深夜一時を回った終電車両の二車両目。
揺り籠のように一定のリズムで揺れる電車の中、僕は初めてここで携帯から顔を上げた。
それは電車が地下トンネルへと突入したことを確認する事務的手続きでもあったし、それを期に先ほどから感じていた不躾なまでの視線の主を確かめようと思い立ったからでもある。
電車の中は、平日の終電にしても人がいない。
この車両にいるのは明らかに都内を一周する心積もりのくたびれたサラリーマンと、大胆なポーズで胸元を寄せて僕にウインクをするグラビアアイドルの広告と、いつもの喪服のような黒尽くめの服とは多少の赴きを変えた服装の隣人、六条さんの娘さんしかいなかった。
取捨選択を強いる必要などもちろんなければ、視線の主を改めて確かめるまでもない。顔を上げたそのときに、僕と六条さんの娘さんの視線はがっちりとタッグを組んでいる。
「六条さんじゃないですか」
「そう言うあなたは志乃坂さん」
まあ驚いた、と口を抑える当たり何ともわざとらしいが、そこを言及するほど僕と六条さんの娘さんの仲は親密ではない。
古びたアパートに住む隣人同士といえど、他人に無関心なこの時代。生憎と作りすぎたカレーをおすそ分けするようなホームドラマちっくな話はない。
管理人とは書類を交えた会話しかした覚えはないし、その管理人もエプロンの似合う美人なお姉さんという設定はなく、腹の垂れ下がった厳つい中年のおじさんだ。
お隣さんの六条さん夫妻はめったに見ない。確かに目の前の六条さんの娘さん(名前は残念なことに知らないので以降六条さん)は見目麗しい女性であるものの、ゴミ捨ての際に出会ったら頭を下げる程度の付き合いしかないし、何より女子高生だ。僕の好みはエプロンの似合う年上のお姉さんである。この遺伝子を排出なさった奥さんあたりが好みかもしれない。見たことないけど。
まあ僕の嗜好はさておき。
それゆえに、突然電車の中で出会った付き合いの薄い隣人の僕に声を掛けるのを六条さんが躊躇ったとしても、それは何らおかしいことではない。それを隠すために驚いた振りをするというのも、まあ照れ隠しのように可愛いものと思えもする。
ただ、僕は年上のお姉さんが好みである。
あ、違った。
そうではなくて、そうするに関してまるで遠慮のないむしろ舐め尽すかのような視線を向けられたという事実は、僕の勘違いということにしなくてはいけないようだと、そういうことだ。
「こんな時間に会うとは思いませんでした」
「そうですね、私もです」
にっこりと微笑む彼女が首を傾げると同時に、今の女の子にしては珍しい、染めたこともないような鴉の濡れ羽色の長髪が、まるで慎み深いベールのように揺れた。
その楚々とした佇まい。悪意を感じさせない無邪気な微笑。
何とも魅力的である。
夜な夜な聞こえてくる朗読が呪文めいていることなどまるで感じさせない。
「今日は制服なんですね」
会話の繋ぎに彼女を一目見たときから感じていた違和感を持ち出すと、彼女は照れたようにYシャツの上に羽織ったカーディガンの袖の縁を掴んで俯いた。カーディガンの色はもちろんその髪と同じ夜の色だった。
「ええ、今日は学校がありましたので」
「昨日も学校はありましたよね?」
今日は休日でしたので、と同じ用法で使ってはいけない言葉だと僭越ながら僕は思う。
「残念ながら私の予定表には入っていませんでした」
「学校の履修表には含まれているでしょうに」
「でもやはり残念ながら、昨日の私にはマンガを読破するという使命がありましたので」
ああ、なるほど。と僕は頷いた。
お隣さんになってからはや一ヶ月ほど経ったわけだが、どうして六条さんの制服姿を今までお目にしたことがなかったのか。その理由がここで今解き明かされたわけである。
どうにも六条さん的にマンガを読むことは、女の子がはにかむ程度に授業を休む正当な理由になるらしかった。
「でも今日、そのことで怒られました。先生に」
「それはお気の毒に」
「婚期を逃してぴちぴちの女子高生を妬む岡崎先生にネチネチと叱られてしまいました」
「ツッコミはぴちぴちが死語だという点でよろしいですか?」
「酷いですよね? 正直に理由をお話したのに」
「そりゃあ怒るよ!?」
言っちゃったんだ!? マンガ読むから休みましたって言っちゃったんだ!?
びっくりだぁ。僕これでも素直クールが売りなキャラなつもりだったんだけど、思わず会話にエクスクラメーションマーク付けちゃうくらいにびっくりしたよ。
しかもそれは婚期うんぬんまったく関係なく大人なら叱っておくべきところだという点を、このメルヘンな女子高生の親御さんに伝えるべきか否か。
「でも面白いんですよ、これ」
「はい?」
そんな僕の葛藤をよそに、がそこそと女子高生にしてはアクセサリーの少ないシンプルな鞄から取り出した漫画は『HUNTER×HUNTER』。
もちろん僕も知っている。知らない人は多分少ないと信じる、少年マンガ的に色々な理由で有名な漫画だ。
「キルアたんはぁはぁ」
「でも生憎、僕はそういうジャンルで読んでいるわけではないんです」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
悲しいです、と俯く彼女を見ていると僕まで悲しくなってくる―――という気持ちは不思議とこれっぽっちもわかなかったわけだが、それでも気まずくなってしまったのは事実。
空気を読めないのは常日ごろのことだが、さてはてどうするかと悩んでいると、気に病むまでもなく彼女のほうから新たな話題を提供してくれた。
「でも、いいものだと思いません? 念とかオーラとかヒソカたんとか」
「最後のはともかく、それは確かに」
不思議な力。異能。スーパーパワー。
子供っぽいという謗りを受けようと、男は皆いつになっても心の中に少年を宿しているものなのだ。昨日で二十歳を向かえて十代と言えなくなった僕だって、念とかオーラとかそういう力を現実で使えたら格好がいいなとは思ってしまう。
「いいですよね? ね? 例えばそんな世界があるとしたら、行ってみたいと思ってしまいますよね? ね? ね?」
そこに何か電波的に危ないものを感じ取ったのは、僕の気のせいなのかどうなのか。
いやいや、しかしそんなものは隣から呪文めいた朗読に混じって誰のものともつかない断末魔を聞くたびに感じるものだ。まして未だ黒のゴミ袋を用いて決して中身をご近所に見せようとしないご家庭のご息女を前に、危ないなどというそんな生易しくも陳腐な言葉は鼻で笑い飛ばすものだろう。
近所のゴンザレス(愛犬)がそのゴミ袋に鼻を寄せるたびに吼えるのを止めないことも証言に付け加えてもいい。
だから僕はうっかりなんて言葉では片付けられない失態をここで犯すのである。
「ええ」
たった一言。
頷いただけなんだけどね。
「ですよねー。ほっ。よかった」
そう口調を崩して、彼女は微笑んだ。麗しくも年相応の幼さを残した、安堵の笑みだった。
だから彼女の次の一言を僕は空耳の類だと思ってしまったわけであるのだが。
「ありがとうございました、契約完了です」
いつの間にか酔っ払いのおじさんは居なくなっていた。
トンネルを抜ける、深夜の一時。
窓の外を覗けば人工の星が散りばめられた世界に、満ちるはずのない光が電車を包んだ。
そういえば、何で六条さんはこんな時間に電車の中に乗っていたのか。
そのときに聞きそびれた質問は、たぶんもう聞くことはできない。