「あれ、今日なんかありましたっけ?」
特に除霊仕事の話は聞いていなかったけれど、財布がすっからかんで家にも何もないので、すきっ腹を抱えて事務所にやって来た横島――キヌに食事でも出してもらえればという思惑である――が、除霊用具一式を持って出かける準備をしている美神に訊ねる。
「あら、横島君。ちょっと唐巣先生のところにいこうと思ってね」
美神はそういうと、横島の様子に気付いたのか「おキヌちゃんには厄珍堂に行ってもらってるのよ。これでなんか食べなさい」と、ぽんと万札を放ってそのまま出かけていった。
「……へ?」
横島は呆然とその後ろ姿を見送ってから、なにか危険物にでも触るかのようにそっと美神の投げた札を拾い上げる。
ためつすがめつ、その札を穴が開くほど見つめる横島。
「ほ、本物だよな。あの美神さんが金をくれた?
いやいやいや、天地がひっくり返ってもそんなことがあるわけはねーよな。
てことは、給料前借りさせてくれたってことなのか? それだって、前にどんだけ頭下げてやっと許してもらったことか……
とすれば、何かの陰謀か? イタリア系マフィアは殺す相手に贈り物をするらしいが……」
美神に気前よく金を渡されたことに衝撃を受けた横島は、空腹であったことさえも忘れ、漫然と手の中の札を弄び続ける。
結局、横島はキヌが戻ってくるまで、ぽけっとその場で放心していた。
愛の行方
「神様、ありがとうございます。こんな日がいつか来てくれないかと思いながら、私は心の中でそれをあり得ないことなのだと諦めてしまっていました。これは奇跡に他なりません」
喜びのあまり滂沱の涙を流しながら、唐巣が自らの神へと感謝の祈りを捧げる。
「まったく、大げさなんだから先生は」
その様子にやれやれと美神は首を振るが、ピートも「先生の行動も仕方ないことだと思いますよ」と、こちらも未だに自分の見たものが信じられないといった表情で美神をみつめている。
この日、ふらりと唐巣神父の教会にやってきた美神は、霊障に悩まされているものの普通のGSを雇うことは出来ない困窮した人々の依頼を全て自分で引き受けたのだ。
そして霊障の解決のために惜しみなく除霊具は使用したものの、依頼人から除霊料金はびた一文受けとらなかった。
それどころか、生活に困っている人々には自ら何がしかの援助を与えさえしたのだ。
「さすがは唐巣神父のお弟子さんですね。とても素晴らしい方です。TVなんかで聞く評判を信じていたのが恥ずかしいですよ」
そう信者の一人にいわれても、唐巣は曖昧な笑みを浮かべて頷くことしか出来なかった。
彼の知る美神は、ある部分では世間の悪評をさらに数倍したような人間であるはずで、まさに自身が狐につままれているような気分だったのである。
ピートまでもが白昼夢でも見たのかと考えていたが、これは一日だけの奇跡ではなかった。
それからの美神は決してあこぎな商売をしようとしなかったのである。
金持ちの依頼人から必要な経費だけは取ったものの、それ以上に数多くの霊的な問題を抱えた人々を、美神は無償で救っていった。
噂が噂を呼び、すぐに美神除霊事務所が唐巣の教会と同じように、GSに相談することもできずに途方に暮れていた人々の駆け込む場所となっていったのも不思議はない。
横島やキヌへの美神の対応も変わった。
横島にはきちんと先輩・師匠GSとしてオカルト知識を教え込み始め、給料もきちんとGS助手に相応しい額を与えるようになったのだ。
そして実力は十分にあったのだからと、ある程度横島の知識が向上したと認められたところで――「まだしばらくは自分の元で研修を続けること」という条件こそつけたものの――GS協会に彼の本免許を申請した。
美神は横島をすでに一人前のGSであると認めたのだ。
自分の本免許を見て感動した横島も、美神の評判が「弱きを助ける正義のGS」として鰻上りになると共に、一緒に仕事をしている彼に対する女性の見る目も変わり始めていたので、このまま美神除霊事務所で働くことになんの依存もなかった。
こちらは打算まみれであるが、まあ横島らしいといえよう。
もちろん、美神はキヌにも横島と同じように個人的に指導を始めた。
さらに「おキヌちゃんは学生なんだから」と、事務仕事や家事は多くを自分が引き受けるようになったのである。
最初は横島もキヌも豹変した美神に驚き、横島に至っては「一度、病院に行ってきちんと検査してみましょうよ」などと真剣に言い出したものだが、その時も当の美神は怒りもせず「私はどこも変じゃないわよ。みんなが私が変わったって言ってる方が不思議だわ」と、心からにこやかに笑っているだけだった。
また美神は、これまであまり積極的でなかった六道女学院での特別講師なども、頻繁に請け負うようになった。
後進の育成は重要な義務だというのである。
「みんなは霊能力という特別な力を持っているからここ(六道女学院)にいるわ。それに優越感を持っている人もいるかもしれないし、そのせいで苦労してきた人もいるかもしれない。でも、これだけは忘れないで欲しいの。あなたたちの力は、この世界のどこかで苦しんでいる誰かを救うことが出来る。そして、それはとても素晴らしいことなのよ」
六道女学院の学生たちが以前の美神に向けていた視線は羨望に満ちたものであったが、いまや少女たちが美神に向ける視線には、揺るぎない敬意が込められていた。
歴史上には平和と愛を唱え、俗に聖者や聖人などと呼ばれた人間が数多くいる。
その中には、ある日を境に人が変わったように高潔な人徳者になったといわれている者も、決して少なくはない。
いかにもな理由付けはいくらも出来るだろう。
しかし、その正しさは今や誰にも分からない。
もう一つの現在、もう一つの宇宙。
「本当によろしいのですね?」
決して翻意することはないのだとわかってしまっていても、もう一度ベスパは悲しげにアシュタロスに確認をとる。
「ああ。私は魂の牢獄から抜け出してみせる。その結果が世界を踏みにじることになるのだとしてもな。
――いや、むしろ永久に邪悪な存在であることを強要し、勝ってはならぬ戦いの悪役を演じ続けさせるような世界など滅んでしまえばいいのだ!」
悟ったように穏やかに語りだしたアシュタロスだが、唐突にその感情を爆発させ、拳を手近な壁へと思い切り叩きつけた。
アシュタロスの繋がれた装置――コスモ・プロセッサ(宇宙処理装置)や究極の魔体の防衛システムといった研究の副産物――がわずかに震える。
「……すまないな、ベスパ。お前には辛い思いをさせる」
すぐに穏やかな調子に戻ったアシュタロスが、優しくベスパを慰撫する。
アシュタロスは直接的に世界へ喧嘩を売ることよりも、新たな可能性の高い方法を選んだ。
それはアシュタロスにとって当然のことであるが、ベスパには――道具としてつくられた事を理解しながら、常に献身的に自分を支えてくれた彼女にだけは――負い目を感じていたのだ。
「いえ、そんなことはありません。私の喜びはアシュ様の願いが叶うことですから」
「……ありがとう」
そっと手を伸ばし、アシュタロスがベスパの頬を優しく撫でる。
「アシュ様……」
ベスパがその手をそっと上から押さえた。
「……さあ、やってくれ」
名残惜しげに手を離し、ベスパがゆっくりと装置の最終スイッチを入れる。
「ぐ、ぐああああああああああああああああああああああああっ」
装置が作動を始めると、即座に歯をむき出してアシュタロスが叫び出す。
爆発する苦痛。
強大な魔人であるアシュタロスがこれまでに感じたことのない責め苦が彼を苛んでいく。
魂そのものを絞り上げられ、切り裂かれるような痛み。
「……っ」
その苦痛の叫びを聞きながら、張り裂けそうな胸を押さえ、歯を食いしばり、ベスパは装置を止めようとする自分を必死に抑えていた。
すでに苦悶の声はやみ、アシュタロスはぶるぶると小刻みにその身を震わせるだけになっている。
ベスパはアシュタロスと、彼から徐々にタンクを経由して流れ出していく感情の力線を見つめる。
適応不全の魔物アシュタロス。
彼に邪悪であることを拒ませざるを得なかったその一部が排出されていくのだ。
二度とアシュタロスに戻らぬように、二度と同じ存在に戻らぬように、どこか別の宇宙へと。
視線をわずかに戻すと、アシュタロスも辛そうに頭をもたげ、ベスパと同じものを見ていた。
その行く先を、どことも知れぬ汚染先を。
「……少なく……とも……狂気を……流すより……マシでは……ないかね」
まだ残るそれがいわせたのか、か細い声でアシュタロスが笑った。
ベスパも懸命に笑顔を作って頷き返す。
数分後、ついにそれが完了した時、アシュタロスは完全にこの世界の在り方に適応していた。
世界が望んでいる以上に。
どんな神族もわずかな邪心や悪意を持つように、どんな魔族も良心や善意を心のどこかに持っている。
結局のところ、彼らは同じカードの裏表であり、どちらも演じられるように世界によって定められているのだから。
だから彼らは理解しあうことが不可能ではないし、お互いを認め協力体制をつくることもできる。
それはデタントの原動力でもあるし、世界の秩序を保つ基でもあるのだ。
そして、アシュタロスを苦しめ続けたものでもある。
決して他の存在になることも滅ぶことも出来ないのに、永久に悪である自分を嫌悪してしまうほどにそれを持ってしまっていたから。
世界は破滅に向かっている。
これまでは神と魔の争いで最後の歯止めになったものを、最重要な魔族の一人が失っていたから。
アシュタロスはもう以前のアシュタロスではない。
それが分かっていても、最後までベスパは付き添っていた。
そして史上最悪の殺戮兵鬼、究極の魔体が世界を荒廃させていくのを目撃した。
究極の魔体自体はすでに止められていたが、世界が再びこのどん底から復興できるチャンスはほとんどないだろうと、シミュレーションを行った高度な演算兵鬼の土偶羅はいっている。
まだ、しばらくはこの世界も続くだろう。
しかし結局は一からやり直すことになる。
茶番劇を繰り返してでも守られようとしていた世界は、もうひっくり返ってしまったのだ。
「……記念碑か」
ぽーっ、と放射能の息を吐き出しながら――元からそんな気もないが、これによるわずかな汚染など、いまさら気にする必要がない――土偶羅が呟く。
「ああ、ずっと残る奴を。……でも、これは私のためのものだよ。無意味な感傷だってことはわかってるんだけどね」
無人の荒野の中央。彼女の注文通りのものを土偶羅の指示で作り上げていく埴輪兵たちを見ながら、ベスパが寂しく笑った。
この世界の未来に生まれる誰かがそれを見ても、決してそれが持つ正しい意味合いを理解はしないだろう。
その永劫を超えて残るはずの像は、ベスパがアシュタロスに――彼女の愛したアシュタロスに思いを馳せるためのもの。
ただ、その像はアシュタロスではない。
本当は世界を踏みにじりたくなどなかったのに、魂の牢獄から逃れるために最後にはそれを行ってしまったアシュタロスは、そんなことを望まないだろう。
だからこれは土偶羅と共に調査をし、ことの経過を知ったベスパだけに理解できるもの。
アシュタロスの優しさをこの上なく体現した者の姿。
すらりと伸びた足、身体にぴったりとフィットした露出の多い服、右手に握られた神通棍、溌剌とした表情、長く伸びて舞う赤い髪。
その台座には、彼女が口癖のように言っていた言葉が刻まれている。
『私はみんなを愛してるのよ! この世界中のあなたたち、みんなを!』
了
※ 「GS美神」×「世界の中心で愛を叫んだけもの/ハーラン・エリスン」