ドカドカという荒々しい足音と共にやってきた左慈を見て、于吉は微笑んだ。
「どうかしましたか? 落ち着いてください、左慈」
「これが落ち着いていられるか!」
左慈は怒鳴った。
「董卓を巡る戦いで、北郷の奴を殺すんじゃなかったのか!! それなのに、あいつはまだ生きていて、勢力まで拡大してるじゃないか!!」
于吉は左慈がますますキレそうな、余裕のある口調で答えた。
「なんだ、その事ですか。いささか邪魔が入りましてね。ですから、その反省を元に、もう少し状況を単純化した上で、新たな罠をはっている所です」
「新たな罠だと? あの娘の事か」
左慈は聞いた。于吉は頷いて、傍らの将棋盤の上に置かれた駒を取り上げると、別の駒と対峙するように置く。
「その通り。間もなく、彼女は抵抗の象徴に祭り上げられるでしょう。そうすれば、もう彼女に枷はありません。北郷軍を必ず打ち倒すことでしょう」
しかし、于吉の言葉は、左慈には大して感銘を与えなかったようだった。
「北郷の軍も決して弱くはないぞ。勝ってしまったらどうする?」
于吉は左慈の冷たい言葉にも、眼鏡を押し上げ嬉しそうな笑みを浮かべて言う。
「それならそれで構いません。勝っても傷は深いはず。その弱体化した北郷を、二人の覇者が見逃すはずはありませんからね」
于吉は、駒を二つとって、置き直す。最初に移動させた駒と対峙する駒、それを囲むような配置だ。
「曹操と孫権か……確かにな」
左慈は言った。まだ完全に納得できないようではあったが。そこへ今度は于吉が質問を投げる。
「北郷は良いでしょう。それより、例の物は彼女の手に渡る様にしてくれましたか?」
左慈は頷いた。
「あのバカ女の所だったな。あれも良く踊ってくれたが……もう不要の駒か」
「そう言う事ですね。この世界には“袁術”がいませんから、彼女に代わりになって消えてもらいます」
そう言うと、于吉はまた駒を一つ摘み上げる。よく見ると、それは将棋の駒ではない。各勢力の牙門旗の模様を書き込んだものだった。于吉は知的な容姿に似合わぬ、肉食獣のような笑みを浮かべると、手にしたばかりの「袁」の駒を握り潰した。
「これで、正史にあわせた修正が一つ済みました」
用済みと言う言葉を裏付けるように、于吉は駒の破片を投げ捨てる。しかし、その破片の一部がどこからともなく吹いてきた風に流され、盤の上に残った。
「む、これは……?」
于吉はその破片の並びの意味を読み取り、顔をしかめた。
「……彼と言うべきか彼女と言うべきか……また、私たちの邪魔をしますか。左慈。アレの相手は頼みましたよ」
于吉が言うと、左慈は嫌そうな顔をした。
「そう言うことばかり俺に押し付けるかよ……まぁいい。この際、きっちりとヤツを殺しておく機会かも知れんな」
言って姿を消す左慈。運命を弄ぶ者の手のひらの上で、歴史は加速されようとしていた。
恋姫無双外史・桃香伝
第十二話 桃香、偽帝と対峙し、群雄は覇権のために起つ事
袁紹の皇帝即位宣言、と言う衝撃的な知らせは、軍議の間の桃香たちを静まり返らせていた。そうした中、袁紹からの手紙を渡された白蓮は、じっとそれに目を通していたが、やがてため息をついて手紙を机の上に投げ出した。
「白蓮ちゃん、なんて書いてあったの?」
桃香が聞くと、白蓮は手紙の一節を指さした。
「本初は、洛陽で伝国の玉璽を手に入れた、と言ってる。それが、自分に皇帝になれと言う天の声なんだと」
「伝国の玉璽……あの、皇帝しか使えないと言う?」
月が言うと、白蓮はそうだと頷いた。
伝国の玉璽とは、秦の始皇帝が作らせ、代々の皇帝が用いてきたと言う、皇帝専用の印鑑である。まさに皇帝を象徴する宝物であり、それを手にする者こそが皇帝である、と言う証の品だった。
「その証拠に、この手紙には確かに玉璽が捺してある」
桃香たちは袁紹の署名の後に捺してある印を見た。それは、確かにかつて桃香の元に届けられた校尉に任じると言う辞令に捺してあったのと、同じものである。
「……こんなの、いくらでも偽造が利くと思うけど?」
詠が言うと、桃香は首を横に振った。
「そうかもしれない。でも、証明する方法は、実際に袁紹さんの持っている玉璽を見ないと、何とも言えないよね」
「見てわかるのか? 私たちは本物を見た事はないんだぞ。そもそも……本物なんてあるのか?」
がらんどうの宮殿の光景を思い出して白蓮が言うと、桃香は頷いた。
「わかる方法があるの。ここでは言えないけど……」
それは、彼女の家……靖王家をはじめ、漢王朝の縁戚筋には必ず口伝で伝えられている事で、玉璽は取っ手である龍の細工物の、角の部分が折れているのである。かつてある反逆者が玉璽を渡す事を要求して来た事に対し、激怒した時の皇帝が反逆者に玉璽を投げつけ、角を折ったと言う。
この事は巷間に伝わっていないため、仮に玉璽を偽造するものが居ても、その角によって発覚すると言われている。だが、詠がきっぱりと言った。
「玉璽の真偽、なんて問題じゃないわよ。袁紹の皇帝位を認めるか認めないか。ボクたちにとっての問題はそれだけじゃない」
漢王朝に実体がなく、すでにそれを群雄のほとんどが知っている今、皇帝を誰が名乗っても反逆ではない。大義名分など必要ないのだ。
「そう言う意味では、袁紹はむしろ今の情勢を正確に理解している、と言えるかもね。でも、少なくともボクは袁紹が皇帝なんて認めない」
詠には連合軍を結成し、何の罪もない自分たちを悪人に貶めた挙句、攻め滅ぼした袁紹への恨みはもちろんある。だが、彼女が袁紹を認めないと言うのは、ただの怨恨のためではない。
「袁紹には皇帝たる器量はない。もしあるのなら、連合軍が洛陽を制し、漢王朝が消えた時点で、皇帝になってしまうことも出来たはずよ」
それを聞いて、白蓮は苦笑した。
「手厳しいな。あの時、自分が皇帝になる、と言い出せる人間はいなかったんだ。曹操でさえやらなかった」
仮に実行していたら、その場で他の諸侯に袋叩きにされて滅ぼされていただろう。
「ま、もっとも、本初に皇帝の座は似合わない、と言うのは同感だな」
白蓮は組んだ手に顔を乗せ、昔を懐かしむような表情をする。
「本初は……誇りが強すぎる。名家である事を誇るあまり、自分がそれに相応しい人間であろうとする努力が足りない。名家の血は当然の如く、自分にそれに相応しい能力を与えてくれると、そう信じているんだ」
まだ白蓮と袁紹が幼かったころ、馬術や武芸、学問に励む白蓮に、袁紹は聞いて来た事がある。なぜ、名家の人間がそんな事をするのか? と。公孫家の跡取りに相応しい人物になりたいからだ、と答えても、袁紹はその意味を理解できないようだった。けっして、根っからの無能でも馬鹿でもないのに、と白蓮は悲しそうな表情をする。
「本初が皇帝などと名乗っても、今度はあいつが連合軍による袋叩きの対象になるだけだろうさ。そして、あいつにそれを食い止める器量はない」
白蓮が言う。しかし、桃香はある事に気付いた。
「うん……でも、袁紹さんは、ある意味今しかない、と言う時期に皇帝を宣言したと思うよ」
白蓮、月、美葉がどう言う事だと聞きたげに桃香を見ると、詠がその理由を話し始めた。
「そうね。曹操、孫権、北郷と、有力諸侯が一斉に自分たちの戦をはじめた今、袁紹軍は彼らの邪魔を受ける事はないわ。むしろ今危険なのはボクたちよ」
「そうか、袁紹は我々を敵と定めたと言うわけか」
星が頷く。今袁紹の周りでどことも戦っていないのは、公孫賛軍だけだ。そして、公孫賛軍は袁紹に攻められたとしても、どこにも援軍を求められない。
「しかし……袁紹としては、空き巣狙いで曹操や孫権の領土を攻めるほうが、簡単なのではないか?」
美葉が言う。今なら確かに曹操も孫権も隙を見せているように思える。しかし、それは詠が否定した。
「曹操も孫権も、背後をがら空きにして袁紹に隙を見せるほど馬鹿じゃないわ。袁紹との勢力の境目には、それぞれ有力な武将が入って守りを固めてる」
「それに、袁紹さんは皇帝を名乗った以上、空き巣狙いなんてみっともない事は出来ないんじゃないかな。正々堂々とわたしたちを攻めてくると思うよ」
桃香も言い添えると、美葉は納得した。そこで白蓮が言った。
「ともかく、本初の奴も……仮に本初がその気でも、顔良あたりなら、皇帝を名乗った所で、素直に従う奴なんて一人もいないって予測は付くさ。確実に、私たちと戦う準備はしているはずだ」
「問題は、どう戦うかだ」
星が言う。
「袁紹は虎牢関で大きな損害を受けたが、それでも十万から十二万の兵力を動員できるはずだ。一方、わが軍は……」
星が月をちらりと見ると、彼女は兵站総監としての役割で把握している数字を答えた。
「今のところ……私たちが持っている兵隊さんは、五万くらいです……兵糧は、半年分は備蓄できてます」
「半分かぁ……また、苦しい戦いになりそうだね」
桃香が天を仰ぐ。
「とすると、やっぱり相手を懐に引きずり込んで、兵糧を断ってから攻撃する、って言う戦法でいくしかないかな」
すると、詠が質問してきた。
「桃香さん、それは張宝軍を殲滅した時の戦法よね?」
桃香が頷くと、詠は首を横に振った。
「柳の下に二匹目のドジョウはいない。それが戦策の常識よ。ボクも含め、たいてい軍師をする人なら、桃香さんのその戦法は研究しているし、それを破る方法も考えついてるわ。ボクでも十種類くらいはね。顔良もたぶん思いついているわよ」
あう、と桃香は項垂れる。確かに同じ戦法に頼ろうというのは芸が無さ過ぎる。すると詠が言った。
「ん、でも自信持って良いわよ、桃香さん。みんなが研究するって事は、それだけ優れた策である、って証拠だからね」
あとは、その成功例を基本に、どれだけ応用を利かせるか、と言うのが腕の見せ所だと詠は言い、一例を挙げた。
「例えば、基本は敵を城に追い込んでおいて封じ込めるわけだけど、谷間や湿地帯のような大軍の運用しにくい場所でも良いし、川を渡らせておいて、背後を閉鎖するというのもありね。ただ、今回はこの作戦は使えない。理由はこうよ」
詠は右手を上げ、地図上の曹操領と孫権領を叩いた。
「今回は確実に、しかも速攻で勝つ必要があるわ。長期戦化させて、ボクたちと袁紹の双方ともに疲弊するのは、この辺の連中に漁夫の利を狙ってくれと言っているのも同然よ。できれば一戦で袁紹軍を殲滅するのが理想ね」
詠の挙げた理想は、恐ろしく困難なものだった。星が苦笑しながら言う。
「言いたい事はわかるが、それは無茶だろう」
ところが、詠は自信ありげにニンマリと笑って見せた。
「無茶じゃない……って言ったら、どうする?」
全員の視線が詠に集中した。
「やれるのか?」
白蓮が聞くと、詠ははっきりと頷き、その策について語り始めた。そのあまりに大胆な内容に、思わず桃香は唖然とする。自分では絶対に思いつかないような策戦だ。
(すごい……これが本当の軍師。わたしはどうしても考え方が守りに傾いてしまうから、こういう発想は出来ないなぁ……)
攻勢作戦についても策を立てられる詠と言う軍師を得たことは、公孫賛軍にとって幸いな事だっただろう。すると、桃香の感嘆の視線に気付いたのか、詠は照れたように顔を赤くして言った。
「この作戦は、時間との勝負になるわ。急いで準備して。少なくとも三日以内には始められるようにしないと」
「よし、わかった。全員、詠の策に従って行動開始だ。皆、頼んだぞ」
白蓮が決断し、全員が立ち上がる。これから数日は、寝る間もないほど忙しくなるだろう。しかし、ふと桃香は袁紹即位の報せが届く前、白蓮が今後の大方針について話そうとしていたことを思い出した。今、それを聞いておいたほうが良いのではないか、と考える。その大方針に合うように対袁紹戦を終わらせる事も重要だからだ。
「そうだ、白蓮ちゃん、ちょっと聞きたい事があるんだけど……」
桃香は白蓮を呼び止め、その事を話した。他の面子も、白蓮が何を言いたかったのかには興味があるらしく、足を止めて二人の様子を見る。すると白蓮は首を横に振った。
「いや、それはこの戦いが終わってから話すよ。他はいざ知らず、本初の奴を止めるのは、一応は友人である私の仕事だろうと思うからな」
「……そう?」
桃香は首を傾げたが、白蓮がそう言うならと、この話はとりあえず頭の片隅に追いやっておく事にした。
袁紹軍の本拠、業。冀州の中心都市でもあるこの街には、今や十万を越える兵士が集結しつつあった。その城壁の上で、顔良は下級武官が持ってきた書類を受け取っていた。
「顔良将軍、兵糧の輸送状況の書類です。ご確認をお願いします」
「はい、お疲れ様」
顔良の労いの言葉に、書類を持ってきた武官が、嬉しそうな笑顔を浮かべる。相手に安らぎを感じさせる、柔らかな美貌と澄んだ声の顔良は、他の武官や兵士たちからは密かに「癒し系」と呼ばれ、高い人気を誇る。袁紹ではなく、顔良のために命を賭けて戦うと主張する者も珍しくない。
そうやって他人にやる気を起こさせる能力に長けた顔良だが、今の彼女には笑顔と言うものが見られなかった。
(兵数は十分……心配した反乱の兆候も見られない。でも、この戦いに大儀があると言えるのかしら?)
彼女を気鬱にさせているのは、言うまでもなく主君である袁紹のこのところの言動だ。洛陽陥落前に呂布にもう少しで討ち取られそうになったことで、戦場恐怖症にかかりかけていた袁紹だったが、冀州へ戻ってきて以来、その言動は以前と同じく自信に満ち溢れたものとなっている。
いや、あれは自信と言うよりは過信の域だろうと顔良は思った。その元凶は……
(やっぱり、あれだよね)
顔良は、袁紹が「あれ」を持ち帰ってきた日の事を思い出した。
その日、洛陽市街の警備を終えて帰ってきた顔良を、袁紹は呼び止めた。
「顔良さん、これを御覧なさいな」
「え? なんですか? 姫」
顔良が、目の前に差し出された袁紹の手のひらに乗った、黒い小箱を見る。装飾品を入れておくのにちょうど良さそうな大きさだが……
「ん? 姫、まさかあたいの斗詩に結婚指輪でも送ろうってんじゃ……いくら姫でもそれだけは許さないぜ?」
そこに、数日前からようやく傷が癒えて復帰を果たした文醜がやってきて、話をややこしくする。すると、袁紹は怪訝そうな顔になった。
「なんで、わたくしが顔良さんに指輪を送らなきゃいけないんですの? 中身はこれですわよ」
袁紹が苦労知らずのお嬢様らしい、白魚のような指で小箱を開ける。途端に、眩しい光が顔良と文醜の目を打った。
「きゃっ……なんですか、これ?」
「おー、なんか知らないけどすっげぇ綺麗なモンじゃないですか」
二人の目が慣れてくると、その光源は、半透明の淡い碧色の素材で出来た、美しい小さな彫像だった。ほぼ正方形の台座の上に、精緻な龍の彫刻が載っている。文醜は無遠慮にそれを手に取った。
「おおー……これはすっげぇなー……」
普段はこうしたものにあまり興味を示さない文醜が、魅入られたようにそれを見つめる。が、横から袁紹がそれを取り返した。
「文醜さん! そう気安く触るものではありませんわよ!!」
「えー、姫のケチー」
怒る袁紹と口を尖らせる文醜。この二人には珍しくないやり取りであり、何時もならそれを笑って見ている顔良だったが、その時の彼女は全身を訳のわからない衝動に駆られて震えていた。
「お? どーした、斗詩」
異常に気付いて声をかけてくる文醜。それを無視して、顔良は主に聞いた。
「姫……それは、それはまさか……?」
袁紹は頷いた。
「そう、顔良さんは気付いたようですわね。それこそ伝国の玉璽ですわ」
「そんなものを、一体どこで……」
それに本物なのか、と顔良は聞こうと思ったが、少なくともこの精緻な出来と、先ほどの光はただ事ではない。玉璽は皇帝の象徴だけに、奇跡のような出来事を起こすとさえ言われている。もちろん、それは袁紹も知っているから、この玉璽は本物だと確信していた。
「街を巡回中に、庶民が偶然見つけたものだといって、わたくしに献上して来たのですわ」
袁紹はそう言って、玉璽を箱にしまうと、顔良に笑顔を向けた。その瞬間、顔良は嫌な予感をひしひしと感じる。袁紹がこの笑顔を見せたときは、たいてい何か面倒なことを思いついた時であり、その後始末は顔良が一手に引き受ける羽目になるのだ。
そして、この時もその嫌な予感に外れはなかった。いや、予感以上に悪かった。
「顔良さん、登極式の準備をなさいな」
「……はいっ?」
顔良は聞き返していた。登極式とは、皇帝になるための儀式である。袁紹は笑顔のまま続ける。
「ですから、わたくしの登極式ですわよ。こうして玉璽がわたくしのもとにやってきたと言うのは、わたくしに皇帝になれ、と言う天の声に違いありませんわ」
「ちょ、ちょっと待ってください、袁紹さま!」
顔良は慌てた。今の時勢で登極式をするなど、今度は自分たちを対象として連合軍が組まれると言う事態を招くのに等しい。曹操など、喜び勇んで同盟を組織し、全力で洛陽に攻めてくるだろう。そう言った情勢分析を顔良は懸命に袁紹に語ったが、主はなかなか理解してくれようとしなかった。
「どうして、新皇帝たるわたくしに、皆さんが逆らうんですの?」
危機感の欠片もない口調で言う袁紹に、文醜が同調する。
「そうだぜ、斗詩ぃ。皇帝って一番偉いんだろ?」
脱力感を覚えつつ、顔良は主をどう説得するべきか頭を巡らし、そして一つの策を思いつく。
「……わかりました。登極式の準備はしましょう。ただ、こう言う事は吉凶を正確に見定めることが大事です。国一番の占い師に頼んで、もっとも登極式に適した日と場所を選ばせましょう」
それを聞いて、袁紹は露骨に嫌そうな顔をする。
「そんな面倒な事をしなければいけないんですの?」
「もちろんです!」
顔良はそう言って、様々な故実を引いて、吉凶を占うことの大事さを説き、どうにか袁紹にそれを認めさせたのだった。袁紹から全てを任せる、と言う言質を取り付けた顔良は、登極式を行うのに最良の時期は何時か、と言う事を考えはじめた。
(……他の群雄の人たちが動き始めた時。とりわけ、曹操さんの動きを一番注目すべきね)
皇帝になるにしろならないにしろ、袁紹にとって最大の宿敵となるのは、やはり曹操だ。王朝と言うある意味枷となる存在がなくなった今、曹操は間違いなく自分の覇道を突き進みはじめるだろう。
顔良は自分が曹操なら、どの方向へ向けて勢力を拡大するか、と考えてみる。中原の徐州、豫州、宛州を抑えている曹操は、海のある東以外、西南北のいずれの方向にも侵攻出来る立場にある。
まず、北は自分たち袁紹軍の勢力圏……まず、こっちは選ばないだろう。今曹操と袁紹の勢力はほぼ互角であり、戦えば無傷では済まない。
南の楊州……孫権軍はどうか。これもない。孫権軍は頭首である孫権と、軍師であり大宰相である周瑜の間に対立があると言うが、敵に対しては団結するはず。簡単に潰せる様な勢力ではない。
西は、最近北郷軍によってまとまりつつある荊州。これはかなり可能性が高い侵攻先だ。北郷軍は完全に荊州を抑えきっておらず、今なら攻めやすい。荊州を完全に制されたら、かなり倒しにくい勢力に変化するだろう。
西にはもう一つ、涼州の馬騰軍も存在する。これも狙い目の一つだろうか。馬騰は一代の英傑だが、連合軍には娘の馬超を名代として派遣してきたように、最近は健康に不安があり、全盛期の実力を発揮できない。
となると、恐らく曹操軍は西進し、荊州か涼州を制圧する道を選ぶだろう。
(曹操さんが動いた時。これ以外に、麗羽さまが皇帝を名乗る時期はないわ)
顔良はそう確信した。袁紹を登極させた上で、曹操以外の勢力を取り込み、最終的には彼女を打倒して、天下統一を目指す。これが最良の戦略だろう。
「問題は、他の群雄の人たちが袁紹さまの皇帝登極を認めてくれるか……よね。一応、大義名分としての玉璽はあるけど……」
そう口に出してみて、顔良はその難しさを思った。唯一、袁紹の数少ない友人である、公孫賛だけは認めてくれるかもしれない。でも、他の群雄は無視しそうな気がする。顔良はいかに敬愛する主君とは言え、袁紹の器量が世間でどう評価されているかは知っていた。
ただ、それは虎牢関でまともに呂布に対抗できず、軍を壊滅させられてしまった自分にも責任のあることだ、と顔良は思っていた。だから、自分にできる事は、皇帝になって天下統一を目指すと決意した主君を、どこまでも支えることしかないと彼女は決意していたのである。
あれから半年。都の占い師に予め言い含めておくことで、「曹操が動いた時が登極式の好機」と解釈しうる卦を出してもらった顔良は、軍を再建しつつ、その好機を待ち続けていたのだ。
「長かった……姫様に何度せっつかれたことか」
その忍従の日々を思い出し、ため息をついた顔良だったが、ともかく群雄たちは動き出し、いよいよ待ち望んだ機会がやってきた。袁家に仕える文武百官を集め、登極式を済ませた袁紹が有頂天になる中、顔良は次なる戦略を模索していた。まず、皇帝即位を知らせる書状は、各地の群雄諸侯に送りつけてある。
そして、袁紹が無視された時、まず「討伐」すべき相手は、公孫賛だろうと顔良は思っていた。と言うより、他に選択肢が無い。袁紹の勢力圏が隣接しているのは曹操と孫権、公孫賛の三勢力で、その中で最弱なのは公孫賛である。
「公孫賛さまなら、兵力自体は私たちの半分も集められるかどうか。できれば、抵抗せずに袁紹さまに従って欲しいけど。問題は……」
我ながら酷い事を言ってるな、と思いつつ、顔良は公孫賛軍に警戒すべき点があるとすれば、人材の層の厚さだと考えた。まず公孫賛自身が「白馬長史」の異名をとる名将だし、彼女の片腕と言うべき劉備と趙雲も、自分たちを一蹴した呂布と互角に戦った強者だ。
さらに、最近では旧董卓軍の華雄と賈駆が加わっている。特に賈駆など、できれば袁紹軍で迎えたかったほどの逸材である。世間では董卓の片腕として暴政を行った一人などと言われて、嫌われている面もあるが、曹操もやはり元董卓軍の張遼を召し抱えて、平然としている。能力さえ提供してくれるのなら、過去を気にするつもりは無い。
もっとも、悪人でも何でもない董卓を極悪人と宣伝し、連合を組ませたのは袁紹の元で顔良も加担した事なので、賈駆を招聘できる可能性は、殆ど無かっただろうが。
ともかく、向こうに名軍師として知られる賈駆がいる事は、顔良にとっては懸念材料の一つだ。彼女の手腕を封殺するには、袁紹軍の優位――兵力の多さを活かし、敵を野戦に引きずりこんで殲滅するのが一番だろう。
それ以前に、公孫賛軍に抗戦を断念させるため、顔良は登極式に合わせ、全軍を業に集結させていた。総兵力、実に十二万五千。曹操領や孫権領への備えに置いている、州境の守備部隊を入れれば、全兵力は十八万を越える。この大軍を持って、公孫賛を威圧するのだ。
これで抵抗を断念し、降ってくれるなら良し。あくまでも抵抗するなら、容赦なく討ち滅ぼし、河北四州を手中に収めることで、曹操を凌駕する大勢力を築く。
(公孫賛さま、ごめんなさい……乱世の習いと思って許してください)
顔良は集まって来た大軍を見ながら、心中で公孫賛に詫びた。彼女は個人的には公孫賛に好意を持っているし、尊敬もしている。だが、それは袁紹に対する忠義の念に勝るようなものではなかった。
「麗羽さまも、私も、乱世に向けて一歩を踏み出してしまった。もうこの先には、勝ち続ける修羅の道しかない……迷っちゃだめ、私。麗羽さまの望みをかなえるのが、私の役目なのだから」
顔良がそう自分に言い聞かせた時、彼女は北の方から街道を突っ走ってくる一騎に気がついた。伝令を示す黄色い旗を掲げたその騎乗士は、何かに憑かれたような速度で城に近付いてくる。顔良は何か妙な胸騒ぎを感じた。
「私は伝令の報告を受けてきます。後をよろしくお願いします」
近くにいた武官にそう声をかけ、顔良は急いで城壁を駆け下りた。ちょうど、さっき見た伝令が城門を潜り抜けて、馬を止めようとしている所だった。
「何かあったんですか?」
顔良の声に、伝令は馬から飛び降りると、その場に跪いて報告した。
「一大事です! 易京城が……!」
その報告を受けた顔良の顔は、見る間に青ざめて行った。
冀州北部、幽州との境近くにその城はあった。かつて北方から侵攻する異民族を迎撃するための拠点として建設された、天下有数の大城塞、易京城。百万の兵に包囲されても持ちこたえる、とさえ言われた堅城である。今回の袁紹軍による対公孫賛威圧作戦においては、拠点として使われる予定になっていた。
しかし、今その城壁には、公孫の牙門旗が無数に翻っていた。
「本当に簡単に陥とせちゃったね……」
城壁の上に立っていた桃香が言うと、星が応じた。
「劣勢の我々が攻めてくるはずが無い……そう油断しきっていたようですからね。敵の心理を完璧に読みきるとは、さすがは詠と言うべきですか」
袁紹の皇帝即位宣言に対し、それを認めず徹底抗戦する、と決した白蓮に詠が提示した作戦の第一弾が、この易京城の奪取だった。本隊が来る前で、二千ほどの僅かな守備隊しかいなかった易京城は、桃香率いる三万五千の軍勢の前に、あっさりとその主を変えていた。
「桃香様、捕虜の収容は終わりました。尋問した所では、伝令は業に向けて出たと言うことです」
そこへ美葉がやってきて報告する。本来、こちらの行動を秘匿すると言う軍事行動の原則から言えば、伝令が逃れてしまったことは、歓迎すべきことではない。しかし。
「うん、詠ちゃんの立てた予定通りだね。あとはここで袁紹さんが来るのを待つだけだね」
桃香は今のところ計算通りに事態が展開していることに、安堵の表情を浮かべていた。この城を手に入れることが、最大の障害だったのだが、それを達成した事で策は最大限の効力を発揮できる。
「まぁ、それが問題ではありますがね。偵探の報告によれば、袁紹軍は二十万を号する大軍。実数は十二万程度と言うことですが、わが軍の四倍近い」
星が言うと、桃香は頷いた。
「そうだね。気を抜いてる場合じゃなかったわ。罠の口が閉じるまで、ここで粘らなきゃ」
「まぁ、それほど心配は要りますまい。私はともかく、詠は連合軍との戦いを通じて、大軍にどう対処するか、と言う策を色々考えたはずです。詠の策なら心配は要りませんよ」
美葉の言葉に、桃香と星が頷く。河北四州の覇権をかけた戦いは、こうして公孫賛軍の先制点で始まった。
その頃、遠く離れた益州でも、新たな戦いが始まっていた。
かつて春秋・戦国の時代に蜀の国があった益州は、険しい山地の中に長江とその支流に面した肥沃な盆地が点在する土地で、それ故に昔から盆地ごとに軍閥が乱立しやすい宿命を背負った土地だった。
黄巾の乱以降の社会混乱の中、益州は再び乱れ、分裂し、各郡の太守や、それに取って代わった地方豪族、さらには黄巾の残党なども流入し、事実上の内乱状態に陥っている。その一部は益州内部だけでなく、荊州にまで侵攻しており、特に南荊州は激しい略奪をうけ、街や村が焼かれるなど、酷い有様になっている。
その蜀へ通じる、険しい山岳地帯の中の桟道を、北郷軍の十文字の牙門旗を掲げた軍が進んでいく。一刀は荊州の民からの訴えを受け、荊州全域の保護と、混乱の元凶である益州の平定を目指して兵を挙げたのだった。
これにより、一刀はそれまでの北荊州五郡に加えて、中~南部荊州の八郡を支配下に置き、事実上の荊州太守となった。動かせる兵も五万近くまで増えている。現在は先陣に二万の兵を与え、三万の本隊と共に進軍していた。
その先陣が向った前方から一筋の煙が上がるのを見て、一刀は言った。
「どうやら、愛紗と朱里は首尾よく城を落としたみたいだ」
それを聞いて、一刀の横で馬を進める一人の女性が、たおやかな笑みを浮かべて言う。
「愛紗ちゃんたちなら、容易くやってのけるはずですわ。もっと信じておあげなさい、ご主人様」
彼女の名は黄忠。真名は紫苑。つい先日、北郷軍に加入したばかりの、長沙の太守である。先の董卓の乱では中立を保ち、南荊州の保護に努めたが、一人ではいかんともしがたく、北郷軍の傘下に収まる事を決断した。
弓の達人で優れた武人であると同時に、太守らしく内政にも優れた手腕を発揮しており、一刀の仕事の負担を大いに軽減してくれるありがたい人物である。また、大人の女性らしい気配りもできて、年下でも軍では先達になる愛紗や鈴々を立てることを忘れない。
「紫苑の言うとおりなのだ。お兄ちゃんは心配性すぎるのだ」
鈴々も紫苑に続いて言う。彼女から見ると、紫苑はお姉さんと言うよりは少し若いが母親と言う感じに思えるらしく、よく懐いている。
「わかってるよ、鈴々、紫苑。でも、心配は心配だよ」
一刀は答える。愛紗の力量を信頼していないわけではないが、最近彼女の様子がおかしいのが気にかかるのだ。
(妙に桃香さんを気にしてるんだよな……)
もともと、愛紗はあまり桃香に好意を抱いていないようだったが、公孫賛軍に華雄と賈駆が登用されたと聞いて以来、ますますその傾向に拍車がかかっている。討ち取ったと思っていた華雄が生きていたのも気に食わないようだが、賈駆の存在はもっと気に入らないらしい。
「暴君の側近を取り立てるとは……やはり、劉備も同類か」
と言っていたと、朱里から聞いている。その辺の誤解を解いてやらなければならないと思ってはいるのだが、どう話を切り出したものか、一刀はいまだに考えあぐねていた。
(ま、桃香さんなら敵になる事はないだろうし、そのうち誤解を解く好機があるだろう)
一刀はそう考え、今は結論を急がないことにした。まずは城を落とした愛紗を褒めるべきだろう。そう思った時、前方から伝令が走ってくるのが見えた。
「大変です、殿!」
「どうしたのだー?」
一刀の代わりに鈴々が聞くと、伝令は思いも寄らない、そして重大極まりない情報をもたらした。
「ここから二十里ほど前方を、敵増援と思われる一軍が、こちらに近付いてきます! その牙門旗は……呂の一字!」
「な……呂布だってのか!?」
驚愕する一刀。虎牢関離脱後、行方不明になっていた飛将が、再び世に出てきたと言うのか。一刀は本陣に控えていた二人を見た。
「前衛だけじゃ食い止められない。鈴々、紫苑!」
「わかったのだ!」
「御意です!!」
駆け出す鈴々と紫苑。一刀もまた、この世界に来た時に較べればずいぶんと上達した馬術で、先陣に向けて走り出す。彼の益州平定は、初手から大きな障害にぶつかろうとしていた。
また同じ頃、北の涼州や、東の楊州でも、戦乱の幕が開いていた。
新たな中華の乱世は、ここに本格的な幕開けを迎えたのである。
(続く)
―あとがき―
作中に業という街が出てきますが、正しくは「業におおざと」と書きます。その字が無いので、代わりに業一文字にしてありますので、ご了承ください。
さて、麗羽さん戦開始です。メインテーマは顔良の苦労話になっていますが。
最後に一刀の様子も出てきますが、今後は桃香以外の勢力がどうなっているのかも、出来るだけ情報を入れていく予定です。次回は易京城攻防戦を中心に、華琳や蓮華、未だ出番が無い冥琳なども出す予定。お楽しみに。