山奥の遺跡で、誰にも知られぬ悲劇があったあの夜から、長い年月が経とうとしていた。
ドラゴンクエスト5 ~宿命の聖母~
第十三話 隷従の日々
重い木材を命じられた位置まで運び終え、少女は痺れた手に息を吹きかけてさすった。酷使と栄養不足でカサカサになった肌からは、垢がボロボロと落ちて雲海を渡る風に吹き飛ばされていく。その風になびく髪も、ここ数年ほとんど洗った事もなく艶を失っていた。
埃と垢にまみれ、ガリガリに痩せこけた少女は、まだ十六歳にも関わらず、まるで老婆のように見える。かつて彼女が誰もが振り向くほど美しい少女だった事を信じる者は、ほとんどいないだろう。
あの悲劇の夜から十年……奴隷の身となったリュカの、それが現状であった。
「おい、お前! 何をサボっている! 鞭で打たれたいか!!」
手をこするリュカを見咎め、監督役が鞭を振るう。それはリュカの足元を掠めるように叩き、衝撃で飛んだ小石が彼女の身体に小さな傷を作った。その痛みをこらえ、リュカは頭を下げた。
「すみません。すぐに仕事に戻ります」
木材の山を離れ、柱の傍を通った時、からかう様な、それでいて親しみのこもった声がリュカに飛んできた。
「よぉ、リュカ。また監督に目を付けられたのか? あいつ、相変わらず変態だな。怪我はないか?」
「ヘンリー」
リュカは微笑んだ。そこにいたのは、紛れもなくあのヘンリー王子だった。
甘やかされて育ち、わがまま放題だったヘンリーは、誰もが一年もたないだろうと思った過酷な奴隷の日々を二年、三年と乗り越えて行き、今では同じような年代の者が多い奴隷たちの中で、兄貴分的な位置を確保するにまで至っていた。
「……大丈夫。大した傷じゃないわ」
リュカが言うと、ヘンリーは頷いた。
「ああ、でも、後で軽く手当てはしておけよ」
優しいヘンリーの言葉にリュカは頷く。彼女もまた、一年ともたずに死んでしまうだろう、と思われた奴隷の日々を、こうして十年も乗り越えてきた。それを支えてきたのは、ヘンリーだった。十年と言う年月を過ごすうちに、二人は生まれや立場を越え、無二の友人としてお互いに認め合い、助け合う仲になっていた。
「とはいえ、あれからもう十年か……長かったな。お前の親父さんには、本当に申し訳なかったと思っているよ」
「ヘンリー、貴方まだ……」
リュカの言葉をヘンリーは遮って言う。
「お前は親父さんの遺言を信じて、母親を探しに行くんだろう? オレがいつかそうさせてやるよ」
ヘンリーは言った。自分のわがままで親友の父親を、偉大な戦士だった男を死なせてしまった事の自責の念は、常にヘンリーを戒め、自分の道を見出させてきた。
リュカを……か弱い彼女を守り、いつかここから脱出して、彼女を自分の人生に帰してやりたい。それが、死んで行ったパパスへの誓いであり、リュカへの贖罪だ。そのために、ヘンリーは部署の違う所で働く奴隷たちの間にも情報網を築き、この地から抜け出す方法を模索し続けている。五年をかけても、未だ回答に辿り着かぬ問いではあったが。
「さて、あまり話していると、またムチでどやされるな。さぁ、仕事だ、仕事」
ヘンリーはそう言うと、壁を積み上げている現場に戻っていく。この建設現場の地下にある石切場から切り出されてきた石は、綺麗に磨かれてまるで鏡のようだ。この建物が竣工したときには、どれほど美しい姿を見せるのだろうか。魔窟なのに。邪悪の根城だと言うのに。
(ヘンリーはああ言うけど……もう十年。なんて長い十年……! わたしは何時までこの地獄に耐えられるの? 父様の仇とわかっていても、この美しさに縋ってしまう時が来るかもしれない……)
リュカは壁から目を離し、空を見上げた。その足元を再び風が吹きぬけ、広大な雲海を渡って過ぎ去っていく。
ここはセントベレス……天界に最も近い所とも、また魔の山とも言われる。まるで塔のような垂直の断崖絶壁が雲をも貫く、世界の最高峰。
今その頂は、光の教団を称する者たちの住まう伏魔殿であった。
光の教団、と言う集団が何時ごろから現れたのか、正確なところは知られていない。この世界には幾つかの国があるが、特に統制の弱い都市国家の連合体である西の大陸では、かなりの規模の信徒を確保するに至っている。
何時かこの世界を滅ぼさんとする魔王が復活する。その災いを逃れられるのは、光の教団の信徒のみ。信徒だけが天界にある楽園へ導かれ、そこで永遠の生を謳歌できる。
他愛もない、良くありがちな終末思想を有する教団ではある。しかし、次第に増えていく魔物たちの害や怪異を前に、不安に駆られた人々は、そのありがちな教えに惹かれていった。
リュカたち奴隷が建造に携わっているこの建物は、教団の大神殿であり、教えの言うところの「天界」なのだそうである。獄卒や監視役たちは鞭や刃で奴隷たちを脅しつけ、時には痛めつけながらも、飴を振舞う事を忘れはしなかった。
「いいか、ここが完成すれば、お前たちも自由の身だ。天界を築いた功績で、信徒として楽園に迎え入れようと教祖様は仰っている。その時の為に今は働け!」
普通に考えれば、どこが飴なのかわからないが、絶望の日々の中、僅かな希望にさえも縋りたい奴隷たちにとって、それは確かに飴だった。
もっとも、投げられた飴を拾わない者たちも中にはいる。
「だから、お前たちは甘いんだよ! そんなモン嘘に決まってる……!」
「だけど、監督たちは……」
新入りの、まだ「イキの良い」奴隷と、もう何年かをここで過ごし、すっかり心の折れてしまった奴隷たちの、夜毎繰り広げられる言い争い。もっとも、殴り合いだの取っ組み合いだのに発展する事はない。そんな事をするには、彼らは昼間の仕事で疲れ切っていた。
(そろそろかな)
リュカが思った時、この奴隷部屋の主、とも言うべき老人がむくっと身体を起こし、言い争う奴隷たちに向かって言った。
「お主ら、毎晩毎晩いい加減にせい。結論の出ない事を話してる暇があったら、さっさと身体を休めんか」
その言葉に、すっと言い争いが止み、奴隷たちは三々五々寝る準備を始める。それを見て、リュカは老人に言った。
「おじいさん、ご苦労様」
目を閉じていた老人はそっと目を開け、ふんと鼻息を漏らした。
「そう言うなら、リュカちゃんが止めればよかろう……どの道ワシはこの歳じゃ。ここの完成まで生きておれそうもないからのう。自由の身も何も、関係ない話じゃて。ここに落とされた悔しさも、もうこのおいぼれを長く生かして置いちゃくれまい」
老人は、かつて光の教団の一般信徒だった。ほんの些細な不始末だけで、彼は信徒の地位を剥奪され、奴隷に身を落としていた。
「リュカちゃんは……お父上をここの者に殺されたのじゃろう? その悔しさを忘れぬ事じゃ。それがある限り、リュカちゃんは生きていく事ができるじゃろうて」
そう言うと、老人は目を閉じ、息を二回する間に静かな眠りに落ちる。ヘンリーも騒ぎが収まったと見て、さ、寝るか、と言うと襤褸切れのような毛布をかぶって横になった。リュカもその横で身体を横たえる。子供の頃はヘンリーと一枚の毛布を分け合っていた事もあるが、何時の間にか別々の寝床に眠るようになっていた。もちろん、その意味を解さないほどリュカは子供ではないが、時としてそれを寂しく思うこともある。
なお、奴隷部屋は男女同居ではあるが、そこで恋愛感情が起きたり、その帰結としての行為が行われるような事は、ほとんどなかった。衣も食も不足し、生きる事で精一杯の奴隷たちに、他人を思いやる気持ちが芽生えるような余裕は、ほとんどない。リュカとヘンリーは貴重な例外なのだ。
また、かつてある女奴隷が子を身ごもった事もある……が、その結果は悲劇だった。身重になり働けなくなった彼女を、獄卒は容赦なく殺した。父親は名乗り出なかった。累を及ぼされる事を恐れて。
人として普遍的な、そして何よりも尊い感情を持つことすら許されない。ここは地獄だった。
そんな事を思いながら、リュカは老人の言葉を思い出す。父親が殺された悔しさが、彼女の生きる力になるだろう、と言う言葉を。だが、父の最期の光景を思い出すたびにリュカの胸を締め付けるのは、怒りより悔しさより、何よりも悲しみだった。
(悲しみでは……人は生きていけない)
リュカは思う。怒りや悔しさも、何か違うかもしれない。人が生きていくには、もっと違う動機が必要に思える。だが、リュカはその答えを未だ見出せずにいる。
自分の生きる道は何なのか。そんな事を思いつつ、リュカは何時になく寝付かれぬ夜を過ごした。
翌日、リュカとヘンリーのいる部屋の奴隷たちは、普段の地上の作業から、地下の石切場の作業に回された。
「石材が足りないのだ! お前たち、どんどん石を運び出せ! サボる奴は容赦なく鞭打ちだからな!!」
サディスティックに叫ぶ獄卒の横で、監督役がリュカにマホトラをかける。奴隷たちはもちろん武器など持たないが、たまに魔法を使える者が混じっており、かれらは朝一番にマホトラをかけられ、魔力を根こそぎ奪われていた。もちろん、逃げたり攻撃したり出来ないように、である。
魔力とともに精神力まで奪われるような脱力感を覚えながら、リュカは地下への長い石段を降りていった。石切場の作業は嫌いだ。暗く、松明の煙と石の粉塵が混じった石切場の空気は、吸うたびに体力が削られそうなほど、澱んでいて汚れていて、気分が悪くなる。作業も危険でキツい。一番多くの奴隷が死んでいる場所で、一角には落盤で一気に数十人が死んだところが、木材の切れ端を組み合わせただけの粗末な十字架を立てた、おざなりな墓として残されている。
奴隷たちは切り出された石を黙々と運ぶ。石切場の隅には運ばれた石を地上に上げるベルトコンベアがあり、屈強な男たちが掛け声を交えてローラーを回し続けていた。そこまで十数キロもある石を担いで何往復もするのだ。男でも辛い作業は、前の晩なかなか眠れず、寝不足気味のリュカには厳し過ぎた。
「リュカ、顔色が悪いぞ? 大丈夫か?」
すれ違うヘンリーが声をかけてきた。
「ヘンリー……ん、大丈夫」
リュカは笑顔を作って見せたが、足元はふらついていた。どのみち、休める事などないのだ。
しかし、時間が経つにつれ、彼女の身体は限界を迎えつつあった。視界がぼやけ、身体が左右によろけて、支える事ができない。出来るだけ軽い石を選んだのだが、それさえ持つことが辛い。やがて、地面の小石に躓いたリュカは、こらえきれずに石を離して倒れてしまった。
「あうっ」
受身も取れず地面に倒れ、荒い息をつくリュカ。その時だった。
「女、貴様!!」
怒りの声が頭上から降ってきた。目を開けると、顔を真っ赤にした監督官が鞭を片手に彼女を見下ろしていた。
「貴様、俺の足に石をぶつけるとは、ふてえ女だ! その根性を叩きなおしてやる!!」
見れば、転がった石がかすったのか、監督官の靴に灰色の擦り跡ができていた。怪我ですらない。だが、男は容赦なく、リュカの背中に鞭を叩き付けた。
「あうっ!!」
リュカは激痛に身をよじらせた。襤褸切れ同然の服はショックで大きく裂け、剥き出しになった背中に痛々しいみみず腫れが見る見る走った。
「ああ……す、すみません……ごめんなさい……」
涙をこらえて言うリュカだったが、その様子は監督官の嗜虐心を煽り立てる役にしか立たなかった。
「何だ、その口の利き方は? 貴様、奴隷としての立場がわかっていないようだな。いい機会だから、その身にお前が奴隷だって事を、たっぷりと教え込んでやる!」
「ひぎぃっ……!!」
何度も鞭が叩きつけられ、その度にリュカの服と肌は裂けて、辺りに彼女の血が飛び散った。そんな無残な光景を、奴隷たちは無感動な表情で見ている。こんな事は、もう何度も繰り返されてきた事だ。あの娘には可哀想だが、どうすることも出来ない。そんな諦めが彼らを支配している。
ただ一人の青年を除いては。
「リュカ……リュカっ!! ちくしょう、もう我慢の限界だぜ!!」
ヘンリーだった。手近にあったスコップを取り上げ、振り下ろして足枷の鉄球を繋ぐ鎖に叩きつける。十年間、奴隷として過酷な労働を続けるうちに培われた腕力が、親友をいたぶる卑劣な監督官に対する怒りが、鎖の強度を上回った。鎖が弾けるように断ち切られ、ヘンリーは咆哮とともに地を蹴った。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!」
(ごめんなさい、父様、わたしは、もう……)
半ば消えかけた意識の中で、リュカはまぶたの裏に浮かぶ父に詫びていた。もう、耐えられない。こんな地獄のような生活を続けて行けるほど、わたしは強くない。
だが、その時リュカは自分を打ち据える鞭の乱打が止んだ事に気がついた。代わりに、自分を守る強い意志を感じる。彼女は目を開け、そして呟くように言った。
「と……う……さま……?」
リュカを守るように立つ、力強い影。それが一瞬父に見えたが、すぐにヘンリーと気付く。その手に握られたスコップは、監督官の肩を叩き割り、胸にまで食い込んでいた。
「あ……が……?」
致命傷を負わされた監督官は、絶対強者のはずの自分が何故こんな目に合わされるのか、信じられない、と言うように身を震わせ、どうと倒れた。
「き、貴様!? そんな事をしてどうなるかわかっているのか!?」
ヘンリーの暴挙に、獄卒や他の監督官が武器を手に駆けつけてくる。ヘンリーはスコップを構え、啖呵を切った。
「やかましいや、この外道どもが! リュカを傷つける奴らはこのオレが許さねぇ!!」
ヘンリーはスコップをバトルアックスのように振るい、獄卒を殴り倒し、監督官を薙ぎ倒す。リュカは驚いた。ヘンリーがこんなに強かったなんて知らなかった。
リュカの知らないヘンリーは、三~四人の敵を相手に大立ち回りをしていたが、さすがに息が上がってきた。もともと腕力はあっても、持久力は乏しいのだ。だんだん動きが鈍くなってきたヘンリーの背後から、獄卒が槍を繰り出そうとする。それを見た瞬間、リュカの身体に力が蘇った。咄嗟に身を起こし、手に当たったものを拾い上げる。
「危ない、ヘンリー!!」
叫びながら、リュカはそれを……ヘンリーの足枷の鉄球を投げつけた。長年彼を縛めてきたそれは、最後の最後にヘンリーを守った。ぐしゃり、と嫌な音がして、獄卒の兜がへこみ、大量の血しぶきが噴き出すと、そいつは朽木のように倒れ伏した。それを見て、リュカはヘンリーを守れたと言う安堵と共に、再び意識を失い、そこに倒れた。
「リュカっ!」
「き、貴様ら……」
ヘンリーがリュカに駆け寄り、別の獄卒が唸った時、石切場に複数の足音が響き渡った。視線がそっちに集まる。入り口の階段を降りてきたのは、教団に仕える兵士たちだった。
「石切場で騒ぎがあったと聞いてきたが、何が起きた?」
兵士たちの隊長らしき男が、進み出て獄卒に尋ねた。
「は、はっ……その男が突然歯向かって参りまして」
獄卒は低姿勢で言う。兵士、それも隊長となれば、獄卒よりは遥かに身分は上だ。
「ふむ……その娘は?」
ヘンリーと、傷まみれ血まみれで気を失っているリュカに目をやって兵士が聞く。
「は、その娘も反抗的でしたので、ダガンが懲罰を加えていたところで……」
ヘンリーに倒された男の名を獄卒が挙げる。
「そうか……この一件は我らが預かる。おい、その娘を手当てしてやれ」
「はっ」
兵士の一人がリュカに近付こうとする。が、ヘンリーが再びスコップを持って立ち上がった。
「寄るな! こいつには指一本……がっ!?」
ヘンリーは最後まで言い終えることなく崩れ落ちた。隊長が槍の石突を目にも留まらぬ早業で、ヘンリーの鳩尾に突き込んだのである。
「手当てが済んだら、その奴隷も娘も、牢に入れておけ。処分は追って下す」
隊長が言うと、もう一人の兵士が気絶したヘンリーを担ぎ、もう一人はリュカを抱き上げて、階段を登っていく。
「あの、隊長殿……」
獄卒が低姿勢を保ったまま声をかけると、隊長は溜息をついて言った。
「奴隷に監督官が殺されたとなると、簡単にはこの事件は片付くまい。お前たちにも監督不行き届きで罰があることを覚悟しておくのだな」
獄卒はその一言に震え上がったが、隊長はもうそいつには興味をなくしたように、部下を追って階段を登って行った。
(続く)
-あとがき-
青年期編、開幕です。リュカの薄幸のヒロインスキル(★8)炸裂。
ついでに作者のドSスキルも全開……「リュカに何をする! この外道!」という抗議は承りますが、投石・呪詛等は
ハ,,ハ
( ゚ω゚ ) お断りします。
/ \
((⊂ ) ノ\つ))
(_⌒ヽ
ヽ ヘ }
ε≡Ξ ノノ `J