「無礼な!
小者ごときがさかしらに、ひかえなさい」
私が話しかけた当人は全く気にしてないようだけれど、脇に控える侍女から叱責がくる。
でも、彼女の視線は私を見たまま。だから、こちらからも視線を外せない。
動けない。どうすればいいのだろう。
――――― 戦国奇譚 壁 ―――――
見合うこと暫し。
遊んでいるわけではないので、笑わせれば終わるというものでもない。
叱られてしまった手前、これ以上こちらから声をかけるのもためらわれる。
話を進めることも終わらせることもできず困っていると、そっとくぅちゃんが寄り添ってきた。
奥方の表情が少し揺らいで、固く閉じられていた唇がほころぶ。
「あまり、似ていませんね。
姉弟なのですか?」
「えっ?
い、いいえ。違います。
あの、すごく仲良しですけど、姉弟ではないです」
「そう。
わたくしには、お前達がどのようにあるのかは、わかりません。
国も持たず、流れ生きる者のことなど何も。
けれど、そうして二人立ち並んでいる姿には、わたくしも兄を思い出しました。
兄と言っても父の弟ですので、兄のような方ですね。
歳が近かったので、よく遊んでいただきました。
寂しいのかと問われれば、そうかもしれないと思います。
父も母も、兄にも、……私はおいていかれてしまった」
夫の不在ではなく実家の不幸を語る彼女の言葉に、侍女達が顔をそむける。
かわいそうにという同情とも違う、何かタブーにでも触れたかのようなあからさまなしぐさが気にかかる。
彼女の孤独が見えるようで、私も辛い。
家族を亡くした人のケアは難しいが、思い出が話せる状態ならば、それを聞いてあげることはとても大切なことなのに。
まして妊婦だ。彼女一人の命ではないのだから、もっと、もっと、心を配ってあげるべきだと思う。
「小さいの。
何故そんな顔をするのですか」
「……」
「お前、親は?」
「父は戦で亡くなりました」
「……戦で。
武士だったのですか?」
「姫様、このような流れの民の言葉など。
嘘も真のように言い立てる者達でございます。
お耳汚しになるばかり、聞く価値もありませぬ」
「そうして、皆わたくしの耳をふさごうとする。
……お前達はいつもそうね。
何も聞かねば心穏やかになれるとでも?
言葉にせねばいつかは心静まると、本当に思っているのですか?
わたくしをどこまでも愚かな姫にしてしまいたいのですね」
「そんな、そんなことは姫様」
奥方が、キレた。
厳しい言葉が抑揚なく紡がれ、周囲全てを威嚇する。
氷のような無表情は、激しい情を閉じ込める堰だったのかもしれない。
抑えた声音の奥から、複雑な事情とそれに対する彼女の怒りがあふれていた。
「わたくしには、わかりません。
お前達は、子を慈しめとそう言うばかり。
この子の父となられる方が、何をなされたか知らぬ者などいないというのに。
あのお方は、わたくしの父を殺め、兄とも慕った方を自害に追い込まれた。
義弟の虎王丸は、今も諏訪を抑えるための駒として使われているだけ。
わたくしとて戦利品の一つではないですか。
……形ばかりの笑みをつくったところで、遺恨なく愛せると何故そう思えるのです?」
「姫様っ!」
「男ならばこの手に槍を取り、父と共に討ち死にすることもできました。
諏訪の誇りに殉じることもできなかったこの身が、わたくしは恨めしい。
家の役に立つこともできず、奪われただけのわたくしの気持ちなど、お前達にはわからぬのでしょう?
この腹のややにどんな先がありますか?
女なら、わたくしと同じにならぬと誰が言えるのです。
男子であっても……。この子もまた、あの方の牙にかかるかもしれない。
なのに、わたくしに喜べと、楽しめと、無理ばかりを押しつけて。
美しい着物も、歌も踊りも、余計なものだとなぜわからないの。
そっとしていてほしい時は騒ぎたて、口を開けば話はならぬなどと。
すぐに取り上げるつもりのものなど、何も与えてほしいとは望んでなどおりません。
あの方が、実姉である禰々様(ねね 虎王丸の母)にした仕打ちと同じことではないですか。
子を奪われ嘆きの中に亡くなられた義母上(ははうえ)を、わたくしは忘れない」
「姫様、誤解です。
そのような恐ろしきことは姫様の身にはおこりません。
ですからどうか、どうかそんなことをおっしゃられますな。
御屋形様は真実、姫様を大切に思われておられます。
お前達、姫様はお疲れになられました。
もう下がりなさい」
その言葉を最後に、私達は追い立てられるようにして庭を出た。
しかし座長や太夫達にはまだ何か話があるようで、屋敷の裏口で引きとめられている。
私とくぅちゃんは一足先に外に出され、屋敷を囲むように生えている竹林の端で皆を待つことになった。
さやさやと鳴る葉ずれの音を聞きながら、私は、充分に話せなかった奥方のことについて考える。
彼女の気鬱の理由は、とても重く根の深いものだった。
これまで相談にのれなかった周りの人達にも、それぞれの事情があったのだろうとは思う。
けれどその遠巻きにした心のすれ違いが、彼女をあそこまで追い詰めていたのかと思うとやるせない。
彼女の言えず押し込めていた思いが、あの激しい言葉と冷たい声となってあふれた時。
彼女の白い指は、爪を立てることもなく、そっと腹部に添えられているのを私は見ていた。
子を思う情があるからこそ、その子の父となった男への複雑な気持ちに彼女は苦しんでいるようにも見えた。
ただの憎しみや恨みだけだったのなら、あんなふうな怒りにはならないだろうとも思う。
家中の者達が声を揃え、彼女が愛されているのだと訴えていたことが救いにつながることを私は願う。
恨みを忘れた方がいいなどと安易なことは、私にも決して言えない。
でも、本心を打ち明けた彼女に、周りの人達も真摯に向き合って、少しでも良い方に向かうことを祈らずにはいられない。
ため息を吐いて顔をあげると、待っていたようにくぅちゃんが袖口を握ってくる。
くぅちゃんは労わるように、私を見ていた。
「日吉、怖かったね」
「そうだね。
戦が傷つけるは、皆同じ、」
「ちがうよ。 何を言っているの、日吉?
わたしが怖かったのは、日吉がお咎めを受けるかと思ったこと」
「あ、そっちか。 うん、ごめん。
そうだよね、何かあったら、皆も巻き込んじゃうかもしれないんだ。
ちょっと軽率だった。 太夫達にも後で謝っとくね」
「それは、そうなんだけど……。
……やっぱり、日吉、わかってない……。
あのね、日吉。
もう、あんなこと言わないで」
「うん。
いきなり聞いたのはまずかったと思う。
立場をわきまえて、言葉は選ばなきゃ、」
「そうじゃない。
そうじゃないの、日吉。
偉い人達はね、わたし達とは違うのよ。
わたしが日吉に心配してもらえたらすごく嬉しい。
仲間だし、わたしだっていつも日吉のこと心配するから。
でも、偉い人はそういうこと言われたら、怒るでしょ?
それはね、わたし達とは違うからなの」
「くぅ、ちゃん?」
「わたしにはお姫様の気持ちなんてわからない。
母さまだって、太夫達だって、座長だってわからないと思う。
……日吉。
わたし、やさしい日吉は大好きよ。
本もいっぱい読んでて、わたしよりもずっと物知りなのも知ってる。
でもね、日吉は傀儡子なの。わたしと同じ、流れの子なの。
だから、あの人達の気持ちがわかることはないの。
わたしや太夫達に向けるのと同じように、日吉は誰の気持ちでも考えようとするけど。
それで傷つくのは日吉なのよ。そんなの見たくない。
わたし達とあの人達は違うのをわかって。
もう危ないことはしないで」
一生懸命に話すくぅちゃんは、途中、袖を離し私の手を握った。
ぎゅっと込められた力に手が痛み、真摯な言葉には胸が痛む。
伝わってくる気持ちが嬉しくて、そして、悲しくて、私は泣きたくなった。
この時代に馴染んで、この時代にふさわしく生きたいと私は思っている。
だから身分という隔たりも頭では理解していたつもりだったし、そう行動しようと心がけてもいた。
けれどくぅちゃんの言葉で、それが本当に表面だけだったのだと気づいてしまった。
私がいかに異端であるのか。
私の価値観、感性は、この時代にはあまりにもそぐわない。
―――私は前世、寺で生まれ育った。
後を継ぐ身ではなかったし、女だったから勉強について何か言われた記憶は一度もない。
日々忙しかった両親も何かに秀でていたわけでもなかったし、特別なことを教わった覚えもない。
でも、彼らの背中を見て、私は育った。
悩みを抱えて訪れる人には、どんなに忙しくとも時間を割いた父。
身内の不幸にとりみだす人の背を、通夜の席で一晩中撫でながら慰めていた母。
宗教に対しての思い入れはさっぱりわからなかったけれど、他人を思いやれる両親の姿は誇らしく思っていた。
前世から持ち越してきたものは、わずかな知識と記憶だけ。今の体は、今の両親から与えられたものだ。
違いがあるけれど、どちらの父母も同じくらい大事な人達だと思うことには変わりない。
二つの家族から与えてもらったものが私の心の芯になり、私の価値観の基準をつくっている。
くぅちゃんは、身分ある奥方の悲しみはわからないと言う。
奥方も、国も持たない流れ者のことなどわからないと言っていた。
身分が違えば考え方と同様に心も違うと思い、彼女達には最初から相手を理解しようという気はない。
それは生きる世界の違いを肯定しているからで、彼女達の言い分の方が正しく、この時代の常識なのだ。
でも私は、地に這う人々の辛苦は実感できるし、上に生きる人々の悲哀も想像できてしまう。
一人の人間として相手に向かいあえば、共感も同情も普通に覚えてしまえる。
前世の知識から引けば、道路掃除夫が大統領の側近になることは能力的に言って無理だとは思う。
しかし、彼らが対等に挨拶を交わし、お喋りを楽しんだとしても、それをおかしいとは考えられない。
この時代では天子様と崇められる方でさえ、私の前世の記憶の中では、災害時には被災地を巡っていた。
道路に座り込む人に直接労わりの声をかけ、時には手を握って励ましてくれる存在だった。
痛いとか苦しいとか、嬉しいとか楽しいとか。人であるならば持つ心は皆同じだと、私は認識してしまう。
私にとって身分はあくまで社会制度上の区別であり、心を隔てる壁にはなりえない。
人を思いやる心は、相手を対等な人間として尊重する時に自然に生まれるもの。
感じたり思ったりする心を、身分によって向ける相手を選択することなど、私の感性ではありえなかった。
私を守ろうとしてくれるくぅちゃんは、何よりも大切な友達。
彼女に心配をかけるのは心苦しいし、一座に迷惑をかけるのも嫌だと思う。
私は、『この時代に馴染んで、この時代にふさわしく生きる』ことを望んでいる。
でも、この常識を私が受け入れるには、自分の根幹を崩さなければならない。
今までの人生全ての価値観の根元をひっくり返して、それでも大丈夫と言いきれる自信はなかった。
まして感性を塗り替えるような荒業など、どうすればいいのかわからない。
くぅちゃんがくれる気持ちを無にしたくないけれど、今までの自分も捨てたくはない。
ポジティブに潔く生きるのが私の信条なのに、最近失敗続きでひじょうに凹む。
周りが甘やかしてくれるのをいいことに泣き虫になりすぎだと自分に突っ込みをいれながら、私は悔し涙を拳で拭った。
自分の言葉で私を泣かせてしまったかと慌てて慰めてくれるくぅちゃんの腕の中。
私は以前出会った、この身分という時代の壁をひょいと乗り越えてみせた一人の少年の顔を思いだす。
あの破天荒だった思考の彼は、私と同じ問題にぶつかったとき、どんな答えを出すのだろうか。