「……さぎ、り……お前、生きて」
男はおぼつかない足取りで一歩踏み出し、立ち止まる。
驚いた仔馬が奥に立つ私の方に駆けて来たが、彼の視線が彼女から外れることはなかった。
彼女は声を上げることもなく、ただ静かな眼差しを彼に向けている。
男の腕がわずかに震えた。彼女へとその腕は差し伸べられるかに見えた。
しかし、固く握られた拳は、開くことなく力なく落とされる。
入口を背にした表情は逆光となり、私の方から細かな動きはわからない。
聞こえるのは、僅かに乱れた息遣い。彼の纏う張り詰めた空気が、重い。
目の前で繰り広げられるシリアスな場面に対し、私は完全に部外者だった。
つくりあげられる二人だけの世界に口をはさむ余地はない。たぶん視界の片隅にも入っていない。
サイズ的に隠れるには無理な体を押しつけてくる仔馬を宥めながら、自分の役どころについて考えてみる。
……ヒロインが母馬なら、子役は仔馬。私も「やじ馬」にでも改名すれば、ちょっと仲間っぽいかもしれない。
「死んだと思っていた彼女との運命の再開。しかもそこには幼子が!」という煽りの字幕がふと浮かんだ。
――――― 戦国奇譚 急がば回れ ―――――
思わず茶化してしまったけれど、それは内心だけのこと。実際は息をひそめ静かにしていた。
彼は帰りの際もこちらを気にするそぶりは一切なく、私のことなど完全に忘れ去られていたのだと思う。
空腹を思い出し騒ぎ出した仔馬の声さえ全く耳に入っていなかったようで、みごとなまでに無視された。
関心の度合いの差も、それこそあそこまであからさまであれば、返って潔いと言えるのかもしれない。
思いつめた表情で自分の世界に引き籠ってしまった彼が、無言でふらふらと帰って行くのを私は黙って見送った。
いろいろ思うことはあったけど自制して、最後まで邪魔せず私はちゃんと我慢したのだ。
とりあえずそんな彼の態度をさて置けば、誤解が解けたことは良かったと思う。
それに、彼女の名前が判明したのは純粋に喜ばしい。
彼の呼んだ「さぎり」は、気象の「霧(きり)」のことで、たぶん「狭霧」と書くのだろう。
彼女の馬体は灰色。鬣は未明の空にも似た薄いクリーム色。
霧は、深い夜の終わり、朝の強い陽光に払われる一歩手前、眠りから覚める世界を優しく包みこむヴェールだ。
神秘的で、魅力的な、彼女のイメージに沿うとてもいい名前だった。
「彼女にぴったりで素敵」と、新たに手に入った賛美のネタは私を充分うっとりさせた。
でもそれはそれ、うっとりに浸かってそれでお終いという訳にはいかない。
世の中はそれほど単純ではない。彼には彼なりの事情があるように、私にも私の都合があったりする。
第一は、いくつか確認したい情報が他にもあること。
それから、私の精神衛生上の問題としてもう一つだ。
私は、今はまだ「無視される」のはちょっと遠慮しておきたい状態だったりする。
「無視」は、私が精神的に参ってしまった時の引き金の一つでもある。
一度脱した「鬱」にまた戻るとは思わないが、全く気にせずにいられるほど回復しているとも言い切れない。
過去のことと割り切れずショックに感じているということが、さらにショックだったのが正直なところ。
緊急避難でも「笑い」に逃げられるくらいだから、深刻ではないし、気にしないよう努力することも出来ると思う。
でも、心の負担を好んで負いたいとは思わない。
たぶん、一言二言でも言葉を交わせば、それで気持ちは治まるはずだった。
さっきはとりあえず彼の気持ちを優先させたけど、私も自己犠牲に快感を見出せる出来た人間ではないし。
だから少し時間をおいて、でも私の都合で、暗くなる前にもう一度母屋を訪ねることにする。
しかし、相手あっての事柄は、アポ(予約)がなければ予定は未定。
勇んで向かった先で私を迎えたのは、物音一つ聞こえない、しんと静まり返った家屋。
晴れた日の午後には相応しくない、固く閉ざされた屋敷の雨戸が訪れる者を無言で阻む。
母屋を一周しつつ、この家に人がいるのを最後に見たのはいつだったか思い出そうとして、私は小さく呻る。
記憶の背景を探れば、雨戸が開いていたのを見たのはそう古いものではなかった気もする。
けれど、目の利く明るい光の中では、住人がいなくなって久しいことは隠しようもない。
ささくれが目立つ濡れ縁(えん側の外床)の前で、私は足を止めた。
日に焼けて色が褪せた台木の、乾いて割れたその裂け目に、慎重に触れてみる。
指の腹に感じる、細く尖った木の棘。
人が日常的に使っているならば、ケガをしそうなこんな状態で手をつけず放っておくはずがない。
私の看病の時の配慮を思い出せば、ここだけ見落とされているとは考えられない。
ささくれは、数日どころではなくかなり長い間、誰もこの場所に立つ者がいなかったことを私に告げる。
埋まるほどに砂の溜まった母屋の敷居も、同様だった。
昨夜彼が出てきた納屋については、覗いてみてもよくわからなかった。
納屋はこの屋敷の大きさにしては物が少ない印象を受けたが、後は何の変哲もなく綺麗に片付いている。
最近は雨が降っていないから、軽く風が吹いても砂埃が舞う。薄く積もった砂は、使用者の痕跡を消してしまう。
だから、人が居てもおかしくはないけれど、居なくてもおかしいとは言い切れない。
でもこの場所は、つい先日まで人が住んでいたと言うには、どこも生活の匂いが薄すぎた。
見つけてしまった状況証拠。
それと革職人さんの言葉と無理やりにでも組み合わせてみれば、ここの住人がいない理由は一つ。
戦火を避けての疎開にはこの辺りは静かすぎるから、「戦に行った」ということになるのだろう。が、……しかし。
一家全員、女性も子供も一緒に連れて?
狭霧(馬)と私(余所者)を敷地内に残したままで?
それに「戦」が答えなら、狭霧と訳ありの彼のことや、私達に届けられる食糧についてはどうつながるのだろうか。
私は名探偵ではないので、これだけの手がかりだけで納得のいく推理を展開させる能力は残念なことにない。
わからないことばかり。惑う私の足元を、小さな風が吹きぬけていく。
閉めた木戸や雨戸の隙間が、悲鳴に似た音を奏でる。
私はなんとなく自分を守るように両腕を前に組んで、うつむいた。
春の光が柔らかいからか、地面に落ちる影までが淡い。
その淡さに、記憶のあいまいさが重なって滲む。
時計もカレンダーもない。確認し合える仲間もいない。
全部自分の記憶だけが頼りだというのに、私はその記録を残すことさえ怠っていた。
三日前、一週間前、半月前、一月前。私は何をしていた?
思いだそうとしても、目立ったことのない普通の日など、正確に覚えているはずもない。
まるで霧の中や、狐にでも化かされたかのような感じで、不安になる。
狐か……。 「ホラー(恐怖モノ)」の舞台として、田舎の廃屋というのは「有り」だろうか。
横溝氏の作品はホラーじゃなくて推理物だったけれど、あの雰囲気は怖かった。
ああ、でもそれよりも、この場合は「日本昔話シリーズ」とかの方がふさわしいかもしれない。
あれの冒頭は「昔々~」で始まるのが定番だけれど、この時代を舞台にした物もありそうだ。
現代での「都市伝説」と同じ感覚で、「友達の友達が~」や「知人の友人が~」で話を始めても通用しそう。
小屋のささやかな野菜まで狙うのか、小動物の足跡はこのあたりでもよく見かける。
そんな狐や狸はもとより、日本狼だって絶滅前。山に入る人間が、熊に並んで狼に警戒するのは常識だ。
人の手の入らない未開の地はまだまだたくさんある。
お伽噺の主役になる、河童どころか妖怪の一匹や二匹、隠れる場所に困ることなどないだろう。
夕焼けを見る前に、私は踵を返す。
この時、小屋へと帰る足取りが自然と速くなったのは、しかたがないことだと思う。うん。
想像力は、発想力。
物事を応用したり、臨機応変に対応したりするのに欠かせない役に立つ大切な能力だと、私は信じる。
人間らしく文化に親しみ、文学その他から情緒に刺激を受けるのも悪いことではないはずだ。
でも、先行きの不透明さに対する不安を誤魔化すにしても、何故こっちなのか。
感覚が普通に戻り始めているせいか、人恋しさに妙なことばかり考えついてしまうのはちょっと困る。
午後の気分を引っ張って、つい就寝時にまで、「怖い話百選」なんてお伽噺が浮かんでしまうのはいただけない。
この手の話は仲間とするから楽しいのであって、一人の時に思い出すものではないのに。
話を聞いてくれた友人達を懐かしむついでにしては、破壊力が高すぎる。
経でも唱えれば怖くなくなると思うのは間違いで、「耳なし法一」をはじめ、坊主ネタは意外と多いのだ。
お寺とお化けは切っても切れない仲だけに、こんなことまでしっかり覚えていられるのは嬉しくない。
しかも眠って忘れられればよかったのに、そう上手くいかなかったからなお始末に悪かった。
夢にまで見た、とは言わないけど。
でもたぶんそのせいで、次の日それを目にした瞬間、連想の方向を明らかに間違えた。
「…ひっ(妖怪!?)」
何もなかったはずの小屋の外に突然現れた歪な「何か」を見て、私が最初に思ったのがこれ。
それは、大人の足で入口から15歩ほど離れた距離にあった。
未確認物体を発見した私の小心な心臓はギュッと縮み、水汲みに踏み出しかけた足は凍りつく。
しかし、まさか妖怪なんてものが本当にいるはずもない。
朝の薄闇にかすむ影の正体をよく見れば、昨日の彼だ。
いつからそこに居たのか、こちらを向いてぼうっと立っている。
人間だと視認した。確認した。認識もした。
けれど妖怪だなんて思っては失礼だとわかっていても、かいた冷や汗は戻らない。
鼓動は早いまま、喉は強張り、挨拶の言葉は腹中で凍結中だ。
それどころか、出した足を即座に引っ込めたかったし、開けた戸を再び閉めたくて指が震える。
それでもどうにか堪えられたのは、解凍までに時間がかかったからだ。こういうのも不幸中の幸いなのか……。
でもその時間差のおかげで、疲れた顔で黙っている男の視線が、向かっている先に私は気がつけた。
彼の目は私を通り越し、後ろの小屋奥を一途に見つめていた。
彼の関心が向いている先は、私ではなく彼女。「狭霧」しか見えていないらしいのは、一目瞭然だった。
しかも彼は、私が驚きから立ち直りどうにか挨拶をしようと口を開いたところで背を向ける。
一音、一文字、一言も無しだ。
昨日にも増した無視っぷりに怯む私を置いて、彼は片方の足を引きずりながら去って行く。
不意打ち過ぎてまともに反応する余裕さえ全くなかった。―――これが、一日目の出来ごと。
それから数日間。このストーカー、感(もとい)、妖怪青年に私はたびたび驚かされることになる。
気づけば小屋の傍に立っている。常に無言で突然現れる。
それでじっと視線を注がれて、いつのまにかいなくなっていて、普段の所在はまったく不明。
食糧などを運んでくれることもあるらしいのだけれど、不定期で挨拶もなく、挙動も少なすぎてやっぱり怖い。
こちらから声をかければ視線が動くことはある。でもそれ以外の反応は無いに等しい。
思いつめた顔をしている日もあるし、ぼんやりしているだけのような時もある。
周りをうろつかれても悪意は感じず、ただ考え事をしているだけに見えることもある。
「大丈夫?」と尋ねてみたかったり、お節介をしたい気持ちが湧いたりもしないわけではない。
そうできる方が、本当はずっと気が楽だ。
けれど一人で考えたい時があることもわかるから、よけいな手出しはいけないかとも思い、私は手を拱く。
私も狭霧との生活の中で、自分の弱さをどうにかしようと一度ならず考えた。
人間不信をこのままにしていてはいけないという気持ちを、完全に見ないふりは出来なかった。
結局はどうにもならなくて、私がしたのは、彼と同じように一人ただ意味もなく歩き回ったことぐらい。
無意識にも人の居ない早朝を選んでいたのが、想いはあっても決意にまでは至っていない証拠だった。
迷いを打ち消すほどの強さを見つけ出せなくて、費やした時間は長い。
心が定まるまでには、時間がかかる。
でも、自分で答えを出すまでは待ってほしい。急がされたくない。触れられたくない。
他人への反応がおろそかになるのは、何かを見つけようともがいている証左に思える。
私との対話を望むなら、小屋から出てくる可能性の低い早すぎる明け方などには来ないだろう。
一人思い悩み、黙って佇む彼の姿にあの時の自分が重なって、私は口を閉じる。
急がば回れ、だ。目的地に直行することだけが、道ではない。
狭霧と仔馬と、時々、青年。
私の生活は、この三つで構成されるようになった。
朝は、寒い中にも元気いっぱいの、三日目には自力で乳を飲めるようになった仔馬に起こされて始まる。
日中は狭霧の体調に気を配りつつ、食餌に加える木々の新芽を摘んで茹でたり、若草を求めて周辺を歩きまわったり。
それで時々、不意に現れる青年を遠目に観察。
彼が悩んでいる時間は、私にとってのリハビリの時間だと思うことにしたのだ。
彼の不機嫌が、私は怖かった。
革職人さんは友好的だったからわからなかったけれど、外の世界に出ていけば友好的ではない人の方が多い。
「無視された」くらいで大きく凹んでいては、世の中渡っていけない。
そういう相手に対峙するたびにトラウマだのなんだの言い訳するよりも、克服してしまう方が前向きで好みだし。
それに、待っているだけなんてつまらない。
そう例えば、厩の寝藁を干すついでに狭霧用ブラシも日干しにしてみるとか。
掃除の時は、入り口に簡易柵代わりのつっかえ棒をするだけにして、中をのぞけるようにしてあげるとか。
目標があれば、彼の気を引いて長くその仏頂面を眺められるよう「画策する」のも結構楽しい。
驚くことは止められなくても、不機嫌な相手に対して、慣れて気にせずにいられるようにするという計画だ。
見慣れるということが、「親近感を上げ、プラス評価を加算する」と心理学でも説明されている。
「無視」がちょっとくらい怖くても、計画も策略も、謀略も大好きだ。楽しいと思えれば、頑張れる。
彼のおかげで人恋しさも半減しているし、感謝も感じるのでそれなりに効果も上がっているのではないかと思っている。
この時間も、見方を変えれば、私に与えられた猶予期間のようなもの。
待たされることはつらいことではない。
狭霧達と暮らしたこの数ヶ月間の、穏やかな生活が続くことを望む気持ちも、私の中に確かにある。
形にするなら、壁の隙間から差し込む光の筋が、寄り添い眠る馬の親子を包む、まるで聖画のような静かなひと時。
変化を望み、停滞への焦りも感じているのに、この優しい世界を壊されたくはないと祈りにも似た想いを抱く。
しかしおそらく、どんなに遅くなったとしても、季節が変わる前には事態は動きだす。
閉じた世界なんてない。人はいつまでも楽園にいられないことを、私は知っている。
彼の中で何かしらの決着がついた時、そこから始まるだろうとの予感がする。
だからこそ、その時にちゃんと飛び出していけるように、準備することが今すべきことだった。
そして、そのきっかけは、私が思うよりも早くやってきた。
仔馬が生れて、七日目の朝のこと。
昨夜ちょっとした騒ぎを起こったせいで、私達の朝の支度はいつもより心持遅かった。
ちなみに、仔馬には、三日考えてその光のような毛色から「旭日(あさひ)」と名前を付けてみた。
彼女と違って正真正銘の名無しちゃんなので、遠慮はしていない。
本物の飼い主に何か言われたら、その時はその時。
それで、その昨夜の騒ぎというのも、仔馬の旭日がひきおこしたもの。
旭日は狭霧に似ず、落ち着きがない。静かなのは寝ている時だけ。
仔馬だからなのかもしれないけど、好奇心旺盛で怖い物知らずのやんちゃな娘だ。
私の布団に噛みついてみたり、食べられもしない狭霧の食餌に頭を突っ込んだりといたずらばかりしている。
昨日の夜はそれが行き過ぎ、立てかけていた鋤(すき)を突き倒して、跳ね返った鋤の柄が当たったと大騒ぎ。
彼女は散々藁をはね散らかしながら、小屋の中を走り回った。
興奮したからか夜遅くまで寝つかず、そのせいで今朝の旭日はおとなしい。
でも、それが、油断につながった。
私は食事の煮炊きは、外にある竈(かまど)でしている。けど、水甕だけは凍らないように小屋の中。
旭日がいるから今後は外置きの方が望ましいのかもしれないが、まだ出してはいなかった。
だから、小屋の中で鍋に水を汲むと、それを抱えて外に出る必要がある。
鍋を手にした状態のままでは、滑りの悪い引き戸を片手でしめることはできない。
私は鍋を外の竈まで運ぶ。そして戸を閉めようと振り返れば、そこに、旭日がいる。
全身すっかり小屋から抜け出して、キョトンとした顔で小首をかしげてこっちを見ている。
まさか見知らぬ世界にいきなり出て来るほど、無謀な娘だとは思っていなかった。
狭霧にはとりあえず一本手綱がかかっているけれど、仔馬の旭日には何もない。
掃除の時には渡しておく横棒も、短い時間だからとかけなかった。
「んわ、ちょおっと、待った。ストップ。フリーズ。じっとしてて。
いい子ね、いい子だから、動かないでよ」
部屋で逃げ出した小動物を追いかけるのでも大変なのに、ここは外。
濠や生け垣をめぐらせたお屋敷ではないので、当然、牧場のように境界を仕切る柵を望んでも無駄だ。
驚かせて走られでもしたら、仔馬とはいえ馬の足に追いつける自信はない。
すり足でゆっくり近づきながら、気を逸らさぬよう声をかけ続ける。
この手で乳を飲ませていた頃と違って、今の私たちの関係は立派な遊び友達になっている。
狭い小屋の中で突進したり突進されたり、ジャンプしたりして遊んだことも今は痛い。
旭日が私と「追いかけっこ」を楽しもうと思ってしまったらアウトだ。
「これはね、遊びじゃないの。だから逃げないで」
無垢な幼い眼。澄んだ黒い瞳が私を映す。
小屋の中では狭霧が待っている。
仔馬を心配してか、呼ぶ声が微かに聞こえる。
「ほうら、お母さんも、呼んでるでしょ。
いい子だから、お家に帰って、ね?」
しかし、あと一歩。
ぴょんと跳ねた、仔馬の足。
伸ばした手は、空振った。
嬉しそう、……楽しそうだけど、こっちはそれどころじゃない。
「待って、待って、待ちなさい、旭日。
ちょい待ち、ホント、ダメだから、行かないで」
遠くまで逃げていかないのは、やっぱり遊んでいるからか。
小柄な体に似合って、跳ねる足取りは羽根でも生えているように軽い。
追いかける私の体力はすぐに底をつき、不安も合いあまって息が乱れる。
旭日は私がいることで気が大きくなっているのかもしれないけれど、こっちの心情は真逆だった。
烏(からす)に野犬、狼の姿が目の裏にちらつきだす。外の世界には、怖いものがいっぱいいる。
それなのに何も知らない箱入り娘の旭日は、無邪気に私を翻弄する。
庭と判断していたその境界さえ越えそうになって、頭が真っ白になった。
その瞬間、仔馬に伸ばされた大きな手。
恐慌状態に陥りかけた私を救ったのは、あのいつも突然やって来る妖怪青年。
狭霧と訳有りの彼が、仔馬の短い鬣を上手に捕らえ、しっかり押さえてくれていた。
「ありが、とう、ございます。ごめんな、さい。
こら、勝手にどっか行っちゃだめでしょ。
もう、すごく心配したんだから。
すごく、すごく心配したんだから」
息が上がったままお礼の言葉を絞りだし、後は旭日に一直線。
驚かせて再び逃げ出させるわけにはいかないから、怒鳴りたくなるのだけは必死で抑え込む。
心配し過ぎると腹が立つらしいと頭の隅で考えながら、ぐりぐりと旭日の額に額を重ねて言い聞かせる。
嫌がって耳をパタパタさせているけれど、これくらいは言わせてもらわなければ私の気は治まらない。
「外はね、危ないの。
怖いけだものがいっぱい。
旭日なんて、一口よ。ぱくってされちゃうんだから。
お願いだから、いい子にしてて」
「……この仔は、狭霧の仔か」
「そうです」
「元気だな。丈夫そうだ」
「はい。すごくやんちゃで、いたずらで、怖い物知らずで」
「外に出してやる方がいいかもしれない。
狭霧も一緒に出せば、遠くに行くようなことはないだろう」
「えっと、それって、」
「もう少ししたら、田起こしも始まる。
狭霧に……。あいつに、鋤き込みを手伝わせることは出来るだろうか」
「大丈夫だと思います。
外に出られるなら、きっと喜びます」
「そう……、そうか。
ならば、明日、長めの引き綱を持ってくる。
数日は外での馴らしも必要だろうから」
彼の手が、旭日を撫でている。
初めて触れたはずなのに、彼女を落ち着かせ上手く宥めている。まるで魔法の手だ。
私からさりげなく旭日を奪ったその手腕も、みごとだった。
私も見習って旭日を取り戻そうと、そうっと手を伸ばせば、彼は自然な動作で一歩引く。
「明日の朝、食事の終わった頃に来る。
お前は、」
「?」
「名は何だ? 何と呼べばいい?」
「ああ、はい、日吉です。日吉と呼んで下さい」
「ひよし、……日吉、か?
いや、なんでもない」
誰かに自分の名前を呼ばれるなんて、何カ月振りのことだろう。
最後に呼んでくれた微かに記憶に残るあの声は、やはりくぅちゃんの声だったのだろうか。
押しとどめようもなく湧きあがる感慨に眩暈を感じ、私は少しだけ目を閉じた。
だからといって、現実を見失うほど浸っていたわけでもない。
なのに気がつけば、仔馬が尻を叩かれながら彼に追われ、小屋の中に入れられるのを見送ってしまった。
その手際の良さに、思わず口が開く。さっきの感慨とは別の何かが、ふつふつと胸に湧き上がってくるのを感じる。
久しく忘れていたその感情の名前は、そうアレだ。
「ライバル(好敵手)発見!」ってやつに違いない。