とうに秋も半ばを過ぎ去っている。
権勢を奮っていた秋の虫たち。
蟋蟀。
鈴虫。
管巻。
いずれの鳴き声も、まばらである。
互いに競いあうようなこともなく、ただ流々と鳴いている。
何より天にも届かせようとする力強さが、虫たちからは失われている。
去っていく秋を、偲んで鳴いているようであった。
命が消える前の最後の一鳴きをしているようであった。
「なあ晴明。虫がこうして寂しげに鳴くのもまた良いものだと思わぬか」
右手の杯から酒を飲みながら虫の音を聞き入っていた源博雅がつぶやいた。
平安京土御門小路にある、安倍晴明の屋敷である。
庭は一見して荒れ放題になっているが、何がしかの力でも働いているのか、奇妙な調和が取れている。
造られた庭とは違う、天然の美である。
すでに日は落ちかけている。
秋の終わりは冬の訪れでもあり、風が吹くと少しだけ、肌寒い。
安倍晴明と源博雅は庭に開けた廊下に胡坐をかき座っている。
「しかしこうして聞き入っていると、おれまで虫たちと共に消えてしまうような気がしてしまうのだよ」
「消えるなどとは、妄りに口にしないほうがよいぞ」
「なに?」
「言葉には力があるからな。常に消える消えると言っていれば、本当に消えてしまう。見える見えると思っていれば、見えぬ鬼でも見えてしまう」
「ふうん、そういうものか」
「そういうのものだ」
妖しげな微笑を貼り付けたまま晴明は床に置いた杯を取り、口に運ぶ。
用意した酒やつまみはあらかたなくなっている。
二人の体へと溶けていったのだ。
博雅も晴明にならい、残りの酒を口に含んだ。
「さて博雅よ、何か用があって来たのではないか」
「おう」
「ならばそれを聞くとしよう」
うむ、と博雅はうなづく。
新たな酒とつまみを晴明の式神が運んで来る。
空の杯が澄んだ酒で満たされるのを待って、博雅は口を開いた。
「晴明――蓬莱の薬、というものを知っているか」
蓬莱の薬とはかぐや姫が月へと帰る際、時の帝に渡した不老不死の霊薬である。
かぐや姫の帰りを悲しんだ帝の命により、富士山の山頂で焼かれ葬られている。
実に今より三百年も昔のことである。
「その薬がな、今になって出てきたのだ」
「ほう」
晴明が素っ気なく答える。
博雅の言うことを全て承知していたかのようである。
「何だ、知っていたのか」
「いやすまん、知っていた。さるお方から相談を受けたのさ」
杯から酒を口に含んだのち、晴明は言った。
「藤原秀郷さまの屋敷だ」
「秀郷さまの屋敷に蓬莱の薬があるのか」
「正確には、ない」
「どういうことだ晴明」
「中身が、ない。見つかったのは入れ物だけだ」
「中身が、ない――」
不老不死の霊薬は、すでにない。
いずこへ零れたか。
はたまたいずれかが飲んだのか。
「これから秀郷さまの屋敷を訪ねる。ゆくか」
「良いのか」
「良い」
「ならばゆこう」
そういうことになった。
藤原秀郷――二十年以上前の平将門討伐の立役者である。
人外の者と化した平将門と二度も切り合い、生き延びている。
並の胆力ではない。
平安随一の武士である。
大きな男であった。
肉体はとうに盛りを過ぎているが、それでもなお全身に精気を巡らしている。
晴明と博雅と藤原秀郷と対面するように座っている。
秀郷の屋敷である。
以前一度訪れた時とほとんど変わっていない。
華美な調度品の少ない部屋である。
晴明、博雅と秀郷の間には半透明の壜が置かれている。
片手の十分に持てる小さなものである。
見ようによっては唐国伝来の白瑠璃椀にも似ているかも知れない。
いずれにせよ日本で作れる代物ではない。
「これが蓬莱の薬壜で御座いますか」
「そうだ」
「美しいものですね、ですが――危のうございます」
晴明は率直に言った。
「やはり判るか。口の部分には封をしてある。叡山の坊主が写経したものだ」
「呪が籠っております」
「呪か」
「恐らくは――調岩笠の呪」
三百年ほど前、調岩笠は蓬莱の薬を焼くために富士山へと登った。
富士山は月に最も近い場所。
月のかぐや姫に最も近い場所。
帝の命を受けて富士へ向かった調岩笠は、帰らなかった。
「帝の命を全うできなかったことへの無念。それがこの呪でござりましょう」
調岩笠は恐らく死んだ。
帝の信頼に応えることができずに。
その無念が呪を生み出し、最も執着していた蓬莱の薬壜に宿ったのだ。
「何故このようなものが秀郷殿の元にあるのでしょう」
それまで黙っていた博雅が唐突に口を開いた。
「博雅さまはかぐや姫に求婚した五人をご存じでしょうか」
晴明に向いていた視線を秀郷は博雅に移す。
「石作皇子、大伴御行、石上麻呂、阿倍御主人、藤原不比等の方々ではなかったかな」
「その通りで御座います」
秀郷はうなづいた。
「藤原不比等さまと言えば秀郷さまの祖にも当たる方ではないか」
「いかにも、我が祖不比等は内密に富士山へと人を遣ったのです。理由は伝えられておりませぬ。ただ同時期に不比等の娘が一人行方知れずになったとの伝えがあります」
「なんと、そのようなことが」
「調岩笠と兵士の一団は皆殺しだったそうです。そして富士山から不比等の元へもたらされたのが、蓬莱の薬壜と伝わっております」
秀郷の言葉を聞き、博雅は蓬莱の薬壜に目をやった。
初めに目にしたときと変わらぬ輝きを放っている。
大陸伝来の一級品にも劣らぬ輝きだ。
だが、そこには一抹の不安がある。
見るなと言われれば返って見たくなる。
入るなと言われれば返って入りたくなる。
そんな禁忌をあえて犯そうとするような好奇心を孕んだ不安である
引き込まれそうになるのだ。
博雅は、薬壜に手を伸ばし封印を剥がし取ってしまいたくなる誘惑に駆られた
「秀郷さま、よろしければ蓬莱の薬壜を仕舞われてはいかがでしょか」
「おう」
晴明は持参した白木の箱に蓬莱の薬壜を仕舞い、蓋をした。
「さて晴明殿、蓬莱の薬壜の件、頼まれてくれるな」
「――承知いたしました」
「そうか、それは良かった。こういう妖しものは黄金丸で断ち切るという訳にもいかぬからなあ」
安堵したように秀郷は言葉を漏らした。
秀郷自身は神気の込められた黄金丸と鎧によって守られている。
近江三上山の大百足を退治した際に琵琶湖の龍神一族から送られたものである。
しかし屋敷の家人たちはそうではない。
呪を恐れる家人たちを安心させるために秀郷は晴明に相談したのであった。
「晴明殿、どうやって片を付けるのだ」
「燃やします」
「なに!」
「調岩笠は帝の命を果たせませんでした。ならば我らが燃やして調岩笠の無念を静めます」
「ほう、ではいつ燃やすのだ」
「すぐに燃やすことは出来ません。ある場所へ行かねば」
「いずこで燃やすのだ」
興味をそそられた秀郷は心持身を乗り出し、言った。
晴明は静かに呼気を一つ吐く。
そしてゆっくりと、言葉を紡ぎだした
「――八ヶ岳、でございます」
夜の平安京を彩る闇は深い。
黒よりもむしろ紫に近い。
朱雀門から羅城門までを貫く朱雀大路を牛車は一台進んでいる。
安倍晴明の牛車である。
ごとごとと車輪を回し、進んでいく。
「しかし、八ヶ岳とはなあ」
博雅は困ったように言った。
「何だ、博雅は行きたくないのか」
「そういう訳ではない、ただ八ヶ岳とは……」
八ヶ岳は遠い。
満足な交通手段のないこの時代、遠出は大変な苦労であった。
まして晴明と博雅は宮仕えの身である。
そうそう都を留守にしてはいられない。
「心配ないさ。以前、神泉苑の池から天竺まで行ったことがあるだろう。あれと同じことをやるのさ」
澄ました顔で晴明は笑う。
博雅の失われた葉二を探して、晴明と博雅そして琵琶の名手蝉丸法師の三人は一 夜のうちに天竺まで赴いたことがある。
そこで彼らは夥しい数の神々の宴を目にしたのだ。
博雅の笛と蝉丸の琵琶に合わせて月光の下で天に昇る金色の龍と、舞い踊る巨大な神々。
博雅、生涯忘れぬ光景であった。
「むむむ」
「どうだ」
「ならば行こう」
博雅は腹の内を決めた。
晴明が良いと言っているのだから、良いのだろう。
「それにな、行くのは八ヶ岳であって八ヶ岳ではない」
「なに、どういうことだ晴明」
晴明の要領を得ぬ言葉に博雅がいぶかしむ。
「富士山の浅間と八ヶ岳の権現がどちらの山が高いかで争ったという話を知っているか」
「おう、権現に負けた浅間が悔しがり、権現の八ヶ岳を叩いて低くしてしまったというやつだな」
「そこだ、博雅」
「むむ」
「背比べ以前の、富士山より高かった八ヶ岳。そこに行くのだよ」
「なんと」
博雅は驚いた。
晴明の突拍子もない言葉にである。
この世のどこに富士より高い八ヶ岳があるというのか。
「東国の何処か、正確な場所はおれも知らんのさ。陰態を通って行くのだからな」
「陰態……いつぞやの応天門の時と同じ、百鬼夜行の中をか」
「そうさ」
博雅は以前にも二度、晴明に連れられて百鬼夜行の中を通っている。
そのため過剰な恐れはない。
陰態の中では晴明に従っていれば、危険はないと分かっている。
「とは言えすぐにとはゆかぬ。手配せねばならぬことがあるのでな。その時になったら知らせる」
「おう、わかった」
ごとごとと車輪を回し、牛車は都を進む。
夜の深い闇の中に、牛車の立てる音すらも吸い込まれすぐに消えていく。
平安の夜は、まだ明けない。
藤原秀郷は眠りから覚醒した。
寝所に入ったまま常に身近に置いている黄金丸を引き寄せる。
若き頃より戦いの中に身を置いてきた秀郷である。
不穏な気配を感じ取る勘の良さは衰えていない。
ゆっくりと立ち上がる。
屋敷の庭に秀郷は降りた。
秋も終りである。秀郷は簡素な直垂を着ているが、外気が肌寒い。
上弦には欠けることのない望月。
惜しみなく妖しい月光を振りまいている。
月光の下で、少女が一人立っている。
足元まで届きそうな長い白髪が秀郷の目を引いた。
白というよりはむしろ銀に近いかもしれない。
平安の夜に銀髪の少女。
明らかに人間ではない。
秀郷は黄金丸に手をかけた。
神気が吹きこまれた黄金丸で付けられた傷は、二十年塞がらない。
「あー、ちょっと待ってよ。わたしは人、たぶん。少し変わってるけど異形じゃない」
少女は困った様子で言った。
自らを人という少女である。
普通ではない。
しかし語りかけてくるということは、何かしら話したいということだ。
ならばそれに乗ってみるの一興。
秀郷は刀から手を離した。
「このような時刻に何の用だ」
「藤原秀郷。藤原房前の孫……わたしはね秀郷、あなたの大おばさまに当るようだ」
「不比等さまの娘というのか、三百年前も前のことだぞ」
「年を取らないんだ、わたしは」
自嘲するかのように、不比等の娘は笑みを顔に貼り付けた。
「消えた不比等の娘――蓬莱の薬を飲んだのか」
「その通り、わたしの大甥は理解が早い。正真正銘不老不死の蓬莱人、藤原妹紅さ」
藤原妹紅――真に藤原不比等の娘であった。
「なんと」
秀郷の口から驚きの声が漏れる。
妹紅について藤原家には多くのことは伝わっていない。
ただ家系図にその存在が示唆されるのみである。
「大おばさまとは呼ばないでくれよ。わたしも甥とは呼ばないさ」
「むう」
「手短にいこう。――蓬莱の薬壜を取りにきた。あれはわたしが始末する」
藤原妹紅は要件を切りだした。
妹紅は風の噂で蓬莱の薬壜のことを聞いた。それに呪のことも。
そして妹紅は呪をその身に引き受ける腹積もりだった。
呪もいつかは消えよう。そこまで待つのもいい。
――なぜなら、自分は永遠に生きる身だから。
「悪いが蓬莱の薬壜はもうここにはない」
「……ではどこに」
「安倍晴明に片を付けるよう頼んだのだ。今は晴明が持っている」
「む、一足遅かったか。夜分にすまなかった」
秀郷に詫びの言葉を言うと、妹紅は背を向け立ち去ろうとした。
「待て、晴明の屋敷に行くのか」
秀郷は妹紅を呼びとめた。
妹紅は振り返る。
「ならばこれを持って行け、紹介状の代わりにでもなろう」
秀郷は一振りの小振りな刀を手に持った。
短い刀である。懐剣とも護神刀ともいえるだろう。
柄と下緒が鮮やかな朱色で彩られた美しい刀である。
「藤原不比等さまが作らせた刀だ。晴明ならばわかるはず」
「わかった。礼をいう」
簡潔に、それだけ言うと妹紅は塀を飛び越え大路へと去って行った。
月の光を受けた輝く銀の髪が宙を舞った。
あたかも夢のようにおぼろげな邂逅だったと秀郷は思う。
藤原妹紅は今も夜の平安京を一人、歩いているのだ。
それは人というより鬼、妖しのものに近い。
だが、普通の人とて情念が強ければ鬼に変じる。
それは人がうつろうものだからである。
ならば不老不死、ある意味で不変な妹紅は鬼にはならない。
なろうと思ってもなれない。
「あの刀、父上は吾亦紅と呼んでいたな」
誰に聞かせる訳でもなく、秀郷はつぶやいた。
四条大路を一台の牛車が進む。
時刻はすでに黄昏時である。
東の空には十六夜の月の昇り始めている。
車の簾からは時折風が吹き込む。
車に載っているのは安倍晴明、源博雅、藤原妹紅の三人である。
晴明と博雅は狩衣に烏帽子、妹紅は水干のようだが、自ら切ったのか袖丈は短い。
長い髪を纏めもせず無造作に垂らし沈黙したまま、妹紅は座っている。
元は殿上人にも関わらず歯も黒く染めておらず、眉も抜いていない。
しかしそれが妹紅には似合っている。
博雅が妹紅と会ったのはつい先ほどである。
知らされた時刻通りに晴明の屋敷を訪ねた時に初めて、晴明から名前と素性を聞かされたのだ。
藤原秀郷殿から紹介されたこと。
ある理由から八ヶ岳まで共に赴くこと。
そして、藤原不比等の娘であり、蓬莱人であること。
一見してただの少女が、老いもせず死ぬこともない蓬莱人なのだ。
博雅はこれより前に蓬莱人ではないが、同じ不老不死の女と会ったことがある。
千年狐に人魚の肉を貰い、食した白比丘尼。
生まれ、生き方と白比丘尼と藤原妹紅の間に似通っている点は少ない。
にも関わらず両者の瞳には共通の色が刻まれている。
不変故に流転できず置いていかれた者の哀愁である。
人は彼女らと関わり、時には楔のような記憶を残すことができる。しかし共に流れることはできない。
――人でありながら、人でなくなったもの、か
「わたしの顔に何か付いてるかい」
博雅の視線に気づいたのか妹紅は顔をあげた。
「い、いえ、何でもありませぬ。妹紅姫」
博雅は咄嗟に受け答えに窮した。
藤原妹紅は三百年前とは言え、あの藤原不比等の娘である。
殿上人の娘と顔をつき合わせているという事実が博雅を戸惑わせた。
「妹紅姫と呼ぶのは簡便してくれないか。わたしが姫だったのはもうずっと昔のこと。ただ妹紅と呼んでくれればいい」
博雅が答える前に、妹紅は言葉を続けた。
「ところで、博雅さまは当代一の笛の名手と聞く。いつかその笛を聞きたいものだ」
よもや笛を所望されるとは博雅は思いもしなかった。
しかし妹紅とて元は貴族である。
楽器を嗜んでいても、不思議ではない。
「――承知致しました。いつか必ず」
博雅は微笑しながらうなづいた。
そこまで話したところで、博雅は地を回る車輪の音が消えていることに気が付いた。
以前陰態に入ったときと同じである。
博雅にはいつ陰態に入ったかわからない
現世と陰態には境界があるのだろうが、それはどうも朝の霧の如く移ろいやすいものらしい。
「なあ晴明、簾を開けてもよいものだろうか」
「いいさ。この牛車はおれの造った結界になっている。ただし前と同じく、何を見ても決して声を上げるなよ。妹紅さまも決して声を上げてはなりません」
「わかった」
興味深そうに妹紅は簾を見つめた。
博雅の手がするすると簾を上げる。
そこに夜の平安京はなかった。
東天に上っているはずの十六夜の月も消えている。
そこにはただ闇がある。
闇の中を異形のものたちが走り回っている。
火の付いた骨を持つ鳥のようなもの。
烏帽子を被った大きな蛙。
角だらいに手足が生えたもの。
虎頭の僧。
千差万別の異形が無数に駆け回っている。
しかしその中でも一際目を引くものがある。
闇の中、そこら中に現れては消える瞳である。
瞬きをするように消えてまた現れる。
それが終わりなどなくどこまでも続いている。
陰態は人によって見るものが違うとも言われている
しかし博雅には少なくともそう見えた。
晴明は手を伸ばし、簾を下げた。
「もういいだろう。あまり長く見て良いものではない」
途端に車の中の空気が新鮮さを増した。
知らず知らずのうちに瘴気が入り込んで来たようだった。
「すごいな。わたしも調伏の真似ごとをしているが、あれほどの数は見たことがない」
妹紅は感心した様子で言った。
瘴気も妹紅には何ら害を及ぼしていないようであった。
「晴明、あの目は何だ。前はあんなものは見なかったぞ」
「わたしも見たぞ」
博雅の言葉に妹紅も同調する。
無数の目を見たのは博雅だけではなかった。
簾で仕切られた結界の外では、今も無数の瞳が牛車を見つめている。
一度意識してしまえば、車の隙から覗かれているような感覚を覚え、博雅は背筋が寒くなった。
妹紅も同じことを考えたのか、落ち着かない様子でしきりに辺りを見回している。
ただ晴明だけが、澄まし顔で笑みを貼り付けている。
「八雲紫の隙間を覗く瞳さ。先に話を付けて置いたが……どうやら協力してくれるようだ」
「なあ晴明」
「なんだ」
「その八雲紫という方が協力を拒んだら、どうするつもりだったのだ」
「そのときはそのときさ。他にも方法はある」
晴明は前の簾を少し持ち上げる。
牛車の先を晴明は見た。
幾千幾万の瞳と異形の先に、闇に入れられた切れ込みがある。
牛車が目指す先はそこである。
陰態と現世の境界が近い。
「もうじき着く」
「じきか」
「じきだ」
どこをどのように通って来たのか博雅と妹紅にはよく分からない。
ただ唐突に地面を動く車輪の振動が感じられるようになった。
同時に虫や鳥の鳴く音などもまばらだが、耳を澄ますと聞くことができる。
「着いたのか、晴明」
「着いたさ。もう降りても構わない」
晴明の言葉を聞いた妹紅が真っ先に牛車から降りる。
そして博雅、晴明があとに続いた。
「あれが八ヶ岳さ」
晴明は指をさす。
前方には月光に照らされた大山、八ヶ岳があった。
遥か遠方の筈なのに、その峰の高さは少しも劣っては見えない。
富士より高い八ヶ岳が、そこにはあった。
「待っていたわ」
牛車の影から艶やかな女の声がした。
どこから湧いて出たのだろうか、つい先ほどまでは誰もそこにはいなかったはずである。
異人の女が、立っていた
流れる長髪は鮮やかな金色、なりは唐風である。
「ようこそ幻想郷へ、大陰陽師安倍晴明さま」
「道中案内感謝しますよ、紫さま」
「あなたと会ったのは何年前だったかしら」
「ちょうど十年前ですよ。忠行さまに連れられて参りました」
「もうそんなに経つのね。あらこちらの方は」
八雲紫は博雅と妹紅の方に目をやる。
「源博雅さまと藤原妹紅さまね。話は聞いているわ」
博雅を見、妹紅を見て八雲紫は、妖艶に微笑んだ。
当てられるような色香を放つ女である。
しかし常に孤を描く口元が、どこかひょうひょうとした胡散臭さを出している。
それが奇妙に中和しあっていて不快ではない。
「では行きましょうか」
紫は無造作に手を宙にかざす。
それだけで刃物で切り裂いた様な裂け目が現れる。
裂け目の中では瞳がうごめいている。
「太古の八ヶ岳は人では到底登れないわ。わたしが案内するから、あとに付いてきてね」
八雲紫は裂け目に入り、手招きをする。
ここではない彼岸から鬼が人を呼んでいるようだ。
その不可思議な光景に、妹紅がいち早く足を踏み出した。
博雅が止めようとするが、それよりも早く妹紅は裂け目に踏み込む。
体を全て裂け目の中に入れると妹紅は振り向いた。
「どうやら大丈夫みたいだ。二人とも安心していいぞ」
「あら、これは一本取られたわ」
「わたしは誰にも殺されないからな。毒見役にはぴったりだ」
妹紅は紫を見上げて口の端を尖らせ不敵に笑った。
「ともかく何も仕掛けてませんから、大丈夫ですわ。恐れずいらっしゃい」
「行こうか、博雅」
「おう」
牛車の時とは違い裂け目を抜けるのは一瞬だった。
一歩踏み出した瞬間、そこは八ヶ岳の山頂だった。
天に近いだけ、周りは月の光に照らされ存外に明るい。
周囲には若干低い峰が幾重にも連なっている。
しかしどれもここより高くはない。
やはりここが八ヶ岳の山頂であるようだ。
周りは荒涼とした岩ばかりである。
まばらに背丈の低い高山植物がてんてんと生えている。
吹き抜ける風は強い。
思わず博雅は烏帽子を抑えた。
狩衣の袖が風ではためく。
「風が強いわね、天狗が悪戯でもしているのかしら。鬼には話を通したのだけれど」
ここ八ヶ岳では鬼を中心とした一つの国が作られていると八雲紫は言う。
その中には天狗もいて、時折他のものにちょっかいをかけることがあるらしい。
何度か周囲を見渡すと紫は新たに小さな裂け目を開くと、小声で話し出す。
「もうすぐ風も止むわ」
そして言葉通り、風は止まる。
無風ではなく、ごく僅かに緩やかに吹いている。
「この札を懐に入れておけ。おれが良いと言うまで、決して声をあげるなよ」
晴明は博雅に一枚の札を手渡し、忠告する。
博雅は無言でうなづいた。
「さて、妹紅さま始めましょうか」
晴明は懐から蓬莱の薬壜を取り出した。
蓬莱の薬壜は文字がびっしりと書き込まれた布に包まれている。
それをくるくるとはがす。
半透明の薬壜は変わらぬ輝きを放っている。
晴明はそれを手頃な岩の上に置くと、最後の封印である札を取り去った。
途端に半透明の薬壜がじょじょに曇りだしていく。
白から次第に黒く黒く。
薬壜の中で瘴気が練り上げられていくようであった。
しだいに透明度が損なわれていく蓬莱の薬壜に妹紅は近寄ると手をかざす。
瞬間、炎が爆ぜた。
妹紅の名前の如く、紅い炎が上がる。
常人ならば一時も耐えられない炎を妹紅は顔色一つ変えず、手に纏わせている。
そして何人も傷つけられぬ輝きを持っていた蓬莱の薬壜は次第に溶け出していく。
ぬらぬらと炎に焼かれる飴の如く。
空には一筋の煙が上がりだす。
人を不老不死にする蓬莱の薬ならば、永遠に燃え続ける。
しかしもはや薬はこの世になく、いつかは煙も消えていく。
全てが跡形もなく消え去ったのち、妹紅は手を閉じて拳を作る。
炎は消えていた。ただ残り香が宙を舞っている。
岩の上には灰一粒とて残ってはいなかった。
「――妹紅姫。我らの使命を、よくぞ果してくれました」
ぼうっとしたもやのようなものが妹紅の前に浮かんでいる。
妹紅の眼は驚愕に大きく開かれている。
「調岩笠……」
無意識のうちに妹紅はその名を口にした。
大きくもやが揺れ、鮮明な形を描き出す。
弓に大振りの太刀を携えた、戦装束の男である。
呪の元、調岩笠であった。
「これで帝の元に参ることができまする。おおうれしやうれしや……」
「待て!おまえはわたしを――」
妹紅の言葉が終わらぬうちに、調岩笠はふっと消えた。
「妹紅さま、引き止めてはなりませぬ」
晴明が妹紅をやんわりと制した。
「呪はわたしに向いていたのではないのか……調岩笠を殺したのは……」
「調岩笠は、誰に殺されたか分からなかったのです。恨みたくとも恨む者がいない。そして次第に帝への忠誠心だけが残ったのです。呪はそれが歪んで現われていたのですよ」
晴明は言い聞かせるようにとうとうと言葉を紡ぐ。
「調岩笠は、妹紅さまを信じていたのですよ。あなたが使命を果たすことを」
「調岩笠は、わたしを信じて三百年待ったのかよ」
誰に尋ねるでもなく妹紅は言った。
先ほどまで炎が舞っていた名残は、今はもうどこにもない。
妹紅の髪が寂しく風に揺れていた。
庭に面した廊下で源博雅と安倍晴明、それに藤原妹紅は酒を飲んでいる。
どこにあるとも知れない夜の八雲邸であった。
晴明の屋敷の庭以上に雑多な庭であり、全く手入れがされていない。
しかも四季折々の植物が全て咲き誇っている。
季節は秋の終わりだと言うこと、この庭の装いは全く感じさせない。
季節自体が狂っているかのようだった。
「すごい庭だな」
「ああ」
「これも豪華だが、おれはやはりその季節でしか見られぬものが好きだ」
言い終えたのち博雅は杯を口に運ぶ。
深い赤色をした酒である。
口にしたことのない豊穣な味だった。
どうやら大陸の唐国よりもさらに西で作られる異国の酒らしい。
「果実から作ったお酒よ。口に召して」
八雲紫は杯を手にしたまま言った。
縦に長く細い奇妙な杯を使っている。これもまた異国のものであるらしい。
「飲みなれぬものだが、なかなか」
「晴明よ、うまいときは素直にうまいと言うものだぞ」
「わたしにもう一杯くれないか」
妹紅が酌をする晴明の式神におかわりを要求する。
顔がすでに赤い。
蓬莱人と言えど、酒には酔うのだ。
「晴明さま、此度はわたしのわがままを聞き入れてくれてありがとう。感謝している」
酒を一口飲んだのち妹紅は口を開くと唐突に言った。
元々妹紅が晴明を訪ねたのは出立の直前である。
それまでは晴明は他の方法で調岩笠の呪を解こうとしていた。
「あれが最も良い収め方だったのですよ。妹紅さまがいなければわたしは調岩笠に新たな呪を掛けねばなりませんでした」
そう言って晴明は本来使うはずだった札を懐から取り出した。
それぞれに違った文字が隙間なく書き込まれている。
「これはもう用済みですよ」
「ならわたしにくれないかしら」
八雲紫が札に手を伸ばす。
しかし晴明は素早くそれをかわすと、再び懐に札を仕舞い込んだ。
「あら残念。安倍晴明直筆の札なら良い呪具になると思ったのに」
言葉とは裏腹に紫の表情からは札への未練は伺えない。
思いついたから言ってみた程度のものである。
「――笛を聞きたいな」
大分酔いが回ったのか妹紅は外見相応の口調で言った。
「笛か。おれも聞きたい」
「わたしもよ」
妹紅の言葉に晴明と紫も同意を示した。
博雅は懐から鬼と交換した笛、葉二を取り出す。
「わたしも吹きたいと思っていた」
博雅は笛に口をつけ、息を吹き込んだ。
ゆるやかに吹く。
ただ吹く。
笛の音は天地へと浸透し混ざり溶け合っていく。
人も、鬼も、神も、世界も、原初の混沌でさえも揺さぶる笛の音が八雲邸を包み込む。
いかなる存在であろうとも止めることはできない。
この瞬間博雅は天地の理と一体になっているからだ。
そして天地の理は誰にも変えられない。
変える必要がない。
博雅の笛が鳴り止んでも誰も何も口にしようとしない。
大気にはまだ笛の音色の余韻が満ちているからだ。
やがて八雲紫はささやくように言った。
「これが、源博雅さまの笛……」
八雲紫は本当に長い間生きてきた。それこそこの国の起こりを影から見ていたこともある。
その長い生の中で、これほどの笛は初めてだった。
おそらく短命な、人にしか至ることのできないものがこの世にはあるのだ。
紫のような異形では決して辿り着けない場所が。
「二人ともここに、幻想郷に住まないかしら。あなたたちが住む都よりきっとずっと楽しいわ」
一瞬、紫は心の奥底に閉じ込めていたことを口に出してしまった。
「八雲紫さま、お誘いは嬉しいですが、わたしは都が好きなのです」
博雅は紫の誘いを断った。
博雅にはこの狂った庭のような幻想郷は、たぶん合わない。肌で感じていた。
「ここで暮らす。それも楽しそうですが……存外に都も楽しいものですよ」
晴明は紫の誘いを断った。
博雅と知り合って、都での生き方も悪くはないと晴明は思っている。
「答えなんて分かってたわ。言ってみただけよ。でも、残念ね……仕方ないからこっちからあなたの笛を聞きに行くわ」
普段と同じ、考えを読ませない妖しい笑みを紫は浮かべる。
「あなたはどうかしら。藤原妹紅」
そして妹紅に言葉をかけた。
「わたしは、まだあちこちを見て回るつもり」
「永遠というのは今から気張ると後が大変よ」
「それにまずはこれを秀郷に返さなければいけないよ」
懐から柄と下緒が鮮やかな朱色で彩られた美しい刀を取り出した。
妹紅が秀郷から渡された護神刀である。
妹紅の父、藤原不比等が作らせたものだ。
父の形見のようで懐かしいが、借りたものは返さなければならない。妹紅はそう思っている。
「でも、いつかは厄介になるかも知れない」
「待っているわ。永遠の時の淵で、また会いましょう」
東の空がわずかにだが白んできている。
夜明けが近く、夜更かし屋の宴もお開きが近い。
この時を名残惜しむように、紫はゆっくりと酒を飲んだ。
八雲紫は気だるげな午睡から唐突に目を覚ました。
プリズムリバー三姉妹の演奏である。
だがその中に耳にしたことのある音色が聞こえたのだ。
洋楽器と和楽器の違いや奏者の腕前などで多々違いはあるが、それは確かにあの曲だった。
流泉、啄木の秘曲である。
何百年も前ですら、すでに奏でる者が絶えようとしていた曲だ。
もう外界では伝える者がだれもいなくなってしまった。
幻想になったからこそ幻想郷に入っている。
安倍晴明と源博雅、藤原妹紅と酒を飲んだ日からすでに八百年は経とうとしている。
「紫さま。いい加減に起きて下さいな」
紫の式神、八雲藍がふすまを開け部屋に入る。
「もう起きてるわよ」
返事を返すと、紫は布団の上に胡坐をかき座る。
「藍、笛を持ってきて。久し振りに吹きたい気分なの」
「紫さまが楽器ですか。本当に久々ですね」
藍は昔を懐かしむように、目を細めた。
八雲の式となった直後はよく紫と演奏をしたものだった。
紫は笛で、藍は琵琶である。
「良いですね。わたしも久々に琵琶を出してきましょう。といっても調律しなければ使えませんがね。ともかく着替えて下さい」
そう言って藍は部屋を出ていった。
藍のことだから橙も連れてくるかもかも知れない。
たぶん橙に藍は楽器を教えたがるだろうから。
その光景を想像し、紫はくすりと柔らかく微笑んだ。
それが昔の紫と藍、そして博雅と楽器を習い始めた頃の紫にも重なるからだった。
外からは未だにプリズムリバー三姉妹によってアレンジされた流泉と啄木が響いていた。