甲斐の国は、四方を天然の要害ともいうべき山々に囲まれている。
道中、ここを越えれば山も終わりだと聞いて、高いところにいるうちに一望してみたいと私は思った。
しかしここは戦国時代。観光用の展望台など存在しない。
諦めろと言わんばかりに、山道には鬱蒼と草木が生い茂っている。
でも、未練がましくあちこち目を彷徨わせていたら、「天然の崖」を見つけてしまった。
柵などないから足元が崩れれば終わりだけれど、私が好奇心に勝てるはずもない。
茂る笹をつかんで身を乗り出し、眺めた先にあったのは―――。
「うゎ、ほんとに盆地だ。
すごい。あちこちに竹が、……いっぱい?」
――――― 戦国奇譚 竹林の虎 ―――――
眼下に広がるのは、川に沿って作られた田畑。
そこから少し離れたところに立ち並ぶ家屋には、なにもおかしなところはない。
けれど、そのどこにでもありそうなごく普通の景色の中。
もっとも存在を主張しているのは、風に揺れる春の若竹の淡い色彩だった。
鎌倉や京の古刹などを囲んでいるのが似合う竹林が、田畑とは色の違うかたまりをあちこちにつくっている。
この竹林はもちろん山裾の方に多いが、平地にもかなりの量が生えているように見える。
耕地面積の限られた場所を田畑にせず、竹を残しておく意味がわからない。
風よけかとも考えたが、生えている場所は家とはあまり関連のなさそうなバラバラ具合で、首を傾げさせる。
私もこれまで旅をしてきて、自分の育った場所以外の村も見てきている。
鎮守の森などは村の中にもよくあるが、生えているのは栗やクヌギなど生活に役立つ木が主だった。
若竹の風になびく独特の風合いと葉の色は異色で、遠くからでもひときわ目立つ。
「綺麗だけど…。
真竹か、それとも呉竹かな。
でも、なんで竹?
甲府の名物に、竹なんてあったっけ?」
「日吉、どうした。小国が探していたぞ。
なにをそんな……、ああ、府中か。
ほう、なかなかいい眺めだな」
「座長、甲斐の名物ってたけのこ?
村に降りたら食べられる?」
背後からの声に、浮かんだ疑問を私はそのまま言葉に変えた。
時期的に「たけのこ」は今が旬だ。
少しの下心を持って呼びに来てくれた座長を振り仰ぐと、彼は微妙に驚きを含ませた眼つきで私を見下ろしてくる。
「……えっと」
「お前はかしこそうでいて、時々、アホな質問をするな。
年相応と安堵すればいいのか、お前の将来を心配すべきなのか。
『竹の子』など食べるものではなかろうに」
「おいしいのに?」
「いいか、日吉。
まちがっても甲斐で、そんなことを言ったら駄目だぞ」
「は、い。
あの……、でも、なんでダメですか?」
「この辺りを見ていてわからないのか。
道脇の草藪は、みな笹だっただろう?」
言われて見れば、木々の下を覆うのは笹ばかり。
今までの道を思い返しても、笹の印象しかない。
頷きながら考える私の手を座長は引いて、先行く一座の後を追う。
「竹も笹も、戦の道具だ。
甲斐の領主さまはまだ若いが戦上手。父親を追い出してから、負け知らずと聞く。
この道一つとっても、地道な準備も怠らずよく目の届く方だとわかるものだ」
「お父さんを、追い出したって……?」
気にかかるフレーズにもっと詳しくと願えば、五年前に甲斐で起きたクーデターの話が始まった。
―――甲斐の前の領主は、あまり評判の良くない人だったらしい。
その人が僅かな部下をつれ、娘の嫁ぎ先である駿河に出かけて行った。
息子はすかさず残った部下たちと示し合わせ、駿河に通じる道を封鎖する。
それがここ、私達が今歩いている身延道だ。
帰れなくなり民にも叛かれたことを知った父親は甲斐を去り、家督はクーデターを主導した息子が継ぐことになる。
戦国を戦い、生き残らなければならない大名の後継者争いは、どこも厳しい。
実力での代替わりがなされたというなら、それは妥当なことだったのだろうと思う。
そう、追い出された父親だって殺されずにすんだのだし……、と納得しようとして気持ちが少し落ち込む。
私に関係のない事件だけれど、この話には身につまされる要素が混ざっていた。
俯き引かれるままに歩く私の分まで道に注意を払ってくれている座長は、雰囲気までは気に出来ない。
淡々とその後の経緯も並べていく。
「実に追い出したその年から、間をおくことなく甲斐は戦続きだ。
当代は最初に自領に攻め込んだ相手を追いかえし、
翌年には妹御の嫁いでいた諏訪をあっという間に平らげている。
その後も次々に城を落として、昨年はついに上伊那まで甲斐に下したとか。
常勝の主と讃えられ、民衆の人気も高いようだな」
「だけど……。甲斐って、貧しいんでしょう?
そんなに戦ばかりしてたら、皆困ると思う。
なのに、人気があるの?
……負けるよりは、勝ってくれた方が嬉しいとは思うけど」
「それはな、貧しいことが戦をする理由だからだ。
甲斐は三年あれば二年は不作の国だ。
戦を続けなければ、食べていけない」
「戦って、そんなにもうかるの?」
失われる資源に対し、手に入るリターンが想像できなかった。
例え勝って領地が増えても、戦で人が減り田畑が荒れれば、すぐに年貢を増やすわけにもいかないだろう。
単純に考えると、そんなに度々戦にかりだされたらその方が不作の理由になりそうな気さえする。
農民が農地から引き離されて、不満が募らないほうがおかしいように思えるのだ。
率直に聞いた私に、珍しく座長はためらうような眼差しを向けてきた。
微かに太夫達の声が聞こえるからもうすぐ追いつくはずなのに、彼は足取りも鈍くし、そのまま立ち止まる。
「日吉。
お前はまだ直接、戦にあったことはなかったな」
「うん」
「この甲斐の地は、どこも戦ばかりだ。
戦を避けようにも、この地にいれば避けられないこともあるかもしれない。
でもな、戦には関わるな。絶対に、関わるなよ。
私達は流れの民。土地にも領主にも何の義理もない。
戦の気配を感じたら、何を置いても逃げることだけを選べ。 いいな?」
「……はい」
「よその武士が押し入れば、どこであろうとそこが戦場になる。
貧しい村だとか小さな村だとか、そんなのは何の逃げ道にもならない。
武士も足軽も関係ない。
戦の中であいつらは、あればあるだけ何でも奪っていく。
収穫を迎えたものも、青田も苗も、区別なく全て刈り取られる。
家からは壁板をはがし、武具はもとより生活用具もみな奪われる。
そして、武士は人も狩る。
男も女も関係なく、連れて行けた人数が手柄になるからだ。
足弱(あしよわ 老人や子供など)もおかまいなしに引っ立てる。
身代(みのしろ)を払えば返してもらえるが、甲斐の代は高い。
安くとも二貫、高ければ十貫もの値がつく。
そしてそれを身内が払えなければ、帰れない」
「……」
「怖い話をしてすまなかった。
でもな、日吉。戦はどこにでもあるんだ。
甲斐のご領主は、決して悪い方ではない。
そうして戦をしても、甲斐の民を食べさせている。
民もそれ知っているから、戦働きを厭わずついていく。
山間の厳しさはどこも同じだ。
攻め込まれれば奪われるのは、甲斐もよそもかわらない」
その後、座長は声音を変え、もちろん一座が戦に合わないように十分注意するからそう心配しなくてもいいと言った。
ただお前は好奇心の塊だから、珍しいものに惹かれてはぐれるなよと、いつもの笑みを浮かべる。
重くなった話を返すように、軽い調子に切り替わった口調は私への気遣いだった。
彼は繋いだ手を揺らし、私を促す。
けれど私には、笑いをかえす余裕はなかった。
酒の席で話される自慢話や、戦場での失敗談には出てこない戦の現実。
今までねだって聞いてきたものは、やはり子ども相手と思ってのごまかしがあったのだろう。
戦場の厳しさを笑い話で流す大人のやさしさを、知らずとも私は向けてもらえていたというわけだ。
……ここまで話してくれた座長の話だって、帰れない民のその先も、死者の扱いにもふれていない。
まだ私が知ったのは、戦のほんの入り口にすぎない。
なのに、私は怯える自分を実感していた。
戦の生々しさは、人間の持つ業(ごう)そのものだ。
奥歯をかみしめなければ歯が鳴りそうで、私は自分が情けなくなった。
現代と違い、戦は遠い世界の出来事ではない。テレビの向こうの話ではない。
この時代を生きる者は皆、この現実に向かいあって生きている。
私もその一員だ。いつ自分の身に降りかかってきても、おかしくないことなのに。
―― 甲斐を渡る風。揺れる竹林の陰から、餓えた虎が目を光らせている ――
幻の虎の眼差しに、私は射竦められ小さく震えた。
繋いでいた手にも思わず力が入れば、ふいに体が浮く。
抱き上げられたと思った時には、肩口に顔を押しつけるようにして頭を撫でられる感触がある。
触れた場所から、しみこむように伝わってくる人肌の熱。
山の清涼な空気に奪われていた温もりが、ゆっくり戻ってきた。
「人」を売り買いし傷つけることができるのも人ならば、「人」を慈しみ慰めを与えられるのもまた人だった。
細く息を吐き出せば、体から緊張が抜けていく。
座長はそれ以上何も云わず、黙って私を抱いたまま歩き出す。
私は座に追いつくまでと目を閉じて、甘えを許してくれるやさしい揺れに身をゆだねた。
―――私の心の奥で。
戦国を生き抜くための真実の覚悟は、まだ静かに種のまま、温かい土の中芽吹きを待っている。