いろいろありすぎて疲労が激しい。座るよりも横になって寝てしまいたい。
しかし、それを諦めさせる複数の視線が私の手元を凝視する。
私が持っているのはただの白湯(さゆ)だ。これ以上の奇跡は頼まれても無理。
「風邪をひかないように、体も温めないとね」
頷いて差し出された小さな手に、粗末な竹の椀をこぼさないよう支えてのせる。
これは皆さんも毒見済み。タネも仕掛けも味付けも、何の変哲もない湯だともわかっているはず。
……拝まれても、ご利益なんてありません。
――――― 戦国奇譚 第一部 完 (上)―――――
今は静けさの戻った老津の浜。
激しく混乱したこの最初の一幕を、上手く説明するのは難しい。
ふいの遭遇と誤解は、いくつかの不運が重なっての出来事だった。
この浜をある事情から待ち合わせ場所に選んでいた武士達。彼らには、人目をはばかる理由があった。
偶然居合わせただけの私達が、不審者に逃げ出すのにも言い分はある。
夜の暗さと足場の悪さに、お互い適切な距離を見失ったことが過ちの始まりだ。
――海に怪しい舟が居ることを知った、あの時。
私達は緊張の中、座長の指示を待ち、息をひそめた。
こちらには焚き火があり、向こうは闇の中。どちらが不利かは歴然としている。
海側からは影になる位置で、手早く砂を掬う大人達。
私も皆の足手まといにならぬよう、逃げるべき方角を見定め待った。
そして時をおかず下った「逃げろ!」の、一声。
その声を合図に焚き火の上には砂が舞う。あたりは一瞬にして暗くなる。
機を逃さず、皆、弾かれたように海とは反対の方向へ走りだす。……はずだった、のだが。
浅瀬に降り立つ幾つもの水音と、舟からの警告。
追手の足よりも早く、放たれた威嚇の矢。
誰かの悲鳴と共に聞こえたくぅちゃんの声に、踏みだしかけていた私の体は止まる。
頭で何かを考えての行動じゃない。こんな時に考えることなんてできるわけがない。
計算も状況判断もなく、私の足は急ブレーキを踏む。転がる勢いで反転する。
今、聞こえた、くうちゃんの声のもとへ。
走る足は砂に捕られ、もつれる。何度も転びかけ、手をついてはどうにか体勢を立て直す。
闇の中だから、視界もろくに利かない。
でも、不自由、無謀、危険を顧みず、ただ走った。
これはある種の本能なのだと思う。
仲間や家族、大切な誰かに「助けて」と叫ばれたら、自分のことなんて頭から吹き飛んでしまう。
全体の状況がどうなっているかなんて見渡す視野はもてないし、そんな余裕はなくなる。
懸命に凝らす目も耳も、探して求めるものはただ一つ。くぅちゃんの姿だけ。
だから、くぅちゃん達の声とほぼ同時に聞こえたはずの水音も、その後の水際の騒ぎもまだ私の意識の外。
周りを見ることができたのは、彼女達のもとに辿りついてからだ。
矢がかすめたらしい三国太夫と、彼女をかばうように抱きこんだ座長とくぅちゃん。
三人の傍に滑り込み、私は目の前の武士を見上げる。
そこで漸く、私達を捕まえてどうこうしようとしている最中のはずのその武士が、意識をそらしているのに気がついた。
刃だけは私達に向けているが、彼が気にしているのは、思いっきり『海』の方。
つられるようにそちらを見れば、浜に引き上げた舟の傍らで、他の武士らしきおじさん達が固まって騒いでいる。
「竹千代様、竹千代様っ、ああ、なんということだ」
「傷はないっ、水を吐かせれば!」「否、息がもはや…」
「何と……、このようなことが」「今川方へは……。こうなれば、死んでお詫びを…」
「お役目果たせずこのありさま、腹を切らねば申し訳立たぬ」
「急ぎ舟を返す。竹千代様を岡崎へ運ぶものは残らねばならん。それ以外は……」
「殿、お許しを……」
びしょ濡れのその一群から切れぎれに聞きとれたのは、事故の様子と深い悲嘆。
彼らの会話の内容を、こちらが深く考える暇(いとま)もない。
浜辺には、さっきまでとは別の意味で阿鼻叫喚の地獄絵が造りだされかけている。
行動の早い武士はすでに砂浜に座りこみ、着物の肩を抜いてはだけ、切腹(せっぷく)の準備を完了寸前だ。
「早うせねば。
まだ若ぎみは五つ。一人の道行に心細い思いをさせてはならぬ」
「……介錯を頼む。我らの首を持ち今川への詫びをと、殿に」
急展開に唖然とする私達の前で、今生の別れが交わされていく。
残る者に託される遺言は短く、潔い。
自らの生死の決断だというのに、決めるのが早すぎだ。
武器で脅され何者かと問われるのも理不尽極まりない、が。
目の前で集団自決(自殺)を見せつけられるのも冗談じゃない。
「待って!!
まだ死んでないっ。
その子、まだ死んでないから!!」
「何を、……」
「いいかげんなことを申すな!」
私はくぅちゃんの手を一度、ぎゅっと握って突き放す。
呆然としている目の前の武士の足元をすり抜け、かたまる彼らの中央へ。
板戸に寝かされた小さな影は、武士達に囲まれるようにして守られている。
多勢に向けて飛び出してきた私に対し、鞘払われる何本もの刀(かたな)。
微かな星明かりを鈍く光る日本刀の地紋が弾く。
触れずとも、刃の威圧を肌に受け取る。
「ひえのじにんがたくせんをきるか!」
振り上げられた白刃を止めたのは、凛と、夜を割った少女の声。
追い風のように、私の背を押したくぅちゃんの声。
その響きに動きを止め、一瞬怯んだ刃の林を抜けて、私は溺れた子供のもとへ向かう。
水に落ちて、引き上げて、すぐに死んだと判断するのも早計過ぎる。
聞こえた分の状況からだけでも、今すべきは責任とっての切腹ではなく、一次救命処置のはず!
呼吸の確認、気道の確保。
首すじからの脈拍を調べ、着物の合わせも剥いで胸に直接耳を当て心音を聞く。
口内の異物がないかを探り、人工呼吸を開始。
吹き込み二回に対し、心臓マッサージは三十回。
それを息を吹き返すまで、何セットでも繰り返す。
見る限り怪我もなく、水に落ちての心停止状態だ。
水におぼれる子供が多いのは、「耳に水が入り気を失いやすいから」という理由もある。
耳管が大人より太く短く、慌てて吸い込んだ水などが中耳の内圧を高め出血を誘発する。
それで三半規管が麻痺すれば意識は落ち、水を吸った肺は呼吸出来なくなる。
子供は体が小さい分、肺も小さい。
血液中の酸素量の残存分も少なく、補給しなければ酸欠もすぐだ。
適切な処置をしなければ、脳が死んでしまう。
心臓マッサージのタイミングは、一分間に100回の早さで。
拍子がわりの「地上の星」を思い出しながら、私は胸を押す腕に全体重をかける。
怖いことばかり考えていてはいけない。
相手が小さい子供なので私の力でもどうにかなる。これを不幸中の幸いだと思わなければ。
周囲の雑音を完全に遮断し、私は目の前の子供にだけ集中する。
救命措置は何よりも体力だ。ワンセットこなせば、自分の息も切れ、汗も噴き出す。でも…。
かわってくれる相手はいない。
私の代わりが出来る者、この救命の知識を持つ者は他にいない。
私が唯一の、この子の命綱なのだ。
息を吹き込む作業は最短で、手早く。心臓マッサージは弛まなく。
呼吸が停止してから、最初の5分が生死の分け目。
でも、冷たい海水に下がった体温が、助かる確率を上げてくれるはず。
幼い方が助かれば、後遺症の残らない可能性も高い。悪いことより良いことを心に掲げる。
大切なのは信じること。
「この子は助かる」、「絶対に助けられる」と、信じ続けることだ。
私は周囲の状況を忘れ、この子が誰かということもどうでもよくなり、ここが冬の海辺だということすらどこかにやった。
そして、自分の体力の限界寸前。
視界に影が差し、腕どころか、幼い少年の肋骨の上で組んだ指まで疲労で震え出した頃。
板戸の上の少年の肩が揺れ、赤子がむずかるような小さな唸りが口からこぼれるのを聞きとる。
蘇生、成功。
周りの歓声も、驚嘆も、疲れ切った私の耳には遠い。
脈拍ぐらいは確認しなければと思いながらも、そのまま顔面から砂浜に突っ込みそうなほどに全身が重い。
少年の意識の確認は見ず知らずの誰かがやってくれているのを見て、さらに脱力は増していく。
助かったのは確実みたいだし、もういいよね…と、思考も投げやり気味に傾く体を放置する。
そんな私の手をしっかりと捕まえる温もりに、ちょっとだけ浮上すれば。
何故か、くぅちゃんまで私の隣で一緒に砂浜に転がっていた。
その後のことを簡潔に言うなら、まあ、なんというか感謝の嵐?
武士達や少年の濡れた体を乾かすため、再び浜辺に火を焚いて囲む。
私が半分酸欠でぼんやりしている間に、皆で協力して準備してくれていたらしい。
湯を沸かしたり、着替えのない少年に太夫の着物を選んで貸したりと、いつの間にか仲も良さげだ。
感謝の表情を隠しもしない武士の方々は不審の態度を一変させ、常に腰低く、律儀かつ気真面目に接してくれる。
渡す白湯の一杯さえ神妙過ぎる態度で受け取られては、渡す方が言葉に詰まるほど。
一座の皆だって、もともと尊大さなど少しも持ち合わせていない人達だから、双方譲り合いの繰り返し。
どこの見合の席ですかと聞きたくなるような初々しいやりとりが、無骨な武士と太夫達の間であちらこちら交わされている。
緊張感の消えたぬるい浜辺の雰囲気に、私の疲れた顔も自然とほころぶ。
一人でニヤニヤするのも恥ずかしいなぁと思っても、笑顔は隠せそうにない。
私のあの時の行動は、衝動的で計算も打算もなかった。
でも、よく考えなくてもあそこで何もしなければ、その時点で全てが終わっていたのも事実なのだ。
彼らの様子から察するに、この10人足らずの武士の集団の最重要人物はあの少年。
その彼が、何の拍子にか揺れた小舟から落ちてしまったのは、不幸な事故だった。
しかし、武士の皆さんにとってそれは腹切りでもしなければ責任取れないほどの重大事となる。
遠因になった私達が逃がしてもらえるはずもなく、(自決の)巻き添えは確実だっただろう。
射られた矢で一座の誰かが本当に怪我をしていたら、私はきっと動けなかった。
蘇生が上手くいかず、少年が息を吹き返さなければ、話し合いすら持てなかった。
いくつもの幸運が重なり救われたのは、ここにいる全員だったと言ってもいい。
安静にと湯を呑ませて寝かせたはずの少年が、起きて太夫達にかまわれているのが見える。
太夫に借りた華やかな着物に包まれた、小さなお姫様のような姿を目に楽しみながらしみじみ思う。
……助かって、ほんとに良かった。
どこか宴席にも似た明るさを醸す一座の様子が、良く見える少し離れた位置。
いっしょに騒ぐのは遠慮したくて選んだその場所で、私はぼんやりと彼らを眺める。
「日吉、大丈夫?
お白湯、もう一杯貰って来ようか? 寒くない? 平気?」
意識はしっかりしているつもりでも、行動力は大幅に低下中。
冬眠寸前の熊並みにスローペースだ。
そんな私を気遣ってか、くぅちゃんはまめに声をかけてくる。
「寒くない、大丈夫。
くぅちゃんも疲れてるのに、ごめんね」
「わたしはいいの。
大変だったの、わたしじゃないもの。
あのね……、日吉、助けてくれてありがとう」
「そんなの、こっちこそだよ。
あの時、私を助けてくれたのはくぅちゃんだもの。
私が何をするのかって、悠長に説明とか説得とかしている暇なかったし。
くぅちゃんの機転があったから、皆が助かったんだと私は思ってるんだよ」
私の切り返しに、彼女は驚いたように瞬く。
でも、これは本当のことだ。
あのくぅちゃんの一声がなかったら、私はあのまま絶対切られていただろう。
それを思えば、一番の功労者はくぅちゃんだったと言ったっておかしくはない。
「そんなの……。あれは、日吉が危ないと思ったから夢中で、」
「それがすごかったんだって。
えっと、 『日吉の神人が託宣を切るか!』 だっけ?
全部の刀がピタッと止まって、魔法の呪文かと思っちゃったくらい」
「邪法なんかじゃないよ、ほんとのことだもん。
わたし、嘘は一つもついてない。
…少しは、省略もあったけど。
でもそれは、わたしと母さまが日吉じゃなくて出雲の神人ってことだけだし。
後はいつもの口上と同じだもん」
「それでも止まっちゃうのか」
信仰や信心深さにおいて、時折驚くほど素朴な人々に出会う。
その内側に居る人間と外にいる人間の認識の違いも加算されれば、私のギャップと困惑は大きくなるばかりだ。
『日吉の神人(じにん)』と聞いて、日吉神社に使える巫女だろうと思いこむのは早合点しすぎる。
日吉神社関係だというのはその後ろ盾があるという意味で同義だが、『神人≠神職』の人数も莫大なのだ。
私からすれば、神社や寺の庇護のある人間全てが、神仏を信じているとさえ思えない。
鍛冶などの職人連合に、塩・米・油の座商人、金融業に至るまで資本を出しているのが大手の寺や神社だ。
これら各種の仕事に携わる人々の全てが、自己紹介で『〇×の神人です』と一概に言ってしまえる。
私達のような傀儡子などの流れの芸人まで含め、その所属する職種の幅はとても広い。
寺社は大株主のようなもの。
だから『神人』は、各寺社系コングロマリット(異業種複合企業)の『社員』と言い換えられてもおかしくはない。
この時代の『宗教』と『資本主義』は密接で別ち難い関係だ。
しかし地域差は激しく、職業が尊ばれたり蔑まれたりも複雑で、どこに線引きがあるのかわかりにくい。
それでその上、私が前世知識からこの二つは別枠に考えたくなってしまうとくれば――。
「――やっぱり、私が全然わかってないってことなのかなぁ。
宣伝の口上は芸のうちだから、派手でも当たり前だと思って聞き流せちゃうし。
『神楽』と『辻興行』って、私の中では同列になるものじゃないし。
なのに言葉どおり私達まで神様の一部扱いされたら、違和感ありすぎるんだよね。
そうだよ。命が助かったのを感謝して、何かお礼したいって気持ちはわかるよ。わかる、でもね。
神様相手になら止める気はないけど、私達に神社を奉納したいっておかしくない? おかしいでしょ?
あーでも、大名みたいに力がある人達だと、スケールが違うのは当然ってことなのかなぁ。
お礼がわりに新しく神社建てるとか、しちゃうのも普通?
戦勝祈願するのは常識で、戦う日時まで占いで選んだりもしてるから?
そういう日々の積み重ねで、私達よりも信心深くしていても、別に変っていうわけでもないのかな」
「日吉……。
…………でも、人の生死を動かすのは本物の神様の御技なの…」
「え?
ごめん、くぅちゃん、何? ちょっと今のとこ、上手く聞き取れなかった」
「なんでもない。
日吉は日吉なんだなって、だけ。
それに、日吉は難しく考えすぎ。
疲れてるんだから、無理しない方がいいよ。
武士のことなんて、わからなくてもいいの。わたしや日吉とは違うんだから、ね。
あっ、でもほら噂をすればって、」
袖を引かれて視線をまわせば、焚き火の向こうにいたはずの少年と年配の武士の姿が近づいてくる。
離れて座っている私達のもとへ、わざわざ火種を運んできてくれたらしかった。