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小気味よい剣音。竹刀の奏でる、慣れ親しんだ騒音で俺は目を覚ました。
初めに視界に入ったのは高い高い満月と、近衛の顔。秋の空と近衛の顔が綺麗過ぎて、俺の心をより惨めにしてくれる。
「目え覚めた? 衛宮君?」
満月の直下、次に俺が感じたのは首の下の柔らかな感触。
彼女の言葉に俺は段々と意識を取り戻し、自分の置かれている状況をハッキリと認識した。
「そう、ならサッサと起きなさい。いつまで膝枕なんてされているつもり?」
満月、近衛、そして今度は見上げる視界の先に最高の微笑で俺を覗き込むイリヤの顔が。近衛の太股の感触に名残惜しさを感じつつも、俺は飛び起きた。
「―――――あったた!? しかし、桜咲も気持ちイくらいに決めてくれたもんだ」
何とか立ち上がるも、少しの痛みが脳天に残っているのに気がついた。
イリヤもそんな俺の事を気遣ってくれるらしく、先ほどの笑顔を脱ぎ捨て、冷やしたタオルを俺に手渡した。
ログハウスの前庭。
それなりの広さを持つ森林と土壌。そのなかで、鮮やかな振袖が夜の暗闇を縫う様に視界から消え、そして残影が走る。それに追随するのは桜咲、艶やかな影に劣らぬ軽快な疾走は隼を思わせる。
二つの影が互いに距離を取れば、瞬きの間に炸裂音。
沈黙、―――後に肉薄、そして交差。かと思えば、互いの間合いはすでに十間は開いていた。
その距離を式さんは五歩とかからず奔り抜け、竹刀を翻し、月を仰ぐ直上の一閃。
ありえない歩合からの打ち込みを、桜咲は円の軌跡から斬り下ろす一薙ぎ。
鬩ぎ合う二つの剣気。
互いに決まらぬ、刹那の如き剣の閃き。模擬戦と言えど、その迫力は申し分ない。
直線的な速さと力強さ、そして、相手の先を読むかのような嗅覚を存分に生かす式さん。
曲線的な技巧と繊細さ、そして、相手に対して多彩に剣を捌きコレに対処する桜咲。
俺はそんな二人の剣舞に、見たこともない戦いを重ねていた。
あの戦いで、剣を交えたアイツとアサシン。きっとあいつ等の戦いも、目前の二重奏を響かせたことだろう。
衛宮士郎では決して届かぬカルテット。それは、――――――――。
「ねえ皆。お茶が入ったんだけど、そろそろ休憩しない?」
ログハウスから現れた、真っ黒の人影によって、アッサリと幕を下ろされた。
Fate / happy material
第十五話 白い二の羽 Ⅰ
俺は満月の下、ログハウスの階段に腰掛けながら幹也さんの煎れたコーヒーをすすっていた。もちろん額に出来たタンコブを冷タオルで押さえつけながら。
近衛と式さんの合作、並の料亭ならば舌を巻いて逃げ出す見事な懐石料理を堪能した俺は、その後、腹ごなしも兼ねて、桜咲と手合わせを試みた。
思えば、軽い気持ちで手合わせなぞを望んだ事がそもそもの間違いだ。よかったよ、本当に死ななくて。ひとえに、俺の悪運のお陰であろう。
剣を持った桜咲は本当に容赦が無かった。
俺は腹をこなす前に、脳天を見事に揺すられ悶絶。ははは情けなくなんかないゾー。悔しくもないゾー。世は既に男女平等なのだー。
………とにかくその後はご存知の通り、桜咲に興味を持った式さんが俺の代わりに打ち合っていた訳である。
「刹那ちゃんは凄いんだね。こんなに可愛いのに式と打ち合えるなんて驚いたよ」
階段の手すりに寄りかかりながら、幹也さんは桜咲に素直な言葉をかけた。
桜咲は幹也さんの言葉に照れ笑いを隠しながら、コーヒーに口を付ける。
「驚いたのはこっちの方やん。せっちゃんと互角に斬りおうたんが、こんな美人さんやなんてな」
うつむいた桜咲の代わりに、近衛が返す。
俺が投影した竹刀を、危なっかしく振り回しながら呆れたように式さんに視線を送った。
「美人、――――かどうかは別として、オレは別段驚かないぞ。桜咲とかいったな? お前、詠春のところの流派だろ? 確か神鳴流とかいったな?」
プイっと顔を逸らした式さんは、投げやりに言い捨てた。
どうやら式さんは桜咲の流派に覚えがあるらしい。
「――――やはり、両儀と言うのは“あの”両儀でしたか。ならば貴方の実力も納得です。同様に、私の流派について知っているのもね」
式さんの言葉に一人だけうなずく桜咲。
夜半の静けさの中で式さんと桜咲の垂らす黒髪だけが揺れていた。
「ま、年始と年末にはオレも京都の方に顔を出すしな。四大退魔家の古い慣習のおかげで、あの不健康そうな親父とはある程度顔見知りだよ」
式さんは面倒くさそうに話を切り上げると、幹也さんと同じカップに口をつける。どうやらカップが足らなかったらしく、式さんと幹也さんは二人で一つのカップを共有していたようだ。
「ねえセツナ。話しが読めないんだけど、説明してもらえるかしら?」
「そうやね、実家の話やし、ウチもきちんと知っておきたいわ」
俺と同じ事を考えたのか二人がすかさず桜咲に質問。
式さんは既にこの話題に興味はなさそうなので、一人カップを片手に、穏やかに香る枯葉色の木々に赴きを移していた。
桜咲はそんな式さんに代わり、話しに着いていけない俺達に分かりやすく説明をしてくれた。
桜咲の話しでは、日本には独自の魔術、法術体系を有し、魔を狩り、人を守る組織が古くから存在しているらしい。俗に、退魔組織と呼ばれるそれらは、純粋な魔に対して強力な有利を担っている。そして、その魁となるのが桜咲の流派“神鳴流”と呼ばれる退魔術だ。
だが、純粋な魔を狩るために特化した退魔組織、そして神鳴流はやがて現れた“混血”に対して後れを取ってしまう。人としての側面を備えた“混血”に対して、彼らの練り上げた神秘体系は必殺足りえない。
故に必要とされたのが、四大退魔家と呼ばれる、対混血に練磨された集団。それの一つが両儀、つまり式さんの実家と言う訳だ。
今は、四大退魔家と神鳴流をはじめとする退魔組織との関係も廃れてしまったが、式さんの言葉通りならある程度の交流も残っているようだ。
「――――――っとこの様な理由で、私たち神鳴流と両儀の家系は交流を持っているわけです。現在、退魔組織の中枢は神鳴流の本部でもある日本呪術協会、つまりこのちゃんのご実家です。七夜を除いた四大退魔家をはじめとする、組織の面々は年一度の総会と正月の顔見世に出席するのが通例ですので。もしかしたら、このちゃんと私はそこで両儀さんと顔を合わせていたかも知れませんね」
桜咲は控えめな胸をえっへんとそり返し、誇らしげに説明を終えた。今回は昼間と違い、皆説明を熱心に気いてくれたからであろう。
桜咲は近衛から差し出されたコーヒーを受け取り、嬉しそうに小さな唇でかるく喉を潤す。
「――――――へえ、だとしたら世間ってのは狭いもんだな」
近衛の爺さんや先生の事と言い、世界ってのは広いようで狭いのかもしれない。
俺は一口コーヒーを含んで零した。
鈴虫たちの音色は段々と大きくなっていく、夜も老け込んできた様だし、そろそろ話を切り上げた方が良いのかもしれない。桜咲の長い説明に、虚ろに首を揺らすイリヤを振り返り見ながら、そんな事を考えた。
「さて、僕はそろそろ戻るよ。今日は疲れたし、式もシャワーを浴びるって、先に行っちゃったしね」
幹也さんはウツラウツラするイリヤを抱きかかえ、軋む檜の階段を上がる。それに続くのは近衛だ。彼女はコーヒーを既に飲み干していたらしく、幹也さんの背中に踵を返す。
「ウチも、今日は案内やら料理やらで気をはってもうたし、ログハウスで少し休ませてもらうよ。衛宮君はどうするん」
「う~ん、俺はもう少し月見をするよ。コーヒーもまだ残っているし」
「それでは私も付き合いましょう。私程度の剣を前にしてすら、まともに立ち会えない衛宮さんに、言いたいことが山ほどあります」
くすりと意地悪く笑う桜咲。
妙な気安さも手伝って、俺は嬉しい苦笑を向ける。
「うう、きついな桜咲」
「そんじゃお先に、お二人さん。ごゆっくりな。せっちゃんも、私は退散して暇を潰しとるから頑張るんや。ファイト・オ~やで、しっかりな」
肩を落とす俺に近衛は忍び笑いを残し、幹也さんの背中に続いていく。白いダウンジャケットをふわりと回して、彼女は立ち去った。
「頑張るって、何をでしょう? 衛宮さんは分かりますか?」
「分からん、俺に聞くな……………」
不思議そうに俺と桜咲は顔を見合わせて近衛の言葉を吟味してみた。しかし、俺と桜咲では近衛の真意を読み取れそうに無い。
乙女の思考回路は理解に苦しむ、昼間の式さんとイリヤただ今の近衛然り。
仕方が無いので思考を諦めた俺達は、二人で肩を並べ、コーヒーをすする。幹也さんの入れるコーヒーは実に美味しい、使用するサイフォンは異なれど、伽藍の堂で鍛えられたその実力に鈍りは見られない。
「………コーヒー。美味しいですね」
「ああ、やっぱりそう思うか?」
桜咲は俺と同じ事を考えてくれていたらしい。
少し、―――嬉しかった。
木枯らしが香り高いコーヒーの酸味を引き伸ばし、ログハウスを囲む枯れ木の茶色を揺らす。桜咲の垂らした黒髪が背中に触れ、改めて並べた肩の距離を実感した。
ちょっと近すぎかな。
急にこみ上げた気恥ずかしさを隠そうと、少し早口に言葉を走らせた。
「先生の所で毎日煎れているからな。コーヒーの色は幹也さんの色と言っても過言ではないぞ。かく言う俺も、お茶を煎れるのは中々だと思う。魔術や剣術の腕なんかよりも断然マシだ」
「それは、――――なんと申し上げたらよいのか」
桜咲は「むむう」俺の言葉に真剣に考え込んでしまう。
いやいやいや、そこは否定するところですよ、桜咲さん。先ほどの気恥ずかしさの代わりに、どこか惨めな衝動が沸きあがる。
まあ、心をざわつかせた形の無い感情はなりを潜めた事だし、よしとしよう。
恐らく、俺への慰めの言葉を探してくれているであろう桜咲に、吹き出した笑みと共に声をかける。
「そんなにお前が気にすること無いよ、才能が無いのは、別にさしたる問題じゃないしさ」
俺は、零した笑みと一緒にさわやかな辛酸を味わう。
賑わいを見せていた鈴虫の喧騒を遠くに感じながら、ログハウスに灯る玄関横の街灯に視線を送った。見上げるオレンジ色の光の向こう、流れる雲が月を隠している。
「それに今日さ、長さんに言われたんだ」
「ああ、先ほどお出かけになられた時ですね?」
コーヒーを両手で温める桜咲に俺は頷く。桜咲はコートを羽織直して、少し前かがみに俺の顔を覗きこんだ。
空を見上げた視界の端。
垂らした前髪を掻き揚げた彼女に、奇妙な不快感を覚えた。
その感情は彼女にではなく、自分自身へ向けられていたことにも気付かずに。
「俺は切嗣、―――俺の親父ほど強くは無いって」
俺は、よく分からない感情を理由に、彼女と視線を絡めることを拒んだ。月を探した瞳は、どこを見つめるべきか必死に模索している。
「確かに、その通りだと思う」
「………そんなことは無いと思いますが?」
「おいおい、さっき桜咲も言ったろ“私程度の剣にさえ”ってさ」
「あれは言葉の綾です。冗談を真面目に取られても困る」
桜咲の頬を膨らす姿に、俺は微笑む。言葉を交わす内に、何とか蓋を閉じることに成功した曖昧な衝動。
桜咲に視線を預けた俺は、なるべく穏やかに言う。
「とにかく聞けって。そもそもさ、俺は弱いって言われたことに余り嫌な感情を覚えなかったんだ、逆に納得した位だ、だってそうだろ?」
不思議そうに俺を眺める桜咲から俺は再び視線を外した。
天上を見上げれば、まあるい真っ白い穴が確かにそこにはある。
「そのおかげで、俺は色々なものが手に入った。強い奴が切り捨てた、違うかな? 切り捨てることが出来る不確かな何か。きっと、オレが切り捨てちまったモノを、今は、確かに望んでいるんだ」
「望んでいる? 何をですか?」
目だけを桜咲に戻して、薄く微笑んだ。「ん?」っと、自分のこれから言い放つであろう言葉に躊躇を感じ、頬をかいた。
桜咲は戸惑う俺に急かす様子も無く手の中のコーヒーカップを弄び、黒い液体を揺らす。
「ちょっと言うのが恥ずかしいけど、笑うなよ?」
「笑いませんよ。言ったでしょう、貴方の言葉を笑うことなど出来ません」
いつかこいつと交わした遣り取りを思い出し、俺と桜咲は絡ませた視線を笑顔で解く。
だけど不思議だ。どうして俺は、こんなことをコイツに打ち明けてしまえるのか。
「それで、衛宮さんは何を手にいれたのです?」
待っていたとばかりに、桜咲は俺と同じ、枯れ落ちる木々にさえぎられ、区切りを与えられた秋の夜空を顧みた。
「――――俺が手に入れたのはさ、ちっぽけな“けじめ(幸せ)”だよ」
正義の味方を目指す上で切り捨てるもの。
九を救うため、一を捨てる。誰かを救うと言う事は、誰かを助けないと言う事。
ならば、最初に切り捨てるのは自分自身。救いなど、幸福など求めてはならないんだ。
きっと強い奴は選べたはずだ、誰を殺して、誰を救うのか。
誰かを救うための、最初の一、それがオレと言う自分自身。
だが俺はそれを選べない、選びたくない。
幹也さんが言うとおり、“幸せ(過去)”を背負うことは、自分勝手な我侭かもしれない。
だけど、――――――オレ/俺の理想、正義の味方。
そのために、俺は“誰一人”犠牲になんかしたくない。
長さんの言葉、幹也さんの微笑み。
何を伝えたいのか、未だ曖昧だけど、それが俺の“変化”なのだと信じたいんだ。
見上げた夜空はどこまでも高い。
―――――――ただ、限られた視界の先は、確かに綺麗な月が顔を見せていた。
「―――――――――――――――――ぷふ」
っとまあ、俺が物凄~くカッコいい事を思考した横で、あろう事か吹き出した奴が居やがる。どうせなら聞こえなくてもいいだろう、桜咲の零した僅かな空気は、鈴虫たちの鳴き声の中に間奏として見事なアクセントをつけてくれた。
「……………桜咲」
いくらなんでも酷いぞ。
必死に笑いを堪える彼女は、コーヒーカップをわなわな震わせながら蹲ってしまった。
「いえ、…その、す、――プハ、すみま、…せん。――――く、けして」
笑いを堪えるのがそんなに難しいのか、桜咲はまともに呂律が回らない様だ。こいつのこんな表情は、ひょっとしたら凄く貴重なのではなかろうか?
そんな事を考えながら、俺は先ほどよりもずっしりと腰をすえて彼女の回復を待つ。
段々と寒くなる秋風も、今は全く寒くない。りんりんと喧しい音に聞こえない振りをして、俺はコーヒーをずずっと彼女に聞こえるように飲み込んだ。
「ふう、すみません。決して笑う気は無かったのですが、衛宮さんがあまりに、……その、変な顔で“幸せ”を見つけたんだ、なんて言うのがいけないんですよ?」
困ったように苦笑を向ける桜咲は、未だに顔を繕いきれていない。パンパンと黒いダウンジャケットを払う彼女は、冗談めかせて言う。
つうか、変な顔ってなんでさ? またそれか?
「………・俺の所為かよ。少なくとも俺は大真面目に答えたんだからな。くそう、女の子じゃなかったらぶん殴ってるぞ」
大して怒ってもいないくせに、俺は乱暴な言葉遣いで涙目の桜咲に言い放った。
だが、彼女もそんな俺の心の内が読めるのか、冗談めかせて再度「それは、誠に申し訳ありません」と深々と黒い髪を垂らしただけだ。
「ふふ。しかし、ついこの間まで正義の味方になるのだと言っていた貴方が、今度は幸せですか? 本当に、衛宮さんは面白い」
「面白いかは賛同しかねるけど、お前の言い分も納得してやるよ。俺だって、随分と支離滅裂な事くらい分かっているさ。でも、仕方が無いだろ?」
この気持ちはきっと間違いではない。
だって、俺の知る全ての人は、この気持ちに確かな笑顔を向けてくるのだから。俺はそれを信じるように、となりにある小さな背中を探した。
「俺は、全てを救わなきゃいけないんだ。そう、―――――約束したから」
アイツに向けた言葉は、一体誰の心に響くのか。
それは、俺にも分からない。
だけど、少なくともこいつには、アイツと重なるこいつにだけは頷いて欲しかった。
「そうですか。――――――それでは、仕方が無い、――――――――――」
はにかみ、桜咲はそんな言葉を漏らす。
俺には彼女の表情が何を示しているかは分からない。
だけど、その一言で充分だ。俺はまた、自分の願いを信じることが出来る。
幸せを探す、全てを救う、そして、―――――正義の味方にもなってやるんだ。
溢れた感情は、唯単純に、桜咲とアイツの言葉を重ねてくれる。
「そうだな。だからさ、――――――――俺はまた、頑張れる」
アイツを思い出すたびに。
きっと、前に進めるはずだから。
たとえ、目指す願いが歪んでしまっても、変わってしまったとしても。
果たすべき誓いは、貫くべき約束は、きっと変わらない筈だから。
「まあ、頑張るのも程々に、妹さん達が心配しますよ?」
そんな俺の感情に気付いているのかいないのか、桜咲は立ち上がると、コーヒーカップをぐいっと空にした。いい飲みっぷりである。
俺のコーヒーも、すっかり冷えちまったな。十月の夜空の中で、少しゆっくりと話し込みすぎた。
「たしかに。でもそれも、仕方が無いな」
俺の言葉を、見下ろす桜咲。
仕方が無いと、そう零した俺の苦笑をこいつはやっぱり、困ったような笑顔で受け取るんだ。冷え切り、残り僅かのコーヒーを両の手で弄びながら、彼女の仕草を決め付けた。
「衛宮さんはそればかりですね。妹さんも、さぞ貴方の事を心配なさっていることでしょう」
「同情しますよ」と付け足した桜咲の顔は、どのように表情を変えたのだろうか。きっと言葉とは対照的な微笑が俺の背中に向けられている筈だ。
「俺は、あんまりいい兄貴じゃないからな」
残り僅かとなったマグカップの珈琲を嚥下し、立ち上がる。そして、改めて気付いた。桜咲はこんなに小さいんだな。
俺は余り大きい方ではないが、それでもこいつの華奢な体がアイツとダブってしまう。
「でも、お前は心配してくれないのか? それはそれで、少し残念だな」
そんな感情を払拭するため、冗談めかせて言う。俺はどんな顔をしていたのか、桜咲が少し戸惑った。恐らく、俺の冗談にしてはウィットが効きすぎていたためだろう。
「つまらない質問ですね。私に一撃で昏倒された人間の言葉とは、とても思えません」
だが、それも一瞬。
にやりと笑う桜咲は、俺のカップを受け取りながらそんな事を自信満々に口にした。
「心配でないはず無いでしょう? このちゃんも、そして私も、呆れるほどへっぽこの癖に、頑張りすぎる貴方をどれほど嘆き、憂いていることか」
遠い瞳はいつかの吸血鬼事件を振り返っているに違いない。実に心臓に悪そうな乾いた笑いを、桜咲はやれやれと自分自身に向ける。
それにしても桜咲さん? 貴方もその差別用語で俺を貶めるのですね。
「――――――――俺、泣いてもいいかな?」
「コレはすみません。衛宮さんの心はデリケートなのでしたね? 忘れていましたよ」
彼女は意地の悪い、だけど憎めない微笑を俺に残して近衛が退屈を満喫しているであろうログハウスの茶色を跳ねるように歩いていく。
「あ、ちょっと待てよ、言いたいことが在る」
俺は、じわじわと離れる彼女を呼びとめた。
「なんです? 謝罪ならしましたよ、衛宮さん」
「違う、そうじゃない」
はてなと首をかしげた桜咲は、俺の心の内に気付く様子は無い。
仕方がなく、俺はきちんと言ってやることにした。
「名前。呼び捨てで良いっていったろ? なんかさ、お前にさん付けされるの、凄く嫌なんだ」
伸ばした真直ぐな黒い髪。
秋の夜はその色彩に比べて、なんて明るい漆黒なのか。
俺は眠りつく寸前の、鈴虫たちの音色を背中に受けながらその背中をに真摯な気持ちを伝えた。振り向きもしない桜咲、だがその歩幅は、確実に狭くなっている。
「はい。分かりましたよ、衛宮。―――――私としても、この名の方が呼びやすい」
結局、そのときの桜咲の貌を臨む事は叶わなかった。
俺は明日も過ごすであろう遠く、麻帆良の夜景を目蓋に残し、今日を終えるべくそれを追う。
オレンジ色の外灯の下、彼女の背中は。
「やっぱり、――――――――――似てるな」
いつか見た、金色の少女と重なった。