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[8544] 安倍晴明幻想郷にて調の呪を鎮めること(夢枕獏版陰陽師×東方 掌編)
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2009/07/20 01:41
 とうに秋も半ばを過ぎ去っている。
 権勢を奮っていた秋の虫たち。
 蟋蟀。
 鈴虫。
 管巻。
 いずれの鳴き声も、まばらである。
 互いに競いあうようなこともなく、ただ流々と鳴いている。
 何より天にも届かせようとする力強さが、虫たちからは失われている。
 去っていく秋を、偲んで鳴いているようであった。
 命が消える前の最後の一鳴きをしているようであった。
「なあ晴明。虫がこうして寂しげに鳴くのもまた良いものだと思わぬか」
 右手の杯から酒を飲みながら虫の音を聞き入っていた源博雅がつぶやいた。
 平安京土御門小路にある、安倍晴明の屋敷である。
 庭は一見して荒れ放題になっているが、何がしかの力でも働いているのか、奇妙な調和が取れている。
 造られた庭とは違う、天然の美である。
 すでに日は落ちかけている。
 秋の終わりは冬の訪れでもあり、風が吹くと少しだけ、肌寒い。
 安倍晴明と源博雅は庭に開けた廊下に胡坐をかき座っている。
「しかしこうして聞き入っていると、おれまで虫たちと共に消えてしまうような気がしてしまうのだよ」
「消えるなどとは、妄りに口にしないほうがよいぞ」
「なに?」
「言葉には力があるからな。常に消える消えると言っていれば、本当に消えてしまう。見える見えると思っていれば、見えぬ鬼でも見えてしまう」
「ふうん、そういうものか」
「そういうのものだ」
 妖しげな微笑を貼り付けたまま晴明は床に置いた杯を取り、口に運ぶ。
 用意した酒やつまみはあらかたなくなっている。
 二人の体へと溶けていったのだ。
 博雅も晴明にならい、残りの酒を口に含んだ。
「さて博雅よ、何か用があって来たのではないか」
「おう」
「ならばそれを聞くとしよう」
 うむ、と博雅はうなづく。
 新たな酒とつまみを晴明の式神が運んで来る。
 空の杯が澄んだ酒で満たされるのを待って、博雅は口を開いた。
「晴明――蓬莱の薬、というものを知っているか」
 蓬莱の薬とはかぐや姫が月へと帰る際、時の帝に渡した不老不死の霊薬である。
 かぐや姫の帰りを悲しんだ帝の命により、富士山の山頂で焼かれ葬られている。
 実に今より三百年も昔のことである。
「その薬がな、今になって出てきたのだ」
「ほう」
 晴明が素っ気なく答える。
 博雅の言うことを全て承知していたかのようである。
「何だ、知っていたのか」
「いやすまん、知っていた。さるお方から相談を受けたのさ」
杯から酒を口に含んだのち、晴明は言った。
「藤原秀郷さまの屋敷だ」
「秀郷さまの屋敷に蓬莱の薬があるのか」
「正確には、ない」
「どういうことだ晴明」
「中身が、ない。見つかったのは入れ物だけだ」
「中身が、ない――」
 不老不死の霊薬は、すでにない。
 いずこへ零れたか。
 はたまたいずれかが飲んだのか。
「これから秀郷さまの屋敷を訪ねる。ゆくか」
「良いのか」
「良い」
「ならばゆこう」
 そういうことになった。




 藤原秀郷――二十年以上前の平将門討伐の立役者である。
 人外の者と化した平将門と二度も切り合い、生き延びている。
 並の胆力ではない。
 平安随一の武士である。
 大きな男であった。
 肉体はとうに盛りを過ぎているが、それでもなお全身に精気を巡らしている。
 晴明と博雅と藤原秀郷と対面するように座っている。
 秀郷の屋敷である。
 以前一度訪れた時とほとんど変わっていない。
 華美な調度品の少ない部屋である。
 晴明、博雅と秀郷の間には半透明の壜が置かれている。
 片手の十分に持てる小さなものである。
 見ようによっては唐国伝来の白瑠璃椀にも似ているかも知れない。
 いずれにせよ日本で作れる代物ではない。
「これが蓬莱の薬壜で御座いますか」
「そうだ」
「美しいものですね、ですが――危のうございます」
 晴明は率直に言った。
「やはり判るか。口の部分には封をしてある。叡山の坊主が写経したものだ」
「呪が籠っております」
「呪か」
「恐らくは――調岩笠の呪」
 三百年ほど前、調岩笠は蓬莱の薬を焼くために富士山へと登った。
 富士山は月に最も近い場所。
 月のかぐや姫に最も近い場所。
 帝の命を受けて富士へ向かった調岩笠は、帰らなかった。
「帝の命を全うできなかったことへの無念。それがこの呪でござりましょう」
 調岩笠は恐らく死んだ。
 帝の信頼に応えることができずに。
 その無念が呪を生み出し、最も執着していた蓬莱の薬壜に宿ったのだ。
「何故このようなものが秀郷殿の元にあるのでしょう」
 それまで黙っていた博雅が唐突に口を開いた。
「博雅さまはかぐや姫に求婚した五人をご存じでしょうか」
 晴明に向いていた視線を秀郷は博雅に移す。
「石作皇子、大伴御行、石上麻呂、阿倍御主人、藤原不比等の方々ではなかったかな」
「その通りで御座います」
 秀郷はうなづいた。
「藤原不比等さまと言えば秀郷さまの祖にも当たる方ではないか」
「いかにも、我が祖不比等は内密に富士山へと人を遣ったのです。理由は伝えられておりませぬ。ただ同時期に不比等の娘が一人行方知れずになったとの伝えがあります」
「なんと、そのようなことが」
「調岩笠と兵士の一団は皆殺しだったそうです。そして富士山から不比等の元へもたらされたのが、蓬莱の薬壜と伝わっております」
 秀郷の言葉を聞き、博雅は蓬莱の薬壜に目をやった。
 初めに目にしたときと変わらぬ輝きを放っている。
 大陸伝来の一級品にも劣らぬ輝きだ。
 だが、そこには一抹の不安がある。
 見るなと言われれば返って見たくなる。
 入るなと言われれば返って入りたくなる。
 そんな禁忌をあえて犯そうとするような好奇心を孕んだ不安である
 引き込まれそうになるのだ。
 博雅は、薬壜に手を伸ばし封印を剥がし取ってしまいたくなる誘惑に駆られた
「秀郷さま、よろしければ蓬莱の薬壜を仕舞われてはいかがでしょか」
「おう」
 晴明は持参した白木の箱に蓬莱の薬壜を仕舞い、蓋をした。
「さて晴明殿、蓬莱の薬壜の件、頼まれてくれるな」
「――承知いたしました」
「そうか、それは良かった。こういう妖しものは黄金丸で断ち切るという訳にもいかぬからなあ」
 安堵したように秀郷は言葉を漏らした。
 秀郷自身は神気の込められた黄金丸と鎧によって守られている。
 近江三上山の大百足を退治した際に琵琶湖の龍神一族から送られたものである。
 しかし屋敷の家人たちはそうではない。
 呪を恐れる家人たちを安心させるために秀郷は晴明に相談したのであった。
「晴明殿、どうやって片を付けるのだ」
「燃やします」
「なに!」
「調岩笠は帝の命を果たせませんでした。ならば我らが燃やして調岩笠の無念を静めます」
「ほう、ではいつ燃やすのだ」
「すぐに燃やすことは出来ません。ある場所へ行かねば」
「いずこで燃やすのだ」
 興味をそそられた秀郷は心持身を乗り出し、言った。
 晴明は静かに呼気を一つ吐く。
 そしてゆっくりと、言葉を紡ぎだした
「――八ヶ岳、でございます」




 夜の平安京を彩る闇は深い。
 黒よりもむしろ紫に近い。
 朱雀門から羅城門までを貫く朱雀大路を牛車は一台進んでいる。
 安倍晴明の牛車である。
 ごとごとと車輪を回し、進んでいく。
「しかし、八ヶ岳とはなあ」
 博雅は困ったように言った。
「何だ、博雅は行きたくないのか」
「そういう訳ではない、ただ八ヶ岳とは……」
 八ヶ岳は遠い。
 満足な交通手段のないこの時代、遠出は大変な苦労であった。
 まして晴明と博雅は宮仕えの身である。
 そうそう都を留守にしてはいられない。
「心配ないさ。以前、神泉苑の池から天竺まで行ったことがあるだろう。あれと同じことをやるのさ」
 澄ました顔で晴明は笑う。
 博雅の失われた葉二を探して、晴明と博雅そして琵琶の名手蝉丸法師の三人は一 夜のうちに天竺まで赴いたことがある。
 そこで彼らは夥しい数の神々の宴を目にしたのだ。
 博雅の笛と蝉丸の琵琶に合わせて月光の下で天に昇る金色の龍と、舞い踊る巨大な神々。
 博雅、生涯忘れぬ光景であった。
「むむむ」
「どうだ」
「ならば行こう」
 博雅は腹の内を決めた。
 晴明が良いと言っているのだから、良いのだろう。
「それにな、行くのは八ヶ岳であって八ヶ岳ではない」
「なに、どういうことだ晴明」
 晴明の要領を得ぬ言葉に博雅がいぶかしむ。
「富士山の浅間と八ヶ岳の権現がどちらの山が高いかで争ったという話を知っているか」
「おう、権現に負けた浅間が悔しがり、権現の八ヶ岳を叩いて低くしてしまったというやつだな」
「そこだ、博雅」
「むむ」
「背比べ以前の、富士山より高かった八ヶ岳。そこに行くのだよ」
「なんと」
 博雅は驚いた。
 晴明の突拍子もない言葉にである。
 この世のどこに富士より高い八ヶ岳があるというのか。
「東国の何処か、正確な場所はおれも知らんのさ。陰態を通って行くのだからな」
「陰態……いつぞやの応天門の時と同じ、百鬼夜行の中をか」
「そうさ」
 博雅は以前にも二度、晴明に連れられて百鬼夜行の中を通っている。
 そのため過剰な恐れはない。
 陰態の中では晴明に従っていれば、危険はないと分かっている。
「とは言えすぐにとはゆかぬ。手配せねばならぬことがあるのでな。その時になったら知らせる」
「おう、わかった」
 ごとごとと車輪を回し、牛車は都を進む。
 夜の深い闇の中に、牛車の立てる音すらも吸い込まれすぐに消えていく。
 平安の夜は、まだ明けない。




 藤原秀郷は眠りから覚醒した。
 寝所に入ったまま常に身近に置いている黄金丸を引き寄せる。
 若き頃より戦いの中に身を置いてきた秀郷である。
 不穏な気配を感じ取る勘の良さは衰えていない。
 ゆっくりと立ち上がる。
 屋敷の庭に秀郷は降りた。
 秋も終りである。秀郷は簡素な直垂を着ているが、外気が肌寒い。
 上弦には欠けることのない望月。
 惜しみなく妖しい月光を振りまいている。
 月光の下で、少女が一人立っている。
 足元まで届きそうな長い白髪が秀郷の目を引いた。
 白というよりはむしろ銀に近いかもしれない。
 平安の夜に銀髪の少女。
 明らかに人間ではない。
 秀郷は黄金丸に手をかけた。
 神気が吹きこまれた黄金丸で付けられた傷は、二十年塞がらない。
「あー、ちょっと待ってよ。わたしは人、たぶん。少し変わってるけど異形じゃない」
 少女は困った様子で言った。
 自らを人という少女である。
 普通ではない。
 しかし語りかけてくるということは、何かしら話したいということだ。
 ならばそれに乗ってみるの一興。
 秀郷は刀から手を離した。
「このような時刻に何の用だ」
「藤原秀郷。藤原房前の孫……わたしはね秀郷、あなたの大おばさまに当るようだ」
「不比等さまの娘というのか、三百年前も前のことだぞ」
「年を取らないんだ、わたしは」
 自嘲するかのように、不比等の娘は笑みを顔に貼り付けた。
「消えた不比等の娘――蓬莱の薬を飲んだのか」
「その通り、わたしの大甥は理解が早い。正真正銘不老不死の蓬莱人、藤原妹紅さ」
 藤原妹紅――真に藤原不比等の娘であった。
「なんと」
 秀郷の口から驚きの声が漏れる。
 妹紅について藤原家には多くのことは伝わっていない。
 ただ家系図にその存在が示唆されるのみである。
「大おばさまとは呼ばないでくれよ。わたしも甥とは呼ばないさ」
「むう」
「手短にいこう。――蓬莱の薬壜を取りにきた。あれはわたしが始末する」
 藤原妹紅は要件を切りだした。
 妹紅は風の噂で蓬莱の薬壜のことを聞いた。それに呪のことも。
 そして妹紅は呪をその身に引き受ける腹積もりだった。
 呪もいつかは消えよう。そこまで待つのもいい。
――なぜなら、自分は永遠に生きる身だから。
「悪いが蓬莱の薬壜はもうここにはない」
「……ではどこに」
「安倍晴明に片を付けるよう頼んだのだ。今は晴明が持っている」
「む、一足遅かったか。夜分にすまなかった」
 秀郷に詫びの言葉を言うと、妹紅は背を向け立ち去ろうとした。
「待て、晴明の屋敷に行くのか」
 秀郷は妹紅を呼びとめた。
 妹紅は振り返る。
「ならばこれを持って行け、紹介状の代わりにでもなろう」
 秀郷は一振りの小振りな刀を手に持った。
 短い刀である。懐剣とも護神刀ともいえるだろう。
 柄と下緒が鮮やかな朱色で彩られた美しい刀である。
「藤原不比等さまが作らせた刀だ。晴明ならばわかるはず」
「わかった。礼をいう」
 簡潔に、それだけ言うと妹紅は塀を飛び越え大路へと去って行った。
 月の光を受けた輝く銀の髪が宙を舞った。
 あたかも夢のようにおぼろげな邂逅だったと秀郷は思う。
 藤原妹紅は今も夜の平安京を一人、歩いているのだ。
 それは人というより鬼、妖しのものに近い。
 だが、普通の人とて情念が強ければ鬼に変じる。
 それは人がうつろうものだからである。
 ならば不老不死、ある意味で不変な妹紅は鬼にはならない。
 なろうと思ってもなれない。
「あの刀、父上は吾亦紅と呼んでいたな」
 誰に聞かせる訳でもなく、秀郷はつぶやいた。




 四条大路を一台の牛車が進む。
 時刻はすでに黄昏時である。
 東の空には十六夜の月の昇り始めている。
 車の簾からは時折風が吹き込む。
 車に載っているのは安倍晴明、源博雅、藤原妹紅の三人である。
 晴明と博雅は狩衣に烏帽子、妹紅は水干のようだが、自ら切ったのか袖丈は短い。
 長い髪を纏めもせず無造作に垂らし沈黙したまま、妹紅は座っている。
 元は殿上人にも関わらず歯も黒く染めておらず、眉も抜いていない。
 しかしそれが妹紅には似合っている。
 博雅が妹紅と会ったのはつい先ほどである。
 知らされた時刻通りに晴明の屋敷を訪ねた時に初めて、晴明から名前と素性を聞かされたのだ。
 藤原秀郷殿から紹介されたこと。
 ある理由から八ヶ岳まで共に赴くこと。
 そして、藤原不比等の娘であり、蓬莱人であること。
 一見してただの少女が、老いもせず死ぬこともない蓬莱人なのだ。
 博雅はこれより前に蓬莱人ではないが、同じ不老不死の女と会ったことがある。
 千年狐に人魚の肉を貰い、食した白比丘尼。
 生まれ、生き方と白比丘尼と藤原妹紅の間に似通っている点は少ない。
 にも関わらず両者の瞳には共通の色が刻まれている。
 不変故に流転できず置いていかれた者の哀愁である。
 人は彼女らと関わり、時には楔のような記憶を残すことができる。しかし共に流れることはできない。
 ――人でありながら、人でなくなったもの、か
「わたしの顔に何か付いてるかい」
 博雅の視線に気づいたのか妹紅は顔をあげた。
「い、いえ、何でもありませぬ。妹紅姫」
 博雅は咄嗟に受け答えに窮した。
 藤原妹紅は三百年前とは言え、あの藤原不比等の娘である。
 殿上人の娘と顔をつき合わせているという事実が博雅を戸惑わせた。
「妹紅姫と呼ぶのは簡便してくれないか。わたしが姫だったのはもうずっと昔のこと。ただ妹紅と呼んでくれればいい」
 博雅が答える前に、妹紅は言葉を続けた。
「ところで、博雅さまは当代一の笛の名手と聞く。いつかその笛を聞きたいものだ」
 よもや笛を所望されるとは博雅は思いもしなかった。
 しかし妹紅とて元は貴族である。
 楽器を嗜んでいても、不思議ではない。
「――承知致しました。いつか必ず」
 博雅は微笑しながらうなづいた。
 そこまで話したところで、博雅は地を回る車輪の音が消えていることに気が付いた。
 以前陰態に入ったときと同じである。
 博雅にはいつ陰態に入ったかわからない
 現世と陰態には境界があるのだろうが、それはどうも朝の霧の如く移ろいやすいものらしい。
「なあ晴明、簾を開けてもよいものだろうか」
「いいさ。この牛車はおれの造った結界になっている。ただし前と同じく、何を見ても決して声を上げるなよ。妹紅さまも決して声を上げてはなりません」
「わかった」
 興味深そうに妹紅は簾を見つめた。
 博雅の手がするすると簾を上げる。
 そこに夜の平安京はなかった。
 東天に上っているはずの十六夜の月も消えている。
 そこにはただ闇がある。
 闇の中を異形のものたちが走り回っている。
 火の付いた骨を持つ鳥のようなもの。
 烏帽子を被った大きな蛙。
 角だらいに手足が生えたもの。
 虎頭の僧。
 千差万別の異形が無数に駆け回っている。
 しかしその中でも一際目を引くものがある。
 闇の中、そこら中に現れては消える瞳である。
 瞬きをするように消えてまた現れる。
 それが終わりなどなくどこまでも続いている。
 陰態は人によって見るものが違うとも言われている
 しかし博雅には少なくともそう見えた。
 晴明は手を伸ばし、簾を下げた。
「もういいだろう。あまり長く見て良いものではない」
 途端に車の中の空気が新鮮さを増した。
 知らず知らずのうちに瘴気が入り込んで来たようだった。
「すごいな。わたしも調伏の真似ごとをしているが、あれほどの数は見たことがない」
 妹紅は感心した様子で言った。
 瘴気も妹紅には何ら害を及ぼしていないようであった。
「晴明、あの目は何だ。前はあんなものは見なかったぞ」
「わたしも見たぞ」
 博雅の言葉に妹紅も同調する。
 無数の目を見たのは博雅だけではなかった。
 簾で仕切られた結界の外では、今も無数の瞳が牛車を見つめている。
 一度意識してしまえば、車の隙から覗かれているような感覚を覚え、博雅は背筋が寒くなった。
 妹紅も同じことを考えたのか、落ち着かない様子でしきりに辺りを見回している。
 ただ晴明だけが、澄まし顔で笑みを貼り付けている。
「八雲紫の隙間を覗く瞳さ。先に話を付けて置いたが……どうやら協力してくれるようだ」
「なあ晴明」
「なんだ」
「その八雲紫という方が協力を拒んだら、どうするつもりだったのだ」
「そのときはそのときさ。他にも方法はある」
 晴明は前の簾を少し持ち上げる。
 牛車の先を晴明は見た。
 幾千幾万の瞳と異形の先に、闇に入れられた切れ込みがある。
 牛車が目指す先はそこである。
 陰態と現世の境界が近い。
「もうじき着く」
「じきか」
「じきだ」




 どこをどのように通って来たのか博雅と妹紅にはよく分からない。
 ただ唐突に地面を動く車輪の振動が感じられるようになった。
 同時に虫や鳥の鳴く音などもまばらだが、耳を澄ますと聞くことができる。
「着いたのか、晴明」
「着いたさ。もう降りても構わない」
 晴明の言葉を聞いた妹紅が真っ先に牛車から降りる。
 そして博雅、晴明があとに続いた。
「あれが八ヶ岳さ」
 晴明は指をさす。
 前方には月光に照らされた大山、八ヶ岳があった。
 遥か遠方の筈なのに、その峰の高さは少しも劣っては見えない。
 富士より高い八ヶ岳が、そこにはあった。
「待っていたわ」
 牛車の影から艶やかな女の声がした。
 どこから湧いて出たのだろうか、つい先ほどまでは誰もそこにはいなかったはずである。
 異人の女が、立っていた
 流れる長髪は鮮やかな金色、なりは唐風である。
「ようこそ幻想郷へ、大陰陽師安倍晴明さま」
「道中案内感謝しますよ、紫さま」
「あなたと会ったのは何年前だったかしら」
「ちょうど十年前ですよ。忠行さまに連れられて参りました」
「もうそんなに経つのね。あらこちらの方は」
 八雲紫は博雅と妹紅の方に目をやる。
「源博雅さまと藤原妹紅さまね。話は聞いているわ」
 博雅を見、妹紅を見て八雲紫は、妖艶に微笑んだ。
 当てられるような色香を放つ女である。
 しかし常に孤を描く口元が、どこかひょうひょうとした胡散臭さを出している。
 それが奇妙に中和しあっていて不快ではない。
「では行きましょうか」
 紫は無造作に手を宙にかざす。
 それだけで刃物で切り裂いた様な裂け目が現れる。
 裂け目の中では瞳がうごめいている。
「太古の八ヶ岳は人では到底登れないわ。わたしが案内するから、あとに付いてきてね」
 八雲紫は裂け目に入り、手招きをする。
 ここではない彼岸から鬼が人を呼んでいるようだ。
 その不可思議な光景に、妹紅がいち早く足を踏み出した。
 博雅が止めようとするが、それよりも早く妹紅は裂け目に踏み込む。
 体を全て裂け目の中に入れると妹紅は振り向いた。
「どうやら大丈夫みたいだ。二人とも安心していいぞ」
「あら、これは一本取られたわ」
「わたしは誰にも殺されないからな。毒見役にはぴったりだ」
 妹紅は紫を見上げて口の端を尖らせ不敵に笑った。
「ともかく何も仕掛けてませんから、大丈夫ですわ。恐れずいらっしゃい」
「行こうか、博雅」
「おう」




 牛車の時とは違い裂け目を抜けるのは一瞬だった。
 一歩踏み出した瞬間、そこは八ヶ岳の山頂だった。
 天に近いだけ、周りは月の光に照らされ存外に明るい。
 周囲には若干低い峰が幾重にも連なっている。
 しかしどれもここより高くはない。
 やはりここが八ヶ岳の山頂であるようだ。
 周りは荒涼とした岩ばかりである。
 まばらに背丈の低い高山植物がてんてんと生えている。
 吹き抜ける風は強い。
 思わず博雅は烏帽子を抑えた。
 狩衣の袖が風ではためく。
「風が強いわね、天狗が悪戯でもしているのかしら。鬼には話を通したのだけれど」
 ここ八ヶ岳では鬼を中心とした一つの国が作られていると八雲紫は言う。
 その中には天狗もいて、時折他のものにちょっかいをかけることがあるらしい。
 何度か周囲を見渡すと紫は新たに小さな裂け目を開くと、小声で話し出す。
「もうすぐ風も止むわ」
 そして言葉通り、風は止まる。
 無風ではなく、ごく僅かに緩やかに吹いている。
「この札を懐に入れておけ。おれが良いと言うまで、決して声をあげるなよ」
 晴明は博雅に一枚の札を手渡し、忠告する。
 博雅は無言でうなづいた。
「さて、妹紅さま始めましょうか」
 晴明は懐から蓬莱の薬壜を取り出した。
 蓬莱の薬壜は文字がびっしりと書き込まれた布に包まれている。
 それをくるくるとはがす。
 半透明の薬壜は変わらぬ輝きを放っている。
 晴明はそれを手頃な岩の上に置くと、最後の封印である札を取り去った。
 途端に半透明の薬壜がじょじょに曇りだしていく。
 白から次第に黒く黒く。
 薬壜の中で瘴気が練り上げられていくようであった。
 しだいに透明度が損なわれていく蓬莱の薬壜に妹紅は近寄ると手をかざす。
 瞬間、炎が爆ぜた。
 妹紅の名前の如く、紅い炎が上がる。
 常人ならば一時も耐えられない炎を妹紅は顔色一つ変えず、手に纏わせている。
 そして何人も傷つけられぬ輝きを持っていた蓬莱の薬壜は次第に溶け出していく。
 ぬらぬらと炎に焼かれる飴の如く。
 空には一筋の煙が上がりだす。
 人を不老不死にする蓬莱の薬ならば、永遠に燃え続ける。
 しかしもはや薬はこの世になく、いつかは煙も消えていく。
 全てが跡形もなく消え去ったのち、妹紅は手を閉じて拳を作る。
 炎は消えていた。ただ残り香が宙を舞っている。
 岩の上には灰一粒とて残ってはいなかった。
「――妹紅姫。我らの使命を、よくぞ果してくれました」
 ぼうっとしたもやのようなものが妹紅の前に浮かんでいる。
 妹紅の眼は驚愕に大きく開かれている。
「調岩笠……」
 無意識のうちに妹紅はその名を口にした。
 大きくもやが揺れ、鮮明な形を描き出す。
 弓に大振りの太刀を携えた、戦装束の男である。
 呪の元、調岩笠であった。
「これで帝の元に参ることができまする。おおうれしやうれしや……」
「待て!おまえはわたしを――」
 妹紅の言葉が終わらぬうちに、調岩笠はふっと消えた。
「妹紅さま、引き止めてはなりませぬ」
 晴明が妹紅をやんわりと制した。
「呪はわたしに向いていたのではないのか……調岩笠を殺したのは……」
「調岩笠は、誰に殺されたか分からなかったのです。恨みたくとも恨む者がいない。そして次第に帝への忠誠心だけが残ったのです。呪はそれが歪んで現われていたのですよ」
 晴明は言い聞かせるようにとうとうと言葉を紡ぐ。
「調岩笠は、妹紅さまを信じていたのですよ。あなたが使命を果たすことを」
「調岩笠は、わたしを信じて三百年待ったのかよ」
 誰に尋ねるでもなく妹紅は言った。
 先ほどまで炎が舞っていた名残は、今はもうどこにもない。
 妹紅の髪が寂しく風に揺れていた。




 庭に面した廊下で源博雅と安倍晴明、それに藤原妹紅は酒を飲んでいる。
 どこにあるとも知れない夜の八雲邸であった。
 晴明の屋敷の庭以上に雑多な庭であり、全く手入れがされていない。
 しかも四季折々の植物が全て咲き誇っている。
 季節は秋の終わりだと言うこと、この庭の装いは全く感じさせない。
 季節自体が狂っているかのようだった。
「すごい庭だな」
「ああ」
「これも豪華だが、おれはやはりその季節でしか見られぬものが好きだ」
 言い終えたのち博雅は杯を口に運ぶ。
 深い赤色をした酒である。
 口にしたことのない豊穣な味だった。
 どうやら大陸の唐国よりもさらに西で作られる異国の酒らしい。
「果実から作ったお酒よ。口に召して」
 八雲紫は杯を手にしたまま言った。
 縦に長く細い奇妙な杯を使っている。これもまた異国のものであるらしい。
「飲みなれぬものだが、なかなか」
「晴明よ、うまいときは素直にうまいと言うものだぞ」
「わたしにもう一杯くれないか」
 妹紅が酌をする晴明の式神におかわりを要求する。
 顔がすでに赤い。
 蓬莱人と言えど、酒には酔うのだ。
「晴明さま、此度はわたしのわがままを聞き入れてくれてありがとう。感謝している」
 酒を一口飲んだのち妹紅は口を開くと唐突に言った。
 元々妹紅が晴明を訪ねたのは出立の直前である。
 それまでは晴明は他の方法で調岩笠の呪を解こうとしていた。
「あれが最も良い収め方だったのですよ。妹紅さまがいなければわたしは調岩笠に新たな呪を掛けねばなりませんでした」
 そう言って晴明は本来使うはずだった札を懐から取り出した。
 それぞれに違った文字が隙間なく書き込まれている。
「これはもう用済みですよ」
「ならわたしにくれないかしら」
 八雲紫が札に手を伸ばす。
 しかし晴明は素早くそれをかわすと、再び懐に札を仕舞い込んだ。
「あら残念。安倍晴明直筆の札なら良い呪具になると思ったのに」
 言葉とは裏腹に紫の表情からは札への未練は伺えない。
 思いついたから言ってみた程度のものである。
「――笛を聞きたいな」
 大分酔いが回ったのか妹紅は外見相応の口調で言った。
「笛か。おれも聞きたい」
「わたしもよ」
 妹紅の言葉に晴明と紫も同意を示した。
 博雅は懐から鬼と交換した笛、葉二を取り出す。
「わたしも吹きたいと思っていた」
 博雅は笛に口をつけ、息を吹き込んだ。
 ゆるやかに吹く。
 ただ吹く。
 笛の音は天地へと浸透し混ざり溶け合っていく。
 人も、鬼も、神も、世界も、原初の混沌でさえも揺さぶる笛の音が八雲邸を包み込む。
 いかなる存在であろうとも止めることはできない。
 この瞬間博雅は天地の理と一体になっているからだ。
 そして天地の理は誰にも変えられない。
 変える必要がない。
 博雅の笛が鳴り止んでも誰も何も口にしようとしない。
 大気にはまだ笛の音色の余韻が満ちているからだ。
 やがて八雲紫はささやくように言った。
「これが、源博雅さまの笛……」
 八雲紫は本当に長い間生きてきた。それこそこの国の起こりを影から見ていたこともある。
 その長い生の中で、これほどの笛は初めてだった。
 おそらく短命な、人にしか至ることのできないものがこの世にはあるのだ。
 紫のような異形では決して辿り着けない場所が。
「二人ともここに、幻想郷に住まないかしら。あなたたちが住む都よりきっとずっと楽しいわ」
 一瞬、紫は心の奥底に閉じ込めていたことを口に出してしまった。
「八雲紫さま、お誘いは嬉しいですが、わたしは都が好きなのです」
 博雅は紫の誘いを断った。
 博雅にはこの狂った庭のような幻想郷は、たぶん合わない。肌で感じていた。
「ここで暮らす。それも楽しそうですが……存外に都も楽しいものですよ」
 晴明は紫の誘いを断った。
 博雅と知り合って、都での生き方も悪くはないと晴明は思っている。
「答えなんて分かってたわ。言ってみただけよ。でも、残念ね……仕方ないからこっちからあなたの笛を聞きに行くわ」
 普段と同じ、考えを読ませない妖しい笑みを紫は浮かべる。
「あなたはどうかしら。藤原妹紅」
 そして妹紅に言葉をかけた。
「わたしは、まだあちこちを見て回るつもり」
「永遠というのは今から気張ると後が大変よ」
「それにまずはこれを秀郷に返さなければいけないよ」
 懐から柄と下緒が鮮やかな朱色で彩られた美しい刀を取り出した。
 妹紅が秀郷から渡された護神刀である。
 妹紅の父、藤原不比等が作らせたものだ。
 父の形見のようで懐かしいが、借りたものは返さなければならない。妹紅はそう思っている。
「でも、いつかは厄介になるかも知れない」
「待っているわ。永遠の時の淵で、また会いましょう」
 東の空がわずかにだが白んできている。
 夜明けが近く、夜更かし屋の宴もお開きが近い。
 この時を名残惜しむように、紫はゆっくりと酒を飲んだ。





















 八雲紫は気だるげな午睡から唐突に目を覚ました。
 プリズムリバー三姉妹の演奏である。
 だがその中に耳にしたことのある音色が聞こえたのだ。
 洋楽器と和楽器の違いや奏者の腕前などで多々違いはあるが、それは確かにあの曲だった。
 流泉、啄木の秘曲である。
 何百年も前ですら、すでに奏でる者が絶えようとしていた曲だ。
 もう外界では伝える者がだれもいなくなってしまった。
 幻想になったからこそ幻想郷に入っている。
 安倍晴明と源博雅、藤原妹紅と酒を飲んだ日からすでに八百年は経とうとしている。
「紫さま。いい加減に起きて下さいな」
 紫の式神、八雲藍がふすまを開け部屋に入る。
「もう起きてるわよ」
 返事を返すと、紫は布団の上に胡坐をかき座る。
「藍、笛を持ってきて。久し振りに吹きたい気分なの」
「紫さまが楽器ですか。本当に久々ですね」
 藍は昔を懐かしむように、目を細めた。
 八雲の式となった直後はよく紫と演奏をしたものだった。
 紫は笛で、藍は琵琶である。
「良いですね。わたしも久々に琵琶を出してきましょう。といっても調律しなければ使えませんがね。ともかく着替えて下さい」
 そう言って藍は部屋を出ていった。
 藍のことだから橙も連れてくるかもかも知れない。
 たぶん橙に藍は楽器を教えたがるだろうから。
 その光景を想像し、紫はくすりと柔らかく微笑んだ。
 それが昔の紫と藍、そして博雅と楽器を習い始めた頃の紫にも重なるからだった。
 外からは未だにプリズムリバー三姉妹によってアレンジされた流泉と啄木が響いていた。



[8544] 橘実之女遍照寺にて幻想の蟲に出逢うこと
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2009/06/24 21:49
 博雅は晴明の屋敷を訪ねた。
 このような身分の男には珍しく徒歩である。
 初夏であり、日が高い。
 ゆえに博雅は歩いて晴明の屋敷を訪ねる気になったのである。
 博雅は途中で一条戻橋を通った。
 安倍晴明は一条戻橋の下に式神を飼っているらしい。
 その式神が、客人が来ることを知らせるのだという。
 本当かどうか博雅は知らない。
 ただ、博雅がいつ晴明の屋敷にいくか、晴明は事前に知っているようであった。
 知られたくなければ一条戻橋で独り言を言わぬことだと晴明は言う。
 しかし最近では博雅は、あえて戻橋で独り言を言うようにしていた
 博雅が晴明の屋敷に着くと、牛車が動き始めている。
 博雅が来る前に客人があったようだ。
 客人がきたということは、晴明は家にいるということだ。
「晴明、いるか」
 博雅は屋敷の中で晴明を呼んだ。
 すぐに女が来て、博雅を晴明のところまで案内した。
「来たか」
 晴明は庭へと開け放たれた部屋に座っている。
「よく分かったな。戻橋の式神が知らせたか」
「まあそのようなものだな」
「煮え切らないな」
「他にも方法はあるということさ」
 晴明は微笑む。
 紅を付けたような赤い唇が歪む。
 博雅は腰を降ろした。
 今日の博雅は、何がしか噂や頼みごとを晴明に持って来たのではない。
 ただ、晴明と語り合いたくて来たのである
「すまないが、今日は酒はない」
 言葉の通り晴明の周りの床には瓶子も杯も置かれていない。
「かまわんが、それではおれがいつも酒を無心しているようではないか」
「いや、すまん。酒はもっとあとで、ということだ」
「これから出かけるのか?」
 博雅は予感に任せて口を開いた。
 こういうときの晴明は、すぐに出かけるものだ。
「よく分かるな。これから出るつもりなのさ」
「長い付き合いだからな」
「博雅も来るか、面白いものが見られるぞ」
 軽い調子で晴明は博雅を誘う。
 どこへいくか分からぬうちは博雅とて、返答できない。
「どこへいくのだ」
「橘実之殿の屋敷だよ」
「橘実之殿というと露子姫の」
 露子姫――むしめづる姫君である。
「うむ、といっても実之殿が話を持ってきたわけではないがな」
 その言葉で博雅は何かに気づいたかのようだった。
「ではもしや先ほどの牛車は……」
「露子姫のものさ。先ほどまで露子姫はここにいたのよ」




 世にむしめづる姫と噂される姫君がいる。
 従三位橘実之の娘、露子である。
 列記とした殿上人(てんじょうびと)の出であり、見た目卑しくなく、才気煥発な若い娘である。
 しかし宮中ではむし姫とよぶ者もおり、とんと男が寄り付かない。
 露子はあだ名の通り、虫を飼うのである。
 犬や猫、蛙や蛇も飼うが、中でも多いのが烏毛虫(かわむし)――毛虫である。
 捕えては小箱を作らせ、入れて飼う。
 手ずから草や葉を小箱に入れてやり、烏毛虫が食むのを見る。
 時には一日中、さまざまな種類の烏毛虫を眺めていることもあった。
 父親や女房たちに理由を尋ねられると、烏毛虫が蝶へと変じていくのが何とも不思議で面白い、と露子は言うのだ。
 露子は幼い頃より草、木、虫、岩など、あらゆるものに興味を抱く子供であった。
 子供が誰しも持つ好奇心を露子は長じても失っていない。
 おかしな姫君である。
 露子は都にほど近い寺院を歩いていた。
 遍照寺である。
 以前にも飛び回る無数の金色の虫を見るために出かけたことがあった。
 その際に遍照寺の僧、明徳とも知り合っている。
 今日訪ねた際も、困り顔で笑いながら遍照寺境内を歩きまわることを許してくれた。
 露子は男が着るような水干を身に付けていた。
 長い髪は烏帽子の中に隠している。
 眉も歯もいじっていないので、傍目には秀麗な美少年のようであった。
 うまく警備の者を欺き、屋敷から抜け出してきたのだった。
 三歩ほど先には小袖の童子が歩いている。
 露子の小姓のけら男である。名前は本名ではなく露子が名付けたあだ名だが、童子もそれを嫌ってはいない。
 露子のすぐ後ろを歩くのは式神、黒丸である。双眸は蝶の眼をしており、背には 揚羽蝶の如き文様の巨大な翅を持っている。
 しかし蝶の眼は烏帽子から垂らせた黒幕で隠し、翼は服の中に仕舞っている。
 一風変わった付き人に見えなくもない。
 露子たちは何をしているかというと、広い境内の中で虫を探している。
 けら男は露子では見ることのできない木の上などを探し、露子と黒丸は繁みや低木を見回っている。
 季節は春の盛りであり烏毛虫に限らず、さまざまな種の虫、蜥蜴、蛙などがいる。
 しかし見たこともない珍しいものはおらず、露子は時折立ち止まって見つけたものを面白そうに見つめるだけであり、捕まえようとはしない。
「これは今も飼っているわ。これは前に見たことのあるぶんぶんね」
 けら男や黒丸が持ってきたものも見るが、いずれも露子の記憶にあるものばかりである。
 残念がるけら男を慰め、露子は今一度境内を歩きだした。
 遍照寺の壁にそって露子は歩く。
 どれほど歩いたか壁が折れ曲がるところで露子は奇妙なものを目にした。
 童子の足のようなものが木陰から見えているのだ。
 遍照寺の稚児が休んでいるのか、気になった露子は近づき木陰を覗きこんだ。
「まあ」
 露子は思わず声をあげた。
 少女とも少年ともつかない童子が木にもたれて目をつぶり座り込んでいたのだ。
 水刊のような服を着ているがなぜか、首に長い布を巻いている。
 しかし何よりも露子の目を引いたのは、ほのかに薄い緑色の髪とそこから突き出す二本の触覚である。
 それが時折ぴくぴくと左右に揺れている。
「あなた、まるでぶんぶんみたいなのね」
 露子は触覚を見ながら口に出した。
「ぶんぶん……ああ蟲のことね」
 童子はまぶたを降ろしたまま言った。眠っていた訳ではなかった。
 しかし眼を開けようとはしない。
「こんなところで何をしているの?」
「休んでる」
 素っ気なく童子は答えた。
 良く見ると服が所々汚れ、顔にも泥が付いている。
「露子、わたしは露子よ。あなたはなんて名前なのかしら」
「お姫さま、わたしが怖くないの。わたし人間じゃないんだけど」
 触覚を動かしながら、ようやく童子は眼を開けた。深い緑色の瞳に露子が写る。
 どうやら蟲の化生のようである
「あら黒丸のようなものでしょう」
 露子は平然としたまま言った。
 同じ場所にいつまでもしゃがみ込んでいる露子の身を案じて、黒丸がこちらに歩いてきていた。
 少し身を傾け、童子は黒丸を見る。
「赤蚕蟲……おまえ蟲毒をやったのか」
 言うが早いか、童子は露子に掴みかかった。
 黒丸は蘆屋道満が千匹の烏毛虫を集め蟲毒を行い作り出した式神である。
 もちろん露子はそんなことは知らない。
 童子を露子は引き剥がせない。
 童子とは思えないほど腕の力が強い。
 女の身では無理だった。
 露子と緑髪の童子はそのまま揉み合う。
 しかし駆け付けた黒丸が露子から童子を抱え、引き剥がした。
 そのまま時が過ぎる。
 唖然とする露子の前で黒丸と童子は触れ合ったままである。
 何かを話しているようにも見えた。
 触覚が動く。
 上。
 下。
 左。
 右。
 せわしくなく動く。
 やがて会話でも終わったのか、童子はこちらを向いた。
「黒丸が良いのなら、それでいい」
 ばつが悪そうにぼそりと言った。
 童子と黒丸の間で意思が通じたようである。
「わたしは、リグル……」
「りぐる」
 名乗ったと同時に、リグルに地面にへたり込む。
 張り詰めた糸が切れたかのようだった。
 露子は不安げに覗き込む。
 また瞳が閉じられている。
 眠りか気絶かは知れないが、リグルは意識を手放していた。




 水の滴る音が聞こえる。
 ひんやりとした水気が顔に当てられるのリグルは感じた。
 ゆっくりとリグルはまぶたを上げる。
 リグルは布団の中に寝かされているようであった。
 額には湿らせた布がのっている。
「起きたのね。倒れたままにはしておけなかったから」
 声をかけたのは露子であった。
 意識をなくしたリグルを平安京の屋敷まで連れ帰ったのである。
「大丈夫」
 そう言ってリグルは起き上がろうとするが、途端に目の前の光景が歪む。
 どうやら大丈夫ではないらしい。
「寝ていればいいの、りぐる」
 しぶしぶ背中を布団に預ける。
 露子はリグルの顔に布を当てた。
 汗を拭っているのである。
「黒丸が恨みを持ってないと分かったから、もう手出しはしない。それにあなたが 蟲毒をやった訳ではないのね」
 リグルは露子を見ながら言った。
 先ほどの激情はすでに消えている。
 黒丸の心根に触れたからである。
 蟲毒の法で作られたものは大抵、深い恨みを持つ。
 黒丸が露子を恨んでいるのなら、リグルは露子を殺していたかも知れない。
 だが、かの赤蚕蟲・黒丸に荒れ狂う恨みの情はない。
 リグルが触れたのは澄んだ水面のような、静けさだった。
 赤蚕蟲とは元々、飼い主の心がその性質を作り出す式神である。
 どのようにでも醜く、または美しくなるのだ。
 黒丸は露子のうしろに座っている。
 屋敷の中なので、蝶の眼の如き双眸と光の散りばめられたかのような輝く翅は、隠されていない。
 リグルは首だけを回し周囲を見る。
 おかしな箱が隅の方に何個か置いてあった。
 大きな箱ではない。
 片手で十分に運べるくらいである。
 四角い枠に木の板が載せられ、周りには薄手の布が張られている。
 あれはなんだろう、とリグルが思っていると黒丸が箱を持ち上げる。
 そのままこちらに歩いてきた。
 黒丸は布団のそばの文机に箱を置く。
 リグルはゆっくりと上半身だけを起こす。
 今度は大丈夫なようである。
 薄い布に透ける中をリグルは覗き込む。
 烏毛虫(かわむし)が一匹、中にいた。
 入れられている草や葉を食んでいる。
「これはどんなぶんぶんになるのかしら」
「……どんなのだろうねえ」
 リグルはそれがどんな虫になるか知っていたが、口には出さなかった。
 露子がそれを楽しみにしているようであったから。
 人の楽しみをわざわざ壊すことはない。
 リグルはそっと箱の中を見る露子を見た。
 無邪気に慈しむ表情。
 リグルは蟲の化生である。
 人の生より遥かに長いそれを生きている。
 その中で蝶だけを愛でる姫をリグルはこれまでにたくさん見てきた。
 しかし烏毛虫をも愛でる姫を見たことはなかった。
 ――おかしな姫君。
 リグルは視線を文机の上の紙束に移した。
 手を伸ばせば届きそうである。
 手を伸ばした。
 それは絵であった。
 りぐる、と仮名文字で記され、リグルの顔と全身が筆で描かれている。
「わたしが描いたのよ」
 露子が言った。
 他の紙にもそのようなものが描かれている。
 黒丸、水ぶんぶんなどと名前が記されている。
 どうやら露子の興味を引くものを描き残しているらしい。
 しばしリグルは絵を見つめた。
 色は塗られていないが、頭から飛び出す触覚がリグルだと主張している。
 水面に映った顔を見たことはあるが、自身を絵にされたのは初めてである。
 それがリグルには妙に嬉しい。
 リグルはそのまま絵を眺め続けた
 廊下を歩く音がだんだんと近づいてくる。
 ここは露子の父橘実之の屋敷である。
 このように堂々と露子の奥間へと入るのは実之しかいない。
「露子や、先ほどから声がするが、まさか誰かいるのかい?」
 やはり橘実之であった。
 狩衣を着た人の良さそうな顔の中年の男である。
 露子には色々思うところがあるものの、甘い。
 半ば虫などの生き物を飼うのも許している。
 露子は無断で連れ込むことも多いため、もう大抵のものでは驚かないと実之は自負していた。
 しかし実之は露子の部屋に入り、驚愕した。
 寝具の中に、見慣れぬ童子がいたからである。
 いや人ではない。
 頭から二本の触覚が出ている。
 娘がついに魔の者にたぶらかされたか、と実之は思った。
 太刀に手をかけようとしたが、ここは屋敷の中である。
 太刀など身に付けていない。
「そ、その者はなんだ? 露子よ」
「りぐるよ」
「り、りぐる?」
 実之の声に狼狽が現れている。
「この子の名前よ」
「りぐる、というのか」
 まじまじと実之はリグルと呼ばれた童子を見る。
 よく見ると髪の色と触覚以外は人と大して変わらない。
 むしろ黒丸よりも、人に近い。
 それに露子にはたぶらかされたようすはない。
 実之は落ち着きを取り戻した。
「露子や、この子をどうするつもりだね」
「気分が優れないみたいなの。良くなるまでここに居てもらおうと思うのだけど」
「いかん、いかんぞ。屋敷でおかしなものを飼っていると噂になってしまうよ」
「もうなっているわ。それに人の噂を気にしていたら、何もできないのよ」
 露子は微笑しながら言った。
 噂になっているのは本当である。
 露子は自身がむしめづる姫、あるいはむし姫と噂されていることを知っている。
「ねえお父さま、ならばこの子に聞いてみましょう」
 成り行きを見守っていたリグルは突然話を振られた。
 リグルは少し考えたのち帰ろうと思った。
 露子はなかなか面白い人間である。
 それに露子の描いた絵はもっと見ていたかった。
 しかしここは平安の都、しかも貴族邸である。
 陰陽寮の陰陽師に見つかったら調伏されてしまうかも知れない。
 リグルは立ち上がろうとした。
 両腕と下半身に力を込める。
 途端に目の前の風景が揺らぐ。
 何度やろうとも変わらない。
 下半身を起こそうとすると、どうしても眩暈に襲われる。
「……だめみたい」
 リグルは仕方なく横になった。
「むう」
 実之が唸る。
 リグルとやらは、帰ろうとする気はある。
 ならばそこまで療養させても良いのではないかと実之は思った。
 下手に陰陽師を呼んで、恨みを貰っては敵わない。
「仕方ない。露子、良くなったら引き止めてはいけないよ」
「ありがとう。お父さま」
 実之はそれだけ言うと踵を返し出ていった。
「りぐる、もう休んだ方がいいわ」
 その言葉にリグルは素直に従い目を閉じた。
 目を閉じる寸前に外を見る。
 夜気が降りてきている。
 余程の疲労があったのか、リグルが睡魔に飲まれるのは早かった。




 リグルが橘実之の屋敷で療養を始めてから十日は経とうとしている。
 露子とリグルはその間さまざまなことを話した。
 むしのこと。
 草花のこと。
 書物のこと。
 内裏のこと。
 遠国のこと。
 百鬼のこと。
 さまざまなことである。
 ときには露子が楽器を演奏し、リグルにそれを教えたりもする。
 露子とリグルは次第に打ち解けていった。
 しかし、リグルの体は一向に良くなる気配がない。
 しっかりと食を取り、体を休めているにも関わらずである。
 一度など実之が秘密裏に医術の心得のある者を呼んだのだが、まるで効果がない。
 それどころか次第にリグルの生気が薄れていくようであった。
「ふむ、それがこれまでの経緯ですね」
「そうよ、晴明さま」
 橘実之の屋敷には安倍晴明が訪れていた。
 やはり、と言うべきか源博雅も一緒である。
 露子がリグルの身を案じて晴明を呼んだのである。
 初めリグルは晴明と会うのを嫌がっていた。
 しかし露子と黒丸がそこに立ち会うことで、リグルはようやく了解したのである。
 露子と晴明、博雅は平安の男女にしては珍しく、関係を持たない顔見知りである。
 晴明は平然としているのに対し、博雅はどことなく居心地が悪そうに見える。
 妙齢の女人である露子と直接顔を合わせるのに、まだ慣れていないのだ。
 いやもしかしたらいつまでも博雅が慣れることはないかも知れない。
 ――それが博雅さまの良いところでもあるのだけど。
 露子は晴明と博雅の違いに、顔にはあまり出さぬように小さく微笑んだ。
「お話は分かりました。ときにりぐるさま、ここ最近どこかで呪などを掛けられたことはないでしょうか」
 晴明はおもむろにリグルに尋ねた。
「呪?」
「呪にございます」
 晴明はリグルを見ただけである。
 しかしすでに何かを確信しているらしい。
「りぐるさまには、強力な呪が掛っているのです。何か心当たりなどはございませんか」
「心当たりね」
「どこかで法師なり陰陽師なりと話しませんでしたか」
 晴明の問にリグルは考え込む。
 そして何かを思いついたのか、口を開いた。
「愛宕山……愛宕山で、羊猿法師と名乗る老人と会ったわ」
「羊猿法師ですか。なるほど――やはり」
 晴明は羊猿法師とやらに心当たりがあるようだった。
 懐から札を取り出すと、何やら呪文を晴明はつぶやく。
 すると札は自然に折り曲がっていき、最後には小さな龍をとなった。
「りぐるさま。これよりあなたの髪にこの龍を放ちます。少しの間、辛抱なさりませ」
 ふっと晴明は龍に息を吹きかける。
 それだけで龍は浮き身をくねらせる。
「おう、まるで生きているようではないか」
 博雅が声に出して驚く。
 小さな紙の龍は今にも雷を呼び、天に昇るかのように宙を泳いでいる。
「いきなさい」
 晴明の声に従って小龍はリグルの頭に取りつき、顔を髪の中に潜らせる。
 リグルはむずがゆそうな顔をしている。
 一同はそのようすを静かに見守った。
 やがて龍は顔を出し、晴明の元に戻った。
 龍の口元には蠢く細長いものが咥えられている。
 細長いものを手で押さえつけると龍は丸呑みにし、動かなくなった。
 晴明は紙の龍をつまむと懐にしまい込む。
「これで大丈夫でしょう。呪の元は取り除きました」
 言われてリグルは気が付いた。
 これまであった体の重さが、今はなくなっていた。
 



「そろそろ、いくよ」
 リグルは露子に声をかけた。
 夜の気配が迫っている。
 東には月が昇り始めている。
 リグルの体は急速に生気を取り戻していた。
 もう空へ舞うこともできる。
「そうね……お引き留めしてはいけないわ」
「――うん」
 リグルは人の中で暮らした十日間を思い返す
 起き上がることはできず、ずっと露子と話していただけであったけれど。
 リグルの知らない歌や噂や物語、それに露子の楽器の演奏は面白い。
 歌の詠み方も初めて知った。
 人の世界とは、思っていたのとまた違って、楽しいものであった。
 けれど、人には人の、化生には化生の相応しい場所がある。
 リグルは蟲の化生として、蟲の王として陰態の中で生きる。
 リグルがリグルであるために。
「ねえ露子、空を――飛びたくない?」
 リグルはふと思った。露子への恩返しをしよう、と。
 今なら出来るはずである。
「空を、そうね。飛んでみたいわ。ぶんぶんのようにね」
 露子は今は水干姿である。
 楽だと言う理由で着ている。
「来て」
 リグルは露子を呼んだ。
 露子の手を握る。
 途端に露子は身が軽くなったように感じた。
 いや、実際に浮いているのだ。
 リグルは浮かび上がると、露子を背中にから抱きかかえた。
 密着したまま、高く高く上がり始める。
「おいで黒丸」
 露子が黒丸を呼ぶ。
 さあっと黒丸は蝶の翅を広げ、はばたく。
 リグルと露子のうしろを付かず離れずに飛ぶ。
 昇る昇る、天へと昇る。
 下を見ると見事に四角く形どられた平安京が見渡せる。
 露子は風を肌に感じた。
 かなりの速さのはずなのに、暴れ狂うような風は感じない。
 静かに吹き付ける風である。
 まるで何か目に見えぬものに守られているようである。
「あら、こんなぶんぶん見たことないわ」
 いつの間にか、周囲には見たこともない蟲が無数に飛び交っている。
 一つ一つは淡く薄い、遮れば消えてしまうかのような光を放っている。
 しかしそれが夥しい数なので、光は消えない。
 以前に見た二百六十二匹の黄金虫を、さらに際限なく増やせばこのような光景になるかも知れない。
 リグルを、露子を取り巻くように蝶たちは舞う。
 黒丸の翅も同じように輝いている。
 空に流れる無限の星屑の河を泳いでいるようでもあった。
 露子は目を輝かせている。
「すごいわ、りぐるが呼んだの?」
「うん」
 リグルは陰態の蟲達を現世に透過させていた。
 陰態の蟲は現世では、人の魂の如く輝くのだ。
「何て名前なの?」
「名前は、ないよ。しいていうなら幻想の蟲」
「あら、それでいいじゃない」
「幻想の蟲、――幻想蟲。うん、いいね」
 幻想蟲の塊はさまざまな動きを見せる。
 一つに寄りそったと思うと、次の瞬間には広く散らばるもの。
 細長い線のような、列を作るもの。
 扇を広げるかのように流れるもの。
 あたかも一つの意思に統率されているようである。
 どれほど飛んだろうか、リグルは露子に声をかけた。
「そろそろおりるよ」
 そう言ってリグルはゆっくりと下がっていく。
 数えきれないほどいた蟲も、元から存在していなかったかのように消えていく。
 やがて露子とリグルは屋敷の庭に降り立った。
 黒丸はやはり、露子の背後に降りた。
「露子、黒丸、ありがとう」
「――またいらっしゃい」
「いつか、また」
「約束よ」
 露子は笑っている。
 たぶんこの姫君は万物に分け隔てなく、この笑顔を見せるのだ。
 ゆえに曇りなく美しい。
 リグルは宙に浮かぶ。
 振り返らずに空へ。
 東の空へ。



 
 安倍晴明と源博雅は朱雀大路にいた。
 牛車ではなく徒歩である。
 陽は西に近づいているが、初夏であるため暗くはない。
 人の往来もまだ多い。
「陽は西へ、人は地へ、そなたはそなたの主の元へ帰るべし……」
 晴明は呪を唱えたのち、手の上の紙で折られた小さな龍に息を吹きかけた。
 するとまた龍は動き出し、前へ前へと飛んでいく。
 龍は帰る場所を知っているようである。
 そのあとを晴明と博雅は歩いて追っていく。
「晴明よ、あの童子は一体誰だったのだ?」
 博雅が口を開いた。
 屋敷でリグルを目にしたときから気になっていたことである。
「蟲の王さ」
「蟲の王だと」
 博雅は思わず言葉を反復した。
 あの童子が王には博雅は到底見えなかった。
「すべての虫の精が集まったようなものだ。もともとは蛍のようだが、長い年月の末に変じたのだろうさ」
「それが蟲の王か」
「そうさ。中々出会えるものではないぞ。かくいうおれもこの目で見たのは初めてだからな」
 晴明は微笑みながら言った。
 龍は先へ飛んでいる。
 晴明と博雅は朱雀大路を外れ平安京の南へと歩く。
 やがて一軒の廃屋が晴明と博雅の行く手に現れた。
 かつては貴族の屋敷だったようだ。
 しかし今は荒れ果てており、わずかな片鱗しか窺うことはできない。
 博雅は太刀に手をかけた。
 夜盗の類が根城にしているかも知れない。
 晴明と博雅は膝丈まで伸びている草を踏み締め、中に入った。
 屋敷の内部もやはり荒れている。
 畳は所々穴が空き、壁も崩落しているところが多い。
 やがて草が茂る荒れ果てた庭に面した部屋につく。
 そこに一人の老人が座っていた。
 白髪白髭。
 何年も着古したかのような襤褸(ぼろ)を纏っている。
 老人は酒を飲んでいる。
 つまみはない。
「よう晴明、待っておったぞ」
「やはりあなたでしたか、道満殿」
 老人はにぃっと嬉しそうに破顔した。
「おい晴明、ここに道満殿がいるということは、羊猿法師とは……」
「その通りよ。羊猿法師とは蘆屋道満殿のことさ」
 蘆屋道満――陰陽師である。
 しかし晴明のように朝廷に仕える陰陽師ではない。
 在野の陰陽師である。
「まあ座れ」
 道満は晴明と博雅に座るよう促す。
 言われるままに晴明と博雅は腰を降ろした。
「そら」
 道満の掛け声をあげた。
 異形の式神が物影から現れ、晴明と博雅の前に新たな杯を置く。
 道満は酒瓶を取ると杯に酒を注いでいく。
「またお戯れになったのですね」
「そうよ。この道満とて蟲の王を見るのは久方ぶりぞ。新しい式神にでもと思うてな」
「呪を仕掛け頃合いになったら出かけていき頂戴する、という魂胆でしたか」
 道満は手にした杯から酒を飲みほし、手酌でついだ。
 そして飲む。
「そうさ。あの術を解ける者は都にもそうはおらぬ。晴明、保憲、浄蔵、誰が出てくるかと思っておったが、やはり主だったかよ」
「――まだ、続けるのでしょうか」
「いや、もう止めだ。晴明、お主が出てきたからな」
 きっぱりと道満は言い切った。
 所詮道満にとっては余興である。
 賀茂保憲、浄蔵、どちらが出てもやりようがあるが、安倍晴明では少し面倒くさい。
 道満はこんな心境であろうか。
「博雅よ。主の笛を聞かせてくれ。おれは主の笛が好きでなあ」
「わたしもよ」
 突然屋敷の奥間から声が響く。
 女の声である。
 耳に覚えのある声である。
 庭の方に顔を向けていた博雅は驚いて振り向いた。
 いつぞや蓬莱の薬壜の件で出会った異人の女、八雲紫がそこにいた。
 裂け目のようなものから上半身だけを出している。
 口の端を吊り上げ、妖しく笑っていた。
「八雲か。覗き見の好きな女よ」
「これは紫さま。久方ぶりにございます」
 道満と晴明がそれぞれ違った言葉をかける。
「ふふ、道満さま、晴明さま、博雅さま、宴会ですか。ならばわたしも入れて下さいな」
 紫の手には既に愛用の杯が握られている。
「最初から見ておったのであろう、調子の良いことだ」
「まあ良いではありませんか」
 晴明は酒瓶を取り紫の杯に酒をそそぐ。
「まあ良いわ。それよりも博雅よ。笛を頼む」
 そう言われては博雅は断れない。
 と言うより断る理由もない。
 外は大分夜気が降りてきており薄暗い。
 それが荒れた庭に何ともいえぬ趣を醸し出している。
 博雅の笛が静かに夜陰の大気に流れ出る。
 音色はゆっくりと染み渡っていく。
「よい笛じゃ……」
「よい笛ね……」
 ぽつりと道満と紫が洩らす。
「蟲の王が、お帰りになるようだ」
 空を見上げた晴明が言った。
 最初は一つの光点であった。
 流星のようにも見える。
 ただ違うのは、天から地ではなく、地から天へと登ること。
 それが何個にも別れていく。
 夜に染まった平安京の空に、淡い光点が何個も流れている。
 光点は淡い緑の蛍火のようでもあった。
 蛍火たちは平安京の空でさまざまば文様を描き舞い踊る。
 そこまで長い時間ではなかった。
 やがて光は消えて、天に闇が戻る。
 しかし次の瞬間、地上から飛び出した最後の蛍火が東へと一直線に駆けていった。
「――蟲の王、いつか会ってみたいわ」
 紫がつぶやく。
 博雅は蛍火に目を奪われながら、笛を吹き続けていた。





















 白髪の青年は薪ストーブに火をくべる。
 ついで部屋の明かりを灯した。
 名を森近霖之助といった。
 幻想郷の冬は厳しい。
 元々幻想卿は日本の東国に位置している
 さらに最近では寒い冬なる存在が幻想入りしているとも聞く。
 半妖半人の森近霖之助でも身震いがする。
 霖之助の営む古道具屋・香霖堂は冷え切っている。
 霖之助は眼鏡をかけ直した。
 昨日の晩、霧雨魔理沙が店に来たが、かなり色々と品物を引っかき回していったらしい。
 霖之助の覚えている配置と大きく変わっている。
「ふむ」
 特に、古本の類を漁っていったようだ。
 本棚から出された書物が山と積まれている。
 ふと、その中の一冊が霖之助の目に止まった。
 手に取ってみる。
 かなり古いものだ。
 万葉集、古今和歌集、伊勢物語とまではいかないが、源氏物語よりは確実に古い。
 源氏物語の一つ前の時代のものであろう。
 筆者の名は橘実之女(たちばなのさねゆきのむすめ)と記されている。
 霖之助は冊子を開く。
 書式に一定の書き方がない。
 元は一枚一枚が独立していたようだが、のちにまとめられたようである。
 それは絵本のようであった。
 筆でさまざまな動植物が描かれていた。
 筆者が自分で名付けたのか、おかしな名前が並んでいる。
 その外観について気づいたことや思ったことが並べられている。
 中でも虫が多い。
 毛虫が蝶になるまでの過程が描かれているものもある。
 霖之助はパラパラと紙をめくっていく。
 最後に閉じられた紙は取り分け霖之助の注意を引いた。
 りぐる、と記された童子の絵がそこにはあった。
 頭から二本の触覚が伸びているのが、分かりやすい。
 髪色は淡い緑、瞳は深い緑、などということが言葉で並んでいる。
 りぐる、リグル、香霖堂にときおり訪れる蟲の化生がそのような名前である。
 リグルがどれほど生きているか、霖之助は知らない。
 もしや、この絵はリグルを描いたものではないだろうか。
 いつかリグルが訪れたときに、この本を見せてみるのもいいかも知れない。
 どさっと何かの落ちる音が外から聞こえる。
 どうやら屋根に積もった雪が崩れたようだ。
 今日は久々に晴れる。
 霖之助はそんな予感がした。



[8544] 安倍晴明神泉苑にて鬼と宴をすること
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2009/06/24 21:54
 季節は春と夏との境界である。
 穀雨を幾ばくか過ぎたあたり、目をやればそこかしこに夏草や、青葉が現れ始めている。
 大いに咲き誇っていた八重桜も今では大分散り始めていた。
 つい先日までは庭を包んでいた濃密な桜の香りも、今は薄れている。
 土御門小路の屋敷。
 鬼を住まわせているとまことしやかに囁かれている、安倍晴明の屋敷である。
 安倍晴明と源博雅は庭に面した部屋で酒を飲んでいた。
「うまいな」
「うむ」
 博雅は酒の味を短く評した。元より博雅という男は言葉を飾ることが少ない。うまければうまい、不味ければ不味いと率直に言う。
「これもまた良いものだな」
 二人が飲んでいるのは日本で作られた酒ではない。
 色は深く濃い赤であり、甘い果実の匂いを放つ。
 唐国の西域、砂の海を渡り、天竺を越えた先の国で作られたものらしい。
 大秦と唐国には伝わっている。
 嘘か真かその国に行ったことがあるという八雲紫の言葉を借りるのなら、ローマである。
 博雅は酒を口に含む。大秦がどのような国か想像もつかない。
 しかし心には夢幻の如くその風景が浮かんでくるようであった。
「この酒を見ると、おれは藤原妹紅のことを思い出すのだよ」
 わずかに波打つ酒の水面に博雅の顔が写る
 杯の中のしばし眺めたのち、博雅は唐突に言った。
 杯に満たされているのは血のように深い赤色の酒。
 遥か彼方では神の血とも称されるものである。
「蓬莱人の藤原妹紅、か」
「ああ、酒の色が吾妹紅の花の色に見えるのだ。あの方は今もどこかを独りで旅しているのだろうなあ」
「しばらくは藤原秀郷殿の元に留まっていたらしいが、今はもう発ったそうだ」
 会いたい人がいる、そう言って出て行ったと秀郷は晴明に語っている。
 誰に会いたいかは言わなかった。元より秀郷にも詳しく尋ねる気持ちはない。
 平安京に来たときと同じく、夜の間に塀を乗り越えて行ったらしい。
 流れる銀の髪が月光に煌めく姿はこの上なく美しい、しみじみと秀郷は語ったのだ。
「時のいや果てまで生きるというのは、どういうことなのだろうな」
「おれにはわからんよ、おそらく蓬莱人以外には誰にもわからない」
「いつか妹紅も流転することなく、ずっと留まれる場所を見つけられるのだろうか」
 博雅はそのことを心底願っているような口調である。
「見つかるさ。流転というのなら、おれも、おまえも、人は誰しも流転している。藤原妹紅はそれが只人よりもずっと長いのだよ」
 そこまで言うと晴明は杯をあおり、酒を飲みほした。
 空の杯を満たすべく、女の姿をした式神が瓶を傾ける。
 この式神を青虫と晴明は呼ぶ。
 去年の今頃も青虫に酌をしてもらった記憶が博雅にはある。
 毎年、この時期になると晴明はよく青虫を使っているのだ。
「ところで、この酒はどこで手に入れたのだ、もしや……」
「博雅の思っている通りさ、八雲紫がつい先日やってきて、置いていったのだよ」
「やはり紫姫か」
 博雅の言葉を聞いて、晴明は口元を隠してくっくと笑った。
「おい晴明、笑うなよ」
「いやすまん。しかし八雲紫を紫姫と呼ぶとわな」
「もしや、女ではないのか?」
 博雅は首をかしげた。
 博雅と八雲紫が初めて出会ったのは富士より高かったころの八ヶ岳である。
 あのとき目にした八雲紫は博雅には異人の女に見えた。
 確かに人間離れした美しさを持っていたが、それでも女であったはず。
「どうだろうな。男だとか女だとか、そういう区切りは八雲紫には意味を持たないのさ」
「どういうことだ」
「八雲紫は全てが曖昧なのだ。見る者によって女に見えたり、男に見えたり、はたまた鬼に見えたりもするかも知れぬ」
「では晴明、おまえはどのように見えたのだ」
 博雅は問いかける。
 晴明が言った言葉の中の、鬼に見える、の部分が妙に気になるのだ。
 もしや晴明には八雲紫は鬼に見えていたのではないか、そう博雅は思った。
 晴明はなかなか答えようとしない。
 妖しげな微笑みを浮かべ、焦らすように酒を一口飲み、ようやく晴明は口を開く。
「――女さ」
 一呼吸置いて、晴明は一言断言するように声を出した。
「なんだ。ならば姫でもよいではないか」
「まあ、そうだな。八雲紫も面白がるだろうよ、案外喜ぶかも知れぬな」
 八雲紫の心を推し量ることは難しい。
 理を捻じ曲げる境界の力によって、八雲紫は常に変容している。
 出会った一瞬前までとは全くの別人になっている可能性すらある。
 どのようにでも慈悲深く、また残酷になれる。それが八雲紫なのだから。
「博雅よ、八雲紫に惚れるなよ。あれは、怖いお方だぞ」
「からかうなよ晴明、おれは惚れてなどおらぬよ」
 よせ、と手を振り、博雅は晴明の言を否定する。
 そして杯を一気にあおった。
「あら、わたしは惚れられても一向に構いませんのに」
 突然女の声が屋敷に響いた。
 まず見えたのは黄金の如き長髪である。
 ひもの織物によって結ばれた裂け目が宙に開き、八雲紫が上半身を出していた。
「これは紫さま。良い酒をありがとうございます」
「紫姫よ」
 手に持った扇で口元を隠し、紫は目だけで笑っている。
 何かを楽しむときの悪戯っぽい目だ。
「姫と呼ばれるのもなかなかよいものね。博雅さまもう一度呼んで下さらないかしら」
 紫は博雅に顔を近づけ、言った。
「い、いや、しかし……」
 博雅は狼狽した。
 いざ面と向かって言われると気恥ずかしいものがある。
「ふふ、冗談よ」
近づけていた顔を紫は放す。
「博雅さまは、良い男ね」
「博雅は良い男だ」
 紫の言葉に晴明が調子を合わせた。
 そして二人で涼しげに微笑んでいる。
 これ以上からかわれるのを止めるため、博雅は話題を変えることにした。
 元より晴明に相談したいことがあったのだ。
 八雲紫もいるが構わないだろうと、博雅は思った。
「そういえば少し前におかしなことがあってなあ」
 ついさっき思い出したかのように博雅は口を開く。
「おかしなこと、か」
「おかしなことねえ」
「うむ、つい先日の話なのだがな――」
 そして博雅は語り始めた。




 清涼殿の一角、殿上間では宿直(とのい)のものたちが集まって、ひそひそと何事か語り合っている。
 宿直とは夜の勤務のことである。
 帝のおわす夜御殿(よるのおとど)に殿上間はほど近い。
 そのため昼夜問わず常に人が詰めている。
 しかし特にやることもないため、もっぱら貴族たちの雑談の場となっていた。
 すでに日は落ちてかなり経っており、灯火の蝋も幾分短くなっている。
 夜に人々が集まって密かに語り合っているのである。某がどこぞの女の元に通っているだとか、近頃の某がこういう失敗をしただとか、比較的下世話な噂話が多い。
 源博雅も宿直の一人であった。
 他には四人ほどの男がいる。
 博雅は会話に加わらず、琵琶の調律をしている。
 部屋の隅に置かれている琵琶が鳴らない、務めを終えた者がそう零しているを耳にしたのだ。
 それが気になり、放っておけなくなった博雅はつい琵琶の調律をすることにしたのだ。
 弦を締めては緩め、指で静かに弾く。何度もそれを繰り返す。
 最初は濁っていた音が、次第に浄、浄と澄んでいく。
 造りは古いが、それなりに立派な琵琶である。花とも孔雀の羽ともいえる模様が描かれている。
 やがて博雅は自身が納得する形で調律を終えた。
 そうなると弾いてみたくなるのが博雅という男である。
 おあつらえ向きに外は月が明るく、闇というわけではない。
 夏に近いが、まだまだ羽虫も多くはない。
 他の者に断って博雅は清涼殿からでることにした。
 清涼殿の中を博雅は琵琶を抱えて歩いていく。
 ちょうど博雅が南庭に差し掛かった頃であった。

  恋すてふ……

 寂しげな声で詠まれる歌が、仙華門の方から響く。
 博雅は立ち止まり、南庭の端によった。

  わが名はまだき立ちにけり……

 ぼんやりとした人影が南庭を歩いていく。
 幽鬼の如く痩せ衰えた人影である。
 博雅にも、他の何ものにも目もくれず、歌を詠みながら歩いていく。

  人知れずこそ思いそめしか……

 全て詠み終わり、紫宸殿の方角へ曲がりながらふっと消えた。
「忠見殿か……」
 博雅は小さくつぶやいた。
 天徳内裏歌合にて惜敗し死んだ壬生忠見が、鬼となって宮中に現れるのだ。
 しかしこれといった悪さもせず、ただ歌を詠むだけである。
 そのため調伏もされず、ずっと放って置かれている。
 博雅は忠見のことを恐ろしいとは思わない、ただ哀れだとは感じている。
 おもむろに博雅は南庭と清涼殿をつなぐ石の段に腰を降ろした。
 今日ここで鬼となった忠見と出会ったのも何かの縁である。
 南庭で博雅は琵琶を弾くことにした。
 浄、浄と音を奏でて弦を弾く。
 やがて緩やかに旋律が形作られ、一つの曲となっていく。
 濃密な夜気に、波打つ音色が溶け出し、混ざり合い、一つになっていく。
 それは後の時代に長慶子と呼ばれる曲である。
 天徳内裏歌合のときも博雅は和琴にて長慶子を弾いている。
 もしかしたら鬼となる前の壬生忠見もその音色を耳にしているやも知れない。
 そのまま博雅は時を忘れて琵琶を奏で続けた。
 鬼となった壬生忠見も、どこかで演奏を聞いているのだろうかと思いながら。
 やがて東の空が白み始めるころ、博雅は南庭をあとにした。
 博雅は宿直が詰める殿上間に帰る。かなり長い間外にいたので、他の者から愚痴の一つでも言われるやも知れない。
 しかし博雅が殿上間に近づいても、人の声が全く聞こえてこない。噂好きな宮廷人たちである。話声が絶えることなどあるのだろうか。
 博雅は奇妙に思いながらも殿上間に入る。
 殿上間が静かな理由は簡単なものであった。宿直の者たちが、誰一人残らず姿を消しているのだ。
「景直殿、友介殿」
 博雅は馴染みの宿直の者たち声に出して読んでみるが、一向に返事はない。
 早めに職務を切り上げ帰ったのだろうかとも思ったが、殿上間に一人もいなかったことが知れると叱責を受けることは免れない。
 書き置きのようなものがないか、探してみたがそれらしきものは見当たらない。
 つい先ほどまで宿直の者たちがここに存在していたという印もなく、まるで神隠しのようである。
 鬼にでも拐されたかとも思ったが、博雅自身の考えすぎかもしれない。
 あれこれ逡巡したのち博雅は一人殿上間に残り、交代の者を待つことにした。
 人の居らぬ清涼殿は静かなものである。
 この静寂の中で琵琶を弾いてみたいと博雅は思ったが、万が一にも帝の眠りを妨げてはならない。
 そのまま何もせず博雅は待った。
 あるいはいなくなった者たちも交代前には帰ってくるかと思ったが、結局姿を現すことはなかった。
「確かに引き継いだ。ところで博雅殿、昨夜は神泉苑の辺りが妙に騒がしかったのだが、もしや宴でも行われておったかな」
 博雅から引き継ぎを行った貴族は何でもないことのように言った。
「はて、そのようなことは存じませぬ」
 博雅の耳にそのような話は入ってはいない。
 そもそも神泉苑は清涼殿からはある程度の距離があるので、音は聞こえない。
「案外善女竜王あたりが姿を現していたのかも知れぬよ」
「それはさぞかし美しい光景だったのでしょうなあ」
 冗談のように笑いながら貴族は言った。
 あいづちをうちながら博雅は善女竜王のことを思い出す。
 少し前に博雅は晴明、蝉丸と共に神泉苑を渡って善女竜王の住む湖、天竺の大雪山の北、阿耨達池(あのくだっち)までおもむいた。
 そこで神々が舞い踊る宴を目にしたのだ。
 博雅もその名前を知る梵天、帝釈天、四天王、十二神将、十二天から、名も知れぬ異国の神々までが天地の至る所でただただ踊り狂う。
 天の星々が流れるかのごとく艶やかであった。
 それでいて終わってみると一夜の夢の如く儚い宴であった。
 貴族方に挨拶をし、博雅は清涼殿を後にする。
 そのまま大内裏を出る。
 博雅の足は自然に神泉苑に向かっていた。
 神泉苑は大内裏の南に接している。
 神泉苑は船遊び、狩り場、歌合など、さまざまな行事を執り行う場所である。
 しかし朝が早いからか、誰の姿も見受けられない。
 博雅は北の門より神泉苑に入った。
 森には新たな葉が芽吹きだし、池のほとりからは蛙の鳴き声が響く。
 博雅は池にそって歩く。目指しているのは半ば水上に建てられた楼閣である。
 神泉苑で宴を行うならば、水上楼閣が一番であろう。
 やはりと言うべきか、楼閣の中には宿直の者たちがいた。
 しかし起きているものは誰もいない。
 皆赤ら顔で高いびきをかいて眠りこけている。
 彼らの周りには大小さまざまな杯が散乱している。おおかた酒を飲むのに使ったのであろう。
 そこで博雅は気付いた。
 楼閣には杯はあるが、酒瓶や瓶子やひとつも見当たらない。
 大の大人が何人も揃って酔いつぶれる酒量である。当然かなりの数の酒瓶や瓶子がなくてはおかしい。
 思わず博雅は周囲を見渡してみる。
 しかしそれらは一つとして、楼閣からは見つからなかった。




 酒を飲みながらゆらゆらと語り続けていた博雅は一旦言葉を切った。
 晴明と博雅の間には一本の灯火が置かれ、火が入っている。
 夜気が落ち始めてそうそうに、紫が裂け目の中から取り出したのだ
 光に吸い寄せられて、小さな羽虫が灯火の周りを舞い始めた。
「そういうわけなのだ」
「なるほどな」
「確かに不思議ね」
「あの者たちはなぜ神泉苑で酒宴をしておったのだろう。案外本当に善女竜王に呼ばれたのかも知れぬなあ」
「どうかしら。善女竜王がこちらに来たのは空海阿闍梨(あじゃり)の祈祷の時くらいよ。ただ人が善女竜王の気を惹くとは思えないわ」
 それは東寺の空海と西寺の守敏の雨乞いの儀式のことである。
 どちらが雨乞いを成功させるかの勝負でもあり、空海が善女竜王を呼び、守敏は敗れた。
 以後東寺は栄え、西寺は寂れていった。
 百四十年ほど前のことである。
 その儀式を八雲紫はその目で見ていた。
 唐帰りの空海、唐では鬼と宴をしたという。
 紫の興味を惹く面白い人間であった
「知りたいか」
 不思議がる博雅を尻目に、晴明は短く言った。
 その言葉に博雅と紫の視線が晴明に集中する。
「もしや晴明、何か知っておるのか」
 驚いたのは博雅である。
 つい二日前のことゆえ、晴明も聞き及んでいないと博雅は思っていたのだ。
「うむ」
「何だ、知っておったのか」
 博雅は心持ち残念がるような声で言った。
 晴明は博雅の話を最初から知っている、もしくは別口からすでに相談を受けている場合が多いのである。
「拗ねるなよ、博雅。おれはお前の口から聞きたいのさ」
「う、うむ」
「それにおまえが宿直の者たちを見つけたのだろう。おれが知らないことも博雅は見ているさ」
「そのようなものか」
「そのようなものさ。ところで神泉苑の酒宴。あれはな、鬼の仕業さ――」
「鬼だと!」
「鬼……やはり善女竜王ではないのね」
「鬼の宴に招かれた――そう藤原景直殿に相談されたのさ」
 晴明は種明かしをするように微笑む。
 藤原景直は博雅と共に宿直を行っていた者の一人である。
 例に漏れず景直も神泉苑の楼閣で酔い潰れていた。
「博雅が南庭に出て行ったあと、何やら濃い霧に捲かれて、気がついたら神泉苑の楼閣にいた、とのことらしい」
「そのようなことが」
「博雅も南庭におらねば、招かれていたかも知れぬよ」
「なんと」
 博雅は晴明の言葉に驚愕した。
 一歩間違えば自身も神泉苑の楼閣で酔い潰れていたかもしれないのだ。
 博雅の考えがわかったのか、紫は口元を隠しおかしそうに笑う
「楼閣では一人の鬼が酒を飲んでいたそうだ。酒を勧められ、断るわけにもいかず飲み続け、一人二人と潰れていき、最後に残ったのが景直殿さ」
「景直殿は酒豪だからな」
「けれどさしもの景直殿も鬼には勝てぬよ。人が正面から鬼と勝負して勝てる道理はないさ」
「それであのようなことに」
 博雅はいびきをかき眠る宿直の者たちを思い出した。
「そして鬼は景直殿にこう言ったのさ。三日後の晩にもう一度神泉苑で酒宴を開くから、酒豪の者を連れてつまみを用意しろ、とな」
「三日後……つまり明日の晩ではないか」
「そうさ、そのことで何とかしてくれるよう、景直殿に頼まれたのだよ」
 そこで晴明は口を閉じ、酒を一口あおった。
 紅い酒が晴明の唇をさらに艶やかに紅く染める。
「ふむ、で、どうするのだ晴明」
「無論行くのさ。なに色々と方法はある。博雅も共にどうだ」
「む、明日の晩か」
「明日の晩さ」
「おれは酒豪というほどでもないぞ」
「謙遜するなよ、博雅は酒豪さ」
「おれが酒豪というのなら晴明、おまえだってそうだ」
「そうだな、おれも酒豪かも知れぬよ」
「わたしも行くわ。いつ行くかは分からないけれど」
 紫が二人の会話に割って入る。
 その鬼のことが八雲紫は気になったのだ
「ゆこう」
「ゆこう」
「ゆこう」
 そういうことになった。




 博雅と晴明は神泉苑の水上楼閣に腰を降ろし座っていた。
 半ば水の上の建てられた楼閣であるから、神泉苑に造られた池が見下ろせる。
 水面には輝く星々や月が写り込み、さながら地上の天のようである。
 月は満月の少しあとの十六夜であり、ゆらゆらと水の上で揺らめいている
 晴明と博雅の周りには灯火が二つ。灯りはそれだけである。
 八雲紫は姿を見せていない。
 気まぐれな紫の常である。ひょっこり現れるかもしれないし、結局姿を見せないかも知れない。
 二人の周りにはさまざまなつまみが用意されている。
 これらは藤原景直が調達したものであり鮎などの焼き魚、瓜などの果実、山菜、餅とやたら多い。景直からのせめてもの気づかいなのかも知れない。
 晴明も博雅もつまみに手を付けてはいない。
 酒がないからである。
 景直の話を聞くに酒は鬼が用意しているのだ。
「景直殿はいらっしゃらないが……どうしたのだ」
「景直殿は鬼に来いとは言われていないからな。つまみを用意してもらった。鬼はどうやら景直殿に執着しているのではないし、これで十分だろうさ。景直殿のお屋敷にも結界をはってある」
「そうか。しかし霧にまかれると気をやってしまうそうだが、大丈夫なのか」
「もうそろそろか。博雅よ、この札を懐に入れておけ」
 晴明は文字がびっしりと書き込まれた札を取り出し、博雅に渡す。
 札をしげしげと見つめ、博雅は懐に札をしまい込む。
 心なしか晴明の札は普段よりも文字が多い気がした。
「始まったぞ」
 晴明は楼閣の外を見ながら声をかける。
 いつのまにか、外にはうっすらと靄のようなものがかかっている。
 それは次第に濃くなっていくように見える。
 博雅は二三度瞬きをした。
 その間にも靄は濃さを増し、白い濃霧へと変貌していく。
 大内裏や外の屋敷は霧に飲まれて、もはや見ることは敵わない。
 あたかも米のとぎ汁が何杯も神泉苑に注がれているようである。
 数刻の内に水面と天上、双方に映る星も月も完全に隠されてしまった。
 一瞬、霧を吹き消すような風が吹いた。
「おやおや、人が萃まらないと思ったら、陰陽師かい」
 晴明と博雅の背後から幼い声が響く。
 二人は振り返る。
 楼閣の欄干には女の童が腰かけて陽気に笑っていた。
 愛らしい姿をした女の童である。
 しかし童の頭には、大きく尖った角が二つ生えている。
 頭の大きさに不釣り合いなほど大きく立派な角である。
 まさしく童子は鬼であった。
「大内裏中に結界を張ったのはあんたでしょ。お陰で宴会なのに人が少ないよ」
「いかにも、しかし気ままに人を萃められては困ります故、ご容赦を」
 童子姿の鬼は欄干から飛び降りる。
 鬼の服に付けられている鎖が揺れ、金属音を立てる。
 鬼は晴明と博雅に対面するように座った。
 三つの杯に手にした瓢箪から酒を注いでゆく。
 清流のように美しく透きとおった酒である。
「わたしは伊吹萃香だよ。見ての通り、鬼さ。あんたのことは知っているよ、安部晴明」
 萃香は酒を満たした杯を晴明に手渡す。
 そしてもう一つの杯を持ち、博雅の方を見た。
「源博雅だね。朱呑童子から話は聞いているよ。よろしく」
「う、うむ。よろしく頼む」
 萃香から杯を受け取り、博雅はうなずく。
 朱呑童子とは朱雀門の鬼のことである。
 朱雀門にて博雅と共に笛を奏で、互いの笛を交換した鬼である。
 鬼の間で自身のことが話されていると思うと、博雅は奇妙な感じがした。
「なかなかの量のつまみだねえ」
「景直殿が用意されたものです」
「景直……ああ前の宴会の時の。うん約束は守られた!」
 おもむろに萃香はつまみに手を伸ばす。
 餅をつかみ取ると口にほうばった。
「甘いね。久しぶりに餅を食べたよ」
 餅を一口食べたあとに萃香は杯の酒を飲みほした。
「酌ならば青虫にやらせましょう」
「そう? ならお願いしようか」
 晴明の提案に萃香はうなずく。
「これ伊吹瓢っていうんだよ。これがあれば酒が絶えることないのさ。すごいでしょ」
 青虫に萃香は瓢箪を手渡した。
 博雅は楼閣に瓶子がなかった理由を今更ながら合点した。
 新たに注がれた酒に口をつけ、またつまみにも手を付ける。
 何とも豪快な食し方である。
 角を除いて、ただの童子にしか見えぬ萃香が大人顔負けの速さで酒を飲んでいく。
 博雅はその姿に呆気に取られている。無意識に飲み食いの手も止まった。
「おや、博雅は飲んでないじゃない。鬼の酒が飲めないっていうのか~」
「い、いやそうではない。頂くぞ」
 博雅はあらためて酒を口に含む。
 強い酒だった。博雅がこれまで飲んだものの中でも、格段に強い。
「これが鬼の酒か……」
「おいしいでしょ。この味は人間には出せないよ」
 しかし強いだけではない。
 淡麗であり、それでいてなかなかに辛口である。
 旨い酒であった。
「うむ、旨い」
「お、博雅も飲める口だね」
 その言葉に博雅は晴明の方を見た。
 晴明は普段通りわずかな微笑を口元に浮かべ、杯を傾けている。
「さて、伊吹萃香さま。此度の騒動、なぜ起こしたのかお聞かせ願えますでしょうか」
 博雅と萃香の取り留めのない会話が一段落したころである。
 杯を置くと晴明がおもむろに口を開いたのだ。
「宴にわけを求めるなんて無粋だよ。楽しもうよ」
 にへらにへらと目を細めて萃香は笑う。
 晴明の言葉を萃香は取り合おうとはしない。
 心なしか酒を飲む間隔が早くなっている。
 酒に思いを押し流そうとしてるようだ。
 わずかな沈黙のあと、唐突に口を開いたのは博雅だった。
「……何かわけがあるのなら、お聞かせ下さい」
「博雅まで、そんなことを気にする。酒が足りてないんじゃないのお」
 萃香は青虫から瓢箪を受け取り、博雅の杯に酒を注ごうとする。
 それを博雅は手で押しとどめた。
「我らに出来ることならば力をお貸ししましょう」
「力、人が鬼に力を貸すって。もうそこまで人は言えるようになったんだねえ」
 高く高く声をあげて萃香は笑う。
 成長を喜ぶようでも、悪い冗談を聞いたかのようでもあった。
 ひとしきり笑い通したのち、萃香は晴明と博雅を見据えた。
 一瞬、萃香の目から酒精が消えたように博雅には見えた。
「いつも、鬼は置いて行かれるんだね」
 言葉とともに萃香は楼閣の外に向けて手を振る。
 その途端、楼閣を覆い尽くしていた白い濃霧が薄くなっていく。
 月が見える。
 星が見える。
 水面も天上のものも同時に姿を現す。
 月光と星光に彩られた夜の神泉苑である。
「もう一度だけ、神々の皆と酒を飲み交わしたい。それがわたしの望みだよ」
 平安の御代よりさらに昔々のことである。
 まだ幻想と現実が別れてもいなかったころのことである。
 伊吹萃香はやはり酒を飲んでいた。
 神々と共に酒を飲んでいた。
 天手力男と力比べをし、木花咲耶姫と石長姫の姉妹と共に舞い、大国主と酒を飲み交わす。
 天岩戸から連綿と連なる神々の宴。
 しかし時の流れは確実に現実と幻想を分けていった。
 神と鬼と人の距離は少しずつ少しずつ遠くなっていく。
 ふと辺りを見回すと萃香の周りに神々は誰一人としていなかった。
 どこを探しても、もう神々はいないのだ。
「わたしはもう一度、彼らに会いたい。神泉苑は一度天竺までつながった。だからわたしはここで待つ。天竺に道が開くまで」
 萃香は神泉苑の池を通して見たのである。
 天竺で神々が戯れる宴を。そこには日本の神々もいた。
 そこに萃香は行きたかった。
 決して届かぬ天の星と月を夢に見る。
 萃香の思いはそれに似ていた。
「あれを――見られていたのですか」
 晴明が簡潔に尋ねる。
 それは晴明と博雅と蝉丸が、はるかな天竺へと行ったときのことである。
 萃香はそれに首肯した。
「大陰陽師安倍晴明でも、もう道は開けないんでしょ。黄金の鱗がないから」
 晴明が以前天竺への道を開いたときは、善女竜王の黄金の鱗という道標があった。
 だが今はそれがない。
 かの空海ですら向こうに行くことはできず、善女竜王を呼び出しただけである。
 晴明も道標なしに道を開くことはできないのだ。
「道が開くことは……もはやないでしょう」
 晴明は言い切った。
 この先、時が進めば進むほど人と神と鬼は離れていく。
 近づくことは、もはやあり得ない。
 晴明の言葉を耳にした途端、萃香は酒をあおった。
 杯に注ぐこともせず、瓢箪に直接口を付けてである。
 酒を浴びるように、酒で全てを押し流すように。
「そう、やっぱりそうか。晴明に言われると納得しちゃうなあ」
 からからと笑いながら萃香は晴明と博雅の杯に酒をつぎたす。
「飲もうよ。朝までさ」




 それは突然始まった。
 晴明と博雅と萃香が少人数ながらも、楽しく酒を飲んでいる最中であった。
 宙に刃が走ったかのように切れ込みが入り、赤いひもに彩られた裂け目が出現したのだ。
 知っている者にはひと目でわかる。
 境界を操る八雲紫の隙間である。
 ただ裂け目は普段のそれよりも大きい。
「さあ、鬼の宴、幻想の宴の始まりよ」
 紫の言葉と共に、裂け目から一人二人と姿を現す。
 それは鬼であった。
 それは妖しのものであった。
 水干をきて笛を持った童の鬼、朱呑童子。
 背の高い一本角の女鬼、星熊勇儀。
 白ずくめのどことなく蛇を思わせる顔の女、蛟精の白蛇。
 唐風の衣装の九尾の狐、八雲藍
 鴨川に住まう妖獣、黒川主。
 それぞれが名のある鬼や妖しのものである。
 彼らの後からも次々と鬼が、妖しのものが裂け目から姿を見せる
 それぞれ皆が酒の入った酒瓶や瓶子、杯を手に持ち、あるいは焼き魚や果実、御菓子を持っている。
 それはまさしく百鬼夜行であった。
「お、萃香じゃないか。もう宴に来てたのか」
 萃香と旧知の仲である勇儀が声をかけ、そのまま横に腰を下ろす。
 そして巨大な杯に酒を注ぎ始めた。
 鬼や妖しのものはそれぞれ、場所を見つけ座り、酒を飲み騒ぎ出す。
「大人数を集めたものですね、紫さま」
 周囲を見回し晴明が紫に尋ねた。
「そうよ。折角の宴なんだもの。人数は多い方がいいじゃない。安心して、誰もあなた達に手を出さぬように言ってあるから。最も安倍晴明と源博雅に手を出す鬼はいないと思うけれどね」
 紫はそう言うと従者である藍を呼び、酒の用意をさせた。
「宴の人数が足らないって紫に誘われてね。ここにいるやつらはみんなその口さ」
 勇儀が萃香に聞かれてもいないのに説明する。
 そのうちに鬼が一人二人と立ち上がり、踊りだす。
 はっきり言って下手なのだが、愛嬌のある動作が何ともおかしい。
 もっとやれ、だの引っ込め、だの様々な野次が飛び交う。
 それを見て萃香も手を叩き笑い出した。
 神泉苑の池の水面に映る月や星々が、萃香の目には一層煌めいて見えた。
 それこそ天上のものと何ら変わりなく。
 確かに天上の月と星には手は届かないかも知れない。
 だが地には地の星月がある。
「萃香、幻想郷にいらっしゃい。長い長い時の淵であなたが会いたい方々にも、いつか会えるわ」
「うん、いつかね」
 萃香は肯定した。
 幻想郷は現実から消えた者たちがいる場所である。
 いつか消えた神々とも会えるかも知れない。
「博雅殿、博雅殿の笛を聞かせ願いたい」
 ひとしきり時間がたったのち、黒川主が獣の鼻をひくつかせ言った。
「おう、博雅殿。今宵も我らに笛を聞かせてくれぬか」
 黒川主の声に反応して、鬼や妖しのものどもの中からも声が上がる。
 先ほどまで踊り狂っていた鬼もすでに腰を降ろしている。
「噂の源博雅の笛か。朱呑童子、話は本当なのかい」
 勇儀は朱呑童子の肩を小突く。
 しかし童の朱呑童子と長身の勇儀。元より体格がかなり違う。
 勇儀としては弱くやったつもりであったが、朱呑童子は大きく前につんのめった。
「ありゃ、すまないね」
「……まあ保証しますよ」
 博雅は静かに葉二を懐から取り出した。
 葉二を口に付け、息を送り込む。
 笛の音色が、楼閣に、神泉苑に、百鬼夜行の宴に響き始める。
 鬼の宴、幻想の宴は夜が明けるまで続いた。




[8544] 上白沢慧音という半妖人の楽師をおくること
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2010/04/18 00:50
 洛陽は長き歴史を刻んだ都市である。
 古くは東周から数々の王朝が都としてきた。
 何度かの災いもあったが、そのたび洛陽は蘇ってきた。
 暗き夜を越えれば、まぶしい陽は昇るものである。
 唐王朝は成立から百八十八年目を迎えていた。
 十四代皇帝憲宋の治世が始まり都である長安には新たな風が吹いているが、洛陽には未だに風は届いていない。
 男が一人、洛陽にいた。
 僧形で剃髪である。
 名を空海と言った。
 昔と町並みや人混みは変化していない。
 昔、と言ってもわずか二年前のことである。
 二年前に空海は留学僧として唐に、ここ洛陽に足を踏み入れたのだ。
 密教を求めて空海は入唐した。
 
 この密をもって――
 日本国を仏国土となす――

 阿弖流為、坂上田村麻呂と若き日の空海との約定であった。

 虚往実帰
 虚しく往きて実ちて帰る

 荘子の言葉であり、空海が師である恵果の碑に刻んだ言葉である。
 二年間で空海は空っぽだったこの身を密の教えで満たしていた。
 そして今まさに空海は密を日本に持ち帰る途上である。
 長安を発って、洛陽で三日ほど休み、これからの長い旅に備えるのだ。東の果ての日本国への旅路を。
 市の人ごみの中を空海は歩いていた。
 市には精妙な絵柄の壺や西からもたらされたであろう絹の織物が売っている。
 それらを横目に眺めながら空海は歩く。
 先には長大な橋が見える。
 雄大な洛水(らくすい)を南北につなぐ天津橋である。
 空海は一歩一歩橋の上を歩いた。
 空海の歩みと共にカタカタと板橋が鳴る。
 明日には洛陽から遣唐使節は発つ。もう天津橋を見ることも渡ることもないだろう。
 ふと空海は耳を澄ました。
 向こう岸に近づくにつれ、楽器の音色が聞こえてくる。
 音は月琴によって生み出されていた。
 音は複雑に絡み合い曲をなしていた。
 異国の、天竺の旋律であろうと空海はあたりをつけた。
 天津橋のたもと、洛水のほとりで楽師が一人、星と月の装飾が目を惹く五弦の月琴を弾いている。
 眉目秀麗な青年楽師である。
 肌は浅黒く、唐の人間でないことが一目で分かった。
 周りには人だかりができている。
 道を行く者もかなりの数が足を止め、月琴の演奏に聞き入っている。
 灯火に引き寄せられる羽虫の如く、さらに一人二人と人が集まっている。
 楽師の生み出す旋律に皆が惹かれているのだ。
 無論空海も同じであった。
 空海は人だかりに近寄る。
 明日には洛陽を去るのだ。洛陽の思い出として記憶に残すというのも悪くない。
 月琴によって紡がれるのは、憂いと哀切を伴う曲。
 すでに別れたものたちを偲ぶかのような旋律である。
 空海は目を閉じた。
 男がいる。
 女がいる。
 それぞれ商人、妓生、官人、詩人、僧侶である。
 それぞれ漢人、胡人、波斯(ペルシャ)人である。
 長安で空海と共に語り合い、笑い合った仲である。
 もう、会うことはない。
 空海のまぶたの内にとめどなく蘇ってくるのだ。
 空海は渦巻く情の奔流に身を任せた。
 徐々に楽師の旋律が変化する。それまでの哀切は身をひそめ、変わりに顔を出すのは、希望である。
 知己との別れを惜しみ、しかしそれを乗り越えて、新たな場所へたどりつく。
 そんな曲であった。
 どれほどたったか、楽師の指は弦から離れた。
 自然と人々から歓声が上がり、おひねりが楽師の前に置かれた籠に投げられる。
 楽師は深々と頭を下げた。
 灯火は消えたのだ。自然に羽虫も散っていく。
 周囲の人々もまた元の流れに戻っていく。
 ただ空海はまだ動かない。演奏の余韻に浸っていたのだ。
「わたしは漢多太(かんだた)と言います……もしや、空海先生ではないでしょうか」
 一人動かない空海を見て、楽師・漢多太が声をかけた。
 空海は目を開く。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか」
「いえ、先日までは長安にいましたので。空海先生の噂は耳にしていました」
 空海はその才を長安で示し、数々の噂となっていた。
 すべては密をその身に宿すために必要なことであった。
「日本国に、帰られるのですか」
「ええ、帰ります。日本へ」
「あちらの方角ですか」
 漢多太は東の方角を指差した。
 空海も東に顔を向ける。
 漢多太の指先の遥かな果てには日本国が確かにある。
「失礼を承知でお頼みします……わたしを日本国の船に乗せてもらえないでしょうか」
「遣唐使船にですか。日本国に行きたい、と」
「そうです。わたしは日本国に行きたい。日出ずる国へ」
「何ゆえに、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「わたしは見ての通り、この国の人間ではありません。天竺からこの国に流れてきました」
 漢多太の肌は浅黒い、そして顔の彫りも深い。漢人でないことは一目瞭然である。
「わたしはこれまで様々な国を旅してきました。唐国まで来て、東の果てに日本という国があると知りました。故国を離れてここまで来たのです。わたしは、日本を見てみたい」
 漢多太は気恥ずかしそうに笑いながら言った。
「日本への航海は危険です。それに行けば恐らく戻って来られませんよ。遣唐使はあと一度か二度しかありません」
「承知しています。それにわたしの故郷はもはやありません」
 その言葉で空海は漢多太の故国がすでに存在しないことを悟った。
 事実、漢多太の故国はすでに戦乱で滅び去っている。
 故に漢多太は天竺を出て、唐国にまで流れてきたのだ。
「本当に日本に行きたいのですか」
「ええ」
「そこまで言うのでしたら、わたしが話をつけましょう。ついてきて下さい」
 漢多太は月琴を背負い、動く支度を始める。
 そして空海と漢多太は並んで洛水の河口へと向かった。
 遣唐使船が出港するのは洛陽をさらに東へ下った港からである。
 そこまでは洛水のような運河を通っていくのだ。
 洛水のほとりには船が何隻も停泊している。
 一人乗りの小さなものから、空海の乗ってきた遣唐使船に匹敵する大きさのものまで実にさまざまであった。
 洛水は黄河の大きな支流のひとつであり天然の運河でもある。唐以前の古代王朝の時代から人や物の往き来に使われている。
 船はいずれも喫水が浅い。内陸の運河で使われるのだから当然である。
「あの船で洛水を下ります」
 空海は目線で漢多太に示した。
 大きく立派な船である。憲宋皇帝の空海への好意で良い船が使えるのだ
 帆はなく、船首が船尾と比べて高い。
 船首を見て漢多太は最初それを船の装飾だと思った。銀と青の細かな細工の施された船の守護象だと。
 しかし長い銀の髪が吹く風に揺れている。
 それは動かぬ像ではなく人であった。青い服を着た目もと涼やかな女人であった。
 かすかに憂いを含んだ表情で女は舳先に立っている。
 女は西の方角に視線を向けている。その先にあるのは長安。距離の隔たりをものともせず長安を見ているようでもあった。
 漢多太はその姿に目を奪われた。風に流れる銀髪が煌めいて、星河のようであった。
「あの方も……日本に渡られます」
 漢多太の視線に気づいた空海はそれとなく言った。
「日本へ……」
 漢多太はつぶやいた。自分と同じく日本を目指すものがいるとは思っていなかった。
 洛水は流れていく。りゅうりゅうと、人の流れなど気にもせずに。





 蝉丸という歌人がいた。
 盲目の法師である。
 歌人であり音楽家でもあった多才な人物であった。
 琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を受け継ぐ数少ない人物である。
 
 これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関

 かの有名な小倉百人一首に収録されている蝉丸の歌である。
 知る人も知らぬ人も東に行く人も西に行く人も、たとえ別れてもいずれ出会う。 それが逢坂の関なのだ。
 逢坂の関は山城と近江の国境にある。
 古くからの交通の要所であり、美濃の不破関、伊勢の鈴鹿関と並べて三関と呼ばれている。
 逢阪の関はいわゆる境界に位置している。
 人と人とが行き交うように、境界では世界も交差している。
 境界ではさまざまな層と相が交わり繋がり、また離れていく。
 鬼や怨霊などの妖しいものや、常世や陰態を垣間見やすい場所なのだ。
 逢坂とは逢魔でもあるのであろう。
 現代、蝉丸は逢坂の関にて明神として祭られている。境界の力によって蝉丸は常世に移ったのかも知れない。
 蝉丸は逢坂の関に庵を構えていた。
 小さく質素な庵だが、小柄な蝉丸にはちょうど良かった。
 嵐の夜である。庵の戸は全て閉め切っている。
 ごうごうと風が響き、屋根に雨粒が容赦なく叩きつけられる。
 逢坂の関の嵐は続古今和歌集の蝉丸の歌通り、一段と激しい。
 庵の中に座して蝉丸は楽器にふれていた。
 楽器は琵琶ではなく月琴である。まっすぐに伸びた弦は五本。
 とある伝手から蝉丸が手に入れたものだ。
 かなり使い込まれているようで、各所に補修した跡や何かの染みが伺える。
 蝉丸は指で弦を弾く。
 音は鳴る。造られた当時と何ら変わらぬような澄んだ音である。
 蝉丸は五弦の月琴を抱えた。
 嵐の夜である。蝉丸を訪ねる者は誰もいない。
 一人で気ままに楽器を操る、それも良いものだ。
 そう思い蝉丸が弦に指をつけた瞬間、庵の戸がとんとんと叩かれた。
 蝉丸はいぶかしむ。嵐の風ではないだろうか。
 だが逡巡の間に、戸はもう一度叩かれた。
 蝉丸は月琴を置いて立ち上がる。
 このような嵐の夜である。訪ねて来るのは人ではないかも知れない。
 鬼であろうか。
 しかし蝉丸は思う。
 鬼だったとしても、すぐに自分を喰らって嵐の夜に出て行きはしないであろう。
一夜の話し相手となってくれるのであれば幸いである。朱雀門に出没した鬼のような雅な鬼ならばなお良い。
 漢多太や朱雀門の鬼と存分に音楽について語り合ったのならば、喰われても良い。
「蝉丸法師でしょうか」
 蝉丸が戸に近づいたのが分かったか外の相手は声をかけた。
「いかにも、蝉丸でございます」
「蝉丸法師は近頃、唐国伝来の月琴を譲り受けたとお聞きしました。それを是非拝見したくやってきた次第です」
「……開けましょう」
 戸を動かぬようにしていた木の棒を蝉丸はずらす。
 手を戸にかけて横に動かす。水を吸った木の戸は大きくなっており普段より力がいった。
 土の床に雨が降り込む。
「客人よ、お入りなさい」
 雨を防ぐためか、外の人物は布を頭から被っている。
 戸が開けられてもすぐに入ろうとはしない。蝉丸の言葉を待って、ようやく敷居を跨いだ。
 声は蝉丸の頭より上から聞こえてくる。蝉丸よりも背は高い。
「お上がり下さい」
 板の間に上がるように蝉丸は勧めた。
 長身の客人は静かに一礼し、頭から布を取った。
 長い銀の髪が広がる。
 人間の白髪とはあきらかに違い、艶がある。
 そしてどこから取り出したのか、緋色に染められた布が何枚も付けられた冠を頭に乗せた。
「上白沢慧音と言います。まずは願いを聞き届けられたこと、感謝します」
 冠をかぶり、ようやく一息ついたという表情で上白沢慧音は言った。
 蝉丸と慧音は対面するように腰を下ろす。
「月琴とはこれのことでしょうか」
 慧音は蝉丸から差し出された月琴を受け取り、しげしげと眺めた。
 慧音の記憶にある五弦の月琴とは所々違いがある。
 漆は削げ落ち、色を変え新たに塗られている。
 星と月を象った装飾はすでにない。
 しかしこれは、間違いなく慧音の求めた五弦の月琴であった。
 弦を一本指で弾く。昔手にしたときと何ら変わらぬ音であった。
「五弦の月琴……これに違いない。蝉丸法師、これをどこで手に入れられました?」
「さるお方から頂いたものです。そのお方は平安京遷都の折りに手に入れたと語っておりました」
 蝉丸は月琴の出所を詳しくは知らない。
 平城京から平安京への遷都には多くの騒動があったと言われている。その中で散逸した名品は数知れない。
 この月琴もおそらくの一つなのだろう。
 ただ作りからして、日本ではなく大陸で作られたものだということは蝉丸にも伺えた。
「この月琴は、天竺にて作られたものです」
「天竺、唐のさらに西の国ですね」
「そして百五十年以上前に、空海和尚の遣唐使船で日本に渡りました。楽師の漢多太と共に」
「そうなのですか……楽師の漢多太、その名は耳にしたことがあります」
 漢多太という名前は蝉丸の心に残っていた。
「漢多太を、知っているのですか?」
 慧音は驚きながら訪ねた。
 当然である。百年以上前の楽師の名前を聞き覚えがあると蝉丸は言ったのだ。
「玄象という琵琶が少し前に内裏から鬼によって持ち出されたのです。その鬼が自ら名乗った名前が漢多太でした」
「漢多太……やはり鬼に変じていたか」
 慧音はぎゅうっと拳を握り締めた。
「鬼は、漢多太はどうなりました?」
「安倍晴明さまに調伏されたと伺っております。詳しく知りたいのならば晴明さまを訪ねるのがよいでしょう」
 蝉丸は晴明が漢多太を鎮めた夜には立ち会っていない。ただ話を聞いたのみである。
「……慌ただしくて申し訳ありません、わたしは安倍晴明の元に参るとします」
 そう言って慧音は腰を浮かしかける。
「外は天が荒れ狂っています。夜が明けるまで我が庵でお過ごし下さい」
 外の嵐は未だ弱まる気配がなく、庵には容赦なく風雨が叩きつけられている。
「……そうしましょう」
「漢多太が羅城門の上で奏でていた曲です。お聞きください」
 蝉丸は五弦の月琴を抱える。指を弦にあて月琴を奏で始めた。





 博雅は土御門大路にある安倍晴明の屋敷を目指していた。
 竹で編まれた籠を博雅は下げている。
 中に入っているのは大小様々な茸。まだ焼かれていない。
 晴明への土産である。
 冠位が上の博雅の屋敷に晴明が出向くのが普通だが、この二人にとっては気にならないことである。
 しかし博雅は晴明の屋敷におもむくにあたって気になることがあった。
 珍しく晴明の方から博雅にお呼びがかかったのだ。
 博雅の屋敷に童子が文を届けてきたのだ。あれも式神なのだろうと、博雅はあたりを付けている。
 気まぐれに博雅が晴明の屋敷を訪ねることはあっても、晴明の方から来てくれと伝えられることはほとんどない。
 それだけに博雅は真面目そうな顔をかしげながら土御門大路を行く。
 晴明の屋敷についたのは太陽が真上からすこし傾いたころであった。
 あいも変わらず屋敷の庭は荒れ放題であり、野の荒寺のようである。
 秋が始まっており、蜻蛉が風をきり舞っている。
「晴明、いるか」
 門は開け放たれているが、一応博雅は声をかける。
「博雅か、中に入ってくれ」
 晴明の声で返答があった。
 博雅はそれに驚く。なんと博雅の背後から晴明の声が聞こえたのだ。
 振り返ると博雅のうしろには一匹の萱鼠(かやねずみ)がいた。
 しかも後ろ足で直立している。
 博雅の顔を萱鼠はすこし眺めたあと、前足を下ろし四本の足で門をくぐっていく。
 少し逡巡したが博雅は萱鼠について行くことにした。
「来たか博雅」
 晴明は板張りの間にござを敷き座っている。
 庭が見えるように簾は巻き上げられおり、涼しげな秋風が入り込む。
「茸を持ってきた」
 博雅は籠に入れた何種類もの茸を差し出す。
「茸か。式にでも焼かせようか」
「いつも式に焼かせているではないか」
「いや呪で茸を焼くのも、良いかなと思ってな。博雅はどちらがいい」
 面白そうに笑いながら晴明が言った。
「……式だな」
 呪で茸を焼く。どのようなものか博雅に見当もつかない。
 しかし少なくとも食欲をそそられはしないだろう。
 普通に焼く分、式神の方が良い。
 博雅は式神とおぼしき女に籠ごと茸を渡す。
 式神の女は屋敷の奥に消えていった。
「晴明よ。おまえがおれを呼ぶなんて珍しいではないか。何かあったのか」
「まあ、な」
「もったいぶるなよ晴明。気になるぞ」
「もったいぶっている訳ではないさ。もう一人、来てからの方が早いのでな」
 晴明は微笑しながら弁解する。
「客が来るのか」
「うむ、だからそれまで酒は待っていてくれ」
 そう言われて博雅は待つことにした。
 ほどなくして萱鼠が短い足を素早く動かしながら晴明に近づく。
 晴明は指を萱鼠に向け、少しの間指を萱鼠を絡ませた。
「いらっしゃったか」
 晴明の言葉の少しあとに、客とやらが姿を現した。
 大きな青い冠と長い銀の髪が目を惹く女人であった。
 女人にしては背が高く、晴明と同じくらいである。
「上白沢慧音さまですね。お座り下さい」
「……よろしく頼みます」
 晴明は一つ開いているござに座るよう慧音に勧めた。
「ご存じかも知れませんが、わたしは安倍晴明と申します。こちらはわたしの友人で源博雅。玄象を見つけたのは博雅です」
「まて晴明。玄象だと」
 玄象の名前が出た時点で博雅は口を挟んだ。
「まだあの琵琶には何かあるのか」
 博雅の言葉通り、玄象は琵琶である。
 唐から日本にもたらされた名品であり、今は天皇家の宝として内裏に収められている。
 夏の始まりのころに鬼に盗まれた玄象を取り返したのは、まだ博雅の記憶に新しい。
「まあ待てよ博雅。慧音さまの話を聞こうではないか」
 晴明は話の軌道を元に戻す。
 そこへ式神が酒と茸を焼いたものを運んできた。
「酒とつまみなどはいかがでしょう」
「……頂きましょう」
 少し考えたのち慧音は首を縦に振った。
「さて慧音さま。話をお聞かせ願えますでしょうか」
「その前に聞きたいことがあります。漢多太を調伏したというのは本当なのですか」
「調伏まではしておりません。ただ呪はかけましたが」
 漢多太、玄象を内裏より盗み出した鬼の名である。
 羅城門の下で晴明は漢多太の怨霊が憑く対象を、犬の首から玄象に取り換えたのだ。
「では今も漢多太は玄象に憑いている……」
「そうなりますでしょうか」
 晴明は慧音の言葉を肯定した。
 玄象は時として意思を持っているようだと言われる。
 つい先日の小火のさい玄象は誰の手も借りず、知らぬ間に庭に置かれていたらしい。
「お話いたします。わたしは――漢多太と共にこの国に来たのです」
「漢多太と! ではやはりあなたは……」
 驚きつつも博雅はある程度予想していた。慧音が普通の人間ではないことを。
 変わった格好もそうだが何より銀の髪というのは珍しい。
「――唐の洛陽、始まりはそこからでした」






 唐の洛陽。
 わたしと漢多太が初めて出会ったのは洛陽でした。
 遣唐使船にて日本に帰る空海和尚の導きで日本に渡ったのです。
 漢多太、空海和尚、橘逸勢。みな良い人でした。
 何ゆえ唐から日本に来たのか。
 ――怪力乱神を語らず、との言葉を知っているでしょうか。
 論語に刻まれた一説です。
 それから千五百年、人の間で人外の者たちが忘れ去られていきました。
 そして百年ほど前から妖怪が唐の地から姿を消し始めたのです。
 神仙、鬼、妖怪、類を問わず次第に人の目から消えて行きました。
 わたしたちは、現実ではなく幻想になり始めたのです。
 わたしの名は上白沢。名前の示すとおり半分は人で半分は白沢。半端者であるが 故に、他の妖怪よりも長く人の中に留まることができました。
 そうそう二百年ほど前に白面金毛九尾の狐が来日したのもその為なのですよ。純粋な妖怪ほど唐の地では早く生きにくくなっていく。
 他に桃源郷とよばれる異界を作り上げ、そこに逃げ込んだものたちもいたようです。
 白面金毛九尾の狐が日本に去って五十年ほど経ったのち、いよいよわたしにも限界がきました。
 人の血が半分ほど入っているからなのでしょうか、わたしは人との係わりを断ちたくはありませんでした。故に未だ人外の力の強い日本に逃れたのです。
 漢多太、空海和尚、橘逸勢とは平安京にたどり着くまでの数年間共に旅をしました。年数で言えば短いですが、わたしにとってはかけがえのない濃い時間でした。
 今でも空海和尚の説法や橘逸勢の筆遣い、漢多太の月琴の音色は記憶に残っています。
 空海和尚と橘逸勢、共にこの世にはもうおりません。空海和尚の入滅、承和の変、彼らの死に際をわたしは見送りました。
 漢多太、そう漢多太です。
 彼が人の身をなくしているとは、あろうことか鬼に変じているとは、知りませんでした。
 わたしは人が好きです。どうしようもなく愛おしい。
 漢多太を、人の身にとして送りたい。
 玄象に憑く鬼ではなく、人として死なせてやりたいのです。
 どうか、ご助力願えないでしょうか。






 慧音の瞳は遠い昔を眺めているかのように虚空を見つめている。
 流れ去った過去をゆっくりと思い返すかのように
 晴明も博雅も黙っていた。
 慧音の、譲れぬ想いを感じたからである。
 慧音は言葉を一泊止める。
 何か言い出しにくいことを言葉にするために、一瞬の間を置く。そのような感じである。
「話した通りです。わたしは漢多太を救いたい……わたしを、満月の夜に玄象の元まで連れて行ってくれませんか」 
 玄象の元へ行く。それはすなわち帝のいる内裏へ入ることを意味している。
「お気持ちは痛いほどわかりました。しかし内裏へ入るのは……」
それまで黙っていた博雅が口を開いた。
 慧音の思いは存分に共感できる。できるならば協力してやりたいと博雅は思っている。
 しかしことはそう簡単には行かない。
 内裏へ入れるのは晴明や博雅のような官人だけである。
 秘密裏にことを運んだとしても、内裏は人の目が多い。いつ何時嗅ぎつけられるか分かったものではない。
 唯一無二の方法は、帝にこの件を願い出て帝の許しを得ることである。
「玄象を借りることはできないか」
「主上は玄象を大層気に入っている。内裏の外へ持ち出すのは無理だろう」
「主上は許してくれるかな」
「どうだろうなあ。主上には気まぐれなところがあるからなあ」
 両腕を組み、博雅は困ったように言った。
 許しを得られるか否か、博雅も図りかねている。
「近いうちに宿直はないか?」
「宿直か、明後日はおれの担当だが」
 おもむろに晴明は宿直のことを博雅に聞いた。
「その時に、入るというのはどうだろう」
「……晴明それはいかんぞ。もしどこかから漏れてみろ。お叱りを受けるだけでは済まんぞ」
「よい考えだと思ったのだがな」
「晴明、おまえは時折主上を蔑にしすぎる」
 博雅は晴明に軽く忠告した。
 晴明という男は帝のことをどうとも思っていない節があった。
 よく帝のことを、あの男、と不敬な呼び名をすることもある。
「やはり、おれが主上に願い出てみよう」
 ひとしきりの沈黙のあと、おもむろに博雅が口を開いた。
 どうにかして帝の許しを得る。やはりこれしか方法はないと博雅は思っている。
 それに玄象を取り返したのは博雅ということになっている。
 こと玄象に関しては博雅は帝の覚えが良い。
「先ほどもいったが主上は気まぐれなところがある。案外何とかなるかも知れぬな」
「頼んだぞ博雅」
「お願いします博雅さま晴明さま」





 晴明、博雅、慧音は宜陽殿(ぎようでん)にいた。
 内裏の正殿であり帝が重要な儀式を執り行う紫宸殿(ししんでん)のすぐ東に位置している。
 晴明たち三人以外の人影は宜陽殿にはない。
 博雅が帝にかけあい、特別に許しを得たのである。
 意外なことに帝は玄象をお祓いすることに難色を示さなかった。
 博雅が誠心誠意帝に願い出たというのもあるが、他にも理由が存在する。
 帝の元には先日の小火の際、玄象に手足が生え庭に駆けだしたという報告が寄せられていた。
 これが玄象でなかったのならば笑い飛ばすところだが、何分玄象は鬼によって盗まれた琵琶である。いかに帝といえど気にもなる。
 そこに博雅からお祓いの提案があったのだ。
 帝にとっては渡りに船であった。
「うまく許しがでたものだな」
「おう、時期がよかったのさ、先日の小火がなければ許しは降りなかったかも知れぬ」
「小火か、もう直されているな」
 晴明は目線で宜陽殿の中を見回した。
 火が小さかったのですぐに消し止められ、今では火が出たという痕跡はないに等しい。
 宜陽殿は天皇家に伝わる楽器や宝剣、玉などの宝物が納められている。
 幸いにも炎に当たった宝物もない。
 玄象は部屋の中央に置かれていた。
 玄象は紫檀で作られている。赤見を帯びた地に黒の縞が美しく流れていた。
 慧音は玄象の前に座っている。手を触れようとはしない。
 目を固く閉じ、何かが訪れるのを待っているようにも見えた。
 慧音の少し後ろに晴明と博雅が並んで座っている。
 博雅には慧音が何を待っているのか分からない。ただここまで来たら声をかけることもない。
 と、そこまで動きのなかった慧音が自らの冠を脱ぐと床に置いた。
 そこから先は長いようで一瞬であった。
 降ろされた簾の合間から、月光が宜陽殿に差し込む。
 晴明たちが宜陽殿に入ったのは黄昏時であった。
 夜と昼との境目が、月が昇ることにより夜へと傾きだしたのだ。
 慧音を見ていた博雅が驚き、思わず目を見開いた。
 慧音は変わり始めていた。
 ぼんやりと淡い光のようなものを纏っている。
 体内から湧き出る力が、光として身の内からあふれ出ているようにも見える。
 長い銀の髪一本一本が風もないのにゆらゆらと揺れる。
 銀の髪の中に何かが現れていた。
 頭に二つ。
 長く鋭い。
 それは二本の大きな角であった。
 まるで鬼を思わせるような角である。
 血の臭いはしない。
 頭から角が生えたにも関わらず、血は出ていない。
 やがて揺らめく髪が静まり返ったとき、慧音の衣は鮮やかな緑に塗り替えられていた。
 慧音は手を伸ばし、玄象を手に取り、胸に抱く。
 そして慧音は玄象に何事か語り始めた。
 晴明と博雅の耳には何を言っているのか聞こえない。
 あたかも幼子を抱き抱えているようである。
 慧音は微笑んでいるのだろか、それとも泣いているのだろうか。
 小さく聞こえる声の響きは親しげに、そして哀しげに聞こえた。
 そしてそれは突然始まった。
 数々の宝物が、辺りを照らす灯火が、宜陽殿が、晴明たちをのこして消え去ったのである。
 辺りは何もない闇である。闇の中を晴明、博雅、慧音の三人が浮かんでいる。
 ただそれも一瞬。
 辺りは瞬時に開けた。
 そこは宜陽殿ではない。内裏でも平安京でも日本でもなかった。
 そこは異国であった。唐ですらない。
「――天竺さ」
 晴明が静かにつぶやいた。
 晴明の言葉を聞き博雅は辺りを見回す。
 巨大な都市の一角のようであった。
 太陽の日差しがまぶしい。
 細かな彫刻が施された大きな石造の建物が並ぶ。
 建物の立ち並ぶ道の真中に一人の女が立っていた。
 薄く透けた赤色の布を頭から被っている。
 天竺の人らしく浅黒い肌で瞳が大きく、鼻筋が高く通っている。
 額には黒子がひとつ。あたかも如来の白毫(びゃくごう)、シヴァ神の第三の目を彷彿させた。
「玉草……?」
 博雅はある女の名前を口にした。
 それはすでにこの世にいないはずの女の名前であった。
 鬼となりし漢多太に見初められ、漢多太に切かかり、殺されてしまった女。
「すーりあ、さ」
 晴明が博雅の声に応えるように別の女の名前を口にする。
 漢多太の妻であった女の名前である。もともと漢多太が玉草に心移したのは、玉草とスーリアが瓜二つだったからなのだ。
 スーリアはずっと続く道の果てを見つめている。そこから誰かがやってくるのを待っているかのように。
 いや実際にスーリアは誰かを待っているのだ。スーリアはいつ来るとも知れぬ誰かを待ち続けている。
 そう博雅は直観した。スーリアは恋焦がれるものを思い続ける目しているのだから。
 浄、と玄象が鳴った。
 慧音が弾いたわけでない。ひとりでに弦が弾かれたのだ。
 そして、玄象の元から霧のようなものが空間に溶け込んでいく。
 霧は次第に一つに集まり、人型を作り出した。
 五弦の月琴を背負った楽師。
 スーリアと同じく肌は浅黒い。眉目秀麗な青年楽師であった。
「まさか、漢多太か」
 晴明の顔を見ながら博雅が問うように言った。
 晴明は何も言わない。ただ博雅の問を肯定するようにうなづいた。
 それは在りし日の、人だった頃の漢多太の姿であった。
 漢多太は一歩一歩と、スーリアの元へ近づいて行く。
 一歩踏み出すごとに漢多太の歩みは速くなっていく。歩みは次第に駆け足へあと変わっていく。
 漢多太に気付いたスーリアが満面の笑みで顔をほころばせる。
 瞳からは涙があふれていた。
 そして漢多太とスーリアは互いに手をまわし、抱擁した。
 二人の唇が重なった瞬間、周りは再び闇に落ち込んだ。
 だがそれも一瞬である。瞬きをする暇もなく周囲の風景は宜陽殿へと戻っていた。
 慧音は玄象を静かに床に置く。
 そして振り返り晴明と博雅の方を向いた。
 慧音の瞳は、紅に染まっている。
「慧音さま、あなたは満月の夜にしか本当の力を使えないのですね」
 晴明はおもむろに言葉をかけた。
 満月、その言葉を聞いて博雅は簾の合間から外を見た。
 天には巨大な満月が昇り始めている。
「その通りです。わたしは、満月の夜にのみ新たな歴史を紡ぐことができる」
「新たな歴史……では今のは」
「漢多太とスーリアの新しい歴史。わたしが創造した歴史です」
「漢多太は……死ぬまでにもう一度故郷を見たかったと言っていたな」
 博雅は漢多太との会話を思い出していた。
 玄象を奏でながら、漢多太はすでにこの世を去った妻の名前を唱え続けていた。
「その想いを叶えました。すでにあったこととして……もう玄象には何も憑いていません」
 役目を終えた、ホッとした表情で慧音は言葉を続けた。
 事実玄象にはこれまでの面妖な気配が、今は感じられない。
「ありがとう、晴明さま。博雅さま。漢多太は成仏することができました」
「いずれはこうなっていたことでしょう。同じ成仏するならば、漢多太にとって幸せな方がいい」
 晴明は立ち上がり、簾を開いた。
 涼しげな夜気が宜陽殿に入りこむ。
 空には一点も欠けることのない満月が昇っていた。





 安倍晴明の屋敷である。
 夜気がだいぶ降りており、風が吹き込めば少し肌寒い。
 晴明と博雅は酒を飲んでいた。
 つまみはこの前と同じ茸である。
 今回は晴明が呪を使って焼いたため、今一つ博雅の食が進まない。
 火を使って焼くのは同じであるが、台もなく火だけが出るのはどうも腑に落ちない。
 なので博雅はもっぱら酒だけを飲んでいる。
「今日発たれたそうだな」
「慧音さまか」
「ああ」
「東の方へ行くそうだな」
「今までは山陰道や山陽道のあたりで人と共に暮らしていたそうだ」
「漢多太を送ったように、人をどれほど見送ってきたのだろう。どんな気持ちで見送ってきたのだろうな」
「わからんさ。おれにもわからんよ。おれも……人なのだ」
 晴明はそう答えて酒を一口飲んだ。
 庭からは数多くの秋の虫たちが鳴いている。
「幻想が生きていける場所を探すそうだ」
「そのような所があるのか」
「あるさ。最も今はまだできてはいないがな」
 晴明は八雲紫の妖しい笑い顔を思い浮かべた
 それができるのははるかな未来のこと。
「いずれは日本からも、鬼が消えてしまうのかな」
 博雅は唐から人外の者が消えていりといった話を思い出していた。
 平安京では日常的にどこそこに百鬼夜行が現れたといった話題が口にされる。
 それだけに博雅には鬼や妖怪が消えるといったことが今一つ信じられない。
「鬼がいなくなる。本当にいなくなってしまったら――おれは何だか無性にさびしい気がするのだよ」
「さびしい、か。確かにさびしくはなるだろうな」
「……晴明、おまえは消えないよな」
 博雅は晴明を見据えて言った。博雅はときおり晴明から霞の如く消えてしまいそうな雰囲気を感じ取っていた。
「博雅、おれは、おまえの前からは消えないさ」
 晴明はしっかりと答えた。
 風が吹く。
 灯火がゆらゆら揺れる。
 しかし消えはしない。
 秋の虫たちは短い命を存分に輝かせるように、一心不乱に鳴いていた。



[8544] 古明地さとりという妖地上にのぼること(前篇)
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2010/04/25 09:18
 賀茂保憲の屋敷からはよく猫の鳴き声がする。
 みゃあ、と一鳴きだけ聞こえることもあれば、何十匹もの猫が集まっているかのようなかしましいときもある。
 ただいくら猫の鳴き声がしても、屋敷の中を猫が闊歩している様子を見た者はほとんどいない。
 客人が不思議がって尋ねても、保憲は曖昧に微笑んだまま言葉を濁すのみである。
 不思議ではあるが、別段そこまで気にするようなことでもない。
 猫が潜むところなど屋敷にはどこにでもあるからである。
 それに賀茂保憲は安倍晴明と並び賞される陰陽師である。
 晴明の屋敷のように、至る所に式神が潜んでおり、それらが鳴いているのかも知れない。
 その日も保憲の屋敷からは猫の鳴き声がしていた。
 夜であり、天には欠けることのない満月が昇っている。
 庭に面した廊下に座り込みながら賀茂保憲は月を眺め一人酒を飲んでいる。
 いや正確には一人ではない。胡座をかいた保憲の足の間に猫が丸くなっている。
 保憲の黒い水干に溶け込むかのような、毛並みの美しい漆黒の小さな猫であった。
 猫は目を閉じている。見事な明月であるというのにまるで興味がないのか、見ることもしない。
 ときおり聞こえる猫の鳴き声に合わせて耳を動かすものの、自らが鳴くことはない。
 なかば眠っているようなものである。
 ただ保憲が酒を指先に浸して猫の鼻先にもっていけば、目を薄らと開けて赤い舌先を伸ばし指をちろちろと舐める。
 杯を持ち口に運ぼうとしたところで保憲はふと手を止めた。
 先程まで丸まっていた黒猫が金色の目を大きく開き顔を上げたのだ。
「沙門……?」
 沙門と呼ばれた黒猫は返事をするようにみゃあと一声鳴くとすっくと立ち上がる。
 保憲の足の間から床へと降り、歩きだした。
 天に向かって立つ沙門の長い尾は二つに割れている。 
 人の一生よりも長い年月を生きた猫が変じるという猫又。
 二つに割れた尾は沙門が猫又ということの証である。
 数歩歩いたところで沙門は立ち止り、保憲を振り返る。
「そうか、客か」
 何やら納得した様子で保憲は杯を置くと立ちあがった。
 沙門は保憲を導くように先を歩いていく。
 普段は保憲の懐の中に隠れ、自ら動こうとはしない沙門にしては珍しいことである。
 式神が開け閉めするふすまを通り、沙門と保憲は屋敷を出る。
 閉じられた門の前で沙門は座り込んだ。目は門の閂を見つめており、開け放たれるのを待っているかのようである。
 門の傍らにはずんぐりとした式神が立っている。一見すると人のようだが、目には黒目がなく顔がのっぺりとしている。
「開けよ」
 保憲が短く命じる、と式神は閂を抜くと門に手をかけた。
 ぎぎぎっという音とともに門扉が観音開きに開いていく。
 徐々に開けていく保憲の視野に映るのは、月光に照らされ煌めく白く小石の敷き詰められた大路、そしてそこに立つ紫髪の女童であった。
 女童はその、病的なまでに白い顔を上げる。憂鬱そうにまぶたが少しだけ上がった二つの目、そして胸に浮かぶ大きな瞳が保憲を見つめる。
 見られている、さとりを目にしたときから保憲そう感じていた。二つの目と一つの瞳によって胸の内を全て。
「……賀茂保憲。月見酒を楽しんでいたの? それは悪かったわ……そうよ、あなたの思っている通り、私は妖怪よ」
「覚(さとる)、ですか」
「ええそうよ。」
 保憲の言葉を繰り返すかのように、さとりは答えうなずいた。
 覚という妖怪がいる。覚は人の心を見て、食らう。
 目の前の女童は覚であろうと保憲は思った。
 覚と相対するには何も思わない、考えないことが肝要である。かつて安倍晴明も同じやり方で覚を退治している。
「……古明地さとり。私の名よ。あなたの心を食らったりはしないわ。だから心を閉じないで」
「さあて――」
「そう、私があなたの心を食らおうとしているのなら、その子はそんなに落ち着いてはいないのではなくて」
 そう言ってさとりは保憲の足元で優雅に座る沙門を示した。
 沙門は保憲の式神である。戦上手ではないが主への悪意を見逃すようなことはしない。
 座り込んでいた沙門はおもむろに立ちあがるとさとりの足元に駆け寄り、細い足の周りを歩きながら身を寄せつける。
「ほう……」
 思わず保憲は息を漏らした。沙門は長い時を生きた猫又だけあって気位が高い。初めての相手に自ら近づいていく稀である。
 さとりは足元でじゃれつく沙門を抱き上げた。
 沙門は嫌がるそぶりもなくさとりの腕の中に収まっている。
 どうやら沙門はさとりのことを好いているようであった。
「いい子ね」
 さとりは沙門の頭を軽く撫でる。気持ち良さそうに目を細めて沙門は喉を鳴らした。
 その様子を尻目に保憲は口を閉じたまま開いた門の前に手をかざす。
 それは一瞬だった。さとりが先程から感じていた目に見えぬ壁のようなものが消えていた。
「いいでしょう。我が屋敷にお入り下さい」
 手を下げると保憲はさとりを招待する言葉を紡いだ。
 保憲とさとりは屋敷に入った。背後では門の閉まる音がする。
 二人が敷居を越えるたびに、背後ではふすまが勝手にしまっていく。
 板張りの床へ保憲は腰を下ろした。さとりも保憲の前に座り対面する。
 片側が庭に向かって開かれており、室内には月光が入り込んでいる。
 それまでさとりの腕に抱かれていた沙門は飛び跳ねると保憲の膝の上に戻った。
「さて、地霊殿の主ともあろう方がこの地上に何用でしょうか」
「あら、知っていたのね。地霊殿を。読めなかったわ」
「心を隠すなど、そこそこの修行を積んだ坊主ならば誰でもできましょう」
「……あなたは賀茂家の陰陽師。できないはずがない。初めから隠していたわけね。心の一部を。」
「用心のためです」
 二つの目と一つの瞳の視線を受けながら、澄ました顔で保憲は短く答えた。
「――探してほしいものがあるの」
 さとりはとうとうと地上に姿を現した理由を語りだす。
 胸の瞳がひとつ、瞬きをした。




 安倍晴明と源博雅は庭に面した板の間で酒を飲んでいる。
 晴明の屋敷の庭は一見すると荒れ放題であり廃寺のようでもある。
 しかしその中にも調和というものがありただ荒れているだけではない。
 四季折々によって姿を変える。それを晴明は気に入っているようであった。
 以前博雅は人でも式神でもいいから庭に手を入れてみたらどうだといったが、晴明はのらりくらりとはぐらかしてしまった。
 博雅の屋敷の庭に手を加えずにおくとただの荒れた庭になってしまう。
 見えないところで何かの力が働いているのかもしれないと、博雅は酒を口に運びながら考えていた。
 日は傾きだしているが、暗いというほどではないく灯火は付けられていない。
 酒を飲んでいる、と先に書いたが二人の手の動きは普段より遅い。
 手を付けられていない杯が一つ床に置いてある。
 それはこの場に博雅以外の客が訪れることを示しおり、博雅にはそれが気になっていたのである。
「なあ晴明、誰が来るのだ?」
「この杯のことか」
 晴明は手を休めて空の二つの杯を示した。
「おれも会ったことはない。ただ近い性質のものには、会ったことがあるとも言えるな」
「近い性質のもの、か」
「うむ」
 それから少しの間、晴明と博雅はとりとめもないことを話しながら酒を飲んでいた。
「なあ晴明。おまえあの話をもう聞いたか?」
「あの話とは、何だ」
「死人がな、動くそうなのだよ」
「死人が、か……少し待て、博雅」
 そういったところで晴明は静かに手に持った杯を置いた。博雅が続けて話そうとするのを遮る。
 登り始めた月は満月が多少欠けた十六夜の月であり、まだ薄らと見える程度である。このまま夜気が深まっても火を灯す必要はないと思われた。
 日はさらに傾きだしているが、まだ完全には沈んでいない。
「いらっしゃったか」
「もしや客か」
「うむ、その話はあとにした方がいいだろう。その方が早く済む」
 晴明の言葉を聞き、博雅も杯を置く。
 庭で紫花を咲かせる藤の木の下にいつの間にか唐風の衣装をきた女が立っている。
 晴明の使う式神、蜜虫である。
「お通ししなさい」
 晴明の言葉に蜜虫ははいと返事をすると、藤の花が風に吹かれるかのように儚く姿を消した。
 しばらくして蜜虫は再び姿を現した。徒歩であり、後ろには猫を抱いた女童を連れている。
「お待ちしておりました」
 艶やかな微笑を口元に浮かべながら、晴明は言葉を返した。
「安倍晴明さまと、そちらは源博雅さまと言うのね。わたしは古明地さとり」
さとりは蜜虫の前に出て、晴明と博雅の顔を二つの目と一つの瞳で眺めたのちそう言った。
「名を知っているのですか」
 これまでにさとりと博雅は会ったことはなく、言葉も交わしていない。にもかかわらずさとりは博雅の名前を今しがた聞いたような様子で口に出した。
「誰かの使い? いいえ、私は誰の使いではないし、式神でもないわ」
 さとりの言葉に博雅は驚いた。さきほどまで心の内で思っていたようなことを、さとりが口に出しているのだ。
「人ではない? そうね、そこは当たっているわ」
 さとりの言葉は博雅の考えていることを的確についていく。心の内が見られているようだった。
「覚(さとる)? ええその通りよ」
 博雅はこの力に心当たりがあった。
 以前都で何人かの貴族が気を病むということがあったのだ。
 心を食う、覚という妖怪の仕業であった。
 そこで晴明と博雅は五条大路と六条大路の間の荒れた道観にて、覚を退治している。
「わたしは心を食べないわ。覚は覚でも一緒にしないで」
「博雅に呪をかけるのは、そこまでにしておいてくれませんか」
 晴明がさとりの言葉を止めた。さとりの言葉で博雅はだんだんと深みにはまりだしている。
「……そういうつもりはないのだけど」
「心を見るあなたの言葉は、人にとって十分な呪になりえるのですよ」
 もっとも短い呪とは名前であり、それは言葉によってかけられる。さとりが心の内を見てそれを言葉にして言い当てる。
 それに反応した時点でさとりと人の間には因果が結ばれるのだ。
「そうね」
 博雅から視線を外して、さとりは言った。
 眉を越えて両目に半ばかかるさとりの前髪を、一陣の風が揺らす。
 気だるげにまぶたの上がった瞳が、晴明と博雅を見ていた。



 古明地さとりは晴明の横に座っている。
 手前には杯が置かれているが手を付けていない。
 蜜虫が初めに酒を注ぎにきたときに、礼儀として一口飲んだきりである。
 座り込んだ足の上で眠る猫に片手を添え、もう片手で猫をゆっくり撫でている。
 艶やかな黒い毛並みが揺れる。それが気持ちいいのだろうか、猫はときおり喉をならした。
「もしや、それは賀茂保憲殿の猫ではありませんか」
 おずおずと博雅はさとりに尋ねた。
 さとりのひざ元で眠る漆黒の猫に博雅は見覚えがあったのだ。
 どこで見たのだろうかと博雅は思い返してたが、先程ようやく思い至ったのである。
 以前保憲とともに酒を飲んだ際、保憲の指から酒を舐める小さな黒猫の姿を。
「保憲さまの式、沙門よ。連れていけ、と」
 さとりの声を肯定するように沙門はみゃあと短く鳴いた。
「では保憲殿は?」
「高野よ。どうしても行かねばならないからと、沙門を残して行ったわ……案外薄情な方ね」
「あの男の命でしょう。保憲さまとて従わぬ訳にはいきません。保憲さまはあれで面倒臭がりなところがありますから」
 晴明は苦笑いのように、それでいて面白がっているように微笑む。
「沙門を残したのは保憲さまにも思うところがあったのでしょう」
「おい、晴明また帝をあの男などと」
 博雅は晴明を諌めた。博雅自身、晴明が帝をあの男などと呼ぶのはいつものことだと知っているが、どうしてもその都度こう言わずにはおれない。
「あの男、ああ帝のことね。」
 一人で納得したようにさとりはうなづいた。心が読めないとこういうときはどうしても察しが悪くなる。
「さて、さとりさま。保憲さまからお話を伺いました――なんでも猫を探しているとか」
「猫?」
 思わず博雅は口に出した。
 博雅が思っていたことを全く違ったからである。まさかさとりがわざわざ保憲、そして晴明を訪ねたのは猫を探すためであったとは思いもしない。
 しかし晴明とさとりは平然としているため博雅の聞き間違えではないらしい。
「ええ、猫よ。この子みたいな、ね」
 そう言いながらさとりは膝の上の沙門に手を置いた。
「もっともこの子のような猫又ではないけれど」
「あなたの力なら失せ物くらい簡単に見つけ出せるのでは」
「……わたしの力はそこまで強くないわ。それに、ここは人が多すぎる」
 さとりはこの目で見た都で暮らす人々を思い出した。身分や立場は違うがさとりにとってはそんなことは関係がない。ただ人が多いだけである。
 動物や植物ならば問題はない。ただ人だけは違う。人の心はねじれ絡み合っており、多ければ多いほど読みにくくなるのだ。
「さて博雅。さきほどの続きを頼む」
「さきほどの話?」
 晴明と博雅の話していることに見当がつかないのか、さとりは首をかしげた。
「博雅がある話を持ってきたのですよ。博雅、その話には猫が出てくるのだろう」
「よくわかったな晴明」
「おれも、ただ座っているだけではないからな」
 あいまいな言葉とともに晴明は微笑む。
「死人が動く、というのは晴明には話したな。その死人だが――猫が引き連れているのだよ」
 博雅は一拍置いて口を開く。そしてとうとうと語り始めた。




 それを初めに見たのは忠明という名の検非違使の若者であった。
 検非違使とは平安京の治安維持を司る役職である。ゆえに日が沈んでからも外を歩き回ることがある。
 その日もそうであった。平安京の南、朱雀大路にほど近い針小路の油屋が盗人に押し入られたのである。
 忠明が到着した際には家人は皆切られており、金品がなくなっていた。
 屋敷の所々に血だまりが出来ており目を背けたくなるような凄惨な有様である。
 刀を抜き放ち屋敷に足を踏み入れた忠明であったが、一時ののちすぐに刀を鞘に納めた。
 すでに盗人どもは逃げ出しており、屋敷からは人の気配は全く感じられない。
 小路には刀から垂れたのか血がてんてんと垂れている。
 しかし盗人が刀を拭ったのだろうか、すぐに血の跡は途切れてしまっていた。
 こうなっては盗人を追うなどできようもない。それに屋敷に残る足跡は明らかに複数であった。
 忠明一人では返り討ちにされる恐れもある。故に忠明は他の検非違使が来るのを油屋にて待つことにした。
「ちぇ」
 忠明は今も屋敷に残る家人の死体を見降ろした。
 検非違使の仕事の一つに死体の片づけというものがある。だから死体は見慣れており、忠明も今となっては大きな感慨は湧かない。
 しかし気分のいいものではない。
 ただ死体の片づけは大仕事である。鳥辺野や化野など平安京の外の葬送地に運ばなければならない。
 忠明一人で行うことはできず、夜明けを待って行われる。
 忠明は屋敷から庭に出た。屋敷の中にこもる血の臭いから逃れたかった。
 ひとつ呼気を吐く。
 上天から大きく傾きだした月を忠明は眺める。未だ仲間の検非違使は来ない。
 不意に忠明はにゃあ、という鳴き声を聞いた。
「猫?」
 周りを見渡すが、猫などいない。
と、そのときである。油屋の屋敷の中で、ずるずると何かが動く音を忠明は耳にした。
 忠明は月から屋敷へと視線を移した。刀をするりと鞘から引き抜く。
 もしや盗人が戻ってきたのかもしれない。
 屋敷へと忠明は一歩一歩音を立てずに近づく。
 屋敷の中からは明らかに何かが動く音がしていた。
 月の光が陰る中を忠明は目を凝らす。
 人影が動いていた。だが手足の動きがぎこちなくどこか不自然である。
 刀を振り上げ、切りかかろうとしたところで忠明は止まった。
 動いていたのは油屋の家人であった。
 しかし忠明はさきほど全ての者の生死を確かめたはずである。生きているはずがない。
 だが忠明の目の前を死人は糸に繰られる人形のように歩いていく。
 茫然と忠明は立ちつくした。
 にゃあという鳴き声が忠明の耳に入る。また猫の声がした。
 我に返った忠明は死人を追いかけ、屋敷から出た。
 針小路の先を死人が歩いていく。その先は朱雀大路へとつながっている。
 肩にかけた弓を外して、手に矢を一本持つ。
 すぐにでも矢を放てるようにするとそのまま朱雀大路へと忠明は進んだ。
 忠明の目に入ったのは宙を舞う青白い鬼火である。
 無数の鬼火が朱雀大路を舞っている。
 ぼうっとした鬼火に照らされて、闇から浮かび上っているものがあった。
 それは人の列である。何人もの死人の群れが行列を作り朱雀大路を歩いているのだ。
 死んですぐの者。
 腐敗が進んでいる者。
 様々である。共通しているのはすでに命を失った者たちだということだけである。
ぎこちなく体を動かしながら死人たちは朱雀大路を南へ、羅城門の方へと下っていく。
 忠明は狩衣の襟に縫いこんだ尊勝陀羅尼の札に気をやった。
 尊勝陀羅尼の霊験か、はたまた死人たちは初めからこちらに関心がないのか、忠明には目もくれずに歩いていく。
 またしても、猫の鳴き声がした。死人の群れの先から聞こえてくる。
 何とも美しい猫であった。流れるような黒い毛並みに炎のような赤がところどころに混じっている。
 小さな猫が死人の先に立って四足で歩いているのだ。
 猫が歩けば、そのあとを死人の群れがついていく。どうやら死人たちは猫に連れられているらしい。
 忠明は思わず息を飲んだ。
 検非違使という役職についているため、いつかは怪異に会うとは覚悟していた。 襟の尊勝陀羅尼の縫いこみもそのためである。
 死人の群れの先を行く猫がこの怪異の正体であろう、と忠明は思った。弓を握る右手が自然に力んだ。左手に持った矢をつがえる。
 おもむろに忠明は狩衣の襟を裂き、縫いこまれていた札を取り出した。尊勝陀羅尼の書かれた札である。それを忠明は矢じりに刺した。
 弓をきりきりと引き分ける。矢じりに見えるのは墨で書かれた尊勝陀羅尼。
 羅城門の方角を目指す猫を、忠明は見据えた。忠明にとって弓は得手である。万に一つも外すことはない。
「やめておけ……」
 不意に忠明の耳元にどこからともなく人の声がかかった。
 地の底から響きあがるような声である。
 聞こえてくる、というより忠明の耳を直接震わしている。そんな声であった。
 驚いたのは忠明である。張りつめた弦を緩め、弓を下げる。
「あれはわしの使いぞ。お主に害は与えぬわ」
 忠明は周りを見回した。しかし夜の闇の中に人が潜んでいる気配はない。
 ただしゃがれた声だけが響く。
「誰か、という顔をしておるな」
 かすかに笑いを含んだ口調で、声が響く。
 忠明は不快そうに顔をしかめた。
「まあそんあことはどうでもよかろう。それよりも、だ――お主、今その札を失くせば、命はないぞ」
「なに」
 姿を見せぬ声の言うことに驚き、思わず忠明は声をあげた。
「子の方角を見よ」
 忠明はこれまで羅城門の方を、つまり南の方角を向いていた。
 声の通りに子の方角、つまり北を向く。
「おうおう、死人に惹かれて集まってきおったわ」
 その光景に似つかわしくない、いかにも楽しげな声が忠明の耳に響く。
 巨大な頭をした法師。
 蛇の体に人の頭をもつもの。
 角が生えているもの。
 様々である。それら異形の者たちが楽しげに、走り回るような、踊り狂うような、おかしな動きでこちらにやってくるのである。
 死人の行列とは違う、正真正銘の百鬼夜行であった。
「その尊勝陀羅尼、失くせば命はないぞ」
 声が再び繰り返す。
 忠明は矢じりから尊勝陀羅尼の札を取り外し、狩衣の胸の内に仕舞い込んだ。
「それでよい……声を立てず、下がっておれ」
 それっきり姿なきしゃがれた声は途絶えた。
 やがて百鬼夜行が忠明の前を通り過ぎていく。
 物が腐ったような嫌な臭いが忠明の鼻をつく。
 これが噂に聞く瘴気だろうか、と忠明は思った。
 鬼たちは忠明に目もくれなかった。忠明がいることに気づいていないらしい。
 もうじき夜が明けようとしている。
 あの黒猫も、死人の群れも、鬼たちも、もうどこにもいなかった。
 太陽が昇る直前である。にゃあ、という猫の鳴き声が忠明には聞こえた気がした。



[8544] 古明地さとりという妖地上にのぼること(後篇)
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e
Date: 2010/04/25 09:18
 博雅は語り終えた。死人を引き連れる猫の話を、である
 喋り通しで喉が渇いたのか、口を閉じたのち博雅は酒を一杯飲み干す。
「いかかです、さとりさま」
「その猫……たぶんお燐だわ。地上で何をやっているのかしら」
 心配そうにさとりはため息をついた。
 さとりの猫である火焔猫燐は死人を操るという力を持っている。
 十中八九お燐に間違いはない、そうさとりは確信した。
「いえ、それよりもあの声ね」
「ええ、そちらの方が早いでしょう」
 晴明がさとりの言葉に相槌を打つ。
 検非違使忠明の聞いた姿なき人の声は何らかの手段で燐を使っているのだ。そちらをどうにかせねばならない。
「晴明、結局どうするのだ」
「その声の主とやらに、会いに行くのさ」
 晴明の紅を塗ったような赤い唇が弧を描く。
 博雅の問いに晴明は笑みを浮かべながら答えた。
「なるほどな。しかし声の主はどこにいるのだろう。晴明。何か心当たりがあるのか」
「あるさ」
「何かしら」
 あてがあるのか、言葉とともにうなずいた晴明にさとりが問い返す。
「我らにはちょうど良い道案内がいます」
 そう言って晴明はさとりの膝の上で丸くなっている沙門を見やった。
「沙門……」
 膝の上で丸くなってくつろいでいる沙門をさとりは持ち上げる。
 沙門はこれまで眠っていたのか、大きく口を開けてあくびを一つした。赤い口の中から白い牙が覗く。
「猫のことは猫に任せましょう」
 晴明の顔を不思議そうに眺めながら、金色の目を沙門はぱちぱちと瞬いた。
 しかし晴明の言葉を受けても、沙門はあくびをしたり、耳を動かすだけで動く気配はない。
 さとりは無言で沙門の体を反転させ、猫の顔をこちらに向かせる。
「お願いね」
 短く、さとりは言った。
 やる気があるのかないのか、面倒臭そうに沙門はにゃあと鳴き声を上げる。
 さとりの腕から床へと沙門は飛び降りた。
 猫又の証である二つに割れた長い尾が天に向かって立つ。
 黒い尾が何度もひょこひょこと動く。
「沙門はさとりさまを好いているようですね」
 感心したように晴明は言った。
 猫は元来気まぐれなものである。それに加えて沙門は長き年月を経て変じた猫又である。気位も高い。
 その沙門を動かすのは、保憲以外の者ではなかなかに面倒であった。
「お前に術をかけられたことを、案外沙門は根に持っていたのかもな」
 突然心に閃いたことを博雅は口に出した。
 以前に晴明は、大きな黒虎に化けた沙門を元の黒猫の姿に戻したことがある。そのことを博雅は言っているのだった。
 博雅の言葉に晴明は何も言わない。ただあいまいな微笑を口元に浮かべた。
 やがて沙門は鳴き声をもう一つあげ、屋敷の外へと歩き出した。




 晴明と博雅とさとりは牛車に乗っている。
 日は沈みかけており、平安京を囲む山々は赤く染まりだしている。
 ごとごとと車輪が回る音を立てて牛車は進む。
 牛飼い童や牛の轡(くつわ)を取る従者は晴明の牛車にはいない。
 けれど牛は誰かに指示されているように進んでいく。
「どこを目指しているのだろうな」
 簾の隙間から外を眺めながら博雅は言った。
 晴明邸を出たのち牛車はひたすら南へと下っている。すでに朱雀門は通り過ぎ、今は下京である。
「それが猫のみが知っているのであろうよ」
「……行く先は、都の外ね」
 牛車の前の簾(すだれ)を大きく開けてさとりが言った。さとりの視線の先には牛の背に乗り座っている沙門がいる。
「見たのですか。沙門の心を」
「そうよ、見たわ」
 さとりは、ごくごく当たり前のことのように答えた。
 さとりにとって心を読むというのは、常人が目で風景を眺めるのと何ら変わりがない。出来て当然なのだ。
 牛車は朱雀大路を進み続けた。不意に車輪の振動が激しくなる。牛車は朱雀大路を外れ、でこぼこの多い道に入ったらしい。
 簾の隙間から入る光が赤く、弱々しく変わっている。
 牛車が止まった。
「着いたか」
「うむ」
 左右の簾を晴明は上げた。途端に寒々しい風が吹き込んでくる。
 牛車が止まったのは、どことも知れぬ、荒れ果てた荒野であった。
「ここは……」
 牛車から降りたさとりは周囲を見渡した。
 西に沈む日が荒野の草原を赤あかと染めている。
 牛車の前には、所々壁が崩れた荒屋(あばらや)が一軒建っている。
「どうやらここに、あの声の主がいるようですね」
「ならば早く行きましょう」
 荒屋に向かってさとりは歩き出す。牛の背から降りた沙門がさとりの胸へと飛び込む。
 沙門の小さな体を受け止めると、さとりは抱きかかえた。
 さとり、晴明、博雅の順に荒屋の入口をくぐった。
 荒屋の中は暗い。もうすぐ日も落ちるというのに、ここの主は火を灯していない。
 ただ崩れた壁や板の間からかろうじて夕日が差し込み、何本かの赤い光の線となっている。
 奥の板の間に、ぼろぼろの法師服を着た男が一人寝ころんでいた。
 櫛を入れたこともないようなぼうぼうの髪を、蓬髪にしている。
「よく来たな。晴明」
「やはりあなたでしたか。道満殿」
 法師姿の男、蘆屋道満は寝ころんだまま楽しげににんまりと笑った。
 道満の前には酒の入った瓶子と杯、それにつまみとして瓜などの果実と魚を焼いたものが盛られた皿が二つ置いてある。
「そこにおるのは博雅と……古明地さとりではないか。相変わらず辛気臭い顔をしておる」
「蘆屋道満、久しぶりね」
 さとりは道満を見据えながら言った。久しぶりと、さとりは返答したが、その顔も、目も笑っていない。
 何やら因縁浅からぬ相手のようだった。
 床から体を起こすと道満はあぐらをかき座りなおした。
 手に持った杯はそのままである。
「おう、小野篁(おののたかむら)殿と地霊殿を訪ねた時のことか……古い話をよく覚えておるわ」
 旧い友人を懐かしむように、道満は言った。
「そうね、古い話を蒸し返しても仕方がないわ」
「わしに何か用か」
「とぼけるのは止めることね。もう分かってるでしょう。お燐はどこ?」
 巧みに道満は話をはぐらかそうとする。しかしさとりは惑わされなかった。
「ふん、全てお見通しか」
 道満はさとりとの問答を止め、手を動かした。
 途端に荒屋の一角から猫が一匹姿を現す。
 大きさは沙門と同じくらいで、大きくはない。
 艶やかな黒い毛並みに、所々赤いものが走っている。
 尾は猫又のように二つに割れていた。
「お燐」
 さとりが猫の名前を呼ぶ。その途端さとりが抱いていた沙門は床に飛び降りた。
「その猫の力、使わせてもらったわい」
「道満、あなたが何を企んでいようが、わたしはどうでもいいわ。ただ、わたしの家族に手を出したのは間違いよ」
「やめとけ、この爺は一筋縄ではいかんぞ」
 面白そうに笑いながら、道満は手に持った杯を置く。
 晴明は言葉をかけようとしない。無言でさとりと道満を眺めている。
 止めるため声をかけようとした博雅も晴明が何もしないのを見て、思いとどまった。
 さとりと道満は互いに相手を見据えたまま動かない。相手の出方をみているようであった。
「待ってお姉ちゃん」
 不意に声が荒屋に響いた。ここにいる誰の声でもない。
 女の声である。しかしさとりはそのような言葉を発してはいない。
 その声は上から聞こえた。天井の梁の部分に誰かが座っているのだ。
 先程まで人がいるという気配は全くなかった。
 まるで何もない所から一瞬で湧いて出たようである。
「まさか、こいしなの」
 声の主に覚えがあるのか、さとりは天井に向かって呼びかけた。
「ばれちゃった」
 声とともに人影が梁から道満の後ろへと飛び降りた。
 壁の隙間から差し込む陽光がますます少なくなっており、どのような姿かは分からない。
 人影は道満の前へと歩いていく。次第に陽光に照らされ姿が浮かび上がる。
 癖のある白い髪をした女童であった。さとりに負けず劣らずその肌は白く、月の光に透けてみるかのようである。
 女童はさとりと同じく管のようなもの体に巻いており、その先が右胸に浮かぶ瞳に繋がっている。
 しかし、その瞳は開いてはいなかった。
 古明地こいし――古明地さとりの妹であった。
「その人、お燐に悪いことはしてないよ。わたしずっと見てたもの」
 こいしが座ったままの道満を示し言った。
「こいし、最近見ないと思ったらこんなところに……」
 こいしがここにいるとはさとりは全く予想していなかった。
 放浪癖があり神出鬼没なこいしの行動に呆れて、さとりはため息をつく。
「何か悪いことされそうだったら、わたしが助けてあげたけど」
「こいしとやらの言うとおりぞ。わしは、ただ力を借りただけよ」
 状況を察したのか、こいしの言葉に道満は同調した。
「それに、わたしの分のつまみも用意してくれたしね」
 魚の焼き物が盛られた皿の近くにこいしは座り込む。
 そして魚を一つつかむと口を付けた。
「近頃つまみがやけに早くなくなるのでな。多めに用意した。ただそれだけよ」
 こいしのためではない、と道満は言った。
 ぼさぼさの白髪をがりがりとかく。道満としては、そういうことにしておきたいらしい。
「……もういいわ。こいしがそう言うのなら」
 こいしと道満のやり取りに毒気を抜かれたのか、さとりは表情を緩めた。先程までとは違い顔に険がない。
「それがよいわ。わしと勝負しても疲れるだけよ。お互いに、な」
 口の両端を上げ、にんまりと道満は破顔する。
「侘びと言ってはなんだが、飲んでいかぬか」
 どこから取り出したのか、いつのまにやら床には杯が四つ置かれている。その一つを手にして、道満はさとりに差し出した。
「そうね。頂くわ」
 すでに焼いた魚を食べ終え、熟れた瓜にこいしは手を伸ばしている。
 それを見て逡巡したのち、さとりはうなずいた。




 荒屋の一辺の壁は大きく崩れており、そこからちょうど天へと上がり始めた月が見える。
 うまい具合に隙間から吹き込んでくる風はないので、肌寒くはない。
「お姉ちゃん、これおいしいよ」
 串に刺さりこんがりと焼かれた魚をこいしがさとりに進めた。
 さとりは焼き魚を受け取るとは小皿に置く。
 こいしがそのまま魚にかぶりつくのに対し、さとりは箸をつかって食べている。
 似ているようで細かい所は違う姉妹である。
 少し離れたところで黒一色の毛並みの猫と、黒地に赤が流れる毛並みの猫がじゃれ合っている。両方とも尾は長く、二つに割れている。
 沙門と燐である。
 猫又と火車。
 霊喰いと死人繰り。
 種族は違うが、もとが猫の怪というのは同じである。
 その光景を穏やかな表情でさとりは眺める。
「不思議なものね」
「どうしたの、お姉ちゃん?」
 さとりが唐突につぶやいた。それにこいしが反応する
「また地上に出て、お酒を飲むなんて」
 さとりが地上の下に広がる地獄の跡、地霊殿に身を隠してからかなりの年月が経っている。
 地上、しかも人の作り上げた都に姿を現すのはいくらぶりだろう。
 まださとりが地上にいた頃は、この地に都などなかったはずである。
「お姉ちゃんはいつも地霊殿にいるもんね。どこかへ出歩いてもいいのに」
 さとりはその長い時を地霊殿に籠り過ごしている。灰色の岩と砂、そして炎と怨霊にまみれた地霊殿で。
 地霊殿を離れて様々な場所を放浪するこいしには、いつまでも地霊殿にいる姉が不思議だった。
 自らの力を閉ざせば、疎まれることもなくなるのに。
「わたしはこれでいいのよ」
 素っ気なく答えたさとりの横顔をこいしは眺める。
 瞳を閉ざし、心を読む力を封じたこいしには、さとりが何を考えているかは分からなかった。
「ほらほら」
 こいしは魚の肉を骨から取り口に含む。
 そして身を食べ終わったあとの魚の骨を、こいしは片手に持ち猫たちの前に垂らした。
 沙門がこいしの手から魚の骨を口で噛み咥える。
 さとりを見上げて燐は、魚の骨を催促するようににゃあと一つ声を上げる。
 先程身を外した骨をさとりは手に取る。それを燐の目の前へと持ってきた。
「いいわ」
 その言葉を待っていたのか、燐は骨を口に咥え食べ始めた。
 猫の口が動かなくなるのを待って、こいしは微笑みながら沙門と燐の前に指を差し出す。
 白い指に赤い液体が垂れている。
 指に酒を浸して、猫たちの前に差し出したのだ。
 酒が指先に溜まり、滴となって崩れ落ちる寸前、沙門が舌で滴を舐める。
 沙門が舐め終わると、こいしはもう一度指を酒に浸し、前に出す。
 おずおずと舌を出し、燐はこいしの指に溜まる酒を赤い舌で舐め始めた。
「旨いか?」
 酒を口に運びながら道満はさとりに聞いた。
「ええ、地上の魚を食べるのも久しぶりね。悪くないわ」
「お主も元は地上の者だ。地霊殿に引き籠っても、地上の味は忘れられんだろう」
「住めば都、よ」
 魚の肉を探る箸の動を休めて、さとりは短く答えた。
「住めば都、か。確かに、その通りかもしれぬわ」
 何やらおかしそうに口の端を曲げながら、道満は酒をあおった。
「ほう」
 不意に晴明が声を上げた。
 晴明の視線の先には、沙門と燐、二匹の猫がいる。
 二匹の黒い猫の輪郭がゆっくりと、だが確実にぼやけてきているのだ。
 猫の輪郭が薄くなる代わりに、形作られていくものがある。
 片方は流れるような黒髪、もう片方は二つに結ばれた赤髪。
 共に黒い衣装を着ている。
 沙門と燐は、それぞれ女童へと変化していた。
 青白い火の玉が一つ二つと漂い出す。どちらが呼び出したのか、鬼火であった。
 初めは腕であった。
 その細い腕をゆっくりとしゃなりしゃなりと動かす。
 次は足であった。
 その細い足はゆっくりと床を踏む。
 舞、である。
 沙門と燐は、隙間から差し込む月光を舞台に、舞っているのだ。
「おお」
 その光景に博雅は驚きの声を上げた。
 それがどのような種の舞いなのか、博雅には分からない。
 しかしそれが美しい、ということだけは博雅にも分かる。
 ふんわりと宙を舞い、沙門と燐が化けた女童は重さそのものがないかのように地に足を付ける。
 沙門も燐も人ではなく、猫である。
 人の姿でありながら、猫の如く身軽であった。
 その舞いに共鳴するように。笛の調べが空気に流れ始めた。
 朱雀門の鬼の笛・葉二に博雅が命を吹き込み始めたのである。
 猫の舞踏と、鬼笛の調べが一つに混ざり合い、周囲の大気自体を震わせていく。
 天が、地が、ざわざわと蠢き始める。
 天地の間に存在する、様々なものたちが舞踏を見ているようである。
 荒屋の壁の隙間から、神仏、鬼、妖怪が舞踏を覗いているようである。
 それは突然のことである。さとりの胸の瞳が大きく開かれたのだ。
 さとりの耳に夢幻の音色が幾重にも折り重なり響く。
 それは博雅の笛に奏でられるより前の、博雅の心から湧きあがる音色である。
 笛の音として外界へと流れる前の、より原色に近い博雅の心の奥でのみ奏でられる音楽である。
 さとりの瞳に無限の光景が万華鏡の如く写りこむ。
 それは神仏の、鬼の、妖怪の、人の見る世界である。彼らの見る世界がさとりの心に現れては消えていく。
 神仏の、鬼の、妖怪の、人の見る世界。それぞれの世界は集まり、一つの宇宙を形作っていく。
 心を見る力を持つさとりのみが感じることのできる、心の内に作られた宇宙。
 さとりの力がなければ、どれほど望んでも一片すら見ることも、聞くことも出来ないもの。
 その中をさとりは漂っているようであった。
 沈むわけでも、浮かぶ訳でもなく漂っている。博雅の心から流れる音色に身を任せ、ゆっくりと、ただゆっくりと。
「お姉ちゃん、どうしたの」
 こいしに声をかけられて、さとりは意識を戻した。
 こいしは不思議そうな表情でさとりを見ている。
 いつの間にか沙門と燐は元の黒猫の姿に戻っており、じゃれついている。
 博雅もすでに笛を吹き終わり懐の内へと納めていた。
 さとりと博雅の心にはすでに因果の如きものが結ばれている。
 出会った時の問答、あの時にこの因果は生まれたのだ。
 そして博雅の心の内より音色は流れ込み、さとりに宇宙を見せた。
「本当に、こんなことは久々だわ」
 酒の注がれた杯を持ち上げ、さとりは一口で飲み干す。
 唇が艶やかに紅色に濡れる
 さとりの白い頬が、ほんのりと桜色に染まっていた。




 暗い、暗い一本道を二つの影が行く。
 さとりとこいしの古明地姉妹である。
 使われなくなって久しい、旧地獄街道を行く。
 粉雪とも、灰とも見えるよく分からぬものが降り積もっている。
 一説には魂を燃やした残りの灰であると言われているが、定かではない。
 「これあの人の足跡だよ」
 降り積もる粉雪の上に残る人間大の足跡をこいしが指差した。
 ほとんど消えかけているがそこには確かに人の乗った重さが残っている。
 地獄では時の流れは分かりづらい。すぐに消えてしまうものもあれば、何年も痕跡を残すものもある。
「道満もこの道を通ったのね」
 さとりは消えかけている足跡を見ながら言った。
 入口である六道珍皇寺の井戸から地獄街道に入り、出口である嵯峨の薬師寺の井戸へと抜けていったのだろう。
 かつて小野篁(おののたかむら)も地獄へ向かうために、この道を通って行った。
「それにしてもよく地上に出る気になったね、お姉ちゃん。わたしがどれだけ地上に行っても、探しに来てくれなかったのに」
「お燐の姿が見えなかったから、不安だったのよ。あの子はあなたと違って地上に慣れてはいないから」
 さとりは足元を歩く、赤と黒の毛並みを持つ猫を見た。
「ふーん、じゃあわたしがどこかに行っても、お姉ちゃんは心配してくれないんだ」
 こいしは拗ねたように口を歪ませる。
「こいし、あなたはいつも唐突にいなくなるわ。でも、今までだってずっと地霊殿に帰ってきたじゃない」
 歩きながらさとりは優しく語りかけるように口を開く。
「だからわたしはね。こいし、あなたを探さない」
 さとりは顔をこいしの方に向けた。歩みが止まっている。自然とこいしもその場に留まった。
「わたしはあなたの帰りを待っているわ。地霊殿で、わたしたちの家で、ね」
 そしてさとりは澄んだ微笑を浮かべた。
「お姉ちゃん……」
 寂れてしまった旧地獄街道を、さとりとこいしは二人並んで歩いていく。
 やがて片方の影がそっと手を横に出し、もう片方の手を握った。
 手と手が重なり、指と指が絡み合う。
 白くて細い二つの手を繋いで、姉妹は旧地獄街道を行く。
 さとりの足元を歩く燐が、にゃあと鳴き声を一つ上げた。


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