<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

Muv-LuvSS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[3649] マブラヴ Unlimited~My will~ & False episode 
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2020/03/14 23:35


<作品解説>
 「マブラヴ Unlimited~My will~」はマブラヴ アンリミテッド、その後日談の物語となります。
基本はアンリミテッドの冥夜エンド、その約20年後です。 バーナード星系で育った武と冥夜の娘が主人公の話です。
彼女が、もし武のいる地球に行くことが出来たのなら……そのような思いで考えました。
アンリミエンドで別れてから20年近く経つので、色々と補完せねばならないところはオリジナル設定で行っています。
武と冥夜の娘が、人類がBETAに敗北した地球でどのように生きていくのか、がメインとなります。
「マブラヴ Unlimited~My will~」は全5話(総節数20)構成となります。 こちらは2009年3月29日に終わりました。


 「False episodes」は武と冥夜の娘がAltered Fable設定の世界に現れた話となります。
予定ではScene 1 からScene 5 までとなっています。 
「マブラヴ Unlimited~My will~」の外伝形式ですが、こちらを読まれなくても大丈夫な話です。
「False episodes」は、武と冥夜の娘がマブラヴAF世界に行ったら、周りはどんな反応をするのだろう?と考えて書きました。

 それでは、どうかよろしくお願いします。

※アサムラコウ様に執筆を依頼し、書きあげてくださいました。ありがとうございました。


<2020年03月14日完結に寄せて>
 2020年03月14日最終話を投稿させていただきました。
私が仕事の都合で執筆出来なかったので、私がプロットを書き、アサムラコウ様が執筆してくださった形になります。
アサムラコウ様には感謝しかありません。本当にありがとうございました。
10年越しで今更かもしれませんが、どのような形であれ完結できたことをうれしく思っております。
願わくば再びマブラヴが活気立ち、昔のように盛り上がることを祈念して、最後の言葉とさせていただきます。
どうか皆と、また出会えますようにーーー




※2020年03月14日 アサムラコウ様執筆のもと完結。
※2010年03月31日 就職等の関係のため、更新を停止。
※2009年07月09日 純夏の誕生日をお祝いして武×純夏SSを投稿しました。
※2009年03月29日 第一話と第二話の文字数が少ないため統合。 他も微妙に修正しました。
※2009年01月24日 第五話「それは雲間に見える星」 第一節を少し修正しました。
※2008年12月17日 冥夜、悠陽、武の誕生日をお祝いして武×冥夜SSを投稿しました。
※2008年11月16日 段の空きを修正しました。内容の変更はありません。
             ご指摘して下さった方々、アドバイス本当にありがとうございました。
※2008年10月03日 節数を減らしました。 纏めただけなので、内容の変更はありません。








[3649] 第一話「紡がれた想い」 + プロローグ
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/03/29 01:07



 「冥夜…」
 「………タケル」
 「……生きてくれ
 生きてくれ……冥夜…
 おまえは生きて……俺がこの世界に生きた証を……残してくれ」

 

 そして愛する2人は、「絶対に離れたくない」と想い合ったまま、別れた。
 時代が、2人を引き裂かざるを得なかった。
 1967年から始まった、宇宙からの侵略者『BETA』との戦争。 平和を脅かす存在。 人類の敵。
 そして戦争開始から約35年……人類は最後の賭けへと打って出る。
 オルタネイティヴ5、地球に平和を取り戻すためのBETA殲滅作戦が開始される。
 一方、作戦失敗に備えて、地球から遠く離れたバーナード星系への移民が始まった。
 このとき白銀武と御剣冥夜は、別々の道を選ぶこととなる。
 どちらしてもそれは、険しく苦しい運命を辿るに違いない。
 白銀武は地球に残り、人類を、愛する人を護ることを選び、
 御剣冥夜は地球を離れ、人類を、愛する人の想いを守ることを選んだ。



 しかし御剣冥夜は、後悔だけはしていなかった。
 彼女は気づいていた。自分の中に、彼と自分の証があることを。
 影として生きてきた御剣冥夜にとって、それは初めて手に入れた「証」であった。
 白銀武と御剣冥夜が共に生きた証……あの人の娘。
 彼女は決めた。「この娘は絶対に護ろう」と。それが彼の生きた証になる、そう信じて。
 その時から御剣冥夜は、白銀冥夜と名乗ることにした。



 成長した娘は、自分に父親がいないことに気づいていた。
 しかし決して寂しいとは思わなかった。母が優しかったこともあるが、それ以上に、「地球」という星を
 母が語るとき、そこには必ず「父」の姿があったからである。
 母は娘に何度も言い聞かせた。

  「そなたの父様は強い人だ。 そして、優しい人だ」
  「そなたの父様は、今も地球で戦っている。 だから私達は平和に暮らせるのだ」
  「そなたの父様は…」

 娘にとって、父は誇りとなっていた。会ったことが無いにも関わらず、彼女は父の姿をありありと思い浮
 かべられた。そして、遠い遠い輝く星の、すぐ傍らにある「地球」から自分を見守ってくれているのだと、
 強く信じることが出来た。
 年を経るにつれ娘は、「父様に会いたい」と強く想うようになっていった。


 そして、武と冥夜が地球で別れて18年後……
 物語はここから始まる。





 ―――マブラヴ Unlimited ~My will~―――





  よく耳にするあの音、学校の始業ベルが鳴り響く。
  そこは、大きなシャトルが幾つもそびえ立ち、それを中心に据えて作られた町であった。
  そのシャトルは、17年前人類が初めてこの星に降り立った時のものである。
  開拓から17年、人口は当初の10万人から13万人と僅かにしか増えていないものの、インフラの整
 備が進み、町の規模は地球における地方都市と何ら遜色ないまでに拡大した。
  その町を見渡せる丘の上から、先ほどのベルが鳴り響いている。
  丘の上には学校が作られていた。校内では先ほどまで談笑していた生徒達が、ガタガタと慌ただ
 しく席に着こうとしている。

 「おはよう」

  紫色の髪、そして白衣を着た女性が入ってくる。
  かつて、オルタネイティヴ4達成に全力を尽くし、果たすことなくこの星に移民した香月夕呼その人
 であった。
  彼女がクラスに入って、状況は一変し、空気が緊張していくのが分かる。
  香月夕呼はこの学校、もとい技官養成所の責任者兼講師である。
  学生達にとっては先生であり、上官でもあるのだ。
  彼女は黒板の前に立つと、ゆっくりと室内を見渡した。

 「……ク~」

  室内が一気に凍り付いた。
  上官がいる場合、会話することはほぼ厳禁である。ましてや、そういった類の音ではない。
  学生達は、その気まぐれで間抜けで何ともやる気のない音がする方へ一斉に目をやった。

 「……白銀~」

  視線の先にある一人の学生を見ながら、夕呼は呟いた。
  「白銀」と呼ばれた女子学生は、頭を机につけるかつけないかという位置で動かずにいる。
  友人と思われる隣席の女子が、「白銀」の長髪を結んでいる白ヒモを引っ張って起こそうとしている
 が、全く反応がない。

 「七瀬、もし起こしたらアンタも同罪ね」

  夕呼の言葉に隣席の女子はビクッと反応し、白ヒモを放す。
  彼女は「白銀」の方に手を合わせ、「ごめん」と声にならない声を発した。

 「んふふふふふふふ~♪」

  笑いながら夕呼が近づく。
  周りのクラスメイトは、心配そうに見つめている。

 「ふふふふふ、どうしようかしらね~」

  夕呼はまず、彼女の長い髪に触れた。
  その緑の黒髪と呼ぶに相応しい瑞々しいそれは、夕呼が手を傾けるとパラパラと音を立てて離れ
 ていった。
  そして見えるのは、彼女のうなじであった。
  夕呼はそこに自分の顔を近づけ、そして…

 「ふー」
 「ふゆひゃあ!?」

  奇声をあげ、彼女は顔を上げる。
  その顔はどことなく気品があり、それでいて未だ幼さを残して可愛らしい。
  彼女は首を押さえ、当たりを見渡した。
  「あーあ」というクラスメイトの表情と、大笑いしている夕呼を見て、彼女は今の状況をなんとなく掴
 むことが出来た。

 「い、今の聞いた…プククク…『ふゆひゃあ』だって…クククク」

  女学生の顔が恥ずかしさのあまり、みるみる赤くなっていく。

 「せ、先生。 すみません、私寝ちゃってましたか?」
 「(ククク)寝てたわよ~、それはもう気持ちよさそうに」

  夕呼は腹を押さえながら、答える。

 「あう…」
 「それにしても、もっと可愛げのある声を出せないの~。
 ねえ、まりも?」
 「先生、私はまりもじゃなくて…」
 「白銀真璃(まもり)、でしょ? 分かっててやってんのよ~」
 「あう…」

  一通り笑い終えたのか、夕呼は教壇に戻っていく。
  真璃はホッとした表情を浮かべ、隣席を苦笑いしながら見る。
  七瀬も同じように苦笑いしている。

 「あ、そうそう。 白銀は放課後、研究室に来なさいね。
 まさか居眠りの件が終わったとか思ってないでしょうね?」
 「あう…」

   真璃は机に突っ伏した。


   <>


 「うう…夕呼先生ってば、ひどいんですよ」

  ここは学校内にある夕呼の研究室。そこで真璃は、今朝会った出来事を銀髪の女性に話していた。

 「元々は昨日、晩酌しろーって徹夜で付き合わせたのが原因なのに…なんで私が」

  銀髪の女性は、コクリと頷く。彼女にも思い当たる節があるらしい。

 「社ー? アンタどっちの味方なのかしらねー??」

  ビクッと2人の身体が反応する。
  銀髪の女性、それは成長した社霞であった。地球を離れて17年経ったが、その容姿は未だ20歳前
 後の様に見える。
  彼女はいつもそのことを夕呼にネタにされ、遊ばれているわけだが。

 「それにしても白銀もやるわねー。 私の講義で居眠りしようなんざ、3年早いわよ」
 「元々は先生のせいですよ」
 「いいじゃな~い。 昨日は特別な日だったんだし、ね」

  夕呼は自分の椅子に座り、引き出しを開ける。
  そこにはH&K製USP拳銃と、700ml程度の酒瓶が入っていた。
  彼女は酒瓶を取り出し、机の上に置いてあるグラスに注ぎ始めた。

 「先生またー。 昨日あれだけ飲んだのに、これ以上飲んだら病気になりますよ」
 「白銀ー、アンタますます御剣に似てきたわね。 小言が多いといい男捕まえられないわよ」

  さっそく酔いが回ってきたのか、夕呼の呂律が回らなくなり始めている。
  真璃は苦笑いで返したが、霞は夕呼の様を寂しそうな面持ちで見つめていた。
  


  ……昨日は、真璃の母である白銀冥夜の9年目の命日であった。



  
  9年前、人口を順調にのばしていた人類はその生活圏を拡大するため、未開発の土地を開拓し始
 めた。
  今思えば、愚かな選択だった。 人類は未知のウイルスと遭遇してしまったのである。
  そもそも別惑星から人類に、それに打ち勝つ抗体は無かった。
  多くの人間が倒れ、死んでいった。 
  当時の人口は現在よりも多い14万人。 この内、4分の1近い3万人が死亡した。
  冥夜は、常に先頭に立っていた。 倒れた者に駆け寄り、声をかけ、励ました。
  食料が足りなくなれば進んで自分の分を差し出し、皆が嫌がる感染者の身体を拭くことも行った。


  …そんな彼女がウィルスに冒されるのに時間はかからなかった。


  冥夜は仕事中に倒れ、そのまま入院した。 彼女は他にも大量の患者がいる中、自分だけがベッド
 で治療を受けられることに腹を立てた。
  しかし元々無理をしていたためか病状は悪化の一途を辿り、倒れてから2週間でこの世を去った。
  最後は熱で浮かされたためか、「すまぬ」「すまぬ」とただ繰り返すばかりだったという。
  その様子を見ていた一部の人間はこう言った。

  「なんと冷たい母親だろう。 娘のことを放っておくなんて」

  その言葉は、真璃の耳にもすぐに届いた。 しかし10歳にも満たなかった少女は、母のことを全く
 恨む気になれなかった。
  いや、むしろ誇りに感じていたように思える。 母の行動は、それまで母が「正しい」と言い聞かせ
 ていたこと、そのものだったからである。
  真璃は涙を流した。 母が死んだ寂しさと、母の無念…民を救おうと尽力しそれが中途に終わった
 悲しさ、そして何より、父に対して「すまぬ」と言っているようで、母の痛みがまるで自分のものであ
 るかのように感じたのだ。
  冥夜の行動について、真璃は多くを耳にすることが出来た。 理由は、冥夜が真璃を預けた先が夕
 呼のところであったことが挙げられる。
  夕呼はどこかしらか情報を得、今冥夜が何をしているのか、細部に至るまで真璃に話した。
 (実は霞のプロジェクション能力も一役買っていたりする)
  夕呼には分かっていたのかもしれない。 冥夜の死、それが避けられないものだということを。
  だからこそ、真璃に冥夜が何をやっているのか、そしておそらく、冥夜が最も心を寄せているであろ
 う娘の心が変わってしまわないように、配慮したのかもしれない。

  冥夜の死で一番変わってしまったのは、もしかしたら夕呼なのかもしれない。
  彼女の死から、夕呼は酒を常用するようになってしまった。 それ以前から飲酒自体は行っていた
 ものの、より非道くなってしまったのである。真璃はそれを心配しており、霞は夕呼の想いを知ってい
 るが故に、口を挟めないでいた。
  それはともかく真璃は以降、夕呼と霞の側で育てられ、現在に至るというわけである。




  夕呼はグラスに注がれた酒を一息に飲み干した。

 「かー、んまいわー! 社ー、もっと持ってきなさーい!」
 「はい…」

  霞が研究室から出て行く。

 「先生、これ以上はホント身体に毒ですってば」
 「………」

  不意に、夕呼の口が閉じる。
  突然の沈黙に、真璃は緊張した。 このような夕呼の姿は久しく見なかったからだ。

 「せ、先生?」
 「…地球」
 「え?」

   夕呼の声は微かであった。 真璃はうまく聞き取れず、夕呼の側に近づく。

 「何ですか?」
 「…地球…たい?」
 「はい?」
 「地球に行きたいか、って聞いてんのよ!!」

  それは真璃にとって、思いもしない言葉だった。
  地球…この星で生まれた真璃にとって、それは遠く異なる世界。
  母親の故郷であり、今もなお仲間達が人類の平和のために戦い続けている世界。
  そして…強く優しい父がいる世界。
  真璃は自分では気づかない内に、目を燦々と輝かせ始めた。

 「…どうなのよ?」
 「え!? あ…えと…」

  真璃は昔のことをふと思い出し、口をつぐんだ。




  …冥夜が亡くなってしばらく後、真璃は強い孤独感に苛まれていた。
  いくら母親が正しい行動の結果亡くなったと納得しても、まだ子供である。 母に会いたい、父に会
 いたいと毎日わめき散らすようになってしまった。
  霞が、寂しさを紛らわすために良かれと思って行っていたプロジェクションも、悪い方向に進ませて
 しまった原因の一つである。いくら母や父のことを投影されても、現実にはもはや存在しない。
  そのギャップが、真璃を余計に苦しめることになった。
  そしていつからか彼女は、「地球」に興味を持ち始めた。
  母親の遺品にある、地球での仲間達との写真。

  榊千鶴、珠瀬 壬姫、彩峰 慧、鎧衣 美琴、神宮司 まりも…そして、白銀武。

  彼らと侵略者の戦いが続いている、人類の故郷。 彼女は、自分がそこにいる夢を、いつからか見
 るようになっていた。
  そしてある日、いつものように夕呼と霞に「母に会いたい、父に会いたい」と寂しさをぶつける。
 (いつものように夕呼は全く関心を示さず、霞はオロオロとするばかりであった)
  そんな中、真璃はあの言葉を発してしまった。

  「地球に行きたい」、と。

  その瞬間、真璃は夕呼に殴られた。 今まで母親にすら殴られたことがなかったのに。 
  夕呼は、何も言わなかった。 ただ、殴り続けた。 真璃が行きたいと泣き叫ぶ限り。
  霞ははじめこそポカーンと立ちつくしていたが、途中で自らを盾にするように、真璃を抱きしめた。
  霞は、泣いていた。 
  夕呼はそこで、殴るのを止め、そして一言だけ呟いた。

  「アンタの母親が、一度でも地球に行きたいと言ったことがあるか」、と。

  事実、冥夜は真璃と地球を眺め、故郷のこと、仲間のことをを話すときも、「帰りたい」「会いたい」と
 言うことはなかった。
  自分は「生かされた」と思っていた冥夜にとって、その言葉は残った者達に対し無礼であると考え
 られたからであった。
  …真璃は以後、地球に行きたいということは無くなった。
  言えばまた殴られる、と思ったからだが、それと同時に、「母が一言も言わなかった」ことがまるで
 「悪」のように感じられたことも原因であった。
  そのときはまだ、全く理由を掴めていなかったわけだが。
  …そんな彼女が夕呼から「地球に行きたいか」と聞かれて、即答できるはずがないのである。




 「え……と…」
 「……」

  夕呼は真璃の表情をじっと見ている。
  真璃は返答に窮しているものの、「地球」と聞いて輝いた彼女の瞳は、すでに答えを返していた。
  夕呼はそのことに気づくと、ちっ、と舌打ちし、真璃を視線から外した。

 「ど、どうしてそんなことを聞くんですか?」
 「……」

  夕呼は真璃から目をそらしたまま、引き出しから書類を取り出し、放り投げた。

 「これは…地球帰還計画?」
 「半年後から公募が始まるわ。 出元は統合司令部…つまり現在の暫定政権だから、確かなはずよ」

  真璃は書類を読み進めた。 地球に帰りたい者への特別手当、訓練…そういったことを含めた大規
 模な計画が、約2年後に行われることが書いてある。
  彼女は興奮を隠せないでいた。
 
 「でも、なぜ帰還計画なんて?」
 「……」

  夕呼はニヤッと笑みを浮かべ、真璃の方を向く。

 「な~んかね~、最近増えてんのよ。 『地球に帰りたい』なんて言うやつがさ」

  夕呼は椅子に深く腰据える。
 
 「人類なんてもう、と~っくの昔に絶滅している地球に、帰りたいなんて言うやつがいるせいでさ、上
 は大はしゃぎよ。 アンタもガキじゃないから分かるでしょ?」

  真璃は考え込む。 どうやら思い浮かばないらしい。
  夕呼の表情が、笑みから真剣なものに変わる。

 「…穀物増産計画がうまくいってないのよ。 当たり前よね、ここは地球じゃないんだから、そもそも
 計画通りに進むなんていう方がおかしいわ」
 「え?」
 「このままじゃあ、配給制にならざるをえないでしょうね」
 「だ、大丈夫なんですか?」
 「この程度の誤差なら過去にも例があるし、備蓄もあるからそれほど問題にはならないはずよ。 でも
 あくまで備蓄だし、何年も保つものではないわ。 それに…」

  夕呼の顔がゆがむ。

 「それに?」
 「上の連中は、自分たちの失敗にしたくないのよ。 かつての伝染病騒ぎがまだ覚めやらぬこの時期
 に、また失敗なんてしたら暫定政権の政権担当能力が疑われかねない。 そうなれば、彼らの排除
 を望む声が更に拡大するでしょうね。 だからこの件が、これ以上影響を与えることを忌避するわけ」

  そこで…と、夕呼が真璃の方を指さす。

 「その計画よ。 つまり、ていのいい『間引き』ね」
 「え…」

  真璃は、表情を強張らせた。 さっきまでの緊張が、一気に冷めていく。

 「その計画書では、人類は生存している可能性が高い、なんて言っているけど、どこのデータからそ
 んな可能性を引っ張ってきたっていうのかしらね~。 G弾による殲滅がうまくいったのかどうか、こ
 こからじゃあ判断のしようがないってのに。」
 「そんな! 皆に知らせないんですか!?」

  真璃が叫ぶ。 夕呼は冷静に、彼女の問いに答えた。

 「私の仮説だって、ただの推測の積み重ねよ。 証拠はないわ。 何度も言うけど、ここからじゃ人類
 が生存しているのか絶滅したのかなんて証明できないのよ」
 「でも…それでも、やるべきです! 出来ることをしないでただ傍観しているなんて、私にはできません!!」
 「無駄よ。 人間には、自分の望む結果を求める習性があるわ。 『地球に帰りたい』と望んでいる人
 間が、『人類は絶滅しました、残念でした』という主張と、『人類は生きています。 さあ愛しのマイホ
 ームへ!』なんていう主張を両方聞いたら、間違いなく後者をとるわよ。 いえ、そもそも前者なんて
 比較の対象にすらならないわ。 さっきのアンタがそうだったようにね」

  う…と真璃は口をつぐむ。 地球帰還計画の書類を渡されたとき、真璃はその計画の真偽を疑うこ
 とがなかった、そのことを思い出したからだ。

 「でも…」

  夕呼にそう言われながらも、真璃は不満そうである。

 「プ。 アンタ馬鹿ね~、まだ気づかないの?」

  え?と夕呼の方を見る。

 「あくまで『ここからじゃ』証明ができない、って話でしょ?」
 「…あ」
 「そう、行けばいいのよ。 直接地球に、ね」

  真璃の表情に、再び興奮が戻ってくる。 彼女の頬が紅潮する。

 「せ、先生…まさか…」

  バサッと、先ほどとは別の書類が投げ出される。 そこには、「地球調査申請書(An application to
 investigate the earth)」と書かれている。

 「2ヶ月後に、地球へ向けて飛ぶわ。 公募は明日からよ」
 「!!」

  真璃は思わず、満面の笑みを浮かべた。 興奮も最大になり、思わず書類を握る手が震えた。

 「言っておくけど、倍率高いわよ~? 私は紹介するだけで、何の権限もないんだから」
 「頑張る! いえ、頑張ります!」

  真璃の大声に、夕呼はキョトンとした表情を見せるが、すぐに笑みを浮かべる。

 「あ…でも、何で?」
 「何がよ?」

  真璃はふと思い出した。 夕呼は地球へ行くことに反対したことを。

  なぜ今回はそれを推してくれるのか、疑問に思い始めた。

 「夕呼先生…地球に行くのを反対していたんじゃ」
 「ああ、当たり前じゃない。 そんな贅沢、絶対に邪魔してやるわよ」
 「じゃあ、なんで?」
 「それは地球で死ぬ気満々のやつの話。 あくまで調査目的なら、反対する理由はないわ。 それは
 さっきのアンタとの応答で分かったし」
 「あ」

  またやられた、と真璃は思った。 夕呼は試していたのだ。 地球に帰りたいだけならば、そしてそ
 の行動に感情移入して全肯定したならば、おそらく私は「人類絶滅の可能性」などというものを地球
 への帰還希望者に伝えようとは思わなかっただろう。
  ふと、真璃は母の言葉である「そこに自分の意志があるかが問題なのだ」を思い出した。
  もし母様ならなんと答えただろう? もしかしたら、帰還希望者の願いを聞き届けたかもしれない。
  夕呼先生に毒されたかな?と思い、彼女は苦笑いした。

 「もう一つ言っておくけど…地球は、きっと非道いことになっているわ。
 仮にアンタが認められたとしても、それは『人類の絶滅』という現実を突きつけられるだけ。
 それ以上でもないし、それ以下でもないわ…分かるわね?」
 「……」

  真璃は真剣な表情で、コクリと頷いた。

 「アンタの任務は、その『絶望』をデータとしてこの星へ持ち帰ること。
 地球へ行くのは、そのための手段…いいわね?」

  真璃は再び頷く。

 「…ん。 よし」

  夕呼はホッとしたような表情を浮かべ、天井を仰ぎ見る。

 「社ーー! そろそろ入ってきてもいいわよー!!」

  (ガシャン!! パリン)

 「…あら?」
 (…あがー)

  ドアの向こう側で、ガラスが割れた鈍い音と、霞の声が聞こえる。
  おそらく、酒瓶が割れたのだろう。

 「や、社…アンタねー」

  夕呼は立ち上がり、ドアの方へと歩いていく。
  真璃はその様子に笑みを浮かべた。
  そしてもう一度、調査計画、その表紙になっている『地球』の写真に目をやる。

  『アンタの任務は、その『絶望』をデータとしてこの星へ持ち帰ること』

  真璃はこの言葉に頷いたが、その心中では別のことを考えていた。
  人類は負けない。 絶対に負けない。
  母様の仲間達と父様がいる地球は、絶対に絶望なんかしていない。
  彼女は、そう強く考えていた。

 「…父様」

  真璃はその地球調査計画の書類を抱きしめる。
  そして数年ぶりに、あの言葉を呟いた。

 「私…地球に、行きたい…」









[3649] 第二話「遥かなる地球へ」
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/03/29 01:09
 


  町から離れた、凹凸がほとんど見られない広大な平原。
  ある線から、セメントで固められた平面が拡がっている。
  ここはラグランジュ・ポイントに存在する移民船と行き来するための、いわば宇宙への出入り口である。
  そこでは今、大勢の人間達が慌ただしく作業をしていた。
  一つは、2年後に行われる地球への帰還という大事業の準備。
  そしてもう一つは、それに先んじて行われる1週間後の地球調査計画のためのものである。
  その雑踏の中、真璃は一人、じーっと駆逐艦を見ていた。
  あれからの2ヶ月は、彼女にとって本当にあっという間であった。
  毎日続く訓練、勉強…幸い、彼女は体力には自信があったし、勉強は霞という味方がついていたお
 かげもあって、目まぐるしくありながらも着実に実力をつけていった。
  しかし学生の本分が免責されるわけでもなく、疲れのために重くなる瞼を必死に上げ、授業を聞いた。 何度か目を開けながら寝たた
 め、夕呼にネタにされたこともある。
  …真璃はこの2ヶ月を思いだし、ふと笑みを浮かべる。
  そしてポケットからIDカードを取り出した。
  自分の写真が貼られているカード、そう、1週間後に飛び立つこの駆逐艦への搭乗IDだ。
  彼女は見事に地球調査の試験に合格し、選ばれたのだった。
  明日からは出発の準備が始まる。そして今日は、その前の唯一の休みなのである。

 「もうすぐ…もうすぐだ」

  空を仰いだ。 真っ青な空は星を、地球を見せることはないが、彼女にははっきりと見えている。
  青く美しい、遥かなる地球。

 「父様、今行くからね!!」

  彼女は人目を憚らず、大声で叫んだ。





 「かんぱーい!!」
 「皆、ありがとー!」

  所変わって、ここは学校の教室である。
  真璃の合格を祝うためのパーティが同級生によって開かれているのだ。
  黒板には大きく、「祝! 真璃、地球へ!」と書かれている。
  
 「すごいよ真璃! まさか選ばれるなんてさ。 確かにうちは戦術機の訓練もやっているから有利とは
 聞いていたけど」
 「いやー、私も選ばれるなんて思ってなかったよ」

  絶対選ばれてやるとは思っていたけどね、と言いかけて彼女はやめた。
  真璃がそんなことを考えていると、周りに友人達が集まり話を進めた。

 「ねえねえ! 地球に言ったらさ、写真撮ってきてよ写真!」
 「あ、それ私もほしー。 どこ行くの、アメリカ? アフリカ?」

  あのね、と真璃は呆れる。

 「私は任務で行くんだから、そんな余裕なんてないの」

  しかし友人達は、そういうことはお構いなしのようだ。

 「えー。 でもさ、ちょっとはあるでしょ。 アフリカの自由の女神とか撮ってきてよー」
 「アメリカじゃなかったけ?」
 「どっちでもいいよ。 似たようなもんだし」

  どっ、と一斉に笑い始める。
  その様を見て、真璃は「こいつら…」と呆れ気味に感じていた。

 「賑やか、ですね…」

  聞き慣れた声と共に、クラスのドアが開く。

 「あ、社センセー!」

  それはスーツを着た霞だった。 彼女は黒板の文字を見、すぐにその状況を理解した。

 「…おめでとう、真璃ちゃん」
 「霞お姉ちゃ…先生、ありがとうございます」

  真璃は頭を下げる。

 「先生も一緒にどうですかー? 真璃の祝賀会」

  霞は苦い表情を浮かべながら考えるそぶりを見せるが、すぐに「忙しいから」と返答した。

 「真璃ちゃん、私と香月先生は今日はすぐに帰るから、あまり遅くならないようにね」

  霞は笑みを浮かべながら、「また後で」と言い残すと教室から離れた。

 「…社先生って、本当に美人だなー。 あの寂しげな表情がいい!」

  ある女子が漏らす。

 「男子の一番人気だもんね。 でも何歳なんだろ?」
 「真璃知らない?」

   真璃は、さあ?と言いつつジュースを口に運ぶ。

 「でもさ、結構修羅場くぐってそうじゃない? 時に見せる、あの寂しげな表情は」
 「修羅場って?」
 「遠い遠い青い星、仲むつまじい男女の別れ。 幼いながらも2人は約束を交わす。 『また絶対に会
 いましょう』 しかし願いは叶わずに、今は星の便りのみ」
 「うわー…ありきたりだ」

  女子学生達は各々、自分の世界に入り込んでいた。
  もう誰の祝賀会か分かんないな、と真璃はため息をつく。
  2ヶ月前の自分なら話についていけたのだろうが、と周りの様子を冷静に見つめている。
  彼女はこの2ヶ月で、他の学生達とは違い、もはや「地球」が空想的な感覚では認識できなくなっていた。
  そんな彼女からすれば、遊戯感覚で騒ぐ友人達の姿は、はっきり言ってうっとおしいのである。

 「でも、20代なのは間違いないよね」

  女子の一人が口走る。 周りの女子達もそれに頷いた。

 「……」

  『皆の期待を裏切るかもしれないけど、霞姉ちゃん、30代だから』
  と、真璃は考えるが、これ以上話が続いてもしょうがないと思い、ジュースと共に飲み込んだ。





 「私の頭脳に、かんぱーい!! フゥゥゥーー!!」
 「かんぱーい」
 「夕呼先生、霞お姉ちゃん、ありがとう…って何言ってるんですか!」

  夕呼、霞、真璃は机の上に並べられた料理を囲み、宴を開始した。
  …料理のほとんどを作ったのは真璃だったりするのだが。

 「いやー、私の生徒だから合格するのは当然だけど、アンタもよくやったわ」
 「あははは。 はい、先生のい・う・と・お・りだと思います」

  夕呼はうんうん、と頷くだけで、皮肉は通じていないらしい。
  真璃は夕呼を無視し、霞の方を向いた。
 
 「霞お姉ちゃん、試験勉強手伝ってくれてありがとうね」

  霞は首を横に振る。

 「真璃ちゃん…一生懸命だったから。 それに、ホントは香月先生も…」

  と、それ以上言いかけて霞は止まった。
  夕呼はグラスを口につけたまま、霞の方をじっと見ている。

 「…そうでした」

  霞は何か思い立つと、脇に置いていたバッグから簡単にラッピングされた箱を取り出した。

 「これ…お祝い、です」
 「え? いいの、お姉ちゃん!?」

  こくりと頷く。

 「あらー、社やるじゃない! ちなみに私からは何もないわよ」
 「分かってますよ~♪ 開けてもいい?」

  再びこくりと頷く霞。
  真璃が箱を開けると、中に入っていたのは真っ白なマフラーだった。

 「わ~! すごい、可愛い~」

  真璃はさっそく首に巻いてみる。

 「真璃ちゃんが地球に着く頃は、寒くなってるから」
 「え、そうなの?」

  真璃は到着予定日を思い出す。
  こっちは夏の時期だが、地球では異なることを彼女は知らなかった。

 「地球降りることはないから必要ないって言ったんだけどね~。 まあ機器の調子を保つために、比較
 的宇宙船内は温度が低く設定されているから、まあその時にでも使いなさいな」

  はいはい、と真璃は夕呼を流し、マフラーを畳んで元の箱に直した。

 「ほらほら、今日はアンタ達も飲みなさいよ。 せっかくのお祝いなんだから」

  真璃と霞のグラスに、なみなみとアルコールが注がれる。

 「夕呼先生、私はダメですよ。 明日からまた訓練は続くし」
 「なに~、アタシの酒が飲めないってえの! アンタも偉くなったわね~」

  夕呼はグラスを持ち、真璃の方へ向ける。

 「はい! 一気に!」
 「だからダメで…」
 「…飲みます!」
 「す…って、ええ?」

  夕呼はグラスを口に運び、一気に飲み干した。

 「かっ~~~! んまいわ~」
 「センセー、急性アルコール中毒で倒れますよ?」

  真璃はやれやれといった表情で夕呼を見る。

 「はい。 約束通り、次はアンタの番よ」

  夕呼は別のグラスを手に取り、真璃の方へ向けた。

 「…私の話、聞いていませんね。 ていうか、約束なんてしていませんよ」
 「マジで?」

  夕呼は語尾を上げ、真璃達にとって不可思議な言葉を発する。

 「先生、その言葉絶対流行りませんから。 小さい頃から何度も聞いてますけど、先生以外使った人
 見たことありませんし」
 「…マジで?」
 「はい」
 「マジなの?」

  こ、この人は…と真璃は心中で思った。 自分を中心に世界が動いている、まさにその言葉を地で行
 く夕呼の言動に諦めて、この無意味な問いの繰り返しを終わらせる言葉を打つことに彼女は決めた。

 「…マジです」
 「はい、よく出来ました」

  そして再び、真璃の前にグラスが差し出される。

 「それじゃあ、約束通り」
 「だから約束してませんって」
 「アンタって本当にかたいわね~。 そんな風に育てた覚えないんだけど」
 「育てられてません。 いえまあ、夕呼先生に毒されかけたこともありますけど」

  夕呼はグラスを置く。

 「へ~…言うじゃない。 つまり私の教育方針が間違っていた、と言いたいわけね」
 「いつも言っている気もしますが」

  段々空気が険悪になってきている…と、感じ始めている霞がいる。
  霞はオロオロと両者の表情を見るばかりで、打開策を見つけられないでいた。
  ふと、先ほど夕呼が置いたグラスが目に入る。

 「アンタねー。 酒一杯程度が怖いだなんてね、ド素人の証よド素人の」
 「それで素人なら、素人で良いと思いますけど。 というより、お酒の強さと戦術機他の操縦の上手い
 下手が関係あるとは思えませんけどね」
 「この天才の言うことが信用出来ないっての…ってあれ?」

  夕呼は先ほど置いたグラスを掴もうとした…が、その手は空を切るだけだった。
  グラスの方を見る、が、そこにはあるはずのものがなかった。
  そして、さっきから黙っている霞の方を見る。

 「社…アンタ…」
 「…お姉ちゃん?」

  真璃も霞の変化に気づいたようだ。
  霞の前には、空になったグラスが一つ。 彼女が飲んだものであることは容易に想像がつく。
  彼女の瞳は虚ろであるが、いつものタレ目ではなく、切れ長になっている。

 「や、社?」
 「お、お姉ちゃん?」
 「……」

  唐突に、霞は天井を向く。 そして、

 「…あがー」

  ガシャーンと目の前の机に突っ伏した。

 「社おおおおおお!」
 「お姉ちゃああああああん!」

  ……こうして、その日の夜は更けていった。





  宴の翌朝、真璃は国連軍の制服を着用し花束を抱え、脇に石碑がズラーッと並ぶ道を歩いている。
  ここは、共用の墓地であった。 面積を最低限にするためか、墓自体は細長く、高さも60cmほどしかない。
  真璃は、奥まで歩くと、ある墓の前で止まった。
  そこには「御剣 冥夜」と書かれている。 当たり前だが、彼女は白銀の籍に入っていなかったからであった。
  そもそも「白銀武」という戸籍が存在していたのかどうか…
  ともかく冥夜は、自らが名乗っていた「白銀 冥夜」という名を、墓石に刻むことは出来なかった。
  真璃はそれを見て寂しげな表情を浮かべるが、すぐに気を取り直し、花を墓前に供える。
  そしてそのまま、手を合わせた。

 「アンタのことだから、昨日の内に来たのかと思ったわ」

  横から声が聞こえる。
  黒いスーツを来た夕呼が、花とバケツを抱えて立っていた。
  真璃は一瞥すると、すぐにまた墓の方に向き直す。

 「…母様は一度も、地球に帰りたいと、言ったことがありませんでした」
 「そうね。 御剣はよく分かってたわ、自分の立場を」

  夕呼はバケツを置き、墓前に花を備える。 

 「私、分からないんです。 なぜ母様がそう言わなかったのか」
 「……」
 「先生は、どう思いますか。 母様は今ここに、この星にいるんでしょうか? それとも、地球に帰った
 んでしょうか?」
 「私は幽霊の存在を信じていないから返答に困るけど…御剣は、死んでもこの星に居続けるでしょう
 ね。 この星が地球以上に繁栄するまでは、彼女、きっと責任を感じ続けるわ」
 「責任って、何なんでしょうね」

  夕呼は墓石を見る。 刻まれた「御剣 冥夜」という表記を見ながら、答えた。

 「生かされた10万人のうちの1人として、そして『白銀 冥夜』として、なすべき責任のことよ」

  でも、と言葉を続けた。

 「でも、アンタ達には関係ないことだわ。 だから地球を忘れて、戦争を忘れて、平和に生きなさい。
 そして精一杯幸せに生きて、死ぬ。 それがアンタ達の責任、義務よ」
 「……」
 「私を羨ましくさせるぐらい幸せに生きなきゃダメってことだから、結構大変かもね~。 私今、すっごく幸
 せだから」

  ハハハ、と真璃は夕呼の言葉に苦笑いする。

 「ま、アンタはそこのところを忘れなければいいわ。 御剣とアンタは違う。 時代も、役目も、ね。
 だから変に気負う必要もないし、自分のアイデンティティの構築に地球を含める必要もないのよ」

  夕呼は、不意に眉をひそめた。 真璃への発言は、自身のアイデンティティを否定しかねないからである。

 「…本当にそうなんでしょうか」

  それは真璃も同じだったようだ。 彼女は墓の方を見たまま、ゆっくりと立ち上がった。
  その顔からは決意のようなものが伺われる。

 「何? 自分で地球に行くって決めたのに、まさか母親の許しでも乞うていたの?」

  夕呼は笑みを浮かべて問う。 真璃は夕呼の方をむき直し、真剣な表情で答えた。

 「会いに行きます、と」
 「ん?」
 「父様に、会いに行きます、と」

  真璃の目は、その想いを代弁しているかのように輝いていた。
  10万人が脱出して、既に17年以上経っている地球。
  夕呼からすればそれは、「人類絶滅」を肯定するに十分な年月であった。  
  しかし目の前にいる真璃は、それを完全否定するかのごとく自信に満ちた表情で、先ほどの問いに答え
 たのである。
  その返事に固い表情を夕呼は見せるが、大きく溜息をついて、呆れた顔で呟いた。

 「アンタの強情っぷりは、御剣譲り。 そして、根拠のない自信は白銀譲りね」


 <>


  ---- 一週間後。
  真璃は、パートナーである男性と共に大勢の職員達から激励されていた。
  衛士強化装備に着替えた2人は、もう既に乗り込むだけとなっている。

 「地球の姿を、しっかりと写して来いよ!」
 「頼むわね」

  各々から、思い思いの言葉が投げられる。
  出港まで後5時間。 1時間半もすれば2人は駆逐艦に乗り込むだろう。

 「白銀少尉。 身内の方がお見えです」

  整備員が真璃の前で敬礼をし、人だかりの後方を指す。
  その先には銀髪の女性、そう霞がいた。

 「霞お姉ちゃん! 学校は大丈夫なの?」
 「授業は自習にしてきたから、大丈夫」

  ふと、のんびり羽を休める友人達のことが思いつく。
  真璃は「帰ったら何か奢らせてやる」と考えた。

 「そうなんだ。 ごめんね、お姉ちゃん」
 「今日ダメだったら、2年も会えなくなるから…ずっと一緒だったのに」

  段々と霞の眼に涙が溜り、声も濁り始めた。
  真璃も伝染したのか、涙目になる。

 「やだな、お姉ちゃん、私すぐに…すぐに帰ってくるよ。 だって私の故郷はここだから」

  霞はただ頷きながら、涙をハンカチで拭いていた。
  その様があまりにも可哀想で、真璃は軽く罪悪感を感じた。
  …しばらく2人は、お互い泣くことに専念した。
  それから多少落ち着いた後、2人の話は進み出した。

 「そういえば、夕呼先生は?」

  霞は首を横に振る。 そして、「小うるさいガキが消えて、これでゆっくりできる」と言っていたことを真璃に告げる。

 「あ、あの人は…霞お姉ちゃん、ダメだからね。 あまりお酒飲ませすぎると本当に健康に悪いんだから」

  霞は頷く。

 「絶対止めてよー! ああ、なんか心配になってきた…行くの止めようかな」

  ピク、と霞が反応する。

 「ちなみに冗談だよ」
 「…冗談」

  ニヒヒ、と真璃は悪戯が成功したことを笑う。
  霞は少し怒った表情を浮かべる。

 「真璃ちゃん…最近、香月先生に似てきました」
 「は」

  ガーン、と霞の一言に衝撃を受ける。
  そういえば最近、言葉遣いがおかしくなってきたような…
  真璃がそう考えるとほぼ同時に、ホーホホホホと不敵に笑う夕呼を思い浮かべ、冷や汗を浮かべた。
  母様、以後気をつけます、と胸に誓いを秘め、会話をすすめた。

 「そ、そうだ! 私、お姉ちゃんから何度も聞いた“ヨコハマ”っていうところを探してみる。 私、そこに父
 様がいるような気がする」

  その言葉を聞いて霞は少し困った表情を見せるが、すぐに笑顔に戻り、「そうね」と答えた。

 「白銀少尉、そろそろ…」

  後ろには、先ほどの整備員が立っている。 どうやら時間が迫ってきたようだ。

 「霞お姉ちゃん、私行くね。 …すぐに帰ってくるから、だから待っててね。 夕呼先生によろしく」
 「うん…あ、真璃ちゃん」

  霞は何かしらを思い出し、慌ててバッグの中からCDケースを取り出した。

 「これ…香月先生から」
 「夕呼先生から? …って、何これ」

  霞は真璃に近づき、他人には聞かれないように小声で呟く。

 「…それはコンピューターのパスを解除するのに使えるもの…地球で何かの機材を利用するときは、それを使えば大丈夫だって」
 「…それって、クラック=ソフト? 違法じゃないの?」
 「……」

  霞は間をおいて、「大丈夫です」と答えた。
  怪しいだろ、と真璃はツッコミを入れたかったが、時間がないのでスルーすることとした。
  少なくとも夕呼の作ったもの、それだけで彼女は信頼が出来る…出来る?

 「全く、夕呼先生も素直じゃないよね。 こんなプレゼントを隠してるんだから」
 「真璃ちゃん…香月先生は、本当は真璃ちゃんのことを一番」
 「白銀少尉! 面会時間限界です!」

  霞の言葉はそこで阻まれた。 後ろで整備員が恨めしそうにこちらを見ている。

 「はーい! 霞お姉ちゃん、ごめんね! 行ってきます!」
 「あ…ぅ…行ってらっしゃい」

  搭乗口へ真璃が駆けていく。
  霞はその様を見ながら、大きく溜息をついた。

 「……」

  私の別れは、いつも慌ただしい…と思った。
  地球での、武との最後の別れ…霞はそれを思いだし、笑みを浮かべた。
  そういえばあの言葉をまだ言っていない、と霞は気づく。

 「…また、ね」

  霞は、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。


  <>


  ------駆逐艦打ち上げのカウントダウンが始まった。
  真璃とパートナーは既に駆逐艦に乗り込み、しっかりとシートに固定され、後は発進するのを待つばか
 りであった。
  のこり90秒、89秒、88秒…秒刻みで進むカウント。
  真璃はそれが一刻も早く0になることを望んでいた。 待ち遠しいのである。
  本人は気づいていないが、その顔には微妙に笑みが浮かんでいる。

 「あ」

  いけないけない、と真璃は頭を振り、「これは任務なのだ」、ということを思い出す。
  そう、これはあくまで「地球帰還計画」の前段階である「任務」である。
  地球がどのような状況なのかしっかり把握し、データを収集しなければならない。
  この星から、地球へ帰還するために使用される移民宇宙船を動かすための燃料G元素は、非常に少な
 いのである。
  また、その貴重なG元素を使用して調査団である彼女らが行くのだ。失敗は許されない。
  ふと、一週間前、墓前での問答を思い出す。

  「地球のことは、アンタ達には関係ない」

  そんなことはない、と真璃は思った。
  地球の美しい風景、たくさんの人…想像するしかできないが、そうした話を聞いて育った彼女にとって、
 地球は単なる惑星ではないのである。
  そして何より、父様のいる星、父様が護っている星なのである。
  彼女は思った。 父様が護っているのなら、娘である私も護ると。
  父様が護っている美しいモノを私も護りたいと、強くそう願った。
  ふと、先ほどの悲しみに暮れる霞と笑う夕呼の姿を思い出す。

 「そっか、2年も会えないんだ」

  今さらながらその事実を思い出した。 途端に胸が苦しくなる。
  会えない、そう、会えないのか…と真璃は胸に空いたように苦しくなった。
  涙が湧いてくる。 そして学校に、家に帰りたい。 出て行きたくない、と感じた。
  勝手だな、さっきまで何も感じなかったのに…と思うが、やはり涙は止まらない。
  真璃は涙を拭うと、考えるのを止めた。 とにかく今は任務を終わらせよう。 そして帰って…また夕呼先
 生と口喧嘩でもしよう、そう思った。



  
  駆逐艦のカウントダウンが響く中、滑走路から少し離れた場所で、夕呼が立っていた。
  冥夜の写真を胸元で抱え、駆逐艦がよく見えるような位置で固定している。

 「御剣、アンタの娘が行くわよ。 白銀に会いに」

  夕呼は無表情で呟いた。 そして、初めて真璃が夕呼に預けられた日のことを思い出す。
  戦争を知らない、無邪気な表情。 夕呼ははじめ、それがどうにも好きになれなかった。
  人類を救済するための計画、オルタネイティヴ4…その結果が、この星への10数万人の移民で終わって
 しまった。 終わらされてしまった。
  その現実を真璃は突きつける。

 「そんな私が、ねえ」

  8年前、真璃が「地球に行きたい」と泣き叫び、何度も叩いたのを覚えている。
  科学者の私が激情するなんて、と後で後悔したがそのとき自分の役目と役割を再認識することが出来た。
  真璃達を一人前にする、それが自分の責務だと深く自覚出来たのである。

 『カウントダウン、10秒前、9、8、7…』

  最後の時を刻み始める。 ふと、夕呼は1週間前の夕食と墓前でのことを思い出した。
  そういえばあの娘、全く寂しがってなかったわね。 2年も会えなくなるというのに…と思った。

 「母親としては問題外ってことか」

  夕呼は笑みを浮かべて、呟く。
  カウントダウンが、0となった。
  噴煙が上がる。 そして段々と加速されて、駆逐艦が空高くへ舞い上がっていく。
  何度も見た打ち上げ。 しかし今回はなぜか、初めて見たような、そんな感情に襲われた。
  この感じを夕呼は、昔も経験したことがある。 地球を脱出した、その時である。

 「……」

  夕呼は、じっと駆逐艦を見続けた。

 「まりも、御剣の娘が………………………」

  夕呼は「自分の娘が」と続けて言いかけるが、止めた。

 「御剣の娘が、行くわ。 どうか、守ってやって」










[3649] 第三話「生きる理由」  第一節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/03/29 01:12


  ------月。 かつて人類が地球以外で初めて足跡を残した地球の衛星である。
  そして、BETAとの戦争が始まった星でもある。
  この月の側を、今一隻の宇宙船が通り過ぎようとしていた。
  遥かな距離を旅し、真璃達を乗せた宇宙船…コードネームは“ダーウィン”
  そのダーウィンの窓から、真璃の顔が見えた-------。

 「これが…地球…」

  中で真璃は、食いつくように地球を見ていた。
  青く輝く星。 地球。 ただただ、その美しさに見惚れている。
  地球の姿が見えだしてからは、仕事が全く手に着いていないようだ。

 「おーい…そろそろ作業に戻ろうぜ」
 「えー。 ユーリ、もう少しだけ」
 「何度目の“もう少し”だよ」

  ユーリー・スニートキナ。 今回の地球調査計画に選ばれた、真璃以外のもう一人である。
  この調査計画は二人で行われている。
  バーナード星系から太陽系へは、約1年かかる。
  よって二人はコールド・スリープし、その期間を過ごした。
  であるから真璃達の主観では、あちらを発って未だ2ヶ月ほどしか経っていない。
  彼女らは目を覚ますと、それぞれの任務を開始した。
  まず、バーナード星系への移民途中で発見されたタイタン、ガニメデ、カリストのハイヴ。
  そして太陽系最大のハイヴであるマーズ・ゼロ。
  そうしたハイヴの調査を行いつつ、彼女らは地球へとたどり着いたのである。

 「ユーリ、感動薄いよ。 やっと地球に着いたのに」
 「真璃みたいに何時間もアドレナリン分泌出来るほど、俺は器用じゃないんでね」

  ユーリは額に手をあてて、大きく溜息をついた。

 「全く、なんで俺がこんなオコチャマと…本当はもっとグラマラスでアダルトな女性と来たかったぜ」
 「む」

  「オコチャマ」という言葉が気にくわなかったのか、真璃は窓から離れユーリに近づく。

 「誰がお子様って?」
 「そういう反応をするヤツのことだよ」

  ユーリは操縦桿を動かしつつ、答えた。

 「だってこんなに綺麗な星なんだよ? それに何て言うのかな…こう、帰ってきたって感じがするじゃない」
 「俺もお前も地球生まれじゃねえくせに…っと」

  ユーリは操縦桿を放し側のスイッチを入れる。 オートパイロットにしたのだろう。
  それを見た真璃は自分の席に座り、モニターを見る。 ユーリは側から覗き込んだ。

 「さて、地球の調査を開始しようぜ」

  ユーリの言葉に、真璃は頷いた。
  モニターには地球の姿が映っている。 そこから倍率を変え、地球の表面がはっきり見えるよう調整を始めた。
  ……真璃が先ほど、地球を必死に見ていたのはもう一つ理由がある。 地球の現状-ハイヴ殲滅は成功した
 か否か-がとても気になっていたのだ。

  『人類なんてもう、と~っくの昔に絶滅している』

  夕呼の言葉が思い出された。 天才である彼女はこう推測していた、人類とBETAが決戦を行えば、現状の
  まま何もしなければ、「必ず」人類は敗北すると。 それだけ彼我の戦力差は圧倒的に人類に不利なのだと。
  しかし彼女が提唱していた「オルタネイティヴ4」、人類救済のための計画は失敗に終わった。 終わらせら
 れた。 彼女が守ろうと思っていた、人類自らの手によって。
  そして計画は次に進む。 米国が推進したオルタネイティヴ5は、人類史上最大の兵器であるG弾を運用し
 た「ハイヴ」殲滅作戦、バビロン作戦。 いわば人類とBETAの短期決戦である。 そしてそれは、夕呼が最も
 回避したかった戦術であった。

  ……しかし真璃は、そのようなことは全く考えていなかった。

  そもそもバーナード星系にいるときは、戦争のことは最小限しか教えられていなかった。 移民した人々はき
 っと、「戦争」を忘れたかったに違いない。
  だから真璃は、戦争がどのような経緯で進んだかを「歴史」としてしか知らない。 考えられないのである。
  そんな彼女にとって、唯一の真実…それは母の言葉である、 
  『そなたの父様は、今も地球で戦っている。 だから私達は平和に暮らせるのだ』
  だけなのである。

 「お、地球の表面が見えてきたぜ」

  画面に映る、平らな大地。 一点の緑もない、ただの灰茶色の風景。
  四角いモニターに映ったそれは、まるで壁のようにのっぺりとしていた。
  真璃は緯度と経度を計測すると、これはユーラシア大陸のものであることを理解する。

 「……」

  “オリジナルハイヴ”

  真璃はその言葉を思い出した。
  初めて地球にやって来た宇宙からの侵略者。 移民が始まった当時、地球人口の60%を殺した、人類に敵対
 的な地球外起源種、BETAの初めてのハイヴ。
  そして、人類にとって最大の目標である。 そしてオリジナルハイヴを破壊することは、つまるところ「人類の
 勝利」を意味するのである。
  真璃の、操作桿を操る動きが、次第に早くなっていく。
  ……真璃は考えていた。 
  頭に思い浮かぶ、オリジナルハイヴのモニュメント…それに突撃する父、白銀武。 そして母の戦友達。
  ハイヴを占領し、勝利に沸き立つ人類。 平和を取り戻し、少しづつ繁栄を取り戻し始めていく地球。
  そこに降り立つ自分。 父と戦友達が笑顔で出迎え、涙をこぼしながら武と真璃が抱き合う……
  ……そんな想像が、真璃の頭の中を支配していた。 彼女は興奮し、手は震え、呼吸は荒かった。
  そして、操作桿がカシュガルへと向けられた。 真璃とユーリは、同時にモニターに目をやる。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 「なんだよ、ハイヴ、まだあるじゃん」

  最初に口を開いたのはユーリだった。
  画面に映るのは、教科書の画像から何も変わらない…いや、『以前よりも拡張した』ハイヴの姿があるだけ。
  先ほどの想像が完全に黒く塗りつぶされ、現実という絵が彼女に突きつけられた。 同時に、ゾーッと体温が
 下がるのを感じ、真璃の顔がだんだん青ざめていくのが分かる。
  真璃はそれでも、懸命に操縦桿を動かした。 訓練の故だろう。
  ウラリスクハイヴ、健在。
  ミンスクハイヴ、健在。
  リヨンハイヴ、健在。
  グレートブリテン島中央部に、記録のないハイヴ確認。
  アフリカ大陸各地に、記録のないハイヴ確認。 その数、13。
  グリーンランドにもハイヴが確認された。

 「イギリスも、アフリカも……陥ちた? 人類が、負けた?」

  真璃は画面から視線を逸らすようにうなだれている。 涙は流していない。

 「けっ、なーにが“人類が勝利した可能性は高い”、だよ。 ダメじゃん」

  ユーリは奥の居住室に戻ろうと動く。

 「これじゃあ、アメリカや日本もダメかもな…あ」

  ユーリは「しまった」という表情をし、真璃の方を見た。
  彼は、真璃の父が地球に残っていたことを忘れていたのだ。

 「い、いやほら、今のは大西洋だからさ、日本はどうなっているか分からないぜ」

 「……うん」

  真璃は、そうだその通りだ、と思った。
  世界最強の軍事国家、アメリカ。 そして、白銀武や冥夜の戦友達がいる…日本。
  真璃は冥夜から日本を、「高潔な心を持つサムライが護る国」と聞いていた。
  それら国々が簡単に負けるはずがない。きっと、人類反攻の好機を窺っているに違いない。
  真璃はそう思いつつ、自分の任務に戻ることにした。


  …………………

  ………………

  ……………

  …………

  ………

  ……

  …



  ダーウィンのモニターに映し出された、“日本”の風景。
  いや、もはやそれは“日本だった”という方が正しいのかもしれない。
  灰茶色の大地が、延々と続くだけの風景…唯一変化をもたらすのは、佐渡島ハイヴと横浜ハイヴの
 モニュメントのみだった。

 「……」

  真璃はただそれを、無表情に眺めていた。
  さっきから何度も横浜ハイヴを映しては、眺めた。
  この状況は数時間前に予感していたことではあった。
  南北アメリカ大陸が、既にハイヴで埋め尽くされていたからである。
  真璃は不安にかられつつ、それでもなお一縷の望みをかけていた。
  しかしその望みは、完全に否定されたのだった。
  日本だけではない。 大東亜連合の主要国家も、オーストラリアも、完全にBETAに侵略されていたのである。

 「ハハ、ハハハ」

  『人類なんてもう、と~っくの昔に絶滅している』
  夕呼の言葉が思い出された。 やっぱり夕呼先生は天才だ、と真璃は思った。
  これまで信じていたモノが、思い描いたモノが、完全に消し飛んでいた。
  美しい国。 美しい人々。 美しい自然。
  そして、白銀武…父様。

 「…くっ」

  真璃の眼に、涙が浮かんできた。

  『そなたの父様は、今も地球で戦っている。 だから私達は平和に暮らせるのだ』
  『いつか、会える日もこよう』
  『そう。 そなたや母様、皆のためにずっと頑張ってくれているのだ』

  冥夜が昔、何回も聞かせた言葉。 それが彼女の胸の中で何度も反芻されている。

 「う、ううう…う」

  膝を抱え、顔をうずくませて泣く。

 「母様、地球は、人類は、ダメでした。 と、父様も、父様も…父様も…」

  “父様”を言うたびに、嗚咽が激しくなる。 言葉に詰まる。

 「父様、父様」

  真璃はただその言葉を、繰り返すだけだった。

 (…ちら……洋…隊………るか……)
 「うう…う………」

  真璃は、ふと声が聞こえた気がした。
  既にユーリは休んでいるため、今ここにいるのは彼女だけである。

 (こ……………艦隊…聞こ…………)
 「!?」

  真璃はすぐに、通信機器に手を伸ばした。
  確かに声が聞こえた。 自分以外の声。
  彼女は通信機器の受信幅を整えるため、機器を操作し始める。

 「こちら国連軍所属太平洋艦隊、聞こえるか?」
 「聞こえる! 聞こえます!」

  たった今、たった今絶望仕掛けていた彼女の元に、地球から女性の声がもたらされた。
  それはさながら、天使の声に聞こえていた。
  真璃の目に、再び涙がこみ上げてくる。
  今度は絶望の涙ではない、歓喜の涙。
  声が自然に大きくなり、かすれてくる。

 「どこですか? どこから通信しているんですか? 人類は無事なんですか?」
 「それはこちらから聞きたい。 貴官の所属を名乗られたし」

  興奮した真璃と違い、通信機向こうの声は冷静だ。
  その冷静さに真璃の興奮も段々と冷めてくる。

 「あ…す、すみません。 こちらはバーナード星系移民暫定政府所属、調査艦ダーウィンです」
 「バーナード星系!? なぜ外星系移民がここに」
 「それは今からお教えします。 円滑な電波交信のため、よければ貴官の現在位置を教えてください」
 「…ああ、分かった。 現在位置は北緯24.52、東経130.42だ。 もし交信が途絶した場合は、私の名前を伝
 えてくれればいい。 私は国連軍所属、神宮司まりも大佐だ」

  真璃の耳がピクッと動く。
  神宮司、まりも…まりも!?

 「まりもちゃん!?」
 「………………へ?」

  先ほどまで凛としていた声が、いきなり緊張が抜けた声となった。
  …それからしばらく沈黙が流れたのは言うまでもない…









[3649] 第三話「生きる理由」  第二節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/11/16 06:57



 「うわー…綺麗」

  真璃はダーウィンに積まれていた再突入型駆逐艦(HSST)を操り、地球へと降下していた。
  段々と近づいてくる海…BETAに侵略された灰茶色の大陸と違って、その碧さはとても美しく彼女には思えた。

 「それにしても、まりもちゃん…神宮司大佐かー」

  彼女は夕呼から、武が度々“まりもちゃん”と呼んでいたのを聞かされていた。
  自分の名前が“まもり”であることから、この時の話はよく覚えていたのである。

 「…でも、良かった。 本当に良かった」

  彼女は思った。 人類はまだ、滅亡していなかったんだ、と。
  地球で何があったのか、詳しい話は聞いていない。 
  宇宙にいる以上、どうしても地球に電波が遮られてしまう時が出てしまう。交信できた時間が短すぎたのだ。
  彼女は現状を知るためには地球へ降りることが賢明と考え、駆逐艦による降下を決意したのである。
  …まあ、理由の半分以上は“降りたい、地球を見たい”からなのだが。 
  我が儘に付き合わされたユーリは、出発前には“ガキンチョ、ガキンチョ”と連呼していた。

 「それにしても、ふふふ」

  真璃は数時間前の、まりもとの会話を思い出していた。
  まりもが、彼女の名前を知ったときの反応、

  『シ、シロガネ? まさか御剣の!?』

  その慌てたような愕いたような、その様子が真璃にとっては可笑しかった。
  それは、真璃が“地球”を全く知らないことに由来する。 地球を知らず、見ず、聞かされず。
  所詮、伝聞である。 本物の景色や音を感じたことはないのだ。 それは人も同じことである。
  しかし、彼女にとってまりもは違った。 まりもは冥夜や武のことを知っている。
  だからこそ、真璃を以前から知っているような話し方になってしまう。
  地球とバーナード星系は何光年も離れているのに、互いに知り合うことが出来る…それを
 真璃は、非常に面白いし、嬉しいことだと思ったのだ。

 「もうそろそろ見えてくる頃かな」

  おそらく、島嶼であろう黒い点が幾つか見える。
  もし教科書通りならば、真璃はこのような飛行はしないであろう。
  “光線属種”
  人類の戦術を根本から変えた、BETAの一種である。 戦術機乗りならば、その恐ろしさは嫌と言うほど
 身体にたたき込まれているに違いない。
  “380km離れた高度1万mの飛翔体を的確に捕捉し、30km以内の進入を許さない”
  驚異的な能力を持つ光線属種である。 教えられた通りであれば、既に真璃は撃墜されていてもおかし
 くない…はずなのだが。
  まりもから聞かされたのは、“気にすることはない”の一言だった。
  そこで通信は終了したため、真璃は内心ビクビクしながら、現在降下しているところである。

 「…ホントに、何もないな」

  駆逐艦は陸地からの照射圏内に入っているが、全く警報はならない。
  真璃はある程度緊張が解け、シートに深く腰掛けた。
  さきほど黒い点であった島々が、はっきりと見えるようになってくる。
  その中の一つ…他の島とは形が全く違うものが見えてきた。
  それは他の島と違い、長方形の形をしているのである。

 「これがメガフロート…大きすぎて、他の島と分かんないよ」

  それは、太平洋に浮かぶ超巨大な構造物であった。
  大きさは70平方kmは下らないだろう。 周囲には空母が2隻ほど見える。
  その後背部と見られる場所にはビル群が建ち並び、一種の街を形成していた。
  そして中央部には軍事基地と思しき施設が見え、そこから滑走路が幾筋にも伸びていた。
  …そしてここが、大陸が完全にBETAに支配されてからの人類にとって残り少ない領土でもある。

 (こちら国連軍太平洋艦隊所属、第3移動基地『ニライカナイ』。 貴艦の姿を確認した)

  不意に通信が入る。 

 「了解しました。 これより着陸姿勢へ入ります。 許可を請う」
 (着陸を許可する。)

  真璃の、操縦桿を握る手に力が入る。
  そして『ニライカナイ』を一心に見続けた。

 「……父様」

  彼女は考えた。 武は、父様は出迎えに出てくれているだろうか、と。
  しかしすぐに頭を振った。 父が、このようなところでのんびりしているはずがない、と感じたためだ。
  ぐっ、と正面を見据え、真璃は今自分がすべきことを集中することにした。


  


 「ようこそ、ニライカナイへ。 歓迎するわ、少尉」

  駆逐艦のタラップから降りた先には、まりもがいた。 真璃はすかさず「はっ!」と敬礼する。
  以前真璃が写真でみたまりもはロングヘアーであったが、目の前にいる彼女は肩にかかるぐらいの
 長さに整えているようだ。
  しかし真璃は、そのようなこと気にならなかった。 なるがずがない。
  何故なら今目の前にいるのは、あの写真の、真璃がずっと思い続け夢にまで見た「母様の教官」なのである。
  敬礼しながら真璃は、まりもの姿に感動し身体が熱くなるのが分かった。 もしかしたら鼻息が荒くなるほどに
 興奮しているかもしれない。 嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。
  しかしこの時、まりもの表情は決して明るいものではなかった。

 「白銀、でいいのかしら?」
 「はっ! 白銀武と白銀冥夜の長女、白銀真璃であります! 神宮司大佐のことは母からよく聞かされておりました!
神宮司大佐は非常に熱心な教官で、自分たちに衛士たるための心構えを教えてくれたと申しておりました!」
 「……」

  あれ?と真璃は思った。
  てっきり笑顔で言葉を返してくれると思ったにもかかわらず、その表情がより寂しげに見えたからである。
  まずいことでも言ったのだろうか…と真璃は焦り始めた。

 「し、失礼しました。 初対面でありますのに自分勝手な物言いを。 どうかお許しください!」

  真璃は頭を大きく下げる。

 「ああ、違う。 違うのよ…言葉が、ね。 見つからなかったのよ」
 「え?」

  真璃は頭を上げる。 まりもの目は、潤んでいた。

 「“お帰りなさい”って言う方が良いのかしらね、白銀」

  瞳から、堪えきれず一筋の涙がこぼれ落ちた。 その表情は穏やかで、とても優しく微笑みを浮かべている。
  真璃はその表情と言葉に、心を打たれた。 そして自分も、じわじわと何かがこみ上げてくるのが分かる。

 「…た…ただ、いま…ただいま…」

  言葉を発するたびに、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。 それは涙に変わり、真璃の頬を伝う。
  真璃はたまらず、涙を拭った。

 「御剣…冥夜は、残念だったわね。 でもお母さんに似て、しっかりした娘。 きっとお母さんも喜んでるわ」
 「はい……はい」

  昔から自分を知ってくれているように話しかけてくれるまりも。
  その言葉はストンと真璃の胸に落ち、余計に彼女の頬を濡らした。
  それはまりもも同様らしい。 堪えているものの、言葉が時々詰まってしまう。

 「私、私ずっと地球に、ここに来たかったんです。 母様が逝って、私、後は父様しかいないって思って」
 「……」

  まりもの口が閉じる。 そして、途端に顔が険しくなった。
  真璃はまだ涙が止まらない。 しかし、先ほどに比べ、多少落ち着きを取り戻し始めている。
  …少し経ち、真璃も落ち着いたようだ。 それを見計らったように、まりもは口を開けた。

 「白銀。 貴方のお父さんは、白銀武は…!?」
 「え? ひゃっ!」

  不意に、まりもは真璃の方を掴み抱き寄せた。
  するとその地点に、空き缶がカーン!と大きな音を立てて跳ねる。
  もしまりもが引き寄せねば、それは真璃に当たりケガをしただろう。

 「え、え?」

  真璃は何が起こったのか、未だ掴めていない。
  動けない彼女に対し、まりもはその缶を拾い大声を上げた。

 「誰だ!?」

  まりもは辺りを見渡すが、誰の姿も見えない。

 「あ」

  真璃は気づく。 そういえば、なぜ誰の姿も見えないのか?
  普通、もう何人かつくものだろう。 大佐の付き人だってあり得る。

 「白銀、話の続きは私の部屋でやりましょう。 後は整備の人間がやってくれるわ」
 「え…あ、はい」

  整備の人間がいるのか、でも、何故?と聞こうかと思った止めた。
  まりもの表情は険しく、聞く雰囲気ではなかったからだ。
  真璃はただ、黙ってまりもの部屋へ付いていくしかなかった。


  


 「ここが私の部屋よ。 好きなところに座りなさい」
 「失礼しまー…す」

  真璃が部屋に入る。
  まりもの部屋は非常に簡素なもので、あるのは古いベッドとデスク、そして壁にかけられている制服しか見えない。
  「好きなところに座りなさい」と言われたが、真璃は何処に座ればいいか、見当も付かなかった。

 「? どうしたの」
 「あ、いえ…どこに座ればよろしいのかと」
 「ああ、じゃあそこのベッドにでも腰掛けなさい」

  真璃は言われたとおりにベッドにかける。 ベッドのスプリングがギシッと音を立てた。
  …自分の家のベッドと比べ、とても固い気がした。
  まりもはデスクからオフィスチェアを引き出し、デスクに肘をのせる形で座る。

 「ここなら邪魔は入らないわ…ごめんね、さっきは」
 「え、いえ」

  真璃は思い出した。 先ほどの空き缶は、やはり自分に向けて投げられたものなのだろうか?と自問する。
  しかしそれをまりもに聞くのは、憚られる気もしていた。 彼女は目を伏せ、辛そうにしているからだ。

 「気にしていません」

  そう言うしかないだろう。 そして真璃は持っていたハンドバッグから、携帯式の録音機を取り出す。

 「そう…ふふふ。 そういうところも御剣にそっくりね」
 「いえ。 今は、務めを果たすのが先ですから。 夕呼先生にも言われていますし」

  ピクッ、とまりもの動きが止まる。

 「ユウコ? ユウコって香月夕呼のこと?」
 「はい。 今回私が地球に来られたのも、元は夕呼先生のおかげなんです。
さっきは言いそびれてしまいましたが」

  まりもの顔が多少にやける。そして、

 「大変でしょう?」
 「大変です」

  互いに大きな溜息をついた。 両者共に何が「大変」なのかは一言も交わしていないが、100万言語るよりも
 大きな溜息だけで、どんな目にあったかは大体想像がつく。

 「夕呼は相変わらずね…よかったら、他の話も簡単に聞かせてくれないかしら」

  …それからしばらく、真璃は自分の星について話した。
  伝染病で大勢の移民が亡くなったこと。  
  冥夜がなぜ死んだかということ。
  自分が夕呼と霞に育てられたこと。
  普段の生活、学校での生活…
  そして、なぜ地球調査に自分たちが来なければならなかったのか。
  まりもはそれを無言で、時に頷きながら、聞いた。

  …真璃が一通り話し終えると、まりもは引き出しから紙コップを取り出し、デスクの上に置いてあるポッドから
 コーヒーを注いだ。
  そしてそれを真璃に渡す。

 「ありがとうございます」

  真璃はコーヒーを口に運ぶ。 そして一息つき、改めてまりもの方を向いた。

 「それで、私が地球に来たのは…」
 「白銀武…お父さん、のことね」

  無言で頷く。

 「そうね…そのことを話すには、初めから言わないといけないでしょうね」

  まりもはチェアに深く腰掛け、リラックスした体勢を取る。
  しかし表情は、険しいままだ。

 「どこから話せばいいかしら…
 人類がBETAに負けた、その歴史の始まりは」

  




[3649] 第三話「生きる理由」  第三節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/03/29 01:14
(神宮司まりも、回想)



  ――日本海の波が荒々しい。 太平洋ばかり見ていたからか、それともこれから行われる作戦に自分の心がザワついているのか。
  私、神宮司まりもは顔を上げた。 遠く遠く、それでも自分たちを圧倒するかのように禍々しくそびえ立ち、そして日本人ならば、見ただ
 けで臓腑が煮えるほどの憤怒がわき起こる、BETAの本拠地佐渡島ハイヴが目に入る。
  2003年11月1日…私は、佐渡島をのぞむ国連太平洋艦隊旗艦「ミズーリ」にいた。
  


  オルタネイティヴ4がアメリカ案であるオルタネイティヴ5に接収されてすぐ、私は横浜基地から計画の本拠地であるヴァージニア州
 「ラグーン基地」配属になった。
  国連軍仕官として、日本政府とアメリカ政府の仲介を行うのが私の新たな任務だった。
  皮肉なものだ、と思った。 人類を救うには夕呼のオルタネイティヴ4しかない、G弾による最終決戦は絶対に阻止しなければならな
 い、そう思っていた自分が、今はアメリカのオルタネイティヴ5を支援する側に回っている。
  だが、やるしかなかった。 少なくともオルタネイティヴ5が成功すれば、人類絶滅だけは避けられる。 そして横浜基地で出撃を控えている教え子達も生きられる…それだけを信じて、私は自分の戦いに尽力するしかなかったのだ。

  アメリカによるオルタネイティヴ5――そしてその骨幹である「バビロン作戦」の概略はこうだ。
  現在米軍が保有しているG弾弾頭は118発。 戦艦の16インチ砲から投射されるG4、戦術機による運用を前提に造られたG7、そして
 地球低軌道から爆撃するためのG8、G10。
  特に最新のG10は、横浜で使用されたG4の45倍もの破壊力があり、一発でフェイズ5のハイヴですら根こそぎ消滅出来るだろう。
  だが、如何に強力であろうともそれを造るための元手はいる。 アメリカがアサバスカから回収出来たグレイ・イレブンは2トンであり、
 オルタネイティヴ4接収により得た分は400kg程度しかない。
  この全てをG弾に利用したとしても、全ハイヴの撃滅は無理だ。
  となると、グレイ・イレブンを手に入れる必要がある。 どこから? 当然ハイヴからだ。
  比較的海岸に近く、2003年現在フェイズ5以降のハイヴであるリヨンハイヴ、マンダレーハイヴ、鉄源ハイヴ、佐渡島ハイヴを攻略し、
 反応炉近くにあると思われるG元素生成炉を奪取。 ここからグレイ・イレブンを獲得し、大量のG弾を製造。 ユーラシア内陸部のハイ
 ヴはG弾を使用した軌道降下爆撃で消滅させる…これがバビロン作戦の概略だ。

  そして今作戦はその序盤、佐渡島ハイヴ攻略作戦「オリンピック作戦」。佐渡島真野湾、両津湾から日米国連の部隊が上陸、それぞ
 れ南北に別れ、BETAを誘い出す。 そして、軌道降下部隊によるハイヴへの突入。 それが失敗した場合、米軍自慢のG弾で殲滅する
 というのだ。
  なんということはない。 88年にアメリカが出したオルタネイティヴ計画案の焼き直しではないか。
  だが、今はこの計画に賭けるしかない。 それが成功しなければ、どのみち人類は滅びるのだから。



  私は戦艦「ミズーリ」の艦橋、今作戦の司令部に到着した。
  ここには米軍司令スプルーアンス、そして日本海軍の提督が在室し、周囲にはもうすぐ始まる「オリンピック作戦」に向け、英語でけた
 ましく日米のオペレーター達が情報をやり取りしている。

 「小沢さん、日本もこれで救われますな」

  アメリカ側の将校が、佐渡島全島を映し出されたモニターを見ながら言葉を発した。

 「……」

  小沢提督は返答しなかった。 腕を組み目を瞑り、何かに憤るような表情を浮かべている。
  …いや、私も含めここにいる日本人は、皆おそらく同じような顔をしているのかもしれない。
  自分たちの国土、取り返すべきものと教えられてきた佐渡島を、G弾で攻撃するのだ。
  G弾は確かに恐ろしい破壊力を持つ。 しかしそれは、大地の植生や後世への影響を犠牲にした結果なのだ。
  BETAを排除するだけが勝利ではない。 少なくとも私達にとっては。

 「…時間か」

  モニターに宇宙総軍の駆逐艦と思しき点が無数に映る。
  小沢提督はゆっくりと無線を持ち、決意した表情で叫んだ。

 「全将兵に告げる! この作戦は、人類反攻の始まりであり、我々はその先駆けである!
  帝国と人類の興亡、この一戦にあり。 各員の努力に期待する」

  米軍将校の一人も無線機を持ち、対抗するかのように彼も声を上げた。

 「諸君! 神に愛されし将兵諸君!
 この作戦の成功は人類の解放を意味する!
 我らは求める、自由を! 神によって与えられた自由を!
 そして自由を守る戦いでアメリカが敗れたことはない、ただの一度もだ!
 諸君はその戦いに身を投じている。 聖なる自由のための戦いに。
 天にまします我らの父よ、どうか我々を不義に陥らぬようお導きください。悪からお救いください。
 Amen」

  言い終えると、モニターの点が更に増える。 駆逐艦から、対レーザー弾(AL弾)が投下されたのだ。
  静寂を守っていた佐渡島から、突然光の束が空へ抜ける。 BETAのレーザーが、高速で飛来するAL弾を正確に迎撃する。
  しかしそれがこちらの狙いだ。 計画通り、河原田一帯に重金属運が発生する。

 『軌道爆撃艦隊の突入分離弾を確認!』
 『全艦、斉射準備良し!』

  スピーカーからは真野湾に展開している第二戦隊のオペレーター達の声が聞こえる。

 「目標! 河原田一帯、撃ぇーーーーーー!!」

  ドーン!という大きな音と共に、ミズーリが軽く揺さぶられる。 信濃の18インチ砲の威力はやはり段違いに大きい。 戦線から遠く離
 れたここまで伝わってきたのだ。 艦砲の衝撃、爆音は生半可ではない。

 「HQより帝国海軍第17戦術機甲戦隊、上陸開始せよ」
 「ウイスキー揚陸艦隊、移動を開始しました」

  小沢提督がオペレーターの側へ寄る。

 「上陸予定地点の状況は?」
 「河原田一帯への砲撃を継続中。 制圧は順調に進んでいます」

  今のところ計画通りに進んでいる。 このままいけば、G弾を使わなくとも攻略出来るのではないか?と欲が出る。
  おそらく小沢提督も同じ気持ちなのだろう。 だからこそ、別働隊の状況が気にかかったのだ。

 「ウイスキー揚陸艦隊、レーザー照射を受けています!」
 「!?」

  私は強く拳を握りしめた。 先ほど浮かべた私の考えを、まるであざけるかのようにレーザー照射の報告が入ってくる。
  まるでBETAが自分を馬鹿にしているような、そんな気分に陥った。

 「戦術機母艦から戦術機を至急発進させろ」
 「了解」
 「エコー揚陸艦隊。 両津湾に向け、最大戦速で南下中」
 「……」

  伊隅達は、大丈夫だろうか?
  おそらくこの作戦には、横浜基地所属の彼女達もエコー部隊として参加しているに違いない。
  もはや彼女たちはオルタネイティヴ4直属の特殊部隊ではない。 一般の兵士と同じだ。
  まあ、白銀達は出所が出所なだけに、流石に今回の作戦には参加していないと思うが・・・
  あえて参加名簿は確認しなかった。 私には任務がある。 そして、私情は出来る限り抑えなければならない。
  それでもやはり、気にはなるものだ。
  …そういえば、御剣は元気だろうか? っと、いけない。 任務に集中しなくては。

 「神宮司少佐」
 「はっ」

  小沢提督がいつの間にか、オペレーターから離れ私の方を向いていた。

 「河原田の制圧が上手くいっておらんようだ。 米軍に計画の時間変更を進言したいと思うのだが、どうかね?」
 「はぁ…」

  モニター越しでは制圧は充分進んでいるように思えた。 これなら時間通り行けるとは思うが……!?
  そうか、そういうことか。 あえて時間を遅らせて、軌道降下部隊のハイヴ制圧にかける時間を増やしたいということか。
  …最後まで諦めない、か。 私も見習いたいものだ。

 「了解しました。 国連としても、その変更は容認出来ると思います」
 「頼む。 出来る限り急がせよう」

  小沢提督が笑顔を浮かべる。 私もまた笑みを浮かべ、それに返した。





  ――時間の延長は容易に認められた。 これで、こちらが得た猶予は更に増えたわけだ。
  ウイスキー部隊に続き、エコー部隊の上陸も完了した。 揚陸艦隊の被害は甚大だが、作戦には支障はない。
  陽動も順調に進み、現在状況は第四段階へ移行した。 このまま、このまま行けば・・・

 「国連軍第6軌道降下兵団が索敵範囲に入りました。 突入殻着弾まで、20秒」

  来た! ハイヴ突入部隊である軌道降下部隊だ。
  彼らがこのままハイヴを制圧してくれれば、作戦は終わる。 G弾を使うこともなく。

 「弾着確認! 戦術機部隊も降下中です」
 「ウイスキー部隊の状況は?」 
 「先行している第174戦術機甲大隊他、損害は軽微。 作戦に支障なし」
 「降下兵団、各『門』よりハイヴへの突入開始しました」

  全て順調にすすんでいるように思える。 降下兵団の損害もそれほど多くはない。 本隊であるウイスキー部隊も問題はない。
  ……だが、私は知っている。 ここからが本当の勝負なのだと。

 「ウイスキー部隊へ伝達。 先鋒が第4層へ到達後、速やかにハイヴへ突入せよ」

  “ハイヴ突入から約4時間で、制圧地域の支配権は奪回される”
  この記録を、今日こそは破りたいものだ。 でなければ我々は、G弾に頼る他はない。

 「疲れているようだね、神宮司少佐」

  両手に紙コップを持った小沢提督が、一方を差し出す。
  私は有り難く受け取った。

 「ありがとうございます」
 「おかげで作戦は順調だ。 今のところは、ね」
  
  カップに入ったコーヒーを口に運び、ふーっと息を一度吐く。

 「今回の作戦は人類反攻の先陣です。 皆、奮い立っているのでしょう」
 「そうだな………ああ、そうだと思うよ」

  提督もコーヒーを一口飲み、机の上に敷かれた佐渡島の全図を見る。

 「取り返したいものだよ、この島を。 ここには、私の戦友も眠っているのでね」
 「…お察ししますわ、提督」

  それから私達は無言のまま、突入部隊の成行きを見守った。

  ………2時間13分後。
  私達の思いは、やはり踏みにじられることになる。








[3649] 第三話「生きる理由」  第四節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/01 21:03
(神宮司まりも、回想)





 「先行した突入部隊との通信途絶!! 残存するウイスキー部隊は地表へ撤退中です!!」
 「各『門』より、4万以上のBETA群が出現中!」
 「…・・・ぬう……!」

  小沢提督は苦虫を噛んだように、表情を歪める。
  先行した部隊は全滅。 ウイスキー部隊の多くも、壊滅した。 つまり、通常戦力によるハイヴ攻略は… 

 「…G弾…」
 「!?」

  スプルーアンス司令は艦橋の窓から佐渡島ハイヴを臨み、呟いた。
  私や小沢提督は、何も言わず、ただ司令を向いたままその場に立ちつくす。

 「小沢君……もういいでしょう?」
 「……」

  提督は何か言いたげに口を開けたが、結局言えずに、俯く。

 「提督…」

  私の目に、涙が浮かび始めた。 気が付くと、日本人オペレーター達の嗚咽する声が聞こえてきた。

 「スプルーアンス司令。 後は……頼みます」

  スプルーアンス司令は無表情でその言葉を受け取ると、帽子を深く被り直し、命令を発した。

 「これより、作戦をテストプランGへ移行する。 艦砲斉射による重金属雲発生の後、G砲弾であの悪魔共を片づけるぞ」

  冷徹にしかし重々しく発せられたそれは、私達の気分をも戦場に引き戻させた。
  今は勝つ。 ただ、勝たなければならない…それだけを考えようと、決意した。

 「エコー部隊は旧羽黒、馬場周辺へ前進。 ウイスキー部隊の残存兵力は旧沢根へ後退の後に再編成しハイヴ再突入を準備させます。
 …よろしいですね?」

  提督は何も言わない。 ただ、小さく頷くだけだ。

 「…では、今の通りで命令を送って」

  私の言葉に従い、オペレーター達が各部隊へ命令を発する。
  ……オペレーター達が苦悶の表情を浮かべ始めている。 おそらく、現場の部隊が「承伏できない」と言ってきているのだろう。

 「厳命しなさい。 これは、決定事項なのだと」

  オペレーター達は私の顔を一瞥し、再び命令を伝えた。

 「…すまない。 少佐」
 「お気になさらないでください、提督」
 「・・・すまん」

  提督は帽子を深く被り、 佐渡島を見続ける。
  表情は見えなかったが、その背中は、とても小さく見えた。

 「司令、全艦一斉射準備良し!」
 「G砲弾、装填完了。 いつでもいけます!」

  スプルーアンス司令は目を細め、モニターを見た。 部隊の展開は順調であることを確かめているのだろう。
  モニターに映る、赤い、BETAを表す点は増え続ける一方だ。 しかし今はまだ、ハイヴ周辺に密集している形になっている。

 『全艦、一斉射。 目標、佐渡島ハイヴモニュメント』
 『はっ。 全艦に通達。 目標、佐渡島ハイヴモニュメント』

  スピーカーから目標を伝える声が聞こえる。 そして、

 『撃ぇーーーーーー!!』

  その声を聞いてからは、まるで自分が、映画を見ているような気分だった。 それも、スローモーションで。
  発射時に熱せられ、黄色く光るAL弾が尾を延ばし、弧を描いてモニュメントへ向かう。
  そこへ、BETAのレーザーが迎撃に走る。 途端に爆発を起こすAL弾。
  キラキラと光る光が、まるで雪のようにモニュメントを彩る。
  …ふと、白銀達と過ごしたクリスマスパーティーを思い出した。 

 「G弾、発砲! 撃ぇーーーーーー!!」

  ズズン、とミズーリが揺れる。 
  周囲から未だ砲撃が続く中、二本のラインが吸い込まれるようにキラキラと輝くモニュメントへ。
  私と夕呼が守りたかったもの…オルタネイティヴ4にかけた、私達の願い…
  それが、今…本当に…

 「弾着、今!」
 
  瞬間、光が走った。 4年前に横浜で見た、禍々しい黒い光。
  グレイ・イレブンの暴走から発生した重力波ソリトンが、モニュメントを崩壊させていく。
  あの周辺にある物質は、質量状態と慣性状態が著しく乱され、その形態を保っていられないのだ。
  私はその様を見て、涙が止まらなかった。
  『嬉しい』はずだ。 『喜ばしい』はずだ。 『希望の光を見た』はずだ。
  周りから、スピーカーから、歓声が聞こえる。 これで人類は救われる。
  なのに私は、私の心は、なぜあの光のように暗く重々しいのだろう。


  

  
  ――やはり、G弾の威力はすさまじいものだった。
  モニュメントは完全に消滅。 多くのBETAが塵と消えた。
  残存したBETAも最新の戦術機を携えた米軍第66戦術機甲大隊他に容易く掃討された。
  後は再びハイヴを制圧するだけの状況となり、私達の仕事はなくなってしまっていた。

 「疲れているようだね、少佐」
 「…その言葉は二度目ですわ」

  士官室に腰掛けている私に、提督は再び紙コップを手渡した。
  …今度は空だ。

 「アメリカに留学した私が、本場のアメリカンコーヒーを馳走しよう」

  提督はポットを誇らしげに見せる。

 「ご馳走になります、提督」

  トポトポとコップに注がれていく、黒い液体。
  湯気が立ち、温かい。

 「……さっきは、すごかったね」
 「え? ええ…まさかあんなに威力があるとは…これなら、人類の勝利も」
 「いや、違う。 君のことだよ」

  提督は自分のコップにコーヒーを入れながら、話を続ける。

 「いつも冷静な君があんなに取り乱すとは…ここに来てからの君を思うと、想像もつかなかったよ」 
 「ああ…」

  確かに、さっきは思わず号泣してしまった。 提督も余計なところを見なくてもいいのに。

 「…考えていたんです。 これまでのこと、私がしてきたことを」
 「君の以前の任務……オルタネイティヴ4かね」
 「はい。 親友と約束していたんです。 絶対に地球と、全人類を救おうと。
 人類の明日を作ろうと…約束していたんです」
 「そうか…」
 「それを信じてオルタネイティヴ4を、その完遂に向けて頑張っていました。
 しかしそれが、今日、完全に打ち砕かれた…そういうところでしょうか」

  今私の顔は、笑っているのだろうか。 それとも、絶望に満ちた表情をしているのだろうか。
  もう私は、自分で自分の感情が分からなくなっていた。

 「少佐、君の言いたいことは分かる。 君が受けた痛みも、苦しみも、私は少なからず理解できているつもりだ」
 「……」

  理解? いや、違う。 提督と私の考えていることは違うはずだ。
  佐渡島がBETAの手に落ちたとき、やはりその時も提督は指揮をとっていた。 提督は根っからの職業軍人で、佐渡島を取り戻すこと
 が最優先だった。 私よりももっと重い立場で事を考えてきたお人だ。 同じはずがない。
  その強さも、重さも…  

 「神宮司少佐、ありふれた言葉で申し訳ないが、君はまだ若い。 BETA大戦が終わっても、君はまだなすべきことがあるはずだ」

  …戦争が…終わった後?

 「戦争が全てではない。 終わってから、どうするか。 平和な時代をどう形作るかこそが、重要なのではないのかね」
 「提……督」

  ……そうだ、思い出した。 何のためにオルタネイティヴ4を完遂させようとしていたのか。 私がなぜここにいるのか。 
  『全ての不幸は無知から始まる。 教育こそが人類に与えられた最大の武器なのだ』
  私はこのために、「教育を取り戻す」ために、戦ってきたはずだ。

 「……」
 「私からはこれ以上の助言はできんと思う。 後は君と、その『親友』とでゆっくり語らうといい」

  提督が席を立つ。 そして士官室のドアへ向かう。

 「提督…ありがとうございます」




 (ブィーーーー!! ブィーーーー!!)




 「!?」

  突然、警報が鳴り始める。 私は立ち上がり、提督と顔を合わせる。

 「こ、これは…!?」
 『第66戦術機甲大隊より入電! ハイヴ周辺にBETAが出現中! 繰り返す・・・』
 「そんな…」

  私の手から、コップが離れる。 床に落ちた黒く濁った液体は、大きく、大きく拡がっていった。
 
  




 『ハンター1よりHQ! 地中から多数の敵が出現している。 至急、支援砲撃を要請する!』
 「HQよりハンター1。 敵味方混戦状態のため、支援砲撃は無理だ。 全力で後方へ退がれ」
 『私達は最後でいい! 足の遅いやつをまずは退がらせてくれ!』

  前線から届けられる声は、そのどれもが混乱した戦況を表していた。
  ハイヴへ進軍した隊のほぼ真下からBETAが出現したのだ。 G弾により駆逐がなされたと考えていた将兵は突然の出現に混乱した。
  また、部隊の内にBETAが出現したことで、支援砲撃が出来ない。 これは、もちろんG弾も同様だ。

 「部隊の後退の状況は?」

  スプルーアンス司令は状況確認のため、至近の将校に話を聞く。

 「混戦しているため、思うように進んでいません。 こちらの動きに合わせて相手も移動しているようで、差がほとんど縮まっていません」
 「むう…」
 「……」

  その言葉に、私と提督は顔を歪ませた。 提督が何を考えているかは分からないが、私が考えるに今回のBETAの動き…
 あまりにも不自然だ。
  不自然と言えば、隊の直下から現れたというのも…まるで…

 「神宮司少佐、今戦でのBETAの動き…不自然とは思わんかね」
 「提督もそうお考えでしたか」

  そうだ、今回の動きは、私が教えられてきた、そして教えてきたことを多く逸脱している。
  まるでBETAが、

 「まるでBETAが、戦術を理解しているような、そういう動きとも取れます。 仲間が近くにいればこちらは砲撃できない、と」
 「偶然とは思うがね、いや、そうでなければならん、そうでなければ…」

  提督は言葉を詰まらせた。 その後の言葉は、容易に想像出来る。
  BETAが人類の動きに対応する、これはよく知られている。 しかし、力押ししかできないはずのBETAが、“戦術”を理解し使用し始め
 たならば…それは、人類にとってこの上ない脅威に他ならない。

 「更に新手のBETAが出現! この反応は……
 師団規模のBETAです! 突入部隊の後方から、BETAが!」

  オペレーターの叫びは、司令室の空気を更に凍り付かせる。 正直、これ以上悪いニュースが続いてほしくなかった。
  …と、提督が突然、黙ったまま佐渡島を見続けるスプルーアンス司令に近づく。

 「司令、現状の戦力ではハイヴ攻略は無理です。 部隊の撤退を具申致します」
 「……」

  司令は返答せず、ただ島を見続けている。
  私自身の判断としては、撤退は仕方がない、と考えた。 現状の戦力ではBETAの掃討は無理であるし、G弾も使用出来ない。
  単体で使用出来る兵器ではない。 重金属雲発生の後でなければ、光線属種に墜とされてしまうかもしれないからだ。
  残存する弾薬も残り少ない。 部隊に対する支援攻撃の後に、G弾のために飽和攻撃…そんなことは無理だ。
  そして何より、今回BETAが見せた新たな行動…もし私や提督の推測が正しければ、私達は一から戦術を組み直さなければならない。

 「……」
 「司令、ご決断を」

  二人の間に表情を苛つかせた若手将校が割って入ってくる。
 「小沢さん、しつこいですよ。 今回は人類反攻の序盤戦、最も期待されている作戦の一つ。 それが失敗という結果で終われば、人類
 の未来はどうするのです? 何を希望とすればいいのです」
 「人類反攻の先駆けであれば、なおさら負けられない戦いのはず。 現段階での我々の勝利は、どれだけ将兵の損耗を抑え次の作戦
 に備えるか、だ。 ならば現有弾薬は支援砲撃に使用し、後方に出現したBETAを討って退路を作るべきだ」

  若い将校は更に反論しようとする。 しかしそれを抑えるかのようにスプルーアンス司令が将校の肩をたたき、前に出た。

 「小沢君…今作戦の重要性は、貴方も認識しているはず。 それでも、撤退を進言する、と?」
 「重要であるからこそ、です。 完全な敗北と、次に繋がる敗北ならば、後者を取るべきだと私は思いますが」
 「……」

  スプルーアンス司令は無言のまま背を向け、再び佐渡島を眺めた。
  そしてそのまま、言葉をつなげた。

 「もしここで、私が君の言葉に耳を傾けなければ、どうなるのだろうね」
 「……」

  司令の言っている意味が分からない。 そんなことをすれば、部隊は壊滅だ!
  その後G弾を使用しても、ハイヴが占拠出来ないのであれば今作戦の意味はない。
  そんなことも分からない人だとは思えないが。

 「私にはかつて息子がいてね…光州で、戦死したんだよ」
 「!?」

  光州!? まさか…“光州事件の悲劇”?
  国連軍の命令を日本軍の中将が聞かなかったがために指揮系統に乱れが生じ、多くの損害を生んでしまった事件。
  司令は現状を、あの時と重ね合わせているのか…

 「君の進言は確かに重い。 しかし、私にも意地がある」

  こちらに顔を半分だけ向け、まるで蔑むかのようにこちらを見ている。
  私は思わず、目を伏せてしまった。

 「…愚考ながら…」

  提督が一歩前に進み、発言する。

 「愚考ながら、私の知るスプルーアンス“君”は、私情に囚われて大局を逃がすことはしないと考えるよ」

  提督が、司令を君付け? …そういえば、提督はアメリカ留学を経験したと聞いていたけど…

 「……ふっ」

  司令の表情に笑みが浮かんだ。
 



 
  ――この後、司令部は撤退を決定した。
  撤退は長引き、多くの装備と人命が失われた。
  …後に知るところでは、伊隅と柏木がこの作戦で命を落とした、ということだ。
  しかしこの時の私は全くそのことを知らなかったし、そもそも気にする余裕もなかった。
  事態が、思わぬところへ向かってしまったためだ。
  佐渡島に現れた軍団規模のBETAは、撤退中の部隊を追撃しながら南下。
  BETAは新潟、つまり本土上陸を狙っていたのだ。
  この時点で残存する弾薬は少なく、BETAの進行を止める術を私達は持たなかった。
  撤退を実行してしまったが故に弾薬の不足を生み、G弾使用を難しくさせた。 結果的には、撤退は失敗だったと言っても良いだろう。
  だが、今さら愚痴を言ってもしょうがない。


  戦場は佐渡島から本土へ。 そしてそれは、1998年以来の『帝国滅亡』の危機であることを意味していた。  







[3649] 第三話「生きる理由」  第五節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/01 21:03
(神宮司まりも、回想)





  佐渡島からのBETA上陸……人類反攻の始まりから、帝国存亡の危機へ。 帝国陸軍は、この緊急事態に対し水際防御を諦めた。
  防衛線の構築が間に合わないからだ。
  陸軍司令部は、新潟と群馬の県境である北関東絶対防衛線に防衛と民間人避難のための部隊を配置。
  そして榛名山周辺に陣地を築くことを決定した。
  ここを突破されれば後は関東平野にBETAがなだれ込まれてしまう。
  更に、光線属種に高地を取られてしまうこととなり、平野に展開した部隊は良い的となるだけだ。
  いわばこの榛名山は、帝国存亡の「天王山」というところか。

  ―――私は現在、関越自動車道を走る車の中でその陣地の様子を眺めていた。
  一方の車線には、どこまでも続く避難民の渋滞。
  続々と起ち上がる撃震等の戦術機。 横に並ぶ機甲部隊。
  後どれくらいで戦闘が始まるのか…そして、また佐渡島と同様に多くの血が流れるのか…
  しかもそれが自分の失敗によって引き起こされるのであるから、私は彼らに対し申し訳なさで一杯になった。
  だが、今考えることはそれではない。 どうBETA侵攻に対処すべきか、だ。
  私は東京にある統合司令部に提出する書類に、再び目を通すことにした。





 「本土でG弾を使用するだと!? 何を馬鹿なことを言っているのだ!!」

  私が東京の司令部に着いたとき、既に議論は白熱していた。
  いや、正直過熱気味だと言ってよい。 互いにナショナリズムを爆発させて、感情が先走っている。
  "現在進行中のBETAをG弾をもって殲滅する"
  アメリカ側のこの提案に、日本側の軍人達は席を立って抗議しているのだ。

 「ハイヴがある佐渡島だからこそ、まだ使用は許せたのだ。 だが!! 本土では絶対に認められん! 絶対にだ!」
 「しかし、もし日本がこの戦いで国力を削がれ、万が一BETAの勢力下に落ちれば極東絶対防衛線は崩壊します。
 そうなれば他のアジア諸国にも大きな影響が…」
 「安保を破棄し、逃げ帰ったアメリカが何を言うか!」

  日本側の言い分に、グッと言葉が詰まるアメリカ勢。
  だが、アメリカ側の主張はもっともだ。 日本の国力が落ちれば、それだけBETAへの対処が遅れる。
  また『バビロン作戦』の停滞にもつながってしまう。 
  特にアメリカ側からすれば痛いだろう。 『人類反攻の切り札』として宣伝していたG弾運用作戦の第一回目がさっそく失敗してしまった
 のだから。
  であればなおさら、形だけでも“G弾によるBETAへの勝利”を作り上げたいのだろう。
  …ふと、強面な米軍の中将が起ち上がり口を開いた。

 「日本政府の許可は得ている。 軍人であれば、政府の言うことには従うべきだ」

  はあ?と日本軍人達は気勢がそがれる。 そして、隣にいる内閣官房長官の方を向いた。
  長官はハンカチを片手に禿げた頭を何度もふいている。 明らかに焦っているのが目に見える。

 「どういうことだ! 政府は何をしているのだ!」
 「あ、いえ、政府と致しましては、もちろんG弾の即時使用には反対でありまして、その、万が一という事態、そう、万が一防衛線が突破さ
 れて、ここ東京に至る可能性が出た場合、そうした状況におきまして、政府との協議、協議の末にですね」

  ダメだ、この人は…
  これでは、頭に血が上った軍人達を抑えることは出来ない。
  今は一刻も早くこれからの流れを決め、米軍の援助も受けながらBETAに構えなければならないというのに…

 「政府はアメリカの犬か! アメリカが吠えろと言えば吠えるのか!」
 「軍は政府の方針には従えん。 断固、G弾抜きでBETAと戦うべし」

  はあ、やっぱり…

 「官房長官、我々が聞いた話と違うようですが…軍はあなた方が抑えるという話ではなかったのですかな?」
 「ああ、あの、その、政府が軍を抑える権限は直接にはないといいますか、そもそも軍は将軍直属で…」
 「八方美人の政府と我々軍人は違う! G弾など使わなくとも、BETAは打ち倒してみせる!」

  ああ、更に過熱してしまっている…まずい、非常にまずい…

 「ほう、日本帝国の軍人は意気軒昂ですな。 それは、我々『アメリカの支援』は必要ない、ということですかな?」
 「!?」

  ちょ、ちょっと待って! アメリカも頭に血が上っているの!?

 「中将閣下! それは国連としては承認出来ません。 もし日本が落ちることになれば、人類全体が」
 「国連の日和見主義者は黙っていろ!」

  日本側から檄が飛ぶ。 もう、誰のために私が口を出したのか分からないのか!
  
 「いいではないか、少佐。 日本側も納得しているようだしな」
 「あ、あ、お、お待ちください。 日本政府としては、何としても、どうか米国の支援が・・・・・・でなければ日本がBETAに…」
 「政府はまだ言うか! アメリカなど信用出来んと、なぜそれが分からん!」



 「将たるもの、言葉は慎重に使わなくてはなりません。 少し度が過ぎているように思いますよ」



 「!?」

  バッ!とその場にいた人間達は声の主に目を向ける。

 「あ、貴方は…」

  そこにいらっしゃるのは、紛れもない…日本帝国政威大将軍“煌武院悠陽”殿下であらせられた。
  私達は皆、一斉に席を立ち、殿下を迎えた、
  殿下は従者と、榊首相を連れゆっくりと会議室に入り、そのまま脇を通って前方へと移動される。
  その間、まるで時間が静止していたように思えた。 
  そして殿下が先頭の椅子にお座りになると、「楽に」という言葉を投げかけられ、私達も着席した。
  …先ほどまで過熱していた互いの剣幕は、もはや影も形もなかった。

 「で、殿下…申し訳ありません」
 「よい。 ここは議論の場であれば、その熱心さ故に言葉が乱れることもあるでしょう」

  「されど」と言葉を続けた。

 「されど、今は一刻を争う時。 議論すべき内容がどれだけ重要ではあっても、結果を出さねば現場の将兵に不安が拡がります。
 そのことを、どうか心中に留めて議論を続けてください」
 「はっ!」

  先ほどまで最も喧嘩腰だった人間が、静かに座り資料に目を通し始めた。
  やはり、殿下はすごい。

 「時に、米軍将校の皆さん」
 「はっ!」

  米軍の将校達は皆、席から立ち上がった。

 「佐渡島における戦いの被害は甚大であったと聞いておりますが、如何でしょうか?」
 「はっ! 確かに被害は大きいですが、将兵達は意気軒昂なれば、次の戦闘を今か今かと待ち続けております」
 「そうですか…」

  スッ、と殿下は立ち上がり、米軍中将にお近づきになられた。
  何をなさるおつもりなのだろうか?

 「な、何か?」
 「此度の佐渡島攻略は、いわば帝国の悲願。 そのために命を散らし、また負傷されてもなお戦い続けた米軍将兵の献身と義勇に、日
 本国将軍として、心よりの謝意を表します」

  その言葉を発した後、殿下は中将に対し頭をお下げになった。
  おお、と米軍将校達からどよめきが起きる。 無理もない、先ほどまで喧々囂々と口論を争っていた頭の堅い相手の国家元首が、素
 直に礼を述べているのだ。  
  一方、日本軍側は納得のいかない状況だろう。 アメリカはG弾を使い作戦に失敗、しかもその穴を取り戻そうと、本土でのG弾使用を
 主張している。
  それなのに米軍の働きを認めてしまっては、彼らの作戦を飲むしかなくなる。

 「殿下のお心遣い、感謝致します。 アメリカはオルタネイティヴ5の推進者として、世界平和と人類生存のため、これからも力を尽くす
 所存であります。 殿下のお言葉は、そのために戦っている全将兵にとって、この上ない励ましとなるでしょう」

  頭をお上げになり、中将を見据えなさる殿下。
  その表情は微笑みを浮かべ、中将の言葉に時々頷きになられている。

 「今回の日本国の危機、私達も全力を尽くし、事にあたらせていただきます」
 「そうですか。 本当に迷惑をかけます」

  …殿下はどういうつもりなのだろうか。 
  まさか、アメリカのG弾使用を肯定なさろうというのだろうか?
  しかしそうなれば、軍は今以上に日本政府に対し反感を強めるだろう…
  例え殿下の御意志であろうと、“政府は殿下を利用した”と攻勢を強めるに違いない。 

 「中将。 先ほどの議論ですが、よろしければ私の私見を聞いて頂いてかまいませんか?」
 「はっ、何なりと」

  私見? 殿下が?

 「先ほどの我が将校達の言動、お気に触ることもあったかと思います。 しかし、どうか彼らの言い分にも耳を傾けてあげてくださいませ
 んか? 現在、軍にはアメリカに対する複雑な思いがあるのです」

  何だろうか…空気が、少しずつ変わりはじめた?

 「5年前、帝国は国が肇まって以来の国難に襲われました」

  5年前…BETAによる、西日本蹂躙だ。 
  この時のBETA侵攻で、実に3600万人もの犠牲者が出た。 殿下はそれを仰っているのだろう。

 「その時、わが国は長年に渡る友邦との同盟を終えなければなりませんでした。 国家存亡の危機にあたり起こってしまったこの事件は、
 日本国民の心に深く傷を残してしまったのです」

  これは、アメリカの一方的な日米安保破棄を指すのだろう。

 「その後も、二国間の信頼を揺るがせる不幸が続きました」

  …米軍による、通告無しのG弾使用…か?

 「このような時期を経てしまった今、悲しいことですが、二国の間には深い溝が出来てしまっていると思うのです」
 「う、む…」

  中将と他の将校達がばつの悪そうな表情を浮かべている。
  直接的な表現ではないものの、痛いところを突かれて困っているのだろう。
  しかし、本当に殿下はすごい。 相手の感情を傷つけず、それでいてこちらの言い分もしっかりと相手に伝える。
  日本軍人達も笑みを浮かべて頷くばかりだ。

 「ですが今、その溝を更に深めてどうするのでしょう。 私達は今、同じ人類として、手を携えて事に当らねばなりません」
 「はっ。 仰るとおりと存じます」
 「…されど、此度の戦は我が国土へのBETA侵攻、その防衛です。 いわばこれは、私達日本人の戦いでもあります」

  殿下はそう言うと中将に背を向け、再び奥に歩き始める。
  そして椅子の前に立ち、全将校を一瞥し言葉を続けた。

 「…長きにわたるBETAとの戦い、そして好転しない戦局に、我が国民の心は疲弊し、蝕まれつつあります。
 私に力が無きために…本当に申し訳なく思います」
 「そんな、殿下…」
 「殿下、我々こそ、我々こそ…」

  涙を流す軍人が現れる。 皆、殿下の『申し訳ない』に対し、本当に心を傷めているのだろう。
  私も先刻、『申し訳ない』と思ったが、殿下のお言葉は本当に、本当に重いものだ…私の思いなど、あまりにも軽すぎる。

 「それでも私は、国を守りたい。 民の心にある魂を、『国』を護りたいのです。
 …そして今まさに、わが国は亡国の危機に直面しています。 もはやこの状況を、看過するわけにはまいりません」
 「!!」

  室内の空気が一気に変わる。
  軍人達の顔が険しくなる。 私自身の表情もおそらく、強張っているだろう。
  鼓動が一層早くなる。 室内の温度が、一気に上がったような錯覚に陥った。
  まさか……まさか殿下は……

「…………」

  ふと、殿下は目をお閉じになり口をつぐまれる。 ……数秒の沈黙が流れた。
  ピーンと張った糸のごとく、部屋は静寂を保っている。
  誰一人喋らず、呼吸も聞こえない。
  皆が殿下だけを見、次の言葉を待った。
  そして、殿下は目を開き、はっきりとした口調で言葉を発せられた。

 「私自らが斯衛を率い、本土防衛に当たります」







[3649] 第三話「生きる理由」  第六節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/01 21:04
(神宮司まりも、回想)




  「ハー・・・」

  大きく吐いた息が白く落ちていく。
  私は今、群馬県護国神社に来ている。 横では、神社境内を灯す焚火が幾つも燃えている。
  ここは防衛戦・前橋司令部に近い場所に位置しており、斯衛の集合場所として指定されたのだ。
  あの会議はその後、すぐにまとめられた。 内容の一つは、帝国軍と国連軍の通常戦力によってBETAを押し返すこと。
  そしてもう一つは、防衛線が崩壊しBETAが関東平野に迫ったならば、G弾の使用を容認することだ。
  より具体的に言えば、荒山、子持山、榛名山を結ぶ「ミヤマライン」をBETAが突破したならば、ということになる。
  それにしても、あれからの動きは本当に急だった。
  殿下自らが出撃なさると聞いて、軍部は強く反対した。 当然だろう。
  既に防衛部隊とBETAの交戦は始っている。 入ってくる情報は、決して良いとは言えなかった。
  そこに殿下が出撃するのだ。 いくら斯衛や帝都守備隊が精強とは言っても、万が一があるとは限らない。
  しかし、殿下は出撃することを決意された。

  会議後、ある軍人は「首相が殿下を担ぎ出したのだろう」と言っていたが、それはないだろうと私は思う。
  榊首相はそもそも立憲主義者であり、皇帝や将軍は国家の一機関であるべきと主張している人間だ。
  だからこそ首相に任命された直後、戦後の立憲政治の踏襲を彼は宣言したのだろうし、政治に対する皇帝、将軍権力は形式的なもの
 に留められるよう、配慮した。
  しかしこれは殿下が望まれた道でもある。 『人は国のためにできることを成すべきである。そして国は、人のためにできることを成す
 べきである』と、殿下は将軍即位の記念演説で仰っていた。
  そして当時、軍部内部で起きていた“将軍を形骸化する売国奴、榊是親を討て”という勢力に対し、この言葉に続けて殿下は『国とは、
 国民が守ってきた心を指すのです。 そして、国民の代表たる議会が指名し、私が任命した榊是親は、自らの任を自覚していると私は
 考えています』と擁護された。
  殿下は榊首相を支持している。 同時に、首相もまた並々ならぬ忠誠心を持っている。
  これは私の推測であるが、軍と政府、そしてアメリカとの折衷が難しくあると判断した榊首相が、殿下に意見を求めたのではないか?
  首相個人の言葉では軍は納得しない。 しかし殿下であるならば話は別だ。
  事実、殿下が登場されてから議論はすんなりとまとまった。 殿下の御前にあって、中途半端な答えを出すことはできない。
   これこそが榊首相の狙いだったのだと思う。

  しかし、殿下自らの出撃は?

  …殿下の出撃に軍部が反対する中、榊首相はただ口を閉じ黙っていた。
  その沈黙こそ「殿下を担ぎ出した証拠」と軍人達は言うが、私はそうではないと思う。
  あの時の表情……自分の力不足を責めるような。
  私は知っている。 そんな顔をした、彼の娘の表情を。
  
 「神宮司少佐、寒くはありませんか?」
 「え? は、はっ! 私は大丈夫です」

  不意に、後ろから殿下の声が聞こえてくる。
  紫色の零式衛士強化装備に身を包んだ殿下が、そこにはおられた。
  準備が整うまで、神社本殿で御魂に祈りを捧げていると聞いていたのだが…

 「そうですか。 今日は特段に寒いので、お体には充分注意なされてくださいね」
 「はっ! ありがとうございます!」

  これから命の駆け引きをなさろうというのに、私の身体の心配を…
  殿下の思いやりの心は、何と深いのだろうか。

 「時に、少佐は横浜基地で訓練部隊の教官をしていたと聞いていますが…真なのでしょうか?」
 「はい。 確かに以前、国連軍横浜基地で教官として、訓練生の指導をしておりました」
 「そうですか。 訓練生…今はもう立派な衛士なのでしょうが…その者達は今、何を?」

  殿下の表情が微かに曇る。
  察するに、殿下は御剣が移民船団に乗ったことを知らないのだろう…月詠中尉から聞かされていないのだろうか?

 「はっ。 それぞれ出撃の時を待ち、鍛錬に励んでおります」
 「そうですか…」

  ふーっと軽く息をお吐きになる。 息は白く拡がり、そのまま消えた。
  そして表情を強張らせ、言葉を続けた。

 「…戦いは、いつまで続くのでしょうか…」
 「え…」

  殿下は後ろの本殿の方をお向きになる。 焚火の光で、殿下の顔が浮きだって見える。

 「ここに祀られている英霊達は、先の明星作戦、本土防衛線、大陸での戦闘…いえ、それ以前から人類の刃として戦い、その命を散ら
 した者達です。 人類のため、日本のため…そして、家族や恋人といった愛する者達が、平和に暮らせる世界のためにと戦った彼らの
 願いは、未だ果たされておりません」
 「……」
 「そればかりか、戦争は苦難の道を国民に歩かせ続けています。 食料の不足、女性の徴兵、そして、軍事中心への教育の転換…」
 「!?」

  殿下も教育について憂いておられたなんて…

 「私の力が足りないばかりに…本当に申し訳なく思っています。 私に、より力があればと…何度思ったことでしょう」
 「そんな…殿下…」

  殿下の言葉を聞くと、何故か申し訳なく思えてくる。

 「…しかし同時に、私はこうも思うのです」
 「え?」

  殿下は私の方に向き直り、私の方へとお進みになられた。
  そして、私の左手をお取りになる。

 「私たちの生き方が、明日の者達に誇りと力を呼び戻していく。 そしてその誇りと力が、また次の明日を作っていく。
 そう…私達は、その明日を信じて、決して絶望してはならぬと思うのです」
 「……」

  絶望…私が何度も味わったものだ。ついさっきも、佐渡島の作戦失敗が私を絶望させた。
  人類の未来…明日…を悲観している者は、たくさんいるだろう。

 「私は絶望しません。 貴方の教え子達が、きっと次の明日を担ってくれる…私はそう信じています」
 「殿下…」

  絶望しない…か。 確かに、私達に最も必要なことなのかもしれない。
  …ふと、殿下は私の手を開き、手の中に柔らかい何かをお入れになった。
  そしてお手を放しになり、後ろにお下がりになる。

 「殿下…?」

  左手を開けると、そこにはすごく簡単な、手製と思われる人形。

 「殿下、これは…?」
 「…………………少佐」
 「はっ」
 「少佐の教え子達に、先ほどの私の言葉を伝えてください。
 …そして、もし受け取ってくれたのなら、その人形も…・」

  『貴方の教え子達が、きっと次の明日を担ってくれる』

 「!!」

  不意に先ほどの殿下の言葉が思い出される。
  まさか殿下は、この戦いに………
  そしてこの人形を、御剣に渡してくれということなのか…

 「殿下!」
 「真耶! 私の武御雷はどうか!?」
 「はっ。 準備は出来ております」 
 「!?」

  いつの間に立っていたのか、殿下の従者が焚火の後ろから現れる。

 「少佐、後のことはお頼みします。 …行きますよ、真耶」
 「はい、殿下」
 「殿下!!」

  殿下、違う、違うのです……御剣は…御剣冥夜は……

  『少佐の教え子達に、先ほどの私の言葉を伝えてください。
  …そして、もし受け取ってくれたのなら、その人形も…・』

 「…御剣は…御剣はもう、いないのです…渡せ、ないのです…」

  しかし私の言葉を聞くものはもう、誰もいない。 ただ横で、パチパチと焚火が燃えるだけだ。

 「……」

  私は顔を上げた。

 「……?」

  雪? 雪、だ…
  見あげると、真っ黒の空から焚火に灯された雪がチラチラと降りてくる。
  それは、みるみる内に境内を白く染めていく。 その境内に立つ、武神達。
  長刀を構えた紫の武御雷と、傍らに立つ赤き武御雷の姿。
  そしてその奥で、整然と並ぶ白と黒の武御雷達。
  白雪と、焚火の光に照らされた武神達の姿は、とても神々しい。



  …ウーと、辺りにサイレンが鳴り始めた。



  
  紫の武御雷が長刀を上げた。
  それに続き、他の武御雷も長刀を上げる。
  私には今、機体間で行われている交信を聞く術はない。
  しかしその動きからは、彼らの決意がヒシヒシと感じられた。
  …長刀が下ろされた。
  そして紫の武御雷が、噴射跳躍によって戦場へと翔け上がる。
  続く斯衛。
  私は彼らの出撃にただ敬礼し、その帰りを祈るしかなかった。





 「斯衛、大峰山麓で敵先頭と接触! 交戦状態に入りました!」

  前橋に設置された、総軍司令部…私は今、米軍将校と共にここで国連軍の指揮をとっている。

 「早いな、さすがは斯衛(インペリアル・ロイヤル・ガード)というわけか」

  米軍少将がモニターを見つつ、状況を確かめている。
  モニターを見るならば、殿下が率いる斯衛一個連隊は最激戦区である子持山麓へ向かっているのが分かる。

  沼田市辺りは現在BETAが最も密集している地域だ。 それ故、こちらの損害も大きい。

 「国家元首が最前線へ、か。 日本人の考えることはよく分からんな」

  少将の表情には、やる気が感じられない。 それはそうだ。
  現在の戦況を考えるならば、BETAに防衛線を突破されるのは時間の問題…将兵達の士気も、芳しくない。
  結局はG弾を使用せざるをえない…彼はそう考えているのだろう。
  そしてG弾を使えば、損害は極力抑えられる。 彼からすれば、殿下が出撃する必要はないのだ。
  だが一方、日本人である私からすれば、本土でG弾を使いたがらない気持ちは、十分に理解出来る。
  はあ……私の立場は、本当に微妙だな……

 『…帝国軍将兵の皆様……私は、日本国政威大将軍“煌武院悠陽”です……』

  不意に交信が入る。 全周放送だ。

 『私は現在、斯衛軍を率い皆さんと同じ戦場に立っております』

  この言葉に将兵達は驚いているだろう。 
  自分達が敬愛してやまない殿下が、自らと同じ場に立っているのだから。

 『此度のBETA侵攻…敵の毒牙によって、すでに多くの人々がその命を奪われています』
 『これ以上の悲劇を、繰り返させてはなりません。 これ以上の苦しみを、続けさせてはなりません』
 『そして全ての人類が、この戦いを注視しています。 私達は今、一人の日本国民としてだけではなく、人類の先駆けという重大な責務
 も負うているのです』
 『どうか皆様の力を、もう暫くお貸しください。 人類の刃たる皆様の勇気を、もう少しだけお貸しください』
 『人類の勝利のために。 数多の英霊の遺志を、無駄にしないために』
 『私はそのために、歩み続けます。 忠勇ある、皆様と共に……』

 「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」

  司令部とその周囲から、大きな声が上がった。
  スピーカーから聞こえる声で、将兵達の士気が最高潮に達するのが肌で分かる。
  今、この戦場にいる全ての将兵達の心が一つになっている…そんな気がした。

 「殿下の率いる斯衛第8大隊、岩本付近でBETAと接敵!」

  …この言葉が響いて後、戦況は大きく変わった。
  先ほどまで防戦一方だった戦線が、少しずつ押し上がってきているのだ。
  殿下率いる斯衛一個連隊の投入で、最激戦区である岩本を取り返せたのが一番大きい理由である。
  しかし、この場にいる人間で、それだけが理由だと思う者は誰もいないだろう。

  『殿下に遅れるな』

  ……これが、この時全ての将兵達に通じた思いだった。
  この思いに突き動かされたならば、どうしてBETA相手に敗北することが出来ようか。

 「まさか、これほどまでとは……」

  防衛線が押し上げられている事実に、少将は驚きを隠せないでいる。
  その様子に、私は少し気を良くした。



  (カタカタカタ………)



  …ん? この揺れ、地震か…

 「!?」

  ゾクッ、と嫌な予感がした。 そして佐渡島で自分が言った言葉が思い出される。
  『まるでBETAが、戦術を理解しているような、そういう動きとも取れます』
  まさか、ここでもまた…

 「新たにBETAの出現を確認!!」
 「!!」

  やはりか!?

 「どこに現れた!」
 「この出現位置は……岩本です! その周辺からまだ出てきています!」

  先ほど、やっと取り戻した陣地か…まずい…

 「殿下の部隊は?」
 「殿下の部隊は……!?」

  オペレーターの顔が変わる。 そして次第に青ざめていく。

 「どうした!」
 「殿下の部隊は……昭和村です」 
 「な……に……!」

  まさか、そこまで殿下の部隊が上がっていたなんて…
  昭和村は、今BETAが現れた岩本と、敵が密集している沼田のちょうど間。
  これでは殿下の部隊は、前後から挟み撃ちにされてしまう。

 「全部隊に通達して! 岩本に現れたBETAを駆逐するように。
 そして殿下には……」

  ふと、私は手に持った備え付けのマイクを見た。 それは小刻みに揺れ、カタカタと音を立てている。
  よく耳をすませると、ゴーッという、まるで増水した河のような音がすることに気が付いた。

 「ま…さか…」
 「新たな音紋を探知!」

  別のオペレーターから報告が入る。
  モニターを見ると、沼田盆地一帯に赤い印が次々と現れるのが分かった。
  黄色や青で記されていた仲間のマーカーが、赤いBETAのマーカーに染められていく。

 「そんな……そんな! そんな!」

  もはや言葉にもならなかった。
  殿下が自らの『死』を覚悟して出撃されてもも、全ての将兵の心が一つになっても、それでもまだ足りないのか!

 「………く」

  スピーカーから流れてくる、悲鳴にも似た支援要請。
  もはやどこにも、余裕などない。 彼らを救うことも、何も、何も、できない…
  私達には、何も出来ない……

 『…………ぼぅ…な…………さぃ』

  喧騒の中から、聞き覚えのある声がする。

 『………絶望し……・……くだ……』
 「!?」

  殿下!?
  顔を上げモニターを見ると、赤く密集した地域に紫の点が一つ、残っていた。
  紫…それは殿下の部隊を指す識別マーカー。

 『………絶望……でください…………私は………とうに………』

  声がはっきり聞こえ始める。 いや、違う。 声が止んだのだ。 先ほどまでの喧騒が、止まったのだ。
  皆が、殿下の言葉を聞こう、と。

 『みなさ…絶望しない………い………わた…は…・常に……』
 『絶望…ないで………い………は常に……まの先頭…あります…』
 『私は……に…皆様の先頭…あります………どうか…絶望……いで…』

 「殿下!」

  涙が溢れた。 殿下のいる地点は、最もBETAが集中している…誰もが絶望しても仕方がない場所だ。
  それにも関わらず、殿下は、「絶望しないでください」と、言葉を発し続けておられるのだ。
  私達の先頭には、必ず自分がいると、そう仰っているのだ…

 「殿下…」

  司令部全員がモニターを見続ける。 真っ赤に染まった沼田に、一つだけ輝く紫の光……
  その光が、今、消えた……  



   



 「………こうして、日本の組織的な防衛戦闘は終わったわ。 2日にも満たない時間、これだけで日本の運命は決まったのよ」

  フッ、とまりもは小さく息を吐きだした。 手に持ったコーヒーから出る湯気が小さく揺れる。

 「そんなことが…あったんですね…」

  真璃はショックだったせいか、話の途中でペンが完全に止まっていた。

 「その…その後は、どうなったんですか?」
 「………」

  まりもは横目で机の上を見た。 教え子であるA-01部隊と、第207訓練小隊の皆が映った写真が目に入る。
  それを見ながら、言葉を続けた。

 「その後、部隊は撤退。 ミヤマラインに近づいたBETAは、米国戦艦からのG弾で殲滅されたわ……沼田盆地ごとね」

  でも、と繋げる。

 「でもね…殿下を失った日本は、軍部と政府の軋轢から生じたクーデターを繰り返したの…。
 ただでさえ国力を充実させねばならなかった時期なのに、日本はまた感情を優先してしまったのよ」
 「……」
 「失った多くの人命と装備、それらを補填することが出来なかった日本は、11月24日に起きた鉄源ハイヴからのBETA侵攻に耐えられ
 なかった。 そして一ヶ月の防衛戦闘を繰り返した後…島嶼部を残して列島は完全に占領されてしまった…これが日本の歴史よ」
 「……!!」

  真璃は顔を伏せ、ノートをギュッと握りしめた。
  そしてかき消えそうな声で、まりもに問う。

 「横浜は……母様の戦友達は、父様は……どうなったのですか…」
 「……鉄源ハイヴからの侵攻、その数時間後に佐渡島からもBETA侵攻を受けたわ。
 その時にね、横浜基地もBETAに急襲されたの」
 「……」

 真璃は顔を上げる。 まりもと目が合い、そのまま話を聞いた。

 「そしてそこで、多くの部隊が……A-01部隊や旧207訓練小隊を含めた、本当に多くの部隊が……行方を断ったわ。
 司令部は彼らを “MIA” と認定。 貴方のお父さん、白銀武もその一人よ」

 






[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第一節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/11/16 07:01


「はあ……」

  真璃はメガフロート基地「ニライカナイ」から海上を眺めている。
  天中に上った太陽がメガフロートによって遮られ、大きくできた影によって海の色がより濃く見えた。

 「父様…MIAなんだって…母様」

  MIAとは作戦行動中に行方不明になったことを指す。 とは言っても、基地襲撃を受けて現地部隊が生存しているか?と言えば、
 ほぼそれはありえない。
  横浜基地が敵に占拠され「横浜ハイヴ」となって以降彼らの消息はつかめていない…つまりはほぼ間違いなく戦死という扱いの「MIA」
 なのである。
  真璃は空を…海鳥の姿がほとんど見えない空を・・・見上げながら、昨晩まりもから聞いた話を思い出していた。
  日本が落ちた後、世界もやはり同様に侵略を受け続けた。 結局G弾を供給するためのグレイ・イレヴンは確保できず、「弾切れ」とい
 う何とも情けない形でオルタネイティヴ5は終わりを告げる。
  最終的に残ったオーストラリアでは日米ソ欧が最後の反攻作戦実施を計画。 第4世代戦術機等の研究が続けられたが、増え続ける
 BETAの圧力に結局は間に合わなかった。
  このニライカナイは元々、日本本土からオーストラリアに逃げるための避難民移動基地であったが、オーストラリアが落ちてからは極
 東アジア難民の最後の領地となる。
  真璃にとってそれは、自分が考えていた歴史とは全く違う歴史。 栄光と希望の歴史ではなく、滅亡と絶望の歴史である。

 「……でも」

  だが、真璃は以前とは別の気持ちを抱いていた。 それは殿下の生き様や最後まで戦った人間達の闘いへの感情である。
  彼らの“生の熱さ”に、彼女は一種熱病にも似た感覚に囚われていた。
  そして自分の父親……つまり白銀武もそのような生き方をしたに違いないと、強く信じ込んでいた。 
  仲間を励まし、救い、そして最後は多くの敵を道連れにして散華……などというヒロイックな行為を彼女は夢想しているのだ。

 「私も…」

  この熱病にかかったとき、人間がとる行動は一つだけだ。

 「父様のように、生きたい……そうだ!
私、父様の分も地球で戦う! 私、地球で生きる!」

  周りの状況も考えず、ただひたすら自己の感情を優先する。 彼女がこれから取ろうとした行動もその例に漏れなかった。





 「ふー……ようやく昼休みね」

  神宮司まりも、五十路前が大きく体を伸ばしつつ歩いている。 その手には合成食パンが四つ。
  昨晩は結局、朝まで話し込んでいたため、午前中は非常に眠かったのだろう。 伸体中にあくびが漏れた。
  だが彼女の顔は笑顔だ。 答えは分かっている。 真璃だ。
  無理もない。 突然教え子が自分の所に帰ってきたようなものなのだ。
  しかもそれが一番対応に困った教え子と、一番扱いには困ったがなぜか印象に残っている教え子の娘だ。
  まりもにとって真璃は、半分娘のような感じなのだろう。

 「あの娘、どこに行ったのかしら……せっかく二人に紹介しようと思ったのに」

  真璃を探しつつ廊下を歩き続ける。 ふと、前から一人男兵士が走ってくる。
  その兵士はまりもの前にとまり、敬礼する。 それに対しまりもも軽く応えた。

 「ああ、いいところに来た。 伍長、途中で黒髪のロングヘアー、国連軍の制服を着た女を見かけなかったか?
見ない顔だから印象に残ると思うのだが」

  兵士は少し考え、その特徴に似た女を整備場で見たことを告げる。

 「整備場? なんでそんな場所に……」




 「何するのよ!」

  所変わって整備場。 ここでは、真璃の怒号が場一帯に響いていた。
  そのようにむくれる彼女の周囲を屈強な男達が囲んでいる。 雰囲気が明らかに悪いのが分かる。

 「私は戦術機の学校に通ってるの。 だから整備を手伝おうと思ってここに来たのに、何でこんなことするの!」

  横には装甲を外され複雑な機構をむき出しにした人間大の機械があり、その下にはボルトなどの部品が大量に散らばっている。
  彼女はこの機械の整備を手伝おうと部品を運んでいたが、目の前にいる整備員に無理矢理投げ捨てられたのだ。

 「手伝いなんていらねえんだよ! だいたい誰だテメエ? 見たことねえ面だが」
 「私は白銀真璃。 今日からこの基地で働こうと決めた、だから自分がまず出来ることをしようと思ってここに来たのよ」

  『今日から』という部分に整備員達は首を傾げた。 この基地で新しい人間が増えることはまずないからだ。
  ある整備員が、あっ、と声を挙げた。

 「お前まさか……昨日駆逐艦に乗ってきた……」
 「何!? こいつ外星系移民か!!」

  その声が出ると同時に一気に周囲の空気が変わっていく。
  男達の目が妙に殺気走り、手に持つ工具を握る力が強くなる。

 「何よ。 外星系移民だから、それが?」
 「……さっさと消えろ……」

  目の前にたつ男が、低い声で小さく呟く。

 「消えろって何よ? 私の質問には何も」
 「消えろって言ってんだ!」

  不意に胸ぐらが掴まれ、眼前に引き寄せられる。
  真璃は驚き、目を点にするしかなかった。 体が硬直し、背中に冷や汗が出るのが分かった。
  胸ぐらをつかむ男の表情は怒りに満ち、今すぐにも殴られそうな印象を真璃に与える。

 「え………」
 「聞こえないのか、俺は消えろと言ったんだぞ!」

  真璃は恐怖で体を震わせ、自由にしゃべることも出来なかった。 そして助けを求めるかのように横を向く。
  だが結局は同じだった。 周囲の男達の顔もこの男と何も変わらない。
  真璃はやっと気づいた。 自分が彼らから「憎まれている」ということに。

 「地球から逃げた奴が俺たちを手伝う? ここで働きたいだ? ふざけるな!!
 今すぐだ、今すぐ俺たちの前から消えろ! 分かったな!」

  グイッと強力に押され、転倒する。  真璃は上半身を上げ、男達を見た。
  …不意に、怒りがこみ上げてきた。 胸ぐらを離され、恐怖が薄らいだからか。
  キッ、と男を見、真璃は叫ぶ。

 「逃げたって何よ! 母様は逃げたんじゃない! 本当は地球にいたかったのに、人類を滅亡させないために移民になったんだ!
だいたいアンタ達何? 女に暴力ふるって、それでも男か!」
「こ・・・・・・このガキ・・・・・・」

 興奮してきたせいか真璃の目に涙が溜っている。 怒りにまかせた言葉がまだまだ矢継ぎ早に出る。

「最後の時まで誇りを失わず、命を懸けて戦った人達に恥ずかしいと思わないの!?
そんなんじゃいつまでたってもBETAに・・・・・・」

 言葉が止まる。 真璃は気づいた、男たちの表情が更に怒り…いや、憎しみに溢れたものになったと。

「…殺してやる…!!」

 男達が真璃に近づこうとする。
 その時、

「貴様等、何をやってる!!」
「まりもちゃ…大佐!」
「……」

 真璃の顔に笑顔が戻る。
 やった、自分の味方が来てくれた、という感じだ。

「白銀、どうしたの?」

 真璃は立ち上がり、まりもの方へ駆け寄る。
 そして先ほどまであったことを事細かに説明した。

「…………………私はただ皆の役に立ちたい、誇りを持って生きた人達のようになりたいって、それだけなのに」

 整備員達は皆、黙っている。 しかしその表情は明らかに苛ついているものだ。
 まりもは話を真剣に聞いているように見える。 だが、時折小さな溜息が出ていることに、話に集中していた真璃は気づいて
いないようだ。

「…なるほど。 よく分かった」
「ですよね。 大佐、よく…」

 話の途中にも関わらず、まりもは真璃から視線を放して整備員を見る。
 そして一度小さく溜息をつき、声をかけた。

 「すまなかったな、皆。 作業に戻ってくれ」  
 「……え?」

  男達は皆、黙々と自分たちの仕事に戻っていった。
  まりもの言葉が発せられてすぐ、場は機械音が響く当たり前の日常を取り戻した。
  中々変われなかったのは真璃だ。 
  まりもの対応に、「え、それだけ?」と頭の中が何度も反復している。
  自分の味方と思っていたまりも対応があまりにも拍子抜けだったために気が抜かれ、真璃は動けないでいた。

 「……白銀少尉」
 「……」
 「白銀!」
 「はい!」

  突然の大声にやっと正気に戻る。 慌てて真璃は、まりもの方へむき直した。
  そこには複雑な顔をしたまりも。

 「…ちょっとこっちへ来なさい」
  



 「・・・・・・」

 「納得いかない、って顔をしているわね」

  整備上の外、二人は開けた甲板に出る。
  冷たい風が吹き流れ、真璃は思わず身震いした。

 「さっき・・・・・・ここで働きたい、と言ったわよね」

  まりもの顔はとても険しい。 多少怒りがこみ上げてきているような、そんな印象を受ける。
  真璃はそんなまりもを見られず、視線をそらして口を開けた。

 「だっ……私は、父様のようになりたいと、そう思ったんです。 父様や母様の戦友達が生きた地球で戦いたいと、本当に心から思った
 んです。 だから」
 「だから手伝おうとした…そうね、それは聞いたわ」

  ふー、とまりもは大きく溜息をついた。 

 「白銀……あなたが地球へ来た目的、そして、任務は何?」

  え?と真璃がまりもの方を向いた瞬間、

 「貴様の任務は何だ、少尉!!」
 「は、はっ!」

  まりもの急な檄に思わず背が伸び、気をつけの姿勢となる。

 「地球のデータをバーナード星系に持ち帰ることです!」
 「そうだ、それが貴様の任務だ。 それ以上も以下もない。
 貴様も軍属ならば自分の任務を果たせ、いいな!」
 「……ぁ…ぅ」
 「いいな!!」
 「はい!」

  口ごもる真璃は一喝され、自分の意志とは関係なく肯定の返事を出てしまう。
  それを聞いたまりもはもう一度大きく溜息をつくと、腕時計を見、その場から真璃に背を向ける。

 「あ、あの、神宮司大佐」
 「私も仕事があるのでな、これで失礼する」

  背を向けたまま真璃を拒否する。 まりもは数歩歩いた後、ふと動きを止めた。

 「それから白銀……昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい」
 「!!??」

  再び歩き出す。
  しかし、真璃は動けないでいた。 思ってもみなかった言葉に愕然とし、ただ俯くだけ。
  哀しみのような怒りのような…よく分からない感情が真璃に渦巻き、
  その場にしばらく、立ちつくすしかなかった。




 「………はぁ」

  真璃は柵に身を預け、憂鬱そうに海を眺めていた。
  冒頭と違い、海は真っ赤に染まっている。

 「……」

  ――私、何か間違ったこと言ったのかな

  先ほどあった事柄が何度も何度も反芻されていく。
  先刻までは多少イライラしていたが、今は逆に心が冷たさのせいで痛みを受ける、そんな錯覚に襲われている。
  『昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい』
  この言葉を考えるたびに、胸が痛む。 何故か? 彼女自身言葉に出来ず、苦しんでいるようだ。

 「…私、そんなこと考えたこと無いもん…」

  今の自分が言える精一杯の言葉だった。 これで何回目だろう。
  しかしその言葉を発するたびに、ただわびしくなるだけだった。 そして眼に涙が溜まる、それの繰り返し。
  真璃が空を見あげると、薄く輝きだした星を見つける。 ふと、夕呼や霞の笑った顔が思い浮かんだ。

 「……帰りたいな……」

  ハァ、と溜息をつく。 同時に、海上からビューッと冷たく軽い風が真璃にあたる。 

 「寒! うう、そういえば霞お姉ちゃんからもらったマフラー、駆逐艦に置きっぱなしだよ…
 …はあ…・…戻ろう…」

  真璃は身体を起こし、海に背を向けた。 だが、

 「どけええええええええ!!」
 「へ?」


  (ドシーン!!)

 
 「わきゃああああああああああ!!??」

  何か小さな固まりが真璃にぶつかる。 真璃は柵に背中を預ける形となり、後ろ屈みになった体が3分の1ほど外に飛び出していた。
  ……つまり、このままじゃ海に落ちる……

 「お、落ちる! 落ちるううううううぅぅぅぅぅぅぅ!!」
 「いてててて…こんなところで何やって!……やって、るの?」

  ぶつかったのは12歳ぐらいの少年だった。 彼は打った頭を抱え、立ち上がる。
  …目の前にはリンボーダンスのような体勢で両手をバタバタさせた真璃…  
    
 「…何やってんの?」
 「落ちそうなんだよ!!」

  ググッと海の方に更に落ち込む。 真璃の慌てぶりが更に加速する。

 「ぎゃあああああああああ!! ダメえええええええ!!」
 「しょうがねえな」

  少年は真璃の腰を掴み、引っ張る。

 「きゃ!」
 「おわ!?」

  勢い余って二人とも転倒。 

 「…てて、何だよ…!?」
 「イタタタタ……」

  真璃は、少年の上に覆い被さる形で倒れている。
  一方少年は、自分の前にバーンと現れた豊満な胸に硬直するしかなかった。

 「ごめんね、大丈夫?」
 「あ、ああ」

  少年は顔を真っ赤にし、視点をずらす。
  ……ふと真璃の手が、優しく少年の頬に触れた。

 「え?」

  少年が前を向くと満面の笑みを浮かべる真璃がいた。 少年は端整な顔立ちの真璃から目が離せなくなっていく。

 「…な、なんデデデデデデデデ!!!」

  ギュ~~~~~っと少年の頬がつまみ上げられる。 真璃の表情は笑顔だが、頭に血管…そう、怒りで血管が浮いているのが少年に
 も見えた。

 「よく考えてみたら君がぶつかってきたのが原因なんだよね。
 マジで死ぬかと思ったわよ」
 「ま、マジ?デデデデデデデデ!!」

  つねる力を強める。  

 「ちゃんと周りを見なさいってお母さんから習わなかったのかな~~~??
 そんな子はお仕置きだぞ~~」
 「母さん……ヤベ、離せ!!」

  少年が急に暴れ出す。

 「こ、こら! 暴れるなー!」
 「うっせえよ! だったら早くどけよ!」
 「暴れられたら立てないわよ」

  バタバタバタバタ、と端から見たらよく状況が分からないだろう。
  少年が暴れ、女性がそれを力ずくで止めようとする。 逆なら充分そそる展開だが…

 「……タケルちゃん、何してるの?」
 「え?×2」

  二人が横を向くと、10歳ぐらいの女の子が鼻水を垂らしてこちらを見ていた。
  ……タケル? タケルがこの子の名前?
  真璃は少女が「タケル」と呼んだことに、強く衝撃を受けた。
  タケルという言葉を聞いて、自分の父親である「白銀武」を思い浮かべたからだ。

 「ス……スミカ……もしかして、まりも母さん、そこにいる?」
 「へ? まりも、お母さん?」

  あーなんとなく分かってきたぞ…と真璃は勝手に納得する。
  ……一方、スミカと呼ばれた少女は、ヒクヒクと顔を歪ませて返答を待っているタケルの方を向く。
  そしてすっごくイイ満面の笑みを浮かべた。

 「うん♪ まりもママなら、もうそこにいるよ~」
 「ひいいいいぃぃぃぃぃ」

  恐怖に引きつる声が響く。 ドカドカドカと大きな音を立て近づく不協和音。

 「そこにいるわね、タケル!」

  バーン!と扉を急に開かれる。 神宮司まりも、階級は大佐が鬼の形相で現れた。

 「貴方、またスミカを連れて危ないところに行っ……」

  扉を開いた先に現れる、よく分からない状況。
  スミカについては分かった。 立ってみているだけだ。
  しかし、タケルと白銀の状況…これは…

 「……白銀」
 「え? は、はい」
 「白銀って……年下好き?」
 「へえ?」

  と、真璃は今の状況がやっと分かった。
  いたいけな少年に覆い被さっている現状。 んで、両手を動かさないように固定させたこの体勢は…

 「あ、あれええええええ!?」

  真璃は顔を真っ赤にし飛び退く。

 「ま、まあいいのよ、白銀。 うん、私はそういうのには結構理解ある方だと思うし」
 「違います!」

  まりもは満面の笑みを浮かべている。 しかし真璃は分かった。
  笑っていない。 笑っていない、と。

 「いいのよ白銀~。 ほら、そういう嗜好の人っているらしいし…で、でもタケルにはちょっと早過ぎるとも思うのよね~」
 「話を聞いてくださいー!」

  涙目である。

 「うんうん、後でゆっくり聞くわね。 じゃあタケル、スミカ、行きましょうね」
 「へ、へーい」
 「はーい」
 「だから話を聞いて、聞いてください~」

  その場からタケルとスミカを連れて、離れようとするまりも。 何故か早足。
  涙目のまま「話を聞いて~…」と、よろよろついていく真璃。 何故か鈍足。
  気づけば辺りはすっかり暗くなり、星が空一杯に輝いている。
  闇の中、聞こえるのは波の音とニライカナイのモーター音。 そして真璃の、鈍い叫び声だけだった。

 





[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第二節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/11/16 06:52



 「これが現在の地球におけるハイヴの分布図。 そしてニライカナイを含めた移動基地の詳細よ」

  電子機材がボーと光るだけの薄暗い部屋。 真璃はそこで現在の人類がどのような状態にあるのか、そしてハイヴがどこまで拡がっ
 ているかといった情報をまりもから教わっていた。
  しかし、彼女はこの「自分の役割」であるはずの任務に、完全に集中することが出来なかった。
  昨日まりもから言われた、
  『昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい』
  の言葉がどうしても思い出され、気になってしょうがないからだ。

 「聞いているの、白銀?」
 「え? あ、えと…すみません」

  はあ、とまりもは溜息をつく。

 「これで3回目よ。 今日は本当に集中力がないわね」
 「すみません……」
 「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい。 このままじゃ仕事にならないわ」

  まりもは険しい顔で真璃の前に立つ。
  真璃は幾度か躊躇する。 何か言いたいのだが、言葉が見つからないのだ。
  
 「………」
 「ないの?」

  まりもから何か言われるたびに、胸を強く圧迫されるような感じに襲われる。
  彼女は「苦しい」、と思った。 何か言いたいのに言葉が出ないこともそれを助長させる。
  結局、真璃は俯き黙っているしかなかった。
  そんな真璃の様子を察したのか、まりもは再び溜息をつき部屋の電気をつける。

 「今日はこれくらいにしましょ。 これじゃ何もできないわ」
 「え……い、いえ、大丈夫です」
 「全然大丈夫って顔じゃないけど」

  まりもは呆れた顔で真璃を見た。 真璃は相変わらず俯いたままだ。

 「……すみません」
 「後4日しかいられないんだから、明日はそんな顔見せないでよね。
 今日はこれで終わり。 私の部屋に戻って、レポートでもまとめなさい」





 「はあ…」

  真璃は帰りの廊下で、何回目かの大きい溜息をついた。
  任務に集中出来ない自分の不甲斐なさに自分自身呆れているのだ。
  このままではダメだということは分かっている。
  しかし彼女はどうしても、昨日のまりもの言葉が頭から離れないのだ。
  『昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい』
   思い出すたびにイラッとするような、悲しくなるような、とにかく不快な感情がわき上がってしまう。
  その理由に気づければいいのだろうが、今の彼女には答えは出せなかった。
  そしてこの不快な感情から、任務に集中出来ず、先刻まりもに注意されてしまった。
  それではいけない、などということはまりもに言われなくとも分かっているのに。

 「……あーーーもう! 何だってのよ!!」

  誰もいない廊下で思わず叫んでしまう。 まるで言葉が出なかった事への苛立ちを解消するかのように。

 「分かってるわよ! 任務に集中しなきゃいけないなんて、十分に分かってるわよ!」

  でも出来てないよね、と心の中でツッコミを入れる。

 「……はあ……なんで出来ないのかな……」
  
  足を止め、再び大きな溜息をつく。 ここは既にまりもの部屋の前だ。

 「はあ…憂鬱…」

  ガチャッ、と力なく扉を開く。

 「………」
 「………げ」
 「あ、真璃お姉ちゃんだ。 こんばんは~」

  部屋の中には昨日まりもから紹介されたタケルとスミカがいた。
  二人は戦災孤児らしい。 8年前のオーストラリア陥落のとき、両親を失った二人をまりもが引き取ったのだ。
  タケルは子供らしく、悪戯好きの迷惑少年。
  一方スミカは、タケルにどこまでも付き添う小ガモのような娘だと聞いた。
  …さて、現在の部屋の状況だが…

 「……タケル君。 君は何をしているのかな?」
 「え!? え………と」
 「真璃お姉ちゃんの下着ってすごくキレイで可愛いよねー、タケルちゃん」
 (スパコーン!)
 「アイター!」
 「バカ! 何言ってんだよ!」
 
  部屋の中は、真璃がトランクに入れておいたはずの服や下着が散乱し非常にカオスな状況になっていた。
  タケルはタケルで、真璃が一番お気に入りのブラを持って今現在ぶんぶん振り回していたりする。

 「何だよー! タケルちゃんがトランク開けて出てきムゴムゴモゴゴ」
 「わあああ、バカ!」
 「・・・・・・へえ」

  『トランク』という言葉に出た直後にスミカの口を押さえるタケルだったが、もはや手遅れ。
  “ゴゴゴゴゴ”という音が聞こえてくるような真璃のオーラに、タケルは全身から冷や汗が出てきた。
  そして一歩二歩と真璃がタケルに近づいていく。

 「ま、待てよ! 俺はただトランクを開けただけで、こんだけ散らかしたのはスミ」
 「問答無用おおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
 「ぎゃあああああああああああ」

 

 「イデデデデデデデデ!!」
 「ったく、人が憂鬱なときに、もう!」

  真璃はタケルのこめかみに拳をあて、ぐりぐりと圧していく。
  夕呼直伝のお仕置きがまさかこんなところで活かされるとは、真璃も到底思っていなかっただろう。
  ぐりぐりされ悲鳴をあげるタケルに、スミカが可哀想なものを見る目で近づく。

 「タケルちゃん、痛いの?」
 「イテェーよ! めっちゃイテーよ!
 ていうかスミカ、なんでお前は何もないんぎゃああああああ」
 「男が弱音を吐かない!」

  ぐりぐりが更に強まり、タケルは大きく悲鳴を上げた。
  スミカはスミカでそんなタケルの惨状にひいいぃぃぃと怯えている。

 「はい、おしまい。 これに懲りたら悪戯癖を少しは改めてよね」

  パッと真璃がタケルから手をはなすと、タケルはそのまま大の字になってゆっくりと倒れ込んだ。
  両こめかみからは白い煙が上がっている。

 「・・・・・・タケルちゃん?」

  スミカが声をかける。
  返事がない、ただのしかばねの様だ。

 「タケルちゃああああぁぁぁぁぁぁん!!」

 (あーそういえば、私も夕呼先生にあれやられてしばらく倒れたままだったなー)
 と、二人の様子を目を細めながら真璃は見ていた。
  
 「(ガチャッ)ただいまー」

  まりもが仕事を終え帰ってきたのだろう。 疲れた様子で扉が開かれる。
  ・・・そこには、散乱した衣服と大の字になって倒れているタケル、そして泣いてすがるスミカ、ぎょっと目を見開いてまりもを見る真璃。

 「た、大佐・・・」
 「・・・・・・」
 「うえええぇぇぇぇぇん、タケルちゃ~~ん」
 
  部屋を眺めながら沈黙を続けるまりも。
  その時唐突に、まりもの目からブワッと大量の涙が!

 「ふえぇ!?」
 「白銀、いくら私がきついこと言ったからって年端もいかない子供に手をだすなんてー!」
 「ええ!?」
 「私そんなに非道いこと言ったかしら・・・狂気に走らせる様なこと言ったかしら・・・」
 「タケルちゃ~~ん目を開けて~~~」

  まりもは壁に手を付き、後悔した表情を浮かべる。

 「あ、あの大佐? 聞いて下さいます?」
 「私そんなひどい女だったかしら・・・・・・そりゃあちょっと仕事が忙しいからイライラすることはあるかもしれないけど、これでもそれなりに
 人格者だと思ってたのに・・・・・・」
 「タケルチャ~~ん」
 
  シクシクと泣くまりも。 あがーと泣くスミカ。 何だかよく分からないが、とにかく泣きたくなってきた真璃。
  まりもの部屋は今、とてつもなく複雑で混沌とした状況に陥っていた。
 
 



 「はあ・・・・・・昨日は散々だった・・・・・・」

  昨晩のことを思い出しつつ、真璃は眠そうに目をこすり甲板に立っていた。
  結局あの後はまりもに話を聞いてもらうまで何度も説明し、何十回目かにやっと理解してもらえた。
  スミカは気づいたらタケルの側で一緒に眠っていた。 真璃は「蹴ったろか」と思った。

 「でも・・・・・・」

  少し気分が晴れて良かったかな?と真璃は思った。
  あのふさいだ気持ちのまま、まりもの言葉について考えても、結局は泥沼にはまるだけだったろう。
  結局現状としては、まりもの言葉についてはゆっくり考えて、今は任務を集中しよう、と気持ちを切り替えることにした。
  慌てても混乱するだけだ、と考えたわけである。

 「・・・・・・ん?」

  体を伸ばしていた真璃は、管制塔の向こう側にあるビル群に目がとまった。
  駆逐艦でここへ来るときにも見たものだ。

 「そういえばあれって何だろう・・・・・・まりもちゃん・・・大佐から後で聞こうかな、と」

  ファ~、と真璃は欠伸をした。

 「あ、白銀。 ちょっと・・・・・・」
 「はう!?」

  そんなことを言っていると、ちょうどまりもが急に声をかけてきた。
  欠伸が途中で止まり、奇声が漏れる。

 「ど、どうしたの? そんな変な声だして」
 「い、いえこっちの話です」

  口を押さえながらまりもの方を見る。

 「何か御用ですか?」
 「うん・・・・・・もう、大丈夫? 仕事はちゃんと出来る?」

  まりもは不安そうな顔で質問をした。 昨日のせいだけではないが、ちょっと言い過ぎたかと後悔していたのである。
  真璃はちょっと伏し目がちにまりもの問いに答えた。

 「はい、大丈夫・・・・・・だと思います。
 私やっぱり任務でここに来ているし、そこはきちんとしないといけないなって」
 「・・・・・・」
 「整備場で大佐に言われたこと、ずっと考えています。 でも答えはまだ出せていません。
 ですが自分がしなくてはいけないことは忘れていません。 自分の任務・・・・・・それを果たしながら、答えを見つけたいと思います」

  まりもの顔が穏やかになっていく。 そして真璃の肩に手を置き、「頑張りなさい」と声をかけた。

 「慌てなくていいのよ。 自分のやるべき事さえしっかりやれば、それでいいんだから。
 貴女はバーナード星系に地球のデータを持ち帰るの。 それが貴女のやるべき事なのよ」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は顔を曇らせた。 バーナード星系に帰ることが任務・・・それは確かにそうなのだが、何故か真璃の中でそれを露骨に言われる
 ことに嫌な感じがした。

 「・・・・・・白銀」

  まりものその感じに気づいたのだろう。 途端に顔を険しくさせる。

 「はい、分かっています。 私の任務は地球のデータを持ち帰ること、それは絶対に忘れません」
 「・・・・・・そう。 ならいいわ」

  ふう、とまりもは息を吐いた。

 「ああ、それとタケル達見なかったかしら?」
 「タケル君とスミカちゃんですか? 見ていませんが・・・・・・見当たらないんですか?」

  まりもがアハハと苦笑いする。 どうやらいつものことらしい。

 「多分あそこに行っていると思うんだけど・・・・・・はあ、何度言っても聞かないんだから」
 「どこですか?」

  まりもが顔を上げる。 その先には先刻見たビル群があった。

 「以前仕事でちょっと行ったときにね。 あれ以来、あそこに入り浸る様になったのよ。
 治安が悪いから行くな、って何度も注意しているんだけどね」
 「治安が悪い、ですか。 あそこって一体何なんですか?」

  う~ん、とまりもは返答に悩んでいる。

 「そうね。 元々は難民や軍人の住宅施設だったんだけど、今はスラム街のようになっているわ。
 初めこそ普通の繁華街だったんだけど・・・・・・難民が一気に増えて治安が悪化してね」
 「そうなんですか」
 「ああ、でも西側は普通よ。 今度連れて行ってあげるわ」

  そう言いまりもは時計を見る。

 「じゃあ、そろそろ私は戻るから。 タケル達を見かけたら叱っておいて」
 「はい、分かりました」

  まりもは施設へ戻ろうとするが、ふと思い立った様に再び真璃の方を向いた。

 「・・・・・・白銀」
 「は、はい」
 「あの子達の相手をしてくれて、ありがとね。
 スミカがね、まるでお姉さんが出来た様だって・・・・・・すごく喜んでいたわ」
 「え・・・」

  言い終えるとまりもは施設へ足早に戻っていく。
  一方真璃は笑顔でまりもを見送った。 「ありがとね」という言葉。 「お姉さん」という言葉。
  それら言葉が真璃には非常に新鮮に聞こえた。 最近は鬱いだ気持ちになってばかりだったからだろう。
  ただ素直に嬉しかった。
  ・・・・・・真璃はもう一度ビル群を見た。
 
 「・・・・・・」

  難民達の住宅施設、か。 そういえば民間人は見てないな。
  と真璃は思った。 そして治安が悪いのなら、タケルやスミカ達が危ない目に合っているのではないか、とも思った。
  
 「・・・行って、みるか」





[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第三節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/11/19 00:06



 「はぁ、はぁ、はぁ!」
 「タケルちゃ・・・・・・もうダメ・・・・・・私走れない」
 「諦めちゃダメだ! もう少し、もう少しだから!」

  至る所が陥没し、整備されていないと思われる道路をタケルとスミカが走っている。  
  何かから追われているのだろう。 タケルの焦った表情が事の重大さを窺わせる。
  一方、スミカは今にも倒れてしまいそうなぐらい顔を赤くしている。 これまでずっと走ってきたのだろう。
  タケルはそんなスミカの手を引き、何とか動くよう促している。

 「あそこだ!」

  タケルとスミカは下部部分が壊れたドアから家の中に入る。
  家の奥まで進み、向こう側から見えないところで二人は腰を落とした。

 「はあ、はあ、はあ」
 「スミカ、大丈夫か? もう大丈夫だから、だからゆっくり息をしろよ、な」

  スミカは何度も大きく呼吸を繰り返す。 励ますタケルだが、彼自身も非常に荒い呼吸をしていた。

 「はあ、はあ、はあ・・・・・・た、タケルちゃん」
 「何だ?」
 「ちゃんと・・・・・・ちゃんと持ってる?」

  とろんとした目でタケルに確認を促す。 酸素供給が追いつかず意識が朦朧としているのだろう。
  スミカからの不安に答えるため、タケルは腹部のポケットに手を突っ込ませた。

 「・・・・・・ほら」

  それは「beef」「chicken」と表面に書かれた缶詰だった。 ポケットには5つほどの缶詰が見える。
  彼らはこの缶詰を取ってくるために、このスラムへ入ったのだ。
  それを見て、息も絶え絶えにスミカがニコッと笑う。

 「まりもママ・・・・・・今度は、喜んでくれるかなぁ」
 「気づかれちゃったらダメだろ。 また料理長さんにこっそり入れて貰おう、な」
 「うん・・・・・・そうだね」

  スミカは笑みを浮かべる。 しかし本当に辛そうだ。
  いつもならこのようなヘマはしない・・・・・・だが、今回は別の集団とたまたま鉢合わせてしまったのだ。
  その後は食料を取り戻そうとする大人達と、タケル、スミカの追走劇が始まった。
  整備があまりされていないここでは、小さい体の彼らが通れるところの方が多い。
  タケル達は何とか大人達を振り切り、ここへ入ることが出来たのだ。

 「はあ、はあ、はあ・・・・・・」
 「大丈夫か? 気分は悪くないか?」
 「うん・・・・・・大丈夫」

  全然大丈夫ではない。 さっきまで赤かった顔が、少し青ざめて見える。
  スミカの様子を見て、タケルは動けないな、と悟った。 そして、しばらくここで休もう、とタケルは考える。
  しかし、事態は思うように進まなかった。

 「・・・・・・やっと見つけたぜ、クソガキ共!」
 「!?」
 
  タケルは声のした方を見る。 そこには、台所にある小さな窓。
  小窓から見える、眼を血走らせた男。 こちらを睨みつけ、タケルはその男と思わず目があった。
  タケルは逃げようと立ち上がる。 が、辛そうに呼吸を続けるスミカはもはや立つことも出来ないでいた。

 「スミカ!?」
 「タケルちゃん・・・・・・お願い、ママに・・・・・・御飯・・・・・・」
 「バカ! 置いていけるかよ! 頑張れスミカ!」

  タケルはスミカを背負う。 だが彼の体格と体力では立ち上がるのがやっとで中々進めない。
  
 「く・・・そー!」
 「タケ・・・・・・ルちゃ・・・・・・ん」

  タケル達は家を出た。 一歩、また一歩…タケルはゆっくりと道路を歩き続ける。
  移動速度に比べ、焦燥感は大きくなる一方だ。 どこまで来ている? このままでは見つかるか?と不安が拡がる。
  だがタケルはスミカを置いていこうだとか、自分だけ逃げようということは考えなかった。
  彼は「自分の責任だ」ということを深く自覚しているのだ。

 「俺が、俺が守るから! だからスミカ、頑張れ!」
 「へえ、熱いじゃないか少年」
 「!?」

  グイッ、とタケルは後ろに強く引っ張られる。
 
 「うわ!」
 「きゃ!」

  二人はそのまま転倒した。 タケルはすぐに上半身を起こしたが、それ以上は動けなかった。
  周りには5人の男達が、自分を囲むように立っていたのだ。 

 「う・・・・・・あ」

  ぽん、とタケルの肩に何かが触れる。
  背筋がぞーっとし、タケルはバッと振り向いた。
  一人が笑みを浮かべ顔を近づける。 しかしその笑顔は人を安心させるものではなく、かえって恐怖を抱かせる冷徹なものだ。

 「さてタケル君…一緒に行こうか。 ここじゃちょっと音が響くからね」





 「うえええええ、やめて、もうやめてよおおおおお
 タケルちゃん死んじゃうよおおおお」

  スミカの声が路地裏一杯に拡がる。 しかしここには窓も何もなく、声を拾う者は誰もいなかった。
  前では服をボロボロにし頬や腕に擦り傷を多く作ったタケルが、うつ伏せになって倒れている。
  鼻血が流れているためか、口からヒューヒューと微かに呼吸音が聞こえる。 しかしそれ以上の反応はない。
  大人達から暴行を受け、ぐったりとしているのだ。
  
 「スミカちゃん、彼は自分でこうなることを選んだんだよ?
 『スミカの分も俺が受ける』と彼が言うから、君の分のお仕置きもしなきゃいけないだろう」

  最年長と思われる男性がスミカに近づき、そう伝える。
  その言葉は逆を言えば、「君もああなっていたんだよ」と伝えたに等しい。

 「う、ううううう・・・・・・う」

  幼いながらもそのことを理解出来た彼女は、申し訳なさと恐怖にまた泣き始めた。
  「ごめんなさい、ごめんなさい」と、もはや誰に謝っているのか分からない。
  ニヤニヤとその様子を見、男はタケルの近くに立つ若い男に声をかけた。  

 「で、食料は?」
 「だめですね、こいつ全然放そうとしません」

  タケルはボロボロになっても、腹の部分だけはしっかりと体全体で隠していた。
  缶詰だけは絶対に渡さない、という意志の現れだろう。

 「こういうのは自分の意志で返すようにしないとな・・・・・・でないと、こういうガキはまた繰り返す」

  そういうと男は懐に手を伸ばす。 取り出されたのは、よく手入れされた軍用ナイフ。
 
 「ひ!」

  それを見たスミカの顔が一気に引きつった。 「タケルの死」・・・・・・それが急速にリアルさを増していく。

 「や、やめて、やめて。 タケルちゃん死んじゃう、ホントに死んじゃうから。
 もう絶対にこんなことしないから、だから」

  ブルブルと震えながらもタケルを庇おうとする。 その訴えに対し、男はギラリとひかるナイフをスミカの前に持ってくる。

 「ひ・・・・・・や」
 「スミカちゃん、さっき俺が言ったこと聞こえなかったのかい。
 それとも、君が彼の分もお仕置きを受けてくれるのかな~?」 

  青ざめる。 ボロボロになったタケルを見て、恐怖が一杯になる。
  『でもこのままじゃタケルちゃんが・・・・・・』ともスミカは思っている。 心が引き裂かれそうだ。

 「・・・・・・・・・・・・!!」

  彼女は本当はタケルと替わってあげたい。 「私が!」と言ってあげたい。
  しかし恐怖が、その言葉を喉の奥に流してしまう。 声が涸れ、空気しか出てこない。
  幼い彼女は唇をキュッとしめ、涙をポロポロと流すことしか出来ないでいた。

 「ひぐ・・・・・・ひ・・・・・・ひ」
 「そうそう。 そのままじーっとしてればいいからね」

  男はスミカから離れタケルに近づく。
  タケルは薄く目を開け、男を見続けている。

 「も・・・・・・う、諦め、ろよ・・・・・・」
 「よくそんなこと言えるな、この状況で」

  男はタケルの左手を掴み、彼の見えるところに持っていく。
  そして、ナイフを大きく掲げ、そのまま振り下ろした。

 「・・・・・・!?」
 「ひ!」

  ドスッ、とナイフは人差し指と中指の間を抜け地面に突き刺さる。
  その様子を見ていたスミカは目を背ける。
  タケルは自分の目の前で行われたそれに恐怖し、体中に汗が拡がった。

 「よかったな、偶然それて。 さて次は・・・・・・」
 「!?」

  もう一度ナイフが振り上げられる。

 「ひん!」
 「・・・・・・と、今回もハズレか。 運が良いな」

  今度は中指と薬指。 ナイフが自分の腕に落とされる光景は、タケルの呼吸を徐々に荒くしていく。
  スミカはもう見ていられず、目を必死に閉じぶんぶんと首を振るしかなかった。
  周囲の大人達はハハハ、とその様を眺め楽しんでいる。

 「そろそろ、返す気になったか? ん?」
 「・・・・・・誰が」

  ドス!

 「!?」

  唐突にナイフが振り下ろされる。 それはタケルの中指にかすり、血が軽く流れ始めた。
  ・・・ズクン、ズクンと少しずつ痛みがタケルの意識に食い込んでいく。

 「もう一回言ってみろ。 次もハズレるかは分からんぞ」
 「・・・・・・」

  タケルの呼吸が一気に荒くなる。 はあはあ、と息をするたびに体が上下に揺れる。
  痛みと恐怖が全身を支配し、耐えられなくなった彼は少しずつ、右手を体の下へ潜り込ませていった。

 「・・・・・・」

  目に涙が浮かぶ。 本当に申し訳なさそうな表情。
  タケルは、ポケットの中の缶詰を掴んだ。
  
 (タケル・・・・・・)
 「!?」

  不意にまりもの顔が思い浮かんだ。
  そして、少し前にまりも、タケル、スミカの3人でお風呂に入ったことを思い出した。
  傷だらけで、やせ細った体のまりも。 体の至る部分から、骨が浮き出ていた。
  その時タケルは、そんなまりもから目が離せなかった。
  いつも食事は自分の分をタケル達に分け与え、その末にか何度も倒れているのを知っている。
  だからここへ来たのだ。 まりもが少しでも栄養のあるものを食べられるように、と。
  んく、とタケルは一度息を呑み、缶詰から手を離した。

 「渡せねえ・・・・・・」
 「あ?」
 「絶対に渡せねえ! 渡せるかよ!」

  ギラリとタケルは男を睨み付けた。
  その様子に、男はイラッとする。

 「タケルちゃん・・・・・・」
 「そうか。 どこまで続くか、見せてみろや!!」

  再びナイフが振り上げられる。
  ・・・・・・だが、今度は降りてこない。
  タケルは視線を上にずらした。

 「事情は知らないけど、やり過ぎじゃないかな」
 「真璃(お姉ちゃん)!?」

  そこには真璃が立っていた。 真璃はナイフが下ろされないよう、男の腕を掴んでいる。

 「テメエ、誰だっデデデデデデ!」

  真璃は掴んだ腕を内側に軽くひねる。 男は激痛のためナイフを落とし、体を下げる。

 「その子の関係者。 もとい、今は保護者かな」
 「テメ、エ、見張っていた奴らは、何を」
 「ああ、ちょっと眠ってもらった。 軽く投げただけなんだけどね」
 「くぅ!」

  男は視線を上げ、オロオロとしている二人に檄を飛ばした。

 「何やってやがる! 早くこいつをやっちまえ!」
 「は、はい! このやろう!」
 「真璃お姉ちゃん!」
 「!!」

  ぱっ、と真璃は手を離し、突進してきた男達に注意を向ける。
  先に近づいた男が殴りかかる。 不意に、男の視界から真璃が消え反転した。
  彼が踏み出そうとした左足を真璃が右足で払ったのだ。 男は分けも分からず、そのまま横に倒れ込み側頭部を強打する。
  もう一人の男が掴みかかってくる。 その伸びきった腕を真璃はかわし、両腕でしっかりと固定しつつ、男の体の下に滑り込んだ。
  そのまま自分の体に乗せるような姿勢へ持っていき、腰を軸に相手の体を捻った。

 「うわ!」

  つかみかかった勢いのまま男は宙を舞い、ドーンと大きな音を立てて横の壁に投げつけられた。
  その結果を見ることなく、すぐさま真璃はナイフを持っていた男の腕を再度掴み、肩に手を置く。
  肩部に激痛が走り、立ち上がろうとしていた男は中腰のまま動けなくなった。

 「この、野郎・・・・・・」
 「まあ一応軍人だからね。 これぐらいは朝飯前よ」

  朝飯前、と言ったがこれは少し違う。
  真璃の場合、幼少期の頃に冥夜から武術の基礎を伝授されている。
  武術の達人である冥夜からその基礎を学んだことで、真璃は少しだけ他の人間に比べて上達が早いのである。

 「というわけで、さっさと仲間を連れて帰ってくれるかな」

  真璃は男を解放する。 男は肩を押さえつつ真璃を一度睨むが、すぐに倒れた仲間をを引き起こしその場を後にした。

 「・・・・・・ふう」
 「ま、真璃、何でここに・・・・・・」

  タケルが上半身だけ起こす。 
  真璃は中腰になり、タケルに顔を近づけた。

 「『何で』? それはこっちの台詞よ。
 あいつ等は何? 何で絡まれていたのよ」
 「・・・・・・」

  真璃が険しい顔でタケルを覗き込む。 彼は俯き、黙り込んだ。

 「もし私が気づかなかったら、どうなったと思ってるの!?
 しかもスミカちゃんまで巻き込んで・・・・・・こんな、まりもちゃんに心配かけるようなことして!」
 「・・・・・・!!」
 「真璃お姉ちゃん!」

  スミカが駆け寄ってくる。 スミカの顔はぐしゃぐしゃに泣き崩れている。

 「タケルちゃんをそんなに責めないで! タケルちゃんは、タケルちゃんはまりもママのためにここに来たの!」
 「・・・・・・え?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「まりもママね、いつも御飯が足りないの。 だからいつもお腹空かせて、この前お風呂に入った時なんて、本当にすごく痩せてて・・・
 だからタケルちゃん、まりもママに少しでも栄養のあるものを食べさせたいって、それで、それで・・・」
 「それで、盗んだの?」

  スミカはぶんぶんと首を横に振る。

 「ママ達が知らない倉庫があってね、そこに食べ物があるの。 ここの人達はいつもそこから取っていくの。
 だからタケルちゃんは何も悪いことしてない、怒られるようなことしてない」

  後は言葉にならなかった。 グスグスと泣き続ける。
  真璃はフッと小さく息を吐き、そんなスミカの頭を優しくなでて上げる。
  そして腰を落とし、自分の目線とスミカの視線を合わせた。

 「怒ってないよ」
 「・・・・・・え」

  真璃は優しく微笑みを浮かべて、スミカを見た。 スミカは真璃の表情に安心したのか、段々と表情が明るくなっていく。

 「じゃあ、じゃあタケルちゃん、怒らないの?」
 「うん」
 「ホント?」
 「うん」
 「ホントにホント?」
 「ホントだよ」
 「ホントにホントにホントに、ホント?」
 「う、うん」

  最後の言葉にはちょっと笑みを崩しかけたが、真璃は笑顔でスミカの願いを聞き届けた。
  スミカは大きく笑顔を作り、

 「やったー! タケルちゃん、良かったねー!」
 「ば、バカ、抱きつくな! イテェー!」

  タケルに飛びついて喜ぶ。 真璃は二人のそんな様を見ながら立ち上がった。

 「でも『お仕置き』はあるからね」
 「「・・・・・・え」」

  タケルとスミカは真璃の方を見る。 そこには昨日のような「ゴゴゴゴ」という音が聞こえそうな、そんな空気を醸し出している。
  『怒るんじゃん・・・・・・』
  とタケルとスミカは心の中で思ったが、口に出しはしなかった。

 「二人とも・・・・・・覚悟はいい!?」
 「!!」
 「二人ともトイレ掃除とお風呂洗いをこれからちゃんとすること! それから部屋を散らかさない!
 で、もう絶対にここへは来ないこと、以上!!」
 「「・・・・・・へ?」」

  タケルとスミカは拍子抜けした。 最後の部分以外はいつもまりもに言われていることだからだ。
  思わず二人は顔を見合わせる。

 「復唱!」
 「!!」

  バッ、とタケルとスミカは立ち上がり、背筋を伸ばした。

「「これからはトイレとお風呂の掃除をちゃんとやります! 部屋も散らかしません!」」
「・・・・・・それから?」
「・・・・・・」
「それから!?」
「「もう絶対にここへは来ません!」」
「うん。 よしよし」

  真璃はタケルとスミカの頭に両手を置き、撫で回す。

 「もう、こんな危ないことしちゃダメだぞ。 まりもちゃんも心配するからね」
 「あ、ああ」
 「う、うん」

  タケルとスミカは俯いている。 ここに来てはいけない、ということはまりもに栄養のあるものを食べさせてあげられないということを指
 すからだ。
  真璃は察し、コホン、とわざとらしく咳をした。

 「保護者と一緒なら、また来てもいいかもね」
 「え?」

  タケルは驚きの表情で真璃を見た。 真璃はうんうん、と首を縦に振り、笑顔で応える。

 「うん、分かった!」

  タケルはキラキラと目を輝かせ、大きな声で返事をする。
  真璃は素直に、それを『可愛い』と思った。 


  (ゴッ・・・・・・・・・・・・!!)


 「…え」

  不意に真璃の頭部へ衝撃が走る。 何故か、力が抜けていく。
  驚いた表情のタケルとスミカが視界に入り、自分が今、落ちているのだなと気づいた。
  そのまま、今度は地面が見える。

 「ま・・・・・・!! り!!」
 「・・・・・・・・・・・・り!!・・・・・・ゃん!!」 

  (・・・・・・何・・・・・・言っているのか・・・・・・聞こえないや・・・・・・)
  真璃の感覚が更に深みに落ちていく。
  そして完全に声が聞こえなくなったとき、彼女は意識を失った。
  
  


  
 「・・・・・・う」

  真璃はゆっくりと目を開けた。 唐突に、ガラスの破片や砕けたコンクリートが視界に入る。
  つまり、地面がすぐ横にある。 彼女は今、横になっていることに気が付いた。
  視線をずらすと、薄暗い、まるで廃ビルのような拡がった空間が目に付く。
  ・・・・・・何だったっけ・・・・・・
  と、自分が何故ここにいるのか、何をしていたのか全く思い出せない。

 「・・・っつ」

  不意に、後頭部に痛みが走る。
  真璃は後頭部に腕を伸ばそうとするが、何かに突っかかって届かない。
  まだ朦朧とする意識の中、両腕をモゾモゾと動かすがやはり動かないでいる。
  ズキズキと痛む頭部の痛み、それは真璃の意識を緩やかに覚醒へ導いていく。
 
 「起きたようだな」
 「・・・・・・・・・・・・!?」

  真璃は声のした方へ目を向ける。
  ニヤニヤと笑ってこちらを見ている4人の男性。
  ・・・一人は何故か見覚えがあった。

 「!!」

  真璃の意識が一気に拡がる。
  そう、身に覚えがある彼は先刻タケルに暴行を振るい、真璃がナイフを奪った男だった。
  真璃は立ち上がろうとする。 がしかし、腕が前に回らず、そのまま顎を強く地面に打った。
  そして気が付いた。 自分が後ろ手に縛られているということに。

 「お得意の柔道もこれじゃ出来ないな」 
 「く・・・・・・!」

  ナイフを持っていた男は不適に笑っている。
  ふと、別の男が近づいてくる。
  男は「日本帝国軍」の制服をだらしなく着込んでいた。 「帝国軍人」と、真璃はすぐに悟った。  

 「お前、名前は?」
 「・・・・・・・・・・・・白銀真璃」

  真璃は一瞬躊躇したが、隠す必要も感じず正直に伝えた。
  自分は何も間違ったことはしていない、という正当性への確信、ということである。

 「やっぱりな」
 「・・・・・・」
 「お前、外星系移民だろ」

  ザワ、と他の男達の空気が変わる。
  さっきまでニヤニヤ笑っていた顔が途端に険しくなり、鋭い目つきで真璃を見るようになった。

 「外星系移民、だと!?」
 「何で逃げた奴らがここにいるんだ!」

  ピキッと「逃げた」という言葉が頭に来る真璃。
  縛られている自分の現状ともあいなって、腹立たしさがより大きくなっていく。

 「何よ! 私の母様達は逃げたんじゃない!
 人類の希望として、人類という種が滅亡しないようにって、宇宙へ行ったんだ。 行かざるをえなかったんだ!」

  声が建物に反射し、響いて聞こえる。
  真璃はなおも続けた。

 「母様だって本当は地球に残って、父様と戦いたかったはずなんだ! でも出来なかった・・・・・・人類を滅亡させないために。
 それなのに何! 皆して逃げた逃げたって!? BETAに負けて呆けているアンタ達なんかより、よっぽど気高いわよ!
 しかも小さな子供に手を出して…・・・恥を知れ!!」
 「・・・・・・・・・・・・!!」

 (ボグッ!!)

 「ぐ・・・・・・!?」
 「このクソガキが!」

  タケルを殴っていた男が真璃の腹部に蹴りを入れる。 その強烈さに、真璃は胃の内容物を吐瀉した。
  しかしこれは一度だけではなかった。 男は何度も何度も、真璃の腹部に蹴りを入れた。

 「あの地獄を! 見てもいねえくせに! この野郎!!」
 「うあ・・・! あ・・・や! は・・・・・・!」

  蹴られるたびに胃から何かせり上がってくる不快感に襲われる。
  その不快感と痛みで、何度も吐きだした。 何度目かでは、もはや胃液しか出てこなくなっていた。
  ・・・・・・男の蹴りが止まった。

 「はあ、はあ、はあ」
 「げほ! う・・・・・・けほ!」

  真璃は力なくダランとしている。 力をいれると、腹部の痛みが増すからだ。    
  だが再び蹴られることの恐怖からか、真璃は少しずつ体を丸めていった。
  その様子を少し眺め、男は真璃の顔を足で踏みつける。
  踏まれる痛みと、吐瀉物の臭いが真璃の不快さを増し、強い吐き気が再び襲ってくる。

 「う・・・・・・あ」
 「地球で何があったのか、知らねえくせによ!
 平和な世界で育ったやつが、俺たちに口応えするんじゃねえ!」

  より強く踏みつけてくる。
  真璃は強い吐き気と、腹部の痛みで何も考えられなくなっていた。
  
 「どうせお前の親も、金や権力で移民権を手に入れたんだろうが!」
 「・・・・・・!」

  その言葉に真璃は強く反応した。 笑顔の冥夜が思い出され、同時にその言葉…金や権力で移民権を得た…というフレーズは冥
 夜の正義と誇りに関わる重要なことだ、と真璃の中に何かしらの思いをあふれさせた。
  絶対にこれだけは否定しないといけない、という義務感に駆られたのだ。

 「違う、母様はそんなことはしない!
 自分だけ助かろうなんて、そんなこと絶対にしない!!」
 「テメエの親の分を誰かが用意したかもしれないだろうが!
 他の誰かが使うはずだった移民のIDを、テメエの親が助かるために不正に手に入れた可能性だってあるんだよ!」
 「!?」

  不意に武の顔が思い浮かぶ。
  写真で見た武と冥夜は本当に仲が良さそうで、互いに愛し合っていたことが一目で分かる。
  ・・・・・・母様のために、父様がIDを準備する・・・・・・
  写真に浮かぶ笑顔が何度もフラッシュバックする。 「あり得ないことではない」と、真璃は考えてしまった。
  愛する人に生きてもらうために、例え不正を行ってでも・・・・・・そう、ただ生き残ってほしいがために・・・・・・
  だがそれは、『真璃の考える冥夜』の生き様そのものを否定しかねないものだった。
  
 「母様はそんな人間じゃない!
 母様はそんな不正は許さない! 例え自分の愛する人が・・・愛する人が…」

  言葉を紡ぎながら、真璃は自分の言っていることに矛盾を感じている。
  真璃が知っている冥夜。 それは、自分の「命を捨てて」でも守るべき人を守ろうとした強い母の姿。
  その母が、「生き残る」ために、外星系移民となった。
  真璃は今まで疑問にも思わなかった。 その言葉の意味を・・・・・・

 「・・・・・・だったら・・・・・・」
 「え」
 「だったら・・・・・・何であいつじゃなかったんだよ・・・・・・」

  男は、泣いていた。 顔を歪め、鼻水を垂れ流し、とても人間らしい表情で。
  「あいつ」・・・・・・きっとそれは、彼にとって大事な人間なのだろう。

 「テメエの親が搭乗を諦めていたら、もしかしたら、もしかしたらあいつが選ばれたかもしれないじゃねえか!!
 この地獄の世界から、平和な世界へ行けたかもしれないじゃねえか!」
 「・・・・・・!?」
 「あいつが生きていてくれれば、それだけで俺は良かったんだ! どこまでも戦えたんだよ!
 なのにあいつは、BETAに喰われちまった・・・・・・俺は、俺は守れなかった・・・・・・!
 俺だけ生き残っちまったんだ・・・・・・仇も、復讐も出来ずに、生き残っちまったんだよ!!」
 「!!」

  男の踏みつけが強くなる。 口内が切れたのか、血の味が口一杯に拡がる。
 
 「クソ! クソ! クソオオオオオオオオオ!!」
 「あ!」

  もはや言葉にならなかった。 男は訳の分からない奇声を上げながら、真璃の顔を蹴り上げた。
  仰向けになる真璃。 口の中が血で一杯になり、少し外に漏れ頬を垂れる。
  だがこの時、真璃はそんなことは気にならなかった。 全く別のことが頭の中で回っていた。
  『母は、「生き残る」ために、外星系移民となった』
  この言葉の意味。 それは、男が言ったことそのものだ。
  母は、父と地球を、見捨てた・・・・・・どんな事情であっても。
  真璃は『男の言うとおりだ』と思ったのだ。 IDを放棄し、別の人間に与えればよかったのだ。
  そして『真璃が考える冥夜』ならば、そうするに違いなかった。 
  だが、事実は違う。 母は、「生き残る」ために、外星系移民となった・・・・・・父と地球を捨てて・・・・・・
  その考えに至ったとき、真璃の中で何かが崩れていくのが分かった。
  自分が「正しい」と信じてきたことが、「正義」が、バラバラになってしまったのである。

 「・・・・・・ぁ・・・・・・あ」

  真璃の目に涙が溢れる。 何も分からなくなった。 自分が何者なのか、自分は何を考え、行動すればいいのか。
  目の前が涙で見えなくなる。 真璃は声を殺し、泣いた。

 「・・・・・・く・・・・・・・ひ」
 「はあ、はあ、はあ」

  男は荒い呼吸を続けていた。 怒りと苛立ち、何か来る焦りが、男の興奮を未だ高めたままにしている。
  そしてゆっくりと真璃の方へ向いた。
  ・・・・・・伝線したストッキングから見える露わになった太股。 くびれた腰付きと、形よく整った胸。
  思わず息を呑んだ。
  男は、自分の中に別の感情が高ぶってくるのが分かった。 真璃を痛めつけたいという感情と、男として備わった欲望が結びつき、彼
 の次の行動を招引する。

 「おい、どうした?」

  真璃をじっと見続ける男を不審に思い、声をかける。
  ギラギラとした目で一度仲間の方を見るが、またすぐに戻す。
  他の男達も真璃の方を見た。 はだけたスカートと嗚咽する様が、男達の支配欲を助長させていく。
  彼らは互いに視線を交わし、一度軽く頷いた。

 「ひぐ・・・・うえ、ぇ・・・・・・」

  真璃はまだ泣き続けていた。 母のこれまでのイメージが浮かぶたびに、罪悪感にも似た感情が真璃に湧き起こり逃げ出したくなった。
  一方でそのイメージは浮かんでは消えていく。 消えたとき、妙な喪失感が今度は心を包む。
  真璃はそれを繰り返し、苦しんでいた。
  
 「・・・・・・!?」

  不意に、足に何かがまとわりついてくる。
  真璃は目を開き、見ると、男が自分に迫ってくる様が見えた。
  男の顔は狂気に染まっていた。 その表情からは何の感情も感じない。
  そこにあるのは“止めようがない恐怖”を感じさせる、何かだ。

 「ひ!? いあ、いやああああああああああああ!!」

  まるでフラッシュがたかれたように、感情が爆発した。 恐怖が彼女を支配し、生理的な嫌悪感がわき上がる。
  叫び声が響く。 まるでそれを合図にするかのように、男達が彼女を貪ってくる。
  叫び続ける真璃の唇に肉厚のテープが巻かれ、声すら出せないようにされた。
  真璃は助けと懇願を込めた目で、男達を見続けた。
  だが彼らにとって、それすら自分達の欲望を駆り立てる過程の一つでしかなかった。
  彼らの表情から段々と“人間らしさ”が失われ、獣のような印象を真璃に与え続ける。
  
 「~~~~~!!」

  男達が触れるたびに、真璃は体を反応させた。
  まるで、誰もを不快な感情にさせる蟲が自分の体にまとわりついてくる、そんな感じがしたのだ。
  体だけではない。 彼らが触れてくるたびにとてつもない恐怖に心が犯され、傷つき、血を流す。
  その傷口が泥水に掴まれ、泥がそのまま心に侵入し汚していく。
  真璃が出来ることはもはや、体を動かし拒否することを声明することと、懇願した目で相手の情けを請うことしかなかった。
  だが、そのどれもが意味をなさない。 男達は少しずつ少しずつ真璃を奪おうと近づいてくる。
  そして彼女の制服に手をかけ、一気に引き裂いた。

 「~~~~~!!」
 
  言葉にならない悲鳴。 ただ“怖い”と、それだけが心を支配していた。
  心が折れそうになる。 いや、既に折れているのかもしれない。 だがこれ以上傷つけられたくないのだ。
  真璃は助けを願った。 まりもに、夕呼に、霞に、冥夜に、そして・・・・・・武に。
  何度も願う。 ただそれだけを。

 (まりもちゃん・・・・・・夕呼先生・・・・・・霞お姉ちゃん・・・・・・母様・・・・・・助けて。
 助けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・父様)

  

  ヒュオ・・・・・・



  突然、風が流れた。 柔らかく、とても温かい風。
  そして何故か、とても懐かしい匂いがする。
  ・・・・・・真璃は目を開けた。
  緑の髪。 赤い軍服。 険しくも穏やか表情を浮かべ、前を見る凛とした女性の姿。
  真璃はその女性を知らない。 冥夜と最も近しかった人物、月詠真那のことを。
  だが、なぜか真璃はその女性を見て安心することが出来た。

 「ぐあ!」

  と、男達が吹き飛ぶ。 先ほどの風は真那が払った刀によって生じたもののようだ。
  もちろん、刀は鞘に収められたままである。 

 「貴様等を陸軍刑法88条、第3項によって逮捕する。
 認めたくはないが、帝国軍人の端くれなら罰を甘んじて受けよ!」
 「つ、月詠中佐・・・・・・」

  男達は引きつった表情で彼女を見た。 この基地の軍人で、「鬼」と呼ばれた彼女を知らない者はいない。
  一目散に彼らは逃げ出そうとする。 だが真那の動きの方が早かった。
  再び、風が流れた。 瞬間ある男は腹部を押さえ倒れ込み、またある者は鼻血を出して床を転げ回っている。
  残り二人も逃げだそうとするが、下ろしたズボンがそのままで早く走れない。
  一閃。 一方は背中を強く打たれ、他方は蹴りで顔面を強打された。
  月詠真那が現れてから数分もかからずに、大の男達が皆倒れ、うめき声を立てている。
  「捕らえよ」 その状況を一瞥し、真那は言葉を発した。
  周囲から憲兵らしき人間達が現れ、男達を拘束していく。
  真那はそれを見届けると真璃に近づき、口と手に巻かれたテープを外した。

 「・・・・・・大丈夫か?」

  真那は自分の来ていた上着を真璃へ掛けた。
  一方、真璃は俯いて黙っている。 何も反応しない。
  目は虚ろで、生気を感じられない。

 「病院まで連れて行かせよう。 そこで検査を受けるといい」

  真那は立ち上がり、近くの隊員に声をかけようとする。

 「・・・・・・?」

  真那の動きが止まった。
  真璃が彼女の手を掴んだのだ。 真璃は真那を見、首を横に振った。
  その表情から怯えているのが分かる。 離れて欲しくないのだろう。

 「・・・・・・」

  真那は黙って、真璃の手を取った。 そして優しく抱きしめる。

 「案ずるな。 私はここにいる、側から離れぬ」
 「・・・・・・」
 「大変だったな・・・・・・白銀、真璃」
 「!?」

  名前を呼ばれ、少しずつだが真璃の目に生気が戻っていく。
  抱きしめながら真那は優しく、ゆっくりと真璃の頭をなで始めた。

 「・・・・・・・・・・・・う、うう」
 「怖かったであろう。 もう、大丈夫だ」
 「うう・・・・・・うああああああああああ!!」

  真璃は泣いた。 胸の中で、さっきまでの恐怖を忘れるために。 忘れたいがために。
  そして真那は、穏やかな顔で彼女を抱きしめ続けた。 その苦しみと哀しみを、少しでも受け止めるために。
  その時の彼女の表情はまるで、母が子を抱くような、そんな優しさに充ち満ちたものであった・・・・・・。
  
  




[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第四節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/11/23 04:48



  カツカツカツカツカツ・・・・・・とけたましく足音をたてながら、まりもが歩いている。
  表情は険しく、近寄りがたい空気を振りまいている。
  ここは軍が管理している病院である。 スラム化した東地区を抜けた西地区に存在し、現在では軍管理とは名だけで一般人の治療が
 主になっている。
  先ほど帝国軍憲兵隊から、「子供達と国連軍少尉を預かっている」とのメッセージを受け、急いできたというわけだ。
  ・・・・・・しかもその少尉は、男達に暴行されたらしいと聞いている。
  まりもは大きな不安を抱えながら、目の前の扉を開けた。

 「…まりも母さん」
 「まりもママ?」

  まず目に入ったのはタケルとスミカである。 タケルの顔はなぐられたせいで顔が腫れ上がっている。
  まりもはそれを見、ツカツカと彼らの側に寄った。

 「あなた達は何をしているの!?」
 「!!」

  これまでにない怒号。 二人はまりもが、ここまで怒った様子を見たことがない。
  その顔は本当に怒っており、二人は俯きブルブルと震えだした。

 「あそこは危ないって何度も言ったじゃない!? なのに何で行ったの!
 ねえ、何でよ!?」
 「・・・・・・ご、ごめん、なさい」

  恐怖で声が出ない。 スミカはヒックヒックと泣くだけだ。
  一方のタケルも目に一杯涙を浮かべている。

 「神宮司大佐、それぐらいで彼らを許して上げてください。
 彼らが私に知らせてくれたおかげで、白銀少尉は軽傷で済んだのです」
 「!?」

  まりもがドアの方を見ると、そこには帝国軍中佐『月詠真那』の姿があった。
  真那は赤き斯衛の軍服をなびかせ、部屋に入る。

 「彼らが私のところへ来て少尉の助けを求めたのです。
 ・・・・・・初めは戸惑いましたが、すぐに状況は分かりました」
 「まさかあなた達、中佐に白銀のことを?」

  コクッとタケルが頷く。 それを見、まりもは顔を下げた。
  誰にも見えなかったがこの時、まりもは「しまった!」という表情を浮かべていた。
  ・・・・・・だが、まりもはすぐ顔を上げ真那の方を向く。

 「ご協力感謝します、中佐。 私どもの部下が、とんだ迷惑を」
 「いえ、これも任務です。 ・・・・・・彼女の詳細についてお伝えしたいので、隣室へ行きませんか?
 二人は部下に相手させます故」

  まりもはタケルとスミカを一瞥する。 怯えている表情のままの二人。
  はーっ、と呆れた表情を浮かべ、まりもは「お願いします」と伝えた。

 「では部下を呼んで参ります。 大佐は先に入室されていてください」
 「ありがとうございます、中佐」

  真那は再び外に出て行く。
  それを見届け、まりもは腰を屈めてタケルとスミカに向き直った。

 「私は少し、中佐と話さないといけないから、先に帰っておきなさい。
 ちゃんと反省するように。 分かった、本当にもう行っちゃダメよ」

  頷く二人。 それを見てまりもは笑顔で返し、そして立ち上がる。
  その時の表情は、既に笑顔ではなかった。




 「・・・・・・・・・・・・以上が医師による診断結果です。
 腹部にひどい打撲がありますが、幸いなことに内臓出血までは至っておりません」
 「そう、ですか」

  真那の報告を淡々と聞く。 だが、その言葉が頭に入ってこない。
  まりもは彼女から目線をそらし、軽い返事を繰り返すばかりだ。

 「問題は精神の方です。 未遂とはいえ、体を欲望のまま汚されかけたのです・・・私が助けたときにはパニック発作に陥っていました。
 今は催眠暗示の治療を行っています。 遅くとも夜までには、大佐のところへお返し出来るでしょう」
 「そうですか」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  言葉が止まる。 少しの沈黙が続き、まりもはハッと気が付いた。

 「あ、他には?」
 「以上です。 これがその診断結果となります、お確かめください」

  真那は結果を渡す。 まりもはそれを受け取り、無気力に眺めた。

 「・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「・・・・・・大佐」
 「・・・・・・何でしょう、中佐」

  まりもは真那の方を見る。 視線が交差したが、今度はそのまま会話を続けた。

 「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか? これは帝国軍中佐としてではなく、月詠真那一私人として伺いたいのですが」
 「いいでしょう。 私も神宮司まりもとして、貴女と話したいことがあります」
 「そうですか。 ならば・・・・・・」

  そう言うと突然、真那はまりもの胸ぐらを掴んだ。 まりもはさも当たり前のように、冷静でいる。

 「・・・・・・なぜ私に報せなかった!? あの方は冥夜様のお子、真璃様だ!!」
 「・・・・・・・・・・・・」

  先ほどまでとはうってかわり、激しい剣幕でまりもに詰め寄る。
  だがまりもはそれに全く反応せず、静かに真那の言葉に耳を傾けている。

 「あの子達からその名を聞いたとき、まさに青天の霹靂であった。
 そして会って、一目で分かった。 あの方は冥夜様の娘であると。
 ・・・・・・私は恐ろしい! もしかしたら私の部下が、あのお方を手にかけていたかもしれぬ。
 そして何より、あの方と一度も相まみえず別れることになっていたかもしれないと考えると」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「答えよ! なぜ私に報せてくれなかった!? 答えよ!」

  ・・・・・・再び沈黙が流れた。
  胸ぐらを掴まれたまま、まりもは哀れむような目で真那を見続ける。
  真那は変わらず怒りの表情を浮かべていた。
  そして、まりもはこう答えた。

 「貴女が、白銀を御剣と同一視しているからよ」
 「!?」

  まりもは真那の腕を握り、払う。
  掴まれて歪んだ制服を直し、まりもは言葉を続けた。

 「月詠さん。 日本はもう、滅んだのよ。 帝国軍も、斯衛も、将軍も」
 「・・・・・・違う」
 「どこが違うのかしら。 帝国軍はもう形だけになり、中身はバラバラ。 まあ、国連軍も同じようなものだけど・・・・・・」

  まりもは視線をずらした。 二人とも、互いを見られないでいる。
  互いの軍の状況が痛いほど分かっている二人にとって、それは恥ずかしいことであり、同時に認めたくないことだからだ。

 「でも、帝国軍にとって白銀はそれを回復出来るチャンスだと思わない?」
 「!?」

  真那はまりもの方を見た。 まりもは冷めた顔で真那を見つめている。

 「将軍家の直系、しかも殿下の妹の娘・・・・・・帝国軍の士気を上げるのに、これ以上の材料はないわね」
 「わ、私はそんなことは…」
 「考えるわ。 だってあの娘、御剣にそっくりだもの。
 貴女もさっき言ったわよね、『一目で御剣の娘だと分かった』って」
 「・・・・・・・・・・・・」

  黙るしかなかった。 確かにあの娘は冥夜に似ている。
  それは容姿というだけでなく、雰囲気とでも言うのだろうか、彼女の言動や仕草が真那にとって冥夜のそれを思い起こさせる。

 「何より貴女は、白銀を『御剣』と重ねてしまっている。
 今のあの娘にとって、それは毒でしかないわ」
 「・・・・・・どういうことだ?」

  まりもは真那に背を向け、窓に近寄る。 窓からは夕陽が沈むのが見える。

 「あの娘は、自分と両親との考え方の区別が出来ていないのよ。
 父や母の生き方が、自分の生き方だと考えている。 もちろん、それは誰もが通る道なのだけど」
 「・・・・・・」
 「あの娘、昨日整備士達と喧嘩したのよ。 自分も地球で戦うんだって。
 ・・・・・・誰も、もう戦う気なんてないのにね」

  真那の眉間に皺が寄る。 その言葉は彼女にとって、絶対に認められない現実。
  しかし、否応なく突きつけられる現実でもある。

 「今の感情に身を任せていたら、あの娘、絶対後悔するわ。 そしてこの星での後悔は、決して逃れられない絶望と同じ。
 私はあの娘にそんな絶望を背負わせたくない。 ましてや将軍として、あるはずのない希望まで演出されたら・・・・・・
 それは、地獄よりも辛いことだわ」

  まりもは真那の方へむき直す。 その顔は決意に彩られている。

 「私はね、この星で何があったのか、皆がどのように戦い死んでいったのかを遺してもらいたい。
 そしてそれを糧に、平和な世界の明日を担って欲しいと思っている。 御剣や白銀達の持っていた使命なんてない、平和な星で」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真那は一度目を閉じた。 まりもは言葉をかけず、ただその様を見続ける。
  目が開かれた。

 「なるほど、理解できました。 恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
 「こちらこそ許して頂戴。 貴女を信頼していない訳じゃないの。 ただ、もしこのことが知れたら、帝国軍は間違いなく動くわ。
 国連軍大佐としては帝国軍と緊張状態にはなりたくないの」
 「分かっています」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  再び沈黙が流れた。 
  まりもは自分の言っていることが、彼女の生き方を否定してしまっているということを知っている。
  冥夜のIDを偽装したことが発覚し、独房に入れられるという帝国軍人にあるまじき罪。
  この時、あの沼田盆地での戦いにおいて殿下と共に戦えず死ねなかった、斯衛としてあるまじき罪。
  そして、愛する祖国を、日本を守れなかった、日本人としてあるまじき罪・・・・・・彼女はそれらの罪を真摯に受け入れている。
  多くの斯衛が滅びる国と共に自決する中、彼女は最後まで戦った。
  東南アジアで、オーストラリアで・・・・・・戦友の屍を乗り越えて戦い続けるその姿は、正に「鬼」としか形容できまい。
  それは罪を償うまでは決して負けられないし死ねない、という想いがあったからだ。
  しかし結局、人類は敗北した。 彼女の罪は大きくなることはあれ、軽くなることはなかった。
  今もなお、真那の生は「贖罪」に縛られている。 彼女にとっては死ぬこともまた許されぬ「罪」だ。
  ・・・・・・一方のまりもも似たようなものだ。
  中国戦線での戦友達の死、教え子達の死、守るべき多くの人類の死。 まりももまた、彼らへの「贖罪」のために生きている。
  いわば二人は似たもの同士なのだ。 その二人にとって、声をかけなくとも分かり合える部分は多い。

 「・・・大佐」
 「はい」
 「真璃様を・・・・・・よろしくお願いします」

  大きく頭を下げる。 その作法に、まりもは悲しみなのか感動なのか、良く分らない感情が湧き起こってきた。
  涙が浮かび、彼女はそれを指で軽く拭い、答えた。

 「分かりました、月詠中佐。
 ・・・・・・ありがとう」

 
 
  誰もが寝静まった夜、まりもと真璃が乗り込んだ車が甲板上を走っている。
  後部座席に座る二人は一言も会話せず、ただ闇に染まった窓外の景色を眺めるだけだ。
  病院を出、車に乗り込んでからずっと同じ調子である。
  催眠暗示のおかげであの件を完全に思い出すことは出来ないだろうが、時折体を震わせるところを見ると、あの状況がフラッシュバッ
 クしているのだろう。
  まりもはそれを見、今は話しかけずにそっとすることが必要だと考えた。
  ・・・・・・ふと、車が止まる。

 「大佐、到着しました」
 「そう。 ありがとう」
 「・・・・・・」

  運転していた兵士は車を降り、後部ドアを開ける。 二人が外に出ると、兵士とまりもは一度敬礼を交わした。
  そして席へ戻り、そのまま車が去っていく。
  辺りは闇に染まった。 唯一の光源は、横の宿舎から漏れる微かな光だけだ。

 「さあ、戻りましょうか」

  まりもが先に進む。 しかし、真璃は動く気配はない。
  その表情は闇に隠れ、読み取れない。
  まりもは近づき、「どうしたの?」と問うた。

 「・・・・・・大佐」

  病院から出て初めて真璃から発せられた言葉。
  まりもは少し驚いたが、すぐに冷静さを取り戻す。

 「何?」
 「お話が、あります」

  見えた真璃の表情は、まるで死人のように生気がなかった。


  
 「寒くない? 本当に、室内でやらなくてもいいの?」
 「大丈夫です」

  宿舎から少し離れた甲板上へ出た二人。 周囲からは全く音はせず、波の音しか聞こえない。
  だが月光が辺りを照らし、先ほどよりも充分明るく見えた。
  二人は顔が見えるくらいまで近づき、会話を続けた。

 「それで、お話って何かしら?」

  吐き出された息が白く変化する。 気温が結構落ち込んでいるようだ。
  真璃は俯き、白い息を何度も吐き出しながら言葉を発した。

 「私は・・・・・・なぜ・・・・・・『ここにいる』んですか・・・・・・」
 「え?」

  まりもはその質問の意図が分からなかった。
  てっきり軍人に対する愚痴といった、その類の話を考えていたまりもにとって、その設問は不意打ちであった。

 「私、分かったんです・・・・・・大佐の仰った意味が・・・・・・」
 「私が言ったこと?」
 「・・・・・・『昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい』・・・・・・
 私、ずっとこの言葉の意味を考えていました。 いえ、考えるふりをしていたんです。
 そうやって自分を誤魔化し続けていたんです」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は俯いたままだ。 しかし言葉の音質が段々と高くなり、早くなっていく。

 「母様や父様のことを、私は何も理解していなかった。 ただ勝手に自分で作り上げて、正当化の道具にしていたんです。
 母様や父様だけじゃない。 この世界の人達にも、勝手に変な感情を持って見てしまっていた。
 そこで生きている人がどんな気持ちで、どんな想いでいるのか・・・・・・それを考えず、私は自分の理想を押し付けてしまっていたんです」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「馬鹿ですよね。 整備士の人達があんなに怒るのも、当然です。
 勝手に勘違いした馬鹿が、勝手なことをして、勝手なことを言う。 ハハハ、本当に私は勝手で馬鹿な人間ですよ。
 こんなだから、さっき、あんな目に・・・・・・」

  体がカタカタと震え出す。 あの時の状況がフラッシュバックしているのだろう。
  立っていられないのか、体を左右に揺らし倒れかける。

 「危ない!」

  まりもは真璃の肩を掴む。 ダランと頭が力なく下がり、見えた彼女の表情は・・・・・・笑っていた。
  とても哀しそうに、笑っていた。

 「私と、私の母様が地球に残れば、誰かが助かったんです。
 勘違いしていたんですよ。 私の母様も父様も、すごく立派な英雄で『人類のために』とか、そう思ってばかり・・・・・・
 でも、違った。 母様は地球と父様と、どこかの誰かを犠牲にして、移民になったんです。
 そして・・・・・・そして私は、その母のムスメなんです」
 「白銀・・・・・・」

  真璃はハハハと笑っている。 まりもはその様子を悲しそうに見ている。
 
 「私が死ぬべきだったんです。 私が地球に残って死んでいれば、とっても素晴らしいことだったんですよ。
 それなら、あの人も私に非道いことをしなかったですよね? 皆も、私を認めてくれますよね?」
 「白銀!?」

  真璃の言動はおかしなものばかりだ。 移民になったのは母親であり彼女ではないし、そもそも死ねば非道いことをされるされないと
 いう話ではない。
  フラッシュバックと暗示のせいで、パニックに陥っているのだろう。
  まりもは真璃を揺さぶり、「しっかりしなさい」と声をかけ続けた。

 「白銀、しっかりなさい! 貴女は『白銀真璃』であって『御剣冥夜』ではないのよ!」
 「分かってますよ、そんなの。
 でも、母様の生き方をずっと憧れにしていたんです。 私の理想だったんです、母様は・・・・・・
 でも、理想と現実は違っているじゃないですか!!」
 「!?」

  真璃はまりもを睨み、バッと手を振りほどく。

 「母様は何でIDを放棄しなかったんですか? 何でどこかの誰かを救おうとしなかったんですか?
 おかしいです・・・・・・母様なら、そうするはずじゃないですか・・・・・・おかしいですよ」
 「白・・・・・・銀・・・・・・」

  まりもは口をつぐむ。 冥夜の生き方と異なる・・・・・・それは百も承知だ。
  なぜなら冥夜が武のために用意したIDを、冥夜用の名義に変えたのは他ならぬ彼女だからだ。
  真那から後に知らされた事実、武が移民するために用意されたIDは、元々冥夜のものだった。
  それを、武が冥夜に生きてもらいたいがために、まりもに頼んで改竄したのだ。
  その時、冥夜は地球に残ることを強力に主張しただろうというのはまりもにとって想像に難くない。
  だがだからこそ、冥夜が移民となった理由を容易に想像出来た。

 「白銀、聞いて頂戴」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「貴女のお母さんのIDを用意したのは・・・・・・白銀武、貴女のお父さんよ」
 「!?」

  真璃はギョッとした。 予想していた答えの一つだからだ。
  だがこの答えであっても、『地球と父様と、どこかの誰かを犠牲にして、移民になった』という事実は変わらない。
  再び、真璃は顔を俯けた。

 「貴女の言う通りよ。 御剣は、自分の命を捨ててでも守るべきモノを守ろうとする強い人だったわ。
 教官だった私がそれは保証する」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「そんな彼女が、なぜ移民になったと思う? 民を守れなくなっても、白銀武と離れることになっても、どうして移民になることを
 選択したのだと思う?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「きっとそれは・・・・・・貴女のお父さんのためよ」
 「え?」

  まりもは真璃の両肩を掴む。 その顔はとても真剣だ。

 「御剣は本当に、心の底から白銀武を愛していたわ。
 彼のためなら自分の命を捨てても惜しくない、きっとそう思っていたでしょうね」
 「でも、それなら何で一緒に残らなかったんですか?
 命よりも大事なら、なぜ」
 「白銀・・・・・・自分の命よりも大切な人だからこそ、彼のために『生きること』を選んだのよ」

  その言葉を聞き、真璃は怪訝な顔をする。 言っていることが良く分らない。
  まりももそれは同じらしく、自分の今の考えを上手く言葉に出来ないでいた。
  ・・・・・・数秒の沈黙が流れ、再びまりもが口を開いた。

 「一緒に死ぬことが彼の願いだったかしら? 違うわ。
 生きていて欲しい・・・・・・その願いを叶えるために、御剣は移民になった。
 愛する人のために、生きることを選んだのよ」
 「・・・・・・でも」
 「白銀。 人にはね、死ぬよりも重い責任を負わなければならないときがあるの。
 生き残った者として、生かされた者として、背負わなくてはならない責任があるのよ」
 「!!」

  『生かされた10万人のうちの1人として、そして『白銀 冥夜』として、なすべき責任のことよ』  
  不意に、バーナード星系を出る前の夕呼との会話を思い出す。
  このときの真璃は、その「責任」という言葉を安直に考えていた。 実感が伴わず、単に聞き流すだけだった。
  しかし今、目の前で使われたその言葉は、とても重く彼女の胸を打っている。

 「生かされた者としての・・・・・・責任・・・・・・」
 「そう。 きっと御剣は、それを果たすために移民になったのだと思うわ。 生きることでしか果たせない責任をなすために。
 その中身は分からない。 貴女のお父さんとお母さんの間に何があったのか、詳しいことを知ることは出来ない」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「でも、御剣のことを一番よく知っているのは、貴女じゃないかしら」
 「!!」

  瞬間、冥夜との思い出が蘇る。 凛々しい母。 優しい母。 厳しい母。 父を誇る母。
  そして、民を守るため伝染病に先頭となって挑み、倒れ亡くなった母。 亡くなるその直前まで、いや亡くなってもなお自らの義務を果
 たさんとするその生き方を、確かに彼女は知っていた。
  その母がなぜ、移民となって生きることを選んだのか・・・・・・
  命よりも義務よりも、なお重きものがある。 それが何であるのか具体的には分からないが、真璃はそこに思い至った。

 「分かります。 母様は、確かに何かをなそうとしていました。 逃げずに、戦いました・・・・・・」

  でも・・・・・・と、真璃は呟く。

 「でも、母様が誰かを犠牲にしたのは、事実です」
 「そうね。 それは事実よ」

  また顔を俯けようとする真璃に対し、まりもは肩を強く掴み引き上げた。
  驚き、顔を上げる。 まりもは真璃の目を見、言葉を繋げる。

 「後は自分で決めなさい。 母の生き方に、貴女はどう価値を与えるのか。
 その生き方に自分はどう向かい合うのか。 それを考えることは、貴女にしかできないことよ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「母親の生き方に貴女が囚われる必要はない。 母親の責任を背負う必要もない。
 だけど、それを糧にすることは強さに繋がるわ。 私が望むのは、貴女に母の生き方を誇らしく語ってもらいたいということ。
 そして犠牲にならざるを得なかった人々が、どのように生きてどのように死んだのか、私は貴女に託したい」

  真璃の目に生気が戻っていく。 まりもの言葉が心に染み込み、自分の役割を思い出していく。
  『地球のデータをバーナード星系に持ち帰ること』
  このデータは、確かに絶望で彩られている。 中にあるのは敗北の歴史、多くの人間達の死。
  しかしそれでも、このデータは「地球で彼らが生きた証」なのだ。 
  絶望の未来に至ってしまってけども、それを否定し希望の未来をなすために、全力を尽くした人間達の歴史。
  それがこのデータの重みなのだ。

 「このデータを持ち帰るのは他の誰でもない、白銀真璃である貴女にしか出来ないことよ。
 地球で見たこと、感じたこと、受け止めたこと、全部を伝えて欲しい。
 そしてこの地球で、確かに『人類』が生きていたんだということを、覚えていて欲しいのよ」

  真璃はハッとした。 闇に紛れ気づかなかったが、まりもは涙を流していた。
  その涙によって、まりもの言葉が更に重く感じられた。
  「覚えていて欲しい」 この言葉は、まりも自身のことも指しているのだろう。
  もはや絶望の未来しかないこの世界。 いずれ必ずやってくる『滅び』の世界。
  自分が託されているのは、そんな世界の人々の想いなのだ。 母が生きることを選択したからこそ、自分は託される側になれたのだ、
 と真璃は確信に至る。
  このとき、真璃の目は完全に自分を取り戻していた。

 「大佐・・・・・・申し訳ありません。 私、本当のバカになるところでした。
 地球のデータは、必ず持って帰ります。 母様が行くことで犠牲になった人の想いも、必ず私が伝えていきます」

  真璃は未だ「自分のせいでどこかの誰かが犠牲になった」という罪悪感は払拭出来ていない。
  しかしだからこそ、そのどこかの誰かを伝えていくことが自分の使命であり責任であると、深く自覚できたのである。
  彼女は初めて「自分の責任」について重く考えるようになっていた。

 「ありがとう、白銀。
 それでこそ御剣の娘よ」

  その言葉を聞いてまりもは、深く安堵すると共に強い喜びを感じた。
  それは、真璃の目が決意に満ちており責任を自覚出来ていると理解したからであるが、それと同じだけ、その目が冥夜にそっくりだと
 いうことを感じたからである。
  冥夜は死んだが、ここに確かに生きている・・・・・・それを感じたとき、救われたような感情がわき上がってきたのだ。

 「今日はもう遅いわ。 あがって休みましょう」
 「はい! ・・・・・・あ」

  まりもが右手を差し出している。 握手を求めているのだ。
  真璃はゆっくりとその手を握った。
  手はとても冷えていたが、力強く頼もしかった。

 「白銀、貴女は生きなさい。 何があっても、絶対に」
 「はい・・・・・・!」
 「それから・・・・・・」

  まりもが気恥ずかしそうにしている。 顔を赤らめ、これから言う言葉を躊躇している。
  真璃は不思議そうにそれを眺めた。

 「?」
 「それから・・・・・・私と二人のときは、『まりもちゃん』でいいわよ。
 50にもなってちゃん付けというのも変だけど、そう言われると嬉しいの」

  まりもはとても恥ずかしいのか頬を赤らめながら、困った感じで笑顔を作っている。
  そう言われた真璃はパチクリと見ていたが、すぐに満面の笑みでそれに返した。

 「はい! 分かりました、まりもちゃん!」

  

  
  
 「う~~~、ひどい顔だな~~」

  廊下を歩きつつ、ポケットミラーに映った自分の顔を眺めがら、真璃がハァ~ッと溜息をつく。
  頬には絆創膏、目の下には寝不足のために出来たクマ。
  しかし、彼女は元気な様子でいた。 昨晩の会話で役割を自覚した彼女にとって、気になることではないからだ。
  鏡を閉じ腕時計を見ると、13時40分を指していた。
  
 「・・・・・・地球にいるのも、明日で最後か」

  夜、まりも達がささやかながら送別会をしてくれると言っていたことを思い出す。
  今朝その話を聞いた真璃は、少しずつだが「帰る」ということを考え始めていた。
  ふと、真璃は地球でのこれまでのことを振り返り始めた。
  まりもやタケル、スミカ、真那に出会えたこと。 整備場で勝手なことを言ってしまったこと。
  そしてスラム街で・・・・・・

 「くっ・・・・・・」

  暗示のおかげそのシーンを思い出すことはない。 しかしフラッシュバックとして瞬間的に脳裏に浮かぶその感覚は彼女の気分を害した。
  真璃はフラッと壁によりかかり、呼吸を整える。

 「ハァ、ハァ、ハァ」

  思い出すんじゃなかったな、と真璃は思う。
  しかしその記憶の後、助けてくれた真那のことを思い出した。
  凛とし、気高く立つ女性。 真那の姿は、自分にとって理想の姿に最も近いそれだった。
  ふと気づく。 自分は真那にお礼を言っていなかったことを。

 「お礼、言わなきゃな・・・・・・でも、何処に行けば会えるんだろう・・・・・・」
 「・・・・・・大丈夫か?」

  声が聞こえる。 つい最近聞いたような、頼もしい声。
  真璃が顔を上げると、そこには月詠真那の姿があった。

 「月・・・詠中佐」
 「仔細ないか?」

  真璃は驚き、何も言えなかった。
  たった今会いたいと考えていた人間が目の前に現れた、唐突すぎて何を言えばいいのか分からないのだ。

 「医師の診断が甘かったのかもしれぬな。 もう一度再診させよう」
 「あ、ま、待ってください! 違います、大丈夫です」

  気分はまだ完全に直ってはいないが、壁から手を離す。
  それを見た真那は笑顔で「そうか」と返事をした。

 「あ、あの、なぜ中佐はこちらに」
 「・・・・・・午前中、第6戦術機甲大隊が日本本土へ向かったのだ。
 私はその出撃に立ち会い、指揮を取っていたのでな」
 「え?」

  真璃はその言葉を聞き、不思議に思った。
  日本は完全にBETAに支配されている、ならば何のために行ったのか目的が分からないのだ。

 「なぜそんなことを?」
 「このニライカナイは工場や住宅施設といった他にも、食料として農作物を栽培する区画がある。
 だが、その土壌は自然から手に入れるしかない。 人間の手では自然が長い時間をかけて作り出した奇跡を、再現することは不可能なのだ」
 「でも、BETAが」
 「BETAが火山近くの自然を残すのは知っていよう。 そこから土壌や植物を運んでいる。 そのための部隊だ。
 ・・・・・・すまないが、私も忙しい。 これで失礼させて貰おう」

  真那は踵を返し、背を向ける。
  真璃は慌てて声をかけた。

 「あ、お、お待ちください中佐!」
 「・・・・・・何だ」

  背を向けたまま返された声は、真璃にとってなぜか冷たく感じた。
  それでも、今別れるわけにはいかないと感じている。 今離れれば、もう二度と会えない・・・・・・そんな感覚を真璃は感じている。

 「中佐、昨日はありがとうございました。 危ないところを、本当に」
 「それが私の任務だ。 礼には及ばん」
 「それだけではありません。 ・・・・・・中佐はあのとき、私のことを抱きしめてくださいました。
 そのおかげで、私本当に安心出来たんです」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「失礼かもしれませんが、あのとき・・・・・・母様に抱かれているような、そんな感じがしました」
 「・・・・・・・・・・・・」

  『母』
  この言葉を聞いたとき、真那は冥夜のことを思い出す。
  幼少の頃から冥夜に付き添い、彼女の母代わりとして務めてきた。
  そんな彼女が真璃から「母のようだ」と言われた。 それはとても嬉しいことであり、心を揺らす言葉だった。
  真那は笑みを浮かべ、そのことを考えていた。

 「・・・・・・そうか」
 「母様は私が小さいときに亡くなったので、何か本当に久しぶりで。 だからとても嬉しかったんです」
 「!?」

  ドクン、と真那の鼓動が強まる。 「死」という言葉が、真那の中で反復される。
  ―――母様は私が小さいときに亡くなったので
  ―――母様は私が小さいときに亡くなったので
  ―――母様は私が小さいときに亡くなったので
  何度も何度も反復され、意識が遠くなる。

 「・・・・・・中佐?」
 「・・・・・・は」

  目の前に真璃の姿が見える。 先ほどまで後ろにいたのだが、真那の様子を不思議に思い前へ出たようだ。
  彼女にかけられた声で、真那は一気に現実へ引き戻される。
  額には汗がびっしょりと浮き、口は半開きのままだ。

 「ど、どうかなさいましたか?」
 「・・・・・・いや」

  ドクン、ドクンと強くなった鼓動は収まらない。
  『冥夜の死』 それは彼女にとって絶対に認めたくない事実だ。

 「・・・・・・白銀少尉」

  真那は、昨日のまりもとの会話を思い出す。
  しかし彼女は今、そんなことよりも冥夜への想いで一杯になっていた。

 「よければ、その母のことを詳しく教えてくれないか?」



 「・・・・・・・・・・・・そうか」

  真璃から説明を受ける。
  伝染病が移民を襲い、それに立ち向かい亡くなった冥夜の姿を、真那は今しっかりと思い、胸に刻んでいる。   
  真那の胸に去来するのは、喜びと誇りであった。
  冥夜が彼女らしく生きられたことと、そして自分がその彼女に従えられたことに対する思い。
  それが今、彼女を満たしていた。  

 「貴様の母は、立派だな」
 「ありがとうございます」

  真那は笑顔を浮かべ、真璃の肩に手を置く。

 「白銀少尉・・・・・・」

  『母のように立派に生きよ』
  と、言葉を繋げようとするが、まりもとの会話のこともあり、ためらわれる。
 
 「・・・・・・母の生き方を、立派と思うか?」
 「・・・・・・母様は立派に生きたと思います。 でも」
 「ん」
 「でも、それは父様と地球、そしてどこかの誰かのおかげだとも思います。
 母の生き方は、それだけでは完結していないと思うんです。 地球の皆がいたからこそ、母様は戦えたんです。
 そして私もいられるんです。 だから私は、その人達の想いを、バーナード星系に持ち帰るつもりです」
 「!!」

  そのとき、真璃が冥夜とだぶって見えた。

 「・・・・・・そうか。 うん、そうか」
 「あ、すみません中佐。 長話をさせてしまって」
 「構わん。 私が質問をしたのが悪いのだ。
 私こそ邪魔をしてすまなかったな。 任務に戻るがいい」

  真璃は「はっ!」と敬礼する。 それに真那も答えた。
  歩き出す真那に向けて敬礼を続ける真璃。 ふと、彼女の歩みが止まった。

 「・・・・・・白銀少尉」
 「はっ」
 
  真璃の方へむき直す。 

 「明日、また会おう。 貴様に託したいものがある」
 「え? 私に、ですか」
 「うむ。 バーナード星系にいる私の・・・・・・私の友に、渡して欲しい。
 詳しいことはまた、明日話そう」

  真那は思った。 まりもの心配は杞憂に過ぎないと。
  彼女は自分の信念をきちんと持っている。 だから大丈夫だ、と。

 「分かりました、月詠中佐。
 明日は一七○○時までは当基地に滞在していますので、それ以前でしたら」
 「うん、頼む」

  言い終え、再び背を向けて歩き出す。

  
  (ズズウウゥゥゥン!!)


 「「!?」」

  突然基地が揺れ、地響きが聞こえる。

 「何だ・・・・・・?」

  二人は不思議に思った。 ここはメガフロート、海に浮かぶ島である。
  陸地と直接は面していないために、地震の影響は受けない。
  だからこそ、陸地しか移動出来ないBETAの侵入なく、平和に過ごせているのだ。
  そのメガフロートが揺れるとは、普通に考えればあり得ない。

 「何があったんでしょうか?」
 「分からん。 私は戻るが、貴様は部屋で待機しておけ。
 神宮司大佐も忙しいだろうから、子供達は任せたぞ」
 「はっ!」

  真那は走ってその場を離れる。 それを見届けた真璃は、タケルとスミカを探しに行くことにした。




 「・・・・・・いない」

  真璃は甲板で息を切らしながら、呟く。
  あれから20分、宿舎や整備場を探し回ったが、二人の姿が全く見えない。
  
 「こっちにはいないのかな・・・・・・」

  チラッ、と管制塔の向こう、スラム街の方を見る。

 「まさか、またあそこに・・・・・・」

  ドクン、と再び、スラム街で起きたあの状況がフラッシュバックする。
  真璃は額を抑え、溢れる不快感に苛立ちを募らせる。

 「ったく!」

  と、真璃が動こうとした瞬間―――


 (ブィーーーー!! ブィーーーー!!)


 「!?」
 『コード991発生! 繰り返す、コード991発生!
 演習ではない、これは演習ではない! 繰り返す・・・・・・』

  『コード991』―――これはBETAの襲撃を表す緊急コード。
  真璃に戦慄が走る。 授業で何度も聞いた人類の敵。
  ・・・・・・私達の敵・・・・・・

 「タケル君・・・・・・スミカちゃん・・・・・・」

  不意に二人の顔が思い浮かんだ。
  BETAが現れた以上、一刻も早く会わなくてはならない。 だがこの区画にはいる様子はない。
  焦りが、真璃を支配する。 チッと舌打ちし、辺りを見渡す。
  そこに見えるのは、慌ただしく活動を始めた整備士達と何機かの戦術機。

 「・・・・・・戦術機・・・・・・」

  真璃は戦術機をじっと見つめ、ギュッと拳を握りしめる。
  そして、全速力で整備場へ駆けだした。



 「衛士はいないのか! こっちは整備出来ているぞ!」

  整備場、数機ほど並ぶ戦術機の横で一人整備士が叫んでいる。
  彼がさした指の先には、国連軍カラーに染められた戦術機『吹雪』の姿があった。

 「この吹雪はいけるの?」
 「おお、いつでもいけるぜ!」

  整備士にかけられる声。 その声の主は、99式衛士強化装備に着替えた真璃だった。
   
 「私が行く」

  それだけを伝え、昇降リフトに飛び乗りコックピットへ向かう。
  その様子を見た別の整備士が叫んだ。

 「何している! あいつはこの前のガキじゃねえか!!」
 「え? ・・・・・・ああ!」

  他の整備士達も気づいたようだ。 吹雪の周りに集まり、真璃に怒声をかける。
  真璃はそれを無視し、コックピットに乗り込む。
  コックピットブロックが閉じ網膜に「着座情報転送中」の文字が浮かぶ。
  そしてそれは「転送完了」と即座に変わり、同時にメインカメラから映る画像が浮かび上がった。

 『勝手なことをするな! 降りろ!!』

  不意に、先ほどの整備士の顔が映る。 

 「今は一人でも戦力は必要でしょ! これでも私は衛士なんだから」
 「逃げたやつの力など借りん! 早く降りろ!」

  真璃の顔が苛立ちによって歪む。 すぐに、昨日のまりもとの会話を思い出した。
  ・・・・・・こう言われても仕方がない、とまりもは思い直す。
  そして穏やかな表情で、呟いた。

 「でも、私は力を貸したいと思っている。 皆を守りたいと思っている」
 「あ?」
 「通信を終わります。 移民だとか、そんなことは関係ありません。
 私達の敵、BETAから・・・・・・守りたいだけなんです!」

  顔が消える。 そして真璃は目をつぶり、一度大きく息を吸い、吐き出した。
  唇をしめ、彼女は目を見開く。 その表情はやる気に満ちている。
  機下からは罵声を浴びせる整備士達。 誰も彼女の出撃など願ってなどいない。
  そんな中にあって、いやだからこそ、彼女は力強く叫んだ。

 「TSF-TYPE97『吹雪』は、白銀真璃で行きます!」
  





[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第五節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/12/11 15:53



 「ちょっと待ってえええええええ!?」

  「守りたいだけなんです!」と格好良く飛び出した真璃は現在、吹雪の扱いに手間取っていた。
  整備場から離れ開けた甲板に出るまでは良かったが、吹雪の出力を上げ噴射跳躍を行おうとした矢先から上手く制御することが出来
 ず、何度も転倒しそうになっている。
  まあ姿勢制御プログラムによって実際には倒れないが、中の真璃は自身の知らない高出力、敏感な反応速度に翻弄されるしかなかった。

 「くっそおおおおおおお!」

  姿勢を正すためにレバーを一度引き、ペダルをこれ以上踏み込まないよう体に力を入れる。
  さながらその様は、体操に出てくる「体を伸ばす運動」のようだ。
  ・・・・・・動きが止まった。
  吹雪は空を仰ぎ、その右足と左足は大きく前後で離れている。
  横からチョンと押されれば、今にも倒れてしまいそうな危うい体勢、そして端から見れば「ド素人」のそれは、非常に恥ずかしいものだ。
  だが真璃はそれよりも、「止まれた」ことそのものを喜んでいた。

 「はあ、はあ、はあ・・・・・・と、止まった。 助かった」

  真璃は決して戦術機駆動の初心者ではない。 ましてや素人でもない。
  バーナード星系で通っていた戦術機学校における成績は常に上位に食い込み、特に光線属種のいない星であるが故に鍛えられた三
 次元機動と、シミュレーターによる接近戦では1,2位を争うほど彼女の腕は確かだった。
  もし彼女以外の学生が今の吹雪に乗ったならば、どこかの建物にぶつかるまで、その動きを止めることは難しかっただろう。
  ・・・・・・それだけ現在乗っている「吹雪」は、彼女の知る「吹雪」とかけ離れていた。
  一つは、戦闘用の出力に慣れていないことが挙げられる。
  もちろん地球に来る前、戦闘用出力による訓練(主にF15)も行ったが、やはり主に行っていた訓練用の感覚は簡単には忘れら
 れない。
  次に、そしてこれが最大の理由であるが、この吹雪の主機は明らかに彼女の知るものではない。 出力が完全に異なるのだ。
  そういった差異が彼女をここまで手こずらせているのである。

 「よく見たら、跳躍ユニットの形も違う。 全体的に出力が向上されているのかな?」

  周囲の戦術機を見ると、ユニットの形状が知るものと異なっている。 また、網膜に映る兵装欄を見ると「08式突撃砲」「74式戦闘長刀」
 という表示が見える。 彼女の知るのは87式突撃砲だ。

 「そっか、そうだよね。 地球は20年も戦争を続けていたんだもんね」

  彼女は理解した。 移民が出発した後も、人類は最近まで戦っていたという現実に。
  であれば、主機の大出力化、ユニットの改良、武器の更新、それらは至って普通のことだ。

 「よし、今度の機動はゆっくりと・・・・・・あれ?」

  真璃は先ほどのこともあり、機体を慎重に直立させようとする。
  だが今度は、容易く動かすことが出来た。 さっきまで暴れ馬のようだった機体は、今や騎手と長年連れ添った愛馬のごとく、彼女の
 要望に応えてくれる。
  その変化に彼女はただポカンとするだけだ。

 「・・・・・・情報処理速度が半端じゃない? OSも違う?」

  吹雪は、あらゆる点で彼女の戦術機に対する常識を覆した。
  出力、機動性、柔軟性、その全てが、今まで彼女が乗ってきた戦術機を凌駕する。
  真璃はその技術の革新に驚き、頼もしく感じた。 だが同時に、哀しくもあった。
  例え技術が優れたとしても『それでも人類は勝てなかった』という現実が、より重くのしかかるからだ。
  それはBETAの脅威が本当に恐ろしいものであると、彼女をうった。

 「でも」

  例えBETAが恐ろしくとも、タケルとスミカを放っておくことは出来ない。
  この区画にいないことは既に確かめられている。 であれば、彼女にとって二人がいると考えられるのは、あのスラム街しかない。
  例えそこにいなかったとしても、より迅速かつ安全に二人を探すには戦術機で行くしかない。

  ふと、二人がBETAに襲われている状況が思い浮かぶ。
  要撃級、戦車級、兵士級・・・・・・それに怯え、助けを求める二人の姿が、彼女の焦りを高めていく。

 『HQより全部隊へ通達。 敵は難民区へ移動を開始。
 第3防衛線の各部隊は、至急難民区へ迎え。 第1、第2戦術機甲大隊は第2防衛線主力と合流して敵を迎撃せよ』
 「!?」

  難民区、それはつまりスラム街を含む繁華街がある場所のことだ。
  突然の通信により、さきほどの想像が途端に現実味を帯び始める。 それは、真璃の喉を渇かせ額に汗を浮かべる。
  焦燥感が最大に達し、レバーを握る力が無意識に強くなる。

 「タケル君、スミカちゃん・・・・・・待ってて、今行くから!」

  ペダルを思いきり踏み込み、跳躍ユニットを稼働させる。
  今まで経験したことのないパワーに、ガクンっと一度バランスを崩しかけるがすぐに立て直し、吹雪は目的地へと向かって跳躍する。
  ・・・・・・その先は黒煙が上がり、戦場を奏でる砲音が大きく響いていた。


  

  ―――マップに映る、BETAを表す赤マーカーが難民区の西側を染め上げていく。
  その周囲を青や緑と言った人類側のマーカーが囲み、その拡がりを防いでいた。
  しかしその色は、ゆっくりとだが侵食されていき、初めは混ざり合ったピンク色を作ったかと思うと真っ赤に染められていく。
  それはまるで人類の歴史を現わしてるかのようだった。 人類の「死」、その範囲を示すかのように。
  BETAという色が拡がっていく。 人類は自らの色を守ろうと、自分たちの色を濃くする。
  だがBETAはその上から何度も幾度も何重にも、
  自分たちの層を重ねていった。
  異なる色の上に「赤」を重ねていった先は、結局「赤」となるしかない。
  
  この色の中で人間は、どのように生きたのだろうか。
  「殺してやる」と雄叫びをあげるのか、「出て行け」と喚くのか、「死にたくない」と悲鳴をあげるのか、「助けて」と懇願するのか。
  或はそれら全てか。
  どちらにしろ色は彼らを代弁することはなく、ただ色として存在するのみ。
  色に想いを馳せる者はなく、ただ自分たちがその色に染められないよう祈るだけだ。

  そうしたキャンバスの中を、一点だけでまっすぐに進む色が見えた。
  色は黄。 幸運を運ぶとよばれる明るい色。
  駆けるは白銀真璃。 そして機体名は『吹雪』。
  赤に染められまいと他の色達がバラバラになる中を、自分は変わらないと自己主張するかのように、赤に接近していった。
  


 「タケル君! スミカちゃん!」

  スラム街に拡声された声が響き渡る。
  ここは昨日、真璃とタケル達が会った場所の近くだ。
  さきほどから何度も呼びかけているが全く反応がない。

 「ここでもないの・・・・・・もう!」

  真璃は焦っていた。 マップを見る限り、この辺りへのBETA流入は防がれているように見える。
  だが防衛線は後退を繰り返し、BETAがこの地区へ流れてくるのも時間の問題だ。
  一刻も早く二人を見つけることが今の彼女にとって、何にも勝る命題となっていた。
  その焦りから真璃はこの場を離れようと、跳躍噴射を行おうとする。

 「!?」

  『警告』という文字が網膜に浮かび上がる。
  不意に浮いたそれは、ある言葉を真璃に思い至らせた。
  
  ―――BETA―――
  
  ドクンと大きく心臓が跳ね上がる。
  ペダルとレバーを操る動きが加速し、08式突撃砲の先端を瞬間、そちらに向ける。
  訓練で行ったとおりにセーフティを外し、後は引き金を引くだけとする。

  その先に映ったのは、2、3度跳ねるボールだった。

 「え・・・・・・?」

  そのボールを追いかける子供の姿も見える。
  網膜の情報をよく見ると、周囲に人間がいるために跳躍は危険、という意味での警告だった。
  真璃の肩から一気に力が抜けた。

 「・・・・・・あれ? でも何で」

  何でここにまだ人が残っている?、と思い至る。
  この辺りは危険区域となり、避難勧告も出ている。 民間人は誰も残っていない筈だ。
  もう一度その子供の方を見る。
  子供は親と思われる大人に腕を引っ張られ、家の中に無理矢理連れ込まれる様が飛び込んだ。
  真璃は吹雪のカメラ設定を変え、建物の方を見る。
  ・・・・・・建物の中には、少なくとも10数人の人間がいることが分かった。

 「な、何で」

  真璃は驚愕した。
  初めこそ逃げ遅れたのかと思ったが、この大人数が集団で逃げ遅れると言うことはあり得ない。

 「まさか・・・・・・」

  真璃はケガをした人間が集まっているのか?と思った。
  しかしそれなら、さっきから呼びかけを行っており吹雪の存在に気付かないわけがない。
  ましてや、さっきの大人の行動は・・・・・・
  真璃は一度マップを見、まだ大丈夫だということを確認しつつ吹雪から降りた。
  そして、駆け足で建物へと近づく。

 「・・・・・・・・・・・・」

  窓から中を覗くと、年配の人間達が生気なく佇んでいる。
  奥では先ほどの子供が母親とキャッチボールをしているのが見えた。

 「く・・・・・・!」

  彼らの行動が理解出来た。 死ぬ気なのだ、今ここで。
  ふと、心中に怒りがこみ上げてきた。
  前線では大勢の兵士達が命を懸けて戦っている。
  それなのに彼らは、「死にたい」というような行動に出ている。
  ましてや年端もいかない子供まで巻き添えにしようとしている。
  真璃はそれが許せなかった。
  そして真璃は建物のドアを勢いよく開けた。

 「皆さん、ここはもうすぐ戦場になります!
 早く避難してください!」

  真璃の声が室内に行き渡る。
  年配者達は一度真璃の方を見るが、何事もなかったかのようにまた下を俯いた。
  その様子は、真璃を更に苛立たせた。

 「今も前線では、皆のために戦っています。 ここまで生き延びられたじゃないですか!?
 なのに何で、何で死ぬことを選ぶんです! 生きましょうよ・・・・・・生きていれば、また楽しいことや嬉しいことが」
 「・・・・・・・・・・・・死なせてください」

  不意に、奥からか細い声が聞こえる。 それはとても小さく、弱い声だった。

 「兵隊さん・・・・・・もういいんです・・・・・・死なせてください」
 「え・・・・・・あ」

  真璃は困惑した。 このような返事がある、というのは想定していた。
  だがその声があまりにも健気で、それでいて必死なのが、彼女に否定させるのを躊躇わせている。
  真璃は奥へと進んだ。 電灯がついておらず、少し暗い。
  ・・・・・・そこには、布団の中で休んでいる老婆が一人。
  
 「あ、あの」
 「兵隊さん・・・・・・あたし達はどうなってもいいんです。 だから、行ってください」

  老婆の声を聞く度、鎚で頭を殴られたような衝撃に見舞われる。
  その言葉は本当に切実なのだと、痛いほど分かるのだ。

 「・・・・・・なぜ、なんですか。 なんで死を選ぶんですか」
 「・・・・・・・・・・・・」

  老婆は一度押し黙り、二人の間に静寂が流れる。
  そして、再び口を開いた。

 「昔もこんなことがありました。 あの時も、こうして兵隊さんが側にいてくれましたな」
 「え?」
 「あたしは日本人です・・・・・・天元町というところにいたんですけどね・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「あん時は、大変でした。 天元山が噴火して、死ぬ一歩手前でした。
 ですが、それは私が望んだことなんです。 私の息子達は大分前に戦死して・・・・・・あそこで、私は死ぬつもりだったんです」

  話す声に嗚咽が混ざり始める。

 「でもその時、二人の兵隊さんが最後まであたしなんかのために、頑張ってくれました。
 あたしは思いました。 生きなければならない、と。 生かしてもろうた責任がある、と」

  真璃の胸に「生かされた責任」という言葉が突き刺さる。
  ここでもやはり、「生かされた」という言葉を聞くのか、と真璃は改めてその言の重みを噛みしめた。

 「結局日本は滅んで、明日の保証もなくて、食料の配給もままなりません。
 それにこん歳ですから、皆に迷惑ばっかりかけてしまって・・・・・・
 だからもう、いいんです。 死んで、息子達とあの方達に、詫びたいんです」

  後は言葉にならなかった。 しかし老婆の声は涙と変わり、心を伝え続けた。
  ・・・・・・真璃はその様を見て、昔母から聞いた話を思い出していた。
  待つことはつらいけども、それが自分の戦いだからと命を懸ける母の姿を見たことがある、と。
  そして、私達が守らねばならないのはそんな人々なのだと、冥夜が言っていたことを思い出す。
  目の前にいる、動けない老婆。 誰かの迷惑になることを恥じ、自らの死でそれに応えようとする人間の姿。
  「生かされた者の責任」を、老婆はずっと果たし続けてきたのだろう。 それは生半可なものではない。
  真璃は思った。 「この人を守りたい」、と。
  母がそう言ったからではない。 自然に、そういった感情が湧き上がってくる。
  彼女は老婆に近づき、その手を取った。

 「・・・・・・守りますから」
 「え?」
 「絶対に、守ってみせます! ここも、皆も、お婆さんも!
 必ず、守ってみせます!」

  その時、老婆は目を疑った。
  眼前にいる女性の姿が、かつて自分を守ってくれた兵士・・・・・・将軍家縁の者と思われた、あの女性兵士と重なって見えたからだ。
  
 「あ、あんた、いえ貴方様は・・・・・・もしかして」

  (ピー!)
 「!?」

  真璃の網膜に「警告」という文字が浮かんだ。
  マップは、赤い点がすぐ近くまで迫っていることを現わしている。
  不意にズズウウゥゥン、と辺りが揺れ、それに怯えたのか子供が悲鳴をあげた。

 「私、行きます」
 「あ、あ、ああああ」

  立ち上がる真璃。 その姿が、かつての兵隊達のそれを回想させる。
  老婆は悟った。 この人は、あの二人の血縁の者だと。

 「皆さんはここで待っていてください!
 すぐに戻りますから!」

  真璃は彼らを残し、吹雪へと向かう。
  そして搭乗すると、匍匐飛行でその場から離れた。
  ・・・・・・赤い点が段々と近づいてくる。
  
  ―――ドクン
  
  鼓動が強まる。 だがそれだけだ。

  ―――ドクン

  汗が額に浮かぶ。

  ―――ドクン

  意識が前方に集中し、それ以外の感覚が消えていく。

  ―――ドクン

  意識が鮮明になる一方で、視界や感覚がぼやけてくる。
  もはや何も気にならず、何も聞こえない。 いや、聞いていないのか。

  (ピー!!)
 「!?」

  警告を現わす音がヘッドセットから流れた。 聴覚がそれを捕らえ、体全てをより一層緊張させる。
  世界が、動いた。

  視線の先にあるのは、グロテスクな「それ」だった。
  「それ」は人間の筋繊維組織を模したかのように体が筋張っており、感覚器官は顔、それも非常に醜い表情でこちらを見ているように思えた。
  それは、要撃級と呼ばれている。
  そしてその足下には、真っ赤な体と、これもまた人間の口に似た部位が生理的嫌悪感を誘う別の「それ」がいた。
  戦車級と呼ばれている。
  
  「それ」は徐々に徐々に、真璃の乗る吹雪へと近づいてくる。
  だが、吹雪は動かないでいる。 いや、動けないでいる。
  真璃はただ前だけを見つめ、大きく呼吸を繰り返すばかりだ。
  引き金を引こうとするが、指が動かない。
  ペダルを踏もうとするが、足が動かない。
  逃げ出したいのに、体が動かない。
  ただ前だけを、「それ」だけを見続けていた。

  ―――ドクン
  
  不意に、昨日襲われた状況がフラッシュバックした。
  自分を貪ろうと、迫ってくる男達。 自分を貪ろうと、迫ってくるBETA。
  人間性を全く失った表情で自分へと向かってくる「それ」らは、真璃の体に残る感触を思い起こさせる。
  湧き上がってきたのは、嫌悪感と恐怖だった。
  
 「あ、あ、あ」

  真璃の体が震え出す。 カタカタカタ、とレバーが揺れる。
  目の前に迫り来るBETA――男達――BETA――男達――BETA――
  繰り返されるイメージの交叉。 しかも迫るごとに、その想像が拡大していく。

 「いやああああああ!」

  真璃はそれを止めるために目を閉じ、腕で顔を覆った。
  世界が闇に染まり、真璃は一瞬の安寧を取り戻す。
  ―――だが、それに安心し目を開けると、
  そこには、今まさに腕を振りおろさんとする要撃級の姿があった。

 「ひぃ!?」

  腕がゆっくりとスローで下ろされる。
  真璃はそれだけを見、他には全く目が入らなかった。

 (バァン!!)

 「ひ!?」

  激しい音と共に、世界が一気に覚醒する。 真璃の五感は元に戻り、時間が帰ってくるのを感じた。
  その音は要撃級の腕がはじけ飛ぶ音だった。

 『何している、死にたいのか!?』

  通信なのか、ヘッドセットから怒号が聞こえる。 そして、目の前に国連軍カラーのF-4J「撃震」の姿が飛び込んできた。
  撃震は突撃砲についた銃剣で目の前の感覚器を突き刺し、そのまま劣化ウラン弾を発砲する。
  感覚器は粉々になり、目標を見失った要撃級は残る腕をブンブンと振り回し始めた。

 『跳ぶぞ!』
 「え・・・・・・あ、はい!」

  撃震の跳躍に合わせ、吹雪も跳び上がる。
  撃震は飛び上がりつつも発砲、下にいる要撃級と戦車級を確実に仕留めていく。
  だが、下りるはずの場所が段々とBETAで埋もれていき、自分たちのマーカーが孤立していく様に真璃は困惑する。

  そのBETAの一群に攻撃が加えられた。
  国連軍カラーのF-15、TYPE-94不知火、そして見たこともない機体が次々と36mmを発砲。
  36mmを受けた敵は、醜い体の内にある絵の具のような体液をばらまきつつ、その活動を停止していった。
  次々に加えられる攻撃に、BETAはその歩みを止めるしかなった。

 『全機散開! 平面機動挟撃(フラット・シザーズ)!!』

  攻撃は加えられたまま、各部隊が別れていく。
  左右から挟撃される形となったBETAは、もはや前進することも拡がることも出来ずに攻撃を受けバラバラになった。
  敵は増え続けているのだが、空を飛ぶことで相手の動きを把握した『撃震』の的確な指示は、BETAを単なる『的』とし、全く脅威に感じ
 させなかった。
  その卓越した指示と精錬された動きに、真璃を見とれた。
  衛士であればそれらは、超一流のものであることが分かるだろう。
  しかも一機だけならともかく、部隊の連携は完璧で、BETAの侵攻が完全に抑えられていた。
  左右から加えられる砲撃と上空からの射撃に、BETAの反応が確実に消えていく。

  ふと、残弾が少なくなったのか、撃震は74式長刀を構えBETAの集団へ吶喊する。
  他の部隊も同様に切り込んでいった。
  撃震は右腕で長刀を振り払い、左は銃剣で突き刺していく。
  要撃級は切り刻まれていき、戦車級は串刺しにされマーカーから消え失せた。

  先ほどまで水色の国連軍カラーだった撃震は、あっという間に真っ赤に染め上がった。
  だがそれは、BETAの「死」によって染められた勝利の色だった。
  いくらかたった後、真璃を乗せた吹雪がゆっくりと地上へ降りる。
  その頃にはBETAは後退し、辺りは味方のマーカーで満たされていた。

 「・・・・・・・・・・・・」

  すごい、と真璃は思うしかなかった。
  あの動きはそう簡単に習得出来るものではない。 絶妙な距離感、タイミングは実戦で得るしかない。
  百戦錬磨のプロフェッショナル。 彼らを現わすならば、まさにその言葉が適切だろう。

 『貴様どこの部隊だ! あそこまで敵の接近を許して、まるでド素人だぞ!?』
 「ぅ、あ・・・・・・すみません」

  真っ赤に染まった撃震は、弾倉の交換を行っている。 おそらくこの部隊――大隊の指揮をとっているのだろう。
  その声は女性でありながら、とても力強く頼もしい。

 『・・・・・・まあいい。 今の内に現状を確認するぞ。
 チャンネルを開け。 私達の部隊の周波数は分かるだろう』
 「あ、は、はい」

  網膜上で点滅し表示されている周波数を真璃は入力する。
  パッと、指揮官らしき人物の顔が映った。

 「まりもちゃん!?」
 「白銀!?」

  互いに全く予想していなかった事態に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
  ハッと気づいたまりもは、すぐさま回線を秘匿回線へと変更した。

 「白銀、なぜここに?」
 「あ、え、えとですね・・・・・・」

  なぜここに? 混乱したせいか一瞬答えが見つからないが、すぐさま思い出す。

 「あ! た、タケル君とスミカちゃんがいないんです!
 だから私、ここまで探しに」
 「戦術機に乗って? はあ・・・・・・はっきり言って厳罰ものよ、それ」
 「ええ。 でも、二人を見捨てる事なんてできませんから」

  自分は間違っていないと訴える真璃を見、まりもは頭を抱えつつも会話を続ける。

 「ともかく、貴方は戻りなさい。 二人は私が探しておくから」
 「で、でも、まりもちゃんは任務が」
 「・・・・・・もうすぐ、BETAの侵攻が止むはずよ。 二人はそれから探します」
 「え?」

  不意に、網膜にこの地区の地図が浮かび上がる。
  まりもはその地図を示しつつ、作戦を説明した。

 「現在BETAが出現しているのは西地区、その北からよ。
 司令部は現防衛線の維持を放棄。 撤収を開始しているわ」

  地図では8つに別れた地区が表示され、その中で最も左上のところからBETAが出現しているのが分かる。

 「でも、なぜBETAがメガフロートに」
 「・・・・・・理由は分からないけど、ニライカナイが着床してしまったのよ。
 BETAはその部分から侵入していると考えられるわ」

  ふと、昼にあった揺れが思い出された。
  
 「撤収して、それでどうするんですか」
 「着床している地区、いえ、そのブロックをパージします。
 だから今はこの東地区にBETAが流入するのを防ぐために、新たに防衛線の構築を行っているの」

  このニライカナイはメガフロートである。 メガフロートとはいくつものブロックを組み合わせ大きな陸地を形成したものだ。
  作戦とは、海底に着床した部分を切り離すことでこれ以上のBETAを防ぐというものなのだろう。

 「なるほど」
 「理解出来たら退がりなさい。 ここは戦場になるわ、さっきみたいに助けがくるとは限らないのよ」

  『助けが来なかったら死んでいた』
  というニュアンスをその言葉から真璃は感じた。
  事実その通りだ。 真璃は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませ、自分の無力さ、浅はかさに腹が立ってくる。
  誰も守れない、自分の命すら守れない、そんな自分に。
  ・・・・・・ふと、先ほどの老婆の姿が思い浮かんだ。

 「まりもちゃん、それともう一つ・・・・・・」




  ―――ぞろぞろと歩いていく年配者達。 真璃は、その様子をじっと眺めている。
  相変わらず顔に生気はないが、皆文句も言わずに撤収中のトラックに乗り込んでいく。
  最初こそ頑固に居続けるかと思ったが、すんなりと真璃や他の軍人達の言葉に彼らは従った。
  話では、先ほど話した老婆が皆を説得した、ということだ。
  「死なせてください」と言っていた老婆に何が起こったのか、真璃は混乱するばかりだったが、とにかく皆が移動してくれることを喜んだ。

 「兵隊さん」

  担架に乗せられ運ばれていく、先ほどの老婆が見える。
  声をかけられた真璃は駆け寄った。

 「ありがとうございました。 皆さんを説得して頂いて」
 「あたしなんかに勿体ないお言葉。 先の短い私にとって、これ以上に有り難いことはありません」

  とても恐縮しているその表情を真璃は怪訝に思う。
  だがそれを確認する間もなく、老婆はトラックへ乗せられた。

 「ああ、待って、待ってください。 後一つだけ、後生ですから」

  老婆が側の兵士の腕を掴み、懇願する。 真璃はその兵士と目を合わせ、一度頷くと再び老婆に駆け寄った。

 「何かありましたか?」
 「あ、あの、失礼かとは思いますが、最後に聞かせてください。
 ・・・・・・貴方様のご両親は、息災でしょうか」
 「え?」

  突然、父母のことを聞かれ困惑するが時間もなく、今は事実だけを伝えようと考える。
  
 「父は、分かりません。 でも母は、自分が守りたいもののために戦って、それを守って、亡くなりました」
 「おおお・・・・・・」

  老婆の目から大粒の涙が流れる。 
  その様子に真璃は驚きを隠せないでいた。

 「あのもしかして・・・・・・母のことをご存じなのですか?」
 「ええ、知っています。 知っていますとも」

  その時、前からクラクションが聞こえた。
  これ以上待てない、というサインだろう。
  真璃は後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れようとする。

 「貴方様は!」
 「え?」

  離れようとした真璃の手を、老婆は手に取り、涙を流しながら訴えた。

 「貴方様は、どうか生きてください!
 高貴な方には高貴な方の事情があると思います。 これは、老いぼれの我が儘でございます。
 どうか生きてくださいませ・・・・・・生きて、生きてください・・・・・・どうか」

  真璃はその言葉の真意が、よく分からなかった。
  なぜこの老婆がそんなことを言うのか、そもそもここまで訴える理由が掴めない。
  だが、一つだけはっきり分かることがあった。
  それはこの人が、自分のことを思ってこの言葉を投げかけてくれている、という確信。

 「分かりました。 私、生きます。 そして、自分の任務を必ず果たします。
 ・・・・・・お婆さんと話せて、とても嬉しかったです。 あなたに、心よりの感謝を」

  老婆の手を握り、完爾として返答する真璃の表情は、とても穏やかだった。
  それを見た老婆は先ほど以上に泣き崩れる。
  ―――車が走り出した。
  車の中から、こちらに向かって手を合わせている老婆の姿が見える。
  真璃はそれを、じっと見続けていた。
  そして考えていた。 自分の出自というものを。
  自分は何者なのか、先ほどの老婆の反応は何なのか、が頭の中でグルグルと駆けめぐっている。
  しかしどんなに考えても、答えは出なかった。

 「白銀少尉、民間人の一人からあなたに話があると」
 「え?」

  真璃が振り返ると、そこには兵士に連れられた子供が一人。
  ―――先ほど、ボールで遊んでいた子供だ。

 「どうしたの?」
 「うん・・・・・・あのね、さっきね、『タケル君』『スミカちゃん』って言ってたよね」
 「うんうん」

  子供はオドオドしながら、その小さな指である方向を指し示した。

 「あっちにね、地下倉庫に行くリフトがあるの。 A-10って書いてるの。
 二人、いつもそこに行ってるよ」
 「え?」

  『ママ達が知らない倉庫があってね、そこに食べ物があるの』
  というスミカの言葉を思い出す。 そこにまでは考えが至っていなかった。

 「ありがとう!」

  真璃は満面の笑みを浮かべ、その子の頭を撫で回す。
  そして側の兵士に敬礼し、真璃は再び吹雪へと向かった。
  吹雪に搭乗し拡大したマップを見ると、確かにA-10という戦術機用のリフトが見えた。

 「今度こそ・・・・・・」

  ふと、「戻りなさい」と言ったまりもの言葉が思い浮かぶ。
  だが今は、そんなことを気にする場合ではない、と一蹴した。 
  
 「今度こそ失敗しない! さっきみたいな失敗は、絶対にしない!」

  『助けが来なかったら死んでいた』『生きてください』という、全く別の言葉が頭に響く。
  死の恐怖、それが完全に拭い去られたわけではない。 だが彼女は今、それ以上に使命感に支配されている。
  すぐそこに自分が守るべき対象がある。 さっきは失敗したが、今度は失敗しない、と自分に言い聞かせて。

 「私は死なない! 死なせない!
 死ぬもんか、死なせるもんか!!」

  その声は誰も聞こえることなく、聞かせることもなく。
  ただ自分を励ますために、彼女の叫びは続けられた。
  ・・・・・・しかし、彼女は気づいていない。
  大きく叫べば叫ぶほど、隠した恐怖の実体はとてつもなく大きいのだということに―――








[3649] 第四話「終わりなき悲劇」 第六節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2008/12/11 15:52



  難民区の東西境界線。
  この境界線は名の通り、「その線を境にして世界を異に」していた。
  西側は人間ではない、異形の化け物達――BETA――が支配し、辺り一帯の人工物を喰い始めていた。
  要撃級や突撃級、要塞級によって破壊された建物を、戦車級らが喰らっていく。
  それは、人間が存在していたという事実そのものを消し去ろうとしているかのごとき所行だった。
  人間の姿は全くない。
  逃げ遅れた人間も同様に、彼らによってその存在を否定されたのだ。
  ある人は親子だった。 ある人は兄弟だった。 ある人は恋人だった。 ある人は・・・・・・
  どんなに怒っても嘆いても、BETAは慈悲の欠片すらもみせず、無関心に彼らを喰いつくした。
  そしてまた、多くの人間がその存在を否定されていく―――


 「うあ、あ、熱い!? 熱い!!
 触手が、触手がああああああ!? ぎゃあああああ」
 「イーグル3!?」

  戦闘が続く、境界線で響き渡る絶叫。 
  長く鋭い10本の脚、芋虫を彷彿とさせる体をもち、BETAの中でも最大の種である要塞級がその中心にいた。
  それに付いている巨大な触手、その先には前から後ろにかけて体を貫かれた、国連軍カラーの不知火があった。
  要塞級は器用に体を動かし、その不知火をブンと前方に放り投げる。
  地面に叩きつけられるのと同時に、不知火はバラバラになってしまった。
  胴部分が強力な酸によって溶かされ、脚と腕、そして頭だけがゴロゴロと地面を転がっている。

  ・・・・・・その様を見た他の不知火達は、一斉に要塞級へ突撃した。

 「ちくしょう! よくもおおおおおおおおおお!!」

  長刀を装備した不知火が要塞級の下部へと突っ込む。
  だがそこには要撃級が10数匹存在し、不知火は動きを止めざるを得なかった。
  そして迫ってくる要撃級に対し、長刀で一閃。
  数体の要撃級が持つ人の顔を想起させる感覚器からモース硬度が高い腕までが、完全に分離される。

 「雑魚は引っ込んでろ!」
 (ピー!)
 「!?」


  不知火が頭を上げる。


  ―――頭上には要塞級の脚。
  先端が見えた、と衛士が認識した瞬間、暗転。
  不知火は頭から股まで完全に貫かれた。
  
 「隊長おおおおおおおお!!??」

  残った2機の不知火が36mmを発砲する。
  要塞級にほぼ全弾が命中しているが、動きを止められない。
  それは、貫いた不知火を脚につけたまま、ゆっくりとこちらに迫ってきた。

 「来るな、来るな、来るなあああああああああ!」
 「何で死なねえんだよ! 死ねよおおおお!」

  ただ撃ち続ける不知火。 要塞級がまた一歩近づく。
  ・・・・・・だが、そこまでだった。
  要塞級はその一歩でバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。
  様々な色が混ざった体液があふれ出し、周囲に拡がっていく。

  それの「死」を不知火の衛士達は確認した。

 「・・・・・・」

  さっきまで絶叫がこだましていたとは思えないほど、静かになった戦場。
  今なお貫かれたままの隊長機であった不知火は、何の反応もせず、ただ機械の固まりとして横たわっている。
  残った二人は、その姿をじっと見続け、そして、一人が呟いた。

 「俺たち・・・・・・もうダメかもな」
 「・・・・・・・・・・・・」

  残った不知火2機の残弾は、予備もなく、装填されている1000程度だ。
  長刀はあるが、幾度も使用された結果刃こぼれが激しいのが分かる。
  だがなぜか、退がることは考えつかなかった。
  どうせまた同じ結果になる―――彼らが体験してきた戦場は、常にそんなものだった。
  彼らはもはや、「生きるために戦っている」のではない。
  「生きているから戦っている」のだ。

  そして二人は、その戦いが確実に終わりに近づいているのを感じている。
  その感覚が、彼らから現実というものを奪っていた。

 (ピー!)
 「「!?」」

  音紋センサーに反応が現れる。
  すると、前方の地面が盛り上がり、大量の要撃級や戦車級の姿が現れた。
  ・・・・・・その背後には、たった今倒れた要塞級が7体、確認出来た。

 「上等だぜ」
 「いいんじゃねえの? もう何だろうと驚きはしねえよ」

  不知火は再び36mmを構え、現れたBETA群に淡々と発砲を開始した。
  その動きは、まるで機械のようだった。 何の激情もなく、覇気もない。
  そこには「人間」はいない。 それは、訓練で教えられたことを繰り返すだけの、ただのレコーダーでしかなかった。

  ・・・・・・弾が切れた。 

 「あー、最後は突撃かよ。 かったりいな」
 「バンザーイって言いながら行くか? 相手はいねえけど」

  冷めた口調で長刀を取り出す。
  徐々に近づいてくるBETA。 迫り来る「死」の影に、さすがに意気が低い彼らもゴクリと唾を飲み込んだ。
  だが考えていることは両者とも同じだ・・・・・・「これで終わる」、と。

 『そこの国連部隊、援護する!』
 「!?」

  突然の通信。 そして、前にいた要塞級の一体が突然倒れ込んだ。
  こちらに向かっていたBETAが、不意に後ろを向き、その進路を逆転させる。
  その様に2機の不知火は、衛士であるが故に「チャンスだ」という言葉を思い浮かべてしまった。
  先刻まで死ぬ気満々だった2機が背中を見せたBETAに突撃。
  背中を見せているため、BETAは全く反撃をしてこない。 不知火はとにかく切りまくった。
  要撃級を一刀両断にし、戦車級は踏みつける。
  さすがにこちらも脅威に思ったのか、何体かの要撃級がこちらを向いた。
  改めて長刀を構える不知火。


  ―――そのいずれもの要撃級が、首を墜とした。


  不知火の衛士はハッとした。
  気づけば後ろにいたはずの要塞級は全て沈黙し、他の要撃級の反応すら、マップから消えていた。
  彼らが死を覚悟した筈の敵部隊は、たった3機の戦術機・・・・・・それも、要塞級はたった1機で、殲滅されたのである。
  
  ・・・・・・首が墜ちた要撃級が、ゆっくりと倒れていく。
  そこから、深紅に満ちた美しい機体が現れた。
  2機の不知火はこの機体を知っていた。 いや、そもそもこの基地で知らぬ者はいないだろう。
  東南アジアで、オーストラリアで、人類の先駆けには必ずその機体があった。
  『武神』―――それを意味する機体名にまったく恥じない働きを、その戦術機は続けている。
  その武神は、『TYPE-00FX 武御雷』と呼ばれていた。
  より大型の跳躍ユニット、肩部スラスターを新たに装備したTYPE-00Fの発展型の機体。
  そしてそれを操縦する衛士の名は、『月詠真那』。 「鬼」とも「最後の斯衛」とも呼ばれている帝国軍のトップエースである。

 「無事か?」
  
  その武御雷から通信が入った。
  初老に入り、もはや引退してもおかしくないはずの年齢でありながら、その気迫と意気は全盛期からまったく衰えてはいない。
  それを見た不知火の衛士達は、先ほどとは違い顔を引き締め「問題ありません」とはっきりと答えた。

 「そうか。 この辺りの部隊を率いているのは神宮司大佐と聞いたが、どちらにおられるだろうか?」
 『その心配なら問題ありませんよ、中佐』

  3機の横へ、F-15J陽炎を率いたまりもの撃震が降り立つ。
  その様は先ほど真璃を救ったとき以上に、返り血でドロドロに汚れていた。

 「相変わらず達者なようで。 安心しました、大佐」
 「“鬼”と呼ばれた貴方ほどではないですよ」

  この地獄のような、救いのない戦場にあって、二人はニコニコと笑顔で会話を始めた。
  その様子に他の衛士達は余裕を感じたのか、多くの者がフーッと息を大きく吐き出し、リラックスする。

 「大佐、こっちは既に切り離しのための作業は完了しました。 そちらはどうですか?」
 「今回は帝国軍の勝ちね。 私達の部隊はさっき作業が終わりました。
 パージまで、15分はかかるでしょうけど」

  今回のパージは各ブロックをつなぎ止めているボルトを、爆薬で強制的に破壊し切り離すものだ。
  爆発が強すぎれば他のブロックに影響を与えかねない。 故に慎重にならざるをえない。

 「15分・・・・・・なんとしても、守らなくてはなりませんな」
 「ふふふ・・・・・・中佐、今日の貴女は活き活きとしていますね」
 「お互い様ですよ」

  小さく笑いがこぼれた。
  今回の戦いは、二人にとって「戦う理由」があるのだ。
  これまでの戦いは二人にとって、義務のような、いわば自分の想いとは別の面があった。
  もちろん戦いに手を抜いたことはない。 さきほどの不知火の衛士達のような、自暴自棄になったことはない。
  だが時々、不意に襲われることもある。 「これ以上戦っても意味がないのではないか」、と諦めを誘う言葉に。
  しかし今の二人には確かな、戦う理由が存在する。 戦って勝つことで、得られるものがある。
  異星からの過去の来訪―――彼女に想いを託すために、決して負けられない。
  そんな想いが湧き上がる感覚に、二人は今、戦いの意義を久しぶりに噛みしめているのだ。

  ・・・・・・ふと、マップに新たな『赤』が映る。 まりもと真那達は、バッとそちらを向いた。

 「新手、か・・・・・・行きましょう、中佐」
 「ええ。 今回の戦い、私の機体も喜んでいます。
 今ならば、地獄の閻魔と戦っても勝てる気がしますよ」

  ははは、と最後に一笑。 そして部隊は、真っ赤に染まったキャンバスへと突っ込んでいった。





  ―――まりもと真那達が戦闘を続ける一方、真璃は吹雪と共にリフトに乗り込み、地下へと降りているところだ。
  このリフトは元々、メガフロートを建造するための資材を下ろすためのものだった。
  作業過程には戦術機クラスの大型機材も使われており、吹雪程度ならば十分問題はない。
  しばらく下降すると、リフトが止まり、前方のシャッターが解放される。
  広々とした空間が一杯に拡がる。

 「ここって・・・・・・格納庫?」

  真璃が見た空間は、倉庫というよりも格納庫であった。
  戦術機を固定するためのアーム、高台で作業をするためのクレーンが赤茶けたまま放置されている。
  その周りに、コンテナが無造作に積まれているのだ。

  ―――事実としては、ここは格納庫として使われていた。
  元々このニライカナイは「移動基地」である。
  東南アジア、オーストラリア、そういった各戦線にて数ある戦術機の整備や空母の駐留基地として使用されていた。
  この格納庫も10年前までは戦術機の整備に頻繁に使われていたのである。
  逆を言うと、ここが使われなくなったということは、つまり使っていた人間や戦術機が大勢失われたということと同義だ。

  だが真璃はそこにまで頭が回らなかった。
  今はとにかくタケルとスミカを探すことで頭がいっぱいになっており、そこまで気を回す余裕がない。
  
 「タケル君! スミカちゃん!」

  拡声された音が壁を跳ね返り、こだまとなって返ってくる。
  こだまが消えると辺りは静まりかえり、結局何の手がかりも得られない。
  周りにあるのは空のコンテナやそうでないものばかり。 動くものすらないように真璃には思えた。

 「ここにいるとは思うんだけど」

  真璃は吹雪を前進させ、より奥へと進んだ。
  ・・・・・・辺りは異様なほど静かだった。
  リフトを降りるまでは戦場を彩る砲撃音と爆発音が至るところから聞こえていたが、ここでは一つも聞こえない。
  真璃はかえってその静けさから、徐々に緊張感を高めていった。
  前進を続ける吹雪。 しかし一向に人影は見えない。
  真璃の中に「二人はここにいるのだろうか?」という疑念が湧いてくる。
  それと同時に、不吉な――そして考えることすら嫌悪を誘う――想像が頭をよぎる。
  既に二人はBETAによって、殺されているのではないか、と。

  あり得ない、と首を横に振る。
  BETAの流入は現在、完全に防がれている。
  それは網膜に映るマップ情報を見ても一目瞭然だった。
  そして例のブロック切り離しが行われれば、その侵攻も終わる。
  つまり、事態は優位に進んでいる、と彼女には思えた。

 「ん?」

  何か奇異な音が聞こえた。
  まるでガラスを割ったような、そんな音。
  真璃が視界を動かすと、それに連動し、吹雪のカメラアイも動く。
  そして網膜に、吹雪の足下が映った。
  それは固まった硬化ベークフライトだった。
  地面に拡がったベークフライトを、吹雪の主脚が踏み破っていたのだ。
  そのベークフライトが作る、真っ赤なラインの先をじっと辿っていく。

 「!?」

  そのラインは、壁から漏れだしていたのが分かった。
  完璧に硬化し個体となったベークフライト。
  ・・・・・・そこには、兵士級や闘士級といったBETAの小型種が、まるでホルマリン漬けされた標本のように浮かんで見えていた。

  ゾッ、と真璃の背筋が凍る。
  BETAはここにはいない、という前提が崩れたのだ。
  ベークフライトが漏れた穴は小さい、つまりせいぜい小型種しか入れはしないが、それでも普通の人間には脅威だ。
  彼女の目に焦りの色が現れ始める。

 「タケル君! スミカちゃん!」

  先ほどのように、もう一度外に声をかける。
  返事はない。 だが、今度は先ほどとは違う反応が返ってきた。
  ・・・・・・続々と、小型種がコンテナの影から姿を現わし始めたのだ。
  闘士級が持つ鼻のような独特な腕には、人間だったもの、そのパーツが握られている。
  兵士級は口から、まだ真新しい鮮血を垂れ流していた。

 「ひ」

  真璃は吐き気を催し、口を塞ぐ。
  ―――ドクン
  鼓動が早くなり、視界がぼやけてくる。
  先ほどのイメージが真っ赤な血と重なって、真璃に襲いかかる。

 『さっきみたいに助けがくるとは限らないのよ』
 「!!」

  不意に、まりもの言葉が思い出された。
  先刻その言葉に『助けが来なかったら死んでいた』という文意を感じ、怒りや腹立たしさが湧いたことを想起させられる。
  恐怖と嫌悪感、それらを腹立たしさが相殺しつつ別ベクトルへ向けられることで、多少落ち着きを取り戻した。
  
 「これ以上、迷惑かけてたまるか!」

  吹雪で小型種へ照準を合わせ、コンピューター制御による36mm単発射撃。
  2,3体の闘士級、兵士級がパァンと割れた風船のようにはじけ飛ぶと、他の小型種が一斉に動き始める。
  それを同じく、精密に射撃し撃破していく。

 「この! この! このお!」

  自分の中にある苛立ちをぶつけるかのようなその仕草は、まるで子供が蟻を潰す様のように見えた。
  小型種では戦術機にダメージを与えることは出来ない。 つまりは一方的な殺戮が可能なのであり、「自分が脅かされない」状況での
 圧倒的な力の差に、真璃は興奮を高めるけども、一方で落ち着くことができた。

 (ピー!)
 「!!」

  音紋センサーが網膜に投影される。
  跳ね上がるグラフ、それは現在BETAの一群が移動しているのを表している。
  そのセンサーによって示された方向を見る。 が、そこには何の変哲もない壁があるだけだ。

  だが、真璃は全く気を抜かなかった。
  フー、フーと口で呼吸を繰り返し、汗も額に浮かぶ。
  しかし気持ちは落ち着いていた。 先ほどの小型種掃討で、スイッチの入れ替えが行われたためだ。

  彼女はレバーを握っていた手を、一度軽く開き、閉じた。 それを左右で数回繰り返した後、大きく深呼吸する。
  ・・・・・・彼女は身体的にも、完全に臨戦態勢を整えた。

 (ピー!)

  ヘッドセットから警告音が響く。
  同時に壁が盛り上がったと思うと、要撃級の腕が壁を突き破ってくるのが見えた。
  その突きだした腕から壁のヒビが一気に拡がり、BETAの全体が現れた。

 「うわあああああああああ!!!」

  悲鳴なのか雄叫びなのか、よく分からない奇声をあげ真璃は08式突撃砲36mmを発砲する。
  照準がつく直前に引き金を引いたため、弾は線を描きつつ要撃級を貫く。
  それが倒れると、後ろから戦車級と要撃級、そして大量の小型種が壁から現れた。

 「このおおおおおおお!」

  とにかく今の真璃は36mmを撃ちっぱなしにし、大型種を穴から拡がらないようにするだけで精一杯だった。
  『991』コードを伝え、周辺の友軍がこちらへ来てくれることを祈るしかない。
  ・・・・・・残弾が半分を切った。

 「くっ!?」

  ―――弾数が0となったら、行くしかない。
  あの醜い集団へ、自ら飛び込むのだ。
  真璃は覚悟を決め始めた。 BETAとの接近戦、それは先ほどまりもの駆る撃震でも見た、命が一本の線によって切れるか切れない
 かが決まる際どい戦いである。
  真璃はもう一度、大きく深呼吸をする。
  そして、残弾が500を切る。 覚悟を決めた。

  ・・・・・・不意に、大きな揺れが起こる。
  スウェイキャンセラーでも完全に吸収しきれないほどの揺れに、真璃は慌てた。

 「な、何!?」

  BETAも振動のため、進みがままならないらしい。
  そうこうしている間に、穴からは大量の水がBETAとともに倉庫内へ入ってきた。

 「!?」

  真璃は跳躍ユニットを使い、空中へと跳び上がる。
  水に押し出され、こちらへ入ってくるBETA。 流されるコンテナ。
  倉庫は一面水浸しとなった。

  ・・・・・・異常を察知したのか、壁にシャッターが降り、その穴を塞ぐ。
  水の流入が止まり、辺りは1mほど冠水してしまったようだ。

 「今の・・・・・・パージが成功したの?」

  空中で状況を確認しつつ、先ほどまりもから聞いた作戦を思い出した。
  爆薬によってブロック間を接合している箇所を爆破し切り離す。 先ほどの揺れは、そのためであろう。
  現に、水と共に侵入したBETAは少ないように思える。 10体程度の要撃級、数十体の戦車級、その程度しか見えない。
  おそらく、奥にいた多くはパージされたブロックとともに海底へと沈んでいったのだろう。
  ふと、要撃級と戦車級が立ち上がる。 水をかき分けながら進み、降りたシャッターをその腕で打ち始めた。
  まるで仲間の元に帰ろうとするその行動。 このままではまた水が入ってしまう、そう考えた真璃は発砲する。
  直上から射撃を受け、多くは完全に沈黙し倒れたが、要撃級3体を残すところで弾が尽きてしまった。

 「くっ!」

  真璃は右腕の突撃砲を捨て、74式長刀へ持ち替えた。
  ―――ドクン
  恐怖が、再び湧き上がる。
  自分がBETA相手に何も出来なかったことが思い出され、またそうなるのではないかと自信が持てない。
  『助けがくるとは限らないのよ』
  また、あの言葉が頭に響いた。
  無力さを責めるその言葉は、頬を紅潮させ、腹立たしさと憤りと共に興奮を真璃に与えていく。
  真璃はペダルを踏み込み、要撃級へと突っ込んだ。

 「なめるなあああああ!!」

  頭上から縦一文字に振り下ろされた長刀によって、要撃級は文字通り真っ二つになって左右へ別れた。
  異常に気づいたのか、他の2体が吹雪へと近づいてくる。

 「やああああああ!」

  もはや考える必要はなかった。
  訓練で学んだ通り、懐に飛び込み長刀でなぎ払う。
  ヒュ、という小気味のいい風切り音。 その音に遅れて、目の前の敵が切り裂かれる。
  内臓、なのか。 良く分からない臓器が筋繊維の下から現れ、ピクピクと蠢いているのが見えた。
  不思議とそれに嫌悪感は湧かない。 感じるのは、「まだ生きている」という認識だけだ。

  吹雪は左腕の突撃砲に備え付けられた銃剣で、そのむき出しになった部分へ突き立てる。
  体液が勢いよく噴き出し、吹雪のカメラを汚した。

  その汚れた部分の陰から、残った要撃級の姿が見える。
  ―――距離は全くなかった。

 「くうううう!」

  吹雪が大きく揺れる。 要撃級と衝突してしまったのだろう、大きくのけぞり、後ろへ倒れ込んだ。

 「この・・・・・・!?」

  網膜に突然反応が映る。
  BETAではない。 これは人間の反応。
  その先へ目を移すと、そこには走る子供の姿――タケルとスミカがいた。

 「タケル君、スミカちゃん!?」

  二人は何かから逃げるように、梯子を登り、上階へと上がろうとしている。
  ・・・・・・その二人を追いかける、兵士級BETA。

 「!? タケ、うあああ!」

  再び大きく揺れた。
  目の前の要撃級がその腕で、吹雪を強く打ったのだ。
  再び腕を振り上げる要撃級。 鳴り響く警告音。

 「邪魔するなあああああ!!!」

  左肩に残っていた最後の長刀へ腕を伸ばす。 そして跳躍ユニットを噴射、微調整で吹雪は立ち上がろうとした。
  長刀を固定していたボルトが解放、自由となり、それを認識したマニュピレーターが押し上げようとする。
  その動きと同時に、火薬式ノッカーの炸裂音が響いた。 その音と同じくして、吹雪は仰向けの状態から前方へ倒れ込むほどの急激
 な早さで立ち上がる。
  長刀へかかる両腕部マニュピレーターのパワー、そして火薬による強烈な跳ね上げ、加えて前方への傾斜力、それら全てを長刀の切
 っ先に集中させ、早さと破壊力へと変換させた。

 「やああああ!!」

  振り上げたのは要撃級が先だったが、それを振り下ろす暇など与えなかった。
  その手腕が頂点へ達すると同時に、バターを切るナイフのようにスッと長刀が腕の中へ滑り込む。
  何の抵抗も感じないほどのパワーが振り抜かれた。 最後は地面に長刀がめり込み、刀身が根本から折れた。
  その動きに少し遅れ、要撃級がゆっくりと両断される。 危機は、一瞬のやり取りで終焉を迎えた。
  だが真璃には余裕などなかった。
  すぐさま二人の方へ向け吹雪を前進させる。
  「二人が危ない」 とにかくこの考えが真璃を焦らせ、他のことなど何も気にとめなかった。

  ―――網膜にスミカの画像が映った。
  行き止まりでうずくまっており、そこに兵士級が数体近づいていくのが見えた。
  真璃の焦りが更に高まる。 吹雪の腕を伸ばすが、まだ届かない。

 「早く、早く!」

  スミカに近づく兵士級。 伸びる吹雪の腕。
  その動きがスローモーションのように見え、先行する彼女の意識だけが別の時間を動いているようだった。

 「届けええええええ!!」

  ・・・・・・早かったのは真璃の方だった。
  近づく兵士級を吹雪の腕が押しつぶし、それ以上の接近を止めた。

 「はあ、はあ、はあ」

  現実と意識、両者の時間の差が一つに戻っていく。
  スミカを見た。 無事な姿、確かに「生きている」姿が目に入り、徐々に徐々にだが、自分が成し遂げたことの実感が湧き上がってきた。

 「はは、は・・・・・・やった、やった!」

  真璃は歓声を挙げた。 両腕を強く握りしめ、大きくガッツポーズを作る。
  『達成感』とでも言うのだろうか。 先ほどの要撃級や戦車級の撃破についても、喜びという形でようやく自分の感情に表れてきた。
  初の命のやり取りを征し、自分が「生きている」という実感が強く確認される。
  そしてまりもに言われた『助けがくるとは限らないのよ』という言葉を克服した自覚。
  それらが彼女の中を巡り、自身の価値を高めていった。
  笑みを浮かべつつ、真璃は吹雪から降りる。
  そしてスミカの側へと駆け寄った。

 「スミカちゃん! もう、心配かけて」

  ギュッとスミカを抱きしめる。
  『達成感』と、今度は『安堵感』が彼女の中に現れる。
  暖かく、確かに感じられるスミカの存在が、とても愛おしい。

 「さ、早くまりもちゃんのところに帰ろう?
 タケル君はどこに隠れているのかな、一緒にいたのは見てたからすぐそこにいるんでしょ」

  スミカを抱きしめたまま、真璃は辺りを見渡した。
  だがタケルの姿は見えない。 行き止まりがあるだけだ。
  ・・・・・・ふと、スミカが指をゆっくりと前へ向けた。
  その指の先、それは行き止まりとは反対の方向。
  すなわち、吹雪の腕がある方を指している。

 「・・・・・・え?」

  吹雪の腕を見た。
  その下でグチャグチャに潰れ、全く動かなくなったBETAの残骸。
  子供達に群がった化け物達。 それを確かに、真璃は殺した。
  変わったところは、何も見えない。

 「・・・・・・・・・・・・」

  それしか見えない。 見えない、はずだった。
  何の変哲もないBETAの死骸、それだけのはずだった。
  吹雪の指の間から見えるのは、それだけのはずだった。

  ―――しかし、
  そこに見えたのは、小さな小さな子供の、ダランとした腕だった。 彼女はたった今、ようやく気が付いた。
  真っ白な兵士級の死骸に、ぽつんと在る人間の腕。
  真璃はサーッと青ざめた。 先ほどまでの達成感が完全に消し飛び、下半身に力が入らなくなった。
  足下がふらつき、その場にへたり込む。
  
 「あ・・・・・・あ」

  下半身に力が入らず、這いずるようにその腕へと近づく。
  近づけば近づくほどその輪郭がはっきりとし、現実が真璃に迫ってきた。
  体中から血の気が引き、内賦が逆流するような感覚に囚われる。
  吐き気が催され、それ以上進むことが出来なかった。

 「タケ、ル、タケル」

  不意に、その腕が動いた。
  いや、正確には動いたのではない。 真璃の目の前で、その腕が、音を立てて「落ちた」のだ。
  真璃はそれをじっと見ていた。 頭の中では、昨日までのタケルとの記憶が反芻されていた。
  悪戯を繰り返すタケル、叱られるタケル、ボロボロになってもスミカを守ろうとするタケル――

  ―――それらが、全て、今目の前にある片腕に帰結した。

 「ああああああああああああああああああああ!!」


  
 

  ・・・・・・あれから数時間がたった。
  真璃はスミカを腕の中に抱きつつ、吹雪を前に座り込んでいた。  
  今の彼女にあるのは、『後悔』『懺悔』『自己否定』の感情だけ。
  頭の中でそれらが繰り返しループされ、自分というものを完全に消してしまいたい、そんな衝動に駆られている。
  涙はとっくに涸れていた。 正確には、涙だけでは足りなかった。
  自分が守りたかった人を救えなかった。 いや、自分が殺してしまった。
  この考えに至るたびに胸が締め付けられ、何かを外に吐き出してしまいたい、そんな気分に襲われる。
  しかし無理なのだ。 人間は涙と声しか出せない。 それ以上を吐き出すことは、できない。
  心には吐き出せずに残ったものが沈殿し、より一層深く重く彼女に「罪」を感じさせた。

 「・・・・・・白銀」
 
  真璃の背中から声がする。 まりもが、ゆっくりと側へ近づいた。
  真璃は振り返ることなく、そのままだ。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  まりもは自分から声をかけた。 しかし、それ以上言葉が続かなかった。
  しばらく沈黙が続く。 そして、まりもは再び声をかけた。

 「白銀」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「今、貴女は辛いでしょうね。 本当に、すごく辛いと思うわ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「でもね白銀、貴女はすごいことをやったのよ。
 自分では気づいていないかもしれないけど、貴女はたった一人でBETAの侵入を防いだ。
 それは誇っていいことよ」

  『誇っていい』
  この言葉が真璃の耳に入る。 そしてブンブンと首を軽く振った。

 「やめてください・・・・・・私は、私は何も、出来なかったんです・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「私、有頂天になっていたんです…自分なら何かが出来る、二人を救うことが出来る…
 そんな、根拠のない自信で、ここまで来たんです…」

  真璃は今日のことを思い直していた。
  初のBETAとの接触。 恐怖し何も出来ずに、まりもに救われたこと。
  そして、タケルを殺してしまったこと・・・・・・それを思い、真璃は胸が潰れそうになる。

 「でも私、BETAが凄く怖くて、何も出来なくて、考えられなくて・・・・・・
 タケル君がBETAのすぐ側にいることに、気づかなかったんですよ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「タケル君がここに来たのだって、私のせいなんです。
 私が明日帰るから、美味しいものを食べさせたいって。 励ましてあげたいって、またここに来たんです。
 私が来なければよかったんです。 地球に来なければ・・・・・・タケル君は死ななかったんです」

  とっくに涸れたと思っていた真璃の涙が、再びこぼれ始めた。
  
 「私がもっとちゃんとしていれば、もう少しだけでも早くここに来ていれば、助けられたんです。
 BETAに怯えたりしなければ、もっと、もっと力があれば・・・・・・助けられたんですよ。
 私が臆病者だから、だから殺してしまったんです。 全部私のせいなんです。 私のせいです。 私の」

  後は言葉にならなかった。 真璃は再び、腕の中のスミカをギュッと抱きしめる。
  スミカは何も話さず、生気なくなされるがままであった。

 「・・・・・・私は臆病でいいと思うわ」
 「・・・・・・・・・・・・え」
 「怖さを知っている人間は、その分だけ死にがたくなる。
 だから、それはそれでいいと思うのよ」
 「・・・・・・」
 「臆病でも構わない。 勇敢でなくてもいい。
 それでも何十年でも生き残って、一人でも多くの人を守って欲しい・・・・・・
 私は、そう思うわ」

  ふと、真璃の心中に冥夜や夕呼、霞の顔が思い浮かんだ。

 「でも・・・・・・私は、守れませんでした。 タケル君を、死なせてしまいました」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「ダメなんです、私、もうダメなんです。
 守れる自信が、もうないんです。 逆に死なせてしまうんじゃないかって・・・・・・怖いんです」
 「白銀、私もね・・・・・・貴女と同じように考えてたときがあるわ」
 「え?」

  まりもは苦しそうな表情を浮かべる。 そして天井を見あげた。

 「自分は何でも出来る。 自分の望むことを、全部叶えることが出来る。
 それこそ世界を変えることだって・・・・・・ふふ、私も若かったわね」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「任官して、中隊長を任せられたわ。 結構すごいのよ、任官早々中隊長なんて。
 私は自信を持ったわ。 でもね・・・・・・初陣の時、私は混乱して、部下を・・・・・・同期の仲間を全員死なせてしまったわ」
 「!!」

  真璃は今の言葉が信じられなかった。
  自分を救ってくれたまりも、その腕や指揮は完璧で、そんな状況が全く想像出来ないからだ。

 「私はその後、『生きる意味』について考えるようになったわ。
 なぜ私だけ生き残ったのか・・・・・・私はその意味について、深く考えたの」
 「そして見つけたのが、教官という道だったわ。
 一人でも多くの衛士を一秒でも長く生かすために、その経験を活かす・・・・・・それが、私が生き残らせてもらった意味だと、考えたわ」

  まりもの表情が曇る。 しかし言葉は途切れなかった。

 「でもね・・・・・・結局、それもダメだった。
 私はオリンピック作戦を失敗させ、教え子達をみんな戦死させてしまった。
 一人でも長く生きて欲しいと願っておきながら、私は本当に大事なところで、過ってしまったのよ。
 今の戦いだって、多くの部下を死なせてしまったわ・・・・・・私の責任よ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「私は何も救えなかった。 守るべき世界も、国も、人も、戦友も・・・・・・教え子達ですら・・・・・・
 でも、貴方は一人救えたじゃない」
 「!!」

  もう一度、スミカを抱く力を強める。
  確かに存在する暖かみ。 自分が守った、確かな命。
  それらがしっかりと確かめられた。 
  ・・・・・・同時に、タケルの顔が思い浮かぶ。

 「でも、私はタケル君を」
 「白銀。 救えなかったことを悔やむなら、それと同じだけ、救えたことを誇りになさい」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「スミカだけじゃないわ。 貴女はさっき、死を決意した老人達も救った。
 初陣で、自分が生き残るのが精一杯の戦場で、貴女はこれだけの人を救えたのよ」

  先ほどの老婆が思い出される。 『生きてください』と泣きながら願う姿が浮かんだ。
  少しずつ真璃の心がループから解脱されていく。 『後悔』『懺悔』『自己否定』以外にも、別の感情が湧いてくる。

 「死の8分は知ってるわね。 初陣の衛士の、平均生存時間・・・・・・貴女はこれを乗り越えて、しかも人を救った。
 それは誇りにならないかしら」
 「・・・・・・いえ」

  真璃の目が、少しずつ輝きを取り戻していく。
  タケルを死なせてしまった後悔はあっても、自分がなしたことへの自信が、少しずつ充たされているのだ。

 「それからね白銀・・・・・・貴女がさっき救ったお婆さんだけど、ふふふ」

  まりもの顔に笑みが浮かぶ。 

 「さっきのお婆さんね・・・・・・昔、白銀と御剣、つまり貴女のお父さんとお母さんが救った人なのよ」
 「え?」
 「火山が噴火しそうになってね。 その時、貴女のお父さんとお母さんが、2機の吹雪と自分達の命を懸けて、守ったのよ。
 それ以来、あのお婆さんは必死に生きるようになったわ。 生かせてもらった責任がある、と言ってね」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「分かるかしら白銀。 貴女はお父さんやお母さんが救った命を、もう一回救ったのよ」
 「!?」

  父と母が救った命―――それを、今度は自分が救った。
  真璃の胸に熱い何かがこみ上げてきた。
  暖かく満たす何かが、彼女の中一杯に拡がっていく。

 「貴女は本当に凄いことをやったのよ。
 ・・・・・・きっと、お父さんやお母さんも誇りに思っているわ。
 それでこそ、私達の娘だ、って」

  真璃の目に、再び涙が溢れた。
  だが今度はさっきまでとまるで違う。 とても暖かくて、自然に笑みがこぼれるような、そんな涙。
 
 「ありがとうございます・・・・・・まりもちゃん」

  指先で軽く涙を拭う。 
  そしてまりもの方へとふり返った。
  笑顔でこちらを見ているまりも。 手を拡げ、真璃を受け入れようと待っている。
  真璃も満面の笑みでまりもに答え、駆け寄ろうとする。
  
  
  ―――だが、真璃はそれ以上動けなかった。
  まりもの後ろに立つ、大きな影。 それにまりもは全く気づいていない。
  真璃は叫ぼうとした。 叫んだつもりだった。
  ふと、その影がまりもに覆い被さり、顔面が影にめり込んだように見えた。
  顔から鮮血が流れ出し、まりもの体を汚していく。 拡げた腕がピクピクと2,3回痙攣し、その動きを完全に止めた。
  
  真璃は何が起こったのか、良く分からなかった。
  声が出ない。 体も、動かない。
  クチャクチャと音を立て、目の前のまりもが影に取り込まれていく様を見続けた。
  ・・・・・・そして気づいた。


  ―――まりもちゃんが、BETAに、喰われた―――
   

 「あ、あ、ああああ」

  その言葉が頭をよぎったのと同時に、真璃はスミカを抱きながら、走り出そうとした。
  ・・・・・・前方には、行き止まりしかない。
  真璃はそこに背を預け、へたり込んだ。

 「ひ、ひいぃい、い」

  その影――兵士級はまりもを喰らっている。 少しずつ少しずつ、人間の頭大しかない兵士級の口へとまりもの体がせり上がっていく。
  兵士級は、その奈落のような真っ黒な瞳を真璃に向けた。
  同時に、まりももこちらを向くような姿勢になる。

 「ひい!」

  真璃は逃げ出したかった。 何かを探すようにバタバタと背中の壁を手で探り、端へ端へと移動する。
  しかし行き止まりである以上、どこにも逃げられはしない。
  兵士級が二人に近づいていく。 喰わえられたままのまりもも、一緒に迫ってくる。

 「あ、あ、あ、あ」

  言葉が出なかった。 叫びたいはずなのに、呼吸が邪魔をして何も言えない。
  恐怖が真璃を支配していた。 言葉になど出来ない。 とにかく「怖い」という感情が、今彼女を動かしている。
  迫ってくる兵士級とまりも。 迫ってくるたびに、よく分からない液体や頭の肉片が無造作に飛び跳ねる。
  そして、手を伸ばせば届くような、そんな距離にまで、まりもが近づいてきた。

 「ぁ、ぃ、ぁ」

  ボゴ、という音と共にせり上がるまりも。 頬に、血が跳ねる。
  そして兵士級の腕が、ゆっくりと真璃へと近づけられた。

 (パァン!!)
 「あ・・・・・・」

  ふと、耳をつんざく音が聞こえる。
  兵士級の頭が吹き飛んだ、そのように見えた。
  真璃の体に、その緑や黄といった、色とりどりの体液が降り注ぐ。

  ―――そして倒れ込んだ兵士級は壁にもたれかかり、
  その地獄の釜からやっと、まりもが解放された。
  真璃の上へ、倒れ込むまりもの体。
  それと同時に、真っ赤な血液が真璃の顔を汚す。
  さっきまで緑や黄だった色が、一瞬で赤に染まった。

  ドロリとした感触。 生暖かく、柔らかい体の触感。
  真璃の脳裏に、一瞬「まりも」という単語が浮かんだ。
  その単語が反復されていく。 そして気づく。 そうだ、今自分の手にあるのが、そのまりもだ、と。
  気づいた瞬間、一気にまりもと過ごした記憶が蘇る。
  
 「まり、も、ちゃん・・・・・・」

  返事はない。 真璃は、倒れたまりもに目を向ける。
  それは、記憶にある優しかったまりもの姿ではない、別の何か。
  もはや顔では判別出来ない。 しかしこれがまりも「だった」ということは、なぜか知っていた。
  ・・・・・・そして、まりもが喰われる瞬間の記憶が思い出され、
  自分が、なぜ、今こういう状態なのか、ようやく理解した。

 「う、あ、あああああ、あああああああ
 まりもちゃん、まりもちゃん、まりもちゃん」

  強く抱きしめる。 首から上が力なく垂れ下がり、内包物が音を立てて地面へと落ちていく。

 「あああああああああ! あ、ああああああ!
 あああああああああ!!」

  真璃はもはや、泣くしかなかった。 大声でその人の名を叫び、声にならない声で吐き出すしかなかった。
  
  ―――だがこのとき真璃は、
  なぜ自分が泣いているのか、もはや考えることすら出来ないでいた。







[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第一節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/10/17 12:33



  ―――BETA襲撃が終わってから、数時間。
  ニライカナイにある病院は運ばれてきた死傷者で一杯になっていた。
  辺りには血の臭いとうめき声、そしてけたましく聞こえる看護者の叫びだけ。
  ある者は腕や脚を失い痛みを訴え、またあるものは今まさに自分の体を失おうとする恐怖に悲鳴を上げている。
  だが、周囲の人間達はそういった事態に全く関心を抱かないでいた。
  BETAとの戦争を繰り返してきた彼らは、幾度もこの状況を目にしている。 
  「ああ、今日はお前か」程度くらいの感覚しか湧かないのだ。
  ここには全て平等に「キズ」が与えられていた。
  男も女も、老いも若きも、将校も一兵卒も、
  皆、一様に「キズ」を抱え、今日の戦闘でまた大きく拡がったことを実感していた。  
  彼らの多くはこう考えている。 この「キズ」を抱えて、いつまで生きていけばいいのだろう、と。
  そしてついさっき死んだ戦友のことを思いだし、「キズ」から解放された仲間を少しだけ羨ましく思う者もいた。
  疲れている、そう、彼らは疲れたのだろう。 「生きること」に。

  ―――かくも無気力に過ごす彼らをよそに、胸を張り、堂々と道の正中を行く女性が現れた。
  紅い零式衛士装備をまとい、緑色の髪をなびかせながら歩むその姿。
  「最後の斯衛」、月詠真那中佐である。
  真那は廊下にうち捨てられたように座り込んでいる兵士の顔を確認しながら、廊下を歩き続けている。
  時折室内から叫び声が聞こえるが、彼女は全く意に介しないでいる。
  そして、廊下の端・・・・・・もっとも外れたところで、彼女は自分が探していたものを見つけた。

  それは、膝を抱えてうずくまっている白銀真璃だった。
  ハンガーにいたときと同じく99式衛士強化装備を着たままだ。
  よく見ると、彼女の髪や顔には未だ血痕らしき跡が見て取れた。
  髪に付着し固まった血液が赤茶けて見え、また、死体特有の生臭い匂いが彼女から漂っている。
  ・・・・・・真璃はそのような状況でも全く気にすることはなく、ただじっとし動かないでいた。
  その目はまるで死人のように、暗くよどんでいた。
  目の下は晴れ上がり、瞳孔が黒く見える。

  ふと、真那は真璃の傍らに置いている薬瓶を見つけ、拾い上げる。
  目に付いた薬品名から、それは抗うつ剤であることがわかった。 それも非常に強力なものだ。
  真那は少し安心した表情を見せた。 この薬を処方されたと言うことは、既に催眠暗示を受けたということだからだ。
  あのような悲劇とはおそらく初めて対面したであろう。 そう思った彼女は、治療が早く終わったことを喜んだ。
  ふと、真那は腰を屈め、ポケットからハンカチのようなものを取り出した。
  そして真璃の顔を拭い始めた。 まりもの血に汚れた彼女の顔を優しく、丹念に。
  それを真璃は、何も反応せず、ただじっとし続けた。
  ・・・・・・そして拭い終えると、そのハンカチを元に戻し、真璃の顔を見据える。

 「・・・・・・白銀少尉」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃がゆっくりと顔を上げる。 そして、互いに目が合う。
  真剣な表情で真璃を見続ける真那、一方、顔を上げたもののどこか別のところを見ているような真璃の目。
  真那は真璃の目を見ながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 「少尉、A-10ハンガーではよくやってくれた。
 貴様の奮闘でBETA流入は最小限で抑えられた。 帝国軍中佐として、礼を言う」

  小さく頭を下げ、すぐに戻す。 

 「今回が貴様の初陣と聞いた。 その上で大勢の人間を救ったことは、衛士として素晴らしい功績だ。
 誇りに思うがいい」

  ―――ドクン
  『誇っていい』
  ふと、真璃の頭の中にまりもの言葉が浮かんだ。
  真璃の顔が少しだけ歪む。

 「此度の戦では、帝国軍、国連軍共に多くの死傷者が出た。
 民間人も含めてな」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「そのままであれば失われたはずの命を、貴様は救ったのだ」

  真那は目を細める。 表情が険しくなり、そして次の言葉が重々しく発せられた。

 「・・・・・・神宮司大佐の件は、本当に残念であった。
 貴様は今、とても辛いと思う。 だが少尉、大佐は最後まで、貴様のことを想っていた。
 ならばその想いに答えることが、生かされた者として出来る死者への礼儀だ」

  『生かされた者』
  何度も聞かされたこの言葉、真璃の頭の中でこの言葉が何度も反復されていく。
  生かされたが故に、バーナード星系へと旅立つことを決意した冥夜。
  生かされた者としての責任があると言った夕呼。
  武と冥夜に救われ、生かされたが故に生き続ける老婆。
  そして、戦友と、部下と、教え子と・・・・・・彼らを死なせた者、生かされた者として戦い続けてきた、まりも。
  ―――その時、まりもの最期がフラッシュバックした。
  真璃に、自らがなした功績と救った命の重さを語った、優しいまりもの姿。
  そのまりもを覆う影。 そして、もはやまりもですら無くなった、何か。
  記憶が真っ赤な『死』の色で彩られ、それ以上は思い出せなかった。
  
 「あ・・・・・・あ」

  真璃の体が震え出す。
  『赤』が、自分を汚していく。
  「生かされた者としての責任」「死者への礼儀」・・・・・・そういった言葉は、彼女にとってもはや意味を成していなかった。
  彼女の頭にあるのは「まりもちゃんが真っ赤になって、死んじゃった」という感想だけ。
  悲しみなのか、恐怖なのか、嫌悪なのか・・・・・・『赤』が浮かぶたびに同時にそれらに似た感情が湧き起こりかける。
  しかし、湧き起こりかけるという感覚はあっても、実際にはこない。 抗うつ剤の影響なのだろう。
  真璃は自分の心が、自分のものであってそうでないような、不思議な感覚に囚われた。
  
  それによって、罪悪感が新しく生まれる。 悲しみを感じない自分が、卑怯な人間に思えてくる。
  ・・・・・・再び、まりもの笑顔が浮かんだ。
  彼女は思った。 このようなとき、まりもは側にいてくれた。
  タケルやスミカも一緒に、励ましてくれた。
  しかし同時に気づく。 もはやタケルもまりもも、この世にはいないということに。

  彼女は何度も考えた。
  『もしあのとき、自分が早く来ていれば・・・・・・』
  『もしあのとき、自分が座り込んでいなければ・・・・・・』
  『もしあのとき・・・・・・』
  頭の中ではまりもも、タケルも、笑顔で真璃の側にいてくれている。
  「悲劇」を、自分の手で防ぐことができた、都合のいい未来。
  その「都合の良い未来」と「現実」のギャップに、真璃は逃げ出したい感情に強く駆られていく。

 「なん、で」
 「なんで、なんでなんですか。
 なんでまりもちゃんが死ななきゃならなかったんですか? なんでタケル君が死ななきゃならなかったんですか?
 なんで私なんかが生き残ってるんですか? なんで私はもっと上手くやれなかったんですか?
 なんで、なんで・・・・・・」

  『現実』を否定し続ける真璃。
  なぜ現実がこうなのか、なぜ自分はこんな現実にしてしまったのだと、誰かに強く訴えたくてしょうがなかった。

 「少尉。 どんなに現実を否定しても、覆ることはない。
 死者は、死者でしかないのだ」
 「!!」

  真那は強く言いはなつ。 現実はどんなに否定しても、やはり現実なのだと。

 「しかし生き残れた者は、これからの現実を変えていくことは出来る。
 死者にはそれはできぬ。 だからこそ、生かされた者がそれをなさねばならんのだ」

  再び出てきた『生かされた者』。
  生かされた者として、責任を果たさねばならない・・・・・・真璃は、それは理解出来た。 充分に、理解出来た。
  しかし―――

 「・・・・・・まりもちゃんは、必死に頑張っていました。 現実を変えようと、生かされた者としての責任を果たそうと、頑張っていました!
 それなのに、なぜあそこでまりもちゃんが死ななきゃならないんですか!?」
 「理由はない。 戦場というのは、常に死が平等に与えられる場所のことだ。
 強いて言うならば・・・・・・・・・・・・あれが、神宮司大佐の運命だったのだ」

  ―――ドクン
  『運命』、この言葉を聞いたとき真璃は世界がグルリと回転したような錯覚に陥った。
  責任を果たそうと、彼女を励まそうとしたまりもが、あそこであのように死ぬことが『運命』だった、と真那は言った。
  真璃は不意に立ち上がり、その言葉を否定した。 さっきまで死人のようだったはずが、激情して興奮しているのが見える。

 「あんな死に方が、まりもちゃんの『運命』なんですか?
 違う、絶対に違う! あれは私が! 私が!」

  真那は立ち上がり、激昂して喚き散らす真璃の胸ぐらを掴んで後ろの壁に叩きつけた。

 「貴様がどんなに否定しようと、神宮司大佐は亡くなったのだ!
 そして貴様は生き残った、それが現実であり運命なんだ!!」
 「違う・・・・・・そうであって・・・・・・たまるもんか」

  壁に押し付ける力が強くなっていく。
  真那は更に一歩近づき、顔を近づける。

 「貴様はそうやって否定することで、自分を辱めることで、責任逃れをしているだけだ!
 死んだ人間を、その理由に使うでない!!」
 「!?」

  真那の言葉は、以前まりもが言ったそれにとても近かった。
  『昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい』
  突きつけられる言葉。 あの時真璃は、他者の想いについて何も考えていなかったことを恥じた。
  真那の言葉は、再びそれを感じさせる。 死者の想いを受け止めよと、彼女は言うのだ。
  だからこそだろう、それがとても重く感じられる。
  同時に、真那がこれから言う言葉が容易に推測出来た。
  それを思い、真璃の体が震えだしてきた。 それは、「否定」の感情だ。

 「貴様は言ったな、『皆の想いを受け継ぐ』と。
 地球で生き、亡くなった人々の想いを受け継いでみせると!」
 「あ、あ、あ」
 「ならば神宮司大佐達の想いも受け継いでみせろ! 白銀真璃!!」
 「う、あ、うあああああああああ!!」

  強力にイメージされるタケルとまりもの死。
  それをも『受け継げ』という真那の言葉は、今の彼女にとって、あまりにも重すぎた。
  真璃は手を振りほどき、地べたに這いつくばる。
  そしてうめき声のような声にならない声をあげ、胎児のように体を丸めていく。
  逃げ出したい、考えたくない、聞きたくない、と彼女は体全体を使ってそれを表している。

  それを見た真那に湧いた感情は「怒り」だった。
  あまりにも自分勝手な行動。
  死者の想いを無下にするその態度は、真那にとって嫌悪の対象である。
  ・・・・・・そして同時に、
  今の彼女があまりにも「冥夜」とは違いすぎて、それが堪らない。

 「立て!」

  真那がそう叫ぶが、真璃は変わらず這いつくばったままだ。
  それを見、さらに怒った真那は真璃の肩を掴み、無理矢理立たせる。
  ・・・・・・案の定、彼女は泣いていた。
  それが更に真那の憤りを加速させる。

 「貴様がすべきことは泣くことではない!
 涙を拭け! 自分の力で立て! そして、課せられた責任を果たせ!!」
 「うあ、うああああ、ああああああああ・・・・・・」
 「それこそが貴様のなすべきことのはずだ!」
 「あ、い・・・・・・・・・・・・ぃ、ぃゃ、だ」
 「・・・・・・何?」
 「もう、いやだ・・・・・・やだよ・・・・・・こんなつらいの、もう、やだ・・・・・・
 私、無理です・・・無理です・・・何もしたくない・・・・・・」

  涙が更にあふれ出し、ぐしゃぐしゃになる顔。
  真那は一瞬、それが冥夜の顔に見えて、頭に一気に血が上ったのを感じた。

 「白銀ぇ!!」

  手を振り上げる。

 「ひぃ!」

  真璃は悲鳴を上げ、両手を自分の顔の前へ持っていく。
  ガタガタと震える姿・・・・・・もはやそれは冥夜の娘であるとか、衛士であるとか、そんなことは何も関係がない。
  恐怖に怯えるただの少女の姿、それでしかなかった。
  
  真那もそれを察したのか、上げた腕を振り下ろすことが出来ないでいた。
  泣きじゃくり、必死に自分を守ろうとしている真璃・・・・・・それが憐憫の情を誘う。
  真那は、あげた腕をゆっくりと下ろした。

 「・・・・・・貴様に期待した私が愚かだった」

  真那が腕を離すと、真璃はその場にへたり込んだ。
  両腕で顔を覆い、幼児のように声を上げてそのまま泣き続ける。
  真那はその様子を見るのがいたたまれなくなり、背を向けた。
  そしてそのまま、これからの予定を伝える。

 「貴様の帰還予定時間を伝える。 本日一七○○時を予定していたが、時間を繰り上げ一一○○時とする」

  真璃は変わらず泣きじゃくるだけだ。
  その様子に関係なく、話が続けられる。

 「ここは、明日中には再び戦場となるだろうからな。
 先ほど衛星から情報が入った。 横浜ハイヴのBETAが、大挙してこちらに向かっている。
 ニライカナイが動けるようになるまで少なくとも後45時間はかかるだろう・・・・・・間に合わんのだ」
 「だがこの戦いに、『外星系移民』の貴様は関係ない。
 さっさと自分の星に帰り、慰めてもらうがよい」

  言い終え、廊下を歩き始める。
  真璃は変わらず、座り込んで泣き続けるだけだ。
  それを見、真那は歩みを止めた。

 「大佐も浮かばれまい。
 貴様のような腑抜けを守るために犠牲になったのではな。
 ・・・・・・本当に、気の毒だ」

  そう言い残し、真那は再び歩き出す。
  その言葉は真璃に鋭く突き刺さり、再び大きな罪悪感を彼女の中に与えた。
  多くの負の感情が真璃の中で溢れ、彼女は再び大声で泣き叫ぶ。
  そんな彼女に誰も関心を持とうとしない。 もはや、助けてくれる人などいない。
  彼女はただ地べたに這いつくばり、誰かに許しを請うしかなかった。
  それはタケルなのだろうか、まりもなのだろうか、母だろうか、父だろうか。 それとも神か。
  廊下では「許して」という言葉だけが何度もこだまし、空間に吸い込まれていった。



  ・・・・・・病院をでた真那は、病院の壁に触れじっとしていた。
  さっきまでの会話を思い出していた。 自分が何を言ったのか、それを真璃がどのように捉え反応したか。
  思い出しながら、不意に、真那は壁を強く殴る。
  
 「くっ…ううぅぅぅ・・・・・・」

  真那はあんなことを言うつもりはなかった。
  本当は励ましたくて慰めたくてしょうがなかった。 「よくやった」「神宮司大佐の想いを受け継ぎ頑張れ」と、それを伝えたいだけだった。
  だが真璃の反応が、あまりにも真那の予想と反していた。
  真璃はとても幼稚な反応を示してしまい、真那もそれに怒る気持ちを持ってしまった。
  あの反応は、まりもの死を貶めこそすれ、決して何らかの意味を与えるものではない。
  あえて言えば真璃の自己満足でしかない、真那はそう考えた。
  
  しかし今、自分の言動と行動が果たしてあれで正しかったのか、と疑問に思えてくる。
  泣きじゃくる真璃の顔。 小さな子供が、助けを懇願するようなあの表情。
  真璃は助けが欲しかったのだ。
  まりもとタケルを助けられなかったこと、自分を襲う負の感情。 そこから助けてくれる人を欲していた。
  しかし真那は、それを許さなかった。 分かっていながら、それに応えなかった。
  自分の力で立ち上がることを、彼女に求めてしまったのだ。
  『冥夜の娘』である彼女ならば、それができると信じて。
  ふと、以前まりもから言われた、

  「貴女は、白銀を『御剣』と重ねてしまっている。
  今のあの娘にとって、それは毒でしかないわ」

  という言葉を思い出した。
  まりもから言われていたにもかかわらず自分はその愚考を繰り返してしまった、と感じた。
  彼女は「白銀真璃」であって「御剣冥夜」ではない。 その通りだ・・・・・・その、通りなのだ。
    
 「・・・・・・・・・・・・」

  真那は、一度目を瞑る。 そして再び思い出し始めた。
  涙でぐしゃぐしゃな真璃の顔。 それを打とうと、振り上げる自分の腕。

 「!!」

  再び壁を打った。 真璃を打とうとした、その腕で。
  そして壁に体重を預け、地面へと目をやる。
  自分の中に湧き起こる後悔。 あんな、悲しみと弱さに満ちた少女を殴ろうとした、自己嫌悪感。
  それらが彼女を襲い、目に溢れるものを感じる。

  しかし、それを流すことは絶対に許されない。
  真那は20年前・・・・・・祖国である日本が失われた日に約束した。 絶対に泣かない、と。
  戦友がどれだけ失われようとも、どれだけ敗走し続けようとも、決して涙を流さない、と。
  それが彼女なりの決意であり、覚悟であった。

 「くっ」

  真璃の顔が浮かぶ。 今度は笑顔だ。
  『だから私は、その人達の想いを、バーナード星系に持ち帰るつもりです』
  以前聞いた真璃の言葉。
  ふと、この言葉を唱えたときの真璃の笑顔が、冥夜の笑顔に変わった。
  他者を想い守りたいと願った冥夜ならば、その言葉の重みに打ち拉がれることはなかっただろう。
  逃げることも、無かっただろう。 そう思った。
  
 「だが真璃と・・・・・・冥夜様は・・・・・・違うのだ」

  誰にでも言うことなく呟く。 あえて言えば、自分に向かっての言葉。
  不意に、首筋に冷たい何かが落ちる。
  真那は天を仰ぐと、冷たい雨がパラパラと落ちてきた。
  空は完全な闇夜。 そこから、突然落ちてくる雨。
  真那は、天が自分の代わりに泣いてくれているのか、と思った。

 「・・・・・・・・・・・・」

  途端に強くなる雨。 顔を濡らし、頬を垂れる。
  真那はその冷たく激しい雨を、体全体で受け止め続けた。





  ―――冬に降る雨は、なぜあんなに重々しく、また冷たいのだろう。
  闇夜に降る雨は誰かをうつことで、初めてその存在を知られる。
  人をうつときに奪った体温と、その冷たさによる痛みが、その存在に意味を与えて。
  しかし中には、その意味を考えることも出来ない人間もいる。
  ニライカナイの甲板上、海との縁に立つ姿が一人見える。
  それは、真璃だった。 ただ立っているだけの彼女を、容赦なく雨がうつ。
  どれだけの時間そこに立っていたのだろう。 彼女の顔は蒼白であり、唇も青紫へと変色してしまった。
  眼は、病院にいたときよりもひどくなったように思う。 死んだような眼、光が全く感じられない。
  だが、当人はそのようなことは気にしていない。
  彼女は雨にうたれながら、ただ目の前にある闇――海を、じっと見続けている。
  ・・・・・・そして、その闇に向かってゆっくりと歩き始めた。

 「・・・・・・・・・・・・」

  彼女は考えていた。 もう生きていたくない、と。
  まりもやタケルの想いを継ぐことは出来ない。 自分が犯した罪を、償う覚悟がない・・・・・・
  そんな自分に絶望し、今はただとにかくこの世界から消えてしまいたかった。
  そして、せめて自分の命で二人に詫びたい・・・・・・と、彼女は考える。
  一歩、また一歩・・・・・・闇に近づいていく。
  だが、残り二歩程度となったところで、動きが止まった。
  突然呼吸が荒くなり、体が震え出す。
  ―――死は、やはり恐ろしい。
  生きていることがどんなにつらく感じても、それでも死は怖いままであり続ける。
  ・・・・・・不意に、強い風が真璃を押した。

 「!?」

  その風に押され、体が闇へと向かっていく感覚に襲われる。
  真璃は前へ倒れないよう体を反転させ、横に向かって体を落とす。
  バシャッ、と水たまりへ倒れ、顔と髪を更に汚しギリギリのところで縁に残る真璃の体。

 「・・・・・・うぅ」

  死ぬ覚悟すらないのか、と自分を責める。
  今、死ぬ気でここに来たではないか、死んで詫びようとしていたではないか、と。
  そして、再び強い自己嫌悪が襲ってきた。 
  真璃はまた泣き出した。 結局私は臆病で何もできないんだ、と自分を責め続けて。
  


  ―――真璃は、ゆっくりとまりもの部屋のドアを開けた。
  初め見たように、何も無い部屋。 何も変わらない。
  あえて違いを言えば、彼女のトランクがあることぐらいか。
  真璃は、ゆっくりと部屋を見渡した。
  まりもから教えてもらった地球の歴史。 タケルやスミカの悪戯。
  それはこの部屋であった出来事。 そこから、記憶が更に拡がる。
  整備場でまりもに怒られたこと。 四人でお喋りをしながら食事をとったこと。
  自分がなぜここいるのか、まりもから意味を教えてもらった。
  BETAとの戦闘では、彼女に助けてもらった。
  そして助けられなかったこと救えたこと、それらをきちんと受け止めるよう励ましてくれた。
  しかしもう、彼女はいない。 タケルも、いない。
  真璃は自分しかいないこの部屋で、立ちつくした。

 「・・・・・・・・・・・・」
  
  ふと、まりもの机の上にあるものに目が行く。
  それは一冊の本と、簡単な手製の人形だった。
  真璃はその人形を手に取る。
  白と紫の布地だけで作られた、本当に質素な人形。
  以前まりもから聞いた話を思い出す。 将軍から授かった、小さな人形の話。

 「これは・・・・・・将軍殿下の・・・・・・」

  真璃は悠陽がどのように闘ったかを思い出した。
  最期まで戦い、最期まで励まし、最期まで絶望しなかった悠陽。
  傷つく民のために命を懸けたその生き方、まるで母が彼女に言い聞かせたもののようで、とても感動したのを覚えていた。
  それを思い出すのと同時に、自分の今と比較してしまう。
  絶望し、想いを受け継ぐことから逃げ出している自分。
  それは母から絶対に非難される生き方だろう、と考えた。

  真璃は人形を戻し、その本を開けた。
  それはまりもの日記だった。
  内容の多くはタケルやスミカ、そして仕事の内容のものばかり。
  真璃はページをめくっていく。
  そして、自分がここに来たときの日付が目に入る。

 「・・・・・・・・・・・・あは」

  真璃の表情に、初めて笑みが浮かぶ。
  遠くまで行ってしまったまりもが、今すぐ側にいるようなそんな気がするのだ。
  真璃は日記を読み続けた。
  『とても御剣に似た、いい娘』 『手がかかるのは白銀そっくり』 『まりもちゃん、と呼ばれたのは20年ぶり』 
  そんな内容が綴られている。 彼女はそれを見るたびに嬉しさが胸に満ちた。
  自分を見てくれている・・・・・・否定するのではなく、受け入れてくれている。
  それがとても嬉しかった。

  ・・・・・・しかし、ある日付を境に日記は終わる。
  昨日の日付。 そこには何も書かれていない。 書く人が、いないのだ。
  ふと、その真っ白なページの上にポタポタと水滴が落ちる。
  さっきまで笑顔だった真璃は、また顔を歪め泣いていた。

 「ごめん、なさい・・・・・・ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
  
  まりもとタケルの死、その現実が再び真璃を苦しめる。
  真璃は立っていられなくなり、机に突っ伏した。
  その拍子に、日記が落ちる。

 「・・・・・・う、う・・・・・・」

  日記から、封筒が見えた。
  それはまだとても真新しく、最近入れられたものであることが分かる。

 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃はその封筒を手に取り、中を開けた。
  そこには『夕呼へ』という書き出しから始まった手紙が入っていた。

 『夕呼へ
 あなたにこうして手紙を送るのは、いつ以来でしょう。
 突然の手紙、許して頂戴ね。
 人類が今も生き残っていることにあなたは驚いているのかしら。 あなたのことだから、これも想定内だ、と言いそうだけど。
 でも、人類は確実に絶滅に向かって歩き続けている。 あなたが警告し続けたとおりにね』

  そこからは、現在の人類の現状が描かれていた。
  食糧、燃料、資源、何もかも足りず、しかもBETAの襲撃に常に怯えなければならない生活。
  しかしまりもは、『それでも人類は生き残っている』と記している。

 『人類があと、どれくらい保つかは分からない。 でもそんなには長くはないでしょう。
 夕呼、私は国連軍大佐として、そして友人として、あなたにお願いがあります。
 どうか、地球からバーナード星系へ移るための船を送ってください。
 ほんの少しでもいい。 少しでも助けられる人がいるのなら、どうかバーナード星系で使う予定だった移民船を、私達の救助の
 ために送って欲しい』
 「!?」

  真璃はまりもが、ここまで考えていたということを知らなかった。

 『たくさんの人間が、絶望して生きている。 BETAに負けて未来に希望などない、そんな生に意味など無い。 
 みんな、そう考えて生きている』
 『でもあの娘が、白銀真璃が来てそれが変わろうとしている。 少なくとも私は、希望を持てた。
 何年か待てば、もしかしたら移民船が来てくれるかもしれない。 今度は、そんな想いで戦うことが出来る。
 それは、とても大きな違いだと私は思う』

 「希望・・・・・・私が」

  真璃は自分が誰かの希望になっていたという事実に驚く。
  自分が来なければ誰も死なずにすんだ、と考えていた彼女にとってそれは自分を、別の視点から見ることができた。

 『だから私はその希望を信じて、戦い続けるわ。 何年でも何十年でも、自分の使命を果たし続ける。
 例えそれで自分が死ぬことになっても、悔いはないでしょう。
 そのとき、確かに私が生きていたということを、子供達に伝えることができたでしょうから』
 『殿下が、私達に遺してくれた言葉。
 “私たちの生き方が、明日の者達に誇りと力を呼び戻していく。 そしてその誇りと力が、また次の明日を作っていく。
 私達は、その明日を信じて、決して絶望してはならない”
 この意味を、私は白銀が来てくれて初めて知ることが出来た。
 あの娘を見て、確かに御剣と白銀そしてあなたの姿も見ることができた。
 例え死んでしまっても、自分の生き方を受け継いでくれる人がいるのなら、それはとても素敵なことじゃないかしら』

 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は、まるで胸が締め付けられるようだった。
  自分はその「継承」を重みと感じ、逃げ出している。
  それをとても申し訳なく感じているのだ。

 『夕呼。 最後に一つだけ、きっとこれが本当に最後だから、告白させて欲しい。
 真璃からあなたの話を聞いたとき、私は、あなたが羨ましかった。
 あなたは私が望んだ教師という生き方と、母親という生き方を両方手に入れた。 それが、とても憎かった。
 白銀を見てると不意にあなたを思い出すことがある。 ああ、あなたはここに自分の証を残せたんだって。
 ごめんなさい。 あなたも、たくさん苦しんだのにね。 苦しんでいるのにね。
 本当に、ごめんなさい』

 「!?」
 
  この部分だけ、何度も修正した後が目に取れた。
  まりもの苦しみが、痛いように分かった。 きっとここで、辛いながらも必死に書いたのだと、真璃は理解する。

 『夕呼、そこにいる白銀から私を感じられる?
 私は、白銀に何かを託せた?
 今、そればかり考えてしまいます』

 「・・・・・・う」

  真璃は手紙を伏せた。
  これ以上読めない、と感じた。
  「継承」を訴えるまりも・・・・・・しかし、自分はそれに応えられるほど強くないと考えている。
 
  ・・・・・・真璃は今、苦しんでいた。
  バーナード星系に帰って地球のことを忘れてしまいたい、と頭の中で何回も考えた。
  しかしその度に違和感を感じる。 『果たして本当にそうなのか?』、と。
  それが自分の「願い」なのか、「意志」なのか。
  彼女は今、自分が何を考えているのか何をしたいのか、よく分からないでいた。
  自分がどう歩めばいいか、道を指し示してほしくてたまらない。
  そうして真璃は、手紙の最後の部分へ、目を向けた。

 『―――全て、あなたに任せます―――』

  どのような文脈で出てきた言葉なのかは分からない。
  そもそも夕呼に向けて書かれた手紙である。 自分に向けられたものではないことは、重々承知している。
  それにも関わらず、真璃はその言葉が自分に向けられたものであるかのような錯覚を覚えた。

  『後は自分で決めなさい。 母の生き方に、貴女はどう価値を与えるのか。
  その生き方に自分はどう向かい合うのか。 それを考えることは、貴女にしかできないことよ』

  先日、まりもから言われた言葉を思い出した。
  このときは母だけだった。 しかしこれは、自分に連なる人間――それはまりもも含めて――の生き方に、どんな意味を与えるのか、ということだ。
  その生き方を自分はどのように捉えるのか、そしてどう応えるのか、それは自分に任されている。 
  そう、全ては自分に委ねられている。

 「私が・・・・・・したいこと」

  『バーナード星系に帰りたい。 夕呼と霞の側に行きたい』
  それがまずは頭に浮かぶ。
  笑顔で出迎えてくれるみんな。 BETAなどいない、戦争などない平和な世界。
  自分に優しい世界・・・・・・真璃は、心の底から「帰りたい」と望んでいる。
  だが、違和感がやはり芽生えた。 自分のしたいことはそれだけなのか、と問う。
  
 「私は・・・・・・」

  優しいまりもの姿を思い出す。
  地球と日本と、そしてここで生きた大勢の人達のことを教わった。
  そのまりもが、手紙でこう書いていたことを思い出す。

 『夕呼、そこにいる白銀から私を感じられる?
 私は、白銀に何かを託せた?』

 「・・・・・・・・・・・・私は!」

  勢いよく立ち上がる。
  しっかりと背をのばし、真っ直ぐに立つ。
  ―――そして開かれた眼は、先刻までのような無気力に染まったものではなく、
  輝く海に似た青を、その瞳に佇ませていた。





 「ふう・・・・・・」

  真那は今、帝国軍士官室にて大きな溜息をついていた。
  BETAが向かってきている、それに対処するための部隊構成を考えなければならない。
  特に『6時間後から行われる作戦』は最も重要なものであり、真那はその担当だ。
  しかし、構成がうまくはかどらない。 今回の戦闘で多くの衛士が死傷し 戦術機の状況も深刻だ。
  今戦を経て多くの戦術機がオーバーホールをせねば使い物にならない。
  今から10時間以内に使えそうな機体と言えば、真那の武御雷、真璃が乗っていた吹雪、そして正常な部品をつなぎ合わせた
 陽炎や激震だけである。
  だが真那は、「それなら私だけで出撃した方がマシだ」という結論に至る。
  吹雪ならともかく、撃震や陽炎では性能的に武御雷にはついていけない。
  ふと、『もう一つの機体』を思い出した。
  だが頭を振る。 無理だ、と結論づける。
  ・・・・・・そして何より、生き残った衛士のほとんどに闘う気力など残っていない。
  限界なのだ。 あの戦場で「無意味な戦闘」を繰り返すことに。
  それが、真那を更に悩ませていた。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「失礼します、中佐」

  突然、ドアからノックと声が聞こえる。

 「何用だ?」
 「はっ、国連軍兵士より月詠中佐にお話がある、と」

  『国連軍兵士』
  真那は一瞬で悟った。 こんな時間に自分を訪ねてくるのは、彼女しかいない。
  顔を険しくし、一瞬何かを考えるが、真那はすぐに了承した。

 「・・・・・・そうか、入れろ」

  ドアが開く。
  国連軍制服を着た真璃が室内へと入っていく。
  真那は、一瞬で彼女がさっきとは違うことに気が付いた。
  眼が、違う。
  淀んだ色をしていたはずなのに、今は真っ青に透き通っているように見える。
  まるで冥夜のそれのように。
  だが真那は、『冥夜と真璃は違う』と心中で呟き、真璃へ声をかけた。

 「何用だ、白銀少尉」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「私はBETAに対する作戦を考えねばならない。
 貴様にかけていい時間はない。 手短に話せ」

  真璃はまだ何か考えているようだった。
  目を瞑り、じっとしている。 時折、手が開かれたり閉じたりする。
  ・・・・・・再び目が開かれた。

 「私も、戦います」
 「・・・・・・何?」
 「私も戦います。 BETAと戦って、ここを守ります」

  真那は立ち上がった。
  また熱病にでもかかったか、それとも自暴自棄にでもなったのか・・・・・・
  はたまた、まりもやタケルの死に負い目でも感じて詫びを入れようとでも思ったのか・・・・・・
  真那はそう判断した。
  その理由らは真那にとって、『死者を辱めるもの』以外にはなりえない。
  それは死者の想いを無視し、自分の都合を優先させる行為に他ならないからだ。
  
 「・・・・・・白銀。 貴様は自分の任務を忘れたのか。
 貴様の任務は」
 「私の任務は!
 地球のデータを、地球で生きた人達の記憶を、バーナード星系に持ち帰ることです!」

  真璃ははっきりとそう言った。 まったく躊躇なく、言い切って見せた。
  そのはっきりとした口調に真那は一瞬呆けるが、すぐに気を取り直し、問いを続ける。

 「ならば、何故戦うと言う」
 「私、考えたんです。 自分は何をすべきなのか、何をしたいのかを」

  真璃は拳を強く握る。 そして何度も言葉に詰まりそうになる。
  『覚悟』が、未だ充分には出来ていないのだ。
  『決意』はある。 しかしそれだけでは、足りなかった。
  まりもの死、タケルの死・・・・・・それによって、彼女の『決意』は簡単に壊れてしまった。
  真璃は気づいている。 自分は『覚悟』せねばならないのだ、と。

 「自分に託された想いに応えられない、と考えました。
 その重さに耐えられないと、思いました。
 私は自分に課せられた任務や想いから逃げたいと思ったんです・・・・・・残念ながら、その恐怖は今もあります」
 「でも、でも私は! そうありたくないとも思っているんです!
 任務と想い、全部背負って生きていく・・・・・・私は、そう生きたいとも思っているんです」

  真璃の呼吸が荒々しくなっていく。
  一回喋ることに大きく呼吸をし、興奮の度が高まっていくのが分かる。

 「そうして考えていく内に、私は気づきました。
 逃げたいのか、逃げたくないのか、それ以前の私の想いに」
 「私はタケル君が、まりもちゃんが、大好きなんです」

  真璃の顔が穏やかになっていく。
  自分の想いを言葉にして、今、ようやく自分の中の違和感が完全に取り払われた。
  ―――『覚悟』が、できた―――

 「彼らの想いを無駄にしたくありません。 絶対に、そんなのは嫌なんです。
 だから私は、戦います。 そして生きます。
 生き残って生き残って、臆病でも最後まで生き残って、一人でも多くの人を守ってみせます。
 『神宮司大佐』やタケル君が守りたかった人達を、私が一人でも多く・・・・・・」
 「!?」

  一瞬、真璃がまりもとだぶって見えた。
  まりもがいつも兵士を鼓舞する際に使っていた言葉、それを真璃が何のよどみもなく言いはなったのだ。
  そして気づく。 真璃の「まりもちゃん」という発言が「神宮司大佐」に変わったということに。  

 「・・・・・・理由は分かった。 だが、貴様が残ったところで何も変わらん。
 ある研究者の計算では、人類はもう10年保つかどうか分からんという状況なのだ」
 「神宮司大佐はバーナード星系暫定政府に、移民船による救助を要請しました」
 「何?」

  真那は驚きの表情を浮かべる。 そして、真璃の任務が元々地球帰還計画の前調査であることを思い出した。

 「何年後かは分かりません。 どれだけの人間がバーナード星系に行けるかも分かりません。
 ・・・・・・当初の計画から考えれば、助けられるのは1000人くらいかもしれない。 
 でも、それでも救助の船が来るはずなんです。
 例え1000人でも救える命があるなら、大佐達と同じように戦いたい!
 だからそれまで、このニライカナイを守っていきたいんです!」
 「・・・・・・・・・・・・」

  じっと真璃の眼を真那は見続ける。
  海のように、青く純粋な色。 その光は澄み、輝いている。
  『この娘は本気だ』と気づく。
  だがやはり、数時間前の彼女の様子が思い出されてしまう。
  恐怖と後悔に苦しんでいた弱々しい少女の姿。
  真那は今、彼女の心意気がどうしても信用出来ないでいた。

 「・・・・・・・・・・・・」

  それ故にだろうか。 真那は何も応えず、ただ真璃を見続ける。
  真璃も負けずに、そのまま動かない。
  ふと、真那がゆっくりと口を開いた。

 「―――そうか」

  それだけをつぶやき、真璃に背を向ける。
  そして、真那は部屋の奥へと歩き出した。

 「貴様が行くと決めた道は、どこまでも険しいものだ・・・・・・分かるな」
 「はい」
 「神宮司大佐のような犠牲が、貴様の前に累々と築かれていくこともある。
 もちろん、貴様自身もだ」
 「覚悟はあります」
 「・・・・・・途中で逃げ出したくとも、適わぬぞ」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
  真璃は一度口をつぐむ。 しかしすぐにはっきりとした口調で応えた。

 「やり通してみせます!」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真那の動きが止まった。
  彼女の目の前には、大きな日本国旗が張られている。
  もはや亡き祖国。 あるのは『昔あった』という彼女たちの記憶と、その存在を示す幾ばくかの残滓だけ。
  国旗はその一つ・・・・・・その下には、一本の刀が飾られていた。
  真那は国旗に最敬礼し、その刀に近づく。
  そして恭しく刀を持ち上げ、自分の肩の高さへ持っていく。
  そして再び敬礼すると、そのまま真璃の方を向いた。

 「白銀、ここに」
 「え? は、はい」

  真璃はよく状況が掴めていない。
  真那の動きは唐突で、何をしたいのかが分からないのだ。
  ・・・・・・そして、真璃は真那の眼前へと立った。

 「・・・・・・受け取るがいい」
 「・・・・・・・・・・・・」

  差し出された刀を、何も言わず受け取る真璃。
  鞘、鍔、柄と漆黒で統一されたそれは、見かけ以上に重く真璃にかかる。
  ・・・・・・しかし重さとは別に、何故か自分の手に吸い付くような、そんな感じもする。

 「“那雪斑鳩”・・・・・・貴様の母が幼少のとき、常に身につけていたものだ」
 「え?」

  (母様が、持っていた?)
  そう思わざるを得なかった。 それはあまりにも唐突な言葉であった・・・・・・しかし、なぜか信じられる。
  この刀への一体感と懐かしさは、冥夜のものだと理解出来たからだ。
  真璃は刀をじっと見続ける。 そんな彼女を真那は一瞥し、再び歩き出す。  

 「ついて来い」



  士官室を出た二人は、大きなハンガーの前までやってきた。
  ここまで二人は、一言も会話を交わしていない。
  真璃からすれば、本当は色々聞きたいことはあるだろう。 
  那雪斑鳩とは何なのか、真那と冥夜はどういった関係なのか?
  考えればキリがない。 しかし真璃は、真那の後ろ姿を見るだけ何も言えなかった。

 「・・・・・・ここだ」

  目の前には完全に閉じられたハンガー。
  真璃は顔を上げ、その巨大な扉を見続ける。
  ライトに照らされたその扉は、その無機質さを際だたせている。
  真那は扉に近づき電子パネルを操作し、離れた。
  ・・・・・・しばらくし、ガコンっという音と共にハンガーの扉が開かれていく。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・!?」

  徐々にハンガーの中身が姿を現わしていく。
  それは―――武神だった。
  常に人々の先頭に在りて、彼らの絶望を否定する輝く炎。
  死を振りまくモノ共から人々を護るために生まれた、高貴なる魂の残照。
  濃紫の鎧をまとったその武神の名は、

 「・・・・・・武御雷・・・・・・」

  真璃は以前、教科書で読んだことがあった。
  日本帝国が生み出した、第三世代戦術機の最高傑作の一つ。
  そして紫の武御雷は将軍のみが搭乗を許された、機体としても最高の特別機である。
  
 「・・・・・・あれ? でも」

  ふと、自分の記憶にある武御雷とは微妙に異なっていた。
  肩部装甲にはベクタードスラストノズルが装備され、腰部にはスラスターモジュールが見える。
  他にも細部を見ると異なる点が目に付いた。

 「貴様の考えは正しい」
 「え?」
 「この機体は制式名称を『TYPE-00RR(ダブルアール)』という。
 日米ソ欧による第四世代戦術機開発計画がオーストラリア陥落によって頓挫したため、その計画によって生まれた技術は
 既存機へと回された。
 この武御雷も、それによって改修を受けたものだ。
 慣習に従えば新たな名前を付与しても問題はないが・・・・・・誰もあれ以外の名で呼んだことはない。
 “武御雷”以外ではな」

  真那は真璃の方を向いて説明する。
  『TYPE-00RR 武御雷』
  それが、この武神に与えられた名前だ。

 「そしてこの機体は、貴様の父と母が乗るはずだったものだ」
 「!?」

  目の前にある機体が自分の父と母が乗るはずだったとは、夢にも思わないだろう。
  この機体は将軍専用であり、他者は誰も認められない。
  認められるとすれば、それは将軍によほど深い縁を持つ者であろう。
  真璃は悟った。
  ・・・・・・つまり、自分の母や父は・・・・・・

 「白銀。 この機体は、人類がBETAに敗北した後に改修されたものだ。
 乗るものがいなくなっても、もはや人類に未来などなくとも、それでもこの機体に何らかの想いを懸けざるを得なかった者達の
 気持ち・・・・・・分かるな?」 
 「・・・・・・・・・・・・」
 「残るというのならば、貴様はこれに乗れ」
 「!?」

  耳を疑った。
  武御雷に乗るということ、それはつまりこの機体に懸けてきた人々の想いまで背負うということだ。
  父や母、まりもやタケル・・・・・・彼らだけではなく、本当の意味で大勢の人間達の想いを受け継ぐということ。
  多くの人々の『期待』と『希望』、この武御雷はまさにそれなのだ。
  その重さに堪えられるのか、と真那は突きつけているのだ。

 「・・・・・・う、あ」

  その重さに押しつぶされそうになっている真璃。
  視界がぼやけ、頭痛にも似た鈍痛が響く。
  ・・・・・・ふと、手に持っていた那雪斑鳩が目に入った。
  真璃は、その刀を半分だけ鞘から抜く。
  刀に映る自分の顔。 不安と恐怖に駆られ、とても汚い目をしている、そんな表情。

 「・・・・・・・・・・・・」

  そんな顔でいたいのかよ、と呟く。 
  そして少しずつ笑みを浮かべていく。

 「・・・・・・やっぱり、その顔がいいよ」

  誰にいうでもなく、強いて言えば刀身に映る自分に、呟く。
  真璃は刀を閉じた。
  そのときの顔は、押しつぶされかけたときのように暗いものではない。
  『決意』し『覚悟』を決めた、とても輝いた表情だった。

 「私、乗ります」



  ―――真璃は零式衛士強化装備に着替え、武御雷へと乗り込んでいた。
  着座情報転送、遺伝子情報確認、という表示が網膜へと映し出されていく。
  真璃は考えていた。 自分の父と母が、なぜこの機体に乗るはずだったのか、ということを。
  ふと、昨日助けた老婆に「高貴な者」と呼ばれたのを思い出した。
  そのとき、何となく気づいてはいた。 自分の母や父が、そういった縁を持つ者なのではないか、と。
  
  しかし、そんなことはどうでも良かった。
  自分の血や出生がそうだから、そうあろうと決めたのではない。
  愛する人と尊敬する人、彼らの想いを無かったことにしたくない、それが真璃が立った理由。
  それ以上ではないし、他の理由をつけようとも思わない。

  ・・・・・・けれども、もし自分が立つことで他の誰かが救われるならば、
  甘んじて自分の『宿命』を背負おうとも思った。
  例えそれが険しい道であろうとも、そうあろうと決めたのが自分ならば、自分にとって正しいと思ったことならば、私は恥ずかしくなく
 生きられると考えられたのだ。

 「白銀、情報転送をこちらでも確認した。
 安全装置を外す。 前へ出ろ」
 「了解しました」

  真璃はペダルを踏み出す。
  自分のために作られたかのようにぴったりと合う武御雷の操縦席。
  そして、一つ一つの動作に、完璧に応えてくれる。
  まるで何十年も前から知っているようなその感覚。
  彼女と武御雷は今、一つになっていた。
  ゆっくりと、甲板を踏みしめ、ハンガーを出て行く武御雷。 雨は、いつの間にか止んでいた。
  20年ぶりに動いたにも拘わらず、全く問題なく動く様に真璃は感動すら覚えている。
  整備してきた人間達、いやそれだけではなく他の大勢の人々の想いが、この機体には込められている。
  
 「・・・・・・・・・・・・ん?」

  気づけば、ハンガーの周りは人だかりが出来ていた。
  兵士、民間人問わず、本当にたくさんの人間がある一点だけを見つめている。
  真璃は気づいた。 彼らが見ているのはこの武御雷だ、と。
  ふと、その民間人の中に、さきほど助けた老婆の姿が見える。
  車いすの上で、こちらに対し手を合わせ拝んでいるその姿。
  他にも見覚えがある顔がある。
  真璃に悪態をついた整備員達は、まるで「信じられない」というようにボケーッとこちらを見ている。
  ・・・・・・そして更に向こうには、タケル達を脅し、自分の体を汚そうとした男達もいた。

 「・・・・・・!?」

  彼らは、泣いていた。 泣きながら地面に這いつくばっていた。
  まるで赤ん坊のように。 誰かに許しを請うかのように。 
  それを見た真璃は、理解した。

 「・・・・・・私と、同じだったんだ」

  さっきまでの自分。 それは、自身の感情を優先させ本当に自分がなしたいことから目を背けていた姿。
  今度は絶対に逃げない、真璃はそう誓う。
  それが自分に出来る、自分がなしたいことなのだから、と。

 「大佐、あなたがやり残したことは、必ず私がやり通してみせます。
 タケル君、スミカちゃんは私が守るわ。
 だから安心して、どうか靖らかに・・・・・・」

  ふと、空が白く輝きだした。 太陽が、海から昇っていく。
  先ほどまで雨を降らせていた厚い雲が切れ、その雲間から見える太陽が真璃にはとても美しく感じられた。
  闇夜が終わり、世界が光に満ちていく。

  ―――そして、その旭に彩られた武御雷。
  武神は自らの高貴な色をより際だたせ、そこにいる人々の心に、その光を照らし続けた。
  絶望という闇夜に旭が浮かぶ、それを示すかのように。










[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第二節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/01 20:51



  ―――宇宙から見える地球。
  青く瑞々しいそれは、永い永い時を歴て今に至る。
  多くの生命を産み育んできた母なる星を、かつて宇宙飛行士達は「宇宙のオアシスだ」と形容した。
  だがその言葉は既に過去のものである。
  かつて緑で染まっていた大地は灰色に染まり、起伏に富んだ地形はどこまでも変わらない平坦なものとなった。
  北半球の多くは真っ白に染まっており、氷によって閉ざされているのが分かる。
  南半球も遠くない未来そうなるだろう。 すでにニュージーランドがあった辺りは南極と見分けが付かない。
  母なる星の子供達はもはや、その胎内で生きることが困難となっていた。
  人類の、いや地球に生を受けた命全ての敵である地球外生命起源種「BETA」。
  彼らによって地球は、「母なる星」「オアシス」としての歴史を終わらせられようとしていた。

  ―――その地球から、一隻の駆逐艦が上がっていく。
  背に再突入殻を2つ背負い、真っ直ぐに漆黒の宇宙へ。
  それには、白銀真璃と月詠真那、そしてスミカが乗っていた。

 「・・・・・・キレイ」

  窓から地球を見る真璃。 何度も見たにも拘わらず、その美しさに素直に感動している。
  
 「私にとっては、かつてより醜くなった姿だがな。
 自然は破壊され、人類の文明と文化が消え失せた・・・・・・悲しい姿だ」

  地球を見ず、真那はそう呟く。 一方、スミカは黙ってボーッとしている。
  真璃は窓から離れ、俯く。 無重力状態故に、ゆっくりと体が後ろへ下がっていく。

 「キレイですよ。 だって」

  少し哀しい笑みを浮かべ、呟く。

 「だってここは、やっぱり皆の故郷ですから。
 母様や父様、神宮司大佐とタケル君の」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真那は何も返さない。
  真璃は無言のまま、自分の席へとつく。 そして前を見る。
  モニターには真璃がバーナード星系から地球まで乗って来た調査船ダーウィンの姿があった。
  真璃は考えていた。 これから自分たちが行う甲22号作戦―――『桜花作戦』について。

  この作戦は、現在着床している移動基地ニライカナイへ横浜ハイヴから侵攻している大規模BETA群を止めるためのものである。
  今作線『桜花作戦』は、つまりハイヴの核とでも言うべき反応炉を強襲し破壊することが目的だ。
  2008年に北米大陸で行われたダウン・フォール作戦において、アメリカはカナダに建造された「フェアバンクスハイヴ」「リブリーハイ
 ヴ」「アルバータハイヴ」を新型G弾によって殲滅。 その直後、米国国境にまで迫っていたBETA群は即時反転した。
  これによりBETAは自分の属するハイヴからの情報が途絶えると、最寄りのハイヴへ移動することが確かめられることとなった。
  これを再現しようと言うのが、今回の作戦である。
  だが、地上からハイヴに近づくことは難しい。 あのBETAの物量を相手にせねばならず、推進剤も馬鹿にならない。
  ―――であれば、宇宙から行くしかない。
  真璃と真那は横浜へ軌道降下し、ハイヴを直接叩く戦法を採った。
  ここで、真璃は疑問に思った。 『光線属種はどうするのだ』、と。
  だがそれに対する真那の回答は、とてもシンプルなモノだった。

  「戦場において光線属種は数年間、確認されていない」  

  人類が最後の大陸と航空、航宙戦力を失ってから10年近く。
  いつからかは分からないが、光線属種が姿を消したのはここ数年の実験で分かっている。
  初めに分かったのは、古くなった人工衛星がハイヴ近くに落ちたときだ。 そのとき、衛星を光線属種は撃ち落とさなかった。
  それを見た人類は、無人機をハイヴ近くへ飛ばす実験を行う。 けれども、攻撃されることは無かった。
  学者達の見解では、「BETAは、人類にもはや航空戦力や面制圧能力がないことを知っているのではないか」ということだ。
  BETAは人類を生命体とは認識していない。 しかしなんらかの事象―――災害のようなもの、とは認識している。
  例えるなら台風だ。 そしてBETAは、その台風の基になるものが失われ、それが発生することがないと理解したのではないか、という仮説だ。
  ―――では、航空戦力を整えて領土を取り戻せば、という意見も当然、軍の一部から出た。 
  だがもはや人類側にそんな戦力は残っていない。 BETAにはあの物量がある、それは変わらないのだ。
  そして何より、もしまたBETAが光線属種を戦場に投入するようになれば、各メガフロート間において行われている飛行機輸送すら完全に
 出来なくなってしまう。
  人類がこの10年、なんとか生きらこられたのは、その航空輸送が可能だったからだ。

  ともかく、ダウン・フォール作戦で確認された事象が事実ならば、甲22号目標すなわち横浜ハイヴの反応炉を潰せば、ニライカ
 ナイへ向かっているBETAは最寄りのハイヴへと移動するだろう。
  そうしてニライカナイを修理する時間を稼ぎ、日本列島から離れればBETAの侵攻を避けられる、というわけだ。

 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は眼を閉じ、つい先ほどまで行われていたシミュレーター訓練を思い出す。
  TYPE-00RR武御雷、この機体を扱うため必死になって訓練をした。
  初めて乗った機体であるにもかかわらず、真璃はその機体性能をよく理解し、困らない程度に操縦出来るようになった。
  時間がない中、ここまで上手く扱えるようになったのは真璃の才能というより、武御雷自身の性能故だろう。
  肩部ベクタードノズルや腰部スラスターモジュールによる機動性強化、そしてそれに翻弄されないようサポートする新型のOSや
 アビオニクスが、何とか真璃を真那についていける程度にまで彼女の操縦を引き立たせた。

  ・・・・・・ふと、両手をグッと強く握る。 そして開く。  
  真璃は、まるでそこに操縦桿があるような錯覚を覚えた。 自分がまるで、武御雷のコックピットにいるかのようなそんな錯覚。
  訓練と機体の相性、それによって真璃は武御雷との一体感を強く覚えたのだ。

 「絶対に作戦は成功させる。 私と武御雷で、絶対に」

  真璃は眼を開き、強い『決意』と『覚悟』で、その言葉を呟いた。





 「真璃! 昨日から定時連絡をよこさないでなにしてたんだよ!?」

  真璃がダーウィンに入ると、待機していたユーリからすぐに怒号が飛んだ。

 「お前が降りたところから煙が見えたぞ、宇宙からでもはっきり見えるな。
 何があったのかと心配・・・・・・」

  そこでユーリは、真璃の後ろにいる真那とスミカに気づき口をつぐむ。
  そして、真璃と真那の格好が零式衛士強化装備であることにハッとした。

 「やっぱり、BETAか?」

  その問いに真璃は頷く。
  ユーリは真璃の雰囲気が自分の知るものとは違っていることに段々と気づいていく。
  地球に降りる前には小うるさい少女でしかなかったのに、今目の前にいるのは責任感を持った大人のようなイメージが湧いた。
  そしてその雰囲気と真璃の格好から、ユーリは次の考えに思い至った。

 「まさかお前、地球に残るつもりなのか?」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は返答しない。 目を瞑り、じっとしている。
  不意に、那雪斑鳩を持つ手がギュッとそれを強く握りしめた。

 「そうよ」
 「!?」

  その言葉を聞き、ユーリは真璃に近づく。
  そして彼女の両肩を強く握った。

 「お前何言ってるんだよ!? 地球はもう、BETAに占領されたも同然だろ?
 だったら残ったって意味がないじゃねえかよ!」
 「まだ生き残っている人達が、数十万単位でいる」
 「そんな問題じゃねえんだよ!」

  ユーリは地球を指さした。

 「お前一人で何が出来る? 何人救える?
 何の足しにもならねえじゃねえか!」
 「国連軍から、移民暫定政府に正式な救援要請が出ているわ。
 バーナード星系から地球へ向けて使うはずだった船を、地球からの脱出船に当てて欲しいという要請が。
 私はそれまで地球で、彼らを守るつもり」

  「ハァ?」とユーリは悪態をつく。

 「あのな真璃・・・・・・そもそも移民船に何人乗れるか知ってるのか?
 知ってるはずだよな、俺たちはそれを任務にしているんだからよ。
 ―――多くても、数千人だ。 それでバーナード星系と地球を、片道だけじゃなく往復分でやったら、単純計算でも半分しか運べ
 ねえんだぞ!」

  真璃は目を見開き、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
  一方、真那は後ろで黙ってそれを聞いていた。

 「しかも報告書じゃあ、地球では再突入型駆逐艦まで不足しているって言うじゃねえか。
 これで何人が救える? 1000か? 500か?
 暫定政府がそんな要請にゴーサインを出すと思うか? そんな手間をかけると思うか?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「仮に救援計画を立てたとしたって、何年先になるか・・・・・・それまで地球人類が生き残っている保証はない。
 お前のやっていることは偽善だ。 ただの自己満足なんだよ」

  ユーリがそう言い切った後、沈黙が流れる。
  真那は眼を瞑ったままであり、スミカは俯いたまま。
  この静寂を破ったのは、真璃だった。

 「―――言いたいことはそれだけ?」
 「!? お、おい!」

  真璃はダーウィンの倉庫を開け、そこへ自分が集めた地球の資料やデータを運び始める。
  それを見たユーリは始めこそポカーンとしていたが、すぐに気を取り直した。

 「おま、聞いてなかったのかよ」
 「聞いてた。 ユーリの言ったこと、すごく分かるよ」

  最後の荷物を倉庫へ。 そして真璃は、ユーリの方へと向き直った。

 「確かに、私個人でどれだけのことが出来るのか、って言われればほとんどないよ。
 でも私が残ることで、『救援の船が来るかもしれない』と地球の人達に思わせることは出来る。
 ユーリは知らないかもしれないけど、地球ではみんな弱気になってるの。 明日があるか分からない、そんな日常じゃ仕方がないけど。
 だからこそ、“希望”が必要なんだ」

  「それに」と言葉を繋げた。

 「バーナード星系についても考えたよ。 今回の調査で地球がBETAに負けたと分かったって、暫定政府への反発は消えた訳じゃない。
 元々この調査計画は、その反発を逸らすためのものだったのは知ってるでしょ?
 であれば政府としては、救援要請に応えることでそういった反発を改めて逸らすことも考えるんじゃないかな」
 「む・・・・・・で、でもよ、そんな簡単にいくものなのか?」

  真璃はニコッと笑顔を浮かべ、後ろのスミカに近づく。

 「“政治ってのは演出が大事”―――夕呼先生がよく言っていたわ」
 「はあ?」
 「“人類の故郷から救いを求めに来た少女”・・・・・・政治的演出として、これ以上適するモノはないと思うけど」

  ユーリはスミカをじっと見る。
  力なく、ただ俯いている少女。 その悲観的な様は地球での悲劇を如実に表し、憐れみを誘う。
  真璃の言うとおり、これならばもしかしたら移民達の同情を誘えるのでは、と思い浮かぶ。

 「真璃・・・・・・お前、政治出来たんだな」
 「ははは、どっかの誰かさんのおかげで悪知恵が働くんだよ。
 似たくなかったけどね」

  ハハハ、と互いに笑い声を上げる。
  笑い声が止むと、キッとユーリの顔が再び真剣になる。

 「お前が結構考えているのは分かった。
 でもよ、それでも・・・・・・俺はお前が地球に残るのを許すわけにはいかない。
 仲間を死地においていくなんて、俺には出来ないんだ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「仮にお前の言うとおりに事が進んだからって、それでも時間がかかるのは間違いない。
 数年、場合によっちゃ10年以上かかるかもしれない。
 その間に人類が絶滅する―――お前が死ぬことも、十分あり得るんだ」

  再び二人の間に沈黙が流れた。
  資源もなく、食料や薬品といった生活必需品まで乏しい地球。
  しかもBETAによる襲撃が何時来るともしれない世界。
  この状況で10年も人類が保つ保証はない。 どちらかといえば「絶滅」の方が可能性は高いだろう。

 「ユーリ、ありがとう。 心配してくれてるんだよね」
 「いや、俺は・・・・・・」
 「でも私は、やっぱり救助の船が来るまで、戦うよ。
 これは私が決めたことなの」

  ユーリは真璃の眼を見る。
  その眼には一片の曇りもない。 とても透き通って見えた。

 「地球で色々なことがあった。 色々な人と会った。
 ・・・・・・私のせいで死んでしまった人もいたよ・・・・・・だからというわけじゃないけど、私は彼らの想いを受け継ぎたい。
 神宮司大佐やタケル君が守りたかったものを、私は守りたいと思ったの」
 「神宮司大佐は最後まで戦うつもりだった。 救助の船が来るまで、守るつもりだった。 タケル君はスミカちゃんを守った。
 もし地球の人達がみんな死んじゃったら、二人の想いは何だったんだって思う。
 私だけが覚えていて、紙だけにしかその記録が残らなくて・・・・・・そんなの絶対に嫌だ!」

  真璃は声を上げた。

 「私は絶対に生きてみせる。 そして地球の人達を・・・・・・神宮司大佐達が守り続けた人達を、今度は私が守ってみせる。
 そして救助船が来て、何人かでも大佐達の『証』が残せれば・・・・・・私はそう思っているの」
 「真璃・・・・・・」

  真璃の眼は真剣だ。 その眼はユーリに自分の本気を訴え、地球に残ることを強烈に主張する。
  ・・・・・・ユーリは、折れた。

 「はあ、分かった分かった。
 とりあえず、死ぬ気はないんだな」
 「!! ユーリ、じゃあ・・・・・・」
 「救助船の手配は、俺が必ずなんとかしてやる。
 すぐまた迎えに来てやっから・・・・・・それまで、絶対に死ぬんじゃないぞ」

  ユーリは真剣な表情の中で、本当に小さく笑みを作った。
  それは真璃を安心させ、彼女に答えようとする彼なりの礼儀だった。

 「ユーリ、ありがとう!」
 「どわ!? くっつくなガキンチョ!」

  嬉しさの余り真璃はユーリに抱きつく。 自分の想いに気づいてくれたことが、とても嬉しいのだ。

 「それじゃあ、スミカちゃんは私のポッドで」
 「・・・・・・・・・・・・行かない」
 
  「え?」と真璃達は声のした方を向く。
  それは先ほどから無気力に俯くだけだった、スミカの声だった。

 「ス、スミカちゃん?」
 「私行かない。 イキタクナイ」

  スミカは俯いたままだ。
  真璃は近づくと、スミカはゆっくりと顔を上げた。
  その顔は、冷たいほどに無表情で、真璃を威圧するほどだった。

 「私は地球にいたい、まりもママとタケルちゃんの側から離れたくない・・・・・・離れたく、ない」
 「スミカちゃん・・・・・・でも、このままじゃBETAが来ちゃうの。 だから」
 「離れたくない。 離れたくない。 離れたくない、離れたくない!」

  スミカはそう叫び、その場に座り込む。 少しずつ、嗚咽が聞こえてくる。
  真璃はそのスミカに触れようとした。 
 
 「近寄らないで!」

  真璃が触れる一瞬前に、スミカは顔を上げる。
  その顔には憎しみが浮かび、瞳は彼女を睨み付ける。
  真璃は一瞬たじろいだ。

 「ねえ真璃お姉ちゃん・・・・・・なんであのとき、タケルちゃんを殺しちゃったの?
 なんで、まりもママを助けてくれなかったの? なんであそこで泣いていたの? なんで・・・・・・」

  次々に真璃に語りかけられる言葉。 真璃は苦い顔をしながらも、その言葉を発するスミカをじっと見続ける。
  瞬きすらせず、一度も目を逸らすことなく。

 「なんで―――なんで私だけ助けたの?
 なんで私なの? なんで、ねえ、なんで?」
 「スミカちゃん・・・・・・」

  スミカの目から涙が溢れてくる。 そして大粒の涙となって、ポロポロと頬から落ちていく。

 「私イヤだよ、タケルちゃんとまりもママがいない世界なんて、ヤダ・・・・・・
 ヤダよぉ・・・・・・ヤダ、ヤダ、ヤダ、ヤダ・・・・・・」
 「私だけ生きてるなんて、ヤダよぉ・・・・・・」

  それ以上、言葉は繋がらなかった。 スミカは両手で顔を覆い、泣くしかない。
  真璃はそのとき気づいた。 スミカが無口だったのは、自分と同じように現実を認めたくなかったのだと。
  二人が死んで、なぜ自分だけ生きているのか―――そこに確信がなく、何も考えられない。
  精神が過去に囚われ、今と未来が見えないのだ。
  ふと、真那がスミカに近づこうとする。 真璃はその動きを制し、目で『大丈夫』と伝える。
  そして、真璃はスミカの前で腰を落とした。

 「スミカちゃん・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 
  真璃はフーッと一度深呼吸をし、そして、ついに言葉をかけた。

 「イキナサイ、スミカちゃん」

  スミカは驚きの表情を浮かべ、真璃を見る。
  真璃はただ真剣に、スミカを見つめた。 ただ真剣に。

 「・・・・・・ヤダ、私絶対にイキタクナイ!」
 「イキナサイ」
 「ヤダ! ヤダァ!!」
 「イキナサイ」
 「なんで真璃お姉ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの?
 タケルちゃんとまりもママを助けてくれなかったのに、なんで私だけ!?」
 「・・・・・・イキナサイ」
 「イヤだ! 私地球に残る! タケルちゃん達と離れるくらいなら、死んだ方がマシなんだ!!」
 「!?」

  その言葉が響いた直後、真那が顔を険しくさせスミカへ近づく。
  だがそれよりも早く―――真璃の手が、スミカの頬を叩いていた。
  パーンという乾いた音が響き、皆の動きが凍る。
  その一瞬の時間の後、今度は真璃の声が響き渡った。

 「何甘ったれたこと言ってるの!!」
 「!?」
 「神宮司大佐がそんなこと言うと思う!? 貴女にそれを望むと思う!?
 大切な仲間達を、護るべき人達を失っても大佐は、最後まで生きようとした! 死のうなんて考えなかった!
 そんな人が、“死んだ方がマシだ”なんて言うと思うか!!」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「タケル君だって同じ。 スミカちゃんを命を懸けて守って、それで死んで・・・・・・
 もし貴女がここで死を望んだら、タケル君の死はなんだったの? あの子の命って、なんだったのよ!?」
 「でも・・・・・・でも」

  カタカタとスミカの体が震え出す。 再び涙がこぼれ、それが頬を伝う。
  そして声もまた、体と同じように震え出したのが分かった。
  スミカもまた、分かっているのだ。 まりもやタケルが何を望んでいるのか、自分にどうしてほしいのかを。
  だが彼女は、まだあまりにも幼すぎた。 その思いに応えようと思うまでには、あまりにも弱すぎた。

 「ヤダ・・・・・・離れたくない、離れたくないよ・・・・・・イキタクナイよ・・・・・・」
 「スミカちゃん」

  真璃は、ゆっくりとスミカを抱きしめた。 まるで寒さに震えるわが子を、母が抱くように。

 「スミカちゃんを守ったのは、私じゃないよ」
 「え?」
 「スミカちゃんを守ったのは・・・・・・神宮司大佐と、タケル君だ」
 「!?」
 「だから、イキナサイ。 二人のために」

  抱きしめる力を強める。 スミカは今まで以上に、大粒の涙を流した。
  まりもやタケルに応えたいという感情と、離れたくないという感情が互いに彼女の心で擦れ合い、その矛盾がたまらなく彼女の
 心を引き裂く感じを生んでいく。

 「ヤダよぉ・・・・・・ママァ、タケルちゃん・・・・・・
 離れたくない、離れたくないよ・・・・・・一緒にいたいよぉ・・・・・・タケルちゃん」

  スミカがその言葉を発し続ける限り、真璃は彼女を抱きしめ続けた。
  引き裂かれようとする少女の心を、何とか一つに留めるために。
  少女の痛みを、自分のものとするために。 真璃は抱きしめ続けた。





 「―――白銀少尉」

  宇宙船「ダーウィン」の観測窓から地球を眺めていた真璃は、不意に名を呼ばれた。

 「はっ、中佐。 何用でしょうか?」
 「うん・・・・・・先ほどは、大変だったな」
 「ああ・・・・・・」

  真璃は側で寝ているスミカの髪を、そっと撫でる。
  あれから何十分かスミカは泣き続け、今は疲れたのかすぐ横のポッド兼ベッドで休んでいる。
  「離れたくない」と言い続けてはいたが、スミカは真璃の言葉に従うようになり、コールドスリープ用のポッドに容易に入ってくれた。
  言葉と感情が一致しない、というのはよくある話だ。 一致させることは素晴らしいが、そうでないのもまた人間の姿。
  真璃はスミカが、二人のために行ってくれる気になったのだと、その行動から理解出来た。

 「いえ。 スミカちゃんの気持ちは、痛いほど分かります。
 でもだからこそ私がやらなきゃって思ったんです」
 「そうか」

  その言葉を最後に、しばらく沈黙が流れる。
  闇が拡がる宇宙と大きな地球は何の変化も示さず、まるで永遠に時が止まってしまったかのような錯覚を二人に与えた。
  だが、時間は確かに進んでいる。 しばらくすれば二人だけの甲22号作戦―――『桜花作戦』が始まるのだ。
  失敗を許されない戦い。 成功させねばならない闘い。
  その戦いへの道程が、確かに今刻まれ続けている。

 「・・・・・・少尉」
 「はい」
 「私は貴様に、謝らねばならぬ事がある」
 「え?」

  真璃は真那の方を向いた。 既に真那は真璃を見ていた。

 「私は貴様の“覚悟”が、未だ信用出来ないでいた。
 ここまで来れば貴様は考えを改めるだろうと・・・・・・いや、私は無理にでもバーナード星系へと帰すつもりだった」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「私はあの武御雷を日本に帰せれば、それで良いと思っていたのだ。
 そうすればニライカナイの日本人は奮起出来る。 日本では戦闘が続いている、だから私達も戦える、と」

  「だが」と言葉を繋げる。

 「だが、先ほどの貴様の言葉を聞いて私は確信した。
 少尉、貴様に“覚悟”が出来ていたということを」

  真那は大きく頭を下げた。 

 「すまなかった、少尉」
 「中佐、そんな」

  真璃は真那に駆け寄る。 

 「中佐が頭をお下げになるなんて、恐れ多いですよ」
 「これは私なりのけじめだ。 これから一緒に戦う“戦友”を信頼していなかった、私なりのな」
 「え?」

  ゆっくりと真那は顔を上げる。 そして笑みを浮かべ、真璃と視線を交わす。

 「共に戦ってくれるか?」
 「!!・・・・・・はい!」

  真璃は思わずグッと胸に来るものを感じた。 真那が今、自分を認めてくれたことにとても感動を覚えたのだ。

 「・・・・・・白銀」
 「あ、はい。 何でしょうか」
 「・・・・・・貴様の母について、何か聞きたいことはあるか?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「母だけではない。 那雪斑鳩のこと、あの武御雷のこと・・・・・・貴様はそれらを知る権利がある」

  真璃は、自分の右手にある那雪斑鳩を見た。
  とても重厚な刀。 そして、あの“紫”の武御雷―――将軍のみに搭乗を許された専用機。
  それらがなぜ自分と関係するのか、知りたいと思うこともあった。
  だが、今の真璃は―――

 「ありがとうございます、中佐。
 ですが私は、そうした疑問について知らなくてもいいかな、と思えてきたんです」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「紫の武御雷については学校で習いました。 その意味ぐらいは当然知っています。
 母がどんな縁を持っていて、どんな出自だったのか、大体は予想出来ます」
 「・・・・・・そうか」

  真那は口をつぐむ。 真璃はそのまま言葉を続けた。

 「思うんです。 母様や夕呼先生、霞お姉ちゃんはなんで、私にそのことを伝えなかったんだろうって。
 きっとそれは、出自であるとかそういうことじゃなくて、自分がそうあろうとすることこそが大切なんだと教えたかったんだと思います。
 母様は言っていました。 “常に気高く、民の模範たれ”と。 そして弱者を守れ、と。
 出自は関係ありません。 私はそう生きたいと願って、今ここにいるんです。
 だから私は、知る必要を感じないんです・・・・・・すみません、中佐」

  真璃は軽く頭を下げる。 真那は「構わん」と真璃を元の体勢に戻した。

 「貴様の言うとおりだ。
 出自は関係ない。 自分が何を望むのか、どう生きたいかこそが肝要だ。
 そしてその生き方が人に恥じぬものならば、他に何を望もうか」
 「はい、私もそう思います」

  不意に、後ろから「月詠中佐、真璃」と呼ぶユーリの声が聞こえた。
  時計を見ると、作戦開始の時刻まで後少ししかなかった。

 「白銀、私は先に行き駆逐艦の準備をしておく。
 貴様はスミカを頼む」
 「はっ、了解しました」

  真那と別れ、真璃はコールド・スリープの設定を調整し始める。
  
 「ん・・・・・・お姉ちゃん?」
 「あ、ごめん。 起こしちゃったかな」

  スミカは眠そうに目をこする。

 「もう一回寝ていいよ。 起きたら・・・・・・もう、BETAなんかに怖がる必要はないから」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「スミカちゃん、戦争を忘れて平和に生きること、そして精一杯幸せに生きることが、二人が望んだことだと思うよ」
 「・・・・・・うん」
 「それから、これを」

  真璃はスミカに、まりもの日記帳と手製の人形を渡す。

 「これは?」
 「この日記帳をね、夕呼先生に渡して。 その人形は・・・・・・スミカちゃんが持ってて」
 「ユウコ先生? 誰?」

  スミカの問いに真璃は困った表情を浮かべた。 夕呼を一言で表す言葉が見つからないからだ。

 「そ、そうだね・・・・・・ちょっと怖くて、意地悪でアマノジャクで口が悪くてわがままで、自分が世界の中心みたいに思ってる女王様で、
 人を平気で実験台にしようとして、こんな性格で先生やってて良いのかって思えるような人で・・・・・・でも」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「でもとても優しい、私のお母さんだよ。 母様が亡くなってから私を一人で育ててくれた・・・・・・とても立派な、お母さん」
 「じゃあ私と同じだね」
 「え?」
 「私もお母さん死んじゃって、まりもママが育ててくれたから」
 「・・・・・・・・・・・・うん、そうだね」
 
  ―――コールド・スリープの設定が終わる。
  
 「それじゃあ、閉じるね」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「起きたら優しい人達が迎えに来るから、安心してね」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・それじゃ」

  そう言い、真璃はポッドを閉めようとする。

 「・・・・・・ありがとう」
 「え」
 「お姉ちゃん、ありがとう。 助けてくれて、ありがとう」
 「!?」

  「ありがとう」
  先ほど「なぜ私だけ助けたのか」と問うたスミカからの思いがけない言葉。
  それは真璃にとって嬉しいもので、しかし今は逆にその言葉を申し訳なく感じてしまう。
  真璃は泣きそうになる。 しかし、体に力を入れ必死にその涙を堪えた。

 「ごめん、ごめんねスミカちゃん・・・・・・ごめん」
 「まりもママ、いつも泣いてた。 “また守れなかった”って。
 お姉ちゃんも、そうやって泣いてた。 だから同じだよ」
 「・・・・・・・・・・・・」

  スミカが不意に手を伸ばす。 真璃はそれに気づき、横へと体をずらした。
  その手の先には、水色に浮かぶ地球が佇んでいた。

 「・・・・・・バイバイ」

  スミカがその小さな手を振りながら別れの言葉を唱える。
  真璃は小さく笑顔を作り、スミカに『あの言葉』を伝えた。

 「違うよ、スミカちゃん。 こういうときは『またね』って言うんだよ。
 もう一度会いたいときには、『またね』って」
 「うん。 ママ、タケルちゃん・・・・・・またね」

  真璃はポッドを閉じ始める。 シューッという音と供に、少しずつポッドの上面部が降りてくる。

 「真璃お姉ちゃん」
 「ん?」
 「・・・・・・またね」
 「!?・・・・・・うん、うん・・・・・・またね」

  ポッドが完全に閉まる。 その言葉が届いたかは分からない。 
  しかし穏やかな笑みで眠りにつくスミカを見て、真璃は優しい笑顔を浮かべることが出来た。
  そして笑みを浮かべながら、真璃はゆっくりと地球の方を向く。 そして両手を胸の前で合わせ、祈った。

 (大佐・・・・・・タケル君・・・・・・
 二人が一番守りたかった人は、これでBETAを忘れることが出来ます。
 だから安心してください、どうか・・・・・・)




  ―――真璃は武御雷のコックピットにいた。
  そしてこれまでのことを考えている。 これまで自分が生きてきた、生の歩みを。
  バーナード星系で冥夜や夕呼、霞と平和に過ごし、とても幸せに生きられていたということ。
  地球で、他人のことも考えず自分の感情を優先させてしまったこと。
  まりもや真那、タケル、スミカに会って、自分がどれだけ助けられたかということ。
  ・・・・・・そして、
  そしてそうした中で自分が、“今こうありたい”と願う自分を手に入れられた。
  その『ありたい自分』を果たすために、まりもから“決意”することを教えられた。
  だがそれだけでは足りなかった。 タケルとまりもの死―――それが、簡単に決意を壊してしまった。
  真那はそんな真璃に“覚悟”することを訴え、教えた。 
  とても厳しい言葉だったけども、その言葉が真璃に“覚悟”の重さを識らせた。

  今の自分は『決意と覚悟』をもって戦うことが出来る、と真璃は確信している。
  『世界を救う』とか『人類を守る』とか、そんな大仰なことを考えているのではない。
  『父や母、夕呼、霞、まりも、真那、タケル、スミカ・・・・・・そして、自分のために犠牲になったどこかの誰か・・・・・・』
  自分がこう生きたいと願って、その背中を常に押してくれていた人達。
  そう、『自分はこう生きたい』と思うからこそ、今ここにいるのだ。
  例えその生き方がとても重く辛くとも、『決意と覚悟』をもって、そして今も『背中を押してくれている人達』を糧にして、
  真璃は戦うことが出来るのだと、強く信じることが出来た。

  ―――作戦開始の時刻まで、後数十分。
  ふと、真璃の網膜に真那が映った。

 「白銀、これより最後の作戦確認をする。 良いな」
 「はい!」

  真璃の網膜に円筒状の施設が浮かぶ。
  
 「これは?」
 「かつて横浜ハイヴ跡に建設された国連軍横浜基地の詳細図だ。
 円筒部分は主縦坑となり、ここを中心にして研究施設、格納庫といった基地施設が存在している」

  主縦坑の周囲に様々な施設が浮かび上がる。 非常に大きな基地だったことが偲ばれた。

 「でも、国連軍の基地なのによくこんな詳細図が手に入りましたね。 普通機密扱いじゃないんですか?」
 「・・・・・・ふっ」

  真那は不適な笑みを浮かべている。

 「“横浜の牝狐”の異名は伊達ではないということだ」
 「へ?」
 「貴様が持ってきたディスク、使わせてもらった。
 廃棄対象になっていた国連軍のデータバンクから、この情報を収集、解析するのに役立ったぞ」
 
  真璃は思い出した。 バーナード星系を出る前にクラック=ソフトが入ったCDを預かっていたことに。

 「おかげで詳細な情報が手に入った。 話を続けるぞ」
 「はい」
 「貴様も知っているだろうが、反応炉はこの主縦坑の直下に存在する。
 戦力が我々しかいない以上、この主縦坑を降下、直接反応炉を潰すしかないわけだが・・・・・・」

  次に、モニュメントが映る。 その巨大な建造物は、近くに映るBETA達と比較されてとても威圧感を醸し出す。

 「孔から直接侵入するのが理想的だが、危険すぎる。
 観測によればハイヴからの打ち上げの際、レーザー光が確認されているのだ。
 推測だが光線属種というのは元々このような役割を担っていたのだろう。 孔から侵入したのではレーザーで迎撃される恐れがある」

  「そこで」と再び横浜基地の詳細図が現れる。

 「そこで、主縦坑に出来るだけ近い地下茎構造を確保する。
 BETAに補修という概念は存在しない、よって研究棟や格納庫が存在していた空間はそのままになっているはずだ。
 そこへ駆逐艦と、再突入殻による空爆によって我々の進入路をつくる」
 「ですが、地下茎構造は非常に強固なものと聞いています。
 軌道降下爆撃だけで十分なのでしょうか?」

  真璃の不安は確かだ。 もし地下茎構造に穴が空かなければ、二人は門から侵入せねばならなくなる。
  いくら大量のBETAがニライカナイへ向かっているからといって、ハイヴ内のBETAがいなくなったわけではない。
  あの物量を直接相手せねばならなくなれば、たった二機では弾も近接武器も足りない。

 「そのために駆逐艦へ細工をしてある」
 「え?」
 「駆逐艦は電離層を突破した後、加速するように設定している。
 そして倉庫には爆薬を満載してある。 『海上輸送がセオリーのデリケートな』やつを、な」

  真那は何かを思い出しているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
  その様を不審に思いながらも、真璃は納得した。

 「なるほど、駆逐艦の耐熱耐弾装甲と軌道降下による加速なら研究棟まで地面を抉ることは可能。
 積んである爆薬によって、更に掘り進められることは間違いないですね」
 「そういうことだ」

  次に、主縦坑の概要図が現れる。

 「研究棟近くの地下茎構造から主縦坑に侵入後、ここを降下する。
 光線属種には気をつけよ。 上部にモニュメントがあるとはいえ、孔と機体が重なればレーザー照射される危険がある」
 「はい」
 「降下後、深度700mを切った辺りで我々が装備する83式榴弾砲によるS-11c慣性誘導砲弾を投射。
 大広間天井を破壊後、反応炉ブロックへと進入。 そして機体に備え付けられたS-11を設置後、再び主縦坑を通って脱出する・・・・・・
 以上が作戦の流れだ。 何か質問は?」
 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は考える。 残り時間は幾ばくもない・・・・・・考えれば幾らでも今回の作戦から危うい面が見える。
  だが時間がなくリソースもない現状、そして失敗を許されない以上、何も言えなかった。

 「・・・・・・なお、失敗した場合だが・・・・・・
 その場合、太平洋上の米軍移動基地が最も近い。
 そこへ退避せよ、よいな」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「少尉、作戦とは時運も影響する。 失敗した場合も考えねばならん・・・・・・分かったな」
 「はい」

  真那と真璃の間に沈黙が流れる。 失敗するわけにはいかない、しかし必ず成功するとは限らない。
  それが真璃にあらためて不安をもたらし始めた。

 「―――時間だ。 これより、降下を開始する」
 「!! りょ、了解」
 「白銀少尉」
 「はい」
 「・・・・・・決意と覚悟が出来た人間は、強い。 自分を信じろ」
 「!! はい!」

  微笑んで返す真那の画像が消え、網膜はただ闇だけを映し出す。
  自分の不安を見透かされていた事実に、自分はまだまだ弱いな、と自己反省代わりに頭をコツンと叩く。
  そして懐から―――バーナード星系から出てきたときに、霞からもらったマフラーを取り出した。

 「霞お姉ちゃん・・・・・・帰るのちょっと遅れちゃったけど、許してくれるよね?」

  少し哀しそうに笑う霞が思い浮かぶ。 真璃はそのマフラーを首に巻いた。
  とても暖かく感じる。 体だけではなく、まるで自分の想いさえも。
  そしてもう一つ・・・・・・那雪斑鳩を取り出した。
  先ほどまで気づかなかったが、何か花のような香りがすることに気づく。

 「・・・・・・母様・・・・・・」

  これから行こうと横浜は、武や千鶴、慧、美琴、壬姫達が最後に戦った場所である。
  それが思い出され、まるで自分が行くことが運命であるかのような錯覚を覚えた。
  母の代わり―――しかし真璃は首を振る。
  自分で決めた道を自分で歩いている・・・・・・それ以上でも以下でもない、と小さく呟いた。

 「さあ、行こう! 私の戦いに!」





  ―――その日、地球上の多くの基地でその光が見られた。
  空を落ちる、小さな星光。 流れていく、絹の尾。
  その光を見た大勢の人間達が自分たちの願いを込めていく。
  ある者は天国にいる母の安心を願った。 明日の食事がもう一品増えることを願った者もいた。
  またある者は―――BETAのいない世界を、強く望んだ。
  自分の子供達が、両親が、祖父母が、恋人が、愛する人が、誰も犠牲にならなくて良い世界。
  多くの人々が、そんな世界を望んだ。 祈るべき神があまりにも虚弱になってしまったこの世界で。

  そして、その光が落ちた。
  強烈な熱光と地響きが起こり、地面が抉れていく。 大きなキノコ雲が上がり、それがモニュメントを包む。
  ―――そこへ更に赤い鉄のかたまりが降り注いでいく。
  真っ赤に燃え上がった大地を更に貫き、そこで活動するモノは完全に消え失せたかのように見えた。
  だが、違った。
  大きなクレーターを作った地面の何カ所かが盛り上がり、そこから多くの醜悪な化け物達が姿を現わした。
  それはさながら、巣を壊した後にワラワラと地面から出てくる蟻のような印象を持つ。
 
  穴だらけとなった大地。 モクモクと立ち上る黒雲。
  その雲が、バッと断たれた。
  厚い雲間から現れたそれは、紅く血に染まった色を持つ剣の武神―――
  月詠真那の駆る『TYPE-00FX 武御雷』、その姿だ。

 「久しいな、侵略者共。 惰眠は充分に貪れたか?
 叩き起こしに来てやったぞ!!」

  狂喜に満ちた顔で、誰に伝えるわけでもなく真那は叫ぶ。
  そのつり上がった眼は、まさに『鬼』と形容するしかない。

  ―――真那に遅れて、また厚い雲が抜かれた。
  其は亡國の地平を行く、魂の残照。
  滅び行く世界を、それでも守らんと燃え上がる命の炎。
  希望もなく絶望しかない闇夜の中にあっても、いつか見た太陽を忘れることが出来なかった人々の、
  願いと想いが込められた高貴なる濃紫の旭。
  その名は、『TYPE-00RR 武御雷』

 「・・・・・・・・・・・・」

  真璃は目を瞑っていた。 恐怖からではない。 逆に今、何故か彼女はとても落ち着いている。
  人類を、地球を食い尽くそうとするBETA。 そしてその脅威から人々を護らんと戦った、父と母の戦友達。
  ここはそんな彼らが生きた大地なのだ、と彼女は心に刻み込む。
  そして今、自分がなぜここにいるかを、彼女はまた思い出した。

 「人類は、負けない。 絶対に負けない!
 私がいる、私達がいる! だから・・・・・・負けない!」

  パッと網膜に真那の顔が映る。 そして互いに一度頷き、地面を見た。

 「行くぞ白銀!!」
 「はい!」  

  そうして二機の武神が降りていく。
  何の慈悲もなく許容もない、命の存在を許さない大地へと。
  彼女たちは戦いという名の輪舞へと自らを立たせていく。
  自分の信念、誇りと名誉にかけて―――







[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第三節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/10 22:48



  かつて「日本」と呼ばれた大地。 四季があり、季節が変わると香しい花々と瑞々しい木々が人々の心を楽しませた。
  だがもはや、その国は存在しない。 生命の痕跡すらありはしない。
  どこまでも続く何の特徴もない灰色の土地。 かつて人々の喉を潤した川も、雄々しくそびえ立った山も、何も存在しない。
  代わりにあるのは、「ハイヴ」と呼ばれるBETAの城だけだ。
  大地を見下ろし、まるで他存在を威圧するように立つそれはモニュメントと呼ばれている。
  しかしこれは、ハイヴのほんの一部分にしか過ぎない。
  モニュメントの下を深度2000mに及ぶ主縦坑が貫いており、そこから派生した横坑が地下を30kmにわたって網目状に拡がっている。
  さながら、それは虫達の「巣」のようなものだ。
  ふと横坑の表面を腸の蠕動運動のように、もぞもぞと動く何かが見える。 
  それは、一面に拡がるBETAの大群だった。 その様は蟲の固まりを想起させ、嫌悪感を誘う。
  だが醜い怪物達は何の表情も感情も見せず、ただ同じ方向へ歩いていく。

  ―――その時、閃光が走った。
  幾体ものBETAに小穴が空き、体液を噴き出しつつ倒れていく。 その後ろを進んでいたBETAも同様だ。
  再び走る銃光。 暗黒の世界が照らされ、自己主張するかのように立つ深紅と濃紫の武神の姿が見えた。
  二機の武御雷、真璃と真那は、その存在を懸けて闘いを続けていた。

 「―――っ!!」

  真璃の網膜に映る残弾注意の文字。 08式突撃砲の残弾表示が赤く点滅している。
  彼女は兵装を74式長刀に持ち替え、躊躇いもなく前進した。

 「やあああぁぁ!」

  近づいてくる要撃級を斬り伏せ、僅かに見える空間をただ前へ、前へ。
  そして何体目かの要撃級が倒れると、前方の道が開けた。 
  真璃は「チャンスだ」と考え、一群を抜けた。
  だが前方には更に多くのBETA群が散在し、
  目の前からは突撃級がその鋭利な前身を真璃に向け、高速で迫っていた。

 「くぅ!?」

  確認できた直後、武御雷の肩部装甲にあるベクタードスラストノズルが点火する。  
  右斜め方向への急速な転進。 真璃は身体に負担を感じつつもそれを行い、突撃級は真璃の左すれすれを空を切って進んでいく。
  その突撃級へ右肩にある可動兵装担架システムに預けられた突撃砲が発砲、弱点の後部を貫き、そのまま他のBETAに衝突した。

 「先走りすぎだぞ、白銀!」

  真璃の横に立つ真那の武御雷。
  両手に抱えた突撃砲を発砲し、前方から向かってくるBETAの足を止める。
  真璃はその間に突撃砲の弾倉を交換し、真那の武御雷に背を預け、後方の群れへと発砲を開始した。

 「しかし、このままではジリ貧です!」
 「主縦坑まであと僅かだ。 今は慌てるのではなく、無傷で確実に進むことを考えよ!」

  「了解」と答えを返す直前、真璃と真那のヘッドセットから警告音が鳴り響く。
  横の壁が突然崩れ、戦車級と要撃級が大量に姿を現わした。
  前方と後方、そして左方と、このままでは囲まれてしまう。

 「白銀、敵増援を!」
 「了解!」

  それだけの会話だった。
  真璃は武御雷の腰を落とし、新たに出現した部隊へ発砲する。
  一方、真那は左腕はそのままで、右腕の突撃砲を真璃が立っていた空間へと持っていき、後方と前方へ斉射。
  完全に敵の動きを封じ、接近を許さなかった。
  まるで長年付き添ったパートナー同士のように、二人の連携が冴え渡っている。
  バラバラに迫るBETAはその二人に抗しきれず、ついに前方への道を開けた。

 「吶喊する。 援護を頼むぞ」

  真那は前方へとむき直し、右腕を長刀へ替える。
  そしてたった今開けた道を塞ごうとするBETA群へと突撃した。

 「甘い!」

  最も近い要塞級の直下へと進入し、衝角を持つ触手を寸断した。
  そのまま斬り上げつつ跳躍し、左腕の突撃砲を発砲する。 
  要塞級はその巨体を支えきれず、周囲の突撃級や戦車級を巻き添えにし倒れ込んだ。
  真璃は跳び上がった真那の着地点を確保するため一点へ集中砲火、BETA群を薙ぎ払う。

 「はああぁ!」

  真那は着地した―――その直後には既に移動し、長刀で周囲の敵を撫で切りにする。
  要撃級が10数体近づくが、彼女はその一群に発砲、それ以上の接近を許さない。
  だが、全ての敵を排除する前に弾切れとなり、一体が更に近づいてきた。
  真那は退かなかった。 高速で接近し、その突撃砲に付いた銃剣で要撃級の感覚器を貫き、抉る。
  しかしそれだけでは動きを止められず、要撃級は腕を振り上げる。
  真那は突撃砲を手放し、長刀を両手で握り込むと、相手が振り下ろす前に長刀を横薙しその腕を切り落とした。

 「月詠中佐!」

  真璃は声を上げた。 
  網膜に映る、真那の武御雷を表す緑の点を囲む赤い固まり。
  真那の周囲には無数の戦車級が迫り、今にもたどり着かんとしていた。

 「―――っ!」

  瞬間、紅き武御雷は肩部スラスターノズルと跳躍ユニットを同時に噴射させ、その場で超信地旋回を行った。
  その場から動かず、旋回する武御雷。 跳躍ユニットに付けられたスーパーカーボン製の翼を知らず、取り付こうとした周囲の戦車級はそ
 の回転に巻き込まれ、バラバラになって四散した。
  まるで紅い花びらが散ったように見えるが、真璃にとっては正直気味悪いようにしか見えなかった。

 「……すごい」
 「跳ぶぞ、白銀!」
 「!! 了解!」

  開けた空間を噴射跳躍し前進する二機の武御雷。 足下に拡がるBETAを尻目に、真璃達は横坑を突き進んでいった。

  



  「……ぷはぁ」

  真璃はパックに刺したストローを介して水分を補給し、小さく息を吐いた。
  薄いグレープフルーツ味の飲料水はお世辞にも美味しいとは言えないが、度重なる連戦で喉がカラカラの彼女にとって、それは至高の
 味に感じられた。
  現在、二機の武御雷は推進剤の消費を抑えるため、横坑を主脚移動で進んでいる。
  敵部隊の反応は今のところ無く、ほんの僅かであるが一息つく時間が生まれていた。

 「チュ~」

  気の抜けた音をわざと立てながら水分を吸入する。 
  気を抜けない戦場にあって、それは彼女が唯一出来る「おふざけ」だ。
  ふと、真璃は自分達の進む横坑へと目をやった。
  暗い坑道と薄く光る壁面、それらがまるで、夜空に浮かぶ星を連想させる。
  キレイだな、と彼女は思う。 しかし口に出そうとは思わなかった。
  少しでもBETAを肯定する趣旨に繋がるようなことは言いたくないのだ。

 「ふぅ」

  次に、視線を真那の武御雷に向ける。
  これまでの窮地を真那は、その超人的な操作技術で何度もくぐり抜けた。
  真璃はそれらを思いだし、自分と比べてしまう。
  自分の技術がより高ければ、もっと迅速に作戦を遂行出来ているのではないか、と彼女は考える。
  湧き起こる罪悪感。 真璃は首を何度も横に振り、それを散らす。

 「そんなこと考えている暇なんてないのに。 バカ」
 「白銀、機体の調子はどうだ?」

  発言の直後、真那が網膜に現れる。
  それがあまりに急で真璃は驚き、吐き出した空気のせいでパックがポンッ、と一回り大きくなった。

 「貴様、ここは戦場だぞ。 操縦桿以外のものは手に取るな」
 「あ、す、すみません」

  ほとんど空になったパックをコックピット内のキットへ捨てるように戻し、あらためて真那の方を見た。
  真璃は、また失敗した、と自分を責めた。

 「申し訳ありません、中佐」
 「近くに偽装抗がなくて助かったな。 今、敵の襲撃があれば、我々は全滅しているところだったぞ」

  「うっ」と痛いところを突かれ、真璃の顔が歪む。
  先刻までゆっくり飲んでいた自分が恨めしく感じる。

 「すみません」
 「そう思うならば結果で示せ。 貴様の援護がなければ前へは進めんのだからな。
 機体の損傷、武器の点検をし、問題があれば報告せよ。 以上だ」
 「了解」

  網膜から真那の画像が消える。
  フーッと一息をつき、真璃は心中で「バカ」と何度も自分を罵倒する。
  真那に期待されているとは思っていないが、それでも、今以上に足手まといに思われるのを彼女は嫌っていた。

 「あれ、でも」

  真璃はさっきの言葉を思い返す。
  『そう思うならば結果で示せ。 貴様の援護がなければ前へは進めんのだからな』
  真璃の援護がなければ、つまり真璃がいなければ、という風に読めなくもない。

 「もしかして、少し認められてる?」

  少し嬉しくなる。 ニヤッ、と笑みが浮かぶ。
  しかしすぐに、今までの戦闘で数え切れないほど真那に助けられた様が思い浮かんだ。

 「……いないよりかは、いた方がマシってレベルなんだろうな、きっと」

  ハーッと大きく溜息をつく。 そして「仕事、仕事」と、真璃は機体と兵装をチェックを始めた。

 「機体損傷……主脚に経度の歪み、問題なし。
 兵装……08式突撃砲は2丁ともに問題なし。 長刀は、あー、刃こぼれしてるな、あと一回の戦闘が限界か。
 もう一振りは問題なし。 83式榴弾砲も問題なし、っと」

  現在、武御雷は突撃砲を右腕に装備している。
  右肩部の兵装担架システムにはもう一つの突撃砲が預けられ、背面担架システムには長刀が二振り装備されている。
  左肩には突撃砲よりも大きく、重量もありそうな83式榴弾砲―――いわゆるランチャーが備えられている。
  これはS-11c弾頭というS-11の破壊力を向上させた特殊砲弾を射出する兵器だ。
  
 「これだけの重装備で、よくあんなに動けるよ」

  真璃は訓練で持たされた背嚢を思い出した。
  言ってみれば今の武御雷は、人間が背嚢を担ぎ、右肩で小銃を2丁持ち、左肩には無反動砲を持つような重量装備だ。
  しかもS-11bという、やはりS-11を改良した兵器を内装しているのだから、更に重量は増している。
  その状態で飛び跳ねたり走ったりするわけであるから、真璃は考えただけで疲れてきた。
  ―――違和感を彼女が覚えるのも理解出来る。 彼女の知る戦術機は最大で兵装担架システムは2つだが、先ほど見たように真璃達
 の武御雷は4つだ。
  これは第4世代戦術機開発計画において最も重視された運用構想が「ペイロード(積載量)の増加」であったことが理由である。
  本来であれば電磁投射砲といった超重量火器の運用も考えていたわけであるから、真璃にとって重装備に見えてもその実は、高速
 機動を可能にするために最低限の武装しかしていないのだ。

 「ま、あと少しだし。 頑張ろうね、武御雷」

  そんなことを露知らず、真璃は武御雷を労るように操縦桿をポンポン、と軽く叩いた。

 「白銀」

  また、不意に網膜に現れる真那。 さすがに今度は慌てず、真璃は報告を開始した。

 「中佐、私の機体は損傷、兵装ともに問題ありません」
 「そうか、こちらも問題はない。
 それより、見ろ」
 「え?」

  真璃達は武御雷の足を止める。
  前方は、奥が見えないほど、まだまだ続いているように思える。
  だが違った。 カメラの望遠を変えると、600m先で薄く光る壁面が縦に走っているのが分かった。
  それらの情報を基に武御雷の処理回路がマップを更新し、網膜に改めて投影する。
  ―――350m先に拡がる、最大直系250mはあろうかという巨大な円周空間。 
  真璃は一瞬でそれが何なのか理解した。 

 「メイン……シャフト!」

  真璃は再び主脚を前進させる。 
  突然走り出した真璃の武御雷にヤレヤレと呆れ顔を見せつつ、真那も先を急いだ。

 「ふわ……ぁ……!」

  その穴は、まさに“奈落”と呼ぶに相応しかった。
  大地を貫く、巨大な闇の深淵。 当然底など見えない、いやそもそも底がどうなっているのか想像すら出来ない。
  真璃が闇に染まった深淵を覗き込むと、それは無限に続いているように思え、胸と腹の間から何かゾッとするものを感じさせた。
  武御雷の中にいるにもかかわらず、真璃は出来るだけ後ろに身体をやるように、背もたれへ体重を預けた。

 「こ、こんなところを降りるんですか?」

  降りるとというより落ちるなのでは、と真璃は心中で突っ込みを入れる。

 「うむ……」

  真璃の言葉に真那は全く反応しなかった。 彼女は穴を覗きつつ、全く別のことを考えていた。
  敵の攻勢があまりにも緩いことを彼女は不審に思っているのだ。
  ハイヴ突入後、決して戦闘は楽ではないが、それでも充分対処出来る程度のものでしかない。
  幾度と無くBETAの物量に苦しめられてきた真那にとって、これまでの戦闘はかえって不自然だ。
  だが一方で、考えすぎも良くない、とも思っている。
  確かに不審な点はあれど、少なくとも反応炉破壊への最短ルートを確保出来たことは事実だ。
  真那は「それこそが肝要か」と呟き、大きく深呼吸をする。

 「では堕ちてみるか、白銀。
 案外スカイダイビングのようで楽しいかもしれんぞ」
 「へ?」

  気の抜けた返事。 真那は真璃の態度がよく理解出来なかった。

 「どうした?」
 「中佐……もしかして今の、冗談ですか?」

  『スカイダイビングのようで楽しいかもしれんぞ』
  主縦坑への降下をそのように形容したこと。 真那はそのの発言を思いだし、少し顔を赤くする。

 「貴様……」
 「あ、いや、その」

  なんと気安い人柄だ、と真那はその言葉を評価する。 ふと、白銀武もそうだったことを思い出した。
  いつも気楽に考え、将軍家の血筋たる冥夜にすら、気安く近づいた彼。 これも血筋か、と真那は溜息をついた。

 「……だがもしかすると、今の私に一番必要なものかもしれぬな」
 「え?」
 「行くぞ白銀。 馬鹿なことを考えていないで、ついてこい」
 「あ、ま、待ってください!」

  主縦坑へと入る。 深紅と濃紫の武御雷が、暗黒の深淵へと飛び込んでいく。
  徐々に徐々に速度が増し、ゴォーッという音とともに、主縦坑を駈け降りる。
  壁面を光っていた星に似た光が、そのスピード故に線状となり視界に映った。
  まるで流星群が走っているように、それは美しく見えた。
  ……真璃は、コックピット内で思わずその光へと手を伸ばした。
  何故か、その光を掴めそうな気がしたからだ。
  だが、当然掴めはしない。 大きく拡げた手を、ギュッと力強く握る。
  そして彼女は、先ほどまでのだらけていた表情から一変、再び「戦場の顔」へと引き戻した。

  どこまでも落ちていくような錯覚に囚われる、主縦坑。
  ここを降りれば、ハイヴにとって最も重要な施設である反応炉へと到達する。
  そうした理由から、反応炉は敵の守りが最も激しい場所だと容易に想像出来た。
  しかし真璃も真那も、今自分がなすべき事しか頭にはない。
  “反応炉をぶっ壊す” 彼女たちは今、それだけしか頭になかった。
  ふと、真璃は高度計を確かめる。
  -300m……-350m……-400m……-450m……
  猛烈な勢いで書き換えられていく数字。 それが、今の彼女たちがどれだけの高速で落ちているのかを如実に表している。

 「減速しろ。 83式榴弾砲、投射準備」

  真那の声と共に二機の武御雷は跳躍ユニットを噴射。 速度をゆっくりと緩めていく。
  そして左肩に装備されていた83式榴弾砲をウエポンラックから抜き出し、突撃砲と交換した。
  長刀ほどの長さがあるランチャーを未だ底など見えな真下に向け、両腕でしっかりと固定する。
  互いに「準備よし」と声をかけ、その直後、真那は大きく声をかけその闇を打ち抜いた。

 「アレクト1、フォックス1!」

  その掛け声とともにランチャーから発射されるS-11c慣性誘導砲弾。
  真璃は網膜に映るマップを見、その砲弾を表す黄色がどんどん落ちていくのを見続ける。
  できればこの一発で、と真璃は願った。 この一発で大広間への道が出来れば、反応炉は真璃の榴弾砲でケリをつけることが出来る。
  そうした祈りを込めつつ、着弾するのをじっと見つめた。

 「着弾……今!」

  真那の声とともに、奈落の底に小さな光が生まれた。
  本当に小さな光ではあったが、しかし二人には「あれが目標か」と感じられ、底の見えない闘いではないことを認識することで幾ぶんか
 気分が楽になった。
  遅れて、凄まじいまでの爆音が真璃達に届き、ビリビリと機体を揺らす。
  その激しさを予測していなかった真璃は小さく悲鳴をあげ、耳に手を当てた。

 「み、道は?」

  彼女はキーンと響く耳を押さえながらも、それでもマップを見ることはやめなかった。
  音波の跳ね返りを利用して常時更新されるマップ、まだ何も反応はない。
  ……パッとマップが切り替わった。 道は、まだ出来ていなかった。

 「やはり一発では足りん、か」
 「くっ!」

  さも当たり前のように反応する真那、一方、マップに憤慨し真璃は舌打ちした。
  
 「白銀真璃、榴弾砲を発射します!」

  マップに映る、最もダメージの大きい部分へ角度修正する。
  向けられた先は全くの闇。 しかし先ほど見た光で、先ほどまで感じていた恐れは消えていた。
  今の真璃にとって目の前にある闇は、道を邪魔する障害物程度の感じしか湧かなかった。
  そしてその邪魔者を蹴散らすため、真璃は引き金を引いた。

 「アレクト2、フォックス1!」

  榴弾砲から再び砲弾が投射された。 
  生成ガスによって高速で砲身から飛び出したそれは、一気に闇を駈け降りていく。
  100m離れた辺りでその砲弾は小さな折りたたみ式の翼を展開させ、微妙にその向きを修正しながら、真璃の狙った点へと向かう。
  ―――底が見えた。
  まだ先ほどの爆発で真っ赤に熱せられたままのハイヴ隔壁。 そこへ、キーという鋭い音と共に高速の弾丸が突っ込んでいく。
  
 「弾着、今!」

  真璃の叫び声と共に、再び光が走った。 そしてせり上がってくる爆音に真璃は顔を歪ませながら、マップの更新を待った。
  ―――今度の更新は早かった。 そのマップは、期待した通りのものだった。
  真下に存在していた隔壁へ穴が空き、大広間への道が、勝利への道が生まれたのだ。

 「や……った! やった!」
 「喜ぶのは早いぞ。 これからが本番だ」

  喜ぶ真璃を他所に、真那は冷静に事を考える。
  
 「はい、分かっています!」

  その言葉に満面の笑みで返す真璃。 それを見、「分かっていないだろう」と呆れた顔で真那は返す。

 「榴弾砲はここで投棄。 左肩部のウエポンラックもパージしておけ。
 ……これより我々は、大広間へ侵入する」





  ―――真璃と真那は、跳躍ユニットによってスピードを調整し、無事に大広間へと着地した。
  そこはこれまでのような暗黒の世界ではなく、薄く青白い光で包まれていた。
  壁一面がこれまで以上に輝き、武御雷が踏みしめた地面も光を発している。
  そして最も大きな光源である巨大な何かが、大広間のちょうど中央に位置するのが見えた。
  そう、これこそが人類の憤怒と憎悪の対象であるハイヴにおいて、今まで大勢の英霊達が臨み、たどり着くことすら出来なかったハイヴ
 攻略の最重要目標―――反応炉が、彼女たちの前に姿を現わした。

 「これが、反応炉……」
 「そうだ。 ハイヴにおいて最も重要なBETAの建造物、それがこの反応炉、だ」

  ふと、真璃は真那の言葉が震えているのに気が付いた。
  これまでずっと冷静に事を運んでいた真那である。 その声の調子が変わったことを気づくのは容易かった。
  真璃の網膜に映る真那は何も変わらないように見える、いや、今まで以上に冷静でいるように見えた。
  それが逆に、彼女にとって不自然に思えた。

 「中佐」
 「ん……どうした、白銀」

  真璃は彼女へ言葉をかけようとしたが、その直後、躊躇した。
  そして思う。 真那は自分以上に闘ってきた、それなのに何を言えるというのだろう、と。

 「……いえ、何でもありません」
 「そうか。 では進もう」

  会話を終え、反応炉へと歩を進める。
  大広間はただ静寂をたゆたえ、反応炉はただ不気味に輝き続けている。
  進んでいる途中、戦車級が10体程度現れたが36mmの露に消えた。
  真璃と真那はその静寂さとBETAの不存在に、「罠か?」と考えが浮かんだ。
  それゆえ、彼女たちは前方と後方へ慎重に注意を払いながら、前進を続けた。

 「……静かですね」
 「うむ……」

  二機とも両腕に突撃砲を装備し、どこからでも対処が可能なようにしつつ進む。
  ふと、真璃の網膜に映るマップへBETAの反応を示す赤点が現れた、が、すぐに途絶えた。 そこへカメラを向けるが、何も見えない。
  レーダーのミスか、と彼女は考えた。
  ―――またレーダーにBETAを表す点が現れる。 今度は12もの反応、しかしそれもすぐに消えた。

 「「!?」」

  真璃と真那は動きを止め、周囲への警戒を強める。
  ズズン、と地面が小刻みに揺れた。 それが一度ならずも、幾度として繰り返される。
  また、辺りからカンカンという金属音と、クチャクチャという肉片を揉んだような不気味な音が連続して周囲の暗闇から聞こえてきた。

 「こ、これは?」
 「…………!!」

  繰り返される不可解音に振り回され、右往左往する真璃の武御雷。
  一方、真那は動かなかった。 そして音のした瞬間、その発生源へ突撃砲を向け、備え付けられたライトで照らす。

 「なっ!?」

  それは異様な光景だった。
  戦車級の身体が半分、完全に潰れ、床に張り付いている。 そして残った足で床を打ち、起き上がろうとしている。
  ライトは別方向にも向けられた。 そこにはバラバラになった突撃級の死骸、または完全に潰れてしまい、床にタペストリーのようにくっつい
 た小型種も多数いた。 
  真那は武御雷・腰部に付けられているウエポンベイから機体の手ほどあるロケットを出し、突撃砲の先端へ取り付けた。
  そして真上へ向け、それを発射した。
  3秒ほどし、それはパッと強い光を発し、辺りを照らした。 照明弾だ。

 「な、なん!?」

  照らされた真璃達の周囲は、地獄絵図だった。
  モース硬度15以上の強固な突撃級の装甲殻がバラバラになり、柔らかい部分はグシャグシャに潰れている。
  要撃級は下半身が潰れてしまったのか床にめり込んだのか分からないが、上半身だけで腕を部分と振り回している。
  数体どころの話ではない、何十体もそのような様で蠢いているのだ。
  もちろん、これは戦闘によって傷つけられたBETAではない。
  だから真璃と真那は、これらBETAがどこから来たのか、どうしてこうなっているのか、よく分からないでいた。

 「……は」

  また、小さな揺れとともにグシャッという音が聞こえる。
  真璃と真那は、今度は音のした方ではなく、自分たちの真上へ顔を向けた。
  ―――そこには、照明弾に照らされ、続々と『墜ちて』くるBETA。
  墜ちてくるスピードがあまりにも高速なため、床にたどり着いた瞬間にバラバラになってしまう。

 「「!?」」

  真璃と真那はその場から離れる。 直後、要撃級がズズン、と真璃達のいた場所へ墜ちた。
  その要撃級は頭から床にたたきつけられたため、ピクリとも動かない。

 「こ、こんなことって…………!?」

  真璃が状況を整理する間もなく、ヘッドセットから新たな警告音が響いた。
  マップに映る音紋は、大広間へ近づく敵大部隊の接近を警告していた。

 「あ、あぁ、あ」

  ごごご、という地響きと、大地を揺らす振動。 真璃は初めての体験に、迷子になった幼児のように頭を振るしかなかった。
  一方、真那は静かに反応炉を見据え、BETAの襲来を告げる地震すら全く意に介しない。
  深紅に染まった武御雷のカメラアイも、自分の目標にしか向けられていない。 まるで石像のように、その場に立ち続けている。
  ―――そして一際大きい警告音が、鳴った。

 「!?」

  大広間に繋がっている孔という孔から大量のBETAが現れた。
  それはまるで、邪魔者を排除するために大量の蟻が大型動物へ襲いかかるのと似ている。
  だが蟻と違い、あまりにも桁が違いすぎる。
  網膜に映るマップは反応炉を中心に、主縦坑から降りてくるBETAの赤、真璃たち武御雷の青、そしてそれらを囲む赤い塊しか映していない。
  主縦坑を通じ降りてくるものも更に増えていき、無数のBETAが二機の武御雷と反応炉へ向かって迫ってきていた。
  周囲から押し寄せ、また、上から降ってくるBETAの数に真璃は混乱した。

 「ど、どうすれば、どうするんですか中佐!?」
 「…………」

  真那は答えを返さない。 その様子が真璃の不安を加速させる。

 「中佐ぁ!」
 「……ふふふ」
 「え?」

  真璃は耳と目を疑った。 彼女の網膜に映る真那は、笑っていた。
  笑みを浮かべ、今にも大口を開けて笑い出しそうなそんな表情。 真璃はそれにゾッとした。

 「ふふ……はは、は、ははははは!!」
 「ちゅ、中佐」

  遂に大口を開け、天を仰いで真那が笑い出す。
  今までの冷静な真那のイメージが覆され、気でも狂ったのか、と真璃は思った。

 「ははは、見ろ、白銀! 奴ら『慌てている』ぞ!」
 「え?」

  真那の武御雷は降ってくるBETAへ突撃砲を向けた。
  次々に墜ちてくるBETAが、彼女にはとても可笑しかったのだ。

 「なんと滑稽な様だ!
 あの侵略者共が……60億もの人間を殺し、祖国を滅ぼし、地球を蹂躙した……あのBETA共が、たった二人の人間にここまで
 追いつめられるとはなぁ!」
 「!?」

  その狂喜する姿に、真璃は地球の歴史を思い出した。
  日本が滅び、アメリカが滅び、世界が蹂躙されつくされた世界の歴史。
  真那はその歴史の、まさに最前線で闘った人間なのだ。
  そんな彼女にとって今の状況は、「BETAを追いつめた」ことに他ならない。
  真璃にはその喜びがどれほどのものかは分からない、しかし推測することは出来る。
  今、真那は心の底から歓喜している、それは充分理解出来た。

 「ははははは……はは……は……」

  真那の声が消える。 表情も段々と穏やかなものになっていき、今彼女は、とても静かに笑みをたたえていた。

 「白銀。 この闘い、勝つぞ……!!」
 「はい!」

  今まで以上に真那の言葉には『何か』が込められていた。
  熱く、全く淀みなく発せられたその言葉は、気づかぬ内に真璃の不安をも除いていた。
  そして、二機は反応炉へと進んだ。
 
 「上から降下するやつらに気をつけよ!
 前方の敵は既に死に体だ、相手にはせず反応炉へ取り付け!」

  真那の言うとおり、反応炉の周辺にいるBETAは上から墜ちたものばかりで、既に半死半生の状態であった。

 「奴らに見せつけてやれ、人類が未だに健在であることを!
 この星が奴らのものではないということを、思い知らせよ!!」
 「了解!」

  匍匐飛行にて一気に前進する。
  目の前に墜ちてくるBETAは躱し、邪魔になるBETAは36mmで排除しつつ進む。
  周囲の孔から出現したBETAは未だ真璃達に間に合っていない。
  『このまま行けば!』、と不意に思い浮かぶ。
  しかし真璃の期待通りには中々いかない。
  死に体ながらも、多数の要撃級と突撃級が二機の前に壁のように立ち塞がってくる。
  真璃達は匍匐飛行をやめざるを得ず、主脚で前進しつつ突撃砲で牽制した。

 「邪魔っ!」

  発砲し、BETAの壁を一部なぎ倒してもまた新たな壁が出来ることに、真璃は苛々した。
  周りのBETAも徐々に追い上げてくる。 この状況が更に彼女たちの焦燥感を強めていく。

 「……全機、着剣!」

  真那は号令をかけた。 進みつつ相手を倒すならば、懐に入るのが最も良い。
  武御雷は長刀を右腕に装備し、壁となっているBETA群を睨み付ける。
  そして二機は、同時に吶喊していった。

 「はああぁ!」
 「やああ!」

  一太刀の下にBETAが斬り伏せられていく。
  そうして出来た穴に武御雷は侵入し、また敵を斬り倒しつつ先へ進んだ。
  自分から敵に囲まれるという、一見無謀な戦法。 だが、真璃と真那は確かにそれをやり遂げている。
  それは、彼女たちが確かな信頼で結ばれている故だ。
  前方の敵を真那が斬って捨て、その背を真璃が守っている。
  BETAはその二人の連携を破ることが出来ていない。

 「中佐、もっと進行速度を上げてください!
 私は大丈夫です」

  真那の進行が遅れているのに気づき、近づく戦車級を突撃砲の銃剣で貫きつつ、そう促した。

 「一端の口をきくようになったものだな。 ならば、出遅れるなよ」
 「はい!」

  真那は突撃砲で相手を牽制し、フッと小さく息を吐くと要撃級の集団へと突っ込んだ。
  深紅の武御雷が要撃級の前に立ったと思うと、既にそのとき敵は斬り払われており、体液を垂れ流しながら次々と倒れていく。

 「すごい……!」

  真璃はそれに精一杯ついていく。 徐々に反応炉へと近づき、BETAの壁から巨大な頭頂部分が目に入った。

 「あと少し!」

  ふと、再び辺りが揺れ始めた。
  だが真璃達はそれを無視し、更に進んでいく。
  今さら増援が来ても間に合わない、と分かっているのだ。

 「「……!?」」

  不意に、まるで床が真下から突き上げられたような振動に襲われた。
  スウェイキャンセラーをオンにし、振動をある程度無視出来る設定にしてあるにもかかわらず、武御雷は動けずその場で転倒しないよう
 姿勢を保つので精一杯だった。

 「な、何なんですか?」
 「…………!?」

  真璃達は周囲を見渡した。 BETAもこちらに向かって来ず、その場でじっと待機しているのが見える。
  だがその様を、真那は別の意味で捉えた。

 「『真璃』、退がれ!」
 「え? で、でも」
 「退がれと言っている!」

  真那は真璃の武御雷の背中を強く押す。
  そして真璃は、噴射跳躍でその場を離れようとした。
  ―――しかし一瞬早く、彼女たちのいる地面が、真璃の武御雷ごと大きく盛り上がった。

 「うあああ!」
 「ぬう!」

  真璃は途中になっていた跳躍を行う。
  盛り上がった地面を半分転がり落ちるような形で、元の平坦な床へと降り立った。
  そして盛り上がった大地へと目をやると、そこにはとドクンドクンと脈打つ生物らしき肉付きが見えた。

 「まさか、BETA!?」

  真璃は目を疑った。 網膜に映ったマップには、今盛り上がった大地の直径は170m近くある。
  そんな巨大なBETAを彼女は知らないし、見たこともない。
  しかし、嫌でもそれを信じるしかないようだ。
  未確認の大型BETAはゆっくりと盛り上がった部分の口を開き、そこから大量のBETAを吐き出していく。
  後方から迫る敵と今吐き出された敵とにこのままでは挟撃される、という不安が真璃に生まれた。

 「はっ。 つ、月詠中佐!?」

  その不安ゆえにか、真璃は真那のことを思い出す。
  マップによれば、ちょうど新種BETAをはさんで向こう側にいるのが分かった。

 「中佐! 中佐!?」

  必死に通信で呼びかける。 まさか今の奇襲でやられたのでは、という一抹の不安を打ち消すために。

 「……そう大声で言わなくとも、聞こえている」

  ヘッドセットから真那の声が聞こえてきた。
  その声に、真璃は歓喜した。

 「中佐、ご無事だったんですね!」
 「当然だ。 それよりも白銀、機体損傷を報せよ」
 「はっ、問題ありません! 今、そちらへ向かいます」
 「そうか……ならば、貴様に新たな命令を出そう」

  新たな命令?、と真璃は疑問に思う。

 「主縦坑を通り脱出しろ。 反応炉は私が、潰す」
 「!?」

  真那の言葉が一瞬、真璃には理解出来なかった。
  自分だけに撤退命令とは、どういう意味か分からなかった。

 「中佐、それはどういう……!?」

  そして、真璃は気づいた。
  真那の姿は見えないが、機体間でやり取りしている情報で、彼女の武御雷は少なくとも左腕と左跳躍ユニットを大破していることが分かった。
  特に跳躍ユニットはもはや使用出来ないほどの損傷具合を示している。

 「中佐、まさか」
 「…………」

  真璃の脳裏に、先ほどの光景が浮かび上がる。
  自分に退がれと命じ、反応しないゆえに背中を押した。
  その直後に地面が盛り上がる……真那の武御雷が損傷したのは、このときだった。

 「まさ、か……まさか私のせいで」
 「私のミスだ」

  真璃の言葉を遮り、自分の非をはっきりと口にする。

 「周囲への警戒を怠っていた、私のミスだ。
 それ以上でも以下でもない」

  ……真那の武御雷は、真璃が思っている以上に深刻だった。
  機体の左側はほぼ完全に損壊し、腕と肩、跳躍ユニットは既にない。
  主脚は何とか動くが、それもいつまで保つか分からない。

 「で、でも、でも……」

  真璃は恐怖していた。 それは、自分のせいでこうなった、という現実への恐れだ。
  そして様々な記憶が海馬の奥から蘇りかけていた。 タケルやまりもへの悔恨が、また。

 「白銀、人間は万能ではない。 誤ることは仕方のないことだ。
 貴様はよくやっている、自信を持て」

  真那は武御雷を反応炉へと向けた。
  主縦坑を降下したBETAが、大量に反応炉を守っている様が見えた。
  深紅の武御雷はそれに全く臆せず、背を正中に立て堂々と進む。

 「この損傷では、脱出は出来まい……だが貴様は問題ない。
 後は私に任せろ」
 「そんな! 中佐、待っていてください。 今私も!」

  真璃の武御雷は未確認BETAを回り込むように進もうとする。
  が、それが吐き出したBETAに邪魔をされ、思うように進めない。

 「ならん! S-11の爆発に巻き込まれるぞ……貴様は、退け」
 「私の武御雷に移れば、二人で脱出出来ます!
 だから、待って、待ってください!」

  悲鳴にも似た真璃の懇願。 しかし真那は意に介せず、更に進んでいく。
  それは真璃にも分かっていた。 マップに映る真那の青マーカーが、少しずつ少しずつだが、反応炉へと近づいている。

 「白銀……人は、生まれを選ぶことは出来ぬ。 だが、死に様を選ぶことは出来るのだ」
 
  ふと、真那の脳裏に昔のことが浮かんだ。
  営巣に入れられ、何か申し訳なさそうにこちらを見ている男性の記憶。 彼にも同じ事を言ったな、と思い出した。
  二代続けて同じ言葉を吐くことになるとは、と真那は半ば呆れ気味に、そして何故か嬉しくなって、微笑んだ。

 「死に様とは、人の生き様の際だ。 すなわち人生そのものに他ならない。
 ならば、最後は私に選ばせてくれ」
 「…………」

  真那の周りへ集まる要撃級達。 それを斬り払う。
  左腕と肩が無いためか、斬り払った後に重心がずれ、あやうく転倒しかけた。
  それを見計らったように向かってくるBETA。 真那は右肩部スラスターを点火させ、その場で旋回を行う。
  残った右跳躍ユニットが迫るBETAに直撃し、ユニットとBETAがともにバラバラとなった。
  そして改めて反応炉へとむき直し、更に進んだ。

  ―――敵を斬り伏せながら真那は、昔のことを思い出していた。
  自分の憧れだった父と兄の背中。 彼らを見送る、自分と母。
  それが苦痛だったことを彼女は覚えている。 待ち続けるのが嫌だった。 
  大好きな人が帰ってくるのか来ないのか……毎日、それが怖くて怖くて仕方がなかったのだ。
  訓練校に入り、その恐怖から逃れるため、彼女は必死に訓練を行った。
  一刻も早く父や兄と同じ前線へ……それが彼女が持った初めての戦う理由。

  そんなある日、真那は一人の少女と出会う。
  10歳になったばかりであるのにその瞳には、高貴な宿命と高潔さがたたえられていた。
  その姿に真那は衝撃を受ける。 そして、この御方こそ斯衛となる自分が守らねばならない人だ、と初めて実感した。
  少女の名は御剣冥夜。 その出自ゆえに各名家をたらい回しにされ、幼くも心休まるときが無かったそんな時代。
  真那は心を砕き、冥夜に武人としての心構えと誇りを教えた。

 「ふふ……」
  
  懐かしい思い出に浸りながら、目の前に現れるBETAへ長刀を振り下ろす。
  刃こぼれが激しい長刀は、もはや切断能力を有してはおらず、BETAを殴るようにしか使えなかった。
  しかしこうして長刀を使い、相手を叩き伏せる場景が、かつて冥夜と竹刀で鍛錬した記憶を思い起こしていく。
  少しずつ少しずつ、武術の腕を達者にしていく冥夜。 ときに、真那を超えることすらあった。
  真那を凌ぐ回数が増えていくごとに背も伸びていき、身も心も美しく育った彼女は心から誇りに思えた。
  そんな彼女が横浜基地に訓練生として入隊すると決まったとき、真那の心は千々に乱れた。
  また冥夜をたらい回しにするのか、利用するのか、と軍上層部が腹立たしかった。 自分の側から彼女が離れていくのが、とても心苦しかった。
  それを察してくれたのかは分からないが、独立警護小隊として冥夜の側へ行けることが分かったとき、真那はどれだけ嬉しかったか。

 「中佐!」

  ふと、真璃の声が聞こえる。
  そして回想は、真那と冥夜が最後に会った記憶へと移っていく。
  ―――駆逐艦が飛び立つ前、横浜基地へと続くあの桜並木の下で真那は彼女から、愛する男の証を身に宿していることを聞かされた。
  驚きと喜びが同時に生れた。 冥夜が妊娠したことへの驚きと、彼女が更に成長したことへの喜び。
  何より、そのことを話すときの冥夜が本当に幸せそうで、真那も自分の事のように嬉しかった。
  そして冥夜は自分の子へ与えようとする名を告げる。 男の子なら「マモル」、女の子なら「マモリ」、と。
  名の意味とその深さから真那が冥夜を賛じていると、不意にあることを頼まれた。 「彼らの名に字をあてて欲しい」、と。
  突然のことに真那は驚く。 その後じっくりと考え、冥夜に「真瑠」と「真璃」という字を伝えた。
  「真瑠」とは、真の王として時代や情勢に流されず、しっかりと留まる様を表す。
  そして「真璃」とは……どんなに距離があろうと、どんなに時間が流れ離ればなれになろうと、常に繋がっているという意味を持っている。
  そのことが伝えられたとき、冥夜は嬉しそうに「良い名だ」と受け入れた。
  しかしこの時、真那は冥夜に伝えていないことがあった。 
  それは彼女の我が儘、冥夜の子に自分の想いも伝えたいという願望ゆえの所行だったから。
  真那は笑みを浮かべ、小さく呟いた。

 「……知っているか、白銀」
 「えっ」
 「貴様の真璃の“真”は……私の真那の“真”と……同じ、字なのだ」

  それを伝えた瞬間、要撃級の腕が長刀をへし折り、真那の武御雷を強く打った。

 「ぐああぁ!」
 「中佐ぁ! くそぉ、どけ、退けよ!!」

  真璃の武御雷は36mmを発砲、敵を牽制し、噴射跳躍を行おうとする。
  しかし今なお主縦坑から降ってくるBETAが邪魔をし、それを躱すため跳躍を中止し移動せねばならなくなる。

 「ちくしょう! ちくしょう!」

  真璃の眼に涙がたまる。 すぐそこに真那がいる、そのはずなのに近づけない。
  それがとても歯がゆかった。

 「くぅ……・もう、良いと言ったろう、白銀」
 「でも…………でも!」
 「私は悔いなど無い……それにここは、日本だ。
 侵略され蹂躙され、何の痕跡もないが……私の、愛する故郷なのだ。
 多くの戦友が異国の地で眠ったことを考えれば、何の悔いが残ろうか」

  先ほどの衝撃によって頭を打ち付けたのか、真那の額から血が流れている。
  真那の武御雷は短刀を装備し、足に取り付く戦車級を除きながら、少しずつ前へと進んでいく。 

  「でも……嫌……嫌だ!
 私はもう誰も死なせたくない、死ぬところなんて見たくない!
 だからお願いです、どうか、どうか」

  進めば進むほど、真璃の前に要撃級や戦車級の群れが立ちはだかる。
  真璃は目の前の敵が憎らしくて仕方がなかった、自分の力不足が情けなくて仕方がなかった。

 「私は言ったぞ、白銀。 貴様の行く道は険しいものだ、と。
 大佐のような犠牲が、貴様の前に累々と築かれていくこともある、と。
 今がそのときだ。 
 私は信じている。 貴様は乗り越えられる、大佐達の想いを受け継いだ、貴様ならば」

  真那の網膜一杯に反応炉が拡がる。 まるで手を伸ばせば、届きそうなほど、近く。

 「だから私に、悔いはない。
 だが…………」

  真那は口を噤んだ。 
  彼女の頭に浮かぶのは、未だニライカナイで生きる大勢の人々だ。
  希望など持てず、ただ惰性的に生きている彼らの行く先だけが気にかかっていた。
  「彼らを頼む」、と真那は託したい。 彼女に託してしまいたい。
  しかし、かつてまりもから言われた言葉が頭をかすめ、それを言うのが憚られた。

  『貴女は、白銀を御剣と重ねてしまっている。 今のあの娘にとって、それは毒でしかないわ』
  『私はあの娘にそんな絶望を背負わせたくない。 ましてや将軍として、あるはずのない希望まで演出されたら・・・・・・
 それは、地獄よりも辛いことだわ』
  『考えるわ。 だってあの娘、御剣にそっくりだもの。 貴女もさっき言ったわよね、一目で御剣の娘だと分かった、って』

  まりもの言うとおりだ、と思った。 自分が何を思い、考えているのか、まりもはよく理解していた、と。
  真璃に那雪斑鳩を渡したとき、旭を浴びて武御雷が立ったとき、彼女が決意と覚悟を手に入れたと確信したとき、何度真那は夢想しただろう。
  将軍として立つ冥夜の娘。 彼女を筆頭に侵略者共へ再び対峙する自分たち。
  その情景を、何度想像しただろう。

 「!?」

  そのとき、戦車級に左主脚が噛みちぎられ、真那の武御雷は転倒した。
  そこは、反応炉まで後50mも離れていなかった。
 
 「中佐!?」

  未だ、真璃から真那の武御雷は見えない。
  しかし主脚の損傷を報せる情報が入り、異常に気づく。
  そしてマップでは、真那のマーカーへ敵集団が更に群がる様子が目に入った。

 「逃げて! 逃げてくだ……!?」

  不意に網膜へ浮かぶ『自決装置起動中』の文字、そして退避を命じる警告音。
  真那がS-11を起動させたのだと、真璃は瞬時に理解した。

 「ぅ……く……」

  負傷したのか、声がとても弱々しい。

 「中佐、中佐ぁ!」
 「……しろ……がね……」

  必死に真那の名を何度も呼びかける。 
  真璃の声を聞きながら真那は、冥夜と重なる真璃の笑顔を思い出していた。
  重なる笑顔に彼女は安堵し、小さく笑みを浮かべる。 だが、すぐに口元を引き結び、その笑みを消した。
  真璃に冥夜を求めるのは自分であってはならない、と心の中で思う。

  『出自は関係ない。 自分が何を望むのか、どう生きたいかこそが肝要だ。』

  自分が、宇宙で真璃へ言った言葉。 そう、自分の道は自分で行くべきだと真那は信じている。
  そして、重なった笑顔を思い浮かべたまま、真那は言葉を紡いだ。

 「白銀……貴様は母親とは、違う……!」
 「え?」

  言葉を発した瞬間、真那の中で完全に…………真璃と冥夜が、別れた。

 「―――自分を通せ! 貴様が為すべきこと、為さねばならぬこと、為したいこと、全て最後まで貫いてみせろ!
 どこまでも、生きて! 生きて果たせ、白銀真璃!!」
 「おおおおおおおおおお!!」

  怒号とともに真っ直ぐに振り上げられる真那の右腕。 そのまま一瞬の躊躇いもなく、力強く下ろされる。
  それは彼女がこれまで生きた道、そのものに見えた。
  そしてその下ろされた腕がSDSと書かれた文字盤を叩いたとき、
  彼女の最後の輝きが、大広間全体に拡がった。

 「月詠中佐あああぁぁぁ!!」
  
  真璃は大型未確認種を盾にし、その場に伏せる。
  未確認BETAの背にいられない周りのBETAは爆風に吹き飛ばされ、また、高速で飛ぶ突撃級の装甲殻に貫かれたりしていく。

 「くううぅぅ!」

  爆音が鳴り響き、地面が大きく揺れ何も出来ない。
  そして光がいっそう輝き、世界が真っ白になった。
  
  ―――真璃は、ゆっくりと目を開ける。
 「…………」

  揺れもなく、大広間は静寂に包まれている。
  さっきの爆発が嘘のように沈黙が続くが、体液に濡れた周りの惨状を見、さっきの爆発が真実だったことを真璃に知らせる。
  真璃は武御雷を進ませ、大型未確認種を抜ける。
  そこから、反応炉へと視線をやった。
  反応炉はキラキラと輝くスモッグに覆われていた。 爆発の衝撃で、周りの隔壁が塵状に粉砕されたのだろう。
  目を下にやると、爆発があっただろう中心点を見つけた。 そこから爆発が拡がったのだろう、反応炉が大きく抉られているのが見える。
  ……だが、その視界のどこにも、
  真那と、彼女の武御雷の姿は無かった。

 「!!…………う、うう」

  真璃は天を仰ぎ、涙を流した。
  泣いてはいけない、と思いつつも頬を伝うそれを止められない。
  真那の記憶が彼女の中で湧き上がり、それが再び涙を生んでいく。
  ―――自分を暴漢から救ってくれたこと、優しく抱き寄せてくれたこと、覚悟することを教えたこと、『戦友』として認めてくれたこと、
  励まし、助けてくれたこと。
  それらが思い出されるたびに、真璃は涙を流す。 そして静かに、嗚咽する声を漏らした。

 「うぅ……月詠中佐……」

  ―――そのとき、不思議な音が聞こえた。
  声のような、歌のような感じの音だが、良く分からない。
  その音は遠くなったり近くなったりと、一定していない。
  真璃は辺りを見渡した。
  だが、周囲は完全に静寂に包まれている。 動くものはない。
  先ほどの爆音で耳を傷めたか、と真璃は思った。
  
 「……帰ろう」

  真璃は最後に、もう一度真那のいた方へと目をやった。
  何も見えない、しかし確かにそこにいたことを、真璃は覚えている。

 「ありがとうございました、中佐。 私絶対に、あなたを忘れません」

  そう言葉をかけた瞬間、ヘッドセットから警告音が鳴り響いた。

 「な、何!?」

  周囲のBETAが再び移動を始め、反応炉の周りへと集まっていく。
  更に新たなBETAが、周囲の孔から姿を現わした。
  反応炉の方を見ると、先ほどまで黒く染まっていた反応炉に光が戻っていき、再び青白い光をもって薄く輝きだした。

 「な……なん、で……」

  真璃は口を開き、呆然としている。 当然だ。
  命を懸けた真那のS-11が、効果無かったのである。
  彼女は信じられないでいるのだ、今の光景が、真那が失敗したことが。

 「なんで……なんでだ……」

  操縦桿を握る手が不意に強くなる。 口を閉じ、奥歯を強く噛みしめる。
  真璃は目を瞑り、泣き出しそうな表情を一瞬浮かべた。
  だが即座にその顔は消え去り、怒りで満たした。

 「なんでだあああ――っ!!」

  反応炉を囲む敵陣へ接近しながら、36mmを発砲する。
  戦車級と要撃級が己の体液を吐き出し、次々に倒れていく。
  その後ろから要塞級の巨躯が見えた。

 「うおおおおぉぉぉ!!」

  瞬時にウエポンラックから長刀を装備し、真璃は跳躍した。
  ゆっくりと頭を上げる要塞級。 そこへ、長刀が振り下ろされた。
  真っ直ぐ縦に切り裂いていく途中で、長刀が真っ二つに折れた。
  だが真璃は意に介せず、その長刀を放棄。 要塞級の腹へ120mmを発砲した。
  爆発とともに要塞級が横へ崩れていく。 真璃は一度退がり、相手が倒れると前へ進んだ。

 「お前達が! お前達がいなければ!」

  真璃の脳裏に様々な映像がフラッシュバックしていく。
  バーナード星系へ逃げざるを得なかった夕呼と霞。
  そして病に倒れ、苦悶に満ちた表情を浮かべながら亡くなった母……冥夜。

 「誰も苦しまなくてすんだんだ、誰も死なずにすんだんだ!」

  冥夜の遺品にあった集合写真……そこに映る母の戦友達。
  
 「あんな非道いことも起こらなかったんだ!」

  自分を貪ろうと迫ってくる男達。
  音を立て落ちた、タケルの腕。
  真っ赤な鮮血に染まったまりも。
  輝きとともに散った真那。

 「なんでお前達は私からみんな奪っていくんだ!
 なんで殺すんだ!!」

  弾倉を交換し、更に発砲し続ける。
  BETA達は近寄ることも出来ず、ただ倒れていく。

 「返せ! タケル君とまりもちゃんを返せ! 中佐を返せ!
 母様と父様を、返せ―――っ!!」

  叫びを終え、発砲も終わる。
  息が荒くなり、肩が上下する。

 「はあ、はあ、はあ」

  呼吸が荒く、酸素が頭に充分いかないのか、真璃の意識が少し朦朧としている。
  そこへヘッドセットから警告音がなり、彼女はそちらへ突撃砲を発砲した。
  ごく近くまで迫った要撃級は身体を撃ち抜かれ、そのまま倒れ込んだ。

 「はあ、はあ、はあ……あ、れ?」

  真璃は自分の網膜に映るマップを見、不審に思った。
  先ほどまで敵を示す赤マーカーは疎らにしか見えなかったのに、今は画面一杯に見える。
  反応炉の周囲に分厚いBETAの壁が出来ており、そこから真璃に向かってBETA群が迫っているのだ。
  画面一杯に染まる赤いマーカー。 ほんの一点だけ見える青いマーカー。
  ―――そして真璃は気づいた。
  今ここには自分だけしかいないのだ、ということに。

 「―――っ!」

  心臓が大きく跳ね上がったのが分かった。
  呼吸が更に乱れ、意識が朦朧としていく。 目の前が揺れだし、吐き気を催す。
  真璃は今、自分が何のためにここにいるのか、完全に失念していた。

 「うあ、あ……!」

  前方からBETAが迫り、警告が響く。
  真璃は武御雷を後ろへと退かせた。 だが、今度は後ろに対し警告が鳴った。

 「ひぃ!」

  そちらへ発砲する。 数体の戦車級と要撃級が倒れるが、その背には更に多くのBETAが見える。
  真璃の中に不安と恐怖が溢れた。 そして“孤独”が、それら負の感情を更に強めていく。

 「だ、誰か! 誰か助けて!」

  空虚に向かって声を上げる。 しかし何の反応もなく、ただ警告が響くだけ。

 「月詠中佐、中佐、中佐ぁ!!」

  先ほどまで自分を救ってくれた人間を思い浮かべ、都合の良い展開を自分の中で想起し、彼女の助けがくることを願う。
  しかし当然ながら、死人が助けに来ることはない。

 「いや、だ、誰か助けて…………まりもちゃん、助けて。
 夕呼先生、霞お姉ちゃん、どこ、どこなの」

  もはや彼女の思考は完全に混乱してしまっている。
  彼女は今、自分をこれまで守ってくれた存在を全て頭に浮かべ、その名を呼ぶしかなかった。
  誰も助けになどこない、この大広間で。
  ―――真璃がそうしているうちに、BETAが更に迫り、警告音が一際大きく鳴り響いた。

 「ひっ……お、お願い、ゆるして、ゆるして」

  操縦桿を放し、真璃は霞のマフラーを力一杯に握る。
  そしてあの醜悪なBETAに憐れみを乞う言葉を発し続けた。
  だが、BETAはこれまでと全く同じことを繰り返す。
  BETAには慈悲もなく、許容もない。 彼らはただ、自分たち以外の存在を消し去るだけだ。
  彼らは真璃の言葉に全く耳を傾けず、更に接近した。
  
 「い、いや、いやあ! 母様、母様あああ!」

  どんどん視界に拡がっていく醜い化け物達。 真璃はもう、気が狂ったように助けを呼び、泣くしかなかった。
  ―――もう一度、警告音が響いた。
  そして今、化け物達の手指が、真璃の武御雷へと触れた。

 「ひいいいいぃぃぃい!!」

  高速で迫った突撃級が、武御雷と激突する。
  大きく飛ばされた武御雷は何度か地面を跳ね、仰向けになって倒れた。
  その横を、離れた突撃砲が二転三転し、要撃級へ当たって止まる。
  戦車級は突撃砲へと殺到し、その剥き出しになった歯で貪り始めた。

 「…………ぅ……ぁ……」
 
  中の真璃は意識を失っていた。
  頭部を強打したのか、シートの上部分を血が流れている。
  また、衝撃でコックピット内に生じた小さな破片が真璃の強化装備を貫き、至る所から血が滲んでもいた。
  一方、外では武御雷にも戦車級が群がり、装甲へ歯を突き立て始めた。
  濃紫の鎧はいとも容易く剥ぎ取られ、戦車級の腹の中へと収まっていく。
  他のBETAも武御雷に迫り、その命を、完全に断たんとしていた。



  ―――そのはずだった。
  し…ん、とBETAの動きが完全にとまった。
  貪るように武御雷を喰らっていた戦車級、他の大型種や小型種も、みんな動きを止めた。
  先ほどまでうるさいほど音が響いていた大広間が、一瞬で静寂に包まれる。
  そしてその場にいるBETAは、武御雷から向きを変え、ある一点へと意識を向けた。
  反応炉、いや、更に後方へ。
  そこにあるのは、『柱』だった。 反応炉と同じで青白く不気味に輝いており、数え切れないほど多く立っている。
  不気味に輝く柱をよく見ると、中には『人間』がいた。 
  正確には人間の一部、人の意識を構成する『脳髄』が、柱に閉じこめられている。
  BETA達はそれを見ていた。
  その中でも特に、二本の柱へ意識が集中して向けられている。
  BETAが見ている二本の柱は、他の柱に比べ、近づいて存在している。
  二度と離れたくない、離したくないと自己主張するかのごとく、
  それらはまるで夫婦樹のように、近く固く寄り添っていた……………… 








[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第四節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/02/10 22:47



  ―――ん。
  ここ、どこだろう……真っ暗で何も見えないや。
  なんか、あったかいな……お風呂の中にいるみたい……気持ちいい。
  私、さっきまで何してたんだっけ………………そうだ、確か戦術機に乗って……すっごく悲しいことが……
  まあ、いいか。 どうでも……それにしても、気持ちいい……
  静かで、暖かくて、とっても安心出来る……それに、懐かしい……
  母様の匂い、そっか、これ母様だ……ああ、嬉しいな、母様の匂いなんて忘れたと思っていたのに、こんなに感じられるなんて……
  嬉しいなぁ……優しいなぁ……
  瞼が重い……きっとこのまま眠れたら、幸せだろうなぁ。
  寝ちゃおうかな、もう全部忘れて、ゆっくりさ……いいよね……
  なんか疲れちゃったし……

 『―――っ!』

  ……ん……何だろう、うるさいな。
  声が聞こえる、なんだろう? エコーがかかったみたいで、よく分かんない。
  それより、何? 音が周りの水を震わせて、肌がこそばゆいよ。
  せっかく気持ちよく眠れそうなのに……邪魔しないでよ……

 『―――っ! ―――っ!!』

  ……もう、本当にうっとおしいよ。
  お休みの邪魔しないでよ……って、あれ?
  腕が、動かないや。 とても重い……足も? ううん、身体全部が動かないんだ。
  何だろう……ああもう、どうでもいいのに、また声がする。
  いいよ、もう。 起きればいいんでしょ、起きれば……本当に、面倒くさいな……




  
 「―――っ! 大丈夫!?」

  私が目を開けると、九九式衛士強化装備を着たおさげの女性が、私に向けてしきりに声をかけていた。
  どこかで見た気がするが、まだ強い眠気に襲われ頭が働かず、彼女を思い出すことが出来ない。

 「みんな、―――が目を覚ましたわ!」

  目を開けた私を見て、笑みを浮かべたおさげの女性は周りへと声をかけた。
  女性が3人、やはり見覚えがある人達が駆け寄ってくる。

 「―――さん、大丈夫ですか? 突然倒れて、ビックリしました」
 「本当にビックリしたよ~。 ―――さん、何ともない?」
 「―――、大丈夫?」

  声の一部がノイズ化して、よく聞き取れない。 それにしても、目の前にいる人達……どこかで見たような。
  一人はピンク色の髪の毛で、すごく可愛らしい女の子だ。 横には、ボーイッシュな女の子と、黒髪で大人っぽい女性。
  おかしいな、なんで思い出せないんだろう……
  そう考えていると、私は何もしていないのに視点が動いた。
  横のカーテン、天井と室内を見渡すように、視界が振り回される。 そして、おさげの女性のところで止まった。
  そこで大きなノイズが走る。 すると、何故かおさげの女性の口元が緩み、ノイズが消えた直後、彼女は声を発した。

 「安心して、ここは病室よ。 さっきあなた達が倒れて、私達で連れてきたの。
 本当にビックリしたわよ」

  言い終えると、満面の笑みをこちらへ向ける。
  そうしているうちに再び視界が動いた。 天井が目に入ったと思ったら、今度はシーツが飛び込んでくる。
  しばらくそのまま動かず、シーツの真っ白な面が視界を占めていた。
  が、不意に横に立つ女性達へ勢いよく視点が移り、先ほど以上のノイズがけたましく響いた。

 「安心して、―――。 白銀は無事よ、ただ」

  白銀、と私の名前を彼女がよんだ。 私を知っているのか、と問いかけようとするが声にならない。
  ふと、おさげの女性の顔が一気に迫ってきた……違う、『私』が彼女に近づいたんだ。
  大きなノイズが響く。 すると彼女は目をそらし、静かに答えを返した。

 「あのときと同じよ。 PTSDだって衛生兵は言っていたわ」

  彼女は目線をカーテンに移す。 すると『私』の視界もそちらに移り、意図していないにもかかわらず、手がカーテンを空けた。
  そこには、シーツを頭までかぶって横になっている『誰か』がいた。
  
 「緊張している私達に、大隊長が後催眠暗示と興奮剤を処置したのを覚えてる?
 その直後に警報が鳴り響いて、あなた達は倒れたのよ。 まあ、あなたの場合、興奮剤の副作用らしいけど」
 「それから大隊長が僕たちに後退する許可をくれたんだ。
 まだ敵の本隊は町田付近だし、僕たちが初陣だっていうことに気を利かせてくれたんじゃないかな」
 「でも、もうすぐ戻らなきゃ……全員が抜けたままじゃ、やっぱりマズイよぉ」
 「……あの大隊長は、苦手」

  思い思いに自分達の言いたいことを言っているが、私は何も理解出来なかった。
  『敵』って何の話? ここはどこ? なぜ私の思うとおりに身体が動かないの?
  頭は少しずつ冴えてきたが、全く現状が掴めていなかった。

 「とにかく白銀が動けない以上、私が指揮を取るわ」
 「…………」

  おさげの女性がそう言うと、背の高い女性は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。

 「彩峰、こういうときにまで冗談は止めてよね」
 「……冗談、冗談。 冗談?」
 「だからそれを止めなさいって言ってるの。 ていうか、なんで最後は疑問系なのよ」

  まるで漫才みたいな兼ね合い。 他の二人も、ドッと笑い始めた。
  
 「千鶴さんは副隊長だし、問題ないよ。 ね、壬姫さん?」
 「うん。 私もそう思います」

  ああ、そっか。
  どこかで見たことがあると思ったわけだ、この人達……母様の戦友だった人達だ。 母様の遺品、その集合写真に写ってた。
  ……………………って、ええ!?
  さ、榊千鶴? 彩峰慧? 鎧衣美琴? 珠瀬壬姫ぃ!?
  え、え、えええええ。
  一気に目が覚めたよ。 な、なんで彼女たちがここに?
  だって彼女たちは、確か…………


 (ヴィーーー! ヴィーーー!)


 「「「「!?」」」」

  そのとき、警報が鳴り響いた。

 『コード991発生! 繰り返す、コード991発生!
 市街地跡に地中から敵が出現、繰り返す……』
 「……これって」
 「そ、そんな……敵はまだ町田にいたはずじゃなかったのぉ?」
 「市街地って、ここからじゃ目と鼻の先だよ!?」
 「みんな、戻るわよ!」

  警報が響いたと同時に、彼女たちは出口へと向かう。
  『私』の身体も、ベッドを出て、彼女たちについていこうとする。

 「大丈夫? あまり無理をしたらダメよ」

  おさげの……榊千鶴さんが駆け寄ってくる。

 「この横浜基地はまだ充分に極東最大の基地なんだし、BETAもここへは来られないはずよ。
 今は休んだら?」

  ―――BETA。
  不意に、頭に何かが浮かんだ。 真っ赤な血に染まる、何か。
  胸が苦しい、吐きそうだ。 それが何なのかは思い出せないが、考えるととても辛い。
  その苦痛に連動し、視界が地面へと落ちる。

 「ほら、すごく顔色が悪いわ。 まだ横でいるべきよ」

  榊さんが肩を貸してくれ、元のベッドへと運んでくれた。
  そのまま『私』の身体は横になり、榊さんの方へと目を向ける。

 「―――、後は任せて。 あなたは白銀を頼むわ」 

  それを言うと入り口を出て行く。
  そして、しばらく私の身体は、天井を見上げた。

  ……どうやら、『私』はこの身体を自由に使えないようだ。
  そして時々走るノイズ、それに答える彼女たちの言動を見る限り、この身体が発した「声」なのだろう。
  それらから得られる結論は、この身体は『私』ではないということになる。
  というより、『私』がこの身体に入っている、という方が正しいのか?
  この身体は私の意図とは全く別の目的を持って動いているし、榊さん達ともきちん会話が出来ていた。
  一方、私は声は出せないし、身体を動かそうとしても相変わらず重いだけで全く動かせない。
  考えられるだろうか? 私はただ、この身体が見ているものを同じく『見ている』しか出来ないのだ。
  それなのに、何故だろう……私は今、とても安心している。 自分が満たされていると感じている。
  恐怖も湧かない、嫌悪感もない。 普通、考えられない事態が起きているのに。
  榊さん、彩峰さん、鎧衣さん、珠瀬さん、母様が教えてくれた戦友達。
  今、確かに私の側にいた。 写真で見たままの姿だった。 みんな凄くステキで、格好良かった。
  でも、亡くなったんだよね。 BETAに基地を襲撃されて。

  ……今の私は夢を見ているのだろうか。
  それとも死んでしまってここにいるのだろうか?
  思い出せない。 私がなぜここにいるのか、何をしていたのか。
  記憶を探る度にモヤモヤと霧がかかり、謎が全く解けない。

  ふと、視線が横に向けられる。 先ほど、シーツを頭までかぶった『誰か』が映った。
  この人は誰なのだろう? みんなはBETAとの戦いに出て行ったのに、なぜこの人は行こうとしないんだろう?
  さっきからシーツをかぶったままでこちらを見ない『誰か』の態度が、無性にイライラした。
  その『誰か』へ、手が伸ばされる。 頭と思われる方へ、ゆっくりと。

 「……やめてくれ」

  ビクッと手が止まった。 その声は男性のものだった。

 「やめてくれ、―――」

  シーツをかぶったまま、彼はとても弱々しく声を発した。
  その声を聞いたとき、私の頭の中で色々なモノが繋がっていく。
  榊さんの「白銀」、そして彼女たちの仲間であるということ……もしかして、彼は……
  私がそう結びつけた直後、伸ばされた手がシーツを掴み、一気に引いた。

  …………ああ、やっぱり…………
  父様、父様だ……父様!
  強化装備を着て、こっちに背を向けているけれど、私にはすぐに分かった。 
  ずっと想ってた、夢見てた父様の姿……間違いない、父様!

 「ダメなんだ! 俺はダメだ、もう、ダメなんだよ!」

  ……え。
  私は父様の言葉が良く分からなかった。 あまりにも突然で、意味が分からない。
  ふと大きなノイズが聞こえた。 この『身体』が何かを父様に言っているのだろう。

 「俺、また倒れちまった。 もう大丈夫、やっていけるってそう思ったのに、結局2年前と何も変わっていなかったんだ。
 あの頃みたいにダメなままで……!」

  ……父様、何言っているの?
  だって父様は強いって、母様言ってたよ? みんなのために頑張ってるって、そう言ってたよ?
  なんでそんなに弱気なの?

 「警報が響いて、あのときのことが頭の中でグルグルしちまって……いろんな事が思い出されて……
 そしたら、目の前が真っ暗になったんだ」
 「ああ、そうさ。 俺は怖いんだよ! 死ぬかもしれない、殺されるかもしれない……今も、手の震えが止まらねえんだ」

  父様が、手をこちらに見えるよう、上げた。
  その手はブルブルと震えていた。 手だけじゃない、身体全体が、震えていた。

 「こんな俺が隊長なんて、みんなに迷惑をかけるだけだ……だから」

  父様の言葉が終わらないうちに、手が父様の肩を掴み、こちらに強く引き寄せる。
  ……その顔は、さっきまで泣いていたことが分かるほど、くっきりと涙の跡を残していた。
  そして今までで一番大きく響くノイズ、それに父様は顔を歪ませていく。

 「うるせえ! 俺はお前みたいに強くねえんだ!
 俺は……俺は、元々『こっちの世界』の人間じゃないんだ。 戦争なんて関係ない、普通の学生でしかなかったんだ」
 「そんな俺に甘えるなだって? これが俺なんだ、俺の限界なんだよ!
 頼む、頼むよ……もう、ほっといてくれよ」

  ……誰なの、この人……
  言いたいことを言ったのか、『彼』は私からムリヤリ顔を背けた。
  私はこんな人知らない、こんな弱気で臆病な人、知らない!
  父様はこんな人じゃない、こんな、こんな……

  ―――父様はこんな臆病者じゃない!!

 「ん、―――?」

  『彼』はこちらを向き、心配そうに声をかけた。
  声と一緒に手を伸ばすが……この『身体』は、それを強く払いのけた。
  直後、父様の顔がだんだんと滲んでいく……涙?
  『身体』が、泣いているのだろうか。 視界が、とてもぼやけていく。
  そして『身体』はベッドから起きあがり、ふらつきながらもドアへと向かった。

 「―――、無理するな!
 そんな身体じゃ」

  後ろから『彼』の声がする。 一瞬、動きが止まった。
  しかし『身体』は、そちらへ向き直すことなく、
  そのまま部屋を後にした。





  ―――あの人が、父様?
  あんなに怯えてて、ベッドで泣いて、震えていた人が私の父様?
  あり得ない、絶対にあり得ない。 母様が言ったことと全然違う!
  母様は言った、父様は地球で戦っているって、みんなのために頑張っているって!
  ……だから違う、父様じゃない、父様じゃ……
  ふと、大きな機械音が響いた。 同時に、目の前へ「転送情報確認」という文字が浮かび上がる。
  これは戦術機、F-4J撃震の中だ。 考え事ばかりしていたから、気づかなかった。
  
  思えば、この『身体』って誰なんだろう。
  榊さん達が知っていて一緒に戦っている人……母様?
  いやでも、母様は結局戦闘には参加したことがないって言ってた。 基地が攻撃を受けたことがないからって。
  母様じゃないのか。 それともこれは夢だから、母様がみんなと戦っているという想像なのだろうか。
  ……出来れば、母様ならいいな、と思う。 母様は絶対に逃げ出さない、怖がらない。
  あんな人とは違って、最後まで頑張るだろうから。
  どちらにしろ、さっきの警報を聞く限り、この『身体』は戦場へと向かっているのだろう。

  …………戦場…………

  また、だ。 また湧き上がってくる。
  胸の奥からこみ上げてくる吐き気にも似た嫌悪感。
  なぜだろう、何か大切なことを忘れているような、思い出さなければならないのに思い出したくないような、そんな良く分からない感情が
 あふれて頭が混乱していく。
  そのとき、視界が切り替わった。 下を見たまま動かなくなる。
  不思議なことに私が苦しいと思うと、この『身体』も辛くなるようだ。 ごめん、ちょっと申し訳ないな。
  しかし『身体』は、すぐに前を向き、息を何度も吐き出しながら撃震を発進させた。
  この人は本当に強い、体調がすごく悪いはずなのに、みんなのところへ行こうとしている。 戦おうとしている。
  さっきの臆病者なんかとは大違いだよ。

  格納庫を出てしばらく主脚前進すると、たくさんの戦術機が並ぶ広場へと出た。
  向こう側には駆逐艦の発射施設が幾つも立ち並んでおり、ここが滑走路であることはすぐに分かった。

 「―――さん!」
  
  通信が入ったのか、網膜に珠瀬さんの顔が映った。
  ……こんなに幼そうなのに、母様と同い年なんだよな……
  そう思うと、ちょっと可笑しい気持ちになった。

 「―――さん、あまり無理すると身体に毒だよ」
 「無理してない?」
 
  数機の撃震が近づき、次々に母様の戦友達の顔が映っていく。 
  ああ、すごい……母様の友達が、動いてる、生きている。
  それに凛々しくて、格好いいなぁ。

 「まあ―――のことだから、無茶はしないでしょ。
 ……それより、白銀は?」

  『白銀』の言葉が出てきた瞬間、みんなの口が閉じる。
  真剣にこっちを見ているのが分かる……そして、榊さんの問いに答えるように、ノイズが聞こえた。

 「……そう」
 「「「…………」」」

  ノイズだから何を言ったのかは分からない。 でも、「彼は来ない」ということを言っただろうことは分かる。
  全く、みんながこんなに一生懸命なのに、あの人は何をしているんだ!
  男のくせに泣いて、逃げて……本当に腹が立つ。

 「……頑張らないといけないわね」

  ……え?

 「うん、頑張らなきゃね」
 「私も、頑張ります!」
 「……うん」

  なん、なの。 なんで皆、そこで笑顔になれるの?
  あの人に腹が立たないの……どうして……

 「僕たちが頑張らないと、タケル、また色々と言われちゃうもんね」
 「全く世話をかける人よね。 昔から何も変わってないんだから」
 「……でも、白銀は最後はやるヤツ。 今日はダメだったかもしれないけど」
 「そうだよ。 総戦技演習だって模擬戦だって、タケルさんはいつもそうだった」

  みんな……信じてるんだ……あの人を。
  最後には必ず立ち上がってくれるって、そう思ってるんだ。
  でも、みんなもあの顔を見てから、そう言えるだろうか。 怯えて泣いてた、あの人の顔……
  あんな人が立ち上がるなんて、信じられないよ。

 「とりあえず、大隊長にホリィ隊が揃ったことを連絡するわ。
 みんなは周辺警備を……!?」

  警報とともに、ああ、なんて不吉な色なんだろう、真っ赤な文字が目に入った。 
  衛士であれば、いや軍人であれば誰でも、その言葉を聞けば戦慄するしかない。 あの言葉。
  『コード991』
  瞬間、みんなの表情が大きく変わった。 鋭くなり、今さっきまで笑顔だったのが嘘のように、厳しい表情を浮かべている。
  そして視界が変わると、真っ平らな滑走路からいくつも砂柱が立ち上がり、
  その柱から、醜い化け物達が姿を現わした。

 「だ、第二滑走路にまで敵が現れるなんて」

  珠瀬さんの怯えた声が聞こえる。

 「み、みんな、陣形を崩さないで!
 とにかく弾幕をはって敵の進行を防ぐのよ。 HQへ支援を要請するわ!」
 「だったら急いで……どんどん来てる」

  彩峰さんの言うとおりだった。
  広大な滑走路が次々に盛り上がり、所狭しと砂柱が立っていく。 
  そこから大型種や小型種がワラワラとあふれ、気づけばさっきまで何もなかった平地は、化け物共で一杯になっていた。

 「みんな見て! BETAがメインゲートへ向かってるよ!」
 「!?」

  マップへと目が行くと、赤い点がメインゲートへ向かって進んでいるのが見えた。
  まさかこいつら、中へ侵入することが目的なのか?

 「ほ、ホリィ2よりHQ、支援はまだですか!? このままではメインゲートへ敵が」
 『HQよりホリィ2、敵は演習場及び第一滑走路にも出現中。
 10分持ちこたえろ、その間に帝国海軍へ支援砲撃を要請する』
 「じ、10分って……ホリィ2、了解!」

  そ、そんな。 支援もなしに10分持ちこたえろって、司令部は何を考えているんだ!?

 「演習場と第一滑走路にまで敵だなんて……」
 「……囲まれたね」

  珠瀬さんと彩峰さんの言葉が示すとおり、基地全体を示すマップでは基地全体を赤い点――BETAが囲んでいるのが分かった。
  赤があまりにも多すぎて、味方を示す青マーカーがよく見えない。 

 「弾がもう残り少ないよ!」

  鎧衣さんの叫びに、ハッと気づく。 同時に残弾を注意する警報が響いた。

 「武器コンテナの設置が遅れてる……もう! 兵站の重要性は座学でも一番初めに習うものなのに!」

  悪態をついたはずなのに、まるで悲鳴のように聞こえる。
  そうしている間にも、残弾がさらに少なくなっていく……ふと、兵装が突撃砲から長刀へと交換された。
  小さくノイズが走り、そのままBETAの群れへと進んでいく。

 「―――! 彩峰、―――へついていって! 鎧衣と私がカバーに入るわ。
 珠瀬はここから全体をサポート、良いわね!?」
 「「「了解!」」」

  長刀で目の前の要撃級に大きな傷が出来る。
  敵の手腕がこちらへ当たりそうになりながらも、それを何とかかわして更に刻んでいく。
  その危なっかしさに、私の背筋はヒヤヒヤした。
  ……って、ああ! ダメ、そっちは敵群のど真ん中だよ!

 「―――、無理はダメ」

  斜めに彩峰さんの撃震が見えた。
  第一世代の撃震でありながら、敵の渦中にあっても見事に攻撃をかわしていく。

 「サポートするわ!」
 「僕も!」

  突出した私達の撃震を中盤から榊さん、鎧衣さんが援護し、後衛から珠瀬さんが狙撃する。
  教科書通りの配置に、私は少し安堵した。 これなら敵に囲まれることもなく、前衛の私達は前だけの集中出来る。

 「こいつら、ホントにうざったい」

  同感、としか言い表せない。
  前衛として最も敵に近い位置にいる分、相手の物量や醜悪さを直に分かってしまう。
  斬っても斬ってもまだまだ大量に現れる化け物を見て、あまりの鬱陶しさにイライラする。

 「きゃああああぁぁぁ!」
 「「「!?」」」

  そのとき、叫び声が聞こえてきた。 この声は、珠瀬さん!?
  マップへとすぐに目が行く。 後衛にいる珠瀬さんの周辺に、敵のマーカーが幾つも現れているのが分かった。

 「珠瀬、何が起こったの!? 」
 「た、戦車級が急に周りから出てきて、主脚が破損しました」

  また警報が鳴り響いた。 今度は前衛と中盤、そして後衛の間に新たなBETA群が出現する。
  ああもう! これじゃ、珠瀬さんのところにいけないじゃない!

 「ひぃ! 突撃級が、突撃級がたくさんこっちに来るよぉ!?」
 「壬姫さん、待ってて! すぐに行くから!」
 「……珠瀬!」
 「彩峰と―――は背に注意しながら後退! 鎧衣、私達で珠瀬のところへ行くわよ!」

  ……くっ! 敵が邪魔で今、何が起こっているのか分からない!
  マーカーじゃ、珠瀬さんのマーカーに敵がどんどん迫ってきてる……急いで、私の『身体』!

 「あ、あ、あ……た、弾が……交換、交換しなきゃ」

  通信からは震えた声が入ってくる。 珠瀬さんの恐怖が、痛いほど分かる……!
  榊さん、鎧衣さん、早く……早く!

 「ああ、あ……やだ、パパ、タケルさん!
 やだああああぁぁぁ!!」

  ―――そのとき、鈍い音が耳に入った。
  機械がきしむ音と、肉が飛び散るような音、そして、さっきまでニコニコとしていた珠瀬さんの甲高い叫び。
  なぜかそのとき、とても静かになったような、そんな感じがした。
  マップに映っていたマーカーは、まるで初めから無かったかのように、静かにその色を消した。

 「たま……せ?」

  榊さんが小さく声をかける。 しかし返答はない。
  
 「……そんな……」
 「壬姫さんっ!」

  みんなが動きを止める中、鎧衣さんのマーカーだけが前へ進んでいく。
  ……そうだ! まだ間に合うかもしれない! 
  機体から脱出しているかもしれないんだ、まだ、急げば!

 「鎧衣、単独行動はやめなさい! 囲まれるわよ!」

  そんなこと言っている場合じゃない! とにかく珠瀬さんのところに行くんだ!

 「どけ! どけぇ! どけえっ!!」

  少しずつ珠瀬さんがいたはずの場所へ近づいていく。
  待ってて、珠瀬さん!

 「……心臓が、止まった……」
  
  彩峰さんの小さな一言の直後、『身体』の網膜へ珠瀬さんのバイタルモニターを示す図形が表示された。
  脈拍は……0……?
  それに、え、何これ? 負傷の度合いを色で示す図形が、お腹から下が全部真っ赤になってる……
  死んだ……死んだ、の? 嘘だよ、だってさっき、あんなに笑ってたじゃない!
  頑張るって言ってたじゃない!
  なんで、なんでえ!

 「うわああああああ!」

  !!??

 「鎧衣!」
 「っく、鎧衣!?」

  鎧衣さんの悲鳴が聞こえた。 後退して大分近づいたせいで、鎧衣さんの撃震が目に入った。
  撃震は突撃級の装甲殻と、壁に挟まれ、身動きが取れないでいる。

 「くうっ!」
 「鎧衣、ベイルアウトしなさい! 鎧衣!」

  榊さんの言葉を無視するかのように、鎧衣さんの撃震は左腕部から65式近接戦闘短刀を取り出す。

 「よくも壬姫さんを!」

  そして勢いよく、突撃級の装甲殻へ短刀を突き立てた。
  丸みを帯びた装甲殻を短刀が滑り、その度にまた振り上げていく。

 「もうやめて!」
 「この! この! このぉ!」

  何回目かの振り下ろしで、ついに装甲殻へ短刀が刺された。
  瞬間、それを嫌がるように、突撃級が首を振ったように見えた。
  そして撃震の上半身と下半身が、挟まれた点を境にバラバラとなり、
  地面に倒れた撃震の上半身を、要塞級の鋭く尖った足が貫いた。

 「鎧衣いいぃぃ!?」
 「……くっ」

  ……何これ。
  なんでこうなってるの、なんでどんどん死んでいくの?
  珠瀬さんや鎧衣さんだけじゃない、他の人達も……
  BETAの赤は増える一方なのに、青マーカーは消えていく。
  なんでよ、なんで消えるの!?
  みんな頑張ってるのに……………………必死なのに。
  ……ちくしょう。
  ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!
  やっつけてやる、みんなやっつけてやる! あんなやつら、私が全部殺してやる!

 「これ以上、アンタ達に好き勝手やらせない!」
 「よくもっ!」

  まるで私の怒りが伝わったかのように、みんながBETA群へ向かっていく。
  榊さんは突撃砲で戦車級をミンチ状にし、彩峰さんと私が長刀で要撃級と突撃級を切り刻んでいく。
 
 「うあああぁぁ!」
 「逃がさない……全部、殺す……!」

  確実に殺してる……私の『身体』も、次々にやっつけている……筈なのに!
  なんでまだ向かってくる!? なんで生きてるんだーー!?

 『―――HQより第七大隊各機へ。 司令部は滑走路の放棄を決定。
 各機は敵を撃破しつつ、集積場にて他隊と合流し戦力の再構成を行え。 繰り返す』
 「「!?」」

  不意に流された言葉が、私達の戦いへ水を差す。
  その言葉があまりにも今さらで、とても無機質で、繰り返されるたびに怒りがこみ上げてくる。

 「今さら……!」

  そうだ!
  戦力も補給も、全然足りてなかった。
  それなのに支援も何も回さなかった!
  そうしておいて、「ここを守れ」って命令したのはアンタ達じゃないかーー!

 「彩峰、命令は絶対よ。 ここは退くわよ!」
 「…………」
  
  噴射跳躍でゲートへと向かう。
  くそ……くそぉ……撤退するしかないなんて。
  
 「彩峰!?」

  え? って、なんで彩峰さん、動いてないの!?

 「撤退しないよ」
 「え?」
 「私は、撤退しない」

  彩峰さんのマーカーが敵に向かっていく。 そんな、たった一人で無茶だよ!

 「……上は今の状況を分かってない。
 誰かが殿として残らなきゃ、他の部隊が撤退出来ない」

  !?
  た、確かに。 マップでは彩峰さんの周りに敵が集まって、その間に撤退が進んでる。
  でもこれじゃ逃げられないよ!

 「作戦はその場の判断……だから私は、撤退しない」

  彩峰さん……まさか、死ぬ気?

 「そうね、後方の憂いを断つのは確かに重要だわ」

  彩峰さんの横に新しい味方のマーカー……榊さん!?

 「……榊?」
 「何よ」
 「命令は絶対って、言ったのに」
 「絶対よ。 HQは“敵を撃破しつつ”撤退しろ、って言ったの。
 違反じゃないわ」
 「……ぷ」

  笑いがこぼれた。 そういえば榊さんと彩峰さんはいつも喧嘩してたって、母様が言ってたっけ。
  でも、互いにすごく信頼し合ってた……そうも言ってたっけ。

 「屁理屈だね」
 「うるさいわね。 それに部隊の最小単位はエレメント、基本中の基本よ。
 一機よりも二機なら後退もやりやすくなる……違う?」
 「…………私だけでも充分だけどね」

  お喋りしながら、二機は見事に敵を捌いている。 でも、敵の集中が激しい。
  赤マーカーが多すぎて、二人の位置が分からないよ!
  ……視界が動いた。 二人を見つけたのか、そっちへ撃震を下ろそうとする。

 「「―――は退がって!!」」

  二人の声が同時に聞こえ、移動が止まった。
  ノイズが聞こえる。 おそらく、二人に抗議しているのだろう。

 「あなたは今、一機しかいないわ。 それではエレメントを組めない。
 だから退いて、他の部隊と合流して!」
 「……どうせなら白銀と一緒に来て」

  そんな、ダメだよ!
  今は一機でも多い方がいい、だから私も!

 「それに、あなたにはあまり危険な橋を渡らせたくないのよ。
 もうあなただけの命じゃないんだから」

  …………え?

 「……お腹、赤ちゃんいるんでしょ?
 あなたと白銀の子供が」

  榊さんの言葉に、私は驚くしかなかった。
  『あなたと白銀の子供』……これって、私のこと?
  じゃあやっぱり、この『身体』って……母様?

 「気づかれてない、って思ってた?
 白銀以外、知ってた。 もちろん、珠瀬も鎧衣も」
 「彩峰の言う通りよ。 だから今回だって、あなたは出撃しない方がいいと思ってた……こうなるとは想定してなかったけど」
  
  ノイズが小さくなっていく。
  何も言えなくなってるんだ……『母様』、辛いんだ。
  どうすればいいかって、苦しんでるんだ。

 「―――、あなたは生きて。
 そして珠瀬と鎧衣のことを……子供に、語り継いであげて」
 「…………」

  待って、待ってよ!
  私、ちゃんと見てたよ、今だって見てる……みんなの頑張ってる姿、見てる。
  お願い、死なないで……もう、誰かが死ぬのなんて見たくない。
  見たくないの、だから……

 「早く行って! これは命令よ!」

  その声が響いた後、また少しだけノイズが聞こえた。
  そして彼女たちに、ゆっくりと背を向ける。

 「―――。 白銀を、よろしくね」
 「……白銀はいいやつ。 きっと良いお父さんになる」

  ……やだ。
  
 「「また、後で」」

  ―――ダメー!
  母様、戻って! 二人を助けなきゃ!
  このままじゃ死んじゃう……『私のせいで』二人が死んじゃう!
  そんなの嫌だ、嫌なんだ。
  自分のせいで“また”誰かが死ぬのなんて、見たくないんだ!
  母様、お願い……戻って、戻ってよ……
  母様ー!!

  ―――しかし私の声は、母様には届かなかった。
  何度叫んでも、身体を動かそうとしても、自由にならない。
  私はただ見ているだけしかできない……それがとても忌々しくて忌々しくて……でも、諦めるしかなかった。
  その忌々しさから私は、泣くしかできなかった。 彼女たちの名前を呼びながら、その無事を祈りながら。

  しばらくして、格納庫へと到着する。
  そこには腕や足を失ったたくさんの戦術機が、所狭しと並んでいる。
  さっきの滑走路から逃げてきた人達なのだろう……榊さんと彩峰さんのおかげで、こんなにもたくさんの人達が逃げて来れたんだ。
  ……私と母様も含めて……
  そのとき、遠くから大きな爆発音が響いた。 たった一回の、大きな音が。 
  私はその音を何も気にしていなかった。 戦場で当たり前のように響いていたものと、大差ないように思えたから。
  ふと視界が下へと落ち、世界が滲んだ。
  少し薄暗いコックピット。 赤や青の小さな光が混ざり合い、薄い水色に染まっていく。
  そこから溢れた水滴がコックピットの座席へと二、三度落ちたとき、
  あの音は榊さんと彩峰さんの最後の絶唱だったのだということを、
  私は、ようやく理解した――――――







[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第五節
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/05/03 12:15
 
 
 
 『―――中央集積場の第七大隊、壊滅! BETAが主縦坑を降下し始めました!』
 『生存者はリフトを使い、地下格納庫へ移動せよ。 ヴァルキリーズがフォローに入る』
 『小型種が基地内に侵入! 総員、白兵戦へ備えよ!』

  耳に入る通信、そのどれもが死と絶望の匂いを漂わせるものしかなかった。
  私、いや『母様』は撃震から下り、今は廊下を駆け足で急いでいる。
  結局、さっきから状況は何も変わっていない。 声も、体も、何も私に意志通りにはならない。
  私は母様の見ているものを見るしか出来ないのだ。
  ……そして私は、母様の目を通して『戦場』を見てきた。
  中央集積場での戦闘は苛烈を極め、多くの戦術機が破壊された。
  戦場では大勢の戦士が助けを請い、またある者は怨嗟の声を吐きつつ、死んでいった。 
  珠瀬さん、鎧衣さん、榊さん、彩峰さんのように………………
  それでも私達が何とか逃げられたのは、新兵扱いされて比較的後方に配置されたからだ。

  ―――『死ぬ』って、何なんだろう。
  死んだら、人はどこへ行くんだろう? 私は、どうなるんだろう?
  天国や地獄なんてものがあるんだろうか。 でもそんなものがあるからって、誰も『死』を嬉しさとともに受け入れるなんてことはない。
  例えどんな意味と価値を与えられても、それ自体が怖くないはずがないんだ。
  みんな本当は、出来れば『死』から逃げたいんだって、そう思う。

  でも『死』は、当たり前のように側にやって来て、とても簡単に私達を連れて行く。
  どんなに悲鳴を上げたって、否定したって、覚悟を決めたって、
  『死』は、そんなものとは無関係に、私達を奪っていく。
  珠瀬さんの悲鳴が、耳について離れない。
  鎧衣さんの容易くはねつけられた怒号が、忘れられない。
  榊さんと彩峰さんの覚悟そしてその結末が、哀れでならない。
  彼女たちだけではない。 本当にたくさんの人間が、死んでいった。
  母様が歩く廊下には、たくさんの死骸が転がっていた。 ある者は首が無く、半身が無いものもたくさんいる。
  初めは気持ち悪くも見えたが、もう見慣れてしまった。 それに、これはまだ始まりなんだと私は捉えていた。
  私は知っている。 今日、横浜基地はBETAによって完全に破壊される。
  そしてハイヴとなって、日本を滅ぼすんだ。 それがまりもちゃんから教わった歴史だ。
  だから彼女たちの『死』は、当然のこと。 そうなることが、彼女たちの『運命』なんだから。

  ……誰か教えて欲しい…… 

  彼女たちの死に、何の意味がある? 人類はここから、絶滅に向かう歴史しかないのに。
  日本が滅んで、アメリカや他の国も滅んで、最終的にはメガフロートで細々と暮らすしかなくなる……それが『運命』だ。
  その暮らしも、後どれくらい保つか分からないほどの意味しかない。 人類は薄い氷床の上で、いつ割れるか分からない恐怖に似た
 感情に常に晒され続ける。
  そう、人類の勝利を信じ、殉じていった彼らの死は、決して報われることはない。
  …………報われないんだ。
  そんな『運命』が決まっているのに、彼女たちの『死』に何の意味があるって言うんだ!?
  死ぬことが運命なんて……理不尽で救われない。 そんなの認められるはずがない、認めたくない。
  だが目の前に拡がる死体の山を見るたびに、現実は私に『死』の無意味さを突きつける。
  それを見るたびに私は、自分の主張が何の根拠もない空虚なものなのだと、胸の痛みとともに塗りつけられた。
  そして思い出させる。 ここは戦場で、どんなに拒んでも、『死』は平等に訪れる。
  私はそれが恐ろしい。 実は私のすぐ隣にまで『死』が来ているのではないか、と。
  次の瞬間には私の意識が消え去って、見ている世界が闇に染まるのではないかと、思えてならない。
  何より、そうやってもたらされた『死』の絶望的な無意味さを思うと、死んだ後も同様に虚無しかないのではないかと思えて、恐怖と
 不安で胸が詰まった。

  そんな私の不安をよそに、右手に刀を持ち、死骸を見ても歩みを止めない母様に、私は微かながら安堵を覚えていた。
  中央集積場での戦闘でも、母様は最後まで諦めなかった。 戦いを続け、生き延び、そして今も堂々と歩き続けている。
  今の母様の態度が私にはとても頼もしい。 そして、もしかしたら母様なら、この地獄を『運命』を打破出来るのではないか、と思えた。
  私がなぜここにいるのか、なぜ母様がここにいるのか、今はどうでもいい。
  母様なら何とかしてくれる、私はそう思った。
  ……一瞬、頭に父様の顔が浮かんだが、すぐに「ありえない」と否定した。
  あんな恐怖に怯えていた父様が立ち上がれるようには、どうしても思えないからだ。

  ―――そのとき、母様がドアの前で止まる。
  ドアが開き、中を覗き込んだ。 見覚えのあるベッドが二つ、ここはさっき、母様と父様が寝ていた病室だ。
  だがベッドには誰もいない。 父様のいたベッドは無造作にシーツが乱れ、慌てて飛び出していったことをうかがわせる。
  母様はそれを確認した後、再び廊下を歩き始めようとした。

 「うわあああぁぁ!?」

  廊下を突然、悲鳴が響いた。 これは男性の声……もしかして、父様だろうか?
  母様はガッと音がするほど強くを足を踏み出し、廊下を走っていく。 進むごとに銃撃の音が大きくなっていき、戦闘が近くで起きて
 いることが分かった。
  そして角を曲がると、歩兵達がアサルトライフルを廊下に向けて発砲している様が、目に飛び込んできた。

 「!! 少尉、ご無事でしたか!?」

  アジア人と思しき一人がこちらに気づき、声をかけてくる。
  その顔には血が付着しており、この戦闘が初めてではないことを物語っている。

 「少尉、彼を連れてここを離れてください! シェルショックのためか、自分では動けないんです!」

  彼の目線が動く。 そっちへ母様も目を移すと、そこには強化装備を着てうずくまっている父様の姿があった。
  もう、こんなときにまで皆に迷惑をかけるなんて……!

 「彼は少尉の恋人なんでしょう? さしずめ俺たちは、カップルを守る英雄ってとこですかね!!」

  銃を撃ち続けながら、黒人の兵士が叫んだ。
  この人達、母様と父様のことを知っている?

 「さ、早く! ここは私達が食い止めます。
 衛士は、衛士にしかできない仕事をやってください」

  彼らの想いに、私はグッと胸に来るものを感じた。
  勝つ気なんだ、この戦いに。 だから私達にその想いを、託したんだ。
  でも、勝てないかもしれない……と誰にも聞こえない声を、私は発した。
  そう考えていると、母様は父様の方へ駆け寄り、声をかける。
  彼は膝に顔を埋めたまま、こちらを向こうとしない。
  ……ったく! 今も兵隊さんが頑張ってるのに、あなたって人は!
  そうやって目を背けたままの父様を母様は肩を掴み、ムリヤリ引き起こした。
  そして、そのふぬけた顔に張り手を数発加え、手を持って歩き始める。
  引きずられるまま、彼もゆっくりとだが歩き始めた。

 「「お幸せに!!」」

  背から、大きな声で私達を押す声がする。
  母様はそちらへ顔を向けることなく、何か一言呟いたかと思うと、そのまま走っていった。



  

  ……どれくらい走っただろうか。
  銃撃の音はもう聞こえなくなり、今は母様と父様の全力で走ったが故の荒い呼吸音しか聞こえない。
  有り難いことに、私は母様の痛みや苦しみは感じないらしい……私の痛みは母様に伝わるのに……
  母様は顔を下げ、汗が何滴も廊下へと落ちる。 そして横へと視界が移ると、そこでは父様が呼吸を乱しながら顔を俯けていた。

 「……何なんだよ……これ」

  荒い呼吸の中、か細く父様の声が聞こえる。

 「なんでBETAがここまで来てんだよ。
 ここは極東最大の基地なんだろ? 夕呼先生」

  夕呼先生? ああ、夕呼先生は父様と知り合いだったっけ。

 「どうすればいいんだよ、どうすれば」

  父様は俯いたまま、誰に問うでもなく同じ言葉を繰り返している。
  その言葉を聞く度、私の中でチリ、という音と共に怒りが湧いてきた。
  どうすればいいかだって? そんなの、戦うしかないじゃないか!
  みんな、アンタが逃げていたときも戦ってたんだぞ! 
  戦って戦って……そして、榊さん達は死んだんだ! 他の人達だって!
  私がそう言っていると、母様が声を発したのか、ノイズが聞こえた。
  すると、こっちへ父様が顔を向けた。 目が赤く腫れ、さっきまで泣いていたことが分かる。

 「戦え、だって? ははは、む、無理だろ。
 だってもう戦術機部隊は壊滅したんだろ。 戦ってどうなるってんだよ……何にもならねえじゃねえか」
 「もう、この基地はダメなんだ。 俺一人で、何が出来るって言うんだよ」

  父様はヘラヘラと笑った顔でこちらを見ている。
  表情とその言葉から、私はイラッとした。
  何にもならないだって? 無理だって?
  ふざけるな! みんな一生懸命戦ってるのに、なんでそんなことを言えるんだよ!

 「!!」

  急に父様の驚いた顔が近づいてきた。
  そして大きな音を立てて、母様の手が彼の頬を強く打つ。
  今まで以上に強い張り手に、父様は痛みを覚えたのか苦い顔を浮かばせ、そして、憎らしそうにこっちを見る。
  同じときに、母様の声と思われるノイズが、聞こえた。

 「……え?」
  
  ノイズが消えた瞬間から、今まで憎らしそうにこっちを睨み付けていた父様の眼が、段々と丸くなっていく。
  何か、驚くようなことを母様が言ったのだろうか。

 「今……何て言った。 なあ、―――、なんて言ったんだ!?」

  父様が母様の肩を強く握ったのか、視界がぶれる。
  目の前の彼はとても必死に見え、私はそれが少し怖く感じた。

 「委員長達が何だって? みんなが、死んだだって?
 嘘だろ、―――。 そうだよな、そうなんだろ!?」

  何かに怯えるような、それでいて媚びるような表情で迫ってくる。
  母様はその顔を、再び殴った……今度は、固く閉じられた握り拳で。
  大きく後ろへのけぞり、壁にドンという音とともに彼はぶつかる。
  それと同時に、再びノイズが聞こえてきた。

 「そんな……」

  彼は壁に背をかけ、そのまま力なくズルズルと床へ座り込む。
  きっと、母様は榊さん達のことを伝えたんだ。
  みんな死んだんだって。 アンタがそうやって腑抜けている間に、殺されたんだって。

 「何なんだよ。 おかしいだろ……
 あいつらが死ぬわけないじゃないか、さっきまで普通に話してたのに」
 「それなのに、なんで!?」
  
  なんでじゃない! これが、現実なんだ!
  私の目の前で、すぐ側で、みんな死んだんだ!
  そのとき、母様が声をかけているのかノイズが聞こえてきた。

 「……受け入れろ、だって? 想いを受け継げだって?
 なんでそんなに冷静にいられるんだよ。 あいつらが死んだんだぞ、悲しくねえのかよ!」

  再度、父様の顔が迫ってきた。 そして母様の両肩を、再び強く掴む。
  その表情は、とても怒りと悲しみに満ちていた。 仲間の死を悲しまないのか、と母様を責めるように。
  そして眼には、涙を一杯溜めていた。 それが今、頬を伝い、筋を作る。
  私はそんな彼の顔が、空疎に見えて仕方がなかった。 何も分かっていないくせに何を非難しているのか、と。
  母様が仲間の死を悲しまないはずがないんだ。 
  さっきだって撃震の中で母様は、僅かだけど涙を流していた。
  私の記憶では、母様が涙を流したことなんてない……それなのに、泣いていたんだ。

 「なんで泣かねえんだ、なんで戦えるんだ!?」

  父様は母様の肩を掴んだまま強く押しだし、壁に叩きつけた。
  
 「なんで……なんで、そんなにお前は強いんだ……」

  ……父様?
  父様はその言葉を最後に、母様の胸に顔を埋めた。
  そしてただ嗚咽だけが、聞こえてくる。 
  ……ああ、そうか。
  父様は強くなりたいんだ。 母様みたいに。
  仲間の想いを精一杯に受け継いで、戦いたい。 本当は父様も、そう思ってるんだ。


  『ならば神宮司大佐達の想いも受け継いでみせろ! 白銀真璃!!』


  !?
  な、なんだろう。 今、月詠中佐の声がしたような気がする。
  今の言葉って、いつか聞いたような……何だったっけか、何かとても大事なことがあったような。
  私は必死に記憶を探るが、その言葉がいつ発せられたものなのか、全く思い出せないでいた。
  
 「……うぅ……く」
 
  嗚咽を続ける父様の頭を、母様は優しく撫でてあげていた。
  母様も分かっているんだ……父様の気持ちを。
  強くなりたいのに、弱くて進めない自分が歯がゆくてたまらない。 仲間の死を受け継ぎたいのに、悲しみが胸を押しつぶしてしまう。
  だから母様は頭を撫でてあげてるんだ。 『私が側にいる』って、そう伝えたくて。
  クスッ、そういえば私も、小さい頃はよく母様に頭撫でてもらったっけ。

  ……そうしていると、ふと、横からカラカラという音が聞こえた。
  硬いプラスチック製品を落としたときのような乾いた音に、母様は初め足音を見、そして、視界を段々と上げていく。
  その先には、良く分からない物体があった。
  真っ白なそれは、二本の足を小刻みに動かし、また長い鼻のようなものを付けた大きな頭をブルブルと震わせている。
  鼻の付け根には赤い目のようなものが幾つも見え、それを使って何かを探しているように見えた。
  そして今、その幾つもの赤い瞳が、私の方を見る。
  その瞬間、私はいつかの授業で見たことを思い出した。
  これは闘士級――BETA――だ、と。
  

 「うわっ!?」

  母様は父様を無理矢理引き離す。
  そして再び闘士級の方をむきなおすと、その二本足で廊下を強く蹴り上げながら、こちらへ迫ってきていた。
  さっきは遠くに離れていたように見えたのに、もう10m先まで来ているように見える。
  母様は手に持っていた刀を抜こうとするが、

 「危ない!」

  父様の声に反応し、体が大きく横にずれる。
  そこを、何かが素早く通り過ぎていく。 それは闘士級の鼻、もとい腕だった。
  授業ではあの腕に掴まれたが最後、人間は引きちぎられてしまうという風に聞いている。
  それを思いだし、私は背筋を悪寒が走った気がした。

  だが、母様には私の感じたようなことはないらしい。 キンという音とともに躊躇なく刀を抜き放ち、その鼻のような腕を断ち斬る。
  ドロリとした黄緑色の液体を垂らしながら、闘士級は後ろへ退がる。
  そこを逃がしはしなかった。 母様はそのまま直進し、自分の背丈はあろうかという闘士級の左足を刀で斬り払った。
  それにより、バランスを崩す闘士級。 それにより、2.5mある敵の頭部が目の前へと落ちてきて、刀をそこへ突き立てた。
  BETAには痛みなど無いはずだが、刀を突き立てられると頭部を大きく降り始める。 だが振る度に刀はかえって肉を抉り、傷を深くさせていく。
  そして刀が根本まで食い込むと、母様はそのまま横へと撫で払った。

 「おぉ!」
  
  後ろから父様の驚く声が聞こえた。
  闘士級はそのまま廊下へと倒れ込み、しばらくは小刻みに残った右足を動かしていたが、そのまま動きを止めた。
  母様は息を切らしながら、その亡骸を見続けている。
  ……でも、落ち着いて考えてみると、母様ってすごい。
  刀でBETAに勝つって、普通じゃ考えられないよ。

 「―――! 危ない!!」

  ……え?
  父様の声に反応し、勢いよく視界が立ち上がる。
  そこにはやはり、不気味なほど真っ白な二本の足が見えた。
  闘士級は一体だけではない、二体いたのだ。
  母様はそれを確認すると、大きく後ろへと下がった。
  退がることにより、闘士級の全体が目に映る。
  闘士級は体の至る所から銃痕のようなものが見え、そこから黄色の体液を流しており、特にひどい左足を引きずるようにこちらへ迫ってくる。
  すでに満身創痍であるのが、見て取れた。
  そして、更に視界に飛び込んできたのは―――先ほど、私達を逃がすために戦っていたアジア人の歩兵の人。
  だが「それ」は、真剣ながらも笑顔で話していた「思いを託す者」の姿は、影も形もなかった。
  闘士級に掴まれたヘルメットにはヒビが入り、表情は苦悶と絶望に満ちたもので止まっている。
  そこから下は―――無かった。
  体が見えない。 首から下にあるのは、白い骨のようなものが左右に揺れているだけ。

  『闘士級の腕に掴まれたが最後、人間は引きちぎられてしまう』

  授業で聞いた言葉が思い出され、
  私は、彼は闘士級によって殺されたのだと、理解出来た。

 (ドクン)

  その考えに至った直後、私の胸を心臓が打ち、脳裏に何かがよぎった。
  以前にも似たような光景を見た気がする。 闘士級……BETAに、誰かを殺された様を。

 (ドクン)

  誰だったか。

 (ドクン)

  そう、確か腕が落ちて、それで……

 (ドクン)

  目の前が真っ赤になって、そう、私の目の前で……

 (ドクン!!)

  私の目の前で、誰かが、BETAに……!?

  そして一瞬、人の皮膚と骨が裂かれグロテスクな中身が曝かれた『人間であるのにもはや人間でない』何かのイメージが
 湧き上がる。
  その光景が思い浮かんだ瞬間、私は悲鳴をあげた。 誰にも聞こえないはずなのに。
  恐怖と悔恨と、大切なモノに手を伸ばしても届かないときに現れる不条理さに対する憤り。
  それらが去来し、胸に強い痛みを走らせる。 まるで心臓が陥没していくような、そんな痛み。

  そのとき、目の前に映っていたBETAが消え、左手で腹部を押さえる視界へと切り替わる。
  BETAがすぐ側にいるにも関わらず、母様は膝を落とし、体を震わせている。
  痛みのせいだろうか、と私が不審に思った直後、何かが横を通り過ぎた気がした。
  瞬間、鈍い音が聞こえる。 そして工事現場などでよく聞くコンクリートが砕かれたような低音が耳に入った。
  その音がする方へ視界が移る。
  白く長い闘士級の腕。 それが深くめり込んだコンクリートの壁。
  そして、力なく垂れ下がる、強化装備を纏った母様の右腕。 よく見るとそれは、くの字に折れ曲がっている。
  くの字の機転となる肘の辺りに目が移る。 だが闘士級の腕と壁にめり込み、見ることが出来ない。
  めり込んだ壁―――そこから、ゆっくりと赤いラインが、母様の腕を流れていくのが見えた。

 「――――――!!」

  耳をつんざくような高音。 ノイズ化された悲鳴なのだと思う。
  壁から闘士級の腕が離れると、母様の腕もゆっくりと壁から落ちていく。
  壁にめり込んでいた部分は、骨だろうか、鋭く尖った突出物が中からせり出しているのが分かる。
  そこから血が流れ、黒光りする強化装備を伝って床に落ちていく。
  カシャッという音が響いた。 その先にはいつ落ちたのか母様が持っていたはずの刀が柄をユラユラさせながら主無く彷徨っている。
  ……つまり今の母様は、身を守る術が何もないのだ。

  そう気づいたとき、私の中で焦りが生まれたことが分かった。
  目の前に立つ闘士級。 そして、血まみれの右腕を抱え、何の武器も持たず、座り込む母様。
  私の前に死が立っている。 母様と私を連れて行くために、その腕を今にも振り下ろさんと佇みながら。
  再び心臓が跳ね上がる。 頭の中で、様々なイメージが浮かんでは消え、膨らんでは弾けた。
  そのどれもが血と死のイメージしかわかない。 ああ、私は今ここで死ぬんだ、という不安と恐怖しか表れない。
  
  ―――だけど、母様は全く違った。
  残った左腕を力強く握りしめ、両の足でまっすぐに立ち上がる。
  私が原因で生まれた腹部の痛みと、赤く濡れた右腕を全く気にすることなく。
  その立ち上がった様には、何の躊躇も見られなかった。 焦りや恐怖、怯えなんて何もなかった。
  そしてまっすぐに闘士級を見据えている。
  私は今、そんな母様がとても頼もしかった。
  BETA、いや『死』について、母様は怯えることなく対峙している。
  私みたいに恐怖で逃げ出すことなく、自分だけの力でしっかりと立ち上がっている。
  ふと、私はさっきの父様の問いを思い出した。
  『なぜそんなに強いのか?』
  私も全く同じ疑問を持った。 母様はなぜこんなに強いのか、と。
  なんでこんなにも気高く、気丈に振る舞えるのか、と。

  ……そう考えていると、闘士級がゆっくりと動き始めた。
  私の中で更に強まっていく死への恐怖。 しかしそれとは別に、新たな想いが私の中に生まれた。
  母様のように、しっかりと立ちたい。 目を逸らしたいけども、今はBETAをしっかりと見よう。
  私も母様のように、強くあろう。 そして一緒に戦いたい……強く、そう思った。
  闘士級の腕がゆっくりと上がっていく。 母様は……母様と私は、それを見据え、身構える。

 「うおおおおぉぉぉ!」

  そこへ叫び声とともに、誰かが飛び込んできた。
  これは、母様の刀を持った父様だ。
  父様は声を上げながら、闘士級の頭目がけて大きく刀を振り下ろす。
  こっちを見ていた闘士級は父様の方へむき直す間もなかった。 刀は頭部にめり込み、そこから体液が噴き出す。
  だが闘士級はまだ死んでおらず、父様の方を向こうと動く。
  父様はそれを見、刀を頭部から抜いて再び振り上げ、そして突き立てた。
  何度もその動作が繰り返される。 その度にBETAの体液が父様を汚していく。
  そして父様の顔一杯に黄緑の液体が拡がった頃、やっと闘士級の動きが止まった。

 「はぁ、はぁ、はぁ……」

  荒い呼吸を繰り返しながら、父様はまだ緊張した面持ちでBETAを見続けている。
  それにしても、父様の行動には驚かされた。 さっきまで座り込んで愚痴しか言えなかった、あの人が助けてくれるなんて。
  
 「……ちくしょう」

  え?

 「ちくしょう、ちくしょう!」

  再びBETAに対し刀が突き立てられた。
  父様は涙を流しながら、既に事切れた闘士級を刀で滅多刺しにし、罵声を浴びせる。

 「こんな奴らに委員長が! 彩峰が! たまが! 美琴が!?
 ふざけんなっ! ……ふざけんな……」

  初めは怒号だった声が、だんだんと小さく弱くなり涙声と変わっていく。
  
 「俺は守るって決めたんだ……人類を、みんなを……
 その力があるはずだって、何かが出来るはずだって……それなのに……それなのに俺は!」

  刀を突き刺したまま、手が離れる。
  それから父様は天を仰いだ。 悲しいのか怒りなのか、よく分からない感情をその表情にたたえながら。
  父様は、やるせないんだと思う。 自分の思いと行動が離れているのが、とても辛いんだと思う。
  本当は父様も戦いたいんだ。 怖くても、しっかり立ちたいんだ……母様のように。

  ふと、父様の背中が眼前に飛び込んできた。 
  いや、違う。 母様が背中に飛び込んだんだ。

 「…………」

  視界がにじみ出す。 母様は、泣いているのだろうか?

 「……ごめん、ごめんな」

  父様はこちらに向き直り、母様を易しく抱き寄せる。
  体液のせいでドロドロに汚れた胸板、でもとても広くて、安心できる。
  母様はそこに抱かれながら、小さく何かを呟いた。

 「……俺にそんな資格はねえよ。
 みんなに守ってもらうような資格なんて。
 俺は守りたかったんだ。 守ってもらうんじゃなくて……みんなを、守りたかったんだ」

  母様の腕が、微かに震えている。
  BETAに対峙しても微動だにしなかった母様が?

 「ありがとうな、―――。
 気を遣わせちまって」

  父様の笑顔……とても穏やかで、優しそうで……
  以前から夢に見ていた、頑張っている父様の顔。
  ああ、やっぱりここにいたんだ。 父様だったんだ。
  私は、今抱かれているのは母様のはずなのに、まるで自分が抱きしめられているような、そんな感じがした。

 『……横浜基地……生存者…………る』
 「!!」

  突然、ヘッドセットに通信が入った。
  その声はとても重々しい。

 『私は……ウル……ノッドである……
 ……諸君……っての通り…………基地は……敵にほぼ制圧され……』
 「制圧、されたのか?」

  ノイズが激しく、通信は途切れ途切れにしか聞こえない。
  だがその声の悲壮さ、そして端々から聞こえる不吉な言葉が、現在の状況の緊迫さを強調させている。

 『司令部も……撃され……保たない……
 生き残った者に………………当基地の最下層……を破壊せよ』

  不意に、横浜基地の詳細図が網膜に現れた。 司令部から情報が回ってきたのだろう。
  それでは、基地最下層にある『反応炉』が赤く点滅していた。
  これを破壊せよ、ということだろうか?

 『横浜が……ハイヴとな…………日本……世界の危機……
 なん……ても……阻止す……』
 『殉じた者……生を無駄に……いために……
 人類……明日のため……』
 『諸君……徳義と…………信ずる……』
  
  そう言い終えたとき、通信が途絶えた。 目の前で父様が何度も確認しようとしているが、何の返答もない。
  おそらく司令部は、もう……

 「…………」

  二人の間に流れる沈黙。
  今の通信によって、さっき浮かんでいた父様の笑顔は消えうせ、再び絶望に染まっていた。
  でも、それも仕方がない……だって司令部が落とされたということは、勝つ見込みが全く無くなったも同然だ。
  しかも基地の最下層に行って反応炉を破壊せよ、なんて。 『死ね』というようなものじゃないか。

 「…………」

  更に沈黙が続く。 ふと、母様がBETAに突き立てられた刀を引き抜いた。
  そして腕を後ろに回す。 一体、何をしようというのだろう?

 「!? ―、―――!」

  こっちを見た父様は突然、声を上げた。
  すると母様の腕が前に戻る。 手には、母様が最後まで手入れを欠かさなかった、美しい長髪が握られていた。
  父様から『綺麗だ』と呼ばれたという、本当に大切な、大切な髪……それを母様は、刀で別けたんだ。

 「何をしてるんだよ!」

  母様は父様の言葉に耳を貸さず、髪をまとめていた白いリボンで一つの束とする。
  そして横に落ちていた鞘を拾い上げ刀を納めた。

 「―――、何を」

  父様は動かず、ただ不審そうに母様の行動を見続けている。
  でも、私はなんとなく母様の行動が理解できる。
  きっと母様は……
  そう思っていると、母様は髪と刀を父様へ差し出した。

 「何、だよ」

  父様は受け取ろうとせず、顔を背けた。
  多分、父様もわかっているのだろう。 母様が何をしようとしているのかを。
  母様はそんな父様のことに構わず、髪と刀を差し出し続けている。

 「俺は、受けとらねえぞ。 絶対に受けとらねえ」

  こっちを見ようとしない父様。 すると、髪と刀を床へと置き、父様へ背を向ける。

 「!? 待て、待ってくれ!」

  後ろから声が聞こえる。 しかし、母様は振り返ろうとしない。
  母様はそのまま、何かを父様に伝える。

 「これをもって、帝都へ行けだって?
 そんなこと出来るわけねえだろ!」

  それに答えるかのように、ノイズが聞こえた。 母様の、声が。

 「…………」

  突然、父様の声が止んだ。
  そして、とても切羽詰った小さな声が、発せられた。

 「……俺に、委員長たちのことを語り継げって言うのかよ」

  !!??


 『私が望むのは、貴女に母の生き方を誇らしく語ってもらいたいということ。
 そして犠牲にならざるを得なかった人々が、どのように生きてどのように死んだのか、私は貴女に託したい』
 『そしてこの地球で、確かに『人類』が生きていたんだということを、覚えていて欲しいのよ』


  不意に、『まりもちゃん』の言葉が思い浮かんだ。
  いつ言われたものかは思い出せないけど、とてもとても大切な言葉。
  父様も、私と同じことを言われたんだ……

 「……なんでだ、なんでお前は戦えるんだ。 腕を怪我して、こんな状況になっても、まだ。
 血なのか? 将軍家だからか? この国を守るっていう志があるからか? 教えてくれよ……なんで、俺とお前はこんなに違うんだ」

  瞬間、バッと母様は父様の方を向く。
  そして顔を俯けている父様の胸へと飛び込み、そして、
  父様の唇に、自分のそれを、重ね合わせた。
 
 「!?」

  父様の驚いた表情が目に入る。 しかしそれも一瞬のことで、母様は目を閉じたのか、視界が真っ暗になった。
  とても、とても長いキス。 なぜか、この空間だけ他とは時間の流れが違うような、そんな気がする。
  ……ゆっくりと母様の目が開かれていく。 既に父様から離れている。
  驚きの表情を浮かべたままの父様、そんな彼を母様は見据え、何かをゆっくりと呟く。
  そして再び背を向けると、母様は勢いよく走り始めた。

 「―――!!」

  母様を呼ぶ声がする。
  しかし母様は脇目もふらずに、死体が充満する廊下を、ただ走り抜けていった。




  
  ―――母様は何を父様に伝えたんだろう?
  自分が強い理由だろうか。 それとも、何か別のことだろうか。
  私も父様と同じ疑問を持ち続けている。 母様はなんで、こんなに強いのか、と。
  バーナード星系でも、そしてここでも、母様は何も恐れるものがないかのように、戦えている。
  ……でも、本当は違うと思う。
  母様は、怖がっていた。 父様がBETAを滅多ざしにしている様へ飛び込んだとき、手を震わせていた。
  本当に僅かだったけど、私はあれが目に付いて離れないんだ。
  そして、さっきのキス……
  母様はきっと、父様を失うのが怖かったんだと思う。
  人は、愛が深ければ深いほど、それを失うことに恐怖を感じる。 それこそ、自分の命が羽根の重さと感じられるくらいに。
  強大な敵と対峙するよりも、自分が死ぬよりも、父様が死んでしまうほうが怖いんだ。
  だから、父様に髪と刀を託して『逃げて』と伝えたんだと思う。
  本当に母様がそう思っているのかは分からない。 私に母様の言葉は聞こえないし、表情を知ることは出来ない。
  私の知っている母様なら、そうなのだろう、ということだ。
  でも、じゃあ母様にとって仲間は大切でない? 失っても悲しくない?
  そんなことは当然ない。 悲しみはあっても、それを乗り越えるだけの強さを持っているというだけの話だ。
  乗り越えられる理由は、母様の『出自』故だろうか。 それとも『民の模範たれ』という志のおかげなのだろうか。
  結局、ここで最初の問いである「母様は何故こんなに強いのか」に戻ってしまって、頭が混乱するだけで終わった。

  ……一方、母様は腕から血を流しながらも、歩き続けている。
  本当は激痛が走っているだろう。 右肘の骨が突き出しているのだから。
  気づけば、既に廊下を抜けており、格納庫にたどり着いたことが分かった。 周りでは、整備士と衛士が忙しそうにごった返している。
  さっきの通信、つまり反応炉を破壊せよという命令を果たすため、残っている戦術機を動かそうとしているのだろう。
  だが、全身が揃っている機体は格納庫内では見当たらない。 集積場でほとんどの機体はBETAにやられ、ここにいる機体は破損して
 命からがら逃げ出してきたものばかり。
  目の前で、撃震が立ち上がるが、右腕が存在しない。
  あっちでは陽炎がゆっくりと立ち上がろうとしている……が、途中で左脚が折れ、収まっていたハンガーに再び戻った。
  あんな機体で、大量のBETAが向かっている反応炉へ行くなんて、無茶にも程がある。
  そうした中、母様の足が止まった。 そして、ゆっくりと目を上げていく。
  そこにあるのは『武神』の姿だった。 私は以前、この機体を教科書で読んだことがあった。
  日本帝国が生み出した、第三世代戦術機の最高傑作の一つ。 その名は武神からとって「武御雷」と呼ばれた。
  そして、この紫の武御雷は将軍のみが搭乗を許された、機体としても最高の特別機だ。
  そんな機体が、どうしてここに?
  私の疑問に誰も答えるはずもなく、母様は機体横のリフトへ乗った。
  クレーン車のようにゆっくりと上昇していく。 下では、たくさんの人達が自分たちの任務に奔走していた。
  パーツを集め、何とか修理をしようとしている整備士達。
  五体が完全でないにも関わらず、出撃していく衛士達。
  更に向こうでは、ケガをした人間達が地べたに寝かせられ、衛生兵達が必死に看護を行っている。

  それらを見た私の中で、何か熱いものがこみ上げてくるのが分かった。
  この横浜基地は、『歴史』においては、人類が敗北することになっている。
  BETAに敗北し、ハイヴになるんだ。 つまり彼らの想いは全くの無駄になってしまう。
  だけど今の彼らを見て、そんなことが信じられるだろうか。 そんな『歴史』を、『運命』を単純に受け入れて良いのだろうか。
  ……受け入れて良いはずがない。 彼らの想いは、絶対に報われるべきだ。
  もちろん榊さんや彩峰さん、珠瀬さんと鎧衣さん達の想いも。

  そして、頂きまで上がったリフトから、母様は武御雷のコックピットへと移る。
  コックピットが閉まると、着座情報転送、遺伝子情報確認、という表示が母様の網膜へと映し出されていく。
  情報転送が続いている間、母様は懐から、白と紫の布地だけで作られた質素な人形を取り出す。
  その人形は二体あって、まるで仲睦まじい姉妹のように見えた。 
  だけど、なぜだろう。 私はこの人形を見た気がする……いつか、どこかで。 
  母様はその人形をコックピット内に優しく置く。 すると今度は、視界が母様の下腹部へと移った。
  そして自分のお腹を、ゆっくりと優しく撫で始めた。
  撫でている手には全く力は入っておらず、まるで子供の頭を優しく撫でてあげるような、そんな動きを続けている。
  お腹が撫でられるたびに、世界がにじみ出す。 そして太股の部分へ水滴が幾つか落ちた。
  これ、まさか私のために…………?
  ふと、私が小さい頃の母様が思い浮かんだ。
  地球のことを喋るとき。 戦友達のことを話すとき。 そして、父様のことを語るとき。
  私が寝る前に、母様はとても優しい笑顔で教えてくれた。
  きっと今も、そんな顔で私を撫でてくれている、そんな気がする。

  ―――『情報転送完了』という言葉が網膜に映った。
  視界はコックピット内から、いきなり外部の格納庫のものへ。
  それから母様は涙を拭い、前方へ顔を上げた。
  ……結局、母様の強さの理由は分からない。
  でも私は、母様のように強くありたいと思う。
  かつても今も頑張っている人達の想いを無駄にしないために、私は強くならねばならない。
  私の恐怖や苦痛が母様の邪魔をしないように。
  そう。
  私は『母様になる』のだ。
  私と母様は一心同体となれば、強大な敵や死に対峙しても物怖じしなくなれば、奇跡を起こせる気がするんだ。


  …………人類がBETAに負ける『運命』を覆す、そんな奇跡を。













[3649] 第五話「それは雲間に見える星」 第六節 <終>
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/12/14 01:02
  

  
  ……月は地獄だ……
  私はその言葉を思い出しながら目の前の惨状を見ている。
  BETAによって最初に蹂躙された月面基地の人々も、今私の前に拡がる光景を見たのだろうか。
  横浜基地の主縦坑を十数機のF-4J撃震やF-15J陽炎と共に駈け降りた私と母様は、武御雷の中で呼吸を乱しながら、視界一杯に
 蠢くBETAと対峙していた。
  目標は、目の前にいるBETA群の先にある、横浜基地直下の「反応炉」だ。
  この反応炉を潰すことで横浜のハイヴ化を遅らせることが私達の任務なのだが、反応炉へと続くゲートはBETAで一杯となっていた。
  既にヴァルキリーズと呼ばれる精鋭部隊が先行したはずなのだが、眼前のBETAの数は全く減った様子がない。
  ヴァルキリーズはここを突破出来たのか、それともやられてしまったのか……
  確かめようがない私達は、ただ前へ進むしかない。 どのみち任務は遂行せねばならないのだ。
  だが進むために何度も何度も殺しても、次から次へと湧いて出て思うように進めない。
  これこそがBETA最大の恐怖だ。 どこまでも続く海のように、奴らは私達を溺れさせる。
  きっと月の人達も同じような感想を持ったんだろうなと思う。 「どこに果てがあるんだ」と。

 「ぎゃああああ!」

  悲鳴が聞こえ、仲間の位置を示す青マーカーが消えた。
  これで何度目だろうか、もう慣れてしまった。
  気づけば半分近くやられてしまっている。 仲間のマーカーは、もう6機程度しか見えない。
  一方、BETAは増えることこそあれ、減ることはなかった。
  状況としては、周りをBETAに囲まれ、どこにも逃げることは出来ない。

  ……だが、誰一人諦めていなかった。 諦めるわけにはいかなかった。
  もし敵が反応炉からエネルギーを得て、この基地をハイヴにされてしまったなら、それは日本、ひいては世界の滅亡に繋がってしまう。
  みんなそれを分かっている、だから負けられないんだ。
  例えそれが、すでに決まっている「人類の歴史」すなわち「運命」だったとしても。
  
 「!!」
  
  不意に、目の前の不細工な要撃級の感覚器が見えた。
  それに向かって36mmを発砲し粉々にすると、残った要撃級の身体を踏み台にし、武御雷は跳び上がった。
  そして真下にいるBETA群へ斉射、そこへ着地し、更に前へ進んでいく。
  
  ……母様の呼吸は未だに荒いままだった。
  疲れた、のではないと思う。 コックピット内には夥しい血が飛び散り、真っ赤な点が幾つも見られた。
  闘士級に砕かれた右肘、そこから突きだした骨のせいで、母様の腕は真っ赤に濡れてしまっていた。
  その血が戦術機の激しい動きで、コックピット内に飛散しているのだ。
  きっと、とんでもない激痛が走っているんだろうと思う。 そして、こんなに血が出てしまって母様は大丈夫だろうか、と心配に思えてくる。
  右腕はほとんど動かせないのだろう。 武御雷の右腕には、機体に不釣り合いな92式多目的追加装甲が装備されている。
  敵に囲まれ、身体には激痛が走る……普通ならとっくに諦めてしまってもおかしくないだろう。
  だけど、母様は違う。
  どんなに不利でも母様は進む。 目の前に立つ敵を倒して、ただ、前へ。
  だから私も諦めるわけにはいかない。 母様が諦めていないのに、諦められるはずがない。

  目の前からは、たくさんの要撃級と戦車級が迫ってくる。
  母様は左腕と兵装担架システムに装備された87式突撃砲を、やつらへ向けて一斉射撃した。
  要撃級は体液を噴き出し倒れ、戦車級は粉々の肉片と化していく。
  だが当然のごとく、奥から同じだけの大群が現れた。 というより、視界に映っていない奥にはまだまだいるのだろう。
  そんなことを気にする余裕などない。 母様は兵装を長刀へと換え、僅かに生じた空間へと飛び込んでいく。
  要撃級を長刀で斬り払い、戦車級は踏みつぶしながら、前へ進んでいく。
  ……網膜に映るMAPによれば、反応炉まで高々250m。
  その250mという距離が、私には果てのない悪路に見えた。 MAPには何処までも、真っ赤に染まった道しか見えないのだから。

  ふと、目の前に『警告』という文字が浮かぶ。 そして次の瞬間、私達を強い衝撃が襲った。
  目の前がグラグラと揺れ、再び血球が飛び散った。 
  右腕の追加装甲を、要撃級が打ったのだ。 動かせない右側の敵への対応が遅れてしまったのだろう。
  だが、分かったからといって右腕が動くわけではない。 母様は後ろへ下がりながら突撃砲を装備し発砲、敵を牽制する。
  せっかく稼いだ距離が、また振り出しに戻ってしまった……くそっ。
  目の前に拡がるBETAの壁。 殺しても殺しても何も変わらない様に、何度見てもイライラした。

  ―――瞬間、再び網膜へ『警告』が浮かび上がった。
  また敵か!?と私達は身構える。 しかし、まだ接触出来るほど敵は近づいていない。
  すると前方、BETA群の奥も奥から、光が差し込み始めた。
  そして巨大な爆発音、バリバリという何かが引き裂かれるような音が響き渡ったかと思うと、奥のBETAがまるで津波のように
 盛り上がり始めた。
  津波は他のBETAを巻き込みながら、通路いっぱいに拡がり、ここまで迫ってくる。
  そのスピードはあまりにも速く、私と母様は巻き込まれるしかなかった―――



  ……振動が収まり、ゆっくりと眼が開かれる。
  まず飛び込んできたのは、辺り一帯に散らばるBETAの残骸だった。
  今の津波はおそらく、爆発によるモノだったのだろうと思う。 これほどの爆発力……S-11か?
  私は何故か、今の爆発がS-11によるものだと確信に至った。 以前にも似たような経験をした……のか?
  不思議な気分に囚われながら、MAPを確認する。
  MAP上には、細かく散らばったBETAの赤マーカーと、私達の武御雷を示す緑マーカーしか見えなかった。
  ……他の人達は助からなかったのか。
  ふと、視界が下へと移る。
  !?
  そこには、突撃級に潰された二機の撃震があった。 目の前の位置で。
  どういうことなのだろうか。 私達とBETAの、ちょうど間に来るなんて。
  ハッ、と私はさっきの状況を思い出した。
  爆発によって吹き飛ばされ、こっちへ迫ってくるBETA。 そして武御雷の前に立ち塞がる、二機の撃震。
  まさかこの人達は……私達の、盾になって?
  ……また、か。 またなのか?
  また、私たちのせいで誰かが犠牲になったのか?
  無礼にも、助けてくれたであろう撃震に「何でこんな事を」と責めたい気持ちになってしまった。
  だって私は、助けられたいとは思ってない。 私は助けたいんだ。
  それなのに、何でこんなことに……
  私がそう思っていると、母様は左手を頭まで持ってくる。
  おそらく、二機の撃震に敬礼をしているのだろう。
  そうして母様は、噴射跳躍で反応炉へと向かった。
  ……母様は今、どんな気持ちなんだろう。 「弱者を守れ」と言ってきた母様は、守られることにどんな思いを抱くんだろうか。
  私は今、それが無性に知りたかった。 母様も私と同じように思っている、そうであることを信じたくて。





  ―――反応炉へと続くゲートを抜けると、そこには異様な光景が広がっていた。
  S-11の爆発に巻き込まれバラバラになったBETA、また衝撃で崩れた天井に潰されたものもたくさん見える。
  ずっと奥の外壁には、コンクリートがはがれ落ちたのか、異質な造形物の姿が見えた。
  人間が作ったとは思えない不気味な壁、それはまるで蟲の体内を想起させ嫌悪感が生じる。
  そして、この部屋の中央部……より堆いものが見えた。
  私は初めて見たにも拘わらず、あれが「反応炉だ」とすぐに分かった。
  反応炉は先ほどの爆発のせいか、何の反応も示していない。
  周囲もシィンと静まりかえり、さっきまでの雑多が嘘のようだ。
  おそらく、先行していたヴァルキリーズという部隊の誰かがS-11を爆発させたんだと思う。
  本来は爆発させて逃げるのだが、たった一つの脱出口であるゲートから出た者はいない。
  ヴァルキリーズは命を懸けて任務を全うしたんだ。
  ということは今、このフロアで生き残っているのは、私達だけということか。 敵も味方も合わせて。
  ……母様はゆっくりと周囲を見渡す。
  何かを探しているんだろうか。 まさか、生存者を?
  だが辺りには動くモノなど何も見えない。 あるのは、どこまでも続くBETAの死骸だけだ。
  ………………でも、何故だろう。 
  なぜ私は、こんなに不安を感じているんだろうか。

  ―――そのとき、カラカラという音を耳が拾う。
  そこへ視界が移った瞬間、
  世界が、揺れ動いた。

 「!?」

  母様は武御雷を後ろへと退げ、突撃砲を構えた。
  そして目の前からは、地面という地面、死体という死体から次々とBETAがあふれ出し、
  網膜のMAPは、あっという間に赤色で染め上げられた。 

  “やっぱり”と、私は目の前の光景に既視感を覚えた。
  似たような経験をした気がする。 私もこんな感じで、敵に囲まれて……
  そうして迫ってくる敵を、今の母様みたいに突撃砲で殺して、殺して、殺し続けた。
  でも、敵を示す赤マーカーは全然減らないで、気づけば私の周りは…………私は
  たった一人に、なっていたんだ。

 「!!」

  耳をつんざく大きな音が響き、私を現実へと引き戻した。
  目の前の敵陣へ36mmが雨あられと降り注いでいる。
  だが、その豪雨はほんの数秒で止んでしまった。
  さっきまでの戦いで弾を使い切ってしまっていたのだ。
  ウエポンラックにある突撃砲も同様だった。
  母様は87式突撃砲を投げ捨て、ウエポンラックも即座にパージする。
  そして長刀へと持ち帰ると、反応炉への道を塞ぐBETAの集団に吶喊した。

  母様の一撃は確実に敵の急所を捉え、一太刀の下に敵を切り伏せていく。
  あるものは縦に、横に、または斜面に刀が入れられて、その動きを止める。
  しかしそれは、あくまで単体のみだ。 さっきと同じで、敵が次々々に現れる現状では何も変わらない。
  そればかりか動かない右側に注意しなければならないため、細かい移動が多くなってしまう。 そのためか、反応炉へ近づくことが
 ほとんど出来ていない。
  もっと威力の高い武器があれば、広範囲にダメージを与えられる兵器であれば……

 「!?」

  警報が響いた。 武御雷がBETAに近すぎていることを警告するものだ。
  機体の片側が動かない以上、どうしても何回かは敵の接近を許してしまう。
  画面が切り替わると、要撃級の腕がこちらへ振り上げられるのが見えた。
  母様はそれをかわそうとせず、武御雷の長刀を前へ持って行き、その腕を受け止めようとした。
 
 「!!」

  ザラザラとした衝撃が機体を流れる。 腕を振り下ろした反動から体勢を崩した要撃級は、弱点である感覚器を晒している。
  母様はそれを長刀で断ち切る……ことはしなかった。
  すぐ目の前に敵の弱点が見えるのに、母様は何も攻撃を加えない。
  なぜ……と私が疑問に思った瞬間、網膜へ機体損傷を告げる画面が浮かんだ。
  映る機体の図面、左腕の部分が真っ赤に染まって見える。
  母様が自分の見える位置へ武御雷の腕を持ってくると、そこには親指しか残っていない腕が見えた。
  これまで片手だけで突撃砲と長刀を使い続けてきた劣化なのだろうか。
  ともかく一つだけ分かっているのは、この左腕はもう何にも使えないということだ。
 
  ……!?
  再び強い衝撃が走る。 腕に気を取られたせいで、要撃級が再び攻撃してきたことに気づかなかった。
  攻撃を受けた右腕の追加装甲が地面へと落ち、こっちへ迫っていた戦車級数体を巻き添えにするのが見えた。
  再々度、要撃級の腕が振り上げられた。 それをさせまいと、目の前の位置にある感覚器へ破損している左腕をぶち込んだ。
  音を立て、武御雷の手がバラバラになっていく。 しかし要撃級は怯まない。
  そもそも戦術機の腕は「殴る」ことを前提に造られていない。 ダメージを与えるための強度はないのだ。
  ふと、殴られた感覚器から体液が漏れだした。 ダメージがあったのか?
  よく見ると、触覚器へ短刀が突き刺さっているのが見えた。 武御雷独特の手の甲を滑るようにして現れる短刀、母様は殴るだけでなく、
 それを触覚器へ突き立てていたんだ。
  そして腕がおろされる直前に後ろへと下がる。 要撃級は触覚器に短刀を刺したまま、その場で腕を何回か振り回し倒れた。

  ……倒れた先からはまた別の相手……もう、何度目だというだ!!
  苛つきを通り越して、自分が惨めに思えてくる。 こんなに一生懸命戦っているのに、ボロボロになっているのに……
  何の成果も出せていない自分たちが、虚しく見えてしょうがなかった。
  私はBETAを直接殴ってしまいたい衝動に駆られ、しょうがなかった。
  そんなことを考えていると、突然視点が変わった。 BETAからコックピット内部へ、そして母様は左腕でシートを強く打つ。
  その部分が盛り上がり、開いた。 中にはレバーが見え、それを強く引く。
  すると足下から“何か”がせり上がってくる。 こんな状況で現れる最後の手段。
  私は瞬時に、それが「S-11」なのだと理解できた。

 「…………」

  さっきまで乱れていた呼吸を、母様はだんだんと落ち着かせていく。
  覚悟を、決めているんだろうか。 それともこれが最後の務めだと達観しているのか。
  理由はどうあれ、母様は確実に気持ちを静め、冷静になっていく。
  ……私は、ダメだ。
  母様とは逆で、苦しいほど息が荒い。 心臓は銅鑼を鳴らすように激しく胸を打っている。
  “母様になる”と言っておきながら、このざまだ。
  だけど絶対に邪魔だけはしない。 私も覚悟を決めようと思う。
  そうだ、死ぬのは私だけじゃない。 母様も一緒だ。
  そして私たちの命が、日本と世界、10億人もの人命を救うんだ。
  私の命がみんなの役に立つんだ。 それは素晴らしいことじゃないか。

  母様は反応炉を一度見る。
  先ほどの爆発で至るところが削れているが、青白い輝きがその健在ぷりを示している。
  反応炉から、再びコックピットへ視界を移す。
  目の前にある“SDS”と書かれたS-11の起爆スイッチ。 自分を犠牲にすることで未来を紡ぐ最後の手段。
  私はゴクッと唾を飲み込み、覚悟を決めた。

  ―――母様の腕が振り上げられる。
  ドクン、と今までで最も大きく鼓動が強まり、私は胸に痛みを感じた。

  ―――母様の腕が頂へと到達する。
  最後に息を吸おうと思ったのに、あまりにも小さすぎて空気が入っていかない。 胸が、苦しい。

  ―――母様の腕が振り下ろされた。
  瞬間、私の脳裏にこれまでの記憶が蘇っていく。
  初めに、バーナード星系で夕呼先生や霞お姉ちゃんと過ごしたことが思いだされた。
  誕生日には二人がお祝いしてくれた。 夕呼先生は祝い事があるといつも、酒を飲ませようと絡んできたっけ。
  霞お姉ちゃんはそんな夕呼先生と私のケンカにいつも悪戦苦闘してた。 可愛かったな。
  地球へ行くときも、そうだったよね。
  それで地球に着いたら、まりもちゃんとタケル君、スミカちゃんが友達になってくれたっけ。
  まりもちゃん、とっても優しかったよな……ああ、そういえば月詠中佐も。
  月詠中佐、私のこと抱きしめてくれて、とても暖かかった。 母様みたいだと、思った。
  思い出しながら私は穏やかな気持ちに包まれていく。 何も不安はない、すごく嬉しい。

  ―――母様の腕が、S-11の起爆スイッチへゆっくりと向かっていく。
  それを見た私は、今度は別の記憶を思い出した。
  BETAと対峙し、何の意味もなく無駄死にした榊さん、彩峰さん、珠瀬さん、鎧衣さん。
  闘士級に刳り抜かれた歩兵の頭。 通路に放置された様々な遺体。
  爆発から武御雷を守るため、盾となった撃震……
  私も、彼らのようになるのか? 踏みつぶされて? 体がバラバラになって? 影も形も残さないで?
  死んだら何かを残せるのか、それとも何も残せないのか、そもそも死んだらどうなるんだ?
  消えて、しまうのだろうか。 闇の世界に自分の意識が拡散して、今ある自分がなくなってしまうのだろうか。

  ……嫌だ。
  あんな風には死にたくない! 意味もない死なんて、そんな惨めなのは嫌だ!
  誰にも看取られずに、側に誰もいない死なんて、そんな寂しいのは嫌だ!
  消えるのは嫌だ。 自分がいなくなるのは嫌だ!
  嫌だ、嫌だ嫌だあ!!
  死ぬのはイヤだあああああぁぁぁぁぁぁ!!



  ―――とても大きい振動が起こり、目の前が闇に染まる。
  S-11が爆発したのかは、分からない。
  私はただ「嫌だ」と繰り返し呟くしかなかった。 現実を、認めたくなかった。

  ……何回「嫌だ」を繰り返しただろう。
  世界が白ばんでくる。 私は恐る恐る、目を開く。
  まず飛び込んできたのは『自決装置起動中』と点滅する文字だった。
  その横に、武御雷の機体損傷箇所を示す図柄が現れている。 武御雷の左半身が赤く点滅しており、先ほどの衝撃はBETAの打撃に
 よるモノだと分かった。
  安心した、S-11が爆発したのではなかったのだ。

  ―――安心した?
  私は今、自分が考えたことに小さな違和感を感じた。
  S-11が爆発しなかったことに、まだ自分が在ることに、私は安堵した。
  まだ死んでいないことを、私は喜んだ。
  そう気づいた瞬間、違和感がどこまでも拡がっていくことに気がついた。
  武御雷の武器がなくなり、もはや残されている手段はS-11による自決しかない。
  それは理解できる。
  S-11で反応炉を破壊せねば、世界が滅亡する。
  それも理解できる。
  ……じゃあ、さっき私は、何を言った?

 『死ぬのはイヤだあああああぁぁぁぁぁぁ!!』

  頭の中でさっきの叫びが響く。
  そして私は、自分の顔に血液が流れ込んでくることが分かった。
  顔が紅潮し、熱い。 穴があったら入りたい気分に駆られてくる。
  同時に、これまでの母様の姿が思い出された。
  仲間が殺されても堂々とし、闘士級を前にしても全く怯まない。
  S-11を起爆させるときも、躊躇いなど無かった。 母様は、人類を救うために自分の出来ることをやろうとした。
  でも私には出来ない。 それに気づいてしまった。
  私は、怖い。 死がとてつもなく恐ろしい。
  母様みたいになれば怖くなくなるんだと思ってた。 怖くても、それを乗り越えられるってそう信じてた。
  でも無理だ。 だって私は……私は母様とは違う。
  私は、弱いんだ。



  そのとき、警告音が響き渡る。 『敵接近』という文字が浮かんだ。
  瞬間、戦車級の真っ赤な体が視界一杯に見える。
  母様は体を動そうとするが、全く動かない。
  自分の左腕へ目を向けると……腕が、消えて無くなっていた。
  コックピットの左部分が大きく歪み、左腕がそれに巻き込まれて姿が見えない。
  潰されてしまっているのだ。



  ―――再び警告音が鳴り、正面へ。
  網膜には、大口を開いた戦車級がいた。
  その大口が今にも私たちを貪らんとしているように見えて、
  私はまた、「嫌だ」と叫ぶしかなかった。
  

 「うおおおおぉぉぉ!!」

  !?
  不意に、警告以外の音が聞こえた。
  ずいぶん懐かしく聞こえる他人の声、視界が泳ぎ、その声の主を探す。
  ……いた。
  ずっと向こう、何十体ものBETAの先に、突撃砲を発砲している隻腕のF-4J撃震が見えた。

 「やらせねえぞ! やらせねえぞぉ!!」

  その撃震は、私が今まで見たこともないような機動で敵を翻弄していた。
  跳躍……違う、噴射を途中で中断、即座に着地して攻撃を加えてる。 移動も素早くて、BETA達の接近を許してない。
  全く新しい概念による機動が私を魅了する。 恐怖が、少し和らいだ気がした。
  そして時折聞こえてくる男性の叫びが、私を励ましてくれる。 聞き覚えのある、あの声が。
  
 「まりもちゃんと約束したんだ!
 俺は最後まで生き残って、一人でも多く守ってみせる!
 もう誰も殺させねえ! 俺の仲間を奪わせねえ!」

  パッと網膜に撃震のパイロットの顔が映る。
  ……やっぱり、父様だ。 
  映った顔は涙を流していた。 顔は強ばっていて、唇がゆがんで見える。
  とても怖がっているのが、分かった。
  でも、父様は逃げない。 怖いのに、強くないのに。

 「怖くねえ! テメエ等なんか怖くねえ!!」

  ―――嘘つき。
  本当はとても怖いくせに。 本当は弱いのに、無理をして頑張っているくせに。

 「俺は人類を守るんだ! 世界を救うんだ!」

  ―――出来るわけないよ。 だって未来は、絶望しかなかったよ。
  でも何でだろう。 何で私は、とても頼もしく思えるんだろう。
  父様を見て、どうして私は笑顔でいられるんだろう。
  なんでこんなに嬉しいんだろう。

 「うあああぁぁ!?」

  !?
  何回目かの跳躍からの着地の後、右主脚が膝から折れた。
  自分の重量に耐えられなかったのだろう。 そのまま撃震は、地面に強く打ちつけられた。
  すると、さっきまで全く近づけなかった戦車級が、まるで砂糖に群がる蟻のように撃震へと寄っていく。

 「う、うあ、ああああ」

  ―――父様逃げて、父様!
  私は何度も呼びかけるが、当然返事など来ない。 私の声は誰にも届かない。
  父様の表情がみるみる青ざめていく。
  それと同時に、戦車級が噛み砕く音も段々と大きく聞こえていく。

 「ひっ」 

  ……不意に、バリッと何かが裂けるような音が響いた。

 「うわあああああ!!
 ちくしょう、ちくしょう! 来るんじゃねえ、ちくしょおおおおおお!!」

  絶叫が聞こえ、父様を映し出していた画面が消え音声だけになる。 声と一緒にバックで何かが蠢く音も聞こえた。
  コックピット近くへBETAが侵入したのだと容易に想像がついた。

 「テメエ等なんかに俺たちが! 俺たちが殺されるはずねえんだ!
 俺も…ぐっ!……スミカも、委員長も、たまも、彩峰も、ミコトも、平和に暮らしていたんだ、ごほっ!」
 「それ、なのに……っく!……なのにこっちでだけ、死ぬなんて…………あるわけ……
 ……………ぁ…―――」

  ―――父様?
  ヘッドホンから、声が消えた。
  聞こえるのは何かを貪る音と、バリバリと砕かれる音。
  ……私はもう一度「父様」と呟いてみた。

 「………………」

  返事がない。 ただ続く、無感情な肉の咀嚼音と、無機質な金属の破砕音が耳に入ってくる。
  『いつかどこかで聞いたことのある音』 それが、私の記憶を次々に蘇らせていく。
  指先から内臓までドロドロとした液体が流れるような感覚。 それが拡がる度に、私は体を掻き毟りたくなる。
  そして全てを思い出した後、私は戻った記憶と目の前の光景を否定するため、叫んだ。
 
  ―――やめてえええぇぇ!! 
  もう殺さないで! 奪わないでっ!
  私から誰も連れて行かないで……もう、嫌なの。
  タケル君も死んだ。 まりもちゃんも死んだ。 月詠中佐も死んだ。
  私の周りの人は、みんな死んだ。 もう、十分じゃないか。
  だから、だからお願い……します……
  もう連れて行かないで…………殺さないで……
  お願いだから……神様……





 「……うう……母様、父様……う、う……」

  ―――私は、泣いていた。 周囲が完全な闇に染まった、何もない世界でうずくまりながら。
  もう何も見えない。 周りの喧噪も聞こえない。 感じられない。
  父様の声が聞こえなくなって、気づいたらこうなっていた。

  体の自由も戻ったけれど、私はこの世界で、みんなの名前を呼び続けるしか出来ないでいた。
  母様の戦友達の死に何の価値も見出せず、その惨めさがあまりにも哀れで、悲しくなって。
  結局、父様と母様も、同じだった。
  歴史を変えられずに、『人類の滅亡』という運命が、ただやってくるだけ。
  みんな、信じていたはずなんだ。 人類の勝利を、愛する人の生存を。
  でも、叶わなかった。 命を懸けて繋いだリレーも、結局報われなかった。
  あんなに強い決意と覚悟を持ち、犠牲を払っても、何の意味もなかったんだ。

 「みんな、死んじゃうんだ」

  ……今度は私の番だと思う。
  横浜ハイヴの反応炉を壊してニライカナイの人達を助ける。 それが私の任務『だった』。
  でも出来るわけがない。 タケル君やまりもちゃんは殺され、月詠中佐も死んだ。
  私は母様やその戦友達、父様みたいに強くない……弱いんだ……だから任務を果たすことなんて、出来ない。
  きっと私も死ぬんだろう。 何の意味もなく、価値もない死を、迎えるんだ。
  何の光もないこの闇の中に意識が溶け込んで、自分という存在が消えてしまうんだ。
  体が震えてきた。 ここは寒い……私一人しかいなくて、とても寒い。
  誰も私を助けてくれない、見てくれない。 今から消えようとしているのに、側にいてくれない。
  私は暖かさが欲しい、と思った。
  消える前に、最後に誰かに抱きしめられたいと、そう願った。

  …………………………

  ……………………

  ………………

  …………

  ……
  

 「ぁ」

  ―――暖……かい?
  私は不意に、暖かみを感じた。 とても小さかったけど、確かに感じられた。
  顔を上げ、辺りを見渡す。 でも世界は完全に闇しか無くて、何も見えなかった。
  
 「でも、今確かに」

  何も見えないけれど、私は確かに感じられたんだ。
  周囲を見渡すけど世界は闇のままで、相変わらず寒い。
 
 「あ」

  ―――まただ!?
  同じ暖かさを感じた。 私はもう一度辺りを見渡し、そして闇の世界の空を仰ぎ見た。

 「あれ、は」

  それは小さな『星』だった。 
  完全な闇だと思っていたけれど、私の頭上でたった一つだけ、星が瞬いている。

 「まさか、あれが」

  星は蝋燭の火のようにユラユラと光って見えている。
  何も見えない闇の世界で、やっと見つけた光を私は小さな頃のように必死に見つめていた。
  今でも思い出せる。 私と母様は、いつも一緒に夜空を見上げていた。
  そして母様は幼い私の質問にちゃんと答えて、色々なことを教えてくれたんだ。

  『ふるさとってなあにー?』
  『故郷とは生まれ育った場所のことだ』

  このとき、初めて『故郷』の意味を知ったんだっけ。

  『ここからは見えないが、あの星のすぐ近くに地球という星がある』
  『ちきゅー?』
  
  このとき、初めて『地球』を教えてもらったんだ。

  『この星で皆が平和に暮らしていけるのは、そなたの父様達が地球で頑張ってくれているからなのだ』
  『とうさま、いつかえってくるのー?』

  このとき、初めて父様が地球で頑張っていることを知った。

  『いつであろうか……いつか、会える日が来よう』
  『とうさま、それまでがんばってるのー?』
  『そう、そなたや母様、みんなのためにずっと頑張ってくれている』

  ………………

 「……あれ?」

  ふと、暖かい何かが顔を伝った。
  私は泣いていた。 寂しさとか辛さとか、そういう涙じゃない。
  とても暖かくて気持ちいい。 そんな涙が、ポロポロと瞳からこぼれて落ちる。
  母様が私に色々なことを教えてくれたとき、すごく嬉しそうな笑顔だった。 とても優しい、笑顔だった。
  バーナード星系から見える星光が愛する人であるかのように、母様は柔らかい言葉で語っていた。
  それら情景を思い出す度に、私の隙間だらけの心がとても満たされていく。

 「……母様」

  そんな母様が伝染病で逝ってしまった後、私は一人で星を見続けていた。
  辛いときも嬉しいときも、苦しいときも悲しいときも、いつも地球に語り続けていた。
  父様が私を見てくれている、そんな気がしたんだ。 私はいつも『父様』に励まされて、頑張ることが出来た。
  今また、あの星光が私を励ましてくれているようなそんな気がする。
  
 「……父様」

  私は、右手を光に向かって突き出す。
  そして星を掴むかのように、ギュッと握りしめた。
  そのまま自分の顔の前へ持って行き、ゆっくりと開いていく。 手には、何も握られていない。
  開かれた手、何も有りはしない手のひらを見て、小さく呟く。

 「この手で、私は何を掴みたいんだろう」

  誰も答える人はいない。 ここには私しかいないのだから。
  答えを出す前に私は、これまでの自分をもう一度思い出していく。
  他人の感情を無視して、自分勝手な行動を繰り返してしまった。
  守りたかった人を、守れなかった。
  自分の役目から、逃げ出してしまっている。
  
  でも、私は『決意』もした。 自分の使命を果たそうと。
  守れた人もいた。 スミカちゃんや天元山のお婆さんを、守ることが出来た。
  後悔し懺悔したけど、その痛みを乗り越えようと『覚悟』をした。
  それが自分の使命、責任なんだと信じて。
  
 「……だけど」

  だけど、私は怖い。
  自分のやっていることが無駄なんじゃないかって。
  希望なんてない、絶望しかないのが運命なら、何をしたって意味なんて無い。
  そんな“死”が、私は、怖い。
 
 「!!」

  再び、父様や母様達の無意味な死が頭をよぎる。
  急に寒気が戻り、体の震えが再び始まる。
  暖かさが欲しくなって顔を上げると、星の光がとても弱くなって、今にも消えようとしていた。

 「!? ま、待って!」

  立ち上がろうとする。 でも、何故か足が滑って立ち上がれない。
  そうしている内に光は更に弱くなっていく。 何度も立とうとするが、足が大地につかなくて立てない。
  何度も何度も、何度も何度も……でも、立ち上がれない。
  苛立ちが募り、焦燥感が大きくなっていく。 しかし光がほとんど見えなくなるまで弱くなっている姿を見て、私の感情は
 絶望へと染まった。

 「やっぱりダメなんだ。 私じゃ、ダメなんだ」

  座ったまま、また涙を流す。 手の甲に落ちた今度の涙は、とても冷たく感じた。
  だけど涙の冷たさを感じたとき、私は違和感を覚えた。
  この涙に溺れたままでいいのか。 私はそんなものをこの手で掴みたかったのか、と。

  ふと、夕呼先生と霞お姉ちゃんの笑顔が思い浮かぶ。
  タケル君とスミカちゃん、神宮司大佐、月詠中佐。 榊さん、彩峰さん、珠瀬さん、鎧衣さん。
  地球に残って戦い続けた大勢の人達。 死んでしまった、たくさんの魂。
  そして、父様と母様。 
  みんな笑顔だ。 とても暖かな、優しい笑顔だ。
  そうだ……私が掴みたかったのは、こんな冷たい涙じゃない。
  私が掴みたかったのは……守りたかったのは
  私が守りたいのは……!!

  ギュッと右手を握り込む。 不意に、手の中に異物感を感じた。
  私は右手にある何かを、ゆっくりと持ち上げた。

 「……那雪、斑鳩?」

  握られていたのは母様の刀だった。
  その刀は自分の存在を威示するかのごとく私に存在を主張し続ける。
  闇に負けてなるモノか、と感情を持っているかのように。
  
  私はその刀を立て、それに体重を預けて立ち上がろうとした。
  しかし、やはり足が滑って思うように立てない。
  もう一度、刀を立てて、今度こそ。
  大地に立てた那雪斑鳩に体重を預け、二本の足を一本ずつ、ゆっくりとしっかりと、大地につける。
  右足に地をついた感触が生まれた。 今度は那雪斑鳩と右足を支えにしながら、同じように左足も。
  
 「……立てた」

  両足はしっかりと大地を踏みしめ、突き立った那雪斑鳩に両手を預けながら。
  それを確認し、再び天へと目を向けた。 光が、微かにだけど見えた。
  そして私は『父様』へ向けて、ゆっくりと今の想いを言葉へと紡いでいく。

 「私は守る」

  ―――何を?

 「守るべき人達を、その想いを」

  ―――どうして?

 「それが私の為すべきこと、為さねばならないこと、為したいことだから」

  ―――なんで?

 「…………」

  目を瞑る。
  瞼に浮かぶのは、みんなの記憶。
  みんなの戦い、みんなの日常、みんなの笑顔。
  それを破壊していくBETA。 みんなは、想いを武器に変え、戦いに臨む。
  BETAに殺されたけれども、みんなの意志の強さは私が一番よく知っている。
  私は弱いから、みんなの強さを知っている。
  だから……私は負けない。 負けるわけにはいかない。
  彼らの強さを、生を、誇り高いものとして示すために。
  みんながまた、笑顔でいられるために。
  そう、それこそが、

 「それが私の願い……私の……
 私の、意志だ!!」

  その言葉を発した瞬間、突風が起こった。
  私は足を地にしっかりと着け、那雪斑鳩とともに風を受け止める。
  ……そして風が止んだとき、私はふと空を仰いだ。

 「ふわ、あ……!?」

  空に拡がるのは満天の星空だった。
  幾つもの光が空にあふれ、輝いている。 まるで暗雲が晴れた後の光景のように。
  ……気づけば私は、もう寒くなくなっていた。
  理由は分かっている。 胸の中に、暖かい何かが生まれたからだ。

 「みんな。 私、行きます。
 力を貸して、とは言いません。 見守ってください、なんて傲慢なことは言えません。
 でも、良かったら見ていてください。
 私の戦いを、私の意志を」

  そして私は満天の星空へ向けて、満面の笑みで、叫んだ。

 「行ってきます!!」

  その瞬間、星空が点から線へと変わり、世界が一カ所に集まっていく。
  私は何者かに強く引っ張られる感覚に襲われた。そして、自分の意識が遠くへと弾かれるのを理解した直後、
  「ありがとう」と一言だけ呟いた。





  ―――横浜ハイヴ大広間では、反応炉が不気味な低音を唱いながら青白く輝いている。
  真那のTYPE-00FX武御雷に搭載されたS-11bで相当のダメージを負ってはいるが、機能には問題ないようだ。
  そして反応炉の下では、大広間を埋め尽くすBETAが、まるでオブジェのように固まって動かないでいた。
  ピクリともしない醜悪な侵略者達。 彼らは皆、ただ一点だけを見つめている。
  視点の先には、人間の脳髄が入った柱が無数に並んでいた。
  柱は反応炉と同じく青白く輝いており、まるで標本のようだ。
  更にBETAの視点を細かくしていく。 すると、BETAは無数の柱の内二つだけを見ていることが分かる。
  他の柱に比べ、夫婦樹のように寄り添って立つ二本の柱。
  BETAはその二本の柱を、侵入者を排除することすら忘れて、ただ見入っていた。
  ……そして今、二本の柱の内一つが、周りよりも強い光を放った。
  
 「ぉぉぉぉおおおおお!!」

  叫び声と共に、あるBETAの一群で小さな爆発が起こった。
  真っ赤な戦車級の肉片が飛び散り、動かない他のBETA達に体液がかかっていく。
  その爆発の中心にいたのは、肉片がべったりと付いて血を流しているように見えるTYPE-00RR武御雷だった。
  右肩部のベクタードスラストノズルと左跳躍ユニットを同時に点火し、超信地旋回によって機体に取り付く戦車級をスーパーカーボン製の
 ウイングで木っ端に断ち切ったのである。
  旋回を終えた瞬間、武御雷はバランスを崩し倒れそうになるが、ウエポンラックから長刀を取り出し大地に突き刺し何とか凌いだ。
  濃紫の鎧は至る所がはがれ落ち、左腕は既に無い。 機体中に戦車級の噛み跡が見え、機体が動こうとする度にギギギと鈍い音がする。
  それは機体の外面だけではなく、内面も同じだ。

 「はあ、はあ、はあ」

  武御雷のコックピットでは、息を荒げて反応炉を見続ける真璃の姿があった。
  頭から流れた血が髪を伝い、ポタポタと太股へ落ちていく。
  体中にはコックピット内が破損した際に生じた破片が、強化装備を貫いていた。

 「……ぅく!」

  強烈な痛みが真璃の左腕に走った。 見ると、指三本ほどもある破片が左腕に刺さっていた。
  それを掴み、力を込めて抜いた瞬間、勢いよく血が噴きだした。 血管を傷つけていたのだろう。
  彼女は自分の首に巻いていたマフラーを取り払い、傷ついた腕に強く巻いて、締めた。
  霞がバーナード星系で彼女に与えた、真っ白なマフラーはみるみる内に赤に染まっていき、真璃はその様を見て悲しくなった。

 「……ごめんね、霞お姉ちゃん」

  彼女がそう呟くと、まるで待っていたかのように周囲のBETAが武御雷の方を向いた。
  柱を見ていた大広間のBETAが向きを変えるだけで広間は大きく揺れ、その数と強大さを真璃に示す。
  ……向きを変えてから数秒後、BETA達は真璃という最後の侵入者を排除するため、また活動を再開した。

 「はあ、はあ、はあ」

  BETAが押し寄せてくる。 ただ無機質に、無感情に、無慈悲に、自分たち以外の存在を消し去ることを目的として。
  化け物達があらゆる場所から溢れ、積み重なり、堆くなっていく。 まるで津波のように。
  どこにも逃げ道はなく、BETAがいない空間すら見当たらない。
  それはさながら、一人の人間が嵐の中、暗黒の海に投げ出された様に似ていた。
  人は陸地を求め、泳ぐだろう。 光を求め、彷徨うだろう。 助けを求め、叫ぶだろう。
  そして絶望するのだ。 
  歩みを邪魔する荒々しい波。 どこまでも続く漆黒の海。 助けを消し去る嵐の濁声。
  それは変えられぬ運命。
  幾たびも繰り返される運命。
  人は“運命”という巨大な歯車を、ただ回り続けるしかない。

 「……違う」

  だが、真璃は知っている。
  海に幾度と投げ出されようが泳ぎ続け、決して抗うことをやめようとしない人々を。
  そうした“運命”に対し、それでもなお闘った人々がいると。
  例え何度も運命が繰り返されようが、それでも自らの闘いをやめることはないと信じられる人々がいると。
  バーナード星系で今も戦い続ける夕呼と霞。
  地球で命を懸けた悠陽、まりも、真那、タケル。
  先ほど幻の中で見た千鶴、慧、壬姫、美琴。 それ以外にも、大勢の人々がいる。
  そして、冥夜と武―――

  真璃は叫びたかった。 
  彼らの死が、ただ繰り返されるだけの変えらない運命であってたまるものか、と。
  命を懸けた闘いが、誰にも記憶されず、ただ消えていくだけの運命であるはずがない、と。
  ―――そしてBETAが迫ってくる。
  そんな真璃の想いを消し去るために。 暗黒の海に引きずり込み、絶望という色で染めるために。
  お前達の運命はそうなのだ、と嘲笑うために。

 「…………なめるな…………」

  そんなBETAに対し、荒い呼吸の中で真璃は、絞り出すように声を発した。
  決して超えられない暴力。 これまで多くの生命を消し去ってきた暴虐。
  今の真璃に湧くのは、“怒り”だった。
  命を懸けて闘ったにもかかわらず、武達はBETAを止めることが出来なかった。
  自分を捨てても守りたいと願った愛する人のため、
  死なせてしまった者達への贖罪のため、
  生き残った者としての責務を果たすため、
  ここまでの想いで戦っても、BETAに勝つことは出来なかった。 守りたいモノを、護ることが出来なかった。
  真璃はそれが腹立たしかった。 そこまでしても変わらなかった現実が、変えられなかった事実が!
  もし神がいるのなら、彼女はこう問うだろう。
  『彼らは間違っていたのか、彼らの力は足りなかったのか』
  そしてこう叫ぶだろう。 絶対に違う、と。
  彼らは決して間違っていない、その力が及んでいなかったはずがない。
  父達の死は、そんな小さなものではない。 そう真璃は信じている。

 「……私達を…………なめるなっ……!」

  その怒りが声となって現れた。 先ほどとは違い、はっきりとした力強い声で。
  そして真璃は右腕を振り上げ、席を叩く。 その部分が開き、現れたレバーを勢いよく引く。
  網膜に「自決装置作動」の文字が浮かび上がり、新たなアラートが鳴り始めた。
  警報が鳴り響く中、真璃の脳裏に様々な記憶が思い起こされていく。

  冥夜―――民の模範となり弱者を守らんとした凛々しき母。 真璃にとっての理想の姿。
  まりも―――生かされた者として自分がどう生きるのか、決意することを教えた。
  真那―――その決意を果たすために、覚悟せねばならないと訴えた。
  千鶴、慧、壬姫、美琴―――最後の一瞬まで愛する人を守るために、戦い続けた。
  そして、白銀武。
  どんなに怖くても、恐ろしくとも、彼は戦い続けた。
  自分を愛してくれた人に応えるために。 自身に不意に課せられた『運命』に抗うために。

 「ごほっ!」

  突然ノドに違和感が生まれ、咳き込む。 口元から、赤い筋が流れるのが見えた。
  過呼吸気味に息は乱れ、気分が悪くなった真璃は顔を俯ける。
  だがそんな状況であっても、否応なく現実は突きつけられていく。
  ―――武御雷にはもはや、一本の長刀しか残されていない。
  左腕は噛みちぎられ、コックピットには機体損傷を警告する赤が拡がり、網膜へ『搭乗員脱出準備勧告』という文字を映し出す。
  真璃自身、体中を貫いた破片が痛みを走らせ、足や腕には痺れがこびりついている。
  一番大きな破片が刺さっていた左腕は巻いたマフラー越しに血を流し、打った頭部からの出血も止まらない。
  しかし、そんなことは関係なかった。 満身創痍だろうがなんだろうが、何の理由にもなりはしなかった。
  彼女の中には今、熱く滾るものが生まれている。
  それは小さな火のようなものだ。 あまりにも小さくてはっきりと見ることができないけども、確かに熱を感じられるような。
  その火は、今ここには彼女しかいないはずなのに「一人じゃない」と訴える。
  彼女の目に光を宿させ、「まだいける」と力を与える。
  そして気づく―――先ほどから聞こえる声は、自分の内にある、その火から溢れたものであることに。
  真璃は大きく顔を上げた。 青白く光る反応炉とBETAの大群を視界に入れながら。
  再びジワジワと死への恐怖が顕れてくる。 希望など何処にも見えない絶望の闇が襲ってくる。
  だがそれすらも、今の彼女に宿る想いを消すことは出来ない。
  内に宿った小さな火は、それらを否定するかのごとく更に燃え上がり輝きを増していき、
  そして閃光となって、全ての迷いを断ち切った。



 「―――人間をなめるなああああぁぁぁっ!!」



  跳躍ユニットに火が入り、武御雷が空を翔けていく。
  その様子をBETAは見るしかできない。 無数のBETAが天を仰ぎ、武神を見つめた。
  ……不意に警告音が響いた。
  頭上の主縦坑から幾つものBETAが墜ち、武御雷の進行を邪魔していく。
  しかし濃紫の鎧をまとった武神は、何の躊躇いもなく突き進む。 肩部のベクタードスラストノズルと跳躍ユニットで
 方向を変えて躱していき、速度を更にあげていく。
  それ故にだろう。 機体はきしみ、装甲が更にはげ落ちていった。
  真璃自身も加速故の圧力が体を押し込み、痛みという悲鳴が全身であがる。
  だが、彼女は痛みが増せば増すほど、体に力を込めて大きく叫んだ。
  弱い自分を叱咤激励するかのように。

 「負けるかあああぁぁ!」

  自分の任務である『反応炉をぶっ壊す』だけを心中に想い、ただ前へ前へ前へ。
  だが、遮るモノもなく進む武御雷の前に巨大な壁が立ちはだかった。
  
 「!?」

  それはBETAの壁だった。 あまりの多さにBETAが堆く積み上がり、反応炉を完全に隠してしまうほどの巨大な壁となっているのだ。
  真璃は上昇を試みるが速度が仇となり、このままでは壁の頂きにいる要撃級に衝突すると推測した。
 
 「邪魔するなあああぁぁ!」

  真璃は跳躍ユニットの出力を上げ、更にスピードを上げる。
  そして左肩部のベクタードスラストノズルを噴射、武御雷は前進しながら回転を始めた。

 「やああああ!!」

  頂にいる要撃級に接近しながら、武御雷は二回の高速回転を行った。
  そして絶妙のタイミングで、武御雷は右腕の長刀を要撃級の胴体へ横薙ぎにはらった。
  長刀は切断能力を有しないほどボロボロになっていたが、回転により得た強力な遠心力によって要撃級ははじき飛ばされた。
  バラバラになった武御雷の長刀と右腕部とともに。
  
  目の前の要撃級が消えると、前面へ空間が現れた。
  真璃は壁が新たに積み上がる前に突破しようと、更に速度を上げる。
  ……だがその時、目の前に大きな影が現れた。

 「ちぃ!?」

  壁に注意が行っていたためか、上から墜ちてくるBETA――突撃級に気づけなかったようだ。
  真璃は即座に機体を逸らすが、間に合わなかった。

 「うあああああ!」

  コックピットに走る轟音と衝撃。
  突撃級の堅硬な甲殻と武御雷が高速で衝撞し、何かが割れたような乾いた音が響いた。
  左肩部装甲と頭部センサーがバラバラになって砕け散る。 一方、真璃を乗せた胴体は滑空しながら落下し、主脚や跳躍ユニットを
 バラバラにしながら、地面を滑るように着陸した。

 「……う……く」

  それでも、真璃は生きていた。 そして暗いはずのコックピットに破損した装甲の隙間から光が差し込み、彼女の姿を照らす。
  体中に親指大の破片が突き刺さり、右目からは出血が見えた。
  
 「くそ……ぉ……」

  残った真璃の左目には武御雷の現状と『自決装置作動中』の文字が浮かび続けている。
  真璃は操縦桿を動かすが、機体は何の返事も見せない。
 
 「動い、て。 動いてよ……私、まだ」

  不意に、真璃を照らしていた光に影が生まれた。
  彼女もそれに気づき、顔を上げる。

 「!?」

  真璃の顔が真っ青になる。 彼女は、やつの姿をよく知っている。
  装甲の隙間から覗いていたのは白色の兵士級だった。
  タケルと潰され、まりもを噛み殺した……真璃にとって最も辛い記憶と繋がるモノ。
  その兵士級が装甲の隙間を無理矢理押し広げ、コックピットへと侵入した。

 「ひっ!?」

  兵士級は真璃の右肩と左腕を掴み、人の頭ほどしかない口を開ける。
  ネチャッとした糸が歯と歯の間から伸び、その嫌悪感故に真璃の体は固まって動けないでいた。

 「あ、あ、あ」

  真璃の脳裏に、かつての記憶が蘇る。
  兵士級とともに吹雪が潰したタケルの記憶。
  そして……兵士級によって頭を噛み砕かれた、まりもの記憶。
  それら強烈な記憶が浮かび上がった瞬間、真璃は『兵士級が自分の頭を狙ってくる』と、即座に理解した。

 「くっ!」

  顔を右にずらす。 そして兵士級の巨大な歯は、真璃の左肩に強く食い込んだ。

 「うああ!
 うあ、あ、あ!」

  強化装備に守られている左肩へ、兵士級の歯が少しずつ少しずつ食い込んでいく。  
  首筋にヌルッとした感覚があふれ、真っ赤な鮮血が彼女の首を濡らす。
  掴まれた左腕は強く圧迫され、先ほどまでいくらか白色を残していたマフラーは完全に赤色となり、そこから血が流れていた。

 「はあ、はあ、はあ」

  痛みが走る度、血の感触を覚える度、彼女の中に“死”の恐怖が生まれ、冷たい涙を流させた。
  このまま死ぬのか、と彼女は何度も考えた。

  だが、その度に思い浮かぶのは“みんなの記憶”だ。
  自分の意志を果たすため、命を懸けて戦った“みんなの記憶”
  彼らの多くは、巨大な暴虐に恐怖しながらも最後まで戦い続けた。
  ……そう、先ほどの幻の中で見た、恐怖のために涙を流し歯を震わせながらも戦った『白銀 武』のように。

 「みんなは……
 みんなは、もっと痛かった!」

  右腕を伸ばす。 手に触れたのは、真那から預かった那雪斑鳩だった。
  真璃は那雪斑鳩から刀身を抜き出し、

 「私は怖くない! アンタ達なんか怖くない!!」 

  そう叫びながら、自分を捕らえる兵士級の腕を切断した。
 
 「おおおおお!!」

  そしてそのまま、兵士級の頭へと那雪斑鳩を突き通す。
  兵士級は骨にまで達していた口を離し、刀を突き刺したまま後ろへと下がった。
  
 「……あ」

  兵士級が後ろへと下がり、真璃はようやく気がついた。
  今自分がいる場所……そこは、反応炉のすぐ側だったのだということに。
 
 「そっ、か……届いてたんだ……そっか」

  真璃は微笑みを浮かべた。 青白い光に照らされた表情は神秘的な雰囲気を醸し出し、穏やかであるのに、とても荘厳な感じを受ける。
  淀みが、ないのだ。
  彼女がこれから行うであろう行為、それは人が最も恐れるモノ。 恐怖が生まれてもしょうがないはずのモノ。
  彼女は、なぜ笑っていられるのだろうか。 もはや、それを完全に知ることは出来まい。

 「…………」

  真璃はシートに深く背を預け、小さく息を吐くと、目の前にある『SDS』と書かれたS-11の起爆スイッチを見た。
  そして反応炉へもう一度視界を移す。 そこには、兵士級や闘士級が幾体も自分に迫ってくるのが見えた。
  彼女を殺そうと。 反応炉を守ろうと。
  しかし真璃にとってその様は、あまりに滑稽に見えた。

 「ふふ、バーカ。
 だから、言ったじゃない……私たちは」

  ゆっくりと真璃の右腕が振り上げられる。
  そして手をギュッと握り込み、堅く閉じた直後、
  決意と覚悟、そして意志の込められた拳が、振り下ろされた。

 「負けない、って」

  その言葉が発せられるのと同じく、彼女の想いがSDSと書かれた文字盤を叩いた。
  ……光が、旭のごとく世界を染め上げた。
  真璃は光が溢れる中、微笑みをたたえたまま、ゆっくりと目を閉じていく。 全てを受け入れるかのように。

  その刹那、強力な衝撃波が武御雷を中心に生まれていった。
  武御雷に群がっていたBETAは粉々になり、他のBETAもたった一人の人間が生み出した力によって滅ぼされていく。
  それは反応炉も同じだった。
  衝撃波が反応炉へと到達すると、各部が軋み悲鳴を上げる。
  ……その内、ある部分では亀裂が段々と大きくなっていった。
  そこは月詠真那、“最後の斯衛”が命を輝かせた地点に最も近い亀裂だった。
  真璃の命と、真那の命。
  二人の命が繋いだ亀裂が、今、反応炉を二つに引き裂く。
  まるで血液のように、反応炉から青白い液体が噴き出し、その直後、蒸発していく。
  そして衝撃波は、反応炉に繋がっている無数の柱にも襲いかかった。
  次々に砕かれていく柱。 中の脳髄は柔らかい豆腐のように、バラバラになって消えていった。
  ……夫婦樹のように寄り添って立つ二本の柱も同じだった。
  柱は共に砕かれ、そして二人一緒に、消えていった。





 「……ぅ」

  真っ白な世界が拡がる中、真璃は不意に、暖かさを感じた。
  彼女はもはや何も見えない。 聞こえない。
  それなのに、幻の中で得た“暖かさ”を再び感じられた。
  真璃は、ゆっくりと目を開いた。

 「………父…………様………」 

  彼女が見たのは、衛士強化装備を纏った白銀武だった。
  武は笑みを浮かべながら、真璃の方をじっと見続けている。
  まるで彼女を、褒めるかのように。

 「父……様…………私ね、ずっと……ずっと、言いたかったことが……」

  真璃の脳裏に、在る言葉が浮かび上がった。

  『そなたの父様は、今も地球で戦っている。 だから私達は平和に暮らせるのだ。
  …………そう。 そなたや母様、皆のためにずっと頑張ってくれているのだ』

  ずっと昔、何度も冥夜から聞かされた。
  愛する人を守るために地球で戦い続ける武を想い、真璃はずっと、ある言葉を伝えたかった。
  
 「父様……
 がん……ば………………って……」

  その言葉が伝わったのか伝わらなかったのかは、分からない。
  だが伝えた真璃は、満面の笑みを浮かべ満足そうに目を閉じる。
  そして彼女は、光の中に完全に溶け込んでいった。







  ―――その瞬間、世界が歪み始めた。
  未来が過去へ、現在が過去へ、昨日が過去へ……世界が、ある一点へと収縮されていく。
  時間と空間が、何回目かのループを再び始めたのだ。
  運命がはじまる日“2001年10月22日”へ、と。
  そしてこれからもループは繰り返されるだろう。 決して報われない想いと共に。
  世界の人々と、「貴方に生きて欲しい」と願った女達を裏切りながら。
  ……だがいつか。
  いつか、報われるトキが来るはずだ。
  例え運命が希望もなく、絶望しかないのだとしても、
  想いはどこまでも繋がっていく。 繋げることが出来る。
  一人の少女の想いが、救世主を紡いだように。
  そう、例え希望のない世界が無限に繰り返されようと、運命が絶望でしかなくても、


  “それでも、世界は並んでいる”







  <マブラヴ Unlimited~My will~>
  ――終――





[3649] 2008年12月16日 冥夜&悠陽&武、誕生日お祝いSS
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/03/29 01:02
※本編は「マブラヴ Unlimited~My will~」とは全く関係ありません。
※本編はAltered Fableの設定を援用しています。 それなのに霞と悠陽と柏木が空気です、すみません。
※一人称と三人称がゴチャゴチャになってしまいました・・・・・・お恥ずかしい。
※時間軸が色々おかしいことになっています。
※長期スパンで書いたためか、キャラ特徴がおかしいことになっているかもしれません。
 違和感を感じさせてしまいましたら、申し訳ありません。



冥夜&悠陽&武、2008年12月16日誕生日おめでとう!SS




 「・・・・・・おっせーな」

  俺、白銀武はクソつまんねー講義をようやく終えて、貴重な昼休みを消費していた。
  この時間に待ち合わせしていたのだが、相手の姿が何処にも見えない。
  周りは大勢の人間が行き交っている。 昼飯を買うやつ、移動しているやつ、友達同士で喋るやつ。
  俺は昼飯の匂いに空腹を刺激されつつ、あいつを待った。
  ・・・・・・ふと、特徴的な髪型が目にとまる。 今、ようやく見えた。
  潤った長髪をなびかせながら、あいつがまっすぐにこっちへ走ってくる。
  おいおい、また何人か見てるよ。
  あいつが人前に立つと、この時期でもまだ注目を集める。 いいかげん見慣れただろうが、と言いたくなる。
  俺は苛立ちと優越感というちょっと微妙な感情を抱きつつ、走ってくるあいつに声をかけた。

 「冥夜! ここだ、ここ」
 「はあ、はあ・・・・・・タケル、すまない。 遅れてしまって」
 「いいって。 さ、昼飯食おうぜ」

  俺が歩こうとすると、冥夜が手を握ってきた。
  顔を赤らめ、嬉しそうな顔。 俺は手をギュッと握り返し、二人でゆっくりと歩き出した。



  ―――白稜柊卒業から数ヶ月。 俺たちは、大学生になっていた。
  


  白稜柊での俺の体験を、今さら詳しく語る必要はないと思う。
  10月にあった突然の来訪者―――御剣姉妹と霞、彼女たちが俺の学園生活を一変させた。
  特に変わったのは、俺の周りに当たり前にあった、皆との関わりだった。 
  委員長、彩峰、美琴、たま・・・・・・そして、純夏・・・・・・
  皆が来訪者に刺激され、アプローチをかけてくるようになってからは、流石に「超・鈍感」と呼ばれた俺も気持ちに気づいた。
  ・・・・・・いやまあ、大分後になってからだけどな、うん。
  そして卒業式の後・・・・・・皆の前で、俺の想いを伝えた。
  本当に、断腸の思いってああいうのを言うんだろうな。 「腸を断つ」ってさ、上手い表現だと思うよホント。

  俺が選んだのは『冥夜』だった。
  小さい頃からずっと俺だけを愛し続けてくれた彼女の想いを、俺は裏切ることができなかった。
  ・・・・・・いや、違う。 小さい頃の約束なんて、告白したときはどうでもよかったんだ。
  俺はとにかく、冥夜の側にいたい。 冥夜でなければダメだと、心の底から思ったんだ。

  だけど、今でもあのときのことを思い出すと、胸が痛い。 特に、純夏のあの表情がさ・・・・・・
  あいつが一番祝福してくれた。 でも、目に涙を一杯浮かべたあいつを見たとき、本当に心が苦しかった。
  小さい頃からっていうだけなら、あいつだって冥夜に負けてねえよ。 純夏は俺のために、本当に頑張ってくれてたんだ。
  それを一番実感できたのが、冥夜に告白したときだっていうんだからよ・・・・・・笑っちゃうよな・・・・・・
  そんなやつがさ、「絶対に冥夜を離しちゃダメだよ」って、俺に言うんだぜ。
  俺はそんな純夏の健気さに、心を打たれちまった。 他の奴らも、程度の差こそあれ同じだ。

  だけど、後悔はしていないぜ?
  冥夜を選んだこと、あいつ等を傷つけたこと、全部含めて俺は告白したんだ。
  俺は、冥夜を愛している。 俺だって、この想いを伝えたかった。 そしてそのことに、後悔なんてしてたまるか。

  そうして、俺と冥夜はいわゆる『男女の交際』ってやつを始めた。
  他の奴らとも付き合いは続けている。 ていうか、みんな白稜大に通ってる。
  純夏とたまは教育だろ、委員長は法、美琴は史学、彩峰は看護・・・・・・彩峰の進学先が一番ビックリしたぜ・・・・・・
  霞は工学部? なんか変な名前だったから覚えてないけど、何でも夕呼先生が出た学科らしい・・・・・・妖しいぜ。
  悠陽も俺たちと一緒に通ってるしな。
  変わったのは、人間関係ってことぐらいか。
  時々喋ったり、遊びに行ったりはするけどさ。 な~んか白稜柊にいた頃とはちょっと違うんだよな。
  空気っていうのかな、雰囲気が違うんだよ。 接し方が、微妙に。
  たぶん、冥夜に気を遣ってんだろうけど。
  まあそんなわけで、とにかく俺たちは晴れて『恋人同士』って関係になったわけだ。
  そして大学生活をエンジョイ&エキサイティング!している・・・・・・はずだったんだが・・・・・・



 「どうしたのだ、タケル?
 箸が進んでおらぬようだが」
 「んあ? ああ、ちょっと考え事をしててな」

  俺たちは次の講義が始まる教室で、昼飯を食べていた。
  何でも日本一の牛肉、宮城牛を使った料理だそうだ。

 「タケル、宮城牛ではなく宮崎牛だ」
 「あ、すまん。 口に出してたか」
 
  とまあ、いつもの漫才を交わしているわけだが・・・・・・
  そう、『いつもの』なんだよな。
  告白してから7ヶ月以上経つのにさ・・・・・・
  何か、変わらねえんだよ。 
  告白したばかりの頃は、何か変わるんじゃねえかって期待したもんだぜ。
  でもよ・・・・・・なんかこう、なんか違うんだよな。
  ほら、恋人同士って言ったらさ、こうラヴラヴっての? もっとイチャイチャするっていうか。
  夏休みは花火を二人で見に行って、海に行って、他人が聞いたら甘すぎてウゲェーって吐くぐらいのイベントがあってもいいだろ。
  ・・・・・・でも、そんなのがひとっつもないんだよ。 マジで。

  まあ冥夜は『御剣』だからな。
  悠陽もそうだが、二人は大学生になってから頻繁に本家に戻っている。
  お役目、ってのが結構あるらしい。
  だから白稜柊の頃の名物だった『朝起きたら隣に寝ていてビックリ!』ってのも最近ナリを潜めている。

  時々しか帰ってこないし、帰っても疲れているのか、あっちは爆睡。
  こっちは気を遣って何も出来やしねえ・・・・・・おかげで、キスぐらいしか出来ていないんだぜ?
  生殺しっていうのはこういうのを言うのかねえ・・・・・・ったく。

 「ところで冥夜、今日はこっちにいるのか?」
 「う・・・・・・すまぬ、タケル。 今日もあちらに赴かねばならんのだ。
 夕餉は神代達に任せてある故、家で待っていてくれぬだろうか」

  ほら、これだ・・・・・・はあ・・・・・・
  これじゃあ恋人気分なんて味わえるかよ!
  このままじゃ自然消滅だ。 一世一代の大告白をしたっていうのに、それは嫌すぎる。

  ―――だがしかし―――

  俺たちだって、ただお家の事情とやらに振り回されるだけじゃないんだぜ!?

 「じゃあ、14日からの旅行はどうだ?」
 「ん、それは大丈夫だ。 その日程は必ず空くように、スケジュールは調整してある」

  そう、これが勝利の鍵だ!
  2泊3日! 中禅寺湖アンド日光東照宮、二人だけの誕生日記念ツアー!
  観光場所は冥夜に任せたらなかなかレトロなところになっちまったけどな。
  時間がなかなか無い冥夜だが、この日程は空くように調整してもらっている。
  せっかくの誕生日・・・・・・しかも同じ日だからな、一緒に旅行へ行くっていうのはナイスアイディアだと我ながら思う。

  ・・・・・・冥夜には内緒だが、バイトしてプレゼントだって準備しているんだぜ?
  そう! 俺はこの2泊3日の旅行に、全てを賭けているのだ!
  そして俺たちはこの旅行の間に一線を越えて、本当の恋人になる!

 「た、タケルどうしたのだ? 顔がにやけているぞ」
 「へ・・・・・・ああ、すまんすまん。 旅行のことを考えてたら、つい、な」

  俺がそういうと、冥夜の動きがピタッと止まった。
  そして俺の方を向いて、笑みを浮かべた。

 「そうだな、本当に楽しみだ。
 私も最近はそればかりを考えている」

  冥夜は本当に嬉しそうだ。 見ているだけで、俺も自然と笑みがこぼれる。
  きっと、冥夜も俺と同じ気持ちなんだと思う。
  本当は一緒にいたいって思ってるはずなんだ。
  それは今の表情を見れば、すごくわかることだ。
  だから今回の旅行は、初めての『恋人らしい』共同作業だと実感している。
  一緒に日程を決めて、場所を決めて、ホテルを決めて・・・・・・
  その過程が、俺たちを「恋人」なんだって、自覚させてくれた。

 「温泉がすごく気持ちいいらしいぜ?
 夜は夜で、ホテルのバーが雰囲気良さそうだよな」

  バーなんて洒落たところ、行ったこともないけど。

 「うん、そうだな。 夜も・・・・・・」

  そう言うと、冥夜は目を瞑って何かを考え始めた。
  そして、ふと顔が耳まで真っ赤になったと思うと、俯いて黙ってしまう。

 「冥夜、どうした?」
 「あ、ああ、うむ・・・・・・何でもない、何でもないぞ」

  声が裏返っている。 なんか変なことでも考えたか?
  最近の冥夜は妙に世俗的になったというか、女の子らしくなったように思う。
  もちろん、良いところはそのままだから冥夜らしさは変わらないが・・・・・・
  純夏達と一緒に過ごして、色々な意味で刺激を受けたのかもしれない。
  まあ、そこも可愛いんだけどな。

 「と、ところでタケル、誕生日は本当に何もいらぬのか?
 今からでも遅くはないぞ。 欲しい物があれば、月詠達に準備させよう」
 「いいっていいって。 前にも言ったろ」

  俺へのプレゼントは、特にこれといって準備しなくていいと言ってある。
  昨年までと違って、今年の俺たちは恋人という間柄だ。 なんかプレゼントっていうだけで怖くないか?
  御剣流のプレゼントというのも見たい気はするが、せっかく二人っきりの旅行なのだから、月詠さん達には悪いけど、あまり関わって
 欲しくないんだよな。
  ・・・・・・まあ、それでも冥夜は準備するんだろうけど。

 「そうか。 神代達も張り切っているのだがな」

  だからそれが不安なんだよ、とツッコミを入れたかったが、我慢した。

 「ははは。 気持ちだけもらっておく、と伝えてくれ」
 「分かった、そう伝えよう・・・・・・ん?」

  不意に、冥夜がポケットから携帯を取り出した。
  ・・・・・・嫌な予感がする。
  冥夜は立ち上がり、少し離れたところで対応する。
  そして終えると、寂しそうな顔でこちらへ近づいてきた。

 「・・・・・・タケル、すまない。 これから本家へ行かねばならん」
 「そうか」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  お互い、かける言葉が見つからない。
  本当はもっと側にいたいのに、ままならない現実。
  いつも俺たちは、こうやってお喋りを楽しむこともできない。
  俺は正直、『御剣』にイライラしていた。 俺たちから『恋人』という時間を奪う、その元凶に。

 「タケル、すまない。 片づけは後で他の者がしてくれる。
 ・・・・・・私は、先にいくぞ」

  冥夜が歩き始める。
  俺は、何も考えずに、ふと冥夜の手を取ってしまった。

 「あ・・・・・・」

  冥夜が困ったような、小さな声を漏らす。
  俺は何も言わずに、手を握り続けた。
  冥夜が向き直り、こちらを見る。
  ・・・・・・その顔は、とても悲しそうだった。

 「タケル・・・・・・」
 「冥夜・・・・・・」

  『行くな』と言ってやりたい。
  このまま手を引いてどこかへ行けるのなら、何処へでも行ってしまいたかった。
  だが、それは出来ない。
  『御剣』は冥夜にとって本当に大切で、大事なものだ。
  それを否定することは、彼女には出来ない。 俺だってそうだ。
  だから俺は『御剣』も含めて、冥夜を受け止めなければならない。
  分かってはいるんだけどな。
  ・・・・・・俺は冥夜を捉えた手を、ゆっくりと開いた。

 「すまん、冥夜」
 「いいのだ、タケル。 そなたには本当にすまないと思う」

  『そう思うなら行くなよ』
  と思ってしまう俺は、まだ覚悟が足りないのだろうか。
  そう思っていると、不意に冥夜が俺の懐へ飛び込んできた。

 「お、おい冥夜」

  周囲の視線が一気に集まって、痛い。
  ここは教室、しかも結構な人数が入っている。 ああそこのそいつ! ニヤニヤすんじゃねえ!

 「タケル、許すがよい。 今の私には、これくらいしか出来ぬ。
 だが、約束する。 4日後の旅行は、何人にも邪魔はさせん。
 私とタケル、二人だけだ。 私とそなたの、二人だけだ」
 「冥夜・・・・・・」

  俺は強く冥夜を抱きしめた。
  他人の目なんて気にするかよ! ・・・・・・いやまあ、大分恥ずかしいけどな、ってだからニヤニヤすんじゃねえ!
  
 「冥夜。 俺、我慢するよ。
 そうだよな、後4日待てばいいんだ。 それまでの辛抱だ」

  スッ、と冥夜が俺から離れていく。
  そのとき、なぜかとても切なく感じた。

 「そなたに、心よりの感謝を」

  満面の笑みを浮かべる冥夜。 俺はその顔を見ただけで、とても満たされた気持ちになった。
  そして冥夜は、何度も俺の方をふり返りつつ、教室を出て行った。


   


 「つまんねー」

  時刻は既に夜の10時。 俺は始めたばっかりのドリコスを落とし、ベッドへとダイビングした。
  そして仰向けになり、見慣れた天井をじっと見つめる。
  冥夜はまだ帰ってきていない。
  いつものことだから慣れた・・・・・・ていうか諦めてる。
  あいつのことだ、今も悠陽と頑張ってるんだろ。

 「・・・・・・・・・・・・」

  俺はふと側の窓を覗いた。
  灯りがついた、純夏の部屋。 時々談笑が聞こえてくる。 純夏と霞だろう。 
  あいつら、こっちは一人寂しく帰らぬ女を待ってるっていうのに・・・・・・
  ちょっとイラッとしつつベッドから起きあがり、ルーズリーフの切れ端を丸め部屋の窓に投げた。
  談笑が止み、向こうの窓が勢いよく開かれた。

 「タケルちゃん、グッナ~~イ! 何かあったの~?」
 「白銀さん、こんばんは」
 「純夏、それを言うならGood eveningだ。 こんばんは、霞」

  開いた窓からは、純夏と霞が満面の笑みで現れた。
  白稜柊にいた頃は毎日のようにこうやって窓越しにお喋りしていたな・・・・・・今は用があるときぐらいしかしねえけど。
  純夏とまたこうして窓越しに会話出来るようになったのは、夏頃からだ。
  夏の暑さから逃げるために、俺たちの部屋は『窓』という枠を解放する。
  そうなると自然に、顔を合わせることも多くなるというわけだ。

 「特に何もないんだけどよ。
 調子はどうだ?」
 「私はいつもとおりだよ!」
 「私も・・・・・・元気、です」

  俺の悩みなんて何処吹く風。
  二人は満面の笑みで俺の問いに答えてくれた。 いいね~、独り者はよ。
  
 「そうか。 てっきり、どっかの誰かさんは大学の講義についていけず、年下の飛び級天才少女に勉強でも教えてもらってんのかな
 と思ってたぜ」 
 「へ~。 大変だね、その人。
 タケルちゃんのお友達?」
 「・・・・・・・・・・・・まあ、そんなところだ」

  はーっと溜息をつく。 純夏は訳が分からない、と言った表情だ。
  なんであんなにキーワード満載の会話で、自分のことを言われてるって気づけないかな。
  俺もその才能が欲しいぜ・・・・・・いや、やっぱり遠慮しとく。

 「も~、相変わらず変なことばっかり言ってさー。
 冥夜も困ってるんじゃないの?」
 「安心しろ、こういうこと言って分からないのはお前くらいなもんだ。 ていうかお前限定」
 「ムッキー! なんだよー、馬鹿にして!」
 
  ははは、と俺は久しぶりの純夏の無邪気さに笑いをこぼした。
  こうやって馬鹿話が出来るのは、純夏とぐらいなもんだよな。
  まあだからこそ、純夏を彼女っていう感じで見られなかったんだが。

 「はあ・・・・・・もういいよ。 ホントに何もないの? タケルちゃん」
 「あー、まあない、かな」
 「まあってなんだよ、まあって~。 気持ち悪いな~。
 ねえ霞ちゃん、気になるよね~~??」
 「・・・・・・はい」

  純夏と霞がジトーっとこちらを見る。
  なんつーか、こいつらこういうところで協力意識働かせなくてもいいと思うんだが。

 「マジで何もねえって」
 「だったらいいけど・・・・・・」
 「それよりもよ、うちの教授がさ・・・・・・」

  俺はこれ以上二人に質問される前に、話題を変えることにした。
  大学でのありふれた話、純夏達のサークルの話・・・・・・
  久しぶりに俺たちは、長い時間をお喋りに費やした。

 「あの、白銀さん、純夏さん・・・・・・時間が」

  ふと、霞が時計を見て呟く。
  時間は既に次の日に入っていた。

 「うわ!? もうこんな時間~~?
 私、明日1コマ目からだよ~」
 「俺もだ。 今日はこれくらいにして寝るか」
 「そだね~」

  窓に手をかけ、ゆっくりと閉めた。

 「ところでタケルちゃん」
 「何だ?」

  半ばまで窓が進んだところで、純夏の声がまた聞こえてくる。

 「タケルちゃん、きちんと朝から出られてるの?」
 「!? ば、バカをいえよ。 大学生活をエンジョイしている俺が、遅刻なんてするはず無いだろ!」
 「ふーん」

  純夏が「怪し~い」って感じでこっちを睨んでいる。
  ま、まあそりゃな、朝一番は辛いから、結構遅刻することはある・・・・・・たまには自主休講も。

 「何だったら、前みたいに起こしに行ってあげようか?
 白稜柊にいたときみたいに~」

  ―――ドクン
  その言葉を聞いた瞬間、不意に脈拍が早まったことが分かった。
  同時に白稜柊にいた頃の記憶が蘇る。 朝、学校に遅れないように毎朝起こしに来てくれた純夏と霞。
  そして、俺の側でスヤスヤと気持ちよさそうに寝ている・・・・・・冥夜。 そして悠陽。
  学校に行けば皆が当たり前のようにいて『白銀武争奪戦』なんて揶揄された争いが展開されたりした。
  それをまりもちゃんがあたふたして見てて、夕呼先生が介入して泥沼になる。
  あのときは迷惑千万だったけど、今となってはすごく懐かしいし、楽しかった。

  ・・・・・・あの頃と今では、俺はどちらが幸せなんだろう。
  もし告白していなければ・・・・・・俺は今も・・・・・・

 「―――な~んちゃって!」
 「・・・・・・は?」

  純夏は小さく舌をだして、悪戯を告白するオテンバ娘のような顔を見せた。
  その様子に、俺は呆気にとられるしかない。
  ・・・・・・ていうか何歳だ、お前。

 「冗談だよ冗談、あははは。 タケルちゃん、もしかして本気にしちゃった~?
 ダメだよー、ちゃんと学校行かなきゃ! 留年しちゃうよ」
 「ば! お、お前こそテストで単位落とすんじゃねえぞバーカ!」
 「バカって何さー!」

   『冗談』――なぜか、この言葉が胸にトゲのように刺さってしまった。
  突き刺すっていうんじゃなくて、指にトゲが刺さったときの、あのジュクジュクとした痛みが、今俺の胸に現れ始めている。

  ふと、純夏の下階から聞き慣れた声がした。
  あれは純夏の母さんの声だ。 早く寝なさい、というように聞こえる。
  純夏は立ち上がり、部屋を一度出た。
  (はーい! もうすぐ寝るー!)
  そう言うと、純夏はまた窓の側へ。

 「そういうことだから、私もう寝るね」
 「ああ・・・・・・夜遅くまで、悪かったな」
 「いいよー。 久しぶりだったし、結構楽しかったしね。
 ね、霞ちゃん」
 「はい」
 「そうか」

  こんなのも、たまにはいいのかもしれない。
  時々こうして喋るくらいなら、冥夜も気にしないだろう。

 「あ、それからタケルちゃん」
 「ん?」
 「何か、困ったことがあったらすぐに言ってね。
 タケルちゃんは大切な“男友達”だから、私でよかったらいつでも相談に乗ってあげるし。
 こうして隣にいるわけだから、いつでも頼っていいんだからね」

  『男友達』・・・・・・!!??
  なんか頭を殴られたような、強い衝撃が俺の中を走った。
  あの純夏から『男友達』なんて言われちまった・・・・・・久しぶりに会話したら、これだよ。
  今の俺にとっては結構ヘヴィな言葉だ。 なぜかは・・・・・・分からん。
  俺は今の言葉にとても愕然とし、頭の中はグチャグチャになったが、なぜか言葉や動作は冷静だった。
  
 「ああ、ありがとな」
 「えへへ~。 それじゃあタケルちゃん、おやすみなさ~い!」
 「白銀さん、おやすみなさい」
 「ああ。 二人とも、おやすみ」

  閉められる窓。
  俺は部屋の窓を閉め、カーテンを勢いよく引いた。
  そして窓に背を預ける形で座り込む。

 「・・・・・・・・・・・・」

  『タケルちゃんは大切な“男友達”だから』
  さっきの言葉が再び頭に響いた。
  なんだ? もしかして俺、まだ純夏のこと引きずってんのか?
  俺はハハハ、と自嘲した。 「まさか」、と思った。
  ・・・・・・じゃあこの気持ちは、何だ?
  俺は立ち上がって、自分の机へ向かう。
  机の上には、二つの写真立てが飾ってある。
  一つは、卒業式のときに皆で撮った写真。
  そしてもう一つは・・・・・・俺と冥夜だけが映った写真だ。
  それはとても良い表情を浮かべていた。 俺も冥夜も、自分たちの『これから』にとても喜びを見出しているのが分かった。
 
 「・・・・・・・・・・・・」

  不意に、その写真を握る力が強くなる。
  この写真と違って、今の俺はとても惨めだ。 
  ついさっきまで冥夜とではなく、昔フッた女と喋っていい気になっていた。
  しかも純夏から『男友達』と呼ばれて、ショックまで受けている・・・・・・つくづく大馬鹿野郎だ、俺って。

 「・・・・・・あ、やべ」

  目の前が歪み始めた。
  昔のことを思い出して、そしてそれを今と比較して『昔の方が幸せだったんじゃないか?』と思ってしまったツケが、きちまった。
  俺は天井を仰いだ。 やばい、それはまずい、と何度も頭の中で反芻する。

 「あー・・・・・・」

  ―――頬を、線が流れた。
  それは冥夜を愚弄する涙だ。 俺たちは『そうありたい』と願ってここにいるはずなのに、何故俺は泣いているのか。
  泣くべきではない、そうなのは分かっている。 しかしそう考えれば考えるほど、胸に刺さったトゲがうずく。
  『俺は、とても、惨めだ』
  写真立てを戻し、ベッドに飛び込む。 そして布団を頭から被り、俺は目を瞑った。
  とにかく、今の意識を終わらせたかった。 そして、一刻も早く明日を迎えたかった。
  明日になれば冥夜と、きっとまた会える。 そうなれば今のこの感情も、自然と消える。
  ・・・・・・・・・・・・冥夜。

 「冥夜、冥夜・・・・・・・・・・・・冥夜」
 「会いてえ、会いてえよ・・・・・・・・・・・・冥夜」

  俺は堪らず呟いていた。 愛する人の名を。
  今すぐ抱いてしまいたい、その人の名を。
  目を瞑り、意識を閉じてしまいたいはずなのに、俺の意識はどんどん鮮明になっていった。
  冥夜と過ごした過去が、何度も瞼のウラにフラッシュバックする。
  その度に冥夜への思いが募り、また思い出が繰り返し現れた。
  ・・・・・・しかし、その思い出の多くが白稜柊にいた頃のものだと気づいたとき、
  それは、改めて俺の心を締め付けることになった。


  


 「はあ!? 冥夜が帰ってこれないってどういうことだよ!」

  大学、昼時・・・・・・いつもなら冥夜と一緒にいるはずの時間。
  そんな貴重な時間に、俺は昼飯と共に下らない言伝を持ってきた神代、巴、戎の三バカに怒鳴りつけていた。

 「だからー」
 「冥夜様は今とっても忙しくて」
 「こんな庶民たらしい場所に来る時間はございませんの~~」

  いつもの気が抜けた声。 俺にはそれが、無性に腹が立った。

 「なんでだよ! 昨日はそんなこと言ってなかったぞ!」
 「事情が変わったんだよ」
 「なんかープラムがどうって周りの奴らが言ってた!」
 「美味しそうな名前ですわね~」

  プラム? 果物がなんだっていうんだよ。
  
 「で、他に言われたことはあんのか?」
 「他にあったっけ?」
 「さあー?」
 「さあ~~?」

  脳内血管がブチ切れ寸前。 ヘルプミー脳内出血。

 「お前等・・・・・・いい加減にしろよ・・・・・・」
 「ああ、そういえばなんかよく分かんないこと仰ってなかったっけ?」
 「んー。 なんかあったっけ?」
 「ありましたっけ~?」

  あーでもないこーでもないと議論を交わす3人のバカメイド。
  その間に俺の貴重な昼休みはどんどん削られていっているわけだが。

 「あー! 思い出した!」
 「え!? 何々?」
 「思い出しましたか~?」
 「ほらあれ、『3日後を楽しみにしている』っていうあれ!」

  『3日後』! 旅行のことか!?

 「あー! そういえばそんなのがあったねー!」
 「ありましたわね~~、そういえば~~。 でも何の事かしら~?」

  こいつらは知らねえんだな。 いいことだ。
  さて、冥夜のことも分かったし、そろそろこいつらに退場してもらおうか。
  これ以上邪魔されても困るだけだし。

 「あー、分かった分かった。 冥夜の言伝は十分わかった。
 帰っていいぞ」
 「むー、なんか威張ってるな」
 「威張ってるね」
 「威張ってますわね~」
 「お前等と喋っている暇はねえんだ。 さっさと昼飯食わせろ」

  ふと、3人の表情が変わった。 驚いたような顔をし、すぐにニヤッと怪しい笑顔を作る。

 「な、なんだよ?」
 「ちなみに明日からは自分で昼飯は作ってくれよなー」
 「作れ作れー!」
 「作りやがれですの~」

  はあ? こいつらまた別けわかんねえこと言いやがって。

 「明日もお前達が持ってきてくれるんじゃねえのか」
 「私達もあっちで冥夜様や真那様をお手伝いしなければならないしー」
 「他にも色々とすることがあるしー」
 「武様と違ってこちとら暇人じゃないんですのよ、このすっとこどっこいなのですわ~」

  さりげなく、ていうかモロに馬鹿にされてる?
  ていうか、こいつらまで使わなくちゃいけないなんて、どんだけ忙しいんだよ?
  ぜっったいにこいつ等は何の訳にも立たないと思うが。 かえって迷惑?

 「あー分かった分かった。 明日からは自分で何とかするわ」
 「今日は物わかりがいいじゃないか。 関心関心」
 「いつもこれくらいならやりやすいんだけどね~」
 「でも、素直な武様というのもかえって気味悪くありませんか~?」

  それもそうだ、と三バカは妙に納得しケラケラと笑っている。
  ・・・・・・既に昼休みは半分近く消費されてしまっていた。

 「うがー! お前等もう帰れ! 俺の飯の邪魔するなー!」
 「「「わー!」」」

  いつもの調子で、ダッシュで教室を出て行く三バカ。
  ったく、こういうところは1年前と何もかわらねえんだからよ・・・・・・

 「・・・・・・・・・・・・」

  静かになった教室。
  俺の前に置かれた、俺だけしか食べるやつがいない重膳箱。
  ふと、これが白稜柊の頃だったら、と考えていた。
  周りにはきっとたまや美琴、霞、委員長、彩峰がいたんだろうな・・・・・・そして、もちろん純夏も。
  冥夜がいなかったら、俺はあいつらと昼飯を食ってたんだろうな。
  それなのに、今の俺は、一人だ―――

 「って、何考えてんだ」

  俺は首を大きく横に振った。
  だいたい、後3日もすれば俺たちは二人だけになれるんだ。
  これはあれだ、なかなか冥夜に会えないから恋人として過ごしたいっていう願望の裏返しだ。
  あと少し、あと少し我慢すれば・・・・・・
  そうだよ、それにもしかしたら、その用事だって今日中に終わって明日は一緒に食えるかもしれねえじゃねえか。
  何も心配することはねえ。 そう、ねえんだ。
  俺はそう自分を納得させ、残り半分を切った昼休みの時間でその重膳をかき込んだ。
  
  ――――――しかし冥夜は、
  次の日も、そして次の日になっても、
  帰ってくることはなかった。




  冥夜と会えなくなって4日。 俺はもう訳が分からなくなっていた。
  三バカもいず、俺は冥夜と連絡を取ることもかなわなくなった。
  ていうか旅行明日からなんだぜ? さすがに今日も会えない・・・・・・なんてことは、ないだろ? なあ。
  こんなに音沙汰がないのは初めてだ。 これまでは少し長くても、電話があいつから来ていたし。
  こういうとき、あいつの携帯電話の番号を聞いときゃ良かったと思うぜ。

  俺はもう何がなんだか分からなくなって、とにかく誰かに相談したくなって、昨晩純夏に電話した。
  「男友達」っていう言葉が思い出され、多少躊躇したが、背に腹は代えられない。
  あいつらしかいないんだ、俺が頼れるのは。
  そして俺は電話で、「明日の昼、久しぶりに皆で会わないか」と純夏に伝えた。
  あいつは簡単に了承してくれた。

  そういうわけで今の俺は、柊町の「すかいてんぷる」でコーヒー片手に皆を待っているところ、というわけだ。

 「やっほ~~タケルちゃん! 待った~~??」
 「こんにちは、白銀さん」
 「久しぶりね、白銀君。 元気してたかしら」
 「たけるさん、お久しぶり~~。 あ、美琴ちゃんも久しぶり~」
 「タケル、本当に久しぶりだねー。 2年ぶりくらい?」
 「・・・・・・おひさ」
 「よう、純夏。 俺もさっき来たばかりだ。
 こんにちは、霞。 礼儀正しくていいな、純夏とは大違いだ。
 よう委員長、俺が元気じゃないところなんて想像出来るか?
 たま久しぶりだなー! 気合い入った髪型は変わってねえんだな。
 美琴、いつものことだが2年はおかしいぞ。 ていうか3ヶ月くらい前にゲーセンで会ったろうが。
 彩峰、もう少し言葉増やそうぜ。 返答に困る」

  一人一人に声を返していく。 そしてその度に、その表情を確認していった。
  何も変わっていない面表。 俺はなぜかそれが、とても快く思えた。

 「皆は昼飯食ったのか? まだだったらここで食おうぜ」
 「そうだね~。 あ、ちょっとすみませ~ん」

  純夏が大きく手を振り、店員を呼ぶ。
  そして各自が好きなものを頼み終えると、みんなも久しぶりに会ったのが嬉しいのか、会話に華が咲いた。

 「それにしてもみんな本当に久しぶりだね~~。 私と壬姫ちゃんは同じ学部だから、結構頻繁に会うけど」
 「だよね~。 特に史学に行っちゃった美琴ちゃんとは、なかなか会えないんだもん。
 いつもどうしてるの~?」
 「いや~~、何か、史跡発掘に誘われちゃってさ~。
 メソポタミヤとか南米とかに行ってきたんだよ」

  一堂、「すげえ!」という感じで美琴を見張る。

 「そ、それってすごいんじゃない? 鎧衣さん」
 「・・・・・・『めそぽたみや』って、何のことかな?」
 「純夏、とりあえずお前は黙ってた方が良い」
 「なんかすごかったよー。 罠とかがたくさんあってさー・・・・・・まあ父さんの罠に比べれば、全然簡単なものだったんだけどね。
 遺跡の奥には宝があってね、水晶の髑髏とか色々あったんだよ」
 「水晶の髑髏? おい美琴、それってどんなやつなんだ?」
 「いやー、でも問題はその髑髏をとった後なんだけどねー。 一番大きなトラップが動いちゃって、ヒヤヒヤしちゃったよ」

  ・・・・・・あいかわらず人の話は聞かないんだな、美琴よ。
  俺は美琴を諦め、その横の委員長に声をかけた。
  俺は委員長の容姿をじっと見る。 

 「うーん・・・・・・この中で一番変わる可能性があると思っていたのは委員長だったが・・・・・・
 期待はずれだな」
 「ちょっと、それどういう意味よ?」

  メガネ、お下げ、太眉毛・・・・・・ダメだ、白稜柊時代との変化がよく分からん。
  そして何よりその性格だ、性格。

 「いや、時々いるじゃねえか? 大学に入ってから突然髪染めたり、髪型変えるやつ」
 「あんなのは目標もなくて、大学をレジャーランドと思っている人達がすることよ。
 私には目標があるの」

  委員長は胸を張っている。 そういえば弁護士を目指しているようなことを聞いたな。

 「・・・・・・本が恋人」

  ボソッと彩峰が呟いた。

 「なんですって!?」
 「・・・・・・図星?」
 「違うわよ!!」

  遺跡での冒険について語る美琴。
  それを真剣に聞いているたま。 
  そして、それを境にして睨み合う委員長と彩峰。
  
  俺は自然に笑みを浮かべていた。 こいつらは何も変わっていない、あの頃のままだ。
  ・・・・・・ただ一つ違うことと言ったら、ここに『冥夜』がいないことぐらいか。

 「タケルちゃん、何ニヤケてるのかな~~?
 あ、もしかして久しぶりに女の子に囲まれて嬉しいの?
 ダメだぞー、タケルちゃんには冥夜っていう彼女がいるんだから、そんなこと考えちゃ」

  ―――ドクン
  冗談交じりで発せられた純夏の言葉。
  それは、まるで俺の心を見透かしているようで、一瞬、喉の奥が詰まったような感じになった。
  俺は顔を俯けた。
  純夏の顔が、みんなの顔が、なぜか見れない。
  見たらきっと、また見透かされてしまいそうな、そんな気がした。

 「た、タケルちゃん? どうしたの?」
 「白銀さん、大丈夫ですか?」
 「白銀君、大丈夫?」
 「たけるさん、どうしちゃったんですか?」
 「タケル、気分でも悪いの?」
 「白銀、どうした?」

  皆が優しく声をかけ、気に懸けてくれる。
  ふと、胸の内に暖かいものが溢れてきた。
  こいつらなら、今の俺を救ってくれるかもしれない。 そんな気がした。
  
 「実はさ。 明日から旅行に行く予定なんだ・・・・・・冥夜と、二人で」
 「「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」」」

  顔を上げると、みんな真っ赤に顔を染めて、プルプルと震えていた。

 「・・・・・・ぷっ」
 「「「「あははははははははは!!」」」」

  純夏が吹き出し、それを機にみんな笑い始めた。
  みんなの声が店いっぱいに拡がったせいか、他の客達や店員からギロッと睨まれている。
  ちょ、なんだよ、俺真面目な話をしてるっていうのによ。

 「はーはーはー、た、タケルちゃん、もしかしてそれで私達に相談したかったの?」

  純夏は腹を押さえ、苦しそうに笑っていやがる。
  苦しむのか笑うのか、どっちかにしやがれ。 ていうか苦しめ。

 「ああ、そうだ」
 「呆れた・・・・・・そんなのを女の子に聞くなんて」
 「(こくこく)・・・・・・」

  委員長と彩峰の意見が合ってる・・・・・・実はこいつら、仲が良いんじゃね?

 「あれだよねー。 どんな話をすればいいかとか、何か気をつけることとか、って話だよねー」
 「タケルーもっと早く言ってくれればよかったのに。 そしたらすっごく星が綺麗な名所を案内出来たんだけどなー。
 まあ熊が出るからあまりオススメは出来ないんだけどね。 でも、冥夜がいるから大丈夫かな?」
 「あ?」

  いや、そういう話じゃねえんだけど。

 「白銀」
 「あ?」

  彩峰が俺の肩に手を置く。 そして俺の前に女握りをした手を持って来て・・・・・・「ヤル?」と一言呟いた。

 「「「「ぶふお!?」」」」

  彩峰と美琴と霞以外の面々は、俺を含め盛大に噴き出した。
  こいつ、いきなり何言ってやがる!? 

 「けけけけけけ慧ちゃん!?」
 「あ、彩峰さん! 何言ってるの!?」
 「大丈夫、大丈夫」

  詰め寄る委員長に、目を細めて対応する彩峰。

 「私達、大学生。 大学生なら、いたって普通」
 「ふ、普通って・・・・・・ダメよ! 責任も取れないのにそんなことしちゃ!」
 「・・・・・・ぷ」
 
  まるで「こいつ何歳? 小学生?」みたいな彩峰の表情。
  まあ、委員長らしいっちゃあらしいが。

 「何よ、その態度は! そもそも私は、そんな何も考えない男とは付き合わないわよ」
 「・・・・・・やっぱり本が恋人?」
 「しつこい!」
 「あー、盛り上がっているところ悪いんだが、そんな話じゃねえぞ」

  『やれやれ』という顔で俺はみんなを制止する。
  うん、これで言いたいことが言える。 ちゃんと誘導しないとこいつら勝手に話を進めかねないからな。

 「俺が相談したいのはだ・・・・・・旅行が明日だっていうのに、ここ4日間、冥夜と一言も話せていない、ということだ」

  途端にみんなの顔が驚きに変わる。 さっきまで愉快そうにしていたのに、その感じが完全に消えた。
  
 「最近、冥夜忙しいみたいでさ。 でもよ、いくらなんでも4日間だぜ4日?
 今までこんなことなかったんだ・・・・・・1日でも、あいつはきちんと連絡をくれていた。
 それなのに突然こんなことになっちまって。 俺、どうすればいいか分かんなくなっちまってよ」

  これまでの想いそして疑いを、俺はぶちまけた。
  みんなは、俺の言葉を黙って聞いてくれている。 それがとても心地よかった。

 「だからみんなに、聞きたくなってさ」
 「・・・・・・・・・・・・」

  みんな押し黙っている。 そうだよな、やっぱり難しい問題だよな、と思った。

 「・・・・・・ダメだよ」
 「!?」

  ふと、信じられない言葉が横から飛び込んできた。
  声の主は・・・・・・純夏、だ。

 「タケルちゃん、ダメだよ。 そんなこと、私達に聞いちゃ、ダメなんだよ」
 「!! あ、た、確かに愚痴っぽく聞こえたかもしれないけどさ、マジ気にしてるんだぜ?
 冥夜が何を考えてるのかとか、これからどうすればいいかとか」

  純夏は俺と目を合わせようとしてくれない。 まさか告白の時みたいに、傷つけちまったか?
  俺は慌てて、言葉を選び始めた。

 「冥夜はさ、今回の旅行楽しみにしていたはずなんだよ。 それなのに連絡もよこさないってのは、何かあったのかと思ってさ。
 同じ女のみんななら、何か分かるんじゃないかって」
 「だからダメなんだよ、タケルちゃん。 私達に聞いちゃ、ダメなんだよ」
 「!?」

  あくまで、俺の質問を『拒否』する。
  
 「な、何でダメなんだよ? せめてそれぐらい教えてくれよ」
 「・・・・・・私達が言っちゃったら、冥夜が『可哀想』だよ」
 「!?」

  可哀想? 訳わかんねえ!?
  それを言っちまったら、冥夜とは連絡がつかず、4日も会えていない俺は可哀想じゃねえのかよ!?

 「いや、俺が聞いているのは何で冥夜がここに来れないかってことで」
 「同じだよ。 とにかく、私達からそれについては何も言えない」

  俺は周りも見回した。 他の連中も、俺と目を合わせないようにしている。
  態度は、明らかだ。 

 「なんなんだよ・・・・・・一体、なんなんだよ!
 『可哀想』だって? 今回の件で俺たちが別れることになったら、それが冥夜にとっては一番『可哀想』じゃねえのかよ!?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「あれか? まだ俺がフッたこと根に持ってんのか? そうなのか、おい!?」
 「!!」

  その言葉を発した瞬間、純夏の顔が歪む。
  段々と目に涙がたまっていくのが見える。 俺は、思わず胸が締め付けられた。
  しまった、俺、なんてことを・・・・・・

 「し、白銀君、それはちょっと言い過ぎよ」
 「・・・・・・なあ、みんな、教えてくれよ」

  たぶん今の言葉は、他の連中にとっても痛かったに違いない。
  でも俺は、自分の言葉を止められなかった。 止めなかった。
  冥夜の想いが本当に分からないんだ。 自分で言ったことだが『俺たちが別れることになったら』なんて、考えたくもないんだ!
  そして俺が頼れるのは、こいつらだけなんだ。

 「頼む、頼むよ。 俺はどう思われてもいい。
 それでも知りたいんだよ・・・・・・冥夜が今ここにいないのは、どうしてなんだ。 俺は、どうすればいいんだ!?」
 「・・・・・・なんで」

  ボロボロと純夏の頬を涙が伝う。 俺は何を言われてもいいように、構えた。
  それだけのことを言っちまったんだ、覚悟は出来ている。

 「なんで・・・・・・なんでそんなに冥夜のことを想ってるのに、
 信じてあげられないのさ!」
 「!?」

  純夏の目は悲しんでなんていなかった。
  これは『怒り』だ。俺の言葉に激昂したものじゃない、これは、俺の態度に対するものだ。
  睨み付ける純夏。 周りは逆に、哀れむかのような表情でこっちを見ている。
  ・・・・・・俺はだんだんと居たたまれなくなっていき・・・・・・
  逃げ出すように、その場を後にした。





 「・・・・・・くそ!」

  あれから俺は、ゲーセンでずっとバルジャーノンをやっていた。
  純夏の言葉をいくら考えても答えは出ない。
  結局あいつが何を言いたかったのか、俺には全く分からなかった。
  冥夜が帰ってないか?とも考え、家に電話しても誰も出ない。
  今日の俺は何もかも上手く行かない。
  イライラする。 あー、イライラする!
  明日の旅行をずっと待っていたっていうのに・・・・・・そもそも行けるのか? こんな状態で?

 「あ、やべ」

  『You Lost』という表示がモニターに映った。
  これで何度目だろうか。 俺はいつもなら犯さない失敗を繰り返していた。
  ストレス発散のつもりで始めたっていうのに、これじゃあ逆効果だぜ。
  よし、もう一回・・・・・・と思ったところで、突然電源が落ちた。

 「なんだよ!?」

  バルジャーノンのユニットが開くと、外には店員が立っていた。
  まだ続きをやろうと思ってたっていうのに・・・・・・
  そう思っていると店員は「閉店です」と申し訳なさそうに頭を下げる。
  ・・・・・・時計を見ると、時間は午後9時を超えていた。
  もうこんな時間になっていたんだな。

 「ああ、すんません。 すぐ出るんで」

  ユニットを下り、そのままゲーセンの外に出た。
  辺りは、イルミネーションで飾り付けられた店が一杯。
  俺はすぐ横にあるベンチに腰掛け、その様を眺めた。

  イルミネーションの下を恋人と思われる男女が、大勢歩いている。
  そういえば、あと2週間もしないでクリスマスなんだよな。
  はー、と溜息をついた。 本来なら俺も、ここを冥夜と歩いていてもおかしくないはずなのに、な。
  ・・・・・・俺たちはクリスマスのとき、一緒にいられるのだろうか?
  なんか、自信がない・・・・・・

 「はー・・・・・・」

  俺はもう一回溜息を吐いた。

 「あら・・・・・・白銀、君?」
 「白銀ー? こんなところで何してんのよ」

  顔を上げると、そこには久しぶりに見た・・・・・・まりもちゃんと夕呼先生の姿。

 「まりもちゃん? 夕呼先生!?」
 「やっぱり、私はそう呼ばれるのね・・・・・・夕呼はちゃんと先生づけなのに」

  るー、とまりもちゃんが泣いている。 まあまあ、卒業したんだからいいじゃないっすか。

 「二人とも、どうしてここに?」
 「先に質問したのはこっちなんだけどね・・・・・・まあいいわ。
 いやねー、まりもが昨年に続いてまたまたフラれちゃったのよ!」

  ズガシャーン!
  るー、と泣いていたまりもちゃんの頭の上に、でっかい分銅が見えた気がした。
  まりもちゃん、またフラれたんだ・・・・・・合掌。

 「アンタ達が卒業してすぐだから、半年ぐらいかしらね。 長くもった方よー。
 で、世の中クリスマスシーズンでしょ? だから慰めてやってる、というわけよ」

  どう見てもたかってるようにしか見えませんが。
  と喉元まで出かかっているが、それ以上言うと俺もたかられそうなのでそれ以上は言わなかった。

 「それで、アンタはこんなところで何やってんのよ?
 御剣と待ち合わせ?」
 「・・・・・・!!」

  痛いところを突かれちまったな。
  まあ確かに周りはカップルばかり。 そう思われても仕方がない、か。

 「ははは、何だと思います?」
 「何よ、質問に質問で返すなんてタチが悪いわね」

  そう言いながら、夕呼先生とまりもちゃんが俺を挟むようにしてペンチに座った。
  あれ? もしかして俺逃げられない??

 「・・・・・・なんかあったんだったら相談に乗るわよ。
 一応アンタ達の先生だったんだしね。 ねえ、まりも?」
 「そうよ、白銀君。 先生達に言ってみなさい?」

  今の俺には、すごく輝いて見えた。 何も言っていないのに、俺のことを察してくれている。
  この人達なら、俺の苦しみを分かってくれるかもしれない・・・・・・
  そう思い、俺は、冥夜のこと、そして「すかいてんぷる」であったことを二人に話した。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・というわけなんです」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  話を終え、俺ははーっと溜息をついた。

 「あー、白銀。 アンタに一つ確認したいことがあるんだけど」
 「何です?」
 「・・・・・・アンタって、中学生だったっけ?」

  ズル、と俺はこけかけた。
  この人はいつも何を言ってるんだか・・・・・・。

 「大学生ですけど」
 「ああ、そうなんだ。 じゃあ頭は子供、外面大学生、ってわけね」
 「ちょ、ちょっと夕呼」

  なんだ? 夕呼先生、呆れてる?

 「先生、何を言いたいんすか」
 「それすら分かってないから、ガキだって言ってんでしょ?」
 「ガキって・・・・・・仕方ないじゃないですか。 マジ分からないんですから」
 
  夕呼先生は腕を組み、背もたれに深く腰掛ける。
 
 「・・・・・・ヒント、欲しい?」
 「え?」
 「ヒントが欲しいかって聞いてんのよ」

  怪しい笑みを浮かべこちらを見る。
  ああ、そういえば物理のときもこんなやり取りがあった気がする・・・・・・まあ大抵交換条件が人体実験だったりしたが。

 「・・・・・・欲しいっす」
 「じゃあ、一つ目。 まずは鑑達について。
 アンタと冥夜が逆の立場だったら、どうかしらね?」
 「え?」

  俺と冥夜が逆? この場合、冥夜が俺なわけだから、冥夜が純夏達に俺のことを聞くのか?
  問題ないと思うけどな・・・・・・友人に相談するのは、当然だろ。

  ・・・・・・いや、違う。
  よく考えてみろ。 そもそも、純夏達は単なる友達か?
  今は確かにそうだが、つい最近まであいつ等は互いに『恋敵』だったじゃないか。
  もちろん『冥夜』にとっては、純夏達は大事な友達だ。
  でも『俺』との関係性で考えたとき、純夏達は単なる友人なんていう枠じゃない。
  ・・・・・・もし冥夜が、俺のことで別の男に相談を持ちかけたら、
  しかもそいつが、冥夜のことを好きだったら・・・・・・俺は、冷静でいられるだろうか。
  いられないだろうな。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「分かったようね。 さて、後はアンタと御剣についてだけど、それについてはまりもの方が専門でしょ。
 そっちに聞きなさい」
 「ええ!? ちょ、ちょっと夕呼!」
 「ほらほら、年長者の意地を見せなさいな」

  まりもちゃんは困った表情を浮かべ、俺を見ていた。
  しかし一度目を閉じ、意を決した感じになると、やはり大人の女性らしく余裕をもって俺に向き直った。

 「白銀君・・・・・・私ね、思うんだけど・・・・・・
 そんな恋愛に気負いすることはないと思うの」
 「え?」
 「『こうなりたい』『こうありたい』・・・・・・うん、白銀君の気持ちはすごく分かるわ。
 でもね、本当はもっと純粋な白銀君の想いが、別のところにあると思うの」
 「・・・・・・・・・・・・」

  純粋な―――想い
  でも俺、素直に自分の感情を表していると思うんだけどな・・・・・・
  なんか違うのか? いや、そう思う時点でもしかしておかしいのか?

 「白銀君は御剣さんに何も望んでいないの?」
 「え、いや俺は・・・・・・冥夜には冥夜らしく生きて欲しいっていうか・・・・・・」
 「・・・・・・それだけ?」

  冥夜らしく生きて欲しい・・・・・・これは、確かに俺が望んでいることだ。
  でも、それだけなのか? そんなこと・・・・・・あるはずはない。
  冥夜に望むこと・・・・・・それは・・・・・・

 「!?」

  ふと、3日前に大学で冥夜の手を掴んだことを思いだした。
  あの時の俺は何も考えずにそうしたけど、なんであんなことしたんだ?
  『冥夜らしく生きて欲しい』だけなら、なんで俺は、あんなことを・・・・・・

 「はい! ヒントタイムしゅーーーーりょーーーーーー」

  いつの間に席を立っていたのか、夕呼先生はまりもちゃんの腕を引っ張り無理矢理立たせた。

 「ちょ、ちょっと夕呼?」
 「後は青春ボーイにでも考えてもらいましょう。
 自分の力で解いてこそ、勉強ってもんだしね」

  そう言いながら急ぎ足でその場を離れていく二人。
  ふと、夕呼先生が動きを止めて、こちらへ振り向いた。

 「そうそう。 そういえば、フランスの詩人でこんな言葉を残した人がいたわね。
 『自ら苦しむか、もしくは他人を苦しませるか。 そのいずれかなしに恋愛というものは存在しない』
 でもね、これは違うと思うのよ。 なぜか分かる?」
 「・・・・・・いえ」
 「『自ら苦しむか、もしくは他人を苦しませるか』って彼は言っているけど、これって『自ら苦しんで、かつ他人も苦しめて』だと思わない?
 自分だけ苦しむか相手だけ苦しむか、なんてのは恋愛では成立たないと思う。 両方苦しむのよ」

  ・・・・・・俺はそんなことを言う夕呼先生にちょっと衝撃を受けた。
  夕呼先生から恋愛の話がでるなんて、天変地異の前触れ?
  明日にでも宇宙人が攻めてくるんじゃないだろうな。
  
  ともかく俺は、その夕呼先生の言葉に妙に納得し、何も言えなかった。

 「ま、そんなに深く考えなくてもダメだったらダメでここに代わりがいるわけだし。
 よかったわね~、まりも。 クリスマス、もしかしたら一人じゃないかもよ?」
 「何言ってんのよ!?」
 「ふふふ。 それじゃあね、白銀。
 せいぜい頑張りなさいな」

  そう言い残し、夕呼先生とまりもちゃんが街の雑踏の中に消えていく。
  その背中を、周りのイルミネーションと共に見送る。 それらは、相変わらず輝いている。
  ・・・・・・俺は空を見あげた。
  さっきまで全く気づかなかったが、空には大きく月が浮かんでいる。
  それはイルミネーションに霞み、あまり輝いているようには見えなかったが、なぜかその月光が俺だけを照らしているように思えて、そ
 れがとても美しく見えた。





  ―――それから、更に2日経った。
  結局冥夜とは連絡が取れず、旅行には行けずじまい。
  そして明日は、俺たちがこういう関係になって、初めて迎える誕生日。
  
  そんな折に、今朝早く家に電話が入った。
  声の主は月詠さん。 なんか、久しぶりに声を聞いた気がする。
  月詠さんは俺に、白稜柊裏の丘に来てください、とだけ伝えると電話を切った。
  あの人はいつも唐突だよな。 でも今回はいつにも増して慌ただしいような気がする。

  そうして俺は、久しぶりに母校へ入り込んでいた。
  今日は休日だからか生徒は誰もいない。
  ・・・・・・時間はまだあったので、久しぶりに昔の教室を覗いてみた。

 「何も変わってねえな」

  昔の面々が思い出されてくる。
  ここには委員長がいたな。 そこにはたま、美琴、彩峰。
  そして、自分の席だった場所へと目をやった。
  俺の周りには悠陽と霞、そして純夏と冥夜がいたっけな。

  今でもありありと思い出される、あの日々。 お祭りのような毎日。
  そしてお祭りの日々から、あいつへの・・・・・・冥夜への、想いが生まれたんだ。

 「・・・・・・よし」

  俺はそのことを確かめ、大きく深呼吸すると、教室を後にした。



  丘にはすぐについた。
  冷えた風が俺の頬を打ち、感覚を奪っていく。
  しかしそんなことはどうでもいい。 冥夜へ近づくことが出来るかもしれない、これはチャンスなんだ。
  なぜ冥夜が一週間帰ってこなかったのか、なぜ連絡すらしてくれなかったのか、これで分かる筈なんだ。
  丘の上の木が見える。 ここは、俺がみんなに気持ちを伝えた場所・・・・・・冥夜に、告白した場所だ。
  鼓動が強くなる、のが分かった。 体中の血液が沸騰しそうなくらい、熱くなっていくのも。

  俺は丘の木だけを見続ける、その後ろから人影が見えた。

 「月詠さん」
 「・・・・・・武様」

  真剣な表情でこちらを見つめている。
  俺もそれに負けないくらいにらみ返すと、月詠さんは軽く笑みを作り「お久しゅうございます」と、深く頭を下げた。
  空気を和ませようとしたのだろうか。 だが今の俺は、そんなことを気にするほど余裕など無い。

 「月詠さん、冥夜は?」
 「・・・・・・・・・・・・」

  頭を上げ、再び真剣な表情でこちらを見続ける。
  そして何も言わず、俺の前に手を差しだしてくる。
  ・・・・・・その手には、『御剣』の家紋が彫られた携帯電話が握られていた。

 「これを俺に?」
 「・・・・・・・・・・・・」

  あいかわらず月詠さんは何も言ってくれない。
  俺はその携帯を黙って受け取った。 スッ、と月詠さんが後ろに下がる。
  すると、不意に携帯が振動し始めた。
  慌てて携帯を開くと、そこには『御剣冥夜』と大きく表示されていた。
  
 「!?」

  一瞬、硬直する俺の体。
  だが直後に硬直は解け、俺はゆっくりと通話ボタンへと指を伸ばす。

 「・・・・・・・・・・・・」

  そして、軽くボタンを押し、携帯を耳へとあてがった。

 『・・・・・・・・・・・・』
 「・・・・・・冥夜?」

  携帯の先からは何も聞こえない。
  聞こえるのは、丘を通る風音と葉音。
  まるでその携帯は奈落の穴を表しているかのようで、
  それに対していくら声をかけても、結局下には届かないように、
  その沈黙は、とても俺を不安にさせる。

  だからだろうか。
  俺は気づくと、狂ったように『冥夜』の名を叫んでいた。

 「冥夜! 冥夜なんだろ!?
 頼む返事をしてくれ!」
 『・・・・・・・・・・・・』
 「なんかあったんだろ? メイド達から忙しいってのは聞いてた、もしかしてそれのせいなのか?
 ああ、何でもいい何でもいいから声をかけてくれよ、冥夜!」
 『・・・・・・う』

  穴から嗚咽が聞こえてきた。 届いている!と俺は確信でき、更に声を強めた。

 「やっぱり冥夜なんだろ、聞いてくれ、俺、色々考えたんだ!
 考えて考えて、それで・・・・・・」

  ―――ふと、目の前に見覚えのある脚が目に入った。
  スラッとした脚。 横には、携帯電話が握られた右手が見える。
  徐々に視線が登っていく。
  狭い肩幅。 特徴的な、美しい青髪。
  それが冥夜だと気づくのに、時間などいらなかった。

  しかしたった一つ、俺の記憶と違うのは――冥夜の顔はとても疲れ果てていたことだった。
  目下には大きなクマを作り、瞳は赤く充血している。
  冥夜はそれを恥ずかしがるかのように顔を俯け、涙を流していた。

 「めい、や?」
 「タケル・・・・・・」

  声からはいつもの自信に満ちた冥夜が想像出来ない。
  それだけでも冥夜がどれだけ困難な作業に従事していたのか、容易に想像つく。
  こんなに、こんなになるまで、冥夜は・・・・・・

 「・・・・・・どうしちまったんだよ」
 「それは私がお話しします」

  後ろに下がっていた月詠さんが声をかける。

 「我々御剣の研究チームが最近、あるシミュレーション結果を発表したのです。
 それは近い将来、アメリカから起こるであろう金融危機とそれに伴う世界恐慌の再来です」
 「金融危機? 恐慌?」
 「はい。 第二次世界大戦に至るまでの道程を作ったと言われる世界恐慌。
 それに似た状況がアメリカの金融危機を発端として始まり、最終的には世界中の経済を破壊。
 最悪の場合、第三次世界大戦に至るという恐ろしい未来を予測したのです」

  だ、第三次世界大戦? なんだよそれ、いきなり荒唐無稽な・・・・・・

 「我々御剣は早急に対策を打ち立てました。
 サブプライムローンへの介入、FRBへの根回し、日米欧の財政担当大臣による協力約束・・・・・・
 それらを取り付けたのが、悠陽様と冥夜様にございます」
 「!?」

  よ、よく分からんが、とにかくすごく重要なことを冥夜達はしていたっていうことだよな。

 「それは分刻みのスケジュールでした。
 刻一刻と変わる情勢下にあって、例え数秒でも予断が許されない状況・・・・・・冥夜様はその最前線にあり、睡眠や食事もきちんととるこ
 とが適いませんでした」
 「そうか、だから電話も」
 「はい。 しかし冥夜様は、その状況下にあっても自身の限界を超えて頑張っておりました。
 それは世界を救うために。 そして、もう一つは」
 「月詠・・・・・・止めよ」

  黙っていた冥夜から声が漏れる。 しかし月詠さんは、構わずに言葉を続けた。

 「冥夜様は、武様の約束を果たそうと努力されたのでございます!」
 「!!」
 「止めよと言っているのだ! 月詠!」

  冥夜の怒号が響く。 月詠さんは頭を下げ、再び後退した。
 
 「・・・・・・・・・・・・」
 「お前」

  見れば分かる。 お前が、どれだけ頑張ったかなんて。
  今にも倒れてしまいそうな表情。 よく見れば、一週間前と比べてだいぶ痩せたよな。

  お前、俺が旅行のことで責めると思ったのかよ?
  そんなことするはずないじゃないか・・・・・・俺は、俺は冥夜とこうして会えて、それだけでとても嬉しいっていうのに。
  それなのに冥夜を責めるなんて、できるはずないじゃないか。

 「冥夜・・・・・・はは、なんだよ。 そんなことなら心配して損したぜ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「大変だったな?
 まあ今回の旅行はお流れになっちまったけど、気にするなって。
 またチャンスは来るんだからよ」
 「・・・・・・違う、違うんだ」
 「分かってるって。
 言っておくが、俺は全然怒ってねえぞ?
 まあちょっと会えなかったのが寂しかったくらい」
 「違うんだ、タケル!」
 「!?」

  突然、大声を上げる冥夜。
  そして痛々しい顔をこちらに向けた。

 「タケル・・・・・・私は、そなたに優しくしてもらう資格が、ないのだ」
 「だから気にしてねえって。 また計画立てればいいだろ」
 「私は・・・・・・う・・・・・・私は・・・・・・」

  冥夜が腕を、自分の胸へと持ってきた。
  まるで自分の心から何かが漏れるのを防ぐように、両腕で自分の体を抱きとめる。

 「私は・・・・・・そなたの気持ちを、裏切ってしまった」
 「メイヤ?」

  さっき以上に大粒の涙が冥夜の頬を流れていく。
  冥夜は何度も言葉に詰まりながら、それでも必死に紡いでいった。

 「そなたは私を選んでくれた。 他の誰かではなく、この私を選んでくれた。
 しかも、自分のことをもっともよく知っているであろう人を、拒んでまで」
 「そのような想いで私を選んでくれたのに、私は・・・・・・私はそなたに、答えられていない。
 『私はそなたのものだ』と言っておきながら、何も返しておらんのだ!」

  その言葉を聞き、俺はハッとした。
  冥夜は、俺の全てを受け入れたいと思っているんだ。 俺が冥夜の全て――御剣も含めて――受け入れたいと思っているように。
  しかし現実は、違う。 頭では理解出来ても、心がそれに納得しないこともある。
  冥夜も、俺と同じように苦しんでいたのか・・・・・・

 「・・・・・・それだけではない」
 「え?」
 「今回の一件・・・・・・気づいたことがある」
 「何だ」
 「・・・・・・・・・・・・」

  冥夜は一度口を閉じた。 そして、その場に座り込む。

 「そなたは・・・・・・此度の件で、そなたは・・・・・・ “私を許してくれる” と、思ってしまったのだ」
 「あ、当たり前じゃねえか? 許すに決まって」
 「私は! そなたが私と旅行に行きたがっているということを知りながら!
 それでも “タケルなら許してくれる” と考えてしまったのだ!!」
 「!?」
 
  冥夜は膝に顔を埋め、こちらに顔を見せずに話し続けた。

 「・・・・・・私は、そなたに尽くしたいのだ。 そなたが思うことを、望むことを、何でも叶えたいと思っているのだ。
 それなのに私は・・・・・・ぅ・・・・・・そなたではなく、自分の感情を優先してしまった。 甘えてしまった」
 「まだ、旅行の件について後悔していたならいい。 その罪に、自分が苦しんでいるのなら、まだ救いはある。
 しかし私は、そなたを軽んじてしまった。 そなたが私に向けてくれた想いを、軽んじてしまった」
 「冥夜・・・・・・」

  違う、違うぜ冥夜・・・・・・お前は、俺のことを軽んじてなんていねえ。
  俺のために、これまでずっと頑張ってくれてたじゃねえか? この一週間だって、寝ず食わずで頑張ったじゃねえか。
  軽んじたって言うなら、俺だって・・・・・・お前のことが分からなくなって、純夏達に馬鹿なことを聞いちまった。
  信じられなくなってたんだ、俺への冥夜の気持ちが。

  ・・・・・・でも、今は違う。
  純夏達と話して、夕呼先生やまりもちゃんとも話して、得た答え。
  俺は座り込んだまま泣きじゃくる冥夜に近づき、腰を下ろした。

 「冥夜、聞いてくれ。
 俺さ、この一週間、冥夜に会えなくて色々考えたんだ」
 「・・・・・・ぅく・・・・・・ひ」

  嗚咽が止まらず、膝に顔を埋めた間動かない。
  俺は構わず話を続けた。

 「冥夜はなんで帰ってこないんだろう、俺は何をすればいいんだろう。
 俺は、冥夜に相応しい男になれるのかな、とかさ」
 「でもさ、俺、純夏達や夕呼先生、まりもちゃんに教えてもらって、分かったんだ」

  冥夜の肩に手を置く。 ピクッと一瞬反応する。
 
 「そんなこと問題じゃないんだ。 もっと、もっと素直になればよかったんだ。
 俺は冥夜と一緒にいたい、側にいたい。 冥夜に触れていたい、冥夜の笑顔が見たい。
 もっと純粋に、そう願えば良かったんだよ」
 「だって俺が冥夜を選んだのは、冥夜じゃなければダメだったからだ。
 冥夜以外に、そんなこと思えたやつはいなかったんだ」

  ・・・・・・目の前の冥夜が、ゆっくりと顔を上げていく。
  その顔はやっぱり、涙で濡れていた。
  俺はその顔を、両手で挟む。 ・・・・・・とても冷えていた。

 「ずっとこうしたかった。
 そんなことばかり考えていた・・・・・・」
 「タケル・・・・・・」

  互いに視線が交差する。 互いの目が対称となり、まっすぐに見つめ合う。
  そして俺は、俺の気持ちを表す根源の言葉を、吐いた。

 「愛しているんだ、冥夜」
 「!!」

  冥夜は驚きの表情を浮かべるが、すぐに視線をずらした。

 「しかし私は・・・・・・御剣だ」
 「俺は側にいたい」
 「だからまた迷惑を」
 「いくらだってかけろ。 ただし絶対に離れるな」
 「・・・・・・そなたの想いに・・・・・・応えられる自信が・・・・・・」
 「知るか。 俺が決めたんだ。
 俺はお前が欲しい。 お前から絶対に離れない、離れたくない。
 ・・・・・・なあ、冥夜。 お前は、どうなんだ?」
 「え?」
 「冥夜は、どうしたいんだ」

  やっと、冥夜が俺の方を向いてくれた。
  冥夜の頬が紅潮し、次第に熱を持っていく。
  分かってるぜ冥夜。 お前の答え、俺には分かる。

 「・・・・・・バカ。 分かっているのであろう」
 「はは、バレた?」

  互いに笑みが浮かんだ。 そして、俺の期待通りの答えが、冥夜の口から返ってきた。

 「私も、そなたと共にいたい。
 そなたと離れたくない。 こうして、いたい」
 「だろ? 俺たちってさ、やっぱ相性抜群なんだよ」

  そして俺は、ゆっくりと冥夜の頬から手を引いた。

 「冥夜、俺さ・・・・・・実はお前に離れて欲しくないって、ずっと思ってた」
 「え」
 「お前が本家に帰るとき、いつも悲しかったんだ・・・・・・気づいていただろう?」
 「・・・・・・うん」
 「なあ、俺たち、もっと素直になろうぜ。 俺は冥夜に素直になる。 冥夜は、俺に素直になれ。
 そりゃあ出来ないことだってあるさ。 冥夜は御剣だ、それを否定する気はない。
 でも俺は、俺の今の気持ちを知って欲しいとも思うんだ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「俺はこの一週間、寂しかった。 とても、寂しかった。
 冥夜は?」
 「・・・・・・私も、寂しかった。
 そなたのいない時間がこれほどまでに苦しいものとは、思わなかった」

  寂しそうな表情。
  俺は冥夜の肩に手を置き、グッと引き寄せた。

 「た、タケル?」
 「・・・・・・こうすれば寂しくないだろ」
 「!!」

  冥夜の頭をゆっくりと撫でてやる。
  顔を真っ赤にし、俺の方をじっと見る。

 「・・・・・・そなたは、なぜこんなに優しいのだ?
 私は何も返せていないというのに」
 「言ったじゃねえか。 俺はお前の側にいたい。
 そして今、お前は側にいてくれている・・・・・・それで満足なんだよ」
 「そうか・・・・・・私は、そなたに返せていたのだな・・・・・・そうか」

  冥夜が目を瞑る。
  俺に体を預けると、冥夜の体から力が抜けていった。
  自然に、緩やかな呼吸音が聞こえてくる。 俺も落ち着ける、柔らかなそれ。

 「・・・・・・お休み、冥夜」
 「武様」

  後ろから月詠さんの声が聞こえる。
  その方を向くと、彼女は涙を流してこっちに頭を下げていた。

 「月詠さん、よしてくださいよ」
 「いえ、今はこうさせてください。
 私は嬉しいのです。 冥夜様を本当に想って下さる方が現れてくれて。
 だから私は、こうしているのです」

  ―――12月15日。 それは俺と冥夜の誕生日の1日前。
  俺たちの上には雲一つ無い空。
  卒業式も、こんな天気だったな。
  そう考えたとき、俺は強く感じられた。 大丈夫だ、と。
  今俺の腕の中で安らかに眠っているこの女となら、どこまでも行くことができる、と。
  俺は強く確信し、冥夜の髪をもう一度撫でてやった。




 「10時から三渓園、昼は中華街で昼飯だろ。
 その後は3時くらいに円覚寺だ、で、最後が鶴岡八幡宮・・・・・・」
 「な、なかなか慌ただしいな、タケル」

  今俺たちは、バスを二人で貸し切って「横浜・鎌倉いいとこどり」という某黄色いバス会社の日帰り旅行コースをなぞっていた。
  ・・・・・・あれから冥夜は、俺の側で一日を寝て過ごした。
  俺はその間に月詠さんに頼んで、今回のバスツアーを拾ってきて貰ったというわけだ。

 「時間ぎりぎりで回らないといけないからな、こういうのは。
 慌ただしいのもしょうがない」
 「ふむ、そういうものなのか」

  ふと窓の外を見ると、横浜ベイブリッジが左手に見えた。
  さらにその奥には・・・・・・おなじみ御剣家の寝所豪邸が、まるでデ○ズニーランドのごとく、そびえ立っていた。
  ・・・・・・・冥夜はまた明日から本家に戻る。 しばらく会えなくなるらしい。
  今日の日帰り旅行は、いわば月詠さんが俺たちのために気を利かせてくれたものというわけだ。
  2泊3日が日帰り・・・・・・まあ、文句なんて言えないけどね。

 「なんだタケル、機嫌が悪そうだな」
 「ん」

  持っていたペットボトルのお茶に俺は口をつけた。
  そんなこと考えても仕方がない、今はとにかく、楽しむべし!

 「ぷはっ! お茶がうめえ」
 「そうか、おそらくは月詠が用意したのだろう」

  ・・・・・・・・・・・・ん?

 「冥夜、なんで窓側なのにこっちばかり見てんだ?
 普通外を見るもんだぞ」

  冥夜はこちらに体を傾け、俺の顔をじっと見つめている。
  そんなに俺の顔が面白いか?

 「ふふふ。 私はそなたの顔を見ているだけで十分だ。
 見てるだけで、楽しいのだ」
 「そんなもんかね~」
 「そなたは昨日言ったぞ。 『素直になれ』、と。
 だから私は素直になっているのだ。 これが私の本心だ」

  あー確かにそんなこと言ったな、そういえば。
  さっそく実行するとは、こいつやれば出来る子だな・・・・・・

 「・・・・・・そして、もう一つ素直になりたいことがある」
 「ん?」

  そう言うと、冥夜は俺に近づいてきた。
  冥夜の体が、俺に密着する。 体の柔らかみが、はっきりと感じられるほどに。

 「あ、あの、冥夜?」
 「・・・・・・そなた、昨日言ってくれたな。 『私でなければならぬ』、と。
 もう一度、聞かせてくれぬか?」
 「・・・・・・へえ?」

  顔を赤らめ、昨日の言葉を望んでくる。
  待て待て待て待て、ああいうのはその場の雰囲気というか勢いというのかね、そういうのが必要な訳だよ。
  唐突に「言え」って言われて、出るもんじゃないぞ。

 「あのな、冥夜・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  ジーッと見つめてくる。 あ、ダメだこりゃ・・・・・・
  今の俺には二つの選択肢しかない。 「言うor死」のいずれか。
  ・・・・・・死ぬのはダメかね?

 「ああ、分かった分かった。 これで最後だぞ」
 「!! う、うむ。 出来るだけゆっくりと言ってくれ、記憶に刻みつけたいのだ」

  冥夜は目をつぶり、真剣に聞き取ろうとしている。
  俺は、何度か深呼吸をした。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「冥夜、俺には君しかいないんだ!
 俺の側にいてほしい!」

  うっわ、恥ず!!
  ていうか、なんか違う気がするが・・・・・・

 「・・・・・・違うぞ、タケル」
 「うっ、やっぱり」
 「昨日とは全然違うではないか!」
 「あ、ああいうのはその場の勢いも大事なんだよ!
 一言一句覚えてるわけねえだろ!?」
 「そなたは、
 『冥夜じゃなければダメだったからだ。 冥夜以外に、そんなこと思えたやつはいなかったんだ』
 と言ったのだぞ!」

  冥夜は俺の口調を真似しつつ、昨日言ったのであろう台詞を朗読する。
  うげえ、俺恥ずかし!?

 「って覚えてるじゃん」
 「私は、そなたに言って欲しかったのだ」
  冥夜が俺の胸に頭を乗せてくる。
  そして上目遣いで、もう一度「そなたに言って欲しかったのだ」と呟いた。

 「う・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「そ、そうだよ。 冥夜じゃないとダメなんだ、俺。
 こんな風に思えたのは、きっと冥夜が初めてなんだ」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「だから俺は、冥夜を選んだんだ」

  な、なんか違ったか?
  でもこれ以上は無理だ! ただでさえ恥ずかしくてたまらないってのに!
  言うだけで疲れるとは・・・・・・

 「ありがとう、タケル。 私は、嬉しい」
 「え?」
 「そなたからこのようなことを言われて・・・・・・私は、世界一の果報者だ。
 心よりの感謝を」

  冥夜が顔を上げた。
  俺と、冥夜の顔。 その差は10cmも離れていない。
  見つめ合い、更に近づいていく。

  こつん、と不意に額が当たった。

 「ふふ」

  額をくっつけたまま、軽く笑いをこぼす冥夜。
  俺は冥夜の腰に手を回し、更に引き寄せる。

 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  そして俺たちは、久しぶりのキスをした。
  軽いソフトキス。 冥夜の唇の柔らかさが、とても感じいい。
  何故か甘い味がする・・・・・・

 「・・・・・・ぁ」

  俺は唇を離した。
  冥夜はぽーっと頬を赤らめ、目を細めてこちらを見ている。
  ふと、残った左手に冥夜が手を絡めてきた。
  一本一本しなやかな指が重なり、俺たちの距離がまた縮まったような、そんな気がした。
  そしてもう一度・・・・・・今度はディープキスで、冥夜とふれ合った。

 「ぅ・・・・・・・・・・・・ん」

  俺の動きに冥夜はきちんと返してくれる。
  それがとても健気で、俺はより激しく冥夜を求めた。
  体に込められた力が無意識に強くなっていく。
  ・・・・・・どれだけの時間、キスしていただろうか。
  再び唇を離したとき、冥夜は呼吸を乱し、目には涙を一杯溜めている。
  いてもたってもいられなくった。 『冥夜が欲しい』、それだけが俺を支配し始めていた。

 「タケ、ル・・・・・・」
 「冥夜」

  冥夜の頬に、軽くキスをした。 そのまま唇を首もとへズラしていく。

 「ん・・・・・・・・・・・・ぁ!」

  首元に顔が来たとき、一際甲高い声が上がった。
  俺はそれを見計らい、腰から服の中へと手を入れる。

 「だ、ダメ・・・・・・タケル」
 「冥夜?」

  俺は一度口をはなし、冥夜の表情を省みた。
  トロンとした感じが、俺にはとても艶っぽく見える。

 「タケル・・・・・・私は、生きていられるだろうか・・・・・・」
 「え?」
 「旅の始めからこれでは・・・・・・心臓が、どうにかなってしまいそうで・・・・・・」

  冥夜の顔が更に赤くなっていく。
  そんな彼女の様子が、とても愛おしい。

 「大丈夫さ。 どうにでもなった方が、かえっていい・・・・・・」
  俺はシートを横にし、そしてそのまま冥夜も倒れてもらった。
  冥夜は俺から手を離そうとしない。

 「タケル・・・・・・・・・・・・」
 「冥夜、愛している」
 「私、私も・・・・・・・・・・・・ん」

  俺はもう一度キスをし、今度こそ冥夜の中へ手を伸ばした。

 「(シュピ)冥夜様、武様。 お話盛り上がっておりますか?
 言い忘れておりましたが、鑑様達からの贈り物が・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・」

  俺たちのすぐ側に現れた月詠さん。
  それを見、硬直する俺ら。 ・・・・・・硬直っていうか凍る?
  この場合、どんな反応をすればいい? ああ、そうね、あれだね。
  冥夜もプルプルと震えてるし・・・・・・せーの

 「うわあああああああああああ!!」
 「きゃあああああああああああ!!」
 「申し訳ありませんんんんん!!」



 「申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません!!」

  月詠さんは土下座し、地面にガンガンと打ち鳴らすほど深く頭を下げている。
  それを気まずそうに見つめる俺ら。 ていうか、なんでああいういい場面で入ってくるかね。

 「もう良い、月詠。 要件を申せ」
 「は、はい・・・・・・鑑様達から、お二人への贈り物を頼まれておりましたので」

  月詠さんは俺たちに、綺麗に包装された何かを見せる。
  そして俺に手渡した。

 「で、では邪魔者は退散致しますので~。
 このバスは外からは見えませんし、運転も自動制御ですので存分に旅を楽しまれてくださいませ~」

  そう言い残し、姿が消える。
  ・・・・・・移動中のバスから、どうやって消えたり現れたりしてるんだ?

 「そ、それにしても月詠さんはいつものことながら神出鬼没だよな・・・・・・」
 「うむ・・・・・・タケル、月詠のことは許してやってくれ。
 月詠は私以上に世界を翔け、寝ていないのだ。 いつもならばこんなミス、するはずはない」
 「そうなのか」

  さすがは月詠さんだな。
  ・・・・・・でも、あのとき邪魔が入っていなければ、あのまま・・・・・・
  俺はブンブンと首を大きく振り、手渡されたプレゼントを見た。

 「な、何なんだろうな、これ。 開けてみるか」
 「うむ」

  包装を解き、箱を開けてみる。
  中は、少し大きなアルバムだった。

 「アルバム?」

  開いてみる。 中には、白稜柊にいた頃の写真がたくさん貼られていた。

 「おお!?」
 「ふむ、懐かしいものばかりだな。 これは料理対決のときか」

  冥夜が指さしたのは、『俺の隣席争奪戦』のときのものだ。
  確か冥夜と悠陽の料理は爆発したんだよな・・・・・・あの時は死ぬかと思ったよ。

 「で、これは球技大会のやつか。 まあ、球技っていってもサバイバルだけどな」
 「こっちは温泉だな。 これはクリスマス・・・・・・」

  俺と冥夜、純夏、委員長、たま、美琴、彩峰、霞、悠陽・・・・・・みんなで過ごした時間。
  その記録がこのアルバムの中にある。 俺たちはそれを語りながら、楽しく時間を過ごした。

 「・・・・・・ん?」

  ふと、一枚だけ変な写真があった。
  ほとんどは俺と冥夜、そして他の誰かが一緒に映った写真なのに、それだけは、違った。
  冥夜と純夏・・・・・・二人だけが、こっちに微笑みかけている、そんな写真。
  (・・・・・・純夏)
  その笑顔が俺には妙に優しく見えて、そして、辛かった。

 「タケル?」
 「ん」

  冥夜に気づかれる前に、と俺は次のページを開く。
  しかしそこからは、何も貼られていなかった。
  全体の半分が白稜柊でのみんなとの写真。 そして後半分が、真っ白なのだ。

 「・・・・・・これは」
 「ふむ、なかなか粋なことをしてくれる」

  白稜柊とのみんなとの思い出・・・・・・そしてここからは、俺と冥夜との思い出を作ってくれ、ということなのか。
  みんな、そこまで考えて・・・・・・あんなに非道いことを言ったのに・・・・・・
  俺は浮かんだ涙を軽く拭い、一番始めのページを開いた。
  それは、卒業式のときみんなで撮った一番大きな写真。
  俺たちの、大切な友情と、始まりの証。

 「・・・・・・冥夜」
 「ん?」
 「思い出、いっぱい作ろうな。 このアルバムだけじゃ足りないくらい、たくさん・・・・・・二人で」
 「うん、そうだな」

  ―――俺は窓から外を見た。
  既に東京を抜け、景色は落葉した樹木が並ぶものになっていた。
  こうして過ごした記憶を俺たちはまた、いつか回想するのかもしれない。
  それはときに、俺を苦しめるかもしれない。 冥夜に会えなかったときの俺が、白稜柊の記憶に苦しんだように。
  でも今の俺は、その記憶に慰められ、助けられている。 それは、俺を愛しく包んでくれる。

  ふと、夕呼先生が言っていた、
  『自分だけ苦しむか相手だけ苦しむか、なんてのは恋愛ではない。 両方苦しむのよ』
  という言葉を思い出した。

  俺は思う。 『片方だけで苦しむよりはそちらの方がマシだ』、と。
  一緒に苦しんで、悲しんで、喜んで・・・・・・きっといつか、それが思い出になって・・・・・・
  もしかしたら一番嫌な記憶になってしまったとしても・・・・・・それが俺の進んできた道なんだと、誰かと語り合う。
  それは、決して不幸なことではないはずだ。
  だって俺は、本当に愛する人を見つけられたのだから・・・・・・

  さっそく、今日この日をアルバムに残そう。
  俺と冥夜が生まれた日・・・・・・そして、改めて恋人として進む決意をした日の記録として・・・・・・
  



  ~Fin~




[3649] 2009年5月5日千鶴誕生日お祝いSS
Name: 葉月◆d791b655 ID:9a316f87
Date: 2020/03/14 23:10

(以下、千鶴誕生日お祝いSS ※ただし3000字程度の超短さ!)



  ピピピピピピ……

  朝日が差し込む部屋の中で、電子音が響いている。
  床には服が無造作に散らばっており、ローテーブルの上には度の強そうなメガネと、お茶が飲みかけのまま二つ置かれていた。
  その横には二人がなんとか入れる小さなベッドがあり、一枚の毛布の下で男女が寄り添っている。
  とはいっても、肩幅が広い男性によってベッドから落とされないように、女性がくっついているだけなのだが。

 「……ん」

  ふと、女が毛布の中から腕を伸ばす。
  音を発している携帯を探ろうと、右に左に手を動かし、何回目かでやっと捕まえた。
  携帯を開き、ピッ!と音を止める。

 「…………」

  女性はまだ眠たそうな半目のまま、ゆっくりと体を起こす。 
  毛布の下、彼女は何も身につけていなかった。 それは彼女の側にいる男も同じだ。
  そして女は、テーブルの上にあるメガネに手を伸ばし、かける。
  彼女は“榊千鶴”だった。 千鶴は、手に持った携帯へ再び目をやった。

 「……5月5日。 大学の休みも今日まで、か」

  携帯に表示された“5月5日07:00”という時刻を見て、淡々と言葉を発する。
  そして、横にいる“白銀武”の方を見た。 彼はまだ気持ちよさそうに寝息を立てている。
  千鶴はそんな武の頭へと手を伸ばし、その髪の中に自分の指を差し入れる。
  そのまま、指をゆっくりと滑らせた。 千鶴はそうやって武の髪の感触を楽しみながら、

 (男なのに、とても細くて柔らかい髪ね)

  と、武の特徴を見つけられたことに嬉しく思う。
  だが、彼女の顔はあいかわらず無表情だった。

  ……彼女はベッドから降りると、床に散乱している服に手を伸ばす。
  そして音を立てないよう、静かに畳んでいく。 自分のと、武のものと。

 「ふぅ……」

  畳み終え、溜息をつく。 ふと、テーブルの上に置かれた二つのカップが目に入った。
  千鶴はカップを一つ手に取ると、中を覗き込む。 中の液体がゆらゆらと揺れ、朝日を反射して光って見える。

 「何やっているのかしら、私」

  ふっ、と天井を見あげた。 電気もつけず、まだ薄暗い部屋の天井を。
  千鶴は今日までのことを思い出す。
  ゴールデンウィークに入る前、武が「休みになったらウチに来いよ」と言ってくれたこと―――
  休みはどこへ行こうか、と色々計画立てていたこと―――
  他にも考えていた。 せっかくの長い休日、彼と様々なことをしてみよう、そう思っていた。

 「……こんなはずじゃなかったんだけど」

  しかし現実は違う。
  彼に求められるがまま応じて、また求められて……
  そうしている間に、彼女は気づいた。 今日で休みが終わってしまう、と。
  求められることが嫌なのではない。 自分が考えていたとおりに進まなかったこと、それが嫌なのだ。
  以前なら絶対にこんなことにはならない、と千鶴は思った。 白稜柊で武から「委員長」と呼ばれていた、あの頃ならば。

 「私達、今のままでいいのかしら」

  千鶴は思う。 自分がいることが、もしかして武のためになっていないのではないか、と。
  大学に行くときはいつも自分が起こしている。 大学の講義では、千鶴がとったノートを武が写す。
  自分が甘やかすことで武を堕落させているのではないか、と心配に思えてくる。

  ……そして彼女自身も。
  武を怒れないのは、自分が変わってしまったからだ。
  計画通り進まないのは、それでも構わないと思ってしまった自分がいるからだ、と考えてしまう。

  その結果が今だ。 彼に求められて、自分は応じるだけ。 その繰り返し。
  千鶴は今、それをとても後悔している。 長い休日を何の意味もなく、無為に過ごしてしまったことに。

 「潮時、だったりして」

  そして千鶴は顔を落とす。
  コップの中の液体は、のっぺりとして暗く見えている。
  それが何故か汚く見え、千鶴はテーブルにカップを戻そうとした。

 「……ひゃっ!?」

  不意に、後ろから腕が回された。

 「ちょ、ちょっとタケル! 朝から…………ん」

  千鶴が武へ顔を向けると、彼の唇が彼女のそれを塞ぐ。
  その間、武の手は彼女の髪をゆっくりと、何回も撫でた。
  ―――千鶴は武の方へと体をむき直し、手に持っていたカップを静かに床へ置いた。

 「…………あっ……だめ」

  唇を離した武は、そのまま滑るように彼女の首筋へ舌を伸ばす。
  その動きを妨げないように、自分の首をさらけ出す。
  そして彼の体温を首に感じた瞬間、千鶴はビクッと体を揺らした。
  今のを察知したのか、武は彼女の体中に手を這わしていく。 まるで、舌と手がそれぞれ別の生き物のように。
  彼女の体は触れられるたびに反応し、徐々に赤みを帯びていく。 呼吸も早くなり、熱い吐息が繰り返される。
  彼は知っている。 どこをどうすれば彼女が悦ぶのか、本人以上に。

 「タケ、ル…………だめだってば……だめ、ん…………」

  まるで「だめ」という言葉を合図にするかのように、武の舌が次の場所へと動いていく。
  武が千鶴の胸へと唇をやったとき、彼女は彼の頭をゆっくりと抱きしめた。
  
 「だめ………………タケル」

  顔を上気させ、少しずつ声に色が混ざっていく。
  そして彼女は目を瞑り、また「だめ」と言葉を発した。
  ……だがその時、彼女は武を抱きながら、とても嬉しそうに笑っていた。



  こうして、今日もまた彼女は求めに応じていく。 まだ抜けない微睡みの中で。
  このままではダメだ、と小さな罪悪感を覚えたまま。 今日は何かあった気がする、と違和感を感じたまま。
  彼女は、何度も武の求めに応じてしまう。
  そう、そんな罪悪感にあって求めに応じるほどに、自分の誕生日に気づかないほどに、
  ――― 千鶴は武に溺れていた。






[3649] 2009年07月07日 純夏、誕生日お祝いSS
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/07/09 01:47



  ―――ピンポーン、ピンポーン。
  昼下がり、来客を示すベルがで響く。
  その家の一階に、人の気配はなかった。 誰かいる様子もなく、動くものもない。
  ……もう一度、ベルが鳴った。
  二階、ロケットのポスターが飾られた、いかにも男の子という部屋。
  ハンガーには青いブレザーがかかっており、ベッドは堆く盛りあがっている。
  そしてベルが鳴る度に、その固まりがもぞもぞと動く。

 「たーけーるーちゃ~~ん!
 御飯作りに来たよ~!」

  大きな黄色いリボンを揺らしながら、明るい色のカットソーワンピースにパーカーを羽織った少女。
  彼女はベルを何回もならしつつ、声を上げた。
  ……その少女は『鑑純夏』だった。  今年で15歳、中学三年生となる。
  純夏は今日、両親が出掛けていない武のために、食事を作る約束をしていたのだった。

 「タケルちゃーん?」

  何回押しても反応がない。 純夏は首を傾げながら、武の部屋の方を見上げた。

 「まだ寝てるのかなー。
 よーし!」

  純夏は自分の家へと駆け戻る。
  ただいまーと軽く声をかけ、サンダルを脱いで手に持つと、二階へ急いで上がっていった。

 「まったく、タケルちゃんっていっつも約束を忘れるんだから……」

  自分の部屋へと戻ってくる。 純夏は一目散に自分の部屋の窓を開けた。
  すると、もう一枚窓が見えた。 不用心にも、鍵はされていないようだ。

 「やっぱり窓をちゃんとしめてない……よーし」

  純夏はクローゼットから『バールのようなもの』を取り出す。
  以前、学校の技術の時間に使ったまま、部屋に置いていたのだった。
  主に今回のようなときのために。

 「よい……しょっと」

  腕を伸ばして、バールのようなもので武の部屋の窓を開ける。

 「……やっぱり寝てる……」

  窓を開けると、武がグカーと大口を開けて寝ているのが見えた。
  ふと、純夏の額に血管が浮き出る。 約束をしたというのに、こんなお気楽に寝ている武に殺意が湧く。
  さてどうしてくれようか……と思いつつ、純夏は自分の目的とお仕置きの両方を達成出来る方法を思いついた。
  純夏はバールのようなものを自分の部屋に放り投げ、部屋の端へと向かう。
  そして、ダッ!と勢いを付けて、

 「タケルちゃん! 起きろーーー!」

  と言いながら、武の部屋へ向かって、跳んだ。

 (ガッ!)

 「……はれ?」

  純夏の計算では、完璧な角度で跳んだはずだった。
  自分の部屋と武の部屋の窓、両方をキレイに飛び越えてあちら側に降りられるはずだった。
  だが……こういうときの純夏の計算ほど、当てにならないものはない。

 「ひ、ひぇ!?」

  片足が、部屋の窓に当たってしまったのである。
  つっかえてしまった純夏は勢いを失い、窓と窓の間に吸い込まれるように落ちこんでいく。

 「ひえええ!」

  慌てて、全力で真っ直ぐに手を伸ばす。
  ガシッと掴めたのは、白銀家の窓縁だ。
  純夏は今、自分の部屋と武の家とを結ぶ、『橋』のような形になっていた。

 「た、タケルちゃーん! 助けてーー!
 タケルちゃーーん!!」

  足は自分の部屋の窓、手は武の部屋の窓に。
  純夏は体が落ちないようしっかりと支えている。
  だが、彼女の細い腕では自分の体をずっと支えることは出来ない。
  少しずつ少しずつ、腕と足に痺れが走り始めた。

 「た、た、タケルちゃーーん!!
 起きて私を助けてーーー!! うわあーーーん!!」
 「……んあ」

  純夏の叫びが、ようやく武の意識に届いたらしい。
  武は目をゆっくりと開けていき、ファ~とあくびをした。

 「タケルちゃーーん!」
 「ん?」

  上半身を起こし、声の聞こえた左を見る。
  ―――なんで窓が開いている?
  と、武は首を傾げた。

 「た、た、タケルちゃん! こっちだよ、私だよぉ!」
 「あ?」

  ゆっくりと窓から下を見た。
  すると、見慣れた幼馴染みである純夏の顔が、大粒の涙を流した表情でそこにはあった。

 「…………」
 「た、タケルちゃん。 助けて~~」

  涙顔で助けを求める純夏。 武は目をゴシゴシとさせながら、無表情にそれを眺めている。
  そして、一言だけ呟いた。

 「……夢か」
 「ちょっ!? ち、違うよーー! 夢じゃないよーー!!」
 「おやすみ」

  武の顔が純夏の視界から消える。 どうやら再び横になったようだ。
  
 「う、うわああーーん!
 タケルちゃん、お願いだから起きてえええええ!
 私は現実だよーーー! タケルちゃーーーん!」

  ……それから5分間、武がようやく覚醒し純夏を助けるまで、彼女はそのままであったという。





 「(ぱくぱく)…………」
 「(ブツブツ)まったく……タケルちゃんってば本当に気が利かないんだから……」

  一階のリビング。 武と純夏は黙々とチャーハンをほおばっていた。
  純夏は「怒」という表情を全力で表現し、全力で御飯をかき込んでいる。
  一方、武の顔面には大きく殴られた跡が見えた。 
  この抉られ方と威力から、純夏の必殺技「ドリル・ミルキィ・パンチ」であると推測出来る。

 「ていうかよ……お前が馬鹿なことをしたのが原因だろう、と」
 「タケルちゃんが約束を忘れてるのが悪いんだよー!
 おばさん達がいないから、お昼は御飯作りに行くっていったじゃないのさ!」

  キッと睨み付けられる。 武はビビッたのか、思わず視線をずらした。

 「へえへえ、俺が悪かったですよ」

  これ以上、純夏を怒らせてもしょうがない……武はそう思い、みそ汁を口に運んだ。

 「……分かったらいいよ。
 じゃあ、後はよろしくね」

  食べ終え、純夏は席を立つ。 
  そしてリビングを出て行こうとするが、ふと思いたったように立ち止まった。

 「タケルちゃん、後片付け、お願いね。
 私は二階で本読んでるから」
 「はあ!? なんで俺が」

  武が文句を言おうとすると、純夏は右拳に「ハ~」と息を吹きかけた。
  『ドリル・ミルキィ・パンチ』……この言葉を思い浮かべた武は、それ以上文句を言えなくなった。

 「これでさっきの件はなかったことにしてあげるから。
 じゃね」
 「あ、こらっ! 純夏!
 ……ったく」

  二階へと軽快に上がっていく純夏の足音。
  その音が遠くなっていくにつれ、自分に厄介事を押し付けた純夏への苛立ちが高まっていき、
  そして武は、そのイライラを解消するかのごとく、残ったチャーハンをガーっ!と一気にかき込んだ。



 「……なんで俺、皿なんかを洗ってるんだ……」

  純夏に言われたとおり、カチャカチャとさっきまで使っていた皿を洗う。
  だがその表情は、イヤだな~というのが露骨に現れていた。
  「早く部屋に戻って、漫画でも読みたい」……これが、武の正直な心情だった。
  そして今回の元凶である純夏を思いだし、武は眉間に皺を寄せた。

 「純夏のやつ……幼馴染みだからって、なんでこう干渉してくるかね。
 もう少し寝ていたかったのによ……ふぁ」

  大声で無理矢理起こされたか、それとも昼食で腹が満ちたためか、眠気が少し襲ってくる。
  武は大きく欠伸をしながら、蛇口を捻り水道を止めた。

 「さて」

  横にかけてあったフキンを取り、洗い終わった皿を拭き、食器棚へと置く。
  ……「だるい」と思っているのだろう。 拭き方がとても雑で、皿の至る所に水滴がなおもついている。

 「はあ、ったく。
 なんで俺がこんなことを……」

  再び純夏の顔が浮かぶ。 イラッとし、皿を持つ手に力が入る。
  ……が、すぐに冷静となった。 そればかりか武の顔から表情が消え、皿を拭く手も止まった。
  手に持っている皿が、先ほど純夏が使っていたものだと気づいたからだ。
  彼女はこの食器が好きで、白銀家で食事をするときはいつもこれを使う。

  そして武は、横に置いたフライパンの方へと目をやった。
  すると、先ほどフライパンを器用に用い、チャーハンを作る純夏の姿が思い出されていく。
  救出が遅かったことを愚痴りながらも、テキパキとこなす様……武にとっては、それが当たり前だ。
  武のために料理を作る、例え愚痴や文句を言っていても、自分のためにちゃんとやってくれる。
  それが武にとっての『鑑純夏』だった。 今まで、何の疑問も持たずにそれを見続けていた。

  ―――だが今日の武は、そういう感覚で純夏を見ることが出来ないでいた。
  武は先日、中学校で友人達から言われたことを思い出す。
  『え! 武と鑑って付き合ってるんじゃないの!?』
  『お弁当とか作ってもらうって、普通じゃねえだろ』
  『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
  『中学卒業したらバラバラになるかもしれないし、こっちから告白したらどうだ?』

 「……バッカじゃねえの」

  友人達の勝手な憶測に、そしてそれを信じかけている自分に、何故か腹が立つ。
  「純夏は俺をそんな風には見ていない、単なる幼馴染みだ」と胸の中で反芻する。
  武はなぜ自分がそこまで“幼馴染み”にこだわるのか、このとき考えようとはしなかった。
  というより、考えるわけにはいかなかったのだろう。 もし自分がこだわっているということに気づいてしまえば、それは純夏を
 『意識している』ということと同義だからだ。
  武は皿を拭きながら、出来るだけ純夏のことを考えないようにした。

 「……………………ったく!」

  だが、無駄だった。 考えないように、考えないようにとすればするほど、純夏のことが頭に浮かんでくる。
  彼女が自分へと微笑みかけている様が、「自分を好いているからだ」と思えてならない。
  そしてそう思う度に、武の中に罪悪感、だろうか? 何か胸を締め付ける感覚が浮かんでくる。
  純夏は自分を見ていない、自分も彼女をそのようには思っていない、と強迫にも近い意識があふれ、武を苦しめる。
  それなのに純夏をそのう見てしまいかける自分が、腹立たしくて情けなくて、悔しいのだ。
  なぜ自分がそう思ってしまうのか、正体も掴めぬままに掴めないが故に。
  武は自分の心が、“幼馴染み”である純夏を裏切っているようで、イヤなのだ……。





  ―――皿洗いを終え、武は二階へ行くために階段を上がっていく。
  だが、そのスピードはゆっくりだ。

  『え! 武と鑑って付き合ってるんじゃないの!?』
  『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』

  何度この言葉が脳裏によぎっただろう。
  武は歩みを止め、フーッと大きく息を吐いた。

 「……だから、そんなんじゃねえんだって……
 俺と純夏は……ずっと一緒だった、幼馴染みなんだよ……」

  武は思う。 仮に純夏が自分のことを好きだったとして、何がどうなるというのだ、と。
  今さらあいつとの関係は変わらない、変えられない。 10年近く、ずっとそうしてきたのだ。
  「だから……」と、もう一度大きく息を吐き出し、武は呟いた。

 「だから、そんなに気にするんじゃねえよ」

  そして武は部屋のドアの前に立つ。 向こうには純夏が、漫画でも読んでいるのだろう。
  いつものように過ごそう、そうすれば純夏や自分が意識し合っていないということがはっきりする……と、武は考える。
  そしてドアノブを持ち、一気にドアを開いた。

 「皿洗い、終わったぜ。 ついでに棚になおしてき……た」
 「……ふえっ?」

  ドアが開かれた瞬間、部屋の空気が一気に切り替わった。
  床の上に座った純夏が、ギョッと武の方を見上げている。
  彼女が床に拡げ見ていたのは……武が机の奥に隠していた、男子中学生ならば必ずと言っていいほど持っているだろうアイテム、
 ―――いわゆるエロ本が、そこにはあった。
  しかもそれは友人から借りた、普通手に入らないほどエロイものだった。

 「…………」
 「…………あ、あううぅ、あうあぅ」

  互いに視線を交わらせる武と純夏。 同じ姿勢、同じ表情のまま、動こうとしない。
  ……いや、正確には武には動きがある。 はじめは感じられないほどの小さい震えが起こり、それが段々と大きくなると、
  武は室内へ、大きく一歩を踏み出した。

 「純夏あああぁぁ!!」
 「うわぁ!? 私はただ見つけただけだよー!」

  床に拡げられたエロ本を、顔を真っ赤にした武が慌てて拾い上げる。

 「お、おまっ、お前!
 何、勝手に人の部屋あさってやがる!?」
 「な、なんか面白い漫画とかないかな~って探したんだよー!
 ていうかタケルちゃん、何なのそれ!? スケベだよ、いけないんだよ!」

  純夏もエロ本をガシッと握り、強く引っ張った。

 「何すんだ!?」
 「捨ーてーるーの! こんな本読んでたら、タケルちゃんが変態になっちゃうよー!
 だから、渡して!」

  「それはまずい」と武は思う。 この本はそもそも、友人から借りたものだ。
  自分のものではない以上、武は強力にそれを否定せざるを得なかった。

 「馬鹿! これはダチのなんだよ!
 俺のじゃねえから勝手に捨てるわけにはいかねえんだ!」
 「そんなの関係ないよー! 捨てなきゃダメなんだよー!」
 「だーもう! 放せ、純夏ーーー!」
 「ヤーダーーー!」

  武と純夏は、互いに全力で引っ張り合う。
  ぐぐぐ!と歯を食いしばって引っ張る武と、
  む~~っ!と顔を蛸のように真っ赤にして引っ張る純夏。
  当然、二人に引っ張られたエロ本はその力に耐えきれず、ピリッと小さく裂かれる音を立てた。

 「やべっ!?」

  その音を聞いた武は思わず本を放してしまう。
  さて、互いに引っ張り合うことで均衡していたのに、一方の力が突然消えればどうなるか。
  ……答えは明白だった。

 「うえぇ!?」

  武が本を放したことで、全力で引っ張っていた純夏はそのまま後ろへと倒れかける。
  それを見た武は、

 「あぶねえ!」

  と、手を伸ばした。
  純夏も、武へ助けを求めるように必死に手を向ける。
  そして武の右手と純夏の左手が、ギュッと重なった。

 「どわっ!?」「きゃっ!?」

  だが、武は踏ん張ることが出来なかった。 慌てて手を伸ばしたため、体が前屈みになっていたのだ。
  そのまま倒れる純夏と共に、武も前方へとバランスが崩れ、そして、
  二人はそのまま重なるように、武のベッドへと倒れ込んだ。

 「…………」
 「…………」

  純夏の体の上に、覆い被さる姿勢となった武。
  彼の目の前にはベッドの真っ白なシーツと、純夏の赤い髪しか見えない。
  だが他の感覚が、純夏の存在を強く意識させた。
  Tシャツ越しに感じる、純夏の体温。 男のものとは明らかに違う、柔らかな質感。
  彼女が呼吸するたび、強く押し付けられる女性のふくらみ。
  武の触感はこれ以上ないと言うほど、純夏の存在をしつこく、細かく、彼に報せ続けた。

  次に感じられたのは、純夏の匂いだ。
  当然、こんな近くまで迫ったことはない。 純夏の匂いなど、知るわけがない。
  それなのに武は、何故か「純夏の匂いがする」と思ってしまう。
  呼吸するたびに鼻孔をくすぐる、純夏の髪の匂い。 それを感じるたびに、武の鼓動がどんどん高まってくる。
  「こんな近くに純夏がいる」と、強く考えてしまって。

 「……タケルちゃん、重いよ……」
 「!!??」

  ハッと純夏の声で我に返る。
  武は、慌てて上半身を上げ、純夏の顔を見た。
  耳まで真っ赤に染まった、彼女の顔。 少し涙目なのに武は気づく。
  だが、イヤそうには見えなかった。 こうして手と手を重ね合い、じっと見つめ合う行為を、拒否しているようには見えなかった。
  
 「…………」
 「…………」

  武は自分の呼吸が、段々と荒くなっていくのを感じる。 鼻だけでは追いつかず、口を開けて呼吸を行う。
  そして純夏がそのことに気づかないように、息を必死に抑えようとした。
  ―――それは、彼女も同じだった。
  口を半開きにし、そこから呼吸を行う。 自分を落ち着かせようと、深呼吸のように深く静かに空気を吸い、吐く。
  そうして時々震える彼女の唇が、武にはとても艶っぽく見えた。

 「…………」
 「…………」

  武の視線が、顔から段々と下がっていく。
  純夏の長くて細い首が、妙に色っぽく見える。 この曲線に指を這わせてみたい、という感覚に囚われる。
  そこから狭い肩に移る。 ワンピースの肩紐しかなく、白い肌が丸見えだ。
  ここに口付けをして自分の跡を残したいと、そんな考えが浮かぶ。
  もっと下に行くと、明るい水色のワンピースが妙に盛りあがっていた。
  呼吸の度に上下する、女性の証明であるその丘を、武は征服してしまいたいと強く感じた。

  そうした感覚が浮かぶたびに、鼓動が早まり、体温が上昇するのが分かる。
  体中から汗が吹き出し、熱くて堪らない。 いっそ、全部服を脱いでしまいたい。
  武は、「それは純夏も同じではないか」、と思った。  
  紅潮する頬、開いた胸に光る玉色の汗……
  それらを見つけたとき、彼は大きく唾を飲み込んだ。

  そして再び、友人の言葉が思い出される。
  『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
  この言葉が頭に響いたとき、武の中で何かが崩れていく。
  ―――目の前の『女』は、きっと自分のことを好きなのだ。 だから、問題はないのだ。
  彼の中で熱い熱情が体中を走り、もう、何も考えられなくなった。 「ただ欲しい」と、それだけが渦巻く。
  そしてゆっくりと、武は自分の唇を、純夏の肌に近づけていった……

 「……さっきの本と、同じことするの?」
 「!?」

  武の動きが止まる。
  そして、先ほど純夏と引っ張り合った本のことを思い出した。

 「!!??」

  途端に、武の顔が真っ赤になる。
  『恥ずかしい』と『腹立たしい』という感情が、一気に溢れる。
  欲望に支配され、“勘違いしたふり”のまま、『純夏』を貪ろうとした自分が、情けない。
  そして叱咤する。 さっき自分は言ったではないか、純夏は単なる『幼馴染み』だ、と。
  それなのに俺は何をやっているんだ、と。

 「…………」
 「あっ……タケル、ちゃん?」

  武は体を起こし、重なっていた手を放す。
  純夏の左手が、何回か開いたり閉じたりした。 まるで名残惜しそうに。
  それに気づかずに武はベッドから離れ、背を向けたまま、床に座り込んだ。
  純夏も体を起こし、胸の辺りを手で隠して、武の背をじっと見る。

 「タケルちゃん?」
 「…………すまん」
 
  武は背を向けたまま、純夏に謝罪の言葉を伝えた。

 「え、えっと……あ、あはは!
 なんか今の、漫画みたいだったね!
 びっくりしちゃったよ~。 もうちょっとでタケルちゃんに~、ふぁんとむを繰り出してた…………か……も」

  声が先細りする。 純夏の表情が曇っていき、涙が浮かんでくる。
  そして純夏は、

 「ごめん。 私、帰るね」

  と、急ぐように部屋を出て行った。
  ……そのとき武は、一度も純夏の方を見ることはなかった。





  ―――7月7日、雨。
  今日は純夏の誕生日である。
  七夕という美しい伝説がある日だが、あいにくの雨のため、夜空に星を見つけることは出来なかった。
  まるで滝のように、ザーッと音を立ててこぼれる雨。 街灯の光のせいか、ラインを引いて落ちてくる大粒の雫。
  武はその中を、傘を差して歩いていた。 手に大きな袋を抱えながら。
  いつもなら7月7日は、純夏の家にでも上がって彼女の誕生日を祝ったりしているものだった。
  『七夕は必ず雨が降る』と純夏をいじり、彼女からパンチをもらうのが恒例行事だ。
  それなのにここ一週間、純夏と碌に口すら聞いていない。

  理由は分かっている。 押し倒してしまった“あの日”のこと、だ。
  あの日からお互いに何か緊張してしまって、話せていないのだ。
  押し倒してしまった本人としては、純夏を傷つけてしまったのではないかと不安で堪らない。
  せめて純夏から話しかけてきてくれれば……と、武は待ち続け、今日に至ってしまった。

 「…………」

  横に、昔よく遊んだ公園が見えた。
  武は、純夏ともここで遊んだな、と思った。
  あの頃は何も考えなくて良かった。 ただ単に『友達』として、そう接していれば良かった。
  ケンカしても次の日には仲直りし、その事実すら忘れて、また遊ぶ。 それが当たり前だった。

  ―――だけど、もう違う。
  武はあの日、気づいたのだ。 純夏は『女』なのだ、と。
  そして男と女には、超えてはならないラインがある。 それを超えてしまえば、もう『以前』には戻れない。
  だから武は苦しんでいた。 自分はもしかして、そのラインを超えてしまったのではないか、と。
  
 「はあ……やっぱまずかったよな……」

  ……ふと、雨が降りしきる中、水の跳ねる音が聞こえた。
  武はそちらへと目をやった。

 「……純夏」

  そこにいたのは、傘を差し、浴衣を着た純夏だった。
  武は驚いた表情を浮かべるが、純夏は無表情に武を見ている。

 「ここにいたんだ、タケルちゃん」
 「あ、ああ……」

  突然現れた純夏を、武は凝視することが出来なかった。
  視線をずらし、横に出来た水たまりを見る。
  それは真っ黒な平面をなし、そこに雫が幾つも落ちていった。

 「……純夏。
 誕生日、おめでとうな」
 「…………ありがと」

  互いのことを見れない中での声のやり取り。
  二人の言葉には何の感慨、気持ちも込められていない。 そのためか、形式的としか思えない。

 「タケルちゃん。 一つだけ、聞いて良い?」
 「ああ」

  武はあいかわらず、純夏の方を見れない。
  それなのに、彼女は彼の態度など、どうでもいいように言葉を伝えた。

 「タケルちゃん……あのとき、私に何をするつもりだったの?」
 「!!」

  やはりそれか!と心中で叫ぶ。 グッと袋を握る手に力が入る。
  武は、純夏があの日のことを、やはり気にしていたということに確信を持った。
  そして彼女の質問に、どう答えたものかと考え始める。
  結論は明らかなのだ。 あの日、純夏に言われた言葉、
  「……さっきの本と、同じことするの?」
  の通りなのだろうと武は思う。
  しかしそれを伝えてしまえば、もう後戻りは出来ない。 確実に「ライン」を超えてしまう。
  だから苦しい、答えが見つからないのだ。
  「気の迷い」や「冗談だった」とか、そんなことで終わらせるわけにもいかない。
  それは、彼女をその程度にしか考えていない、軽くしか見ていないと伝えるだけだ。
  何より、ここ一週間の沈黙がその言い訳の信憑性をかき消してしまっている。
  武は他の理由をつけて、何とか『今までのような関係』に戻れないかと、画策するのだった。
  だが、答えなどでない。 一週間悩んで出なかったのだ、今すぐに出るものではない。

 「…………」
 「……そっか。 何も言ってくれないんだね」

  純夏の言葉に、え?と武は顔を上げる。
  彼女は、笑っていた。 とても小さく、可愛らしく。
  涙を頬に流しながら、純夏は笑っていた。
  そして武に背を向けて、

 「……ばいばい」

  と言うと、純夏は走り始めた。

 「純夏!」

  それを見た武も純夏を追いかけるために走る。
  理由など無い。 追いかけねばならないと、そう思いながら武は駆ける。

 「待ってくれ純夏! 俺は、俺は!」
 「来ないでよーー! ……って、うきゃっ!?」

  慣れない下駄を履いていたためか、純夏は勢いよく前方へと転ぶ。
  目の前の水たまりが、ばしゃーっと大きく拡がる。 持っていたピンク色の傘は、道路をころころと動いていた。

 「お、おい。 純夏、大丈夫か?」
 「来ないで! 来ないでよ!
 もう、“前”みたいには戻れないんだから!」
 「!?」

  武が純夏に駆け寄ると、両腕をブンブンと振り回して、近づかれるのを阻む。
  せっかくの浴衣は、泥と雨でびしょびしょになってしまっている。

 「タケルちゃん、私を見る目変わったよね?
 この一週間、私を避けてたよね?
 分かるよ。 私、ずっとタケルちゃんを見てたから」

  純夏の声がだんだんと濁っていく。
  表情も崩れていき、頬を涙なのか雨なのか、よく分からない筋が落ちる。

 「私の勝手な思いこみなのかなって。 あのとき、タケルちゃんに思わせぶりなことを言っちゃったのがいけなかったのかな、って。
 ずっと不安だったんだよ。 だから、タケルちゃんに話しかけるのが怖くて……せめて、タケルちゃんから話しかけてきてくれればって。
 待ってたんだよ……私、待ってた」
 「すみ……か」

  ―――同じことを、考えていたのか。
  武は、純夏が自分と同じ不安を抱えていたことに気づいた。
  彼女は彼女で、武に勘違いをさせてしまった……そう思って、声をかけられなかったのだ。

 「いつものタケルちゃんなら、絶対、冗談で笑い飛ばすよね。 本気だったら……ううん、それはないけど。
 でも、さっきはそんなこと言わなかった。 黙ってた。
 それって……それって……」
 「そういう女だって、はしたない女だって、思ったからなんでしょ?
 私の、ことを……き、きら……嫌いに…………なっ、た……から。
 そう、なんだよね? ねえ」

  純夏は顔を俯ける。 頬を流れた涙が、水たまりへと落ちていく。
  武はそんな彼女の様を、じっと見ていた。 そして、こんな交錯に陥った理由に思い至って、その馬鹿馬鹿しさに腹が立ってくる。
  互いに勘違いをしただけではないか。 双方共に相手を傷つけたのではないか、と「自分に対して疑心暗鬼」になり、勝手に混乱しただけだ。
  ……本当は、前みたいに戻りたかったんじゃないか、と。

 「純夏……」
 「ひっく……うう、ひっ」

  地べたに座り、雨に打たれながら純夏は嗚咽を続けている。
  武は一回溜息をつき、彼女の横に自分の傘を立てかけた。

 「え……タケルちゃん!?」
 「風邪引くぞ」

  純夏から離れる武。 大粒の雨が彼を打ち、あっという間に上半身を黒く濡らしていく。

 「た、タケルちゃん、傘!」
 「俺の傘をお前が使え。 お前の傘を、俺が使う」

  そう言って武は、道路に転がっている傘を手に取る。
  純夏の小さなピンクの傘は、雨を防ぐのに面積が充分でなく、武の左肩が降られてしまっていた。
  にもかかわらず、武はその傘を差して、純夏に近づいていく。

 「なあ、純夏。 俺がこの一週間、考えてたことを話してもいいか?」
 「…………」

  純夏の返答はない。 が、武は構わず話を続けた。

 「確かに純夏の言うとおりだ。 いつもの俺なら笑って冗談なんかとばしてさ、きっと有耶無耶にするんだろうな。
 でもよ、あのときはなんか混乱してて……何も、言えなかった」

  武の脳裏に、
  『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
  と再び友人の言葉が思い出される。
  これのせいで変に意識してしまったから、何も言えなかったんだと考える。

 「それで俺、純夏を傷つけたんじゃないかって思ってさ。
 だから、話しかけるのが怖かったんだ……はは、馬鹿だよな、俺。
 俺が純夏に、普通に話しかければよかったんだよな。 俺が普通にしてれば、さ」
 「…………」

  武は横の公園へと視線をずらし、話を続ける。

 「この一週間、また以前みたいにって、ずっと思ってた。
 お前が起こしに来て、俺がそれを面倒くさく思って、暴力を振るわれる。
 そんな感じにさ」
 「……私、そんなに暴力的じゃないもん」
 「はは、だよな」

  純夏の方を一瞥する。 純夏と一瞬だけ目が合ったが、すぐに彼女は視線をずらす。
  それを見た武も、公園の方へむき直した。

 「……でも私、無理だよ。 前みたいなんて、もう」
 「なあ純夏……俺たち、この公園で一緒に遊んだりしたよな。
 ずっと、一緒だったよな」
 「…………」
 「家が隣同士になってから、ずっと一緒だったよな」
 「…………」 
 「幼稚園、小学校、中学校……ずっと一緒だったよな」
 「…………」

  そして武は、純夏の方へとむき直す。
  彼女はやはり俯いたまま、その場に座り込んでいた。
  それを見ながら武は、少し声を詰まりかけながらも、彼女に言葉を投げかける。

 「俺たち、もう一緒にいられないのか?」
 「…………!!」

  驚き、純夏は顔を上げる。 悲しそうな武の表情を見て、何か言いたそうに口を開けて、しかし言えなくて。
  それから苦しそうな表情を浮かべたと思うと、すぐにまた顔を俯け、ポロポロと、丸い大粒の涙を流し始めた。

 「……ぅぅ……ヤダ、ヤダよ……タケルちゃん」
 「…………」
 「わた、し……ひっく……一緒に、いたい……
 タケルちゃんの…………うぅ……側に、いたい……でも」
 「それでいいんじゃないか? 純夏」
 「!?」

  純夏が顔を上げると、武は満面の笑みを浮かべて彼女を見ていた。
  とても穏やかで、包み込むような笑顔だという印象を受けた。

 「俺もさ、純夏と一緒にいたいんだ。 
 お前がいない生活なんて、想像出来ないから」
 「…………」
 「前と同じみたいには、出来ないかもしれない。 でもさ、それでも一緒にいたいと思ってるんだ、俺は。
 純夏も俺も、互いに“一緒にいたい”って思ってんのに……一緒にいられないって、おかしくないか?
 だから……」

  スッ……と、武は純夏へ袋を差し出し、

 「だから、『仲直り』だ。
 また一緒にいられるために、さ」

  言い終えると、その中身を取り出した。

 「………ふわあ!
 ヒルガオだー!」

  それは、植木鉢に埋けられた『ヒルガオ』だった。
  ピンク色で、まるで「星」のような模様のある可愛らしい花。
  それを見た純夏の顔に、少しずつ明るさが戻っていく。
  そして、武を見上げた。
  彼女に明るさが戻っていったことを、喜ぶ武の表情。 それが純夏を更に励まし、彼女の胸を叩く。
  彼女の顔はくしゃくしゃになっていった。 武を見る目は、温かい涙で一杯だ。

 「タケルちゃん……私のこと、嫌いになったんじゃないの?」
 「ばーか。 嫌いになったら、“一緒にいたい”なんて思うかよ。
 お前が俺を起こしに来なくなったら、学校に遅刻しっぱなしになっちまうし、だから」
 「……う、うう、うわあああぁぁぁあん!」
 「おわっ!?」

  純夏は武に、勢いよく抱きついた。
  涙が、さっきよりもたくさん彼女の目からこぼれていく。
  しかし今度の涙は、先ほどのように無意味で寂しいものではない。
  「タケルちゃんの側にいてもいいんだ」という安心感、それが彼女に涙を流させる。
  だから彼女は、今はいっぱい泣きたいと、そう思った。

 「…………」

  ―――仲直りに、「うん」とは言ってくれないんだな。
  武は彼女が、了承の答えを返してくれなかったことに、一抹の不安を感じた。
  だが、今はそれでいいか、と自分を納得させる。
  少なくとも、今は一緒にいられる。 一緒にいられれば、また機会はある。
  武はそれを信じながら……いや、確信して、今は純夏をしっかりと抱きしめる。
  
 「……?」

  ふと、空を仰ぐ。 いつの間にか雨は、止んでしまっていた。

 「雨が……って!? お、おい、純夏!」
 「え、何? タケルちゃ……ふわあ!?」

  武と純夏は、二人一緒に空を見上げた。
  大きな月と、満点の星空……“天の川”が、雲の間からはっきりと見えた。

 「わ、私はじめて見たよ!」
 「俺だってそうだ!」

  『毎年、七夕は雨が降る』
  つまり、星空など絶対に見られないのが、武と純夏の常識だった。
  それが今日、二人の頭上ではじめて七夕が現実となったのだ。 織り姫と彦星の伝説が。

 「わわわ、私、お願いしなきゃ!」

  そう言うと、慌てて純夏は武から離れ、パンパンと柏手を打ち、目を閉じた。

 「おいおい……それって神社でやるやつだろ」
 「タケルちゃんは黙ってて! む~~……織り姫さん、彦星さん……む~~」

  真剣に何かを願う彼女を見ながら、武はクスリと笑う。
  やっと、いつもの純夏に戻ったと、嬉しいのだ。

 「…………ぷっ」
 「ん?」
 「あ、あはは、あはははは!」

  真剣な顔をしていたかと思うと、いきなり大声で純夏が笑い出した。

 「ど、どうした?」
 「あはは、な、なんかもう、何で落ちこんでたのが分かんなくなっちゃって。
 あははは」
 「……ぷっ、そ、そうだな。
 なんかアレ見てたら、どうでもよくなるよな」

  そして武は、もう一度天の川を見る。
  彼は素直にその輝きを、キレイだと思った。
  そして思う。 雨が降ったおかげで空気中の塵が完全に取り払われ、こんなに星が綺麗に見えるのだ、と。
  天の川を妨げていた雨が、星を美しく見せたのだ、と。

 「…………」

  空を見上げる武を、純夏はじっと見つめていた。
  そして彼女は、さきほど武が言ったことで一つだけ違うことがある、と心中で呟いた。
  武は言った―――「俺が純夏に、普通に話しかければよかったんだよな」、と。
  だがきっと、それではダメだっただろう。
  彼女はあの日、武に何をされてもいいと、そう思ったのだ。
  本当に好きならば、好きだから、任せてしまってもいいと。

  しかし、武はそれをしなかった。
  純夏は、自分の気持ちを武に知られてしまったのではないか、そしてその想いを彼が拒んだのではないかと、不安になった。
  だから武が、何の気兼ねも無しに話しかけてきたら、それはそれでイヤだったろうと彼女は思う。
  自分のことを何も見てくれていないのだと、その証明になってしまうが故に。

  でも、実際は違った。
  武は純夏のことを考えてくれていた。 彼女にどんな言葉をかければいいか、苦しんでくれていた。
  そして今夜、言ってくれたのだ。 「側にいたい」、と。
  彼女の気持ちが伝わったのかどうかは分からない。 けれど、少なくとも「側にいる」ことは望まれている。
  だから今は……『これから』ではなく、今は……彼女は、その言葉に甘えようと思っている。

 「―――タケルちゃん」  
 「ん?」
 「……一緒に、帰ろう?」
 「……ああ」

  側にいられれば、いつかまた想いを伝える機会はやってくる。 それが叶うかどうかは分からないけども。
  だからこそ、今このときを大切にしようと純夏は思う。
  あの日のこと、ケンカしたこと、一緒にはじめて天の川を見たこと。
  何があっても忘れないようにしようと。

  ―――そして武と純夏は、大きなお月様と満天の星空を写した水たまりのある道を、二人並んでゆっくりと歩いていく。
  そして家に帰った二人は、改めて七夕と彼女の誕生日を祝う。
  この一週間の塞いだ気持ちを、一気に解放するかのように。
  そのとき、純夏は武に内緒で笹のてっぺんに自分の願いを括り付けた。
  『タケルちゃんと、ずっと一緒にいたい』
  そして彼女は、再び天の川に向かって手を合わせる。
  この願いが叶うように。 自分の想いが届くように。
  武のことだけを考えながら、純夏はじっと祈り続けた―――





  ―――横浜を天の川が祝福していた頃、九州は大雨に見舞われていた。
  そこへ、雨に身を隠しながら、醜悪な侵略者達が上陸する。
  人々の願いと想いを食い尽くすために。 運命を回すために。 

  “1998年7月7日”

  全ての悲しみは、この日から始まった。











[3649] False episodes ~St. Martin's Little Summer~
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/04/25 19:26



  ―――白銀武は夢を見ていた。
  真っ暗な世界、そこに自分だけが立っている。 何も見ることもなく、聞くこともなく浮いている。
  自分の輪郭がまるで感じられないことに、武は身体を震わせた。 自分という存在を確かめられない、世界の中に自分が
 溶け込んでいるような奇妙な感覚が彼には気持ち悪かった。
  ふと、武は自分の目に何かが映ったような気がした。
  そっちへ意識を向けると、小さな光が瞬くのが見える。 暗黒の世界に輝く小さなそれは、まるで星のように彼には思えた。
  よく見ると、光はそれだけではなかった。 あまりにも小さくてはっきりと見えないほどの小星が無数に瞬いて、そして消えていく。
  彼は消えていく光を見ながら、何故か無性に哀しくなり叫びたい衝動に駆られていく。
  すると光の中から、一際大きく輝いたものが見えた。 彼は安堵し、光を見続ける。
  だがその光も、次第に小さくなっていく。 しかし間を置かずに、またそこから大きな光が浮かび上がる。
  白銀武はその光を、ただじっと見つめていた。 
  徐々に小さくなっていく光。 武はその光を掴もうと、手を伸ばす。
  ふと、彼の視界の外から燐光する無数の手が伸びてきた。 そして彼の想いに答えるように、弱々しく今にも消えようとする光を掴む。

  ……そして光は、闇の世界に尾を引きながら、彼の中へと吸い込まれていった……





  False episodes ~St. Martin's Little Summer~






  ドンドンドンドン

 「………ぅ…」

  ドンドンドン!(起きてー! タケルちゃん起きてえー!)

 「……純夏?」

  武はゆっくりと目を開いた。 朝日が目に飛び込み、彼は眩しさを避けるため右腕を瞼に置く。
  耳を立てると、幼馴染みである“鑑純夏”の近所迷惑な声とドアを叩く音が、階下からよりはっきりと聞こえてきた。

  ドンドンドン!(タケルちゃーん、ねぇったらー! うわぁーん! チェーンロックなんて最近してなかったじゃーん!)

 「……うっせーな……うちは、チェーンロッ……ク、付けんだよ」 

  段々と瞼が重くなっていき、感覚もぼやけていく。 柔らかな日の光と、『人肌』程に温められた布団が彼の体から起きる意志を奪う。
  熱と混ざり濁る意識の中、彼は思った。 こんなイイ日に学校に行くのは馬鹿げているよな、と。

  ドンドンドン!(開けてよー! あーけーてぇー!)

 「……ってなわけで、おやすみ……」

  ドンドンドン!(開けてーーー!)

 「…………」

  ドンドンドン!!

 「…………グー」

  ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
  ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドドドドドドドドドドドドドドドドドドド………………ドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!

 「うがああああああああ! うっせぇーーーーーーー!!」 

  階下で道路工事でも始まったかのような音が武の耳を打つ。 小刻みに響く低音が、無性に彼の神経を逆撫でた。
  彼は苛つきのあまり毛布を蹴り上げ、上半身を勢いよく起こす。 音はまだ続き、彼のイライラを更に募らせる。

 「朝っぱらから、うるせえぞ! 純夏!」  
 「まったくだ」
 「まったくですわね」
 「……ん?」

  耳慣れた声が左右両方の耳に一つずつ入っていくる。 その声を聞いた瞬間、なぜか苛つきが冷め、それどころか体温が
 低くなったようにすら感じられた。 
  恐怖? 不安? 良く分からない負の感情が彼の心胆を寒からしめているのだ。
  彼は「フゥー」と溜息をつき、覚悟を決め、ゆっくり首を右下に向ける。

 「朝からこれでは、精神衛生上問題がある」
 「…………」

  胸元が開いた寝間着から豊満な谷間を覗かせ、キリッとした目つきと自信に満ちた声を発する女性“御剣冥夜”は、
 笑みを浮かべながら武を見ていた。
  一方、武は顔を引きつらせている。 豊満な胸を惜しげもなく自分に見せているくせに「精神衛生上問題がある」とは、これ如何に?と
 感じたためだ。 実は分かっててやってるんじゃね?と突っ込みたくもある。
  フゥーともう一度溜息を吐き、魅力的な女性を見た少年なら誰もが生じるだろう興奮を抑えつつ、今度は左を見た。

 「朝はもう少し落ち着いた方がよろしいと思うのですが、武様はどう思われますか?」
 「…………」

  はだけた寝間着の隙間からスラッとし、かつ色白の長い足を見せつけながら、“御剣悠陽”は武に太陽のような笑顔を贈る。
  やはり、武は顔を引きつらせた。 思わず浮かんだ「落ち着きを奪っているのはお前等だ」という台詞を喉元で押しとどめるために。
  そして武は、ようやく現状を理解する。 自身の左右に、モデルの如き美人の双子姉妹が寄り添っているということに。

 「……お前等、一人用のベッドに三人でよく寝れるよな」
 「タケルと一緒だからな」
 「武様と一緒ですから」
  
  フゥー。
  起きてから三度目の溜息を武はつく。
  幼馴染みが起こす騒音は未だ続き、美人姉妹に挟まれる様に、彼は何故か逃げ出したくなった。
  それは、これから起こるであろうことが容易に想像付き、それが自分にとって命に関わることだろうと理解しているからに他ならない。
  武は額に汗を浮かばせながら、今はただ一秒でも長く、階下の幼馴染みが部屋へやって来ないことを祈った。

 「霞ちゃん霞ちゃん! ちょっとドアノブ持ってて!」
 「こう、ですか?」
 「そうそう。 そのままだよ~、そのまま…………このバールのようなもので……・……
 開いた! 待っててねタケルちゃん、今霞ちゃんと行くからねーー!」
 「……あがぁ」

  現実とは非情なものである。
  ドタドタと足音が近づいてくる度に、武は逃げ出したい衝動に駆られる。 が、冥夜と悠陽に挟まれ、動けない。
  ……正確には動こうと思えば動けるが、そのためには悠陽か冥夜の白肌に手を置かなければならず、健全な青少年である武に
 そんなことは不可能だった。
  更に近づいてくる足音。 刑務官が自分の独房へ近づいてくる死刑囚のごとく、武はそのプレッシャーに押しつぶされそうになる。
  だが一方で、全部どうでもいいことのように思う自分にも気づく。 所詮、人間なされるがまま。
  それよりも見たまえ、朝日の美しさ、小鳥の囀りがとても心地よく思えるじゃないか。
  ……とか何とか思っているが、全部自己逃避しているだけだったりする。

 「(ドタドタドタ)タケルちゃん! 今日も元気におっは……・よ~……」
 「よう、純夏」

  武は瞳を輝かせ、10年来の幼馴染みに満面の笑みで挨拶を送った。
  一方、純夏は驚きの表情を浮かべたまま、固まっている。 
  そして段々と、体を震わせ始めた。

 「(ヒョコ)…………」
 「やあ霞、おはよう」

  ドアから、ウサギのように可愛らしい髪型をした“社霞”が覗いた。
  武は気持ち悪いほど爽やか、という矛盾した笑みを浮かべ、霞に向かって手を振る。
  霞も、その小さな手を振り、返した。

 「……で、霞、なんで隠れるんだい?」

  霞は手を振りながら、ゆっくりとドアの後ろへと隠れていく。
  武はふと、ドアの前に立つ純夏へと目をやる。
  ……“般若”……
  一瞬、純夏がその面を着けているのかと見間違えた。
  彼女の特徴的なアホ毛が鬼の角に見え、真っ赤な髪の毛はまるで怒りを表しているように見える。
  武はそんな純夏に、つとめて冷静でいるように語りかけた。

 「タケルちゃん……」
 「純夏、お前だってもう慣れただろ? ここは話し合いでもしてゆっくりと互いの誤解を解こう」

  純夏が一歩近づいてくる。
  武の背に冷や汗が流れ始めた。

 「……ふぉぉぉ」
 「分かった、俺の負けだ降参だ。 話を聞こうじゃないか」

  更にもう一歩。
  もはや、武の顔に笑みはない。

 「……ぉぉぉおおお」
 「待て! 話をすれば俺が今どんな状況なのか分かる!
 だから右手をおろ」
 「大おおお馬鹿者おおおぉぉぉ!!」

 「デジャブーーーーーーーーーー!!」

  ……武が最後に見たのは、見事なローリングを描く拳、そして背後から現れる焔を模したオーラだった。
  10年前から何も変わっていない、おぐらぐっでぃめん直伝の必殺技『どりるみるきぃぱんち』
  あまりの威力に意識が月軌道へ到達する中、彼は一言だけ呟いた。
  「俺の周りには……話を聞いてくれるやつはいないのか……」と。





 「んもう! なんでまたまた、あんなことになっちゃってるのさ!?」
 「俺に聞くな! それに冥夜と悠陽には朝飯んとき口が酸っぱくなるほど言ったろうが!」

  白稜へと続く心臓破りの坂道。 武たちは毎度変わらないメンバー――純夏、冥夜、悠陽、霞――で学校へと向かいながら、
 朝に起きた理不尽な事件について喧々囂々の議論を交わしている。

 「油断しちゃったよ……昨日球技大会で疲れて、すぐに寝ちゃったのがいけなかったのかな。
 もう、私のバカ……」
 「油断? 何の話だよ一体」
 「え? あ、あはは、こっちの話だよ」

  純夏は顔を真っ赤にして、俯く。 武は「相変わらず訳の分からないことを言うやつだ」と訝しりながら、目を離した。
  ふと、冥夜が口を開いた。

 「それにしても……ふふっ。 昨日の祝勝会は盛り上がっていたな、タケル」
 「そうですね。 戦の後、仲間と語らう宴とは、斯様に素晴らしいものなのだと改めて思い知らされました」
 「ああ、そうだな」

  冥夜の言葉で、武は昨日のことを思い出した。
  昨日は白稜柊において、球技大会が行われた日である。 ただし、球技大会とは言ってもバレーとかバスケとか、そんな
 当たり前なものを行ったのではない。
  その球技とは―――“サバイバルゲーム”である。 モデルガンを使用しBB弾を相手に命中させ、全滅させるゲームだ。
  教育現場でそんなことをさせるなんて!と某所から反論が来そうな内容のこのゲーム、提案したのはお馴染み「白稜柊の牝狐」こと
 “香月夕呼”。
  しかも冥夜と悠陽をたぶらかし、御剣財閥総協力のもと、校内にカメラはつけさせるわ、グラウンドに森を作らせるわ、スパコンまで
 用意させるわの豪華かつ本格的なサバイバルゲーム、もとい球技大会となった。 こんな大会は後にも先にもこれっきりだろう。
  武曰く「全くあの人の頭の中はどうなってんだ」である。
  それはともかく、武達3年B組はそんな暴君・夕呼の障害すら乗り越え、めでたく球技大会の覇者となった。
  特に喜んだのはクラス担任の“神宮司まりも”だった。
  「有明に行かなくてすむ」「人生が変わった気がする」など、一学校行事でここまでの感銘を受けられるものなのかと思うほど。
  それもそのはず、彼女は高校から付き合いがある夕呼に10年近くもて遊ばれており、今大会で初めてその魔の手から『一瞬』
 解放されたのであるから、無理もないことだろう。
  武は昨日、そんなまりものはしゃぐ様を見ながら、「年明けたらもっと非道いことをされるんだろうな」と哀れんだことを思い出した。
  ……ふと、純夏の横でチョコチョコと歩く霞が目に入る。

 「霞は昨日、楽しかったか?」
 「……はい、楽しかったです」

  そして昨日の祝勝会で主役だったのが、サバゲーとは合いそうもない小動物っぽい、この少女である。
  霞が夕呼に仕掛けたナイフアタックが、大ピンチに陥っていた武達の勝利の鍵となったからだ。
  武は褒めるように、霞の頭を軽く撫でる。 霞は無表情のまま、武の方へ顔を向けた。

 「今日もいっぱい言われるぜ。 B組の救世主ってな」
 「…………」

  霞はすぐに正面を向いた。 だがその真っ白な頬に、少しずつピンク色の赤みがついていく。
  照れているんだな、と武は気付き、霞の仕草を可愛らしいと思った。

 (……ォォォォォォォ)

 「だけどよー。 昨日の夕呼先生、傑作だったよな」
 「夕呼先生、本当に悔しがってたよね~」

  純夏の言うとおりだった。 球技大会で武達は、夕呼率いるD組に勝利して後、
  「この恨みは10倍にして返してやるからねーー!」
  と、今時マンガの悪役すら言わない台詞を吐き捨てたのである。
  武はいつも夕呼に茶化されている故に、夕呼にそんな言葉を言わせたのが気持ちよかった。
  ……ただし、次の物理の授業が怖い気もしているが。

 「私は香月教諭に殺気に似たものを感じたが」
 「冥夜、失礼なことを言うものではありません」
 「いや、冥夜の言うとおりだ。 あの人は絶対何かを企んでるね」

 (ォォォォォオオオオオ)  

 「物理の授業、当てられたりしたら嫌だなー」
 「頑張れ純夏、いつものように面白い答えを頼んだぜ。 Ω(オーム)を『鳥!』って言ったときくらいの珍回答をな」

  純夏は以前、物理の授業のときにΩ(オーム)をオウム目オウム科オウムと間違えたことがある。
  そのときのクラスは爆笑の渦だったが、純夏と美琴だけは何故みんなが笑っているのか、全く気づいていなかった。

 「むっきーーー! 何さ、馬鹿にしてーーーーー!!」
 「なんだよ、本当のことじゃぶぅ!」

  純夏はその時のことを思いだし、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら、武の右脇腹に右拳を突き立てた。
  その拳は肝臓を深く抉り、武の顔を蒼白に染める。 息が吐き出されるばかりで吸い込むことが難しくなり、呼吸が乱れる。
  武の足は震えだし、体がよろめいた。

 (オオオオオオオ!)

 「!? 危ない、タケル!」
 「タケル様、逃げてくださいまし!」
 「え?」

  何かに気づいたのだろうか。 冥夜と悠陽が声を上げ、武に手を伸ばす。 
  彼もそれを掴もうと手を伸ばすが……間に合わなかった。

 (ブオオオオオオオ!!)

 「死ねえ!!」

 (ドワオ!)

 「あがぁっ!!」
 「「「「タケル(様、さん、ちゃん)ーーー!!」」」」

  グリングリンと大地と空が交互に振れる。 そして大地が一気に近づき、回転しながら地面を何回か強く打つ。
  朦朧とする意識の中、武は自分の人生をふり返っていた。 いわゆる走馬燈のように。
  昔、公園で誰かと結婚する約束をしたこと、純夏にクリスマスプレゼントをあげたこと、
  最近になり、冥夜と悠陽が自分の横で寝ていたこと、純夏にどりるみるきぃぱんちをもらったこと……
  生まれて17年と10ヶ月ちょっと、武はその間起きた様々なことを思い浮かべつつ、人生の終着駅に到着しようとしていた。

 「―――って、こんなんで人生終われっかあああぁぁ!!」
 「ひえ!?」

  ガバッ、と武は力強く立ち上がった。 どうやら擦り傷だけですんだようだ。
  その様を見た純夏は、まるでゾンビを見るような目で彼を見ている。
  ……だが純夏も、以前車に轢かれて無傷だったことを考えれば、どっちもどっちのような気がしないでもない。
  ふと、道の向こうからボンネットが人の形に凹み、ライトが割れたランチア・ストラトスがゆっくりとやってきた。
  そして何事も無かったかのようにドアが開かれ、「おはよう」の一言と共に挑発的な格好をした女性が降りてくる。
  白稜柊の牝狐こと“香月夕呼”、その人であった。

 「夕呼先生! 何するんですか!」
 「あら白銀。 どうかした?」
 
  夕呼はいつもと変わらない表情だ。 いや、いつもより冷静にすら見える。

 「殺す気ですか!」
 「殺すぅ? 朝から物騒ね、車にでも轢かれそうになったの?」

  今まさに此所でそれが起こったんですが、と武は心中でツッコミを入れる。

 「轢かれたじゃないですか、先生の車に」
 「私が可愛い生徒にそんなことするはずないじゃない」

  ピッと夕呼の車を指さす。 夕呼も顔を向けると、わざとらしい驚き方で、

 「あら、いつの間に凹んだのかしら。 今度修理に出さないとね」

  と一言だけのたまった。
  『ダメだ。 これ以上先生に関わっても何も進展しない』
  武は直感的にそれを理解した。

 「……もういいです」
 「あらそう? じゃ、私は先に行くわね」

  夕呼はストラトスに乗り込む。 エンジンがかかり、近所迷惑かと思われるほどの爆音が響いた。

 「あ、そうそう。 白銀」
 「はい」
 「…………これで終わったと思わない事ね」

  そう満面の笑みで言い残し、夕呼は坂道を高速で登っていく。
  武は呆然とそれを眺めつつ、ストラトスの姿が見えなくなる頃、大声で叫んだ。

 「って、やっぱり轢く気満々だったんじゃねえかよ!」
 「香月先生、相当根に持ってるね」
 「……目が、本気でした」
  
  ―――今日一日無事に過ごせるんだろうか。
  坂の上に立つ母校を眺めながら、武は大きく溜息をついた。





 「ちーーっす」

  武が教室のドアを開くと、さっそく3年B組の名物が目に入った。

 「彩峰さん、ちょっと聞いてるの!?」
 「…………聞いてる? 聞いてない?」
 「なんで私に聞くのよ!?」

  3年B組の委員長“榊千鶴”と、不思議系問題児“彩峰慧”。
  二人の喧嘩は既に3年B組の名物として定着し、クラスメイト達は「またか」と微笑ましくその様を眺めていた。

 「たけるさん、みんな~。 おはよ~」
 「あ。 タケル、おはよー! みんなもおはよー!」

  横から、特徴的な髪型をしている“珠瀬壬姫”とボーイッシュで溌剌とした“鎧衣美琴”が武達に近づく。
  武は「よう」と挨拶を返し、自分の机に荷物を置いた。

 「また朝っぱらからどうしたんだ? 彩峰と委員長」
 「ああ、それはね~」
 「なんか、委員長が登校している最中に慧さんを見かけたんだけど、学校の反対方向に向かっていたらしくて、引っ張って
 教室まで連れてきたんだって。 それで、なんで反対方向に歩いていたのかを聞いてるんだよ」
 「……説明台詞、サンキューな。 美琴」

  状況を掴んだ武は改めて千鶴と慧の方へ顔を向けた。
  ガミガミとまくし立てる千鶴に対し、飄々とかわし続ける慧の対比が、彼女たちがまさに水と油の関係なのだと分からせる。

 「……ん?」

  ふと、二人が近づいてきているように武は思えた。
  武は訝しく思いながら、二人の様子を眺め続ける。
  ……一歩、慧が足を動かす。 続いて、千鶴もずれる。
  更に一歩。 そしてもう一歩。

 「猫にエサ? 猫がどうしたっていうのよ、学校を休んでいい理由にはならないでしょ!」
 「…………ふっ」
 「なんでそこが笑うところなのよ!」
 「……お前ら」

  気づけば、二人は武の目の前で争っていた。
  慧は彼の方を向き、いつものやる気無さそうな表情をしつつ、

 「おは」

  とだけ呟いた。

 「彩峰さん!」
 「人には挨拶を強要するのに、自分はしない?」
 「――っ!」

  千鶴の顔が更に赤くなる。 そして彼女は武へ顔を向けた。
  ハハハと苦笑いする武の表情に、溜息をついて千鶴は「おはよう」と挨拶をした。

 「もうそれぐらいでいいんじゃねえの、委員長。
 せっかく昨日優勝したんだしよ」
 「それとこれとは話は別よ」
 「いやまあ、そうかもしれないけどさ。 昨日は二人とも上手く連携出来てたんだし、もうちょっと理解し合うつーのかね」
 「それはないわ」「爆イヤ」

  二人同時に武の言葉を否定する。 実は息ピッタリだろお前等、と武は突っ込みたくなるが、それをするとまた喧嘩が
 再燃する可能性があるので止めておくことにした。

 「ま、まあ、だ。 今日は霞の顔を立ててだな」
 「…………!」
  
  突然話をふられた霞は驚き、俯く。
  そして頬を染めて、改めて千鶴達にむき直し「喧嘩は良くないです」と伝えた。

 「喧嘩というわけじゃないんだけど……ああ、分かった。 分かったわよ」
 「ふ……仕方ありませんね」
 「彩峰、お前もちっとは反省しろよな」 

  フゥーと今日何度目かの溜息を吐きつつ、武は椅子にもたれかかる。

 「ったく、空気読めよな~。 せっかく昨日優勝したんだからよ、今日ぐらいまでは」
 「みんな! おっはよーー!」

  とても爽快な声とともに教室のドアが開かれた。
  思わずスキップするかのように幸せそうな、まん丸の笑顔を浮かべ入ってきたのは、武達の担任“神宮司まりも”である。
  何故か朝日に照らされて輝いているように、武には見えた。

 (まりもちゃん、超ご機嫌ですな……ってそりゃ、一瞬とはいえ悪夢から解放されればそうなるか)
 「みんな、昨日はホント~~にお疲れ様でした! 先生にとって昨日は、人生の転換期だったような気がするわ」
 「まりもセンセー、それは大袈裟だよ~」
 (……たま、それがそうでもないんだよ)

  武は知っている。 まりもが物理準備室で、毎日夕呼の玩具にされていることに。
  それを思いながら改めてまりもを見ると、今の溌剌とした彼女があまりにも哀れに見えて、武は思わず涙をこぼしかけた。

 「名残惜しいけど、今日は球技大会の後片付けです。
 グラウンドと校内に別けて割り当てを決めるわね。 グラウンドはウォーケン先生、校内は私が指示します。
 それじゃ、最後まで頑張りましょうね」

  ……それから3年B組の面々は、高校最後の一大行事とも言うべき球技大会を惜しみつつ、そのお祭り騒ぎに別れを告げた。
  学生達は皆一様に、今日一日が終わるのがとても早く感じられたという。





 「ふぃ~~……今日は疲れたぜ!」

  時刻は既に夜となっていた。
  武はベッドへと倒れ込み、天井へと目を向ける。
  何故か、彼にはその天井がいつもより高く見えた。 そして蛍光灯の光が、いつもより深く部屋を照らしているようにも。

 「……終わっちまったな」

  片付けの最中、クラスが和気藹々としていたことを思い出す。
  大会のことをふり返りながら、ときにふざけながら……そんな記憶が武の中で蘇る。
  全て終わった後、彼は少し寂しく感じた。 他の生徒も、皆同様だったに違いない。
  そして学校が終わった後、まりもの言っていたことが思い出された。
  「受験」「就職」「卒業式」
  武はその時、言われて初めて気づいたような感覚に襲われた。 白稜柊で彼が今のメンバーと共に過ごせるのは、後半年も
 ないのだということに。
  彼自身、考えたことがないわけではない。 武はすでに白稜大への推薦を得ており、他人に比べ早い内から考えていた方とも言える。
  だが、こんなにも流れを実感したことは無かった。 自分が時間の流れの中にあるということを感じられたことは無かった。

 「あと2ヶ月で今年も終わりなんだな」

  そうして時間の区切りを思い知らされると、人に去来するのは過去の記憶だ。
  だが不思議と、武が思い出す記憶はつい最近のものが多かった。
  冥夜と悠陽、霞の来訪。 白銀武の隣席を巡っての料理バトル。 昼食に満漢全席が出ることもあった。
  ふと、気づくと武は笑みを浮かべていた。 自分の周囲が劇的に変わった事への驚きと、その内容のハチャメチャ具合が
 今さらながらに面白く感じたのだ。

 「どっかの漫画じゃあるまいし……ん?」

  カシャ、カシャと何かが窓を打つ音が聞こえる。
  武が窓を開くと、風呂上がりなのか少し濡れた髪をした純夏と、髪を下ろした霞がいた。

 「よう、純夏、霞。 どうした?」
 「特に用事はないんだけど……タケルちゃん、どうしてるかなぁ~って」

  武はふと、純夏の表情が少し暗いことに気が付いた。
  笑顔ではあるのだが、何故か少し曇って見える。

 「何かあったのか? 話だけなら聞いてやるぞ」
 「うん……ほら、今日後片付けあったじゃない」
 「ああ」  

  純夏は手で髪を撫でながら、話を続ける。

 「ポスターとか剥がす時ね、なんか終わっちゃったなーって。
 つい昨日のことなのに、もう遠くに行っちゃったみたいな……そんな感じがしたの」
 「ああ、俺もそれは感じた」
 「あんなに楽しかったのに、もう過去のことになって……それに来年は私達、白稜柊にはいないんだな~って考えたら……
 悲しくなっちゃったの」

  純夏の目が少し潤んでいる。 武もその気持ちは何となく理解出来た。
  そう、来年は彼らは白稜柊から卒業している。 高校生活において球技大会のようなイベントは、もうないのだ。

 「でもよ、大学に行けばまた色々な行事があるぜ。
 それはそれできっと楽しいと思うぞ。 変な先生もいないだろうし」

  ―――いや、夕呼先生は大学にも影響力ありそうだぞ。
  と、武は自分で自分に突っ込みを入れた。

 「……そうだね。 でも」
 「ん?」

  純夏は顔を険しくさせる。 そしてそれを悟られまいとするかのように顔を俯けて、話を続けた。

 「でも……来年はきっと、みんなとは一緒に過ごせないと思う」
 「そうだな。 大学に進学するやつ、そうでないやつとかで、離れちまうこともあるだろうしな。
 特に冥夜と悠陽なんて、あいつ等何をしにここへ来たんだか」
 「…………」

  純夏は顔を上げず、何も答えない。
  霞が不安げに「純夏さん」と声をかけ、近づく。
  
 「純夏?」
 「……そうだね、タケルちゃんの言うとおりだと思うよ」

  顔を上げた純夏の表情は、とても濁って笑っているように見えた。
  寂しそうな、苦しそうな、それでいて怒っていそうな、そんな感情が混ざった笑み。
  武は彼女のその笑みが何を表しているのか、よく理解出来ないでいた。

 「なんだよ、何か言いたいことでもあるんじゃねえか?」
 「なんでもなーーい」
 「あのな、溜め込むと体に悪いのは悩みも便も一緒……」

 (ベキィ!)
 
 「あがぁ!?」

  武の額を辞書と思われるものが正確に射抜く。
  投げつけた純夏は顔を真っ赤にしながら、

 「下品なこと言わないでよ!」

  と叫んだ。

 「テテテ……人がせっかく渾身のギャグで励まそうとしてやったのによ」
 「内容が下品すぎるよ!
 ……っもう、いいよ。 それより御剣さん達は?」
 「あ?」
 「ほら、今朝のこと」

  武は今朝あったこと……冥夜と悠陽が自分のベッドで寝ていたことを思い出した。
  そして、それを純夏が激しく糾弾したことも。

 「ああ、それなら問題ない。 悠陽は京都に用事で帰ったし、冥夜は隣の屋敷で仕事だから、あっちで寝るんだと」
 「!! そ、そうなんだ」

  それを聞いた純夏は、とても嬉しそうに笑っている。
  武と話し始めてから、始めてみせる笑顔だ。

 「それじゃあ、明日も元気に起こしに行くね」
 「ああ、頼む。 霞、しっかり純夏を起こしてやってくれな」
 「…………分かりました」
 「って、なんだよーー! 私、いつも自分でしっかり起きてるもん!」
 「へえへえ。 それじゃ、おやすみな」

  そう言うと、純夏と霞も「おやすみなさい」と言いながら窓とカーテンを閉めた。
  見届けた後、武はベッドで体を伸ばし、大きく息を吐く。
  先ほどまで高く見えた天井は、今は少し近くに見えた。

 「……来年、か」

  武は純夏が言っていた「来年」という言葉がとても気になっていた。
  彼はこう考えている。 「一ヶ月でこんなに劇的に変わったんなら、来年はどうなっているんだろう?」と。
  今と同じようなどんちゃん騒ぎが、一年後も続くのか。 それとも、以前の生活に戻るのか。
  どちらにせよ、武にとって『一年後の自分』は『今の自分』とは全く異なるものだろう、というのは想像に難くない。

 「まあ、そんとき……は…………そん……と…………き」

  睡魔が襲ってくる中、彼は思った。
  例え自分が変わろうと、周りが変わろうと、きっと、あいつ等との友情は変わらない。
  一年経っても何年経っても、今みたいに騒ぎあえる。
  そう頭に浮かんだ瞬間、彼は安堵感と共に、その重い瞼に抵抗することなく瞳を閉じた。





  ―――白銀武は夢を見ていた。
  真っ暗な世界、そこに自分だけが立っている。 何も見ることもなく、聞くこともなく浮いている。
  闇の世界では無数の光が瞬いていた。 あるものは見えないほど小さく、またあるものは眩しいほど大きく。
  武がふと下を向くと、そこにも光が見えた。
  とても小さな、一人だけで輝く光。 武はその光を掴もうと両手を伸ばす。
  真っ暗であるはずなのに、手の輪郭だけははっきりと見えた。 そしてその手がゆっくりと光を包み込み、胸元へと引き寄せる。
  すると、武の手と光、その両方を包む新たな手が見えた。 武がその手の先へ目を向けると、そこには、
  たくさんの光に包まれて、まるで太陽のように輝く「鑑純夏」の姿があった。





  ドンドンドンドン

 「………ぅ…」

  ドンドンドン!(タケルちゃん起きてえー! 朝だよ朝ーーー!)

 「……純夏?」

  武はゆっくりと目を開いた。 昨日と同じように朝日が飛び込み、眩しさを避けるため右腕を瞼の上に置く。
  耳を立てると、やはり近所迷惑な純夏の声とドアを叩く音が、階下からはっきりと聞こえてきた。

  ドンドンドン!(タケルちゃーん! うわぁーん! チェーンロックつけてたら御剣さん関係ないじゃーーん!)

 「……うっせーな……うちは、チェーンロッ……ク、付けんだよ」 

  段々と瞼が重くなっていき、感覚もぼやけていく。 日の光と、柔らかな布団が彼の体から起きる意志を奪う。
  熱と混ざり濁る意識の中、彼は思った。 こんな気持ちいい日に学校に行くのは馬鹿げているよな、と。

  ドンドンドン!(開けてよー! あーけーてぇー!)

 「……ってなわけで、おやすみ……」

  武は寝返りをうち、毛布を自分に強く引き寄せた。
  それは『人肌』程度に温められており、とても気持ちよく感じた。

  ドンドンドン!(開けてーーー!)

 「…………グー」

  ドンドンドン!

 「……クシュ」
 「…………ん?」

  瞼を閉じ意識が消える直前、武の耳に不思議な音が聞こえた。
  それは人の呼吸音のような、ときにクシャミのような、そんな音。
  武は、まだ睡魔が残る意識の中、ゆっくりと目を開けた。

 「…………」
 「……クー」

  サラサラとした髪。 長い睫毛。 小さな唇。
  そして何も身に纏っていないのか、白い胸や肩が毛布から覗いている。
  武の鼻から一拳分しか離れていない先にある、どこかで見たような少女の顔。
  
 「……冥夜?」

  武の目が更に開かれると同時に、意識も少しずつ覚醒していく。
  
 「……じゃない」

  意識がはっきりとなっていくにつれ、目の前の少女が冥夜でないことに気づく。
  冥夜と違い、髪はどちらというと黒い。 目つきも彼女のように鋭い感じではなく、少し柔らかみを帯びている。
  そして武は気づく。 この少女は、自分の知らない人間であると。

 「…………」
 「……クシュ」

  武はゆっくりと目を瞑り、
  
 「……はっ!」 

  そして勢いよく目を開く。 目の前には変わらず見知らぬ少女。
  改めて気づく。 間の前にいるのは幻でも何でもなく、実在の人物なのだと。
  武は上半身を起こし、フゥーと大きく溜息をついた。

 「……御剣三姉妹? はは、それはない」

  ―――これが夢だったらどれだけ良いことか。
  武は思わず胸の前で十字を切りそうになった。 神様そんなに私のことが嫌いなのですか、と。
  などと考えていると、階下でドアの開く音が聞こえた。
  
 『開けてくれてありがとう。 御剣さん』
 『何、私もちょうどタケルを起こしに行こうと思っていたのでな』
 『そ、そうなんだ……』

  ―――どうやら神様は俺のことが嫌いなようだ。

 「……なんて考えてる場合じゃねえ!」

  立ち上がろうとした瞬間、武は毛布を引き込む。 
  すると彼女にかかっていた毛布が巻き込まれ、覆っている部分が完全に取り払われた。
  ……露わになったのは、真っ白な肌を惜しげもなく解放し、刀を大切に抱きながら横になる裸身の少女。
  武はそれを見た瞬間、顔を耳まで真っ赤にし、そして、叫んだ。

 「うぎゃああああああ!?」
 『!? タケル!』
 『タケルちゃん!?』
 『白銀さん?』  

  武の悲鳴を聞きつけ、階段を駆け上がる純夏と冥夜、霞。
  暴漢か?と冥夜は顔を険しくさせながら皆琉神威を抜き放ち、
  何々?と純夏と霞は心配そうに階段を上がる。
  そして武の部屋の前で、三人は大きく深呼吸すると、勢いよくドアを開けた。

 「タケル! 無事か!?」
 「タケルちゃん、どうしたの!?」
 「白銀さん……?」
 「よ、よう、みんな。 おはよう」
  
  三人が部屋に入ると、ベッドの上で武が不審に笑っていた。
  毛布はベッドの上で拡がっており、全体を覆っている。

 「なんだ、何かあったのではなかったのか」
 「な、何かってなんだよ」

  冥夜は安堵したのか、皆琉神威を鞘におさめた。

 「さっき悲鳴が聞こえたんだよ! もう、ビックリしたんだから」
 「……私もビックリしました」
 「はは、わ、悪い悪い。 ちょっと変な夢を見ちまってな」

  武の額にはどんどん汗が浮かんでいく。 彼は今、三人に一刻も早く部屋から出てほしかった。

 「夢? どんな夢だったの?」
 「な、なんでもいいだろ。 とにかく部屋から出て」
 「あ……」 

  不意に、霞が純夏の後ろへと隠れる。

 「どうしたの霞ちゃ……って、うわぁ!?」
 「どうしたというのだ、鑑…………む!?」

  純夏が何かに気づいたらしく驚きの表情をあげると、冥夜も顔を険しくさせた。

 「ど、どうしたのかね?」

  純夏と冥夜に睨まれる武は、まるで蛇を前にしたカエルのように体を硬直化し、脂汗を流し続けている。
  そして、純夏がゆっくりと手を前に出し、人差し指を立てた。

 「タケルちゃん……それ」
 「何……ふぉあ!?」
 
  そこにあるのは、いつの間に出てきていたのか、少女の腕がベッドからはみ出し力なく垂れ下がっていた。
  武はその様を見るやいなや、顔面を蒼白にし、とにかく場を繕おうと喋りまくる。

 「夢だ! みんな夢を見ているんだ!
 俺は何もしらん、本当に知らないんだ!」
 「んー……」

  少女はまるで、毛布を邪魔とばかりに自分の顔から引っぺがす。
  隠れた部分が更に拡がり、見知らぬ少女の寝顔が武達4人の前にはっきりと現れた。

 「……ターケールーちゃ~ん……これ、どういうことぉ~?」
 「タケル……事と次第によっては、そなた……!」
 「ひっ!?」
  
  ―――般若が二人。
  それが武の感想だった。 温かで柔らかだった朝が、冷えて凍える朝へと変わる。
  しかもその冷気は、二人が近づくにつれて更に強くなっていった。

 「か、霞助けてくれ。 お前なら信じてくれるよな、な?」
 「…………」

  プイ、と霞は目を逸らす。 それはさながら「諦めろ」と言っているに等しかった。

 「ターケールーちゃ~ん…………」
 
  瞳を真っ赤に輝かせながら、純夏が徐々に近づいていく。

 「待て! 待ってくれ純夏!
 話をすれば俺が今どんな状況なのか分かる! だから右手をおろ」
 「……ん馬鹿者おおおおおおお!!」

 「おぉぉるたぁぁぁぁぁどぉぉぉぉ………!!!!」

  そうして武は、二日続けて星となった。
  昨日よりも段違いの破壊力を持った『どりるみるきぃぱんち』によって月軌道を突破した武の意識は、火星へと到達する直前、
 一言だけ声にならない声を発した。
  「頼む……俺の話を聞いてくれ……」と。

  ……一方、武のベッドで眠る少女はとても気持ちよさそうだ。
  修羅場と化した部屋の中で彼女だけが穏やかなまま、寝息を立てている。
  いや逆に、その修羅場の中にいることが彼女にとって心地よいのかもしれない。
  そして少女は今、ただ静かに楽しみに、目覚めの時を待つ。
  夢の中の蝶が夢を見始める、その時を。

 「…………母様……父様」













[3649] Scene 1 「The butterfly dream」 ①
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/09/27 23:55



 「…ぉぉぉふぇいぶる!?」

  ドゴーーン!と大きな音と共に、火星にまで吹き飛んでいた武の意識が戻ってきた。
  
 「タケルちゃん! 一体この人誰!?」
 「タケル、この女は何者だ!? 説明を求める!」 
 「知らねえって言ってるだろ! 起きたら横にいたんだよ!」
 「むー……あうい」
  
  この女は何者なのか、と赤と青の彼女たちが武に詰め寄る。
  争点となっている当の少女は布団が気持ちいいのか、時々意味不明な言葉を口走りながら未だ眠り続けていた。

 「ふむ、ではタケルはこの者を知らぬ、と言うのだな」
 「ああ、知らん知らん。 ぜんっぜん知らん」
 「おかしいおかしいおかしいよー! 第一、知らない女の子が横で寝てるはずな……」

  純夏の言葉が途切れた。
  知らない女が横で寝ている、ということ自体は『あり得る話だ』と思ったのだ。
  純夏はその張本人である冥夜をジトーッと目を細めて睨む。

 「とにかく、知らない女の子が横で寝ているなんておかしいよ!
 し、しし、しかも、ははは裸……でなんて」
 「純夏さん、顔、赤いです」
 「鑑の言うとおりだ。 この者がタケルの知己でないならば、早急に対策を打たねばなるまい。
 月詠!」
 「はっ」

  空気が少し振れたかと思うと、冥夜の横に緑の髪を纏め、メイド服を来た御剣家侍従“月詠真那”が現れた。

 「この女は何者だ。 何故タケルの横で寝ていたのだ」
 「冥夜様、御剣家の警備チームからは何の報告も受けておりません。 昨晩、ここに近づいた者はいないのです」
 「何?」

  武の家は普通の一戸建てである。 がしかし、その周囲は通常とは異なっている。
  周りは街一つ分が平らなコンクリートへと整備され、もし家に近づく者がいればすぐに分かるだろう。
  そして精強な御剣警備チームが24時間監視している中にあって、この家に接近ましてや入り込むなど『不可能』に近い。
  可能だとすればそれは真那達が属する御剣御庭番くらいだろうが、彼らであっても全く気づかれないというのは無理だ。

 「だが、この女は確かにここにいるぞ」
 「昨晩は私もおりましたが、不可解な気配は感じませんでした。
 この者が相当の手練れならばとも思いましたが、この状況を見ますと……」

  冥夜と真那が少女の方を見る。
  呑気な顔で眠り続け、気配を消すこともしない。
  何よりその呆けた表情が手練れの者とはどうも信じられなかった。

 「う~……ん」
 「「「「「!?」」」」」

  その場にいる5人、全員が少女へと目を遣る。
  少女は眉を一度しかめ、瞼へ腕を置く。 その動きに、5人は一斉に唾を飲み込んだ。
  眉がまた動いた。 玉のような唇が震え、時々小さく声が漏れる。
  隠された彼女の体が小刻みに揺れだし、毛布が歪んでいく。
  そして、薄紅色の白肌と瑞々しい髪を旭に照らされながら、
  その少女は、ゆっくりと目を開いていった。

 「…………ん」
 「「「「「…………」」」」」
 
  少女は目を半開きにしたまま、のっそりと上半身を起こした。
  そのまま腕を上げて体を伸ばすが、器用なことに毛布が彼女の胸から下をうまく隠している。

 「ふぁ~~…………ん?」

  眠たそうに目をこすりながら、彼女は首を傾げた。
  窓から外を見たり、天井を見たりと、不思議そうに顔をキョロキョロとさせている。
  そして何回目か首を傾げた後、ドアの前でじっと見ていた武達5人とようやく目があった。

 「…………」
 「「「「「…………」」」」」

  動こうとしない5人を見ながら、あいかわらず半目をコシコシさせる少女。
  ふと、霞と視線が重なる。 そのとき、少女はニコッと笑みを浮かべて言葉を発した。

 「霞お姉ちゃん、おはよー」
 「…………!?」

  顔を動かし、今度は真那と目が合う。

 「月詠中佐、おはようございます」
 「!?」

  今度は純夏へ。
  純夏は不安な表情を浮かべつつ、彼女をじっと見続けた。

 「…………」
 「な、何?」
 「…………誰?」
 「がーーーーーん!?」

  一人名前を呼ばれず真っ白になる純夏を横に、武と冥夜へ表情を移す。
  初めこそ「ん~」と不審そうに見ていたが、段々と顔が綻びていき、とても輝く笑顔を浮かばせた。

 「母様、父様?」
 「「「「「!?」」」」」

  5人の空気が一斉に凍った。
  特に武は「はぁ!?」という感じでだ。
  目の前にいる少女は明らかに自分たちと同じ年くらいだ。 しかも冥夜は制服を着ており、見間違えることもあり得まい。
  武は彼女の言動が何を意味しているか分からなかった。
  また、霞と真那の名前を呟いたこともよく分からない。 なぜ彼女は二人を知っているのか?
  分からないことばかりで、武の頭はパンクしそうになっていた。

  ……ふと、少女がベッドから起き上がろうとする。

 「父様と母様の夢なんて、久しぶり~」
 「うおあ!?」

  起き上がった少女から毛布が落ち、その形の良い胸と適度にくびれた腰つきが武の目へと飛び込んでくる。

 「ハッ!? 武ちゃん見ちゃダメー!」
 「うぎゃあ!」

  Vサインを作った純夏の手指が武の両眼を貫いた。
  あまりの痛さに床をゴロゴロする武を、少女は眠そうにじっと見ている。

 「父様、どうしたのー?」
 「どうしたもこうしたもないよ! タケルちゃんはいいから、早く服を着て!」

  「え?」とし、少女はゆっくりと下を向く。
  一糸纏わぬ姿。 それを理解するのに、数秒かかった。
  まだ半分寝ているような顔が一秒二秒経つごとにゆっくりと変わっていく。
  だらけきった頬に段々と力が入っていき、半分しか開いてなかった瞼が大きく上がる。
  そして最終的に、頬を真っ赤に染めながら、

 「―――きゃああああああぁぁぁぁ!?」

  と、隣近所があれば鍋でも飛んでくるほどの叫び声をあげた。





 「なんで、なんで、なんでー!?
 なんで何も着てないのよー!」

  毛布にくるまり、武達に背を向けつつ自分が服を着ていないことを嘆く。

 「こっちが聞きてえよ!」

  目を充血させた武が叫ぶ。
  その横で冥夜と真那は腕を組みながら、さっきの言葉を考えていた。

 「そ、それにしても、さっきの言葉……“父様” “母様”とは一体?」
 「そうです。 それに、何故私の名前を」
 「(コクコク)…………」
 「うぅ~……何で私だけ呼ばれないんだよ~」

  「ん?」と少女は顔だけ冥夜達へと向けた。
  よほど恥ずかしかったのか、うっすらと涙が浮かんでるのが見える。

 「あなた、なんで私の名前を知っているんです?」
 「なんでって……」

  少女は真那をじーっと見つめている。
  しかも「何かおかしいぞ」とでも言うような表情だ。
  真那はその不審な表情の真意を図りかね、警戒のあまり顔をしかめる。
  それを見た少女は、ハッと目を開き、驚いた顔つきとなった。

 「ちゅ、中佐!? 申し訳ありません!」
 「はぁ?」
 「わ、私、何故か服を着てなくて、あのその……こんな格好ですみません!」

  慌てて、ビッと敬礼をおくる少女。 その様子に真那はポカーンとするしかない。

 「もうー! 中佐にこんな格好を見られるなんて……マジ最悪。
 霞お姉ちゃん、何か服持ってきてよ服~」
 「!?」

  次に目をやったのは霞だ。 霞は突然服を求められ、しかも「お姉ちゃん」と呼ばれたことに驚き、何も出来ないでいる。

 「あれ、そういえば……霞お姉ちゃん、背縮んだ?」  
 「!!……あ、あがー」
 「そ、そなた、一体何者だ!? なぜ月詠と社のことを知っている!
 そして先ほどの “父様、母様” とは何のことだ!?」

  訳の分からないことを言い続ける少女に堪えかねたのか、冥夜が声を上げた。
  少女はキョトンとした顔で、冥夜を見た。

 「何者って……父様と、母様でしょ?」
 「訳の分からないことを申すな!」
 「訳分かんないことって……母様の言っていることが訳分かんないよ」
 「か、母様だと!?」

  冥夜は「母様」という言葉にたじろぐ。 それはそうだ。

 「戯れ言を申すな! どう見てもそなたと私は同じ年ぐらいだろう」
 「ん~……いや、だって」

  少女は冥夜を指さし、

 「冥夜母様に」

  次に武を指さす。

 「武父様でしょ?」
 「「「「…………うえええええ!!??」」」」

  武、純夏、冥夜、真那の4人は素っ頓狂な叫び声を上げた。
  しかし内実は様々である。 冥夜は頬を赤らめて満更でもなさそうだし、真那はチャンスだとばかりに目を輝かせている。
  一方、よく分からない状況と爆弾発言に、武と純夏は声を上げた姿勢で硬直していた。

 「そ、それで、そなたは?」
 「だーかーらー、私だよ! まもり!
 白銀真璃!」
 「「「「「!!!???」」」」」

  そのとき、5人に電流が走った。
  頭の中で彼女の言うことが繋がったのだ。
  武と同姓の少女、“白銀真璃”。 そして武を父と呼び、冥夜を母と呼んでいる。
  これらから考えられる、彼女の発言の真意は一つ。
  それは、「武と冥夜の娘」という意味に他ならない。
  ……そう考えが至ったとき、ふと純夏がハッと目を覚ました。

 「たたたタケルちゃん!! これってどういうこと!?」
 「俺が知るかぁ! 教えて欲しいぐらいだ!」

  武の頭は大混乱である。 自身を父と呼び、娘と自称する女が現れたのだ。
  冥夜が初めて隣で寝ていたときや、家に居候し始めたときも混乱したが、今回はショックがまるで違う。

 「第一、娘って言っても俺とこいつは明らかに年ちけえぞ!
 冥夜だって同じだ! 冥夜、お前も言ってや……」

  と、冥夜の方へふり返ったとき、武の顔が引きつった。

 「母様……母様……母様……母様……」
 「ダメだこりゃ……」

  冥夜は目を瞑りながらぶつぶつと同じ言葉を繰り返していた。
  その言葉を呟くとき彼女は恍惚の表情を浮かべており、意識がとんでいることは明白だ。

 「月詠さんは分かるでしょう?」
 「え、ええ。 武様の仰るとおりとは思いますが……
 !?」
 「え?」

  真那は真璃の横にある刀を手に取った。
  そしてその刀身を引き抜くと、ああ、と驚きとも畏れとも取れるような声を上げた。

 「な、那雪斑鳩!?」
 「!? なんだと月詠!」

  “那雪斑鳩”
  その言葉が耳に入った瞬間、冥夜の意識が戻った。
  そして真那が持つ美しい刃紋をたなびかせた刀を見、冥夜の目が丸くなる。

 「……那雪斑鳩……間違いない、これは那雪斑鳩だ!」
 「冥夜、那雪斑鳩って何だよ?」
 「私が説明致しましょう」

  真那は刀を収め、説明を始めた。

 「那雪斑鳩は、御剣家に伝わる48宝刀の内の一振りなのです。 冥夜様の“皆琉神威”、悠陽様の“煌奉如月”がその頂点にございますが、
 兄弟刀であることには変わりありません」
 「へえ」

  武の頭に冥夜の刀、そして悠陽の長刀が思い浮かんだ。 

 「それで、何でそんなに驚いているんです?」
 「……御剣48宝刀は、それぞれ一振りずつしか存在しません。 そして現在、那雪斑鳩は飛騨山中にいらっしゃる醍三郎様が
 お持ちの筈なのです」
 「ひ、飛騨ぁ!?」
 「ヒダってなんだろうね、霞ちゃん?」
 「……日本アルプスの一つです」

  日本の人がロシアの人に教わってどうする、と武は突っ込みを入れたかったが、ここは無視することにした。

 「偽物じゃねえの?」
 「……那雪斑鳩は、私がこの世に生を受けたその日に父母から賜ったものだ。
 この皆琉神威をお師匠様から受けるまで、ずっと私の側にあった……いわば友であり、兄であり、姉であった刀だ。
 その那雪斑鳩を私が見間違うなど、絶対にあり得ん」

  冥夜は、再び真那が持つ那雪斑鳩へと目を遣った。
  久しぶりに肉親にでも会ったような、慈愛に満ちた瞳。 それが彼女の言葉がどれだけ重いか、はっきりと示している。

 「あなた……本当に冥夜様と武様の、娘?」
 「前にもお話ししたじゃないですか…………って、あれ?」

  真璃は頭を顔を俯けた。 手を口元に持っていき、何かを考えているように見える。

 「話した……私、確かに……でもなんで、父様と母様がここに。
 あれ、私って、どうしてココに?」

  瞳が目まぐるしく動く。 彼女の顔に、不安が現れ始めてもいる。

 「ココって、どこ? 何なのこれ、分かんない」

  真璃の顔が段々と蒼白になっていき、苦しいのか胸をギュッと押さえる。

 「私って、一体何を……」
 「あぶねえ!」

  倒れようとする体を、武が咄嗟に受け止めた。
  彼の胸に体を預ける形となり、真璃の目の前に武の顔が現れた。

 「大丈夫か?」
 「…………」

  武の顔が、彼女の瞳に映る。
  瞬間、真璃の脳裏に、衛士強化装備を着た武の顔が浮かんだ。
  武だけではない、冥夜、千鶴、慧、壬姫、美琴、霞、まりも、夕呼……みんなで映った、一枚の絵。
  次に思い浮かんだのは、その写真を手に持った母――冥夜の姿だ。
  髪を下ろし、少し大人びた冥夜が優しく真璃を見つめている。 そして、彼女に柔らかく伝えた。
  『これがそなたの父様だ。 今もみんなのために戦ってくれている、立派な父様だ』
  『いつか会える日も来よう。 父様に恥ずかしくないよう、そなたも良い子であるのだぞ』
  
 「…………」
 「?」

  今度は母である冥夜の死、そして夕呼と霞との記憶が浮かぶ。
  伝染病と闘い、命を落とした冥夜。 それからは夕呼と霞が、彼女へ様々物事を教えた。
  真璃は武に似ていると、幾度も夕呼から聞かされた。 武が戦術機が好きだったことを、霞から聞いた。
  彼女は武が好きだった。 一度も会った事がなくても、彼のことはありありと想像出来た。
  そしてずっっっと、武に会いたいと思っていた。
  ……それから地球へ行くチャンスが巡ってくる。
  頑張って頑張って、地球へ行く切符を手に入れた。
  全ては、父である白銀武に会うために。

 「…………」
 「お、おい」

  まるで泉のように記憶が湧き上がっていく。
  地球に到達したとき、真璃はまりもから、武が“MIA”(作戦中行方不明)となったことを知らされた。
  地球に行けば、きっと会える。 笑顔で、言葉を交わすことが出来る。
  そう信じていた。 でも、それはただの “夢” でしかなかった。
  夢は決して現実に至ることはない。 彼女は、それは知っている。

  ……そのような想いで、真璃は武の頬に触れた。
  とても温かくて、柔らかな質感。 ずっと夢見てた表情そのものの武の顔が、今確かに彼女の目の前にいる。
  ずっと求めていた実感を、今確かに感じられた。
  そして彼女は気づく。 今自分は、その人の腕の中にいるのだということに。

 「…………う」

  胸にこみ上げて来るものがある。 顔が真っ赤になり、溢れるものが堪えられない。
  一回呼吸をするたびに、それらがどんどん大きくなって、彼女の胸を強く押す。

 「う、うぅ、う……」
 「お、おいおい」

  心配そうに見つめる視線が、真璃を更に高揚させる。
  目から大粒の涙が幾重にも流れだし、口で息をせねばならなくなるほど気分が高まったそのとき、
  彼女はもう、自分の意識をコントロールすることが出来なくなっていた。

 「う、うあああああああ!!」
 「どわ!?」

  武は、突然真璃が自分の背に腕を回し、抱きついてきたことに驚きの声を上げた。
  しかも大声で泣きながら、である。 武はビックリして動けないでいた。

 「父様! 父様、父様、父様ー!
 うああ、あああああ!!」
 「な、何なんだ一体」

  武の胸で真璃は泣き続ける。 小さな子供が、父親に甘えて泣くように。
  一方武は「困った」といった感じで、真璃を抱きながら溜息をついた。
  ……そんな二人を見ながら、
  純夏と冥夜は、とても残念そうな悲しそうな、複雑な表情を浮かべるしかなかった。





 「グス……クスン」
 「も、もういいか?」

  あれから15分。
  その間、真璃はずっと泣き続けたが、さすがにもう底打ちのようだ。

 「…………グス。 ごめん、なさい」

  真璃はようやく武から離れた。 その目は、真っ赤に充血してしまっている。

 「まあ、それはいいんだけどよ」

  武は純夏達の方を向く。 何故か目を合わせようとしない純夏と冥夜。
  彼女たちを他所に、真那と霞は一度頷いて、武の側へと近づいた。

 「……あの」
 「…………グス」

  真璃が顔を上げると、霞が真っ白なハンカチを向けていた。

 「使ってください」
 「……ありがと、霞お姉ちゃん」

  受け取り、頬に残る涙の跡を拭く。 そして、鼻をズビーッとかんだ。
  ……霞の眉間に僅かに皺が出来た。

 「真璃様、と仰っていましたね」
 「……月詠中佐」

  真那が笑顔で近づくと、真璃は浮かぶ疑問をぶつけた。

 「中佐、ここってニライカナイ……じゃないですよね? 何で父様と母様がいるんですか?
 なんで、月詠中佐と霞お姉ちゃん、姿が変わってしまっているんですか? どうして」
 「……混乱する気持ちは、お察しします。
 ですが真璃様、先に一つ、聞かせてくれませんか」
 「え?」
 「……あなたが産まれたのは、西暦で何年ですか?」
 「ち、ちょっと月詠さん!」

  武が話に割って入る。

 「まさか、“娘”っていう言葉を信じるんですか!?
 流石にそれはおかしいですよ! 未来から来たわけでもあるまいし」
 「武様」

  真那は真剣な表情で武の方を見る。 そして一呼吸おいて、言葉を発し始めた。

 「武様の仰ることは、もっともであると思います。
 ですが私ども御剣家の人間にとって、この“那雪斑鳩”の存在は絶対なのです。
 この刀をお持ちになっている以上、この方は御剣家の人間、私が仕えるべき御方なのです」
 「で、でも、その刀は一本しかないって、さっき」
 「だからこそ今目の前にあるこの刀が全てなのです。
 もちろん単に盲従するのではありません。 すでに神代達を飛騨に向かわせました、真偽は明日中には分かるでしょう。
 ですが少なくともそれまでは、真璃様は御剣の人間であり、その言葉に従うのが御剣家侍従たる私の役目なのです」
 「はあ……」

  武は怪訝な顔を浮かべながらも、真那の言葉に従うしかない。
  御剣の考えることに、一市民の常識など通用しない。 通用するなら「町を更地にする」「朝起きたら隣で寝ている」なんてことはしない。
  彼はとりあえず、御剣の常識に従うことにした。

 「申し訳ありません、話を途中にしてしまって。
 真璃様、あなたがお生まれになったのはいつなのでしょう?」
 「2005年の、11月24日ですけど」
 「……そうですか」

  真那は何かを思ったのか、小さく笑みを浮かべ冥夜の方を見る。
  そして「どうでしょう?」とでも言うかのように微笑みのまま、冥夜を見続けた。

 「…………」
 「……ありえないよ」

  口を開いたのは純夏だった。
  純夏は持っていたバッグをギュッと強く握りしめる。

 「ありえないよ、おかしいよー!
 2005年って何、今2001年だよ! だいたい武ちゃんと御剣さんの娘って……絶対おかしいおかしいおかしい、おーかーしーいーーー!!」
 「(コクコク)」
 「…………」
 「…………」

  おかしいとまくし立てる純夏に、うんうんと頷く武。 一方、何かに苦悩するように見える冥夜と霞。
  各人、様々な表情が見える。 今目の前にある現実をそれぞれ納得いく形で受け入れたい、その想いがそうさせるのだろう。
  だがこの中で、受け入れる云々以前の人間が、一人だけいた。

 「……2001年?」

  真璃は、その数字を当たり前のことのように呟く。
  そしてもう一度、今度は途切れ途切れに「2001年」と呟いた。

 「……はあぁ! 2001年!?」

  素っ頓狂な声を上げながら、真璃は身を乗り出した。
  そして手を自分の鼻の上に持っていき、「ありえないありえない」と左右に振る。

 「今年って2023年じゃないんですか?」
 「……本日の日付は2001年11月11日ですが」
 「…………」

  真璃は額に手の甲を当て、天を仰ぐ。
  そして、不意に自分の頬をつねり始めた。

 「……いひゃいけど夢だわ、これ」
 「古典的すぎるだろ。 ていうか痛かったら普通、夢とは言わないんじゃないか」

  頬を強くつねりすぎたためか、少し赤くなっている。
  赤くなった部分をさすりながら、真璃は武の方を向いた。

 「いや、だって……おかしいよ?」
 「おかしいな、確かに。 
 何がって、お前の存在と言動が」

  真璃は他の人間の様子も見た。
  真那、霞、冥夜、純夏、皆一様に不審者を見るように真璃を見ている。
  そしてようやく、彼女は“自分が変な言動をしている”ということに気が付いた。

 「……2023年じゃ……ない?」
 「もう、そんなことはどうでも良いよ! ……真璃さん、だっけ?
 なんで武ちゃんの横で寝てたの! どこから来たの!?」

  苛々しているのが見て取れる純夏が、真璃に激しく詰め寄る。

 「どこってニライカナイで……って、あれ……っかしいな……
 私って何やってたんだっけ?」

  自分の額をぺちぺちと叩きながら、思い出そうと目を瞑る。
  ……だがしばらく待っても、彼女はウンウンと唸るばかりで何も返さない。

 「なんで武ちゃんの横で寝てたかくらいは分かるでしょ?」
 「……寝てた……」

  真璃は自分が手に持っている毛布を見る。 それは自分が知らないものであり、匂いも少し汗くさい。
  そして彼女は武の方を見、毛布を指さして「あなたの?」という感じで首を傾げると、武は首を縦に振った。

 「…………」
 「…………」

  顔を俯け、真璃は表情を隠す。
  ……そしてしばらくしてから、右手の平を純夏へと向けた。

 「ちょ、ちょっと待って……なんていうか、難しくてうまく表現出来ないんだけど」
 「難しいって、何が?」
 「説明が難しいの。 え~、何て言えばいいんだろ……」
 「…………」
 「う~~~~、ん~~~~。
 つまり」
 「…………」
 「…………覚えていません」
 「……はぃ?」

  アハハ、と困った顔で真璃は苦笑いした。
  それを聞いた直後、純夏は目を点にし、口を四角に硬直させる。
  だがすぐに、顔に変化が現れた。 顔が真っ赤になり、怒っているのが目で分かるようになる。

 「ふざけないでよ!」
 「うぅ……ホントに分かんないんですよぉ。
 昨日何してたかも覚えていないし、なんでここにいるかも分からないんです」
 「まさか……」
 「記憶が、ない?」

  何故か、悲しそうな表情で霞が呟く。

 「でも、ついさっきのことなんだよ? 分からないなんておかしいよー!」
 「本当ですってば! なんていうか、気づいたらこうなっていたっていうか、いつから記憶が飛んでいるのかも分からないというか……」
 「……パニック障害、なのかもしれません。  記憶が混乱しているということも考えられます」

  二人の間に真那が割って入った。 これ以上、話してもらちが明かないと考えたのだろう。

 「鑑様、よれば後のことは私に任せてくださいませんか?
 皆様は学校がありますし、その間にお話は聞いておきますので」
 「「「「………………」」」」

  シィーンと場が静まりかえる。

 「あ、あら? どうかななさいましたか、皆さ」
 「やべえええええ!!」
 「あがー」
 「学校のこと、すっかり忘れてた!」
 「私としたことが何という不覚!」

  4人は一斉に部屋の時計へと目をやると、遅刻まで後10分しかないことが分かった。

 「一文字ならば、何とか間に合うはずだ!
 タケル、とにかく今は学校へ向かうぞ!」
 「ちょっと待て、朝飯は!?」
 「食べる時間なんてあるわけないじゃない!」
 「制服は!?」
 「……車の中で着ればいいと思います」

  冥夜は階下へ声をかけて一文字に準備させ、純夏は武の制服を掴み、霞は学生バッグを持つ。

 「タケルちゃん、行くよ!」
 「タケル、参るぞ!」
 「白銀さん、行きましょう」
 「…………俺は小学生か」

  そう言って武は立ち上がろうとする。
  だが、何かに引っかかる感じで違和感が生じた。

 「ん?」
 「………………」

  その違和感は、真璃が武のシャツを握っていたのが原因だった。
  真璃はとても不安そうに、震える手でシャツを握り続けている。 まるで小さな子供が、親に離れて欲しくないかのようだ。
  ……武は笑顔で、真璃の顔を覗き込んだ。

 「あのさ、俺これから学校なんだ」
 「…………」
 「学校に遅刻したら大変だってことは、分かるだろ」
 「…………(コク)」
 「月詠さんはここにいるし、怖いことは何もないぞ。
 ……すぐに帰ってくるから、な?」
 「…………」

  真璃は一度、武と目を合わせる。 そしてそのまま、ゆっくりと手の力を緩めていった。

 「ありがとな」
 「ううん。 我が儘言って、ごめんなさい。
 ……すぐに帰ってきてね」
 「ああ」

  武は立ち上がり、部屋を出ていく。
  階段を下り、そのまま玄関前に止めてある60メートルリムジンへと乗り込む。
  4人が乗り込むと、リムジンは間髪入れず走り始めた。

 「…………」
 「……タケル」
 「……っん」
 「そなたは、冷静だな」
 「冥夜?」
  
  武の隣に座る冥夜が、前ふりもなく口を開いた。

 「私はダメだ。 あの者……真璃といったか。
 あの者の言動が信じられなくて、だが一方で興奮する自分もいて、何も言えなかった」
 「俺だって同じさ。 あまりにも非現実すぎて、何がなんなのか分からねえ。
 だからかな、かえって頭がよく回るように感じてる」
 「タケルは、土壇場に強いな。 球技大会でも、そうであった。
 ふふ、頼もしいことだ」
 「何だよ、いきなり」

  二人はぎこちないながらも、互いに会話を続けようと努力している。
  それもそのはずだ。 先ほど二人は、見ず知らずの女から「父母」と呼ばれたのだ。
  互いにそれを意識しあっているのだろう。 それは気恥ずかしさからかばつの悪さ故か……二人は今、その意識を互いに
 感じさせないように、そして、その意識を忘れるために会話している。
  だから二人は話数こそ多いが、どこか間の抜けた、テンポの悪い流れにしか見えない。
  その空気を察したのだろう、純夏と霞は、武と冥夜の邪魔をしないように、無関心のふりをし続けた。

 「……ふぅ」
 「…………」

  そして、そんな会話が長続きするはずがない。 二人は数分で互いの話に飽きてしまい、黙ってしまった。

 「……タケル」
 「ん?」
 「あの者の刀……那雪斑鳩を見て、何か思うことはなかったのか」

  いきなりの話に武は発言の意図が分からなかった。 

 「何って……別に何も」
 「……そうか」

  冥夜はそれだけを言うと、口を噤む。 自分の望む回答を得られないことは既に悟っていたからだ。
  それでも聞いたのは、彼女の願いそのものだったからだろう。 自分と武が初めて会った、その場所にあった刀“那雪斑鳩”。
  そのことを思い出して欲しいという彼女のエゴイズムが、普段自分を押し殺そうとする理性の隙間から溢れたのだった。

  一方の武も、それ以上は何も言わなかった。
  発言の真意は分かりかねたが、先ほどまでのたわいのない話の延長なのだと結論づけたからだ。
  そして何より、彼には今、余裕などなかった。 自分を「父」と呼ぶ少女が突然現れたのだ。
  何が起こっているのか、何故そんなことを言ったのか、武は頭の中で複雑な計算式を解くかの如く、頭を回していた。

  頭を回しているのは、横で話を聞いていた純夏も同じだ。
  真璃が武と冥夜の娘だなどということは信じていないと考えているが、「でももし、もしそうだったら」と脳裏に浮かぶ可能性が浮かぶたびに、
  首を横に振る。
  純夏は自分が「信じていない」のではなく、「信じたくない」と考えていることに、自分では気づいていなかったし、気づきたくもなかった。

  霞はそんな3人の心情を知ってか知らずか、声をかけず、じっと外を眺めている。
  何の変化もないコンクリートの平面を抜け、見えてきたのは雲一つ無い青空の下、丘の上に立つ白稜柊の姿。
  それを見ながら霞は、自分の手を合わせ、
  今日が何事もない日であることを、誰かに祈り始めた――――――。
  









[3649] Scene 1 「The butterfly dream」 ②
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/05/03 12:12



 「真璃様の仰っていることは、よく分かりません」

  真那は、驚いたような呆れたような表情を浮かべながら、真璃の話に返答した。
  武達が学校へと行ってから後、真璃と真那は状況の整理を始めていた。
  まずは、なぜ真璃が武のベッドで寝ていたのか、というところから始まる。 真璃は自分がそもそも何をしていて、何故ココに
 いるのかが分からないという。
  そこから彼女は何処にいたのか、何が記憶として残っているのか……すなわち『真璃の世界』についての話へと繋がっていく。

  その話は真那にとって、信じられないものばかりだった。
  1973年に始まる、BETAと呼ばれる異星人からの侵略。 人類は戦い続けたが、徐々に追いつめられていったという。
  そんな世界で、武達は生きていた。 死と責任が常につきまとう、そんな世界で。
  だが、その世界……地球も終わりを迎える。 追いつめられた人類は種の保存のために地球を捨て、遠い遠いバーナード星系へと
 移住を開始。 冥夜は種の保存という大義を果たすため、移民として旅立ち、真璃はこのときに産まれた。
  バーナード星系での生活も楽なものではなかったという。 人類未知の伝染病によって、大勢の人々が犠牲になった……冥夜も含めて。
  ―――真那はその話を聞いたとき、自分の知る“冥夜”に想いを馳せ、不意に涙した。 そんなことはあり得ない、と思ってはいても、冥夜
 ならばやりかねない、と考えてしまったが故だ。
  
  冥夜の死後、真璃は夕呼と霞に育てられた。
  そして2022年……もちろん真璃にとってなのだが……バーナード星系政府は地球の調査を開始。
  真璃はその調査計画の一員として、地球へと降り立った。
  地球で見たのは“人類の敗北”だったという。 人類はBETAによって大陸を追われ、メガフロートを最後の領土として暮らしていた。
  そこで真璃は“まりもちゃん――神宮司まりも”と出会った。 彼女から人類の歴史を教えてもらい、色々と世話をしてもらったという。
  メガフロートには真那もいたらしい。 帝国軍中佐として軍の指揮にあたり、とても格好良かったと真璃は評している。

 「……はっきり言って荒唐無稽過ぎて……どう解せば」

  以上のような話を聞いて、『当たり前の日常』を生きる真那に理解せよと言う方が難しい。
  どだい無理な話なのだ。 BETAや太陽系外への脱出、軍に属している自分や武達の存在、どう信じろというのか。
  ……だが、現に真璃は目の前にいるし、那雪斑鳩は本物にしか見えない。
  真那は今、頭の中を必死に整理するしかなかった。

 「荒唐無稽って……先ほどの中佐の言葉こそ、信じられませんよ」

  一方の真璃も、頭の中が滅茶苦茶に混乱している。
  真那から聞いたことで彼女が一番驚いたのは「BETAなどいない」という言葉だった。
  真璃にとってBETAは、『居て当たり前』の存在だ。 バーナード星系に人類を追いやり、現在も地球人類を脅かし続けている。
  それなのに突然『BETAなどいない』と言われて、信じられるだろうか。
  例えるならば、世界には男と女がいるのが当たり前だが、ある日ふと目覚めたら「女などいない」と言われて、信じられるだろうか?
 世界の状況を想像できるだろうか?
  そういう意味では、まだ過去だとか未来だとか、そっちの方が想像がつく。 だから真璃は現在が2001年という話にも驚いたが、
 それ以上にBETAが存在しないという言葉に、もっとも衝撃を受けたのだった。

 「やはり……」
 「やっぱり……」

  ―――夢でも見ているのでしょうか。
  ―――夢でも見ているのかなぁ。
  言葉にこそ出さなかったが、同じことが脳裏に浮かぶ。
  だが、そこから出てくる結論については、二人は全く違った。

 「……月詠中佐」
 「真璃様、私のことは呼び捨てで構いませんよ。
 先ほども申しましたが、日本帝国軍という軍隊は存在しませんし、私は御剣家に仕える一侍従ですので」
 「は、はぁ」

  ―――夢だとして私の母様はお金持ち? 武家? マジおかしいんだけど。
  侍従という言葉を聞いて、真那という自分の上司を母である冥夜の召使いにすることに、とても罪悪感が浮かんだ。
  『夢のくせに私って生意気だ』、と真璃は考えたのだ。

 「あ、あの、月詠ちゅ……月詠さん、私、お願いがあるんです」
 「はい、なんでしょうか?」
 「なんていうか、その……」

  モジモジと体を動かし、言うのを躊躇う。 一度目を閉じ、そして大きく深呼吸をして、それから改めて真那に向き合う。

 「私、父様と母様の学校に行きたいです」
 「え。 で、ですが、それは……」
 「これが夢だってことは分かってます。 BETAがいないとか、過去の世界とか、絶対あり得ないし……
 でも、だったら父様や母様の側に最後はいたいんです。 側から離れたくないんです」
 「真璃様……」
 「もし今目が覚めたら、私絶対に後悔します。 せっかく父様、母様と一緒に居られる夢の中にいるんなら……我が儘したいんです。
 少しでも長く、側にいたいんです……ダメ、でしょうか?」
 「…………」

  真璃はジーッと真那を見続ける。
  彼女の瞳には、哀願を請う幼児の初々しさを感じる。 それを見た真那は、ずっと昔に冥夜が“おねだり”をしたことを思い出した。
  小動物を飼いたいと言ったときかしら、と思い浮かび、微笑む。
  そしてそのまま、満面の笑みで彼女の視線に応えると、真那は武の部屋から出て行った。

 「……良いってことなのかな?」

  返事をしなかった真那の態度を不思議がるも、彼女の笑顔は決して拒否ではないと真璃は感じた。
  真璃は、部屋の窓から外を気づく。 ふと、その窓を開け放った。
  まず目に入ったのは純夏の家だ。 そして視線を横にずらすと、一面コンクリートに覆われた平面が浮かぶ。

 「駆逐艦の滑走路みたい」

  どこまでも続くように見える平面、しかしずっと向こうには、おおきなビル群や鉄橋がいくつも見える。
  真璃はそのような巨大建造物を見たことがなかった。 あるのは着陸した移民船くらいで、建物ではない。
  ふと、真っ青な空を白い縦雲を引きながら飛ぶ物体が見えた。
  それはとても小さいが、固定翼の機体つまり飛行機だと真璃は理解する。

 「……ここって、本当に地球なのかな」

  自分が冥夜や夕呼、学校から得た地球と、微妙に違うこの世界。
  あの程度の高度で飛んでいたら光線属種に撃墜されてしまう……しかし事実として、彼女は飛行機の存在を確認した。

 「BETAがいない……ハハ、そんな馬鹿な」

  口ではそう言っているが、少しだけ実感が湧いた。
  そして改めて、この世界が『夢』なのだと確信する。
  BETAなど存在せず、死んだはずの母、冥夜と生き別れた父、武が存在するこの世界。
  こんな世界があるなら、まさにそれは真璃にとって『理想郷』なのだ。

 「夢……そうだね、どうせ夢なら……」

  真璃は、飛行機雲へ向けて腕を伸ばす。 そしてギュッと閉じる。
  目をキラキラと輝かせながら、頬を思いっきり引き上げた満面の笑みで、溌剌として声を上げた。

 「楽しまなきゃ、損だよね。 絶対」





 「は、腹減った」
 
  武は机に突っ伏しながら、ぐ~ぐ~と腹の音を上げていた。
  周りには冥夜と純夏、霞、千鶴、慧、壬姫、美琴といつものメンバーがたむろしている。

 「何、朝飯食べてこなかったの? 朝もギリギリだったし、どうせ寝坊でもしたんでしょう?」
 「ちげーよ、委員長。 朝から色々あってだな……」
 「え、何々~。 何があったの~~?」
 「何って」

  武はその質問に、どう答えればいいのか分からなかった。
  「見ず知らずの女が俺の隣で寝てた」「俺達のことを知っていた」「しかも娘だと名乗りやがった」
  ―――ダメだ、信じられるはずがない。
 
 「……色々だよ」
 「黙秘……これは犯罪の臭いがする」
 「何でそうなるんだよ。 言っとくが、そんなこと絶対にないぞ」
 「犯人はいつもそう言う」

  不審な笑みを浮かべながら、慧は武から冥夜と純夏に目を移す。
  冥夜と純夏は何か悩んでいるようだ。 口を半開きにし、時折息を漏らしている。

 「……女?」
 「「「ギクゥ!?」」」

  慧の一言に、武と純夏、冥夜の顔が一気に強張った。

 「……図星?」
 「ちげぇー! 絶対にちげぇー!」
 「諦めた方が身のためですよ」
 「え、何々ー? どうしたのさ、タケルー」
 「ちょっと白銀君! 朝に何があったのか、教えなさいよ!」
 「み、ミキも知りたいです~」

  4人の女達が凄んでくる。 武は純夏と冥夜の方を見るが、相変わらず呆けていて助け船など出せそうもない。

 「か、霞は……」

  霞もあさっての方向を見ながら、はぁ、と溜息をついていた。
  何故かとても悲しそうな表情を浮かべながら。
  ……ふと、ここで武は気づく。 俺一人じゃね?と。

 「いや別に何も……」
 「色々あったって言ったのは白銀君でしょ!」

  すかさず入る突っ込み。 はぐらかす思惑はあっさりと撃沈した。

 「……美琴、バルジャーノンの調子はどうだ?」
 「それでタケル、女の子って誰?」
 「バルジャーノ……」
 「タケルー、話聞いてる? 女の子って誰?」

  相変わらず人の話を聞かず、美琴はマイペースで話を進めていく。

 「た、たま……」
 「タケルさん、私も知りたいですよ~」
 「……うぅ」

  気が弱い壬姫にさえ説明を求められ、武ははぐらかすのを諦めた。

 「いや実は、何というかな……」

  ―――そのとき、
  ガララと教室のドアが音を立てて開かれた。
  先生でも来たのか、とクラスメイト達の視線が集まる。
  それは武達も同様だった。
  まるで時間が静止したような錯覚。 そしてクラスに入り込んでくる緩やかな風。
  長い髪がフワッと浮かび上がり、彼女の顔を隠した。
  その髪が落ちると、見えるのは薄紅色に頬を染める、見ず知らずの少女。
  ……そこに立っていたのは、白稜柊の制服に身を包んだ真璃だった。
  彼女は顔を真っ赤にし、武達の方を向きながら動かないでいた。

 「…………」
 「「「「「「「…………」」」」」」」

  ……ガラガラ、ピシャ。
  と、真璃は教室に入るでも、何もするでもなくドアを閉じた。

 「……誰?」
 「クラスでも間違えたのかしら……って、白銀君?」

  顔を真っ青にさせながら武は唐突に席を立ち上がり、ドアの方に近づく。
  しかも純夏と冥夜、霞も、まるで相談したかのように同じ行動をとっていた。
  武はドアを掴み、一気に開いた。

 「うわー……うわわー……」

  武が見つけた真璃は廊下でうずくまり、息苦しそうにしていた。
  だがその表情は苦汁に満ちたものではなく、楽しくて仕方がないといった感じだ。

 「……何してんだ?」
 「……こ、呼吸困難?」
 「見りゃわかるだろ、常識的に考えて」

  興奮しすぎて息が苦しいのだろう、見ればすぐに分かる。
  その割には、とても嬉しそうに頬を真っ赤に染めて、目をキラキラと輝かせているのだから見ていて面白い。

 「だ、だって……榊さんや彩峰さん、珠瀬さんに鎧衣さんまでいるなんて……
 興奮しない方がおかしいよ」
 「いや、普通しないだろ」
 「そなた……」

  冥夜が二人の間に割って入る。 冥夜は少し緊張しているように見える。

 「そなた、何故ここにいる。 月詠はどうした」
 「あ、え、えと……ごめんなさい。 私、月詠さんに我が儘を言って」
 「学校への転入届は、私が行いました」

  いつものように何処からともなく真那が現れる。 
  その顔はとても神妙で、冥夜の方をじっと見つめていた。

 「……どういうことだ、月詠」
 「真璃様は冥夜様と武様の通う学校へ行きたいと、申しておりました。 そのための措置を講じたまでです」
 「そのようなことは聞いておらん。 何故この者を私達の側に置いているのか、ということだ」

  冥夜はキッと真璃を睨み付ける。 真璃は申し訳なさそうに肩を落とすしかない。

 「冥夜様、全ては私の判断です。 責は私にあります」
 「!! そ、そんな!
 か……かあさま……私がお願いしたんです! 月詠さんは私の言うことを聞いてくれただけなんです!」
 「そなたは黙っていろ。 月詠、このような措置をとった理由、聞かせてもらうぞ」

  はっ、と真那は返答し、説明を始めた。

 「真璃様と話しまして、彼女は私達に不利益を与えるような意志はないことが分かりました。
 そうであれば御剣家の人間として、真璃様の言葉は履行されなければなりません」
 「……それだけか?」
 「それと」

  ふと、真那が冥夜の側へと近づき、耳打ちする。

 「……白稜柊に展開している警備部隊を、邸宅と学校とで分散するのはかえって危険です。
 真璃様に気を取られている間、私はどうしても皆様への対応が遅れてしまいます。
 であれば一カ所に集中し、より護衛の効率を上げた方が賢明かと」
 「……む」
 「先の球技大会でも、何者かが白稜に侵入したことが分かっています。
 目的は何なのか未だにはっきりとはしていませんが、用心に超したことはありません」
 「……なるほど」

    冥夜の顔に笑みが浮かぶ。 やはり真那は信頼を裏切らない、いやそれ以上のことをしてくれる、と感激して。

 「冥夜様、私はこれから、さる御方のところへ行こうと思っています。
 その方は量子力学の研究者で、特別な研究を行っていると聞いています。
 今回の件、力になって頂けるかと」
 「ふむ、そのこともあって、護衛を一本化したいと言うことなのだな」
 
  真那はスッと冥夜から離れ、「はっ」と小さく返答した。

 「……それで」
 「はい」

  今度は冥夜が、少し不安そうな表情をさせながら、真那の耳へと顔を近づける。

 「それで、あの者……真璃は私の娘という話は、どうなったのだ?」

  真那は、やはり、とばかりに唇を緩める。

 「……どうにも判断がつきかねます。 あまりに話が大きすぎて……
 ですが一つだけ分かったことがあります。 真璃様は、武様と冥夜様を、本当に父母のように慕っているということです。
 冥夜様、ここは母親になった予行であると、気軽に考えてみるのは如何でしょうか?」
 「な!?」

  小さく悲鳴をあげ、冥夜は真那から離れた。
  頬が上気し、真っ赤に染まる。 そして困ったような嬉しいような、そういう変な表情となっていく。
  真那はその様を、ニコニコと笑顔で見つめていた。

 「な、なななな……!?」
 「どうした冥夜、変な声を上げて」
 「どうしたの?」
 「うっ!?」

  変な行動をとる冥夜に近づく、武と真璃。
  二人が視界に入ると、冥夜は思わず「夫と娘が自分を心配して声をかけている」というような妄想に至る。
  妄想が浮かんだ瞬間、彼女は自分の体温が数度上昇した錯覚を覚える。 動悸も激しく、二人をまともに見ることが出来なかった。
  それを不審に思ったのか、武が冥夜の顔を覗き込む。
  武と目があったとき、ドキッと大きく心臓が跳ね上がった。

 「あっ、あああ……」
 
  武の顔が、冥夜にはいつもより凛々しく見える。
  武との絶対運命を疑ったことはない冥夜だが、今回のようにそれがはっきりと感じられたのは初めてだ。
  だからであろうか。 武と自分との結びつきを、いつも以上に冥夜が感じているのは。

 「おい、顔が真っ赤だぞ。 大丈夫か」
 「あ、わわわわ私は……だだ大丈夫、だぞ」 

  プシューッと頭から湯気でも出るかのごとく、冥夜は顔を真っ赤に染めていた。
  これ以上見ていられない、と冥夜は顔を俯ける。

 「……ちょっと」

  武と冥夜、真璃は声のした方へ顔を向ける。
  純夏を初め、いつの間に側にいたのか、千鶴達がジトーっと目を細めて三人を見ていた。
  
 「何なのよ一体。 で、その子誰?」
 
  千鶴がビシッと真璃を指さす。

 「あ、ああ、こいつは……」
 「榊様、紹介が遅れました。 この方は武様の従兄妹に当たります、白銀真璃様です」
 「「「……へ?」」」

  武、冥夜、純夏は「ハッ?」という表情を浮かべた。

 「本日から、白稜柊に転入することになりました。
 朝方に武様達が遅刻寸前だったのは、真璃様が武様の邸宅においでになったため、慌ただしかったからなのです」
 「つ、月詠さん、そんな話は……」

  と、武は話を止めようとするが、ウインクして合図を送り微笑む真那を見て、少し考え込む。
  ―――月詠さんに話を合わせれば、さっきの質問も回避できる。
  そのように武は考え、そして真那に話を合わせることにした。

 「そそ、そうなんだよ~。 ったく、真璃も急だよな~、突然ウチに来るんだからよ!」
 「た、タケルちゃん! 何言ってアイターーー!?」

  純夏の頭が強く後ろに引っ張られる。 千鶴達に見えないように、武が純夏の髪を引いたのだ。
  何だよー!と武の方を向くと、ウインクをして「話を合わせろ」と合図が送られる。

 「むー……
 そうだね、朝いきなり来るんだもん。 真璃さんにはびっくりした、よっ!」
 「イテーー!」

  お返しとばかりに、武の足を純夏が踏んづける。

 「本当なの、御剣さん?」
 「う、うむ……事実だ。 私も驚いた、朝にいきなり現れるのだからな」

  千鶴は3人の顔を見ながら、“怪しい”とは思いつつも、特に批判する理由もないので、とりあえず「そういうこと」にした。

 「……まあ、そういうことにしておくわ。
 白銀真璃さん、ね。 私はこのクラスで委員長をやってる榊千鶴です、よろしく」
 「はっ、はいぃ!」

  真璃は奇声を上げながら背筋を伸ばし、敬礼して返す。
  頬を上気し、目をキラキラさせて答える様子に、千鶴達は驚いた。

 「こちらこそ、よろしくお願いします!」
 「よ、よろしく……」

  その元気さに呆気にとられる千鶴。 そんな彼女を、零れんばかりの笑みでじっと見つめる真璃。
  慧はそれを見ながら、ポンッと手鎚を打った。

 「……百合?」
 「けけけけ慧ちゃん!?」
 「百合っていいよねー。 花は綺麗だし根っ子も食べられるし、観賞用、実用両方で活きてくるしさー」

  思い思いの言葉を発する乙女達。 一人、よく分からない発言をしている子もいるが気にしてはいけない。
  そして千鶴は、『百合』という言葉に反応し、頬を赤く染めた。

 「な、なんでそうなるのよ!」

  ふと、慧は千鶴の肩に手を置く。

 「な、何よ」
 「……人の好意を拒否するのはいけない」
 「!!!!!」

  ニヤリと慧は不敵な笑みを浮かべた……そのはずだった。
  ビクッと背中に何かを感じ、慧はゆっくりとふり返る。
  そこには、千鶴に送ったのと同じキラキラとした視線で慧を見る、真璃の姿があった。

 「…………」
 「……わー」

  一歩、真璃から慧は離れる。

 「好意を拒否するのはダメなんじゃないの?」
 「……ダメなときも、ある」

  大きく溜息をつく二人。 端から見ると、意気投合した相性ばっちりの友人に見える。
  そんな二人の会話を気にすることなく、真璃は二人を見続けていた。 羨望の眼差しで。
  当然なのだ、だって二人は……千鶴と慧、壬姫、美琴は彼女が小さい頃からずっと聞かされてきた、彼女にとっての「英雄」なのだから。
  リーダーとして皆を引っ張った榊千鶴。
  冷静沈着で状況判断に優れた彩峰慧。
  狙撃に長け、HSST落下というプレッシャーにすら打ち勝った珠瀬壬姫。
  サバイバル技術なら右に出るものはなく、隊のムードメーカーだった鎧衣美琴。
  真璃は写真でしか、彼女らを見たことがなかった。 そして今、目の前で憧れの人達が声を発し動いているのである。
  それはさながら、極上の映画を鑑賞しているのに似ていた。
  だから、興奮するなという方が無理な話だ。

 「「…………」」

  そんなことは露知らず、真璃の眼差しに操の危機感を抱く二人。
  そして二人同時に、キッと武の方を向いた。

 「な、なんだよ?」
 「白銀家って、みんなこうなの?」
 「血が、そうさせる?」
 「何言ってんだ、お前ら」

  二人発言の真意が全く掴めなかった武は、そう返すしかない。

 「こら、もう始業時間になってるわよ!
 早く教室に入りなさい!」
 「ふぇ?」

  真璃が後ろをふり返ると、そこにはロングの髪をグルグルと巻いた女性、神宮司まりもがいた。

 「……まりもちゃん?」
 「へ?」

  頭にメガフロートで出会った国連軍大佐としてのまりもが思い浮かぶ。
  痩せこけ、五十路となったまりも……その像と、今目の前にいるまりもが、完全にかぶった。

 「わか!?」
 「え、ええ?」

  やはり三十路前と五十路では、こういう感想も湧くだろう。
  真璃は脳内のまりもとのギャップに、正直に声を上げた。

 「も、もう! 先生をからかうんじゃありません!
 ……あら、あなたは?」
 「神宮司教諭。 いつも御世話になっております、御剣家侍従の月詠真那です。
 この方は武様の従兄妹で、白銀真璃様と言います。 本日、白稜柊に転入となりました」
 「転入って、今朝の職員会議では何も言ってなかったけど」
 「何分、急でしたので……申し訳ありません」

  まりもは真璃の顔をじっと見る。 普通、担任への連絡も無しに転入などあり得ない。
  だが、いつも奇天烈なことをしでかす御剣家のこと、しかも、その張本人とも言える冥夜の侍従である真那が言っているのだ。
  「あり得ないことではない」、とまりもは結論づけた。

 「月詠さん、こういうことはもう少し早めに」
 「申し訳ありません」
 「はあ……分かりました。 ちょうど次は英語だし、自己紹介から始めましょう。
 白銀……真璃さんね、大丈夫?」
 「は、はい。 月詠さん、色々してくれてありがとうございました」
 「御礼を言われることなど、しておりませんよ。 ゆっくり楽しまれてくださいね」

  そう言い残し、皆の前からフッと姿が消える。
  ―――夢の月詠中佐はニンジャみたいだな。
  と、真那の消失に感想を抱いた。

 「ほらほら、白銀君達も席について。 授業始めるわよ」

  まりもの声が廊下に響き、ぞろぞろと武達はクラスに入っていく。
  一方、真璃はまりもの方をじーっと見続けて、ほうっ、と溜息をついている。
  まりもの豊満なバストとヒップ、きちんと手入れされているヘアー。
  そうした大人らしさに、真璃はただ見惚れていた。 

 「じゃあ、私と一緒に入りましょう。 良いわね?」
 「え、あ、はい!」

  教室のドアを開け、まりもが入っていく。 そして真璃へ目で合図を送る。
  真璃はゆっくりと踏み出した。 一歩、一歩、何故か、その度に顔が上気するような感覚に襲われる。

 「……あ」

  足が教室ドアのラインを跨いだ。 右足が、教室へと。
  そのとき、真璃は小さく声を上げる。 鼓動が、一気に早まる。
  だからというわけではないが、左足が上がるのが一瞬遅れ、動きが静止する。
  足が、自分の意識から分離した、そんな気分になった。

 「…………」

  だがすぐに意識と足の感覚が繋がり、左足も教室へ入り込む。
  教室の真っ白な壁、右手に見える黒板。
  それ自体は真璃もよく知る光景だった。 バーナード星系で通っていた学校でも同じだった。
  そこで友人達とお喋りしたり、遊んだりもした。 真璃は、今自分が何処にいるのか一瞬分からなくなった。
  左を向けば、もしかしてバーナード星系の学校のクラスメイトが「マモリー」と声をかけてくるような、そんな感覚。
  真璃はそう錯覚したまま、左を向いた。

 「…………わ」

  見たこともない学生達。 自分の知らない、自分と同世代の人達が真璃の目に飛び込んでくる。
  それだけではない。 その学生達の中には武や冥夜をはじめ、真璃が憧れてきた皆が、いた。

 「みんな、いつも急で申し訳ないけど、クラスにまた仲間が増えました……10月から数えて4人も転校生が来るなんて、普通あり得ない
 ことです。 そういう意味ではみんなは面白い体験が出来ているわけで、先生、そこはみんなにとってプラスだと思います。 
 慌ただしくて大変かも知れないけど、みんなも頑張って。 それじゃあ、転校生を紹介するわね」

  まりもは真璃の方を向く。

 「みんなと一緒に勉強をしていく、白銀真璃さんです」

  その声が上がると、真璃は恐る恐る顔を上げる。 ブワッ、とクラスメイトの視線が、彼女を押した。
  クラスメイトだけなら、まだ堪えられた。
  だが、武、冥夜、千鶴、慧、壬姫、美琴……真璃は彼らに見られているということが、とても嬉しくて、楽しくて、恥ずかしくて……
 直視することが出来ない。
  真璃は堪らず、上半身を倒す。 運良くそれはお辞儀の形となり、クラスメイトには真璃の動揺は伝わらなかった。

 (やばい、やばい、やばい、やばいよ~~。
 父様や母様、みんな見てるよ、どうしよう……)

 「白銀真璃さんは白銀君の従兄妹だそうです。 白銀君よかったわね、知り合いの女の子が増えて」
 「またまた俺指名ですか!?」

  ドッとクラスで笑いが起こる。 一方の真璃は、自分の呼吸を整えるので精一杯だ。

 「それじゃあ白銀さん、自己紹介して」

  ドクン、と心臓が跳ね上がる。 手一杯に汗が拡がり、体中が熱い。
  真璃は逃げ出したい衝動に駆られた。 いっそここから走って抜け出してしまいたい、そう思った。
  ―――って、私の馬鹿!
  そんな自分に一喝する。 父と母が見ているのにそんな恥ずかしい真似できるか、と自分を振るいだたせる。
  そして真璃は、お辞儀の姿勢のまま大きく深呼吸し、勢いよく顔を上げた。

 「……こんにちは! 私、真璃と言います!
 地球……じゃなくて、ここに来たのは初めてで、色々分からないこともありますが……でも、皆さんと仲良く勉強が出来たら、
 そう思っています。 どうか、よろしくお願いします!」

  自己紹介が終わると、一斉にクラスから拍手が起こる。
  それは形式的なものであるが、息を切らしている真璃にとっては自分の言葉が受け入れられたと実感させるものであり、
 とても彼女を充実させた。

 「それじゃあ、席は……鎧衣さんの横でいいかしら。
 あ、鎧衣さんって言っても分からないわよね」

  まりもはさっそく真璃の席を伝えるが、「転校生だから美琴の事を知らないだろう」と自分の発言が軽率だったと考える。
  だが当の真璃は、今の言葉を理解したのか躊躇せずに進み、美琴の側に立ち、
  そして美琴の横にある空席を指さしながら、

 「ここですか?」

  とまりもに問うた。

 「え? え、ええ、そこです」

  ―――なんで鎧衣さんを知っているの?
  と、まりもは疑問に思うが「事前に会っていたのかな?」とさっきまでのことを思いだし、それ以上は何も言わなかった。
  そして真璃は、ゆっくりと美琴の隣席に着席した。

 「鎧衣さん、よろしくお願いします」
 「よろしく、真璃さん。 あ、僕は美琴で良いよ。 僕も真璃って呼ぶから。
でさ、僕たちって……どこかで会ったことあったっけ?」
 「え? いえ、ありませんけど」

  鎧衣の質問の意図が分からなかったのか、真璃はキョトンとしている。
  周りの人間……特に武達いつものメンバーであるが、彼らは「なぜ鎧衣のことを知っている?」と不審に思い、チラチラと真璃の方を見た。
  当の真璃はそんなことを気にもせず、満面の笑みで前だけを見ていた。

 「それじゃあ、授業を始めるわね。
 白銀さんは鎧衣さんに教科書を見せてもらってね」
 「はい、分かりました。 鎧衣……み、み、美琴さん?
 お願いして良いですか?」
 「うん、分かった」

  席を動かし、美琴の席とくっつける。
  ……そして、授業が始まった。
  さっきまでの喧騒が嘘のように、教室が静寂に包まれる。
  その中で聞こえるのはパラパラとめくられる教科書、カリカリと刻むシャープペンの軽快音だけ。
  真璃は何故かそれらの音が、とても懐かしく思えた。

  そして穏やかな日溜まりの中、クラスを一望する。
  目にはいるのは見ず知らずの学生達。 そして……父母と、その友人達の姿。
  不意に笑みがこぼれた。 口元が大きく緩んだ、とても嬉しそうな笑顔。
  真璃は今、心地よい幸福感に包まれていた。

  ……一方、見られている側の気持ちは皆、様々だった。
  真璃とは何者なのか、武とどのような関係なのか、と。
  武に思いを馳せている彼女たちからすれば、それは当たり前に浮かぶ疑問だった。 その問いに自分なりの結論を出し、
 そしてまたダメ出しして、別の答えを探っていく。

  特に、純夏と冥夜はそうだった。
  純夏は少しイライラしているように見える。 
  自分で出した答えが、自分の望むものにならない。 「武と冥夜の娘」という今朝の言葉が、頭からついて離れない。
  ふと、彼女は真璃の方を見た。
  真璃はニコニコと頬がとろける程の笑みを浮かべ、授業を聞いている。
  その笑顔と、自分のイライラとのギャップが、更に彼女の苛立ちを加速させた。

 「はぁ……」

  ―――何でこんなにイライラするんだろう、私って。
  純夏はそんな負の感情を抱く自分に、ふと嫌悪感が湧いた。
  そして、もう一度大きく溜息をついた。

 「ふぅ……」

  次に溜息をついたのは冥夜だ。
  冥夜はじっと前だけを見つめてはいたが、手に持っているシャープペンはただクルクルと回るだけで、黒板の内容は写されていない。
  別のことを考えているのだ。 武と自分、そして娘と名乗る真璃のことを。
  胸に湧くのは「もし真実であれば」ということだ。 それは絶対運命の証が、今ここに現れたことを意味する。
  そして次に考えるのは、武と過ごすこれからの日常だ。
  およそ異性との交流など、政治的なもの以外では全くなかった冥夜だ。 昔読んだ本のイメージ、それもワンシーンから
 『男女の交際』とやらを想像するしかない。
  桜並木の下、腕を組んで歩く二人。 武は冥夜を見つめ、冥夜は武を幸せそうに見つめている。
  その桜並木のイメージが、突然バージンロードとなる。 そこを歩く純白のドレスに身を包んだ自分。
  そしてずっと向こうには凛々しく立って自分を待つ、絶対運命の相手、白銀武が待っている。
  二人の運命を、確固としたモノにするために。

 「はぁ……」

  想像が拡がる中で、冥夜の口元が緩んでいく。
  そんな彼女の笑顔は、とても幸せで満ち足りたモノだった。

 「……は、腹減った……」

  そんな乙女達の悩みなど、思惑の中心にいる武には関係ないらしい。
  真璃のことも気にはなるが、空腹のせいで考える余裕など無い。 腹が膨れることが最優先事項だ。
  彼は机に突っ伏しながら、今はただ一刻も早く昼休みになることを切に願っていたのだった―――










[3649] Scene 1 「The butterfly dream」 ③
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2020/03/14 23:10


 「―――この英語長文では第一パラグラフでPrejudiceの形成過程、そして第二パラグラフ以降ではPrejudiceによって何が起こるのか、
 が書かれています。 問いはRobert K. Mertonが何を主張したかだけど、第二パラグラフの初めで名前が出てきているし、その直前に
 前置詞 Accordoing toも来ているから、ここに注意すれば答えは分かるわね。 それじゃあ……」

  カッカッと黒板にアルファベットを書きながら、まりもは学生を指名する。
  その学生は彼女の求める答えを的中させ、まりもから「よく出来ました」と笑顔を返された。
  時は11月。 受験戦争において「第一次決戦」とでも言うべきセンター試験まで後2ヶ月しかない。
  ……といっても、武達のいる3年B組の空気はすこぶる穏やかなものだ。
  まりもは時折冗談を交えながら、授業をおもしろおかしく進めている。 そこには受験の修羅場的なイメージは全くない。
  
  武達3年B組は、実は既に推薦を決めた人間が大半を占めていた。
  そもそも、ここ白稜柊はエスカレーター式のシステムを持つ学園であり、実に在校生の七割が白稜大への進学を希望している。
  そして武達は3年時のクラス割りにおいて、白稜大への進学希望クラスに進み、早々に推薦を手に入れて進学を決めていたのだった。
  まあ、そういうシステムだからこそ、11月という一番忙しい時期に球技大会などを開けたりするのだろうが……。

 「……ぐぅ」

  ―――そんな空気で真面目に授業を聞けという方が酷だ。 俺は悪くない。
  と、自分の眠気と空腹を責任転嫁し、突っ立てた教科書の後ろで伏しているのが白銀武である。
  武は一刻も早く授業が終わって欲しかった。 この授業が終われば昼休み、そして昼食となる。
  それだけを考え、それだけを望む。 武は口内に溢れる唾液を自覚しながら、何度も時計を見た。
 
 「……ちくしょう」

  そしてこういう時に限って、時間の流れは遅くなるものである。
  いつもは早く過ぎる時間も今日は異様に長く感じ、武の腹をさらに抉った。
  武は時計から目を離し、窓の方を向いた。

 「……ふぁ」

  一方、美琴の隣にいる真璃も似たような状況だった。
  初めこそ物珍しさに興奮しっぱなしだったが、慣れてくると退屈に思えてくる。
  そもそも真璃は国連軍としての教育を受けている。 そして国連軍内部の規約では、英語は公用語だ。
  つまり意思疎通が出来る程度には英語の教育がなされているのであり、この世界の受験英語程度ならお茶の子さいさいなのである。
  まあ、だからといって英語が得意だったというわけではない。 というか嫌いなのだが。

 (……戦術機学校では“英語なんてクソ食らえ”と思ってたけど……
 簡単すぎるのも考え物だね……ふぁ)

  真璃は手で口を隠し、何度目かの小さな欠伸が出た。
  それによって涙が浮かび、眼をこしこしさせる。 
  そして黒板から目を離し、武と同じく窓の外を見た。

 (バババババ……)

 「「……ん?」」

  何か、音が聞こえる。 バババという低音が武と真璃に聞こえ、同時にクラスを見渡した。
  室内には特に不審な点は見られない。
  二人は、再び窓の外へと眼を向けた。

 (バババババ……!!)

  音が次第に大きくなっていく。
  武と真璃以外も音に気付いたのか、クラスがざわざわと騒ぎ始めた。

 「な、何何? 何の音?」

  まりもは汗を浮かべて教壇を右往左往している。 クラスメイト達は立ち上がり、ワーワーと声を上げる。
  けたましく響く音。 次第にクラスの窓が振動し、ちりちりと細かい音を立て始めた。
  他のクラスでも同様らしい。 武達のクラス以外からも何か騒ぐ声が聞こえてくる。
  そうしたクラスメイト達の一方で、冥夜と真璃はさも「当たり前」のように窓の方を見ながら過ごしていた。
  かえって、慌てる生徒達の様子を“変”にすら感じているようだ。

 「おい、あれ!」
 「わっ!」

  武は窓の外を指さす。 その先にあるものを見た瞬間、純夏は驚きの声を上げた。
  遥か地平から巨大なヘリが一機、護衛のヘリ数機を従えて白稜柊へと近づいてくる。
  さながらワーグナーの『ワルキューレの騎行』でも背景曲にしていそうな、そんな映画でも見ているかのような雰囲気が流れ、
 クラスメイト達は呆然としながらヘリ群を見続けた。

  ―――この音、輸送ヘリの“Mi-26ヘイロー”かな? どこかのお偉いさんが視察にでも来たんだろうか。
  呆然とするクラスメイトをよそに、そんなことを考えているのは真璃だ。
  彼女がバーナード星系で訓練していた場所はヘリの離着陸場に近かったため、こういう状況は慣れきっていた。
  
 「あ、グラウンドに降りるみたいだよ!」

  美琴の言うとおり、大型ヘリ達は白稜柊のグラウンドへと次々に着陸していく。
  ヘリを中心に砂塵が巻き上げられる。 上から見ていると、まるでクレーターでも出来たかのような感じだ。
  ふと、壬姫はヘリの横についた、カラフルなマークが目に付いた。

 「あのマークって……もしかして」
 「まさか……」

  壬姫だけでなく千鶴も、そして他のクラスメイト達も気づいたようだ。
  ヘリに装飾された、刀の鍔を模した金色のマーク……
  武達はみな、正確には真璃以外、冥夜の方へ一斉に向いた。
  冥夜は真剣な顔つきで見る武達に、あっけらかんと答えた。

 「うん、姉上だ。 京都からお戻りになったのであろう」
 「「「「「 やっぱり!? 」」」」」
 「お姉さん!?」

  こんな大仰なことをしでかすのは、どうせまた御剣なのだろう、と3年B組はこれまでの経験上分かっていた。
  御剣姉妹が転校してきた日の昼休み時、彼女たちは『武一人』のために世界中の名シェフを集めた。
  しかも大量のヘリコプターで食材から機材、何もかもをところ狭しと並べて。
  逆にこの状況で「いや、御剣は関係ないぞ」と言われる方が武達には驚きだろう。

  ……さて、またまた皆とズレた感想を抱いたのは、やはり真璃である。
  彼女は、母である冥夜から『姉』がいたことなど聞いていなかった。
  ヘリを見るため窓へと群がっている皆と違い、何の興味も無く座っていた真璃は、興奮しながら席を立ち窓へと近づいた。

 (やっぱり夢ってすごいなぁ……母様にお姉さんなんて。
 どんな人なんだろう?)

  『夢』への確信を更に深め、真璃は胸をワクワクさせながらグラウンドを覗く。
  ヘリからは黒服を着た男達が何人も現れ、周囲を警戒し始めている。
  その動きは明らかに訓練を受けたものだ、と真璃は気づいた。 やはり偉い人なのか、と自分の推測を思い出す。
  一番大きなヘリのドアが開き、中からは深紅の絨毯がズラーッとグラウンドに一本の赤線を敷く。
  それからゆっくりと、中から雅な動きと共に、自分たちと同じ制服を着た少女が姿を現わした。
  その少女の名は御剣悠陽。 この世界では御剣冥夜の姉であり、かつ世界的財閥・御剣家当主の第一候補。
  そして真璃の世界では、日本国民と人類を守るために命をかけ闘った、日本帝国・国事全権総代 『政威大将軍 煌武院悠陽』、その人だ。

 「……ぇ。
 ええええええええええええ!!??」
 「どわっ! どど、どうした!?」

  先ほどまでの爆音など何のその、もしかしたら他のクラスにまで聞こえたのではないかという程の叫び声が上がった。
  その声の主は真璃だった。 彼女は顔に大量の汗を浮かべ、なぜか手を胸の前で合わせていた。

 「で、でででで、殿下ぁ!?」
 「はぁ?」

  武は真璃の言っていることが分からなかった。 せいぜい「ウォーケン先生もそんなこと言っていたな」というくらいだ。

 「お前も悠陽を殿下って呼ぶんだな。 まあ、確かにそんなイメージが浮かぶっちゃあ、浮かぶけどな」
 「あわ、あわわわわわ」

  真璃は武の言葉が耳に入らないのか、右に左に体を動かし続けている。
  そして、ハッと何かに気づいた顔をすると、自分の席に戻り、鞄から鏡とヘアーブラシを取り出し、髪を整え始めた。

 「うぅ~……こんなことなら、もっと時間かけて整えておけばよかったよ~。
 こんなやんごとなき御方が来るなんて聞いてないよ」
 「……一体、何だってんだ」

  ―――全くもって意味不明だ。
  真璃の行動の趣旨が、武には全然掴めなかった。
  それは周りの純夏や千鶴達も同じだ。 彼女の叫び声や行動、必死さ……全く理解出来ない。

 「……白銀君」
 「何だよ、委員長」
 「白銀家って、みんなこうなの?」
 「なんでそうな」
 「白銀の血が、人知の及ばない行動に走らせる?」

  千鶴の問いに答える間もなく、慧の言葉が割ってはいる。
  武はハーッと大きく溜息をはき、彼女たちの方へむき直した。

 「あのな、お前等……俺って、そんなにおかしい行動ばっかり取ってるか?」
 「「「「「…………」」」」」
  
  純夏達は一呼吸おいて、一様に「うん」と首を縦に振った。

 「…………」
 「タケルちゃん、もしかして気づいてなかったの?」

  (スパッーーン!!)

 「アイターーー!?」
 「お前にだけは言われたくねぇ!」

  いつもの如く、武の瞬速スリッパ・ツッコミが純夏の脳天に直撃する。
  それにしても、このスリッパ。 どこから取り出しているのか、そしてスリッパなんぞを肌身離さず携帯して汚くないのか、と
 誰もツッコミを入れないのが不思議でしょうがない。

 「むきーーー! 何だよーーーー!
 本当のこと言っただけじゃん!」

  (スパッーーン!!)

 「アイターーー!? またぶったーーーー!」
 「うるせえ!」

  再度、スリッパが純夏の頭をとらえた。
  純夏は涙目となり、頭を何度もさすっている。

 「お前だって人のことは言えねえだろうが、バーカバ」
 「むーっ、レバッ!!」 
 「ーカブウッ!?」

  お返しだとばかりに、純夏の拳が武の肝臓を抉った。
  まるで、拳が体を突き抜ける感覚。 武は唐突に湧き上がる痛みと呼吸が出来ない苦しみに、足がふらついている。

 「この……ヒュー……やろ……ヒュー」
 「ベーーっだ!」
 「皆様、おはようございます…………あら、授業中だと思ったのですが…………
 もう昼休みの時間なのでしょうか?」

  ドアが開き、悠陽が武達の前に姿を現わした。
  彼女はクラスの賑わいから、そのように判断したようだ。 自分が騒ぎの張本人であるとは露とも思わずに。

 「姉上、おはようございます。 授業は先ほどまで滞りなく進んでいたのですが、ヘリの音がうるさかったせいでしょうか、
 皆の集中力が切れてしまったようです」
 「まあ、それは大変申し訳ないことを……この悠陽、一生の不覚。
 皆様、私の不手際です、どうかご容赦ください。 すぐに対策を取らせますので」
 「いや、あのな……音がうるさかったとか、そんな話じゃなくてな……」

  武は一般常識の通用しないこの姉妹に、自分たち一般市民の気持ちをどう伝えてやろうかと頭を捻る。
  そもそもヘリコプターで登校って有り得ないだろ。 しかもあの黒服は何だ、メンインブラックか何かか、と彼女たちにとにかく
 訴えたくてしょうがない。

 「大袈裟すぎるだろ、たかが登校に」
 「ふむ、タケルがそう言うならば……姉上、今度から絨毯を敷くのはやめ、護衛も最小限に済むよう調整しましょう。
 そうすればヘリの機種も現在より小型化出来ますし、騒音も防ぐことが出来ます」
 「名案ですね。 それに御剣家の工兵チームを呼んで校舎の騒音対策をさせれば、なお良いかもしれません」
 「さすがは姉上。 主体と客体、両者の改善にまで気が及ぶとは……お見事です」
 「さっそく、この案を検討させましょう」
 「…………」

  ―――ダメだ、こいつ等。
  武はもう、何を言う気にもならなかった。

 「……あら、貴女は?」
 「(ビクッ!)」
 「ん?」

  武が視線を後ろへ向けると、いつの間にそこへいたのか、真璃が背に隠れていた。

 「初めてお会いする方ですね、私は」
 「で、殿下っ!! お会い出来て光栄です!」
 「……は?」

  真璃は直立し、右手を顔の横へ持っていく。
  それは軍人にとって、高位のモノに対する敬いの作法。
  そして真璃にとって、悠陽へ行うべき当たり前の礼儀。
  だが悠陽は、見ず知らずの彼女の行動を当然ながら理解出来ないでいた。

 「ここ、この度は、殿下のご尊顔を拝謁することが出来まして、ま、誠に名誉なことと感じる次第で」
 「あの、殿下とは何のことでしょう………ん?」

  悠陽はふと真璃に何かを気づいたようだ。
  ゆっくりと近づき、真璃の顔を覗き込む。

 (うあ、うあ、うひゃあああああ~~~!!??)

  一方、真璃は悠陽が近づくたびに鼓動が早くなり、目も回り始めた。
  顔はもう、これ以上ないという程に真っ赤になっている。 今日は何回も顔を赤くしているが、その中でも一番だ。
  ……まあ、それも仕方がない。 教科書で学んだ『歴史上の偉人』を目の前にしているのだから。
  真璃はバーナード星系の学校で悠陽について教えられた。 曲がりなりにも日本人の血を受け継ぐ彼女だ、教師からは悠陽を
 「崇敬の対象」として深く教え込まれた。
  しかも教科書の写真を見たとき、母である冥夜にそっくりだったこともあって、真璃は『歴史上の偉人』の中でも「煌武院悠陽」は一番
 好きな人物だったのだ。

 「……貴女、どこかで?」
 「……!!」

  悠陽は真璃の頬へと手を伸ばした。
  どこかで見たことがあるような顔立ち、いや、いつも側で見ているような印象。
  “自分に近しいはずの人間”とでも言うのだろうか、そんな感覚を起こさせる。

 「あわ、あわわわわわ」

  目の前に立つ悠陽。 美しい長髪と、全く陰のない瞳が、真璃を映し出す。
  真璃は悠陽から眼を背くことが出来なかった。 同時に、動くことも出来なかった。
  緊張して体が動かない、どう行動すれば良いのか分からない、混乱して何も出来ないでいるのである。
 
  そして今、頬に触れるか触れないかほどに悠陽の手が近づき、
  彼女の体温をフッと感じた瞬間、

 (もう……ダメ……)

  と、後ろに卒倒した。

 「っと」
 「ど、どうしたのでしょう」

  すかさず、武が彼女を抱きかかえる。

 「あ……あがー……」

  武の腕の中で、グルグルと目を回しながら失神している真璃。
  だが、何故かその表情は幸せそうに見えた。

 「あの~……授業……って誰も聞いていないのね……」

  一方、教壇の前では授業を滅茶苦茶にされたまりもが、ル~と涙を流していた。
  そんな様子に気づく者は誰一人としておらず、彼女の言葉は空虚に響くだけであった。





 「まあ、タケル様の従兄妹!」
 「え、ええ、まあ……」

  時は昼休み。 いつものように、武の席の周りで冥夜と悠陽、純夏、霞が屯っていた。

 「どこかで見かけたかのような錯覚は、そういうことでしたのね。
 よく見てみると、確かにタケル様を思い起こさせますわ」
 「「ぶうっ!」」
 「けほ、けほっ!」

  今の言葉を聞いて、武と純夏が思いっきり空気を吐き出し、冥夜はむせた。

 「どうしました、冥夜、鑑さん、タケル様?」
 「な、何でもありませんよ、姉上」
 「何でもないです!」
 「な、何でもねえよ」
  
  武と冥夜は、何故か顔を赤くしてあさっての方を向いている。
  一方、純夏はプンッと少し怒った表情を見せた。

 「それにしても私が歴史上の偉人に似ていたとは、光栄ですね、冥夜」
 「そ、そうですね、姉上」

  悠陽は自分と同じ顔を持つ妹、冥夜へと声をかける。
  冥夜は苦笑いしながら、相槌をうった。

 「真璃さんの仰る偉人に劣っては、御剣の家名を辱めることになります。
 これからも精進しましょう」
 「はい、頑張りましょう、姉上」
 「……あのさ、お二方……
 まず何より、飯にしようぜ! 俺はもう我慢出来ねえ!」
  
  武の、本当に心からの叫びがあがる。
  しかも声を言い終えた瞬間、ぐぅっと、何とも力の抜ける音が彼の腹から聞こえた。

 「そうだね、お昼御飯にしようか」
 「うむ、タケルがそう言うなら」

  そして純夏と冥夜は、武の机の上へそれぞれ包みを置いた。

 「で、タケルちゃんはどっちを食べるの?」
 「今なら両方食える! だから二つともよこせ!」
 
  武は両方の包みを乱暴に解き、弁当箱の蓋を開ける。
  中からは彩り鮮やかな中華、そして綺麗なきつね色をしたトンカツの姿。
  もちろん前者が冥夜が用意した弁当で、後者は純夏である。

 「おお! これは美味そうだな!」 「うわぁ! 美味しそう~!」

 「「…………ん?」」

  武と真璃、双方が同時に声をあげる。
  彼が真璃の方を見ると、「えへっ」と舌を出して可愛い子ぶっている姿があった。

 「……やらんぞ」
 「ガーーーーーッン!?」

  真璃は大口を開けて、武の言葉に愕然とした。

 「そ、そんな~~。 私も朝、何も食べていないのに」
 「自分の分を食べればいいだろうが」
 「お弁当が必要だなんて知らなかったんだよ~……だから持ってきてないの。
 PXで昼食をとるものとばっかり……」

  PX?と武は疑問に思ったが、とにかく今は昼食のことしか頭になく、スルーした。

 「タケル、いくら空腹とはいえ、この食事の量はいささか大変だと思うぞ」
 「お腹空いているときって、いくらでも食べれる気がするもんね~」
 「(コクコク)…………」
 「う……」

  武は、改めて弁当箱二つへ目をやった。
  冥夜の重箱だけで、二人分くらいありそうな量。 純夏の用意した弁当も、結構な量がある。
  確かにこれを一人で食べるのは大変そうだ。

  ―――少しくらいなら、やってもいいか。
  武はそう判断した。

 「……じゃあ、一緒に食うか?
 純夏達も、少しぐらいならコイツにやってもいいだろ?」
 「え? う、うん……私は構わないけど」
 「タケルがそうしたいのなら、私は反対せん」
 「みんな……ありがとう。
 とうさ、と、と、と…………タケルさん、ありがとう」

  真璃は顔を険しくさせる。 父である武を「父様」と呼べない歯がゆさに。
  そして、彼の名前を呼ばなくてはならないことに。

 「礼なら、作ったやつに言えな。
 んじゃ、頂くぜ」
 「はーい。 鑑さん、頂きます。
 め、めい、め…………頂きます」

  ―――ダメだ。 母様と殿下を名前でなんて呼べない。 絶対に呼べない。
  真璃は冥夜と悠陽の名前を呼べず、頭を下げて感謝の意を伝えた。

  ……そして武と真璃は、まず冥夜の用意した中華膳に箸を伸ばした。

 「んじゃ、俺はこれを」
 「私はこれ~。 うわー、良い匂い!」

  武は酢豚を、真璃は春巻きをそれぞれ小皿へとる。
  そして適当な大きさに箸で別けて、二人一緒に「頂きます」と口へ運んだ。

 「おお、うめえ!」
 「レシピによれば金華豚というらしいな。 気に入ったか、タケル?」
 「ああ、さすがは御剣財閥!
 真璃、お前のはどう…………」

  武は、真璃の様子に思わず言葉を失った。
  彼女は大粒の涙を零しながら、ただ黙々と春巻きを口にしていた。
  そして今、含んだお茶と共にゴックンと飲み干す。
  その表情は、パ~ッと輝きに満ちていた。

 「美味しいいい!!
 何これ何これ何これーー! こんな美味しいモノ食べたこと無い!」

  武達は「そんな大袈裟な」という顔を浮かべる。
  だがしかし、忘れてはいけない。 真璃は「BETAがいる世界」の住人なのだ。
  天然の食材などほとんど入手することが出来ず、味の悪い合成食材によって毎日を生きる世界。
  バーナード星系ですら、肉は量産出来ない故に『超』贅沢品なのだ。
  そんな世界の真璃が、超一流の食材、シェフの作った料理を口に含めばどうなるか。
  彼女の行動は、決して大袈裟なものではないのである。

 「そ、そんなに気に入ったのか?
 ならばもっと食すがよい」
 「うん! 頂きます!
 うわ、これ美味しい! ああ、これもコリコリしてて美味しい!
 これも、これも! 美味しすぎるよ~~」

  どんどん真璃の箸が進む。 口に新たな食材が運ばれるたびに、涙がこぼれるそんな光景。
  武達はその様に、ただ呆然とするしかなかった。

 「じゃ、じゃあ俺は純夏のを貰おうかな?」
 「そ、そうだね」

  武は冥夜の中華膳を諦め、純夏の弁当へと目をやる。
  そこには武の好きな料理が弁当狭しと並び、彼の食欲を大きくかき立てた。

 「よーし、じゃあまずはトンカツだ。
 純夏、醤油くれ」
 「え? 何に使うの?」
 「何って、カツにかけて食うんだよ。
 俺はいつもそうなんだ」
 「えええーー!!」

  純夏の声がクラス中に響き渡った。 だが、もうクラスメイトも慣れたのか、誰も反応すらしない。
  まあ、日常茶飯事なのだろう。

 「タケルちゃん、おかしいよ~~! トンカツはソースって決まってるんだよ~!」
 「いや、お前はそうかもしれんが、俺は醤油派なんだよ」
 「おかしいよー! 絶対におーかーしーいーー!!
 今日からなおした方がいいって! だから、はい!」
 
  ぽん、と純夏は武にソースを渡す。

 「ソース!」
 「だから、俺は醤油なんだよ! 人の好みにあれこれ口を出すな!」
 「じゃあ他の人にも聞いてみてよ! トンカツにはソースか醤油か!」
 
  ビッと純夏の指が冥夜や悠陽、霞、真璃に向けられた。

 「トンカツというものを食したことはないが、ソースも醤油も調味料だからな。 どっちでも無かろう」
 「そうですね。 私も冥夜と同意見です」
 「私も…………白銀さんの好きな方を使えば良いと思います」
 「あーー! みんな逃げたーー!
 真璃さんはどうなの!?」
 「へっ?」

  冥夜の中華膳に夢中になっていた真璃は、純夏の話を聞いていなかったようだ。

 「トンカツにかけるのはソースだよね! 醤油じゃなくて!」
 「純夏、お前なんでそんな意固地になって」
 「え、普通、醤油かけません? カツって」
 「「…………え?」」

  今の発言に、純夏は目を丸くして呆然としている。
  一方、武はニヤ~としながら、

 「やっぱ、トンカツには醤油だよな~~!」

  と、純夏に聞こえるように大きく声を発した。

 「あ、ありえない、ありえないよーー!
 じゃあ二人は目玉焼きに何をかけて食べるの!?」
 「「醤油だろ(でしょ)」」

  キッパリと発せられた二人の意見。 しかもハモった。
  それを聞いた純夏は「ガーーン!」とショックを受け、体を石の如く硬直させる。
  そして武は、親指を立てて真璃に「グッジョブ!」とサインを送った。

 「あはは……な、何なんだろ?」

  当の真璃は、そのサインの意味が不明のまま、同様に親指を立てて返答した。

  …………と、その時。
  教室のドアがガラッと大きな音を立てて勢いよく開かれた。

 「お、お待ちください、香月教諭!」
 「「「「「「 ……ん? 」」」」」」」

  入ってきたのは、夕呼だった。 その後から真那も入ってくる。
  夕呼は険しい形相のまま、他のクラスメイトには目もくれず、武達の側までツカツカと近づいてきた。

 「ゆ、夕呼先生? どうしたんすか?」
 「…………」

  武の問いに夕呼は答えない。 彼女は武を一瞥すると、横に座っている真璃に目を向ける。

 「夕呼、先生?」

  ―――夢の中でも先生は先生なんだね。 っていうか教師なのに何、その格好。
  真璃は「マジありえない」と思いながら、夕呼の方を睨んでいた。

 「…………」
 「……何ですか、夕呼先生。
 今、食事中なんですけど」

  ジトーッと睨み付けながら、自分を見る夕呼に声をかけた。
  そうして真璃が、『夕呼』の名を口走った瞬間、

 「―――っ!?」

  真璃の顔面が、夕呼に強く掴まれた。

 「!!!???」
 「「「「「ゆ、夕呼先生?」」」」」

  ―――喧嘩か!?
  武達はそう判断し、制止するために立ち上がる。
  そのとき、

 「―――最高よ、白銀!」
 「「……へっ?」」

  この場にいる『白銀』姓の二人、武と真璃は今の夕呼の発言の意味が分からず、首を傾げる。
  当の発言主は、真璃の顔を食い入るように眺めながら、うんうん、と何かに納得するように首を振っていた。

 「白銀、私が前にアンタにいったこと覚えてる?」
 「「……どっちの?」」

  くどいようだが、白銀姓は二人いる。

 「なぜ白銀を中心にこうも女子が集まるのか……そう、アンタには原子核が電子を捕らえる電磁力のような力がある。
 そして、その力を物理的に解明すれば、誰でもモテモテの時代が来る!
 あの、まりもにだって!!」

  ―――まりもちゃん、ひどいこと言われてるな。
  折しも、武と真璃は全く同じことが考えついた。

 「だけどその力にも欠点がある……みんながモテモテになったら、どうなる!?
 人類っていうのは60億人しかいない。 そう、人口は有限なのよ!
 全員が全員くっつけるわけじゃないのよ!」
 「「はあ、そうですか……」」

  そんな当たり前のこと言われても、と武と真璃は溜息をついた。
  「で、どっちの白銀?」とも言いたいが、夕呼の言葉はまだまだ続いた。

 「でも、アンタはそれすら解決する方法を編み出した!
 人口は有限でも、時間や世界は無限に近い! 『もし』の数だけ世界は存在するし、『現在』という時間は常に流れ去っているのよ」
 「「はあ、そうですか」」
 「この世界で、時間で、人間が足りないんだったら別時空から連れてくればいい。
 無限の時空から異性を連れてくれば、全ての人間がモテモテになれる!
 つまり―――」
 


 「恋愛原子核は―――時空を超えるっ!!」



  キュピーンと目を輝かせ、夕呼は言い切った。
  当の白銀……武と真璃は「また夕呼先生の訳分からん新理論か」と、再度大きく溜息をついた。

 「白銀、やっぱアンタは面白いわ! 最高の研究対象よ!」
 「そりゃ、どうも」

  適当に武は相槌して返す。 視線は夕呼の方は向いていない。

 「はぁーー、これがねー。
 んふふふ、興味深いわ~~」
 「いい加減、手を離してくれません?
 それと、いつものことですけど人をモノ扱いしちゃダメですよ」

  相変わらず、真璃はガッチリと顔面を掴まれたままだった。
  夕呼は彼女の言葉を無視し、もっと食い入るように視線を近づける。

 「あー、それにしても、あたしの求めているものがこんな完璧な形で現れるなんて!
 もう最高! ンーーー」
 「!!??」
  
  不意打ちだった。
  夕呼は歓喜の声を上げながら、周囲が全く予想出来なかったこと―――真璃の唇に、自分の唇を重ねるという所行をやってみせた。
  瞬間、凍る空気。 完全に静止する世界。
  真璃は自分が何をされたのか全く理解出来なかった。 周りで見ていた武達も同じだ。

  ……そして夕呼が、彼女から唇を離したとき、
  真璃は足の指先から、頭の頂点までビリビリと電流のようなものが流れた感覚に襲われ、

 「んぎゃああああああああ!!!」

  と、今日何度目かで最大の悲鳴をあげた。
  

  ……この事件以降、真璃はクラスの人気者、もとい噂の的になったというのは、言うまでもない……



Scene 1 「The butterfly dream」 end.












[3649] Scene 2 「Sabbath」 ①
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/07/02 23:15



  ―――鑑純夏の朝は早い。
  チュンチュンと鳥のさえずりが聞こえる中、純夏はゆっくりと目を開けた。
  白く濁っている、見慣れた天井。 横に目を移すと、幼い見た目に合わず黒のスリップ姿で眠る霞の姿があった。
  純夏が上半身を起こすと同時に、髪がハリガネでも入っているかのようにピンピンと立ち始める。 それも何本も。
  彼女の朝は、いつもこの髪のセットから始まる。
  純夏は鏡台の前に座ると、ボサボサになった髪に寝癖直し用のスプレーをあて、丁寧に整え始めた。
  時折、鏡に映った武の部屋が目に入る。
  「まだ起きてないよね」と考えながら、ブラシで自慢のロングヘアーをなでていく。
  それが終わると、鏡の前に置いてあった、大きなリボンを手に取った。
  小さい頃からずっと変わらない、この黄色のリボンは、彼女をあらわすトレードマークである。 
  だが彼女にとっては、始めからそうだったのではない。

  中学にあがった頃、「子供っぽいし、そろそろやめようかな」と思ったことがある。
  リボンを外し、髪も肩にかかるくらいのセミロングに……と、純夏は考えていた。
  元気活発な彼女だ。 長い髪は運動に邪魔だし、手入れやセットも大変なこの髪型を、少し煩わしく思ってもしょうがない。
  そして純夏は、そのことを武に話した。 そして彼から言われたのは、
  「別にいいけどよ……なんか、俺の知ってる純夏じゃなくなるみたいで、イヤだな」
  の一言だった。
  このとき純夏は、武が自分を「見てくれている」と知ることが出来た。 しかも「変わるのはイヤだ」とまで、言ってくれたのだ。
  純夏はセミロングにすることを止め、今に至ることになる。 

  ……髪のセットを終えた純夏は、パジャマのまま部屋を出て、階段を降りていく。
  下には、誰の姿もなかった。 彼女の両親は現在、オーストラリアでコアラかカンガルーでも見ているだろう。
  つい先日のことだ、純夏の両親は夫婦水入らずで動物園へ行くことを計画した。
  それを聞いた真那が「それは良かったですね」と返すと、「本当はコアラとカンガルーを本場で見たい」と口走ってしまう。
  よりにもよって「御剣」の前で。
  後の流れは早かった。 真那の命によりオーストラリアへの特別便が手配され、純夏の両親は年明けまでバカンスへ。
  ……当然、純夏には何も知らせず。

 「はあ、全く」

  純夏はそんな両親の無責任さと、何の相談も無しに無視された腹立たしさに大きく溜息をついた。

 「まあ、いいや。 あの人達っていつもああだし」

  自分のすることは、それを嘆くことではない。
  純夏はそう考えながら台所に立ち、エプロンをつけた。

 「今日のお弁当、どうしよっかな~~」

  釜を炊飯器から取り出し、米を3,4合ほど入れて研ぎ始める。
  研ぎながら純夏は、今日のオカズを何にしようか考えていた。
  ……だがポンポンと思い浮かぶのは、武の好きなものばかりだ。
  
 「―――よし、決めた!」

  米をとぎ終え、炊飯器に入れてスイッチを押す。
  本当は前日に作っておいて、それを温めるのでもいいのだろうが……「御飯は炊きたてが一番!」という純夏の心情がそれを許さない。
  武に美味しいものを食べさせたい、それが彼女の何よりもの願いであり、心遣いであった。

 「ふ~~んふふ~ん、ふんふ~んふふ~~んふ~ん♪」

  口から、大好きな曲のフレーズが流れた。
  自然に、笑みがこぼれた。 純夏は少しずつ出来ていくオカズを目にしながら、
  ―――今日のお弁当を、タケルちゃんは美味しいって言ってくれるかなあ?
  と、期待と希望に胸を躍らせている。 それが、彼女の微笑みの源だった。
  自分にしかできない、自分だけが武のためにしてあげられること。 武を笑顔に出来ること。
  朝の光を受けながら、純夏は踊るようにお弁当を作っていく。 胸に湧きあがる、興奮と共に。
  彼が喜んでくれるという、ただ一点だけで、彼女にとってはその手間すら愛おしいものに感じられるのだろう。

 「…………おはよう、ござい、ます」
 「あ、霞ちゃん! おっはよ~~!」

  御飯の匂いに誘われて降りてきたのだろうか。
  リビングには、まだ眠たそうにしている霞がいた。
  
 「お弁当が出来たら朝ご飯、すぐ作るから待ってて~~」
 「は……い」

  フラフラと、半目のまま霞は歩く。
  危なっかしいな~と純夏が考えた瞬間、

 「―――っ!」

  霞のおでこに、ちょうど開いていたドアがクリーンヒットした。

 「……うわー……痛そう」
 「あ、あが~~~」

  涙目で純夏の方を見る霞。 分かる、分かるよ!と言わんばかりに、思いっきり首を縦に振る純夏。
  霞は目が覚めたのか、涙目のまま、今度はきちんとした足取りでリビングを出て行った。

 「霞ちゃんってしっかり者だけど、こういうとき可愛いよね~」

  そう言いながら、純夏は再びフライパンへと目を向ける。
  ちょうど好い加減に焼けた、ジュージューっと音を立てているミニハンバーグ。 今日のお弁当の主役であり、武の好物。
  彼女はそれを眺めつつ今日の昼休みを思うと、ふふふと頬を薄く染めて、小さく笑った。 まるで向日葵のように。
  だが、そんな幸せに水を差すイメージが脳裏に浮かぶ。
  冥夜と悠陽、そして最近あらわれた不思議少女……真璃、だ。
  彼女たちのことが思いついた瞬間、純夏は怒ったような悲しいような、どちらつかずの表情を浮かべた。

 「……最近、変なことばっかり起こるよね」

  武と冥夜の娘を名乗る、突然の来訪者である“白銀真璃”。 純夏にとってそれは、“想像するのもイヤな”未来の話である。
  純夏は首をブンブンと振る。 ありえない、あり得るわけがない……そう自分に言い聞かせる。
  だがそれと同時に、先日の出来事が思い出されていった―――――





 「「―――平行世界いいぃぃ!?」」

  武と真璃の声が物理準備室中に響いた。
  横にいる冥夜、純夏、霞、真那は、その声の大きさに思わず眉をしかめるほどだ。
  一方、目の前にいる夕呼はすこぶる嬉しそうだ。

 「月詠の申していた学者が、まさか香月教諭であったとはな」
 「……調査不足でした。 面目次第もありません」
 「何よ~。 アタシじゃ力不足っての?」

  真那が朝に言っていた「量子力学の研究者」、それは夕呼のことだった。
  並行世界の研究で名を馳せ、しかしその性格と言動、はっちゃけさ故に学会から無視され続けている超天才。
  それが『この世界』における、夕呼の役回りだった。

 「力不足だなんて、そんな……」
 「まあいいわ。 今の私は、とっても気分がいいから。
 だって私の理論が! 研究が! 今目の前にあるのよ!?
 私がずっと研究してきた平行世界、因果律量子論の成果が!」
 「夕呼先生、何言っていんすか! そんなSFチックなことありえないっすよ!」
 「そうですよ! そんないきなり言われたって、私信じられないです!」

  ニヤリと不適な笑みを浮かべる夕呼を前にビクッとし、武と真璃は口を噤んだ。

 「信じる信じないっていう問題じゃなくて、“事実”なのよ」

  夕呼はイスに深く腰掛け、足を挑発的に交差させる。
  そして改めて武達の方を向き、解説を始めた。
  
 「そう考えられる証拠がたくさんあるのよ。 まず、あんた……真璃って言ったわよね?
 あんたがいた世界の話は、そこのメイドから聞いたわ。 あんたの世界にも私やまりも、白銀達がいたんですってね。
 そのことに、嘘をついている様子はなかった……そうよね?」
 「仰るとおりです」
 「嘘かもしれないじゃないですか」
 「あんたや御剣姉妹、メイド、社、それに3年B組の連中の名前も知っていたのよ?」

  ―――私の名前だけ知らなかったんですけど。
  と、純夏はツッコミを入れたかったが、止めた。 説明の途中でそんなことをしたら、どんな嫌みを言われるか分かったものではない。

 「じ、事前に調べたかもしれないじゃないっすか」
 「疑り深いわね~。 あんた、けっこう研究者に向いてるかもね……まあいいわ。
 後、これはメイドに調べてもらったんだけど……その子、真璃は『存在しない』はずの人間らしいわ」
 「……へ? わ、私?」

  真璃が周囲を見回しながら、自分のことなのかと確認する。

 「御剣の調査チームに、朝から調べさせました。 戸籍、医療や学校の管理情報からその他に至るまで……全て調査させました。
 その結果出てきた答えは“未確認”…………御剣の調査チームがこんな結果を出したことは、かつてありません」
 「ぎ、偽造したとか」
 「あんたねー。 世界でもトップクラス、そこいらの国家諜報機関をも凌駕する御剣の調査チームが“分からない”と言ってんのよ?
 仮にあんたの言うとおりなら、その真璃って子は……
 “様々な監視網を抜けて私達の名前を調査し”
 “御剣の調査チームのデータにも載っていないほど謎の存在で”
 “しかも世界に2本とない、御剣家の宝刀を持っていた”
 こんなスーパー諜報員様がその子ってことになるわね。 ん~~、すごいすごい。 まるで映画だわ」
 「ぐっ……」

  ニヤニヤとしながら、夕呼は武を見ている。 楽しくて仕方がないといった感じだ。
  ……自分の研究が正しかったからか、おちょくるのが楽しいからかは分からないが。

 「まっ、私があんたの立場でも、きっと信じないでしょうね。
 “平行世界”……普通、そんな簡単に信じられるものじゃないわ」

  夕呼の顔に、一瞬『冷気』が宿る。
  それは科学者由来の、一種『狂気』にも似た冷たさだ。

 「でもね、信じないわけにはいかないのよ。 こんな証拠があるんじゃね」

  バサッと、試験管やビーカーが散乱する机の上に、何かの紙の束が投げつけられた。
  そこには様々なグラフが、大きな山を作っているのが見える。

 「何すか、これ?」
 「昨晩から今朝にかけて、あんたの部屋で起きた事象、そのデータを解析したものよ。
 見れば分かるでしょ?」

  武達は、各々その紙の束を拾い上げ、とりあえず読んでみた。
  ……30秒としないうちに、みんなの頭から知恵熱があがった。
  たった一人を除いて。

 「これは……ポジトロニウム」
 「さすがは社! やっぱり他の連中とは違うわね~」

  武達は「すげえ!」と霞を見た。 霞は恥ずかしいのか、顔を赤くし俯く。
  夕呼はうんうんと何回か頷いた後、再び解説を続けた。

 「今朝、午前4時38分。 あんたの部屋から“光”が観測されたわ。
 私はこの光を“パラポジトロニウム光”と推測している」

  と、武の部屋の窓から光が漏れている写真が示された。

 「へ~、確かに薄く光ってますね……っておい!?」
 「ど、どうかしたのか、タケル?」
 「なんで俺の部屋が撮られてんだよ!? しかも午前4時にぃ!?」
 「う、そ、それは」
 「タケル様」

  困った顔を見せる冥夜の側から、真那が一歩進み出る。

 「タケル様、私達御剣といたしましては、貴方様に何かが起きないよう万全の注意を払う義務がございます。
 それは事故や健康、事件も含めて……全てに対処するため、こうするしかないのです」
 「で、でもですよ。 俺にもプライバシーというものが」  
 「ご心配には及びません。 タケル様の室内を監視したりなどはしていませんし、あくまで室外を撮るのが目的です。
 室内の気温や湿度、そういったデータはとっていますが、タケル様が何を行っているかまでは分からなようになっています」
 「すまぬ、タケル。 こういうことはもっと早めに言うべきだったのであろうが……その、監視カメラがない家というのを
 見聞きしたことがなかったのでな。 気が回らなかったのだ、本当にすまない」

  武に対し、大きく頭を下げる冥夜と真那。 彼は大きく溜息をつき、「ったく、しょうがねえな」とだけ呟いた。

 「許して、くれるのか?」
 「一応、俺のためだったんだろ。 だったら怒るわけにもいかねえし」
 「タケル、理解してくれてありがたい。 そなたに心よりの感謝を」
 「さすが父様! 男らしい!」
 「ちょっと……勝手に話の腰、折らないでくれる?」

  ふと、夕呼の声が聞こえた。 明らかに不機嫌である。
  武達は「すんません」と頭を下げ、再び話を聞くことにした。

 「ったく! 人に説明を求めたくせに、無視するなんて頭来るわね……次はないわよ。
 どこまで話したっけ? ああ、パラポジトロニウム光か。
 この光だけど、自然界ではなかなか見られない現象なのよ。 あるとしたら粒子加速器だとか、そういった実験で見られる程度かしら」
 「しかし教諭、これがそのパラポジトロニウム光であるという根拠は何なのです? 私からすると、薄く光っているだけのように見えますが」
 「ふふふ、そこでこのグラフなわけよ」

  夕呼は武達の目の前へ紙を拡げ、グラフを指さした。

 「あんたの部屋から、通常ありえない量のガンマ線放出が観測されたわ。
 真空中のパラポジトロニウム、その寿命は125ピコ秒。 大気中だともっと寿命は短くなる。
 そしてこのパラポジトロニウムは、大気中の原子と反応して対消滅する際、光子2個とガンマ線を放出するの。
 パラポジトロニウム光ってのは、その対消滅において見られる光なわけだから、これら情報を総合すれば、あんたの部屋から
 漏れている光はパラポジトロニウム光だということになるのよ。 分かった?」
 「「「…………」」」
 「…………」
 「ぴ、ピコピコって部分は、分かりました」
 「俺もガンマってところは分かった」
 「うえぇ!? 真璃さん、タケルちゃん、分かったの?
 私、全然分かんなかったよ~~」
 「あ、あんた達…………」

  夕呼は呆れた顔で、大きく溜息をついた。

 「で、そのポジトロンなんとかってのがあると、どうなるんですか?」
 「パラポジトロニウムよ……まあいいわ。
 このパラポジトロニウムは、物質が“確率の霧”になると検出されるのは私の実験で示されたんだけど……ああ、はいはい、
 そんな迷った子犬みたいな顔をしないでよ。 簡単に言えば、人が消えたり現れたりする際には、このパラポジトロニウムが
 発せられるのが分かったのよ。 あんたの部屋でそれが大量に放出されたってのを考えれば、後は分かるでしょう?」
 「……私があの部屋に来たときに、そのパラポジトロニウムが……」

  正解!と夕呼が真璃を指さす。

 「ま、そんなわけであんたは平行世界からこっちに来た可能性は十分あるってわけ。
 DNA鑑定でもして一致すれば、一発で分かるんだろうけど。 まあ、平行世界だからって遺伝子が完全に一致するわけじゃないしねー。
 それに、あんたが持っていた刀も本物であることが証明されれば、私の理論にまた裏付けが……」

  ―――夕呼はもはや、他人のことなどどうでもよくなっていた。 自分の世界に入り込み、勝手に話を進めていく。 
 その話は純夏にとって、ほとんど意味が分からなかったが、一つだけ分かったことがある。
  それは真璃が、『武と冥夜の娘』という可能性があると、あの夕呼が認めたということだ。
  ……純夏はふと、真璃の方を向く。
  武、冥夜と一緒に嬉しそうに笑っている。 確かによく見れば、武と冥夜にどことなく似ている気がする。
  一瞬、純夏は『武と冥夜の結婚式』が思い浮かぶ。 バージンロードを歩く武と冥夜……その横で見ている、自分。
  そのとき彼女は、背筋が凍るような、そんな感覚に襲われ、しばらく何も考えることが出来なかった。





  ―――これが、先日に学校であったあらましである。

 「さて、と」
 「……白銀さん、もう起きているんでしょうか?」

  武の家、その玄関前に立つ制服姿の純夏と霞。
  ふと、純夏は武の部屋がある方を見た。
  窓は空を映すだけで、中の様子は何も分からない。

 「タケルちゃん、もう起きてるのかな……」

  冥夜と悠陽ならば、横で一緒に寝ているだけだろう。 まあ、それでも十分腹が立つことではある。
  だが、それよりも真璃だ。
  純夏は途端に不安になってきた。 自分の役目……朝、武を起こすのは昔から自分だったのだという使命感が湧き上がる。
  取られたくないのだ。 自分の役目を、武に朝起こすのは自分だけなのだという自負を。

 「はぁ~……ふぅ~」

  そして純夏は大きく深呼吸し、キッと改めて玄関を見た。
  純夏は思う。 どっちにしろ、私は私の出来ることをするだけだ、と。 それしかない、と。
  『運命』が、あの真璃という存在なのだとしても、今の自分の想いを捨てることは出来ない。
  だから純夏は、昨晩の日記にデカデカとある文字を連ねた。
  「私は、ずぇ~~ったいに、負けない!!」
  その言葉を今、胸の中で唱える。
  真っ赤な髪が、まるで燃えているように見えた。

 「タケルちゃん! 今起こしに行くからね!!
 行くよ、霞ちゃん!」
 「はい」 
 
  まるで殴るように、勢いよくドアを開ける。

 「お邪魔します! タケルちゃーん、朝だよーー!」
 「……何の、返答もないです」

  武の家は静まりかえっていた。 この時間なら武はともかく、冥夜や悠陽は起きていてもおかしくないはずだが。
  純夏と霞は「お邪魔しまーす」とコソコソ、家の中へ入っていく。

 「タケルちゃーん?」

  ヒョコッとリビングを顔だけで覗いてみる。 中には、誰もいなかった。

 「おかしいな~……みんな、まだ寝ているのかな~」

  リビングを抜け、2階への階段を上がり始める。
  ……ふと、何か音楽らしきものが聞こえてきた。

 「ん? これって……」
 「……なんでしょう、この音」

  純夏は、以前この音を聞いたことがある。
  あれは武と買い物に行ったとき……と、その状況を思い出し始める。
  
 「確かゲーセンで……って、ゲームやってるの!?」

  そう純夏の記憶通り、その音楽は『神攻電脳バルジャーノン』の音楽だった。
  武と橘町へと行く度に、ゲーセンで聞いていたのだ。

 「もう~~~! 人が朝早く起こしに来たっていうのに~~~!
 タケルちゃーーーん!」

  純夏はズカズカと大きな音を立てて階段を上がり、バーン!と部屋のドアを開けた。

 「タケルちゃん、起きてーー!
 朝だ、よおおおおおぉぉぉーーーーーーーーっ!?」
 「純夏さん、変な声を出して、どうしたんですか…………!?」

  純夏と霞は、目を疑った。
  部屋の中ではテレビが付けっぱなしであり、その中でロボットらしきものがウネウネと動いている様が見える。
  そして、少し視線をずらすと……武が天井を仰いだまま、ベッドに背を持たれてグカーと寝ていた。
  その両脇には、冥夜と悠陽がくっつくようにしてスピーッと休んでいる。
  
 「こ、これって……」
 「純夏さん……」

  ハッと、純夏は足下を見た。
  長い髪を後ろで纏め、コントローラを握ったままうつ伏せになって倒れている少女がいる。
  純夏は、すぐにその少女が何者か分かった。

 「……ま、真璃さん?」
 「…………」

  返事がない、まるで屍のようだ。
  霞は側へと近づき、肩を揺さぶってみた。
  
 「…………大丈夫ですか?」
 「……う」

  真璃は目を覚ましたのか、ゆっくりと霞の方へと顔を向けた。
  そして、目の下に大きなクマを作った顔で、一言。

 「これで……これで私も……立派な衛……士…………ぐぅ」

  意識が落ちる直前、真璃はニコッと微笑んだように思う。
  そして、やるべきことをやった戦士のように、魂を深淵へと落とし込んでいった。

 「―――って寝ちゃダメええええええ!
 タケルちゃん、起きてえええええ!
 御剣さん、悠陽さん、真璃さん!
 起きないと学校に遅刻しちゃうよおおおーーーっ!」

  起きろおおおーー!っと、純夏の声が響き渡る。
  そう、いつものこととして。 当たり前のこととして。
  これが毎日の彼女にとって、当たり前の平和な朝であった。





 「あふ……」
 「ふぁ……」
 「ふあぁ…………ねむ」
 「ふあああ~~~~……」
 「タケルちゃん、大口開けてみっともないよ」
 「……見ているこっちが眠くなりそうな顔ね」

  ときは既に昼休み。 武達は眠そうに目をこすりながら、お弁当に箸をつけていた。
  武の周りにはいつものメンバー……千鶴、慧、美琴、壬姫もいた。

 「真璃の相手を一晩中してたからな。
 もう一回もう一回、ってうるさくてよ」
 「途中、何度もお休みになるよう申し上げたのですが……」
 「タケルも真璃も聞く耳を持たなかったからな。 目も、血走っていた」
 「……白銀君もノリノリだったんじゃない」
 「う……」
 「え、えへへ……ごめんなさい。 訓練のつもりだったんだけど、面白くってつい」

  真璃は舌をペロッと出し、苦笑いをした。
  幼少の頃、母である冥夜が武の思い出として「訓練が出来、なおかつ楽しめる」と教えていた「ゲーム」。
  意志の強い冥夜ですらはまり込み、寝不足となったのだ。 ましてや、意志の弱い真璃である。
  時間を忘れて、熱中しないはずがなかった。
  しかも武や冥夜と一緒にゲームをプレイ出来たのだ。 昨晩は嬉しさのあまり、彼女は興奮のしっぱなしだった。

 「訓練? 訓練って何なのさ、真璃?」
 「え? ええと、こっちの話です、美琴さん。
 そ、それにしても、とうさ……タケルさん、すごく操縦が上手かったですよね~~!
 私、感激しちゃった!」
 「ああ。 なんつったって俺と美琴は、橘町で一、二位を争う腕前だからな。
 ちっとは名も知れたもんよ」

  武と美琴は、並んで胸を大きく張ってみせる。
  「たかがゲームに何熱く語ってるんだか……」と千鶴は呆れ、溜息をついた。
  だが一方の真璃は、その話を聞きながら、頬を紅潮させ、これ以上ないというほど興奮しているのが分かった。

 「すっご~~い! やっぱり、タケルさんは操縦が上手いんだ!」

  ―――ふと真璃の頭に、TSF-TYPE94「不知火」を駆る武の姿が浮かんだ。
  敵の大群……BETAをその圧倒的な機動で翻弄し、一歩も先には進ませない。 右腕に持った突撃砲は戦車級や要撃級を正確に
 打ち抜き、屍を累々と築いていく。
  そして、何度目かの射撃の後、不知火は長刀を抜き払う。 
  その武の横に、5体の不知火が次々に降り立った。
  冥夜、千鶴、慧、美琴、壬姫……みな、各々の武器を携え、BETAと対峙する―――

  ……そんな『妄想』が、真璃の脳内を駆けめぐっていた。

 「タケルさん、すっごくカッコイイ!!
 私もがんばって、タケルさんみたいになります!」
 「は、ははは。 そんなに褒めるなよ、照れるだろ。
 まあ、真璃もなかなかの腕だったぜ? ちょっと攻撃が単調で正直すぎるから、そこをもっと上手くやれば段違いに強くなれる。
 帰ったら色々と教えてやるよ」
 「はい! よろしくお願いします!」

  素直な真璃の反応に、武は悪い気はしなかった。
  自分の得意なゲームにここまでの反応を示した人物は、彼の記憶にはない。
  目を輝かせ、自分に教えを請う少女。 武は純粋に、その熱意に答えたいと思った。
  まあ実際には、真璃は『ゲームを上手くなりたい』のではなく、『戦術機の操縦を上手くなりたい』のであるが。

  ……そんな仲睦まじく会話する二人の様子を、純夏と冥夜がただ眺めてるはずはなかった。

 「タケル。 この子羊のソテーなどどうだ?
 とても美味しそうであろう。 さっ、食すがよいぞ」
 「タ・ケ・ルちゃん。
 私、今日はミニハンバーグを作ったんだよ。 さっ、食べてみて」

  武達の間に、割り込むように入る純夏と冥夜。 両者ともに額に血管が浮かんでいるのが分かる。
  そして武に対し、料理がのった弁当箱を差し出す。

 「っと」
 「お前等、人が話してるときに……」

  武が、そんな二人に悪態をつく。 真璃は、横目で純夏と冥夜を見て何かを察したのか、「はっは~ん」と不適に笑みを浮かべた。

 「今、俺は真璃と話し中」
 「うわ~~、美味しそう!
 タケルさん、せっかく二人がお弁当作ってくれたんだし、食べたらどう?」

  真璃は“あえて”大声で「美味しそう」というところを強調した。
  彼女にとって父親である武が“もてている”ことが、何となく嬉しいのだ。
  そして『父様なら母様のを食べてくれるよね』という、根拠のない自信もあったりする。

 「ああ、分かった分かった。
 食べりゃいいんだろ、食べりゃ」

  武は、純夏と冥夜、両方の弁当を見比べる。
  純夏のハンバーグは焦げ目が少ないため見栄えもよく、上にのったケチャップは武の食欲を誘った。
  一方、冥夜の子羊のソテーは、たった今焼いたのではないかと間違えるくらい……いや、おそらくたった今焼いたのだろう。
  湯気が見え、肉汁もどんどん溢れている。

 「……まあ、熱いもんは熱いうちに、というわけで」
 「あーーっ!」

  武が子羊のソテーに先に箸をつけると、純夏の悲鳴が上がった。

 「気にすんな。 どうせお前のも食べるんだからよ…………あーちくしょう、ねみー……」

  武は、冥夜の用意したソテーを口に運ぶ。
  だが眠気のせいか、まるで味が感じられない。
  武は今、ちょっと柔らかい『ゴム』を噛んでいるような、そんな錯覚に陥った。
  そればかりか、モグモグと噛みながら瞼が段々と閉じていき、意識が段々と遠のいていく。
  体が少しずつ傾いていく。 その意識の遠のきと同じように。

 「…………ぐう」

  ポフッ。

 「んあ?」

  武の頭が、何かにちょうど収まった。
  フワフワとした触感と、ちょうど良い反発感が上手い具合にフィットし、それは最上級のマクラのように武には思えた。
  その気持ちよさの中で、武の意識が更に落ち込んでいく。 

 「白銀……大胆」
 「………………ぅん!?」

  武がカッ!と目を開く。
  目の前には真っ白なクッション、そしてどこかで見たことのある青色のリボン。
  ……武は一瞬で、それが何なのか理解した。

 「―――って、うわあああああ!?」
 「ポッ」
 「「「「「タ、タケル(さん、ちゃん)!?」」」」」
  
  武が頭を置いていたのは、慧の胸だった。
  それを理解した武はすぐに彼女から離れたが、周りの冥夜達に一部始終を見られていた。

 「し、白銀君! あなたって人は!?」
 「ち、違う! 俺は単に体を傾けただけで、そこに彩峰のアレがあったんだ!
 重量感とボリュームが想像以上! 桁違いのアレぐぅあ!?」
 「タケルちゃんのエッチ!!」

  顔面を真っ赤に染めた純夏のスマッシュ・ブロー。
  武の顔面は激しく抉られ、彼はイスに座ったまま真後ろに転倒した。

 「……ふっ。 まだまだ、みんな若造ですよ」
 「む、むう……」

  純夏や冥夜をはじめ、みんなの目が慧の豊かに実ったバストへと行く。
  バンッ、と強烈に自己主張する慧のそれは、彼女たちにとって羨ましかったり憎かったりかもしれない。
  そして彼女たちは自分の胸に手を当てて、各々思うところを脳裏に浮かべた。
  ……壬姫と美琴、霞はなぜか涙ぐんでいた。

 「イテテ……」
 「はっ。 タ、タケル大丈夫か?」

  転倒した武の側へ冥夜が駆け寄る。
  彼は後頭部をおさえ、イテテと愚痴りながら上半身を起こす。
  ふと、自分の顔をじーっと冥夜が見つめていることに気づいた。

 「冥夜? どうかしたか」
 「うん……タ、タケル、その、良いのだぞ」
 「はっ?」

  冥夜は顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに背筋を伸ばす。
  彼女の形の良い双丘が、まるで差し出されるように、彼には見えた。

 「そなたが……その、安らかに眠れるというのなら……いつでも私のところに来て、良いのだぞ」
 「め、冥夜、何言って…………はっ!?」

  ゴゴゴゴゴと、冥夜の後ろから殺気を感じる。
  純夏をはじめ、千鶴、慧、悠陽、美琴、壬姫も、白い目で武を見つめ、ゆらりと近づいていく。
  ……若干、八つ当たりが入っているように見えなくもない。

 「ま、待て! 流石にそれは理不尽すぎゃああああああああ」

  ―――女の怨みとは怖いものである。
  武はそれを、しっかと体に刻み込まれていった。

 「……胸か」

  武が撲殺される中、真璃は自分の胸へと目をやった。
  そしてポンポンと軽く叩いてみる。
  ……慧の豊かなそれに及ぶべくもない、自分の胸。
  形は悪くないと思うが、せめて母様である冥夜くらいは欲しいと思った。
  あとウエストのくびれも、と。

 「―――頑張れ、私」

  真璃はグッと拳を堅くつくり、天井を仰いだ。
  ……ふと、自分の視界に陰が入る。
  真璃は前へむき直した。

 「霞お姉ちゃん? どうしたの」
 「…………あ、あの」 

  真璃の前にいたのは霞だ。 彼女は目を背け、何かを言おうと口をパクパクとさせている。

 「……?」
 「あの……あの」

  同じ言葉を繰り返すだけではっきりと伝えられない。
  真璃はそんな霞の様子を見て、クスッと笑う。
  『前にも似たようなことがあったな』と、真璃は霞の記憶を思い出す。
  緊張すると何も言えなくなる、そういうときは……

 「そういえばね、お姉ちゃん。
 私もお弁当の具、持ってきたんだ」
 「え?」

  真璃は机の下から、小さなプラスチック・ケースを取り出した。
  蓋を開けると、中には醤油で味付けされていた“イカの煮付け”が入っており、上には少量の唐辛子がまぶしてあった。

 「本当は私もお弁当作りたかったんだけど、ね。 時間が無かったから、昨日作ったこれしかなかったの。
 昨日の夕食、余ったイカが勿体なくて……お姉ちゃんも食べる?」
 「えっ?」

  霞に箸が渡される。 彼女はオロオロとするばかりで、何もしようとしない。

 「へ、へえ……美味そうじゃねえ、か。
 俺にも一つくれ……ごふっ」
 「あっ、タケルさ……ひっ」

  ふと、真璃の横に傷だらけで血まみれでボロボロになった武が現れた。
  顔には引っ掻き傷が見え、痛々しくて見ていられない。
  何があったかは知らないが、必死に逃げてきたのだな、ということだけは真璃は理解した。

 「ど、どうぞ」
 「サンキュな。 へえ、真璃って料理も出来るんだな」

  武は、真璃から箸をもらい、イカを取る。
  そして口に運ぼうとした。

 「うん。 母様の料理を手伝ったりしてたしね。
 あっ、この煮付けも母様直伝なんだよ」
 「(ピタッ)―――っ」

  不意に武の動きが止まる。 箸で持ったイカが、今まさに口に入ろうとしたそのときで。
  途端に、武の顔中に汗が浮き出てきた。

 「……じ、直伝?」
 「うん。 母様直伝」
 「母様……母様って、あの……だよな」

  武の目が、冥夜の方へと向く。
  真璃は武の問いに、満面の笑みを浮かべてコクリと頷いた。

 「―――っ!?」

  汗が、さらにふき出してくる。
  ついさっきまで美味しそうに見えていたイカの煮付けが、今はもう毒々しい何かにしか見えない。
  ―――冥夜、直伝の、味。
  それを思い浮かべるだけで、箸を持った手がブルブルと震えてしまう。

  塩と砂糖を間違えるとか、それだけならまだカワイイ。
  『料理をしようと思ったら、家屋が大爆発を起こした』
  それが冥夜と悠陽の『料理』である。 武は今、底知れぬ不安を抱えていた。

 「…………」
 「どしたの?」
 
  不思議そうに顔を覗き込む武の娘、真璃。
  武自身は、彼女が『自分の娘』であると信じたことは一度もない。
  何かの間違いである、と武は信じている。 だからこの煮付けも冥夜直伝ではない、そう考えている。
  が、それなのに体が動かない。 それだけ武にとって、『冥夜の料理』とは鬼門なのだ。

 「…………」
 「……?」
 「……う」

  ―――武の手の震えが止まった。

 「う?」
 「うおおおおおお! 食ってやる、食ってやる!」

  意を決し、雄叫びが上げる。 周りのみんなは、ぎょっと武に視線を集めた。
  イカが、ガバァと口の奥へと放り込まれ、奥歯で何度もしっかりと噛みしめられる。
  そして、一気にゴックンと飲み干された。

 「…………」
 「どう?」
 「……普通じゃん。
 ていうか、うめえ!」

  武の顔に笑みが戻ってくる。 真っ暗だったさっきまでの表情が、今は輝いて見える。
  ……武の目に、少しだけ涙が浮いたのが見えた。 生き残れたことが嬉しいのだ。

 「母様が言ってた。 父様はこれが大好きだったって。
 やっぱり、母様は父様のこと、何でも知ってたんだね」
 「え、あ……」

  武に向かって満面の笑みで語りかける真璃の顔。 一瞬、武はその顔が『冥夜』に見えて、言葉に詰まった。
  そうしている武に、真璃はスッとケースを向ける。

 「まだ食べる?」
 「…………あ、ああ」

  言われるがまま、もう一つ口に入れる。
  今度は先入観もなく、しっかりと味を楽しんでみる。
  このとき武は、何故かその味が懐かしく感じられた。
  ずっと昔に何度も食べたことがあるような、そんな気分に―――



  ……その後ろで、純夏はジッと武と真璃を見ていた。
  「母様が言ってた。 父様はこれが大好きだったって」
  という真璃の言葉を聞いて、何も考えられなくなっていた。
  『武の好物は全て知っている。 私が、私だけが』……と、頭で何度も何度も同じ言葉が繰り返されている。
  
  純夏もまた、真璃が“武と冥夜の娘”だなどとは信じていない。
  それなのに純夏は、さっきの言葉がなぜ自分の胸を真っ黒に染めてしまったのか、分からなかった。
  自分が何を思っているのか、分からなかった。
  しかし一つだけ、ある事実は理解した。

 「タケルちゃんは……イカを醤油で煮付けたのも、好きなんだね。
 知らなかった」

  そう、誰にも聞こえないよう呟いて、
  純夏は手に持っていた、武の好物であるハンバーグ入りの弁当箱を、
  静かに、気づかれないように、ソッ…と閉じた。



  ……一方、霞は教室を出て中庭に出ていた。
  風が吹くと、落ち葉が音を立てて流れていく。 霞は風の冷たさに、思わず身震いした。
  そして、中庭の中央にある樹木へと目をやる。
  寒風の中にあって、ほとんどの葉が落ちてしまった木。
  霞はふと、あるイメージとその樹木が重なった。
  
  そのイメージも“木”であるが、目の前のものとは完全に異なる。
  記憶では、木の前に曲がった鉄骨があり、そこには大勢の人達の『想い出』が鎮座する。
  彼女の記憶にある“木”とは墓標であり、記念碑であり、そして、証なのだ。
  世界のため、人類のため、償いのため、愛する人のため―――語り継がれなくてはならない魂の座。

  霞は中庭の木に触れ、その想い出を一つ一つ手繰り寄せていく。 まるで綾取りのように。
  そして全てを紡いだあと、霞は枝の間に見える真っ青な空を仰ぎながら、言葉を発した。

 「真璃さん……
 あなたは……あなたは一体、誰なんですか?」















[3649] Scene 2 「Sabbath」 ②
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/07/29 01:14



 「こ、ここは天国ですか!? うわわ~~。
 おばちゃん! ここにあるもの、全部ください!」
 「何言ってるんだ、お前は」

  武は目の前でキャーキャーと辺りを見回す真璃を見ながら、悪態をついた。
  しかも不意に手を挙げたりするから、見ているこっちが恥ずかしい気持ちになる。
  彼と冥夜、悠陽、真璃は今、学校帰りにスーパー「ひこまろ」に立ち寄り、色々と物色していた。
  夕方という時間帯で人がいっぱいだったのを真璃が興味を示し、中に入ってみたのである。

 「だってこんなに色々な野菜が、果物が、お魚が、たくさんあるんだよ!?
 何だって作れるじゃん!」
 「……お前って、どんな生活を送ってたんだよ」

  興奮しながら話す真璃、一方でそれを興味なさそうに武は眺めている。
  武にとって、スーパーというのはこういうものだ。 何ら目新しいモノはない、当然だ。
  しかし、真璃にとっては違う。 もちろん真璃の暮らしていた町にもこういう場所はあったが、並ぶ食物の種類があまりにも少ないのだ。
  そもそも彼女の住んでいたのはバーナード星系という太陽系とは別の星系であり、そこに群生する植物が『地球人類』に合う
 ものかどうかはきちんとした審査を通らねばならない。
  それは地球から持ってきた野菜や果物も一緒だ。 別星で栽培されれば、どのような化学物質が蓄積されるか分かったものではない。
  バーナード星系に人類が移住して、まだ20年ににもなっていなかったのだ。 やっと栽培が可能になったとはいえ、厳密な審査を終えて
 安全が確保された食物は未だ種類が少なかったのである。 
  だから当然、彼女が見知る食物は非常に数が少ない。 少なくとも、目の前に拡がる宝の山に比べれば。

 「あ、これ知ってるよ! 『リンゴ』って言うんだよね?
 真っ赤ですっごくキレイだね~」

  真璃はリンゴを手に持ち、それを明かりに照らしてみる。
  はじめて見た、その真っ直ぐな赤みに、ほうっと息が漏れた。

 「いや、普通のリンゴだろ」
 「真璃はリンゴが好きなのか? ならば今夜の食卓に並ぶよう、月詠に手配させるが」
 
  だが真璃の感動は、彼女が父母と慕う武と冥夜には通じなかったようだ。

 「いいよいいよ。
 こんなに美味しそうな食べ物だもん、すっごく高いに決まってるし」

  そう言って真璃はりんごを元あったところに戻す。
  その横には『一個158円』という値札があったが、真璃の目には映らなかったようだ。

 「でも本当に色々あるね~。
 みんな、よくこんな中からパパッて選べるよね。 私だったら一日悩んじゃいそう」
 「おいおい」
 「ふふっ、真璃さんはよほどここが気に入ったのですね」

  「まさか」という感じで、武と悠陽は真璃の言葉を冗談として流す。
  しかし真璃の表情は真剣だったりした。
  あれを使ったら、どんな味が出るのだろうかと、食材の見た目から必死に考えている。
  彼女は別に料理が趣味というわけではない。 ただ、バーナード星系で忙しい夕呼と霞に代わり、食事を作らなくてはならなかった。
  そう、「あの夕呼」の食事をだ。
  少しでも気にくわない味付けをすると「あんた、舌大丈夫?」といつも悪口をこぼされる。
  自分では作らないくせに口だけは達者な夕呼に馬鹿にされたくない一心もあり、彼女の料理に対する熱意には必死さが感じられる。
  ―――そうして真璃が食材を見ていると、横にいた冥夜がスッと近づいた。

 「ところで真璃。 少し、話があるのだが」
 「ん、どうかした?」

  真璃が冥夜の方へ目を向けると、彼女は目を逸らしていた。
  そして頬を薄くピンク色に染めて、ゆっくりと真璃の方を向く。

 「少し、耳を」
 「え。 あ、ああ、うん」

  そして真璃は左耳を真璃に向ける。 冥夜は、そこへ口を近づける。
  ふと、何か薄い香りが真璃の鼻をくすぐった。

  ―――なんだろう、この匂い。 すごくいい香り。
  それは冥夜のものだと、真璃にはすぐに理解出来た。
  彼女の髪から流れたものだろうか、と推し量る。

 「……真璃、聞いているのか?」
 「え!? あ、ごめんなさい。
 聞いていませんでした」

  冥夜の香りに気を取られ、彼女の言葉が耳に入っていかなかったようだ。
  真璃は「ごめん」と冥夜の方を向いた。
  とても近しく存在する、自分を映すアクアマリンのように輝く彼女の瞳。
  それらがブルーの瑞々しい髪と、柔らかそうなな肌、冥夜の形いい輪郭が相成って、とても美しく見える。
  そんな美しい瞳が、こんな近くで自分を覗いていることに、真璃は一瞬ドキッとした。

 「……どうした? 顔が赤いぞ」
 「う、ううん……何でもない」

  真璃は、「自分の母親はこんなに美人だったのか」と胸に手を当てて考える。
  アルバムで一緒に映っている写真はある。 それを見て冥夜をキレイだなと思うことはあっても、流石に細かいところまでは見られない。
  自分の知っている母は凛々しさと気高さが際だっていて、彼女は容貌についてまでは深く至っていなかったのだ。

  冥夜は、少し興奮、いや緊張しているように見える真璃を不審に思いながらも、言葉を続けた。

 「昼の、武が好きという料理のことだが」
 「あ、もしかしてイカの煮付けの話?」
 「そうだ。 その……ほ、本当に私が、作ったのか?」
 「うん。 だって私も好きだったし。
 母様の得意料理じゃないの?」

  真璃のその言葉に、冥夜は少し声が止まる。

 「……私はこれまで、料理などしたことがないのだ」
 「えっ。
 ええぇぇぇえ! マジで!?」 

  自分の中の『冥夜』像とのズレに、思わずを真璃は声をあげてしまう。
  武と悠陽、いや彼らだけではなく、買い物に来ていた他のおばちゃん達から見られて、真璃はばつが悪そうに、
 「ははは」と苦笑いを浮かべ、再び冥夜と小声で話し始めた。

 「母様、それじゃダメですよ。
 男の人は、やっぱり料理が作れる女の子に惹かれるものなんです……と、夕呼先生が言っていました」
 「!!……そ、そういえば香月教諭には、以前も同じことを言われた……」

  狼狽する冥夜を見ながら真璃は、彼女を「可愛い」と思った。
  自分の記憶にある母、冥夜がこんな表情を見せたことなど一度もない。
  好きな男性のことを思って顔を赤く染める、自分と同世代の冥夜に、真璃は「力を貸してあげたい」と正直に思った。

 「じゃあ、今度作り方を教えますよ。
 元々は母様の料理なんだし、きっとすぐに覚えられる!
 そうしたら父様、すっごく喜ぶと思うし」
 「うん……うん、そうだな」

  冥夜は背筋を伸ばし、首を何度か縦に振る。
  そしていつもの自信に満ちた表情を浮かべ、

 「御剣に不可能はない。 そなたの力、ありがたく借りよう」

  と、鋭い眼光をたたえつつ強く言い切った。

 「うん! がんばりましょう!」

  真璃もそれに答える。 そのとき、彼女の脳裏にいつも気高くあった母の姿が思い浮かんだ。
  決して豊かとは言えなかったけども、日々の生活の中で冥夜は真璃に凛々しい自分の姿を見せ続けた。
  その記憶が、少しずつ蘇ってくる。 どうして忘れていたのか、分からないほどにはっきりと。
  そしてそれは、彼女の心に懐かしさと嬉しさをあふれさせ、瞳に涙を零させる。
  
 「ん? どうした、真璃」
 「えっ。 な、なんでもないよ。
 えへへっ」

  ―――これが夢なら、醒めてほしくないな。
  真璃は涙を拭きながら、そう思った。 死んだはずの母や父がいるこの『夢』が、永遠に終わらないことを。

 「よーし! じゃあ、さっそく行きましょう!
 まずは食材から!」
 「うん。 では参ろう」

  二人は人混みの中、武と悠陽をおいて更に奥へと入っていった。

 「……あいつら、何企んでるんだ?」
 「さあ……私には分かりません。
 ですが、冥夜があんなに楽しそうなのは久しぶりに見た気が致します」

  そんな冥夜と真璃を見ながら、武は溜息をついた。
  しかし悠陽は二人の交流を嬉しそうに見ていた。 妹である冥夜が楽しそうにしているのを見て、嬉しいのだろう。

 「冥夜にとって、真璃さんは妹のような感じなのでしょう。
 ふふっ、他人からは私と冥夜も、あの様に見えるのでしょうね」
 「はは……」

  ―――たぶん、冥夜と真璃はそんな関係と思ってねえだろうけどな。
  と武は心中で呟いた。

 「……にしても」

  ふと、武は「いつも横にいるあいつ」のことが思い浮かぶ。

 「純夏、どうしたんだろうな」
 「鑑さんですか? 体調が悪いので先に帰りますと、仰っていましたが」
 「…………」

  純夏は学校が終わってすぐ、武に何も言わずに霞と家へ戻った。
  武が不審に思っているのは、彼女が家へ帰ったことではない。 昼から様子がおかしくなっていたことだ。
  昼休み、いつもの通り純夏は昼食を持ってきていた……はずだったが、気付くと純夏の姿は教室からなくなっていた。
  授業間際には帰ってきたが、純夏は武と口を聞くこともなく、まるで避けているように彼には見えたのだ。
  
  だから武は、純夏のことがどうも気になって仕方がない。
  面と向かって不機嫌な態度を取ってくれるなら、武もそんなに気にはしないのだろうが、こういうコソコソとやられると妙に気になる。
  白銀武という男は、良くも悪くも、そういうまっすぐな男だった。
  そして彼は、さっき言ったのと全く同じ言葉を、誰に言うでもなく、再び小さくこぼすのだった。

 「あいつ、どうしたんだろうな……」



  ―――空が、赤く滲んでいる。
  今にも沈まんとする太陽が、宇宙から見えてしまうほどの巨大な面積がある、真っ平らなコンクリート面を赤く染め上げる。

 「んふふ~、楽しかったね~」

  武達4人はその、一面何もないコンクリートの平面をゆっくりと歩いている。
  真璃は笑顔で武の横に添い、冥夜と悠陽は「武の好物」についての情報交換を交わしながら。

 「結局、あれから一時間も見て回るなんてよ……つ、疲れた」
 「運動不足だな、タケル」

  「るせー」と冥夜のツッコミに返す武。 ふと、彼のお腹からグーッと音が鳴った。
  その音を聞いて、横にいた悠陽がクスクスと笑う。

 「ふふふ。 家に戻れば、真那さんが夕食を作って待っているはずです。
 タケル様、もう少しだけの辛抱です」
 「そうそう」
 「誰のせいだと思ってんだよ」

  へへっ、と真璃が武の方を向くと、向こう側に小さく出っ張りが見える。
  何もない平面の続く中、遠くにちょこんと出ている何かに真璃は首を傾げた。

 「あれって……」
 「んっ? ああ、あの公園か。
 冥夜達がここを更地にするとき、あそこだけは残したんだよな。
 10月いっぱいで無くなる予定だったのに、なんで残したのかは知らねえけど」
 「あの公園は我が御剣財閥が、未来永劫にわたって保護することを決めたのです」
 「……あそこには色々と、思うところがありますからね。 姉上」
 「ふーん」

  じっとその方を見つめる真璃。 そして、ダッと三人を置いて走り出した。

 「私、ちょっと見てくる!
 すぐ戻るから先に帰ってて」

  あっ、と武達が声をかける間もなく、真璃はその公園に向けて走り出していた。



 「……ここって、やっぱり“あの”公園なのかな?」

  真璃は公園に入ると、辺りを見渡しながらゆっくりと回っている。
  滑り台や砂場、ブランコにベンチと、公園ならば当たり前にあるものが目に入る。
  それらを見ながら、真璃は「昔、冥夜母様に言われたことそのまんまだ」と思った。

 「この砂場を抜けて~~、そこのベンチでお休みして~~」

  気分良く、まるで歌うように公園を進む。 満面の笑みを顔に浮かべて。

 「それで、ブランコがあって」

  奥に二つブランコが見えた。 真璃はそのブランコに腰かけ、真っ赤に染まった夕空を見上げる。
  そして大きく溜息をついて、目を瞑りながら、何かに浸るように呟いた。

 「ここに座りながら、昔話をしたんだよね……
 それが……母様と父様の、初めてのデート……」

  幼い頃、母が父との想い出としてたくさん語っていたこと。
  その中の一つに、この公園の話があった。 父と母の、初めてのデート。
  公園を抜けた二人は、次に父の家に向かう。 母は、もはや誰も住まうことの無くなった家であるのに、ひどく緊張していた。
  それを武は、最後の別れ際まで笑い話にしていたと、母が言っていたのを思い出す。

  ふと、真璃は先ほど頬を染めていた冥夜の顔が思い浮かんだ。

 「ふふふ。 母様はきっと、あんな顔をしていたんだろうな」

  瞼の裏に浮かぶ、冥夜と武。
  ここでたくさん話をして、お弁当をひろげて……
  そんな場景が、まるで見たかのように浮かんでいく。
  真璃はそれがすごく楽しくて、しばらく目を開けようとはしなかった。

  ……そして色々な想像をして、十分楽しんだところで、彼女はゆっくりと目を開いた。

 「あ……星だ」

  真上に、小さく輝く星が見える。
  ふとバーナード星系にいる夕呼と霞の姿が見えた。

 「ここが夢の世界だとして……バーナード星系には誰がいるんだろう……」

  BETAに敗北した人類が、冥夜が、最後の希望を託されて、最愛の人と別れて移民した自分の生まれ星。
  そして真璃は、BETAがいないこの世界では、誰も離ればなれに済むんだということに思い至る。

 「それって、最高にいいことだよね。
 とっても、素敵な『夢』……」

  満面の笑みで、真上に浮かぶ星に向かって声を上げる。 こんなに素晴らしい『夢』を、とにかく誰かに感謝したくて。
  そして彼女が視点を落とすと、ずっと向こうのビル群に、次々と光が入るのが分かった。
  まるで星のようだと真璃は思いながら、何を思うこともなしにその様をじっと見続けた。



 「……ちょっと遅くなっちゃった。 やばいかな」

  真っ暗になった平地を、真璃は少し足早に歩いていく。
  空は星で満ち、月がとても明るく輝いている。

 「やっぱり、冬って日が沈むのが早いよ……ホンの数十分でこれなんだから」

  ふくれながら、自分の責任を太陽の責任に転嫁する。

 「すぐ帰るって行ったのにな……失敗失敗」

  そして、ようやく白銀家の門前に到着する。
  真璃は門を開けながら、白銀家……そして、その裏にある大豪邸を見た。
  ふと、門を開ける手が止まった。

 「……あれが母様と、殿下の家なんだよね」

  正確には『部屋』である。 彼女らにとっては。
  だが、武や純夏、真璃ら一般人からすれば「家だろ」としか言いようがない。

 「ウチは貧乏だったから、一度でいいからお金持ちになりたいとは思ってたけど……
 あれはやりすぎだよ」

  真璃は豪邸を見続けしながら、「ははは」と苦笑いした。
  そして門を再び開け始める。

 (ドドドドド……)

 「……ん。 何の音だろ?」

  真璃は、門を開ける手を再び止めた。
  そして音の聞こえる方へ顔を向けると、

 「「「 わーーー!! 」」」
 「わっ!?」

  6つの光る何かが見えたと思った瞬間、真璃は「思いっきり」轢かれた。
  空中へと舞い上がる真璃の体。 夜空に浮かぶ満天の星が、彼女を祝福する。
  彼女は薄れゆく意識の中、「……ああ、星が綺麗だな……」と思った。

 「……って考えている場合じゃない!?」

  ハッと気づいた真璃は、地面に激突する瞬間に右手を地面に付け、そのまま回るように受け身を取った。

 「あいたたた……な、何なのぉ?」

  (……ドドドドド)

 「「「 わーーー!! 」」」
 「はっ!?」

  ―――今度は後ろからってぅぶぎゅる!?
  と気づいたのもつかの間、今度は後ろからさっきの「何か」が真璃を踏んづけていった。
  真璃は合計6つの何かに踏まれ、地面にめり込んだ。

 「ストップすとーーーっぷ!!」

  大声と共に、高速で動いていた物体がキキーッと動きを止まる。
  それは、いるだけで他人に害悪をばらまき、一体何の役に立っているのか劇中では全く想像出来ない、
 神代巽、巴雪乃、戎美凪の迷惑三人メイド娘、通称“三バカ”。
  真璃に追突、その後、踏みつけたのは彼女たちだった。

 「どうしたの~~? 急がないとぉ~~」
 「……今、何か踏まなかったか?」
 「踏んだっけ?」
 「踏みましたっけ~~?」

  「おかしいな~」と巽は横を見る。
  すぐそこに、白稜柊の制服を着た少女がうつ伏せに倒れているのが見えた。
  そして巽は「あ~~」と訳もなく声をあげ、目を手で覆う。
  ……その手が払われると、巽はパ~ッと明るく笑みを浮かべて、こう言った。

 「ごめん、私の勘違いだったよ」
 「って、待てええぇぇ!?」

  話を聞いていたのか、怒った顔で真璃が立ち上がり、三バカは一斉に後ろへと下がった。
  真璃はコンクリートにめり込んでいたにもかかわらず、何故か軽傷で済んでいた。

 「うあ! 生きてた!?」
 「しぶといね!」
 「ゴキ○リ並みのしぶとさですわね~~」
 「何言ってんの! ていうか、アンタ達だれ!?」

  勢いよく、人差し指で三バカを差す。

 「それは言えない」
 「言えないね~」
 「それは言えません~~」 

  三人共に腕を組んで、拒否の体勢を取る。
  ふと、ニヤニヤしながら巴が前に出てきた。

 「じゃあね、ヒントその一! 私達は、メイドです!」
 「…………それって答えじゃん」

  ガガ~ンと三バカの顔が凍った。

 「しまったーー!?」
 「恐るべし誘導尋問……」
 「ていうか~、前にも似たようなことありませんでしたっけ~~?」

  何度か真璃をチラチラ見ながら、三人で内緒話を進める。
  真璃はそんな様子と、時折漏れ聞こえる話の内容から、
  「この人達、頭悪いんだ。 悪すぎ? うん、悪すぎ」
  と、自己完結した。

 「そ、そうだ! アンタこそ何者なんだよ!」
 「そうだそうだーー! 他人に聞く前に自分から名乗るのが礼儀ってもんだぞー!」

  今度は、巽と雪乃が真璃を指さした。

 「私? 私は白銀まも」
 「もしかして~~、いわゆる“強盗さん”……というやつですか~~?」
 「「「 ……へっ?? 」」」

  “強盗”という言葉が出た瞬間、真璃、巽、雪乃の目が点になる。
  そして、互いに大きく一歩下がる。
  
 「ごごごご強盗!? ま、まさか、こいつ!」
 「ここを御剣家が次期当主のお住まいと知って!?」
 「冥夜様や悠陽様の~~、財産を狙って忍び込もうとしたのでは~~」
 「……何でそうなるの」

  ―――ダメだ、この人達についていけない。
  真璃は今さらになってそのことを認識し、大きく溜息をついた。
  そうして彼女が会話を諦めている中、三バカは真璃を真剣な表情で凝視していた。

 「雪乃、美凪!
 私達で強盗をやっつけるよ!」
 「で、でもさー。 さっき思いっきり踏んづけたのに、こいつピンピンしてるんだよ?」
 「ゲジ○゛ジ並の生命力ですわね~~」
 「あなた達……」

  ―――いい加減にしろよ。
  真璃は、顔に笑みは浮かべていたが、周りから見てはっきりと分かるほど、怒っていた。
  だが、三バカはその怒りを全く別の路線に転嫁していた。

 「ほら! こいつ殺気満々だし、やるしかないって!
 こうなったら、私達の最大の技で行くよーー!」
 「「 らじゃーーっ!! 」」

  掛け声と共に、三バカが大きく下がる。
  そしてその眼光を鋭く闇の中で輝かせた。

 「「「 スーパー無現鬼道流~~~!! 」」」

  ダッ!と三人は一斉に走り出す。
  そのまま巽、雪乃、美凪の順番にまっすぐに並び、更に加速していく。

 「な、何っ!?」

  さすがに真璃も、彼女たちの意図が理解出来たのだろう。
  三バカはどんどんスピードをあげ、一直線に向かってくる。
  これに追突されれば、ケガどころでは済まない。
  真璃は表情を真剣なものに変え、姿勢を低くして身構えた。

 「来る!?」
 「「「 絶技! 噴射気流殺ゥ~~~!! 」」」

  まず巽が突撃、それをギリギリのところで真璃は右にかわす。
  だが、すぐさま躱した方向へ雪乃が向かってくるのが分かった。
  
 「ちぃっ!」

  雪乃の吶喊を、手に持っていた学生バッグで受け流し、その間に躱す。
  三バカに触れたバッグを、真璃は持つことが出来なかった。
  完全に衝撃を吸収出来ず、彼女の手から離れてしまう。 手に、強い痺れが残る。
  しかも手から離れたバッグはズタズタになっており、教科書やノートが辺りに散らばった。

 「よ~~し、いけるいける!
 もう一回、噴射気流殺だ!」
 「「 おーーっ!! 」」
 「っく!」

  折り返し、再び突っ込んでくる三バカ。
  真璃は痺れる左手を押さえながら、突っ込んでくる三人を見続ける。
  さっきの衝突で、もはや左腕は使えない。 苦い表情を浮かべながら、どうかわせばいいかを考える。
  左右どちらにかわしても、雪乃か美凪に襲撃される。
  しかも今度は、さっきのバッグのような防ぐ手段もない。

 「どうする……!?」

  対策は浮かばない。 だが、とにかく相手の動きを見逃すわけにはいかない。
  真璃は三人の動きをじっと見つめていると、先頭の巽が懐から何かを取り出す。
  それはサングラスと、丸いボールのようなものだ。
  
 「何……って、しまった!?」

  真璃はすぐにその意図が分かった。 サングラス、それをこんな闇夜に出すということの意味を。
  そして彼女は目を瞑り、両腕で顔を覆う。

 「てぇーーい!」

  その瞬間、巽が真璃の方に向かってボールを投げた。 それが地面に当たった瞬間、強烈な光が湧き起こる。
  真璃は顔を両腕で覆ったまま、その場に立ちすくんだ。

 「もらったーー!」
 「くらえ!」
 「噴射、気流殺~~~~」

  ラストスパートをかける三バカ、勝利を信じ、笑みをたたえたまま真璃に向かって真っ直ぐ進む。
  だが、ここで真璃は三バカの予想もしなかった行動を取る。
  なんと、スパートをかける三人に向かって走り出したのだ。 巽はそれを見て、驚きを隠せない。
  だが、少し考えれば分かる。 スピード差があまりに違う現段階では、競り負けるのは明らかに真璃だ。
  巽は彼女の意図が読めなかったが、もはや止まることは出来ない。 止まれば、逆に自分が雪乃と美凪にぶつかるのだ。

 「「「 わーーーっ!! 」」」

  三バカのスピードが最高潮にのり、今、真璃とぶつかろうとしたした瞬間―――

 「うぎゃっ!」
 「わっ!?」
 「あら~~~」

  真璃の体が、三バカの頭上を大きく越えて跳んでいく。
  三人はただ頭上を通り過ぎる彼女を、見ているしかできない。

 「わ、私を踏み台にしたぁ!?」

  巽は頭に手を当てる。 その頂点には、くっきりと靴底跡が残っている。
  恨めしそうに、巽は跳び越えた真璃を見続けた。

 「わー、バカバカ!?  前見て前ーー!」
 「あらあら~~……激突コースですわね~~~」
 「えっ?」

  ふと、雪乃と美凪に言われて前を見る。
  目の前には白銀家の玄関の姿が視界いっぱいに拡がって見えた。
  もちろん、こんな状態で急停止など無理である。

 「「「 わーーーっ!!?? 」」」

  三バカは当然のごとく、そのまま白銀家の門を完全に破壊、そして玄関のドアをぶち抜いたところでようやく止まることが出来た。

 「あいたたたた……」
 「いたた……」
 「痛いです~~~」

  ドアは原型を留めておらず、もはや単なるプラスチックとガラス片となっていた。
  そんな破片だらけの玄関で、三バカが重なるように倒れ込んでいる。

 「あんにゃろ~~……今度こそやっつけるよ!」
 「おーーっ!」
 「お~~」
 「…………今度こそ、とはどういう意味でしょう?」
 「決まってる! あの強盗に、今度こそ私達の技……ぅお……」
 「うぉ!?」
 「を~~~?」

  転んで重なったまま、三人が一斉に声のする方を見ると、
  彼女ら直属の上司である侍従長・真那がにっこりと笑顔を浮かべ立っていた。
  その後ろには、「あがーっ」と口を開けて呆ける武、「どうした?」と見る冥夜と悠陽の姿もある。
  さて、そんな素敵な笑顔を浮かべているのに、三バカは「ひぃ~っ!」と顔を引きつらせながら勢いよく直立した。
  ……こういうときの真那が一番怖いと、彼女たちは知っているのだ。

 「…………ただいま」
 「ま、真璃様! どうされたのですか!?」

  大穴の空いた玄関からゆっくりと真璃が入ってくる。
  ところどころ白稜柊の制服が擦り切れているが、巽を踏みつけて跳び上がり、着地に失敗して地面に何度もうったためだ。
  ―――それなのに、ケガ一つしていないのは何故?
  真璃は自分の体に擦り傷すらついていないことを不審に思いながらも、「まあ夢だし」と深く考えることもせず脇に置いた。

 「どうしたっていうか……襲われたっていうか」
 「お、襲われたですって! まあ!
 どこの暴漢ですか! すぐに御剣家の特殊チームを呼んで、排除させましょう!」
 「「「 うえっ!? 」」」

  んっ?と真那は、まるでカエルの鳴き声のように叫んだ三人組の方を見る。
  三人は目を点にし、カタカタと震えていた。

 「あなた達……さっきの、技をぶつけるとかいう話は、まさか……」
 「え、えと、その……強盗に」
 「ち、治安上仕方なくー」
 「緊急避難というやつでして~~」

  あさっての方向を見ながら意味不明なことを言い続ける三人。
  それを見て、真那の目がスーッと細くなり、ついに、

 「お前等は人を見かけたら泥棒と思うのか、あ゛っ!?
 そんなんで社会人やってけると思ってんのかよ!」

  プチンと、キレた。

 「わーん! ごめんなさーーい!」
 「謝りゃすむ問題じゃねえんだよっ!
 何度も何度も同じこと言わせやがって、テメエ等の脳みそは豆粒かそれとも入ってねえのか、あぁ゛っ!!」
 「うわわ~~ん! 本当にごめんなさい~~!」
 「…………うわぁ」

  ―――月詠さん、こえ~。
  声質が変わり、いつも穏やかに語る真那の口調がまるでどこかの不良娘のごとくに。
  しかもその声で怒鳴られるのだ。 三バカは、悄々とその身を縮め出す。
  真璃はそうした様子を見ながら、アハハと苦笑いをした。
  三人組が凹んでいるのを見るのは楽しいし気が晴れたが、真那の口調があまりに怖くてかえって哀れに見えてきたのだ。

 「この○○○!!! ×××にすんぞ、給料泥棒っ!!」
 「うわーーん!」
 「あんまりだーー!」
 「あんまりですわ~~」

  三バカの泣き声が家中に響く。 真那の声は荒くなることこそあれ、決して軽くはならない。
  比例して、三人の泣き声もどんどん切羽詰まってくる。
  真璃はそれを、もはや見ていられなくなり、
  「触らぬ神に祟りなし」
  とばかりに、横を抜けて家に上がった。
  


  ―――廊下には武と冥夜、悠陽の姿が見えた。
  真璃と武達の視線が重なる。 すると、まず武が「おかえり、遅かったな」と声をかけ、
  続けて冥夜が「外は寒くなかったか?」と体を労り、悠陽もそれに続けて「温かいものを用意させましょう」と気を遣ってくれる。
  そのやり取りが、両親不在の家で育った真璃にとって、ずっと望んでいたことだったのを思い出して、
  彼女の頬が紅潮し、何故か、あったかくなっていく。
  そして真璃は、考えてみれば「生まれて初めて」、父母である武と冥夜にあの言葉を返すのだった。

  顔から零れんばかりの笑みと共に、「ただいま!」と。
  それは一瞬の出来事だったが、彼女にとっては正に『夢』のごとき出来事だった。
















[3649] Scene 2 「Sabbath」 ③
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2009/12/14 01:52


  ―――その日は、ほとんどが闇に溶けた三日月であった。
  僅かな月明かりと、無数の星光りが柊町の白銀宅他を照らしている。
  白銀宅では灯りがはっきりとついており、人間の声と存在を確かに肯定していた。
  だが、その隣では違った。

  鑑宅には電気が全くついておらず、そこに住人がいるのか外からでは全く分からない。
  静まりかえり、営みというモノを全く感じられない人間の住処。
  生気が、活気が感じられないのだ。 隣の白銀宅に比べて。
  そしてそれは、単に外側から見ただけではない。
  一階玄関には靴が無造作に投げ捨てられ、キッチンでは洗いかけの食器がそのままで放置されている。
  闇の中、淡い月光によってその様子を微かに見ることが出来た。
  そして二階、純夏の部屋。
  純夏はずっとここにいた。 学校から帰ってずっと、制服のままで。
  彼女は枕を腕に抱きながら、闇黒の中で何かを考え続けているように見える。
  しかし、実際には何も考えていないのだ。 考えても無駄だということを分かっているから。
  
  ……今日の昼休み、武は純夏の作ったミニハンバーグを食べてくれなかった。
  正確には、純夏が食べさせるのを諦めたのだ。
  彼女はそれまで、ずっと思っていた。 武の好きなものを分かっているのは自分だけで、
 その自分だからこそ出来ることがあると。
  冥夜達には代われない、自分だけが行えることがあると、そう信じていた。
  ただ、純夏はこうも思ったのだ。 もし『真璃が冥夜の娘』だったとして、つまり『武と結ばれるのは冥夜』
 であるとしたら、結果的に自分が持っているこの確信は、何の意味も持たないのではないか、と。

  だって、そうだろう。
  自分がいかに武の好物を知っていようが、武の隣にいられるのは一人しかいないのだ。
  彼女が望むのは武の好物を作ることではない、彼の隣にいることだ。 他の誰でもない、自分だけが。
  好物を作れるというのは武の隣にいるための十分条件であっても、必要条件ではない。
  それは真璃が証明してしまった。 武の好物を彼女の母――冥夜が作っていたという事実でもって。
  すなわち、好物を作れるからといって武の隣にいるのが自分でなくても構わない、と悟ったとき、
 純夏は「料理」に対し価値を見失ったのだ。

  だから純夏は現在、闇の中で考える『ふり』をし続けている。
  料理以外で、自分が武の隣にいてもいい理由を探すために。 もちろん、そんなものは見つからない。
  武の家には冥夜達がいる……朝起こしに行く必要はないし、料理や世話もメイド達がやってくれる。
  しかも真璃のことを考えれば、将来はあの冥夜も料理を覚え武のために作るのだ。
  そしてそれを、彼は美味しそうに口に含むのだ。
  そう、自分が武の隣にいなくても何の問題もない。 純夏はそう考えるだけで、胸が穿たれたような痛みに襲われた。
  しかし純夏は、理由が無くとも『武の隣にいたい』と、いつも同じ結論にたどり着く。
  胸に穿った穴を塞ごうと、勇気を振り絞って自分の想いに正直に生きようと思う。
  しかしその度に、真璃のことが思い浮かんで、彼女はまた胸の穴を拡げていくしかないのであった。
  こうして彼女は考えるのをやめ、ただじっと、机の上に置いた昼休みの弁当を見続けていた。

  ―――ふと、純夏の部屋に光が差し込んだ。
  隣、武の部屋に明かりが付いたのだ。
  そして静寂の世界に活気ある声が入ってくる、闇を明るく染め上げるために。
  しかし純夏はその光と声を拒絶し、目を閉じ耳を塞ぎ、
  手に持つ枕へ、顔を埋めるのであった。





「うぅ、ぐすっ。 ぐ、紅蓮様のところに行って来ました~」
「那雪斑鳩は確かに、紅蓮様のところにありました~」
「こちらが、その那雪斑鳩ですわ~~」
「……ご苦労」

  真那に怒られたのがよほどこたえたのだろう、三バカは今なお涙が止まらないようだ。
  真璃を襲った事件の後、三バカはまず真璃に低頭して謝りに謝り、それから玄関を完全破壊したことについて武に許しを乞うた。
  もちろん武は許さなかった。 「クビ」と解雇宣言が出され、三バカは「飲んだくれの父が~」「私の仕送りで家族が~」など
 と言い訳を始めたが、真那から「そんな話は聞いてねえんだよ!」と一喝。
  ……そんなわけで、ドアの修復と家事掃除一ヶ月の無償奉仕を条件に何とか許してもらって、現在に至るのであった。

  武の部屋において武、冥夜、真那、真璃そして三バカが集まり、掠れた声でなされたのは、先日、真璃の持っていた
 「那雪斑鳩」のことであった。
  那雪斑鳩とは真那が説明したとおり、御剣家に伝わる四十八宝刀の内の一振り。
  特にこの刀は御剣家次期当主たる者が、そのための資格である「無現鬼道流」の免許皆伝を受けるまでの「守り刀」として、
 幼少期に持つものなのである。
  そういう意味では、この那雪斑鳩は御剣家四十八宝刀の中でも特別な位置にあるといって過言ではない。
  そして、この刀を有した直近の者は「御剣冥夜」であり、もし那雪斑鳩を授かる人間がいるとすれば、
 それは「彼女の血族」以外にはありえないことなのだ。

  ―――真那は、その重要な意味を持つ那雪斑鳩を巽から受け取った。
  飛騨山中から、遠路はるばる横浜までやって来た那雪斑鳩。 紫絹で出来た御刀袋から、その漆黒の刀が取り出される。
  その様子を、周りにいる武、冥夜、真璃も注視する。 そして鞘から抜き放たれると、輝く刀身が姿を現わした。
  姿を見た瞬間、真那と冥夜は、溜息にも感嘆にも似た声を小さく上げた。

「間違いなく、那雪斑鳩ですわ」
「うん……私とともにあり私の守り刀であった、那雪斑鳩だ」
「へえ。 俺にはこの刀も、冥夜がいつも持っている刀も違いはよく分からないけどな」
「タケル、刀は“武士の魂”とも言うように、魂が宿るのだ。
 そしてその魂に合うように、刀も姿を変えていく……魂が高貴であればこそ、刀も美しくなっていくのだ」

  そういうものか、と武は頷くしかなかった。

「でも、本当に綺麗な刀だよね。
 母様の言っている魂っていうのも、何となく分かるよ」
「真璃は分かってくれるか。 そなた、武術の嗜みがあるのか?」
「うん。 ずっと小さい頃だけど、母様に教えてもらった事があったし」
「そうか、どおりで……」

  冥夜と真璃がそんな話をしていると、真那がもう一本、まったく同じ色をした鞘を取り出した。
  それは真璃の持っていた『那雪斑鳩』だ。 その那雪斑鳩も、ゆっくりと刀身を抜く。

「ああ、やっぱり」
「この二振りは……なんという……」

  真那と冥夜はその二振りの刀を、ただただ見続けるしかなかった。
  周りでその様子を見ている武と真璃は、それだけで事情が分かってしまう。
  これら刀は完全に同じもので、そんなことは絶対に有り得ないことなのだ、と。

「うわあ……ホントに同じだ」
「そうだな、鞘の色も長さも全部同じだ……って」

  武は、鞘に不自然についた『名札』が目に入る。

「……めい……や?」

  その名札には『めいや』と書かれていた。 正確には『や』を鏡に映したときのように左右逆なのであるが。
  武はその『や』が左右逆であると気づいたとき、思わず噴き出してしまった。

「ぷっ……『や』、『や』だよな、これ……ぷぷ」
「むう。 笑ってくれるな、タケル。
 三つのときの作ゆえ、仕方なかろう」
「三歳でこれだけの作、お見事と言うほか在りません。
 このとき、既に冥夜様の天賦の才が現れていたと言うことでしょう」

  恥ずかしいのか、冥夜は顔を赤くして、名札が見えないように武の前に立った。
  結局、二振りの那雪斑鳩において、その違いは「めいや」という名札ぐらいで他には何も見あたらなかった。
  そして真那達は、この二振りを見比べることで、はっきりと確信を持つに至る。
  この二振りは同一のモノであり、真璃は御剣の血縁であると。

「……それで冥夜様。 これから、どう致しましょうか?」
「どういうことだ、月詠」

  真那は刀を収め、巽と巴にそれぞれ渡す。
  そして真剣な表情で、冥夜へと向き直った。

「悠陽様のことでございます。 いえ、それだけではなく御剣本家についても考えなくてはなりません」
「う……む」
「真璃様が御剣家の人間……この際、娘であるかどうかはともかく……もはや、それは認めなくてはなりません。
 那雪斑鳩の持ち主として、その資格が十分にございます。
 そうであれば現当主である親方様、そして御両親様にも伝えなくてはなりません。
 ……もちろん、悠陽様にも」
「!! し、しかし月詠!」

  冥夜は声をあげ、真那の言葉に抗議する。

「冥夜様、御決意なさいませ。
 どのみち、いつかは知られることです」
「しかし……しかし私は……」

  ふと、冥夜は真璃の方へと目を向ける。
  真璃は冥夜と真那の会話についていけずポカンとしていたが、冥夜と視線が交わると嬉しそうにニコッと笑みで返した。
  その様子に冥夜は、ハァと溜息をついた。

「月詠……私は、私は……」

  苦しそうに、何かを伝えようとする冥夜。
  それを武と真璃はじっと見ていた。 そして、何でそんなに苦しそうなのか不思議に思う。
  このとき、二人はまだ『冥夜』という個人の本質を、完全に理解してはいなかった。
  本当に理解していたのなら、武と真璃は彼女がどうして苦しむか分かっただろうし、どんな言葉をかければいいか、
 どう行動すればよいか、推測できたはずだ。
  しかし今現在、二人はただじっと冥夜を見続けるしかない。 それが結局のところ、誤りであったのだとしても。

  真那は当然理解している。 だからこそ、冥夜に「決断」を促したのだ。
  武の部屋は今、冥夜を中心に空気が止まってしまっている。
  冥夜の緊張と、真那の真剣さ、そしてそれらに感化されて何も言えない武達によって。
  ……そのとき、キンッと乾いた音が、凍えた空気の中で響いた。

「いつ見ても美しい刀ですね。 まるで、御剣家の魂が具現化したようですわ」
「姉上……!?」
「「「 !? 」」」

  そこには、いつの間に現れたのか、那雪斑鳩を抜き放ちジッと見る悠陽の姿があった。
  それを見、彼女の賛辞があがった瞬間、周りにいた武達はギョッ!と驚いた表情を作った。

「殿下!?」
「「「 わー、悠陽様ぁ!!?? 」」」
「悠陽様!?」
「悠陽、聞いていたのか!?」
「ずるいですわ、タケル様。 斯様に重要な話、私を差し置いてされるなんて」

  ころころと笑う悠陽の顔。 その表情からは悠陽の感情が読み取れず、武は何も言えなかった。
  ふと、悠陽は冥夜へと視線を向ける。
  微笑をたたえる悠陽に対し、冥夜の顔はとても暗かった。

「……姉上」
「……冥夜」

  冥夜は悠陽の方を見られなかった。
  自分は悠陽に隠し事をしている、彼女は何も言ってこないが、その沈黙がかえって責めるように感じられる。
  そう、冥夜は今、とても悠陽に申し訳なくて、自分を恥じているのだった。

「冥夜」
「はい…………!?」
「「「「「「 !!?? 」」」」」」

  突如、悠陽が持っていた抜き身の那雪斑鳩で上段から斬りかかる。
  それを見た武達は、あまりの出来事に声をあげることも動くことも出来なかった。
  ……たった一人を除いて。

「くう!?」

  冥夜は手に持っていた皆琉神威を半身だけ抜き出し、咄嗟に悠陽の那雪斑鳩を受け止めた。
  キイイィィン!!とけたましくも真っ直ぐな金属音が武の部屋中に響き渡り、その音を聞いた者はみな、背筋に
 電流が走るかのような錯覚に陥る。
  ―――そして、音としびれが完全に消え失せた頃、悠陽は刀をスッと下ろした。

「目は覚めましたか?」
「あね、うえ……?」

  ニコッと冥夜へ微笑みかける悠陽。 そして自分の顔の前へ、その輝く刀身を持ってくる。

「本当に美しい刀ですね。 この刀を打った刀工達、そして毎日の手入れを怠らなかった先人達の心意気が、
 この刀をここまで美しく見せているのでしょう」
「…………」
「あなたはさっき言いましたね。“刀には魂が宿るのだ”と。
 ならば、この刀に込められた魂は、まさに御剣の先人達が培ってきた……御剣の魂そのもの。
 私たちの目指す生き方を、この刀は示していると思いませんか?」

  冥夜は目を瞑り、手に持った皆琉神威を鼻の上へ持って行く。
  そしてゆっくりと目を開けて、その美しい真直な刀身を見た。
  一点の曇り無き、高貴なる魂の結晶である皆琉神威。 冥夜はもう一度、目を閉じて「はい」と悠陽の言葉に賛同した。

「私たちは進まなくてはなりません。 しかしそこで困難が、迷いが、常に行く手の邪魔をします。
 しかし、それでも私たちは真っ直ぐに進まなくてはならないのです。 それが御剣なのです。
 この、那雪斑鳩のように」
「……はい」

  そして悠陽は、那雪斑鳩をヒュッと一度大きく振り、素早く鞘におさめた。
  薄く笑みを浮かべたまま、悠陽は冥夜に向けて、言葉をつないだ。

「冥夜。 あなたの魂は今、輝いていますか?」
「!?」

  冥夜はギョッと大きく目を開けて、悠陽の方を見る。
  そのとき、悠陽は笑みを浮かべていなかった。
  ただ真剣に、冥夜の返答に耳を傾けている。 冥夜はその様に、目の前に立つ姉の強さを知った。
  『真璃が冥夜の娘である』ということを、悠陽がいつ知ったのか冥夜は知らない。
  だが、それでも何の変化も見せず、ありのままの“自分”で立っていられる悠陽に、冥夜は畏敬の念を
 持たずにはいられなかった。
  そして冥夜は、手に持った皆琉神威をゆっくりと納め、悠陽にむき直し、
  真剣で、しかし余裕を持った表情で、答えを返した。

「愚問です、姉上。
 私は冥夜、御剣冥夜です。 御剣の人間である以上、答えは一つ」
「…………」
「私の行く道は、常に御剣の魂と共にあり。
 この魂、想い……それらに、どうして迷いなど生まれましょうか!
 裏切ることなど、出来ましょうか!」

  冥夜は声を上げて悠陽に言葉を紡ぐ。
  その答えを聞いたとき、悠陽はホッと笑みをたたえた。

「それでこそ冥夜です。
 此度の来訪者の件、神の悪戯か、あなたの絶対運命の証か……それは分かりません。
 ですが、私は自分の“絶対天命”を信じます。 信じて、最後のそのときまで真っ直ぐに進みます。
 冥夜、あなたはあなたの絶対運命を信じればよいのです。 私をはじめ、他の方々に遠慮することなど、必要ないのですよ」
「はっ。 姉上……ありがとうございます」

  笑みを浮かべ、慈しむように冥夜を見る悠陽。 
  その悠陽に対し、感謝の念によって生まれた涙を目一杯に浮かべて、冥夜は深々と頭を下げた。

「ああ、なんと美しい……」
「「「 うう……どこまでもついて行きます~~、冥夜様、悠陽様ぁ 」」」

  その様子をじっと眺めていた真那と三馬鹿は目から溢れる涙を止められなかった。
  拭っていたハンカチはもうグショグショに濡れてしまっており、涙が多量だったことを物語る。
  ……一方、武と真璃は、

「……ゆ、悠陽と冥夜で殺し合いにでもなるのかと思ったぜ」
「これが本当の“真剣”勝負……なんてね」

  二人は結局、冥夜と悠陽のやりとりの意味が掴めなかった。
  悠陽が斬りつけて、何か刀の話を云々した、程度の認識でしかない。
  だから、なんで冥夜が斬りつけた悠陽に対して「ありがとう」などと言っているのか、真那や三馬鹿が涙を
 流しているのか、全然訳が分からなかった。

「……で、でも」
「あん?」
「母様と殿下がケンカしなくて良かったね……真剣で」
「……ああ、そうだな」

  武と真璃はホッとしたようなドッと疲れたような、そんな表情を浮かべながら、二人一緒にため息をついた。

「それにしても、なぜ悠陽様が冥夜様と真璃様のことを……」
『私がお伝えした』
「!?」

  真那が疑問を口に出すと、ふと背中に鋭い気配を感じる。
  それと同時に、真那の頭に直接響くような声が届いた。
  その瞬間、彼女の顔がこれまで以上に険しくなった。

『真耶……あなただったの』

  真那は口に出さず、念じるようにして会話を続ける。
  真那が口にした“真耶”という名前。 それは真那を『表』として、『裏』で冥夜と悠陽を
 補佐する御剣お庭番の一人……“月詠真耶”であった。
  彼女たちは武達に聞こえぬよう、まるでテレパシーのように二人だけで会話を続けている。
  どうやら御剣家お庭番だけが出来る、読心術によるものらしい。

『しかし、なぜ悠陽様に』
『必要かつ急迫でしたから。 那雪斑鳩が二振りという、ありえないことが起きれば、それは可及的速やかに悠陽様へ
 伝えなくてはならない』
『だからって、私に連絡もなしに!』
『必要ないでしょう。 私たちは御剣に仕える者として、お家に関わる情報をすべて親方様、悠陽様、冥夜様に
 お伝えする義務がありますから。 真那、あなたのやっていることこそ、情報の意図的な秘匿という、重大な背信行為でしょう』
『そ、それは……』

  真那は、真耶の言葉に何も言い返せないでいた。 確かに真那は、真璃のことを御剣本家に対し隠した。
  だが、それは仕方のないことでもある。
  冥夜も真那自身も、真璃が“武と冥夜の娘”などとは未だ信じられていない。
  例え、二振りの那雪斑鳩を見せつけられても完全には無理だ。 未来(?)から来た娘などと。
  だが“もしも、もしかしたら”という想いも消すことは出来ない。 那雪斑鳩がその感情を助長させる。
  
  そのような不安定な状況の中で、真璃の件がすぐに悠陽や本家に伝わっていたならば、更に混乱することなど
 火を見るよりも明らかだと真那は判断したのだ。
 だからこそ、せめて那雪斑鳩という“御剣家の証”が確かめられるまで、冥夜の覚悟が決まるまでは、
 と真那が考えるのも無理はない。

『確かに……真耶、あなたの言うとおりだと思う……だけど』

  苦悶に満ちた表情を浮かべる。 自分が独断で決めたこと、敬愛する御剣を裏切ったことに対する悔恨が湧く。

『……けれど』
『え?』
『けれど、悠陽様は今回のあなたの行動を賛じていらっしゃる。
 情報が確と判明するまで秘していたことが上手く働いて、最良の結果をもたらした、と。
 ならば私も、それを認めなくてはならない』
『悠陽様が……』

  真那の表情が段々と柔らかくなっていく。 そして悠陽の、人間としての器の大きさに心が揺れる。
  そんな偉大な方々に仕えているという事実に、誇りが満たされていく。
  真那は完全に、背信という苦しみの環から解放されていた。

『しかし次はないわ。 いいわね、真那』
『ええ、真耶。 いつも悪いわね』
『これが仕事ですから……それじゃ』

  その言葉を最後に、真那の背後にあった気配が消えていく。
  彼女は満面の笑みをたたえ、ゆっくりと目を開けた。

「………………あ、あら?」

  真那が目を開けると、武達が不審そうに彼女を見ていた。
  武達からすれば「突然、顔を険しくさせたり」「怒ったと思ったら笑ったり」と、不気味な感じだったのだろう。

「つ、月詠さん。 大丈夫っすか?」
「月詠……」

  心配そうに真那をのぞき込む武と冥夜。
  真那は顔を真っ赤にさせ、ゴホンッと咳をしてから「大丈夫です」と苦笑いをし、返した。

「……では、真璃さん。 こちらへ」
「へっ!?」

  不意に悠陽から名を呼ばれ、ギクゥッ!と真璃の背筋が伸び上がる。

「わ、私ですか?」
「ええ。 真璃さん、こちらへどうぞ」

  悠陽は手招きする。 真璃は、何度も武や冥夜の方を確認しながら彼女の前に立つ。
  すると悠陽は手に持っていた那雪斑鳩をゆっくりと肩の高さまで持って行く。
  それは、ちょうど真璃の目の高さであった。

「この刀は、あなたのモノです」
「えっ……あ、はい」

  差し出された那雪斑鳩を素直に受け取る。
  真璃は現在、何が起きているのか全く理解出来ていない。
  だからだろうか。 那雪斑鳩を貰うとき、彼女の表情は苦笑いを浮かべるしかなかったのは。

 「これで、あなたは御剣家の一員であることが認められました。
 これからどのようなことが起こるかは分かりませんが、私達は貴女を祝福し、保護致します」
 「は、はあ」

  訳が分からない、といった表情が見える。
  バーナード星系で一般人として育てられた真璃からすれば、「祝福」だの「保護」だの、そんな言葉の羅列に意味を
 見出すことなど困難以外の何物でもない。
  ただ、一つだけ。
  一つだけ理解出来た、繋げられた事柄が彼女の脳裏に浮かび、それを確認するため、オドオドとしながら真璃は口を開いた。

 「……えっと、つまり……
 家でも父様、母様って呼んでいいんですか?」
 「…………え?」

  冥夜、悠陽をはじめとする御剣一堂は、今の言葉に呆気にとられるしかなかった。
  それはそうだろう。 御剣家の一員として認められる、それは取りも直さず、世界に冠たる御剣財閥の末席に
 加えられることを意味するのだ。
  その科学力、技術力、資本力、各種政界へのコネクションから来る政治力……それら全てを統括し、世界に強い影響力を持つ
 御剣財閥。 その力を狙う者は後を絶たない。
  そんな大それたパワーを持つ組織の一席として認められたにもかかわらず、直後、真璃が確認したのが「武、冥夜を父母と
 呼んでいいのか?」という何とも小さくて、健気なお願いなのだから、御剣の人間からすれば不可思議な感じが湧くのも当然だ。

  一方、真璃からすれば御剣財閥など見たことも聞いたこともないし、何より所詮「夢幻」の出来事だ。
  そんなことよりも、悠陽達に隠すため「父様、母様」と気軽に呼べないことの方が彼女にとっては問題であり、
 今回の件でもっとも期待出来ることとしては、それくらいしか浮かばないのは当然である。

  ……そして、小さく口を開け驚いていた悠陽は、「まあ」と小さく声をあげて、

 「もちろん、構いませんよ」

  小さく答えを返した。
  その了解を聞いた真璃は、パーッと大きく笑みを浮かべ、勢いよく武の方へと顔を向ける。
  そしてトコトコとゆっくり近づいて、少し照れた感じを見せながら「父様」と小さく呟いた。
  ……対照的に武は、煩わしそうな顔をしていた。

 「これからは、家でも父様って呼べるね!
 すっごく嬉しい!」
 「……はあ」

  武は髪をクシャクシャとかいている。
  何がなんだか分からないうちに、勝手に話が進んだことに腹を立てたのだろう。
  しかし、それを口にすることは憚られた。 なぜなら目の前の真璃があまりに嬉しそうでいるために、自分の悪感情を表に出すことが
 彼女の喜びを害するのではないかと思われたからである。

 「ふふっ、真璃のやつめ」

  その様子を、冥夜は少し曇った笑顔で見ていた。
  武に嬉しそうに近づく、自分と同い年くらいの少女。 自分の娘と名乗る謎の存在。
  そうした不明はあったけれども、冥夜が慕う武へ自分の感情を有りの儘に表現出来る真璃が、彼女には羨ましいのだろう。
  冥夜はそのことに思い至ると、首を横に振る。
  今、武と話している真璃は娘であると名乗っている。 娘が父にあのような表情を見せるのは当然のことだ、と。
  だから冥夜は、「自分は真璃を、“我が娘”と思わなくてはならない」と考える。
  そうすることで今の自分の負の感情が発生する理由をなくせる、そう信じて。

  ふと、冥夜は悠陽へと目を遣った。
  そのとき、冥夜は見てしまった。 武と真璃を視る、悠陽の眼を。
  彼女の眼は笑ってなどいなかった。 怒ってもいなかった。 当然、哀しみでもなかった。
  ただ、深遠かった。 先ほどまで自分を叱咤してくれた強い輝きはなく、どこまでも暗く遠く深くへ。
  そこでようやく冥夜は気づく。 悠陽は「真璃について、他人に気を遣う必要はない」と言ってくれたが、悠陽自身が
 気にしないはずがない。
  悠陽も冥夜と同じように、武のことを想っている。 その人が、真璃の存在を単純に受け止められるわけないのだ。

 「母様、どうしたの?」

  唐突に視界へ真璃が入ってくる。 冥夜はうっと軽く驚いたが、すぐに元の表情で「何でもない」と答えた。

 「母様」
 「……なんだ?」
 「ふふっ。 これで父様と母様を、きちんと呼ぶことが出来ますね」

  物事をまったく理解せず、自分の言いたいことを言う真璃。
  その様子に冥夜は呆気に取られる。 私の気も知らずに、と諦めにも似た感情が湧き、同時に自分もこのように
 素直になれれば、と羨ましくもなる。
  冥夜は小さく溜息をついた。

 「ふふっ。 それにしても、この年で姪がいるというのも不思議な気分ですね」

  冥夜と真璃、並ぶ二人を見ながら悠陽は笑みを浮かべた。
  さっきまでと違い、とても明るい表情。 だが冥夜は、先刻までと異なる、その表情を見ていられなくなり、顔を伏せた。

 「あっ、そうですね。 そして殿下は母様のお姉さんだから……
 私の “おばさん” に当たるわけか」

  ―――ピキッ。
  ふと空気が凍る音がした。
  冥夜はハッと悠陽の変化に気が付き、真璃もあっ、と今さらながら自分の失言に気づく。
  遅すぎた。
  悠陽は、真璃と冥夜の肩に手を置き、

 「ちょっと表で話し合いましょう」

  いつもの笑顔で、そう呟いた。
  その笑顔を見た二人はただ頷き、目にいっぱいの涙を浮かべていたという。





 「つ、疲れた」

  武は、やっと一人になれたと安堵し、勢いよくベッドへ体を落とした。
  そして、一度大きく溜息をつき天井を見上げる。

 「娘……なんて言われてもな」

  武の頭に、談笑する冥夜と真璃の顔が思い浮かぶ。
  友人同士の会話にしか見えないその様に、武はもう一度溜息をついた。

 「娘だなんて見えねえよなー、絶対」

  武からすれば、真璃は『趣味を理解してくれる友人』程度の認識でしかない。
  夕呼から説明を受けようと、那雪斑鳩が二振り存在しようと、その認識は変わらなかった。
  結局のところ、それが真璃を好意的に見られる武の限界であったし、突然「娘だ」と名乗られることについては
 受け入れられる筈などなかった。
  冥夜や真那もそれは同様であったが、志向が違う。
  彼女たちは「信じたい」という想い、感情が幾分か存在する。 否定とは、論理的妥当性ゆえにである。
  一方、武はまったく逆に「信じたくない」と思っている。 感情としても理性としても、ベクトルは負を向いている。
  運命が目の前にあらわれて「これがあなたの未来であり、運命である」と示されたとき、受け取る人間によって
 こうも差が出るのは、ある意味当然のことであろう。
  運命とは利益をもたらされる人間にとっては福音であり、そうでない人間にとっては凶報なのだ。
  だが、その福音を鳴らした天使がラプラスの悪魔であることを、このときは誰も気づいていない。 それは不幸なのか幸せなのか。

  ふと、武は自分と気持ちを同じくするであろう、あの人……鑑純夏のことを思い出す。
  彼女ならば自分の考えていることに賛同してくれるだろうし、そうでなくとも不満を吐き出しあえるだろう、と彼は思う。
  純夏の真っ直ぐな笑みを思い浮かべながら。
  そして彼女はどうしたのだろうか、何をしているのか、といった疑問が彼の心中に湧き上がり、
  武はベッドから体を起こして、窓越しに純夏の部屋を覗き込んだ。

  誰もいないように見える真っ暗な室内。 しかし武は、その中で動く影を見つける。
  何故電気をつけないのか疑問に思いながらも、窓を開け、隣室に向かって「純夏」と声をかけた。

 「…………」

  返事がない。 真っ暗な世界は、ただ硬直したまま。
  武はしばらく、窓縁に頬杖をついたまま部屋を見ていたが、何か思い出したのかベッドから下りてバッグを漁る。
  そして、一枚のCDケースを取り出した。

 「確か、純夏は栗林みな実のファンだったよな」

  その言葉が発せられた瞬間、目の前にある窓にぴょこんと髪の毛が立つのが見えた。
  彼はその様子にニヤリとする。

 「三秒以内に窓を開けたら、ニューシングル貸してやってもいいぞ。
 三~~~~、二~~~~、一~~~~~」

  カラカラと弱々しく開かれる目の前の窓。
  だがそこに純夏の姿はなく、ただ一本のアホ毛がふらふらと振れていた。

 「おい、顔を見せねえと貸してやらねえぞ」
 「……ぅ~」

  純夏はゆっくりと下から顔を上げる。
  その表情は暗闇のせいもあってか、とても沈んでいるように見えた。

 「ずるいよ、タケルちゃん。 モノで人を釣るなんて」
 「ば~か。 こうでもしないとお前、顔見せないだろ。
 ほれ」

  武はCDを渡そうと手を伸ばす。 純夏も手を伸ばして、それを受け取った。

 「どうしたんだよ。 昼休みからおかしいぞ?」
 「うん……」

  窓縁に顔をのせ、純夏はじっと武を見ている。
  話したくないのだろうか、と武が思った瞬間、唐突に純夏の口が開いた。

 「私って、タケルちゃんの何なのかな……」
 「はっ?」

  自分の質問とはまったく無関係な話題、しかも唐突になされたが故に、武は呆けるしかなかった。

 「目覚まし時計?」
 「はっ?」
 「洗濯機?」
 「おい」
 「御飯作る人?」
 「いや、あのな」

  そして純夏は、顔を自分の腕に埋めてもう一度同じ言葉を繰り返すのだった。

 「私って、タケルちゃんの何なのかなあ……」
 「…………」

  何がなんだか分からない。
  それが武の正直な感想だった。 純夏が何を悩んでいるのか、まったく理解出来ないでいた。
  だからだろう、彼の頭中に様々な理由候補が浮かんでは消えていく。
  ―――昼休みに弁当を食べなかったことがいけなかったのだろうか。
  ―――朝、わざわざ起こしに来るのが面倒になったのだろうか。
  ―――夕食など食事を作るのがイヤになったのだろうか。

  そうして彼は気づく。
  自分はこんなにも純夏に頼っていたのか、と。

 「なあ、純夏」
 「…………」
 「あのさ、もしかして……怒ってんのか?」
 「…………」

  顔を埋めたままなので、彼女の表情が読めない。
  彼は苛つき、頭をかいた。
  だが、やはり料理の件で腹を立てているのだな、とは感づいたようだ。
  ふと武が視線をずらすと、彼女の部屋にある机の上に見慣れたモノがあると武は気づく。
  それはピンク色のハンカチに包まれた「お弁当」であった。 武はこれまで、そのハンカチを何度も見たことがあるのだ。
  ……彼はこの事態を打開出来るかもしれない方法を思いついた。

 「おい、純夏。 その弁当をよこせ」
 「えっ? も、もう捨てたよぉ」
 「嘘つけ。 机の上にあるだろうが」

  あっ、と純夏は口を開いて自分の机を見る。
  そこには自分でも気づいていなかったのか、お弁当がしっかり置かれていた。

 「で、でも」
 「いいからよこせ。 俺は腹が減ってるんだ」

  嘘である。 那雪斑鳩を確認する前、彼は夕食を済ませていた。

 「……はい」
 「ん」

  純夏から窓越しに弁当をもらう。
  彼女は視線をずらし、不機嫌そうに顔を俯けている。
  そんな様子など気にとめず、武は弁当箱を開けた。
  海苔に包まれた俵型のシソおにぎり。 おかずにウィンナーや卵焼き。
  その横にミニトマトが二つ置かれ、赤と黄がバランスよく配されている。
  そしてレタスを底に敷いたメインのミニハンバーグが、かぐわしい匂いをあふれさせていた。

 「お、今日はミニハンバーグだったのか。 上手そうじゃん」
 「……もう美味しくなくなってるよ。
 御飯だってかたくなってるし」

  純夏は視線をズラしたまま悪態をついた。
  だが武が弁当を開けたり、料理を取り出したりする音に、どうしても気が行ってしまう。
  彼女は気が気でなく、そわそわと落ち着きが無くなっていった。
  やはり気になるのだ。 武がどのような感想を持ってくれるのか、美味しく食べてくれているか、と。
  もしかしたら笑顔で、嬉しそうに口に含んでいるのではないか、と。

  ……そのとき、真璃のことが頭に浮かんだ。
  途端に彼女の表情が険しくなった。 怒りのような焦りのような、そんな感情のせいで。

 「……ごっそさん」
 「え。 は、早いね」
 「ま、まあな……っぷ」

  ―――さ、流石にきついぜ。
  武はすでに一杯一杯に夕食を腹へ収めている。 だから、無理を承知でとにかくかき込むしかなかった。
  しかし結果、強く胃が内側から押し出される感じが武の気分を悪くしてしまう。
  だがそれを純夏が知れば、また不機嫌にさせてしまうだろう。 そう思い、武は必死に笑顔を作って彼女の方を向いた。

 「上手かったぜ。 ハンバーグ」
 「うん……ありがと」

  あいかわらず純夏は顔が険しいままだ。 武はそれに気付き、更に言葉を投げかけた。

 「や、でもさすがだな。
 俺の好物をこうやって何でも出してくれるのは、お前ぐらいなもんだよ」
 「…………」

  武は中途半端に笑いながら、彼女の料理を褒めた。
  だが褒められたはずの純夏は、それを喜びなどしなかった。
  しかもだ、思わず「だから何」と口から出かけたのである。
  今朝、料理を作るときに期待したそのままの言葉が聞けたにもかかわらず、今の純夏は何の感慨も湧かなかった。
  彼の“美味しい”は、既に昼にも語られている言葉だ。 冥夜直伝と言われた、真璃の料理へ。
  それなのに、どうして彼の“美味しい”で喜べようか。

  そうした様子に、武は自分の言葉が何の効力も発揮していないことに気が付いた。
  武はとにかく純夏の機嫌をよくしようと、気恥ずかしいながらも言葉を続けた。

 「この間はトンカツだろ、そして今日はハンバーグだ。
 純夏は俺の好きなモノはなんでも知ってるよな」
 「…………」
 「好物ついでになんだが、次の弁当は“たこ焼き”がいいな。
 最近、純夏作ってないだろ、だから」
 「……御剣さんや月詠さんに作ってもらえばいいよ」

  うっ、と武の言葉が詰まる。
  どうも純夏の機嫌は直りそうになく、武はまた頭をかいた。

  一方、純夏は自分の意地の悪さに苛ついていた。
  武が気を遣ってくれていることは分かっている。 それなのに、彼を傷つけるようなことばかりだ。
  結局、純夏の不機嫌とは周囲の環境に対してと、自分自身についてがその大半を占めている。
  武個人へはそれほどでもないので、不機嫌の原因そのものを彼がこの場で除くのは難しい。

 「いやほら、あれだ。
 なんつうのかな、同じインスタントラーメンでもカップヌードルとカップスターでは違うっつーか。
 ……なんか、例えがおかしいな」

  う~う~と純夏にかける言葉を考え続ける。
  とにかく武は、自分の頭に浮かぶのを直感的に言葉に直した。

 「ほら、お袋の味みたいにさ、“そいつの”料理だから食べたくなることってあるだろ?
 それと同じだ」
 「……えっ」

  『そいつの料理だから食べたくなる』
  この言葉に、思わず純夏は顔を上げた。
  武はなおも言葉を続けた。

 「ほら、この間のキャベツと肉そぼろのコンソメスー」
 「……ロールキャベツだよ」
 「……んがぁ」

  自分の記憶違いに、がーん!と墓穴を掘ってしまった気がした。

 「そ、そうだった。 ロールキャベツだったな、うん。
 あれもさ、見てくれは悪かったし、食べ辛いことこの上なかったが」
 「…………」
 「でもさ、美味かったぜ。 なんか俺の口に合ってた」
 「えっ?」

  何日か前の食卓を思い出される。 純夏が用意したロールキャベツは、その中身があふれ出して
 半分スープのような状態になっていた。
  それをボロクソに武はけなしていたが、結局は全て平らげていた。
  純夏はそれを思い出して、彼の言葉が真意からだと理解する。

 「だから、また作ってくれよ。
 今度は純夏のたこ焼きをさ」
 「あっ……」

  そのとき、部屋の明かりのせいか、いつもより輝いて見える武の笑顔が純夏の目に飛び込んできた。
  自分の料理が、武を笑顔にしている。 自分が、武を幸せにしている。 
  そして今また、自分にそれを求めている。
  彼に求められているのだという強い想いが、彼女の中を駆けめぐった。

  好きなモノを食べたい、その枕詞に『純夏の』がついた。
  彼女だから、それが出来るのだと武は言った。 
  『そいつの料理だから食べたくなる』
  『美味かったぜ。 なんか俺の口に合ってた』
  『だから、また作ってくれよ』
  彼の言葉が何度も反芻され、その度に純夏に生気が戻っていく。
  純夏は今、武に“求められているんだ”という自信を改めて持つことが出来たのだ。
  自分だけの一方通行的な想いではない、武もそう思ってくれているという確信。
  その互いに同じ気持ちだったのだという感覚が、純夏を充実させていく。

 「つまりタケルちゃんは~~……“私の料理”だから、食べたいんだね!」
 「えっ? ま、まあ口に合うっていう点ではそういうことだな」
 「そっか……うん、そっか」

  純夏は何度も頷いた。 段々と顔に笑みが戻り、いつもの実直な感じが取り戻されていく。

 「分かったよ、タケルちゃん!」
 「そ、そうか。 良かった良かった」

  純夏の笑顔を見て、武はなんとか彼女の機嫌を直せたことに安堵した。

 「次のお弁当は、たっくさんたこ焼きを作って上げるね!」
 「あ~、食べきれる分だけな」
 「分かってるよ。
 どんなのにしようかな~……ソースは当然として。 あっ! タバスコつけたやつとかいいかも!」
 「却下」

  「なんだよー!」と純夏は声をあげた。
  だが、その顔はとても嬉しそうで、満ち足りているように見える。
  結局、純夏の不安や周囲の環境は何ら変わりはないけれど、しかし“自分を求めてくれている”という自信がそれらを覆っていた。
  それは、彼の隣にいられるのか、未来においてはどうなるか、何の確証も無いことではあった。
  だが、それでも構わなくなったのだ。
  少なくとも武が、純夏の料理を食べて笑顔を作るとき、それは自分だけに向けられたものの筈なのだから。

 「次も美味しい料理作るからね! タケルちゃん、楽しみに待っててね!」





  ―――武と純夏が会話を交わしていたとき、
  武の部屋入り口の前で、真璃は静かに佇んでいた。
  彼にお風呂が入ったことを報せるため、部屋の前にやってきたのだ。
  ドアをノックする直前、武の声が聞こえた。 彼女を気遣って、優しい言葉をかけているその台詞が。
  そして無表情に、じっとその会話を聞き続けた。 「たこ焼きを食べたい」「お前の料理を食べたい」……その言葉を聞く度に、眉が動いた。
  純夏の声が段々と明るさを取り戻し、談笑へと移り始めた頃、真璃は廊下の壁に背を預け、自分の左腕を掴んで顔を上げた。
  
 「……何やってんのよ」

  誰に向かっての言葉なのか、彼女自身にすら分からなかった。
  あんな優しい言葉を、妻である……妻となるはずである冥夜以外の“赤の他人”へかける武に苛ついた。
  その言葉は冥夜へ向けてだけ許されるはずではないか。 あるいは、娘である自分に認められるべきではないか。
  真璃の中でそんな激情が迫り上がってくる。 それが感じられるたびに、彼女は自分の腕を握る力を強くした。

  そして次に浮かんだのは、純夏のことだ。
  なぜ武からそんな言葉をかけてもらっている、そんな資格が何処にあると問いつめたくなった。
  壁一つ向こうで武の笑顔を彼女が独占していると考えると、真璃の中に真っ黒な焔が荒ぶり始めた。
  そこへ、また歓談が聞こえる。 より一層、焔が燃え上がる。
  歯を軋ませ、痛いほどに強く腕を握る。

 「何やってんのよ……っ!」

  まるで吐き捨てるように再び言葉を発して、真璃はその場から階下へと降りていった。
  ゆっくりと気づかれないように。 何故そうしているのか、分からないけども。
 
 「―――真璃か。 武には湯殿のことを伝えてくれたか?」

  リビングでは、冥夜がメガネをかけて新聞に目を通していた。

 「あっ……」

  冥夜が目に入った瞬間、真璃は自分の中で何かが湧き上がってくるような、そんな感覚に襲われる。
  不意に泣きたくなった。 冥夜が哀れに思え、自身も強く悲しくなった。
  同時に、真璃の中にあるバーナード星系での冥夜の記憶が蘇る。
  瞬く星を一緒に眺めながら、冥夜は真璃に地球での想い出を語ってくれた。
  地球のこと、日本のこと、みんなのこと、友人達のこと、そして……そして、愛する武のこと。
  記憶が朧気でありながらも、真璃は“母は父を愛している”とはっきり思い出せた。
  冥夜の想いの深さを、彼女は十二分に理解しているつもりであった。

  それなのに、だ。
  ここに武の姿はない。 母である冥夜一人だけだと、真璃は考える。
  そしてすぐ上では、父である武は、母である冥夜以外の人間に優しくしている。
  それを思うと、無意識に奥歯が強く噛まれた。

 「何かあったのか?」
 「……何でも、ないです」

  真璃は顔を伏せて、視線を脇に移す。
  いっそのこと全部言ってしまおうかとも思ったが、冥夜が悲しむだけだと止めた。
  はっ、と小さく息を吐く。 そして天井を見上げた。
  
  ―――おかしいよ。
  そう彼女は思わざるを得なかった。
  ここは武の家で、真璃にとっては父と母が初めてデートをした、その場所であるはずだ。
  なのに、その想い出に赤の他人が入り込んでくる。
  この“夢の世界”にBETAは存在しない。 二人を妨げるものは何もない。
  でも冥夜は一人で、一方武は純夏と談笑している。
  せっかく二人一緒にいられるのに、ここは“夢”のはずなのに、それでも共にいられないのか。
  初めてのデート場所という、そんな空間ですら。
  それが、真璃には堪らなかった。

 「……ん?」

  ふと真璃は何かを見つけたような、そんな感じがした。
  見つけたモノが何なのか、よく分からない。 でも確かに見えた気がする。
  彼女はんーっと額に手を当てて、自分の中に沈潜していく。

 「ど、どうしたのだ?」

  その様子に冥夜は心配になり、声をかけるが、真璃には届かない。
  じっと、じ~っと深く考え込む。 自分の記憶を思い出しながら。

  ―――父様母様が、初めてデートをした―――
  そのとき……真璃の中でピーンと光るモノが見えた。

 「……母様!」
 「むっ、なんだ」

  真璃は突然、冥夜に近づいて彼女の肩を掴む。
  そして真っ直ぐに見つめる。 母親と同じ、海の色に似た深い蒼色の、その瞳で。
  それから真剣な表情で、真璃は軽く深呼吸をして、冥夜に向かって強く言い放った。

 「父様と、デートに行きましょう!!」

  ……冥夜は、真璃の突然の言動に目をパチクリとさせるしかなく、
  その意図を理解するまで、幾分かの時間を必要とした。





  ―――空には、三日月が浮かんでいる。
  まるでリングのように、その様は思えた。 繋がった一つの環が、空に佇んでいるように。
  そんな三日月を眺める影が、灯りが今なお点いている白稜柊の物理準備室に見えた。
  それは、月光のように輝く白銀の髪を持った霞である。
  霞はいつものように無表情で月を眺め、その小さな手で窓ガラスに映った三日月をなぞる。
  そして何周かリングを描いた後、霞は一度大きく溜息をついて、ゆっくりと後ろへふり返った。

  ……そこには不適な笑みを浮かべて、ここ物理準備室の女王である夕呼が立っており、霞と目が合った直後、
 「さっ、行きましょ」と声をかけた。
  それに霞は軽く頷き、二人は部屋を後にする。
  二人が抜け出した後の準備室、ビーカーやら試験管やらが散乱した机の上には、
 『因果律量子論に基づく多元宇宙の実証考察』と題された紙の束が、整然と纏められていた。













[3649] Scene 3 「Waxing and waning」 ①
Name: 葉月◆d791b655 ID:c8808b2f
Date: 2010/03/31 09:38



  ―――そなたは覚えているだろうか。
  あの日、私達はそこにいた。
  小さな公園、小さなブランコ、小さな滑り台、小さな砂場。
  子供達の歓声が響き渡る、昼下がりのことだった。
  全てがまだ狭く限られた世界。 私達はそこで、「運命」とも言うべき出会いを果たした。
  この広く開かれた世界にあって、無限に近い時の流れの中で、
  私達は、互いにその瞬間を重ねていた。 奇跡とは運命とは、まさにこのことを指すのだと私は確信している。
  一時間にも満たない、私とそなただけの逢瀬。 充ち満ちた、大切な時間。
  今でもありありと思い出せる。 あのときの、そなたの笑顔を。
  そなたの手、そなたの目、そなたの声を。
  ……この後、すぐに姉上が来て、私とそなただけの時間は終わってしまったが、
  しかし私は、ほんの少しの間だったけども、そなたと二人だけで刻を過ごせたということがとても嬉しい。
  そなたが最初に声をかけてくれたのは、私だった。
  そなたとだけの逢瀬を持てたのは、私だった。
  そなたを初めて……初めて想ったのは、私だったのだ。

  ―――そなたは覚えているだろうか。
  あの日、あの公園、あの砂場で、一緒に遊んだ少女のことを。
  たくさんの子供達がいる中にあって、たまたま声をかけた少女のことを。
  そなたと別れなければならなくなって、イヤだと泣き、「またね」と再会を約束した少女のことを。
  その娘が私なのだ。
  その娘が私なのだぞ、タケル。
  例え、その少女が私だと気づかなくともよい。
  この広い世界で、あの時、あの場所にあって共に刻を交錯させた少女がいたということを、そなたが覚えていてくれれば。
  共に「またね」と誓いを立てた、そなたを想っていた少女がいたということを記憶してくれれば。
  ……それに、私は信じている。
  そなたは必ず、私のことを思い出してくれる。 今はまだ霧中であったとしても、霧は必ず晴れるのだ。
  それが“運命”だ。 私とそなたの間に絶対に存在する“運命”なのだ。
  だから、私は待ち続けよう。
  霧が晴れるのを。 そなたが運命に気づいてくれるのを。
  私はただ、じっとそなたを信じている。

  ―――けれど
  けれど、もしそなたが霧の中から抜け出せず、私のもとへ辿り着けなかったなら……
  もし、そなたを呼ぶ他の誰かのところへ歩を進めたならば……
  私はやはり“運命”に従おう。
  それがそなたの意志であるならば、私は笑って見送ろう。
  意志こそが人間に尊厳を与える。 強制でも惰性でもなく、決断するという行為こそが、その人間をヒトたらしめる。
  私が御剣なのは、私が御剣であろうとするからだ。 御剣冥夜とは、すなわち私の意志そのものなのだ。
  そなたのココロが他者に向かうことを望むのならば、それを否定するのはそなた自身を否定するも同じ。
  だから、私は従おう。 それがどんな結果であろうとも。
  だがそのとき私は、
  そなたのいない霧の中を、
  どこへ向かって歩いていけばよいのだろうか……





 「おっせーな」

  白銀武は苛ついていた。
  ここは雑踏はげしい柊町駅。 制服を着た学生や子供連れの親子など、様々な往来が繰り返される。
  その前で待つこと、15分。
  何度も腕時計を確認してはため息をつき、人の往来へと目をやった。

 「ったく」

  往来を注意深く見ていても、目的の人は影も形もない。
  彼はベンチに座り、腕を組み、そしてもう一度、時計を見た。

  ―――自分から誘ってきたのによ。
  彼の脳裏に、昨晩の記憶が蘇る。
  突然、冥夜と真璃から「休日、水族館へ一緒に行って欲しい」と言われたこと。
  そのために柊町駅で待ち合わせたこと。
  なんど記憶をリピートしても、自分が聞いた時間は15分前のそれに間違いない。
  武はそうして、自分に誤りがないことを確認した。

 「せっかくの休日なのによ」

  こうして時間が無駄に費やされるのが、とても勿体ないように思えてくる。
  普段の武であれば今はまだ寝ている時間だ。
  彼からすれば、ゆっくり寝られる時間が奪われた、という感じだろうか。
  現実、彼はあまり乗り気ではない。 もっとゆっくりしていたい、それが本音なのだ。

 「でもなー、なんでかな」

  しかし武は、冥夜達の申し出を受け入れた。
  それは冥夜が、というより真璃のせいだろう。
  消極的に武を誘おうとする冥夜に比して、真璃の押しは相当に強かった。 まるで切羽詰まっているかのようだった。
  だから「分かった」と思わず頷いてしまったのだ。 乗り気ではなかったのに。

 「なんであいつ、あんなに必死だったんだろうな」

  そう考えながら、再び目を腕時計へとやる。
  待ち時間はすでに、20分を超えようとしていた。

 「はぁ、はあ! た、タケル!」

  そのとき、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
  武は「やっと来たか」と言わんばかりに大きな溜息をつき、顔を前へ向ける。
  
  ―――そのとき、彼は口を閉じることすら忘れたようであった。
  目の前の少女は息を切らし、その真っ白で瑞々しい肌を薄紅色に染めている。
  細くしなやかな首筋が見え、そこから眼を下にやると、うっすらと浮かび上がる鎖骨が眼に飛び込んだ。
  ふと、息が苦しいのか彼女は体を前に倒し、手を胸の前へと持っていった。 身に纏っている黒のニットが歪み、
 彼女の豊満なふくらみを強く印象づける。
  そのまま体を起こす。 コートの真っ白な裏地を背景に彼女の細い腰つきと、チェック柄のスカートから伸びる
 スラッとした両の足がはっきりと確かめられて、彼はその完璧と思える黄金律に思わず息を呑んだ。
  その圧倒的な様に、武の律動が段々と強くなっていく。 そして彼は視線を、やっと彼女の表情へと向けた。
  瞬間、彼の鼓動は最高潮へと達した。
  まるで桜色の頬、潤んで半透明に見えるブルートパーズの瞳、整っていて一切の余分すらない輪郭、
 トレードマークとも言うべき絹が流れるような美しい長髪。
  吐息を漏らす唇は妙に艶っぽく感じられ、申し訳なさそうにこちらを見るその目付きに、武は自分の内にある何かを、
 無性にかき立てられるような気分になった。
  その少女―――御剣冥夜の呼吸が次第に穏やかになり、ようやく彼に言葉を投げかける。

 「タケル、すまない。 遅れてしまって」

  彼はその言葉にハッとし、冥夜から眼をそらしつつ「いや、いい」とだけ伝える。

 「そうか、タケルは優しいな。
 そなたに心よりの感謝を」

  彼女の唇の端がゆっくりと上がる。 キリッとした彼女の顔が、にっこりと笑みを咲かせる。
  武は鼓動を強めながら、密かにこう呟きたかった。

  ―――冥夜って、こんなにいい女だったか?
  いつも家で見る冥夜とは違う、あまりにも違いすぎるその状景に、彼は面食らっているのだ。
  ふとそのとき武の脳裏に、昨日までの様々な光景が浮かんでくる。
  自分の側で寝ている冥夜、学校に制服でいる冥夜、家で自分の横へとやって来る冥夜……
  その全てが今目の前にいる彼女に他ならなかった。
  そうして記憶と眼前に断つ冥夜とが結びついたとき、武は気づく。
  この女性が“冥夜”なのだ、と。

 「それでタケル、これから何が起きるというのだ?」
 「は?」
 「月詠達から『デェト』というものは、タケルに全て任せよと聞いているぞ。
 違うのか?」
 「あ、ああ、なるほどな……なるほど」

  武はようやく我を取り戻し始めていた。
  何も知らない冥夜の様子、慣れていない『デート』の発音が、彼の頭にある彼女とうまく結びついたためだ。

 「とりあえず電車に乗ろうぜ。 水族館、行くんだろ」
 「うん、分かった。
 ああ、それと」
 「ん……どわっ!?」

  不意に冥夜の髪が視界に入ったかと思うと、腕が程よい力で挟まれる。
  彼女は武と、腕を組んでゆっくりと歩き出した。

 「お、おいおい、何を」
 「真璃から、デェトで女性は殿方と腕を組んで歩くものだと知らされた。
 違うのか?」

  満面の笑みで武の方を見る冥夜。
  その様子を見て武は単純に「違う」と言えず、彼女の歩調に会わせて歩くしか出来ない。
  全ては彼女の無知ゆえなのだ。 それを無下に拒否するのはいかに朴念仁の武でも気が引ける。

 「くっついて、お前イヤじゃないのか?」
 「私はそなたを直に感じられて、とても嬉しいぞ。
 いつでも、こうしていたいぐらいだ」

  恥ずかしい台詞をなんの躊躇もなく発する冥夜に、武は「おいおい」と突っ込みたくなった。
  聞いている自分の方が小っ恥ずかしくなったのだ。

 「はっ。 し、しかしだな。
 タケルが嫌ならば今すぐ離れるが……」
 「ん」

  急に冥夜の腕の力が弱められた。 もしかして武は嫌なのか、と勘ぐったからだ。
  “離れたくない”と顔に出す冥夜を見ながら、武はゆっくりと彼女から腕を離した。
  「あっ」と小さく声をあげる冥夜。 名残惜しいのか彼を一瞥し、そして残念そうに俯く。
  ……ふと、彼女の目の前に武から腕が伸ばされた。

 「タケル?」
 「腕を組むのは恥ずかしいからよ……ま、まあ、これくらいでな」

  武は冥夜から顔を背け真っ赤にしながら、彼女の方に腕を伸ばし続けている。
  はじめ冥夜はその意味を掴めないでいたが、伸ばした腕が小さく振られることで、ようやくその意を理解出来た。
  すかさず、冥夜はギュッとその腕を両の手で握る。
  そして彼の手指に自分の指を絡める。 その動作が彼女に武の暖かみをはっきりと確かめさせ、腕を組んだとき
 以上の充実感を与えた。

 「ありがとう、タケル。
 とても嬉しい」
 「あ、ああ、よかったな」

  ―――やっべえ。 これはこれでメチャクチャ恥ずかしい。
  武は今さら「手を握る」などという所行を選択したことに後悔し始めていた。
  往来の人間達がこちら……いや、冥夜を見るたびに、彼は穴に入りたい気分に駆られてくる。
  そしてこんな選択を行った自分がとても不可思議に感じられ、
  『今日の俺は何か変だ!』
  と、大声で叫びたくなったりしていた。
  しかし一方の冥夜といえば、これから武とどんな一日を過ごすのだろうというちょっとした不安と、
  手を繋ぐという当たり前の行為の中で、頬を染めながらとても満ち足りたような表情を浮かべていたのだった。





 「ああ、冥夜様。
 なんてお幸せそうに……」

  そんな二人を遠くから見守る影があった。
  その影の正体は、言うまでもないだろうが御剣家メイド長、月詠真那である。
  真那は柱に身を隠し、二人を双眼鏡でじっと覗いている。

 「まさか、こんなに事がうまく運ぶだなんて。
 もっと早くに実行すべきでしたわ」

  真那は正直、二人にとってデートは時期尚早ではないかと恐れていた。
  男女交際とは、互いに親密になっていき段階を踏むものだと彼女は理解している。
  球技大会や料理対決で武と冥夜の親密度が上がったように見えたとはいえ、「まだまだ」というのが真那の感想。
  ……と、異性とデートした経験が『高校以来』まったくない真那は、そう考えていたのだった。

 「それにしても、いきなり手を繋いで歩くだなんて。
 どこからそんな高等技術を?」

  そんな真那からすれば『手を繋ぐ』など、見ているだけで胸が熱くなる、なんとも羨ましい行為だったりする。
  自分が恋い慕う殿方と手を握る様を想像するだけで、真那の体温が数度上昇するほどだ。
  彼女は顔を真っ赤にしつつ呼吸を乱しながら、じーっと二人を双眼鏡で見つめている。
  それは冥夜を守護するという義務以上に、他人の恋話を観察したくなるオバサン的思考もあるからだろう。
  そうして、幸せそうな冥夜の顔を眺めながら、真那は一言小さく呟いた。

 「私も、ああいう恋を出来るのかしら」
 「……た、ただいま到着しました」

  ドッキリ!と体全体が浮かび上がる。
  心臓が跳ね上がり、まるで飛び出しそうな錯覚までする。
  真那はビックリして一瞬、取り乱しそうになったがそこは御剣である。 すぐに意識を取り戻し「真璃と
 合流する時間だった」と現状を思い出しつつ、声のした方へ顔を向けた。

 「な、ななな、何でもありませんよ、真璃様。
 冥夜様達は予定通り電車に……ど、どうされました?」

  ドンヨリとした表情、目の下にクマを作り、瞼を腫らした真璃がそこにいた。
  明らかに疲れていると分かるその顔に、真那は何があったのかと驚いたようだ。

 「つ、ついさっきまで母様とお弁当を作っていて……とても疲れました」
 「まさか昨晩からずっとですか?
 それは……まあ」

  双眼鏡を武達の方へやると、冥夜が片手にバッグを抱えるのが見えた。
  お弁当くらいならば二つは入るだろうと頷き、真那はふり返る。

 「お疲れ様でございました。
 冥夜様は料理をされた経験がありませんので、大変でしたでしょう。
 どんなお弁当をお作りになられたのですか?」
 「…………」

  真璃は顔を伏せる。 彼女の表情が分からなくなり、真那は立ち上がって近づいた。

 「真璃様?」
 「……ぃ」

  小さな呟き声。 真那は聞き取れず、耳を真璃に近づける。

 「?」
 「……ひっ、ひいいぃぃぃぃいい!!」
 「!?」

  真璃の体が突然震えだし、顔面蒼白、目を涙でいっぱいにさせていく。
  その様子があまりにも切羽詰まったものであったため、真那は思わず一歩下がってしまう。
  しかし、すぐに不安になって真璃のそばへと駆け寄った。

 「ま、真璃様!? お気を確かに、真璃様!」
 「か、母様! おにぎりに包丁は要らないよーー!!
 お願いだから火元に近づかないでーー! もう爆発はいやあああ」

  真璃の叫びが響き渡り、その周りをおろおろとする真那。
  周りには珍光景を眺めに人だかりができ、彼女たちの様子にまるで迷える子羊へと向けられるような視線が生まれる。

  ―――彼女たちにとって唯一の救いは、真璃の叫びが発せられたのは武達が電車に乗った直後だったということだろう。
  その後、やっと落ち着きを取り戻して現状に気が付いたとき、二人は全速力でその場を離れたのは言うまでもないことであった。





 「―――おいおい、いきなり不法侵入なんてするなよな」
 「面目ない……」

  冥夜と武は現在、横浜の水族館へとやって来ている。
  休日ということもあり、館内はたくさんの人で賑わっているわけだが、二人は顔を赤く染めて足早に歩を進めていた。
  理由は明白で、武の言葉どおり、冥夜が水族館の券を購入しようとせずに無理に入ろうとしたことが原因である。
  それくらいならまだしも、ごった返しているこの状況で足を止めてしまったがゆえに人の流れを妨げてしまい、
 たくさんの白い目が二人を睨んだのだからたまらない。

 「タケル、本当にすまない」
 「いいっていいって。 気にすんな」

  冥夜は気まずそうに武を覗き込む。
  その表情が本当に申し訳なさそうなので、武は怒る気も湧かなかった。
  冥夜は武の言葉に「そなたに心よりの感謝を」と伝え、嬉しそうに笑った。
  そのとき、冥夜の肩に他人がぶつかり、彼女はよろけそうになった。

 「それにしても、今日は人が多いな。
 何か催しでもあるのだろうか?」
 「いや今日は休日だし、どこもこんな感じだろ。
 冥夜はこういうとこ、来たこと無いのか?」

  武の問いに腕を組み、歩きながら少し考えてみる。

 「水族館というものは“作る”ものであって、“来た”のは今日が初めてだ」
 「……どんだけだよ」
 「ど……ん、だけ?」

  冥夜は、武の言葉の意味が掴めなかったのか首を傾げた。

 「……とっても凄いな、という意味だよ」
 「そうなのか。 ふふっ、そなたにそう言われて、私は嬉しい」
 「ははっ」

  ―――どんだけ~。
  武は苦笑いを浮かべ、小さく息を吐いた。

 「水族館じゃなくてさ、こう人が集まる場所っつーのか?
 遊園地とかは行ったこと無いのか?」
 「うん、遊園地ならば一度行ったことがある。
 だが、あのときは貸し切りで、他に人はいなかったな」
 「貸し切り? マジで?」

  武の問いにコクッと首が縦に振られる。

 「一度でいいから、こう人の集まる場に来てみたいと思っていたのだ。
 こういうのは人がいた方が楽しいのだろう?」

  武は人のいない遊園地や水族館を思い浮かべてみた。
  ……確かに寂しい気がするな、と何となく感じる。

 「そうだな」
 「何より今、私の側にはそなたがいる。
 一人ではない。 そなたが、側にいてくれている。
 これ以上に幸せなことはない」

  ―――おいおい。 そんな恥ずかしいことを堂々と。
  満面の笑みを浮かべて「幸せだ!」と言う冥夜を注視できなくなって、武は真正面へと顔を向けた。
  ……ふと、まったく見知らぬ男がこっちを見ているのに気がついた。
  それも一人ではなく、何人もだ。 武は「何だ?」と疑問に思いつつ、下あごに触れる。

 「あっ、タケル。 あの魚は何であろうか?
 綺麗な色をしているが」

  横にいたはずの冥夜が足早に追い越していき、自分の前に出る。
  その瞬間、こちらに向けられたと思っていた男達の視線が、一人の例外もなく動く。
  ……そう、目の前の冥夜へと。

 「ああ、そうか」

  武は一瞬で納得した。 みんな、冥夜に注目しているのだ、と。
  理由は彼にも分かっている。 こんな美女が歩いていれば、みんながみんな振り向くのは当然だ。
  彼は、ガラス越しに小魚達を眺める冥夜の側で立ち止まった。
  水の蒼色が彼女の笑顔に反射し、とても幻想的な光景がそこに現れている。
  テレビで見る芸能人などものの数ではない。 少なくとも武にはそう見えた。

 「…………」

  そんな光景を見せられれば、武でなくとも考えるだろう問いが、彼の頭に浮かび上がる。
  『なぜ、冥夜は俺の側にいるのか』
  その問いが電撃的に彼の脳内を駆けめぐっていた。
  冥夜が彼の家にやって来た当初こそ、理由も何も分からないので気味悪かったりしたが、
 最近は彼女がいるのが当たり前になってしまっていて、そんなことを考えたりもなかった。
  しかし改めてその問いが自身に突きつけられると、彼の頭はひどく混乱してしまう。
  何の身に覚えもないのだ。 さすがに自分がアラブ王の忘れ形見だとか、そんな漫画みたいな話を
 信じられるほど彼も子供ではない。

  武はそのとき、この謎を彼女に直接問いたいという欲求に駆られる。
  だがしかし、それを実行することは憚られた。
  冥夜が彼の家へとやって来て、もう一ヶ月近く。 その間、彼女が言おうと思えばいくらでも言うチャンスはあった。
  それなのに話をしないということは、何らかの問題があるのではないかと彼には思えたのだ。

  ―――だが、このままってのも、な。
  理由の不明から来る気味悪さと、それを聞いていいのかという不安が彼の中で、均衡を保ちつつ圧迫し、しかしこの状態を
 いつまでも続けるわけにはいかないという思いもまた、彼に重くのしかかるのであった。

 「―――タケル」

  ふと、冥夜の声が聞こえた。
  その方を向くと、彼女は水槽を見たまま、言葉を繋いだ。

 「その……面白い、か? 
 時間を無駄に使わせていないだろうか?」
 「どうしたんだよ、突然」

  冥夜は水槽に手を伸ばし、顔を俯けた。

 「私は、その、恥ずかしながらデェトなるものは初めてなのだ。
 殿方と女性が、楽しく過ごすのがデェトなのだろう?
 だが、そなたはこう……無口になることが多いように見える。
 何か別のことを考えているようだ」
 「うっ」

  武は頭を軽くかいた。 確かに自分の行動をふり返ってて見ると、色々考えている時間が多いように思えた。

 「いや、気にするなよ。
 なんつうか、俺も慣れてる訳じゃなくてさ。 それに色々と急だったしな」
 「……そうだな。 私も真璃から言われなければ、デェトとは考えもしなかっただろう」

  だろうな、と武もそう答えた。
  ふと、冥夜も謎だが真璃もそうとう謎だな、と武は思う。
  突然ベッドの中にいて……まあ、それは冥夜も同じではあったが……しかも、自分と冥夜の娘であるとまで言うのである。
  しかも事あるごとに武に対し、「父様」と言って関わろうとするのであるから、また厄介である。

 「でも、あいつも唐突だよな。
 俺たちをデートさせようなんて」
 「そうだな……ふふっ」

  冥夜は思わず、小さく笑う。
  武はそれを不審に思い、どうした?と聞くと、

 「昨晩、様々なことを真璃から聞いた。
 私とタケルがどのように出会ったのか。 そして、どのように通じ合ったのか。
 ふふっ、それは愉快だった」
 「へえ、どんな話だったんだ?」

  武がそう聞くと、また何か思い出したのかクスクスと冥夜は笑う。

 「私とそなたが初めて出会ったのは、横浜基地……おそらく白稜のことなのだろうが、そこでだと聞いた。
 私と榊達が昼休みにバレーボールをしていて、そこにそなたが突然現れたというのだ」
 「へっ。 ちょっと待て、冥夜と委員長達がバレーしてて……そこに俺だって?
 委員長達とも初対面って事か?」
 「うん、そうだ。 私と榊達が同じクラスメイトで、そこにタケルがやってきたというのだ」

  はぁ~っと武は嘆息を漏らした。
  千鶴や壬姫、美琴や慧がクラスメイトとして当たり前にある現実で、彼女たちが「初対面」になるとはどんな気分なのだろう?と、
 武は疑問を持たざるを得なかった。

  ―――とりあえず、委員長の小言を聞く機会は減るか。
  それはそれで良いことかもしれない、と彼は頷いた。

 「それで、他にはないのか?」
 「他……か、そうだな。
 初めての授業のとき―――」

  そこからは、彼にとっては格好悪い話ばかりであった。
  武が初めての授業で10km走らされ、グラウンドに顔から倒れ込んでいたこと。
  他の授業でも周りにまったくついていけず、迷惑ばかりかけていたこと。
  総戦技演習という試験では、何故か武の体調が悪くなり、試験突破が難しくなったこと。
  そんな武を、どうやって自分たちについていけるようにするか、冥夜達が一晩かけて議論したこと。
  まあ、つまり「失敗談」のような話が繰り返されたわけである。
  そんな話を聞いた武は、

 「いや、さすがにそれはない」

  と苦笑いを浮かべた。

 「俺がたまに体力で負けるはずねえじゃん。
 彩峰がマジメに出席? ありえないって」
 「ふふっ、確かにな」
 「ていうか10km? そんなの体育祭でも走らないぞ?
 ソウセンギ何とかってのもさ~~、南の島って修学旅行か何かか?
 わけわかんねえ」

  首を振り、よく分からないと答えるしかない。 彼にとって、冥夜の話は意味不明なのだ。
  冥夜も「同感だ」と相槌をうった。

 「でもよ、仮にその話が本当だとして、失敗ばかりだな、俺。
 さすがに純夏には負けねえと思うんだけどな~」
 「そういえば、鑑はいないと言っていたな。
 理由はよく分からんが」
 「……マジ?」

  ―――あいつだけ仲間はずれかよ! カワイソーなやつ!
  武はニヤニヤとあざけるように笑みを浮かべた。
  「何だよー!」と抗議する純夏の顔が浮かぶと、さらに笑みを強め「ざまーみろ」と返す想像が自分でも可笑しいと思った。

 「ははっ。 あいつがいねえんじゃ、しょうがねえか。
 さすがに冥夜や委員長に勝てる気はしねえし」
 「でもタケル。 真璃はこうも言っていたぞ。
 タケルは諦めなかった。 最期は必ずやる男だった、と……母が言っていたというのだ」
 「……そっか」

  何か気恥ずかしくなって、鼻で笑うと武は視線を前に持っていく。
  目の前では黄色の小魚がたくさん泳いでおり、彼の目を楽しませる。
  彼は今、『やっぱり真璃が娘というのは間違いだろう』と考えている。
  おかしいのだ、彼女の言動が。 
  彼が真璃から聞いたのは、せいぜい武が兵隊として生き、ロボットで宇宙人と戦争し、冥夜と付き合い、
 そして生き別れたという程度のものだ。
  戦争? 兵隊? ロボット? 宇宙人? それだけでも訳の分からない話ばかりなのだ。
  そんなことは「ありえっこない」話である。 アニメや漫画くらいでしか聞いたことがない彼にとっては。
  だから「そんな世界で自分や冥夜が生きていて」しかも「付き合っていた」など、想像すら出来ないのである。
  だから今、その非現実性ゆえに、彼は緊張が解れた気がした。

 「ははっ、それにしても俺が冥夜達と初対面ってのはウケルよな。
 逆だろう、それは。 俺たちが冥夜と初対面なら分かるけどよ」

  武はそう言いながら、彼女へと顔を向けた。
  ただ何となく、軽い気持ちだった。
  と、そのとき、彼は言葉に詰まる。
  冥夜の表情が、消えたのだ。 一瞬のことではあったけれど、確かに彼女から感情が見えなくなった。
  武はそれに圧され、一瞬言葉に困ったのだ。

 「―――違うぞ、タケル」

  冥夜はその何も感じさせない表情から、ゆっくりと否定の言葉を紡ぐ。
  そして水槽から淡い光を浴びながら、

 「違うのだ」

  もう一回だけ呟くと、彼女は顔をまた水槽へと向けた。

 「めい……や?」

  彼ははじめ、何に対して冥夜が「違う」と言ったのか、よく分からないでいた。
  すぐに自分の言葉……「俺たちが冥夜と初対面なら分かる」という言葉を思いだし、彼は思い至る。
  ―――まさか、俺と冥夜は以前に会っている?
  だが「いつ、どこ」で会っているのか、まったく分からない。
  武はいてもたってもいられなくなって、彼女に答えを聞こうとした。

 「冥夜、俺たちって前にも…………」

  問いかけようとした瞬間、光が、彼の顔を打った。
  水槽を向くと、光がまるでシャワーのように降り注ぎ、魚たちがその光に合わせるかのように、形を作っていた。
  それはまるで、小魚達の『クリスマスツリー』のようである。
  蒼と銀がきらめく、その美しさに彼は自分の言おうとしたことを止めざるをえなかった。

 「……美しいな、タケル」
 「あ、ああ」

  彼は自分が、冥夜に問いかけるタイミングを失したことに気づいた。
  聞くなら今しかなかったのだ。 冥夜が自分のことを露わにした、あの瞬間に。
  それを惜しいと思いつつ、武はその機会を失敗させてしまったことを自己嫌悪した。

 「……タケル」

  ふと、彼の手を包む何かを感じる。
  それは冥夜の小さな手であった。 そこには笑みを浮かべ、こちらを見る冥夜がいた。

 「私からは何も言えぬ。 だがタケル、信じて欲しい。
 私はそなたを信じている。 ずっと、ずっと信じている……」

  そのとき、武は彼女が笑顔でいたにもかかわらず、
  何故かとても悲しそうに見えて、何も答えることが出来なかった。





 「は~~」
 「どうかしたんですか、月詠さん?」
 「いえ、こちらの話です」

  二人の様子を柱の影で見守っている二人。 もちろん、真那と真璃の両名である。
  当初こそ「なかなか良い雰囲気ではないか」と頬を染めて見ていた二人だったが、徐々に空気が強張りだした。
  真那は冥夜の言葉を読唇術によって解し、状況を不安に思ったのだ。
  「秘密」が漏れるのではないか、と。

  ―――あの子達を送ってよかったわ。
  チラッと水槽へと目をやる。 中では巨大なサメに追われる雪乃が見え、また別のところでは巽がアザラシに求婚され、
 最期に武達の方を見ると、美凪が寒そうに歯をガチガチとさせながら電光灯を武達に照らしていた。
  その光に誘われ、小魚達がクリスマスツリーのように集まったというわけだ。
  おかげで話も脇にそれ、秘密がばれることも無くなった。

 「ごぼ! ごぼぼぼ……!(助け、助けてー)」
 「は、肌が黒いからって、こんな仕打ちはあんまりだー!」
 「うぅ、さ、寒いです~」
 「うーん……哀れだ」

  三バカの様子を見るに、真璃は目から雫を落とさずにいられなかった……という程でもない。

 「それにしても、今日は本当に人が多いですね。
 何かお祭りでもやってるんでしょうか?」
 「えっ? いえ、休日ならばこういうものではないでしょうか」

  真璃は辺りをキョロキョロと見渡した。
  周り中、人、人、人だらけである。 彼女はこんなにたくさんの人間が集まるのを、祭りなどのイベント以外で見たことがない。
  まるで田舎から出てきたばかりの人間の如く、彼女は「は~っ」とその数に驚くしかなかった。
  そうして辺りを見渡すと、実に様々な人達がいることに気づく。

 「ほらほら孝之、遙! あれあれ!」
 「うわぁ~、キレイだね~。 孝之君もそう思うよね?」
 「ん? ああ、そうだね」
 「…………」

  ―――女性二人を侍らせるんじゃなくて、きちんとどちらか一方を選ぼうよ。
  ポニーテールの女性と、のほほんとした天然っぽい女性、そしてその二人に挟まれている男を見ながら、
 何故か真璃は少し苛ついて、そんなことを考えたりした。
  そうして視線を別にずらすと、

 「待ちなさい、克輔君、和範君! もう、どこに行く気なの?」
 「弥凪子先生、もっと楽しんだ方がいいって! なあ、和範」
 「まっこと。 俺もそう思うが」

  ―――学校の教育研修か、何かかな?
  中学生と思える制服を着た二人が、スーツ姿の女性から逃げている。 教師だろうか?
  真璃は、そういえば自分も研修中はよく抜け出して、夕呼から大目玉をくらったな、という記憶を掘り起こした。
  夕呼の大目玉はたいてい人体実験だったが……真璃は、スーツの女性の、怒っているはずなのにそこはかとなく
 感じられる優しそうな雰囲気から「まさか、そんなことはしまい」と思うのだった。

  真璃は、そうして色々な表情を見ていって、ふとあることを感じた。
  彼ら彼女らには、まったく悲壮さの欠片すら見当たらない。 必死さもない。
  みんな「当たり前」のように平和を謳歌している。 そのように彼女には見えた。
  彼女からすれば、それは今まで気づかないことだった。 BETAに侵略された地球にしても、自分の故郷にしても、
 みんな今日を生きる中で何らかの悲壮さ、「切実に」生きるという切迫感があったように思える。
  別にそれについて何かしらの感想を持つとか、そんなことはないけども、ただ彼女は「感じた」のだった。
  そして何の意識からでもなく、自然に彼女の口から、

 「……平和っていいなぁ~」

  と、世界を賛美する言葉が漏れた。
  そうして言葉を紡いだ真璃は、すぐに意識を現実へと集中させる。
  それから水槽に寄りかかり、真那の方へと目を向けた。

 「それにしても、綺麗なところですね~。
 すごく神秘的だし、魚もキラキラしてるし」
 「そうですね。 真璃様は、水族館は初めてなのですか?」
 「はい。 というか、こういうのを見たことが初めてですね。
 ん~~っ……こんな素敵なところだったら、彼氏でも作って何回でも来たいです」

  そうですか、と真那は武達の方を観察しながら返答した。

 「でも流石ですよね、月詠さんって!
 こんな良いところを知ってたんですもん。 こういうのに慣れてるんだな~って分かります」
 「? 何がでしょう?」

  武達から真璃の方へと首が動く。

 「またまた~、デートのことですよ~。 月詠さんって、すごく美人だし、こういうのは完璧なんでしょう?」
 「(ピキィ)…………」

  首が、途中で回らなくなった。
  真那は汗をダラダラと額から落とし、10秒程度、そのままの状態で固まってしまった。
  ……ギギギと再び武達の方を向いて、絞り出すように、 

 「え、ええ。 まあ」

  とだけ呟く。 それが限界であった。
  一方の真璃は「やっぱり~」と言いつつ、武達の方へと目をやった。
  手を繋ぐ、武と冥夜。 それを見ながら、真璃は穏やかな笑みを浮かべていく。

  バーナード星系で、ずっと冥夜から聞かされた。
  二人で地球を眺めながら、武――父が、どんな人であるかをじっと聞いた。
  母は父を愛していた。 母と別れて十年近く経っても、それは強く思い出せる。
  だから彼女は今、とても落ち着いて二人を見ていられる。 彼女にとって、自分の目の前で仲睦まじく在るこれこそが「普通」なのだ。
  ましてや見たことも聞いたこともない“純夏”なる人物が、どうして二人の間に割り込むことが出来ようか。
  彼女はそんなことを考え、ニヤニヤと笑みをたたえつつ、この状況を純夏に見せてやりたいとまで思い始めていた。
  父と母の“運命”を、何者にも干渉出来ない“運命”を見せつけてやりたい、と。

  そんな邪な感情が湧きつつも、武を見るたびに彼女は「申し訳ない」という感情に襲われた。
  純夏と話していたこと、彼女に優しくしていたことを真璃は「母に対する裏切りだ」と先日、思ったわけだが、
 今目の前にある現実を見るに付け、それは誤りだったと思い始めたのだ。

  ―――そうだよね、父様が母様を裏切るわけないもんね。
  それが彼女の正直な感想である。 武が優しいというのは、母である冥夜から何度も聞いている。
  そう、先日の出来事を真璃は「“可哀想な純夏”を“優しい武”が“救って”やったのだ」と考え始めているのだ。
  どうせ武と冥夜の二人は必ず結ばれるのだから、疑う必要などなかったのだ、と彼女は目の前の情景から察する。
  だから武に申し訳なく思うのだ。 疑ってごめんね、と。

 「……良かったね、母様、父様。
 二人とも、すっごく幸せそうだよ」

  真璃は談笑する二人を眺め、まるで自分もその参加者のように幸せだった。
  BETA、戦争によって引き裂かれざるを得なかった二人。 けれども、絆だけは確かに繋がっていた。
  その絆が今、望まれたままに現れている。 その現実が彼女には嬉しかった。

  ……しかし、
  当然のことながら、「この世界」は真璃のいた世界ではないし、
  彼女の知る絆もまた、「この世界」のものではないのが現実であった。

 「―――あら?」

  真那が持っていたバッグから、突然音楽が流れ始めた。
  バッグを開け、中から携帯電話を取り出す。 そして「もしもし」と声をかける。
  真璃は彼女の様子に気を取られることなく、ただ静かに武達を見続けていた。





 「―――ではタケル、私は少し席を外させてもらうぞ」
 「んっ、どうかしたのか?」
 「……手洗いだ」

  二人は今、水族館の外に出てベンチに腰掛けている。
  武は人混みの中からようやく抜け出すことが出来て、フーッと一息つく。
  冥夜も手に持っていたバッグを置き、武に一言伝えて、その場から離れた。
  そして彼から影になって見えないところへ来ると、

 「ふむ……これがデェトなるものか」

  歩きながら冥夜は、一日がとても短いな、と感想を抱く。
  彼女にとってはもう昼時なのだ。 武と過ごせる時間が、とても充実していると思えた。
  今日という一日を意図したのが自分ではなく、真璃であったというのが彼女にとっては気にかかるが、
 それも充実した時間を過ごせたことを思えば大した問題ではない。

 「真璃には感謝せねばならないな」

  ふと、彼女の横を5歳くらいの男の子が走り抜けていった。
  その子が目につくと、すぐにその後を女の子が追いかけていく。
  冥夜は一瞬、その女の子が『昔の自分』のように思えた。
  とても小さくて、歩くのも遅くて、あまりにも無知な幼な児。
  冥夜はあの頃に比べて、とても大きくなった自分の両手を、じっと見た。

 「『大人になれば色々なことが出来る』……か。
 ふふっ、確かに今の私は色々なことが出来る」

  そして、横の柱に体を預け、冥夜は微笑みを佇ませながら天を仰いで呟いた。

 「あの頃の約束を、果たすことが……」
 「冥夜様……」

  ハッと前を見る。
  そこには表情を強張らせた真那の姿があった。

 「……どうした、月詠」
 「冥夜様、御剣宗家からたった今連絡が入りました。
 外交交渉について、冥夜様に役目を預ける、と。
 至急、お発ちの準備を」

  真那は途中、幾度か言葉を詰まりかけた。
  申し訳なさと悲しみが混じった彼女の表情に、冥夜は一瞬でことの重大さを理解する。
  そして何があったのかあえて聞かず、「分かった」とだけ答えた。

 「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 「真璃?」
 「真璃様……」

  息を切らして駆け寄り、冥夜達の前に立ちはだかる真璃。
  そして必死に、彼女たちに訴えかけた。

 「なんで! 突然、何でですか!?
 せっかく父様と母様、いい感じじゃないですか!
 なんでそれを邪魔するんですか!」
 「真璃……」

  冥夜は腕を組み、顔を険しくさせて彼女の言葉をただ受け止めた。
  その横に立つ真那が、静かに口を開く。

 「……本日、インドからシャルマー外交相が長女であるミラ様を連れて、極秘裏に来日されました。
 インド政府はさる1998年、国際社会からの反発も厭わず核実験を強行。
 それにより、日本をはじめとする各国から経済制裁を受けています。
 当然、我が御剣財閥も早くから非難を行っていました」

  真那は、冥夜がなぜ緊急に呼ばれたのか、その背景や事情を事細かに説明していく。
  説明を受ける真璃は幾度も、何か言いたそうに口を開くが、説明が続くので言葉を発することが出来ない。

 「そうして制裁を受け続けているインドは、今年に入ってテロリストの跳梁跋扈と天災、様々な事情が重なり、 経済を
 疲弊させ続けています。 結果、総務省統計局の発表では経済成長率は8年ぶりに5%を切り、経済の立て直しが必須と
 なったのです。 そこで日本から援助を頼もうと、来月にはインド首相の来日が決定しています。
 シャルマー外相の日本訪問は、それに先んじてのものであると予想されます。
 家族旅行、が名目ではありますが」

  まるで台本でも用意されていたかのように発せられる真那の言葉。
  真璃はその無感情な口調に、苛立ちを隠せないでいた。

 「でも、でもなんでそんなこと、母様が関係あるんですか!」
 「……日本政府との交渉、その仲介に私を選んだのだろう。
 シャルマー家とは大学時代からの縁もあるからな」

  ようやく冥夜も口を開く。 その表情は全てを理解したかのようだ。
  しかし一方の真璃は、納得出来ないようだ。

 「だからって、なんで母様が行かなきゃいけないんですか!
 そんな訳の分からないことなんか、放っておけばいいんですよ」
 「真璃。 インドでは毎年、多くの貧しき者が苦しんでいる。 幼子であるのに働く者、奴隷のように働かされる者、物乞いをする者、
 中には餓死する者までいる。 インド政府が行った核実験は決して許されるべきではないが、彼らには何の罪もない。
 ……これはチャンスなのだ。 核の管理、そして貧者への援助を達成するための。
 そのために私の力が今、求められているのだ」

  それだけ言うと、冥夜は真璃に背を向ける。
  真璃は両手を強く握り込みながら、絞り出すように声を発した。

 「父様は……父様は、どうするんですか?」  
 「……武にはそなたから伝えてくれ。
 “すまない。 しかし今日は楽しかった”、と」
 「!!」

  突然、真璃の脳裏に純夏の顔が浮かんだ。
  その表情はまるで自分をあざけるようだと彼女に思え、刹那、冥夜の腕を掴んでいた。
  冥夜をまだ引き留めようとしたのだ。

 「ダメだよ! 行っちゃダメ!
 母様は父様の横にいなきゃ、絶対にダメ!」
 「…………」

  冥夜は何も返さなかった。
  彼女はただ真璃から顔を背け、じっとし続けている。

 「もう……もう、母様と父様が引き離される必要なんて、どこにも無いんです!
 BETAもいない、戦争もない、それなのに、どうして!?」

  真璃はわめき散らした。 自分の感情をただただ吐露し続けた。
  そして言ってはならないことまで、彼女は吐き出してしまう。

 「母様は父様のことを、好きだったんじゃないんですかっ!?」
 「!!」

  その瞬間、冥夜は真璃に掴まれた腕を力ずくで引きはがした。
  そしてキッと真璃の方を見据え、

 「いい加減にせよ、真璃!」

  と叫んだ。 

 「そなたの母は、自分のためならば他者を見捨てるような人間だったか!?」
 「……!?」

  ハッ、と真璃は思い出す。
  自分の記憶にある冥夜は、伝染病に苦しむ人々を守るために戦い、亡くなったことを。

 「もしそうであるならば、そなたの母は私ではない!
 私は御剣冥夜だ。 その責任は、絶対に放棄されるわけにはいかないのだ!」

  そうして再び、冥夜は真璃に背を向ける。

 「……それに、私は信じている」
 「…………」
 「私は、タケルを信じている」
 「!! か、母様」
 「月詠っ! 行くぞ!」
 「はい、冥夜様。 真璃様、失礼させて頂きます」

  真璃をおいて、早足でその場を後にする二人。
  初めこそ追いかけようとした真璃であったが、何歩かして立ち止まる。
  母である冥夜は、決して他者を見捨てることはしない。 言われたように、そう彼女も思ったのだ。
  自分のことだけを考えるのは確かに母のすることではない、と。
  しかし納得のいかない自分がいるのも感じられた。
  この世界が『夢』の世界である真璃にとって、なぜ冥夜が再び武から引き離されなくてはならないのかと
 現実に不満をぶちまけたかった。
  BETAもいない。 戦争もない。 武と冥夜が別れる必要はないのだと、何度も自分の中で反芻される。

  ……そのとき、バーナード星系で悲しそうに地球を見上げる母と、
  一方、笑顔で武の側にいる純夏が連続して脳裏に浮かび、

 「―――ちくしょう」

  真璃は歯を軋ませた。

 「……冥夜様と真那様、行っちゃったね」
 「行っちゃったね」
 「行っちゃいましたね~」

  ……どこから現れたのだろう。 巽、雪乃、美凪ら三バカが気づくと真璃の側に立っていた。

 「私達って、これからどうすればいいんだ?」
 「どうしよう?」
 「どうしましょう~?」

  呑気に会話を続ける三バカ。 真璃はまったく意に介せず、ただ立ちつくしている。

 「でもさー、シャルマーだかシャマルだか知らないけど、せっかく良い雰囲気だったのに、台無しにしてさー。
 ホンット腹立つよな」
 「だよねー」
 「ですわね~」

  三バカは地団駄を踏み、インド外相を非難しつつ冥夜を哀れんだ。

 「何かいい方法ない? デートを続けさせるための」
 「……会談をメチャメチャにするとか?」
 「……真那様達に殺されますわ~」

  ヒ~ッと体を震わせ、雪乃の案は却下された。

 「武様を会場まで拉致するとかどーよ?」
 「宗家の人になんて説明するの?」
 「そもそもどこで行われるか、ご存じですの~?」

  さあ?と肩をすくめる巽。 はあ、と残りの二人が溜息をつく。

 「じゃあ、どうするよ」
 「どうしよう」
 「ん~、偽者を用意するとかどうでしょう~。
 そうすれば冥夜様はデートを続けられますわ~」

  いい案だね!と巽と雪乃が頷いた。
  しかし、すぐに同じ問題に行き着く。

 「でも、会場知らないんだよね」
 「そうだったね」
 「そうでした~」

  はあ、といい案に巡り会ったにもかかわらず断念せねばならないことが分かり、三バカは大きく溜息をついた。
  ……とそのとき、巽の目に横で立ちつくしている真璃が映る。
  ―――身長、体格、髪の長さ、顔の輪郭
  どこかで見たことがあるような感じがし、巽はんーっと傾げる。
  そしてそれが、自分達が求めていたものであることにピーッンと気づき、

 「……あのさ」

  と、残りの二人に自分の思惑を伝える。
  そして三バカはいつもの通り、
  絶対に成功しないであろう馬鹿なことを、
  今日もまた良かれと思って実行しようとするのだった―――









[3649] Scene 3 「Waxing and waning」 ②
Name: 葉月◆d791b655 ID:3bc8583b
Date: 2010/11/18 00:55



 「―――あっ! あったよ、母様! 父様あった!」
 「んっ、そうだな。 ふふっ、父様を見つけるのがずいぶん早くなったものだ」

  地平線が見えるほどの広大な草原。 仰ぐと、無数の星がきらめく宝石箱のような空。
  柔らかな風に打たれ、しなる草を踏みしめながら、小さな真璃は冥夜と手を繋いで一緒に夜空を見上げていた。
  遠く遠く、本当に遠く離れたバーナード星系。 彼女たちはそこから、父である武に語りかけていた。

 「父様ー! 私、明日から小学生だよー!
 背もこんなに伸びたんだよー!」

  幾つも輝く星々の中、たった一つの『父様』に向かって、真璃は自分の姿が向こうから見えるように腕を拡げた。
  そしてずっと向こうの『父様』へ聞こえるよう、大きな声をあげて自分の成長を誇らしく語った。

 「そなたに似て、とても手のかかる娘だ。 年を経るごとに、よりタケルに似てくる」
 「え~!? 母様、ひどいよー!」

  ポコポコと太腿を叩いて抗議する真璃に対し、冥夜は「冗談だ」と微笑みながら、彼女の頭を優しく撫でた。

 「だが似てきたのは本当だ。 どんなことがあっても、真璃は真っ直ぐにあろうとする。
 そして、諦めずに前へと進む。
 タケル……この娘はとても、そなたに似ているぞ」

  その言葉を聞いて、エヘへッと嬉しそうに笑みが浮かぶ。
  ふと、風が吹いて乱れる真璃の髪。 冥夜は腰を落とし、髪を整えてあげると、両手で優しく頬を包む。
  彼女が「暖かいか?」と問うと、真璃は「うん!」と大きく頷いた。
  そして互いに笑みを交差させ、クスッと小さく声をあげる。

 「エヘヘッ」
 「ふふっ」

  それから二人は、もう一回『父様』の方へ顔を向けた。
  小さく輝き、他の星光と何ら変わらない。
  しかし彼女たちにとって、それは他とまったく違う、かけがえのない大切な光。
  唯一無二の『白銀 武』。 その証に他ならなかった。
  二人はしばらくの間、その光をじっと胸に刻み続けた。

 「……さあ、戻ろう。 明日の学校に遅れてしまう」

  立ち上がり、そう声をかける。
  真璃は頷くと、二、三歩前に出て、『父様』に向かって手を伸ばした。
  そして今夜もまた、いつもの言葉で終えるのだ。
  何年も繰り返した、あの言葉で。

 「父様ー! またねー!」

  冥夜はそんな真璃を優しく見つめている。
  そして、一目でいいから真璃に、それから武にも見せて上げたいと思う。
  自分たちが生き、みんなが戦い続ける人類の故郷。 立派に成長した、自分たちの可愛らしい娘。
  真璃が『地球』に手を振る姿を見るたびに、冥夜はそんなことを考えるのだった。
  そんなことは絶対に敵わない、敵ってはならない願いだということは承知の上で。




 「―――うば~~」

  武は水族館のベンチに腰掛けて、なおも冥夜を待ち続けている。
  真っ青な空を仰ぎ、時折、何の脈絡もなく意味不明な声をあげた。
  冥夜が「手洗いだ」とこの場を離れてから、すでに30分近く経つ。
  本来の武ならば、堪忍袋の緒がとうに切れているはずなのだろうが、今回はそうではなかった。

  彼はずっと、先ほどのことを考えていた。
  水族館で冥夜が見せたあの表情。 いつも凛として、しかし機微が豊かな顔を見せる彼女から、完全に表情が消えた。
  その無表情の印象が強くて、今もありありと思い出せる。
  そして、その後に見せた泣きそうな笑顔が、武の心を離さない。
  だから「なぜ彼女があんな表情を見せたのか」、彼はずっと考え続けている。

 「……俺と冥夜って、会ったことがあるのか?」

  必死に記憶の引き出しから探る。 しかし冥夜の存在を、彼は見つけることが出来なかった。
  会っていれば忘れるはずがない、あんな印象強い女性を……それが武の本音であった。
  御剣財閥という世界的企業の跡取りであり、他者とは一線を画す美しさを持ち、かつ、これまで会ったことがない性格。
  それらを備えた冥夜を、どうして忘れるというのだろう。

 「……うば~」

  ―――考えすぎて頭イテェ。
  再び奇声をあげて、眉間を抑えながら顔を下ろす。
  そのとき、近くで足音が聞こえた。

 「冥夜?」

  音のする方を向く。 すると、向こうから走ってくる女性の姿が見えた。
  それは冥夜のように思えた。 だが、何故か違和感が湧く。
  彼女は走りつつも、なぜかぎこちない様子だった。 まるで初めてそのブーツを履くかのように。

 「……あ」

  そして、やっぱり転倒する。 顔から転倒し、地面に向かって大の字を描いた。
  武はすぐさま彼女へと駆け寄った。

 「おいおい、大丈夫かよ」
 「アイタタタ……」

  ゆっくりと顔を上げる。
  そこに見えたのは、鼻を手でおさえて涙ぐむ“冥夜”の顔だった。
  なのに、どうも違和感を消せない。 何か違う、と武は首を少し傾げた。

 「イタタ。 もう~、だから履き慣れてないって言ったのに……って」

  彼女は武の顔を見るやいなや、ギョッと表情を強張らせ、まるで跳び上がるように全力で立ち上がる。
  そして素早く腕を組む。 先ほど打った鼻が、妙に赤くて印象深い。

 「やや、やはり、履き慣れていないと走るのは難しいな。
 そそそ、そう思うだろう。 た、た、タケ……ル?」

  顔を真っ赤にして言葉を発する。 
  何故か落ち着きがなく、言葉もたどたどしい。

 「いや、なんでそこが疑問形なんだよ。
 しかも俺に聞かれてもな……ん?」

  そのとき、武は彼女の服がさっきまでと異なることに気づいた。
  今、彼女が来ているのは先ほどまでとは違い、白のワンピース、そして首にマフラーを巻いたものだ。
  さっきまでの冥夜は、どちらかと言えば凛々しい彼女にピッタリな黒を基調とした服装であった。
  しかし今、彼女は真っ白な可愛らしいワンピースでいる。 意外にも、彼女の雰囲気に合っていた。
  単刀直入に言えば「なかなか似合う」と武は考えたわけだ。

 「って、違うだろ」

  武は「おかしいと思うところはそこじゃない!」と心中でツッコミを入れ、

 「冥夜。 さっきと服装が違うけど、どうしたんだ?」
 「へっ!?」

  彼女は突然オタオタし始める。
  武はその様子を、不思議に思いつつじっと眺めた。
  彼自身は、いつも破天荒な冥夜のことだから、また何かあったのだろう程度の軽い気持ちで聞いただけなのだが。

 「あ、あ、あれだ。 何というかその、つつ、つまりだな」
 「何言ってんだ」
 「あうぅ」

  ますます顔が赤くなっていく、このままでは周りとの温度差で湯気が生まれるのではないかと思うほどだ。
  武はだんだんと目を細め、疑惑の視線を強めていく。 それは彼女にも理解でき、ますます混乱の度合いを増す。

 「だ、だから! それは……」
 「それは?」

  彼女は大きく深呼吸し、胸に手を当てる。
  そして武に向かって、叫ぶように言い放った。

 「き、気分だ!」
 「……」
 「……」

  ―――ハッ?
  一瞬、二人の間で空気が凍った気がした。
  意味が分からない、という感じだろう。 武は口を半開きにしたまま、動かないでいる。

 「あー。 気分か」
 「そ、そうだ! 気分で服を替えるくらい、誰にでもあるだろう!」
 「いやいや」

  “普通、デート中に服を替える奴はいない。”
  武の判断は正しい。 一般人からすれば、常識である。
  その良識でもって、彼女に反論しようとするが、そこで武の頭に、あの言葉が思い浮かんだ。
  そう、彼女は“御剣”であるということを。

 「……御剣のすることは、よく分からねえ」
 「そうだろうな。 うん、きっと分からぬ」
 「認めてどうすんだよ!」

  彼女のことを意味不明なやつだとは思っていたが、まさかここまでとはと頭が痛くなってくる。
  だが一方の彼女は上手くはぐらかせたと思ったのか、ニコニコと笑みをたたえている。
  それを見て、さらに武は頭を抱えた。

 「一般庶民にはついていけねえ」
 「いいではないか。 気にしたら負けだぞ」
 「自分で言うな……って」

  武が溜息を漏らしているところに、突然腕を組んでくる。

 「おまっ、いきなり何を」
 「こ、これからデートの続きなのだろう?
 ならば、こうするのが当然ではないか」

  組む腕の力を強めながら、ニッコリと武に笑いかける。

 「あのな……って、そんなにくっつくなよ」
 「こうしていると互いに暖まれるだろう?」

  密着がさらに強まり、武は正直、色々なものを肌で感じてしまって大変であった。
  彼女の体の膨らみ、柔らかさ……それらが彼の男としての本能をくすぐり、明確に拒否することを妨げていた。
  彼はイヤイヤながらも、顔を赤くするだけで、力ずくで振りほどいたりはしなかった。
  一方、そんな武の様子を“喜んでいる”と彼女は錯覚し、気をよくする。 そして何より、自分の大好きな人の側にいることが嬉しくて、
 いっそう体を密着させる。
  そしてそのまま、互いに逆方向へと体重を掛け合う二人は、ぎこちない足取りで歩いていった。

 

 「……完璧じゃね?」
 「完璧だね!」
 「パーフェクトですわ~」

  そんな二人を、柱の影から眺めるメイド三人娘、もとい三バカ。
  お気づきだろうが、先ほどの女性は冥夜に見えて冥夜ではない。
  三人がそれぞれのテクニックを使い、背格好の似ている真璃を冥夜へと『変装』させたのだ。
  彼女たちの思惑は単純明快である。
  冥夜がいなくなるのならば、彼女の『影』を作ってしまえばよい。
  そして、その『影』に冥夜の代役をやらせ、武との仲を進展させてしまえばいいということだ。

  真璃自身は当初こそ否定的であったが、化粧や髪のセットが進むごとに反対しなくなっていった。
  一つは段々と冥夜に似ていく自分の姿から、この思惑が成功するのではないかと考えられたからであり、
 そしてもう一つは、彼女の心中に決して負けられない人物がいたからである。
  “鑑純夏”――真璃は彼女のことを思うたびに、「この思惑は絶対に成功させなくてはならない」と考えたのだ。

 「いや~、でも本当にそっくりだね。 びっくりだよ」
 「びっくりだね!」
 「仰天ですわね~」

  さすがにあそこまで真璃が冥夜に似るとは思わなかったようで、三人はほ~っと溜息をつきながら真璃を見ていた。
  見れば見るほど冥夜にそっくりだ。 目の錯覚ではないかと思ったくらいである。
  ともかく、真璃を冥夜に仕立てた三人は、何とか雰囲気を作り出して恋人としての既成事実を作ろうと企むのだった。

 「よ~し! 冥夜様と他一名!ラブラブ大接近作戦スタートだぜーー!」
 「よっしゃ~~!」
 「ファイト~ですわ~~」
 「「「あー、やっと見つけた」」」

  気合いを入れる最中、突然混じる別の声。
  「えっ?」と三人が後ろを振り返ると、そこにはモップを持った中年男性が三人立っていた。

 「勝手に抜け出されたら困るよ。 さっ、次は水槽の掃除があるんだから」
 「ちょ、まっ」
 「君はオットセイに芸の仕込み」
 「えっ? ちょ、ちょっと!?」 
 「ほらほら、エサやりの仕事は終わっていないよ」
 「あ~~れ~~~」

  ……こうして三バカはおじさん達に拉致されて、その企みは数分で頓挫することとなった。
  それをまったく知らない真璃と、何が起こっているのかすら分かっていない武を残して。





  ―――なんで何も連絡が来ないのー!?
  武とともにベンチに座っている真璃は、慌ただしく携帯電話を開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返していた。
  本来ならば、次に何をすべきかという指示が三バカから送られてくる手筈だった。
  それなのに何も送られてこないことに、真璃は非常に焦っていた。

 「どうした冥夜、何か連絡でもあったか?」
 「えっ!?」

  真璃は携帯をバッグに放り込み、「何でもない」と手をヒラヒラさせながら返す。
  それを見ながら武は「そっか」とだけ伝えると、彼女から視線を外した。
  武の少し物憂げな表情を眺めながら、真璃は「やっぱり父様は格好いいな~」と頬を薄紅色に染める。
  彼女から見た武の顔立ちは整い、柔らかな髪が風になびいている。 そしてキリッとした眼は前だけを見据えている。
  そんな父を母が好きになる理由も分かる、と真璃は誰に見せるでもなく二、三度頷いた。
  そして、すぐにため息が漏れた。 自分のなすべき責任の重さに、プレッシャーを感じたからである。

 「……う~」

  もっと場を盛り上げたい、話しかけたいと思いつつも、彼女はそれを行動に移せないでいる。
  何を話せばいいか、うまく思い浮かばないのだ。 彼女はこれまで、異性とのデートなど経験したことがない。
  だから、何を話せば武が喜んでくれるのだろう、楽しんでくれるのだろうと、頭の中がグルグルし、口を開くのが億劫なのだ。
  そんな状況から、彼女は何とか言葉をひねり出した。

 「きょ、今日は暖かいな!」
 「ああ、そうだな」
 「……」
 「……」 

  ―――続かないし!
  ここが人前でないなら、真璃はダーッと涙を流してしまっていただろう。
  へこたれず、次の言葉を考えていると、それを阻む形で武の声が聞こえてきた。

 「……あのさ」
 「えっ? な、何だ?」

  武の方から声をかけてくれたのに安堵し、笑みを浮かべて彼に顔を向ける。
  だが一方、彼の表情には笑みなど浮かんでおらず、何故か、少し緊張感を感じさせる真剣なものだった。
  武は“真璃が演じる冥夜”に向かって、言葉を投げかけた。

 「あのさ。 俺たちって、前にも会ったこと……あるのか?」
 「……へっ」

  真璃は、武の言葉にキョトンとするしかなかった。

 「タケル、何の話だ。 前にも、とは?」
 「冥夜、お前が俺のところに来たのは“10月22日”だよな」

  真璃は真那達から聞かされ、知っている。 武と冥夜が“初めて”出会ったのは、「10月22日」であると。
  それを聞いて、何ら不思議な感じは湧かなかった。 彼女にとっても、父である武と、母である冥夜が“初めて”出会ったのは、
 やはりそれぐらいの時期だったからだ。
  だから何も矛盾などなかった。 少なくとも彼女の記憶においては。
  その意味がまったく異なっていても、事実だけは知っていた。
  その本質を理解していなくても、形式だけは憶えていた。

 「―――俺と冥夜が初めて会ったのは、“10月22日”でいいんだよな?」

  だから武の言葉を、真璃は「自分の記憶」によって理解して、回答してしまった。
  深く考えることなく、自分の行動がどのような結果を生むのか思い至ることもなく。

 「―――ああ、そうだ。 私とそなたは、その日に出会った。
 そして“運命”が始まったのだ」
 「……そっか、そうだよな!」

  大きく息が吐き出され、気分良い表情が浮かぶ。
  それを見た真璃は自分の発言に満足し、嬉しさがこみ上げてくる。

  結局、武が素っ気なかったのは、先ほどの冥夜の言葉と態度が気になっていたからだ。
  今、それが解消され、武は本来の明るさをようやく取り戻したと言っていい。
  その明るさに真璃が安堵してしまうのも、仕方のないことだろう。 経験もなく、緊張してしまって余裕のない現状では。
  だが、そこにあるのは勘違いと欺瞞、自己満足によるものだということを、真璃はまったく気づいていなかった。

  ……武は体を大きく伸ばし、う~っと声をあげた。
  答えが見つかり、開放感を得ているのだろう。

 「まったく、思わせぶりなことを言うんじゃねえよ」
 「? それはすまないことをしたな」
 「ホントだぜ」

  武はベンチに深く腰掛ける。
  悩みが消えて余裕が出てきたせいか、吹く風の暖かさが感じられる。
  ついさっき真璃から気候のことを聞かれたわけだが、そのときはまだ悩みが重く気になって、空返事をしただけだったわけだ。
  そのとき武の体に少しの脱力感と、猛烈にある感覚が襲ってくる。
  今は昼時。 そう、空腹だ。

 「あ~~~~~~、腹減った」
 「!! た、タケル、その」
 「あっ?」

  武の一声に、真璃の目がカッと開いて反射的に手が動く。
  手元にあるバッグから小さめの水色の巾着が取り出されるが、勢い余って手から離れてしまい、
 オタオタと武と真璃の間を二転三転と空を回る。

 「「わっ」」

  武と真璃はその巾着を掴もうと必死になるが、慌てているせいか、なかなか彼らの手の中に収まらない。
  そして、ようやくしっかりと掴むと、二人はホッと溜息をついた。
  二人は互いに苦笑いしながら、

 「……これは、私が引き受けよう」
 「……ああ、そうしてくれると助かる」

  何が入っているのか武は知らなかったが、何となく相手の言うことに従った方がいいだろうと思い、黙って渡す。
  真璃はまるで貧乏くじでも引いたかのように残念な気持ちになりつつ、今度はゆっくりとピンク色の巾着を取り出した。
  それが手渡されると、武は満面の笑みを浮かべながら……そして冷や汗をかきながら、疑問をぶつけた。

 「ええ、冥夜さん。 これは何なのかな?」
 「ん? 弁当だが、どうかしたか」

  やっぱり!と武は手元にある巾着を力一杯握りしめた。 中からは、確かに弁当箱のような質感がある。
  そのとき、掴んでいる弁当が、まるで爆発前の手榴弾であるかのような錯覚を彼は覚えた。

 「つ、月詠さんに作ってもらったんだよな?」
 「安心せよ。 もちろん、私の手作りだ」

  ニッコリと微笑みつつ返答される。
  ぎゃー!と悲鳴が聞こえた気がした。 もちろん、悲鳴を上げたのは武の心である。
  一方、そんな武を気にもとめずに、真璃は箸を取り出すなど準備を進めていく。
  その表情は楽しそうで、今にも鼻歌が口から出てしまいそうなくらいだ。
  彼女からすれば、このお弁当というイベントは「ピクニック」のようなものなのだろう。 先ほどまでは「デート」ということで
 緊張しっぱなしだったわけだが、父親とのピクニックと感じられれば、思い悩む必要はない。

 「冥夜。 お前、料理って苦手だったよな。
 ていうか爆発させてたよな」
 「……あぁ」

  ピタッと真璃の手が止まる。 直後、彼女の体が震え出した。
  昨晩の出来事が、悲劇が彼女の脳裏に思い出されていく。 そのときの恐怖とともに……

  ―――食材を切ろうとしただけなのに、何故か台所が真っ二つに斬られた。 真璃の髪が数センチ短くなった。
  ―――コンロに点火しただけなのに、ファイヤー!と火柱が天井に届いた。 冥夜の前髪が焦げかけた。
  ―――おにぎりを握っただけなのに、轟音とともに爆発が起こり、5メートルほど吹き飛ばされた。 意味が分からなかった。
  
  もはやキッチンなどではなく、戦場だと真璃は思った。 衛士としての能力を最大限使い、生き残ることだけを考えた。
  ……そうして朝日を拝めたとき、どれだけ嬉しかったことか。

 「め、冥夜。 大丈夫か?」
 「……!! す、すまない」

  そんな昨晩の顛末を思いだして、意識が飛んでしまっていたが、武の声で我に返る。
  そして武の方を向くと、真璃は苦笑いを浮かべながら、

 「ま、まあ、何事もはじめは失敗から入るものだ。 試行錯誤を重ねつつ、人は進歩していく」
 「いやいや」

  失敗作を出されても困ると、武は当然のことながら思った。
  不安そうな武を見るに、真璃はそれを取り除こうと、昨晩の成長具合を語ろうとする。

 「心配するな、タケル。 途中からは爆発も小規模に……」

  途中で言いかけて、ハッと自分の手で口を塞ぐ。

 「……今、“爆発”って言わなかったか?」
 「……」

  口を塞いだまま、ブンブンと首を横に振った。
  そして、ゆっくりと口から手を放し、不自然なほどの笑みで、武に答えを返す。

 「料理で爆発など、起こるわけがなかろう」
 「……」

  もはや話にならないと武は諦めの境地に入る。
  そして彼女が巾着から弁当箱を取り出し、それを開けるのをじっと待った。
  自分で開ける勇気がなかったのだ。 せめて中身がどんなものか、それを知りたかった。
  今、その恐怖の箱が開かれる。

 「……!?」

  開かれると、そこには言葉にも出来ないほどの醜悪な何かが……という程でもなかった。
  弁当箱は小さな丸みをおびたモノが二つ。 一方にはゴマ団子のような物体が入っており、一瞬何なのかと武は思ったが、
 よくよく見ると海苔が巻いてあって「おにぎり」だと分かった。
  そして、もう一つの箱には、

 「よかった、そんなに片寄らなかったようだな」
 「……えっ?」

  そこには卵焼きであるとか、イカの煮付けといった定番メニューがキレイに並んでいた。
  赤、緑、黄とバランスの良い配色がなされ、武は素直に食欲がかき立てられる。
  先ほどのおにぎりに比べて、こちらは完璧だった。
  そうして弁当を見ていると、ある一品がその存在を強く主張している。
  それは彼の大好物であり、つい最近、ある女性に「作って欲しい」と頼んだものだった。

 「……たこ焼き」
 「うむ! 真璃から聞いたのだ、タケルはたこ焼きが大好きなのだろう?
 作り方を教えて貰い、“私が”作ったのだ!」

  冥夜を演じる真璃は、気づいて欲しくてたまらなかったことを武が気づいたとき、その興奮を抑えられなかった。
  声が知らず知らずの内に大きくなり、顔に少し赤みを帯びる。
  特にそれが顕著だったのは「私が!」と発言したときだろう。
  実際に作ったのは真璃であるが、彼女からすれば“嘘をついてでも”二人の仲を進展させる方が大切なのだ。

 「さあ。 そなたのも開けてみるといいぞ」
 「あ、ああ」

  武はおそるおそる、自分の手元にある弁当箱を開けてみた。
  開けた瞬間、鰹節粉や青のり、たっぷりと塗られたソースから食欲をかき立てられる匂いがあふれる。
  中は、さっき見たのとまったく同じ料理が並ぶ。 もちろん、あの「たこ焼き」も。
  それを見ると、彼の脳裏に最近あった出来事が思い浮かぶ。
  元気のない純夏を励ますため、武は彼女の得意料理であり、自分の好物である「たこ焼き」を作って欲しいと頼んだ。
  あの晩のことがフラッシュバックのように思い出され、彼の背に冷たい汗が流れた。

  ……もしかして、あの晩のことを冥夜や真璃は知っているのか、という考えがよぎった。

 「どうした、食べないのか?」

  武が弁当を見ていると、間に“冥夜”の笑顔が割り込んだ。
  その表情からは何も読み取ることが出来ない。

 「……そ、そそ、それとも。
 私に食べさせて欲しいのか?」
 「へっ」

  真璃は自分の弁当箱から、箸でたこ焼きをつかむと、武の口元へと運ぶ。

 「……は、はい」
 「いや、いいって。 自分で食べるよ」

  武は気恥ずかしいのか顔を赤くさせながら、自分の箸で「おにぎり」らしきゴマ団子のような物体をつまむ。
  そしてそのまま、おもむろに口へと放り込んだ。
  それを見た真璃は少し残念そうな顔を見せるが、それほど気負わずに武の様子を見続けた。

 「モグモグ……」
 「……」

  その「おにぎり」はとても弾力性があって、ところどころに「お焦げ」のような歯応えもある、
 なかなかオリジナリティーあふれるものだった。
  味自体は、まあ食べられなくはないな、と武は思った。 「料理すると爆発」する冥夜の作ったものだし、
 恐れていたほど危険なものではないと感じられた。

 「うん、初めてにしてはバリッ……!!」
 「!?」
 「……パリッ、パリッ」

  褒めようとした瞬間、武の口内から、何かが割れる大きな音が響いた。

 「……なんで、おにぎりに卵の殻が入ってるんだ?」
 「な、なぜであろうか……ははっ」

  真璃は苦笑いを浮かべるしかない。 このおにぎりを作った、冥夜当人のことを思い出しつつ。
  彼女としては全て自分が作ってもよかったのだが、それでは「冥夜から武への愛」がお弁当からなくなってしまうので、
 それはそれで何となく、イヤだったのだ。
  ……さすがに卵の殻が入っているとは思ってもいなかったが。 彼女はちょっとだけ、自分の判断に後悔した。

 「タ、タケル。 おかずはどうだ?
 そっちも食べてみてくれ」
 「ああ」

  武は次に、この弁当のメインとも言うべき「たこ焼き」へと箸をのばした。
  それを胸を高鳴らせながら、じっと真璃は見守っている。 彼の口へたこ焼きが近づくたびに、鼓動が早くなる。
  そして遂に、口の中へと運ばれた。

 「……!?」
 「ど、どうだ?」

  不安そうに真璃が覗き込む。 しかし、武は気にすらとめなかった。
  たこ焼きを食した瞬間、彼は自分の舌を疑った。 
  それは美味いとか不味いとか、そういう意味合いにおいてではない。
  味や食感に関するものですらなかった。
  彼の頭に最初に浮かんだのは……“純夏”の存在だった。
  一噛み、二噛みしていくにつれ、その印象がさらに強烈になっていく。 なぜそうなるか、武にはすぐ分かった。
  たこ焼きの味や食感が、純夏の作るたこ焼きに本当にそっくりなのだ。 全く同じと言って良いほどに。

  一方、真璃はそんなことも露知らず、武なら美味しいと言ってくれる確信を持ちつつ彼の言葉を待った。
  母である冥夜から教えてもらった「たこ焼き」。 それは“別の世界”の冥夜がもっとも苦心した料理の一つでもあった。
  “別の世界”においても武の好物であり、彼自信から“お墨付き”をもらった一品だ。
  「自分の好きなたこ焼きの味にそっくりだ」、と。
  だから純夏のたこ焼きが如何ほどのものであろうとも、母のそれに勝ることなどあるはずがない。
  絶対に大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。 その味が元々、誰のモノだったかなどと考えもせずに。

 「……冥夜」
 「!! う、うん、何だ」

  彼の言葉に、期待に胸躍らせて武の顔を覗き込む。
  だが、彼は笑みなど浮かべていなかった。

 「これ、本当にお前が作ったのか?」
 「……えっ?」

  武の表情は“疑惑”を映したものだった。
  予想に反した唐突な言葉に、真璃は少し混乱してしまう。
  おかしいところでもあったのか、何か作り方を間違えたのか、と頭の中がぐるぐる回る。
  そして何より、この「たこ焼き」を本当は冥夜ではなく、真璃自身が作ったものであることが見抜かれたようで、
 彼女の中に小さな罪悪感が生まれていく。 それは小さなしこりのようなもので、段々とおおきくなっていった。
  そんな中、額に汗をいっぱい浮かべながらも、彼女は何とか口を開いた。

 「な、何か変なところでもあったのか?」
 「いや。 そういうわけじゃ、ないんだけどな。
 この味付け……」

  そう言いつつ、もう一個たこ焼きを口へと運ぶ。
  やはり自分がよく知る味だ、と思い至る。

 「あ、味付けは真璃が手伝ってくれたのだ。
 タケルの好物で母の得意料理であった、と言っていたのだが……気に入らなかったか?」
 「いや、味は美味いだけどさ。 これ、俺がよく知っている味付けなんだよ。
 なんで冥夜がそれを知っているのかなってさ」

  何を武が気にしているのか、真璃はその本音を掴めないでいた。
  だから彼女は自分で考えるしかなかった。 彼が何を言いたいのか、その意図を。
  そして、彼の言葉を「この料理は冥夜が作ったものではない」と疑っているのではないか、と彼女は捉えてしまう。
  それだけは絶対に阻止しないといけない。 母が嫌われるかもしれない、そんなことは絶対にダメだ、と真璃は思う。

  結局のところ、彼も彼女も、考えがまったく噛み合っていないのだ。
  武は純粋に、このたこ焼きが何なのか疑問に思っただけだった。
  自分のよく知る味を、どうして冥夜が、真璃が知っているのか。 ただそれだけだ。
  しかし、真璃はそのように思わない。 武が疑いのもとに自分を詰問しているとし、それを回避することだけを考えてしまう。
  自分の偽り事がばれないように。 父母に対し、「嘘をついている」という罪の意識を大きくしつつ。

  ……そして、彼女はまるで逃げるように顔を背けて、自己弁護する言葉を投げかけるのだった。

 「これは私が作ったのだ。 ただタケルに美味しいモノを食べて欲しいと思って。
 タケル、信じてくれ。 私は―――」

  ―――『私は、タケルを信じている。』

 「!!」

  唐突に、先ほどの冥夜の言葉が思い出された。
  “信じて欲しい”と武に言おうとした、まさにそのときだった。
  それは彼女が尊敬する武を騙そうとする所業に他ならず、とても最低な行為に思えた。

  一方、“武を信じる”と言って、自らのなすべき事をなそうとする冥夜。
  自分の想いが伝わると武を信じていることに、真璃は繋がりの強さを感じた。
  ……しかし自分は、今、何をしようとしているのか。 彼女は冷たい汗をかきながら、客観的に自分を見る。
  冥夜を騙り、武を騙し、自分の都合ばかりを優先させている。 そんな自分の姿が見えた。
  そして、武もきっと自分をそのように見ているのだと思えてきて、彼からの視線がとても苦しく感じられてきた。

 「あ、あ」
 「どうした?」

  真璃は不意に立ち上がる。 弁当箱がこぼれ落ち、卵焼きやたこ焼きが地べたに潰れていく。

 「おいおい。 冥夜、何やってんだよ」

  武の苦い指摘に、真璃は思わず体をビクッと揺らす。
  そうして、落ちた弁当箱を拾おうと武がベンチを立った瞬間、
  真璃は首を左右に振って、逃げるようにその場を後にした。
  彼に何も告げることなく。
  ……それを見ていた武はただポカンとする他なく、何が起こったのか把握することすら、しばらく困難であった。





 「……はあ。 やっちゃった」

  水族館の最寄り駅。 真璃は何の気もなしにここまで逃げてきた。
  今は駅構内に向かって、溜息ばかりつきながら歩いている。

 「結局、ぶち壊しだよ。 母様のデートなのに」

  彼女は階段を上る途中で歩みを止め、壁によりかかる。 そして空を仰ぎながら、瞼の上に腕を置いた。
  
 「なんで、こうなるのかな……なんでかなぁ」

  彼女は泣きたいのを必死に堪えていた。
  もしここが誰もいないどこかの部屋ならば、ポロポロとこぼしているだろう。
  胸中には今、武と冥夜を裏切った後悔と罪悪感でいっぱいになっていた。
  デートをメチャクチャにしてしまったことと、武と冥夜を裏切った申し訳なさが、まるで水槽に
 落ちた絵の具のように、不気味に形を変え拡がっていく。

 「最悪だ。 ああもう、こんなこと考えなきゃ良かった。
 するんじゃなかった」

  今さら後悔しても遅い、と自分の発言に胸中でツッコミを入れる。
  しかし、そればかり考えてしまう。 その度に現実が思い出されて、考えるのがイヤになる。

 「考えたくないのに、なんで考えちゃうかなあ」

  瞼に乗せられた腕が少し外れると、白色に輝く太陽がとても眩しく感じられた。
  眩しすぎて目を開けていられないほど。 それが少し、彼女を苛立たせた。

 「はあ」

  後悔、苛立ちといった負の感情が彼女を覆う。 それを考える度に、自分が惨めに思えてくる。
  そんな感情が湧いてくる一方で、どこか腹立たしい気持ちも感じていた。
  自分が行おうとしたのは結局は父や母のためであったはずだ、とでも言うたくなるような。
  こうして「責任」を自覚できない人間は、一般的に他者へ転嫁する。
  彼女もその例に漏れなかった。

 「……そもそも、父様と母様の間に割って入ろうとした、あの人がいけないんだよ」

  脳裏に浮かんだのは、やはり「彼女」だった。
  父である武にすり寄る、まったく赤の他人である「鏡純夏」。 彼女を思い出した瞬間、
 真璃の顔が……「冥夜」を模した彼女の表情が、一気に険しくなった。
  自分のこれまでの失敗、その元凶は何であるか、と考えたとき、真璃は唇を強く結び、奥歯が深く噛み締められる。
  そうして彼女は、自分の責任を完全に無視することに成功した。

 「あいつがいなければ、私はこんな失敗せずに済んだんだ。
 母様と父様も、もっともっと幸せでいられたはずなんだ」

  真璃はこれまでのことを思い出し、『彼女がいない世界』ならば、父母が仲むつまじくいられるのに、
 と真璃は心中で純夏を強く追求する。
  そして、ここは『夢』で自分にとって都合のいい世界なのに、なぜこんなにイヤなことが起こるんだと、
 この世界を強く憎んだ。
  こんな世界など私は望んでいないし、見たくも居たくないと、世界を否定した。

 「……あれ?」

  ―――その瞬間、彼女の瞳に映る世界でノイズが走る。
  世界から色が消え、見えているものがまるで砂の城のように思われ、もし触れてしまったなら、粒子となって
 霧散するのではないかと思われるほど、それははかなく見えた。
  彼女は目をこすり、改めて目の前の風景を見る。
  ノイズは消え去り、世界は再び元の色と質感を取り戻していた。

 「何だったんだろう、今の」

  「疲れているんだろうか?」と彼女は額に手を置いた。
  そしてため息を吐きながら、不意に視線を横へとずらした。

 「……あっ……」

  そんな彼女の目に飛び込んできたのは、『冥夜』だった。
  気高く凛々しく、決して自分の責任から逃げ出さなかった、真璃が理想とする母の姿だった。
  その『母』が今、真璃をじっと見続けている。

 「あっ……あぁ」

  真璃が見たのは、正確には冥夜本人ではなく、隣接するビルのガラスに映った「冥夜を模した真璃」の姿だった。
  ガラスに映る『冥夜』を彼女が見続けるのと同じく、その彼女もまた『冥夜』に見つめられている。
  そんな彼女の顔が歪むと、『冥夜』の顔も歪んだ。 真璃はその顔を「醜い」と思ってしまう。
  母である冥夜はこんな顔を見せたりはしない、と知っているから。

 「……!!」

  壁を強く打ち、彼女は顔を下に向ける。 そして自分がこれまでどんなことを考えていたか、思い出され、
 その度に強く吐き気にも似た不快感がもたらされる。
  醜いと感じた冥夜の顔は、自分自身の顔なのだと、気づいたからだ。
  冥夜を、母を、娘である自分が汚していると分かったからだ。
  いつも尊敬し、母のようにありたいと強く想ってきた真璃にとって、それは決して許される行為ではない。

  真璃の眼から大粒の涙が溢れていく。その顔はとても険しく、怒りに満ちたモノだった。
  自分自身へと向けられた憤怒だった。

 「なんて馬鹿なんだ、私は」

  声が漏れた。
  先ほどまで何の罪悪感もなしに考えていたことが、今は自分を消したくなるほどに強い想いで彼女を打つ。
  純夏を罵り、母を偽り、父を騙る。
  しかもそれを『自分以外の誰かの責任』に転嫁していた。自分の行動を正当化した。
  自分の感情ばかりを優先させ、しかもその理由と責任を、自分の大切なモノに押しつけていたのだ。

  真璃はうつむきながら、自分自身を追求する。
  今の自分の姿を母である冥夜はどう思うだろうか。 さっきまで考えていたことが知られたとき、彼女は何を言うだろうか。
  自分が偽っていたと父である武が知ったとき、彼はどんな顔を見せるだろうか。
  ───真璃は首を小さく振った。 絶対に嫌うだろう、そう思う。
  いっそう彼女の眼に涙がたまり、またこぼれた。

 「まりもちゃんからも言われたじゃないか。
 他人を正当化の理由に使うな、って」

  ふと脳裏に「昔の人間を、自分の正当化のために使うのはやめなさい」と言ったまりもの言葉が思い出される。
  真璃はなぜ『この言葉が今に至るまで思い出せなかったか』と自分の卑小さを責めた。
  それ以上は何も考えられなかった。自分を責めること以外、思い浮かばない。
  彼女は俯いたまま眼を閉じ、ただじっと、同じ言葉を繰り返す。
  自分はこれからどうすればいいのか、自分の罪を誰にどう償えばいいのか、そればかりを。

 「───おばちゃん、どうしたの?」
 「え?」

  眼をあけると、目の前で幼い男児がその丸い目をいっそう拡げて彼女を見上げていた。
  真璃は少し驚き、顔を上げた。

 「どうしたの、おばちゃん。ポンポン痛いの?」
 「お、おば……何でもないよ」

  『おばちゃん』という言葉に真璃はヒクッと頬を引きつらせる。
  が、こんな幼い子供に反論しても仕方がないと考えて、彼女は涙を拭いながら少年に答えた。

 「じゃあ、どこか痛いの?」
 「ん……痛いわけじゃないんだけどね」
 「じゃあ、なんで泣いてるの-?」

  正直、少年の突飛な行動に真璃は迷惑がっていた。
  今の彼女に気遣う余裕などない。子供の相手など、もっての外だ。
  だから一刻も早く少年との会話を終えて、彼女はその場から離れたいと考えていた。

 「ごめんね。 お姉ちゃん、行くところがあるの」
 「なんで泣いてるのー?」

  少年は自分の興味が優先され、真璃の言葉なぞ聞こえなかったようで、同じ言葉を繰り返した。
  真璃は「こ、このやろ~」と心中で思いながら、はあ、とため息を吐いた。

 「あっ、分かった! おばちゃん、お母さんやお父さんから怒られたんでしょ?」
 「!?」

  ギョッとした表情で少年を見る。 少年は相変わらずニコニコと笑顔をたたえていた。
  真璃は自分を見透かさているようで、少年の方を見ていられず、目を逸らしてしまう。

 「……そうかもね」

  彼女は自分が抱いている、この負の感情が何なのか、より理解できた気がした。
  そうか、これは父母に怒られたくない幼児の『怯え』なのか、と。

 「僕もこの前、遊園地で迷子になったの。
 そのとき、お母さんに叱られるって思ってた」
 「……へえ」
 「でもね。 お母さん、怒らなかったよ。
 僕、ごめんなさいって、そう言ったから。 おばちゃんも『ごめんなさい』すればいいんだよ」

  ───ごめんなさい……か。
  真璃の中で、何度もこの言葉が反芻される。
  謝罪してどうなるんだろう。 自分の罪が許されるんだろうか。
  彼女はそれが疑問だった。 しょせん自分の自己満足ではないか、と。

  ふと、真璃は空を仰ぐ。
  空では雲がゆっくりと歩いている。 形をそのままに、真っ白な雲が。
  『ごめんなさい』をして、許されることはないだろう。 自分はそれだけ非道いことをした、そう思う。
  だけど、少しでも進まなくてはならない、そう思うのも事実だった。
  自己満足かもしれないし、冷や汗が出るほど怖いけれど、自分の犯した事柄を武、冥夜……純夏に告白しなくてはならない。
  真璃が尊敬する冥夜ならば、きっとそうしたはずだと信じて。
  そう思い至ったとき、彼女の顔に薄い笑みが浮かぶ。
  険しいものであっても自分の進むべき道が見えた、それが嬉しいのだ。

 「ん……そうだね。 君の言うとおりだね」

  真璃は少年の方をむき直し、彼の頭を優しくなでる。

 「私、『ごめんなさい』してみるね。
 許してくれるかは分からないけど、きっと、それが一番大切な気がするから」
 「大丈夫だよ、おばちゃん」

  互いに笑みを交わす。 すると、階段の上から「ユウタ」と呼ぶ声がした。

 「お母さんだ」
 「呼んでるね。 ありがとう、心配してくれて」
 「いいよー。 じゃあ、おばちゃん、ばいばい」
 「うん、ばいばい」

  互いに手を振り合う。 ユウタと呼ばれた少年は、勢いよく階段を駆け上がっていく。
  それをじっと真璃は見続ける。 少年と、周りの景色を。

 「……え?」

  ───彼女の視界に突然、大きなノイズが走った。
  ノイズが走ると、まるで歪なジグソーパズルのように景色が見える。
  一方は先ほどの景色のままなのに、他はボロボロで瓦礫のようだ。 まるで別のピースが当てはめられたような。
  しかもそれは、ノイズが走る度に位置を変えた。

 「な、何なの?」

  真璃はまた眼が変になったのかと思う。 幻なのだろうとしか思えなかった。
  そして何回目かのノイズが走り、ユウタの足下に瓦礫が現れる。
  するとユウタは、幻としか思えないその瓦礫に足を引っかけて、階段の頂きから小さな体を投げ出した。

 「危ないっ!」

  幻と思っていた瓦礫、それに気を取られる余裕などない。
  真璃は落ちてくるユウタを受け止めようと階段を上がり、その体を受け止める。
  だが、頂きから落ちたユウタには結構な加速がついており、受け止めた真璃もバランスを崩し、後ろの階段へと倒れていく。

 「くっ!?」

  ───諦めるわけにはいかない!!
  この子だけでも、と強くユウタを抱きしめ、眼をつむる。
  次に来るだろう強い衝撃を予感しつつ、体を強ばらせて。

 「んっ!」

  彼女の体に衝撃が走った。
  ……だが予想に反し、衝撃は一回しか生まれない。 階段を落ちるなら連続して来るはずなのに。
  その一回だけの衝撃も、そこまで強いものではなかった。
  真璃は、今の自分がどういう状況なのか分からず、そしてその不安ゆえに目を開けられない。
  彼女はかわらず、じっと目を閉じ続けた。

 「───大丈夫か?」
 「えっ?」

  聞き覚えのある声がすぐ側から聞こえる。とても落ち着く、優しげな声。
  不安がゆっくりと溶けていく。胸が暖かくなり、恐怖という闇が白く明けていく。
  真璃はゆっくりと眼を開けた。

 「とう……さま……」
 「いきなり落ちてきて驚いたぜ」

  目の前に在る、武の顔。 自分をじっと見つめている優しい笑顔。
  真璃はまるで夢を見ているようだった。 何も言葉が思い浮かばず、「父様」と言う以外、何も口から出ない。
  だが武の体温を感じられる度に、空気の冷たさとその温かさとの差に気づく毎に、武の存在を強く知る。

 「わっ」

  彼女は不意に、よく分からない声を挙げた。 今の状況が掴めない、自分の心情をあらわしているようだった。
  声を出してから頬が熱くなり、鼓動が一気に高まっていく。 武の胸板に自分を預けているという事実に思い至り、
 嬉しさと気恥ずかしさがいっそう彼女の熱を上げていく。
  彼女はやはり、何が何だか分からなくなった。自分の意識がどこかに行ってしまいそうな、フワフワした感覚が不思議だった。
  それは初めての感覚だったけども、まったく不快ではなく、どちらかと言えば心地よいものだと思えた。

 「無事か、真璃」

  武の後ろから見慣れた顔が現れる。 凛々しく、気高いあの人の笑顔。

 「母様?」
 「突然、落ちてきたんだもん。 もうホントにびっくりしたよ」 
 「……鑑さん」

  声と一緒に、武の背から冥夜と純夏が現れた。
  武が真璃を受け止め、彼女たちが二人を支えてくれたのだろうとすぐに分かった。  
  まさに今、自分が申し訳ないと思っていた三人が側にある。 謝罪したいと思っていたまさにそのとき、三人が
 来てくれた。
  真璃は因果を、運命を強く感じる。 そして改めて思う、この世界は『夢』なのだと。

 「と、ところで真璃さん、その格好って……」
 「そうだ。 真璃、その姿はいったい何なのだ?
 なぜ私の髪型を……」

  真璃の姿に疑問を呈する純夏と冥夜。 だが、彼女の耳にまったく届かない。
  心が、別のところへ向いていた。
  彼女は誰かに感謝したいという想いに駆られ、それと同時に、今こそ自分のなすべきことをすべきだと確信する。
  心に熱い奔流があふれ、真璃は眼にいっぱいの涙をためて、口を開けた。

 「真璃、黙ってないで何か……」
 「ごめんなさい!!」

  真璃は大声で、自分が言うべき言葉を発する。

 「ごめんなさい! 父様、母様、ごめんなさい!
 鑑さん、ごめんなさい!」
 「……え、ええと」
 「むう……」

  武や冥夜、純夏はよくその意味が掴めなかったけれど、涙を流しながら大声で謝罪する真璃を問い質すことなど出来なかった。
  窮した冥夜と純夏は目を考えて、武の方へと顔を向ける。
  そして一度、苦笑いにも似た微笑みを浮かべて、

 「タケルちゃん、これってどういうこと?」
 「タケル、これは一体どういうことだ?」
 「へっ?」

  泣く真璃をよそに、冥夜と純夏は武を問い質す。
  武は何も分からず、「知らん!」と言うしかない。

 「なんで真璃さんが泣いてるんだよー!」
 「タケル。 私が出ている間、何があったというのだ」
 「俺が知るかー!!」

  純夏も冥夜も、武が答えを知っているとは思っていない。
  だが、今の状況が掴めなくて彼に問うしかないのだ。 答えなど出ないと分かっていても。
  求められる武はたまったものではないだろうが。

 「ん~~。
 こっちがおばちゃんのお父さんで、お母さんは……どっち?」

  一方、ユウタはそんな四人の様子を見ながら、武がお父さんなのだろうと思いつつ、
 赤い髪と青い髪のどちらが真璃のお母さんなのか、小さな頭をフル稼働させて考え続けていた。





  ───事態がようやく確かめられたのは、三バカが真那から連行されて後だった。
  彼女達から計画の全てが説明されたのだ。 もちろん、真那の雷が落ちたのは言うまでもない。
  涙ながらの謝罪を受け、武は風呂トイレ掃除3ヶ月を言い渡す。
  ……御剣家別邸の風呂トイレも含めてなので、彼女たちはその場から動くことが出来なくなったのをここに記しておく。
  
  そんな三バカの横で、真璃は目を腫らして頭をたれていた。

 「ごめんなさい……」
 「もういいって言ったろ」
 「そうだよ、真璃さん」
 「人間は誤るもの。 そこからどう行動するか、それこそが肝要だ」
 
  武達三人は謝り続けた真璃に同情し、それぞれ思うところはあれども、ひとまず今回は不問とすることにした。
  本気で謝罪していると分かったし、彼女の行動がそれほど突飛にも思えなかったからだ。
  まあ、朝起きたら半裸で一緒に寝ていたとか、学校に行ってみたら校庭をサバイバルゲーム用に改造していたとか、そんな事態に比べれば、
 今回はかわいくも見えるだろう。

 「でも、母様どうして? 会談があったんじゃあ」
 「確かに会談があるとは言ったが、“長くかかる”とは言っておらぬぞ」
 「……へっ」

  真璃はポカンと口を開けた。
  確かに冥夜はそんなことは一言も発していなかった。
  ……しかし、実際には長時間かかってもおかしくない会談ではあった。
  それをこんな短時間で終わらせられたのは冥夜の実力であるし、何よりすぐに武のそばに戻りたいという強い想いゆえだ。

 「と、父様はなんで私に気づいたの?」
 「あれから冥夜と純夏にたまたま会ってさ。 
 今回の件はお前が関わってるって二人から聞いて、それでピーンと来たんだ。
 なんとなく、様子もおかしかったしな」

  こんなことを言っているが、武は冥夜達に会うまで不審にすら思っていなかったりする。
  鈍感な彼を気づかせたのは、もう一人の立役者のおかげだった。

 「ところで、鑑さんはどうしてここに?」
 「えっ!? え、ええと私は……ちょ、ちょっと水族館に行きたいな~ってなんて……」
 「もしかしてお前、一人で水族館に来たのか?
 うわー、寂しいやつ!」
 「う、うるさいなー! タケルちゃんは黙っててよ!」

  実際には今朝、いつものように武を起こそうと家を出たら、彼は家を出るところであり、不審に思った純夏が
 そのまま一日ついてきた、というのが正解である。
  休日はいつも遅く起きる武が、朝早くどこかに出かけるなど何か特別な事態に違いないと純夏は長年の経験から
 そう判断した。 それは正しいものであった。
  しかも冥夜が現れるし、離れて真璃や真那がいたのだから怪しむのも道理だ。
  そして今朝からストーキングしていたという事実を知られたくなくて、嘘をついたのだった。
  ……そうした純夏の様子を、冥夜は静かに見続けていた。

 「あの……」

  そんな話をしていると、四人を呼ぶ声がする。
  そこには笑顔のユウタと、30代くらいの女性が申し訳なさそうに立っていた。

 「すみません、ユウタが迷惑をかけてしまったようで」

  真璃は「いえいえ」と小さく首を振る。
  そしてチラッと階段を見るが、やはりそこには瓦礫などどこにもない。
  確かにそれで転んだように見えたのだが、と彼女は思うも、見間違いだろうとそれ以上考えることはしなかった。

 「ユウタ君、怪我がなくてよかったね」
 「うん! ありがとう、おばちゃん」
 「……あ、あはは」

  またしても「おばちゃん」と言われてしまう。
  彼女はもう、苦笑いするしかないと高をくくった。

 「でも、おばちゃんもよかったね」
 「えっ?」
 「お父さんとお母さんに、怒られなくてよかったね。
 僕の言ったとおりだったでしょ」
 「ああ……」

  確かに怒られなかったが、真璃はちょっと複雑な気分だった。
  自分が考えていた以上に武や冥夜の反応が鈍かったので、それはそれで何か寂しい気がする。
  しかし、それは自分のエゴなのだろうと、それ以上は考えなかった。 考えてはいけないとも思っていた。

 「そうだね。 ありがとう、ユウタ君」

  そんな感情を隠しつつ、真璃は笑顔でユウタに返した。

 「じゃあ、私たちはこれで。
 ユウタ、お姉さん達にお別れしなさい」
 「うん! おばちゃん、ばいばい!」

  その言葉を聞いて、真璃は「ん~っ」と首を傾げる。

 「違うよ、ユウタ君」
 「え~?」

  真璃は腰を落とし、目線をユウタに合わせ、彼の頭を撫でながら『あの言葉』を伝えた。

 「また会いたいときにはね、『またね』って言うんだよ」
 「!?」
 「なっ!?」
 「うん、分かった! またね、おばちゃん!」

  ユウタの声に負けじと、真璃も「またね!」を大きく返す。
  そして二人は手を振り合いながら、少しずつ離れていく。 名残惜しいように。



  ───そんな真璃を、武と冥夜は穏やかに見ることができないでいた。
  なぜ真璃から「またね」という言葉が出たのか、信じられなかった。
  武にとっては、『デジャヴ』に似た印象を与え、
  冥夜にとってそれは、『武との想い出』以外にありえないことである。
  それなのに真璃が、さも当たり前のように介入してきた事実が、彼らにとっては不思議であり、
 正直、不気味であった。 彼女は何者なのか、やはり分からなくなって。
  それは純夏も同じだった。
  冥夜の格好をした真璃は、本当にそっくりで、まるで『よく似た親子』のように見えたからだ。

  武、冥夜、純夏の三人は、それぞれ考えることは違ったが、彼女に対し、奇しくも似たような思いを抱いていた。
  疑惑と、突然現れたよく分からない現実への不快感。
  三人はただ静かに、目の前に確かに存在する現実を、まるで傍観者のように眺めるしかなかった。











[3649] Scene 4 「Conscious」 ①
Name: 葉月◆d791b655 ID:c38a834a
Date: 2020/03/14 22:51

  ――その晩、彼女は夢を見た。
  自分が、もっと近くにいたいと思う人の、そばにいられる夢。
  その人が笑顔でそばにいてくれる夢。自分だけを見てくれる、夢。

  彼の名は白銀武。見つめてくる彼を、彼女は頬を赤らめ顔を少し俯けながら、恥ずかしそうに覗き込んだ。
  そばにいられるのが、見てくれるのが嬉しいのに、億劫なのだ。 彼女は。
  だから、なんとか彼の手を握る。 
  彼のそばにいる。 彼がそばにいてくれる。
  その証を、はっきりと感じられるように。

  でも本当は、もっとその先を経験したいとも思っている。
  彼が手を握り返し、そうして残った手で、俯く自分の顔を少し強引に引っ張ってくれる。
  イヤだと拒絶の言葉をかけるのもそっちのけで、自分の目と交錯させる。
  そして彼は、こう言うのだ。
  「お前だけだ」と。
  こうして彼女は資格を得る。
  自分を差し出し、彼のものになるふり。
  あなたが望んだのだから、と彼にすべてを委ねるふり。
  でも本当は知っている。
  それはすべて、自分自身の望んだことなのだ。
  億劫さも拒絶の言葉も、すべては彼がそれらを否定してくれることを願ってのこと。

  ――そしてここは、そんな願いをかなえてくれる「夢」の世界。
  彼は彼女の望み通りに手を握り返し、まっすぐに自分を見つめてくれる。
  少しずつ少しずつ、彼が視界を満たしていく。 彼女が見る世界は、もう白銀武しかいない。
  それをうれしく思いながら、ゆっくりと目を瞑る。 闇の世界に身を投じ、自分だけの世界に浸る。
  きっと、ここから彼が助け出してくれると、自分だけを見つけてくれると……そう、信じて。

  



 「――はっ」

  ……真璃は目を開けた。 視界には真っ黒な天井があるだけだった。
  今、自分に何が起こったのか理解するのに数秒かかった。
  ここは白銀家の一室で、真璃が寝床として利用している所。
  布団の中に入って、ついさっきまで眠っていたということ。
  そして理解する。 自分は夢を見ていたのだ、と。
  父と呼ぶ人を相手にした、とんでもない夢を見たと。

 「……」

  彼女は無言のまま、体を横にした。
  それから、今、自分が見た夢を静かに思い出し、

 (うぎゃあああぁぁぁぁ!!??)
  
  声に出せば佐渡島の一つや二つ蒸発させてしまうのではないか、と思えるほどの叫び声を胸の中に秘め、
 彼女は顔を真っ赤にして、布団に強く埋めた。

 「な、何考えてるんだ、私は」

  自分が見た夢を思い出し、とても恥ずかしくなった。
  彼女は異性と付き合ったことなど一度もない。 恋仲になったことすらないのだ。
  当然、恋人らしい行為はまったくと言っていいほど経験がない。
  それなのにあんな夢を見てしまった。 彼女はそれが、自分が求めているようでとても恥ずかしく思えたのだ。

 「しかも何で、相手が父様なんだよぅ……バカ」

  極めつけが、夢の中の相手が武だったことである。
  父親にそんな行為を求める娘など、いはしない。 仮にいたとしても何という恥知らずなのだと、彼女は思った。

 「父様には母様がいるのに……ホント、バカだ」

  真璃は再び仰向けになって天井を見る。 彼女はまたさっきの夢を思い出した。
  何の変化もない天井、一方、それを見る彼女の胸の中はクルクルと変化して同じものはない。
  赤みを帯びた顔が、さらに赤くなっていく。 体が熱くなり、汗ばむのが分かる。
  心臓が胸を強く打つ。 そして勢いよく、布団を引っ張り上げて顔を隠して、

 「――私、そんなこと考えてないもん! バカっ!!」

  と、小さく声をあげた。





 「――はあ、まったく」

  武は、午前3時という何とも中途半端な時間に家の階段を降りていた。
  彼は欠伸をかきながら、

 「まったく、あいつらは……」

  と何度も愚痴を呟いた。
  今夜は、11月後半とは思えないほど暖かい。
  それなのに彼だけの領地である一人用ベッドは今、うら若い美少女二人によって侵略されていた。
  冥夜と、悠陽である。 いつものことながら、今夜だけは彼にも我慢することができなかった。
  二人に挟まれ、暑くて眠れないのだ。 だから武は二人を起こさないように、そっとベッドから抜け出し、降りてきたのである。

 「はあ……安眠すらできないなんてよ……」

  美女に囲まれている自覚もなく、なんとも贅沢な発言を行う武。
  彼が一階に降りると、ふとあることに気が付いた。
  台所に小さく、電気がついていた。 彼は、こんな時間に誰が、と思いながら近づいて行った。

 「……真璃?」
 「へっ?」

  そこにいたのは、オレンジジュースをコップに注ぎ、今まさに口をつけんとしていた様子の真璃だった。
  彼女は武へと目をやったまま、固まってしまう。

 「なんだ、お前も寝付けなかったのか」
 「……」

  武は彼女の持っているオレンジジュースをもらって自分も熱を冷まそうと思い、近づいていく。
  すると、クルッと真璃は彼に背を向けてしまった。

 「? 何やってんだ」

  疑問に思う武をよそに、背を向けた真璃は目を見開いて、大きく息を吸い込んだ。
  そしてゆっくりと、たった今取り込んだ空気を吐き出し、手で口を押さえる。
  すぐに彼女の顔が、まるで絵具で塗られたように、真っ赤になった。
  鼓動が高まり、呼吸も荒くなった。
  手で押さえたのは、それを知られたくないと無意識に思ったからだ。

 (な、なんで父様が……!?)

  真璃は心中でそう呟いた。 さっきの夢が思い出され、恥ずかしいという感情が彼女の中に生まれる。
  まともに武の顔を見られる様子ではない。 少なくとも、今すぐには。

 「まっ、いいや。 俺にもそのジュースくれよ」

  そう言い、武が近づく。
  その気配を真璃は感じ、一歩足を踏み出して彼から距離を取った。

 「? おい」

  さらに武が近づく。 真璃もさらに離れる。
  武が一歩。 真璃も一歩。
  距離が縮まないことに武はイラッとし、少し小走りになる。
  真璃も負けじと足を速めた。
  台所のテーブルを挟んで、二人はグルグルとその場を回り始めた。

 「おいおい、何やってんだよ」
 「……」

  武の問いに真璃は答えない。 彼女にもよく分からないのだ。
  自分がなんで武から逃げようとしているのか、なぜ顔を合わせるのに億劫なのか。

 (あうう……な、なんで私、父様から逃げてるんだろう)

  どうも彼と顔を合わせるのが気恥ずかしいようだ。
  その理由が先ほどの夢にあり、それを意識しているのは自明なのだろうが。

 「……おい」
 「……へっ、わっぷ!?」

  真璃の目の前に、急に武の胸板が現れ、彼女はそれに激突してしまう。
  どうやら武が歩くのを止め、グルグル回ってくる真璃を迎えうった様子だ。

  武の胸板にぶつかり、歩みを止める真璃。
  不意に顔を上げると、そこには彼女を見る武の顔があった。
  それを直視した彼女は、体が硬直し、動けなくなった。

 「あ、あわわわ」
 「おいおい、冗談はよそうぜ。
 さっ、俺にもジュースを飲ませてくれよ」

  そう言いながら武は、彼女の手にあるジュースに手をかけた。
  そして少し強めにそのジュースを取ると、小さな反動が生じ、
  緊張のあまり体が硬直した真璃は、そのまま後ろへ倒れこんだ。

 「って、うおおぉぉぉい!?」
 「あわ、あわわわ」

  武はその様子を見、声を上げる一方、真璃はさっきから意味不明な声を出し続けるだけであった。





 「――落ち着いたか?」
 「ごめんなさい……」

  武と真璃は、居間のソファに座っている。
  先ほど真璃が倒れてから、二人はここでゆっくりと気を落ち着けているのだった。

 「まったく、いきなり倒れてびっくりしたぜ。
 月詠さんを呼ぼうかと思った」
 「……ごめんなさい」

  武の言葉に、真璃は謝罪の言葉を返すだけだ。
  さっきからこうである。彼女は「ごめんなさい」以外の言葉を使っていない。
  しかも表情を武の方に向けず、ただじっと俯いているだけだ。

  ソファの座り位置もおかしい。
  武はソファの真ん中に座っているのだが、真璃は端の方に狭そうに座っている。
  いつもの彼女ならば、武が文句を言おうとお構いなしに隣に座ってくるものだが。
  武は今、それがないのが不思議だったし、彼女の不審な行動に何か関係あるのかと推し量った。

 「なあ、今日はどうしたんだ。
 いつもと感じが違くないか」
 「……ごめんなさい」

  かえってきた同じ言葉に、武はこけそうになった。
  何じゃそりゃ、と言いたくなるが、そこは我慢して更に言葉を投げかけた。

 「どっか体調でも悪くしてんのか?
 それとも、もしかして俺、怒らせるようなことしたか?」
 「!!」

  その言葉を聞いた瞬間、真璃は急に立ち上がり、

 「父様は悪くない!」

  と声をあげた。

 「そ、そうか」
 「……なんか、色々ごめん」

  真璃はハーッと息を吐き出しながら、再びソファに座りこんだ。
  そして、もう一度小さく息を吐くと、口を開いた。

 「やっぱり変だよね。自分でも、そう思うくらいだもん」

  そうして真璃は、武の方を見ずに顔を俯けたまま、少しゆっくり目に喋りだした。
  一言一言を考えながら話し出したのだ。 自分が武を意識しているのを気取られないように。

 「やっ、なんか変な夢を見ちゃって……
 それだけなんだ。 別に何もないよ」

  そう言って彼女は、あははっと苦笑いを浮かべる。
  彼女の思いとは裏腹に、その行動がさらに武を不審に思わせた。
  しかし一方の武も、彼女の発言や行動をさらに追及しようとは思わなかったし、彼女がそう言うのならそうなんだろう、
 と、今は思うしかなかった。
 
 「そっか」
 「ごめん。気をつかわせちゃって」
 「いややっぱさ、一緒に暮らしてるんだし、そういうの気になるじゃねえか。
 いつも元気で、周りのことなんか気にせずにはしゃぐ、いつもの真璃じゃねえように感じたからさ」
 「……なんか、バカにされてる気がする」

  ジトーッと、真璃が武の方へ目をやる。
  ふと、武の笑顔が真璃の視界に入った。
  その瞬間、真璃の胸が大きく弾む。頬が紅潮し、顔が熱を帯びるのが分かった。
  彼女は再び、顔を俯ける。胸へと手をやり、「静まれ、静まれ」と自分に言い聞かせた。
  
 (ああ、もう……なんで気にしちゃうかな)

  だが、まったく動悸は治まらない。彼女は武と当たり前に話せないことをやるせなく思った。
  一方、そんな真璃の葛藤などおかまいなく、武は真璃の横顔をじっと見ていた。
  考えてみれば、武がこんなにゆっくり真璃の容姿を見たのは初めてだった。
  いつも横には冥夜や純夏がいたし、何より真璃自身が武にしつこいくらい近づいてくるので、武の方からじっくりと真璃を
 見る機会というのはなかったのだ。

  そうして真璃を見た武は、

 「……やっぱ、似てるよな」

  と唐突に言葉を発した。

 「えっ?」
 「いや、やっぱ似てるよ。
 冥夜にそっくりだ」

  真璃の髪、愁いを帯びた感じの横顔。
  いつも元気な真璃からはあまり感じられなかったが、今の真璃からは冥夜の雰囲気を十分に感じられた。

 「本当に血が繋がってんのかね、ってくらいだぜ」
 「……いや、そりゃ親子だし。
 似るのは当然だよ」

  武の言動に、真璃は少し面倒そうに答えた。
  そんな当たり前のこと、何をいまさら、という感じなのだ。

 「……あのさ、真璃」
 「ん?」
 「俺が親父とか冥夜が母親とか……
 そういうの、一回無しにしないか?」

  武の突然の言葉に、真璃は「えっ」と驚きの表情で顔をあげた。
  そしてソファを移動し、武に近づき、

 「そ、それって、私が父様や母様の娘じゃないってこと?
 娘としてふさわしくないってことなの?」

  武の突然の言葉に真璃は困惑していた。
  彼女にとって武や冥夜が両親なのは事実であるし、それは否定しようがない。
  それを「無しにしよう」という武の発言は、彼女にとって「ありえない」ものであるし、そんなことを考えるのは
 彼女にとって不可能なのである。

 「いや、別に深い意味はなくてさ」
 「……」

  真璃は武の言葉に耳を傾け、じっと彼の顔を見続けた。
  ついさっき彼の顔を見ることに億劫だったとは思えないほど、真剣に彼を見る。
  一言一句、そして表情の変化一つも見逃さない、そんな様子で。

 「真璃。 お前って今、いくつだっけ?」
 「へっ。
 ……17だけど」
 「俺もだ。 冥夜だって同じだ」

  武はニコッと笑顔を作る。 真璃はその表情の意味が掴めなかった。

 「俺たちはさ、同級生なんだよ」
 「……うん」
 「仮に、仮にだぜ。 俺と冥夜がその、なんだ……結婚するとしても。
 それは“今”じゃない」
 「……うん」

  真璃は武が何を言おうとしているのか、少し理解できた。
  つまり『今は、冥夜を妻として見ることはできない』と言おうとしているのだろう、と彼女は考えた。

  しかし真璃は、そんな言葉になんら感慨を抱くことはなかった。
  “今”は分からなくとも“未来”は確定していること、なのである。
  真璃は知っているのだ。 武が冥夜を愛し、冥夜が武をどれだけ愛していたか、ということを。
  二人の仲睦まじいエピソードを彼女はいくらでも思い出すことが出来たし、愛し合っていた証拠がすぐ
 傍にあることだって知っている。
  二人が愛し合った証――すなわち“真璃の存在”。
  だから彼女は、二人の運命を疑うことなど思いも至らないのだ。
  なぜならそれを疑うということは、自身の存在そのものを疑うことと同意義なのだから。

 「なあ真璃、俺は」

  だから武が何を言っても、真璃が思うところなどないはずだった。

 「俺にとってはお前も、冥夜や純夏も、同じ“友達”なんだ。
 一人の女の子なんだよ」
 「……へっ」

  真璃は、武の言葉が一瞬、理解できなかった。
  それはそうだ。真璃は、武や冥夜を“一人の男、一人の女”として見たことなどない。
  そこには意味が付属されている。 父として、母として。
  そして同時に、自身にも意味を与えていた。すなわち“娘”として。
  武や冥夜は、ただ“武や冥夜”であるはずがないのだ。彼女にとっては。

  しかし武たちにとっては違う。
  真璃が抱いている確信や経験は、武たちのものではないのだ。
  経験していないということは、確信を抱いていないということは、それが存在しないのと同じだ。
  結果に至るには必ず因果としての道程を必要とする。これは、この世界における絶対の真理だ。

  だから武は、真璃の持つ『勝手な』イメージなどは無視して、自分のイメージを言うのだ。
  そして彼にとって真璃は、彼女にとっては不本意であろうが、なかなか話が分かるちょっと変な女の子でしかないのである。

 「え、えええ、ええと」
 「だから真璃もさ、変な気を遣わなくていいんだ。
 俺は俺、冥夜は冥夜で、真璃は真璃だ。 だろ?」

  武は笑顔でそう問いかけるが、真璃は答えを返すことができなかった。
  彼は真璃が、父とか母とか娘とか、そういうものにこだわって、いや“とらわれて”いるように見えたのだ。
  つい最近、自分と冥夜をデートさせようとしたのも、その証左だと彼は考えている。
  だから、そうした気をつかう必要はないということを、彼は言いたかった。
 
  しかし真璃はそんな風には受け止めなかった。
  武を、父であるはずの存在を、一度白紙に戻すなどと彼女には不可能に思われたのだ。
  彼女はただ顔を俯け、なんと答えを返すべきか悩むしかなかった。
  そして、やはり思う。 “父”と“娘”という関係性以外で、彼女は彼のことを見ることができないと。

  ――しかしそこで、真璃はこうも考えた。
  父娘という関係を無しにしたら、“無しにできたら”、
  自分にとって彼は、どんな存在なのだろう、と。
  そして真璃は顔を上げ、武の方に向いた。 彼の笑顔が、彼女の網膜に現れた。

 「――!!」

  ドクンッ、と心臓が強く胸を打った。
  真璃はまた即座に顔を下げ、自分の胸へ手をやった。
  そして心の中で、まるで叫びのように強く、強く「静まれ」と思った。
  しかし鼓動はなおも強くなり、呼吸はだんだんと荒いものに変わっていく。
  そうした自分の変化に気づくたびに、彼女はなお静めようと手を胸に押し付けた。

 「はぁ、はぁ……」 
 「お、おい。 大丈夫か」

  武も彼女の変化に気づいたようで、彼女に声をかける。しかし彼の言葉は、耳に入らなかった。
  ……仮に聞こえていたとしても、彼女はそれに応えようとはしなかっただろう。
  これ以上、武のことを見てしまったら、聞いてしまったら、考えてしまったら、
  彼女はきっと気づいてしまう。 自分がどうしてこうなってしまったのか。
  そしてそれに気づいてしまったなら、確実に自分自身を軽蔑するだろう。
  だから彼女は、今の自分の変化を「嘘」と断定しなければならなかった。  

 「……ごめん。
 私、もう寝るね」
 「お、おう。 おやすみ」

  真璃は立ち上がり、武に返事を返すことなく、一瞥することもなく、
 まるで逃げるように、その場を後にした。

 「なんだってんだ、一体……」

  その様子を見た武は、まさか自分が彼女の変化を促した、とは少しも思わず、
 「意味わかんねえ」と大きくため息をつくしかなかった。





  ――そうした会話がなされていたころ、
 二階へと通じる階段に座る一つの人影があった。
  その人影……御剣冥夜は、二人にはわからないように、彼らの会話をじっと聞いていた。
  彼女は夢を見て、目が覚めてしまったのだ。
  リビングに通じるドアは開かれており、彼らの会話を聞くのは容易なことだったのだ。
  会話を聞くごとに冥夜は表情を緩ませる。
  彼女は武の言っていることを理解し、彼の優しさに感心したりしたのだ。

  そのたびに彼女は思うのだった。“あの頃と何も変わっていない”と。
  何年も前、公園で寂しそうにしていた女の子に手を差し出してくれた彼。
  冥夜はしっかりと覚えている。彼の笑顔を、言葉を。
  
 「……タケル」

  そして時間は現在へと移る。冥夜はここにやってきてからのことを思い出す。
  白陵柊での出来事、料理対決や球技大会、それから最近あったデート――
  すべて、彼女にとって何物にも代えられない時間だ。
  そうして共に育んできた中で。彼女は武を、過去の思い出からではなく、今の姿そのものから
 あらためて好きになっていたのだった。
  『私が好きになった男は、やはり素晴らしく、器の大きい男だ』
  そう彼女は強く思い、そうして考えるだけで胸が高鳴るほど、冥夜は武のことを大切に思っている。

  ――しかし、次に真璃のことが思い浮かんだ途端、冥夜の顔は険しいものに変わった。
  真璃のことを考えた瞬間から、さっきまで思い出していた記憶が、何かしら不具合があったような、
 引っかかる感じを受けてしまう。
  それはまるで、歯車が小石を噛んでしまって回りにくくなってしまったような。
  
  冥夜は武との関係を“絶対運命”と称し、疑ったことはなかった。 以前までは。
  真璃はその証拠などと、思うこともあった。 以前までは。
  ……しかし、今は違う。
  彼女はもう、運命という言葉で自分の意志の明白性を軽薄にしようとは思わなくなった。
  過去とか未来とか、そういうところに自分の武への想いが、願いがあるのではないと気づいたのだ。
  今の自分が武を好きだから、彼と結ばれたい、結ばれる努力をしなければならないと。

 「そう……そうとも。
 未来は分からぬからこそ、今に生き甲斐があるのだ」

  冥夜はそう、虚空を見ながら呟いた。
  彼女にそれを気づかせてくれたのは、純夏だった。
  純夏の武に対する言葉、行動、それが冥夜を不安にさせた。
  “運命”という言葉ではなく、“意志”をもって武に接触しなければ、自分の望む未来は手に入らない。
  当たり前のことではあるが、彼女はそう気づけたのだ。
  そしてその意志において、冥夜は純夏に絶対に負けないと決意するのだった。

 「……しかし」

  だが、それに気づいたとき、冥夜はもう一つの事柄に気づいた。
  意志によって未来が定まるならば、それは『武が彼女を選ばない』未来も有り得るということに。
  運命を絶対的に信じていれば、それを疑うこともなかった。 いや今も、武への想いの丈で自分は他の誰にも負けない
 という自負があり、最終的に武は自分を選んでくれると、そう信じている。
  信じているけども。
  予知できない未来が冥夜にはとても不安に感じられ、そして武の一つ一つの言動が、彼女の心を千々に乱れさせる。
  自分との過去を思い出してくれない、自分以外の女性を心配する、一緒にいても別のことを考えているように見える……
  それが彼女を焦らせ、不安を増大させる。
  どんなに意志が強くても、未来が望むものになるのかはまったく未知なのだ。

  ……それなのに。
  
 「しかし……真璃……
 なぜ、そなたはここに、いるのだ」

  自分が望む未来……武と結ばれ、二人ともに生きていける未来。
  その証明とも言える真璃の存在に、冥夜は苛立ちすら感じてしまう。
  どうすれば武とそんな未来にたどり着けるのか、自分はそのために何をすればいいのか。
  未だ武とそうした関係に、いやそのきっかけにすら至っていないと思う冥夜にとって、真璃という存在は、
 まるで自分を追い立てるように感じられた。
  
 

  だから、冥夜は未来を
 真璃のことを考えるのが、少し怖かった。



[3649] Scene 4 「Conscious」 ②(アサムラコウ様執筆)
Name: 葉月◆d791b655 ID:9a316f87
Date: 2020/03/14 23:21




 望んだはずの幸せが、
 自分自身によって引き裂かれていく。
 父親であるはずの存在を、
 男として意識する。
 ……真璃にとってそれは、何を恨めばいいのか分からなかった。
 血の繋がった異性に惚れるという事は、世界には侭ある。物心付く前から一緒に居るなら問題ないが、長い間引き離されていたら尚更。
 真璃は、武と初めて出会った。しかも、お互い17才という思春期で。
 だからこれは、客観的に見れば、充分起こりうる事態だ。だが、

「……やだ」

 そんな風に割り切れなかった。
 ――自分の寝床にあてがわれた、朝日差し込む白銀家の一室
 ベッドで身を起こし顔をうつむける――
 恋愛感情、
 この思いは人間の生理だと、自分の意思とは関係無い、生物学的な問題だと切り捨てるには、

「やだよ……」

 真璃は父親も母親も大好きだった。
 だけど、
 ――俺は俺、冥夜は冥夜で、真璃は真璃
 認めたくない、けれど、
 気付かなければいけない。
 父親は武でなく、母親は冥夜では無い。

「やだっ!」

 理想郷。
 父と母が生きている世界。なのに、
 この夢の中で、初めて真璃は、光溢れる朝を恨んだ。






「おはよう真璃」
「……おはよう」

 真璃は、重い体を引き連れて、朝食が用意された食卓へ向かう、

「父様」

 薄く笑いながら、まるで、昨日の事なんて無かったように、真璃は武に声をかけた。

「いや、真璃、それは」

 何かを言おうとした武だったが、真璃は、そのまま着席する。

「おはようございます、母様」
「……ああ」

 そして、変わらぬように、当たり前のように朝食を食べていく。けれど、武も冥夜も違和感に気付く。
 真璃は、二人を見ているようで見ていない。
 軽い言葉を交わしているが、視線はどこか、武や冥夜の奥の方へみつめている。目の前の存在でなく、自分の信じたい幻を見続けているような。

「おい真璃、……大丈夫か」
「大丈夫って何が? 私は元気だよ」
「元気ってお前どう見たって」
「母様」
「あ、ああなんだ?」

 言葉は遮られる、
 最低限の接触しかしない。まるで劇を演じているかのような態度で、真璃は武に接し続ける。会話の比重は冥夜の方にシフトしていく。
 とっくに夢は覚めている。
 それでも尚、真璃は夢を見続けようとする。
 暖かい食卓、
 父が居る、
 母が居る、
 そして娘の自分が居る、
 これ以上の幸福は無い、
 ――だから、ずっと、この侭

「ああそういえばタケル、今朝は鑑はどうした?」
「ああ、純夏は――」
「なんで!」

 突然真璃が叫んだ。

「なんで純夏さんの名前が出るの!」

 ……BETAに対する新兵が起こす、戦場での発狂、8分間という死のライン、
 まるでそんな風に、真璃は金切り叫んでいた。

「ま、真璃、どうした」
「いや、純夏今日は、なんか向かいの家の人がやばいから一緒に病院行くってメールが」
「父様と母様には関係無い人でしょっ!」
「いや……え……?」

 真璃の明らかに異常な反応に、武は戸惑う。だが、冥夜は、
 察してしまう、

「……真璃、聞いてくれ」
「母様、何、母様」

 なんでもない日常の朝食風景に起きた混乱、真璃は最早涙ぐみ、震えている。
 冥夜は、ゆっくりと、
 諭すように言った。

「真璃の世界に鑑が居ないのが普通のように、この世界では真璃が居ないのが普通なんだ」
「あ――」

 ハッキリと、
 その事実は告げられた。
 瘧が起こったように震える真璃、その様子を見て、武は困惑混じりの怒気を冥夜に向けた。

「お前、冥夜!」

 恋しい人からの怒り、それで胸を痛めながらも、膝の上の手をぎゅっと握りながら、

「タケル、頼む、少し出て行ってくれないか」
「なんで――」
「信じてくれ、私は」

 ……そこで、少し口をつぐんで、

「私はお前の、友達なのだろう?」

 そう、少し寂しげに言った。

「……お前……もしかして昨日の話」
「……頼む、私を信じてくれ、私がタケルを信じるように」
「……わかった、わーったよ」

 頭をクシャクシャとかきながら、武は、

「……頼む、任せた」

 そう呟いて、食卓を出て行った。
 静寂が始まる、
 真璃は、うつろな目でずっとうつむいている。
 口火を切ったのは、冥夜。

「二人きり、……という訳でも無いがな。この状態でも御剣の監視は続いている、この会話も残るだろう」
「……母様は」

 真璃は言った。

「私が邪魔なんですか……」
「……そうだな、邪魔、というより、私はお前が怖い」
「……え」

 御剣冥夜は、

「恋敵として、お前が怖い」

 隠さない。
 昨夜芽生えた想いを、正直に吐露した。

「な、何言ってるの、母様、父様は、私の父様なんだよ! 恋敵って!」
「真璃、お前が私とタケルとの娘と聞いた時、戸惑いはあったが、それは本当に嬉しかった」

 あの日の熱を思い出す、
 顔が弛んだ、体が踊りそうだった、信じ続けた絶対運命の証しが、目の前に最高の形で現れた。
 ――だけど

「真璃は、私じゃない私と、タケルじゃないタケルとの娘だ」
「違う、母様は母様、那雪斑鳩と一緒で、同じ」
「違うんだ、真璃」

 冥夜は、一度目を伏せた後、
 顔をあげてしっかりと言った。

「今お前の目の前に居る御剣冥夜は、鑑純夏無くして存在しない」
「ッ!」
「……友情と言う物を、恋敵に感じるのもおかしな話かもしれんが、料理、球技、まだ出会って間もないのに、数え切れない思い出がある」
「……そん……なの」

 鑑純夏さえ居なければ――
 真璃はそう信じていた、純夏がともかく邪魔だった。
 だけど、母親は、いや、
 目の前の"御剣冥夜"は、純夏を肯定する。
 父親と結ばれる為には、障害でしかない存在に、感謝すら注ぐ。
 ……嫌だ、

「嫌だ!」
「真璃……」
「嫌だ、母様の言う事解らない、解りたくないよ!」
「決断したんだ、私は、タケルと結ばれる為に決着を付けると」
「決着なんて付いてる、父様と母様は結ばれる! 娘の私がここに居る!」
「それは真璃の世界の話だっ」
「あっ……」

 ……再び痛い程の沈黙、だが、

(私の世界?)

 真璃は、頭の中で、五月蠅い程に思考を繰り返していた。

(じゃあこの世界は何?)

 心の声なのに、鼓膜が割れそうになる、
 全身が揺れる、目眩すら覚える、

(父様と母様が、BETAの居ない世界で、平和に暮らす、私が、私が望んだ、ああ、でも)

 ……とりとめない思考が、そのまま、暗く沈みそうな思考が、
 生き残る為に、

(あいつが居る)

 ――最悪の選択をする

「……真璃、すまない、私はお前を娘として見れない。自分の意思で武と決着を付けたい」

 うつむいて黙る真璃に、冥夜は言葉を続ける。

「絶対の運命を、乗り越えなければいけないのだ」

 ……だけど、

「……真璃、頼む、私を母としてでなく、御剣冥夜として見てくれないか。奇跡の縁なのは解っている、だが、私はお前を娘としてでなく、友として絆を繋ぎたい。私とタケルを見守ってもいい、……恋敵として立ちはだかってくれても構わない」

 最早冥夜の言葉は、
 真璃には届かない。

「だから――」
「あいつが、悪いんだ」
「……え」

 真璃は、うつむいた侭、
 最悪の選択を、つまり、

「あいつが!」

 責任の転嫁、

「鑑純夏が悪いんだ!」

 自分という大切を守る為、
 絶望した人間にとって、唯一といっていい生き残る術。
 この避難経路無くしては多くの人が、自ら命を絶つ事になる、感情の帰結。

「ま、真璃! 落ち着けっ」
「母様が私を拒否するのも! 私が二人の傍に居られないのも!」

 逆ギレなんて、陳腐な言葉で片付けるには、
 余りにも真璃は追い込まれていた。
 あの地獄から辿り着いた理想郷が、
 自分自身の所為で、崩されそうになった時、
 その怒りを、誰かに向ける事になったとしても、

「……私が、父様の」

 ――誰が彼女を責められる
 真璃は、
 椅子から立ち上がって、
 泣きながら、笑って言った。

「白銀武の傍に居られないのも」

 冥夜の目に映ったのは、武と自分の娘などで無く、
 一人の女だった。
 初恋に苦しむ、一人の少女だった。

「真璃――」

 冥夜が声をかけようとした時、
 ――突然、目の前が発光した

「うおっ!?」

 余りにも眩い光に目が眩む、弾ける閃光、目が潰されそうになる、
 だが、

(え――)

 激しい光の中で、
 御剣冥夜の瞳に映ったのは。






「冥夜、おい、しっかりしろ冥夜!」
「冥夜様!」

 武と真那の呼びかけに、反応を見せる冥夜、意識を失っていた訳ではない。あまりの眩しさで目をやられ、うずくまっていただけだった。
 いや、
 正確には、眩しさだけでは無い。

「あ、あぁ……タケル、真璃は……」
「いねーんだよ!」

 想定していた最悪が、冥夜に告げられる。

「二階で休んでたら、なんかすげぇ物音して、降りてきたら月詠さんに冥夜が介抱されてっし、ていうか真璃はどこ行った!」
「武様、落ち着いて下さい! 外から見守っていましたが、部屋が突然光に包まれ」
「光? なんだそれ――」
「パラポジトロニウム光ぉ!」
「うわっ!?」

 何処からか現れたのか、まさに、神出鬼没といった様子で、香月夕呼が登場する。

「香月教諭!? い、いきなり現れ」
「そう、いきなり現れる! パラポトロニウム光は並行世界から何がやってくるサイン! 復習は完了したかしら!」
「いや何言って」
「――こっちの世界に来てはいけない、現れてはいけない物が来ようとしている」
「……え?」

 夕呼の顔が、冷徹になる。

「真璃はね、あっちの世界からこっちの世界へやってきた。ここまではもういい加減納得してくれた?」
「そりゃまぁ、認めるしかねぇけど」
「で、問題は、認識の差が生まれてしまったのよ」
「認識って」
「鑑純夏の存在の有無」

 ……その言葉を聞いて、
 目を抑え続けてた冥夜が、

「……ずっと、私やタケルだけでなく、真璃も監視していたのか」
「そう、おはようからおやすみまで。……警護とかじゃなくて、研究対象としてね」

 恨んじゃう? と笑う夕呼に、頭を振る冥夜。

「今はそんな事を言っている場合ではない、それで、真璃の認識の差と、今の光と真璃の消失に何の関係がある」
「真璃はその、あっちの世界っていうのに帰ったのか」
「……戻るんだったら光は生まれない、つまり今の光は、あちらの世界から別の物が来る兆し」
「……え?」
「……貴女は、見たんじゃないかしら」
「……」

 夕呼の問いかけに、
 冥夜は答えない。
 夕呼は、その冥夜に声をかけず、

「仮説だけど、決定論として語るわ」

 話し始めた。

「認識の差を埋めようと、世界が修正を開始しているわ」
「修正?」
「真璃にとっての普通の世界、つまり、鑑純夏の存在しない世界を作ろうとしている、つまり鑑純夏を、真璃は殺そうとしているの」
「え……」

 白銀武は、否、その場に居る者は絶句した。
 だが、例外があった。
 その論を唱える香月夕呼と、
 ようやく、目から光の残像が剥がれた、御剣冥夜、

「……正確には、真璃の世界が、認識の差を埋めようとしているのだろう。一個人の殺意に、世界の殺意が便乗した形だ」
「いや、すまん冥夜何言って」
「見たんだ……タケル……私は……」

 そこで、

「真璃の世界は」

 冥夜は、
 嗚咽しそうな、口を抑えた。



 冥夜の脳裏に浮かんだのは、先程の閃光の中、
 見た事も無い、体前面が拓けた不可思議なスーツに身を包んで、

「地獄だ」

 血塗れで、怪我を浮かべながら、
 悪夢のような化け物達の前に佇む、真璃の姿だった。



「……地獄?」
「……異形としか、おぞましいとしかいいようがない……一瞬で良かった。見続ければ発狂しそうな、そんな化け物達が」

 あの冥夜が震えている、
 その様子に、武は、彼女の肩を抑える。
 些細なその温もりに助けられたのか、冥夜は顔を夕呼の方へ向けた。

「確認させてくれ、香月夕呼、真璃は、いや、真璃の世界は認識の差を埋めようとしている。ならその認識の差が、……鑑純夏が死んだら、この世界はどうなる」
「仮説だけど、決定論として語っていいのかしら」
「頼む」

 物理学者は、口で笑いながら、
 冷徹な目で、

「貴女の見た地獄が、この世界の普通になるかもしれないわね」

 ――絶望が語られる
 

「……真那」

 黙って状況を整理し、御剣への連絡をすぐ取るようにしてたメイドに、冥夜は話しかけた。

「姉上に連絡をとってくれ」






「はぁ~……」

 緊張からの緩和、
 病院から出た鑑純夏は、心の底から、安堵の溜息を吐いた。
 起床、……この日は同居人の霞の姿が無く。メールにて"用事があるので先に学校へ"と送られていた。
 コンビニか何か寄っていくのか? と思いつつ、今朝も武を起こしに行く為、勇んで玄関を出たのだが、そこで外で泣き崩れるお向かいに住むお母さんに遭遇。入院している夫が危篤になったと聞いて、病院に行かなきゃいけない、でも行くのが怖い、となっている所を、元気づけながらタクシーを呼んで一緒に乗り込んだ。
 危篤、というのは入院した夫本人が騒いだだけで、
 実際はただの腹痛だったと知った時は、ひたすらにどっと力が抜けた。

「……これどうしよう、ああ、今から学校に連絡入れるの怖いなぁ」

 アホ毛も元気なくへたれこむ。彼女の心情は、快晴の空に反してブルーに沈んでいた。

「というか、タケルちゃんちゃんと起きられたかなぁ」

 そこまで言って、
 真璃と冥夜が居る事を思い出す。
 別に自分が起こさなくても、あの二人のどちらかが、武を起こす事を、
 でも、
 ――なんか純夏に起こしてもらわないと調子出ねぇ
 そんな言葉が妄想出来る程には、あの日、窓越しに交わした会話は、"自分の料理"だから美味しいという言葉は、純夏に勇気を与えていた。
 自惚れというのも少しはある。だけどそれよりも、気持ちの整理が付いたのが、純夏には重要だった。
 ハンバーグだから特別じゃない、私のハンバーグだから特別だ、
 誰かが武を思うから特別じゃない、純夏が思うから特別なのだ。
 ……冥夜の思いも特別なら、私の思いも特別だ。どちらが選ばれるか解らない、だけど、
 最後まで、自分をぶつけたい。
 どこにでもある思いじゃなくて、鑑純夏という特別な思いを。
 ……と、真璃という存在が来てから揺らいでいた恋心も、今は、ここまで建て直せていた。

「さてと」

 早く学校に行きたい、武に会いたいと、
 純夏は足早に、
 病院の敷地内にある、階段を降りようとして、
 ――その足下を得体の知れない瓦礫が生えた

「えっ」

 階段を降りる前、
 純夏はそれに蹴躓き、そして、
 誰に受け止められる事も無く、そのまま階段を転がり落ちた。

「あっ!」

 ……階段の段数が少ない事が幸いしたか、骨は折れなかった。血も零れる事は無い。だけど激しく体は痛む、

「いた、いたた……」

 階段から転げ落ちた先で、純夏は、

「え……」

 とても、信じられない物を見た。

「……真璃、さん?」

 そこには真璃が、真璃のような何かが居た。
 それを、あの、武と冥夜の娘と宣言する真璃と同じ人間だと、直ぐに断定する事を、純夏は戸惑った。
 ――いでたちがおかしい
 耳の傍、肩の部位、腕や足の箇所に、金属なのかプラスチックなのか、複雑な造形をしたパーツが付けられている。
 それなのに、体の前面は開けており、極々薄い、ゴムなのかタイツなのか解らない不思議な素材が、体のラインや、乳首の突起すら隠す事無く、ほとんど露出している。
 いやらしい、と思うより先に、訳が解らなかった。
 この世界の鑑純夏は知らない――薄地の装いは電圧がかかり、情報の収集や戦術機のサポートと直結するとか、
 この世界の鑑純夏は知らない――男と寝食着替え、風呂までも一緒になる状況、恥じらいで性欲を煽らぬよう、羞恥心を殺させる為に、敢えてこのデザインを取っているとか、
 鑑純夏は知らない、
 真璃が過ごした世界の事を、
 そして、

「純夏さんは、父様を」

 彼女が、

「白銀武を好きなんですか」

 純夏に殺意を抱いている事を。
 ――真璃の手には那雪斑鳩が抜き身握られている

「……」

 純夏は、短いなりの自分の人生で悟った。
 これは異常だと、有り得ない事が起きていると。
 衛士強化装備に身を包んだ彼女だが、よくよく見れば、その肌には所々裂傷が存在する。口の端から血は零れていた。純夏の見えない角度では、強かに打ち付けたような、腫れ上がった箇所もあった。
 純夏は真璃に質問されている、だけど、

「だ、大丈夫?」

 心配の方を、先にした。

「怪我、酷いよ、誰にこんな、なんで……病院行こう! ほら、直ぐに!」
「そういう所が!」

 怒声が純夏の言葉をかき消す。

「……偽善者」

 真璃にとっても心にも無い言葉が、口から漏れ出す、

「なんなんですか、なんなんですか貴女は! いない存在の癖に、要らない存在の癖に!」
「要ら、ない」

 その言葉一瞬、純夏を揺らした。

「貴方が居るから、父様と母様は一緒になれない、貴方が居るから、私は父様と、二人で」

 真璃自身、何を言ってるか解らない、

「気持ち悪い! 幼馴染みなんて、父様を誑かして、自己満足で」

 唯々人を傷つけるだけの罵倒を並べていく、
 何かにせっつかれるように、そうしろ、と命令されるように、
 どこまでが彼女の本心で、どこまでが彼女の偽りなのか、

「死んでよぉ!」

 それはもう、
 真璃にも解らなかった。

「鑑純夏ぁッ!」

 ただ、その名を叫んだ瞬間、
 一瞬、真璃の風景が歪んだ――

「え……」

 そこにあったのは瓦礫と、
 魑魅魍魎のBETAの姿。

「あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 真璃からの罵詈雑言にはなんとか耐えていた純夏も、まともに正面から、狂気の光景を一瞬垣間見た事で、声をあげ、尻餅を付いた。
 その光景はすぐに姿を消す、だが、純夏の中で記憶として残る。
 今までのやりとりも無効化する根源的な恐怖、
 後催眠や興奮剤でも防げない、本当の意味での、BETAの恐ろしさ、その片鱗。

「……い、今の、今のが」

 震えながら脅えながら、理解したのが、

「今のが真璃さんの世界」

 彼女にってこちらの世界が、
 どれだけ平和な、夢のような世界だったかという事。
 ……けど、
 だけど、

「……戻りたい」
「え……」

 想定外の言葉を呟きながら、一歩、真璃は歩みを進めた。
 その一歩が瓦礫になる。
 踏みしめると瓦礫が起こり、足を離すと瓦礫が納まる、
 彼女の周囲に、彼女の、BETAの居た世界が、滲み出ている。

「戻りたい」

 聞き間違いで無ければ、
 彼女はそれを望んでいる。
 さっき純夏が見た、化け物の居る世界へ戻りたいと。
 どうして?

「この世界は、間違っている」

 真璃は虚ろな目で、純夏を見据えながら、

「純夏が居る世界は間違ってる」

 はっきりと、そう言った。
 ……そこまで、
 そこまで自分が、鑑純夏という存在が、白銀真璃に否定されている事を知って、
 純夏は、座り込んだまま言った。

「ダメだよ」

 彼女は笑っている。

「タケルちゃんは、私が居ないとダメだもん」

 それは強がりで、顕示欲で、
 鑑純夏にとって、
 譲れない、儚く脆い、だからこそ強く持ち続けねばならない、
 ――プライド
 ……だけどそれは、
 ただ真璃の神経を逆撫でする言葉にしか過ぎず、

「あぁぁぁぁぁぁ……」

 抜き身の刀が振り上げられる、

「あぁぁぁぁっぁぁぁっあぁぁっ!」

 叫声と供に、真璃の周囲に瓦礫が生え、BETAの居る光景がはみ出るように映り、そして、
 刀は、
 ――振り下ろされる



 キィン! という、硬質音と供に、
 那雪斑鳩の刃は、

「待たせたな、純夏」

 冥夜の手に握られた、那雪斑鳩の刃で防がれた。
 鞘には、やの字が逆の、めいやと書かれた名札が下げられて。



「なんで邪魔をするのぉっ!」

 刀を引く、

「母様ぁぁぁっっっ!!!」

 再び、まるで、槌を振るうかのように、刀を叩きつける。
 それを峰で受け止める冥夜、火花は起きるが刃こぼれは起きない、そのまま鍔迫り合いが発生する。

「大丈夫か純夏!」
「タケルちゃん!」
「あぁ、父様、父様、やだ、やめて!」

 鍔迫り合いの向こうで、尻餅を付いていた純夏の手を引いて、武は走り出した。

「行かないで!」

 泣きじゃくる、

「そんな女とどこかへ行かないで!」
「――安心しろ」

 冥夜は、鍔迫り合いから、前蹴りを放ち、

「ぐはっ!?」

 真璃を思いっきり蹴飛ばして、距離を置いた。
 真璃は、腹を抱えながら立ち上がる、
 そこには、
 冥夜の後ろで、寄り添いながらも、……逃げず、真璃を見続ける、武と純夏の姿があった。

「鑑はどこにも行かない、武もここからは離れない」
「何、何言ってるの母様」
「鑑が死ぬなら、私も死ぬし、武も死ぬ」
「ああ、そうだ!」
「何言ってるの……違う、なんで」

 真璃は叫んだ。

「なんでこんな事をするの!」
「決まってるじゃない!」

 その方向をかき消したのは、純夏の声で、
 純夏は、

「みんな一緒に仲良くしたいから!」

 それは、
 理想郷に響いた、

「真璃さんとも!」

 ――けして許されない理想論
 皆が幸せになる世界――

「あぁぁぁぁぁっ!」

 拒否が奔る、彼女は泣く、
 足下に瓦礫が生まれ続け、彼女の背景には、BETAの異形が垣間見え続けて、
 白銀真璃の世界は、この世界を壊すために刀を振るう。
 そんな、発狂の景色を目の前にして、冥夜は、
 ――白銀武と鑑純夏を背に負って

「来い! 白銀真璃! 世界への願いを閉ざされた者!」

 冥夜は、
 願った。

「私はお前を護ってみせる!」

 二対の那雪斑鳩が、
 抱きしめ合うように、ぶつかった。






「真那からの報告、病院周辺1kmの避難、封鎖は完了したのよし」
「解りました、引き続き警戒をするよう。情報統制はしっかりと」

 真耶の言葉に悠陽が答える。現在、二人は向かい合わせ。御剣が走らせるリムジンカーに乗って、パトカーに先導っせて、高速を走っている。
 後部座席のその対面式の座席には、

「それで、香月教諭」

 もう一人、白衣に身を包んだ彼女が居た。

「貴女はこの件を、解決出来るのですか」

 その問いかけに、夕呼は何時ものように笑って、

「全ての人間の思いが果たされるなんて有り得ない」

 そう、言った。

「……おっしゃる意味が解りませんが」

 真那の疑問、だが、

「続けてください、夕呼さん」

 悠陽は促す。
 夕呼はどこか遠くをみつめるような瞳で、仮説を決定論にしますが、と、軽くおどけた前置きをしてから、

「全ての人間の想いを満たすには、この世界が狭すぎんですよ。……悠陽様なら解るでしょ」
「……白銀武」
「そう」

 ――恋愛原子核は時空を超える
 夕呼が唱えた戯れ言のような理論、だけど、彼女自身はそれを大真面目に理論として組み込もうとしている。

「誰も彼もあの男と付き合えれば皆幸せになれる。だけど白銀武は一人しか居ない。だから、皆が幸せになる事なんてない」

 そう言って、夕呼は窓の外を眺めた。

「全ての想いを果たすには、世界は余りにも小さすぎる。だから、並行世界なんて物が出来るのよ」
「……この世界は、真璃さんの願いで作られた物だと?」
「いやいや、それじゃ純夏が居るのはおかしいから」

 パトロンへの敬語もやめて、視線も合わさず、外を眺め続ける夕呼。

「……多分、あっちの世界から弾かれたんでしょ、普通ならそのまま時の藻屑、だけど、何かの力でこの世界まで辿り着いた」
「何かとは? 不明瞭な発言でなく、はっきりした言葉を望みたいですが」
「"神様"じゃない?」
「……冗談を」
「真耶」

 悠陽は、真耶の言葉を制する。
 窓にうっすらと映る夕呼の顔、
 口元は笑っていても、瞳は真剣だったから。

「……弾かれた真璃を幸せにするよう、彼女の父と母が生きているこの世界へ、神様はここまで持ってきた。神様は、真璃に幸せになって欲しかった。だけど、真璃はこの世界を否定し始めた。あちらの世界を意識すれば、認識の差異が生まれる。その差異を修復しようと、世界は真璃の世界に飲み込まれていく」

 そこまで聞いて、真耶に再び疑問が浮かぶ。

「何故、私達の世界が、真璃さんの世界に圧し負けるのですか? 何故、私達の世界は、たった一人の少女の想いに打ち負かされる?」

 単純に数の問題である。いっぱいの方が、少ないより、強い。
 だが、

「……それを元の世界で、多対一という絶望を乗り越えて、あの子はやって来たんじゃない? 例えば、何百万という化け物と、たった一人で戦い続けるような」
「そんな、それは」
「そうよねぇ、そんなのは有り得ない、有り得ないけどそれを起こした、つまり」
「奇跡」

 悠陽が、一言呟く。
 夕呼は、悠陽の方へ向いて、笑った。

「奇跡を起こした少女がまた、この世界で奇跡を起こそうとする。そう、願い溢れる世界で、たった一人の願いが、世界を動かす事もある。それは真璃だったり」

 夕呼は、

「お人好しの神様だったり」

 言った。

「香月教諭、貴女は一体」
「んー、悪いけど、全部研究による推論よ、何でもかんでもお見通しじゃないわ、私は神様じゃないもの」

 だけど、と繋げて、

「そんな神様のした真璃の為の行動は、結局、また不幸な人間を増やすだけ。だから私達は、神様の尻ぬぐいをしなきゃいけない。全く私達の神様は、中途半端で、不完全で、大雑把で、あきらめが悪くて、面倒くさくて、……でも」

 それでもと、

「とっても人間らしい、そんな神様よ」

 パトカーに先導されたリムジンは高速をひた走る。
 看板に、国連横浜基地の文字が見えた。






 周囲に誰も、……正確には、白銀武と鑑純夏以外居ない、病院前の広場で、
 真璃と冥夜の二人は、全く同じ刀をぶつけ合っていた。
 得物が同じなら、均衡が崩れる原因は、実力差、
 その点で、
 真璃が冥夜を押していた。

「くぅっ!」

 まず、真璃は冥夜に手加減をしている。
 彼女の狙いは冥夜の殺害では無い、更に言えば、手足を落としての戦闘不能なども望んでいない。疲労させて身動きを封じ、その隙に純夏を殺害する事が目的である。
 そういう意味で言えば、冥夜も、本気で真璃を殺すつもりは無い。なんとか真璃の手から刀を打ち払おうと、そればかりに執心している。
 それでも尚戦いは、
 元の世界で、地獄を潜り抜けてきた彼女の方にあった。
 技量は同じかもしれないが、戦闘経験は、彼女が勝る。
 敗北も後悔も血潮にした彼女の動きは、本当の戦場を知っている彼女の動きは、冥夜の腕前をもってしてもとらえ続けられる物では無かった。
 実際、冥夜の方が防戦に回っている、
 攻勢はここから逆転しそうにもない、
 真璃周辺の、世界の侵食はより拡がり、
 冥夜は勿論、純夏も、そして武にも、その絶望の世界は断続的に見せつけられていた。
 ……そう、
 主導権は真璃が握っている、なのに、
 なのに、

「ああぁぁっ……」

 辛そうなのは、

「あぁぁぁっ!」

 真璃だった。

「どうして!」

 目の前に冥夜が居るだけなら、
 その後ろに武が居るだけなら、
 彼女は動じない、
 迷わない、
 こんな風に乱れず、真っ直ぐに、刃を交わせる、
 だけど、

「どうしてっ」

 武の傍に、

「……どうして」

 純夏が居る。
 真璃が殺意を向ける相手は、
 この世界に不要な存在は、
 真璃に、
 
「さっきも言ったよ」

 真っ直ぐ、笑いかけた。
 お人好しの、人間らしい笑顔で。

「真璃ちゃんと、仲良くしたい」

 皆が幸せになる世界、
 そんな有り得ない願いを、自分を殺そうとする相手にすら叶えようとする人間の笑顔に、
 一瞬、真璃は、
 何もかも忘れて心を奪われてしまった。
 ――その隙を付き、冥夜の刀の峰が彼女を吹き飛ばす
 その攻撃で宙に浮かび上がる間、

(……ああ、私は)

 ――思い出す

(私は)



「私は使命を全う出来ず殺された」

 淡々と、言葉にする。

「横浜ハイブで、BETAに襲われて」



 忘れていた自分を、戒めるように。
 瞬間、彼女の肌に浮かんでいた裂傷が、
 より深く裂かれ、全身から血を噴き出させた。
 ――純夏達の悲鳴があがる
 ……、
 何も成せず死んで、
 その事実を忘れようとして、世界から弾かれて、
 いや、逃げて、
 逃げて、
 ここに来て、
 ……けど、逃げ込んだこの世界ですら、真璃は、

(……死んだ人を、言い訳にするなって言われたのに)

 それなのに、

(生きた人まで、言い訳にしようとした)

 純夏が居るから悪いと、殺そうとした。

(自分は悪くない、自分は悪くないって)

 体が地面に着地する。
 血が出てる、
 駆けつける冥夜、純夏、武、三人の声も真璃にはよく聞こえない、

(バカ)

 視界も滲んでいる、
 血が出ていく度に、五感で得られる情報が霞んでいく。
 それはつまり、他者を感じられない事だから、
 孤独になるのと一緒だった。
 だから、真璃は、

(全部私が悪いんだ)

 そう、ひとりぼっちで答えを出してしまい、
 もう誰にも触られたくないと、引き籠もるように、気絶してしまった。






[3649] Scene 4 「Conscious」 ③(アサムラコウ様執筆)
Name: 葉月◆d791b655 ID:9a316f87
Date: 2020/03/14 23:21




 恋に勝ち負けがあるように、
 真璃の人生にも、勝ちと、負けが存在する。あの日あの時、左じゃなく、右へ曲がっていただろうなるだろうという、有限の命を無限に広げる選択肢、
 それはif、特異点とも呼ばれる枝分かれ、
 ――人は生まれを選ぶ事は出来ぬ、だが、死に様を選ぶ事は出来るのだ
 その言葉は真実だろう、だけど、
 その時の彼女は、いや、
 彼女達は、選べなかったのだ。

「だ、誰か! 誰か助けて!」

 何人もの敗北者が、

「いや、だ、誰か助けて……まりもちゃん、助けて。夕呼先生、霞おねえちゃん、どこ、どこなの」

 何人もの負け犬が、

「ひっ……お、お願い、ゆるして、ゆるして」

 何人もの、

「い、いや、いやあ! 母様、母様ぁぁぁ!」

 御剣真璃が。
 死を選ばず、ただ、生に執着したけど、ある真璃は囓られて殺されて、ある真璃は潰されて殺されて、ある真璃は引き裂かれて殺されて、
 ――敗北者達の並行世界
 無限に存在するデッドエンド――
 ……彼女達の、敗北した真璃達の共通点、それは、
 暖かさに辿り着けなかった事である。
 寄り添う二本の柱の記憶を、
 自身を生んだ熱を、愛を、思い出せなかった事である。





 病院、特別治療室、御剣の名で無理矢理使わせてもらっている部屋にて、
 ベッドの上で寝かされている真璃の様子は、明らかに異常だった、なぜならば、
 瞬間瞬間で、様子が違うのである。
 それは、嘔吐を覚える程の有様すら、時折見せる。
 ベッドへ運び込まれた時には腕が折れていた、だが次の瞬間その腕が切断されていた、思わず目を閉じて後退りしたが、次にはその腕が生えて、だけど代わりに目が潰され、挙げ句の果てには、一瞬、ほんの一瞬、首の無い真璃すら存在したのだ。
 冥夜が傷つけたものではない、
 次から次へと、色々な怪我を負った、色々な真璃が存在する。
 はっきり言えばそれは怪異。深い傷口、崩れた体などは、人が脅える畏怖の対象、
 だけど、

「……なんだよこれ」

 目を薄くして、なるべく真璃を直接見ようとはしないけど、

「何が起こってんだよ」

 それでも武は、真璃の手を握って、彼女の容態を案じていた。

「……おそらくは、医者がどうこう出来る類いでは無い、……鑑」
「な、何、御剣さん?」
「大丈夫か? その、……怖くないのか?」

 俗に例えるならグロ画像がランダムで挿入されるような状況、だけど、

「こ、怖いよ、というかごめん、ほとんど目を瞑ってる、だけど」

 純夏は言った。

「真璃さんからは絶対離れたくないよ」
「……そうか、私もだ、だが、……どうすれば」
「――どうすれば真璃を救えるか?」

 扉が開くと同時に表れた存在と、声、

「夕呼さん!」
「姉様! ……と」

 そこに居たのは、香月夕呼と、悠陽、……そして、

「霞ちゃん……?」

 同じ屋根の下に住む彼女が、この場に相応しくない可憐さで、ちょこんと立っていた。
 ――今朝、メールに用事で出かけると書いた少女は
 純夏の顔をじっくりと見上げる。

「……あ、あれ? 何か私の顔ついてる」
「……いえ」

 霞はそこで言葉を句切ると、

「気にしないでください、純夏さん」

 そう、何時ものように笑う。

「それで、何してたの? コンビニとか行ってたのかなぁって思ったけど」
「ちょっと地下19階に」
「え? 地下19階? ね、ねぇねぇタケルちゃん聞いた!? そんな深い場所ってあったっけ日本に!」
「どこにひっかかってるんだお前は」

 この切迫した状況で、と思いながらも、そのノリに若干救われる武。

「姉様、なぜここに霞が」
「香月教諭曰く、真璃を救う切り札のようですわね」
「切り札?」
「そうそう、切り札。で、さーて、ボーイアンドガールズ達、今一度状況説明をさせてもらうわ」

 そこで夕呼は、真璃の傍に近寄って、

「真那から聞いてたけど、なるほど、この彼女は、……御剣真璃の敗北の統合体ってところね」
「トウゴウ?」
「タイ?」

 武と純夏が、はてな? と首を傾げる。幼馴染みならではの連携に、ちょっと嫉妬する冥夜、

「ともかく、1から説明するわ」

 そこで夕呼は、まず、さっきまで車内で語っていた事を話した。
 何故真璃がこの世界に来たのか、
 そして何故この世界を壊そうとしてるのか、
 世界は余りにも小さすぎるとか、お人好しの神様の話とか、科学者の割には、随分とロマンティックな言い回しをしながらも、一通り、話を終えた。

「おそらくここに来た彼女は、あっちの世界で敗北して死んでいる。それも、何度も」
「……何度も?」
「だから、あらゆる並行世界で死んでいるのよ。ほら、恋愛テキストアドベンチャーゲームで、トゥルーエンドに至る為、デッドエンドを何パターンも繰り返すみたいな」
「ん、んん?」
「お、おう?」
「おうおう白銀、他のガールズはともかく、君には察しついてほしいわねー、リアル恋愛ハーレム主人公の癖に!」
「いや何言ってんのかさっぱりわかんねーだけど」
「安心しろタケルよ、私もだ」

 てんで解らない二人、だったが、

「あ、あの、先生!」

 純夏が声をあげた。

「……さっき、先生言いましたよね、みんなの願いを叶えるには、世界は狭すぎる、だから並行世界が生まれるって」
「ええ、そう言ったわ」
「それじゃなんで並行世界でも、真璃ちゃんは不幸になってるんですか? 願いを叶える為に作った世界でも不幸になるなんて、意味ないじゃないですかっ」

 その質問に、

「本当、優しいわね」

 夕呼は笑う。

「……それだけの、不幸が存在しないと、辿り着けなかった幸せがあったんじゃないかしら。御剣真璃に0.001%の奇跡を与える為に、99.999%の絶望が、バッドエンドという名の試行回数が、存在しなければならなかったとか。さっき例えに出したけど、本当にゲームみたいに」

 フローチャート、
 そこに辿り着く為に、繰り返し、重ねていく行為。

「その中で、絶望して、死に様すら選べなくなる程生きたかった彼女達の集合体が、この世界に、とある力で流れ着いた」

 つまりそれは、
 BADENDを迎えた真璃の集合体。
 ただの一度も、勝利も達成感も得る事無く敗北した者達。

「仮定だけど、私はそう考えている」

 仮定だと言う割には、確信めいてるように、夕呼は笑っていた。

「……現状は解りましたわ、香月教諭」

 悠陽が、続けて尋ねる。

「それでは、結局、御剣真璃を助ける方法は?」
「二つあるわ」

 夕呼はまず、

「一つは、御剣真璃を殺す事」

 あっさり言ってのけた訳、だが、

「……あら、誰も反論とかしないのね、意外と冷静?」
「……長い付き合いじゃ無いッスか、ちゃんと、聞きますよ」
「そっか、ありがとう白銀」

 夕呼は真璃を見つめ直す。

「そう、さっきも言ったように、あっちの世界とこっちの世界の認識の差が出ている。その差を埋めるために、世界が修復を始めている。今の真璃に色々な怪我が出たりひっこんだりしてるのもそう、……にしてもこれどんだけ卑猥なスーツなの? 白銀よ、男って、こういうの好き?」
「先生あのさぁ」
「真面目にやってくれって言いたいの? だってシリアスだけじゃと息が詰まるでしょぉ? まぁともかく、あっちの世界、真璃の世界ではどう考えても人類は滅びかけている、このままだとあっちの世界に合わせてこっちの世界が修復されて、真璃の所為で人類は滅びる事になるかもしれない」

 ――さっき戦闘で垣間見た異形の怪物
 それがもしこの世界に溢れたのなら――

「だから、一番早いのは、あっちの世界の繋がりになっている真璃を殺す事なの。これで彼女も、今みたいに永遠に苦しむ事は無くなる。とっても救いが――」
「先生!」

 夕呼がセリフを言い切る前に。

「それよりもう一つ、真璃さんを死なす以外の方法を教えて下さい!」

 純夏が放った言葉。
 夕呼の冷淡さを咎めるでもなく、
 他に必ず方法があると、根拠も無く、疑いも無く、
 ひたすらに信じて、諦めないように。

「……あー鑑純夏、本当貴女って」

 真っ直ぐな瞳に貫かれて、彼女はやれやれと手をあげる。

「もう一つは簡単よ、真璃に、この世界も悪く無いって思わせる事。……あっちに帰りたいじゃなくて、こっちの世界もいいもの、有り得る物って認識させる事。ようは、彼女がこっちの世界に来た時と同じ気持ちにすればいいのよ」
「……それって」

 そこで、純夏が呟いた。

「私が居ても、真璃さんが許してくれる世界、って事ですか」

 認識の差が生まれるのは、真璃がこの世界を嫌うから。
 だから、この世界を好きになってもらえばいい。
 簡単なようで、
 とても難しい話。

「でも、それってどうやってやるんすか?」

 至極真っ当な疑問を、武が投げかける。すると、

「白銀、あんたよ」
「え?」
「……いや、白銀だけじゃ足りないか、……御剣冥夜」
「む、私か?」
「やる事は簡単」

 そこで夕呼は、真璃から離れ、
 霞という少女の後ろに回り、

「この子の能力で、リーディング、反映、解りやすく言うなら、真璃の意識に潜り込むの」
「……霞ちゃんの、能力?」
「はい」

 霞が、一歩前に出る。

「私には、その力があります。今朝、調整してきました」

 ――社霞が朝に居なかったのは

「霞ちゃん……」

 それは、純夏にとって初耳だった。同じ屋根の下で暮らしていながら、知らせられていなかった能力、
 定期的な報告で、健康診断と言うべきか、メンテナンスと言うべきか。
 真璃の一件があってから、もしもに備えて夕呼が行った事が、この事件に間に合っていた。
 とは言っても、

「意識に、潜り込む?」
「そんな、絵空事のようなものが……」

 武達にとって、それはとても荒唐無稽だった。
 やれ、と言われて、はい、と素直に言える事ではない。
 ……だけど、

「――かはっ!」
「あっ」
「真璃!」

 ――真璃の口から、血が、まるでスプリンクラーのように大量に舞う
 血潮を嘔吐のように吐き出すなど、どれ程内臓が抉れているのか。普通なら、絶命し、二度と意識が戻らない。
 だけど、
 この真璃は、敗北の集合体である。
 ある時は血を吐きながら、ある時は足を切り落とされながら、ある時は脊髄を折られながら、
 何百もの地獄で、その体を何度も絶命させる、死ぬ事も許されない彼女、
 希望なんて、一つも無い、
 ……けど、
 だけど、

「父様……母様……」

 そう、うなされながら呟いた言葉に。
 二人は、顔を見合わせた。

「――会いたかったのよ」

 夕呼の声が聞こえる。

「……初めて、彼女がこの世界に来た時、真璃は白銀、あんたの隣に寝ていた。理由は単純、"父様に会いたかった"から、それだけ」
「俺に……けど」
「ええ、そう、あんたは真璃の知っている父親ではない。だけどそれでも白銀真璃は、白銀武に会いたかった。神様はそれを叶えてあげたの。だけど彼女は今また、全てを否定して一人きりになっている」
「……」
「いい、白銀、あんたは真璃の父親じゃない、だけど、あんたは絶対真璃を見つけなければいけない」

 寂しがってる少女を、孤独から救う。
 それはとても明快で、単純な話だった。
 だが、

「……会って、何を話せばいいんすか」

 白銀武には解らなかった。
 仮に、心の中に潜り込んで、それで真璃を見つけて、
 一体何を話せばいいのか、と。
 ――彼女を救える気がしない

「話す必要なんてないのだ、タケル」

 冥夜、

「タケルは、ただ、真璃を見つければいい。……言葉を尽くす事だけが、誠意ではない」
「冥夜……」
「……私が真璃の世界に潜り込むのは、お前を護る剣として、だな。相違ないか、香月夕呼」
「そうね、心って普通は覗かれたくないものでしょ? 白銀一人じゃ追い出されるかもしれないから」
「……追い出されるだけならいいですが」

 霞、

「他人の心に、自分の心を潜り込ませるというのは、本来危険です。最悪の場合、死ぬかも」
「え……」

 霞の言葉に、冷や汗を流す純夏、

「そ、そんな、危ないよ、タケルちゃんも、御剣さんも! だったら私も一緒に!」

 そう言った純夏だったが、

「鑑」

 冥夜は笑って、

「これは私にしか出来ない事、……いや、違うな」

 冥夜は、しっかりと言った。

「私が、したい事なのだ」
「したい、事」
「……運命だからではない、力を持つ者の使命でもない。唯々私は白銀武を守り、唯々白銀武を真璃に会わせたい」
「……」
「……鑑、辛いだろう、……私の様に剣が振るえぬ事が」
「……うん」
「本当はお前だって、武の為に戦いたいのだろう、だが」

 そこで、冥夜は、
 自分の刀――那雪斑鳩の鞘を持ち、それを垂直に純夏の前で構えた。。

「私は鑑、お前の想いも乗せてこの剣を振るう」
「あ――」
「鑑だけでは無い、白銀武を慕う者達全ての想いを背負い、私はタケルを守ってみせる」

 許してくれるか、と、鑑は言った。
 ……純夏は、目にいっぱい涙をためながら、

「タケルちゃんも、御剣さんも、死んじゃ駄目だよ……!」

 そう、言った。
 ……鑑の言葉に、冥夜、連れ立ってタケルも笑う。そして二人は、霞に目をやった。

「……始めます」

 霞はまず、タケルと冥夜二人の手を取って、

「ご武運を」

 その手を守りの胸元に重ね――






(……眠らなきゃ)

 白銀真璃は、いや、白銀真璃"達"は、心の奥深くに居ながらも、更なる眠りを望んでいた。

(もう休もう、もう何も考えないでいい)

 それはつまり、死を望んでいた。
 自分の意識を断絶し、明日を想うという事を、一切、消去したかった。
 輝かしい未来、希望の明日、遥か遠くの約束、
 今の白銀真璃には、そういう一般的には誰もが望む事すらも、絶望の類いでしか無かった。

(――父様と、母様に会いたい)

 否、この世界の白銀武と御剣冥夜は、真璃の父親では無い。

(鑑純夏なんて要らない)

 駄目だ、この世界の武と冥夜にとって、鑑純夏は居なければ成立しない存在である。
 ……そして、

(……父様じゃない、白銀武と、一緒になりたい)

 それが一番、
 望んではいけない事だった。
 娘が父親に惚れるという禁忌だから、自分が武と一緒になったら冥夜が悲しむから、そういった理由も踏まえた上で、
 単純に真璃は、こう思っていた。

(私は白銀武に相応しくない)

 ――彼女は敗北者の集合体
 何一つ成果を得られず、守れず、自己を肯定する事が出来ず、ただただ殺されていった者達の統合体。
 いや、殺されただけじゃない。

(任務を放棄して、バーナード星系に逃げた自分)

 戦う事もせず、地球を離れ、余生をただ後悔と吐き気と供に過ごし、最後には朽ちた。

(BETAの恐怖に狂って、自ら命を絶った自分)

 目の前の、絶望の生を掴み取るよりも、容易い死を選んでしまった。

(何も出来ず、脅え続けた自分)

 ただ震えるだけ、ただ頭を抱えるだけ、自分の五感を全て殺し、死ぬまで現実から目を反らし続けた。
 勝利者を産む為に、幾億も積まれた、並行世界の敗北者達、
 そのまま終わるだけだったはずの真璃、
 ……けれど、
 神様は、この世界に連れてきた。
 ――幸せになって欲しくて

「……無理だよ」

 白銀真璃は、

「だって私は、私達は」

 うつむいて、

「……私は」

 呟いた。

「何も出来ない、下らない人間なんだから」






 ――真璃の意識下へ入る
 白い閃光のような物に包まれて、二人が、何かしらの大地のような物を踏みしめた時、
 その真っ白な光が一気に晴れて、そして、

「なっ……」

 二人は、絶句した。
 目の前に拡がるのは、瓦礫溢れ、吹雪吹き荒ぶ不毛の大地、
 そこに群れなすのは、異形の化け物、
 真璃の世界で言う、BETAという存在。
 ――表れたそれは一直線に、武を噛み砕こうと襲ってきた
 その首を、
 冥夜の抜き打ちが、両断する。
 すると、戦車級のBETAの首は、地上に落ちる前に、まるで大量の水に一滴垂らした牛乳のように、消えてなくなるように霧散した。

「……真璃の心による作り物か」
「よ、良くわかんねーけど、倒せるんだな!」
「ああ、どうやらな!」

 真璃の心中のBETAは、あくまで想像の産物である。現実世界のような科学法則で動く訳でない。そもそも存在しないものであるから、叩けば引っ込む。
 それでも、その見た目から来る恐怖は、他人の心の中で剥き出しになっている武と冥夜の精神を、酷く揺らした。
 ――恐怖に飲み込まれれば死ぬ
 だが、

「怯むな! タケル!」

 自分の背丈よりも何倍もの化け物を、モーセのように切り開いていく冥夜、

「見せかけだけの恐怖なら乗り越えられる、いいか、真璃は、この化け物の本物と戦って来たのだ! それに比べれれば……!」
「ああ、そうだよな……!」

 襲い来る幻影のBETAを、塵埃のように淘汰していく。
 まさに無双、冥夜の後ろを、付いていく武、
 目指すは奥へ、BETA達が立ちはだかる、奥へ、奥へ。
 ……進んでいく内に、

(私は)

 ――真璃の声がした

「真璃!?」
「どこだ、どこに居る!」

 BETA達を撃退する二人に、突如響いた言葉、

(敗北者)

 悲観も無く、激情も無く、淡々と続けられる独白。
 二人は、

(幸せになる価値も無い)

 真璃の心に、文字通り直接触れていく。

(下らない人間)

 理解していく、

(お願い、私を)

 彼女の、

(……私を殺して)

 願いを。
 ――そして自分の心から追い返すように
 兵士級のBETAが、冥夜の隙を突いて、武の首に噛み付こうとする――
 その瞬間、



「下らなくなんてねーよ!」

 白銀武は吠えて、そして、
 あろう事か、BETAを素手で、殴り倒した。
 ――紙吹雪のように崩壊し消滅する



「タケル!」

 自分が切らずとも、拳でBETAを倒したタケルに、冥夜は声をかけて、
 そして、すぐさまに気付く。
 ……BETAが自分達を襲ってこない。

「……こんなの、こんなの相手にしてたら、負けるなんて当然だ、逃げるなんて当然だ」

 彼女の心の防衛機能が、働かない、

「誰にもそれを、下らねぇなんて言わせねぇよ! そんなの、真璃、お前自身にも言わせねぇ!」

 BETAが消えていく、
 瓦礫も、吹雪も、失せて、
 そして、

「……真璃」

 広がったのは、眩いばかりの星空と、
 風吹き渡る、広大な草原。
 穏やかな、とても、穏やかな場所で、

「……父様」

 制服姿の真璃はそこに居て、
 彼女は、

「ほめてくれるの?」

 涙いっぱいの顔で、武にそう言った。
 ……武は何も言わず、真璃の元へ足を進めて、そして、
 父が子へするように、精一杯の気持ちを込めて、真璃の頭を撫でた。

「……父……様」

 負けたのだ、
 敗れたのだ、
 何一つ、得られず、無駄死にでしかなく、
 時と場合によっては逃げて、ただうずくまって人生を無駄にして、
 ……それでも、
 会いたかったのは、
 ――自分の父親に会いたかったのは

「良くやった」

 褒めて、欲しかった。

「……あぁ」

 何百、何千、何万の、勝利に辿り着けず終わった白銀真璃は、

「うあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 白銀武の胸元に飛び込み、双眸から涙を雨のように溢れさせて、声をあげて泣き続けた。
 星空の下のその、文字通りの心象風景を見て、
 冥夜は、刀を納めながら、微笑んだ。






 心で作った星空、心で作った草原、
 それは白銀真璃の人生に置いては存在しない、夢の産物。
 その場所で、真璃は三角座りし、武は右に、冥夜は左に座っていた。

「苦しかった、だから諦めた。絶望して、逃げ出した」

 小便を漏らした真璃も居る、言葉が通じないBETAに命乞いをした真璃も居る。
 ルーザーである白銀真璃の統合人格。

「そんな、そんな自分だから、何をしても無駄だし、拒絶されてもしょうがないと思ったの。だから、もう、殺して欲しかったんだ」

 自殺したかったという言葉に、
 武も冥夜も、何も言わない。
 ただ隣で、黙って聞いてあげている。
 それが今の真璃には、心地よかった。

「私には、……奇跡なんて起こせない」

 永遠に続くかのように思えた自分を貶める言葉だったが、
 ここで彼女は、

「でも」

 でも、と言った。

「こうやって負けた私が、下らない私が、父様と母様に会えたのは、奇跡だよね。……ああうん、解ってる、本当は父様じゃないし、母様じゃない、でも……私にとっては、本当に、父様と母様で」

 声の調子は明るく、笑みも浮かべている。

「もし誰かが奇跡を起こしてくれたなら」

 目を閉じて、その名前も知らない神様に感謝しながら、

「私も、奇跡を起こしたい。そうしなきゃいけないんじゃなくて、そうしたい」

 彼女は、言った。

「純夏さんを、大好きになりたい」

 その、
 発言に、

「……いや、まぁ、滅茶苦茶簡単じゃねそれ」
「え?」

 当の武は、実にあっけらかんと答えた。

「……そなた、いいか、真璃はそれが出来なくて苦しんでいたのだぞ。軽々しく簡単などと」
「いやだって、純夏、すげーいい奴だろ?」
「純夏が善人か悪人かが問題じゃないだろう。認識の問題は」
「大丈夫だって」

 タケルは、ニカっと笑った。

「これから真璃とも、いっぱい遊べば」

 それは余りにも楽観的で、だけど、
 何の確証もないからこそ、逆に希望が持てる言葉だった。

「……はぁ、聞いたか真璃、お前の"父様"は、大分無責任だぞ」
「む、無責任ってなんだよ、俺だって真剣に」
「――武さん」

 そこで、真璃は、
 武を、名前でしっかりと呼んだ。

「……真璃……お前」
「真璃……」
「……御剣さんも、ご迷惑おかけしました」

 真璃は立ち上がる。

「そろそろ戻ろ、これ以上、待たせたるのもなんだし」
「……その、真璃、……いいのか?」
「うん」

 そこで真璃は、二人に手を差し出して、

「だってこれからは、二人供、友達でしょ?」

 溢れそうな笑顔を浮かべて言った物だから、
 二人も破顔し、手を繋ぎ、立ち上がる。
 そしてその瞬間、心の中の風景は、白く、白く染まっていって……。





 そして、
 ……白銀真璃の意識が覚醒すると、彼女はベッドの上でなく、病室の床に立っていた事が解った。いでたちは何時もの制服である。あれだけグロテスクにダメージを負っていた体は、傷一つ無く再生している。
 が、そういう無事な事はどうでも良く。
 一先ず、真璃が気にすべき事は、

「……えっと、純夏さん?」
「……」

 状況を解説すれば、タケルや冥夜、悠陽に夕呼に霞にメイドーズ達が、壁を背にしているこの病室で、
 ただ一人、鑑純夏だけが、アホ毛をぷるぷる震えさせながら、両手をひろげて真璃の前に立っていた。

「ええと、あの、どういう?」
「と、とりあえず!」

 真璃の疑問に答えるよう、純夏、

「私は真璃さんと仲良くなりたいから! それじゃやっぱり、まず、ハグかなぁって!」
「色々とすっとばしてるよそれ!?」

 テンパっているのか何なのか、普段の彼女を差し置いてもあんまりな奇行に、真璃はすぐさまツッコミを入れた。

「なるほど、親交を深めるにはやはりスキンシップからか」
「いやいや、納得するな冥夜、お前」

 呆れながら武も冥夜にツッコミを入れる。悠陽は微笑ましく見守り、霞は目をパチクリして、夕呼は笑いをこらえるのに必死そうだった。

「……これどうしたらいいんだろう」

 と、不特定多数に一気に尋ねたが、誰からも答えが返ってこない。途方に暮れて、父様-、と、思わずまた言ってしまいそうになるのを我慢していた所、

「……みんなと仲良くなんて、本当は、難しいかもしれない」

 純夏が、

「だけど、それでもやっぱり真璃さんも大好きだから……」

 語る。
 ……その言葉を聞き終えて、真璃は、純夏の前に近づき、
 手を広げて――

「……」
「……」
「……相撲ですか?」

 見合った侭、動かない二人に、思わず真那が突っ込む。

「あ、あの、改めてとなると」
「うん、なんか恥ずかしいね」

 仕舞いには、体を動かし始める二人。カバディ染みた動きに、とうとう武が割って入る

「はいはい一旦ストップ! 何やってんだよお前ら」
「えー……」
「だってぇ……」
「ったく、こんなめんどくさい事するくらいなら、今から帰って飯でも食おうぜ」

 その提案に、少女二人は顔を見合わせ、
 名案だ、とばかりに、笑顔を弾けさせる。

「よーしそれじゃ、第一回! タケルちゃんを喜ばせる料理対決、やってみよー!」
「た、対決なの!? それじゃ喧嘩にならない!?」
「いや、その話、私も乗せてもらおうっ」
「お、おおっ!? いや、冥夜は真璃とタッグでな!」
「ええと? それじゃ私はタケルちゃんとタッグ!」
「え、それはっ」
「卑怯なっ!?」

 朝からの、殺伐とした死闘はどこへやら、急に賑やかになった様子に、霞も、メイドも、その雰囲気を楽しむように微笑み続ける。
 雨降って地固まる、嵐の後、空に架ける虹の橋。
 全てが平和に終わった様子を見て、

「香月教諭」

 御剣悠陽は、彼女に話しかける。

「少し、二人で話させてもらってもいいでしょうか?」
「……あいよ、全く、どこまでお見通しなんでしょうかねぇ」

 そう言いながら、ただ事ならぬ雰囲気で、二人は病室を後にしたが、その後ろ姿を霞は目で追って、

「……まさか」

 言葉にしてしまえば、今、全てが終わってしまいそうな気付きを、必死で胸の中に押さえ込みつつ、
 霞は、無邪気に笑う真璃を見て、きゅっと唇を噛みしめた。







[3649] Scene 5 「Awakening」~Dreamhood's End~(アサムラコウ様執筆)
Name: 葉月◆d791b655 ID:9a316f87
Date: 2020/03/14 23:21




 奇跡でも起きぬ限り誰しもが、生まれたその日、その瞬間を、覚えてはいないものだ。胎内から外の世界へ放り出された瞬間に、文字通り、訳も解らず子供は無く。
 けれど多くの母は、その泣く子を抱きしめ、笑いかける。
 生まれてきてくれてありがとうと――そうそれが、愛しい人と離れた世界であろうとも、
 感謝して、笑う。
 ――彼女がこの世界に来て3ヶ月後にて

「「「お誕生日!」」」

 白銀真璃は、

「「「おめでとう!」」」

 沢山の声、そしてクラッカーと供に、生まれた日を祝われていた。
 場所は白銀家、最初、冥夜が広い会場の提供を申し出たが、そんな大仰でなく、この広さ、暖かさがいいと、普段の食卓の上に純夏手製の料理をこれでもかと拡げた宴にする。
 ケーキは後回し、揚げ鶏や卵焼きといった定番メニューから、冥夜専属のシェフが作った海鮮のカルパッチョや、悠陽が差し入れでもってきた伊勢海老の姿焼き、そして、中央には揚げたてのトンカツがあり、
 その横には、ソースは勿論、醤油も並んでいた。
 という訳で、

「ん、ん、んー?」
「どうですか、純夏さん!」
「そりゃあ、うまいに決まってるよなぁ!」

 屋上でも繰り広げられた不毛な論争に決着をつける為、純夏、とんかつにからし醤油をつけて食べたのだが、

「……いや、やっぱりとんかつにはソースだよー!」
「食べても負けを認めないんですか!?」
「ば、馬鹿な! おい冥夜、お前も何か言ってくれ!」
「タケル、真璃、前も言ったように私にはそのようなこだわりは」
「そんな、御剣さん――」

 真璃と、そして、武の目に飛び込んできたのは、信じられない光景、

「「ケ、ケチャップぅ!?」」

 御剣冥夜はポテトにつけるケチャップで、カツを食していた。
 これに驚いたのは二人だけではない、鑑純夏も仰天する、

「ええええっ!? 御剣さん、何してるの!? なんでケチャップなんかでとんかつを!」
「私がおすすめしました」
「霞ちゃん!?」

 居候の思わぬ名乗りに、純夏は目を見開いた。とんかつにはソースが大正義のはずであるのに、こんな無邪気な顔をした天使が、今、更に場を混沌へと叩き込んだのである、だが、
 霞はそこで、言った。

「色々な可能性があった方が、楽しいじゃないですか」

 そう言って彼女は、
 エビフライに付けるタルタルソースに、とんかつを付けて、パクリ。

「この真璃さんとも、そうやって、出会えたのですから」

 ……何かを知っているような言い方、それで一瞬、場の空気が静まったが、

「全くだ」

 快活に笑いながらそう発し、場の空気を明るくしたのは武だった。

「うっし、じゃあ俺もソースで食ってみっか! 純夏取ってくれ」
「ああとうさ、じゃなかった、武さん、私が取りますから」

 賑やかな食卓、白銀真璃が、この世界で辿り着いた平穏、
 それを離れたソファから眺めながら、香月夕呼は、神宮司まりもと大人の特権とばかりに酒を嗜んでいた。

「やーやー、賑やかだねぇ」
「本当、賑やか、……というか」

 ――まりもの視線の先では

「賑やかすぎる、というのかなぁ」

 とんかつを巡る会話、それだけ聞けば勘違いしそうであるが、
 この場に居るのは、この四人だけでは無い。

「あーほら、真璃さんは主役なんだから座ってていいわ」

 委員長の榊千鶴も居るし、

「……うまい」

 一言、ぼそりと呟く慧も居る、

「えっと、ケーキは何時出しますか~」

 椅子に座ってもまだ尚背が低い壬姫も居るし、

「まだいいんじゃないかな? それより、ゲーム大会するって話は」

 美琴も楽しそうに笑っている。
 その他、月詠のメイド二人も、楽しそうにキッチンで働いてるし、その元で、三馬鹿メイドも動いていた。一般家庭の食卓では明かな過剰搭載であるが、真璃は、その狭さすら楽しんでいるように見えた。

「……本当、楽しそうねぇ」

 若いっていいなぁ、と思いながら、スパークリングワインで喉を潤す。穏やかにその風景を見守っているまりもへ、
 唐突に、

「ねぇ、まりも」
「ん? 何?」
「この世界の貴方は幸せかしら?」

 その唐突な質問は、

「……はい~?」

 ただただ、まりもを混乱させるだけだった。

「ねぇ、ちょっと、どうしたのよ夕呼? もう酔ってる訳?」
「……ああいや、なんでもない」

 そこでふっと笑うと、夕呼は、ソファから立ち上がり、

「さぁてそろそろつまみをもらおうか少年少女達! ところでさっき、とんかつで面白い話してたわね、そう! 色々な可能性を見いだすなら、いっそ全部の付けだれ混ぜちゃってもいいんじゃない!」
「よくねーよ!?」
「タケルと同意見だ、全力で叛逆しようっ」
「ふ、知的好奇心の前に、御剣とその想い人が立ちはだかるって訳ね……、なら、白銀真璃! 異世界ではこの二人の娘なのだから、泣き落とししなさい!」
「え、嫌です!」
「味方がいなーい! どうして!」

 自業自得、という慧の言葉も響き、喧噪の中、思い思いに宴を楽しむ。まりもも輪の中に加わった。
 訪れた楽しい時間、真璃は、心から嬉しそうに、自分が生まれてきた事を祝う。
 ……その横顔を見て、

「……」

 社霞は、

「真璃さん」

 彼女には聞こえない、小さな声で、

「あなたは、何者かになれたんですね」

 そう、祝いの言葉を贈りながら、あの日校庭で触れた、中庭の木を思いだしていた。






 暗闇の中で、ハッピーバースディを歌われて、その後拍手の中で吹き消すキャンドル。
 解っていたつもりだった、想像していた事だった、だけど、
 実際に食べるこの世界のケーキは、とんでもなく美味しい物だった。
 真璃が元の世界で食して来たような、紛い物の素材でなんとか形作られたケーキとは違う。砂糖も小麦粉もどこまでも自然に優しく、クリームの味が胸焼けせず、上にのっかり間に挟まれる苺も、噛めば果汁迸るほどで、口いっぱいに幸せが広がり、喉に落とした後もその余韻を残す素晴らしい物だった。
 本当に美味しくて、冥夜からゆずってもらった物もたいらげる程で、
 ケーキも食べ終え、閉会の時には、

「今日の事、一生忘れません」

 そう、嬉しそうに言うものだから、
 また来年も祝おうと、誰かが言った。
 ……真璃はその言葉に、はい! と、元気よく答えたけど、
 その場に居る何人かは、
 真璃の姿に、うまく、笑みを返せてなかった。
 ――何故ならそれは





 ……深夜三時、
 人の多くが寝静まる時間、それでも、無限を標榜にして原子力の施設は動き続けている。
 その施設の地下にあるとある一室にて、
 御剣悠陽は、まるで、柱のような物を前に佇んでいた。
 それは一本の木のようでもあり、神の高みへ上り詰める塔のようにも見えて、
 ……おおよそ、なんの為にあるか解らない、SF映画で際立たせる為に作られた、伊達や酔狂のオブジェクトのようにも感じられた。
 けれど、これには役割がある。
 大切な意味、理由がある。

「……来ましたか」

 そこに訪れたのは、三人、
 白衣を纏う香月夕呼、パジャマを脱いで普段着に着替えた社霞、
 そして、
 白銀真璃の姿。

「……遅くなりました」

 にこっと笑う真璃に、

「いえ、早すぎるくらいでしょう」

 同じように笑い返す、悠陽。

「……悠陽さんも、誕生日会、参加してくださっても良かったのに」
「いえ、貴方にとっての"殿下"が場にいては、緊張してしまうでしょう?」
「あはは、……もうあそこには、教科書に出てきた英雄さん達ばっかりでしたけど。武さんや白銀さんも含めて」
「そうですか、それではもう、未練はないのですね」
「はい」

 真璃は、言った。

「誕生日、ありがとうございました」

 それは偽りである、

「もう、思い残す事はありません」

 最後の最後、皆と仲良く過ごしたかった、彼女の嘘である、
 そう、最後、

「私は」

 白銀真璃は、

「元の世界に、帰ります」

 笑顔で、決意を言った。

「……それが貴方の選択ならば、最早、迷いなど無いのでしょう、……ですが」

 ――この者達はまだ迷いを捨て切れてない

「……え」

 悠陽の言葉に、真璃が反応した後、
 柱の影から現れる、三つの影、

「……武さん、御剣さん、鑑さん」

 その三人が並んでいる。

「……気付いてたんですか?」
「まぁ、そりゃあ、なぁ」
「……誕生日なんて、いきなり言い出したから」
「気付いてはいた、だが、確信も持てなかったのも事実だ。思い過ごしであって欲しいとも思ったが、……真那に探らせればすぐに真実に気付いた」
「そう、ですか」

 そこで真璃は、

「やっぱり、母様達には敵わないなぁ」

 そう言って、視線を落とす。

「……夕呼先生、一応、聞きますけど、やっぱりどうにもならないんすか?」
「ええ、霞にも聞かれたけど、やっぱりどうにもならないのよ、白銀」

 夕呼は少し、自嘲気味に笑った。

「真璃は一度あっちの世界を意識してしまったの、そうしたら、何かの拍子でまた意識してしまうか解らない」
「本当に、なんとかならないんすか」
「同じように、何度も霞に聞かれたけど、私には無理ね」
「先生」
「……ごめんなさいね、白銀」

 視線を反らす夕呼に、白銀は、もう何も言えない。拳をぎゅっと握る。
 霞も、くやしそうに目を瞑っていた。

「……真璃ちゃんが幸せになる方法」

 純夏、

「がんばって、がんばって考えた。タケルちゃんと、御剣さんと。真璃ちゃんがまた暴走しても、前みたいに私達で助けられないかって、だけど」
「……すまない、真璃、いくら考えても私達には、そなたを幸せにする力が無い」
「解っている」

 真璃、

「解っているよ、"御剣さん"」

 この世界での母を、そう、真璃は呼称する。
 この世界において、自分は、イレギュラーだという線引きをする。
 自分は存在しない夢、
 どこかの誰かが願った、未来の形、けど、
 それはこの世界で成されるべき事では無い。

「……そうか、そうだな、……真璃もそう言うと思ってた」
「うん、逆に、引き留める方が、真璃さんが辛くなっちゃうって」
「だから笑って見送ろうって決めてたんだよ、気付かない振りをして、……けど」

 三人が、全員押し黙る、
 ……だけど、

「だけどさぁ!」

 沈黙が破れるのは、容易く。

「友達を黙って見殺すなんて、どう考えてもそっちの方がひでぇって!」

 武は、冥夜と純夏の想いも乗せて、

「このまま黙って別れる方が、絶対後悔するって!」

 少年は、感情を爆ぜさせた。
 独りよがりなのは解っていた、
 ただただ気持ちを吐露しただけだ、
 それで何かが解決する訳でも無い、
 最善はやはり、黙って行こうとした真璃の意思を尊重する事、
 けれど、それが出来なかった。
 我が儘にも、三人は、
 どうにもならない事を、どうにかしようと、この場所に来ていた。

「先生! 本当にどうにかならないんすか!」
「だってこのままじゃ、真璃さん、絶対死んじゃう!」
「香月教諭、姉様! 真璃は私達の大切な!」

 声をあげる、
 どうにかして欲しいと、
 神に祈るように、他力本願に縋る。
 誰もが幸せになる世界なんて存在しないのに、神様のようにそれを願う。
 だけど、
 その願いは、

「私は戻る」

 他ならぬ、白銀真璃によって否定される。

「……何を言う、真璃」
「聞いて、御剣さん、私は戻る。……BETAによって滅ぼされようとしている地球に、滅びようとする世界に、今から」
「そなたは、死にたいのか! あんな、あのような化け物達の世界に!」

 冥夜は叫ぶ、死んで欲しくない、それは真璃を思ってもあったが、何よりも、自分自身の為に真璃に死んで欲しく無かった。
 運命すら乗り越えて初めて繋がった絆、友達、
 それを失うのがたまらなく嫌だった、ずっとこの世界で供に居たい、

「行くな! 白銀真璃!」

 全ての想いを込めて叫ぶ、
 けど、
 だけど、

「御剣冥夜!」

 そう真璃は、
 快活に叫んだ。

「……まも……り?」
「ま、真璃さん……?」

 呆然とする冥夜、驚く純夏、武も固まり沈黙する、

「……私の世界の貴方は、"白銀冥夜"は、そんな事を言わない。凛として、強く、こう言ってくれる。行ってきなさい、って」
「……そなた」
「それでも、御剣さん、貴方が私の前に立ちはだかるなら、……戦って下さい」
「……何?」
「……戻っても、そこは地獄、普通に考えたら死ぬしかない。それでもここに居続けたら、今度こそ、この世界を滅ぼしてしまうかもしれない。……だったら御剣さんに斬られて死んだ方がマシかもしれない」
「真璃さん、何言って!」

 純夏の言葉を遮るように、
 ――二振りの刀が、突然、冥夜と真璃の頭上それぞれに降ってきた
 反射的に、受け取る、それは、
 那雪斑鳩、
 この世界とあちらの世界、それぞれの証明となる象徴。

「……覚悟があるならば、私が立ち会いましょう」
「……姉様」

 振り返り、言葉を放つ冥夜、その間に、
 すらりと真璃は刀を抜いた。
 その構えは、素人のそれではない。あちらの世界で激戦を戦い抜いてきた、あらゆる真璃の経験が活かされた型であった。
 唾を飲む、
 真璃を止める為には、同じように刀を抜かなければならない、
 だが、
 それは、

「馬鹿言うな」

 武、

「冥夜はそんな事したくねーよ、どこの世界に、友達を斬りたい奴がいんだよ」
「……タケル」

 武は冥夜の傍に行き、冥夜の刀を奪った。
 そのやりとりを見て、真璃も刀を鞘に収める。
 そして

「……良かったぁ」

 ほっとしたように、涙ぐみながら、

「私も、友達を斬りたくなんてない」

 そう、言った。

「……真璃」

 立ち尽くす冥夜に、真璃は近づく、そして、
 自然と、そのまま、冥夜に抱きついた。

「……」

 冥夜は黙って、腕の中に真璃を収める。

「……違う世界の人なのに」

 確かめるように、呟く、

「母様と、同じ匂いがする……」
「……」
「……うん、チャージ完了!」

 そこまで言うと、バネのように真璃は勢い良く、冥夜から離れた。そして、柱の前に立ち、手を伸ばす。

「それじゃあ行くね、皆! 今までありがとう! 霞さん! お願い!」

 真璃の言葉に、ずっと黙っていた霞が、柱へと近づく。
 訪れる別れの時間に、

「ま、待てよ、待ってくれ真璃!」
「ほ、本当に行っちゃうの真璃さん! 怖くないの!」

 二人は往生際悪く足掻いて、声をあげた。
 すると、
 真璃は、

「怖いよ……!」

 思いっきり、叫んだ。
 ……その声は、涙と供に。
 震え声、泣き声、

「……怖いよ、怖くてたまらないよ、奇跡は起こるって皆に教えてもらった。だけど、自分でそれが起こせるなんて思えない! 戻って死ぬのはいい、けど、また何も出来ずに死ぬのが怖い! 何の意味も無く終わってしまうのが嫌! 本当は、戻りたくなんかない!」
「ま、真璃」

 それは夕呼すら予想してなかった感情の爆発、ずっと抑え込んでいた本心の吐露、

「嫌だ! ここにずっと居たい! みんなと一緒に、幸せになりたい! だけど、だけど!」

 真璃は、
 言った。

「それと同じくらい、戻りたい」

 涙を流しながらも、震えながらも、

「私がこの世界に、父様と会いたくて来たように」

 彼女は願う、

「私は、私のお母様の居た世界に、帰りたい」

 望郷。
 それは、亡き父の面影を追って、地球へ戻っていたあの日のように。
 彼女の中に残された、純粋な衝動だった。

「……だから、ごめん、私行かなきゃ。奇跡なんか起こせなくてもいい、戻ってただ死ぬだけでもいい、父様と母様が居なくても、父様と母様が生まれた世界に戻りたい。馬鹿なのかな、私、なんでこんな事想っちゃってるんだろう、あんな世界の事なんか、忘れちゃったほうがいいのに、でもきっと、この世界に居る限り、私は想わずにいられないんだ……! 私は、それが!」
「――そうなんだね、真璃さん」

 純夏が、

「それが、真璃さんにとっての、幸せなんだね」

 言った。
 ……死にゆくだけの世界に戻り、
 奇跡を起こせるかどうかも解らないのに、
 なんでそうしようとするのか。
 真璃自身もはっきりしなかった。
 けど、
 純夏が、それを、言葉という形にしてくれた。
 ――彼女は敗北者の集合体である
 ……だからこそ、
 今度こそ、
 逃げたくないし、
 戻りたい。

「……ありがとう、純夏さん」

 彼女は再び、決意する。
 彼女がこの世界を離れるのは、この世界を救う為では無い、
 ――幸せになりたいから
 それが、どれだけ愚かな選択でも、
 誰もけして笑いはしない、

「真璃」
「真璃さん」
「真璃、そなたは」

 御剣冥夜が、言葉を締める。

「そなたは、私達の親友だ」

 その声は、母のように聞こえて、けれど、けして母でなく、
 真璃は、

「さようなら」

 別れの後に、

「ありがとう」

 とびっきりの感謝を込めて――

「――始めます」

 霞が、何かしらのボタンを押したのか、あるいは何か力を込めたのか、
 柱が起動する、
 静寂の部屋に起動音、不自然な発光、空間の微細な歪み、
 その光の中で、消えゆく真璃に向かって、
 武は叫んだ、

「真璃に奇跡なんかいらねーよ!」

 それは、

「だって真璃は、強いんだから!」

 願い。
 ……父では無い、父の面影を持つ男に、
 初めての恋した相手に真璃は、
 笑って、
 そして泣いて、

「ありがとう!」

 もう一度感謝を言った後、

「貴方が、好きでした!」

 最初で最後の告白の後、
 彼女は光に飲まれながら、この世界を後にした。






 ……意識が、
 浮遊する。
 世界転移、科学的ではないオカルトのような事象、だけれどこれは、再現性のある出来事である。
 確かに起こっている事実、その直中で、彼女は世界から世界へと渡っていく、
 自分の世界へと戻る途中――
 ……何か、影が見えた。
 それはとても良く知っている、

「……純夏、さん?」

 そこに居たのは今し方別れたばかりの彼女、
 だけどそれが、
 別人であるという事は、ピンクの衛士姿である事で解ったし、
 何よりも、その顔が透けて、
 脳髄のような物が見えた事からも、これが、あの鑑純夏ではない、というのは感じられた。
 人なのか、脳髄なのか、そもそも生物という範囲なのかも解らない存在、
 ――0と0
 ……不確かな領域で、何かしらの流入が起きたか、そんな言葉が浮かぶ。
 だけど、
 0なんて虚無に思うには、
 目の前の存在は、不思議と暖かく感じた。
 それが急に口を開く。

「ごめんなさい」

 ……発声なのか、それとも直接意識に語りかけてるの解らないが、
 口火を切ったのは謝罪からであった。

「私の所為で、辛い思いをさせてしまった」
「……」
「ごめんなさい」

 謝られた事で、知る。
 この目の前の純夏こそが、自分をあちらの世界に送った者、
 神様、だと。
 ……人間に謝る神様なんて聞いた事が無いけど。

「えっと、純夏さん、って呼んでいい?」
「……」

 彼女は答えない、けれど、その沈黙を肯定という意味で捉え、真璃は言葉を続ける。

「謝る必要なんて無いよ、だって、とっても楽しかった、父様じゃない父様と、母様じゃない母様、他にもいっぱい、友達が出来た」
「だけど、別れた」
「うん、さよならをした、辛かった、けど」

 真璃は笑う。

「別れがどれだけ寂しくても、楽しい思い出は消えない。元の世界に戻っても、私が死ぬまで無くならない」

 そう目を閉じながら、胸に手をあてながら言う真璃は、そのまま、
 脳裏に、武達の顔を浮かべながら、

「ありがとう」

 そう、
 呟いた、
 時、

「やめて!」

 純夏が、叫んだ。

「感謝なんて、される資格なんてないよ! 私には!」

 泣いている、
 神様と言うには余りにも感情を剥き出しにする、
 双眸から零れる涙を抑えるように、自分の顔に手をあてながら、純夏は言葉を続ける。

「全部私が悪かったんだ! 私が、……タケルちゃんと一緒になったから!」
「え――」

 それは真璃の知らない話、
 真璃の居ない、世界の物語。

「……その所為で、タケルちゃんは何度も苦しんだ、それだけじゃない、御剣さん達も、私は、皆が」

 震えながらの彼女の懺悔は、

「皆を殺してしまった」

 純夏と真璃の間に落とされた。

「……嫉妬で、羨ましくて、辛くて、……無かった事にして」

 ……事の経緯が分からないから、
 言葉の正確な意味が解らない、本当にしたのか、何かしらの比喩なのか、
 少なくとも、真璃を含めたこの現象の切っ掛けが、全て彼女だというのは事実らしく。

「人を傷つけたら謝りたい、お詫びになるなら、何でもしてあげたい」

 純夏は、手を下ろす、
 涙塗れの歪んだ顔を晒す。

「私は、私の所為で消えてしまった、タケルちゃんと御剣さんの子供達も助けたいと思った」

 言葉が泣くという動作で震える、

「けど、そんなの自己満足で」

 純夏は、

「私は、真璃さんをも、傷つけた」

 頭を下げる。

「ごめんなさい」

 神様というには余りにも、

「ごめんなさい!」

 彼女は、
 鑑純夏だった、
 ……罪の意識で潰されそうになっている彼女の肩を掴み、
 そして立ち上がらせて、
 泣きはらす純夏に優しく微笑んだ後、
 ――抱きしめた

「……あ」

 その抱擁は、先程の別れの際、冥夜にしたように縋りつく風にではなく、
 ただ相手を包み、安心させるように背中を撫でる、そんな風に。

「私も同じだったよ」
「……え」

 優しく、囁く。

「私も、嫉妬で、純夏さんを、殺そうとした、無かった事にしようとした」
「……そんな、それは」
「似ているね」

 少女から少女へ、

「私達」

 罪に許しを。
 ……そうした後、体を離す。
 泣き止みながらも、呆然とする純夏に、真璃は笑顔を崩さない。
 そして、

「純夏さん、お願い」

 彼女は願う。

「笑って」

 ……その言葉、聞いた純夏は、
 歯を一度しっかり食いしばった後、
 真璃が望むように、
 ……かつて、愛した人の顔を思い浮かべながら、
 笑った。

「……ありがとう」

 には、

「ありがとう」

 を。

「さようなら」

 には、

「さようなら」

 を。
 純夏と真璃、大いなる運命に翻弄されて尚、
 等身大の少女の心と供に、戦い続けた、似たもの同士は、
 最後は、笑顔のままで、
 笑うのは、この最初で最後の出会いすらも、
 楽しい思い出にする為に。
 そして二人は別れていく、世界はなべて元に戻る、
 違うのは、
 変わったのは、
 ――御剣真璃
 絶望と戦う為に、
 とても多くの理由を得て、
 そして――






[3649] False epilogue 「My will」 <終> (アサムラコウ様執筆)
Name: 葉月◆d791b655 ID:9a316f87
Date: 2020/03/14 23:21






 ――真璃が地球に来て15年後
 バーナード星系から出発した救出船団ニュートンは、月の隣を通過する。
 そう、救出船、
 この宇宙船の目的は、地球に生き残った人類を、救い上げる為に向かっていた。
 ダーウィンの時は調査船だった、だが今回は、幾つも船を連ねている。ここまで大規模な派遣になったのは、政府のトップになった霞の判断が大きい。
 ――香月夕呼は死んでいる
 ……その想いを引き継ぐ為にも、あらゆる手段を使って、霞はこの救出船団を作り上げた。BETAによって死を免れぬ星から、少しでも多くの生き残った人類を助ける為に。
 だが、

「つっても、そもそも生きてる訳ねーよなぁ、15年もほったらかしにしちゃ」

 そう男は――ユーリー・スニートキナは、かつて地球に訪れた時には無かった髭を擦りながら、そう、冗談でも言ってはいけないような事を、言った。
 そこは、船団の一室、窓から星の海が見える。
 地球から移民したバーナード星、順調な人口増加を支える為に行った土地の開拓で、未知のウィルスと遭遇。
 その事により人口は激減し、また、当時の政府の失策により、食料の生産もままならなくなり、配給制へ移行、食事に余裕が無くなれば人々の心は荒み、終末論すら唱えられる始末。人口も一時は十万人を割り切る。
 だが、ついにその病魔を克服する時がやってきた。長い間流行していたその災厄に打ち勝ったのは、香月夕呼だった。彼女の死因は、病死。つまり彼女は文字通り死ぬまで、開拓を防ぐウィルスと戦い続けていたのだ。
 何の為、それは、
 地球を救いに行く為。
 ――どうか、地球からバーナード星系へ移るための船を送ってください
 まりもとの約束を果たす為。
 ……死にかけの星が、死にかけの地球を救いに行く理由なんてない。そんな事をすれば共倒れ、何一つメリットが無い。だからこそ、生き残った人類を移民させる為に、星の脅威を取り除く必要があった。
 志半ば、まりもと、そして、真璃の存在を想いながら、香月夕呼は逝った。
 その想いを引き継ぎ、霞はあらゆる手段を使って政府のトップに立ち、食料の安定化と、開拓の再開を始めた。再び星は活気を取り戻していた。
 未来はまだ不安であるが、同時に、希望を持てるようにはなっている。
 だからこそ船は今、生き残りの人類を助けに宇宙を行く。
 ……だけど、

「……なぁ、今回の派遣に、意味はあると思うか」

 そこで彼は、同室の、

「スミカ」

 地球に生まれて、タケルを失った悲しみと供に、真璃に送り出されたかつての少女――今はもう成長した女性、スミカに声をかけた。

「人類がどれだけ生き残ってるかもわかんねぇ、ただの無駄足になっちまうかもしれない、まともに考えたらやる意味なんてない、けどなんでまた」
「その話は、ここに来るまでにいくらでもしたでしょう」

 スミカは、冷静に、

「生き残った人類を救う、ヒーローになる為です、格好つけるために」
「……そうか、そうだよな」

 15年前、
 ユーリ達から受けた報告は、移民達に駆け巡る。
 おぞましい惨劇や地獄に、望郷の執念を断ち切られた者も少なく無かったし、
 まりもが託した救援要請そのものも、無視するべきだという意見の方が、当然のように多かった。
 ……それでも薄情にはなりきれず、
 バーナード星が安定した今、たった一人でも誰かが残っているのなら、
 助けに行くべきだ、という意見が多く募ったのである。
 冷静に考えればすべきでない、
 人の命が平等であるならば、一人よりも十万人、多い方を優先するのが大事である。全くの不合理。
 だけど、その不合理こそが、
 人間を人間たらしめている、という意見も、少なく無い。
 そう、それは、

「……信じてます」

 愚かで、だけど、

「きっと、人類は絶滅してない」

 ――人が抱え続ける夢

「だって地球には、真璃さんが居るんだから」

 あの日、自分を助けてくれた人、
 きっと今も、戦い続けてる人。
 ――スミカはずっと信じている
 ……だが、

「……けどなぁ、スミカ」
「……なんですか、ユーリさん」
「通信がこねぇ」

 ユーリが、懸念を言った。

「月まで来たってぇのに、地球から通信が来た、って報告がまだ無い」
「……15年も経ってるんです、設備も壊れている可能性も」
「壊れたのか? 壊されたのか? ……後者だったら、やっぱり生き残りの目はねぇぞ」
「……ユーリさん、貴方は」
「……俺だって、信じたいさ、でもこの年齢になるとなぁ、……裏切られた時が怖いから、予防線はっちまう」
「……」
「……すまねぇ、スミカ」
「……いえ、ユーリさんの分も含めて、私が信じます」
「……あんがとな」

 絶望と、希望が交錯する部屋、
 それでもスミカは、
 思い出す。
 ――あの日、自分を助けてくれた人の事を
 ……だけど、

『現在の地球の映像確認致しました』

 機械音声が部屋に流れる、

『モニターに映します』

 自動的に映し出された、その画面に、映る地球は、
 ――真っ白だった
 ……海の青さも無く、木々の緑も無く、
 それが意味する事は。






 全球凍結。
 ……氷点下、生身であればそのまま凍り付く氷上で、どこまでも真っ平らになった、雪吹きすさぶ大地に、ユーリとスミカは戦術機によって降り立っていた。
 いやそもそもここが大地であるかどうかも解らない。
 凍り付いた海上を踏みしめているのかもしれない。
 ……凍る、という事は、停止するという事である。
 木々の芽吹きも、命の営みも、そして、時の流れさえも、
 何もかもが止まっているかのように見えた。

「……」

 偵察としての戦術機。コクピット、瞳に直接映される外の映像、
 純白で、太陽さえ照らぬ世界。

『……お、おい、スミカ、大丈夫か』
「……」
『スミカ……!』

 ユーリの通信も、聞こえない。
 ただただ彼女にあるのは、絶望である。
 こんな状況下では、人類の生存なんて有り得ない。
 ――敗れたのだ
 人間は、この星は、
 ……白銀真璃は。

「……う、うぅ」

 耐えに耐えていた物が、

「うあぁぁぁぁ……」

 一気に溢れ出した。
 バーナード星に渡ってから、地球は、スミカにとって希望であった。
 まだあの星で、真璃が戦っている。
 そう思えば、うつむきそうになった顔を、前に向ける事が出来た。
 再びこの星に帰ってくる為に、やれる事は全部した、
 けど、
 だけど、
 ――白銀真璃はもう居ない
 それが、涙を呼ぶ、
 彼女は、泣く。そう、
 何一つ意味の無い、何も成せなかった自分の人生を嘆いて――
 ……だが、

「……え?」

 それは、視界の端に映った違和感、
 真っ赤な固まり――BETAだ、遠く離れた場所であるが、BETAの顕在が証明される、
 けれど違和感は、その真っ赤の中心に、穴が空いている事だ。
 コンソールを操作する、クローズアップ、
 ……真っ赤では無い、
 一点、そこには、
 真白の大地を染める赤に抗う色が――



 紫色のマーカーが、

「真璃さん!」

 生きている事を示すように、輝き、蠢いていた。



『紫、って事は!』

 それはある機体にだけに許された色、戦場で特別である宿命を背負い、幾つもの屍を踏みしめる事により成立する、この国で生まれた兵器、
 搭乗を許される者など、
 この地球では、最早、一人しか居ない。

『マジか、マジかよ! 生きててくれたのか!』
「つ、通信、繋げましょう!」

 上への報告なんて、今は忘れた。
 データリンク、遠く離れた場所へ意思を繋ぐ。

「聞こえますか! 聞こえますか、白銀真璃少尉!」

 呼びかける、
 15年前に、話したあの人へ、
 助けてくれたあの人へ、

「助けに来ました!」

 ――その言葉を伝えて



 ……長い年月、
 長い時間、
 それは一度、終わりかけた夢、
 だけどそれが、今繋がった。
 それは奇跡なんかじゃない、否、
 奇跡なんかじゃ救えない、
 願い続ける事でしか達せない、
 そうして、
 初めて手にする資格を得る、
 ――幸福の権利

「……お帰り、皆」

 そうこれは、未来を手にする為に戦い続けた、
 奇跡よりも強き、白銀真璃の物語。









感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
1.4483349323273