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そこには、何もなかった。
しかし、全てがあった。
故に何も成す事が出来ず、それなのに終わらない。
そんな領域。
こんな絶望で塗り固められたような場所に一人佇む者がいた。
それは、男だった。否。女かもしれない。いやそもそも人間ですらないかもしれない。
だがそこには、確実に「それ」が存在していた。
「それ」は独りだった。
「それ」は死んだように眠っていた。
そして、「それ」はふいに目を開き、
「――見つけた」
と呟いた。
「それ」は口の端を歪めて笑った。それが本当に笑みだったのかはわからない。
しかしその顔には諦めたような、だがそれでいて満足したような表情が張り付いていた。
プロローグ 「始まり」
「……ふぅ」
マウスを操作する手を止め、軽く伸びをする。
最近の夜はひどく蒸し暑く、エアコンが無い俺の部屋はもはやサウナと化していた。
この熱帯夜を乗り切るために装着した冷えピタシートを軽く手で張り直し、PCの電源を落とす。
ここまで蒸し暑いと何をするにも長く続かない。夜は俺の憩いの時間だというのに、何もやる気が起きなかった。
あぁ、自己紹介が遅れたな。俺は恭一。どこにでもいる、とは言わないがいわゆる普通の高校生だ。
趣味は漫画やゲーム、アニメを見ること。あぁ、あと剣道だ。これは普通ではないな。日本の中でも結構強いほうなんだ。剣道は。
喧嘩では強面柔道軍団に囲まれでもしない限りは勝てる自信がある。剣道三倍段でフルボッコですよ。破門されると困るからやらないけど。
親、兄弟はいない。祖母と一緒に暮らしてるよ。大学に上がったらバイトして人暮らしでも始めようかと思ってるところだ。
最近のマイブームは某SS投稿掲示板でSSを読むことだ。これがけっこうおもしろい。
俺も日本の一般的高校生の例に漏れず、漫画の主人公に憧れたりもする。
俺がそういうのに憧れるのにはたぶん他とはちょっと違う事情もあるのだが結論は変わらないのでまぁいいだろう。
剣道を幼い頃より続けているのもそういうものに触発されてだったりするのだ。
……一人部屋で自分の説明をするのも空しくなってきたな。
今日はもう寝よう。明日は朝練もあるし。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
息が荒い。
暗いクローゼットの中、一人震えている。
汗が頬を滑り落ちる。動悸が激しい。何も考えることが出来ない。
指一本動かせない。
闇の中、扉の隙間から差す一筋の光の先をすがるように見つめている。
しかし、差し込んでくる光とは対照的に見つめた先は朱に染まっていた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
視線を逸らすことが出来ない。
少しでも、指先一本、目玉一つでも動かしてしまえば自分の全てが崩壊してしまうような気がした。
朱がクローゼットの中にまで流れ込んでくる。
その朱の先には、見知った顔があった。
それは、さっきまで母だった者の貌。
それは、さっきまで父だった者の貌。
それは、さっきまで妹だった者の貌。
その三人の、六つの赤く染まった目がこちらを見て。
――なぜ、助けてくれなかったんだ
と、言っていうような気がして――
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
何の変哲もない自分の部屋。
窓から、嫌になるほど清々しい朝日が差し込んでいた。
「ハァ、ハァ……」
なにも、この夢を見るのは初めてではない。
毎晩見てしまう時期もあったほどだ。
動悸を落ち着かせるのも難しくはない。
「ここ最近見てなかったからな…不意を打たれた…」
夢の余韻を頭を振って取り払う。
「……よし」
俺は夢に関する思考を打ち切ると、登校の準備に取りかかった。
「おはよう。おばあちゃん」
片手をあげて台所にいる祖母に挨拶する。
「ああ、おはよう恭ちゃん。朝ご飯出来てるよ」
顔だけこちらに向けながら祖母が挨拶を返してくる。
……前から思っていたけどなんで母親の立ち位置にいる人はどんなに朝早くても眠そうじゃないんだ?
「朝練の時は勝手になんか食べていくから、おばあちゃんこんな早く起きなくても良いのに……」
軽く申し訳なさを感じながら言う。
いくら両親の遺産などがあるとはいえ、家事を全てやってもらっているのだ。これ以上負担は掛けたくない。
本当は部活もやらないで家事も全部自分でやろうと思っていたのだが、
そのことを祖母に告げるとすごい勢いで反対されたため今のような状態に落ち着いている。
「大丈夫よ。恭ちゃんはそんなこと気にしないで、クラブ頑張りなさい。」
祖母はそう柔和な笑みを浮かべながら告げる。
こう返されると何も言えなくなってしまう。
「う~ん…無理はしないでよ…」
かろうじてそう返すと、
「はいはい」
と祖母は軽く手を振って答えた。
今日も相変わらず、暑い。
「部長、おはようございます!」
道場に入ると、既に来て準備していた後輩達から挨拶が飛ぶ。
それぞれに挨拶を返し、袴に着替える。
俺はまだ二年だが、先輩達が既に引退したので実質的な部長になっている。
自分で言うのもなんだが、実力的に文句なしということで先輩からも後輩からも信頼は厚い。
朝練のメニューを考えながら準備していると
「おいっす、恭一!」
バン、と肩を叩かれた。
後ろを振り返るとすでに袴に着替えた黒髪短髪男が立っていた。
「おう、健助。はよ」
挨拶を返す。
こいつは田辺健助。剣道部の副部長だ。
小学校からの腐れ縁だが、俺の中ではいわゆる親友というカテゴリになる。恥ずかしいから言わないが。
あの事件があってへこんでた俺が立ち直れたのはこいつのおかげというのもあるだろう。
こいつは脳天気だが時々妙に鋭いからな・・・
適当に話をしながら用意を終え、部員を集めて練習を始めた。
何も変わらない日常。少なくともしばらくはこんな毎日が続くのだろうな、と頭のどこかで考えていた。
授業、授業、授業、授業、昼食、授業、授業。
変わらない。平和な時間が続いている。
こんな時間を体験していると、あんなテレビでしか見れないようなことが自分に降りかかったなんて嘘のように思えてくる。
午後の部活も終わり、帰宅する。既に時間は七時を回っている。
肌にまとわりつくような蒸し暑さの中、家路を急ぐ。
後片付けに手間取ってしまった。今頃祖母は心配しているだろう。見たいアニメもある。
早く帰ろう。
軽い早歩き。辺りは暗くなり、人気はない。自然と気持ちが焦る。動悸が速くなる。
思えば、夏だというのにこの日だけは妙に日が沈むのが早かった。
ふと、立ち止まった。
なぜかはわからない。ただ、そうしないといけないような気がした。
なぜか汗が止まらない。暑さのせいだけではない。
唐突に。何か、いる。そう感じた。
目を凝らす。
夜の闇に紛れて、「それ」は立っていた。
一歩も動けない。「それ」がなんであるかすらわからないのに。
まるであの夜だ。
「それ」の顔は見えない。
そもそも顔があるのか?
すべてがわからない。
ただ、ヤバイということだけは直感でわかる。
さっきから脳内アラートはレッドモードで絶賛稼働中だ。
「それ」が一歩、こちらに踏み出してくる。
一歩、また一歩とどんどん近付いてくる。
だというのに。体は全く動いてくれない。
これでは何のために剣道を習っていたのかわかったものではないじゃないか。
怒りがこみ上げてくる。
自分を守れもしないのに他の人を守れるものか。
あの夜が思い出される。
俺は、守るために……!
体を全力で叱咤する。
動け!動け!動け!
それでも、体は動かない。
そしていつのまにか、「それ」は目の前まで来ていた。
50㎝も離れていない。
だというのに、いまだに顔が見えない。
いや、体すらあやふやだ。
「それ」が緩慢な動作で俺の頭に手を乗せる。
瞬間、俺の周りの熱気が消え、汗も全て引っ込んだ。
「それ」が呟く。
「対策をしておいてやろう」
なんのことかはわからない。
ただそれは、脳に直接言い聞かせるような、底冷えする声。
「それ」を前にして俺はただ突っ立ってることしかできなかった。
「お前は、ここから始まる」
俺は「それ」のそんな言葉を聞き取り、意識を闇に落とした。
Interlude
そこには、何もなかった。
しかし、全てがあった。
故に何も成す事が出来ず、それなのに終わらない。
そんな領域。
そこには、「それ」が一人佇んでいた。
「それ」は嗤っていた。
表情を読み取ることは出来ない。
だが、「それ」は確かに嗤っていた。
Interlude out