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[43591] 草食系男子ですけどなにか?
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:14
この小説はオリ主ものです。オリ主は自分で勘違いするし勘違いもされます。



[43591] 桜通りの吸血鬼さん——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:15
桜通りの吸血鬼さん——表

 
 
 
 
 もう、ご先祖様はあちらでお待ちになっているのだろうか。
 全く持って、そうとしか思えない人生である。
 きっかけは、澄み渡る青空が綺麗な五歳の誕生日。
 単刀直入に言おうではないか。
 俺は、「死神」らしきものにとり憑かれたのだ。

 近所の空き地で遊んだ帰り、ふと肩に違和感を覚えた。
 視線を向けると、そこには手乗りサイズの死神が腰掛けていたのだ。
 大層にも黒色のマントを風になびかせ、鎌を振りかざしたままこちらに笑いかける。
 ホラーやオカルトといった類が大嫌いな俺は、奇声を上げながら脱兎の如く家へと疾走した。
 放心状態の両親に、俺は異常事態を訴えた。
 しかし、両親には死神らしきものは視認できないらしく、こちらに不憫そうな視線を向けるだけだった。
 それから俺と死神、一人と一体の意味不明な共同生活が始まったのだ。 

 数日の間、右肩に居座るそれを見る度に奇声を上げていると、両親にとある病院に連れて行かれた。
 両親は終始真顔で何度も頷き、お医者さんは眼鏡を持ち上げてから静かに首を振った。
 それから死神の仕業と思われる、命掛けの不運に見舞われてきた。
 喜び勇んで赴いた遊園地。楽しいはずのアトラクションは、地獄の遊戯と化した。
 ジェットコースターでは安全レバーが外れ、観覧車に乗ればとてつもない突風に煽られる。
 それだけではない。平和な通学路でさえも、死神の力は止まる事を知らない。
 横断歩道を渡れば、とち狂った飲酒運転ドライバーが突っ込んでくるのだ。
 まさに不運という名の、エスカレーターに乗っていると言えよう。
 しかし、持って生まれた悪運なのかは到底理解できない。できないが、それらの度重なる危機は、余りに出来すぎた偶然の重なりによって救われていた。
 そして事件は、麻帆良学園高等部一年生となった春に、唐突に起きた。




 どういう事!?
 なにしてんすか幼女さん!?

 茂みに伏せてその凶行を食い入るように見つめていた。
 黒色のマントを羽織った金髪の可愛いらしい幼女が、中等部の制服を着た少女の首筋に噛み付いていたのだ。
 角度が違えば、それはただのアブノーマルな関係の女性達だと、無視を決め込むことができたかも知れない。
 しかし、しかしだ。
 俺からの角度では、はっきりと見えてしまったのだ。
 少女の首筋に無情にも突き立てられた、鋭利な牙が。
 涼しい風に桜の花びらが舞い落ちた。
 まるで、幻想の世界に入り込んでしまったかのように思える光景だが、幻想などではない。
 眼前に起こっている凶行は、紛いなき事実なのだ。 

 ま、まるで吸血鬼が生き血を吸っているような……。

 心で呟いたとき、脳裏に鼻で笑っていたある噂が、友人の声色で再生された。

 ヒサキ知ってるか?
 桜通りに吸血鬼が現れるらしいぜ。

 桜通りに吸血鬼が現れるらしいぜ。

 桜通りに吸血鬼。

 よし、確認しよう。
 何事にも、確認が大切だと言えよう。

 ここは桜通りか?
 間違いなく桜通りです。 
 あれは吸血鬼か?
 断定はできないが、死神もいるのだから、吸血鬼だっているのではないだろうか。

 そのとき、ある違和感を捉えて、気づいた。
 それは、十年来の腐れ縁と相成った死神がいないのである。 
 一年、三百六十五日、まるで背後霊のように肩に腰掛け続けた無法者の姿がない。

 ま、まさかあの傍若無人な死神が、吸血鬼に恐れをなして逃げだしたとでも言うのか……?

 身体が芯から萎縮していくのを感じた。
 汗がとめどなく流れていくと言うのに、肌寒かった。
 それが、指し示すことは一つだろう。
 つまりあの吸血鬼らしき幼女さんは、死神に怯えられるほどの存在、だと言うことであった。

 
 いやいやいやいや!
 ないない!
 死神は漏れそうで、トイレにでも行ったんだろ……?
 トイレに行くどころか、ご飯を食べているところも見たことはないが……。

 頭では否定しようとするが、見れば見るほどその吸血鬼への恐ろしさが増していく。 
 脳裏に鮮明なまでの映像が浮かんだ。
 その禍禍しいまでの鋭い牙により、干からびるまで血を吸われて、無残にも変わり果てた姿にされてしまうのだ。
 即座に決断をした。

 こ、怖ぇ……!逃げよう……!

 襲われている少女には確かに罪悪感を覚えたが、俺には荷が重すぎる。
 流行りの草食系男子を自認している俺には、助けることなど不可能であった。
 喧嘩など、親と口でしかしたことがないのだ。
 心の中で静かに合掌した。

 少女よ、申し訳ない。
 俺が助けられると仮定するならば、相手が昆虫クラスの貧弱さでなければ不可能なんだ……!

 伏せたまま、匍匐前進でその場から離れる。
 恐ろしさに固まった身体には相当に辛いが、気になどしていられない。
 平和な日常を取り戻すためなのだ。
 背に腹は代えられないと言えよう。

 しかし、その時であった。
 脳裏に死神の愉しそうな笑みが浮かび上がった。
 慣れない匍匐前進などを選んでしまったのと、恐怖心で焦り狂っていたのが原因か、右足が茂みを蹴り無情な音を立てた。
 固まった。
 さながら、時が止まったかのように思えた。

 ば!ばかやろう!
 頼むから気づかないで吸血鬼さん!

 即座に胸の前で掌を合わせた。
 神様でも、いまなら死神でも構わない。
 必死にお願いした。
 しかしそれは、無慈悲にも叶うことはなかった。

「誰だ!」

 はは、わかってたけどね……。
 神様なんているかよ……!
 傍若無人な上、悪辣さを振り撒く死神と、吸血鬼風な幼女さんはいるけどな……。

 ゆっくりと転身して、吸血鬼さんの動向を伺ってみた。
 こちらの方向を訝しんだ目で探しているようだが、右往左往する視線から気づいてはいないようであった。
 しかし、こちらに探しに来られたら、身動きのとれない俺は一貫の終わりだ。
 見つかるのは、時間の問題と言えよう。

 もう、こうするしか方法はない!
 頼んだぞ神様、死神様!

 祈るように、声を上げた。

「にゃ〜」

 昔から得意としていた猫の声真似を発動したのだ。
 友人が笑ってくれるのが嬉しくて、精進してきた業だ。
 確率は極めて低いが、勘違いしてくれる可能性もある。
 これが現状、俺のベストだと言いたい。
 吸血鬼さんを、食い入るように見つめた。
 万感の想いで見つめた。

「なんだ。猫か」 

 信じた!信じたよ!
 神様はいたんだね!

 心で感涙し、口許に笑みを浮かべながら吸血鬼さんを見やった。

「フッフッフ…」

 神様は悪戯がお好きなようですな。
 どれだけこの私めがお嫌いなのですか?

 吸血鬼さんがしてやったりの表情でこちらの方向ではなく、まさしく俺が怯えて隠れている場所、一点を睨みつけていたのだ。
 万事休す、とはこのことだろうか。
 しかし、おいそれと姿を現す訳にはいかない。
 姿を現すということは、つまり死に直結しているのだ。
 まだ死にたくなんかない。
 手を繋ぎたいし、キスだってしたい。
 色んなことを、してみたいのだ。

 打開策を練る俺を、吸血鬼さんが嘲笑った。 
 その笑みはしいて言うならば、害虫を潰すか否かを逡巡している笑みのように思えた。
 吸血鬼と言う、絶対の存在から発せられる殺気というものなのだろう。
 顔面蒼白である。
 身体がさながら、縄で岩石にでも括りつけられたかのように固まった。
 心拍数が盛大に唸り、煩わしいほどに鼓膜へと響いた。

「そうか。出て来る気はないようだな?
 わかった」

 な、何がわかったんすか?
 な、なんなんすか?

 吸血鬼さんが懐からゆっくりと、試験管らしき物を取り出した。
 毒々しい色をした液体が恐ろしかった。
 不適な笑みで試験管をまざまざと俺に見せ付けたあと、唐突に叫びながら投げつけてきた。

「魔法の射手(サギタ・マギカ)!
 氷の17矢(セリエス・グラキアリース)!」 

 飛来する試験管が空中で破裂した瞬間であった。
 言いようの知れない恐怖に覆い込まれた。
 度重なる危機に相対してきた直感が、激しく警鐘を鳴らした。
 あれは死ぬ。
 なぜ死ぬのかなど到底理解など出来そうもないが。
 死ぬ。
 あれに当たったら死んでしまうのだ。
 遊園地に行って安全レバーが上がったことや、とち狂った飲酒運転ドライバーに轢かれそうになったことがあった。
 その時の感覚と同様、まるで自分自信が闇に覆い込まれてしまうような感覚。
 恐ろしさに目を閉じてしまったが、精一杯跳んだ。
 跳ぶ事で避けられるとは思わなかった。
 しかし、もうその選択肢しか浮かばなかったのであった。 

 足元から荒れ狂う突風が吹き上がった。
 突風は凄まじく、身体ごと吹き飛ばされてしまう。
 空中で激しく回転しているのか、目を開くと青い空と地面が交互に見えた。
 その様を眺めながら、短かった人生を嘆いた。

 親父、母さん、すまない……。
 まさか人生十六年、息子が吸血鬼に殺されてしまうなんて思わなかっただろうね……。 

 生を諦め、目を閉じようとしたときであった。
 両足にかかった衝撃で、回転し続けていた視界が定まったのだ。
 唖然として、掌を幾度も開いてみた。
 身体は動くようであり、痛みなどもない。
 どうしてか、スニーカーが所々凍っていたので、恐ろしさから咄嗟に地面を踏み付ける衝撃で割った。

 な、何が起こった?

 目前にて、吸血鬼さんが目を白黒とさせていた。
 傍に倒れている少女の顔に桜の花びらが落ちた。
 胸が動いていることから生きてはいるようだ。
 そのことに安堵して、思考が冴えていくのを感じた。
 どうやっても理解は出来そうにないが、いつもの悪運かなにかで助かったようであった。

 や、やったー!
 助かったー!
 俺の悪運グッジョブ!

 しかし、直ぐさま打開策を練らなければならない。
 まだ目前の吸血鬼さんという危機は去っていないのだ。
 死にたくはない。
 なんとかしなければならない。
 脳を最大限に回転させて、光明を待つ。 
 まず初めに、逃げるという案はノーである。
 先ほどのさながらドライヤーを凶悪化したような突風は、吸血鬼さんの試験管から起こったものだと考えられた。
 それをもう一度投げられてしまったら、なす術なく変わり果てた姿になることは明白である。
 背を見せて逃げると言うことは、突風を起こしてくれと示しているも同然であった。

 ふと思った。
 未だに目を白黒とさせているところを見ると、吸血鬼さんは突風で俺を殺せると思い込んでいたのからではないだろうか。
 それはそうだ。
 一番俺が、死ななかったことに驚いているのだから。
 もしかしたら、と思えた。
 俺と言う存在は、吸血鬼さんの心中では、自らの突風を打ち破った強者に見えているのではないだろうか。
 その可能性は極めて高いように思えた。
 ならば強者の演技をして、こちらに手を出すと怪我をするぜ作戦はどうだろうか。
 まさに名案ではないか。
 しかし、しかしだ。
 その考察が勘違いであった場合において俺は、逆上した吸血鬼さんに、無残にも殺されてしまうだろうことは容易に想像できた。
 さながら、命のかかった綱渡りのような、重い決断をしなければならない。
 しかしもう時間も、選択肢も、残されてはいないのである。

 やるしかない!

 恐怖で竦み上がっている身体に鞭打って、まるで些細な事だと言った風な笑みを浮かべた。

「フフフ……吸血鬼よ。
 なにをそんなに驚いているんだ?」
 顔が緊張感からか、カッチカチになっているが気づかないでほしい。

「なに……?」

 吸血鬼さんの小柄な体が、さながら巨大化したかのように見え、強烈な殺気のようななにかに射抜かれた。

 な、なにこれ……。
 すげぇ怖い……。
 洒落にならないが何とかこらえねばならない。

「貴様は何者だ?その制服は高等部のものだな?
 魔法生徒か……?いや貴様の顔など見た事がない……」

 吸血鬼さんが、訝しむ視線で嘘は許さんと睨みつけてきた。

 魔法生徒、とは一体。
 草食系男子ですとは言ってはだめだよな……。

 一瞬面食らってしまったが、無理矢理演技を続けた。

「それは……知る必要がないことだが……しいていうなら草、いや一般生徒だろう」

 危なかった……。
 テンパって普段のように草食系男子と言いそうになった……。

 唐突にも、吸血鬼さんの目つきがより一層、鋭利になった。
 緊張が走った。
 まさに蛇に睨まれた蛙状態であった。
 
「一般生徒だと……?
 貴様、私をおちょくっているのか?
 魔法の射手(サギタ・マギカ)の風圧を足場に虚空瞬動を行うなど、一般生徒にできると思っているのか……?」

 ざきたまぎか、とは一体。
 こくうしゅんどうとは一体。
 なんなんだそれは……?
 吸血鬼語かなにかか……?

 吸血鬼さんが不敵に口の端を吊り上げた。

「貴様、私を誰だか分かっているのか?
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
 賞金額600万ドルにして、闇の福音(ダークエヴァンジェル)と呼称される真祖の吸血鬼だぞ?」

 賞金額600万ドルと真祖の吸血鬼は、理解できる。
 しかし、だあくえばぁんじぇるとはなんだろうか。
 いや、ダークエヴァンジェルと言う言葉なのかも知れない。
 たまらず吹き出しそうになったが堪え、顔を背けた。

 危なかった……。
 ……その厨二病を患っているお方特有の言い回しはやめてほしいよ。

 だが、吸血鬼さんのペースに合わせる訳にはいかない。
 不敵な笑みを返すと、さも驚いている風な手振りで言った。

「賞金額600万ドルの真祖の吸血鬼か……。
 初めからわかってはいたが……やはり風評以上の実力者のようだな……。
 その危なっかしい魔力……敵にまわしたくはないな」

「フフン……貴様にもわかるようだな?」
 
 吸血鬼さんが尚も嘲るように笑った。
 俺も、つられて口許に笑みを浮かべた。
 このままなにか、仲良くなれそうな雰囲気であるが、吸血鬼さんを侮ることは即刻、命取りに繋がるだろう。

 ここは強気でいかねばならない……!

「だがな、その実力をもってしても俺は倒せない」

「ぬ……?」

「ほらよ」

 胸ポケットから万年筆取り出すと、吸血鬼さんへ有無を言わさずに投げた。
 回転する万年筆を掴むと、不思議そうに訝しんでいる。

「なんの魔力も感じないが……貴様、なんの真似だ?」 

 俺は物々しい様で、両手を挙げて天を仰いだ。

「わからないだろうな?」

「なに……?貴様!」 

 吸血鬼さんは、騙されたと思ったのだろう。万年筆を握り潰そうとするのを、片手で制止した。

「止めておいた方がいい。それは……爆弾だからな」

「貴様……!」

 嘘なんです。
 吸血鬼さん、本当に申し訳ない。

 これが俺の編み出した作戦だ。
 なんの変哲もない万年筆。それを爆弾に見立てて優位に立ち、その内に逃げよう作戦であった。
 一つ言いたい。それは俺だって、こんな陳腐な作戦が通用するとは思ってはいない。
 しかし、吸血鬼さんだって自分の命は大切なはず、なのだ。
 これまでの俺の演技という種が実り、実力者だと勘違いされているならば可能性はある。

 さあ、どうだ……!

 万年筆をこちらに投げようとする吸血鬼さんへ、言葉の追撃をかけた。 

「お前が手を離すと、起爆するようになっている」

「貴ぃ様ぁー……!」 

「周囲二百メートルほどは塵になるときいたが?」

 吸血鬼さんは怒りにその小さな身体を小刻みに揺らしていた。
 さながら、親の敵と言わないばかりに、万年筆を射抜くような視線で睨みつけていた。
 全て真っ赤な嘘だというのにも関わらずにだ。
 思惑通りの展開に、少々、図に乗ってしまう。

「フフフ……どうする?エヴァンジェリンよ」

「ググググ……」

 吸血鬼さんは、心の底から悔しいのだろう。
 顔を真っ赤にして小刻みに震えていた。

「まあまあ、落ち着け」 

「私にここまでの屈辱を味合わせたのは貴様で三人目だぞ……!
 地の果てまで追いかけてくびり殺してやるからな……!」 

 その形相やまさに、般若のようであった。
 内心怯え、冷や汗を流しながらも、愉しげに吸血鬼さんを見つめた。

「俺はお前の敵ではない。
 いや、同類とでも言っておこうか」

「なに……?」

 吸血鬼さんの表情が一転し、訝しむようにこちらを見つめた。

「貴様は……つまり、私と同様の悪の魔法使いだとでも言いたいのか……?」

「フッ……。
 悪は一つではない。お前にならわかるだろう?」

 吸血鬼さんは、長い間黙り込むと顔を上げた。
 その口許には、愉しげな笑みが張り付いていた。

「ではエヴァンジェリンよ。
 また機会があれば会おうじゃないか」 

 そう言い放ち、背を向けて静かに歩きだした。

 俺、今、凄く格好いいよね?

 背後から吸血鬼さんの声が聞こえたが、無視を決め込んだ。
 悪役とは去り際もクールなものなのだ。

 そのままゆっくりと歩いていき、建物を右に折れた。
 その瞬間、図に乗った天罰かなにかなのだろうか。
 俺の体が、その場から消えた。
 マンホールが開いていたため、下水道に落ちてしまったのである。
 痛む腰をさすりながら上空の穴を睨みつけると、気づかなかったのか業者のおじさんがマンホールを閉めようとしていた。

「ち、ちょっとおじ」

 暗闇に包まれた下水道内で、俺は情けなくも助けてと叫んだ。



[43591] 桜通りの吸血鬼さん——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:16
—エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 桜通りで、佐々木まき絵に吸血行為をしている最中だった。
 近くの茂みが、不自然に揺れたのだ。
 確かに認識疎外の魔法は行使していたはずだ。
 それはつまり、茂みを揺らしたなにかは、魔法関係の類だと言うことを物語っていた。

「誰だ!」

 顔をしかめた。
 計画が感づかれては、大いに困るからだ。
 十五年もの時間を費やされた、忌ま忌ましき呪いを解くには今年しかない。
 じじいに知られでもしたら、どんな邪魔立てをされるかわかったものじゃない。
 茶々丸不在の上、封印時とは言え、学園でこの私を退けられる可能性があるのはじじいかタカミチくらいのものだ。
 ならば、私直々に記憶を抹消させて貰うとしよう。

 茂みを注意して探ると、魔力も気も一般人並の気配が感じとることができた。
 だが、一般人ではないだろう。
 なぜなら一般人には、認識疎外の魔法を抜けることはできないのだから。

 その何者かは、こちらを注視しているようだった
 一笑に伏した。
 魔法生徒か先生のどちらかが、無価値な正義感でも振りかざして現れたんだろう。
 それほどに人物の戦闘力は0に等しくあった。
 内心嘲笑っていたが一つ、居場所がわからないという演技をしてやった。
 どんな反応をするか試してみたくなったんだ。
 すると、茂みが揺れて予想外な声が聞こえてきた。

「にゃ〜」

 な、なんだこいつは……。
 ふざけているのか……?
 私を猫の声真似ごときで煙に巻けるとでも思っているのか……?
 それとも、焦り過ぎてとち狂ったのか……?
 なるほど……どちらにせよこいつは大馬鹿者のようだな。

 そこで、思い浮かんだ。
 一旦、それに乗ってやり安心させる。様子を見るであろう侵入者に、鋭い殺気をぶつけてやるのだ。
 殺気で気絶するようなら余計な手間が省ける。
 なにより、その驚いた顔はさぞかし見物なことであろう。
 口許を曲げながら言った。

「なんだ。猫か」

 一瞬の静寂の後、茂みが少しだけ揺れた。
 そこに最大限の殺気を放った。
 揺れが、ピタリと止まった。
 大方、身動きができないほどに怯えているのだろう。

「フッフッフ……」

 自然に笑みが漏れた。
 少しの時間、待ってやったと言うのにも関わらず、侵入者は怯え過ぎたのだろう。
 臆して、姿を現せないようだった。
 さあ、怯えた顔をよく見せてみろ。
 茂みに隠れている侵入者に、優しく声をかけた。

「そうか。出て来る気はないようだな?
 わかった」

 懐に手を入れ、試験管をゆっくりと抜き出した。
 大丈夫、死にはせん。
 なあに、多少の痛みと共に気を失ってもらうがな。
 侵入者に見せつけるように天へとかざした。声と共に、勢いよく投げつけた。

「魔法の射手(サギタ・マギカ)!
 氷の17矢(セリエス・グラキアリース)!」

 空中で試験管が破裂し、氷の矢が愚か者に降り注ぐ。

 ククク……いかんいかん。
 少々魔力をこめすぎたようだ。
 なあに、障壁を張れば死にはしないさ。

 だが嘲笑っていた私は、予想外の事態に呆然と立ち尽くすことになった。
 なんと侵入者は、唐突に立ち上がると、突然高く跳躍した。魔法の射手が足元の茂みに降り注ぐ。そこで生まれた風圧を蹴り虚空瞬動を行ったのだ。
 侵入者は、空中で優雅にも回転しながら前方に着地した。
 靴に張り付いた氷を、踏み付ける衝撃で割った。

 下級魔法使いだろうと高を括っていた。
 だからこそ私は、高等難易度である虚空瞬動を、魔法の射手の風圧を利用し行使したことに唖然としてしまったのだ。
 あれは素人の動きではなかった。
 不様に吹き飛んででもいれば違った解釈になる。だが、あそこまで完璧に回避されてしまえばそれは玄人の業だ。
 侵入者は魔法の射手を予期していた。
 そうでなければ、説明がつかない。

 侵入者をまじまじと見遣ると、そこには少年が立っていた。
 高等部の制服を着ていることから学生だと考えられた。
 言ってしまえば、なんの際立った特長が見えない少年だった。
 体の線は細く、身長も平均より高い程度。魔力や気の量も普通並。筋肉質にも見えない。
 しいて特徴をあげるとすれば前髪が少し長く、その双眸が隠れているところくらいか。

 だが、奴は曲がりなりにも虚空瞬動の使い手だ。
 まだ実力を押し隠しているようにも思えた。
 奴は、口許に嘲笑を浮かべて言った。

「フフフ……吸血鬼よ。なにをそんなに驚いているんだ?」

「なに……?」

 そのとき私は、奴が巧妙な擬態によって実力を隠していたのだと確信した。
 それは、奴の憎々しい嘲笑が物語っていたのだ。
 奴を睨みつけながら言った。

「貴様は何者だ?その制服は高等部のものだな?
 魔法生徒か……?いや貴様の顔など見た事がない……」

 奴が嘲笑を隠さぬまま、呟くように言った。

「それは……知る必要がないことだが……しいていうなら草、いや一般生徒だろう」

 ソウ……?
 というか、こいつ!
 この期に及んでまだ、私を愚弄するつもりか!?

 激しい憤りが身体を震え上がらせた。
 身体中から溢れる殺気を奴に放った。

「一般生徒だと……?
 貴様、私をおちょくっているのか?
 魔法の射手(サギタ・マギカ)の風圧を足場に虚空瞬動を行うなど、一般生徒にできると思っているのか……?」

 奴は、さもなにを言っているのかわからないと言った風に黙り込んだ。

 ほう……まだその演技を続けるつもり、か。

 だがしかし、相手が悪かったと言わざるを得ない。
 それは、相手にこの私を選んでしまったという途方もないほどの不運。
 例え虚空瞬動ができたとして、例え他に技を隠し持っていたとしてそれがどうした。
 いまさっきこの世に生を受けたばかりのひよっこ風情に、この私が翻弄されるとでも思っているのか。
 蔑みの笑みを浮かべながら、世間知らずが過ぎる餓鬼に物々しく告げた。

「貴様、私を誰だか分かっているのか?
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
 賞金額600万ドルにして、闇の福音(ダークエヴァンジェル)と呼称される真祖の吸血鬼だぞ?」

 不敵な笑みを持って見つめると、奴は顔を逸らした。
 今更怯えても、もう遅い。
 しかし、直ぐに奴も不敵な笑みを持って返してきた。

「賞金額600万ドルの真祖の吸血鬼か……。
 初めからわかってはいたが……やはり風評以上の実力者のようだな……。
 その危なっかしい魔力……敵にまわしたくはないな」

「フフン……貴様にもわかるようだな?」

 その言葉に、少しだけ気分が昂揚とした。
 だが奴は、そんな気分を打ち払うかのように嘲笑いを口許に浮かべた。

「だがな、その実力をもってしても俺は倒せない」

「ぬ……?」

「ほらよ」

 奴が胸元から、黒色の棒状の物を投げてきた。
 飛来するそれを右手で掴むとそれは万年筆だった。
 探ってはみたが、これといった異常は感じられない。

「なんの魔力も感じないが……貴様、なんの真似だ?」

 奴は、やれやれと両手で天を仰ぐ所作をしてから言った。

「わからないだろうな?」

「なに……?貴様!」

 不思議に思ったが、さながら染み込んでいくかのようにその意図が理解できた。
 何の変哲もない万年筆を投げ渡し、私が警戒するのを見て愉しんでいたのだ。
 現にいまも愉しんでいた。
 それは奴の口許に張られた、人を愚弄しきった笑みが物語っていた。
 怒りに任せて万年筆を握り潰してやろうとすると、奴が片手を前に出した。

「止めておいた方がいい。それは……爆弾だからな」

「貴様……!」

 その言葉に私は愕然とした。
 かくいう私はハイテクなどには疎い所があるのだ。
 とりあえず投げ捨てる事にしよう。だが奴は、さも愉しそうに嘲笑った。

「お前が手を離すと、起爆するようになっている」

 なんと、憎々しい万年筆だろうか。
 奴と万年筆を交互に、殺気を孕んだ視線を送った。

 周囲二百メートルが塵になるだと……。
 その爆発に、いまの私の障壁がどこまで通用するだろうか。
 奴の真っ赤な嘘だとも考えられるが……いや、嘘だろう。
 経験上、嘘だと看破して攻撃を仕掛けたいところだが、そんな博打は打てない。
 ネギのぼうやの血を吸い、呪いを解かなければならないからだ。
 万が一、いや億が一これが爆弾だったとして、ぼうやを襲う前に病院送りでは洒落にならない。
 もしや奴は、それを知った上で事を行っているのか?
 それはないだろう。
 計画は、慎重に慎重をかけて行ってきた。
 だが奴の、さながら悪魔のような笑みはなんだ。
 まるで、深いところまで見通しているぞと物語っているようにも思えた。

 それにしても、無性に腹が立つ笑みだ。
 いますぐにでも殺してやりたいが、どちらにせよ私は、身動きのとれない状況に陥ってしまったようだ。

「フフフ……どうする?エヴァンジェリンよ」

「ググググ……」 

 私の苦渋の顔を、奴は心の底から愉しんでいた。
 卑怯などとは口が裂けても言わないが、なんという性格破綻者だろうか。
 私は唸り、睨みつけることしかできなかった。

「まあまあ、落ち着け」

 奴はなだめるように言った。
 口許に蔑みを孕んだ苦笑いを浮かべてだ。

 どこまで人を愚弄しきれば気がすむんだ、この性格破綻者は。
 笑みを見れば見るほど、赤き翼のメンバーの一人と重なっていった。
 顔などの造形が、似ているわけではない。
 どんなときも人を小馬鹿にしつづけるそのスタンスや風格、性格の破綻の具合が、まるで兄弟のように似過ぎているのだ。

「私にここまでの屈辱を味合わせたのは貴様で三人目だぞ……!
 地の果てまで追いかけてくびり殺してやるからな……!」 

 だが私の殺気など、どこ吹く風、奴は意にも介さずに言った

「俺はお前の敵ではない。
 いや、同類とでも言っておこうか」

「なに……?」 
 同類だと……?

 独りでに、怪訝な表情になってしまう。

「貴様は……つまり、私と同様の悪の魔法使いだとでも言いたいのか……?」

 奴は一笑の後、意味深な台詞を吐いた。

「フッ……。
 悪は一つではない。お前にならわかるだろう?」

 ふと、考えこんだ。
 奴は自らを悪だと称した。
 それはその性格の破綻ぶりから容易に伺い知れた。
 悪は一つではない。
 それは当然だ。
 個、一つ一つ、全てに悪の形がある。
 かくいう私にも、女子供は殺さないし約束は違わない。
 それが、誇り高き悪という自認があった。

 ゆっくりと顔を上げた。
 奴の悪の本質が見てみたくなったのだ。
 万年筆一本で私をがんじがらめにした、男の本質を。
 そして、巧妙な擬態に隠された男の実力のほどを。
 口許に、笑みが浮かぶのを隠せはしなかった。

「ではエヴァンジェリンよ。
 また機会があれば会おうじゃないか」

 奴はそう笑い、背を向けて歩きだした。
 私は黙って眺めていたが、慌てて叫んだ。

「おい!どうせならこの万年筆をどうにかしていけ!
 おいコラー!」

 だが、奴は無視するかのように建物の陰に消えた。
 追いかけようとしたが、この場を離れて起爆されても困る。
 右往左往としていると、奴の気配が消えたため諦めた。
 もう奴は、瞬動かなにかで近くにはいないのだろう。

 まじまじと万年筆を見つめた。

 どうするか?
 いっそこのままハカセの所にいくか……?
 だが嘘だと思い込み、起爆されては困る。

 茶々丸を念話で呼ぼう。
 早急に、ハカセを連れてきて貰わなければならない。

 茶々丸、早急に来てくれ。

「はい」

「うお!」

 唐突にも、茶々丸が横に立ったのだ。
 その余りの早さに、恥ずかしながら驚いてしまった。

「おい!どう考えても早すぎるだろ!」

「はい。終始監視していましたので」

「なら助けろ!なにをしていたんだ!」

「はい。
 初めは背後から奇襲をかけようと思いましたが、マスターが何の変哲のない万年筆で楽しんでいましたので」

 しれっと答える茶々丸を、力強く揺さぶった。

「どこをどう見たら楽しんでいるように見えるんだ!
 まあ、いい。というか、やはりただの万年筆だったんだな」

「はい。
 スキャンしましたがその万年筆は、市販されている万年筆です。
 爆発物ではありません」

 自然に、口許がへの字に曲がっていくのを感じた。

「やはり、か。
 奴は万年…ん?それはなんだ?」

 茶々丸が持っていた学生鞄が目についた。

「はい。先ほどの男性の忘れ物のようです」

「なに!でかしたぞ!」

 学生鞄を奪うように掴むと中身を地面にぶちまけた。
 教科書にノート、筆記用具に推理小説。
 それに花を愛でる本とかいうガーデニングの雑誌。
 奴のイメージに全く合わない。
 それを発見したとき、わざと学生鞄を置いていったのではないかと思えた。
 漁るであろう私を、どこかで馬鹿にしているのではないかと思ったのだ。だが、辺りに気配はなかった。
 めぼしい物は見当たらない。
 つまらない鞄だと諦めようとしたとき、それは見つかった。
 勢いよく引っ張り出した。
 それは生徒手帳だった。
 頁を開くと、やはり書いてあった。

 高等部一年生。
 小林氷咲(ヒサキ)、と。

 それをヒラヒラと揺らしながら呟く。

「クックックッ…。
 奴は小林氷咲というのか。覚えたぞ。
 貴様の悪の本質…つまらぬものならくびり殺してくれよう」

 クールに決めているというのに、茶々丸がそれを遮った。

「先ほどの男性は小林氷咲様。
 マスターのお気に入り友人リストに加えておきます」

「どこをどう見れば友人に見えるんだ!」

 そんなことを宣う茶々丸に、ネジを乱暴に巻きながら考える。
 まあ、運が良かっただけだが、ただの万年筆で私を退けた戦略。
 憤りではなく、純粋な興味が勝っていた。
 口許が、独りでにへの字に曲がっていくのを感じた。



[43591] 素晴らしき学園長と先生——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:17
—小林氷咲Side—
 
 
 
 
 昨日は散々な目に遭いました。
 ヒサキです。
 調子に乗りすぎたようです。
 ヒサキです。

 謎の幼女吸血鬼エヴァンジェリンさんから、計画通りに逃げられたところまでは良かったのですがね。
 まさかその後、下水道に落ちてしまい閉じ込められるとは思いませんでしたよ。
 ええ、はい。
 おじさんに悪態をつきながらも、なんとか苦労し脱出すると、そこは夜の帳が広がっていました。
 寮母さんに門限を守れと、烈火の如く怒られてしまいました。

 まあ、それは許容範囲だったのですが、大変なことに気づいてしまったのです。 
 なんと、学生鞄を紛失してしまったのです。
 その上学生鞄は、あの恐怖の一件の舞台である桜通りで落とした可能性が高いのです。
 そして、そのなかには生徒手帳が入っていたはずです。
 自らの氏名や年齢は勿論ですが、その上ご丁寧に実家の住所まで書いてしまっていた始末です。

 もしもそれを、さながら現世に生まれた般若のようなエヴァンジェリンさん。彼女が拾っていたとしたら、間違いなく僕は来年の初日の出を拝むことはできないでしょう。

 そしてもう一つだけ。
 死神が帰ってきません。
 何かの前触れでなければいいのですが。
 
 
 
 
 怯えながらの一夜とは、本当に長く感じるものである。
 寝苦しい夜を越えて、やっと早朝を迎えた。 
 内情としては、さながら亀のように布団にくるまり、引きこもりたいものだがそれはできない。
 他がなんと言おうが、草食系男子を自認する俺としては、学園を休むわけにはいかない。
 進学に、響いてしまうからである。
 将来の夢は平凡なサラリーマンと、声高らかに叫んだ幼少の自らを裏切るわけにはいかないのだ。

 しかし、怖いものは怖い。
 途方もなく怖いのだ。
 長年の週間。カーテンを開けて朝日を浴びるという事さえ、開けたらエヴァンジェリンさんが覗いているのではないかと怯えているほどだった。
 早朝というのに真っ暗な部屋で、顔を洗う。小刻みに震える手で歯磨きをしながら、これからの身の振り方を考えた。 

 長く、長い沈黙。
 無駄に歯を磨き続けた末に、光明が見えた。
 自らの内情ではない。相手の内情を考えて見るのだ。
 そう考えると、見えてくるものがあった。
 我らが一般人とは無縁のお方である吸血鬼さんといえども、いえどもだ。
 吸血鬼とは、闇に生きるものだと聞いた事がある。
 人の目に触れる行動は、極力避けるのではないだろうか。
 そうだ。
 絶対にそうだ。
 それならば、常に何人かで行動し、絶えず人の目がある状態を心がければどうだろうか。
 エヴァンジェリンさんが恐れている事は、自らが吸血鬼だと周りに触れ回られることだろうと考えられた。
 それが故に、口封じにくるのだろうからだ。
 エヴァンジェリンさんは、俺が常に一目のある場所にいるため、歯痒い思いをするだろう。 
 時間をかかるだろうが、吸血鬼の話題を一言も発しないというところをこの身で体現するのだ。
 そうすれば、信用し見逃してくれるのではないだろうか。

 そうだ。
 そうに違いない。
 一つ問題があるとすれば、図に乗ってしまった事。彼女を余りに小馬鹿にし過ぎてしまったことだが、大丈夫だろう。
 吸血鬼とはいえ、あんなに可愛らしい幼女なのである。本来の性格は優しいはずだ。
 それにしてもエヴァンジェリンさんは、麻帆良学園小等部の子だろうか。いや吸血鬼なんだから部外者なのかもしれない。
 それはそうとして、将来は美人になるのだろうな。
 次第に震えが収まっていく身体を感じながら、学友に付き纏うために部屋を出た。 
 
 
 
 
 いやー学園っていいね?
 平和だよ平和。心の許し合った学友たちと友情を確かめ合う。
 なんて素晴らしいことなんだろうか。
 一番のいい点は、そこら中に大勢の人の目があることだが。
 時刻は、待ちに待った昼休みである。
 勉学は好きなのだが、やはり昼食の時間は心踊る。
 開け放たれた窓から、涼しげな風と暖かな光陽が教室を満たしていた。
 窓の奥には、桜の花びらが舞い散っていた。
 それだけは、見ないように心がけているが。

 友人と机を合わせ、弁当をつつきながら辺りを観察した。だが恐怖の吸血鬼さんの姿は、視認出来なかった。
 さすがにエヴァンジェリンさんと言えど幼女なのである。
 何処かでお昼寝でもしているのだろう。
 学園の平和を噛み締めつつ、堪能するとしよう。
 昨日から死神の姿も見えないし、今日は不幸と呼べるほどの災難も起きていなかった。
 なんという安らぎ、なのだろうか。
 声を大にして言いたい。
 これこそが求め欲していた、なんの変哲もない穏やかな日常であった。

 終始、満面の笑みを口許に浮かべていると、学友が笑いかけてきた。
 快く、言葉を返した。
 しかし、次の瞬間であった。
 楽観していた気持ちを、一瞬にして打ち砕かれたのは。

「1年B組の、小林氷咲くん。1年B組の、小林氷咲くん。
 至急、学園長室まで来なさい」

「てっ!」

 瞬間、机に額を打ち付けた。
 それは予期せぬ、学園放送であった。
 まさか自らに、学園長から呼び出しがかかるとは、想像だにしていなかった。
 学園内で、問題を起こしたことは皆無だからだ。
 なぜか、体育館の電灯が自分目掛けて落ちて来た事がある。
 なぜか、校舎に迷い込んできた猛犬に、追い掛け回された事もあった。
 被害者側であれば、幾多もある事は認めようではないか。
 しかし、今日は被害者になってしまう不運には遭遇していないのである。
 ならばなぜ、俺に呼び出しがかかっているのだろうか。
 皆目、見当がつかなかった。

 痛む額をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。
 なにかきな臭い印象がするが、行かないわけにはならないのである。
 呼び出しを無視する事。それは不良生徒の烙印を押されてしまう事に直結してしまうだろう。
 それは絶対的に避けなければならない。
 進学は厳しくなるし、全く持って不必要なレッテルを背負わされてしまう事になるからだ。
 教室中の視線が生暖かった。 
 なにをやったんだヒサキ?と言った、訝しむ視線で満ちていた。

 俺はなにもやってない!
 それでもやってない!

 そうやって叫び上げたいのは吝かではないが、そんなことをすれば逆効果である事は明白である。
 その時点で、憐憫の眼差しを向けられる事になってしまうであろう。
 俺に出来る事は、学友達に引き攣った笑みを向ける事だけだった。
 
 
 
 
 というか、一つ言っていいかな?
 女子中等部の学園長室ならば、そう先に言えたのではないだろうか。
 高等部の学園長室に、赴いてしまったではないか。
 その上、その上である。
 なぜ女子中等部なのだろうか。さながら、不審者を見るような視線に晒されたではないか。
 なぜか、変な女子生徒に、写真を撮られ続けるという騒動に、謝罪を求める。

 少々、憤っていた俺は、学園長室のソファーに座っていた。
 対角線上。学園長が仰々しい椅子に座り、髭をさすっていた。
 まるでぬらり、いや、仙人様のようではないか。
 見飽きてはいるから、学園長の後頭部に関して何か言う気は毛頭なかった。

 至極当然の事であるが、視線は学園長の傍らに佇む、一人の先生に向かっていた。
 記憶から消えてしまっていたが、何らかの事情で担任の座を降りた事だけは覚えていた。
 確か現状は、広域指導員として収まっていたはずである。
 麻帆良のダンディズムの象徴。デスメガネこと、高畑先生であった。
 高畑先生は、目を細めてこちらを見つめていた。
 それにしても、それにしてもである。この重苦しい雰囲気はなんだというのだろうか。
 憤りさえ忘れる不穏当な雰囲気に面食らっていると、学園長の口がゆっくりと開かれた。

「きみは男子高等部一年B組の小林氷咲くんで間違いないのう?」

「はい」

 当然だが、首肯した。
 学園長が頷いた。

「きみを呼んだのはちと、聞きたい事があってじゃな」

 学園長が何かを量るように、俺の目を見つめてきた。
 そんな雰囲気に晒されながら、考えた。
 全く、意図が判らない。
 俺が、なにか悪い事でもしたというのだろうか。
 しかし、高らかに言えた。
 こちらは問題になるような事はしていないのだ。
 毅然とした態度で、見つめ返した。 

「きみ…昨日の昼休みはなにをしておったのじゃ?」

「なにもしてませんが」 
 
 
 返す刀でそう言った。
 しかしその瞬間、ある困った事態の記憶が呼び返された。
 そうだった。
 昨日、現世の般若こと、エヴァンジェリンさんに殺されそうになっていたではないか。
 平和な環境と、この不穏な空気で忘れていたのだ。
 という事は、嘘をついた事になってしまう。
 即座に弁明しようとしたが、開きかけた口は制止した。
 ふと、思えたのである。
 何処かで、エヴァンジェリンさんが聞き耳を立てているのではないか、と。
 辺りを執拗に探っては見たが、いない。
 しかし、油断は禁物である。相手は吸血鬼なのだ。どんな場所にいても、人の話を聞けるなどの能力があるかもしれない。
 他愛もない試験管から、人を殺せるほどの突風を起こしてしまうのだ。
 可能性は、極めて高く思えた。

 それならば、言えるはずがないではないか。
 言ってしまう事。それは短き人生を、自らの手で閉ざす事と同等なのである。 
 エヴァンジェリンさんが殺気立ちながら宣言してていた通り、地の果てにまで追われ、くびり殺されてしまうだろう。
 全身から、血の気が退いていくのを感じた。
 同時に疑問が浮かび上がった。
 なぜ、そんなことを聞くのだろうか、と。
 ま、さ、か。
 学園長達とエヴァンジェリンさんはグルなのではないか。
 頼まれて、俺が口を割るかどうか試しているのではないか。
 いや、それは到底考えられないだろう。
 麻帆良学園の頂点と、恐怖の吸血鬼が手を結んでいる。
 そんな事は、漫画や映画の中だけの話だ。
 そう、信じたい。いや、そう信じよう。
 それならば、ある考察が浮かび上がった。
 昨日の騒動を、目撃していた者がいたのではないか、と。
 そして、目撃者は言ったのだ。小林氷咲という男子生徒が、吸血鬼らしき幼女に殺されかけていましたよ、と。
 そう考えると、面白いほどに話は繋がっていった。
 学園長達は、そんな眉唾ものの他愛もない話を信じたのだ。
 信じてくれた上に、俺を守ろうとしてくれているのだ。

 が、学園長と高畑先生は、なんて素晴らしい大人達なんだろうか……!
 いままで友人たちと、ぬらりひょんとかぬらり長とか笑っていたことを謝りたい……!

 純粋に感動していた。
 それは心に染み渡るように浸透していく。
 極めて稀少なのだ。事実をどんなに述べても、こんな与太じみた話を信じてくれる者は。
 それなのに、学園長と高畑先生は信じてくれた。
 それは俺という生徒を何とか守ろうとする、尊き意思から来ているのである。
 これが嬉しくなくて、なにが嬉しいというのだろうか。

 そうなんです!
 吸血鬼さんに殺されかけていたんです!
 怯えて夜も眠れなかったんです!

 そう叫ぼうとしたが、叫ぶ事は出来なかった。
 言えない。言う事はできないのだ。
 なぜならば、ここで打ち明ける事。それは、学園長達にまで危険を伴わせるという事だ。
 俺だけでなく、こんなに素晴らしい学園長達にまで。
 それは出来ない。出来ないのだ。
 学園長と高畑先生、二人の器量の広さは果てしない。
 与太じみた話しを信じてくれて、愛する生徒を守るために、真剣に行動出来る尊とさ。
 自らの危機を回避するために、学園長達を危険に遭わせるなど、有ってはならないことであると言えた。
 その尊さを、裏切る事は出来なかったのだ。
 それに要は、他言無用を貫くことで解決できるはずだ。
 言わないと、強く心に刻みつけた。 
 学園長も高畑先生も、未だに真剣な瞳でこちらを見捉えていた。
 なんという、素晴らしさか。
 感動していると、学園長が言った。

「ふむ……なにもしてないか。
 ……桜通りの方には行っていないかな?」

「はい」 
 
 怪しまれむように、即座に返した。
 学園長達のためとはいえ、嘘をついているのだ。
 胸が痛かった。
 しかし、無視を決め込み、演技を続けた。

「ふむ……」

 学園長と高畑先生が、黙り込んだ。その表情には、確かに困惑の色が見えた。
 やはり、目撃者がいたのだろう。
 それは学園長が言った言葉。
「昼休みに桜通り」と核心をついた言葉から理解できた。 
 次第に、本当は助けを求める弱々しい心が浮き上がりそうになった。
 だがしかし、それは特大の重しを乗せて押さえ付けなければならない。
 これは俺が引き起こした問題だからだ。
 人任せではいけない。俺が解決しなければならないのだ。

 空気が重く、なっていく。
 高畑先生が抑揚のない表情で、人差し指で軽く眼鏡を持ち上げると呟いた。
 その声は小さかったが、どこか真意を孕んでいた。

「吸血鬼」

 それは揺さぶりだった。
 生徒を、俺を守りたいがための揺さぶり。
 罪悪感が騒いだ。
 しかし、聞こえていないかのように演じた。
 沈黙が広がった。程なくして高畑先生が、あるものを机の上に乗せた。

「これがね。
 桜通りに落ちていたんだよ」

 動揺せざるを得なかった。
 それは、紛失していた生徒手帳と学生鞄だったのだからだ。
 しかし、こちらも必死だ。動揺を覚られないように、首を傾げて返した。

「なくしたと思っていたらそんなところにあったんですか」

「なぜ落ちていたんだろう?」 
 
「誰かが盗んで捨てたのかもしれません。
 見つけて下さってありがとうございます」

「うん。それはいいんだけどね……」

 少しの間、見つめあった後、高畑先生と学園長が、机を挟んで視線を合わせた。
 それはおおよそ、俺を量りかねているのだろう。
 執拗なまでの疑い。しかしそれは、善意から来ている。生徒を守ろうとする尊き意思から。
 内心は、感動の涙が流れていた。さながら、その涙で泉が出来るほどであった。
 しかしこのままだと、ボロを出すかも知れない。
 机の上に、紛失物届けが置いてあった。
 あそこに氏名を書き、学生鞄を受け取ったら、即座に立ち去ろう。
 深き感動に耽りながら、ゆっくりと立ち上がった。
 机に向かうと、高畑先生が素早く振り返った。

「どうしたんだい?」

 右手をズボンのポケットに入れて、こちらを見据えた。
 視線が鋭くなっているような気がするが、錯覚だろう。 
 感謝の意を、満面の笑みに表現した。
 紛失届けに記入するための万年筆を、胸ポケットから取り出して言った。

「いえ、次の授業」

 いえ、次の授業があるので帰ろうと思いましてとは、途中までしか言うことはできなかった。
 その瞬間、強烈なおぞけが身体中を駆け巡ったのだ。
 まるで、闇が血管中を蹂躙しているような感覚。
 エヴァンジェリンさんに、試験管を投げられた時と同様の感覚だった。
 乱れ脈打つ焦燥感に、身体中の酷い悪寒。
 相反する感覚がせめぎあい、酷く気持ちが悪かった。
 死の予感。
 死が、間違いなく死が迫ってきている。
 予感。いや度重なる不運に相対してきたゆえの確信だった。 
 恐怖心からか、鉛のように重い身体を叱咤して、思い切り垂直に跳んだ。
 跳んだ瞬間だった。
 不可視ななにかが足元を通り抜けたのだ。
 まるで、ダンプカーが横切った時のような突風と轟音が響き渡った。
 竜巻のような突風が巻き起こり、身体ごと吹き飛ばされた。

 一瞬だけ、唖然とした二人の表情が見えた。
 自由が効かない状態で、学園長へと突進してしまう。

 うおおおおー!怖ぇー!学園長よけてー!!

 余りの恐怖心からか、万年筆を掴んだ右手に力がこもる。
 そのまま無防備な学園長に、飛び蹴りのような態勢で突っ込んだ。二人して、揉み合うように転がっていく。
 幸いとは言えないが、学園長がクッションとなってくれたのだろう。身体には大した痛みがなかった。
 体ごと生徒を守るとは、なんという学園長なのだろうか。 
 呆然とそんな事を考えていると、背後から高畑先生の呟きが聞こえてきた。

「居合い拳を初見で見切ったうえ、その拳圧を蹴って……虚空瞬動をしたのか……?」

 いあい券とは一体。
 また、こくうしゅんどうとは一体。

 こくうしゅんどうとは、吸血鬼語ではないのだろうか。
 全く意味がわからない上に、余りに厨二病的な言い回しに苦笑してしまった。
 ふと気づくと、学園長のマウントボジションをとってしまっていた事に気づいた。
 これはいけないと、笑いを堪えながらも、慌てて謝罪しようと行動した。
 所が慌て過ぎたのかバランスが悪く、態勢を崩してしまう。
 その結果は、最悪なものになった。
 右手に握ったままの万年筆を、学園長の首許に押し付けてしまったのだ。

「ま、まいった!」 

 また慌てて離そうとすると、学園長が意味不明なことを叫んだ。
 訳がわからず、動作が止まってしまう。
 しかし、直ぐに理解する事が出来た。
 間違いとはいえだ。
 学園長に飛び蹴りで突っ込み、マウントボジションをとった上、首許に万年筆を押し当てたなんて知れたら停学は免れないだろう。
 学園長が庇ったところで、俺の行動は高畑先生に見られてしまっているのだ。
 高畑先生の器量は大きく、優しき先生だとはわかってはいる。だがしかし、万が一として、規則は規則と停学を優先するかも知れない。
 それを学園長は危惧して、プロレスごっこをしていただけなんだよと、高畑先生に示しているのだ。

 襲われたわけじゃない。
 ハハハ、参った参った、と。
 な、なんという学園長なのだろうか。 
 俺はここまで素晴らしき学園長の庇護の下で、勉学に励んでいたというのか!
 純粋に感動をした!
 学園長!あなたに一生ついていきます!
 それならば俺は、学園長の真意を汲み取り、プロレスごっこを続けさせてもらいます!

 万年筆を押し当てたまま、感謝の意を満面の笑みで表し、学園長に伝えた。
 心の中の小さなヒサキは、額を地面に擦りつけるほどの土下座状態であった。
 すると、背後から高畑先生の優しげな声が聞こえてきた。

「氷咲くん……そのへんで許してくれないかな?」

 なんという、高畑先生。
 やはり高畑先生は、優しく素晴らしき先生だった。
 停学を優先するならば、高圧的にくるはずだ。 
 しかし、高畑先生は違った。違いのわかる男性だった。
 優しげな声音で、許してあげてくれと言ってきたのだ。
 その真意は、一つだった。

 僕はプロレスごっこしか見ていないよ。
 停学?ハハッ、初めて聞く言葉だね、と。
 要約すると、こう言っているのである。

 こんな愚かな生徒を救うために、演技をしてくれる学園長。
 全て理解した上で、アドリブに付き合う高畑先生。
 学園長が大海のような心の広さを持っていれば、高畑先生は大空を彷彿とさせる器量。
 なんて男前な大人達なんだ。
 尊敬。尊敬せざるを得なかった。
 それならば、停学を進言する者は一人もいなくなった事になる。
 もうプロレスごっこという演技を、続ける必要はなくなったのである。
 もう止めましょうと、笑顔で学園長に言った。

「学園長、誤解ですよ。 
 僕は草食系男子を自認していますし、最初から戦ってなどいないでしょう?
 だから勝敗をつけるのはおかしいですよ」

 そう、俺と学園長達は、敵同士なんかではない。
 そもそもなぜ、心から尊敬する学園長達と戦わなければならないのだろうか。
 例えばないとは思うが、万が一、戦ったところで勝負にさえならないだろう。
 大方、勝てるものと言えば、ジャンケンくらいのものだ。それでも負けてしまいそうだが。
 自嘲めいた考えに、笑みが漏れた。
 学園長は、まだ演技を続けてくれているのか、額から汗を流していた。

「そ、そうじゃったな……。
 きみはソウショ?男子……?じゃ!わしが認めるぞい!」 

 嬉しさが、込み上げた。
 俺は草食系男子を自認しているが、そう言われた事が一度もなかったのだ。
 流行りの草食系男子かぶれと、茶化された事はあるのだが。
 全く、困ったものである。誰がなんと言おうとも、俺は草食系男子なのだが。

 そんな事を思っていると、未だに万年筆が学園長に押し当てられていることに気づいた。
 これはいけないと、苦笑しながら万年筆を胸ポケットにしまった。
 立ち上がり、先ほどの騒動で床に落ちていた紛失物届けに氏名を書いた。
 学生鞄を肩に掛ける。
 すると、学園長が余程楽しかったのだろうか。ほっと息を吐き出す演技をしていた。 
 騒動に対するお礼を言おうとしたのだが、ノリノリの学園長にこの場で言うなど、空気を読めていないように思えた。
 お礼は今度、お茶菓子などを持って来訪する事にしよう。
 学園長とも高畑先生とも、今日の顛末を大笑いしながら打ち解けられることだろう。
 授業が始まるために、名残惜しかったが、この場を去ろうと一声かけた。

「では、僕は授業にいきます。失礼しました」

 せめてもと、軽く会釈だけはした。
 部屋を後にしようと、ドアノブを握る。
 その時、背後から声がかかった。

「氷咲くん。
 最後に聞かせてほしい。
 きみの目的はなんなんじゃ?なにを思いここにいる?」

 笑みを漏らさずには、いられなかった。
 フフフ……学園長もまったくお茶目だなぁ。
 そんな遠回しな言い方での進路相談なんて。 
 目的は一つ。サラリーマンになるために学園に在籍しているのですよ。
 まあまだ僕は高等部一年生です。進路はまだ早いですけどね。
 授業まで秒読みに入っているため、失礼だとは思ったが背を向けたまま言った。

「言ったでしょう。
 僕は草食系男子ですよ?
 その僕がここにいる目的なんて、勉強をしてサラリーマンになるため以外にありませんよ?」

 そう言って、満足げに学園長室を後にした。
 廊下に出ると、髪をサイドに立てた女子生徒が遠くに走っていくのが見えた。
 全く困ったものである。
 廊下を走ってはいけないというのに。
 それにしても、麻帆良の頂点である学園長と親しくなれたのは収穫だった。
 将来の夢も宣言してしまったし、就職活動などで優遇してくれないだろうか。
 いや、そんな姑息な思考は将来のためにならないだろう。
 さすがに露骨だっただろうかとは思えたが、あの素晴らしき学園長と高畑先生は、そんな事など微塵も思いもせずに好青年だと捉えてくれただろうな。
 そういえば、あの不可視の突風はなんだったのだろうか。
 まあ、おおよその検討はついてしまうが。
 大方、吸血鬼だと話すなと言う警告だったのだろう。
 全く、エヴァンジェリンさんのはやとちりには困ったものだ。
 はやとちりで、人を殺しかけるのだから。
 こちらは話す気など、毛頭ないと言うのに。
 軽く頷き、早歩きで帰路についた。
 帰りも細心の注意を払い、人がいる場所を経由して帰ろう。



[43591] 素晴らしき学園長と先生——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:17
ー近衛近右衛門Sideー
 
 
 
 
「それにしても面倒じゃのう」

 窓の外から、生徒達の好ましい喧騒が響いてくる。
 普段はそれを耳に届けながら、熱いお茶でも啜っているのじゃが、困ったものである。
 学園長室のお決まりの椅子に座り、ため息をついた。

「ハハハ……しかしまだ関係者と決まったわけではないですからね」

 机の横側に立つ高畑くんが、苦笑を漏らした。

「うむ、それはそうじゃが……あのエヴァがあそこまでご執心となるとはのう」

 再度、深きため息が漏れた。
 どうにも困った事態。混迷とした思考は、昨日に遡っていった。
 
 
 
 
 わしは学園長室で、写真とにらめっこしていた。孫である木乃香の、お見合い相手を吟味していたのじゃ。
 あれでもない、これでもないと、頭を悩ませていた時じゃった。
 ふと、魔力の波動を捉えたのじゃ。
 それはそれは微かであり、気づけた事を褒めてもらいたいほどの微細な波動。
 注意深く探っていくと、それはエヴァの魔力の波動であるように思えた。
 いや長年の付き合いじゃ。確かに彼女の波動であった。
 あまつさえ、殺気を孕んだ波動のようにも感じられた。

 当初わしは、ネギくんでも襲っているのじゃろうかと考えた。
 じゃが、それは違う。彼は教室にて食事をしているとの報告があったからじゃ。
 それならば、相手は侵入者じゃろうか。遭遇し撃退でもしたのじゃろうか。
 そう結論づけたが、待てども待てども、肝心のエヴァがやってくる事はなかった。
 わしはまた、不思議じゃと髭をさすった。
 侵入者を撃退したならば、連絡を入れてくるはずだからである。
 エヴァが侵入者に遅れを取るとも思えんし、長きに渡るつき合いとなったが、こんな事はなかった。
 ならばなぜ、じゃろうか。
 不思議に思ったわしは、彼女に呼び出しをかけた。
 程なくしてエヴァはやってきた。けだるそうに目を細めて、こちらを睨みつけてきた。

「なんだじじい」

 全く持って、言葉使いが悪いのう。

 それから、先ほどの一件を問いただしてみたのじゃが、返ってくる言葉は少なかった。
 知らぬぞんぜぬを繰り返すばかりで、どうにもその意図が理解出来なかった。
 なぜ、桜通りで魔法を使ったのかと問うても、使っていないと言いはるのじゃ。
 しかしわしは、確かに感じたのじゃ。微かではあるが、殺気を孕んだ魔力の波動を。
 殺気を孕んでさえいなければ、ただの魔法と納得することが出来よう。
 じゃが、殺気とは相手がおってこそ生まれるものである。
 つまりそれは、一つの事柄を表していた。
 エヴァは何者かと戦った。じゃが、それを隠さなければならない理由がある。
 そういう事としか、考えられなかった。

 この学園での違和は、徹底的に解消しなければならない。
 愛する孫や生徒達が心配で、夜も眠れなくなってしまうからじゃ。
 これは埒があかないと、切り札を切った。
 それは、エヴァにとって死活問題であるが、わしにとっては何ら害はない切り札。
 いずれは釘を刺そうとしていた事じゃ。問題はない。
 それは、簡単な事じゃった。
 ネギくんとエヴァの二人の争い。その渦中に置いて、死人を出さぬと固く約束する限り、黙認するという進言じゃった。
 エヴァは終始、じじいめと呟きながら顔をしかめていた。
 じゃが深く考え込んだ後、解呪には変えられないと事の顛末を語り始めた。

 それは要約すると、二つの事柄から生まれた嘘であった。
 一つ目は、佐々木まき絵くんへの吸血行為を隠すため。
 二つ目は、ある少年との戦いを隠すためじゃった。
 前者については、明るみに出ると計画が狂ってしまうためじゃった。
 後者についても同様で、舞台が桜通りであったために、打ち明ける事は出来なかったという。
 わしは納得して頷いた。
 佐々木まき絵くんについて厳重注意をしてから、少年について詳しく聞いてみると途方もなく驚く事になった。
 少年の名は小林氷咲くん。男子高等部の一年生として在籍している。
 それだけでは驚く必要性はなかった。じゃが、なんと彼は、虚空瞬動の使い手であるというのじゃ。
 エヴァの話しを要約すると、小林氷咲くんは一般人という仮面、擬態を有効に活用してエヴァに接近した。
 エヴァは絶対の強者ゆえの驕りからか、その擬態を見抜けず、油断してしまった。
 エヴァの攻撃の一瞬の隙をついての見事な虚空瞬動で、氷咲くんは唐突に一般人の仮面を脱ぎ捨てた。
 そして、巧妙な話術と戦略にて翻弄した。あまつさえ、市販の万年筆一本で、エヴァと対等に渡り合ったというのじゃ。
 じゃが、小林氷咲という名の魔法生徒などいない。
 それならば彼は、一体。
 わしの怪訝な表情を見て取って、エヴァが愉しそうに笑った。

「私の見解ではまだ技を隠し持っているはずだ。
 それと同時に実力は未知数だが、そこまで危険視する必要はないだろう。
 タカミチとでも向かい合って試合えば十戦して十戦、奴は負けるだろう。
 向かい合って試合えば、だがな。
 小林氷咲はこの私に喧嘩を売った。久しぶりに興味が尽きない獲物なんだ。
 じじいは手を出すな。
 心配しなくてもいい。殺す…つもりはないからな」

「そんなことを素敵な笑みで言われても困るのう……」

 困惑しながらも、彼の目的、なぜエヴァに接近ししようとしたのかと尋ねた。
 エヴァは、即座に言った。

「知らん」

「は、はあ」

 余りの潔さに、声が漏れた。
 エヴァが虚空を見つめた後、口を開いた。

「だが一つ考えられるのは、小林氷咲は酷い性格破綻者だからじゃないか?
 だが奴は無闇に殺生はしないだろう。
 身動きができない私に、何一つ攻撃しなかったんだからな。
 案外ただの気まぐれでこけにしにきただけかも知れん」

「いや……気まぐれでエヴァをこけにしにくる少年は危険だと思うんじゃが……」

 わしの本心からの呟きは、エヴァの一声で、いとも簡単にかき消された。

「うるさいじじいだな。その煩わしい後頭部を、スッパリ切り落としてやろうか」

 それにしてもこやつは、気にしていることを酷いのう……。
 わしだって傷つくんじゃぞい……。

 そう落ち込むと、エヴァはさも簡単に一笑に伏すと去ろうとした。
 慌てて留め、話すくらいならと承諾を貰った。
 弱みを握っているのはこっちじゃというのに、偉そうなところはさすがのエヴァであった。

 それから大急ぎで、小林氷咲という生徒の経歴を洗った。
 じゃが、どれだけ洗って見ても、白と黒でいうならば、結果は白じゃった。
 成績優秀の上、教師受けも良い。友人達の数も多く、真面目な一生徒という事じゃった。
 玉に傷なのが、体育の成績が悪い事。それに、男子高等部内では不運の男と呼ばれるほど、沢山の災難に見舞われていることだけじゃった。
 勿論、魔法生徒でもないし、侵入者でもなかった。
 念のために顔写真を見てみたが、正に爽やかな一般生徒じゃ。
 エヴァの言っていた、人を騙して愉しむような性格破綻者には見えなかった。

 ふと、ある考察が浮かび上がった。
 エヴァから、証拠品として学生鞄を貰い受けていたのじゃが、本当に実力者なのかのう。
 不運に不運が重なって、その上不運に押し潰された。
 そして、勘違いしたエヴァに狙われているだけなのじゃないのかのう……。
 じゃが、エヴァがあれだけ断言するのじゃ。
 彼女の目は、確かである。その点は信頼できるが、この問題に至ってはのう……。
 さながら、白と黒なら白に近き灰色。
 そう言った心境で、明日、氷咲くんを呼び出すことに決めたのじゃった。
 
 
 
 
 思考に没頭していたわしは、ドアのノックの音で意識が覚醒していった。
 わしの頷きを持って、高畑くんが優しげな声音で言った。

「入っていいよ」

 限りなく白。じゃが、写真と本物は違う。
 さて、どんなものかのう。
 食い入るようにドアを見つめた。

「失礼します」

 ドアが静かに開いていき、わしと高畑くんは互いに目を見合わせる事となった。
 高畑くんの表情には、純粋に驚きが表れていた。
 わしもわしで、余りの普通さに驚いていた。
 顔写真で見当はついていた。じゃが本物は、より一層として普通過ぎたのじゃ。
 魔力も気の量も、一般的。筋肉の量も一般的である。
 歴戦の兵から滲み出る、風格もない。
 どのような角度から見たとしても、一般生徒にしか見えないじゃろう。

 唖然を隠せなかった。
 氷咲くんは我関せずと、静かにソファーに腰掛けた。
 その瞳がこちらに向けられる。
 三者三様に無言という、不思議な空間の中で、高畑くんと目だけの会話を試みた。

 これは、エヴァに担がれたんじゃないか……?

 エヴァを、信じたいですけどね……。

 もう、帰しても良いんじゃなかろうか?

 ハハハ……一応、エヴァが言っていた擬態かも知れません。

 ふむ……聞くだけ無料、か。

 一応、じゃろう。
 高畑くんが目を細めた。量るような視線が、氷咲くんに向かった。
 致し方なしと、髭をさすりながら、沈黙を払うように言った。

「きみは男子高等部一年B組の小林氷咲くんで間違いないのう?」

「はい」

 氷咲くんは、澄み渡る瞳を逸らさずに頷いた。
 わしも頷きを返した。

「きみを呼んだのはちと、聞きたい事があってじゃな」

 ふと、罪悪めいた感情が沸いてきた。
 氷咲くんの真摯な瞳を見ていると思えたのじゃ。守るべき一般生徒を、疑ってしまっているのではないか、と。
 悩んでいる間も、彼が目を逸らす事はなかった。
 心の中で呟いた。
 これは、良い子じゃ。
 完全に、良い子じゃよ。白と黒とか考えていたわしが、馬鹿みたいじゃわい。
 この子は、精練潔白。真っ白じゃ。
 じゃが、聞くだけは無料。
 そう罪悪感に痛む胸を抑えつけて、無理矢理口を開いた。

「きみ……昨日の昼休みはなにをしておったのじゃ?」

「なにもしてませんが」

 返す刀で、氷咲くんはそう言った。
 瞬間的に頷きかけたわしの動きは、ある違和感を捉えて制止した。
 おかしい。それはおかしいのじゃ。
 なぜならば、エヴァから譲り受けていたからじゃ。
 桜通りで戦った後に拾ったという学生鞄を。
 中には筆記用具などの他にも、彼の名前が記された生徒手帳もあった。

 不思議と目を細めておると、氷咲くんが挙動不審な行動を取り始めた。
 しきりに辺りに目を凝らし、何かを探しているようなのじゃ。
 次の瞬間には、真顔になり目を閉じた。じゃが笑顔になり、再度、真顔となった。
 まるで百面相じゃな、と心の中で呟いた。
 高畑くんの目に、微かにじゃが、力が戻っていく。
 少々、怪しい雲行きとなってきた。じゃが、まだ断定するには至らない。
 中間の灰色、その程度になっただけなのじゃから。 
 氷咲くんを見つめて、口を開いた。

「ふむ……なにもしてないか。
 ……桜通りの方には行っていないかな?」

「はい」

 小林くんに、躊躇いなどはなかった。
 その表情は実直であり、とても嘘をつこうとする者には、到底思えなかった。

「ふむ…」
 
 
 わしと高畑くんは、どちらからともなく黙り込む事になった。
 氷咲くんの話しでは、桜通りには行ってなどいないという。
 エヴァの話しでは、彼と桜通りで戦った後、学生鞄を拾ったというのじゃ。
 導き出される結論は一つ。
 どちらかが、嘘をついておることは明白じゃが。

 ではこう考えて見よう。
 エヴァが嘘をついているのだとしたら、それによりなんの得をするのじゃろうか。
 考えても考えても、得などはないように思えた。
 では氷咲くんが嘘をついているのだとしたら、これも考えて見たものの、得などはないように思えた。
 色々な思考が渦巻きはしたが、消えていった。
 そもそも、彼が実力者などとは思えぬのじゃから。

 では、この学生鞄はなんなのじゃろうか。
 エヴァが何らかの事柄に一般生徒である氷咲くんを恨み、陥れるために学生鞄を盗んだ。
 静かに、首を振った。
 ない、じゃろう。
 エヴァはそんな回りくどいことをする暇があれば、単独でも倒しに行くじゃろうて。
 では、氷咲くんが嘘をついておるのじゃろうか。
 彼は桜通りにおったのにも関わらず、それを嘘をついてまで否定した事になる。
 なぜ、そんな嘘をつくのじゃろうか。
 エヴァの言う、一般生徒の仮面に準じておるのじゃろうか。
 実力を悟られぬために、じゃろうか。
 じゃが、その考察も首を振る事となった。
 所作に不審な所はあれど、彼は見るからに一般生徒にしか見えないからじゃった。

 わからん。
 わからんわい。
 困惑の表情のまま高畑くんを見遣ると、同様の結論に辿りついたのじゃろう。
 困惑とした面持ちで、虚空を見つめていた。
 沈黙に次ぐ沈黙に、部屋や空気さえも混迷と化していた。
 逡巡しておると、高畑くんが意を決した表情で口を開いた。
 それは、氷咲くんの内情を量ろうとする揺さぶりじゃった。
 わしは心の内で、高畑くんに頭を下げていた。
 彼も、辛いだろうからじゃ。
 ほぼ限りなく一般生徒と思われる、氷咲くんを疑わなければならないのじゃから。

「吸血鬼」

 氷咲くんは聞こえていないのか、身動きを取らなかった。静かにわしらを見据えていた。
 高畑くんがテーブルの上に、学生鞄を置いた。
 氷咲くんの目を、見据えて言った。

「これがね。
 桜通りに落ちていたんだよ」

 高畑くんの勇気には、素直に脱帽した。
 内心、心が痛いじゃろうに。
 氷咲くんが、不思議そうに首を傾げた。

「なくしたと思っていたらそんなところにあったんですか」

「なぜ落ちていたんだろう?」

 高畑くんが念には念をと、言葉の追撃をかける。

「誰かが盗んで捨てたのかもしれません。
 見つけて下さってありがとうございます」

「うん。それはいいんだけどね……」

 決まり、じゃな。
 氷咲くんは、一般生徒じゃ。断じて、こちら側の人間ではない。
 不可解な事はあるにはあるが、彼には揺らぎさえなかった。纏う空気も穏やかであり、エヴァの言った印象とは似ても似つかなかったからじゃ。

 じゃが、一つだけ疑問が残った。
 エヴァと氷咲くん。どちらかが、嘘をついているという事柄であった。
 じゃがどちらとも、嘘をつくようには見えない。
 その時、ある考察が浮かび上がった。
 もしかして、双方共に嘘をついてはいなかったのではないじゃろうか、と。
 氷咲くんは、不運の男と呼ばれておるらしい。
 不運。それらが積み重なり、誤解や勘違いを生じさせ、ある事態を作り上げた。
 その結果、なのではないじゃろうか。

 高畑くんと顔を見合わせて、二人して苦笑した。
 全く、エヴァには困ったものじゃのう。
 氷咲くんは一般生徒だから狙わないようにと、厳重注意しておかなければならんのう。
 部屋の空気が緩んでいく。
 じゃが、取り越し苦労で良かったと、安堵の息を吐き出した瞬間であった。
 氷咲くんが、ふいに立ち上がったのじゃ。
 気配を消した動作。音一つ無く、こちらに近づいてきた。
 不穏なる空気が、辺りを覆い込んだ。
 エヴァが言っていた言葉の数々が、脳裏に自然と思い起こされた。

 一般人という仮面を被り、擬態を有効に用いて。
 絶対の強者故の、驕り。それ故の油断。
 攻撃の一瞬の隙をついて、一般人の仮面を脱ぎ捨てた。
 巧妙な話術と戦略。それはエヴァさえも翻弄させた。
 用いた物は市販の万年筆一本。それだけで対等に渡り合った。

 高畑くんが素早く振り返ると、牽制の声を発した。

「どうしたんだい?」

 そのまま、戦闘態勢に入る。
 高畑くんの必殺技、居合い拳。ポケットに手を入れた態勢で、氷咲くんを見遣った。
 じゃが、高畑くんにそれを打つ気配はなかった。
 これはただの牽制、なのじゃから。
 万が一、極めて低い確率で、氷咲くんが攻撃してきた時のために備えただけである。
 それは、鋭い目で威圧してはいるが、殺気を孕んでいない所から明白であった。

 じゃが予想外にも、氷咲くんの歩みは止まらなかった。
 殺気がないとはいえ、高畑くんの威圧、なのじゃぞ。
 それを柳のように受け流す一般生徒。
 まさか。
 氷咲くんは足取りを止めぬまま、ふいに胸元に手を入れた。抜き出すと、黒色の棒状の物体が握られていた。
 それをわしらが、万年筆なのだと理解した時じゃった。
 唐突にも、その表情が切り替わった。
 実直な表情から一転、口許に愉しげな嘲笑いが浮かべられたのじゃ。
 鋭き威圧をものともせずに、さながら、陽気な春から凍てつく冬へと変化していくようじゃった。

 高畑くんの身体中から、膨大なまでの殺気が放たれた。
 居合い拳。放たれた拳圧が、氷咲くんの腹部を目掛けて飛んでいく。
 わしも高畑くんも、自然と顔がしかめられた。
 それは高畑くんが、打とうとして打ったわけではないからじゃ。
 高畑くんが、長年かけて培ってきた戦士としての本能。
 それが反射的に騒いだ。結果的に、その行動を呼び起こしてしまったのじゃ。

 それにしても、まずい。
 最悪な結果が想像された。
 氷咲くんが一般生徒であった場合に置いて、怪我ではすまない事態に陥るじゃろう。
 顔面蒼白。
 放たれた拳圧は、もう、止まる事はない。

 じゃが、次の瞬間じゃった。
 結果として、高畑くんの戦士としての本能は間違っていなかった事を思い知らされた。

 わし達に見せつけるかのように、氷咲くんは愉しげな笑みを残したまま、垂直に跳び上がった。
 足元を居合い拳の拳圧が通り抜けた。まるで、トラックが壁に突っ込んだかのような轟音が響き渡った。
 そのまま拳圧を足場に活用して蹴り上げ、凄まじい速度でわし目掛けて飛来した。

 わしも高畑くんも、唖然とする他なかった。
 それはそうじゃ。
 今の今まで、一般生徒だと信じ切っていた少年。
 彼が高等難易度である虚空瞬動を、嘲笑いのままに行ったのじゃぞ。
 ここまで来ると、もはや不運という言葉で片付けようにも、説得力は皆無と化した。
 ただの一般生徒に不運が重なったとしようではないか。
 じゃが、逆に聞きたい。
 ただの一般生徒がじゃ。嘲笑いを浮かべたまま虚空瞬動を行う。
 これを不運などで片付けろという者は、おるのじゃろうか。

 一般生徒の仮面を被り、信用させる。
 そして緩みきった一瞬の隙をついて、攻撃に移る。
 こんな巧妙な擬態を、誰が見破れるというのじゃろうか。

 心からの呟きが漏れた。
 エヴァの言っておった事は、紛れもない真実じゃった…!
 即座に戦闘態勢を整えようとしたが、もう、遅かった。
 わしの胸元に、その速度を利用した衝撃がぶつかった。
 命からがら、障壁を張れたためさほどダメージはなかった。
 じゃが鈍い痛みに襲われ、低い呻き声を漏らしながら吹き飛ばされた。
 揉み合うように転がっている途中で、高畑くんらしき声が聞こえてきた。

「居合い拳を初見で見切ったうえ、その拳圧を蹴って……虚空瞬動をしたのか……?」

 そんな事を呟いておる場合じゃなかろう…!

 そして勢いが収まった時、もはや勝敗は決していた。
 無防備にも仰向けにならざるを得ないわしの胸元に、氷咲くんが馬乗りになっていたのじゃ。
 口許には愉悦の笑みが、浮かべられていた。
 ゆっくりと、首許に万年筆をあてがわれた。
 全身が総毛立ち、独りでに口が開いた。
 過去はただの万年筆であったが、現在は本当の爆発物であったならば。
 障壁を容易く突破できるほどの、刃が隠されていたとしたら。

「ま、まいった!」

 恐る恐る見遣ると、氷咲くんは不思議そうな視線をこちらに向けていた。
 時が止まったかと錯覚するような沈黙が、辺りに広がっていく。どこかから聞こえてくる烏の鳴き声が、酷く印象的に聞こえた。
 わしはその時、恥ずかしながらやっとその意味を理解した。
 この件の発端をつくったのは、わし達なのじゃ。
 勝手に疑いをかけた上にじゃ。咄嗟とはいえ、居合い拳を放ってしまったのじゃ。
 氷咲くんは、戦うつもりなどはなかったのかも知れない。
 じゃが、高畑くんが攻撃した時、彼の中である変化が起こった。これは戦いなのだ、と。
 つまり、会話から殺しあいへとその色が移ってしまったのじゃろう。
 これはルールがある試合、などではない。
 殺しあいにルール、などはない。卑怯も糞もないのじゃ。騙された方はただ死に行くだけ。
 彼はその無法に乗っ取った。わしという王将を人質に取るという、戦略を実行した。
 そんなわしから、降参などというたわけた言葉が漏れたら、不思議に思うのは当然じゃろう。

 なぜだ?
 これは、殺しあいではなかったのか?

 氷咲くんの歪んだ瞳から、そう言った意思が有り有りと見えていた。
 甘く、見ていた。
 そう言わざるを得ない。
 エヴァの注意があったにも関わらず、この醜態。
 自分で思うよりも遥かに、老いてしまったよう、じゃな。
 心で呟くと、氷咲くんがなにかを覚ったかのように愉しげな笑みを浮かべた。
 わしの怯えを、感じとったのじゃろう。
 再起動を果たした高畑くんが、やっと動いた。

「氷咲くん……そのへんで許してくれないかな?」

 高畑くんよく言った!
 なんとかしてくれ!

 恥を忍んで、心から願った。
 孫の日の目を見るまで、わしは死ねないのじゃ。
 半ば祈る思いで氷咲くんを見遣ると、苦笑していた。
 それは、そうじゃ。
 彼にして見れば、とんだ茶番だと笑うしかないのじゃろう。
 逡巡の後、彼は笑顔を表して言った。
 その笑みは、なんらかの意思を持っているように思えた。

「学園長、誤解ですよ。
 僕は草食系男子を自認していますし、最初から戦ってなどいないでしょう?
 だから勝敗をつけるのはおかしいですよ」

 最初から戦ってなどいない、とは如何に。
 唖然としながらも、考えを巡らせた。
 一つの考察が浮かんだ。
 それの言葉の意味。それはつまり裏を返せば、戦った事を隠蔽しろ、という事じゃろうか。
 自分達は戦ってなどいないではないか。
 それはつまり、自分を一般生徒だと黙認しなければ、殺す、と。
 未だに万年筆は首許に当てられていた。
 強制をしいる意思を、まざまざと感じ取った。
 選択肢はなかった。わしは無様にも冷汗を流しながら言った。

「そ、そうじゃったな……。
 きみはソウショ?男子……?じゃ!わしが認めるぞい!」
 
 
 氷咲くんは逡巡の後、満足げに笑った。
 ゆっくりと、万年筆を退けていく。
 この騒動を隠蔽する事と、一般生徒だと黙認する事を、認めたからじゃろうと思われた。
 音もなく立ち上がると、床に落ちていた紛失物届けに記入していた。
 わしは情けなくも、座り込んでほっと息を漏らした。
 高畑くんがおらなかったら、冥土行きとなっていたかも知れなかったからじゃ。
 氷咲くんが学生鞄を肩にかけて、声を上げた。

「では、俺は授業にいきます。失礼しました」

 わしも、高畑くんも、唖然とする他なかった。
 なぜならば、授業、そう言った氷咲くんの顔に原因はあった。
 先ほどの愉悦の嘲笑とは一転、一般生徒の笑顔。さながら、花が咲くような爽やかな笑みにしか見えなかったからじゃ。
 こ、これが氷咲くんの持ち得る、トップクラスの擬態とでもいうのか。
 氷咲くんがドアを開こうとしていた。
 わしは呆然としていたが、慌てて言った。
 これだけは聞かなければ、ならないからじゃ。

「氷咲くん。
 最後に聞かせてほしい。
 きみの目的はなんなんじゃ?なにを思いここにいる?」

 氷咲くんの歩みが止まった。
 こちらに背を向けたままで、言った。
 笑みを孕んだ優しげな声音。それが逆に、強い意思が篭った言葉に感じられた。

「言ったでしょう。
 僕は草食系男子ですよ?
 その僕がここにいる目的なんて、勉強をしてサラリーマンになるため以外にありませんよ?」

 さ、サラリーマン。

 愕然とするわし達を残して、氷咲くんは颯爽と去って行った。
 長き間、固まっていたが、なんとか立ち上がると椅子へと腰掛けた。
 高畑くんが苦笑を隠せぬままで、煙草をくわえた。
 吐き出された紫煙が、換気扇に吸い込まれて行く。
 わしは、単刀直入に聞いた。

「なんじゃったんかのう……。
 高畑くんは、どのように思った?」

 高畑くんがもう一度紫煙を吐き出すと、真面目な表情で言った。

「そうですね。
 もう彼の戦法、戦略などはわかっていますから、真正面から戦えば、まず負けないでしょう。
 ですが……あの天才的な擬態と、巧妙な戦略には驚かされてしまいましたね」

「そうじゃのう……。して、危険じゃろうか?」

「その点に関しては、大丈夫だとは思います。
 彼のスタイルは、暗殺タイプで間違いないでしょう。
 あの長年かけて習得しただろう擬態を有効に用いて、相手を油断させる。
 相手から自分に敵意がなくなるその瞬間に、全てを賭ける。
 ハハ……まさに擬態に関してはトップクラスですよ。
 ですが、一つだけ言える事があります。
 それは、彼が学園長を殺せるチャンスはもうこの場だけだったという点です。
 それに彼は、無防備なエヴァにも危害をくわえなかったという一例もあります。
 これは他になにかを隠し持っている可能性がありますが、僕はこう思いました。
 彼の言葉を鵜呑みにすると、本当にサラリーマンになるために勉学に励んでいるのじゃないか、と。
 だから殺さないし、自分を一般生徒として扱え、と」

「わしは、眠れる獅子を起こしてしまったのかもしれんのう……」

 わしを殺せるチャンスとは、物騒な発言をするのう。
 じゃが、わしも概ね同意見じゃった。
 じゃが監視なしとはさすがにできないが、適任がいない。
 高畑くんは実力的に申し分ないのじゃが、仕事があった。
 下手な人物に監視させれば、氷咲くんを怒らせかねんしのう。
 誰か、適任はいないものじゃろうか。
 そう考えた時、脳裏に光明が差した。

「高畑くん。後の事は全て、エヴァに任せるというのはどうじゃろうか?」

 高畑くんが苦笑して言った。

「ハハ……適任、ですね」

「そうじゃろう!
 エヴァは氷咲くんを気に入っておるようじゃしな。
 決まったぞい。これで安心じゃわい」

 独りでに、笑みが浮かび上がった。
 すると、ある疑問が浮かび上がった。
 苦笑を漏らしていた、高畑くんに聞いてみた。

「それはよしとして、高畑くん。ソウなんとか男子とはなんなんじゃ?」

 沈黙が広がって行く。
 高畑くんの口が、静かに開いた。

「……僕に言われてもわかりませんよ」

 辺りに授業を告げる、チャイムが鳴り響いた。
 目配せの後、高畑くんは周囲の見回りに去って行った。
 わしは気を取り直して、お見合い相手探しに勤しんだ。
 夕刻に、予期せぬ来訪者が訪ねて来るまで。
 
 
 
 
 ーその日の幼女吸血鬼さんー
 
 
 
 
 夜分遅く、家にタカミチが訪ねてきた。
 その表情に苦笑が混じっているのを見た後、家に入れと顎をしゃくった。
 リビングに招き入れると、ソファーに座る。テーブルを挟んでタカミチも座った。
 茶々丸が、飲み物を取りにキッチンへと向かった。
 好奇心からか、笑みを持って聞いた。

「で、奴はどうだった?」

 タカミチが苦笑してから、呟いた。

「そうだね。してやられたって感じだね」

「ほう……それで?」

 その後、タカミチが語り出した事の顛末には、腹を抱えて笑わせて貰うことになった。
 なんと小林氷咲は、初見であるのにも関わらず居合い拳を高く跳躍することでかわした。
 その拳圧を蹴ることで虚空瞬動を発動し、反発の速度を利用してじじいに蹴りを入れた。
 それだけでも大笑いと言うのにも関わらず、そのまま馬乗りになった。
 あまつさえ、じじいの首筋に万年筆を押し当てて、人質にとったというのだ。
 怯えきり汗をダラダラと流すじじいに向けて、暗に構うなと言い放ったという。
 二対一の状況という、絶体絶命の境地に置いてだ。
 天才的なまでの擬態を有効に用いて、勝負を一瞬にかけた。
 じじいとタカミチ。二人を相手になお底どころか、欠片さえ見せないのだ。
 その狡猾なまでの策略は、素直に見事と賞賛出来た。
 それにしても、これほど出来る奴だとは思っていなかった。

「ハーハッハッハッ!
 面白い!面白いぞ小林氷咲!」

 タカミチがまた、苦笑して言った。

「笑い事じゃないよ。学園長が殺されかけたんだからね」

「クックックッ……いい様だな。
 じじいには、図に乗っていると痛い目にあうという、いい教訓になっただろう」

「ハハハ……厳しいね。
 それとね、氷咲くんはサラリーマンになりたいそうだよ」

「はあ?」

 目が点になった。
 良く言葉が聞き取れなかった。
 タカミチが、少々、腹が立つ笑みで言った。

「サラリーマンになりたいそうだよ」

 さ、サラリーマンだと……?

「そんなわけあるか!
 どうせ隠れみのにしたいか、お前らを小馬鹿にでもしただけだろう!」

「そうかな?」

「あんな奴がサラリーマンになったら会社が潰れるわ!」

 叫び上げていると、戻ってきた茶々丸がタカミチに一礼した。テーブルの上に置かれたカップに、紅茶を注いでいく。

「ありがとう」

 タカミチは紅茶を一口啜り、珍しく真面目な顔で言った。

「でね。
 学園長が氷咲くんの監視の件は、エヴァに一任したいと言ってるんだけど……どうかな?」

「いきなり話しを変えるな!
 ……まったく。
 とは言え……ほう、この私にか」

 タカミチが静かに頷く。
 逡巡ののち、言った。
 まあ、どの道、小林氷咲は試すつもりであったからいいだろう。

「任せておけ。
 だが……結果、五体不満足となっても知らんぞ?」

「ハハハ……監視なんだけどね。お手柔らかに頼むよ」

 タカミチがカップに入った紅茶を、一気に飲み干した。

「フン。では借り一つだ」

 タカミチは頷くと、去っていった。
 リビングに足早に戻ると、昂揚感を隠せずに呟いた。
 脳裏に、小林氷咲の嘲笑いが浮かんでいた。

「小林氷咲、貴様の悪の本質を見せてもらうぞ。
 私を納得させられるだけの貴様の生き様を。
 証明してみせろ」

 茶々丸が背後で、マスターがどうとか言っていたが無視して、窓の外にある夜空の月を見上げて高笑いした。
 
 
 
 
 ーその頃の不運な少年ー
 
 
 
 
「やはり、風呂上がりには牛乳だよな」

 テーブルの上に放置しておいたコップを手に取った。
 冷蔵庫から、冷えたままの牛乳を直で飲むとお腹を下してしまうからだ。
 だからこそ、風呂の前に牛乳を出して置く事は必須であった。
 なぜならば、それほど俺のお腹は弱いからだ。
 どれくらい弱いかというと、さながら、生後間もない赤ちゃん並と言っても過言ではないだろう。

 牛乳が並々と注がれたコップを口許に傾けた。
 その瞬間だった。
 さながら、太鼓を叩いているかのようなリズムで、波打つように激しい悪寒が体中を駆け巡ったのである。

「ぶほぁ!」

 突然の事に、抗う暇もなく、牛乳を吹き出してしまった。
 床一面、さながら銀世界の様相である。
 その惨事を眺めながら、体を温めようと両手でさすった。

「な、なんだぁ……?今の悪寒は……?
 しいて言うなら…そう、夜空に浮かぶ月を見上げて、何者かが厨二病的なことを叫んでいるような気が……。
 しかもなぜか、俺へと向かって…」

 しかし、さすがにそれはないだろう。
 全くその人物に思いあたらないし、現実的ではない。
 自らの妄言に、苦笑せざるを得なかった。
 深呼吸して気を取り直すと、一面の銀世界の掃除に取り掛かった。



[43591] 死神と恋愛とストーカーと——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:17
—ヒサキside—
 
 
 
 
 ひび割れたアスファルトから、蒲公英が雄々しくも頭を出していた。
 涼しい風が吹き、前髪を優しく揺らした。
 町並みが、騒々しかった。
 制服姿の生徒が笑いあい、商店街へと向かうはずの主婦が井戸端会議を開いていた。
 二車線道路には猛スピードで走っていく一人暴走族。なぜか公道を自転車で走る名物オヤジまでいた。
 普段は鋭い視線を向けてしまう仲睦まじい恋人達。
 いつ如何なるときも目を逸らすことが必要である、額に剃り込みが入った強面のオジサン。

 現在、地球の全ての人たちに声高らかに言いたい。 
 みんな!幸せになってもいいんだよぉ!

 有頂天であった。
 ならばなぜ有頂天なのであろうか。
 その理由は言ってしまえば簡単である。
 エヴァンジェリンさんの監視と思われた謎の違和感が消えたのであった。
 それは彼女が監視を止めたということを示しているのだ。
 人の目を心がけ、情けなくも友人たちの後ろを金魚の糞のようにくっついていく。
 正体を明かさないため、尊敬する学園長たちに嘘をついてまで正体を話さなかった。

 それが実ったのだ。
 自らの頑張りが、最上級の結果を弾き出した。
 それは、自由。
 それは、開放感。 
 優しく可愛らしく、まるで宇宙のように広大な器量を持つエヴァンジェリンさん。
 あんなに小馬鹿にしてしまった愚かな俺を、彼女は深い懐で許してくれたのだ。
 有り難い、ことです。
 心の中のミニヒサキは、まさに涙が大洪水な有様であった。
 日々の日課であった散歩が気軽に行える。
 一人きりの時間が過ごせる。
 それがどれほど幸せな一時であったか。
 まさに、俺は実感していた。

 歩道橋を一歩一歩、噛み締めるように上っていく。
 階下から上がってくる排気ガスでさえ、いまの俺には素敵なガスに思えた。
 ふと前方を見遣ると、歩道橋を下っていく集団が不思議なことをしていた。 
 前を行くのは不思議な耳飾りをつけた中等部の女生徒だ。
 それをなぜか、スーツを着た少年と鈴の髪飾りをつけた女子生徒が尾行していた。

 あれは間違いない。
 スパイごっこだな。
 俺もよくやったよ。
 一流のスパイを気取ってね。

 大人ぶってスーツなんかを着ているが、まだまだ遊びたい盛りなんだろうな。
 鈴の髪飾りの少女も割とノリノリだなぁ。
 電信柱や看板に隠れる姿は見ていて滑稽である。苦笑を隠すことができない。

 違う違う!
 それではばれるぞ!

 集団を尾行することで一流のスパイの行動を示してあげよう。
 半笑いで路地を折れ、人気のない地帯を隠れながら進む。 
 そんな不毛なことをしていると終着地点に着いたようだ。
 耳飾りの少女が古ぼけた広場に入っていく。
 少年と髪飾りの少女も、程なくして広場に入って行った。

 まさしく俺は一流のスパイのようだ。
 一度も気取られることなく、広場を覗き見る。
 するとそこには大勢の野良猫が集まっていた。
 耳飾りの少女がその場にしゃがみ込み、缶詰らしき餌を与えていた。
 なんという優しい少女だ。
 素敵、すぎる。
 少年と髪飾りの少女はスパイごっこを止めたようで、耳飾りの少女に近づいていく。
 一緒に猫に餌でも与えるのだろう。
 素晴らしき若者たちである。

 これは良いものを見た。 
 尾行してきて正解であった。
 感動しながらこの場を去ろうと振り返ると、俺は情けなくも声を上げた。

「うお!」

 いつの間にか右肩に腰掛けていたのである。
 漆黒のローブを頭から羽織り、銀色の鎌を携えこちらに愉悦の笑みを向ける天敵。
 それは腐れ縁と呼ぶのが相応しい、手乗りサイズの死神であった。
 ため息と同時に、頭に鈍痛が響いた。
 エヴァンジェリンさんの監視が解けたと、安易にはしゃいでいたのが馬鹿みたいではないか。

 そうだよな。
 こいつがいたんだよな。

 長らく姿を見せなかったため、都合の悪い記憶は消していたようであった。 
 慣れているためさほど恐怖心はないし、極力肩を見ないようにするという対処法はある。
 しかし再度死神にとり憑かれるということは、まるで湯水のように不幸が湧きだしてくるのではないだろうか。
 それは余りにも御免被りたかった。
 そうなるくらいなら、一生スキンヘッドでも構わないという自負があるほどであった。

 うん。
 取り合えず話し合いから始めてみよう。

 さすがに肩に話しかける変人に見られたくはないため、少し離れたところの物陰に隠れた。
 意を決して話しかけた。

「あのー。
 すいませんがお帰り願えませんかね。はは」 

 笑みでごまかしながら言ってみるが沈黙。
 聞こえていないかのように振る舞う死神。

「すいませーん」

「ケケケケケ」

「うお!」

 死神が唐突に笑い、俺は身体をのけ反らせた。
 全く持ってこいつには困ったものである。
 するとそのとき、あることに気付いた。
 死神の笑い声の響きに、意思が感じられたのだ。その上、への字に曲がった口許からもそれは感じとれた。
 死神は俺に対し、なんらかのことをやりたいのだと。
 それは即座に丁重にお断りすることは断定だが、この状況はなんなのだろうか。
 出会ってから現在まで、そんなことは一度もなかったはずだ。  いなくなっている期間に、パワーアップでもしたのだろうか。
 謎は尽きないが、取り合えずお断りしよう。

「申し訳ないが、その頼みは聞けない」

「ケケケケケ」

「頼みは聞けないんだ」

「ケケケケケ」

「いや頼」

「ケケケケケ」

 長く長い、沈黙が辺りに広がっていく。
 うん。
 聞き入れては貰えないようである。
 それから幾度となく断ろうとも、結果は惨敗であった。
 死神はまるでなにかにとり憑かれているかのように、意思を示してくるのだ。
 まあとり憑かれているのは俺の方なのだが。 
 無視をし続けるという選択肢もあるにはあるのだが、どうせこの忌ま忌ましくも傍若無人な死神から逃れることはできないのだ。
 大方、こいつの意思を尊重するまで、一昼夜として笑い声が響き続けることは容易に考えついた。
 そんな安息とは無縁の、おぞけに満ちた日々には、どんな強者でも終には発狂してしまうであろう。
 泣く泣く、投げやりな態度で言った。

「はいはい。
 思う存分やってくれよ」

 死神は満足げに笑い、なにか物を出せという強制的な命令が受信できた。
 深くため息をつき、胸元から黒色の万年筆を取り出した瞬間であった。
 突如として、紫紺の煙が全身を覆い込んだのだ。 
 なす術なく固まっていると、日差しと共に煙が晴れた。
 自らの身体を心配し見遣ると、愕然とすることになった。
 さながら顎が外れそうなほどの驚きとはこのことだろうか。
 服装が突如として、変化していたのである。
 さながら変身して悪者と戦うヒーローのように。
 唖然としながらも確認すると、制服が漆黒のローブに、万年筆が大きな鎌に変わっていた。
 なにやら身体中から紫紺の霧みたいなものまで放っていた。

 どういう事なのだろうか。
 銀色の刃に怯えながら思考に没頭した。
 どう考えても死神の仕業なのは明白である。
 それは死神の格好と俺の格好が類似しているからだ。 
 いや、無駄な考察は終わりにしよう。
 死神などという、非科学的な存在に常識を照らし合わせることは愚かである。
 吸血鬼は試験官から突風を起こせることができた。
 死神は人の服装を変化させることができた。
 不思議ではあるが、納得できないこともない。

 というか、というかである。
 この鎌の刃は長すぎるのではないか。
 刃渡りが百センチほどを有に越えているように思えた。
 脳裏にある言葉が過ぎった。
 銃刀法違反、である。
 おいおいおいおい!
 逮捕されちゃうよ逮捕!
 投げ捨てようとするが、鎌を握る右の掌がピクリとも開かない。
 まるでそこだけ金縛りに遭っているようであった。 
 これも死神の仕業か。
 それはこいつの愉悦の笑みが物語っていた。

 なんとしても早急にこの状況を脱しなければならない。
 物陰に隠れていたことが、唯一の幸運だったと言えよう。
 死神に懇願するように言った。
「早く戻してくれ!」

 死神はこちらを見つめたまま身動きを取らない。
 完全なる無視であった。
 狼狽しながらも懇願した。

「も、戻してくれって!
 捕まったらサラリーマンになるどころか退学になるよ!
 俺は将来、外資系サラリーマンになって世界に飛ぶ」

 外資系サラリーマンになって世界に飛ぶんだよ。
 と言うことはできなかった。
 唐突にも、空中に身体が浮上したのである。
 太陽へ目指せと言わないばかりに、速度が急上昇していく。
 見る見る内に町並みが遠ざかっていく。

 なに!?
 なんなの!?
 死神さん、なんすかこれ!?
 なんとかして下さいよ!

 死神は満足げな表情をするだけであった。
 さほど風圧を感じないのが救いであった。
 厨ニと言う病名で即座に入院できるであろう服装と、身体から意味不明にも立ち上る紫紺の霧のお陰であろうか。

 しかしこれはまずい!
 この際死神は無視しよう!
 どうしてこうなった!
 考えろ!考えろ俺!

 このままでは大気圏に突入して瞬く間に消し炭にされてしまうであろう。 
 なぜこのような状況に陥っているのだろうか。
 なにか、事の発端があるはずであった。

 焦り狂う思考を整えると、光明が差した。
 外資系サラリーマンになって世界に飛ぶんだよ。
 そう言おうとしたら浮かび上がったのだ。
 飛ぶ。
 これがキーワードなのではないか。

 正解であった。
 また飛ぶというキーワードを念じてみると、如実に上昇する速度が上がったのだ。
 全く持って理解などできないが、こんなとち狂った事態に原理などを求めてはいけない。
 この死神姿に変化すると、念じるだけで飛べるようになる。
 この結果だけ覚えていればそれでいいのだ。
 ならば行うことは一つだ。 
 飛ぶ、それの反対の言葉を念じれば問題は解決するはずである。 落ちろ!
 落ちてくれ! 
 焦燥心を留めながら念じると、ゆっくりと降下し始めた。
 しかし、助かったと深い安堵の息を漏らした瞬間であった。
 唐突にも、降下速度が急激になったのである。

 いかんいかんいかんいかん!

 これでは降下ではなく、落下である。
 まさしく、紐無しバンジージャンプをする自殺者の如き無謀さであった。
 見る見る内に、町並みが大きくなっていく。
 優しき若者たちが猫とじゃれあう広場へと落下していく。
 このままでは待ちうけるものは確実なる死、である。
 背筋に冷たいものが走りながらも念じた。 

 飛べぇ!
 これで事なきを得る、そうなるはずであった。
 しかし、浮上するはずの身体は落下し続けていた。
 速度が徐々に落ちていることは感じられるが、如何せんこれでは間に合わない。
 現状では、今生との別れを告げなければならなくなるのは明白であった。

 飛んで飛んで飛んで飛んで!
 焦燥心に後押しされて、強く念じ続ける。
 そんな俺を嘲笑うかのように、またしてもある問題が発生してしまった。
 落下する方向的に、おませなスーツ姿の少年が立っているのである。
 このままではあの無防備な頭頂部を踏み付けて、共に黄泉の国へと旅行する仲になってしまうであろう。 
 飛べ飛べ!飛べ!
 あー!少年避けてぇー!

 簡単に言うなら、間に合った。
 間に合ったには間に合った。
 俺だけ、ならばだが。
 少年の頭頂部に、無情にも靴の裏が突き刺さった。
 まさにプロレスラー顔負けの見事なドロップキックであった。
 少年は情けない声を上げて転がっていき、その反動で浮上することができたのだ。
 それにしても俺の膝はどういう形状をしているのであろうか。
 一般的な膝であれば、間違いなく粉砕骨折は免れない。
 この変身が、何らかの力を与えてでもいるのだろうか。

 その後、四苦八苦しながらも上空で静止することだけには成功した。
 そうなのだ。 
 止まれと念じれば良かっただけなのである。
 逆さまでの静止が少々気に食わないが、またなにかを念じたりするると先ほどの二の舞の可能性が極めて高い。
 些細なことなど気にしては入られない状況であった。

 広場を見遣って、安堵した。
 少年はあの衝撃を受けてなお生きていたのだ。
 自らで立ち上がり、軽く頭をさすっているだけである。
 なんという頭蓋骨。
 チタンかなにかでできているのではないだろうか。
 下手をすると殺人犯になっていただろう。
 顔が引きつった。
 心に住むミニヒサキが狼狽しながら少年に合掌していた。

 少年が辺りをキョロキョロと見回してこちらを捉えた。 
 遠く声は届かないため、苦笑しながら右手で遺憾の意を表した。
 鎌を握ったままであったことに気づき、左手に変えようとしたときであった。

 それは唐突に。
 それは突然に。
 女神と思わしき少女と出会ったのである。

 それは先程、猫に餌を与えていた耳飾りの少女であった。
 先ほどは後ろ姿のため、顔の造形などは見られなかった。
 まさか、こんなにも美しい少女がいるとは。
 長い髪の毛がさらさらと風に舞い踊り、聡明さを感じさせる無機質な瞳はまるで硝子細工を彷彿とさせた。
 彼女は背中からの噴射で浮上しているようだった。
 草食系男子の俺でも、空中に逆さまで静止しているのだ。
 なんら不思議ではない。
 いやそれさえ、彼女の美しさの糧となりえていた。

 心臓が高鳴った。
 身体中の血液の脈打ちを、明確に感じた。
 この昂揚した気持ちはなんなのだろうか。
 程なくして、結論がついた。
 これは恋というものであり、一種の一目惚れというものであると容易く考えられた。
 上空での出会い。
 なんというロマンチックな出会い方であろうか。
 まさしく運命。
 そうこの出会いは運命によって定められていたのだ。
 惚けていると、少女が口を開いた。
 その声音は、さながら花の妖精を感じさせた。

「なぜ助けてくれたのですか?」
 意味不明な言葉に、頭を悩ませた。

 助けたとは、一体。
 俺が、彼女をなにかから助けたとでもいうのだろうか。
 見当がつかなかった。
 彼女の、勘違いではないだろうか。
 悩んでいると、少女が言った。

「その御召し物、お似合いですね」

 そのとき俺は、初めて死神に感謝した。
 厨二病臭い服装だと恥ずかしがっていたが、少女にはお気にめしたようなのだ。
 死神も肩に腰掛けたまま小刻みに笑ってくれていた。
 心で小躍りしていると、少女が言った。

「ありがとうございました。それでは」

 少女が去ろうとしている。
 これは、精一杯の勇気を振り絞らなければならない。

「名前は?」 

 ゆっくりと振り返ると、答えた。

「絡繰茶々丸です。
 それでは小林氷咲さま、失礼いたします」

 絡繰茶々丸。
 なんという愛らしい名前だろうか。
 一風してはいるが、古式ゆかしい素敵な名前であった。
 それにしてもなぜ俺の名前を知っているのだろうか。
 わからない。
 わからないが、純粋に嬉しかった。

 茶々丸さんが、空の向こうへと去っていく。
 そんな姿もお美しい。
 長らく目で追った。
 その姿が消えてなお、そちらの方向を見つめていた。
 しかし、このまま綺麗には終わらないようである。
 満足して帰ろうとすると、思いだしたのだ。
 空中に逆さまで静止しているというこのふざけた現状を。 
 これをどう打開すればいいのだろうか。
 いい加減、頭に血が上ってきていた。
 茶々丸さんと出会えたゆえなのか、直ぐに思い浮かぶことができた。
 先ほどは落ちろ、などと念じたから落下したのである。
 着地と念じればいい。
 凄まじい速さで振り回された挙句ではあるが、無事に着地することに成功した。

 人生初の空中旅行から生還した俺は、それにしても素敵であったと惚けていると、前方に少女の姿を捉えた。
 建物に隠れるように立ちながら、なにかを探しているのか挙動不審な動きをしていた。
 中等部の制服を着て、髪をサイドに上げている。
 肩に長めの棒らしきものを掛けていた。袋に包まれているところから木刀かなにかだろう。
 視線は辺りをさまよい、やはりなにかを探しているようだ。
 見つめる先を辿っていくと、先ほど俺と茶々丸さんが楽しく語らっていた上空であった。
 なぜそんなところを見ているのであろうか。
 俺に見られるような理由は皆無である。
 ならば茶々丸さんを見ていたのであろう。

 茶々丸さんも少女も、中等部であることから友人なのかもしれない。
 茶々丸さんが空に消えてしまったため、探しているのだろう。
 それにしても、不思議な点があった。
 なぜこの少女はこんなにも焦っているのだろうか。
 これではまるでストーカーのそれではないか。 
 そこで一つの考えが生まれた。
 それは茶々丸さんが言った言葉からであった。

 なぜ助けてくれたのですか?
 俺には、茶々丸さんを助けた覚えはない。
 だがしかし、偶然的にそれを起こしていたとしたならばどうだろうか。
 それはつまり、こういうことである。
 茶々丸さんはこの少女からストーカーの被害に遭っていた。
 先ほどの広場でもストーキングは実行されており、茶々丸さんは逃げるタイミングを計っていたのである。
 そこに俺が少年にドロップキックを打ち込むという騒動を起こした。
 彼女はその隙をついて、空へと離脱。
 それを俺が助けたと勘違いしているのではないか。 
 それならば話は繋がるし、可能性は極めて高く思えた。 
 ならば俺ができること、いやしなければならないことはただ一つである。

 女性と女性のアブノーマルな関係が悪いとは言わない。
 しかし、ストーカー行為は法で罰っせられている。
 その上相手は愛しの茶々丸さんである。
 これはなんとしても、説得しストーカー行為を止めて貰わなければならない。
 木刀らしきものを携えているため、彼女は剣道部員の可能性が高い。
 少女とはいえ、俺が剣道部員に勝つことは不可能に近い。
 だが、これは説得だ。
 喧嘩、などではない。
 話し合いなのだ。 
 しかし、説得の途中にでも木刀で殴られては、俺の命運は尽きてしまうだろう。
 まず木刀を手放して貰わなければならない。
 深呼吸をした。
 怯える身体を叱咤して、少女に気取られないようゆっくりと近づいていく。
 そして、素早く木刀を奪い盗った。

「なんだ!?」

 少女が唐突に振り返った。
 視線がこちらを捉えて、固まった。

「い、いつの間に……」

 呆然とする少女に、俺は爽やかな笑顔を返した。
 話し合いには笑顔が必須であるからだ。
 敵意はないと、示す必要性があった。

「きさま…!夕凪を返せ!」 

 少女が激昂した。
 余りの剣幕に少々怯えてしまったが、エヴァンジェリンさんの剣幕に比べれば児戯に等しい。
 それにしても、ゆうなぎとは一体。
 この木刀の、名前かなにかだろうか。
 それにしてもこの怒り方は尋常ではない。
 こんな状況では、説得も糞もないではないか。
 説得とは相手を信じることにあると本で読んだことがある。

 そうだ。
 ストーカーとはいえ、まだ中等部の少女である。
 茶々丸さんが美しすぎるゆえ、こんな凶行に走ってしまったのだろう。
 それは十分に理解できた。
 あれほどの可憐さである。
 それも仕方のないこと。悪いのは神様と言えよう。
 彼女も可哀相な娘なのだ。 
 俺はしみじみと夕凪を返そうと差し出した。
 信じることにしたのだ。
 吸血鬼のエヴァンジェリンさんでさえわかりあえた。
 ならば彼女ともわかりあえるであろう。
 なぜか少女は夕凪を見つめたまま固まってしまった。
 彼女は逡巡ののち、怖ず怖ずと夕凪に触れた。
 そのとき俺は応援を笑顔に表現して言った。

「大丈夫だよ」

「ぐっ……!」

 少女は夕凪を引ったくるように奪うと、鞘から刃を抜いた。
 目を見開かざるを得なかった。
 なんとそれは木刀などではなく、刀であったのだ。
 平和であるはずの麻帆良学園に不釣り合いな刀。
 まるで鬼のような形相でこちらに刀を構える姿は、まさしくヤンデレであった。 
 こ、ここまで思い詰めていたとは……。
 直ぐに理解できた。
 少女は茶々丸さんが手に入らないのならば、この刀の錆にし自らも命を断とうしていたのだ。
 それは彼女の狂気じみた表情から伺いしれた。
 これが悲しくなくてなにが悲しいというのだろうか。
 全力で、止めなければならない。
 まだきみには、何十年という将来が待っているんだよ。
 大丈夫。
 人をそこまで愛せるのだ。
 方向性を変えてあげれば、必ず幸せな未来を築けるはずだ。
 内心、真剣の輝きに恐れ戦いてはいたが、意を決して無理矢理爽やかな笑顔をつくった。 

「きみにも、大切な人がいるだろう?
 きみが死を選ぶというのなら、その人は悲しみを背負って生きていくことになる」

 そうだ。
 家族に友人、優しき茶々丸さんも悲しむだろう。
 それらの人は、死の十字架を背負うことになる。
 少女が顔をしかめた。
 程なくして憑きものが取れたようにがっくりと肩を落とした。
 優しい笑顔を心がけてさとしていく。

「刀はなんのためにある?」 
 少女が、暗い顔を上げた。

「守るためだろう?」

 そう、武器は守るために扱うものだ。
 間違っても自己の私欲で、扱ってはならない。

「……はい」 

 やはり良い娘のようだ。
 反省してくれたのだろう。刃を鞘に、静かに納めていく。

「守るためだけに、その刀を抜くべきだ。
 その相手は自分ではない」

 そう、少女が、少女自身に振るうべきではないのだ。
 少女が、感慨深げに頷いた。

「あなたは…それを教えたかったのですね」

 人間同士、話せばわかりあえるのだ。
 そこに、種族の壁などはないように思えた。
 少女が、噛み締めるように呟いた。

「守るために」

 満足げに頷くと、少女が慌てて頭を下げた。

「遅れてすみません。私は桜咲刹那と言います」

「構わないよ。
 俺は小林氷咲。またなにか悩むことがあったら相談してくれて構わない」 

 共に茶々丸さんを愛する者同士、正々堂々と戦おうではないか。

「はい。
 小林さんのお言葉、しかと心に留めさせていただきます。ありがとうございました」

 素晴らしい。
 素晴らしいよ。
 愛ってなんて素晴らしいのだろうか。
 上機嫌で頷いた。

「共に前を」

 共に前を向いて生きて行こう。
 そうは、言えなかった。
 忘れていたのだ。
 まだ変身していたことに。
 そのまま俺は、前方へと凄まじい速度で飛んで行った。



[43591] 死神と恋愛とストーカーと——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:18
—絡繰茶々丸side—
 
 
 
 
 古ぼけた広場で無数の猫が、美味しそうに餌を食べる鳴き声が響いています。
 取り合いすることなく、仲良くしています。
 青空は吹き抜けるように青く、平和な一時であると言えます。
 しかし、そんな折のことでした。
 二人の闖入者が現れたのは。

「こんにちは。ネギ先生、神楽坂さん。
 油断しました。でもお相手はします」

 マスターに言付けられてはいました。
 私と離れる際はネギに気をつけるように、と。
 しかし私は猫に餌を与えるという行為を無視することができませんでした。
 これは油断から発生した過ちなのでしょうか。
 立ち上がり、相対する二人を見つめました。

「茶々丸さん…あの、僕を狙うのは止めて頂けませんか」

 ネギ先生は敵対しているというのにも関わらず、申し訳なさそうに言ってきました。
 神楽坂さんも同様のようで、顔をしかめていました。

「申し訳ありません。ネギ先生。
 私にとって、マスターの命令は絶対ですので」

 そう答えると、オコジョ妖精と思われる生物が物陰に隠れたまま叫びました。

「アニキー!相手はロボッすよー!
 手加減はなしですぜ!」

 ネギ先生は逡巡の後、意を決したように行動しました。
 瞳からは、並々ならぬ決意が見えました。

「行きます…!
 ネギの従者(ミニストラ・ネギィ)神楽坂明日菜」

 神楽坂さんの身体が微かに明滅して、それを合図に突撃してきました。
 その動きは速く、魔力供給を受けているようです。
 直ぐに肉薄し、神楽坂さんの迫りくる右手を左手で払います。
 しかし、それはフェイントでした。
 そのまま左手の人差し指で額を小突かれました。

 速い、素人とは思えない動き……。

 私の体勢が崩れたのを神楽坂さんは確認し、素早くその場を離脱しました。
 前方。ネギ先生の身体の周りに九つの光弾が発生しているのを確認しました。
 そのとき、神楽坂さんの行動全てがフェイントであったのだと理解しました。

 ネギ先生の小柄な身体に、魔力が満ちていきます。
 回避不能。回避不能。
 私の背後には猫がいます。
 回避すると、被害はそちらに向かってしまいます。
 回避は、できません。
 私はガイノイドです。代わりはいます。

「魔法の射手(サギタ・マギカ)!
 連弾(セリエス)光の9矢(ルーキス)!」

 ですが……一つだけお願いさせて貰えないでしょうか。

「すみませんマスター。もし私が動かなくなったら猫の餌を……」

 しかしその願いは、意味のなさないものになりました。
 なぜなら私が壊れることはなかったからです。
 九つの光弾が、私の身体に降り注ぐ未来は変えられました。
 突如、上空から落下してきた紫色のなにかによって。
 それはネギ先生の頭頂部目掛けて、風切り音を響かせながら落下してきたのです。
 その余りの速度による威力で、ネギ先生はくぐもった声を上げて転がって行きました。
 紫色のなにかはまた上空へと舞い上がりました。
 光弾はコントロールを失い、空の彼方へと消えました。

「ちょ!ネギー!」

「あ、アニキー!」

 神楽坂さんとオコジョ妖精が、慌てて介抱に向かいました。
 目を回しているネギ先生を、強く揺らしていました。
 空を眺めると、紫色のなにかは上空で静止していました。
 それは人間でした。
 黒色のローブをなびかせ、大きな鎌を携えています。
 身体から紫色の霧を放つその姿は、まるで死神のようでした。
 注視して確認しました。
 フードに顔が隠れてはいますが、それはマスターの興味のある獲物リストに名を連ねていた小林氷咲様でした。

 どうしてでしょうか。
 不思議に思いました。
 マスターと小林氷咲様は敵対しています。
 それはつまり私とも敵対しているということです。
 なのにどうして、ガイノイドである私を助けてくれたのでしょうか。
 マスターが言っていた「気まぐれ」と言う感情からでしょうか。

 この機会を逃さずに、上空へと離脱しました。
 小林氷咲様の下へと向かいました。
 即座にマスターの下へと帰るべきでしょうが、お礼をしなければなりません。
 先ほどは猫を庇ったために後れを取りましたが、現在の状況ではネギ先生たちに後れを取るつもりはありません。
 程なくしてたどり着き、小林氷咲様に尋ねました。

「なぜ助けてくれたのですか?」

 小林氷咲様が顔をしかめ、黙り込みました。
 その問いには答えて貰えないようです。
 しかし必然的、偶然的だろうと、彼が私を助けたことは変えられない事実です。
 「気まぐれ」だろうと、それは「優しさ」、からくる行動ではないでしょうか。
 観察していると、困惑した表情が見受けられました。
 それは人助けをしたことによる「照れ」なのではないかと思えました。
 人間には、お礼を言われるのを恥ずかしがる者もいると聞いていましたから。

 そのとき、ある感情が浮かび上がりました。
 猫に餌を与えるときに現れる感情と同様の、「可愛い」というものでした。
 それは小林氷咲様の不器用さから作用した感情、なのだと思われました。
 恩人を困惑させたくはないため、話しを変えました。

「その御召し物、お似合いですね」

 お世辞ではありません。
 そう思いました。
 その服装は、マスターに近い雰囲気を孕んでいるからだと思えました。
 小林氷咲様は、さも嬉しそうに笑みを浮かべました。
 まるで無邪気な子供のようで素敵に思えました。

 長らく会話をしていたくはありましたが、ネギ先生たちがまた襲ってくるかも知れません。
 そうなると小林氷咲様にご迷惑がかります。

「ありがとうございました。それでは」

 深く、一礼しました。
 足早にこの場を去ろうとすると、背後から声が届きました。

「名前は?」

 私の中に、不思議な感情が生まれました。
 どうしてか、「嬉しい」という感情のように思えました。
 それは人間ではない私の名前を聞くという行為に、作用していると思われました。
 振り返り、言いました。

「絡繰茶々丸です。
 それでは小林氷咲さま、失礼いたします」

 また、一礼して、帰路につきました。
 途中で、マスターが言っていたことを思いだしました。
 奴はまだまだ、なにかを隠しているはずだ、と。
 それがあの死神のような服装なのでしょうか。
 私は無傷のためネギ先生たちにご迷惑はかからないでしょうし、後ほどマスターに報告してみましょう。
 大変、喜んでくれるように思えます。

 それにしても、小林氷咲様はどうして逆さまで静止していたのでしょうか。 
 
 
 
 
 —ネギside—
 
 
 
 
 アスナさんが茶々丸さんの体勢を崩しました。
 あとは僕が、魔法の射手を撃ち込めば勝負が決まります。
 カモくんは、敵に容赦をするなと言いました。
 アスナさんは、僕が行うことに付き合うと言ってくれました。
 後押しされて、僕は教え子である茶々丸さんを倒そうとしています。

 しかしそれは、本当に正しいことなのでしょうか。
 お父さんのような偉大なる魔法使い(マギステルマギ)に恥じない行いなのでしょうか。
 わかりません。
 わかりませんが、倒さなければ僕が倒される。
 九つの光の矢が、身体の周りに点在しています。
 それらを放つために、僕は叫びました。

「魔法の射手(サギタ・マギカ)!
 連弾(セリエス)光の9矢(ルーキス)!」

 放たれようとする最中、茶々丸さんの姿を見たときでした。
 間違いに気付いたんです。
 こんなのは。
 こんなのは僕が目指す、偉大なる魔法使い(マギステルマギ)なんかじゃないって。
 直ぐに、発動を止めようとしました。
 しかし、それは叶いませんでした。

 次の瞬間、僕は頭頂部になんらかの衝撃を受けたんです。
 それにより情けない声を上げて転がされました。
 障壁を張っていたため、さほどダメージはありません。
 しかし余りに唐突であったため、意識が混濁してしまいました。

 な、なにが起こったの…。

「ちょ!ネギー!」

「あ、アニキー!」

 心配そうな声と共に、強く身体を揺すられました。
 アスナさんに抱えられ、徐々に意識は覚醒していきました。
 そこで、あることを思い出しました。

「ち、茶々丸さんは!?」

 慌てて身体を起こし、辺りを探しました。
 魔法の射手の発動は止められなかったはずです。
 それが茶々丸さんに当たっていたとしたら。
 顔面が蒼白になっていきました。
 探しても、探しても茶々丸さんはいません。
 僕は泣きそうになりながら、アスナさんを見つめました。

「ネギ、大丈夫よ。
 茶々丸さんはあそこよ」

 アスナさんが指差した方向を見て安心しました。
 上空に飛んでいく茶々丸さんを発見できたんです。
 本当に良かった。
 それと同時に不思議に思いました。
 僕はどうして吹き飛ばされたんでしょう。
 誰かに攻撃されたのはわかるんですが、茶々丸さんは攻撃できなかったはずです。
 アスナさんとカモくんが怯えた表情である一点を見つめていました。

「な、なんなのよあれは!」

「ヒィー……!し、死神だぁー!死神が命をとりにきたんだー!」

 死神とは、なんでしょうか。
 視線を辿ると、全身の血の気が引いていきました。
 上空にいたんです。
 蒼い空に不釣り合いな死神が、そこに。
 上下逆さまに静止し、漆黒のローブを頭まですっぽりと被り、大きな鎌を携えていました。
 身体中から紫色のオーラを放っていました。
 カモくんが怯えたのか、僕の懐に入り込みました。

「ぼ、僕が、教え子を倒そうなんて悪いことしたから死神が命をとりにきたんだ……」

 怯えながら呟きました。
 アスナさんが勢いよく反論しました。

「ば、バカ言ってんじゃないわよ!
 それだったら私とカモもそうじゃない!」

 ですが、アスナさんも怯えている事は明白と言えました。
 顔の筋肉が、ピクピクと引き攣っていたんです。

「に、逃げましょうアスナさん!」

「そ、そうね……」

 そんな挙動を察知したのか、死神が逃がさないとばかりに鎌を振るう所作をしました。
 口許には愉悦の笑みが張り付き、さながらそれは死の宣告のように思えました。
 心の芯に深々と、鋭利な角度で突き刺さりました。
 余りの恐怖心故に、身体が固まってしまいました。
 アスナさんも同様のようで、固まっていました。
 僕の首が鎌で落とされ、鮮血が噴き出すイメージが、脳裏に浮かび上がりました。

 もうだめだ……。
 僕は悪いことをした……。
 死神さんはそれを怒っているんだ……。

 諦めかけたとき、それをある人物が救ってくれました。
 それは先ほど酷いことをしてしまった茶々丸さんでした。
 茶々丸さんは死神に何か語りかけているようでした。
 一瞬、僕たちから視線が外れました。
 アスナさんが慌てて僕を抱え上げて走り出しました。

「逃げるわよネギ!」

「で、でも茶々丸さんが!」

 茶々丸さんが、未だに残っているんです。

「だ、大丈夫よ!
 仲良さそうだったし!
 エヴァンジェリンは吸血鬼なんだから、死神の知り合いがいてもおかしくないでしょ!」

「ほ、本当ですか?」

 仲良さそうには到底思えませんが、エヴァンジェリンさんの知り合いという言葉にはなんとなく納得できました。
 茶々丸さんの危機に、仲間である死神が助けにきたと考えれば辻褄はあいます。

「で、でもそれならもっとまずいんじゃ……!」

「な、なにがよ!」

「茶々丸さん襲撃の報復に……吸血鬼のエヴァンジェリンさんと、仲間の死神さんがくると言うことになるんじゃ……!」

 アスナさんが固まりました。
 カモくんは懐でブルブルと震えています。
 最悪な結果に陥りました。
 どうしてこんな結末になったんだろう。
 アスナさんや、カモくんにまで迷惑をかけてしまいました。

 もう……ウェールズに帰りたいよお姉ちゃん、アーニャ……。

 心の呟きは風の音に消え、不安ばかりが増して行きました。
 目をつむると、逆さまに止まった死神さんの愉悦の笑みが浮かび上がりました。 
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 気配を消して、ある人物を監視していた。
 麻帆良学園、男子高等部一年生。
 名前、小林氷咲。
 魔力と気の量も一般的。筋肉の量も一般的。
 戦う者の風体には、到底見えない男子生徒。

 しかし、彼と接触した麻帆良学園の重鎮たちは、口を揃えて賛美をした。
 学園長曰く、極力、手を結びたいほどの実力者。
 高畑先生曰く、トップクラスの擬態の天才。
 エヴァンジェリンさん曰く、興味を抱くほどの戦略家。

 事の発端は先日だった。
 朝倉和美の写真にて、知ることになった。
 彼女は、教室で学園長に呼ばれたという男子生徒の噂話をしていた。
 あることから興味を引くことになった。
 エヴァンジェリンさんが、愉しそうに笑いながら一枚くれとその輪に割って入ったのだ。
 あのエヴァンジェリンさんが興味を抱くほどの相手。
 木乃香お嬢様をお守りするためだけにいまの私は在る。
 不安点は早々に解決したい。
 そう言った意思から、エヴァンジェリンさんに話しを聞こうとしたが既にその姿はなかった。
 そのため、学園長に会いに行くことになった。

 学園長室の扉にノックをしようとしたとき、扉の向こうで高畑先生のものらしき殺気を感じた。
 敵襲かとも思えたが、あの高畑先生が後れを取るとは思えない。 私は気取られぬよう覗いた。
 いざという時には、奇襲できるようという配慮だった。
 室内で行われた騒動には、素直に驚愕したと言える。
 写真の男子生徒が学園長に馬乗りになり、高畑先生が唖然としていたのだ。
 この二人を相手にして、このような行動を起こせる者は知りうる限り存在しない。
 やはりあのエヴァンジェリンさんが興味を抱くほどの実力者なのか。
 その事実に固まっている間に騒動は終わっていた。
 男子生徒が扉に近づいてきたためその場を離れた。

 夕方になり、学園長を訪ねて質問をしてみた。
 学園長は危険だと口ごもったがなんとか説得して話を聞いた。
 名前は小林氷咲。
 巧妙な擬態を持つ実力者で、エヴァンジェリンさんとも対等に渡り合ったと言っていた。
 学園長の見解では、敵視や正体を明かさなければ無害であるとのことだった。
 エヴァンジェリンさんに監視を頼んだので、きみは関わってはいけないと言われた。
 執拗なまでに関わるなと言われたが、私は行動した。
 エヴァンジェリンさんに任せられない訳ではない。
 私自身が、小林氷咲と言う人物を見極めたかったからだ。
 木乃香お嬢様へ、その途方もない実力の一端が向かうことのないように。

 ここ数日と同じように、小林氷咲の風体は一般生徒のそれだった。
 街中を歩く様は、散歩を楽しむ好青年に見えた。
 しかし彼は擬態の天才。
 油断はできない。
 少しして、挙動がおかしいことに気づいた。
 私がそうしているように、小林氷咲も気配を消しながら誰かを尾行しているようだった。
 注視してみると、不思議なことが起こっていた。
 私が小林氷咲を尾行し、小林氷咲はネギ先生と神楽坂明日菜さんを尾行していた。
 その上ネギ先生と神楽坂明日菜さんも、絡繰茶々丸さんを尾行していた。

 これはどういう事態なのだろうか。
 疑問は尽きないが、程なくして四者四様による尾行は終わりを告げた。
 絡繰茶々丸さんが古ぼけた広場に歩みを進めると、ネギ先生と神楽坂明日菜さんも少しして歩みを進めた。
 そこの入口に、小林氷咲が佇み中を覗いていた。

 近くの物陰に隠れて、小林氷咲の一挙手一投足を注視した。
 すると彼が挙動不審な行動をした。
 まるで見えない何者かと話しているようだ。
 すると彼はどうしてか足早に物陰に隠れた。
 不思議に思っていると、突如としてそこから紫色の物体が浮上した。
 視認できるのがやっとの速度で上空へと向かって。
 瞬く間に、それは空の彼方へ消え去った。

 まさか。
 脳裏にある考えが浮かんだ。
 私は素早く、小林氷咲が隠れている物陰に向かった。
 予測通り、そこには誰もいなかった。
 それはつまり、先ほどの紫色の物体は小林氷咲だったのだと理解できた。

 上空を眺めながら、思う。
 虚空瞬動の使い手だとは聞いているが、空を飛べるとは聞いていなかった。
 逃げられたのか。
 しかし、気取られてはいなかったはずだ。
 いや、そう思っているのは自分だけであるとしたらどうだろうか。
 小林氷咲はすべてを見通した上で、私を泳がしていたのではないだろうか。

 一瞬の隙にすべてを賭ける。
 そんな言葉が浮かんだ。
 ならば、小林氷咲の次の行動は隙をついての奇襲だろう。
 いつでも夕凪を抜けるように手を当てて、辺りを警戒した。
 広場ではどうしてか、絡繰茶々丸さんとネギ先生たちが戦っているのが見えた。
 疑問に思ったが、警戒を緩める訳にはいかない。

 相手は小林氷咲なのだ。
 下手をすれば、命を狩られるだろう。
 額に汗が浮かび上がり、片手で拭った。
 しかし、その考えは裏切られることとなった。
 小林氷咲は唐突に上空から落下してきたのだ。
 私ではなく、広場のネギ先生へと目掛けて。
 唖然としていると、ネギ先生がその衝撃に不様にも転がって行った。
 絡繰茶々丸さんを、助けたのだろうか。
 エヴァンジェリンさんと小林氷咲は敵対している立場だと聞いていた。
 ならばどうして。
 解せないが、尾行は気取られていなかったのだろう。
 小林氷咲は助けるために行動したのであって、私への奇襲が目的ではなかったのだ。
 上空で小林氷咲と絡繰茶々丸さんが、何事か話し始めたことが物語っていた。

 取り越し苦労だったと安堵の息を漏らした。
 また物陰に隠れて、監視を再開する。
 唖然としていたからか、ここでやっと気づいた。
 小林氷咲の服装が変化していたことに。
 黒いローブを羽織り、大きな鎌を携え、全身から紫色のオーラが溢れていた。
 広大な空に逆さまで浮かぶその姿は、まるで死神のようだった。
 この姿が小林氷咲の戦闘時の服装なのだろうか。
 一般的だった魔力量が、少しだけ増えているのを感じとった。
 大したことはないが、これではっきりした。
 小林氷咲は魔力を自在に増減できると言うことが。
 あれはまだ序の口だろう。
 本気の百分の一にも満たないだろうことは明白だ。
 生唾を飲み込んだ。
 私とさほど歳も変わらないというのに、麻帆良の重鎮たちに賛美される実力。
 一体、どれほどの鍛練をつんできたのだろうか。
 たった十六年でその域まで達したのだ。
 並大抵の努力では、話しにならないだろう。
 一種の畏怖を覚えずにはいられなかった。

 絡繰茶々丸さんが遠方の空へと消えて行った。
 小林氷咲は身動きせず見守っていた。
 その背中から、敵さえも救う優しさのようなものを感じた。
 小林氷咲はなぜ強くなろうと思ったのだろうか。
 人生をやり直すために平凡を求めているのではないかと、学園長は言っていた。
 あの人の過去に、私と同様に強く在らなければならないなにかが起こったのだろう。

 ふと思考を止め、上空を見上げて唖然とした。
 小林氷咲の姿が掻き消えていたたのだ。
 紫色の魔力の波動だけが、青空に微かに残っていた。
 辺りを見回すがいない。
 帰ってしまったのだろうか。
 しかし、そのときだった。
 唐突にも、何者かに背後から夕凪を奪われたのだ。 
 
「なんだ!?」

 慌てて振り返ると愕然とした。
 独りでに口が開いた。

「い、いつの間に…」

 その様を、小林氷咲はニヤリと愉しそうに笑った。
 まさか、今までの騒動すべてが小林氷咲の策略だったとでもいうのか。
 初めに上空へと姿を消すことにより、奇襲を警戒させる。
 しかしそれは、絡繰茶々丸さんを助ける行為であったと誤解させ油断を誘う。
 そしてその一瞬の隙をついて、背後に転移し相手の武器を奪い無力化する。

 これが小林氷咲の、類い稀なる戦略。
 その愉悦の笑みがそう物語っていた。

 天才的な擬態と戦略と言わざるを得ない。
 高畑先生とエヴァンジェリンさんの言葉が脳裏を過ぎった。
 トップクラスの擬態の天才。
 巧妙な戦略家。
 私は、小林氷咲に騙されていたのだ。
 これが歳一つしか変わらない男との差とでもいうのか。
 違い、すぎる。
 己の無力さ弱さを、激しく痛感した。
 己に対する苛立ちから、情けなくも叫んだ。

「きさま……!夕凪を返せ!」


 当然ながら、小林氷咲は柳のように受け流した。
 それはそうだ。
 この男に、私如きの殺気が通じるはずがない。
 その様を見て、小林氷咲の表情が一転した。
 双眸に哀れみを色が表れたのだ。
 不様だ。
 それはそう示していた。
 そしてこちらに、静かに夕凪を差し出した。
 その行為に固まった。
 罠か。
 罠としか考えられない。
 しかし、猛る焦燥心が夕凪を取れと囃す。
 夕凪があってもこの男には勝てるとは思えないが、逃げることくらいならできるかも知れない。
 恐る恐る夕凪を掴んだ。
 そのときだった。
 小林氷咲は一転、擬態時の爽やかな笑顔に変化したのだ。
 まるで、夜から朝に切り替わるように。

「大丈夫だよ」

「ぐっ…!」

 夕凪を奪い返すと、即座に刃を抜いた。
 ここまで馬鹿にされては、引き返せるものも引き返せない。
 この男には、到底敵わないだろう。
 しかし私にだって戦士としての誇りがある。
 掠り傷でいい。
 誇りを、示す。
 そう切りかかろうとした最中だった。
 小林氷咲が爽やかな笑顔で言い放ったのだ。

「きみにも、大切な人がいるだろう?
 きみが死を選ぶというのなら、その人は悲しみを背負って生きていくことになる」

 それは私の身動きを止めるには最適な言葉だった。
 最終通告。まだ戦う気ならば躊躇いなく殺す。
 これはいい。
 望むところだった。

 しかし、私が死ぬことで大切な人が悲しみを背負う。
 その言葉で身動きがとれなくなったのだ。
 脳裏に木乃香お嬢様の悲しそうな顔が浮かんでしまったから。

 私は間違っていたことに気づいた。
 木乃香お嬢様を守るために、悲しませないために夕凪を振るってきた。
 それなのに、戦士としての誇りを優先して、また木乃香お嬢様を悲しませようとしていた。
 その事実に、身体中の力が抜けていくのを感じた。
 頭上から、優しげな声が降りてきた。

「刀はなんのためにある?」

 顔を上げた。
 そこには、青年の優しげな顔があった。

「守るためだろう?」

 私は力なく頷いた。

「…はい」

 刃を鞘に戻した。
 木乃香お嬢様を悲しませることはできない。
 それは小林氷咲を相手に自殺行為かも知れない。
 しかし彼の声色には、私をさとそうとする必死さが見え隠れしているように感じたのだ。
 どうしてか信頼できるような気がした。
 小林氷咲が、口を開いた。
 その声音は、さながら子を想う親のように優しかった。

「守るためだけに、その刀を抜くべきだ。
 その相手は自分ではない」 
 
 彼は敵ではなかったのだ。
 刀を振るうべきその相手は自分ではない。
 そう、言ったのだ。
 それを聞きながら、ふと思えた。
 小林氷咲は、わざと擬態を用いて演じてくれたのではないだろうか、と。
 自らが悪役を買ってでることにより、教えてくれたのではないだろうか、と。
 戦士としての誇りで死ぬというのはただの逃げ口上だ。
 自らが死ねば大切な人が悲しむことになる。
 大切な人を守るためだけに刀を振るえ。
 強い者と相対したときは構わず逃げろ、関わるな。
 決して死ぬなんて考えるな。
 そう、教えてくれようとしていたのではないだろうか。
 私は頷くと、口を開いた。

「あなたは……それを教えたかったのですね」

 返答は、無言だった。
 しかし、満足げな笑顔から正解なのだと示されていた。
 心に刻むように、呟いた。

「守るために」

 小林さんが頷いた。
 勝手に疑い、尾行までしてしまった私にどうしてここまでしてくれるんだろうか。
 これほどまでに器の大きな人には出会ったことがない。
 尊敬の意を持って言った。

「遅れてすみません。私は桜咲刹那と言います」

「構わないよ。
 俺は小林氷咲。またなにか悩むことがあったら相談してくれて構わない」

 小林さんはまるで天使のように優しい声音で言ってくれた。
 その言葉に、純粋に、感動した。
 多大な迷惑をかけてしまったのに関わらず、私を心配する言葉をかけてくれた小林さん。
 彼に、恥じないよう行動していこう。

「はい。
 小林さんのお言葉、しかと心に留めさせていただきます。ありがとうございました」

 小林さんが頷いた。
 なにかを言いかけたかと思うと、忽然とその姿を消した。
 正義を成して、去っていく。
 まさに、そんな映画のヒーローのような人だった。
 辺りに、気配はなかった。
 もう今頃は、また違う人でも救っているのだろうか。
 忙しい人だと笑ってから頷いた。
 いまから鍛練をしよう。
 いつか小林さんの域に達せられるように。
 より容易く、木乃香お嬢様をお守りできるように。
 青空は澄み渡り、私を応援してくれているようだった。

 一つだけ不思議に思った。
 どうして小林さんは逆さまで制止していたのだろうか。 
 
 
 
 
 —その日の幼女吸血鬼さん—
 
 
 
 
 煩わしいじじいから解放された頃には、もう夜に移り変わっていた。
 家の玄関口で、茶々丸が出迎えて静かに言った。

「マスター、お話があります」

 私はリビングに向かいながら言った。

「どうした?」

「ネギ先生に襲撃されました」

 内心煮えたぎる怒りを隠しながら口許に笑みを浮かべた。

「ほう、やってくれるじゃないか」

 戦いに卑怯も糞ない。
 ないが、あのぼうやにそんな度胸があるとはな。
 これは少々手痛いお仕置きをせねばなるまいな。
 そんなことを思っていると、茶々丸が次に言ったことに唖然とすることになった。

「ですが、小林氷咲様に助けて頂いたため損傷はありません」

「なに!」

 なんと茶々丸の危機を、小林氷咲が救ったと言うではないか。
 なぜそんなことを。
 私と奴は敵対している。
 不思議に思っていると、茶々丸が言った。

「マスターが言っていた。
 気まぐれと言われる感情なのかも知れません」

「気まぐれ、か」

 小林氷咲は気まぐれで、私の家族を救ったのだろうか。
 いや、奴なりの宣戦布告なのかも知れない。
 敵に塩を送る、という奴なのだろうか。
 だがこれで奴の隠し持っているなにかがわかるかも知れない。
 好奇心から目を輝かせた。

「茶々丸見れるか?」

「はい。
 ただ今セッティングいたします」

 茶々丸が、自らとテレビをコードで繋いだ。
 程なくして映像が流れた。


 映像を見終わった。
 私は興奮しながらも、沈んでいくという相反する感情を抱えることになった。
 茶々丸視点のため全容を知ることはできなかった。
 だが小林氷咲が茶々丸を救ったのは紛れも無い事実であった。
 小林氷咲に踏み付けられ、ネギが不様に転がっていく姿には溜飲が下がった。

 そして一番の収穫。
 それは小林氷咲の正体が露になったのだった。
 戦闘時の服装だと思われるが、センスが良い。
 まさに、小林氷咲のイメージとピッタリの姿であった。
 漆黒のローブを身に纏い、特大の鎌を携えていた。
 さながらそれは、死神かなにかを意識しているようだ。
 暗殺スタイルである小林氷咲には良く映えていた。
 その上、一般的であった魔力の量が少々上がっていることから、小林氷咲は自在に魔力を増減できることがわかった。
 まあ私ほどではないだろうが、奴の魔力の量はまだまだ上がるだろう。

 そして極めつけは、小林氷咲の全身から放たれている紫色の魔力の波動だ。
 これを見たとき、私は愕然とせざるを得なかった。
 魔力の質が、人間のそれではなかったのだ。
 吸血鬼や悪魔など、僅かな違いはあれど魔族が持つ魔力の質だった。
 つまり小林氷咲は、魔族の類であることを示していた。
 思い返せば、当然のように符号した。
 小林氷咲は、桜通りで宣言していたのだから。
 私と同類の悪だ、と。
 それを私は、悪の性質の話だと思っていた。
 だがそれは違った。
 奴は言葉の通り、自らは魔の類だと示していたのだ。
 これで小林氷咲が執拗に実力を隠す理由が頷けた。
 生まれつきなのか、私と同様に無理矢理されたのかはわからない。
 だが魔族の類だと言うことが、明るみに出たとする。
 すると昔の魔女裁判よろしく、十中八九、善を語る偽善者どもに狙われることになるだろう。
 しみじみと呟いた。

「そうか、奴も苦労してきたんだな」

 感慨深くなってしまう。
 私も昔から、苦労が絶えることはなかった。
 寂しくやりきれなくなる夜もあった。
 いまの家族を手に入れるまで孤独だった。
 小林氷咲もそうだったに違いない。
 孤独とは辛いものだ。
 この世界は、魔の類に厳しすぎる。

 そうか。
 だから奴は平凡を尊び、一般的な人間たちのように働く夢を持っているのだろう。
 一つ、不思議に思えた。
 小林氷咲はなぜ、命に代えても隠し通さなければならないはずの真実を、私に示そうとしたのだろうか。
 小林氷咲の先ほどまでは憎々しかった笑みが浮かんだ。
 しかしいまは、自らの本質を隠さなければならない苦悩のような笑みに思えた。
 同類である私に気づいてほしかったのかも知れない。
 それは茶々丸を助けたことからも伺い知れた。

 そうか。
 小林氷咲は、自らのすべてを私に知って貰いたかったのだ。
 私ならば、その苦悩を誰よりも理解できるはずだと。

 今宵の夜の月は、儚げだった。
 眺めながら溜め息をつく。

「小林氷咲……私はお前の苦悩が理解できるぞ。
 お前が望むのなら……全てを受け止めてやろう」
 
 
 
 
 —その頃の不運な少年—
 
 
 
 
「いやいや、今日は大変なことばかり起きたけど、結果的には良い日だったよな」

 俺は自室にて、有頂天で死神に話しかけていた。
 普段は忌ま忌ましい死神も、小刻みに笑っていた。
 服装は茶々丸さんに褒められたため、まだ死神の姿そのままであった。
 それにしても美しかった。
 まるで、幻想の世界から現れたお姫様のようだ。

「ハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッハッハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッ!ふおっ!」

 大笑いしていると、突如として棚からドライヤーが落ちてきたのだ。
 頭に、鈍い痛みが響いた。
 決してドライヤー如きと侮ってはいけない。
 俺の弱々しい頭には、相当のダメージなのである。

「あいた〜……」

 頭を摩りながら、何とか立ち上がった。
 だが、そのときだった。
 凄まじい悪寒が、さながら電流のように身体を駆け巡ったのである。
 倒れ込みテーブルに置いてあった牛乳を倒してしまう
 床は、さながら一面銀世界である。

「な、なんだぁ…。
 これはそう…勘違いが加速して後戻りできない境地にまで達してしまったような…」

 しかし、それはないだろう。
 勘違いされる理由がないのだから。
 俺は苦笑を浮かべたまま、ゲレンデの掃除にとりかかった。



[43591] 四の思惑が交錯する中心——幕間その壱
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:18
—エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 早朝の風が肌寒い。
 鬱蒼と生い茂る木々の間を抜けるように歩く。
 空からの日差しが煩わしい。

 私は茶々丸を伴って、麻帆良に拡がる森を散歩していた。
 昨夜考えさせられる映像を見てしまったためか、早く目が覚めてしまったのだ。

 小鳥の囀りを聞きながら、思考に没頭する。
 それはこれからの立ち位置のことだった。
 いままで私は、小林氷咲と言う生意気な餓鬼に、一種のお遊び感覚で世間を教えてやろうと思っていた。
 しかし奴が魔の類と知り、それらの苦悩を私に知って貰いたいのだと理解したとき、ある感情が芽生えた。

 それは同族故の、馴れ合いかも知れない。
 それは同族故の、傷の舐めあいなのかも知れない。

 しかし明確に思えたのだ。
 奴を受け止めてやらねばと、そう思えたのだ。
 それは、一種の親心のような感情からかも知れない。

 自らが魔の類だとわかったとき、苦悩したはずだ。
 人間たちに紛れようとすればするほど、それは自らの重荷になっていくだろう。
 なに不自由無く暮らす人間を怨んだだろう。
 それは性格など容易くねじ曲がるほどの苦悩。
 小林氷咲の性格の破綻ぶりが、いまは可愛くさえ思えた。

 いっそ私のように誇りと割り切ればいいが、そんな簡単に割り切れるはずがない。
 苦悩に苦悩を重ね、苦悩に押し潰されそうになっただろう。
 しかし小林氷咲と言う男は、さして赤子と変わらぬ齢で激しい苦悩を跳ね返した。
 割り切ったのだ。
 それは人間たちと平凡に働くと言う夢が物語っていた。
 素直に驚嘆に値する。

 そんな儚き夢を、壊すようなことができようか。
 いや、結果的に私は壊してしまった。

 じじいからの任を請け負ってしまった。
 監視と言う、小林氷咲が一番嫌いであろう任を。
 罪悪感はある。
 私が話さなければじじいに目をつけられることもなかっただろう。
 じじいの執拗さは、見事と言ってもいい。
 小林氷咲はじじいから監視されつづけるだろう。
 それは平凡とは無縁の世界であろう。
 結果的に私は、奴の夢を打ち砕いてしまったのだ。

 しかし私にとって呪いを解くことが最優先だったのだ。
 それにここまで大事になるとも思っていなかった。

 初めから小林氷咲が、私に接触を持とうとしなければ良かったと言う考えが過ぎった。
 しかしそれは違う。
 奴は私の力量を信頼していたのだろう。
 私ならば苦悩が理解でき、心のよりどころになってくれるはずだと。
 普段の私なら、軟弱者だと一笑に伏しただろう。
 しかしここまで信頼され、親心のような情が移ってしまってはもう遅い。

 黙ったままだった茶々丸が言った。

「マスターは小林氷咲様と戦うおつもりですか?」

「戦う、気はない」

 首を振った。
 答えは出ない。
 どうすれば、小林氷咲の平穏を取り戻してやれるだろうか。

 そんな折のことだった。
 一人の少女が現れたのは。
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 早朝。
 体力作りのため、森の中を走っていた。
 深緑の匂いが心地好い。

 ふと脳裏に、小林さんの姿が浮かんだ。
 大きい。
 なんて器量の大きい人だろうか。
 彼に並ぶほどの、器量を持ち得たい。

 疑問があった。
 小林さんはどうして私などに優しく接してくれたのだろう。
 人間と鳥族のハーフである、禁忌に。
 知らなかったからだろう。
 小林さんの優しさは、人間である私、への優しさなのだろう。

 禁忌だと知ったとき、小林さんはなんと言うだろうか。
 罵声を浴びせられるように思えた。
 怖く、感じた。
 それが途方もなく怖く感じたのだ。

 反面、小林さんならばそれを知ってなお、普通に接してくれるのではないか。
 小林さんほどの強者だ。
 私が禁忌だと気づいた上で、優しく接してくれたのではないだろうか。
 そんな甘い希望が、微かに浮かび上がった。

 慌てて首を振った。
 これは、絶対に知られてはならないことだから。

 前方の木々の間に、人影が見えた。
 エヴァンジェリンさんと絡繰茶々丸さんだった。

 素通りしようとしたが、私は話しかけた。
 小林さんと戦ったことのあるエヴァンジェリンさんなら、小林さんのことをなにか知っているのではないかと思えたからだ。

「エヴァンジェリンさんに絡繰茶々丸さん、おはようございます」

「ぬ?
 桜咲刹那か、こんな朝からどうした?」

「桜咲刹那さん、おはようございます」

 絡繰茶々丸さんが一礼した。
 エヴァンジェリンさんが不思議そうに言った。

 意を決して言った。

「お聞きしたいことがありまして」

 昨日の騒動をこと細かに話した。
 話す言葉に力が帯びていった。


 エヴァンジェリンさんは黙って聞いていた。
 そしてどこか儚げな笑みを浮かべて口を開いた。

「小林氷咲は、優しいな」

「はい。優しいお方です」

「違う。
 そう言うことじゃない」

 首を傾げた。

「奴はお前が、桜咲刹那、だからこそそう言ったんだ」

 独りでに口が開いた。

「ど、どういうことですか…?」

「お前なら大丈夫、か。
 だが一応言っておく。これは他言無用だ。
 話した場合は…わかるな?」

 真剣な目で頷いた。
 エヴァンジェリンさんが周囲に目を懲らした。
 私の耳に口許を近づけて言った。

「奴はお前が鳥族のハーフだと気づいていた。
 だからこそ優しくしたんだ」

 辺りの空気が止まったように感じた。
 小林さんが知っていた。
 それでいて私に。

「な、ならばどうして!」

「声を落とせ」

「すいません…」

 黙って言葉を待つ。
 心臓が脈打つ音が鼓膜に響いた。
 エヴァンジェリンさんが、静かに言った。

「生まれつきなのか、無理矢理されたのかは知らん。
 だがなこれだけは言える。
 小林氷咲と言う男は…魔の類であると」

 自分の耳を疑った。
 信じられかった。
 しかしエヴァンジェリンさんが意味のなさない嘘をつくとは思えない。

「小林氷咲も人外であることに悩んだだろう。
 だが奴は割り切った。
 未だにそれに悩むお前が見てられなかったんだろう。
 鳥族よりも忌み嫌われ、偽善者どもから執拗に命を狙われるであろう、魔の類の小林氷咲がだ。
 それは余りにも…優しすぎるだろ」

 エヴァンジェリンさんが感慨深げに呟いた。

 なんと言うことだ。
 小林さんは知っていたのだ。
 私が人間と鳥族のハーフであることを。
 それに、想い悩んでいると。

 だから小林さんは優しく接してくれたのだ。
 魔の類である自らの苦悩を差し置いて、この私を。

 違う、はずだ。
 私は過去を捨てきれずにいる。
 小林さんは捨てさったどころか、他人の心配までしている。

 格が違う。
 なんて私は愚かなのだろうか。
 小さき小娘なのだろうか。

 しかし未だに私は過去を捨てられそうにはない。
 木乃香お嬢様に全てを打ち明けられる勇気がない。
 小林さんのように、強くなれそうもない。

 だが、心が暖かくなったように感じた。
 私は一人ではない。
 禁忌だと知ってなお、心配してくれる人が何人かいるのだ。
 小林さんに学園長に高畑先生、他にも数人いる。

 しかし、小林さんはどうだろうか。
 自らの本質を打ち明けられる者はいるのだろうか。
 わからない。
 わからないが、強く思う。
 小林氷咲と言う男性が、私を信じ優しく接してくれたように。
 私、桜咲刹那は、彼が魔の類だと迫害を受けることがあれば、それをこの夕凪にて打ち払うと。

 いや私如きが助けになれるとは思わないが、傍にいて信じることくらいはできる。

 頭を下げた。

「エヴァンジェリンさんありがとうございます。
 それでは失礼します」

 エヴァンジェリンさんの楽しげな笑みを最後に、私は走り出した。

「ほう…小林氷咲は、その背中だけで一人の少女の凍てついた心を溶かす…か」

 強くならなければならない。
 もっと強く。
 その恩義に、報いるために。
 その優しさに、答えるためにも。
 
 
 
 
 —エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 桜咲刹那と会話し、私は家に戻ると朝食を食べていた。
 トーストをかじりながら、呟いた。

「それにしても優しい奴だ」

 あの桜咲刹那の心をああまで救ってみせるとは。
 小林氷咲という男は自らの苦悩を押し殺してまで、同類の少女の苦悩を優先するか。
 やはり私が認めた男、か。
 気高いじゃないか。

 そう思っていると、いままでの悩みを払拭する光明が浮かび上がった。

 私は小林氷咲の平穏を乱してしまったことを悩んでいた。
 前の生活に戻してやるにはどうすればいいのか、と。
 発想を逆転すればいい。
 前の生活には戻れないが、前の生活のように暮らさせてやるのだ。
 私の力を背景に。
 そう奴を保護すればいいのだ。

 そうだ。
 それでいい。

 じじいだろうが、なんだろうが一切口は出させない。
 私が、私の力を持って、小林氷咲を支援してやろう。

 気持ち良く笑った。

「茶々丸、私は小林氷咲を保護するぞ。
 全ての災厄から守り、奴の夢を叶えさせる。
 協力してくれるな」

「はい。
 それはつまり家族にする、ということですか?」

 茶々丸が紅茶をカップに注ぎながら言った。

「有り体に言えばそうだ」

「それでは…お兄様などと呼んでも良いのですか?」

 お兄様…?
 なにやら茶々丸の様子がおかしい。
 まあ小林氷咲の方が後輩なのだが、茶々丸がそうしたいなら良いだろう。

「構わん」

「ですが私はガイノイドです」

「小林氷咲も種の違いという苦悩を知る者だ。
 そんなこと気にも留めんよ」

 茶々丸は少し黙ったあと言った。

「では全力を挙げてサポートさせていただきます」

 だが小林氷咲に拒まれる可能性がある。
 奴はこれまで一人で生き抜いてきたのだからな。
 その上性格は不器用であまのじゃくと言えよう。
 己の希望とは反対に、拒む可能性は多いにある。

 ならば無理矢理だ。
 無理矢理にでも、奴を保護する。

 私は時間をかけて、果たし状を作成した。

「茶々丸、これを停電の日の朝にでも小林氷咲に渡しておけ」

「はい。了解しました」

 私は笑った。
 これでいい。
 小林氷咲という男の平穏は私が守ってやろう。
 それを拒むなら、完全な力で持って屈服させてやる。

「さあ小林氷咲。どうでる?
 私はしつこいぞ。
 欲しいと思ったものは全て手に入れる。
 例外はなしだ」



[43591] 四の思惑が交錯する中心——幕間その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:18
—ネギside—
 
 
 
 
 僕は麻帆良の森を歩いていました。
 ある場所を目指してです。
 それはこの果たし状を渡す相手、エヴァンジェリンさんのお家でした。
 風邪で病欠したため、伺いに来たんです。

 一度は現実に堪えられなくなり、逃げてしまいました。
 エヴァンジェリンさんと死神さんの報復が、アスナさんやカモくんに及ばないように。
 ですが長瀬さんとの山篭りで気づいたんです。
 逃げるだけでは、なんの解決にもならないって。

 僕は先生です。
 生徒を、アスナさんを守らなければなりません。
 だからこそ、この果たし状を持参して正々堂々と戦います。

 だけど、内心は怖いです。
 どうしようもなく怖い。
 死神の愉悦の笑みを思うだけで身体が固まってしまいます。

 でもこれは僕の問題だから。
 僕だけが頑張れば、それで良いんです。

 それにしても、吸血鬼が風邪などかかるのでしょうか。
 僕は意を決して呼び鈴を鳴らしました。
 程なくして、静かにドアが開きました。
 茶々丸さんが顔を出しました。

「こんにちわ、ネギ先生。
 何かご用ですか?」

 僕は狼狽しました。
 生徒である茶々丸さんを、不意打ちという卑怯な方法で襲ってしまっていたから。

「あ、ああ!茶々丸さん!
 え、エヴァンジェリンさんにお話が!
 こ、この前はすみませんでした!
 で、でも僕は魔法の射手を撃つ気はなかったんです!
 ほ、本当ですよ!」

 茶々丸さんは無言でした。
 僕も空気に堪えられなくなり、無言になってしまいました。
 信用など、して貰える訳がありません。
 僕は生徒である茶々丸さんを、確かに攻撃したんだから。

 ですが、茶々丸さんは言いました。

「マスターは中にいます。
 病院に風邪薬を貰いに行くので、その間お任せしてもよろしいですか?」

「は、はい!」

 反射的に言いました。
 目を白黒させていると、茶々丸さんが森へと消えて行きました。

「こ、これどういうことなんだろう…。
 もしかして、少しは信用してくれたのかな」

 嬉しく思いました。
 茶々丸さんは僕を信用して、エヴァンジェリンさんを任してくれたように思えたんです。

 生徒の想いには、全力で答えなければなりません。

「よし!頑張るぞ!
 すいませーん。失礼しますよー」

 風邪で苦しんでいるかも知れません。
 静かにドアを開きました。
 
 
 
 
 エヴァンジェリンさんは寝室で眠っていました。
 部屋はまるで、絵本の中から飛び出したように可愛らしい内装でした。
 四苦八苦しながらタオルで寝汗を拭い、果たし状を置いて帰ろうとしたときでした。
 エヴァンジェリンさんが寝言を呟いたんです。
 それは確かにお父さんの名前を言っていました。
 好奇心が首をもたげました。
 いけないことと承知しながらも、心で謝罪しつつ夢を覗きました。

 その夢は、吸血鬼の少女と魔法使いの青年の物語りでした。
 少女の窮地を青年が救い、それを機に少女は青年を追い求めて行きました。
 最後に青年は、少女に呪いをかけます。
 闇の世界でしか生きられなかった吸血鬼の少女が、光の世界にて生きられるように。
 青年は迎えに来ることを約束して去り、少女はそれを信じて待ち続けます。
 今も、なお。
 儚くも、健気な夢。

 心が、まるでさざ波が立つように揺らぎました。
 こんなことがあったなんて、知りませんでした。
 エヴァンジェリンさんが、未だにお父さんを待ち続けているだなんて。

 眠っていたはずのエヴァンジェリンさんの瞳が、微かに開きました。

「……ん?
 なんだ貴様?」

 夢を覗き見てしまった手前、固まってしまいました。
 エヴァンジェリンさんが、ゆっくりと身体を起こしました。

「そうか。寝首をかきにでも来たんだな。
 待ってろ。今すぐ」

「ち、違いますよ!」

 慌てて否定しました。
 エヴァンジェリンさんがヨロヨロと身体を起こすと、直ぐに倒れてしまいました。

「エヴァンジェリンさん!」

 慌てて駆け寄りました。
 エヴァンジェリンさんの頬が紅く染まり、苦しそうに咳込みました。

「……ぼうや。貴様…夢を見たな…?」

 エヴァンジェリンさんのまどろむ瞳は、僕の持つ杖に向けられていました。

「い、いえそんなことは!
 ……ごめんなさい!」

 終始、罪悪感から頭を下げていると、寝息が聞こえてきました。
 エヴァンジェリンさんは眠ってしまったようでした。
 姑息ながら安堵の息を漏らしました。

 エヴァンジェリンさんに布団をかけて、果たし状を机に置き、逃げるように部屋を出ました。
 玄関先で茶々丸さんと会いました。
 茶々丸さんが一礼しました。

「ネギ先生、ありがとうございました」

「いえ、構いませんよ。
 え、エヴァンジェリンさんは寝室で眠っています」

 茶々丸さんが一礼して二階へと上がろうとしました。
 僕はいままで不安に思っていたことを、意を決して質問しました。

「あ、あの、死神さんは仲間なんですか?」

 茶々丸さんが一瞬首を傾げてから、言いました。

「死神とは氷咲お兄…、小林氷咲様のことですね。
 仲間ではありません」

 死神さんは小林氷咲さんと言う名前のようです。
 それよりも。

「ほ、本当ですか?
 でもあの時茶々丸さんを助けていたじゃないですか」

「先日は「気まぐれ」という感情からのようです」

「気まぐれ…?」

「はい。気まぐれです」

 唖然としました。
 死神さんは気まぐれで茶々丸さんを助けただけで、敵ではなかったようなんです。
 怯える必要性は、全くと言ってなかったんです。

 深く安堵しました。
 今でも怖いことは怖いです。
 ですが敵でないという事実は、僕にとっての最大限の救いとなりました。
 これでエヴァンジェリンさんと茶々丸さんだけに、精力を注ぎ込むことが出来ます。
 アスナさんやカモくんにも教えてあげなければなりません。
 二人とも、報復を怖がっていましたから。

「そうですか!
 では茶々丸さん!
 エヴァンジェリンさんによろしく伝えておいて下さい!」

 意気揚々と学園に向かおうとすると、茶々丸さんに言葉で留められました。

「ネギ先生。
 マスターが言っていました。
 小林氷咲様の正体は明かしてはならないと。
 明かせば殺されるだろう、と。
 お気をつけて下さい」

「こ、殺さ」

 背筋がゾッとしました。
 これは何がなんでも明かす訳にはいきません。
 コクコクと頷くことしか出来ませんでした。

「失礼いたします」

 茶々丸さんが二階に上がっていくのを見ながら、脳裏に最悪の結果が過ぎりました。
 アスナさんが、学園で死神さんのことを噂していたとしたら。
 カモくんが、ふざけて誰かに呟いていたとしたら。

「あ、アスナさーん!カモくーん!」

 猛る焦燥心に背中を押され、学園へと大急ぎで走り出しました。 
 
 
 
 —ある日のぬらりひょん—
 
 
 
 
 夕暮れ。
 窓から茜が差し、わしは低くうなった。
 学園長室内の、お決まりの椅子に座り頬杖をついた。

「さてさて、どうなったものかのう…」

 発端は先日じゃった。
 氷咲くんとの邂逅を終え、木乃香のお見合い相手探しに勤しんでいるときのことじゃ。
 真剣な表情で、桜咲刹那くんが来訪してきたのじゃ。

 不思議に思うと、それは氷咲くんとの騒動を覗いていたとのことじゃった。
 不覚じゃった。
 わしと高畑くんがおりながら、まさか刹那くんにそれを覗かれておったとは。

 刹那くんは執拗に氷咲くんの素性を知りたがった。
 木乃香のため、不安点は解消したいのだと。

 じゃがわしに話す気は毛頭なかった。
 刹那くんは木乃香の護衛を良くやってくれてはおるが、性根が真面目で一本気なところがある。
 話すということは、彼女は確実に氷咲くんへと行動を起こすじゃろう。
 それはなんとしても止めたかった。
 氷咲くんという、眠れる獅子をこれ以上起こしたくはなかったのじゃ。
 定かではないが、氷咲くんは実力を隠し平凡に暮らしたいと暗に言っておったように思う。
 そんな氷咲くんに、刹那くんを当てるということは、それは戦いになるじゃろう。
 それはまずい。
 未だ氷咲くんの実力が未知数な以上、最悪な結果が呼び起こされてしまうかも知れない。

 わしは説得した。
 関わるな、と。

 じゃが刹那くんの意思は頑なじゃった。
 それに彼女は先ほどの顛末を見ておるのじゃ。
 それはつまり、氷咲くんの顔を知っているということに他ならない。
 強く言い聞かせても、行動を起こすことは明白じゃった。

 わしは頭を悩ませた。
 そして決断した。

 それは刹那くんに事情を話すことにより行動を促せ、氷咲くんの心の内部を測ろうという賭けじゃった。
 これには多大な危険が伴う。
 それについては高畑くんに任せよう。
 高畑くんも忙しい身の上じゃが、刹那くんに危害が及ばぬよう監視して貰うのじゃ。

 苦肉の策じゃった。
 高畑くんがおるため危険はないじゃろうしのう。

 そしてあわよくばと、期待をしているわしがおった。
 刹那くんは人外であると言うことに苦悩し、周りの人間から距離をとっておる。
 いままで、その苦悩を解消できるものはいなかった。
 それを氷咲くんが良い方向に向けてくれたら。
 自分でもなぜ、先ほど知ったばかりの氷咲くんを高く買っておるのかはわからん。
 じゃが、彼には人を惹きつけるなにかがあるように思えるのじゃ。
 エヴァしかりわししかり、高畑くんしかりのう。
 刹那くんの、暗闇に浮かぶ一筋の光のようになってくれたら。

 意を決して素性を話した。
 刹那くんが去ったあと、即座に高畑くんに連絡した。




 高畑くんの顔が茜に染められ、普段以上に凛々しく思えた。
 高畑くんがことの顛末を話し出した。

 初めに不思議なことが起こった。
 高畑くんが刹那くんを尾行し、刹那くんが氷咲くんを尾行するまでは理解できた。
 じゃが、氷咲くんはネギくんたちを何らかの理由から尾行しており、ネギくんたちは茶々丸くんを尾行していたという。

 氷咲くんの類い稀なる戦略に、翻弄されているのではないかと思えましたよ。
 そう、高畑くんが苦笑しながら呟いた。

 古ぼけた広場で、茶々丸くんとネギくんたちが戦い始めたそうじゃ。
 氷咲くんが物陰に隠れたのを意味深に感じ、高畑くんは気取られぬよう遠めから注視した。
 そこで氷咲くんの実力の一端を目にすることになったのじゃ。

 氷咲くんは唐突に変身した。
 黒いローブを羽織り、万年筆を特大の鎌に変化させ、身体中から紫色の魔力の波動を放った。
 そして上空へと、視認できるのがやっとの速度で浮上して消えてしまった。
 じゃが新な事実が浮かび上がった。
 微かに魔力量が増えており、彼は自在に魔力量を増減できることがわかった。

 わしは冷たいものが背筋を走ることとなった。
 まだ首許にヒンヤリとした万年筆の冷たさが残っておる。
 やはりあの万年筆には、殺傷能力があったのじゃな。
 危ないところじゃった。

 高畑くんは氷咲くんの行動パターンから、尾行が気取られていた場合を想定し、次は奇襲だと判断し戦闘態勢を取った。
 じゃが、それは違った。
 氷咲くんは窮地の茶々丸くんを助けたのじゃ。
 なぜ敵対しているはずの茶々丸くんをと不思議に思ったが、高畑くんは自らの勘違いぶりに苦笑した。
 刹那くんも同様に行動しておったようじゃ。

 じゃが、それは氷咲くんの類い稀なる戦略だったのだと、高畑くんは言った。
 上空で茶々丸くんと話しておった氷咲くんは、唐突に刹那くんの背後に転移し武器を奪い取ったのじゃ。
 尾行を知らぬふりをして、勘違いを誘導し、相手の思考を操る。
 一瞬の隙をつき相手を無力化するその様は、まるで悪魔の如き所業であった。

 対峙する二人に再起動した高畑くんは、危険だと判断し介入しようとした。
 じゃが、雰囲気がおかしいことに気づいた。
 氷咲くんの背中に、優しさが溢れているよう感じた。
 声は聞こえないが、なにか必死にさとそうとしているように感じたのじゃ。

 躊躇していると、騒動は終わりを告げた。
 なんと刹那くんがすっきりした顔で、氷咲くんに頭を下げたという。

 高畑くんは驚きながらも、頃合いだと姿を現そうとした。
 どんな言葉をかけたかはわからない。
 刹那くんにあの表情をさせてくれた氷咲くんに、お礼を言いたかったのじゃ。

 じゃがそれは叶わなかった。
 僕は嫌われているのかも知れませんね。
 高畑くんが苦笑した。

 その瞬間、氷咲くんの姿は掻き消えてしまったのじゃ。
 紫色の魔力の波動だけを、その場に残して。

 走り去ろうとする刹那くんを止めて、話を聞いた。
 その顛末には驚きを覚えたという。

 氷咲くんの行動全ては、桜咲刹那という少女の危うい心をさとすためだったのじゃ。
 自ら悪役を買って出て、守るということの本当の意味を教えたという。

 それが本当ならば、なんという良い子なんじゃ。
 わしは感嘆の息を漏らした。

 そして高畑くんの口から、それを裏付ける言葉が飛び出した。

「僕はその話を信用できると思いました。
 値する情報を目にしていましたから。
 なぜなら、氷咲くんの身体中から立ち上る紫色の魔力の波動は…「魔族」のものでしたから」

「な、なに!」

 驚愕した。
 小林氷咲という心優しき生徒が魔族じゃと。
 高畑くんが、真剣な顔で頷いた。

「これで氷咲くんが実力を執拗に隠したがる理由も、刹那くんに身を持ってさとした理由も理解できました。
 同じように悩んでいるだろう刹那くんに、昔の自分を重ね合わせたんでしょう」

 なんということじゃ…。

 氷咲くんは、自らの本質に苦悩したじゃろう。
 もしかしたら魔族ゆえ、命を狙われることもあったかも知れない。
 人間たちを、途方もなく怨んだじゃろう。
 じゃが彼は希望を捨てなかったのじゃ。
 人々を恨むという、不毛なことを止めたのじゃ。
 それはどれほどの、労力を注ぎ込んだのじゃろうか。
 並大抵の努力では、ないじゃろう。

「それでいて、人々と平凡に働く夢を追い求めるとはのう…」

 氷咲くんの愉悦の笑みが浮かび上がった。
 じゃがそれは、深い悲しみを孕んでいるように思えた。

 高畑くんが、やり切れないという表情で煙草を吹かした。

 氷咲くんは自らの苦悩を割り切り、一般的な幸せを求めた。
 刹那くんの苦悩を察知し、助言する心優しき生徒。
 そんな彼を、わしたちは危険視し監視してしまった。
 それは平凡とは無縁の、心休まらない世界じゃ。

 長く長い沈黙の後、わしは強く言った。

「高畑くん、わしはこのことを隠蔽しようと思う。
 小林氷咲という少年が例え魔族であったとしても、わしの愛すべき生徒には変わりないからのう」

 高畑くんが、一度煙りを吐き出してから笑った。

「学園長ならそう言ってくれると思っていました。
 僕も同感です。
 氷咲くんは、僕の生徒でもありますから」

 顔を見合わせて笑った。
 こんなに気持ち良く笑ったのは久方ぶりじゃった。

 窓の外に、一羽のカラスが羽ばたいていくのが見えた。
 その羽は傷つき、それでもなお大空を翔けることを止めない。

「その雄々しさは、さながら氷咲くんのように気高いのう」

「ええ」
 
 高畑くんが、感慨深げに相槌を打った。
 
 
 
 
 —四の思惑が交錯する中心—
 
 
 
 
 今日は良いことがあった。
 早朝、茶々丸さんから交換日記と思わしき文を貰ったのだ。
 意気揚々と学園のトイレに篭り、その「果たし状」と書かれた包みを開ける。
 そこにはたった一文だけ、書かれていた。

「今宵、魔力を辿ってこい」

 それにしても茶々丸さんは古式ゆかしいお方だなぁ。
 「果たし状」は「交換日記」と言うのが恥ずかしいためだろうと考えられた。
 それは、茶々丸さんの俺を見る目が輝いていることから容易に理解できる。
 たった一文だけと言うことからも理解できた。

 俺は魔力など辿れないし、これは茶々丸さんの一風したネタの掴みかなにかだろう。
 ハハッ、面白い人だなぁ。

 明日にでもお返しを持って行こう。

 その話は置いといて、窓の外には夜の帳が広がっていた。

 俺は自室にて、死神スタイルで練習に励んでいた。

 茶々丸さんに褒められて有頂天になっていたが、興奮が納まると気づいた。
 はっきり言って、こんな非科学的な事態は御免被りたいと言うことである。

 しかし、忌ま忌ましくも肩に居座る死神が、いつ勝手に変身をさせるかわからないのだ。
 ならば、広場での二の舞にならぬよう練習するのが自明の利であろう。

 日頃の練習により、あることがわかった。
 鎌はやはり右手から離れないことと、万年筆を天にかざし、「変身」と念じることにより姿を変えると言うことだ。
 元に戻りたいときは、「解除」などと念じれば良い。
 それに身体能力が少しだけ上昇しているように感じた。
 本当に、微かではあるが。


 そして俺は馬鹿笑いしていた。

「ハッハッハッハッ!
 なんだこれは!」

 水を飲もうと蛇口を捻ったときであった。
 右手で捻ったため鎌の刃先が水に触れたのだ。
 すると、どういうことであろうか。

 触れた先から、水が消失していくのだ。
 唖然としてから、今度はコンロの火に近づけてみた。
 なんと火までも、消失させてしまった。

 意味が、わからない。
 いや、この鎌はそういう仕様なのだと、泣く泣く納得しよう。

 というか、というかである。
 この頃、殊更一般人からかけ離れて行ってしまっているような気がするのだ。
 草食系男子だと言うのにも関わらずである。

 ハハ、もう笑うしかねぇよ。

「ハッハッハッハッ!」

 意味もなく火を点けて消すを繰り返した。
 死神が満足げに笑った。

「ハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッハッハッ!」

「ケケケケケ」

「ハッハッ…泣きたい」

「ケケケケケ」

 そのときであった。
 意味不明な寒気が、身体中を駆け巡ったのである。
 身震いして、テーブルに置いてあった牛乳は、落とさない。

 三度も、同じことをしてたまるかという意地であった。

 しかし棚からドライヤーが落ちてきて頭に鈍痛が響いた。

「おう!」

 その拍子で牛乳をこぼす。
 床は一面、さながらシュプールである。

「な、なんなんだこの連続的なハプニングは…。
 感じる…感じるぞ…!
 これから何かが…確実に起こる…!」

 すると寮内放送がかかり、唐突にも電気が消えた。

「うおー!怖ぇー!
 あっ、蝋燭買い忘れたー!」



[43591] その頬を伝うものは——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:19
 —ヒサキside—
 
 
 
 
 真っ暗闇の中を、俺は死神姿で飛んでいた。
 今日は年に二回ある一斉停電の日。
 蝋燭を買い忘れていたことを思いだし、最寄りのコンビニを目指していたのだ。
 門限破りと寮母さんに烈火の如く怒られるため、窓から忍び飛んできたためであった。

 それにしても、暗い。
 当然である。
 光という光が、すべて消えてしまったのだから。

 これも当然の如く、俺は怯えきっていた。
 本当は、さながらヤドカリのように部屋に閉じこもっていたかったが、それはできない。
 長い時間、明かりもなしに生活することは困難である。
 眠る時に豆電球が必須であるまるで兎のように淋しがり屋の俺には。
 苦渋の選択に迫られ、恐怖の空中散歩を選んだのであった。

 闇に包まれた学園都市。
 それはまるで、罪人達が堕とされる地獄のように思えた。
 極力、肩は見ないようにしている。
 さながら、地獄の番人のようなお方がいるからである。

 寒気に身震いしたとき、それは微かに聞こえた。

「うお!」

 聞こえたのである。
 すいませーん…と。

 思わず急停止した。
 耳を澄ますことに集中した。
 やはり、聞こえた。
 何者かが、確かに俺を呼んでいた。

 まずいまずいまずいまずい。
 間違いなくもののけの類であろう。
 固まっていると、今度は確かに聞こえた。

「ちょっとー!」

 いかんいかんいかんいかん。
 完全なもののけだ。
 脳裏には、女性に化けたのっぺらぼうという妖怪が浮かび上がっていた。

 背筋が凍った。
 早く逃げなければ、そう思うが身体は恐怖心から動こうとはしない。

「すいませーん!死神さーん!」

 ほ、ほら!
 や、やっぱり俺を!
 死…死神?

 不思議に思い、声が聞こえてきた方向である真下を見ると少女がいた。
 それは見た覚えがある少女だった。
 先日、猫に餌を与えていた心優しき鈴の髪飾りの少女のように思えた。

「こっちですー!」

 心から安堵した。
 人が近くにいるだけで、こんなに安らげるとは。
 一人きりは嫌だ。
 そんな子供じみた考えで俺は地面に降りた。

 少女の顔が、引き攣っているように思えた。
 それはそうだ。
 こんな真っ暗闇に少女が一人とは寂しかったことだろう。

 笑顔で言った。
 笑顔は人を落ち着かせることができると、本で読んだことがあった。

「こんな夜更けにどうした?」

 少女はあっと声を上げると、何度も頷いた。

「そそそ、そうなんです!
 助けて下さい!」

 首を傾げた。
 そして、次の顛末には驚愕せざるを得なかった。
 なんと、少女の肩に座っていたイタチが日本語を発したのだ。

「死神の旦那ぁー!
 助けて下せぇー!
 ネギの兄貴が大変なんでさー!」

 しかも流暢な日本語をだ。
 そこらのチンパンジーより知能が高いであろうことは良く理解できた。
 これは凄い。
 こんな生き物がいるとは知らなかったが、凄いぞ。
 ウチの死神でさえ、まだ話せないというのに。
 それと死神の旦那は止めて貰いたいが、いまの格好ならば仕方ないと言えよう。

 それにしても葱の兄貴とはなんなのだろうか。
 まさしく言葉通りだとするならば、最低でも葱の弟がいることになるのだが。

「葱の兄貴…?」

 疑問が口をついて出た。

「こ、この前広場であなたが踏んだ子供です!」

 これで合点がいった。
 「葱の兄貴」という言葉は、「ネギの兄貴」という言葉なのではないだろうか。
 欧州の人のようであったから、ネギという名前なのであろう。
 先日不可抗力にも、広場で踏み付けてしまったスーツの少年のように思えた。
 それにしても、両親はどういった想いでネギと名付けたのだろうか。
 いや、欧州では普通なのかも知れない。

 ならば整理しよう。
 少女とイタチはこう言った。
 助けて下さい。
 ネギの兄貴が危ない。

 直ぐに理解できた。
 な、なに!
 こんな真夜中に年端のいかぬネギ少年が、迷子になっているだと!

 俺でも怖いのだ。
 ネギ少年は、より一層怖いであろう。
 可哀相に。
 脳裏に、暗闇の中でネギ少年が怯えきり涙を流している映像が流れた。

 同時に思う。
 この少女はなんて子供好きなんだろうか、と。
 慌てて、着の身着のままで寮を出て来たんだろう。
 寮母さんに怒られるのもいとわずにだ。
 このイタチにしてもそうだ。
 心優しき生き物だと言えよう。
 度々災厄を巻き起こし、ただ笑うだけの死神に見習わせたいほどであった。

 それならば早く、ネギ少年を見つけてあげなければならない。
 暗闇の怖さは、俺には痛いほど理解できた。
 ネギ少年はまだ幼い。
 これから長く楽しいであろう将来が待っているはずだ。
 それが、最悪なトラウマによって台なしになりかねないのだ。

 上空からの方が、見晴らしが良く探しやすいだろう。
 真剣な表情で言った。

「早く行こう」

「え?」

 少女が固まった。
 イタチも固まっていた。

 時間がない。
 トラウマになるまえに。
 強く言った。

「助けに行くんだろ!」

「は、はい!」

「あ、ありがとうごぜぇーます旦那ぁー!」

 少女の瞳が輝いた。
 本当に優しきイタチだ。
 器用に土下座までしていた。

「事態は急を要する。
 すまないが」

 少女をお姫様抱っこの形で持ち上げた。
 変身中の俺ならば、少女を抱えるくらいならば可能である。
 当然ながら、少女が慌てふためいた。

「ち、ちょっとー!」

 その言葉を無視して、俺は空中に浮かび上がった。
 事態は急を要するのだ。
 セクハラ紛いに思われるかも知れないが、いまは俺の今後よりネギ少年の今後の方が百倍大事であると言えよう。
 少女が意図を理解したのか黙り込んだ。
 セクハラの疑いは晴れた。
 これで後腐れはなくなった。

 周囲に目を凝らした。
 見つからない。
 いや、辺りが闇に閉ざされているため目が利かない。
 ならばと、質問した。

「当てはあるのか?」

 少女は聞こえていないのか、俯き黙り込んでいる。
 イタチが指差しながら答えた。
 本当に頭が良いイタチだ。

「向こうですぜ旦那!」

「向こうだな」


 全速力でそちらに向かった。
 未だに恐怖心はあるにはあるが、気にならなくなっていた。
 ネギ少年はより一層怖い思いをしているはずだ。
 年長者である俺が怖がってはいられないのだ。

 さながら空を裂くように、速度を上げた。
 この紫紺の霧のお陰か、少女とイタチにも風圧の影響はないようだ。

 途中にあった壮大なる橋を追い越し、そのまま進んだ。
 ネギ少年はどこで泣いているのだろうか。
 イタチが慌てて叫んだ。

「死神の旦那!
 通り過ぎちまいましたぜ!
 さっきの橋です!」

「なに!」

 即座に転身して、橋に向かった。
 前方に橋が見えてきた。
 ネギ少年らしき小さな人影を確認した。

 深く安堵した。
 ネギ少年は恐怖心からか倒れていた。
 しかし、更に二人の人影が確認できたことから、介抱されているようであった。
 徐々にその人影が明確になり、正体が判明した。
 それはメイド姿がお美しい茶々丸さんと、なんとマント姿のエヴァンジェリンさんではないか。
 茶々丸さんが優しいのは周知の事実だが、あのエヴァンジェリンさんもやはり心優しき美幼女だったのだ。
 怯えるネギ少年をトラウマから救うため、エヴァンジェリンさんが抱きしめていた。
 なんて美しい場面なんだろうか。
 この美しさには、さながら国宝級の絵画でさえも無条件に平伏すであろう。

 イタチが言った。

「死神の旦那!あそこに寄って下せぇ!」

「任せろ」

 当然だろう。
 早くネギ少年の側まで赴き、安心させてやらねば。

 イタチが少女に言った。

「姐さん!姐さん!何してんでさぁ!」

「う、うるさいわね!わかってるわよ!」

 俺の胸元に、少女が顔を埋めたまま叫んだ。

 茶々丸さんとエヴァンジェリンさんが、こちらに気づいた。
 少女を抱えているため、開いている右手で感謝の意を示した。

 ありがとう。
 これで一見落着である。

 しかし、ネギ少年たちの側に急停止したときだった。
 とんでもない事態が起こったのであった。

「いくぜぇ!
 オコジョフラァーッシュ!」

 突如、目が潰されたかと誤解するほどの光源が発生したのだ。
 反射的に瞼を閉じた。
 少女が危険なため優しく降ろした。

「あ、ありがとう」

 声だけが聞こえてきた。
 それにしても、それにしてもである。
 オコジョフラッシュとやらは、あの声からイタチが発生させたに違いない。
 こいつは、なにを思いあんな行動をしたのだろうか。
 やはり小動物、ということなのだろうか。
 まあ、ハッピーエンドには変わりないから良いだろう。
 人間にはわかり得ない、イタチなりのお礼の一種なのかも知れなかった。

 光が納まり、ゆっくりと瞼を開いた。
 傍らにいたネギ少年が、こちらを見つめて小刻みに震えていた。
 感動しているのだろう。

「し、死神さん…!」

 俺は笑顔を返す。
 良いんだ。良いんだよ。
 暗闇の怖さは重々承知の上だからね。

 少女が笑って言った。
 イタチも言った。

「ネギ、この人は助けに来てくれたのよ」

「そうでさぁーネギの旦那!」

 おいおい照れるよ。
 そんなに誉めないでくれ。

 ネギ少年の瞳が輝いた。

「そ、そうなんですか!?
 あ、ありがとうございます!」

「構わないよ」

 優しく言った。
 人助けとは、なんと気持ちの良いことだろうか。

 これにて一見落着。
 めでたし。めでたし。
 さて、蝋燭を買いに行かねばなるまいな。
 そう考えていると、唐突にもイタチが言った。

「ささ、ネギの兄貴!
 ここは死神の旦那に任せて仮契約を!」

「ネギ、こっちよ!」

「そ、そうですね!
 死神さん少しの間、お願いします!」 
 
 うん。
 意味がわからない。

 唖然としていると、二人と一匹は足早に、高くそびえ立つ橋脚の陰に隠れた。

 これは、どういうことなのだろうか。
 素直に不思議であった。
 エヴァンジェリンさんと茶々丸さんならば、なにか理解しているかも知れない。
 振り返ってみると、エヴァンジェリンさんが愉快そうに笑っていた。

「小林氷咲よ、今宵の月は綺麗だと思わんか?」

 質問に、反射的に頷いた。
 月の身体が半分ほど、雲に隠れていた。
 その様は幻想的であり、まさにお月見に持って来いな夜であった。

 エヴァンジェリンさんがまた愉しそうに笑った。
 そして、仰々しい所作をして言った。

「ではお前に選択肢を与えるとしよう。
 答えはYESか、NOだ。
 単刀直入に言おう。
 小林氷咲。
 お前、私のものになれ」 
 
 愕然とせざるを得なかった。
 これは、まさしく、そういうことなのだろう。
 愛の告白。
 吸血鬼らしく遠回しな言い方ではあるが、これは愛の告白ではないだろうか。

 誰が?
 エヴァンジェリンさんが。

 誰に?
 俺、小林氷咲に。

 驚愕はまだ続いていた。
 しかし、これでネギ少年たちが、なにやら理由をつけてこの場から去った理由が理解できた。
 空気を読んだのであろう。
 いや、ネギ少年の迷子という騒動さえ、エヴァンジェリンさんによる愛の告白の舞台を整えるための嘘のように思えた。
 それにである。
 茶々丸さんから貰った「果たし状」は、もしかしたらエヴァンジェリンさんが俺に宛てた恋文だったのではないだろうか。
「魔力を辿ってこい」
 まさしく吸血鬼であるエヴァンジェリンさんが選びそうな言葉であった。
 それを俺が茶々丸さんとの交換日記だと勘違いしたことを、吸血鬼的能力で知った。
 だから急遽、皆で告白する舞台を整えたのではないだろうか。
 可能性は極めて高く思えた。

 俺のどこに、エヴァンジェリンさんが惚れる要素があるかは皆目検討はつかない。
 しかし、こんなに嬉しいことが辛かった人生の途中に、定めづけられていたとは。

 純粋に、感動した。
 俺に幼女趣味などはない。
 ないが、エヴァンジェリンさんが成長すると、さながらモデル顔負けの金髪美女になるであろうことは容易に想像できた。

 嬉しい。確かに嬉しかった。
 だが、しかしだ。
 俺にその魅力的な誘いを受けることはできない。
 それはエヴァンジェリンさんが悪い訳ではない。
 いや、どこも悪いところはないと言えた。
 器量、将来性に性格、吸血鬼だろうとなんだろうと、どこをとっても非の打ち所のない素敵な女性であった。

 しかし、俺には心に決めた女性がいるのだ。
 それは絡繰茶々丸さんという女性だ。
 エヴァンジェリンさんに負けずとも劣らない素敵な方である。
 茶々丸さんはどこか緊張した面持ちで、俺を見つめていた。
 その表情は、固かった。
 なにかを恐れているような感覚がした。
 それは、そういうことと捉えても良いのだろうか。

 いや、駄目だ。
 エヴァンジェリンさんは真剣なのだ。
 こんな状況なのにも関わらず、姑息なことを考えている恥ずべき己を叱咤した。

 エヴァンジェリンさん…すまない。
 愛の告白を断るときは、女性を傷つける曖昧な表現だけはするなと、本で読んだことがあった。
 断腸の思いで言った。
 申し訳ない気持ちで、一杯であった。

「すまない。
 魅力的な誘いだが…それを受けることはできない」

 恐々とエヴァンジェリンさんを見遣ると、不敵に笑みを浮かべた。
 唖然とした。

「ハーハッハッハッ!
 小林氷咲、やはりお前は不器用な生き方しかできんようだな。
 私たちは、少々プライドが高いところがあるからな。
 本当に、お前という男は気高いな。
 お前の気持ちは痛いほどにわかったよ。
 ならば…無理矢理にでも私のものにするだけだ。
 茶々丸、手を出すな。
 こいつは、私の手で屈服させねば意味がない」

「了解しました」

 うん。
 全く意味がわからない。

 しかし、物事を整理する時間は与えられなかった。

「行く、ぞ。
 魔法の射手(サギタマギカ)
 連弾(セリエス)氷の17矢(グラキアーリス)!」

 エヴァンジェリンさんがそう叫んだ。
 同時に、背筋に冷たいものが走ったのだ。
 これは慣れたくても、慣れることなどできはしないある予感。
 死の、予感であった。
 咄嗟に、鎌を前に出した。
 それでどうなると考えた訳ではない。
 ただ咄嗟に。

 鎌が怪しく紫色に光り、軽い衝撃と閃光が断続的に続いた。

 生きているのかどうかでさえ、自分でもわからない。
 それほど、焦燥心が暴れ狂い混乱した。
 なんとか落ち着き、エヴァンジェリンさんを見遣ると唖然としていた。

「その鎌はなんだ?
 魔法無効化能力でも付加されているのか?
 面白いじゃないか」

 いや、面白くはない。
 それから断続的な、死の予感が襲い続けた。
 怯え混乱しながらも、なんとか鎌を振り続けた。
 閃光、冷風、紫色の光。
 闇を裂く、爆発音。

 焦りながらも、思考が冴えていった。
 なぜこんな事態に陥っているのだろうか。
 それはエヴァンジェリンさんの愉しげな笑みから推測できた。

 間違いない。
 これはヤンデレである。
 愛の告白を断ってしまったため、先日の桜咲さんと同様、逆上してしまったのだろう。

 しかし、エヴァンジェリンさんすまない。
 こんな危機的状況に陥ったとしても、きみの誘いを受けることはできないんだ。

 攻撃が止んだ。
 静寂が辺りを覆い込んだ。
 それを切り裂くようにエヴァンジェリンさんが言った。

「そうだな。
 やはりこの程度ではお前は倒せんか。
 さすが私が認めた男、か。
 フッ。
 次は少々、力を入れるぞ。
 生き残れ。小林氷咲!
 来れ氷精 爆ぜよ風精 氷爆(ニウィス・カースス)!」

 叫び声が、俺の鼓膜に突き刺さった。
 これまでとは比較にならないほどの、悪寒が身体を襲った。
 身体中が激しく震えた。
 ここまでの激しい寒気は、人生で初めてのことだった。
 脈拍が乱れ、口が渇いた。

 選択肢を考える余裕はない。
 俺は高く跳躍した。
 靴の裏に、凄まじい衝撃が加わった。
 無情にも、身体が空中へと投げ出された。
 死んだな。
 そう、他人事のように思えた。

 しかし俺は生き残った。
 持ち前の悪運が、発揮されたのだろうか。

 上空へと飛ばされ、天を目指せとばかりにそびえ立つ橋脚の上に着地したのだ。
 脈拍が激しく、胸が苦しい。
 額の脂汗を拭った。
 そのまま、倒れ込んだ。
 深呼吸を繰り返した。

 雲間から覗く星が瞬いた。
 浮かぶ月が、儚く感じた。
 唐突に、不幸ばかりの人生だったと思った。
 不運ばかりが起こった。
 死神にとり憑かれても、誰も、両親さえも信じてはくれなかった。

 真下から光が上がった。
 身体を起こして、腹ばいで覗いてみた。

 余りの高さから、エヴァンジェリンさんが小さく見えた。
 こちらには気づいてはいないようだ。
 安堵の息を漏らした。
 何度、殺されかけたかわからない。

 注視すると、エヴァンジェリンさんとネギ少年が戦っているように思えた。
 それにしても、ネギ少年は何者なのだろうか。
 あのエヴァンジェリンさんと対等に、光弾を打ち合っていた。
 ネギ少年も吸血鬼なのかも知れない。

 ネギ少年は、エヴァンジェリンさんの暴走を諌めているのだろう。
 なんて、優しい少年なんだ。
 ネギ少年頑張ってくれ。
 元々手におえる相手ではないし、当人である俺が出ていけば、またエヴァンジェリンさんは逆上してしまうだろう。

 その戦いは、さながら夢物語のようであった。
 闇空の下、幾多もの光弾がぶつかり合い爆発していた。
 それはまるで広大な宇宙を彷彿とさせた。

 どれほどの時間が経っただろうか。
 その様に目を奪われていた。

 エヴァンジェリンさんとネギ少年の両方から、太い棒状の光線が放たれた。
 それはぶつかり合い、拮抗しているようだ。
 橋脚が震えた。
 この壮大な橋脚に、振動が起こったのである。
 有り得ない、衝撃であった。

 そして、事態は起こった。
 唖然としていた俺は、その振動から体勢を崩した。
 落下していく。
 徐々に速度が上がっていく。
 不運なことに、光線が拮抗する中心へと落下していっているようであった。

 飛べぇ!

 念じるが、間に合わない。
 辺りの風景が、スローモーションのように感じた。
 だが諦める訳にはいかない。
 光線が拮抗する中心に、鎌を突き立てた。
 それは一縷の望み。
 この鎌には火や水などを消失させる能力があったはずだ。

 突如、爆発的な閃光がほとばしった。
 身体が空中へと回転しながら投げ出された。
 なんとか助かったようだ。
 空中で身体を急停止することに成功した。

「マスター、停電から復旧します!
 修正予想時間よりも早い!」 
 
 茶々丸さんの声に、辺りを見回した。
 マスターとは誰のことを指しているのだろうか。

 橋の上には吹き飛ばされているネギ少年を、少女が介抱していた。
 次に、空中に浮かぶエヴァンジェリンさんを見遣ったときであった。
 突如、エヴァンジェリンさんの身体に電気が走ったのだ。
 呻き声を上げて、真っ逆さまに湖へと落ちていく。

 どうしてこういう事態になっているか、皆目見当はつかない。
 つかない、つかないがだ。
 エヴァンジェリンさんが例え吸血鬼だとはいえ、この高さから水面に叩きつけられては生きてはいられないように思えた。

 身体が独りでに動いていた。
 ローブを翻し、エヴァンジェリンさん目掛けて、全速力で降下した。
 エヴァンジェリンさんには、度々殺されかけた。
 だが、しかしだ。
 俺に向けて愛の告白をしてくれた女性一人助けられないなんて、それは余りにも情けなさ過ぎるだろ。

 空中で手を伸ばす。
 届け。届いてくれ。
 水面が、徐々に近づいてきている。
 必死に手を伸ばした。

 そして、届いた。
 エヴァンジェリンさんの右腕を確かに掴んだ。
 すると、ネギ少年も真剣な表情で左腕を掴んでいた。

 ネギ少年がなにやら呟くと、湖畔から杖らしきものが飛来してきた。
 杖を片手で受け止め、跨がろうとして言った。

「魔力が安定しないんです!
 死神さん!」

 望むところだ。
 俺は二人とも、まとめて胸元に抱えた。
 ゆっくりと、上空に浮かび上がった。

 良かった。
 本当に良かった。
 気持ち良く笑った。
 ネギ少年も笑い、橋の上の少女も笑っていた。

 エヴァンジェリンさんがこちらを見つめて呟いた。

「お前たち…なぜ助けた」

 笑顔で、言った。
 ネギくんも同時に言った。

「だって人を助けるのに、理由はいらないじゃないですか」
「人を助けるのに、理由はいらないからね」

 エヴァンジェリンさんが一瞬唖然としてから、俺の胸元に顔を押し当てた。

「貴様ら…」

 ゆっくりと、橋に降りた。
 茶々丸さんと少女とイタチが出迎えてくれた。
 まさに、ハッピーエンドではないか。
 心地好い疲れを感じながら、ネギ少年を先に降ろす。

 続いてエヴァンジェリンさんも降ろそうとしたとき、感慨深げに呟いた。

「私は、お前を全ての災厄から守ろうとしたのだが…。
 結果は私の負け…か」

 優しい声音を聞いたとき、その言葉の意味を知ったとき、短き人生の走馬灯が駆け巡った。
 死神にとり憑かれたこと。
 不運が重なりだしたこと。
 エヴァンジェリンさんに桜通りで殺されかけたこと。
 広場で一般人から掛け離れはじめたこと。

 エヴァンジェリンさんは、こんな不運だらけの俺を守ろうとしてくれていたのか。
 そこまで好きでいてくれたと言うのか。
 感謝してもしきれない。

 独りでに口が開いた。

「こんな俺を…守ろうと…」

「ああ、当たり前だろう…。
 私とお前は同類…。
 ど、どうしたんだお前!」

 エヴァンジェリンさんに言われて、頬を伝う水分に気づいた。
 俺は泣いているのか。
 それは感動の涙のように思えた。

 涙を拭い、笑顔で言った。

「エヴァンジェリンさん。
 ありがとう。
 守ろうとしてくれて」

 エヴァンジェリンさんは一瞬呆気にとられたが、直ぐに暖かく笑った。
 それはまるで、聖母のような神聖な笑みに思えた。

「いいんだ。
 私は全部わかっているからな」

 夜空の星が、煌めいた。
 胸が苦しくて、そして、途方もない安らぎを感じた。



[43591] その頬を伝うものは——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:19
—神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
 夜遅く、学園都市を走っていた。
 エロオコジョからネギが無謀にも一人で、エヴァンジェリンに戦いを挑んだと聞いたからだ。
 バカだと思った。
 あいつはまだ十歳のガキなのに、格好ばかり付けて。

 辺りは薄暗く、何かが出そうな気配がした。
 だけど、余計なことは考えずに前だけ見て走り続ける。
 少しでも早く、ネギの下に行ってあげなければ。
 でもそれを邪魔するかのように、右肩に居座っていたカモが上空を指差した。

「あ、姐さん!あれは!」

「なによ、うるさいわね」

 雲間から星がかいま見える空へと視線を移して、固まった。
 そこに、いた。浮いていた。
 後ろ姿だけで、何者なのか把握できた。
 闇色のローブの端が舞い踊るようにヒラヒラと揺れていた。身体中から紫色のオーラが溢れ、夜風に惑うように消える。
 この麻帆良にそんな人物を目撃したとして、思い当たる人物は、記憶の中で一人しかいなかったからだ。
 それは先日の広場にて出会った、死神紛いの人物に他ならなかった。

 浸透していくように思う。
 この徐々にさざめきだす恐怖心は、なんなのだろうか。
 ネギが、言っていた。
「あの死神さんは茶々丸さんを気まぐれで助けただけだったんです。僕たちに危害は及びませんし、敵対する必要もありません」
 あっそう。と私は気になどしていないというふりをしたけれども、内心は怖い、と思う。
 最近、魔法関係に関わった私には、目前の死神は、少々刺激が強すぎた。

 死神は、闇夜に紛れて浮かび、なにかに導かれるように移動していた。
 その姿はまるで、血眼になって獲物を物色している猛禽類のように見えた。
 明確に残る記憶。逆さまの状態で、愉しそうな笑みを隠さずに、艶やかな白銀の鎌を振るう姿が呼び起こされた。

 背筋に冷たいものが走った。
 これは、絶対に関わってはならない。住む世界が、まるで違う。
 息を潜めた。体制を低くして通り過ぎようとすると、エロオコジョがとんでもないことを言い放った。

「そうだ。姐さん。
 死神の旦那にも、助太刀してもらいやしょー!」

 唖然とした。一瞬、意味がわからなかった。
 この小動物はなにを言っているのだろうか。

「は?」

「だからー!
 いまの戦力はネギの兄貴と姐さんだけですぜ!
 これだけでは、あのエヴァンジェリンに勝つには心許ない!
 ここに死神の旦那が加われば、怖いもんなしでさー!」

 未だに唖然としたままだったが、取り合えず行動した。
「だからー」の部分に、異様に腹が立ったからだ。
 それに気づかれたらどう責任を取るつもりなのか。
 カモの両頬を力一杯捻り上げると、そのまま空中に吊した。

「あ、あんたバカじゃないの!」

「ひへへー!はんふは!」

「敵だったらどうするのよ!」

「ははははほ!」

 少しの間体罰をくわえていたが、さすがにカモがなにを言っているのかわからなかった。名残惜しかったが、仕方なく指を離した。
 カモが頬をさすりながら、こちらを怨みがましい目で見てきた。

 それから私とカモの口喧嘩が続いた。
 結果を言えば、話しかけてみることになった。
 カモ曰く、このままなにも行動しないで向かったらエヴァンジェリンに勝てる見込みはない。
 ならばここで賭けに出て、死神を仲間に出来れば良いし、例え襲われたとしたら運がなかったと諦めよう。
 なにも行動しないにせよ、賭けに負けるにせよ、結末は一緒だと言うことだった。
 ネギが危険なため深く考える余裕もなかったし、カモの言うことには確かに頷けた。
 身体は強張っていたけど、死神の背中に恐る恐る声を放った。

「す、すいませーん」

 死神の動きが、急に停止した。
 私の身体が、恐怖心からビクリと動いた。
 気づかれた。
 だけど、振り向く気配はしない。
 カモを見やると、もっと言えとばかりに何度も死神に指を差していた。
 その真剣な顔が、無性に腹が立った。
 もう、破れかぶれよ。

「ちょっとー!」

 だけど死神は、夜に紛れ込むように身動きをとらない。

「姐さん!もっと大きく!」

 こいつ、あとで吊すわ。

「すいませーん!死神さーん!」

 カモは声の大きさがお気に召したのか親指を立てた。
 あとで、絶対に剥ぐ。

 激情に駆られていると、ゆっくりと死神が振り返り、こちらを見つめた。
 薄暗いためその瞳は見えない。
 だけどそう思えた。

 内心怯えながらも、ここまで来てしまっては退けない。

「こっちですー!」

 死神が音もなく、静かに降りてきた。
 そして、瞳が露になった。
 無機質な淀みが見えた。
 唐突に笑みを浮かべた。
 なにかを測られている気がして、居心地が悪くなった。

「こんな夜更けにどうした?」

 その声色には、有無を言わさぬ迫力があった。
 私は小さな声を上げた。
 不穏な雰囲気にのまれて、重要なことを忘れていた。
 焦って、何度も頷いた。

「そそそ、そうなんです!
 助けて下さい!」

 死神が首を傾げた。
 それはそうだ。
 焦りすぎて、きちんと説明することができなかった。
 カモが見兼ねたのか助け船を出した。
 ここにきてやっと役に立ったわね、この小動物は。

「死神の旦那ぁー!
 助けて下せぇー!
 ネギの兄貴が大変なんでさー!」

 死神の鋭い瞳が、私の肩口に突き刺さった。
 カモがその殺気に固まり、小さく呻いた。
 私は他人事と、内心これは良い薬だと思っていた。

 カモに興味が薄れたのか、死神がまた首を傾げた。

「ネギの兄貴…?」

 そうだった。
 唐突に名前を出されても、理解できるはずがない。
 咄嗟に答えた。

「こ、この前広場であなたが踏んだ子供です!」

 死神の瞳が揺れて、唐突に怒りを表情に表した。
 紫色のオーラが、暗闇に煌めいては消えた。

 まずい。
 死神は私達を覚えてはいなかったんじゃないか。
 いまの言葉で思い出したんじゃないか。
 先日、死神と私達は敵だったことを。
 脳裏に映像として、ネギが顔面蒼白で駆けてきたことが思い出された。
 死神さんの正体を明かしてはいけません。
 明かせば、殺されてしまいます。
 どうして、こんな大事なことを忘れていたのだろうか。

 その圧倒的な迫力に、私は押し黙った。
 恐怖に心が侵され、目を反らすことさえできなかった。
 肩口の震えを感じた。
 それはカモの身体の震えだろうと思われた。
 身体がすくんで、逃げることもできそうにない。
 死神にとって、私達とは、さながら死刑判決を下される罪人と同価値に成り下がってしまったんだろう。

 死神の口が開いていく。
 そこから、どれほど凶悪な毒を吐くんだろうか。

「早く行こう」

「え?」

 固まった。
 空気さえ、止まったように感じた。
 何度も、反芻する
 早く行こう。
 死の世界、にだろうか。
 だけどその声音は、優しさを孕んでいるように思えた。
 いや、でも。

 夜風を切り裂くように、その声は放たれた。

「助けに行くんだろ!」

 反射的に頷いた。
 その真剣な声音で気づかされた。
 この死神さんは、ネギを助けようとしてくれているんだと言うことを。

「は、はい!」

「あ、ありがとうごぜぇーます旦那ぁー!」

 怒ってなどいなかったんだ。
 私達の勘違いだった。
 ただ真剣に、考えてくれていただけなんだ。
 死神さんの、不穏なイメージが音を立てて崩れていった。
 カモも理解したのか、へこへこと土下座までしていた。

 私の身体中に巻かれていた恐怖心という鎖が、徐々に解けていくのを感じた。

 見ず知らずのネギを助けてくれようとするなんて、なんてお人よしな人なんだろうか。
 しかも、相手は相当に強いらしいエヴァンジェリンだ。
 死神さんがその強さに気づいていないはずがない。
 先日の広場で、茶々丸さんを助けたのは気まぐれだと聞いた。
 多分、ネギも気まぐれで助けてくれるんじゃないだろうか。

 同時に思う。
 だけどそれは、強くなければできないことだ。
 だけどそれは、優しくなければできないことだ。
 こんな人も、いるんだ。

「事態は急を要する。
 すまないが」

 思考に囚われていた私は、唐突にも死神さんに抱えられた。
 しかも、お姫様抱っこという恥ずかしい形でだ。

 い、いきなりなに!

 唖然としながらも、力一杯身をよじった。
 訳がわからなかった。
 だけど、死神さんの拘束から逃れることはできなかった。
 この細い腕のどこに、これだけの力が隠されているんだろうと思った。

「ち、ちょっとー!」

 死神さんが、一切の表情を表さずに瞼を閉じた。
 直後、フワリと視界が浮き上がった。

 と、跳んでるの?

 徐々に視界が、開けていく。
 月が大きく、町並みが小さく見えた。

 意図が理解できた。
 ネギの危機をなるべく早く救うために、走るよりも飛んで行くつもりなんだ。
 ネギのことをきちんと考えてくれているのが、良くわかった。

 初めての飛行体験で、しかも遊園地のように安全レバーもないと言うのに、恐怖心は微塵もなかった。
 死神さんが、優しく抱いてくれているためかも知れないと感じた。

 だけどこれは、人生の中で五指に入るだろうほど恥ずかし過ぎた。
 見上げれば、そこには死神さんの凛々しい顔があった。
 息遣いさえ聞こえてくるほど近くにだ。

 俯き顔を隠した。
 それは必然的に、胸に顔を埋めることになった。
 死神さんの心臓の鼓動が、微かに聞こえた。
 不思議と、嫌じゃなかった。

「当てはあるのか?」

 羞恥心から、答えることができなかった。
 カモが直ぐに答えた。

「向こうですぜ旦那!」

「向こうだな」 
 
 その声を聞いて、ふと瞼を開いた。
 さながら、空気を切り裂いていると思えるほどの速度で飛び、風景が目まぐるしくも通り過ぎていった。
 紫色のオーラが私の身体を包み込んでいた。
 風圧を感じないことから、守ってくれているように思えた。
 力強い瞳は、ネギがいるだろう方向を捉えていた。
 この人は、本当に良い人だったんだ。

 前方に大きな橋が見えて、小さなネギの身体を確認できた。
 頭を振って、気を取り直す。
 よし、やってやるわよ!
 だけど、その決意は空回ることになった。

 なんと死神さんは橋を追い越し、そのまま飛んで行ってしまったからだ。

 え、ええー!

 内心、目を見開き驚いていると、カモが慌てて突っ込んだ。

「死神の旦那!
 通り過ぎちまいましたぜ!
 さっきの橋です!」

「なに!」

 死神さんが、慌てて転身し橋に向かった。

 死神さんでも、失敗することがあるのね。
 私は苦笑しながら、多大な親近感を覚えていた。
 強く優しく、時折天然で可愛くもある人なんだ。

 程なくして、橋の上のネギが倒れ込んでいるのが見えた。
 エヴァンジェリンが、覆いかぶさり吸血しようとしていた。
 側で茶々丸さんが、静かに佇んでいた。

 カモが珍しく真面目だった。

「死神の旦那!あそこに寄って下せぇ!」

「任せろ」

 これから戦いが始まる。
 だけど、怖くなかった。
 死神さんの存在が、勇気づけてくれているからだと思えた。

 独りでに、顔が動いていた。
 胸元に埋めたまま思う。
 この人が側にいるならば、負ける気がしない。
 それほどに死神さんへの信頼感は、私の心に力強く根付き始めてていた。 
「姐さん!姐さん!何してんでさぁ!」

「う、うるさいわね!わかってるわよ!」

 顔を胸元に埋めているのをカモに見られて、私は恥ずかしさから叫んだ。
 カモが今から目をくらます光を発生させるはず。
 だからは私は目を隠しているだけで、他意はない。
 心の中で呟いた。
 急停止する気配がした。
 カモが肩口から離れた気配がして、叫び声が聞こえた。 
 
「いくぜぇ!
 オコジョフラァーッシュ!」

 瞼を閉じていてもわかるほどの光りを捉えた。
 説明を忘れていたはずなのに、死神さんには全くと言って動揺している気配がなかった。
 さすがに違う、と思った。
 私をまるで壊れ物を扱うように優しく地面に降ろしてくれた。
 お礼だけは言わないと。
 照れながら口を開いた。

「あ、ありがとう」

 声は返ってこなかった。
 少しだけ落ち込んでいる自分に驚きを感じた。

 光が次第に納まっていき、瞼を開いた。
 視界に、ネギが死神さんを見つめて小刻みに震えているのを捉えた。
 怯えているのだろうか。

「し、死神さん…!」

 死神さんは意に介さず、優しげな笑みを返した。
 ネギは信じられないのか、怯えていた。
 笑って言った。
 私だって、初めは信じられなかったものね。
 いつの間にか肩口に居座っている、カモも笑った。

「ネギ、この人は助けに来てくれたのよ」

「そうでさぁーネギの旦那!」

 ネギは唖然としたあと、理解したのか瞳を輝かせた。

「そ、そうなんですか!?
 あ、ありがとうございます!」

「構わないよ」

 死神さんが優しい声音で笑いかけた。
 これから戦いに赴くと言うのに、その余裕さは、こちらまでどこか楽しい雰囲気になった。
 だけどここは戦う場だと、カモが痛いほどに示した。

「ささ、ネギの兄貴!
 ここは死神の旦那に任せて仮契約を!」

 この人なら大丈夫だと思うが、どこか後味の悪さが残った。
 だけど、今の私では、死神さんの力とはなれない。足手まといだと言うことは、十分過ぎるほどに理解できていた。
 仮契約をすることによって、死神さんの負担を少しでも軽減できるならば嬉しい。
 高くそびえ立つ橋脚の陰に走りながら叫んだ。

「ネギ、こっちよ!」

「そ、そうですね!
 死神さん少しの間、お願いします!」

 ネギも足早についてきた。
 カモが魔法陣を書いている最中、私は死神さんをこっそりと覗いてみた。
 死神さんは、エヴァンジェリンと茶々丸さんと対峙していた。
 一対二だと言うのに、その背中から緊張感は漂っていない。
 まさに自然体。
 さながら、ここに遊びに来たと言わないばかりの余裕さだ。
 これが、時間を稼ぐために身体を粉にして戦う男の背中なんだろう。
 まるでアクション映画のワンシーンのようだった。
 歳は少ししか離れていないはずなのに、その背中は、往年の名俳優のような哀愁や渋さを感じさせられた。
 
 
 
 
 —エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 気持ちが高ぶっていた。
 十五年に渡る忌ま忌ましき呪いが、いま解ける。
 ネギが倒れ込み、いまにも泣き出しそうに怯えていた。
 これまで苦渋のときを想い、ゆっくりと首筋に牙を突き立ててようとしたときだった。
 茶々丸が警戒の声を上げた。

「マスター、闖入者です」

 一時、牙を戻し、前方の暗闇を見つめた。

「やっと来た、か」

 そこには、さながら気高さを冠した烏が在った。
 漆黒のローブから紫色の魔力の波動を撒き散らし、こちらに向けて鎌を振るう所作をした。
 暗闇に、愉悦の笑みがこぼれていた。

「ほう、まさに絶妙なタイミングでのご登場だな」

 ネギを助けにきたのだろうことは、明白だった。
 なぜならその胸元には、神楽坂明日菜が抱えられていたからだ。
 それは神楽坂明日菜が、麻帆良の死神こと小林氷咲に助けを求め、受諾したことを物語っていた。

「私と言う絶対の強者を相手どってなお、万が一にも勝てぬ弱者の側に立つ、か」

 呟きが、辺りに沈んだ。
 それはつまり、小林氷咲は私と敵対することを選んだのだ。
 まさに気高く、途方もなく優しき大馬鹿者なのだろうか。
 言葉では言い表せないほどの、不器用な愚か者。
 しかし、それは同時に美しくもあった。

 心に深い傷を負った一羽の烏が目前まで来ていた。
 笑みを浮かべながら、戦闘態勢を整えた。
 茶々丸に目で警戒を促す、その瞳が微かに揺れているように感じた。

 ネギはこちらの手元。
 簡単に返してやってもいいが、それでは面白くない。
 さあ、小林氷咲。
 どうやって奪い返すのだ。

 辺りの空気を纏い、小林氷咲が目前で急停止した。
 一瞬、その速度から発生した突風に片目の視界を奪われた。
 神楽坂明日菜の肩口から、白いなにかが飛び出した。

「いくぜぇ!
 オコジョフラァーッシュ!」

 突如、まばゆい閃光が放たれて、一時的に視力を奪われた。
 傍らの茶々丸が言った。

「マスター!」

 口許に笑みを浮かべた。
 自らが最大限の囮となり注意を引き付け、本命はオコジョ妖精と言う奇策か。
 もう足元に、ネギのぼうやの身体は消えているだろう。
 さすがと誉めてやりたいほどの戦略だ。

「大丈夫だ。
 小林氷咲の狙いは奇襲ではない。真の狙いは、ぼうやの保護」

 確信できた。
 なぜなら、小林氷咲には微塵も殺気を感じない。
 これは挨拶。
 真の戦いは、これより始まる。

 光源が消え去り、静かに瞼を開いた。
 ネギ達が頼もしそうな目で、小林氷咲を見つめていた。
 小林氷咲は、これから私との戦いが始まると言うのに、自然体でそこに立っていた。
 それは歴然の強者にしか表せられない風格。

 しかし小林氷咲は、自らと私との圧倒的なまでの実力差は重々承知しているだろう。
 それでもなお、小林氷咲は弱者の側に立ち、さも自然体だと、さも余裕だと振る舞うのだ。
 擬態を用いて自らをより高みに見せる。
 それは小林氷咲の類い稀なる戦略の一端。
 ネギと神楽坂明日菜が、私とは正反対に駆けて行くのを視界に捉えた。
 何を言ったかは知らんが、小林氷咲の入れ知恵があるかも知れん。
 茶々丸に、目だけでネギ達を警戒せよと伝えた。
 茶々丸が、どこか緊張感を漂わせて頷いた。

 一人残った小林氷咲が、ローブの端を遊ばせて振り返った。
 表情は一転、固かった。
 それは戦う男の双眸だと言えよう。
 実力差を痛いほど理解しながらも、弱者のために命を賭けられる一人の男、か。
 それはさながら、獅子のように雄々しい。
 先ほどの余裕しゃくしゃくな笑みは、ネギ達を勇気づけるための擬態なんだろう。
 まさしく美しき愚か者だ。
 私は笑みを浮かべた。

「小林氷咲よ、今宵の月は綺麗だと思わんか?」 
 
 小林氷咲が、声を発さず、頷きだけで返した。
 私も、小林氷咲も、自然に夜空を見上げた。
 月が身体の半分ほどを雲に遮られていた。
 月光が仄かに、私達を染め上げていた。

 停電復旧まで、まだまだ時間はあった。
 その気になれば、五分もあればネギから血を吸うことは可能だと言えよう。
 ならば、この愉しくも相応しい舞台に、もう少しだけ踊るとしよう。

「ではお前に選択肢を与えるとしよう。
 答えはYESか、NOだ。
 単刀直入に言おう。
 小林氷咲。
 お前、私のものになれ」
 
 私と小林氷咲の関係は、一言で言うなら奇縁だ。
 煩わしい説明会話など、一切必要ではない。
 私が保護したいと申し出ることは、小林氷咲のプライドをへし折る行為だ。
 ならば上下関係をはっきりさせるだけでいい。
 ただ、どちらが上か。
 勝った方が負けた方を守るという、さながら動物のような主従関係。
 それだけでいいのだ。

 小林氷咲の双眸が、微かに揺れたのを察知した。
 逡巡しているのだ。
 それは心の深淵から出ようとする、鈍痛に似た揺らぎ。
 守られたい。
 愛されたい。
 本質がそう甘く囁く。

 小林氷咲が、瞼を閉じた。
 そして、開いたとき揺らぎは消えていた。
 奴の不器用さが、その揺らぎをまた心の深淵に閉じ込めたのだろう。
 しかし、声色にだけ、その苦渋の揺らぎは姿を現した。

「すまない。
 魅力的な誘いだが…それを受けることはできない」

 気高き獅子だ。
 俺を従わせたいなら、屈服させてみろ。
 小林氷咲の、生い立ち故の不器用な心はそう言っているのだ。
 そのあくなきプライドは、魔族故か。
 諸手を上げて高笑った。

「ハーハッハッハッ!
 小林氷咲、やはりお前は不器用な生き方しかできんようだな。
 私たちは、少々プライドが高いところがあるからな。
 本当に、お前という男は気高いな。
 お前の気持ちは痛いほどにわかったよ。
 ならば…無理矢理にでも私のものにするだけだ。
 茶々丸、手を出すな。
 こいつは、私の手で屈服させねば意味がない」

「了解しました」

 小林氷咲は、まるで闇に紛れるように無言を貫いた。
 交渉、いや命令は決裂。
 もう会話する必要はない。
 戦いの中で感じあい、絶対的な力で屈服させ、小林氷咲を保護するのだ。

 不敵に笑うと、夜風に吹かれながら始動キーを呟く。

「行く、ぞ。
 魔法の射手(サギタマギカ)
 連弾(セリエス)氷の17矢(グラキアーリス)!」

 開戦。
 小林氷咲に幾多もの氷の矢が降り注ぐ。
 小林氷咲は避けようとする素振りを見せない。
 さながら生命を持ち得ない人形のように。

 そして、小林氷咲は絶対絶命の瞬間に動いた。
 極限まで無駄を省いた動き。
 音もなく鎌を突き出した。
 呼応するように鎌が怪しく輝き、紫色の魔力を帯びていく。
 鎌へ、我先にと氷の矢が降り注ぎ、その魔力ごと消滅した。
 風圧の音だけが、空中に響き渡った。

 一瞬、唖然としたが、笑みを返した。
 小林氷咲に驚かされることなど、いい加減に慣れ始めていた。
「その鎌はなんだ?
 魔法無効化能力でも付加されているのか?
 面白いじゃないか」

 これが私を相手に、小林氷咲が露にせざるを得なかった力の一端か。
 見極めてやろうではないか。
 その魔法無効化能力が、本物か、紛い物かを。

 魔法の射手を、息をつく暇さえ与えずに放ち続けた。
 小林氷咲はローブを翻し、抑揚のない表情で舞うように鎌を振るい続けた。

 閃光、冷風、紫色の魔力の波動。
 闇を裂く、爆発音。

 鎌はまさしく本物だった。
 その上、撃ち込めば撃ち込むほど鎌が怪しく輝いていく。
 魔法無効化能力ではなく、魔法吸収能力なのか。
 どちらにせよ切りがない。
 こんな弱々しい攻撃では、小林氷咲を屈服させるには遠く至らない。

 辺りを静寂が支配した。
 小林氷咲は、苦しそうな表情を表していた。
 しかし、それは攻撃の対応に追われ続けた故の疲れではない。
 この戦いの意味を問い、自らの本質との葛藤が表に出ているだけだろう。
 もしくはそれは天才的なまでの擬態であり、なんらかの策略の下準備という可能性、か。
 どちらにせよ構わない。
 どんな劣勢や窮地においても、勝ち続ける者を絶対の強者と呼ぶのだ。
 ならば、これで楽にさせてやろうではないか。
 小林氷咲の苦渋に歪んだ顔は、面白くはない。
 無理に笑みを浮かべた。

「そうだな。
 やはりこの程度ではお前は倒せんか。
 さすが私が認めた男、か。
 フッ。
 次は少々、力を入れるぞ。
 生き残れ。小林氷咲!
 来れ氷精 爆ぜよ風精 氷爆(ニウィス・カースス)!」

 小林氷咲の足元の地面から、鋭利な氷柱が突き出した。
 小林氷咲は、桜通りのときのように高く跳躍した。
 氷柱の尖った先を蹴り上げて高く飛ぶ。
 だが、虚空瞬動で回避することは予測の範囲内だ。
 目を懲らして小林氷咲の姿を逃さず、奴が奇襲しようと無防備になるその一瞬の隙をつき、止めを打ち込んで終わりだ。
 だが、正に予想外。想定外の事態が起こった。

「力を取り戻している私の目でも、捉えきれんだと」 
 
 小林氷咲の姿が、忽然と消え去ったのだ。
 紫色の魔力の波動を、氷柱の上に残して。

 即座に周囲に目を凝らした。
 魔力の波動が微かに感じれることから、近くにいることを察知できた。
 しかし、さながら闇に溶け込んだのではないかと思えるほどその姿はない。

 ならば、諦めよう。
 小林氷咲が次に移る行動は奇襲で間違いない。
 それを狙い撃つ戦法に切り替えよう。
 姿の見えないネギたちの動向も気にかかった。
 臨戦態勢を整えた。
 茶々丸にも周囲を警戒させた。
 視界の隅にある人影を捉えた。
 
 
 
 
 —ネギside—
 
 
 
 
 僕は今まで、アスナさんに迷惑をかけないように、巻き込まないようにと行動してきました。
 でも、アスナさんやカモくん、死神さんが助けにきてくれたときに気づいたんです。
 僕はまだ弱いって。
 アスナさんやカモくん、死神さんの協力がなければ、エヴァンジェリンさんを更正することはできないって。
 だから僕はアスナさんやみんなと協力して、必ずエヴァンジェリンさんを倒します。

 仮契約を終え、僕たちは足早に戦いの場に向かいました。
 月下に、無数の爆発音と閃光が明滅しています。
 エヴァンジェリンさんの魔法の射手の連弾を、死神さんが鎌を振るい打ち消していました。
 一方がただ放ち続け、一方がただ打ち消し続ける。
 そんな単純に思える攻防ですが、まだ僕はその領域に片足も踏み出していません。
 それはさながら二人だけの優雅な舞踏会。
 エヴァンジェリンさんの頭の中には、僕など思考の隅にもいないのでしょう。

 挫けそうになりましたが、走ることは止めませんでした。
 微力なことは、痛いほど理解しています。
 ですが、僕達のために戦ってくれている優しい死神さんの助けになりたいんです。
 こんなに弱い僕の側に立ってくれて、あんなに強いエヴァンジェリンさんと敵対してくれた死神さんの助けになりたいんです。
 アスナさんも同様の気持ちなのか、真剣な顔を表に出していました。

 次の瞬間、戦慄が走りました。
 突如、死神さんの足元から、鋭く先の尖った氷柱が、身体を貫けとばかりに幾重にも突き出たんです。
 最悪な結末の予想が、映像として脳裏に流れていきました。

 ですが僕は、僕達は唖然とした面持ちを隠す事が出来なくなりました。
 死神さんはその魔法攻撃を、鋭い予知にも似た観察眼で読み切っていたんです。
 焦りさえなくその場で高く跳躍し、難無く氷柱を蹴り上げて、その場から忽然とかき消えてしまいました。
 一連の流れは淀みなく一定であり、まるで未来を知ってでもいたかのような動作。
 これが本当の、戦いと呼ばれるものなんだ。
 先を読みあい、化かしあって、相手の裏を取り合う。
 戦いは力だけじゃない。
 戦略次第で、自らより強い者にも対抗できる。
 氷柱に残されたまま漂っている紫色の魔力の波動が、そう教え示してくれているように感じられました。
 心からの声が出ました。

「これが……死神さんの戦い」

 アスナさんが唖然として、目を見開いていました。
 こんなハイレベルな戦いを見せられては、無理もありません。
 ですが、不思議に思いました。
 死神さんが、一向に姿を現さないんです。
 これも戦略の一つなのかも知れないと思えました。
 それと同時に、時間稼ぎという役目を終えて、これからの僕の戦いをどこかから見守ってくれているのかも知れないとも思えました。

 あのエヴァンジェリンさんでさえ、死神さんがどこに姿を消したのかわからないようです。
 頻りに茶々丸さんと、辺りを見回していました。
 なんて凄い人なんだ。僕も死神さんのように強くなりたい。
 そう、素直に思えました。

 エヴァンジェリンさんの視線がこちらを捉えました。
 ですが、もう怖くなんてありません。
 僕は、一人じゃない。
 仲間がいるんだ。
 どこかで死神さんが見守ってくれているんだ。

「ネギ先生。
 お姉ちゃんと一緒だと勇ましいな」

 エヴァンジェリンさんの軽口には耳を貸しませんでした。
 真剣な目で、アスナさんとカモくんに言いました。

「アスナさん、カモくん、もう一度お願いします。
 協力して下さい」

「バカね。
 当たり前じゃないの」

「へへ!当たり前でさー!」

 その優しい言葉を飲み込んでから、エヴァンジェリンさんに言いました。

「エヴァンジェリンさん!
 今度こそ僕が、僕達が勝ってサボタージュと悪いことを止めて貰います!」

 エヴァンジェリンさんが愉しそうに笑うと、身体中から殺気を放ちました。

「ならば来るがよい。
 ネギ・スプリングフィールド。
 本当の強者と言うものを、その身に教えてやる」
 
 
 
 
 —エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 ネギのぼうやは、良くやったと誉めてもいい。
 手加減しているとはいえ、ここまでついてこれるとは思っていなかった。
 やはり、あの「サウザンドマスター」の子供と言えよう。
 しかし、もう終いだな。
 私とネギの間に、同種の魔法がぶつかり合い拮抗していた。
 闇夜に輝く棒状の光線が、橋を微かに揺らしていた。
 魔力比べだ。
 潜在能力は認めてやってもいいが、まだ私の領域に足を踏み入れるには百年早かったな。

 少しだけ魔力を籠めた。
 それだけでネギは苦しそうに呻いた。
 だが、その瞳は死んでいなかった。
 諦める気などは更々ないと言わないばかりに唇を噛むと、徐々にまた押し返してきた。

「ほう、やるではないか」 
 
 茶々丸が神楽坂明日菜と闘いながら、時刻が迫っていると目で知らせてきた。
 ならば、早めに終わらせよう。
 未だに姿を現さない小林氷咲が不穏であるから、決められるときに決めるべきだろう。
 死なない程度ではあるが、ネギには到底跳ね返せないであろう魔力を籠めた。

 光線の中心、拮抗している部分が膨れ上がった。
 ネギの下へと、徐々に速度を上げて向かっていく。
 ネギの目は諦めていないようだが、しかし、現実は総じて無情だ。
 私に当て嵌めた場合、善が勝つことはないのだ。
 勝利を確信した。
 しかし、それは、驕りとなった。

「なに……!」

 唐突にも、上空に闇に紛れて不穏な人影が姿を現したのだ。
 その死神のような姿は、まさしく小林氷咲であった。
 姿を消し、この瞬間を虎視眈々と狙っていたのだ。
 いま身動きを取れば、ネギの魔法が全て私に向かう。
 私が全力を挙げて押し切ろうとしても、小林氷咲の攻撃に間に合わない。
 私が身動きを取ることのできない、この機を狙っていた。
 ネギのぼうやにこう戦うように言っていたのかも知れない。
 苦しくも諦めようとしない瞳は、これを待っていたのか。
 ならば私は、小林氷咲の掌で踊らされていたとでも言うのか。
 まさに悪魔のような戦略。
 類い稀なる異才。
 圧倒的なまでの実力差がある私を相手に、いま、小林氷咲は勝利をその手に手繰り寄せようとしていた。 
 茶々丸を見るが、神楽坂明日菜と対峙しているため動けない。
 やはり小林氷咲の策略なのだろう。
 万策、尽きたと言えた。
 小林氷咲は落下速度を利用してその鎌を、私に突き刺すだろうと容易に想像できた。

 しかし、そうはならなかった。
 小林氷咲は、魔力が拮抗している光線の中心に鎌を突き刺したのだ。
 鎌が魔力を吸収して盛大に輝いた。
 そして、吸収しきれなかった魔力が、私に向かい逆流した。
 その衝撃に、小さな呻き声を上げながら空中に投げ出された。
 なんとか回転して体勢を立て直した。

 ネギは、小林氷咲は、どうなった。
 と言うかなぜ、小林氷咲は私に鎌を。

「マスター、停電から復旧します!
 修正予想時間よりも早い!」

 愕然とする暇もなかった。
 電力が復旧し、忌ま忌ましき封印結界までも発動してしまったのだ。
 身体中に電流が荒れ狂った。
 力が抜けていく。
 橋が遠くなっていくように見えた。
 そうか、私は落下しているのだろう。
 混濁した脳裏に、走馬灯のようにある記憶が駆け巡った。



「危なかったね」

「おい、なぜ助けた?」

「さあ」

「おい貴様。私のものにならんか?」

「私は貴様を気に入っているのだ。貴様がうんと言うまで地の果てまで追って行ってやろう」


「まあ、心配しないで。あんたが卒業する頃にはまた、帰ってくるから」

「本当だな……?」



「……嘘つき」

 独りでに口が開いていた。
 万感の想いが、その言葉を吐かせた。

 衝撃で頭が覚醒した。
 何かに両手を捕まれたのだ。
 瞼を開いた。
 そこには大馬鹿者が、二人もいた。
 真剣な表情で、それでいて必死にだ。
 さながら、手首が火傷したように熱かった。
 心が、まるで夜風に踊らされるススキのように揺らいだ。

 ネギが杖に跨がろうとして叫んだ。

「魔力が安定しないんです!
 死神さん!」

 小林氷咲が頷いた。
 私とネギを、軽々と両手で抱えた。
 落とさないようにだろう、ゆっくりと上空に浮かび上がった。

 疑問が口をついて出た。

「お前たち…なぜ助けた」

 二人が爽やかに笑って、颯爽と言った。

「だって人を助けるのに、理由はいらないじゃないですか」
「人を助けるのに、理由はいらないからね」

 古い記憶の中の嘘つき男と、二人の笑顔が繋がった。
 こいつらは、馬鹿だ。
 馬鹿、過ぎる。

「貴様ら…」

 空中を散歩させられながら、ふと気づいた。
 小林氷咲がなぜ、私に鎌を突き立てなかったのかを。
 こいつは、私を攻撃できなかったのだ。
 思えば、そうだったな。
 桜通りで出会ってから、小林氷咲は一度も私に攻撃していない。
 先ほどの戦いだってそう、小林氷咲は防御するだけで攻撃はしなかった。
 小林氷咲と言う男は、私という同類に、ただ救いを求めているのだ。
 不器用であまのじゃくだから、自らの考えと逆に行ってしまうこともある。
 だがこいつは、私を信頼してくれているのだ。

 橋に降り立った。
 茶々丸が安心したような表情をこちらに向けた。
 茶々丸、心配かけてすまないな。
 神楽坂明日菜が、邪気無く笑っていた。
 小林氷咲がネギをゆっくりと下ろした。
 ネギが神楽坂明日菜に、叩かれていた。
 私は胸元に抱えられたまま、感慨深げに呟いた。

「私は、お前を全ての災厄から守ろうとしたのだが…。
 結果は私の負け…か」

 小林氷咲の胸元が、微かに震えているように思えた。

「こんな俺を…守ろうと…」

「ああ、当たり前だろう…。
 私とお前は同類…。
 ど、どうしたんだお前!」

 言いながら小林氷咲の顔を見上げて気づいた。
 瞳から、一筋の滴が流れているのを。
 その頬を伝うものは、男の弱さの象徴である涙。
 軟弱だとは思わなかった。
 それは美しかった。
 小林氷咲が涙を拭い、爽やかな笑顔を向けた。

「エヴァンジェリンさん。
 ありがとう。
 守ろうとしてくれて」

 その言葉に、盛大に心が暴れて揺れた。
 これは小林氷咲の素顔だ。
 魔族と言う生い立ちに穢されることなく生き残った素顔。
 この素顔を、一体、何人が見たことがあるのだろうか。
 少ないように思えた。
 そして、小林氷咲は呼んだのだ。
 エヴァンジェリンさん、と。
 心を許しお礼をする、普通の人間には当たり前にできる。
 しかし魔族の小林氷咲に多大な勇気がいることだっただろう。

 そうか。
 全てが無駄にはならなかったということか。
 少しでも、小林氷咲の苦悩を解消することができたか。
 無性に守ってやりたくなる感情に囚われた。
 愛らしいと言う感情が沸き起こった。
 気持ち良く笑った。

「いいんだ。
 私は全部わかっているからな」

 私の呪いは解けなかった。
 構わないとは言えないが、小林氷咲という少年の呪縛が少しでも解けたならば、それで良いと思えた。

 夜空の星が、煌めいた。
 胸の苦しさが、跡形もなく消えていった。 
 
 
 
 
 —高畑・T・タカミチside—  
 
 
 
 僕は煙草に火をつけた。
 瞳が滲んでいくのを感じた。

 橋の上の一部始終を、橋脚の陰に隠れて見ていた。
 ネギくんの元気な声とエヴァの怒った声が聞こえてくる。
 アスナくんの笑った声と、氷咲くんの笑った声までも聞こえてきた。

 吐き出した煙りが、夜風に乗って消えた。

「学園長……氷咲くんをエヴァに任せたのは正解でしたね」

 学園長が言っていた。
 氷咲くんには、人をひきつけて止まないなにかがある。
 それが良い方向性に向かわせてくれたら、と。

 本当にその通りになった。
 エヴァは氷咲くんの苦悩を解消した。
 氷咲くんは、エヴァに笑顔を取り戻した。
 氷咲くんの優しい行動で、ネギくんとアスナくんは成長することができた。

 子供さえいないのに、親心のような感情に気づき苦笑した。

 僕は、小林氷咲という魔族の少年の涙を一生忘れることはないだろう。
 素顔に浮かべた笑みを忘れることはないだろう。
 エヴァだからできて、僕には到底できないことだから。

 煙りをもう一度吐き出して、その場を去った。
 今日は学園長ととことん話したい気分だ。

 涼しい夜風が頬を撫でて、僕は気持ちよく笑った。
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 ことの一部始終を、私は離れた木々の間から見ていた。
 見回りを兼ねた鍛練中、小林さんの魔力の波動を感じて辿りついたのだ。

 小林さんの頬に涙が伝うのを見つけたとき、瞳が滲んで前が良く見えなくなった。
 魔の類いである小林さんが、こぼした涙。
 それは美しかった。
 純粋に感動した。

 良かった。
 本当に良かった。

 しかしそれと同時に羨望の眼差しを、エヴァンジェリンさんに向けることになった。
 私の前では優しく強い男の象徴のような小林さんが、エヴァンジェリンさんの前でだけその弱さを見せたのだ。
 心をまるで、か細い針で小刻みに突かれているような痛みを感じた。

 首を振った。
 そんな感情を抱いてはいけない。
 どうしてそんな感情が現れるのかも理解できなかった。

 小林さんは幼い頃から不遇の時を過ごしてきたであろう。
 やっと心のよりどころとなり得る人物を見つけたのだ。
 喜ばなければならない。

 しかし、私は静かにその場を離れた。
 後悔や羨望と言った、悪い感情ばかりが噴出した。
 勇気を出していれば、あの橋の上にいたのは私だったのだろうか。
 自らを嫌悪して、胸が苦しくなった。
 何度試してみても、どうしてか、笑うことはできなかった。



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その壱
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:20
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 ハッピーエンドで終わりを告げた、月下ヤンデレ停電事件。
 平和に、瞬く間に、二日の日々が過ぎていた。

 俺は学園からの帰路の途中に、ある室内に立ち寄っていた。
 ある種、深い思い入れがある部屋である。
 重厚さを感じさせられるソファーから腰を上げた。
 万感の想いで頭を下げた。
 綺麗に包装した贈り物を、二つ、机に置く事も忘れはしない。
 中身は、缶コーヒーの詰め合わせである。
 学生の身分に取っては、高い痛手となった。

「学園長、先日の計らいのほど、ありがとうございました。
 こんな粗品しか用意できなかったのですが、高畑先生にも渡しておいて下さい」

 対角線上にて、仰々しい椅子に深々と座る凛々しき学園長。
 どうしてだろうか。その目がまさに点になっていた。
 前方の窓から、西日が眩しく差し込んでいる。
 それは学園長の背後から差しているため、さながら身体から後光を発する仏様のようだ。
 思わず手を合わせそうになったが、さすがに失礼に当たるかもと堪えた。
 下校時の賑やかな声が、壁に遮断されてくぐもって聞こえてきていた。

 そう。
 学園長に会うために、ここに来たのであった。
 なぜかと言うと、一言、当然の事であると言えよう。
 先日お世話になった、プロレスごっこ停学事件への、感謝の意を示すために赴いているのであった。
 誠に残念な事が一つある。
 それは、麻帆良のダンディズムの象徴とまで口々に語られる、高畑先生が私用のために姿が見えなかったのだ。
 それについては再度伺わせて貰い、出来うる最大限のお礼をすると誓おう。
 しかし今は、学園長へと精一杯の感謝の意を伝える事が先決である。

 下げたままだった頭を戻して、学園長の様子を伺った。
 感動してくれているのだろうか。真剣な表情で贈り物を撫でながら呟いた。

「……わざわざすまんのう」

 受け取って貰えるようである。
 肩の荷が降りたと、安堵の息を吐き出した次の瞬間であった。
 目を白黒とさせられる事になったのだ。

 なんと唐突にも学園長が、深々と頭を下げたのである。
 机に額が触れそうなほどにだ。

「氷咲くん、申し訳ない。
 きみを監視しておったことを謝罪したい」

 うん。
 意味がわからない。

 取り合えず、言葉の整理から始めるとしよう。

 学園長が俺を、監視していた?
 どうして、だろうか?

 その不思議さは、さながら未習得の方程式のような難解さであった。
 頭を悩ましたが、なんとか理解はできた。
 こういう事であろう。
 発端は、先日のプロレスごっこ停学事件。
 俺を吸血鬼から守ろうとする故に、学園長は強く問い質してきていた。
 しかし、俺は学園長にまで火の粉が向かわないように、嘘をつき通した。
 どこにボロがあったのかは定かではないが、学園長は怪しんでいたのだろう。
 そして万が一の事態を考えて、監視という苦肉の策をこうじたのではないだろうか。
 だがその監視という方法は、善意から向けられていたとはわかるが、結果的に言えば、疑いの目を向けた事実には変わらないのである。
 それを、学園長は謝罪しているのであろう。
 俺という、まさしく草食系男子な一般生徒を疑ってしまった事に罪悪感を感じているのだ。

 なんという、素晴らしき学園長なんだ。
 猛烈に感動していた。
 明かそうとしなければ気づく事はなく、そのまま仲良くやっていけたはずだ。
 それなのに、正直に監視していたことを謝罪する。
 一般的な大人には中々できないことと言えるだろう。
 こんな大人になりたい。
 素直に思えた。

 しかし、疑問点が一つ浮かび上がった。
 監視をしていたならば、俺の嘘も明るみに出ているのではないだろうか。
 だがそれは、学園長を想っての行動である。
 笑って、許してくれるように思えた。
 それよりも現状、早急に為さねばならぬ行動は一つである。
 罪悪感に苦しんでいるであろう、学園長の優しき心を、少しでも早く楽にしてあげる事だ。

 さほども、気にしてなどいませんよ。
 笑顔で告げようとすると、それを学園長が遮るように言った。
 その声音には、どこか哀しみが漂っているように思えた。

「もう一つだけ、あるんじゃ。
 きみの、その、見てしまったんじゃ。
 ……死神のような格好とその波動を」

 予想外の事実に、空気さえ止まったように思えた。
 なんと、言うことだろうか。
 まさか学園長に、厨二病真っ盛り的である死神スタイルを目撃されていたとは。
 まずい。
 これは、まずいぞ。
 第一に、特大の鎌は銃刀法違反である。
 第二に、空を飛ぶ。これも見られているだろう。これでは変人である。
 どこか哀しそうな声音であったのは、好青年だと思っていた俺こと小林氷咲が、印象とはまるで違ったために嘆いていたからではないだろうか。
 しかも、これでは内申点に響くどころの騒ぎでは留まらないだろう。
 停学と言う二文字が、脳裏に明滅していた。

 誤解なんです!
 死神に勝手に変身させられただけなんです!
 停電の時は、人助けのためだったんです!
 僕も困り果てているんですよ!

 即座に反論しようとしたが、無理矢理言葉を飲み込んだ。
 死神に勝手に変身させられて困り果てている。
 誰がこんな与太じみた話を信じてくれるのだろうか。
 学園長であればもしくは。
 とは思う。
 思うが、下手をすれば、さながら麻薬中毒者を見るような目で接されるおそれもあるだろう。
 それは酷く、悲しすぎる末路と言えよう。

 学園長の瞳には、深い悲しみが揺れていた。
 俺に裏切られたと感じているのであろう事は明白であった。

 ならば、ならばだ。
 説明すると言う行為は逆効果に思えた。
 説明すれば説明するほど、俺への印象は最悪のものになるだろうし、信じて貰えなかった時の末路は悲惨であろう。
 では泣く泣く、泣く泣くではあるが、苦肉の策としてこれからの自分を評価して欲しいと訴えるのはどうだろうか。
 過去は過去として深い懐で割り切って貰い、再度、一から評価して貰うのだ。
 マイナスからのスタートとなるのは心苦しいが、現状、他に選択肢は浮かばなかった。

 それに誤解や勘違いとは、時間が解決してくれると信じよう。
 好青年を振る舞うため、無理矢理顔中の筋肉を動かして笑みを浮かべた。

「過去は過去です。
 学園長には、これからの僕を評価してほしい」


 祈る思いで、様子を伺った。
 すると、どうしてだろうか。
 学園長の瞳が微かに揺れているように見えたのだ。
 そして、感慨深げに何度も頷いたのち、その口が開かれた。

「氷咲くん、一つ聞いても良いかな?」

「はい」

 真顔で頷いた。

「きみは、人々と手を取り合い働くと言う平凡な夢を、叶えようとしているのじゃな?」

 質問の意図が何を指しているのかが、雲を掴むかのように理解出来なかった。
 しかし、夢はサラリーマンになることだ。
 平凡な社会の歯車的な役割であるし、人々と手を取り合う仕事ととも言えるだろう。
 強い頷きで持って、答えを返した。

 学園長は目を細めて髭をさすり、逡巡の後、頷いた。
 口許に張られた笑みから、優しさが溢れていた。

「わしは、小林氷咲くんの過去を、なんら詮索しないとここに誓うぞい」

 その声が鮮明に聞こえた。
 愕然とした。

 こ、このお方はどれだけ器が大きいんだろうか。
 さながら、大巨人がいたとしてもその壮大なる器量には諸手を上げて降参を示すだろう。

 不可抗力とは言えだ。
 銃刀法違反と言う犯罪を犯してしまったのにも関わらず、過去は忘れると言ってくれたのだ。
 それはつまり、俺が説明などせずとも、止むに止まれぬ事情があったのだと汲み取ってくれたのであろう。
 感動が、身体に染み渡るように浸透していった。
 昂揚感に耽っていると、学園長が素敵な笑みを浮かべた。

「きみの夢を支援するとも誓うぞい。
 いや、この老いぼれに支援させてはくれんかのう」

 慌てふためいた。
 幾度となく、度重なる不運に遭遇してはきたが、麻帆良学園に入学して正解だったと言えよう。

「いや学園長!
 そんな低姿勢にならないで下さい!
 こちらこそ……よろしくお願いします」 
 
 深く、頭を下げた。
 学園長の頼みならば、生涯トイレ掃除をさせられても厭わないと笑えよう。

 それから長い間、談笑は続くことになった。
 学園長の懐の深さと自らのひよっこさを、再認識させられた楽しくも勉強になった一時であった。
 しかし、不思議に思うことが一つだけあった。
 終始、微笑んでいた学園長が、その時だけは真顔で言ったのである。

「氷咲くん。
 京都に近づいてはならんぞい。
 きみは、学業に専念して、立派な大人になるんじゃ」

 意図がわからず、一瞬だけ思考が止まったが笑みを返した。

「学園長、草食系男子たる僕が学業を疎かにする訳がないじゃないですか」

 学園長が満足げに頷いた。

「フォッフォッフォッ。
 それで良いのじゃ」

 京都に、何か嫌な思い出があるのだろう。
 深くは聞かなかった。
 誰にだって、言いたくない事の一つや二つはある。
 それに学園長の言葉は、俺にその嫌な体験をさせたくないための優しさから来ているのであろう。
 素直に嬉しかった。
 それにしても、学園長は心配症だなぁ。

 平凡がどれだけ幸せで貴重なものなのかを語らせて貰った。
 時間を忘れるほど夢中になってしまった。
 窓の奥の空が、薄暗くなり始めていた。
 寮母さんに門限破りとまた怒られてしまうのだけは、避けたかった。
 まだ話し足りなく、後ろ髪引かれる感はあるが致し方ないと言えた。 
 
「学園長、門限があるため、今日の所は帰らせて下さい」

「フォッフォッフォッ。
 そうか。そうじゃったな。きみは平凡なる一般生徒なのじゃからな。
 わしも心が和んだわい。
 これから、何か問題が起こったらわしに言いなさい。
 協力しよう」

 心が、まるで強風を浴びたかのように揺れた。
 多大なる感謝の意を笑みに表しながら立ち上がって、深々と一礼した。
 別れの言葉を告げようとすると学園長が言った。

「前々からわからなかったんじゃが、草食系男子とはどんな意味なのかのう?」

 なんと言う、ボキャブラリー溢れる学園長なんだ。
 最後まで笑いの精神を忘れないその心意気に感嘆した。
 笑顔で持論を答えた。

「草食系男子とは、簡単に言うと所謂」

「じじい、話しがある」 
 
 簡単に言うと所謂、弱々しくて可愛らしいインドアな男子の事ですよ。
 とは言えなかった。
 突如、何者かの声に遮られたのである。
 その可愛らしい声音には、聞き覚えがあった。
 声がしたドアの方向を振り返った。
 そこに佇む人物を視認して固まった。

 女子中等部の制服が良く映えた、エヴァンジェリンさんだったのである。
 エヴァンジェリンさんは中等部の生徒だったのか。
 これは失礼な勘違いをしていたと思っていると、恥ずかしき記憶が蘇った。
 あの夜の事であった。
 一言で言うならば、感極まり泣き顔を見せてしまった一夜。
 恥ずかしくあったが、皆と親睦を深める事ができた。
 エヴァンジェリンさんが別れの際に、いつでも遊びに来いとの嬉しい言葉も貰えた。
 彼女には今でも多大な感謝をしているし、これからも色褪せる事はないだろう。
 しかし、しかしである。
 俺という存在は、彼女の告白を断った立場なのだ。
 おいそれと遊びに行くなど、彼女を傷つける行為に他ならないし、馬鹿にした行為であると思えた。
 正直に言えば内心は違う。
 素敵な女性であるし、友達として仲良くなりたい、とは思う。
 しかし、多大なる罪悪感から会いたくないといった感情の方が大きいのも事実だった。

 エヴァンジェリンさんの綺麗な瞳が見開かれた。
 俺と学園長へと視線を移して、突如、その瞳に鋭さが増した。
 相反するように、口許には素敵な笑みが浮かんでいた。

 これはまずい。
 どうしてかは理解できないが、完全に憤っていると言えた。
 小柄な身体に不釣り合いな、さながら暴風の如き殺気に気絶しそうになった。

「じじい。
 やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」

 情けなくも内心ホッとした。
 二人の間に面識があったのかは検討はつかない。
 だが、エヴァンジェリンさんは学園長に対して怒っているようなのだ。
 唖然としている所を見るに、学園長自身にも思い当たる節はないのだろう。
 それにしても学園長は強き男だと言えよう。
 これが年の功と呼ばれるものなのだろうか。
 後頭部を切り落とすと脅迫されているのにも関わらず、狼狽している素振りが見えなかった。
 この件に関係ない俺が、恥ずかしくも気絶しそうになっていたのに。

 しかし、思う。
 さすがの学園長とは言え、ご老体である。
 吸血鬼の上、非科学的な光弾や突風を放つエヴァンジェリンさんには到底敵わないであろう。
 下手をすれば、後頭部との別れを告げなければならなくなるかもかも知れない。
 怖い、途方もなく怖い。
 しかし、ここまでお世話になった学園長に危害を加えると言われて、黙ってはいられなかった。
 それにエヴァンジェリンさんは心優しき女性なのだ。
 話せばわかってくれるはずである。
 勇気を奮い起こして言った。

「エヴァンジェリンさん。
 学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」

 情けなくも、最後まで言葉を発することはできなかった。
 その有無を言わさぬ言葉に、独りでに口が閉まったのだ。

 それに、それにである。
 エヴァンジェリンさんは、今何と言ったのだろうか。
 普段の、小林氷咲というフルネームではなく、ヒサキというファーストネームで呼ばれたように聞こえたのだが。
 聞き間違いだろうか。
 いや、確かに呼んでいた。
 そして思う。
 この親近感が湧く呼称の裏側には、意味があるように感じた。
 それは彼女の告白の台詞通りとも言えるが、現状として、小林氷咲は自らのものだと言わないばかりではないだろうか。
 どういう結論から導きだされた答えなのかは、皆目見当はつかない。
 しかし、これはまたあの死と隣り合わせの、ヤンデレ状態に陥っていると考えて異論を挟む者はいないだろう。

 いやいやいやいや。
 これは困った事になった。
 告白は断られたのだと、エヴァンジェリンさんに告げねばならないとは。
 その想いには感謝してもしきれないが、俺には心に決めた人がいるのだ。
 しかし、そんな事を告げたならば、歩く事さえできなくなってしまうのではないだろうか。
 どうすれば。
 頭を悩ませていると、学園長が言った。

「な、なんの用じゃ?」

 学園長の問いを、エヴァンジェリンさんが一笑に伏した。

「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」

「いや、わしは」

「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
 おい、行くぞ。
 なんだその阿呆の子のような顔は。
 茶々丸、連れて来い」

「了解しました」

 何が何やらわからない。
 まさに混迷と言えよう。

 エヴァンジェリンさんが不機嫌そうに部屋から出ていくのを、呆けて見ていた。
 唐突にも、傍らに茶々丸さんが現れて一礼した。

「……小林氷咲様、失礼します。
 マスターのご命令は絶対ですので」

 俺の腕を優しく掴んだ。
 茶々丸さんのか細い腕のどこに、これだけの力が隠されているのだろうか。
 為すがままに、引っ張られてしまう。
 放心状態ながらも、フラフラと千鳥足で歩いていく。
 事の推移が急激で、全く持って思考がついていかない。
 だが、一つだけ思えた。
 茶々丸さんに触れて貰えるとは何たる幸運だろうか。

 ドアが徐々に閉まっていく。
 学園長の唖然とした顔が、印象に残った。
 取りあえず心配だけはかけないように、笑みを持って頷きを返した。 
 
 
 
 
 —近衛近右衛門Side—
 
 
 
 
 学園長室に、不穏なる空気が漂っていた。
 わしの胸中は重く、罪悪めいた感情を持て余していた。
 お決まりの椅子に腰掛け、目前のソファーに腰掛けた少年を見遣る。
 その双眸は、こちらを射抜くように向けられていた。
 それは周囲の空気さえも淀ませているように思えた。

 発端は先ほどじゃ。
 生徒達の喧騒を肴に、熱いお茶を啜っていると、電話のベルがなったのじゃ。
 軽快に応対したわしは、驚くこととなった。
 なんと、その電話の相手は氷咲くんだったのじゃ。

 先日、停電時の決闘の結末には、年甲斐もなく心の芯を震わされた。
 それは一つの感情を波立たせた。小林氷咲という生徒を危険視していたことに、より一層の多大なる罪悪感を得ていたのじゃ。
 高畑くんと話し合い、ある事を決めていた。
 遠くから不遇なる少年を見守り、さりげなく支援しようと。
 呼び出しの一件にて、わし達は嫌われていると容易に推測できたからじゃ。
 これが、わし達のできる最大限の償いじゃった。

 じゃと言うのに当の本人から連絡があり、訪問の可否を問われては唖然としない方がおかしいじゃろう。
 その意図の見当はつかない。
 つかないが、否という選択肢は初めからなかった。
 内心穏やかではないが、彼の途方もないほどの優しき行動には感謝しておる。
 彼が何を想い、何を為すのか。
 わしはその全てを、受け止めなければならない。
 それが学園長としての、最低限の職務じゃから。




 室内に重々しい空気が漂っていた。
 わしは真剣な表情で、氷咲くんを見つめていた。
 氷咲くんが静かにソファーから腰を上げた。
 学生鞄から包装された品物を取り出し、机に置いた。
 不思議に思っておると、愕然とする事となった。

「学園長、先日の計らいのほど、ありがとうございました。
 こんな粗品しか用意できなかったのですが、高畑先生にも渡しておいて下さい」


 目が点になるとは、この事じゃろうか。
 氷咲くんが唐突にも、深々と頭を下げ謝辞を述べたのじゃ。
 彼の言った事を、動こうとしない頭を叱咤して纏める。

 わしと高畑くんが、氷咲くんのために何かをしたという意味じゃろうか。
 じゃから彼は、謝辞と共に贈り物を持って訪問してきたというのであろうか。
 皆目見当はつかなかった。
 今まで彼にした行いを、思い返してみた。
 しかし、した事といえば、まさに百害あって一利なしと言えるじゃろう。
 ならばどうして。
 そう思ったときに、ある行動を思い起こした。
 停電時の決闘において、封印結界の作動の操作による介入をしていたのじゃ。
 しかし、それは元々、ネギくんのための切り札であるし、エヴァに気取られぬよう細心の注意をはらっていた。
 じゃが、氷咲くんが気づいていたとしたら話は繋がった。
 なんという、素晴らしき情報能力じゃ。
 彼のとった戦略を鑑みれば、その封印結界の作動を利用したようにも思えた。

 なんという戦略。
 まさに悪魔と天使、二つの顔を持つ戦略じゃ。
 皆無傷であり、敵であったエヴァさえも救うその戦略は、なんと素晴らしき事か。
 その上、しっかりとお礼までしにくるその心意気に、感嘆の息を漏らした。
 それと同時にある感情が浮かび上がった。
 贈り物を撫でながら呟いた。

「……わざわざすまんのう」

 氷咲くんの瞳は澄み、とても魔族のようには思えなかった。
 その瞳は、今のわし、いや世の大人には酷く辛い。
 純粋で、それでいて優しく、幸せになる事だけを夢見ておる。
 そんな彼にわしは何を為したのか、再認識させられた。
 そして、浮き彫りにされた自らの穢れが煩わしかった。
 じゃが、わしも男じゃ。
 全てを、受け止めると決めたのじゃ。
 彼の真摯な瞳に、浄化されていくように感じた。
 生徒を守るために仕方なかったなどと、言い訳はすまい。
 深く、真摯に頭を下げた。
 どれほど振りじゃろうか、古い記憶にさえ残ってはいなかった。 
 
「氷咲くん、申し訳ない。
 きみを監視しておったことを謝罪したい」 
 
 氷咲くんの息を呑む声が聞こえてきた。
 それは気づいていなかったための所作ではない。
 こちらを計り兼ねている、いや信頼に値するのかどうかを判断しているのじゃろう。
 静寂が広がった。
 ゆっくりと頭を上げると、そこには少年の笑顔が在った。
 小林氷咲と言う少年は、わしを許してくれるのか。
 心が、暖炉に薪を焼べるように徐々に熱くなっていった。

 重大なる博打をした。
 氷咲くんの瞳が、悲しみから曇るかも知れない。
 不遇なる過去を想い起こさせるかも知れない。
 しかしじゃ。
 わしは、愛すべき生徒の悲しみを救いたい。
 隠し事はなしで、彼の欲する幸せを支援したい。
 本当の意味で、彼の強力なる背景になりたいのじゃ。
 意を決して言った。

「もう一つだけ、あるんじゃ。
 きみの、その、見てしまったんじゃ。
 ……死神のような格好とその波動を」

 辺りにその声だけが響いた。
 氷咲くんの瞳が、様々な色を称えた。
 驚愕と悲しみ、それらの色が混じり合い、わしの心を盛大に揺るがした。
 じゃが、後悔などをしてはならない。
 彼の深い悲しみを共に背負うためには、それが最低限の礼儀であった。
 氷咲くんの顔が、怒りからか、引き攣った。
 口が開きかけたが、声を発さずに閉じた。
 出てくるはずだった言葉は、罵声の類じゃろうか。

 彼が俯き、沈黙の後、顔を上げた。
 そこには笑顔があった。
 しかし、引き攣った笑顔じゃった。
 それは演技じゃろう。
 知られたくはなかった想いを知られてなお、わしを労ろうとするその壮大なる器量。
 たった十五歳の少年にできる表情ではない。

「過去は過去です。
 学園長には、これからの僕を評価してほしい」

 過去は過去、か。
 不遇なる過去を割り切り、幸せな未来を夢想する。
 そしてそれを、わしに評価して欲しいと言った。
 わしという人間は、氷咲くんの信頼に値する人間になれるのじゃろうか。
 いや、必ずならなければならない。
 心に刻むように頷いた。
 静かに口を開いた。

「氷咲くん、一つ聞いても良いかな?」

「はい」

 氷咲くんが、真摯に頷いた。

「きみは、人々と手を取り合い働くと言う平凡な夢を、叶えようとしているのじゃな?」

 これは最終確認。
 いや、自らを奮い立たせるための問い。

 氷咲くんが、即座に頷いた。
 その頷きは勢いが良く、意思の強さをまざまざと再確認させられた。
 ならば、何も言う事はない。
 できうる最大限の笑みを浮かべた。

「わしは、小林氷咲くんの過去を、なんら詮索しないとここに誓うぞい」

 氷咲くんの瞳が見開かれた。
 身体が小刻みに震えていた。
 わしは畳み掛けるように笑みを返した。
 良いんじゃ。
 きみは、幸せになっても良いんじゃよ。

「きみの夢を支援するとも誓うぞい。
 いや、この老いぼれに支援させてはくれんかのう」

 氷咲くんが慌てふためいた。
 こんな彼を見るのは初めてじゃった。
 ふと、孫を見るような目で、彼を見ている事に気づいた。
 それほどまでに、小林氷咲という魔族の少年には価値がある。

「いや学園長!
 そんな低姿勢にならないで下さい!
 こちらこそ……よろしくお願いします」 
 
 氷咲くんが、頭を下げた。
 その様は美しくも儚かった。
 まるで夜空に浮かぶ一番星のように輝いていた。
 わしは深く頷いた。
 彼を遠くから優しく照らす、太陽のような人物になるのだと。




 それから、愛すべき生徒との談笑は続いていた。
 氷咲くんの純粋さと、自らの穢れを再認識させられた楽しくもためになる時間であった。

 その途中の事じゃ。
 わしは、ある事柄から釘を刺した。
 氷咲くんの情報能力ならば、東と西のいざこざを知っている可能性が高いからじゃ。
 その上、彼の性質は酷く優しいと言えよう。
 困った者がおれば手を差し出さずにはおれない。
 さながら、善を体現したような少年じゃ。
 実力が圧倒的なまでに離れている強者のエヴァへと、その善意故、弱者の側に立ち戦う暴挙をした。
 ならばネギくんを支援するために、単身で京都に乗り込むという暴挙をせんとも限らないのじゃ。
 そんな善ばかりをしていたら、いつの日か彼は、命を落とすじゃろう。
 人助けをして死ぬなら本望だと言うかも知れないが、わしは絶対に許さない。
 それほどまでに、情が移っておった。
 それに彼には裏関係は似合わない。
 現実は優しくないのじゃ。
 だからこそ、平凡なる幸せを最優先にして欲しかった。

「氷咲くん。
 京都に近づいてはならんぞい。
 きみは、学業に専念して、立派な大人になるんじゃ」

 意図がわからなかったのか、一瞬だけ首を傾げたが笑顔を返してきた。

「学園長、草食系男子たる僕が学業を疎かにする訳がないじゃないですか」

 そうじゃ。
 それで良い。
 わしは満足げに頷くと笑った。
 もう隠し事はない仲と言うのに、未だ一般生徒だと言いはるとはのう。
 なんとユーモアのある冗談じゃろうか。

「フォッフォッフォッ。
 それで良いのじゃ」

 それから氷咲くんは、平凡がどれだけ幸せで貴重なものなのかを熱く語ってくれた。
 反面、わしの想像を超えるほどの幼少期を過ごしていた事が伺い知れた。
 微笑みを持って、その話に耳を傾けた。

 気づくと、外が夜へと変わっていた。
 氷咲くんが笑顔で言った。

「学園長、門限があるため、今日の所は帰らせて下さい」

 門限を重視するとは、一般生徒らしくて好感が持てた。
 これが、ブラックジョークと呼ばれるものなのかのう。
 氷咲くんは将来、コメディアンになるのも良いかも知れん。
 身体を揺らして笑った。

「フォッフォッフォッ。
 そうか。そうじゃったな。きみは平凡なる一般生徒なのじゃからな。
 わしも心が和んだわい。
 これから、何か問題が起こったらわしに言いなさい。
 協力しよう」

 氷咲くんの瞳が微かに滲んだのを確認した時、わしもつられて滲みそうになった。
 しみじみとした空気が、室内を覆った。
 じゃが、涙はこの場にはそぐわないじゃろう。
 微笑んで、前々から疑問に思っていた事を聞いた。
 その空気を変えようと思ったのじゃ。

「前々からわからなかったんじゃが、草食系男子とはどんな意味なのかのう?」

 氷咲くんが、年相応な一般生徒のように吹き出した。
 爽やかな笑顔で声を上げた。

「草食系男子とは、簡単に言うと所謂」

「じじい、話しがある」

 小刻みに頷いて耳を傾けていると、突如、何者かの声に邪魔をされた。
 不思議に思ったが、わしをじじいなどと呼ぶ生徒は一人しかいない。
 エヴァが普段のようにけだるそうに入ってきた。

 余りに突然だったために、唖然としてしまった。
 エヴァの目が見開かれた。
 わしと氷咲くんへと、交互に視線を移してから、その瞳に鋭さが増した。
 しかし、口許には素敵な笑みが浮かんでいた。

 どうしてかと聞かれても、わからん。
 わからんが、エヴァは憤っておった。
 その小柄な身体から殺気が溢れていた。

「じじい。
 やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」

 急速な事態に、老いた頭がついていかない。
 氷咲くんが諌めようとしてくれたのか言った。

「エヴァンジェリンさん。
 学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」

 氷咲くんが黙り込んだ。
 仕方なかろう。
 わしでさえ面くらった、有無を言わさぬ迫力なのじゃから。

 それにしてもエヴァが、氷咲くんをファーストネームで呼ぶとはのう。
 良いことじゃな。
 仲よき事は美しき事かな。
 じゃが、後頭部を切り落とされねばならん理由と、訪問の用件を聞かなければならんのう。
 少々気圧されてはいたが、なんとか口を開いた。

「な、なんの用じゃ?」

 エヴァはさも当然だろうと言わないばかりに、一笑に伏した。

「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」

 な、なにを言っておるのじゃ。
 そ、そんな訳なかろうが。

 困惑しながらも、反射的に口が開いた。

「いや、わしは」

「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
 おい、行くぞ。
 なんだその阿呆の子のような顔は。
 茶々丸、連れて来い」

「了解しました」

 一切の反論は許されなかった。
 何か口を挟む時間も与えられなかった。

 さ、さすがのエヴァと言うべきかのう。

 見事なまでの早業で、氷咲くんを引き連れて消えてしまったのじゃ。
 心配には思ったが、部屋から出る時に氷咲くんは苦笑を見せていた。
 それはつまり、エヴァに付き合ってくるのだと示していたのじゃろう。
 やはり優しき少年、か。

 それにしても、エヴァのはやとちりには困ったものじゃのう。
 心外にも、わしが何やら、氷咲くんをたぶらかそうとしたと濡れ衣を着せられるとは。

 そんなにわしって、信用がないのかのう……。

 まあ、誤解を解くのはいつでもできるじゃろう。
 内心は打って変わり、穏やかそのものであった。
 願わくば一つだけ。
 ちっぽけでも良い。
 氷咲くんに平穏なる幸せが掴めますように。

 そう言えば、また草食系男子について聞きそびれてしまった。
 じゃが、いずれ教えて貰えば良いじゃろう。

 もう、温くなってしまったお茶を啜った。
 うむ、美味く、はない。
 感想を述べて苦笑した。

「草食系男子とは、一体どういう意味なんじゃろうか」



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その弍
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:20
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 急速な事態の推移に、頭の中が真っ白になっていた。
 現実逃避を、していたのかも知れない。
 ふと、意識が覚醒した。
 見知らぬ部屋のソファーに座っていた。
 首を傾げながら、周囲を確認した。
 欧州風である調度品が並んでいる品の良い内装。
 テーブル上に、湯気が立ちのぼるティーカップが置かれていた。
 不思議に思っていると、傍らに人影が在った。
 メイド姿の茶々丸さんであった。それから対角線上のソファーに座る人影、エヴァンジェリンさんを視認した瞬間、思い出した。

 そうだった。
 学園長との談笑中なのにも関わらず、鬼気迫るエヴァンジェリンさんに拉致されたのであった。
 学園長へと怒っていた理由については、皆目検討はつかないが。
 それと同時にある記憶が呼び起こされた。
 忘れていたが、エヴァンジェリンさんがヤンデレ状態に陥っていたのである。

 参った。
 これは参ったと言わざるを得ないだろう。
 なぜならエヴァンジェリンさんに、再度、告白を断らなければならないからである。
 そんな事をおいそれと宣ってしまったならば、比喩ではなく、自らの首が地面に転がってしまうであろう。
 どうすれば。
 頭を悩ませていると、ある事に気づいた。
 それは二つ。
 見知らぬ部屋と、エヴァンジェリンさんが制服から普段着に替わっている事であった。
 その事実から推測するに、この部屋はエヴァンジェリンさんの住居なのではないだろうか。
 可能性は極めて高く思えた。

 考察していると、ある困った事態が浮かび上がった。
 茶々丸さんがいるとは言え、この状況を呼称するならば、部屋で向かい合う二人、だろう。
 そして俺を呼称するならば、彼女の部屋に上がった、初々しき彼氏そのものに見えるのではないだろうか。
 その上、由々しき事態がまた浮かび上がった。
 どうしてかは知らないが、傍らには茶々丸さんが立っているのである。
 前にエヴァンジェリンさんを「マスター」と呼んでいたのを鑑みるに、友達なのだろう。
 いや、今はそんな事はどうでもいい。
 現状、茶々丸さんのお美しい瞳には、俺達は恋人同士に映っているのではないだろうか。
 エヴァンジェリンさんは、俺を恋人と思い込んでいる節が、多々あった。
 二人は友達で、女子学生だ。
 色恋沙汰は三度の飯より大好きであろうし、エヴァンジェリンさんがもう彼氏だと言いはっている可能性は極めて高く思えた。

 いかんいかんいかんいかん。
 いかんぞ。
 明日には葬式を開かれる事になろうが、もう朝日を拝めない事になろうが構わない。
 いや、構う。
 構う事には構うが、誤解されてしまうくらいなら死をも厭わないと言えた。
 さながら、荒れ狂う海の如き恐怖心はあるにはある。
 しかし、俺にとってこの誤解は、正に死活問題なのだ。
 エヴァンジェリンさんにとっても、嘘で塗り固められた関係は良いとは言えないだろう。
 心を鬼としなければならない。
 明確に断るのだ。
 心の中で呟いた。

 確かに、エヴァンジェリンさんを傷つけてしまうであろう言動を発するのは心苦しい。
 しかし、曖昧な関係に溺れる事こそ、彼女を馬鹿にした行為であると思えた。
 吸血鬼とは言え、中等部の生徒のようだから、何個か年下であるのは明白だ。
 ならば、俺は先輩なのだ。
 先輩として、学友として、本当に彼女を大切に想うのならば、早めに暴走を諌めてあげるべきなのである。

 口許にティーカップを傾けて、紅茶で生唾を飲み下した。
 緊張からか、全て飲み干してしまった。
 エヴァンジェリンさんの瞳が、優しき色を称えていた。
 その瞳は澄み、こちらを信頼してくれているように思えた。

 突如、罪悪めいた感情が氾濫した。その胸の苦しさを無視して、口を開いた。
 しかし、その決意は裏切られる事となった。

「エヴ」
「なんだ?まだ飲むのか?
 仕方のない奴だな。
 茶々丸」

「はい。ただいまお持ちします」

 茶々丸さんが一礼して、部屋の奥へとその背中を消した。
 唖然とその様を見送った。

 いやいやいやいや。
 そういう事ではなくて、いや、緊張から喉はまだ渇いているけれども。

 仕切り直しと、エヴァンジェリンさんを見遣った。
 さながら天使の如き笑みが口許に浮かべられていた。
 胸の中が、まるで重油でも塗りたくられたかのように重々しく呻いた。
 強き決意が、いとも簡単にも折られそうになった。
 こんな可愛らしくも好意的な笑みを向けられて、世の男の何人が否と言えるだろうか。
 しかし、彼女に殺されようとも、泣かれようとも、告げなければならないのだ。
 それが彼女のためであるし、本当の意味での労りなのだ。
 再度、心を鬼にして、口を開こうとして気づいた。
 茶々丸さんにも聞いて貰わねばならないのである。
 戻り次第、誤解を解こう。

 部屋内を、さながら容赦なき沈黙が闊歩していた。
 これからしなければならない行為に、居心地が悪かった。
 世間話くらいなら、許されるように思えて声をかけた。

「紅茶、ありがとう」

「紅茶くらい好きなだけ飲め」

 エヴァンジェリンさんが楽しげに笑った。
 胸が痛い。

「ここってエヴァンジェリンさんの家なの?」

 記憶が曖昧なため、どのような道筋を辿ってきたかは定かではないが、この広さは部屋ではなく家のように思えた。
 そこらの人間より優しく、人間と変わらないとは言え、吸血鬼であるからの配慮であろう。
 学園長はそれにしても器が大きいなと再認識した。
 エヴァンジェリンさんを一生徒として扱うのだから。
 聡明なお方である。
 理由など聞かなくとも、善意から来ているのだろう事は簡単に理解できた。
 先ほどは何らかの理由から怒ってはいたが、エヴァンジェリンさんも内心、学園長に感謝しているだろう。

「そうだ。
 道順は覚えただろ。
 私が暇であれば、いつでも来ていいぞ。
 あと、エヴァで構わん」

「そうなんだ。
 気品が漂う素敵な部屋だね」

 笑みを返した。
 そして、固まった。
 今、エヴァンジェリンさんはなんと言ったのだろうか。
 名前をファーストネームで呼び捨てして良いと、言ったのではないだろうか。
 いや、確かにそう聞こえた。
 年下の女の子の名前を呼び捨てるなど、まさしく、恋人同士が行う行為ではないだろうか。
 今まで九割だと思っていた推察が、十割、完全なる確信へと切り変わった。
 もはや彼女の胸中では、俺は恋人であると認定されているのだ。
 これは一刻を争う事態だと、高らかに言えた。
 その好意にも、その優しさにも、並々ならぬ感謝はしていた。
 しかし、名前の呼び捨ては絶対にしてはならない。
 またもや彼女が勘違いする要因である。
 それに、それは越えてはいけない一線なのだ。

 邪念を払うように、勢いよく首を振った。

「まったく、お前はさっきから何をやってるんだ」

 エヴァンジェリンさんが呆れたように笑った。
 その可憐な笑みを眺めて、強く思った。
 茶々丸さんがまだ戻っては来ないが、待っている時間などはない。
 友達の前でフラれるなど、恥ずべき記憶を形作らせてはならないからだ。
 茶々丸さんの誤解は解けない。
 しかしそれでも構わない。
 自らの利益よりも、彼女の利益となるよう優先しなければならないのだ。
 それがこんな俺を好きになってくれた女性に対する礼儀であった。

 エヴァンジェリンさんの目を見つめて、意を決して言った。
 部屋の空気が淀んだように感じた。

「エヴァンジェリンさん。
 落ち着いて聞いて欲しい」

「なんだ?
 真剣な話しでもあるのか?」

 エヴァンジェリンさんが素敵な笑みを浮かべた。
 俺は、頷きを返した。
 開かれた口からこぼれたその本意は、雰囲気を一変とさせた。

「俺は確かに、きみを一人の女性として大切に想っている。
 だけどまだ、俺達は寄り添う関係とは言えない。
 だからこそ、だ。
 そんな大切な女性の、大切な名前を、軽々しく呼ぶ軽薄な行為はできない」

 騒ぐ罪悪感故に、少々、曖昧な言葉となってしまった事は許して欲しい。
 だがこれで、俺達は恋人同士ではないと告げる事ができた。
 エヴァンジェリンさんはどのような表情をしているだろうか。
 泣き顔など見せられたら、俺の方が立ち直れなくなってしまう。
 恐かったが、エヴァンジェリンさんを見遣った。

 そしてその表情を見た時、脳裏に危険信号が瞬いた。
 エヴァンジェリンさんの顔色に、徐々に赤みが増していったのだ。
 さながら茹蛸のような色味は、喜怒哀楽の怒を示していた。
 怖い、途方もなく怖いが、彼女は年下だ。
 怒りを全て受け止めてあげねばならない。
 どういう結論から辿りついたかはわからない誤解だ。
 だがしかし、微かではあれど、俺にも落ち度があったからの誤解のように思えたからである。
 真剣な視線を送った。

 仕方ないだろう。
 エヴァンジェリンさんが、怒声を上げた。

「い、いきなりなんだお前は!
 この状況で……いや、どういう頭をしてるんだ!」
 
 
 心へと、鈍痛となりて響き渡った。
 心が強風に煽られるように揺らされた。
 未だに、恐怖はある。
 情けなくも身体はすくんでいた。
 しかし、これは彼女のためなんだ。

 エヴァンジェリンさんとの短くも濃い思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
 今までの人生、これほどまでに真剣だった一時があるだろうか。
 口を開いた。

「先ほどの言葉が全てだ。
 俺はエヴァンジェリンさんを信用している。
 きみならば、わかってくれるはずだと」

 エヴァンジェリンさんは、未だに怒りで顔を赤くしていた。
 しかし、何かを考え込むように俯いた。
 穏やかではない心の、整理をつけているのだろう。
 今まで恋人だと思っていた男から、面と向かって誤解だと告げられたのだ。
 やり切れない怒りで穏やかではいられないはずである。
 長い間、いや数秒かも知れない。
 そんな惑う空気の中、エヴァンジェリンさんがゆっくりと顔を上げた。
 顔は赤いまま上気していた。
 しかし、エヴァンジェリンさんは言ってくれた。

「ま、まだ答えは出せん」

 その言葉が、儚くも宙空を舞ったように思えた。
 指し示す事は一つだ。
 恋人同士ではないと理解してくれはしたが、まだ心の整理がつかないのだろう。

 今日はこれで良いんだ。
 自らの誤解に向き合おうとするエヴァンジェリンさんは素敵であった。
 自らの利益よりも、彼女の利益を。
 俺は優しく語りかけた。
 告白を断る相手に、優しい言い方は良くないとは、重々承知していた。
 しかし、しかしだ。
 彼女はまだ若い。
 将来、また恋愛をするだろう。その時の怯えや、トラウマとならぬように。
 先輩として出来うる、最大限の言葉を送るのだ。

「大丈夫。
 時間をかけて、考えてくれていいんだ。
 俺はいつまでも、待っているからね」

 エヴァンジェリンさんが唖然とした。
 そして、俯いたまま言った。
 それは断腸の想いで、発した言葉だっただろう。

「わ、わかった」

 ならば、俺は邪魔だ。
 一人にしてあげなければならない。
 エヴァンジェリンさんに別れを告げたが、返ってはこなかった。
 構わずもう一度言うと、その部屋を後にした。
 外に出ると、肌寒い空気を吸い込んだ。
 夜の森。
 上空には月が浮かんでいた。
 ふと門限を破った事に気づいたが、何とも思わなかった。
 門限よりも大事な事を、優先しただけなのだから。

 瞬く星達に、祈るように願った。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという吸血、いや女性が、愛の全てを捧げられる素敵な男性が見つかりますように。 
 
 
 
 —エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 渡り廊下は肌寒く、窓の向こうには薄い闇が広がっていた。
 茶々丸は無言で付き従い、私達は学園長室を目指していた。
 足取りは軽いと言えよう。
 なぜならネギから、あの憎々しき「サウザンドマスター」が生きていると聞いたからだ。
 私に恥辱の限りを味合わせた愚か者に、八つ裂きの刑を執行できる機会が与えられたのだ。
 小刻みに笑った。
 見慣れた道筋を辿りながら、この訪問の目的を再認識した。

 あの夜、私は負けた。
 圧倒的な実力差がどうであれ、油断や慢心がどうであれ、明確に戦略的敗北を味わった。
 悔しくないかと問われたとして、悔しくはないと胸を張って言えるだろう
 なぜなら、小林氷咲には負けはしたが、生い立ち故の欺瞞に満ちた心には打ち勝ったのだから。
 いや、この私を相手に勝利した男なのだ。そこを評価して、ヒサキと呼んでやろう。

 どのような経緯で、私へと素顔の笑みを見せたのかは見当はつかない。
 だが奴は、あの決闘の夜、素顔のままに泣き、花が咲くように笑った。
 不遇なる生い立ちから刻み込まれた猜疑心を、私の手で清め、浄化させた。
 あの生意気でいて、可愛気もある男に、素顔を取り戻してやれたのだ。

 二日ほどが経過していると言うのに、未だに気分は昂揚していた。
 それならば、私を信頼し安らぎを求めるヒサキにしてやれる事は一つだろう。
 平穏でいて、安息なる日々を取り戻してやるのだ。

 そう考えた時、ある不穏分子の顔が浮かび上がった。
 だからこそ私は、強烈なる釘を刺すために、学園長室を目指していたのだ。

 近衛近右衛門。
 さながら、大妖怪と言われても頷けるほどの狡猾さを懐に隠し持つ老害。
 ヒサキの生い立ちの秘密は、絶対に明るみに出てはならない。
 認識しているのは私と茶々丸、桜咲刹那くらいのものだ。
 だがしかし、じじいの情報能力は侮れないと言えよう。
 ヒサキの魔力の波動を、さながら妖犬じみた嗅覚で感じとっているかも知れない。
 いや、もうその狡猾さを遺憾無く発揮し、悪巧みの手駒として高笑っている可能性もある。
 秘密で脅迫し、東西のいざこざに首を突っ込ませようと画策している可能性もあった。

 さすがにそれは考え過ぎかと苦笑した。
 だが、そんな事はさせないと誓おう。
 少々、歩む速度を速めて、学園長室の前へと着いた。
 ドアを開き、声を上げた。

「じじい、話しがある」

 お決まりの椅子に座るじじいを視認できた。
 そして傍らに立つ人影を捉えたときの事だ。
 爆発的な怒りにより、身体が震え上がった。
 なぜなら、じじいに相対するように立つ人影。
 それは間違えようがなく、ヒサキそのものだったのだ。

 遅かったか。
 顔をしかめた。
 ヒサキが目を見開いてこちらを向いていた。
 それは脅迫されていたための唖然なのだろうか。
 じじいは呆然と、それでいて怯えたようにこちらを見ていた。
 これで確信できた。
 その怯えは、まるで親に悪戯が見つかった子供のようであったからだ。

 自然と、口許に笑みが浮かび上がった。
 常に先手を取り続ける姿勢は見事と言えた。
 やってくれるじゃないか。
 その男が誰の庇護の下にいるのかを、その身を持ってわからせてやろうか。

「じじい。
 やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」

 封印時とは言え、最大限の殺気を放った。
 じじいの額に油汗が浮かび上がった。
 なんだ。
 怯えてでもいるのか。
 もう遅い。今すぐに。
 行動に移ろうとすると、さすがに男と言う事であろうか。
 ヒサキが、猛然と立ち塞がったのだ。
 眼光は異様に鋭く、これは俺の問題だと言わないばかりにだ。
 私を睨みつけるとは、逆に気に入った。

「エヴァンジェリンさん。
 学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」

 ヒサキの思惑は手に取るようにわかった。
 その眼光が物語っていた。
「エヴァンジェリンさんには関係ない。自らの事は、自らで蹴りをつける」
 その心意気は高く買うし、汲んでやりたい。
 しかし、だ。
 現状私は、さながら吹きすさぶ吹雪の如く憤っているのだ。
 ヒサキと言えど、関係ない。
 私が、私の問題であると宣言するならば、これは私の問題なのだ。
 ヒサキの目の光りが消えて、黙り込んだ。
 もはや、私の狂気を止める事は何人足りとも不可能であると、その聡明さから覚ったのだろう。

 ならば、これからは私の時間と言えよう。
 大丈夫だ。
 お前を困らせる者は、私が黙らせてやる。
 目前で目を白黒とさせているじじいを、いや、害悪を、その醜き後頭部と共に消し去ってやろうではないか。
 じじいが怯えからか、唇を震わせて言った。

「な、なんの用じゃ?」

 往生際の悪い、狸め。
 用件など、目の前に見えるではないか。
 老いて視力を失ったか。
 良いだろう。
 言い逃れられるものなら、逃れてみるが良い。
 その問いを一笑に伏した。
 さながら、警察の如く取り調べてやろうではないか。

「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」

 空間を裂くように飛来した核心に、じじいが酷く狼狽した。
 白々しいとは、今のじじいのような様の所作を呼ぶのだろう。
 じじいが、さながら神に祈るように言った。

「いや、わしは」

 残念だったな。
 この場に神はいない。真祖の吸血鬼なら、笑みを携えているがな。
 その失笑ものの言葉を、覆い隠すように言った。
 しかし言いながら気づいた。
 じじいを血祭りに上げるのはいつでもできる。
 今はヒサキの保護が先決ではないだろうか。

「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
 おい、行くぞ。
 なんだその阿呆の子のような顔は。
 茶々丸、連れて来い」

「了解しました」

 致し方ないと言えた。
 さすがにヒサキの目の前で血祭りに上げるのは気が引けた。
 悔しいが、命拾いしたなじじい。

 乱暴に部屋を出た。
 背後から二人が、静かに着いてくる気配がした。
 それにしてもあの老害には、手酷い鉄槌が必要なようだな。




 道中、ヒサキは無言だった。
 助けられた事を、恥ずかしく思っているのだろう。
 とりあえずで、家に招待してみた。
 無言を貫いているが、ついてきていた。
 全く、可愛い奴だな。
 来たいなら、来たいと言えば良いものを。

 家に着き、気分良く着替えてリビングに戻った。
 ヒサキはソファーに腰掛けていた。
 傍らに立つ茶々丸が、かいがいしくもティーカップに紅茶を注いでいた。
 静かに対角線上のソファーに腰掛けた。
 それを合図のように、ヒサキの双眸に色が戻った。
 辺りを見回した後、紅茶を一気に飲み干した。
 あの湯気から察するに、相当に熱いだろうに。
 私の家に招待されて、喜びから緊張しているのかも知れない。
 少々、嬉しくなった。

 慌てなくとも良いのだぞ。
 苦笑をこぼせざるを得なかった。
 ヒサキの瞳が微かに揺らいだ気がした。
 不思議に思っていると、直ぐに気づいた。
 まだ飲み足りなかったのだろう。
 ヒサキと言えど客人だ。
 口が開かれる前に言った。

「エヴ」
「なんだ?まだ飲むのか?
 仕方のない奴だな。
 茶々丸」

「はい。ただいまお持ちします」

 茶々丸が一礼して、部屋の奥へとその姿を消した。
 ヒサキが唖然としていた。
 どうしてわかったのかと、驚いているのだろうと思えた。

 そんなもの、お前の顔を見ればわかる。
 また苦笑をこぼした。
 ヒサキが恥ずかしいのか、口をつぐんだ。
 心地好くある沈黙が、部屋内を包み込んだ。
 ヒサキがやっと割り切ったのか、声をかけてきた。

「紅茶、ありがとう」

「紅茶くらい好きなだけ飲め」

 楽しげに笑って言った。
 そんな礼など言わずとも良いと言うのに。
 しかし、その律儀な性格には好感が持てよう。

「ここってエヴァンジェリンさんの家なの?」

 頷きを返した。

「そうだ。
 道順は覚えただろ。
 私が暇であれば、いつでも来ていいぞ。
 あと、エヴァで構わん」 
 
 私に勝利した男だからな。
 気持ち良く告げた。

「そうなんだ。
 気品が漂う素敵な部屋だね」

 ほう、やはりお前はセンスが良いようだな。
 部屋を褒められて、少々喜んでしまう。
 ヒサキが笑みを返してきた。
 ふと、これがヒサキの望む平穏なのではないかと感じた。
 笑い合えて、欺瞞に満ちた争いのない空間。
 それは一時であれど、楽しくも儚き空間。

 そんな事を考えていると、突如、ヒサキの表情が固まった。
 どうしてかは、わからない。
 不思議に思っていると、今度は勢いよく首を振った。
 その様、に呆れて笑った。
 笑わそうとしてくれているのではないかと思えた。

「まったく、お前はさっきから何をやってるんだ」

 その言葉に、微かな幸福を感じた。
 笑うのも割と悪いものではないと、思えた。
 ヒサキが言った。
 どこか真剣に、私の目を見つめてでだ。

「エヴァンジェリンさん。
 落ち着いて聞いて欲しい」

「なんだ?
 真剣な話しでもあるのか?」

 笑みを浮かべながら、首を傾げた。
 不思議に思ったが、直ぐに気づいた。
 じじいを痛めつける算段だろう。ならば、力の限りを尽くして手を貸すぞ。
 共に、じじいを討とうではないか。

 そんな風に楽観視していた私は、次に起こった事態に愕然とする事になった。
 ヒサキが強い頷きを返した。
 その上、真顔で言ったのだ。
 その言葉は、楽しき雰囲気を一変と打ち砕いた。 
 
「俺は確かに、きみを一人の女性として大切に想っている。
 だけどまだ、俺達は寄り添う関係とは言えない。
 だからこそ、だ。
 そんな大切な女性の、大切な名前を、軽々しく呼ぶ軽薄な行為はできない」

 その言葉が、ほうほうと頷く私の鼓膜に響いた。
 そして、事の重大さに気づかされた。
 さながら、無防備状態で上級魔法を撃ち込まれたと勘違いしてしまうほどの衝撃だった。
 まさに愕然と言えた。

 ヒサキは言ったのだ。
 真剣に、まるでこの世の真理を語るかのように雄々しく。

 私を一人の女性として、大切に想っている。
 まだ寄り添う関係ではないから名前では呼べない。

 いや、しかし。
 これは、裏を返せば、これは、もしや、愛の告白、だと言えない、だろうか。
 寄り添う関係になるまで、呼ばないと言っているのではないのか。
 色々な感情がざわめきあって、酷く困惑した。

 こ、こいつは何を言っているんだ!

 次第に、熱湯風呂に入るように顔が熱くなっていった。
 嘘ではないのか。
 私を笑わせようと冗談を飛ばしただけではないのか。
 しかし、ヒサキの双眸は力強く、それでいて澄んでいた。
 嘘をつく者の瞳には見えなかった。
 反射的に声を上げた。

「い、いきなりなんだお前は!
 この状況で……いや、どういう頭をしてるんだ!」

 ヒサキはその言葉を、柳のように受け流した。
 笑う事なく、それでいて真剣に、語るように言った。

「先ほどの言葉が全てだ。
 俺はエヴァンジェリンさんを信用している。
 きみならば、わかってくれるはずだと」

 その力強き言葉が、鼓膜と心を震わせた。
 確信、できた。
 小林氷咲という男は、今、私に愛を囁いたのだ。
 その事実に、心がわし掴みにされたような感覚がした。
 顔が熱く、頭は重く、正常な判断ができそうにない。

 というか、というかだ!
 なぜこいつは私を!
 私は吸血鬼……なんだぞ!
 そうか……こいつも魔族か。
 でも私には……!

 脳裏に古い記憶が呼び起こされた。
 八つ裂きにするべき、嘘つきの笑顔がちらついた。
 そこに、目前のあまのじゃくの笑顔が割って入った。

 違う。
 違うと否定した。
 確かにこいつを、好いているのは認めようじゃないか。
 しかし、それは我が子を想うような感覚からだったはずだ。
 そうだったはずだ。
 それなのに、この気持ちはなんだ。
 まんざらこいつも悪くないと、思える心境はなんなんだ。

 何にも思ってなどいなければ、恥ずかしさなど伴わないのではないか。

 私の変身時の妖艶な身体を、ヒサキは知らない。
 ならば、今の私の、本当の姿をこいつは好いてくれたとでも言うのか。
 こんな小柄な私を、一人の女性として、大切に想ってくれるとでも言うのか。

 ヒサキは、確かに桜通りで言っていた。
 真祖の吸血鬼であり、元六百万ドルの賞金首である事を知っていると。
 例えば、例えばの話だ。
 番う事になった場合、私の業故に、数多の危険が伴う事を認識していながら、それでも構わないとでも言うのか。
 何よりも平穏を愛する小林氷咲という男は、私と平穏を両天秤にかけた場合に置いて、私の方に比重が傾くとでも言うのか。

 な、なんなんだ、こいつは。
 こんな奴には、出会った事がない。
 それは余りにも、嬉し過ぎるじゃないか。
 心がさながら、大地震の如く激しく揺らいだ。
 ここまで必要なのだと宣言されたからか、目が滲みそうになったが堪えた。

 わかった。
 わかったよ。
 お前の気持ちは、十分過ぎるほどに伝わった。
 それならば私は、しっかりと結論を出してやらねばならない。

 重要な事は、一つであると言えた。
 私は、小林氷咲に、恋愛感情を抱いているのだろうかという疑問だった。
 頭を悩ませても、わからなかった。
 危険なる世界に、小林氷咲という愚かなほど優しき男を、引き込んではならない。
 それと同時に、共に背負って行きたいという、多大なる欲求にも囚われる。

 受けるにしても、断るにしても、結論を出すには、時間が足りな過ぎた。
 熱いままの顔を上げて、口を開いた。

「ま、まだ答えは出せん」

 その言葉は、答えを求めているヒサキにとっては、苦い思いであろう。
 だが、許してくれ。
 時間を、くれ。

 しかし、ヒサキは優し気な声で言った。

「大丈夫。
 時間をかけて、考えてくれていいんだ。
 俺はいつまでも、待っているからね」

 唖然とせざるを得なかった。
 いつまでも待っている。
 それは多大なる恐怖や苦しみが伴うのだ。
 待ち続ける苦しみは、私には痛いほどに理解できた。
 そこまで目前の優しげな馬鹿者は、私を強く想ってくれているのだ。

 恥ずかしさで、比喩ではなく死にそうだった。
 俯いたまま言った。
 現状、その言葉だけで、精一杯なのだ。
 早めに整理をつけて、結論を出す。
 だから、許して欲しい。
 それまで、待っていて欲しい。

「わ、わかった」

 ヒサキにも思う所はあるだろうに、私を労るように微笑み、帰っていった。

 まだ蒸気した頬をさすりながら、窓の外の月を見上げた。
 その夜空に、これまでのヒサキとの思い出が映し出されたような気がした。
 苦笑した。
 出会いから衝突ばかりを繰り返してきたな。
 やっと話せるようになれば、これか。
 本当に奴は、私を驚かせるのが好きなようだな。

 ふと思った。
 ヒサキは、私に保護されたいのではなく、肩を合わせて共に歩きたかったのではないだろうか。
 そう思えた。
 先ほどの助けてやった時の恥ずかしそうな表情は、いまは苛立ちのように思えた。
 それはそうだ。
 好いている女に、助けられるなんてプライドが許さないだろう。
 余計な事だったかと、苦笑しながらふと目を閉じた。
 もしかしたら、初めの出会いから奴は私の事を。



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:21
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 曇り空が、頭上高く、広がっていた。
 二車線道路を往き交う、車が騒音を発していた。
 帰路を急ぐ生徒達の喧騒が、酷く儚く聞こえた。
 歩道橋を上り、ため息をつきながら下る。
 少しだけ冷たい春風が、頬に触れて消えた。

 日課である散歩の途中だった。
 心が罪悪感でさめざめとしていた。
 誤解から発生した一件は、一夜明けて、色を変えていた。
 それはさながら、自らを嘲笑うかのように蝕んでいた。

 ふと、上空を眺めた。
 曇天により、夕日がその巨大な身体ごと覆い隠されていた。
 この隠された夕日の如く、エヴァンジェリンさんの胸中は未だに、葛藤と苦悩に苛まれているだろう。
 しかし、これは彼女が、彼女自身の手によって解決すべき、試練であると言えよう。
 罪悪感から優しく接しようなど、それは紛いなき偽善である。
 心を鬼と化して、接触を絶ち、遭遇しないように気をつけなければならない。
 それが彼女のためであり、それが俺からできうる礼儀であり、最大限の感謝の印であった。

 しかし心は、さながら頭上に展開する夕日のように晴れない。
 それは致し方ないと言えよう。
 誤解を解いただけとは言えば心象は良いが、結果的として、一人の少女の優しき心を苛ませたのである。
 その事実はまるで、心が複雑骨折してしまったかのように辛かった。
 胸の奥の、そのまた奥の中心に、鈍痛となりて響いていた。

 しかし、一つだけ、高らかに言えた。
 この痛みは、愚かな俺への罰なのだ。
 どのような行動から、誤解されてしまったのかは皆目検討はつかない。
 つかないが、思慮の浅い行動という罪を犯してしまった自分自身に対する罰と言えよう。

 心に刻むように、強く頷いた。
 はっきりと言えた。
 こんな罰など、話しにならないほど生温いのだと。
 誤解をさせてしまった少女の心には、俺などの苦痛より遥かに重い、耐え難き苦痛を抱え込ませてしまったのだから。
 泣き言を吐く気など、毛頭なかった。
 泣き言など吐こうとするつもりならば、俺は自らの口を、殴ってでも静止するであろう。
 俺はこの痛みを自らの罰として受け入れてみせる。
 自らの糧として吸収し成長してみせるのだ。
 それが俺を想ってくれた少女に対する償い。

 春風を、肺が満杯になるまで吸い込んだ。
 一瞬、痛みが和らいだ。
 もう春風は吸い込まないようにしよう。

 ふと、周囲の風景を眺めて、ある事に気づいた。
 ここは、茶々丸さんと出会った記念すべき場所ではないか。
 過去の記憶の中で、二人が浮かんでいた空には、誰もいなかった。
 当然だと、苦笑した。

 過去の記憶と同じように、古ぼけた広場の入口から中を覗いてみた。
 過去の記憶と、明確に繋がったように思えた。
 あの後ろ姿は、間違えようがなかった。
 そこには茶々丸さんがいた。
 中央にしゃがみ込み、群がる猫に餌を与えていた。
 しかし、茶々丸さんを発見できたと言うのにも関わらず、心は微塵も昂揚としなかった。
 まさに末期である、と言えた。
 再度、苦笑がこぼれた。
 それを、春風が運び去った。

 広場の中央へと、ゆっくりと歩みを進めた。
 仲良くなろうと画策している訳ではない。
 いや、隠しようのない期待感はあるにはある。
 あるが、それは米粒くらいの矮小さであった。
 最優先の目的は、違う。
 茶々丸さんであれば、エヴァンジェリンさんの様子を知り得ているのではないかと推察したからである。
 直接的に会うのは絶対的に否だが、間接的に友達に問うくらいならば。

 歩み寄って、声をかけた。
 猫は餌に必死なのか、逃げる事はなかった。

「こんにちは」

 茶々丸さんが、しゃがみ込んだままの姿勢で顔を向けた。
 どうしてだろうか。
 一瞬沈黙が流れた。
 だが、立ち上がって一礼した。

「こんにちは。
 こんな所まで、どうしたのですか?」

 わざわざ、立ち上がってくれるとは。
 心痛から、引き攣ってしまう笑みを浮かべて答えた。

「いや、何気なく通りがかったら茶々丸さんの姿が見えてね」

 再度、沈黙が生まれた。
 猫の鳴き声と、上空の飛行機の音だけが響いた。
 居心地が悪く感じた。
 その沈黙を嫌って、しゃがみ込むと猫の背を撫でた。
 嫌がる素振りは見せなかった。
 愛らしくも喉を鳴らす姿に、微かにだが癒された。

「茶々丸さんは、いつも猫に餌をあげてるの?」

 三度目、沈黙が起こった。
 不思議に思ったが、ここである推察が浮かんだ。
 茶々丸さんは昨夜の誤解の一件を知っていて、嫌われてしまっているのではないだろうか。
 そうならば、それは致し方ないと言えよう。
 当然である。
 どんな事情があるにせよ、友達を振った男性に対して、心象を良くする女性は皆無だろうからだ。

 しかし、その事実に胸が痛かった。
 激しい痛みが波打った。
 さながら、胸を思い切り殴られ続けているような痛みは、断続的に続いた。
 猫を撫でる右手が震えてしまう。
 餌を食べるのを中断して、心配してくれているのか、こちらを向いて鳴いた。
 心配させないように笑みを浮かべ、無理矢理震えを止めた。
 強く思う。
 これも罰だと言うならば、俺は全てをこの身に受けようではないか。

 しかし、不思議な事が起こった。
 嫌われているはずである茶々丸さんが、傍らにしゃがみ込んだのだ。

「はい。
 日課となっています」

 知らない、のだろうか。
 嫌いな男の傍らになど、しゃがみたくはないはずだ。
 わからなかった。
 沈黙を嫌って、無理に口を開いた。

「そうなんだ。
 でも雨の日とか大変じゃないの?」

「いえ、大変だとは思っていません。
 それに私が来ないと、猫が飢えてしまいますので」

 その言葉に、自らの業の深さを思い知らされた。
 古ぼけた広場に、二人。

 一人は、いつ如何なる日も、猫が飢えないよう餌を与え続ける優しき女性。
 一人は、思慮の浅き行動という罪を犯した愚かな男性。

 酷い違和を感じた。
 茶々丸さんの姿が、視界の中で光り輝いて映った。
 脳裏に、ある負の感情が浮かび上がった。
 それは疑問。
 茶々丸さんの傍らに、俺などがいる資格があるのだろうか。
 好きなどと言う身分違いな想いを、抱き続けても良いのだろうか。
 独りでに、口が開いた。

「まるで違う。
 俺などとは違い、茶々丸さんは優しくて、眩し過ぎるんだ」

 その言葉が辺りに沈んだように思えた。
 茶々丸さんが黙り込んだ。
 それは何を指しているのだろうか。
 わからなかった。
 餌を食べ終えた猫が、俺の手をすり抜けて、茶々丸さんの足元に縋り付いた。

 茶々丸さんが言った。

「いえ、私などより、小林氷咲様の方がお優しいと思います」

 その言葉が、心に突き刺さったように感じた。
 思う。
 お世辞だろうが、同情だろうが、なんだって構わない。
 その言葉は、俺を元気づけようと送ってくれた善意なのだから。
 こんな愚かな俺を、茶々丸さんは心配してくれているのだ。

 純粋に、嬉しかった。
 しかし今の俺には、辛いという感情の方が騒いだ。
 まるで自らの罪を、再確認させられたようだったからだ。
 顔に浮かべた笑みは、引き攣っているだろう。
 隠すように俯いて、呟いた。

「俺は、優しくなんてないよ」

「いえ、お優しいです」

 有無を言わさぬ返答に、血液が脈打った。
 そこまで、心配してくれているとでも言うのか。

「マスターも言っていましたし、私もそう思います」

「マスター」それはエヴァンジェリンさんの呼称だ。
 愕然とした。
 未だに彼女は、こんな愚かな俺を、優しいと思ってくれているのか。
 心が震えて、何も言えなくなった。

 静寂が広がった。
 その静寂を消し去るように、茶々丸さんが口を開いた。

「あの、昨夜からマスターの様子がおかしいのですが、何か知っていますか?」

 また、愕然とした。
 エヴァンジェリンさんは、茶々丸さんに相談してなかったのである。
 姑息にも、救われた心地になった。
 今、こうして話す事ができるのは彼女のお陰だからである。
 どうしてかはわからない。
 彼女は、俺が茶々丸さんを想っている事を知らないはずだ。
 皆目検討はつかない。
 つかないが、もう一つの目的が口をついて出た。
 それは多大なる罪悪感による衝動であった。

「どんな様子だった?」

「窺っても、教えて貰えませんでした。
 いまは一人にしてくれ、と。
 朝食の時も、突然として、眉根を潜めたり、顔が赤くなったりしています」

 心がさながら、悲鳴を上げたような気がした。
 エヴァンジェリンさんの激しい葛藤や苦悩が、手に取るように伝わってきた。
 深く、頭を垂れた。
 謝罪するように呟いた。

「それは全て、俺が原因なんだ」

 茶々丸さんが、驚きの声を上げた。

「そうなのですか?」

 弱々しく、頷いた。
 そして思う。
 この場を去ろう。
 さながら善を体現しているような女性。
 その眼前に俺はいる資格、いや度胸がなかった。

「すまない、茶々丸さん。
 帰るよ」

 茶々丸さんが、黙った後に言った。

「わかりました。
 小林氷咲様、道中、お気をつけて下さい」

 弱々しく頷きを返して、背を向けた。
 このまま寮に帰って寝込もう。
 フラフラと歩き出した。
 しかし、ある恥ずかしき事柄を止めて貰おうとしていた事を思い出した。
 振り返り、最後に言った。

「さすがに小林氷咲様は恥ずかしいから、好きなように呼んでくれないかな?」

 茶々丸さんの瞳が、ほんの微かに揺れた気がした。

「ですが、私はガイノイドです」

 ガイノイドの意味がわからなかった。
 だが、空元気で笑った。
 教えて貰う気力などない。

「関係ないよ。
 俺が呼んでほしいだけだから」

 雲間から西日が差した。
 足早にその場を後にした。 
 
 
 
 —絡繰茶々丸side—
 
 
 
 
 ビニール袋から猫の缶詰を取り出すと、封を切り、お皿に盛り付けました。
 空腹を隠せないのでしょう。
 無数の猫達が、仲良く足元でおすわりしています。
 しゃがみ込み、餌の乗ったお皿を地面に置きました。
 一斉に食べ始めました。
 曇り空の真下、古ぼけた広場に可愛らしい声が響いています。
 その様を眺めながら、ふと思いだしました。

 停電の決闘の夜。
 マスターが敗北をきっした事により、小林氷咲様は家族の一員とはなりませんでした。
 その時私には、「悲しい」という感情が表れました。
 ですが彼が泣き笑い、その素顔というものを見せた頃には、「嬉しい」という感情に変わっていました。
 ガイノイドである私に、どうしてそう言った感情が表れるかはわかりません。
 マスターも色々な感情を与えてくれますが女性です。
 男性として感情を与えてくれたのは、小林氷咲様が初めてでした。
 だからこそ私は思ったのでしょう。
 短いですが、所謂彼の優しき生き様を見させて貰いました。
 時には助けられ、時には敵対し、それでいて無傷のままに終わらせる優しさ。
 まるで守り導いてくれているような感慨を受けて、人間で言う所の、お兄様のように見えたのだと思われます。

 昨夜もそうです。
 小林氷咲様が遊びにこられるのだと認識すると、嬉しくなりました。
 紅茶を取りに行き戻ってきて、彼の姿がないのを認識すると悲しくなりました。
 マスターに窺っても、顔色を朱に染めて、すまないが、一人にしてくれと部屋にこもってしまいました。

 次の日の朝食、マスターの様子が変でした。
 もう何も乗っていないお皿をナイフで切っていました。
 もう何も入っていないティーカップを口許に傾けていました。
 まだ空腹なのでしょうか。
 すると唐突に、顔色が変わりました。
 眉根を潜めて唸ったり、突然頬を朱に染めてまだいかんぞと呟いたり、虚空に向かい笑みを浮かべたりしていました。
 不思議になって窺いましたが、一言だけしか答えては貰えませんでした。
「ま、まだわからんぞ!
 だ、だがな!か、家族が増えるかもしれん!」
 顔色は、さながらトマトのように真っ赤でした。
 全容を知る事はできませんでしたが、それは良い事のように思えました。
 なぜならマスターが、これほどまでに喜んでいるのは初めてでしたから。
 マスターの幸せが、私の幸せでもあります。
 それにしても、家族が増えるとはどなたでしょうか。
 マスターが簡単に認めるとは思いませんから、その方は素晴らしき人なのでしょう。
 それは小林氷咲様を指しているのではないかと思えました。
 なぜなら彼が帰った後に、マスターが嬉しそうだからです。
 その未来が実現できるなら、どんなに良き事でしょうか。
 それこそ、本当にお兄様となり得てしまいます。
 それはとても、嬉しき事であると思いました。

 そんな事を考えていると、背後から声がかけられました。
 それは男性の声のようで、聞き覚えのある声音でした。
 優しさが漂い、猫達は逃げようともしませんでした。

「こんにちは」

 私は振り向き、動作が固まりました。
 そこには小林氷咲様の、爽やかな笑みが在りました。
 どうしてでしょうか。
 先ほどまで、彼の事を考えていたからでしょうか。
 恥ずかしいと言った感情が、表れました。
 ですが、礼儀を欠いてはなりません。
 直ぐに立ち上がり、一礼しました。

「こんにちは。
 こんな所まで、どうしたのですか?」

 小林氷咲様が、頷くと笑いました。

「いや、何気なく通りがかったら茶々丸さんの姿が見えてね」

 エラー。エラー。
 正に言葉の通り、固まってしまいました。
 小林氷咲様の口から、初めて名前を呼ばれたのです。
 茶々丸さん、と。
 さながらどこか、爆発的な嬉しさが発生しました。
 猫達の鳴き声と、上空の飛行機の騒音が、響きました。
 固まっていると、彼がしゃがみ込み猫の背を撫でました。
 猫は嫌がる素振りを見せず、可愛いらしく喉を鳴らしました。
 その様はとても美しく思え、見蕩れてしまうほどでした。
 動物には人間の心がわかる。だから優しい人にしか懐かないのだと、聞いた事がありました。
 それは事実なのだと思えました。
 なぜなら、猫達は小林氷咲様に懐いているのですから。

「茶々丸さんは、いつも猫に餌をあげてるの?」

 突然の言葉に、どう返したら良いかわからなくなりました。
 静寂が辺りに、広がりました。
 そこで視認しました。
 小林氷咲様の右手が、微かに震えているのを。
 さながら浸透するように、心配という感情が表れました。
 どうして震えているのかはわかりません。
 ですが、何か嫌な事があったのだと推察できました。
 一つ思い当たりました。
 マスターが言っていました。
 魔族故の悲しみ、と。
 ガイノイドである私には理解できませんが、そうであるように思えました。
 やはりそうなのか、猫達が彼を心配するように見つめていました。
 私には、何もしてあげられません。
 何をしたらいいのか、わからないから。

 ですが猫達がそうするように傍らにしゃがみ込みました。
 この行為がどう作用するのかはわかりません。
 わかりませんが、何らかの行為をしてあげたかったのです。
 マスターに笑顔をくれて、私に感情をくれたこの男性に。

「はい。
 日課となっています」

 容赦なき静寂が、小林氷咲様を襲っているように思えました。
 口許に乾いた笑みを浮かべて、言いました。

「そうなんだ。
 でも雨の日とか大変じゃないの?」

「いえ、大変だとは思っていません。
 それに私が来ないと、猫が飢えてしまいますので」

 小林氷咲様の顔がしかめられました。
 私は、何か変な事を言ったのでしょうか。
 恐怖という感情が表れました。
 彼に嫌われる事、それは怖くてとても悲しい。

 小林氷咲様の淀んだ瞳が見開き、こちらを向きました。
 静かに口が開いていくのが、とても印象的に映りました。

「まるで違う。
 俺などとは違い、茶々丸さんは優しくて、眩し過ぎるんだ」

 その言葉が私の胸の奥に、さながら降りたように感じました。
 小林氷咲様は、私などと違い優しくて眩しいと言いました。
 ですが、明確に言えました。
 それは違う、と。
 餌を食べ終えた猫達が、足元に集まってきました。
 色々な記憶が再生されました。
 私は事実として、小林氷咲という男性が優しい事を知っています。
 何か傷つく事があったのだろうと思えました。

 ですが、貴方が優しいという事実は変わらないのです。

「いえ、私などより、小林氷咲様の方がお優しいと思います」

 小林氷咲様が、唖然と口を空けました。
 ですが、その言葉は救いとはならなかったようです。
 顔を隠すように俯き、小さく呟きました。

「俺は、優しくなんてないよ」

「いえ、お優しいです」

 即座に返しました。
 小林氷咲様は自分の優しさに、誇りを持っても良いのだと言えたからです。
 その生き方を貫いてきたのでしょうから。

「マスターも言っていましたし、私もそう思います」

 その言葉が、小林氷咲様に届いたのでしょうか。
 彼の身体が、小刻みに揺れていました。
 それは救いとなったという事なのでしょうか。
 私の言葉で、彼を少しでも勇気づけられたのならば、それはとても嬉しいと言えました。

 無言が長く続き、ふと昨夜から疑問に思っていた事を、聞いてみました。

「あの、昨夜からマスターの様子がおかしいのですが、何か知っていますか?」

 小林氷咲様が、また唖然としました。
 また俯き、表情を隠すように、声だけが聞こえました。

「どんな様子だった?」

「窺っても、教えて貰えませんでした。
 いまは一人にしてくれ、と。
 朝食の時も、突然として、眉根を潜めたり、顔が赤くなったりしています」

 沈黙の後、小林氷咲様が頭を垂れました。
 そして、逡巡するように呟きました。

「それは全て、俺が原因なんだ」

 その言葉は、私を驚かせました。
 やはり小林氷咲様は、優しき人です。
 マスターをあそこまで、喜ばせてくれるのですから。

「そうなのですか?」

 小林氷咲様が頷きました。
 それならば、感謝の言葉を伝えなければ。
 ですが彼が遮るように言いました。
 ふと上空での出会いが思い返されました。
 彼はお礼を言われるのが、恥ずかしいようです。

「すまない、茶々丸さん。
 帰るよ」

 名残惜しく思いました。
 ですが、小林氷咲様には小林氷咲様の事情があるのでしょう。

「わかりました。
 小林氷咲様、道中、お気をつけて下さい」

 小林氷咲様が頷き、背を向けました。
 その背中から、どこか儚さが漂っているように思えました。
 ですが、私にはどうしたら良いかわかりませんでした。
 何もせず目で追っていると、彼が振り返りました。
 口許に笑みを浮かべました。

「さすがに小林氷咲様は恥ずかしいから、好きなように呼んでくれないかな?」

 その言葉に、私は嬉しいと同時に良いのだろうかと、疑問に思いました。
 マスターは、奴は気になどせんと言っていましたが、私はガイノイドなのです。
 そんな私が、好きに呼ぶなどの非礼をして構わないと言うのでしょうか。
 断られたらと思うと、怖いという感情が抱かれました。
 ですが、言いました。

「ですが、私はガイノイドです」

 しかし、小林氷咲様は笑顔で答えてくれました。
 そんな事を気にしていたのかと苦笑しているように思えました。

「関係ないよ。
 俺が呼んでほしいだけだから」

 その言葉を受けて、気づきました。
 先ほどの怖いという感情が、四散しているのを。
 その代わりに、今までにないほどの嬉しいという感情が浮かび上がりました。

 空の雲間から、西日が辺りに差しました。
 猫達が可愛いらしい鳴き声を上げて、足元に擦り寄りました。
 しゃがみ込みその背を撫でながら呟きました。
 今までより、多大な嬉しさが込み上げてきました。
 恥ずかしいという感情に困惑しながらも呟いてみました。

「氷咲、お兄様」

 その呟きが、春風にさらわれていったように感じました。
 曇天の空だと言うのに、晴れやかな景色に思えました。
 氷咲お兄様の背中が、小さくなり、雑踏へと消えていきました。



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その肆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:21
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 小鳥の囀りが聞こえて、ゆっくりと目を開けた。
 布団に包まったまま、辺りを眺めた。
 閉められているカーテンが、朝日を受けて淡く光っていた。
 夢うつつから、次第に意識が覚醒していく。
 習慣とは、どうしようもなく煩わしいものだ。
 内心は、さながら蝸牛のように布団に隠れていたかった。
 しかし眠ろうとしても、習慣を原則としてきた目は閉じようとはしなかった。

 致し方ないと、徐に身体を起こした。
 窓際に近づいて、カーテンを開けた。
 身体全体に日光が当たり、眩しさに目を細めた。
 普段はその爽快さを感じながらのびでもするのだが、そんな気持ちではなかった。
 寝苦しい一夜が明けても、答えや結論が出る事はなかったのであった。
 自問自答を繰り返した。
 神々しさ溢れる彼女の隣に、愚かなる己は立っても良いのであろうか。
 そんな疑問が、心の奥深くでうごめいていたのだ。

 物を置き過ぎるのは、好きではなかった。従って内装は簡素である。必要最低限の物があればそれで良かった。
 窓際に置かれた鉢植えに、日光が注がれていた。
 サボテンの棘が、やたらに痛々しく見えた。

 けだるい身体に鞭打って、身嗜みを整えた。
 土曜日の休日である。
 しかし、どこかに赴く目的がある訳ではなかった。
 これも長年の習慣であると言えよう。
 こなさなければ、気持ちが悪くなってしまうのだ。

 ふと気づくと、テーブル前の座布団にあぐらをかいていた。
 呆けた状態で、テレビを見つめ続けていたようだ。
 壁に掛けられた時計が、正午を少しだけ過ぎたのだと伝えていた。
 苦笑した。
 どれだけテレビを見れば気が済むのだろうか。
 見ていたはずの映像は、記憶に微塵も残ってはいなかった。
 終始、色々な記憶が呼び起こされていたからだろう。
 エヴァンジェリンさん。茶々丸さん。エヴァンジェリンさん。茶々丸さん。
 その度に胸が痛んだ。
 まるで、キリキリと万力で締め付けられているような痛みであった。
 しかし、堪え難き苦痛には思えなかった。
 そんな日常に、慣れてきてしまったのだろうか。
 もしくは結果はどうであれ、昨日の茶々丸さんとの会話が、罪悪感を揉みほぐしてくれたのかも知れなかった。

 困ったものであると言えた。
 心痛を罰として受け入れようと決意していた。
 それなのに、これでは罰となりえないではないか。

 定まらぬ頭を抱えて、悶々と時間だけが過ぎていく。
 そして、一つだけ気づいた。
 答えや結論の類いではない。
 だがしかし、こんな現状を憂いているだけでは、前にも進めないだろうし何も変わらないと思えたのだ。

 けだるい身体を叱咤して、足早に部屋を出た。
 寮から学園都市へと歩く間、至る場所に春を見つけた。
 涼しい風に触れて、植物の生命の息吹を感じた。
 当てなどなかったが、ただ歩き続けた。
 思考が、徐々に収束していくのを感じた。
 このまま塞ぎ込み、自暴自棄になるだけで、良いのだろうか。
 これには結論が出た。
 否である。
 ならば俺は、何のために、何を為すべきなのだろうか。
 エヴァンジェリンさんのただならぬ想いに報いるためには。
 茶々丸さんを想い続ける資格や度胸を得るためには。

 ある場所に着いた。
 茜色に染められた空の真下、河川敷だった。
 人影はなく、水面に数羽の鳥が浮かんでいた。
 遠めに、壮大なる橋を確認した。
 一件の元凶。
 停電の夜の橋だった。
 それを眺めながら、感慨深く頷いた。
 憎々しい気持ちには、ならなかった。
 溢れ出ているであろうマイナスイオンが、作用しているのだろうか。

 傾斜がかった草むらに腰を落とした。
 まさに、センチメンタルと言えた。
 自嘲ぎみに苦笑がこぼれた。
 その時だった。
 背後から聞き覚えのある声が響いてきたのだ。

「ヒサキさん、こんにちは」

 顔だけ向けて確認した。
 それはネギくんであった。
 いつもの子供用のスーツではなく、休日だからだろう。ラフな格好をしていた。
 満面の笑みで、こちらを見つめていた。

 ふと、停電の夜の記憶が思い起こされた。
 ネギくんが、女子中等部の担任の教師なのだと聞いた時は、素直に驚いた。
 神楽坂さんは教え子であると発覚した時は、愕然とした。
 内心、疑問が浮かばざるを得なかった。
 その幼さで教員免許を取得するのは不可能ではないのか。
 というか、列記とした違法ではないのか。
 しかし、直ぐに頷けた。
 あの学園長が、決断したのだろう事は明白であったからだ。
 さながら、菩薩様の如き素晴らしきご老体である。
 止むに止まれぬ事情があったのだろうと窺い知れた。
 深くは聞かなかった。
 気にはなったが、言いたくはない事柄の可能性もあるからである。
 感嘆の息を漏らしながらも、心に決めていた。
 まだ幼さの残るネギくんが教師として頑張っている。
 それならば、自らも負けぬように勉学に励まなければならないのだ。
 素直に思えた。
 微力ながら、年長者として出来うる限りで応援しよう。

 目前に、歳相応の無邪気な笑みが在った。
 それは穢れなく、どこか暖かいものを感じた。

「こんにちは。
 河川敷まで用事でも?」

「いえ、散歩を兼ねた見回り中です」

 ネギくんが隣の草むらに腰掛けた。
 心からの声が出た。

「そうか。
 休日なのにね。
 まさに教師として素晴らしき行いじゃないか」

「い、いえ、当然の事をしているだけですから」

 ネギくんが、照れ隠しするように笑った。
 感嘆の息を漏らした。
 真面目であり、なんと好感の持てる少年なのだ。
 ネギくんくらいの歳の頃には、俺は泣き虫であった。
 肩口に座る死神に怯え、迫りくる不運に恐怖していた。
 それなのに、目前の少年は教師をしているのだ。
 辛い事などもあるだろうし、本当は学校に通わなければならない歳だと言うのに。
 事情はわからないが、その教師としての姿勢に純粋に感動していた。

 ふと、肩口を見遣った。
 当然の如く、小さな死神は腰掛け笑みを浮かべていた。
 俺も慣れたものであると、苦笑を隠せなかった。
 ネギくんが言った。

「ヒサキさん、どうかしたんですか?」

「え?」

 反射的に声が飛び出した。
 次のネギくん悲愴を漂わした声が、罪悪感に苛んでいた心を震わせた。

「なにか、背中が悲しそうだったので……」

 その言葉に、自然に口が空いていくのを感じた。
 辺りを沈黙が支配していた。
 ネギくんの表情が曇った。
 変な事を言ったとでも思ったのだろう。ばつが悪そうに、こちらを見つめていた。

 この表情が指すのは一つの感情からだろう。
 それはただならぬ心配という感情。
 脳裏に、色々な優しき記憶が再生された。
 エヴァンジェリンさんは守ろうとしてくれた上に、優しいと言ってくれた。
 茶々丸さんは、優しく寄り添ってくれた。
 ネギくんは、現状、心配から不安そうにしてくれていた。

 涼しい風が、水面を揺らした。
 茜差す河川敷を、数羽の鳥が羽ばたいていく。
 それを眺めながら、思えた。
 愚かな俺のために、真剣に心配してくれる人達がいる。
 自らの都合を度外視して、優しくしてくれる人達がいるのだ。
 誤解をさせてしまった少女でさえ、未だに優しいと言ってくれているのだ。

 途端に馬鹿らしくなった。
 罪の意識を感じて塞ぎ込むなど、それこそが、まさに愚かな事であるのだと。

 現状、俺の為すべき事は一つであると言えた。
 俺が塞ぎ込む事により、皆を不安にさせる。
 それこそが、途方もなく罪深き事だと思えた。
 それならば、皆を安心させるように笑おう。
 無理矢理でもなんでも良い。
 エヴァンジェリンさんに報いるためにも、心から笑おう。
 彼女は心優しき女性だ。
 情けない俺の姿を見せては、より一層の悲しみを生むだろう。
 茶々丸さんの隣に立つためにも笑おう。
 辛気臭い奴が、彼女の隣に立ってはならないからだ。

 心にはまだ多少の痛みはあるが、不思議にも笑えた。
 ネギくんが心配そうにしていたが、目を丸くした。
 唐突に笑い出したからだろうと思えた。

「ネギくんありがとう。
 きみと、みんなのお陰で、俺はまた笑う事ができそうだ」

「えー!
 ぼ、僕は何もしてませんよ!」

 慌てる様は、さながら小動物のような愛らしさを孕んでいた。
 苦笑してから言った。

「ネギくんは心配してくれたんだろう?」

「は、はい」

「たった、それだけと思うかも知れない。
 些細な事だと言えるかも知れない。
 だけどそれは、俺が何よりも欲していた想いと言えたんだよ」




 それから談笑は続いた。
 夕日の真下に、笑い声が響き渡っていた。
 ネギくんのような弟がいれば良いのにと感じるほどに、打ち解けられた。

 ネギくんが、来日して教師をしている理由には驚きを隠せなかった。
 何やらマギステルマギとかになるために修業にきたらしい。
 吸血鬼語か何かだと思われるが、理解はできなかった。
 質問しようとは思ったが、ネギくんの熱い瞳に水を差すようでとりあえず頷いておいた。
 そしてもう一つの目的に驚愕した。
 なんと、行方不明になってしまった父親を探すためだというのであった。
 吸血鬼の家族の形態に関しては知らないが、それは普通とは言えないだろう。
 まだ親に甘えたい年頃だろうに、不安を押し殺して、健気に父親を想う少年。
 感慨深くなり、微かに目が滲むのを隠せなかった。
 俺も不運ばかりに見舞われてきた。
 同類故の感情だろうか。
 内心、応援したい気持ちで一杯であった。
 自嘲ぎみに笑った。

「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」

 ネギくんが、静かに頷いた。

「何度、死にかけたかわからない。
 頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ。
 でも、俺は麻帆良学園に来て変わる事ができた。
 ネギくんもそうだし、エヴァンジェリンさんに茶々丸さん、学園長に高畑先生、学友達に助けられてここまで生きてこれた」

 心からの言葉が出た。
 水の流れる音が、心地好く響いた。

「だからこそ、ネギくん。
 支えてくれた人達に報いるためにも、夢だけは捨ててはならないんだ。
 きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」

 ネギくんが、感動したのか強く頷いた。

「は、はい!
 ありがとうございます!」

 その声は強く、辺りの空気を震わせた。
 俺は微笑むと頷いた。
 夕日が落ち行こうとしていた。
 どんな事情があるにせよと思う。
 目前の少年はまだ幼い。
 父親が見つかる事を切に祈った。
 そして、本当の意味での笑顔が、少年の口許に浮かびますように。 
 
 
 
 —ネギside—
 
 
 
 
 土曜日の休日。
 僕は浮き浮きとした足取りで、散歩を兼ねた見回りをしていました。
 学園都市に春が賑わい、好ましい喧騒が響いていました。
 来週の火曜日には、今でも待ち遠しくある修学旅行に向かいます。
 エヴァンジェリンさんからある事を聞いていたんです。
 京都に、ナギが住んでいた家があったはずだと。
 これまで、霧に包まれたように掴めなかった手がかり。
 その霧が、晴れたかのような印象を受けました。
 ですが、それだけを重要視してはいけません。
 しっかりと生徒達を引率し、学園長から頼まれた密書も渡さなくてはならないからです。

 決意を新に、頷きました。
 ふと周囲を見ると、いつの間にか河川敷にまで来ていたようです。
 茜色の日差しが暖かく、遠めに大きな橋が見えました。
 それは決闘の舞台となった橋でした。
 つい先ほどのように、濃密な記憶が思い返されました。

 停電の夜の事です。
 僕達は協力して、苦しみながらも勝利を手にしました。
 絶対的とまで思えた、強者のエヴァンジェリンさんに、辛くも勝利したんです。

 はっきりと言ってしまえば、僕はほぼ何もしていません。
 重要な大部分は、ヒサキさんがしてくれたからです。
 あの時は無我夢中でした。
 どこかで見守ってくれているヒサキさんに笑われないように、全身全霊をかけて戦いました。
 魔力比べの勝負が始まった時、何度も諦めそうになりました。
 ですが僕は諦めませんでした。
 僕のために協力してくれた、優しき人達の顔が力をくれたんです。
 その度に奮い立ち、魔力を込め続けました。
 そして、それからの事態の急速な推移には、困惑しました。
 突如閃光と共に爆風が起きて、気づいた時には吹き飛ばされていたんです。
 困惑しましたが、事態を確認しました。
 エヴァンジェリンさんが湖へと落下していくのを、視界に捉えました。
 どうやったかはわかりませんが、ヒサキさんが倒してくれていたように思えました。
 その思考を一旦途切り、無我夢中で落下するエヴァンジェリンさんに手を伸ばしました。
 その腕を掴んだ時、僕は新な尊敬の念を抱きました。
 なんと、ヒサキさんも腕を掴んでいたのです。
 本当に優しい人です。
 僕のために戦ってくれて、敵だった僕の生徒まで救ってくれて。
 情けなくも魔力が安定せず、僕までもヒサキさんに助けられてしまいました。
 抱かれながら思いました。
 それは抱擁感とでも言うのでしょうか。
 優しさが漂う胸元は暖かく、まるで僕が目指す偉大なる魔法使いのようでした。
 記憶の中のお父さんと、ヒサキさんが繋がったように思えました。
 その後、突然、涙をこぼした理由はわかりません。
 ですが、それはとても尊いものに思えました。
 善意に礼を求めない姿勢、その余りの格好よさに憧れてしまいました。
 

 思い出し笑いをしていると、傾斜がかった草むらに人影を発見しました。
 一般人のように思えましたが、それはヒサキさんでした。
 あの夜の服装とは違い、黒色のパーカーにジーンズという簡素な服装が似合っていました。
 夕日差す河川敷に佇む、一人の青年。
 なんて格好良いんだろう。
 さながら絵画のような情景に見惚れました。

 近づいていくと、ある事に気づきました。
 微かに。
 本当に微かにですが、何となく感じ取れたんです。
 大きな背中から、どこか悲しみが漂っているように思えたんです。
 どうしたんだろうと、心配になりました。
 何か傷つく事があったのかも知れない。
 僕に何ができるかと問われても答えられませんが、笑顔で話しかけました。

「ヒサキさん、こんにちは」

 ヒサキさんが、こちらに顔だけを向けました。
 ふいに微笑みました。
 ですが、その笑みにはどこか儚さが孕んでいました。

「こんにちは。
 河川敷まで用事でも?」

 その声音にも、どこか儚さを感じました。
 僕はどうしたら良いかわからなくて、反射的に答えました。

「いえ、散歩を兼ねた見回り中です」

 どうしてかはわかりません。
 ですが、話してみてわかりました。
 ヒサキさんは落ち込んでいるようです。
 僕なんかが何かしたら、迷惑かもと危惧しました。
 ですが、放ってなどいられません。
 ヒサキさんには、ただならぬ恩義を感じています。
 それだけではなく、尊敬や憧れといった感情も抱いているんです。
 役に立ちたいと強く思いました。
 とりあえず、傍らの草むらに腰掛けました。
 落ち込んでいる時に、一人は寂しいでしょうから。

「そうか。
 休日なのにね。
 まさに教師として素晴らしき行いじゃないか」

「い、いえ、当然の事をしているだけですから」

 突然、誉められて、嬉しくなりました。
 尊敬する人に誉められて、喜ばない人はいないでしょう。
 ですが、ヒサキさんの所作に居ても立ってもいられない心境になりました。
 顔の表情を押し隠すように、反らしたんです。
 それは悲しみを伴っていました。
 僕なんかが力になれるとは思っていません。
 微力な事は重々承知しています。
 ですが、意を決して言いました。

「ヒサキさん、どうかしたんですか?」

「え?」

 ヒサキさんが、反射的に声を上げました。
 その響きに、僕まで悲しくなってきてしまいました。

「なにか、背中が悲しそうだったので……」

 ヒサキさんの口が静かに空いていきました。
 辺りを沈黙が支配しました。
 言ってはいけない事を言ってしまったのでしょうか。
 ヒサキさんの傷口を、えぐるような事を言ってしまったのでしょうか。
 申し訳ない気持ちが、表情に表れました。

 どれほどの沈黙が続いたでしょうか。
 押し黙っていると、涼しい風が水面を揺らしました。
 茜差す河川敷を、数羽の鳥が羽ばたいていきました。
 ヒサキさんがそれを見つめて、唐突にも微笑みました。
 僕は目を丸くしました。
 その微笑みには、悲しみを感じなかったからです。

「ネギくんありがとう。
 きみと、みんなのお陰で、俺はまた笑う事ができそうだ」

「えー!
 ぼ、僕は何もしてませんよ!」

 咄嗟に反論してしまいました。
 当然です。
 僕は、何もしてはいないのですから。
 ですが、ヒサキさんが優しげな微笑みを浮かべて言いました。

「ネギくんは心配してくれたんだろう?」

「は、はい」

「たった、それだけと思うかも知れない。
 些細な事だと言えるかも知れない。
 だけどそれは、俺が何よりも欲していた想いと言えたんだよ」

 僕には、良く理解できませんでした。
 これが大人と呼ばれる方達の思考なのでしょうか。
 ですが、独りでに笑みが浮かびました。
 僕やみんなの、言葉や想いが、ヒサキさんに自然な笑みを形作らせた。
 そうならば、それは途方もなく嬉しい事でした。




 それから楽しい談笑は続きました。
 夕闇迫る河川敷に、笑い声が木霊していました。
 ヒサキさんのような兄がいれば良いのにと、感じるほどに打ち解けられました。

 来日した目的を話すと、驚いていました。
 偉大なる魔法使いになるために修業しにきたというと、ヒサキさんは応援するように頷いてくれました。

 それが嬉しくて、お父さんについても話しました。
 どうしてでしょうか。
 ヒサキさんの表情が一転したのです。
 その表情は悲壮めいていて、笑うと言いました。

「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」

 内心驚きながらも、静かに頷きました。
 ヒサキさんは、幼い頃から命がけの不運に見舞われてきたようです。
 僕と同じだと思いました。
 僕も幼い頃に、悪夢のような事態に遭遇していましたから。

「何度、死にかけたかわからない。
 頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ。
 でも、俺は麻帆良学園に来て変わる事ができた。
 ネギくんもそうだし、エヴァンジェリンさんに茶々丸さん、学園長に高畑先生、学友達に助けられてここまで生きてこれた」

 何度も死にかけた。
 その壮絶な生い立ちには、愕然としました。
 僕も悪魔襲来の時、一度九死に一生を得ています。
 ですが、ヒサキさんは幾度となく九死に一生を経験してきたと言うのです。
 その事実に、さながら暴風を受けたかのように心が揺らされました。
 鮮明に思いました。
 だからこそ、ヒサキさんは強いんだ。
 幼い頃から、その窮地を自らの手で解決してきたのでしょう。
 いつも助けられてばかりの僕とは違う。

 ヒサキさんがこうも言っていました。
 俺は麻帆良学園に来て変わったのだと。
 みんなの助けがあってこれまで生きてこれたのだと。
 裏を返せば、麻帆良学園に来るまでは誰も助けてはくれなかったのでしょう。
 脳裏に幼いヒサキさんが、必死に生き抜こうとする映像が流れました。
 それは壮絶なまでの過去でした。
 僕には到底、生き残れないであろう過去。

 その言葉の一つ一つが、身体に浸透していくようでした。
 川の流れる音が、鼓膜を震わせました。
 ヒサキさんが微笑みました。
 それは心からの笑みのようでした。

「だからこそ、ネギくん。
 支えてくれた人達に報いるためにも、夢だけは捨ててはならないんだ。
 きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」

 その言葉に、唖然としました。
 壮絶な過去に相対すれば、普通の人の心は壊れてしまうでしょう。
 ですが、壮絶な過去を持ってしても、ヒサキさんの善意を汚す事はできなかったんです。
 なんて、強い人なんだ。
 感動が、身体を覆い込んでいるような感覚がしました。

 支えてくれた人達に報いるためにも夢は捨ててはならない。
 脳裏にこれまでの親切な人達の笑みが浮かびました。
 きみの夢を支援すると約束しよう。
 ヒサキさんの微笑みは暖かく、本当にお兄さんのように思えました。
 心に刻むように、強く頷きました。

「は、はい!
 ありがとうございます!」

 夕日が落ち行こうとしていました。
 夕闇がすぐ側まで、やってきていました。
 ヒサキさんが冗談でしょう。
 門限は守らないとねと言って帰って行きました。
 面白い人でもあるんだなぁ。
 素直に格好良かったです。

 送ろうかという言葉には、後ろ髪ひかれましたが、丁寧に断りました。
 早く大人に、ヒサキさんのような強い魔法使いになりたかったからです。
 春の風を受けながら、家路に急ぎました。
 一つだけ疑問がありました。
 途中の事でした。
 修学旅行は京都で、お父さんの手がかりがあるかも知れないと話しました。
 するとヒサキさんの表情が一転して、真顔で言ったんです。
 その言葉が深く印象に残っていました。

「京都か……ネギくん、気をつけるんだよ」 
 
 
 
 —先日の幼女吸血鬼さん—
 
 
 
 
 居間で悶々と唸っていた。
 ソファーに寝そべり、変な妄想をしては転がった。
 何回かそのまま床に落ちてしまったが、茶々丸には内緒にしよう。
 猫の餌やりで留守だったのが救いと言えた。

 窓の外に、紫がかった空が展開していた。
 学園から足早に帰ってきたと言うのにも関わらず、時間が経つのは早過ぎる。
 学園になど行っている場合ではないのだが、忌ま忌ましき登校地獄には逆らえなかった。

 ソファーに飽き、テーブルの前の椅子に腰掛けた。
 茶々丸が、かいがいしくも用意していった紅茶を、ティーカップに注いだ。
 それを口許に傾けて、甘さの中にある程よい苦味を堪能した。
 テーブルに頬杖をつくと、溜め息を漏らした。

 それにしても、ヒサキの奴には困ったものだ。
 あいつのせいで、何かに集中する事もできないし、まさに上の空と言えたからだ。
 昨夜から悩んではみた。
 みたものの、恋愛感情云々に関しての結論は浮かばなかった。
 あいつの心境を察するに、早く答えを出してやらねばならないのだが。

 だがしかし、一つだけ理解できた。
 ふと、小林氷咲という馬鹿者の事を考える。
 それだけで、まるで病にでもうなされたかと勘違いするほどに身体が熱くなるのだ。
 なんなんだ、これは。
 これは、もしや、そういう事、なのだろうか。

 だが、こういう結論に至ると必ずと言って頭を悩ますのだ。
 小林氷咲という愚かなほど優しき男を、こちらの世界に引き込んではならない。
 だが次の瞬間には、感情の色が変わる。
 後ろ髪ひかれるような感がして、こう思うのだ。
 肩を揃えて共に歩みたい。
 あいつの、ただならぬ想いを叶えてやりたい。

 まさに堂々巡りと言えよう。
 顔が熱い。
 手で扇ぎ冷ましながら、自然に苦笑がこぼれた。
 なんだ。
 昨夜から、何も変わってはいないではないか。
 それもそうか。
 長く長い、六百年という月日を生き抜いてはきた。
 だが生き抜くのに必死で、恋愛などというものを、深く考えた事はなかったのだ。
 ヒサキめ。
 私をここまで悩ませるとは、奴は三国一の色男かなにかか。

 笑みを隠せないでいると、茶々丸が帰ってきたのだろう。
 玄関口から物音が聞こえてきた。
 いかんいかん。
 茶々丸の手前だからな。
 主らしく、毅然とした姿勢を見せないとならない。
 昨夜から上の空ではあったが、私の様子がおかしい事には気づいていないだろう。

 颯爽を装って、優雅にティーカップを口許に傾けた。
 茶々丸がいつもの抑揚のない表情で、部屋に入ってきた。
 紅茶を喉に通しながら、横目だけで挨拶をした。
 茶々丸が一礼の後言った。

「ただいま戻りました。お変わりはなかったですか?
 それと、氷咲お兄様に会いました」

「ぶほぁ!」

 ある一つの言葉に、紅茶を口から吹き出した。
 さながら噴水の如く、飴色の液体が四散して絨毯を濡らした。
 明かりを反射して、煌めいていた。

「マスター」

「ごほっ!ごほっ!」

 茶々丸が寄ってくる。
 気管に入った。
 激しく咳込みながら、茶々丸の言葉を反芻した。

 氷咲、お兄様、だと。
 どういう流れでこう……というか、突然過ぎるだろ!
 息が苦しいため、心の中で突っ込んだ。

 程なくしておさまると、疑問が口をついて飛び出した。

「な、なんなんだ!
 ひ、氷咲お兄様とは!」

 茶々丸が、どこか不思議そうに言った。

「はい。
 氷咲お兄様が、そう呼んでくれと言いましたので」

「や、奴がそう言ったのか?」

「はい」

 何が何やらわからん。
 困惑した頭を、解すように首を振った。
 程なくして、その意図に気づかされた。
 突如、身体が焼かれているかと錯覚するほどに熱くなった。

 おおよそ、ヒサキはこう考えて言ったのだろう。
 例えば、例えばだ。
 私とヒサキが、万が一番う事になった場合の話だ。
 茶々丸とヒサキの関係は、まあ、義兄弟と言ってもおかしくはない。つまり、義妹と言ってもおかしくはないのだ。

 だが、しかしだ!
 お、おい、展開が早過ぎるんじゃないか。
 ま、まだ答えを返してもいないというのに。

 だが、一つだけ考えられた。
 ヒサキは愚か者故に、いや私を信じきっている故にだ。
 可否を問うならば、私の口から可しか出てこないと思い込んでいるのではないだろうか。
 困った奴だが、なんという見通しの早き男だろうか。
 私は手前の問題に四苦八苦していると言うのに、ヒサキは何手も先を見通しているとは。
 逆に男らしく、清々しくさえ思えた。
 強く想われているとはわかっていたが、これほどまでとは。
 はっきり言って、まんざらでもなかった。


 どうすれば、一番良いのだろうか。
 身体が熱く、頭は重く、だが心は昂揚としていた。
 ふと、茶々丸がこちらを見つめているのに気づいた。
 いかん、いかんぞ。
 これでは主としての威厳がなくなってしまうだろう。
 夕飯時に呼んでくれと言付けて、足早に私の部屋に向かった。
 部屋は薄暗かったが、心地好かった。
 ベッドに寝そべり、布団に包まった。
 独りでに、口許に笑みが浮かんでいくのを感じた。



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その伍
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:22
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 むせ返る新緑の匂いが、肺一杯に広がる。
 小鳥の囀りが耳に届いた。
 晴れ渡る空は爽やかな蜜柑色を称えていた。
 朝日が今、まさに昇ろうとしていた。
 麻帆良に広がる早朝の森は、穏やかな様相を呈していた。
 昨日までの鬱々しい胸のわだかまりが嘘のようだ。
 周囲に屹立する木々の間を、走り抜ける。
 皆の想いに報いるためにも、皆の支えに応えるためにも。
 そう言った決意から、体力作りを始めたのだ。
 勉学についても忘れてはならないが、やはり男たる者、体力の向上は必要不可欠ではないかと考えたからである。
 皆に恥じぬように、真っ直ぐな素晴らしき人間になるのだ。

 しかし、元々体力に自信はなかった。
 少しの時間しか走っていないというのに、心臓が激しい鼓動を繰り返していた。
 もはや乳酸が溜まっているとでも言うのだろうか。両足の動きが緩慢になっていた。
 通気性を重視してジャージを着ているのだが、それでもなお、身体は発汗していた。
 Tシャツが皮膚に張り付く感覚がした。
 さながら大洪水の如き水害に見舞われているのだろう。

 小刻みに息を吐き、リズムよく足を前後に動かし続けた。
 前を向く顔の表情は、おおよそ引き攣っでもいるであろう。
 苦しくはあったが、立ち止まる気は毛頭なかった。
 自らの精神の脆さを、鍛えるためでもあるのだから。

 それから程なくして、壮大なる大木が見えてきた。
 さながら森の守り神のような神々しさを孕んでいた。
 これは切りが良いと思った。
 大木の根本で小休止と洒落込む事にしよう。
 倒れ込むように座り込んだ。
 肩で息を繰り返して、携帯していたスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
 渇きが潤っていく。
 純粋に美味しいと思えた。
 これほどまでに美味しい飲み物があるのだろうか。
 身体に水分が染み渡っていくような感覚が気持ち良かった。

 弾む呼吸を整えて、頭上の大木を眺めた。
 逞しい幹は、俺の胴回りの十倍ほどは有にあるだろう。
 天にそびえ立つようなまでに思える背丈。
 その雄々しさには、多大なる尊厳を感じて止まず、見惚れてしまう。
 大自然とは、なんと尊大であり、厳かなのだろうか。
 暫く、その様に癒された。

 どれほどの時間が経っただろうか。
 呆けていた意識が、ある音により覚醒を始めた。
 なんの音、だろうか。
 さながら風を切るような音が、聞こえた気がしたのだが。
 頻りに、耳を澄ました。
 今度は、明確に聞こえた。
 風を切るような音が、鼓膜を震わせた。

 不思議だった。
 音がした方向に歩を進めた。
 次第に音が大きくなっていく。異なる音も聞こえてきた。
 いや、音ではない。
 何かの声、だろうか。
 木々の迷路を抜けるように進み、開けた場所が、その姿を現した。

 物音の正体が判明した。
 風を切る音は、刀を振るう音であった。
 声は、その動作時の掛け声であったのだ。
 徐々に青みが増していく空の真下、黙々と、それでいて真剣に刀を振るう少女。
 それは桜咲さんだった。
 俺は剣技には詳しくないが、素人目から見てもその妙技は美しく見えた。
 刀を振るう度に、木々の葉が舞い落ちる。
 その幻想じみた光景に、惚けるのを隠せはしなかった。

 ふと、桜咲さんとの出会いを思い返した。
 第一印象は、茶々丸さんのヤンデレストーカー。
 しかし、それは愛情の方向性を間違えてしまっただけ。
 第二印象は、歳相応に可愛らしく、一生懸命な少女となっていた。

 感慨深く頷いてから、事のおかしさにやっと気づいた。
 惚けていたためか、思考が上擦っていたようだ。
 桜咲さんは真剣に刀を振るい続けていた。
 刀が淡く輝いているように見えるが、目の錯覚であろう。
 慣れない走り込みなどをしたための弊害だと思えるが、それはこの際どうでも良い。

 強く、思えた。
 いかん、いかんぞ。
 人気のない森の中で、刀を振るっているとはいえだ。
 これでは、確実に銃刀法違反ではないか。
 この角度であると、後ろ姿でしか視認できないためどんな表情をしているかは分からない。
 しかし、背中から儚さが漂っていたのだ。

 それは何を指しているのか、直ぐに思い当たった。
 間違えようがなかった。
 極めて高い確率で、こうなのだと頷けた。
 桜咲さんは再度、何かに思い悩んだのだ。
 それが原因となり、ヤンデレ状態に陥っているのだろう。
 思春期だからとは言え、ここまでの暴走ぶりには、彼女の並々ならぬ苦悩が伺い知れた。

 風切り音と、威勢の良い掛け声が響き渡る。
 未だに刀を捨てる決意は持てないのだろうか。
 そう、考えた時であった。
 焦燥心が、さながら暴れ狂うように騒いだ。
 まさか、まさかとは思う。
 思うが、再度これは、自らの命を断とうしているのではあるまいな。
 いや、そうなのだろう。
 それは彼女の背中から漂う、悲しみのような雰囲気が物語っていたのだ。

 困った。
 これは困ったぞ。
 急を要する事態だと言えた。
 内心、自らにその狂気を向けられるかも知れない。
 そう言った、恐怖心はあるにはある。
 しかし、しかしだ。
 一応、見知った少女が悲しき結末を選ぼうとしている。
 そんな選択肢を選ぼうとする様に、無視を決め込むような男にはなりたくなかった。

 桜咲さんへと、静かに歩を進めた。
 揺れる背中が、酷く小さく見えた。
 奥深きその悲しみが、そう感じさせるのだろうか。
 しかし強く言えた。
 大丈夫。
 こんなに愚かな俺だって、皆の想いに支えて貰い、立ち直る事ができた。
 桜咲さんだって、立ち直れるはずなのだ。
 もしも、支えてくれる友がいないのならば、微力ながら俺がなろうと思えた。
 気配に気づかれたのだろうか。桜咲さんが勢いよく振り返った。

「誰だ!」

 森に怒声が響き渡った。
 静寂が訪れて、耳鳴りがつんざいた。
 身体が竦み上がった。
 しかし、微笑みを絶やしてはならないのだ。
 安心して貰うために、極力優しい声をと心掛けた。
 何にするにせよ、何事もまず挨拶からだ。

「おはよう、桜咲さん」

「こ、小林さん!」

 桜咲さんの瞳の鋭さが、次第に弱まっていく。
 唖然としたように、見開かれた。
 安堵した。
 俺を忘れては、いなかったようであった。
 また自己紹介から始める事は、さすがに辛い。

「こんな朝も早くから、頑張っているんだね」

 説得するには、相手を誉める事が大事と言えた。
 気分を良くして貰い、何とかその狂気を鎮めて貰うのだ。
 鎮まってからでなければ、説得も糞もないのである。

 桜咲さんは聞こえていないのか、呆然としていた。
 それもそうか。こちらは唐突に話しかけてしまったのだ。驚くのも致し方ないと言えよう。

 感情は、極力、波立たせてはいけない。
 今は待とう。
 出来うる最大限の優しげな微笑みを向けて、彼女が口を開くのを待つのだ。
 ほどなくして、桜咲さんが再起動した。
 うろたえながら、それでいて照れを隠すように言った。

「は、はい。
 鍛練は私の趣味でもありますし、これは私の存在意義と言っても過言ではないですから」

 無理矢理、笑みを絶やさないように気をつけた。
 内心はさながら、ナイアガラの滝の如く、涙が溢れそうになってはいたが。

 桜咲さんは、こう言ったのだ。
 刀を振るう事が、自らの唯一の存在意義だと。
 これほどまでに悲しい話が、現実に存在していたとは。

 目前の真剣な少女へと、視線を移した。
 うら若き、可憐な少女。
 普通ならば、恋愛や遊びなどに青春を謳歌すべき年頃の少女。
 そんな一般的であるべきな少女の口から、自らには刀しかないとまで言わしめたのだ。
 見当はつかない。
 茶々丸さん関連のようだとは思われるが、定かではない。
 しかし、一つだけ理解できた。
 やはり、彼女の心は病み、終焉へと向かいつつあったようだ。
 今日、走り込みをしようとして良かった。
 していなければ、彼女の明日は、闇に閉ざされていたかも知れないのだ。

 微かに目が滲むのを感じた。
 だが、無理にでも何でも良い、微笑みを返した。
 直ぐさま否定しようとしたが、その言葉を飲み下した。
 現状俺は、桜咲さんの内情について雲を掴むかのように知り得ていない。
 そんな男に知ったよう口を聞かれては、彼女は激しく憤ってしまうと思えたのだ。
 当たり障りのない言葉だけを、笑みに乗せた。

「そうか。
 ほどほどにね」

「心遣いありがとうございます。
 ですが私は、強くならなければならないのです」

 桜咲さんが有無を言わさぬとばかりに、答えた。
 その瞳は強く、並々ならぬ狂気を感じた。
 そこまで思いつめていたとは。
 目頭が熱くなったが、無視を決め込んだ。
 一刻を争う事態だと言えたからである。
 多大なる焦燥心に駆られながらも、微笑みを返した。
 直接的に説得するのは得策ではないが、遠回しに教えてあげるのはどうだろうか。
 一般的な女子生徒の遊び方を紐解くのだ。
 刀よりも楽しい事が沢山あるのだよと。

 ふと、俺では力不足なのではないかと思えた。
 しかし、しかしだ。
 皆が俺を支えてくれたように、優しき想いを彼女にも。
 そう、強く思えた。

「桜咲さんは、この後に用事でもある?」

「用事ですか?」

 その言葉に頷きを返した。

「どうしてですか?」

 桜咲さんが不思議そうに尋ねてきた。
 出来うる満面の笑みを、心掛けた。

「暇ならば、街にでも遊びに行かないか?」

 どうしてだろうか、桜咲さんの瞳が見開かれた。
 沈黙が広がっていく。
 涼しき春風が、木々の葉を揺らし小さな音を立てた。
 彼女の唖然とした表情に、不安感が増した。
 やはり俺では、役不足なのだろうか。

 桜咲さんが唖然としたまま、口を開いた。

「そ、それは私に対して、言っているのですか?」

 その言葉に苦笑してしまった。

「それはそうだよ。
 森の中、二人しかいないじゃないか」

「ふ、二人で、ですか?」

「そうだね」

 桜咲さんは未だに驚愕していた。
 真剣な顔のまま、表情を隠さずに呟くように言った。

「私などで、良いんですか?」

 その言葉が、胸に突き刺さったような感覚がした。
 そこまで自らを卑下するほど、病んでいるとは。
 即座に頷いた。

「当然だろう。
 桜咲さんだからこそ、誘っているんだから」 
 
 
 
 喫茶店は騒々しかった。
 オープンテラスという名称、だっただろうか。
 テーブルが四つほど設置してあり、俺達のテーブル以外も、全て満席だった。
 ストローで紅茶を啜り、桜咲さんへと笑みを向けた。
 俺と同様に、こういう街中に率先して赴く事は少ないのであろう。
 どこか窮屈そうに窺えた。
 もしくは、俺を警戒しているのかも知れない。
 それはそうだ。
 知り合ったばかりの人と、簡単には打ち解けられないだろう。
 その瞳は、暗い色を称えていた。
 しかし嬉しき事もあった。
 直ぐに戻ってはしまうが、時折、笑みを見せてくれるのだ。

 森の中の顛末を思い返した。
 私用があるため断わられた時には、力不足であったかと不安になってしまった。
 しかし、諦める気は毛頭なかった。
 それを選択したならば、桜咲さんの明日がどうなってしまうかわからなかったからだ。
 半ば縋る思いで、携帯電話の番号を教えた。
 連絡をと、告げて別れた。

 部屋に戻り、悶々と連絡を待っていた
 携帯電話が鳴り、恐る恐る液晶を見つめた。
 桜咲さんであり、少しだけ安堵した。
 昼過ぎから、目的地が原宿ならば可能らしい。
 その目的地に関して、疑問には思えたが、深く尋ねる事はしなかった。
 なぜなら、救われた気持ちになっていたからだ。
 これで機会を得たのだと言えた。
 病み苛まれるその苦悩を、解消させられる機会を。

 駅前で合流して、電車に揺られた。
 目的地に着き、自らの精神を叱咤する事になった。
 一般的な女子生徒が、何をして遊んでいるか調べ忘れていたのだ。
 これほどまでに最重要な部分を、調べ忘れていたとは。

 困り果てた。
 良く考えると、女子生徒と二人きりで街に遊びに来るのは初めてだった。
 内心、止まぬ緊張感があったのだろう。
 しかし現状、緊張感などに割く時間はない。
 待たせるのは女性に失礼だと思えて、目に止まった喫茶店に向かった。
 さすがは若者の街、原宿と言えよう。
 俺の価値観が古いのだろうか。
 歩道を練り歩く、艶やかな色の服装で着飾る若者達に、少々気圧され気味であった。
 桜咲さんは着飾らずに、制服を着ていると言うのに、白いワイシャツなどを着ている俺は浮いてはいないだろうか。
 少し不安に思えたが、心は穏やかだと言えた。
 桜咲さんを連れ出す事に成功したからである。
 毎日がお祭り騒ぎのようなこの街の喧騒が、その苛む心を癒してくれたらと願う。
 いや、他人任せではいけない。
 微力ではあるが、最大限の努力をしよう。
 しかし、たった一日で心の闇を消し去ろうなど、不可能じみた事だと思えた。
 そんな簡単に上手くいくのならば、こんな状況に陥ってはいないだろう。
 皆が俺にしてくれたように、ゆっくりと時間をかけて、支えて行こうではないか。

 喫茶店を後にして、休日の原宿を散策した。
 桜咲さんが行き先を俺に任すと言うので困ったが、とりあえず本屋に向かわせて貰った。
 せっかくであるから、興味津々だった小説を買いに行こう。
 桜咲さんの携えている竹刀袋には刀が隠されているのだろう。
 そんな彼女の非日常さには、普遍的な行いによる楽しさが必要だと思えた。
 あわよくば、その刀を置く決意をしてくれたら。

 購入して、裏路地をホクホク顔で歩いていると、桜咲さんが話しかけてきた。

「どのような本を買ったのですか?」

 これは嬉しい事を聞いてくれる。
 茶色の紙袋に包装された本を見せて説明した。

「これはね、ある天才詐欺師の生涯を追った小説だよ。
 詐欺師と言えば、負の感情を抱くかも知れない。
 だが、この主人公には隠された過去が……!ってやつ。
 小説はまだまだ己は未熟なのだと、再確認させてくれる趣味だと言える」

 桜咲さんが、はあと息を漏らして言った。

「詐欺師、ですか。
 さすがですね。
 小林さんのいとも簡単にやってみせる、人心を掌握する類い稀なる戦略。
 それは、小説からも勉強なさっているのですね」

 うん。
 意味がわからない。
 俺が、なんだと言うのだろうか。
 いとも簡単に、人心を、掌握する戦略とは一体。
 初めはネタか何かかと思えたが、その瞳は真剣そのものだ。
 どうしてだろうか。
 一つ思い当たった。
 心が病んでいるために、妄想しているのだろう。
 それならば否定をするのは逆効果だと思い、乾いた笑みで返しておいた。
 胸が痛くなった。
 桜咲さんが瞳を輝かせてこちらを見つめていたのだ。

 それからCDショップや、ゲームセンター。
 とりあえずでお決まりのスポットを回ってみた。
 色々な趣向を織り交ぜたのは正解だったようだ。
 彼女が微笑む時間が、次第に増えていったのだ。
 愚かなる俺が、微力ながら楽しませてあげられる。
 それが心地好くて、時を忘れるほどであった。

 ふと気づいた。
 広大な空が、青色から茜色へと移り変わっていたのだ。
 この行動が、彼女にどういった影響を与えたかはわからない。
 しかし、悪い方向性ではないだろうと思えた。
 その口許に浮かべられた笑みが、楽しげだったからだ。
 自らの行動は、間違ってはいなかったのだと示されているように感じた。

 駅へ向かう際、歩道の脇に、露店が開かれていた。
 無精髭を生やした恐面のおじさんが店主のようだ。
 地面に広げられたシートの上に、シルバーアクセサリーが並べられていた。

 輝く銀細工を眺めていると、ふとある事を思い出した。
 それはネギくんの事であった。
 明後日には、教師として修学旅行に赴くはずだ。
 それだけならば構わないが、なんとその行き先は、あの京都であったのだ。
 脳裏に、学園長が真剣なまでに語気を荒くした姿が再生された。
 さながら聖書のモーゼの如く神々しき学園長が、並々ならぬ激情を表してまで忌み嫌う京都。
 その場所に、ネギくんが向かってしまうのである。
 楽観的には思うが、その近しき符号には嫌な予感がした。
 その上、教師として生徒達を守り、立派に引率しなければならないのである。
 勇気づけるためにも、アクセサリーを贈ってはどうだろうか。
 支援する気持ちを、形に代えて贈るのだ。
 己如きが力になるには、これくらいの方法しか浮かばなかった。
 脳裏にネギくんが喜ぶ笑顔が展開されて、自然に笑えた。

「桜咲さん、少しばかり時間をくれないか?
 シルバーアクセサリーを見たくてね」

「はい。構いませんが」

 その言葉を聞いて、一つの銀細工を指で掴んだ。
 それはチョーカーであり、広げられた両翼が形作られていた。
 天使の翼を印象づけようとしているのだろう。
 細工がきめ細かく、とてもこのおじさんが作ったとは思えなかった。
 満足げに頷いた。
 これならば首に掛けるだけであるし、大きさも手頃であるから邪魔にはならないだろう。
 それにしても美しい。
 輝きに吸い込まれてしまいそうになるのは、錯覚だろうか。

 突如、音が聞こえなくなった。
 銀細工越しに、おじさんの口がパクパクと開いているのが見えた。
 声は聞こえなかったが、反射的に相槌を打っておいた。

 程なくして、音が戻った。
 不思議な現象だった。
 しかし、気にするほどではないだろう。
 購入しようとすると、背後から声が聞こえてきた。

「そ、それを買うのですか?」

 桜咲さんだった。
 どこか照れているように、頬をかいていた。
 不思議だったが、照れが指すものを感じとれた。
 おおよそ、桜咲さんもこの翼の銀細工の魅力に参っていた。
 購入しようとしたが、財布が軽くなってしまい、お金を貸してくれとは言いずらいのだろう。
 貸してあげよう。
 いや、遊びに誘ったのはこちらなのである。
 色々な場所に赴き、お金を使わせてしまった。
 懐の思いは彼女のためとは言え、とは言えだ。
 名目上、遊びに付き合って貰ったのは俺の方であった。
 ならば感謝の印として、高い出費をしても自明の理と言えるだろう。
 それに、お金の有意義な使い道が浮かばないのだ。
 本やゲームや、教材などを買うくらいのものであった。
 前々からゲーム機を買おうとは思っていたが、それは年々貯め込んでいたお年玉貯金から出せば良いだろう。
 それならば先輩として、後輩の将来を支援するという目的も込めて銀細工を贈ろう。
 天使が印象づけられる、銀の翼。
 まさに桜咲さんの印象に類似しているではないか。
 それにもう一つだけ、想いを込めよう。
 下ばかり見て悩むのではなく、天使のように上空を羽ばたいてほしい。
 気分は昂揚としていた。やはり銀細工か、予想以上に高かったが、二つ買い取った。
 帰りの電車賃くらいは残っているから問題はない。

 笑顔で振り返ると、そこに桜咲さんの姿はなかった。
 歩道上の雑踏に目を凝らした。遠目に後ろ姿が確認できた。
 贈ろうとしている意図を見抜いたため、恥ずかしがっているのだろう。
 良い傾向だと思えた。
 まるでその様は、一般的な女子生徒のそれではないか。
 ビニール袋の中に手を入れて、一つだけ取り出した。
 近づき、微笑んで銀細工を差し出した。

「今日、付き合ってくれたから。
 感謝の印を贈るよ」

「い、いえ!
 そのようなものを、受け取る訳にはいきません!」

 やはり照れているのだろう。顔が真っ赤になっていた。

 笑いながら、そんな一問答を繰り返した。
 結果的に、俺の強い押しに負けたのだろう。何とか受け取って貰える事になった。

 安堵の息を漏らして、銀細工を差し出した。
 桜咲さんが怖ず怖ずと、それを指に掴んだ。
 微笑みのまま眺めていると、不思議な事が起こった。
 桜咲さんの視線が、掌に乗った銀細工を捉えた時の事だ。
 唖然と固まったのだ。
 初めは嬉しがっているだろうと思えた。
 しかし、どうやら間違えているようだ。
 如実に表情が一点したのだ。
 表情に陰が差し、引き攣りを隠せないでいた。
 広げられた翼が、好みではなかったのだろうか。
 小柄な身体がどこか痛ましく思えて、恐る恐る、疑問を口にした。

「その翼は、好みではなかったかな?」

 桜咲さんの目が見開かれて、息を呑んだ。
 行き交う人達の雑音が、やけに印象的に聞こえた。
 彼女が押し黙り俯いた。
 どうしてだろうか。
 検討はつかないが、悲しみが漂よっていた。
 胸に鈍痛が響いた。
 しかし恐怖心に負けぬように、彼女の悲しみを消し去れるように優しく微笑んだ。

「きみの印象が、輝く翼が良く映えると思えたんだ」

 桜咲さんの表情が、苦虫を噛み潰したようしかめられた。
 俯き、言った。

「……いえ、私の翼は美しくなどありません。
 これは忌み嫌われる、醜い翼……」

 一瞬、何を言っているのかがわからなかった。
 私の翼とは一体。

 頭を悩ませたが、直ぐに感づいた。
 心を、翼と、置き換えたのだろう。
 つまり、私の心は美しくなどない。
 忌み嫌われる、醜い心だと彼女は言ったのだ。
 誰かに口汚い言葉で、罵られたのだろうか。
 その心の奥、深遠に潜む闇を垣間見たような気がした。

 違う。
 違うと強く言えた。
 桜咲さんの心の翼は、美しく誇っても良いのだ。
 全ては、方向性が悪かっただけである。
 その純粋なまでの強き愛情は、誰でも持ち得るものではないのだから。
 彼女の仕種全てが、儚く思えた。
 揺れてしまっている瞳を定められるように、真正面から見つめた。
 空が、薄暗くなり始めていた。

「醜くなどない。
 その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
 方向性を間違えているだけ。
 例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
 俺は、そう思っているんだ」

 桜咲さんの瞳が、微かに滲んだような気がした。 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 早朝の森に、声が響く。
 仄かに白んできた空の下、無心で夕凪を振るっていた。
 風を切る音が鳴り、木々から葉が舞い落ちた。

 習慣になってしまったと錯覚するほどの、思考のざわめき。
 停電の日の、夜以降から起こっていた。
 まるで心に、磁気荒らしでも発生したのかと疑問に思うほど騒いで止まなかった。
 いや、遠回しに言うのはよそう。原因の出所は、ここ数日で明確に理解できていた。

 それはたった一つ、ある人物が流した涙。
 普段ならば気にも止めない事柄だが、この場合に置いては、状況が違うと言えた。
 その人物は魔の類であるのに関わらず、そこらの人間などよりも優しき小林さんだったからだ。
 畏怖や尊敬を感じて止まない男性の瞳から、脆弱さを表す涙が流れたのだ。
 しかし、その涙は美しく、衝撃的なまでに、私の心を激しく揺さぶった。
 身もだえるような感動が身体を襲った。
 素敵、だった。

 それで終われば良かった。
 だが、私の醜き心は、次第に負の感情を噴出させていった。
 それは羨望の眼差し。
 小林さんに、素顔を取り戻してみせたエヴァンジェリンさんに向けての。

 私は、己にばかり必死で、小林さんの苦悩を理解しようとさえしなかった。
 いや、力強き男性の象徴のような小林さんには、私のような脆弱な苦悩などはないと決めつけていたのだろう。
 壮大なまでの器量から、優しく接してくれた大人のような人だと思い込んでいたのだ。
 だが、それは違った。
 それはそうだ。
 不遇なる少年時代を過ごしてきたであろう事は明白だ。
 私と同様か、それ以上の、熾烈なまでの苦悩はあったはずだ。
 さすがに小林さんと言えど、私と歳一つしか変わらない青年だったのだと痛感した。

 エヴァンジェリンさんは、その懐の深さでそれを見抜き、遺憾無く発揮した。
 即座に救済するための行動を起こし、その苦悩を、いとも簡単に打ち破ったのだ。
 長く、飽きてしまうほどの人生を生き抜いてきた女性の、器量なのだと思えた。
 彼女に対しても、多大なる尊敬を感じざるを得なかった。

 だが、心は裏腹だった。
 その事実は、さながら轟き渦巻くように心を騒がせた。
 どうしてかはわからない。
 どうして、そう言った恥ずべき感情が表れるのかはわからなかった。
 だが、数日が経ち、一つだけ理解できた。
 私は、嫉妬していたのだ。
 私は、羨んでいたのだ。
 二人の間に、切っても切れないような関係や絆を、見せつけられたような気がして。

 悶々とした日々は息苦しかった。後悔、のようなものに苛まれ続けた。
 その度に、息苦しさを打ち払うかのように夕凪を振るった。
 まるで心が、力の限り捩られているような痛み。
 鍛練の一時だけは、逃れる事ができた。
 だが、鍛練を終えた後。
 学園生活を送っている時。
 仕事に従事する時。
 脳裏に小林さんの優しき笑みが浮かび上がる。
 その涙が映像や写真となって展開された。
 胸が痛んだ。
 その心痛は、一昼夜として響き続けた。
 お嬢様を守るためだけに、今の私は在る。
 他の事など気にしている余裕はない。
 そう、強く思い続けて、それらをやり過ごしてきた。

 今日もそうだった。
 息苦しさから逃れられるように、鍛練に従事していた。
 身体が熱を帯びていくのを感じた。
 黙々と夕凪を振り下ろした。

 その時だった。
 何者かの気配を感じ取ったのだ。
 間違いだろうか。
 いや、確かに感じた。
 気配を感じとった方向へと、叫び声を上げた。
 今の私は、優しくなれそうになかった。
 もしお嬢様を狙う侵入者ならば、今の内に、覚悟しておいた方が良いだろう。

「誰だ!」

 叫び声が、森に響き渡った。
 何者かが、木々の間からこちらを見ていた。
 その顔の造形を視認した時、私の身体の機能は、まるで電気が落ちたように停止した。
 紛れもなく、小林さんその人だったからだ。
 思考回路が驚愕に陥り、混迷としていた。

 どうして、ここに。
 なぜ、だろうか。

 だが口許に浮かべられた優しげな微笑みが、こちらに向けられたものなのだと発覚した時だった。
 何をしても、時間をかけても、止む事のなかった胸の痛みが、嘘のように消えていった。
 それでいて、心の芯に暖かいものを感じとった。

「おはよう、桜咲さん」

 優しげな声音が、春風に運ばれてきた。
 小林さんが、初めて、私の名前を呼んだ。
 その事実に、反射的に声が出た。

「こ、小林さん!」

 未だに思考は混迷としていた。驚愕から、目は見開かれているだろう。

「こんな朝も早くから、頑張っているんだね」

 これは、褒められた、のだろうか。
 爆発的なまでの、昂揚感に癒されていくように感じた。
 小林さんが優しげな微笑みをこちらに向けていた。
 徐々に思考が収束し、定まっていく。
 私の言葉を、待っているのだろうか。
 これはいけない。
 尊敬する人を待たせるなどもっての他だった。
 酷く狼狽してはいたが、精一杯の答えを返した。

「は、はい。
 鍛練は私の趣味でもありますし、これは私の存在意義と言っても過言ではないですから」

 小林さんは、肯定してくれるように微笑んでくれた。
 その澄んだ瞳が、こちらに向けられていた。
 空に浮かぶような心地とは、この事だろうか。
 ただ、微笑みかけてくれるだけで、これほどまでに心地好いとは。
 だが心とは裏腹に、小林さんの涙が思い返された。
 それと同時に、エヴァンジェリンさんとの絆の深さも思い返された。
 昂揚感が、次第におさまっていく。
 胸の痛みが、徐々に増していった。

「そうか。
 ほどほどにね」

「心遣いありがとうございます。
 ですが私は、強くならなければならないのです」

 痛みに堪えながらも、面に出さぬように答えを返した。
 だが激しき心痛故に、目が鋭くなってしまった。

「桜咲さんは、この後に用事でもある?」

「用事ですか?」

 その問いは、不思議だった。
 どう言った意図からの、問いなのだろうか。

「どうしてですか?」

 次の小林さんの言葉に、再度、私の動きは停止した。

「暇ならば、街にでも遊びに行かないか?」

 静寂が広がった。
 涼しき春風が、木々の葉を揺らす小さな音だけが耳に届いた。
 再度、思考回路が、混迷となった。
 何を言って、いるのだろうか。
 遊びに行かないか。
 これは私に対しての、言葉なのだろうか。
 酷くうろたえた。

「そ、それは私に対して、言っているのですか?」

 小林さんが、当然だろうと言わないばかりに苦笑した。

「それはそうだよ。
 森の中、二人しかいないじゃないか」

 信じられない心地だった。
 呟くように言った。

「ふ、二人で、ですか?」

「そうだね」

 その返事は肯定。
 胸の高鳴りを隠す事は不可能だった。
 一言で表すならば、私は今、嬉しいのだと感じた。

 だが脳裏に、最悪な文字が浮かび上がり落ち込んだ。
 自らは忌み嫌われる禁忌。
 そんな私に、小林さんと共にどこかに行くなどという行いが許されるのだろうか。
 一つ、疑問が浮かんだ。
 小林さんは、私が忌み嫌われるものだと知っている。
 それを承知で、共に遊びに行きたいと言ってくれているのだろうか。
 聞くのが、怖かった。
 否定されたらと思うと、怖くて固まった。
 だが結果的に恐怖心は、多大なる好奇心により打ち破られた。

「私などで、良いんですか?」

 恐る恐る、見遣った。
 小林さんは、即座に頷いてくれた。

「当然だろう。
 桜咲さんだからこそ、誘っているんだから」

 その言葉が矢となり、私の心を貫いたような感覚がした。
 小林さんは言った。
 私が、桜咲刹那だからこそ、誘ったのだと。
 私の全てを認めて貰えたようで、純粋に嬉しかった。

 そして思う。
 その意図が、指し示すものはなんなのだろうか。
 愚かな小娘であり、忌み嫌われる禁忌の象徴を、好意的に扱ってくれるとでも言うのだろうか。
 小林さんの微笑みは、それを信じさせるに値した。
 目が滲みそうになった。
 余りに、嬉しすぎた。
 私などが、こんな優しき言葉をかけられても良いのか。

 直ぐさま肯定しようとした。
 だが、口を開きかけて止まった。
 私にはお嬢様の護衛という、命よりも大切である任務があるのだ。
 だが、多大なる欲求。
 小林さんと共に行きたいという感情も、大切に思えた。
 どちらが大切かと問われれば、困り果ててしまうだろう。
 存在意義と同価値だと高らかに言えるお嬢様。
 私の全てを受け入れようとしてくれる小林さん。
 私にとってその絆は、どちらもかけがえのないものなのだ。

 深い思考の渦に囚われて、結論づけた。
 護衛の任務の方を取ると。
 それは私の中で、小林さんがお嬢様に劣る訳ではない。
 ほんの微かに、お嬢様の方が勝っていたのだ。
 胸が痛み、息苦しかった。
 頭を下げて、誘いを断った。
 だが、小林さんは諦める気はないとばかりに笑った。
 電話番号が書かれた紙を渡して、去って行った。
 その紙の、微かに感じる暖かさに思う。
 どうして、これほどまでに優しく接してくれるのだろうか。
 それは、同情からだろうか。
 それでも、感謝で一杯だった。
 ふと幻想じみた思想が首をもたげた。
 もしかして。
 まさか。
 男女の関係。そう言った想いから来ているのではないだろうか。
 まさか、小林さんは、私を。
 顔が、身体が熱く、まるで沸騰しているようだった。
 慌てて首を振って否定した。
 小林さんはその多大な優しさ故に、私へと接してくれているだけだ。
 このような妄想をするなど、彼に失礼な事だ。
 だが、しかし、そんな妄想が思考を支配していた。
 先程まで、小林さんの後ろ姿が視認できた木々の間には、空虚が漂っているだけだった。




 こんな幸運が、私に訪れても良いのだろうか。
 諦めざるを得ないと思っていた。
 次第に高まっていく昂揚感を隠せなかった。
 お嬢様がネギ先生と連れだって、原宿に赴くという情報が入ったからだ。
 正に一石二鳥だと言えた。
 原宿であるならば、二つの事柄を同時に行えるのだ。
 小林さんと共に赴く目的地を、原宿にすれば良いだけだ。
 お嬢様の魔力は、ある一定の距離であるならば感じられる。
 小林さんと共にいても、その危機を察知する事は容易だし、駆け付ける事も容易なのだ。

 だが、小林さんに断られてはそれまでだ。
 携帯電話を持つ右手が震えていた。
 小林さんは二つ返事で、快諾してくれた。
 目的地をこちらで勝手に決めてしまったのにも関わらずだ。
 やはり器量の大きなお方だと尊敬を隠せなかった。
 話し終わると、ふと羞恥心が騒いだ。
 良く考えれば、男性と二人で街中に行くなど、これはデートと呼ばれるものではないのかと思えたのだ。
 初めてだった。
 いや、小林さんはそうは思っていないかも知れない。
 あそこまで私を誘う必死な姿に、勘違いしてしまいそうになる。
 結論は出ないが、また問題が発生した。
 こういう時は、どう言った服装が適切なのだろうか。
 頭を捻っても、答えは出なかった。
 悩み込み唸っていると、なんと早い事だろうか。時刻が迫ってきていたのだ。
 遅刻する訳にはいかない。
 致し方なく、普段身につけている制服にした。
 この服装ならば、何度も見られているため恥ずかしくはなかったからだ。
 足早に部屋を出た。 
 駅前で小林さんを見つけた時、自らの服装に深く後悔した。
 小林さんが、お洒落をしていたからだ。
 白いワイシャツにブラックジーンズという簡素な服装。
 だが、彼の颯爽とした風体に良く映えていた。
 普段と違う服装に、新鮮味と共に素敵に感じた。
 後悔しても遅かった。
 だが小林さんは、何事もなく微笑んでくれた。
 安堵の息を漏らして、笑う事ができた。

 電車に揺られている際も、緊張感は相変わらず身動きを止めていた。
 小林さんが世間話しをしてくれるのだが、顔が引き攣ってしまい笑えなかった。

 目的地の原宿に着いた。
 駅前の雑踏は騒がしかった。
 少々居心地が悪く感じたが、小林さんが男らしく先導してくれたため、気にはならなかった。

 初めは喫茶店に行き、その後、休日の原宿を散策した。
 行き先を問われたが、未だに残る緊張で頭が混乱して、困り果てた。
 何とか任せますとだけ言うと、小林さんが任せろとばかりに頷いた。
 私情で悪いんだけど、本屋はと問われたので、即座に肯定を頷きで返した。

 本屋を出ると、裏路地を当てもなく歩いた。
 小林さんの顔が喜びに満ちているのは、本を買ったためだろうと思えた。
 どのような本を読むのだろうか。
 興味から、質問してみた。

「どのような本を買ったのですか?」

 茶色の紙袋に包装された本を、こちらに見せながら説明してくれた。

「これはね、ある天才詐欺師の生涯を追った小説だよ。
 詐欺師と言えば、負の感情を抱くかも知れない。
 だが、この主人公には隠された過去が……!ってやつ。
 小説はまだまだ己は未熟なのだと、再確認させてくれる趣味だと言える」

 私は、感嘆の息を漏らした。
 詐欺師の小説。
 詐欺師とは、人心を掌握し騙す人の事だ。
 小林さんの戦略は全て善意からくるものだが、符号していた。
 おおよそ、小説などからも戦略を磨いているのだろう。

「詐欺師、ですか。
 さすがですね。
 小林さんのいとも簡単にやってみせる、人心を掌握する類い稀なる戦略。
 それは、小説からも勉強なさっているのですね」

 小林さんが笑った。
 それは肯定の返事だった。
 些細な日常からでも、強くなるために学ぶべき事はあるのだと思い知らされた。
 日々、自らの武器を磨く姿は、なんて素敵なのだろうか。
 より一層の、尊敬を感じざるを得なかった。

 それから小林さんの先導で、CDショップやゲームセンターなどを回った。
 小林さんの楽しげな微笑みが見えるだけで、私の胸は高鳴り続けていた。
 だがそれもそうだが、緊張感が解れてきているのだろうか。
 徐々に話しかけたり、笑えるようになってきてた。
 私が笑ったり、話しかけたりすると、小林さんが嬉しそうに笑ってくれるのだ。
 それが、何よりも嬉しくて、自然に笑えていた。
 楽しい時間とは早く過ぎるものだと聞いた事があった。
 それは真実なのだと思えた。
 ふと気づくと、空の色が、青色から茜色へと変化していたのだ。
 先程、お嬢様は無事、麻帆良へと戻って行ったようだった。
 安堵の息を漏らして、笑う事ができた。
 名残惜しくはあったが、私も麻帆良に帰らねばならない。
 小林さんに告げると、共に帰ると言ってくれた。

 駅へ向かう際、歩道の脇に、露店が開かれていた。
 店主らしき中年の男性が、客引きをしていた。
 地面に広げられたシートの上に、銀色のアクセサリーが並べられていた。
 小林さんが立ち止まって、それを眺め始めた。
 不思議だったが、目を懲らしてやっと気づいた。
 アクセサリーから、微かにだが魔力の波動が放たれているのを。
 これほどまでに矮小な魔力を感じとれるとは、さすがに違うと思えた。

「桜咲さん、少しばかり時間をくれないか?
 シルバーアクセサリーを見たくてね」

「はい。構いませんが」

 二つ返事で、快諾した。
 ここまで楽しませて頂いて、否などと言える訳がない。
 頷くと、しゃがみ込んだ。
 首飾りらしきものを、指で掴み上げた。
 魅入られるように、見つめていた。
 何らかの効力が付加されているのだろうと思えた。
 店主が笑みを浮かべた。

「おう兄ちゃん。
 一般人だと思ったら、それに気づくたぁ、あんた、ただもんじゃねぇーな?」

 小林さんが首飾りを見つめたまま頷いた。
 私は私で、当然だろうと、誇らしく思っていた。

「ん、なんだ?
 そんなに見つめるたぁ、お嬢ちゃんへのフレゼントか?」

 何を言い出すのかと思えたが、小林さんが頷きを返した。
 唖然とした。
 プレゼントしてくれるとでも言うのだろうか。

「なんだ恋人か、なにかか?」

「ち、違います!」

 羞恥心から、即座に反論した。
 だが内心、悪くは聞こえなかった。
 不思議に思えた。
 店主が歯を見せて笑った。

「ヘッヘッヘッ。
 若いってのはいいなぁ。
 なあ、兄ちゃん。
 恋人じゃなくても、今はだろ?
 先はわかんねぇーもんな」

「な!」

 この店主は、先程から何を言い出すのだろうか。
 小林さんにそのような発言は、失礼だと思わないのか。
 注意するべきか悩んでいると、愕然とする事になった。
 小林さんが、頷いたのだ。
 それは肯定を表していた。
 小林さんは、誇示したのだ。
 今は恋人ではないが、先はわからないと。
 それはつまり、私が恋人になり得る存在なのだと。

 顔や身体中が、発熱を帯びていく。
 好意がなければ、頷きはしないだろう。
 つまり小林さんは、私へと、少なからず恋愛的な好意を持っているのだ。
 思えば符号した。
 小林さんは、出会いから今まで、極端なまでに優しかった。
 それは、恋愛的な、好意の、裏返しだったとでも言うのか。
 酷くうろたえながらも、嫌な気持ちにはならなかった。
 というか、というかだ。
 小林さんはなんて大胆な性格をしているのだろうか。
 余りに恥ずかしくて、話しを変えてしまう。

「そ、それを買うのですか?」

 振り返ると、小林さんには一切の照れがなかった。
 口許に浮かべられた微笑みで肯定していた。

 こ、この表情は、隠す必要がないという事なのか。

 小林さんは、私の事が。
 やはり、そう、だったのか。
 頬が上気していくのを感じた。
 現状、私の顔は真っ赤だろうと思えた。
 見られたくなくて、少しだけ距離を取った。
 一連の流れを反芻した。
 気づくと、いつの間にか小林さんが首飾りを差し出していた。

「今日、付き合ってくれたから。
 感謝の印を贈るよ」

「い、いえ!
 そのようなものを、受け取る訳にはいきません!」

 羞恥心から叫んでしまい、後悔した。
 嫌われてしまったらと、怖くなった。
 だが、小林さんは頑なに受け取るように勧め続けた。
 恥ずかしくて断り続けてしまったが、結果的に受けとった。
 小林さんの想いを無駄にしてはいけないと理由づけていた。
 だがそれは違う。
 私が、それを、欲しかっただけなのだ。
 落として、傷つけないように細心の注意を払った。
 私の中で、この首飾りは、もはや宝物となり得ていたからだ。

 だが突如、事態は一転した。
 首飾りの、銀であしらわれた部分を視認した時だった。
 身体が固まった。
 それは私に生える白い翼。
 忌み嫌われる禁忌の翼に酷似していたからだった。
 幼い頃の辛い思い出が、脳裏に展開した。
 顔が引き攣って、息苦しさを感じた。
 俯き、思考に囚われた。
 小林さんは、私が禁忌なのだと知っている。
 それに思い悩んでいる事も知っている。
 ならば何故、こんなものを私に。
 頭上から、声が降ってきた。

「その翼は、好みではなかったかな?」

 唖然と息を呑んだ。
 行き交う人達の雑音までもが、聞こえなくなった。
 押し黙るように俯いた。

 小林さんの意図が、理解できなかった。
 翼が好みではなかったかと言ったのだ。
 当然だと言えた。
 この翼に、良い思い出などはない。
 頭が混迷としていると、また声が降ってきた。

「きみの印象が、輝く翼が良く映えると思えたんだ」

 言っている意味がわからなかった。
 私の翼は、輝いてなどはいないのだ。
 俯いたまま、呟くように言った。

「……いえ、私の翼は美しくなどありません。
 これは忌み嫌われる、醜い翼……」

 本心だった。
 まるで心が、悲鳴を上げているように感じた。
 小林さんはどうして。
 俯いていると、小林さんの顔が目前に迫っていた。
 私の目を、真正面から見つめようと覗き込んだのだ。
 その瞳は真剣そのもので。
 その声音は雄々しくて、優しくもあった。

「醜くなどない。
 その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
 方向性を間違えているだけ。
 例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
 俺は、そう思っているんだ」

 その言葉だけが、鼓膜を震わせた。
 他の音が、一切耳には届かなかった。
 まるで心が、激しい竜巻のように感じた。暴風を受けたかのように震わされた。
 私の目に、水分が浮かび上がるのを感じた。

 小林さんは言ってくれたのだ。
 私の翼は醜いという考え、それの方向性が間違っている。
 その翼は純粋で美しく、誇っても良いものだ。
 例え俺と同様に、口汚く罵られたとしてもそれは過去だ。
 今は違うし関係ない。
 俺だけはそう思っているのだ、と。

 辺りが薄暗くなっていた。
 小林さんは、私を応援するように微笑んでくれていた。
 この壮大なまでの包容力を受けながら、思う。
 未だに私は、過去を、割り切れそうにはない。
 勇気がない。
 だが、一つだけ言えた。
 小林さんの前でだけならば、包み隠す事なく、素顔の自分でいられる様な気がしたのだ。
 雑踏の騒々しさは好きではなかった。
 だが、今は違う。
 この人と一緒ならば、雑踏の騒々しさも心地好く感じられた。
 私は深く頭を下げた。
 何も言えなかったし、言える状態ではなかった。



[43591] 嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その陸
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:22
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 朝日の頭が半分だけ、世界に現れていた。
 空は蜜柑色に染められて、雲一つない快晴となるだろう。
 早朝の住宅街に、人気はなかった。あると言えば、小鳥の囀りと軟らかい風が吹く音くらいのものである。
 例外は、時折、早出出勤でもするのだろうか。中年男性とはすれ違ったが。
 アスファルトを踏み込む音が、断続的に響いていた。
 二日連続での走り込みという苦行に、身体が悲鳴の声を漏らしていた。
 生来の体力不足が祟ったのであろう。
 関節の至る所が、ギリギリと軋むように痛んだ。
 しかし、涼しめの酸素を吸い込み、自然と笑えた。
 痛みが気にならぬほど、軽快な心地となっていたからだろう。

 ふいに桜咲さんの微笑みが、脳裏に浮かび上がった。
 無我夢中で励まそうとする声が、彼女をそうさせたのかはわからない。
 微かに滲む瞳を隠すように、微笑んでくれたのだ。
 恥ずかしそうに頬を朱に染めて、さながら、心の底から表れたような微笑みで。
 絶大なまでの破壊力だったと言えよう。
 否応なしに、俺の涙腺は揺さぶられる事となった。
 強烈なまでの感動に、身体が震えた。

 彼女の過去に、どれほどまでの苦しい出来事が在ったのかは、想像もつかない。
 自らを酷く卑下してしまうほどの苦悩なのだ。
 俺とは比較になりそうもない、次元が違う段階での、悲しみだったのだろう。
 しかし、彼女は前を向き歩く決意をしてくれたのである。
 その生気溢れる所作が、物語っているように思えた。
 さながら、一輪の花のように可憐で、素敵だった。
 こんなにも愚かなる俺が、成し遂げられた。
 少女の心の闇を、微力ではあるが、癒し支える事ができたのである。
 それがどれだけ、途方もなく嬉しき事か、言葉では表現できそうになかった。

 緩めの風を受けて、当てどもなく足を動かし続けた。
 Tシャツが意思を持つならば、二日連続での水害に、今頃は怒り狂っているだろう。
 苦笑を漏らしていると、前方の住居のT字路から人影がその姿を現した。
 その人影はジャージ姿であり、次第に顔の造形が明らかになっていく。
 見覚えがあった。
 あれは神楽坂さんではないだろうか。
 鈴の髪飾りが印象深い、心優しく可愛らしい少女である。

 こんなに朝も早くからどうしたのだろうか。
 彼女も走り込みかなにかだろうか。
 不思議に思っていると、彼女がこちらに気づいたようだ。
 俺は挨拶をしようと、頷いて手を挙げた。
 小走りのまま、近寄って声をかけた。

「おはよう。
 神楽坂さんも走り込み?」

 神楽坂さんが面食らったように唖然とした後、どこか照れているように言った。

「お、おはようございます。
 新聞配達の帰りです」

 感嘆の息を漏らした。
 まだ若いというのにも関わらず、労働に従事しているとは。

「まだ若いのに、偉いね。
 俺も見習わなくてはだめだな」

 神楽坂さんが照れているのだろう。頬をかいて苦笑した。

 切りが良いと思えた。
 現在地からの帰路は同様の方角であるし、このまま帰るとしよう。
 どちらからともなく、並ぶように歩き出した。
 彼女の表情は先ほどから、何かに照れているようであった。
 周囲を見回したが、それらしきものは見当たらなかった。
 彼女は思春期である。男にはわからぬ、事情があるのだろうと結論づけた。
 疑問が口をついて出た。

「神楽坂さんはどうして、新聞配達のアルバイトをしているの?」

「は、はい。
 私、子供の頃から、学園長に学費を出して貰ってるんです。
 少ないけど、それを返すためにです」

 その事実に唖然とした。
 神楽坂さんは言ったのである。
 子供の頃から、学園長に学費を出して貰っているのだと。
 学費というものは一般的に、両親が払ってくれるものだ。
 俺に至ってもそうであるし、その有り難い支援に応えるためにも、勉学に励んでいた。
 それなのにどうして、学園長が神楽坂さんの学費を払ってくれているのだろうか。
 神楽坂と近衛では、苗字も違うというのに。
 好奇心から尋ねてみると、尊敬せざるを得ない事実が浮かび上がった。
 要約すると、神楽坂さんは幼少の頃から、学園長の保護を受けていたのである。
 だからこそ、学費も払って貰っていたのだ。
 神楽坂さんは言った。
 お世話になりっぱなしでは申し訳ないと新聞配達を始めたのだと。
 神楽坂さんが保護を受けている理由については、深く聞かなかった。
 聞いてはならない事柄のように思えたからである。
 親戚だからなどの原因であれば良いが、両親が他界している孤児だったりしたならば、悲しき過去を思い返させてしまうからだ。

 独りでに、深い感嘆の息が漏れ出た。
 神楽坂さんは、やはり清く正しい少女であった。
 微細であろうとも、受けた恩を返そうと頑張るその姿勢。
 健気な心意気は、なんと素敵な事だろうか。
 俺も見習わねばならないと、素直に思えた。

 というか、というかである。
 学園長という素晴らしきお方は、どこまでその器量をまざまざと見せつければ気がすむのだろうか。
 尊敬などと、軽い言葉で表すような騒ぎではない。
 心の中に、学園長の暖かな笑みが浮かんだ。
 身体から放たれる神々しいまでの雰囲気は、さながら森羅万象の神々と等しくあった。

 民家の間の道路を、ゆったりと歩く。
 家屋の屋根で雀が可愛らしく鳴いているのを聞きながら、深く頷いた。
 無言で歩く神楽坂さんを見遣った。
 その無言から、やはり言いたくない事を言わせてしまったようだ。
 空気を変えようと、話題を変えた。

「そういえば、ネギくんが担任の教師だったよね?
 ネギくんの調子はどうなの?」

 唐突に話題を変えたからだろうか。神楽坂さんが一瞬唖然としたが、言った。

「子供の癖に格好ばかりつけるから、困ってるんですよ。
 失敗してばかりですし」

 神楽坂さんが苦笑した。
 その苦笑は、さながら弟を想う姉のように素敵であった。
 本当に子供が好きなんだなと、自然に笑えた。

「真面目だからかな。
 頑張ろうとすればするほど、泥沼にはまっていくみたいな」

「うーん。
 まあ、そんな感じですね。
 でも私は高畑先生の方が良かったんですけど」

 その言葉で思い出した。
 そうか。
 高畑先生が何らかの理由から担任の座を下りたと聞いていたが、それはネギくんにその座を譲ったからだったのか。
 譲った理由に関しては検討もつかないが、それは善意からくるものなのだろう。
 なにせ尊敬して止まない学園長と高畑先生が決めただろう事であるからだ。
 プロレスごっこ停学事件の暖かき顛末が、さしもの先ほどのように思い返された。
 それと共に、憧れてしまうほどの、高畑先生の爽やかな微笑みが浮かんだ。
 颯爽と煙草の煙りを吐き出す姿は、格好が良すぎた。
 元々煙草の匂いには好意的ではないのだが、それさえ好意的に感じられた。

「ネギくんはまだ幼いからね。これからだよ。
 でも、高畑先生の境地に立つにはまだまだ努力が必要だ。
 男が惚れる男とでも言うのかな。あの落ち着きは、一朝一夕で身につくものではないしね。
 だけど俺は、ネギくんならば到達できると信じているよ」

「そうですよね!
 高畑先生はやっぱり落ち着いてて、カッコいいですよね!」

 神楽坂さんが突如、満面の笑みで、さながら鬼気迫るように返してきた。
 一瞬、面食らったが、その意見に頷きを返した。

「ああ。
 恥ずかしながら俺も、高畑先生には、お世話になっていてね。
 堂々として落ち着き払った風体、そして、大海原の如き広大なまでの器量。
 将来は高畑先生のような、違いの理解る男になりたいね。
 憧れを隠す事ができそうにないよ」

 頭上高く展開する青空。その広大さと高畑先生の器量が繋がったように思えた。
 噛み締めるように小刻みに頷いた。
 ふと神楽坂さんを見遣ると、どうしてか、顔色が赤くなっているのに気づいた。
 不思議に思っていると、神楽坂さんが俯くように言った。

「な、なれますよ。
 こ、小林先輩なら」

 その言葉は、素直に嬉しかった。
 お世辞だとは思われるが、昂揚する気持ちを隠せなかった。

「そうかな?」

「はい」

 神楽坂さんが、恥ずかしそうに微笑んでくれた。




 それから、高畑先生や学園長の素晴らしさについて、熱弁を振るわせて貰った。
 神楽坂さんも同意見のようで、打ち解け合うのに時間はかからなかった。

 途中、神楽坂さんが誕生日をクラスメイトに祝って貰ったのだと照れながら言っていた。
 自分の事のように嬉しくなった。
 彼女はクラスメイトから良く想われているのだと理解できたからである。
 一日早い誕生日を祝って貰ったという言葉から推測すると、今日が神楽坂さんの誕生日のようである。
 これはめでたいと言えた。
 しかし、祝いの贈り物を用意していない事に心苦しくなった。
 何か彼女に贈る品はないだろうか。
 幼い頃から不遇なる時間を過ごしてきたであろう彼女を、喜ばせてあげられる品物は。
 ふとその時、上着のポケットが膨らんでいる事に気づいた。
 そうだった。
 修学旅行は明日、火曜日の早朝に京都に向かうらしい事を知り、いつネギくんに出会えても良いように携帯していたのだった。
 そう。
 銀で両翼が形取られたチョーカーである。
 ネギくんに贈る品ではあったのだが、神楽坂さんの誕生日を祝い贈ってはどうだろうか。
 ネギくんには申し訳ないが、何か違う品物を贈れば事足りるだろう。
 ポケットから、黒色の袋に包まれた品物を取り出した。
 唐突に立ち止まった俺を、神楽坂さんが不思議そうに見つめていた。
 穏やかな風を受けながら、微笑んで差し出した。

「神楽坂さん。
 誕生日おめでとう。
 こんな品物しかないんだけど、受け取って貰えると嬉しい」

 神楽坂さんの唖然とした表情に、苦笑を隠せなかった。 
 
 
 
 —神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
 朝日が、ほんの少しだけ頭を出していた。
 空が朝焼けに染められて、眺めるだけでも良い気持ちと感じられた。
 早朝の住宅街は、人気が余りない。小鳥の鳴き声と涼しめ風が吹く音くらいだった。
 新聞配達からの帰り道。身体のほどよい疲れが、朝の始まりを感じさせた。
 朝食を待ちきれないんだろう。お腹の虫が小さく鳴いていた。

 前方の住居のT字路から、人影が確認できた。
 格好はジャージ姿だ。多分、ランニングでもしているのだろうと思えた。
 徐々に顔の造形が明らかになっていく。
 それは見知らぬ少年だった。
 だけど、その細めの身体や立ち振る舞いにある違和感を覚えていた。
 見覚えがあるような感覚が、脳内を騒がせていたからだ。
 記憶を探ってみたけど、どうしても思い出す事はできなかった。
 目を細めて、確認した。
 知り合いに、こんな少年がいただろうか。

 不思議に思っていると、少年がこちらに気づいたようだ。
 頷いてから、私へと手を挙げた。小走りのままで、走り寄ってきた。

「おはよう。
 神楽坂さんも走り込み?」

 余りのフレンドリーさに、面食らってしまった。
 誰だろうかと頭を悩ませたが、気づく事ができた。
 この優しげな声音は、小林先輩のものと似ていたからだ。

 ふと脳裏に、停電の夜が思い返された。
 初めての戦い。
 私は、ほぼ、何もする事はできなかった。
 ネギはエヴァちゃんと戦い、私は茶々丸さんを止める事に必死だったからだ。
 だけど、結果的に私達は勝った。
 ある一人の、青年の手によってだけど。

 先ほど起こったかと錯覚するほどの光景が、鮮明に浮かび上がった。
 茶々丸さんの動きが止まったのを不思議に思い、視線を辿っていくといた。
 闇が支配する上空に、死神紛いの人物は突如、不敵にも、大きな月を背景に出現した。
 ローブから紫色のオーラを撒き散らし、淡い輝きを放つ大きな鎌を用いて終わりを告げた。
 そう、小林先輩その人だ。
 その実力の違いを見せつけられた早業に、まるで漫画のような光景だと見惚れた。
 戦うのに必死だった私達と、一瞬で勝負を決めた青年。
 その違いは、明らかだと言えたからだ。
 敵のエヴァちゃんを、果敢にも助けようとする姿には、尊敬と共に感動した。
 難しい事はわからないし、理由については雲を掴むようにわからなかった。
 だけど、その頬に伝った雫の美しさには魅入られるように見つめてしまった。
 小林先輩が、たった一つだけ年上の先輩だと聞いた時には、愕然としてしまったけど。

 思考をやめて思う。
 目の前の普通すぎる少年と、あの夜の小林先輩が同一人物だとはとても思えなかった。
 印象や雰囲気が、余りに違いすぎたからだ。
 頭を悩ましたけど、視界にその目許が映り込むと、ある記憶と符号した。
 少年の目許が、ローブに隠されていた目許と繋がったからだ。
 似ているとかのレベルではなかった。
 私にはわかる。
 これは優しき小林先輩の目許だと。
 なぜなら、異常なほど間近でその目許を見ていたんだから。
 お姫様抱っこ状態のまま、夜空を飛んだ時の感触を、未だに身体は覚えていた。
 突如、顔から火が出たかと錯覚するほどに熱くなった。
 押し隠すように、反射的に声を返した。

「お、おはようございます。
 新聞配達の帰りです」

 小林先輩が深く頷いて、微笑んだ。
 それを眺めながら、印象が違いすぎるわよと心の中で呟いた。
 死神紛いの姿の小林先輩は、優しさは同様だけど、まるで牙を隠し持つ獅子のような雄々しさを孕んでいた。
 だけど目前の小林先輩は、穏やかで、まるで草食動物のような暖かさを感じた。
 これは、ある種詐欺ねと思っていると、小林先輩が言った。

「まだ若いのに、偉いね。
 俺も見習わなくてはだめだな」

 余り褒められる事には慣れていなかった。
 何も言えなくなったが、照れ隠しに頷きだけは返した。

 どちらからともなく、並ぶように歩き出した。
 無言のままだったが、どうしてだろう。どこか暖かい気持ちになれていた。
 また唐突にも脳裏に、お姫様抱っこが思い返された。
 熱を隠そうと俯いた時に、答えに気づけた。
 繋がったからだ。
 それは多分、包容力からだろうと思えた。
 小林先輩の身体から溢れて止まない包容力が、そうさせているんだと実感した。
 本当に頼りになる人だと、尊敬を隠せなかった。
 小林先輩を覗き見ると、あの夜と同じで、その横顔は凛々しくも穏やかだった。
 見つめていると、こちらにその微笑みを向けてきた。

「神楽坂さんはどうして、新聞配達のアルバイトをしているの?」

 恥ずかしくなり、目を反らした。
 見つめていたのがバレていたかも知れないと、矢継ぎ早に答えを返した。

「は、はい。
 私、子供の頃から、学園長に学費を出して貰ってるんです。
 少ないけど、それを返すためにです」

 小林先輩がどうしてか、唖然としたように黙り込んだ。
 静寂が辺りに広がっていく。だけど、心地好かった。
 民家の間の道路を、ゆったりと歩く。
 電線に停まった雀が、仲間を呼ぶように鳴いていた。

 小林先輩が頷いて、こちらに微笑みかけてきた。
 沈黙とは、心苦しいものだと思っていたけど間違いだった。
 ある感情を持つ人物と一緒ならば、心地好いものなんだ。
 それは、信頼感。
 思えば符号した。
 高畑先生に話しかけられた時、穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしくなる。
 だけど、どこか安心して心地好い気持ちになっていたように思えた。
 ふと、思えた。
 停電の夜以降。
 私は小林先輩を、自分で思うよりも強く、信頼しているようだった。
 兄がいるならばこんな感覚なのだろうと、そんな幻想に浸ってしまう。
 小林先輩の微笑みで、意識が覚醒した。

「そういえば、ネギくんが担任の教師だったよね?
 ネギくんの調子はどうなの?」

 唐突な言葉と、唐突な話題の変化に、一瞬だけ唖然としてしまった。
 何とか気を取り直すと、馬鹿なほど生真面目なネギの顔が浮かんできた。
 まだ子供だと言うのにも関わらず、大人ぶる事だけは一人前なんだから。

「子供の癖に格好ばかりつけるから、困ってるんですよ。
 失敗してばかりですし」

 苦笑をしながら言った。
 小林先輩も吊られるように苦笑した。

「真面目だからかな。
 頑張ろうとすればするほど、泥沼にはまっていくみたいな」

 その声音は、さながら弟を想う兄のように優しかった。
 ネギを良く理解していて、見守ろうとしてくれる意思が、明確に感じられた。

「うーん。
 まあ、そんな感じですね。
 でも私は高畑先生の方が良かったんですけど」

 最後に一つだけ、ぽつりと本音がこぼれた。
 ネギも小さいなりに頑張ってはいるとは思う。
 だけど、私的にはやっぱり高畑先生の方が良かった。
 終わった事だから、もう何も思ってはいないけど。

「ネギくんはまだ幼いからね。これからだよ。
 でも、高畑先生の境地に立つにはまだまだ努力が必要だ。
 男が惚れる男とでも言うのかな。あの落ち着きは、一朝一夕で身につくものではないしね。
 だけど俺は、ネギくんならば到達できると信じているよ」

 その言葉には、ネギを信じる優しさが満ち溢れていた。
 そして、何よりも高畑先生を褒めてくれる事に嬉しくなった。
 男が惚れる男、か。
 なんて知的で、素敵な言葉なんだろうか。
 私が尊敬してしまうほどの小林先輩の瞳にも、高畑先生は格好良く映っている。
 高畑先生は、なんて凄い人なんだろうか。
 胸の奥が、沸き起こる昂揚感に騒いだ。

「そうですよね!
 高畑先生はやっぱり落ち着いてて、カッコいいですよね!」

 小林先輩が唖然としていた。
 それはそうだ。
 私の叫び声は、静かな住宅街にこだましていたんだから。
 恥ずかしさから、顔が熱くなっていく。
 だけど小林先輩は、それを突かなかった。
 何事もなかったかのように、微笑みを浮かべて頷きを返してくれた。
 その優しさは、高畑先生に繋がったように思えた。

「ああ。
 恥ずかしながら俺も、高畑先生には、お世話になっていてね。
 堂々として落ち着き払った風体、そして、大海原の如き広大なまでの器量。
 将来は高畑先生のような、違いの理解る男になりたいね。
 憧れを隠す事ができそうにないよ」

 頭上高く展開する青空の下、その言葉が、胸の奥をより一層騒がせた。
 そこまで尊敬される高畑先生が、誇らしく思えたんだ。
 小林先輩は言った。
 将来は高畑先生のような違いの理解る男になりたいと。
 噛み締めるように小刻みに頷く様は、全て本心からだと物語っていた。
 まるで、映画の中の、壮大なまでの夢を語る少年のように素敵に見えた。

 顔や身体の熱が、上昇していった。
 押し隠すように俯いて、強く思う。
 小林先輩ならば、将来高畑先生のような渋くて優しい男性になれると。
 いや、その若さでそれだけの落ち着きや包容力を持っているんだ。
 私の位置づけでは、さすがに高畑先生には及ばないけど、二番目くらいに格好いい男性となっていた。
 心からの言葉が、口をついて出た。

「な、なれますよ。
 こ、小林先輩なら」

 照れから、声量が小さくなってしまった。
 小林先輩には届いたようで、嬉しそうな笑みを見せた。

「そうかな?」

「はい」

 即座に頷きを返した。
 互いに、自然な笑みを向け合った。




 それから小林先輩が、高畑先生や学園長の素晴らしさについての熱弁を振るっていた。
 途中、小林先輩がふざけたんだろう。
 学園長をお釈迦様と見間違えたとか、背中から後光が滲んで見えて合掌しそうになったと言っていた。
 しかもその表情の真面目さが壷にはまった。
 さも嘘ではないとばかりに言うので、堪えられずに吹き出してしまった。
 本当に面白い人だ。
 私は終始、笑いがおさまりそうになかった。
 まるで、旧知の仲のように打ち解け合えた。

 嬉しかった出来事を、聞いて貰った。
 昨日、クラスメイトに誕生日を祝って貰った事だ。
 小林先輩は、まるで自分の事のように嬉しがってくれた。
 神楽坂さんは人望があるんだねとの言葉には、慌てて首を振ったけど、嬉しさを隠せなかった。

 その後の事だ。
 突如、小林先輩が立ち止まり、考え込むように唸った。
 私は私で、突然の事に固まっていた。
 また唐突に小林先輩が、花が咲くように微笑んだ事に唖然とした。
 それからの顛末には驚きを隠す事はできなかった。
 上着のポケットから黒色の何かを取り出すと、こちらに差し出した。

「神楽坂さん。
 誕生日おめでとう。
 こんな品物しかないんだけど、受け取って貰えると嬉しい」

 穏やかな風が、頬に触れて消えたように感じた。
 驚愕に目が点となっているだろう。
 言葉をかみ砕くに、誕生日プレゼントをくれるとでも言うんだろうか。
 突然だったのに関わらず、私のために。
 頭が混迷となりながらも、爆発的なまでに嬉しくなった。
 小林先輩が苦笑を漏らして、優しげな瞳でこちらを見つめていた。 
 
 
 
 —ある日の淫猥なるケモノ—
 
 
 
 
 四月二十二日。火曜日。

 俺は今、京都に向かう新幹線に揺られるネギの兄貴の懐で、この日記を記している。
 ネギの兄貴が何度も心配そうに尋ねてくるが、打ち明ける事はできそうにない。
 打ち明ければそれまで。
 非情にも、口を糸で縫い付けられるという残虐な刑を執行されてしまうからだ。
 懐から執行人の姿を恐る恐る見遣った。
 おぞましき微笑みが、逃がさないとばかりにこちらに向けられていた。
 震え上がる身体を叱咤して、この日記にだけは事実を残そうと思う。
 願わくばこの日記が誰の目にも留まらぬように。




 今から約八時間ほど前の、幽霊も眠る真夜中の事だった。
 俺は寝床で、コレクションの中から選りすぐった品々と共に眠りについていた。
 だがふと、どこかから光りを感じて目を覚ましたんだ。
 薄暗い部屋を見回した。
 すると、洗面所から光りが漏れているじゃないか。
 不思議に思い、部屋の人数を確認した。
 一人、二人、三人目がいない。
 姐さんの姿が、どこにも見当たらないじゃないか。
 注視してみても、ベッドには兄貴しかいないんだ。
 という事は、あの光りの元には姐さんがいると言う事になる。
 だが、姐さんがこんな真夜中に起きる事は珍しい。
 わざわざ深夜にだし、まるで人目を気にして隠れているようではないか。
 俺は軽い気持ちで、特ダネの臭いがプンプンするぜとニヤリと笑った。
 即座にサングラスをかけると、現場に向かった。
 この行為が、取り返しのつかない悲劇を産んでしまうとは思いもよらなかった。

 気取られぬように、細心の注意を払った。
 そして俺は、その光景に驚愕する事になった。
 ポカンと口が開くとは、この事だろうと思えた。

 そこに、いたんだ。
 パジャマ姿の姐さんが。
 しかも、鏡を覗き込むようにニヤニヤと笑っていた。
 その様はまるで、戦後最大の事件と高らかに言えたぜ。
 少々、気色が悪く思えて、身震いした。
 凝視していると、ある事に気づいた。
 姐さんの首に、アクセサリーのようなものがかけられているのをだ。
 それは首飾りのようだった。
 この嬉々とした表情を見るに、これではまるで、恋人からプレゼントを貰った乙女のようではないか。
 その推察に、独りでに口が開いていくのを感じた。

「ま、まさか鬼のように怖い姐さんに恋人が……。
 い、いやそれは有り得ねぇー……。
 だ、だがしかし、まるで乙女のような振る舞いじゃねぇーか……」

 今の心境ならば、さながら明日世界が滅亡すると言われても信じる事ができただろう。
 固まりながらも、これは良い特ダネだと満足していた。
 しかし、それは油断という名の過ちとなった。
 なぜ、口を開いてしまったのか。
 なぜ、即座に逃げようとしなかったのか。
 悔やんでも、もう遅い。
 眼前には、本当に世界が滅亡するかも知れない事態が展開していたからだ。
 姐さんが他の誰でもない。
 俺を見つめて微笑んでいたんだ。
 まさに、氷を彷彿とさせる微笑だった。
 瞬時に血の気が引いていった。とめどない脂汗が浮かんでは流れていった。
 さながら、真祖の吸血鬼に睨まれたかのように、微塵も身体が動く気配はなかった。
 姐さんの口が、静かに開いていく。
 その様は、死刑判決を言い渡す裁判官のようだった。

「……誰かに話せないように、あんたの口を糸で縫い付けてあげましょうか?」

 次第に世界が暗転していく。
 俺の記憶はそこで、プツリと途絶えた。



[43591] ある少女の英断——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:23
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 青過ぎる空が、頭上高く展開していた。
 雲一つない、吹き抜けるような空であった。
 そんな晴れやかな景色とは不釣り合いにも、俺は歯を食いしばり、無我夢中で走っていた。
 額や、身体中から、汗が吹き出していた。
 乳酸からか、両足が緩慢になってきた時、やっと大宮駅を視認できた。
 しかしまだ、安堵の息を漏らすには早計と言えた。
 タイムリミットが刻一刻と迫っている事実は変わらないからである。
 多大なる焦燥心に駆られながら、祈るように携帯電話を開く。
 液晶に浮かぶデシタル時計が、まるで微笑んでいるように思えた。
 九時四十五分を、表示していたからだ。
 最後の力を振り絞るように、全力で足を交互に動かした。

 階段を駆け上がり、プラットホームに着くと、ある人物か集団を探して歩く。
 深呼吸を繰り返し、呼吸を整えてから、人込みを見つめた。
 穏やかな春風が前髪を揺らして、人々の賑やかな声が耳に届いた。
 並ぶように立つ自動販売機の奥の線路上に、電車らしき、いや電車があった。
 あれが『あさま506号』で間違いないだろう。
 天真爛漫な男の子が、不思議そうな瞳でこちらを凝視しているのに気づいた。
 しかし、その鼻から垂れる水分を、優しく拭ってあげていられる時間はなかった。

 電車の窓の奥に、ある小さな人影を見つけたからだった。
 あたふたと歩き回っているその姿は、紛れもなく見知った少年、ネギくんであった。
 電車の中に足を踏み入れながら、これまでの顛末が、ふと思い返された。




 大宮駅に赴いた理由についてだが、それを説明するのは一言、簡単である。
 事の発端は昨日。神楽坂さんに、チョーカーを贈ったという行為だった。
 いや、贈り物をした事そのものに後悔などは微塵もないし、その結果には満足していた。
 恐らくだが、孤児である彼女の笑顔を見られただけで、自分の事のように嬉しかった。
 さながら、チョーカーにも口があるならば、微笑んでいた事だろうと思う。
 しかし元々は、ネギくんのために購入した贈り物であるという一点が、重要なのである。
 俺は、何か他の物を探せば良いだけと高をくくっていた。
 だが学園終わりから一日中、贈り物探しに時間を費やしたと言うのにも関わらず、関わらずだ。
 これだと頷けるものが見つからなかったのであった。

 今日の早朝、俺は落ち込みを隠す事はできなかった。
 肩に居座る死神でさえも真っ青になるだろう意気消沈ぶりで、学園へと向かっていた。
 脳裏には、ネギくんの小さな背中が浮かんでいた。
 さながら弥勒菩薩の如く神々しき学園長が、何かにとり憑かれたかのように忌み嫌う街、京都。
 そこに赴く少年に、自らは何もしてはあげられないのか。
 教室に着き、自らの席についた。
 窓の外を、意味もなく眺めていると、学友達が心配をしてくれているのだろう。してくれた挨拶は、どこか弱々しく感じた。
 人に迷惑をかけるなど、してはならない事だと、無理矢理にでも笑った。
 学友達が未だに心配そうに見ていたが、自らの席へと去っていった。

 窓の外の青空が、酷く肌寒く見えた。
 はあと、溜め息をついた時だった。
 状況を一転させる事態が巻き起こったのは。
 ズボンのポケットが、唐突に震え始めたのである。
 不思議に思い探ると、それは携帯電話であった。
 苦笑しながら開くと、液晶には学園長と表示されていた。
 他の人であるならば、応対する事はなかっただろう。
 しかし、相手があの学園長ならば話は別であった。
 学園長には、並々ならぬ恩義を感じていたからだ。

 マナーモードのため震え続ける携帯電話を掴み、男子トイレへと足早に走った。
 個室に入ると、立ったまま応対に出た。
 電話とは言えだ。洋式の便座に座って応対するのは、学園長に失礼だと思えたからである。

「はい。小林です。おはようございます」

「フォッフォッフォッ。
 氷咲くん、おはよう」

 電話口から、優しげな笑い声が響いてきた。
 騒いで止まなかった心が、次第に落ち着いていくのを感じとった。
 なんて、素晴らしきお方なのだろうか。
 その声はさながら、天界から微笑んで民を見下ろす、神々の一声のように聞こえた。
 惚けてしまいそうになったが、これはいけない。
 学園長を待たせるなど、まさしく言葉の通り、神に唾を吐く行為である。

「どうしたのですか?
 学園長もお忙しい身の上でしょう」

「いやのう、氷咲くんの調子はどうかと思ってのう」

 その声が、身体に染み渡っていくように感じた。
 偶然だとは思われるが、このタイミングの良さはなんなのだろうか。
 どこかで見ていたようではないか。
 落ち込んでいた俺にとってそれは、さながら地獄に垂らされた一筋の救いの糸のように思えた。
 元々、弱音を吐く事は得意ではなかった。
 しかし、しかしだ。
 学園長にならば、思いの丈を打ち明ける気になれた。
 意を決して、言った。

「突然で申し訳ないんですが、僕は学園長を尊敬しています。
 そんな尊敬する学園長に、所謂一つの道を、ご教授して頂きたいんです」

 どうしてだろうか。
 電話口から息を呑む声が聞こえてきた。

「ほう……なにかのう」

 不思議には思ったが、話しを続けた。

「ネギくんが、京都に向かう事はご存知ですよね?」

 学園長がまた息を呑んだが、その理由については、直ぐに検討がついた。
 ネギくんが向かう場所、それが問題なのだ。
 京都。学園長の悪しき思い出が詰まった冥界。
 俺が想像するより遥かに重い出来事があったのだろうと頷けた。
 その沈黙を肯定ととり、静かに言った。
 本心がこぼれた。

「ネギくんは京都に向かいます。
 ですから僕は、何かしてあげられる事はないかと考えました。
 僕には授業があるため、共に京都に行ってあげる事はできないからです」

「……ふむ。
 そうか、きみはそこまでネギくんの事を……」

 学園長が静かに言った。

「はい。
 だから勇気づけるために、贈り物をしようと考えたんです。
 京都。危険な京都での、心の支えとなれるように。
 ですが、それは叶いませんでした」

「なぜ、じゃ?」

「頷けるものが見つからなかったんです。
 これだと自信を持って、頷けるものが」

「……そうか」

「今にもネギくんが、京都に向かおうとしていると思うだけで、僕の心は騒いで止まない。
 学園長、教えて下さい。
 僕は何を為せば、どう行動すれば、胸を張って正解と言えるのでしょうか」

 静寂が降り立った。
 けたたましいチャイムの音が響き渡った。
 授業が始まる。
 しかし今は、他に問うべき事があるのだ。
 程なくして、学園長の声が聞こえてきた。

「ふむ、正解、か。
 すまないんじゃが、わしのような老いぼれには正解はわからんわい」

 正解はわからないとの言葉に、落ち込む暇はなかった。
 強い意志を持って言えた。

「いえ!学園長は老いぼれてなどいませんよ!」

 その想いとは裏腹に、学園長が盛大に笑った。

「フォッフォッフォッ。
 良いんじゃ。良いんじゃよ。
 その想いだけで、有り難さが老骨に染み入るようじゃわい。
 じゃがな、氷咲くん」

「は、はい」

 反射的に声を返した。

「正解はわからずとも、長年の経験故かな、きみが為すべき行動だけはわかる。
 きみは、きみの夢を叶えなさい。人々と手を取り合う、平凡な夢をじゃ。
 京都には、絶対に行ってはならぬぞ。
 じゃが、それを固く約束してくれるならば」

「ならば?」

「大宮駅に、急ぐと良い。
 午前の授業は心配いらないぞい。課外活動扱いにしておくからのう。
 きみのその純粋なる想いを、伝えて来なさい。
 それこそが、きみの為すべき行動であり、ネギくんの最大の支えとなるじゃろうて」

 その声が、胸の奥に、突き刺さったように感じた。
 沸き上がる暖かさは、学園長の言葉という魔法が起こした効力なのだろう。
 学園長は、こう言ったのだ。
 京都にさえ行かないと固く約束するのであれば、許可するから大宮駅に急げ。
 贈り物などではなく、俺の言葉そのものが、ネギくんの最大の支えとなると。

 そうか。
 なぜ、気づかなかったのだろうか。
 想いはものではないし、ものに代える事はできない。
 想いとは、ただ伝えるべきものなのだ。
 それを伝える事、それこそが俺の為すべき事。
 頭に広がっていたモヤモヤが、嘘のように霧散していた。

 学園長はここにいないと言うのに、俺は深く頭を下げた。
 込み上げる感謝の意を、そのままに声に乗せた。

「はい!学園長、ありがとうございます!
 行ってきます!」

「フォッフォッフォッ。
 行って来なさい。
 きみの帰る場所は、ここ、麻帆良にあるからのう」

 学園長の穏やかな笑い声が、俺の鼓膜と、心の芯を、強く震わせていた。 
 
 
 
 連結部分の車内で、安堵の息を漏らした。
 携帯電話を開くと、時刻は九時四十九分が表示されていた。
 学園長が、確か十時出発と言っていたように思う。
 それならば、後五分くらいは猶予があるだろう。
 これならば事を為した上に世間話しをしようとも、時間にお釣りがきそうだ。
 さすがにそれは言い過ぎかと苦笑した。

 学園長の有り難い言葉が浮かび上がってくる
 学園長は、言ったのだ。
 午前の授業は課外活動扱いにしておくと。
 俺の私用の我が儘だと言うのにも関わらず、その多大なる優しさに器量。
 強く思えた。
 今後一切、学園長がいる方角に向けて尻を見せてはならない。
 いや、それもそうだが、日に三度ほど、学園長室に向けて祈りを捧げるべきかも知れないと言えるほどであった。

 ドアの窓から、そっと奥を覗き見た。
 車両には、女子中等部の面々がいた。
 座席と座席の間で、ネギくんが点呼だろうか。楽しそうに、一人一人に向けて視線をやっていた。
 それにしてもと、思えた。
 このクラスは、さながら漫画やアニメの世界の如く異常であると。
 生徒達一人一人が、皆一様に、異常なまでに美人が揃っているのである。
 皆、個性豊かであり、少女の華やかさが車両を埋めつくしているように感じた。
 目を奪われていると、席に座る神楽坂さんを発見した。
 こちらからは後頭部しか確認できないが、特徴的な鈴の髪飾りが印象的だった。
 プレゼントのチョーカーが、京都での、いや、これからの彼女の支えとなりますように。

 ふと、ある方向を見遣って、唖然とした。
 先日、学園長室に呼ばれた時に、不審者扱いされた上、写真を幾度と許可なく撮られた少女ではないか。
 しかし致し方ないと言えよう。
 女子校舎に男子生徒が入ってきたのだ。不審者に思われるのも、理解できた。彼女を責めるのは筋違いである。
 奥のドアの前に独り、佇む少女を視認した時にも、唖然としてしまった。
 サイドポニーテールとでも呼称するのだろうか。
 桜咲さんの整った容姿に良く映える印象的な髪型は、彼女で間違いないだろう。
 そうか。
 桜咲さんも、ネギくんの生徒であり、神楽坂さんともクラスメイトだったのか。
 神楽坂さんは清く正しき少女である。
 もう友達かも知れないが、違うならば今度、桜咲さんと友達になって貰えるように頼んでみよう。
 俺の無力さのせいだが、今にも崩れそうな心の支えになってくれたら。
 ふと、思えた。
 ここにエヴァンジェリンさんと茶々丸さんが加われば、このクラスの華やかさは、より一層の高みへと昇るだろう。
 しかし、この頃見知った少女達が、全員同クラスなどとは、現実的ではないと苦笑した。

 ひとしきり考えた後、事を為すために気を引き締めた。
 この生徒達の喧騒に割って入っていくのは、小心者の俺には、いささか緊張してしまうからであった。
 しかし、俺は為さねばならないのだ。
 ネギくんのため。
 それに、学園長の心意気に報いるためにも。
 強く、頷いた。
 そして、ドアを開こうとした時であった。
 まさに驚愕と言えた。
 とんでもない事態が起こったのである。
 何か流れているな、とは思っていた。
 思考に没頭して、聞いていなかったのが悔やまれた。
 車内放送だったのだろう。
 それはおおよそ、出発を告げる合図。
 入ってきたドアが、突如として、情け容赦なく閉まったのだ。

 唖然とする俺をよそに、徐々に車内が揺れ始めた。
 この事態は、一体。
 直ぐさま、携帯電話を開いた。時刻は九時五十分を、示していた。
 出発は十時だったはずだ。
 それならば、なぜ。
 まさに混迷の極みと言えた。
 窓の奥の家並みが、目まぐるしく映っては去っていった。

 いかんいかんいかんいかん。
 これはいかんぞ。
 未だに動こうとしない頭を叱咤し、無理矢理、回転させた。
 程なくして、思考がまとまり始めた。
 どうやらこの電車は、東京に向かっているようであった。
 つまり俺は、東京に向かっているのである。
 乗車しているのは普通列車であるからだ。
 断じて新幹線ではない。
 つまり向かっている方角的に考えても、東京で新幹線に乗り換えるのだろう。

 安堵の息を漏らした。
 なぜなら学園長から、午前の授業を課外活動扱いにして頂いていたからだ。
 事を為し、東京にてとんぼ返りすれば、午後の授業に支障はないだろう。
 幸い財布には、大分前からゲーム機購入費用が入っていた。
 電車賃くらいならば、余裕で出せた。

 それならば東京へ向かう間、ネギくんに想いを伝えよう。
 しかし、ドアを開こうとする右手は動かなかった。
 やはり小心者の俺には、女子生徒達の輪に入っていく勇気がなかったのである。
 ふと光明が浮かび上がった。
 東京駅に着けば、輪に入らずとも、ネギくんに接触できうるチャンスはあるだろう。
 それまでに神楽坂さんか、桜咲さんと接触できれば、苦もなく呼んでもらう事もできるのだ。
 これは、素晴らしい作戦ではないか。

 小さく笑みがこぼれた。
 何時だろうかと、携帯電話を取り出した。
 どうしてだろうか。携帯電話の電源が落ちていた。
 不思議には思ったが、電源を入れた。
 その時だった。
 唐突にも、携帯電話が明滅を繰り返し震え始めたのだ。
 不様にも驚き、落としそうになったがこらえた。
 液晶には、学園長と表示されていた。
 頷いてから、親指で受話ボタンを押し込んだ。
 東京駅に着いてからとんぼ返りすれば問題無いとはいえ、学園長を心配させないように報告しておくべきであろう。

「もしもし、小林ですが、学」
「おいヒサキ!お前、なにをしてるんだ!」

 けたたましい怒声が、辺りに響き渡った。
 耳鳴りと共に、一時的に聴力を失ってしまう。
 愕然とした。
 その可愛らしい声音は、間違えようがなかった。
 紛れもなく、エヴァンジェリンさんのものであった。
 しかし液晶には、学園長と表示されていたはずなのだが。
 確かめて見たが、やはりそうなっていた。

 うん。
 意味がわからない。

 思案に明け暮れていると、電話口からは否応なしの怒声が、無情にも鼓膜に襲いかかった。

「おい!聞いてるのか!?」

 声だけで、はっきりと理解できた。
 完全に、エヴァンジェリンさんは般若状態に陥っていると言う事実がだ。
 身に覚えはないし、皆目見当はつかないのだが、背筋は正直だった。さながら、凍りつくように戦慄が走った。
 恐怖から閉じかかる口を、無理矢理開いた。
 これ以上彼女を怒らせては、ならないと言えたからだ。
 比喩ではなく、下半身とお別れを告げなければならなくなってしまう可能性が高いからだ。

「あ、ああ、聞こえてるけれども」

「なら、今すぐ帰って来い!今すぐだ!」

「い、いや、帰れない状態になっていてね」

 エヴァンジェリンさんが、なぜ俺の現状を知り得ているのかについてはこの際どうでもいい。
 言葉の通りだった。
 走る列車の中、どうやって帰れば良いのだろうか。
 それに、東京からとんぼ返りすれば良いだけである。
 というか、というかだ。
 告白を断った一件についてはどうなったのだろうか。
 俺の思惑とは裏腹な結果となった事は、未だにヒサキとファーストネームで呼んでいる事から容易に想像できるが。
 それでも彼女が元気になってくれたのであれば、嬉しい事ではあるが。

「これは命令だ!
 貴様の思惑など、鑑みてはやらんぞ!良いからさっさと帰ってこい!」

 貴様の思惑とは、一体なんなのだろうか。
 皆目結果がつかなかった。
 本当に帰れない状況であるし、良い事をしようとしているため、怒られる要素はないに等しかったからだ。

 ふとある予想が立った。
 まさか。
 まさかとは思う。
 思う、思うがだ。
 また再度、恐怖のヤンデレ状態に陥ってしまっていて、俺が自らのものとならないと激怒しているのではないだろうか。
 勘違いを正した一件で思い悩み、その心が壊れて、暴走しているのだとしたら。
 可能性は極めて高く思えた。

 なんと、言う事だ。
 心がまるで、肌寒い真夜中に変化させられたかのように重くなった。
 胸が、キリリと痛んだ。
 しかし、その痛みを抱きながら思う。
 俺は、前までの俺ではないのだ。
 皆の優しき想いに報いるためにも、強くなると決めたのだ。
 彼女の壊れそうな心を受け止めて見せようではないか。
 幾ら時間がかかろうと構わない。
 その心が強く成長し、勘違いを認識できるまで、優しく支えて見せようではないか。
 それがこんな俺を支えてくれた皆に対する、最大限のお礼だ。

「おい聞いてるのか!?」

「エヴァンジェリンさん、落ち着いて、聞いてくれ」

「なんだ?」

 俺の真剣な声音が届いたのだろうか。
 エヴァンジェリンさんの勢いが弱まった。
 静かに言葉を繋いだ。

「俺は強くなるために、いや、俺は俺でいるために、為さなければならない事がある。
 だからこそ、例えエヴァンジェリンさんの命令であろうとも、帰れないんだ。
 大丈夫だよ。
 直ぐに終わって帰れる。
 帰ったら沢山話しを聞くから、待っててくれると嬉しい」

 エヴァンジェリンさんが、黙り込んだ。
 電車の走行音だけが、響いていた。
 程なくして、電話口から声が聞こえてきた。

「……わかった。
 貴様は愚か者、だな。
 だが、一つだけ約束しろ」

「なにを?」

「危険な事には、絶対に首を突っ込むんじゃないぞ」

 東京からとんぼ返りするだけなのだが、危険な事とは、一体。
 しかしそれは善意、俺を心配する好意からきているのだろう。
 静かに頷いた。

「約束する」

 短い沈黙の後、エヴァンジェリンさんが言った。

「……そうか。
 ならばもう、何も言わん。
 生きて帰ってこい」

 生きて帰ってこいとはと不思議に思っていると、エヴァンジェリンさんが言った。
 その声音は真剣であり、酷く儚く聞こえた。

「いや、一つだけ言っておく。
 ……お前との答えは、いましがた、出たとな」

 素直に驚愕したと言えよう。
 エヴァンジェリンさんは、今にも消え入りそうな声で呟いたのだ。
 答えは、いま、出たと。
 それは彼女の心模様を、儚きほどに物語っていた。
 俺との、勘違いに塗りたくられた関係に、終止符がついた事を。
 彼女を、尊敬した。
 それは、耐えようもないほどに苦しかっただろう。
 それは、身を切るような悲しみに苛まれた事だっただろう。
 しかし彼女は決断した。
 おおよそ、今もなお荒れ狂う心の暴走を、自らの手で止めて見せたのだ。

 それならば俺が為すべき事は一つだと言えた。
 素晴らしき人間と、必ずやなって見せるだけだ。
 それがさながら、エベレスト登山の如く厳しき道のりだとしてもである。
 彼女のただならぬ想いに、報いるために。
 深い感動に襲われた。
 揺れる車内。
 移り行く景色に、優しき少女の英断。

 電話口から、しみじみとした学園長の声が聞こえてきた。



[43591] ある少女の英断——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:23
—近衛近右衛門Side—
 
 
 
 
 四月二十二日、早朝。
 登校を急ぐ生徒達の喧騒が、学園長室に小さく響いていた。
 お決まりの椅子に腰掛けて、湯気が立つ湯呑みを手に取った。啜り、その苦味を楽しむ。
 窓の外の空は、広大で青かった。木々に、新緑の息吹が芽吹き出していた。
 壁に掛けられた円形の時計を見遣って、小さく頷いた。
 程なくして、あの子達は京都へと旅立つ。
 心の中で呟くと、罪悪めいた感情が頭を出した。静かに首を左右に振って、諌めた。
 これは、あの子達の長き未来のために、必要な事と割り切らなければならない。
 深く頭を悩ませた末に、断腸の思いで決断した事である。
 今さら考え直すなど、それこそがやってはならない愚かなる偽善と言えよう。

 湯呑みから湯気が昇り、茶の渋い香りが鼻をくすぐった。
 口許に一気に流し込む。喉を、熱いものが伝った。
 意を決して、テーブル上に置かれた受話器を取った。
 記憶の中のある番号を引っ張り出して、順番に押し込んだ。
 小気味の良い、呼び出し音が連続して鳴った。
 程なくして電話口から、ある人物の声が耳に届いた。

「はい。小林です。おはようございます」

「フォッフォッフォッ。
 氷咲くん、おはよう」

 そうそれは、愛すべき生徒。小林氷咲くんに他ならない。
 優しげな澄んだ声音が、耳をくすぐった。自然に、穏やかな心地となっていく。
 ふと思うだけで、笑みがこぼれるほどに好感が持てる少年。

「どうしたのですか?
 学園長もお忙しい身の上でしょう」

「いやのう、氷咲くんの調子はどうかと思ってのう」

 わしの口から出た言葉は、嘘偽りない本心である。じゃが、隠された内情を測ろうとする探りの一手でもあった。
 どうして探りを入れなければならないのか。
 それは一つの、重大なる懸念があったからじゃ。

 懸念とはと問うならば、氷咲くんの本質を浮き彫りにすれば事足りるじゃろう。
 彼を一言で表すならば、善意の塊のような少年じゃ。
 困っている者がおれば、手を貸さずにはいられぬ善人。
 自らの熾烈な苦悩を押し隠してまで、他人を労る事を優先してしまう、無垢な微笑みを絶やさぬ少年。
 ありふれた人間よりも、人間らしく、大多数の人間よりも気高く優しき、魔族の血脈。
 たった数週間程度の付き合いだと言うのにも関わらず、わしは孫のように大切に感じていた。
 いや、わしだけではない。
 彼の善意に触れた人間は、等しく同じ感情を抱かずにはおられないのじゃ。
 それは、虜とされたと言っても過言ではないじゃろう。
 それほどに、小林氷咲という魔族の少年には価値があった。
 さながら、広大な砂漠で遭難した者が、等しく水を求めるように。

 氷咲くんは一度、善意という名の暴挙を犯した事がある。
 弱者を救うため、その傍らに立ち、命を懸けた。
 自らよりも圧倒的なまでの強者を相手に、その隠し持っていた牙を、闇夜にて輝かせたのじゃ。
 ならば、一つ問いたい。
 見知った友が、危機に相対するのを感知した時、彼はどのような行動を起こすじゃろうか。
 以前、釘を刺してはいた。
 じゃが、彼の類い稀なる情報能力を侮ってはならない。

 それを鑑みた時、わしの心には、一つの重苦しい懸念が生まれた。
 氷咲くんがその並々ならぬ善意故に、ネギくん達を救うため、単身、京都に乗り込むのではないかと。

 じゃが、高らかに言える事があった。
 わしは、それを許す事はないじゃろう、と。
 なぜならば、人々と手を取り合い働く平凡なる夢。それこそが、氷咲くんにとっての、値打ちのある幸せなのだと信じているからじゃった。
 氷咲くんは、過去に言った。
 過去は過去。他ではなくわしに、未来を評価してほしい、と。
 不遇なる生い立ち。熾烈なまでに悩み苦しんだ末に、過去を割り切った彼。
 そんな彼に、わしがしてあげられる事は何じゃろうか。
 それは裏世界とは無縁の、平穏なる幸せをその手に掴む支援をする事ではないか。
 だからこそ、今、わしは受話器を取っておるのじゃ。
 ただの邪推だったかと笑えたらどんなに良いじゃろうか。
 そう、希望を抱きながら。

 考え込んでおると、なにやら真剣な声音が聞こえてきた。

「突然で申し訳ないんですが、僕は学園長を尊敬しています。
 そんな尊敬する学園長に、所謂一つの道を、ご教授して頂きたいんです」

 率直に、照れもなく尊敬していると言われては、昂揚する気持ちを隠す事はできなかった。
 じゃが、わしは息を呑んだ。心は裏腹に、複雑な色を映していたからじゃ。
『所謂一つの道』
 この言葉の響きに、不穏な気配を感じ取っていた。
 内心覚めやらぬ、ざわめきを抱いていた。

「ほう……なにかのう」

「ネギくんが、京都に向かう事はご存知ですよね?」

 息を呑まずには、おれなかった。
 まるで心を、掴まれたかのような錯覚に陥ったからじゃ。
 氷咲くんは、やはり知っておったのじゃ。
 考え込むわしをよそに、矢継ぎ早に声を上げた。

「ネギくんは京都に向かいます。
 ですから僕は、何かしてあげられる事はないかと考えました。
 僕には授業があるため、共に京都に行ってあげる事はできないからです」

 その声色は真摯であり、真面目であった。
 その率直な言葉に、わしの身体は深き感動に襲われた。
 どうしてそこまで、ネギくんを強く思っておるのかは、想像もつかない。
 じゃが、氷咲くんに限ってそれは、多大なる善意からくるものである。
 氷咲くんは、儚きほどに、いつ如何なる時も優しさを忘れぬ姿勢が物語っておった。

 彼は、こうも言った。
 自らは授業があるため、共に京都にはいけない、と。
 それは、わしが何よりも欲していた言葉じゃった。
 じゃが、その言い回しには、やはり不穏な気配が首をもたげていた。

「……ふむ。
 そうか、きみはそこまでネギくんの事を……」

「はい。
 だから勇気づけるために、贈り物をしようと考えたんです。
 京都。危険な京都での、心の支えとなれるように。
 ですが、それは叶いませんでした」

 感嘆の息を漏らした。
 氷咲くんの純粋で、それでいて真摯な心意気。
 世の大人達が忘れてしまった心意気に、心が揺らいだ。

 それに、危険な京都という言葉で、氷咲くんの内情全ては、白日の下となった。
 やはり、そうであったか。
 氷咲くんの情報能力の高さは、まさに千里眼と揶揄したとして、誰も否とは言わないじゃろう。
 東と西のいざこざを、その眼差しは見抜いていたのじゃ。

 疑問が口をついて出た。

「なぜ、じゃ?」

「頷けるものが見つからなかったんです。
 これだと自信を持って、頷けるものが」

 氷咲くんは、真面目過ぎる。
 その溢れでる善意に見返りを求めぬ姿勢は、時に自らの首を絞める事になるやも知れない。
 じゃがしかし、それこそが彼の魅力。人を引き付けて止まぬ、所謂、カリスマと言えよう。

「……そうか」

「今にもネギくんが、京都に向かおうとしていると思うだけで、僕の心は騒いで止まない。
 学園長、教えて下さい。
 僕は何を為せば、どう行動すれば、胸を張って正解と言えるのでしょうか」

 静寂が降りた。
 唯一の音。授業の始まりを告げる、チャイムの音だけが響き渡っていく。
 氷咲くんは黙して、その口を開こうとはしない。
 並々ならぬある決意を、わしに示していた。
 氷咲くんは、遠回しにこう言ったのじゃ。

 京都に行きたい。
 夢は大切だが、譲れないものがある。
 学園長、教えてほしい。
 自らが京都に向かう事は、間違いなのか。正解とは言えないのか、と。

 心にさながら、鷲掴みにでもされたかのような衝撃が走った。
 うごめくようなざわめきが、より一層、色濃くなっていく。
 その言葉に、わしは間違っているのではないかとの疑問が浮かび上がった。
 小林氷咲という愛すべき生徒の魅力を、自らのエゴで縛りつけ、失わせようとしているのではないかと。
 彼の言葉を、刻むように反芻した。
 真剣な声音。並々ならぬ決意に、目頭が熱くなった。

 深く、頷いた。
 わかった。
 わかったぞい。
 わしの過保護な方針は、間違いであったのじゃ。
 縛りつけ、その魅力を失わせるなど、あってはならない事だと思えた。
 氷咲くんが、氷咲くんたる所以。氷咲くんらしさを失わせてはならない。失わせないようにした上で、彼を力強く支援しなければならないのじゃ。
 それは自らの力量では、力不足かもしれない。
 じゃが、やりきってみせようではないか。
 例えそれは、水面の上を歩くより難しい事であったとしても。
 心に刻むように、ゆっくりと頷いた。
 心に残っていたしこりが、嘘のように霧散していくのを捉えた。
 晴々とした心地。
 紛れもない正解なのだと教えられているようであった。
 自然に笑えた。

「ふむ、正解、か。
 すまないんじゃが、わしのような老いぼれには正解はわからんわい」

「いえ!学園長は老いぼれてなどいませんよ!」

 氷咲くんらしくない、大きな叫び声。その労ろうとしてくれる意思に、暖かくなっていく。
 優しさが、心に染み渡っていく感覚がした。
 盛大に笑った。

「フォッフォッフォッ。
 良いんじゃ。良いんじゃよ。
 その想いだけで、有り難さが老骨に染み入るようじゃわい。
 じゃがな、氷咲くん」

「は、はい」

 ふと脳裏に、氷咲くんの優しき微笑みが浮かんだ。

「正解はわからずとも、長年の経験故かな、きみが為すべき行動だけはわかる。
 きみは、きみの夢を叶えなさい。人々と手を取り合う、平凡な夢をじゃ。
 京都には、絶対に行ってはならぬぞ。
 じゃが、それを固く約束してくれるならば」

 全て、本音じゃった。
 だからこそ、長年の経験故の、狡猾さが言葉に現れていた。
 隠しようのない未来へ希望、本音。
 氷咲くんに、京都に行ってほしくはないという意思。

「ならば?」

 わだかまりを振り切るように、口を開いた。
 それもまた本音であり、嘘偽りなき本心。

「大宮駅に、急ぐと良い。
 午前の授業は心配いらないぞい。課外活動扱いにしておくからのう。
 きみのその純粋なる想いを、伝えて来なさい。
 それこそが、きみの為すべき行動であり、ネギくんの最大の支えとなるじゃろうて」

 沈黙が流れた。
 生徒達の喧騒も、今はもう聞こえなかった。
 氷咲くんが、声を上げた。

「はい!学園長、ありがとうございます!
 行ってきます!」

 これで氷咲くんは、わだかまりなく、京都に向かうじゃろう。
 多大なる善意故に、魅力故に。見知った友の窮地を救うために。
 それで良い。良いのじゃ。
 それこそが、彼の本質、なのじゃから。
 何者もその穢れなき本質を、穢してはならない。
 例えそれが、この世を揺るがすような絶対の強者だとしても。

 ならばわしの出来うる事、いや、最低限守らなければならない事は一つじゃ。
 氷咲くんの帰る場所を、安らげる場所を守る事。
 満面の笑みで、ねぎらいの挨拶をしてあげる事。

「フォッフォッフォッ。
 行って来なさい。
 きみの帰る場所は、ここ、麻帆良にあるからのう」

 微笑んで、そう告げた。 
 
 
 
 —エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 
 校舎内の渡り廊下を、歩いていた。
 茶々丸は無言で付き従い、床を鳴らす靴の音だけが響く。
 生徒の喧騒はない。授業中であるからに他ならない。
 窓の奥に、木々の新緑が色づき始めているのを視認した。
 上空には、一面に濃い青色が展開し、数羽の鳩が羽ばたいてその姿を消した。
 私の心境は意気揚々としていた。それは口許に笑みとして形作られていた。
 なぜならば、ある人物を殲滅せんと、学園長室へと向かっていたからだ。
 その人物を例えるならば、一つであろう。
 麻帆良に潜む大妖怪。近衛近右衛門という名の、見事と讃えられるほど狡猾な老害だった。




 早朝、久方ぶりに、気が立っていた事は認めようではないか。
 青過ぎる空も、緩やかな風も、全てが煩わしかった。
 本来ならば、ヒサキとの事を考えて、嬉々と悶々の間に唸っているのだが。
 ではなぜ、今日は気が立っているのか。
 それは一言、修学旅行当日だからに他ならない。
 これも全て、忌ま忌ましき登校地獄の呪いのせいだ。
 今年もまた、見飽きた麻帆良。この地を後にする事ができなかった。
 そこで私は、陰欝とした気持ちを浄化するように、ある事を考えた。
 それは愚かにして優しく、馬鹿のように気高き男。小林氷咲の事だった。
 大分時間が経ったというのにも関わらず、未だに答えは出ていなかった。
 だがそれは、そこまで真剣に考えるべき事柄であるからだろうと、素直に言えた。
 ヒサキには悪く思うが、まだまだ時間が足りなかった。
 そこである事を思い出した。
 ヒサキは高等部一年生だという事実だった。
 修学旅行はまだ先だ。それはつまり、ヒサキはこの麻帆良の地に残っているという事になる。
 ここにいれば危険は皆無であるし、近くにいると思うだけで、穏やかな心地となれた。
 私の感情をこうまで左右できる者は、世界中血眼になって探したとしても、もはや小林氷咲という男以外にはいないだろう。

 苦笑いが浮かび上がった。
 そこでふと、ある事柄が思い返された。
 ヒサキとの一件により、忘れてしまっていたのだ。
 独りでに、愉悦の笑みが口許に浮かび上がっていく。
 そうそれは、ある狸を血祭りにあげるという事柄。絶対に許してはならない事実。
 先日は泣く泣くだが、ヒサキの手前だ。致し方なく、見逃してはやっていた。
 だが、ヒサキをたぶらかそうとした行為。それは万死に値する行為なのだ。
 程なくして、狸の醜くき後頭部は、その造形を変えられる事態に陥る。
 狸も、喜ばしく思ってくれるだろう。
 人間らしく、より普遍的な頭蓋骨の造形へと整形されるのだから。
 なあに、死にはせん。
 狸こと近衛近右衛門の生命力は、異常と言っても過言ではない。
 さながら、部屋のそこら中に沸く、黒びかりした背を持ったカサカサと動く虫のように。
 死ぬ事はない、だろうよ。
 愉悦の笑みを浮かべていると、学園長室の前に着いた。
 乱暴に扉を開け放って、声を上げた。

「じじい、年貢の納め時が来たようだな」

 じじいは代わり映えなく、お決まりの椅子に座っていた。これも代わりなく、片手に湯呑みを持っていた。
 その目は唖然と、こちらを捉えていた。
 ゆっくりと口が開いていく。

「な、なんの用じゃ?」

 全く持って、代わり映えのしないじじいと言えた。
 先日と同様の言葉を、阿呆の子のように呟くとは。
 やはり狸、小動物か。学習能力がないようだな。
 不敵に笑うと、射殺すように睨みつけた。

「フッ。先日の万死に値する狼藉を……忘れたとは言わさんぞ」

 じじいの額に、脂汗が浮かんだ。行儀悪く、口を空けていた。

「な、なんなんじゃ全く……。
 ……も、もしや?」

 じじいの瞳に色が戻った。
 自らの犯した由々しき罪状を、やっと思い返したようだ。
 小さく頷きを返してやった。
 さあ、覚悟してもらおうか。

「貴様の老いた頭でも、理解できたようだな?」

「ち、違うんじゃ!
 わしは氷咲くんを」

 じじいはこの期に及んで、情けなくも言い訳を宣った。
 素直に謝ってでもいれば、結果は違っていたかも知れないというのにだ。
 さながら神がいたとして、微笑む事を拒否したのだと言えた。
 一切の情状酌量の余地なしと、高らかに言えた。
 眼光を鋭く光らせて、告げた。

「黙れ。
 貴様に弁明の余地はない。
 他でもない。この私が、地獄へと送ってやろう」

 指先に装備していた不可視の鉄糸を、有無を言わさず、じじいの後頭部に巻き付けた。
 無情にも、日差しを反射して煌めいていた。

「ま、待つんじゃエヴァ!」

「フッ」

 中等部校舎に、じじいの断末魔の叫びが響き渡った。




 私は乱暴に番号を押し込み、受話器を耳に当てていた。
 だが焦る心とは裏腹に、電話口からは、繋がらないと示す音が断続的に響いていた。
 幾度となく、番号を押し込んではみた。だが結果は無情にも、同様の音が返ってきていた。
 じじいを、射殺さんとばかりに睨みつけた。

「じじい、繋がらんぞ!」

「お、おかしいのう……」

「貴様……!偽りの番号を教えたんじゃないだろうな!?」

「い、いや偽りではないぞ。
 ほ、本当じゃよ。だから睨まんでくれ。
 生きた心地がせんわい……」

 じじいが、慌てふためいていた。
 顔中から、脂汗が浮かび上がっていた。
 後頭部から、少々、血が流れているのが視認できた。
 だが、それは自業自得であるし、そんな事に構っている時間はなかった。
 もう一度と、電話器が壊れても構わないとばかりに、番号を押し込んだ。
 すると、やっと繋がった。
 電話口から、小気味のよい音が耳に届いた。
 だが裏腹に、私の顔は引き攣る事となった。
 なぜならば、あの一件以来、ヒサキとは会う所か、会話さえしていなかったからだ。
 私にだって、人並みの羞恥心くらいはあるのだ。
 今はそんな感情に、構っている暇はないのだが。

 なぜ怒り狂っているのかと問われれば、先ほどの顛末まで、記憶を遡らなければならない。
 後頭部に鉄糸を、幾重にも巻き付けて笑っていた時だ。
 じじいが狼狽しながらも、言ったのだ。

「は、話しを聞いてくれ」

「……なんだ?言ってみろ」

 私は優しき女性と言えよう。
 後頭部との今生の別れを前に、一時の猶予を与えようと思えたのは当然だろう。
 そしてそれは、後に正解だったのだと発覚した。
 じじいの言葉に、驚愕の事実が示されていたからだ。
 なんとじじいも、ヒサキを保護しようと画策していたというではないか。
 初めは嘘だと嘲笑ったが、じじいの顔や声色の真剣さは異常だった。
 いつもふざけた事ばかり宣うじじいが、過去、見た事もないほどに真剣だったのだ。
 だが、致し方ないだろう。信じられるまでには、長い時間がかかった。
 紆余曲折を経て、ある言葉が決定打となったのだ。
 じじいは、言った。

「氷咲くんの過去は知っておる。
 じゃが、魔族だろうが何だろうが構わない。
 重要な事柄は一つ。
 彼は、わしの愛すべき生徒に変わりないという事実じゃ。
 高畑くんもそう思っておる。
 わし達は、彼の夢、人々と手を取り合う平凡な夢を叶えてやりたいんじゃ。
 エヴァと同じ気持ちじゃ。
 のうエヴァ、皆で彼を支えて行こうではないか。
 あの優しき少年の未来を、見守ろうではないか」

 その声音は、強い意思を孕んでいるように感じられた。
 目に淀みはなく、到底、嘘だとは思えなかった。
 私は、静かに鉄糸を解いた。
 不覚にも、じじいなどに、心が揺らがされていたからだった。
 じじいが肩で息をしているのを横目に、思う。
 これが小林氷咲という男の、魅力なのだろう、と。
 たった数週間という短い期間だと言うのにも関わらず、ヒサキに出会った者は、従来の在り方を変えていく。
 私に始まり、桜咲刹那、ネギのぼうやに、目前のじじい。
 見返りを求めない、愚かなほどの優しき善意。
 それに伴う、馬鹿がつくほどの真面目な言動。
 それに触れた人間は、心に強く訴えかけられる。
 自問自答を繰り返し、良い方向性へとその色を変えていかせてしまうのだ。

 考え込む私をよそに、じじいが長い顎髭をさすった。

「氷咲くんは今、京都に向かおうとしておる」

 その言葉に、反射的に言葉が漏れ出た。

「なに!どういう事だ!?」

 ヒサキが京都に向かおうとしているだと。
 なぜだ。
 私の心模様はそれだけで、偽りかも知れないというのに、激しい怒りに支配された。
 意味が、わからなかった。
 ヒサキは、何より平穏を愛しているのだ。
 ならばなぜ。

 自問自答を繰り返す私に、じじいが語るように答えた。

「わしも、初めはその暴挙を諌めようと尽力した。
 じゃが、氷咲くんは言ったのじゃ。
 見知った友を救いたい。その想いは間違いなのか、と。
 その言葉は真摯であり、真剣じゃった。
 わしは、考えを改めざるを得なかったのじゃ。
 氷咲くんの善意という魅力。それは例え神であったとしても、穢す事はまかりならん、と」

 じじいの言わんとしている事。じじいが考えを改めた理由については、頷けた。
 しかし、しかしだ。
 心中は、悲しきまでの怒りに荒れていた。
 私に取って、そんな事柄は関係ない。
 私はただ、小林氷咲という男の身に、危険が迫る事が許せなかったのだ。
 そして、一つの事実が浮かび上がった。
 ただならぬ悲しみに襲われた。
 なぜじじいには相談して、私には相談してくれなかったのだ。
 それはおおよそ、私を心配させないようにという配慮からだと思われた。
 わかっては、いた。
 だがそれは、さながら悲しみが身体中を蝕んでいるような感覚がした。


「もしもし、小林ですが、学」
「おいヒサキ!お前、なにをしてるんだ!」

 私の口から、悲しみを孕んだ怒声が漏れ出た。
 こういう時には、なんと言ったら良いかわからなかったから。
 激情に任せて、まくし立てた。

 長きに渡る沈黙が降りて、心が焦燥に揺れた。

「おい!聞いてるのか!?」

「ああ、聞こえてるけれども」

「なら、今すぐ帰って来い!今すぐだ!」

「いや、帰れない状態になっていてね」

 ヒサキは頑なだった。声音には、一切の揺らぎがなかった。
 その事実が私の心を、焦燥感として執拗に脈打った。
 叫び上げた。
 私はただ、ヒサキが危険な目に遭ってほしくなかっただけなのだ。

「これは命令だ!
 貴様の思惑など、鑑みてはやらんぞ!良いからさっさと帰ってこい!」

 傍らにじじいがいるのも、忘れていた。
 再度の、長き沈黙。それはヒサキの躊躇いのように思えた。
 私の、心配する気持ちが伝わったのかも知れない。

「おい聞いてるのか!?」

 躊躇いを後押しするように、まくし立てた。
 だがそれは、無情にも逆効果となった。

「エヴァンジェリンさん、落ち着いて、聞いてくれ」

 真剣なまでの声音が、次第に私の勢いを削いでいく。
 強い意思が、胸に突き刺さったかのような感覚がしたからだ。
 気丈を振る舞って呟いた。

「なんだ?」

 一瞬の後、ヒサキは語りかけるように言った。
 その声音は優しく、それでいて雄々しかった。 
 
「俺は強くなるために、いや、俺は俺でいるために、為さなければならない事がある。
 だからこそ、例えエヴァンジェリンさんの命令であろうとも、帰れないんだ。
 大丈夫だよ。
 直ぐに終わって帰れる。
 帰ったら沢山話しを聞くから、待っててくれると嬉しい」

 その言葉が鼓膜と心を震わした。
 黙り込まずには、いられなかった。
 ヒサキは言ったのだ。
 俺が俺でいるために、成さなければならない事がある。
 だからこそ、エヴァンジェリンさんの命令であろうとも聞けないんだ、と。

 為さなければならない事。それは京都にて、ネギのぼうや達を支援するという事だろう。
 出来るならば、愚かな馬鹿者の戯言と一笑に伏したかった。
 帰って来いと、まくし立てたかった。
 だが、それはできなかった。
 なぜならば、私は誰よりも、ヒサキの事を理解しているという自信があったからだ。
 あの平穏を愛する男が、危険を知ってなお、行動を起こそうとしている。
 それは、どれほどの決意から起こした行動だろうか。
 並々ならぬ決意では、ないだろう。
 そんな男に、何を言えというのだ。

 傍らにいた、じじいが笑った。

「フォッフォッフォッ。
 エヴァ、男とはのう、猪のようなものなのじゃ。
 こうと決めたら、猪突猛進。もはや諌める事は叶わない。
 ここで共に、見守ろうではないか。
 氷咲くんの魅力である善意を、失わせぬように。
 それが残されるわし達の、為すべき事ではないか」

 当然だが、内心、未だに止まない悲しみ、苛立ちはあった。
 私の事よりも、優先している事柄に対してだ。
 だが、私は小さく頷いた。
 もうヒサキを、諌める事は叶わないと悟ったのだ。
 私でも諌められないと言う事実は、ある事実を示していたからだ。
 もはやヒサキの意思を曲げられる者は、この世界には皆無だという事実。
 断腸の思いで、言った。
 電話の向こう側にいるヒサキが、笑えるように。

「……わかった。
 貴様は愚か者、だな。
 だが、一つだけ約束しろ」

「なにを?」

 一瞬の後、本音がこぼれた。
 だがそれは、叶わぬ事。

「危険な事には、絶対に首を突っ込むんじゃないぞ」

 電話口から、静かな声音が響いてきた。

「約束する」

 それは偽りの言葉。
 だが私を心配させないように配慮する言葉。
 途方もなく優しき言葉。
 途端に愛らしいという感情が騒いだ。
 それを押し隠して、短い沈黙の後、私は言った。

「……そうか。
 ならばもう、何も言わん。
 生きて帰ってこい」

 もう何も言う事はない。
 電話を耳から離した時に、やっと気づけた。
 自らが他人を、ここまで心配した事があっただろうかと、思えたのだ。
 私が、ヒサキへと、恋愛感情を持っているか、否か。
 今までの顛末が、昨日のように思い返された。
 不思議と、笑みがこぼれた。

 その笑みの意味は、いや、率直に言おうではないか。

 ああ、好きだ。
 好きだよ。好きで何が悪い。

 小林氷咲という男の気高さ、途方もない優しさ。
 短いが、その生き様をまざまざと見せつけられてきた。
 こんなに美しき心を持つ男に、惚れない女などいない。

 ヒサキは危なっかしい。
 その優しさは、将来として、自らの首を絞める事になってしまうだろう。
 だからこそ、誰かが、いや、私が、傍にいて見守ってやらなければならないのだ。
 おおよそ、これが母性本能をくすぐられるという事なのだろうと思えた。
 他ではなく、誰よりも私を必要としてくれたのだ。
 こんなにも可愛くて仕方がない、あの愚かな馬鹿者のために。
 私がいつ如何なる時も傍らに立ち、見守ってやろう。
 そう、刻み込むように頷いた。

 告白の一件から、悶々としていた感情は、嘘のように霧散していた。
 そう結論づけただけで、大袈裟ではない。
 今ならば、全ての事が許せる気がした。
 この世の全てが、心地好く感じていた。
 静かに口を開いた。
 絶対に帰って来いヒサキ。
 それを義務づける言葉を、電話口に送った。

「いや、一つだけ言っておく。
 ……お前との答えは、いましがた、出たとな」

 それだけ言って、受話器をじじいに投げた。
 学園長室を後にして、渡り廊下に出た。
 茶々丸が後をついてくる。

 今頃ヒサキは、どう思っているだろうか。
 いや、自信家のあいつの事だ。歓喜している事だろう。
 ふと羞恥心からか、頬が熱くなった。
 開け放たれていた窓の奥に、広大な青空が見えた。
 春風が吹き込んで、前髪を揺らした。
 太陽の日差しが注ぎ込む。
 暖かく、それでいて幸せな心地に、目を細めた。



[43591] 学園長からの依頼——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:24
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 並々ならぬ決意を胸に、俺は窓の外の景色を眺めていた。
 寂れた雰囲気を醸し出す自然が、視認できないほどの速度で移り変わって行く。
 座席は柔らかく、高級感を誇示していた。
 客数は、数えるほどだった。仕事に疲れ果ててでもいるのだろうか。背広を着た男性達が皆一様に、座席に背を預け、夢の世界へと指針を定めていた。

 時刻は、十時を少しだけ過ぎていた。
 東京駅からとんぼ返りする予定は、変わっていた。
 電車ではなく、「ひかり213号」と言う名前の、新幹線に乗車していたからだ。
 その上、特別待遇と言っても過言ではないだろう。所謂、グリーンと呼称される車両をあてがわれていた。
 当然の事であるが、行き着く先は、京都だ。
 学園長の穏やかさの象徴であるその瞳を、容易に、激情の色へと塗り替えてしまう冥界。
 目的地に関しては明確な、言いようの知れない恐怖があるにはあった。
 しかし、これまでに頂いた多大なる恩恵。それに微小でも応えるためには、為さねばならないのである。
 深く頷いてから、音を立てないように注意して席を立った。
 自らの夢。将来の先輩方となり得る、サラリーマンの方々を起こしてはならないからだ。
 座席と座席の間を歩き、目当ての車両へと向かった。




 俺がどうして、京都行きの新幹線に乗車しているのか。
 その問いに答えるためには、先程の騒動にまで記憶を遡らなければならない。
 東京行きの普通列車、『あさま506号』での騒動である。否応なく、心が震わされる事となった、ある少女との決着。
 断続的に、定期的に、揺れる車内に走行音。
 窓の奥には、寂れた町並みが過ぎ去って行き、背を預けている冷たい壁さえ寂しいもののように感じていた。
 反面、携帯電話を持つ右手が震えていた。
 それは間違えようがなく、感動から来ていた。
 自らの熾烈なる苦悩。それよりも俺を優先し、労ろうとしてくれるエヴァンジェリンさん。
 優しき少女の英断に、敬服めいた気持ちさえ抱いていた。
 ゆっくりと息を吐き出すと、さながら燃え上がるように深き決意が浮かび上がった。
 これは決定事項なのだと、内心で、呟いた。
 愚かな自らに対して、無垢な好意を抱いてくれた女性。
 暖かき包容力で包み込むように守ろうとしてくれた女性。
 有り難き想いに報いるためにも、惚れて正解だったと思わせる男となるのだ。
 模範すべき人物がいる。
 それは学園長と高畑先生だ。将来必ずや、二人のような素晴らしき男性へとなって見せようではないか。
 それこそが、俺が為さねばならぬ事柄。

 刻むように頷いていると、電話口から、優しき笑い声が聞こえてきた。
 それは尊敬して止む事のない学園長の声だった。

「フォッフォッフォッ。
 氷咲くん。突然、エヴァがすまなかったのう」

 突然だったため、一瞬だけ唖然としたが声を返した。
 よく考えると当然だった。
 学園長の電話番号からの、連絡だったのだから。

「いえ、構いませんよ。
 はっきり言って驚きましたが。ですが、一つだけ」

「何かのう」

 笑みを持って言った。

「学園長、ありがとうございました。
 僕にとって、エヴァンジェリンさんとの会話は、必要不可欠なものと言えました。
 僕は最近、ただならぬ悩みを抱えていました。
 ですが今は、嘘や幻のように、その悩みは消えてしまいましたから」

 本心。素直な言葉が口をついて出た。
 学園長に対しての信頼の強さが、その言葉を言わせたのだろうと思えた。

 ふと疑問が浮かび上がった。
 どうして学園長の電話番号から、エヴァンジェリンさんが応対に出たのだろうか。
 二人は仲が良いのだろうくらいしか思い浮かばなかった。
 しかし、重要な事は一つであると言えた。
 それは学園長の電話から、エヴァンジェリンさんが電話をしようと思わなければ、この最良と言える結末にはならなかったのだ。
 きっかけをつくってくれた学園長にお礼を述べるのは、至極当然と言えた。

「フォッフォッフォッ。
 そうか……。やはりきみは……」

 学園長は、歯切れの悪い声を漏らしたきり、黙り込んだ。
 どうしたのだろうか。
 不思議だったが、黙って言葉を待った。
 程なくして、学園長の声が聞こえてきた。

「きみの意思は鋼より固いのう。
 わしの胸の奥に染み渡るように、しっかりと届いたぞい」

 独りでに、首が傾げられた。
 鋼より固い意思とは、一体。
 しかし、直ぐに気づけた。
 ネギくんへ、励まそうとする意思に対しての言葉なのだろう。
 しかし、どういう会話の流れなのだろうか。
 エヴァンジェリンさんの話しをしていたのだが。何の脈絡もないように思えた。
 いや、学園長の事である。必ずや、何らかの深き意味があるのだろう。

 再度の沈黙。
 そして、想像だにしていなかった言葉を聞く事となった。

「うむ……わしも、覚悟を決めんといかんのう」

 覚悟とは一体。

「氷咲くん。わし、近衛近右衛門からの、依頼を受けてはくれんかのう」

「依頼、ですか?」

「そうじゃ」

 唖然とする俺をよそに、学園長は高らかに告げた。

「きみには、そのまま京都に赴いてほしいのじゃ。
 修学旅行の間、ネギくんを見守ってやってはくれんかのう。
 なに、授業の事や滞在費用に関しては、任せなさい。問題の無いように配慮しよう。
 頼まれてくれんかのう?」

 呆気に取られた。

 うん。
 意味がわからない。

 学園長を待たせる事は申し訳ないとは思う。思うがだ。如何せん、思考回路が混迷と化していた。
 叱咤するように頭を振った。
 直ぐさま、記憶の整理を開始した。

 程なくして、何とかその意味を把握する事は出来た。
 要約すると、学園長はこう言っているのだろう。
 修学旅行の間、京都にて、ネギくんを見守ってほしい、と。
 余りの突拍子のない依頼に、またもや唖然としてしまった。
 考えて見れば見るほど、異常な事態である。
 ただの一介の学生に、幼いとは言え、教員を見守るために同行して欲しい。
 授業の事、つまり出席日数や単位の事だろう。それから滞在費用に関しても、任せろとは言って頂けた。
 しかし、修学旅行とは、一週間やそこらは京都に滞在する事になるのは明白である。
 突然の事であるため、事前準備などはしていないのだ。
 服装は制服のままであるし、着替えの服に日用品。新幹線の切符もそうであるし、寝泊まりするための宿泊施設の部屋取りなども未定なのだ。
 あまつさえ行き先が、まずい。この世の地獄、京都である。土地勘なども皆無に等しい。
 俺にとって京都に赴くという事は、さながら、未だに内紛覚めやらぬ国に赴く、戦場カメラマンの心境と同意と言えた。
 見通しのきかぬ恐怖。
 それはさながら、見えない壁で四方八方を塞がれてしまったような感覚であった。

 壁に背を預けたまま、混乱を鎮めるため瞼を閉じた。
 すると脳裏に、学園長からこれまでに受けた恩恵が、映像として流れていった。
 ゆっくりと瞼を開くと、深呼吸をした。
 内心、覚めやらぬ恐怖心は隠せなかった。過去の俺ならば、即座に否と答えていただろう。
 しかし、俺は前までの俺ではないのだ。
 それにこれは、この世の誰よりも尊敬する学園長からの依頼なのである。
 受けられないなど、恩をあだで返す行為だと思えた。それに本心から、ネギくんを見守りたいという想いも強くあった。

 ふと思えた。
 これは試練なのではないか、と。
 自らを、より強く、より素晴らしく成長させるための試練なのではないか、と。
 完遂できた時、俺は変われるのだ。
 エヴァンジェリンさんが惚れたのは正解であったと、胸を張って言える男に。
 茶々丸さんの傍に、さながら聖なる光のような善意の傍に、いられる資格を持つ男に。

 一切の迷いが、綺麗に消え去った。
 心模様はさながら、濃霧が晴れて、天から一筋の陽光が差したかの如く暖かくなった。
 再度、深く頷いた。鋼より固き意思を胸に言った。

「学園長は身体を休めていて下さい。
 その依頼、僕が、完遂して見せましょう」



 ネギくんと生徒達の車両は、後ろの方にある。
 慎重に輪をかけて、目的の車両に向かい歩を進めた。
 なぜならば、学園長から頼まれていたからに他ならない。
 優しき言葉が脳裏に浮かび上がった。

「一つだけ、お願いがあるんじゃ。
 きみも知っているじゃろうが、ネギくんは修業の身。
 氷咲くんが近くにおると知ってしまうと、知らず知らずの内に頼ろうとする思考へと流れてしまうかも知れない。
 それでは、修業とはならぬのじゃ。
 だから氷咲くんには、遠くから見守るという姿勢を第一に考えてほしい。
 ネギくんの身に余る騒動が起きたと認識した時だけ、支援してほしいのじゃ」

 首を傾げざるを得なかった。
 修業とは一体。
 きみも知っているじゃろうがとは一体。
 初めは頭を悩ませたが、直ぐに気付く事が出来た。
 修学旅行自体を、素晴らしき先生となるための修業に、有効活用しようとしているのだろう。
 そう言った思惑ならば、快く頷けた。
 所謂、一つの独り立ち。それを促すには、俺という存在は邪魔だと言えよう。
 だがしかし、やはり学園長はお優しい方である。
 ネギくんを心配に思い、俺というバックアップを派遣するのだから。
 学園長がわざわざ俺を選んでくれたという事は、光栄であるし、信頼されていると暗に示されている事に他ならない。
 これはまさしく、責任重大だと言えた。 慎重に慎重をかけて、慎重という石橋を叩いて渡らねば、せっかくの修業が台なしになりかねないのである。
 普段の俺ならば、力不足ではないかと悩むのだが、いつもに増して自信満々の面持ちだった。
 なぜならば、隠密行動は得意中の得意であったからだ。
 元より存在感が皆無の俺であるし、幼少の頃から訓練してきたスパイごっこが、奇しくもここで役に立つとは。
 満面の笑みを浮かべながら、学園長に言った。

「学園長、任せて下さい。
 僕は隠密行動が得意中の得意なんです。
 幼少の頃から、訓練をしていまして」

 するとどうしてか、学園長が黙り込んだ。
 そして、言った。

「……そうか。そうじゃったか。
 ……きみは過去。
 ……すまんのう」

 またもや歯切れの悪い言葉に不思議には思ったが、構いませんよと返しておいた。
 因みに新幹線の切符は、学園長の一声でグリーンが取れたようであった。
 なんという偉大さ。
 まさしく鶴の一声だと、尊敬せざるを得なかった。


 もう少しで、目当ての車両が視認できる位置に着く。
 車両と車両を繋ぐ部屋には、トイレがあった。
 さすがの新幹線と言えよう。
 まさか、トイレが備え付けられているとは。
 感心して、小刻みに頷いた。
 その時だった。
 とんでもない事態が発生したのである。
 唐突にも、右肩から紫色の火柱が噴き上がったのだ。
 顔を貫くように上がっていたが、風も熱も感じる事がなかったのが幸いだった。
 普通ならば、大火傷どころの騒ぎではなかっただろう。
 しかし、余りの唐突過ぎる事態に思考が停止していた。
 目が点になるとはこの事だろうと思えた。
 数秒の後、紫色の火柱は、掻き消えるように鎮火した。
 唖然と見つめる。するとそこには、満足げに笑みをこぼす死神が腰掛けていた。

「ケケケケケ」

「……ふう」

 溜め息を漏らさずにはいられなかった。
 まさに無法者。人を驚かせて愉しむなど、外道と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
 最早、怒りなど通り越して、呆れて果てた。
 注意しても意味はないからである。
 紫色の火柱を噴き上げたのは、間違えようがなくこいつである。それならば、注意や説得は無意味なのだ。これまで幾度となく説得しようが、成果は皆無だったのだから。

 やれやれと頭を左右に振っていると、一枚の封筒のようなものが床に落ちていた。
 不思議に思い、指先で掴み上げて見た。
 そこには「書状」と、印字されていた。
 誰かの落とし物だろうか。
 先ほど見かけたサラリーマンの方々の、仕事での大事なものかも知れない。
 それならば一刻も早く、車掌さんに届けてあげなければ。
 そう考えて、走り出した時の事であった。
 前方のドアが開いたのである。そして、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「こ、小林さん!
 ど、どうしてここに!?」

 内心、ミニヒサキは、頭を抱えてうずくまっていた。
 稟と通る声色の正体は、桜咲さんだったのである。
 学園長に隠密行動が得意中の得意などと宣ったのにも関わらず、結果はこの有様だ。

 死神のせいなんです!
 学園長!学園長!

 そう、声高らかに叫びたいのはやまやまではなかった。
 しかし、最重要である、ネギくんに見つかった訳ではないのだ。そこまで落胆する必要性はなかった。

 それに桜咲さんには、悪気も責任もないのだ。彼女は悪くないし、天使のように優しい娘さんである。
 悪いのは全て、アウトロー死神さんなのだ。

 取り敢えずで挨拶をしようとすると、ある物を発見してしまう事になった。
 それは桜咲さんの右の掌に、しっかりと握られた刀であった。
 内心、落ち込んでしまうのを隠せなかった。
 先日、原宿での顛末には、確かに手応えを感じていた。
 だが彼女の病み苛む心は、未だに刀を捨てる決意を持てなかったのだと示していたのだ。
 その上、修学旅行にまで携えて来るとは。
 これは最早、末期であると言えた。
 しかし、一人の少女の苦悩を解消させるなど、そんな大それた事が容易い訳がないのだ。
 やはり彼女には、長き時間が必要なようだ。
 それにはまず、何よりも笑顔だろう。好意を示して、敵意がない事を誇示しなければならない。
 桜咲さんの問いに、最大限の優しさで持って答えた。

「はっきりとは、話せないんだけどね。
 だけど、桜咲さんならば、少しくらいは良いかな」

「お、お願いします」

 桜咲さんが何処か、緊張したような面持ちで言葉を待っていた。

「しいて言うなら、ある人物を見守るためにだね」

「あ、ある人物をですか」

 どうしてか、桜咲さんの頬に朱が差しているように見えた。
 心なしか瞳が揺れているようにも見えたが、錯覚だろう。

「元々は想いを伝えるためだけに来たんだ。
 だけど、道中、色々な事が重なりあった。
 単刀直入に言うと、俺も京都に行く事になったよ」

 桜咲さんの身動きが止まった。
 見る見る内に、顔が真っ赤になっていく。
 唖然としたが、直ぐに心配になった。
 まさか、熱でもあるのではあるまいな。
 声をかけようとすると、桜咲さんが酷くうろたえた様子で何やら呟き出した。
 小さすぎて聞き取れないが、盗み聞きは男を下げるだろう。
 微笑んで、彼女の再起動を待った。
 程なくして、彼女が顔を上げた。まるで林檎のように真っ赤な顔色であった。

「大丈夫?
 熱でもあるんじゃ」

「だ、大丈夫です!」

 桜咲さんはそう言うが、全くそうは思えなかった。
 しかし、彼女がそう言っているのだ。
 聞き過ぎも失礼だと思い、微笑んでいると桜咲さんが言った。

「あ、あの、その書状を」

 その反応で合点がいった。
 この書状は、桜咲さんのものだったのである。
 そうでないと、書状と言う単語は出て来ないだろう。
 微笑んで、差し出した。

「はい。
 今度はなくさないようにね」

「は、はい」

 桜咲さんが、何処か大事そうに受けとった。



[43591] 学園長からの依頼——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:24
—近衛近右衛門side—
 
 
 
 
 先ほど、乱暴にも投げ渡された受話器。それを手に、わしは満足げに頷いた。
 エヴァは一切の遠慮などなく、出口のドアに向かい、歩を進めていた。その歩みに迷いはなく、彼女の心境が伺い知れた。
 茶々丸くんが、礼儀正しくこちらに一礼した後、遅れて後を追いかけた。
 退出しようとする小柄な後ろ姿は、意気揚々として見えた。先ほどの悲愴めいた激情の色は、どこに行ったのかのう。
 わしは笑みを持って、その光景に目を細めた。
 学園長室内は静謐であり、その静けさに、自然と穏やかな心地となって行く。

 申し訳ないが、受話器を通した二人の会話は聞こえていた。あれほどの大声だったのじゃから、致し方ないと許して欲しい。
 ある程度の経緯は、理解出来た。二人の間にある絆。それは予想を遥かに超えるほどの絆。
 氷咲くんの善意という魅力。自らよりも知人を優先する、鋼より固き意思。
 エヴァの善意からくる感情。彼を守ろうとする尊き意思。
 わしは知った。
 十分過ぎるほどに感じた。
 心は震え、胸中は未だに、感動覚めやらずにあった。

 事の初め。
 エヴァが来訪、もとい来襲してきた時には、唖然とする他なかった。
 じゃが、氷咲くんを中心に据えた舞台劇は、満員御礼、大団円の結末へと収束していった。
 わしへのとんだ濡れ衣も無事に晴れた事じゃし、氷咲くんに対するわしと高畑くんの結論を彼女に伝える事が出来た。
 代償は後頭部がヒリヒリと痛痒くある事だけなのじゃから、安いものじゃ。
 エヴァという存在を認識していたというのにも関わらず放置していた、こちらの不手際のせいじゃ。憤ってしまうほど、わしは青くない。
 いや、一つだけ反論をしたい。
 あのエヴァが、見知ったばかりの少年に、良き方向性の強き感情を抱く。そんな事、誰が想像出来ると言うのじゃろうか。
 魔法界で、未だに恐れ囁かれる真祖の吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
 畏怖の対象である彼女が、同類の魔族とは言えじゃ。
 普段ならば生まれたばかりのひよっこ風情がと、卑下するべき、一人の少年に向けて並々ならぬ感情を表したのじゃぞ。
 わし、いや、魔法関係者全員が、あんぐりと口を開けても不思議ではないじゃろう。
 小林氷咲という存在感、影響力は、あの英雄と謳われる赤き翼の面々とも遜色はないと言っても過言ではない。
 なぜならば、染まる事が嫌いなエヴァを、良き色で染めさせてしまったのじゃから。

 決まりきった椅子に、ゆっくりと腰を落とした。
 前方の虚空に視線をやると、エヴァの幾重もの言葉が、脳裏に再生されていった。
 独りでに苦笑が漏れ出た。
 その生き難い不器用さが、好ましく思えたからじゃ。
 彼女が言いたかったのは、ただ一つだけ。
『心配だから帰って来い』
 簡単な言葉じゃ。
 じゃが彼女には、それだけの言を発するのが、さながら、一般人が魔法を唱える事のように難しいのじゃ。
 際限のない悲しみに満ちた人生。それを必死に生き抜いてきた経緯を慮ればのう。

 考えれば考えるほど、ある事実が浮かんだ。
 エヴァがあれほどまでに激昂した様は、過去の記憶には皆無という事実。
 それはつまり、エヴァは氷咲くんの事を。
 そういう事、なのかも知れんのう。
 笑みが浮かび上がった。
 彼女がさながら、悲しみに縛られてから、十五の年月が流れて行った。
 登校地獄ではない。ある種の悲恋の呪縛。
 それはサウザンドマスターによりかけられた。
 闇ばかりを垣間見て来た彼女に、光の道を歩けるようにと。だが想い人は、いつまで経ってもやって来る事はなかった。

 いやはや、正に痛快で赴きのある語りじゃのう。
 彼女を光の道に導き、呪縛を解いた者。
 それは光で生きる魔法使いではなかった。
 闇の中に生まれ、闇の中を生き抜き、悪だと罵られてなお、光に生きようと疾走する魔族の少年じゃったのじゃから。

 ふと、記憶の底の底にて埋もれていた、青き春の思い出が蘇った。

「……青春じゃ。
 ……青春じゃのう」

 年齢が上の彼女に対する言葉としては、不適切かも知れないが。

「フォッフォッフォッ。
 それにしても、別れの挨拶もなしに姿を消すとはのう。
 さすがのエヴァと言ったところか」

 満足げに髭をさする。
 昂揚感に浸っていると、ある事を思い出した。

「おっと。これはいかん」

 右手に掴んでいた受話器が、視界に映り込んだのじゃ。
 まずいのう。
 これは更年期障害かも知れないのう。
 申し訳なく思いながらも、慌てて声を送った。

「フォッフォッフォッ。
 氷咲くん。突然、エヴァがすまなかったのう」

 黙って耳を澄ましていると、好ましい声音が聞こえてきた。

「いえ、構いませんよ。
 はっきり言って驚きましたが。ですが、一つだけ」

 突然のエヴァの応対にも、氷咲くんは変わらず穏やかであった。
 深く頷いて、思う。
 魔族とは思えぬ穏やかさ、優しさ。それらがエヴァを光へと誘わせたのじゃろう。

「何かのう」

 数秒の後、受話器から声が聞こえてきた。

「学園長、ありがとうございました。
 僕にとって、エヴァンジェリンさんとの会話は、必要不可欠なものと言えました。
 僕は最近、ただならぬ悩みを抱えていました。
 ですが今は、嘘や幻のように、その悩みは消えてしまいましたから」

 その声音は色に比喩するならば、透き通るような透明。それは心の奥深くまで染み渡っていく感覚を捉えた。
 氷咲くんのただならぬ悩み。
 それは京都の事じゃろう。優し過ぎるが故に抱く、ただならぬ苦悩。
 重苦しき、わだかまりがあったのじゃろう。
 じゃが深き苦悩は、幻のように消え失せた。
 エヴァの不器用なまでの、悲愴めいた激情によって。
 なんという感動的な語りじゃ。

「フォッフォッフォッ。
 そうか……。やはりきみは……」

 酷く優しいのう、とは続かなかった。
 ふと、その危うさに、ある事を思い返したのじゃ。
 氷咲くんの優しさは、時として、自らの首を絞める事になるじゃろう、と。
 途端に、心配になった。
 じゃがしかし、曲げてはならぬのじゃ。
 意を決して、言った。

「きみの意思は鋼より固いのう。
 わしの胸の奥に染み渡るように、しっかりと届いたぞい」

 言葉は返って来なかった。
 氷咲くんは今頃、その言葉の意味を慮っている事じゃろう。

「うむ……わしも、覚悟を決めんといかんのう」

 大きく深呼吸をした。
 彼の希望に沿った形の後押しであり、わしが出来うる最大限の支援。

「氷咲くん。わし、近衛近右衛門からの、依頼を受けてはくれんかのう」

「依頼、ですか?」

 呆けを隠せない声が、響いてきた。
 自然と笑みが漏れてしまう。
 彼の沸き上がる疑問も、致し方ないじゃろう。
 わしは、彼に京都行きは固く否と約束させたからじゃ。
 そんなわしからの依頼なのじゃ。
 当然ながら、氷咲くんは面食らった表情を隠せずにいるじゃろうと思えた。
 いや相手は、歳若いというのに聡明過ぎる氷咲くんなのじゃ。
 早々に依頼の内容には、当たりをつけてはいる可能性がある。じゃが、信じられずに、息を呑んでいるのかも知れない。

「そうじゃ」

 一瞬間を取って、高らかに告げた。

「きみには、そのまま京都に赴いてほしいのじゃ。
 修学旅行の間、ネギくんを見守ってやってはくれんかのう。
 なに、授業の事や滞在費用に関しては、任せなさい。問題の無いように配慮しよう。
 頼まれてくれんかのう?」

 沈黙。
 長い沈黙が流れた。
 氷咲くんからの返答は、なかった。受話器からは息遣いさえも聞こえず、電車の走行音だけが響いてきていた。
 わしは笑うと髭をさすった。
 氷咲くんは内情は今頃、どのような心模様となっているじゃろうか。
 さながら陽光差す、快晴となってくれておれば良いがのう。

 幾許かの後、受話器から声が送り届けられた。
 その声音は決意と聡明さに満ち溢れていた。

「学園長は身体を休めていて下さい。
 その依頼、僕が、完遂して見せましょう」

 満足げに頷いて、京都の地に思いを馳せた。
 麻帆良の青い空。それは確かに京都と繋がっておる。
 氷咲くんは、一人じゃない。心のおける仲間は、それこそ幾人もこの麻帆良におるのじゃから。
 笑みを漏らすと、依頼の事細かな内容の説明を開始した。
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 新幹線は、一路、京都に向かっていた。
 私達にあてがわれた車両内は、まさに騒乱の渦中の様相を呈していた。
 私はドアの前に背を預けた姿勢のままで、唖然と固まっていた。
 突如車両内に、式紙と思しき蛙が大量発生したのだ。
 所狭しと蛙達が跳びはね、生徒達が恐々と逃げ惑う様は、阿鼻叫喚。まだまだ止みそうにない悲鳴が、こだましていた。
 即座に竹刀袋に包まれた夕凪に手をかけた。
 だが、考えを改めた。
 お嬢様をお守りするために行動しようと思ったが、害はないようだったからだ。
 関西呪術協会からの妨害工作だとは考えられたが、一向に攻撃してくる気配がないのだ。
 それならば術者の特定をと、辺りに目を凝らした。
 だが映るのは、クラスメイト達の騒乱のみ。こちら側特有の、戦う者が纏う気配を感じとる事は出来なかった。
 相当の手練れなのかも知れないと、再度、気を引き締めた。
 それに、突如その凶刃を露にする可能性も十分に有り得る。
 私は気取られぬよう注意しながら、一両の先の部屋に移動した。車両と車両の間の部屋だ。それなりに広く、ここならば即座に動く事が出来るだろう。
 ドアに取り付けられた窓から、騒乱に目を凝らした。
 観察しやすく、臨機応変に対応出来るという配慮からでもあった。

 ネギ先生があたふたと、生徒数人に手伝って貰いながら、蛙を袋に詰め込んでいた。
 申し訳ないとは思うが、少々、滑稽に思えた。
 そして、考える。
 子供騙しと言ってもおかしくはないこの妨害工作には、どのような意味合いがあるというのだろうか。
 その時脳裏に、密書という言葉が浮かび上がった。
 学園長から説明されていたのだ。
 長への書状をネギ先生に託した、と。
 それならば、指し示される結論は一つだ。
 これは囮、か。
 書状の在り処は聞き及んでいないが、ネギ先生の懐などに隠されている可能性は高いだろう。
 この妨害工作の真の意味は、書状の在り処を調べる事。
 まずは妨害工作により、ネギ先生の心に不安感を募らせる。するとこの旅で最重要な事柄である書状。それを奪われていないかを確かめようとするだろう。
 それこそが肝要なのだ。書状の在り処も勿論だが、色や形、大きさなどを調べ上げる寸法で間違いないだろう。

 そう考えられる、考えられるがだ。余りに侮られ過ぎではないだろうか。
 まだ子供のネギ先生と言えども、一応、一介の魔法使いのはずなのだ。
 それくらいの見当はついていると考えるのが妥当だ。いや、ついていてくれないとこちらが困るのだ。
 だが観察していると、ある考えが浮かび上がった。
 未だにネギ先生は蛙を袋に詰め込んでいるのだが、その慌てる姿は、まるで子供のようだった。
 とてもこちら側に属する、戦う者の姿には見えなかった。
 これは、まさか、見当がついていないのでは。

 その時だった。
 開いた口が塞がらないとはこの事だろうか。
 神楽坂明日菜さんとネギ先生が何やら話していた時の事だ。
 なんとネギ先生は無用心にも、颯爽と懐から書状らしき封筒を取り出して見せたのだ。
 妨害工作の術者が、虎視眈々と目を光らせている可能性が高いと言うのに。
 これは参った。
 あんなに高々と掲げ上げては、奪ってくれと誇示しているようなものではないか。
 注意しよう。 
 苛立ちを隠せずに向かおうとすると、私の考察は、現実のものとなってしまった。
 ネギ先生の背後から、鳥を形どった式紙が飛来してきた。無防備な手から書状を掠め取り、口にくわえたままこちらに向かい飛んできたのだ。
 少々、余りの不甲斐なさに憤ってはいたが、距離を開けた。竹刀袋に包まれた夕凪に右手をかけて、その時を待つ。
 こちら側に飛来してきたのが幸いだった。
 ドアを通り抜ける瞬間に、叩き伏せる。

 視界には鳥の背後に、ネギ先生の唖然とした表情が見えた。
 全く持って、違い過ぎる。
 ネギ先生と、同様の性別である小林さんと比較してしまったのだ。
 まだ子供だとは言えだ。学園長の依頼を受けた以上、戦場に甘えは許されない。
 小林さんの依存してしまいそうになるほどの壮大な器量。
 ネギ先生と小林さんの二人に、面識があるのは知っている。それならば、良く勉強させて貰った方が良いだろう。
 彼の立ち振る舞いこそ、戦う者の象徴であり、強く優しき男性の象徴だ。ネギ先生も誇らしく思っているに違いない。

 独りでに、笑みが浮かび上がった。
 自然と身体中が、心地の好い熱を帯びていく。
 原宿での決意の一夜が、明確に思い返された。
 沸き上がる勇気を頂いた、幻想的なまでの一夜が。




「醜くなどない。
 その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
 方向性を間違えているだけ。
 例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
 俺は、そう思っているんだ」

 原宿の名もなき雑踏。
 人々が思い思いの表情で行き交う、路の上。
 空は薄紫がかっていた。小さな月が弧を描き、下半身がビルの屋上に突き刺さっているかのように見えた。
 歩道もガードレールも、佇む二人も、背丈の長い街灯が淡く照らしていた。
 俯く私の隣を、ガードレール越しに何台もの車が、交差するように通り過ぎて行く。ヘッドライトの赤い光りが、滲んで見えては去って行った。

 喉の奥底が、痛かった。まるで首を絞められているかのような痛み。
 歯を食いしばり、感動の波を抑えつけられるように堪えた。
 顔は上げられなかった。
 頬を伝うその涙が、どうしようもなく恥ずかしく思えたから。
 小林さんに対して、無礼だとは思った。
 だが、無理だったのだ。不可能だったのだ。
 彼の言葉の一つ一つが、さながら、粒子となり私の全ての細胞を震え上がらせていたから。

 小林さんの足元しか見えなかった。でもそれだけで良かった。
 存在を感じられる。ただ待っていてくれる。
 それだけで、私には十分過ぎていた。
 私は今、幸せなのだと、幸福の絶頂なのだと、実感していたからだ。

 小林さんは黙して、微動だにせず、何も言を発する気配はなかった。
 だが私には、十分過ぎるほどにその想いが理解出来ていた。
 これこそが壮大なる器量から導き出される優しさなのだ。言葉、だけではないのだ。
 自らの事など度外視して待ち続け、ただ微笑んで、相手の起動を待つ。それは相手が後悔をしないように、自らで答えを出させようとしているのだ。
 小林さんはその口から、こう言葉を紡いでくれた。
 例え世の中全てが私の敵と化したとしても、自らだけは私の味方なのだ、と。
 その言葉に私がどれほど救われた心地となったか。勇気づけられたか。他人にはわかりようもないだろう。
 そしてその言葉の裏にある、深い問題定義。包み込まれるような優しさの底にある、まるでサボテンの刺のような厳しさはこう言っているのだろう。

「きみはどこに向かうのか。
 割り切るためにあがくのか。
 諦め、しっぽを巻いて逃げるのか」

 どれくらいの時が経っただろうか。
 私は静かに顔を上げた。
 未だに心の震えはあった。決断した訳でもなかった。
 だが、底知れぬ衝動に突き動かされたのだ。
 衝動的なまでに、小林さんの顔を見たくなったのだ。

 見上げるとそこには、穢れなき微笑みが在った。
 まるで水晶のように透き通る瞳は慈愛に溢れていて、街灯からの光りを反射していた。
 この厳しき世界の中で、一人しか存在しえない私。桜咲刹那だけに向けられていた。
 まるで、幻想的なものを見たかのように惚けた。
 時が止まったかのような錯覚を受けた。人々の足音が、聞こえなくなった。

 それでも感謝の意だけは示そうとしたが、喉が震えて声を出せなかった。
 独りでに右の掌の中に、両翼が形作られた首飾りを、強く握り締めていた。
 掌に鋭利な金属が突き刺さっていく。その小さな痛みに、愛おしさが溢れた。

 小林さんが微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。
 数秒、私の目を見つめて、静かに口を開いた。

「行こうか」

 それだけ言って、歩き出す。
 私の傍を小林さんが、通り過ぎて行く。
 逡巡の後、弾かれるように後を追った。
 小林さんの背中を追いかけて、並んで歩く。
 その言葉の、指し示す意味はわかっていた。
 小林さんはたった四文字の言葉で、私の背中を押したのだ。それは信頼からくる言葉。
 小林さんは信じているのだ。
 私の選択は、諦め、しっぽを巻いて逃げるのではない。割り切るためにあがく事を選択するはずだ、と。
 だからこそ、「行こうか」と言った。
 いや、「共に前に進もう」と言ったのだ。

 駅に向かう私達の間に、会話はなかった。
 だが、悪い心地ではなかった。穏やかな暖かさを直ぐ傍から感じられていたから。
 それは強い絆から作用されているように思う。
 私から小林さんへの、熾烈なまでの依存にも似た感情。
 信頼感。この人だけは私を見てくれて、絶対に裏切る事はないと思えていたから。
 二人の空間はまるで、外界と切り離されてしまったかのように感じられた。

 私の頭の中は、色々な思考が現れては消えていく。
 小林さんは信じてくれているが、私は割り切れるのだろうか。割り切るためにあがけるのだろうか。
 彼に失望されるのが怖くて、弾かれるように後を追ってきただけだった。
 彼ならば失望などはしないと素直に思えたが、この事に関して、私は臆病な小娘だ。失望などされて嫌われてしまったらと妄想するだけで、怖くて仕方がなかったからだ。
 脳裏に浮かぶ言葉。
 過去。禁忌の翼。お嬢様。小林さん。
 ぐるぐると渦巻くようにうごめく、心模様。

 駅前に着き、電車に乗る。その間も無言だった。
 私は、一つだけ、勇気を振り絞った。
 それは小林さんから頂いた、勇気だった。
 昼は座席に、向かいあうように座る事を選択した。
 だが夜は、隣あわせに座る事を選択したのだ。
 それはとても恥ずかしく、少しだけ怖かった。
 小林さんは、優しかった。
 嫌がるそぶりは微塵もなく、それが自然なのだと言わないばかりに、気づかないふりをしてくれたからだ。
 歳一つだけしか変わらないはずなのに、その振る舞いは大人だった。
 理解してはいた。いたのだが、少しだけ落ち込んだ。
 同時に思えて、気づかされたからだった。
 小林さんの中で私という存在は、見守らなくてはならない子供であり、共に歩ける存在ではないのだ、と。
 だが、昼と夜の違い。それは途方もなく大きかった。勇気を振り絞って良かったと思えた。
 数センチ先、左側に在る横顔。その距離は、暖かくて、嬉しかった。
 二人の絆が、より一層、深まったような気がした。

 客は少ないようだった。私達の車両には数人いたが、眠りこけていた。走行音だけが響き、まるで、貸し切りのようだった。
 車内は、照明により明るいが、窓の外は薄暗く不明瞭な景色が見えるだけだった。
 ふと思えた。
 この明暗な差は、まるで私達のようだ、と。
 細部に違いはあれど、同種の過去、苦悩を持った二人。
 小林さんは割り切りあがき、結果、光の下に行き着いた。
 私は何をして来たのだろうか。
 悩み苦しむだけで、あがきもせず、結果、闇の中で停滞していた。
 この差は、何なのだろうか。
 本質、と嘘ぶく事は簡単だろう。だが違うと思えた。本質などではない。
 それは、言い訳なのだ。
 違いは一つ。ただ、一つだけ。苦悩の末に、挫折の末に、あがき前を向こうとしたかどうか。
 死んだ方がましと容易く思えるほどの努力をしてきたかどうか、なのだ。
 隣の小林さんには出来て、私には出来なかった事。
 それを、まざまざと、十分過ぎるほどに、今、思い知らされた。

 小林さんの顔を、覗き見た。今、この時も尚、顔も視線も、前を向いていた。
 私は目を見開き、その様を見惚れるように見ていた。
 強い。なんて強く在り続ける人なんだ。
 ふと、ある考えが浮かび上がった。
 この人と共に在りたい。並んで歩きたい。
 私も強くなりたい。
 次第に身体中が熱を帯びていく。顔の酷い暑さを感じながら、そして、思う。
 私は、小林さんが好きだ。
 小林さんのためならば、死をも厭わない。
 これは正に依存だと思えた。
 思う。率直に思うのだ。
 小林氷咲という男性が、私に微笑みかけ続けてくれるならば、もう何も怖くはない。
 彼が傍にいれば、もう何も。
 修学旅行中に決着をつける。
 禁忌の翼とも。過去とも。お嬢様とも。
 彼がそう在り続けたように、私も彼を信じ、信頼する。
 その全てが悪い方向に向かおうとも、小林さんだけは、私に向けて微笑んでくれる、と。
 強く頷いた。
 そして、気づいた。
 心が軽いのだ。いつ如何なる時も在ったしこりが、解放されたかのような感覚。

 ふと、掌の中の鋭利な感触を覚えた。
 未だに、首飾りを握ったままだったのだ。
 小林さんの手前、少々、恥ずかしくはあったが、首にかけてみた。
 気づかれぬように、両翼の部分は制服の内側に入れる。
 銀の冷たさを胸元に捉えた。途端に誇らしく思えた。
 これは私達、二人だけの思い出であり、切っても切っても、誰もが切れはしない絆なのだ。
 独りでに、笑みが浮かんでいくのを感じた。

 目を閉じると、忌むべき過去が再生された。
 今でも直視したくはないし、どのようにしても笑う事などは不可能だと言えた。
 だが、一つだけ感じた。
 そこまで苦しく、なかった。崩れ落ちそうになる苦しさが、なかったのだ。
 ふいに笑みが込み上げた。
 なんという人なんだろうか。
 小林氷咲という、魔族の男性は。
 まだ出会って間もないというのにも関わらず、私の心の中に、その存在を定着させるなんて。
 尊敬を隠せなかった。
 感謝を隠せなかった。
 そして、これから好意も隠せないだろう。
 そんな幸せな心地に浸っていると、肩口に何かが覆い被さってきた。
 その重みに、不思議と目を開いた。
 そして、唖然と口を開いた。

「こ、小林さん」

 その何かは、小林さんの頭だったのだ。
 内心困惑して、呼吸が止まったかと錯覚するほどに固まった。
 程なくして再起動すると、その行動の理由がわかった。
 小林さんの定期的な呼吸音が、鼓膜を震わせたのだ。
 私は何も言わなかった。
 ただ燃え上がるような体温の上昇を感じて、自然な笑みが漏れた。
 私などのために気を使い、心労から眠ってしまったのだろうからだ。
 そして示されるもう一つの理由が、途方もなく嬉しかった。
 それは私を信頼してくれているという事。
 なぜなら、小林さんは戦う者だ。戦う者は決して他人の前では眠らないから。

 誇らしく思えた。
 少々、他の客の目が気にはなったが、肩口に乗る頭に向けて小さく呟いた。
 定期的に揺れる頭は、眠っている事を示していた。
 だからこそ、言った。いや、聞かれていたとしても構わなかった。

「ありがとうございます。今は眠って下さい。
 ……好きです」




 私は満足げに頷いた。
 もう早くも数日が経ったと言うのにも関わらず、身体中が昂揚感で満たされていくのを感じていたからだ。 
 
 胸元の部分。制服の中に隠されている首飾りを、右手で服の上からなぞった。
 両翼が形取られた銀細工の冷たさ、鋭利な感覚が、私に勇気をみなぎらせていく。
 なぜならば、これは私達、二人だけの絆だと言えるから。

 惚けを隠す事が出来そうになかった。独りでに笑みが浮かび上がった。
 だが夢見心地な時間は、断続的に揺れている感覚で、徐々に意識が覚醒していった。
 そうだった。私は今、新幹線に乗車していたのだ。
 今の今まで、目を閉じていた事さえ、記憶からは抹消されていたようだった。
 目を開き、苦笑すると、視界にある影を捉えた。
 唖然とした。
 ある影、書状をくわえた式紙の鳥が、傍を通り過ぎて彼方へと消えて行ったのだ。

 な、なんと言う事だ。
 心の中で毒づいた。
 即座に転身し追走した。思考は自らの愚かしき行動に辟易としていた。
 先程までネギ先生に注意するなどと宣ってなどいたが、これでは愚の骨頂ではないか。
 絶対的にないと高らかに言える。言えるが、こんな無様な姿を小林さんに見られては、生きる気力は尽きてしまうだろう。
 遠目に飛ぶ式紙に、軽い怒りを覚えながらも、竹刀袋に包まれたままの夕凪を手に、足早にその背中を追った。
 車両内の客が、ハテナ顔で私を見つめているが、そんな些細な事など気にしてはいられない。
 術者より早く、書状を奪い返さなければならないからだ。

 だが次の瞬間だった。私の思惑は杞憂と化した。
 式紙が車両と車両の間の部屋に、開いたドアから滑り込むように侵入した時だ。
 私の視界の真ん中、式紙越しに、この場に存在するはずがない人影を捉えたのだ。
 ドアに取りつけられた窓からは、背中だけしか見えなかった。だが、私には十分過ぎるほどにわかった。
 スタイルの良い細めの身体。麻帆良学園男子高等部の制服を着こなし、猫毛を思わせる黒の髪の毛が静かに揺れていた。
 そして何よりも、いつ如何なる時も物おじする事のない、その大胆なまでの颯爽とした雰囲気。
 それは私が尊敬して止まない、ある人物像と、明確に繋がったから。

 自然に式紙を追う事を止めていた。その大きな背中に導かれるように、トボトボと歩を進めた。
 余りの驚愕もそうだが、一言、もう追う必要性がなくなったからだ。
 どのような理由で、京都行きの新幹線に乗車しているのかはわからない。
 だが、あの小林さんがだ。他愛もない式紙如きに遅れを取るなどと、誰が思うと言うのか。
 彼の背中が見えて、そこに式紙が向かっていく。その瞬間に式紙、ひいては術者の命運は尽きたのだから。

 式紙が最後の抵抗とばかりに速度を上げた。その傍らを通り抜けようとしているのだろう。
 だが、小林さんには微動だにせずに、微塵の殺気もない。
 まるで、修学旅行中の生徒、一般人のように。
 だが、それは違うのだ。
 これこそが麻帆良の重鎮達から褒め讃えられる、彼の天才的なまでの擬態であり、類い稀なる戦略。
 どこかから式紙を操っている術者はもはや、その人影、小林氷咲という戦う者の術中にはまっているのだから。
 それはさながら、じわりじわりとアリ達を奈落に誘う、アリジゴクを彷彿とさせた。
 そして次の瞬間、式紙、いや愚かなアリは、彼の戦略の前に平伏した。
 小林さんの背後から、右肩の真上を式紙が飛び抜けようとした時だった。

 私はその業に、見惚れる事となった。
 突如、小林さんの右肩から紫紺の火柱が噴き上がったのだ。
 瞬く間に、式紙はその身体事燃やし尽くされ、ただの塵となり消えた。
 感嘆の息を漏らした。
 込める魔力の配分が神業と言っても過言ではなかった。綺麗に式紙だけ燃やし尽くし、肝心の書状においては汚れ一つない無傷の状態だったのだ。
 書状が、ポトリと直線的に床に落ちた。
 だが、小林さんに取っては些細な事、さながら消化試合のようなものだったのだろう。
 当然の事と言わないばかりに、抑揚のない表情を表していた。書状など気にもせずに、未だに噴き上がる火柱にその顔を照らされていた。
 何という隙の無さだろうかと、心の中で呟いた。
 式紙の弱点である火を用いた点は見事の一言だった。
 その上、攻撃の瞬間まで、いや、最中に置いても背中を見せたまま事を行ってしまったのだ。
 このような洗練された擬態や戦略を、所見に置いて、どのように見破れと言うのだろうか。
 今頃術者は、やっと黙されたのだと理解し、歯痒い思いで唇を噛み締めている事だろう。
 溜飲が下がっていった。
 小林さんの戦略の範疇だったとは言えだ。
 一分、一秒という些細な時間でも、小林さんが一般人だと侮られていたのが、腹立たしかったからだ。
 そして同時に、誇らしい心地となっていく。
 やはり私の目に狂いはなかった。小林氷咲という男性こそ、戦う者の象徴的存在なのだ。

 だが、次の瞬間、私の心の中に、モヤモヤとした感覚が広がっていく事になった。
 まるでそのモヤモヤは、雨天時の灰色の雨雲のように、どんよりとしけっていた。
 なぜならば、小林さんがやれやれと頭を左右に振り、淀みのない動きで書状を拾い上げたからだ。
 頭を振る姿に、ある考察がよぎった。
 私にその様は、何かを嘆いているように見えたのだ。
 一つ、思い当たった。
 まさか。
 まさか、見られていたのでは、ないか。
 世界中で一番見られたくない相手に。
 先程の無様な顛末を。

 モヤモヤとした感覚が、ざわめいた。
 やはり、そうなのか。私の存在を認知していたのか。
 小林さんがそうだと物語るように振り向き、こちらに向けて視線を移した。
 怖かった。
 失望されるのが、途方もなく怖かったのだ。
 居ても立ってもいられずに、私はドアを開き叫んだ。

「こ、小林さん!
 ど、どうしてここに!?」

 自らの卑怯さに、魂胆の見え見えさに、酷く嫌気が差した。
 私はあの夜誓ったのにも関わらず、また逃げたのだ。
 小林さんの口から失望の言葉が発せられる事を恐れて。
 無理矢理、話題の方向転換をしてしまった。

 小林さんは無言だった。
 いつもの彼ではなかった。
 射抜くような視線が、右手に掴んだ夕凪に落ちた。
 そして、普段は透き通っている瞳に、澱みがあるのを見てしまった。
 それは、悲しみに揺れていた。

 全てを理解した。
 胸の奥底から、何かがはい出てくるような気持ちの悪さが広がった。
 失望、されて、しまった。
 小林さんは、見ていた。そして、私の口から、逃げの言葉が吐かれた事を嘆いているのだ。
 さながら、心に大きな風穴が空いてしまったかのような感覚に陥った。
 さながら、自らの身体が塵となり風に舞い消え行くような感覚に捕われた。
 強い痛みが、胸の内に襲いかかった。
 例えば今私は、一人切りだとしたならば、むせび泣いていてもおかしくはない。

 だが、次の瞬間、唖然とする事になった。
 許して、くれるとでもいうのだろうか。
 小林さんの口許に、暖かな微笑みが表れたのだ。
 その意味が、理解が出来なかった。
 見て、いなかったのだろうか。いや、違う。
 小林さんは、その深い懐で許してくれたのだ。
 わかってはいたが、なんという器量の広さだろうか。
 次第に、心の雨雲が晴れていくのを感じた。
 多大なる感謝を感じた。
 もう次はないと、自らに強く言いつけた。
 小林さんは私に嘘はつかない。ならば私も、小林さんに嘘をついてはならない。
 死して尚、小林さんに嘘はつかないとここに誓う。
 小林さんが暖かい微笑みのまま、口を開いた。

「はっきりとは、話せないんだけどね。
 だけど、桜咲さんならば、少しくらいは良いかな」

 即座に返した。
 私の卑怯な言葉に付き合って頂いた上、待たせてはならないからだ。
 それに私ならば話せるとの言葉に、好奇心と嬉しさが込み上げたのだ。

「お、お願いします」

 小林さんが柔らかな口調で、言葉を繋いだ。

「しいて言うなら、ある人物を見守るためにだね」

 その言葉に、押し寄せる期待感を隠せなかった。
 内心、うろたえていたが、聞き返した。

「あ、ある人物をですか」

 昂揚から身体中が、酷く暑くなっていく。
 小林さんが一瞬虚空を見つめてから、こちらにその透き通る瞳を見せた。

「元々は想いを伝えるためだけに来たんだ。
 だけど、道中、色々な事が重なりあった。
 単刀直入に言うと、俺も京都に行く事になったよ」

 その言葉に私の身動きは止まらざるを得なかった。
 その言葉で、確信出来たからだ。
 小林さんはこう言った。
 元々は想いを伝えるためだけに来た、と。
 その、想い、とは、やはり、私にだろう。
 小林さんは愛の告白をしに、ここに来たのだ。
 薄々はわかっていた。
 これは両想いと言われるものなのだろう、と。
 小林さんの並々ならぬ愛情は、私に向けられているのだ、と。
 今ならば、顔から火が出たとしても愕然としないだろう。
 正に、天にも昇る心地だった。
 ふと、思えた。
 これが幸福なのだろう、と。

 だが、一つだけひっかかる部分があった。
 共に京都に赴いてくれる。これについては、こんなに心強い事はない。
 さながら、冥界の魔王辺りが出て来ない限り、私達に敗北の二文字はないだろう。
 それではなく、京都に赴く原因となった、色々な事が重なりあったという発言が気にかかったのだ。
 だが、すぐに気づいた。
 その事実に、酷く落ち込む自分がいた。
 私が不甲斐なくあるからだ。
 小林さんは優しい。私を一人で京都に行かせては危険だと、そう思ったのだろう。
 だからこそ京都行きを決断したのだ。

 自らの不甲斐なさに、憤りを隠せなかった。
 救いを求めるように小林さんを見遣ると、そこには微笑みが在った。
 癒されるような笑みに、次第に身体が暑くなっていく。

「大丈夫?
 熱でもあるんじゃ」

 落ち込みと嬉しさ、相反する感覚を抱えながら言った。

「だ、大丈夫です!」

 静寂が広がった。
 それを嫌って、無理に話しを変えた。

「あ、あの、その書状を」

 小林さんが笑みを向けて、書状をこちらに向けた。

「はい。
 今度はなくさないようにね」

「は、はい」

 その言葉で、全ては白日の元となった。
 私は自らの愚かさに辟易としながらも、両手で書状を受け取った。



[43591] 学園長からの依頼——裏その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:24
—ネギside—
 
 
 
 
 京都に向かう新幹線。楽しいはずの車両内には、叫びにも似た悲鳴がこだましていました。
 点呼をしていた時です。突如として、大きな蛙達が大量発生したんです。
 僕は口をあんぐりと開けて、放心してしまいましたが、これはいけないと行動を起こしました。
 何が何やらわかりませんが、僕は教師なんです。生徒達の危機は、僕が救わなければならないと思ったからです。
 一人だけでは力が足りず、親切な皆さんと協力して、大急ぎで蛙達を袋へと詰め込みました。

 それだけならば、何の問題もなかったんです。
 ですが、徐々に悲鳴も止み、安堵の息を漏らした時でした。
 予想外の事態が巻き起こったんです。
 アスナさんにこう言われました。密書は大丈夫なのか、と。
 途端に不安になり、奪われていないかを確認しました。
 懐に手を伸ばし、確かに密書の手触りを感じました。
 良かった。
 心の中で呟きました。
 アスナさんが心配した面持ちだったので、安心させてあげようと密書を見せたんです。
 ですがそれこそが、致命的な間違いでした。
 唐突にも、背後から風切り音を響きました。そして、何者かが書状を掠め取ってしまったんです。
 唖然と目を見開く他ありませんでした。
 その何かは鳥のように見えました。次第に速度を上げて、遠くへと去って行きます。

「ね、ネギ!」

 未だに唖然と固まっていましたが、これはいけないと再起動を果たしました。
 ですがもはや、逃げて行った方向にはドアがあるだけでした。
 姿なき鳥を、懸命に追走しました。
 いくつもの車両内を疾走しましたが、鳥の姿は、影も形もありません。
 お客さん達が唖然とこちらを見つめていましたが、気にしている暇などはありませんでした。

 自然と、顔がしかめられていきました。
 確かに聞いてはいました。
 関西呪術協会には、不穏分子がいる、と。
 ですがそれは一部だけで、関西呪術協会の大半は、東西の友好に協力的だと聞いていたんです。
 甘く見ていたと言わざるを得ませんでした。
 その時脳裏に、僕が尊敬して止まないヒサキさんの言葉が呼び返されました。
「京都か……ネギくん、気をつけるんだよ」
 深く、頷けました。
 ヒサキさんは暗に言っていたんでしょう。
「東と西は一枚岩ではない。妨害工作には、気をつけるんだよ」
 畏怖を覚えずには、いられませんでした。
 その情報能力の高さにです。
 夕闇迫る河川敷にてヒサキさんは、僕が京都に行く事を初めて知ったはずなんです。
 それと同時に思いました。
 何て優しい人なんだ、と。
 自分とは直接の関係がないのにも関わらず、僕を心配してくれていたなんて。
 次第に相反する感情が、せめぎ合って行きました。
 多大な昂揚感と、多大な羞恥心。ヒントをくれていたというのに、僕は。

 無我夢中で鳥の姿を探しました。依然としてその影も見つかりませんが、諦める気は毛頭ありませんでした。
 これは僕の失態なんです。僕が片付けなければならない事柄なんですから。
 ですが、一つのドアを開いた時でした。
 予想外にもこの騒動は、終わりを告げました。
 そこにはある少女の、後ろ姿が在りました。
 麻帆良学園中等部の制服を着ていました。特徴的な髪型は、ハッキリと見覚えがありました。
 恥ずかしながら名前がわからず悩みましたが、記憶を辿っていくと思い出しました。
 僕の生徒である、桜咲刹那さんだったんです。
 不思議に思いました。
 僕達にあてがわれた車両からは、少しだけ、離れていましたから。
 ですが、その手に握られた密書を視認した時に、疑問は氷解しました。
 桜咲さんが振り返り、僕を見据えました。
 凛とした佇まいに、竹刀袋。それはとても印象的に映りました。

「ネギ先生。
 くれぐれも気をつけて下さい」

 そう言って僕に、密書を手渡しました。
 コクコクと頷きました。
 どうしてかはわかりません。ですが桜咲さんは、怒っているように感じられたからです。
 声音は低く、鋭い目付きが僕に向かっていました。

「は、はい。
 あ、ありがとうございます」

「それでは」

 桜咲さんが会釈をして、僕の傍を通り過ぎて行きます。
 その時に僕の口は、反射的に開きました。

「さ、桜咲さんが取り返してくれたんですか?」

 桜咲さんの歩みが止まり、ゆっくりと振り返りました。
 唖然としました。
 先程とは打って変わり、その表情には穏やかな笑みがあったからです。
 良くわかりませんが、こちらまで暖かい気持ちにさせてくれる微笑みでした。

「いえ、私ではありません」

「では、誰が?」

 桜咲さんが、クスリと笑いました。
 その声音は優しく、さながら、一輪の花のような美しさが漂っていました。

「小林さん、いや、小林氷咲さんです」

「え、ええー!」

 僕の口が、自然と開きました。
 桜咲さんがまた、クスリと笑いました。
 信じられませんでした。
 鳥から密書を奪い返してくれたのは、ヒサキさんだと言うのですから。
 有り得ないんです。
 ヒサキさんは学生の身。京都行きの新幹線に乗車する必要性が、皆無と言っても過言ではないんですから。
 ですが、桜咲さんが嘘をつくとは、到底、思えませんでした。
 それならばどうして、ヒサキさんは。
 尋ねようとすると、桜咲さんが遮るように言いました。

「小林さんが、この京都行きの新幹線に存在する事は、変えられない事実です。
 そして私の目の前で、神業と呼んで差し支えない戦いを見せてくれました。
 式紙は抵抗さえも許されず、無様にも消え行きました。
 ネギ先生が持っている書状。それこそが確たる証拠です」

 僕は唖然と、密書を見遣りました。
 ヒサキさんがここにいる。
 そして、式紙の鳥からこの密書を奪い返してくれた。
 その事実はさながら、心を晴れ渡る空のように変えて行きました。
 モヤモヤとした不安な気持ちは、霧がはれるかのように消えて行きました。
 勇気がみなぎるとは、この事でしょうか。
 自然と、口が開きました。
 誠心誠意の、お礼を言いたかったんです。
 ここまで僕に優しくしてくれて、ここまで僕を見守ってくれているヒサキさんに。

「ヒサキさんは、どこにいるんですか?
 お礼を言いたいんです」

 すると、桜咲さんの表情が一変しました。
 その瞳は真剣そのもので、静かに口が開いていきました。

「小林さんは言いました。
 微力ながら、俺に手伝える事があったら言ってほしい、と」

 その言葉に、心は盛大に騒ぎ立てられました。
 騒がしいほどの昂揚に、身を任せました。
 もう心に、不安などがその姿を現す事はないでしょう。
 なぜならば、ヒサキさんが手伝ってくれると言うのですから。
 自然と、笑みが浮かび上がりました。
 ですが次の瞬間、僕は愕然と口を開きました。
 桜咲さんが、こう言ったんです。

「ですが、私は断りました」

「え、ええー!
 どうしてですか!?」

 揺れる車両内に、叫び声がこだましていきました。

「私達は一様に、小林さんから、多大なる恩恵を受けた。
 違いますか?」

「い、いえ、違いませんが」

 大停電の日の決闘。
 心を動かされ、騒ぎ立てられた記憶が明確に、映像となり蘇りました。
 桜咲さんが逡巡の後に、言いました。

「ならば、一つ聞きます。
 ネギ先生は小林さんに、一つでも何かを返しましたか?
 恥ずかしながら私は、何も返せてはいない」

 言葉に、詰まりました。
 考えても無意味な事、でした。
 なぜならば僕は、ヒサキさんに何も返せてなどいない。

「だからこそ私は、その有り難い申し出を丁重に断りました。
 ネギ先生、思いませんか。思えませんか?
 今こそ私達は、その恩恵に報いり、応え、返すべきなのではないか、と」

 その言葉が心の奥底に、さながら、浸透するかのように入り込みました。
 強い決意を持って、深く頷きました。
 そうだ。
 ヒサキさんの善意を、当たり前だなんて思ってはいけない。
 ヒサキさんが、例え見返りを求めなくとも。
 ヒサキさんの、多大な優しさに応えるためにも。
 ヒサキさんに、認めて貰えるようになるためにも。
 休んでいて貰うんだ。
 僕が、僕達が、やり遂げて見せるんだ。

「はい。そうですね。
 ヒサキさんは僕のために、その尊い命を掛けてくれました。
 だからこそ僕も、ヒサキさんのために命を掛けます。
 報いるためにも。応えるためにも」

 桜咲さんが、穏やかな笑みを浮かべました。

「小林さんは、最後にこう言っていました。
 嬉しそうに微笑んだ後です。
 優しげな声で、見守っているからね、と。
 その暖かい後押しに応えるためにも、やり遂げて見せましょう」

 僕は、深呼吸をしました。
 虚空を見つめて、何処かで見守ってくれているヒサキさんに呟きました。
 それは、決意表明。

「はい。
 ヒサキさん、どうか見守っていて下さい。
 僕は、やり遂げて見せますから!」

 自然と、二人して笑い合いました。
 窓の外に、見知らぬ町並みが映りました。
 京都は、もう近い。
 新たな決意と共に、強く頷きました。

 ふと、ある事に気づきました。
 カモくんが静かなんです。
 不思議に思い懐を見遣ると、先程と変わらず、身を守るように丸まっていました。
 その身体は小刻みに震えていました。
 
 
 
 
 —神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
 先程までこの場、車両内にいたネギの姿は消えていた。
 大事な密書とかいうものを、鳥に奪われ、その背を追いかけて行ったからだ。
 走って行ったドアを見て、苦笑を漏らした。

「忙しいやつね、まったく」

 突如蛙が大量発生した時は、私も唖然としてしまったけれども。

「まあ、ただの鳥だし、大丈夫でしょ」

 そう呟いて、先程まで悲鳴が上がっていた車両内を見遣った。
 騒動が嘘だったかのように、今は楽しげな喧騒が広がっていた。
 自分の座席に座り、窓からの風景を眺めた。
 寂れた町並みから、少しだけ発展した町並みへと移り変わっていた。
 空は青く、雲一つない。揺れる車両内が何処か心地好かった。

 ふと、昨日の人生最大と言えるほどの失態が思い返された。
 テンションが上がり過ぎていたというか、なんというか。
 口が軽いカモに、ある様子を目撃された事だ。
 正しく、一生の不覚と言えた。
 まさか、見られていたとは思わなかった。
 確認した時は確かに眠っていた。それなのにカモは、警察犬のような嗅覚で探し当てたんだ。
 アイツのあの能力を、もっとより良いものに役立てなさいよ、と心の中で毒づいた。
 未だにあの失態は、思い出すだけで身体中が熱くなっていく。
 秘密を漏らさないよう、脅した効果は出ているようだからまだ良いけれど。
 それにしてもアイツは失礼な奴だ。
 少し脅しただけなのに、気絶してしまうなんて。
 私を鬼かなにかと、勘違いしているんじゃないか。
 思い出したら、また腹が立ってきた。
 カモがいるだろう方角を、睨みつけた。
 妙な動きをしたら、覚えておくと良い。

「本当に、口を、糸で、縫い付けてやろう」

 程なくして、何をやってるんだ私はと苦笑が漏れた。
 胸元に隠された首飾りへと、独りでに人差し指をはわした。
 固形の感触が、多大な昂揚感を生んでいく。
 私のために用意してくれた、誕生日プレゼント。
 その事実は、余りに嬉し過ぎた。
 ふと、思えた。
 今頃、小林先輩はどうしているだろうか、と。
 真面目だから、授業でも受けているんだろう。
 自然に、笑みが浮かんだ。
 同時に、小林先輩の穏やかな微笑みも浮かび上がった。
 急速に、体温が上昇していく感覚を捉えた。
 だが、恥ずかしくはなかった。
 この感覚は、なんなのだろうか。
 高畑先生に向ける感情と、同一のもののように思えた。
 暖かくて穏やかな、さながら、日光浴をしているような感覚。

 ふと、脳に何かがひっかかるような感覚を捉えて目を細めた。
 何か、思い出せそうな気がしたんだ。
 底の底にて、忘れ去られてしまった記憶が。
 光り輝くような、失われた過去の記憶が。

「私と……小林先輩は……昔……」

「アスナ、なにやってるん?」

 その優しげな声音で、意識が覚醒していった。
 木乃香の首が傾げられて、こちらを覗き込んでいた。綺麗な黒色のロングヘアーが、パラパラと揺れていた。
 どうしてか、途端に恥ずかしくなった。
 取り繕うように、慌てて声を返した。

「ななな、なんでもないわよ!」

「ふーん。そうなん。
 それに、さっきから胸元ばっか触ってどうしたん?」

「そそそ、それこそなんでもないわよ!」

 叫び声は、車両内の騒音にかき消された。
 木乃香の声で、気づいた。
 未だに、首飾りに触れ続けていた事に。
 羞恥心が騒ぎ立て、居ても立ってもいられなくなった。
 私は何とかごまかそうと、必死に言った。
 蘇りかけた記憶が、また、底の底に向かい沈んでいった。
 
 
 
 
 —ある夜の幼女吸血鬼さん—
 
 
 
 
 寝室。ベッドに仰向けで寝そべっていた。
 私は悶々と唸っていた。
 室内は薄暗かった。開け放たれた窓から月光が差していた。煌めいて見える夜風がカーテンを揺らした。
 先日、朝倉和美から譲り受けた写真を手に眺める。
 そこにはある少年が写っていた。口をぽかんと開けた、間抜けな写真だった。
 だが、普段とはまるで違う少年の出で立ちが、痛く気に入っていたのだ。

 普段ならば、それを手に笑っていたはずだ。
 だが今日の私は、笑う気にはなれなかった。
 なぜならば、今、私は、焦っていたからだ。
 その写真の少年は、小林氷咲に他ならない。私の心を騒がして止まない、ただ一人の男。
 京都の地。持ち前の美し過ぎる善意故に、危険な目に遭ってなどいないだろうか。
 朝に、自身の並々ならぬ愛情を知った。
 ヒサキの並々ならぬ決意を知った。
 だからこそ私は、あいつが笑えるようにと快く送り出した。
 幸福の絶頂だと、満足げに笑っていたはずだった。
 ヒサキの実力ならば、並大抵の相手では歯牙にもかけない事は理解している。
 だが、夜になり感情の色は変わってしまったのだ。
 この問題に限り、それとこれは別なのだと気づかされたのだ。

 焦燥心に駆られた。
 さながら、心配という名の焦燥心は、時を経て増殖していった。
 出来る事ならば、私も京都に向かいたかった。
 だが、それは不可能なのだ。
 登校地獄。
 その呪縛は重く響いた。麻帆良を出れない事実は、焦燥心に拍車をかけた。
 自らの人生を悔やんだ。
 どうして私は、負けたのか。
 あまつさえ、登校地獄などという、たわけた呪いをかけられてしまったのか。
 さながら、自らに対する憤りが身を焦がすようだった。

 正に、八方塞がりと言えた。
 電話をかける事さえ、出来ないのだ。
 なぜならば私は、ヒサキにあんな大口を叩いたのだぞ。
 それにヒサキは、こう言っていた。
「直ぐに帰れる。
 帰ったら沢山話しを聞くから、待っていてくれると嬉しい」
 私が電話をかけたら、ヒサキの男気、プライドをへし折る行為と同等なのだ。
 そんな事は、したくなかった。
 ならば、どうすれば良いというのだ。
 今にもヒサキは、尊き善意故に命を掛けているかも知れない。
 誰か、あいつを止めてくれ。
 愛すべき愚か者を、誰か。
 この私が、切に願う。願うのだ。

 むくりと、起き上がった。
 窓辺に立ち、大きな月を見上げた。森林は霧が漂い、それらが光りを反射していた。
 夜空には星が浮かび、私は呆けたまま見つめ続けた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 霧に包まれていた脳内が、心なしか晴れたような気がした。
 一筋の流れ星が、瞬いて、燃え尽きた。
 そして、その瞬間だった。
 脳髄にさながら、雷が落ちたかと錯覚するほどの衝撃が走り抜けた。
 笑みを浮かべる時間も、もったいなかった。
 その光明を胸に、私は叫び声を上げた。
 そうだ。
 私は行けない。行けないが。

「ち、茶々丸ー!
 頼む!頼みがあるんだー!!」

 慌てふためいたまま、半ば転がるように部屋を後にした。



[43591] 悪が跋扈する街、京都——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:26
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 塵一つない清潔感溢れる室内は、異様なほどに広々としていた。エアコンにより、室温は常に一定に保たれており、快適な空間であった。
 大きな窓の側に、キングサイズと呼称しただろうか。
 さながら、力士の方々が二人寝そべっても余裕があるだろうベッドが置かれていた。
 そこに腰掛けて、俺はふうと溜め息をついた。
 高所得者だけに許された、ハイレベルな高級感。
 俺には一生として縁もゆかりもないであろう雰囲気に、少々、気圧されていたからに他ならない。
 どこに視線を移して見ようが、この部屋には皆無と言えた。
 幼き日頃から目にし、触れて来た所謂、庶民達の生活用品が、である。
 異常。正に異常であった。

 どこにでもある見慣れた円形の電灯は、特大でありながら、尚且つ細工のきめ細かいシャンデリアに。
 格安で購入したお気に入りの木のテーブルは、大理石で出来たテーブルに変化していた。
 あまつさえ、あまつさえだ。
 驚愕した事に、この部屋には二階があるのだ。
 夜景が展望出来るように吹き抜けた先に、風呂までもがあったのである。
 おおよそ、ジャグジーと呼ばれるものなのだろう事は理解出来た。
 しかし、微塵も入ろうとは思えなかった。
 もう一度、言おう。
 将来、サラリーマンになったとして、俺とは縁もゆかりもないだろう一室。
 貧乏学生の俺には恐れ多く、どこか怖さを感じたからであった。

 有り難い事は有り難いし、まさかここまでの恩恵を頂ける事は感無量だった。
 だがしかし、学園長の壮大なる計らいには、参ったと言わざるを得なかった。
 まさか、まさかだ。
 ホテルの最高級な部屋である、スイートルームをあてがわれてしまうとは。
 俺の宿泊所など、そこら辺に無数にあるカプセルホテルで良かったと言うのに。
 即座に連絡し、断り続けた俺であったが、学園長がどうしてもとの押しに負けて、その好意を受け取る事にした。
 学園長にご迷惑をかけないようにと考え行動していたのだが、好意を無下にする事は逆に失礼に当たると考えたのだ。
 ネギくん達、修学旅行生も同様のホテルに泊まっているのだが、内心、心が痛かった。
 俺だけスイートルームに泊まるなど、申し訳ない気持ちで一杯だったからだ。

 気分を変えようと視線を移すと、骨董品めいた置き時計が置かれていた。
 短針が、夜が深けてきている事を示していた。
 小さく頷いて、明かりを消した。
 さながら、油断すると取って食われると言ってもおかしくはない京都に疲れていたのだ。
 薄暗くなった部屋内を、月の明かりが仄かに照らしていた。
 立ち上がり、窓辺に立った。そこには、夜景が広がっていた。
 夜の京都。それはさながら、星空と錯覚するほどに幻想的であり、冥界などとは微塵も思えなかった。
 無抵抗。惚けを隠せずに、その様を凝視していた。
 混濁した脳裏は、昼頃に起こった顛末を蘇らせた。
 
 
 
 
 流れる空気は、微かに紙幣の匂いが混じっていた。
 見知らぬ駅前で見つけた、大手の銀行。中には、数人の客達が自らの順番を待っていた。
 銀行員や人達の言葉が、小さく耳に届く。
 それは、方言と呼ばれるものなのだろう。聞き慣れない響きに、自らが日本の冥界、京都にいるのだという事を思い知らされていた。
 その京都で、知り合いなども皆無の状況。ネギくんや神楽坂さんや桜咲さん、信じられる者はいるにはいるのだが、現状はたった独りきりなのだ。
 内心、騒ぎ立てられる恐怖心は、染み入るように四肢を重くしていた。
 そんな思考を振り払うように、頭を振った。
 多大なる恩恵に応え、より良い自らに成長するためにも、俺は、絶対にやり遂げねばならないのである。
 心に刻み込むように呟くと、ある方向に視線をやった。
 壁際には、洒落っけのない円形の時計がかけられていた。
 針が、午後二時半を過ぎた事を示していた。
 京都に着いてから早くも、三十分ほどの時間が流れていたとは。
 さすが京都。この地は時間さえも超越しているとでも言うのか。
 そんな馬鹿げた事を考えて、含み笑いをした。さすがの京都と言えど、到着して直ぐに、何らかの悪い出来事に遭遇する訳がないだろうからだ。
 幾分、楽になった心を、強き決意で燃やしていると、順番が回ってきた。
 後が支えているので、足早にキャッシュディスペンサーの前に立った。人差し指で、液晶に表示された案内通りに押していく。

 何をしているかは、言わなくてもわかるだろう。
 そう、俺は銀行へと、お金をおろしに赴いていたのである。
 ネギくんを見守るという依頼。本当ならばさながら、コバンザメのように張り付いていなければならないのだが、先立つものはお金と言えよう。
 学園長から、ホテルの部屋取りなど、任せてくれと言って頂けていた。
 しかし、日用品に変装用の服、尾行用のタクシー代など、必要なものは山のようにあるのが現実であった。
 一時の間、ネギくんを見守れない事は申し訳なく思う。だが、ネギくんを本当の意味で思うならばこそ、用意周到に準備をしなければならないのだ。
 俺が京都にいる事を知られてしまえばそれまでなのだから。

 幾らほど下ろそうか。
 確かお年玉貯金が、まだ十万円ほど残っていたはずだ。
 そこまで使わないとは思うが、一応、全て下ろそう。先行きが不透明であるため、持てるだけ持っていた方が良いだろう。
 一応、貯金残高を確認する事が先決だろう。案内に添って、液晶にタッチする。
 程なくして、液晶に残高が表示された。
 眉根を細めるのと同時に、独りでに口が開いていった。

「ん?
 一、十、百、千、万……」

 人差し指で単位を数えた。なぜならば液晶には、こう表示されていたのである。
 2100000円、と。
 首を傾げた。
 うん。
 意味がわからない。
 これは、どういう事態だと言うのだろうか。
 二百十万円、とは。
 機械の故障、だろうか。そう、だろう。間違いない。
 はははと、苦笑を漏らした。
 さすが京都である。キャッシュディスペンサーが壊れているとは想定外だった。
 しかし、それから違う機械で幾度も試してはみたが、結果は同様だった。
 余りの驚愕故に、脳裏が白んでいく。

「こ、これは一体……」

 中年のおばさんがこちらを不審そうに見つめていたが、気になどしてはいられなかった。
 現実味のなさに、呆けを隠せそうになかったからだ。
 少しの間、立ち尽くしていたが、何とか認める事が出来た。
 全く持って意味不明の事態と言えたが、これは現実であり事実なのである。
 この前、ゲーム機購入費用を下ろした時には確かにそうなっていた。
 それならば、差し引いた額である二百万もの大金はどこから現れたというのだろうか。
 利子、ではないだろう。こんな利子があるのならば、日本という国は潰れてしまうだろう。
 ならば、なぜ。

「な、なんなんだ。この事態は……」

 単刀直入に言ってしまうと、怖かった。染み入るような怖さからか、独り言を呟いてしまう。
 考えても、みてほしい。
 ある一介の貧乏学生がだ。我慢に我慢を重ね浪費をおさえてだ。貯め込んできた貯金を下ろしに来てみたら、なんと、二百万円もの大金が、どこかから入金されていたのだ。
 それはそれは、目が点となるであろう。
 有り得ない、のだから。
 ふと、鼻が疼いた。明確に、犯罪の類いの匂いがしたからだ。
 思考が定まり、符号した。一つの言葉で謎は氷解した。
 京都。ここは京都、なのだ。
 学園長が忌み嫌う冥界。
 まずい。
 これはまずいぞ。
 絶対に油断をしてはならないのだ。
 これは京都に流行る、新手の詐欺か、なにかかも知れないからだ。
 心の中で呟いた。
 これは、罠だ、と。
 二百万円もの大金を、これ幸いと有頂天のままで、使ってしまったとしたら最期。
 自らをさながら、海に住む魚だとでも過程すれば、わかりやすいだろう。
 眼前をチョロチョロと誘惑的に踊る餌。それに食いついたら最期なのだ。
 そのまま強面のヤクザ屋さんなどに釣り上げられて、身体の一欠けらも残さず食べ尽くされてしまうのである。
 いかん。
 絶対にいかんぞ。
 俺には夢があるのだ。
 彼らほど怖いものはないし、関わってはならない。
 絶対に使わない。使わないのだ、と心に刻みつけた。
 そう考えると、先程、こちらを不審そうに見つめていたおばさんまでが、逆に不審に見えた。
 まさか、あのおばさんが。
 いや、見るからに良い人そうだったが。
 いやしかし、ここは京都。隙を見せてはならない。

 警察に行くべきなのだろうかと思ったが、考えを改めた。
 今は、学園長からの依頼が最優先だからである。
 この問題は、麻帆良に帰ってから考える事が得策だろう。
 あちらには、学園長や高畑先生など心強い味方もいるのだ。相談に乗って貰えるはずである。
 内心、恐怖心は騒ぎ立てていたが、その事を考えるだけで、癒されていくように感じた。
 なんという、壮大なお方達なのだろうか。
 さながら、本当は人間などではなく神だったんだよ、と言われたとしても、俺は無条件に信じる事が出来るだろう。
 十万円だけを下ろして、足早に銀行を後にした。 
 
 
 
 夜景を眺めながら、思った。
 さすが、悪が跋扈する京都。学園長が忌み嫌う理由が、初日にして伺い知れてしまうとは。
 正に、恐るべき土地だと言えよう。足を踏み入れた次の瞬間、意味不明、理解不能な詐欺紛いの犯罪に遭ってしまったのだから。
 一つだけ、高らかに言えた。
 俺はもう、この依頼をやり遂げたら、二度とこの地を踏む事はないだろう。

 しかし、そんな事ばかりを考えていても仕方がない。
 これからの事を、考えねばならないからだ。
 今日については、運良くというかなんというか、日用品や変装用の衣服を整えただけの、何事もない一日であった。
 変装用に用意した衣服は、目立たぬように黒色で統一した。ワイシャツとジーパンを着用し、野球帽を深めに被る、ただそれだけである。
 それだけか、と思うかも知れない。しかし、費用は限られているのだ。
 何より格安で済む事が嬉しくあるし、逆にこういった格好の方が、より街に溶け込めるのではないかと考えたからであった。
 銀行を後にした俺は、準備を整えてホテルへと戻った。
 清水寺に向かう途中で、3—Aの生徒達が乗車するバスを見かけたからである。
 内心、慌てふためいていたが、即座にタクシーで追尾した。
 着いた先はホテルであり、遠めから監視して見ると、何やら生徒達が疲労で倒れてしまったようだった。
 そして、俺は感動していた。
 なぜならば、ネギくんが良き教師と言えたからだ。
 普段の慌てる様は微塵も見えず、落ち着き払った姿勢で、先導者としての責務をはたしていた。
 この京都という地が、そうさせたのかはわからない。
 しかし、一人の少年の成長が、確かに垣間見えた。
 正に、感無量であった。

 長い間、監視していると、好意的に思える人間関係が展開されていた。
 神楽坂さんと桜咲さんが、弟を見るような目で、ネギくんをサポートしていたのだ。
 ホテルのロビーで、顔を揃えて何やら話し込んでいる様子は微笑ましかった。
 支え合い、励ましあって、切磋琢磨していく。
 なんという、素晴らしき事なのだろうか。 
 微力ではあるのだが、俺も遠くから最大限の応援をしよう。それがここにいる理由であり、為さねばならぬ事だ。
 しかし、修学旅行はまだまだ始まったばかりである。
 気を引き締めて、事に当たらねばならない。
 それがネギくんの将来のためであるし、学園長の期待に応える事になるのだから。

 決意を新たに、頷いた。
 それならば、明日の事を考えて早寝するべきだろう。
 しかし、その時だった。
 想定外のものを、この目に捉らえてしまったのだ。
 それは人影だった。三人。玄関口から、門外へと駆けぬけようとしていた。
 初めは、宿泊客がジョギングでもしようとしているのだろう、と思えた。
 だが、それは違った。
 街灯に照らされて、その服装があらわになったのだ。
 それは見知った三人だった。
 スーツ姿のネギくんに、制服を着た神楽坂さんと桜咲さん。
 三人は、一目散にどこかへと駆けていく。
 その速度は早く、何らかの事態が巻き起こったのだと伺い知れた。
 しかし、これは、どういう。
 目を見開かざるを得なかったが、逡巡の後、行動した。
 全く持って、意味不明の事態と言えたが、俺には依頼があった。何よりもここは危険な京都だ。何かがあってからでは遅いのだ。
 俺の足では、どんなに走ろうが追いつけないだろう。
 胸元から万年筆を取り出し、念じた。
 紫紺の煙りが立ち上る最中、勢い良く窓を開け放つと、夜空へと飛び出した。




 湿気を孕んだ空気が漂っていた。霧がかった夜空の下、耳をつんざくような金属音が響いていた。
 下方にて起こっている騒動。俺はその展開に、釘付けとなっていた。
 寺か、なにかだろうか。
 門へと続く階段の中腹で、桜咲さんと桃色の衣服を着た少女が対峙していた。
 二人は切り結び、距離を取る。再度、自らの凶器を用いて、舞うように切り結んだ。
 一方が刀を両の手に掴み切りかかれば、一方は二刀流と、両の手にそれぞれ持った刀で受け流していた。
 不穏なる気配を切り裂くように鳴る、金属と金属がぶつかり合う音。緊迫感を演出し、見る者を夢中にさせる何かがあった。
 階段を下りた所でも、戦いの幕は開いていた。
 ネギくんと神楽坂さんが、成人程の背丈を持った熊と猿の着ぐるみを相手していた。
 ネギくんは吸血鬼らしく、大きな杖をかざし魔法を用いて戦う。神楽坂さんは不思議な事にだが、大きなハリセンを振り回していた。
 そして、事の発端。この騒動を巻き起こした犯人は、階段を上った所に佇んでいた。
 胸元が開いた、巫女らしき女性。眼鏡が似合う、京都美人。彼女は、浴衣姿の少女を、離さぬとばかりに抱え込んでいた。
 導き出される結論は一つだ。
 これは間違いない。誘拐事件。浴衣姿の少女は、人質に取られているのだろう。
 そう考えれば、辻褄があう。
 ネギくん達は、悪の誘拐犯から、浴衣姿の少女を助け出そうとしているのだ。
 夜風が、小さく前髪をなびかせた。俺は腕を組んだままの姿勢で、呟いた。

「……素晴らしい脚本だな。
 もう少しでクライマックスだろうか……」

 事の初めは、誘拐事件だと考えられた。
 さすが京都であると、恐怖心に煽られていた。
 しかしながら、俺は年長者なのである。微力ではあるが、助力しようと思っていた。
 だが、すんでの所で、ある考えに行き着いた。
 空気が読めて、本当に良かった。あのまま出て行ったら、大恥をかく所であった。
 焦りながらも違和感を捉えた自らを、手放しで賞賛したいほどである。

 なぜならば、この点について考えて見てほしい。
 浴衣姿のか弱き少女を誘拐する犯人。さすが京都と言いたい所だが、当初はとんでもない姿だったのである。
 黒づくめでもなく、顔も隠していない。
 その姿とは、猿の着ぐるみ、であったのだ。
 どのような角度から考えてみても、こんなにおかしい事はないだろう。
 まず初めに、こう言いたい。
 うん。
 意味がわからない。
 絶対にないと高らかに言えるが、自らを誘拐しようとする犯人だと仮定して見ようではないか。
 逮捕されれば人生が終わってしまうこの状況。
 その決行時に、さあ、着ぐるみを着て行こうかなどと、するだろうか。
 答えは、間違いなく否だ。
 大変、目立つ事は請け合いであるし、着ぐるみとは、見つけてくれと誇示しているようなものなのだから。
 そう考えると、ある考察が浮かび上がった。
 これは脚本がある演劇。修学旅行中の何処かで披露するレクリエーションか何か、なのではないだろうか、と。
 生徒達という客がいない事が不思議であるが、これが練習だとするならば頷けた。
 そうか。
 だからこそ、他の生徒達に見られぬように、この時間帯に行っているのだろう。
 その考察に、深く安堵している自らがいた。
 なぜならば、本物の誘拐犯であった場合に置いて、俺の命は刈り取られていたかも知れないのだから。

 物語りが、クライマックスに突入し始めていた。
 神楽坂さんの勢い良く振り下ろされたハリセンが、熊と猿の頭部を捉らえた。
 すると不思議な事だが、着ぐるみ達の姿が忽然と消え去った。地面に二枚の紙切れが、ポトリと落ちた。
 一瞬、目を見開いてしまったが頷けた。
 あちらには吸血鬼のネギくんがいるのである。
 所謂、魔法。そういった能力によるものなのだろう。
 半ば滑稽に思えていたハリセンが、本当は強力な武器だったという設定か。

「素晴らしい演出だ」

 小刻みに頷いていると、桜咲さんと桃色の少女が、一定の距離を取った。
 さながら、空気さえも動けぬような緊張感の中、桜咲さんの身動きが止まった。
 そして、一瞬の後、勝敗は決した。
 視認する事は、不可能だった。気づいた時には終わっていたのだ。風を切り裂くような音が、聞こえただけだった。
 桃色の少女の身体が宙を舞い、舞い上がる埃と共に地面に落ちた。
 桜咲さんは、動かぬ桃色の少女を一瞥してから、巫女さんに突撃をかけた。
 そして、いつまでも見ていたいほどの演劇は、残念ながら終わりを告げる。
 突如、まばゆい閃光が発生した。光が止むのと同時に、巫女さんが地面に倒れているのを視界に捉えた。
 その身体は動かず、気を失っているのだろう。
 ふと、あるものを目にして、握る手に力がこもった。
 衝撃からか、上空へと舞い上がってしまったのだろう。
 浴衣姿の少女が、速度を上げて落下して来たのだ。サラサラとなびく髪の毛が、月光に照らされて煌めく。
 危ない。
 心の中で呟いた。
 あの高さから地面に落下しては、怪我は免れないだろう。
 しかし、それは杞憂だった。
 桜咲さんが落下地点にて、待ち受けていたのだ。
 さながら、壊れ物を扱うかのように優しく受け止める。
 俺は釘付けになりながらも、苦笑していた。
 そうだった。
 これは物語りだったのだ。
 拍手。知らず知らずの内に、両の手が動いていた。

「素晴らしい。
 正に、手に汗握る展開だ。脚本家は天才だな」

 なんという、感動的な演劇だろうか。
 抱き留められた浴衣姿の少女が、桜咲さんへと語りかけていた。すぐ側、後方から、ネギくんと神楽坂さんが優しげな眼差しで見守っている。
 深く頷いてから、自然と笑みがこぼれた。
 学園長、あなたの教え子達は、清く成長していますよ。
 俺は拍手する手を止め、その場を後にした。
 邪魔者は、消えるべきだろうと思えたのだ。
 これは秘密にしているだろう、練習なのだから。
 その際、どこかから声が聞こえてきた。
 いや、脳裏に直接響いてきたような声だった。

「きみが噂の人物、か。
 そうか。これもまた、巡り巡る運命なのかも知れないね」



 翌朝、何やら香ばしさや酸っぱさなど、入り混じる匂いで目が開かれた。
 異様なほど大きなベッドから、上半身だけを起こした。
 未だに混濁している脳裏で、眠たい目を擦る。
 辺りを見遣ると、余程、疲れてでもいたのだろうか、カーテンを開けままで眠っていたようである。
 明けきっていない空は、薄暗い青色を称えていた。雲が、ポツポツと点在していた。

 ふと、何やら音が聞こえてきた。
 まるで、包丁で具材を切っているような音が耳に届いたのだ。
 その上、香ばしさに酸っぱさ、あまつさえチーズのような匂いまでが鼻をくすぐった。
 これは、一体。
 寝ぼけたままの頭は動こうとせず、ぼーっと黙ったままキッチンの方向を見遣った。
 そして、次の瞬間だった。
 俺の視界には、有り得ない人影が映る事となった。
 大理石のテーブル上に並ぶ、仰々しいまでの料理の数々の向こう。その奥にある、キッチンに佇んでいた。
 後ろ姿だけであるが、彼女だけは、見間違えようがないのである。
 品が漂う、メイド姿。長い髪の毛はサラサラと揺れて、彼女の美しさを際立てていた。
 その姿は、正しく茶々丸さんだった。
 多大なる嬉しさが込み上げると同時に、苦笑がこぼれた。

「ははは、俺は余りに京都が怖すぎたんだな。
 こんな夢を見ているなんて、恥ずかしい限りだ」

 夢の世界の麗しき姫君。茶々丸さんが、俺の声に気づいたのだろう。静かに振り返った。
 礼儀正しく一礼した後、音も立てずに歩み寄って来た。
 そして、どうしてか、黙り混んだ。
 その瞳は澄み渡っているのだが、抑揚のない表情が気にかかった。
 辛抱強く待っていると、茶々丸さんが口を開いた。

「氷咲お兄様、のご迷惑になるかと思いましたが、朝食を用意しました。
 お兄様の好みがわからなかったので、和洋中と幅広くつくってみました」

 自然と、自虐めいた苦笑が口許に浮かべられた。
 なぜならば、夢の世界の茶々丸さんは、俺をお兄様と呼称したからだ。
 以前、本で読んだ事があった。夢の中の出来事は、本人の願望が如実に表れる、と。
 つまりこの夢は、俺自身の願望と言えるのだ。
 茶々丸さんにお兄様などと呼称してほしいという、自身の浅ましい願望を示しているのだ。
 間違いない。
 こういう事態を、末期と呼ぶのだろう。
 自らが思うより遥かに、京都という重圧は身体を蝕んでいたようだった。
 だがしかし、夢の世界とはいえだ。礼儀を欠いてはならない。最大限の微笑みを持って言った。

「茶々丸さんの手料理だったならば、何でも絶品に決まっているじゃないか。
 本当にありがとう。
 全部、頂かせて貰うだろうから、太っちゃうかも知れないな」

 本心がこぼれた。
 笑顔で返答を待っていると、茶々丸さんの動きが止まった。
 不思議に思いながらも、辛抱強く待つ。程なくして、茶々丸さんが口を開いた。
 普段の抑揚のない表情ではあったが、俺には感じ取る事が出来た。
 茶々丸さんは恥ずかしがっているのではないか、と。

「ありがとう、ございます」

 談笑の後、名残惜しくはあったが、俺はまた眠りについた。
 これで残りの日数も、頑張れる事だろう。
 苦笑する。
 見る事は叶わないが、それはそれは満面の笑みが寝顔に張り付いているであろう。
 意識が、次第に混濁していく。茶々丸さんが小さな声音で、何かを呟いた。
 しかし残念ながら、その声を聞き取る事は出来なかった。



[43591] 悪が跋扈する街、京都——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:26
—神楽坂明日菜Side—
 
 
 
 
 ホテルのロビーには、人気がなかった。置かれていた皮張りのソファーに腰掛けて、窓の奥の景色を眺めた。
 空も雲も、町並みでさえも、夕焼けに朱く染められていた。それは、夜の訪れを感じさせた。
 今日は大変だった、と溜息をついた。
 なぜなら、今日、予定されていた計画は全て、音羽の滝で起こった泥酔騒ぎにより中止となっていたからだ。
 その騒動は、私に予測など出来る訳もなく、突然として起こった。
 流れる滝の壮観さに、見惚れている時だった。クラスメイト達の半数ほどが倒れてしまうという、事件が起こったんだ。
 私は何事かと、目が点になった。どうしようかと困惑していると、本当に以外な事だったけど、ネギが迅速に声を上げた。
 その表情は真剣そのものだった。いつもの、慌てふためくネギではなかった。
 再度、唖然としてしまった私だったけど、無事だった皆と力を合わせて、酔っ払い達をバスへ運んだ。
 一段落して休んでいた私の下に、ネギがやってきた。その時も表情は真剣そのものだった。
 先程の蛙騒動の時は、はっきりと子供じみていたというのに、この急激な変わりようはどうしたんだろうか。
 病気、だろうか。それとも、変な物を拾い食いでもしたのかも知れない。
 良くわからなかったけど、まあ、真剣なのは良い事でしょ、と考えるのを止めた。
 落ち着き払う変なネギ曰く、泥酔騒ぎは関西呪術教会とやらの一部が計画した妨害工作で、蛙騒動も同一だという事だった。
 難しい事は良くわからないが、要約してみるに、その一部は関東と関西が仲良くするのが気に入らないらしい。
 だからこそ、ネギが持っている和平のための書状を奪おうと画策しているという。
 全く、困った連中だ。平和ならそれで良いじゃない。
 だけどそういう話しならば、わざわざ妨害工作を行っている理由については理解出来た。
 でも、一つだけ、言わせて欲しい。
 皆を酔わせた妨害工作が、書状を奪おうとする連中の目的へと、どのように繋がっていくというのだろうか。
 色々と考えて見たけど、結果は意味不明さだけが残った。
 仕方がなく私は、自分が考えても仕方がない事だと、気を取り直した。
 結果として皆に怪我もなかったし、私達の予定を狂わせただけなのだから。
 良くはないが、安心出来る結果と言えた。

 ロビーには依然として、人影はなかった。騒々しく、神出鬼没なクラスメイト達の姿も、視界には映らなかった。
 なぜなら、音羽の滝であんな事件があったからだ。
 酔っ払い達は部屋で眠っているだろうし、無事だった皆は、思い思いの場所で暇を持て余している事だろう。
 私はというと、未だに心の中に残るわだかまりが晴れずにいた。だから、じっくりと考えて見ようと、人気のない場所を探し、ここにたどり着いていた。
 それは新幹線の車内で感じた、何とも言えないような感覚だった。
 残念な事に、突然木乃香に話しかけられてしまったため、思考が途切れてしまった。
 だけどあの時、確かに感じていた。記憶の中にしまい込まれた、大切な何か。失われた何かが、蘇りそうな感覚が。
 そして、まどろみの世界で蘇っていく記憶の映像の中に、ある人物の姿が見えたような気がしていた。

 腕を組み、眉根を細めた。朱に染まる中空を見据えてから、静かに瞼を閉じた。
 だけど、どれだけ待っても、あの時の異様な感覚を捉える事は出来なかった。
 自然に人差し指が動き、制服越しに胸元をなぞった。
 羞恥心、から隠されていた秘密の首飾り。広げられた翼が形取られた銀細工は、固くて、不思議だった。
 肌に微弱な冷たさが刺しているのに、わだかまりを抱えた心はポカポカと、次第に暖かみに包まれていくんだから。
 反射的に、頭を左右へと勢い良く振った。両側に束ねた髪の毛が鞭のようにしなり、頬に当たった。細かな痛み、痒みを感じながら、心の中で呟いた。
 わからないものはわからないんだから、しょうがないでしょ。
 だから悩むなんて、私らしくない。
 いつかきっと、わかる日がくるんだから。
 含み笑いが漏れた。
 夕闇が、今にも迫り来る空。次第に薄暗くなっていく街の景色を見つめていると、どうしてだか、ふと小林先輩の笑顔が浮かび上がった。
 旧知の仲かのように、打ち解けられた男の人。高畑先生にも劣らない包容力を持ち、信頼出来る一つだけ歳が上の先輩。
 あの人は今、何をしているだろうか。
 さざめくような昂揚感に耽っていると、独りでに口が開いていくのを感じた。

「小林先輩が京都にいる」
「えー!アスナさん、知っていたんですかー!?」

 小林先輩が京都にいるなら、修学旅行ももっと楽しくなるのに、とは言えなかった。
 唐突にも、何者かの声に邪魔をされたからだ。
 それは聞き慣れた声色だった。さながら、夢でも見ているかのような昂揚感に耽っているのを邪魔されて腹が立った。
 間近で、驚きを顔に表していたネギを睨みつけた。

「うるさいわね!
 ちょっとは空気を読みなさいよ!」

「す、すいません。
 で、ですが、アスナさんが言ったものですから」

 ネギが怯えからか、縮こまった。
 無性に腹が立った。
 こいつもカモと同様、私を鬼か何かと勘違いしているんではないだろうか。
 射殺さないとばかりに、眼光鋭く睨みつけた。

「はあ?何をよ?」

「ひ、ヒサキさんが、京都にいるって言ったじゃないですか。
 ど、どうやって知ったんですか?」

 定まらない頭で、何度もまばたきをした。
 さながら、世界中の時計が制止したのではないかと錯覚してしまうような問い。
 ゆっくりと、ネギの言葉を反芻していった。
 程なくして再起動すると、また、ネギを睨みつけた。怯えているのか、失礼な事に小さく呻き声を上げた。
 全く、この葱坊主はなにを言っているんだろうか。
 小林先輩が京都にいるなんていう、ついてはいけない嘘をつくとは。
 小林先輩は高等部一年生だ。どんなに強くたって学生の身なんだ。真面目な人だし、授業をサボる事もしないだろう。
 何よりも、京都に来なければならない理由が思いつかなかった。
 蔑んだ微笑を口許に浮かべると、ネギに呟いた。

「エイプリルフールは、もう終わったはずなんだけど……」

「ほ、本当ですよ!本当なんです!」

 謝れば許してあげようかと思っていたけど、ネギは嘘を突き通すようだった。
 先程から必死に、本当ですを連呼していた。
 これは罰が必要ね、と微笑を浮かべた。そして、死刑宣告をしようとしたが、私の口が開く事はなかった。
 なぜなら、ネギの涙目な必死さが、ある考察を浮かばせたからだった。
 ネギが、こんなつまらない嘘をつくだろうか、と。
 まさか。そんなはずは。
 色々な考察が頭を騒がせて、私の目は見開かれた。
 とりあえずで、深呼吸を繰り返してみる。
 逡巡の後、唖然とこちらを見遣るネギに、何事もなかったかのように尋ねた。

「小林、先輩が、京都にいるの?」

「は、はい!そうなんです!信じてくれたんですね!
 と、というか、アスナさんも、さっきそう言っていたじゃないですか!」

 次の瞬間だった。
 気づいた時既に私は、叫び上げていた。

「えー!!
 ななな、なんでいるのよ!?」

 勢い良くネギの胸倉を両手で掴むと、強く問い正した。

「く、くるしぃ……あすなさん……」

 ネギの顔に、苦悶の表情が表れていた。
 余りに予想外な事実に、興奮してしまってでもいたのだろうか。胸倉を掴んだままの状態で、ネギの身体を持ち上げてしまっていたんだ。
 申し訳ない気持ちで、直ぐに手を離した。

「あ、ごめん」

 ネギが膝から崩れ落ちて、咳込んだ。
 私は、自分の失態を恥ずかしく思いながらも言葉を待った。
 程なくして、ネギが立ち上がると、深呼吸してから言った。

「ヒサキさんは僕達に力を貸すためだけに、わざわざ京都まで来てくれたんですよ。
 今も、どこかで見守ってくれています。
 その上、同じ新幹線にも乗っていたんですよ」

 ネギが、誇らしげに笑った。
 だけど私には、ネギを気にしている余裕はなかった。
 なぜなら、その事実に私の身体はさながら、電気が切れてしまった電化製品のように停止していたからだ。

「凄く、優しい人です。
 僕を、僕達を守りたいがために、危険を承知で、京都にまで来てくれたんですから。
 だから、アスナさん。僕は修学旅行中もそうですが、これから、命をかけるほどの意気込みを持って頑張ろうと思います。
 ヒサキさんが僕達のために、あの夜、命をかけてくれたように」

 ネギが何か言っていたようだけれど、さっぱりと私の耳に入って来る事はなかった。
 小林先輩が、京都に、来ている。小林先輩が、危険な京都にまで来てくれて、わざわざ私を見守ってくれている。
 その有り得なかったはずの現実は、多大な昂揚感を募らせていたからだ。
 強がってはいたけれど、内心、私にだって少しくらいの不安はあった。
 だけど、大袈裟なんかじゃない。さながら、暗雲のような不安感は、霧が晴れるかのように消えていた。
 でも、ネギの言葉の、ある事実に気づいた時だった。
 私はネギに詰め寄ると、また大声を上げた。
 多大な昂揚感に、多大な恥ずかしさ。それに心を支配されてしまった結果の行動だった。

「どどど、どこにいるのよ!
 い、今も見守ってるの!?」

「はい。
 まるで、一般人のように微かですが、僕でも集中すれば感じとる事が出来ます。
 どこにいるかまではわかりませんが、身近にいると思」
「こ、こんな事していられないじゃない!」

 ネギが面食らった様子で、唖然と口を開けていた。
 私は無視を決め込み、即座に行動へと移った。
 別れの挨拶でさえも忘れて、勢い良く部屋へと駆け出した。
 背後の方向から、ネギの大声が聞こえてきた。

「あ、アスナさん!
 どこへ行くんですか!?
 少し、お話しがあるんですよ!」

「そこで待ってなさい!用意してくるから!」

 小林先輩が近くで見守っているという現状が、私にこの行動を取らせていた。
 ふと、不安になったんだ。
 身嗜みはきちんと、整えられているだろうか、と。
 そういえば、音羽の滝の騒動で髪型が乱れてしまっていたが、誰に見られる訳でもないしと放って置いたはずだ、と。
 羞恥心がさながら、身体中を燃え上がらせているような感覚を捉えていた。
 小林先輩はそうは思わない事は知っている。だけど万が一、身嗜みも整えない女子だと思われたらと、不安感が猛り狂っていたんだ。
 とめどなく、羞恥心が騒ぎ立てた。不思議に思ったが、理解する事は出来なかった。
 猛スピードで部屋へと走っていく。唖然とこちらを見つめるクラスメイト達の事など、気にしている余裕はなかった。
 もう少しで、部屋に着く。
 その時だった。
 私の頭の中が真っ白となり、また身体が制止したのは。
 なぜならば、小林先輩は今も見守っているという現状が、ある考察を浮かばせたからだ。
 それなら、先程のネギとの騒動も、見られていたのではないだろうか。
 小林先輩になって考えて見る。当然ながら、唖然とするだろう。今の、この、全力での走りも。
 比喩なんかじゃなかった。恥ずかしさで、死にそうになった。
 だけど、一縷の望みを胸に、一目散に部屋へと走った。
 湯気が立ちそうなほどの顔中の熱さを感じながら、神様に尋ねた。
 さっきの時、小林先輩は、私を見ていませんでしたよね。 
 
 
 
 —ネギside—
 
 
 
 
 ホテルのロビー。僕はソファーに座り、アスナさんを待ちぼうけていました。
 待っててとの最後の台詞を聞いてから、三十分ほどの時間が過ぎたように思えます。
 薄暗くなりかけていた空は、完全な闇へと変貌し、内心、焦っていました。
 今は自由時間だから良いのですが、僕は教師です。生徒達を守るという大事な仕事があるからに違いありません。
 ですが、僕の話しを聞いて貰うのですから、待つのも当然だと思えました。
 アスナさんの都合も考えずに話しかけたのは、僕なんですから。見回りの最中にその姿を見つけたんですが、一言、早計だと言えました。
 音羽の滝でのお酒騒動は、自分ながら落ち着いて行動出来たと思っていたんです。
 ですがそれは、ただ有頂天になるだけという結果となってしまいました。
 ヒサキさんの人物像において、顕著な部分。それは、どんな時でも、豪胆なまでの落ち着き払った姿勢だと思いました。
 その姿勢に僕は憧れていましたし、そうなりたいと真似てみたんです。ですが、やはり僕はまだまだだったようです。
 深く、反省をしました。自分を見つめ返し、反省する事。それが成長に繋がっていく。
 お父さんやヒサキさんのような、偉大なる魔法使いになるための修業なのではないかと思えました。

 それにしても、アスナさんはどこに行ったのでしょうか。
 そこら中の粉塵を巻き上げながら、まるで、獲物を追走する肉食動物のように走り去っていったんです。
 用意をしてくる、と言っていた事から、何かを用意しているという事だけは明白なんですが。
 ですがそれはアスナさんに取って、さながら、命の次に大切なほどの事なのでしょう。
 あの鬼気迫るような迫力は、感じた事がなかったからです。多大な説得力を感じました。
 僕は恐怖から、刻々と頷く事しか出来ませんでしたから。

 そんな事を考えていると、遠めにアスナさんの姿が確認出来ました。
 ゆっくりと、こちらに歩み寄ってきます。
 僕が立ち上がると、目前まで来ていたアスナさんが言いました。その声音はまるで、暖かい南風を彷彿としました。

「ネギ。待たせて悪かったわね」

 僕は深々と頭を下げました。

「いえ、アスナさんの都合を考えようとしなかった僕が悪いんです。
 ごめんなさい」

 頭を上げて、アスナさんを見上げました。
 そして、次の瞬間でした。
 僕の目は、自然と見開かれてしまったんです。
 こんな事を思うのは、アスナさんに対して失礼だとは思いました。ですが、アスナさんの立ち姿が見違えて見えたんです。
 両側に垂れた髪の毛は綺麗に束ねられて、ほんの微かにですが、顔の造形が変わっているように思えたんです。
 不思議でしたが、僕は小さく頷きました。
 お化粧をしているのではないかと思えたんです。
 理由についてはわかりませんが、用意とはこの事だったのかと頷けました。
 普段から素敵な人ですが、今、口許に浮かべられている穏やかな微笑みは、より一層として素敵に思えました。
 僕は微笑むと、言いました。

「アスナさん、お化粧をして来たんですか?
 素敵ですよ」

 アスナさんが、抑揚のない表情で言いました。

「ん?私はさっきと変わりないわよ?」

 首を傾げました。
 僕の思い違いだったのでしょうか。
 不思議に思いながらも、再度、尋ねました。

「ですが、先程と雰囲気が違うような気がするんですが」

 返答を待っていると、アスナさんが微笑んだまま黙り込みました。
 ゆっくりと、口が開いていきました。

「ネギ、何言ってるの?
 私は朝からこうよ」

 不穏な空気を感じました。
 その素敵な微笑みが、まるで、能面な笑みのように思えたからです。
 アスナさんが、念を押すように呟きました。
 その声音は穏やかそのものなのに、僕の背筋はさながら、悲鳴を上げていました。

「変わりないわよね?
 そうでしょ?」

 僕は余りの恐怖から、また刻々と頷き事でしか返せませんでした。
 アスナさんが、邪気のない楽しげな笑みを浮かべました。
 まるで、研ぎ澄まされた刃物を彷彿とさせる、微笑でした。
 
 恐怖から、気圧されぎみの僕でしたが、勇気を持って口を開きました。
 まるで蝋人形と見紛いそうになるアスナさんに、手初めと、関西呪術協会の一部が画策する目的を説明しました。
 新幹線内で僕は、桜咲さんの口から語られた、愕然と憤りが交錯する目的について説明されていました。
 その理由とは、このかさんに関連する事柄でした。
 裏世界に関わってほしくないという優しい親心から、秘匿されてきた真実。
 それは、自身さえも知らないという真実。
 このかさんは、極東一と言っても過言ではないほどの魔力量を保持している。
 だからこそ、一部はその膨大なまでの力を利用しようと狙っているのではないか、と。
 僕はその事実に愕然としてしまいましたが、同時に、絶対に許してはいけない事だと強く憤慨しました。
 なぜならばと問われれば、答える事は至極簡単です。
 麻帆良に来た頃、僕は右も左もわからないと困り果てていました。アスナさんもそうですが、このかさんも、不甲斐ない僕に包み込むような優しさで手を伸ばしてくれました。
 強く、頷けました。
 次は、僕が返す番なんだ、と。
 その上、皆さんもそうですが、このかさんも僕が受け持つ大切な生徒の一人なんです。
 僕は、教師です。
 生徒に、一切の手出しはさせない。
 その旨をアスナさんに伝えました。
 唖然とした後、今は大丈夫なのかと問われました。
 僕は、頷きを返しました。
 基本的には、桜咲さんが護衛をしているので安心ですし、カモくんにも無理を言って張り付いて貰っています。
 そう伝えると、アスナさんの瞳に燃え上がるような強い意思が見えました。呼応するように、強く頷いてくれました。
 桜咲さんもそうですが、アスナさんについても、尊敬を隠せませんでした。
 このかさんのために、僕のために、危険を承知で支援してくれる心意気。正に、脱帽といった感情に襲われていました。
 それから、見回りをしていた桜咲さんと出会しました。
 ヒサキさんに恥ずかしくないようにやり遂げて見せようと、皆さんで話し合いました。
 並々ならぬ決意はさながら、身体中に燃え上がるような使命感を与えました。
 僕は高らかに宣言し、3—A防衛隊を結成する事となりました。




 闇に染まる京都の街に、猛々しいまでの足音が響き渡っていました。
 前方の薄暗い路地に、猿の着ぐるみを着た女性が、足早に逃げて行きます。
 その脇には遺憾ながら、気絶した状態のこのかさんが抱えられていました。
 共に追走するアスナさんと桜咲さんの表情には、絶え間ない怒気が受かんでいました。
 絶対に、許せない。身を焦がすような憤り。僕の顔は必死に、彩られている事でしょう。
 ですが、ある感情も、心の半分を占めていました。
 それは落ち込み。僕の心境の片割れは、奈落に落ちたかと錯覚してしまうほどの闇に覆い込まれていました。
 なぜなら、この現状をつくってしまった要因は、他ならない僕なんですから。
 桜咲さんの呪符による効果からか、ホテル内に、騒ぎという騒ぎは起こりませんでした。
 なのに僕は、最悪と言える選択肢を選んでしまったんです。
 星空が瞬く、夜。玄関前での出来事でした。
 呪符の効果でしょうか。ホテルに入れないと、首を傾げている従業員の女性を見つけたんです。
 これはいけないと、外の見回りのついでとドアを開きました。
 それこそが、間違いでした。
 なぜならば、その女性こそが、このかさんを奪おうと画策する関西呪術協会の一部の人だったんですから。

 多大な申し訳なさが、自身に襲いかかりました。騒ぎ立てる羞恥心から、胸に鈍痛が響きました。
 僕のせいでまた、みんなに迷惑をかけてしまった。
 自分の実力のほどを、思慮の浅さを、痛いほどに実感させられる結果となりました。
 ヒサキさんの、凛々しい横顔が脳裏に浮かび上がりました。
 その大きな背中は、僕には依然として霞むほどに遠く、指先さえも届きはしない。
 それはさながら、地表から人類が、太陽に触れようと手を伸ばしているかのように滑稽に思えました。
 ですが僕には、歩みを止める気などはありませんでした。
 僕はまだ、弱い。弱過ぎる。
 そんな事は、わかりきっているんです。
 お父さんやヒサキさんのようには、まだなれません。
 だけど、弱いからこそ、出来る事もあるんです。
 それは強さへの渇望。強い者より、弱い者の方が、それを切実に願える。
 願う僕に、出来る事は一つしかありません。
 それは僕の全身全霊の力を持って、このかさんを取り返そうと戦う事。それこそが、その経験が、将来、お父さんやヒサキさんのような偉大なる魔法使いになるための道筋だと思えたんです。
 だからヒサキさん、どうか僕を見ていて下さい。
 僕は僕なりのやり方で、いつか、ヒサキさんの隣に立ち、力となって見せますから。
 それに僕には、理由があるんです。強くならなければいけない、強く居続けなければいけない、理由が。
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 薄い霧が漂う、月下。街灯が辺りを淡く照らしていた。
 私は、次から次へと迫り来る凶刃を、夕凪で受け止め、払い続けていた。
 甲高い金属音と、風を切る音。それらが周囲を支配するように響き、私の心拍を徐々に猛らせていく。
 対峙する相手は、奇しくも同門だった。月詠と呼ばれた、眼鏡をかけた少女だった。
 認めたくはないが少女曰く、神鳴流の後輩、だと言う。
 切り結びながらも、思考は継続されていた。
 それにしてもと、思う。
 戦いの最中と言うのにも関わらず、ふざけた格好だ、と。
 可愛いらしい桃色の衣服などを身に着けている。だが、侮ってはならない。その実力は正に、本物だと言えた。
 所謂、二刀流と呼ばれる戦闘技法。
 両の手に握られた刃から、絶え間なく繰り出され続ける連撃。その凶悪さは、未だに幼さの残る容姿とは不釣り合いと言えた。
 月詠と呼ばれる少女が、愉悦の笑みを浮かべて再度、斬りかかってきた。眉をしかめて、それを弾き返す。
 恐らくこの少女は、所謂、戦闘狂と言った部類なのだろう。経験上、こういった手合いが一番始末に困るのだ。

 寺へと続く階段の中腹にて、私達は刃を合わせていた。
 背後の方、下った先では、神楽坂さんとネギ先生が着ぐるみ達と戦いを繰り広げる音だけが聞こえていた。
 お嬢様をために、力を振るってくれている二人には、内心、感謝を隠す事は出来なかった。
 だが申し訳ないが、現状に置いて、二人を気にしている余裕はなかった。
 なぜなら、私の心の中にて、焦燥感が目まぐるしく騒ぎ立てていたからに他ならない。
 その原因は、階段を上った先にあった。
 巫女服らしきものを身につけていた。胸元をはだけさせた浅ましき服装だが、その女が人質に取る存在が問題だったのだ。
 その人質とは、木乃香お嬢様。私の中で、小林さんという存在が急浮上してきた今尚、負けず劣らず大切な存在。
 私が命を懸けるに値する、もう一人の存在だ。
 由々しき事だが、女はしてはならない行為をしていた。
 気絶しているお嬢様を盾にするようにこちらに向けて、愉しそうに笑っていたのだ。
 許せない。許せる訳がない。
 憤りはさながら、炎となり身体中を駆け巡っていた。
 反射的に、直情的に、助けに動こうとした。だがそれは、邪魔な存在、月詠がほんわかとした声音で制した。

「もう一度、いきますよー」

「クッ」

 激化する斬撃は、目まぐるしかった。煩わしさと焦りが、如実に蓄積していく。
 弾き、受け流し、攻勢に移る。けたたましい金属音が、辺りに響きいていった。
 そんな私の、秘められた感情に気づいたのだろう。
 女が嘲笑い、こちらを見つめているのを視界に捉えた。
 さながら、火山が噴火したかのような怒りが身体中を支配した。力任せに、力任せに、ただ斬り倒そうと両手が、両足が動いていった。
 だが、そんな感情に任せた一撃が、この相手を前に通じるはずがないのだ。
 いとも簡単に受け流された。その上、遠心力を活かした横薙ぎが迫って来る。
 即座に足の裏に力を入れて、後方へと跳んだ。距離を取った後、今まで私が居た場所に斬撃が飛び、空を斬った。
 猛る心拍数が鼓膜に響いた。冷汗が、額から頬にかけて流れ落ちた。
 油断をしてはならない。月詠を見据えた。
 私達の間に音が消えた。緊迫感が押し寄せる中、一陣の夜風が吹いた。湿り気のある風が、酷く気持ち悪く思えた。
 顔をしかめた。途方もない悔しさが、加速度的に心を震わせていたからだ。
 私では、この少女に、勝てないのか。
 心の中で呟くと、月詠がまた、愉しげに笑った。
 その立ち姿には、一切の隙が見えなかった。
 お嬢様は、女に捕われたまま眠っていた。
 目前にいるはずのお嬢様が、途方もなく遠く、見えた。
 さながら、そこにあるのに触れられない、空気のように。

 だが無理矢理、見開いていた目に力を込めた。小さく、首を左右に振った。
 いや、違う。お嬢様は空気などではないのだ。
 確かに触れられる。だからこそ、触れられる方法を考えるのだ。諦める気などは、毛頭ない。
 すると、一つだけ気づけた。思える事があった。
 月詠は倒せない相手では、ないのだ、と。
 確かに、決定打を与える事は出来なかった。だが、こちらも貰ってはいないのだから。

 その時、ふとある考察が脳裏を過ぎった。
 小林さんならばこんな危機的状況に置いて、どういった行動を取るだろうか、と。
 だが直ぐさま、否定する事となった。
 なぜならば、小林さんが当事者だとしたら、こんな醜態を晒す前に実力を持って解決しているだろうから。
 だがしかし、そんな中でも見えるもの、収穫はあった。
 あの聡明な小林さんの事だ。後がない緊迫した状態でも、活路を見出だすはずだ、と。
 隙を見せないように、月詠を見据えながら思考に没頭した。
 小林さんには持ち得ていて、私に欠けているものとはなんだろうか。
 直ぐさま、一つだけ思い当たった。
 それはまるで、研ぎ澄まされた牙に等しき、類い稀なる戦略だろう、と。
 だが、否定した。なぜなら、今はもう、戦略を磨いている時間などはないのだから。
 わからない。わからなかった。混濁する脳裏に、その答えは浮かばなかった。

 ならば、考えていても道はない。時が過ぎれば過ぎるほど、こちらの足場は薄氷と化していくのだから。
 息を吐く。そして、捨て身で斬りかかろうとしたその瞬間だった。
 明確に、感じられた。感じ取ったのだ。
 忘れる事など出来はしない。身体中に染み入るような安心感を産む、ある男性の微かな魔力の波動を。
 私の真上、上空に感じられた。闇夜に紛れるように微細な、愛しさを募らせていく波動を。
 一目、自らの目で見たいと願った。だがそれが叶う事はない。
 それだけで、良かったのだ。私の視界には、彼の姿は確認出来ない。だが、明確に敵が捉えられているのだから。
 出会いから、たった数週間の少ない時間だった。
 だが不穏な空気が惑う今も、私を見守ってくれているのだ。
 その事実は、私の心を騒ぎ立てていた憤りや怒りを、いとも簡単に消し去った。まるでそれが、元からなかったかのように。

 頭が、冷やされていった。
 そして、気づいた。そう、だったのだ。
 小林さんに持ち得て、私に欠けているもの。
 それは、冷静さだ。どんな危機的状況でも前だけを向き、策を考えようと回転する冷静な頭脳だったのだ。
 なぜ、こんな事がわからなかったのだろうか。
 小さく、笑みがこぼれた。
 そんな私の笑みを見ていたのだろう。敵の二人の、目が見開かれた。
 危機的状況なのは、知っている。変わりない。それは、十分過ぎるほどに理解していた。
 だが、だからこそ私は、笑うのだ。
 戦闘の最中に置いても、どんな危機的状況に置いても、小林さんが変わらずそうで在ったように。私はただ、愉悦の笑みを真似るのだ。
 月詠が、不思議そうな表情でこちらを見据えた。巫女服の女が、まるで幽霊で見たかのように、眉根をひそめた。

「なんなんやあんた?
 おかしくなったんか?」

 背後から、喚声が上がった。神楽坂さんとネギ先生は、打ち勝ってくれたようだ。
 ならば、私も続かなくてはならない。
 内心、深い安堵をしながらも、嘲るように笑う演技をした。
 それは小林さん真似。小林さんならば、こうするだろうと思えたのだ。
 そうなのだ。隙がないならば、こちらから隙をつくり出せば良いだけ。
 簡単な事だ。惑わせて、相手を煙に巻くだけで良いのだから。

「フ……。
 お前達はお嬢様を人質に取り、勝った気でいるようだが、一人ある人物を忘れてはいないか?」

 その言葉は、辺りの空気を震わせた気がした。
 両者共に、不思議そうな表情が現れた。
 月詠が答えを求めるように、女の方を向いた。
 ほどなくして、女が気づいたのだろう。突然、目が見開かれた。
 私は満足げに笑うと、静かに言った。さながら、子供に言って聞かせるような声音に努めた。

「そうだ。
 新幹線の車内で、お前達を騙し、欺き、手玉に取った男性の事だ。
 お前達の敵は、私達だけではない」

「そ、そうやった。
 あのいけ好かん男が……」

「悪名高い真祖の吸血鬼でさえも、嘲笑いながら手玉に取るほどの男、だと言ったらどうする?」

 エヴァンジェリンさんには申し訳ないが、事実だ。説得力のある演技を見せられているかは心配だったが、不敵に笑った。
 驚愕の事実に、女の目が見開かれていく。
 私は、笑うのを止めなかった。
 出会いの時だ。身を持って、私は小林さんにそうされた。だからこそ、良くわかる。
 余裕だと笑う事こそが、人心を掌握する術なのだ。
 それだけで相手は、いとも簡単に疑心暗鬼に陥る。相手の程度が低ければ低いほど。
 女は確かに狼狽していた。頻りに辺りを見回していた。
 小林さんは、こう言っていた。
 守るためだけに、力を使え。守りたいと切に願うならば、役に立たない誇りなどは捨てろ、と。
 逃げてでも、守り通せ、と。
 夕凪を掴む片手に、自然と力がこもっていく。
 私は抑揚のない声で、静かに呟いた。

「今も、後ろにいるぞ」

「な……!」

 女が、唖然とした。二人して、同時に自らの背後に注意を逸らした。
 その瞬間を、待っていた。
 私は音を立てずに足早に、月詠の間合いに入った。
 夕凪を一閃と、横薙ぎに払った。風を斬る音と共に確かに、手応えを掌に感じ取った。
 月詠の小柄な身体が、衝撃を受けて、上空に舞った。粉塵を撒き散らしながら、階段へと落ちた。
 微塵も動かない月詠を見据えてから、女に笑みを向けた。

「つ、月詠はんが、こない簡単にやられるなんて」

 女は、隙だらけだった。
 未だに、騙された事に気づいていないようだ。
 月詠が倒された事に、驚愕していた。
 絶好機だ。お嬢様を奪い返す機は今だ、と心の中で叫んだ。
 決着をつけようとした瞬間、背後からネギ先生の叫び声が聞こえて来た。
 その声音で、周囲が緊迫感に支配された。

「ヒサキさん、今です!背後からこのかさんを!」

 唖然としていた女が、その言葉で我に返った。
 背後の誰もいない闇へと、お嬢様を盾にするように向けた。
 一瞬だけだが、私も騙されそうになってしまった。だが、これはネギ先生の嘘だったのだ。
 昼はまだ子供のようだったのに、この成長速度は素直に賞賛出来た。
 打ち合わせもしていないのに、ネギ先生は私の策略に気づき、それに呼応したのだ。
 これが、壮大な器量から来る小林さんの影響力。何も言わなくても良い。言わずとも、その広い背中だけで人を成長させていく。
 昂揚感が、身体中から沸き出すように感じられた。
 演技などではない。素直な笑みが漏れた。
 心の中で呟いた。
 私が好きになった人は、異様なほどに格好良すぎる。
 次の瞬間、女はまるで人形のように闇夜を舞った。

「秘剣、百花繚乱!」

 桜が、中空を舞い散る。女が粉塵を巻き上げて地に落ちた。
 私はその様を一瞥さえせずに、ある地点に走った。
 空からを落ちてくるお嬢様を、しっかりと両腕で受け止めた。
 お嬢様は未だに眠っていた。
 良かった。
 ……このちゃんは、こんなにも非情な世界を知らなくて良い。
 寝息を立てる整った横顔が、酷く愛おしく思えた。

「……お嬢様」 

 独りでに、私の口が開いていた。二人が起こさないようにだろう。静かに歩み寄って来た。
 そして、二人にお礼を言おうとしたその瞬間だった。
 私の耳に、ある優しげ音が響いてきたのは。
 上空から落ちて来るように、聞こえた。
 それは拍手。私達を、賞賛する音だった。
 私達の戦いを、見守ってくれていた。そして、評価し、認めてくれたのだ。
 嬉しかった。嬉し、過ぎた。
 その音は私の心を、さながら、太陽の日差しを受けているかのように暖めていった。
 背後から、神楽坂さんの不思議そうな声が聞こえてきた。

「これ、なんの音?」

「僕達の戦いぶりに、ヒサキさんが拍手してくれている音、ですよ」

 ネギ先生が、誇らしげな声音で言った。
 すると、唐突にだが、神楽坂さんが大声を上げた。

「ええー!
 じゃあ、ハリセンも見られてたって事じゃない!
 どうしてくれんのよ!」

「あすなさん……くるしい……」

 唖然と見遣ると、神楽坂さんが慌てた様子でネギ先生の胸倉を掴んでいた。ネギ先生が苦悶の表情を表していた。
 その時、拍手が鳴り止んだ。私は一人、その騒動にほくそ笑んだ。
 意味はないかも知れない。だが静かに、上空の闇を見上げた。
 やはり、そこには誰もいなかった。
 夜霧に紛れるように、紫色の魔力の波動だけが漂っていた。
 私はそこに、小さく頭を下げた。
 
 
 
 
 —絡繰茶々丸side—
 
 
 
 
 室内には高級さが漂い、広々としていました。
 私はキッチンに立ち、湯気が立ち上る鍋に視線を落としていました。
 お兄様の、ご迷惑になるかとは思えました。ですが、栄養となるものを食べてほしかったのです。
 ふとお兄様の様子を伺おうと、振り返りました。
 大理石のテーブル上に並べられた、沢山の料理の奥のベッドにお兄様は眠っていました。
 つくり過ぎではないかと思いましたが、男性は相当な量を食べると聞いた事がありました。
 ですが一つだけ、不安といった感情を捉えました。
 お兄様に食べて頂けるかは、わからないからです。
 私の中に、人間でいう、恐怖心といった感情が産まれていました。

 そんな思考に没頭していると、視界に、大きなベッドで眠りについているお兄様が映りました。
 まだ一日だけとはいえ、疲労が溜まっているのでしょう。
 私が料理をしていても、起きる気配はなかったからです。
 起こさないように、極力、物音を立てないように気をつけましたが。
 開け放たれていた窓。そこから涼しげな風が吹き、お兄様の前髪を揺らしました。
 微かな日が、差す時間となっていました。
 それから長い間、見入られるように寝顔を見つめていました。
 少しして、これはいけないと、鍋に視線を落としました。

 どうして私がここにいるのか。その疑問を解決するには、昨日の夜の事を話さなければなりません。
 室内の清掃をしていると、マスターの叫び声と、勢い良く下りてくる足音が聞こえて来たのです。
 私は不思議に思いました。その方角を見ていると、マスターが部屋に飛び込んで来ました。
 マスターの息は荒く、私を心配となり尋ねました。
 するとマスターは、深呼吸の後にこう言いました。

「茶々丸!
 頼む!京都へ行ってくれ!」

 その突拍子のない願いに、私は不思議と首を傾げました。
 勢い良く話していくマスターの言葉を要約すると、こう言っているようでした。
 お兄様が京都にいる。
 お兄様が、危険な目に遭わないように見張っていてくれないか、と。
 私は申し訳なく思いましたが、断りました。
 なぜならば、マスターをお守りする事こそが、私の役目だからです。
 ですが、お兄様をお守りしたくない訳ではありません。
 お兄様がその優しさ故に、ネギ先生達を助けようと京都に向かっていた事は知っていました。
 それを知ってからというもの、心配という感情は、絶え間なく産まれ続けていました。
 確かに、後ろ髪ひかれる感はありました。お兄様とお会いしたいという感情は、騒ぎました。
 ですが、マスターをお守りする事こそが、私の存在意義なのは変わらない事実なのです。
 その旨を、伝えました。ですが、マスターの意思は固く、変わる事はありませんでした。

「頼む、茶々丸!
 ヒサキを守ってやってくれ。何なら、力づくでも良い。
 危険へと身を投げ出そうとする愚か者を、私に代わって止めてくれ!」

 どれほどの、時間が流れたでしょうか。
 両者共に折れず、話し合いは平行線を辿りました。
 ですが結果として、私は京都へと向かう事となりました。
 こう、思えたのです。
 マスターがここまで、無我夢中だった事があっただろうか、と。
 やはりお兄様は、凄い方です。マスターにこれほどまでの感情を、抱かせてしまうのですから。
 それから準備を整えて、マスターの懇願するような声を背に、私は麻帆良を後にしました。

 思考に没頭していると、背後の方から、お兄様の声が聞こえてきました。
 包丁の音で、起こしてしまったのかも知れません。
 何を言ったのかは定かではありませんが、私は振り返ると一礼を返しました。
 お兄様は寝ぼけているのでしょうか。薄目で、こちらに微笑んでいました。
 どうしてでしょうか。身体中が暑くなっていく感覚を覚えました。
 近づいていき、声をかけようとしました。
 ですが、私の口は開きませんでした。
 なぜならば、小林氷咲という優しき男性に、お兄様と呼びかけるのは初めてだったからのように思えました。
 恥ずかしさと、どう思われるかという怖さが、同居でもしているかのような感覚に陥りました。
 ですが、礼を欠いてはなりません。
 意を決して、言いました。

「氷咲お兄様のご迷惑かと思いましたが、朝食を用意しました。
 好みが不明だったため、和洋中とつくりました」

 ですが、それは杞憂でした。
 その上、連絡がつかず、勝手に部屋に入ってしまった事にも触れず、気になどしていないようでした。
 やはりお兄様は優しい方です。柔らかな微笑みを口許に浮かべてくれていました。
 恥ずかしさはまだあるのですが、怖さといった感情は次第に消えていきました。
 視界に、寝癖が映りました。普段のしっかりとした髪型ではなく、その無防備な姿が、ふと可愛らしく思えました。

「茶々丸さんの料理だったら、何でも美味しいさ。
 ありがとう。
 全部食べるだろうから、太っちゃうかも知れないな」

 その言葉は、私の身動きを止まらせました。
 お兄様は、言ってくれたのです。
 私の料理は美味しい。だから、全部食べる、と。
 全ては、杞憂だったと思えました。
 私の中に、多大な嬉しさが込み上げました。
 お兄様が微笑んで、こちらを見つめています。
 私は無理矢理、口を開きました。どうしてかはわかりませんが、恥ずかしくていたたまれない気持ちとなっていたからです。

「ありがとう、ございます」

 お兄様が、笑いました。
 マスターもそうですが、お兄様が笑ってくれるだけで、私は幸せな心地となりました。
 頭を下げていると、お兄様がまた布団に包まりました。
 疲れて、いるのでしょう。
 私は起こしてはならないと、黙ってその様を眺めていました。
 ほどなくして、小さな寝息が聞こえてきました。その寝顔には、満面の笑みが浮かべられていました。
 まるで、子猫を見るような愛らしさを感じました。
 その瞬間でした。ある感情が、私に産まれたのです。
 それは、使命感といわれる感情だと思われました。
 私が京都に来た理由は、マスターに頼まれたからです。
 ですが、私自身の感情として、素直に思えたのです。
 眠っているお兄様の身体に、布団をかけながら言いました。

「お兄様は、必ず私がお守りしますから」



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:26
−小林氷咲side−
 
 
 
 
 涼しめの風が、頬を撫でた。
 混濁していた意識が、徐々に覚醒へと向かっていく。
 現実と見紛ってしまいそうなほどの、素敵な夢を見せられたからだろう。
 例えるならば、猛勉強の末、待ちに待ったテストで結果を叩き出した時のような充足感。正しく爽快、といった心地よさを身体中に感じていた。
 作り手の方を訪問して、目的を問いただしたくなるようなまでの大きなベッド。俺はその上で、羽のように軽い布団、半ば戯れるように寝返りを打った。
 視界は未だにぼやけてはいたが、日差しを受けたカーテンが静かにそよいでいるのを捉えた。
 眩しさに目を細めて、徐に上半身を起こす。
 共に一夜を過ごす仲となった、骨董品めいた置き時計が鳴いていた。秒針が時を刻む音色。それは広々とした、部屋内に反響していた。
 ふと、含み笑いが漏れた。
 小さく独り言を呟いてしまう。

「それにしても、俺の精神力の脆さには困ったものだな。
 たった一日目にして、あんな夢をつくりあげてしまうとは」

 腕を組み小さく頷くと、目を閉じて思考に没頭した。
 そうなのだ。
 これこそが京都の為せる業、と言えよう。
 まるで不動明王の如く、いつ如何なる時も、凛々しく優しく生徒達を見守って下さる学園長。この古き都は、何事にも動じることのないその表情をいとも簡単に崩させてしまうのだ。
 理解しては、いた。
 いたのだが、今一度、気を引き締めなければならないと強く己を叱咤した。
 なぜならば、たった一日という些細な時間の中でさえだ。この京都という地は、多種多様の事態を巻き起こしていたのだから。
 到着して間もなくの事だ。見知らぬ銀行で遭遇した、詐欺らしき犯罪。
 昨夜の帰り際もそうである。
 夜空を意気揚々と飛行中に聞いた、幻聴。少年らしき声色であったとは思うが、そこは上空なのである。
 まさか耳元、いや、脳に語りかけられるかのように声が聞こえるなど、有り得る訳がない。
 ここは現実。SFでもホラーでもないのだから。
 そして、最後を飾るのは、今朝の素敵な夢だ。
 だが、その原因はわかりきっていた。俺の至らぬ精神がつくりあげた幻なのだろう。
 心に、強く刻みつけなければならない。
 隙を見せれば最期。災厄は、その機会を逃すことはない、と。
 この京都という古都に、長居は無用である。
 例えるならば、災厄をもたらす蟻の大群のようなものだ。奴らは闇の中で、虎視眈々と隙を狙っているのだ。俺という餌を、貪り尽くすために。

 だが、しかしだ。
 そんな思いとは裏腹に、堪えきれない感情が口許には浮かび上がっていた。
 それは俺だって、うかれている事は自覚している。それが、命取りになるやも知れない事も自覚していた。
 他の人から見れば、気色の悪い人だと蔑まれるかも知れない。
 しかし、しかしだ。
「氷咲お兄様」
 一つ、世界中の人間達に問いただしたい。
 こんな甘美な言葉を囁かれて、笑みをこぼさずにいられる者がいるのか、と。
 茶々丸さんの、素敵な口許から発音された言の葉。俺の耳は、脳は、一生涯として忘れる事はないと、誓おう。

 だが、しかしだ。
 一つ正しておかなければならない問題もある。
 それは、どれだけ人生を間違えたとしてもだ。
 俺にそう言ったアブノーマルな趣味は断じてない、という事である。
 それは声を大にして言いたい。言いたかったのだが、その呼称が指し示すある感情に嬉々としてしまっていたのだ。
 それは言葉に表すのならば、親愛とでもいった感情だろうか。
 現実ではない。夢である事は、百も承知の上だ。
 だが俺にはその、まるで魔法のような言葉の湧き上がる高揚に、抗う手段などは持ち得ていなかったのであった。
 再度、ほくそ笑んだ。
 視線が独りでに、夢で茶々丸さんが立っていたキッチンへと移っていく。
 そして俺は、驚愕する事となった。正に唖然、だった。
 ある異変を、視界に捉えたのだ。ある異様な事態に、文字通り、目を疑ったのだ。
 目は見開かれ、瞬間、思考が停止した。
 これは、一体、どういう。
 見る事は叶わないだろう。しかし、俺の顔は呆けで、それはそれは間抜けな顔となっているだろう。
 独りでに口から、呟きが漏れていた。

「これは一体……」

 なんとそこには、夢の世界と同様に、茶々丸さんの後ろ姿が存在していたのである。
 その服装は、麗しいメイド服で同様。その行動も、鍋をおたまらしきものでかき混ぜていて同様だった。
 放心したまま、呟く。
 うん。
 意味がわからない。
 さながら、砂嵐のようなノイズが荒れ狂い、思考がままならない。

 腕を組み、頭を垂れた。小さく唸りながら、半ば必死に考え込んでみる。
 一つだけ、思い当たる事があった。
 そういえば時計の他にも、何らかの音が聞こえていたような、と。何らかの香ばしい匂いを感じとっていたような、と。
 だが、素敵な夢の延長。昨夜、幻聴も起きたのだから、錯覚だろうと切って捨てていたのだ。
 しかし、訳がわからない。だが、こういう時は、発想を逆転して考えてみる事が大切である。
 すると、一つの仮説が浮かび上がった。
 本当に不思議な事ではあるが、これは夢なのだ、と。
 初体験ではある。あるが、夢の続きを見せられていると仮定するならば説明はついた。
 そこでやっと、小さく笑う事が出来た。
 晴れやかな心地。紛れもない正解なのだと示されているように感じた。
 整理がつき、目を開く。すると傍には、茶々丸さんの立ち姿が在った。
 そんな必要はないというのに、一礼をしてくれる。

「氷咲お兄様、おはようございます。
 どうかなされましたか?」

 微笑みを持って、返答した。
 いつ夢が覚めるのかはわからないが、こんな素敵な夢ならば、覚めなくても良いだろう。

「おはよう。
 これまた、おかしな話しではあるんだけどね。
 今、不思議な体験をしている最中なんだ」




 これは、おかしい。
 これは、徹底的におかしいぞ。
 確かに、嬉しくはある。
 嬉しくはあるのだが、一体、いつになったらこの夢は覚めるというのであろうか。

 高級感が漂う大理石のテーブル。その上には和洋中と、仰々しいまでの料理の数々が並べられていた。
 色とりどりの色彩に、鼻腔をくすぐる刺激的な匂い。早朝だというのにも関わらず、食欲が湧き出てくるようだ。
 その様はまるで、光り輝く、幾多もの宝石を彷彿とさせた。
 正しく、圧巻である。壮絶さを、遺憾なく発揮していた。

 俺は椅子に腰を落とし、黙々と料理を口に運んでいた。
 味は方は、正に絶品。やはりそこは、さすがの茶々丸さんである。
 舌に乗せた時には、脳髄に雷が落ちたかと勘違いしてしまったほどであった。
 だがしかし、許されるならば、一言だけ良いだろうか。
 如何せん、料理の量が多すぎるのではないだろうか、と。
 男、たった一人で食べきれる量ではないのは、傍目から見ても明らかである。
 さながら、力士の方々の大群が束になってかかっても、皆、病院送りにされる事は明白であった。
 それに、それにである。
 夢の世界だというのにも関わらず、胃袋の限界値が、普段と変わらないというのは何らかの罰なのだろうか。

 これは、まずい。まずいぞ。
 いや、そのまずいではない。料理は美味しい。美味しいのだ。
 だが如何せん、まずい。いや、違う。美味しい。

 途方もないほど大量の料理を、胃袋に詰め込んできたからだろうか。
 思考が定まらず、ぼんやりとしてきていた。
 心の中の小さなヒサキは、満腹と書かれた白旗にもたれかかり、息も絶え絶えに口から魂が抜け出ている有り様だ。

 だが、しかしである。
 俺の出来うる選択肢に、箸を置くという行為はノミネートさえされていなかった。
 なぜならば、テーブルを挟み対角線上に座る茶々丸さん。彼女の視線が、逐一、こちらへと向けられているのだから。
 俺の動きが止まったのを不審に思ったのか、不思議そうな瞳が突き刺さった。
 愛らしくも小首を傾げて、何かに気づいたのか、その品の良い口許が開いた。

「やはり、つくり過ぎてしまったでしょうか?」

 反射的に声を上げた。
 俺には、理解ったのだ。
 普段の抑揚のない声音とは似ていたが、確かに、不安という感情が顔を出していたのを。

「い、いや大丈夫。
 あ、余りにも絶品過ぎてね。思考が停止していたんだ」

 その時、冷や汗が静かに背中を伝った。
 口を閉じかけた拍子に、いけないものが、新天地に飛び出そうと片足を踏み出していたからである。
 さながら、胃という牢獄から生還を果たそうとする和洋中の囚人集。それを、看守に扮した俺が、警棒を片手に必死の形相で追い返そうとしていた。
 説得力は皆無だったのだろう。茶々丸さんが再度、小首を傾げた。
 透き通っていた瞳は、不安に濁っていた。

「それならば良いのですが、余り無理」
「は、ハハハ。
 だ、大丈夫。いやー炒飯を掻き込もうと思っていたんだ」

 言葉を制するように、最期の力を振り絞るように手元の炒飯を掻き込んでいく。
 最早、無味無臭。舌が、麻痺しているようだ。
 現状の俺に置いて、掻き込むという行為。
 それはさながら、これは猛毒ですとご親切にも印字されている毒々しい色をした液体を、ピッチャーで一気飲みしているようであった。
 だが俺には、為さねばならぬ理由があるのだ。
 俺は、茶々丸さんに、こう言ってしまったのだから。

「全部食べるだろうから、太っちゃうかも知れないな」

 いかん。いかんぞ。
 夢の世界とはいえだ。大袈裟ではない。妥協するという事は、即刻、死に繋がるといっても間違いではないのだ。
 なぜならば、ほら吹き男と、侮蔑の視線に晒されてしまうかも知れないのだから。
 しかし、茶々丸さんは猫を愛でる心優しき女性である。
 そんな事態にはならないと、高らかに言える。言えるのだが、万が一の場合に置いて、俺は絶望の底へと叩き落とされてしまうだろう。

 黙々と、咀嚼を繰り返す。
 ただただ、夢の終わりを切望した。
 一体、どれほどの、時計の短針が周回したのだろうか。
 異様なほどに覚めぬ夢。有り得ないが、最早、現実にさえ思えてきていた。
 顔中から大量の脂汗が滲んでは、顎の先を伝い、大腿部を濡らす。
 胃の中は、さながら、GWも真っ青な食物達の大渋滞と化しているだろう。
 舌は、その存在さえ認識できない。
 腹部の膨らみが、尋常ではない。出産前の妊婦さんのようであった。
 今や、自分でも、何をしているのか、おぼろとなってきていた。
 危機的状況である。正しく、極限状態、と言って差し支えないだろう。

 静寂が支配する室内に、置き時計が鳴らす音が響く。その滑稽さが、哲学的にさえ思えて、なぜか笑みが漏れた。
 白みがかる世界の中で、視界が独りでに動いた。
 茶々丸さんの、神々しくも、白く縁取られた端麗な顔立ち。その不安げな瞳が、情けない自らを映し出していた。
 心の中で、呟く。
 そんな表情までもが、お美しいとは。全く持って、反則だ。
 世界が、明滅を繰り返すように輝く。記憶は黒く上書きされて、意識はそこで途絶えた。
 
 
 
 
 窓越しの景色は、薄暗かった。人気はなく、不明瞭だった。
 まるで、星空のようにボツボツと点在する家屋の灯り。それは、夜が更けてきている事を示していた。
 ホテル内の廊下に、宿泊客の楽しげな喧騒が響いている。
 そんな明るい空間の中で、一人、フラフラと足取りがおぼつかない男がいた。
 そう、これ以上ないほどに顔をしかめた男。その人物とは、紛う事なき俺であった。
 さながら、悪魔が胃袋の中で暴れ回ってでもいるかのような痛烈な胸焼け。
 そんな弱肉強食を地で行くモンスターとの死闘は、今も尚、熾烈を極めていたのだった。

 だが、一つだけ言うべき事があった。
 未だに、俺の心は折れてはいないという事だ。
 次々と、絶え間なく、波紋が広がっていくような不調の渦潮。確かに、耐えようがないほどに、厳しき事態だという事は認めようではないか。
 だが、しかしだ。
 俺の胸には、それを上書きするかのように、新たな強き決意が芽吹いていた。
 なぜ、新たな決意が生まれようとしているのか。
 その回答を述べる必要に迫られるならば、ある言葉と共に、つい先程の顛末にまで遡る必要があった。

 俺は、先程、目覚めたのだ。
 小鳥囀る朝でも、日差し暖かな昼でもない。なんと、儚さ孕む夕焼けまでもを越えた先、星空瞬く夜に目覚めてしまったのである。
 それは、つまり、こういう事だ。
 現状に置いて、何よりも守らなければならない依頼を遂行出来なかったのであった。

 当然であるが、自らの弁護など出来ようもない。
 それは、重々承知しているのだが、少々の言い訳じみた弁解を許して貰えないだろうか。
 災厄が、止めどなく姿を現す京都。確かに、勘違いのせいである事は、火を見るよりも明らかである。
 だが、小林氷咲こと俺は、二日目の早朝にして、無情にもご先祖様の凛々しきお姿を拝見しかけたのである。
 そして、息絶え絶えではあったが、現世に舞い戻ってこれた頃には時既に遅し、京都は闇に支配されていたのだ。
 俺の肌色はまるで、泥人形の如く、土気色であっただろう。
 脳内は混迷と化し、現実と虚構の区別さえも酷く曖昧となっていた。

 それならばなぜ、決意が生まれる事となったのか。
 その問いに答えるならば、これからの騒動で理解して貰える事と思う。

 窓外には、幻想的なまでの夜景が広がっていた。
 俺は、いつの間にかベッドに横たわっていた。その上、傍らには、濡れタオルを片手に茶々丸さんが心配そうな面持ちでこちらを覗き込んでいた。
 更には胸が、いや胃袋が、焼けて破裂したのではないかと錯覚するほどに熱かった。
 苦悶に喘ぎながらも、正に意味不明。脳が再起動を果たすには、多少の時間が必要だった。

 そして、俺は、愕然と目を見開いた。
 やっと、事の重大さに気づいたのだ。
 俺と言えども、言えどもである。そこまで愚かではなかったのである。
 ここまで終わらない、夢がある訳がない、と。
 従って、それはつまり。

 視線が独りで移ろう。
 さながら、メイド服は彼女のために生まれたのだと太鼓判を押せるほどに麗しい女性へと。
 唖然を、不思議に思ったのだろう。
 茶々丸さんが、こちらを見やって、いや、凝視していた。
 図らずも、疑問は氷解していった。
 疑問という名の点の密集体が、面白いように意味を持ち始めたのだ。
 その密集体が線で繋がり、さながら、学園長という文字を紡ぎ上げた頃には、全ての謎に終止符が打たれた。

 これは、夢でも、幻でもなかった。紛れもなき、現実だったのだ、と。
 それならば、地獄の釜に茹でられているかのような熱、胃袋の許容量にも説明がついた。
 自らの愚かさ加減に、苦笑が漏れた。
 逆に、自らを褒め称えたいほどである。
 絶品ではあったし、天国で羽を伸ばしているかのような幸福の絶頂でもあった。
 だが、よくもあれほどの量を、食べ尽くしたものだ、と。
 推察に、頷く。
 その時だった。
 次の瞬間には、失礼だと思うが、茶々丸さんをまじまじと直視してしまっていた。
 当然、と言えよう。
 新たな疑問符が、浮かび上がってしまうのは。

 どうして、ここに。
 なぜ、だろうか。
 なぜここに、茶々丸さんが存在しているのだろうか。

 唖然と呆けてはいたが、行動した。
 先程の惨劇の舞台であるテーブル前の椅子に、茶々丸さんを伴い腰を下ろした。
 今は、小綺麗に片付けられてはいたが、ある種、哀歌が似合うその場所。恐怖のトラウマがリフレインしながらも、怒涛の勢いで尋ねた。

 対角線上に座る茶々丸さんは、当然の事のように、淡々と事情を説明してくれた。
 それは、簡潔に説明するならば、こういう事だった。
 昨夜、茶々丸さんは、急遽、学園長からある依頼を承った。
 その依頼とは単純明快である。俺こと小林氷咲に託した依頼を、補佐せよというものだったのだ。
 だからこそ、この世の冥界、京都にまで赴いたのだそうだ。

 さすがに、唖然を隠す事は出来なかった。
 俺に至ってもとやかくは言えない、言えないがだ。
 一介の中等部の女子に出来うる範囲を、酷く逸脱してはいないか。
 吸血鬼であり、人知を超越した能力を持つエヴァンジェリンさんだとするならば、何とか頷く事は出来ただろう。
 しかし、茶々丸さんは、か弱き女性なのだから。

 長らく、唖然としていたが、ある事柄に気づき納得する自らがいた。
 茶々丸さんを派遣したのは、誰なのかという一点であった。
 それは紛れもなく、あの学園長なのだから。
 俺が全幅の信頼を置く、聡明でいて厳かな学園長が、決断した。
 それならば、俺などという小物の考えつきもしない、何らかの深き意味合いが存在するのだろう。

 確かに、あのエヴァンジェリンさんの友達なのである。吸血鬼とはいかないまでも、何らかの能力を持ち得ている可能性はあった。
 それに何よりも、内心、心細かったのは隠しようもない事実だったのだ。
 茶々丸さんが傍にいてくれるというだけで、正に、鬼に金棒といった心境になっていた。

 だが、しかしである。
 なんと、いう事だ。
 鬼に金棒な反面、俺の心には暗闇が蔓延り、落ち込みを隠せなかった。
 なぜならば、ある疑問符が浮かび上がったからだった。
 学園長は何を思い、この決断をしたのだろうか、と。
 すぐさま、思い当たった。
 俺が、俺自らが、不甲斐なくあったからだろう。
 つまり、学園長はこう考えられた。
 この世の冥界、京都。この壮絶なまでの依頼は、氷咲くん一人だけでは、些か、荷が重過ぎるのではないか、と。
 だからこそ、茶々丸さんという、救世主とも言える助っ人を派遣したのだろうからだ。
 それは学園長の、果てしなき優しさから作用されたものだという事はわかりきっていた。
 負担を軽減出来るようにという配慮だという事もわかりきっていた。
 その優しさには、感謝してもしきれない。
 だが暗に、学園長から見た自らの力量を示されたようでもあったのだ。

 だが、すぐさま、首を振った。
 俺は、男なのである。落ち込んでいる暇などないのだ。
 その上、茶々丸さんは女性だ。
 行動を共にする以上、足手まといにはなりたくない。何よりも女性を守る事は、男として、最低限為さねばならぬ事柄だと素直に思えた。
 それは俺の力量に置いて、さながら、フルマラソン完走のように酷く難しき事かも知れない。
 だが、俺は、やり遂げて見せなければならないのである。
 より良い男と成長するためにも。
 ある少女の、そして、皆の想いに応えるためにも。
 身体中が燃え上がったかと誤解するほどの、新たな決意が芽吹いた瞬間だった。

 それから、紆余曲折あった。
 俺は今からでも遅くはないと、自らを叱咤し、ネギくん探索に勤しんでいたのだった。
 依然として、影も形もないが、ふとある騒動を思い出した。
 小さく、苦笑が漏れでた。

 それは、茶々丸さんの宿泊する部屋が、同室、という驚天動地な事実であった。
 俺はと言えば、それはそれは、目が点となっていた事だろう。
 なんと、いうか、である。
 年頃の二人の若者が、遠く離れた地で一夜を過ごす。
 どれだけ考えて見ても、さすがに、それはまずいのではないか。
 確かに俺は、草食系男子を自認している。断じて、肉食系男子を自認している訳ではないのだが、困り果てた。

 すぐさま、俺は提案した。
 違う部屋に泊まるから、と。
 茶々丸さんにはこのスイートルームを利用して貰い、俺はどこか空いている部屋でもと思ったからだ。
 だが、どうしてだろうか。
 突如として、失礼だとは思うが、茶々丸さんらしくない強い押しに負けて頷いてしまった。
 脳内は混迷と化していたが、幸運にも、部屋数は無数にあった。
 茶々丸さんには寝室のベッドを使って貰おう。俺はソファーで構わない。
 そう言った意志で、何とか納得した。
 それに茶々丸さんから、暗に信頼していると言われているようであったのも理由の一つだった。

 それからというものは、不思議な雰囲気が漂う空間になっていた。
 多大な、高揚と緊張が、入り乱れるように身動きを止めていたからに他ならない。
 考えても、見てほしい。
 茶々丸さんは、片思いしている相手。そんな女性と、見知らぬ土地の一夜を過ごそうとしているのである。
 さながら、RPGならば、ここは何々の村ですと誇示する立て札くらいの空気さである俺には、荷が重過ぎていたのだ。

 その上、嬉しくはある。嬉しくはあるのだが、談笑に時折顔を出す違和感。
 氷咲お兄様とは、一体。
 うん。
 意味がわからない。
 頭の中は、さながら、麻薬中毒者も真っ青になるだろう世界が乱立していた。

 一応、恐る恐る尋ねてはみた。尋ねてはみたのだが、問答無用と即座に頷く事となった。
 その質問を、発した後の事だ。
 普段の抑揚のない表情であったが、俺には十分過ぎるほどにわかった。
 茶々丸さんの表情に、唐突にも、深い悲しみの色が表れたのだ。
 まるで、叱られている最中の子犬のような瞳に、俺の心はキリキリと締め上げられた。
 一体、世界中のどこの誰が、いや、生物が、否などという死罪に相当する言葉を吐けようか。
 未だに、一体という文字は明滅していた。だが、高ぶる罪悪感と高揚感に背中を押されて頷く事となった。

 大きく、深呼吸をした。
 大分、階を下りて来たのだが、目的の少年は視認出来なかった。
 だが、少しばかりのウォーキングが効いたのだろうか。
 まるで、大型旅客機のエンジン音のように咆哮を上げていた胃袋も、些か、オイル切れの様相を呈してきたようだった。

 長い廊下を、意気揚々と歩く。楽しげな喧騒がなりを潜め始めた頃、大浴場の暖簾が視認出来た。
 ふと、思う。
 そういえば、まだ大浴場を利用していなかったな。
 だが、入浴していない訳ではない。
 部屋内の、不必要なほどに豪華絢爛なお風呂には、居心地悪く感じながらも入浴させて貰っていたのだ。
 だが、しかし、大浴場というものは心踊るものである。
 幼少の頃からだが、温泉旅館や昔馴染みの大浴場などの風情に、異様なほどのシンパシーを感じていた。
 いや、一般庶民の鏡のような俺には、やはりこういったお風呂がお似合いというものなのだろう。
 自嘲めいた笑みが、口許に浮かび上がった。

 思考に没頭していると、何やら、遠くの方から泣き声らしき音が響いてきた。
 不思議と見やる。
 すると、年の頃は五、六歳ほどだろうか。
 小柄な男の子が、床にへたり込み泣いていた。無邪気に走り回って、転んだのだろうか。
 自らの幼少時にも、似たような事があった。
 その時は、周りに誰もいなく、孤独を感じていた事を覚えている。
 辺りを見回したが、男の子の周りにも、誰もいなかった。
 これはいけない、と微力ながら助けに動こうとした。
 だが、その行動は、俺が持ちうる空気が読めるスキルで制止された。
 ある人影を、視認したからだった。
 廊下の奥、曲がり角に隠れるように立つ男性を捉えていたのだ。
 おおよそ、男の子のお父さんなのではないかと思えた。
 男性の瞳は力強く、まるで、我が子を崖から突き落とすライオンを彷彿とさせた。

 これは、間違いない。
 小さく、頷いた。
 教育方針。強く、逞しく育って欲しいという親心なのだろう。
 途方もなき、厳しさ。だがそれは、愛しているからこその苦渋の決断。
 なんという、素晴らしき事か。
 ふと思う。
 自らの幼少時も、こういった意志から導き出されていたのかも知れない、と。

 感動に身を震わせていると、未だに泣きじゃくる男の子と目が合った。
 内心、言いようの知れない罪悪感が、心に渦巻いた。
 だが、しかしだ。
 俺は心を鬼にして、傍観を決め込んだ。
 これは、試練。一皮剥けるための試練なのだ。
 お父さんにはさすがに劣るが、俺も力強き視線を向けた。その目に、多大な応援を込めて。

 暫くの時が経った。
 泣きじゃくっていた男の子が、ヨロヨロとではあったが、自らの力だけで立ち上がった。
 目は充血して腫れていた。小さな膝小僧も、ぼんやりと赤くなってもいた。
 だが、男の子は、自らの力だけで立ち上がったのだ。
 服の袖で目を擦る。流れる涙を止めようと、歯を食いしばった。

 正に、感動。異様なほどの感動が、身体中を覆い込んでいた。
 俺は何も声をかけなかった。それは、あのお父さんの役目なのだから。
 だが、満面の笑みで持って、頷きを返した。
 男の子は意図がわからなかったのか唖然としたが、逡巡の後、花が咲くように笑った。
 同様に、満面の笑みで待つお父さんの下へと、駆け足で走って行った。
 浮き上がるような高揚感に、笑みがこぼれた。
 間違いない。
 男の子は将来、ハリウッド俳優も顔負けの男前に育つだろう。
 お父さんは俺の意図に気づいていたのか、男の子と手を繋いだまま、こちらに会釈した。
 俺も気持ち良く、会釈を返した。

 去って行く仲睦まじき親子を見やりながら、ふと思えた。
 予想さえ出来ないが、将来、俺も親となる時期がくるのだろう。
 その時は精一杯の愛情と、先ほど知った厳しさで持って子育てをしよう。
 ならば、今は努力だ。皆と切磋琢磨し、子に尊敬される親になるために。

 静かに、振り返る。
 さあ、心機一転、である。
 だが、まだまだ、俺は未熟なのだと再認識させられた。
 間近にある人物達と、聞き慣れた声を捉えたからだった。
 それはさながら、優しき薫風を感じさせた。

「こ、小林さん、お疲れ様です。
 昨夜はどうもありがとうございました」

「こ、小林先輩もお風呂ですか?
 あと昨日はありがとうございました」

 唖然と目を見開いた。
 脳内のミニヒサキが、膝から崩れ落ちて行く。
 学園長!学園長!
 違うんです!学園長!
 そこには、ある少女達がいたのだ。
 好ましき凛と通る声音に、快活さを孕んだ声音。何とも可愛らしく、浴衣を羽織り小さな洗面器を携帯していた。



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——表その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:27
−小林氷咲side−
 
 
 
 
「こ、小林さん、お疲れ様です。
 昨夜はどうもありがとうございました」

「こ、小林先輩もお風呂ですか?
 あと昨日はありがとうございました」

 唖然と目を見開いた。
 脳内のミニヒサキが、膝から崩れ落ちて行く。
 学園長!学園長!
 違うんです!学園長!
 そこには、ある少女達がいたのだ。
 好ましき凛と通る声音に、快活さを孕んだ声音。何とも可愛らしく、浴衣を羽織り小さな洗面器を携帯していた。

 だが、しかしである。
 桜咲さんとはもう周知の仲であるし、神楽坂さんについては、なぜ俺の存在に驚かないのか、という疑問はある。
 あるのだが、最重要であるネギくんに見つかった訳ではないのだ。
 学園長も、さながら、広大な銀河を彷彿とさせる懐の深さで許容してくれるだろうと思えた。

 安堵の息を漏らすと、知らず知らずの内に、口許に笑みが浮かび上がっていく。
 俺が彼女達に向けている信頼度もそうだが、まるで、愛すべき妹のように感じていたからだった。
 全く持って、彼女達は心外に思うかも知れないが。

 自嘲めいた笑みを漏らすと、彼女達が持つ洗面器が目に映った。
 そうか。仲睦まじくも、連れ立って大浴場に入浴しに来たのだろう。
 桜咲さんの、今にも崩れ落ちそうな心。さながら、消える寸前の蝋燭に灯る炎の揺らめきを、俺は心配でならなかった。
 神楽坂さんは心優しき少女である事は明白だ。もし良ければ、友達となって貰えないかと思っていた。
 だが、俺が何をせずとも、彼女達は友達同士であったのだ。
 これが嬉しくなくて、何が嬉しいというのか。
 そう言えば、昨夜もそうだ。あの壮絶な演劇の練習では、俺の目に、桜咲さんは主役に映った。
 目前の桜咲さんの手元には、未だに、竹刀袋が携えられていた。中に隠されているだろう、白銀の刃。彼女にはまだ、それを置く決意は持てない。
 だが、しかしである。
 青春を、演劇にて謳歌する。
 この行動は、彼女の凍てついてしまった心を、正しい道へと導いてくれるように思えた。

 支え合い、励まし合い、友情を確認し合う。
 なんという、素晴らしき事だというのか。
 小刻みに、頷く。だが、次の瞬間。俺の身動きは否応もなく停止させられた。
 なぜならば、身体中を縛り上げるように、彼女達の言葉が思い返されたからだった。
「昨夜はどうもありがとうございました」
「あと昨日はありがとうございました」
 だが、考えても見てほしい。
 俺は昨夜、桜咲さんとは会っていないのだ。
 神楽坂さんに至っては、昨夜所ではない。もう遡る事、数日前の話しのはずである。
 それならばどうして、彼女達はこのような言葉を発したというのだろうか。

 呆けを隠せぬ表情ではあったが、突如として、脳裏にある推察が過ぎった。
 それはつまり、説明するならば、こういう事であった。
 それは、覗き見。
 昨夜の演劇の練習を、覗き見した行為の事を言っているのではないか、と。

 そういう事ならば、致し方ないと言えよう。
 俺の表情がまるで、朝に目覚めたら、性別が変わっていましたという状況ほどの唖然であったのは。
 まさか、まさかである。
 彼女達に気づかれていようとは、正に、想定外だった。
 だが、頭を捻ってみれば、確かに見えてくるものはあった。
 それは、ネギくんが吸血鬼であり、人知を超えた能力を持ち得ているという一点だった。
 思い返してみると、エヴァンジェリンさんにも、離れていても相手の言動がわかるという能力があったはずである。
 どうして、そんな大事な事実を忘れてしまっていたのだろうか。
 確かに俺は、プロレスごっこ停電事件に置いて、異質な能力を体験させられていたというのに。

 途端に、波打つように、罪悪感がざわざわとさざめき始めた。
 なぜならば、覗き見という行為を、言葉に直訳してみれば事足りるだろう。
 秘密の練習を覗き見する、空気の読めない邪魔者である。
 どのような角度から、いや、さながら、宇宙から衛星写真で、俺を捉えたとしてもその結果を変える事は不可能だと言えた。

 これは、いかん。いかんぞ。
 反射的に、謝罪しようとした。だが、俺の口が開かれる事はなかった。
 またもや、思い返したのだ。
 理由は皆目見当はつかない。皆目見当はつかないが、彼女達は、俺に向けて謝辞を述べていたのだから。
 頭を悩ませたが、程なくして、その意図に気づく事が出来た。
 それはつまり、覗き見した行為に対する謝辞、だという事は明白である、と。

 刹那的に、唖然としてはしまったが、頷ける自らがいた。
 そうか。
 おおよそ、彼女達は、こう考えて謝辞を述べたのではないだろうか。
 それは、こういう事である。
 彼女達は俺に、昨夜の練習を、見守って貰っていたなど考えているのではないか、と。
 そういった誤解ならば、結果的に言えば、そう誤解とは言えないのかも知れない。
 依頼には含まれていないが、個人の感情として、彼女達の安否も心配でならなかったのだから。

 だが、言い訳をしてはならない。
 正に、言語道断だと言えよう。
 懐の思いはそうであった。そうであったとしてもだ。それは結果的に、そうあったというだけなのである。
 この危険な京都にて、依頼を遂行しようと、右も左もわからぬままやって来た理由。
 それは、ただ一つ。
 一人の男として、一人の人間として、皆に恥じない器量を獲得するため。さながら、蝶々のように、サナギから羽化し羽ばたくために赴いたのだから。
 尊敬を遥かに通り越して、崇拝してしまいそうなほどの学園長。器量に置いて、我々人間達の高みにおられるあのお方は、俺という小物にまで筋を通し、深く謝罪をしてくれた。
 俺もあの高みに昇り、承った恩恵に応えるためには、筋だけは通さねばならないのである。
 妥協せず、謝罪の意を示す事が、明確な成長へと繋がっていくように思えた。

 二人が揃って、こちらを見つめていた。
 何やら、落ち着かないのだろうか。両手の指を組んだり、絡めたりと忙しそうだった。
 それにどことなくではあるが、顔色に朱が差しているように見えたが、錯覚だろう。
 俺は真剣な目で、慎重に言葉を繋いだ。

「いや、お礼なんて必要じゃないよ。
 悪いのは、俺。覗き見なんていう、姑息な真似をしてしまったのは俺の方なんだから。
 身分不相応な行為だった。
 すまなかったね」

 辺りを覆い込むように、静寂が広がっていく。
 視線を反らさずに、精一杯の謝罪の意を込めた。
 すると、次の瞬間だった。
 彼女達が慌てふためき、半ばうろたえたように次々と声を上げていったのだ。

「い、いえ!
 元はと言えば、私の力量不足が問題なのですから!
 小林さんが謝る必要はどこにも……」

「そ、そうですよ!
 小林先輩が謝ることないです!
 見ててくれたから、みんな頑張れたんだし……私も嬉しかったですし……」

 なんという、素晴らしき娘さん達なのだろうか。
 どのような教育方針で子育てをしたのですかと、親御さんに拝謁賜りたいほどだ。
 なんと彼女達は、口々に、口々にだ。
 姑息な真似をしてしまった愚か者を、庇ってくれた上、暖かき心優しさ満ち溢れる言葉をかけてくれるとは。
 それは、まるで、春の木漏れ日の暖かさを彷彿とさせた。
 あまつさえ、二人が浮かない顔で、こちらを見つめていた。
 ふと、思う。
 俺には確かに、心に決めた人がいる。
 いるのだが、素直に思えた。
 将来、彼女達のようなお嫁さんを貰う男性は、全く持って、幸せ者である、と。

 それからは、いや、しかしと、終わらぬ押し問答を繰り広げた。
 双方共に予断を許さず、それは朝まで続くのではないかと思われた。
 だが、皆一様に、余りの頑固さだと笑みが浮かび上がった頃、何とか合意に至った。

 宿泊客達も、もう夢の世界に船を漕ぎ出しているのだろう。
 静まり返った廊下に、談笑の声だけが響く。
 確かに、依頼を遂行しなければならないのは、重々承知していた。
 だが、学園長の器量が、銀河クラスなのは周知の事実である。多少の癒しくらいは、笑って許して頂けるように思えた。
 この京都に置いて、茶々丸さんが癒しであるのは明白だ。だが、俺に取って、彼女達との談笑も、大切な癒しの場となっていたのだ。

 それにしてもと、不思議に思う。
 それは、俺の存在について、どうして、神楽坂さんは不思議に思っていないのかという一点だった。
 おおよそ、桜咲さんにでも聞いたのだろうと思えたが、尋ねはしなかった。
 楽しきこの空間に、水を差すように思えたからだった。

 彼女達が笑ってくれるのがとても嬉しくて、俺ばかりが色々と話してしまった。
 学園の自室にて、育てているサボテンに花が咲くのを心待ちにしている事や、学園長と高畑先生、両雄の壮絶なる男気の事などである。
 二人は一様に、楽しそうに聞いてくれた。
 だが、話題が、昨日の詐欺紛いの犯罪に移っていった時だった。
 俺は、余りの事態に呆けていた。
 神楽坂さんも同様の思いなのだろう。身動きが止まり、呆けを隠せずにいた。
 天使にも見紛ってしまいそうなほど、可愛らしき少女。なんと、あの、桜咲さんの表情が、突如として一変したからだ。
 小柄な身体とは、不釣り合いな、正に鬼気迫るようなまでの殺気が放たれる。
 そして、俯くと、口許に愉しげな笑みを浮かべ、ブツブツと呟き出す。
 その声音はまるで、闇に閉ざされた冥界から響く、怨嗟の呪詛を彷彿とさせた。

「……私の小林さんに、詐欺を仕掛けるとは、己の格を理解していないようですね。
 小林さんの手を煩わせる必要もない。
 どんな方法を使ってでも犯人を突き止め、ここは、私が生きているのを後悔させるほどの引導を……」

 楽しかったはずの空間は突如として、さながら、魑魅魍魎が惑う地獄絵図へと一変していた。
 俺の背筋は正直だと言えよう。放心しながらも、冷えたなにかが、次々に通り抜けていく。
 それに、それにである。
 今、桜咲さんは、私の小林さん、と言ったように聞こえたのが。
 空耳だろうか。いや、確かに、そう聞こえた。
 それに、生きているのを後悔させるほどの引導、という言葉の響き。
 言いようの知れない恐怖に、文字通り、戦慄した。独りでに、身体中が震え上がっていく。

 すると、そんな俺を救うかのように、再起動を果たした神楽坂さんが慌てて助け船を出してくれた。
 桜咲さんの身体を、勢い良く揺さぶる。俺は俺で、良くもまあ、そんな行いが出来るものだと脱帽していた。

「ち、ちょっと刹那さん!
 なんかおかしくなってるわよ!」
「……ここは一刀両断か、いや、それでは生ぬるい。じわじわと地獄の苦し……。
 えっ、は、はい。どうかしましたか?」

 静寂が広がった。
 桜咲さんの戦慄を禁じ得なかった表情が、徐々に変わっていく。程なくして、普段の可愛らしさ溢れる表情を見せてくれた。

「だ、大丈夫。なにもなかったのよ。きっと」

「は、はあ、それならば良いのですが」

 神楽坂さんが乾いた笑みで言うと、桜咲さんはどこか、呆けた表情で呟いた。

 俺はというと、余りの予想外な事態に、半ば現実逃避をしていた。
 一体、先程の事態は何だったのだろうか。
 ふと、思う。
 誰かが夢だと説明してくれるならば、俺は無条件で納得するだろう。いや、誰でも構わない。夢だと、そう説明してくれないだろうか。

 致し方ないだろう。不穏当な雰囲気に、皆一様と、口を閉ざしていた。
 だが、俺は、意を決して口を開いた。
 笑みは乾いたままだろうが、空気を変えるために、話題の転換という一手を指した。

「それにしても、昨夜は素晴らしいものを見させて貰った。
 身体中から感動が湧き上がってくるようなまででね。知らず知らずの内に、拍手をしてしまったほどだ」

 脚本の構成力。演者の演技力。そして、高レベルの素材が絡み合い、極上の舞台を作り上げていた。
 今、思い返しても、脱帽してしまう。
 小刻みに頷いていると、神楽坂さんが照れ笑いを浮かべた。
 だが、桜咲さんはというと、どこか誇らしげに口を開いた。

「いえ、昨夜は、小林さんの類い希なる戦略と布石に、助けて頂いたまでの事です」

 刹那的に、思考が停止した。
 類い希なる戦略と布石とは、一体。
 うん。
 意味がわからない。
 そんな俺をよそに、尚も桜咲さんは話しを続けていく。

「昨夜は力及ばず、気づく事は出来ませんでした。ですが、先ほどやっと気づいたんです。
 あの小林さんが、新幹線に乗車中、何の意図もなしに敵へと姿を現す訳がない、と。
 未来を見通していたかのようなその類い希なる慧眼には、恐れ入りました」

 何が何やらわからない。
 脳内は、否応なく混迷と化していた。さながら、俺の頭上には、爛々と、クエスチョンマークが小躍りしている事だろう。
 どこか、誉めて下さいとばかりに瞳を輝かす桜咲さん。まるで、子犬のようなまでの愛らしさを感じながらも、思う。

 まず第一に、第一にだ。
 あの小林さんとは、今ここにいる、この小林さんで間違いないのだろうかと問いたい。
 この小林氷咲さんではなく、どこかの小林なんたらさんの事を言っているようにしか思えなかったからだ。
 第二に、類い希なるとは、桜咲さんの口癖か、なにかなのだろうか。
 確かに、以前も、そう言っていたはずだ。

 否応もなく、俺は唖然としていた。口許に笑みが固まり、張り付いている事と思う。
 桜咲さんは瞳を閉じて、何かを思い返しているのだろう。高潮した顔色で、小刻みに頷いていた。
 神楽坂さんならば、理由を理解しているかも知れない。
 俺は、半ば懇願するかのように、神楽坂さんを見やった。
 すると、これはどういう事だというのだろうか。
 なんと、神楽坂さんまでもが、尊敬でもするかのような熱い視線をこちらに向けていたのだ。

 脳内は、さながら、幾重もの意味不明の数式が、乱立し交差し、羅列される騒ぎとなっていた。
 さながら、俺がロボットだと仮定するならば、オーバーヒート寸前と、身体中からモクモクと煙を吹き上げていた。

 だが脳裏を、ある考察が過ぎった時だった。
 その世界は、いとも簡単に、快晴へと変わっていった。
 そうか。そうだったのだ。
 ある事実を、忘れていたのだ。
 それは現状として、桜咲さんは病んでいるという事実であった。
 そして、その由々しき病が妄想という形を取り、彼女の心を蝕んでいたのだった。
 否定するのは逆効果だと考えて、微力ながらも、その心を支えようと決心していたではないか。
 京都。次から次へと迫り来る異様な事態に、俺の脳は、ついていけていなかったようだ。

 やっと、晴れやかな心地で笑う事が出来た。
 だが、そうなると、また新たな疑問符が浮かび上がった。
 それならば、神楽坂さんの熱き視線はどういった意図から来たものなのだろうか。
 だが、すぐに頷けた。
 なぜならば神楽坂さんが、どこか、恥ずかしそうにこちらを見ていたからである。
 その上、俺と視線が合うと、直ぐに反らしてしまうからであった。

 そうか。
 わかってはいたが、やはり神楽坂さんは心優しき少女であった。
 彼女も、俺と同様の心境だったのだ。
 桜咲刹那という愛すべき少女を、支えようとしているのだ。
 熱き視線に籠もる意志を、俺は敏感に感じ取る事が出来た。
 それは、こう言っているのだろう。
「彼女のためを思うならば、否定してあげないで下さい」
 本当に、空気が読めて良かった。
 桜咲さんは、未だに何かを思い描いているのだろう。高潮したままで、小刻みに頷いていた。
 俺は気づかれぬように、自然な素振りで神楽坂さんへと小さく頷いた。
 すると彼女は、また目を反らした。だが、嬉しそうに、照れ笑いを浮かべた。
 友を想い、精一杯の優しさで支えようとする。
 それはさながら、桃園の誓いにも勝るとも劣らない友情だと素直に思えた。
 そして、はにかんだ笑みの破壊力。神楽坂さんの整った容姿にそれは、正に反則だった。
 俺には心に決めた人がいる。いるのだが、危うく意識を持っていかれそうになってしまった。

 それからも、談笑は続いていった。
 いやはや、桜咲さんの剣技には、魅了されてしまった事。神楽坂さんのハリセンの、隠された能力に驚かされた事。
 だが、楽しき時間ほど、終わりは早くやってくるというものである。
 後ろ髪ひかれる感は確かにあったが、彼女達の貴重な時間を浪費させてはならない。

 三人共に、笑顔で別れた。
 彼女達は大浴場に入っていき、俺は最上階に位置するスイートルームへと足を向けた。
 依頼はどうした、と思うかも知れない。
 しかし、夜も更けてきているのだ。この地で、茶々丸さんを独りきりにしては危険だと思えたし、依頼については、明日から仕切り直そうと考えたからだった。
 廊下に人気はなく、どこか、哀愁を漂わせていた。
 先程の反動だろうと思っていると、俺の歩みは、ある違和感を捉えて制止した。
 いない。いないのである。
 さながら、身体の一部なのではないかと錯覚するほどの死神の姿が忽然と消えていたのである。

 辺りに、不穏な気配が漂い始めた。吸い込む酸素にさえ、嫌な予感が匂いとして孕んでいた。
 すると、正に、その時だった。
 脳裏に、死神の愉悦の笑みが浮かび上がる。
 背後から、聞き覚えのある声が、響いてきたのだ。

「あっ!ヒサキさん!
 相談に乗って下さいー!」

 まず始めに考えた事は、これである。
 というか、なぜ、俺の存在を。
 一体全体、意味がわからない。
 だが、心の中のミニヒサキは、膝から崩れ落ちてはいなかった。
 もはや、 麻帆良のメッカと言っても差し支えないだろう。
 ある神聖なる一室へと向けて、真摯に土下座をしていたからだった。
 学園長。学園長。
 誠に申し訳ありません。
 放心したままの俺を、ネギくんが激しく揺さぶる。
 その瞳は、俺の脳内と同様に、混迷に濡れていた。



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——表その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:27
−小林氷咲side−
 
 
 
 
 天井にはめ込まれた長方形の電灯が、部屋内を照らす。俺達の大小とした影をつくりあげていた。
 最早、日本は春一色だというのに、部屋内の空気は張り詰めていて、どこか湿っぽく感じた。
 清廉さを滲まずにはいられない、純白のカーテンが、大きな窓を覆い隠していた。
 視認する事は叶わないが、夜空には自然の星達が瞬き、地上にはさながら、人口物の星達が煌めいている事と思う。
 そして、その星達に願えるならば、願いたい。俺の嘘偽らざる心境と共に。
 その幻想的なまでの星々の安らぎで、ある悩める少年の小さな背中を、そっと押してはくれないか、と。
 健気に父親を想い遠い異国までやってきた、まだ幼くも、懸命に努力を続ける少年の背中を。




 小綺麗に、清潔に保たれた部屋内。俺とネギくんの二人は、風情を感じさせる木のテーブルを挟み、思い思いの表情で座っていた。
 さめざめとした空気。その中央に、安らぎを感じさせるお茶の香りが漂っている。
 ネギくんは、湯気が立ちのぼる湯呑みを両手に持つと、ゆっくりと口許に傾けた。
 俺は内心、安堵から微笑んだ。
 心なしではあるが、少しは落ちついてくれたようだ。
 事の始め、ネギくんはまるで、親の形見をなくしてしまったというほどに慌てふためいていた。
 俺の理解力の欠如からではある。
 だが、どうにも、脳内はクエスチョンマークが小躍りしていて、潤滑な会話は期待出来そうになかった。
 だからこそ俺は、どうにか落ちつかせようと、勝手ではあるがお茶を振る舞ったのだ。

 当初、ネギくんに存在を認識されてしまった時には、酷く困惑し混乱した。
 致し方ないだろう。
 脳裏に、さながら、断頭台への階段を、一歩一歩踏みしめていく自らが映し出されてしまうのは。
 桜咲さんに認識されたのも、神楽坂さんに認識されてしまったのも、良くはないが、百歩譲って良しとしようではないか。
 しかし、しかしである。
 尊き依頼の、最も重要な一点。他でもない。ネギくんに認識されてはいけないという誓約を、自らの落ち度により履行出来なかったのだから。

 俺は、深く落ち込んだ。
 そして、自らを深く戒めた。
 定かではない。定かではないが、例えば真実だと仮定して、傍若無人を地でいく死神さんの仕業だとしてもだ。
 それに、茶々丸さん到来の至福や、桜咲さんと神楽坂さんとの和やかな癒しにより、盛大に気が緩んでいたとしてもだ。
 自らがあの時誓ったように、慎重という名の石橋を叩いて渡ってさえいれば防げた。
 いや、さながら、科学的見地から石橋が崩壊する確率を計算しようとするまでの慎重さで、事を推移していれば容易に避けられたはずなのだから。

 どうして、ネギくんが俺の存在をと、苦悩した事も想像に難くないだろう。
 余りの放心だった。現実逃避と、目の前が白んでいった事も、許してほしい。
 だが、やりきれないと、倒れ伏しそうになる俺を救ってくれたのは、またもや、学園長の有り難き荘厳なまでのある言葉だった。
「ネギくんの身に余る騒動が起きたと認識した時だけ、支援してほしいのじゃ」
 たった数週間と、皆は言うかも知れない。
 井の中の蛙と、知った気でいる愚か者だと罵倒されるかも知れない。
 だが、しかしである。
 俺には、多大なる自負があったのだ。
 ネギくんという、心優しき少年の人間性を、正確に捉えているという自負が。

 まだ幼いながらも、良き教師となれるように、精一杯の努力していた。
 般若状態のエヴァンジェリンさんを、諫めようとする勇気には脱帽した。落下していく彼女に、必死と手を伸ばした事も覚えている。
 その上、一悶着から揺らぎ、折れそうだった俺の心を、その持ち前の暖かさで矯正してくれた事もあった。

 そんな心優しき少年が今、俺の身体を、激しく揺さぶってまで助けを求めているのだ。
 それに答えずして、本物の男となれようか。いや、なれはしない。
 そして、ふと思う。
 学園長が言っていた機会とは、今、この時なのではないか、と。
 より良い教師となって貰えるならばと、傍で支えたい一心を強く留め、草場の陰から見守ろうと決意していた。
 だが、強く思う。
 今こそが、その決意を打ち破るべき時なのである、と。
 ふと、脳裏に、ある推察が過ぎった。
 そうか。そうだったのか。
 聡明であられる学園長は、この時を、予期していたのだろう。
 だからこそ、俺を、この地にお送りになったのだ。
 桜咲さんがさながら、譫言にでも言うだろうと容易に想像出来る言葉。類い希なる慧眼とは、学園長のその凛々しき双眸の事を言うのだろう。
 正に、賢者。
 正に、この世の生き字引といっても差し支えないだろう。

 俺は、より一層なる尊敬を感じながらも、力強く頷いた。
 確かに、力不足かも知れない。
 確かに、少々の不安はある。
 だが、俺は、俺の誠心誠意の心構えで持って、一人の少年の不安に揺らぐ心を、救って見せようではないか。
 それが、俺の為すべき事なのだから。

 新たな決意と共に、行動に移し、今に至っているという訳である。
 真剣な面持ちで持って、ネギくんが口を開くのを待った。
 幾分、落ち着く事が出来たのだろう。ネギくんは、静かに事の真意を語り始めた。
 俺は、最大限の微笑みを心がけて、その語りに相槌を打った。

 語りが終わると、俺は深く頷いた。
 ネギくんの、慌てふためくまでの多大なる苦悩。その内容は、至極簡単、こういう事であった。
 ネギくんはなんと、今日の昼間、生徒である少女に、愛の告白をされてしまったという事だった。
 致し方、ないだろう。
 ネギくんが、酷く狼狽してしまうのも。
 考えても、見てほしい。
 未だに、初恋というものを経験しているのかどうかさえ定かではない幼い少年。それならば、告白自体に置いても、初めてだった可能性は極めて高い。
 そんな少年が、年上の少女から、愛の告白をされてしまったのだ。
 恋愛に関して、右も左もわからないのだ。
 俺も、酷く困惑した。一人で結論を出せとは、酷と言えよう。
 それはそれは、脳内が混迷に陥り、心が行き場を求め、ユラユラとさまよってしまうのも無理はない。
 俺は、意を決すると、優しい言葉使いを心がけながら尋ねた。
 ネギくんは終始、真剣な表情で、答えてくれた。

 ネギくんの返答を、要約すると、こういう事だった。
 自らには、まだ恋愛というものが、良く理解出来ない。
 つまり、告白をしてくれた少女の事は、好意的に想っている。だが、その想いが恋愛なのかはわからない。
 だからこそ、答えを出せないという事だった。
 その上、俺が推測するにだが、教師と生徒という倫理が足枷となり、返答に窮しているようにも思えた。

 ネギくんが、どこか不安に濡れた瞳で、俺の言葉を待っていた。
 俺に出来うるのかは、素直にわからない。
 なぜならば、俺に至っても、恋愛を深く捉え始めたのはつい最近なのだから。
 俺などが、この分野に置いて、諭す事が出来るのだろうかという不安は確かにあった。
 だが、俺は、静かに口を開いた。
 学園長に教えて頂いていたからだ。
 想いを、俺の誠心誠意の想いを伝える事が、何よりも大切な事なのだ、と。

「ネギくん、恥ずかしながら俺は、恋愛については疎い方なんだ。
 だけど、俺の精一杯で持って、きみに言葉を送ろうと思う」

 ネギくんが意外だと言った顔をした後、真剣な面持ちで頷いた。

「そ、そうだったんですか。
 はい。よろしくお願いします」

 俺は頷くと、先を続けた。

「俺も少し前に、きみと同様の感情で思い悩んでいた時があった」

「ええ、そうなんですか?」

 小さく、頷く。

「ああ、そうだよ。
 この前の、河川敷を覚えているかな。
 ネギくんが俺を、勇気づけてくれた時があっただろう?」

 ネギくんが照れたのか、頬をかくと、直ぐに真剣な瞳で頷いた。
 俺は一拍置くと、口を開いた。

「あの時の俺は、酷く思い悩んでいた。
 ある心優しい少女から、告白をされて。
 その少女はまるで、聖母のような少女でね。こんなに愚かな俺を、暖かい眼差しで、守ろうとしてくれたんだ。
 そして、俺は、彼女の事を大切な存在だと感じていた」

「……そうだったんですか。
 ですが、それなら、何も問題はないような」

 ふと、エヴァンジェリンさんの、儚さを感じさせる微笑みが浮かび上がった。
 感謝しても、しきれない女性。自らの勘違いに真摯に向き合い乗り越えて見せた、芯の通った心優しき女性。
 抱いてはいけない罪悪感が、心に出現していく。
 胸が、キリリと痛む。
 深呼吸してから、口を開いた。

「確かに、嬉しかった。嬉しかったんだよ。
 だけど、その大切っていうのは、家族に向けるような親愛といった感情から来ていたんだ」

 ネギくんが、考え込むように言った。

「親愛、ですか」

「そうだね。
 それに、俺には、別に好きな人がいたんだ。
 だからこそ、その想いに応える事はできなかったんだ。
 嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたからね。
 断った後、俺は罪悪感から申し訳なくて、塞ぎ込んだ。
 酷く、苦悩した。もう、立ち直れないんじゃないかと思うほどにね。
 だけど、俺は、立ち直る事が出来た。
 ネギくんもそうだし、麻帆良の皆の支えによってね。
 そして、気づかされたんだ」

「何を、ですか?」

 ネギくんがこちらを、食い入るように見つめている。
 静寂が広がる空間の中で、俺の脳裏には、麻帆良の心の置ける皆の笑顔が浮かび上がった。
 言いようの知れない勇気が、さながら、暖炉に火をくべるように徐々に燃え上がっていく。
 独りでに、口許に笑みが浮かぶのを感じた。

「落ち込んでいても、何も変わらないってね。
 前を向く事、それこそが、何より大切な事なんだ。それこそが、告白をしてくれた彼女に応えられる、最低限の償いなんだと気づかされたんだよ。
 なぜならば、落ち込む俺の姿なんて、彼女は望んでなんていないと思えたから。
 長くなってしまったけど、この話しを打ち明けた上で、ネギくん、まだ未熟な俺がきみに言える事は一つだけだ」

 時を刻む音色が、響く。
 それ以外の音はない。静寂を切り開くように、俺は
言った。

「悩んだっていいんだ。頼る事も構わないんだ。
 だけど、その答えは自分で見つけるんだ。自分で納得できる答えは、自分だけで見つけなければならない。
 俺が、尊敬するある人が、こう言っていた。
 純真なる想いを伝える事こそが、きみの為すべき事だって。
 何も必要じゃないんだ。
 考えて、考え抜いた末にたどり着いた、きみだけの答えを彼女に伝えよう。
 例え、どんな結論になろうとも、それが、その彼女が、何よりも欲する答えだと思うから」

 まるで、時が止まったのではないかと錯覚するほどの無音の世界。
 ネギくんが面食らったような顔になった後、口を開いた。
 その声は大きく、今までの揺らぎは、影も形もなかった。

「は、はい!
 ありがとうございました!
 考えて、考え抜いて結論を出してみます……。
 ……僕だけの、答えを」

 俺は応援する気持ちを乗せて、強く頷いた。
 多大な高揚感に、身体が震えた。
 正解、なのかはわからない。
 しかし、しかしだ。
 俺の誠心誠意の言葉で、思い悩む少年の背中をそっと押す事が出来たのである。

 静かに、立ち上がった。
 もう何も言う事はない。それに最早、俺は、邪魔以外の何者でもない。
 笑顔で、ネギくんに声をかける。
 ネギくんが今一度、お礼を言った。
 俺は構わないよと言うと、出口のドアに向かって歩を進めた。
 全く持って、今日は良く眠れそうだ。
 そんな事に笑みを漏らしながら、ドアノブを握った時だった。
 ここは、さすがの俺の不運といった所なのだろう。
 正に、予想外。想定外な事態が、否応もなく、我が身に襲いかかってきたのである。

「こ、小林の旦那ぁー!
 訳を説明させてくだせぇー!!」
「ご、ごめんなさーい!」

 突如として、勢い良く、ドアが開かれたのである。
 俺は、為す術もなく、その衝撃を受けた。鈍い痛みと共に、吹き飛ばされてしまう。
 そして、視界には、うんうんと悩んでいるネギくんを捉えた。
 一瞬の内に、もみ合うように転がった。
 ネギくんの身体をなんとか庇えるように、その勢いを殺そうともがく。
 その時だった。
 目まぐるしくも推移していた視界が、あるものを映し出して制止した。
 それは、紛う事なきネギくんの顔。それが目前、いや、自らの顔に接していたのだ。
 そして、俺は、捉えてしまった。まるで、この世の終焉を告げるような、信じられないまでの柔らかい感触を。
 呆、けた。
 脳内にはさながら、幼少期の楽しかった思い出が、走馬灯のように駆け巡っていく。
 こ、れは。
 これは、キス、してしまった、とでも、いうのだろうか。
 麗しき茶々丸さん、いや、女性でもない。同性である、少年と初キスを。
 何が、何やらわからない。
 脳裏は白み、混迷と化していた。
 足が勝手に動いた。意味もなく、静かに立ち上がると、振り返った。
 そこには、ある少女がいた。どうしてか、涙目である。
 先日、俺の写真を取っていた娘さんであるように思えた。その肩口には、頭の良いイタチのカモくんがいた。
 カモくんも、どうしてか、涙目だった。
 涙目な様に、自然と、含み笑いが浮かんだ。

「ひ、ヒィー!
 こ、殺されるー! お助けぇー!」
「ち、ちょ! カモっち!
 自分だけ……!」

 どうしてか、カモくんが肩口から軽やかに飛び降りると、そのまま駆けていく。
 彼女も不思議な事にだが、怯えた表情を隠さぬままで、一目散に駆けていった。
 そして、俺の視界は捉えた。捉えてしまったのだ。
 正に、驚天動地と言えよう。
 廊下に立つ、茶々丸さんの、悲しみに揺れた瞳を。
 まさか、見られていたとでも、いうのか。
 文字通り、目の前が真っ暗になっていく。
 夢だ。夢だと、誰か言ってくれないだろうか。心の中で呟くと、脳裏に、死神の満足げな愉悦の笑みが浮かび上がった。
 そこで、俺の意識はたゆたうように、幕を下ろした。




 小鳥の囀り、穏やかな春風。ふかふかの寝具。
 全く持って、素晴らしき朝の日差し。
 美しき自然の声が、意識を覚醒へと向かわせていく。
 ゆっくりと、瞼を開いた。
 今日も良い日になりそうだと、心の中で呟く。
 そして、俺は唖然とした。
 一瞬、意味がわからなかった。
 なぜならば、大きな顔のアップが、眼前に映し出されていたのだから。
 それは、紛う事なき、茶々丸さんの美しき顔だった。
 だが、一瞬の後、俺の視界には、二日目と相成った高すぎる天井が映し出さていた。

 これは、一体、どういう。
 唖然としながらも、身体を起こす。
 茶々丸さんはメイド姿で、リビングの清掃を行っていた。
 不思議と、唸った。
 それでは、先程の事態は一体。
 確かに、茶々丸さんの顔のようであったとは思う。
 しかし、そうであると仮定するならば、一瞬の内に消えてしまったという謎を解かねばならない。
 いや、どのような角度から考えて見ても、到底、人間には不可能だろう。
 ならば、先程のは夢、か。
 含み笑いを漏らすと、立ち上がり茶々丸さんに声をかけた。

「おはよう。
 掃除なら俺も手伝うよ」

 茶々丸さんの身動きが止まる。だが、こちらを向いてくれない。
 不思議に思っていると、茶々丸さんがゆっくりとこちらを向いた。
 静かに、口を開く。
 どうしてかは、わからない。わからないが、確かに、その声音には、羞恥といった感情が孕んでいた。

「……おはよう、ございます」



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:27
−絡繰茶々丸side−
 
 
 
 
 広々とした部屋内に小鳥の囀りが響き、空から緩やかな日が差し込んでいます。
 薄手のカーテンが、涼しめの春風にヒラヒラと揺れて、陰陽を踊らせていました。
 大理石を加工処理された、上品さを誇示しているテーブル。その上には不肖ではありますが、和洋中と、手料理の数々が並べられていました。
 椅子に座るお兄様が、穏やかな微笑みをこちらに向けました。滑らかな動作で、食事を取っていました。
 私は、対角線上に位置する椅子に座っています。緩やかな時の流れを実感しながら、その様を見つめていました。

 お兄様は、本当にお優しい方です。
 傍に立っていた私に、笑みを持って椅子へと座るように誘導してくれたのです。
 失礼に当たるかも知れないと、悩みました。ですが、その柔和な微笑みを向けられてしまうと、拒否などできなかったのです。
 私を人間と同様に気遣ってくれる事は、本当に、嬉しく思いました。

 お兄様が目覚めて直ぐ、私はある感情を抱きました。
 大変、嬉しくはあったのですが、同時に酷く怖いという感情も表れていました。
 レシピを正確に再現したとの自信はあったのですが、お兄様のお口に合わなかったらとの、危惧をしていたからです。
 ですが、それは数分という、短な時間で杞憂となりました。
 なぜならば、お兄様は一口食べると、即座に誉めてくれたからです。
 その時の映像は、印象的に記憶されています。これから、消えていく事はないでしょう。
 お兄様の細く長い指先が、箸を器用に操ります。玉子焼きを一欠片、口許に運んでいきました。
 そして、驚愕したかのように目を見開く様子が、不安に揺れていた私の目に映り込みました。
 まるで、時が止まったかのように制止するお兄様は、呟くようにこう言ったのです。
「……茶々丸さん。
 美味しい。美味しすぎるよ。
 俺は今、逆の意味で、人生の幕を閉じそうになった。いや、閉じても構わないとさえ思えたよ」
 私の身体は不思議と、次第に熱を持ち始めました。
 おおよそ、羞恥といった感情からでしょうか。
 お兄様の顔を見られないという、状況に陥ってしまったのです。
 お兄様のユーモア溢れる素敵な言葉。それは、私に膨大なまでのエラーを発生させました。

 辺りに、アンティークの時計の音が、淡々と響き続けています。
 時刻はもう、昼を回ったでしょうか。
 気づいた頃には、お兄様が嬉しそうに食事をし始めてから、長い時が過ぎ去っていました。
 私は和食が好みだと記憶しながらも、深く安堵していました。
 なぜならば、お兄様が操る箸は、止まる事などなかったのですから。

 大変、気に入って頂けたのでしょう。
 未だに微笑みを絶やさぬままに、次は炒飯だと言わないばかりに、力強き視線が向けられていました。
 その様は雄々しく、あの停電時の夜を彷彿とさせていました。
 なぜならば、まるで、倒すべき好敵手と定めたかのような鋭利な視線が、料理に突き刺さっていたからです。
 上品さが滲み出されていた当初とは打って変わり、現状は、猛禽類のようなまでの猛々しさが、身体中から発露されていました。
 ああ、なんて勇ましいのでしょうか。
 私は自然と、釘付けになっていました。
 上品でいて、まるで、暖かい南風のように穏やかなお兄様も、素敵な事には変わりありません。
 ありませんが、ある時の事でした。マスターが深酒しきり、口々に言っていた言葉が頭を過ぎりました。
「おい、茶々丸わかるか?
 小林氷咲という男の気高き根幹、稀有な美しさは、私が救ってやった素顔にある。
 だがな、生い立ち故に、擬態により隠さなければならなかった苦悩故にだ。無情だが、経験を通してでしか生まれぬものもあるんだ。
 それは所謂、高貴な魔族の匂い、だ。
 それが……一瞬だ。たった一度のまばたきで見逃してしまうほどの一瞬にだけ、放たれる時がある。
 その絶対零度のように凍てついていて、あまつさえ、燃えたぎる熔岩を思わせる劣情の塊、容貌が、私の目には、堪らなく美しく映るんだ」
 その時の私は、率直に言って、良く理解出来ませんでした。
 ですが、今の私には良く理解が出来る。理解が出来るのです。
 マスターが言っていた言葉の意味が、手に取るように伝わってくるのです。

 ガイノイドであるはずの私に、どうして、そういった共感と呼ばれる、人間の持ち得る感情が理解出来るのかはわかりません。
 ですが、一つだけわかる事があります。
 それは、その、奇跡と呼んでも差し支えない感情は、お兄様が授けてくれた魔法なのでしょう、と。
 やはり、お兄様は凄い方です。
 マスターにも、私にも、いとも簡単に強き感情を抱かせてしまう。
 絶大なまでの、至福といった感情を。

 多数のエラーの処理を行使しながら、お兄様を見つめました。
 お兄様は目前の料理を、さながら、親の仇と言わないばかりの気迫に満ち満ちた視線を送っていました。

 ですが、その時になりやっと、私も違和感を捉えました。
 惚けていたためでしょうか。お兄様の様子が、おかしい事に気づいたのです。
 先程まで、箸を巧みに操っていた手が止まっていました。
 不思議と注意深く探ると、顔中が汗に濡れ、筋肉が引きつっているようなのです。
 ふいにお兄様が、こちらを見つめてきました。
 その澄み渡っていたはずの瞳が、今は、水面に墨汁を垂らしたかのように濁っていました。

 ふと、ある考察が過ぎりました。
 料理を、つくりすぎてしまったのではないか、と。
 色々と、舞い上がってしまっていたようです。常識的に考えて見れば、テーブル上の料理の量は、ある意味、常軌を逸しているように思えました。

 ですが、不思議に思いました。
 なぜならば、お兄様は料理を認識した上で、残さず食べるよと言ってくれていたのですから。
 お兄様は、聡明な方なのは周知の事実です。
 実現不可能な事を、出来るとは言わないと、断言出来ました。
 それならば、どうして。
 お兄様は見るからに、体調が悪く見えましたから。
 不思議に、思いました。
 色々な感情を抱きながらも、小首を傾げると尋ねました。

「やはり、つくり過ぎてしまったでしょうか?」
「い、いや大丈夫。
 あ、余りにも絶品過ぎてね。思考が停止していたんだ」

 お兄様が、私の言葉を遮るように言いました。
 その言葉は大変嬉しく思うのですが、私には、そうは見えませんでした。
 お兄様の笑みは乾ききり、声色は息も絶え絶えと揺れていたのですから。
 それでは、どうして。
 私は困惑しました。
 失礼かもと危惧しましたが、再度、小首を傾げると尋ねました。

「それならば良いのですが、余り無理」
「は、ハハハ。
 だ、大丈夫。いやー炒飯を掻き込もうと思っていたんだ」

 お兄様がその声を合図に、炒飯を猛々しい様でかき込んでいきました。身体は小刻みに震えて、無理をしているのは明らかでした。
 まるで、身体中に纏わりつくように、心配という感情が発生しました。
 ですが、私は黙り、見つめるという選択肢しか、選ぶ事は出来ませんでした。
 お兄様が何を想い、何を伝えようとしているのか、今の私では、理解出来なかったから。

 古時計の時を刻む音色が、酷く鋭利に、私を追い詰めていっているように感じられました。
 淀んだ空気が周囲に落ちて、それを、さめざめしく思える日差しが落ちていました。
 お兄様の顔色が、より土気色に変化していきます。ふいに、力なく歪んだ瞳で見つめました。困惑で身動きの取れない私へと。
 そして、次の瞬間でした。
 お兄様が、まるで、最期の際を彷彿とさせるような笑みを浮かべました。一瞬の後、その上半身を、料理が並ぶ間へと突っ伏してしまったのです。
 不穏な音が鳴る中、私の身体は独りでに動いていました。

「お兄様!」

 走り寄ると、お兄様の上半身を起こしました。
 身体はまるで、糸の切れた人形のように力なく、表情には生気がないままに、苦悶の色が表れていました。
 ゆっくりと、ベッドに横たわらせました。濡れタオルを用意し、額にあてがいました。
 どうして、倒れ伏してしまったのか。その問いは、明らかです。
 自身の限界を越えてまで、私の手料理を食べたからでしょう。

 お兄様は、どうして、そこまで、私の手料理を。
 いたたまれない気持ちと共に、疑問が浮かび上がりました。
 うんうんと唸るようにうめくお兄様。頬に日差しが降り注ぐ様を、見つめていると、気づきました。
 お兄様がどうして、倒れ伏すまで、食べ続けてくれていたのか。
 それは、「優しさ」からきていたのでしょう。
 お兄様はただ、私との、取り留めのない口約束を守ろうとした。
 そして、至らぬばかりの私を、優しく労ってくれていたのです。
 新たな決意が、生まれました。
 いえ、性格には、より一層として強き決意が。
 マスターが言っていた事が、記憶として蘇りました。
「ヒサキは、危なっかしい。いつの日か、あいつは、自分で自分の首を絞めるだろう」
 使命感。と呟きました。
 お兄様の身体に布団をかけながら、言いました。

「あなたの優しさは、稀有で、尊いものです。
 ですが、私は、それを止めます。
 お兄様の意志に、反してでも……」
 
 
 
 
 —神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
「今日は何事もなく助かりましたが、相手を下に見て侮ってはなりません。
 呪術協会の一部の犯行だという事は、はっきりとしていますが、まだ、その全容を露わにしてはいませんし。
 やはり常に、小林さんがそう在られるように、多角的な方向から注意しておくべきでしょう」

 刹那さんが、真剣な表情のままでキッパリと言った。
 大浴場が近いからか、長い廊下に、温く湿っぽい空気が漂っていた。
 私達が踏み鳴らすスリッパの音だけが、辺りに響いている。
 刹那さんに汗を流しに行こうと誘ったんだけど、私の言葉が原因で、張り詰めた空気が漂う結果となってしまっていた。
 修学旅行の二日目。初日と比べても、今日が、余りにも平和過ぎたためだ。
 内心、そう願っていたし、もう大丈夫なんじゃないと言ってしまっていたんだ。
 結果的には、そう甘くない世界だと、私は気を引き締め直す事になっていた。
 先を歩く刹那さんに歩調を合わすと、刹那さんに言った。

「そうよね。
 なんてったって、このかのためなんだから!」

 刹那さんが、笑みを漏らすと言った。

「はい。ありがとうございます。
 共に頑張りましょう」

 刹那さんが、同性だと言うのにも関わらず、少しだけ格好良い顔で頷いた。
 新たな決意を抱きながらも、前を向く刹那さんを見やると、ふと思えた。
 今まで同じクラスなのに、刹那さんとは余り話した事はなかった。修学旅行中の短な時間だったけど、一つだけわかった事があった。
 この人は、本当に良い人だ、と。
 どうしてかと問われるならば、私は簡単に返答出来る。
 その真っ直ぐ過ぎるほどの瞳は、このかの身を深く案じていると信じられたから。

 二人の仲が、ギクシャクしている事は知っている。私には理由とか、難しい事は良くわからないし、身分不相応かも知れない。
 だけど、切に思う。
 このかと刹那さん、この二人が仲良くなってくれたなら、本当に嬉しい、と。
 そして、それを手伝えたらどんなに良いかと切に願う自分がいた。
 私に、何が出来るかなんて問われても、答えは返せない。だけど、この修学旅行中に機会があればなと思った。
 そんな事を考えながらも、疑問に思っていた事を、刹那さんに尋ねた。

「というか、刹那さんって、小林先輩の事知ってたのね?」

 すると、それからだった。
 私は、驚きを隠す事が出来なかった。
 あのクールな刹那さんが、小林先輩の事になると、まるで、泥酔しきっている人かのような濡れた瞳で熱く語り始めたからだ。

 その語りに、私は惚ける事となった。
 曰く、類い希なる戦略の天才。
 曰く、心技体、全てが揃った英傑。
 曰く、世が違えば、その求心力、魅力は世界を束ねていたはず。
 まるで、世の中全ての事象は、小林先輩が関与しているからこそとでもいうほどに、半ば陶酔してでもいるようだった。
 今、刹那さんに、明日雨が降りそうね、と尋ねたとしよう。
 多分、答えはこう返ってくるだろう。
 ええ、それも小林さんのお陰です、と。
 刹那さんが、高潮した顔を隠さずに言う。

「……全く持って、小林さんの器量には、恐れいりますね。
 アスナさん、知っていましたか? ネギ先生の極端な成長にも、小林さんが関与しているんですよ。
 その上、言葉などは必要じゃないんです。あのお方は、ただそのとてつもなく広い背中を見せただけ。
 たったそれだけの事で、ネギ先生の心の在りようを、より良い方向へと変えて見せたんです。
 私達と、たった一つしか歳が違わない、というのに。
 ……それに私も、いえ、これはいいでしょう。
 信じられますか?
 アスナさん、聞いているんですか?」

 私はというと、半ば惚けたように脳がストップしてしまっていた。だから、返事なんて返せる状況ではなかった。
 刹那さんが、小林先輩の事を誉めてくれる事に、多大な高揚感を得ていたのもそうだ。
 だけど、何よりも、小林先輩の凄さが身に染みて理解出来たからだった。
 たった一つしか歳が違わないというのに、なんて凄い人なんだろうか。
 小林氷咲という、優しく強い男性は。

 素人目から見てもわかる。あんなに強い刹那さんに、こうまで言わせるなんて。
 私には、強さを推し量る事なんて出来ない。だけど、とてつもなく強いという事だけは、身に染みるように伝わった。
 それに、それにだ。
 私は、変なものでも拾い食いしたんだと思っていた。
 でも、違った。
 落ち着き払う変なネギの一変とした様子は、そういう事だったんだ。

 思えば、符号していった。
 ネギは異様なほどに、落ち着いて見えた。その感覚に、誰かを見たような気がしていた。
 そうか。そうだったんだ。
 あれは、小林先輩の真似をしようとしていたんだ。だからこそ、重なるように、小林先輩の影が見えていたんだ。
 さながらそれは、尊敬する兄の背中を追いかける弟のように思えた。
 その上、その上だ。
 言葉を一切として必要とせずに、その広い背中だけでネギを成長させていたなんて、有り得ないくらいに反則だと思う。
 うん。
 格好、良すぎるでしょ。

 身体中が、熱を帯びていくのを感じた。
 染み渡っていくような高揚感に耽っていると、突然、刹那さんが大声を上げた。
 目は見開かれ、何やら驚愕でもしたかの様子だった。

「あ、そうか。そういう事だったのか。
 アスナさん! そう言う事だったんです!」

 面食らいながらも、言った。

「ど、どうしたの刹那さん?
 こ、小林先輩が格好良すぎる人だとは、わかって」
「それは周知の事実ですが、違います!」

 刹那さんが、遮るように言った。
 私は困惑しながらも、顔が熱くなっていくのを感じた。
 なぜならば、うっかり、秘め事を言ってしまいそうになっていたからだ。
 そんな私をよそに、刹那さんが立ち止まると腕を組んだ。うんうんと頷くように、口を開いた。

「修学旅行中、私はずっと、ある違和感を感じていたんです」

「あ、ある違和感?」

「はい。あの擬態の天才であり、戦略の異才である小林さんがです。
 どうして、新幹線に乗車中に相手へ易々と、本性を露わにしたのか、と。
 それは、私の失態を庇うためだったと、理由づけていたのですが……。
 それは違ったようです。いえ、厳密にはそれも、でしょうが……。
 ……いずれにしても小林さんの、類い希なる慧眼には恐れいります」

 刹那さんが誇らしげに、それでいて高潮を隠せない顔色で、うんうんと頷いている。
 私はというと、置いてけぼりにされたようで、少しだけ寂しくなった。

「えっ、どういう事?
 ネギから同じ新幹線に乗ってたとは、聞いてるけど」

「ええ、そうです。
 そして、それが同時に布石、だったんです。
 私の不手際により、小林さんは姿を見せなければならなかったのではなく、相手へと、わざと姿を見せたんです」

 何が何やら、わからない。
 脳内が混迷としていると、また、刹那さんが大声を上げた。

「その理由。それは……。
 あっ、あのお姿は!?」

 独りでに、視線を辿っていく。
 すると、私の身体は否応もなく、制止する事になった。
 普段と服装は違う。だけど、自信があった。見間違えようが、なかった。
 清潔感漂う、細身の体躯。颯爽として、堂々とした立ち姿。廊下の奥でひっそりと佇む後ろ姿は、正しく小林先輩に違いなかった。
 黒を基調とした、ワイシャツにジーンズ。それは小林先輩の雰囲気に、良く映えていた。
 身体中が高揚と、暖まっていくのを感じた。
 なぜならば、初めて私服姿を見れた事もそうだけど、この京都に置いて、小林先輩を視認したのは初めてだったからだ。
 ネギもそうだし、刹那さんもそうだし、私だけ蚊帳の外で、小林先輩を見ていないなんて、少しだけ寂しく感じていたからだ。
 なんなんだろう。
 この湧き上がってくるような、勇気みたいな感覚は,
 それは、とても暖かくて優しくて、不安なんて打ち消してしまうほどに強かった。
 定まらない頭で、考える。だけど、答えが見つかる事はなかった。

 切り替えて、小林先輩を見やった。
 何を、しているんだろうか。
 その時、気づいた。
 小林先輩のその奥に、子供の姿を捉えたんだ。
 転んだりでも、したのだろうか。床にうずくまり、泣いていた。
 小林先輩は黙して、子供を見つめていた。
 小さな、違和感を覚えた。
 独りでに、疑問が口をついて出た。

「なんで、助けないんだろう」

 素直に、そう思えた。
 小林先輩のイメージならば、直ぐにでも、助け起こす気がしたからだ。
 悩んでいると、刹那さんが答えてくれた。

「あの在りようこそが、小林さんの優しさなんです」

 湧き上がる疑問からか、直ぐに返した。

「小林先輩の、優しさ?」

 その問いに、刹那さんが、熱く語っていった。
 結論から言って、私はまた、新たな尊敬の念を抱く事になった。
 刹那さんは、こう言ったんだ。
 小林先輩の優しさは、時に厳しくもある。
 だけどそれは、相手を思うからこその、途方もないほどの優しさ。
 助けるのは、簡単。だけど、今助ければ、将来としてその人は同じ困難に当たった時、また人に頼ろうとするだろう。
 現実は、優しくない。その時に助けてくれる人がいなくても良いように、自発的な成長を促しているんだ、と。

 その言葉の数々が、印象的に鼓膜を震わせた。
 私は、思い知らされた気分になっていた。
 多大な尊敬はある。
 でも、どうしてか、同時に寂しく感じた。寂しく感じていたんだ。
 その感情の出所も、理由についてもわからない。
 だけど、私はまだ自分が、ただの子供なんだって思い知らされたんだ。
 小林先輩と比べたら、ただの子供なんだって、痛烈に痛感させられていたんだ。

 嫌な気持ちが、心をグルグルと渦巻いた。
 私、よりも。
 私よりも、小林氷咲という男性を知っている刹那さんの事が、羨ましく思えて。
 なんなんだろう。どうして、なんだろう。
 そんな感情を抱く自分自身が、酷く、浅ましく思えた。
 良く、わからなかった。
 初めての、感覚だった。
 そんな事を、思っては、いけないのに。そんな事を思ってはいけないという事は、十分過ぎるほどに理解しているのに。

 刹那さんが瞳を輝かせて、小林先輩の元へと駆けていった。
 気持ちの悪い、黒い感情が、心の中を覆い込み支配していた。
 刹那さんの、嬉しそうな顔を見たくなかった。
 大した事はない。ないはずなのに、それだけで、まるで、心にトゲでも突き刺さったかのような痛みが走った。
 刹那さんと同じように、私も駆け寄りたいという感情が溢れ騒いだ。
 理由もわからないのに、それを必死に押し留めようとする自分が、痛く思えた。
 まるで、見える何もかも、世界のすべてが、黒く塗り潰されていくような感覚を捉えた。
 まるで、世界が一丸となって、私を責めているような気がした。

 崩れ、落ちそうになった。
 でも、やっぱりそうなんだ。
 あの停電の夜のように、こんな崩れ落ちそうになっても、小林先輩は私を助けてくれるんだ。
 羞恥から、胸元に隠された首飾り。その肌を差すような冷たさを捉えた時だった。
 溢れ出るような勇気が湧いてきた。
 私の中の、黒いものを、静かに浄化していく感覚を捉えた。
 自分の感情は、わからない。わかりそうもない。
 だけど、小林先輩が、それで良いよって、導いてくれているような気がしたんだ。
 まるで、仄かな月明かりのように、優しく。
 自然に、笑えていた。
 心からの笑みが、漏れた。
 だってこの首飾りは、刹那さんも知らない。
 この鮮やかに彩られた世界の中で、二人だけの、大切な思い出なんだから。
 
 
 
 
 —近衛近右衛門Side—
 
 
 
 
 窓の外には、春が咲き誇っていた。緩やかな風に、好ましき生徒達の喧騒が響いている。
 わしは学園長室のお決まりの椅子に座り、これまたお決まりとなった熱いお茶を啜っておった。
 ふと、今、氷咲くんは何をしているじゃろうか、と笑みがこぼれた。
 本当に、心優しき少年じゃ。
 心配に思っておった、刹那くんも、この頃は、良き瞳になってきていた。
 それもおおよそ、氷咲くんが、絡んでおるのじゃろう。
 活動資金を銀行に振り込んでおいたが、何も連絡がない事を思うに、問題はないようじゃな。

 その時、ふとある事を思い出して、眉根をひそめた。
 ある乱入者の事じゃった。
 それは二組。一組はエヴァ達、もう一組は、より夜更けに訪ねてきた。
 髭を撫でながら、呟く。

「あの飄々として、面倒臭がりのあ奴が、氷咲くんのために、京都まで赴くとはのう……。
 じゃがそれも、全てを知った上じゃと、正にこれも必然と言えよう。
 眠っていた真実の物語りが、少年達に、その素顔を見せ始めた、という事じゃろうな……」



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——裏その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:28
—桜咲刹那side—
 
 
 
 
 視界に、ある男性の後ろ姿が映っていた。
 そのお姿は誰が見ても、まるで、平凡な一般人にしか見えない事と思う。
 だが、それは間違いだ。彼は、一般人などでは断じてないのだ。
 なぜならば、私にはその途方もなき実力のほどが、手に取るように理解出来ているのだから。

 目を凝らせば、確かに視認出来る。感じられる。
 限りなく透明に近く微細だが、身体中から発露されている、絶対の強者の威圧を。
 それはさながら、炎天下に昇り立つ陽炎のように音もなく、厳かにして揺らめいていた。
 爆発的に蓄積していくまでの高揚感に、打ち震えた。
 小林氷咲という男性を、本当の意味で理解出来るものは、この世界に置いて少数に分類される。
 それは、同様の悪しき咎を、持ち得ている者だけなのだから。
 それは、一つの真実を表していた。
 彼の存在や性質を支える資格がある者に、自らの存在は在る、という事実だ。それこそがこの上なく誇らしく、寒々しきまでに嬉しかった。
 独りでに、爪先が床を蹴っていた。高鳴る想いに、背中を押されるかのように。
 身体も、嘘偽らざる心でさえも、彼という絶対の存在に引き付けられているかのように。

 穢れなき白色も似合ってはいた。
 だが、これほどまでに妖艶な黒色が似合う男性を、未だかつて見た事がない。
 無駄のない細身の体躯はやはり颯爽としていて、魔の匂いは微塵も感じ取れない。異様なまでの清潔感に満ちていた。
 気品を感じずにはいられない戦闘衣装を彷彿とさせる、漆黒が、辺りを呑み込むように整合していた。

 初めて拝見する服装だが、おおよそ、小林さんの趣向なのだろう。
 簡素なワイシャツにジーンズという出で立ちだが、その飾り気のない服装は、逆に人の目を止めてしまうのだ。
 魅入られのを抑える事など、不可能だった。元より、抑える気などはないが。

 間近にたどり着き、小林さんの反応を心待つ。
 だというのにも関わらず、小林さんは黙して身動きを取らなかった。
 少々、不思議に思えたが、直ぐに気づけた。
 彼を良く知りもしない人達が見れば、気づいていないのではないかと暗愚な言葉を吐くだろう。
 だが、それは違う。
 相手はあの、小林さんなのだから。
 あのエヴァンジェリンさんにさえ打ち勝って見せた、威風を放つ強者なのだから。
 それならば、その様子には、何らかの深い意味合いが存在する事は必然と言えた。

 純粋な高揚感が、湯水のように湧き出てきた。
 それは、彼の真意を慮れるまでに成長した。いや、成長を促されて期待に応える事に成功した自らへの、武者震いのようなものなのだろう。

 おおよそだが、理由は違えど、小林さんは新幹線の時と同様に、わざと、その姿をお見せになっているのだ。
 どうしてかと問われるならば、一秒たりとも、答えに窮する必要はない。
 簡単な、格差と言えよう。私の未熟な実力を背景に、考えて見ればわかる。
 どんなに血眼になって探そうとも、どんなに目を皿にして探そうともだ。
 まるで、闇を司るかの如き隠密に優れた彼を見つけ出すなど、限りなく不可能に近いのだから。
 それならばどうして、その勇姿をお見せになっているのか。
 それはつまり、こういう事になる。
 わざと姿を見せているのにも関わらず、私達が初めに見つけたかのように振る舞ってくれているという事がだ。
 そして、その真意はこうだろう。
 一つ目は、私達に自信をつけさせるために、だろう。
 修学旅行は、まだ始まったばかりだ。自信とは、これからのモチベーションを高めるために必須なのだ。
 二つ目は、私達に何らかの言葉を伝えに来たのだろう。
 なぜならば、小林さんの挙動の全てには、奈落のように深い意味合いが存在するのだから。
 そして、その思惑に感づく事が、彼により一層の信頼を向けられる結果に繋がり、まだまだ未熟な自らの成長に繋がっていくのだ。
 なんとしても、そのお考えを突き止め、期待に応えなければならない。

 小林さんは、未だに気づかない振りを続けていた。
 気を引き締めなければならないのは理解しているのだが、自然と、頬が緩んでしまう。
 なんて大きくて、広すぎる背中なのだろうか。
 その時、突如として、触れたいという衝動に駆られた。
 だが、必死におし留めた。
 惚けを隠せずにいたが、行動をしなければ始まらない。そっと、背中に声を放った。

「こ、小林さん、お疲れ様です。
 昨夜はどうもありがとうございました」

「こ、小林先輩もお風呂ですか?
 あと昨日はありがとうございました」

 正に、夢中となっていたようだ。
 いつの間にか、アスナさんも傍まで来ていた。
 廊下内に温めの、湿った空気が漂っている。夜更けとなってきているからか、宿泊客の喧騒もなりを潜め始めていた。
 小さな静寂が降りた後、静かに佇んでいた影がゆっくりと振り返った。
 その動きは淀みなく、振り返ってくれているだけなのに、私の心拍は急激に跳ね上がっていった。

 小林さんが、私に向けて微笑んだ。
 するとまるで、辺りの空気でさえも、一級品の気品のようなものが漂い始めたような気がした。
 致し方ないだろう。
 私の視線が、釘付けとなってしまうのも。
 三者三様の長き沈黙。だがそれは、身体中を火照らせていく。
 頬が熱くなって行くのを感じながらも、私は必死に頭を悩ませていた。
 小林さんが、伝えにきただろう事柄。それは一体という言葉が、脳内を騒がせていたからに他ならない。
 だが、答えを見つける事は出来なかった。
 いや、それも当然なのではないかと、素直に思えた。
 なぜならば、あの小林さんの内情を推し量ろうなど、未だ未熟な己に出来うる範疇を逸脱していると認めたからだった。
 それを認められない者は、さながら、自らを身の程を弁えない不埒な愚者だ、と言って回っているようなものなのだから。

 だが、諦める気は毛頭なかった。
 妥協などという由々しき行いを、決して許してはいけないのだ。
 そんな血迷った事を続けていたならば、小林さんの横に並び立つ事など、夢のまた夢なのだから。

 小林さんは、一体、何を。
 次の瞬間、苦悩する私をよそに、小林さんの口は開かれた。
 そしてそれは、予想さえしていなかった言葉だった。

「いや、お礼なんて必要じゃないよ。
 悪いのは、俺。覗き見なんていう、姑息な真似をしてしまったのは俺の方なんだから。
 身分不相応な行為だった。
 すまなかったね」

 心の底から申し訳ないといった表情や仕草で。
 理解出来そうもない言葉に、否応もなく、私は思考停止に陥った。
 辺りにまた、滑稽にも静寂が降りていく。
 湿気を帯びた温風が通り過ぎると、次第に張り詰めたものへと変わっていった。
 脳内は混乱しきり、狐にでもつままれたようだった。だが、半ば必死に彼の言葉を噛み砕くように半数した。
 逡巡の後、何とかその言葉の意味を理解した時、半ばうろたえてはいたが、問答無用と私の口は開かれた。

「い、いえ!
 元はと言えば、私の力量不足が問題なのですから!
 小林さんが謝る必要はどこにも……」

「そ、そうですよ!
 小林先輩が謝ることないです!
 見ててくれたから、みんな頑張れたんだし……私も嬉しかったですし……」

 同様の思いだったのだろう。
 アスナさんも酷く狼狽した様子で、そう加勢してくれた。
 焦り狂う脳内に活を入れて、再度、考えてみる。
 小林さんは昨夜の行動を覗き見だったのだと比喩し、私達に謝罪をした。
 だが高らかに、そして、率直に言えるのだ。それは違う、と。
 昨夜の一件。みすみすお嬢様を危険にさらしたのは、誰が見ても間違えようがなく私の落ち度だ。
 その上、平穏無事と助けられたのも、私の功績ではない。
 小林さんの鋭利なまでに穿った戦略を使用させて貰っただけ。私はただ、それを実行しただけに過ぎないのだから。
 多大な感謝の念こそ胸中にあれど、頭を下げられる謂れはないのだ。
 私の方こそが当然の如く、深々と頭を下げなければいけない立場、なのだから。

 ならば、どうして。
 そういった思いが、心の内を渦巻いていた。
 答えは出なかったが、小林さんを貶めている状況は許容出来ない。
 アスナさんと二人して、半ば無我夢中に否定をし続けた。
 だが、小林さんは頑として譲らなかった。こちらに謝罪し続ける意思の固さに、私は確信していた。
 やはり、私に何かを悟らせようとしている、と。

 それから私の力不足が原因となり、小林さんと私達の論争は続いていった。
 道程は、先行きが見えない平行線を辿っていく事となった。
 致し方ない事と、思う。
 小林さんのこの行動の裏には、何らかの深き意味合いがある。
 だが私の実力では、彼の真意を推し量る事は、さながら、人類が宇宙の全てを知ろうとするほどに難しい事柄なのだ。
 その思惑を理解出来もしないのに、はい、そうですか、と流す事は出来なかったからだ。

 私はうろたえたまま、無益な時間が流れていく。
 小林さんに無礼にも頭を下げさせているというのに、何も出来ない自らが酷く煩わしかった。
 だが、結果から言えば論争は終結した。
 突然として、小林さんの口許に、暖かい笑みが浮かべられたのだ。
 その笑みは、緊迫していた雰囲気を穏やかなものに変えていく。
 まるで、神々しきまでに見える微笑み。私は見惚れながらも、やっと、彼の本当の思惑に辿り着いた。

 その表情が、邪気のない笑みが物語っていたのだ。
『肩の力は抜けたかな?』
 確かに、そう感じ取れた。
 こうまでして頂けなければわからない自らに辟易としながらも、そういえば、と思えた。
 修学旅行。お嬢様は、幼少の頃から私の誇りであり、存在意義だった。
 だが、その大切な命を、不確定要素を孕みながらお守りしなければならないという重圧は、予想以上に遥かに重かった。
 ネギ先生やアスナさんなど、確かに信頼出来る仲間も出来ていた。
 二人の暖かき気遣いには、多大な感謝をしている。これからも、色褪せる事はないだろう。感謝してもしきれないほどの感情で、胸が一杯だった。

 だが、浸透していくように思う。
 心の中だけに存在する、もう一人の私。
 まるで、氷のように冷めきった私は、こう結論づけていたのだと思えた。
 自らの命を賭して、自らの命が消え行く最期まで、お嬢様を守り抜けられるのは、自らだけなのだ、と、
 そして、ある事に気づいた。
 その傲慢なまでの自負が、私を縛り付けて四肢を重くし、柔軟な思考を抑制していたのではないか、と。
 そう、なのだろう。
 だからこそ、お嬢様を危険にさらすという、愚を犯してしまった。

 さながら、頬を思い切り張られたような実感が、衝撃と共に湧き起こった。
 私はなんという愚か者なのだろうか、と羞恥の感情が表れ騒いだ。
 身の程を知れと、強く自らを叱咤した。
 私には、小林さんのように、神がかったまでの実力などないのだ。
 一際異才を放ち、実力者達から一目置かれている武器、頭脳明晰な戦略はない。
 たかが、野太刀を振るえる程度の小娘。私一人が出来うる事など、高が知れていると重々理解していたではないか。
 あの光り輝くような出会いの日に、小林さんにそうご教授して頂いていたというのに。
 自らの身の程を深く知る事から、強者への第一歩となる。
 そんな事はわかりきっていたというのに、私は。

 私の視線が自然と、救いを求めるように小林さんへと向かう。
 彼は、至らぬ私をまた、あの出会いの日と同じように、導きに来てくれていたのだ。
 まるで、家族のように穏やかに優しく。
 その透き通る瞳は真っ直ぐに、そして、私の全てを見透かすように静かに在った。
 そして、その視線に含まれたある言葉が、内心に訴えかけられた。
「きみに出来る事は、まだ少ない。
 だが、きみには、こんなにも頼もしき仲間達がいるじゃないか。
 きみは、独りきりなんかじゃないんだ」

 そう、だ。
 正に、目から鱗が落ちたかのような実感が湧いた。
 アスナさんもネギ先生も必死に、ただお嬢様を守ろうとしてくれた。
 それは、簡単な言葉に思えるかも知れない。だが、それは違う。簡単な言葉などではないし、簡単に行動に移せはしないのだ。
 なぜならば、昨夜のあの場には、下手をすれば命を落とすような危機が、明確にあったのだから。
 それなのに二人は、そう在る事が当然かのように、私に加勢してくれた。
 それは小林さんの生き様、尊き在り方と、繋がったように思えた。
 善意に、見返りを求めない姿勢。打算なき姿勢。それは、とてつもなく希有な心意気。

 私は、独りきりではない。
 それはさながら、一種の魔法のような言葉。その効用は、とてつもないほどの勇気という感情を、身体中にまとわせる。
 私の勘違いでなければ、二人は私を信頼してくれるように思う。
 それなのにも関わらず、私が二人を信頼しないなんて、傲慢と呼ばずして何と呼ぶのか。
 小林さんは、それを教えにきてくれていたのだ。
 わかってはいたが、なんという器の大きさ、なのだろうか。
 私の至らぬ心模様を察知してくれて、さりげなくその道を正してくれる。
 その類い希なる洞察力には脱帽を禁じ得なかった。
 私の目に移る彼は、間近にいる。だが、彼の本質は、手の届かない天空にいる。

 心の中で、強く呟いた。
 小林さん、見ていて下さい。
 私は皆さんと協力しあい、必ずお嬢様を守り抜いて見せますから。
 いつか必ず、あなたの傍に立てる資格を持って見せますから。




 心地のよい談笑が、廊下に響く。小林さんが主導で、楽しそうに話している。
 その微笑みを見ているだけで、私の身体は癒されていくように感じた。京都に置いての、数少ない安らぎの時間となっていた。
 小林さんのプライベートを知れる事が、この上なく嬉しかった。まるで、空に浮かぶ心地と言えた。
 小林さんは、学園で育てているサボテンの開花を待ち望んでいるらしい。
 ああ、なんて優しい人なのだろうか。
 私とは違い、生い立ちに決して穢される事なく、サボテンにまで、その溢れるような慈悲をお与えになっているとは。
 機会があれば、私にも見せて欲しい。だが、羞恥心からか、見つめる事しか出来なかった。

 それからの顛末には、アスナさんと二人して、笑いをこらえる事が出来なかった。
 学園長や高畑先生の素晴らしさを語っていた小林さんが、突然として、こう言ったのだ。
 ふざけた、のだろう。終始真顔で、さも当然のように恍惚とした表情で。

「全く持って、困ったものだ。学園長の壮大なまでの器量にはね。
 俺はこの頃、いつ如何なる時も、素直にこう思うんだ。
 学園長を祭るために、麻帆良に豪華絢爛な仏閣を建ててはどうか、とね。
 うーん……名前は、近右衛門寺院にしよう。近右衛門寺院……ああ、なんて素晴らしく荘厳な響きなんだ。
 世界樹も素晴らしいものだが、近右衛門寺院の建設のためならば斬り倒してもいい」

 二人して、唖然とした。目は点になっている事と思う。
 時が止まったかのような錯覚を受ける中、アスナさんが我慢出来ないと吹き出した。
 私はというと、身体を震わせて、耐えていた。
 いつ如何なる時も思っている。
 三回もその姿を現した、近右衛門寺院という名称。
 世界樹の役割について、小林さんも知っているはずなのにも関わらず、それを斬り倒せとは。
 私が込み上げてくる笑いに苦労しているというのに、小林さんは真面目にこちらを直視していた。
 その表情には、確かにこういう言葉が含まれていた。
「そう思うだろう?
 桜咲さんは他に意見はないかな?」
 真顔は、反則だと思う。
 我慢出来ずに吹き出してしまい、ええ、そうですねと返答するのが精一杯だった。

 それからの小林さんは気を良くしたのか、更に意気揚々とふざけ続けていた。
 私達は込み上げる笑いから、頷く事しか出来なかった。
 なんて幸せな空間、なのだろうか。
 思えば、笑うのが楽しい事だと忘れていた気がする。
 それを思い出させてくれた小林さんに、感謝を隠せなかった。

 だが、それからの事だった。
 私の身体は、煮えたぎるようなまでの憤りに支配された。
 それは世の辛酸を嘗めたかのような表情と共に、小林さんの口から語られていった。
 なんと得体の知れない不届き者が、分をわきまえずにも、小林さんに詐欺を仕掛けてきたというのだ。
 私は、独りでに俯き目を閉じていた。

「……私の小林さんに、詐欺を仕掛けるとは、己の格を理解していないようですね。
 小林さんの手を煩わせる必要もない。
 どんな方法を使ってでも犯人を突き止め、ここは、私が生きているのを後悔させるほどの引導を……」

 言葉の通りだった。
 どこの誰だかは知らないが、自らが行った罪の重さを、徹底的にわからせてやらなければならない。
 小林さんもお忙しい身の上だ。ここは、私が打って出なければ。
 では、どのように犯人をいぶり出す、か。
 そうだ。ここは学園長にお願いしてみよう。学園長の手腕ならば、たちどころに犯人を特定して頂けるはずだ。
 そして、その時が、卑しき犯人の最期の時となるだろう。
 独りでに、口許がへの字に曲がっていく。
 心の中で、小さく呟いた。
 ……悔い改めても、もう遅い。
 私の手を汚す事になるが、いや、違う。これは粛正。これは世直し。……必要な事。
 その時、誰かに勢い良く体を揺さぶられた。

「ち、ちょっと刹那さん!
 なんかおかしくなってるわよ!」
「……ここは一刀両断か、いや、それでは生ぬるい。じわじわと地獄の苦し……。
 えっ、は、はい。どうかしましたか?」

 突如、視界が開けた。
 するとどうしてか、アスナさんが焦ったように身体を揺さぶっていた。
 理解不能な状況に、静寂が広がっていく。
 小林さんも、私と同様に唖然した面持ちで、こちらを見やっていた。
 私は、心の中で頷いた。
 アスナさんには、困ったものだ。これが、天然と言われる性格なのかも知れない。
 小林さんも、アスナさんの行動に驚いていた。尚も、アスナさんが続ける。

「だ、大丈夫。なにもなかったのよ。きっと」

「は、はあ、それならば良いのですが」

 意図は掴めなかったが、私は頷いた。
 彼女には失礼だとは思ったが、今、私は考えるべき事があるのだ。

 それからも、楽しき談笑は続いていった。
 途中、小林さんが、昨夜の一件を誉めてくれた。
 高揚感に打ち震えたが、私は訂正した。
 なぜならば、昨夜は小林さんの類い希なる戦略に助けられただけだからだ。

 その戦略を比喩するならば、さながら、忘れた頃に効いてくる毒のようなものだろう。
 新幹線での一件。当初私は、自らの不手際のせいで、小林さんの邪魔をしてしまったと思い込んでいた。
 だが、それは違ったのだ。
 あの擬態の天才であり、戦略の異才である小林さんが、どうして、相手へ易々と、本性を露わにしたのか。
 その答えは、わざと姿をお見せになったと仮定するならば、面白いように話しが繋がった。
 偶然をも、策に組み込んでしまう反則的な頭脳。未来を見てきたかのような慧眼。
 それはまるで、鋭利な鷹の目を彷彿とさせた。
 小林さんは遠くからさりげなく、私達を助けるためにお姿を晒して見せたのだ。
 それで命を狙われるかも知れない危惧を、無視してまで。

 ここからは、私の推測だが、間違ってはいないと断言出来る。
 まず、小林さんの異能さを顕著に表している部分は、洞察力で相手の思考を完全に見抜き、操り人形のように誘導する事にある。
 寸分違わず見抜いていく様は、正に神がかっていると言えよう。

 小林さんは敵の思考を分析し、こう考えられた。
 敵に取って見れば、自らの存在は邪魔でしかない不確定要素なのだ、と。
 それはそうだ。
 麻帆良の重鎮達に至っても、つい先日まで、彼の力量を推し量れるものはいなかった。
 それは小林さんの天才的なまでの擬態能力によるものだが、京都を拠点にしている敵達が、知りようもない。
 重鎮達に至ってさえ、小林さん自らが事を起こすまで、気づかなかったのだから。

 小林さんは的確に、そこを貫く。
 それならば突然として、ノーマークの得体の知れない人物が参戦してきたら、相手はどう思うか。
 それはそれは、困った事態となるのは明白だ。
 小林さんは、隠密の天才でもある。要注意と調べても、探しても、闇に溶け込んだかのようにその姿は、影も形もないのだから。

 それはそれは、不安に陥ってしまうだろう。
 計画に支障をきたすといった、レベルではないのだ。
 探しても見つからないという事は、姿を隠しているという事。そして、姿を隠せるという事は、その実力が抜きん出ている事の証拠にもなるのだから。
 敵は、こう思うだろう。
 学園長の名声は高い。
 近衛近右衛門が雇った、百戦錬磨の護衛なのではないか、と。

 そして、昨夜、その戦略という疑心は大輪の花を咲かせた。
 小林さんの不確定な存在が、敵に疑心暗鬼を呼び込み、決定的な隙を形作った。
 お嬢様を平穏無事に奪還するという、とてつもない結果を弾き出したのだ。

 小林さんは、こちらに笑ってから頷いた。
 それは、正解だと示していた。
 ああ、なんという人なのだろうか。
 小林さんは、もっと評価されるべきお方だ。学園長にも、報告して置こう。
 この人と共に在れば、私はより高みに昇れる。
 この人と出会えた事を、私は初めて運命に感謝しようではないか。
 嘘偽らざる、心境と共に。




 身体が、ポカポカと暖まっていく。
 首飾りは、外している。羞恥心から、浴衣を脱ぐ時、同時に外したのだ。
 露天風呂は、正に爽快だった。
 夜空には満点の星達が煌めき、涼しめの風が頬をなでる。
 隣に座るアスナさんが、笑っていた。近衛近衛右門寺院について、語っていた。
 だが、私はしみじみとした気分となっていた。
 小林さんの存在がないのは当然だが、少しだけ寂しくなっていた。

 夜空に張り付く月を見ながら、思う。
 あなたは、私を独りきりではないと言いましたね。
 私も、いつかあなたに言いたいんです。言ってあげたいんです。この、想いと共に。
 この世界は、厳しいかも知れません。生きるのさえ、難しい世界かも知れません。
 だけどあなたも、独りきりなんかではないんです。
 ……私が、います。

「……私があなたを支えてみせますから」

「ん?
 どうしたの?」

「いっ、いえ、何でもありません!」

 感傷的な自らを打ち消すように、勢いよく顔を湯に飛び込ませた。



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——裏その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:28
−ネギside−
 
 
 
 
 少しだけ肌寒く感じる部屋の中心に、渋いお茶の香りが立ち上っています。
 テーブル前の座布団に座っていた僕は、猛る焦燥心を必死に抑えつけようとしていました。
 静かに湯呑みを傾けると、喉元を熱い液体が通り、次第に身体が温まっていく感覚を捉えました。
 テーブルを挟んで座るヒサキさんが、こちらに小さく微笑みました。
 湯のみから両手に伝わる、穏やかな熱。失礼だったのではないかと思いますが、このお茶もヒサキさんが用意してくれたんです。
 本当に、優しくて、大きな人です。
 自分でも何を言っているかわからないほど焦り狂う僕に、それが当然だと言わないばかりに付き合ってくれて。
 善意に見返りを求めない姿勢。その尊い人間性は、さながら、天から伸びる一筋の救いの糸を彷彿とさせていました。

 どうして、焦り狂っているのかと問われるならば、記憶を昼間にまで遡らせる必要があります。
 修学旅行の、自由研修。今日は、皆さんが各々、自身が勉強したい場所に赴く一日でした。
 申し訳ないのですが、僕は皆さんの有り難いお誘いを断り五班の引率を選択しました。
 なぜならば、五班にはこのかさんが、守らなければならない生徒がいたからです。
 道行く、何もかもが新鮮に感じられました。
 京都の風情を感じられる街並みに、日本人の気品に満ち溢れた人柄。お父さんの手掛かりが残る、古都。
 致し方ない、とは言えませんが、正直に言って内心、心は踊っていました。

 ですが僕は、強く自身を戒めていました。
 面に出さないように深く注意して、皆さんに危険が及ばないようにと辺りに目を凝らしていました。
 なぜならば、昨夜の由々しき失態が、僕の戒めとなっていたからです。
 確かに結果的に言えば、平穏無事と、このかさんを救出する事は叶いました。
 確かに結果的に言えば、刹那さんの意図を辛うじて見抜け、少しでも役に立つ事は出来たかと思います。
 遥か遠くにある尊敬する人の背中に、微細でも近づけたのではないかと満足していました。

 ですが、事の発端をつくってしまったのは他ならない僕、なんですから。
 僕の甘い判断により、このかさんを危険にさらしてしまった。
 僕の甘い判断により、アスナさんや刹那さんに、無駄としか言えない迷惑をかけてしまった。
 その事実に僕の心は、ただ単純に恥ずかしいといった感情で埋め尽くされました。
 ですがそれは、どんなに願っても、変える事は出来ない事実なんです。
 僕は、落ち込む事を止めました。その内情を振り切るために、先の未来を夢想しました。
 なぜならば、落ち込んで下を向くだけでは、何の解決にもならないと素直に思えたから。

 昨夜、夜霧が漂う上空。残念ながら、姿は見えませんでした。
 ですが、風に惑いながらも消えずに残る、紫色の魔力の波動を眺めながら、僕は強く決意したんです。
 いつの日か、必ず隣に並び立ち、恩返しをして見せる、と。
 必ず、太陽のように暖かくて遠い背中に、触れて見せるんだ、と。

 ですが、僕はまた、迷子のように焦り落ち込んでしまいました。
 僕はまだまだ、未熟な子供なんだと再認識する結果となりました。
 そのアクシデントは、皆さんと奈良公園の探索中に起こりました。
 なんと、生徒である宮崎さんに、愛の告白されてしまったんです。
 恥ずかしながら、僕はそれからの記憶が、ほぼありません。
 疑問や否定や肯定、倫理。色々な思いが脳内を駆け巡り、ヒサキさんの言葉を借りるならば、パンクしてしまったんです。
 その上、また僕は過ちを犯してしまった。
 言い訳にもなりませんが、焦り狂っていたからでしょう。
 生徒である朝倉さんにまで、秘匿しなければならない魔法を知られてしまった。
 反省と混乱が、僕の心を騒ぎ立て、打ちのめしているようでした。
 そして、今に至ります。
 ああ、僕はなんて情けないんだ。
 皆さんと約束したにも関わらず、現状として、ヒサキさんに迷惑をかけてしまっている始末。

 趣のある一室には、僕の心を表しているかのように、冷たく湿った空気が沈殿していました。
 申し訳ないという気持ちで、胸が一杯でした。
 そんな折りの事でした。
 ヒサキさんが、自嘲めいた笑みを浮かべました。
 その笑みは、停滞していたはずの場を、一瞬にして動かしていきます。

「ネギくん、恥ずかしながら俺は、恋愛については疎い方なんだ。
 だけど、俺の精一杯で持って、きみに言葉を送ろうと思う」

 僕はその言葉に、心底、率直に意外だと思いました。
 なぜならば、ヒサキさんの印象。それは、如何なる時も落ち着き払う事が出来る、百戦錬磨な大人と思っていたからです。
 よって、恋愛の酸いも甘いも知り尽くした人だと思い込んでいたんです。

 ですが、次の瞬間には、深く頷ける自分がいました。
 そうか。
 ヒサキさんは、清廉で実直過ぎる人だからだ、と。
 とても魅力のある男性ですから、おおよそ、女性には意図せずとも好意を持たれてしまうに違いありません。
 ですが、ヒサキさんは、本当に好きな人としか交際しないなどの真面目な理由から、経験が少ないのではないかと推測しました。

 僕は、真剣な表情で頷きました。
 そんなヒサキさんを心の底から尊敬して、憧れているからこそ、僕は申し訳なく思いながらも相談させて貰っているんですから。

「そ、そうだったんですか。
 はい。よろしくお願いします」

 ヒサキさんが小さく頷きました。
 僕の目を数秒、見据えて、口を開きました。

「俺も少し前に、きみと同様の感情で思い悩んでいた時があった」

 僕の口から、疑問と驚きがこぼれました。

「ええ、そうなんですか?」

 ヒサキさんがまた、自嘲めいた含み笑いを漏らしました。

「ああ、そうだよ。
 この前の、河川敷を覚えているかな。
 ネギくんが俺を、勇気づけてくれた時があっただろう?」

 僕は驚きながらも、素直に納得出来ました。
 つい先日の情景が、頭を過ぎっていきます。
 そうか。あの夕闇が迫り来る河川敷でヒサキさんは、まるて、一枚の絵画のように黄昏ていました。
 あの時、そういった理由が隠されていたとは、思いもよりませんでした。
 そして、皆さんの想いと僕の想いが、微力ながら、ヒサキさんの力となれていた。その事実が、堪らなく嬉しく感じました。
 ヒサキさんが、一拍置いた後、口を開きました。

「あの時の俺は、酷く思い悩んでいた。
 ある心優しい少女から、告白をされて。
 その少女はまるで、聖母のような少女でね。こんなに愚かな俺を、暖かい眼差しで、守ろうとしてくれたんだ。
 そして、俺は、彼女の事を大切な存在だと感じていた」

「……そうだったんですか。
 ですが、それなら、何も問題はないような」

 そう、小さく言葉が漏れ出ました。
 双方が共に大切に想い合っているのならば、悩む必要がないんですから。
 ですが僕は、今日何回目でしょうか。
 まだまだ子供なんだと、再確認する事となりました。
 ヒサキさんが虚空を見つめてから、小さく笑いました。
 僕は、居たたまれない気持ちとなっていきました。
 なぜならば、その儚さを孕む笑みは、確かに、深い罪悪感を孕んでいるように見えたからです。
 ヒサキさんが迷いを振り切るように、一度、大きく息を吸い込みました。
 そして、口を開きました。

「確かに、嬉しかった。嬉しかったんだよ。
 だけど、その大切っていうのは、家族に向けるような親愛といった感情から来ていたんだ」

 親愛。その言葉が、心に降りてきたような錯覚を受けました。
 家族に対する、愛情。それは未熟な僕にも、何となく理解出来ました。
 僕がお姉ちゃんやアーニャや、お世話になった人達に向けているような感情、でしょう。

「親愛、ですか」

 ヒサキさんが、小さく頷きました。

「そうだね。
 それに、俺には、別に好きな人がいたんだ。
 だからこそ、その想いに応える事はできなかったんだ。
 嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたからね。
 断った後、俺は罪悪感から申し訳なくて、塞ぎ込んだ。
 酷く、苦悩した。もう、立ち直れないんじゃないかと思うほどにね。
 だけど、俺は、立ち直る事が出来た。
 ネギくんもそうだし、麻帆良の皆の支えによってね。
 そして、気づかされたんだ」

 そう、か。
 だからこそ、ヒサキさんは苦悩していたんだ。
 その女性が本当に大切だからこそ、本当に案じているからこそ、明確に断る。
 罪悪感に身を切られながらも、嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたから。
 なんて大きくて、強い人なんだ。
 自問自答をしました。
 僕ならば、それが最善だと理解していたとしても、断る事が出来るだろうか、と。
 自分に好意を持ってくれている女性を、拒絶するなんて出来るだろうか、と。
 答えは、出ませんでした。
 そして、その経験を通してヒサキさんが得たものが、無性に知りたくなりました。

「何を、ですか?」

 ヒサキさんが再度、虚空を見つめました。
 今でも、罪悪感から悔いているのかも知れません。その表情は苦虫を噛み潰したかのように、しかめられています。
 ですが、次の瞬間でした。
 僕は、唖然としました。
 ヒサキさんが、笑ったんです。
 それは、心の底から現れたような微笑みで、冬から春に切り替わるように。
 僕は、疑問に思いました。
 どうして、僕を真っ直ぐに見つめて、笑えるんだろう、と。

「落ち込んでいても、何も変わらないってね。
 前を向く事、それこそが、何より大切な事なんだ。それこそが、告白をしてくれた彼女に応えられる、最低限の償いなんだと気づかされたんだよ。
 なぜならば、落ち込む俺の姿なんて、彼女は望んでなんていないと思えたから。
 長くなってしまったけど、この話しを打ち明けた上で、ネギくん、まだ未熟な俺がきみに言える事は一つだけだ」

 辺りに、静寂が広がっていきます。
 まるで、時が制止したのではないかと錯覚してしまう空間を、時計の音色と強く深い意志が否定していました。
 僕は同性だというのに、その微笑みに魅入られていました。
 ふと、思いました。
 ヒサキさんが実力者であるのは、明白です。
 先読みの天才。刹那さんが言っていたように、人の思考を紐解き、操る天才。
 ですが、本当に強いのは別の部分なんだ。
 それは、心。信念を貫き通し、決して曲がる事のない強固な意志。
 それこそが、僕が尊敬し憧れている根幹であり、人心を惹きつけて止まない人柄に繋がっていくんだ。

 ヒサキさんが、唐突にも真顔になりました。
 そして、ある感情が静寂を打ち消すように、僕の心へと飛来してきました。

「悩んだっていいんだ。頼る事も構わないんだ。
 だけど、その答えは自分で見つけるんだ。自分で納得できる答えは、自分だけで見つけなければならない。
 俺が、尊敬するある人が、こう言っていた。
 純真なる想いを伝える事こそが、きみの為すべき事だって。
 何も必要じゃないんだ。
 考えて、考え抜いた末にたどり着いた、きみだけの答えを彼女に伝えよう。
 例え、どんな結論になろうとも、それが、その彼女が、何よりも欲する答えだと思うから」

 その言葉の一つ一つが、僕の心の世界を、一変とさせました。
 大袈裟なんかじゃない。
 まるで、見える景色が色を持ち、意味を持ち始めたかのように感じました。
 そうか。そうだったんた。
 答えは、こんなに簡単で身近で、たった一つだけだったんだ。
 僕自身の答え。考えて、考え抜いた末に出た結論を、宮崎さんに伝えれば良かっただけなんだ。
 それがどのような結果になろうとも、彼女を傷つける結果になろうとも、それこそが彼女の真摯な気持ちに応えるたった一つの方法。
 徐々に震え上がっていく身体を捉えながら、僕は口を開きました。
 最大限の感謝を持って。

「は、はい!
 ありがとうございました!
 考えて、考え抜いて結論を出してみます……。
 ……僕だけの、答えを」

 ヒサキさんが、静かに立ち上がりました。
 僕に微笑みを向けると、帰るよと言いました。
 僕は次から次へと溢れ出てくる感謝の念をそのままに、再度、誠心誠意で頭を下げました。
 ヒサキさんは小さく頷くと、出口のドアに向かって歩いて行きます。
 その背中は、とてつもなく大きく見えて、僕は見つめていました。

 さあ、僕だけの答えを見つけるんだ。
 そう、考え込もうとした瞬間でした。
 正に、予想外な事態が巻き起こったんです。
 唐突にも、猛々しい叫び声と共に、ドアが強く開かれたんです。
 さすがのヒサキさんも、敵地ではないここで、まさかそうなるとは予測していなかったのでしょう。
 為す術なく全身に衝撃を受けて、小気味の良い音と共にこちらに吹き飛んできます。

「こ、小林の旦那ぁー!
 訳を説明させてくだせぇー!!」
「ご、ごめんなさーい!」

 僕は唖然としていたため、受け止める事も出来ず、二人でもみ合うように転がってしまいます。
 そんな最中、脳内だけは冷静で、滑稽にもこう考えていました。
 ……さっきの声は、朝倉さんとカモくんだよね。
 謝るなんて、何か悪い事でもしたのかな。

 そして、僕は、感じました。
 僕の唇に合わさる、異様なまでに柔らかい感触を。
 脳内が、混迷と化しました。
 僕の見開かれた目に、ヒサキさんの凛々しい顔が隣接していました。
 視界が、白んでいきます。
 次第に閉じ行こうとする幕を感じながら、僕は最後にこう思いました。
 ……あれ、男性なのに、女性より柔らかいって。
 
 
 
 
 −朝倉和美side−
 
 
 
 
 修学旅行の二日目。私達、3Aの面々は代わりばえなく、夜のお祭り騒ぎに興じていた。
 題して、「くちびる争奪! ネギ先生ラブラブキッス大作戦」は、盛況さに溢れていた。
 さすがの、ネギ先生といったところだろう。
 参加者は後を絶たず、思い思いの背景を背に、何ら滞りなく進行していた。

 モニタールーム。一室は薄暗く、画面から放たれる仄かな明かりだけが、私達を縁取っている。
 画面は数個に分割されていて、参加者の動向が逐一映し出され、参加者以外の生徒達も楽しめる放送となっていた。
 だけど、この放送には裏がある。
 それは、定位置だと言わないばかりに肩口に座るカモっちの、ある種、猥雑なまでの笑みが物語っていた。
 これからの未来に、夢を馳せているんだろう。
 金欲に狂った目。さながら、漫画とかであるならば、両目は金という文字で描写されているはずだ。
 まあ、姿形がオコジョだから、放送に耐えられる範囲ではあるとは思うけど。

 私は苦笑を漏らすと、高揚を肌に感じながら、画面に視線を戻した。
 だけど、その時だった。
 皆を映し出していた画面の一部分が、突然として、砂嵐へと切り替わってしまったんだ。
 意味不明な事態に、文字通り唖然とした。
 だけどその間にも、また一つ、また一つと砂嵐に切り変わっていく。
 私は、慌てて叫んだ。

「ち、ちょっとカモっち!
 なんか、おかしくなってる!」

 私が焦っているというのに、カモっちは心底、面倒臭そうに言った。
 そして、驚愕の声を上げた。

「なんスか、ブンヤの姐さん。
 オレっちは金勘定で忙しいん……な、なんじゃこりゃー!」

 先ほどまで金だった目が、一瞬にして、驚という文字に変化した。
 無駄に、刻々と時間が過ぎていく。
 だけどそれは、何の解決策にもならない事は明白だ。
 無情にも、残りの画面さえ、加速度的に砂嵐に切り替わり始めた。
 明日の視聴者からのクレームを覚悟しながらも、私は口を開いた。

「は、ハッキング!?
 そ、それとも誰かがカメラを映せないようにしていってるとか!?」

 それを、カモっちが否定する。

「い、いや、誰にも気づかれてはいないはずだぜ!」

 すると、その時だった。
 私は画面越しに、ある物体を視界に捉えたんだ。
 疑問が、小さな呟きとなって漏れた。

「な、なにこれ?」

 画面に映り込む謎の物体へと、自然に指を差した。
 そこに、映っていたんだ。
 なんか、良くわからないけど、黒色のロープを羽織った小さな死神みたいな物体が。
 右手に掴む艶やかな白銀の鎌が光を反射して、身体中から紫色の霧のようなものを放っていた。
 まるで、人形のようだけど、人形ではない。
 その死神は宙にフワフワと浮かんでいるんだ。
 その上、表情があった。顔の造形は、フードで見えない。だけど、見えている口許には、愉しそうな笑みが張り付いていた。

 小さいからか、余り恐怖心はなかった。
 だけど、予想外なSFチックさに驚愕を隠せなかった。
 カモっちもやっと気づくと、驚きの声を上げた。

「な、なにもんだコイツは!?
 ゆ、幽霊か? いや、精霊? それとも悪魔か?
 なんにせよ、画面越しじゃわからねー。
 つ、つーかこの格好は、小林の旦那の格好に……。
 そ、そうか! コイツは旦那の使い魔かなんかだな。
 な、ならなんでカメラを……」

 言い終わると、またカモっちが何かに気づいたのか、口を開いた。

「そ、そうか……!」

 そして、唐突にも、黙り込んだ。
 怯えてでもいるんだろうか。身体を小刻みに震わせて、顔面が蒼白になっていく。
 嫌な、予感がした。
 誰もいないというのに、辺りに何者かの気配を感じた。
 脳裏に、先ほど見た死神の愉悦の笑みが浮かび上がる。
 まるで、連鎖していくように、酷い寒気が身体へと襲いかかってきた。
 だけど、ジャーナリストとして、ここは譲れない。
 私は順序立てて、カモっちに質問を繰り返した。
 そして、私は苦笑いするという、選択肢しか選べなくなる事態に陥った。

 カモっち曰わく、小林の旦那って人は小林氷咲という名前であり、人柄を羅列していくとこういう人らしい。
 正に善意の塊のような人で、相手が果てしないほどの強者であっても、自らの信念を決して曲げずに弱者を守ろうとする。
 実力は折り紙付きで、ネギ先生の危機を救った事から、憧れの人となっている。
 普段は優しく穏やかな人だが、いざ戦闘となると、悪には容赦をしない。頭脳明晰な戦略眼で、相手が気づいた時には勝負は決している。
 自らの素性を知られるのを妙に嫌い、闇雲に知ろうとすれば、その者は命を落とす事になるだろうと吸血鬼が言っていた。
 まず、逆らってはいけない。
 アスナが鬼ならば、彼は鬼神。アスナなど、子供のようだ。
 そして、私達のふざけた行動が、彼の逆鱗に触れてしまった。
 だからこそ、使い魔を用いてカメラを壊し、暗に忠告をしているらしい。

 私は、苦笑した。いや、笑うしかなかったんだ。
 なぜならば、その話の途中で、小林氷咲さんの姿をカメラが映してしまっていたんだから。
 カモっちがブルブルと震える指先で差した方向に、その少年は映り込んでいた。
 そして、私は唖然とした。
 なぜならば、その少年は間違う事なく、先日、私が写真を撮ってしまった少年だったからだ。
 失礼にも、不審者だと決めつけて。

 素性を知ろうとする者は、命を落とす。
 そんな言葉が、脳裏を過ぎった。背筋に、ゆっくりと冷たいなにかが通っていく。
 だけど、希望的観測はある。
 なんたって日にちが経っているんだから、許してくれているのかも知れない、と。

 だけど、忘れてはいけない。
 なぜならば、今、彼は怒っているんだから。
 私達の、少々、ふざけ過ぎてしまった愚行に対して。
 私の乾ききった笑みを見て取って、カモっちが唖然と口を開いた。

「な、なに笑ってんスか姐さん!
 旦那は女だからって容赦しない、平等な男ッスよ!」

 私は、空元気で言う。

「い、いやー私、やっちゃったんだよねー」

「は、はあ、なにをすか?」

 一拍の後、私は言った。

「……この前、不審者扱いした挙げ句、すごく嫌がってるのに写真を撮り続けちゃったり」

 辺りに、静寂が広がっていく。
 先ほどの騒ぎはどこに行ったのか。音という音が、消えてしまったようだった。
 カモっちの口が、静かに開いていく。
 辺りに、けたたましい叫び声が響き渡った。

「な、なんて事してんだよ姐さんー!!」

 私に出来る事は、ただ乾いた笑みを浮かべる事だけだった。



[43591] 正に、驚天動地と言えよう——裏その肆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:28
—エヴァンジェリンside—





「ええい、茶々丸からの連絡はまだか!」

 静まり返ったリビングに、私の声が虚しくも響き渡る。
 腕を組んだ姿勢のままで、そこらを右往左往と歩き回る私は、文字通り、上の空だと言えた。
 この私が滑稽にも願い、待ち望む吉報は、未だに訪れていない。
 茶々丸が麻帆良を発ってから、早いものだ。如何ともし難い時が、流れていた。
 視界に映り込む窓の奥には、雲に体の半分を隠された月が張り付いて、夜の帳が辺りに広がっていた。

 私は、徐にソファーに腰掛けた。そして、目を閉じて思う。
 今日、一日、茶々丸不在に置ける日常の弊害は、予測を遥かに越えた形で、多々あった。
 この私が日常生活、所謂、料理などに困る。確かに、そんな由々しき事態は我慢ならない。
 今まで私であるならば、なんと面倒ばかりの一日なのかと、怒髪天を衝いていたはずだと断言出来る。
 だが、しかしだ。
 今日という一日は、過去より増して、ある感情を再認識させられる結果となっていた。
 それはあの、愚者を地で行って見せるアイツへの、私の想いは真実であり、まやかしなどではなかったのだ、という感情を。

 そして、少々、不思議に思えていた。
 なぜならば私には、微細で矮小な憤りさえ、その劣悪な色を映し出す事はなかったのだから。
 だが、その答えは案外、簡単に見つかった。
 私は心の底から、こう思っていたのだろう。いや、こう思えるように変化させられていたのだろう。
 私が我慢をする事で、愛すべき馬鹿者の負担を少しでも減らせる起因となるのならば、私はそれを許容しようではないか、と。
 その想いは、見える何もかもを、見慣れた景色でさえも、容易く一変させた。
 その心境は、私の心に蔓延っていた憤りなどという陳腐な感情を、いとも簡単に消し去って見せたのだ。

 だが反面、そのポッカリと空いた隙間に、傍若無人にも侵入してきた感情が生まれていた。
 それはある種、踊り惑うような思考のざわめき。
 私は確かに、認めている。
 ヒサキの異才を放つまでの実力のほどを。
 この私に土をつけて見せた手腕。未来を予知したかのような、偶然さえも策に組み込む戦略眼を。
 茶々丸がヒサキの手足となりフォローするのならば、その道の一流に属する者ともいえど、勝利できなくとも対応しうるだろう。
 そもそも、関西呪術協会の一部如きに、私クラスの強者がいるとも思えん。

 だが、何事にも絶対はない。絶対はないのだ。
 どれだけ用意周到に準備を行い、迎え撃ったとしてもだ。万に一、さながら、夏に降る雪のような運命の悪戯が発生してしまう可能性はあるのだ。
 何も知らない他人は、考え過ぎだと嘲笑するかも知れない。
 これまでの私も、その部類だったのかも知れない。
 だが、今は違う。違ってきてしまったのだ。
 相手があの、小林氷咲という、本当の意味で私を雁字搦めにして見せた男が、絡んでくるのならば。

 私は、ある事を知り、地に足がついてしまったのだ。卑下していたはずの、臆病者に成り下がってしまったのだ。
 ふと、目を閉じるだけだ。
 たった一瞬、目を閉じるだけで、あいつの危機が鮮明に浮かび上がってくる。そして、居ても立ってもいられなくなるのだ。
 独りでに自嘲めいた笑みが、口許に形作られた。
 心の中で、小さく呟いた。
 ……だが、それも悪くない、のかも知れない。
 アイツを失うくらいならば、例え他人に臆病者と罵られようが構わん……。
 そう、素直に思う。
 思ってしまう自分がいる。
 そしてそれを、手放しで許容しろと囃す、もう一人の自分がいた。

 再度、苦笑が漏れ出た。
 変化、か。
 知らず知らずの内に私は、他人だったはずの者を、自らの命よりも重要な位置に据えていたのか。
 全く、なんという男だ。
 六百年という気が遠くなるほどの時間で培ってきた思考を、たった一瞬ほどの短過ぎる時間の中で、変化させて見せるとは、な。

 感慨深い。
 そう、頷いた時だった。
 待ち望んでいた電子音が、鼓膜を震わせたのだ。
 私は目を見開き、唖然とした。
 だが、周囲に響き渡る音で覚醒すると、大急ぎで受話器を取り上げた。
 勢いそのままに、叫んだ。

「おい! 茶々丸遅いぞ!」

 一拍の後、聞き慣れた抑揚のない声色が届けられた。
 焦り狂う反面、酷く安堵している自分がいた。

「マスター、すみません。色々とありまして。
 お変わりは」
「そんな事はどうでも良い!
 アイツはどうだ!? 無事か!?
 というか、傍にはいないな!?」

 気づいた時には、まくし立てていた。
 無様にも揺れる内情が、必然的にその行動をとらせていた。

「はい。お兄様には傷一つありません。
 それとお兄様は、ネギ先生に会われに行きました」

 傷一つない、その言葉を聞いて、ホッと安堵の息を漏らした。
 焦り狂っていた心が、徐々に、安息へと傾いていく。
 その安らぎを感じながらも、私はある事を尋ねた。

「……それでヒサキは、私の思惑に感づいていた様子はあったか?」

 そう、この件だけが心残りだったのだ。
 要約するならば、強い決意と共に、私はヒサキにこう言われていた。
 ただ俺を信じて、待っていて欲しい、と。
 男らしい言葉だ。私はそれを、頼もしく感じていた。
 だが、それなのに関わらず私は、その想いを裏切るような行為をした。
 茶々丸を送るなどという、ヒサキのプライドをへし折る行為をしてしまっていたのだ。
 これはヒサキに取って見れば、暗に、お前一人では心許ないと言われていると思われても仕方のない事。
 だが、致し方ないではないか。
 私には、これ以外の手段、方法が思い浮かばなかったのだ。

 私は、悩んだ。
 どうすれば。
 どうすれば、ヒサキの決意と折り合いをつけながらも、支援する事が出来るか、と。
 悩んだ末に、光明が見えた。
 だからこそ私は、じじいに貸してあった借りを回収してまで、裏工作を行ったのだ。
 確かに、嘘をついている事は、後ろめたい。心苦しくもあった。
 だが、これはヒサキのためなのだ。
 アイツの無事を願うのならば、致し方のない事なのだ。

 だが、しかし、ヒサキを侮ってはならない。
 アイツの頭脳は、異常だ。はっきり言って、まともではない。
 いとも簡単にだ。私の思惑など、刹那的に読み切ってしまう可能性は極めて高かった。
 それを私は、酷く危惧していたのだ。
 ヒサキの怒りが私に向けられるなど、考えるだけでも絶対に許容出来ない。
 過去に、一度だけ私に、ヒサキは怒りの視線を向けた事がある。
 それは、先日の夜。じじいの魔手から助けてやったのだと、滑稽にも勘違いしていた夜の事だ。
 あの表情は、思い出したくもない。
 確かにヒサキの瞳には、敵視の炎が揺らめいていた。
 もう、あの非難するような瞳を向けられるなど、考えたくもない。

 私は恐々と、言葉を待った。
 そして、届けられた声音は、少しだけ揺れているように感じられた。

「……それは、わかりません。
 お兄様は、長い時間、どうして私がここにいるのかを聞いてきましたので。
 ですが、怒ってはいなかったように思われます」

 心を、鷲掴みにでもされたような気がした。
 長い時間、核心に触れようとするヒサキの姿が、脳裏に浮かび上がった。
 それだけで私の心は、夜風に踊らされる木々の葉のように揺れた。
 だが、しかしだ。
 怒ってはいないという言葉に、希望的観測が首をもたげた。
 安堵の息が漏れはしないものの、茶々丸の手前、気丈を振る舞って言った。

「そ、そうか。や、やはり気づいている可能性が高いか。
 だ、だが、こちら側が首を縦に振らなければ、まやかしも真実となる。
 茶々丸も心苦しいかも知れないが、これはヒサキの身を思っての事なんだ。
 我慢してくれ」

「……はい」

 そのどこか弱々しい言葉に、茶々丸の心境が窺い知れた。
 変な、居心地の悪い雰囲気が、辺りに漂い始めた。
 どこからともなく、沈黙がやってきて、私達の間を闊歩しているような気がした。
 私はその雰囲気を打破すべく、言った。何か言わなければならないという、義務感に駆られていたからだった。

「そ、そうか。……まあ、この話しは終わりだ。
 あいつの事だからな。やはりヒサキは、いつも私の事ばかり話しているんだろ?
 なんと言っていた?」

 独りでに、笑みがこぼれた。
 ヒサキの私への想いは、それはそれは、果てないものだ。
 ヒサキが私を、褒め称えているのは容易に想像出来た。
 そう思うだけで、先ほどまでの心の揺らめきが、静まっていくのを感じた。

 だがまた、どこからともなく、呼んでもいないというのに沈黙がやってきた。
 一瞬の後、茶々丸が言った。それは余りに予想外、想定外な言葉だった。

「いえ、マスターについては何も」

 一瞬、ポカンと口を開けてしまった。
 私は、弾かれるように口を開いた。

「な、なに!
 なにかあるだろ! いや、なにかあったはずだ!」

 またしても憎たらしい沈黙が、私の周囲を、我が物顔で闊歩していく。
 茶々丸が、小さく言った。

「いえ、マスターのマの字も、言っていませんでした」
「な、なんだと……」

 色々な思考が、脳内を駆け巡る。
 というかマの字じゃなく、エの字だろと心で突っ込みながらも、頭は白けていた。
 そして、再起動を果たした私は、ある考察に行きついた。
 それは、ヒサキは全てを知っていて、怒っているのではないかという考察だった。
 考えて見れば見るほど、無情にも、その考察が正しいのではないかと思えてくる。
 ヒサキは怒っている。だからこそ遠回しに、私に知らせると共に、正に絶望というこんな仕打ちを与えているのではないか。
 そうとしか、考えられなかった。

 なんという、サディスト。
 私の強き想いを知っているからこそ出来うる、魅力が突き抜けている者にしか出来ない、罪深き仕打ち。
 な、なんという事だ。
 私が恐怖に戦いているというのに、茶々丸から声が届けられた。

「マスター?」

「ち、茶々丸、すまないが、茶々丸の口から、私が謝って、い、いや、なんでもない」

「マスター、どうかなされたのですか?」

 その言葉に、私は強がって言った。

「い、いや、なんでもないんだ。
 そ、そんな事より、なんでこんなに連絡が遅かったんだ?」

「マスターの命令が、お兄様の傍を片時も離れるな、というものでしたので。
 現状は、お兄様がネギ先生の様子を見にいかれたため、連絡する事が出来ました」

「そ、そう言えば、そうだったな」

 四度目の沈黙が現れる中、私は何とか話しを切り上げようと言った。

「ち、茶々丸! ヒサキを一人にするのは危険だ!
 一人にしたら、アイツは何を仕出かすかわからんぞ!」

 茶々丸の息を呑む声が、聞こえてきた。

「わかりました。
 お兄様の位置は把握していますので、大至急向かいます。
 そのご意志に反しても、止めさせて頂きます」

「あ、ああ、頼んだぞ」

 茶々丸の決意に満ちた肯定の声で、電話は切られた。
 フラフラとした足取りで、ソファーまでたどり着くと、そのまま倒れ込んだ。
 知らず知らずの内に、脳裏には、ヒサキの怒気を孕んだ顔が浮かび上がってくる。
 私は心の中で、嘆くように呟いた。
 ……ああ、ヒサキすまない。
 私はお前を思って……だな。
 その内情を吐露する呟きは、あろう事か、陽が昇るまで続く事になった。





 −絡繰茶々丸side−





 ホテル内の廊下を歩いていました。
 清潔で冷たい空気が、私にまとわりついていました。
 観光地とは言え夜、だからでしょうか。楽しげな喧騒はなりを潜め、音のない時が周囲に満ちていました。
 ふと、マスターの言葉が思い返されました。その危惧は、ごもっともだと私も思います。
 お兄様はとても勇敢な方であり、常人の思い及ばない発想を持つ方、なのですから。
 私の考え及ばない事を実行し、その身に危険を抱え込もうとするという可能性も捨て切れません。
 現状として、位置を把握してはいますから、そこまでの危機はないでしょう。
 ないでしょうか、今後私は、考えを改めて、気を引き締め直さなければならないと決意していました。
 お兄様は、慈愛に溢れたお方。
 その強きご意志に反してでも止めさせて頂くには、マスターに言われた通りにするしかないのです。
 確かに、心苦しくはあります。
 確かに、嫌われてしまうかもという恐怖は、私の身動きが止まるほどに怖くはあります。
 ですが、結果的に、お兄様をお守りする事さえ出来るのであるならば、私は嘘も厭わない。
 そう言った決意が、不可欠なのだと思い知らされたのです。
 やはり、お兄様に劣らず、マスターも博識であり強い方。自らも心苦しくあるのでしょうが、不可欠な事と割り切って見せる強さ。
 正に、脱帽といった感を禁じ得ませんでした。

 ネギ先生の自室が、遠目に視認出来ました。微かに、お兄様の優しげな魔力の波動を感知しました。
 それだけの事だというのにも関わらず、私は酷く安堵していました。
 ふと、知らず知らずの内に、歩調が速くなっているのに気づきました。
 お兄様に会いたいという感情が、そうさせたのかもわかりません。

 その時、背後の方向から、誰かが駆けてくる足音が響いて来ました。
 ふと見ると、それは朝倉さんのようでした。
 何か、慌てる事でもあったのでしょうか。
 肩口にはオコジョ妖精が乗り、双方共に、必死の形相が印象に残りました。
 私にも気づかないほどの慌て振りのままに、一目散と、傍を通り抜けて行きます。
 そして、ネギ先生の部屋のドアを開け放つと、勢い良く飛び込んで行きました。

「こ、小林の旦那ぁー! 訳を説明させてくだせぇー!!」
「ご、ごめんなさーい!」

 お兄様に、何か良くない事でもしたのでしょうか。
 そうならば、それは由々しき事、です。
 謝罪の言葉を不思議に思いながらも、遠巻きに部屋内を覗き込みました。

 そして、私は目撃してしまったのです。
 その部屋で行われていた、想定外であり、理解不能な行為を。
 部屋には、お兄様とネギ先生がいました。
 ですが、その体勢がおかしかったのです。
 二人はまるで、恋人同士のように、抱き合い床に寝ていました。
 その上、信じられない事に、双方の唇が、深く合わさっていたのです。
 エラー、エラー。エラーが、爆発的な速読で多発して行きました。
 二人は、一体、何を。
 確かに、知識では、知っていました。
 男女が愛を確認し合うために用いる、手段。口付けと呼ばれる、神聖な行為。
 頭が、混迷と貸しました。理解が、出来ませんでした。
 なぜならば、お兄様とネギ先生は、男性同士、なのですから。

 胸の奥の回路に、不具合が発生しました。
 モヤモヤとした何かが、騒ぎました。情報伝達を、抑制しているような感覚、でした。
 程なくして、私は、私に生まれ続ける感情の正体を突き止めました。
 それは、憤りと似た感情、のように思えました。
 不思議に、思いました。
 私は、怒ってでもいるの、でしょうか。
 その感情の出所も意味も、理解さえも出来ないというのにも関わらず、ネギ先生に対して。

 お兄様が音もなく、静かに立ち上がりました。
 困惑する私へと、淀みのない瞳で見つめました。
 どうしてか、朝倉さんが走り去っていきましたが、私には何も感じられませんでした。
 ただ、出来る事は、お兄様の瞳を見つめ続ける事、だけでした。




 朝の暖かな日差しが、ベッドで休まれているお兄様の全身に色を付けていました。
 まるで、私は何かにとり憑かれているかのように、夜通し、見つめ続けていました。
 昨夜の騒動が、夢のように思えました。
 意識が戻った頃には、私は自室に、気を失っているお兄様と共にいたからです。

 色々な思考が、浮かび上がりました。色々な感情が、騒ぎ立て続けていました。
 現状に置いても、あの行為が鮮明に蘇り、私の感情は小さな憤りに支配されていました。
 男性と、男性の関係。私はこう、思うのです。
 それは、適切な関係とは言えない、と。
 世の中には、そういった愛の形が、往々にして存在するのかも知れません。
 ですが、お兄様に限って、私はこう思う。思ってしまうのです。
 お兄様には、相応しくない、と。
 ふと、ある夢物語が描かれました。
 お兄様の伴侶には、マスターのような女性こそが相応しい、と。
 それが、実現出来るのならば、どんなに良い事でしょうか。
 染み入るような羞恥を抱きながらも、内心で小さく呟きました。
 ……そして、私をお側に置いて欲しい。
 マスターや姉さん、お兄様、そして、私が、微笑みあいながら過ごす未来が、来て欲しいのです。
 私がそんな未来を夢想するなど、おこがましい事、とは思いました。
 ですが、それはお兄様の罪、なのです。
 私に感情を与えてしまった、お兄様の。

 独りでに視線が、お兄様の唇へと向かって行きました。
 確かに現状として、お兄様は、女性に興味がないのかも知れない。
 ですが、その悲しき現実を、私の手で変えたい。いえ、変えて見せたいのです。
 私は、ガイノイドであり、女性ではありません。
 ですが、私は、お兄様のご意志に反してでも止めると決意していたのですから。
 方法は、雲を掴むかのようにわかりません。
 わかりませんが、私が、私の手で、お兄様を変化させたい。

 お兄様の整った容姿、優しげな顔立ちに、日が差していました。
 どれほどの、時間が経ったでしょうか。
 意を決して自分の顔を、お兄様の顔へと、ゆっくりと近づけて行きました。
 私では、力不足かも知れません。ですが、一縷の望みでした。
 私がそうする事によって、お兄様が女性を感じられるようになれたら。
 徐々に、大きくなっていく、お兄様の顔。
 まるで、スロー再生のフィルムのように、時までもが遅くなっているように感じられました。

 エラーは、多発していました。
 羞恥といった感情が、騒ぎ立て、加速度的に増殖しているかのような感を受けました。
 お兄様との、口付け。
 見知らぬ土地。見知らぬ部屋。もう少しで、私は、お兄様と。
 唇が触れ合うか、触れ合わないかという、その時でした。
 突然として、お兄様の瞳が開かれたのです。
 一瞬、私は呆けて、固まりました。
 ですが、直ぐに再起動すると、咄嗟に飛び退きました。

 一斉に、思考回路が冷やされていく感覚が、身体中に巡りました。
 ああ、失礼にも、私はなんという事を。
 背後の方向から、お兄様の穏やかな声が響いて来ました。

「おはよう。
 掃除なら俺も手伝うよ」

 私の身動きは、制止しました。
 自らの行いが恥ずかしく、かつ、いたたまれなくて。
 ですが、これ以上の失礼を重ねてはならないと、強く思いました。
 罪悪感から、顔を見る事は出来ませんでした。
 ですが、精一杯の想いで声を返しました。

「……おはよう、ございます」

 お兄様、一つお聞きしたい事があります。
 ……私とお兄様は、口付けを交わした、のでしょうか。




 −全ての真実を知る美形な魔法使い−




 京都の、雑踏。路地裏には。日本人特有の風情が、至る所に、点在していました。
 人々の品のある語り口調に、古き良き建築物。騒がしい、観光客の喧騒。
 この土地は、変わる事はない。それにしても、昔を思い出してしまいます。
 悪戯な風が、私の前髪を攫うように揺らしました。
 満足いくまで景色を堪能した私は、小さく呟きました。

「では、目的の場所に向かいましょうか。
 彼は茶店で、お昼休憩のようですね」

 私は人気のない場所を見つけると、目を閉じて集中しました。
 そして、次の瞬間には、彼の背後へと転移しました。
 彼は、私に気づいていないようです。 椅子に座り、品良くお団子を堪能していました。
 対角線上に座るこの少女は、エヴァの従者でしょうか。
 おっと、いけませんね。
 事を荒立てるつもりはなかったのですが。
 転移する場所を、少々、考えるべきだったようです。
 少女が、即座に立ち上がりました。そして、こちらに向けて言いました。

「お兄様、下がって下さい。
 相手は、相当の実力者だと思われます」

 素早く私の前に立つと、彼を守るように戦闘態勢を整えています。
 一拍の後、私は微笑んで口を開きました。

「いえ、その必要はありません。
 私は闇の福音の友、そして、あなたと同様に、学園長に派遣されたしがない男です」

 少女は、まだ疑っているのでしょう。
 未だに警戒を解かず、鋭利な視線が私に突き刺さっていました。
 おやおや、これは困りました。
 微笑んで事を待っていると、やはりここで真打ちの登場、なのでしょう。
 彼が立ち上がると、少女に微笑みました。
 私にも、その柔和な微笑みを向けて、言いました。

「学園長の、ですか。
 僕の名前は、小林氷咲と言います。
 失礼ですが、お名前をお聞かせ頂いてもよろしいですか?」

 私は虚空を見つめてから、口を開きました。

「これはこれは、丁寧に。ありがとうございます。
 私の名前、ですか。そうですね。
 クウネル・サンダース。クウネルとでもお呼び下さい」

 小林氷咲くん、いえ今更、改まる必要もないでしょう。
 ヒサキくんが、愛嬌のある笑みを、口許に浮かべました。
 私は内心で、そっと、呟きました。
 拝見させて、頂きに来ました。
 貴方を中心に、予測不可能でいて、奇跡にも近い、どのような勘違いが繰り広げられているのかを。
 独りでに口許が、久々に本当の意味での、微笑みの形へと変化させられていました。



[43591] 一体全体、意味がわからない——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:29
−小林氷咲side−





 窓の奥の空は、見事な朝焼けに染まっていた。
 ポツンと浮かんでいる茜雲の少なさから、今日は快晴となるだろう。
 小鳥が早朝の声を届け、涼しき風が歴史ある街を通り抜けていく。
 脳裏には自然と、爽快といった言葉が浮かび上がっていた。

 ホテル内に、静かな時が満ちていた。
 騒ぎ疲れたのだろう。宿泊客達も、未だに夢の世界で船を漕ぎ出しているようだ。
 俺は、見慣れた廊下をゆったりと歩いていた。
 彼女には、誰もが無防備になってしまう早朝も敵わないようだ。
 普段と変わらぬ見目麗しい茶々丸さんを伴い、ある集合場所を目指していた。

 それにしても、少々、不安な事があった。いや、厳密には少々、ではない。胸の底に、不安がフツフツとたぎっている状態だった。
 だが、間違ってはいけない。それは、昨夜の少年との情事、ではない。
 情事については、確かに、気にしていない訳ではない。気にしていない訳ではないのだが、至極、当然と言えよう。
 なぜならば、あれは事故、だったのだから。
 初キスが少年という、ある種、そちら側の道を歩もうとする方のような経験ではあるのだが、致し方ない。致し方ない、と言えよう。

 二度目ではあるが、声を大にして、地球上の生物達に言って置きたい。
 あの事件は、天地がひっくり返ったとして紛れもなく、事故、だったのだから。
 俺の女性に対する趣向は、至ってノーマルである事は周知の事実。それは、ネギくんに至ってもそうだろう事は明白である。
 それならば、そう、忘れるべきなのだ。
 ネギくんの、そして、自らの自我を保つためには忘れるべきなのだ。

 確かに、要因はどうだとか、何の因果がとか、そういった言葉が脳裏に過ぎってしまう事は否めないし否定も出来はしない。
 だが、忘れなければならない。忘れなければならないのである。
 それこそが、自らを救う唯一の手段であり、ネギくんを悪しきトラウマから救う唯一の方法だと思えたからだった。

 それでは現状として、一体、何を不安視しているのか。
 それは言ってしまえば、至極、簡単な事柄であった。
 その純真さは、容易く、天上にまで達すると言われてばからない茶々丸さんの様子がおかしいのである。
 目覚めてからというもの、異様なほどにおかしいのだ。
 何と言うか、こう、よそよそしいとでもいうのだろうか。
 普段の落ち着き払った物腰は影を潜め、まるで、双子の妹かのように挙動がおかしい。
 そう、思いたくはない。思いたくはないのだが、無視でもされているのではないかと危惧してしまうほどに反応をしてくれない。
 その上、今に至ってもそうだ。
 時折しか、視線を合わせてもくれないのだ。

 想像はつかない。想像はつかないがだ。
 俺は、こう結論づけた。
 何らかの要素や事柄から、酷く嫌われてしまったのではないか、と。
 俺はというと、それはそれは迷子のように恐れ戦いていた。
 だが、しかし、それも違うようだ。
 有り難くも、適量の美味し過ぎる朝食も頂かせて貰えた。
 その上、突然の桜咲さんの連絡にもついてくるというのだから。

 それならば、どうして。
 脳内には、混迷、混濁、混乱と、混の大盤振る舞いが始まる騒ぎとなっていた。
 だが、わからぬものはわからない。
 彼女は、思春期である。
 男にはわかり得ない事情などがあるのだろうと、半ば強制的に自らを説得していた。

 遠目に、待ち合わせ場所に指定されていたホテルのロビーが確認出来た。
 その空間は、圧巻だった。
 正に、俺の知り合い大集合といった様相である。
 皆一様に、T型のソファーに座っていた。
 そして、独りでに俺の歩みは制止された。
 どうか、したのだろうか。
 どこか、雰囲気がおかしいのである。
 まるで、稲妻が暴走しているかのような、ピリピリとした不穏な気配が至る所にのさばっていた。
 重苦しき、静寂が降りていた。
 状況を把握するために、頭を回転させた。
 ネギくんは、反省でもさせられているのか頭を垂れていた。
 神楽坂さんは怒ったように、腕を組み見下ろしていた。
 カモくんに至っては、なんという事だろうか。
 テーブルの上で、これぞ正に土下座、といったような様相で額を押し当てていた。
 その上、その上である。
 なんとあの桜咲さんまでもが、冷たさを滲ませる背中でネギくんを見下ろしていた。
 そして、あれは昨夜の少女、だろうか。
 先日、俺の写真を撮っていた少女。昨夜の一番の要因と思われる少……。
 いや、いかん。いかんぞ。
 昨夜の事を考えてはならない。
 心の奥深く、深淵の底に、太い注連縄を巻き厳かにも封印をしなければならない。

 小さく、息を吐いた。気を、取り直そう。
 その少女までもが、二人に怒られているのだろうか。
 頬を伝う冷や汗をそのままに、乾いた笑みを浮かべていた。
 ふと、可哀相には思えた。
 だが、彼女達には彼女達なりの深き事情があるのだろう。
 全くの関係者ではない俺が、先輩風を吹かせて諫めるなどしてはならない。
 俺はまだ、そこまでの人間とは成り得ていないのだから。
 ゆっくりと近づくと、何も気づかなかった素振りで片手を上げた。
 やはり、何事も挨拶から始まると言えよう。

「みんな、おはよう。
 今日は良い天気になりそうだね」

「皆さん、おはようございます」

 茶々丸さんも、礼儀正しい口調で挨拶をした。
 全員の視線が、堰を切ったようにこちらへと向けられた。
 やはり、ここまで注目されては照れてしまう。だが、感情を無理に抑えつけて、出来うる最大限の微笑みを返した。
 やっと、こちらを認識してくれたのだろう。
 まるで、スイッチでも入ったかのように、皆が思い思いの表情を浮かべた。
 桜咲さんと神楽坂さんが慌てて立ち上がると、声を上げた。

「小林さん、おはようございます。
 わざわざお呼び立てしてしまって、申し訳ありません」

「お、おはようございます」

「構わないよ」

 快く、頷いた。
 次第に、空気が弛緩されていく。
 そんな中、他の二人はというと、やはり落ち込んででもいるのだろう。
 ネギくんは力なく挨拶をしてくれた後、頭を垂れた。
 少女に至っては、何やら顔を青ざめて目を反らされてしまった。
 そうか。昨夜の騒動に対する罪悪感から、心が騒いでしまっているのかも知れない。
 さほども、気にしてなどいないよ。
 そう、口を開こうとすると、不思議な事が起こった。
 桜咲さんと神楽坂さん、二人の視線がある一点を捉えて制止したのだ。
 次の瞬間には、残りの皆も文字通り、目が点となっていく。
 そして、辺りに声がこだました。

「いえ、お呼び立てをするなど、逆に私達が……、ち、茶々丸さん、どうしてここに……?」

「な、なんでここに茶々丸さんがいるの!?」

 空気という空気が、制止でもしてしまったかのような錯覚を受ける。
 俺はというと、内心で頭を抱えていた。
 どうして、他の皆が驚いているのかはわからない。わからないが、自然と乾ききった笑みが漏れ出た。
 最近の充足した生活からか、俺はある事実を、記憶の彼方へと追いやってしまっていたようである。
 そう、推測ではあるが、桜咲さんの想い人が茶々丸さんであり、狂気渦巻くヤンデレストーカーだったという最重要な一点を。

 いかん、いかん。
 まずい。これは、まずいぞ。
 ふと背筋に、戦慄が疾走していった。ある考察が、浮かび上がったのだ。
 狂気から穏やかへと、何とかシフトチェンジしてきていた彼女の心がだ。
 俺の失態により再度、暴風雨のように、荒れ狂ってしまうかも知れない、と。

 どうすれば。
 現状を打破するために、無理矢理、頭を回転させる。
 一つだけ、希望的観測はあった。
 恋い焦がれていたのはとうの昔の話であり、現状は何とも思っていないという推測である。
 だが、この驚愕しきった表情を鑑みるに、可能性は極めて低いように思えた。
 ならば一体、どのように、推移していけば。
 内心、焦り狂っているというのに、当事者であるはずの茶々丸さんが口を開いた。
 拍子抜けしてしまうようなまでの、淡々とした口調で。

「私は、学園長の命により、お兄様のサポートをしています」

 またもや、連鎖していくように、次々と皆の目が点となっていく。
 前髪を静かに揺らす、流れ行く風に名を付けるのならば、困惑の風、だろう。
 音が自重でもしているかのような無音の中、不思議そうな少女達の声が響き渡った。

「お、お兄、様とはなんですか……?」
「ち、茶々丸さん。お、お兄、様ってなに……?」

 なんと、いう事だ。
 よくよく考えてみればそれは、そうだ。そういえば、慣れてきてしまっていたが、それはそうである。
 俺は茶々丸さんの、実兄ではないのだから。
 それなのに、お兄様と呼ばせているなど、いや、厳密には違う。だが、客観的に見れば、そう思われても仕方ない。
 それならばこれから、アブノーマルヒサキなどと不名誉な二つ名を付けられたとしても文句は言えないではないか。
 誰が、悪い訳ではない。確かに、誰が悪い訳ではないのだが、桜咲さんの御前でそれを言われては、正しく万策尽きたと言えた。
 心の中ではミニヒサキがベレー帽を被り、現実逃避と、太陽の神々しさを描こうと筆を取り始めていた。

「お兄様は、お兄様ですが」

「そ、そうではなくてですね……」

「……?
 何か、おかしいでしょうか?」

「お、おかしくはないんだけど、どういう成り行きでというか……! ……ねえ、刹那さん」

「は、はい、そうです!
 どうして、そのような呼び方を……?」

「成り行き、ですか。
 そう呼称しても構わないと、お兄様が認めてくれましたので」

「そ、そうなんですか」
「そ、そうなんだ」

 二人の視線が、俺へと向かう。
 それは言葉に直訳するのならば、真偽のほどを確かめるかのような、である。
 脳内に、様々な感情が渦を巻いていく。
 自然と、苦笑いが漏れ出ていた。
 人間、危機的状況に陥ると、苦笑が浮かぶものだと聞き及んでいたがそれは真実だったようだ。
 どのような、解釈をされたかはわからない。
 だが、二人にはまだまだ果てなき疑問のほどがあるのだろう。
 そそくさと、茶々丸さんに詰め寄って行った。

 俺はまたハハハ、と力なく笑うと、静かにその場を離れた。
 未だに、頭を垂れたままだったネギくんの隣に、うなだれるように座り込んだ。
 説明などしなくとも、わかって貰える事と思う。
 これが俺の出来うる、現実から逃避するための一種だったのだ。
 背後の方向から、少女達の華やかな声音が聞こえてきてはいた。
 だが、脳内で他国語に変換する事で対応した。
 そんな無駄な行為に耽っていると、唐突にも、ネギくんが申し訳なさそうに口を開いた。

「ひ、ヒサキさん、あの、お話しがあるんですが」

 精神的疲労からか、乾ききった笑みを浮かべたまま問いかけた。

「なにか、あったのかな?」

 すると、ネギくんはばつが悪そうに口ごもった。
 不穏な雰囲気が、辺りに漂っていく。
 意図は掴めないが、こういう時は待つ事が大切である。
 培ってきた経験則に従い、最大限の微笑みでもって待つのだ。
 程なくして、ネギくんが意を決したように口を開いた。

「は、はい。
 お話しとは、昨夜の事なんで」
「ネギくん、大丈夫だ」

 反射的に片手を前に出すと、言葉を遮った。
 突然の事に、ネギくんが目を見開く。
 そうか。そう、だったか。
 やはり、京都は冥界と言えよう。
 この地を踏みしめてからというもの、死活的な問題は否応もなく次から次へと迫り、瞬く間に山積みになっていくのだから。
 ネギくんが、心優しくあるのは周知の事実である。
 罪悪感から派生してしまう、影響。昨夜の、仏様の存在を疑ってしまうほどの無慈悲過ぎる、騒動。
 それは、無情過ぎる結果を呼び込んでいた。
 小さな少年の真摯なる心に、トラウマという闇を、形作ってしまったのである。
 なんと、いう事だ。
 悲しき結果に、自らの力不足を実感させられた。
 そんな俺をよそに、ネギくんが慌てて首を振った。

「ち、違うんです!
 あれは勝手に朝倉さんや、カモくんが!
 カモくんもなんとか……あ、あれカモくんも朝倉さんもいない。
 さっきまでここにいたのに……」

 あたふたと、周囲を見回す。
 俺は、心の中で、泣いていた。
 紛う事なく。紛う事なく、俺の考察は的を射てしまっていたのだから。
 朝倉さんという名称は、昨夜の少女の事で間違いないだろう。
 そして、カモくんという忘れたくても忘れられない名称。
 強く、高らかに宣言出来ると言えよう。
 これ以上、ネギくんの心を苛ませてはならない、と。
 俺は多国籍に変換する事さえも忘却の彼方に、真剣な表情で言葉を紡いだ。

「ネギくん、二度目だが大丈夫だ」

「だ、大丈夫、ですか?」

 当然、だろう。
 ネギくんが、不思議そうに呟いた。

「ああ、大丈夫なんだ。
 そうだ。そうだね。
 強いて言うのならば昨夜の騒動は、運命の悪戯みたいなものだと言えるだろう」

「運命の悪戯、ですか。
 で、ですが、仮契約の問題が! ヒサキさんを従者だなん」

 再度、俺は遮るように首を振った。
 なにやら吸血鬼語だとは思われるが、ぱくてぃーおー、とやらの意味は皆目見当もつかない。つかないがだ。
 そんな事柄は、現状、どうでも良いのである。
 これ以上、無為な時間を浪費させてはならない。
 ネギくんは、修業の身。儚くも父の背を追いかけながらも、良き教師となるため努力しているのだから。

 俺は強く頷くと、言った。
 嘘でも何でも良い。
 俺は年長者、なのである。俺はネギくんに取って、模範とならなければならないのだ。

「ネギくん、俺は気にしてなどいないし構わないよ。
 なぜならば、誰かが悪い訳じゃないんだからね」

「そ、そうですが」

 ネギくんの語調が、弱まっていく。
 俺は最大限の微笑みで持って、口を開いた。

「それならば、現状として、ネギくんがしなければならない事は一つだけだ。
 それは、ただ、未来だけをその瞳で捉えて、進み続ける事。
 それ、だけだ。過去は見なくて良い。何も考えなくていいんだ。
 そして、いつか、振り返れる時期が来た時に初めて、改めて過去を見直そう。
 だから今は、前だけを向いて進もう」

 唖然としていたネギくんが、こちらを見つめて黙り込んだ。
 長い間、互いの視線が交錯した後、ネギくんの表情に色が戻った。
 その色は、強き決意に彩られていた。

「は、はい!
 ヒサキさんの言うとおり、今は、未来だけを見て進んでみます!
 頑張って、頑張って、そして、一人前になったら、またヒサキさんに」

 俺は、応援する気持ちを込めて強く頷いた。
 だが内心は、深い安堵の息が漏れていた。
 良かった。本当に、良かった。
 これで、トラウマに心を支配されてしまう事はないだろう。
 ネギくんの、心からのお礼の挨拶を受け取る。
 立ち上がりながら、俺も笑顔を返した。
 さあ、一端、部屋に戻って準備をしよう。そして、今日という日を、糧にするのだ。

 そう、振り返った時だった。
 忘れていたのだ。
 もう一つの、由々しき問題を。
 そこには、桜咲さんと神楽坂さんが立っていた。
 何やら、頬が朱に染まっていた。その上、もじもじと落ち着かなさそうに指を絡めていた。
 そして、彼女達は、世界大戦の戦火を彷彿とさせる波状攻撃を繰り出した。

「こ、小林さん。
 あの……私もお、兄さん、と呼んでも……」
「こ、小林先輩。
 お、お兄ちゃんって呼んでも、良い、ですか?」

 心の中のミニヒサキは、その爆発的な破壊力に、ある意味で、四方八方に消し飛んだ。



[43591] 一体全体、意味がわからない——表その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:29
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 
 開け放たれた入口から、陽気な風が吸い込まれて、俺達の間をそっと通り抜けていく。
 京都の名もなき路地裏。歴史の重厚さを感じて止まない建物が並び立ち、絶え間なき、陽光が差し続けていた。
 おおよそ、随分と昔に建てられたのではないだろうか。
 木製だからか、茶店の内壁は所々くすみ、味わい深い雰囲気を滲ませている。
 俺と茶々丸さんはというと、仲良くも顔を合わせ、テーブルを挟み椅子に座っていた。
 自然の温かみを感じずにはいられない、木製のテーブルと椅子。その身体には、幼き日頃に書き殴った迷路のような、年輪が刻み込まれている。
 ある種、穏やかな世界観に、正に情調といった感慨に捕らわれた。

 ああ、なんという、至福の一時なのだろうか。
 冥界という言葉など、どこ吹く風、穏やかな一時。片思いせざるを得ない、花の妖精と比喩せざるを得ない、少女とのデート。
 ふと、思う。
 これほどまでに、有頂天かつ、心が踊り狂い、とてつもない足捌きを見せた事があっただろうか。
 即座に返答出来よう。いや、ない、と。
 だが、それは確かに、俺の視点の話しである。
 彼女はそうは思っていないという、世にも恐ろしい視点もあり得るだろう。
 だが、しかしだ。
 これは将来の優劣を決定づける、重き第一歩、なのだと言えよう。
 それならば、血液の脈動を模したかのような、内心の揺らめきもまた必然と言えた。

 早朝よりかは、調子を取り戻してきたと思える茶々丸さんに、笑みを向けた。
 お皿に盛り付けられた、草の串団子を一本摘む。
 ヨモギの望郷を蘇らせる独特な匂いが、優しく鼻腔をくすぐった。

「茶々丸さんも、一つどうかな?」

 茶々丸さんが一拍の後、青空を彷彿とさせる澄み切った瞳を見せた。

「ありがとうございます。
 ですが、私には必要ありませんので」

 必要ないとは、一体。
 頭を悩ませたが、直ぐに気づけた。
 所謂、世の女性達の性。ダイエットに励んでいるのかも知れない。
 途端に、心配になった。
 過度なダイエットは、身体に悪いと聞いていたからだ。
 それに、茶々丸さんのどこに、そのような事をする必要性があるというのか。
 名のある彫刻家が彫ったかのような、プロポーション。短所を言えと尋ねられたならば、俺は即座にこう答えるだろう。
 逆に、こちらが聞きたいよ、と。
 即座に止めるよう言おうとしたのだが、口が開かれる事はなかった。
 こう、聞いた事があったのだ。
 おせっかいな男は、酷く嫌われてしまう、と。
 少々、不安には思いながらも、何事もなかったかのように串団子を口にふくんだ。
 和の香りが、口一杯に広がっていく。それに呼応するように、驚愕の早朝の記憶が蘇っていった。
 
 
 
 
 京都に置いての早朝。それは、意味不明という言葉が我が物顔で闊歩していく時間帯。
 受けた被害は、正に甚大だった。
 なんという、事だろうか。
 心の中の小さな分身が、太陽の絵ごと、木っ端微塵に吹き飛ぶという憂き目に遭ってしまったのである。
 確かに、誰が悪い訳ではない。明確に誰が悪い訳ではないのだが、その時の俺を形作る細胞全ては、クエスチョンマークで構成されていた事と思う。
 今でも、鮮明に浮かび上がる言葉。

「こ、小林さん。
 あの……私もお、兄さん、と呼んでも……」
「こ、小林先輩。
 お、お兄ちゃんって呼んでも、良い、ですか?」

 恥ずかしそうに指を絡めながら、頬を朱に染めて、である。
 正にアブノーマルヒサキを地で行く騒動には、神の存在を疑ってしまったほどだ。
 昔、道端によくいる占い師に、こう言われた事があった。
「あなたは、全知全能の神々に、血を分けた息子かのように愛されています」
 その時の俺は不運続きであったし、何を言っているのかと内心、憤っていた。
 だが、しかしである。
 今ならば、信じられる。信じられるのだ。
 神々の愛し方が、少々、道を外れてはいるが、何らかの大いなる力が働いているとしか思えなかったからだ。

 俺は、余りの予想外の事態に固まった。
 脳裏には、まさかここまで慕ってくれているとはと、落涙を禁じ得なかった。
 だが俺は、程なくして、断腸の想いで決断を下した。
 それは、否という、神々を冒涜するかのような響きだった。
 確かに、心は痛んだ。その親愛的な感情に浸れという、内心のざわめきは多々あった。
 だが、こう、思えたのだ。
 それだけは踏み越えてはならない、絶対の領域なのではないか、と。
 なぜならば、ある由々しき未来予想が、脳裏を殴りつけたからであった。

 皆からは、自意識過剰の愚か者と、厳しく罵倒されてしまうかも知れない。
 極めて、低い可能性ではある。低い可能性ではあるのだが、こう考えて見て欲しい。
 その親愛という感情は、不変なものなのか、と。
 ベクトルが恋愛へと向かう事は、絶対にないと言い切れるのか、と。
 ある少女との騒動で、俺は思い知った。そして、その恐ろしさを十分に味わってもいるのである。
 少女に深い傷を残してしまった故の、罪悪感というトラウマを。
 それならば、今だ。今、なのだ。今、線引きを明確に誇示するべき、なのだ。
 だからこそ、断腸の想いで断った。
 彼女達の将来を、本当の意味で思うのならばこそ、そう考えて。

 彼女達は、やはり残念そうな顔をした。そして、茶々丸さんを不思議そうに見やった。
 その湧き上がる疑問も、当然と言えよう。
 だが、それで良いのだ。
 小林氷咲に取って、絡繰茶々丸さんという女性は、特別な存在だという事実も誇示する必要があったからである。
 真剣に、頷く。
 すると、彼女達は拍子抜けしてしまうほどに、いとも簡単に納得してくれた。
 俺は、苦笑を隠せなかった。
 安堵すると共に、自らの自意識過剰ぶりに、自嘲めいた笑みが浮かび上がっていたからだった。

 そして、今に至っているという訳である。
 それならば、当然の如く、ある疑問符が浮かぶ事となるのは容易く想像出来よう。
 おいおい、依頼はどうしたのか、と。
 またやりやがったなお前、と。
 それを説明しなければならない状況に置かれるのならば、これからの顛末でご理解頂ける事だろう。

 時は、再度、早朝に遡る。
 俺は安堵しきり、自然な笑みが浮かび上がっていた。
 心癒される空間。後ろ髪ひかれてしまう感はあったが、俺には準備を整えるという大切な用事があった。
 快く、別れの挨拶をした。

「みんなと話せて楽しかったよ。
 だけど、すまないが帰らせて貰う。
 少々、色々とやらなければならない事柄があってね」

 どうして、だろうか。
 静寂が訪れる中、桜咲さんは言葉を返した。
 不思議な事に、その表情には決意が燃えていた。

「いえ、これ以上、小林さんが動かれる必要はありません。
 この件は私に、いえ、私達に任せて下さい。
 必ず、やり遂げて見せますから」

 その燃え盛るかのような瞳に、他の皆も一斉と、決意に燃えた声を上げていく。
 俺はというと、正直に面喰らっていた。
 全く持って、意味がわからなかったからである。

 皆と俺の視線が、自然と交錯した。
 何やら、重苦しき雰囲気をつくりあげていく最中、やっと俺は気づけた。
 そうか。そういう事だったのか。
 俺の、依頼。ネギくんを見守るという大切な依頼を、肩代わりすると申し出てくれているのだろう。
 だが、即座に俺は首を振った。
 なぜならば、これは俺が承った依頼、なのだから。より良い男と一皮向けるための、為さねばならぬ試練と言えよう。
 それなのにも関わらず、皆に任せてしまうなど、してはならない事だと高らかに言えた。

 だが、しかしだ。
 俺の口が、開かれる事はなかった。
 ふと、思えたのである。
 果てなく強き決意、意思に水を差しても良いのだろうか、と。
 皆が、やる気になっている。ネギくんも、やる気満々の表情なのである。
 それならば、その向上心こそが、正に肝要なのではないか。
 ネギくんの、皆の、確かな成長に繋がっていくのではないかと思えたからだった。

 ふと、茶々丸さんを見やった。
 茶々丸さんならば、どのような結論を導き出すのかと、疑問に思ったからだった。
 茶々丸さんは、静かに口を開いた。
 ここは、皆さんに任せましょう、と。
 その言葉が、心の内に吸い込まれていくような感がした。

 それから皆と別れ、学園長に連絡を取った。
 そこはやはり、さすがの学園長という事なのだろう。
 類い希なる、慧眼。未来を容易に予測してしまう、その崇高なる頭脳。
 学園長はなんと、そうなる事がわかっていたかのように、二つ返事で快諾してみせた。
 その上、その上である。
 わざわざ、俺を労う言葉までかけて頂けた。そして、今日一日を好きに使いなさいとまで仰ってくれたのである。
 全く持って、なんという、学園長なのだろうか。
 前々から、こう考えてはいた。
 毎朝の日課として、心の鍛錬として、拝まさせて頂かなければ、と。
 その結論が、今、導き出された。
 拝まさせて頂こう、と。
 いや、その解釈は間違っている。
 拝まさせて頂かなければ、最早、日本男児とは言えないだろう、と。

 そして、麗らかな昼時。そこらに妖精が舞っているかと錯覚するようなまでの、今に至る、という訳である。
 いつの間にか舞い戻り、正に悪霊かのように肩に居座る死神さんの笑みも、微笑ましいものと感じられていた。
 いや、正確には違う。先程、新たな出来事が巻き起こっていたのだ。
 それは、来世という事象があるのならば、このような品のある整った顔立ちで生まれたい。
 そう、素直に思えるほどの男前、クウネル・サンダースさんという男性がその輪に加わっていた。
 言葉を要約するに、彼は学園長に派遣されて、こんなに遠い京都の地にまで来たようであった。
 どうしてかは、わからない。わからないが、茶々丸さんは未だに信用をしていないようだ。
 色々と一悶着はあったのだが、俺はというと即座に信頼出来ていた。
 なぜならば、正に品行方正。柔らかな物腰、穏やかな口調。そして、人を魅了してはばからないと推測出来うる微笑み。
 服装の真っ白なロープから清潔感が溢れ、彼の印象を良きものと思わせていた
 確かに。京都にロープとはと違和感が残ったが、外国人さんなのである。
 すぐさま、納得出来た。
 その上、だ。わざわざ俺にまで、敬語を用いてくれる人柄は直ぐに打ち解けられた。
 そして、最後の事柄が決め手となっていた。
 それは、簡単な事である。
 あの学園長が、決断した事なのだから。
 学園長が、電話口で言っていたのである。
 もう一人だけ、ある人物を派遣したからのう、と。
 それならば、俺が口を挟む必要性は皆無となった。愚かにも挟もうとするものは、神に唾を吐く行為に他ならないからだ。

 それから、俺は快く頷く事となった。
 クウネルさんが、こう切り出したのである。
 男同士だけの、会話が出来ませんか、と。
 対面に座るクウネルさんの笑みを見ながら、ふと心が痛んだ。
 茶々丸さんに、申し訳ない事をしていたのである。
 確かに、嬉しくはある。ここまで信頼されていたのかと、感無量の至りだった。
 だが彼女は、俺の傍を離れてはくれなかったのだ。
 どうにも困り果てたが、長い時間をかけて何とか納得して貰えた。
 去り際に、お兄様はやはり男性がと言っていたように思うが、意味についてわからなかった。

 古びれた茶店に、男達の声が響く。 
 クウネルさんが、目を細めて微笑むと口を開いた。
 
「ほう……昨夜に、そのような出来事が起こっていたのですか。
 そして、あなたは、それを演劇の練習だと捉えていると」

 先程から、終止、京都で巻き起こった騒動についての質問されていたのだ。
 現状を把握するためだろうと、包み隠す事なく全ての全容を語っていった。

「ええ、そう捉えましたが。
 どこか、おかしな点でもありましたか?」

 不思議に思い、動向を窺った。
 一拍の後、クウネルさんは静かに言った。
 同性だというのにも関わらず、見惚れるのを拒否できない爽やかな笑みで。

「いえ、違いません。
 それは、演劇の練習で間違いないでしょう。
 どれだけ考えて見ても、演劇以外のなにものでもないと断言出来ます」

 俺は、少々、嬉しくなった。
 自らは間違ってはいなかったのだと、そう教え示されたような感慨が湧いたからだった。
 笑みを持って、言った。

「やはり、そうですよね。
 ここは京都。恐ろしき冥界と言えども、そう簡単に誘拐事件が起きては警察官の皆さんも困るでしょうから」

 静かな、静寂が降りた。

「冥界とは一体……?」

 俺は、首を傾げると言った。

「冥界、ですか。
 学園長が京都は悪が跋扈する街だと仰っていましたので、そのように形容させて頂いたのですが……。
 何か、おかしな点でも……」
「いえ、おかしな点などはありません。
 私の無知が原因です。何やら聞き慣れない言葉だったもので、少々、不可解に感じてしまったのです」

「ああ、そうですか。
 いえいえ、ご謙遜を。僕の方こそがまだまだ、未熟者なんですから」

 クウネルさんとの会話は、安らげる一時となった。
 もっとも、彼の価値観が自らのものと似通っていた事も、時間を忘れてしまう要因と言えた。
 学園長の偉大さなどを語らせて貰ったのだが、彼も同意見のようで、快く頷いてくれたのだ。
 学園長を信頼する者に、悪い者はいない。そんな格言が生まれたためになる時間だった。

 その途中の事だ。
 クウネルさんらしくない、ある出来事があった。
 それは純真にして清廉なる少女、エヴァンジェリンさんの話題の時に起きた。
 話しを聞くに、クウネルさんとエヴァンジェリンさんは古くからの友だという。
 内心で、クウネルさんも吸血鬼なのかも知れないなどと推測した事は一先ず置いて置こう。
 エヴァンジェリンさんに、こんなにも素晴らしき幼馴染みさんがいたとはと思った事も、そこらの道端に置いておこう。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。そのAKの部分は不死の子猫の意であり、彼女はその名前で呼称される事を最上の喜びとしているという情報も聞けた。
 だが、それも、置いておこうではないか。
 茶店に不似合いな、重苦しい雰囲気が漂う。
 クウネルさんが、真剣な表情で、こう切り出した。

「あなたは、彼女の事をどう思っているのですか?」

 一瞬、呆気に取られた。
 その質問の裏にある、多大なる感情が透けて見えてしまったからだ。
 おおよそ、クウネルさんは、エヴァンジェリンさんの事を大事に想い、案じているのだ。
 それは兄が妹に向けるような、親愛という感情。清廉なる純粋な感情。
 クウネルさんが緊張からか、お茶を口に含んだ。
 俺は、即座に口を開いた。
 それは、彼女に対する、並々ならぬ感謝から作用されていた。

「ええ……そうですね。
 僕は彼女に、並々ならぬ感謝をしています。それはこれからも、色褪せる事はないでしょう。
 強いて言うなら、そう、ですね。……聖母。僕に取っての、正に聖母のような女性だと言えます」

 その、瞬間だった。
 正に予想外。想定外な事態が巻き起こったのだ。
 なんと、なんとだ。
 あの沈着冷静を売りにしていると言っても過言ではないクウネルさんが、クウネルさんがだ。
 唐突にも、勢い良く咳き込んだ、
 口に含まれていたお茶を、まるで、噴水のように吹き出したのだ。
 鳶色の水飛沫が、中空で霧と変化して舞い踊る。否応もなく、俺の顔を濡らした。
 生暖かい温度を実感しながらも、唖然と固まった。対面では、クウネルさんが苦悶の表情を表し咳き込んでいた。
 だが、俺は逆に親近感を覚えていた。
 クウネルさんでも、失敗する事があるのだと思えたからだ。
 その後、勘違いした茶々丸さんが飛び込んできたりしたが、程なくして、クウネルさんとの楽しきお茶会は終わりを告げた。
 さあ、これから、茶々丸さんとの京都観光。有頂天と息巻いているはずだった。
 だが、俺の心は微塵も高揚としてはいなかった。
 それは、意味深な微笑みのままに放たれた、ある言葉が要因となっていた。
 どうしたのだろうか、俺は。
 何なのだろうかこの、心に風穴が空いてしまったかのような、さめざめとした切ない感情は。
 去り際の言葉は、まるで、開かずの扉を開ける鍵を彷彿とさせていた。

「それでは、最後に一つだけ良いでしょうか。
 事の初め、あなたは、私に、見覚えがありましたか?」
 
 
 
 
 
 古時計が、夜を刻みつけている。
 窓の奥には、静まり返る夜の帳が降りていた。
 不必要なまでの広大さを誇る、自室。これまた不必要なまでの大きさを誇る、テレビ。
 その前に座布団を置いて、俺は今か今かと陣取っていた。ある時を、待ちわびていたのである。
 他愛もないCMが、目に付く。だがそれが逆に、心の高揚を増幅させていく結果となっていた。
 すると、どこからか、茶々丸さんがやって来て言った。

「お兄様、楽しそうですが、どうかしましたか?」

 これは、困った。困ったぞ。
 そうか。そういえば、茶々丸さんの許可を取るのを忘れていたのである。
 これは、いけない。正に、有頂天と馬鹿をやっていたようだ。
 なぜならば、茶々丸さんも他に、鑑賞したいものがあるかも知れないのだから。
 恐々と、口を開いた。

「茶々丸さん、本当に申し訳ないんだけど、少々、テレビを見させて貰っても良いかな?」

 やはり、そこはさすがの茶々丸さんである。
 恐々と戦く、心境を汲み取ってくれたのだろう。
 即座に、返してくれた。

「はい。それは構いませんが」

 ホッと、安堵の溜め息をついた。
 茶々丸さんが、不思議そうな視線をこちらに向けている。
 その意味を理解すると、簡単に説明した。

「今から見たいのは、ある人気ドラマの再放送でね。
 一部に熱狂的な信者がいて、その熱に煽られたのか、また流すみたいなんだよ。
 初回は見たんだけど、これはある詐欺師の生涯を追った物語りなんだ。
 俺は、原作小説からの大ファンでね。
 しかも、今日の放送には、好きなシーンがあるんだ」

 そう、今でも鮮明に思い出せる。
 桜咲さんという、人柄を良く知る事が出来た、原宿にて購入した小説である。

「そうなのですか。
 それはどういった、内容なのでしょうか?」

 少々、嬉しくなってしまう。
 好きなものに興味を持ってくれて、その上、相手が愛すべき人だとするならば、致し方ない事と言えよう。
 身振り手振りをまじえて、言った。

「ネタバレになってしまうから、余り内容には触れられないんだけど。
 そうだな。まず、世界設定なんだけど、日本と言えば日本なんだけど、俺達の住んでいる日本ではないんだ。
 未だに平等のない世界、奴隷制度が色濃く残る日本の物語りだね」

 俺は、順を追って説明していった。
 主人公は、地位の高い富豪の家計に生まれる。だが、幼い頃に、生活を一変とさせる悲しき結末を迎えた。
 青年となった頃、自らの国の政府こそが黒幕であると知ってしまう。
 そして、主人公は政府内部に入り込み、裏の顔、権力者達を手玉に取って腐敗を正そうと暗躍するという物語りなのだ、と。

 茶々丸さんは、静かに耳を傾けていた。
 滑稽にも、熱弁してしまっていた。
 だが、茶々丸さんは興味を持ってくれたようだ。
 それが、嬉しくて、自然と笑みが浮かび上がった。
 もっと興味を持って貰えたらと、俺は立ち上がった。

「今日のシーンは、危機の回でね。
 政府内部で暗躍している時に、同じく国を憂う仲間が出来ていた。
 だけど、仲間の裏切りにあい、友を殺されてしまう。
 その友は、最愛の恋人だったんだ。
 仲間達が弔い合戦だと息巻く中で、主人公は一人、こう言い放つんだ」

 俺は、茶々丸さんに背を見せた。
 ゆっくりと目を閉じると、主人公さながら、真剣な表情をつくる。
 小さく、息を吐き出した。
 颯爽と振り返ると同時に、片手を前に出す。そして、目を力強く開いた。

「心遣いには、多大な感謝をしている。
 だが、無様にも我を忘れて暴走する事が、唯一、強大な敵を倒しうる策と呼べるのか。
 違う、だろう。間違っている。間違っていると、わかっているはずだ。
 きみたちが今、為さなければならない事は、他にある。
 冷静になれ。足下を固めろ。仲間達の顔を見ろ。
 そして、俺を信頼しろ。
 もう二度と、失いたくはないんだ……!」

「こ、小林……さん」
「小林先輩!」
「ヒ……サキさん」

 そして俺は、まるで、生命を持たない彫像のように固まった。
 どういう、事、なのだろうか。
 確かに、俺は、自室にいた、はずなのだが。
 どうして、頭上高く、夜空に星が瞬いているのだろうか。緑の匂いが、鼻につくのだろうか。
 尚も脳内のコンピューターは、オーバーヒートしていく。
 どうして、所謂、外、にいるのだろうか。
 どうして、ネギくんは泥だらけで倒れているのだろうかか。
 神楽坂さんは驚愕しきり、こちらを直視しているのだろうか。

 見覚えのない場所。
 夜風に波紋立つ湖に、周りを覆い込むように屹立する木々、そして、湿気漂う桟橋の上。
 ここは、一体、どこなのだろうか。
 脳内が、混迷と化した。茶々丸さん、はどこに。
 というか、どうして俺は、桜咲さんをお姫様抱っこしているのだろうか。
 その時だった。
 背後の方向から、目を眩ませるほどの光源が出現したのだ。
 首だけ動かして、確認してみる。
 それにしても、心の底から、嘘偽らざる心で、思えた。

 うん。
 意味がわからない。
 一体全体、意味がわからない。

 そこには見慣れた死神が、浮いていた。肩から離れて、浮いていた。
 ヒラヒラと闇色のロープが、踊る。月光を反射し、鈍く光る鎌を、前方に翳していた。
 そして、俺を包み込むように、半円形の紫色のバリアのようなものを展開していた。
 そこに、見慣れぬ外国人の少年が、直突きを入れていた。
 拮抗でも、しているのだろうか。
 稲妻が走るような音が響き渡り、闇夜にパチパチと閃光が瞬いていた。
 バリアから、風が生まれているのか。
 少年の真っ白な髪が、風圧で踊り狂う。
 その瞳は、無機質なものに見えた。

「やっと来たようだね。
 まあ、これも血筋。因縁なんだろう。
 きみの今の名前を教えては、くれないか。
 知っていると思うけど、一応、言っておくよ」

 何を言って、いるのだろうか。
 内心の、全ての世界が惑い始める中、少年は口を開いた。

「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」



[43591] 一体全体、意味がわからない——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:30
—神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
 
「あ、姐さん、皮を! どうか皮を剥ぐ事だけは勘弁してくだせぇー!
 あ、あれはそう……事故! 事故だったんでさー!」

 テーブルの上で俗悪な小動物が血相を変えて、へこへこと土下座を繰り返している。
 顔色は極端に青ざめて、その声音は半ば哀願するように揺れていた。

「は、ははは、カモっちの言う通りだって。
 だ、誰も悪くないっていうかさー。
 あ、アスナ? 聞いてるかなー……?」

 T字のソファーに座る朝倉は萎縮でもしているのか、小さく乾いた笑みを漏らした。
 冷や汗が、額から頬にかけてゆっくりと流れ落ちていく。
 両手を前に出し左右に揺らす様はせわしなく、まるで、迫り来る最期の時に抗う罪人のように思えた。
 だけど、一つだけ違いがある。
 この不届き者の中にも、ネギだけは猛省をしているようだったからだ。
 もしかしたら、私の言葉が心に響いたのかも知れない。
 早朝、事の真相を聞かされた。
 その説明に私は異様に腹が立って、こう切り返したんだ。
「あんだけ大口叩いて起きながら、小林先輩に泣きつくなんてバカじゃないの!
 アンタ、嫌われたって知らないわよ!」
 その後のネギはというと、それはそれは酷い有り様だった。
 息も絶え絶えと肩を落としたんだ。
 まるで、たった今、家族の訃報を聞かされた親族かのように、茫然自失といった様相だった。
 でも、思う。こんな事くらいで、小林先輩が人を嫌いになるなんてあり得ないとはわかっている。
 だけど、私はそれを承知で言い放ったんだ。
 大きな怒りに任せて、といった部分もある。
 でも、どこかの誰かさん達のように、自分の不手際を言い繕うよりかは、何十倍もマシだと思えて。

 窓の奥の空は眩く、鮮やかな色彩を放っていた。
 雲間から朝日が頭を出して、見慣れてきた景観へと陽が差し込んでいる。南風が木々の葉を揺らす。ゆるやかに過ぎ去っていった。
 爽やかな眺め。酔いしれてしまいそうになる、色彩豊かな情景。
 だけど、そんな景色とは不釣り合いにも、ホテルのロビーは重々しく静まり返っていた。
 私は、憤りを隠す事が出来ないままに腕を組む。有無を言わさないとばかりに、不届き者達の顔を見下ろした。
 後の方から、刹那さんの声が響いてくる。
 表情は見えないが、予想は出来ていた。その声色は、神妙なまでに恐縮しきっていたからだ。
 勿論、携帯電話で連絡を取っている相手は、小林先輩に他ならない。
 穏やかで和やかな、包容力のあり過ぎる先輩。率直な気持ちで、私はこう言えた。
 刹那さんの言葉を借り受けるのならば、その在り方というものに、途方もないほどの尊敬を隠せない大人な人だ、と。

 この期に及んで、未だに言い訳を宣おうとした二人を無言の圧力で黙らせた。
 だけど、内心は違う。
 私は必死になって、内の感情を押し殺していた。
 それは、時が経つにつれて、如実に肥大していく焦燥感に似た感情。
 ある、事実。こんなにも関係者が大集合しているというのに、小林先輩の連絡先を知っているのが、刹那さんだけだという事実。
 そんな些細な事。些細な事のはずなのに、それだけで私の内情は、凍えるように寒々しく、同時に煮えたぎるような熱を帯びていく。
 感情の出所、起因ははっきりとしていた。
 それは、私に巣くう浅ましさ。羨ましいという感情から、作用されているんだろう。

 胸の内のモヤモヤが、騒ぐ。何とか吐き出せないかと、小さくため息をついた。
 そして、その瞬間だった。
 拍子に、ある疑問が脳裏を過ぎったんだ。
 私は、どうして。
 私は、どうして、怒っているんだろうか、と。
 その憤りの熱量は、まるで、水が沸騰するかのようにグツグツと煮えたぎっている。
 考えて見れば答えは簡潔だった。結論というものは、明確に掴めた。
 小林先輩が、だ。
 私達を善意で助けようとしてくれている小林先輩に対して、不必要な迷惑をかけた。その事に対するふがいなさ、憤りから来ているんだろう。
 あそこまで調子の良い事を宣言していた癖に、色恋沙汰ごときで頼ったネギに。そして、あまつさえ仮契約まで結んでしまったネギに対して。
 こんな状況下だというのにも関わらず、遊び半分で事を起こした朝倉やカモに対して。
 そういった単純明快な理由や動機は、ごく自然に理解出来ていた。

 だけど、それは、真実なんだろうか。
 いや、捉え方が違う、と思う。厳密にはそれだけが、騒ぐモヤモヤに繋がっていく真実なのだろうか。
 そうだと、仮定してみる。それならば、ある疑問が浮かんだ。
 この、大吹雪を彷彿とさせる冷たさ、寒々しい冷気は、どこから生まれたんだろうか、と。
 眉根を潜めて、目を閉じた。
 すると、ある答えと共に、身体中が火だるまになったんじゃないかと錯覚するほどに熱くなった。
 まさか、私は。まさか、私は、嫉妬でもしているんだろうか。
 いつも一歩先を行く、刹那さんへ向けて。仮契約を結んだ、ネギへと向けて。
 仮契約、その言葉が浮かび上がると、やっとある事柄に気づいた。
 それはつまり、二人は、キス、を。
 慌て、ふためいた。勢い良く、左右に首を振った。
 色々な感情が、浮かんでは消えていく。
 そ、そんな訳、ないじゃない! だって二人は男同士だし……す、凄い人だと思うけど、私はもっと年上というか、高畑先生みたいな……!
 す、少しは思うけど、どうせ仮契約をするのなら先輩の方が良か……。

 その時だった。
 ふと脳裏に、あの満点の夜空が呼び起こされた。
 先程の起こった事のように、鮮明に浮かび上がっていく。
 鋭くて、力強い瞳。小刻みに鼓動する、心音。静かな、息遣い。お姫様抱っこ。
 満月を背景に、闇を裂きながら飛ぶ二人。
 それは、とてつもなく恥ずかしいけど、大切な思い出。
 そして、気づく。私は、嫌じゃなかった。嫌じゃなかったんだ。
 どうして、なんだろう。
 その言葉が文字となり、脳裏を錯綜した瞬間の事だった。

 あの時の感覚が、ふいに蘇ったんだ。
 揺れる、新幹線の車内。
 木乃香に話しかけられたために掴み損ねた、黄昏の記憶。ぼんやりと明滅しながらも輝きを放つ、失われた記憶の断片。
 そこで私は、新な映像を見た。いや、厳密には、見えたような気がした。
 覆い込まれるようなまでの包容力。心を安らがせていく瞳をした人物の姿を。
 茜に染まる、雲の海に大空。涼しい風が、互いの前髪を大きく揺らす。
 あの停電の夜と同様に、私は抱かれて空を飛んでいた。
 それ以上、思い出す事は、出来そうにない。逆光で黒くぼやけた、シルエット。私に優しげな眼差しを送る人物の、顔も。

 だけど私は、確かに感じた。まるで、現実の世界で触れているかのように感じたんだ。
 その、温もりを。郷愁を感じさせる、そして、せめぎ合うように拮抗する、身を切るようなまでの切なさを。
 やはり、そう、なのかも知れない。
 私と小林先輩は、昔。そうだったのかも、知れない。
 居ても立ってもいられなくなった。
 知りたいという、答えを得たいという欲求は、身体中を急速に支配していった。
 そして、ある結論が導き出された。
 小林先輩に、聞いてみよう、と。
 小林先輩ならば、全ての謎に終止符をつけてくれるんじゃないか、と、

 ふうと、小さくため息をつく。
 自然と、小さく含み笑いが漏れ出た。
 ある青年の、優しい微笑みを思い出してしまったから。
 まだ、出会って間もない。だというのにも関わらず、私の心の根幹に、さりげなく侵入してきた青年の汚れない微笑み。
 目を開く。どうしてか、こちらの顔色を窺う朝倉達を無視して、自然な素振りを装い、胸元を指の腹でなぞった。
 固形の鋭利な感触、銀の翼。絆。
 肌を差す冷たさは、暴れ回っていた感情を正常へと戻していくような気がした。

 嬉しく、なった。
 なぜならば、他の誰も、だから。
 初めて、私が一歩、先へ進んだ。
 刹那さんさえも、知らないんだ。
 この世界の中で、二人だけしか知らない、秘密の思い出は。

 胸の中が、高揚感で満たされていくのを感じた。
 すると、どうしたんだろうか。
 ネギは変わらず茫然自失の有り様だけど、カモと朝倉の表情が引きつっていた。
 まるで、今にも襲い来る幽霊でも目撃したかのように唇を震わせていた。

「あ、姐さん。
 か、考え直して下せぇー……。ほ、ほんの出来心だったんでさぁー」

「ち、ちゃんと謝るからさ……」

 はずむような心地に耽っているのを邪魔されて、少しだけ腹が立った。

「はあ? なに言ってんの、アンタ達」

「い、いやなにをというか……ねぇ、カモっち」

「へ、へぇ、そうでさぁ。まだ怒ってんのかなーって」

 朝倉達は、顔面蒼白で口々に言う。私の顔を、恐る恐る覗き見た。
 ふと、羞恥心が騒いだ。顔が、酷く熱くなっていく。
 平静を装って、口を開いた。

「怒ってなんかないわよ
 元々、私が怒るような事でもないでしょうが」

 まるで、天の助けと言わないばかりに、朝倉達の目が輝きを取り戻す。

「ほ、本当ですかい!」
「ほ、本当に!
 ゆ、許してくれるかなぁ。
 か、カモっちから、小林さんは女子共問わず平等に制裁を加える男だって聞いてたんだけど……」
「ち、ちょ! ブンヤの姐さんそれをここで!」

 ムッとした。
 カモが小林先輩をどう思っているのかが、よくわかったからだ。
 その発想はどこから出て来たのか、小一時間、問い詰めてやろうか。
 カモを、鋭く睨みつけた。

「……なによ、それ。
 さんざん、小林先輩に頼っておいてそれはないでしょ。
 ……というか、アンタ達がきちんと謝ればすむ話しじゃない。
 小林先輩なら、許してくれるわよ。
 もしかしたら気になんてしてなくて、開口一番、構わないよ、くらい言っちゃう人でしょ、先輩は」

 カモが、うろたえながらも声を上げた。

「あ、姐さんの言う通りでさぁー!
 小林の旦那は、話しのわかるお方っス!
 オレっちみたいな小物は眼中にないっていうか……」

 それからのカモは、小林先輩の素晴らしい部分を口々に上げていった。
 取ってつけたような様に酷く嘘臭く感じられて、少しだけ腹が立った。
 だけど、小林先輩を誉めている事には変わらない。 悪くは、感じなかった。

 まだまだありますぜとばかりに、ヒートアップしていくカモ。
 私は無視して、ネギに問いかけた。
 ふと、興味が沸いたんだ。
 小林先輩の仮契約カード、称号は、どんな感じなんだろうか、と。

「ちょっと、ネギ。
 先輩のカードは、どうしたの?」

 未だに、虚構の世界に旅立っているんだろう。
 ネギは口から魂が抜け出てでもいるのか、うんともすんとも言わなかった。
 もう一度、問いかけようとすると、カモが慌てた様子で口を開いた。

「こ、小林の旦那のカードですかい!
 それならばここにあったはずっス!」

 大至急といった素早さで、ネギの懐に潜り込む。
 そして、私へと、まるで帝にでも献上するかのような物腰で掲げ上げた。

「ちなみに称号は、表裏一体なる奇術師っス!
 いやーまったく、旦那に相応しい称号だぜ!」

 その胡散臭さに、若干、辟易とした。
 何か口を挟もうかとも思ったけど、好奇心には勝てない。カードを掴み上げた。
「表裏一体なる奇術師」
 さあ、表を確認しよう。
 すると、間近から声が聞こえてきた。
 その声色は真剣で、どこか、意味深な響きにも思えた。

「表裏一体なる奇術師……ですか。
 アスナさん、私にも見せて貰えますか」
 
 
 
 
 
 —桜咲刹那side—
 
 
 
 
 
「わかった。
 とりあえず俺は、ロビーの方に降りていけば良いんだね?」

 携帯電話から響く、慈愛に富んだ声が耳をくすぐった。
 彼に対する多大なる感謝、申し訳なさから、自然と畏まってしまう。
 私は失礼に当たらぬよう、直立不動の姿勢で声を返していた。

「は、はい。
 私達の不手際だというのに申し訳ありませんが、よろしくお願いします」

 早朝。やっと、太陽が起床し始めたようだ。
 外から聞こえてくる、小鳥の囀りでさえも茜に染められていのではないかという感慨が湧いた。
 小林さんの声色は、普段通りに聡明でいて、尚且つ、当然かのようにこう言う。
 こんなに朝も早いというのに。照れからか、説明がしどろもどろになってしまったというのに。
 彼は、無条件でこう言ってのけるのだ。

「構わないよ」

 その簡潔なまでのお言葉。それは小林さんの人柄を知り得るには、十分過ぎる文字数だろう。
 なぜならば私は、その生き様を見せつけられて来たからに他ならない。
 何の見返りも求めない、打算なき姿勢。自らの信念を貫き通し、決して揺らがない、強固な意志を。
 その様には、誰もが憧れてしまう。畏怖じみた思想を抱く事も、想像に難くないだろう。
 比喩させて貰うのならば、戦う者。現代に生きる武士のようなお方だと言えよう。
 彼に取って言葉は、一切、必要のないものなのだ。浅ましくも、自らを言葉で言い繕わなければならない必要性は皆無なのだ。
 小林さんはただ、そのお姿を晒すだけで良い。ただその場に在るだけで、事を為してしまう。
 未来を見据え、予期するかのような類い希なる慧眼。大海原のように広大でありながら、厳しさも孕んだ器量。
 そして、高峰のようにそびえ立つ、果てしなく広い背中。
 それらは私、いや、私達に大きな影響を与える。
 まるで、導かれるかのように変化させられ、成長させられていくのだ。

 再度、御礼の言葉を言う。
 携帯電話を、ゆっくりと閉じた。小気味の良い音が、辺りに響き渡る。
 一日の中で、喧騒が鳴りを潜める時間帯。私は一つ、ふうと溜め息をついた。
 視線は自然と、皆がいるソファーの方向へと移っていく。
 遠目から見てもわかる。そこには、重苦しい雰囲気が渦巻いていた。
 その中心に、鬼のような気をまとうアスナさんが仁王立ちしていた。
 ネギ先生は、今にも息絶えそうな有り様だ。糸の切れた人形のように、屍を晒していた。
 蛇に睨まれた蛙のように、朝倉さん達は青ざめ乾いた笑みを漏らしていた。

 確かに早朝から、小林さんのお声を聞けたという事は暁光だと言えよう。
 だが、ネギ先生はまだ良いが、朝倉さん達には困ったものだと言わざるを得ない。
 自らが仕出かしてしまった罪の重さを、本当に理解しているのだろうか。
 私の心の湖は、憤りという熱に作用され、グツグツと煮えていた。
 小林さんは私達のために、自らの危険を度外視してまで京都へと赴いてくれた。
 それなのにも関わらず、またしても、由々しき心労をかけるとは。
 あまつさえ、遊び半分で事を起こすなど、正に神に唾を吐く行為だと言えよう。

 アスナさんには、誠心誠意のお礼を言って置くべきだろう。
 いち早く、彼女が怒鳴りつけてくれたから良かった。
 そうでなければ、この私が直々に、この世とのお別れを、引導を渡していたとこ……。
 いや、この表現は適切ではない。引導を渡すような、説教をしていたところだ。

 内情は、未だに憤りに満ちていた。
 だが今は、小林さんの素晴らしさを皆に伝えなければならないのだ。
 早朝だというのに、突然だというのにも関わらず、小林さんは二つ返事で快諾してくれました、と。
 遠回しの非難、ではあるのだが、これくらいの仕返しならば小林さんも許してくれるだろう。
 ゆっくりと、ソファーへと歩を進める。すると、新たな変化、騒動が起こっていたようだ。
 カモさんがテーブルの上で、カードのようなものを掲げ上げていたのだ。

「ちなみに称号は、表裏一体なる奇術師っス!
 いやーまったく、旦那に相応しい称号だぜ!」

 あの口振りから察するに、小林さんの仮契約カードで間違いない。
 普段の私であるならば、一度、拝見したいと頬を緩ませていた事だろう。
 だが私は、眉根を潜めていた。
 それはある種の、嫌な予感を感じていたからだった。
 称号。
「表裏一体なる奇術師」
 奇術師とは、言い得て妙だ。率直に、そう思う。
 未来を先読み、形作られる戦略。それは、小林さんに取って見れば、息を吸うようにごく普通の事、なのだろう。
 だが、常人の見地からすれば、それは異様であり、異端でもあるのだ。
 常人の及ばぬ発想。神がかり。それは時に、奇術と称されてしまうのかも知れない。
 そう、考察を終える。
 彼の戦闘を言葉で表すのならば、正しくこれほど適切な単語もないように思えた。

 だが、問題はそこではない。
 表裏一体。その言葉の持つ意味に、嫌な予感は過ぎっていたのだ。
 考えれば考えるほど、心は不安定になっていく。
 こう、推測していたのだ。
 それは表裏の顔、相反する二つの顔、という意味なのではないか、と。
 表の顔とは、普段の人情味溢れる青年の姿。
 そして、裏の顔とは隠し通さなければならない、魔族の血が脈動する化性の姿。
 ただの杞憂、ならば、それで良い。私の思い過ごしならば、それで良い。
 だが、それは、絶対に知られてはならない真実、なのだ。

 アスナさんが、カードを掴む。
 表を見ようとしているのだろう。私は間近に寄ると、静かに口を開いた。

「表裏一体なる奇術師……ですか。
 アスナさん、私にも見せて貰えますか」

「えっ、うん。良いわよ」

 アスナさんは、どこか驚いたように目を瞬かせると頷いた。
 これは私の仕事なのだと、一人、心の中で呟く。
 見極めなければならない。
 そして、露わになる可能性があるのならば、何らかの手段を用いてでも排除しなくてはならないのだ。
 それが私の誓い。小林さんを支えられるようになりたい、という願いへの道筋。
 自ら以外では、初めての感覚だった。
 素性を知られる事の、恐怖。まるで、血液の脈動を模したかのような痛み。
 それが故に、理解出来る。
 私の中で彼が、どれほどの存在と成り得ているのかを。

 視界に、綺麗な絵が映り込んだ。
 そこには、紛う事なく、小林氷咲という男性が描かれていた。
 正中にひっそりと佇む人影は、黒の印象にまとわれていた。
 フードを頭から被り、見えているのは口許だけ。張り付く、薄い笑み。闇色のロープから、怪しさを孕む紫紺の波動が発露されている。
 だらりと下げた右手には、銀に輝く大型の鎌が。
 そして、左手には清廉さを滲ませる真っ白な書物が携えられていた。
 風に揺れてでもいるのだろう。胸の前にて、パラパラと頁がめくられている。
 黒に覆われた、白。それは闇に浮かぶ、一筋の救いの光のように縁取られていた。

 内心、ホッとした。
 素性が明るみに出てしまうような要因は、見受けられなかったからだ。
 真っ白な書物が、気がかりではある。
 だが、アーティファクトなどだろうと結論づけた。
 心の底から、杞憂で良かったと思えた。
 そして、私の口許に笑みが浮かびそうになった瞬間だった。
 ある違和を感じ取ったのだ。
 目を凝らして、注視する。そして、小林さんの肩口に腰掛ける何かを視認した。
 姿は、限りなく透明に近い。だからこそ、見逃してしまうところだった。
 その小さな何かは、小林さんと類似した格好で腰掛けていた。
 比喩するのならば、小さな死神、だろう。
 アスナさんも気づいたのか、不思議そうな表情で小さな死神を指差した。

「えっと、これなに?」

 アスナさんの視線が、ごく自然にこちらに向けられる。
 私は小さく首を振った。

「いえ、私にもわかりませんが……」

 使い魔などかも、知れませんね。
 そうは、言えなかった。
 アスナさんが、遮るように声を上げたからだ。
 心の底から、驚愕したかの表情で。

「ええ。そうなんだ。
 刹那さんにも、あるんだ」

 意図が、わからなかった。
 不思議と、問うように視線を向ける。
 アスナさんは、ゆっくりと口を開いた。
 まるで、驚天動地だと、目を見開きながら。
 だがその声は、どこか、嬉しそうな響きにも聞こえた。

「小林先輩の事は、何でも知ってるんじゃないかって思ってたから」

 暗転した。私の心の世界が、突如として、闇に閉ざされた。
 それは、事実だった。真実だった。
 まだ私達は、出会って間もない。
 小林さんの過去を、全てを、知り得た訳でもない。
 そんな事は、わかっていたはずだ。わかりきっていたはずだというのに。
 独りでに、口から声が漏れていた。
 後悔、してももう遅かった。
 アスナさんは、良い人だ。
 わかっているのだ、そんな当然な事は。
 悪気などなかったかも知れない。ただ、思った事が、口を突いただけかも知れないのに。

「確かに私は、小林さんの全てを知ってはいません。
 ですが、私だから知る事が出来た、私しか知る事の出来ない秘密。
 それを、知っています」

 重苦しき風が、二人の前髪を揺らす。
 私は、胸の小さな痛みに負けた。



[43591] 一体全体、意味がわからない——裏その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:30
—クウネルside—
 
 
 
 
 
「ほう……昨夜に、そのような出来事が起こっていたのですか。
 そして、あなたは、それを演劇の練習だと捉えていると」

 味わい深き茶店に、男達の談笑の声が響いています。
 私は口許に笑みを形作ると、もう一度、念を押すように聞き返しました。
 するとヒサキくんは、さも不思議だというように眉根を細めます。
 不安と訝しみが、交錯したかのような口調で言いました。

「ええ、そう捉えましたが。
 どこか、おかしな点でもありましたか?」

 私は内心で、深く頷きました。
 彼の背後の方向。開け放たれたままの出入り口から、涼風が滑らかに入り込んで来ています。
 彼の黒い猫毛の先端が、こちらに向かって揺れる。緑の仄かな香りと彼特有の爽やかさが混じり合い、存在感を際立てているように思えました。
 出入り口に少しだけ確認出来る人影、機械の少女。真祖の吸血鬼の従者。
 肩口に斜陽が差して、微動だにしないその背中。無言の吐露。心境。

 自然に、ああ、と納得していました。
 やはり、似ている、と。
 私は、あの期間、教えられたのです。
 ごく自然な、自然過ぎる善意には、誰しもが抗う事など出来ないのだ、と。
 打算なき姿勢。それは、強者になればなるほど、人知を超えて行けば行くほどに、反比例に消えて行く運命。
 それを、彼は持ち得てしまっている。
 その淡い閃光は、まるで、月光のように不毛の地を照らす。
 大渦に飲み込まれた、人々。思想。疑問。
 強者だというのに、どうして。
 不遇の生い立ちなのに、どうして。
 本来、弱者にしか持ち得ない思想なはずなのに。消えてしまうはずの純真、だというのに、あなたはどうして。
 相対してみると、深く頷けます。
 彼の存在は、得てして罪、なのだ、と。
 勘違いにより、彩られてしまった奇跡。
 それはあのサウザンドマスターのように、それはあの盟友のように。
 世界に選ばれし者だけが持ち得る奇跡、なのでしょう。

 再度、その身を世界から選ばれてしまった少年へと、微笑みを向けます。
 その揺れる瞳を、正常へと戻さなければなりませんので。

「いえ、違いません。
 それは、演劇の練習で間違いないでしょう。
 どれだけ考えて見ても、演劇以外のなにものでもないと断言出来ます」

 テーブル上には、ヨモギの串団子が大皿にうず高く積み上がっています。
 互いの手元にある湯のみからは、立ち上る暖かな湯気、濃厚な日本独特の香りが鼻孔をくすぐりました。
 心に染み入る穏やかさはまるで、心が洗われていくように思えました。

 ふと、視線を彼へと向けました。
 澄み切った黒色の瞳と、ぶつかり合います。
 映し出す色は、清い川のせせらぎを彷彿とさせていました。

 内心で、呟きました。
 事のほか、そうでもなかったようですね、と。
 京都では最早、小林氷咲くんという、ある種、暴風が吹き荒れているばかりだとふんでいたのですが。
 ですが、まだまだ、京都は始まったばかりだと言えます。彼に、予断を許してはなりません。
 現状は、ただの、つむじ風だとしても、です。
 局面を経て、蒔かれた種が実を結び、それが開花、暴風雨となる可能性もあるのですから。
 いえ、断言出来ます。
 結果的に、私は驚愕に目を見開くだろうと容易に想像がつきました。
 杞憂と、消えるのでしょうね。
 生来の、勘違いという名の奇跡。その脈動が、その流れる血潮が、この程度で止まるはずがないのですから。

 深き思考の渦に、囚われてしまっていたようです。
 ヒサキくんが、微笑みを浮かべて言いました。

「やはり、そうですよね。
 ここは京都。恐ろしき冥界と言えども、そう簡単に誘拐事件が起きては警察官の皆さんも困るでしょうから」

 独りでに、疑問が口をついて出ました。
 私らしくありませんね。
 会話の最中だというのにも関わらず、没頭してしまっていた弊害、と言えるのでしょうか。

「冥界とは一体……?」

 ヒサキくんが、ふいに首を傾げます。そして、ある興味深い言葉を漏らしました。
 どこか、不安にこもるくぐもった声音で。
「冥界、ですか。
 学園長が京都は悪が跋扈する街だと仰っていましたので、そのように形容させて頂いたのですが……。
 何か、おかしな点でも……」

 私は弾かれるように、肯定の声を返しました。
 聞き慣れない冥界、との言葉に内心、面食らってはいましたが。

「いえ、おかしな点などはありません。
 私の無知が原因です。何やら聞き慣れない言葉だったもので、少々、不可解に感じてしまったのです」

 ヒサキくんが、得心が入ったという風に笑います。

「ああ、そうですか。
 いえいえ、ご謙遜を。僕の方こそがまだまだ、未熟者なんですから」

 疑問は尽きませんが、顔を見合わせて笑い合います。
 悪が跋扈する街、京都。学園長がそう言っていた。
 その文章が脳内で、カタカナに変換されて流れ行く中、ヒサキくんは串団子を一本つまみました。
 穏やかな気候に包まれながら、内心で呟きました。
 ヒサキくん、一言だけ、良いでしょうか。
 どうしてそうなった。
 そういった疑問は、問いは、湯水のように湧いてきては尽きません。
 尽きませんが、歓談は長く続く事となりました。

 会話を重ねる内に、私はある意思を感じさせられる事となっていました。
 それは、彼の内にある、並々ならぬ学園長を崇拝しなければならないという意思、でした。
 その心を比喩するのならば、正に狂気、と呼んでも差し支えないでしょう。
 狂気、じみた思想。
 私の胸には、どうしてそうなった。どのようにしてそうなっていったのか、という思いが去来していました。
 本当に、四六時中として問いたいほどの、疑問は尽きません。
 ですが、彼の中で最早、学園長という存在は、天地創造の神ランクとして崇められているようでした。
 彼の口から飛び出た狂気を、順を追って羅列して行きましょう。
 世界樹は切り倒すべきもの。なぜならば、近右衛門寺院という、仏閣をつくらなければならないから。
 年に一度、いや、月に一度、いや、月に一度では生ぬるい。
 週に一度は、近右衛門祭りを開かなければ日本男児とは言えない。
 国内は、些か心許ないが、許容出来る範囲だ。
 だが、学園長の威光を世に知らしめるためには、国外にも目を向けて行かなければならない。
 そう、ヒサキくんは淡々と、それでいて、燃え盛るような瞳で力説していくのですから。
 私は終始、目が点となっていた事でしょう。
 この私が、理解に苦しみました。何が何やらとなってしまったとしても、致し方ない事でした。
 ですが私は、独りでに肯定を頷きで返していました。
 その声音を聞いていると、頷かなければならないような観念に駆られるのです。
 まるで心が、導かれるようでいて、囚われていくように。
 それから、気を取り直す事に成功した私は、流れを引き戻すための一手を指しました。
 それはヒサキくんも良く知り得ている、ある少女の話題でした。
 彼女について知る事が出来たのが、事のほか、嬉しいのでしょう。
 ヒサキくんは終始、笑顔で相槌を打っていました。
 どうやら、幾ばくかの主導権を握る事に成功したようです。
 茶店全体が、和やかな雰囲気に覆われていくように思えました。
 その最中、私は、意志を持ち問いかけました。
 やはり自称とはいえ、幼女吸血鬼さんをいじる者としては、聞いて置かなければならない事柄だったからです。

「あなたは、彼女の事をどう思っているのですか?」

 単刀直入。答えてくれるかは、わかりません。
 ですがヒサキくんには、こういった言い回しが有効ではないかと思えていたのです。
 ストレートでいて、穿った問い。
 唐突にも、ヒサキくんは驚いたように目を見開きました。
 有無を言わさない、緊迫した空気が広がっていきます。
 どのような、答えを聞けるのか。
 騒ぐ好奇心を押さえるために、一口、お茶を含みました。
 ほどよい苦みが、鼻の奥に抜けて行きます。
 こちらをまじまじと見やっていたヒサキくんは、顔を上げました。
 口許にはりつく、物憂げな笑み。
 ですが、その瞳は真剣でいて、雄々しくもありました。

「ええ……そうですね。
 僕は彼女に、並々ならぬ感謝をしています。それはこれからも、色褪せる事はないでしょう。
 強いて言うなら、そう、ですね。……聖母。僕に取っての、正に聖母のような女性だと言えます」

 世界中の時が、いえ、全宇宙の時が、止まったのではないかと錯覚しました。
 幻の世界に入り込んでしまったかのように、思えました。
 予想外。正に、想定外。
 聖、母。
 二度も口をついて出た、聖母、という響き。
 脳裏には、神々しいまでの威厳を放つ旧友の姿。
 堰を切ったかのようにこみ上げてくる、私を狩ろうとする意志。笑い。
 ですが、困りました。
 私をこれくらいの危機で討ち取ろうとは、軽く見られたものです。
 私は、アルビレオ・イマ、なのですから。
 さあ、微笑みを絶やさずに、同感です、とは言えませんでした。
 目前のヒサキくんの顔に、原因がありました。
 その、瞬間でした。
 私は無様にも、無情にも、虎視眈々と隙を窺っていた笑いの刺客に打ち取らてしまったのです。
 刺客。それは、彼の口許に爛々と称えられた、壊れそうなまでの儚げな笑み、でした。
 ある種の、呪いを彷彿とさせる水難事故。
 まるで、ダムが決壊でもしたかのように吹き出された、気管を蹂躙しつくそうとする、悪魔。鳶色の液体。
 スローモーションのように流れ行く、時。
 どうしてか、お茶を吹き付けられたというのにも関わらず、満面の笑みのヒサキくん。
 息苦しく、まともな表情さえ浮かべる事もできそうにありません。
 ですが、脳内は嫌にクリアで、私は小さく呟きました。
 私に、お茶を吹かせるとは……。小林氷咲、恐るべき手だれだったようです……。
 ある種の符号。確信を持たざるを得ない、一騎当千の迫力を、私はその身に実感させられる結果となりました。




 京都の空は、朱に染まっています。
 身体を紅く輝かせる鳩が、遠方の空へと飛び立って行きます。
 朱と黒の世界。古き良き建築物さえも、朱に染められて、京都の一味違った顔を見せていました。
 景観を脳に焼き付けようと、目を閉じました。
 浮かぶのは、京都の顔ではなく、去り際の彼の表情。
 せわしなく、焦点がさまよう両の瞳。微細に、小刻みに震える肢体。
 目を細めて、失われた何かを探しているかのように見えました。
 拙いヒントは、彼にどういった影響を与えるのでしょうか。
 私の第一の仕事は、これで終えます。
 それは、きっかけをつくる事。それだけのためと言われるかも知れませんが、私に取っては、最も重要な事柄。
 これから彼が何を為し、なにを想うのかは、誰にもわかりません。
 指図してはならない、踏み入ってはならない、絶対の領域。
 小林氷咲という少年、彼には自由を手にする、権利があるのですから。
 運命は、次代へと引き継がれたのかも知れません。
 ならば私は、傍観者へと戻るのもまた、必然と言えるのでしょう。
 小さく、含み笑いが漏れ出ました。
 それを合図に、朱に染め上げられていた私の姿は、舞台から消え行きました。

「それでは、最後に一つだけ良いでしょうか。
 事の初め、あなたは、私に、見覚えがありましたか?」

「……わかり、ません。
 ……正直に、覚えてはいま、せん。」



[43591] 一体全体、意味がわからない——裏その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:30
—絡繰茶々丸side—
 
 
 
 
 
「お兄様は、お兄様ですが」

「そ、そうではなくてですね……」

「……?
 何か、おかしいでしょうか?」

「お、おかしくはないんだけど、どういう成り行きでというか……!
 ……ねえ、刹那さん」

「は、はい、そうです!
 どうして、そのような呼び方を……?」

「成り行き、ですか。
 そう呼称しても構わないと、お兄様が認めてくれましたので」

「そ、そうなんですか」
「そ、そうなんだ」

 ロビーの床に落ちた陽射しが、幾何学模様の陰を創り上げています。
 大きな硝子窓の向こうには、規則的に並び立つ木々の青葉を、微風が揺らしていました。
 眼前には、神楽坂さんと桜咲さんのお二方が並んでいます。怪訝ともどかしさが混ざり合ったかのような表情で、目を瞬かせています。
 私は、正直に理解に苦しんでいました。
 なぜならば、至極、当然であるはずの回答を迫られていたからです。
 彼女達の質問をまとめますと、こういう事なのでしょう。
 私が、どうしてここ、京都にいるのか。
 お兄様という呼称は、一体、何なのか、と。
 失礼かとは思いますが、率直に言わせて貰えるのならば、現状として、そのような事柄を説明している状況ではないのですから。
 ですが、お兄様の傍に立つ者として、礼を逸してはなりません。
 前者については、私がお兄様をお守りするのは使命のようなものであるから、と。
 後者については、お兄様はお兄様なのですから、私のお兄様だとしか説明はできません、と返答しました。

 お二方の真偽を問うような視線が、お兄様へと向かいます。
 お兄様は当然ではないかと言わないばかりに、即座に微笑む事での肯定をしました。
 まるで、涼しき春風を彷彿とさせる、爽やかな仕草。地球上の生物であるならば、見惚れてしまうのを拒否など出来るはずもない。
 そんな事を考えていると、次の瞬間には、私は深い思考の渦に囚われていました。
 それは、あの幻と消えた口付け、ではありません。
 早朝から、最早、それなりの時は経っています。エラー処理も滞りなく完了し、私は気を取り直していたのですから。
 そもそも、夢か現かさえ、区別はついてないのです。その上、現実であるのならば、お兄様には誠に不敬を働いてしまったのではないかと不安になります。
 体温さえも、感じ取れるほどの隣接。突如として開かれた、珠玉の宝石のように透き通る瞳。
 今でも脳裏に、鮮明に映し出されます。
 身体中が熱を帯びる所か、強制的にシャットダウンさせられてしまいそうにもなります。
 ですが、私の身体の異常になど、構ってはいられないのです。

 お兄様には、不釣り合いな趣向。
 それは所謂、同性愛、と呼ばれる禁忌、でした。
 ああ、お兄様はどうして、そのような偏った趣向を……。
 思考回路はまるで、暗雲が所狭しと群集い、光は閉ざされてしまっていました。
 解答は、得られません。
 きっかけ、でさえ掴めないのです。
 私は、困り果てていました。

 そのような現状を、ある声が覚醒させました。
 どこか、恥ずかしそうに曇った声色。視界には、神楽坂さん達のドギマギとした顔が映り込んでいました。

「ち、茶々丸さん、ちょっと良いかな?」
「す、少しだけ、お話がありまして」

 知らず知らずの内に、お兄様のお姿を探します。ソファーに座り、ネギ先生と談笑しているようでした。
 私は深く安堵してから、お二人に小首を傾げて口を開きます。

「はい。
 良いですが、どうかしましたか?」

 それからは、大変でした。
 それを機に、まるで、機関銃のように問いが連射されていくのですから。
 状況の確認や、そのように至った成り行きなど、私とお兄様との細かな部分がおもでした。
 私はというと、少々、余りの熾烈なまでの攻勢に驚きました。
 ですが、意図について、理解は出来ませんでしたが、私は簡潔に答え続けました。

 ようやく、銃弾は切れたようです。
 三者三様に、無言。そして、神楽坂さん達に張り付く乾いた笑み。
 お兄様達の会話の声、だけが音となり反響するロビー。
 話しは、終わったのでしょうか。
 それならば私はお兄様の傍に、そう、思えた時でした。
 神楽坂さんが、あっと驚きの声を漏らしたのです。
 圧力を感じるまでの、乾ききった笑みでこちらを見つめました。

「ち、茶々丸さん。
 あのー……、そのー……。
 な、なんていうか。
 ま、まさかとは思うんだけど、泊まる部屋は違うんでしょ?」

 意図は皆目といって掴めずに、再度、小首を傾げます。
 桜咲さんも、同様の思いなのでしょう。
 困惑と、目を細めています。すると、神楽坂さんはそっと耳打ちしました。
 一瞬の後、でした。
 突然、桜咲さんが大声を上げたのです。

「え、ええ! え、ええっ!
 あ、アスナさん、それはさすがにないと思いますが……」

「そ、それは私も思うけど!
 ね、念には念をというか……ねぇ?」

「は、はい。確かにそうですが」

 二度のええっに、私はまた驚いてしまいます。
 そのようなまでに、驚く事がどこにあったのか、と。
 お二方の熱のこもった視線が、こちらを捉えます。静寂の後、意を決したように神楽坂さんは口を開きました。

「い、いや、そのね……。
 さ、さすがに小林先輩と茶々丸さんは、部屋、別々なんでしょ?」

 私は、内心で頷いていました。
 得心が入ったという、心境。小さく頷きます。
 どうして、でしょうか。
 お二人は未だに、せわしなく目を右往左往と動かしています。意図は掴めませんが、言いました。

「はい。
 お兄様の失礼ではと思っていますが、同部屋で過ごさせて貰っています」

 お二方の目が、点となっていきます。
 数秒ほどでしょうか。制止するように固まった後、叫びにも似た声を上げました。
 全くの、同様な言葉。その声色は、驚愕に彩られていました。

「え、ええーっ!」

 置いてけぼりとなっている私をよそに、慌てたふためく神楽坂さんは言いました。

「ほ、本気で言ってるの?」

「……?
 はい。私の命は、お兄様の傍を片時も離れるなというものですので」

「か、片時もなんて、なんと羨ま……。
 そ、そうではなくてですね!
 さすがにそれはまずいのでは、ないかと……」

「そ、そうよ!
 な、なにか問題が起こってからじゃ遅いじゃない!」

「……?
 問題、でしょうか。
 ですから、お兄様の身に問題が起こらないように、私が」
「そ、そういう事ではなく、ですね」
「そ、そういう問題じゃないのよ。茶々丸さん」

 全く持って、意図が掴めません。
 私は問題が起こらぬようにと、京都まで来たのですから。
 独りでに、小首を傾げていました。
 神楽坂さん達はというと、赤面したままあたふたとしています。
 程なくして、うーと唸る仕草の後、力なく頭を垂れました。
 
 
 
 
 
 防音設備も、しっかりと機能しているようです。
 ホテルの最上階に位置する、スイートルーム。広々とした部屋内には、アンティーク時計の規則的な音色反響していました。
 時刻は、夜。鳥達も、朝を囀るために休息しているのでしょう。
 その無音の世界は静かで、瞬いているだろう、鮮やかな星空が脳裏に写し出されました。

 使用人の方が、清掃を行ってくれていたのでしょう。
 部屋には塵一つさえもなく、清潔そのものです。ですが、お兄様のために何か出来ないかと考え、私はより一層の清潔感を求めて清掃を行っていました。
 お兄様は、お優しい方です。
 食後の食器を洗っていると、手伝いを申し出てくれたのですから。
 現在は何かあるのか、大型のプラズマテレビの前に座っています。
 私は見慣れた大理石のテーブルを拭き掃除しながら、その様を眺めていました。
 ここ数日でわかりましたが、お兄様は高級なものが苦手なようです。
 今も、高級ソファーには目もくれず、絨毯の上にクッションを起きあぐらをかいているのですから。
 何かを、待ち望んでいるのでしょう。
 その背中には、喜色満面といった雰囲気が滲んでいるように見受けられました。
 自然と、少々の違和を感じてしまいます。
 何と、表現すれば良いでしょうか。
 お兄様に高級なものが似合わない、という事ではありません。
 そうではなく失礼かとは思いますが、可愛らしいという感情を覚えていました。
 メモリーに最重要なものとされている早朝の寝癖、もそうです。
 ですが、こういった無防備さも、魅力なのでしょう。
 初期とは違い、私は暗に信頼していると示されているように思えるのですから。
 俺が無防備でいられるのも、茶々丸さんがいてくれているからだよ、と。
 そう、言われているようで。
 身体中に、熱が帯びていくのを捉えられます。
 使命感。そういったものが、新たな火種と融合し、特大の炎となり燃え上がっていくように感じていました。

 ふと、含み笑いを漏らします。
 胸の内で、今日も少々の難はありましたが、総合して楽しき日だったと呟きました。
 色々な、事が起こりました。
 手始めと言わせて貰えるのならば、早朝、でしょう。
 神楽坂さんと桜咲さんが、お兄様に、兄と呼称しても良いかと尋ねた時です。
 私はある感情からか、酷く怖くなりました。
 それはまるで、胸部の回路を蹂躙されているかのような感覚、でした。
 理解は、出来ませんでした。
 ですが、今ならば、その感情の持つ意味がわかっています。
 私は、嫉妬、していたのでしょう。
 お兄様、という呼称。私だけの呼び名を、奪われてしまうかのような感慨が湧いて。
 ですが、それは杞憂と終わりました。
 なぜならば、なんとお兄様は、その頼みを拒否したのですから。
 どうしてだろうか、との疑問は浮かび上がりました。
 次の瞬間には至極、当然な事です。
 どうして私だけに置いて、許されるのだろうか、との疑問も浮かび上がりました。
 ですが、こう思えたのです。
 氷咲お兄様、という呼称は、私だけが用いる事の出来る、特別なものなのだ、と。
 私の身体中に、勇気という感情をまとわせていました。
 その事実は、私という個体を認めて貰えているように思えて。

 次の出来事は、お兄様との京都観光と、喜び勇んでいる折に起こりました。
 今でも、鮮明に思い出す事が出来ます。 私はその暴挙を諫め、危機から距離を置こうと半ば、必死でした。
 ホテルの、正門での事でした。
 行き先は任せますと言うと、お兄様は微笑みのままにこう言い放ったのです。

「そうか。俺に任せてくれるんだね。
 責任重大だな。……よし、じゃあ、そうだな。うん、太奏シネマ村。
 茶々丸さん。太奏シネマ村はどうだろうか?
 観光の名所でもあるし、俺は今、ヒシヒシと感じているんだよ。
 今日しか見れないような……そう! 時代劇の決闘のような演劇が繰り広げられているんじゃないかってね」

「……いえ、お兄様の楽しめるものはないと断言出来ます」

「そ、そうかな。
 何やら、時代劇のコスプレが出来るって聞いたものだからね。
 茶々丸さんは当然、驚愕するほどに似合うだろうし、俺は幼少の頃から忍者に憧れ……」
「お兄様、申し訳ありませんが、他にしましょう」

「そ、そうか。わかったよ。
 じゃあ、気ままに歩きながら、京都散策に出かけるというのはどうだろうか?」

「はい。それが良いと思います。
 ……ですがお兄様、そちらの方角はだめです」

「え?
 そ、そうか。
 俺はこちらの方角に、何かが起こりそうな予感がしたんだけどね」

「……お兄様」

「あ、ああ、本当にそうだ。
 ち、茶々丸さんが言うんだったら間違いないだろう。
 じゃあ、正反対の方角へと散策しようか」

 お兄様には、困ったものです。
 お優しいのはわかりきっていましたが、マスターの言葉を借りるならば、過保護なまでに優し過ぎるのです。
 任せると決心して貰えたのでしょうが、やはりネギ先生達が心配なようです。
 よりにも、関西呪術協会の総本山が位置する方角に向かおうとしたのですから。
 サポートしないまでも、肉眼で見守りたい。そういった意志が、極端に見えました。
 それこそが、その在り方こそが、人心を惹きつけて止まない、お兄様の魅力、なのかも知れません。
 私も確かに、誇りに思っています。
 ですが、私は心を鬼にして、断じて許しませんでした。
 私に取って、現状、最優先な事柄は、お兄様の身を危機から遠ざける事なのですから。

 茶店にて昼の休憩をしている時にも、騒動は起こりました。
 突如として現れた、クウネルさんという魔法使いと邂逅する事になったのです。
 マスターの古き友、などと自称してはいます。
 ですが私は、出現時から嫌な予感が首をもたげていました。
 なぜならば、こう、思えたのです。
 ネギ先生の実像から鑑みるに、お兄様の趣向は外国の人なのではないか、と。
 そして、美形と呼ばれるようでいて、清潔感のある爽やかな男性なのではないか、と。
 予断を、許してはならない。
 私はお兄様の傍に立ち、クウネルさんの一挙手一投足を注視していました。

 やはり、警戒を怠っては、ならない。
 そう思える要因は、クウネルさんの口許に浮かぶ微笑み、でした。
 防衛、本能。危機を感知するセンサーが、けたたましくサイレンを鳴らしています。
 なぜならば、まるで、値踏みするかのような、露骨な視線。獲物を前にして、舌なめずりしているような邪悪な笑みに見えたからです。
 お兄様の貞操は、私が護って見せる。
 ですが、衝動的には動けません。
 なぜならば、お兄様自身が、目前の邪悪な魔法使いを気に入っているようだったからです。
 ああ、お兄様。悪辣な毒牙に……。
 そして、クウネルさんは膠着状態を打破しよう動き始めます。
 私を一瞥してから、お兄様へと悪魔的な微笑みを向けてこう切り出したのです。

「申し訳ありませんが、ここは男同士、二人だけで話すというのはどうでしょうか?」

 内心で、呟きました。
 やられました、と。
 ですが、それを認める訳にはいきません。
 即座に立ち上がると、声を上げました。

「お兄様、いけません。
 早急に、この場を撤退する事を進言します」

 ですが、私の思惑は実りませんでした。
 度重なる説得にも、お兄様は首を縦には振ってくれなかったのです。
 結果として、私は退席しました。
 致し方、なかったのです。
 お兄様にあそこまで懇願されては、拒否など出来なかったのです。
 渋々、退席していく最中、私は目撃しました。
 クウネルさんの口許に、してやったりの笑みが張り付いているのを。
 彼は敵なのだと判断するのに一秒たりともかからない、説得力のある笑みでした。

 それからの光景は、余り思い出したくは、ありません。
 騒がしい事に気づいた私は、早足で駆けつけました。
 そして、私は目撃して、しまったのです。
 おおよそ、何らかの儀式、なのでしょう。
 クウネルさんの口から、勢い良く放たれる飴色の水飛沫。無防備にも、顔面を濡らすお兄様。
 恍惚といった微笑みで、クウネルさんを熱く見つめるお兄様。
 そこには、摩訶不思議な出来事が存在していました。

 ゆっくりと、現実へと戻って行きます。
 独りでに視線は、お兄様へと移っていました。
 未だに、CMに釘付けとなっている所を鑑みるに、番組などを見たいのかも知れません。
 心の中で、並々ならぬ決意を呟きました。
 お兄様は事実として、男色の気があるのでしょう。
 外国の方が、好みなのでしょう。
 それは今も尚、変える事の出来ない事実であり、真実なのです。
 ですが、私は諦めません。
 遠くない、未来。必然的に、それを変えて見せますから。
 それがお兄様に取っての、幸せの道筋。そして、私の幸せへの軌跡だと、信じているのですから。
 強き意志を胸に秘めて、ゆっくりとお兄様に近づきました。

「お兄様、楽しそうですが、どうかしましたか?」

 お兄様は真摯な微笑みで、こちらを見つめました。
 ですが、すぐさま、うーんと唸ってしまいます。どこか、揺れたような瞳で口を開きました。

「茶々丸さん、本当に申し訳ないんだけど、少々、テレビを見させて貰っても良いかな?」

「はい。それは構いませんが」

 二つ返事で、快諾します。
 それを受けて、お兄様は嬉しそうに笑いました。
 ですが、ある危惧が浮かび上がりました。
 どういった番組を見るのでしょうか、と。
 男色というものに関わっているのならば、命に代えてでも阻止しなければならないからです。

「今から見たいのは、ある人気ドラマの再放送でね。
 一部に熱狂的な信者がいて、その熱に煽られたのか、また流すみたいなんだよ。
 初回は見たんだけど、これはある詐欺師の生涯を追った物語りなんだ。
 俺は、原作小説からの大ファンでね。
 しかも、今日の放送には、好きなシーンがあるんだ」

 問題はなさそうに思えますが、油断をしてはなりません。

「そうなのですか。
 それはどういった、内容なのでしょうか?」

「ネタバレになってしまうから、余り内容には触れられないんだけど。
 そうだな。まず、世界設定なんだけど、日本と言えば日本なんだけど、俺達の住んでいる日本ではないんだ。
 未だに平等のない世界、奴隷制度が色濃く残る日本の物語りだね」

 その後、お兄様は嬉々として、わかりやすく説明をしてくれました。
 私は、深く安堵しました。
 そういった趣向の番組ではないと、容易に推測出来たからです。
 お兄様に取って、その小説やドラマはお気に入りのものなのでしょう。
 ふいに、立ち上がります。
 身振り手振りを交えて、熱の籠もった視線をこちらに向けました。

「今日のシーンは、危機の回でね。
 政府内部で暗躍している時に、同じく国を憂う仲間が出来ていた。
 だけど、仲間の裏切りにあい、友を殺されてしまう。
 その友は、最愛の恋人だったんだ。
 仲間達が弔い合戦だと息巻く中で、主人公は一人、こう言い放つんだ」

 ああ、なんて勇ましいのでしょうか。
 惚けてしまうのを、隠す事は誰にも出来ないと断言出来ました。
 やはり、お兄様には偏った趣向は似合いません。
 お兄様は正常、であるべきなのです。
 内心で呟きを漏らしていると、お兄様は唐突にも背を向けました。
 そして、その瞬間の事、でした。
 突如として、想定外の現象が起こったのです。
 何と、説明すれば、良いのでしょうか。
 なんとお兄様の身体が、徐々に、半透明に変化していっているのです。
 私は酷く困惑し、身動きを取れません。
 ですが、防衛本能、でしょうか。独りでに、身体が動き出していました。

「お兄様……!」

 背中を掴もうとした指先は、無情にも、空を切りました。
 なぜならば触れ合う瞬間に、お兄様の背中は、完全な透明になり変わってしまったのですから。
 まるで、水分が蒸発して、気化するかのように。
 訳が、わかりません。
 部屋内に、置き時計の規則的な音色が反響して、胸のざわめきを増幅させていきます。
 私は長らく、そこに在ったはずの背中を、見つめ続けていました。



[43591] 一体全体、意味がわからない——裏その肆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:31
−ネギside−
 
 
 
 
 
 闇夜に、霧がかった月。
 杖に跨る僕は歯を食いしばると、飛行速度を限界まで引き上げます。
 夜空を裂く音は鼓膜を震わせて、酷く鮮明に響いていました。

「兄貴っ! アレだ!」

 肩口に立ったカモくんが、ある一点を力強く指しました。
 視界に映るのは、広大な湖を十字に跨ぐ桟橋。中央に位置する祭壇には、淡い光の柱が上天へと真直に伸びています。
 あそこには、いるんでしょう。
 倒さなければならない、悪い人。そして、守らなければならない恩人。このかさんが。
 嫌な予感が、しました。
 次第に輝きを増していっているように感じられる光柱が、僕には、どこか禍々しいものに感じられていたからです。

 湿り気を帯びた夜風に、草木の仄かな匂い。煩わしくも、焦燥にさざめく心。
 京都に足を踏み入れてからというもの、連戦に次ぐ連戦。僕の身体は所謂、ボロボロの状態なのかもしれません。
 いえ、そうなんでしょう。
 ですが、気を抜くだけで混濁していこうとする脳裏に、僕は歯を食いしばり抗います。
 小さな頷きを持って、遠目にまばゆく光柱を睨みつけると口を開きました。

「カモくん。
 僕は、絶対に諦めないよ。
 必ずこのかさんを、みんなを助けるんだ!」

「あ、兄貴……!」

 本山への、急襲。僕は安全神話のようなものだと、半ば滑稽にも思い込んでいたんです。
 全ては僕の不手際。油断。慢心、です。
 守らなければならない、守ると決意していた生徒の皆さんまでもを石化させてしまいました。
 共に戦ってくれる仲間。アスナさんと刹那さんは、今、命を賭してまで足止めをしてくれています。
 百を超える鬼達を一手に引き受けて、僕の背中を押してくれました。
 そんな最中の小太郎くんの襲撃。話しを聞いてくれない事に、西洋魔法使いへの罵倒。
 僕はお父さんやヒサキさんまでもを虚仮にされた気がして、やらなければならない事を見失ってしまいました。
 ですが、そんな僕を諫めてくれた上、道をつくってくれたのは長瀬さんでした。
 皆さんには、感謝をしてもしきれません。
 だからこそ僕には、下を見て、立ち止まっている時間はないんだ。

「アスナさんと刹那さん、みんなの意志を、無駄には出来ない。
 僕、一人に出来るのかはわからないけど、ヒサキさんが言ってたんだ。
 未来だけを見ろって。未熟だからこそ、前に進もうって。
 だから、僕のやる事は一つだけ。ただ、助けるためだけ必死に戦う。
 簡単な事、じゃないけど、簡単な事、なんだ」

 僕はカモくんを見据えて、言います。
 独りでに口許に笑みが浮かび上がっていました。
 そんな状況ではない事は、わかっています。
 だけど、ヒサキさんの姿を、在り方を思い浮かべるだけで、僕にはこんなにも勇気が湧いて来る。

「だって、これから僕は、ヒサキさんのパートナーにならなくちゃいけないんだから」

 カモくんは唖然とこちらを見つめた後、笑顔で口を開きました。

「へへっ……。
 兄貴も言うよーになったじゃねぇスか。
 そうか。これが刹那の姉さんが言ってた、小林の旦那の凄さって奴かよ……。本当に底が見えねぇ、恐ろしいお方だぜ!
 絶対に助けよう、兄貴! 小林の旦那もどこかで見てくれているはずだ!
 兄貴の底力を見せつけてやろうぜ!」
 
 
 
 
「なるほど。僅かな経験で驚くほどの成長だね。
 僕の身体に直接触れたのは、きみだけだよ。
 ネギ・スプリングフィールド。
 ただし、それももう終わりのようだね」

 湿気漂う桟橋の上、息も絶え絶えに、仰向けに倒れる僕。
 霧がかった星空を背景に、僕を見下ろす、白髪の少年。
 少年を一言で説明するならば、無表情、でしょう。
 淀みなど一切なく、無機質な瞳。滑稽にも映り込むのは、僕の力なく情けない姿。
 激しさを増していく動悸も、溢れては漏れ出す悔しさも、等しく上昇していきます。

 このかさんを目前にして、僕は強敵と相対しました。
 立ちふさがったのは、白髪の少年。相手は、予想を遥かに超えるほどの実力者でした。
 攻撃魔法を放てば、いとも簡単に掻き消される。そして、弄ばれるように反撃をくらう。
 それはおおよそ、戦いとは呼べず、蹂躙されてでもいるようでした。
 僕は諦めず、応戦しました。
 攪乱。陽動。奇襲。僕の出来る精一杯、考えられる、培ってきた全てを用いて戦いました。
 ですが、結果は散々たるもの。
 ただ一度、ただ一撃を入れる事に成功しただけ。
 それだけで僕は、地に倒れ伏し、身動きの出来ない状態となっています。
 あと少し、なのに……。
 あと少しで、このかさんを助けられるのに……。
 混濁していこうとする脳裏には、絶え間なく、そんな言葉がスライドしていました。

 身体の至る所が軋み、激痛を伴います。
 不規則なリズム、落ち着いてはくれない心拍。鼓動。ひんやりと冷たい空気を吸う事でさえ、胸の内側を破壊されているような痛みが走ります。
 視界には、夜空に浮かぶ儚げな月と、夜空に突き刺さる光柱。自分の不甲斐なさ。自身の弱さの痛感は、より一層の苦痛を生んでいました。
 それらを背景に、こちらを見ていた白髪の少年は、抑揚のない声で呟きました。

「良く頑張ったよ。
 ネギくん。良く頑張った」

 ですが、僕には、そんな声さえも、どこか遠くから響いてきたように聞こえました。
 徐々に、必然的に、幕を閉じようとする世界。痛みが少しずつ、和らいでいきます。
 ですが、その時でした。
 聞き覚えのある、凛とした声音。その声で、意識が覚醒しました。
 僕はまだ、戦える。戦う機会を、貰えたようです。

「斬岩剣っ!」

 まるで、暗闇が渦巻くトンネル内でさまよう僕に、出口からの逆光が差したかのように思えました。
 湧き上がる勇気。身体中が震えました。
 その斬撃が、残念ながら空を切るのを視認してから、僕は内心で呟きました。
 みんなで力を合わせられるなら、負けません。
 戻り来る、身体中の激痛を無視して、四肢に力を込めます。
 飛来してくる杖を掴むと、僕はよろよろと立ち上がりました。

「ネギ先生、無事ですか!」
「ネギ! アンタ、大丈夫なの!?」
「兄貴ぃ! もうだめかと思ったぜ!」

「はあはあ。
 ありがとうございます。
 大丈夫です。
 このかさんはあの光の下です」

「お嬢様……!」

 刹那さんの身体から、殺気が溢れていきます。
 今にも駆け寄ろうとする刹那さんを、僕は声で制しました。

「刹那さん」

 その声を合図としたかのように、目前へと白髪の少年が姿を現しました。
 僕達と対峙しているというのに、夜空を見上げたままで言いました。

「ここから先へは、行かせない。
 ……それにしても、ネギ・スプリングフィールドの危機。あの状況でも、彼は来ないのか。
 よっぽどきみ達を信用しているのか。それとも、虎視眈々と僕の隙を狙っているのかな」

 意味が、わかりません。
 自然と僕の口は、開かれていました。

「何を言っているんですか……?」

 感情の起伏を感じられない瞳。表情。
 まるで生命を持たない人形のようなそれらが、僕の目と交差します。

「ネギ・スプリングフィールド。
 きみが、ヒサキ、と呼んでいた男だよ。
 必ず、彼は僕の下に来るんだ。必ず、ね」

 言いようの知れない、重苦しい雰囲気。見える何もかもが、そんな空気に侵されているような気がしました。
 僕の中で、苛立ちが生まれていきます。
 白髪の少年は、こう言いました。
 ヒサキさんを知っている。そして、必ず自分の下に来る、と。
 色んな思考が、生まれていきます。
 どこで、どうして。
 ですが、一つだけ言える事があります。
 お前なんかが、ヒサキさんの名前を軽々しく呼ぶな。
 刹那さんも、アスナさんも、同様の心境なのでしょう。
 鋭い視線を隠そうともせずに、白髪の少年を睨みつけていました。
 一拍の後、です。
 まるで、憤怒を爆発させたかのような叫びがこだましました。
 その声の主。刹那さんは、憤りからか、身体中を震わせて。
 それだけで人を殺められそうなほどの、鋭利な睨みを隠そうともせずに。

「お前に、お前なんかに! 小林さんの何がわかる!」

 白髪の少年は、自然体。どこ吹く風。意に介さないままに、口を開きました。

「確かに、今の彼を、僕は知らない。
 だけど彼は、僕を知っているはずだ」

 何を言って、いるのでしょうか。
 皆一斉に、狐に化かされたかのようです。まるで、困惑という感情が僕達を覆い込んでいるように思えました。
 そして、白髪の少年はまた、口を開きます。
 その飛来してきた事実は、僕達の胸を容易く抉っていきました。

「彼が、京都に来た理由は一つだけだ。
 僕を、壊しに来たんだろう。
 なぜなら僕は、彼に取って、世界で唯一許せない存在。仇、だからね。
 彼の最愛の、いや、最愛だった父親を殺した、憎い仇」

「なっ!」

 刹那さんとアスナさんの声が、同時に響く。見なくても、伝わって来ます。その表情は、僕と同様に、驚愕に染まっているのでしょう。
 目を見開いたまま、語られた言葉を反芻します。
 ヒサキさんが、京都に来た理由。
 それは、白髪の少年を壊すため。
 なぜならば、白髪の少年は、ヒサキさんの父親を殺した憎い仇だから。
 それは、つまり。
 という事は、つまり、ヒサキさんの最愛の父親はもう。
 茜差す河川敷で、ヒサキさんが言っていた声が脳裏を過ぎりました。
「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」
「何度、死にかけたかわからない。
 頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ」

 色々な感情が、ざわめきました。
 なぜならば、僕は言ってしまった。言って、しまっていたんだ。
 ヒサキさんの目の前で、嬉しそうに、お父さんの手掛かりを見つけた、だなんて。
 ヒサキさんの気持ちなんて考えずに。その言葉の真意を汲み取る事も出来ずに。
 そんな、残酷な事を。
 それ、なのに。
「きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」
 それなのに、ヒサキさんは、嬉しそうに微笑んでくれて。
 自分の内の感情を押し殺してまで、協力すると、言ってくれて。
 僕は……。僕は……なんてバカなんだ。
 どうしようもない、ただの子供。
 心が、張り裂けそうになりました。
 身体の中で、闇という慟哭が膨れ上がり、僕の口から漏れ出ました。

「うわああああ!!」
「ネギ先生!」
「ネギっ!」

 その声を最後に、僕の脳裏は黒く塗り潰されました。



[43591] 一体全体、意味がわからない——裏その伍
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:31
—桜咲刹那side—
 
 
 
 
 
「うわああああ!!」
「ネギ先生!」
「ネギっ!」

 叫声が辺り一帯に響き渡る。
 激怒や悲痛を混ぜ合わせかのような叫喚。その悲愴を滲ませる声色は、私達の間にある種の異常性、違和を感じさせていた。
 戦慄が走る。言いようの知れない緊迫感が迫り来る。それらは、私の身動きを制止させるのには十分だった。
 下腹部を暗雲により隠された月。夜空の下。
 湿り気の帯びた冷風が吹きすさぶ、桟橋の上。静かな振動は湖畔に波紋を響かせて、如実にその勢いを増していた。
 視界に映るのは、幽鬼がその身から放つようなゆらりとした揺らめき。ネギ先生の身体中から暴れては溢れ行く、強大な魔力の本流。
 脳裏に焦げ付くようなまでの危機感を覚えた。
 焦燥にざわめく心の内は、様々な悪い未来予想が幾重にも展開されていた。

 一瞬のまばたき。そんな刹那的な時間、瞬間の事だった。
 いなかった。声を、上げる暇もなかった。
 目前に在ったはずの小柄な後ろ姿が、忽然と掻き消えてしまったのだ。
 そして、私は目撃する。
 上空へと、垂直に伸びる光柱の方角。月光に淡く照らされた湖畔に、第三の光源が発生したのを。
 その光景は余りに予想の外で、理解は出来なかった。
 だが、一目瞭然だった。
 眼前に置いて、何が起こっているのか。誰が、それを引き起こしているのか。
 私の目が虚像を捉えていないのならば、それは、ネギ先生が引き起こしていた。
 印象。心優しく、汚れを知らない無垢な善人。あの方のように、他人のために身体を投げ売てる、稀有な人間。
 だが、眼前の戦いはなんだ。
 凄まじいと形容してしまうほどの、猛攻だった。
 辛うじて、やっと視認が追い付くほどの速度で繰り出される、絶え間ない乱打。
 正に烈火の如く、と言えるだろう。
 白髪の少年の存在を、許せないとばかりに殺到する拳に体躯。
 まるで、自我を失ってしまった、化生のよう。人のそれとは思えない、圧倒的なまでの戦闘だった。

 だが、少年が意に介す事はなかった。
 焼け付くようなまでの濃密な闘気は、ピリピリと私の皮膚をついばむ。
 だが、少年はものともせずに、涼しい顔のままで、その無表情が崩れる事はなかった。
 軽々と猛攻をいなす。隙だらけの急所に、確実にカウンターを入れていく。
 その瞳は、凍てつくように冷たい。
 その立ち振る舞い、在り方はある人を彷彿とさせた。
 比べたくもない、比べたくもないが、奇術士の称号を欲しいままにする彼を彷彿とさせていた。
 似ていた。姿形が類似している訳ではない。その性格が類似している訳ではない。
 だが、所謂、絶対の強者が持ちうる威圧。どのような状況にも揺れる事のないその心構えが、兄弟のように重なっていたのだ。

 ふと、率直に疑問に思う。
 私は、この少年を退けられるのだろうか、と。
 打ち倒し、苦境を乗り越えて、あの光りの下へと行きつけるのだろうか、と。
 直ぐ、傍まで、来ているのに。ここまで、死力を尽くして、たどり着いたというのに。
 光りに包まれるお嬢様は、酷く小さい。未だに、遠く在る。
 挫け、そうになった。
 原宿の夜。捨てて来たはずの弱さが、脆弱さが、無慈悲にも浮き上がって来そうになる。
 私はまた、守れないのか。
 脳裏にその言葉が、明滅した。
 幼少の頃、強くなると決意したあの日。絶対に守り抜くと決意した、あの日。
 それが、モノクロとなり再生されていた。

 だが、私は首を強く振った。
 胸元に在る首飾り。絆の象徴。微弱な冷たさが、私の弱さを優しく押し留めたのだ。
 目に力が込もっていく。
 そう、だ。
 また、私は間違っていた。また、私は忘れてしまっていた。
 小林さんの言葉を。無力な自らに教えてくれて、やっと気づけた、その暖かい微笑みを。
「きみに出来る事は、まだ少ない。
 だが、きみには、こんなにも頼もしき仲間達がいるじゃないか。
 きみは、独りきりなんかじゃないんだ」
 私は、一人ではないのだ。
 一人で守れないのならば、皆の力を借りれば良い。簡単な事。ただ一つだけ、それは、仲間を信じ抜く事。
 まだ、何も終わってはいない。
 私の身体は地に伏してはいない。
 冷静になれ。
 自らに、何度もそう言い聞かせていく。
 怒りに身を任せてはならない。驚愕に立ち止まり停滞してもならない。何もせずに、諦め天を仰ぐなど、愚の骨頂だ。
 周りを良く観察しろ。
 私が尊敬して止まない男性は、必ず打開策を見つける。勝利への軌跡を、必然的に探り当てるだろう。
 冷静さが、肝要なのだ。冷静に状況を把握し、勝利への道程を描く事が。

 戦いに、目を凝らす。
 だが、体内で煮え繰り返る憤りの波は、そう簡単に割り切れるものではなかった。
 歯を、強く噛み合わせる。
 ネギ先生は、今、暴走をしてしまっている事は明白だ。
 そしてそれは、小林さんに大きく関係している。
 小林さんの途方もない影響力。それこそが、この事態を引き起こしていた。
 少年の口から吐かれた言葉。全てが真実なのか、他愛もないまやかしなのかは想像もつかない。
 だが、白髪の少年は、倒すべき敵はこう言い放ったのだ。
 小林さんが京都に来た目的。それは、少年自身を壊すためだ、と。
 少年は小林さんに取っての、仇。世界で唯一許せない相手。最愛だったはずの父親を殺した仇なのだから、と。

 胸の内に、静かに種火がくすぶっているような気がした。
 私は確かに、小林さんの過去を、全てを知らない。
 率直に言うのならば、知っている事の方が少ないのだろう。
 それは、認めようではないか。
 だが、気にいらない。気にいらないのだ。
 小林さんを形づくる、培って来た全てを、わかっているとでも言いたげなその表情が。
 直接的に、お前は何を知っているのかと鼻で嘲笑っているかのようなその瞳が。
 酷く、癪に障った。
 だが、覚悟して置いた方が良いだろう。
 お前自身が、小林さんの仇。苦悩の原因。不遇な過去。
 それらの象徴だとするのならば、紛れもない真実だとするのならば、私は。
 少年の存在を許容しない。完膚なきまでに、否定する。
 差し違えてでも、私は、この名も知らぬ少年の存在を消して見せる。
 私の心の奥底、深淵に、薄暗い闇がはびこり絡まっていくような感覚を覚えた。
 だが、悪い気はしない。それ所か、居心地が良いような気さえした。
 その時、アスナさんの狼狽しきった声が聞こえた。

「ど、どうなってんのよ! ネギはどうしちゃったのよ!?」

「はっ!
 よ、予想外過ぎて、固まってたぜ!
 姐さん、これは暴走に違いねぇー! 兄貴は怒りで我を忘れちまってるんだよ!」

「じ、じゃあ、どうすれば良いのよ!?」

「それがわかれば、苦労はしねぇーっスよ!
 あのスピードじゃ加勢も出来ねぇーし、兄貴が味方の区別がついてるかも……!」

 相談の声は、辺りに響いていく。
 私は一人、思考の渦に捕らわれていた。
 カモさんの言う通り、あの速度についていくのは今の私には正直、厳しいだろう。
 加勢を優先して、同士討ちで負けましたでは目も当てられない。
 だが、考えを巡らす意味はなかった。
 結論も解決策も、何ら生み出さないままに戦いは終わりを告げる。
 ネギ先生の、魔力切れなのだろう。
 如実に、動きの速度が下がって来ていた。
 少年が、そのような隙を逃す訳はないのだ。
 正に一閃。ネギ先生の腹部に、深々と突き刺さる拳。次の瞬間には、風切り音を響かせ蹴りが遅いかかった。
 為す術など、ない。くぐもった呻き声と共に、ネギ先生の身体はこちらへと吹き飛ばされた。
 砂煙りと、重い音を立てながら桟橋を転がって来る。
 私は即座に、その小さな身体を受け止めた。
 泥だらけに汚れたネギ先生は、苦悶の声を漏らした。

「うう……。
 ぼ、僕は、一体……」

「ネギ!」
「兄貴! 正気に戻ったっスか!」
「ネギ先生」

 良かった。素直に思えた。
 疲労困憊。触れた身体には力を感じられはしないが、正気に戻ってくれたようだ。
 駆け寄って来たアスナさんに、ネギ先生を預ける。
 息を吐く。私は、静かに立ち上がった。
 視線を外す事は出来ない。
 未だに汚れ一つなく、無傷のまま。少年は汗一つかかないままに、口を開いた。
 その抑揚のない声は、やはり、気に障った。

「ネギ・スプリングフィールド。
 きみはどうして、自我を失い暴走するという暴挙をしてまで怒ったんだい?
 ……ああ、知らないのか」

 ドクンと、嫌に鮮明に鼓動が聞こえた。
 嫌な、予感がした。
 知らないのか、という言葉が鼓膜に残っているような気がした。
 何とか状況を把握したネギ先生は、倒れたまま、顔を上げて口を開く。
 だが、その瞳だけは、未だに強き信念を称えていた。
 不屈の闘志。その在り方は、どこか、小林さんの影と重なって見えた。

「僕は、ヒサキさんの事を、良く知りません。知っている事の方が、少ない、のかも知れません。
 だけど、一つだけ、わかる事があるんです。
 それは、ヒサキさんは心優しくて穏やかで、僕の尊敬する人だって事です。
 そして、何よりも大切なのは、僕の、僕達の大切な仲間なんだ」

 声量は、消え入りそうなほどに小さかった
 だが、それなのにも関わらず、その言葉は周囲の雑音に吸収されない。
 私達の耳に、明確に届いていた。
 少年は一拍の後、口を開く。
 そして、その口から吐かれた言葉は、私を容易く揺さぶった。

「そうか。やはり、知らないのか。
 彼が隠し通さなければならない、本質を。
 この世界の誰にだって変える事の出来ない、真実を。
 その穢れた血を」
「……それ以上、口を開くな」

 独りでに、私の口から静かな怒声が漏れ出ていた。
 低くてくぐもった、自らとして、聞いた事のない声色だった。
 やはり、少年は知っている。知っているのだ。
 小林さんの、隠さなければならない真実を。体内に流れている、その血潮の本質を。
 だが、どうしてか、揺れていたはずの心は静り返っていた。
 その事実を、簡単に受け止めている自らに、少しの驚きを覚える。
 例えるのならば、冷めた熱。夕凪を持つ両手に、力がこもる。
 ああ、そうか。
 それ以上、言わせなければ良いと認識していたのだろう。
 口に出来るものならば、やって見ると良い。
 私の放ちうる、最大限の殺気を持って睨みつけた。
 だが、奴は気にも留めない。まるで、世間話しの最中だと言わないばかりに、言った。

「この世界では、彼は異質で、異端なんだよ。
 正常な者は、彼を理解しようともしないんだ。彼の傍に立つには、異常でなければならない。
 きみは事実を知った時、どう行動するのか。
 信用しきっていた彼がまさか、きみの嫌う魔……」
「それ以上言うなー!!」

 気づいた時には、爆発的な怒りへと身を任せていた。
 私では、奴を殺す事は出来ないかも知れない。
 だが、関係ないのだ。これは誇りの問題。小林さんの崇高な誇りが、今、踏みにじられるようとしている。
 それならば、私は死をも厭わない。
 小林氷咲という男性、存在の全ては、私の誇りでもあるのだから。

 一足飛びで、間合いに入り込んだ。
 上段に振りかざした夕凪で、このまま、袈裟がけに斬り捨てる。
 少年は微動だにせず、ジッとこちらを凝視していた。その瞳は一切の色を映し出してはいない。虚ろだった。
 どうして。どうして奴は、動かない。
 違和感を覚えた。
 そして、その時だった。
 異様な閃光が、周囲に放たれたのだ。
 光源の出所は、胸元。隠していたはずの両翼を形づくった首飾り。色褪せる事のない絆は、ふわりと浮かび上がり澄色の光りの粒子を放出していた。
 幻想的な、神秘的な光景。
 膨大な粒子が幾重にも重なり合い、交差し、ある人型をつくり上げていく。
 声は聞こえなかった。
 だが、粒子越しに映る奴の口許が動く。それはこう、示していた。

「遺伝子、か」

 そして、唖然。驚愕を隠す事は不可能だった。
 その粒子一粒一粒から、ある魔力の波動を感じた。感じ取ったのだから。
 ああ、本当に暖かくて、途方もなく愛おしい。
 湧き上がっていく、みなぎっていく勇気。大袈裟ではない。その貴い光りは、闇がはびこり、絡まっていた心の世界を打ち砕いた。

 そして、私は全てを理解した。
 どうして、彼は私に、この首飾りを贈ってくれたのかという疑問の答えを。
 その答えは一つ。私が危機にひんした時には、いつでも、即座に駆けつけられるように。
 やはり、私は愛されているのだ。
 何者よりも気高くて、とてつもなく大きい、獅子のような男性に。
 その過保護なまでの愛情は、甘さは、今の私には眩し過ぎた。
 夕凪を上段に振りかざしたまま、小林さんの胸に飛び込む形となる。
 彼は、私のものだ。そんな独占欲に駆られていた私を、小林さんは優しく抱えた。
 まるで、王子様がお姫様にそうするように、お姫様抱っこで抱えられる。

 だが、私は過ちを犯した。いや、犯していた。
 私は、何を思い上がっていたのだろうか。
 未だに、護られるだけの小娘でしかないのに。
 小林さんの瞳は、憤りの熱に満ちていた。
 開かれた口からこぼれたその本音は、静かな激情を孕んでいた。

「心遣いには、多大な感謝をしている。
 だが、無様にも我を忘れて暴走する事が、唯一、強大な敵を倒しうる策と呼べるのか。
 違う、だろう。間違っている。間違っていると、わかっているはずだ。
 きみたちが今、為さなければならない事は、他にある。
 冷静になれ。足下を固めろ。仲間達の顔を見ろ。
 そして、俺を信頼しろ。
 もう二度と、失いたくはないんだ……!」

「こ、小林……さん」
「小林先輩!」
「ヒ……サキさん」

 一斉に、声が上がる。
 二度と、失いたくはない。その言葉で、全ての真相は明らかになった。
 私の行動は間違いだった、のだろう。小林さんは、気高い男性だ。同情だと、誤解されてしまったのかも知れない。
 即座に違う、と叫びたかった。
 だが、それは出来なかった。
 エヴァンジェリンさんがほぐしたその心を、再度、頑なにさせてしまったのは私なのだから。
 配慮の足らない行動。私は、どうすれば。
 その時、小林さんの背後から、紫色の閃光が瞬いた。
 小林さんと白髪の少年。二人の視線が交錯する。
 何人も足を踏み入れられない、強者だけの舞台。身体と身体は触れ合っているのに、私だけ闇に置いてけぼりにされたような気がした。
 原宿での一夜以来の、茨の棘が、私の胸の奥に深々と突き刺さった。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——表
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:31
—小林氷咲side—





「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」

 その声は、空間を裂くように飛来した。
 白髪の少年の直突きを受け止めてでもいるのだろうか。
 ふわりと浮遊する死神は、前方へと鎌を翳し、俺の背中を包み込むように半円形のバリアを展開していた。
 衝撃と衝撃の拮抗。暴風、なのだろう。怪しくも、鈍く放たれる紫紺の閃光は、嫌に規則的なリズムで瞬く。
 俺も白髪の少年も、薄暗闇でさえも、淡き灯りで仄かに縁取っていた。

 脳裏の中心を颯爽と、大胆不敵にも迫っては去り行く言葉。
 うん。
 意味がわからない。
 全く持って、意味がわからない。
 疑問は、湯水のように湧き出しては、その限りを見せようとはしていない。
 どうして俺は、広大な湖に架けられた桟橋を踏みしめているのか。
 先程までの心踊る空間。麗しい所の騒ぎではない茶々丸さんのお姿は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 どうして俺は、桜咲さんの羽のように軽い身体を、気安くもお姫様抱っこしているのか。
 泥に塗れて地に伏すネギくん。またもや、特大のハリセンを携え、こちらを凝視する神楽坂さん。
 意図をはかりかねる、重苦しき緊迫感の正体は一体。
 だが、そんな事柄は些末な疑問。いや、些末ではないが何よりも、何よりもである。
 後方。雪のように白い頭髪を突風に踊らせる、見慣れぬ少年の言葉は一体。

 意図は、掴めない。
 至極、当然の事、である。
 この騒動を誰かに問われる事態に陥るのならば、俺はこう答えざるを得ないだろう。
 ハハ……。
 俺はほんの数秒の間、目を閉じていた。
 そして、開いた時、だったんだ。
 ……うん。つまるところ、俺の身体は、奇しくも物理法則を飛び越えていたんだよ、と。

 間違いない。間違いが、ないだろう。
 このような説明をする者は瀕死、命を落とす寸前、完全に末期である。
 その日を境に、噂は一人歩きし、日に日にその印象は激しさを増していくのは明白だ。
 空想や妄想をこよなく愛するロマンチスト、そういった肩書きであるならば何とか許容出来よう。
 だが、世間は甘く見てはならない。
 少々、頭の弱い、可哀想な人、という不名誉であり有り難くはないレッテルを背負わされる事になってしまうだろう。

 だが、そんな事を考えていても始まらない。
 御免被りたい未来を予想しているだけでは、現実は何も変わらない。変わってはくれないのだ。
 考えろ。考えるのだ。
 答えは出ずとも、考察を繰り返し、この窮地を切り抜ける事が最善の一手と言えよう。
 それならばまず、第一として、極大なまでの意味不明さを匂わす謎から料理して行こうではないか。
 それは白髪の少年から否応なく繰り出された、意味深げな台詞に集約されていた。
「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」

 ふと、軽めの立ち眩みを覚えた。
 困惑や混乱といった感情は、如実に、俺の三半規管を明確に苛め抜いていたようだ。
 確かに、確かにだ。
 理解など出来そうもないが、今も尚、どこか胸騒ぎのような感慨を捉えてはいる。
 所謂、既視感とでも呼ぶのだろうか。そう総称されている感慨には、丸呑みにされそうになってもいた。
 しかし、しかしだ。
 声を大にして、否定の返答をしたい。
 それでは、辻褄が合わないのである。
 例えるならば、宇宙でも人類は生身で呼吸できるんだぜ、という子供じみた虚言ほどに前提からしておかしいのだ。
 なぜならば、単刀直入に言おうではないか。
 父は、俺の血縁に当たる父は、生きているのだから。
 齢四十間近の埼玉在住の営業マン。命の危険に瀕するような持病などもなく、至って健康体である。
 因みにというならば、母も健在であり、この歳となっても仲睦まじい。
 長男としては、少々、嬉しくもあり恥ずかしくもあった。

 それならば、一体、彼は何を言っているのだろうか。
 京都に赴いてからというもの、遺憾ではあるのだが、クエスチョンマーク界で華々しい戦果を上げ続けて来た俺。
 三日足らずで、界隈のホープや若手筆頭を難なく飛び越え、正に帝王の二つ名を欲しいままにする小林氷咲。
 と言えども、言えどもだ。
 余りに難易度の高い問題に直面させられては、形無しと言えた。

 心に住むミニヒサキはというと、夜空に浮かぶ風流なおぼろ月に感銘を受けていた。
 最早、現実逃避と、大きなキャンバスを睨み付けて、血気盛んに筆を振り回す。
 しかし、その時だった。辺りを照らしていた光源が尽きたのだ。
 それを合図にしたのだろうか。死神は程なくして、あからさまに愉しそうにケケケと笑う。
 そして、頼んでもいないというのに、また普段の定位置、肩口へと舞い戻って来た。
 再度、軽めの頭痛を覚える。少しだけ離れた位置に移動していた白髪の少年を、視界は捉えた。
 無機質な瞳。何ら感情の見えない視線は、こちらへと静かに向けられていた。
 事の推移を見定めてでもいるかのような、そんな眼差しに思えた。

 尋常ではない重圧が、襲い来る。気を抜いた瞬間には、身体ごと絡め取られてしまいそうなまでの雰囲気に気圧された。
 致し方、ないだろう。
 白髪の少年だけではないのだ。
 この場に存在する皆が、何らかの含みを持った視線を一点、俺へと集中させていたのだから。
 心が鷲掴みにされるといった状況ではない。通り越した先、最早、握り潰されてしまったのではないかとの錯覚を受けていた。

 気圧され狼狽してはいたが、桜咲さんを優しく地面へと降ろす。
 うら若く年頃である彼女を、このような形で抱いていては失礼に当たるのではと危惧したからだった。

「あ」

 突如、か細い声が俺の鼓膜を震わせた。
 まるで、絶え入るような声だった。おおよそ、俺にしか聞き取れないほどに微かな。
 いかん。これは、いかんぞ。
 白髪の少年へと釘付けになっていたのが、大層、悔やまれる。
 定かではない。定かではないのだが、思わず、どこかいけない場所に触れてしまったのかも知れなかった。
 羞恥心から、滑稽にも狼狽えてしまう。
 半ば、呆然と桜咲さんを見つめた。
 頭ではわかっている。謝罪せよとの命令はひっきりなしに発せられてはいる。
 だが俺は、二の句を告げられなかった。
 次の瞬間の事だった。
 桜咲さんの口許から飛び出した言葉は、想定の外。思考の枠組みから外れたものだった。

「こ、小林さん……。
 ち、違うんです。……わ、私は!」

 その瞳は、忙しなく小刻みに揺れる。
 その声は悲痛に歪み、桜咲刹那という少女を形作る細胞の全てが侵されて、今にも壊れそうに視界に映り込んだ。
 刹那的。一瞬で、意識を呑まれた。
 周囲の音が、何もかも全てが、消え失せてしまったかのように感じられた。
 春の冷たい夜風は、彼女の前髪をさらう。月光の仄かな灯りが、その瞳に浮かんだ水分を反射して煌めかせていた。
 彼女を形取る光と影。輪郭に、魅入られた。
 だが、即座に力強く拳を握り込む。歯を強くかみ合わせて、無理やり意識を覚醒させた。
 何があったのかは、わからない。
 再度、彼女の心の闇が燃え上がり、再発したのかも知れない。
 未だに無力過ぎる俺には、ただの子供な俺には、気付いてあげられる甲斐性などはない。
 そのたぎる猛火を、鎮めてもあげられない。
 何なのだろうか、この感情は。
 どこからやって来たのだろうか、この憤りは。
 少しは成長出来たのではないかと、勘違いから滑稽にも自負していた。
 だが、結果は散々たるものだ。
 自分を兄のように慕ってくれる少女一人、笑わせてあげられない。その期待に、応える事さえも叶わない。
 身体中が、炎上でもしているかのようだった。
 何もする事の出来ない自分自身への怒りからか、小刻みに震えが起きていった。

 だが俺は、即座に行動した。
 最大限の微笑みを、口許に浮かべる。
 そうする事が、最善に思えたのだ。いや、違う。それ以外の選択肢が浮かばなかったのだ。
 学園長が仰っていた言葉が、脳裏を過ぎる。
 未熟な者に、取れる行動は一つだけ。
 それは、拙くても良い。真なる想いを、ただ、相手に伝える事が為すべき事なのだ、と。

「桜咲さん」

 揺らいでいる瞳。それは、救いを求めているかのように感じ取れた。
 俺は真正面から、真摯に見つめた。
 その瞳の揺れが、定まってくれと願いながら。
 彼女が、俯き黙りこくっていた。ゆっくりと、顔を上げる。
 その泣き顔に、胸がキリリと痛んだ。

「はい……」

「きみの心に、闇が巣くっているのは知っている。
 だけど、それを俺が肩代わりしてあげる事は出来ない」

 桜咲さんの涙に濡れた瞳が、見開かれた。
 紅潮していた頬から、次第に、生気が失われていく。
 俺は微笑みを絶やさぬままに、言った。

「確かに、肩代わりはしてあげられない。
 だけど俺は、未熟者は未熟者なりに、素直にこう思うんだ」

「こ、小林さんは未熟などでは……!
 わ、私の方こそが足を引っ張ってばかりで……」

 桜咲さんは、慌てふためいた。
 その指し示す意味に、心が暖まっていく。
 俺は視線で、彼女の言葉を遮った。
 黙り込む彼女の視線が、交錯していく。
 出会い。原宿での一夜。色々な記憶が、思い返されていった。
 期間にして、たった数週間。短くも、濃密な時間。
 他人には、理解など出来そうもないだろう。
 だが、それでも俺は、彼女を、出会った皆を信頼している。

「苦悩に立ち止まる事もある。過ちに落ち込む事もあると思う。何もかもを信じられなくなる事も、あるだろう。
 それでも良い。それでも、良いんだよ。今は、それで良い。
 なぜなら、俺はきみを信じているんだから」

「私を、信じて……」

 なぞられた言葉。
 再度、桜咲さんの瞳が見開かれた。
 しかし、その本意は、マイナスなものではない。

「ああ、そうだよ。
 俺はきみを信じている、という事を信じてくれないかな。
 桜咲刹那という女性は、心の翼は、いつか必ず、心の闇に打ち勝ってくれると信じている、俺を。
 それにきみには、ネギくんがいる。神楽坂さんがいる。俺もいる。
 きみは一人なんかじゃないんだ。
 絶対に打ち勝てる。そう、みんなも、俺も、きみを信じているんだから」

 一拍の後、震えた声音が響いた。

「小林、さん……」

 桜咲さんの華奢な身体が、より一層として震える。
 湿気を帯びた夜風が、俺達の間を通り抜けていく。月光の灯りが、彼女の苦悩を優しく浄化しているように思えた。

 だが、しかしである。
 このままで、終幕とはならない。
 当然である。半ば、必死過ぎて、忘れてしまっていたのだ。
 背後の方向から響く、抑揚のない声。それは俺を、現実へと引き戻すには十分だった。

「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
 その異常なまでの、冷静さを失わない。
 流れる血は、健在のようだね。
 これで、確信した。
 やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」



[43591] その暗闇を沈み行くものは——表その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:32
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 
「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
 その異常なまでの、冷静さを失わない。
 流れる血は、健在のようだね。
 これで、確信した。
 やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」

 その声は嫌に鮮明に、鼓膜を震わせた。
 正に、意味不明の大盤振る舞いと言えよう。
 無防備な俺の背中へと、否応もなく突き立てられていた。
 これで何回目だろうか。
 三半規管の崩壊を、実感させられる。苛烈さを増して行く頭痛に、顔をしかめたまま振り返った。

 背景の闇に溶け合い、灰色に彩られた毛髪は、煌めいて見える夜風に踊る。
 グレーに限りなく近い青色の両の瞳は、何かをはかるように、こちらへと向けられていた。
 一瞬の静寂が訪れた、後だった。
 少年の引き締められていた口許が、ゆっくりと開かれる。そこから放たれた言葉は、正に驚天動地。支離滅裂、な台詞だった。

「そうだろ? レイン。
 きみはヒサキ、なんていう名前じゃない。
 僕は確信を持って言える。
 間違いなく、きみはレイン。その名前こそが、きみを示すには最適な総称なんだ」

 もう一度だけ、言おうではないか。
 何を、言って、いるのだろうか。
 少年の非の打ち所のない姿態を、月影が縁取る。
 まるで、月の精霊はこのような姿をしているのではないかとさえ思えた。
 幻想の世界から登場してきたのかと錯覚する少年の言葉が、脳裏に過ぎる。

 まず、まずである。
 レイン、とは一体。
 それこそが、俺を表すには最適な総称、とは一体。
 心のミニヒサキはというと、描きかけのキャンパスを前に筆をポロリと床に落とすと、呪詛のように呟き始めた。
 うん。
 意味がわからない。
 俺の名前は、名称は、生まれてこの方、小林氷咲、ただ一つだけなのだから。
 だが、しかしである。
 この何かが迫り来るような感覚は、一体、何なのだろうか。
 心の、不可解などよめき。身体中の小刻みな震え。胸の奥から、何かが這い上がって来ているような息苦しさ。
 心の中で、レインと小さく呟いた。脳裏を、跳ね返るように反響していく。
 その言葉の残響は、酷くやる瀬なかった。
 遙か遠くの故郷を思わせるようで。そして、これまでに培って来た倫理感を、踏みにじられてでもいるかのような感覚だった。

 皆の視線が一様、俺へと集まっていく。
 その視線の含意は、問い。真意のほどを確かめるような、眼差し。
 だが、少年以外からは、身を案じてくれているような暖かさを孕んでいた。
 確かに、理解は出来ない。
 俺の中でうごめくものの正体は掴めない。その尻尾でさえも、視認する事は叶わない。
 だが、一つだけ断言出来る事があった。
 それは、俺は小林氷咲だ、という揺るぎない自負だった。
 確かに幼少の頃は、変な名前だとからかわれて、嫌いになった事もある。羞恥心から、自分の名前を教えたくないと思った事もあった。
 だが、俺は、レインなどという名前ではないのだ。
 それに今は、両親に名付けて貰ったこの名前を、誇らしく思っている。

「こ、小林さん、レインとは……」

 傍らに立つ桜咲さんが、心配そうに、その可愛らしい顔を曇らしていた。
 心配をかけないように、笑顔で続きを遮る。
 そして俺は、少年の瞳を見つめると、真剣な表情のまま言った。

「違う。
 俺の名前は、レインじゃない。
 俺を総称する名前は、ただ一つ。
 ……俺は、小林氷咲だ。
 それ以外の名前は、存在しない」

 一陣の風が、通り過ぎる。
 相反する、白と黒。俺と少年、真逆に彩られた前髪をなびかせた。
 視線が交錯し、何者も遮る事はない。
 少年は無表情を崩さないままに、一つ頷くと、その口を開いた。

「そうか。やはり、そのようだね。
 いつの世も往々にして、真実というものは、他者に覆い隠されてしまう」

 意図は、掴めなかった。
 だが俺は黙して、少年の続きを待つ。
 少年の無機質な双眸は、離れない。
 言いようの知れない、苦しき圧力。気圧されそうになる身体を、押し止める。
 少年は言った。

「僕の、推測通りか。
 レイン。きみは、記憶を操作されたか、封印でもされてしまったんだろう。
 もしくは、全てを把握した上で、恐怖に縛られ揺れているのかな。
 その身を復讐心に焦がしながらも、その錆び付いた心は甘い幻想を欲してしまう、という板挟みにあえいで。
 まあ、いずれにしろ、きみはレインだ。これは変える事の出来ない、真実なんだよ」

 息が詰まる。
 まるで心も、身体も、俺の存在さえもが、暗雲に呑み込まれて、抹消されてでも行くような感覚を捉えた。
 この素敵で暖かな世界から、弾かれ否定されて、拒絶されたかのように。
 独りでに、口が開かれていた。
 自らの声に、驚愕する。
 その声は低くくぐもっていて、明確な怒気を孕んでいたのだから。

「違う。
 俺は、小林氷咲だ」

「いや、きみは気付いている。
 聡い類い希なその頭脳は、認識しているよ。
 だけど、それと同時に、過去を拒絶しているんだ。
 違うというのなら、きみはどうして、京都まで来たんだい?
 今、この時、きみの異質なまでの冷静さは失われたんだ。
 それが、何よりも、事の真相を物語っている」

 俺の口は、自然と閉じていた。
 ざわめく情動。血液を、蹂躙されてでもいるかのような憤慨。
 不思議、に思えた。
 絶え間なき問いは、俺へと殺到する。
 どうして、だろうか。
 どうして、俺は憤っているのだろうか。
 理解など出来そうもない。皆目見当はつかなかった。
 霧がかった夜空の下、俺をよそに尚も、少年は続ける。
 正に、自然体。虚言を吐いているようには見えない立ち姿は、俺を執拗なまでに射抜いていた。

「レイン。時間だ。答えを聞こう。
 きみは、僕を壊しに来たのか?」

 その瞬間だった。
 その声を合図に、時空が歪んだのではないかと錯覚した。
 果てしなく、強烈な光。世界を震わせているようなまで振動に、轟音が響き渡ったのだ。
 余りの理解の範疇を超越した出来事に、混乱しきる。まるで、自らが霧に霞み行くように、意識は朦朧としていた。
 俺も少年も、京都という地さえも金色に染めていく。
 その眩さに、目を細めざるを得なかった。
 そして俺は、その原因を目撃した。
 何だ、あれは。何なんだあの、摩訶不思議なまでの物体は。
 例えるならば、角が生えている事から推測して鬼、だろうか。
 だが、その体躯は余りに巨大。説明するならば、巨大ビル並みの身体を持った、化け物だろう。
 凄まじき重圧に、片膝をつきそうになる。
 俺はただ、黙して見つめる事しか出来なかった。

「ちょ! な、何なのよあれは!」
「クッ……!」

 背後から、神楽坂さんの慌てた声が聞こえた。桜咲さんの、苦虫を噛み潰したかのような声が漏れ出る。
 だが、少年は揺らがない。
 化け物を背景に、その口を開いた。
 その声音は小さいというのに、轟音にもかき消されず、俺の耳に届く。
 そして、微かな、優しさを帯びているような気がした。

「それとも、復讐も、幻想の世界さえも、何もかもを捨てて……僕と共に歩む事を選択したのか?」

 倍増していく緊迫感。周囲の皆から、どよめきの声が上がった。
 またしても、その瞬間の事だった。
 まるで、ホラー映画を観ているようだった。
 少年の影からヌルリと、何かが這い出て来たのだから。
 その何かは、閃光に照らされる。それはまるで、人間の片腕のように見えた。
 息もつかせぬ内に、少年の腹部を掴む。離さぬとばかりに、力強く。
 その時、初めて、少年の無表情が崩れ去った。
 驚愕に目を見開き、影から正体を現しつつある人影を凝視した。

「小僧、戯れが過ぎるぞ。
 私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
 だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」

 何も、見えなかった。
 視認する事は、叶わなかった。
 聞き覚えのある、可愛らしい声音が響いた一瞬の後だった。
 少年の姿は、掻き消える。
 まるで、初めからその場にいなかったかのように、忽然と消え去っていた。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——表その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:32
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 
「小僧、戯れが過ぎるぞ。
 私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
 だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」

 化け物の体躯から発露される、金色の光量は凄まじく、正に神々の偉大な後光を彷彿とさせている。
 天地万物全てを、煌々と照らしているのではないかとさえ錯覚させられていた。
 壮絶、の一言だった。
 次元を隔絶するようなまでの唸り声。天を衝く咆哮。それは俺を恐怖に縛るばかりか、激しく大地を振動させていた。
 意識は朦朧。迫り来る疑問のうねりは解読不能の様相を呈し、口を噤み凝視するという選択肢しか取れはしない。
 あの奇妙奇天烈さを遺憾なく発揮し喋り倒した、白髪の少年の姿はいずこへ。
 そして、この身を支配し匂い立つ、破滅の如き焦燥心は、どのような真実を示しているのだろうか。

 半ば、現実逃避を敢行していた脳裏は、認識する。圧倒的。絶大なまでの存在感を欲しいままにする、ある少女を視認していた。
 特徴的な金色の毛髪の一本一本は繊細で、夜風に惑うようにサラサラと揺れている。
 正に我々日本人が思い描く、西洋のお人形さんのよう。
 ではあるのだが、その服装は教育上、余りよろしくはない。漆黒を基調とした女王様スタイルだった。
 まるで、吸血鬼のように、いや、彼女は吸血鬼だったかとふと思う。

「エヴァンジェリンさん」
「エヴァンジェリンさん!」
「エヴァちゃん!」

 皆も、気付いたのだろう。
 視線は知らず知らずの内に彼女、一点へと向かうのも自明の理と言えた。
 陰影から這い出し、その身を現わにした少女は振り返ると、フッと妖艶な笑みを浮かべる。
 だが、宝石のように蒼く煌めく瞳には、慈愛が込められているように感じられた。

「ヒサキ、待たせたようだな」

 いや、すまない。少しばかりではないが意味の方がと、失礼な返答をしようとした口を必死に閉じる。
 久方振りに対面出来た嬉しさもそうだが、彼女の闇を思い返したからだった。
 英断を選択した少女。穢れを知らない聖母。感謝してもしきれる事は未来永劫としてない、エヴァンジェリンさんは尚も続けた。

「さすがの小林氷咲、といったところか。
 この私が京都に降り立った時点で、お前の描いた策は成った。
 まさか、一度も戦わずして、一度の変身もせずして、相手の思考を誘導し、時間を稼いで見せる、とはな」

 たちまち、周囲がしんと静まり返る。いや、BGMとしての咆哮は喧しいほどではあったが、俺の脳内はそれを打ち消していた。
 傍らに立つ桜咲さんが、息を呑む。

「ま、まさか、小林さんは……この時を待っていたんですか」

「ああ、この私としても恐れ入ったよ。
 全ては、コイツの掌の上にあったに過ぎない。
 いつ把握したのかは知らんが、いや、じじいの行動も予測済みだったという訳か。
 まさか、麻帆良にいるはずの私、という不確定なものまで策に組み込んでいたとはな。
 コイツは愚者でありながら、シビアなリアリストでもある、という事だ」

 エヴァンジェリンさんは、心底、愉しそうに口許を歪ませた。
 桜咲さんの唖然とした表情が、印象に残る。
 背後の方向から、神楽坂さんの不思議さを隠さない疑問の声が響いた。

「え? ごめん。どういう事?」
「カァー! カァー!
 情けねぇ! 姐さん、情けねぇ!
 小林の旦那はなぁ……」

 まるで、同時多発テロのように、俺を中心に騒動の火の手が上がっていく。
 俺はというと、エヴァンジェリンさんと同様に、苦笑を隠せなかった。
 全く持って、だ。
 全く持って、意味がわからなかったからである。
 心に住むミニヒサキはというと、その場で意識を手放し深い眠りについていた。
 苦悶の表情で、譫言のように呟く。
 うん。
 意味がわからない。

 白髪の少年の台詞を拝借させて貰うのならばと、内心で呟く。
 幻想の世界も、何もかもを捨てて……リアルヒサキの方も就寝させてはくれないか、と。
 だが、そのように切実に願ったとしても、追っ手は止まる事を知らないようだ。
 際限などはない。最早、無限なのだよと嘘ぶかれても、俺は無条件に信じる事が出来るだろう。

 面食らっている俺をよそに、桜咲さんが口を開いたのだ。
 その瞳は異様に力強く、その声音は意を決したように揺れてはいない。
 先程の泣き顔はどこへ行ったのか。
 真正面から俺を見つめる様は、例えるならば、雛鳥の一人立ちを彷彿とさせた。

「小林さん!
 いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」

 俺は、ただ見つめた。
 いきなりのファーストネームを叫ばれた事に、思考が飛んでいただけではあるのだが。
 桜咲さんの瞳に、俺が映り込む。その頬は強張り、仄かに朱が差していた。
 彼女の特徴的な髪型。サイドポニーテールが、振動に上下する。
 それは、薫風に踊らされる稲穂のように見えた。

「……氷咲さん。
 あなたは、ゆっくりで良いと言ってくれました。共に前に進もうと言ってくれました。
 ありがとうございます。
 ですが、今、なんです。過去の私と決別するのは。
 今じゃなければだめなんです」

 桜咲さんの左手が、握り拳へと変化していく。
 不安からか、身体は小刻みに揺れていた。だが、相反するように、瞳には並々ならぬ決意の色が浮かんでいた。
 視線が、ぶつかり合う。
 知らず知らずの内に、俺の苦笑はなりを潜めていた。真摯に、彼女を見据える。
 過去との決別。心情の吐露。未来への希望。彼女は今、穢れのないその心の翼を、羽ばたかせようとしているのだから。
 理由はわからない。俺の必死な言葉、からかも知れない。神楽坂さんやネギくんが、背中を押していてくれたのかも知れない。
 だが、一つだけわかる事があった。
 自然と、当然のように、心が震えてしまうのだ。
 自分の事のように、途方もなく嬉しい。微力でも、彼女の力となれたという結果が。

「氷咲さん……、あなたのお陰で、私は私の産まれた意味を知りました。
 だから、氷咲さんになら、あなた達になら……。
 私はもう、迷いません」

 桜咲さんはその声を合図に、徐に目を閉じた。一拍の後、背中を丸めると背筋を伸ばした。
 その、瞬間の事だった。
 突如として出現した、無数の白色の物体が、俺の視界をかすめたのだ。
 周囲の空間を、粉雪のようにヒラリヒラリと舞い散って行く。
 俺は、目を見開いた。見開かざるを得なかった。
 その白色の固体は、純白の羽。月明かりに照らされて、煌めき輝く。
 その出所は、彼女の背中に生える、大きな天使のような両翼から生み出されていた。

 目を奪われる。致し方、ないだろう。
 それほどまでに、美しかったのだ。
 桜咲さんと純白の翼。それらが合わさって生まれる破壊力は甚大であり、俺の琴線に触れるばかりか、鋭利にもえぐって行った。
 そうか。そう、だったのか。
 人は仮初めの姿。彼女は、天使だったのだ。
 吸血鬼もこの世に存在している。それならば、天使が存在していてもおかしくはなかった。

「ふぅーん」

「あの、アスナさん? どうしたんで……」

「きゃう!」

 惚けを隠せそうになかった。
 未だに、今生の身でありながら、まさか天使と拝謁出来ようなどとは想定外に過ぎる。
 前々から思ってはいたが、神楽坂さんは誠に恐れ多いお方である。
 現状、不敵にも、清らかなる翼に頬ずりまでする様は正に縦横無尽。万夫不当。
 脳裏に否応もなく、ある文章が通り抜けた。
 一騎当千。この世に彼女に敵うものなし、と。

 呆け、からだろう。
 一連の騒動を、赤子のようにただ眺めていた俺は、意識を覚醒させられた。
 それは眼前に、美しき天の使い、桜咲さんが立っていたからだった。
 どうしたのだろうか。不思議に思えた。
 瞳は充血し、頬も紅潮していたからだ。恥ずかしそうに、指と指を絡める仕草のおまけもついていた。
 さすがに可憐過ぎるだろと、内心で突っ込む。
 俺は心に決めた人がいるのだが、彼女は危険だ。エマージェンシーコールが鳴り響かなければ、危うく意識を持っていかれる所だった。
 その時、ふと脳裏に、彼女との短かくも濃い思い出が連鎖するように蘇っていった。

 そして、俺はその意図に気付いた。
 間違っているかも知れない。だが、桜咲さんに巣くう闇の正体が露わになった気がした。
 人との違い。人種の違い。俺には理解する事は叶わないが、そうなのかも知れなかった。

「あの……氷咲さん。どうで」
「きれいだ」

 彼女の声を、遮るように言った。
 そうしなければならないと、直情的に考えたからだった。
 自らの思慮の浅さに苛立つ。神楽坂さんこそが、揺るぎのない正解を導き出していたのだ。
 俺は何を、勘違いして呆けていたのだろうか。
 彼女は、天使なのかも知れない。人間には、属さないのかも知れない。
 だが、声高らかに叫びたい。
 それが、どうした。それが、どうしたというのだろうか。
 俺は、彼女が心優しい事を知っている。
 俺は、彼女が真面目過ぎて、思い込みやすい事も知っている。
 彼女は、桜咲刹那だ。それ以外の肩書きなど、重要ではないのだ。
 なぜならば彼女は、こんな俺を慕ってくれるのだから。愛すべき妹のような存在、それに変わりはないのだから。

「え?」

 桜咲さんが目を見開いた。
 俺はその様に、苦笑してしまう。
 彼女の揺れる心を定められたらと願いながら、口を開いた。

「その翼は、綺麗だ。
 きみが何者でも関係ない。
 俺は、俺達はきみを信用しているって、言っただろう?
 それは今でも、これからも変わる事はない。
 なぜならば、きみはこの世界でただ一人しかいない、桜咲刹那なんだから」

 再度、桜咲さんは目を見開いた。
 その様がおかしくて、皆が笑う。ほどなくして、桜咲さんは大きな声を上げた。
 その口許に浮かべられた心からの笑みは、今までに見た事がないほどに爛々と輝いていた。

「はい!」

「フン。
 おい、桜咲刹那。近衛木乃香は良いのか?」

「あ」

 桜咲さんが慌てて翼を広げると、どこかへ向かい駆け出した。
 そして、夜空に飛び立とうとする最中、俺を見つめて言った。

「氷咲さん。いってきます」
「ああ。いっておいで」

 桜咲刹那という少女が飛び立つ。
 その純白の翼は、未来への希望を乗せているように思えた。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——表その肆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:32
—小林氷咲side—
 
 
 
 
 
 胸中に抱く決意をそのままに、桜咲さんは霧がかった夜空へと飛び立って行った。
 過去との決別。未来への一歩。霞むおぼろ月が見下ろす上空から、無数の清き羽が落ちて来る。
 両翼を精一杯にはためかせる姿は、正に神秘的な情景。フフフと口許に笑みを浮かべると、ふと思う。
 それにしても、彼女はどこへ向かっているのだろうか、と。
 化け物に向かい速度を上げているようにも推測できるが、さすがにそれは杞憂というものだろう。
 あのような人外魔境を地で行く化け物に、関わろうとする訳がないからだ。
 だが、そうではない。わかりきっている。俺は、認識しているではないか。
 目を閉じて、軽く首を左右に振る。程なくして、目を開いた時には、大分、小さくなっていた少女の姿を捉えた。
 空気抵抗を受けながらも、不規則なリズムでゆっくりと落ちて来た白い羽。それを片手で掴むと、風情ある月夜に翳して願った。
 願わくば……彼女の勇気ある一歩に作用されて、希望の明日が待ち構えてくれていますように、と。

 再度、含み笑いを漏らした。
 さあ、皆を伴い、早々に帰路につこう。そう、満足げに頷いた時の事だった。
 傍らに立っていたエヴァンジェリンさんから、声をかけられたのだ。

「おおお、おい。ヒサキ」

 どうしたのだろうか。疑問に思えた。
 先程の圧倒的覇者、なまでの威圧感は、影も形もなかったからだ。
 表情はピクピクと強張っており、普段の彼女のそれではなかった。その宝石のようなまでの蒼い瞳は、どこか揺れて、くすんでいるようにさえ見える。
 正直、面食らっていた俺は、思考がストップしてしまう。黙ったまま、彼女を見つめた。

 すると、尋常ではないほどに意味不明であり、火事場の渦中に落とされたというほどに必死過ぎたからであろうか。
 膨大なまでの疑念の大嵐が、脳内を占拠し暴れ狂い始めたのだ。
 突然の物理法則の無視に始まり、白髪の少年の狂乱めいた言動。摩天楼を彷彿とさせる化け物の出現に、影からその身を現した少女。
 一応、推測をしてみようではないか。
 物理法則の無視と、白髪の少年に関しては、完全にお手上げである。
 化け物も論外。理解出来ているのは、さすがに天使や吸血鬼などがいれども、俺達の手に終えるものではないと思える事だけ。
 それは、自衛隊の皆さんにご足労願うのが妥当である。自衛隊の皆さんで倒しうるのかは、甚だ、見当もつかないが。
 目前の彼女に関しては、吸血鬼だからだろうか、という解しか導き出す事は出来ない。
 俺は思考を打ち切った。
 意味など、ないからである。俺の能力では難易度が極めて高くあったし、摩訶不思議過ぎたのだ。
 現状、俺に取って、常識の枠組みを軽々と超越してしまう事態は、考えても仕方のない事と同義と言えた。

 その上、今日という一日は、俺のキャパシティなんてものを遥かに超えていた。半ば、暴発の憂き目に遭ってもいたのだ。
 確かに、並々ならぬ成果もある事にはある。だが三半規管の崩壊に、倒れ伏しそうな倦怠感という由々しき事態までも呼び込んでいた。
 あまつさえ、あまつさえである。
 なんと、茶々丸さんをホテルに残してしまっているのだ。それは例えるならば、スラム街を全裸で悠々と歩く女性ほどに極めて危険だと言えよう。
 何よりも京都は、喧しくも天を衝く咆哮を上げる化け物が生息する地、なのだ。
 それならばホテルの方にも、赤や金などの、色違いが出現していてもおかしくはない。
 やはり、これは急務なようだ。
 天使がいようが、吸血鬼がいようが、俺は年長者なのである。学園長の依頼が終わろうが、関係はない。皆の安全を守る事こそが、役目だと思えた。
 ネギくんも疲労困憊のようであるし早急に、だ。
 上空で、可憐にもはしゃいでいる桜咲さんを呼び戻し、ホテルへと避難しようではないか。
 安全を確認後に解散する。そして、最重要懸案である、リアルヒサキの方の就寝を選択するすべきだと言えた。

 ならばと、エヴァンジェリンさんにそうやって進言しようとした時だった。
 彼女が何やら、慌てていたのである。
 正に夢も希望もない、といったほどの青い顔を隠そうともせずに。

「ち、違うんだ。
 い、いや違わないが、わ、私はお前を思ってだな……」

 再度、その弱々しき声音に目が点になる。だが幸いにも、俺の脳はその回答を導き出してくれた。
 彼女の言葉から察するに、俺をこの化け物の魔手から救いに来てくれたのだろう。わざわざ麻帆良から、この遠い京都にまで。
 だが、一瞬の内に、自分自身に対する憤りが膨れ上がっていく。内心で、独りごちた。
 そう、か。
 そういう事、だったのか……!
 不安げな表情は、可愛らしさを半減させていた。夜風に揺れる毛髪は、儚さを演出する。
 彼女は強く心優しい女性だ。俺を想い、英断をしてくれた少女。だが、その心は繊細で、壊れやすくもあるとわかりきっていたではないか。
 思い返してみて、気付いたのだ。
 未だに俺は、彼女と会話さえしていないという事実に。
 もしかしたらだが、彼女はまだ、俺を想ってくれているのかも知れない。報われぬと、理解していながらも。
 自らに腹が立った。なんという仕打ちを、していたのか。
 物理法則に化け物、そんな言い訳は許されない。冒涜以外のなにものでもない。何より俺が、許さない。
 彼女が今後、恋愛のトラウマに冒されないように、見守っていこうと決意していたというのに、俺は。
 フツフツと煮えたぎる憤慨を無視して、彼女を真正面から見据えた。
 俺は彼女に、お礼の一つも言っていない。
 今、俺には言いたい事が、言うべき事が、確かにあった。

「エヴァンジェリンさん。
 ありがとう。助けに来てくれて。
 きみが来てくれなければ、俺はどうなっていたかわからないよ」

 エヴァンジェリンさんの目が、見開かれた。
 時が制止したのではないかと錯覚する静寂の後、徐々に、彼女の口許は歪んでいく。
 先程の青い顔は、どこへ行ったのだろうか。
 どこか恥ずかしそうに浮かべられた悪戯な笑みは、いつもと変わらない。
 その愛らしい仕草に、俺は笑みを漏らした。

「そ、そうか。と、当然だな。
 ま、まあ、お前と言えども、あのデカブツの相手は厳しいという事か。
 そ、その、あれだ。か、感謝しろよ」

「ああ。感謝してる。
 というかエヴァンジェリンさん。きみには、感謝しかしていないし、そんな騒ぎではないよ」

「そ、そうか。
 ま、まあ、良いだろう。
 わ、私は慈悲深く偉大だからな」

「大丈夫。そんな事は出会いの時から、わかりきっていたからね。
 エヴァンジェリンさんが、慈悲深く素敵な女性だって事は」

「お、お前は恥ずかしげというものを……。
 ……と、とりあえず、見つめ過ぎだろ!
 あ、アッチを向け!
 わ、私が良いというまでコッチを見るな!」

 頬を朱に染めて、肩をいからせて叫ぶ。
 だが俺は、含み笑いを漏らしていた。何やら、起こられてしまったようだが、内心は満足感に満ちていたからだった。

「おい! 何を笑っているんだ!」

 さあ、みんな帰ろう。
 そうやって皆に、一声を放とうとした瞬間の事だった。
 俺の目は、有り得ない光景を映していたのだ。
 それは未だに、喧しくも唸り声を上げている化け物の方角。非科学的な境地が広がり続けている、一角だった。
 なんというか、なんというかである。
 説明をするのならば、こういう事だろう。
 夜空を翔ける少女。桜咲さんは刀を構えて、人知を置いてけぼりにしている化け物と対峙していた。

「おい! 無視をするな!」

 いやいや、危険過ぎるだろ、と内心で突っ込む。
 誠に申し訳ないのだが、エヴァンジェリンさんの怒声が耳に入る事はなかった。
 天使というものは、俺の予想を遥かに超えて、強いのだろうか。いや、しかし、と困惑からか、どうでも良い議論が白熱していく。
 その時、桜咲さんは速度を上げて、化け物へと突っ込んだ。
 小さな閃光が、瞬く。知らず知らずの内に両手は、握り拳をつくっていた。

 だが俺は、深く安堵した。
 平穏無事と、桜咲さんはその姿を現したのだ。
 良かった、と心の中で呟く。
 だが不思議な事に、その胸には、見覚えのある少女が抱えられていた。
 長めの黒い毛髪が、突風に揺れる。その少女は、京都一日目の演劇の練習にて、桜咲さんが救出した少女のように思えた。

 その時、だった。
 脳髄に雷が落ちたかと錯覚するまでの衝撃に、打ち抜かれた。
 そう、だったのか。
 全ての謎は氷解した。
 熾烈にも俺を苦しめていた疑問全てに、終止符が打たれる。正解の文字に烙印が押されると、煌々と輝いていた。
 そう、だ。全ては、演劇、だったのだ。
 そのように考察すると、点と点が、面白いように繋がっていった。
 全てではないだろう。
 天使や吸血鬼などといった、変えようのない真実もあるのだろう。だが、この騒動は演劇だったのだ。
 観客がいない事や、カメラはどこだとの疑問はある。化け物もそうだ。だが、それは吸血鬼や天使が持つ能力により説明がついた。
 根拠については、至極、簡単である。
 桜咲さんが胸に抱く、黒髪の少女だ。それに化け物の肩にて佇む、眼鏡をかけた艶やかな巫女さんの姿が物語っていた。

 顔が、酷く熱くなっていく。
 俺は、なんという、シリアス空間をつくり上げていたのだろうか。
 間違いのない、愚か者。際限のない、馬鹿者。自らの勘違いレベルの高さには、逆に見事と言いたいくらいだった。
 途中でカットが入らなかったのも、本番だったからだろうと説明がついた。
 そう推測すると、白髪の少年はなんて機転のきく、良い人なんだろうか。
 このような滑稽なまでの乱入者を生かすために、アドリブで対応してくれるなんて。
 間違いない。彼は将来、日本を代表する有名な俳優となるだろう。

「と、とりあえずだ!
 ヒサキに小僧、私を見ておけ!
 このような大規模な戦いにおける魔法使いの戦い方を、お前らに見せてやる!」
「はい」

 神楽坂さんに介抱されたままで、ネギくんは呟いた。
 羞恥から、呆然としている俺をよそに、エヴァンジェリンさんは中空に浮遊していく。
 化け物を愉しそう笑みで見据えると、大きな高笑いを上げた。
 なんと、あの化け物を倒すようである。危険だとは思えたが、演劇であるならば問題はないだろう。

「ハーハッハッハッ!
 お膳立ては、ばっちりのようだな。
 よし、茶々丸、結界弾を放て」

 辺りに、容赦なき沈黙が広がっていく。
 一拍の後、エヴァンジェリンさんは何かに気づいたかのように肩をいからせた。

「おい! 茶々丸ってそうか!
 ヒサキ、茶々丸はどうした!?」

 茫然自失。半ば現実逃避を敢行する俺は、力なく呟いた。

「茶々丸さんはホテルにいる」

「な、なに!
 姿が見えないと思っていたら、そうか……。
 ま、まあ、任せておけ。
 私が少々、本気を出せば良いだけ。結果は変わらん」

 なんと、茶々丸さんも演劇に関わっていたのかと、霞み行く脳裏で考えていた時、だった。
 俺の肩口に腰掛ける無法者。半ば、存在を忘れかけていた死神さんが、これまた愉しそうにケケケと笑ったのだ。
 そして、その笑い声には、余りある意思が込められていた。
 レイン。俺が動きを止めよう、と。
 死神さんの人称は俺だったのか。それにまたレインとは如何にと、少々、驚きを隠せなかった。
 そのまま、オウム返しの要領で呟いてしまう。

「俺が動きを止めよう」

「フッ、そうか。
 ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」

 ふと、おぼろげながら違和感に気付いた。
 どうしてだろうか。
 いつの間にか俺の格好が、漆黒の死神スタイルに変化しているではないか。
 とりあえず、死神の指示通り、化け物へと鎌を翳す。そして、呟いた。

「蓄積魔力を解放する」

 その瞬間の事だった。
 眼前に、凄まじき光りが迸ったのだ。
 反射的に目を閉じる。その刹那、俺の身体は、突風を受けて運ばれる木の葉のように吹き飛ばされていた。
 鎌を掴む右手に、激痛が走る。いや、右腕が消し飛んだのではないかと思えた。
 うん。
 意味がわからない。

 息が苦しい。身体全体に、刺すような冷たさを感じ取った。
 混濁していく意識を振り切って、目を開く。周囲は闇に閉ざされていた。
 ああ、そうか。何となくで、理解出来る。
 口からは、ゴボゴボと気泡が吐かれているという事は。
 俺は身体は湖に、沈んで行っているのだろう。暗闇が支配する湖の底へと。
 右腕の熱も、冷たさも感じなくなってきた。
 意識が閉じ行こうとする最中、俺はある少女の姿を視認した。
 
 
 
 
 
 小鳥の囀りは、早朝を告げる合図のようだ。涼しくも穏やかな風が、頬を撫でていく。
 ベッドの柔らかさは、まるで麻薬のようだ。仄かな柑橘系の香りが、微香をくすぐった。
 何の匂いだろうか。ゆっくりと、瞼を開いた。
 とりあえずで、身体を起こそうとするが、それが叶う事はなかった。
 両腕も両足も、何らかの重みによって押さえ込まれているようなのだ。
 顔だけを上げて、周囲を探って見る。
 そして俺は、自らの目を疑う事になった。
 なんなんだ、この光景は。
 何が、どういう。
 そこには、どうしてか皆が、俺に覆い被さっている光景が広がっていた。

 全く持って、意味がわからない。意図が掴めない。
 左手にエヴァンジェリンさん。右手には、桜咲さん。足下にはベッドにもたれかかるように神楽坂さんが眠っていた。
 内心で突っ込む。
 最強装備過ぎるだろ、と。
 この装備であるならば魔王討伐も容易いと、現実逃避している俺に、鋭利な視線が突き刺さった。
 その視線の主は、側に立っていた。この世の女神の名を欲しいままにする、茶々丸さんだった。
 抑揚のない表情ではあったが、俺には気づけた。気付く事が出来てしまった。
 その声は微かな、怒りを含んでいた。

「……お兄様、私は怒っています」

 俺は抗う暇も与えられず、意識を手放した。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:33
—桜咲刹那side—
 
 
 
 
 
「やっと来たようだね。
 まあ、これも血筋。因縁なんだろう。
 きみの今の名前を教えては、くれないか。
 知っていると思うけど、一応、言っておくよ」

 声音を切欠に、それは小林さんの背後に展開されていた。
 闇を媒体としたのか、紫色の半円形の魔法障壁は妖しくも明滅を繰り返している。
 戦場での挨拶と言わないばかりに、白髪の少年の直突きが突き刺さっていた。
 とてつもない反射速度が為せる業か、あるいは、未来を先読む慧眼の為せる業なのか。
 小林さんは一歩も譲らない。隙などはない。いや、隙があるとするのならば、それは奈落へと手招きする誘惑の一手。
 強大無比なまでの衝撃。攻撃と防御の激突は、拮抗していく。両者の前髪は舞い上り、相容れない志、双眸を露わにしていた。
 抱かれたままで身動きの取れない私の皮膚を、濃密な殺気がチリチリと焦がしていく。
 世の中を突出した者同士の対峙。鋭い視線の交わりは、他者を寄せ付けない。
 絶対の領域がそこには在った。
 吹き荒れる突風にさえも、極めて明らかなまでの死の臭いを孕んでいた。

「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」

 無慈悲な声は放たれ、私の心に深く突き刺さる。
 この京都にて、仇と復讐者、両雄は並び立ってしまった。
 まるで、兄弟のような無表情の仮面を被り、互いの含意を持った視線は、薄暗闇の中央で交じり合う。

 だが、私にはわかる。わかっていた。
 無表情の裏に隠された小林さんの凛々しき顔が、微細にも歪んでしまっているのを。
 小林さんの事ならば、誰にも負けたくはない。いや、負けるつもりなど毛頭ない。だからこそ、気づけていた。
 紫色の仄かな輝きに縁取られる彼の表情に、明確な陰が差しているのを。
 暴風に踊らされる前髪。変則的に見え隠れするその瞳が、憤慨の猛火にくすんでいるのを。

 支えたいと、願った。
 ただ、護られるだけの小娘などでは許されない。
 小林さんに巣くう全てのしがらみを打破し、護ってあげられる存在になりたいと、切に願っていた。
 大きな満月が張り付く夜。闇に閉ざされた大停電の夜に、私の眼前で、エヴァンジェリンさんがいとも簡単に解いてみせたように。
 それならば、いつか必ず、私も解いてみせるのだと決意していた。
 今でも、これからも、それは変わらない。時を経ても、色褪せる事はない。誰も、二人の絆を邪魔する事は出来ないと、そう思っていた。

 だが、結果は無残だ。
 私は、勘違いをしていた。成長しているなどと愚かにも嬉々とし、自らの力量を過信していた。
 今も尚、今も尚だ。私は護られるだけの小娘で在り続けている。その上、小林さんの期待を裏切り選択を誤っていた。
 彼の苦悩の根源。心の内壁にはびこる蔦、暗闇。やっと、再生への兆しをこの手に探り当てたはずだったのに。
 やっと、誰よりも一歩先に、息づかいさえ聞こえるほど間近に、踏み出せていたはずだったのに。
 完全なまでの失態。思慮の浅い、愚かな行動。ただ単に、私の力不足が招いた失敗。
 だが、彼という人物を計り兼ねた訳ではない。私は彼を知っている。冷静な私ならば、脳裏に思い描き推測出来たはずだ。
 だが彼の意思よりも先に、私は自らの憤怒、激情を優先させてしまったのだ。

 だが、いや、とふと脳裏を過ぎる。
 果たして、そうなのだろうか。私は本当に、怒っていたのだろうか。
 疑心暗鬼に囚われる。自分自身さえもが、信用出来なくなっていた。
 コーヒーにミルクを垂らしたような疑念の渦が、心の内部を占めていく。
 一瞬の後だった。程なくして、信じたくはないが、その答えは浮かび上がった。
 内心で、苦虫を噛み潰したかのように呟く。
 汚い、と。
 その答えが正しいと仮定するのならば、自身の存在が、酷く浅ましいものに思えた。
 私は知らず知らずの内に、私自身を騙していたのではないか。計算の上での行動だったのではないか。
 小林さんとは間逆に位置する、打算的な姿勢で動いていたのではないか。
 冷たい何かが、背筋を通り抜けた。その冷たさを呼び水に、酷い悪寒が身体中に生じていく。
 その結論は、こういう事だった。
 私は気づいていた。どこかで、小林さんは見守ってくれているはずだ、と。
 だからこそ私は、誉められたくて、評価して欲しくて、あなたのためならばここまで出来るのだ、と誇示していたのではないか、と。
 怖い。怖がった。恐怖におののいてしまう。
 真実がそうだとするのならば、私は私を到底、許す事などは出来ないのだから。

 突如、喪失感や虚脱感に襲われる。
 まるで、胸に大きな風穴を空けられたかのよう。卑しき内情が、その穴からこぼれ落ちているかのように感じた。
 私は、気づいてしまったのだ。
 小林さんの瞳は、全てを見通してしまっているのではないか、と。
 それはつまり、私の浅ましき心さえも、見透かしているという事に他ならなかった。
 問いたい。真実を、問いたかった。
 だが、そんな勇気などはない。
 なぜならば、私に取って問うという事は、二択で死へと向かうのと何ら変わりないのだ。
 失望。失望されたかも知れない。失望されてしまった。
 たったの二文字の言葉が、走馬灯のように、脳裏をグルグルと廻る。
 また私は、独りきりに、孤独へと遡ってしまうのだろうか。
 また私は、あの身を切るような切なさを抱え、怯えたままで逃げなければならないのだろうか。
 最期の生命線。私の身体に伝わる彼の体温さえも、その暖かな優しささえも、霞に消えるように失ってしまうのだろうか。

 このまま、時が止まれば良いのにと思う。時が止まれば、この温もりを手放さずにすむ。いやいっそ、時が逆戻りすれば良いのにと願った。
 だが、現実は無情だ。
 時が止まる事などはないのだ。動き始めてしまった針は、鏡のように現実を映し出し始める。
 そして、私は失った。
 残されていたその温もりさえも、私は失ったのだ。
 小林さんはこちらの方など見向きもしないままに、私を地面へと下ろした。

「あ」

 そんな声が、漏れ出ていた。
 色々な想いが、生まれては消えていく。その一文字に、全ての内情は集約されていた。
 膨らんだ風船が割れたかのように、止めどない感情は、表面にさらけ出されていく。
 後悔。焦り。抵抗。それらの感情が一緒くたになり、私の頬を涙となって伝った。
 前に進め、と命令が発せられる。原宿の夜、小林さんが示してくれた意思が今更になって、私の背中を押した。
 後はない、と脳裏に怒声が響く。
 その通りだ。後などはない。あるのは今だ。今、進まなければ、後悔する。触れられなくなってからでは、遅いのだ。
 息苦しい。頭が痛い。身体が、ギシギシと強張る。それらを無視して、私は言った。

「こ、小林さん……。
 ち、違うんです。……わ、私は!」

 そんな小さな声は、大きな言い訳は、辺りに沈む。
 小林さんはゆっくりと振り返ると、こちらを真正面から射抜いた。
 涙の羞恥など、忘れていた。人前である事も、忘却の彼方に消えていた。目を合わせる事さえ、恐怖心がさせなかった。
 俯き、言葉を待つ。
 数秒の時間が果てしなく長く、険しくさえ感じられた。
 幾ら待っても、声は降って来ない。私は意を決して、顔を上げた。
 やはり、そこには、明確な怒りが存在していた。
 小林さんの身体は、小刻みに揺れている。左手は強く握り締められていた。
 黒色の瞳は歪みを隠さないままに、私を責め抜く。
 心が、張り裂けそうになった。
 死よりも怖いものが存在する事を、身を持って知る。

 だが、次の瞬間だった。
 私は信じられないものを見たのだ。自らの目を、疑ってしまう。
 未だに、怒りから、小林さんの身体は強張っていた。握り拳から、血が滴り落ちていた。その瞳は、くすんでもいた。
 だが、その口許に、微笑みが浮かべられたのだ。
 呆ける私へと、彼の口が開いていく。その声音は、戦場を駆け抜けたような気がした。

「桜咲さん」

 呆けていた意識が、覚醒した。
 止まっていたはずの針が、次第に弧を描き始める。
 小林さんだからこそ。小林氷咲という男性の声だからこそ、自らの名前を呼ばれる事だけでこんなにも愛おしく感じられる。
 絶えかけていた細胞さえも、息を吹き返したような気がした。
 だが内情は恐怖に、焦燥に震えていた。
 状況は何も変わってなどいない。二の句には、その口から拒絶の言葉が発せられるのかも知れないのだから。

「はい……」

「きみの心に、闇が巣くっているのは知っている。
 だけど、それを俺が肩代わりしてあげる事は出来ない」

 わかっていた。わかってはいたのだ。
 だが私の脆弱な心は、あるはずのない、救いを求めてしまった。
 はっきりとした拒絶の言葉。見える何もかもが、彼の強張った微笑みさえもが、モノクロへと変化していく。
 心の中で、放心したまま呟く。
 ああ、私は、本当に失ってしまったのだ、と。
 喪失感が身体へと伝わっていく。
 だが降って来た声でまた、私の意識は覚醒へと向けられていった。

「確かに、肩代わりはしてあげられない。
 だけど俺は、未熟者は未熟者なりに、素直にこう思うんだ」

 そんな事はない。叫びたいほどに強く、思えた。
 弾かれるように言う。
 全ては私の不手際のせいだ。
 あなたは、何も悪くないのだ。幾度もあった機会を逃して来たのは、私自身なのだから。

「こ、小林さんは未熟などでは……!
 わ、私の方こそが足を引っ張ってばかりで……」

 言いながら、その通りだと内心で頷いた。
 隠しきれない想いが、忘れられそうもない想いが胸中を巡り行く。
 小林さん。あなたは穏やかで優しくて、他の何よりも気高く人間らしい存在です。
 私などとは違い、道を誤る事のない存在。世を憂い、導くために産まれた存在なんです。
 心が痛む。内心で苦笑した。
 元々、私が想えるような存在ではなかったのだ。そのような器量などなかったのだ。
 だからこそ、あなたが気に病む必要はないんです。
 私には、わかる。今も尚、あなたが苦悩しながらも一歩一歩、着実に進んで行っているのを。
 あなたのような人が私などに構い、無駄な時間を浪費してはなりません。
 だから、笑って欲しいんです。
 私は見れなくても構いません。だから、これからも、普段のような微笑みを絶やさないで下さい。
 それが、私の願いです。
 本心だった。
 それに例え、小林さんであっても、小林氷咲という男性を悪く言われるのは許容出来なかった。
 伝わったのだろうか。それとも最後の、はなむけ、なのだろうか。
 彼が普段のような、私が恋焦がれた微笑みを見せてくれる。
 曇りなどないその微笑みは眩しい。
 だが、私の胸に鈍痛を響かせた。

「苦悩に立ち止まる事もある。過ちに落ち込む事もあると思う。何もかもを信じられなくなる事も、あるだろう。
 それでも良い。それでも、良いんだよ。今は、それで良い。
 なぜなら、俺はきみを信じているんだから」

 思考の針が、止まった。吊られるように呟く。

「私を、信じて……」

 そして、その届けられた言葉の意味に、私の目は見開かれた。
 まさか。そんな事が。こんな無様な私を。
 未だに、小林さんは信じてくれているとでもいうのか。
 信じ、られなかった。失ってはいなかったのだろうか、私は。
 小林さんは虚空を見やってから、私の目を見つめた。私はただ、呆ける。
 普段の所作だったのだ。
 その瞳は慈愛に濡れて、その微笑みは私へと向けられていた。

「ああ、そうだよ。
 俺はきみを信じている、という事を信じてくれないかな。
 桜咲刹那という女性は、心の翼は、いつか必ず、心の闇に打ち勝ってくれると信じている、俺を。
 それにきみには、ネギくんがいる。神楽坂さんがいる。俺もいる。
 きみは一人なんかじゃないんだ。
 絶対に打ち勝てる。そう、みんなも、俺も、きみを信じているんだから」

 その声は、私の心を癒やしていく。
 心に広がりはびこっていた暗闇など、一瞬でかき消した。それだけの力を、小林氷咲という魔族の男性は持ち得ているのだ。
 はなむけなどではなかった。また私は、小林さんを信じる事が出来る。彼に寄り添う事が出来るのだ。
 信じて、信じられて、そんな当たり前の事が嬉しい。嬉し過ぎた。
 私は、幾度も失敗を繰り返した。彼は幾度もそれを許し続けた。
 こんな事が、あるのだろうか。
 いや、また私は見誤っていたのだ。小林さんの器量を計り兼ねていた。彼は私の予想を遥かに越えて、大き過ぎる。
 そして、尋常ではないほどの愛情を持って、私を見守ってくれていたのだ。
 なぜならば彼は、こう言ってくれたのだから。
 きみは一人なんかじゃない、と。
 未来永劫として、俺が共にいる、と。
 心からの声が、漏れ出た。
 最早、感謝しかなかった。私は彼に感謝しかする事が出来ない。
 だが、悔しくはなかった。
 頬を水分が伝う。それは、嬉し涙だった。
 私は、今日これから、禁忌の翼を誇りに思う。翼がなければ、私は彼と出会う事はなかったのだから。

「小林、さん……」

 桜咲刹那が、禁忌が産まれた意味。悩み苦しんだ意味。それは、小林氷咲の咎を共感し、彼を支えるために在った。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その弐
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:33
−ネギside−
 
 
 
 
「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
 その異常なまでの、冷静さを失わない。
 流れる血は、健在のようだね。
 これで、確信した。
 やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」

 夜風にさざ波立つ湖畔に響く、確信めいた声音。桟橋の上で、再度、ヒサキさんと白髪の少年の視線はぶつかり合いました。
 霧に覆われる月下、復讐には、とても似つかわしくない幽寂なまでの正面対峙。木々の葉を揺らす音だけが、鼓膜を震わせていました。
 ですが、それは違います。
 二人の身体中から醸し出される覇気のような揺らめきは、何人も足を踏み入れられない絶対の領域のよう。独りでに畏怖めいた感覚を覚えていました。
 地に倒れてアスナさんに介抱までされている有り様の僕とは、決定的なまでに違う次元にいる両者。表情を消して、相手の動向を伺っています。

 心中を、多種多様な思いが騒ぎました。
 小林氷咲。先読みの天才。表裏一体なる奇術師。
 尊敬する人。憧れる人。目指す人。
 僕のパートナー。並び立たなければならない人。だけど未だに、その背中は霞むほどに遠く、指先さえも届きはしない。
 ヒサキさんの微動だにしないその背中は、ある事柄を物語っていました。
 今も尚、思い描いているのでしょう。
 類い希なその頭脳は、僕には到底及びつかないこの先の未来を。そして、幾重にも張り巡らされた、必勝への道筋を。

 自然体故に、油断のない立ち姿。説得力のある男の背中を見据える度に、胸中に募る寂寞の思いは増していきます。
 頼もしいはずなのに。嬉しいはずなのに。安堵感からか、意識がはっきりとしていないはずなのに。
 僕は悔しくて、悔しくてたまらない。
 悔しさだけは、時が経つにつれて、砂時計の砂のように降り積もっていく。
 自分自身の至らなさへの苛立ちは風刃となり、執拗に僕の身を切っていきます。
 僕はどうして、こんなに弱いんだろうか……。
 そんな弱音、愚痴が、脳内を叩きつけていました。
 あれだけ大口を叩いたのに、アスナさんにあそこまで怒鳴られたというのに。
 僕はやり通せなかった。
 挙げ句の果てには、ヒサキさんにまで怒られて、ダメな人間だと失望されてしまった。
 それは確かに、本心からの行動でした。
 許せない。僕は自身の無知を許せなかったんです。
 燃え上がる激情に身を任せて、浅はかな行動を選択してしまった。
 結果は散々たるもの。
 暴走から意識を失い、我に返った時には魔力切れ。気だるい四肢は激痛を伴い、動かない。息苦しく、思考さえもはっきりとしない有り様です。

 ですが、わかっています。わかりきっていました。
 現状として、ヒサキさんが駆けつけてくれなければ、敗北は必至だったという事実は。
 痛烈に、痛感させられました。
 僕は、僕達は、危険と隣り合わせの世界を踏みしめているんだ。下手をしなくても、命を落としていたかも知れない、と。
 得も言われぬ恐怖感に、身体中の筋肉が硬直しました。ある未来予想が浮かび上がると共に、背筋がゾッとしたからです。
 結果として、僕の考えなしの浅はかな行動は、アスナさんや刹那さんや皆を、死なせてしまっていたかも知れないんだ、と。
 うちひしがれました。何をやっているんだろう、僕は。
 ヒサキさんの聞いた事のない、怒気を孕んだ声音が脳裏に過ぎります。

「心遣いには、多大な感謝をしている。
 だが、無様にも我を忘れて暴走する事が、唯一、強大な敵を倒しうる策と呼べるのか。
 違う、だろう。間違っている。間違っていると、わかっているはずだ。
 きみたちが今、為さなければならない事は、他にある。
 冷静になれ。足下を固めろ。仲間達の顔を見ろ。
 そして、俺を信頼しろ。
 もう二度と、失いたくはないんだ……!」

 至極当然、本当にその通りだと思えました。
 僕は勇敢と、蛮勇を履き違えていた。
 僕の為すべき事は、他にあった。見失ってしまっていたんです。
 それは、簡単な事柄。このかさんの救出。それこそが、正に最重要な事項だったんですから。
 蛮勇を振りかざし、強敵に我を通す事ではありません。結果、当然のように敗れて、皆を危険に晒す事でもありません。
 途端に、頭を強く殴りつけられたかのような感を捉えました。そう、実感しました。
 弱いからこそ、未来を見ろ。弱いからこそ、冷静になれ。弱いからこそ、仲間達を信頼しろ。
 そして、弱いからこそ、今は、俺を頼れ。
 以前から、ヒサキさんはそう、優しく示してくれていたというのに、僕は。

 ああ、そうかと内心で頷きました。
 危機的状況なのにも関わらず、こんな時にまで、僕は浮かれてしまっていたんだ、と。
 来日して、小林氷咲という兄のような人と出会えて。その背中に、歩むべき道を示されたような気がして。
 もう一度、人を暖かくする微笑みを持って誉めて欲しくて。一人前になったな、ネギくんと、早く認めて欲しくて。
 それは、今の僕には真逆。存在しえない、甘い幻想。一人きりで全てをこなせるほど、僕はまだ、強くなんてなっていないのに。

 初めから頭を下げて、ヒサキさんに協力を申し出ていれば、こんな結末にはならなかったでしょう。
 後手に回る事はなく、このかさんを浚われる事もなく、こんな薄氷の上に立っているような状況でもなかったんです。
 ですが、僕は甘く見ていた。刹那さんに言われて、誉めて貰える絶好の機会だと思ってしまった。
 何よりも僕は、僕の力を過信していたんだ。
 ヒサキさんが見守ってくれているというだけで、何でも出来る気がした。
 そんな夢は夢のままなのに、一人きりでは何にも出来ないのは明白なのに、分不相応にも誤解していた。錯覚していたんです。

 ですが、強く言えました。
 僕は諦めません、と。いつの日か必ず、ヒサキさんに並び立って見せるんだ、と。
 今はまだ、ただの子供かも知れません。ただの未熟者なのかも知れません。
 ですが、それは今、なんです。現状に置いては、そう在るだけなんです。
 ヒサキさんが微笑みを持って言ってくれたように、僕には未来がある。
 いつの日か、未来を、この手に掴めば良い。遅くなろうとも、未来が決定づけられている事なんかないんだから。

 混濁していく脳裏に唇を噛む事で抗い、僕はそのとてつもなく大きく感じる背中を見据えました。
 その背中には、全てが在る。
 強者への渇望や道筋も、自分自身への戒めも、人としての在り方も。
 ヒサキさんの形作る全てに、一挙手一投足に、それは存在しているんです。
 そして、ヒサキさんの行動を目に焼き付ける事こそが、何よりも、成長への道筋だと確信出来たから。

「アスナさん。
 申し訳ないんですが、身体を起こしてもらえますか。
 僕の力だけじゃ、どうにもならなくて」

 傍らで介抱してくれていたアスナさんも、ヒサキさんを見つめていました。
 聞こえていないのか、声は返って来ません。もう一度言おうとすると、アスナさんは慌てたように言いました。

「わ、わかったわ!
 と、というか、アンタは大丈夫なの?」

 その心配そうな声には、多大な感謝を隠せませんでした。
 いつも僕を見守ってくれて、気にかけてくれて。そんな恩人に、心配させてはいけないと思えました。
 耐え難い激痛を無視して、笑いました。

「はい。ありがとうございます。
 動けはしませんが、大丈夫です。それにヒサキさんが来てくれたんですから、このかさんも大丈夫ですよ。
 ですが僕は、見なければいけないんです。
 ヒサキさんの戦いを、その姿勢を、しっかりと目に焼き付ける事が、僕が前に進むという事だと思いますから」

 一拍の後、アスナさんは目を丸くして言いました。

「ふーん。そっか。
 やっぱりアンタ、どことなく小林先輩に似てきたわね」

「そ、そうですか?」

「う、うん。
 って、な、なに笑ってんのよ」

「す、すいません」

 謝りながらも、その言葉が途方もなく嬉しく感じました。
 ヒサキさんと似ているか……、と内心で笑います。
 アスナさんに抱き起こされていく途中に、僕はある台詞を聞きました。

「そうだろ? レイン。
 きみはヒサキ、なんていう名前じゃない。
 僕は確信を持って言える。
 間違いなく、きみはレイン。その名前こそが、きみを示すには最適な総称なんだ」

 自然と、心の中で呟いていました。
 レイン、と。
 白髪の少年から放たれたその響きは、周囲の空気さえもを切り裂いていったような気がしました。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その参
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:33
—近衛近右衛門side—
 
 
 
 
 
 
 麻帆良の学園長室には、緊迫感がひしめいていた。
 静謐なまでに音のない部屋内は、照明に煌々と照らされている。窓の外は暗闇に支配されて、その色の濃さから嫌な予感を覚えていた。
 じゃが、丸時計の時を刻む音色を打ち消すかのように、叫声は響き渡った。

「おい、ジジイ!
 いつまでモタモタしているんだ!」

 その声も小柄な身体も、普段は他者を圧倒する青き瞳も、熾烈なまでの焦燥に惑っていた。
 登校地獄への反則的なごまかし、遥かに遠き京都への転移。やらねばならぬ事は、それこそ山ほどある。
 わしはせっせと準備する手を休める事なく、エヴァの顔を盗み見た。
 そんな状況ではないとはわかりきっている。
 じゃが努力しても、心の内で微笑んでしまうのを誰が責められようか。
 最早古き仲、永き友となって幾年も経ったが、これほどまでとはのう。
 冷静沈着。傲岸不遜。魔法世界で未だに恐れ囁かれる、真祖の吸血鬼。世界に担ぎ上げられた悪の象徴。
 そんな彼女が、今、迫り来る恐怖に怯えているのじゃから。

 氷咲くんは正に、規格外と言っても過言ではないのう。
 六百年という途方もなき歳月で培われた倫理、精神、根源を、彼は変化させて見せたのじゃから。
 全く持って逸話所か、神話級の有り得ない語りじゃ。 彼女に置き換えると一瞬に過ぎない期間。たったの数週間ほどの些末な時間じゃ。
 そんな大それた事は、あの大戦の英雄にさえ達成出来なかった。
 じゃが、世界に選ばれてしまった齢十六の少年は、その持ち前の貴き心根を用いて、変化させて見せたのじゃ。

 ふと、思う。
 氷咲くんは、気づいておるのじゃろうか。あの優しき少年は知っておるのじゃろうか、と。
 それはとてつもなき偉業なのじゃ。
 叶う事のなかったはずの運命。悲しき不老の概念に抗われて終えるはずだった夢。
 それはまるで、夢物語りのようじゃ。
 主役は、人類に属さぬ少女と少年。
 世界の拒絶を受け入れた者と、受け入れなかった者。光に反発した少女と、光に疾走した少年。
 それは、真祖の吸血鬼の姫君と気高き魔族の少年との、光の道を歩み行こうとする物語り。
 素晴らしい。素晴らしいのう。

「ジジイ、貴様。よもや、このような状況で笑っていられるとはな……。
 貴様は、この私を怒らせる事に関しては他の追随を許さん。
 今宵からは、その部分の老化を優先させた方が身のためだぞ……」

 気が緩んでいた。緩みきっていた。
 眼前に、開かれた瞳孔が映る。背筋に悪寒が走り抜けた。まるで、身体の芯から凍てついているかのように萎縮してしまう
 完全なる失態。正に想定外。まさか、笑みが漏れ出ていたとは思いもよらなかった。
 それにしても、何という威圧、なのじゃろうか。
 これは傍目から見れば、正しく老人虐待に等しくある光景。一般の爺さんであるならば、即座に天へと昇華したとしてもおかしくはなかった。
 エヴァの殺気漲る刃物のように鋭き眼光は、正に面妖な悪鬼の類じゃ。
 未だ現世にて生あるわしを、誉めて貰いたいほどの憤慨じゃった。
 じゃがまだ、わしは死にとうない。何としても生を、命を繋ぎ止めなければならないのじゃ。
 わしは仏様を拝むように言った。

「い、いや、これは違うんじゃ」

「フフフ……。そうか。
 未だに言い訳を宣う根性は健在、か。
 なあ、ジジイ。
 花の京都を目の前に、私の肩慣らしが必要なようだ。まあ、一種の余興といこうじゃないか」

 これはいかん。いかんぞい。
 エヴァは爪を伸ばし、臨戦態勢の様相である。わしを今にも喰い殺さんと、獰猛なまでの殺気を撒き散らしていた。
 脳内にけたたましい警鐘が鳴り響く。わしはしどろもどろになりながらも、話題の変換を試みた。

「え、エヴァ! わ、忘れてはならんぞい!
 このような騒ぎを起こしている暇はないのじゃ!
 皆が、皆が危ない! それに、氷咲くんの身にも危険が迫ろうとしておるのじゃからな!」

「貴様ぁ、どの口がそれを……!
 ……だ、だが、そうだった。
 私という者が、このような耄碌ジジイに拐かされて、なんという無駄な時間を浪費していたんだ。
 ……ああ、ヒサキ。待っていろ。私が今直ぐに行ってやるからな。
 ジジイ、いつまでも阿呆のような顔をしてないで早く作業に戻れ! 事は一刻を争うんだぞ!
 アイツの身に何かあった場合は……、貴様を殺さなければならなくなる」

 ホッと安堵の息を漏らした。
 耄碌ジジイなどを筆頭に、少々、気にかかる言葉はあったが、何とか危機を脱出する事には成功したようじゃ。
 それにしても、エヴァの最後の台詞。その余りある説得力には身震いせざるを得ない。
 即座に作業を再開し、背筋を這い回る悪寒と格闘しながらもわしは口を開いた。

「そ、そもそもじゃな。
 あちら側には巧みな練達の士、高位者がおるようじゃが、未だリョウメンスクナノカミも復活してはおらんしのう。
 それに、こちらには氷咲くんがおるのじゃ。
 彼の聡明な頭脳を鑑みるに、負け戦に参戦するとは全く持って想像しえないからのう。
 最悪としても、勝てずとも負けはしない、そんな戦略を思い描いておるはずじゃ。
 挙げ句の果てには、念には念をと、お主にも行って貰うのじゃぞ。
 心配には及ばんと思うんじゃが……」

 暫しの沈黙が続いていく。
 何らかの反発の声が来るものと考えていたのじゃが、返答はない。
 徐々に重苦しくなっていく雰囲気。それを打破せんと、わしは神妙な面持ちで彼女を見やった。
 どうしたのかのう。
 彼女は俯き、口許に手を当てて小さく唸っていた。何かを考え込むように眉根を潜める。
 そして、呟いた。

「おい、ジジイ。
 貴様は当然、レインという名に聞き覚えはあるはずだな?
 それが私の思い描く人物の名であるならば……」

「な、なぬ!
 一体、それをどこで聞いたのじゃ!?」

 反射的に、わしの口からは情けない声が漏れ出ていた。
 次の瞬間、じゃった。
 次第に、エヴァの口許はへの字に曲がっていく。狼狽しきるわしを尻目に、言った。
 その瞳は獲物を見つけた猛禽類のように、爛々と輝いていた。

「ほう。その反応……、やはり知っていた、か。
 眉唾ものとも思えてはいたんだが、真実のようだな。
 さも自慢気に、あちら側の白髪の小僧が語っているぞ」

 な、なんという事、じゃろうか。
 まさか、まさかである。あの隠されてきた秘密を知りうる者が、あちら側におったとは。
 弾かれるように本山の動向を探った。
 そこには、苛烈なまでの情動が渦巻いていた。
 白髪の少年の無慈悲な責め苦。氷咲くんの何もかもを飲み込むような、黒き激情がその場を嵐のように荒れ狂う。

「違う。
 俺は、小林氷咲だ」

「いや、きみは気付いている。
 聡い類い希なその頭脳は、認識しているよ。
 だけど、それと同時に、過去を拒絶しているんだ。
 違うというのなら、きみはどうして、京都まで来たんだい?
 今、この時、きみの異質なまでの冷静さは失われたんだ。
 それが、何よりも、事の真相を物語っている」

 やはり、そうじゃったのか……。
 心を鷲掴みにでもされたような感を覚えた。
 脳裏に出立前の記憶が再生されていく。
 見た事もないほどに真摯な表情のアルの口から語られた言葉が、脳裏を過ぎった。

「私は、彼を見極めなければならないのです。
 彼が記憶を取り戻してなお、その茨の道を歩み行こうとしているのか。それとも、変えられない運命がそのように強制しているのかを。
 それが私の役目であり、何よりも、亡きレインとの約束でもありますから」
  
 アルの声は、確かな後悔の念に濡れていた。
 失敗じゃった、と内心で自らに愚痴る。京都などに行かせるべきではなかった、と内心で酷く後悔した。
 後々になって知ったのじゃから、などという言い訳は許されない。わしが許しはしない。
 自らに対する憤りは紅蓮の炎となり、この身を焼いておるように思えた。
 エヴァが、さも愉しそうに笑う。

「つまりは、そういう事、か。
 クックックッ。常々、不思議ではあったが、良く理解出来たよ。
 どうしてヒサキがぼうやに対して、これほどまでに入れ込むのか、とな。
 なるほど、模倣していたのか。子が親の背中を見て育つように。
 かつて、千の呪文の男の傍らには、常に漆黒の守護者の影が在ったように、な。
 その遺児達は、その血に流れる意思は、世代の垣根を越えてなお手を取り合う運命とはな。
 それにしても、やはり小林氷咲という男は気高くも面白い男だ。
 方や護られ甘やかされて育ち、方や護られず悪の本質を植え付けられたというのに、それを許容して見せるとは」

 その声には、邪気がない。
 じゃが、次の瞬間じゃった。突如として、エヴァの身体中から目に映るほどの殺気が迸ったのじゃ。

「……ジジイ、今すぐだ。今すぐに送れ。
 小僧とヒサキの過去に何があったかなど、私にはどうでも良い。
 だが、私からアイツを奪おうとするという事が、どういう意味を持つのか、あのデカブツごと、うなされるほどに思い知らせてやろうではないか」

 エヴァの立ち姿が光りに包まれていく。
 わしは、ただのジジイに過ぎないという事を思い知らされた。
 あの茜差す放課後、氷咲くんを暖かく照らす太陽になるのじゃと決意していたのにも関わらず。
 自責の念が刃となり、わしに襲いかかっていく。
 じゃが、これだけは言いたい。これだけは、言わせて貰えないじゃろうか。

「エヴァ、申し訳ない。
 氷咲くんを頼んだぞい」

 消え行く最中、エヴァは何も言わなかった。
 だが、その口許には、妖艶なまでの笑みが張り付いていた。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その肆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:34
—エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 
 景色はめまぐるしくも移り変わる。水面下で脈打つ鼓動は、如実に猛りを増していた。
 率直に、だ。単刀直入に言おうではないか。
 そんな事柄は、私に通用しない。関係もない。正直に、どうでも良いのだ、と。
 ヒサキと白髪の小僧との間には明確なまでに、憎悪や復讐、血で血を洗うようなまでの因縁が、血縁のように繋がっているのだろう。
 だが、他人事とは思えない事も確かだ。何よりも、ヒサキの事であるのだから。まあ、心苦しく思わなくもない。
 親の仇が目の前に、いる。半歩動けば殺せる位置にいるのだ。
 ヒサキの激情は、心境は如何ほどのものか、汲んでやりたいし認めてやりたくも思う。

 だが再度、言おうではないか。
 私には関係ないのだ、と。
 仮に、仮の話しだ。
 ヒサキから頼まれたというのならば、私が二つ返事で快諾する事は想像に難くない。
 なぜならばアイツが関係しているのだ。
 正直、色々と思い悩んでしまうのも事実。問題はないとは思うが、後の事を考えると肩代わりしてやりたくもあった。

 だが、そんな事は起こり得ない。天地がひっくり返ったとしても、そうはならない。
 なぜならば、至極簡単な事だ。
 あの獅子の如き気質を持つ、愛らしくて仕方がない愚か者を、私はこの世の誰よりも知っているのだから。
 まさか、まさかだ。
 小林氷咲という男が、好いている女に復讐を手伝えなどと宣う訳がない。
 危惧せんとするなど、正に失笑ものだ。冒涜に値する。
 そんな不埒な戯れ言を吐く者がいるのならば、私は怒りを露わにしなければならない。
 アイツは女々しさとは無縁の、真逆の位置に立ち続ける男。言葉など必要ではない。その鋭い双眸で、威風然とした背中で、気高き生き様を語る男なのだから。

 それならば、私のすべき仕事は明快。一つだけだろう。
 あの愛すべき愚者が、私に取って誰にも代わる事など出来はしない戯け者が、苦悩の末に選んだ答えを許容してやる事に他ならない。
 その未来を、見守ってやる以外にはあり得ないのだから。

 だが、少々の問題が発生していた。
 寛大の二文字を背に持つ私にも、どうしても、許容など出来ない発言があったのだ。
 それは先程、一向に分をわきまえようとしない小僧の口から放たれている。
 気狂いじみた言葉は、鬼神復活の際のいざこざに乗じて私の耳に届いていた。

「それとも、復讐も、幻想の世界さえも、何もかもを捨てて……僕と共に歩む事を選択したのか?」

 面白い。面白いではないか。
 興味を抱いては止む事のない科白。独りでに、口許には愉悦の笑みが浮かんでいた。
 一重に、大笑いを隠るものではない。
 まるで、耳元をブンブンと喧しい蠅のようだ。本当に面白い事をわめくものだな、この小僧は。
 それはあれ、か。こういう事、だろうか。
 ヒサキはこの私を捨てる、と。
 そして、自らの方についていくのだ、と。
 そう貴様は、問うているのだな……。
 ああ……偽りなく思う。……寒々しいまでに面白いじゃないか。

 刹那的に、笑う。
 その後、私は行動をした。
 小僧の背後、月光につくられる陰影から、右腕だけを這い出させる。小僧に終焉を告げる掌が、無防備な上着を掴んだ。
 私の笑みに、小僧の目は驚愕に見開かれた。
 数秒間の、視線の交わり。一方的なまでの意思統一。鬼神のけたたましい咆哮が、酷く心地良かった。

 体内を流れ行く血流が激流となり、爆発的に煮えたぎっていく。
 呆気のない事だ。すまないな、と笑みで示す。
 たった、これしきの事で揺らいでしまうのだ。
 貴様の絶対的だったはずの優位は。歪な勝利は。
 戦況は刻々と変わり行く生物。貴様ならば、良く理解していたはずなのだがな。
 ヒサキを前に気が緩んだ、のか。
 だがどちらでも良い。勝敗は決したのだ。
 私がここに現れた時点で最早、貴様の敗北と、ヒサキの勝利は揺るがないものとなったのだ。
 そして、永遠に、貴様の願いが叶う事はない。
 なぜならば、小林氷咲という男は私のもの。
 その激情に揺らめく瞳も、夜風に惑う毛髪一本一本も、その信念でさえも全て、私にしか掴めぬ絶対のものなのだから。
 そして今、無情にも、水泡のように消え行く。掴めはしなかった貴様の願いは。

「小僧、戯れが過ぎるぞ。
 私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
 だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」

 次の瞬間、小僧の背中には拳が生えていた。腹部を体内ごと貫き、そのヌルリとした感触を捉える。
 膨大な量のアドレナリンが、放出させられていた。
 未だ驚愕に目を見開く小僧の耳元に、そっと囁く。その声は、致死に至る悪辣な響き。

「小僧。貴様はもう、ヒサキには、必要ない」

 小僧の身体は、吹き飛んだ。鞠のように水面を跳ねる。
 そのまま遠めに見える森林へと速度を上げて行く。木々をなぎ倒し、粉塵を撒き散らしながら消えて行った。
 満足げに頷き、嘲笑いのままに視線を薄い闇へと向ける。
 最早、生きてさえいないかも知れないがな、と。
 その時、背後から歓声が上がった。やれやれ、と腕を組み首の骨を鳴らす。

「エヴァンジェリンさん」
「エヴァンジェリンさん!」
「エヴァちゃん!」

 全く持って、外野がうるさい。空気の読めない、困った奴らだ。
 これからは、私とヒサキとの一時。感動の再開、だというのにも関わらず。
 私は髪型が崩れていないか確認してから、ゆっくりと振り返った。

「ヒサキ、待たせたようだな」

 視界には、月明かりに仄かに縁取られる男。夜風に惑う前髪がその両目を晒すのを捉える。
 そこには今の、私の全てが在った。
 その細身の体躯も。その冷静と情熱を合わせ持つ瞳も。胸の奥に宿す不屈の気質も。
 愚かなほどの優しさも、隠し通せぬ弱さも、私を魅了して止まない暖かい温もりも。
 私が護りたいと切に願えた、比類なき個が、そこには在った。

 知らず知らずの内に、真実の笑みが浮かべられていた。
 嬉しい。なんて嬉しくあるのだ。
 ただこれだけの事で、ただ顔を合わせているだけなのにも関わらず、私を高揚させていく。
 私の咎を、私の業さえもを、浄化させていくような感覚を覚えた。
 心の世界は暖かく包まれ、充足感に満ちていた。

 だがふと、もどかしさを覚えた。
 私が言いたかったのは、待たせたようだな、などという陳腐な言葉ではない。そのような台詞ではなかったのだから。
 心の底から言ってやりたい事は別にあった。
 頑張ったな、と。復讐さえもを断ち切るとは、さすがのお前だな、と誉めてやりたかったのだ。
 愛らしいという感覚は、身体中を這う。抱きしめてやりたいという衝動は、ピリピリと皮膚をついばんだ。

 対峙して、良く理解出来る。相対して、自らの苛烈なまでの想いを再認識した。
 やはり私は、コイツが欲しいのだ、と。
 愛しくて、たまらないのだ、と。
 夜も眠れなかった数日間。対比が、それを倍増させて募らせる。
 そして、何よりも、口許に形作られる感情がそれを物語っていた。

 ヒサキは黙して何も言わなかった。
 未だに、無表情のまま。戦場でのコイツは、警戒を緩める事がないのだろうか。
 その姿勢は十代とは思えず、苦笑する。
 おいおい、愛らし過ぎるだろ、といつの間にか内心で突っ込んでいた。

 私も黙して何も言わなかった。
 遠き京都の地。鬼神の咆哮をBGMに、見つめ会う男女。互いの内に秘める情動は、肥大し拡大していく。
 それだけで良かったのだ。
 たったそれだけの些細な機微で、私達はわかり合えるのだから。
 半人前の小娘達には、感じようもないだろう。
 しかし、私にはヒサキが理解出来る。
 コイツが何を想い、何を為そうとしているのか。その内情の色も、類い希なる頭脳が導き出す結論も。
 遥か永き六百年に身を置いて培われた、経験則。それはそれは、凍てつくような険しい道だった。
 だが、その駆け抜けた生は、今、報われる時を迎える。
 その全ては、小林氷咲という男の本質を支え、理解するために存在したのだから。

 ふと、ヒサキの瞳が揺らいでいるのに気づいた。
 それだけで私は瞬時に察知出来る。
 なあ、ヒサキ。私にはお前がわかるぞ。

「さすがの小林氷咲、といったところか。
 この私が京都に降り立った時点で、お前の描いた策は成った。
 まさか、一度も戦わずして、一度の変身もせずして、相手の思考を誘導し、時間を稼いで見せる、とはな」

 本心から、そうは思う。
 だが、事の本質はそこではない。
 ヒサキの瞳の揺らぎがそうさせたのだ。
 視線に含意を込める。
 そうだな、ヒサキ。
 お前の過去はお前だけのものだ。今は、こうして置けば良い。
 だがいつの日か、お前の口から語ってくれるのを待っているよ。
 桜咲刹那が驚いたように言う。

「ま、まさか、小林さんは……この時を待っていたんですか」

 私は茶番に付き合う。

「ああ、この私としても恐れ入ったよ。
 全ては、コイツの掌の上にあったに過ぎない。
 いつ把握したのかは知らんが、いや、じじいの行動も予測済みだったという訳か。
 まさか、麻帆良にいるはずの私、という不確定なものまで策に組み込んでいたとはな。
 コイツは愚者でありながら、シビアなリアリストでもある、という事だ」

 私が格好良く決めていると、いつも邪魔が入るのは気のせいだろうか。
 神楽坂明日菜はやはり、バカのままのようだ。こんな時にまで騒いでいるとは、先が思いやられよう。

「え?
 ごめん。どういう事?」
「カァー! カァー!
 情けねぇ! 姐さん、情けねぇ!
 小林の旦那はなぁ……」

 私は苦笑を隠せなかった。
 あのヒサキが、一瞬だけたが、呆気に取られたのだ。
 私が隠し持っている写真と同様に、それはそれは間抜けな顔だった。
 お前は私を舐めているのか、と小一時間問い詰めたくなる。
 だが、そのしてやられた、という表情が酷く好ましかった。
 なぜならばそれは、百戦錬磨の私にしか形作れない、お前の特別な顔なのだから。

 ヒサキは額の汗を右腕で拭うと、薄い笑みを見せた。
 正に阿吽の呼吸。私達は通じ合っているのだ。
 ああ、その笑みを見れただけで、ここに来たかいがあったというものだ。
 その笑みには、ある感情が滲み出ていた。それは、多大な感謝の念だった。
「エヴァンジェリンさん、助かったよ」
 そう、確かに聞こえた。
 当然だ。私をそこらの小娘と一緒にするんじゃない。
 苦笑を隠せそうにない。
 だが、その楽しき空間は、またしても邪魔者により介入された。
 桜咲刹那の意を決したかのような声が、辺りに響き渡る。

「小林さん!
 いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」

 独りでに、口から声が漏れていた。
 それはヒサキの視線が、私から外されたのと同時だった。
 ヒサキの黒色の瞳に、桜咲刹那の姿が映り込む。
 どこか無視されているような気がして、そして、桜咲刹那の真面目な表情が酷く癪に障った。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その伍
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:34
—桜咲刹那side—
 
 
 
 
 
 鬼神の唸り声は猛々しく、夜空にぼんやりと張り付くおぼろ月までもを振動させているような気がした。
 新緑の木々は黄金色に染められて、水面は勢いよく波打つ。肌寒い卯月の風は、私を苛烈に責め立てていた。
 気迷う心の内。視界に映る光景。凄惨なまでの悪寒が、身体中を這いずり回っていく。
 頼れる援軍、窮地を救うエヴァンジェリンさんの参戦は、確かに心強くはあった。
 だが、私はただ呑まれていただけだ。
 小林さんの思惑に呼応する事も出来ず、ただただ、成り行きに身を任せていた。
 致し方ない、とは言えない。小林さんの先読みの慧眼が常軌を逸していただけ、とは言えない。
 なぜならば、私と彼女との違いは決定的。微かな誤差ではなく、大人と子供ほどに明確だったのだから。
 そして、ある含意の言葉。無情な一声。無慈悲なまでの誇示は、突如として、ある寒々しき感情を発生させていた。
 耐え難い冷気に、凍ってしまいそうになる。
 まるで、吹雪吹きすさぶ雪原を歩かされているかのように、身も心もガチガチと震わせていた。

 自然過ぎる微笑み。眼前に映り込む二人に、言葉はいらない。お互いの眼差しがそれを補う。
 戦地に置いてなお、平常心を乱さない様は、絶対の強者にしか振る舞う事の出来ない境地だった。
 二人、だけの空間。自らの存在など認識さえされず、忘れられてしまったかのような感覚を覚える。
 羨望。羨み。妬み。私が呆けて見つめるそこには、最上級の絆が存在していた。
 私達を繋ぐ、一方的な畏怖や尊敬。そういった依存の形ではない。
 並び立ちたい。通じあいたい。支えあいたい。
 私が切に願い目指し、欲していたもの。共依存という名の至高の形状だった。
 小林さんと経た期間に大きな違いはないのに。触れ合った時間にも差はないのにも関わらず。
 目の前には、まるで赤い糸で結ばれているかのように強固な線となり存在していた。

 エヴァンジェリンさんの仕草を見つめて、ふと疑問に思う。
 短い付き合いだ。私は彼女を深くは知らない。
 だが、彼女はこんなにも、愉しげに笑っていただろうか、と。
 彼女の瞳はこんなにも、慈愛に満ちていただろうか、と。
 そして、彼女はこんなにも、綺麗だっただろうか、と。

 焦燥感に駆られる。なんなのだろうか、この感覚は。
 悪夢にうなされているかのようで、脂汗が額を伝う。
 恐怖しているのだろうか。怯えて、でもいるのだろうか。
 結論は出ない。何も考えられない。独りでに、脳が思考を拒否してしまう。
 いや、違う。違うのだ。
 私は感づいている。正体に気づいている。だが、認めたくないだけなのだ。
 結論の正体は、凍てつくほどの厳しき刃。致死に至る凍えを産む。認識してしまったとしたら、私は私でいられなくなる。
 迷子の幼子のように迫り来る恐怖に怯えて、放心し、硬直してしまいそうになるから。

 小林さんの穏やかな瞳の中に今、私の姿は映り込んではいない。横顔しか見えない。
 なぜならば、私とは違う女性を見ているのだから。
 平常心ではいられなかった。その事実は私の心の世界を、不安定にして崩壊させていく。
 後退りしそうになった。
 ただ、いや、だったのだ。怖、かったのだ。
 許容など出来る訳がない。許されて良い事ではない。それは、世界から逸脱している。
 なぜならば、彼の瞳に映り込んで良いのは、映り込むべきなのは、私だけなのだから。
 私でなければ、ならない。そうでなければ、桜咲刹那という個体が、この世界に存在する意味を失ってしまうのだから。

 そうだ。素直に思えた。
 私が生まれた意味。存在意義は、彼の咎を共有し、支えるために在るのだ。
 そのためだけに生まれた。そのように、運命づけられていたのだから。

 小林さんの横顔を、見つめる。
 小林さん。私を……、私だけを見て下さい。そうじゃなければ、私は……。
 脳裏に規則的に連続する言葉が、煌びやかに明滅を繰り返していく。
 感慨の渦に身を投げる。委ねる。それだけの事で、肌を刺すような寒々しさが、徐々に和らいでいく気がした。
 やはり、正解なのだ、と深く安堵する。彼に寄り添おうと思う事は、毛布に包まれているように暖かな熱を産んだ。
 頬がゆっくりと高潮していく。私は躊躇わずに、口火を切った。
 願った。その慈愛に満ち満ちた瞳が、私だけを映し出してくれるように、と。

「小林さん!
 いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」

 小林さんは、許してくれるだろうか。
 私はあなたの気を引きたくて、氷咲という神聖な響きを用いた。
 羨ましい、という感情からでもある。彼の名前を呼び掛けたかったからでもある。
 だが、少しの驚きで良かったのだ。
 怖い。途方もなく怖いが、怒られたとしても構わなかった。
 それだけでも、数秒の間だけは、彼を独占出来る。このまま忘れ去られてしまう恐怖とは、比較になどならなかったのだから。

 小林さんの黒色の瞳が、私の姿を映し込んだ。
 それだけの事で、初めからなかったかのように、熾烈なまでの凍えはその姿を消していた。
 目が熱い。喉が震えてしまう。一瞬の後に、体内を流れる血液がゴボゴボと沸騰していった。
 彼の表情に満ちるのは、驚きだった。
 冷たい風が彼の前髪を揺らし、見開かれた瞳を露わにする。
 それは、怒りからなのだろうか。純粋に、驚きからなのだろうか。
 怖い。沈黙が怖かった。考えたくもなかった。
 だが、だからこそ、私は口を開くのだ。

「……氷咲さん。
 あなたは、ゆっくりで良いと言ってくれました。共に前に進もうと言ってくれました。
 ありがとうございます。
 ですが、今、なんです。過去の私と決別するのは。
 今じゃなければだめなんです」

 黙して立つ小林さんへと、偽りのない本心がこぼれ落ちた。
 そうだ。今だ。今、なのだ。
 大停電の夜のように、後悔したくない。立ち止まりたくはない。あんな劣悪な感情を抱えたくもなかった。
 だからこそ、今なのだ。彼を、彼の心を独占するには、今しかないのだから。
 これから私は、隠し通して来た呪縛を、封印を解き放つ。
 それは、あなただからこそ、なんです。
 あなただからこそ、本当の私の姿を見て欲しいんです。
 禁忌の翼を。生来の咎を。桜咲刹那の根源を。
 包み隠す事なく、真実をありのままに、あなたへと伝えたい。
 小林氷咲という何者にも代えられない、掛け替えのない存在へ、と。

 その言葉の意味を理解したのだろう。
 小林さんの目に力強さが戻っていく。真摯な表情で、こちらを見据えていた。

 その時ふと、不思議に思えた。
 私はどうして、翼を嫌っていたのだろうか、と。
 私はどうして、人外である事に思い悩み、何もかもから距離を取ってきたのだろうか、と。
 恐怖は微塵もない。影も形もなかった。

 そう、か。答えは簡単に導き出された。
 原宿の夜に、嬉しくて泣きはらした夜に、小林さんがそう教えてくれたから、だ。
 優しくも厳しく、背中を押してくれたからだ。
 翼は禁忌ではない。醜くなどない、と。
 それは美しく、誇るべきものなのだ、と。
 迷う必要などなかった。苦悩する必要もなかった。
 他人が、彼以外の何もかもが、罵ろうがどう思おうと、知った事ではなかったのだ。
 小林さんは私の全て。
 彼が、私を見てくれるだけで良い。信じてくれるだけで何もいらない。微笑んでくれるだけで、私は私の意味を持つのだから。
 そして、簡単な事だった。
 私は彼を信じて、彼に寄り添い、彼の心へと手を伸ばそうとすれば良かっただけなのだから。

「氷咲さん……、あなたのお陰で、私は私の産まれた意味を知りました。
 だから、氷咲さんになら、あなた達になら……。
 私はもう、迷いません」

 そのまま、目を閉じた。私の中の異物を探る。
 確かな歪な感覚を覚えた。
 だがそれは、私の誇りの象徴。桜咲刹那の、一部であり全部でもあった。
 力をそっと込める。背中に生えている翼を、一気に解放した。
 一瞬の後、私達の間を、無数の白い羽根が舞い散る。雪景色のように中空を踊る様に、どこか、晴れやかな感覚を覚えていた。
 ふと、気配を感じ取る。それは意味深なまでの眼差しをした、アスナさんだった。

「ふぅーん」

「あの、アスナさん? どうしたんで……」
「きゃう!」

 な、なんだと言うのだろうか。
 突然、翼ごと背中を勢い良く叩かれて、放心してしまう。
 その上、翼の感触を確かたいのだろうか。
 掌に押し当て、顔をうずめた後、抱きしめられた。
 理解不能の様相ではあったが、一頻りの吟味を終えたのだろう。
 アスナさんは顔を上げる。眉根を細めて、微かな怒りを帯びた微笑みで言った。

「アンタ、なに言ってんのよ。
 こんなきれいな翼を持って、悩む必要なんてないじゃない」

 理解が出来ない。
 その言葉は、余りにも想定外に過ぎた。
 時が止まったままの私を見て、アスナさんは少しだけ照れくさそうに笑う。

「アンタね、何年も一緒に居ながら、私達のなにを見てきたのよ。
 私も木乃香もネギも、小林先輩だって……、そんな翼があるくらいで、誰かを嫌いになるような心の狭い人間に見える?
 本当にバカなんだから……」

「アスナ、さん……」

 その言葉の意味を理解した時、私の口許は独りでに動いていた。
 そう、か。やはり、小林さんは正しかった。正しかったのだ。
 自らも同様に、皆も、桜咲さんを信じていると言ってくれていた。
 それは、揺るぎのない真実だった。
 小林さんだけではなく、皆も、私を認めてくれていたのだ。
 全ては小林さんの言う通りになった。
 この翼は醜くなどなかったし、禁忌の象徴などではなかったのだから。

 それは余りにも嬉しかった。嬉し過ぎた。
 小林さんによって、皆によって、最早既に、私の存在はこの世界に認められていたのだ。
 このような事があっても良いのだろうか。募り行く感謝を、隠す事など出来なかった。
 感動の渦に飲み込まれている私の背中を、アスナさんが強く押した。

「ほら、小林先輩にも聞いてみなさいよ」

 小林さんの瞳は濡れて、揺れていた。
 刹那的に現れる恐怖を振り切って、私は口を開いた。

「あの……氷咲さん。どうで」
「きれいだ」

 間髪を入れずに返答された言葉。その力強さに、籠もる感情に情けない声が漏れた。

「え?」

 小林さんは苦笑いを浮かべた。
 やれやれ、といった笑顔。それは矢となり、私の心を容易く射抜いていく。
 その苦笑いに、鼓動が高鳴った。
 ああ、私は、彼に恋焦がれている。包み込まれていくようなまでの、最も好きな仕草だった。

「その翼は、綺麗だ。
 きみが何者でも関係ない。
 俺は、俺達はきみを信用しているって、言っただろう?
 それは今でも、これからも変わる事はない。
 なぜならば、きみはこの世界でただ一人しかいない、桜咲刹那なんだから」

 一拍の後、私の口からはありのままの声が放たれていた。
 自然な笑み。心の底からの笑顔。それは全て、あなたの存在が作用しなければ形作られはしない。

「はい!」

「フン。
 おい、桜咲刹那。近衛木乃香は良いのか?」

「あ」

 そうだ。エヴァンジェリンさんの言う通りだ。
 ここは、戦場。小林さんには小林さんの、私には私の為すべき事がある。
 私はお嬢様を救い出さなければ、ならない。
 そして、このちゃんとの決着もつけて見せる。
 もう私は、何も怖くはない。傍で見守ってくれる人がいるのだから。
 大きく、翼を広げた。
 飛び立とうとする最中、私は言う。声は穏やかで、震えてはいなかった。

「氷咲さん。いってきます」
「ああ。いっておいで」

 氷咲さんが薄く笑う。
 京都に来て良かった。あなたと出会えて良かった。
 今日、この日を、私は一生忘れない。
 私に、桜咲刹那に、帰る場所が見つかったこの卯月の夜を。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その陸
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:34
—エヴァンジェリンside—
 
 
 
 
 
 上空に張り付くおぼろ月は、ただただ見下ろしていた。
 その星影を帯びる夜風を受けた両翼を。世界の規律故に外れ、虐げられ背負わされた人外を。
 産まれながらに決定づけられていたはずの運命を、塗り替えようと羽ばたく桜咲刹那を。
 雛鳥の巣離れ。サナギからの羽化。その光景は酷く、感慨深い。
 胸中には、多種多様な想念が浮かんでは消えていた。

 わかっているのだろうか。わかっている、はずだ。いや、案外……、わかっていないのかも知れないな。
 この目前の馬鹿者は。自身の仕出かした、異質さを。
 生来の懊悩。付きまとう煩悶。その重荷は、差異は永続的に、首元を強く締め付け続ける。
 ねじ曲がるのも当然。歪曲し、閉ざすのも必然。それは偶然などではなく、自然の摂理と似ている。
 桜咲刹那がそう育つのも必然の理。そう歩み行くのも宿命、のはずだった。
 だが、現状の桜咲刹那の目はなんだ。
 一点の曇りもなく、陰りさえもない。それ所か、活力に満ち溢れているではないか。
 その様は、私に一種の苛立ちを覚えさせていた。
 幸運過ぎる。幸運過ぎるのだ。
 人生を棒にふるには短く、人道を外れる過ちを犯す事もなく、小林氷咲という男に出会えた奇跡は。

 風化しそうなほどの年月を費やし、この手を血で汚し生き抜いた末に、私は諦めていたはずの浄化の光を見つけた。
 だが、桜咲刹那は未だ汚れてはいない。産まれ出でた姿のまま。
 何もしていないのだ、桜咲刹那は……。
 反射的に、首を振った。
 いや、考えるのはよそう。考えても仕方のない事だ。考えれば考えるほど、運などという不確定なものを羨んでしまうのだから。

 視界に、ヒサキの横顔が映り込む。
 光陰をその身に内包する者。その瞳は微かに濡れて、羽の雪が踊る上空を映していた。
 眼差しに在るのは、夢想。自己を晒け出せるものへの羨望だった。
 ある衝動が胸をえぐる。堪らない。愛おしさが、私を貫く。
 私だけ、だ。
 私だけが、偽りのないヒサキの内を感じているのだ。
 小林氷咲という男の本質を例えるのならば、茨の棘で覆われた薄い氷のようなもの。
 指先を伸ばせば強固な棘が食い込んでしまう。だが、その心はほんの少し押し込むだけで途端に亀裂が入る脆さ。
 他人には信じられないかも知れない。
 確かに戦闘に関しては強者に属するだろうし、戯れ言を宣うなと罵られるのも想像に難くない。
 だがそれこそが、生来の茨の棘に形づくられた小林氷咲の虚像、しか見えていない愚者の戯れ言なのだ。
 その心根は、親の背中を模倣する子供。怯えの蔦が絡みはびこっている歳相応の少年。
 生来の気高き不屈の志が、世界に反発される魔の本質が、それを覆い隠しているだけなのだ。
 それを、私だけは理解している。私だけが聞こえているのだ。
 愛されたい。護られたい。薄氷に似たその心が、そう共鳴し吐露しているのを。

 ヒサキが舞い降りて来た羽を、片手に掴んだ。
 哀愁感を漂わす横顔は、美しい。容姿が極端に優れている訳でもないのに、そう思った。
 数秒だろうか。惚けていた自らに気づく。
 そして、私は見てしまった。
 ヒサキの口許に、笑みが浮かべられているのを。
 それは正に、会心の微笑みだった。
 何かが崩れ落ちていくような感覚を覚えた。
 停電時に見た、微笑みだった。私がつくり、私にしかつくり出せないはずの素顔の微笑みがそこには在った。

 一瞬、呆気に取られた。意味がわからなかった。
 違う。ヒサキ、違うのだ、と内心で呟く。
 間違っている。その微笑みを向ける相手が間違っているのだ。
 向けられて良い相手は、この世で一人だけだ。私だけの特別なものなのだ。
 その偽りのない、素顔の笑みは、私だけに許されたものなのだ。
 視覚が狂う。途端に、劇的に、視界がモノクロにぼやけていく。
 まるで、灰色の世界に置いていかれてしまったような感覚を覚えた。

 ふと、脳裏にある言葉が過ぎる。白髪の小僧の言葉が、明滅を繰り返し始めた。
 また、置いて行かれてしまうのではないか。また、裏切られてしまうのではないか。
 そんな事は絶対にない、と自身に慌てて諭す。
 絶対などこの世には存在しえない、と脳裏に反発するように反響した。
 寒い。身が、凍えるように震える。
 待つだけの日々はもう沢山だ。数多の劣情を抱え、途方もなき年月を越し、ここまで生き抜いて来たのだ。
 やっと見つけた光をまた私は……。
 いや、違う。これは必然だ。そうだった、はずだ。
 昔の嘘つきに置いて行かれた事も、嘘つきの盟友の遺児が、天の邪鬼が私を檻から解放した事も。
 そう、必然。必然だったのだ。
 だからこそ、私は言う。情けなくも、声が震えていても、私は言うのだ。

「おおお、おい。ヒサキ」

 ヒサキの視線がこちらを向く。
 その口許から笑みが、消えた。黒色の瞳は容赦なく、私を射抜いた。
 含意のこもった無言。理解不能の沈黙。静寂は私を切り裂き、責めているように思えた。
 色々な情動が稲妻のように、身体を走り抜けていく。
 どうして、何も言わない。どうして、笑ってくれない。怒って、でもいるのか。私が一体何を。
 まさか……。
 威厳などどうでも良かった。私はなりふり構わずに言った。

「ち、違うんだ。
 い、いや違わないが、わ、私はお前を思ってだな……」

 ヒサキの毛髪が夜風に惑うように踊る。その表情は強張り、そこには激情が透けて見えた。
 やはり、そうなのか。私を非難している、のか。
 だが、それはお前のためだったんだ。そうする以外に選択肢はなかったんだ。
 お前を信用していない訳じゃない。私が恐怖に打ち勝てなかっただけなんだ。
 内心を言い訳じみた言葉が、洪水のように氾濫していく。
 激しさを増していく鼓動が、気持ち悪い。過呼吸のように、息が苦しかった。
 だが、容赦なき沈黙は、突然終わりを告げる。
 ヒサキの口がゆっくりと開いていくのが、印象的に映った。

「エヴァンジェリンさん。
 ありがとう。助けに来てくれて。
 きみが来てくれなければ、俺はどうなっていたかわからないよ」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
 だがその意図を理解した時、ぼやけていた視界が一瞬で定まった。
 私の狼狽ぶりを見て、ヒサキが苦笑する。
 その罪つくりな笑みは、高貴の光は暖かい。それだけの事で、この世の全てがたちまち熱を持ち始めたような気さえした。
 ああ、本当に良かった。私は置いて行かれる事はないのだと、内心で呟く。
 思えば当然だと、馬鹿らしくなった。
 この男が私を裏切る訳がないのだ。
 小林氷咲という男は天の邪鬼ではあるが、嘘つきではない。
 そして、この私に夢中になってしまっているのだから。
 顔が熱い。私は照れを隠すために口を開いた。

「そ、そうか。と、当然だな。
 ま、まあ、お前と言えども、あのデカブツの相手は厳しいという事か。
 そ、その、あれだ。か、感謝しろよ」

 ヒサキが有無を言わさずに言う。

「ああ。感謝してる。
 というかエヴァンジェリンさん。きみには、感謝しかしていないし、そんな騒ぎではないよ」

 面と向かって放たれた言葉は、やはり暖かい。
 嬉しくなる。それはヒサキだからだ。
 ヒサキだからこそ、感謝されるという事だけで、こんなにも嬉しくなってしまうのだ。
 だがコイツと同様に、私の口は天の邪鬼だと言えよう。

「そ、そうか。
 ま、まあ、良いだろう。
 わ、私は慈悲深く偉大だからな」

「大丈夫。そんな事は出会いの時から、わかりきっていたからね。
 エヴァンジェリンさんが、慈悲深く素敵な女性だって事は」

 こ、こいつは。よくもぬけぬけと、そんな恥ずかしい事を……。
 しかも、目を見つめて微笑みながらだと……!

 まったく。コイツはなんなんだ。
 おいおい、格好良すぎるだろうが。
 一流の結婚詐欺師だと紹介されても、即座に頷いてしまいそうなほどの魅力を振りまいていた。
 だが、今は戦場なのだ。場をわきまえて欲しいものだ。
 こういうのは違う場所でだな。
 これから鬼神と一戦を交えるというのに、頬の綻びを隠せそうにはない。
 その上、その上だ。
 ヒサキの視線は私へと釘付け。優しげな微笑みを、こちらに向けていた。

「お、お前は恥ずかしげというものを……。
 ……と、とりあえず、見つめ過ぎだろ!
 あ、アッチを向け!
 わ、私が良いというまでコッチを見るな!」

 本当に困った奴だ。
 ヒサキは事の張本人だというのに、はいはい、と言わないばかりに苦笑したまま鬼神の方角を見上げた。
 この私を子供扱いとは。やってくれるじゃないか。
 肩をいからせると、語気を荒げて抗議した。

「おい! 何を笑っているんだ!」

 だが、ヒサキの苦笑は止まらない。それ所か、聞こえていない振りまでする始末だ。
 こ、こいつは本当に私を舐め腐っているようだな。
 それが女性に対する対応か。

「おい! 無視をするな!」

 ヒサキは柳のように受け流す。
 そんなやり取りをしながら、ふと思えた。
 前の私では考えられないが、これはこれで有りなのかも知れないな、と。
 ヒサキの楽しげな笑みが見れたからだ。この笑みが見れるのならば、道化も悪くはない。
 そうこうしている内に、桜咲刹那が近衛木乃香を奪還する事に成功したようだ。
 私は未だに暑い顔を隠すように、上空に浮かび上がった。
 さあ、終わらせようか。
 終わらせて、京都観光に向かうのだ。嫌とは言わないだろうが勿論、お前には付き合って貰うぞ。

「と、とりあえずだ!
 ヒサキにぼーや、私を見ておけ!
 このような大規模な戦いにおける魔法使いの戦い方を、お前らに見せてやる!」
「はい」

 鬼神を見据える。未だに喧しくも、子供のようにわめいていた。
 だがまあ、ヒサキ達に見せつけるには、相手に取って不足なしと言えよう。
 月光が頭上から降り注ぐ中、マントを翻すと口を開いた。

「ハーハッハッハッ!
 お膳立ては、ばっちりのようだな。
 よし、茶々丸、結界弾を放て」

 だが、それに呼応するはずの声はなかった。
 正にシュール。滑稽なまでの沈黙が広がっていく。
 私はどこかにいるであろう茶々丸に怒鳴った。

「おい!
 茶々丸ってそうか!
 ヒサキ、茶々丸はどうした!?」

「茶々丸さんはホテルにいる」

 間髪を入れずに、ヒサキの声が響いた。

「な、なに!
 姿が見えないと思っていたら、そうか……。
 ま、まあ、任せておけ。
 私が少々、本気を出せば良いだけ。結果は変わらん」

 そうだな。
 ヒサキの人柄を鑑みれば、戦場に茶々丸は連れて来ない、か。
 一拍の後、私が行動しようとした時だった。
 ヒサキの声が、鼓膜を振るわせたのだ。

「俺が動きを止めよう」

 その声音は抑揚がない。
 まるで幽鬼のように微かな音量。だがそれが逆に、並々ならぬ意志を感じさせていた。
 私は薄く笑う。
 やはり気高い男だ。茶々丸を連れて来なかった失敗は、自らで穴を埋めようとする、か。
 好奇心が騒ぐのも当然と言えた。
 果たして小林氷咲という男の本気は、一体、どれほどのものなのか、と。

「フッ、そうか。
 ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」

 いつの間にか、ヒサキの格好は死神の衣装に変化していた。
 魔の象徴。邪の根源。漆黒のローブから立ち上る紫紺の魔力の波動が、闇夜を揺らめく。
 ヒサキの表情が変わった。
 戦闘時の顔は、氷細工のように美しい。一切の感情を捨て去り、歪な眼で鬼神を見据えた。
 正に自然体。無駄のない動作。月明かりを反射して輝く大鎌を、前方へとかざした。

「蓄積魔力を解放する」

 その声が響いた瞬間。私の耳に届いた一瞬の事だった。
 大鎌が異様な輝きを放つ。紫色の妖艶な明滅。如実に光量が増していく最中、凶悪で破壊的なまでの魔力の奔流を捉えた。
 反発しあい、幾重にも枝分かれしていく稲光が走る。それは大鎌の先端に収束し、極大の光線となって放たれた。
 モーゼが海を割ったように、桟橋を崩壊させながら湖が真っ二つに割れていく。
 圧倒的な威力。悪魔的な速度。その時、鬼神の鳴き声が、止んだ。
 砂煙が立ち上る。そして、晴れた後、鬼神の腹部に大きな風穴が開けられているのを視界に捉えた。
 
 全く持って、高笑いせざるを得ない。
 高揚感に身体中がひしめいた。
 その見た事のない魔法攻撃に、感じ取っていたのだ。
 微かではあるが片鱗。見知った奴らの魔力の質の残骸を。
 私の魔力に、ネギの魔力。
 そして、赤き翼のメンバーの魔力に、忘れたくとも忘れられないあの懐かしき嘘つきの魔力も。
 なるほど。その大鎌は親譲りのもの、か。
 漆黒の守護者の遺品。遺児。面白い。面白いではないか。

「ハーハッハッハッ!
 やはりその鎌は魔法無効化ではなく、魔法吸収能力が付加されていたのか。
 なるほど。どのようなデメリットがあるかはわからんが、正に反則だな。
 ヒサキ、後は私に任せておけ」
 
 再度、天を衝く咆哮が上がる。
 怒り狂う鬼神を見据えて、私はそう言った。



[43591] その暗闇を沈み行くものは——裏その漆
Name: フランチィスコ◆c175b9c0 ID:bf276d6a
Date: 2020/06/07 00:35
—神楽坂明日菜side—
 
 
 
 
 
 
 春の冷たい微風が前髪を揺らす。月明かりでは対抗出来ず、体温を少しずつ奪われていくのを感じた。
 さざ波立つ湖の音も、木々の葉と葉を擦り合わす音も、耳をつんざくような化け物の唸り声にかき消されていた。
 化け物からの離脱。刹那さんは夜空をこちらへ向かい滑空してきている。
 胸元に大事そうに抱えられた木乃香の姿を、視界に捉えた。
 ああ、良かった。素直にそう思える。
 平穏無事。誰も生死に関わるような傷を負う事はなかった。
 てんてこ舞い過ぎるわよ、と突っ込みたくなる修学旅行。非常識に輪をかけたような戦いの行く末も、終わりへと方向転換し始めているんだろう。
 確かに、それは嬉しかった。
 平穏への回帰なんだ。
 嬉しくない理由なんてないし、またみんなで楽しくやれるんだと思うと喜びもひとしおだった。

 だけど私の目は、ある人物の後ろ姿に釘付けとなっていた。
 闇と同化しているように見えるローブ。紫色のオーラが意志を持つ生命体のように、その身に触れては離れ夜に溶けていく。
 こちら側から視認出来るのは、大きな鎌の刃。月明かりを反射し、鏡となって私の顔を映し出していた。
 表情は見えない。だけど、何となくわかる。
 その済み渡る瞳は今、停電時のように、鈍い色を帯びて化け物の方角を射抜いているんだろう。
 どうにもならない。惚けてしまうのを隠せそうにはなかった。
 小林先輩、だ。小林先輩、がだ。
 たった一つしか歳の違わない男性が現れただけ、なのに。
 たったそれだけの些細な事で、戦況はその表情を変えてしまう。窮地だったはずの私達の側へと、微笑みを向けさせてしまったんだ。

 短時間。微々たる時の中で、刹那さんの危機を間一髪で救うと同時に、ネギの暴走を優しくも厳しく諭して見せた。
 その上、その上だ。私には難しい事はわからないし、理解出来そうもない。
 だけどカモ曰わく、偶然さえもを味方につける戦略。異質な頭脳により導き出された戦略を、見せつけてくれたらしい。
 でも、その凄さは私にもわかる。
 何せ、あの白髪の少年を足止めし時間を稼がなければいけないというのに、戦わない所か変身さえもしなかったんだから。
 カモとネギが誇らしげに言っていた言葉が、脳裏を過ぎった。

「小林の旦那が、戦う気さえなかったとはな。恐れいったぜっ!
 オレっち達も、あの白髪のガキも、旦那の掌の上で踊らされていたって事か!」

「これがヒサキさんの戦い、なんだね。
 ヒサキさんは戦わずに、戦いを終わらせたんだ。
 戦うという当たり前な選択を、最初から考えてもいなかったなんて。
 その上で、相手の勘違いさえも瞬時に戦略に組み込む頭脳に、演技力……。
 凄い。凄過ぎるよ……。
 僕は、相手を倒すしかないと思ってた。でもそれは間違いだったんだ。
 あらゆる可能性を考慮すれば良かった。そうすればみんな安全に、かつ勝利の道筋が直ぐそばにあると気づけたかも知れないのに……」

 だけど疑問が、蠅にまとわりつかれているかのように消えない。
 それは、真実なんだろうか、と。全てが嘘の演技だったんだろうか、と。
 脳裏には、ある言葉が明滅を繰り返していた。

「違う。
 俺の名前は、レインじゃない。
 俺を総称する名前は、ただ一つ。
 ……俺は、小林氷咲だ。
 それ以外の名前は、存在しない」

 小林先輩の激情を撒き散らすような声音。はっきりとした憤慨に拒絶。そして、レインという名前。
 思う。騒ぐ既視感に背中を押されているかのように、思うんだ。
 白髪の少年の口からその名前が呟かれた時、私は知らず知らずの内にしっくりときていた、と。
 小林氷咲という男性。死神のような格好とレイン。今も尚、欠けていたパズルのピースを見つけたかのように納得していたんだ。

 どうしてそう感じるのかは、わからない。わかりそうもない。
 近頃良く見る既視感。失われた記憶、からなのかも知れない。
 私と小林先輩は昔に出会っていたんじゃないか、という確信めいた疑問からなのかも知れない。
 だけど答えは、闇の中だ。私だけでは、手は届かない。何より小林先輩が否定しているんだ。
 レインに関しては、聞けない。それで嫌われてしまう事が、心底怖い。怖いからだ。

 だけど、わかる。そうだと確信出来る。
 やはり私を紐解く全ての鍵は、小林先輩が持っているんだ、と。
 最近発生し始めた、モヤモヤをかき消す方法も。小林先輩の過去を、偽りのない内を、もっと知りたいという欲求の解消する術も。
 刹那さんだけが知っているという秘密への劣等感も。私の黒く浅ましい劣情の出所も。
 今の私の行動理念さえもが、小林先輩にあるように思えた。
 人を押しのけてでも、覗いてみたいという衝動に駆られる内情、本質に答えはあるんだ。

「俺が動きを止めよう」

 その時、ある小さな声が鼓膜をくすぐった。次第に意識が覚醒していく。
 浸透していくような疑問。
 ああ、なんなんだろうか、この感覚は。
 声を聞いているだけ、なのに。背中しか見えず、少しばかり距離も離れているというのに。
 その声は、ジワジワと心の深遠に絡みつく。まるで、羊毛に包まれているかのような心地よさを覚えた。
 独りでに、胸の内側に隠された首飾り。この世界に二人だけの思い出に人差し指を這わした。
 鋭利な冷たさは、絶大なまでの安心感を産む。
 どうしてしまったんだろうか、私は。だめ、だ。何も考えられなくなってきた。

「フッ、そうか。
 ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」

 上空から、エヴァちゃんの愉しげな声が落ちて来た。
 途端に高揚感が増して、眠気が吹き飛ぶ。小林先輩の真の力という響きに、好奇心が騒いだんだ。
 小林先輩は、何かを待つように動きを止める。そして、ゆっくりとした動作で、大鎌を化け物へと向けて言った。

「蓄積魔力を解放する」

 有無を言わさない声音が、存在感を示す。その次の瞬間の事だった。
 小林先輩の身体中から溢れるオーラが呼応するかねように、我先にと、大鎌へと集まり始めたんだ。
 中心に暴風が吹き荒れ、ローブの端を踊らせる。
 私の髪を逆立たせるほどの突風。大鎌はミステリアスな色彩を放ち、周囲のものを紫色へと染め上げていく。
 そして、無音の時間が弧を描き始めた。
 大鎌の煌々と輝く先端。より集まったオーラは、極大の光の柱となり発射された。
 目を見開いてしまう。
 なぜならば光線は、桟橋を脆くも吹き飛ばし、湖を真っ二つに割ったんだ。その上、化け物ごと中央の祭壇さえもをなぎ倒した。
 それは圧倒的な光景、だった。
 天変地異のよう。絵空事のように思えるが、現実だ。まるで、ファンタジー世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えた。

「な、なんつー魔力だ!
 こ、これが旦那の本気なのかよっ!」

「す、凄い……。
 でも、これは僕の魔力じゃ……。ど、どういう事なんだろう」

 そんな声を呆然としたままで聞いていると、突如、異変が起こった。
 それは、魔法を放ち終わる寸前の事だった。
 私の目にはまるで、小林先輩の身体が瞬時に、闇の中へとかき消えてしまったように見えた。
 だけど、それは違う。
 余りの速度で反応出来なかっただけ。
 小林先輩の身体は吹き飛んでいたんだ。
 湖畔をボールのように跳ねて、推進力がなくなるとそのまま沈んで行った。
 唖然と見つめる事しか出来ない。
 静寂が降りた。意味がわからない。どういう展開なのよ、と内心で呟く。
 だけど、それは長くは続かなかった。意識が強制的に冷まされていく。
 私は不安感からか、弾かれるように叫んだ。

「ち、ちょっと! こ、小林先輩どうなっちゃったのよ!?」

 一拍の後、カモが口をポカンと開けて言った。ネギも驚愕と続いていく。

「い、いや、姐さん。さすがのオレっちにも何が何だか……」

「い、一体どうしたんでしょう。
 ま、まさかとは思いますが、あれだけの威力ですから、反動で吹き飛んでしまったんじゃ……。
 で、ですが、ヒサキさんですから、そんな事はないですよね……」

「あ、ああ、そうだよなぁ。
 用意周到。先読みの旦那に置いて、それは有り得ねぇーっていうか」

 私達の間を、一陣の風が吹いた。
 こんな時だというのに、上空から何やら愉しげなエヴァちゃんの高笑いが聞こえて来た。

「ハーハッハッハッ!
 やはりその鎌は魔法無効化ではなく、魔法吸収能力が付加されていたのか。
 なるほど。どのようなデメリットがあるかはわからんが、正に反則だな。
 ヒサキ、後は私に任せておけ」

 正に、チンプンカンプンな世界と言えた。
 意味がわからない。というか、エヴァちゃんの空気の読めなさには頭痛がする思いだ。
 暫く待って見たが、小林先輩は一向に姿を現さなかった。
 私は居ても立ってもいられず、苛立ちながら言った。

「あ、上がって来ないわよ!
 ど、どうなってんのよ!?」

「へ、へぇ。で、ですが、そんな事を言われてもなぁ、兄貴」
「そ、そうだね。カモくん。
 あ、アスナさん。大丈夫ですよ。ヒサキさんの事なんですから。
 そ、そういう演技をする事に意味があるのかも知れませんし……」

 全くもって、話しにならない。
 ネギの言う通り作戦ならば心配ないけど、違ったらという言葉が浮かび上がった。
 なぜならば、私は知っているからだ。
 みんなが言う通り、小林先輩は凄い人だと思う。だけど、時折天然が顔を出す可愛らしい人でもあるんだ。
 脳裏に停電時、橋を越えて飛んでいってしまった記憶が蘇った。

「もう、アンタ達に聞いたのが間違いだったわ!
 カモ! ネギを頼んだわよ!」

「あ、姐さん!」
「あ、アスナさん。一体どこへ」

 制止を振り切って、私は一目散に駆け出した。
 万が一、万が一だ。
 不運にも天然が発動し、反動とやらで気を失ってしまってでもいたら溺れてしまうのは明白だ。
 小林先輩が沈んでいった方向へと、私はそのまま飛び込んだ。
 四月の湖は予想以上に冷たい。衣服が張り付く感覚が気持ち悪く、泳ぎにくい。
 だけど、そんな事は気にしてなどいられなかった。
 生死に関わる問題なんだ。
 まだ、間に合うはず。そう自分に言い聞かせて、闇を泳いでいった。

 そして、私の勘は的中していた。
 真っ暗闇の中で、クラゲのように漂う紫色の輝き。導かれるように泳いで行った末の事だった。
 力無く、仰向けの体勢で、暗闇の底へと沈み行く小林先輩の姿を見つけたんだ。
 小林先輩! と叫ぶが、ここは水中。口から空気が漏れるだけだった。
 夢中で寄っていく。小林先輩の瞳は虚ろで、今にも光を失いそうだった。
 鎌を持つ右腕から大量の出血が流れ、赤黒い煙幕が展開している。こんな時にまで鎌を手放さないなんて、と少しだけ腹が立った。
 やはり、正しかった。そして、良かったと胸をなで下ろす。
 小林先輩の瞳が私の姿に反応した。
 左手がこちらに向かって突き出される。私はその腕を掴んで抱き寄せた。
 浮上する最中、知らず知らずの内に、抱き寄せる腕に力が入っているのに気づく。
 ああ、そうか。私は嬉しいんだ。
 小林先輩の危機に他の誰も、刹那さんでさえも気づけなかった事が。私だけが気づいて上げられた事が。
 そして、私だけが、小林先輩の役に立てた事が


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