていた一派の彼とソフィーヤがこうして交流を行うようになるというのも因果な話かもしれない。






「るる~~」





上機嫌に鼻歌を囀るファをヤアンは感情が読み取れない視線を向けて観察し、次いでソフィーヤに視線を移し、最後にイデアを見てから彼は正面を見た。
その眼には、少なくとも表層の部分は何も浮かんではいない。ただ、ただ、目前まで迫った目的地の扉を映しているだけだ。





扉が開き、中から地竜が姿を見せると彼女は一礼し、娘とその友たちを迎え入れる。




























アトスとネルガルの到着は、イデアが想定していたものよりも遥かに早いものだった。
彼らは急いで復習を片付けると、外見年齢ではとても想像できない程の速さで里の中を走り抜けてメディアンの家までやってきたのだった。
転移の術を使わない理由は、急ぎすぎて術を使えるという事を忘れていたという何とも言えないモノだ。




メディアンの家に到着した際の二人の姿は……筆舌に尽くしがたい。






ネルガルとアトス、この二名はいつもメディアンたちが食事する際に使っている部屋とは別の客間に通され、そこでイデアたちに出会うことになる。
この客間の中央には4つ脚の5人か6人程度なら余裕をもって食事が出来る程の大きさの机が安置されており、その上には既に二人の為に用意された盃があった。





アトスはその立派な白々とした髭が無茶苦茶な方向に跳ね回り、所々に砂ほこりさえ付着するという乱れよう。
同じくネルガルはしっかりとセットされていた髪の毛が、さながら至近距離で烈風でも浴びた様に乱れきり、それを直視したソフィーヤが噴き出すのを堪える程の惨状。
ぜぇぜぇと荒い息を吐く二人の老人は渡された清水を一気に飲み干すと、ふぅと小さく肩を動かしつつ息を吸って吐くを繰り返し気を整える。






「たまには体を動かすのもいいものだな」





手鏡で自らの髭を調整しながら誰にともなくつぶやくアトスに、同じように隣で髪の毛を弄っていたネルガルが同意するように口を開く。
彼は髪の毛から手を離すと、しゃがみ込んで自らの太ももをいたわる様に摩りだす。






「それはそうだが……その……ライヴを使えるかい? ……いきなり動かしたからか、脚の筋が痛くて困った」





いい年こいて何をやってるんだとイデアが人差し指に力を収束させ【ライヴ】を発動させようとするが……唐突にその動きを停止させた。
いつの間にかソフィーヤが一本の杖を両手で握りしめ、その先端をネルガルがしきりに摩る箇所へと向けている。
ファが興味津津とした顔でソフィーヤの元へ走り寄ると、ライヴの杖をじぃっと見つめ、ソフィーヤに視線で触ってもいいかと問いを投げかけていく。






「これは、なぁに?」






ソフィーヤから渡された自分の身長よりも長い杖を重そうに扱いながらも、その表面や内側に込められた“力”に“眼”を通していく。
無意識なのか、それとも意識的なのかは不明。だが既にファは本能的に父の見よう見まねで“眼”の扱い方を部分的に理解し、使用している。





「……回復術を発動させるための杖。私は……長や母の様には術を使えないから…………」





「何でつえを使うんだろ」






それはソフィーヤへの問いではなかった。
自分の内側に対し、産まれてから蓄えた僅かな量の知識に対しての問い。
思考錯誤し思慮を走り巡らし、考え抜くが……答えは出なかったようで、がばっと勢いよくイデアに振り向く。



きらきら、という擬音が付きそうな程に父への尊敬と信頼、そして教えてという念が多分に含まれた視線。
思わず頬が吊り上がりそうになる自分の気を引き締めるために一泊間を置くと、イデアは淡々とわかりやすく答えた。






「術を発動させるための書や杖というのは、力を現象に変換するための触媒だ。魔力を流してやれば触媒はその力を“術”という現象に変えて発生させる」






触媒ももちろん物質であるが故に無限に使えるわけではない。
発生させる現象の規模などが大きくなればそれに反比例し、触媒の耐久回数は減っていく。
そこに例外があるとすれば、この里にある4つの魔道書や、かつての竜族の禁忌などが挙げられる。






魔術の基礎的な要素をさらさらと述べると、ファは満足したのかソフィーヤに杖を返し「貸してくれてありがとう」と感謝の言葉を添えた。
ソフィーヤが瞼を閉じ、杖をネルガルが痛いと言って差し出す足へと向けてかざし、魔力を込めると杖の先端、丸みを帯びた部分に光が灯る。
音こそないが、確かにそこから放出される“力”がネルガルへと向けて入り込むのがイデアの竜の眼には映った。






薄紫色の光。そこに少しだけ赤みを帯びた魔力光がソフィーヤのエーギルの“色”であり、彼女の魔力。
数秒間の光の放射が終わった後に、ネルガルは足を摩り、そこに痛みがないのを何度か確認し……立ち上がった後にソフィーヤに頭を下げて感謝の気持ちを行動でしっかりと見せた。
この一連の流れがあまりにも自然で、なおかつ流麗に行われたため、ソフィーヤはそれに対して反応するのが一瞬だけ遅れてしまう。





「ありがとう。いい腕をしているね」





「……どういたしまして、です……………!」





自分が感謝された事に気が付いたソフィーヤは誇らしそうに鼻を鳴らして頷き、足取りも軽くライヴの杖をぎゅっと握りしめ、含み笑いを零す。
ぐっと胸の前で小さな握りこぶしを作り、何度も何度も脳内で感謝の言葉を反芻しているのが見て取れた。





始終を黙って眺めていたアトスが一度小さく手を上げて、自分にソフィーヤの注意を向けさせてから、優しく、丁寧に声を紡ぐ。
ネルガル程ではないが、耳に残る心地よい、年季を経て味が出てきた楽器の様な声。
声に合わせて彼の深海の様な澄み切った青い瞳がソフィーヤに注がれる。






「お主は術は具体的にはどれほど使えるのだ?」





「……あ………その」





元来ソフィーヤは、他人に対して何かを積極的に発信する性格ではない。
ファへの勉学の助言も、あくまで助言であり、補佐の領域を出ないものだ。
そんな彼女に自己紹介をしてくれといきなり言ってもこうなることは致し方ないことだろう。





イデアや母、アンナ、ファ相手ならば気兼ねなく話せるのだが、まだアトスとソフィーヤはそこまで面識があるわけでもなく、そこまでソフィーヤは余裕をもてない。
言葉を詰まらせ、まず何と言えばいいのか必死に考えるソフィーヤにイデアが助け舟を出そうとして……いつの間にかすぐ近くに接近している気配を感じてやめた。





「この子が使える術は本当に基礎の基礎だけだよ。最下級闇魔法のミィルとライヴの杖ぐらいさ」






部屋の奥からこの家の主がいくつもの鍋と皿を両手と“力”を使って危なげなく輸送しつつ現れる。
彼女はそれが当たり前の様に場の支配権を恐ろしい程何の苦も無く握り取ると、料理を部屋の中央に置かれたテーブルの上に配置する。




湯気がもうもうと立ち上るそれは、よく調味料を含んだ新鮮な肉料理。
そして野菜のスープや、果実、果実酒や清水、その他さまざまな料理が次から次へと部屋の中に宙を舞いながら侵入し、テーブルの上に降りていく。





おばさん! と、ファがイデアの隣からメディアンに走り寄ると彼女は膝を抱えて彼女を出迎えた。
ファの髪の毛を何回か撫でてやるとこの小さな竜は興奮したようにその尖った耳を上下に激しく動かして内心を如実に表す。
むふん、むふん、頭上をぽんぽん叩かれるたびにぎゅっと結んだ口から溢れる吐息がこぼれ出す。






「…………」






それを見たソフィーヤの行動は彼女らしいもの。
彼女は粛々と自分の分などの食器を用意すると、イデアの手を引いて二人で並んで食卓に腰かける。
続いてヤアンに目くばせをすると、彼も同じように何でもないかの如く、イデアを挟んで、ソフィーヤの反対側の席に腰を下ろした。




ソフィーヤとイデアの間にはあえて“一人分”のスペースが空いている。
椅子の数こそ足りなく、そこには何もないが、それでも空間だけは余裕があるのだ。





何事でもないようにソフィーヤとヤアンは静止して動かない。
料理が出てくるまで石造にクラスチェンジしたと言わんばかりに。
全く微動だにしない両者に囲まれたイデアが居心地が悪そうに身じろぎした。






飢えた獣に囲まれたような、そんな居心地の悪さを彼が覚えたのは致し方ないだろう。






アトスとネルガルはまだ座らない。
彼らは自分たちが外部者であり、この場でのヒエラルキーが最も低い事を理解しているが故に、家主のメディアンが許可を出すまで動こうとはしなかった。
だが瞬時にそれに気が付いた地竜はやんわりとファを引きはがし、数歩だけ歩いて二人の前まで行く。






そして彼女は丁重な動作で椅子を二つ、自らの腕で引っ張って用意すると、一流の給仕がするように頭を垂れて着席を促す。
竜がいきなりそのような行動に出たことに眼を丸くしている二人に構わず、彼女は微笑んだ。





「気負いはいりませんよ。今日はゆっくりと楽しんでいってくださいな。今回の主役は、お二方の様なものです」






ちらっとメディアンの視線がイデアに一瞬だけ向けられると、彼は鷹揚に頷いた。
早かれ遅かれ、こういった事はやるつもりだったイデアにとって、今回の彼女の行動はとても助かる事である。
ファの育成と教育、長の仕事、姉の解放の為の研究……様々な用事がある為、企画そのものをする時間がなかったが、そこを彼女はくみ取ってくれたようだ。






両者はイデアに向かい合うようにいそいそと着席する。
左右に飢狼、対面に老人二人という状況にイデアは苦笑し脱力しながら椅子の背もたれに身を預けて大人しく料理を待つ。






「あ……!」





メディアンが次の料理を運ぶために部屋から消えると、ファは当然の如くイデアの隣に座ろうとし……現状を認識して思わず声を上げるしかなかった。
父はいつの間にか着席し、しかもその両隣は塞がれている。どうしようもなく詰んだ現状にファはテーブルの周りをピョンピョンと飛び跳ねながら走り回り打開策を探し……諦めた。




ぎゅっと服の裾を掴み固まった彼女の眼尻に涙が溢れ、全身が小さく震えだす。
硬く結んだ口の端から、甲高い金切り声がこぼれ出し、それは彼女の涙腺の堤防の瓦解が近い事を示唆している。
このまま放っておけば間違いなく大泣きは必須。だがイデアは子供の泣き声を聞くつもりはなかった。




隣のソフィーヤが何かを言いたそうに何度も何度も自分と不自然に空いた空間に眼をやっていることからどうすればいいかは判っている。






「おいで」





椅子がないなら作ればいい。
イデアの指から放たれた黄金の“力”が場に固定され、背もたれと肘掛け、4つの足をもった椅子の姿となる。
大きさもちょうどファがゆったりと座れる程度に計算された特注の黄金光の椅子。




ぽんぽんと腰かける場所をイデアが手でたたいて確認する。
適度な柔らかさで手を押し返してくるクッションの部分を満足気に押し込み、そこを小さくパンパンと叩く。






「っ! っ!! これ、すごい!!」





自分専用の席があっという間に誕生したことに感動したファは小さく2回その場で飛び跳ね、3回目に勢いよく椅子に飛び乗った。
ギシッという軋みの音さえ立てずに黄金椅子は軽々とファの全身を受け止め、羽毛の柔らかさを再現されたクッション部分は小さく竜の全身を弾ませ、宙に何回か飛ばす。
3回ほど体重をあちこちに移動させて椅子を堪能していたファだが、やがてイデアに全身を向けて満面の笑顔を形作る。






「ありがとう!」






イデアは言葉では返さない。
代わりにファに手拭きを渡してから口角を釣り上げる。
ごしごしと水でぬれた手拭きを用いて手を清めるファを眺めていると、向かいからネルガルのよく弾む声が響いた。







「もう立派な父親かな。色々と板についてきたんじゃないか?」






対面のネルガルが微笑ましいモノを見たような、にやけ顔で言葉を投げてくる。
彼の隣のアトスも彼と同じような顔をして穏やかにこちらを見ていた。
“父親”という言葉に胸中、複雑怪奇な念を湧きあがらせたイデアは自分がどんな顔をしているか判らないままに返事を放つ。






「そうか? 自分ではよくわからないけど、そう言って貰えると……嬉しいな」






最後の辺りは声が上ずってしまいそうになるのを抑え込んだため、もしかしたら他人には変に聞こえてしまったかもしれない。







「……わたしは、おねえさんです……いえ、“おねえちゃん”です」







言葉の響きが気に入らないのか、彼女は丁寧に後半の言葉を一言一句強調して繰り返す。
手を拭き終ったファといつの間にかジャンケンと、その後に続く“あっちむいてほい”で戯れていたソフィーヤの言葉にヤアンを除いた一度は思わず破顔してしまった。





「そういえば、お前たちは……血縁者や家族はいるのか?」






腰を動かして体重を移動させてからイデアはリラックスした様子で気楽に二人に問を投げた。
正直な話、少しだけ気になっていたのだ。この二人の家族構成などが。





アトスは遠い昔を見るように視線を彼方に向ける。
横目で一瞬だけそれを見たソフィーヤは内心、母や、見知った竜族が時々同じような眼をしていることを思い出した。
長い、長い年月を生きたモノが見せる目。過去に失った宝を見る時の視線は、届かない星に手を伸ばすように儚い。






「わしからの血筋はいたのだが……もう皆この世にはおらんよ。
 魔道士になった者、ならなかった者、様々な者がいたが全て人の理の中で生きて、人として逝ったのだ」






全て戦役以前の話だとアトスは続ける。
自分は戦役が起こるその前に魔道士として“理”を超え、全て亡くしたと。





「正直、当時のわしは魔道一辺倒で家族を顧みることはなかった悪しき息子、悪しき父だった。今になって時々後悔しておる」





過去の自分は魔道士として理を超えたことに狂喜乱舞し、よりによって無限に限りなく近い時間を一切家族に対して使わなかった、アトスは淡々と述べる。
永遠に近いというのに、研究など後でも出来るというのに、何も家族には与えなかった、全て自分の為に使い、その結果全てを無くした後、しかも時間が経ってからそれの価値に気付いたのだと。





失くす、という言葉にイデアは痛みを覚えた。
500年前の二つの尊い喪失が。その内の一つはもう永遠に帰らない。






「……悪かった」






「構わんさ。嫌だったら話さん。後悔のないように生きるのを心掛けても、難しい事は難しいものだのぉ」





アトスの眼は過去から未来へと視点を移す。過ぎ去った過ちの過去を客観的に認め、その上で彼は今を、そして先へと歩く。




ファファファ、と、わざとらしく老人の笑みを口から吐き出すと、自分の名前を呼ばれたと勘違いしたファが手を上げて答えた。
違うよ、とイデアがファの頭を撫でて宥めてやると彼女はそのままイデアの腕に抱き付いてしまう。
親猫にしがみつく子猫の様なファの背にもう片方の手を回してポンポンと叩くと、彼女は眠たそうに瞼を下ろしかけいく。






脱力し、自分の腕に身を預けるファをどうするかとイデアは悩んだ。
まさかソフィーヤに預けるわけにもいかない。




そんなとき、丁度メディアンが料理をもって帰ってくる。
急速に部屋の中に広がる香辛料の香ばしい香りと、スープのよく煮込まれた具が放つ芳香が混ざり合い、部屋の中の空気を塗り替える。
イデアの腕の中で睡眠状態になりかけていたファの鼻が数回ひくつくと、彼女の眼は覚醒し、大きく見開かれた。





がばっと身を起こすと、彼女の視線は一点……メディアンが淡々と並べていく料理にくぎ付けになってしまう。
いや、彼と彼女、というべきか。ある意味ではファ以上に料理に熱い視線を向けている男がいる。






「可愛いものだ……竜というのも、子供時代はこういうものなんだね」





ネルガルが苦笑交じりに呟くように言葉を発すると、そこに反応したのは意外な事に今まで沈黙を保っていたヤアンだった。
彼は料理に目線を向けたまま、何でもないかのように竜族の論文の一節をすらすらと口にする。





「“人は人に近いものとして産まれてくる”あまねく知性を持った存在は“知性を獲得する能力”をもって産まれる。竜にも同じことは言えるのだ」





獣に育てられた人間は獣に、人にふれあって育てられた人間は人間に。ならば竜に育てられた竜が竜に成長する、ただそれだけの単純な因果をヤアンは語る。
ネルガルがそれに応じて議論が始まりそうになる空気が場に漂いかけるが、イデアはそれをよしとはせずに発言し、空気を霧散させていく。
パンパンと手を叩き、イデアは“力”を使ってメディアンの手助けをし、幾つかの皿やスプーン、水瓶などをテーブルの上に並べる。






「さ、ご飯にしようか。皆も色々と待っていたみたいだからな」






「同感だ」






余計な言葉は一切用いず、ヤアンは衣服の襟などを正すとテキパキと食事の準備を進めていく。
全くぶれを感じさせないその態度にイデアはため息を吐くと、肩を竦めた。





「みんなに料理と盃は行きわたったかな?」






僅かな時間の後に、全ての料理を配り終えた地竜が隅々まで見渡して確認する。
ソフィーヤ、ファ、ヤアンには果物を潰して作られたジュースを、イデア、ネルガル、アトス、アンナのために空いている空席には果実酒で満ちた盃を。





ふわり、と空気が一瞬揺れると、一切の気配も音もなく、唐突に空席にアンナが現れる。
まばたきとまばたきの間に移動したように、刹那の隙に彼女は出現した。
嫌味にならない程度に振りかけられた、上質な香水の香りを漂わせ彼女は謎多き美女として胸中が読めないあやふやな笑顔を張り付けて、周囲を見渡した。





真っ赤な金で縁取りされたドレスを身体の一部と思わせる次元で着こなしたアンナはこのまま貴族の祝宴に出ても問題ない程に輝いた姿をしている。





「間に合ったようですわね」





大急ぎで来たのは間違いないはずなのだが、その泰然とした様子は先ほどの男性二人とは対極。
間に合って当然、それでいて優雅に、違和感なく彼女はここに居る。





家主のメディアンがイデアに目くばせをすると、そのまま彼女は家臣が控えるようにイデアの背後に位置どった。
イデアが椅子から立ち上がると、その場の空気が全て彼の元に集い、支配され、全員の意思が彼に向けられ、ファでさえ沈黙してイデアの言葉を待つ。






「長い前置きはしない。我々の出会いに」






当然の如く盃をイデアは掲げる。
たったそれだけの動作には力強さと気高ささえも内包させ、鷹揚に、超越者として彼は堂々と振る舞い、宣言した。






───乾杯。







それに続き、幾つもの声が斉唱され、多くの盃が宙に掲げられた後に、宴が始まる。




とても奇妙な宴。
人と竜、そしてかつての竜の大敵であった神将さえも混ぜ合わせた暖かな一幕。
思わず近場に住んでいる者達さえも引き寄せ、土産をもって参じる者が続々と現れ、あれよあれよという間に大勢が参加するほどのどんちゃん騒ぎへとあっという間に発展していく。





活気が活気を呼び、定期的に行われる花火以外では娯楽が余りない里人は目の前に差し出された面白そうな事に我さきへと飛びついてしまう。
もはや長であるイデアでさえ止めることの叶わない場の流れ。





人、竜、竜人、全ての者が酒を飲み、旨い料理に舌鼓を打つ。
眠ってしまった子をあやす親、酔ってしまった妻を介抱する夫、顔を真っ赤にした魔道士など、様々な者が入り乱れる酒宴。
“理想郷”とネルガルに名付けられた世界がここにはあった。







数千年前、戦役より遥か過去。人が竜と触れ合い始めた最初期の様な光景。





この愉快な喧騒は数刻の間続いたという。













あとがき





2か月とは本当にあっという間です。
描きたい場面を絞ってもまさかここまで掛かるとは。
キャラが多くなると、空気化する者も出そうなので、そこらへんに気を付けて書いていきたいですね。



コンパクトにまとめたいですが、書きたい所も多い。困ったものです。





では皆様、また次回の更新にてお会いしましょう。









[6434] とある竜のお話 前日譚 二章 3 (実質16章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2014/05/14 00:59

里の一角、そこには無数の色とりどりの花が咲いていた。



赤、青、黄色、桃色、様々な花の色があるが、その茎は全て等しく鮮やかな緑色に統一され、それが逆に見る者らに特殊な感慨を与えることだろう。
丁度里から少し離れた場所、オアシスの開けた空間にひっそりと咲き誇る花畑は幻想的な魅力を発揮し、新たな里の者の憩いの場所となりつつある。





これらの花々の種は潰し、粉末にした後に煮込むなどの幾つかの特殊な加工を繰り返し蒸留すると、とても美しい粉末になり、それは絵具の原材料となる。
しかし色彩そのものは高価な岩石を用いた岩絵の具には数段劣り、そしてこの粉によって作られた絵具は劣化の速度が速いという欠点もあった。
ネルガルは優れた術者ではあるが、彼はそこまで金持ちではないために少しばかり譲歩した結果が花の種を用いた絵具である。





だが、正直な話この花畑は元来の目的であるネルガルの趣味の為の絵具つくりという目的に対しては余り役目を果たせてはいなかった。
第一に、ここの土壌は当初ネルガルが見越した通り栄養豊富なのは間違いなかったが……豊富すぎたのだ。
結果、花々はすくすくと存分に育ち、まるで王族の庭師が整備したような、見事な大輪の花を咲かせる結果を“魅せ”た。





何時の間にやら里の隠れた名所になってしまったこの場所を無くすのは心が痛む思いをネルガルは抱いてしまった。
刈り取る? これを? 本当に? よりにもよってソフィーヤやファがよく遊び場として使うここを?
これは問題だ、困ったことになったとネルガルは悩む。絵を書くのにこの花々の種は必要だが、まさかこうなってしまうとは彼も想像できなかった。





彼の葛藤は思わぬ形で終息することになる。ソフィーヤの母であるメディアンの存在だ。
彼女は“地竜”と呼ばれる極めて高位……この里の中でイデアとファを除けば最高位の存在らしく、その権能は大地にまつわる全てに至る。
竜の力の一端として彼女はネルガルに思わぬ形での回答を与えてくれた。




大地の全てを支配する。こういう抽象的な言葉では測ることが出来ない程に、地竜の力は深く、強い。
それをネルガルは目の前でまざまざと見せつけられ、力の一端のおこぼれを受けることが出来た。




ボロボロの土塊を彼女は手の中でほんの僅かだけ“力”を吹き込んで握りしめると、竜の掌から現れたのは見事な光沢を放つ鉱石の数々。
真っ赤な、血液の様な辰砂。通常では滅多に市場に出回らない最高級の岩絵の具の原材料である澄み切った青さを誇る藍銅鉱。それ以外にも様々な鉱石たち。
一つ一つが売り払ってしまえば邸宅を建てることが出来てもおかしくない程の価値を持つ石の数々を彼女は安酒でも振る舞うようにネルガルに差し出した。





思わず手に取ってしまったマカライトをネルガルはさすがにこれだけの量はもらえないと言って返そうとしたが
竜は子供たちに素晴らしいモノを見せてくれた礼だと言って譲らず、彼は結局全て受け取ることになってしまった。





そういったごたごた事が起こり、この花畑はとりあえずこのままという事になる。そして、今ネルガルはイデアと共に花畑から少し離れた位置に陣取り、ゆったりとしていた。
木製のイーゼルを大地にセットし、黄味掛かった紙を板の上に配置した彼は、しきりに顔を傾げて唸り声をあげている。
どうにも煮え切らないといった顔を浮かべるネルガルの様子に、彼の隣で遠くに視線を向けているイデアだ。彼の眼の先にはソフィーヤとファが花畑の中で戯れ、歓声をあげる様子が見えた。






「どうした?」





長としての仕事を速攻で終わらせ、早い内から二人の童の遊戯に付き合っている竜の言葉にネルガルは恥ずかしそうに俯き、絞り出すように声をあげた。
彼の視線はあちこちを彷徨い、最終的には神竜と混血の少女に固定される。





「いや……絵を描こうと思っていたのだが……何を書こうか途中で忘れてしまったのだよ」





ははは、とイデアは苦笑すると、片腕を差し出した。
ゆったりとした白いローブの裾から細腕が突き出され、その掌に乗っているのは真っ赤なリンゴ。
光沢を放った表皮は新鮮味と瑞々しさに溢れかえり、形状、大きさ共に、人が想像する“リンゴ”という形を突き詰めた様な見事な出来。





絵の対象とするのには申し分のない素体だが、ネルガルの顔は固い。彼は知っている。
この里の中で密かに流行っている、眼前の竜が生み出した存在の事を。生き物として成立しているのがありえない、まさしく冗談と悪ふざけの権化を。






「…………判っているぞ。このリンゴは動くのだろう?」






「残念だが、これは違うんだな」





子供の様にイデアは屈託なく笑った。500歳になる彼は時々こういう顔をし、肩から力を抜く。
リラックスする術をイデアは心得ていた。余裕をもち、現状を冷静に見つめる眼を使いこなすために必要な息抜き。
そのまま彼は大きく口を開けて思いっきりリンゴに齧りつく。滴る果汁に、飽和する甘い香り。





むしゃむしゃと口をしっかり閉じてリンゴを咀嚼しつつ、イデアは懐からもう1つのリンゴを取り出し、ネルガルへと差し出す。
ごくん、嚥下した竜は穏やかな声で人間の魔道士へと言葉を投げ、竜は脱力した様子で空間に“力”で作り出した黄金の椅子へと腰かけた。
受け取ったリンゴをネルガルが様々な角度で確認する様はまるでいたずらに警戒する子供の様でもあり、それをイデアはおかしく思い笑ってしまう。




縦に伸ばそうと、横に伸ばそうと、はたまたヘタを引っ張ろうとそれは何も動かないよ、と竜は内心で微笑み、思う。
ネルガルが何かを思い出したかの様に突如動きを停止させ、イデアは、ん、と顔を傾げた。
目の前の男の眼が先ほどと少し違う。穏やかな空気はそのままに、彼は芸術家としての顔を覗かせ、何かを思案しているようだ。





イデアは忍耐を行使し、ネルガルが何かを言うまで待つ。やがて人間の魔道士は暫しの沈黙を破り、舌を動かした。





「今更思うのだが、あれは“何”なのだ?」





アレが何を意味するのか分からないイデアではなく、竜は頭の奥底で道筋を考える。
道理と感情、長と個人、両方の垣根に照らし合わせ口から出す情報を選別し仕分けするのだ。
思考の時間は一瞬。半秒の後に竜は答えを導き出した。名称だけならばいいだろうと。






「術の名前、いや……種族の名は【モルフ】という。生命力によって作り出される疑似的な生命体だよ」





説明はここで終わりだという雰囲気をイデアは意図的に放出する。
何故ならばモルフ関係の術は今の所、いや、今後も教えるつもりはないのだから。
爬虫類の様に瞳孔を裂けさせた、竜の顔を晒す神竜にネルガルは色々と察したらしく話題を変えるために声のトーンをわざとらしく高くした。





「……この里に来てから私は長殿に色々と与えてもらってばかりだな」





「住居、食事、娯楽、知識等々だな……だけど、代わりにソフィーヤやファとよくしてもらってるのは感謝している」





事実ネルガルはソフィーヤと一定の交友があった。
ファが誕生する前に絵画を通して面識が出来た程度だが、不思議と彼はソフィーヤと一緒に居ることが多い。
更に付け加えるなら、アンナもネルガルにはアトス以上に興味があるらしく、命令するまでもなく自主的に彼の監視を行っているようでもある。




イデアの眼が、ネルガルが持って来ていた荷物へと向けられた。
そこにあるのはお世辞にも質がいいとは言えない無数の紙と、そこに描かれた様々な作品たち。
芸術という分野にもそこそこ興味がある竜は作品に視線を向け、次いでネルガルに顔を向けた。






「絵が好きなのかい?」





「気が付いたらいつの間にか技法に詳しくなっていただけさ。ちょっとした術を使うのに必要な知識だったんだ」





生物の基礎構造を学ぶためのデッサンをイデアは何度も行っていた。
ナーガが残した人体をはじめとした様々な生物の解剖図を読み漁り、それを模写し続けた結果、イデアは生物の構造をある程度把握してしまっている。
筋肉の付き方、骨格、神経系、血管の配置、その他様々な構造を理解し、掌握しなければ【モルフ】や【マンナズ】を創造することは出来ないのだから。





不器用なのだ。イデアは。ここは500年前と余り変わらない。
結果的に【マンナズ】の創造を可能にしたとはいえ、そこには人間の生涯を丸ごと使うほどの時間が掛かってしまい、人型完全自律モルフの作成も中々に進まない。
【ゲスペンスト】【エレシュキガル】などをはじめとした超破壊魔法の各種の行使は得意でも、そういった補助の分野では里の中でイデア以上の存在は探せば少なくないだろう。





かつての過ちで作り上げた出来損ないの、モルフにさえなれなかった存在は彼の中では忘れてはならない戒めとなっている。
きちんと計算されなかった両手と両足は長さが全部バラバラで、腕や足に付いている関節の数も3つから9つ程度もある生理的な嫌悪を大いに煽る外観。
顔は人間と犬と頭蓋骨をごちゃ混ぜにしたような世にもおぞましい異形の存在。おまけに発する絶叫は喉が潰された犬の遠吠えの様に耳障り極まりないあの存在。





今となってはかわいそうな事をしたとイデアは思っていた。
あの存在に魂や心が宿っていたかは不明だが、二度とアレは作らない。
そう決めた。今のイデアに出来る償いと謝罪はそれだけだ。







「……興味あります」






ファと手を繋ぎ、いつの間にかイデアとネルガルの傍に移動してきていたソフィーヤは淡々と言葉を発し、ネルガルの荷物の前にしゃがみ込んだ。
彼女の少しだけ執着さえ含まれた視線は、ただ一点、ネルガルが今まで描いて来ていた絵たちに向けられている。
言葉ではなく、態度で魅せてほしいと頼み込んでくる彼女に男は苦笑すると、包み込むように柔らかい声で言った。





「何か気に入ったのがあったら教えてほしいな。今後の参考にする」





「……ありがとうございます……………?」






ネルガルの顔を見て、感謝の言葉を告げるソフィーヤだったが、その言葉の最後に奇妙な疑問を挟んだのをイデアは感じ取る。
もしかして、また何かを“見た”のかもしれない。そう思ったイデアは彼女に声を掛けた。





「どうした?」





「…………何も、見えませんでした」





ふるふると彼女はすみれ色の髪を振り、眼を瞑って答える。
何だソレは? とイデアは思ったが、ソフィーヤの言葉が少しばかり抽象的で、掴み所がないのは今に始まったことではないのでそういうものだと思って流す。
いや、もう少しばかり深く聞いた方がいいかもしれない。何が見えたにせよ、見えなかったにせよ、彼女の力は油断ならないものだから。






「おとうさん!」





口を開こうとしたイデアに、ソフィーヤの隣で今まで黙って会話の成り行きを観察していたファが辛抱ならないと言わんばかりに父の腰へと飛びつく。
腰に手をまわし、ぐっと頭を押し付ける娘の姿に竜は毒気を抜かれたように微笑んだ。鮮やかな色をした毛髪を頭皮と一緒にマッサージするように撫でてやると、ファは嬉しそうに喉をならす。
翡翠色の双眸が腹部から覗き上げ、その中には自分に対する信頼と友愛が溢れていた。




彼女の身体には、今まで花畑の中心に居たせいか、香しい匂いが付着していた。
父の衣服を思いっきり握りしめたまま、ファは言葉を続ける。




「あのね、お父さんに“おはなの冠”をつくってあげようと、思ったの……でも」





「でも?」





「………おはなも、ムシも、みんな、生きてるんだよね? 生きてるのをファのかってでひどい目にあわせるのは……いやだったの。ごめんなさい」






花畑の、先ほどまでファとソフィーヤが居た場所に“眼”を送る。、
二人はどうやら花を踏まないように気を付けていたらしく一つも折れた茎などはない。




イデアは娘の言葉に歓喜を覚えるのを誤魔化しきれなかった。実に素晴らしい成長をファは今示してくれたのだ。
抑えるのを放棄した感情は爆発的に膨れ上がり、神竜は笑顔を浮かべ、ファを思わず抱き返していた。
背中をさすり、何度か優しくたたいてやると、ファは脱力して父の腕に身を任せてされるがままになる。





少しだけ溺愛しすぎかもしれないが、イデアはファを褒めたくてしょうがなかった。
力を使う際の最も基礎的な事をファは理解しようとしている。例え何処かで失敗を犯したとしても、今彼女が言った事を判っていれば幾らだって取り戻せる。
建前だ、理想だというかもしれない。いずれ世界が綺麗ごとだけではないと理解してしまっても、この思いさえ忘れなければいい。





「お前は悪くない、むしろ限りなく正しいことをしたんだ。エーギルを紡ぐ存在への尊重と敬意を忘れちゃだめだぞ」





口から出てくる言葉は自分でも意外な単語ばかりでイデアは我ながらむず痒ささえ覚えたが、ファにしっかりと言い聞かせるように、イデアは注意を払う。
少しだけ体からファを引き離し、肩に手をやり、眼をしっかりと見て真正面から、一言一句、全てに細心の注意を込めて言葉を紡ぐ。
やはり、ファはイデアの言葉の“意味”を理解しきれなかったようだが、今、自分が語った思いが肯定されたことは判ったらしく、花が咲くように笑った。








イデアは懐から更に2個、普通の食べられるリンゴを取り出すとそれぞれファとソフィーヤに手渡した。
うわーいともろ手を挙げて喜ぶ二人を横に、ネルガルは沈黙を保っていた。





……“エーギル”





本当に小さな、いや、そもそも呟いてさえいないのかもしれないが、ネルガルはその単語を心の中で何度も何度も反芻させていた。
音波の如きさざなみが心の奥底に広がり、優秀な魔道士である彼の頭脳はこの里に来てから何度か耳にしている単語の意味を自ずと推測できる。
エーギル、エーギル、竜族の技術の一部、どれほど根源的で基礎的な分野でさえその単語は絶対に現れ、存在感を発し続けていた。





何処か懐かしい響きだと思う自分がいることに彼は気が付いていた。
似ているような単語など幾らでもあるが故に、既知感を抱いているだけかもしれないが。
いや、いや、いや、違う、違う。思えばネルガルは【モルフ】という単語も何処かで知っていると思っていた。





闇の向こう側から単語を、耳元で囁かれたような不快感。
記憶の中に無理やり知識をねじ込んでくるようなおぞましさ。代償など自分は払った覚えはない。
そうだ、ネルガルは自信をもって断言できる。自分は確かに闇術者になったが知識の代価として大切なモノを持っていかれたことなどないと。







「これ……」






「あ? あ、ぁあ……すまない」






許可を得てネルガルの絵を漁っていたソフィーヤが彼の前に1枚の絵を示す。
両腕を大きく広げて、横幅の広い紙の両端を指を真っ赤にし、震えさせつつ握りしめる少女がネルガルに見せたのは壮大な景色が描かれた絵画。
白を基調とした絵だった。背景は奥深く、雪に深く閉ざされた山脈が描かれた絵。
真っ青な空と転々と浮かぶ雲、そして雪で覆われた山が素晴らしい対比を見せ、一枚の作品としての完成度をこれ以上ない程に高めている。






ネルガルの横でその絵を見たイデアが感心したような息を漏らし、小さく言った。




「この山は……イリアの奥深くか。詳しい場所は判らないが」




ファの頭に手をやりつつ、紡いだ声には称賛の念がありありと含まれ、竜の視線を絵は釘づけにする。
幼き竜の娘はまだ美術という分野を余り認識していないせいか、ネルガルの絵を見ても、興味の薄い声を少し漏らすだけだ。
少しずつ時間が経つにつれて今の恰好が苦痛になってきたのか、手の震えと顔の赤みを強くさせてきたソフィーヤはそれでも絵から手を離そうとはしなかった。





「………いい絵です……綺麗で、暖かくて……思いが篭っています」





ソフィーヤは語る。自分がこの絵から受け取り、感じ取った強い念を。
一目見て気に入ってしまった。絵の描写力はもちろんの事、その中身に彼女は強く惹かれたのだ。
かつての父から受け取った愛情を想起させるほどに深く、純粋な暖かい気持ちを胸に灯させられた混血の娘は彼女にしては珍しい程に語気を強めた。






「あげるよ。前にも言ったが、私の作品に感銘を受けてくれたのは……本当に喜ばしい事だからね」






最初に同じ言葉を発した時と同じく、柔らかい声でネルガルはソフィーヤに告げる。
自分でも不思議に思うほどに友好に満ちた声だと彼は思った。
確かに自らの作品を褒めてもらえるのは嬉しいことだが……これは少し違う。






「話には聞いていたが、こうして見るといっそう判るよ。お前は実にいい絵描きだ」





「褒め過ぎさ」





「そう、謙遜するな。俺は本当にだな」





「私をそんなに褒めても何も出せないぞ?」





いや、いやとイデアが更に褒め言葉を続けようとするとネルガルもイデアと同じようにいや、いやと繰り返す。
同じことを何回か行うと、イデアとネルガルは微笑みあった。まるで気心が知れあった仲間の様な感覚を両者は抱いていた。
親近感、というものか。何処か本質的な所で自分達は似ているのかもしれないとさえ思うほどに。





金糸の少年と壮年の域に片足を踏み込んだ両者が笑いあう様を童2人は黙って見つめると、次に顔を向け合い、交互に顔を傾げあった後にソフィーヤが力強く宣言した。





「……これが“男の友情”……というもの………」






「おとうさんと、おとうさんの“おともだち”だね!」





二人は無邪気に笑いあう。そして次にソフィーヤは考えた。
そろそろ広げていた腕が我慢するのが難しい程に痛くなってきた中、ナバタの巫女は考える。




……これ、どうやって持って帰ろうかと。























イデアは少し悩んでいた。
里の運営などは全く問題ではないが、ファの教育とアトス、ネルガルの件だ。
彼にとって予想外だったのはファの成長の速さだった。教える度に娘は次から次へと言葉を吸収し、更に、更にとねだってくる。



それが嬉しく、里の仕事と両立させつつも出来るだけ自分が娘に望まれるがまま、相応だと思われる知識を分け与えつづけたのだが。
気が付けば、既にファに教える基礎的な学習はほぼ全てが終わってしまった。




次に必要なのは連帯感や責任感、少しだけ踏み込んだ第二の基礎知識だ。
そしてやはり忘れてはいけないのは竜の姿への戻り方と、竜の力の扱い方だろう。




一言で神竜の力と言っても、その用途は多岐に渡る。
モルフ作成は言わずもがな、竜の力の増幅と回復、世界の書き換え、竜化、竜族魔法の行使、秩序の支配……。
ファはまだまだ生まれたてで出来ることも少ないが、それでも決してその力は馬鹿に出来るものではない。




胸の内側で燃え盛る“太陽”の存在をまずしっかりと把握する。これが大前提だ。
自分に何が出来て、何が出来ないか、そして手を出してはいけない領域を見定める客観性も忘れてはならない。
歴史、竜族言語の更に踏み込んだ文法や用法、更には言霊を宿した“単語”も教えるのだが……教える自分が何処までやればいいかしっかりと線引きすることも大事だ。






次いで考えるのはアトスとネルガル。当然のあの二人も教えて欲しいというのは判るが……。
正直に言ってしまえば、イデアはこの二人の扱いに関して決めあぐねている。
教えない、といえば当然二人は表面上はともかく、内心では嫌がるだろう。




何故? とは言うまい。自分が何を思ってお預けをしたかなんて両者ぐらいになれば幾らでも理性では納得するだろう。
だが魔道士としての本能、欲望、探究心は違う答えを出すかもしれない。もっと手っ取り早く、もっと簡単に知識を奪ってしまえと必ず囁くはず。






それはリスクになる。とびっきりの魔道士二人が竜族の知識の為に何かしでかすという事も十二分にありえる。
いい年した大人が何をと思うかもしれないが、それが魔道士という人種だから仕方がない。
普通の知識ならばともかく、ここでしか手に入らない、いわばこの世で最も莫大で高次元の叡智を前に冷静で居られるのだろうか。





ファと同時に教える場合もそれなりのリスクはある。ここから始まる教育は更に踏み込んだ内容となる。
エーギルという概念と“力”の密接な関係。それらを用いる技術。歴史、言語、思想、種族、武器、兵器、魔道……下地の上に更に基礎を組み立てていく。
これらを二人がモノにした場合、それは潜在的に厄介な敵を産み出す事になる。こちらがもっている優位性を脅かしかねない存在の芽が出来てしまう。






前にも考えたが、二人には出し惜しみする必要がある。
最も秘匿すべき情報は、【門】関連だ。あれを人間が稼動させることは出来ないが、だからといって知られてはいけない。
次は、イデアたちが外界の情報を仕入れるのに精霊の協力を得ていること、里の防衛戦力。





貴重な食料を少しずつ虫食いしていくように、少しずつ、少しずつ。
知られていい、イデアにとってはどうでもいい情報だけを流して、飼い馴らさなくては。





とりあえず、まずはフレイとの打ち合わせが必要になるだろう。あの老竜はありとあらゆる可能性を提示する。
メリットデメリット、そしてデメリット同士を天秤で測る必要があるが……既にイデアの中では現状の維持、つまりはファの教育と合わせて二人に知識を与える方向に傾いてもいた。





潜在的な敵になるかもしれないが、それは裏を返せば心強い味方になるかもしれないという可能性もあることだからだ。
大賢者とそれに比する術者が仲間になるというのは、実に喜ばしい事であり、神竜はそうありたいと思っていた。
外の世界ではともかく、せめてこの里の中だけでも人と竜は敵対するものという構図をひっくり返すつもりだ。




玉座に腰かけ、静かに瞠目しつつこれからの光景を頭に描いていたイデアだったが……彼は不意に開眼すると大きく背伸びをした。
透き通った青い光景を眺めつつ、彼は“眼”を張り巡らせつつ、思いに浸る。
結局のところ、どう思い通りに計画を実行しつつも必ずと言っていいほどに何処かで齟齬が出るのはもう判っている。






上手くやれたと思えば思うほど、その思い上がりのせいで計画のミスに気が付かなくなることも知っている。
うん。もう少しフレイと深く意見を交わしてこの件は煮詰める必要があるかもしれない。そうイデアは思った。

























彼女が産まれて初めてみた景色は、蒼い水晶だらけの玉座の間と、自分を見上げてくる“仲間”の瞳だった。
生物としての根源的な知識として彼女は一目でその存在が自分の“親”だと本能で理解する。
全身に流れる血よりも深く、活力を生み出し続ける細胞よりも根源、この身を形作るエーギルはこの存在から作り出されたのだと。





右、左、上、下、自分と他者。暗い、明るい。
その程度の概念しか与えられなかった彼女はまだ言葉という概念さえ朧にしか理解できなかったが、その中でも彼女から見たイデアは親なのだ。
現状、この世界で唯一の同族であり、父親であり、そして彼女が頼れる存在。





世界でたった一つの正真正銘の“おんなじ”存在。他の竜とも違う。火竜でも氷竜でも、地竜でもない。
同じ波動を持つ神竜なのはファが知っている限りイデアだけ。




父親の存在を更に近く感じるために産まれて初めて嗅覚を使用し、嗅ぐ。
古い書物の放つ歴史が刻まれた匂いと、石鹸に用いる花の匂い。初めて理解する感覚。
そっと、囁かれた言葉によって真実、彼女は一つの存在として確立する。





物理的な誕生を経て、概念的な誕生を果たしたのだ。名を付けられ、名もなき竜は一つの存在として新生を果たす事に成功した。





お前の名前は────フ───────ァ─────、だ。





彼女……ここに生誕したファは竜族であるが故に自らの名前の全てを聞き届けていた。
長く、それでいて幾多もの試行錯誤という経過の後につけられた名前は、初めて聞く単語だというのに、最初からそうあるべきだったようにしっくりくる。
無意識の内にファは大きく口を開けて、喉の奥底から感謝の念を吐き出す。




だが、それは声どころか、音にさえならなかった。
甲高く、掠れた振動でしかないが、彼女の父親はそれで十分にファが言いたいことを理解したようだ。
瞼が落ちていく中、竜は自らの身体が暖かい光に包まれていくのを朧に感じ取っていた。






それが、ファとイデアの初めての出会い。娘が見た最初の父の姿。


























ナバタの里の外れにイデアはファを連れて出歩いていた。時間としてはまだ朝方だ。
里の道に何人か歩いている者こそいるが、それでも昼の様な活気は微塵も感じない。





付近には色濃く冷気が漂い、生きとし生ける者の体力を容赦なく奪い去っていくのが道理の世界。
しかしその道理は神竜の前では意味を成さない。黄金色の薄い光がファの周りを泡の様に包み込み、彼女の周囲だけ人が生きるのに快適な温度へと調整する。




ファの隣を歩くイデアは娘の歩幅に合わせつつ、余裕をもたせた態度で歩を進めていた。
その上で時折ファに視線を走らせて、彼女が疲れていないか等、常に気にかけている。
常時僅かな量のエーギルをファに注ぎ込み、イデアは娘の体力をこれから行う事の為に万全の状態を維持し続けてる。




ぶらぶらとファが手を差しのばしてくると、イデアはそれを片手で暖かく握ってやった。
一定の地点……丁度里の全景が目の前に見える程の距離まで進むと、神竜の親子は足を止める。
ふぅ、とイデアは懐に忍ばせたファの竜石に指を触れさせ、息を吐いた。






娘はそんな父の様子を黙って見つめつつ、何を話そうか必死に考える。
子供の頭の速度では一度言おうと思った事さえも新しく浮かんできた発想で上書きされてしまうため、中々どういう風に発言しようか定まらない。





真っ白な吐息が風に吹かれて消えていく中、ファは父を見上げ、ようやく思いついた事を言った。
あらかじめ説明は受けているが、それでも聞きたかったのだ。
ぎゅっと纏ったレモンイエローのマントの裾と、父の手に力を込める。





「おとうさん、今日、ファがファの“すがた”にもどる?」





産まれたあの時以来、一度も竜の姿に戻ってはおらず、そろそろ自分が竜の姿に戻れることさえ忘れてしまいそうだったファは不思議そうに眼を瞬かせた。
そんな娘の様子をイデアは懐かしいモノで見るような視線をもってしまい、遠い過去と現在とを同一視させかけてしまうが、すぐに意識を目の前の娘へと戻す。
今、お父さんは誰を見ていたのだろう? ファは一瞬頭の中に浮かんだ疑問に対し、更に深く疑問を覚えた。何で今、自分はお父さんが自分を見ていないと思ったのだろうと。




だが、次の瞬間にはイデアはしっかりとファを“見て”彼女に対して言葉を送り込んだ。





「そうだ。これをしっかりと覚えれば、体の一部だけを戻す事も出来るようになるぞ」




ファの手の上に置かれたのは紛れもない彼女の竜石。
今までイデアが預かっていた彼女の力を返したのだ。
両手で幼い竜は石を強く握りしめる。そこから発せられる力、秘めたエーギルにファは“意識”を伸ばし、軽く石の中をノックした。





さながら宝物殿に眠る宝を取り出すかの如く、そこに取り付けられたカギに手を伸ばし……何かが開く。
ピタリと何かが彼女の中で一致する。一つのカギと錠の如く。




イデアが数歩下がった。
竜化の際に膨れ上がる質量の渦に巻き込まれるのを避けるためだ。
過去に竜化した姉に痛い目にあわされた経験もその判断を後押しする。





あの時は全身をズタボロにされたものだった。しかも彼女に害意はなく、純粋な遊び感覚でそうなってしまったのだから恐ろしい事故だ。
そうだとも。竜化した際の何気ない挙動がいかに危険かも教えなくてはならない。
もしも人間の時と同じ感覚で人などに触れたら目も当てられないことになってしまう。






黄金が、膨れ上がる。
目視できるほどの高濃度のエーギルが渦を巻き大量の大気と砂塵をかき混ぜながら一点へと収束を開始。
黄金光が糸の様に細長い輪を描き、ファの周囲をグルグルと回った。





二重の螺旋を描き、輪舞する黄金に呼応しファの人としての姿が“解け”ていく。
四肢が、腹部が、頭部が、糸を解かれた手編みのマフラーの様にボロボロと消滅し、再構築の為の解放を達成。
光の粒子となったファを構成していた黄金が、周囲を囲み回転を続ける黄金の螺旋へと合致する。






崩壊が終わり、そして創造の時間へと段階が移行。
螺旋がグルグルと回転速度を天井知らずに上昇させ、更に多くの粉じんを巻き上げ、小規模な砂嵐さえ発生させて周囲を覆い尽くす。
二つの光の距離が徐々に、徐々に接近し、やがては連結された一つの輪へと姿を変えた。




黄金色に光る輪だ。そこには音もなく人間の胴体程の幅を持つ黄金の輪が宙に固定されるように静止していた
エリミーヌ教の聖書に存在する天使という存在が頭上に掲げる神聖なるモノの象徴に似寄りしていると見たものは恐らく語るだろう。





環状の黄金が更に回転を続けながら小さく小さく全体の幅を狭めていく。一点へ、輪という形状から“点”への移り変わり。
完成された、さながら尻尾を噛んで離さない蛇の様な形状の内にどれほどのエーギルが流れていくかを眼で見て理解したイデアは感心したように頷いた。
黄金の点にまで圧縮された光が、弾けた。フレイボムを10個単位でまとめて同じ場所で起爆させれば同じような光景になるだろう。
一瞬で自らが巻き上げた砂塵を全て消し飛ばし、小規模な衝撃を撒き散らしながら激流の速度で新たな体を作り上げていく。







膨大なエーギルが概念から物質へと移り変わる。





完成したのは1対の翼とまだ鱗もなく、羽毛に覆われた身体。
全体的に言えば、竜というよりはヒヨコを連想させる丸みを帯びた姿。
身の丈はかつてのイドゥンやイデアよりも一回りほど小さく、未成熟だ。





四つん這いの状態で、頭をイデアへと向けて突き出した格好の竜は小さく安堵するように息を漏らした。
父親に言われたことを一回の挑戦で出来たことはファの自信へと繋がっていく。





翡翠色の眼が父を見つめていた。人間時と変わらないあどけない瞳がイデアに向けられている。
ここからどうすればいいのか、次は何をすればいい? そう視線は問いかけていた。
それに対してイデアは一切の恐怖など感じず、淡々と支持を出す。






「軽く体を動かしてみろ。手足や翼は問題なく動くか?」





父親の言葉にファは首を振り、周囲を見渡した後に尻尾で器用に重心を保ちながら後ろ足2本で立ち上がる。
何度かたたらを踏むが、それでもファは数回でコツをつかんだらしく、人間時と同じように二足歩行を始めた。
一歩ごとに重量で砂が大きく沈み込むが、むしろ砂がファの体重を大きく吸収し、足腰への負担は少ない。





イデアの様子を伺いながら何回か父の周りを回遊したファは最後にイデアの前に来て頭を下げると……思いっきりイデアの顔を舐めた。
侮蔑ではなく、親愛を表する行動の一つとして彼女は飼い主にじゃれつく犬の様に鼻をピスピス鳴らしながら時折甘噛みを挟みつつ丁寧に父の顔に舌を這わせる。




あぁ、やっぱり。またこうなったか。地面を玩具の様に転がされないだけマシだが、これはこれで問題がある。
かぽっという音と共に頭部を丸のみにされ、飴玉の様に頭を撫でまわされつつイデアの脳裏をそんな言葉がよぎった。
親愛の甘噛みは問題ないが、もしも何かの間違いでファが本気で自分を噛み砕こうとしたら……さすがにその時は叱らなくてはいけない。






どん、っと不意に腹部に振動を感じたイデアは思考を中断する。どうやら何かが自分の腹部にくっついた様だった。
ぐるっとベルトの様に体を一周したそれから感じる感触と暖かさは人のモノだろう。
誰が今自分に抱き付いているのか“眼”を用いて確認すると、イデアは僅かに驚いた。





どうしてここに居る?




両手を動かしてファの喉を優しく触り、数回叩いた。
ファはその行動の意味をどうやら理解したらしくイデアの頭をすぽっと覆い尽くしていた口内から解放し、ゆっくりと後ろへと下がっていく。
涎でべちょべちょになった顔は砂漠の夜風に吹かれてスースーとするが、神竜はそれを気にせずに視線を落とす。





ソフィーヤがそこにはいた。
何故かは判らないが、彼女は今にも涙がこぼれそうな顔で必死に抱き付き、口元をぎゅっと引き結んでいる。
イデアと視線が合わさると、彼女の顔に浮かんだ感情は安堵と安心。目尻から涙を零しながら脱力していく。




嗚咽を漏らす彼女に、はて、自分が何かしたかな? と考えると、不意に答えが浮かんだ。




イデアは思い至る。
ここに彼女が居る理由は判らないが、先ほどまでの自分の姿を第三者から見たらどういう風に映るかと。
頭をすっぽりと竜の口の中に加えこまれ、腕をだらんと脱力させて身動き一つしない姿は……どう見てもアレだ。




よりによってその場面を、感受性の高いソフィーヤに見られたらこうもなる。





「……あ、わ、わたし……イデア様が……食べられた……って、……よかった」





「悪かった。しかし、どうしてここに? メディアンは許したのか?」






はい、とソフィーヤは小さく答えた。ファが、竜の姿に戻るのを見たかったと少女は続けていく。
彼女が後ろを振り返ると、そこに佇んでいたのはメディアンではなく、何故かヤアンだったが。
また何かメディアンが新しいモノづくりでもしているのか、それとも何か用事が出来てヤアンに保護者役を任せたか。





もしくは、彼女そのものはここにいないが“眼”で見ているかもしれない。
実際彼女は間違いなくソフィーヤから完全に眼を離したりはしないだろう。




その上ヤアンならば監視者としても問題ない。
ソフィーヤと仲は悪くない上に、理知的で強いのだから。





「おとうさん、ファもぎゅってする」





光が弾け、先ほどの逆回しの順序を経て人の姿に変化したファがソフィーヤとは反対の背中側からイデアに抱き付く。
前後から挟み込まれて身動きが取れなくなった神竜は顔に困惑を浮かべると、直後にファが人の姿に戻る術を直感で会得した事実に気が付いた。
余りに自然に、さも当然と行われたからイデアは一瞬だけ何でもない事と流そうと思ってしまったほどだ。





「人化の術を覚えていたのか?」





腰を捻って後ろを見やるとファは悪戯っぽく笑う。
むふんと顔を逸らし、得意満面で彼女は父親に伝えた。
見よう見まねで自分で作り上げた小さな竜石を両手で父親に突き出しつつ、自分が今何をしたのか自慢する。






「みんながね“着て”いるのをマネしたの!」





竜が人の姿に変化するのには人化の術を用いる。
人の姿を取った竜が纏う魔術の香りを神竜の“眼”で見て、更にそれを模倣しただけ。
後は竜族の優れた直感がどうやれば成せるのかを教えてくれた。




抽象的な“イメージ”を頭の中に描き、人の四肢を想像する。
あとは強く人間の姿になりたいと願うだけで彼女そのものであり、力であるエーギルは結果を運んで来てくれた。




更にとファはもう一つの応用を見せる。
お父さんに褒めてもらいたくて、器用な所を見せようと。




竜石が輝き、神竜の力の一部を行使。
共鳴するようにイデアの竜石が懐で光を放出し、それは胸に掛けられたイドゥンの鱗をも眩く照らす。
ファの背中が大きく膨らみ、衣服がびりびりと音を立てて破れ、現れたのは一対の翼。





こがねいろに輝く羽毛で構築された翼。
風をうけて震えている姿は竜の翼というよりも、まだ空に馴染んでいない小鳥の翼だ。
バサッと数回羽ばたくとファの身体は重力を無視して宙へと舞う。




飛行一つをとっても飛竜やその他の鳥達とは次元が違う。
美しさや飛行の原理はペガサスに酷似している。彼らは飛行には厳密には翼を用いておらず、実際は超常の力を用いているといわれている。




厳密には翼を羽ばたかさせての飛行ではないのだ。翼から放出される純粋な“力”で場を支配して自分の身を持ち上げているのが正しい。
ファの身体は天へと向かって“落ちる”ような加速をし、通常の家屋10個分ほどの高さにまで浮かび上がった。




抜け落ちたた金色の羽が吹雪の様に舞い、その中を竜の娘は悠々と闊歩する。
背には沈みかけた月と、今正に地平線から顔を覗かせる太陽を従え、無邪気な笑いと共にファは飛ぶ。
この世の法則を無視して紡がれる人外の美が、未完成とはいえど、そこにはあった。




まだ幼い身だというのに、既にそのあり方には形容しがたい美しさが見え隠れする。





「………………」





その様子をイデアは黙って見つめる。
ファの成長速度を考え、彼女の好奇心の上昇に対して大きな修正を行わなければならないかもしれない。
力をつけた子供というのは、得てして全能感に溺れやすい。自分ならば大丈夫だと思って、大きな事故に繋がりかねない時期だ。




竜の娘が唐突に動きを止めると、飛び上がった時とは打って変わって彼女は力なくイデアの傍らに降り立つ。
ファは翼を仕舞うこともなく、イデアのマントの中に潜り込んで腰に腕を回した。
彼女の雪の中にでも突っ込んで放置したような体温のない体はブルブルと震えている。




当然だ。幾らイデアが加護を与えていたとはいえ、生身で、しかも夜の砂漠の上空を慣れない体で飛べばこうなるのが道理。






「さ……さむぃぃよぉ……………」





ソフィーヤがイデアの前からのそのそと胴体を沿って移動すると、自らが身に纏っていたマントでファを後ろから抱え込む。
かつての彼女の父が使っていた物と同種のコレは竜の術により、常に装着者の体温などを平常の値に固定する作用がある。
イデアが更にその上から自分が着ていたマントをソフィーヤとファを首だけ露出させて覆うように掛けてやった。





彼が着ているローブのみでは普通の人間ならば砂漠では生存できないが、イデアにとっては少し涼しくなった程で対して体感に変化はない。
少しだけ離れて、二人の顔色をイデアは伺う。唇の色、心臓の鼓動、血脈、体温を“眼”で観測し、問題ないのをしっかりと確認。
あと少しすれば、むしろ厚着をしすぎて熱いとさえ思うだろう。





「ありがとう……ございます」





ソフィーヤが深々とお辞儀をし、それを見習ったファが同じように「ありがとう」と言いつつ頭を下げる。
それは形だけの真似ではなく、そこに込められた感謝の意を表すという本質を理解しての行動。
いい傾向だ。ソフィーヤの真面目で、礼儀正しい所をファが見習ってくれるのは喜ばしい。




まだまだ外見年齢的には童だが、間違いなくこの両者は成長すれば美しくなる。
外見だけではなく、内面も様々な経験を積み、立派になるだろう。
その成長を見るのもまたイデアの楽しみの一つだ。




そして姉が戻ってきたら絶対にこの二人とは意気投合すると断言もできた。




男。結婚。恋愛。
だが突発的に浮かび上がったこの3つの単語でイデアの胸の一部に苦い思いが紛れ込む。
女性であるが故に避けられない過程だが……ここで神竜は考えるのをやめた。




この話題は速い、早すぎる。



そうだとも、まだ早い。
それに、ファはともかくソフィーヤは相手探しに苦労するだろう。
チラリと脳内に浮かんだメディアンの顔に苦笑しつつイデアは肩の力を抜いた。





「イデア様」




ん、とイデアが物思いを中断し、何気なくソフィーヤに答えると……そこに見えた光景に思わず吹き出しかけてしまった。
ファが覚えたての“力”を使って黄金の輪をソフィーヤの頭上に浮かべ、彼女の背に張り付いたファが翼だけを左右に大きく露出させている。
ぽかんとした表情のイデアにソフィーヤは口元を緩め、顔を少しだけ後ろに逸らして満足気な顔を浮かべて言った。






「…………今なら、飛べそうです」




「いや、いや、後ろの苦労が凄い見えるぞ」




バッサバッサとファの翼が上下に荒れ狂うが、ソフィーヤの身体は全く持ち上がらず、空しく風を切る音が響くだけ。
今日飛行を覚えたばかりの彼女はまだ少女といえど人間一人の質量を抱えて飛ぶことは出来ない。
これはソフィーヤが重いというわけではなく、ファの力不足なだけ。





竜化すれば話は別だが、さすがに今ここで竜の姿に戻ればどうなるかは彼女にも判る。





お父さんにちょっとあってきます。
雰囲気で言葉を続けるソフィーヤにイデアが答える前に、簡潔に言葉を放った者がいた。
影の様に気配を感じさせずにイデアの隣に存在するヤアンだ。彼は何時もの様に感情のこもらない眼でソフィーヤを、そしてファの翼を見て、彼にしか理解できない思考から言葉を放つ。





「手羽か」





たった一言。だがその言葉には重すぎる程の渇望が込められている。手羽という食材への飽くなき熱意と食欲。
成体にして高位の竜の言霊の強さはそれを聞いたファが思わず自分が皿の上に乗せられる姿をイメージするほど。
粉と調味料をまぶせられて、悲鳴をあげながら転がされる自分。じっくりとコトコト油で揚げられる自分。そして皿の上でフォークとスプーンを構えたヤアンが微笑みを浮かべて見下ろしてくる光景。





「~~~~!!!」





「あ、の……ファ? 少し、苦しい……」





翼を瞬時に消し去り、真後ろからファはお姉さんの胸元辺りを思いっきり締めあげる。
いきなり力を込められたソフィーヤが気道が塞がった鶏が発する様な、潰れただみ声をあげた。
とても幼い少女が出してはいいモノではない声を聴きながらイデアはソフィーヤの後ろに回り込むように歩き、ファの腕を掴み、さすってやる。





ゆっくりと、力を抜いてもいい、安心してもいいと言い聞かせるように。まだ冷たさが残る彼女の腕を撫で、指をソフィーヤから離す様に促した。




少女が力を抜くと、イデアはすかさずファの腰と膝に腕を回して抱き上げる。
首に両腕を回させて姿勢を安定させてから近くに来ていたヤアンに向き直り、口を開いた。
ぎゅっと胸に顔を押し付けてヤアンから視線を外そうとする娘の姿を眼前の火竜は平然と眺め、左右にゆらゆらと体を揺らしていた。






「余り娘を怖がらせないで欲しいな」





「……………」





ヤアンは無言でイデアとの距離を詰めると、ぶっきらぼうに懐から薄い紙に包まれた物体を取り出す。
物体から発せられる甘い匂いと微かに上がる湯気。芋を用いて作られた焼き菓子がそこにはあった。






「……くれるの?」




ファが鼻をひくつかせておずおずと様子を伺いながら手を伸ばす。
火竜は幼い竜の手の上にそれを乗せ、数歩下がった。
何度か焼き菓子を鼻の前にもってきて匂いなどで様子を伺っていたファは、それがご馳走だと知るや否や顔を綻ばせ、眼を輝かさせる。





イデアを見つめると、父は許可を出すように頷いた。





「ありがとう!」






礼を言うなり菓子に齧りつくファの様子は正に年相応の子供。
ヤアンの眼は何時もと全く変わらない。真紅の瞳でファを眺めながら彼は無気力に呟いた。





「…………容易いものだ」





相変わらず、こいつは何年たっても変わらないとつくづくイデアは実感した。
何を考えているか判らないが、決して悪い奴ではないのは確かではある。




ファを地面にそっとおろすと、彼女はソフィーヤの元へ駆け寄ってから自らが持っていた焼き菓子を半分に折って、差し出す。






「……ありがとう」





「どういたしまして!」






無邪気に笑う二人を見つつ、イデアはヤアンに思わず声を掛けていた。
自慢するように、誇らしげに神竜は語る。この500年という年月を経て新たに手に入れた存在を眩しく思いながら。
無くした者は取り戻す。絶対に。その上でこの新しく得た存在も守る。傲慢に、欲深い願いを叶えるだけの力をもった存在は言葉を紡いだ。





「いいものだろう?」





ヤアンの意識がイデアに向けられ、次に笑いあうファとソフィーヤに矛先を変える。
神竜と竜人。純粋種の竜と混ざりもの。子供と子供。ヤアンの頭の中に数百年前にかつてイデアから掛けられた幾つかの言葉が浮かんだ。
ならばこそ、彼の答えはあの時と表面上は変わらない。そしてその裏の意味の変化は彼にしか判らない。






「お前は、存外と幼いのだな?」






500年前と同じ言葉を聞きながら、イデアはそうかもと含み笑って答えを返した。











あとがき





あと1章かそこらで何とかして前日譚は終わらせてみたいです。
上がるだけ上げて、キャラの掘り下げもある程度は終わったので、後は落とすように展開に当てはめて処理するだけなのですが……そこが難しい。







[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 1 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2014/08/29 00:24




魔道で最も恐ろしい敵とは知識である。
いや、もっと掘り下げて、具体的に、そして相反するように抽象的に語るのならば魔道を往く上での敵は自分自身だ。
虚栄、傲慢、嫉妬、軽蔑、そして渇望と絶望。人として産まれ落ちた限り、決して離れることのない影達が耳元で囁き続ける。




もっとだ、もっと大きな力を手に入れよう。何を躊躇するんだ? 何を怖がっている? 恐怖する理由が何処にある?
究極ともいえる高みに昇るのに、何故、何故、何故?




それは己だ。知識ではない。知識は単なる文字の羅列でしかないが“自分”は違う。
常識と倫理、思いやりの中にぽたぽたと残忍な欲望を滴らせる。それは種。渇望と嫉妬という種を心の奥底に植え付け、その芽吹きを待つ。
例えその芽吹きが何百、何千年の果てにまで芽を出さないとしてもその存在は待ち続ける。






忍耐は果てしない。永遠に。
















その日、混血の少女は朝早くから自室でてきぱきと荷物を整理していた。
幾つかの書類や筆を傍らに置いた特殊な構造の革袋の中に規則正しく並べながら収めていく。
ベッドの中央に正座している彼女の隣には、本や筆が転がっており、それらをソフィーヤは一つ一つ吟味している。





幼い少女が使う革袋は、この里の中では流行っている一般的な袋だ。
その内部は少女の性格を表しているかのように整理整頓されていた。





彼女でも担げるように、茶色い革袋の上部左右端から太く、丈夫な牛皮製にも似た性質をもっていたマンナズの皮のベルトが伸びており、それは袋の下部と連結して袋本体と合わせて大きな楕円形の輪を描く形をとっている。
この袋の正式な名前は背嚢という。従来の騎士や商人が用いる従来の肩掛け袋とは違い、ベルトの輪に両腕を肩まで通し、背中全体で荷物の重量を支える構造の袋だ。
更に肩に回す為のベルトとは別に、腰に回す為のベルトも存在しており、重量のあるモノを背負う時はこの腰のベルトを手で押さえることによって袋全体を背中に押し付ける。




竜族が人の姿を考慮し考え出した新しい荷物輸送のための袋であり、今や里の中ではこれを所持しているのが普通というほどに流通していた。





これはその何代目かの改良型となる。
初期型では肩に負担がかかりすぎてしまい、腕に麻痺を起す可能性も発見された為、試行錯誤を経て誕生したのがこれだ。
背負子、背嚢、背中掛け袋などと様々な呼び名で親しまれるこれ一つとっても、もしも外界に流出したら大規模な軍事の革命が起こるかもしれない。
荷物の持ち運び1つでも楽になれば、どれほど行軍の速度、士気の上昇、体力の温存が可能になるか。実際、これらの要素の改善は戦争に大きな影響を齎すだろう。






そして非力なソフィーヤでも、多少の荷物ならばこれを用いれば安定を維持したまま輸送することが出来る。
詰め込まれた書物の内容は、かつてソフィーヤがまだ幼子時代に母に習う際に使った数々の教科書。
竜族の歴史。文学。言語。力ある言葉。基礎的技術の解説など。







定期的に見直したりこそすれど、もう使うことはないと思っていた本の数々。
表紙に書かれているのは自分の名前。だがその筆跡は自分ではなく、父のモノ。
まだ名前さえ余り上手に描けなかった自分に代わって書いてくれたのだ。






ここからだ、とソフィーヤは高揚する。
基礎的な学習や倫理観の教育、竜化と人化の術、竜の力の基礎的な制御法などをイデアはこの数年間ファにみっちりと教え込んでいた。
竜の力であるエーギルの操作やその意味、危険性、可能性、運用方法、これらに代表される知識をイデアは基礎として娘に教えたのだ。






そして、今日からその応用が始まる。
基礎から、本格的な専門的な領域へと至る道に足を掛ける時が。
数万年、数十万年にも渡る竜族の“知識”を学ぶにはそれこそ無尽の寿命があっても足りないが、幸い彼女やファにはその時間がある。




イデアの教育は恐らく今日という日を発端として、ここから何百年も続いていくことが予想できた。
何せ竜族の知識をあのイデアでさえ完全には把握しているとはいいがたく、先導者であり案内者である彼自身の成長を待つこともあるだろう。
だが最終的にはそれさえもほんの僅かな“誤差”程度にしかならない。




無限の時間の前には、全てが等しい。
苦楽も悲しみも、全て。その中の努力だけが未来を変える力をもっているのだ。





黙々と作業をしていた少女は最後の一冊を背嚢に詰め込み、持ちやすい様に内部の書物の位置などを調整する。
これでとりあえずの作業は終了し、後は待つだけ。ファとイデア、そしてネルガル、アトス達との勉強がまた始まりを告げる。
ソフィーヤは部屋の壁にて存在感を発する、木製の質素な額縁に仕舞われ飾られているイリアの雪山を見て心の底で期待を転がす。





早く、みんなともっと勉強がしたいな、と。





ファの誕生から早くも5年という歳月が経った。それと同時にアトスとネルガル、両者が里に来訪してからの年月も同じであった。













エレブ新暦485年












知識の溜り場は、その名前からは想像できない程に清潔な空間である。
大体の者が何千年も過去から存在する書斎と聞けば、至る所が崩れ、蔦や木の根が縦横無尽に駆け巡る森林と同化したような廃墟の如き有様を思い浮かべるだろう。
実際は違う。竜族は資料の保管の大切さを最も理解する種であり、そこの防備と環境整備はナーガの時代から厳正の一言だ。




書物の歴史を感じさせる薄い埃の匂いこそすれど、床や天井、壁などは常に磨き抜かれ、仮に着の身着のままで寝っ転がったとしても服には目立った汚れは付着することはない。
だからといって実際に転がる事はお勧めしない。図書館では静かに、皆の邪魔をしてはいけないのだから。




幾つもの縦長の机と椅子が規則正しく並べられ、利用者は極力大声などをたてずに黙々と読書に専念するのがここのマナー。
声を出してはいけないという規律はもちろんない。むしろ大人数での議論や意見交換は推奨さえされている。意味のない大声や喚き声がダメなだけなのだ。




それ故に静穏とした空間の扉が開かれ、数名の人物が足音を極力立てずに部屋の中に入ってきても室内の者達は対して興味を惹かれない様子で自らの読書を続ける。
ここを長が使うのは既に皆に知れ渡っていることであり、何よりもイデアがここを訪れるのは日常の光景と言ってもいい程に繰り返された事の為に誰も反応はない。
集団の先頭を行くのは大胆なスリットが入った真紅のドレスを着こんだ女性、アンナだ。




彼女のもつ様々な経験と知識、能力の一つにこの知識の溜り場に関する事項も多々含まれている。
この紅い竜はここの司書としての能力も保持しており、イデアたちが使う席の事前確保とそこまでの案内を行っていた。
嫌味にならない程度に色気と人懐っこさを振りまきながら、彼女は通りすがった者一人一人に挨拶をしつつ進む。






ある意味では里の竜族の“顔”と言える程に多種多様な仕事をこなす彼女の知名度は高い。
アンナ自身としては先代の長から引き続き、与えられた仕事を出来る限りにこなしてきただけで、どうしてそうなったかは余り判らないが。
むしろ“言葉にしづらい”裏方の仕事を得意とする彼女としては顔が知られるというのは余り好ましい事態ではないが、これはこれで悪くないとは思っている。





彼女の後ろに数歩離れて先導されるのはイデア、アトス、ネルガル、そしてソフィーヤとファだ。
アトスとネルガルは並んで歩き、その後ろを行くファとソフィーヤは保護者であるイデアの隣にぴったりと張り付いて歩いている。
アンナに負けず劣らずの数の者に挨拶されながら神竜は一人ずつ丁寧に返事を返す。




イデアは全員の名前と年齢、顔は把握している。更に言うならばここに居る者達の家族構成や思想や信条、得意分野などもある程度は記憶していた。
長として当然の事であり、何より500年もここにいれば自然と全て覚えてしまう。
ここに居る者達の面子の入れ替わりの速度もそれなりだ。500年前から変わらずにいるモノや、当時の者の老けた姿、更に言うならば子孫なども在住している。





あの時自分に注意をしてくれた者もまだ変わらない姿で居る。魔道士でありながらお人よしな者。
時間経過の速さについてはもう慣れてしまい、こういうものなんだと割り切るしかない。
つい前までは子供だった者が大人になっていたり、結婚し子供を作っていたなど特に珍しくもないのだ。





5年という年月をイデアは振り返ると、そこには様々な苦労があったと実感する。
この程度の年月ではファの外見は変わらないが、その中身は一回りは成長した。
少なくとも竜の力の使い方や基本的な危険性は理解している。





竜の爪の一撃はたやすく人の身体を挽肉に変えてしまう。
もしもそれで事故などがあったら幼い彼女の心には耐えられない負担となるのは眼に見えている。
エーギルとは精神と強く結びついた力であるが故に、トラウマなどを抱えてしまったら力を十全に引き出せなくどころか、暴走の危険性さえ高まる。





竜の姿で人とじゃれあえば簡単に傷つけてしまう事を判ったのは大きな収穫だ。
適切に、適当に、力とは余分に見せつけて驕るものではないと念入りに教え込んだ結果もあって、彼女は自らが神竜である事に対しての余分なプライドなどは持っていない。
もちろん、余分な、である。神竜としての自覚は成長させ、力への責任も朧とはいえ理解を始めている。





ファの成熟をイデアは待った。
急いで全てを注ぎ込んでも、どれほど彼女の学習能力が優れていようとそれらを吸収し、完全に把握し、モノにするまでは時間が掛かる。
だからそれを待った。彼女が里の中で大勢の子供や大人と出会い、コミュニティの一部となり、その中での自分の力の価値と大きさがどんなものかが判るまで。





時間は、途方もない程にある。急ぐ必要はない。
長い年月を経ても劣化しない建築物などは基礎が作りこまれているからであり、その基礎に当たる部分の経験が5年だ。
5年、ちょうどいい期間でもある。この年数は人間の子供が学習を始める能力を得るのとほぼ同じだから。





「お父さん、お父さん、今日からあたらしい、おべんきょうするんだよね」





自分の右手をしっかりと握りしめながらファはイデアを見上げて言った。
彼女の翡翠色の眼は知性と好奇の炎を宿し、そして活発な印象を見るモノに与えることだろう。
流暢に言葉を紡ぐ声は、人間の5歳児と比較しても確かな自我と意思を孕み、ファが段階的に成長を遂げていることの証明。





「今日から始めるのは今まで以上に踏み込んだ内容で、難しい内容になる。判らない事があったら何でもいうんだぞ?」





イデアの言葉に娘は「はーい」と手をあげて答える。
その様子に最も反応を示したのは意外な事に先頭を行くアンナだった。
彼女は首を横に向けて背後に意識を飛ばすと、上品に笑う。




嫌味など一切感じさせず、聞き惚れる程に品があり、艶やかな声。





「……本当に、しっかりと父親をしていますね」






ふふふ、と彼女は孫でも見るようにファを“見て”更に嬉しそうに笑みを深めた。
事実彼女からすれば遥か遠い未来とはいえ長になるファは孫だ。ナーガ、イデア、ファと彼女は三代に渡って神竜を見続けているのだから。
次いで、彼女はネルガルを見た後に視線を前に戻す。





そこにあるのは長い木製のテーブルだ。人数分よりも多少多めの椅子が置かれ、全員が座って手をめいいっぱいに横に伸ばしたとしても問題はない程の大きさのテーブル。
もはやお約束とも言える程にこういった場に馴染んだ“リンゴ”がちょこんと置かれ、両手で「予約済み」という旨が書かれた紙を掲げるそこが、今日使う席。
アンナとしてもあの“リンゴ”に悪感情はないどころか、こういった雑事や簡単な書類仕事程度ならば手伝える程の能力を持った彼らには敬意さえもっていた。




先代のナーガではまずありえない被造物だ。
絶対にそんな機会など訪れないが、もしもナーガが息子の作ったアレを見たらどんな顔をするか、少しだけ興味が沸いてしまう。
恐らくは無言で観察し続けるかもしれない。興味が沸いたりなどしたら、それこそ年がら年中、観賞用の植物の如く。





無機質な鉄面皮の前で笑いを取ろうと踊り続けるリンゴの図は……シュールだ。
口元が何時も浮かべているのとは違う種の笑顔で引きつりそうになるのをアンナは見後なまでに精神力で抑え込み、背後の主達を振り返った。






「さぁ、皆様。付きましたわ。長、こちらで御座います」





「ありがとう。後は自由にしていいぞ」





役目を終えたリンゴがいそいそと退場していく中、彼女は深く頭を下げて場の提供が完了したことをイデアへと伝える。
神竜はアンナを労うように笑い、アトスとネルガルへと着席を促す。
魔道士二人が並んで席に座り、その横にソフィーヤとファが並んで座り、もってきたノートを広げる。






アンナが淀みない動作で頭を下げて一礼し、視界の中から存在感を消しながら去っていく様をイデアは見届けてから動く。
全員の対面にイデアが堂々と臆面なく立つと、背後の黒板に何度かチョークを走らせてその具合を確認。
滑る様に黒に白が走る光景と手ごたえに神竜は満足気に頷くと、背後の全員を振り返った。





いや、全員ではない。
イデアにとってはファ以外はいわば“おまけ”であり、その事をこの場の全員が理解している故に、彼が見るのは娘だけ。
父の視線をファは受け止めた。今この瞬間の為にこの5年があったと薄々感づくだけの成長を彼女は遂げていたのだから。





だがこの言葉だけはファ以外の全ての者、人間たちにも伝えるべくイデアは言霊を吐く。
一切の表情を消し去り、鋭利な業物の如き視線の鋭さを伴いながら。






「───まず最初に。これからお前たちに教えようとしていることを、今一度、述べる」






次の言葉まで一泊半の間があった。
だがその間に身じろぎどころか、この場で呼吸したものさえいない。
神竜の存在が、緩慢ながらにも重圧となって空間を塗りたくっていたからだ。





「ここからは本格的に竜族の“魔道”の入り口だ」






“魔道”とは、そして“魔道士”とは単純に魔術を使うための学問や、魔術を用いる技術ではない。
そんなものは副産物に過ぎず、魔の道とは、知識と力を求める者が歩む道の総称である。
何も魔術だけではない、力とは知識であり、知識とは生き物だ。






「一度入れば、間違いなくお前たちを魅了する知識の数々がここにはある」





権力。武力。技術力。魔力。政治力。魅力。
簡単にあげるだけでこれだけの数の“力”が挙げられ、そしてその全てに対して“知識”は求められる。
権力が一番いい例だろう。自分の得た権力を絶対のモノだと驕り、その“力”に溺れた者は大概悲惨な最期にたどり着く。





それは即ち“知識”によって得た“権力”に逆に操られて殺されたのだ。
分を弁えない行動によって分不相応の力を得ればそうなるのは眼に見えているというのに、それに気が付く思考さえ失う恐怖。
魔術という分野ならばその破滅は更にわかりやすい。特に闇系統の術ならば。






「だからこそ、これだけは言っておく。気を付けろ、と」






己の身に対して更に強大な“力”を知識から得る度に、器は悲鳴を上げて、少しでも己の身に力を貯めこみつつも、その負担を和らげようとする反応が起こる。





その結果に何が起こるか?
上書きされるのだ。元々の術者の中にあった「ナニか」を上書きし、そこに力を取り込む容量を産み出す。
壺に例えるならば、中に入っていた水を取り出し、そこに新しい水を足していくように。




そして捨てられた水の名前は多岐に渡る。記憶とも、感情とも……自我や魂とも言う。
覆水盆に返らずという言葉があるが、それに近い。滅多な事では闇に染められた者は戻っては来れない。
かの八神将ブラミモンドは己の本質さえも闇の中に溶かし、そこから竜と戦うための力を得たという。




黒く、黒く、本来あったはずの「ブラミモンド」という名前の絵を闇で塗りつぶし、もはや概念に近しい存在へと成り果てたのが彼のものだ。




そんなこと、今更ファはともかく、アトスとネルガルには説明するまでもないことだが、イデアはあえてこの場で忠告を発した。
アトスはその言葉に重厚に同意するように視線を細め、ネルガルは、はやる気持ちを抑えきれない様子でいながらも小さく頷く。
暫しの間、全員の気配を神経質なまでに伺っていたイデアがふっと一瞬肩の力を抜くと、彼は破顔一笑し、親しげな空気を纏った。





さすがにこんな重苦しい雰囲気を維持したままの講義は、彼も疲れるのだ。
あくまでもファが優先であり、そのファが勉強を嫌う環境を彼は作るつもりはない。
だが、今だけは別だ。同じような事はもう何回も言っているが、念には念が必要だ。






「…………」





少しだけ父親が纏っていた空気に感化されて、身を震わせていたファの手をソフィーヤが優しく握りしめた。
彼女にはファの気持ちが判っていた。その胸の内側の恐怖を。自分がそうなってしまうのではないかという恐ろしさ。
その恐怖は必要な感情だ。イデアはきっと判って彼女にその感情を植え付けたことを知っている。その上で自分が何をするべきなのかも。






「……私も、長もついています。ファは……大丈夫」







言葉による返事はなかった。ただ、少しだけ、強く指が握り返された。
その上でファは頭をあげ、父親を真っ向から逃げずに見返す。
震えの取れた唇から、小さな竜は精いっぱいに声を出し、父に自らの心を伝えるべくイデアの眼をしっかりと見る。






「ファは、それでもいっぱい、いっぱい知りたい……こわいけど、それでも知りたいの」





娘の嘘偽り所か、怖いモノをしっかりと怖いと認めた上での言葉にイデアは重く、深く頷いて敬意を表した。


























傾いた太陽が放つ真っ赤な光が部屋の中に差し込み、知識の溜り場は真っ赤な夕日に照らし出された個所と、その影響で深くなった影が存在している。
影の中でネルガルはランプの灯りを手元に影の中で夢中にノートを取っていた。
教壇に立ち、夕日を浴びながら輝くイデアから出される声を彼は一言一句聞き逃さずに正確に記録を繰り返している。





ネルガルは僅かに横に目を向ける。
そこには一切の表情を消したアトスが体の右半分に夕日を浴びつつも、意に介さず自分と同じように記録を書き連ね続けていた。
手だけが独立した一個の生き物の様に紙の上を駆けずり回り、ありとあらゆる神竜の言葉を彼は貪り、頭の中に叩き込んでいく。





そこにいたのはネルガルの鏡だ。ただ、アトスはネルガルとは当然ながら違う人間である。
彼とネルガルの大きな差異の一つに内心でどれほど興奮していようと彼はそれを……本当に集中している時は表に出さない。
伝説の金属さながらの忍耐力の高さを彼は素晴らしいまでに発揮し、知識の快感にとらわれない様に強固な“壁”を心の中に築く。





それは素晴らしい事だとネルガルは素直にアトスを尊敬していた。
自分は少しばかり未成熟な子供の様な所があることも彼は知っている。
それが魔道を歩むうえでの強みにも、弱点にもなることを。







好奇心は猫をも殺す。だが、好奇心こそが人の発展を支えてきた。欲望と好奇は紙一重だ。
ネルガルはあえて欲望を普段よりも解放していた。
そうすることで、頭の回転は速くなり、内側から溢れる無尽蔵の知識欲を効率よく“使う”ことが出来る。






ちらっとアトスの向こう側で完全に陽の光に全身を晒しているファとソフィーヤが垣間見えてネルガルは微笑ましく思った。
彼女たちは二人で足りない部分を補いつつ、軽い冗談や議論を混ぜながら一つ一つの疑問や課題に全身全霊を注ぎ、頭をうんうんと悩ませている。
イデアもどうやら二人の自主性を重んじているのか、本当に二人がどん詰まりになった時にだけ助け舟を出しているようだ。






あれこそが本来あるべき勉学の形かもしれない。
自分たち魔道士という人種は既に何のために知識を手に入れようとしているのかさえ忘れている事も多々ある。







世界の為、国家の為、権力の為、もちろん自分自身の向上心、欲望、悪意、そして…………。





何故、と一瞬だけ脳裏に浮かんだ言霊を消し飛ばしたのはイデアの言葉だった。ネルガルの耳は、今最も興味のある単語を拾い上げた。
エーギルという言葉に対してのネルガルの反応は半ば脊髄反射に近い。表面上は冷静沈着な紳士を装いながらも、その内心は幼子の如く興奮に塗れる。
少しだけ咳払いをすると、椅子に座り直し、汗でじっとりと滲んでいた衣服を着なおしてから彼はノートに向かい合い、耳を澄ます。







「エーギルというのは、魔力と混同されがちだが、それは違う」






イデアの少年らしさを残す高音はとてもよく響く。
その上そこに数百年を生きた竜としての圧を加えられて発せられる言霊は心臓の奥底に深く楔を打ち込むように、胸の内側にまで浸みこむ。
聴いていて心地よい音程と発音をこの神竜は熟知しているらしく、吟遊詩人としてもやっていけるのでは、とネルガルは頭の片隅で思わざるを得なかった。






「これは生命の本質に寄り添う概念だ。魔力もこのエーギルが表層上に噴出した現象の一つでしかない。魔力はエーギルから生み出される」






エーギル、魔力とは違う可能性。魔力よりも上位の次元にある概念。竜の力の一端であり本質の一部。
魔道士は魔力を大量に使用すればするほどに様々な弊害に襲われる。脱力感、睡眠欲求、生命維持機能への不安定さ、そしてそれでも多量の魔力を使えば待っているのは死。
魔力という概念について研究したことがないわけではないが、思えば魔力に対して出した答えは「そういうもの」として片付けていた節がある。




人がなぜ呼吸するのか、何を吸っているのか、何故呼吸が必要なのか。
それを気にする者が今の世界に少ない様に、それが世界の法則だと納得してそこで足を止めていた。




だが竜族は違った。“神”は全てに解を与え、授けた。
彼のものは絶対の存在であるが故に、誰であろうと彼の邪魔は出来ない。無意味な宗教も、論理も、常識も、何一つ鎖はない。






かつてのイデアが産まれるよりも遥か以前の時代、人もなく世界が創世を成された元始の時代にその謎に挑み解き明かした“神”が在ったのだ。
命の謎を一つ残さずバラバラに解体し、判りやすい様に後世に残る記録とし、竜族の常識にまで噛み砕いた神。
もはや命や魂とは、竜族の中ではただ一つの単語で片付けられる。




それはネルガルやアトスが名も知らない“神”が基礎を築いた偉大なる叡智の一部。
生命というこの世で最も溢れていて、同時に最も深い謎を秘めた存在の謎解きをイデアは二人の前で行い始めた。






「人も竜も、動植物、生きとし生けるあらゆる存在がエーギルをもっている。いわば平等に秘めた可能性なんだ」






エーギルは可能性だとイデアは端的に表す。あらゆる可能性、無論、栄光も破滅も等しく。
余りにも万能で、強大で、身の破滅さえ呼びかねない力にこの表現は相応しい。
命の可能性。進化の可能性。神が残した至高の遺産。






「この力の発現は多岐にわたる。魔術だけではない。秩序の修復、支配、仮想生命の創造、自らの存在の強化、果ては世界の最も深い部分にさえ干渉することも可能となる」





ネルガルの頭は半ば麻痺した感覚でイデアの言葉を受け入れていた。そんな馬鹿なとは言えない。何故ならば彼はイデアが何をしたかを知っている。
あの時、砂漠で初めて見たイデアの力は正に神がかったモノなのは疑いの余地がなく、何より自分自身が既に人の理を超えた数百年という年月を生きているのだから。
自分自身が既に非常識の中に身を置いている故に、ネルガルはイデアの言葉を否定できるわけがない。






神将器の力を押し流し、半壊した秩序を欠伸でもしながら当然の如く修復し、世界を支配したあの力…………。
超自然的な力さえこの概念の型に嵌めてしまえば「出来て当然」となる。
ネルガルの頭の中で素晴らしい可能性が花開いた。無限の欲望が片端から満たされていくような充足感が。





頭の片隅で無意識的に彼は囁いていた。それは、イデアが語る通り、神の力だ…………。
じくり、と胸の何処かが痛んだ。




だが、とネルガルは熱しそうになった頭を無理やりにでも落着けた。
彼は駆け出しの魔道士ではない。冷静さの大切さを心得ている。冷静さを失い知識を貪れば、待っているのは破滅だ。
慎重に、冷静に、臆病に、この問題には今までの人生の中でも最大にして最高の注意を払わなくてはいけない。





気が付けば彼は潜在的な興奮のせいで拳を強く握りしめていることに気が付いた。手汗が止まらず、気持ち悪い。
ネルガルは自分に力を抜けと言い聞かせ、座り直し、アトスに気が付かれないように深く呼吸をした。





まずは一切の雑念を排し、イデアの言葉に集中しよう。考えるのは彼の言葉を書き取った後に幾らだって出来る……。



























アトスと共に部屋に戻ったネルガルは未だに収まらない興奮に満ちた自分に何とか落ち着けと言い聞かせ続けていた。
しかし外見上は全く普段と変わらない。彼は部屋の隅に置かれた自分用の机に向かい合い、椅子に座り、指を額に当てて微動だにせず心の整理を続けている。
閉じられた目の内側でイデアが何度も何度も講義をしている姿がちらつき、離れない。





ようやく彼はため息を吐いて顔を上げ、周りを見渡した。
アトスはいつの間にかいなくなっている。恐らくはヤアンとでも話にいったのだろう。
何故彼がそういう行動をしたのか、ネルガルには痛い程に理解できた。





気晴らしがしたかったのだろう。気分転換をし、心にゆとりを作ってから勉学に取り掛かりたいと彼は思ったはずだ。
それほどまでに今日彼らが聴いた竜の知識は衝撃的だった。ネルガルをして、本当に自分はこの知識を学んでいいのかと僅かながらに畏怖するほど。
エーギル、魂を記号化し、それを効率的に使う技術。竜の知識の前に比べれば、エトルリア王国の魔道研究など子供のおままごと以下に落ちてしまう。




ネルガルは目の前の自らの文字が書き込まれたノートを穴が開くほどに強い眼力を込めて凝視した。
何度読もうと、そこに刻まれた文字が変わることはないが、それでもだ。





基礎的な竜族の言語。エーギルという概念とその力。竜の歴史の触り。
それが今日彼らが手に入れた知識であり、今ノートに纏められている内容である。
全ての言葉を聞き取りで書き連なった為に、今日一日だけでノートの3割は消費したが、それに見合うだけの価値はここにある。





中でも彼は始祖と神の時代に強く惹かれた。
世界の根源に関する重要な情報であり、この世界の成り立ちそのものの答え、その一部に心惹かれるのは魔道士としては当然のことかもしれない。
歴史ならば問題はない。知識ではあるが、歴史を学ぶことは、魔道には……余り直結はしないだろう。




余り、だ。最も興味ある話題がそこには含まれているが、概念と理屈程度だろうと予想している。




何処でどういう技術があった、こういう戦争があった、こういう術や武器があったと知るだけならば危険性は少ないと彼は答えを出す。
朗々と彼はノートの内容を一人で読み上げる。もう一度、しっかりと声に出して確認するために。
老人が昔話を語る様に、深みと憂いのある声が部屋に木霊する。






「創世記、かつて世界には“神”と“始祖”があった。渦巻く混沌と対を成す秩序……ここが始まり」





もしくは【光】と【絶望】とも名づけられる。希望の反転、光源と影。






そこには人もなく、自然もなく、大地も空も、空気も何もない。あったのは一対にしてありとあらゆる意味で鏡写しである同一の存在だけ。
闇はあらゆる場所に存在した。秩序の裏側、足の裏側、暖炉の燃える薪の中、ベッドの中、そして“神”の裏にも。
最も強く、尊く、輝かしい光はこの世で最も深く、恐ろしく、深い闇を投げかける。





ぶるっと、魔道士の男は身震いした。彼は潜在的にこの始祖がどれほど恐ろしい存在なのか理解してしまっている。
誰でも持つ闇の権化。始祖、世界創世からあるいわば世界が落とした影そのもの。





「“神”と“始祖”は一対にして一。混沌と秩序は同時になくてはならない」




実際問題、正義や悪など人の小さな倫理で作り上げたちっぽけな概念でしかない。
これはとても大事な概念ではあるが、それでもこの一対の存在からすれば無意味の一言で片づけられる。
そんな次元などこの存在達は超越しており、光だから正義、闇だから悪、等と決めつけるのは愚の骨頂だ。



昼と夜に優劣を付けることなど出来ないのと同じであり、純粋に善悪を超過した一種清々しい領域にある。
知りたいと、純然たる好奇をネルガルは抱く。人として、この世の真理が目の前にあるが故に願う欲望。






目線をノートの文字に焦点を当て、更にスラスラと読み解いていく。





「だが、その均衡も永遠ではない。
 やがて思想の違い、支配者の座を巡る決裂から袂を決定的に別けた彼らは壮絶な殺し合いを始める。何十万年もの過去に行われたソレはこの世で最も古い神話の戦争」





戦争は激化を究めた。
神と始祖は対等の存在が故に、その力も拮抗する。創造の力を使う神に滅びの力を得意とする始祖。
だが、この世の絶対的な法則の一つとして滅び、破壊に向かう力は万物に対して優勢を誇る。それは神と始祖の間にさえ例外ではなかった




しかし神はその万物の絶対法さえも覆す術を幾つも“創り”対抗する。
泥沼で、終わりがみえない闘い。尻尾を咥えた蛇がグルグルと回る様に。




永遠不滅を約束された存在が、滅ぼしあうという矛盾。



長い、長い戦争だった。幾つもの巨大大陸が跡形も残さず消え去り、場が崩壊し、世界の根幹が打ち砕かれる程の。
行使された術の数々は全てが残らず禁忌。一度の発動で文字通り全てを滅ぼしかけない力の数々。
全く冗談でしかない。人竜戦役の最中でさえ秩序が崩壊する事はあっても物理的に世界が消し飛んだことなどなかったというのに。




闘いの間にも様々な竜が産まれた。
戦争の前からも少数ながら存在したが、戦時下にも竜は産まれ、それぞれが神と始祖の陣営につき戦火を拡大させる。




その中でも際立って目立ったのは地竜、暗黒竜、魔竜といった種の表記。──メ──ィ───ス──というとある暗黒竜の始祖からの決別などが。
人竜戦役の際、たった1柱が存在していただけで人類を追い詰めたあの竜族の王とされる魔竜が少なくとも複数いたなど、価値観がおかしくなりそうだった。






だが、結局の所勝利をおさめたのは神だ。
始祖は敗北し、その存在を世界から消すことになる。もう、いない。





今判っているのはこれだけだ。
もっと深く知りたいならば、イデアの教えを更に深く取り込む必要がある。
この歴史の中には彼の知りたいことが全て含まれているのは間違いない。




モルフ───。




この単語だけがやけに彼の心を揺さぶる。強く。胸の奥底が求めてやまない。
目を閉じて、心を落ち着けるとその欲求は息を潜め、何処かへと消え去る。






「いかんな。これはダメだ」





ノートから目を離し、彼は空中に視線を投げかける。
そして誰か、ではなく、自分に言葉を投げかけた。もう一度言い聞かせるために。
すっきりとした頭で彼は考えずに直感で判断した。そうだ、散歩へ行こう。




うだうだ考えていて煮詰まり、更に自分の無能さに絶望して深みへと沈んでいく螺旋は御免こうむる。
大概の魔道士が壊れてしまう原因の一つに、彼らは息抜きが下手だという結果が見えてくる。
自分の限界を過信した者に訪れるのは、自滅でしかない。






ネルガルは思い立つと同時にノートを畳んで、立ち上がっていた。

























彼があるく整理された石畳の床は、適度な反発と共に、足を疲れさせないための工夫が幾つも施されている。
例えば今みたいに夜の時間になると、道の両端が薄く発光して足場を見失わせないようにするなど。
道の真ん中を緩やかに進みながら、彼は頭の整理と冷却の為にとりとめもない事を考えていた。





夜風が頬を伝わり、胸中で膨れ上がった熱を冷ましてくれる感覚をネルガルは好ましく思った。
ナバタの砂漠の里は、魔道士が隠遁して暮らすには正しく理想的な環境が整っている。
無尽蔵の知識、豊富な書物、叡智と倫理を弁えた人道的で、かつ優秀な魔道士たち…………。




聴けばエトルリア王国ではアトスが居なくなった後は、魔道の研究は“政治ゲーム”に堕落したという。
貴族に取り入るための研究、優秀な者を蹴落とし、その研究を躊躇いなく握りつぶす愚行、更には暗殺、賄賂、多種多様な膿が噴き出る場所へと。
魔道士というのはそれだけで特権を得ることが可能なほどに稀有な存在であり、人は往々として特別扱いと権力には弱いモノだ。




ナバタの里中心部の殿の周りを特に予定もなくぶらぶらと歩きつつ、ネルガルはいや、私も人の事は言えないと首を振った。
この世界での特別の中に自分は間違いなく含まれている。理を超えた事や、こうして人の手が届かない知識を学んでいることを思うと。
自分は特別で、選ばれた存在で、だからこそ全てを手に入れる権利がある……等と考えるのは典型的な物語に出てくる小悪党ではないか。




む? とネルガルは思考を停止させ、目の前にある建物に目を向けた。そこにあるのは円筒状の天まで伸びる巨大な塔。
いつの間にか自分はまた知識の溜り場にまで足を運んでいたようだ。無意識の内にここに足を運ぶとは。





入るのに全く問題はない。既に数年間この里で生活している彼はこの場のルールを理解していた。
基本的のこの建物には真正面から入り、利用するための手続きをすれば何時でも使用は許可されている。
何処かにまだ自分の監視がいるのだろうが、それも彼にとっては問題ではない。




ここにある書物は何も魔道だけに限ったものではなく、様々なジャンルの書物が理路整然と収められている。
歴史はともかく、誰かの日記やおとぎ話、小説や神話の類など様々な種類があり、時間を潰したいのならば最適だろう。
ほとんどの本は竜族の文字で描かれているが、中には当然、エレブの基本的な文体で記されたモノもある為に読むことは可能である。








扉に手をかけ、ネルガルは力を込めて押し開く。
金属製の頑丈な作りの扉はよく整備されており、軋んだ音を1つもあげることなく解放される。
彼が知識のたまり場に足を踏み入れると同時に、瞬間的に空気の質が変わった。





荒涼とした砂漠の空気から、重々しくも何処か心を癒される雰囲気を伴う歴史の世界へ。
扉が背後で閉まると、室内は外部の冷気を遮断し、本にとって最も適切な状態に調整された温度が全身を抱きしめる。
人が生きていくにも最適なこの部屋の中は、本だけではなく、それを手に取る者の事も考えて設計された空間なのだ。




何人かが扉の開閉に反応して眼を向けてくるが、ネルガルを認めると彼らは微笑みつつ一礼し、そのまま自分たちの読書へと戻っていく。
彼らは極力他人にはあまり干渉はしないが、こちらが探し物をしている時や、困った時には無償で手を差し伸べてくれる。
一人で黙々とやるよりも、コミュニティを作って議論を戦わせることを好む傾向があるのが、この里の魔道士の特徴だった。






足音を極力たてずに彼は目的もなく適当に本を見繕うべく歩く。
何か面白い内容のモノでもあればここで読んで時間つぶしをしてから部屋に戻るつもりで。
今は空いている時間帯であり、席も好きな場所に座れる。






人の身長の何倍もある本棚の森の中を歩き回り、目についた本をネルガルは手に取った。
今彼が歩いている場所は主に竜族の物語、おとぎ話、伝説などを収めた本棚である。
この中にはかつてソフィーヤが熟読していた裏切られ、焼かれてしまう騎士の話なども貯蔵されている。




ちょうど物語が佳境に入り、華やかな大団円になるかと思いきやその予想は最悪の方向で読者を裏切る。
友の裏切りによる主人公一派の死と、騎士の妻を洗脳して奪い取る等というふざけた展開に対して彼女は無言で枕に小さな握りこぶしを叩きつけて抗議していたことがあったほどだ。
この作者の方はおかしいです、等とソフィーヤにしては珍しく暴言を吐き、それにイデアが渋い顔をしたこともある。




何気なく思い立って手に取った本のタイトルを見やり、ネルガルは目を丸くしてしまう。
古い竜族の文字だが、何とか彼にはそれが何と書いてあるのかを読めて、まさか自分の知っている存在が本になっているとは思わなかったと息を漏らす。
いや、彼女が竜であるならばこういった伝承になっていてもおかしくはないかと内心で半分ほど納得してしまうのも、ひとえに彼女の性格と能力故か。



どんな時代のどんな場所にも当然の様に彼女ならば紛れてしまいかねない。






本のタイトルは商人アンナの記録。





自分の知っている彼女が由来なのか、それとも違うのかは判らないが、どちらせによ興味が惹かれた。
それなりに分厚い本ではあるが、速読が得意でもあるネルガルならば一晩じっくりと時間を掛ければ問題なく読破は可能。
次に、ネルガルは片手で本を持つと、もう一冊を気まぐれに書棚から引き抜こうと視線を走らせ続ける。




その最中に何気なく今手に持った書に視線を落とし込む、彼としては本当に何の意味もない行動。
結果は何も変わらない、そこにある本は何も言わず、ただあるだけ。茶色く、年季を感じさせる表紙が喋ることもない。
元より無意識での何の意味もない行動だったが故に彼は他に数冊本を手に取り吟味し、そちらに目線を動かす。





別の本棚にも大きな歩幅で赴き、そこからも気まぐれに一冊本を取り出す。年季の入った本で、所々には黒いシミの様なモノがある。
タイトルさえもないそれを軽く開き、流しながら読む……そしてネルガルは頭を傾げた。
書きなぐった様な文字の数々はもはや文章としての法則さえ守ってはいない。





ざらざらと荒れた手触りや、微かにかおるカビの匂い、扱いの雑さから数百年単位の昔の書物だということは推察できた。
そして恐らくは、この本は全くと言っていいほどに誰かの目に留まることもなかったと。





本の中身は無茶苦茶だった。
ページがインクで埋め尽くされ、文字と文字は重なり合い、意味不明な単語の羅列とただひたすら聖女エリミーヌを称える賛歌が記されるだけ。
もしもこれを聖女エリミーヌ本人に見せたとしても、丁重に包まれた言葉で「意味が判りません」と言われるのは間違いない。






子供が思いついた言葉を無数に書きなぐっただけのような、規則性のなさは見ていて不快にさえ思える。
普通ならばこんな訳の分からないモノなど直ぐにでも元の場所に戻し、記憶の中から数日でもすれば削除されてしまう。
だが……ネルガルはその中に、一つだけ今最も興味を注いでいる単語を見つけてしまった。





無数の文字の下に埋まっているような形だったが、彼はそれをはっきりと認識する。




その単語は【モルフ】





間違えるはずがない。
この文字は非常に読みづらいが少し古い文体なのを除けばエレブで一般的に使われる文字であり、難解極まる竜族言語ではないのだ。
何故この単語がここにあるのか、その理由は判らないが、興味をネルガルは抱いた。





面白い。運命というものがあるとすればよく出来ている。
しっかりと何時チャンスが来ても大丈夫な様に準備が出来ている者にこそ世界は微笑むというが……自分はどうなのだろうか。






これはチャンスか? それともただの肩すかしか? 
それさえも今は皆目見当がつかない。




とりあえず、ここで本を読むのはやめることにする。
この2冊の本は自室に戻ってゆっくりと読むことにするとネルガルは決めた。
強い意思をにじませた歩みと共に彼は本を受付の者へと渡すためにもっていく。





睡眠など不要な彼にとっては夜の時間全てを潰してしまっても、明日に支障が出ることなどない。





夜は、更にその深さを増していく。





その中をネルガルは突き進むように歩いていた。

























イデアは自室で出来るだけ気配を消しながら淡々と自らの研究を行っていた。
囁き一つ漏らすこともなく、彼は机に向かい合って幾つもの理論を構築している。
モルフの術式、封印解除の術式、その他にも様々な研究を彼には平行して行うだけの集中力と体力がある。




月は既に天辺を回り、周囲には音一つない。
開け放された窓から冷たい風が吹いて来てそれが彼の金糸を揺らす。




無限の竜の体力が人間ならば数か月で過労死するであろう労働と鍛錬を可能としていた
握りしめられた万年筆が滑らかに、一瞬たりとも停止することなく動き続け、作業として文字を刻んでいく。
指に疲労が溜ると、自動でそこに回復の術が発動して指の稼働を滑らかにする。




気が付けばイデアは今晩の作業に入ってからほんの一刻ほどで用意していたノートの3割は埋め尽くす程に文字を刻み込んでいる。
彼がノートに書いていた物は、様々な魔道の理論と構築式、それによっておこる結果の予測図。
頭の中でイメージしつつ実際に起こるであろう予想や、力の効率的な使い方、力を通す“道”……俗に視覚として魔方陣と映るモノの作成などをイデアは行っていた。





もっと噛み砕いて言えば、イデアは術を作っている。
既存の術の改良も含め、様々な方向性から封印の解放という難問に挑み続けている。




一つはモルフ作成の術の改良、自我意識を持ったモルフの創造。
マンナズはある意味ではこれに値するが、神竜はなぜか、どうやっても人のマンナズを作ることは出来ない。
精神的な意味で何処かが拒絶しているのかもしれないが、イデアはどうやっても自らが「家畜」と認識した存在しか創造出来ないのだ。



500年前から一切の妥協なく励み続けた結果の一つがマンナズであり、通過点の一つであった。




そして最も彼が重視するのが二つ目、姉の解放のための術の構築。
色々と試しているが、何かを掴めそうで、霧を掴むように手が宙を空振ってしまうのが現状。
あの水晶の結晶は全く全体、謎に満ちている。




幾つか判ったのが、あの水晶は物質の様に見えてその実物質ではないという事。
宝石の如く輝くアレはいわば凍り付いた“場”そのものであり、ただ単純に剣や斧でたたいたところで何一つ意味はない。
もう少し資料があれば深く掘り下げることが出来そうなのだが、そもそも封印の剣がどういう材質で作られているのかさえ不明なのだから、どうしようもない。






“手段”を選ばなければ力技で強引に破壊も……恐らくは可能だろう。その場合、中のイドゥンがどうなるかの保証も出来ないが。
チラリと腰の剣に目をやったイデアはそれはありえないと解を下す。戻れなくなる。断崖絶壁に身を投げ出すような行為でしかない。





現時点では二つとも歩みは牛歩と評するしかないが、そんなことを悩むぐらいならば一歩でも先に進むべきだとイデアは思っていた。
悩むことは大事だが、それに拘りすぎて腐ってしまったら本末転倒であり、愚者の行いだ。




ふぅと、ある程度区切りがいい所で筆を置いたイデアはノートに目を通して誤りなどがないかを確認するために手早く視線を走らせた。
1,2,3,4、とページを捲るたびに隙間恐怖症でもあるのかと我ながら疑わしい程に敷き詰められた文字が目に悪い。





鮮やかな魔道士の象徴とも言える魔方陣だが、それを完全に構築するのはとてつもない程な集中力と時間、そして根気を要求される。
一つ一つの魔術的な文字の流れや、その中を流れる魔力の流れを完全に把握し、それが何を齎すかも理解しなくてはいけない。
最初は慣れないモノだったが、今では逆にこれを書かないと落ち着かない程に彼は魔道に入り込むことが出来ている。





机の上で掌をかざすと、2冊の魔道書が黄金の光に包まれて現れる。
世界最高峰の魔道書であり、イデアの所有物ではない書が。




つい最近に解析が終わって、今は手持無沙汰になってしまったこれらをどうしようかイデアは悩んでいた。



金細工で装飾を施された全体的に紅蓮の色彩を基本色とする魔書……【業火の理】フォルブレイズ。
対を成すように銀で縁取りされる黒い表紙の暗黒魔法の書、その名を【バルベリト】という最高位の術書。
どちらも恐ろしいまでの力を内包する。用い方次第で間違いなく国家を破滅させることさえ可能なほどに。






轟々と燃える理の炎と、緩やかに流れる闇の大塊。理と闇の到達点の一つともいえる程に膨大な力の塊。
両方を“見て”からイデアは何事もないように本の表紙を摩る。





【バルベリト】は何も問題はない、何も感じないし、安定した闇の波動は夜に抱かれているような安息を感じさせた。
次にフォルブレイズに触ると、イデアの掌は焼けるような熱さを覚えてしまう。あの時アルマーズに焼かれた時の様な火傷痛を。
紛れもない拒絶の意思が掌の熱を通して伝わってくる。所有者であるアトスが許可を出したとしても、これは“そういうもの”であるが故に竜である身には拒絶しか返さない。




書から指を離して眼を向けると、べろっと皮がむける程の火傷がそこにはあった。
だが次の瞬間には、人間の傷が治る過程の速度を数百倍にもしたような光景と共に白い肌にまき戻る。




2冊の書の解析は既にあらかた終わっている。
どのような術で、どのような効果があるのか、威力、射程、範囲を把握して自らに向けられた場合の対処法なども問題はない。
里に向けて放たれた場合の想定ももちろんその中には入っているのは、イデアが二人を信用していないのではなく、長として当然の思考から来るものだ。




0ではないのならば、それは起こり得るが故に、全ての可能性を模索して対策を練っておくのは当然のことであるのだから。



フォルブレイズもバルベリトも、自分を害することは出来ないとイデアは油断ではなく客観的な事実として答えを導いている。
このナバタで、自らの力が完全に飽和しているこの地では例え全盛期の神将器が全て集おうと好きにはさせないだけの力が自分にはあった。





ため息と共に疲労と悩みを吐き出し、次いで新鮮な大量に胸の内側に取り込んだイデアは背後の自分のベッドを振り返る。
普段ならば自分が使うはずのそこを占領しているのはソフィーヤとファだ。二人の童女は互いを抱きしめあうように付き添いながら眠っている。
いや、どちらと言えば、ソフィーヤがファを抱きしめているようにも見える。まるで母が娘を抱きしめるように。





勉強の終了と同時にはソフィーヤがファと共にお泊りをしたいと言い出し、今に至る。
既にメディアンの許可はとってあり、現在のこの二人の保護者はイデアだ。





ベッドに広まるすみれ色の髪と共に、安堵しきった表情で眠る二人に対してイデアの視線は知らずの内に温かみを帯びた。
イデアは5年という年月の間にすっかりとファに感情移入してしまった自分が居る事に気が付いており、それを心地よく思っている。
父親と呼ばれ、それにこたえる内に気が付けばもう後戻りが出来ない程に彼女と共にいるのが楽しくてしょうがない。





今夜は寒い。二人が風邪などを引かないように念のためもう一枚毛布を掛けてやり、両手に神将器と闇の魔書を持ちながら部屋を後にする。
ファは、隣にソフィーヤが眠っているという安心感の為か、起きることはなかった。





焼き尽くされる手から煙が上り、激痛が走るがそれさえもイデアにはどうでもよいことだ。
黙らせるように竜のエーギルを送り込み、フォルブレイズから発せられる“熱”を“力”で押し戻すと痛みが消えた。





廊下に出てから、彼は数歩部屋から離れて本当にファが起き出してこない事を確認してから行動に入る。






とん、と軽く床を叩き、イデアは何度も用いた転移の術を発動させた。
高位の術だが、既に呼吸と同じようにこの程度は行えた。






行先は魔道士としての己の自室。刹那の光景の暗転の後に、直ぐに視界に映りこむのは静寂に満ちたもう一つの自室。
本来ならば入口である扉を開くのにもかなり精密に作りこまれた幾重もの防御陣を1つずつ解除しなくてはいけないのだが、イデアのもつ力は万能のカギとなってその過程を省く。
封印解除の術のちょっとした応用であり、姉の解放の為に学んでいたらいつの間にか出来るようになったことだ。





もちろん、他の者が転移の術で勝手にこの中に入ろうとすれば部屋中に張り巡らされた神竜の力によってはじき出されるか、または手痛い洗礼を受けることになる。
生活感の欠片も存在しない、静謐な世界を主であるイデアは我が物顔で歩き、一つの扉の前に立った。





その小さな物置はこの部屋の中からしか入ることはできず、窓なども無いために殿の外側からも見ることは出来ない箇所。
仮にこの壁を埋めてしまえば、そこは完全な個室となり、空気も入ることはできない密閉空間と化す。
ゆっくりと時間を掛けて扉に掛けられた術の“カギ”を撃ち込み、吟遊詩人が一曲歌う程度の時間を掛けて開門させる。





中に入り、部屋の中に“力”を送り込んで壁と床を光らせて闇を消し去った。
瞬く黄金が部屋を照らし出し、書物の小文字でさえ読める程の光に満ちた。
闇が払われた室内は閑散としており、一つの木製の簡素な本棚しかない。







人間一人がかろうじて生活できるかどうかという小部屋の奥にぽつんと置かれた本棚の前にイデアは歩み寄ると、その中にバルベリトとフォルブレイズを置き、更にもう一つ確かめる。




本の入っていない空洞のスペースにそれは置いてあった。人間の拳程度の大きさのちっぽけな布に包まれた塊が。
白い布に丁寧に包まれたソレは数百年前の遺物であり、今のイデアには無用の長物。かつて砕いたアルマーズの欠片は何も言わずに何百年もそこにある。
恐らくはアトスとネルガルがここに来る要因となったであろうそれを確認してから、イデアは玩具に興味を失った子供の様な眼でアルマーズに一瞥し、踵を返した。








イデアが部屋を後にし、扉を閉めると、部屋は再び底なしの闇に覆われた。












あとがき





色々と組立てつつ書いているとやはり執筆速度は遅くなりますね。
1部の記憶が曖昧になっている所があったりして、出来るだけ設定にずれが出ないように気を付けています。
その上であのキャラ、このキャラと出番を均等に与えようと思うとテンポが悪くなりますので、差し引きのバランスが難しいです。



所で皆様はこの作品ではどのキャラがお気に入りですか? 忌憚ないご意見を頂けると幸いです。
神竜姉弟は別口として作者はテュルバンとナーガが好きです。この2人は絶対にぶれないから書いててラクで、なおかつ楽しいんですよね。




それでは皆様、また次回にてお会いしましょう。






[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 2 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2014/08/29 00:23

今回の話は、終盤に少しだけ残忍な表現が入ります。ご注意ください。







やはり時間が経てばこういう奴らは性懲りもなく沸いてくるものだ。
駆除しても駆除しても後から後からと際限なく現れる様はまるで害虫とうり二つ。
イデアは提示された資料を見てそう思わずにはいられなかった。




本当にうんざりだ。
外の治安がどうなのかはともかく、早くこういったゴミが駆逐された世界にまで文明の段階を上げてほしいと切実に思う。
100年や200年ならば問題なく待てる寿命が自分にはあるのだから。





一日の終わり。長としての仕事の最後は大体夕方に行われる。
日が傾いてきた頃に今日里で起こった事件やら出来事、食料の生産高などを含めた様々な情報をイデアは受け取ることになっており、イデアは何時も通りに素早く処理をこなしていた。
イデアが独立した生き物の如き速度で整理していた書類の中から、一つの文字を読み取ると、ふと動きを止めてより深く読み入ってしまう。




そこにソレらが居たのは知っていたが、こうして具体的な報告を受けたのは初めてだったから。
改めてこういう内容の事柄はしっかりと確認し、意識しておいたほうがいい。
知ったかぶり、中途半端というのは時に無知よりも恐ろしい結果を産み出してしまう。




つらつらとイデアの色違いの眼が、声には出さなくとも判るほど明確に茶色い紙に書かれている文字を読み上げていく。




【ミスル半島北部にて賊の気配あり。数はおおよそ50。中規模ではあるが、魔道士の気配はなく、危険度は高くない。
 だが油断は禁物。近いうちに自然災害に見せかけての排除を提案する】





あぁ、と思い、イデアは己の“眼”を微弱に発動させて自分の力で溢れかえるナバタの地の一角に視線を飛ばした。
この不毛の大地全体に飽和するほどに溢れかえり、支配し、秩序を形作っている自らの“力”を辿っていけば結果は直ぐに出る。
遠くに視界や聴覚を飛ばすことなど既に大したことではない、少なくともイデアにとっては簡単な事なのだ。




感覚で言えば、人間が自分の掌の上に乗っけた砂粒でも何でもいい、とにかく極小な何かを観察するようなもの。
余りに小さく、余りに薄色のエーギルを観察するのはイデアにとっても面倒くさいと思う作業であった。
ファ、メディアン、ヤアン、アトス、ネルガル等々、里の者達の膨大なエーギルを常日頃から見ていると、こういったちっぽけな“小物”を見るのは意識しなくてはいけない程に面倒くさい事極まりない。




わざわざ自分の皮膚の上を這う“ノミ”を見ようと思うモノはいないだろう。



まず感じたのは複数の人間のエーギル。
対した力もない、ただの人間の平均的な命の炎をイデアは“見た”上でその色の濁りにため息を吐きたくなる。
エーギルとは、魂とも評される根源的な力。とても抽象的な言い回しでしかないこの概念を“見る”ことが出来るイデアにとっては、それは一種の指標になっていた。





どれだけ口から吐いて並べた言葉よりもエーギルを見ればその者の本質というものがあっという間に見えてくる。
エリミーヌ教が広める7つの属性、あのそれぞれのマークにも当てはめて考えることが可能なソレは生物の魂の輝きというものか。
最も、7つの属性別けといっても、本当にこれは大まかなものでしかなく、何よりイデアが独自でそういう風に思っているだけで実際は更に複雑に枝分かれする。




例えば同じ炎の様な色彩と波長を持ったエーギルの持ち主であるヤアンとアンナでもその性格などはかなり違う。
アンナが情熱的に、激しく燃え盛る山火事の様な業火だとすれば、ヤアンは淡々と一定の熱と大きさを崩さない蝋燭の様な燃え方となる。
少なくともイデアはこの二人のエーギルをそういう風に見分け、そこからもたらされた情報からエーギルの見分けなどを行う時があった。




一人一人似ている様で全く違う波動は、どれほどの変装術の達人であろうと決して誤魔化す事は出来ない炎の灯でもある。
【エーギル】とは生命力そのもの。その在り方はその存在そのものと言っても過言ではない。それが濁っているのだ。まともな筈がない。
彼自身は気が付く筈もないが、それはかつてのナーガが“影”に対して下した評価と似通っている。




このミスルはイデアの力が及ぶ範囲であり、彼の身体の延長戦の一部であるが故にイデアは手に取る様に賊の行動理念や思考をある程度までは読み取ることが出来る。
その結果下された判決は、実につまらない、生かしておく価値もない塵だという事。性根の底まで腐っている心。どぶ川の底でも覗きこんだ不快感を隠さずにイデアは書類にサインをする。
更に紙の下部にある空いた空間に流れるような速度で「いずれ排除実施。近日検討」と書き足す。




いちいち部下を派遣するのも面倒だ。数日後にでも自分自身でさっさと掃除してしまおう。




ん、と残り僅かになった仕事の量を見て、イデアは背伸びをして気分を入れ替えた。
この後も彼の仕事は残っている。ファ達の授業の講師、自らの学習、更には里の諸事項に関する打ち合わせ等々。
無論、この中の何一つにも彼は手を抜いてはいない。力の抜き所は知っているが、そこではない。





次に手に取った内容の紙は賊よりも遥かに厄介な案件。イデアを今現在最も慎重に行動させている報告。
対処に困るという意味でもあり、それと同じくもしかすれば彼に、引いてはこの里に利益を齎す可能性も十二分にある。
だから対処に困る。はっきりと害悪だと判っていればイデアは容赦はしないが、今回はそう簡単にはいかないのだから。





どちらにせよ、今日の授業はこれから始まる。長としての仕事を終えて一休みを入れた後に今度は講義の先生とならなくてはならない。
分身を使って昼間に仕事と両立さえながら教えてもよかったのだが、その時間には自分は里の水回り関係、水道や井戸などの老朽化の確認や今後の補修の企画立てがあった。
万が一にも見落としなどは許されない重要な仕事だった故に集中力がわずかとはいえ分散する幻影を作るわけにはいかず、授業は陽が落ちてからとなったのだ。






水関係はネルガルやアトスにも当然教えてはいない。
ただ曖昧に仕事が忙しいと伝えただけであり、当然その手の技術関係の者らの口は親族を含めてとても硬い者たちでフレイは固めていた。
何度も何度も確認したことではある。里の基礎の部分は絶対極秘であり、特に水や食料関係はその中でも最大の秘密に分類される。





こういった分野に一線を引いていることは既に両者も気付いていることであり、今回の様に授業時間を変更する事やまたは延期することに文句を言われたことはない。
そして本来ならば今日の様なこういった分身に授業を任せられない様な大事の日は無難に講義を休校としてしまうのだが、イデアは気がかりなことが有った為に多少無理をしてでも続行することにしたのだ。
気がかり、喉の奥に突き刺さった妙な不安という棘を苦々しく思いながらも、それをただの気のせいだと流すには、イデアの地位と責任は大きすぎた。






不安は、恐怖に通じ、恐怖は過ちになる。ほんの僅かでも心に引っかかったモノはナニカ意味があるはず。
そしてその不安の“答え合わせ”の一部は、今手元にある。
じっとイデアは部下からの報告書を眺めて声も漏らさずに頭を回転させていた。





そこにはネルガルの監視結果が複数の筋からもたらされた情報として羅列されている。








彼の日常行動……問題はない。

彼の思想……問題はない。人竜にかかわらず友好的であり、誠実。

彼の能力および研究課題……長である自らの許可済み。

研究速度……きわめて鈍重。アトスと共同でやっている模様。





おおよそ全ての結果がネルガルは里の敵には今の所なりえないと告げていた。
そしてイデアもその結果には一切の疑問を挟む余地はなかった。
あの男の思想はとても柔軟で、人や竜といった部分には余り拘りを持たない所がある上に、とても親切で他者の為に自らの力を進んで使うことが出来る男と知っている。





第一の困った事に、今問題になりかけている───いや、ただの情報として見るだけならば彼のやっていることに全くの問題はないというのがある。
そうだとも、表向きにせよ、裏の意図にせよ、彼には全くの悪意も他意も害意もなく、しかも全ての行動は自分の許可の元にやっているのだから。




だから困る。不安に根拠がないのが。




ある程度の予想はあったとはいえ、彼がここまで、元は人の身で神竜であるこの身の神秘の一端に指を掛ける寸前までいくとは。
どうすればいいのか判りかねているのだ。下手に刺激をするのも徳とは言えず、だからといって好き勝手にやらせるわけにはいかない。
その上……彼らは素晴らしい術者であるが故に、魔道の恐ろしさを知り尽くしており、自らの心配は杞憂に終わる可能性がとても高い。




第二に、素晴らしいメリットもあるということだ。
今彼がやっている研究の内容は正直、自分にとってもかなりの利がある。
余りこういった取引は好きではないが、自分が“授業代”として研究成果の開示をそこはかとなく要求するように仄めかせば、彼はそれをこちらに提供するだろう。





それ以前に今は様子見の時期だが。
失敗するようであれば捨て置き、形になりそうなれば“支援”が必要となる。
自分は慈善業務であの二人に竜の知識を与えたわけではない。




自分は長であり、個人としてではなくこの里の統率者としての考えを持たなくてはいけない。







─────。






あぁ、と虚空に視線を彷徨わせてイデアはため息を吐く。
全く、人の心とは、どう転ぶか判らないから恐ろしい。
神竜の力を強引に使えば解決出来るかもしれないが、それでは紐が解けないと言って癇癪を起して剣で切り付けるのと同じだ。





強引な暴力による解決はいわば一時しのぎであり、そのせいでどんな歪が産まれるか判ったモノではない。
もっというならば、一度でもそういう解決法をとってしまえば必ず2度、3度と同じく続いていく。
その果てに待つのは全てを暴力で解決しようとする、傲慢な暴君、邪神、邪竜だ。




最悪を考えるのは当然の仕事だが、深みにはまると抜け出せなくなる。
そればかりを考えすぎて、囚われた結果、その未来を引き寄せてしまったら元も子もない。
この話題は極めて慎重な微調整を必要とするのは確かではある。






一通りの区切りを付けて、一休みした後に授業の準備に入る為にイデアが玉座を立ち上がろうとした瞬間、彼は慣れ親しんだ気配を感じて動くのをやめる。
大人の早歩きよりも少し遅い程度の気配が一つと、それに追従する小動物が歩行する程度のゆったりとした気配。
ちょこちょこと小さな足を必死に動かして歩いている様をありありと“見て”しまい、神竜は脱力して笑った。





あの二人は彼の癒しだ。
子を持った親がなぜ、精力的に働くことが出来るのか、イデアはこの数年、特にファが産まれてからよくわかった様な気がしていた。
だからこそ大事な所では緩まない様に気を付けなければいけないことも重々承知してはいるが。





子をもった親は強くもなるが、弱くもなる。
子供は弱点にもなりうるからこそ、逆に気を遣わなくてはいけない事も多い。




メディアンからイデアはそう教わっていた。
ソフィーヤという娘を持った彼女は数百年前に見せていた男性らしい所はかなり収まっているが
根本の客観的に冷えた部分は更に研ぎ澄まされ、娘も里も自分も全てを守るための力の研鑽を怠ってはいない。




恐らく今の彼女は自分が出会ったころの彼女よりも何周りも強くなっているだろう。
更に彼女は、言葉を濁して誤魔化していたが……色々と“変わって”いた所もある。
既にその資格はもっているが、至ろうとする意思がないだけ。




そうこうと考えている内に、ファは既に殿の地下の入り口を通り過ぎ、水の中に敷かれた道にまで差し掛かっている。
遠くからは足音こそしないものの、彼女が動くことによって生じる空気の波ともいえる揺らぎが伝わり、イデアは迎え入れるために玉座に座りなおす。
何処まで彼女が進んでいるかなど、欠伸が出る程簡単に把握することが出来るのだから。





やがてひょっこりと玉座の間の入り口、柱の影からファが顔を覗かせて、父であるイデアを見つける。すると彼女の顔は綻んだ。
翡翠色の両目から眩いまでの期待を放ちながらも、表面上は穏やかに、何時もの会話の様に玉座の父に声をかける。




「おとうさん、お仕事おわった?」




「もう終わった。今から休憩に入る所で……その後に勉強だ」




駆け足をやめて、余裕を込めた緩慢な歩幅でファがイデアに近づく。だがその内心は違う。
抑えきれない程に膨れ上がる興奮と喜びをファは努めて、ある程度は制御していた。
子供として抱いて当然、表現して当たり前の量の感情を表に出しながら、その量を彼女はどこか冷静に測っている。




内心で燃える“太陽”を朧といえど、ファは認識していた。
その上で彼女はこの数年で父であるイデアから教わった感情と、それより産まれる【エーギル】の操作という技術を磨く。
何時か、自分がお父さんの役に立つために。この世で現時点では唯一同じ存在のために。




当然イデアはソレを全て見抜いた上で嬉しく思いながらも、どう動こうかと思案する。
どうしようか、娘の日進月歩の成長を見るのは最高に楽しく、喜びを抱かされるが、余りはしゃぎ過ぎるのもどうかと彼の中では様々な念が討論を繰り返す。
玉座の間に迎えた娘をどうやって自室に返すなりなんなりして、とりあえずはこの場から離したいが、それはとても難しい。





何故ならば、ファとは今日一日全くと言っていいほどに会話をしておらず、それはイデアとの接触を求める彼女にとっては我慢ならない事だから。
当然、その反動は今から発散されるというわけだ。
そして、常に子供というのは親の想像を超えるモノであり、それはイデアとファの間でも例外ではない。





ファは、文字通り、その場から“飛んだ”
瞬時に背中に竜としてのひな鳥を思わせる羽毛の生え揃った翼を1対展開し、そこから得た浮力を全て前面に集中させた上で勢いよく床を蹴る。
矢の如き速度で突貫してくる娘にイデアは一瞬だけ面食らったが、すぐに冷静に対処。




イデアの対処……彼は娘を受け入れた。
黄金の光を滞空するファに絡みつかせて少しだけ勢いを落とすと、彼女の身体は次の瞬間、ぼふっと玉座に腰かけるイデアの両腕の中に納まった。
そのまま、動物がマーキングでもするようにうりうりと赤紫色の頭を胸に押し付ける娘の姿にイデアは軽いため息を吐く。





バッと勢いよく顔を上げ、翡翠色の瞳で父を見てファは言った。
あらゆる意味で平凡で、故にイデアが予想できなかったことを。





「きょうのご飯は何? ファはね、何でもいいよ!」





「…………………」






あちこちに視線をイデアは移動させた。正直な話、予想しているようで、この質問は想像していなかった。
てっきり、今日の夜に行われる授業の質問を受けると思ったのだ。
それにしても……イデアは料理と聞いて思った。



今、ファは玉座……つまり身もふたもない言い方をすれば背もたれの長い椅子に座っている自分の膝の上に載っている訳なのだが。
足から感じる彼女の重みが少しばかり、また増えたような気がする。当然、太ったわけではなく、比例するように背丈も僅かに伸びた。
成長をまた一つイデアは感じて、この娘が将来何処まで行けるのかと考えてしまう。



ファは更に言葉を続ける。子供特有の脈絡があるようでない、独特の話法を思う存分に発揮しつつ。




「おとうさん、今度ファにかんたんな“料理”のつくりかたを教えてちょうだい」





「別にそれは構わないが……」





いきなりの娘のおねだりにイデアの言葉はしりすぼみになってしまったのも無理はない。




キョトンとした顔の父親に娘である彼女は胸を張って答える。
むふふーと頬を膨らませるようにファは笑った。
ぎゅっと両手の前で小さな握りこぶしを作り、それを小さく揺すりながら彼女は自らの未来絵図を語っていく。





「あのね、おいしいものを食べると、すごく幸せな気持ちになれるでしょ?
 だから、おとうさんや、ソフィーヤお姉ちゃん、おばさん、みんなにファの作った料理で、いっぱい笑ってほしいの」





もちろんアトスおじいちゃんやネルガルおじさんも一緒だよと続けるファにイデアは降参したように両手を上げた。
次にくしゃくしゃと髪の毛を撫でてやると、ファは黄色い声を上げて喜色を顔に貼り付けながら首に両腕を回して抱き付く。
きゃあきゃあ言うファを目の前に、イデアは少しだけ胸のつっかえが取れたような気持ちになれた。



結局のところ、目指すのはそこだ。全員で食卓を囲めるような状況こそが最善。
そのためにもまだまだ自分は進歩しなくてはいけない。




そうだな。全く、お前には勝てないかもしれない。
内心、イデアはファに感謝を述べると、この浮き島の様な玉座の間の入り口付近の柱に目をやる。




今度はしっかりとそこに姿を隠している少女に向けてイデアは声を掛けた。
体は隠れていても、気配を隠すなどという技術を彼女はもっていない為に簡単に見破れた。






「出てきていいぞ……そんな所にいつまでいても意味ないだろ?」





物陰から息を呑む気配が漂うと、次に逡巡が放たれた。そして最後には諦めが。
ひょこっと顔の半分だけをソフィーヤは柱の影から出すと、じーっと微動だにせずファとイデアに視線を飛ばし続け、無言で何かを訴える。
それは羨望、というべきか、それとも自分に構ってくれずにイデアに甘え続けるファに対する少しばかりの嫉妬と不満か。




ファがここでソフィーヤに気が付く。竜の少女は名残惜しそうにイデアの膝の上から降りてソフィーヤに駆け寄った。
一件慌ただしく走っている様に見えたイデアは、余り駆けるなと注意を促そうと声を上げかけたが
深く注視して見るとファはソフィーヤを見つつも、足元にも視線を落として転んだりしないように周囲に気を配っているのが判ったために口を閉ざす。




あっという間にソフィーヤの前に移動したファは彼女の手を取って、見上げながら言う。





「ソフィーヤお姉ちゃん。ファね、こんどお父さんと一緒に“料理”をつくるの……あじみ、してくれる? さいしょはお父さんとお姉ちゃんにたべてもらいたいの」




柱の陰に隠れて今までのイデアとファの会話をある程度は聞いていたソフィーヤは驚きこそしなかったが、内心とても嬉しかったのか、頬を少しだけ赤く染め、プルプルと体を震えさせた。
自分の心からの友達と信頼する叔父とも言えるイデアの料理は彼女にとってもある種のご褒美であり、何より、彼女が最初に父であるイデアと、自分を選んでくれたというのが嬉しい。
だが、ただ作ってもらうというのはソフィーヤとしても嫌なことであるが故に、彼女はファの手を握りしめ、ファの眼を見てから、次いでイデアに視線を移す。





少女の清流の如き柔らかくもよく響く純粋な声が宣誓をあげた。




「……私も、今度、ファとイデア様に何か作ってお返しします……私の料理も……食べて欲しい、です」




少女の純粋な言葉にイデアは玉座から立ち上がり、ソフィーヤとファの前まで歩を進めていき、そして微笑んだ。





「楽しみだな」





また一つ約束と楽しみが出来た。頑張らなくては、とイデアは決意を新たにした。
そんな中、ソフィーヤはファにボソっと呟くように、リクエストを零す。




「……トウガラシ、辛みそ……そしてコショウをいっぱい、いっぱい、入れてください…………」





え? とファは固まる。
彼女も何度か今あがったモノは口にしたことがあり、それらはとてもじゃないが舌に合わないと思っていた。
まさかソフィーヤお姉ちゃんが、辛いモノ好きだったとは思わず、苦手な味付けである辛味をどうすればいいかと彼女はあわあわと悩み始めた。



料理の「り」の字も習っていないファの早すぎる心配にイデアは苦笑しつつ、既にファからとても美味しい好物を出されることを期待して
小躍りでもしそうな雰囲気を放つソフィーヤを見て、思わず零した。





「辛すぎる料理はダメだ。舌がおかしくなる」





その続きはイデアの胸の中で紡がれる。





俺は辛いのは嫌いではないものの、余り好きでもないんだ、と。




























木々も眠るという夜も極まった時間帯、イデアは何時も通りの白いローブにフードといった、とても夜の砂漠では通用するとは思えない軽装で殿の通路を歩いていた。
余り大勢の者が住んではいないこの付近はこの時間になれば気配というものが全くなくなり、完全な静寂に覆われる。
既に娘は深く眠りにつき、ソフィーヤも家に帰り、そしてイデアもある程度ヒマになる時間帯だが、今日のイデアは何時もの研究よりも優先すべきと考えた行動をとっている。




周囲に足音だけが空虚に木霊する音を耳朶で捉えながら、彼は一つの部屋へと向かっていた。アトスとネルガルの部屋に。
既に二人には許可は取っている。今日、彼は二人と、自分を含めた3人で少しばかり雑談をしようと思っていた。
思えば最初の対話と、授業、ファやソフィーヤ関連以外では余り喋ってはいなかったと思ったから。




その点メディアンは本当によくやってくれた。彼女が主催してくれた宴会によって最初のこういった事をする仲となるための取っ掛かりは出来たのだから。
ネルガルの報告書類などを見て、脅威が何だのと頭を回すよりも本人が居るのだから話をしてみた方が手っ取り早いと判断したためでもある。
一人考えを巡らすだけの空回り程空しいものはなく、そして対人関係でズレを産んでしまう事はないのだとイデアは知っている。




ぼんやりと窓から見える雲が少しだけ掛かった青い月を視界の端に収めつつ、イデアはさして時間を掛けることもなく二人の部屋の前に立っていた。
自分の城の部屋に入るのに気おくれなどするはずもなく、イデアは何時も通りの少しだけ力を抜いた調子で部屋の扉を軽くノックする。
直ぐに返事が二つ帰って来て、入室の許可を伝えてくると、竜は友人の部屋にでも入る様に躊躇いなく扉を開けた。





「こんばんわ。イデア殿。待っていたよ」




今現在知識面では完全に師ともいえるイデアに対して敬意を払うようにネルガルは座っていた椅子から起立して一礼し、微笑む。
それに続き、ネルガルと並ぶように立ち上がったアトスは何時もの様に、青い瞳に穏やかな光を灯してからかうように、少年の雰囲気を感じさせる笑みを浮かべた。



「こんな夜更けに、枯れた男だけの部屋しか用意できなくて済まないな。華やかな話等とは無縁のわしらだが、寛いでいってほしい」




はっはっはっは、とイデアは笑う。軽口に同じような雰囲気でイデアは返す。





「何を言っているんだ。やろうと思えば、お前たちならば引く手あまただろうに」




その言葉に気を良くしたのか、ネルガルは頭に手をやると、ぴっちりと後ろに流すように纏めている髪の毛を指で弄る。
更に顎に手をやってから、彼は少女がすればとても魅力的になるはずのウィンクをした。
ただしネルガルは女ではなく、男であり、その外見も十二分に大人である。



青年と壮年の間の外見……もっと切り込んで述べてしまえば“おじさん”とも言える男のお茶目な仕草を向けられて、イデアは顔の前で払うように手を動かしつつ笑った。



外見からは想像できない程にネルガルはこういう悪乗りに付き合ってくる。





「そうか? やっぱりか。まぁ、私もまだ捨てたものではないというものだ」



ふふふ、と色男然とした気配を模倣し、放出するネルガルにアトスは少しばかり暗い影を纏った顔で、水を彼の背に落とし込んだ。



「かつての弟子の一人が言っていたが“結婚とは始まりであり終わりでもある”……うむ、深い言葉だと今更ながらしみじみ思っているよ」




何も負の意味ではない。その弟子は最後の最後まで妻の傍にあり続け、愛していたことをアトスは噛みしめた。
魔道士としては己が勝っているが、間違いなく人間、男としての技量ならばその弟子が上だと彼は認めている。




三人はあらかじめ打ち合わせでもしたように丸いテーブルを囲むように座る。
何も乗ってない小さな丸い木製の物置にイデアはいつの間にか掌に出現させた盃を3つ置いた。
更には小さなタルを懐から何でもないように取り出すと、その中からよく冷えた果実酒を盃に注ぐ。




全ての流れをイデアは当然の様に行う。
まるで最初からあったように盃を産み出した上、どう見ても小さいとはいえ懐に抱え込むのは不可能な大きさのタルを取り出して注ぐ。
ただ土産として持ってきた果物の酒を差し出しただけだというのに、その行動だけでこの場の支配権を握る。



アトスとネルガルはイデアの言葉をただ待っていた。
イデアがそれに対し、視線でいいかな? と問うと了解の意を二人は同じく視線で返し、それからイデアは口を開いた。




「研究の事は俺も聞き及んでいるよ。進み具合はどうだ?」




遠回りな言い方などせず、彼は開口一番にまず彼らが最も心血を注いでいる話題を軽くもないが、重くもない口調で切り出す。
既に部屋に入ってからの軽口などで場の空気は変わっており、これ以上ぐだぐだ無駄な話題を持ち出せば、それこそ収まりがつかなくなるのだ。
そしてこの二人に対しては、どんな女や金儲けの話よりもこういった研究や学術の論議の方が盛り上がる。





「全てが手探りで、正に暗中模索といった所だが……本当に、基礎中の基礎の部分ではあるが、少しだけ前進はしている」





椅子に腰かけたネルガルは顔の前で指を組み合わせ、答える。
ため息の様に吐き出された吐息には、疲労と達成感、そして難儀な課題への挑戦意欲がごちゃ混ぜになっていた。



命の探究。人体実験ではあるが、削っているのは全て彼らの力だ。
生命の神秘的概念【エーギル】への拙い理解を元にその操作を人でありながらも疑似的に行おうとこの二人はしている。
【モルフ】の設計図を描き、人の疑似存在であるモルフの創造を試みているが、当然ながら最初から上手くいくはずなどない。





竜族の秘術である【モルフ】の作り方をイデアは全く教えていない上、ネルガルもその理由を察している。
だが、全て自分一人の身でその謎に挑むというのならば、そこに口を挟むことは里に何らかの問題が発生しない限りは彼には出来ない。
かつてイデアが狂人の落書きと笑い飛ばしたあの本をネルガルが数奇な運命の末に手に入れ、そこから自力で再現するとは。



500年、周りに回ってきた因果がここに来るとはさすがのイデアにも想像はできなかった。



全て自己責任でやっている以上、彼の研究を無理やり止めさせるということは非常に不満を抱かれる行為となってしまう。
削っているエーギルは彼ら自身のモノであり、その結果生じるリスクも彼らが全て背負う。
その上、イデアはあえてこの両者には具体的な事は何も言ってはいなかった。許可こそ出したが、支援するとは何も言ってはいない。





泳がせているというのが現状だ。




無論その理由は所詮人間にモルフ探究など不可能という見下しの目線ではなく、むしろその逆……ある程度の期待からだ。
自分の視点とは違う目線から、自分と同質の研究を行うというのはかなり目新しい発見に繋がる可能性が十二分に期待できうる。
恐怖し、犯せなかった領域の扉をもし開けてくれるならば待とうという卑怯とも評される思考もそこにはあった。





そして、イデアは……もしもこの二人が人型自律モルフの研究をある程度まで進めて実用化の目途が経った時に“支援”をするつもりであった。




横取り、剥奪、強奪、盗作などといった言葉が頭に浮かぶが、まぁ、仕方ない。
そもそも最初から自分も完全なる慈善目的で竜の知識をこの二人に出し惜しみするような形とはいえ、与えているわけではないのだから。
友好的関係を作り、その状態を維持したいとは思っているが、それはそれ、これはこれ、だ。




最も、支援を行った場合もこの二人には引き続き研究を続けさせる気ではあった。
だが触りとは言え竜の知識を与えた上、此方側が決定的に優位に立っている為の前提条件にさえこの二人が触れてきている以上、ただ好きに研究させるだけというのはありえない。
この二人を味方に引き入れるだけでは少しばかり天秤が釣り合わなくなっているのだから、それぐらいの見返りは欲しいというフレイとの相談の結果である。





不安はあるが、具体的な形にはなっていない以上、今はまだ静観し、もしもに備えておくしかない。





「そうだな、今日はこれまでの一応の成果をお主に見せたいと思っておる」




椅子から立ち上がったアトスが、部屋の隅に歩いていく。
同じくネルガルも立ち上がると、老賢者の隣に並び立ち、二人でイデアを見つめた。




一瞬、イデアはアトスの声に奇妙な感情を感じ取った。
これは……何だろうか、迷いのようでもあるし、何処か決意を固めた男の声にも思える。




「この存在はほんの触りでしかないが……“素体001”と名付けている」




ネルガルが淡々と論文を読み上げるように宣言すると、アトスと並び、両手を体の前に突き出して、指を大きく開いた。
放出されるのは魔力……を更に研ぎ澄まし、ろ過し、純度を上げた【エーギル】
黒みを帯びた翡翠色のネルガルのエーギルと、空の蒼いアトスのエーギルが伸ばしきった腕の先から噴出され絡みあい、歪んだ円形の光をつくりだし、床に張り付けた。




魔方陣周囲の床や“場”に音もなく黒翡翠色で書き足されていく無数の竜族文字、文字、文字。
ネルガルとアトスが知っているだけの基礎的な竜族の言霊だが、それでも不完全ながらにモルフ創作の陣を作り上げるには至っていた。





青と黒い翡翠があべこべに混ざった魔方陣の発光が部屋の中を隅々まで照らし、全ての影を駆逐する。




神竜がその奇跡を行使する際に発動する円形で黄金に輝く魔方陣にそれは似ている。
光魔法の象徴とされる太陽の紋章は完全な輝く円とそこから放射される太陽光を意味する8つの先端部分を円に接続した三角によって成り立っているが
ネルガルとアトスが描くこの円は少しばかり歪な楕円を描き、周りに文字の羅列と配置が無茶苦茶であり、足りない文字と単語の数も多い。




修正点を上げろとイデアが言われれば、彼は恐らくは100に近い修正の箇所を指摘することが出来るだろう。
イデアからみればまだまだ所か論外の魔方陣だが、同時に彼はこの光景を見て称賛を二人に送っていた。
素晴らしいと内心では純粋な絶賛を二人に注ぎ続ける。





よく、人から魔道士になった身でここまで来たものだと。
更に彼は500年前メディアンに駆逐された男の評価を少しだけ上げると同時に、あの時自分が彼を殺す指示をした判断が間違っていなかったと思った。
あの時は道端のゴミ程度にしか思ってはいなかったが、今こうしてあの男の遺物から復活した技術を見ると中々に将来的な脅威だったかもしれない。




あの男がエリミーヌ教団から排除されてこの僻地に流れ着いたのは幸運だった。
もしもこのまま不完全とはいえモルフ技術がエレブに拡散していたら未曾有の大戦争が発生していてもおかしくはないのだから。




魔方陣の外周をぐるっと囲むように浮かび上がる竜族文字がまるでミミズの様にのたうち回り、全てが円の線を越えて中央に寄り添うように集合する。
何重もの文字が重なり合い、もはや黒い“染み”として塗りつぶされてしまった魔方陣の中心に対して二人のエーギルから発する光が集い
朧な影を紡ぎあげ、それは平面から徐々に立体的な存在へと進化を遂げ、そこに誕生した。





この後の段取りはとても素早く行われる。
あっという間に光が固まる様に生み出された“物体”は先ほどまで魔方陣の中には存在しなかった質量をもった確かな存在として産み落とされた。
表面から内部にしみ込むように“物体”を覆っていたエーギルの光が消え、その“物体”は白い石灰岩の様な無機質な色を晒す。





だがしかし、やはりというべきかその形状は歪だ。
辛うじて人にとっての胴体と判る部分から繋がる四肢と頭があるが……その先の指どころか“掌”も“足”もない。
四肢を失い、その箇所を治癒した人間の如く、丸みを帯びた肉の塊が両手両足の箇所に4つあるだけ。




頭部らしき首から先の丸みを帯びた部位も、内部の頭蓋骨の構造が無茶苦茶なのか、丸みを帯びてこそはいるが、その実、凹凸だらけだ。
今はうつ伏せに近く、蹲って人間の顔に当たる箇所はこちらに見せてはいないが、やはりその場所もこの状態を見るに、余り見ない方がいい状態になっているのが想像できた。



いや…………呼吸もしていない。筋肉の動きもなく、血液やエーギルの流れを全く感じないこれは正真正銘の置物だ。
石灰色の肌は、もはや岩盤と言っても差しつかえない程の硬度をもっており、そこに生物の温かみは、ない。
これはただの肉塊。神の領域を犯そうとして失敗した滑稽な象だった。




だが無意味な失敗ではない。これは始まり。





「なるほど」




一言だけイデアは発した。研究結果を黙々と書き留める探究者の様に。
“眼”を使って幾らかの観察をし、分析していきながらもその様子は無表情の外には一切漏れない。



真理の探究やら魔術の研究、その他様々な高尚な理屈で武装していても結局のところやっているのは命を弄ぶ行為だとここにいる全員が知っているからこそ
研究成果を発表する二人にも、そしてソレを評価するイデアにも、笑みはない。ただ黙々と行うだけ。




「どうしても我らの力では人間で言う血や臓器などを作り出すのが上手くいかん。
 そもその話、我らは血が生きていく上で具体的にどのような役目を果たすのかさえ判ってはいないからの」




賢者は語る。判らないモノを作るのは無理だと。
そもそも人で言う血液や骨、臓物、そういった器官が何で作られ、どういう働きをし、相互関係はどうなのかさえも判らないのだから、模倣など出来るはずはないと。
これは本を写生しようとしているのに、原典の文字が読めないのと同じだ。




仮に二人が血液や血管について知りたいというのならば、この里には『血液循環説』等という専門的な本もある。




まずはそこからになる。ただ魔道の知識があれば作れるほど【モルフ】は、命はたやすい存在ではなかった。
アトスが“物体”の肩と思わしき場所に軽く手を置くと、そこから蜘蛛の糸の様な断裂が走り、ぼろぼろ崩れていく。
小さな灰の様な白い粉が、床にみるみる積もりだし、僅かな粉が撒きあがった。





両手両足、が崩れ、頭がボトッと落下すると同時に、あの“物体”は一瞬で灰の山に代わってしまう。





「どれだけ我々が頭を捻ろうと、結局のところ、子を産み、育てる母親の真似ごとにもならないということだな」




しゃがみ込み、灰の山に指を入れながらネルガルは言う。
言葉こそ哀愁を帯びているが、その裏には隠し切れない挑戦意欲がある。
まだまだ、ここで諦める気は彼には毛頭ないようだ。




それらを横目にイデアは既になぜこの【モルフ】がそもそも生命とさえ成れずに朽ちたのか、おおよその答えを出していた。
まず二人が人体の構造を知らないということ。知らないモノを作るのは不可能なのは当然の理。



そして……両者はあの男の残した通りの手順を完全には行ってはいないこと。
アレが作っていた“なりそこない”の材料は、生きた人間だった。
人から人とモルフの中間地点へ、そしてモルフへと段階を経て作品を作り上げようとしていた設計図通りにはやっていない。




さて、この灰をどう片付けるか。そうイデアが思った時に、その言葉は放たれた。





「わしは、この分野……モルフ関連の技術の探究は、これにて降りるとする」




余りにも突拍子もない言葉だったが故に、イデアは思わず固まってしまう。
そして同時にアトスの顔を見て納得する。彼の眼は確かな哀れみと、後悔の念が入り混じった深い色をしていたから。
今までで薄々感づいていたのだろうか、ネルガルはゆっくりと立ち上がるとアトスに向かいあった。




罵声も何もない。ネルガルは大賢者の眼を真正面から見て一言だけ発する。





「いいのか?」





灰色の山をアトスは見た。燃え尽きた薪の様な、もう何処に行きつくこともない完全に終わった存在の残骸を。
人は誰しもああなる。生き物ならば行きつく先は全て等しい。
ただ、それが遅いか早いかだけだ。自分は少しばかりそれを先延ばしにしているだけなのだ。





「あぁ……悩んでいたが、たった今、踏ん切りがついたのだ」



なぜ? とは聞かなかった。魔道士にとって、身の丈に合わない知識から手を引く勇気もまた尊重されるものだから。
だが心は別である。この研究に誘ってくれたネルガルへの裏切りとも取れる言葉に対してアトスは逃げずに説明をする。




「わしの身には、この“力”は重すぎる。命を作り、命を支配する神の域にも届く行為は…………神ならざるわしには到底扱えきれんよ」




口惜しさと達観、そして彼が大賢者と言われる所以でもある何処までも冷静な思考からはじき出された言葉は否応なくネルガルを納得させていく。
身の丈に合わない力は取り込まない。己が分を弁え、決して道を踏み外してはいけない。子供でも判る世の普遍的真理だが、難題でもある。





竜の叡智の一端、命の創生という奇跡。
魔道士ならば這いつくばり、頭を垂らしてでも欲するその力をアトスは、あえて己のモノにしないと決めた。
命とは流れるもの。男女が居て、子を産み、紡ぐもの。世界が、人がこの世に現れた時から始まった絶対不変の秩序を超える力は、恐ろしいと感じてしまったのだ。




最後にアトスはイデアに向き直り、深く頭を下げた。そして吐き出される言葉は真摯な念に満ちている。





「すまない。自分が虫のいいことを言っているのは判っているのだ。だが……それでも、わしはこのモルフに関する研究“だけ”は降ろさせてくれ」




だけ、という言葉の意味を理解しないイデアではなかった。
都合のいい話でしかない、モルフの研究はやらないが、他の勉学はこれからも続けさせてくれという図々しいとも取れる言葉。
大賢者の眼は、今までイデアが見ていた少年の様な覇気に満ちた活力はない。ただ、どのような結果が下されようと粛々と受け止める罪人の様だ。



イデアの視界の隅に積み重なる灰の山。かつて自分はアレよりももっとおぞましい存在を作ってしまった。
その出来損ないの余りの造形に嫌悪を覚えた。だが今は後悔している。中途半端な命を与えてしまい、その存在そのものを弄んだ、名前さえないあの存在に。




特にモルフ関連の研究をアトスが降りることに問題はない。
元より、ダメ元で始めた、いわば一種の実験だったのだから。
魔道士が知識を取り込まないという選択を取るのがどれほど難しいか、竜は深く知っているのもその言葉を紡ぐのに拍車を掛けた。





「判った。お前の判断を尊重しよう」





そして……とイデアはネルガルとアトスを同室ではなく、一人ずつ個室に分けることを提案した。
この両者の仲がいいのは間違いないが、さすがにネルガルが研究する様を、実験から降りたアトスが眺める光景というのは両者の心理的負担になるのは眼に見えている。




提案の意図を瞬時に読み取り、アトスは姿勢を正した上で、厳かな気配さえ漂わせる硬い口調で言葉を放つ。




「重ね重ね、感謝する」




竜の気遣いに再度一礼し、次にアトスはネルガルに向き直った。
アトスの厳粛な雰囲気に対してネルガルは、苦笑して答える。


彼は気さくにアトスに笑いかけると、談笑でもするような雰囲気を纏い、頭をかしげた。
まるで意味が分からないと言わんばかりに。





「どうして、謝るんだい? 魔道士にとっては全ては自己責任。自分がダメだと思ったら手を引くのは当然の事だろ?
 そもそも、こんな事で私と君の友情に問題が発生すると思ったらそれこそ大間違いで、そちらに対して私は怒るぞ」





一泊開けてからネルガルは笑みを消して、真剣に言う。その眼に宿っているのは真っ直ぐな信念。
彼という男を象徴するような、純粋な光だった。




理を超えて、人から外れた身だというのに、彼は何処までも人間味に溢れているという矛盾。
男の言葉に偽りは一切含まれてはいない。全てが心の底から思う、真実彼の本音。




「私は魔道士云々など関係なく、君の友だ。そして願わくば……」





見えない目線を自分に向けていることに気が付いた神竜は鷹揚に頷いた。
否定する要素など何処にもなかったからだ。
何を今更言っているのだか、と内心で肩を竦める。





そんなこといちいち言葉にせずとも、何年も顔を突き合わせていればそうもなるし、対象が人格的にも能力的にも好意を持てるのならば、尚更だ。





イデアは心の大部分を覆っていたネルガルへの警戒が薄れていくのを体感していた。
無になったわけではないが、限りなく下がっていく。
心の中で燃えていた不信や不安は消え去ったが、まだその根本では火種の様に熱がくすぶり続けている……。




やはり、自分は少し考え過ぎているのかもしれない。
警戒は大事だが、疑心悪鬼とは違う。
イデアはあえてその火種に対して向けていた眼を逸らしたが……それでも無視しきれない。



危険な研究をしていると、危険な人物であるは、必ずしも結びつくわけではない。
幾ら言い聞かせても、しかし、心の遥か奥に救った黒い種はこびりつき、影の様にその存在を決して失せさせはしなかった。





「どうしたんだい? イデア殿」




どうやら考え事が顔に出ていたらしく、憂いを帯びていたイデアにネルガルが声を掛けた。
やはりというべきか、お人よしな彼の顔には曇りのない自分への心配が溢れている。
本当に彼は世でも珍しい程の“善人”なのだろう。人を思いやることができ、そして無償で助けようと思える心をもっている。





「ありがとう、だけど何でもないさ。……所で、お前はこれからも研究を続けるということでいいんだな?」




「そういうことになるね。少し寂しいが……うまくいったら、私もイデア殿のような“芸術的”な存在を作ってみたいものだ」





くくく、とネルガルの言葉に反応したアトスが喉を鳴らして体を揺らし、絞り出すように声を発する。
彼の頭の中に映ったのは恐らく、あのリンゴもどきだろう。アレを芸術品と評するネルガルの美的感覚に思わず笑いが出てしまったのだ。
途切れ途切れに賢者は訴えた。頭の中で、リンゴだけではなく様々な果物に人の手足だけを生やした異形の群れに襲われながら。





「アレの同種が増えるなど、やめんか。正直、初めてアレを見たときは悪い夢でも見ているのかと思ったのだぞ」




最初に見た時に得た好奇心と驚愕。今ならば判る、あれの生物として存在出来ることのありえなさと無茶苦茶加減。
あの時に欲しいと思った知識をつい先ほど拒絶したという事実にアトスは思い至り、何処か晴れ晴れしい思いに至った。
モルフ技術を得ないという選択をした彼に一切の後悔はない。まだまだ竜の知識は無尽にあり、モルフはその一角でしかないのだ。




そして彼はこれからも所々で選択肢を迫られると予感していた。全てを学ぶのは不可能だ。
幾ら理を超えたといっても、その成り立ち、根源は人でしかない自分では、扱えない、扱ってはいけない禁忌がこれからも多々出てくるはず。
その時に自分は学ぶか、学ばないかの選択肢を突きつけられるはずだ。





ネルガルは、選択できるのだろうか? と、ふとアトスは思うのだった。
ありえないとは思うが、もしも全てを余すことなく手に入れたいと願うのならば……………いや、やめよう。



この男は賭け値なしに素晴らしい魔道士である故に、そこに対しての不安はない。
アトスは信じていた。この里に理想郷と名付け、良き友として掛け替えのない男であるネルガルを。




ぐっとイデアが背伸びをして、欠伸を吐いた。眠気からではなく、単なる原理不明の生理現象の様なものとして。
同時に話題を切り替える為の一種の暗喩的な行動でもある。
紅と蒼の眼に気だるげな光を灯し、手を団扇の様に顔の前でパタパタ動かす。




「さて、と。積もる話は明日にして、俺は部屋に戻るとするよ」




言葉を一旦止めると、イデアは“眼”を通して殿の一室でおどおどしているファを見た。
何の偶然か、夜中に目が覚めてしまった娘は寂しさに震えていた。
夜の闇に一人で放置するのは余りに酷であり、直ぐに戻って相手をしなくては。





おやすみと別れの挨拶を告げてくる二人に対してイデアは片手を上げて答えた。




























ある夜のこと、朧な夢うつつの中でネルガルは一つの光景を見ていた。
夢か真か、彼には判らなかったが、その景色は確固たる現実と変わらぬほどの鮮明さをもって彼を圧倒する。
場面は夜の砂漠だ。ミスルの何処か外れにも見える場所。近くに里は見えない程に、ここから離れた場所。




彼は後姿をみていた。白黒のようであり、妙に砂嵐が全体像を覆っているが、恐らくはイデアの背を。
月明かりに反射する金糸に、何時も彼が好んで着こむ純白のローブとは違うデザインの、質素な茶色いマントが見える。
表情は見えないが、今の竜が纏う雰囲気は、恐ろしい事に何時もと全く変わりがない。


 
……なぜ、今、自分は“恐ろしい”と思ったのだろうか? 全く判らないが、ネルガルは定まらない頭で呆然とその景色を見ていた。




イデアは砂塵の中、そんなものの影響など全く受けてないかのように歩き出す。
嵐には及ばないまでも、それでも人間……普通のイデアの外見と同じ程度の者ならば立っている事さえ難しい中を悠々と。




彼が目指すのは、小規模な井戸を内包した、木造の砦。だが……乗り込むつもりはない。
イデアが“眼”を使うと、何故かしらないが、ネルガル自身の視線も同じように飛ぶ。
いきなり意識を肉体から剥ぎ取られ、全く別の場面を見せられる事を体験しつつ、彼はこんな眼を持つ存在に勝てる訳がないと思う。




これでもまだ力の一端でしかない。あの時見た太陽の眼には遠く及んでいないのだから。
本人は動くことなく、遥か地平の彼方の出来事を見聞きするなど、冗談でしかない。



そして、そこに映った光景にネルガルは頭痛を覚えた。
同時に納得と理解を得た。イデアが何をしようとしているのかも。




砂漠という地形も相まって、ここらへんには住人は少ない。
ミスルの南端、カフチにまでいけばある程度は住人はいるのだが、北はそれこそエトルリアの南までいかなくてはならない。
つまり、あの砦に巣食うのが賊だとすれば、彼らはその下卑た欲求を満たすための“道具”を持っていたら、ある程度は「大切」に保管するということだ。





女性の亡骸がまず一つ。その隣にぐったりと動かない若い、まだ“身体だけ”は生きている女性も。
足の筋を切られて動けなくなった女性が。
既に虫の息で、牢獄に放り込まれ、水も与えられずに今にも死にそうな女性。




何があったかなど聞く必要はない。つまり、そういうことだからだ。
まだ体だけは動く女は、何かを抱きかかえていた。小さな肉の塊を2つ…………。



ぼろ布に囲まれて、動かないモノには手足が付いてる様に見える。
とても、大切そうに女性は2つの塊を抱きしめて離さない。
心が砕けても、残った最後の意地で、もう意味もなくなったソレを守っている。




そんな姿を見てもイデアは……少なくともその後姿からは、何ら動揺など感じ取れない。





────憎い、憎い、憎い、憎い、返せ、返せ、返せ。





だが、ネルガルは、ありえない程の憎悪をその光景に抱いていた。
先ほどまでの夢の様なあやふやさは全てが黒く染め上げられ、思考は負で満たされる。
噛みしめた歯からは血が滴り、握りこんだ拳は皮を貫き、震える。





憎悪、憤怒、それは大切なモノを奪われた者が抱く正当な感情。
イデアよ。お前はこの光景に何も感じないのか? ネルガルの怒りはイデアにも見当違いだと思いつつも向けてしまう。
あのような、おぞましい、決して許されない景色を見て、お前は何も……?




だが、とネルガルはその考えを次の瞬間に改めた。イデアが懐から取り出した2冊の書を見て。




一つは【エレシュキガル】
確かこの里にある4つの書の一つ。イデアが腰かける玉座の間の、壁に掛けられている書だ。
名前は知っているが、古代竜族の大魔法とまでしか判らない。




まだ術の発動さえしていないというのに、解放され、その力の行使を認められた魔書からはおぞましいまでの瘴気と殺意が漲っている。
絶対に逃さないという主たるイデアの心は、そこに現れ、破壊の時をただひたすら待っていた。




二つ目は、誰よりも知っている書だ。何せ、それは自分が愛用していた魔道書【バルベリト】なのだから。
イデアに初対面の時に預けたそれをイデアが使用したとしても何も問題は皆無。
そこに使いこなせるか、等という疑問は浮かぶはずなどない。




2つの書は、イデアの胸の前で滞空する。
その場に楽譜置きでもあるように、ぴったりと。




竜は小高い砂の丘の上に陣取った。この箇所は数キロ先の眼下にある砦を色違いの瞳で、興味の欠片もないように見る。





イデアが【バルベリト】に力を込めると、ネルガルは“共感”を覚えた。
何故かは判らない。ただ、自分の中の何処かがイデアの心を理解し、賛同し、そして憧れを覚える。
闇が加速的に膨らみ、ネルガルをかつてない規模で見たし、魅了させてしまう。




それは見たくも無いモノを覆い隠し、夜に抱かれた者に心地よい錯覚を与えてくれる闇……。
自分でも気が付かない心の穴に、泥の様に入り込み、これ以上ない程の安心を与えてくれる。
溺れてしまうほどの力の波動。憎悪さえも塗りつぶし、満たしてくれる力だ。




だが、とネルガルは意思を強く持ち直して流れ込む力の波動と愉悦に耐えた。
これは仮初でしかない。どんなに心地よかろうと、どれほど素晴らしかろうと、ただの力でしかないのだ。





次に【エレシュキガル】にイデアは力を注ぎ込む。
夜そのものを持ち込んだような色彩の炎の様な現象をを微かに放出し、その“場”を腐らせた。




遠くからただ幻視しているだけで判る桁違いの力。
冥府の奥底、地獄よりも深い始祖の深淵から零れ落ちる瘴気は、もしも触れれば対象の命を安々と腐滅させる神話の魔法。
数えるのも億劫な程の原初の力。始祖と神の闘争の際に行使された術の一つ。おぞましき腐滅の焔。





大地が腐る。空気が腐る。黒に触れた部分が、熔けて塵になる。何もかも、神羅万象全てが無価値の塵だと断ずる始祖の狂気。
何が起こる? この術と私の【バルベリト】で何を見せてくれる? 期待を滲ませた胸中を自覚し、男は結果を今か今かと待ちわびた。






唐突に全ての音と、【バルベリト】【エレシュキガル】が垂れ流しにしていた黒い闇魔道の気配、全てが消える。
ただ、イデアの腰から何か金属質な物が擦れるような音だけがした。





一泊の間の後、ソレは起こった。驚愕と、億千万の死を引き連れて。
地平の彼方。延々と続く夜の砂漠。無数の黒い砂山が連なる遥か奥からソレは現れた。




最初、それを見ていた男は自らの眼がおかしくなったのかと疑ってしまう。
幾らこれが鮮明だとはいえ、所詮は本当の夢で、こんな事が現実に起こり得るわけがないと。




宵闇よりも深い、ここは陸地だというのに巨大津波としか形容できない程に大規模なナニカが視界の端から端までを埋め尽くし、地平より迫りくる。
ソレの正体は空の雲に届く規模の巨大な炎の壁だ。【エレシュキガル】の焔の様な闇を【バルベリト】の魔風が増幅し、壁と化す。
現実の焔に風を吹き込めば勢いを増すように、闇と闇が相互に干渉しあい、増幅し、とてつもない規模の術となってしまっていた。




視界全土を埋め尽くすほどの粉塵を巻き上げ、巨大な砂と炎の黒壁が轟々と流れる。
既にそれは、術ではない、奇跡であり、この地を支配する神の秩序が絶対の法をもって害虫を駆除している。




想像だに出来ない大きさの力に、ネルガルは先ほどまでの決意を忘れる程に見惚れ、憧れを抱く。
人が神の奇跡を眼にし、なおかつそれを得ることが出来るかもしれないと言われている様なものなのだ。
握りしめた拳は緊張と感動と恐怖で震え、口は無意識の内に半開きになり、眼はこれから起こるであろう全てを見逃さない為に見開かれる。






黒い、壁が、迫る。ペガサスの何倍も速い速度で。弓矢よりも早く死を齎すために。
砦に到達する瞬間、黒壁はその姿を変える。超大な、黒い灯で構成された竜の頭部へと。




イデアが両腕を大きく広げ、空を抱きしめる様に開く。イデアはその小さな唇を、リンゴでも齧る様に開いた。
支配者の動きに呼応し、巨大な邪術竜の頭部が模倣するように、大顎を開口する。エレシュキガルとバルベリトで満たされた口内を晒す。
かつての人竜戦役でも十二分に通用する程の力を行使しつつ、その余波や影響は一切外に漏れることはない。




何故ならば、この地そのものが“そうあれ”と定めたから。真実ミスルは神竜の身体であり、不可能は少ない。
小島程度なら易々と噛み砕ける程の巨大なアギトを以て、竜の口は一切の慈悲もなく、砦に食いつき、全てを等しく平等に咀嚼。




轟音が響いた。砦は瞬時に消えてなくなり、後は竜の頭が深く地下に抉りこみ、砂の底に存在していた頑強な岩盤さえ濡れた紙でも破る様に貫通。
小島複数個にも及ぶ砂が消し飛び、ぽっかりと町でも入りそうな程の巨大な黒い穴が後には晒され、そこに今度は周囲から持ってこられた多量の砂が濁流として流れ込み、塞ぎ、後には何も残らない。






竜の姿をしていた暗黒の魔道術の焔は姿を変え、一度散り散りになってから上空へと収束していく。
完全な球状に姿を変えた“黒”は少しずつ宙に昇り、おぞましき存在を以て煌々と輝く月を食む。
月を覆い隠すように重なり、周囲に暗黒が訪れた。命を多数貪り燃える暗黒の月は、音もなく“黒い太陽”となって天に在った。




何て、美しいのだ…………。




今までに見たこともない眺めに、芸術家は言葉もない。陳腐に綺麗だと子供の様に思うだけ。




痛みも何もなく全てが闇へ溶けていく。
腐りおち、砕けおち、塵になり、そして身体という器を砕かれ、露出したエーギルさえも闇に全ての自他の境界を奪われ、取り込まれる。
術者であるイデアの判断により、賊と思われる者達のエーギルは全てが【エレシュキガル】の焔に直火で焼かれ、完全消滅を。




輪廻転生という概念などお前らには認めないという徹底したイデアの怒り。魂さえ消え失せることによる償いを。



そして被害者と思われる女性たちのエーギルは、全てが【闇】から吐き出され、空に霧散した。
月夜に小さな光の玉が飛び、そして消える。




サカの教えで言う所の親なる世界の一部へと循環し、戻ったのかもしれないし、そうでないかもしれない。





霧散したエーギルを見て、ネルガルは考える。魔道士としての彼は、ここから何かを導き出しかけて、あと一歩が進まない。
ナニカ、あと一つ、何かがあれば答えにたどり着けそうなのだ。
霧散したエーギル。それは宙に溶ける様に消えた。ならば、器があればいい。器とは何だ? モルフか? それとも。




もしも、もしもという仮定の話だが、あの空に消えたエーギルを…………。




意識が薄れる。思考が溶ける様に消え去り、視界全てが暗転する。
夢という異常な状況で閃めいた記憶を、感情を、願いを、どれほどの量を現実に持ち帰れるかは判らないが……ネルガルは確固たる一つの念だけは持ち帰る事が出来ると信じていた。






想いの名は【羨望】イデアが行使する神の奇跡に対する眼差し。
何もかもが暗転する直前に、ネルガルは小さなビスケットの様な欠片を、確かに見た。
バラバラに砕かれ、既にかつての意思も覇気も消し去られたソレに微かに、ほんの僅かだけしみついた残留思念を、ネルガルは読み取った。






最後の時に彼が心の底、脳髄の奥から感じ入ったのは“共感”
大切なナニカを亡くした痛み。亡くすというのは、痛い。





黒い太陽だけが、平等に燃えていた。




そして、すべてが闇へ。









あとがき




夏の暑さで少し倒れてしまいました。色々と危うかったです。
適度な水と塩分の補給、そして休息は大事ですね。






[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 3 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2015/01/06 21:41



鍋に油が敷かれ、熱せられたソレはとても香ばしい音を立てて弾け続けている。
ぱち、ぱちと一定の間隔で弾ける油の音は、一つの楽器として通用するほどに、印象的で、とても耳に残る。
椅子に腰かけて、食用のテーブルに向かい合うイデアたちの視線の先では、頭巾で覆われたすみれ色の髪がゆらゆらと左右に揺れていた。



いつもソフィーヤとメディアンが食事を行っている家庭的な空間。
厨房と食事処を兼ねたこの場所には今、様々な人物がいる。




「…………」




言葉こそ何も発さないが、ソフィーヤが上機嫌なのは背後から見ても一目瞭然であった。
小さく鼻歌を交えて手早く、何一つ迷いのない動きで彼女は様々な食材を調理していく。
そして、その隣では彼女より一回り程低い場所で揺れる暁色の頭部があり、ソフィーヤが今現在機嫌がいい理由の一つでもある。



「ごはーん、ごはーん、おいしく作るよぉー……」




ソフィーヤに比べれば僅かばかりおぼつかない所こそあれど、小さな手と指で食材をしっかりと掴み、丁重に迷いなく捌いていくのはファだ。
口からは即興で作った歌を小さく零しながらこの幼い神竜は今までイデアから習った料理の知識と知恵、経験を最大限に活用していた。
何故ならば、今日こそが以前にイデアと約束していた「料理を食べてもらう」という言葉が、遂に実るのだから。




ソフィーヤと二人で御揃いのエプロンと頭巾をかぶり、一緒に料理を作る。これはとても、とても楽しい事だ。
皆が楽しく笑ってくれれば、ファはそれだけで幸せになれた。
何やら最近、幼いファでも判るほどに時折父が物憂いに浸った顔を見せる時があるが、それもきっと皆でご飯を食べれば解決するのだと彼女は信じている。




あの日、皆で宴を開いたあの日の様に。
父の乾杯の一言と共に幕を上げたあの宴を彼女は今も覚えているし、これからも忘れることはない。
出会いそのものに祝杯をあげた父の言葉は絶対に正しいと。




だからファは頑張っていた。いつも与えられてばかりの自分が、父の役に立てるように。
何もいきなりイデアがいつも淡々と片付けている膨大な量の作業をやろうとは思わない。
ファは自分の力量と能力をある程度客観的に見つめていく中で、今の自分が本当に無力極まりない子供だと気付いていた。




神竜とは言っても、今の自分に何が出来るかと問われれば、ほとんどない、としか言えない。
ソフィーヤの様に未来を予知はできず、メディアンの様に強くもなく、そしてアンナの様に優雅でもない。
ない、ない、ない、と3つ並べたのが自分だ。ヘタをすればこの「ない」がもっと増えていく。それこそひっきりなしに。



だがファは何一つ悲観はしていないし、する気もない。
父であるイデアは眠るときに優しく撫でながら、焦らずゆっくり成長すればいいといってくれた。
ソフィーヤお姉ちゃんとは何時も一緒に遊び、アトスおじいちゃんにお話をしてもらい、ヤアンおじさんにはお菓子を貰う生活。



最後にお父さんに様々な事を教えてもらう。この繰り返しがファを成長させていく。




既に産まれ落ちてそれなりの……少なくとも確固たる自我を手に入れる程度の年月を経たとはいえ、まだまだ竜族の中では“赤子”と評される程に若いファの成長はある程度の安定を見せていた。
余りに急すぎる成長を危惧したイデアは彼女の勉強の内容を少しだけ“薄め”た上で、彼女には知識もそうだが、当初の予定通りに様々な人生での経験を積ませる事を重視するようになったのだ。
ただ部屋に閉じ込めて、形だけ本の内容を頭に詰め込んでいくような事ではなく、物事に実際に見て触れないと世界は広がらないという考え。




むふふとファは笑いをかみ殺す。これを食べてもらったら、きっと皆は凄い喜んでくれる。
最近の悪い空気なんて吹っ飛ばしてやるつもりだ。



そんな妹の様な存在を見やり、ソフィーヤは注意を促した。
刃物と火の恐ろしさを知っているからこそ、彼女は何時もよりも幾分か硬い口調で言う。




「ファ……集中を忘れないで。火は、危険です……」



「……ごめんなさい」




ふにゃん、そんな音がしそうな程に、今までは上機嫌に天に向かってそそり立っていた尖耳が力なく垂れ、ファは素直に謝罪を口にした。
しっかりと今まで包丁などを握って動かしていた手を止めて、ソフィーヤを見てから謝ると、彼女は満足したのか今度は優しく微笑む。
こくり、頷いてからソフィーヤは言葉にしなくても判るほどにファに優しい気配を投げかけ、続きを促すと二人は息を揃えてから調理を再開した。






とん、とん、とん、リズムよく一定の間隔で食材が切り刻まれる音を聞きながら、今回のこの宴の客たちは各々の反応を見せている。
500年程娘の成長を見守ってきた母親であるメディアンは何やら落ち着かない様子で何度も何度も椅子の上で体を動かし、体重をしきりに移動させていた。
何時もの彼女の様にどっしりと構えて、物事を冷静に見るのではなく、今は初心な乙女の様にそわそわし、口をへの字に曲げて何かを堪える様に二人を見る。



握ったり開いたりする手を、最後は胸の前でしっかり組んで動かないように固定すると彼女は深呼吸をしてようやく落ち着きを取り戻したのか、動きを暫し停止させた。





「どうしたんだ」




その隣の椅子に腰を下ろしたイデアが苦笑交じりに問うと、この地竜の母は眦を下げて感涙しているように声を震わせて答えた。
ヒソヒソと小声で、ソフィーヤとファに聞こえないように彼女は喋るが、二人の熱中具合を見るに恐らく普通の声量で喋っても耳には届かないだろう。




「……いい年して、とは重々理解しているんだけど…………嬉しくてね、つい。
 まさかこんな日が来るなんて……薄々想像はしていたんだけど、やっぱり実際に来ると……たまらないのさ」




自分の娘とイデアの娘が姉妹の如き密接な関係となり、親友として絆を育んで、更には自分たちに恩返しとして一緒に料理を作ってくれる。
その余りに素晴らしい因果にメディアンは感じ入ったのか肩を僅かに震わせていた。
何時も親子として共に料理を作っているが、やはりこうやって「ありがとう」と言われて感謝の為に宴をしてくれるのは別格なのだろう。



尖った耳が感情に任せて上下に振れているのを見る限り、彼女の胸中で渦巻く感情は決して小さくはない。



「……本当に、何度も思った事だけど。あの子の母親になれて幸福さ。あたしのちっぽけな想像なんて、あの子はいつも超えていく」




無言で神竜は頷いた。その言葉全てに同意をするという意思を込めて。
出来るならば、この宴にあいつも居たらよかった。
自分の娘、ファを紹介したらあいつはどんな顔をするのか想像はつくが、それは叶わない願いだ。



お前の娘はしっかりと、強く生きているぞ。お前の言った通りだ。
胸中で呼びかけるようにイデアは思いを紡ぐと、頬杖を付いて二人を見守った。
目線だけを動かし、メディアンとは反対の方向を見やる。そこにはヤアンが何時も通り石像の様な表情で座っている。




腕を組み、視線を虚空で彷徨わせながら火竜は何も変わらない様子で料理を待っていた。
何だかんだ言ってソフィーヤとの交友も長い彼はここに居て当然という雰囲気を醸し出し、時折すみれ色の髪に視線を向けていた。




「なんだ?」



イデアの視線に気が付いた彼はそれでも腕組を解除することなく、淡々と声を発する。
だが、500年の付き合いがあり、それなりに気心の知れた関係でもあるイデアには彼が上機嫌なのが見て取れ、笑みを浮かべてしまう。



「いや……思えば、俺たちの周りもそれなりに大勢になったと思ってね」



500年前、この里に来た当初は少なくとも当時の自分は味方などいないと思っていた。
イドゥン、ナーガ、エイナールと、ニニアン、ニルスだけで世界は完結していて、その範囲しか見ていなかったのだから。
それら全てを無理やりに、自分の意思など一切関係なく理不尽極まりなく奪われ、ここに押し込められたと思っていた。



事実それは正しいと今も思うが、同時に自分はまだ幸福な方であるとも判っている。
健康に生きていて、衣食住に苦労することなく、仕事をして、そして目標もあって、更には家族も多少困難はあるが、それでも再開できる目途があるのだ。
これほど恵まれた環境に文句などないが……ナーガに感謝するつもりはない。絶対に。少なくとも軽々しく言う気は毛頭ないのだ。




「時が経てば世は移り変わる。お前の今まで長として積み上げてきた結果がこれだ。何もおかしい所などない」



にべもないヤアンの言葉にイデアの隣でメディアンが小さく喉を鳴らして笑う。くくく、と肩を震わせ、彼女は口中で小さく素直じゃない男だと零した。
全く、本当に素直じゃない。いや、直球で物事を言い切りすぎて、逆に遠まわしに聞こえるだけかもしれないと地竜は思う。
簡単に言い換えてしまえば、お前の努力の成果だと褒めているだけじゃないか、と。



ヤアンの更にイデアとは反対の側に座っていたアトスは眼を眩しいモノを見る様に細め、温厚な声でヤアンに語り掛ける。
前々から薄々気になってはいたが、言い出す機会を見つけらなかったことを彼は聞いた。




「この理想郷が出来た当初、イデア殿……長は、まだまだ竜としては幼かったのかの?」



「里に来た当初を私は知らない。その時は、私はお前たちの仲間の一人に切り捨てられていたからな」




烈火の剣による身体への傷痕は既に癒えたが、記憶は一向に戻る気配はない。
既にかつての己に対する割り切りを完全につけたヤアンはどうでもいいことだという思いを込めて語った。
今の生活に満足しており、特に何か問題などないのならば、彼はまるで植物の様に物静かに生きていけるのだから。




「当時は竜族の間でも色々あったんだ。本当に、前にも言ったが人間と変わらないだろ? そして俺が長になったのはまだ10代の頃だよ。最初は全てが手探りだった」




頬杖を付いたイデアはやれやれとため息を吐き、苦い笑いを口に浮かべて語る。
彼らは気が付いていたのだろうか。自分たちが見下していた人間と同じように動いていたことを。
感情やら何やらなどを排除し、自らは完全な存在であると自覚のない傲慢を抱いた結果が最大派閥であったナーガ派との決別であり、そして滅びである。




イデアの話を聞いたアトスは10代である意味では極小規模とはいえ、都市国家ともいえるこのナバタの里
……理想郷を統治することになった眼前の神竜に対して僅かばかりの同情と当時の情勢への興味を抱いた。
人間側からの情勢など腐るほど見ていたが、逆に竜視点での大戦勃発までの過程というのは目新しい情報だ。




竜は外見による年齢判断が難しいが、これで目の前の神竜は500歳程度だということが判明したのも大きい。
まだ年齢をイデアに尋ねたことはないが、自分よりも年下というのが確定し、同時に竜と比較できるほどに命を長らえてる己に苦笑する。




「しかしこの規模の集落を作り上げるとなると、いかに竜族と言えどそれなりの年月は掛かるはず。 ……つまり、最初から戦争が起こるのは予見されていたわけか」





やれやれとアトスは肩を落とした。
各地の兵士や傭兵の動き、物資の流れ、王都に流れる風や雰囲気である程度の発覚は致し方ないとはいえ、恐らくは何年も前から戦争を予想した者がいる。
恐らくは当時の長、イデアの先代にあたる竜族の支配者は、自分にとって反抗的な勢力を一掃するのと同時に、自らの賛同者にはこの里を始めとした選択肢を幾つも与えたことだろう。



確かにこの里には竜族が数多くいるが、それでもその全体的な数はかつて自分たちが神将として参戦した戦役で屠った竜の数に比べれば少ない。
イデアの話を聞く限りでは、竜族は戦争直前には既に分裂しており、更にはかつて彼が語った“好戦派の方が少数だった”という言葉。
そこから導き出される答えは、自ずと見えてくる。つまり、この里以外にも何らかの手段を以て竜族を安全な所に隠したという事。



たかが500年で竜が寿命で滅ぶことなどありえない。病などもっとありえない。
そしてイデアの統治を見る限り、彼の治世に反対し、イデアの手によって滅ぼされた竜が居るとも思えない以上、行きつく先はそこしかない。
何処に竜が行ったかを聞く気はない。どうせ答えなど返って来るはずがないし、自分が彼の立場だったとしても言わないはずだから。




故にアトスは一言だけ呟く。




「当時の竜の長は、お主に勝るとも劣らない、優れた統治者だったようだな」





その一言にイデアは様々な顔を見せた。
苦虫を何十匹もかみつぶしたような渋面を浮かばせたかと思えば、瞳の中には何処か喜びを湛え、更には決してそれを表には出すまいと一瞬で引っ込める。
最終的に彼は胸中に混沌極まりない感情を吐き出すかのように深く、重いため息を吐いてから苦笑とはまた違う、寂しさと怒り、更には敬意さえ含まれたあやふやな表情を浮かべた。




「俺に全部丸投げしてくれたとんでもない奴だ。もしも出会ったらタダじゃおかない……まぁ、実際やりあったら、絶対に勝てないだろうが」



「お主程の存在が? 正直、お主が負けるなど想像できんな」



アトスの中のイデアは竜の知識に精通し、超大な力を以てこのナバタの秩序を支配する絶対の神竜である。
そのイデアにそこまで言わせる存在とはどれほどのものかと考えを巡らせ、当時の情勢と照らし合わせた後、自分たちの戦争の勝利はもしかしたら、かなりの綱渡りの上だったのかもしれないと思った。
いや、綱渡りというよりも、自分たちには決して干渉できない勝利か絶滅かの二択が裏で進んでいたというべきか。



ヤアンは相変わらず腕を組み、微動だにしない。
イデアの話を聞いてはいるのだろうが、もはや居なくなった男の話題など彼には関係なく、興味もないのだろう。
メディアンは視線は娘に向けられているが、その意識の一部はしっかりと聞き耳を立てているのがイデアには判った。



他愛ない世間話の一部として、戦役の裏事情を知れるというのも大きな情報の収穫になる。
だからこそ神竜は淀みのない口調で話題の方向性を少しだけずらした。
正直、あの男の話はあまりしたくないというのも大きな理由だったが。



ファとソフィーヤを見ると、彼女たちは料理の折り返し地点にたどり着いたらしく、二人で慌ただしく言葉を掛け合いながら肉などを焼きだしている。
もう少しだけ、時間はあるようだ。ほんの少し前の【昔話】を語ってもらう程度には。
いきなり魔竜関係の話を切り出さずに、イデアはあえてかなり遠まわりな話題を出す。




「そっちはどうだったんだ? 人類が団結した戦役だったと聞いているが」



とんでもないとアトスは大きく口を歪ませて断言した。
もう当事者は500年もの過去に居なくなっており、何と言おうと文句など言われないが故に彼は歯に衣を着せずに言うと決めた。
今思い出しても僅かばかりに頭に来る事も多々あるが故に、彼はまるで気心の知れた友に愚痴を零すように言う。




「最初から最後まで竜族と闘いながら、己ら同士でも意味不明で不毛な闘争を繰り広げておったよ。
 人類連合と言えば聞こえはよいが、いわばただの“寄せ集め”だったからの。主張も主義も信仰も何もかもが違うモノを集めるとああなるといういい見本だった」




夢を壊すかもしれないが、とアトスは前置きした後に淡々朗々と語りだす。
彼の深い声によって紡がれるお話はまるでおとぎ話の様に遠く聞こえる。
髭を弄りながら、彼は頭の中で印象的だった事実を片っ端から僅かに脚色して吐き出した。




「やはり一番問題だったのは、エトルリア貴族の一部じゃったな。
 全てがとは言わないが、能力に見合わない自負……傲慢さを持った奴は得てして自らの幻想を守るために手段を選ばなかった」



人は、すぐそばに種族としての絶滅が迫っている状況でさえ、陰謀を紡ぐことを止めはしないという証明があの戦役では成された。



裏切り。嫉妬。怠惰。絶望。憎悪。アトスは過去を懐古し、ハノンの疲れ切った表情を瞼の裏に浮かべる。
その他ありとあらゆる人の業があの戦役では蠢き、時にそれは竜の吐息さえも超えた脅威になりかけさえもした。
竜の罠ではなく、味方であるはずの人類の策謀に巻き込まれた事も1度や2度ではない。



アトスは前から飛んでくる魔法とブレスを何とかする知識と力はあるが、背後から飛んでくる矢を何とかする知識は当時は持ち合わせてはおらず、それはそれは苦労した。
ハノンが特に苦労したといえる。彼女はまだまだ当時のエトルリアと交流は余りなかったサカ出身であり、それだけで野蛮人となじられ、挙句には殺され掛かった事もある。
更には戦役終了後の英雄と彼女を湛えて、一斉に手のひら返しを行った貴族たちにはもはや乾いた笑みさえ出る程だ。




魔道一辺倒で政治的闘争、駆け引き、陰謀の紡ぎ方などには興味をもっていなかった彼はまだ“青かった”ともいう。
最も彼としても別に人類の為に立ち上がったわけでもなく、ましてや英雄となって名を売りたかった訳でもなかったのだが。




奇しくもその願いは戦役では叶わなず、巡りに巡って500年後の現代にて成就することになった。




「最も代表的なのは、当時の我らのまとめ役であり、わしの友でもあるハルトムートを激怒させた男だな」




「それはまた、命知らずな奴だ。どんな男だったんだ」



イデアは頭の中で状況を整理し、薄く嘲笑した。
ハルトムート、つまり八神将の全員とその軍勢に敵対した上で、竜とも敵対していたであろうその男について考える。
結果はどうあっても、“詰み”だ。どうしようもない。行き場などどこにもない。



アトスは頭の中でその男の事を思い出しながら、一つの事実に気が付き、一瞬だけ口をつぐんだが、直ぐに気を取り直す。
当時、あの者が“絶望の竜”と称していた竜は今、この里で学んだ単語の一つと完全に合致したのだ。
あの時は多少興味こそあったものの、戦役を通して竜の知識を丸ごとあわよくば手に入れようと目論んでいたアトスにとっては、所詮はその程度でしかなかった。



今になって思い返してみれば……なるほど。あの男はかなりいい線まで行っていたというのが判り、大賢者の中で既にこの世から退場しているであろう男への評価が僅かに上がる。




「典型的な己の力に溺れた魔道士だったな。どうも古代竜族について調べていた様だったが……今思えば奴は“始祖”の存在に気が付き、それを題材にした研究をしていた、のだろう」




“始祖”の言葉にメディアンから向けられる意識が強まり、イデアは眼を細めてその続きを促す。
一泊間をおいてから、大賢者はつまらない事実を読み上げる様に簡潔にその人物の末路を述べた。



「奴は“始祖”の力をどうにかして手に入れたいと願っていた。もはや滅んだ存在であるとも知らずに。
 己のみが全てを支配したいと願っていた男は結局、人を裏切り竜を頼ったが竜にも相手にされず、最後は全てを敵に回した上で深い地の底へと追いやられたのだ」




優れた術者ではあったが【理】を超える程ではなかった為、もう死んでいるはずだとアトスは締めくくる。
最初にアトスの昔語りに感想を漏らしたのは、イデアであった。彼は薄く笑いながら、数多くの苦労を背負い込んだアトスに率直な感想を述べてみた。





「……人というのは、本当に判らないものなんだな」




人類が一つに結束せねば勝てない存在が現れた時にも人は結局内部で分裂する。
その証明を聞かされたような気がして、イデアは何ともいえない気持ちになった。
次に、イドゥン……魔竜関係の話を聞こうと口を動かそうとすると、そこに丁度ファとソフィーヤが大きな声で宣言を飛ばし、遮られる。




できたー! と歓喜の声を上げたファとソフィーヤは複数枚の皿の上に程よく焼かれた肉を置き、釜土から炊けたご飯を丼に盛り付けていく。
どうやら、アトスとの会話はイデアが思っていた以上に時間を経過させたらしく、既に料理は完成し、後は並べるだけの様である。


あっという間に部屋の中に湯気と良い香りが充満していく中、イデアは速やかに頭を切り替えて彼女たちを手伝うべく立ち上がろうとしたが、ファとソフィーヤは顔を揃えて頬を膨らませて拒絶の意を表す。




「……最後まで、やらせてください」



「かいぞくせんに乗ったつもりで、待っててね!」




娘たちにそこまで言われた以上、イデアも我を通すわけにはいかずに椅子に座りなおすと、ゆっくり息を吐いた。
もうこうなってしまったら、最後まで彼女たちの好きにやらせるしかないと悟らざるを得ない。
ただ、海賊船に乗ったつもりで待てとはどういうことなのだろうかと頭を捻る。



面白そうにアトスが笑い出し、無邪気な神竜に少しばかりの訂正を悪ふざけを兼ねて提案する。




「ファよ、海賊船に乗ってしまったら、色々と面倒なことになるぞ。そこは、そうだな……商船にでもしたらどうだ?」




そうする! と提案に乗っていく娘を横目にイデアはアトスに頼むからこれ以上話をこじらせないでくれと言いながら、二つ程空いた席に目をやった。
一つはアンナの椅子。“眼”を使って周囲を見回すと、すぐ近くにまで彼女が来ているのが判り、そこは直ぐに埋まる。
もう一つの椅子は、ネルガルの椅子だ。彼は……どうやら今日は来れないらしい。




彼の研究を許可したのは自分であるが故に、強くは言えなかったが……出来れば彼にも出席してもらいたかった。
自分はともかく、ファとソフィーヤは気にしてしまうかもしれない。




「来ないというのならばそれは仕方がない。あの男にも用事というものはあるのだ」




イデアの表情からある程度の胸中を推察したヤアンは淡々と理屈詰めの言葉を放ち、目の前に置かれていく料理を見つめている。
何時もは料理を配る側であるメディアンはどうにもただ座って料理を受け取るというのが慣れないらしく
そわそわと身じろぎをして何か一つでも娘たちが見逃している事があれば直ぐにでも手伝おうとしているが、残念な事に二人の童は完璧に近い形で料理を作り上げ、後始末も終えていた為に何も出来ない。




やがて観念した彼女は耳をクタッとヘタレさせながら、料理を受け取っていく。
そして全員に料理が行きわたった後、アンナが見計らったように以前と同じく違和感なく現れて着席し、そして宴は始まる。




ファは食べて食べてとイデアに自分が味付けを施した肉料理や、芋を用いたサラダなどを差し出し、イデアに食器を手渡すと、後は輝く眼でジィッと眺め続ける。
余りの気迫で眺められて、妙な緊張感を抱きながらもイデアは娘の料理を口に含み、咀嚼し、嚥下した。
ゴクリ、という嚥下音をファも唾を飲み込んだの父親と同時に立てて、じっと評価を待つ。



イデアは無言のまま、能面のような表情でゆっくりと首を動かして娘に視線を向けて……そのまま沈黙。
暫し見つめあい続ける神竜親子の場に奇妙な空気が漂い、ファは負けるものかと凛とした瞳で父の眼を真っ向から見つめ返す。





だが唐突に破顔一笑したイデアはファの頭を撫でると、とても満足したような声で優しく語り掛けた。




「美味いよ。ありがとう」



その一言は紛れもなくファが望んだモノ。この一言の為に彼女は努力したのだから。
輝くような笑顔という言葉があるが、ファは正にその言葉を体現したような、喜びに溢れた笑みを浮かべて堪え切れないように体を震わせ、ソフィーヤへと走り寄り、その両手を掴んだ。





「お姉ちゃん、ファね! おとうさんによろこんでもらえた! “ありがとう”って言われたの!! だから、ファも、ファもお姉ちゃんに───!」




その先は感極まりすぎてしまい、何と言っているか自分でも判らなくなってしまったファは言葉を探すように眼を白黒させながら鼻息も荒く身体を震わせ、ぶんぶんと握りしめたソフィーヤの手を上下に揺する。
ふふふ、と静かに苦笑したソフィーヤはまずは彼女を落ち着かせる様に手をそっと離すと、ファの両肩に手をやって震えを収めてやる。
ふーふーと未だに荒い息を吐きながらも、ファは涙で滲んだ瞳をソフィーヤに向けて顔を傾げた。




「……ファ? 落ち着いた……?」




水を土にしみ込ませるように、ゆっくりと発せられた言葉がファの心に浸透する。
多少の時間を掛けて、徐々に落ち着きを取り戻した神竜の娘は、うん、と一回頷くとソフィーヤから2歩程下がった後、またイデアの隣へと、今度は歩いて進む。
さっきとは違い、静かに少女は胸の内を明かすように、父に語り掛けた。



周りの者がある程度は意識を割いて神竜親子のやり取りを見ている中、ファは言う。




「あのね……さいきん、おとうさんが疲れてるようにみえたから。少しでも元気になってほしかったの」




イデアが虚を突かれたような、唖然とした顔を浮かべるが、直ぐに真剣な表情に戻り、ばれていたのかと内心苦笑する。
表には絶対に出すまいと思い、500年間そうしてきたように、塗り固め、作り上げた顔の下に隠してきたというのに。
ファは更に言葉を続けていく。産まれてきてから、手に入れた言葉の全てを駆使して必死に。





「ファね。まだまだ子供だから、むずかしい事はわかんないけど……おとうさんやお姉ちゃん、おばさん、おじさんやおじいちゃん……皆にはわらっててほしいの」




ナーガとは違うが、同じように胸の内側を丸ごと覗きこまれたような、奇妙な感覚を覚えてしまい、イデアは眼を少しだ逸らそうとして……出来ない。
今ここで彼女の言葉から逃げることは許されないと本能的に悟ってしまい、何より自分のプライドがそれを許してはくれない。
娘の必死の訴えから逃げてしまうのは、かつてナーガが自分たちにしたことと同じ事だと思ってしまったから。



今のファには自分はどう見えているのだろう? イデアはたまらなく気になった。
彼女の済んだ翡翠の瞳に映っている自分の顔はとても奇妙な顔をしている。
頼りになる父親か、もしくは愛してくれない父親? はたまたナーガの様に便利な道具として娘を見ている親か?




「何をやっている?」




突き刺さるようなヤアンの一言にイデアは我に返ったように眼を瞬かせた。
ヤアンの意図は読めないが、その言葉は神竜の心に大きなさざ波を作り出す。
彼の言葉が人の心を考慮しないのは今に始まった事ではないが、今回はそれが良い方向に物事を動かす。



ただ、言葉にすることは出来なかった。
必死に言葉を探すが、今の気持ちを表せる単語が見つからず、神竜はただ娘の頭に手をやっただけ。
むふふと満ち足りた顔をしたファは、暫く父親の掌の熱を堪能してから、いつの間にか用意されていた、イデアの隣に置かれた椅子にピョッンと飛び乗る。




本当に何時の間に? 近づいて来ていた所までは判っていたのだが。



そう思ったイデアの視界の端で、アンナがニコニコとこれまたいつも通りの胸中を誰にも悟らせない笑みを浮かべていた。
気が付けば神竜の周囲は活気が満ちており、日常生活の一部が流れている。



奥では、いつの間にかソフィーヤが差し出した辛口料理をメディアンが豪快に頬張りつつも、その辛さで顔を真っ赤にしている。
しかしソフィーヤの料理はただ辛いだけではなく、あくまでも“辛味”は料理の旨みを引き出すための一つでしかない。
伊達にあのメディアンの娘として何百年も家事を学んだわけではないのだから。




事実、数千年単位で食事という娯楽を追求してきたあの地竜も身内びいきではなく、本当の意味で美味しいから喜んで食べているのだ。
地竜が目尻に涙を浮かべているのは、彼女の感情が極まってしまっているからである。



ヤアンとアトスという理知的とも言える大人達は何やら食事をしながら、味付けについての議論を交わしていた。
曰く、辛子の量がどうの、成分がどうの、肉体に与える影響やら、何やらとここでも学者気質を発揮する二人の筋金入りの理屈主義にイデアはむしろ感心するほどだった。
何時の間にやら、開始の合図をすることもなく食事が始まり掛けている現状は、悪くはない空気に包まれている。




だが、一応のけじめはつけなくてはいけない。
パンパンと、二回手を鳴らし、全員の視線が自分に集まるのを待ってからイデアはファに目くばせをする。
今日の主役は彼女とソフィーヤであるが故に、ファは直ぐにイデアの思惑を察したのか立ち上がった。




メディアンの元から足早に移動してきたソフィーヤを隣に控えさせ、神竜の娘は以前見た父親の姿を真似し、手に取った盃を精いっぱい背伸びして高く掲げる。
大きな声で、ここにいる全員に気後れせずにファは宴の始まりを宣言し、イデアも含めた全員がソレにならった。






しかし……最後までネルガルがその宴に現れることはなかった。



























「彼の行動に一切の問題は今の所は認められませんわ。
 以前長が目を通した資料の通り、彼の日常生活にも思想にも多少の変化はあれど、それはあくまでもその時の気分程度としか言えません」




「ああ、それは俺も承知している。彼は“理”を超える程に研鑽を続けた男だ。数百年という年月を知識に飲まれずに生きるというのは、それだけ強い自制心があるということ」




宴も終わり、ファとソフィーヤが寝静まった時間帯。
滔々と流れ続ける清水の音を響かせる青い玉座の間で、神竜と火竜は言葉を交らわせている。
ネルガルの事を二人は議論していた。何度も確認し、彼の素行などに問題がないことは裏付けも取れているのだが、それでも念には念を入れている。




火竜は玉座の主に言葉を続ける。
余裕に満ちた笑顔という仮面を被りながら。




「ですが世に絶対はありません。ましてや彼が得ようとしているのは古代竜族の力ですわ」




「……今まであいつが身につけて、モノにした知識とは根本から異なる“力”そのものとも言える情報の塊」





人の世で手に入る知識とはもはや別次元の叡智。命の創造。大陸規模、否、世界規模の滅却術。時空間を超えた大掛かりな転移の術。
幾つか具体例をあげるだけでも、それがどれほど危険か子供でも把握できる禁断の知識、神の域の奇跡を理論体系に落とし込んだ誘惑の果実たち。
その果実の一つを大賢者は拒絶し、ネルガルはもっと味わう事を選んだ。



……大きな力の前に人は“変わってしまう”事を知っているアンナは笑みを薄くし、その顔に陰りを見せた。





「……私も、彼の魔道士としての比類ない才覚と実力、そしてあの大らかで知的な性格は評価しています」




その言葉全てに同意するようにイデアは頷く。彼もネルガル程の人間の魔道士にはアトス以外では心当たりがない。



万に一つもアンナは彼が闇に落ちる等とは思っていない。
あそこまで高潔で、人間味に溢れていて、そして好感が持てる人格の魔道士に出会ったのは始めてだから。
そうだとも、ネルガルという男は少々研究に熱が入り過ぎてしまう欠点などはあるが……それだけだ。



不安など何処にもない。そうだとも、何もないのだ。
そうアンナは自分に言い聞かせながら、イデアの臣下である火竜アンナではなく、ただの女性アンナとしての言葉を零した。




「……私は、少しばかり、臆病になってしまったようですわ。“かもしれない”に常に怯えているだけの到底竜とは思えない臆病者に」




自分の言葉を振り返ると、彼女は自分自身がまるでネルガルが“そうである事”を願っている様に見えてしまう。
自分自身の中では既に“どちら”の意味でも違うという答えが出ているのに。





「臆病の何が悪い? ただ竜であるというだけで傲慢に君臨した奴らがどうなったかは、今のエレブを見れば明らかだ」




500年という長い付き合いの中でも初めて見るアンナの疲労と弱さが滲み出る表情にイデアは少なくないモノを感じ取り、その不安を吹き飛ばすように胸を張って、神竜としての言葉を吐く。
絶対の力を持つ超越者としては思えない弱さを肯定する言葉にアンナは微笑みを返した。
この目の前の神竜はこういう所が遥か過去に彼女が仕えた先代のナーガとは違う。



ナーガには弱さなどなかった。彼は単体で完成した正に完璧な神の権化。
竜族を率いてはいたが、極論すれば彼には部下など必要なく、全てがその身、その意思一つで思うがままの絶対存在。
今にして思えば彼にとって竜族を率いるという責任は単なるしがらみでしかなかったのだろう。




数万、数十万年単位で民たちを率いるという事は、先代にしてみれば随分と……こう言ってしまうのは気が引けるが、面倒事でしかなかったはずだ。
だが彼の息子であるイデアは絶対の神というよりは王、もしくは竜族の指導者として振る舞うことが多い。
アンナとしてはこちらの方がとても……仕事がしやすいとは思っていた。



どちらが優れているという問題ではない。どちらとも長所も短所もある。



だがイデアの治世に今の所は何ら問題はない。この500年間、里の住人は誰も不満に思った事はない。
衣食住が揃っていて、花火という娯楽やカードを利用した遊びなどの楽しみもあるのだから。




「……私は彼を信じていますわ。これはいわば単なる後詰めのようなもので、取り越し苦労が前提の行為でしかない事は重々承知しています」




ソフィーヤはファと戯れる光景。かつてメディアンの家でアトスと一緒に舌鼓をうち、笑顔で飲み食いしていた姿。
話法一つとっても、彼は魔道士に多い、自分の知識をひけらかして悦に浸るような事はせず、まずはじっくりと人の言葉に耳を傾ける事もできる。
多少、魔道の事になると熱を帯びてしまうが、その欠点は本人も自覚しており、更にはあの大賢者アトスさえも深い信頼を寄せている男。





どれを取っても完璧だ。高潔で、理知的で、そして人間味に溢れた男……ネルガルとはそういう人物だというのはアンナもよく知っている。



そうだ。



全てを彼女は知っている。

























ネルガルは自分の頭の中から次から次へと沸いてくる芸術的な理論体系に眩暈を起こしてしまいそうだった。
最近の調子はとてもいい。かつてない程に意欲が溢れ出し、様々な理論が頭の中で、イデアが作り上げた“花火”の様に閃いている。
今まで何百年と生きてきたが、ここまで魔道士としての己が冴えわたっているのは初めてかもしれない。




何時からか? という疑問に答えはない。
ただ、ある一時を境に心の奥にあったような、妙な栓が抜けたような感覚と共に頭が冴えわたってしょうがないのだ。
心の奥で何かが原動力として燃えている。とても心地の良い活力を無限に与えてくる燃料の正体をネルガルは判らなかった。




だが、とても懐かしい。ナニカに与えられたというよりは“思い出した”という表現の方がしっくりくる。
これはそう、元々自分のモノのような懐かしさを抱きながら彼は魔道を往く。
【理】を超えた時の瞬間を彼はもはや朧にしか覚えていないが、その時もきっとこのように何かに燃えていたのだろう。



エーギルという無限の可能性を前にしてこの頭の冴え。
今の自分ならば友であるアトスにも並ぶ程ではないかとさえふと思ってしまう。
手は一時も止まらずに、頭の中で目まぐるしく浮かんでは消えを繰り返している発想をノートに書き写し、食事も睡眠も全てを今は置き去りにして彼は動く。




ファとソフィーヤからの招待についてもとても口惜しいが、今は手が離せないから仕方がない。
あの二人の娘が悲しそうな思いをするのは頂けないが、そこはきっと、イデアも考慮してくれるはずだ。
さすがに自分にも都合があり、毎回毎回付き合うというわけにもいかないということ位は。




霞が掛かったように欠落した記憶の中にあってもネルガルはイデアがナニカをしたことを覚えていた。
とても大きな、凄まじい、素晴らしい力を用いた事を。
自分では到底及びつかない、神の域にある彼の力と、それを御する精神の強さにネルガルは敬意を抱いている。



更には彼は自分にもその力の一端を得ることが出来る機会を与えてくれた。このネルガルに。
エレブの数多くの伝説や神話を見ても、竜の力と知識を得て、行使した存在は本当に数少ない。



ほとんどは戦役が始まる前に描かれた神話の英雄たち。
今や完全悪として定義された竜のおとぎ話の中に出てくる人と竜を繋げた勇者。
最も代表的なのは12の使徒と呼ばれる聖なる加護を得た戦士たちだ。



竜と人を繋げ、悪しき邪悪なる神に立ち向かったとされる使徒の威光はそれが実話にせよ、竜族の想像力豊富な誰かが作り上げた創作にせよ、陰りを見せることはない。
自分はおとぎ話の中でしか存在しえなかった偉大なる存在達と同じ道を歩んでいると考えると、ネルガルは眦に熱いモノが浮かんでくるのを堪え切れない。
力には責任が伴い、更に力を得るのも自己責任。責任という言葉を幾つも乗り越えて自分はここにいる。




アトスと部屋を別けた際に、心機一転として新しくイデアが用意してくれた個室の広さは、人間一人が生活するには十分すぎる大きさだったが、既にネルガルはこの自室を自分なりに“アレンジ”していた。
部屋中の壁という壁に張り尽くされた様々な術の術式の図を書き連ねられた紙がびっしりとスキマを余さず押しつぶし、床には幾つもの幾何学的な、魔道の陣が描かれている。
窓を開けて定期的な空気の入れ替えこそしているものの、部屋の内部には典型的な引きこもり型の魔道士が発する陰鬱な気が満ち満ちていた。





余り好ましい状況ではないが、こればかりは仕方ない。人間が老廃物を作り出すように魔道士はこういう風に“足跡”を残すものだ。
一枚一枚の内容をネルガルは覚えているし、その内の3割は息抜きの為に描いた何の意味もない絵のデッサン。
今となってはどうでもいい内容の絵ばかりだが、捨てる時間さえも惜しい為に邪魔にならないように計算された場所に張られている。




時間というのは本当に何物にも代えがたい財産であり、万人が等しく持つ富である。
彼は絶え間ない努力と僅かばかりの才能の後押しによって人より長く探究をする時間を与えられたが、それでも無限には程遠い。
だからこそ、ネルガルは今や絵の話題については余り考えないようにしていた。





しかし世の中何が役に立つか判らないモノだとネルガルは思ってもいた。
今となっては趣味の領域からも削除され掛かっている絵描きとしての基礎……人間を代表とした生物の体構造の基礎図やら、その可動域を絵として再現するための知識はモルフ作成にも大いに役に立つ。
知らないモノを再現する事は出来ないという基礎において、彼はアトスの数歩先を言っていたのだ。





その先は簡単だ。他に知らないのならば知ればいい。
急がば回れという言葉があるように焦りは何も生まない。ネルガルは知識の溜り場に赴き、その手の本を読み漁った。
幸いこの里には人間の筋肉や骨格の構造をまとめた本や、臓器のスケッチ、血液の存在理由の論文等々、つまり生物をどうやって生かしているのかという疑問について言及した書物が多量に有り、困る事はない。




実に、ここは素晴らしい里だ。全てがここにはある。魔道士にとっての“理想郷”といえる。
戦役以前の、竜と人が近かった時代の華やかな文明と文化を維持したゆりかご。




モルフについてもそうだ。
エリミーヌの言う神は人を土塊から作り出したというが、実はコレの事を言っているのではないかとさえ思ってしまう。




……まぁ、そういったうんちくや歴史、宗教関係の話はネルガルには余り興味のないことだ。
今の彼にとって重要なのは一日も早くモルフ作成の技術を完成させること。それだけ。
それに比べれば、他の何もかもは後回しにして問題は少ない。




そう、何一つ。


自分は知識と共に力を手に入れるのだ、それに比べれば。





ネルガルには見えていた。
モルフの術を神竜であるイデアさえも超える域で完成させる自分の姿が。
友であるアトスとイデアは恐らく祝福してくれるし、自分もそうなれば嬉しい。



ファやソフィーヤはきっと訳が分からないといった顔をするだろうが、それでも自分がナニカをやり遂げたのだと察しとてもいい子である彼女たちも判ってくれるはず。
その時にこそ、食事会の埋め合わせをしなくては。



考え事に没頭しながらもネルガルは自分の部屋の前に、何者かが近づくのを感じ、直ぐにその顔に喜色を浮かべた。
彼にとってアトスと双璧を成す友であり、尊敬している存在に直ぐに声を掛ける。




「イデア殿!」





続けざまに扉の前で入室の許可を待つ存在にネルガルは変な所で人間らしい謙虚さを持つイデアに苦笑を浮かべた。
この里における絶対の支配者なのだから、もう少し傲慢になればいいものをと思いつつも、この竜のこういった側面については好意を抱いている。





「よく来てくれたね。どうぞ」





丁寧に扉を開けて、屋内の火という光源によって入出してきたイデアの顔が照らし出される。
蝋燭とランプの揺れ続ける光によって影に浮かぶイデアの顔はとても白く、儚いようにも見えた。
紅と蒼の瞳だけが闇の中で浮いており、その眼光は何時もと変わらずにネルガルを射抜く。





「夜遅く悪いな」




「とんでもないさ。むしろこんな引きこもりを気に掛けてくれるだけ、ありがたい」




取り止めの無い挨拶を交わした後に、ネルガルは口元の笑みを消して本題に入る事にした。
心臓は乙女が憧れの王子にでも出会ったかのように早鐘をうち、手汗が滲み出す。
彼はイデアに走り寄ると、その手を引っ張り、部屋の中まで案内する。




「幾つかの試行錯誤と、砂山にも及ぶ失敗の果てに、以前の“アレ”をようやく形にすることが出来たんだ」



アレ……アトスと共同で作り出した素体の最初期の存在。
素体001と名付けられた小さく、滑稽で、モルフ技術という分野の奥深さを教えてもくれた失敗作。
砂粒の最初の一粒から、更に多くの砂が継ぎ足しを繰り返し、今に至る。



現在ではネルガルにとっての素体001の価値など限りなく無に等しい。
かつての己の不出来さの象徴であり、学ぶべき点は全て改良し、もはやあれはただの……“絞りカス”だ。
何ら興味をもてない、研究しつくされた廃棄物は既に瓦解し、砂とも錆とも取れない灰色の粉になってしまっている。




「ここまで来るのに、まさか趣味でやっていた絵描きとしての能力が役に立つとは我ながら思わなかったよ。私は彫刻家ではないんだがな」




「モルフを作るには、まず骨格や筋肉の構造を知る所から始まるからな」




モルフ作成を彫刻と例えるネルガルの相変わらずさにイデアは安心したように返す。
ネルガルが勧めてくれた椅子に腰を下ろすと、その前にネルガルは立ち、大きく、少しばかり過剰な動きで背を向けて数歩進む。




「さて、本題はここからだ」




大きく手を広げ、まるで舞台の中央で華麗に歌う役者の様に男は語る。
さながら、ミュージカルを歌うかの如くネルガルは朗々とした声音で観客である竜に言葉を投げかけていく。
何処か自分の技術に酔っているとも取れる言葉を発してこそいるが、イデアは黙々とその声を受け止めつづけた。




「命というこの世で最も身近に溢れていて、同時に底知れぬ奥深さを持つ真理への挑戦の結果をお見せしよう」




命への挑戦。その全てを竜に対して披露する彼の顔は、誇らしげな様相だ。
ある意味ではこの里で、竜の知識方面では師とも呼べるイデアへの研究の結果発表というものは、彼にとっては特別な意味がある。





ネルガルが手慣れた様子で魔力を練り始めると、部屋の中央の床に複雑怪奇な魔方陣が浮かび上がり、不気味に光を放つ。
魔道士からの魔力の放出が更に高まり、それは純粋なエーギルとへと変貌を遂げていく。
ごぉっと小さな風切り音と共に、エーギル、力が陣の中央に収束を始めてそれは物質へと作り替わる。





血を、臓器を、それらを繋げて命を巡らせる血管を──。
身体の重量を支える一本の長い骨──。
思考をつかさどる脳髄、全身に体液を循環させる心臓──。



それは、一気にモルフの身体を作るのとは根本から違う。
臓器の一つ一つを、全て、パーツを一から作り出して組み合わせていく。
瞬時に十を作るのは不可能ならば、一を十回積み重ねればいい。



おおよそ必要な情報は全て揃っている。
本で手に入れた知識と、予行として似たようなことを別の存在でやったから。
生命体のエーギルへの分解と再構築。




人ではなく、植物での実験ではあったが、それはとてつもなく有意義な結果を彼に齎した。




おおよそ人の赤子が母の胎内で行われる人体の形成を何百倍にも加速させた光景がイデアの眼前で行われる。
その様子を竜は瞬きさえすることもなく、全てを脳裏に焼き付ける様に凝視していく。
術式の構成、力の流れ、一つ一つの相互関係と作用。もしも失敗した場合のリスク等々。






おおよそ今の光景だけで10にも及ぶ情報がイデアの中に吸い込まれていく。
幾つか面白い発想を取り込み、イデアは内心で満足を覚える。
全体を同時にではなく、体を複数のパーツに分けて作り上げ、それを組み立てる方式は彼にも盲点であった。




しわくちゃではあるが、以前の石灰じみた色ではなく、間違いなく人肌と評される“布”がぴっちりと全身に隙間なくへばりつき、ソレは完成した。



誕生の産声は、赤子のソレではなく、今にも果てそうな、枯れた老婆の声であった。





「ァ………アァァ…………アア」




ガリガリの肉体は、正に骨に皮だけが張り付いている様に飢餓の極みとも言える姿。
だが、これは間違いなく生きている。生物として呼吸をするし、動く事も出来る。
これは獣染みたうめき声と思考をもっている。そう、この存在はある程度は、考える事が出来た。




そして何より、これの真骨頂はこれだけではない。
ネルガルは、早鐘を刻む心臓を必死に抑え込んだ。まだだ、まだ、もう少し待つのだ。




「これは“素体0252”という。私がこの里で、イデア殿から学んだことの全てを応用して作り上げた作品さ」




竜は無言であった。ただ、興味をもったのは確かであり、その双眸がまじまじとこの【モルフ】……“作品”に注がれている。
竜の眼が何処までを解析できるのかは判らない、だが、きっと、自分よりも遥かに深く、一目でこの存在の事を理解しているのは間違いない。
ネルガルは、イデアという一人の魔道士に深い敬意を抱きながら、説明の為に落ち着けと自分に言い聞かせながら言葉を発した。




「コレは思考をすることが出来る。自分で考え、判断し、動くことが出来るのだ。最も、今はまだ赤子のようなものだが」




“心”という抽象的で、宗教的な言い回しをネルガルはあえて避けた。
そんな一言で片づけたくはない。





そして……と。ネルガルはモルフに魔力を通しての命令を飛ばす。
人形を動かすように、この存在の根幹に与えた力を動かさせるべく。
まだ力の扱い方さえ判らない人形の手を取り、操る。




モルフを中心に、部屋内部を埋め尽くすように“ナニカ”が展開された。
それは音もなく広がり、何か派手に物を壊したというわけでもない。
だが、イデアだけはそれを理解したようで、愉快そうに肩で笑った。




「俺が初めて二人に出会った時に使ったアレか」




爆発する太陽の瞳。あふれ出る秩序。
【バルベリド】と【フォルブレイズ】を掻き消した暴力的な力の濁流。
さすがにこのモルフにそんな力はないが、あの時の現象を悲しい程に規模を縮小させて真似することは出来る。




“太陽”に対しての憧れが生み出した力。何とかあの領域に昇りたくて模倣した結界。
一定範囲内の、一定の力量を超えられない、いわばネルガルにとっては有象無象に等しい魔道士から魔力行使を奪う結界の展開。
このモルフに持たせた力はそれだ。魔封じの結界、もしくはサイレスという詠唱に頼る小賢しい魔道士を黙らせる術にちなんで、沈黙の結界というべきか。



だが、原理は違う。
あれは文字通り対象から音を奪う術だが、これは世界の秩序に僅かに干渉し、魔術の発動をせき止めるという原理。



「私やイデア殿、アトス程の術者にはほとんど効果を及ぼせない出来ではあるが、それでもこれは強力な結界だ」




掌の先にイデアは難なくファイアーを用いて蝋燭程度の灯りを出現させる。
何度か調子を確かめる様に、火の大きさを加減しつつ、イデアはネルガルに視線を向けた。
ゆらゆら竜の指先で揺れる焔は、何ら魔封じの結界の効果を受けていないように見える。




「コレは、結界の外部から飛んでくる“既に発動した術”を止める事は出来ないみたいだな」




「多少の効果はあり、必ず減衰するはずだが、やっぱりイデア殿にとっては無意味か」




ガラス細工や、表面が凍り付いた湖にヒビが入るような音が不気味に室内に響く。
結界が軋む音、ナバタ全域に満ちたイデアの力による外圧で押しつぶされかけている為に起こった異音。
深海奥深くに、地上の生物を投げ込む様な所業により起こる当然の握りつぶしが発生しかけていた。





神竜が支配する大海に、水滴程度の力で干渉を試みればこうもなる。
大洋のど真ん中に、小さな穴をあければ一気に周囲の水は流れ込み、その穴をふさぐ。





「早く結界を解いたほうがいい。“潰れて”しまうぞ?」




こうなる事は薄々察していたイデアは何とか意識をこの場に集中し、周囲から流れ込む自らの力を抑え込む。
だが、それでもモルフに掛かる負担は相当なものらしく、口元からは掠れたうめき声をあげ、その全身を震わせている。
ビシ、ビシッと皮膚に亀裂が入っていくのを認めたネルガルは少しばかり余裕のない様子でモルフを操作し、結界を解かせた。




瞬間、今まで場に満ちていた独特な、何処か落ち着かない気分を誘発させる結界の“色”は消えてなくなり、一瞬にして室内の中が押し寄せてきた“ナニカ”に塗りつぶされる。
イデアの秩序、神竜の支配が再び場を支配し、何もなかったような無音だけが残った。
だが、その沈黙をイデアは一瞬で言葉によって打ち消す。




「よく、ここまで来たものだ。正直な話、もっと多大な時間が掛かると思っていたよ」




竜の眼には驚きと、敬意と、そしてほんの少しばかりの、ネルガルには理解できない苦味に近い感情が宿っていた。
だが、真っ直ぐに背筋を伸ばし、堂々と里の支配者として魔道士に労いの言葉を掛ける様に、男は更に深い感服を抱く。
竜や人という括りを踏み越えて、ただの男、魔道士、ネルガルとして自分を認め、称える姿はネルガルの理想の友そのもの。





「私は、優秀だからな。これでアトスのあの髭をファと一緒に引っ張りながら、自慢が出来るというものさ」




その言葉にそうだなと返答を返され、ネルガルは苦笑した。冗談に対してここまで真っ直ぐ返されると、彼も困る。
アトスのヒゲなど、欲しいとは思わないし、もしも間違って抜いたりしたら即座にフォルブレイズが飛んできそうだ。




「正直、色々と運が良かったというのもある。この頃調子がよくてね……どちらかといえば、初心に戻った気分だが」




初心という言葉にアトス達との会話を思い出した神竜は、同じような事を語るネルガルに対して、少しばかり興味が沸き、質問を投げる。
横目でうずくまって動かないモルフの、かろうじて人肌と認められる、背骨が浮き出た肉体を見つつ、声を飛ばした。




「初心か。お前にもやっぱり駆け出しの頃はあったのか? お前は、何を望んで魔道に入ったんだ?」




純粋な疑問と同時に、ある意味これは確認である。
初志を忘れていないかどうかを確認するための大事な。
闇に深入りしすぎてしまい、知識に食われた魔道士は往々として自らのやりたかった事を忘れ果てていることもあるが故の。




問われ、ネルガルは遠い過去を見る為に瞼を閉じて、視界を闇に満たす。
何もない真っ黒の世界の中で、燃えるような感情を、胸にくすぶる願いを、何年経とうと消えない念を、ネルガルは無意識に呟いた。
自分でも想像を絶する程の、驚愕さえ覚える領域に達した念の深さを込めた言葉は、部屋の中に木霊し、神竜をほんの僅かに動じさせる。



篭った感情の名は、憎悪か、それとも羨望? はたまた悲痛と絶望か。
もしくは、未知に憧れる子供の無邪気な好奇心か。




「強く、なりたかった……? 私は、私の大切なモノと自分を誰にも傷つけられたくない……守りたくて」




言葉は哀愁と、ごちゃ混ぜになった感情にかき混ぜられており、竜は男に何も声を掛けることは出来ない。
ただ、ただ、何処かでネルガルの思想に賛同し、理解を示す自分が居ることだけは判る。
はははは、とネルガルは無言になってしまった神竜に対して破顔し、笑いかけた。





「当時はともかく、今の私は自分で言うのも何だが、そこいらの人間に比べれば強いからね。目的は達せられたようなものさ。私は守れたんだ」




既に目的は達したと続けると、彼はそのまま言う。両手を掌の前に持ってきて、ふらふらと振りながら。
全く困ったものだと世間話でもするように。




「その後が問題でね。ひょんな事から【理】を超えてしまい、時間だけはたっぷりと出来てしまった。
 だから、自分が何処まで行けるのかを知りたくなって旅をしていた所に、アトスとの出会いがあり、今がある」




ただ、とネルガルは苦笑のような、それでいてどこか清々しい気配を放ちながら言葉を続ける。



「この里に来てからは、私自身の矮小さを思い知らされたよ。井の中の蛙は、大海を知ったんだ」



部屋の片隅でうずくまるモルフに視線を移し、彼はその自らの“作品”を愛おしそうに眺めた。
自分が神の域に一歩を踏み込んだ証拠であり“力”の象徴でもあるソレを。



だが、まだイデアには到底届かない。
人型であり、思考をする能力と結界展開の能力こそ優っているがそれだけだ。
生殖をし、活動を停止しても砂に戻らない神竜の御力による完全なる命の創造には、全く。




マンナズは、ネルガルにとっての正に“完璧”の象徴だ。
素晴らしい。あれこそ、神竜の奇跡。完全なる命の創生。完璧なる生命の支配。
それに比べれば、自分のあのモルフなど……。




ここで、ネルガルは思いついた。マンナズという名をイデアは己の被造物に与えた。
だが、自分はまだこのモルフに名前を与えていない事を。
この記念すべき“作品”には、世の遍く芸術家が己の芸術に名を与えるのよ同じように、固有の名称が必要だ。





ただの素体0252では相応しくない。
モルフという名も、言わば“絵”というジャンルのようなものであり、相応しくない。
視線を彷徨わせ、ネルガルは頭を回転させて適当に様々な単語を組み合わせていく。




一瞬の間の後に、組みあがった名前をそのまま口に出していた。




「“キシュナ”……そうだ、このモルフの名前は“キシュナ”と名付けよう。私が初めて作り出した本格的なモルフで、思考能力……“心”を宿した作品」



どう言い回しをしても“心”という言葉以外に表する単語が見つからずに、ネルガルは不承不承ながらも詩的な言葉よりも、端的にそれを使ってキシュナを表した。
イデアは腕を組み、その様子を観察しながらキシュナに“眼”を向けていた。その内部までを見透かすように。
心という言葉を確かめる様に、その胸の内側を除くと、未だ産まれて間もないキシュナの心は壁も何もなく、簡単にある程度は見透かすことが出来た。




感じたのは“感謝”と“感動”
自らが産まれ落ちたことを朧に理解し、その創造主に対してキシュナは感謝を捧げていた。
さながら人間が神に感謝を注ぐように、一点の曇りもない忠誠と信仰を。



赤子の様に真っ白な思考の中で、恐らくは名も知らない感情だけを抱えている。
違う。それしか知らないのだ。それ以外は、ない。
創造主に対する忠誠しかないものは、果たして自らの“子供”といえるのか?




イデアの“産んだ”マンナズは良くも悪くも奔放だ。
彼らは独立した存在であるが故に、ある程度はイデアが干渉できるが、強制的に命の機能を停止させようとすると、かなりの労力を有する。
それは、彼らが一つの命として名の如く確固たるモノとしてあるが故の当然の状態。




知能の与え方。思考能力と人格の付与。深く掘り下げると「魂」や「心」という概念の作り方。
マンナズを産み出す中、イデアは朧にそれがどうやってやるのかを理解していたが、どうしてもその一歩が踏み出せずにとどまっている。
恐怖していたのだ。そこから先に踏み出してしまえば、もう戻れなくなると。




だが、このキシュナは、それを作り出したネルガルはイデアが獣を作るという域において犯した地点にまで届きかけている。
人をモデルにしたマンナズと人間、そこに違いはないはずであり、ネルガルはもしかしたらその域にまでいくかもしれない。




「イデア殿。我々の歴史上……エリミーヌの教えによると、人は神によって創られたモノだという」



イデアの視線が注がれる中、ネルガルは朗々と語る。演説をするのではなく、まるで子供が親に質問を投げかける様に。
人である彼は竜であるイデアに回答を欲しているのかもしれない。
彼の眼はキシュナだけを見て、そこに己自身を投影している。


キシュナはネルガルのエーギルから創りだされた、いわばネルガルの一部だった存在。
そこに自らの望みを見る様に、彼は真摯な声で言った。




「ならば、私の手で創りだされた“コレ”は……“コレ”を創りだした私は…………いったい、何なのだろう?」



「人間だよ、お前は」



間髪入れずにイデアは答えを弾いた。少年の声で、竜は重く断ずる。
余計な装飾など入れずに、ヤアンがいつも行う様に言葉という事実をネルガルに突きつけたのだ。
無感情な声。人に対しての嘲りも、見下しもなく、同時に称える風でもない。




淡々と真理を言い聞かせるように発された言葉は単語の羅列としての意味しかなく、否が応でもネルガルにしみ込む。




「そうだな…………イデア殿の言うとおりだ。そこまでしっかりと断言されると、むしろ清々しい」



くくくとアトスの様に喉を震わせて笑うと、彼は自分のクローゼットから一枚のローブを取り出してそれを未だに服を着用していないキシュナに放り投げた。
さくさくと動き出す、ネルガルを横目に椅子に深く座りなおすとキシュナに肉眼を向ける。




心の有無は竜にとっても重大な議論の対象であり、姉にも関わって来る問題だ。
心の付与を成されたモルフ。【彼】はその与えられたモノで何を思う?


自分がモルフだとそもそも理解しているのだろうか?
小さな偽りの命でしかない事を。マンナズにもなれず、人にもなれない存在。
モルフ・ワイバーン共は知性もなく、ただ本能として自らに隷属する存在だが、【彼】は考える力を手に入れてしまった。




……この問題を考えるのはもっと余裕がある時にしよう。
イデアはさっくりと胸中の気持ちを割り切ると、ここからの流れを纏め始める。


まずは、祝杯といくべきか。アトスも呼ばなくては。
酒を飲むと人は、色々と口が軽くなる。色々と。


ネルガルが歓迎の為に酒を持ってくるのを視界の端に移し、イデアはアトスを呼ぶために念を彼に飛ばした。




















神竜と大賢者がひとしきり飲み食いし終わり、帰宅した後、ネルガルはとりあえずひと段落終えた研究に対して満足を抱いていた。
やっと今日で彼は一つの確かな成果を出すことに成功し、その余韻に浸りながらも次の計画を早くも考え始めている。
モルフの研究と並行して進めながらも彼はまだまだ自分の中から次々と別の研究をしたいという欲求が沸いてくることを心地よく思う。



夜の冷気が酒で少しばかり熱を帯びた体を冷やしてくれるのは、いい事だ。
窓から静かに入り込む月明かりの影に体を半分ほど晒しながら彼は胸の内側で燃える念を噛みしめ、宥める。
まだ、足りない。まだまだ全然。もっとやれることはある。



竜の知識は永遠の謎と可能性の塊。そこに限界などないのだから。



そして今日、彼はその成果をつい先ほど創りだす事に成功した。
視界の端にうずくまるキシュナは身じろぎもせずに寝息を立てて活動を休止している。
これから暫くは人間の赤子と同じように活動と休止を交互に行いつつ、自我の組み立てを優先的に行うはずだ。




だが、既にネルガルはキシュナへの興味と、これを創りだした興奮についても、徐々に冷めだし始めていた。
一応の通過点であり、結果であり、これからの基礎になるが、裏を返せばそれだけだから。
自分の遥か後方にある足跡に興味を示す者がいないように、既にキシュナも遠い足跡になりかけている。





花瓶の中に入れられていた一輪の花をネルガルは手に取る。かつては絵の為に栽培しようとしていて、結局は刈り取れなかった花の一つ。
闇魔法【リザイア】を発動させ、黒紫色の光と共にそこに宿っていた生命力を吸い取ると、花はあっという間に萎れて枯れてしまう。
特に病気でもなく、怪我をしているわけでもないネルガルの身体はエーギルである程度は満ちてはいるが、それでもキシュナ作成で減った分を埋め合わせるように力が体内に入り込む。





ほんの僅かな力の回復。
だが、何かがネルガルの頭に引っかかってしょうがない。
何時もならば、直ぐにでも消えてしまう気のせいだと片付けていた事。




花を無駄に枯れさせてしまい、意味もなく命を狩り取った事に自己嫌悪と反省を抱くのがネルガルという男。
だが……今日は違った。彼は、瞳を閉じて己の内側に深く問を投げた。





私は、何が出来る? 何を“見た?”
何処までも落ちる様に思考を斑に沈殿させ、原因を探る。
頭の何処かでは、これはもしかしてとても危ない事ではないのかと囁く部分もあったが、ネルガルはそれを黙殺した。




そして最初に頭を焼くように閃きとして映ったのは、一つの完成された姿。
何者かが見た景色と気持ち。共感。憎悪。最後に残ったのは……爽快な、とても晴れ晴れしい気分。
満ち足りて、何もかもが上手くいくと思う程の充足感。



蕩ける程の充足感と全能感と共に、ネルガルは答えを見た。“誰か”が見た情報を覗いたのだ。
頭の奥底で突っかかっていた、棘の刺さった部分が綺麗に治るのを感じつつ、彼はその姿を見て感動を覚えた。




それは一人で何千という軍団となった姿。彼にとっての理想の一つを体現した姿。
黄金色に輝き、周囲に幾つもの稲妻を撒き散らす神々しい巨斧を担いだ“怪物”がいた。




内部に大量のエーギルを渦巻かせた一人の“怪物”
死という概念を支配し、形にした規格外の存在。
冷たく、無慈悲な死がこちらを見つめていた。




天雷の落雷音を、遠くからネルガルは聞いたような気がした。




だが凶念と狂念が深すぎる憎悪と共に爆発し稲妻を飲み込み、闇だけが果てなく膨れ上がる。
万物を慈しむ太陽の様であり、全ての終焉を願う暗黒の様でもある、永劫の力の連鎖を前にネルガルは圧倒されて声も出ない。




その全てに彼は魅了されていたのだ。



死ね、死ね、死ね、滅べ。消えろ、消えろ、消えろ。
無尽蔵に、無限に増幅を繰り返す黒い太陽はあっという間に雷を覆い隠し、絶対の天蓋としてそこにある。
魔道士はその膨れ上がる超大な感情の渦に翻弄されながらも、ただ、無心に一つの事を思った。



心の底から、もしもこの感情の持ち主に出会えば、彼はこう言うだろう。






───君の気持はよく判る。





もう何度感じたか判らない“共感”をネルガルは、かつてない程に深く抱いた。






あとがき




あと1話か2話程度で前日譚も終わりになると思います。
ようやくここまで来れました。本当に長かったです。


このお話はまだまだ続きますが、途中で止まらない様に頑張ります。





[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 4 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2015/01/06 21:40



世界にこれほどまでに深い苦悩が存在することを彼は信じられなかった。
身体が痛いのではない。事実、彼は体の痛みなどどうにだって耐えられる。
問題なのは、心の奥底で願う念と、自らの理性が全くかみ合わない時に生じる“ずれ”が齎す絶苦。





無心で何かの作業に没頭しなければ、胸が内部から食い破られ、破裂してしまいそうだった。





「…………違う、違う」



陽の光が差さない暗闇の中、ネルガルは闇と同化したように陰惨な空気を纏ってひたすら文字を書き連ねていた。
頭の奥底まで照らし出されるような、唐突な、芸術的で、今まで彼が経験したことのない程の無数の閃きをただ、文字として書くだけの行動。
しかし、彼は喉の奥から無意識の内に拒絶の念を垂れ流していた。




稲光の様に夥しい発想が頭の中で絶えず轟雷を響かせている。
一文字一文字が、それぞれ自分を書けと叫んでいるようにも思えた。



善悪、正道外道関係なく彼はただ無心にその溢れる欲求を文字を描くという行為で発散していた。



自分でも何を言っているかよくわからない状態だが、ただ、ナニカが違うというのは判る。
喉の奥まで乾ききり、まるで今まで一度も水を飲んだ事のない人間の様に渇きを覚えるが、それも意味が判らない。
この身は一体どうなってしまったのだろう? 自己判断を下そうにも、思考も何もかもが夢うつつの様で、まるで酔ってしまったようだ。




唐突に呟くのを止めて、ネルガルは今自分が向き合っているノートに目を通した。
今まで確かに自分の指を動かしてこれを書いていたというのに、まるで初めて読んだ書物の様にその情報は新鮮味あるモノとして頭に入って来る。
本当にこれは誰が書いたものなのか、判らなくなりながらも改めてネルガルはその内容を頭にもう一度入れていく。




筆跡はやはり自分がこの文字を書いたのだと証明しているが、しかしその羅列された内容はとても自分が描いたものとは思えない。
まるで童話の中の血を啜る怪物の様な術。他者の存在の吸収と、自らの存在の進化へ至る術。
考えたことがないとは言わない。リザイアとは違う、自らの器そのものを強化する術を。




だが……それはこの世の道理に反する行為であり、間違いなく手を触れれば秩序を乱す力。
だからこそネルガルは決してソレに触れようとはしなかったというのに。



なのに、今、彼は……心を揺さぶられていた。
何かの意思というわけでもない、自分自身の意思で、彼は、力を求めていた。
なまじ人としての理を超えて、力を他者より得てしまった彼は頂上を知ってしまった……なのに。




なのに、ネルガルには運命が更なる力を得る糸口を与え、道を照らし、誘惑するように背を押してくる。
禁忌の道を進めと、心の底が囁いている。しかしネルガルはソレに断固として否を叩きつけた。
単にそれはダメなモノはダメだからという子供じみた理屈ではなく、損得を天秤に乗せて導き出した理屈づくしの答えだった。






「馬鹿らしい……他人を犠牲にして力を得るなど、それこそ大勢の敵を作るだけではないか」




例えば1の力を得るために何者かを犠牲にしたとして、それで10の者に恨まれたらどうする?
全くもって損得が釣りあっていない。敵を大勢増やしてしまったら、それだけ面倒事は増えるというのに。
故に彼はありえないと自らの欲望に歯止めを利かせるが……ノートを処分する気はなかった。




しかして、常に人は理屈を踏み越える。そしてネルガルは、人である。



もう一度最初から最後まで読み通し、少しばかり冷静になった頭でネルガルは考える。
頭の片隅では理解不可能な黒い雲が稲妻の唸りをあげて、彼に囁いていた。




“良い”や“悪い”というのは視点の問題だと。
他者から命……エーギルを奪って、それを自分のモノにするのは万人が悪だと認める行為だ。



しかし、ここで彼の頭には疑問が湧いて出た。
では、国家が正義と銘打って起こす戦争は正しいのか?






正義という名目で、今まで自分たちを愛し、慈しみ、守ってくれた存在を殺すのは正しいのか?



とつ、とつ、と、胸の内側から想像だに出来ない憎悪を滲ませて彼はくるくると果てのない迷宮を頭の中で作り上げ、自らそれを踏破していく。





延々と答えの出ない自問自答を求道者の如く続けているとネルガルの頭は破裂しそうな程に熱を帯びてしまう。
考えるのは好きだが、それは答えがある課題についてだけだ。
このようにどうしようもない世界の理不尽についての議論は意味がない故に好きではない。



だのに、思考はネルガルの意思とは裏腹に止まってくれない。
胸の内側が刺されたように熱を帯び、痛苦を訴えてくる。
この傷は、今できたモノなのか、それとも、遥か昔のモノが再び開いてしまったのか。




そもそも、今自分が抱いている黒い念は誰のモノだ?
いや、これは確かに自分のモノ……ならばこれをいつ、抱いた?




すぐにでもこのノートを焼いて捨ててしまいたいとさえ思ったが、不思議とそういう気はしない。
何故ならば力そのものは悪ではないのだ。力を得ようと思うのは、人や竜も変わらないはず。
幾ら綺麗ごとを述べたとしてもこの世は弱肉強食であり、強いモノが弱者から搾取する構造となっているのだから。



更に深く思う。そもそも、仮にこの力を自分が得たとして何に使うかを。
意味のない力など存在しているだけの、ただの置物と変わらない。
持ち主のいない武器はたとえそれが『神将器』だとしても、オブジェにしかならないように。



では、どうする? 力を得たとして、自分ならば何に使う?
ネルガルは友の顔を思い浮かべた。皆の顔を。



大切な友であるアトス。種族の差を超えて友情関係を築いたイデアや、メディアン、ヤアン、アンナ……。
他にも色々いる。雑談をした者、盃を交わした者、遊戯札で遊んで自分からかなりの量の賭け金をもっていった者…………。
そして自分を慕ってくれるソフィーヤとファ……二人の小さな子供たち。




ネルガルは俯いていた頭を上げて、窓から入り込んでくる光を見る。
ほんの僅かに差し込む太陽光は、まるで線の様に彼の身体の半身を照らし出した。
太陽……何もかもを照らし出す神竜の象徴にして、この世の中でも最も永遠、無限に近いモノ。



命を慈しみ、育み、そして反転して焼き尽くす絶対の存在。
その朧に倒錯した頭の中で、ネルガルは答えを見る……。



以前イデアに語った通りだ。
もう、事ここに至っては認めるしかない。




自分は力が欲しい。全ては奪われない為に。




そうだとも……すべては奪われない為に。




ここは理想郷であるが、永遠の園ではない。単純にして残酷な事実だけがある。
外部にはエトルリア、ベルン、リキア等々の国家群がひしめいており、いつその平穏が乱されるか判ったモノではないのだ。
イデアの力は十二分に信仰しているが、それでもネルガルは楽観的には考えられなかった。




彼は今まで世界を旅して様々なモノを見てきている。
エトルリアとサカの血なまぐさく、バカバカしい宗教戦争。
神と聖女の名を高らかに歌い上げて異教徒は人にあらずという絶対正義を強行した貴族達は幾万もの死者であの草原を汚した。




イリアの傭兵団たちが信頼を得るために、決して雇い主を裏切らない誓いを立て、その為には家族同士でさえ殺し合う光景。
涙を流し、唇を噛みしめて共に幼少時代を過ごした家族を槍で突き刺し息の根を念入りに止める姿。



例外はない。戦争はありとあらゆる場所で起こり、それ以上の理不尽は全て人がある所で産まれる。
戦争など理不尽の形の一つでしかない。
戦争がなければそれは平和と言えるのか? という答えに誰も答えられないように。




そうだ。力は笑顔を守るためにある。
彼は、この里の平和を守りたかった。
何時かイデアが行使している力と同じ次元に立ち、共にこの里の守護者になりたかったのだ。






ネルガルは暫し、呼吸を止めた。
瞼を閉じ、自分の中で轟音を立てる雷にそっと寄り添う。
もはや恐怖はない。彼は魔道士である故に、その人並み外れた好奇と分析をもって稲妻の纏う“死”の本質を垣間見る。



そして、彼は決めた。決めたのだ。



少しも、何も難しくない。



自分が欲しいモノを、欲しいと認めて、行動すればいいだけだ。





苦悩が、嘘の様に消えた。



























エレブの夜の闇はナバタにも広がっていた。
だが、この一寸先も塗りつぶし、万人を恐れさせる暗闇も彼には何の障害にもならない。
何故ならば彼は決めていたからだ。もう、恐れる必要はないと。




そうだとも。彼は決めたのだ。闇を、力を、知識を怖がるのを止めるのだと。
友がおり、守りたいものがあり、奪われたくない場所がある。
その意思を確認し、遂に一歩を踏み出した男は、恐怖をその一歩で踏みつぶす。




恐怖することは間違っていたと彼は遂に答えに至った。
恐怖を征服するのが正解であり、それを成すには力がいる。
力を以て恐怖をうち滅ぼし、不安を踏みつぶし、永遠の平和をこの理想郷に齎すのだと。



運命というのはただ享受するものではなく、自らの手で引き寄せるモノ。
必要な準備をし、心を開き、諦めずに努力と忍耐を重ねればソレはこの手に落ちてくる。
この里にやってきた自分がそうだったように。絶え間ない魔道の研鑽の末に竜の知識と大賢者という友はネルガルの元に引き寄せられてきたのだから。





彼にはもはや恐怖はない。ただ一つ、この得た力を失う事以外は。




部屋に幾つかもってきた小さな植物の花を前に、ネルガルは腕を組んで立っていた。
無造作に里の外周から詰んできた花々は色とりどりの色彩を放ち、香しく、とても美しいが今の彼にはそんな事は意味がない。
彼は花の可憐な外見よりも、その瑞々しい生命力に用があったのだから。



根から引っこ抜かれながらも栄養豊富な大地で育まれたソレの生命が陰る様子など微塵も見当たらない。
むしろ産まれて初めて訪れたこの苦境に決して負けるものかと奮い立つように、凛と茎を伸ばし、紅い花弁を大きく主張するように天井に伸ばしている。




花瓶に入り、必死に生きるソレにネルガルが手を翳す。
その掌に彼の魔力が集い、一つの術を成す。
渦を巻く様に収束された魔力が闇色の魔方陣を展開し、その中に刻まれた文字が不気味に発光すると同時に力は顕現する。




艶めかしく黒紫の光を塗りつぶすように発生させる術の属性は【光】と【闇】が混ざった、世にも珍しい複合属性。
命への干渉という領域は神の御業である【光】であり、それを狩りとる側面は始祖の【闇】でもある。





【リザイア・ハーヴェスト】




黒紫の光が迸り、それは花に照射されると同時にその威力を遠慮なく発揮してみせた。
即ち、生命力の吸収と、術者への還元である。
見る見るうちに花の全体から水分が消え失せ、色素は零れ落ち、そして天井を向いていた花弁はその自重によって床へと落下する。




太陽光を一欠けらも逃すまいと大きく広がっていた葉っぱの内部を循環する液が消滅し、茶色く染め上げられた。
瑞々しく、指で押せば押し返してくるほどもあった弾力は既になく、ここにあったのは人間で言う所の“ミイラ”だ。
生きる為に必須な根本的なモノを抜かれてしまった結果がこれである。




水分でもなく、栄養でもない……直接“命”を概念として型に嵌めた存在であるエーギルを抜かれたのだ。
だがしかし、ネルガルは頭を捻っていた。【リザイア】をベースに改良していた術は問題なく効果を発揮したはずなのだが……思った様にはいかない。
確かにエーギルを吸収したはずなのだが、自分への力の還元が上手くいかない。




元々は広く大陸にも普及していた術を改良した術式によって回しているだけあって術を組み立てる労力は少なくて済んだが
問題はここから幾つも改良を重ねて完全に別の一つの術として確立させるまでの道程だろう。
まだまだネルガルはこの程度では満足していない。




彼は一度やると決めたら、最後までやり通す男であり、妥協という文字は好まない。



だが今現在発生している問題は中々に頭を捻る内容だった。
確かにこの身に今目の前で朽ち果てた花のエーギルは注がれているのだが、実感が沸かないのだ。
余りに増幅した量が微細に過ぎて、普通のリザイアと同じなのか、それとも新術はしっかりと効果を発動しているのかが判らない。



リザイアとこの術の違いは、己本来への“器”への干渉を果たせるか否かにある。
普通のリザイアでは10ある器の中でしか効力を発揮せず、器そのものの大きさを10から11へと増やす事は出来ないが、これは違う。
他者から1を取り込み、その分だけ自らの存在を“水増し”させる効力をもつ。



今回の問題はその増量した分が余りにも小さい事にあった。
1どころではなく、その頭に幾つも0を重ねた分だけ自分の存在が増えたといったところで、それを実感する事は本当に難しい。
自分の体重が砂粒一個分ほど増えた所で気に掛ける者が居ないように、命が花一つ分濃くなった程度ではネルガルは術の効果を確信できなかった。




もっと数がいる。もしくは刈り取るエーギルの質をあげるべきか。
だが、このナバタには余分な命は少ない上に、イデアにもこの術が完成するまで……隠しておきたいが、やはりそれは無理だろう。
そのような甘い考えなど、竜族の支配者には全く通じないのはこの世の道理だ。



あの神竜はナバタ、ミスルにおいて全能の存在であるが故にどう偽装しても発覚する未来は目に見えている。
故に、一応の報告はしておくべきだろう。何も隠す必要などない、自分はこの里の為に正しい事をしているのだから。
きっと、アトスも含めた皆も判ってくれる。彼らも理想だけで世界が回っているなんて信じる歳でもない。




とりあえず今はこの術が一応の満足のいく完成を迎えさせたい。
更に平行してモルフの研究も更に進めるのも忘れてはならないというのが嬉しいながらにも、多忙で頭が痛くなりそうだ。




キシュナは一応の試作品としての役目を十二分に果たしてくれたが、それだけだ。
既にネルガルの中であの存在に対しては喜びよりも、邪険に思う気持ちの方が強くなり始めていた。




もはや“アレ”には大した価値はなくなりつつある。
沈黙の結界と、基礎的な術しか使えない……言ってしまえば戦争では余り使えない出来損ないだ。
その沈黙の結界さえもこの地にはイデアが居る限り、どうにでも出来ることを考えると本当に何の存在価値もない。




恐らく、ここから先に自分が更なる進歩を遂げた際にアレを見たら当時の自分の余りの能力の無さに憤慨を確実に覚えるだろう。




「やはり他の生物でも試す必要があるか……」




零した言葉には少しばかりの疲労が滲んでいるが、それを遥かに上回る期待が篭っていた。
この里に来てから何度も何度も抱いた念が更に強くなり、胸の内側を満たしていく。
今回の術は花には恐らくは作用したが、これが大型の植物、次に小動物や果てには人を対象とした結果しっかりと当初の効果を発揮できるかは判らないのだから。




改良点は多く、道は長い。しかしその先にはこれ以上ない程の高みと名誉がまっている。
何時の日かイデアにも並ぶ存在になり、この里と共に…………。




頭を振ったネルガルは頭の中にたまってきた雑念を振り払ってから、これからを考える。
とりあえず、ここからまた書類の山が増えるのは確定であり、今現在でもお世辞にも広いと言えない空いた空間は更に狭まる事は必須。
必要なモノと不要なモノを別ける掃除が必要となるだろう。




部屋の隅で固まっている“アレ”はとりあえずまだ捨てる気はないが、何時か邪魔になる日が来るのは目に見えている。
定期的に少量のエーギルだけを与えて、後は放置しておくという結論は既に出ていた。
捨てるにはまだ早い。まだ、ほんの少しでも絞りかすでしかないあの存在にも研究する余地が残っているかもしれないのだから。




キシュナは何も言わず、少しでも主の使用する空間を減らさない為に全身を丸めて、取るに足らない荷物の如く部屋に隅からは動かない。
そんな彼の存在は金色の瞳でネルガルを見たが、ネルガルはそれに何も返さなかったし、返す必要も感じなかった。
ただネルガルは自分の事を考えていた。これから“自分が”どう動くかを。





そこには被造物への興味は、自らの技術と力の確認という意味以外では全くない。
彼の視線は未来へと向いている。華々しい栄光によって光る未来へ。






「……………」




考える事が出来るモルフ……キシュナは、ただ闇の中で思考を回す主を沈黙して見守るだけであった。



決して自分を見ることのない主を、ずっと。



























「お姉ちゃん、きょうは何しよっか?」



昼下がりの何も予定が入ってない日、ファはよくメディアンとソフィーヤの家に遊びに行く事が多い。
その日も特に理由はないが、幼い竜の娘は姉妹とも言える程に心を通わせた大好きな姉の隣で寝っ転がっていた。
ソフィーヤと彼女の母が使用する寝室、そこに置かれた少女のベッドの上で二人はだらだらと過ごし、暇を潰すために頭を捻っている。



すみれ色の髪の毛を指先で弄りながら、混血の少女は頷いた。
彼女としても、このまま時間を無駄に使うのは余り得策ではないと知っており、出来ればもっと有意義に休日を過ごしたかったのだから。
母は今の所、学校の教師として出かけており、この家に居るのは彼女とファだけだ。



大きなクッションに背を預けたソフィーヤは言葉こそ少ないが、眼を細めて妹分の言葉を吟味する。
いつもの竜族の術などの勉強は……今はいいだろう。ファの学習能力を考えれば日頃の勉強と、その復習だけで十分すぎる程の学を得る事が出来ている。
何より父親であるイデアが急速なファの成長に配慮をしているのだから、そこに自分が口を挟む余地はないとソフィーヤは身の程を弁えていた。




では、何をするかと考えると……思ったより二人でやる遊びが少ない事に気が付く。
外で男の子の様に駆け回るのは得意ではないし、何より昼の今にそんなことをやってしまったらファはともかく、ソフィーヤは確実に倒れてしまうだろう。




今の時間では無理だが……もう少し、時が経過して、太陽が陰ってきたならば少しだけ外を歩くことも可能になる。



だが、ファとお散歩……もう何回もやった行為だが、悪くないとソフィーヤは思った。
街の散策のルートを少し変えるだけで何を発見するか変わる上に、色々なモノを興味深く眼を光らせながら観察するファはとても愛らしい。
何より彼女はこの里が好きだった。愛していると言ってもいい。陳腐な言い回しにしかならないが、この理想郷という故郷に彼女は誇りを持っている。



戦役後に産まれた世代であるソフィーヤはかつての竜族の超巨大都市である【竜殿】を知らないが
人と竜が寄り添うために作られたココはそれ以上に素晴らしい場所であると思っていた。
きっとファもそうだと判っており、いつか外を見る時も一緒だと決めている。




「一緒に、本でも……読む?」



「よむー!」




「わーい」ともろ手を挙げて喜びを表現するファを見て彼女は微笑む。
さて、何を読もうかと立ち上がり、部屋の書棚に安置されている本に向けて歩こうとすると、唐突に一冊の本がごそごそと動き出す。
ソフィーヤにまるでとってくれと言わんばかりにその分厚い冊子を差し出す本の向こうには長い付き合いである人型のリンゴが居た。



この本がお勧めだと身振り手振りで表すリンゴにソフィーヤは小さく頷いた。



「…………あ」



小さく驚きと想起で声を上げつつも本を受け取り、その表紙を確認する。
書かれた本の名前は……エレブ生物図鑑。
人間ではなく竜が描いたこれには馬や鳥はもちろんの事、神話時代の竜の事でさえ詳細に、まるで実際に見て書いたように深く書かれている。



何気なく表紙の名前に惹かれてこの書籍を借りたソフィーヤだったが、中々に時間が取れずに何時か読もうと棚に置いてあった本だ。
そろそろ返す時期も迫っているために、なるべく早急に読む必要がある。



かつては神竜姉弟も暇つぶしとして読んでいたソレは、長い年月の果てに今はソフィーヤ達の手にあった。
最も、そんなことを知る由もない二人は丁度良い暇つぶしの手段が文字通り発掘できたことにより、眼を輝かせる。




「これ、なぁに!?」



ぴょんぴょんと興奮してベッドのクッション上で小さく跳ねながらファは眼を光らせる。
興味の惹かれる対象が出来、それを知ることが出来るという事は彼女にとって最も大きな楽しみなのだから。
純粋無垢な神竜の前にソフィーヤは大きく手を伸ばして図鑑をまるで伝説の剣でも見せびらかすように翳した。



背後に回り込んでいたリンゴが何処からか取り出したのか、色とりどりの果物の皮を小さく刻んだ物体をソフィーヤの背後から吹雪の様に撒き散らす。
さながら今のソフィーヤの姿は舞台の上で喝采を浴びる役者の様であった。



「これは……生物の図鑑です………!」




胸を逸らし、姉としての威厳を精いっぱい表しながらソフィーヤは図鑑の表紙を撫でた。
正直、まだ自分でも読んだ事はないが……どうして今まで放っておいたのか判らない程にこれの中身に興味が沸いてきたのだ。



「“ずかん”………!」




図鑑という単語を知っていたファはその意味を口にしようとしたが、物事を表現する語呂に乏しい彼女は必死に口をパクパクさせるだけに留まった。
打ち上げられた魚の様に口を大きく開閉しながらうーうーと唸るファは、最後は諦めたのかベッドに力尽きた様に倒れ込み、今にも行き倒れてしまいかねない旅人の様な顔でソフィーヤに腕を伸ばす。



「ファ、しってるのにぃ……! うまく、言えないよぉ………!!」



断末魔の様に声を絞り出すと、ファはばたんを顔を伏せて動かなくなった。
このまま放っておけば眠りだす事を知っているソフィーヤはそれでもあえて、両手を合わせて祈るようなポーズで祈りを捧げてからそそくさと自分一人で図鑑を読む為にページを広げる。
ファとは少し離れた場所でベッドに腰掛けて、これ見よがしに音を音を立ててページを捲り始めるとファの耳がピクッと動いて反応する。




わざとらしく大仰にページの内容に頷きを入れながら読んでいるフリをすると、案の定背後でのっそりとファが起き上がった。
彼女は気配を消してそーっと背後から忍び寄っているつもりかもしれないが、ソフィーヤにはバレバレだ。
時折母が自分をびっくりさせる為だけに見せる隠行術に比べれば笑い話にしかならない。



時折彼女は数千歳とは思えない様な驚く行動をすることがあり、ソフィーヤはそれによって鍛えられている。
最も、自分も何回かやり返したこともあるのだが……悉く見破られる結果に終わってしまっていた。




「ずるいっ……ファにも見せて!」



予定通りのセリフを聞いたソフィーヤは微笑むと、自分の隣をぽんぽんと掌で叩いてファに座る様に示唆した。
一瞬もしない内にファがその場所に腰かけると、彼女にも見える様に本の場所を動かして調整。
両者が問題なく本が読めると判断した彼女はまず目次の辺りを開き、そこに書かれていた種族の多さに感嘆の声を思わず漏らしていた。




外の世界の事は知らないソフィーヤだが、これほどまでに外界ではもはや空想の生き物とさえ思われ始めた存在について綿密に書かれた書物はほとんど存在しないというのは容易に想像できる。




「あ、おとうさんだ」




目に飛び込んできた絵にファは素直に感想を漏らした。
そこに映っているのはよく知っている存在が故に。



まず目次から進んで最初のページに描かれていたのは太陽を背負う巨大な竜。
世界……竜族の理論では複数の大陸さえ浮かばせる球状の塊である“星”さえもその掌で軽々と握りつぶす絶対存在。
余りに強大かつ神々しく描かれた存在はもはや理屈抜きの畏怖を見る者にたたきつける。


例えそれが絵や偶像の様な製作者のイメージを混ぜ込まれたモノであっても、理屈を超越した存在は決して色あせない。
太陽として万象を照らし、見通し、掌握する神の姿を見てソフィーヤは無意識の内に息が詰まった。
神竜としてはイデアとファしか知らない彼女だが、イデアは自分は先代に比べれば遥かに弱いと言っていたのを知っている。



ならば恐らくこの神は先代の姿なのだろう。
ソフィーヤはほっと胸をなでおろすように息を小さく吐く。
正直言ってしまえば、少しだけ怖いというのが彼女の感想だ。



半分とはいえ、竜の血が身体に流れる彼女は無意識の内に他者よりも深く神竜の波動に飲まれてしまった。
なまじもう半分が人の血であるというのも含めて、人としての原初の恐怖と竜の根源に刻まれた畏怖を同時に抱いてしまうからこそ。



理屈など意味をもたない絶対の超越存在に対して人々は恐れ、敬い、そしてそういうモノだと割り切るしかないという事がよくわかる。
この絵を描いたものはかなり腕がいい。所詮はただの絵だというのに、古の神の威光を現代にまでこうして残し続けているのだから。




「お姉ちゃん、どうしたの?」




「いえ……何でも、ない……」




横から覗きこむファの顔にソフィーヤは微笑んで答える。
所詮は絵であり、文字の羅列だけで読み取れるのは表層部分だけ。
こうして2柱の神竜と近くで接してきたソフィーヤからすれば、竜にも性格があり、個性があるということは当然の様に思えた。




では、この本の竜は一体、イデアの父であり先代の長はどんな性格をしていたのだろう。
だが、とソフィーヤは頭の隅に沸いてきた興味を振り払う。
500年の付き合いで、イデアが自分の親の話題になると露骨にその話題を逸らそうとし始めるのを彼女は知っている。


つまり……触れられたくない事なのだろう。
そこにみだりに踏み込むのは良くない事だと彼女は思う。




「ファもいつかお父さんみたいに、こうなれるのかな?」



最初に言葉をあげて以来、沈黙しながら神竜の絵画を見つめ続けるファの言葉には何時もの天真爛漫さはなく、低い声であった。
微かな気配の変化に気が付いたソフィーヤは包み込むように、丁寧な言葉で返す。



「なれるわ……どれほどの年月を経ようと……必ずね」




「そのとき……お姉ちゃんはいっしょに喜んでくれる?」




ソフィーヤは一瞬だけ言葉に詰まった。
ファが完全なる神竜に至るまでの時間と自らの寿命を考え、ファの大人になった姿に立ち会えるかどうか判らなかったから。
地竜の血は半永久の時間を与えてくれるが、真なる永久である神竜と同じ時間の間共に居られるかは不明だ。



だが、とソフィーヤは自分自身に喝を入れた。
ファは恐らく半分は察しているのだろう。かつての自分がそうだったのだから、その思いは手に取る様に判る。
外見の幼さからは一見すれば想像できない程にこの妹の様な子は物事の本質を見抜く力をもっているが故に、ここで変に誤魔化せば……きっと傷つく。



だからと言って他者の心を顧みずにヤアンの様にただ真実だけを突き刺すように言うつもりもない。



彼女は神竜の手を取り、その翡翠の瞳を見つめながら自らが出した答えを言う。
終わりは逃げられない故に、そこに至るまでに何をするかと。




「私は……いなくならないです……おばあさんになっても大きくなったファの隣にいるから……約束、しよ?」




イデアから教わった約束の儀式を行う為にソフィーヤは小指を差し出した。
何でもこれは自分と相手が小指同士を絡ませて上下に振りながら祝詞を唱える契約の儀式とか。
魔術的な拘束はないが、生半可な覚悟では行わなれない、真に信頼しあっている者同士の契約確認の為に行われるコレは今こそ相応しい。



「やくそく……うん……やくそくして!」



ソフィーヤの真摯な言葉に自らが望んだモノを手に入れたと朧に理解したファは大きく頷いた。
死という概念に対して未だに理解が及んでいない彼女であるが、その別れに対する恐怖が少しだけ和らいだ故にその笑顔は何時もよりも眩しい。



ファは嬉々としてそこに自らの小指を絡めた。
彼女もイデアから概要は学んでいるらしく、説明する手間は省けた。



「……ゆーびきーりーげんまーん」




ぶんぶんと大きく腕を上下に振りながら二人は声を斉唱させる。
透き通った甲高い声が部屋に響き、その締めに向かって止まらずに流れていく。
二人の少女の誓いをただリンゴだけが黙って聞いていた。



「うーそーついたら・ぶー・れー・-すー・せんーかーいー!」




ゆびきった、と二人の声が重なり誓いが結ばれるとソフィーヤは苦笑した。
千回どころか1回で昇天する未来がありありと想像出来てしまい、その時自分の身体はきっと黒焦げのパンの様になってしまう。
最も約束を破る気など今も、そしてこれからも絶対にないから、無駄な心配であるが。




「ブレスを千回……私、黒焦げのパンに…………」



あ、そういえば最近は余りパン類は食べてなかったなとソフィーヤは思った。
肉やスープ類、野菜系統はいっぱい作ったり食べたりはしているが、ミートパイの系統は近頃はご無沙汰だ。
アレも母曰く人類が小麦を使った食事文化の開闢に近い時から存在していた食べ物らしく、その可能性は無限大である。




はーい、とファが手を伸ばして宣誓するように言う。
その容姿には先ほどまでの不安染みた様相はなく、大好きな親友とずっと一緒に居られるという確固たる契約を結んだ安堵がある。



「ファ、パンにジャム塗って食べるのすき!」



「……バターも、いいです」




むーとファはソフィーヤに対して不満そうな視線を向けるとソフィーヤは受けて立つようにふふんと平原の様な胸を逸らして答える。
ぐぬぬと歯噛みしながら二人は向き合うと、この不毛な戦いに決着をつける事は難しいと悟り、ソフィーヤの手に持った図鑑に視線を戻す。
何だかんだで話が飛躍しながらも最終的には最初の位置に二人は戻ると、神竜が描かれた次のページに記されている説明文を視線で読み上げ始めた。



太陽であり、秩序であり、絶対の神であるという文から始まる神竜を湛えた祝詞の数々にファは改めて自分の父親の凄さに興奮をその瞳に宿す。
そしてこれからいずれ自分が背負うことになるかもしれない責任の重さを確認し耳をしゅんとさせてうなだれてみせた。
が、ソフィーヤが何か声を掛ける前に彼女は直ぐにまだ時間はあるという事を思い出してしゃきっと背筋を伸ばして復帰。



まだまだ父のイデアから教わる事は多く、竜として若輩に分類される彼の統治はたかが500年では始まったばかりなのだ。
数百年、数千年単位でこれから知らないのならば知っていけばいいと習っている故に、ファは直ぐに頭を切り替える。
翡翠色の瞳で次のページを開く様に催促の視線をソフィーヤに送ると、彼女は頷いて手を動かした。




次にあったのは無数の小型の竜……それでも一体一体の大きさは小さな要塞や城砦にも匹敵する竜を何千と従え、堂々と振る舞う一柱の竜。
神竜に似ている様であり、何かが違うその竜の姿を見てソフィーヤの眼が過去を見る様に細められた。
父と母から彼女はこの竜の存在を教えられている。最も新しいこの竜に誰がなったのかを。



だがソフィーヤはそのことを自分からファに言う気はない。
これはとても繊細な問題で、何よりイデアとファの最も深い部分に根差す話になる。
彼女の父の口からいつか語られる事を自分が言ってはいけないという直感でもあった。




魔竜について一通り読み終えたファはうーんと頭を捻る。
どうしたの? とソフィーヤが聴くと彼女は心底判らないと言った顔で姉の顔を見て問うた。



「……なんで、仲良くできなかったんだろ? たたかうって、痛いことなのに………こわかったのかな?」



父から竜の歴史を学んだ際にふと浮かんだ疑問を言葉という形に昇華させ、ファは無知故に知りたいと紡ぐ。
頭を捻りながら始祖と神の戦争について考えるが、答えは出ないと直ぐに悟った彼女は、次! と大きく催促しソフィーヤはそれに答え、時間は流れる。









やがて一通り本の内容を読み終える頃になると、天の真上にあった日は大きくその位置を移動させており、白から真っ赤な夕暮れに近い色へとその姿を変えていた。
一種一種ごとに一喜一憂し、大げさと言える程に感想を漏らしながらの読書はとても楽しく、二人は本を最後まで読み終えると同時に余韻の中へ浸る様に後ろに倒れ込む。
ぷはぁと揃って大きく緊張が途切れた合図である息を吐くと、少しばかり疲れてしまった眼をいたわる様に瞼の上から揉み、ぐっと背伸びをした。



んーと唸りを漏らし、関節の各所からパキパキと音を立てて背伸びをし、次に脱力してベッドに身を委ねる。
すみれ色の長髪が大きく広がり、その毛先をファは掴んで何やらきゃっきゃと騒いでいるが、何時もの事だ。
疲れが徐々に発散されていく中ソフィーヤは早く本を返しにいかねばと思う。


明日明日と先延ばしにすると、その内記憶の中から消えてしまいそうだ。
今日出来る事は出来るだけ今日中にやってしまいたい。
せっせと本棚の中に本を戻そうと背に分厚い図鑑を背負いながら移動するリンゴを見つめ、彼女は起き上がる。




「本を……返してくる」



ファが聴いてくる前に宣言するとソフィーヤはリンゴをいたわる様にそっと本を持ち上げると胸にかき抱いた。
礼を言うようにぴょんぴょんと周囲を跳ねまわる家族の一員を踏まないようにしながら彼女が歩き出すとファは当然のことの様にベッドから起き上がり彼女の後に続こうとするが……。
その足取りはふらついており、平衡感覚が少しおかしくなっているのかまるで酒に酔った者の様に千鳥足となっている。


ファ自身にも自分の体調の状態が判っていないらしくその顔は混乱に満ちており、必死に真っ直ぐに歩こうとすればするほど振れ幅は大きくなっていく。
終いにはリンゴに引っ張られる形でベッドの上に横になった彼女は仰向けで天井を凝視しながら言う。



「あ、あれ? めが……ぐるぐる……ぅ……ど、どうして?」




「本を読んで眼が疲れちゃった…………?」



数時間の間一回も休憩を挟まずに小さな活字を黙読し続ければこうもなるとソフィーヤは納得した。
彼女は既に何千冊も本をそのように読んで慣れているが、ファはまだまだ幼く眼の体力もそこまでではない。
イデアの授業の際も何回も休憩を挟んでいたが、今日は思えば講義の倍にも近い時間本を読み続けていた。



首と眼と肩に掛かる負担はファの身体を考えればかなりのもので、こうなっても無理はない。
事実彼女も昔はよく眼の疲れから来る疲労に悩まされたもので、今では自分の限度が何となく判るまでになっている。



何となく事情をいち早く察していたリンゴが姿を消すと、直ぐにぬるま湯に浸された清潔な布を桶ごと持ってきてそれを差し出す。
ソフィーヤはそれをよく絞ると熱が消えない内にファの眼を覆うように被せた。
母から教わった眼の疲れに対する対策をファに施すと、彼女は何とも言えない心地よさに手足をばたつかせて興奮したように暴れる。



どうどう、とソフィーヤが初めて味わう理解しがたい心地よさに歓喜を爆発させるファを宥めると、竜の少女は惚けた口調で端的に感想を発した。
穏やかに胸を上下させて半分ほど夢見心地な少女は今にも眠ってしまいそうな程に掠れた小声で喋る。



「これ……すごぃ……」




「“ライヴ”でも良かったのだけど、私はこっちの方が好きだから………」



何でもかんでも回復の杖を使えば解決となってしまえば、逆にそれが仕えない時は無力になるということ。
ソフィーヤは己がイデアやメディアンの様に万能と言えるほどの力をもっていない事は重々承知しており、魔法以外の努力すれば誰でも出来る技術やちょっとした豆知識の習得には拘りがある。
最も、ほとんどが今ファに施した様な少しだけ知っていれば生活で得をするコツの様なモノで、劇的に人生を変えるモノは一つもないが。




それに何よりこのお湯で蒸したタオルによる方法はライヴでは味わえない恍惚を与えてくれる。
ファの反応を見る限り、この幼い竜の少女も間違いなくこの魅力に取りつかれたとみていいだろう。
その姿にかつての自分の姿を重ねてから、彼女はすみれ色の髪を揺らして胸の本に力を込める。




「ファ……私は本を返してきますから、少しここで眠っていて下さい……」




返答はなく、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていたファに対してリンゴが毛布を引っ張り出してかけてやると一声鳴いた。
任せて欲しい、と、言語でなくとも身振り手振りで意思疎通し、付き合いの長いソフィーヤは一瞬でリンゴの言いたいことを理解した後に小さくお辞儀をして部屋を出る。



家の外に出ると、まだ周囲に熱気は残っているもの、昼時の猛烈な暑さはなく、吹きすさぶ風には僅かに夜の冷気が混ざり始めていた。
遠くから運ばれてきた砂埃から身を守る様にソフィーヤは身を縮めると、その中を小さな歩幅で歩きだす……。

















特に何事もなく借りていた本を返し終えたソフィーヤは何となく、特に理由もないが里の外周を散策していた。
彼女の見立てでは日が完全に落ちるまでまだ少しばかり余裕があり、どの程度ならば余裕をもって家に帰れるか知っている。
比喩ではなく本当に何万回も歩いた道のりは体に覚え込まれており、例え夜であっても彼女は鼻歌交じりに迷う事などなく悠々と歩けるだろう。



何時もはファと共に色々な場所を歩いていたが、こうして一人で歩くのは珍しいと彼女は何気なく気が付く。
彼女が産まれて早くも数年という歳月が経過した事実にソフィーヤは深く考えを巡らせる。
今まで自分が生きた500年近い歳月に比べればほんの僅かの歳月、しかしもはやファがいない日々は考えられない。



そして逆に言えばファにとっては産まれてからひと時も離れることなく一緒に居たのがソフィーヤということになる。
イデアが最初の家族ならばソフィーヤは最初の“他人”だ。
最初の友であり、対等に話せる存在。



ずっと一緒にいてほしいと懇願してきたファの姿が彼女の頭にこびり付いて離れない。



過ごした年月の分だけ心の中を占める割合は大きくなり、同時に失った時の衝撃も大きくなる。
生気を無くしていく肌。色を失う髪の毛。水気が消え、固く濁る肌……。
日に日に死という終わりに向かっていく姿を見るのは………。



あの日母と彼は泣いていた。そして自分も……。
いつかはそれをファにも?



やめた、とソフィーヤは母親と同じように即座に思考を切り替えた。
未来を“見る”事が出来る彼女だが、そこに自分の不安や恐怖、絶望を混ぜたら碌な結果にならないことはよく知っている。
見えたというが、それは所詮は見えただけであり現実ではないのだから。


が……彼女は母の様には完全に物事を割り切るには経験が少なく、何より感性が繊細過ぎた。
見ないふりをするにはこの問題は彼女の本質で抱く苦悩と直結したモノである故に、心の何処かがじくじくと膿んでいる様に苦痛の声を漏らす。



気晴らしに彼女はネルガルが以前創りだした花畑に向かう事にする。
あそこの花々はとても生き生きとしていて、見ていて心地よい。
偶には一人で花畑を堪能してもいいはずだ。




物事で悩んだ時は無心で美しいモノを眺め、心を落ち着けさせるというのも一種の解決法なのだ。
一度足を止めると太陽の位置や、見慣れた岩、木々、道の風景から自分が今居る場所を直ぐに導き出し、目的の箇所までの距離を把握するとソフィーヤは少しだけ急ぎ足で駆けだす。
余り運動は得意ではなく、体力も外見相応の幼子程度しかないが、それでも彼女は半ば走る様に動く。


無性に今は普段とは違って体を動かしてみたい気分だった。
走り辛いドレスの様な衣服だが、スカート部分を腕で掴み上げて足を絡ませないように気を付けながら彼女は行く。




道なき道も含めて彼女がここいらの移動経路を知り尽くしているのと、元々現在地が近かったというのもあり、ソフィーヤの足でも特に問題なく花畑へたどり着く事は出来た。
少しだけ息が乱れてしまった彼女は髪の毛に手をやり、乱れた髪を整えると衣服に数枚ついていた葉っぱを指で摘まんで投げる。
はーはーと呼吸を整えてから彼女は頭をあげ、目的の場所を視界に収めた。




たどり着いた花畑は斜陽の中、美しく咲き乱れ、何も変わらずに花々はある。
静かな空気の中、僅かに生息した虫たちの鳴き声が鈴々と場を震わせ、静謐な世界を演出し、幻想的な世界を彩り飾る。




数歩花畑に近づくとソフィーヤはふとした違和感を覚えた。何もおかしい所などないというのに。
眼の奥から何かがじくじくとこみ上げて来て、それは朧な幻影として彼女の視界を侵食していく。
何度も体験した無秩序な力の発現。未来視が彼女の意思とは関係なく動き出し、数ある世界の一つを見せようと動く。




猛烈な砂嵐でも吹きすさんだように視界が消えていく。
最初は端から、やがては左右上下を埋め尽くす情報がソフィーヤに未来を否応なく流し込む。
周囲の時間が彼女だけを置き去りにし何倍もの速度で進み出し、世界はその顔を変える。




闇だ。真っ黒な闇が何もかもを飲み込んでいく。
水玉の様にまん丸い闇が炎で炙られた紙に浮かぶ焦げの様に世界を塗りつぶす。




闇は語る。
黄金の輝きは永遠ではない。いつか汚れ、曇り、埋もれる。
しかし闇は永遠だ。世界の始まりも終わりも、絶えることなく影はそこに在る。



夜よりも深く、泥よりも濁り、黒曜よりも純粋な深淵は何人にも止められない。
太陽が陰り、草花が飲まれ水は枯れ、世界は黒で埋め尽くされる。何もない、原始の混沌へと戻り行くのだ。
は、は、と動悸を激しくしながら彼女は何かに取りつかれたようにその光景を観測していた。




見ているのではない、観測しているのだ。もはやソフィーヤの意思も願いも関係ない。
半ば暴走したように発動を止めない未来視は能力の持ち主が死んでも構わないと言わんばかりに終わりと絶望を与えてくる。
瞼を閉じようと瞼の裏側に閃光がはじけまわり、それは無数の色彩を伴って爆発。



余りの視界の移り変わりの速さに吐き気さえ覚えるが、それでも止まらない。



身体に流れる地竜……暗黒竜に至る事が出来る存在の血がコレが何なのかを教えてくれた。
言葉にせずとも理解できる。もはや本能の域で彼女は把握してしまい、流れ込む膨大な闇に眩暈と頭痛を覚えた。
立つこともままならず、震える膝は身を支えることが出来ずにソフィーヤは座り込む。




彼女は“終わり”を見ていた。万象が終わる光景を。
それは火山の噴火や疫病の発生などで起こるものではなく、絶対の黒が全ての色を上書きして完了する。
本能を刺激し、掌握する恐怖を前に悲鳴さえ上げることなく彼女は息を乱れさせ……意識が地平の彼方に飛びかかる……。




そして、唐突に何者かに肩を叩かれた事によって未来視は終わりを告げる。
暖かい人肌の温度を感じる事が出来た安堵は彼女を深淵から引き揚げた。




「大丈夫かい?」




目線を動かせば、そこに居たのはネルガルであった。
久しくあっていなかったが、彼の姿は何も変わらない。
温厚な人を安心させる声と、心の底から心配しているのが判る真剣な顔。



今のソフィーヤにとってはそれは正しく救済にも等しい。
何を見たのか自分でもよく判らないが、ただ恐怖だけは残っている。
余りに想像を超える情報は既に彼女の処理能力を超えてしまい、一部はよく思い出せない。



ただ、恐怖だけが噛みついている。
黒く塗りつぶされてしまったモノは、見えないし、思い返すのを無意識が拒絶している。




「………………」




こくこくと、精いっぱいの感謝を込めて頷くと彼はまだ心配そうな眼をソフィーヤに向ける。
震えが残っている少女の身体に対して彼は自らのマントを脱いで羽織らせた。
その後も彼は辛抱強くソフィーヤの恐怖が完全に抜けきり、平素の自分のペースを崩さない芯のある女性に戻るまで待った。



そうしてから彼は出来るだけ慎重に、優しく、言葉を選びながら話しかける。



「何があったんだい? 怪我をしたのか? メディアン殿を呼ぶ必要も───」



瞬間、ソフィーヤは命綱にでもすがる様な力でネルガルの腕を掴み、まるで懇願するような視線を向けた。
だが直ぐに腕を離すと彼女は何でもないと言わんばかりに平時の表情に乏しい顔に戻り、深呼吸をする。


そして深々とソフィーヤはネルガルに頭を下げた。




「ありがとうございます……助かりました」




「いや、それよりも大丈夫かい? 筆舌に尽くしがたい顔をしていたが……」




「もう大丈夫です……お見苦しい所を見せてしまいました……」




それでようやくネルガルは納得したらしく、渋々と言った様子ではあったが引き下がると踵を返して森の中に消えようとする。
彼の背中にソフィーヤは何とも言えない違和感を感じ、声を掛けた。



何だろうか、この……違和感は。
嫌な予感とまでは言わないが、胸騒ぎに近いモノを感じる。
彼の身に何かが起ころうとしているのかは判らない。



だからこそ彼女は咄嗟に声を掛けてしまっていた。



「あの……ここで何をしているのですか?」



森の木々が作り出す深い影の中に身を半分ほど立ちいれていたネルガルは足を止めるとゆっくりと振り返った。
彼は何でもないような話題を切り出すように苦笑すると、頬を掻きながら言う。




「いや……ちょっとした処理さ。小さな小屋を作って、その中にもう不要になったモノをゴミとして置いておこうと思ってね」



さすがにそこらへんに投げ捨てるのはダメだと思ってねと言葉を続ける彼にソフィーヤの不安は少しだけ減った。
むしろ物一つ捨てるのに専用の小さな小屋まで作りだす彼の几帳面さ、彼らしさに彼女は安堵を覚えたほどだ。
余り最近は出会っていないし、イデアはどうも彼の事で頭を悩ませているようだが、それらも杞憂だろうと改めて思った。




「何を捨てるのですか……?」



彼の元に歩み寄り、そう問うとネルガルはおいで、おいでと手招きをしてソフィーヤを誘導する。
深いオアシスの木々の中、周囲の草木で隠されるようにいつの間にか建てられていた木製の小屋を彼は指さした。
本当に「掘立小屋」と評してもいい程に小さく、両手の指で数える程しか木材を使わずにつくられた小屋だ。


ログハウスというには余りに小さすぎる小屋だが、それにしても何時の間に? とソフィーヤは頭を捻った。



ネルガル程の大人一人でも入ってしまえば中の空間の余裕がなくなるほどのソレはひっそりと佇んでいる。
まぁ、彼ほどの術者ならば何らかの方法で小屋を僅かな間に作り出してもおかしくないと察したソフィーヤは彼の指示に従い小屋の扉に手をかけて、開けた。



まだ出来て間もない小屋の中は新鮮な草木の匂いが充満している。
生き生きとした土のにおい、湿気を含んだ草のにおい。




薄暗い小屋の中には色々な書類や日常の道具が所狭しと置かれていた。
これら全てはもはやネルガルには必要のないモノであり、ここに置かれたモノは二度と彼が手に取る事はない。
人を超え、人としての生理現象を超越したネルガルにとっては衣服などを除いた殆どの品々はもういらないモノ。



そして……その中にさも当然の様に捨てられていたのは。





「………ぁ」




ソフィーヤはそれを見た時、最初は何かの間違いだと思った。
自分の眼も、ファと同じように疲れていてあらぬ物を見てしまったのだと。
ふわふわとした意識の中で足を運ばせて手に取ると、軽快な音を立ててソレは彼女の手に収まる。



ただならぬ彼女の様子に何事かと後ろから覗きこんだネルガルはソフィーヤが持つソレを見ると彼女が知ってる暖かい、人当たりのよい笑顔を浮かべて言った。
本当に気楽で肩に何の力も入っていない、完全な本心からの言葉を。



「ソレがどうかしたのかい?」




「どうして、これがここに……?」




ソフィーヤが振り向いて手に持った物を両腕でネルガルがよく見える様に差し出すと、彼はおどけたように肩を竦めた。




「必要ないから、なのだが」




「うそです……だってこれは……」




断固とした意志を見せるソフィーヤに対して困ったとネルガルは頭を傾げた。
彼には全く判らなかった。目の前のこの幼子がどうしてその様な“無価値なモノ”に執着するのか。
何で、受け取って欲しいと言わんばかりに両腕で抱えた不要なゴミを差し出してくるのか。






なぜ? 全く判らない。そんなかつて何故か執着していたゴミに何の価値がある?




絵描きの道具なんて捨ててしまっても問題ないじゃないか。




「ソフィーヤ、どうしたと言うんだ? やはり、何処か今日の君はおかしい」




いたわる様に少女の肩にネルガルが手をやると小さく震えた。
何か判らないが、彼女はとても不安に陥っていると察し、目線を彼女に合わせてやるようにしゃがむと、彼女の眼を覗き込む。
少女の瞳はかつてない程に揺れており、これ以上ない程に内心の動揺を表している。




頭によぎるのはイデアの言葉だ。全員そろって本格的な講義を始めた際の彼の忠告という名前の警告。




ソフィーヤはこの時に朧に理解していた。何故イデアがあそこまでネルガルに対して頭を悩ませているのか。
彼が何に警戒をしていて、竜の長としてネルガルの動向に常に目を向けている理由を。
魔道に踏み込み、禁断の叡智を貪ったモノの変質は人が認知に対する病を患った際と同じように非常に初期の変貌は判り辛い。



さながら地脈の底の板がずれていくように、ゆっくりと、じわじわ蝕まれるように壊れていく。
その一つの大きな分岐点が彼女の前に現れた。これほどまでに表層に変化を齎して。
頭から腹へと向けて震えが走る中、彼女は後ずさろうとして足を止めた。



彼女はソフィーヤだ。人と竜の混血児であり、500年の時間を生きた存在。
この場でどうすればいいかを竜としては余りに短く、人としては長すぎる経験から割り出すべく頭を働かせた。




結果は直ぐに出る。彼女は自らが無力ではなく非力なのを理解している。
この無力と非力の差は、とてつもなく大きい。




ソフィーヤはネルガルの眼を見つめ返した。
そのすみれ色の瞳には先ほどまでの怯えは存在していない。
切り替えられた頭は、冷静に対処しこの場を乗り切る為に体を動かす。




そっと、しかしとんでもない意思の力が込められて無理やりネルガルに差し出されていた絵は引っ込められた。
出来るだけ優しく、それでいて余り興味がないように演技しつつ彼女はそれらを小屋の床に置く。





「……いえ、大丈夫です。少し……疲れてしまって……ごめんなさい」




素直に謝罪の言葉を何時も通り、ネルガルの知っているソフィーヤとして紡ぐと彼から向けられていた不安と懐疑の念は消えた。
そしてネルガルは何処までもソフィーヤの知っている彼と同じように、大切な少女へと向けて労りの感情を宿した言葉を発する。
彼の顔は優しく思いやりに溢れていて、とても頼りになる。



「よく食べて、しっかりと休むんだ。この後で私が家まで送るよ」




「ありがとうございます……お願いします」



お辞儀をして素直に従順な言葉を言うと益々ネルガルの機嫌は良くなったようだ。
久しぶりに出会った友との会話を彼は非常に楽しんでいるらしく、立ち上がるとソフィーヤに背を向けて一言。



「少し、花畑に付いて来てくれるかな? 君に見せたいものがあるんだ」



まるで子供の様に無邪気に笑うと彼は出し物をする芸人の様に恭しく一礼。
何だろうかとソフィーヤは思ったが、今の彼が自分に危害を加える可能性は限りなく低いと判断し、頷く。
彼女の歩幅に合わせる様にゆっくりと前を行くネルガルの背を見て、彼女は彼から借りたマントの裾を強く握りしめた。




何が起ころうと、受け入れる準備を彼女はしている。
だが、締め上げられる心臓の痛みは内側で叫びをあげ続けていた。



花畑を一望できる地点にまで歩くと彼は踵を返し、笑う。
一点の悪意も含まない純粋無垢に。朗らかで、優しくて、魅了的な笑顔。
彼は、昔ソフィーヤに絵を譲った時と同じように笑っていた。



ネルガルは、水平に挙げた腕の先に複雑な魔方陣を展開し一振り。
ソフィーヤの見た事がない陣の形だ。リザイアに似ているとも見えるが、何かが決定的に違う。




瞬間、彼の誇る奇跡の御業はここに降臨する。
黒紫の澄んだ光は草花に絡みつく様に照射され、その内部にまでゆっくりとしみ込む。
すると最初は青々しい若草色をしていた葉が、次に茎が……変色していく。




先端から枯れ枝の様な、茶色く水気のない色素に変わると、最後は自重に耐え切れず黒く淀み枯れた花が地面に落ちた。
草花は言葉をもたない。だが、ソフィーヤは確かにその悲鳴を聞き取る。
未だ咲き誇るだけの余命があったというのに、無理やりにそれを奪われた悲痛な声を。




一輪、二輪、そして無数に。
見る見るうちに緑は茶色にとって変わられ、小さな光の玉だけが花畑から飛び去り、ネルガルの手中に収まる。
その輝きを彼女は知っている。命……魂とも比喩される【エーギル】だ。




どうして? とわななく口の端から漏れそうになるのをソフィーヤは懸命に堪えた。
今の彼は否定を許さない気配があった。
自らの芸術を否定されたら、どんな行動をとるか判ったものじゃない。



かつての彼ならば、自らの絵に対する否定、批評は笑って受け入れただろうが今のネルガルのこの奇跡を否定することは許さない。そんな気配が彼にはあった。
呆然と一瞬の内に灰の様に色素を無くし、頭を垂らした花園だったモノを見るソフィーヤに彼は言う。




高らかに腕を掲げて、演説するように。
片手に無数の、小さいながらも確かな命の光を奪って握りしめながら。
男はまるでソフィーヤの知らない存在にも見えた。



ただ、ただ誇らしく奪ったエーギルを掲げてソフィーヤに見せつけた。




「どうだい? 素晴らしい光景だろう?
 今はまだこの程度の事しか出来ないが、やがて私はイデア殿にも匹敵する力を得る事が出来る……。
 この“力”があれば、この里の防衛は更に完全に近づく。永遠の理想郷を守る事さえ出来る様になるんだ」




「………………」




今の彼の所業と姿はソフィーヤの決意を軽々と上回り、少女から言葉を奪う。



何を言おうしたのか判らないが、ソフィーヤは頭を真っ白にし無意識に首を振った。
外の世界では戦争があり、人の命が容易く奪われる事も知っているが、これは……ソレとも違う。
人を武器で殺すのと、魔術で殺す、謀略で、悪意で殺す……それらとも違う、もっと恐ろしい事の様に思えた。




それを見たネルガルは本当に不思議そうに首を傾げた。
彼はソフィーヤがこの術の威力に失望していると思い至り、弁明するように言葉を吐く。



「まだこの術は未完成でね。草木ならばともかく、動物のエーギルを回収するにはまだ研究が必要なんだ。
 だが、待っていて欲しい……私はきっとやり遂げて見せる。その時になったらもう一度────」



ネルガルの言葉は剣の様にソフィーヤの心に突き刺さる。
命への感謝を忘れかけている彼……絵を捨てた彼……そして力を求める彼。
眼を逸らそうと現実はここにある。未来でも過去でもない今が。



すっと手を伸ばしてくるネルガルにソフィーヤは身を震わせた。
悪意も何もない。今まで何度も撫でてくれた男の腕。
かつては温かみを感じたそれが、今は得体のしれない化け物の怪腕に見えてしょうがない。




彼の眼の中に本当に不思議そうな光が宿った。
彼はソフィーヤの恐怖を読み取りながら何に恐怖しているのかが判らなかった。
ただ、剣呑な光だけが瞳の奥で胎動を始めていた。



場の空気が砂漠のそれとは違う種類の、敵意で凍り付きだす。
理を超過した人外の術者ともなれば気配だけで物理的影響さえ周囲に出せるのだ。




どうしてそんな目で私を見る。
何より、この小さな幼子の不安そうな顔を見ているとたまらなく不愉快でしょうがない。
今に至るまで感じたことのない不快感を覚えたネルガルは無意識に彼女へ伸ばした掌に力を込めていた。



魔力も何も纏っていない男性の五指だが、それでも幼い子供には脅威でしかない。
細首を締め上げる、頭部を叩き潰す……他にも魔力を用いずともあらゆる殺傷方法はある。
悪意という人間の深い部分に馴染の薄い生活を送っていたソフィーヤがそれを受けてしまえば体が硬直し、動けなくなるのも道理。




ただ、彼女はこれだけ言い放った。彼女が彼女であるが故に。
もう逃げれないと悟ったからこそ。



「こんなの……おかしい……まだ、引き返せます……」




眦に涙さえ浮かばせ、体を震わせながらもネルガルを懇願交じりに見るソフィーヤの瞳、その中に映る自分の顔をネルガルは見た。
見て………違和感を覚え、これは本当に私か? と自問した。
だが、直ぐにそうだともと答えは出た。



胸部で荒れ狂っていた怒りは熱さを通り越し、冷たく鋭くなる。
これが私だ。力を得て、大きく強く、奪われなくなり、いずれはイデアと共にいくのが私だ。



今日はどうやら彼女は気に入ってくれなかったようだが、時間はまだたっぷりある。
まずは彼女を家に連れ帰そうと、更に腕に力を込めて伸ばすとソフィーヤは逃げる様に身を引いた。
その様に内心で舌打ちをしながら更に一歩を踏み出して捕まえようとすると、腕が横合いから伸びてきたもう一つの手に捕まれる。




少しばかり浅黒い引き締まった筋肉をした男性の腕だ。
視界の端に見える腕を覆う衣服の色は真紅。
気まぐれで、あらゆる場所に唐突に現れ、理不尽な災害の様に動く男をネルガルは知っていた。




「!」




「なんだ?」



驚愕を隠せずに彼を見ると、男は首も傾げることなく、全くいつも通りの口調で、道端で出会った時の挨拶の様に言葉を返した。
火竜ヤアン。この里に在る純血の竜の一角。
かつての大戦で人と激戦を繰り広げた超越種がネルガルの腕を掴んでいた。



ヤアンに捕まれた腕は、幾ら力を込めても動かない。
まるで巨大な落石に押しつぶされたような圧だけが伝わってくる。
内部から骨が軋む音と血管が圧迫され血流が乱れる感覚が伝わる中、ネルガルは痛みなど全く感じてないように声を出す。



「腕を離してくれないか? どうやら何か誤解があるようだ」



ヤアンはソフィーヤの方を見る事もなかった。
ただ言われた通り、腕を離す。
ネルガルは解放された腕を脱力させて腰の横に垂れ下がらせると、ソフィーヤを一瞥してからヤアンの眼を見た。



今まで何度も見てきたヤアンの眼だが、その時ネルガルは初めて何時もと違う感想を抱く。
彼の真っ赤な瞳の中には何もない……ないのだが……ただ、どうでもいいと言っていた。
お前の事などどうでもいいからさっさと失せろと、視線だけで語っている。


それが許されるだけの力と存在の格を彼は持ち合わせている。
イデアにより500年の昔、人と激戦を繰り広げた力を復活させたヤアンならば。



「荷物を整理している最中にソフィーヤと久しぶりにあって、話し込んでしまってね……もう間もなく夜だから家に送ろうとしたんだ」



「そうか。だが彼女は私が送る。お前は早く荷物整理の続きをするがいい」



紡がれる言葉に反論の隙間は一切許されていない。
ヤアンはネルガルの意思など考慮せずにこれから自らが行う行動だけを宣言し、さっさと踵を返してソフィーヤを引き連れて消えてしまう。
無防備に向けられる背は、もはや攻撃を誘っているようであったが、それさえもヤアンにとっては些事でしかない。




例え【理】を超えた術者であろうと、高位の竜である竜からすれば僅かばかり他より魔力が豊富なだけのただの人間程度にしか映らないのだ。
だからこその今までの他者と変わらない交流があり、そして今の無関心な結果がある。
全盛の神将器でもあれば話は違ってくるが、生憎この里にあるフォルブレイズはイデアが所持している上、もしも仮にネルガルがもったとしてもその力を十全に使う事は出来ないだろう。




つまり……ネルガルはヤアンにとって敵にはなり得ない。彼から見たネルガルは……無価値だ。




ただ一人闇の中に取り残されたネルガルは無言で二人に背を向けて歩き出し、未だに残っている荷物の整理の為に闇の中に潜っていく……。
明確に竜と人の差を認識した彼は、いつかその差をひっくり返すと決意を新たにしていた。





















「……ありがとうございました」


あの場所から大分離れて里の住宅街に入ると、数歩先を悠々と進むヤアンにソフィーヤは言葉を切り出した。
彼女から見ても彼は全く変わらない、ただ、自分の言葉を聞く気だけはあったらしく僅かばかりの意思が背を向けていても自分に向けられるのをソフィーヤは認知する。
止まらずに歩き続けるその背に対して変わらず声をかけ続けようと言葉を探すと、意外な事にヤアンからの返答が返って来た。



「一人であの男に出会うのはこれからは避けるのだな。ファと二人で居る時も常に力のある、あの地竜の様な第三者を呼べるようにしておけ」



ソフィーヤはその言葉に口をつぐんで答えた。
まるでヤアンの言っていることはネルガルを危険人物としてみなしているようだが……心の底でソレに同意してしまう自分が居たから。
いや、先ほどあった事を思えばこれでもまだヤアンの言葉は軽い方だ。



彼には人を気遣う配慮はないが、無駄に傷を広げる悪意もない。



身体の芯が凍り付くようなおぞましい記憶を想い返し、ソフィーヤは身震いした。
ほんの少しの間出会わなかっただけだというのに……。
ただ、彼に羽織らせてもらったマントだけが風によってなびく。




もう間もなく家に着く。そして早く母に会いたかった。
出会って、色々と言わなければならないことが有る。今日会った事を、ありのままに。
ふと、ソフィーヤが地平の果てを見ると太陽は完全に地平に消え去り、先ほど見たような黒が世界を染めていた。




久しくなく、夜の訪れに対して彼女は……拒絶に近い念を抱く。
何かよくないことが起こるかもしれない。そんな未来が見えた様な気がした。








あとがき





新年あけましておめでとうございます。
2015年もよろしくお願いします。



14年中に前日譚は終わらせたかったのですが、年末の多量の仕事と、何よりお話自体が難産極まりないモノになってしまい遅くなりました。
とりあえず次回の終わりに向けて頑張ります。とりあえずこの前日譚さえ終われば原作篇は少しだけ更新が早くなりそうです。


しかし今回、まさかイデアが登場しない話になるとは……。



[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 5 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2015/08/19 19:33


イデアとヤアンは二人以外誰もいない個室の中で向かい合い、遊戯版を前にしていた。
腰かけた二人の間には遊びだとはいえ普通遊びと言われて万人が思い浮かぶ楽し気な空気は全くない。
むしろその逆で、2柱の竜の中間の空気はとても重苦しく、雑談や談笑等という言葉からは程遠い。



陽が沈みかけ、夜の帳が顔を覗かせた部屋の中には冷たい空気と、何本もの燭台に灯った火の光しかなかった。
黙々と二人は手を動かし、駒を操作し、そして何手先も頭の中で知略を巡らせた攻防が小さな盤の上で行われる。
休むことなく二人の手は動き回り、駒を動かしていくとやがて戦況はイデアが有利へと傾き、そのままヤアンは敗北した。



いつもの敗北をヤアンは日課の一部として処理し、再度駒を配備していく。
気配だけは何処まで厳粛に。全くといっていいほどに今のヤアンとイデアには和気あいあいとした空気はない。
むしろイデアに至ってはナニカを常に考えているのか、心ここにあらずと言った様でさえある。




そうだとも。正直な話、イデアはこの時間を余り何時もの様に楽しんではいなかった。
イデアは間違いなく少しばかりの苛立ちを感じている様であり、それを忍耐で抑え込んでいる。
もう彼は子供ではないのだから声を大きく荒々しく張り上げたり、物を手当たり次第に壊したりなどしない。





ただ、少しだけ……視線が鋭くなり、纏う空気がわずかに重くなるだけ。
しかしそれは絶大な力を誇る神竜が気を損なるという事は、当然それに比例して周囲に重圧がかかる。
圧倒的な存在というモノは時にして自らが意識するよりも多くの影響力を外界に撒き散らすものであり、イデアも例外ではない。




それを自覚しているからこそ、イデアは滅多に怒り等という感情を露わにすることはないが、それでも今回は少しばかり話が違う。



しかし苛立つ神竜に相対しているというのに、ヤアンは全くと言っていいほどに動揺などは浮かべてはおらず、淡々としている。
彼は彼である故に取り乱す事などなく、ただただ、時の経過を待っていた。



だが……彼は決して無駄な時間の経過を待っているだけではない。
無駄な事は余り口にしないが、必要だと自分が判断した時には言葉を使う。



「詳しい話は既に話した通りだ」



駒の配置を終え、さてもう一勝負かという時になってようやくヤアンは口を開いた。
今回の話に関してはヤアン以外にも多数の報告がイデアには入っており、その全てを神竜は熟知している。




「判っているさ。全てな。今回の件に関しては今は判断を保留にしている」



言葉でそういいながらイデアは胸中で何とも言えない不快感を転がした。
何かが噛みあっていない。いや、まず第一に自分の主観が邪魔をする。



貴重な……“友”とも思える男を信じている気持ちと500年間“長”として積み上げてきた自分が交互に違う見解を述べてきているのだ。



今の問題はネルガルとソフィーヤの件だ。ソフィーヤの感じた恐怖と、ネルガルが明らかに彼女に危害を加える可能性があった“かもしれない”状態の話。
結果だけを文面で見ればネルガルのやった事に全くの罪はない。いや、彼が草花にしたことを思えば罪がないといういい方は語弊があるが、とりあえず里に何か危害を加えたわけではないのだ。
ただ彼はソフィーヤに自らの術を披露し、彼女の帰り道を送ってやろうとしただけだ。



いや、彼本人からみたら正に無罪なのだろう。
全て親切心でやったことの上、特にソフィーヤに何か暴行を加えたというわけでもない。



彼は素晴らしい男だ。

だが危険だ。

ネルガルの言い分も聞くべきだ。

いや、彼はもはや危険な存在の種だ。




頭の中で渦巻く念を瞬時に整理すると、イデアはヤアンを見た。
彼の次の言葉が気になったのだが、彼は彼である故に変化などない。
イデアの配下であり、この里の民としての目線から言葉を出す。



「この里の長はお前だ」




イデアは彼の言葉に判っていると頷き、何気なく遊戯版の駒を1つだけ手に取り指で弄ぶ。
白い指の間をころころと「王」を模した駒が転がり、掌に感触を与えてくる。
文面は全てそらでいえる程に読み込んだ。元々自分自身何かを感じ取っていたのだから。




ソフィーヤの主観。ネルガルの主観。そしてヤアンの主観。最後に自分の主観。
大きく分けてこれら全てを考慮しなくてはいけない。
ネルガルの思惑が何にせよ、まずは直接あってから話を聞かなくては。



喉にかつて刺さった“不安”という棘……そうして出来た傷口は今や膿みだしているかもしれない。
根拠のない不安が、今や形を得て実体として目の前に迫っている。




ふと、ファの言葉が頭によぎった。
彼女の言葉の実現と意地こそが長である自分の最終的な目標地点だ。



───おとうさんやお姉ちゃん、おばさん、おじさんやおじいちゃん……皆にはわらっててほしいの。



その通りだ。お前は俺よりもずっと正解に近い。イデアは内心で小さな竜を褒め称えた。
そこは最終的なイデアの逆鱗とも言える場所。小さな娘の信頼も当然ネルガルは自覚している。



ふむ、と眼前のヤアンが頭を傾げたかと思うと徐に席をたった。
成人男性よりも大柄で筋肉質な彼が背筋をしっかりと伸ばして立ち上がれば、椅子に座ったイデアからは首を上に向けないと頭には眼がいかない。



「どうした?」



イデアがいきなり立ち上がった火竜に問うと彼は当然の様に答える。



「今日はもういい。次は全ての不安を取り除いてからにする。忙しい所に時間を取らせたな」



本当に珍しいヤアンの他人を労わる言葉にイデアは思わず眼を丸くしてしまった。
彼という男にまさかそのような部分があるとは……500年の付き合いがあるが、こんな場面はほとんどなかった。
例えそれがぶっきらぼうで、全く感情のこもってない一定の音程で紡がれた単語の羅列だったとしても、だ。




は? と思わず呆然とした顔を晒すイデアにさえ興味がないのかヤアンは足早に部屋から立ち去ってしまう。
彼は扉を開けて部屋を出る際に振り返りもしなかった。



彼の気配が完全に部屋から遠ざかるのを感じ取ってからイデアは両腕を頭の後ろで組み、天井を見上げる。
随分と珍しい事を体験したせいかなのかは判らないが、心の中に溜っていた苛立ちは綺麗さっぱりなくなっていた。
透き通った清水の様な心でイデアは考える。



ネルガルが何をしたいのか。
あれほどの男が力に安易に飲まれるとは考えられないが……やはり妙な、駄目な部類の思い込みが自分にはあるようだ。
そうだとも、イデアの中で発せられる彼を擁護する心の声の更に深い本心は長ではなく、イデアの私情が多分に含まれてしまっている。



これは治世者として相当な欠点だ。認めるしかない。イデアは友であるネルガルを疑いたくない。
もしかしたら訪れるであろう彼との決別が嫌で、今のこのぬるま湯につかった様な“理想郷”の状態を維持していたと思ってしまっていた。
失うのは痛い事だとその昔に命で以て彼に消えることのない証明を刻んだ彼とネルガルを重ねるという愚行。




だからこそ彼は立ち上がった。
頭を動かし、どうしようかどうしようかと机上で論理をこねくり回してるだけではこの問題は解決しそうにない。




まずは何にせよ自分の目でもう一度確かめてみなくてはいけない。
最初にイデアはネルガルともう一度話をしてみる事にした。全てはそこから始まる。
無意識に腰の覇者の剣の柄に手をやってから、神竜は歩き出した。





剣は何も言わずそこにある。ただ。

















ファは今の里に微妙に流れる空気……もっといえば、彼女が大好きなお父さん達の間に漂う何とも言えない雰囲気が嫌いだった。
もちろん表面上は皆何も変わらない。ソフィーヤお姉ちゃんはファが大好きなご本を読んで聞かせてくれるし、メディアンおばさんは美味しい料理を作ってくれる。
アンナお姉ちゃんも、ファの大好きな飴を暇を見つけたら持ってきてくれる。お父さんも夜眠るときに何時も一緒のベッドで手を繋いで眠ってくれた。



昨日なんてお父さんはファを肩車してくれたのだ!
忙しい忙しいと言いつつ、最近のイデアはしっかりとファと触れ合う時間を確保し、普段は彼女が一人にならない様に常に誰かを傍につけてくれる。



今日はとても稀な日だ。こうしてファが一人になる日などほぼないのだから。



アトスおじいちゃんに、ヤアンおじさん、フレイおじいちゃん。みんなみんな、ファが大好きな人達だ。
だからこそ、嫌な事がある。ほんの少し前は皆はもっと心から、笑っていたのをファは知っている。
とっても楽しそうに、嬉しそうに、何一つ不安など感じさせない綺麗な笑顔で今生きているという事を謳歌していのだ……。



だというのに、今の皆の笑顔はナニカが違うとファは感じ取っていた。
それは神竜としての優れた直感なのか、それとも子供の持つ万能感の延長線上にある力なのかは知らないが、確かにファは皆から違和感を感じ取ってしまっている。
お父さんを始めとした皆の事が好き好きでしょうがなく、その上里という狭い世界の中で深い密度を以て人の心に大きく触れて成長したファだからこそ見抜けたことかもしれない。



子は、親が思っているよりも遥かに視野が広い。




皆は、何かを不安に思っている。そしてそれを自分に悟らせまいとしている。
そこまで考えが至る程にはファは大きくなっていた。そしてそれが何故か? という理由に続く程には大人ではない。


ただ朧に皆とネルガルおじさんが“喧嘩”してしまった事を把握はしていた。
明らかにおじさんの話題を皆が余りしゃべろうとしない。
更にはおじさんの名前を出すときにほんの少しだけ言葉の節々に緊張が見える事もある。




子供とは何も見ていない様で最も真っ直ぐに世界を観測しているものだ。
だが、これはきっと今だけだとファは信じている。もう少しすれば、皆は仲直りし、またあの日々に戻れるのだと。
ファはただその時を待っていればいい。今の自分は無知で無力で、きっとお父さんが何とかしようと動いている所を邪魔してしまう。



しかし、答えが判っていても割り切りはつけられない。
ファはまだまだ幼いのだ。



「うー…………わかんない」



自室のベッドに寝転がり、一人枕に顔を埋めながら竜は呻いた。



心の機微やらお父さん達が織りなす複雑な人間関係を必死にファなりに理解しようとして彼女の頭は熱をもってしまいそうだった。
まるで頭の中で炎系の魔法でも炸裂したような熱さ……思考がこんがらがってしまう状態。
どんなに頑張っても自分ではどうしようもない現状に対する言いようのない複雑な気持ち。



ファは真っ赤に燃える太陽を部屋から見つめながら退屈な時間をどうにかして潰したいと願った。
余り彼女は一人で考えるのが好きではない。どちらかと言えば友達や大切な人と笑って楽しく騒ぐ方が好きだ。
パタパタと足を振りながら竜はソフィーヤの所に行こうかどうしようかと悩む。



今日は授業などがない日故に、出会いに行けばお姉ちゃんはきっと出迎えてくれる。
最近余り元気が無いように思えるソフィーヤの事がファは心配でもあるのだ。




「きめたっ……!」



ファはベッドから飛び降りると、そそくさとブーツを履き込む。
最近足が少しだけ大きくなったから新調した革靴はしっくりと足に馴染んだ。
部屋のテーブルの上に置いておいた自らの竜石を握りしめて懐にしまう。


小さな革製の袋を背中に担ぎ、ファはあっという間に外出の準備を進める。


つま先で何回か地面を叩いて靴の調子を慣らすと彼女は翡翠色の瞳を輝かさせて部屋の扉に手をかけて開く。
遠くから聞こえる里の喧騒、人の話し声、そして地下に確かに感じたお父さんの力。
この里の生活音を尖った耳がわずかに動いて集めていく。




数歩行くと、ファは一度立ち止まってうーんと頭を捻った。
ソフィーヤお姉ちゃんの所に行くのはいいが、何かお土産が必要ではないかと思ったのだ。
幾つか候補を頭の中で上げていくが、ファは自分が彼女に贈れるものが全くない事に気が付く。



ソフィーヤお姉ちゃんがそんなことを気にする性格ではないことをファは知っているが……。
それでも気分的には納得がいかないモノだ。細い腕を組み、頭を彼女は傾げる。




まぁ、いいかと一瞬で答えを出して歩き出そうとするが……また彼女は足を止めた。




頭の奥で何かに呼び掛けられ……違う、誰かの小さな囁きを聞いたような気がしたのだ。
肉声とも言えぬ概念的な“声”はお父さんなどがよく使う念話という術にも近い感覚だった。



掠れた様であり、自分の名前を呼んでいる訳でもないというのにファはその“声”に胸をざわめかせる。
左右の耳がピクピクと動き出し、竜の極めて優れた感覚による探知を無意識の内に作動させていく。
間違いなくあの“声”の主は近くにいるはずだという確信が彼女にはあった。



ただ、何となく神竜の娘は自らの力を以て“声”の主に会いたいと思っただけ。
それは未知への好奇と親愛があべこべに混ざった感情が成せる事態。




「だれ……? どこにいるの?」



ファは頭の中で響いた声に対して不思議と嫌悪感は沸かなかった。
むしろその逆で彼女は生来の気質か、はたまた直感によるモノは判らないが“声”の主に対して深い興味だけを抱く。



彼女の活力に満ちた小さな体は慎重に、それでいて大胆に動き出した。
ソフィーヤよりも更に小さな歩幅では隅から隅まで探索するのにかなり時間が掛かるであろう殿をファは迷うことなく進んでいく。
まるで最初からそう決まっていたように神竜は何処か堂々とした足取りで歩き続けた。




陽が僅かに傾きかけはじめ、黄道色の鮮やかな太陽光が殿の廊下を照らし上げていく。
そんな陽光の滝の中を彼女は眼を細め、時折開け放された窓の外の光景を目に焼き付けながら進む。
まるで散歩でもするような気楽さでファはこの何とも言えない不思議な体験を堪能していた。



本当に僅かに外から聞こえる喧騒。照り付ける太陽。光の当たらない場所に出来る影。
そしてその中をただ一人進む自分。絵本の中で読んだ冒険家のような独特な空気がそこにはある。




この先にきっと自分の知らない何かがあると思うと、ファの胸は期待で膨らむ。
途中から少しだけ足に疲れを感じてきたファは竜石から力を引き出して背から2枚の、羽毛のような翼を出現させるとそこから生じる力場によって宙に浮かび上がった。
早歩きの数倍もの速度で自らの直感が示す道をたどり続けると、あっという間に頭の中で「ここだ」と思う場所に到着。



気が付けばファは随分とネルガルの研究室の近くにまで飛んできてしまっていた。



ふわふわと空中に浮かぶファはまた頭を傾げた。
確かに直感はここを示しているのだが……。



「?」



そこは特に何の変哲もない廊下の一角だ。
窓から入って来る光を浴びる様に背を向けて立っているローブの人物が一人いるだけの。
背丈はファやソフィーヤよりも高いその人物は……何処か異質な空気を纏っている。



ここに居るのにいないような、確かにその『人』が居るというのに、まるで『置いてある』と表現したくなる存在の違和。



かなり厚手の鮮血の様に赤いローブを全身を覆うようにすっぽりと着ているというのにその上からでも判るほどに明らかに体の線は細い。
いや、もはや細身というよりは生きていくのに必要な筋肉がついているのかも怪しい程の細さ。
事実それを証明するように、窓の淵に手を掛けているその人物の指は……まるで命が尽きる寸前の老婆の様に細く、しわくちゃだ。




ファは一瞬だけその人物に声をかけるべきかどうか悩んだ。
お父さんや皆には知らない人、怪しい人にはむやみに声をかけてはいけません。関わってはダメですと教わっているが……。
どうにもこの人物からは懐かしい気配……もっと具体的に言えば何処かネルガルおじさんと近いエーギルを彼女は感じた。




“眼”で人物を見ても全くと言っていいほどに敵意は感じない。
むしろ伝わってくるのは……これは、冷たい、悲しみ? 
決して涙を流して泣いているのではないのに人物からは深い悲しみをファは読み取ってしまう。



居ても立っても居られずにファは意を決して声を上げた。
何とかしてあげたいと心の奥で思いながら。



「どうしたの?」




ファが声をかけても人物は動かない。
ただ少しだけ身体を左右に揺らす。ひらひらとローブの裾が風に煽られた。
決して無視されているわけではない。僅かだけこちらに人物の意識が向けられるのをファは竜の直感で把握する。



もう少しだ。もうひと押しだとファは畳みかける様にその背に声を飛ばす。



「少しだけでいいから、ファとお話してほしいの……だめ、かな?」



今度こそ人物は目に見えて反応した。
淵に掛けていた細すぎる指を裾の中に仕舞いこみ、ゆらりと陽炎の様にぶれながら緩慢に振り返っていく。



ふわりとローブのフードの中身が覗き、そこに映ったモノを見てファは……一瞬だけその背筋を震わせたが、直ぐにそんなものは消えてなくなった。
人物の顔はファが知る中ではフレイという老いた竜によく似ている。水気のない肌。頭蓋の形を浮き彫りにしたような顔の造形。窪んだ瞳。
老人の中でも更に一握りの、一世紀を跨いだものがいたる様な境地の姿。




ただ、ただ、不自然なまでに沈んだ眼窩の中で輝く黄金色の瞳だけが異質な存在感を放っている。
しかし、ファは恐れない。正直な話、最初顔を見た時に愕きこそはしたが、恐怖はなかったと断ずる事が出来る。
何故ならばその瞳の中に敵意はなく、むしろその逆……何処か悲しみさえ篭っているのが竜の目には見えたから。



外見ではない。ファはこの存在の本質を見ていた。
無害で、とても臆病で、儚く、そして何とも意地らしい存在だと。




「ファはね“ファ”っていうの。あなたのお名前は?」




ファが全く恐れずに、それどころか道端で友人と出会った時の様に平然と言葉を投げかけてくる様子にその人物はとても驚いたようだった。
少しだけたじろく様に揺れると、もごもごと幾つも歯の欠けた口を動かして人間の耳ではとても聞き取れない異質な“音”を吐く。
奇しくもそれは、竜族の言語に近い言霊。故にファはしっかりとその意味を聞き届けることが出来る。




「キシュナ……さん?」



ファが捉えた高次の竜族語を口の中で反芻させ、人の言葉の枠に当てはめてから確かめる様に言葉にすると人物……キシュナはそうだと頷いた。
やった、とファは飛び跳ね……実際、宙に浮かびながら翼をぱたぱたと激しく上下させて全身で喜びを踊りながら示す。
また一人、自分の知っている人が、友達が増えたと竜はキシュナの周りをグルグルと囲うように飛びながら喜色に満ちた声を上げる。



威厳も何もない。年相応の少女として素直に喜の感情を爆発させるファをキシュナは黙って見つめていた。
そしてキシュナの視線に気が付いたファは彼の前に着地し、ぺこりと一回頭を下げる。
この世で最も強大な存在である竜がよりにもよっていきなりお辞儀などし出して、どうすればいいか困惑した様な雰囲気を纏い始めたキシュナに竜は嘘偽りなく、己がここにやってきた理由を言葉にし出した。



何事もまず説明と“はじめまして”から始まると父から教わった彼女はそれを忠実に実行していく。




「いきなりでごめんなさい。ファね、遠くからキシュナさんの“声”がきこえて気になったからここに来たの」



あの明確な意味こそ判らないが、その中に含まれていた得体のしれない、深く冷たい“おもい”にファは何とかしてあげたいと思ってしまっていた。
己が口下手だという自覚があるファは何とか自分の伝えたい言葉を四苦八苦して頭の中で文章にし、それを一瞬で推敲、肉付けしてから何とか言葉に変換。





「それでファね……キシュナさんと………うー……なんていえば、わかんなぃ…………むちゃくちゃで、ごめんなさい……」



だがしかし所詮は幾ら優秀だとはいえ幼児だ。
会話しながら文節を作り続けるなど器用な真似など出来るはずもなく最初から根を上げてしまう。
キシュナは沈黙し、ファの様子を見ていたが唐突に口を再度動かす。



紡がれるのは常人には拝聴不可能な竜の言葉に近しい文字列。
しかしファは神竜であるが故に神秘の言語を余すところなく聞き取り、理解が出来る。
キシュナの言葉を理解したファはまたもや飛び跳ねて喜んだ。




「おはなし、してくれるの!? やったー!」




キシュナは顔を隠すように赤いフードに手を掛けて深く頭にかぶる。
それでも影になった鼻から上の部分では眼が光を放っており、これは一層見るモノに不気味だという印象を本来は与えるのだが、幼い神竜はこの顔さえもあるがままに受け入れていた。
ゆっくりと廊下の端に背を預けたキシュナはファを正面から見つめてから、視線を少しだけ下に降ろす。



廊下の影の中に身を潜めるようにしたキシュナとは正反対に、彼の少し手前に居るファには太陽の光が降り注いでいる。
その中で屈託なく光の源泉の様に笑うファの姿は芸術性や、詩的な感性などとは無縁のキシュナにさえ何か思わせてしまいかねない美があった。



地面を見つめながらキシュナは短い生の中でも僅かな回数でしかない他者との会話という行為を実行するべく、胸の内側に渦巻く……ナニカを口から吐き出す。
彼の創造主が“心”だと評したソレが作り上げる複雑怪奇な念が、寂れた井戸から水を汲みだしていくようにとつとつと言葉として口から漏れ始めた。
そしてファはキシュナのつたない言葉が揃い、意味を持つ羅列となるのを当然の様に待つ。




「キシュナさん、おさんぽ、してたの? ファもおさんぽ好きなんだ~」



違う、とキシュナはかぶりを振ってから更に言葉を続けていく。
散歩の前提として自分の帰る場所がある。家がある。帰りを待っていてくれる人がいる。
だが自分には何もないと。誰も自分の帰りを待っていてはくれない。自分の親とも言える人はもう自分に興味さえ抱いてはくれなくなってしまった事を。



散歩ではなく、これは“徘徊”だ。
年をとり、自らの事さえ判らなくなってしまった老人が彷徨うのと同義だと。



存在価値のない自分など何処に行こうと自分の“親”は何も抱かないし、どうでもいい。
むしろ日に日に疎ましく思われている。ではなぜ自分は産まれたのか。判らない事だらけだ。



内心を暴露することなどこれが初めてであるキシュナは歯止めなど効かずに喋り尽くす。
どうせ聴いたところでこの幼子と自分はいる世界そのものが違うのだから、直ぐに忘れてしまうだろうとさえ思って。



ファはキシュナの言葉を黙って聞いていたが、このモルフの話を聞き終わると彼女はキシュナのローブの裾を掴み少しだけ潤んだ瞳で彼を見上げた。
彼女は間違いなく、キシュナを一人の“命”……自分と対等の存在として扱う、それがどれほど無意味な事だとしても、当然だと信じて。



「それじゃ……じゃぁ……ファも一緒にかんがえる! キシュナさんの“おとうさん”にキシュナさんを見てもらう方法、かんがえる!」



親に見てもらいたい。親に認めてほしい。自分の唯一の繋がりが自分に興味を抱いてくれない。
ファにはキシュナの難しい言葉の言い回しは余り理解出来ないが、そこに込められた物事の本質を理解することは出来た。
そして自分とキシュナの状況を照らし合わせて、どれほど彼が苦悩しているかを見抜いてしまう。



ファには誕生して直ぐに抱きしめてくれた父親が居た。その生誕を喜んでくれたお父さんが。
産まれる前から何度もまだ繭でしかなかった頃の自分に会いに来てくれた親友も居た。とても大切なファの一番のお姉ちゃんとも言える存在。
色んな人がファの傍にいてくれて、それが自分を守り成長させてくれている事を彼女は判っている。




……もしも、もしもそれらが誰もいなかったら? 父は自分の誕生を喜んでくれなかったら? 存在さえいらない「モノ」として無視されたら?
どんなに自分の存在を主張しようと、失望の果てに無関心の瞳さえ返してこない、落胆さえ通り越して無価値とよりにもよって親に判断されたら?



考えるだけでファは涙が零れてしまいそうになる。この世の誰も自分を望んでくれない世界など、絶望しかない。
持てる者の傲慢と笑われるかもしれないが、そんな理屈などどうでもいい、ファはただキシュナを取り巻く現状を何とかしたいと思った。
それがどれほど皮肉で因果な事だったとしても。



キシュナは“おとうさん”の具体的な名前こそ出さず、それが誰なのかファには皆目見当もつかなかったが、もしも出会ったとしたら何か言ってやるのだとファは決意する。



本気で、今まで見たことがない程に心の底からの思いを伝えてくるファにキシュナは思わず頭を捻った。
何故、この娘はまだ出会って半日はおろか、半刻もたってない自分に肩入れするのか、何故、そこまで人の為に動けるのか、全く持って判らない。
確かに少しばかり語りすぎたかもしれないが、こんな慰めを求めるような情けない、出来損ないの自分を助けようとして何の意味があるのだろうか。



だが…………キシュナは素直に感謝の気持ちを抱いた。
少なくとも一人、ここに繋がりが出来た様な気がしたから。



細くて短いが、黄金に輝く糸が。
なるべく遠まわしに、この優しい神竜にやんわりとそれはまだいいと拒否するとファはしばらくの間うーうー唸っていたが、やがて納得したのか彼女は静かに微笑む。




「……じゃ、キシュナさん、また──」




「やぁ。こんな所で会うなんて、奇遇だね」





お話しよう とは続けられない。何故ならば彼女の背後から現れた気配がとても“友好的”な声を彼女に掛けたから。
この声の主をこの場にいる全員はとてもよく知っている……特にキシュナは。
ほんの僅かだけ淡々と伝わってきた指令に従い、彼は薄く限定的な“沈黙の場”を作り出す。



少しでも長くこの地の支配者の眼をくらませるように。


部屋一つ、などという面積ではない。もっと限定的で、小さく、そしてなるべく自分に負担が掛からないように絶妙な配慮を以て。
ちょうどこの場にいる“二人”を覆い隠すように、元からあったこの地に満ちる力を一定時間この場から押し流す。



だが同時にその身は生身で深海にでも放り出されたような膨大な黄金の“力”による圧縮の脅威に晒されてしまう。
全方位からのナバタの支配者の力による圧を受けて全身が軋む音が体内で響くがキシュナはそれを黙って耐える。
幾ら負担が少なくなるように努力しようとそれでも決して0には至らない。



ファにそれを悟られるまいとキシュナは歯を食いしばり、フードを更に深く被ってから創造主の視界から逃げる様に立ち位置を変える。
やはりというべきか「彼」は必死に自分の為に動くキシュナを全くと言っていいほどに、ちらりとも見ないし、考慮もしない。



ファは何を言うでもなく振り返った。振り返って、そこにいるネルガルを見た。
最後に見た時と何も変わらない大好きなおじさんの姿を視界に収めたファは無邪気にネルガルに微笑みかける。




「おじさん!」



胸の底で僅かばかりに知らせてくる危機感をファは気のせいだと受け流した。
大好きなおじさんに久しぶりに出会えた喜びの方が大きかったから。
確かにお父さんとネルガルおじさんは喧嘩しているが、それなりの時間が経過していれば色々と物事は変わっているはずだ。



ネルガルの微笑みはファの知っている笑顔だった。
朗らかで、温かみがあり、そして優しい。
見るモノを安心させる父性さえ感じる表情には彼の性質である純粋な所がよく表れている。



だからファは安堵する。皆は考えすぎだったのではとさえ思う程に。



「そういえば久しぶりかな。 少し……大きくなったんじゃないか?」



言葉は変わらない。
抱き付いてくるファに優しく語り掛け、その成長を喜ぶ姿はとても微笑ましい絵図だ。
くしゃくしゃととても慣れた手つきでファの赤紫色の髪を労わるように撫でると、神竜はふーと鼻から息を漏らしながら心地よさに溺れる。




「ファね、キシュナさんとお話してたの!」



キシュナ、という名前を聞いたネルガルは全くの反応を見せない。
視線さえ向ける事はなかった。震えながら力を使う彼への謝恩もない。



人形……自分の作品が創造主の為に動くのは当然の事なのに、何故一一反応を返してやらなければならない?



「ああ、そうか」



ただそれだけ。ネルガルは微笑みを浮かべたまま言う。
その様子に何か……違和感の様なモノをファは感じるが、それも気のせいだと流した。
大好きなおじさんに限って、危機などないのだから。



そしてファは完全なる形で安心を証明する為に言葉を続けた。
幼子だからこそ出来る、ある意味では無遠慮な問いかけだったが、胸の内側で燃え上がる焦燥を消したいが為に。



「おじさん……その…………お父さんと“けんか”したの……?」



ネルガルはその言葉を聞いて怒りはしない。いや、この程度で苛立ちを覚える程に彼の器量は小さくない。
ただ、少しだけ、困った様な顔を浮かべて頬を掻いた。そっぽを向いてから彼は何と言えばいいか考える様に視線を虚空に彷徨わせる。
ほんの僅かな間の後に、彼は一言一言選ぶように、慎重にファに言葉を渡していく。



膝を曲げ、ファと同じ目線まで体を下げてから彼女の眼をしっかりと見つめつつネルガルは言う。



「確かに私は今はイデア殿と少しばかり喧嘩してしまっている。……だけど、心配しないでくれ。必ず私とファの“お父さん”は仲直りする。約束するよ」



「ほんと?」



本当だとも、と、ネルガルが力強く言うとファの顔は綻んだ。
不安がかき消され、彼女は喜びを表すようにその場で跳ねる。
ネルガルの周りを駆けまわってから、彼の手を取ってぶんぶんと大きく上下に振る。



「ははは……全く、ファは何時でも元気だな」




そんな様子をネルガルはとても楽しそうに見ていた。
まるで成長した親戚の子を見つめる叔父の様に。
自分には…………恐らく子供などはいないが、持つとするならばこういった子が欲しいとさえ思った。




何故か、頭の奥で少しだけ頭痛がしたが……直ぐにソレは消えた。
ソフィーヤやファを見ると何故か最近、必要以上に胸の奥がとても鈍く疼く。
理解出来ない感情が鎌首をもたげてくるのをまた何時もの様に抑え込んだ。




ネルガルはこうしてファに対して最大限の敬意と愛情を表する。
イデアとは少しばかりの意見の“ズレ”によって今の所は少しばかり居心地の悪い雰囲気となってしまったが、それさえもいずれ元に戻る。
ただ、ファに判ってもらえば、そしてファからイデアへと取り成してもらう事が出来ればもっと早くこの理解不能な悪い状況からの脱却も可能になるはずだ。



ネルガルの頭の奥にイデアとのその時のやり取りが少しだけ蘇る。
今思い出してアレは全くイデア殿らしくない、とても……意味不明なやり取りだった。


彼はある程度は自分の術や力、思想を認めてくれたが…………たった一つの彼の質問に答えられないや否や、いきなりその態度が冷徹に見る見ると変わってしまったのだ。
今思い出してもあの時のイデアは本当に不可解であるとネルガルは信じて疑わない。たった一つの、彼からすれば無意味とさえ取れる質問に一瞬だけ我を忘れて言葉を濁しただけだというのに。



だが……その不条理な日々はもうまもなく終わりを迎える。
研究は大詰めに入り、後はその結果を一足早くこのファに披露し、そこからイデアとの和解は成るのだから。
これはとても刺激的なイベントであり、まだまだ余り他人に見せる気はない。そう、イデアにさえも。



ソフィーヤの時はうまくいかなかったが、今度は違う。
もっと面白く、興味深く、洗練されたモノをお見せできるとネルガルは確信している。



だからこそのキシュナの力だ。
彼の力はイデアの“力”が満ちている“場”に僅かばかりの穴をあけて、ほんの些細な間だけ彼の眼を鈍らせる。
そしてキシュナの力と存在は余りに希薄過ぎて、イデアがその穴に気付くことはかなりの集中を要するだろう。



何よりイデアはキシュナの結界の内部を体感したことはあるが、外側から見た事がないというのも大きい。
ぽっかりと自らの領域に空いた小さな穴の本質を見抜くのには時間が必要なはずだ。



時間は限られている。
少しばかりの遠足となるが、ネルガルは焦りを表に出すことなくファに言う。




「ファ。少しだけ……私と、遠足をしないか? 君に見せたいモノがあるんだ」




んー? とファが頭を傾げて答えた。
少ししてから、ファの頭はネルガルの言葉を理解し、彼女は眼を輝かせてから大きく首を縦に振る。
最近あってなかったのも含めて、改めてネルガルと親交を深めたいと思っている彼女にとっては正に願ったりかなったりの状況。




ファはわーっと黄色い歓声を上げると一目散に少し離れた位置にいるキシュナに走り寄り、そのざらざらとした水気のない腕を掴みとってから言う。



「キシュナさんも、一緒にいこう!」



キシュナが怯み、数歩後ろに下がるとネルガルは遠くからファに向けて声を掛けた。
彼の朗らかで、滑舌のよい言葉が遠くからファに飛んでくる。



「判っているとも。ソレもしっかりともっていくから安心して欲しい」



その言葉は暖かく、優しく、そして違和感に満ちている。しかしファはそこに抱いた違和感を見逃した。
久しぶりにネルガルと遊べるという喜悦に流されてしまったのだ。



ネルガルの両腕が大きく、鷹が獲物を狩る際にそうするように左右に開かれるとそこに魔力が集い光が溢れる。
そして瞬時にしてこの場にいた二人と一つの存在はその姿を消した。




後に残った静寂だけが全てを支配する。









ネルガルの転移の術によってファとキシュナが飛ばされたのは里のかなり外れの場所だった。
かつてソフィーヤを招き入れた小屋よりも更に外れの場所は、理想郷の緑と砂漠の黄色が交わる場所。
ネルガルは転移の術がキシュナの力の圏内でも上手く発動した事に対してかなり上機嫌だったらしく、鼻歌交じりな様子でファを見つめる。



早く彼女に自分の努力の成果を見せてあげたい。喜んでほしい。心の底からネルガルは思っていた。
少しだけイデアに対して悪い様な気もしたが、直ぐにそれは問題ではなくなる。
彼とて実は判っているはずなのだ。実際の所今の状況はほんの少しのすれ違いが齎したつまらないことだと。



ただ“きっかけ”がないだけだ。
一度意見が別れると中々にその修復はソレがないと難しい。



ネルガルの目の前ではファがまとわりついてきた小動物たちとじゃれついている。
小さな耳の大きい猫……ミスルに生息する小動物の一匹が屈んだファの掌にしきりに頭を擦りつけて友愛の情を示す。
本来この砂猫と呼ばれる生物は滅多に誰かになつくという事はないのだが、初対面でこうまで心を許されるとはファの純粋さの成せる技か。


ごろごろと喉を鳴らすソレを胸に抱きしめたファはネルガルに褒めてもらいたいかの様にそれを彼に対して掲げて見せた。



「おじさん! この子、すっごくかわいい……!」



それに対してネルガルは笑みを浮かべた。
とても魅力的で、心の底からこの愛玩動物を慈しんでいるような優しさを湛えた笑みを。



彼の口が動き、言葉が紡がれる。
そこに溢れるのは心の底からの善意。ファを喜ばせてあげようという純粋な温かみ。




「そうだな。丁度いい。“コレ”にしよう」



え? とファが顔を傾げるよりも早くネルガルの腕は動いた。
砂猫が眼を見開き、威嚇の唸りを漏らすが、彼の腕がかぶさると同時に力が抜けていく。



眠る、とはまた違う。呼吸がゆっくりとしたモノに変わり、全身の筋肉からは力が抜ける……そうこれは“死”だ。
微かに青く発光するネルガルの腕は死そのものを宿し、ちっぽけな魂を刈り取ろうとするが──。



「くしゅんっ!」



ファが唐突にくしゃみをする。彼女の小さな体が激しく全身で以てわななく様に痙攣した。



ネルガルの腕は僅かにたじろいだように引き、その隙を見逃すまいと砂猫は眼を見開いてファの腕の中から逃げてしまう。
更に二回、ファは鼻に埃でも入ったのかくしゅん、くしゅん、と大きく腹の底からくしゃみをする。
うー、と涙目でファは茂みの中へと消えて言った砂猫を暫しの間未練がましく視線で追いかけていた。



「大丈夫かい? とりあえず少し水でも飲んで落ち着くべきだ」



ネルガルが腰から飲料用の清水が入った革袋をファに差し出すと、ファは礼を言ってからそれを受け取り、ちびり、ちびりと小さく口を付けていく。
中身の半分程度を呑み、満足したファは小さく息を漏らしてネルガルに感謝の言葉を続ける。




「ありがとう! ファね……おはなが、かゆいの…………」



うーと鼻が少し詰まってしまったのか呼吸しづらそうに大きくすーすーと深呼吸を繰り返すファの目をネルガルは見やる。



そしてからネルガルは辺りを見回した。ここは里の外周に近い場所。
外から入って来る砂の事を考えればファの状態も致し方ない。
あの砂猫が逃げてしまったのは残念だが、代わりなど幾らでも存在する。



この狭い空間には、とても不毛の大地とは思えない程の多種多様な命が存在しているのだから。
こんなちっぽけとも言える、エレブ全土から見れば砂粒にも満たない世界こそがイデアの作り上げた理想郷。
数百年の時を超えて存在するこの外界から隔離されたゆりかごの中では、ファという新世代の幕開けである“始神竜”が確かに産まれている。


だからこそネルガルはもったいないと思った。
イデアはファが色々なモノを見て成長するべきだと言ったが、それにはネルガルも同意だ。
ならば……里にだけ引き籠る必要など、ないのではないか? と。



謙虚は美徳とされるが、行き過ぎればそれは臆病や停滞に繋がる。



ネルガルはファを真っ向から見つめた。
そうするとこの小さな竜は顔を傾げて見つめ返してくる。




「おじさん、どうしたの?」



少しばかり固まって頭を回していたネルガルにファは少しばかり躊躇うように質問を掛けた。
ネルガルは自らがまた悪癖を出してしまったことを認識し、僅かだけ口の端を歪めて苦笑した。



全く。


ファと一緒に少しばかり秘密主義的な旅行を楽しんでいる時だというのに、自分は何を今更、当然の事を考えている。



「ファにプレゼントをあげよう。とてもキレイなモノだよ」



「きれいな、モノ? ほしい!」



ネルガルは懐に手をやると、そこから小石を幾つか取り出す。
小さなファの手の中にあっても小さいと形容できるだろうソレは、太陽の光を浴びてピカピカと光沢を放っている。
腰を屈めて、それをファの手に握りこませると彼女は無邪気に笑ってソレを穴が開くほどに熱心に見つめ……そして何やら固まった。




「おじさん」




ファは笑顔のままどことなく硬い雰囲気を醸し出し、そして自らの掌の中で転がる小石を見ながら喋る。
小さい小さい幾つかの石はファの“眼”にはまた別のモノに見え………そして叫んでいた。


ソレは竜石と同じ様であり、決定的に違う何か。
光り輝く命の塊……まだ生きていたナニカから抜かれたエーギル…………。
まだ、死にたくなかった。枯れたくなかった。私の命はまだ終わってはいない、と悲痛の声を上げている。




ネルガルおじさんにこの声は聞こえてないのだろうか? 
きこえているのならば、どうして、こんな………………。





その声を朧とはいえ聞き取ったファの中では先ほどから見て見ぬふりをしていた危機感が急速に広がっていく。
お父さんとおじさんが喧嘩した理由。それを今、ファは見てしまった。
見て、そして、今もしかしたら自分も危ないのではないかと疑ってしまう程に。



ありえない。ネルガルおじさんはファが産まれた時から色々と面倒を見てくれた大好きな人だ。
とても今自分は失礼極まりない事を考え、一瞬でもネルガルに酷い事を思ってしまった自分への嫌悪がファに湧き出る。



ファは産まれて初めて、素直に感情から紡がれた言葉を発さなかった。
彼女は初めて“誤魔化し”を行う。




「何だい? 凄く綺麗で、美しいモノだと自負しているのだが…………」



「ううん、ありがとう! キシュナさんにもあげて、いい……?」



キシュナ、という言葉を聞いた瞬間ネルガルの顔は僅かに引きつる。
まるで嫌いな人間の話題をいきなり持ち出されたかのように。



ネルガルは視界の片隅に石像の様に鎮座している自分の作った駄作を認めて、露骨にため息を吐いた。
最もこの世で尊敬し、憧れ、敬意を払っている存在の娘がよりにもよって自分の創りだした“駄作”に心を割くなど許されない事なのだと心底彼は実感する。



いや、もはや“作品”というのもおこがましい。
基本的に人間が出来る事も出来ず、闘いもできず、会話も出来ない。
唯一の取り柄である“沈黙の結界”だけは便利だが、それ以外に出来る事といえばただ考えて思うだけ。




心などもっていようと、それを表現できないのならば塵でしかない。
外見さえも上手く体裁を整えているだけで、人間に似ている所といえば四肢があり、顔がある事くらい。



…………何なのだ? 本当に。
何故、私はこんなモノを自慢げにイデア殿に見せてしまったのだ。



深い後悔を胸の内側に抱きつつ、ネルガルは努めて何時も通り、子供に言い聞かせる口調でファに彼からすれば当然のことを言う。
ネルガルに悪意はない。彼はただ思っただけだ。ファは少しばかり純粋すぎる。
それを少しだけ自分が教育してやり、ファに超越存在として相応しい立ち振る舞いを覚えて貰うために。




「あぁ……ソレはね。実は私の作った【モルフ】であって人じゃないんだ。
 だから「さん」なんて付けなくてもいいし“アレ”に妙な気遣いは無用さ。神竜であるファからすれば……そうだな、召使とでも思ってくれていい」




「めし……つかい?」



その言葉の意味が分からない程にファは既に赤子ではない。
一度に与えられた情報が多すぎて彼女の頭は困惑していたが、彼女は直感で本質だけを処理していく。
ネルガルがキシュナの“親”だということ。そしてネルガルはこれっぽっちもキシュナに対して情などもっていないこと。







ファはネルガルの腕を掴んだ。少しだけたじろぐような気配を発した彼の目を見据えて言葉を吐き出す。
心の底からブレスを吐く様に言葉に思いを乗せて、それが彼に届くことを信じて。




「おじさん、キシュナさんは……“モノ”じゃないよ? すごく、いい人で…………」



「“モノ”は“モノ”だと言っているだろう。
 譲歩したとしても“ソレ”はこの里に更なる栄光を齎す踏み台でしかない……ファはまだ小さいから判らないだけで、いずれは私の言葉の意味が判るさ」




煩わしいとネルガルはファの腕を少しだけ強引に振りほどいた。
どうしてこう、イデアにせよ目の前のファにせよ“命”という分野についてそこまで拘りを持つのか。
イデアと近しい事をファが述べる度にネルガルの胸の中の黒い部分が膨らんでいく。



ファが必死に光でネルガルを照らす程に、影は濃くなる。
最も強い光は、最も濃い闇を焼き付けていく。




「キシュナさん、見てほしいっていってたよ! おじさんの役にたって、いつか褒めてほしいって……キシュナさんにとって、おじさん、は……たった一人の“おとうさん”……だから……」




ファの根底にある部分がこれだけは受け入れないと叫ぶ。彼女の血肉を、エーギルを形作る“親”の根底に刻まれた部分からの共鳴。
父親を求める心。認めてもらいたい心。話せなかった絶望。ファはそれらを無意識の部分で産まれる前から知っている。




言葉を紡ぎ終える前に堪え切れずファは泣いてしまった。ボロボロと眼の淵から止めどなく流れる熱い液体をファは初めて感じた。
まだまだ今より子供だった頃、自分の思うようにならずに泣き散らしていた時とは違う。本当の意味での悲しみをファは一つ味わう。
自分の為ではなく、仮初の命とはいえ「他人」の為に竜は心の底から悲嘆していた。



遠くからキシュナはファを見ていた。身じろぎもせずに。
ただ、彼は…………………初めて自分の意思による行動を見せた、主に逆らう行動を。


ネルガルはそれにさえもはや気が付けない。彼の眼は、何処を見ている?


もう言葉さえままならず、大声で泣き腫らすファを見てネルガルはため息を吐いた。
それは呆れから来るものではない。心の中で暴れ狂う無数の感情を処理するために産み出された吐息。
理解出来ないと言った感情が渦巻くと同時に、彼の胸中にはファの言葉を理解出来てしまう部分もあった。



一瞬だけ頭が冴えわたり、今まで彼の大部分を占めていた燃え上がる様な歓喜と渇望がなりを潜めて冷や水を頭からぶっかけられた様な衝撃が彼を貫く。



自分は、何をやっている? ふとした疑問。それは紛れもなくネルガルの心から零れた言葉だった。
だが直ぐにソレは消えて代わりに浮かび上がるのは目の前のファの泣き顔から生み出される得体のしれない感情。
泣き腫らした子供の顔。父を求める声。理不尽に対する涙。





全て、鬱陶しい。

大切だ、とても。

目障りだ、何もかも。

子を、守り通したい。



力を手に入れなければ。何も難しい事はない。



ぱち、ぱち、と頭の中で白と黒が鬩ぎ合う。幼子の鳴き声が無数に反芻し深く刻み込まれ、胸の奥を抉り取る。
瞼の裏で稲妻が爆発を繰り返し、繰り返し……ネルガルはまた誰かに“共感”を抱き、それだけが残った。
喪失の恐怖と痛みと絶望と憎悪だけが残った。残骸になった愛が消え、煙を上げて燃えカスになる。




野心、虚栄心、欲望、傲慢、利己心、その全ての集合体である“怪物”が彼の心の底で本当の意味で孵化しようとしていた。
それは無意識であった。ネルガルの腕は一つの術を発動させたままファに向けて緩慢に伸ばされていく。



産まれてから全てを手にした光そのものとも言える“太陽”を掴みとらんと。
自分のもっていない全てを労せず我が物にしているファから奪おうと。
影の中に身を潜めたモノが愛しい“太陽”を抱きしめる様に。




さながら磁石の対極同士が惹かれあうか如く。




「…………!」



ファは抵抗さえしなかった。彼女はただ、黙ってネルガルを見ていた。
涙を零し、しゃっくりあげながら体を戦慄かせたファは本質的に自分の危機を理解し、それでもあえて逃げない。
逃げずに、童の2つの眼は今でも大好きなおじさんを恨み一つ宿さず映している。





「おじさん……ファは、どうなってもいいよ……だから、あとでキシュナさんとお話してあげて?」



ネルガルは何も答えなかった。ただ彼の手はファに震えながら伸びるだけ。
震えた理由は、恐怖か、それとも興奮か。はたまた…………。




ファの手に握りしめられたエーギルの塊が淡く輝きを発し、空に溶け、一輪の光の花を虚空に咲かせた。
ファは眼を閉じた。その身体に空から降り注ぐ小さな青い粒子が絡みつき、竜は全身の力を抜いて道に倒れ伏す。
華奢な体が完全に地面に崩れ落ちる寸前に唐突に現れた“青”が優しく彼女の身体を包む。





大賢者の放った【スリープ】はファの精神に生じた揺らぎを通して彼女の魔的な防御能力を上回り、ファを安らかな眠りの世界へと誘う。
心を許している存在からの術をファはもしかしたら“あえて拒まなかった”のかもしれない。




大きな木製の杖を傍らに浮かばせ、真っ白な頭髪と髭を生やした老人がファを慈しむように抱えていた。
老人…………アトスの瞳は何時にも増して鋭い光を宿し、ネルガルを見据えている。
枯れた老人から生み出されているとは思えない厳粛な気配は重圧とさえなってネルガルの動きを縛り付け、彼の逃避を許さない。




ネルガルは静止した。
目の前に現れた親友を前に彼は固まり、次いでいつの間にか周囲に展開されていた結界が消えていることに気が付く。



いや、いや、いや、もう彼にはそんな事はどうでもいい。





「ネルガル」




大賢者はネルガルの名を呼んだ。
それだけだというのにその言葉は幾つもの意味を宿している。
アトスの言葉に感情は宿っていない。




ただ、断罪者が咎人の罪を読み上げるような絶対性がある。




「アトス。わが友よ。私は……今、何をしようとした?」




ネルガルは自分の発した言葉に疑問を抱いた。
喋ろうとした言葉と、実際に口から出た言葉、そして胸中、全てバラバラだ。
後、指一本分程の距離でファの存在を刈り取る所だった腕だけが無様に未だに固まって伸ばされている。



その腕は自分の腕だというのに、一瞬だけネルガルには酷く恐ろしいモノに見えた。
だらんと、腕から力が抜けてネルガルは左右に大きく揺れる。
そんな様をアトスは黙って見つめていた。




アトスはネルガルの問いに答えなかった。
代わりに答えてくれたのはネルガル自身の、彼の中に巣食う“怪物”だ。
甘い言葉を“怪物”は耳元で囁いた。黒い祝詞をネルガルに浴びせた。




“お前は正しい事をしようとしたんだ。ただ、少し急ぎ過ぎただけだ”




自分が欲しいモノを欲しいと認めて、行動すればいいだけだ。




「アトス。確かに私は今、取り返しのつかない事をしようした」




ネルガルは大きく息を吸い、そう宣言した。
アトスがファを庇うように数歩下がるとネルガルは可笑しそうにその様子を見て笑った。
肩から力を抜いて一切の苦を感じさせない姿で堂々と振る舞う。




「しかし……アトス。私は新たなる術を編み出して思ったんだ。
 この術には無限の可能性が宿っている。その可能性の力をこの“僻地”だけを守るのに使うだけでいいのかと」




「“無限の可能性”だと? エーギルを奪い、自らの力に成すあの術が? お前を信じて慕うこの子の命と心を傷つけたあの術が……」





そうだとネルガルは躊躇わずに頷いた。
あれこそ究極の進化に至るカギだと。イデアと肩を並べる為の力を得る道なのだと。
もはやネルガルの頭に迷いはない。彼は大仰に両腕を動かし、ただひたすら熱心に演説する。




ファには確かに悪い事をしたと彼は思っている。だが、それもいずれ過去の事となる。
大切なのは自分とアトス、そしてイデアが創りだす素晴らしい未来の事だと彼は信じている。




「生物は他の力を取り込んでより優れたものへと進化を繰り返す。
 人が技術や文明を発展させる様に! 私達はイデア殿の齎してくれた神の知識によって最高の進化への道を見出したんだ!!」



エーギルという概念。命の支配。正に神の御業。
その一端に触れて、彼らは可能性を垣間見た。
一人は途中で身を退き、もう一人は更に奥へと進んだ。




ネルガルは笑っていた。
無邪気に、友に持論を展開し、そこに同調してくれると信じて。
身を焼くような高揚感と頭の中でキラキラと光る稲光が彼を満たしていた。



太陽が陰り、立ち並ぶ木々が齎す影の中で彼は語る。



「我らにとっての“理想郷”はこんな砂漠の隅で隠れ住む様な事じゃない。 私とアトス、そしてイデア殿が力を合わせれば望む全てが叶うとは思わないか?」



エーギル、エーギル、命の、意思の持つ可能性の力。奇跡を手繰り寄せ、支配する力。
間違いなくこの概念の深奥を究めたモノは全ての事象を支配する“神”を名乗る域に至れるであろう甘い魔道の道。
一人でその全てを登りきるのは不可能だが、この里に在する自分とアトス、そして竜ならば可能だと彼は信じている。



ネルガルの眼には純粋な喜びと興奮が炎の様に浮かび上がっていた。その顔は何処までもこの里に訪れた時の彼と変わらない。
中身も、少なくとも彼自身は全く変わってないと思っている。



「……力を求める事、望む事は悪だとは言わん。だがネルガルよ……お前は本当に自分が今語っている言葉の意味を理解しているのか」




基礎の基礎故に誰も気に留めなかった不安要素。おおよそまともな師がいればまず最初に習うべきはずの知識への恐怖。
アトスが最初に彼に抱いた懸念である純粋さと一度何かに没頭すると他が見えなくなり、自分を客観的に見れなくなる悪癖。



その全てがここに表れていた。



「私はそこまで子供じゃない。まさか自分の理想を語る事が悪い事だとでも言うのかな? 私はただ……この地で得た素晴らしい知識を以て、友と共に更なる高みを目指したいだけなんだ」




アトスは自分の腕の中で眠るファを見た。
何時も彼女が眠っている時に見せるあどけなさはなく、そこにあるのは人形の様な無表情。
ぎゅっと安心させようにファの手を握ると、幼い竜はしっかりとなけなしの力を振り絞って握り返してくる。



アトスに出来るのは今はこれくらいだった。
傷ついたファの心を癒すのも、目の前のネルガルへの最終的な判断を下すのも、自分ではない事を彼は理解していた。
大賢者はただ、大きくため息を吐いて首を弱弱しく振る。



今この場にフォルブレイズがあれば。否、今ここで自分になりふり構わず成せる勇気があれば。
彼は年を取り、かつての戦役時代の様なある種の若さ……先を気にせず今正しいと思った事が出来るだけの勢いはなかった。



ローランやハノンの様に自分が正しいと思った事を実行さえ出来ず、ハルトムートやバリガンの如き鋼の意思もない。
更にはあれほど忌み嫌ったテュルバンの行動力さえ今の彼にはない。
彼のしわくちゃの顔には何とも言えない感情が刻み付けられ、更に深い陰がさしている。



ここに居る自分がどれほど惨めで、滑稽で、無力「であろうとする」弱い男なのか理解してしまった顔。
竜の里に対する影響や、イデアの事や、今胸に抱いているファの安全。それらを考慮して計算してしまう。



しかし本心ではただ、彼は…………。





「………ファはワシが連れていく。もう一度だけ、イデアとしっかりと話し合うのだ」




“もう一度だけ”



ここには想像も出来ない程に深い響きが宿っていたが、どうやらネルガルはそれには気が付けなかった様だ。
アトスが踵を返すと同時に間髪入れずもう一つの声が場を満たす。高く、透き通っていて優雅な女性の声が。



「後はお任せ下さい」



立ち去る老人と入れ替わるようにアンナが木々の影から現れる。
しかしその顔に何時もの余裕を湛えた笑みはなく、無表情だ。
極めて珍しい、感情という感情を排した彼女の顔はまるで完成された芸術品にさえ思える。




「長からの通達です。今晩もう一度話がしたいとの事。場所は追って伝えますわ……ネルガル」




最後に付け加える様に呼んだ彼の名前は何処に響かせようとしているのか。
それはアンナ自身でさえ判らない。ただ彼女は役目の為に淡々と自らの仕事を行う。


この役割は自分が任されたモノだ。
処刑執行の通達係の様であり、断頭台の上に誘導する付き添い人の様でもある仕事だが、彼女は逃げもせず、悲嘆もせず、ネルガルを記憶し、観察する。




目の前で無邪気にイデア殿に認められたのだと、考え直してくれたと歓喜するネルガルからアンナは眼を背けることだけはしなかった。




炎の様な彼女の眼は、瞬きさえすることなくネルガルを、男を見ていた……。












あとがき




長くなったので、2つに分割します。




もう一話は近いうち、恐らく手直しを含めて、明日中には……IFの発売前には更新したかったのですが、仕事とIFのプレイ、それとまた例の延々と文字数が増殖していく戦闘話特有のアレで遅れました。
しかし皆様を待たせた分、前日譚の最初で最後の闘いを彩る出来になったと自負しています。
テュルバン戦に匹敵する大規模な戦闘ですが、何とか書ききれました。



それにしても、まさかIFで「神祖竜」の単語が出てくるとは……正直ドッキリしましたw



FEも色々と「異界」によってクロスオーバー等が盛んになってきて、作品を超えた格キャラ同士の絡みも気になりますね。
いつかこちらのIFの続きを書くときに参考にしたい限りです。




そして、この「とある竜のお話」ですが、いずれはハーメルン様とのマルチ投稿をと考えております。
近いうちに、再編成したものをハーメルン様にも順次あげていきたいと予定しています。
その際、まだ文章量が短かった1部のお話は幾つか合体させたり、逆に文字数制限を超えた一部の話は分割するなどをして投稿しようと考えています。


これからも、多くの人にFEシリーズの素晴らしさを知ってもらうために頑張ります。



作者名は、基本は変わりません。



では、次回更新にて。





[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 6 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2015/08/21 01:16



安穏とした空間の中、暗闇に包まれる室内に鎮座したベッドの上に幼い神竜はその身を横たわらせていた。
まるでいつもしている様に、何枚かの毛布に包まれてファは眠っていた。
陽が、太陽が地平に沈み行く中ファはうたかたの夢と現実の間に意識を浮かばせている。




そんな彼女のすぐ傍らにはソフィーヤが付き添い、巫女である彼女の背後にはイデアが何も言わず佇み、娘たちの光景を眺めつづける。




すみれ色の髪の少女は、妹の様に愛するファの手を握りしめて幼い竜に自らの熱を与え、ここから消えないでと願いを捧げる。



ファとソフィーヤを見つめる神竜の頭の中はこれ以上ない程に冷え切っていた。
イリアの極寒が砂漠と変わらないと思えてしまうほどに凍てついた思考を彼は鋭く回転させる。
もはや彼の中に今まであったネルガルへの情は心の奥底にしまい込まれ、念入りにカギを付けて閉じ込められていた。



かつてない程にイデアは冷静であった。胸の中にある熱とは裏腹に頭は何処までも冷たい。
彼は今までの状況と、こうなってしまう前にあった前兆を整理している。



ソフィーヤが感じた恐怖。
自らが危惧していた彼に感じる引っ掛かり、そしてかつてのナーガの言葉、魔道へと踏み入る初歩の掟。
何もかもが欠けたピースがくっ付く様に繋がってしまった。アンナの思いは正しかったのだ。





そして自分がこの500年で最大の失敗を犯してしまったこともイデアは理解している。
これはとてつもなく大きな間違いだ。竜は、ネルガルを信じすぎた。



既に友人であったネルガルは消え失せ、残るのは知識と力への欲求に喰われた男の残骸。
残忍な事を残忍だと思わない狂気の心を持ち、ネルガルの皮を被り、彼の声で喋り、彼の力を使う“怪物”をイデアは誕生させてしまった。



あの時の質問に答えられなかった時点でもうこれは決まっていたのかもしれない。



希望的観測はなくなり、今現実に起こっている状況だけをイデアは淡々と見つめている。
ネルガルの暴走の兆し、ファへ彼が行いかけた事、そして最近多発している不可思議な植物の死滅。
全ての報告を受け取った神竜はネルガルに対しての判断を半ば決めている。



彼は既に里の植物に手を掛けて枯れさせた。命を、エーギルを奪った。
更には恐らく小動物の類にも同じような事をしている。
アンナがもってきた秘密裏の調査書に目を通したイデアは思わずため息を吐いていた。



何故、とは言わない。もう、言っても意味などない。



もうネルガルはイデアの潜在的な敵になった。してしまった。
よりにもよってイデアの手で竜の叡智の一部を学んだ彼が。



外に出すわけにはいかない。そしてアトスから聞き及んだ彼の思想に賛同するつもりもない。
イデアは今で満足している。外界とはやり取りする事もいつかは来ると思っているが、それは外の世界の文明と人の思想が発展し、円熟する遠い日の出来事になる。
少なくとも剣や槍で相手を殺すことに熱を上げる情勢の世界に対して何かをしようと思う事はない。



それが何時になるかは判らない。もしかしたら永遠にないのかもしれない。



支配に対してイデアは興味などこれっぽっちもないのだ。





「イデアさま…………」



ソフィーヤはその美麗な顔に影を湛え、イデアを見つめていた。
ファの手を握り、彼女に自らの熱を与え続けるソフィーヤの姿はまるで雛を守る親鳥の様でもある。



「ファの……もう一つの手……握ってあげてください。きっと……安心しますから」



イデアは足音も立てずにファの傍に近寄ると、そのあどけない寝顔を覗き込んだ。
規則正しく息をし、心臓を動かしているファは紛れもなく生きている。ここにいる。
ゆっくりと指で頬をなぞると、何時もよりも少しだけ冷たい。



しかし生きている。死んでもいないし、奪われてもいない。
ファは、イデアの娘は、ここにいる。姉の様に消えてはいない。
この幼いわが子を奪われかけたという実感が今になってイデアを満たし出した。



チリチリとした、想像だに出来ない程の熱が胸の中の“太陽”から生み出される。
これはいつか感じた黒い太陽ではない。真っ赤に、残忍に輝く夕陽の様に真紅の色。
永遠に爆発を繰り返す創世の熱は、神竜の胸部を突き破り、今にも何もかもを焼き尽くしてしまいそうな程に勢いを高めている。



イデアがファの手を握ると、彼女は眠っているというのに無意識の内に握り返してくる。
小さな掌にあらん限りの力を込めて、離すまいと。左右の手でソフィーヤとイデアを繋ぎとめていた。



ファがゆっくりと瞼を開けた。そこにいる父の姿を認めて彼女は目に見えて安心した様だった。
ぐっと毛布の中で足を伸ばして背伸びして、大きく息を吸って、吐く。



「おとうさん」




ファの眼は今までに見た事がない程に力強い。
ほんのついさっき死が掠めていったとは思えない程に。
彼女は心に傷を負ってしまったと思っていたイデアの予想は外れていた。




翡翠色の瞳がゆっくりとイデアを見つめ、そしてソフィーヤへと視線が映る。



「もう少しゆっくり眠っていろ……ソフィーヤとゆっくり今夜は過ごすといい」



イデアは微笑みを浮かべてファに語り掛ける。しかしファはイデアから眼を離さない。
何時もの様に父親の声に従い、夢の世界に旅立とうとはせずに何かを考えているようだ。
今、ファの頭の中では彼女の知っている全ての言葉が飛び交い、父親に伝えたい言葉を伝える為の思いが重なり合っている。



イデアはファが言葉を発するまで彼女から眼を逸らす事はなかった。
ここで逃げるのは絶対に許されないと本能で理解していたのだ。



「ファね……おとうさんの所にうまれてこれて、よかったとおもうの」



「…………」



余りにも予想外の言葉だった故かイデアは一瞬だけ我を忘れてしまった。
惚けた様に眼を丸く見開き、ファの言葉が胸の中にしみ込むのをじっと待つ。
時間にすれば瞬き数回にも満たない刹那だったが、それはソフィーヤがまじまじと滅多に見れない顔をしているイデアを見つめて、くすくすと笑うだけの間でもある。




ふふふ、と上品に笑うソフィーヤの姿はまるで可憐な花の様である。
そういえば、最近は余りソフィーヤの笑顔は見れていなかったとイデアは思い至った。
彼女の笑顔はイデアのよく知る人物にとても似ている。もう会う事は出来ない存在だが、確かに居たという証をソフィーヤの所作から感じ取る事が出来る。



繋がっていく命の流れ、時の中でも色あせないモノはある。
断じて命は……エーギルはまるでモノの様に奪い取り、薪の様に消費していいものではない。
命を奪う時は敬意が必要だ。食料にせよ、道具にせよ、命を使う以上は元になった存在への感謝と敬意だけは忘れてはいけない。





ソフィーヤの笑顔に釣られてファも初めて寝て起きてから微笑みを浮かべた。
ふっと彼女の全身に巡っていた無意識の緊張がほぐれていく。
つらつらと、ファはそのまま感情の流れるがままに言葉を口から零し出す。



幼く、文章としての纏まりはないがそこに篭る熱は未だかつてない程に巨大。



彼女の中にあるのは未だ恐らく産みの親にさえその存在を否定されているであろうキシュナの姿。
道具とさえ認識されず、存在を認可さえされない。その苦悩を思えば思うほどにファは胸が痛くなる。
同時に自分がどれだけ恵まれているか、どれだけ愛されているか。相対的な視点を有し始めたファは自らが裕福で幸福な事を知った。



そしてその幸福を噛みしめるのに、ただ無邪気に笑っているだけではダメな事も。
余りに早い成熟だが、命の危機を体感し、無意識の内にファの精神は成長を遂げている。




「“いらない”っていわれるの……凄く痛いこと。ファは、みんなに“ここにいていいよ”って言われてて、必要だって言われて、しあわせなんだって」



だからとファは言葉を続ける。



「おとうさん、キシュナさんの事……ファを“見て”くれたように“見て”あげて。キシュナさん、おじさんの事ずっとよんでる。悲しいこえで、ずっと」



イデアはファの言葉を聞きながら何も言わない。
ただ、じぃっと自分を見据える幼い竜の瞳から感じる心の圧とも言える念を受け止めている。
かつてない程に真摯なファの声は、舌足らずなのを除けば言葉の中身は大人のそれとそん色ない程に深い。



ファの言葉はイデアの中で大きな衝撃になってもいた。
彼女のモノの見方に父は今までの自分を顧みて、そして衝撃を受けた。



ファは、このまだ産まれて間もないちっぽけな神竜はイデアよりも深く物事の本質、真理を理解していた。
彼女にとって種族や産まれなど関係ない、その純真さの中に差別はなく、より単純に物事を捉えて心が赴くままに真実を口にする。




キシュナという存在をイデアは知っている。
ネルガルが創りだした【モルフ】で、その誕生の瞬間を竜は見ていたのだから。
あの男の魔道の探究の一つの到達点にして出発点。心を、考える力を寄与された【モルフ】がキシュナだ。




そうだとも。【心】だ。
この際【モルフ】なのか人なのか、そんなことはどうでもいい。
【心】をキシュナは持っている、これが大事な事だった。




そしてイデアはあの時、自分がキシュナについて考えるのを途中で打ち切るべきではなかったと思い知る。
ネルガルがイデアにキシュナを紹介した時、イデアが考えるべきだったのは上から目線で訳知り顔を晒しながらうんちくをこねくり回す事ではなかった。



余裕がある時に考えよう? 違う、間違っていた。
あのネルガルが生み出し、最も彼の傍にいるであろうキシュナに最大の注意と関心を向けなくてはいけなかったのだ。
結局のところ、イデアは傲慢であった。命を支配する技術を手に入れ、マンナズを産み出し、そしてキシュナを無意識に見下してしまっていた。



もし、に意味はないが、キシュナを通してイデアがネルガルを見ていれば。
ネルガルが自分の歪みにキシュナを通して気が付き、己が命を操作するという恐ろしい所業を犯していると気が付いていれば。



もう、全て遅いが。
過ぎた事にもしもを訪ね続けても返答はない。
キシュナの事も大事だが、今はネルガルの事が最優先であるとイデアは内心で決定した。



そしてネルガルの事柄はもう間もなく決着がつく。早ければ、次の夜明けまでには。
全てが終わったら、一度キシュナとゆっくり話をすべきだと竜は決めてファの手を強く握りしめる。




ファは自分の話したい事を話し終えた後は目線を虚空に向けた。
一度思いを語りつくし、空っぽになった彼女の身体に時間遅れでとある感情が満たしていく。
それは恐怖。産まれて初めて命の危機に直面し、もしも何かが違っていれば死んでいたかもしれない状況を理解した竜が抱くモノ。



緊張がほどけた結果、抑圧され無意識の底に押し込められていた存在が流水となって零れる。
ファは感情の整理の仕方を学んでいるが、余りに強すぎる想いの制御は出来なかった。




ファの身体に唐突に汗が浮かぶ。
背筋は凍り付いたような寒気を発し、歯はかみ合わずにカチカチと鳴った。
目尻に浮かんだ涙はあの時ネルガルに懇願した時に浮かべたモノとは別種の感情が溢れださせる。



これが何なのかファにはよくわからない。
ただ、ただ、目の前に父とソフィーヤが居る事だけが救いで、無性に縋りつきたくなった。
混乱した頭でファはイデアの手を両手で強く握りしめる。



指が真っ白になるほど力を込めてもイデアの手は消えないし、壊れない。
そこにある繋がりを確認し、ファは自分が生きているとここではっきりと自覚する。



死んでいない、生きていると。



「……お、とぉさ…………!」



瞬間、いきなり涙を浮かべたファに驚いた様子だったイデアだったが、直ぐに何かを悟ったのか彼はファを抱きしめた。
母親が我が子を寝かしつける様に背中を優しく叩き、自分の衣服に大きな皺が出来る程強く襟を握りこむ娘を彼は受け止めた。



「あた、し……! こわかったよぉ……おじさん、どうして……どうしてぇ…………っ!」




「遅れて済まない。本来ならばすぐにでも駆けつけるべきだった……」



キシュナの沈黙の結界による一時的な錯乱によりイデアはファの存在を僅かな時間だけ見失った。
その結果が今の娘の顔だ。何も言い訳をする気はない。
ただ、自分の子供の危機に遅れた事を謝罪する。それだけだ。



ふと、イデアは今自分が発した言葉に対して酷く既知感を覚えた。
今の言葉の羅列を彼は聞いたことがある。自分が言ったのではなく、言われた側として。





……………………。





あぁ、とイデアは更に強くファを抱きしめた。
あの時、もしかしたらあの男もこんな気持ちだったのかもしれない。
何百年も昔の男がどう思ったかなど全く判らないが、少なくとも、自分はこの子の親なのだと深く思った。




えぐえぐ、と父親の胸で嗚咽を漏らしていたファはやがて身動きしなくなり、イデアの襟を掴んでいた腕から力が抜け落ちる。
今度こそ彼女は本当の意味で安心の中、何時も通りの眠りに落ちたのだ。
全ての感情と恐怖を発散し、乱れていたエーギルが安定した今、彼女は休眠による体力の回復を求めていた。



少しだけ目線を落とし、眠るファの顔を見てイデアは猛烈な気持ちに襲われた。
離れたくないという強い念が胸の底から湧き上がるのを竜は感じる。
しかし自分にはやることがある。この先にもう一つ、大きな仕事が。



イデアはソフィーヤを見た。彼女はそれだけでイデアの意を察して頷いた。
言葉を用いなくても、ある程度の意思疎通など彼女とならば容易い。




そっと、労りを以て慎重にファをベッドの上に寝かせると、ソフィーヤが彼女の手を握った。
ファは目覚めることはなく、安堵に身を任せている。




「娘を頼む」



はい、とソフィーヤが今度は言葉に出してはっきりと硬い意思を内包した声で答えるとイデアはファに背を向けて歩き出す。
転移の術をあえて使わずに徒歩で部屋の扉に手を掛けると、ゆっくり開き、音を出さないように気を付けながら閉める。




廊下で待っていたのはイデアもよく知った者達だ。
アトス、フレイ、メディアン、そしてアンナ。
彼らの顔は一様に無表情であり、イデアの言葉を仰いでいるようでもあった。




「今夜、最終的な決断を下す。同時にナバタ一帯の“場”を一時的に隔離し、結界を構築する。そして里には更にもう一枚、外部からの干渉を防ぐ結界を張るんだ」



その意味が判らない程に愚鈍な者はここにはいない。
皆が皆、神竜が何を仄めかしているか理解していた。




『仰せのままに。モルフ・ワイバーンはどういたしますか?』




乾ききった声で老竜が尋ねると、イデアは迷いを感じさせない流れる口調で流々と返答を返していく。



「全て待機状態にしておけ。里には一切の被害は出させない。これは徹底しておくべきだ。万事に備えろ」



はい、とフレイは淡々と神竜の言葉を受け止め、数歩下がる。
既に彼の頭の中では事後の処理についてが始まっていた。




彼の無数の知識と経験が詰め込まれた頭脳は若者以上の素早さと効率をもって回転する。



幸いネルガルはまだ直接的な被害を里には出してはいない。
ただ……この里の中でも代表的な存在であるソフィーヤを傷つけ、ファにも彼女が望まない干渉を押し付けた。
この二点はとても大きなポイントになる。




いかに長であるイデアの権威を守るか。神竜への信頼を揺らがせないか。
そしてネルガルへの処罰が納得にたるものか、アトスへの飛び火の少なさ。
それら全てを考慮しなくてはいけない。




無垢で幼い少女と、心優しい巫女を傷つけた男。
既にこの話題が出た当初から彼の中ではある程度の道筋は出来ている。




竜の長に友として迎え入れられながら、我が身可愛さに道を踏み外した者。
自らの欲望のままに、長との友情によって分けられた知識と力を悪用しこの里に脅威をもたらしかけた。
里の民の怒りを向けられるに相応しく、同時にそれを成すイデアの絶対性は再度認識される。







次にイデアはメディアンに声を飛ばす。
ソフィーヤがあのような事になり、もしかしたら一番何か思う所があるかもしれない彼女に。
しかしイデアが見た彼女の顔には一切の表情はなく、“眼”で見てもその内面さえもまるで夜の海の様に凪いでいた。



彼女は怒っていない。
ただ、竜族の全てを長であるイデアに委ね、その結果を受け入れる気であったのだ。
彼女は要所要所では感情をかなり無機的に処理する。


その心の奥にあるのは始祖の混沌とは違う種類の……暗黒か。




「里を覆う結界の展開と維持はお前に任せる。ナバタの隔離と異界化は俺がやる」



「はい。長のご指示通りに」



一礼し、メディアンが下がった。
一瞬だけ、彼女の“眼”が室内のファと自分の娘に向き、その瞬間に彼女の心が僅かばかり綻んだ事をイデアは察知したが何も言わない。


彼女ならば何も言わなくとも全てをやってくれるという信頼がある。
ソフィーヤも、ファも、そしてこの里の住人の全てを彼女は愛しているのだから。




「アトス」




イデアはアトスの名前を読み上げる様に発すると、手元に転移の術を用いて一つの書物を呼び寄せた。
分厚い本は片手で持つのは多少面倒だったが、イデアは5本の指で表紙と裏表紙を鷲掴みにしてソレをアトスの前に掲げる。
見事な金細工を施され、微かに朱い魔力光を漏らすソレの名前は【フォルブレイズ】と言った。




【業火の理】と称される神将器は竜殺しの力であるが故に、ただ触れているだけのイデアの手をジワジワと焼いているが
神竜はそのような事を全く気にせずに平然とし、それに答えるように無意識に収束された黄金のエーギルが彼の腕を破壊の数倍の速度で再生する。




「これを貴方に返す。メディアン達と共に里を守ってくれないか?」




アトスの答えは「よいのか?」ではない。
そんなつまらない疑問を大賢者はこの期に及んで口に出す程愚かではなかった。
イデアが必要だと判断し、アトスと彼の書に脅威がないと認めたのであり……そして人や竜など関係なく、今ここにいる“自分”を信じたのだとアトスは察した。



八神将と竜。本来ならば相容れない存在だったが、この数年でソレは変わった。
それはいい変化であるが、同時にコインの裏の様に負へと寝返ってしまったモノもある。



だからこそアトスは余計な事は言わない。
肝心な部分で臆病風に吹かれ、友の暴走を許し、そしてファの心を傷つける事になってしまった自分を変わらずに信じてくれる友の思いに答える為に彼は恭しい動作で竜殺しの兵器を受け取った。
かつての竜を殺すための兵器は今や竜と人の理想郷を守るための力としてここにある。




「アンナ」




そして最後にイデアはアンナを呼んだ。
彼女の顔には何時も通りの微笑みが浮かんでいたが、そこには常に湛えている余裕はなかった。
何か彼女はとても混乱し葛藤しているようにも見える。



しかし張りぼてと化した今も彼女は笑みを消さない。
ただ、ただ、心の奥底、とても深い部分は絶対に晒さずくすぶる火種の様にイデアの前に立っていた。
思えば彼女は最初からずっとネルガルに接し、彼には恋愛とは別種の思い入れが在るようでもある。



最初にネルガルに対して違和感を感じ、最初に彼に“恐怖”と危うさを嗅ぎ取ったのも彼女。
そして彼とアトスとこの里に招く役割を果たしたのもアンナ。
今回の騒動の中心とは言えないが、限りなく重要な場所に彼女はずっと座している。




この場合休息を与えるべきか、仕事を与えるべきかとイデアは悩んだが直ぐにその答えを出す。



「付いて来い。離れた位置で待機し、見届け人になってくれ」



彼女はイデアの言葉をまるで予期していたかの様に首を縦に振ると、無言のまま従者としてイデアの背後に控えた。
最後にもう一度背後のアンナを“眼”で見ると彼女の胸の中から一切の葛藤はなくなり、代わりにあるのは冷たい煤の様な冷淡な感情。




これは……“諦め”に近い様であり、何かに期待しているようでもある。
しかし期待とはいっても、これは良いものではない。
不幸の中から小さな光を探し求めるような、必死な足掻きにも近い。



最後に一度だけ、イデアはアンナを振り返って見つめた。
もしも彼女がここで辞退するようならば受け入れるつもりで。



己の内心を探られてる事など当に把握しているアンナはイデアに向けて今度は微笑みではない、しっかりと笑顔を浮かべて返す。
この笑みは竜の活力を宿した笑み、アンナという女の芯の図太さを示すような、困難を乗り越えるだけの力を宿した顔。
諦めも失意も既に超過し、アンナは神竜イデアの臣下として、そしてこの里の一員としての役割を担う竜として強く在る。



いや、在らなくてはならないのだ。先代から今に台替わりした時から。




「私は大丈夫ですわ。“彼女”に比べれば、こんなモノ大したことなどありません」




イデアは一瞬アンナが語る“彼女”が誰の事を示しているのかが判らなくなった。
だが直ぐにイデアは前を見る。見ざるを得ない。
もう後ろを見る事は彼には許されない。もしも、たら、れば、で甘い事を言う事は出来ない。



やってしまった事の後片付けをしなくては。



外は既に太陽が沈み行き、この里が出来て以来最も長いかもしれない夜が来る。
夜の中にもう一つの“太陽”を掲げるべく、神竜は歩き出した。

















音もない夜だった。
普段はうるさい程に轟々と渦を巻く砂嵐もなく、雲一つない空には真っ青な月が堂々と座している。



果ても境界線もなく続く天地が僅かに“歪んだ”
一見するだけではその違和感には気が付かないが、もしもある程度の学をもった者がこの現象を見てしまったら、伝承の終末の冬とはこうだったのかと唸るだろう。
星々がまるで魚の眼に映る光景の様に丸みを帯びて、ある一点を中心にして東から西へではなく、まるで嵐の渦の様に回転を始めた。



台風の中心の眼の中から見れば周囲を雲が回転しているのと同じように、夜の光景そのものがクルクルとまるで一定の方向へ風車の様に回る。
偉大なる神の御業によって創りだされた箱庭の中で、星たちは踊る。
その華やかで幻想的な景色の下で何が行われようと、一切の興味さえ抱いていないように。



あくまでも景色と空間を歪めただけで、いかに神竜の力といえど遥か彼方の星々にまでは実際の影響を及ぼす事は出来ない。
これは種を明かしてしまえば蜃気楼に近い原理。



かつて竜族が作り上げたアンティキノラという星々の動きを模倣し、光と影によって星の動きという大いなる神秘を部屋サイズで再現する絡繰り。
それが全天規模で再現されたかのような錯覚を見たモノは抱くが、変わったのは星ではなくミスル半島、ナバタ砂漠の方だ。
大きく水面が揺れている水の中から外の景色を観測すれば外の景色が不規則に揺れるのと同じ。



この場合の水中はミスルであり、揺れる水面は空間の事を示す。
かち、かち、という歯車同士が噛みあうような無機質な音波と共にナバタの全域は一瞬にしてエレブより隔離され、一つの巨大な独房となる。
外部からは何も見えない。そこに何があるのかも判らず、そもそもココに独房があるのかさえ理解は出来ないだろう。



あのアトスでさえ里に掛けられた隠ぺいと遮断の結界の調査には途方もない時間を消費したのだ。
数百年前の人智を超えた戦役時代ならばともかく、今の魔道士ではエトルリアの魔道軍将でさえもイデアの創りだす場の歪みと遮断には気が付ける訳もない。



可能性があるとすれば、かつてのアトスの弟子だったリグレ公爵家のモノか。
それでもその可能性は砂よりも小さい。



そう、これはとても理想的な檻であり、執行場だ。
どれだけの力を行使しようともかつての全盛の八つの兵器と竜の力の激突に及ばない限りは崩れない壁。
ネルガルとアトスが探し当てて、疑似的な『秩序』の崩壊を齎そうとした時よりも遥かに力を込めて作られた隔離異界。




『竜脈』と評すべき世界に溢れる力の流れさえ遮断され、何も見えない、聞こえない、通らない。
ここならば例え天変地異が起ころうと外界には一切の影響はありえない。
一晩だけのエレブと異界の狭間がここにある。






黒く冷たい砂の上に二人は立っていた。
一人は温和な笑みを浮かべ、もう一人は無表情で。
その身に纏う衣装も対照的に黒と白。


金で縁取りをされた純白の衣装はイデアの長としての正装。
マント、ローブ、そして頭に被るターバンの様な帽子も金白だ。
そして彼の目の前の人物はこの里に来た時と一切変わらない顔で、同じ服を着ている。



二人の男、ネルガルとイデアは10歩分程の距離を置いて向かい合っていた。
吹き抜ける風がマントを揺らし、彼らの髪を撫でる。




「ネルガル。ここに呼び出した理由は判っているな?」



うん? とネルガルは無垢な顔で顔を傾げた。
彼の中での予定と今の目の前のイデアの様子が上手くかみ合わず、齟齬に対しての戸惑いさえそこにはある。
だが彼は直ぐに温和な笑顔を浮かべて、溢れる喜びを隠そうともせずに話す。



「判っているよ。今日は記念すべき日になる。イデア殿と、アトス、そして私達が真に素晴らしき位階へと上り詰める始まりの日なのだからね」



両手を広げ、イデアを抱きしめるような大仰な動きをする彼はまるで聖人の様に汚れのない笑顔を浮かべている。
これから自分の努力が報われ、友と共に栄光の道を歩むと信じているからこそ、そこには悪意などない。



「それならばどれだけよかった事か」



一泊の間を置いて、イデアは言葉で切りこんだ。
この会話はとても大事なモノになる故に、あらゆる矛盾も、不足も許されないのだから。




「ファを傷つけたな」



竜の力を狙ったでも、幾つものエーギルを己の為に犠牲にしたことでもなく、最初にイデアが紡いだのはその言葉だ。
そこには全ての意味が含まれており、ネルガルから一瞬だけ笑顔を消し去る程の圧が込められている。
思わず神将にも匹敵する術者である彼が半歩だけ後ずさる程に、その念は深く重く、黒い。


この世界でたった二つだけの同族を冒された怒りは彼自身も理解できない程に質量を増大させている。



だが、とネルガルは勇気を振り絞り答える。確かに彼は自分が悪い事をしてしまったと思う気持ちは残っているのだから。
下手に弁明や言い訳を幾つも吐き出すよりも、素直に謝罪してしまおう、そうすればきっとまた。



「あぁ、その事か。もうどうでもいいことじゃないか。そんなことは。今はもっと大事な事を話すべきだ」



何だ? とネルガルは内心で鎌首をもたげる。違う、自分の言いたいことはコレじゃない。
自分は謝罪しなければならないはず。イデアの娘を傷つけ、摂理を犯し…………それの何が悪い?
娘を、奪われる憎しみ。子を失う絶望、家族を奪われる憎悪、その全てが鬱陶しくネルガルには映る。




イデアの顔がネルガルの眼の前で見る見る更に硬くなっていく。その眼にあるのは冷静な光。
ネルガルという男を観察し、今はどうなっているのか診断を下そうとする医者の様な眼差し。



光の中にある彼の姿はネルガルが憧れる存在そのもの。
彼が最も敬愛し、師と仰いでもいい程に眩く輝く存在。
そんな彼から放たれた言葉はネルガルの予想を遥かに超え、そして彼という存在を侮辱するものでしかなかった。



「ネルガル。長としての命令だ。全ての研究資料を破棄し、これからは里の一住人として過ごせ」



それはイデアの最後の甘さか、もしくは絶対者の傲慢か。
はたまた500年の月日を経ってなお埋められなかった喪失への恐怖が齎す鈍った判断か。


ネルガルの顔が瞬間的に憤怒に染まるが、彼はソレを強靭な精神力で抑え込む。
イデアの言葉はネルガルにとっては死よりも恐ろしい事。力を手に入れたモノはソレを失うことを最も恐れる故に。
あふれ出る怒りをネルガルは必死に押し殺し、最も愚かな選択をしようとする尊敬する男の説得を試みる。




「なぜだ? 何故そのようなつまらない事を言うんだい? 私達が力を合わせれば何だってできる! 私に無限の可能性を示してくれたのは他ならぬ君じゃないか!!」



眼を血走らせ、顔を真っ赤に染め上げながら激情に駆られたネルガルは更に言葉を口走っていく。
胸の奥底で燃えるどす黒い念が過去類をみない程に膨らみ、まるで竜のブレスの様に吐き出される言葉は彼が無意識の内に観測しながらもどこか眼を背けていたモノ。



「どんな理由があろうと、生き物がいつか死ぬことは変わらない! ならばその命を我らが“有効的”に利用して何が悪い!? 
 我々という絶対者が外界に君臨することによって、この争いばかりのエレブは真の意味で永遠の平和と、秩序を迎えることが出来る!!」



胸の奥が痛む。膿んだ見えない傷口がはれ上がり、絶望という毒を産み出す。
ネルガルの眼には残忍な欲望が浮かび上がっていた。全てを支配し、この“同じ痛みを知っている存在”と共に何もかもを無茶苦茶にして世界を創りかえられる喜びと共に。



「ネルガル、やめろ」



「よりにもよって君が私を裏切るというのか!! 親友だと、人と竜という種族の違いこそあれど、理解者だと信じていたのに!!」



「やめろと言っている────自分が何を口走っているか判っているのか?」



ネルガルはもはやイデアの言葉を聞いてはいない、見てはいない。彼の中にある黒いモノが噴き出して視界を染め上げている。
想像だに出来ない程の痛みと絶望が彼を覆い尽くし、盲目となってしまう。
黒い瞼の裏でバチバチと音を立てて雷が鳴り渡り、彼という全存在を焼いていく。



「私の何が悪い……奪い奪われるは当然の事だろう……っ! “おまえ”だって奪われる痛みは知っているはずだ…………」



「…………………」



まくしたてるように半ば叫びと化した言葉を紡ぎ終えたネルガルはイデアを憎悪の篭った瞳で睨みつけた。
だがイデアは動じない。ネルガルの全身全霊を掛けた憎悪を受けても一歩も引かず彼から視線も逸らさない。



ただ…………イデアは何処かでネルガルに“共感”を覚えていた。
彼はまるで……イドゥンと引き離された頃の自分を見ているようでさえある。
だが共感こそすれど、イデアはイデアであるが故に一切芯を揺らさない。




「俺は力を手に入れる事を止めはしない。自分の無力に泣くのはうんざりだし、誰かがそうなるのも見たくない」



淡々とイデアは喋る。まるで清流の様に淀みなく声が弾む。
ネルガルの顔が瞬いた。判ってくれたのかとその顔は一瞬希望に染まり……。




「だがお前はファを傷つけ、ソフィーヤを裏切り、この里の平穏を乱そうとしている…………もう十分に強いお前が、よりにもよってお前を信じていた無力な子供達を泣かせたんだ」




男の顔がみるみる憎悪に染まっていくのを見ながらイデアは言葉を止めない。
この先に言おうとしている言葉が何を齎すか、何を完膚なきまでに破壊するかを知りながらもう止まらない。



「ネルガル。お前をそんな様にしてしまった責任をこの場で取らせてもらう」



ブチッと、目の前の男の中で決定的なナニカが切れた音をイデアは確かに聞いた。
ただ、イデアは、あぁと眼を閉じて僅かなばかり逡巡するように沈黙し、次いでネルガルを見据えた。



男は震えていた。血走った眼を禍々しく輝かせ、握りしめた拳は爪が皮に食い込み、血が滴る。
全身からゆらゆらと漏れ出て周囲の空気を歪ませるのは想像だに出来ない程に強大な魔力。
怒りという原初の念によって高まる心はエーギルという概念を欠片とは言え理解するネルガルの力を高める。




「イィィィデアァァァァ───!!」




男は激昂し咆えた。それが合図。
瞬時に魔力を練り上げ、イデアに向けて手を翳すと無詠唱、無動作で上級術の一つを瞬時に発動。




【ノスフェラート】



闇夜に映える紫の円状魔方陣が展開され、幾つもの魔術的な言語が不気味に回転し、円の中央に集結していく。
そして顕現するは魂を啜る凍てつく炎。円の中央から音もなく、何も焼かずに飛び出すのは死を凝縮した凍てつく焔。
一直線にイデアに向けてブレスの如く放射されたソレの影響を受けた砂漠の砂が成すすべもなく凍り付く。


パキ、パキ、と夜の砂漠でさえ滅多に聞くことのない物質が急速に凍り付き崩壊する音だけが響く。
ネルガル程の術者が使用するソレはもしも並の人間に放たれれば例え相手が精強な騎士団でさえただの一撃で半壊にまで陥れる規模と密度を誇ることだろう。



死という冷酷な概念を表し司る上級術を前にイデアは動かない。
弓矢よりも早く飛び込み、終わりを齎す術を彼は無機質に見つめ……軽く、まるで飛び交う羽虫を払いのけるように腕を薙いだ。
黄金のエーギルを纏い輝く竜の腕は物質的には存在しない古代の魔術に“触れる”事も出来る。



当然の帰結がそこにはある。
イデアの軽く動かされた手の甲にあたった冷炎はあらぬ方向へと膨大な力によって軌道を叩き曲げられ、空の彼方へと飛んでいく。
幾つもの星が輝く夜の彼方に飛び去った【ノスフェラート】はやがて消え去り、深い夜の闇に飲まれる。



イデアの腕には傷一つなく、今の行為が彼にとっては戦闘の内にさえ入らない事だけがネルガルに伝わった。




「な…………!」



じくり、じくり、と見せつけられた力の差にネルガルの胸は更に激しい痛みを覚える。
ヤアンに向けられた目線が彼の中で浮かび上がる。あの目線を。




まるで絶対者の様に見下す眼。
自分の存在など欠片も意にとめない。
お前は無価値だと断じられたような屈辱。



そうやって彼はいつも奪われた。絶対者を気取る屑が彼を何時も苦しませる。
ネルガルは唇をめくり、歯をむき出しにする。まるで獣が全身全霊で闘争を行う時の様に。
獲物を狩り殺そうとする残忍な思考と、最も敬愛していた親友が自分を裏切ったという絶望が彼の喉を震わせ、低く深く冷たい声となる。



「もうあれは私の“力”だ! 誰にも奪わせはしない! 誰にも、絶対に!!」



バチバチと更に頭の中で天雷が弾け、脳髄を焼いていく、
夢幻の不協和音は彼に一つの言霊を囁く……“呼べ”と。




竜が片腕の五指を彼に向けるとそこから赤色の稲妻が放たれる。
落雷に匹敵、凌駕する電流が空気中の塵を焼き尽くしながら空間を走った。



最下級の術である【サンダー】だが次元違いの力を持つ神竜がソレを行使するとなれば話は別だ。
視認不可能の雷速で飛来する稲妻はネルガルの魔法防御能力を上回る威力を以て彼の全身を内部から焼いた。
ぶすぶすと全身から煙を巻き上げ、ネルガルは大きく術の力によって後方へと弾き飛ばされる。




「──ぐ、うぅっぁああっ!!」



口、鼻、眼、あらゆる所から煙を吹き出しながらネルガルは自らの臓器が丹念に炭に創りかえられる音を聞く。
だが、体に傷が増える度に彼の内部にある底知れない活力は更に活動を強め、膨大なエーギルを産み出す。



砂塵に背から叩きつけられたネルガルはうめき声も上げずに空を見上げた。
彼の見つめる中、一つ、二つ、三つ、四つ……ぽつぽつと夜空に黄金が増殖する。
やがては雨の様に天を埋め尽くすのは黄金の“点”……違う、あれはエーギルで編み込まれた剣だ。



何百か、何千か、はたまた無限か。
その全てが切っ先をネルガルに向け、地に落ちることなく空に留まっている。
重力も無視し留まる黄金の剣舞はただ待っていた。主が許可を出すのを。



煌々と輝く月の光を反射し神の裁きは下される。



ネルガルは光に向けて手を伸ばした。まるでそこに求めるモノがあるかのように、掴むように。





【シャイン】




一切の慈悲もなく黄金の雨が降り注ぐ。逃れる事など出来ない滅びの豪雨が。



純粋な“力”で形作られた光剣はおおよその世の法則を無視し、矢とは違い初速の時点で既に目では追えない速度をたたき出す事が出来る。
これは決して減速もせず、風の影響を受けることもなく真っ直ぐに飛び進む矢でもあった。
ネルガルが倒れ込んだ砂丘を粉々に砕き、砂を抉り、巨大な湖の様な溝を創りながらもまだ足りない。



周囲の砂が融解し硝子化し、砕け、更に粉々になって巻き上がった粉じんに火が灯り、それは連鎖的に砦さえ粉々に吹き飛ばす大爆発を誘発する。
光の束と化す勢いでたった一人に対して向けるには余りに過剰な暴力が容赦なく動き、その存在そのものを消し去らんとする神威は咆えた。
最後の剣群……それでも数百単位の剣がぽっかりと砂漠の中心に開いた巨大な“穴”に吸い込まれ、爆砕したのを確認してイデアは歩き寄る。




この程度で終わるなどイデアは到底思っていない。ここからが本番だと彼の勘は告げている。



巨大な穴の中で純粋な“闇”と“雷”が一瞬で膨らみ、次いでソレは一つの球状の形に収束する。
まるでこの世全てを憎んでいるような深い暗黒と、この世の全てを壊すまで止まらない天雷。
おぞましい力が球体の内部で急速に膨れ上がり、天に座す神竜に向けて殺意と憎悪を紡ぎ出す。



この球体の中で蠢く力を二つともイデアはよく知っていた。
一つは何百年も前に見たモノであり、そしてもう一つは今まで自分の手中にあったものだから。
驚きは当然あったが、同時に自分でも目の前の現象に何処か納得を覚えていた。



何かが引っかかっていた気がした。
それがナニカは判らないが、きっと今の状況はネルガルが起こした奇跡でも何でもなく当然の帰結なのだろう。
数百年前の狂戦士の残留思念か何かの力を彼は恐らく引き出しているのだと神竜は判断する。



ならばもう一度地獄の底に叩き返してやればいいだけだ。何もやる事は変わらない。



暗黒の太陽の如き底なしの暗闇の球体。何もかもが消えた神威の跡地の真ん中にポツンと音もなくソレは置いてある。
正にソレは形を持った“闇”であった。ドロドロに熔けた鉄のような粘性を持った“闇”だ。
ソレが発するのは並の人間では直視しただけで脳髄を蕩けさせる程に甘く、暗く、冷たい死の香り。




まるで叫ぶかのように腰の【覇者の剣】が震えた。



一つの巨大な暗黒の球体が三つに分裂し、太陽たるイデアに対してまるで拒絶するかのように禍々しい夜を振りまき、憎悪と絶望を啜っている。
空間を飛び越えるために一時的に物体としての姿を捨てた暗黒が再収束しその物体としての姿をこの場に表す。



現れたのは三冊の本。



その名を───。




【バルベリト】 【エレシュキガル】 【ゲスペンスト】




これらをイデアは呼んでいないし、当然この場に持ってきてもいない。
何より今この3つの書にイデアは力を流しておらず、発動さえもしていない、だというのに三冊の魔書は禍々しく神々しい黒い光を纏い、宙に浮かんでいる。
人の身には余りに大きすぎる想像を絶した天変地異の力はもう神竜の手の中にはない。


善も悪もなく、ただ“黒”だけを万象に齎す災禍の魔書は、その御業を今、この地で、産まれた理由とは真逆の方向に力を行使しようとしている。
無限の深淵を以て神竜の秩序に牙を剥き、秩序を破砕した混沌を齎さんと。




今を以て竜の里を守るための力であった2つの兵器はイデアの敵となる。
その事実だけを神竜は噛みしめ、それでも何もやる事は変わらないと客観的な認識の元に行動。
覇者の剣の柄を軽く握りしめ……刃を抜かない。



ただ、自分に向けられた視線を見返し、そこに立っていた男の眼と交差する。




爆心地と評されるべき溶けた砂が流れ落ちる箇所にネルガルは暗黒の太陽の中から孵り、そして立っていた。
イデアを無言で見上げる彼の顔には何も表情はなく、彼はその手に何時の間にか大切に握りしめていた“ソレ”をイデアに見せつけるように掲げる。
ネルガルの指に摘ままれてギラギラと凄惨な光を放つのは小さな小さな、まるでビスケットの欠片程度の金属片。



見る者の網膜を焼き尽くす程に激しい光と熱を放つソレは、鼓動しているの如く膨大な光と熱を周囲に一定の間隔で振りまいている。
チリチリと音を立てて僅かばかりに生えていた植物が一瞬で焼け落ち、灰となる。



本質は何も変わらない。全ての命を拒絶する天雷の暴力。無限の死と混沌を振りまく災いの結晶体。



イデアはその瞬間、初めてその顔に驚愕を張り付けた。
目を見開き、たった一つの小さな金属片を穴が開くほどに強く見つめる。
竜の瞳孔が細まり、その瞳には磨き抜かれた刀剣を思わせる敵意が宿った。




アレが何なのかイデアは知っている。当然だ、何せアレを粉々にしたのは自分なのだから。
だが違う、違う、もうアレには神将の狂気も意思も何もない。確かにこの手で滅ぼし、今もアレからはあの時に感じた戦闘狂いの男の念など微塵も感じない。



そうだ。感じないのだ。
イデアはこの稲妻、天雷は当初はアルマーズに宿っていたテュルバンの残留思念か何かが巻き起こしたモノだと予想を立てていた。
だが、違う。真実はもっと深く、底が見えない。



爆発的な稲妻を帯び、周囲の闇を急速に取り込んでいく姿はさながら一つの生き物の様だ。
生き物という事は何者かの意思がある。そしてその意思の存在まではイデアは感じ取れている。



だが…………やはりあの時に観測した狂戦士とは何かが決定的に違う。
テュルバンの意思はアレを持ち帰った時にメディアンが言った通り完全に滅びたとしか思えない。
アルマーズをすり潰した神祖の力はその牙を向けた存在の万が一を許さない。



万が一もありえない。確実に、完全に、完膚なきまでにテュルバンはあの場で本当の意味で死んだ。
そしてただの死骸でしかなかったはずのソレには既にテュルバンの妄執は残っていないはず。



更にいうならばイデアはあの天雷の破片の中に宿る意識が“誰”なのかを心の何処かでは知っているが思い出せない。
“アレ”をとても近い場所で見た事がある。だが今はとても遠い場所に居て、皆目見当さえつかない。




正体不明の“誰か”
それが今イデアという存在に害を成す存在に力を使われている。
だがしかし、やる事は一つしかないし、変りもしない。




ネルガルは何もかもが抜け落ちた声で至極冷静に朗々と声を発する。
そこには何時もの彼が声に帯びさせていた温かみは全くない。




「最後のチャンスをやろう。イデア殿…………今からでも考え直すんだ。平穏が欲しかったのだろう? 
 我々が創りだす世界こそが平穏に満ち溢れているぞ。そうだとも。私たちという絶対者が支配する世界は平和そのものになる」



「その“平和と平穏”を作る過程でどれだけの怨嗟を買うつもりだ? そして仮にエレブを支配したとしても、必ず終わりは訪れる。それこそこの世界を完全に消しでもしない限りはな」




脳裏の何処かに見たこともない怪物の姿がよぎる。
何もかもを食いつぶして安息を手に入れた余りに哀れな竜の姿が。



永遠などない。どれだけ強大な国家や文明だろうといつかは崩れ落ちる。
事実500年前にイデアはその残骸を見た。何もかもが砕かれ、無人の廃墟と化したかつての竜族の本拠地を。
諸行無常とはよく言ったモノで、あの中に有ったのは無数の死体と死にぞこない達、そして家族だけだった。



そしてこの小さな里でさえ500年維持し、守る事にどれだけ細かな配慮が必要だったことか。
こんなナバタの中の理想郷でそれだ。もしもエレブ全土を支配等したら、きっとそれは余りに歪で、足元が空っぽの空虚な国家になる。
その様な国は作るときも崩れる時も、膨大な数の無意味な死を撒き散らすのは明らかだ。



イデアは外界に混乱をばら撒くつもりはない。
何故ならばそれが回りに回って自分に帰って来る可能性が高いからだ。
エレブという巨大な歯車の中にナバタが存在する以上、その歯車が軋み、壊れればその崩壊には間違いなく里も巻き込まれる。



はぁ、とイデアの返答に対して心底落胆した様子でネルガルはため息を吐く。
下から見上げているというのに、まるで王者が民を見下ろすかの様に彼は仰々しい態度で腕を組み、つまらないモノを見る眼でイデアを見た。




「ここまで君の物わかりが悪いとは思わなかった」



女性が宝石を愛でるように、少女が可憐な花を飾りつけるように、ネルガルは指先でアルマーズの破片を弄る。
ギラギラと禍々しい光彩を放つ破片を彼は愛しい女でも見つめるような熱い視線を送りながら、艶めかしいため息を吐いた。



「尊敬していた君を殺すのは、正直嫌だが……私の邪魔をするというのならば仕方ない」



彼の声は更に深みを増し、深い井戸の底から響いてくるように重くなる。
じわじわと彼の眼の中に貪欲な念が燃え上がり始めた。
イデアを倒し、里の竜の知識の全てを手に入れてから自分が外界に飛び出て思うが儘に振る舞う景色が彼の中には映っている。



彼は何かをやりたかった。新たに手に入れた力で。
もはやネルガルの思考は既にここにはない。彼はこの後の未来を思い描いていた。これから何をしようか、何を成そうか。



ネルガルはニヤリと笑い…………一瞬の間を置いてから、アルマーズの破片を飲み込む。
途端に彼の力は更に膨れ上がる。もはや神将アトスさえも凌駕し、純血の竜にも届くほどの力を持った“闇”を彼は抱え込む。
耐えきれない程の力の暴力に彼そのものでもある器にヒビが入り、再構築され……彼は全く別の存在へと完全に変貌を遂げた。



もはや彼は人ではない。
肉体と同じく完全に精神までもが人とは言えない様になってしまった。
無数の命を啜り、力へ無限の渇きを覚えた“魔人”……それがネルガルという男。




「見るがいい、この私を…………君が得ようとしなかった絶大な“力”の凄まじさをとくと味わえ…………!」



魔人が恐れなど感じずに神竜に対して一歩を踏み出す。
彼に付き従うように三冊の魔書が膨大な闇を吹き出し、イデアの領域を侵食していく。



イデアは引かずに、両手を大きく広げてその箇所に力を集め、ただ一言竜族の言語で“呼んだ”
次の瞬間には彼の両手にはそれぞれ一冊ずつ魔道書が握られている。


書から吹き荒れる光と神風が闇を弾き飛ばして拮抗する。
周囲に霧散した力は行き場を無くし、巨大な雲となり星夜を遮り始める。



【ルーチェ】 【ギガスカリバー】



残り2つとなったこの里を守る兵器。今使わずに何時使うというのか。
喜びに満ちた絶叫が砂漠に響き、それが本当の意味でのネルガルと神竜の激突の始まりを告げる合図となった。
















3つの魔書の内の1つを開き、その中に記された力のある古代の竜の言語に眼を通したネルガルが感じたのは歓喜であった。
読める。私はこの文字を読める。読み、更にはその意味を理解できる。このゲスペンストという術がどういうモノなのかを理解できる。
ニヤリ。ネルガルが亀裂の様な笑顔を浮かべた。その眼に残酷な喜びを浮かべながら。







─ б Λ Ψ £ ─  ─ Φ Ω Ш Й Ж ─  




         ─ Χ ─




朗々と竜族の言語が恐ろしい速さで織り込まれていく。
神竜であるイデアからしても早いと感じられる速度。
神と魔人の闘いが幕を開け、最初に動いたのはネルガルだ。



人では聞き取る事さえ不可能な竜族の詠唱が紡がれ、彼は一つの術を展開した。
イデアに教わった竜族の言語を以て、彼を殺すべく動く。
幾つか知らない竜族の単語もあったはずなのに、胸の内側から囁きかける声はその意味を教えてくれた。




本来竜以外では発動することは出来ないという摂理さえも魔人は無視する。



現れたのは形を持った“闇”であった。ドロドロに熔けた鉄のような粘性を持った“闇”だ。
不定形のソレがネルガルを囲むように渦を巻き、一つの形を取ろうとしていた。




最も明るい光は、最も深い影を投げかける。
ならば、神竜の光は、闇の最高の糧となるのだろうか。
逆もまた然り。



概念的な混沌とも言えるその“闇”がその一つに固まり、集まり、収束し、小さな黒い球体を形作る。
小さな“黒い太陽”を。日食を連想させ、見ているだけで不安な気持ちに陥ってしまいそうなほどに、禍々しい太陽。




その輝かない太陽の中心に魔法陣が浮かび上がる。古代の、神話の時代の竜族の力を持った文字。
人間には意味さえ理解できない、複雑怪奇な文字の羅列。円を基調とした魔方陣が浮かび上がった太陽は、まるで巨大な目玉の様にも見える。
同時に周囲を支配するは、濃厚な腐敗臭。純粋な死の、臭い。




500年の昔、イデアによって行使された術はその矛先を変えて神威を顕現させる。



災いが招かれ、エレブに再臨した。




【ゲスペンスト】





黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒。
無限の死がナバタに降臨した。
黒い太陽から“泥”が溢れかえり、それらは過去の様に津波となってイデアに迫るのではなく、徐々に一つの形を取っていく。



地平の彼方まで黒い絨毯が敷かれ、その広大な湖の如き黒からおぞましい悪意が溢れかえる。



手足。胴体。頭。
ソレラは人の姿を取っている。
ただしあくまでも取っている、だけ。


断じて人間ではない。




“ソレラ”の顔や体には肌がなかった。腐った肉が少しだけこびり付いており、後は骨が露出している。
“ソレラ”の眼窩には目玉の変わりに紅い光が灯され、その光は確かな視力を持っているらしく、イデアを殺意の篭もった視線でにらみつけていた。
“ソレラ”は全員が何らかの装備で武装をしていた。あるものは槍を持ち、あるものは剣を持ち、あるものは魔道書を片手に担いでいる。
“ソレラ”は肉体的な意味では生きてはいなかった。壊れ、機能を停止した肉体に【エーギル】だけが宿り、動いているのだ。



5世紀もの間、エレブから放逐され、無限に混沌の底で悪意と絶望に浸された彼らは、更に歪み、壊れ、狂っている。



生気など微塵もなく、むしろ逆にただその場にいるだけで死臭を撒き散らす。
所々が痛み、砕けた鎧を着こんだ“黒い”騎士たち。
兜の隙間から覗く眼は朱く濁りきっており、そこには理性はない。




あるのは憎悪と殺意だけ。
泥は無限に溢れかえり、同時にそこから産まれるそれらも無限だ。




「懐かしい奴らだ……」



背から2対4枚の翼を生やし、上空へと飛翔したイデアは感慨深げに呟いた。
今正に眼前でこの世界に“帰還”しようとするモノらをイデアは知っている。



あの時に駆除した害虫共。
かつては人であり、誇り高い戦士たちだったモノら。
殿に巣食い、イデアの発動させた【ゲスペンスト】によって混沌の濁流に呑まれた亡霊兵士たちは、ネルガルの手によって再びこの世界に帰還を果たした。



あの時に奪った筈の武器さえも何故だかその手に再び握りしめて。
恐らくは記憶の中にある己の獲物を自らの存在を削り、再現したのだろう。
無限の闇にとっては対価さえ払えば、その程度の願いを叶える事など容易い。



その目的は何も変わらない。ただ一つ。竜を滅ぼすことのみ。
人として最後に抱いた竜への闘争心だけが肥大化し、人類を守るという事さえ忘れた哀れな者達であった。



殺す、殺す、殺す。
無限の殺意がただ一点に注がれ、空中に浮かぶイデアを視線だけで射落としかねない程の殺気が飛び交う。



各々が魔術的加護を得た武器を振りかざし、弓兵はその骨から削りだした矢を番え、射る。
魔道書は不気味な輝きを放ち、古代の竜と戦う際に使用された魔法が行使された。




【─フェンリル─】 【─ブリザード─】 【─シェイバー】 




暗黒で形作られた巨大な狼の虚像。
全ての物質を瞬時に凍結させる凍てつく波動。
大気をかき混ぜ、全ての翼あるモノを叩き落とす不可視の衝撃が、何十、何百という術の一斉攻撃がイデアに迫る。



本来ならば頑強な城を落としても余りある火力がたった一人に注がれた。
更にそこに弓兵の矢も合わさり、既にイデアの視界いっぱいには攻撃の“面”が見えている。
余りに数が多すぎて、小さな点と点がくっ付き合わさり、もはや壁だ。




触れれば容赦なく肉片に至るまで完全に滅され、粉みじんに粉砕されるのは確定的。



だが……甘い。彼らの腐った脳は、致命的なまでに現状を把握していなかった。
彼らの殺意が500年前よりも高まったというのならば、神竜の力は更に別次元へと達している。



【オーラ】




着弾。
轟音が光の壁を叩き、そしてはじき返された。
飛び散った魔力の残光が粉雪の様な儚い光となって周囲を舞う。





あの時よりも遥かに薄く、そして頑強になった光の壁は何人もの干渉を許さない。
イリアで時々見られる空に掛かる揺らいだ虹……オーロラと呼ばれる自然現象の様に朧に輝く【オーラ】はあらゆる攻撃を受け止め、それでいて傷一つ付くことはない。
暗黒が、冷気が、そして風が、何もかもが光の壁を打ち抜こうとありったけの力を込めて叩きつけられ、霧散した。



ボロボロと切っ先が砕けた矢が雨の様に無数に落下し、途中で空中で縫いとめられる。
何千もの矢に僅かばかりの黄金が絡みつき、その矛先を逆にしてから瞬間的に加速させ、まるで先ほどの【シャイン】の様に撃ちだす。



悲鳴は上がらない。ただ、骨が砕け、砂埃が舞い上がる。
普通の数倍の速度で飛来した弓矢に全身を撃ち抜かれてなお、亡霊兵は痛苦を感じることなく蠢く。
決して手が届かない太陽へと殺意を送るが【オーラ】を球状に展開させ、自分の身をすっぽりと覆うイデアには届かない。




イデアは地獄の様な眼下を見て思った。
亡者が這いずり回り、ただ死だけを願い、かつての思いさえも忘れてしまった姿は…………とても哀れだと。
あの時は嫌悪と憎悪しかなかったというのに、今こうして再び見ると、彼らは非常に可愛そうな存在にしか見えない。



時間の流れから取り残され、永遠に終わった戦争を求め続けるなど……惨めでしかない。
彼らにだって家族はあっただろうに、守ろうとしていただろうに、それさえ忘れるなど。



「もう戦役は500年前も昔に終わったぞ。お前たちも眠るといい……介錯してやる」



イデアが片手に持っていた【ルーチェ】の書を開くと、ネルガルの瞳が好奇の色に彩られる。
無限の“黒”に守られ、取り込んだ破片と闇が溶け合い、無尽蔵の力を供給され続ける彼には余裕さえあった。
どんな術をイデアが使ってこようと、その悉くを凌駕出来る自信が。






【──§ Δ Φ Θ μ ¢─】




歌うように、流麗な言語が竜の口から流れ出る。
幻想的な調律を以て世を律する竜族言語は、ネルガルにさえ聞き取れない高次元の波長で歌われた。
通常の三倍にも及ぶ“力”を注ぎ込み、完成するのは神将器よりも遥か古代に創り上げられた竜族の禁術。



光が、世界に溢れる。
天を覆う分厚い雲が弾き飛ばされ、まるで夜明けの如き光の濁流が空から差し込み、闇を切り裂く。
徐々に、光はその密度を高めていく。最初は薄暗い夜を照らし出す程度だったものが、やがては真昼の様に世界を創りかえ、最後は網膜を焼き尽くす程の白で何もかもを埋め尽くす。



絵画の如き神々しい一枚の絵。闇夜に太陽の光が昇り、抗えない裁きを下す絵は正に神話の光景。
ベットの毛布の中にもぐりこんだ際に、自らの手足さえも闇で見えなくなるように、余りに強い【光】はその他一切の色を奪い取る。


地を這いずり、どんな泥よりも黒く濁った死人の運河さえも【ルーチェ】の齎す輝きには抗えない。
この術には熱もない、破壊もない。大規模に敵を完全に粉砕し尽くす根源的な災いもない。
大よそ人が考えうる“戦略的”な破壊はこの術には存在しないのだ。




【光】とはそもそも「何」なのかを竜族は部分的に解明している。
この術はその原理を大いに応用して編み上げられていた。
まるで海の様に揺れる“波”であり、この世の何人にも見えない程に小さく、分割さえ不可能な“粒”でもある【光】という存在に竜族の用いるエーギル操作技術で攻撃の意思を与えることでこの術は完成した。




ただ、故にこの術は恐ろしい。痛みも何もないのだから。
自分と他者の区別さえつかない程に暴力的に塗りつぶされた“白”の中にいる亡霊兵士達はその身に浴びる“光”によって体を分解されていく。
血は出ない、痛みもない、煙さえ上がらない。



そもそもこれは熱量で焼いているのではないのだ。
一枚の絵から色素が抜け落ちていく様に死者の存在、原初の“闇”さえ何をされたのか判らない内に体が消える。
手が、足が、胴体が、武器が、そしてその中にある意思さえも神の振りかざす【光】を浴びた以上、抵抗など許されず、痛苦一つなく存在そのものを“解かれ”る。



肉片にもならない。砂にもならない。もっともっと小さく、根源的で、これ以上別つことの出来ない“波”になるだけ。
後には何も残らない。“解かれた”存在は光に混じり合い、やがては消えて、そのエーギルは霧散しエレブに放流され、終わりだ。




本来の世の法則ならば光を用いての人体の「分解」など不可能なのだが、古代神竜の叡智はそれを可能とする。
【光】による存在分解。それが【ルーチェ】という術の本質。
【ファラフレイム】と呼ばれるナーガが行使する絶対の破壊術とは対照的な術だが、その原理そのものはかなり近い所にある。



あちらは光を用いて存在そのものを太陽の力で以て「崩壊」させて力を産み出すのに対してこちらは光の本質を用いて「分解」させるのだ。














余りに長い【光】の照射が終わり、暗闇に戻ったナバタに残ったのは球状に展開した【オーラ】に身を包むイデアと【ルーチェ】を以てしても分解できない量の暗黒を纏って身を守っていたネルガルだけであった。



万を超える数程もいた亡霊兵達の姿はまるであの状況が夢幻であったかのように誰もいない。
全てが光の中で消え去り、分解され、昇天した。




もう二度とあの異形らが出てくることはない。
この時を以て、竜殿に攻め込んだ八神将直属の残党軍は完全に消滅した。



所々から煙を上げ、ひび割れた黒い“繭”が解けてその内部からネルガルが顔を表す。
瞬時に彼は一つの魔法を解放し、今まで自分を覆っていた闇を枝の様に引き伸ばし、その先端をイデアに向けて奔らせる。




ビュンッと、空気を切り裂く音が鳴った。



影が、鋭利な刃の様にのたうちまわりながらイデアを包む【オーラ】にぶち当たり、金属質な音を立てて光の膜を突き破らんとする。
絶えず存在する影を用いて攻撃を行う【ミィル】という術は闇属性の中でも下位の術だが、ネルガル程の術者が使えばそれは尖塔をも両断する切れ味を有する刃となる。



だがそれでも神竜の防御領域は抜けなかった。ほんの僅かに表面が弛んだが、ただ硬いだけではなく、弾力性も兼ね備える【オーラ】は衝撃を直ぐに逃がしてしまう。
イデアの首を的確に狙い、そっ首を叩き落とそうとのたうつ空にまで伸びた刃を見てイデアはネルガルに視線を向けた。



そこには何も含まれていない。かつてのナーガが飛竜の群れに向けた様な目線。



ネルガルは忌々しげに顔を歪めた。
大規模な術の発動終了後という、ある意味魔道士が最も気を抜く一瞬を狙ったというのに何てこともないように防がれ彼は不機嫌を露わにする。
彼は既に悟っていた。いや、思い知らされ、予想を大幅に修正したというべきか。



幾ら彼とはいえ竜族魔法の一つである【ゲスペンスト】を用いて呼び出した亡霊の軍勢を容易く壊滅させられたとあれば見識を改める。
生半可な力ではイデアを滅ぼす事など出来ない、現状三冊の魔書を所持しているが、これらを1つずつ丁寧に順番に発動させようと何ら意味はなく、訪れる結末は一つだと。
ここで初めて彼の頭は強大な力を手に入れてから絶えず覚えていた酔いから覚め、本格的に自分の状況がどうなっているのかを考え始めたのだ。



だがその根底にあるのは憎悪だ。胸の奥から絶え間なく溢れる怒り。
天雷が齎す憎悪。奪われた苦痛。裏切り者に対する絶対零度の殺意。
彼の優しさは失われ、聡明さだけが殺意と結びつく。



自らを見下し、信頼を裏切った者へ正統な報復を与えるべく彼は更に多量の闇を破片と魔書から引き出す。
今や彼は一種の永久機関であった。書物にエーギルを注ぎ込めば込むほど、深い闇が彼を見たし、そこから更に大量のエーギルが生み出されていく。



その果ては無限ではない。終点にあるのはネルガルの崩壊だけだ。



胸中から“思い出す”のは絶望、憎悪、殺意。
それら全てが彼の体内を循環し、ネルガルという存在を更に壊しつくす。
だがそれでも構わないとさえ彼は思っている。


むしろこの絶望こそが本来ネルガルという男を構築する重要なパーツなのだとさえ思え、受け入れていた。



彼が見ているのは神竜イデアのみ。
自らが目指すべき頂点であり、引きずり落とすべき忌敵だけ。



空に悠々と浮かぶ竜と地に這う自分という今の構図は……彼を苛立たせる。



「私を見下すんじゃない……! 可能性を諦めたお前が、真理の探究を続ける私の邪魔をするな……っ!」





彼は力を求めていた。まだ足りない。もっと、もっと大きな力を。



ネルガルの瞳が暗黒に染まる。本来あるべき白目は黒く染まり、瞳孔は血に飢えた爬虫類の様な真紅に。
さながら竜の様な縦に裂けた瞳孔は、あらゆる負の感情でごちゃ混ぜにされ、燃え上がっている。


余りに取り込みすぎた力の影響で体の節々から破砕音が響く。
溶けた鉄の塊を流し込まれた盃が内側から溶けていくように、彼の身体は幾ら理を超越しようと原点は人の肉体である以上、膨れ上がり過ぎた力に対しての容量と強度が追い付いていない。



彼の口から竜族の言語が迸った。それも一つの音声ではない。
合唱団が高らかに讃美歌を歌い上げる様に、彼の口からは何人分もの声が紡ぎされていた。
重層音は、ネルガルの声であって、彼の声ではない波長を含み、彼が知らない単語を含む古代の竜族言語をまるで喋れて当然だと言わんばかりに歌った。




【シャイン】【アルジローレ】




だがイデアは待たない。
ネルガルに対しての慈悲もなく、二つの術が発動され、ナバタに満ちる竜の力が詠唱を省かせ、光が集う。
幾本もの光剣がネルガルを貫き、光の尖塔が彼の周囲に無数に突き刺さる。



轟音を立てて砂を貫き、屹立する尖塔群の真っただ中にあってネルガルはイデアだけを見ていた。
肩、腹部、胸、足……あらゆる場所をを貫かれ、血液が沸騰し、赤い霧を傷口から吹き出しながら彼はただひたすらに詠唱を続ける。



致命的になる【アルジローレ】だけは僅かに周囲に散らばる【ゲスペンスト】の残照である闇で弾き、軌道を逸らすが
特にあたっても問題ないと判断した光剣の攻撃については既に防御さえしない。
痛みはある、屈辱もある、だが今は自分の勝利の為にネルガルは全てを捨てていた。



詠唱が終わると同時に、ネルガルの顔から一切の感情が消え失せた。
かの【闇術士】ブラミモンドが全ての自分を闇に溶かした様に。









そうだとも。欲しいモノを欲しいという。ただそれだけでいい。
ネルガルは、魔人は、この瞬間……本当の意味で後戻りできない場所へと堕ちたのだ。



【─ゲスペンスト─】 【─エレシュキガル─】【─バルベリト─】




絶望の三重奏が奏でられる。
神竜であるイデアを以てしてもありえないと思わせる超規模の術の同時行使。
闇に極めて深い親和性をもち、部分的にはあの神将アトスさえも上回るネルガルだからこそ出来る究極。





混沌より絶望が溢れかえる。
黒い川の濁流。命を腐滅させる焔。暗黒の風。
三種の暗黒魔法がよりにもよって同時に、たった一人の術者の手によって発動され、混ざり合う。




アトス達を「神将」と呼ぶのならば、ネルガルもまた「神」の名を冠してもよい程の入神の術者だ。
そんな彼の全身全霊──存在そのものを賭けた術が“たかが”世界規模の破壊程度で済むはずがない。




真実、この夜に顕れるのは神竜イデアと対を成すもう一つの秩序、混沌……法則そのもの。
闇が更に密度を増し“泥”になり、そして木の枝の様になる。
無数の黒い枝はまるで生き物の様に絡み合い、ネルガルを中心に収束していく。



彼の姿はあっという間に黒に飲まれて見えなくなった。




【天雷の斧】アルマーズが保有していた取り込んだエーギル、魂を自らの活力とする狂戦士の胃袋に、夥しい量の混沌が注ぎ込まれ劇的な反応が起こる。
あらゆる意味でありえない反応。狂気と狂気が溶け合い、理解不能の深奥が産声を甲高く喚きあげ、憎悪を啜った。




のたうち回り、あらゆる所から腐敗臭を撒き散らすソレは枝というよりも、冒涜的な触手に見える。
一、十、百、千、万、億……体内を駆け巡る血管の数よりも多く、その内部には血液の代わりに膨大な“力”を流し続ける枝はやがて一つの形を取る。



それはナニカの死骸。竜でも人でも、ましてや動物でもないおぞましいナニカ。
黒に微かに緑がかった体色は肉の腐敗を想起させ、体表からは常に紫色の血液の様なモノが流れ続けている。
大きさは成体の竜よりは小さいが、それでも小規模な砦ならばただ動くだけで踏みつぶす程はある。



力と欲望、あくなき闘争心、絶望、そして可能性を孕んだその外見はまるでその先に待つ終焉を暗示しているかの如く醜悪だ。
古代竜族の言語でその存在はおぞましき3つの単語によって成り立つ。







【■■■】 




祝福されし絶望をとくと仰げ。



それは深く恐ろしい三文字の怪物の一部。
人竜戦役よりも遥か過去、神と始祖の時代に存在したとされるモノの再現。
神により滅ぼされ、物質としての姿を亡くしたソレはネルガルの念に答え、その姿だけを原始より引き上げられる。




語るもおぞましい始祖の混沌を指し示す真名の一つ。
それは人には聞き取れない竜族の言語の中でさえ名を紡ぐことさえ憚られる正真正銘の禁忌。
異界の世界の創造神。二別れになった神の一つ。力と欲望を肯定する存在。




善でも悪でもない。それは純粋な“力と欲望”を司る古のナニカ。
黒よりも深い、翡翠がかった闇色のナニカ。


その翡翠の色は、覇者の剣に用いられる装飾に僅かだが似ている。






異常に長い黒髪を無数に束ねあわせた様でもあり、もしくは人の筋肉繊維をむき出しにして、無茶苦茶にくっ付けたような醜悪極まりない外見。
ソレは僅かに身じろぎするだけでボタボタと汚れきった油の様に黒い泥をばら撒き、訳が判らない程の捩じれた悪意を放出していた。
ビチビチと魚が跳ねまわる様な水切り音を体から響かせると、それは無数の、子供の頭部程はある眼球を表皮に創り出す。




一つ、二つ、三つと人間の様に左右対称ではなく、バラバラに、身体のあらゆる場所でソレの表面に瞼と同じように切れ目が入ってから瞬きをしだし、巨大な眼が出来る。




ビグルと呼ばれる伝承の中の魔物を腐敗が進み切り、原型が崩れたドラゴンゾンビの身体のあらゆる場所に埋め込めばこんな存在になるだろう。
精神が狂い切った絵師が描く絵画の中でもお目に掛かれない人の精神を侵食する異形。





「それがお前の言う“高次元”な姿か……? 自分の顔に自信がある、まだ自分も捨てたものじゃないって言ってたじゃないか……」




イデアは目の前でのたうつネルガルだったナニカを前にして呟いていた。





ッ──────!!!!





月に向けて異形が咆える。
全身を1つの楽器として戦慄かせ、腹部に家でも丸のみ出来そうな貪食な口を創り出し、叫ぶ。



3つの術によって誕生した魔物が撒き散らす“闇”は瞬く間に、それこそ秒もたたずにナバタを侵食する。
爆発的に広がった新たなる冒涜的な秩序は現在このナバタを支配する神竜の秩序とぶつかり合い、その余波で空間が悲鳴を上げた。




全身に浮かぶ目玉がギョロギョロと動き回り、全周を隙間なく観測した後……イデアを見つめた。
何十もの目玉がイデアの姿をその瞳に映し込み……きゅぅっと楽しそうに窄め、確かに笑う。




無邪気な子供が大好きな友達にあった時の様に、玩具を見つけた様に。




瞬間、その眼が光った。
比喩ではなく、純粋に光が放たれる。
【エレシュキガル】の炎を更に圧縮し、閃光へと昇華させて撃ちだすソレはこの世の何もかもを腐らせる腐敗の黒光。


始祖の深淵が撒き散らす瘴気はこのナニカにとっては身体の一部であり、それを更に極めた域で使用したとしても何もおかしくない。




死者の軍勢に集られようとまるで意にも返さなかった【オーラ】に軽々と穴が開く。
竜族の優れた直感に従い咄嗟に身を翻すイデアのすぐ傍を黒光りが突き進み、空に浮かぶ雲に大きな点を穿つ。
純白のマントに大穴が開き、そこに黒い炎が燻るとイデアは躊躇わずに脱ぎ捨てた。



魔物の全身が震え、大きく身を起こすとあらゆる場所に存在する【眼】がちかちかと輝きを産み出し、黒光りを撃ちだす。
無尽蔵の“闇”が可能とする絶大な破壊の乱舞。
一発でも命中すればそこからエーギルを腐らせる黒炎が侵食し、魂まで汚され消える末路を産み出す光。




【アイ・ビーム】【アイ・ビーム】


【アイ・ビーム】【アイ・ビーム】


【アイ・ビーム】【アイ・ビーム】




邪悪なウィンクの嵐により、夜天よりもなお暗い光が夜を駆ける。




幻想的な光景であった。
おぞましくも、何処か惹かれる魔物の姿、そこから発射される光、神竜を掠り空にある雲を霧散させる絵図……その全てがまるで神話の中から飛び出てきたような圧倒的な力に満ちている。




神竜の視界を埋めるのは無数に発射され、目標を打ち抜く【エレシュキガル】が変質した光。
竜の限界にまで集中を究めた眼には風よりも早く、真実光速に近い【アイ・ビーム】が自らに向けて飛翔する光景が映っている。
一発でも掠れば即座に動きを止めた所に無数の腐滅を叩き込まれて投了となる。


イデアは防ぎきれないと判断して【オーラ】を解除し、背の4つの翼に更に対して今まで防御膜を入っていたエーギルを注ぎ込む。



神竜の4翼が大きく展開され、黄金色に瞬いた。
今までとは比べ物にならない精度で“場”を掌握し、イデアに飛翔の力を与える。
翼の神【デルフィ】もかくやという雄々しい威圧を放つ神竜の翼が大きく瞬くと、イデアは躊躇わずに黒の中に飛び込む。




猛禽類が獲物を捕る際に見せるような急速な落下と加速を神竜は人の姿でやってのける。
結局のところ、攻撃は前からしか来ないのならば、前だけを見て避け切ればいい。



身を捻り、視界を埋める程に広がった魔光の一斉掃射に対して恐怖を感じることなく、点と点の間にある僅かな隙間に身をすべり込ませ、回避。
二射、三射、四射……次々とひっきりなしに発射される光がイデアの頬を、背を掠るたびにきぃぃぃんという結合された【エーギル】が発する不気味な唸りをイデアは聞く。



【アイ・ビーム】の原理とその癖をこの短時間でイデアはある程度読み取っていた。
この魔光はあの目玉が視線を向けている方向にしか発射出来ない。
弓矢の切っ先と同じ役目をあの眼球の中にある水晶体が果たしているのだろうと。




見る見るうちに視界に映る化け物の姿が大きくなっていくと、神竜は無言でこの異形の耐久値を測る為に術を発動。
ベロベロと大きく、まるで妊婦の様に膨れ上がった腹部の半分を占める口から肉食獣の舌を出して喘ぐ異形はイデアを無数の眼で見つめ……その中央に魔光が収束し───



【トロン】




イデアの掌から弾けた稲妻が怪物に突き刺さる。真っ黒な泥が血液の様に噴出した。



無数の眼球の全てを突如として生み出された迸る稲光で焼かれ、怪物はその身を激しく痙攣させる。
異形を串刺しにする形で突き刺さったのは電流を帯びた不定形ではあるが巨大な“槍”だ。
今なお突き刺さり、傷口を電流で焼き、その全身を内部から破壊する理系統の上位魔法。


並の存在ならばこれを受けた時点で即死していてもおかしくはない。
並の存在……かつての戦役時代に在った戦闘竜程度ならば突き刺さった時点で腹部からバラバラにはじけ飛ぶ威力を神竜の力は可能とする。




だが……このネルガルが編み上げた異形は、その全てが異常極まりない。




ドォンと重低音を響かせ、化け物から10歩ほどの距離に着地したイデアは油断なく異形に向き合い、その様子を確かめた。




【『く、ひぃ、あ、はははははっは! ───ハハハハハァアァハハ!!!!!』】



異形は笑った。幼い子供……少年と少女の二つの声で。腹部にある貪食な口から、何処か懐かしさを感じる声を発してけたけたと。
身体を貫かれ、全身に電流を流されて内部から生物としてあるはずの筋繊維をズタボロにされつつも、何も問題などないように。



何だ、お前は? 本当に、何なんだ……?



胸中で発した問をイデアは無意識の内に言葉として紡いでいた。
醜悪だ。だが眼が離せない。訳の分からない存在。
イデアの呟きに対して怪物は当然のことながら何の反応も返さない。



殿に居た亡霊兵は竜への憎悪と戦役の続きを行う為に動いていたし、テュルバンは純粋に戦いたいという願いを持っていた。
では……ネルガルが力を求めた結果、コレになったのか? こんなモノに? よりにもよって、あのすばらしい男だった彼が、ここまで堕ちたのか?





稲妻で編み込まれた槍にヒビが入り、異形の身体がざわめくと、再生しようと蠢く肉の圧に呆気なく【トロン】は砕け、ぽっかりと空いた異形の穴も瞬時に塞がる。
やはりというべきか、超高濃度の概念的な混沌の集合体である異形は限りなく不滅に近しい生命力をもっている。
首、というものが何処にあるかは判らないが……仮にあったとして、それを落とされようとこの異形にとっては何ら問題ではないのだろう。





腹部の口が大きく開くと、反射的にイデアは翼に力を込めて空へと退避していた。
真実、その判断は正解である。その次の瞬間に起こった出来事を見れば、尚更。




【ゲスペンスト】




三度発動するのは暗黒の大河を作る魔道の極み。
しかし、その規模と純度は前の二回を遥かに上回る。



嘔吐するように更に多量の“泥”を異形は絶え間なく吐き出す。
刹那の内に視界の果てまで、砂漠は真っ黒な“海”へと塗り替えられる。



絶望を形にし、塗り固めた様な力の濁流。
大地が海に、海が闇に、闇は空と地を万遍なく覆い、神竜の秩序を侵食し削る。
隔離異界の中を丸ごと暗黒が満たし、その中央で異形は笑い狂う。




狂笑に呼応するように黒い水面が沸騰し、泡立つ。
泡はやがて大きく膨らみ、幾つも重なると、まるで植物が成長するように上へ上へと延び、形が整い始めた。



これは……腕だ。



五本の指をもち、蠢き続ける無数の腕。
大小さまざま、大きいモノでは馬車を鷲掴みに出来る程で、小さいモノは幼子程度。
エリミーヌの教えでは生前罪を犯したモノは地の底に落とされるというが、眼下に広がるコレはその者らが奈落の奥より腕だけをこの世に伸ばしている様でもある。



地平の果てまで、畑で揺れる草花の如く腕が蠢く。
真っ黒で、人の皮膚とは程遠い墨を塗り固めたソレには爪もなく、生気もない。
遥か上空のイデアから見ると、それは人の体内に在る絨毛によく似ているようにも見えた。



腕の掌に切れ目が現れると、その中からはまん丸い“眼”が現れる。
異形の全身にびっしりと植え込まれたモノと同種の瞳だ。
大きく指を広げ、腕がイデアに対して掌を向けるとそれだけで何万もの視線が彼に集まる。



実に単純な対処法を異形は実行していた。当たらないのならば、数を増やせばいい。
十でダメならば百、百でも足りなければ千、万、十万と、その圧倒的な数の力で圧殺すればよい。
左右前後を隙間なく全て埋める程の暴力、絶望の大嵐がここにはある。



閃光。閃光。閃光。



壁等という表現では生ぬるい数の魔光がイデアの視界と知覚領域全てを覆い尽くした。
大陸最大規模の軍であるエトルリアの全軍が総攻撃を仕掛けようと、ここまでの圧倒的な質量は生み出せず、防ぐ術など存在しない。




判断には一瞬……も与えられない。




「っ……!」




鈍い光がイデアを背後から“予定よりも早く”貫く。
間違いなく【アイ・ビーム】であるが、まだ後ろ側に存在する腕から放たれた光の到達には半秒にも満たないとはいえ、それでも僅かな余裕があるはず。
浮力を失い墜落しかけるイデアが咄嗟に“眼”を走らせれば、そこにあったのは紙に黒い墨でも垂らして出来た様な“点”だ。



球体ではなく、極限にまで薄く焼き上げられたパイ生地の様なソレからは既に追撃の魔光が顔を覗かせている。
腹部より少し上、鳩尾の辺りに大きな穴を穿たれたイデアに向けて容赦なく魔光が突き刺さった。
左肩に大穴が開き、血液が飛び散り、腕が半分ほどちぎれ掛ける。





【『く──っぃぃ──ァァァァア────!!!』】




たまらない。楽しい。どうだ、どうだ、今の自分はこんなにも強い。もう何も盗らせない。
心の底からこの遊びを楽しんでいると言わんばかりに異形は大きく立ち上がり、全身の眼の焦点をしっかりと合わせる。
黒い“点”が化物を取り囲むように夥しく発生し、その中に魔光を異形は次々と打ち込む。



“点”の中に消えた魔光は、イデアの頭上に出現した“点”から空間を超え吐き出される。
イデアの左足の付け根に穴が開き、大きく足が痙攣した。
胸部、片耳、右手の指3本、イデアの身体は面白い程に欠損していき、そのたびに異形は歓喜を啜る様に月に吠える。




【ルナ】




狂気が力になり、悪意が迸った。


魔光が補足したイデアに対し、異形は更に一つの術を発動させ追い討ちをかける。
対象に直接魔力を流し込み、魔防能力を無視した傷を与える術を。
イデアの身体に紫色の魔方陣が浮かび上がり、異形の殺意が流れ込むと同時に竜の人間体は内部から破裂し、細かい肉片と変わる。





力なく暗黒の大河へと落下してくる神竜だった欠片を異形は喝采と共に何十万の腕で迎えた。
数えきれないほどの数の魔手が津波となり、渦を巻き、イデアを容易く飲み込む。
轟音。魔的な質量と破壊力を伴った大波が巨大な怪物の咢として神竜の身体を咀嚼し、粉々に砕く。



重低音が遠く遠く遥か彼方まで響き渡り、小島規模の質量が神竜を押しつぶす為に更に渦を巻き、念入りにイデアの墜落地点に無尽に圧をかける。
黒い海の上で異形は絶叫し、全身の眼球をグルグルと回し、あらゆる場所に魔光を撒き散らした。
小高い砂山が幾つも跡形なく蒸発し、空に発生した雲が弾け、月が恐怖するように真紅に染まる。




勝った、勝った、勝ったのだ。
未だ色濃く残るネルガルであった部分が歓喜に打ち震える。
無限に溶けた闇の中、それでも彼は彼として確かにこの異形の一部に残り、彼の殺意でイデアに牙をむけた。



その結果がこれだ。今やナバタの大地は完全に混沌の海に沈み、ほどなくして里も飲み込む。
理想郷に存在するイデアが彼に出し渋った竜族の禁忌を含めて彼は全てを手に入れるだろう。
竜族の叡智を携え、彼は永遠に君臨するつもりだった。



新たな支配者、新たな秩序、絶対者、かつて竜族でさえ出来なかったエレブの完全なる掌握を。
何もかもを奪い取ってやりたい。これほどまでの力を操り、始祖の混沌と疑似的とはいえ一体化したと評してもよい自分ならば全てを手に入れられる。




月に吠え、大地を汚し、異形は勝利に酔う………はずだった。




彼は一つ重要な事を忘れていた。
イデアとの戦いは確かに苦戦したが、彼はイデアが全力で、死力を尽くしたと思っている。
それは自分が倒した彼が強く、偉大で、この人からかけ離れた姿になってようやく届いたと考えているから起きた誤解だ。




もっと簡潔に述べるならば、彼は、イデアが竜だという事を忘れていた。
それなのに、イデアが終始竜化しなかったこと、神竜としての姿を晒さなかった事を。
最後の最後まで彼が真の意味で切り札を切っていない事を。





無限に広がる黒が“内側”より微塵に弾けた。内圧に耐え切れず、バラバラに黒がほどけていく。
無数に黒海に断裂が走り、異形は全身の眼をグルグルと蠢かせてこの理不尽な存在への怒りをあらわにする。



全て“知っている”人が産まれる前に起きた神話の闘いの忌むべき敗北の記憶は魂にまで焼け付いて取れはしない。




絶望の権化へと対する、新しき絶望が回る。
犯された【秩序】が音もなく回り始め、再構築される。
ただ一つ、その【秩序】は異形の存在を認めずに、呪いあれと囁いた。



光が渦を巻き、異形の身体に溶け込む。
逃げることなど叶わない。意思からは逃げられない。
雨水がしみ込むように黄金の光は異形の内部へ、存在へと侵食する。



竜の敵意を浴びたモノは、例外なくその呪いを賜る。
それは神の下す罰であり、呪いである故に、この地に在る限り例えそれが原初の混沌の一つとしても逃げる事は出来ない。
いかに極大とはいえ“たかが”3つの術を混ぜ合わせ、人の身と砕けた神将器という脆い器に注がれて顕現した不完全なる混沌と、未だ上昇を続ける完全なる神の差がここに表れた。





【竜呪】




ナバタに拡散する神竜の秩序は急速にその勢力を取り戻し、異形の存在に想像だに出来ない程の負荷を与える。
奪う、奪う、奪う、異形からあらゆる力を根こそぎ削り取り、その力を、存在を抑え込む。
魔力、純粋な筋力、速さ、魔防能力、その他すべてに対しての大幅な制約をまともに受けた異形は身悶えし、怨嗟の呻きを大口から零す。



これだ、これこそが、かつての神と始祖の闘いで始祖に対しての圧倒的な優位性を誇ったかくも忌まわしき呪い。
神の下す呪い、裁きの前では混沌から幾らおぞましき者らを産み出そうと、それが億の果てにまで届こうとも全てが無価値と成す。
数の利、戦況の優位性、戦場の支配権を一瞬で奪い取るこの世で最も避けなくてはいけない力。




黒い海が、深淵より急速に浮上する黄金に内側より焼かれ、海面の一部が吹き飛ぶ。
それは巨大な、途方もなく巨大な水柱となり、何十憶もの黒い滴を雨として滴らせた。
小さな街程度ならば飲み込めそうな程に天高く聳える水柱は更に大きく拡散し、キノコの傘の様に膨れ上がり、最後はドームを思わせる形状となる。




闇を焼き払い、切り刻み、無数の光明がドームの内側より溢れる。
ソレはまるで地に顕現した太陽の様に、ただそこにあるだけで混沌が齎す暗黒を容易く消していく。




そうだ。これは“太陽”だ。
エリミーヌ教の何十倍もの間神として崇められ、同時にそれに相応しい力を行使していた無限の光。
竜が崇拝し、始祖が敵意と嫉妬を抱き、人がひれ伏す絶対だ。




異形の身体にある眼が、このナバタを覆う黒い海から生えた手に宿る眼が、あらゆる全てがただ一つの存在に文字通り眼を奪われていた。
余りに強い光によって焼かれ、血の涙を零しながらも瞬きさえすることなく見続ける程に、何物をもの注目をソレは集めている。





畏怖。敬意。恐怖。尊敬。憧れ、そして深い深い嫉妬が篭った眼は、ねめつけるようにソレを見ている。




真実“太陽”と評され、恐れ敬われる絶対存在。
2対4枚の翼を背に生やし、全身を覆う黄金の重剛殻は人の持つあらゆる術、武器、兵器、技を無価値とする完璧なる神の鎧。
頭部にあるのは王冠の如き猛々しい猛角と、人の姿を取っていた彼の特徴でもあった紅と蒼の特徴的なオッドアイ。
ソレは人間と同じ様に四肢をもつが、その先にあるのは全盛期の神将器とさえ軽々と打ち合える竜鋭爪。





小規模な砦ならば軽々と踏みつぶせる巨体の異形でさえ、その神に比べれば半分にも満たない。
何よりその中身…………根本的に存在の次元、格が違うのだ。
ここに芸術家がもしも居たとすれば自身の全てを振り絞り、この降臨せし神の姿を全身全霊で書き留めようとするだろうが、もう今は誰もいない。





偉大なる神は、天に浮かぶ月と重なるように空に昇る。
かの存在から放たれる後光は、背後に控えた月を太陽へと変貌させるほどの【光】を放ち、決して消えない。




見るだけで並の竜族でさえ戦意を抱くことも叶わない。
視線を合わせれば平伏し、命乞いさえ叶わずに運命を委ねる絶対。



ナバタに君臨する守護神。人の世に残る神話のモノ。荒ぶる【秩序】
自然災害さえも凌駕した神の暴威が異形の前に在る。






【神竜】イデアの真なる顕現であった。




億の年月をを過ごし、膨大な歴史と共にそそり立つ霊峰は見るモノに圧倒的な威圧と畏怖を叩きつけるが、神竜としての姿を晒したイデアは異形にとってのソレである。
太古の勝者と敗者は余りにも長い時の果てに、このナバタの地に再び邂逅する。




竜が、確かな知性の宿る眼で異形を、ネルガルを見下ろす。当然の様に。その中にあるのは間違いなく余裕。
太陽の化身である超越存在と、未だに地べたを這いずりまわる泥塗れの異形。どちらが上かは語るまでもないと言わんばかりの目線は異形を酷くざわめかせる。



怒りと殺意をごちゃ混ぜにした咆哮を上げ、異形は自らの身体に浮き出る全ての“眼”から魔光を撃ちだす。
先ほどオーラを軽々と打ち抜き、人としてのイデアをバラバラにした闇魔法の極地。
古代の竜族魔法を変貌させ、手足の如く扱い産み出される魔光は太陽を地に再度引きずり落とすべく飛翔する。




空気を腐らせ“場”を汚染し、精神を侵食する魔光に対して神竜は先ほどよりも更に鋭利となった感覚を駆使して全てを“観て”いた。
何万か、何十万か、それほどまでに一瞬を切り取り続け、無限にその切り取られた風景が重なり合い、本当に僅かずつ動き出す。
何もかもが遅れた世界の中で、神竜だけは何時もの感覚で体を動かす事が出来た。



矢など比べ物にならない速度の【アイ・ビーム】さえも蠅が止まる程度の速さにまで遅延した世界の中、竜は悠々と腕を振りかぶり、動かす。



神竜は、その霊峰の如き巨体から想像だに出来ない速度で片腕の剛爪を薙いだ。
竜からすれば人間が少しだけ早く腕で仰ぐような動作をしたようにしか見えないが、第三者からみれば竜の巨腕が丸ごと消えた様にしか見えない。
人間でいうところの平手打ちの様な挙動だが、それを別次元の能力を持つ神竜がやればその威力はとてつもない事になる。



音を遥か彼方に置き去りにする速度で大気はおろか、本来干渉する事さえ不可能な筈の“場”さえも切り刻む竜の爪は何の加護も得ていない状態で魔光に真っ向から叩きつけられた。
一瞬の拮抗の後、神竜が更に少しだけ力を腕に込めると呆気なく魔光は数倍の速度ではじき返される。




はじき返された一つの魔光は竜に向けて射出されていた数十もの【アイ・ビーム】を絡め取るように肥大化し、異形の元へと返還された。
流れ星の様に鮮やかな残光を残し、キラキラと黄金の光さえ纏いながら光は、当初の十倍以上の太さとなり、突き進む。
「ァ」と口から漏らし、全身にある全ての目玉を大きく見開く。全ての眼には光だけが映り込んでいた。




咄嗟に防御行動をとろうとした異形だったがそれさえも許される訳はなく、直撃。




轟音。
ブーツの底から体の芯まで揺らす中規模の地震がナバタ全土を揺らした。
隔離異界が大きく揺れ、吹き上げる巨大な光の柱は空の雲まで巻き込むほどに高く、太く、長く残る。



空の彼方からでも観測できるほどの巨大な光柱が消えた後、そこには半分程度の大きさにまでその巨体を無残に砕かれた化物の姿があった。




【『アァ゛ギィガア゛ァアエエ゛──! いぃぃがぁうふぐぅぃいだぁああいぐぃぃぎぎあぁっ!!!!』】




光の中、全身を砕かれた異形が理解不能の言語を腹部から垂れ流し、悶え狂う。
人の言葉でも竜の言葉でもない。ただ喚きちらす。
バラバラに砕けた肉片は潰された蟲が痙攣するように震えている。



マグネシアと呼ばれる鉱石……竜族の間では“磁石”と表されている石が砂鉄を寄せ集め、自らの周囲に鎧の様に纏うかの如く、異形の周囲の肉片は瞬く間に結合し、再生は完了した。



かつてのテュルバンも持っていた不滅の肉体。
当然ながらそれはこの異形も得ている。彼より数段上の次元のソレを。


まだ終わりではない。まだ、まだ、まだ───。
異形の戦意はまるで衰えず、殺意と憎悪は無限に膨れ上がる。




混沌の化け物はぐるんぐるんとその巨体で寝返りをうつように転がり回り、文字通りの“泥浴び”を開始。
ぶちぶちと黒海から伸びる無数の腕をひき潰して回るたびに、黒い海はざわめく。
ズズズズと、轟音を上げて【ゲスペンスト】によって吐き出された無尽蔵の混沌が異形の内部へと戻っていく。



波頭を飲み込む黒い大津波が逆に動き、潮が引く様に海が消える。
先ほど吐き出した腹部の口は、まるでスープでも飲むように黒を飲み干す。
混沌の沸騰する思考は回転し、ネルガルだった聡明さを以て動いていた。




質量の凝縮。存在の圧縮。エーギルの再結合。
むやみやたらの攻撃は意味がない。もっと殺意が必要だ。
どんな眩しい光でも照らせない暗黒を見せてやると。






【『いで、ぁ、いであ、いであぁ、いぢぁ、いでぁ、、いであぁぁ、いであいであいであ────』】




敬意と友情と羨望と嫉妬。全てが入り混じり、均等に分けられ、その結果全てが無になった感情の篭らない言葉が異形の口から発せられる。
赤子が親の名前を呼ぶように、それしか知らない様に“ネルガル”はかつて友だと思っていた男を、今でも何処か共感を抱く者を呼び続けた。




【『いであいであイであ、いでアいであいデアあいであイであいでアイィイいいィでぇええあアああァ!』】





狂乱。正にそれしか言えない様相。
一言発するたびに無機質な声は熱を帯び、この数年間ネルガルが内心で燻らせていた感情が爆発していく。
始祖はこの怒りを使う。怒りと憎悪と絶望が膨れる度に力が増すのだから。




とても汚い濁声であり、そして時折混じるのは幼い少年と少女の声。
無茶苦茶に砂嵐の様な雑音が入り混じり、とてもじゃないが綺麗とは言えない声だが、それでもイデアはこの声に対して懐かしいと思った。
命がけで殺しあっているというのに、余計な思考さえ挟む余裕がイデアにはある。




もはやこの戦いは半ば、イデアとネルガルという両者の個人的なぶつかり合いの域を大きく逸脱していた。
始祖が狂い乱れ、神が威光を以て迎え撃つ、この世で最も古い闘争の再臨へと変わり始めている。




光と闇との闘い。偉大なる聖戦の系譜はここにある。




ごぼ、っと貪食なる大口の端より黒泡が零れる。
数本の生物的な足を巨体の左右に産み出し、身を固定した異形は大きく身体を逸らしてから、天に浮かぶ太陽に向けて体内に回収した海を丸ごと圧縮したブレスを放つ。
コールタール等という液体など陳腐に思える程の純黒の液体。



夜を更に塗りつぶす深淵の黒が美しい星夜を汚した。
汚れ、汚れ、そして堕ちて死ねと。



【黒海の飛沫】




速度そのものは【アイ・ビーム】に及ばないものの、その中部に凝縮された暗黒のエーギルと殺意は桁が違う。
【ゲスペンスト】のミスル半島全域を埋め尽くす程の黒い大河をブレスとして攻撃に転化させたソレは空さえも覆う津波となる。




途方もない圧をかけられた黒海は空中に放出されると天に座す竜へと向けて黒い線が伸びる。
夜よりも黒い液体の流動は空に墨で一本の線を引いたように伸びて、星々の光さえも飲み込み、暗黒が太陽へと手を伸ばした。
空に、真っ黒なカーテンが敷かれ、何もかもを飲み干す。




ぼたぼたと収束しきれずに線から僅かに垂れていく水滴は黒い雨となり、命を拒絶するようにナバタの砂を汚し、神竜の不興を買う。






神竜の反応は素早い。竜の視界の中では先ほどの数分の1程度の速さで飛翔する飛沫が映り込み、対処の策も無数にある。
ただ、その何十の対処法の中でただ一つだけ、逃げるという選択だけは最初から削除されていた。




彼は超越種であるが、それ以前にイデアだ。
そして目の前の化け物は自分がそうさせてしまったと言っても過言ではない男の残骸。
故に逃げる……回避等という選択肢はない。




かかってこい。俺は逃げも隠れもしない。
竜の眼にあるのは敵意ではない。知性と抜き身の剣の様に鋭い意思だ。





真っ向から叩き潰す事を躊躇いなく選択する。




【オーラ】




竜の周囲に黄金のエーギルが収束し、それは次の瞬間に“場”そのものを切り取り、断層とする。
空に浮かぶ神竜の身体をすっぽりと円形に覆い尽くす薄い黄金色の膜は先ほどのイデアが展開していた絶対の防御領域。
竜としての本来の姿を解放したイデアが展開する【オーラ】は人間の姿を取っていた時よりも遥かに強大で、何より“応用”が効く。




金色の輝きでナバタを照らし、月に重なりながらも月の存在が呑む程の光源であるソレは夜を昼に創りかえるほどの熱と光を放ち、触れざるモノとして地上にある。



イデアが【オーラ】に攻撃の意を吹き込む。
すると巨大な神竜の身体をすっぽりと覆っていた光の膜はその形状を歪ませる。
楕円形に光の膜は弛み、ミシミシと余りに莫大な力の濁流によって強引に空間が圧縮される音をかき鳴らしつつ、神竜の眼前を起点としてその形を創りかえられた。





防御から攻撃に。拒絶から排除に。吹き込まれた想念は似ているで様で、全く逆の性質を含む。




そして、【オーラ】は爆発的に広がった。
花火が一瞬でちっぽけな光の粒から夜空を覆う華に変わる様に。
幾重にも重なった“場”が断層として広がる。巨大な竜の姿さえも小さく見える程に大きく、広く、美しく。





これはイデアが人の時にも使用していたエーギル行使による力の“波動”……それを何百、何千倍の規模で使っただけ。




……単純故にその威力は凄まじいの一言につきる。
もしもここに戦闘竜や、先ほどイデアによって分解された亡霊兵達が居たならば、この一撃で丸ごとエレブから消滅する程の破壊力。
竜の意思が続く限り広がり続ける黄金の津波は、一度展開されてしまえば、後は進行方向上のあらゆる存在を物質的、エーギル的に完膚なきまでに破壊しつくす。




吹き荒れる黄金の空間的な“壁”は真正面から【黒海の飛沫】と衝突し、黒と黄金が弾けた。
轟音さえもちっぽけに思える爆音がナバタを震動させ、砂をめくりあげる。
遥か上空でぶつかり合う殺意と拒絶の念の衝突は、エレブ全域の秩序にさえ僅かな亀裂を刻み、それでもなお止まらない。




空にあった僅かに残った雲は余波で吹き飛び、その瞬間、真実ナバタの天は完全なる晴れ空になった。
黄金と暗黒の津波がぶつかり、稲光が弾ける。キラキラと黒と黄金の火花がナバタに降り注ぎ、それはまるで雪の様に美しい。
黒と黄金がぶつかり合う地点の“場”は既に幾つもの断裂が走り回り、人竜戦役以来の世界の根幹を揺るがす力の衝突に万象が声もない悲鳴をあげた。





時間にすれば余りに短い拮抗。だが、両者にとってはそれは余りにも長い。
純粋な力と力の食い合い、死ね、と消えろの意思の押し付け合い。






黄金の断層が弛み、漆黒の飛沫が弾けだす───。
そして…………先に限界を迎えたのは異形ではなかった………イデアでもない。
鍔迫り合いをするように力をぶつけ合う光と闇よりも先に力尽きたのは、世界の理であった。




その刹那、硝子細工を無遠慮に踏み砕くような音が異形と神竜の耳朶に届いた。
次の瞬間には、力の方向を無茶苦茶に逸らされた【黒海の飛沫】と【オーラ】が縦横無尽に隔離異界全土に降り注ぐ。
流れ星の様に残光を描きながら無数の星がミスルに降り注ぎ、轟音と共に穴を穿つ。




空間が砕けて“方向”という概念が無茶苦茶になった結果、今まで鍔迫り合いの様に殺意を押し付け合っていた力は転げまわる様に周囲に飛び散ったのだ。
今まで拮抗し、抑えつけられていた力は解放の喜びに震える様に、ナバタに穴をあけていく。




理不尽なまでの暴力によって砂漠に幾つも開いていく大穴は、とある虫がアリを捕食する際に地面に作るすり鉢の様な窪みを、何十万倍にも巨大化させたようだ。
着弾地点の中心部は半ばガラス化し、余りの熱量によって砂はほぼ蒸発。
辺りに噴き出るのは人間には有毒なれど、この場を支配する神と始祖には何の意味ももたない毒ガス。




【『アァ……アァァアウアぁぁあウぁあ────』】




異形は泣く様に呻く。
大切なモノを没収された子供と同じく。




未だ残っている切り札である魔嵐を呼ぶべく、異形は体内で更に魔力を練り上げ、自らを構築する大きな要素でもある魔嵐の魔書を刺激し………。






【バルベ────







術の発動など許さないと、異形は背後から叩きつけられた竜の拳によって爆音を上げて容易く砕かれる。
ぐちゃっと、肉が叩き潰される。全身の目玉が飛び出て、腹部の口からは臓物の様などす黒い肉塊がはみ出し、それは先ほどの肉片の様に蠢いた。




異形は一瞬たりとも気を抜いてはいない。無数の眼は一つも神竜から外れることはなかった。
だというのに、間違いなく異形を背後から叩き潰したのは神竜だった。
異形の残骸がこびりついている左手の拳を持ち上げ、竜はその爬虫類染みた人外の外見からは想像も出来ない程に人間の様な動きをする。





【オーラ】を部分的に纏わせた右の手も左手と同じく、人間がそうするように全ての指の間接を曲げて拳を作りだした。
竜の視線はつい今しがた、軽い“挨拶”で無残な死体になりかけている異形を映し、それがまだ生きている事を確認してから容赦なく追撃にかかる。





竜は腰を捻り、腕を曲げ、歴戦の格闘家がそうするように全身の体重と筋肉を総動員させた一撃を放つ。
そこには一片の慈悲も容赦もない。
莫大な質量と速度に加え、更にエーギルによる強化まで施された剛拳は、それ一つで兵器となる。





着弾の瞬間、ナバタは揺れた。
眼に見えないさざ波が空間を伝わり、ミスルを駆け抜け、そして隔離された異界全土に微細な亀裂を与える。




音を遥かに超えた速度で振りぬかれた拳は、大地の奥底にまで深々と突き刺さり、異形の筋肉繊維がぶちぶちと断裂し、砕け、燃え上がった。
流星の着弾地点よりも数段巨大で、深い窪みが地すべりの音と共に大地に深々と穿たれる。
異形の巨体が直接叩き込まれた衝撃を逃しきれずに、バラバラに砕かれながら深く、深く埋没していく。







膨大な砂を溶かしつくし、悲鳴さえ上げられず怪物は沈む。
悠久の黄砂を抉り取り、大地の奥底まで。



単純な拳が生み出した衝撃は容易く地形を破壊し、大規模な地図の書き換えを行わなければならない程の惨状を産み出す。
余りの威力により、周囲の空気さえもはじき出され、一瞬そこは真空となり、次の瞬間には無理やり圧縮された空気が音を超えた速度で振り下ろされた拳が瞬間的に摩擦で産み出した熱を受け、沸騰した。



小さな山程度ならばすっぽりと収まってしまいそうな程に深い穴の底に強制的に埋没させられた異形に対し次に襲い掛かるのは砂である。
急速に熱せられた空気が耐え切れずに爆発し、無数の砂山を破壊して空に巻き上げる。
すると神竜は付近の“場”を操作して舞い上がった砂を集め、そして異形に浴びせかけた。




水が穴の底に流れ込むように、小島を作れるほどの量の砂が轟音を立てて流動する。
嵐による豪雨もかくやという勢いで異形を中心としてミスルに開けられた巨大なクレーターが見る見ると埋まっていく。
砂の勢いは凄まじく、砕けた肉体と肉片でもがく異形の事など関係ないとその身体を生きたまま土葬する。



だが。




『っッ────!!』




異形は吼える。重低音の様であり、断末魔の叫びの様な悲鳴で。
発せられる音波が砂を吹き飛ばし、砂漠の中央に巨大な砂柱を創りだした。







何故? なぜ? ナゼ?






異形の腐食した思考回路でも今の状態が異常なのは判る。
ころころと流動する砂の大津波の中でも何とか潰れずに飛び出た目玉はまだ機能を失っておらず、視神経もないというのに瞳孔が窄められ、空へと向けられる。




異形の眼は砂埃など問題にせず、そこに何があるのかを見定め……驚愕する。
そこにいるのは神竜。イデアだ。目の前で自分を見下ろすように空に浮かんでいる。



そして間違いなくこの身を押しつぶしたのも神竜。一体、どういうことだと。
どうして、目の前にイデアが居たというのに、自分は背後から、まるで羽虫がそうされるように惨めに押しつぶされているのか。



視線を巡らせる。いつか夢で見たイデアがしたように全方位を“見て”回り……複数の砂上に転がった眼球は間違いなく見た。





この奇跡を目の当たりにし、瞼こそないが、瞳孔を大きく見開き最大の驚愕を味わう。



そして絶望など生ぬるい、神竜の本気の殺意を間違いなく混沌は感じ取った。




イデアが“もう一柱”そこには、いた。
黄金色の竜殻も、この世に並ぶモノなき聖剣の如き神爪も、何もかもが同じ。




二柱の竜が、並んで混沌を見下ろしている。
両者とも、その圧倒的な存在感は全く変わらない。






【幻影創造・写身】






人の姿の時に使えた術が、竜の姿を現して使えくなる道理などない。
外界に幻影を飛ばす際は、アクレイアの時の様に能力の劣化が発生したが、このナバタではそれはない。
真実完全な“もう一体の自分”を神竜は創りだすことさえ可能であった。





この異界を完全に支配する神竜の意思は言葉にせずとも空間を伝わり、異形に叩きつけられる。
長々と両者とも決まり手に欠けて続ける戦闘に対して、既にイデアはうんざりしてもいた。
ネルガルを屠るつもりで来たというのに、こんなわけのわからない怪物を相手に延々と千日手をしているのも非常に……不快だ。




神竜は頭の中でこの混沌の具現化を殺す手段を考えに考え、そして思い至っている。
異形のしぶとさも計算に含めて、それでもなお余りある威力で消す方法を。



無尽蔵とも言える復元能力、けた違いの攻撃能力と殲滅範囲……そして、何処までも神竜に食いつく執念。
少しばかり手こずった全てを纏めて消してやるという神竜からの宣戦布告が異形に突き刺さると、原始の混沌は今までよりも更に素早くその身をくっ付け合わせ、再生をする。
内側から吹き出すガスの様な瘴気が異形の全身を泡立たせ、更に醜悪に、おぞましく、生物として秩序を感じ取れる姿からかけ離れていく。





その身体をまるで重度の火傷でも負った人間の様に水疱瘡で覆い尽くすと混沌の質量が急速に文字通り“膨れて腫れ上がる”
水の底に沈み、息絶えた人間の姿が見るに堪えない様相を晒すのと同じく、水気を多く含む異形の姿はソレに似ていく。



貪食な異形の姿は見ているだけで精神に傷跡を残す程に醜い。
膨れ上がる力に呼応して空間がどす黒い泡の様なモノに汚染され、流れ込む砂を飲み込んでいく。
やがてクレーターの内部は先ほどの【ゲスペンスト】で呼び出された黒い水の様な物で満たされ湖となり、その中から異形は半身を表す。




神竜の眼に晒される姿はもはや醜いという領域さえ超過し、あってはならないモノとなっている。




全身にびっしりと大玉のブドウでもくっ付けたような巨大極まりない水ぶくれを創り、幾つか割れた中からは黒い腐汁を滴らせる姿。
黒く濁った汁を吹き出し、鼻を抉る様な悪臭を撒き散らす水ぶくれの「中」にはよく見れば、先ほど魔光を発射した“眼”が再生され、くっ付いている。



と、いきなり前触れもなく異形の眼がきゅぽんっとコルクを引き抜いた様な音と共に黒い身体から抜け落ちる。
視神経とも思われる真っ白い糸がピンッと伸び切り、限界を迎えて千切れるも、眼球はそれがどうしたと重力に逆らってその場に留まる。



ギョロギョロと周囲を見渡した巨大な目玉は、神竜に焦点を合わせ……。




【シャイン】




超高速で飛来する光剣によって粉々に砕けた。その後には体液さえも蒸発して何も残らない。



黙っておぞましい眼球の増殖を見逃すイデアはでない。そしてこの目玉についてもイデアは知っていた。
直接見るのは初めてだが、何度も何度も伝承の中で見かけている上に、その厄介な特性も。




これは伝承の中にのみ存在するかつての魔物……【ビグル】に瓜二つだが、今ここにあるのは原始たる混沌に直接産み出された上位種。
瞼も感情も何もなく、人間の身長程度の目玉が浮いている光景は、精神を直接かきむしる程におぞましい。




一、十、百、と何度も何度も音がなり、その度に異形の周りに浮遊する目玉の数が増える。
増える度に光剣がさく裂し、目玉が弾け、それでも混沌は眷属の創造をやめない。
全身のあらゆる箇所の水疱瘡が破裂し、子蜘蛛でも産み落とすように夥しい数の【ビグル】を創りだし続ける。




僅かに光剣から生き残ったビグルは生誕の喜びを味わうように震えると……眼球の中心に縦から一本の線が入り、そこから二つに裂け始める。
後は受精した蛙の卵が無数の細胞に分裂するように、幾つもの球体に増殖し、もう止まらない。



一体の【ビグル】はほんの僅かな……それこそ一瞬と言っても差し支えのない速度で数十にまで増えていた。
ぎょろぎょろと無数の兄弟たちが混沌を守る様に飛び回り、2柱の竜に対してその視線を向けている。




こんな生き物は存在しないし、してはならない。
ただ、そこにあるだけで全ての命という概念を冒涜している。



きっと、この光景を見たあらゆる存在はそう思う事だろう。





【アイ・ビーム】




全方位に向けて混沌は魔光を乱射する。周囲に展開された【ビグル】達が追従する形で本体の十倍以上もの量の光を吐き出した。
一欠けらも隙間もないように、びっしりと空間を埋め尽くし、腐敗を撃ちだす。
先ほどよりも太く、早く、そして数も多い魔光は一つの眼から何十もの線を伸ばしている。




ミスルの秩序が産み出す【竜呪】は確かに効果を発揮している。
だが、混沌はそれをも力技で押しのけようとしていた。
基礎的な力を制限されるならば、もっと技の威力を上げればいいと。





黒い閃光が空を埋め尽くす【シャイン】を次々と打ち砕く。
光剣の数は先ほどの小手調べで放った量と同等かそれ以上だが【ビグル】の増殖はとまらず、そこから生み出される暗黒の魔弾は増え続ける。




【『ァぃァあァでああ…ァ…………』】




うめき声さえ無残に変わり、拷問で喉を潰された人間があげるような、怨嗟と悲痛が入り混じった言語でさえない雑音が零れる。



だが、神竜は更に、更に、何処までも闇の斜面を転がり落ちるネルガルと相対しつつ、そんなことはどうでもいいと動く。
もう既に計画は完成し、後は実行に移すだけ。何も問題などない。
それに……命を冒涜しているというならば、それは自分も似たようなモノだ。少なくとものその件ではこの異形に嫌悪を向けることは出来ない。






イデアと【写身】は既に計画を決めている。
生半可な力……それこそ全盛期の神将器や古代竜族魔法を用いてもこの混沌を殺しきるのは難しいと悟っている。
【竜呪】によって全体的な能力の大幅な低下はあるものの、その再生能力と不滅性だけは健在で、このまま続けても文字通り世界最後の日まで戦う事になりかねない。




だからこそ、余り積極的な攻勢には出ず、この邪悪な七変化を行う混沌を観察するようにある一定の距離を置いて彼は戦っていた。
一撃で消滅させなければ、意味などないのだ。
無駄に力を使えば使うほどにこの異形はそれに適合するために更なる変化を行うだろう。






だが…………。





それらも含めて何もかも関係ない。




イデアの脳裏に一瞬映るのは傷ついた娘の姿。
それを思うだけで、神竜の胸中にある“太陽”は爆発を強める。
感情が一気に膨れ上がり、膨大なエーギルが神竜の内部を循環し、ネルガルを完全に消すべく研ぎ澄まされていく。






──もういい。終わりだ。




イデアと【写身】は空を征く。
2柱の竜は混沌を前後で挟み込むと、高く、高く、吼えた。
地鳴りを想起させる重低音が空の彼方まで突き抜け、月にまで届く。



悲しみ、怒り、哀れみ、諦観、全てを含んだソレはイデアがネルガルへと送る鎮魂歌。
この里で共に過ごし、確かに楽しかった日々を自分の手で終わらせる為の遠吠えだった。




楽しかった。とても楽しかったのだ。
ネルガルのユーモア溢れる性格はファやソフィーヤにとてもいい影響を与えてくれたのは間違いなく、イデア自身も彼やアトスに勉学を教える事は嫌いではなかった。
時折見せる子供の様な純粋な所、子供達に笑顔で接し、どんな我がままを言われても付き合う懐の大きさ、趣味だと言っていたが、明らかに趣味の域を超えていた見事な芸術家のセンス。





そしてファやソフィーヤは間違いなくネルガルの事を好いていた。
彼に全幅の信頼を寄せて、そして……傷つけられた。






“友人”……はっきりとイデアはネルガルを友人だと認識していた。
500年前に亡くした彼の代わりには誰もなれないが、間違いなくネルガルはイデアの中で彼に準ずる友であった。



だからこそ、こうなってしまった。
友、という認識における縛りが行動を遅らせ、娘たちを傷つけ、この里への脅威を創りだした。




その結果がこれだ。
今目の前でもはや生物としての原型を留めずに蠢き狂う黒い肉と混沌の塊だ。
全て過去の話で、もう何一つ今は変わらない。






【オーラ】




光の壁が展開される。



今度は神竜を守る様に包む形ではなく、混沌をを閉じ込める様に。
雲まで届く高さのオーラが2枚、地平の果てまで創り上げられる。


さながらこれは巨大な光の牢獄。



混沌の存在する地点を基点として、それをすっぽりと覆い尽くす蓋の無い巨大な箱。
ナバタに今、この場で創造された新たな城。神竜が築き上げる竜族の砦。





天高く聳えるそれは果てしない激戦によって産まれた砂漠の夜空のオーロラにまで届き、繋がってるようでもあった。



オーラの展開と同時に放射された力の奔流に巻き込まれた無数の【ビグル】が燃え尽き、壁の強度を試すために体当たりを試みた目玉も文字通り“目玉焼き”となり、灰となる。
だが、そんな事は何も問題などなく、すぐに残った【ビグル】が増殖を開始し、瞬き数回分の時間の後には直ぐに補充されてしまう。
異形の周囲の空間を埋める様にびっしりと目玉が肉の盾となっている光景はとてもではないが精神衛生上不愉快きわまりない。




イデアが【写身】を置いて空高く飛びあがり、異形から見ても小さな砂粒程度にまで見えない程の上空に飛び去る。
同じように【写身】は本体程ではないが、その4枚の翼から生じる強大な力場を用いて、この世の何よりも素早い速度で異形の上空を旋回し始めた。




いや、竜族の本気の飛行とは、真実を言ってしまえば「飛んでいる」訳ではない。
翼より発せられる力場により“場”を掌握し、この世の法則を捻じ曲げ、あらゆる方向へと“落ちる”ようなものだ。
その“落下”時に本来ならば起こりうるであろう、空気の抵抗や、それに付随して生ずる世界への影響さえもなかった事に出来る。



神竜の視界に映っていたのは丸みを帯びた世界。延々と続く砂丘と、無数の星……そしてその先にある海。
このエレブが存在する世界も間違いなく、球体であるという事の証拠。




竜は飛行時には瞬きをしない。
1を100等分した程度の時間ではあるが、その瞬間は視界が無になるのだから。
そんな微かな時間でさえ、神竜の本気の飛行は自らの身体を地平の果てまで運んでしまう。




超高速移動時での瞬きは言ってしまえば“よそ見飛行”みたいなもの。
例えるならば全力疾走する馬に乗った騎士が、眼を瞑って馬を操ろうとしているようでもある。




大気が千切れる音と共に神竜の山程はある巨体は悠々と空を舞う。
この地の支配者として何も恐れることはなく。



見せつける様に空を駆ける【写身】に対して無数の魔光と暗黒の魔弾が射られるが、それらは何一つ当たる事はなかった。
何もかもが遅い。イデアの影さえ魔弾は踏む事は出来ない。




竜はその翼を誇る様に更に速度を上げ、音を遥かに置き去りにする次元で飛翔する。
一瞬で神竜の姿はその巨体を遥かナバタの果てにまで移動させる。地平の果て、海の向こう側まで。



【写身】のイデアは目まぐるしく立体的に移り変わる視界の中で、全てを捉えていた。
本体の思惑も、自分の残像を必死に打ち抜こうと足掻く異形も、そしてこれから自分がやろうとしていることも。




竜は翼が齎す“場”の制御能力を僅かだけ攻撃に転嫁する。
今まで無効にしていた大気への影響を意識的に切り替え、頭の中に直接伝わる空気と気圧、衝撃波の関係を操作していく。




加速、加速、加速──突破、発生、操作。




竜が黄金の化物の真上を飛翔すると、一瞬遅れて大気が歪んだ。真っ白な蒸気の様なモノが神竜を包み、刹那の後にそれは消え去る。。
それは不可視の現象であったが、眼をよく凝らせば空間に破壊を齎す“波”が通り抜け、大気中に満ちる砂埃がそれに触れて跡形なく消える事だけは見えただろう。




本来発生するはずであった、物体が音を置き去りにして飛んだ際に産まれる破壊が全方位ではなく、一定の方向へと揃えられて空気中を走る。
その威力は何十倍にも乗数的に跳ね上がり、箱という疑似的な密閉の構造は更に衝撃波の威力を高める。
音もなく収縮する大気が産み出す「圧」は黄金の箱の淵を舐める様にそっていき、ボールが穴に落下するように底へ、底へとその威力を増幅させながら伝わり、目玉でぎゅぎゅうづめとなって蠢く混沌に対して炸裂した。




ぐしゃぁ、と人間に踏みつぶされた蟲の様に異形と行き場もない程に溢れていた【ビグル】の軍団は醜く大地にへばりつき、体液を黒海に擦りつける。
全身にさざ波が走り、増殖させすぎてしまった自らの眷属たちによって押しつぶされながら混沌は全身の眼球に力を込めて、暗黒の“穴”を身体の周囲に創造し、その中に魔弾と魔光を撃ち込んだ。




空間超過攻撃ならば距離など関係ない。先ほど人間体のイデアをずたぼろにしたのと同じ光景を繰り返してやると。
音を遥か置き去りにする速度で飛翔する【写身】を大きく取り囲むように、全方位、遠近無視で数えきれないほどの“穴”が空間にこじ開けられる。
秒の時間で地平の果てまで移動する神竜を逃さないと数十キロ先まで“場”が溶け、ドロドロと黒い泥によって世界の理が捻じ曲げられた。




暗黒の天体を空に幾つも顕現させた穴は、殺意の出入り口。
混沌が放った魔光と魔弾は疑似的につくられた「門」より殺意を滾らせて飛び出す。




前後左右、空中故に360度全方位逃げ場などない程に暗黒が空間を沸騰させ、竜へと向かう。
【竜呪】によって威力と速度そのものは若干落ちているが、それでもその数だけは圧倒的だ。
一撃でダメなら死ぬまで撃ち続ければいいという無尽蔵の力にモノを言わせた数の暴力。





だが、神竜は一度この光景を見ている。
既に知っている。空間に“穴”が開く際の場の僅かな揺らぎと、前触れとして漏れ出る異形の瘴気の感覚を。
視覚ではなく、このミスル半島は事実彼の身体の延長線上である故にほんの小さな揺らぎさえも直感で手に取るように把握できる。





死が、視界に満ちる中、神竜の心に恐怖はない。
胸は燃え上がり、思考は研ぎ澄まされている。




今の彼は本来の自分を解放した状態。
窮屈極まりない人の姿という“衣”を脱ぎ捨て、全力の戦闘を行うために竜の姿を晒した。
その探知能力は人間時を遥かに凌駕している。




竜の優れた直感は究極と呼ばれる域までに高まり、疑似的な未来予知さえやってのける。
ソフィーヤが行う遥か彼方の未来ではなく、これからほんの先、何が、どう起こるかを【見切り】万象全てが神竜の掌の上に転がり落ち、頭を垂らす。




翼を折り畳み、自らの身体を一本の矢の様にする。
猛禽類が空から急降下する際に見せる姿の様な、矢じりと同じ姿に。
そのまま竜は翼からの力場の力を更に強め、加速しながらくるくるとその巨体を回転させる。



竜はまるで何でもないかの様に殺意の嵐の中を飛んでいく。
そうしている間にも次々と空間に黒い穴が開き、何百単位で魔光と魔弾が補充されていくが、一つとして神竜には当たらない。
どれだけ異形とその眷属が狙いを定めようと、進行方向を予想しようと、神竜はまるで子供が遊んでいるかの様な気楽さでその全てを紙一重で回避してしまう。




あと、僅か、あと、少し………ほんの誤差程度だが、それでも当たらない。
外れる確率が限りなく0に近くとも、その果てにある“1”を神竜は手繰り寄せ、現実へと変える。






『────ッッ!!』




異形の憎悪が更に乗数的に跳ね上がり、その体内で稲妻を帯びたちっぽけな欠片が更に無尽の混沌を飲み干す。
夜空の闇が落ちた。全ての星の灯が消え去り、月も消え、代わりにあるのは夥しい数となり、全天を埋め尽くす空間の穴。
空の星を飲み干し、海の砂よりも多い悪意と殺意の出入り口。





そして、空から光が墜落した。
舞台に幕を落した様に、滝の水が堕ちる様に、豪雨が視界を埋める様に、暗黒が今までにない規模、圧倒的な壁として神竜とその周囲の全てを纏めて押しつぶそうとする。




神竜は飛行を一瞬で、何の前動作もなく当然の様に停止させると、その爪に対して【オーラ】を纏わせ、剣として伸ばす。
人で言う手刀の形を取ったイデアの爪に黄金が宿り、それは一本の長剣の様な形を取って固定化される。
竜の神爪という最高の物質を媒体に、竜のエーギルと意思によって編み込まれた光剣は先ほど乱射したシャインとは次元の違う威力と射程を有する竜の剣となりここにある。




【ファルシオン】




それは、数多くあるおとぎ話の中の勇者たちの中でも最も偉大と称される英雄王が振るった神剣の名前。
更に語るならば、その英雄王の物語から派生した作品の中でも登場し、荒ぶる神を鎮めた“封印の剣”でもあった。
鎮めた神の名前は三文字で称される邪神。力と欲望を司る神。原始の混沌の権化とも称された片割れ。




いつ、だれが、どこで、書いたかさえ不明の物語はいつの間にか竜の知識の溜り場にあり、そして数多くの人に愛され、今も続いている。




そんな偉大な物語が、ここで今、再現されようとしていた。





竜のたった一本の牙から作られた剣は数千年経っても決して朽ちず、邪悪を滅する力を持っていたという逸話がある。
ならば、神竜の5本の爪をベースに今なお増幅する“太陽”の熱とエーギルを込められて編み出されたコレにどれほどの破壊力があるのかは未知数。




ただ一回、神竜は、自らの爪に宿した“始まりの伝説”を振るった。



瞬間、その【ファルシオン】を構成する光が伸び───そして暗黒の壁を軽々と弾き飛ばした。
羽虫が大火に飛び込んだら、瞬時に弾ける様に。



それだけにはとどまらない。【ファルシオン】は更に爆発的に輝きを増し、その刀身を竜の意思が続く限り何処までも巨大化させる。
空に開いていた暗黒の穴を何千単位でまとめて貫き、刀身は空間さえ超える。
竜の望む先、認識さえ出来れば何処にいようと意味はない。





『───ギ、ぁいぃあぁぁァァあああアゥォォォオアァァ!!!!!』




ぶっち、ん、と無数の【ビグル】が消え去り、異形の身体の中心あたりに裁きが突き刺さる。
異形が身を沈めていた黒海は、暴力的な光により照らし出され、秒ももたずに蒸発してしまう。




向こうからイデアに送れたのだ。その逆が出来ないはずはない。
自らが開けた空間超過の穴から突き出された【ファルシオン】に串刺しにされ、異形はもがくが、どんなに暴れようと【ファルシオン】は異形を串刺しに、埋まったまま抜けない。
【トロン】などとは比べ物にならない程の絶大なエーギルと、イデアの意思を混ぜ合わされて作られる神剣は、決して邪悪の存在を許さない。




神竜は突き刺さる光剣を通して異形の内部を“見た”
荒れ狂う天雷、力に変換される闇、そして……底知れない程の絶望と、喪失感。
ネルガルという男が抱いていたこの負の感情こそが、彼を神将に匹敵する術者にまで押し上げた原動力だったのだと。



見て、知って……一瞬だけ共感に近い感情がまた湧き出すが、すぐにそれは消えた。
お前が何を失ったかは知らない。お前が何に絶望しているのかもわからない。






異形の体内で今なお混沌を啜る小さな悪意の欠片に神竜のエーギルが廃滅の意思と共に注がれ、その内部で壊れろと暴れ狂う。
外部のおぞましい化物の姿を幾ら壊しても無駄ならば、その中で無尽の活力を創り出す心臓を抉ればよいと神竜は混沌の内部に“眼”を通し、見つけた弱点を容赦なく抉る。





『いたイ、いたァい、イタぁぁぃぃ…………!!』




傷口さえ再生できず、存在の本質まで焼かれる苦痛の中、異形は明らかに今までとは違う種類の悲鳴をあげて悶える。
バラバラにされようと、稲妻で体内を焼かれようと、全く意に介さず意味不明の呻きを上げていた異形が始めてすすり泣く様な声をあげた。
怪物の全身の目玉が血走り、グルグルと視点を彷徨わせて、最後は白濁とした。





【竜呪】




ナバタの“秩序”が【ファルシオン】を通して直接体内に打ち込まれる。
先ほどの【竜呪】が外側から縛る鎖だとするならば、これは体内からその存在の本質……エーギルまで打ち込まれる楔。
更に容赦なく異形の力を神竜は削り取り、縛り上げ、万に一つの抵抗も許さず、滅びへの階段を昇りつめさせる。




神竜が意思を送ると【ファルシオン】の刀身が縮む。その先に串刺しにした異形の身体もろとも。
漁師が魚を捕えた網を引き揚げていく様に、異形の身体は無理やり空中に引っ張り上げられ、自分で開いた空間の穴の中に引きずり込まれる。




硝子が砕けるような破砕音と共に空間を割り砕きながら、異形は宙に晒される。
じたばたと全身のあらゆる所から新たに生やした腕を振り回す姿を、神竜は研究者が蟲でも観察するような冷ややかな目で見つめ……ファルシオンを大きく上に振った。
すると、どれほど暴れようと決して抜けることがなかった刀身は、呆気ない程簡単に異形の身体から引き抜け、同時に混沌は空を舞う事になる。



理不尽なまでの力で異形は天高く放り投げられ、雲を超え、星に届くのではと思える程の速度で全く減速せずに、ぐるぐると巨体を回転させて空を舞う。
やがて上昇の速度が少しずつ落ち着いてくると、異形の視界に入ったのは……【写身】ではない、もう一体のイデア。




異形が咄嗟に魔弾と魔光をばら撒くが、神竜に着弾する直前で不自然な軌道に捻じ曲げられ、あらぬ方向へと飛んでいく。
神竜は【オーラ】さえも展開していないというのに、まるで“場”がねじ曲がっているかの如く、攻撃が届かない。





物音一つ立てず、ただそこにあるだけの竜からは激しさや、敵意など微塵も感じない。
ただ、竜は、4枚の翼を大きく伸ばし、その形状を変える。
全力で体内を循環するエーギルを攻撃に転嫁し、この余りに長引いた戦いに完全に幕を下ろすために。




ネルガルが憧れた竜の力……現状での自らの最高火力を以て彼を葬り、それを友だった存在への土産とするため。
何一つ残さない。存在の痕跡さえ消し去る最大最強の一撃を与える。
この数百年一度も発揮されなかった竜の全力が、今、ここで、発揮されようとしていた。




神竜の翼が、剣となった。かつて飛竜の群れを駆除した時の様に。
翼膜が消え、鋭く鋭利な形状になった神竜の翼が帯電する。
迸るスパークの色は最初は黄色、次に赤、そして最後は輝く黄金色へと移り変わり、その度に鳴り響く音は重く低くなった。




空に昇った竜は今まで竜族の言語で詠唱を行っていた。
完全さえ超えた形で、古代の極大魔法を発動させ、行使するために。




それは今、完成し、偉大なる結果が顕現する。





【ルーチェ】 【ギガスカリバー】 【オーラ】 




“分解” “切断” “拒絶” の術が同時に発動し、それらは神域さえ超えた叡智と技の前に混ざり合う。





竜の頭部のすぐ前に、太陽の如く輝く神々しい球体が出現する。
完全なる球体として顕現したソレに対し、神竜は躊躇うことなく莫大なエーギルと廃滅の意思を込めて完成させていく。
常人換算で何人分等という、もはやそういった測定という行為が破綻するほどエーギルを込められた球体の周囲の“場”が歪み、それは大きく全方向へ広がり始めた。



眼に見える程の“場”の揺らぎと“ズレ”が、ミスルの空を瞬く間に覆っていく。
空に断裂が駆け抜け、悲鳴をあげる空間から連想されるのはかつてあった世界の終わり【終末の冬】……。
膨大な竜の魔力と全盛の神将器全てがぶつかり合い発生したソレを、イデアはたった一柱で引き起こしかけていた。






マズい、と自らが逃避するために空間に再び“穴”を展開しようとした異形の動きが、凍り付く様に停止し、全ての空間への干渉が不可能になる。
冷気魔法【フィンブル】をその身に受けた様な有様だが、怪物の身体は物理的に凍り付いてなどいない。
そもそもこの怪物は寒いという感覚など存在せず、例え全身を氷河に沈められようと凍り付くことなどはありえないのだ。




だが、確かに今、異形は凍結されたように動けず、今まで好き勝手に振り回していた無尽の力を振う事さえ出来ない。





【フリーズ】




体内に打ち込まれた【竜呪】を通して発動される行動停止の術が異形を内部から縛り上げる。
動くな、大人しく待っていろ、という竜の囁きを異形は確かに聞いた。




『─────っッっ!!』





異形の全ての眼が今も神竜の前で不気味に輝き続ける「玉」に釘づけになる。
あれの完成は、完全なる終わりを意味しているというのに、どんなに願おうと異形の身体は細胞単位で縛られ、動かすことが出来ない。
彼に出来るのは死刑執行の瞬間まで、何もできず、ただ、見惚れるだけ。




光は更に強くなっていく。
竜の頭部程度の大きさでしかない球体は神竜がこの世に創造した……“破滅の太陽”としてその神威を撒き散らす。




ここは隔離された異界。本来ならばここで何をしようと外部には何も漏れるはずはない。
なのに……空間そのものをエレブから切り離しているというのに、イデアが創る破滅はそんな条理さえ覆し、空間を歪ませ、破壊し、漏れ出たほんの一部の力がエレブへと影響を与える。
大陸中の全ての雲がナバタに引き寄せられ巨大な渦を作り上げ、大地は地震と共に低く唸り、その内部で脈動する『竜脈』でさえ、遥か彼方で収束する膨大な力に影響を受けて暴れ狂う。




ただそこにあるだけ、まだ何も外部に影響を与える為の意思を得ていないというのにその太陽はそこにあるだけで全てを焼き、滅びをばら撒いている。
“場”も、命も、存在も、水、空気、光、そして混沌でさえ例外ではなく消す。そうだ、これは“終わり”そのもの。
これを完成させてしまった時点で異形は終わっていた。




【秩序】の権化である神竜が滅びを望み、それを実現させる存在を作り上げた。
この事実が齎す意味と、産み出す結果は人智を超えている。




神の裁き? 必殺攻撃? 極大魔法? 否、否、全く足りない。
かつてのナーガが参戦した神話の闘争ではエレブ以外も多数存在していた全ての大陸が跡形もなく消えてなくなった。
その際に行使された力の一つに届きうる破滅がこの場に再現されてしまった。




大陸が消える。言葉や文字にして書けばそれは短い羅列でしかない。
だがそれは人の想像の遥か彼方にある“災厄”であり、もっと言えば世界の終わりだ。




そんな絶対の“力”が、たった一つの存在に向けて放たれようとしている。





………神竜イデアの口がゆっくりと、異形の前で見せつける様に開かれていく。





一対の視線が異形を見て、混沌も神竜を見て………。





『ぇ…………な…………





異形の呟きは途中で打ち切られた。




“太陽”が【ブレス】と同時に光に匹敵する速度で発射され、まずはその破壊の余波が閃光として射線上の空間を混沌もろとも無遠慮に掻きむしった。
世界が絶対の前に塗りつぶされる。世の根幹は膝を屈し、かつてこのエレブの根源を組み直した力に頭を垂らし、勝利を捧げたのだ。
空間が文字通り消滅し、その場にあったモノはこの世の絶対の法則でもある形態変化としての質量の保存さえ出来ずに完全に“消滅”する。




そうだ、完璧に消えたのだ。形態変化としての水が雲になり、雨となるのではない。
0になりそれが存在していた場所にあるのは「無」だけという本来この世でありえないことが起こってしまった。




破壊は止まらない。このブレスという名前の光の線による滅却など、ただの先触れだ。
光が太陽の射線軸の空間を綺麗に掃除すると、整えられたその道を次は“太陽”が堂々と全てを滅し、征服していく。




“太陽”の通った射線にあるモノ何もかもが消えていく。
この瞬間、僅かであるが確かにエレブという世界の“質量”の絶対数は減少した。
“太陽”が異形を飲み込む刹那、ナニカが異形を庇うように転移して飛び込むが、そんな存在は1を万分の1に分割した程度の時間も持たずに混沌もろとも塗りつぶされた。





“黒”はほんの僅かな時間だけ“太陽”に拮抗したが、直ぐに飲み込まれ、消える。
最後の悲鳴の様に迸るちっぽけな天雷の稲妻も刹那の後に消え去り、かつてのテュルバンが掲げていた強者による蹂躙をその身で体現する事となった。




破滅の権化である球体は何もかもを消し去りながら、いともたやすく隔離異界の異相のずれた“場”さえも穿ち、飛んでいく。
夥しい量の海水を瞬時に消滅させ、けん引した雲で創りだされた巨大な渦を軽々と吹き飛ばし、星から発せられる重力さえも振り切り、夜空の彼方へと消え去った。




天地が断ち切られ、世界は一瞬無音になった。
全ての音が消え去り、今まであった激しい戦いが嘘の様な美しい静寂が全てを包む。



後に残るのはに残るのは一本の虚空に刻まれた“線”のみ。それが果てなく続いている。
海は真っ二つに、まるで渓谷の様に断ち切られ、海底を晒す海水はまるで壁の様にそそり立っていた。
天は全ての雲が消え、異界の外側にある夜空の星々の星の場所を移す空間が消えた事により空は“ズレ”てしまっている。




恐ろしい程に熟達した剣士に切られた者は、自らが切られたことにさえ気付かないという──今の状況は、まさしくソレだった。
自らが切り裂かれたと認識した万象が、弾ける。空間そのものが、消えた場所を押しつぶすように流れ込む。“太陽”の射線上に、順を追って何度も何度も。
空間が存在しない場所などあってはならない。故に世界は当然の様に今ある空間で以て、抉り取られた場所を補修する。





その際に発生する超規模の質量の移動が轟音を伴い、爆発を繰り返し巨大な火柱を上げた。




イデアは自らが齎した破壊を沈黙し、見つめている。
何も彼の前にはいない。消えた、消した、殺した。
自分が、自分の殺意で、間違いなく。




神竜は咆えた。
巨大な“泣き声”をミスル全土へと叩き付けるように上げた。
酔いはない、勝利の愉悦もない。あったのは虚無感だけだ。





虚無はぽっかりと穴をあけ、やがてそこが鈍く痛み出す。
この苦痛をイデアはよく知っている。






500年ぶりにその身を蝕んだのは……………。








あとがき



これにて前日譚編の大筋は完結になります。
今回、やりたい事を全部ぶちこんでいったら、どんどんインフレし、更に文章量が膨み続けて困りましたw



次はまた幕間を挟み、各キャラの補足をしてから、遂に烈火への序章となります。
本当に長かったです、やっとここまで来れました。




IFも発売され、この機に更に多くの人にFEシリーズを知ってもらうために、これからも頑張っていきます。



では、皆様、次回の更新にてお会いしましょう。





[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 7 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630
Date: 2015/12/10 00:58


全てが終わり、玉座の間に戻ったイデアはアトスと向かい合っていた。
滔々と流れる清水の音が響く空間の中、大賢者と竜は向かい合い、互いにかける言葉を探しあっている。
どちらともなく、何を言えばいいか、何処から話せばいいかを探り合いを続け、結果無言のまま時は流れてしまう。




そして今、この場にいるのはアトスとイデアだけだ。
フレイ、メディアン、アンナ等は思ったよりも激しい傷跡を残してしまった戦場跡の隠ぺいや、里を覆う結界の再調整などにかかりっきりで今この場にはいない。
そして何より……彼らは直感で判っていたのだ。イデアとアトスが二人っきりで、本当の意味で腹を割って話す時が来たのだと。





イデアは玉座に腰かけ、たった今全力で戦闘をしてきたというのに全く疲れた様子も見せずにアトスを見つめている。
胸の中で燃えたぎる“太陽”は未だに熱を放出し続け、更なる活力をイデアに齎すが、戦闘は終わった今となってはもはやこれだけの力は邪魔でしかない。
もしかしたら、今の自分は第三者からみれば、とても近寄りがたい雰囲気を発しており、それのせいでアトスは何も言わないのかもしれないとイデアは思った。




竜は諦めた様にため息を吐くと、単刀直入に口火を切った。
ここでは自分が主であり、主導権を握るべきなのは自分なのだと気が付いた故に。




「アルマーズの件だな?」





アルマーズ。数百年も昔に砕かれたというのに、未だに濃い影を落とし続ける異形の神将器。
イデアにとっては忘れがたい苦痛と、勝利の愉悦に酔いかけた過ちの記憶。
そして、そこから当然の様に引き戻してくれた彼の尊さを思い知る思いで。




だが、アトスにとっては違う。
彼はイデアよりも深く、何倍もアルマーズとテュルバンの事を知っている。
人外がひしめき合い、この世の地獄と終焉を創りだした戦役で戦友が振るった力の一つ。




間違いなく彼はネルガルとの戦いを見ていただろう。
そしてアルマーズの欠片を見た。見て、何を思ったかは判らない。




思えば最初からイデアの中には確信染みたモノもあった。
これはアトスとネルガル、二人と出会ってから薄々気が付いていたことだ。
確かに大賢者アトスならばいずれ自力で里を見つける事も出来ただろう。




だが、その切っ掛けは何なのだろうか、と。
まさか、最初から「竜の里が何処かにあるはずだから探そう」なんていう考えは、彼がここを見つけた時の反応からしてありえない。
ならば彼が世界中を旅し、自分たちを探そうとした切っ掛けがあるはずだ。




切っ掛けだ。
何故、この辺境にわざわざ足を向け、あんな面倒な調査をしたのか。



そして、イデアの知る限り、自分がエレブの外界に対して明確に尻尾を出した事は二度しかない。
一つはアルマーズの奪取。そしてもう一つはメディアンによる賊の大規模な征伐だ。
更に彼が神将だという事を考慮すれば、答えは自ずと一つに絞られる。



「お主、だったのだな……テュルバンを倒し、アルマーズを持ち去ったのは」



「そうだ。500年前……俺がテュルバンを殺して、【天雷の斧】を奪った。俺が、お前の戦友を殺したんだ」



そうか、とアトスは自らの髭を弄りながら瞳を閉じた。
彼の懐にある【業火の理】を考えれば、ある程度神将器同士でのつながりを手掛かりに捜せたとしても不思議ではない。
やがて、アトスの中で考えがまとまったのか、彼は眼を開け、小さく息を漏らす。




「……以前、戦役の際の話をしたな?」



淡々とアトスは語っていく。数百年前の物事の裏を。
戦役が終わり、獲物を失った怪物が何をしたか。



「恐らく既に知っているとは思うが、あの戦役の終結後、テュルバンはよりにもよって我らの仲間の一人を襲った。
 ……共に戦い、何度も命を救ってくれたバリガンを、奴は己の欲望で殺そうとしたのだ」



アトスの眼には暗い感情が宿っている。流れ出す嫌悪を彼は気にも留めず、言葉を続けた。



「竜族の保有する知識だけを求めて戦争に参加したわしも人の事は言えんがな。
 だが……少なくとも自らの欲望を優先し、友にさえ手を出した奴とは違う、絶対に」




いや、そもそもテュルバンの中には自分と自分に狩られる獲物という区別しかなく、彼にとっては友でさえなかったのかもしれない。




戦役の最中にもあの男は幾度も問題を起こしてきた、味方を巻き添えにしての神将器の力の行使、物資不足となれば近場の住人を虐殺しての調達、口減らしと称しての自軍内のけが人、病人の大量殺害。
女子供を何処からか拉致してきては、おそらくは親族同士のそのもの達を殺しあわせてそれを己の肴にし
気に入った女がいたら無理やり犯し、飽きたらゴミの様に部下どもの性欲処理の道具と成したり、あげればキリがない。



挙句の果てにはかつての戦友さえ殺そうとした化け物。
正直、竜よりもよほどテュルバンは異常な怪物だった。
理性なき怪物だ。


ハノンの顔がアトスの脳内で浮かんだ。彼女もはっきりとテュルバンに対して嫌悪を抱いていた。
何度も何度も、軍内部で対立しそうになっていたのもアトスは見ている。



「イデアよ、わしはここに来てから本当に満たされている。それは、ここにある知識が素晴らしいだけではない」



知識の素晴らしさを否定しない所が何処までもアトスであった。
そんな彼に対してイデアは先を促すように沈黙で答える。



アトスはネルガルの様な芸術家ではない。
彼は何処までも知識を求める一人の男であり、故にネルガルの様な気取った言い方は出来ない。
だからこそ、彼はかつての友が残した表現を使う。



この地を愛し、歪み、狂った彼に対して想いを馳せながら。




「ここが真の意味で“理想郷”だからだ」




アトスは瞑目した。彼の脳裏にあるのは戦役で戦った化け物たち。
尾の一撃で山ごと人を薙ぎ払い、腕を振えば地が砕け、口を開けば吐息で万物を滅ぼした絶対の災厄。
災厄と共存など不可能だと彼は思っていた。何気ない軽い動作一つで国を亡ぼす存在など、生き物ではなく、形を持った滅びだと。




大賢者の中では竜は人格をもった“個人”ではなかったのだ。
もっと荒々しく抽象的で、災害という人には抗えない絶望の擬人化でさえあった。
嵐が山を削ぎ、海を割り、火山が空を漆黒に染めるのと同じく竜はその存在で人を虫けらのように踏みつぶすと。



怪物……正にアトスが抱いていた竜への幻想は“個人”ではなく災厄そのものである怪物であった。




人は同じ人同士でさえ争うというのに、どうして隣人に巨大な怪物を置くことが出来るというのだ?
これは彼が戦役を通して抱いた考えであり、ここを見つけるまで抱いていた不変の真理でもあった。



誤魔化すことは出来ない。
彼の魔道への路の始まりは、思えば「竜」という偉大なる先駆者の後を追い、その背を刺すためにあったのかもしれないのだから。




だが……この“理想郷”は彼に違う可能性を見せた。
彼の中の「ありえない」を軽々とひっくり返し、常識を破壊し、新たな未来を彼に感じ取らせたのだ。



アトスは知らなかった。
竜族が料理を作ってくれるなど。屈託のない笑顔で、まるで孫が祖父にそうするように親しみを込めて名を呼んでくれるなど。


アトスは知らなかった。
彼らにも家族があり、愛する存在があって、友がいて、夜通し語り明かせる学者仲間がいたなど。


アトスは知った。
竜は絶対の悪ではない。災厄の擬人化でもない。自分たちと同じように心を持ち、喜怒哀楽を備えた生き物だと。



これにもっと早く気付く機会はあったはずだというのに。
伝承の中の『魔竜』が元はかつての竜族のやり方に反発を抱いていたが結局利用されてしまった存在だと判明した時に。
当時の彼はそんなことはどうでもいいとさえ思っていた節があった。


何故、ハノンがあそこまで魔竜の殺害に反対し、ハルトムートから半ば奪うように封印の剣を借り受けて魔竜を封じたのか今の彼には判る。
彼女は知っていたのだ。竜が災厄ではなく、共に歩めたかもしれないこの世界に産まれた同胞であると。


アトスはかつて見た。ハノンの脳裏に焼き付けられた姿を。力を。
一目で理解した。アレは産まれた時点で全てが終わる存在だと。
今のエレブには居ない。これからも産まれるかは判らない。




何故ハノンがアレを見ていたのか。全て判らない。
だが、今の彼にならあの時より多くの事が判る。
必要だったのは、ただ知識を貯めこむ事ではなかった。



一度立ち止まり、周りを見渡し、視野を広げ、それでも見えない部分を代わりに見てくれる大勢の仲間と共に歩むことだった。
この“理想郷”がある限り、あの“怪物”が現れる事はないと彼は朧に理解している。



“ここ”ではない何処かの存在は“ここ”には産まれない。



そして、今アトスの前には“友”がいる。
外見こそ少年だが、500年の歳月を生きた神竜が。
彼もまた、ついさっきもう一人の“友”をその手で殺してきた。



どう言いつくろおうとそれは変わらない。
「イデアはネルガルを殺した」という短い文の羅列に全てが収まってしまう。



結果だけ見ればテュルバンがバリガンを殺そうとしたのと同じだ。
違うのは、バリガンは殺されなかったが、ネルガルは死んだ。




……違うのだ。全く違う。
アトスは逃げ、イデアは長としての責務を果たした。テュルバンは獣の衝動に駆られて暴走した。
本当は言うべきだった。自分もネルガルの説得と……処刑に立ち会うと。




正直、あの神話を再現した闘いの中に自分が混ざろうと何も意味はなかったと認めざるを得ないが、アトスは少なくともネルガルをここに招いた責任を取るべきだった。




イデアは強い。
今までアトスが見てきた存在の中で、単純な“個”の能力だけをみればハルトムートや『魔竜』さえ大きく超えている。
外見からは想像できない程の知識量とそれを運用する知恵と経験、戦闘の主導権を軽々と奪う狡猾さ、常に余裕を以て相手だけではなくありとあらゆる全てを利用して勝利を手に入れる大胆さ。


その全てをアトスはついさっき見たばかりだ。
天変地異を巻き起こし、二転三転する戦場の中でも神竜は常に思考を巡らせ、最後は天地を断ち切る程の奇跡を以て勝利に吠えた。



神竜としての偉大なる“力”を抜きにしても、彼は強かった。この数年彼を見ていたアトスには断言できる。
イデアは微笑をする。そしてまるで人間の様にため息を吐き、時折冗談を口にし、どんな苦難が来ようと逃げずに立ち向かい、仲間と共に最後は自らの望む平穏を掴みとる男だ。
現に今も、ネルガルを殺して何も感じていないわけはないというのに、そんな様子は全く感じさせず、玉座に堂々と腰かけ、神としての厳粛な態度を見せている。



その上で彼はとても友達思いだとアトスは知っている。
ネルガルの件でも、彼は最後の最後まで彼を信じていた。
娘を奪われかけたというのに慈悲さえかけ、最後のチャンスを与えもした。



そんな彼が、イデアが、本来は絶対に知られたくないであろう事実を話してくれた。
自らが竜であり、この里にも大勢の竜が存在しているというのに『業火の理』を託してくれた。
それがどれほど重い決断か理解できないほどにアトスは耄碌はしていない。



アトスは言葉を紡ぐ。始まりの時に言われた言葉を。
あの時と似ている様で、全く変わってしまった今だが……何もかもが悪い方向に変わってしまったわけではないのだから。



「そうだな…………では、少し話をせんか?」




アトスの顔は少年の様に輝いていた。
渾身のいたずらを披露した悪ガキの様に。
彼にとっては記憶の中にある当時のイデアの顔を再現したつもりだったが、その顔は不自然なまでに悪役染みた笑顔が張り付き、何処からどうみても怪しげな翁にしか見えない。



イデアの顔は固まった。
一瞬アトスが何を言って、何をしているのかも判らず、ぽかんと口を開けて眼をまん丸く見開く。
だが直ぐにこの翁が年甲斐もなく悪戯心を出し……その上で、今、最も自分の事を考慮してくれて出した言葉だと理解する。



イデアは苦笑した。初めて彼の顔に少しだけ、ほんの僅かな疲れが浮かぶ。
これは肉体ではなく、精神から来る疲れ。長としてのイデアと個人としてのイデア、その中間地点の顔を彼は今出している。





「降参だ。全部、何から何まで話すよ」




「降参も何も、ただ話をするだけ……だったか?」



今度こそイデアははっきりと喜色を浮かべて笑った。
玉座に座り直すと、彼は人差し指を自分の目の前……アトスの隣に向けて術を発動させる。
金色の光が弾け、イデアは一つの物体をここに持ってきた。



アトスの隣に出現したのは質素ではあるが、しっかりとクッションが仕込まれ、背もたれもついている木製の椅子。
そしてその椅子の前にはセットで小さなテーブルも置かれており、その上には焼き菓子と清水が注がれた盃が置いてある。




竜が無言で椅子を勧めると、アトスは友人と談笑でも始めるかの様な気楽さでその椅子に座った。
ふぅとイデアは意識を切り替える為に深呼吸をし、まずは何から話そうかと悩んだ。
色々と……話題が多すぎて、どこから手をつければいいか判らない。




そんな竜の様子を、アトスはまるでストレスなど感じていない様に、理知的な瞳で見つめ、待っている。
かつてイデアが授業を行った際に出した課題を、必死に解こうとする二人を見ていた時と同じく。



「……どうして、俺が【天雷の斧】を手に入れようとしたかだ」




イデアは瞼を瞑り、あの時の自分の記憶を引っ張り出す。
何百年経とうと基本劣化しない竜の記憶はそれがほんの数か月前に起こった印象的なイベントの様にイデアの脳裏で花咲く。
闘い、痛み、愉悦、そして光と帰還。



今の自分を構築する大きな要因ともなった闘い。
神竜と神将がぶつかり合ったという記号だけでは表せない深い意味があそこにはあった。
故にイデアは言葉を慎重に選ぶ。何処から言おうか、何処まで言おうか。



嘘をつくつもりも、誤魔化す気もなかったが、それでも言葉を出し渋る。
やがてイデアは意を決した。全部、と自分で言ったじゃないか、と。
アトスは既に自分に対して十分なまでの誠意を見せてくれた。ならば返さなくてはいけない。



「俺には目的がある。長としてではなく……とても個人的な。その為にあの時、ハルトムートの死を待ってアルマーズを奪ったんだ」




竜は昔話を語る様に言葉を紡ぐ。
実際ただの人間にとっては昔話に当たるほどに遠い過去の出来事なのだが、両者にとってはソレはとても身近な話題であった。
人とは桁が違う時間感覚の中で交わされる言葉の中では百年という単位がとても小さく見える。



その中でも、だが、色あせない存在は間違いなくあった。
彼が確かに居たという痕跡が、イデアの隣で何時も笑っているのだから。



ここまでとても長い道のりだった。
とても、とても。
あのぬるま湯と評すべき愛しい世界から解放され、この里に来て、そして今に至るまでをどうやって表せばいいのだろうかとイデアは早々に言葉に詰まった。



「その目的の為に神将器を手に入れようとしたはいいんだが……勢い余って壊してしまってね。回収することが出来た欠片だけがこの里で保管されていた」



イデアの言葉にアトスは眼を細めた。
この大賢者はアルマーズの事を多く知っており、当然アレがどういうモノなのかも知っている。
テュルバンとアルマーズ、その二つの存在の間に境界線はなく、土と水が混じり合って泥になったかの様に分ける事が出来ないという事も。



アルマーズを砕いたということが、どういうことか、知っている。
そしてだからこそアトスが言う言葉は「よく倒せたな」でも「激しい戦いだっただろう」でもない。
彼がもはやこの世に存在しない獣に対して思う事、そしてアレに最期を与えた存在に対して問いたい事は一つ。




「“奴”は最期に満たされたのか?」



あの戦いのみを追い求め、命を理解せず、ただ壊して蹂躙するだけだった彼が、いざ自らが蹂躙される側に回った時……果たしてソレを受け入れて満足したのかと。




アトスの言葉にイデアは肩をすくめて答えた。
あの化け物の最後をイデアは忘れてはいない。忘れられるわけがない。
大きく伸ばした腕、あの丸い瞳に並々と注ぎ込まれた殺意、全身をずたずたにされてもそんなこと意にも介さない狂気。



もはや敗北が確定し、大地に倒れ伏しながらもあの男は戦意を衰えさせることなどなかった。
狂える獣は、最後の最後まで獣であり、そこに一切の矛盾など存在しなかった。
当に人から外れ、一本の破壊斧になりはて、闘争という概念そのものにまでなった彼は、エレブで戦争が尽きることがないのと同じように、その欲望にも果てなどない。




迫りくる自らの終わりに向けても彼は自らの存在が消え失せるその時まで、本当に、一片たりとも自分の敗北など認識していなかった。
そしてイデアは彼の事をアトス程深くは知らない。
だが、彼の最後の言葉は覚えている。




「……最後まで自分と闘えって囀っていたよ」




そうか、とアトスは瞑目した。
そしてイデアは胸の中で覚悟を決めていく。
今まで絶対にばれるまいと内密にしていた自らの正体を隠すわけにはいかない。



アルマーズの話題に触れてしまった以上、もはや隠し通すのは難しくなってしまった。
“個人的な目的”という単語を出した時点で内密にするのは無理なのだ。
ならばそれは何か? と聞かれ、嘘をつくなり、誤魔化すなり色々とあるが……それはしない。



イデアはもう既に宣誓してしまったからだ。全て話すと。
そしてアトスはその言葉を信じて待ってくれているし、彼は彼なりに受け入れようとしてくれている。
アトスが示したイデアへの“信頼”……大賢者と竜でもなく、戦役時代の対立する両者でもない、一人の男と男の問題だ。



イデアは、アトスとの信頼を崩す気はない。
それはネルガルとの関係が消えてしまったからではない。
長としての打算的な考えと、イデア個人の望み、両方から来る目的であり望みである。



ふー、とイデアが大きく息を吐くと、アトスは少しばかり身じろぎし、自らのローブの襟を正す。
イデアの纏う気配の微細な変化に気が付いた彼は、姿勢を正し、改めて竜の言葉に耳を傾けた。



本当に短い間、イデアは言葉を切った。
それは本当に僅かな間だけだったが、完全なる無音と化した空間の中で、滔々と流れる清水の音だけが場で反芻する。
イデアにとっては正にこれは永遠とも言える程の長さを持った間だ。


ここから何て話そうか? どうやって切りだすべきか? アトスはどんな反応をするか?
あの、恐らくは自分も夢で垣間見た人竜戦役で地獄を創りだした戦闘竜たちの創造主の弟がイデアだとしたら、彼はどんな感情を抱くのか。
間違いなく、戦闘竜は彼を傷つけようとし、そして彼の部下や仲間を大勢殺しているのだ。



アトスは何処までも穏やかな瞳で何も言わずイデアを待っている。
無謬を具現化させたような蒼い瞳は澄み切っており、さながら穏やかな海面の様でもあった。
彼の瞳はネルガルと違い、何も変わっていない。



彼は信頼してイデアを待っている。
だからイデアは意を決した。



「魔竜イドゥンは俺の親族だ。俺の目的は、【八神将】が封じた彼女を解放してこの里に招くことだ」



簡潔に竜が絞り出した声は、まるで一日中吼え続けた獣が喋っている様にガラガラで、生気が抜けていくようでもあった。
イデアはこの言葉を頭で編み上げ、口から絞り出すことによって、自らの目的を再確認して自分に言い聞かせた。
この里の長をやっているのも、力を手に入れるのも、全ては家族との平穏の為だと、強く、強く。




この“芯”はとても重要だから。
これをなくせば、自分もネルガルと同じになってしまうかもしれない。




「ああ」



アトスの反応はそれだけだった。
彼は驚愕も、問い詰めも、ましてや怒りを浮かべることさえしない。
人竜戦役の当事者であり、英雄でもある男は魔竜の親族だと吐露したイデアに対して少なくとも表面上は何も特異な感情は抱いていない。




戦闘竜が創りだした惨禍を彼は知っている。数えきれない程の兵士が炎に呑まれたのを見て知っている。
人が唯一竜に対して優位性を誇っていた数というアドバンテージを崩され、一気に戦況がひっくり返った事も。



なのに彼の返事は「ああ」だけ。
怒りも何もなく、それでいてイデアの言葉を馬鹿にしているわけではない。
イデアがアトスの様子を伺うように彼の顔を覗き見ると、アトスは無言で懐に手を伸ばし、一本の鞘に包まれた特殊な形状の剣を取り出す。



ベルンやエトルリアで作られている剣とは全く違う形状の剣だ。
それはただ、切るという事にのみ特化され、鍛え上げられたモノ。
始めてアトスと出会った時から、彼はこれを持ち歩いていたのをイデアは知っていた。



あの時は彼女とアトスは同胞である故に、その伝手で単に譲られただけだと思ったが……彼の様子を見るに、イデアが想像していたよりも遥かに深い裏があるようだ。




まだ刀身を表した訳でもないのに、鞘の中からでさえその剣は特殊な存在感を放っている。
少しばかり通常のモノに比べて太く、恐らくは男性用と思われるコレは……サカに伝わる倭刀という種の武具。



“眼”を通してその中身を見てやると、映り込むのは穏やか草原の景色、そして流れる風。
それは草花や種を運び、水を流動させる生命の流れを可視化したような優しく、包み込んでくれる命の息吹だ。
この一本の太い倭刀には、その外見からは想像できない程に大きな意思と力が宿っている。



何百年という途方もない年月が経過したというのに、ソレは決して色あせることなくここに在り続ける。
大業物、等という言葉では言い表せない程の存在感。
武器等というちっぽけで、無骨な表現では不足してしまう芸術性と神秘性。



故に神竜は直ぐに思い出すことが出来た。
コレが何なのかを。誰がこれをもっていたかさえも。



……そうだとも、イデアはこれに見覚えがあった。
あの日、サカに姉と足を運んだ時に出会った彼女がもっていた二振りの刃の内の一つ。
その名を【ソール・カティ】と語られたコレは姉妹剣の片割れだったはずだ。




アトスはイデアの興味と、郷愁にも似たような感情が宿った視線を辿りながら、一つ一つ言葉を丁寧に編み合わせた。




「この刀は……我が友の形見であり、意思だ……彼女に託された願いがここにはある」




“彼女”……そしてエレブでは珍しい刀、それも人ならざる力を宿したソレは神竜の記憶を刺激し、あの時の思い出を鮮やかに脳裏に映し出した。




ハノン。その名前をアトスが口に出せば、神竜は目に見えて様々な感情を顔に浮かばせた。
それによってまた一つ、アトスの中で様々な情報が繋ぎ合わさっていく。
イドゥンという魔竜。その殺害に文字通り全てを掛けて反対したハノン。彼女の中にいた“怪物”と後悔。




そして目の前のイデアだ。魔竜イドゥンの親族であると言う……とてつもない力をもった竜。
ここまで全てが揃えば、例えアトスでなくともこの皮肉に満ちた運命に何らかの形で感じるモノが浮かぶはずだ。




だが………。




「彼女の願いはただ一つ。父なる天、母なる大地、そしてそこに生きる者らが平穏を謳歌して命を回す事……そこに人も竜も関係はない。ちょうど、この里が彼女の“理想”だな」




イデアの眼が一瞬も視線を逸らさずにアトスを見ていた。
色違いの紅と蒼の眼の奥は揺れに揺れているようでもあるし、鉱石の如き硬質さを備えてもいるようだ。
だが……その瞳は言葉以上に多くの事をアトスに訴え、そして彼に確信を抱かせる。




イデアが何を不安に思っているかも、アトスは悟った。
彼は大賢者であるが前に、一人の魔道士であり、そして経験豊富な人間でもある。
ネルガルという友情を抱いた存在を自らの手で滅ぼした“友”が今、こうして自分に本当の意味で全てを打ち明けた意味も、その裏にある感情も、彼は多くを読み取れた。



だからこそ、アトスはもっと判りやすく、更に簡潔に言葉で全てをまとめる。



「お主の言葉を借りるならば、戦役は500年も昔の、遥か歴史の彼方だ」



それが全て。時間にして5世紀、世代で言え十は超えている。全ては過去の悲劇でしかない。



光に抱かれ、消えた亡霊に投げかけられた言葉が、そっくりそのままイデアへと返された。
これはアトスの偽らざる本音であった。彼はもう戦役を過去の“記録”としてとらえている節がある。
日記帳に書かれた文字を読み上げ、あぁ、そういえばそんなこともあったなと思っているのに近い。




もう戦役は終わった。闘いの時は過ぎ去り、エレブからその痕跡さえも消えかけているのが現実だ。
今の時代の者は正直な話、アトスを見る眼さえも懐疑的で、本当に数百年も生きているのか? や、本当に戦役はあったのだろうか等と疑問視している。
だが、それでいい。アトスは戦役が忘れられる事に対して怒りはない。



もう終わった事なのだ。全ては。
数百年前に起こった事は既に歴史になりはて、多くの書物の中で埋もれていくだろう。
今を生きる若者達がやるべきことは過去を探ることではない。



彼らはよりよい明日の為に今日を生きればよい。




「少なくとも、わしはもうどうでもいい事だと思っておるよ。ただ……お前が家族を救いたいというならば、“応援”するだけだ」



“応援”という言葉にはただそれだけではない様々な意味が含まれており、それらは素晴らしい可能性としてイデアに差し込まれる。



その言葉にイデアが何を思ったかはアトスには判らない。だが、竜の眼は揺れていた。
余りに多くの感情と、彼の中で芽生えたこれからに関する“もしも”が花咲き、イデアを胸中から突き上げていく。
アトスが言葉にせずとも、何を言っているか判ってしまった。だからこそ、イデアはいきなり目の前に現れた可能性に戸惑い、次にそれを封じ込めた。



今回の件で彼は自分の無力さと、一歩間違えばどう転ぶか判らない魔道の恐ろしさ、そして自分の持つ知識の危険性を改めて認識したから。
何も考えなかったわけではない。知らなかった等はありえない。そして、イデアとしては十二分に配慮し、冷静に物事を進めてきてた筈だった。
だが、結果はどうだ?  二人の娘は危機に晒され、里への危険因子を産み出し、何より……素晴らしい友を彼は狂わせ、壊したのだ。



こんな情けない自分が、もしも今家族を……予定より早く里に迎え入れたらどうなる?
少なくとも外界では魔竜と恐れられ、竜族の長としてあらん限りの人の畏怖を向けられている彼女を。
恐らくはかつての竜族に利用され、平常な状態を保っていない彼女と、今のこの里、そして娘たち、全てに対して完全な選択肢を選べるのか。


やっぱり駄目だったなどという「IF」は許されない。



ここで自信をもって「出来る」と断言するほどにイデアは傲慢ではないし、そうなった時が破滅への一歩を踏み出す時でもある。
500歳という竜族にしては若すぎる神竜、青二才と称されても仕方がないイデアは、更に未来に対して慎重に行動するべきだ。
現実においては遊戯版の様に失敗したからやはりこの一手はナシで等は出来ないのだから。



だが…………一番の理由はそれではないのだろうとイデアは自己分析をしている。
ソフィーヤ、アンナ、メディアン、フレイ、アトス…………ネルガル……ファ。
今の彼の周りには仲間と新しく加わった家族がいる。



何よりたった二人で完結していた真っ白な時代とは違い、自分の一挙手一動作に影響を受ける里が今はある。



自分の居場所。そしていつか帰ってくる彼女の居場所でもある。
自分たちの手で守り、発展させ、隠さなければいけない“理想郷”がイデアの肩には重く乗しかかり、彼もそれを受け入れていた。
この地の平穏と安定こそ、神竜イデアに課せられた責務であり、そして彼自信が胸を張って生きていくために必要な義務だ。



「ありがとう」



イデアの言葉に大賢者は顔の筋肉をこれ以上ない程に総動員させて、とても魅力的な笑顔を浮かべる。
凪いだ水面の様に穏やかで、とても人当たりの良い老人にしか見えない笑顔だった。



「いや……礼を言うのはこちらの方だ」




その先の言葉はアトスの口の中で噛みしめられた。
光の中に消えたかつての同胞である“彼ら”について、ネルガルについて、この里に受け入れてくれたこと……。




ひとしきりの会話を終えた二人の間に沈黙が戻る。
嵐が過ぎ去り、竜と人は互いが互いに与えた言葉を、そして与えられた言葉を胸中で噛みしめ、分解し、味わっていた。




「ネルガルは────」



唐突に沈黙をアトスが破る。
彼のとても耳障りのよいはっきりとした発音は、水が滔々と流れ続ける玉座の間にあってもよく通った。
彼の目線はイデアから逸らされ、中空を彷徨っている。大賢者の蒼い眼の中にあるのはとても穏やかな光だ。



「奴は……素晴らしい男だった。彼と出会えてわしは幸福だった。まさかこの年になって、新しい友人が出来るとは夢にも思わなかったというのが正直な感想だったよ」



一度言葉を切ってアトスはイデアを見た。



「“今回の件。お主が気に病む必要はない” ……この言葉は今のお主にとって気休でしかないか? 友同士の傷の舐めあいにも聞こえるか? だが、これだけははっきりとさせておこう」



裁判長が全てを取りまとめ、絶対の審判を下すような圧倒的な圧を言葉に送り込み、アトスは竜へと言葉を叩きつける様に述べた。




「選択肢を与えたのはお主だ。だが、選んだのは我らだ。
 それがただの親切心からでないことはわしらも重々承知していたし、それに加えて忠告もあった。何度だって戻れる機会は用意され、伸ばされた手は見えないだけであったはずだ」



我らは一一善悪の判断を親に問いかける子供ではない。何が正しくて、何が悪で、何をしてはいけない等という事は自分で判断できるとアトスは続けていく。
だが、と大賢者は先ほどよりもはっきりとした言葉で告知した。




「彼は進んで“喰われた” よき友であった彼は自らの虚栄心、欲望、知識に飲まれ、ねじ曲がり、挙句自分の惨めさに気が付かずあらゆる命へと手を掛けようとした」




ネルガルが死んだのはいつか? 
それは少なくとも神竜の一撃によってこの世界から消えた瞬間ではない。
イデアが滅したのはかつてネルガルであった異形であり、もうその時点で彼は死んでいたのだ。


イデアが殺したのはいわば彼の“遺骸”だ。


では、いつ彼は死んだ? 



竜の知識をその手にし、溺れた時から?
キシュナを作り上げ、自らが神の領域を犯していると歓喜した時?
それとも、ソフィーヤに恐怖を抱かれる行動をとった頃?


真実は誰にもわからない。
だが、毒が体を蝕み、手足が時間をかけて腐り落ちるのと同じくネルガルという男も自らが取り込んだ「闇」に魂から汚染され、晒した姿があのおぞましき邪神の容貌だ。
あの姿の何処にネルガルがある。瘴気と悪意を撒き散らし、絶望を嬉々として啜る醜悪な化物の姿に。




もう、彼はいないのだ。どこにも。
例え彼と同じ姿のナニカが現れたとしても、それはネルガルではない。
とある種の虫が擬態をするように、ネルガルの姿をした肉体を被った別物がそこにはあるだけだ。




一しきり断罪するように、言葉を苛烈に言い放ったアトスだが、直ぐに彼は萎んだ。
そこにいたのは歳衰え、臆病になり、大賢者等と他人に勝手に評されているただの老人だった。
彼は懺悔するように、深く頭を垂らし、両手で顔を覆い、自らの表情を隠す。




「だが……正直、偉そうな口を幾ら叩こうと、わしはネルガルから眼を背けた。最も奴の隣にいながら、眼を逸らしていたのは他ならぬわしだ」




基礎の基礎故に誰も気に留めなかった不安要素。おおよそまともな師がいればまず最初に習うべきはずの知識への恐怖。
アトスが最初に彼に抱いた懸念である純粋さと一度何かに没頭すると他が見えなくなり、自分を客観的に見れなくなる悪癖。
知っていた。見抜いていた。そして警戒もしていた。だが、見過ごした……否、わざと見逃したのだ。



ネルガルならば大丈夫。自分と同等の知識と力を持つ彼ならば問題はない。
何故ならば、それを見逃せば、自分もそうなってしまうという肯定になってしまうから。
「友を信じる」という甘い言葉の膜を張り、その中で何が蠢いているか知りつつアトスは眼を逸らしていたと思っている。



“偉大な大賢者”の声には辛辣な皮肉と自嘲がこれ以上ない程に篭っていた。



「わしは見ていたはずだった。得体の知れないモノがネルガルを貪り、成長していく様を。アレに近いモノを知っていたはずだった。世界に何を齎すかも」




竜の持つ“眼”がなくとも、アトスには人の限界を遥かに超えて生きてきた経験という“眼”がある。
それらは確かに捉えていた。
素晴らしい男の中で人知れず誕生し、善意、好意、倫理、記憶、そして彼の魂を蝕み、性質の悪い寄生虫の様に穴だらけにしながら巨大に成長を遂げていった怪物の姿を。



川の流れが年月をかけて岩を削り取っていくのと同じく、彼を削った化け物を。



そして全ては消えてなくなった。アトスは最後にそう締めくくると、顔をあげ、イデアを見つめた。
今の彼の瞳の中には悲しみだけがあった。友を亡くした事を純粋に悲しみ、自らの不手際に対して深く痛恨の念を抱いている眼だ。



イデアは腕を組み、慎重にアトスに対してどうするか考えつつ、心の何処かが急速に冷えていくのを感じていた。
だがこれは怒りではない。先にネルガルに対して抱いた磨き抜かれた刀剣のソレではなく、もっと人間味のある……そうだ、これに名前を付けるならば「沈静」だ。
先ほどまであった闘いの余熱ともいう胸の底の底で煮えたぎっていた沸騰する感情は完全に冷えて固まり、氷河の様な冷静さが竜に戻る。





冷たいが、決して冷酷にまでは至らない思考で竜はアトスの言葉と自分の失態、そしてネルガルの落ち度などをはかりに乗せて考え……その錘の比が割り出された。




「もういい。……もう、これ以上はやめにしよう」



殺したモノが、殺された者への思考を止めた。


口から出たのはイデア自身、我ながら何て傲慢なんだと思ってしまう言葉だったが、不思議と抵抗はなかった。
今の自分たちを客観的に見て考えた結果……これ以上は必要ないという結論だけが出てきたから。
これ以上やったら、延々と泥沼に嵌りつつ、ネルガルの事を言えない程落ちていってしまいそうだと彼は直感した。



「それに…………」



どうやらお客さんも来てるようだ、とイデアがこの玉座の間の入り口に眼を向けると、そこにある一本の柱……その陰からすみれ色の髪が僅かに飛び出ていた。
イデアが視線に力を込めて、暗に「ばれているぞ」と伝えようと、意地でも……彼女は隠れているという体を装いたいらしい。
アトスが薄く笑った。どうやら彼もこの居心地のよい茶番に付き合う事を決めた様だ。



だが、その前に彼は幾つか優先してイデアに伝える事があった。



「ミスル半島、エレブへの被害、およびソレの隠ぺい計画などは今まとめておるようだ。もう暫く立てばかなり具体的な所まで把握した資料が完成するぞ」



どちらにせよ、今晩中には間違いなく完成するとアトスが告げ、イデアは鷹揚に頷いた。
精神的な高ぶりも収まり、次にやるのは書類仕事と、大がかりな修繕作業……また多少の力を使う事にはなるが……問題はないだろう。



更に気がかりなのは未だに見つからない【エレシュキガル】【ゲスペンスト】【バルベリト】の三冊の書だ。
【エレシュキガル】と【ゲスペンスト】に対しての保護を掛けたのはナーガであるが故に、イデアのブレスの直撃を受けたとしてもまだ存在している可能性は高いというのに、何処にも見当たらない。
もしくは単にイデアの破壊の力がナーガの加護の術を超過する破壊を産み出し、魔書が消えてしまったかもしれないが……それでも懸念は残る。



何故ならば、最後の時点であれらは既にネルガルという異形を構成する血肉そのものになり果てていたのだから、警戒を怠る事は出来ない。




「判った」




さてと、とイデアがもう一度柱付近を見やれば、今度は髪だけではなく、鮮やかな瞳がそこから覗いていた。
両手を胸の前で組んだソフィーヤが、じぃっとこちらを見つめている。
彼女の眼はとても……複雑な感情が映り込んでおり、きっと彼女自身自分が何を言いたいのかは判ってないだろう。




彼女は確かファと一緒にいたはずだったが、何故ここにいるのかは判らない。
だが、イデアは彼女の何時もと変わらない姿に確かな癒しを覚えた。
彼女を見ていると、とても心が和む。



イデアは彼女を間違いなく愛している。しかし恋愛感情ではない。更に深く、慈愛に近い。
神竜はこの竜人が産まれた時にも立ち会っていたし、彼女のおしめを変えた事も何度もある。
祖父が孫を愛する感情に近く、イデアの場合は彼女をもう一人の娘に近しいとさえ思っているほどだった。


ファとソフィーヤ。
今回の件に深くかかわった彼女たちだが……今は何を思っているのか、確認しておきたいというのも事実だ。



「出ておいで。丁度アトスとの話も一区切りついた所だ。色々とソフィーヤとも話がしたい」


優しく、何時ものように、自分は無事にここに居て、そして何も怒ってなどもいないという事を強調しながらイデアが彼女の名前を呼ぶと、ようやくソフィーヤは全身をゆっくりと柱の影から表した。
はっきりと彼女の顔には不安が映っていた。
ネルガルがおかしくなり、居なくなった事への恐怖、イデアがネルガルと戦う事によって起こりうる事への心の痛みがこれ以上ない程に表れている。



そしてイデアはそんなソフィーヤの内心を読み取ることが出来る程度には長い付き合いがあった。



「大丈夫だ。俺は無事に、無傷でここにいるぞ。何処かへいったりはしない」



ひらひらとイデアが手を振り、ソフィーヤに早く「おいで」とすると、彼女は歩き出した。
最初はゆっくりとしていたが、徐々に足の運びは早くなり、最後は走り出す。
腰より下まで伸びたすみれ色の髪の毛が大きく左右に揺れ、何度か自分で自分の髪の毛に足を絡ましてしまいそうになりながらも、ソフィーヤは勢いを全く落とさずにイデアに抱き付いた。



幼い少女の体躯とはいえ、人一人分の全力での飛び込みを受けたというのに、イデアも、そして彼が腰かける玉座も同じように軋み一つあげずにソフィーヤの全身を受け止める。



「………………」




何時もの様にソフィーヤはとても口数が少ない。だが、決して感情に乏しいわけではないのだ。
現に今、イデアに抱き付いたソフィーヤの身体は震えている。
ネルガルを失い、彼女にとっても大切な“家族”と評してもいいイデアが危険な場所に赴き、あれほどまでに世界に影響を与える力を行使せざるを得なかった事実に彼女は恐怖していた。



彼女は一度、既に父親を失っている。
だというのにもう一度、父に匹敵する存在を失うという事は、ソフィーヤにとっては正しく絶望でしかない。
一度に二人、大切な人を無くしかけた彼女は赤子に戻った様にイデアの腕の中で泣いた。


無事にイデアが戻ってくるまで、彼女はファと一緒に居た。お姉さんとして妹を安心させるために。
だが……彼女にも心があり、それは喪失を酷く恐れていた。



一度目は母が泣いていて、朧に“コレ”はそういうものなのだと把握し、冷静に、判っていたことだと理解できた。
だが、二度目は違う。ある日、いきなり家族が目の前から消えるのに等しい。




ぐす、ぐす、っとファとは違い、大声を上げることなく嗚咽を漏らすソフィーヤに対してイデアは彼女の耳元で囁く。



「見ていたのか?」



イデアはソフィーヤの背に腕を回し、遥か過去に彼女の父親がそうしたように小さな娘の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
赤子だった彼女が泣き止まない時に何度もこうして、彼女の心が落ち着くのを待っていた事もある。



「……はい。“見えてしまった”……です……イデア、さまが……ばら、ばらになって……」



里の殿、その一室で大人しくしていたソフィーヤは、当然のようにイデアとネルガルの戦い、その時に起こったことを口にする。



“見た”ではなく“しまった”という微かな言葉の違い。
ソフィーヤはとても……竜と比較してなお、とても感性が鋭い少女であり、時には未来さえも見通す力を持っている。
そんな彼女からすれば、幾ら隔離していたとはいえ、限りなく近い場所にある異界を覗き見る等容易い事なのだろう。




本人が望む、望まないにかかわらず、だ。
自分の大切な存在がバラバラになる光景など、誰が見たがる?




「大丈夫、大丈夫だ。もう痛くもない、ほら、手足だってしっかりあるだろ?」



大仰に腕を広げて、何度か指を開閉するのを見たソフィーヤの眼は既にひりついていた。
彼女が意図せずに観測して断続的に見えた光景は、恐ろしいモノだった。
バラバラになるイデア、もはや人として、生物としての元型さえ留めないネルガル、無数の亡者に、彼女では理解することも出来ない超魔法を惜しみなく使われた総力戦。


いっそ全く理解できないのならば無責任だとしても幸せだろう。
だが、彼女は竜の子で、それらが何なのかを朧とはいえ理解できるだけの頭はあった、あってしまった。




全てが怖くてたまらず、彼女はファの手を握りしめながらぶるぶると震えていた。
頭が粉々になってしまいそうで、胸が焼けてしまいそうで、何もかもを否定してベッドの中で身を縮めて痛かった。
だが、ファの手前、そんなことは出来ない。自分が彼女を守らず、誰が守るのだという自負で彼女は恐怖を……見て見ぬふりをした。




イデアの服が涙と鼻水でべとべとになってしまっているが、そんな事は神竜にはどうでもよい。



よしよし、とソフィーヤを宥めながら、イデアは「これは後でメディアンに何か言われるかもしれない」と思っていた。
彼女は……とても冷静で知的で、常に何が正しいか、何を優先すべきかを見極められる程に大人だが、少しばかり自分の親族の事になると論理的な思考が出来なくなる時がある。
それも含めてイデアは彼女の事を信頼しているというのも紛れもない事実ではあるが。




暫くソフィーヤが望むがままに、自分が生きているという簡単な事実をソフィーヤが完全に理解し尽くすまでイデアは彼女を父親が子供をそうするように抱きしめてやっていた。
やがて完全に冷静さを取り戻した彼女は、まだ少しだけ震えながらも、小さく細い腕に強い力を込めてイデアから離れ、玉座の前で身なりを整えると一礼する。



「……すこし、取り乱しました………ごめんなさい」



そこにいたのは、ただ泣いているだけの弱くて無力な少女ではなかった。
これはナバタの巫女としての顔。怯えながら、震えながら、自らの生まれ持った力に向き合い、受け入れ、どうするべきかと自分に問いかけられるだけの強さを持った巫女としての顔だ。
幼いながらに、父と母が自分にどんな役割を与えてくれたのかを彼女は知っていて、それを全うするときの顔でもある。



だが……イデアの眼には、今の彼女は少しばかり………。




「何か、あったのか?」




少し違うと、ソフィーヤは首を振った。
だが、それが単純な否定ではないことは明らかであり、イデアは玉座から身を乗り出すと、ソフィーヤの眼を真っ直ぐに見つめた。
威圧が目的ではない、ただ……彼女は余り口が得意な方ではない……だから口に準ずるほどに心の声を代弁する眼からも真意を読み取りたいと思ったが故に。



彼女の瞳には……恐怖があった。これは、イデアに対する喪失の恐怖ではない。
もっと過去の、戦場の兵士が命の危機を記憶に焼き付けられ、それを思い出すたびに死を想起して震えてしまうのと同種の恐怖だ。



「焦らなくていい。ゆっくり、ありのままを語ってくれ。以前の話を、もっと詳しく頼む」



ソフィーヤの感じた恐怖と絶望。
あの時は確かに参考にしたが、今では更に重要性が増したソレを再度イデアは聴きたいと思っていた。
同じ話かもしれない。だが、今とあの時では違った視点で彼女の話を聴く事が出来るかもしれない、もしかしたら、見落としていた何かを……。




僅かな間をおいてから、ソフィーヤは記憶を想起する。
忘れて等いない。忘れたくても忘れらない絶望が、そこにはあった。
一つ一つ、念入りにカギを閉めて閉じ込めた無限の「暗夜」を掘り出し、言葉に置き換えていく。




カチ、カチ、カチ、と、今までどこにもいなかったはずの黒いナニカが、あの時みたそれが、彼女の背後から迫る。



「……夜です、冷たく、暗い、夜が………」




言葉を吐くと同時にソフィーヤの視線は遥か彼方へと跳躍する。
眼前のイデアは消え去り、周囲の青白い玉座の間でさえない所へと彼女は放り込まれる。
頭の中で歯車が軋む様な音がし、瞼の裏で現実感をもつ光が激しく瞬いた。



自分自身の能力である未来視が、制御できない時に起きる現象だった。




あの時と同じ、いや、あの時よりも遥かに深淵はその深さと恐怖を増してソフィーヤを見つめてきた。
ネルガルは消えたというのに、何も変わってないどころか、更にひどさを増している。


何時も通り、全く以て変わらずに彼女が生まれ持った力は彼女の意思を無視し、継ぎはぎだらけの世界を彼女に見せる。
ページの大多数が失われた本を無理やり読ませるような、ずたずたの未来を。



最初に感じたのは何もかもを飲み込む闇。
闇だ。真っ黒な闇が何もかもを飲み込んでいく。
水玉の様にまん丸い闇が炎で炙られた紙に浮かぶ焦げの様に世界を塗りつぶし蹂躙する。




大いなる闇は語った。
黄金の輝きは永遠ではない。いつか汚れ、曇り、埋もれる。
しかし闇は永遠だ。世界の始まりも終わりも、絶えることなく影はそこに在る。



彼女は“終わり”を見ていた。万象が終わる光景を。
それは火山の噴火や疫病の発生などで起こるものではなく、絶対の黒が全ての色を上書きして完了する。
本能を刺激し、掌握する恐怖を前に悲鳴さえ上げることさえ許されなかった。



更に深く、深淵の底まで眼を差し込み、ナイフの様に暗闇をこじ開けると、そこには逃れようのない終わりがあった。
死、幕引き、終了……かつてはずっと一緒に居ると信じていた父親でさえ例外ではないそれがある。



人が死ぬ。骸を晒し、その骸も黒に溶け出し、やがては黒い川となる。
あの【ゲスペンスト】の様に。


植物は枯れる。
一切合財の草木がその瑞々しさと青さを失い、灰の様な様相を見せると、バラバラと子供が手で枯れ葉を揉み込んだ時と同じように崩れる。


水は消えた。湖、海、川、そして大地にあるあらゆる水は汚染され、そこを代わりに流れるのは【黒く濁った液体】
あの怪物が撃ちだした【黒海の飛沫】が全世界を満たしたような悪夢の光景。



天にはまるで巨人が巨大なカーテンでもかけたように、何も映さず通さない闇があるだけ。
話しに聞いた事がある終末の冬さえ上回る秩序なき世界の象徴。



死、死、死、原始の混沌が望み、ついぞ叶わなかった暗黒の理想郷がそこにはある。
太陽は堕ち、命は消え去り、竜も含めた何もかもが滅び去った絶死の世界だ。





これこそが「あるがままの世界」だと信仰していた者らがいる。
彼らは純粋な混沌、絶望の権化故に、そこに理由などない。
その片鱗をソフィーヤはついさっき見たばかりなのだ。






だが、今、ソフィーヤは「ソレ」と向き合った。
逃げることなく、見つめ、観測し、そして咀嚼する。
溶けた鉄を無理やり嚥下するような拷問に等しい痛みをソレは彼女に与えた。


何とか吐き出した言葉には、血さえも滲んでいそうな程の凄絶な苦痛の念がある。



「太陽も……何もかも……飲み込んでいくのです……みんな、しんで……いなくなって………わたしは……」



かちかちと歯が噛みあわずに軽快な音を立てる。紛れもない、恐怖が彼女を襲っていた。
視界がぼやけるのは涙が溢れかえるためであり、膝が震えるのは小動物が死の恐怖に直面したからに近い。
だが逃げる事は出来ない。それだけは。



しかし、口は勝手に動き続ける。
決して言うまいと思っていた恐怖さえも表す言葉と、ネルガルの死によって閉ざされたと思っていたはずの“黒い未来”の脅威が覗き、彼女を混乱させる。
ただ、一言「嫌な予感が消えていない」と言いたいだけなのに、その中には無数の負の念が込められ、ソフィーヤはこみ上げてくる胃液を何とか抑え込む。




「まだ、予感が………………」



頭に靄がかかったように思考が斑に倒錯し、唇がわななく。身体の中のあらゆる熱が【フィンブル】でも受けた様に急速に消える。
それでも更に言葉を続けようとすると、イデアが立ち上がり、ソフィーヤの両肩に手をやった。
じんわりとした熱がソフィーヤに流れ込み、彼女の身体を内側より温めた。



これは……【ライヴ】だろうか? いや、もしくは単純にイデアの神竜としてのエーギルに近くで触れ合うだけでソフィーヤは安堵できるのかもしれない。
そして彼女は、安堵と居心地のいい優しさの中に逃げ込んだ。巫女が、未来視を止めて。




「十分だ。これ以上は必要ない」



短い言葉の羅列の後に、片方の手が頭に伸びて、それはくしゃくしゃと彼女の長髪を撫でやる。
小動物でも愛でるような乱暴な手の動きだったが、時折イデアにじゃれついた時によくされるソレは彼女に安堵を与えた。
視界がまた変わる。夜が消え、死が消え、何時も彼女を取り巻く、これからもずっとそばに在りたいと心から願う平穏な世界と人が映る。



「でも……」



「お前は十分にやった。心に負担がかかる事を、無理にさせたくはない」



イデアの言葉はもしも何も知らない第三者が聴けば、間違いなく頷いてくれるほどの説得力をもっていた。
子供に負担を掛けさせ、無理やり情報を聞き出すなど、褒められたことではない、と。



だが、そんなイデアの優しさにソフィーヤの胸は痛む。小さな針で刺された様に、ちく、ちく、と。
エーギルが僅かに乱れ、それは湖面に小石を投げ込まれた際の水面の様にさざ波を広げた。



はっきり言うならば、今のイデアの言葉は彼女が今まで築いて来た【巫女】としてのプライドを傷つけた。
ソフィーヤにやんわりと部屋に帰り、ファの傍にいる様に指示し、もはや彼女の事など眼中にないかのように、今回の件の後片付けの計画を考案しだすイデアの姿は長として立派で、ソフィーヤは尊敬している。



だが…………。



まだ伝えたい事、言いたい事がたくさんある。自分はソレをイデアに伝えなくてはいけない。
そんな使命感と、同時に今自分が生きて、とても安心できる場所にいる、これを崩したくはないという矛盾する気持ちが彼女の呂律を乱す。
自分でも何を言えばいいか、どう伝えればいいか判らなくなった彼女の口から出るのは後に何も繋がらない「でも」だけ。



これでいいのか? とソフィーヤの頭に言葉がよぎる。何時もと同じだ、と。
自分だって何かが出来る、少なくとも微力であったとしても、僅かでも他人の役に立てるはずだと信じ、今まで生きてきた。
だというのに、自分を信じ、愛し、優しくしてくれる存在に甘え、自分だけ痛い事から眼を背け、文字通りの「箱入り娘」として生きていいのか。



巫女としての地位も、言ってしまえば彼女の父がイデアと相談して残した一種の“偶像”に近い事もソフィーヤは知っている。
彼女という存在は言葉を選ばず言ってしまえば“中途半端な存在”だ。



竜でも人でもない、真ん中の、どちらに天秤が傾くか判らない、下手に人に近い存在が竜にも人にも持ちえない得体の知れない能力をもっている。
そこから起こるであろう様々な不和、歪み……この際差別と言ってしまおう。
竜ほど隔絶しておらず、人ほど矮小ではないソフィーヤが自らの力と存在に悩むことなく、更に部外者からの白い目で見られないために作られた地位と理由が“巫女”だ。




父がかつて幼い頃にもてなかった自己肯定の念。自分はここにいていい。自分はこうなんだという感情を作れなかった苦しさという辛い記憶。
自分がいなくなっても、この先娘が精神的に自立し、自分を肯定できるため、自分の力を受け入れる為の第一歩として与えられたかけがえのない贈り物が彼女の立ち位置でもある。



決して、これは飾りではない。
まして、巫女という地位の持つ役割は、長に「もうやめろ」と一言告げられただけで口を閉ざしていいものではない。
彼女だけが知っている事を、何も言わず秘して胸にしまい込むのは、許されないのだ。





彼女の瞼の裏に瞬間、ネルガルの顔が映った。
とても魅力的な笑顔を浮かべ、自分の描いた絵を誇らしげに見せびらかしていた彼を。
ファの繭の前で暇さえあればその様子をスケッチし、幼い竜の誕生をソフィーヤと同じほど楽しみにしていた彼が。


もういない男。、ソフィーヤ、ファと仲良くしてくれた父の友達の顔。
だが最後に見た彼の姿は異形、人としての最後は憎悪に満ちており、もうこの場所に戻る事はない。
イデアにとってのネルガルの喪失、そしてファとソフィーヤにとってのネルガルの喪失。



すると腹の奥底から、今までの長い生涯の中でも数える程度にしか感じたことのない熱が猛烈にこみ上げ、それをソフィーヤは竜がブレスでも吐く様に吐き出した。




「きいて下さい………! わたし、まだ……話したい事があるんです……っ」



それは、数百年ソフィーヤを見てきたイデアでさえ滅多に聞いたことのない声だった。
ソフィーヤという少女が発するには、余りに大きな声。




普段のソフィーヤならば、例え相手がイデアであったとしても、真正面から眼を見つめられ、強い意思の篭った瞳で覗きこまれれば堪らず気恥ずかしさで顔を逸らしていただろう。
だが、今の彼女はナバタの巫女だ。何百年もこの里で未来予知をし、時にはイデアの手助けになる情報を齎した事もある、立派な里の一員である。
長であるイデアが勤めを果たしたというのに、どうして自分だけ子供だからという免罪符で逃げる事ができる?



竜は沈黙し、つい今しがた「もう必要はない」と言った己の言葉を取り消すように、ソフィーヤを見つめる。
キシュナを見ていなかった自分について後悔を抱いたばかりだというのに、今度はソフィーヤを“見ない”気か? と、己の何処かが語り掛けてくるようで、今彼女から眼を離してはいけないと直感したのだ。


おずおずとした様子でありながらもソフィーヤの瞳にはとても強い意思が宿っている。
そこにあったのは先ほどまでの“巫女としての顔”ではなく、純然たるソフィーヤとして、自分の意思を表している。
何時も物静かで、余り自分から何かをしよう、他人に働きかけようとしない彼女がここまではっきり言った事の重大性を理解出来ない程、イデアは愚かではなかった。


幸いにしてまだ時間はある。
後片付けに関する書類の完成と報告までは、まだ時間があるのだから。



イデアはアトスに目くばせすると、彼は頷き、指先を光らせ、術を展開する。
一瞬だけ光が場を満たすと、そこにあったのは紅茶の入ったカップが幾つか置かれた丸いテーブルと椅子。
イデアはソフィーヤに椅子を勧めると言った。




「座って、一度そこの茶を飲むんだ。……舌が乾いていたら、話せないだろう?」




そして今度こそ教えてくれ。お前の見た全てを、とイデアが続けると、ソフィーヤは頷いた。



















それは歴史の幕間。遠い昔に始まり、そして終わった事。





彼には愛する者がいる。
何に変えても守り、そのためならばどんなことをしてででも力を得ると確固たる決意を抱かせる存在が。




まだ年端もいかない少女と少年が彼を見つめている。
真っ赤な瞳を悲しみで腫らし、その中に隠す事も出来ない程深い不安を覗かせていた。
嫌だ、行かないで。一緒にいてほしいと彼の着ている服の裾を掴み、今にも泣きだしそうな顔をし、彼に懇願する。



だがそれでも彼はこの愛しい子らと離れなくてはならない。
何故なら彼は奪われたから。取り返さなくてはいけないのだ。
自分の命よりも、身体よりも、心よりも、何と比べてもなお大きすぎる程の愛を奪われた彼は、我慢など出来なかった。



決して彼はこの子らを愛していない訳ではなかった。
むしろ、この子供たちの為ならば自分等どうなってもいいと思っている。
だが……それでも、それを知ってなお、彼は全てを取り返したかった。



そもそも、何故諦める? なぜ、奪われた自分たちが妥協しなくてはいけない?
自分たちはただ、平穏に生きていたかっただけなのに、どうしようもない屑どもの裏切りによって全てを破壊され、それでも我慢しろと?




───お姉ちゃんを、しっかり守るんだぞ?



くしゃくしゃと髪の毛を撫で、少年に優しく彼は言い聞かせると、少年は頷き……そして見る見るうちに下唇を噛んで涙を瞳に貯めてしまう。
床に涙が零れ、更に彼の裾をくしゃくしゃにするほど強く握りしめてくる。



───とぉちゃ……いっちゃ、やだ……。



彼は少年に布に包まれた贈り物をすると、強く抱きしめた。
またこの熱を胸で味わえる日が来ることを自分に誓いながら。



愛しい子供たち。
この世界で最も愛する家族を彼は眼に焼き付けるように見つめ、そして、本当に名残惜しそうに双子から離れた。
腕の中に残る温もりと気配、愛しさの残照を抱きしめ、彼は唇をわななかせながら言葉を紡いだ。



───いい子だ……二人とも。……きっと迎えに来る、約束するさ、父さんは絶対にお前たちを迎えに来るから……



きっと、必ず。親子はきっと、また巡り合う事が出来るはずだ。
こんなにも愛しているのだ、思いあっているのだ、また会えないはずはない。



そして、全てが黒に塗りつぶされた。これが最後。
二度と、彼は、大切な存在と触れ合う事は出来ない。








永遠に。









あとがき

9月に更新予定でしたが、少し9月にリアルで大規模なごたごたがありまして、かなり遅れてしまいました。
難産だったのと噛みあって、まさかここまで遅れてしまうとは……。


では、少し早いですが来年もよろしくお願いします。




[6434] とある竜のお話 【幕間】 悠久の黄砂
Name: マスク◆e89a293b ID:0894ef4b
Date: 2017/02/02 00:24

カン、カンと金槌を叩きつける音がナバタの里に響く。
音の発生源は一つではなく、里の至る所からだった。
それだけではなく、多くの人や竜や竜人が物資を運ぶために竜に合わせて作られた巨大な道を行ったり来たりしている。


長であるイデアが里の大規模な改修計画を発案し、実行に移してから日常となった光景だった。
路では里の魔道士たちが考案し試作された新型の武器のひな型も輸送されている。


そんな中をファは歩いていた。
背中にはお気に入りの使い古した背嚢を背負っている。


隣には何時も通り姉ともいえるソフィーヤがいて、頭の上には彼女の友達である「リンゴ」を乗せ、小さな歩幅でせわしなく足を動かし続けてファは歩く。



特に何処にいこうか等という打ち合わせは必要ない。
今日の予定はもう決まっているのだ。
正直、目的を考えると余り気乗りはしなかったが、彼女は持ち前の前向きさでソフィーヤとのこの散歩を楽しむことにしていた。



今日の予定は、ネルガルの遺品分配である。
もう居なくなってしまった者の遺品を片付けるのが今日の二人の予定であった。
ただし、予め魔道的な要素を持つ危険な品物などはイデアやアトスが全て回収してしまったので、二人が触るのは本当に彼の私物だけだ。



彼の生活や、ちょっとした趣味、思想の置き土産を見に行くのだ。



もう彼はいない。この里のどこにも。影さえ残っていない。
そしてファは幼いながらに必死に考えてどうしてこうなったのかを朧気に理解している。


あの時ネルガルが、大好きなおじさんが自分に何をしようとしたか、これから何を行おうとしていたかを。
ファはまだまだ幼い。幼子というのも憚れる竜の赤子だ。
それでも、そんな彼女でも大よそのやっていいことと悪い事の区別はつく。



きっとおじさんは……何か悪い事をして、お父さんと喧嘩をしたんだ。
そして二人は「ばいばい」してしまった。とても悲しい「ばいばい」を。
もうあの優しくて安心できる声を聞くことは出来ないんだとファは本能で悟っていた。





「ファ…………」



ファに語り掛けるソフィーヤの声には隠しようもない不安と労りがあった。
彼女は自分がこのネルガルの一件でかなりショックを受けているという自覚がある。
とても優しく、好感を抱いていた男の変貌とその死に対して未だに割り切りがついていないという感情もあることも。


500年生きた自分でさえそれなのだ。
自分以上に若く純粋でネルガルを信じていたファがどれだけ……例え外見上では何の問題はなかったとしても、内面で傷ついているかは想像することしかできない。



ファはそんな姉の心情を読み取っているのかどうかは判らないが、ただソフィーヤの手を取って何時も通り彼女を引っ張りだす。
「あ」と小さくソフィーヤが呟き、足を微かにもつれさせながらもファに身を任せ、駆け足になり……あれよあれよという間に全力疾走になる。
活力に溢れる竜の“ちょっと”の速さはソフィーヤにとっては“とんでもない”速さなのだ。




────ファ……! すこし……あの、あぁ……! あしが……!



わーわー言いながらもソフィーヤは何とか姉としての威厳を保つべく根を上げず片手でスカートを持ち上げ必死にファの速度についていく。
長髪をたなびかせ、瞳をグルグルにしたソフィーヤが走り回る姿を里の住人は微笑ましそうに見つめていたのだった。













ほどなくして二人は里の中心部にある【殿】の一室、かつてはネルガルが使っていた部屋の扉の前に居た。
もちろんここに来るまで一度も休憩など挟まず、それどころか階段を二段三段飛ばしながら走り続けている。


扉の前に到着した瞬間ソフィーヤは膝から崩れ落ちそうになったが、何とか姉としての威厳を振り絞り、ガクガク震える足腰にムチをうって、外見上は何とも無い風体を保つ。
はぁ、はぁと息を……“少しだけ”切らしていると「リンゴ」がタオルを差し出してくれる。
それで汗を拭ってからソフィーヤは深呼吸をして体内の空気を入れ替えた。



少しだけ……少しだけ、だ。
本当に少しだけ疲れた程度に走ったソフィーヤの胸中からは先ほどファを見て思っていたもやもやが綺麗さっぱり消し飛んでいた。
何時もの彼女ならばネルガルの部屋の扉を前におずおずと開けるか開けないべきか悩んでしまっていたかもしれないが、今の彼女に怖いモノは殆どない。



日中の里の中を走り回り、全身を汗でべたべたにし、体力の限界に挑戦した彼女に不可能はないのだから。
未だ眼をグルグルとさせた彼女はふーふーと息を噴き出しながら扉に震える手を伸ばし……ここでもファに先を越される。



ファは何時も通りの無邪気さを以て、ソフィーヤの速度を笑い飛ばすような勢いで扉をバンッと開けた。
むふんと、鼻息を荒くし、瞳を輝かせながらファは床を蹴って大きく跳躍し、背中にいつの間にか出現させた翼の浮力も併せて室内で二人を待っていたイデアの、父親の胸に飛び込む。



「おとうさん、ただいま!!」



ぼふんっという音を立てて白いローブの中に頭が埋もれ、次いでその上に掌が乗せられた。
くしゃくしゃっとファの髪の毛が撫でられると幼い竜は満足気に鼻息を漏らし瞳を細める。



「おかえり。ソフィーヤもよく来てくれた。……ファに無理やり走らされたりしてないか?」



イデアがソフィーヤに目を向けると、そこには扉に手を伸ばしたまま固まった彼女が居た。
所在なさげに虚空で固まる片腕、汗を垂らす真っ赤な顔、そしてイデアよりも遠くに固定された視線の彼女が。
ぽかんと口を開けて彼女は惚けてさえもいるようだった。



しかし直ぐに彼女ははっとした様子で我に返ると、乱れた髪の毛や衣服をそそくさと整えてから貴婦人の様に優雅に一礼し、その拍子に肩からリンゴが落下した。
悲鳴を上げてリンゴは廊下の向こうへと転がっていく。




「……大丈夫です」


「本当に? 息が乱れている上に汗まみれだ。隣の部屋で少し拭いてきた方がいい位だぞ」


「少しだけ……走りました。でも……大丈夫です、本当に……」



意地でも走って疲れた事を認めないソフィーヤに対してため息を吐いたイデアはファの左右の頬を摘まむと軽く引っ張る。
ぐにぐにと娘の顔は水気を含んだ粘土細工の様に形状を変え、ファは口から素っ頓狂な声を上げながらも笑顔を絶やさない。



「ふほひいふぁいふぇほ! ほほうふぁん!!」



「ファ。元気なのはいい事だがもう少し周りを見て行動するんだ。
 転んだりしたら危ないだろ? 
 お前たち二人が怪我をするのは凄く悲しい事だ」




ふぁいっ! と大きく返事を返すファの眼を覗き込んだイデアはそこに理解があることを確認してからファの頬から指を離した。
こう見えてファは非常に物覚えがいい。
かつてのイドゥンの様に白紙に文字を書き込むようにあっという間に覚えてしまう。


「次」はきっと……多少はソフィーヤに考慮された速度になるはずだ。




「……ふふっ。イデア様……私は本当に大丈夫です……」



ファとイデアのやり取りを見たソフィーヤが柔らかく笑い、完全に呼吸などを整えると何時も通りの彼女の小さな歩幅で部屋に入り、扉を閉めた。
入室してからグルッと室内の様子を見て……ネルガルの生活の後を感じながらもソフィーヤは顔色一つ変えない。
自分でも意外だと感じた彼女だったが、朧気にその答えはもう出ていた。



───がむしゃらに走って……すっきりしたから……?



案外ファはそこまで考えて自分を引っ張ったのかもしれないとソフィーヤは思った。
幼い竜ではあるが、幼い故にこそファは周囲の者の感情に敏感で、深すぎる程に優しいから。



「ファね、追いかけっこ、たのしかった!」



「私も。……さぁ、イデア様のお話……一緒に聞きましょ?」




二人の竜の娘たちは手を繋ぐと並んでイデアに向かい合うと神竜は頷き口を開く。
言葉を選びながら、ソフィーヤはともかくファがどのように自分の言葉を受け止めるか、真剣に考えながらイデアは単語を紡いだ。



「既に話は通っている筈だが、今日はお前たち二人にネルガルの遺品の幾つかを相続させたいと思っている。
 危険だと判断した品はこちらで接収済みだから、この部屋にあるのは本当にただの私品だ」




ネルガルが掘っ建て小屋に投棄していた全ては回収、検閲の後にここに戻された。
生前の彼が使っていた空間を出来るだけ再現するように考慮された配置の上で。




うん、と二人は同時に頷いた。
そもそもの話、ネルガルの遺品が欲しいと言い出したのはこの二人だったのだから。
確かに彼は……道を踏み外した結果として排除されたが、それでもソフィーヤとファはネルガルが好きだった。


こんな事になってしまったが、彼が居たという事は忘れたくなかった。
例え彼が自分たちの命を奪おうとしていたとしても、彼と過ごした時間は本当に、本当に楽しくて……黄金に輝いていたのだから。




「好きに選んでくれ。何か聞きたい事があったら呼ぶんだぞ?」



はーいと二人が声をそろえて返事をするとイデアは近くにあった椅子に腰かける。
懐から書類を取り出して空中に展開すると、手慣れた様子で空に固定した紙に向き合って執務を始めだした。
仕事、仕事、仕事……普段はここまで仕事に追われる彼ではないが、今は色々と込み入ってる為に仕方ない。



ファとソフィーヤは向き合うと、二人揃って人差し指を鼻の前にもってきて「シーッ」と息を漏らす。
大きく息を吸ってから口をつぐみ、頬を膨らませてから二人は行動を開始。



ネルガルの几帳面な性格が表れている整頓された部屋を二人は探検する。
壁に掛けられた複数の絵画、机や棚の上に置かれた芸術品に、幾つもの計算式や落書きなどが走り書きされた黒板……。
何度も入ったことのある部屋だが、こうして改めてみるとネルガルという男は多趣味で多芸だったのだと実感せざるを得ない。



「これって何だろう?」



ファがまず手に取ったのは「槌」だ。十字状の取っ手に左右と上部に「皿」がくっ付いた奇妙な形の「槌」である。
十字の中央部分からは紐が伸びていて、その先にくくりつけられているのは木製の球体。
ヤアンが密かに没頭しているそれの名前は「けん玉」であり、ソフィーヤもよく知っている遊具だ。



ファからそれを受け取り、ソフィーヤはじぃっとけん玉を見つめる。
ふつふつと、胸の奥から強い感情が沸いてくるのを彼女は客観的に感じた。
ここは一つ、先ほどは振り回されたが今度は姉としての威厳を見せる時ではないかと。



自慢ではないが、彼女は外で年頃の子供の様に走り回って遊ぶのが苦手故に、こういった一人で遊ぶ玩具の扱いには手慣れている。



「♪♪~~、♪♪~~…………」



落ちてくる玉に合わせて膝を使ってリズムを取り、ソフィーヤは歌を口ずさむ。
イデアがこれをやってる時に時折口ずさんでいた歌を。
視界の端で彼が少しだけ自分に意識を向けてくるのをソフィーヤは感じながら、手慣れた手つきで危なげなく、玉を操り「皿」に乗せては飛ばし、乗せては飛ばしを繰り返す。



「~~~♪ ~~~♪」




歌詞の締めと同時にカチンと軽快な音を立てて十字の中心に球を見事に落とし込んだソフィーヤは、眼をキラキラさせて見上げてくるファを見て微笑んだ。
胸を張ってどうだ、と彼女にしては珍しい主張をするとファは当然の様に理想的な答えを返してくれる。



「すごい! すごい!! とっても、かっこよかった!」



「ありがとう……努力すればファも出来るようになるわ」




ファにけん玉を手渡すと早速彼女は力任せにそれを振り回そうとして案の定失敗を繰り返す。
このまま永遠に続けかねない彼女に「後でいっぱい遊びましょう?}と声をかけるとファはここに来た目的を思い出したのか懐に玩具をしまって頷く。



まずは一つとソフィーヤは胸中でカウントする。幸先がいいスタートだと。
下手に彼との別れを悲しみ続けるよりは遥かにマシだと。



「あ……これって……」



らんらんとステップを刻みながら部屋の中を闊歩していたファが声を上げる。
彼女が見ているのはネルガルが描き、壁に飾っていた絵の一つだった。
“ソレ”を見てソフィーヤは唇をつぐみ、イデアが一瞬だけ視線を二人に向けるが直ぐに戻す。



「……これって……あたし?」



ファの言葉は何時も元気と覇気に満ち溢れている彼女とは思えない程に揺れたものだった。
困惑と未知に対する期待があべこべに混ざった、何とも言えない口調。



ネルガルの置き土産の一つ。彼の芸術の一つ。
末期の理解不能な、命を弄ぶ外道の理ではなく、彼がまだ彼だった頃、産まれてくる命に感銘を受けて無心に描いていた絵だった。
ソフィーヤはファの両肩を後ろから掴むと、この一枚の絵に向かい合う。



チクリと彼女の胸が痛んだ。
最後に見た彼が捨てようとしていたものを思い出した。




「そう……これは貴女。あの人は……ファの誕生を喜んでいたの……」



「うん。あたし、しってるよ。みんな、ずっとあたしの傍にいてくれたって。“ここに居ていいよ”っていってくれたって。だからファはがんばるの!」



ネルガルとの思い出を反芻したファの眼に涙が微かに浮かぶ。
浮かぶが……「んんんん」と唸り声を上げたファは涙を引っ込めた。
もう十分に泣いたのに、これ以上泣いたら無駄に気分が沈むだけだと。



お父さん、と声を掛けようとすれば既にイデアは二人の直ぐ近くに移動し、飾られた絵を見ている。
視線が移動し、ファに向けられると彼は口を開いた。



「もう一つ見せたい物がある」



「……?」



ソフィーヤが顔を傾げ、ファが未知に喜色を浮かばせる。
そんな二人の様子を見て神竜はは少しばかりの躊躇いを見せ、今になってやっぱりなしは出来ないと腹を括った。
彼は部屋の隅に置かれた……この部屋の中で最も巨大な絵に掛けられていた布を取り去り、その下の絵を披露する。




少女達が息を呑む。
そこに描かれていたのは……彼女たちが知る「全員」だった。
アトス、ネルガル、イデア、ソフィーヤ、ファ、ヤアン、フレイ、メディアン、アンナ……更には里の色々な住人達。



所々着色されている所とされていない所があり、何人かは未だに描きかけの場所もあるが確かにコレは全員を描いたものだ。
いつぞやに行われたメディアンの家での食事会、誰にとっても輝ける思い出であるあの宴を見事にこの絵画は再現しようと“していた”



そして……途中で投げ捨てられた。
彼は絵を捨てた。人を捨てた。倫理を捨て、消えた。
もうこの光景に戻る事はない。


隣人が死んだ時と同じように、家族が死んだ時と同じように、その人が居た場所にどうしようもない穴が開いている。


イデアは言葉一つ漏らさず絵を凝視する二人の娘を見つめていた。
未だに彼の中では本当にこれを見せるべきだったか否かという、後の祭りとしか言いようのない議論が行われているが、もう賽は投げられた。



「おとうさん」


絵に歩み寄り、表面を指でなぞっていたファが普段あまり見せない落ち着いた声音で漏らす。
彼女はイデアに向き直ると……彼の予想を超えた満面の輝くような笑顔を見せた。



「ファね、やりたい事できた! “おえかき”……ファもおぼえて、この“え”のつづき、描いてみたい!」



ファはくるりと恰好をつけるように一回転すると、ソフィーヤの手を取り彼女を引っ張ると、空いた手で次はイデアの手も取る。
彼女を中心に三人は繋がり、真ん中で幼い神竜は太陽の様な輝きを放ち続ける。



「おじさんはもういないけど……でも、ファは楽しかったよ。すごく、たのしかった。でも……いなくなるって、淋しいね」



平坦な呟きをファは零す。どんな形で終わったとしてもあの日々は楽しかったと事実だけを確認するように。
不幸と喪失を受け入れて、それでもと前を向くために。
世の中に存在する「どうしようもない事」を経験した彼女の精神は、更に成長を遂げようとしている。



「だから……この“え”はファが描きたいの」



そしてと言葉は続く。


「もっと、いっぱい色んなことをしって“え”の中のみんなと同じようにみんなにわらっていて欲しいの。
 だからおとうさん……ファにもっといっぱい色んなこと、教えて」


イデアを見上げるファの顔は幼いながらも決意に溢れている。
体内を巡るエーギルはこれまでない程に安定しており、彼女の言葉と心に迷いが存在しない事の証明となる。



これは……わがまま、等ではない。


彼女の初めての「決断」だ。
ここから先、永遠を生きることになるファが初めて行う「決断」と「決意」である。
そして小さな娘が頑張って導き出した答えをイデアが否定する事など出来るわけがない。



イデアは言葉ではなくファの言葉に深く頷くことで答えた。
ファの顔がぱぁっと輝き、イデアの胸に飛び込み、その頭をくしゃくしゃと撫でられる。



───ここからが正念場なんだろうな。逃げる事は絶対に許されない。



娘の決意を見て胸中で喜ぶイデアではあったが、同時に気を引き締めてもいた。
大切な存在との別離と自分の無力さの自覚、それに伴う力への渇望。
ファはあの時の自分より遥かに前向きで知的で、親としてのひいき目がもしかしたら入っているかもしれないが優れている。


そして同時に純粋すぎる。怖い程に。
ファは、────フ───────ァ─────は余りに綺麗すぎて、純粋で、危うい。



力に貪欲になり過ぎないように。
神竜として気張りすぎないように。
一人で何もかもを抱え込まないように徹底して教えなくてはいけない。


そして何より大切なのは……。


「ソフィーヤ。これからも頼む」


「はい……」



少女が頷いて答える。
イデアが己に求めていることを既に察している彼女はソレを当然として喜んで引き受けた。
自己主張を余りしない彼女ではあるが、これだけは別の話だ。


絶対に、誰にも、この役目を譲るつもりは彼女にはなかった。















二人の娘との用事を済ませたイデアは次に“後片付け”の総仕上げとしてアトスと彼の部屋で会話をしていた。
既にファとソフィーヤは何枚かの絵と玩具などの私物を選び終わり、二人でソフィーヤの家に出かけており殿にはいない。




「では予定通りわしは近々一度アクレイアに発つ。お前の“写し身”も同行させるという事でよいな?」



既にまとまった話の最終確認としてアトスはイデアに問いかけた。
老人の言葉に神竜は頷いて答え、手元の書類数枚にさらさらと何やら色々と書き足していく。


その紙に記されているのはいわば“後片付け”の内訳だ。
先の戦いで発生した余波……神竜と混沌の激突の傷跡はイデアが構築した隔離異界の壁を突き抜けてエレブに影響を与えてしまっている。
特に最後の一撃、現状イデアが出せる最大火力によるエレブへの余波はそこに記されているだけでも目を覆いたくなる程。



幾つかの決して小さくない地震。
抉り取られた海底面の変動。
この時期あるべき場所にある筈の雲が纏めて消失による水不足。


イデアをしてため息を吐きたくなるほどに問題は山積みだ。
この理想郷は何であろうとも隠しておかなくてはならないというのに、余りに今回の騒動は大きくなりすぎた。


だからこそ、今回のアトスのエトルリアへの一時帰国となる。
もちろん従者としてイデアも付き添いで。
何もなかったと隠し通す事は既に不可能だ。事実として大規模な影響がエレブに出てるのだから。



ならば下手に隠し通すような事はせず、カバーストーリーをばら撒いてしまうほうが良いとイデアはフレイに助言されて決断した。
アトスという現役の八神将が協力してくれることによってこの計画は問題なく成立する。
既に戦役から500年という歳月がたってはいるが、竜との戦いを勝利に導いた八人の英雄たちの名前はどんなふざけた話にも説得力を与えることだろう。



実際にアトスが力を振う所を見た事がない人間が多いのも好都合だった。
神将の名前は独り歩きし、それが例えどんなに途方もないモノであろうともかの「大賢者」が関わっていたならば道理だと人々に思わせる。


もちろん念には念を入れて話は骨子まで管理され書き上げられていく。
アトスと共同で制作した偽りの彼の研究データ。
ナバタ砂漠探索による報告書。


アトスがエトルリアを離れる際、その理由を話したのはほんの一部だけ。
リグレ公爵家の者とその時節の国王のみだ。
だがゼロではない、元々アトスが気がかりな点を見つけて旅を始めたことを知っている者は他にも僅かながらいた。


“──放浪の旅の中、砂漠で出会ったとある優れた術者との出会い。
彼と意気投合して砂漠を探索した結果、人竜戦役の際に破損し、修復されたはずの【秩序】が未だに一部破損していた事。
アトスと「友」は協力してその壊れた【秩序】の修復を試みたが、その結果に発生した予想外の事故で「友」は帰らぬ人となった……。


結果【秩序】の一部修復は完了したが、完全な修復にはいたらず人が足を踏み入れるのは危険という旨の報告。
ナバタに居ついた賊たちが頻繁に姿を消すのはこういう理由がある、と──”



端的にまとめてしまえばこうなる。
これならば以降ナバタ砂漠およびミスルに対する人の干渉は減らせる上に、定期的にイデアが行っている族の駆除にも一定のもっともらしい理由付けができる。
更には一応念のため、アトスの新しい従者という形でイデアの“写し身”も同行し、些細な調整を行う。


もちろん尖った耳と髪の色は変え、名前も違うモノを名乗った上でだ。
金髪はエトルリアにおいては珍しくはないが、さすがに色違いの瞳と尖った耳は個性的では通らない。



「既にリグレ公爵家に書状は送り届けた。返しはこちらが指定した“仮の拠点”に間もなく返って来るはずだ……ようやく苦労が実ったぞ」



「手紙一枚、されど一枚だからな。どんな形であるにせよ、外と繋がるのだから慎重にしないといけない」



書状一枚送るのにも四苦八苦したものだとイデアは嘆息する。
前提としてアトスが直筆しまずは“これから近々書状を送ります”という内容のいわば「先ぶれ」を送る。
もちろん受け取る側の公爵がアトス本人だと信じさせるために手紙には幾つかの簡単な術を掛けておく。


破損しないように保護を。
そして手紙を開けるのに魔力を必要とするカギとしての封蝋を。
更には予定外の人物が間違っても中身を見ないように念のため隠ぺいと防御、自壊処置を。




そうして作り上げられた書状はアトスとイデアの力によって直接、アクレイアの最も信頼のおける飛脚の組合に転移で送り込まれた。
もちろんお代として数枚の金貨も一緒に。
紙の質も上質、間違ってもいたずらなどと思わせない様な雰囲気を伴ったソレを捨てる奴はいない。



神話の英雄、世に謳われる【大賢者】が何故このような回りくどい事を?
遠回りなことなどせずに堂々と転移の術で国王の前まで飛んで行き王に直接報告したほうが早いのではないかという疑問もあるだろう。



それでは色々と傷がつくのだ。
主に王族やリグレ公爵家などの名前に。
エレブ最古の国であるエトルリアは特にそういう規則や古いしきたり、面子などに非常に拘る傾向がある。



例え救世の【大賢者】であろうとも、王族は敬意を求める。
仮に王本人がソレを望まなくても周りが求める。
何とも面倒だが、本人は気にしないという話ではないのだ。



余計な反感は買いたくない。更には腹を探られるのも不快だ。
ただでさえアトスは既にエトルリアでは息苦しさを感じる程に……疎まれていたのだから。
しかるべき手続きをすませれば回避できるならばそれに越した事はない。



それにしてもとイデアは口を開く。
どうにも自分は数百年前のアクレイアのあの一件からして王族や貴族との縁が多いなと思いながら。


「リグレ公爵家か。確か500年前からの弟子の家庭だったか。
 戦役の後、アクレイアに顔を出した時にも名前を聞いた覚えがある。
 非常に優れた魔道士の家庭で、エトルリアの魔道軍将の座はほぼ彼らの予約席だと」
 


「何度か代替わりを経ているが、概ねその認識で間違ってはいないな。
 この500年、全ての当主の誕生と没を見届けているが、皆優れた術者たちだったよ」




ふむとアトスは頷く。彼の眼は過去を見ている。
遠い戦役の時代、友と弟子、彼らに囲まれて戦った日々を。
しかし賢者は過去からすぐに現代に戻ってくると、腕を軽く振った。



扉が一人でに開くとそこに立っていたのは老火竜フレイだ。
彼はイデアを見つけると恭しく臣下として一礼し、アトスに会釈を送る。



『イデア様。アトス殿。予定通り外界の“拠点”に書状の返答が。ここに』


懐から一枚の……エトルリア王国の象徴である王冠に二頭の獅子をあしらわれた封筒を取り出す。
貴族の中でも選ばれた存在しか扱えないそれは紛うことなきリグレ公爵の、エトルリア大貴族の証拠。



さて、これからが忙しくなるぞとイデアは改めてこれからの計画を見直し始め、アトスは瞬時に頭の中で内容を想像し、それに対する答えを何通りも原文として書き上げていく。
フレイは柔らかな動作で封筒を二人に差し出すと何枚もの羊皮紙……それも特別に見繕った上質なモノを手に取る。



そして里の運営者たちの長い仕事の時間が始まる。
彼らは人ではない故に、疲れも覚えず必要とあれば食事睡眠など全てを排して必要な事を行い続ける事ができるのだ。
















何もかも消え去ってしまった。
激しい……“戦争”の跡地を見てアンナが思った事はそれだった。
ほんの少し前までネルガルは存在していたというのに、もう彼は居ない。



何も残っていない。
ネルガルという男を構成していた全てはエレブの何処にも存在を許されてはいない。
いやそもそもの話、彼は“死んでいて”残った体はイデアの手によって的確に“処理”されたのだ。



「───……」



既に彼女の仕事の大半は終わった。
メディアン等と連携しての戦場となった“場”の修復は。
隔離されていた異界をエレブへと戻す前に行う後片付けを熟練の術者に相応しい手際の良さで片づけた彼女は、仕事を終えた後も戦場跡を見下ろしながら丘の上に立ったまま動かない。



アンナは大きくため息を吐いた。
自分らしくないとは判っているが、思考がぐるぐる回って止まらない。
頭の奥で火花が散り続け、胸はこんな昼の砂漠の真ん中だというのに凍り付いたように冷たい。




どうしてこうなってしまったのか。どうすればよかったのか。
多くの人間が覚えるであろう後悔を竜である彼女が抱いてしまっていた。




ふと、彼女は自分に近づいてくる気配を感じて意識をそちらに割く。
無視するという選択肢もあったが、社交的な彼女はそんな事はしない。
この状況下で自分の感情のままに他人に当たり散らす程アンナという女は幼くないのだ。



彼女の竜の“眼”が捉えたのは堂々とした足取りで砂をかき分けて来る火竜ヤアンだった。
すぐさまもう何千年も使われ続けてきた技術が行使されて、彼女はこの里で誰もが知る「アンナ」になった。
顔には何時もの「アンナ」の笑顔が張り付き、内面の苦悩などおくびにも出さず彼女は平時と変わらぬ様子で振り返る。



「昼のナバタを散歩しても、面白味は余りありませんよ?」


ふふふ、と不敵に笑うアンナとは対照的にヤアンは無表情だ。
彼はアンナを見て、次いでアンナ達が必死に整地した戦場跡を見てからもう一度アンナを見た。



「既にイデア達は神将も交えて次の計画の準備を進めている」



言わずともお前なら知っているか、と彼は続ける。
この火竜は珍しい事にそのまま踵を返して帰ったりなどせず、アンナの隣まで歩を進めた。



「イデアは正しい事をした。私から見れば 自らの危険をまねく可能性のあるものを生かす理由などない」



強くもなく。弱くもなく。ヤアンは真理を語る様に淡々と断じた。
アンナの胸に微かに沸いたのは微かな激情と納得。
ヤアンという男はこういう男だと何千年も前から知っていた故に仕方がないと彼女は感じた。



だが、と火竜は続ける。
彼には傷心のアンナの傷を抉る様な悪意はない。
かといって慰めるような善意もない。



ただ無機質で、正直なだけ。相手が誰であろうとヤアンは変わらない。



「奴との時間は悪くなかった」



そう締めくくると、ヤアンはアンナの言葉など聞きもせずさっさと里に向けて行ってしまう。
一人残されたアンナは今度は本心から微笑み、転移の術を用いてその場から飛び立った。




この仕事は終わったが、まだまだやるべき事は山の様にある。










あとがき


皆様お久しぶりです。
16年は引っ越しに転職にペットロスなど色々あって更新できませんでしたが、今年は……何とか頑張ります。
とりあえずFEヒーローズ配信記念にリハビリがてら一本あげます。


ヒーローズにエコーに無双にスイッチの完全新作といい、今年はFEが熱く、素晴らしいですね。





[6434] エレブ963
Name: マスク◆e89a293b ID:0894ef4b
Date: 2017/02/11 22:07


「人が産まれる遥か以前、世界の始まりには【光】と【絶望】があった」  第一部 神竜王ナーガより。



エレブ新暦 963年




コミンテルンという組織があった。またの名を解放軍ともいう。
彼らはリキアとベルンの境で産声を上げた組織だ。



言い回しこそ自由を愛する者たちの爽やかな集まりの様に見えるが実態はそんな夢のあるモノではない。
簡潔に述べるならば彼らはとある思想の元に集って出来た一つの小規模な軍隊だ。


最初はちっぽけな山賊たちだった。
何処にでもいる吹けば飛ぶような集まり。
それが一変したのはいつからだったか。


争っていた山賊団たちはとある一つの団の頭領によって統合され、あろうことか彼らは……人々の平和を守る様になった。
領主の手が余り届かない辺境の複数の村々を彼ら曰く「保護」し、周囲の小規模な賊たちから守る代わりに食料や金などの「お布施」を要求したのだ。
お布施といっても万人が想像するような抵抗する村人から根こそぎ……などという事はなく、ほんのささやかな生きていくのに必要な量のみ。



最初は人々は歓迎した。
頼りにならない領主たちの代わりにやっと自分たちと同じ目線で物事を考え、格安の値段で自衛の手伝いまでしてくれるとは、と。
しかし徐々に彼らはやり方を変え……否、本来の目的へと近づけていく。


何度も自分たちの為に戦ってくれてありがとうと感謝する村々の者に彼らの指導者はこういった。


“我々に頼るだけではダメだ。お前たち自身が力をつけねばならない”


彼らはこういって「保護」した村々の若い男たちを訓練しだした。
武器を与え、力を与え、更には最低限の知識と……ちょっとした“思想”を与えて。


彼らを統べるのは大頭領ノルマン・コミンテルン。
何処からともなく現れ、甘い言葉を囁きだした男。
たった一人で弱小の山賊団を大きくし、組織化させ、巨大な独立軍を編成し、今や小規模な領主と称しても差し支えない規模まで膨らませた男だ。





村々の男たちが十二分に訓練を終え、それらを雇い入れた彼は既に一つの領主に匹敵する軍を保有するに至る。
もちろん彼の配下の傭兵は戦争がなければただの無駄飯食らいにしかならないが、そんなことは当然彼は知っていた。
全てはこの為にあったのだと叫ぶために人を集めたのだから。


配下にした全ての人々を前にノルマンは宣言する。
何かに突き動かされるように、まるで自分の意思などなく、大きな流れに操られるように。



金がない?
食料がない? 
生き甲斐がない? 
どうして自分たちは平民で、貴族は貴族なのだ?
エリミーヌ教の教えでは神の名の元に全てが平等だと確約されているのに。



───奪われる苦しみを知っている者よ。私の話を聞いてほしい。


全ては平等だとノルマンは説いた。
全ての富は皆に平等に分け与えられるべきで、一人は全体の為に、全体は一人の為に。
真に全ての者が一つになればこの戦乱絶えないエレブに平和が訪れると。




───貴族も王族も不要。国家さえ不要。我らは一つの大きな家族であり巨人である。
───賛同せよ。参集せよ。我々の真の武器は剣や槍ではない。この血潮の様な赤い情熱と思想こそが神将器に勝る武器なのだ。



彼らは理想に燃えた。神にこの世のあるべき姿を教授してもらったと断じながら。
燃えて燃えて、その熱はリキアの各地はおろか、ベルンの一部にさえ飛び火する。
潜在的に燻っていた貴族への平民の羨望や憤り、あらゆる不満が現出し「思想」は新しい病気の様に人々の頭に感染した。


例外なく彼らは理性の箍が外れている。
有史以来自分が正しいと思い込み暴走する人間ほど厄介な存在はいないと証明するように、彼らは手段を択ばない。



食料の提供などを断った村々を焼き払うのはまだいいほうだ。
中には子供を人質にとり親を無理やり拷問まがいの訓練に参加させ兵士として徴集、子供は密偵として訓練し各地に派遣し、必要とあらば噂の流布や各地での破壊工作の捨て駒として扱われたりする。
全ては真の平等の為、理想の為だと疑う彼らの心に罪悪感など産まれようはずもない。


貴族も王族も不要などという前代未聞の大義を掲げた敵の出現に当然リキア諸侯は慌てた。
自分の財産を狙うなら判る。地位を狙うなら判る。だが……だが、この意味不明な考えは何だと。
人の姿をした理解不能の思考回路をした怪物が突如として生えてきた彼らの混乱のほどは想像に容易い。



しかし同時に行動も素早かった。
当代のリキア同盟盟主のオスティア候はこの状況を深刻に捉え、即座に諸侯を収集、迅速に討伐軍が編成される。



数度の戦いの後、遂に同盟はノルマン本人が率いる本隊をリキアのカートレーに追い詰めることに成功。
これを好機と見た盟主はリキア同盟の総力を以てコミンテルンをうち滅ぼさんと軍を動員する。



キアラン候ハウゼンも参戦した諸侯の中の一人であり、その配下としてとある男もこの戦に参戦するのであった。
















リキア カートレー侯爵領





断末魔の悲鳴が絶え間なく響き続ける。
命が水滴の様に零れ落ちていく。
何年、何十年と人生を歩み続けてきた人々が呆気なくその終幕を迎える。


夕闇の中で、太陽よりも紅い血潮が光を反射していた。


そこは戦場。死の満ちた空間だ。普段は穏やかな様相の草原は今や死に満ちている。
屍山血河という言葉をこの世に体現させた地獄。
至る所で血しぶきが飛び散り、肉が跳ね、骨が摩り下ろされる悪意の坩堝。
もはや敵味方入り乱れ、誰が敵で、誰が味方かさえ判別が難しくなった戦場がここにある。




エトルリア王国の国教、エリミーヌ教団がかつてサカに対して行った異端審問軍の大侵略以降
エレブの治安は比較的安定していると言われたが、あくまでもソレは大陸全体を俯瞰してみた場合の話だ。


心震わせ、血沸き肉躍る英雄たちの舞台。
大戦争がなければ世界は平和か?
そんなわけはない。小競り合いなど何処にだって起きている。


真実世界が完全に、無比に、全ての人間が争いをやめた事などないのだ。
故にエレブ大陸は暗黒大陸と評されることさえある。
死と退廃と、同時に命の輝きに満ちているのがエレブだった。



「────ッッッッ!!」



一人の男が剣を振っていた。
殺意を形にしたような鋭い目をした男だった。
戦場の常として眼は濁り切り、充血した狂気と敵への憎悪だけが溢れている。



男が鋼の大剣を一振りするごとに不気味な風切音が木霊し、首が、腕が、血が舞う。
切り分けられた首は死を目前にした恐怖と絶望を顔に張り付けたまま、いっそ間抜けとさえ思える程にぽーんっと飛んで地面に落ち……ほかの人の足に蹴り飛ばされ、何処かに消えてしまう。



崩れ落ちる身体には目もくれず、男は既に次の相手に意識を割いていた。
背後から飛来する矢を体を捻る事で回避し、懐から取り出したナイフを鋭く投擲することによって弓兵をけん制しつつ、自らの居場所が戦場におけるどの位置なのかを直ぐに把握する。


周囲に蔓延る味方と敵の比率はざっと四と六。
四が友軍で六が敵だ。



少しばかり突出しすぎたか?



男は瞬時に答えを出すと、周囲への警戒を怠らずに緩やかに後退を始めようか悩み……直ぐに拒否する。
生き延びてどうする? 手に入るのは何時も通り少しばかりの金と酒と女だけだ。
仲間たちは讃えてくれるだろう。さすがは【不死身のレナート】だと。


男……レナートは不死身と呼ばれていた。
もちろん彼自身はただの人間であり、そんな神話の中の竜の様な超越した生命力など持ち合わせてはいない。


ただ彼はとても勘が鋭く、同時に物事を俯瞰的に見る事が出来るだけだ。
傭兵という身体が資本の職業において、自分自身の限界を客観的に見る事がいかに大事か。


彼が今までやってきたことは二つだけだ。
引くべき時に引く。そして、たとえどれだけ提示された報酬が素晴らしかろうと、依頼主が信用できなければ決して依頼を受けない。
それだけだ。もちろん彼自身のたゆまない努力によって磨き抜かれた実力も大きな要因だが。




「アァァァアァァァアぁぁぁあぁ!!!!」


例えば今の様に、奇声を発してがむしゃらに突っかかって来る雑魚を片付ける等造作もないことだ。



「フっっ!!」



裂帛の呼吸と共に突出した自分の命を奪おうと群がる敵に大剣を横薙ぎに叩き込んでやる。
下手な子供よりも重量のある鋼の塊が軽々と振り回され、ソレは剣で咄嗟に防御した敵の剣をガラス細工の様に砕き……敵は一人から“半人”になった。
噴き出る臓物と糞尿に構わず、レナートはあろうことか……大剣の柄を離した。


人間一人を両断したというのに鋼の大剣は更に血を求める。
勢いに乗ったまま鋼の大剣はすっぽ抜けた様に吹き飛び、それはレナートを真横から襲おうと身構えていた男の胸元に突き刺さり、その命を軽々と奪い取る。



当然まだまだ敵は多い。
ざっと……どうでもいい。殺せるだけ殺す。
しかし本音を言ってしまえばレナートにはもうどうでもよかった。


今やってるこれは国家と国家がぶつかり合う華々しい英雄譚の中の戦いではない。
ただのゴミ掃除だ。思い上がった愚か者に当然の報いを与えるための死刑執行中の事故もしょうがないと。


何もかも、どうでもいい。
仕事な以上人殺しはするが、殺されるのも仕方がない。


誰が、何時、何処で、どうやって死のうが、もうどうでもいい。
当然その中には自分も入っている。判っていた事だった。
ただ、見て見ぬふりをしただけだ。死に例外なんてないと。


乱戦となった戦場の中、レナート目がけて更に三人ほど立ちはだかる。
装備はバラバラ、鎧をつけている者がいたと思えば、平民と何ら変わらない衣服のまま槍をもっている者もいる。
年齢も装備もバラバラな彼らに共通していえるのは……例外なく全員が全員、狂った理想に燃えている事だ。



元はただの平民や賊だった者達の集合体がどう言い繕おうと彼らの正体だ。
雇い主のいない傭兵や、食い扶持を求めた平民などの烏合の衆に破綻した夢見がちな理想だけを詰め込んだのが彼らだ。
つかの間の平和に順応できず、今に満足できず、甘い言葉に惑わされて走り続ける駄馬たち。



金の為、生活の為、そして理想の為に戦場に身を落したと言えばまだ情け深い。
しかし彼らの本質はもっと俗物だ。



レナートは何度もこのうんざりする奴らを切り殺す内に理解していた。
彼らは……単純に彼らは殺すのが好きになってしまったのだと。血に酔っている。
理想という大義名分の元、絶対正義を振りかざし、自分たちの行いが正しいと盲信し突き進んでいるだけ。


これは猪の突進だ。
何も考えず、その先が崖であろうと構わず走り続けるだけの。
今まで武器も握った事のない村人が鍛えあげられた事により、人を嬲る喜びを覚えてしまったと言っていい。



中途半端な力を得て、自分より弱いモノを踏みつぶす喜びを覚えてしまった弱い人間。
それがこの者達の正体だった。


「っ………」


無手となったレナートに対し、彼らは嘲りを隠そうともしない。
戦場という極限状態の中、興奮しきっている。


レナートは顔を歪め、さももはや抵抗する術などない疲弊しきった男の様に振る舞う。
ガクガクと震える足で何とか数歩後ずさりし、歯を噛みしめる。


敵が黄ばんだ歯を覗かせ荒い息を吐く。ぎらついた欲望が更に勢いを増す。
1,2,と瞬間を図り、彼らは同時に飛び出す。
そして……一人が矢で胸元を貫かれ、一人はレナートの後方より飛んできた手槍に串刺しにされ、残りの一人はレナートが隠し持っていたナイフを投擲し、額から竜の様な「角」を生やすことになった。



「レナート先生ッッ!!」



金属が削れるような音と共に絶叫が響くと……レナートの背後で敵兵が空を舞った。
風に舞い上げられた木の葉の様に何人もの兵士が吹き飛ぶ。
文字通り大地を踏み鳴らしながら重厚な鎧に身を包んだ男がレナートに駆け寄って来る。


「ワレスか」


「はい。先生の部隊が突出しているのを見て援護に。……“私では”不足ですか?」


レナートは何も答えず、自然体な動きでワレスに自らの背を任せる。
戦場においてグダグダ会話をしている余裕などない。



最後まで、気は抜けない。
戦いは、いつ何が起きるか判らないのだから。何度も何度もこの弟子に教えた事。
ただ彼が思ったのは、今回の戦ではどうやら自分は死ねないということだけだ。



ワレスが鎖で結んで背負っていた白銀に光る大剣をレナートに渡し、自らは鋼の大槍を構える。
重騎士が大槍をその見た目から想像できない程巧に取りまわせば、敵の身体が千切れ、凄腕の剣士が大剣を振り回せば死の暴風が産まれる。



重騎士の鈍重さを剣士が、剣士の攻撃に全てを賭けた戦闘方法を重騎士が、二人は互いの弱点を補いあい、完璧な連携を見せていた。
更にはほんの僅かだけ二人の動きのズレから生じる隙さえも遥か彼方より的確に降り注ぐ矢が埋めてしまう。
三人目の、この場にはいない仲間。その存在を頼もしく思いながら彼らはこの賊徒たちを蹴散らし続けていた。

















殺して殺して、どれだけの血潮を地面に吸わせたか判らくなってしまう頃に転機が訪れる。
全身を血まみれにしたレナート達がその角笛の音を聞いたのは周囲の大地が全て死体で埋まった頃であった。
戦いながらも周囲に意識を割き、少しずつ調整するように移動していた彼らにとって、これは終わりを告げる音。



勿論……自分たちの勝利という形でだ。



角笛が響く瞬間は予め取り決められている。


この局面における戦いはリキア同盟キアラン軍とラウス軍が大きな役割を果たす戦いだ。
イーグラー将軍率いる歩兵と弓兵のバランスの取れた編成のキアラン軍が敵を真っ向から程ほどに押しとどめつつ、じわじわと後退を行う。



所定の位置にまでコミンテルンを引き寄せるのだ。
彼らに自分たちが死刑台の階段を上っていることを気付かせてはならない。
絶妙な用兵を求められる作戦だったが、イーグラー将軍はその全てを完璧にこなしていた。



そして時が来たら角笛を合図として待機していた騎兵を中心とした軍を持つラウス軍が側面から叩くという単純なもの。


訓練を受けたとはいえコミンテルンは所詮は烏合の衆だ。
自分より弱い人々からしか奪う事が出来ない存在だ。
理想への熱狂は彼らの攻撃性を大いに高めるが、不意にうたれれば脆い。



更に彼らの運命を決定づけたのはノルマン以外の絶対的な指揮官が存在しないということ。
全ての存在を平等にするという彼らの思想上、軍の指揮系という……上下の区別さえもあやふやなのが仇となった。
そして今やカートレーの古城を拠点とするノルマン率いるコミンテルンの本隊も轡を並べたオスティアの重騎士を中心とした軍勢に叩かれていることだろう。



リキア同盟盟主が率いるオスティアの重騎士は城における戦いにおいては不敗を誇る。
エトルリア王国の大軍将が率いる最精鋭に勝るとも劣らないと謳われるその能力は人竜戦役以降何度か戦場になったオスティアの居城を1000年近く守り通してきた程だ。
そして城を防衛するのが得意ということは、その逆も然り。守るためには当然攻める側の思考も理解しないといけないのだから。



城攻めというものを理解しつくしている彼らにとって、補強されたとはいえ何十年も打ち捨てられた古城の門など赤子の手を捻る様に粉砕できることだろう。



……勝利を運ぶ轟音が地鳴りを伴い戦場を横断する。
ラウスの軍勢を中心として編成された大規模な騎馬隊がラウス候ダーレンに率いられてやってくる。
好色で見栄っ張りで、騎士としての勲章を金で買ったと散々に陰口を叩かれている男ではあったが、今の様に調子に乗って攻勢に回ればそこそこの働きは出来る男だ。




悲鳴を上げ逃げ惑うコミンテルン軍。彼らは望み通り平等になった。死という物言わぬ形で。
レナートが地平の向こうに目をやれば、そこでは火の手が上がっている。
彼らの拠点とする古城が今まさに陥落しようとしていた。



勝ったか。そして死に損ねた。
口にさえ出さなかったが、そんな言葉と共に胸中を苦々しい思いでレナートは満たした。



「勝ちましたね」


教え子であるワレスが周囲への警戒を怠らないまま、呟く。
その言葉には隠しきれない疲労と悦びが滲んでいた。
騎士となってから初めて経験する大規模な軍事作戦に参加したワレスは間違いなく興奮していた。



しかし弟子の熱とは打って変わってレナートは冷え切っていた。
死人の様に顔色は悪く、肌も冷たい。
真っ赤な水浴びをした彼の心は真っ青だ。



「ああ」


ふと、横をレナートは見る。背中はワレスに任せたが、隣は……誰もいない。
いや、居なくなってしまったのだった。
彼は懐に手をやり、どんな財布よりも厳重に体に括り付けている小さな革袋に触れた。



革の上からでも判る中身のごつごつした無骨な感触が彼の指を押し返してくる。



レナートには掛け替えのない存在が居た。
……いや、こんな言葉では表しきれない程に大切な存在があった。
幼いころより共に育ち、二人で鍛錬し、二人で旅をした存在はもはや彼の半身という言葉こそが適任だった。


だがもう彼はいない。何のことはない。
病による悲劇的な別れがあった訳でもなく、単純に死んだのだ。
呆気なく、ただのつまらない依頼で当然の様に遠距離からの攻撃という不意打ちを受けて。



断末魔の言葉さえなく即死した友の顔をレナートは覚えている。
無表情で、何の苦痛も感じていない顔だったことを。
彼は自分が死んだという事にさえ気づいていないだろう。



このまま亡骸を放置しておけばひょっこり起き上がって何時もの様に動きだすのでは、と本気でレナートが考えてしまう程につまらない死だった。



そして今……“形見”はレナートのすぐ近くにある。
彼が愛用していた血の付いたナイフ。ソレをレナートは肌身離さず革袋に入れて持ち歩いているからだ。
彼の死体は残らず焼却された。友の身体から蛆が沸いてくる様など見たくなかったから。


友が死んだというのに、レナートは祈りの言葉さえ唱えられない。
そもそも知らなかったのだから。



遠くで狼煙が上がり、間髪入れずに角笛が大きく二回鳴った。
これはイーグラー将軍からの撤収命令だ。


「……我々の役目は果たした。撤退するぞ。残党の処理はラウス軍がやってくれる」


はい、と大仰なまでに頷くワレスを横目にレナートはふと戦場の跡地に目をやる。
死体と血と肉で埋まった地獄に。
もはや生きている人間など誰もいないそこに視線を移したのは気まぐれか、それとも直感か。



「…………!」



遠く、遥か遠く、レナートの弓兵としても通用する視力でさえ微かにしか見えない程の遠方に……レナートは強烈な違和感を抱いた。
死体が折り重なる草原の奥。血だまりが幾つも出来た泥沼のもっと奥。新鮮な肉をつつく鳥たち。森と草原の境目。


そこに「ナニカ」が居た。少なくとも人間と形容できない「ナニカ」が。


遥か遠方というのもある。
あちこちで飛び交う鳥の影に遮られているのもある。
森の木々の影に隠れているというのもある。
既に日は没し、夕闇が濃くなっているというのもあった。


しかし全てを踏まえても“ソレ”はおかしかった。
“ソレ”には何もない。実体をもっているのかさえ疑わしい。
顔がない。肌がない。人間の影をそっくりそのまま直立させたように朧気で、真っ黒で、生きていない。



“ソレ”は棒立ちのままゆらゆらと周囲の輪郭だけが蠢いている。
真っ黒な霧を塗り固めたように霞がかったその存在は微動だにせずじぃっと戦場を眺めていた。



「ッっ!!」


そして……“ソレ”は眼もないというのにレナートをいきなり“見た”
咄嗟にレナートは顔を逸らした。
戦場の真っ只中だというのに瞳をぎゅっと瞑り、子供が悪夢を見た時の様に瞼の裏の黒に全てを塗りつぶし記憶の奥底に流し込む。



「あの、先生……? どうなされたのですか? まさか何処か怪我でも……」


「い、や……何でもない。気にするな」



気のせいか。随分と俺も女々しくなったものだとレナートは自嘲し、もう一度そこを見るがやはり何もいない。
遠くでは未だにラウス軍がもはや軍としての機能を喪失したコミンテルンを追い掛け回し、断末魔の悲鳴だけが死臭と共に流れてくる。


その中をレナート達は悠々と撤収する。
今日も生き延びたことを苦々しく噛みしめながら。














戦闘の終結をもってレナートの所属するキアラン軍は一度本陣であるキアラン領の居城にまで撤収していた。
カートレーはキアランと隣接しており、こういった素早い動きも可能である。
そして何よりキアラン軍が受け持っていたコミンテルンの部隊は本隊でこそなかったが相応の数を揃えていた故に、軍の損耗はかなり大きかったのが理由だ。


ラウス軍が彼らを攻撃、そのまま殲滅の流れに変わったのを見てこれ以上の戦闘は無意味だと判断したイーグラー将軍は直ぐに兵士たちを故郷の防衛へと戻したのである。



ハウゼン候及びイーグラー将軍は奮戦した兵士達に休息を取らせる考えなのだろう。
勿論、これから増えるであろう仕事をしてもらうためにだ。褒美と休憩という飴は必要だ。
それが終わればキアラン領土内に逃げ込んでくるであろう残党処理、及び近場で大きな影響力を持っていた勢力が消えた事による賊たちの活性化などに対処しなくてはならないのだから。



戦闘は既に終結。
オスティアと飛脚を通じて密接な連携を取り合っている領主の元には既に盟主率いる重騎士部隊が敵をほぼ壊滅させ、コミンテルンの首を取った旨の報が入っていた。
キアラン候ハウゼンは前もって役目を果たした時点で軍を下げると盟主及び各諸侯に伝えていた為、この行動に特に問題はない。


戦い、敵を引きつけて作戦を成功させたという結果を残した以上、誰も文句は言えない。
保守的で戦争における武勲や戦果の配当などに殆ど興味をもたないハウゼンらしいやり方であった。
彼の興味を引くのはキアラン領の発展と平和。そして愛娘の事だけなのだ。


たまには弟のラングレンの様にもっと野心的になってもいいものをと民に噂されるほど彼は無欲な男である。






「此度の戦い見事でした。貴方たちは紛れもなく称えられるべき勇者です」


戦後というには少し早いが、とりあえずの勝利を祝して即興で開かれた質素な宴の席で、黒髪の女性が壇上で言い放つ。
余り着飾らず、素朴ながらにも高貴さを漂わせる女性の名はマデリン。キアラン候の娘である。
時折城下に飛び出て平民たちに混ざって畑を耕す等という奇天烈な行動を取る事もある彼女だが、こういう席では貴族としての役目を立派に果たすだけの気概がある女性だ。



「ラングレン叔父様。イーグラー将軍。騎士ワレス。レナート。ハサル……」


朗々と一人一人の名前をマデリンは歌い上げていく。
小さな部隊の隊長から末端の一兵士、果てはレナートの様な雇われの名前まで当然の様に。
聞いていて心地よい声音でありながら、芯の強さを感じさせる声である。
そんな声で名前を敬意の滲む口調で読み上げられて嫌なを思いをするものはここにはいない。



「皆の者。よくぞ戦い抜いた。
 この戦いによって我らリキア同盟の結束の強さと尊さ、そして何者にも屈さぬ気高さが証明されたのだ!」



マデリンの隣に歩み寄った侯弟ラングレンが力強く宣誓する。
彼もまた軍の指揮をイーグラー将軍に委ね前線で部隊を率いて戦い抜いた猛者である。
その証拠に彼の鎧は所々が汚れ、または破損しているがそれが却って兵士たちの彼への信頼を高めている。


民たちからの信奉はハウゼンの方が上回るが、兵士達からの信頼においては直接前線で仲間を鼓舞して戦うラングレンの方が上かもしれない。
民と兵士。キアランの兄弟はそれぞれ互いに足りない部分を補いあいながら領土を運営していた。



「……………」


そして最後に遅れて登場したキアラン候ハウゼンの同じような祝辞をレナートは何処か上の空で聞いていた。
勝利の後の酒だというのに全く美味くない。味がしない。つまらない。
何とか表向き表情を取り繕い、自分はこの宴を楽しんでいるという体を演じてはいるが、親しい者が見れば直ぐに見破られてしまうだろう。



「レナート先生! こちらにおられましたか」


ガシャンと鎧を擦れ合わせながらワレスがやってくる。
片手に酒の入った盃を複数個、もう片手には上等な肉料理がふんだんに乗せられた巨大な皿を持った彼は器用にバランスを取りながら人込みを弾きとばしてレナートに近づく。
彼はワレスの隣に立つと、近くのテーブルにソレを手慣れた様子で並べた。



「料理と酒をお持ちしました! 
 “戦いが終わったならば全てを忘れ、生きていることを楽しめ”でしたよね。
 貴方の教えをまとめた【兵士強化マニュアル】にしっかりと記されております!」
 
 

「……そうだな。その通りだ。一杯もらおう」




ワレスの言葉を聞いたレナートの顔が僅かに綻んだ。
初心を危うく忘れるところだったと自戒し、気持ちを振い直す。
今まで心の中で張りつめていた感情が解け始めたような気さえした。
彼の弟子は彼の言葉を一言一句聞き逃さず吸収し、その大切を師であるレナートに再認識さえさせてくれる。



しかし【兵士強化マニュアル】は些かやりすぎだとレナートは思いながら酒を呷る。
ただ単純に自分と友が行っていた訓練をワレスに話して聞かせた所、眼を輝かせた彼はソレを嬉々として書き記し、更には大胆なアレンジを施して完成したのが恐怖の【兵士強化マニュアル】だ。


マニュアルと言えば聞こえはいいが、アレはどちらかと言えば【捕虜拷問マニュアル】と称した方がいいかもしれない。
それだけアレに記されている中身は突拍子もなく……友と普通にこなしていたレナート自身が語るのもどうかとは思ったが、色々とおかしい。


試しに簡単にほんの一部を書きだすだけで……。


鎧を着たまま広大なキアランの領地を数日かけて一周。勿論全力でだ。
更には鎧をつけたまま湖を泳ぐ、素振り数百回、不眠不休で3日間の行進等々。
自分と友ならば出来たが、もちろんこれをまともなモノだとレナートは思ってはいない。



……今はまだワレスのキアラン軍における地位はそれほどまでではないが、この先彼が出世し
もしも兵士たちの訓練などを担当することになったら、間違いなくレナートはキアランの訓練兵たちに報復されるだろう。
勿論そんな事になったら全員返り討ちにしてやるつもりであったが。



しかし遠まわしな自殺ともとれる内容に仕上がった【兵士強化マニュアル】であったが、今見ると懐かしさと当時の青臭さを思い出す感慨深い。



「そうだ。この席にはもう一人呼んでいるのですよ! ……ハサル! こっちだぞ!!」



ワレスが大声で名前を呼ぶと、人ごみの間をすり抜ける様に男がやってくる。
サカ出身の者独特の気配を纏った黒髪の男だ。
彼もまた傭兵としてキアランに雇われた者であり、先の矢による援護攻撃の射手でもあった。



「……失礼する。レナート殿」


ハサルと呼ばれた男はレナートに会釈し、盃を手に取り二人に向けて掲げた。
瞳を閉じた彼は粛々と祝詞を唱える。


「母なる大地と父なる空に感謝を。戦友たちに敬意を。散っていった英霊たちに祈りを」



続く様にレナートとワレスが盃を掲げ、中身を一気の飲み干す。
今度はとても美味い味がした。身体の奥底から温まる感覚がとても心地よい。
何時にもまして酒が体に染みわたり、外見こそ変化はないが確かにレナートは酔い始めていた。


キアランの名だたる酒造家が作り上げた酒は、他のリキアの酒に比べてかなり濃いのだ。
ワレス等既に盃でちびちびと飲むことを止め、いつの間にか用意した特注の巨大なジョッギで飛竜の様に酒を体に流し込んでいる。


「しかしですな。やはりレナート先生の活躍は素晴らしい! 
 前線で死を恐れず戦い、兵士たちを鼓舞する貴方こそ真の勇者だと私はつくづく実感しました!」



「持ち上げすぎだ。俺より強い奴なんて幾らでもいる」



酔いが急速に回り始めているのか声が大きくなり始めたワレスにレナートは素っ気なく返す。
事実彼は自分が強いなどと欠片も思ってはいない。このエレブは思ったよりも遥かに広大で、強者など幾らでもいる。
何より友をつまらないミスで失い、未だにうじうじと引きずっている自分が強い等と言われるのは違うとレナートは断ずる。


しかし声は大きく耳の穴は小さいワレスにそんな理屈は通じず、むしろ彼としてはレナートは「自身の力に自惚れない理想的な男」と更に評価を高めてしまう。



「そしてェ……先生には及ばないまでも我が好敵手よ! お前も中々の活躍だったぞ!! 
 特に矢による援護! アレがなければ私達とて危うかった!!」



「……」


まだまだ自分は未熟だとハサルは頭を横に振って無言で返す。
母乳酒という立派な酒類を主食として生活するサカの民族である彼にとってはこの程度の飲酒は問題ないらしく、まだまだ酔う気配を見せない。
それに何やらレナートが見る限りハサルは……誰か他の人を待っているように見える。



サカの遊牧民の男らしく物静かで言葉よりも行動で語る事が多いハサルだったが、その分それが崩れかけると表に出やすい男でもあった。
レナート自身、人の気配の動きや意思のちょっとした流動を見切る技術を習得している故に、今の彼の心境は手に取る様に判る。
そして案の定それに答えるように近づいてきた気配にレナートはそういう事かと内心で零した。



「楽しんで頂けてるでしょうか?」


響いたのは凛とした声。つい先ほど堂々たる称賛を伝えてきた声であった。
キアラン公の一人娘マデリンである。
立派な造りでありながら決して装飾過多ではない上品なドレスを着こみ、黒い長髪を背中で結った彼女からは貴族としての存在感と女性としての熱が感じられた。


頬が僅かに赤いのは酒の効力か、はたまた……。


「これほど楽しいのは久しぶりだ。キアランは全てにおいて恵まれているな」


レナートはあえて崩した口調でマデリンに告げる。
そして紡がれた言葉は間違いなくおべっかではない彼の本心だ。
さすがに雇い主のキアラン候やその弟と対面したら言葉遣いは正すが、マデリンは余りそういう事を気にしない性質の人間だと既に見抜いていた。


「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいわ」


上品にマデリンが笑う。
合わせるようにレナートは頬を釣り上げ、ちらりと確認するように横目でハサルを見ると彼は矢じりの様に盃を見つめていた。
瞬きさえせず、無表情で必死に何かを堪える様に酒がなみなみと注がれた盃を凝視することに全力を注いでいる。


───なるほど。俺たちは邪魔のようだな。


さすがにここまで見せられて気が付かない程にレナートは鈍感ではない。
彼の頭の中では既にどうやって波風たてずこの場から離れるか算段を付け始めていた。
馬に蹴り飛ばされる前にさっさと何処かへ行ってしまわなければ。
聞けばサカの馬は全てが駿馬らしいので蹴られでもしたら首から上が消えてしまうかもしれない。



「おぉぉォォ! マデリン様!! ようこそおいで下さいました!!!」



さて、この厄介な弟子をどうやってこの二人から引き離すべきかとレナートは心から悩んだ。
師の内心など露知らずワレスの声は更に大きくなっていく。
真っ赤な顔はまるでよく茹でた魚介類の様だ。



「不肖このワレス! 此度の戦でキアランの為にわが師、我が戦友と共に轡を並べて戦えたことは一生の栄光であります!!!」


「騎士ワレス。貴方の活躍はよく知っているわ。
 お父様がいずれはイーグラーに次ぐ使い手になると語っていたもの」



「ありがたきお言葉! このキアランの為、ハウゼン様の為! そしてマデリン様の為にもこれからも精進を重ねます!!」



わはははははとワレスは大声でひとしきり笑うと、やがて少しは落ち着いたのか小さく微笑んだ。
そして彼はレナートを微かに見てマデリンに気付かれないようにウィンクをした。



「ではマデリン様、私とレナート殿はこれより挨拶周りにでる故、暫しお暇を頂きます。
 この場にはハサルを残しておきます。この男、無口ではありますが、腕は確かにして心根は誰よりも清純な故、きっとマデリン様も気に入るでしょう!!
 ……ほら、どうしたハサル!! マデリン様に挨拶しないか!!」



バンバンとハサルの背中を何度も叩いて無理やりマデリンに向き合わせると、ワレスは優雅に騎士として一礼する。
レナートも合わせるように一応は覚えておいた礼儀作法を披露すると、二人はそそくさとその場から立ち去った。
背中から何とも言えない視線を感じたが、レナートとワレスはそれを無視した。










マデリンとハサルを残して立ち去った二人はその後夜風に当たりながら、キアラン城の外周を何処にいくでもなく散歩していた。
いや、散歩というよりはこれは巡回に近い。コミンテルンの本隊は崩壊したとはいえ、彼らの主だった武器は「思想」だ。
「思想」に感染した者が何処かに潜んでいないとは誰も証明できない。


もしかしたらあの戦いに参加せず、最後の悪あがきを行うためにキアランに潜り込んだ残党がいるかもしれない。
念には念を入れて二人は完全武装し、清水で顔を洗って酔いを飛ばした後、自分たちが見当をつけた城に侵入するのに絶好の地点を中心に見回りを行っていた。



「気付いていたのか」


一通りの箇所を見回り、今の所は危険は少ないと判断したレナートは微かに張りつめさせていた気配を緩めてから言葉を発した。


「はい。“人の心の機微を読み取れ。それの集まりが戦の流れである”と先生が教えて下さったじゃないですか。
 幾ら酒が入っているとはいえ、そこまで気を抜いたら害意のある者の侵入なども見抜けなくなります」



「守るべき者がいる騎士としての考え方だな。良い心がけだ」



想像以上に多くの物事を考えている弟子にレナートは満足を覚える。
彼は傭兵である以上、何時までもこのキアランに居てワレスの先生をし続ける事も出来ないのだ。
自分の教えがどれほど役に立つかは判らないが、少なくともレナートはワレスに死んで欲しくはない。



この調子ならばワレスは問題なく生きて立派な騎士として大成するだろうという確信をレナートは得ていた。
それと同時に当然抱いた疑問を彼は口にした。


「しかし……いいのか? あの二人は……」



ハサルはサカの出身だ。リキアの者でさえない。
よく言えば仲間意識が強い、悪く言えば排他的な風潮が強いリキアの貴族が二人の仲を認める絵図は全く浮かばない。
そしてソレはサカも同じだ。血筋というものに強いこだわりを持つ彼らは果たして外部の血を受け入れるだろうか。



更に付け加えるとマデリンを狙う貴族も多い。
艶やかな黒髪。強い意思を湛えた瞳。整った顔に豊満な肉体。
単純な貴族同士の交流の道具以外にも彼女を純粋に男として狙う男は当然いる。



貴族とは面倒なもので、愛し合っているから結婚する等と単純にはいかないのだ。



「聞けばハサルはサカのロルカ族の族長の子とか。
 ただの平民であるよりは遥かに望みはあります」


「それでもハウゼン殿は絶対に許さないだろうな」


無理だとレナートは断言する。
彼から見てもハウゼンの娘マデリンへの溺愛っぷりは相当なものだ。
もう間もなく貴族として結婚適齢期に入るというのに全くそういう話を寄せ付けない程に。


何でもハウゼンの妻リンディスはマデリンを出産した際に亡くなったらしい。
妻を失った悲しみが反転して我が子への愛情へと変わっているのだなとレナートは推察する。



「どう転ぼうと私はハウゼン様の命令に従うだけです」



確固たる決意を宿した瞳で宣言するワレスにレナートは自分の考えを言うべきか言わないべきか悩んだ。
暫し塾講を重ねた後、彼はこの素晴らしい教え子が自分の言葉でどのような答えを見つけ出すか興味がわき、腹の内を晒すことにした。



「この手の説教は苦手なんだが……戯言だと思って聞いてくれ」



「おぉ、新しい教えですな!」



期待の眼差しを向けてくるワレスにレナートは苦笑すると口を開いた。


「俺から言えるとしたらそうだな……お前はもっと“迷って”いいと思うぞ」


「迷う……?」



鋼の様な忠誠心と不動の信念を併せ持つワレスにとってそれは正に想定外の言葉だったらしく彼は眼を白黒させた。



「決して動じず、ただ騎士として主君に従う。確かにお前は素晴らしい騎士だ。
 だが……俺が思うにそれは下手をしたら人形と同じなのではないか?」



「……しかし、それは」



彼には珍しくワレスは沈黙する。
この鋼の重騎士にとってレナートの語る概念は余りに衝撃的で、考えたことさえない生き方だった。



「これから先、必ずお前は壁にぶつかるはずだ。
 何が正しいか、どうすればいいか苦悩する時がな。
 その時がもしも来たら考えることをやめるな。悩んで悩み抜いて、苦しんで“自分の答え”を出すんだ」


レナートの言葉に熱が徐々に宿っていく。
ワレスに話しかけながら彼は自分に言葉を飛ばしていた。
友を失い、空虚になった自分自身に言い聞かせるように。


「どんな答えを出して、その結果どうなるかは俺にも判らない。
 それは、お前が確かめればいい。その途中で得る喜びも、悲しみも……すべて、お前自身のものだ」 



語り終え、レナートはワレスを覗き込んだ。
澄んだ瞳でワレスは今新たに刻み込まれた言葉を吟味しているようだ。
彼がこの先どのように生きていくかは判らないが、それでも自分の様に後悔を重ねる人生にならないようにとレナートは祈った。



「もう夜も深くなる。部屋に戻るぞ」



それだけを言い残し、レナートはワレスを後にして歩き出す。
未だ深く考え続けるワレスはそれに答える事はなかった。












あとがき


リハビリと物語をテンポよく進める練習としてエレブ963を更新。
あれもこれもと書きたくなる悪い癖を何とかせねば。
拘り過ぎて更新が出来なくなるとか本末転倒になってしまう……。


残り1話か2話でこれも終わらせたいですね。


そして一週間は無理かもしれませんが、2週間ちょっとに1回更新するのを理想としています。







[6434] エレブ963 その2
Name: マスク◆e89a293b ID:0894ef4b
Date: 2017/03/10 21:08



「よぉレナート。どうしたんだ? 随分と妙な面をしてるな?」



男がレナートに話しかける。
親しい笑顔を浮かべた男は気楽な様子でレナートに近寄ると、当然の様に彼が包から取り出して食べようとしていた干し肉をひったくり口に入れてしまう。
抗議の声を上げる前に三切れあった肉の一つはあっという間に彼の胃の中に消え、男の行為にレナートは眉を顰める。


「おい。お前、それは俺のだぞ」


「ん? ほらよ。というかお前も以前俺の取っておいたとっておきの酒を勝手に飲んだだろ?」


「……さて?」


すっとぼけてレナートが顔を傾けると、男は露骨に舌を出して「イー」と子供の様に反応する。
チャリンと同程度の質の肉なら五切れは購入できそうな量のゴールドを男はレナートに渡すと、彼はふぅと息を吐き、背伸びをした。
変な所で男は真面目である。横暴に見えてそれでいて誰より周囲の人間の感情の機微に敏い。



彼は自由な男であった。


傭兵でありながら金にだけ囚われることはなく、自分の感情の思うが儘に生き、願うがままにレナートを振り回し続けていた。
彼もレナートも負けず嫌いだった為「どちらが相手よりも激しい鍛錬を行えるか」等という下らない理由で意地を張り合い続け、後の【兵士強化マニュアル】の原点を作り上げたことや
他には戦場でどちらがより多くの相手を倒せるか競い始めたら、いつの間にか二人で背中合わせで戦っていた等々、上げればきりがない。



だが彼は死んだ。呆気なく、人間がそうなって当然の様に。
これは夢か? 何故彼がここにいるのだ? 俺の友は死んだはずだ。
レナートは普通に、当然の様に笑いかけてくる友を前に困惑を内心で抱いていた。



そんな彼の心などお構いなしに男はレナートに笑いかける。


「どうした? さっきも言ったが、何か変だぞお前」


「…………」


ありえない、とレナートは結論する。
死者の復活など絶対にありえないと。
ならばこれは夢だと彼は確信し、周囲を見渡すが……彼は皆目ここが何処なのか分からない。


ここは草原だ。
ここは城だ。
ここは部屋だ。
ここは彼が死んだあの場所だ。


瞬きをする度に周囲の光景が変わり続ける。
全く、何の前兆もなく無限の景色がレナートを包み続ける。
余りに異常すぎてこれが普通なのかとさえ思える世界だ。



いや、変なのはもしかしたら自分なのかもしれない?
実はあの時死んだのは自分で、今生きていると思っている自分は本当は自分ではないのか?
今までの全ては死にゆく自分が体験しているただの夢か?




ありえないとこれも彼は断じた。それだけは、絶対に。
どれだけ心が弱ろうと、今まで自分の意思で行ってきた全ての行為をなかった事になど出来ないと。
彼は全てを覚えている。あの時の慟哭を。我武者羅に行き場を失い、ただ敵を切り捨て続けたことを。


誰かにとっての掛け替えのない人を切り殺し続けた。
大剣から伝わる骨を断つ感触。肉を叩き割る手ごたえ。血という命を浴びた時の温さ。
何もかも自分がやってきたことだ。



「お前は、誰だ……」



それは弱弱しく震えるような声だった。
コレはレナートという男が抱く膿の化身だ。
彼の心にこびり付いて永遠に離れない業、心理的に負った傷の擬人化。




レナートが望んでいたのは肯定か、否定か。
はたまた友が得意としていた話題を逸らすとりとめもない会話か。



男は朗らかに笑った。
そして、彼が何かをレナートに告げようとした瞬間、全てが止まる。
彼の全身に満ちていた生気は消え去り、肌は土気色に変わり、笑顔のまま彼は……亡骸同然の姿になる。



周囲の景色が夜に……いや、更に深い黒に塗りつぶされ、レナートは闇の中に一人取り残される。
しかし不思議な事に彼は恐怖をしていなかった。むしろ安堵していた。


闇の中を心地よいと思ったのだ。
この闇は全てを受け入れてくれる。
抱きしめてくれる。
痛みを判ってくれるとさえ思えてならなかったのだ。




───────────。


視界と意識の果てまでが完全に深淵に覆われる中、レナートは小さな囁きを聞いたが、その中身を今の彼では理解することは出来なかった。



















目覚めたレナートは自室に誰かが近づいてくるのを感じた。
頭の中は今まで経験したどんな朝よりも透き通っており、思考はこれ以上ない程に明快。
就寝前に軽く飲んだ酒の気配も完全に消えた今の彼には万全という言葉が相応しい。


外は既に明るく上り詰めた太陽の日差しは部屋の中を満遍なく照らしてくれる。


ベッドから起き上がり自室を見回すと……部屋の隅に「友」が立っている。
土気色の顔。泥にまみれてくすんだ肌。ボロボロの衣服に、彼の死因となった喉への矢による出血で血まみれになった姿のまま。
彼は笑顔を浮かべていた。何時もレナートに向けていたような、無邪気でありながら精巧な笑顔を。



木々の様に棒立ちのまま、彼はレナートをジィッと瞬きせずに笑顔のまま見つめている。



「!!!」



咄嗟にレナートは護身として肌身離さず手元においてある短刀を抜き放ち切っ先を……そこには誰もいない。
まるで幻影の様に彼は姿を消してしまっていた。灰は灰に帰ったのだ。
暫く緊張状態を維持していたレナートだったが、直ぐに近場に誰か……大きすぎる足音から推測するにワレスが近づいてきたことを悟ると一息ついてから身支度を始める。



彼のああいう姿を見るのは何もこれが初めてではない。
最近は少なくなったが、以前は日常茶飯事であった。
見慣れる事こそないが、彼が死んだ日より何度もあの亡霊はレナートに付きまとい離れない。


これは病気だとレナートは思っていた。対して珍しい話ではない。
余りに大きな存在を失った事で、自分の精神状態は自分でも気づかない内に変調をきたしてしまっているのだろうと。
戦を始めて経験した兵士たちが初めて殺した敵の幻影に追い掛け回され、心をやられてしまう事など珍しくなく、それに類似した現象なのだと。


エリミーヌ教の教えなど欠片も信じてはいないレナートからすれば亡霊等というものの存在など笑い話だ。
精々仲間の魔道士に冗談の一種として軽口を叩く際に口から出る戯言の中の存在。



だが……それでもここ最近は酷い。
コミンテルンの問題がひと段落ついてから、彼は頻繁に夢、現実問わずレナートの前に姿を現している。
何も言わず、ただ骸を晒した時の姿のまま、ひたすら凝視してくるのだ。


お前は何を言いたい? 
いや……そもそもお前は“誰”だ? 
あいつは死んだ。何も言わぬ骸となり、焼かれて灰になった。



お前など、俺の頭の裏にこびり付いた絶望と懺悔の塊でしかないはずだ。
なのに何故、何故……お前を見ていると郷愁の念に駆られる?


彼は終ぞその疑問に答える事はない。
影の様にレナートの足元に付きまとってくるだけだ。



はぁとレナートは大きくため息を吐く。
近々貯めてた金を使ってエトルリアの魔道士か、エリミーヌ教団お抱えの医療やそれに関する魔道を収めた司祭に治癒を受けるかと考えながら。
しかしどんな外的な怪我や病気よりも、心の病がもっとも癒しにくく難しいものであり、彼は半ば諦めてもいる。


これは罰だと。
愚かで思い上がり、友を死地に追いやって自分一人でおめおめ生き恥を晒し続ける自分への罰だと。
レナートは憂鬱な気分で簡易の鎧などを装着し、帯剣すると最後に鏡の前で身支度を確かめる。



髭も剃り終わり、髪型をしっかりと整えて最終確認だ。貴族の前に出るのだ。
みすぼらしい恰好などをしたら傭兵としての評判に傷がつく。
そこに映るのは傭兵にしてはかなりまともな恰好をした男と、その後ろで笑顔でたたずむ血まみれの彼だ。


さすがに短時間に二度も見てしまえば驚きは薄れ、レナートは何でもないかのようにその存在を無視した。



扉が大きな音を立てて破城槌で叩かれたような勢いで開く。
一気に部屋の中の静寂が息を荒くした男の吐息で塗りつぶされ、レナートはようやく来たかと安堵する。


一人で死者の影と向き合うのは非常に精神をすり減らす。
こういう時ワレスの明るさと強引さは救いになった。



「先生! おはようございます!!」



「おはよう。準備は出来ている」


腹の底から、という表現通りの大声でワレスが叫び、レナートは淡々とそれに答える。
最後の締めとしていくつかレナートはキアラン候より賜った勲章を肩に装着し、彼がもっている中で最も上質な純白のマントを羽織った。
堂々と恐れるモノなど何もないと言わんばかりに彼は表面を取り繕い、ワレスはソレを見て感嘆の声を上げた。


「本日はハサルの奴の晴れ舞台ですからなぁ! 
 さすがは我が好敵手、喜ばしい限りです!!
 そして先生もまた、何と雄々しい! 正に伝承に謳われるリキアのローランにも届き得る輝きですぞ!」


「そうか。そういって貰えて喜ぶべきだな」


内心レナートはワレスの言葉を鼻で笑った。
よりにもよって【小さな勇者】と称えられるローランと比べるとは。
自分は伝承に語られる彼ほどの勇気など欠片も持ち合わせてはいない。


うじうじといつまでも死者の事を引きずり続ける弱い男だとレナートは自分の事を評している。



「さて。行くぞ」


予定よりまだかなり時間はあるが、レナートは構わず動き出す。
こういう何かの行事がある時は前もって建てた計画通りに物事が進む……等とは思わない方がいい。
必ず何らかの理由で遅れるか、または時間が繰り上げられる事が多いとレナートは今までの人生の中で悟っていた。


それにもう一つの理由として……雇い主には誠意を見せておいた方がいいだろう。
これから行う式はハサルが主役に近い位置づけではあるが、レナートも中々に中心人物なのだから。



今日は対コミンテルン決戦における功労者への叙勲式ともう一つのささやかな儀式がある日なのだ。








「リキア同盟開闢の祖、偉大なる八神将の一柱【勇者ローラン】の名の元に汝にその功績に相応しい名誉を授ける」


厳かな空気の中、レナート、ハサル、ワレスの三名は玉座の間でハウゼンの足元に傅いていた。
侯爵として完全なる正装を身に纏った彼は正にキアランの統治者に相応しい覇気を放ちながら粛々と祝詞を天上に向けて唱え続ける。
儀式に参加していた神官たちが彼の隣に佇む候弟ラングレンに純金で形作られたメダルを差し出し、それを丁寧に掴んだ彼は兄に傅いて渡す。


メダルに掘られているのはかつてローランが振るったとされる神将器【烈火の剣】デュランダルだ。
エトルリアの職人を召喚して掘らせたソレはその絢爛さ以上に大きな意味をもっていた。
これの名はローラン勲章という。



これは勇気の証だ。
これは強さの証だ。
これは優しさの証だ。



リキア同盟初代盟主にして初代オスティア候ローランの名を与えられたソレは大きな闘いの後、盟主より諸侯に複数枚配られるメダルだ。
配られた諸侯はソレを最も活躍したと判断した己の部下にローランの名のもとに賜り、己の威光を示し、部下は名誉を得る。


弟からメダルを受け取ったハウゼンは、跪き続ける弟の首にソレを手ずから掛けてやり、次にラングレンに合図をして彼を立たせた。
何一つ恥じることなくラングレンは全身に覇気を漲らせて眼下の兵士達に向けて喝采と共に高々とまるで自らが王の様に言い放つ。


「コミンテルンとの戦いで最も活躍したのは城を攻め落としたオスティアではない。
 彼らの部隊を追い掛け回し、殲滅し、ほぼ皆殺しにしたラウス軍でもない。
 自らの損害を厭わず、全ての準備が整うまで身を挺して戦い続けたキアランだ。
 そうだ。貴様たちこそ真の英雄なのだ。私はそう信じて疑ってはいない!」



返答は声ではなく、重く打ち鳴らされた音。
整列し式に参列していた全てのキアラン兵たちが石突を以て石畳を叩いて返礼したのだ。
その様子に満足気にラングレンは頷き、彼は己の役目が終わったことを理解して一歩下がる。


次に最も前線で数多くの敵を葬り、キアラン軍全体の戦線を維持したと評されるレナート。
キアランでは貴重なアーマーナイトでありながら騎兵顔負けの機動力と突進力を見せつけて敵の勢いを大いに削いだと評されワレス。
部外者のサカの遊牧民出身でありながら、優れた人馬一体の技術を以て上記2名を大いに助け、陰ながら多くのキアラン兵の命を救ったと判断されたハサルにハウゼンよりメダルが賜られる。



「各々、比類なき素晴らしい活躍であった。
 汝らにこそ【勇者】ローランの名は相応だろうて」


「ありがたき幸せにございます」


敬意を帯びた声でレナートが答える。ふとレナートは視線を感じた。懐かしい視線を。
彼が少し顔を上げると案の定というべきか、ハウゼンの背後、ラングレンの隣に血まみれの彼が立っている。
ニコニコと笑いながらメダルを凝視し顔を傾げていた。
彼の態度はまるで「何でお前がそれを持っているんだ?」とでも言いたげであった。



何故お前がソレをもっている? 
勇気等という言葉から最もほど遠い男のくせに。
不死身のレナート? 冗談だろ? ただ逃げ足が速いだけの臆病者じゃないか。



レナートはゆっくりと、侯爵に気取られない様に眼を背けた。
アレはただの幻だと自分に言い聞かせる。
もう彼は死んだのだ。死者は帰らない、死者は喋らない。




「よろしい。さて……」



下がってよいとハウゼンが腕を仰々しく振り、レナートはそのまま後ずさる様に礼儀を守りながら後退する。
次にレナートの代わりにハウゼンの元に現れ、跪いたのはマデリンだ。
取り決め通りの言葉を待つ彼女だったが……父の様子が少しばかりおかしいのを感じ取り声を上げる。


「お父様?」


「………………」


娘から問いかけられ、彼の中で何かの葛藤が生じる。
事ここに至っても未だにハウゼンは……僅かばかりに沸いた自身の疑念を消し去れないでいた。
それは父親としての勘なのかもしれない。
厳正なる儀式の中にあってもハウゼンは露骨に顔を苦渋に歪めかけてしまうが、即座に領主としての顔に戻る。


「相応しき者に相応しき役目を。ハサルよ、こちらに」


はい、と普段の彼よりも幾らか感情の篭った声が玉座の間に響き渡る。
ハサルは堂々とした足取りでマデリンの背後にまるで騎士の様に控えると深く、深く傅く。
その表情は影に隠れて見えないが、間違いなく彼は高揚していた。


「お前をマデリンの護衛につける。
 お前ならばどのような脅威からでもわが娘を守り抜いてくれる事だと信じてな。
 これは我が弟ラングレンの推薦でもある」


「この命に代えましても」


ハサルの言葉にハウゼンの眼が研ぎ澄まされる。
そこにはレナートをして底冷えするほどの執着と、もしも誓い違えたならばどのような手をもってしてもハサルの全てを抹殺するという決意に満ちている。


「その言葉、偽りはないな?」


「我が血と誇り、母なる大地と父なる空に誓って」



よし、とハウゼンがハサルを認めた所で式は閉会を告げた。












戦争というものは多くの傷跡を残していくものである。
何も話は単純な戦死者だけではない。
死体があるだけで疫病は広まり、発せられる腐臭はそれだけで“死”を否応なく民たちに感じさせ、全体の活気を損なう。


少し眼を向ければ見えるところに見るも無残な死体が転がっていて気分を害さない人間はとても少ない。
更には腐肉を漁る為に獣が、戦死者の装備を剥ぐ追いはぎが、生き延びて居場所を無くして賊に落ちぶれた敗者が……きりがない程に戦後というものは戦時よりも問題が溢れてくる。
むしろ巨大な勢力同士がぶつかりあって拮抗状態を保っている戦時の方が治安がいい事さえある。


そんな中人々は外を出歩きたいと思わないだろう。彼らが欲しいのは安心と安定なのだから。
特にリキアの主要な街道は何があっても安全でなくてはいけない。リキア全体の経済と信頼の為にも。



故に後始末はとても大事なのだ。
死体の処分。落ち伸びた敵の処理。受けた傷跡を回復するための計画。
領民たちへの勝利者としての振る舞い。彼らの平穏の約束等々。


ただ勝利に酔いしれるだけの愚物は今のリキア同盟には存在しなかった。
既に次の段階に移っている状況に即座に対応し、リキアの内部だけではなく、エトルリアやベルンといった二大国にも今回の勝利を見せつけなくてはいけないのだ。




そんな中、キアラン候の一人娘であるマデリンがハウゼンの代理としてアラフェンにて開かれる諸侯の宴に出席するというのは何も珍しい話ではなかったのだ。
何故諸侯が集まるというのに盟主オスティア領ではないのか? という疑問もあるが、恐らくは東の大国ベルンへのけん制の意もあるのだろう。
アラフェンはベルンと隣接する地故に、そこで開催される盛大な宴と勝利の喜びの火はベルンにもいち早く伝わる事だ。


最近国王に即位したベルンのデズモンド王はリキア同盟を軽んじている節がある。
エトルリアが大陸最古ならばベルンは大陸最強の国だ。そんな大国が何故、烏合の衆リキアに気を使わなければならないのだと言わんばかりに。
噂によればエトルリアから嫁いだ妻との折り合いの悪さに対する八つ当たりという話もあるが、真偽は不明だ……。




話しを戻そう。ラングレンとハウゼンの話にだ。


まず前提としてハウゼンとラングレンの兄弟はキアランを離れられない。
何故ならばコミンテルンは確かに組織としては瓦解したが未だに滅んだとは断言できないからだ。

ラウス軍は彼らの大多数を追い掛け回し虐殺したがそれでも完全とは言い難い。
オスティア軍は本拠地を焼き払い、大頭領の首を刎ねたがそれでも彼の作り上げた組織の根は深く、身体だけでも動き続けているかもしれない。


そもそも、あの戦いに参戦したコミンテルンの構成員が彼らの全てだとどうして断言できる?
「思想」によってうじゃうじゃと人々を理想に駆り立てるコミンテルンの根は深く長い。
短時間で結成された組織とは思えない程に急速に拡大した彼らの信者が何処に潜んでいるか判ったものではない。


特に最後の戦いはキアランと隣接するカートレーで行われた。
そこから落ち伸びた者はまず間違いなく存在していると見てもいい。
ハウゼンにはその飛び散った“火の粉”を見つけ出し、揉み潰す作業があった。


他にもノルマンの残した置き土産はどれもこれも頭が痛くなるものばかりだ。


生産者階級への文字の教育による中途半端な知識と知恵の付与による騒乱の下地作り。
簡潔に「思想」を纏めた紙類の部分的量産による思想の拡散。
現状の領主たちがいかに富を貪っているかを糾弾した張り紙による扇動。
至る所に建造されていた農民を兵士に作りかえる訓練所による武装。


何もこれらがあるのはリキアだけではない。
東はベルンからサカ、北はイリア、西はエトルリアと、人という風に乗って今も秘密裏に拡散を続けている可能性さえある。
エリミーヌの亡き後も教団が運営されている様に、コミンテルンが滅んだとしても一度世の中にばら撒かれた「思想」を完全に抹消するのは困難を極める。


「理想」の熱による火事は消えたが、未だに種火はくすぶっている。
これらの狂った「思想」による混乱をハウゼンは断固としてキアランに流入させるわけにはいかない。
またキアラン領の何処かに確実に存在していると推測される彼らの拠点も探し出し滅ぼさなければならないのだ。


その為領主ハウゼンは動けない。彼にはまだまだ仕事が多々あるのだから。


ならばラングレンはどうか? 


戦で先陣を切って奮闘し、領主の弟という地位を持つ彼ならば。
……彼もダメなのだ。いや、彼だけは駄目である。


彼は端的に言ってしまえば野心的すぎた。
彼自身は抑えている、もしくは無意識のつもりなのだろうが、身振り手振りの何処かかしこに自分自身こそが領主であると錯覚している節がある。
あくまでも「代理」だというのに彼は無意識に我こそがキアラン候であると言わんばかりの行動と言動を取るであろうと兄には見抜かれていたのだ。


そんな男をやったら侯爵としての面子がどうなるか判ったものではない。
ハウゼンとてラングレンを嫌いな訳ではない。何だかんだ言いながらもたった一人の弟だ。
自分に足りない武勇を誇り、兵士たちを束ねる弟の姿を頼もしいとさえ思ってはいるが……それはそれだ。


それに、この混乱した時期にこそラングレンの様な武勇と行動力を併せ持つ親族を近くに置いておきたいという打算もあった。
当のラングレン自身がキアランの治安を考慮し、代理としての役目を辞退したというのもある。



だとすれば自然と残りの候補は一人となる。
麗しい外見に、侯爵の一人娘という立場。
未婚という貴族たちの眼を引きつける……俗な言い方をすれば「武器」を併せ持った存在は。


彼女の道中に付けられる護衛の数は多くない。
カートレーの戦いでは多くのキアラン兵が犠牲になり、負傷兵の数も多い。
【ライヴ】を行使できる神官や魔道士を総動員させて兵の治癒を行わせてはいるが、それでもまだまだ数は足りない。


いかに彼女を溺愛するキアラン候とて、比較対象がキアラン全体となれば領主としての決断を下すしかなかった。
故に実力は申し分なく、更にはサカの信頼できる思考回路をもったハサルが彼女の護衛に選ばれたのだ。
サカの独特な価値観ならば、まかり間違っても“過ち”は犯さないでしょうというのが彼を推薦したラングレンの言でもあった。










────ラングレン殿はどうやらマデリンを余り好いてないらしいな。


アラフェンに旅立つための準備を終え、最後に武器の手入れを行っていたレナートは唐突に思い浮かんだ思考を噛みしめる。
今回の諸侯会議という名前の戦勝会に思わぬ形で彼もまた参加することになっていた。
何のことはない。彼もまた腕を買われてマデリンの護衛につくことになったのだ。



恐らくラングレンはハサルとマデリンの両者が両者に抱いている感情に気が付いている。
レナートの勘はそう結論付けかけていた。
ハサルをマデリンの護衛に推薦したのも普通に考えてしまえば異端だ。


排他的なリキアの貴族の、その先端を行くような性格をしている男がサカの者に親族の護衛を任せようとさせる?
もちろんハサルの実力が高いというのもあるだろうが、そんなものは表向きの言い分だろう。


レナートの頭の中に幾つかの推察が浮かんだ。
この騒乱絶えないエレブで数多くの黒い仕事もこなしてきた彼の経験はあっという間にある程度の予測を付けてしまう。


キアランの統治者はラングレンの兄のハウゼンだ。
そしてハウゼンには一人娘が居る。マデリンだ。
ハウゼンも既に余り若くない。十年か、はたまた二十年先には隠居を考える時期だろう。



そしてそうなれば次のキアラン候になるのはラングレン……ではない。
マデリンの夫になった人物か、マデリンか、はたまた二人の子供がキアランを継ぐだろう。
ラングレンもまた兄が隠居したというのに一人だけ表舞台に着き続けるのは難しい。



世代交代を求められるのは必定だ。
家の存続と我が子への速やかな自らの全ての譲渡こそが貴族の生き方として最も基本的な事なのだから。
そうなればラングレンは全てを失う。彼は永遠にキアランの実験を握ることは出来ない。



ならば……もしもマデリンが何処の馬の骨とも知れない男を選んだら?
よりにもよってサカの、遊牧民族の、文明的とは言い難いリキアの貴族として相応しくない男を。



間違いなくハウゼンは激怒するだろう。
キアランの総力を挙げて二人の仲を何としてでも引きちぎろうとするはずだ。
そして怒り狂った父親に何を言われたとしてもマデリンには折れない心の強さがある。下手をすれば自殺さえあり得るかもしれない。


ハサルはどうするかは分からないが、それでも諦めて尻尾を巻いて草原に逃げ帰る男には到底見えない。



だとすれば…………。


ふと、そこまで考えた所でレナートは頭を振った。
ただの推察は途中から妄想に切り替わっていたことに気が付いたのだ。



「何を考えてるんだ。俺は」


馬鹿な話だと自嘲する。己は傭兵だ。
キアランにいるのは待遇がよく、居心地がいい職場だからに過ぎない。
何処までいっても自分は外様であり、勲章こそ拝領したがそれでも正式にキアランの所属になったわけでもない。



仮にそういった事が起きたとしてもワレスやイーグラー将軍が対処するだろうと答えをはじき出し、彼は用意された馬車に向かうべく立ち上がった。









キアラン城の中庭には既にハサルと彼の配下であるサカの遊牧民を中心にした傭兵部隊と、ワレスが指揮する歩兵を軸に構成された一個部隊が既に待機していた。
皆コミンテルンとの激戦を勝ち残り、多くの経験を積んだ精兵たちである。
負った傷は既に治癒されており、万全な状態を整えた彼らは平凡な兵士の数倍にも勝る価値があった。



余り多くの数をマデリンの護衛に裂けないキアランが現状彼女に裂ける最大の戦力であり、そして旅を行う上での食料や統率のし易さを考えた最適解でもあった。
彼らは全員が全員ワレス、レナート、ハサルと共に戦い全幅の信頼を捧げている。これがどれほど指揮官として素晴らしい事か。
完全に連携を行う事を当然として動く彼らの軍集団としての戦闘力はキアランに留まらずリキア全体から見ても上位に位置することは間違いない。


「レナート先生!! お待ちしておりました!! 我らキアラン騎士団ワレス隊、ここに揃っております!!!」


槍の石突を地面に突き立て、ワレスが雷鳴の様な声で雄々しく礼を行う。
すると彼の配下も同じようにレナートに向けて騎士としての礼を飛ばしてくる。
レナートは無表情のまま片手をひらひらと振る。そうすると彼らは敬礼をやめこそしたが姿勢は正したままだ。



───全く。


内心彼は複雑な念を抱く。何だこれは、と。


レナートは雇われだ。
本来の立場としては単なる使い捨ての、金で繋がっているだけの小汚い金の亡者でしかないはずだ。
事実多くの貴族は傭兵の事を金で使っているただの戦える使用人程度にしか見ていない。


だというのにキアランは全てが例外だ。
正統なる騎士階級のワレスは自分の事を師と慕いだし、それに感化されたのかどうかは判らないが彼の部下も同じように尊敬の眼でこちらを見てくる。
試しに整列しているワレスの配下たちに視線を飛ばし、一人ずつ確認していく。


何人か……いや、全員見知った顔だ。
ここにいる全員の名前も顔も、彼らの妻の顔や子供の名前だって知っている。


コミンテルンとの戦い。賊との戦い。治安維持活動。
このキアランに来て多くの仕事を共にこなしてきていた“仲間”たちだ。
酒を共に飲んだ事もあれば、キアランの今後について語り合った事もある。


血気盛る余り突出しすぎた所を助けた事もあれば逆に助けられた事も。
彼を失って以来いつ何処で死んでも構わないと自棄になっていたレナートが生きていた理由の一つだ。
自分が生きて戦わなければ彼らやワレスが死んでしまうかもしれなかったから、彼は生を諦めず戦い抜いていたのだ。



そうか、仲間かとレナートは一人内心でごちた。
不思議な程すとんと彼は現状を認めることが出来た。
友を確かに失いこそしたが、新しく仲間という別の存在が出来た事実をだ。



「最終確認を行う。
 点呼の後に今回の俺たちの目的を再度確認し、もっていく食料の量や経路などを見直す。俺からはそれだけだ。
 今回の旅の指揮権は俺ではなくハサルにある。以降は俺も含めてハサルの指揮下に入る」



当然のことをレナートは当然の様に述べる。
これだけははっきりと言っておかなくてはいけないから。指揮系統をはっきりとさせる事は基本だ。
キアラン候直々に護衛に指名されたハサルがマデリンの護衛の為に組織された部隊を指揮するのは当然だと。


ワレス含め全員が当然とそれに態度で答える。
しかしそれでも彼らのレナートに対しての敬意は薄れない。
忠誠ではない。彼らの忠誠心は真実キアランのみに向けられている。



これは尊敬に値する戦友への信頼……それが一番近い感情だろう。



しかしレナートが満たされる度に、彼の心の中での疼きが深くなる。
失った四肢が幻痛を放つように、最も大切“だった”存在は血まみれの影としてレナートを嘲る。
「彼」は何時の間にやらワレスの隣に立ち、蔑んだ目でこの場の全員を見ていた。


友は口を開き動かす。
音としての声はないが、レナートには彼が何を言っているのかが分かった。


───信頼。友情。敬意。いいモノじゃないか。羨ましいよ。
───だがどうせまた無くすぞ。俺一人さえ守れなかったお前がこれだけの数を守れるものか。
───臆病者め。失う痛みに耐えられない癖に、次から次へと売女の様に新しい「友」に乗り換えやがって。



どうせ死ぬんだ。弱さと痛みを彼は囁く。
にたぁと大きく開いた口から血反吐が噴き出し、目玉が落ちた。
ぽっかりと空いた穴から蛆が這い出ると、喉を食い破り多種多様な虫が“生えて”くる。


背中に冷や汗をかきながらレナートはそれを務めて表に出さず眼を背けた。
もう一度ワレスの隣を見るとそこにはやはり誰もいない。誰にも彼の姿は見えていない。



「……………っ」



背後から聞こえた足音にすくむ様に振り返ると、軽量な革の鎧を着こんだハサルが愛馬を連れて堂々と歩いていた。
彼は何時もの様に余り感情を表に浮かばせず、普段通りの姿でそこにいる。



常勝を重ねる歴戦の傭兵の風格、と言えばいいのだろうか。
侯爵の娘の護衛という大任を言い渡されたのにも関わらず、彼は何も変わっていない。少なくとも表面上は。
彼はレナートの隣に立つと、この場の全員を見渡し一言だけいう。



「よく集まってくれた。此度の大任を共に歩めることを誇りに思う」


そして彼は潔く頭を下げた。今回も力を貸してくれと。
キアラン候娘マデリンを完全に守り切るのは自分一人では無理だと認めたのだ。
普通ならば侯爵直々の命令を投げ出すのか、諦めるのかと罵倒されるかもしれないが、この場にいる全員はむしろその言葉こそを待っていたと燃え盛る。


まず真っ先に快声を放ったのはやはりというべきかワレスだ。
彼はまるでサカの部族が宴の際に使う民族楽器を想起させるほどの重く響く声で宣言した。


「このワレス! 
 ここに我が槍と、命を、マデリン様と我が友に捧げることを誓おう!
 道中において我が槍は貴様の槍! 我が盾は貴様の盾だと思うがいい!!」



───我らが命はキアランの為に。マデリン様の為に。我らの友の為に。


不動の意思を見せるワレスに続き、キアラン軍ワレス隊も揃って斉唱を行う。
槍衾を揃え、覇気と戦意を身にまとった彼らの存在はどの様な城砦よりも確実にマデリンを守護するだろう。
そしてそんな彼らの熱はレナートが感じていた冷たい恐怖を一時的とはいえ弾き飛ばしてしまう。




「キアランの友に負けるな。
 我ら草原の民の結束は竜の鱗よりも強固だと天地に誓ってここに宣言しよう」


数でこそワレス隊に劣るが、元々ハサルが率いていた傭兵たち……彼がサカより連れて来ていた遊牧民の戦友たちが粛々とワレスとは対照的な声音で宣言する。
しかし侮るなかれ。そこに込められた熱量はワレスと互角だ。
彼らもまた、第二の故郷と言えるほど慣れ親しんだこのキアランへの愛着があるのだ。



対してレナートは寡黙であった。彼は何も告げない。
ただ一回、拳で小さくハサルの胸をノックするように叩いただけだ。
それだけで彼は色々と悟ったのだろう。頷いて答えた。




「見事でした。貴方たちの忠誠と決意、このマデリンが確かに受け取りました」



突如響く凛とした声が熱の渦巻く場を引き締める。
この声の主をこの場の全員が知っているからだ。
この声の主こそ彼らが命を賭ける理由である。


物陰から現れたのはやはりというべきかマデリンだ。
彼女は普通貴族の一人娘と言われて想像するようなドレスなどを羽織ってはいなかった。
動きやすさを重視した軽装の鎧と、男性が履くようなズボンとブーツだ。


長く艶やかな髪の毛は後ろで一括りにしており、それは彼女が歩く度にふわふわと揺れている。
張りつめた糸の様な緊張と冷たさと、次代の領主としての覇気を纏った彼女はレナートから見ても恐ろしい程に美しかった。



「準備は出来ているようだな。予定より多少は早まるが、構わんか」


遅れてマデリンの後ろから歩を進めてくるのはハウゼンだ。
彼は一度だけハサルを見つめると、直ぐにワレス、レナートへと視線を向け、次にこの場にいる兵士全員へと顔を向けた。


「先の宣誓、大儀である。
 我がキアランの名を背負い、何に恥じることなくアラフェンに向かうがよい。キアランの誇りたちよ。
 リキア同盟の同胞たちは勇者たちを敬意と共に迎え入れるであろう」



その言葉にワレスのみならず全ての兵士たちの眼が輝く。
自分たちは勇者だという自負が彼らを満たす。
他の誰でもない、キアランの頂点に立つ男が彼らの誇りと勇気を保障してくれたのだ。


ハウゼン様はやはり他の領主とは違う。
この御方こそオスティア候さえも凌ぎ得る最高の君主だと各々が実感する。



「暫しの別れだ、マデリンよ。身体に気を付けていくのだぞ。
 少しでも危険だと感じたらすぐにキアランに戻って来ても構わんからな。
 この様な文などお前に比べれば何の価値もない」



厳重に封を施された書簡をマデリンに手渡すと、ハウゼンは領主ではなく父としての顔でマデリンに語り掛ける。
オスティア候に届ける予定のキアラン候としての重要書類を下らない物と言い放つ父親に娘は苦笑した。


「お父様、心配しないで。私には最高の勇者たちがついているもの。
 キアランの英雄たちが私を守ってくれます。何も怖くなんてないわ。無事、この書簡を盟主にお渡ししてきます」



マデリンとハウゼンが一度抱擁し離れると、ハウゼンはハサルを真っ向から見つめて口を開く。
紡がれた言葉は小さく一言だった。



「娘を頼んだぞ」




それにハサルがどう答えたかは語るまでもないだろう。




















当初予定されていたよりも、マデリン一行の旅は順調に進む事が出来ていた。
天気は快晴。遠くから聞こえる鳥の鳴き声。実りの季節が近いのか所々に花が咲き乱れる道を行くさまは遠征というよりは遠足であった。
暑すぎも寒すぎもない程ほどの気温は人の体力に最も優しく、壮絶な覚悟を決めていた勇者たちは肩透かしを食らったような気分にさえなっていた。



しかし本当の意味で気を抜いている者は誰もいない。いつ、どこで、何が起こるか分からないのだ。
特にレナートはどれだけ周囲が安全に見えていても決して周囲への警戒を怠ることはない。
かつての取り返しのつかない過ちから学んだ彼は二度と同じことを繰り返してなるものかと躍起になっていたのだ。



キアランからアラフェンの道のりは短いようでいて長い。
リキアの南部に位置するキアランからアラフェンに向かうにはまずコミンテルンとの決戦の場となったカートレーを抜け、次にラウスの端を通る必要がある。
最後にフェレを通り抜け、暫くするとベルンと隣接する北東部アラフェンに到着ということになるのだ。


そして彼らは予定よりも半日以上早くキアラン領を抜け、カートレー領に入ることができていた。
この地のカートレー候もキアラン候と同じような理由でどうやらアラフェンには代理を送るつもりだったらしく、マデリン一行は軽い挨拶を済ませると先を急ぐ。
カートレー候の忙しさはある意味ではハウゼンを超えるのだろうと察したマデリンは彼からのおもてなしを礼儀深く断ると、軽い支援だけを受けとって出立したのだ。




そして……彼らは小さな一つの村を発見することになる。


マデリン一行が宿を求めて立ち寄ったそこはのどかな村だった。
精々30人程度がひっそりと住んでいるような穏やかな雰囲気の村だ。



「キアラン候の娘、マデリンと申します。
 我が父より命を受けアラフェンに向かう道中です。
 もしよろしければ寝床などを提供してはいただけませんでしょうか。
 もちろん、相応の代価はお支払いいたします」




皆を代表してマデリンは馬車を降り、出迎えに来ていた村長に丁寧な態度で頭を下げて宿の使用などを申し込む。
すると老齢の村長は穏やかなを笑顔を浮かべ、レナートやハサルから見ても嘘一つ存在しない善意を見せた。


「いえいえ、侯爵様のご息女からお金などとんでもありません! 
 何もない村ですが、ゆっくりしていって下さい。
 今は使ってない家屋の準備などに直ぐに取り掛かりますので暫しお待ちを」


僅かに曲がり始めた腰にムチを入れながら動き出そうとする老人を見やり、ワレスがたまらず声を上げる。



「おぉ、かたじけない!! 
 不肖このワレス、力仕事ならばお任せあれ!! 村長殿は指示を行うだけでよいですぞ!」



その後、はっとした様子でワレスはマデリンを見る。
主である彼女の命令がないというのに勝手に動いてしまったからだ。
そんな彼の馬鹿真面目さと真っ直ぐさにマデリンは微笑んで答える。



「命令します、騎士ワレス、そして我が頼もしき勇者たち、村の方々を助けなさい」



鈴の様な声でマデリンが命を飛ばせば、続く様にハサルが鋭く部下たちに言葉を贈る。



「我らもだ。我らサカの民は恩を決して忘れない。
 我らを迎え入れてくれる善き人々を手助けしろ」



兵士達が次々と馬車を降り、村人たちに駆け寄ると穏やかに談笑を始め、次に彼らに案内されて消えて行く。
レナートも同じように数歩進むと、彼は一度立ち止まって村を見渡す。



いい村だ。静かで、平和で、素朴な。
だが、何か違和感がある。しかし危険は……恐らくない。
村人たちの様子に何も変な所はなく、敵意や何か謀を企んでいる者特有の臭いもない。


レナートは頭を捻る。理解が出来ないのだ。直感は危機を伝えてはこない。
何も危なくないと十全に判断できるのに、妙な引っ掛かりを覚える。
この手の何とも言えぬ予感は……放ってはおけない彼は馬から降りてきたハサルに近寄りそっと耳打ちをする。


「何かがおかしい。だが俺には言葉には出来ん。……お前はどう見る?」


レナートの言葉にハサルは眼を瞑り、暫し瞑想するように考え込む。
彼もまたサカ人の独特の感性を以て得体のしれない物を認識し続けていたらしく、微かに肩を強張らせていた。



「匂いがする。……血? いや……違う。似ているが……」


「“血”か。少しだけ形になってきたぞ」



“血”という言葉を出され、レナートは得心が言った。
ここはまだカートレーだ。コミンテルンが決戦に選んだ場所だ。
そしてコミンテルンはリキアとベルンの境で産まれた組織で、ここも彼らの強力な勢力圏内だったはず。


特にこのような領主の力も余り及ばない、存在さえ多くの者が知らない様な辺境の村はあの理想狂い達の恰好の餌食だった。
更には近場で大規模な戦争があったというのに……ここは、何もなさすぎる。



「剣士さんにサカの方! カートレー名物の炙り肉に麦酒はお好きですか? 
 もしもまだ一度も食べたことがないのなら、病みつきになりますよ!」


本当に幸せそうな顔で、初老の男がレナートとハサルに話しかけてくる。
やはり彼には全くの悪意は感じられない。
それどころか、彼の身体からは焼いた肉と香辛料の匂いが漂っており、二人は腹を鳴らしそうになった。



二人は顔を見合わせ同時に頷く。とりあえず今は様子見だと。











その後、レナートとハサルが警戒したいたような事は全くなく、村人は総出でマデリンたちを出迎えた。
非常時にとっておいたらしい保存食や上等な酒までも引っ張り出し、盛大な宴さえ開催して。
食事や飲料に毒などが混ぜられているのかと注意を怠らない彼らを前に、村人たちは自らソレを率先して飲みだした。



一体何なんだと困惑する男二人を置いてきぼりにし、真っ赤に酔ったワレスが踊りだし大騒ぎを行う。
更にはそれに続いてよりにもよって顔を赤くしたマデリンまでもがハサルの手を引いた事によって二人の心配性な男たちの計画は完全に打ち砕かれる事になったのだ。




そして訪れた深夜。草木も眠る時間、月の灯りだけが周囲を照らす中、レナートは村の入り口に佇んでいた。
寝ずの番だ。余り酒を飲まなかった彼は眠気に襲われることなく、自ら志願してこの任についたのだ。
ワレスも以前宣言した通り、見た目ほどはよってなかったらしく、彼は屋内の警備に当たっている。


ハサルは村の裏口を中心に見張っており、今ここにいるのはレナート一人だけだ。


不意に、ざぁっと風もないのに森の木々が揺れた。
月が雲に隠され、僅かばかりの闇が周囲を覆いつくす。
少しだけ、周囲の温度が下がり……誰にも分らない内に“ソレ”が現れた。



“ソレ”はレナートの耳元で囁きかけた。


《やぁ───少し、話をしようじゃないか≫



「ッッ!!!」



背筋が凍るという表現どおり、顔を青ざめさせたレナートが瞬時に振り返り腰の短刀を一閃すると“ソレ”の「頭」は狙いたがわず刎ね飛ばされ転がった。
だというのに“ソレ”は何の敵意も見せず、困惑に襲われる男を前に自らのペースを崩さない。
塗り固められた「闇」が手の様に伸ばされると、人に当たる「頭部」を掴み、首の上に乗せて場所を整える。



それだけで“ソレ”は生首を癒着させた。
……月に掛かっていた雲が通り過ぎ、月光が“ソレ”を映し出す。



“ソレ”は闇だった。人の姿を取った混沌の権化だ。
夜よりも深く、濃い黒を濃縮させ、人の姿に固定したような姿だ。
人間と同じように四肢をもち、歩いている。



影法師に霧の様な不定形で構築された闇のローブを着こませればこんな姿になるだろう。


そして今空を舞い、くっ付けられた頭部は……最も理解に苦しむ。
レナートにはソレが人の顔に見えた。半分だけ闇から顔を覗かせる知的な男の顔に。
レナートにはソレが歪な骨に見えた。人と竜の頭蓋骨を混ぜ合わせて形作った骨の仮面に。
レナートにはソレが混沌に見えた。人の顔などもたず、ドロドロに溶けた真っ黒な溶岩の様な混沌に。


見ているだけで引き込まれそうな存在感。
害意など全く感じない。
そして最も恐ろしいのは……恐ろしさが薄れていくということだ。



こんな明らかな異形だというのに、この眼前の存在相手に全く警戒心が呼び起こされないのだ。
何もかもが麻痺している。レナートは夢と現の狭間に自らが放り込まれたような気がした。


「何だ、おま、えは……」



掠れたような声でレナートが問えば“ソレ”は朗らかに答える。
友人と談笑する様に影は男に言い聞かせた。


《私は君との友好を望む者だ。誓って君の敵ではない≫



まぁ、嘘だと思うなら仲間を呼んでも構わないよと“ソレ”は続ける。
レナートは逡巡すると、武器をしまう。
首を落しても平然としている怪物相手に自分も含め、全員でかかった所でどうしようもないと悟ったのだ。



《おや。まさか信じてくれるとは≫


「……俺に何の用だ」



ん? と“ソレ”は首を傾げる。
自分とレナートの間に存在する食い違いを発見したようだった。


《逆だよ。君が私に用事があるはずだ。
 君の欲しいモノは私しかもっていない。そして私は君にそれを与えることができる≫



何? とレナートが聞き返そうとすれば“ソレ”はくるりと踊る様に一回転し、村を眺め出す。
感慨深げな様子さえ見せる異形にレナートは言葉に詰まる。



《カルテ村……住人は33人。リキア同盟カートレー地方に点在する小さな村の一つ≫


朗々と語りだす。この村の事を。
柔らかく、丁寧で温かみさある声だった。


《この村の人々は非常に仲睦まじく、困ったことがあれば団結し、あらゆる災難を乗り越えてきた≫



歩き出す。
踵を返し、村を出て、街道から離れた森の中に滑る様に歩を進める。
僅かばかりに開拓された後の残る道を。
湿った泥や土、散乱した枝などに全く足を取られることなく、むしろ“ソレ”の進む箇所全てが再度補整された道となった。
レナートは異形の広げた道を辿り、後を追った。



《それは突然起こった。
 リキア同盟との決戦を控えさせたコミンテルンは村を襲ったのだ。
 物資を奪う為……ではない、彼らは既に多くを持っていて、それ以上は邪魔にしかならない≫



鬱蒼とした茂みを抜け、やがて開けた場所に出る。
そこにあったのは一本の巨大な木……。


よく見れば木には何かが複数括り付けられていた。
暗くてよく見えないが、数は……30個ほどだろうか。



《理由などない。
 言わば前哨戦、景気づけと言った所か。
 村人たちは抵抗したが、軍隊と平民では勝負になるはずもない。
 コミンテルンは殺した彼らを“飾り付け“に使った≫



異形が指の先に光を灯し、大樹を照らす。
光に晒されたものを見てレナートは息を呑んだ。



「馬鹿な……ありえない……。先ほどまで、確かに………!」



腐敗が始まっていた。
虫が集っていた。
骨が見えていた。
そもそも原型をとどめていないものがあった。



全員の顔はもはや崩れていた。
しかし隠しきれない無念が浮かんでいた。
腐汁の涙を流しているものがいた。



彼らはつい先ほどまで、レナート達をもてなしていた村人たちであった。



物音。異形が創った道を通って誰かがやってきた。
レナートが悲鳴を上げそうになれば、そこに居たのは村長だ。


“飾り”にされた村長の顔は白骨を覗かせている。
だが、ここにいる彼の顔は生気をもった人間の顔だ。


死者が、生きている?
復活、している?


レナートの頭は混乱で満たされていた。
かつて【バサーク】という魔法を受けた時にも匹敵するほど、思考がまとまらない。



「あんたたちは……どうして……」




《もういいのか? どちらにせよ既に限界だが》




「…………………」


レナートの問いには答えず、村長は“ソレ”に対して頷いた。
何も浮かばない真っ青な顔でありながら、何処か満足気さえ感じる表情であった。
瞬間、村長の身体が崩れた。体は灰とも錆ともつかない粉になる風に撒かれ散っていく。


そんな残骸の中から光が飛び出すと“闇”に向かって飛翔し、彼が纏う闇の裾の中に滑り込む。
更に村の方角から幾つもの光が誘蛾灯に呑まれる羽虫の様に“闇”に向かって堕ちていく。
一度でも“闇”の引力の囚われた者は決して抜け出せない、抜け出さない。



闇は心地よい眠りを与えてくれる。
抱きしめてくれる。
労わり、耳障りのよい子守唄を唱えてくれる……。




駄目だ。いってはいけない。そこにだけは。


レナートは叫びそうになりながら必死にこらえて居た。
自分は勇者ではないと言い聞かせながら。
ただ、この眼の前の存在の邪魔をしてはいけないとだけ本能で察していた。



《彼らを忘れるな。彼ら33名はカルテ村の人間たち。今宵お前たちを持て成したリキアの民たちだ》



全ての生命の光を食んだ“闇”はレナートに向けて語り掛ける。
父が息子をしつけるような口調で。


「……………ぁぁ………」


余りに多くの出来事を短期間で経験したレナートは混乱の極みにいた。
眼の前の化け物の存在もそうだが、何より、何より、何より……カルテ村の人々は死んでいた?


死んでいた者を生者にしていた? 
死者を生者に? 
死を生に? 



“闇”が意識を少しだけ飾りつけられた大樹に向ければ、悪趣味極まりない樹木は黒い炎に包まれる。
腐敗臭を上げながら全ては黒と灰に帰っていき、数瞬の内にあらゆる全ては泡沫の様に弾けて消えた。


異形は呼吸さえ忘れた様子で自身を見つめるレナートに向き合い、教師の様に一から説明を始める。
彼はまるで年長者の様に振る舞い、レナートの抱いたであろう疑問を一つ一つ丹念にほぐし出す。


《さて、話を戻そう。
 まず前提として私が君を呼んだのではない。
 君が私を求めたのだ。その誰よりも深い喪失の傷の痛み、よく判るとも。
 だから、あの戦場で君は今や朧な存在となった私を認識することが出来た》



「………」



異形は直立不動のまま、淡々と自らの思想を語りだす。
それは化け物としか形容できない彼から発せられているとは思えない程人間じみたものだった。



《この世界は喪失に満ちている。どこの国でも、ちっぽけなモノの為に死が溢れかえっている。
 命の尊さを謳いながらも一方では血で血を洗い、涙で川を作り、絶望だけがうず高く積まれ、その下にある屍の海を見ようともしていない》



《“私は、私だ。他人の痛みなど、私は感じない。他人の悲しみなど、私は感じない” 
 そうだろうな、同じではないから、自分ではないから他人の事などどうでもいいと思える。思えてしまう》


自問自答するように“闇”は滔々と言葉を吐き続ける。レナートの意見など欠片も考慮しようとは思っていないのだろう。
暫く一方的に会話を続けていた“闇”は 「ん?」 と人間の様に首を傾げた。
どうやら当初の予定よりも多く話続けてしまった事に今更気づいたのだろう。


《失礼。昔からの悪い癖でね》


「結局お前は俺に何の用がある」


レナートの声はガラガラであった。
理解不能に理解不能を重ねた状況にあって、何とか理性を振り絞り、言葉として整理する単語の羅列を吐いた彼の努力は称賛されるべきであろう。


《では率直に言ってしまおう》


異形は……この哀れで臆病な男が本心で最も望んでいるであろう言葉を装飾なしで投げかけることにした。


《私は君の望みを叶える事ができる。そして君の望みを叶えるという事は、私の願いを叶えるも同義》


一呼吸おいて異形は……飴の様に甘い取引を口にした。


─────私のちょっとしたお願いを聞いてくれるならば、君の掛け替えのない友を取り戻してあげよう。



闇の向こう側で「友」がレナートを見つめていた。









あとがき


テンポよく物語を進めれば進める程不安になるこの何とも言えぬ感じ……。

少し長くなりましたが、あと1話か2話で963は終わりそうです。
もう間もなく烈火の本編開始と来て正直ドキドキしています。





[6434] エレブ963 その3
Name: マスク◆e89a293b ID:0894ef4b
Date: 2017/08/15 11:50

エレブ新暦963年 ???



それは月明かりさえない深い夜の話だった。
あらゆる動植物が寝静まる森の中、一人の男と異形が対面している。



《さて》


夜の帳の中、闇よりも深い黒が理知的な声をあげる。
【闇】……ここではあえて「彼」と表現するこの存在は外見の異質さからは想像できない程に親しみと優しさの混ざった声で告げる。
全身に砂嵐が入ったように絶えず“揺れ”続ける彼は人間でいう所の腕を伸ばして一軒の簡素な家を指さした。



《あの家が見えるか?》




「…………」



男……レナートは無言で頷く。彼の顔は真っ青である。
それは決してこの異形を恐れているからではない。
彼の頭にはもはやこの存在への恐怖など欠片もない。あるはずがなかった。


ただ彼が考えるのは本来ならば決して手が届かない筈の奇跡についてだ。
本当に、この怪物は約束を守るのか。そもそもこれは現実なのだろうか。
真っ黒な影が甘い声を囁き、死を否定する夢なのかもしれない。


正直に言おう。彼は期待していた。
友の蘇生を、魂の黄泉がえり、復活を。
そして友と過ごす永遠の時間を。


二人で何処へでもいける。何でもできる。
ワレス達に紹介し、一緒にあの住み心地のよいキアランで働き続ける事だって。



死者蘇生。不老不死。


言葉にして並べてしまえば何とも陳腐な単語の羅列。
相反する二つの記号が互いを否定している言葉。
誰もが知っていて、誰もが不可能だと断ずる奇跡だ。


古の竜族でさえこの二つは行わなかった。してはいけないと。


《あの家の家主はコミンテルンの構成員だった。
 彼は最初期から彼らに協力し、理想に燃え、強者として君臨し、多くの人々から奪った》



詩人の様に彼は語る。透き通った男の声で。
未だ困惑するレナートに切っ掛けを与えるように。許しを与えるように。


《妻を早くに失った彼には息子が居た。
 コミンテルンとしての活動の傍らに育てていた大切な子、宝だ》


影は語る。とある男の生涯を。
平穏を得るために支払った犠牲の数を。


傭兵としての稼ぎでは子供を養えないわけではないが……男一人で何の力も持たない子供を育て上げるのはこのエレブで想像を絶する苦労を伴う。

雇われの兵士としての収入の不安定さ。
特定の組織に所属し保護を受けない故の脆さ。
今年で三つになる子供の脆弱さ。
母が存在しない故の不安さ。


上げればきりがない。


完全な“安心”が父である彼には必要だった。
故にコミンテルン。故に理想の平等世界。大人も子供も全てが等しい世界という空想。
我が子の為に彼はソレを勝ち取ろうとした。



罪もない大勢の人々の血で代価を払おうとした。あの村人たちの様な心優しい人たちの血で。
賛同しない全ての者を人間としてはみなさず、殺し、焼き払い、苦しめ、奪い、吊るした。
しかしコミンテルンは瓦解し……その前に彼は逃げた。


リキアとの決戦を感じ取った彼は村の虐殺を一通り堪能した後、その財を奪い逃げだしたのだ。
今までの血と犠牲から眼を背け、敗北を前にして理想を捨て我が子の為に逃げた。



《レナート。全てを聞いた君はどう思った? 彼はどうされるべきだと思う? 
 君の心の望むがままの答えを私に見せてほしい。君が下す彼に対しての“処断”を行動で教えて欲しい》


闇が断ずる。処刑人の様に。暗に死を齎せと。
今から殺す男の全てを知り尽くしながら、それでも殺せと。
失われた存在を取り戻すためにはまず誰かから奪う気概を見せろと突きつける。


無実の人間を殺せとは言っていない。
裁かれるべくして当然の悪を切って見せろと言っている。


恐らくこれからレナートが行うかもしれないのは戦場で行われる戦闘ではない。
両者が命をかけて、納得の上で行われる戦争ではない。
全く何の罪もない無垢な子供の人生を理不尽に破壊する外道の所業だ。



レナートが取り出すのは乾いた血の付着したナイフ。今は亡き友の形見。
カタカタと震える濁った刀身に映るのは死人のような自分の顔だ。


影が指を一振りすると、刀身にこびりついていた友の血は剥がれ落ち、空中で泡の様に纏められ固まる。
赤黒い泡を影は労わる様な動作で掴み、掌の中で弄ぶ。


《これは強制ではない。嫌なら断ってくれても構わない。
 私は君がどのような答えを出そうとそれを支持するし、何時までも待とう》


影の紡ぐ言葉は何よりも深くレナートの心に沁み込む。
労わりに満ちた言葉だ。優しさに満ちた言葉だ。
子供の様に震え、小動物の様に臆病な彼の背中を押そうとする言葉だ。


それでもと、心の何処かで拒絶を繋ぐレナートに彼は優しく……微笑みかけ、まるで親友が悩んでいる友に語り掛ける様に言った。


《もちろん。君になら出来るとも》



その言葉を前に、遂にレナートの顔から青が消えた。
微細な震えは消え去り、眼の前の家の中にいるであろう顔も名前も知らないかつてはコミンテルンだった男と、これから一人で生きていく事になるであろう息子の命を天秤の秤に乗せた。
もう片方の秤には友が乗っている。そして彼は両者の重りを比べた。


……比べ物にならない。


欲しい。



「ああ」


レナートは頷く。普段の彼がいつも受け答えするような平凡な調子で。
とっくの昔に答えは出ていた筈だった。気付かないふりをしていた。
これが夢か何かで、ふとした拍子に泡の様に消えてしまうのではないかと恐れていた。


彼はじっくりと異形の理解不能な「顔」を見た。
真っ黒で、がらんどうで、伝承に謳われるブラミモンドの様に闇と一体化した存在の顔を。
思えば異形の顔はまるで鏡の様であった。闇の中にはレナート自身が浮かんでいた。


そこに映る自分の瞳は希望に溢れていた。
あの日半身ともいえる大切な存在を失い、全てに諦観し絶望に塗れていた男の顔は何処にもなかった。
まるで、ありし日の姿の様に希望と理想に燃えるレナートがそこにはいた。



そして友がそこにはいた。友は生気のない顔で異形の隣に立っている。
死人の顔で、蛆と血と泥に塗れた……ただの残骸が居た。
異形は明らかにその「友」に気付いた様子で視線を移すと、せせら笑う。


指をさし、これは何だとレナートに問う。
既に答えは知っているのに、彼自身の口から言わせようとしている。


レナートは答えた。
今まで彼を苦しめていた存在を、今まで大切だった存在を一言で評する。
それは無価値な存在だ、と。「友」はその言葉と共に消えた。
異形は消え失せた友に何の反応も示さなかった。



彼はようやく弟子が信じていた通りの男に戻れた気がした。
彼が戻ってきたら戻れるはずだとレナートは信じた。


意気揚々とナイフを手に取り、レナートは家を目指すことにした。
何の事はない。何時も仕事でやっていることを行うだけだ。
それだけで全てが元に戻る。いや、戻る以上に素晴らしい事になる。



そして彼は笑顔のまま、扉を叩いた。



これは遠い過去の断片。何時か、何処かで起こった出来事だ。
既に起こり、終わってしまった事。



この結果は決まっていた。
レナートが異形と遭遇した時点で……レナートが影を見てしまった時点で、友を失った時より全ては決まっていた。






時は少しだけ遡る。これは過程のお話。






エレブ新暦963年 カルテ村 2日目早朝。



翌朝眼を覚ましたマデリン一行が見た村の様子は様変わりしていた。
朝霜に覆われた村の中には誰も居なくなっていたのだ。
昨日まで確かにそこにいた筈の村人は影も形も残らず、村の中には主を失った家屋だけがあった。


当然マデリンたちは驚愕し、混乱した。
争った形跡さえもなく30人はいた村人が一夜にして消える等異常だ。
最悪の仮定の一つにこの村はもしやコミンテルン残党の拠点で、自分たちを罠に嵌めるための準備をしている可能性さえ浮かんだ。


だがそれもないだろうと直ぐに否定される。
仮にこの村がコミンテルンの拠点だとしたら、何故夜に襲撃をかけないのか。
食事に毒を混ぜる、夜の闇に紛れて襲撃、家屋に油を巻き火をつける……有効な手段など幾らでもあるのに彼らは何もしていない。


そうだ、何もしていないのだ。番の兵士達は誰もが口をそろえて夜間村人が家屋の外には誰も出ていないと語ったのだから。
寝ずの番をしていた複数の兵士達に一切気取られることなく、村人は消えたのだ。


何もかもが理解不能だというのが彼女たちの正直な感情であった。
迅速に荷物を纏めて出立してしまべきか、それとももう暫くここに残るべきか……マデリンが選んだのは後者であった。
あの心優しい村人たち、領土こそ違えど同じリキアに生きる民にもしも危険が迫っていたら、我々は貴族として助けなくてはならないと。


そして出立するにあたっても、周辺の安全を完全に確認しておかなくてはならないという狙いもある。
もしもこの村周辺に伏兵などが存在していた場合、最悪マデリンたちは背後から襲われてしまうからだ。


慎重には慎重を重ねてマデリンたちは警戒を最大限に高めた状態で行動をする。
罠や伏兵などを考慮し、ワレスをマデリンの護衛に置いた上でレナートとハサルが中心とした足の軽さを重視した探索隊が編成され、迅速に作戦は実行に移される。
家々を回り、一件ずつ丁寧に確認を行い、周辺の足跡を調べ上げ、彼らが何処にいったか調べ上げる。


更にはハサルらサカの民が感じ取れるという人の纏う“風”の残り香を嗅ぎ分けながらの捜査さえも導入するが、それでも村人の行方は判明することはなかった。
何処にも、誰もいない、伏兵はおろか、動物の類でさえこの村の周辺にはいなかった。



「…………」


だが、とハサルは腕を組んで考える。妙な……とても妙な“風”の流れを彼は感じ取っていた。
サカの民である彼からすれば屋外で人を追跡するなどウサギを追うより遥かに容易い事であるのだが、それでも今回は妙だ。
この村に訪れていた時から思えばこの妙な違和感は彼を苛み続けていた。


微かな血の香り。
コミンテルン。
カートレーにおける同盟との戦い。
立地的にこの村が何の影響も受けていないのはありえないという経験から来る情報。



しかし現実は何も害はなく、人が居なくなっただけだ。
彼らは好意的な人々で、自分たちの懐に決して余裕があるわけではないのに多くの食料を分けてくれた上に寝床まで提供してくれた恩人たちだ。
確かに真相は気になる。この村で受けた恩をハサルは決して忘れてはいない。


だが、もういいのではないかとハサルは思い始めていた。
一切の手がかりはなく、今の所伏兵や罠なども見当たらない。
余り時間を取れる案件ではないなと傭兵としての彼が囁いていた。


この旅で最も大事なのは言うまでもなくマデリンの安全だ。
彼女をアラフェンに送り、そしてキアランに帰還させること。
それが今のハサルの最大の役目である。皆そのために命を捨てる覚悟でついてきてくれている。


更に言えば物資とて無限ではない。人は生きるだけで水や食料を消費する。
大勢の人の集まりの軍や隊となれば当然その人数だけ消費は倍増する。
物資と言ってしまえば聞こえはいいが、その実はキアランの民たちから預かった税だ、無駄遣いは許されない。



「そろそろ切り上げるべきか……」


ハサルは隣で周囲を警戒するレナートに声をかける。しかし返事はない。
彼が沈黙で答えを返すのは珍しいことではないが、それでも意識の動きはあった。
だが今はそれさえもない。レナートは隣に立ってはいるが、その心は何処か別の所を見ているようだった。


「レナート?」


もう一度問えば今度はしっかりとレナートの心が動き、ハサルを見た。

「聞こえている。探索を切り上げるべきだというのは俺も賛成だ。
 ……このまま探していてもどうせ何も見つからないだろう」


レナートの言葉には確固たる確信があった。
傭兵としての彼はもうこの村に残っていても時間を無駄にするだけだと断言する。
そうだなとハサルも彼の意見に頷いた。


やはり多少は心にしこりが残るが、それでも目的を間違えてはならない。
彼はマデリンに結果の報告と探索の打ち切りを進言するために踵を返す。



後に残ったレナートも暫くは立ち尽くし周囲を眺めていたが、直ぐに仲間と合流するために歩を進めだした。









村の中央、既に荷物の積み込みなどを終えた馬車隊の前にマデリンとハサル、そして護衛の兵士達はいた。
優れた防御能力、護衛能力を備えたワレスを傍らに控えさせたマデリンは親愛する男からの報告を受けている。


「そうですか……足跡なども見つからなかったのですね……」


ハサルの報告を受けたマデリンは顔に憂いを湛えて答えた。
続けてハサルが探索を打ち切るべきだと進言すると彼女の瞳が内心を映すように揺れた。
しかしそれも一瞬だけ俯き、顔を再び上げた時にはなくなる。


彼女とてただの娘ではない。
キアラン侯の一人娘であり、貴族としての考えも併せ持つ強い女性だ。
ここで時間を潰すことの無為さを彼女は理解できる。


平民の村一つと父たるキアラン候より賜った任、どちらが重要視されるかなど知っている。
それでも、と決断を鈍る彼女の前にハサルより少し遅れて帰還したレナートが進み出る。
彼は礼儀正しく一礼すると、手に持った一枚の板切れをマデリンに手渡した。



「“カルテ村“……? これは一体」


「この村の名前を書かれた看板でしょう。そしてその黒い汚れをよく見てほしい」



言われた通りにマデリンが板を注視すれば、どうやらそれはカビや埃などの経年劣化の類ではなく、何らかの水しぶきを大量に掛けられたようであった。
しかし単なる雨水ではこうはならないだろう。乾燥してもここまで黒い跡を残す液体など画家が使う特殊な絵の具か、もしくは……。


「血か。それも最近についた跡だな。しかし昨日という程でもない。……これは人の血だ」


横から覗きこんだハサルが断言する。
彼の中でも色々と繋がり始めたらしく、その瞳には理解が浮かんでいた。
ありえないと断言するのは簡単だが、現実として目の前に起きた以上認めるしかない。


「血……村の看板に血がついて……まさかそんな」


いや、いやとマデリンが首を振るが、レナートはそんな彼女を労わる様に淡々と告げる。


「こういう事もあるものなのです。そんな馬鹿なと思うかもしれませんが。
 元々はここはコミンテルンの強大な勢力圏でした。ただの村が世俗から離れたように無傷で残っている方がおかしい」


レナートの語る言葉には得も言えぬ説得力があった。
ただの噂や伝承と笑い飛ばせない圧が。
そしてハサルを始めとするサカ出身者たちにとってはレナートの語る言葉は常識の類であり、一様に納得の表情を浮かべ始める。


「彼らは……母なる大地と父なる空の下に帰ったのか」


「あの者らは……っ!」


ワレスが拳を握りしめ、歯を噛みしめた。
ありのままに彼は全てを理解し、そして自らの無力さに憤りを覚える。
彼らは善良であった。共に酒を飲みかわし、笑いあった。

キアランとカートレーという出身の違いこそあれど、同じリキアの民で、愛すべき同胞であったのだ。

ふざけるな、と。何が理想だ。
賛同しない者を消して何が解放だ。
眦から涙を零しながらワレスは穴が開くほどにカルテ村と書かれた板……看板の残骸を凝視する。


「……総員、整列しなさい。善き人々に敬意を払いましょう。彼らの眠りが安寧であることを祈るのです」


マデリンが静かに告げ、レナート、ワレス、ハサルが順に部下に命令を下せば全ての兵士達がまるで主に捧げるように隊列を組む。
朗々とエリミーヌ教団の祝詞をマデリンが唱え、続けてハサルがサカの祝言を語るのをレナートだけが無機質な眼で見ていた。













その後、カルテ村を出立してからのアラフェンへの道程は順調であった。
当初危惧されていたコミンテルン残党の襲撃や賊などのちょっかいもなく、数日後にマデリンたちは予定よりも早くにアラフェンに到達する事が出来た。
既にアラフェン候は一行が城の近くにまで近づいている事を知っているのは間違いない。


何故ならばアラフェンに近づく度に多くの兵士達が街道に検問所を作り警固しており、彼らからの報告は間違いなくアラフェン候に渡っているだろうから。
ハサルの優れた視力は地平の彼方にうっすらと映るアラフェン城下の門がゆっくりと降りていく所を見ていた。
彼の考えが正しければもうそろそろ迎えがこちらにくるだろう。


よく目を凝らして見れば空には複数の天馬の影も見えた。
アラフェン候はどうやらイリアの天馬騎士団も雇っているようだった。
天からの眼を持ってすれば、マデリンたちの接近に気がづくのは容易い。


「あれがアラフェンの街です。あなた方の助けによって予定よりも早く到着することが出来ました」


全員より一歩前に進んだマデリンが心の篭った声音で堂々と宣言する。
小高い丘の上より望むアラフェンの市街地はさすがリキア第二位の都市というだけはあり活気に満ちている。
更に今は治安を乱しに乱し、流通を遮っていたコミンテルンが瓦解したということもあって、様々な商人や職人などがアラフェンに集合していることだろう。


ベルンとリキア。更にサカの一部。この3つの地域を跨いで主に活動していたコミンテルンはいわば目障りなしこりだった。
勝手に検問を作り、治安維持の名目で領主とは別の税を求めてくる賊よりもおぞましい存在。
当初見せていた民への従順さをかなぐり捨てて露わになっていた末期の本性は理想の為ならば全てが正義であり、そのための奉仕と犠牲は仕方ないという傲慢の塊だ。


だからこそリキア同盟は速やかにコミンテルンを葬った。
彼らの掲げた意味不明の大義もそうだが、流通という経済活動を遮るのは貴族にとっては最も不愉快な行為だったのだ。


「迎えです。あれは……アラフェン侯爵の直属でしょう」


遠くから土煙を振りまきながらやってくる騎馬隊をワレスが冷静に分析する。
彼らが掲げる旗の素材は遠目から見ても上等なものだ。青という貴族を象徴する色なのもこの考察に説得力を与えている。
普通の軍団が掲げる量産品の旗としてはあそこまで上質な布や色は普通は用いない。


更に騎馬隊の着こんだ鎧は太陽光を照り返してぴかぴかと輝いており、まるで鏡のようでもあった。
ハサルはそれを見て微かに指を開閉させた。
サカの民としての本能か、ああいう……とても狙いやすいモノを見るとどうやって射抜こうかと考えてしまう事が彼にはある。


マデリンが動く。一度馬車に戻ると、キアランの家紋が刺繍された高貴なマントを持ち出し羽織る。
それだけで彼女の姿は快活な女性から、冷静な女貴族のソレへと纏う空気ごと変わる。


彼らの乗っている馬はサカの民から見ても非常に良い馬であった。
あっという間にマデリンたちを補足すると、見る見る距離を詰めてやってくる。
やがて彼らは一行の前までやってきて停止すると、貴族への礼儀として馬から降り、跪く。


「キアラン候ハウゼン様の代理のマデリン様ですね? 主から命を受けお迎えに上がりました」


マデリンの顔が引き締まる。彼女が仮面を被ったのをハサルを見て取った。
キアラン候の代理としてのマデリンが上位者として相応しい態度を示しながら騎士たちに必要な言葉を投げかける。


「判りました。案内しなさい」


仰せのままにと騎士が頷き立ち上がって馬に跨ると、先導するために背を向けて先ほどより幾らか遅い速度で走りだし始めた。
マデリンはゆったりとした余裕を感じさせる動きで最も豪奢な自分の馬車に乗ると、ふぅと息を吐く。
ボロリと貴族の仮面が剥がれ、個人としてのマデリンが顔を覗かせる。


「どうだったかしら? 私はお父様の代理として立派に振る舞えてますか?」


「見事だった。誰も貴方をただの代理とは侮らないだろう」


あえてハサルは正しい敬語を使わずに僅かに砕けた口調で答える。
長旅で少しばかり疲れを隠しきれていないマデリンに対する気遣いだ。
ふふふと小さく笑ったマデリンが「ありがとう」と告げるとハサルはそっぽを向いて何とか言葉を続ける。


「緊張しているのか? らしくもない」


馬車が動き出し、ハサルが馬に乗るとマデリンは馬車の窓から彼に話しかける。
これが最後。アラフェンの城に入ってしまえば一切の弱音は許されない。
だから彼女は思い切って本音を零すことにした。


「今まではお父様や叔父様と一緒でした。
 ……一人で祝宴の類に出るのは初めてなのです。
 女の身で何を生意気なと思われ、軽んじられるのは覚悟の上です。それに……お父様の考えもある程度は判るのだけど……」
 

貴族の未婚の女を一人で貴族の祝宴会に放り込む……つまりそういう事もハウゼンは考えているのかもしれないとマデリンは思っていた。
もう彼女も適齢期で、別に珍しい話ではない。
彼女しかハウゼンに子がいない以上、キアランの未来を考えればこうするしかないのも必然だ。


「私は……。少し、疲れたのかしら。こんな事を言ってしまうなんて」


貴族としてキアランの為に。マデリンはキアランを愛している。
そのために全てを捧げるのは当然だと思っている。
母を失った父がどれだけ苦心して自分を育ててくれたかも痛い程理解し、その恩を返すにはこれしかない事も。


キアランの未来は文字通り彼女が“産む”のだ。


ハサルはサカの部族の出であり長男だ。
族長の子として産まれた彼は今でこそ傭兵の身だが故郷に戻ればロルカ族を継ぐ男だ。



部族と領土。
規模や名前こそ違えど本質は同じである。
故にハサルはマデリンの不安を的確に見抜くことが出来た。


だからこそ彼はこの女性に脚色もなく、単純化した言葉を投げかける。


「お前の抱くソレは当然のモノだ。
 もしもどうしても不安が消えないのならば……俺たちがいる。
 だから、自分の正しいと思った事を妥協で曲げなくてもいい」



背負った弓矢を示しながらハサルは言う。
マデリンはきょとんとした顔をした後に破顔した。



「ありがとうハサル。今日まで貴方たちには助けられてばかりね」


「気にするな。……仕事だ」


ふーん? とマデリンは笑いを零す。
無邪気に口を歪めた彼女は窓枠から体を乗り出すとハサルに言う。


「“仕事”……今回の“お仕事” 貴方はどうでした? 感想を聞きたいわ」


ハサルの眼があちらこちらを行きかう。
見ればアラフェンの門に大分近づいていた。この時間も終わりが近い。
幾つかの言葉を考えて吟味した後に彼は返した。


「まだ終わっていない。キアランのハウゼン様の所に無事お返しする所までが仕事だ」


だが、とハサルは言葉を切る。
もう少し彼はマデリンと話していたかった。


「不思議な道程だった。危機こそ少なかったが、油断の出来ない状況も確かにあった」


カルテ村とマデリンが零す。
彼女自身未だに信じられないが、確かにあの村人たちは生きていた。
一緒に盃を交わし合い、談笑をしたのだ。決して夢ではない。


「私は思うのです。もしかしたら彼らはただ私達に知ってほしかっただけじゃないのかって」


本来ならば辺境に存在する村が一つ消えた程度では誰も気にしないだろう。
残酷な話だが、地図に乗ってもいない様な小規模な村の価値などその程度しかない。
貴族としても税収が微かに減るのは嫌だろうが、財布の中身からコインが一枚減った程度では「少し損したな」程度にしか思わない者が多いだろう。


誰にも知られず生きて、誰にも語られることなく死んで消える。
後には何も残さない。放置された村は朽ち果て、死者を想ってくれる人もいない。


それは悲しい事だとマデリンは思った。
死ではなく、それは消滅ではないかと。


「俺たちが彼らから受けた恩を忘れる事はない。
 ……再び出会う時がいずれ来る。その時に改めて感謝すればいい」


「……そうね、いずれまた……絶対に会う時が来るわね」


死は誰も逃げられない。ただ受け入れるか、恐怖して逃げるかの違いだけで到達点は同じだ。
マデリンは瞼を瞑りもう一度だけ祈りを捧げる。
サカの信仰とエリミーヌの教えという違いはあれど、死者の安息を想う気持ちに優劣はなかった。


暫しの間をおいて、アラフェンの城門が近くに迫って来てからマデリンは意を決したように言葉を放った。
それは馬の蹄の音にも負けない凛とした声であった。



「ありがとうハサル。私、頑張るわ。そして、貴方の力をこれからも貸してちょうだい」


「いつでも頼れ。それが仕事だ」


ハサルが簡潔に、ぶっきらぼうに答える。
そしてマデリンは嬉しそうに笑って返した。












「よくぞ来られたマデリン殿! 我々アラフェンの最大の歓迎を受け取ってほしい!」


城門を通り、城下を抜けた一行を城の中庭で出迎えたのは意外な事にアラフェン候ブランその人であった。
最近アラフェンの領主を継いだ彼は20代前半という大貴族の当主としては若い身ながら、全身からは確固たる自信を滾らせた男である。


そして彼の自信は中身のない滑稽なものではない。
マデリン達が見た所彼の統治するアラフェンは戦後間もないというのに、大勢の人が賑わい繁栄を極めていた。
街道に勝手に検問所を設けていたコミンテルンが崩壊して直ぐにアラフェン候が街道の治安維持を迅速に行い、リキア東部の安定化を図った結果がこれであった。


ここまで来るのに事実マデリン達は複数の検問所を通過していた。
彼女たちがアラフェンに一度も敵と遭遇せずに来られたのはもしかしたらブランの采配の為なのかもしれない。


ベルン、サカ等といったエレブ東部から訪れる大勢の人々の流れ、金の流れ、物の流れ、その全ての手綱を完全に握っている彼は間違いなくリキア同盟第二位の勢力を誇る大貴族だ。
オスティア候が未だ到着しない現状ではこのアラフェンで最も強大な権力を握っている男は人当たりの良い笑顔をマデリンに向けていた。



「何はともあれ今はお疲れでしょう。護衛の方々の分も含めて極上の部屋を用意させております。まずはゆっくりと長旅のお疲れを癒してください」


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きますわ」


完璧な笑顔を「張り付けた」マデリンは優雅な仕草で一礼すると、次に背後で控えるハサルを始めとした自らの配下を見る。
マデリンの視線をブランが追いかけ、ハサルを目にして止まる。
ハサルが胸にかけたメダルを認めたブランは笑みを深めた。


「彼は……確かキアランでローラン勲章を拝領したというサカの民、だったかな」


「ハサルと言いますわ。私の頼りになる勇者の一人です」


そうかとブランが頷き、ハサルを一瞥し、ほぉと息を漏らした。
貴族の嗜みとして武術を習い、真面目に取り組んでいた彼はハサルの実力が本物であると直ぐに見抜いたのだろう。
一瞬だけリキア貴族としての性か異郷の民への軽蔑が顔を覗かせたが、直ぐに飲み込む。


ハサルとしてもこの程度の反応は今に始まったことではないので気にする事ではない。
口より実力で示せばいいだけなのだから。


「やぁ、君の噂はアラフェンにも届いているよ。あの決戦では大立ち回りを演じたそうで」


「……自分一人の手柄ではない」


ハサルが背後に控えるワレスとレナート、そして配下の仲間たちを紹介するように見やる。


「素晴らしい。ハウゼン殿は最高の護衛を手配したようだ」


嫌味ではなく心の底からブランはレナート達を手放しで称賛する。
しかし、と彼は続ける。


「私にも自慢の部下がいてね。君たちに負けず劣らずの勇者だ」



ブランが手を叩くと、遠目でも判るほどに屈強な男が城壁より「飛び降りて」来た。
普通の人間ならば足首を骨折してしまう程の高さであったが、彼はスキップでもするような気楽さで中庭に降り立つ。
ずどんという重低音と地響きが中庭のみならずアラフェン城の一角を揺らす。


地面にめり込んだブーツを引っこ抜いてから、男は背筋をしっかりと伸ばしてブランの傍に歩み寄り一礼し、首にかけられていたローラン勲章を揺らした。


「紹介しよう。彼の名前はブレンダン・リーダス。先の戦ではコミンテルンの城の守備隊を薙ぎ払った猛者だ」


顔や僅かに露出した胸元にも多数の傷跡を残す大男───ブレンダンが会釈すると、マデリンが彼を見上げながら微笑み、ブランが笑みを深くした。
自分が目をかけた男の圧倒的な存在感と強さに満足を覚え、そしてソレを従える己の威光を彼は自慢する。


「コミンテルンがあそこまで大きくなる前にベルンから我が領土に避難してきた彼らを拾ったのが発端でね。
 期待通り……いや、期待以上の働きを彼は見せてくれた」



「彼ら?」


マデリンが気になった単語を拾い上げると、ブランはブレンダンに目配せをする。
喋ってもよいという許可を貰った彼は重々しく口を開く。


「……妻と、息子が二人います。今はブラン様が保護してくださっています……元は自分も奴らの一派でした」


ブレンダンの言葉にハサルが僅かに気を引き締めたのを見て取ったブランは誤解を解くために補足を付け加える。
ハサルがどう思おうと知った事ではないが、マデリンの気を悪くするのだけは何としても避けたい故に。


「コミンテルンは自らの身勝手な夢を拒絶した者には容赦はない。
 彼の一家が住んでいた村も最初は彼らの口車に乗せられそうになったが……徐々に過激化する彼らに付き合いきれなくなり、村を“解散”する事になったらしい」


コミンテルンが出来て間もなかった頃は確かに治安維持や弱者救済を掲げた組織であった。
弱きを助け、更には手を差し伸べて力を与えて共に戦おうと訴えかけた彼らの当初の在り方は誰が見ても立派なものだった。
その底にどれだけ壊れ切った理想を隠していたとしても、彼らに助けられ、思想に共感した者達がいたのも事実。


「彼らの甘言に乗せられたのは自分の過ちでした。贖罪の機会を与えてくれた侯爵様には感謝しています」


うむとブランは大きく頷く。
自らの度量を宣伝してくれる部下に彼の心は満たされていた。
優れた者を自らが従えている、という事実が彼には心地よいのだ。


勿論、支配者である自分自身の修練を怠る事もないが。


「ブレンダンを筆頭にこの城の警備は万全だ。オスティアさえも超える鉄壁だと自負している」


「お心遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きますわ」


そしてとブランは続けた。


「貴女が1番乗りになります。
 部下からの報告によれば、他の諸侯の到着にはもう暫し猶予がありそうでして……よろしければ、街を案内してもいいだろうか?」



やはり来たかとマデリンは内心で思ったが、表側には全くソレを出さない。
ただ彼女はにこりと魅了的に映るであろう笑顔で答えるだけだ。


「ありがとうございます。お誘い、とても嬉しいです」


ただ、と彼女は続ける。
自らの服の至る所についた汚れや、幾ら丁寧に手入れしても痛み始めた髪の毛などをそこはかとなくブランにアピールする。
あぁ、とブランは頷いた。


「これは申し訳ない。お疲れの所にこんな話をいきなりされても困るというものでしたな。
 今日は一日ゆっくりと部屋でお休みになれるとよいでしょう」


優雅な一礼を流れるようにマデリンがすると、艶やかな黒髪が揺れ、ブランが微かに息を呑む。
一度だけ仕切り直すように咳払いをしてから、彼は踵を返して奥で待機していた従者たちを呼び出す。


「キアランからの来賓の方々だ。部屋まで礼を尽くして案内しろ。重ねて言うが、丁重にもてなすように」


頭を下げ、了承の意を送る従者たちに満足した彼は最後にもう一度マデリンに振り返る。


「では、私は失礼する。何か用があれば従者に言いつけて欲しい」


歩き出そうとして、彼は止まる。言い忘れた事があるのを思い出したのだ。


「キアランとアラフェンの友好を祝して、今晩にでも歓迎の宴を行いたい。
 勿論君の勇者たち全員も含めてね。準備が出来たら迎えの者を送らせてもらう」


「それはそれは……楽しみにしていますね」


ふふふと、蠱惑的にマデリンが笑う。甘い香りで虫を誘う花の様な笑顔だった。
そんなものを直視してしまったブランは顔を僅かに引きつらせかけると、直ぐに余裕に満ちた貴族の顔に戻る。
今度こそ彼は振り返らずにアラフェンの城の奥へと行ってしまった。



マデリンがハサル、レナート、ワレスを除く配下の者らに解散を命じ、用意されたという部屋に向かえと指示を出すと、中庭に乗ったのは数人となる。


「……俺も警備に戻る。お前たちは安心して休んでいろ」



主とキアランの護衛を見送ったブレンダンが言う。
そんな中、レナートが彼としては珍しく皮肉交じりの声を上げた。


「……あんたも大変だな」


言葉だけを見れば嫌味だが、そこには確かな同情と友好があった。
ニコニコと、彼とは思えない程に上機嫌な様子でブレンダンに彼は語り掛けている。
そんな様子にハサルは僅かな違和感を覚えたが、そういう気分の時もあるのだろうと飲み込む。


ブレンダンが彫像の様な厳めしい顔を僅かに緩めた。
同等の実力者からの言葉はどうやら彼の本心を掠めていたようだ。


「仕事だからな。それに……雇い主の心象を良くしておけば、臨時の報酬があるかもしれないというのもある」


どちらにせよ、貴族の不評を買うのは賢いとは言えない選択肢だと彼は続けた。


「妻と息子が二人。金は幾らあっても足りねえ」



生きる為に金は必要だ。どれだけ綺麗ごとを並べようとコレがなければ人は生きてはいけない。
特に家族を持つブレンダンには死活問題だ。
その為ならば慣れない敬語を使い、退屈だと感じながらも警備任務を黙々と果たすだけだ。


全く違いないとレナートは同意する。


「先ほどかつてはコミンテルンの一員だと仰っていましたが……」


「会釈も敬語もやめてください。俺はただの雇われです。貴族の貴女にそのような口調で喋られては困ります」


マデリンが自身の倍近くはある大男であるブレンダンに近づき、会釈をしながら問おうとすれば彼は慌てたように後ずさる。
戦場ではどのような頑強なアーマーナイトでも粉砕して突き進む彼がたった一人の女性にたじろぐ姿は奇妙でさえある。


当然マデリンもそんな彼の言葉を最初から予測していたのか、当然の様に魅力的に微笑みながら返した。


「いえ、貴方は“ただの雇われ”などではありません。
 その首にかけたメダル。それは勇者の証です。我々リキア同盟に多大なる貢献を果たした証。
 それを持つに値する殿方に礼を尽くすのは当り前ですわ」
 


「………これは、弱ったな。マデリン様は……その、俺の手には余るらしい」


助けてくれとブレンダンの視線は泳ぐ。
まずはハサルに、次にレナート、最後にワレスに向けられる。
ハサルは沈黙し、レナートは隣のワレスを見やり、自分の出番と悟ったワレスは大声を張り上げた。


「そうだとも! これこそがマデリン様なのだ! 
 どのような立場であろうと、マデリン様は等しく礼をもって接してくださる、まこと平等にして心優しき御方なのだ!!」


「そうだな」


弟子の矢の雨の様な言葉の速射を彼の師匠は軽々と返す。
そればかりか彼は余裕を湛えた笑みをもってブレンダンにも声をかけた。
脇道にそれかけていた話題を正道に引き戻す為に。


「話を戻させてもらうが、コミンテルンの一員だった頃というのは?」


コミンテルンという言葉に反応してか、ワレスの顔が強張り、ハサルの気配が鋭くなった。
強者たちが出す気配に比例し、周囲の空気が張り詰めていく。
もう彼はコミンテルンではないと断言されてもつい先日行われた蛮行の跡地を見た者らには思う所が彼らにはあった。


そんな中、凛とした声でマデリンは制止の声を上げる。


「やめなさい。彼はもう私たちの同胞です。私に恥をかかせるつもりですか」


はっとした顔でワレスが佇まいを直し、続いてハサルが頷いて返した。
ただ一人、レナートだけが一歩引いた距離で成り行きを冷静に観察している。


「……さっきも言ったとおりだが、俺は元々はコミンテルンの奴らの仲間で、それこそ最初期から奴らとつるんでいた」


ブレンダンが語る。彼が元コミンテルンだと宣言したのは何も贖罪だけではない。
ただ、隠していて後々明らかになるよりも、自分から最初に言ってしまった方が波風は立たないと悟っているからだ。
傷は浅い内に晒してしまうに限る。隠していて膿んでしまったら取返しがつかなくなる。



「理想による救済。弱者を助け、驕れる者達を引きずり落とす。そいつらが持っていた十分すぎる程の富を民たちに取り戻し分け合う。
 全く中々に耳障りのいい言葉だとは思わねえか? ……昔の俺はそんな話を本気で信じていたんだ」



過去を語るブレンダンの顔は憂いに満ちていた。
輝かしい理想は彼を焼いて焼いて、焼き尽くし、ある日ふと正気に返ったのだという。


「何にも考えないで理想に酔っていた時はよかったさ。
 だが“自分が何をしているか”を一瞬でも考えちまったらもう終わりだ。
 俺がやっていたのはただの虐殺だった。大義も何もない、金の為でもない、意味さえ分からない殺戮だ」



気付いてしまったらもう終わりだった。
彼に残っていたのは血まみれの身体と、怯えた顔で自分を見つめてくる家族たちだけであった。
周りの仲間だと、同志だと思っていた者達を彼は恐怖した。


何故、そうも笑っていられるのだ?  
今、殺した奴らはただ俺たちの思想に賛同するのは難しいって言っただけじゃないか。
何も殺す事はなかっただろうと思ってしまった。

そして彼は思いかえす。今まで自分も同じことをしていたと。


何十もの人々を彼は率先して殺した。自慢の斧で。扱いなれた弓矢で。
命乞いをしてくる者。逃げる者。家族を守る為に戦いを挑んでくる者。
全て殺した。彼らは理想を理解しない、自分たちに協力できない、使えないクズ共だと考えて。


冷静になった彼が考えたのは己と家族の事であった。
兄のロイドと弟のライナス。二人の息子と妻を何としてでもこの狂った環境から連れ出さなくてはと思い至った。


そして彼は逃げた。何もかも捨てて。
大勢の無辜の人を殺した事実からも。


「家族を連れて逃げた先がこのアラフェンだ。色々あって侯爵様に拾われて世話になっている」


彼の語る“色々”にはとてつもない重みがある。
だがブレンダンも詳細を語るつもりはなく、マデリン達も無理に聞き出そうとは思わなかった。


最後に彼は付け加えた。


「怖いのは、今になって思い返せば本当に俺は逃げてよかったのかって思っちまう所だ。
 あの“理想”は……一度知っちまったら中々離れてくれない。とびきりに性質の悪い毒みてえなもんなんだ……」


絞る様に吐き出されたブレンダンの言葉だけが空に吸い込まれていった。

















夜、凄惨な戦いの後であっても東から顔を覗かせた夜天の月は美しくエレブを照らしている。
アラフェンの城の至る所にはかがり火が設置され、並べられた屋台などに集まる人の活気で城のみならず街そのものは大いに賑わいを見せていた。


大々的に掲げられているのはリキア同盟を象徴する烈火の剣を模した旗。それらは夜風に吹かれ靡いている。
キアラン、アラフェンの友好と、そしてリキア同盟の勝利を祝う宴は当初予定されていたよりも大規模なモノであった。
宴が計画を超えて大規模になるのは珍しいことではない。


……特に見栄えを重視する貴族が好意を抱いた女の気を引こうと開いた舞踏会ならば猶更だ。


そんな中であってもレナートはマデリンの護衛として立派にその勤めを果たしていた。
彼は嫌味にならない程度に酒を呑み、よく食べながらも周囲への警戒を怠らず、マデリンからひと時も眼を離してはいない。


ここはアラフェン城内の大広間。ダンスホールとも呼ばれる場所だ。



既に心の中のざわめきはかなり落ち着いている。
今の彼は冷静であるどころか、沸き上がるユーモアを堪能する余裕さえあった。
絶えず心を蝕んでいた痛みは今はもうない。


そんなものはもういらなくなったからだ。
レナートは希望を見つけた。奇跡を見つけた。
喪失の傷を癒す術を。


ふっと笑いながらレナートは右を向いた。
丸いテーブルの上に置かれた幾つもの出来立ての料理が湯気を立てている。
盃に注がれるのは上質なワイン。耳を打つのは著名な詩人が奏でる優雅でいて明るい曲。


ここでは全てが輝いている。
アラフェン候がこの宴にどれだけの金を掛けたか想像するのも楽しい。


視界の中ではワレスがアラフェンの兵士達と語り合いながら酒を飲んでいる。
時折肩を組み、談笑するその光景はレナートからしてもいいものだ。


そしてマデリンとハサルだ。
金で縁取りや刺繍を施された白いドレスを美麗に着こなすマデリンの姿はさながら新婦の様でもある。
それに対してハサルは余り装飾などを施されていない独特な黒い民族衣装を着こんでいた。


“デール”とも呼ばれる衣装だ。
リキア貴族が着込む衣服ともエトルリアのソレとも違う衣服はこの場においても異端ではあるが、ハサルはそんな事は全く興味がないと堂々としている。
彼にとってサカの血や文化は誇るものであって、隠し立てするようなものではないからだ。



二人は当然の様に一緒に行動をする。
当たり前だ。ハサルはマデリンの護衛隊長であり、彼女の父から娘を守る様に依頼を受けているのだから。
誰も彼と彼女が一緒にいることに疑問を抱くことは出来ない。


もうそろそろ来るぞとレナートは内心で思った。
案の定、大きな足音を立てて階段を誰か……もはや語るまでもなく、ブランが降りてくる。
しかもご丁寧に嫌味にならない程度の音楽を伴って。



「楽しんでもらえてるかな?」


「勿論ですわ。アラフェン候様のご厚意には感謝してもしきれません」



マデリンの笑みは演技だ。レナートはそれを判っている。
しかしそれを知っていても尚、彼女の上品な笑顔には惹きつけられるモノを感じる。
これは天性の男たらしというべきか。


知っている彼でさえそれなのだ、まともに向けられたブランがどういう心境なのかは手に取る様に判った。
まぁ、さすがのブランも普段マデリンが農民に混じって畑で芋を引っこ抜いているところを見れば熱も冷めるかもしれないがとレナートは内心で続けた。



《楽しんでいるようだね?》



そして唐突に響いてきた深い声にもレナートは今度は動じなかった。
もうこの存在の無茶苦茶さには慣れてきているのだ。


周囲を警戒するふりをして足元に目をやれば、レナートの影の形が僅かに“違う”のが見て取れた。
口元だけに亀裂が走り、三日月の様な笑顔を浮かべている。



───誰かに見つかるかもしれないぞ?


レナートが頭の中で答えるように思念を発するとソレはくっくっくと肩を震わせるようにわななく。
嘲笑とは少し違う。この存在はこの場の出来事全てを把握し、純粋に楽しんでいる様であった。


《前にも言ったが今の私は否定され続ける朧な存在だ。君だけが私をはっきりと認識できる。
 ……それに、勘の鋭い彼は今は別の事に夢中みたいだ》


あぁとレナートは頷いた。
ハサルを見れば彼は沈黙を保ったまま顔をお面の様に固定してマデリンの傍に立っている。
少なくとも外見上は。


《“勇者と姫の秘密の恋愛”と言った所か。しかし、物語の様には行くかな》


知らん。俺には関係のない話だとレナートは胸中で返す。
影はその念を読み取り、そっけないものだと零した。



───何の用だ? 答えはまだ返していないぞ。


影の誘惑に対してレナートはあの夜の時点ではまだ明確な答えを返してはいなかった。
幾ら理解不可能にして強大な御業を見せつけられたとしても、この影に対して直ぐに信頼を抱くことは出来ない。
彼には考える時間が必要だった。そして決意を強く固める時間も。


《危機だ。時として強すぎる意思は死さえも微睡わせる。彼らは眠る事を拒絶した》


それだけを語り終えると“影”の気配が消えてなくなる。


危機という言葉を冗談だろと聞き逃す程レナートは弛んではいない。
彼は直ぐに意識を切り替え、半分ほど楽しんでいた宴会気分を体から追い出した。
あの異形は間違いなく化け物で、邪悪な類の存在ではあるが、何処か妙に真摯な所があるのも事実だ。


まず、アラフェンは安全だという前提をレナートは捨てた。
確かにブレンダンは優れた戦士ではあるが、このアラフェンに出入りしている全ての人間を彼が把握できるはずもない。
この場合の“出入口”というのは表の城門だけの事をさすわけではない。


人が入る方法など何処にだってある。
下水や裏道、そしてアラフェンにあるかは判らないがこういう城には大抵用意されている秘密の抜け道などだ。
この城の優れた所ではなく、弱点をレナートは考えていく。


今のアラフェンに兵士は余り多くはいない。
殆どが街道に出払っている。結果として周辺の治安は良くなったが、この城の防備は手薄だ。
勿論ブランもそんな事は判っているからこそブレンダンを手元に置いており、更に城に残っているのは彼が己の財と名誉を委ねるに値るすると判断した精兵だろう。


危機、というものが何なのかレナートは判らない。
だが、何が起ころうとしているにせよ、そもそもそんな事は起こらせてはならないのが重要だ。


ふと真横を見れば……“友”が居た。
亡骸の顔のまま、レナートを凝視し続けている。眼球のある場所から虫を垂れ流しながら。
だがもはやこんなモノにかかずらっている暇はないとレナートはそっぽを向く……向いた場所にナニカを見つけた。



それは大広間の柱の陰に居る様であった。
部屋の四隅に建築された柱の裏側、燭台の炎も余り届かない位置。


顔だけをこちらに覗かせるのは黒い犬であった。
炎を凝縮させたような真っ赤な瞳に夜を溶かした様な毛色の逞しい犬だ。
よく躾けられているのか、それは舌を出して荒い息を吐くような事もせず黙って視線を……ブランとマデリンに向けていた。


まずい。アレは明らかに危険だ。
レナートは理屈ではなく本能で察する。あの存在は害意のある物だと。
しかも下手をすれば剣や槍では有効打を与えられるかも怪しい。


視線を黒犬から外すことなくレナートは祝宴を心から楽しんでいる様な笑顔を張り付けたまま、さりげなくハサルに近寄り、その肩を僅かに強く叩く。



「……なんだ」


ハサルの声が硬質な響きを伴う。
これは気にかけている女性が別の男に口説かれているのを見ていたから不愉快になった男の声……ではない。
“仕事”があるかもしれないと緊張を抱き、意識を刃の様に研ぎ澄ましたときにでる声だ。



「見えるか?」


レナートが顎をしゃくるとそこには変わらず「犬」が居る。
真っ赤な瞳は炎を通り越し、血だまりの様になっている。その中にある光は明らかに狂気に属するものだ。
ハサルは一見時は何も見えなかったらしい。だがレナートがこういった事で冗談を言う男ではないと知っているからこそ、彼は更に意識を研ぎ澄ます。


「あれは……」


次は見えたらしい彼は思わずここが宴の場だというのに言葉を零してしまう。
ハサルの顔が僅かに驚愕に歪む。ここまでハサルが驚きを露わにするのは珍しい。


「お前の方がああいった手合いには詳しいだろう。サカの教えの中にああいうものは居たか?」


「俺はシャーマンではない。だが……この硫黄の匂い、夥しい血、腐臭……おぞましいものだ」


ちらっと見ればマデリンは未だにブランと話を続けていた。
周囲の従者や料理人たちは忙しく動き回り、キアランの兵たちは皆々料理や酒に舌鼓を打っている。
正に華やかな舞踏会。あらゆる灯りを詰め込んだ光の世界からほんの数歩離れた闇と光の境界線の中に黒犬は存在し、光をねめつけている。


憎しみ。あの黒犬が何なのかは判らないが、ハサルとレナートはそれだけは判った。
とんでもない憎悪をあの存在は発している。そしてよく見れば黒犬の奥……柱の裏側では訳の分からないナニカが蠢いている。
ズズズズズと闇魔道の【ミィル】に類似した黒い枝が柱から漏れ出ている。


いや、あれは枝ではない。毛だ。
ボサボサで縮れていて、赤黒い何かに塗れた夥しい量の髪の毛が柱の裏側よりこぼれ出ている。


犬が真っ赤な眼を動かす。
レナートとハサルに気が付いたのか、首を僅かに動かして視線を交差させ、二人を品定めする様に瞳を輝かせた。
そして唸る様に顎と喉を震わせ、ゆっくりと柱の陰に犬は頭を引っ込めた。


音もなく全てが消える。
柱の影より溢れていた髪の毛も、その奥に座していた犬の主と思わしき存在も。
しかし二人はまだ安心してはいない。


何も終わっていない。姿が消えただけであの犬は近くに潜んでいると確信しているからだ。
事実周囲を覆う不穏な気配は全く薄まっていない。


レナートは腰に挿した短刀に手を掛けながら、そそくさと人目を避けるように気を付けつつ先ほどまで犬がいた柱に歩み寄り、その裏を覗き込む。
案の定そこには誰もいない。ただ僅かに床が濡れているだけだ。泥の様な濁った水たまりがそこにあるだけ。
そして確かにハサルが語った通り、鼻をつく異臭が微かに残っている。


彼は気を抜かず振り返ると、未だ大勢の人で賑わう大広間の隅々まで視線を走らせた。
今の所はどの柱の影にも犬はいない。今はまだ。


レナートとハサルには確信があった。必ず何かが起きると。
まだまだ宴は始まったばかり、夜は長いのだ。
一瞬も気の抜けない戦いが始まった。












天の月が中天より西に傾く。
夜空にはいつの間にか多くの雲が現れ、星々を覆い隠していく。
そんな中、アラフェンの宴の熱は最高潮に達していた。


もてなされる側である多くのキアラン兵士達は酔いに酔っていた。
彼らは潰れてこそはいないものの、ほぼ全員がふらついた足取りで更に多くの酒や料理を腹に詰め込んでいく。
中には気の合うアラフェンの兵士と肩を組み、歌を歌っている者、男同士で踊りを披露するもの、主君であるブランとマデリンのすばらしさを交互に語り合うものたちもいた。


ハサルの部下であるサカの民たちもキアランの者達ほどではないものの、やはり酒に酔ってはいた。
リキア名物の強力な蒸留酒は強靭な意思を持つサカの民たちの理性さえも溶かしてしまう破壊力がある。


そんな部下たちをレナートとハサルは致し方ないと思ってみていた。
彼らとて人間だ。ここ数日、一度たりとて精神的にも肉体的にも十分な休みは取れなかった。
更にはあの村での不可思議な出来事に、もっと遡るならばコミンテルンとの戦いとの疲れもあったのだろう。



多くの疲労が溜まっていたのは想像するに容易い。
マデリンを無事にアラフェンに届けた、という達成感が彼らの中の緊張を微かに緩め、そこにこの宴だ。
警備の仕事はアラフェンの勇者であるブレンダンが行い、更にはマデリン自身が休んでも構わないと命令したというのも大きい。


こうなってしまっても仕方がないと二人は考えていた。
そして、これも予想の範囲内であった。


「どうしたの、ハサル?」


余り酒に強くはなかったらしいブランが休憩の為に自室に戻ったのを見計らい、マデリンがハサルに歩み寄る。
僅かに赤みのかかった顔はまるで新鮮な果物の様に瑞々しい。


いうべきかどうかとハサルは悩んだ。
ただでさえ今の彼女は色々と負荷がかかっている状態だ。
そんな彼女に更に懸念を伝えるべきかと。


しかも相手は人間とは思えないおぞましいナニカだ。
人の暗殺者に狙われるならばまだ判る。
だが、理解に苦しむ異形に敵意を向けられるなど、どんな人物であっても心は揺れるだろう。


「……嫌な予感がする。一人で行動するのだけは避けろ。絶対に俺の眼の届くところに居ろ」


何とかかみ砕いて絞り出した言葉。マデリンはそれに笑って答えた。


「判ったわ。私の勇者様」



判ったならば良いと背を向けてまた周囲に気をやるハサルを見ながらマデリンは口内で零した。

隠し事が下手な人ね、と。









レナートがその違和に気付いたのはある意味必然だったのかもしれない。
彼はこの宴の参列者の中で最も死に深く関わっている男だ。
夥しい数の死を見てきた彼だからこそ、やはり彼が一番最初に気が付いた。



灯りが明らかに減っている。
人の数が減っている。
アラフェンの従者が何人か消えている。


それだけならば、交代制で何人かは休みに入ったのかもしれないとレナートは思っただろう。
だから彼は暫く行きかう人々を観察していた。
何人かの従者に目を付け、気付かれない範囲で監視をしていた。


その内の複数人はもう居なくなってしまったが。
消えた彼らは彼らはまるで主に呼び出された給仕の様に何もない所に顔を唐突に向け、にっこりと笑顔を振りまき、しっかりとした足取りで誰もいないであろう廊下の曲がり角や
個室に向かっていき、そのまま消えた。


後を追ったレナートが直ぐに確認しても誰もそこにはいない。
何処にも隠れる場所や窓などの脱出経路などなく、その手の経験豊富なレナートが調べても争った跡などはない。


消えたのだ。
そしておそらくもう戻ってくることはない。
これ以上はやめておくべきだと彼は決めた。


すぐに彼はハサルに相談することにした。
見えない驚異は間近まで迫り始めている。
マデリンに何もかも伝えてこの会場から避難してもらう事も既に頭の中に浮かび始めていた。

ブランの面目を丸つぶれにしてしまうかもしれないが、彼女の安全を考えればそれが一番だ。
その後は力のある司祭や僧侶……出来れば光魔法が使える者が望ましい……に援助を求めるべきだと。


足元を見ながら思考を回していた彼が顔を上げると目の前には「顔」があった。
しかし息を呑む間もなく直ぐに「顔」は消えた。
一瞬過ぎてどのような顔だったかは判らなかったが、少なくとも見知らぬ誰かの……いつも彼にまとわりついていた「友」とは別人の「顔」だ。


ますますもってこれはまずいとレナートは判断した。
もはや猶予はない。ナニカが来る。決してよくないナニカが。


見れば、ハサルはやはりマデリンから数歩離れた場所に立っており、彼女からワインで満たされた盃を受け取っている所であった。
そんな彼にレナートは務めて世間話でもするような調子で声を掛けようとして……。


……突如、全ての光が消えてなくなった。闇が場を飲み込む。
一瞬の静寂。そして現状を理解した全ての参加者の間にざわめきが広がっていく。
この突然の出来事もアラフェン候の仕込んだサプライズの前触れではと思ったものが多かったのだ。



しかしそんな涙ぐましい前向きな思考は直ぐに失われてしまう。
暗闇の中で響いたのはおぞましい幾つもの犬の唸り声、食器やテーブルをひっくり返したような音、そして、そして……ハ、ハ、ハ、ハ、と断続的に響くナニカの生臭い吐息と、硫黄の匂い。
ギチギチと音を立てて何かが千切れ、誰かの苦痛に満ちた悲鳴があがった。


適度な……そう、体温程度の温かさをもった新鮮な液体が周囲にばら撒かれ、強烈な匂いが多くの人々の鼻孔を抉った。
彼らの多くは兵士で、命のやり取りを生業にしていた故にこの液体が何なのか気が付いてしまう。



これは血だ。


びちゃり。ぐちゃ。ごきっ。


それは肉を解体する様な音であった。
巨大な鉈で肉を骨ごと砕いて切り刻んでいる様な音。
暗黒の中で更に深い者らが蠢いている。



暗闇の中、レナートは走り出していた。
光が消える直前に見た、ハサルとマデリンの位置を頼りに、一直線に。
何人かを突き飛ばし、テーブルを乗り越え、食器をぶちまけながら彼はハサルと思わしき者の腕を掴んだ。



「暗闇の中に何かが居る。お前はマデリン様を連れて早くこの場から逃げろ」


心臓の鼓動を抑えながら努めて冷静にレナートは言い放ち、直ぐに灯りを灯すために動き出そうとするが……二の腕を掴み返される。
恐ろしいまでの力であった。常人より遥かに頑強な彼の肉体が軋みを上げる程に握りしめられ、身体ごと引っ張られそうになる。
明らかにハサルのものではない長い爪がめり込み、生暖かい液体が服にしみ込む。


「っ!!」


違う。こいつは違う。
咄嗟にレナートは腰に挿していたナイフをこの何者かの腕に突き立て、抉る様に左右に捻ってやる。
だというのに、この「腕」は痙攣も何もせず、益々強く握力を込めていく。


「ぐっ……!」


何度も何度もナイフを突き刺し続けて必死に抵抗を続けるが「腕」は堪えた様子もなく、闇の奥へとレナートを引きずり込まんとする。
もしもこのまま引っ張り込まれたら、間違いなく死ぬとレナートは直感していた。
いや、死ぬだけならばまだ慈悲がある。下手をすれば死ぬより恐ろしい事になる。


目前に迫った「死」をレナートは微かに拒絶していた。
あれだけ死んでも構わないと何処かで考え、戦場でもそれを求めてさえいた彼が。


硫黄の匂い。そして腐臭が彼を包み込む。
天地の感覚がなくなり、自分が今どこに立っているのかさえ判らない程に全てが狂っていく。
闇に全てが溶けていく。自分と別の存在の境界が朧になり、「レナート」という存在が拡散する。


───これで終わりか。呆気ないものだな。


ふと頭の中でよぎった感情に身を任せそうになった瞬間、聞きなれた声が耳朶を叩いた。
とてもうるさく、こんな場だというのに活力と覇気に満ちた正者の声だ。


「レナート先生!!」



完全な暗闇の中でも判るほどの巨体が風切り音と共にレナートに突っ込み、宙を舞わせる。
真っ暗な視界ではあるが、グルグルと回る。
余りの衝撃に「腕」は剥がれ落ち、レナートは床に虫けらの様にたたきつけられた。


身じろぎするとあらゆる箇所が軋む。
痛くてたまらないが、それでも彼は鍛え上げられた忍耐を駆使して跳ねる様に起き上がる。
そして湧き上がる感情に任せて生を謳歌するように叫ぶ。


「少しは加減を考えろ! お前の体当たりの方が効いたぞ!!」


半ば笑い声が混ざった叫びだった。
真っすぐ過ぎる自分の弟子へ自分の生存を伝える声でもある。
そして叩けば鳴る銅鑼の様に更に大きな声が闇を震わせながら帰って来る。


「失礼しました!!  少々酔っていて力加減が難しく……!!」


ふん、っという掛け声と共に細枝が折れたような軽い音が響く。
続いてギャリギャリという石突か何かを擦る音。そしてから唐突に小さな灯りが闇の中で浮かび上がった。


灯り……蝋燭の炎に照らし出されたのはワレスの顔。
彼は何時もと変わらず真っ直ぐに前を向いていた。
直ぐにワレスは折ったテーブルの足に布を巻き付け、火を移して即席のトーチを作る。



トーチをレナートに投げ渡したワレスは持ってきていた銀の剣を床を滑らせてレナートの足元に送り込み、自らは銀の槍で武装する。
どちらも旅の前にハウゼンに支給されたピカピカの武器だ。
……いや違う、ワレスの槍は石突の部分が真っ赤に赤熱していて新品とは言えなくなっている。


「敵の数は不明だ。武装も……いや、そんな馬鹿なとは思うかもしれないが、人とは言えないかもしれない」


「それこそなんのそのです! これでも私は、森の中でクマとじゃれ合った事もありましてですな!!」



違う、そうじゃないとレナートは声に出しそうになったが、一々修正するのも面倒だと思い直す。
こういう場面ではむしろワレスの底抜けに前向きな気質は非常に心強かった。


「フンッッッ!!」


室内で暗所という二重の枷がありながら、ワレスは片手で器用にも大振りで槍を横に薙ぐ。
この大男は一切の躊躇いを見せず、自らの背後を取ろうとしていた害意をもつナニカに刃を叩き込むと手応えを噛みしめる様に槍を握り直す。


「ふーむ……何とも言えませんな! 殺気だけは一人前の癖に、余りに動きがとろい!!」


更に一発、トーチでも照らせない程に深すぎる闇の中に刃を突き刺すと、くぐもった悲鳴が漏れる。
引き抜いた刃にびっしりとこびり付いていたのは真っ赤な血ではな、腐汁だ。
それを見てもワレスは顔色一つ変えずにふんっと鼻息を漏らすだけであった。


「まずは周囲に灯りを戻すぞ。この暗闇はどうにも普通じゃない」


レナートが背後から感じた気配に銀の剣を一閃すると、暗闇で蠢くナニカが怯んだ気配を発する。
先ほどはあれほどナイフで滅多刺しにても全く力を緩めなかったというのに。
銀か、とレナートは直感した。信心深い方ではなかったが、それでも銀がこのナニカにとって効果があるのは確かだと。


レナートとワレスは示し合わせたように背中合わせとなり、威嚇するようにトーチを振り回していた。
人間の腕程の大きさはあるトーチならば普通ならばこのホール全体を照らせるはずなのに、余りに濃すぎる闇は僅かにしか後退しない。
そもそも自分が今いる場所は本当にアラフェン城なのかさえレナートには判らなかった。


あれだけ多くの人が居て賑わっていたというのに、闇の中からは少なくともまともな人間の声は全くしない。
聞こえるのは獣の唸り声、ナニカが滴る音、こひゅーこひゅーという不気味な呼吸音。


「っっっ!!」


視界の隅、暗闇から音もなく伸びてきた「腕」をレナートは切りつける。
刃が通った瞬間「腕」は生きた人間には不可能な程に痙攣し、4回、5回と明らかに関節の数よりも多く折りたたまれながら闇の中に消えていく。


次に左、右、足元、あらゆる所に「腕」が伸びてくる。
爪が剥がれ、皮膚がぐじゅぐじゅに腐った「腕」が何本も何本も。
その全てをレナートとワレスは撃退し続け、隙を見計らっては周囲に散乱したテーブル掛けなどの燃えやすいモノを一か所に蹴りで纏めてからトーチを投げ入れる。



簡易的な焚火が灯され、光が薄っすらホール全体を満たすと「腕」たちは闇の中より決して出てこようとはしなくなり、闇の中で狂ったようにその影だけがのたうち回る。
ぐねぐねと骨がなくなったように暴れまわっていた腕たちは、なおも諦めずレナートとワレスを取り囲み消えようとはしない。
その動きからはけた外れの殺意と何らかの……目的さえも感じ取れる。


そして微かとは言え見渡せるようになったホールの中にはハサルとマデリンの姿はなく、床には多くの参加者たちが倒れていた。


目的……ここでレナートは気が付く。そもそも最初の「犬」は誰を見ていた?
彼の顔が苦々しく歪み、怒りと焦りが同時に吹き出す。
直ぐに感情を処理し、冷静に状況をかみ砕くと、ワレスにそれを伝える。



「マデリン様とアラフェン候……狙いは恐らくあの二人だ……!」


おぞましい「黒犬」の話、前兆にあった事をかいつまんでワレスに伝えると、彼は直ぐに迷わず答えた。


「ならば我々はまずアラフェン候をお助けしましょうぞ! マデリン様にはハサルの奴がついております!」


主君よりもアラフェン候の救助を進言するワレスの眼には信頼がある。
例え何を相手にしようと、ハサルならば大丈夫だと。
対してアラフェン候は今は無防備だ、酒に酔って自室に戻ったきりで、最も信頼するブレンダンは城の警備に回ってしまっている。


そして相手は人の常識の外にいるナニカだ。
歴戦のレナートでさえワレスが居なければ危うかった化物であり、前知識もなく突然に襲われたら死は免れない。

もしもキアランとアラフェンの友好を願う宴でブランが死んでしまったらどうなる?
リキア第二位の経済を誇る領土を統べる彼が殺されてしまったら?
間違いなくそれはキアランへの不利益となる。


そしてこの城の兵士たちの指揮権を握っているのも彼だ。
彼を助け出し、状況を理解してもらえば一気にこのアラフェンの全てを総動員してマデリンとハサルを助けることができる。
それはたった二人で何処に逃げたか判らない彼女たちを探すよりも遥かに効率がよい。


ブランの自室の位置については問題ない。
レナートもワレスも、アラフェン城の構造は既に把握していた。



「アラフェン候の部屋まで走り抜けるぞ。行く先々で消えてる燭台があれば火を付けながら行く」


「ふはははははははは! 先鋒はお任せください! 進軍突撃はアーマーナイトの華!!」


右手に槍、左手に新しく作ったトーチを掲げたワレスは何時もと変わらぬ調子で「腕」が蠢く暗闇の中に飛び込む。
ズドン、という馬車同士が衝突した様な音と衝撃がホールを揺らし、無数の「腕」がワレスに伸びる。


「温い! 温い!! 温いぞ!!! 顔も見せられぬ臆病者共にこのワレスを止められるかァっっ!!」


だがワレスは止まらない。
彼はまとわりついてくる「腕」を片端から叩き落とし、ねじ伏せ、闘牛の如く全てを薙ぎ払う。
槍が闇をかき混ぜ、トーチの灯りが闇を押しのけ路を作り、あっという間にホールから脱出する。



廊下には一定の距離ごとに壁に火の消えた燭台が配置されており、その一つ一つにレナート達は火を灯し安全を確保していく。


────レナート、レナート、レナート、こっちです。助けてください。
────血が、血が止まらないのです……こっちに来てお願い、助けて。



不意に背後の暗闇より聞こえたのはマデリンの声だ。
苦痛に満ち、縋る様に絞り出される声は普段の彼女からはとても想像できない程である。
だがレナートは振り返らない。ここに彼女が居るわけがないからだ。


実に下らない。子供だましのおとぎ話の中にでも帰っていろとレナートは内心吐き捨てた。



───助けて、助けて、貴方はお父様より勲章を賜った勇者のはずです、少しだけでいいのです、こっちを見て。
───意気地なし、意気地なし! 何が勇者ですか! 貴方はただの臆病者です!! どうして、どうして、どうして!!



声に怒気が混ざり始めたのを聞きながら、随分と早くボロを出したなとレナートは冷静に考える。
自分のほんの少し後ろを大勢の誰か……いや、ナニカが足音を立ててついて来ているのを彼は感じ取っていた。
念のためワレスを見れば、彼は前しか見ていない。後ろからの声など全く入っていない。



無害な騒音を適当に聞き流しながら二人は歩く。
最も一人は時折暗闇から伸びてくる「腕」を捻りあげては闇の中に放り返しているのだが。
既に「腕」の主たちは力づくでは無理だと悟ったのか、先ほどの様に群がって来る事はなくなっていた。



その代わりに、背中にピタッと張り付くほど……それこそ息遣いを感じる程近くに形のない「誰か」が居座る様になったが、今の所は先ほどの「腕」ほど害はない。
ただ、ひたすらしつこく名前を呼んで振り向かせようとしてくるだけだ。
まるで売れない大道芸人がなりふり構わない様を見せているようだなとレナートは嘲った。


裏拳の一発でもかましてやれば少しは大人しくなるか? と彼が考え始めた頃に二人は丁度良くブランの部屋の前に到着していた。
やはりというべきか、本来は周囲を警固しているはずであろう兵士が誰もいない。これは明らかに異常な事であった。
ワレスの隣に並んだレナートは彼に頷きかけた。



ノックをして扉の奥に声をかけて僅かに待つが返事はない。仕方ないとレナートが目配せをする。
ワレスの拳が炸裂し、金属で補強されていた筈の扉は木の葉の様に吹き飛んだ。


レナートを先導に二人が部屋に足を踏み入れた瞬間、物陰より何者かが飛び掛かる。
暗闇の中でよく見えないが、手には長剣の様なモノを持っていた。
咄嗟に迎撃しようと覇気を漲らせる弟子をレナートは片手で制し、人影に大声で呼びかける。



「我々です! キアランのレナートとワレスです!」



「ッ! なん、だ……貴様たちか」



人影……この部屋の主であるブランはトーチに照らし出された二人の顔を見て安堵したようであった。
見事な装飾の施された銀の剣を鞘に納めると、彼は怪訝な顔をする。


「貴様らは……いや、このような事を問うのはどうかと思うが……本物か?」


「はい。こちらが証拠になります。ブラン様、貴方を助けに参りました」


どうやら彼もこの異変に巻き込まれているらしく、その眼には明らかな警戒と怯えがあった。
一々説明する手間が省けたと胸中で喜びながらも、レナートは証拠としてローラン勲章を掲げて照らし出す。
精密にして美麗なそれは複製困難な一品であり、身分証にも等しい価値を持つ。



完全な身の証にはならないが、ブランがもしも変装した暗殺者を警戒しているならば多少は警戒を緩める要因になるだろう。
予想通りブランはため息を吐いて僅かばかりの緊張を逃がしたようであった。


「まぁ良い……それで“アレ”は何だ……?」


「刺客が多数城に潜り込んでおります。
 変声の技術などを駆使し、従者の中にも誘い出された犠牲者が」


違う、とブランがレナートの言葉を遮る。
僅かに震えている声には怒りと焦りが混ざっていた。


「私を馬鹿にしているのか? ……聞きたいのはそんなことではない、私の城に“ナニ”が入り込んだかを聞いているのだ……! 下らない脚色はやめろ。ありのままの事実を話せ……!!」



「……見たのですね」


あぁ、とブランは力なく項垂れた。
本来寛ぐ場であるはずの自室で抜刀し、まるで子供の様に闇夜を警戒していた彼はカーテンを閉め切った窓を指差した。
窓の先にはバルコニーなどはなく、あるのは断崖絶壁のみのはず。



「あの窓だ。あそこから人に近い姿をしたナニカが逆さづりの状態で私をずっと見ていたのだ。
 時には父の声で、母の声で、子供の声で、私をずっと呼んでいた……何なのだあれは!」


うんざりだとブランは零す。
貴族として暗殺を常に警戒するのは当然だが、意味不明の存在にひたすら呼ばれ続けるのは耐えがたい苦痛であったらしい。


「判りません。しかしどうやらアレらは光を嫌うようです。我々は宴の席からここまで通路にある全ての燭台に火を灯し、退けてきました」


淡々と対処法に聞き入っていたブランが唐突に眼を見開き、レナートを指さした。
ブランの指の先を視点で追ったレナートが自らの左肩に目を向ければそこには誰かの「手」が乗っていた。
隣にはワレス、前方にブランが居る現状では背後には誰もいないはずだというのに。


無言でレナートは振り返らず、手に持ったトーチで背後をつついた。
「手」が痙攣し全ての指の関節を逆向きに曲げながら闇の中に消えた。
何事もなかったかのようにレナートは言葉を続ける。


「至急ブレンダン殿に連絡を取り全てのまだ健在の兵士たちに灯りを絶やさない様に令を発してください。
 恐らく日の出まで耐えれば我々の勝利です。後は光魔法を使えるエリミーヌ教団のお知り合いなどがおればより良いかと」


顔面を蒼白にするブランにレナートは極めて落ち着いた口調で提案を行う。
彼とて内心は穏やかではない。生きている暗殺者の相手は出来ても、既に死んでいるであろう化物の相手など初めての経験なのだから。
しかしここで彼が混乱してしまえばそれは敗北に直結する。


レナートはあの醜い化物たちの一部として永遠にエレブを彷徨うなどまっぴらごめんであった。
そして、と最後のダメ押しとしてレナートはブランの心に火が付くであろう言葉を切る事にした。
もしかしたら怒らせるかもしれないが、このまま怯え続けられるよりはマシだ。


「最後に。我々の主君、マデリン様はハサルと共に行方不明となりました……なにとぞ、お力添えを」


その言葉にブランの眼の色が変わったことを見出し、レナートは内心でほくそ笑んだ。














ハサルとマデリンは自分たちが今どこにいるかさえ判ってはいなかった。
全ては刹那の出来事であった。灯りが消え、足元の感覚さえ消えたと思った瞬間、ハサルは咄嗟にマデリンの腕を掴み……そして二人は纏めて“飛んだ”のだ。
飛んだ先の周囲にあるのは木々。月明かりさえ途絶えたここは何処かの森の中らしかった。


夜の森というのは畏怖と死に満ちている。
一切の灯りを排したここは正真正銘“深淵”と評するに相応しい。


「……無事か?」


決して離さなかった腕を手繰り寄せ、ハサルはマデリンを確認する。
周囲の闇は濃かったが、草原の民として特殊な訓練を受けた事もある彼の眼は既に闇に順応しており、問題なくマデリンの顔を見る事が出来た。
逆にマデリンはハサルの顔ははっきりと見れていないらしく、不安げに周囲に視線を彷徨わせている。


「私は大丈夫。でも……ここはどこかしら? アラフェン城ではないみたいだけど……どこかの森……?」


不安はあるもののマデリンは努めて冷静であった。
余り魔道士を抱えてはいないキアランでは縁の薄い魔道に属する体験の中であっても取り乱すことなく現状の把握に努めている。


「俺から離れるな」


ハサルは自らの衣服の一部を破り去り、簡易的な縄を作るとそれを自分に結び付け、もう片側をマデリンに握りしめさせた。


「これを手離すな。たとえ俺がもう離していいと言っても絶対にだ」


「……わかったわ」


ただならぬ様子のハサルにマデリンは頷く。薄々彼女も現状の異常さに気が付き始めていた。
暗殺者が自分の身を狙い、何らかの術などを用いて自分をここに飛ばしたのならば何故直ぐに襲わない?
送った後に複数の手練れや罠や毒などを撒いておけば簡単に片が付くだろうに。


幾らハサルが強かろうと一人では限界がある。
自分の様な足手まといを庇いながら幾つもの罠や刺客を相手に防衛戦など困難極まりない、と。


しかし実際は今の所は何もない。
あるのは完全な静けさ……動物はおろか虫の声さえ聞こえない。
いや……よく耳を澄ませば多くの囁きの様なモノが何処からか流れてきている。


余りに小さ過ぎて意識していても聞き逃してしまいそうな妙な「音」だ。


「ハサル、サカの民としての貴方に問います。何か“声”は聞こえますか?」


サカの民は風の声を聴き、大地の唸りに耳を澄まし、水の歌を拝聴できるとマデリンは聞き及んでいた。
実際はただのたとえ話かもしれないが、それを差し引いてもハサルの耳はとてもよい。
周囲に何かいれば直ぐに気が付くだろう。


しかし彼は顔を強張らせるだけで質問には何も答えない。
油断を完全に捨て去った臨戦態勢で言い聞かせるように念を押した。



「そんなことは気にするな。今は縄を握りしめる事にだけ気を回せ。……離したら死ぬと考えろ」


「そう、ね……全て貴方に委ねます」


ごちゃごちゃと考えることをマデリンはやめた。
死ぬとまで断ずるハサルを見て、今の状況が自分の想像より遥かに悪いモノなのだろうと悟ったのだ。



──っ──ぃ──ぃ。



「音」が徐々に大きくなる。
そしてマデリンは気が付いた。これは呼び声だと。
大勢の掠れた声が大合唱をして、自分たちを呼んでいる。


ハサルが懐に隠していた銀の剣を抜き去る。
未だ使われたことがない刀身は美しく輝くが、濃すぎる闇の中では光は吸収されマデリンにはハサルが何かを取り出した、程度にしか見えない。


闇の中をハサルは歩き出す。
そして彼は眼を瞑っていた。闇は深まる一方で、既に彼の眼を以てしても隣にいるマデリンの顔さえ満足に見えない状況だ。
開いていても閉じていても黒しか映らないのならば、眼は必要ない。


視力に回していた全ての集中を他の部分に彼は回す。
匂い、音、触感、直感などに。そして頭に入って来る全てが最大の危機を警告していた。



─こぃ──こぃ──こぃ──こぃ─こぃ─こぃ─こぃ。




一定の間隔でひたすら繰り返されるのは呼び声だ。
マデリンはよく聞こえていないらしいが、ハサルは心からこんなものを彼女が聞かなくて済んでよかったと思っている。
感情も抑揚もなく、死人の様な冷たい声がひたすら誘ってくるなど悪夢でしかない。



ハサルは音のする方向とは違う方角に進む。
足音が響く。1つ2つ……3つ。


「ハサル……っ」


気付いてしまったマデリンが縄を強く握りしめれば、ハサルは己の中の恐怖が和らぐのを感じた。
誰であろうと関係ない、自分は彼女を守ると決意を新たにし……何かを踏んづけた。



とても柔らかく、適度に足を押し返してくるそれは岩や土の類ではない。
一度足を止めてから何度か足踏みをしてそれを確認する。
僅かにゴツゴツしたものが中にあって、表面は柔らかにソレはどうやら4本の枝の様なモノを伸ばしている様であった……。



まさか、と思い目を開けてみればハサルの事をソレは見返した。
暗がりの中であってもそれだけは不自然なまでにはっきりと見えてしまった。
瞬きのない瞳、固まり始めた全身、上下しない胸───それは死体だった。



それもただの死体ではない。“ハサル”の死体だ。
彼が死んでいた。その眼は苦痛に満ち、全身は泥と血で汚れている。
胴体より切り離された頭だけがハサルを見上げていた。


真っ赤な光が炸裂する。吹き上がるのは炎と悲鳴と死。


水。毒。死。駆ける馬。


闇が一転して真っ赤な夕焼けに染まる。
現れた光景にマデリンが息を呑み、ハサルが驚愕する。
死だ、あらゆる死がここに満ちている。



転がるのは夥しい数の死体、死体、死体───その顔は全てハサルとマデリンであった。
どれもこれも苦痛に満ちた表情をして虚空をねめつけている。
“お前たちの未来などこんなものだ”と何処からか嘲りがきこえた。



それでもハサルは止まらない。
呆然としそうになるマデリンの意識を縄を引っ張る事によって呼び戻し、死体を出来るだけ避けながら進みだす。
幾つか自分の顔を踏んでしまったが、マデリンだけは絶対に彼は踏まない。



────いかないでくれ。いかないでくれ。いかないで。いかないで。だめだ、やめてくれ。



うめき声が背後より聞こえる。自分の声で、マデリンの声で。
そっちに行ってはいけない。破滅しかないと忠告する声が。


「っっっ……!」


「………」


縄を握る手に力が篭る。返すようにハサルもまた縄を素手で掴み自分はここにいると無言で伝えた。
震えながらもマデリンもハサルも決して振り返ろうとはしない。
もしもそんなことをしたらその瞬間に何かが終わると確信していたから。



真っ赤な世界を抜け、再び周囲は闇に閉ざされる。
視界の奥の奥……果てに微かに見える灯りを目指して二人は進んでいた。
どれだけ進んでも果てなどないと思える深淵ではあったが、出口は確かにそこにあった。




─────って……まっ……い……な、ま……、やめろ……。


光に近づくにつれ背後より聞こえる声が小さくなる。
もうあとわずかで光に手が届く。


───一いかないでくれ……。


不意に聞こえたしゃがれ声にマデリンが足を止める。
彼女の知っているそれより少し枯れてはいるが、紛れもなくその声はハウゼンのものであった。


───マデリン、どうして……許しておくれ……。


慙愧に満ちた声で許しを請う父の声にマデリンは後ろ髪を引かれる。
ただの惑わしという言葉で片づけるにはこの声は余りに現実味があり過ぎた。


そしてマデリンは父を愛している。
全く弱みを見せず、母の分まで愛情を込めてくれたハウゼンを愛しているのだ。
そんな父が……例え偽物であろうとも悲しんでいるというならば駆け寄って悲しまないでと言ってあげたくてしょうがない。



「俺を信じろ」



思わず振り返りそうになったマデリンにハサルが声をかける。
一瞬でマデリンは自分が今何をしようとしていたか理解し、背筋が凍った。
なおも背後より絶えず聞こえてくる父の声にマデリンは胸中で呟いた。



“ごめんなさい。お父様……さようなら¨と。












闇の中を抜け、無事に灯りにたどり着いた二人を歓迎したのは完全武装したアラフェンとキアランの兵士達であった。
付近には所狭しと言わんばかりにトーチが掲げられ、徹底的に闇を排除し灯りに満ちた陣地を彼らは設営している。
その中を完全武装したレナートとワレス、そしてブランが闊歩し二人に近づく。



「マデリンど……」


の、とはブランは続けられなかった。
マデリンとハサルの姿を見た彼の顔はあっという間に青ざめる。
どうしたのだろうか? と首をかしげるマデリンにレナートが手鏡を渡し、彼女はそこに映った自分の顔に仰天することになる。



端的に言ってしまえば彼女とハサルは血まみれであった。
髪の先よりつま先まで体の前面は血の雨でも浴びた様に真っ赤。
そして背後は……真っ赤な手跡が大小関係なくビッチりと埋め尽くしている。


子供のモノから大人のモノ、大きすぎるモノもあれば赤子のソレよりも小さな痕もある。
マデリンは息を吐いた。ハサルも同調しため息を吐く。
折角の晴れ着が台無しだと。


「お怪我は無いですか?」


レナートがマデリンに言うと、彼女は自らの身体を隅々まで撫でまわし確認した後に「ないわ」と断言した。
ブランが安堵したように脱力すると、彼は従者に湯浴みの準備を進める様に言い渡し、マデリンに従者を数名付けてから、たった今マデリンとハサルが出てきた森の入り口を見た。


「夜が明けてから兵士を派遣して森の中を探索するべきか?」


それはブランにとって独り言にも近しい言葉であったが、それに答えたのは彼の隣の法衣を身に着けた男性であった。
コミンテルンとの戦後エトルリアのエリミーヌ教団から派遣され、アラフェンにて信者たちへの説法を行っていた彼の名前はヨーデルという。


「それはなりません。ここから先は死者の世。
 例え日が昇っていようと、危険な事には変わりはありません。暫くは決して何人たりとも近づけないように令を徹底させてください。」


「ただ封鎖するだけか?」


ブランの疑問は最もなモノであった。ハサルとマデリンが引きずり込まれた森はアラフェン城の目と鼻の先だ。
彼からしてみれば、自分の居城の隣に理解不能な異形の巣窟があるなど考えたくもないのだろう。


「教団に応援を頼んでみましょう。報われぬ者らを聖女様の御許に旅立たせるのも我らが務めです……」



今はそれでいいと納得するブランにマデリンが声をかけた。



「ブラン様、お城の方ではあの後どうなったのです?」



自分とハサルが引き込まれた後、アラフェン城の会場の方はどうなったかとマデリンが問う。
ブランは曖昧な微笑みを浮かべながら答えた。


「城の方にも賊……コミンテルンの残党が侵入していたのですよ。
 しかしそう言った輩はブレンダンがしっかりと全てを捕らえてくれましたのでもう安心です」


半分は事実だ。化物の騒ぎに乗じてコミンテルンの残党が城に潜入していてその全てがブレンダンに捕らえられたのは。
もう半分は……ブランとしては語りたくないのだろう。
自分の城によりにもよって化け物が出たなどさっさと忘れてしまいたいに決まっている。


捕縛した残党に軽い尋問を行ったが、やはりというべきか誰もあの化け物の事など知らないという。
むしろ彼らとしてはまだ自分たちが事を起こす前に何故ここまで城が騒ぎ立っているのかさえ判らなかったそうだ。



話はここまでだと踵を返すブランをマデリンは見送り、その隣にハサルが立つ。
そんな二人をレナートは無感情な眼で見ていた。
























明け方。騒ぎも収まり、地平より太陽が昇り始めた時間帯。
レナートは一人でハサルとマデリンが引き込まれた無音の森の中を闊歩していた。
武器は銀の剣一本だけ。鎧も何もつけずこんな場所を歩くなど本来は自殺にも等しい。


明け方とはいえ天は枝で封鎖されているため、ここは言わば新緑の壺の底だ。
だが彼はそんなこと全く気にしない。むしろ自分はもう安全だという確信があった。
あいつらはもう襲ってはこない……否、襲ってこれないという。


「いるんだろう?」


やがて僅かに開けた場所に出ると、レナートは虚空に呼びかけた。
声は木々に吸収され……返答は当然の様に返された。


≪聞こえているよ。君が来るのは判っていた≫


音もなく幹の影より「顔」を覗かせるのは“影法師”だ。
相変わらず闇を湛えるだけで顔面など存在しない頭部をもち、黒い霧のローブを着込んだ異形である。
泥と闇を混ぜ合わせて作った不出来な人形の様なソレは見かけからは想像できない程に知的な声で話す。


「今回の騒動を仕組んだのはお前だな」


≪そうだ。彼らに機会を与えたのは私だ≫


予想通りの答えにレナートは動じることはなかった。
あの騒動は余りにも出来過ぎている。この人知を超えた化け物の関与を疑うのは当然だ。


「ならば何故忠告をした? 黙っていれば彼らの目的は達成できただろうに」


もしもこの異形がレナートに何の忠告も与えなかったら結果は明白だ。
一夜にしてアラフェンの当主と全ての宴の参加者は行方不明になり、後世にまで永遠の謎として語り継がれていただろう。



≪君に見せたかったからだよ≫


「何だと?」


影法師は背筋を伸ばし、非常に美しい姿勢でレナ―トの傍にまで歩み寄る。
仮にこの存在が元は人間だったとしたならば、非常に高い知性と社交性を併せ持つ魅力的な存在だったに違いない。



≪君が思っているほど“生きている”と“死んでいる”という状態の壁は厚くない。死してなおこの世に留まる方法があるのは判ったはずだ≫


「……アレらは醜かった。もしもお前が俺の願いを叶えたとしても───」


≪その心配は判る。友を呼び戻したとしても、腐った死体だったら誰もが激怒するだろう≫


レナ―トの脳裏にあるのは死してなお自らに幻想として付きまとう「友」の顔。
もしもあの顔そのままで黄泉がえりを成されたら……彼は耐えられそうにない。
そんな彼の心境を読んだかの様に影法師は優しく囁く。


≪私は詐欺師ではない。君の理想通りに全てを行おう。君がただ一つ、私に協力し……“神”のみに許された奇跡の模倣を手伝ってくれるならば≫



「……」


熟考するように沈黙したレナートを見て、異形は上機嫌そうに左右に揺れ、更に言葉の楔を彼に打ち込んでいく。


≪君の心が判るぞ。つまらない“常識”は捨てるべきだな。「死者は戻らない」  ……それは過ちだと今夜君は体験しただろう。
 死者からしてみても老衰の末の終わりならば受け入れられるだろう。だが、無作為な理不尽の果ての死など誰もが拒絶するに決まっている≫


このエレブにはそんな理不尽、命の収奪が多すぎると異形は吐き捨てた。
まるで今まで全ての理不尽と戦火を見て、体験してきたかのように。


≪考えて見るんだ。君が友に再び会いたいのは当然だろう。ならば……その「彼」は自らの復活の機会が訪れたことをどう思うのだろうね≫



「あいつが、どう思うか……?」


それはレナートにとって考えた事もない発想であった。
もしも死後のあいつにまだ自意識が残っていたならば、そして、もしも彼にとっての友である自分が蘇りのチャンスを掴もうとしていたならば、彼ならば何と言うか。



……………。



≪私は何時までも待とう。またキアランについた時にでも話をしようじゃないか≫


そう異形は続けてから周囲に意識を回す。途端に目に見えない“ナニカ”がざわめき立ち始める。
レナートにはそれが恐怖の悲鳴に聞こえた。クモの糸に囚われられた蝶が上げる絶望の声に。


≪機会は与えた。契約を履行させてもらうぞ≫


大きく腕を広げた異形に向けて無数のナニカが“落ちて”くる。
川が上流から下流に流れる様に、滝が下に落ちる様に、ナニカは異形には逆らうことは出来ず飲み込まれていく。
眼には見えないモノ……恐怖をばら撒いた者らに恐怖を与えながら影法師は飲み込んでいた。


瞬きする間もなく、森の中を覆っていた不穏な気配は全て消え去り、残るのは平穏な静寂のみ。
命の残照を飲み込んだ異形は手をこすり合わせてから、レナートに笑いかけた。


≪何も恐れる事はない。難しく思う事もない。ただ欲しいモノを欲しいと思うだけ。全ては単純な事だ≫


そうして異形は朝日から逃げる様に消え去った。
一人残されたレナートは暫し佇んでいたが、直ぐに歩みだし、そして誰もいなくなった。

























そして時は流れる。
エレブの歴史は血と涙と苦痛に彩られた歴史だ。
その内の一滴にとある男女が混ざる事になったとしても誰も気にも留めないだろう。


全ては些事だ。
身分違いの恋の果てに破滅と知りながら突き進んだ男女の話も。
自らの正しさを信じた結果男女を見逃した騎士の話も。
目障りな娘が消えた事によって自分にも支配者の座に付くチャンスが訪れたと歓喜するとある男の話も。



そして欲しいモノを願い、ようやく手に戻ってきたと確信を得た瞬間に「友」に拒絶され、再び眼前でその死にざまを見せつけられ、自身の思い上がりに気が付くことになった男の話も。




全ては等しくつまらない出来事であった。



















豪雨であった。
暴風が木々を薙ぎ、止むことなく轟く雷鳴は世界を幾度も白亜に染めては黒に塗り替えされる。
命を拒む嵐の闇夜の中、夜よりも濃い黒が立っていた。



黒……影法師は一軒の家を見ている。
嵐の轟音にかき消されて判りづらいが、その家からは悲鳴が絶えなかった。
破砕音、争いの音、食器が割れ、赤子が泣き叫ぶ。

魔法が発動され、命乞いの声が消え去り、家から一つの存在が転移の術で飛び出していくのを異形の眼は捉えていた。
転移の光の中にまだまだ生後間もない赤子が居る事も当然把握している。
だが彼はそんなモノに一切の興味を示さず、家の中から一人の女が出てくるまで微動だにしなかった。


『ご苦労。素晴らしい働きだ』


異形の口より言葉が出る。確かな音としての言葉が。
異形の顔の闇が凝固し、知的な男の顔を覗かせた。
顔……その顔は“右半分”だけであった。


左半分は……欠落している。
絶えず流動する闇が人の頭部らしき輪郭を作るだけで、そこに人の顔は存在しなかった。


「ありがたきお言葉です。────様。お望み通り、秘密をこの手に」


『ありがとう。これで我々の目的に大きく近づくことが出来る』


女……黒髪の妖艶な女は異形の前で跪き、狂信と愛情の入り混じった瞳で異形を見上げ、たった今入手した書物を異形に差し出す。
影法師は書物を受け取ると、女の手をとって立ち上がらせ血に塗れた手の甲にキスを落してやる。
それだけで女は歓喜で震えあがった。眼をギラギラと黄金色に輝かさせ、恋する少女の様に眦を潤ませた。



「あぁ! なんて、なんて事を……! お顔が汚れてしまいます……!」


『問題ない。お前は一度拠点に戻り、次の指示を待て。私はここの“後片付け”してから戻る』



影法師が振り返れば、いつの間にかそこには彼と同じ様ないで立ちの数体の異形達が立っていた。
闇を塗りこんだ様な黒染めで、ボロボロのローブ、生気の感じない異質な存在感。


そして、そして───頭部をすっぽりと覆い隠すのは竜と人の頭蓋骨を混ぜ合わせて作ったような巨大な仮面。
影法師の顔の左半分が変化する。異形達と同じような竜の骨を模したような巨大な仮面に。


『“片角”』


影法師がその名を呼べば、控える異形達の中でも最も大柄の異形が一歩前に踏み出る。
名前の通り被った仮面の角の一本が折れている異形は影法師の前に跪いた。
そんな様を女は軽蔑したように見て、影法師は信頼の篭った瞳を向ける。


『ここに。お望みを、長』


『あの家を焼き払え。全ての痕跡を消せ。誰にも見つかるな』


『お望みのままに。我らが偉大なる長よ』


『すべては貴方の御心のままに』


『すべては貴方の願いのために』


『すべては安息のために』


異形たちが一斉に傅き、心より称える。
まさしく彼らにとって影法師は神そのものであるのだろう。
そしてそれは影法師の隣に立つ女も同じであった。


彼女は本当に心苦しそうな顔を浮かべて、深く深く礼をした。


「偉大なる御方。では私はご指示通り拠点に向かいます」


光が女を包み瞬時に消える。
転移の術を用いて消えたのだ。


『さて、始めよう』


異形が手を大きく広げ、幾つもの術式を発動させた。
地面に複数の魔法陣が展開され、その数と同じだけの物体が取り寄せられる。


黒髪と金色の瞳の生気のない人形達。
骸の仮面を被り、死の匂いを濃く纏う異形達。
その数は合わせて20にも及ぶ。


言葉による指示を行うよりも早く20の人外らは散開する。
人間よりも遥かに優れた身体能力を披露し、雨風を跳ねのけながら縦横無尽に飛び回る。


次の瞬間、女が出てきた家屋は盛大な音を立てて炎上する。
中にあるであろう亡骸もこの調子では明日の朝までには炭を通り越して灰になっているであろう。
雨が降っているというのに火の勢いは収まる事はなく轟々と紅い世界を作り出す。


赤に照らされても決して侵食されない“黒”は部下の作業が終了したのを確認してから、影の中に溶ける様に消え去った。



この日、リキアのとある名門魔道士一家が行方不明となった。
当主であるユーグ、妻のアイリス、双子のカイとニノ、全員一夜の内に消えたのだ。
領主による必死の捜索と犯人などの調査も行われたが結局それは何の効果もあげることはなかった。



やがては誰もが事件を忘れていく。
誰もこのささやかな事件がどれだけ後のエレブに影響を及ぼす事になるかなど知りもしない。




全ては始まろうとしていた。







あとがき


最後は駆け足になりましたがこれにてエレブ963は完結です。
本当はもっとダーレンとかパスカルとか出したかったのですが、そうなると収拾がつかなくなりますのでカットです。
色々と異色な話ではありましたが、書いている側としてネクロマンサーや屍兵や亡霊兵、ゾンビなどがFEには居るので案外違和感はないなと思ったり。



ここから色々と原作とはずれていきますが、何とか書いていきます。




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