『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:三章-01」
眼が醒めると、見覚えのある天井――。
まるで何十時間も眠っていたかのような鈍重な思考。目を開き、そこに映るものを捕らえてはいるが……それ以上、身体を起こすことも、寝返りをうつことも億劫なくらいに、全身が鉛のように重い……。
――酷い、夢だった。
武はか細く震える吐息を漏らす。寒い。
室内の気温のせいではない。……魂の底が、冷え切って凍えてしまったための寒さだった。
「…………ッ、」
づぐん、と。
心臓の横が啼いた。或いは、覚醒した脳に血流が流れ込んだ衝撃か。
言い知れぬ「痛み」。それに合わせるようにこみ上げてきた吐き気に――その記憶に――武は、跳ね起きる。
「ゆめ……だと……っ」
嘔吐の代わりに、掠れた言葉を吐き出す……。
――そんなこと、あるわけねぇだろっっ!!!!!
否。
アレが夢であってくれたなら、一体どれ程幸福だろう。
部屋に備え付けられた時計を見る。――――アレから、八時間が過ぎていた。
……まだ、八時間しか、経っていなかった。
脳裏にまざまざと刻まれた、赤と黄色の光点。
画面全体が赤く染まり、その波に飲まれるように消えた……小さな、黄色のマーカー……。
純夏が、死んだ――――?
ぶるり、と。全身が瘧のように震える。冷たい汗が背中をぐっしょりと濡らし、戦慄悪寒に身体機能を支配され、無様に震え続けた。
莫迦な、という思いが脳髄を駆け巡る。――そんなことあるわけない。あっていいわけがないっ!!
「はっ、はっ……ぐ、ぁ、はっぁ、はぁ、はぁっ、はぁっ…………ひ、ぎ、ぁ、ぁあ」
心臓が狂ったように跳ね回る。
激流となった血液が灼熱に脳を焦がす。
呼吸がままならない。震えを止められない。――その光景だけが、ただ繰り返し、繰り返されて――ッッ。
「ぅっ、が、ああっっ!! あ、あああ、アアアあああああああああああああっっっっ!!!!!!!!」
ベッドから転がり落ちる。受身もなく、肩を強かに打ちつけながら、けれど武はすぐさま立ち上がり、まろぶようにドアノブに手をかける。
「ああっ、あああっ!! ぅああああああ!! ――嘘だっ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だッッ!!」
そう、何もかもが嘘だ!
昨日見たあの戦域情報も、純夏からの手紙も、北海道に転属なんてことも、京都陥落も、本州襲撃も、まして――――
「純夏ッ、純夏、純夏純夏ァァア!!」
――――鑑純夏が、死んだ、なんて、ことがっっっっっ!!!!
「ぅぉおおああああああああっっ」
ドアをぶち開け、転がるように走り出る。ただ衝動のままに悲鳴染みた叫びを上げながら、走る、走る!
どこへ?
何処へ行こうって言うんだ!?
武の理性が絶叫する。恐慌に陥った精神が泣き叫ぶ。
叫び、叫んで、泣き叫んで、我武者羅に走り続け――その先へ向かう。
信じられるわけがない。
あんなことが現実でいいはずがない。
だからアレは全部自分の夢で、悪い夢で、なんて最低な想像で、絶対にあってはならないことだ。
そうだ。そうに違いない。――そうじゃなきゃ、そうであってくれなければっっ!!
「はっ、はぁ、はぁ! はぁ! はぁ!」
辿り着いたのは一面の雪景色。まだ日の昇らない早朝の静寂、切り裂くような冷気。
基地を飛び出して、真っ先に視界に飛び込んだその風景は……容易く、「それが現実」なのだと知らしめていた。
「うそだ…………うそ、だろ? そんな、ばか、な」
踏み出した足が、紛れもない雪の感触に埋もれる。昨夜のうちに降り積もったのか、新雪のように柔らかな白色は、儚く幻想的で……やっぱり、これも夢の続きではないのかと一抹の希望を覗かせる。
――希望? 否、それは願望だ。
紛れもなく、白銀武自身がそう望む、願い。
これが夢であって欲しいという、叶うはずもない愚かしいほどの哀しみだった。
「は、は、ははっ……くくく、冗談じゃ、ねぇ、ぞ……純夏、嘘だろ? ホントはお前、ちゃんと疎開してるんだろ? はは、驚かそうったって駄目だぜ。お前のことは俺が一番わかってるんだ。……お前のことでわからないことなんて、ないんだ……っ」
気づけば、雪の中に膝をつき、力なく笑い続けていた。
何を笑っている、何が可笑しい……自問するが、答えは出ない。
「ああ、そうか」
フ、と。虚ろな光がその双眸に宿る。乾いた笑いを漏らし続けていた口は閉じられ、淡雪に濡れた両足で立ち上がる。
「そうだよな。俺、なにやってんだ」
能面のような表情とは裏腹に、やけに張りのあるその声。まったく莫迦だな……そんな風に自嘲しながら、武は雪の向こうを目指して歩き始める。
「――――白銀ッ!!!!」
悲痛な響きを持ったその叫びに、なんだろうと振り返る。
札幌基地の入口、驚愕を顔に貼り付け、肩で息をする水月がそこに居た。
「……? 速瀬さん?」
「……?! し、白銀ッ……あんた……」
一体どうしたのだろう。どうして水月がそこにいる? 武はぼんやりと疑問に思いながら、けれど、彼女の様子に全く気づかず、ただじっとその姿を見つめていた。
「白銀……。…………茜に、聞いたわ。様子を見に行ったら部屋に居なくて、そしたら、柏木が叫びながら走ってるあんたを見たって……」
「……はぁ。涼宮と柏木ですか? なにかあったんですか」
水月の表情が固まる。武の口から出た言葉、それを信じられないという風に……水月は、ぎりりと奥歯を鳴らした。
「あんた……なに考えてるの……? 茜も柏木も……ほかの子たちも、皆あんたを心配してる」
つい数分前のことだ。
水月の脳裏に蘇るのは、その耳朶に響くのは――親友の妹の、どこか身を引き裂かれそうな泣き声。
――白銀が居ない……。
武の部屋の前で、開け放たれたドアの前で……茜は膝をついて泣きじゃくっていた。そこに焦燥を顕にした柏木がやってきて、武の不在に矢張り自分が見たのは武だったのだと愕然と崩れ落ちた。
昨夜のことを思い出すまでもなく。
白銀武は錯乱している。そして、その武の狂態を目の当たりにした207訓練部隊の全員が…………あまりにも彼女達の知る「白銀武」とは別人のような彼に、その生々しいまでの情動に、心身ともに中てられているのは明白だった。
故に水月は二人をそのまま武の部屋の前に残し、言葉に出来ない苛立ちを憶えながら、こうして武を探し続けていたのだ。
「なに、って……あはは、決まってるじゃないですか。純夏を迎えに行くんです」
「!?」
「あいつ、俺を驚かそうと思って北海道に来てるんですよ。……だったら、迎えにいってやらなくちゃ」
踵を返し歩き出す武を追い、水月は駆け出す。のんびりと散歩にでも行く様子で歩く武をあっという間に追い抜き、正面に回りこんだ。
「……なん、ですか? ……はは、怖い顔ですね。何怒ってるんです? どいてくださいよ」
水月は、ゾッとするものを感じ取った。
武を正面から見つめる。自分の顔を見ているはずの彼は、しかし、その瞳に何一つ映していなかった……。
曇り硝子に映りこんだ自分の顔……武の両の瞳が映し返すそれを、水月は言葉もなく見詰めるしかなかった。
「…………速瀬さん、すいません。俺、急いでますから……」
回りこんだ水月をかわすように、武が更に歩き出す。それを、半ば反射的に遮った水月に、武は――敵意を剥き出しにした。
「なんです? 邪魔、しないで下さいよ……。どいてください。俺は純夏を迎えに行くんだ」
「白銀、あんた自分が何言ってるのかわかってるの?!」
「当たり前です。わかってますよ。わかりきってる。どいてください。俺は、純夏を、迎えに――」
「莫迦っっ!! なに現実から目を逸らしてんのよっっ!? ちゃんと目を開けて、私を見なさいっ!」
水月が武の胸倉を掴みあげる。武は眉間に皺を寄せて、ぎりぎりと歯を鳴らしていた。その視線は水月を射殺さんばかりに、禍々しい思いが渦巻いている。
「――っ、」
思わず、水月は息を呑む。
無理もない。彼女は、武のこんな目を、こんな表情を見たことがなかったのだ。
誰かに向けてのものどころか、まさか自身に向けて、こんな、「敵」を睨みつけるような……烈しい視線。
水月は悟る。――自分はどこか自惚れていたのだと。
初めて武と出逢ったとき、再会したとき、そしてそれからの少なくない邂逅を繰り返す度……白銀武という少年は、少なくとも自分に懐いてくれているらしいと感じていた。或いは……茜のように、憧憬を抱いてくれている、と。
武と話す度に、そしてからかい狼狽する彼を見る度に。
ああ、それはなんと愚かしい傲慢か。
白銀武は、きっと自分になら心を開いてくれると勘違いしていたのだ……。
「しろ、がね、」
「手、放してくださいよ。……それ以上邪魔するって言うなら、いくら速瀬さんでも……」
ギロリ、と。
向けられる敵意が更に異質な物に変貌する。――否、澱み、濁ったその瞳からは明確な殺意がドロドロと込み上げて来ていた。
「――!!?」
まずい。
このままでは、いけない。
水月の中の戦士の部位が警鐘を鳴らす。
自分の身のことではない。――そんなものは、今は二の次で構わない!!
「白銀ェっ!!」
このままでは、いけないのだ。
思い込みだろうが、勘違いだったのだろうが…………武の本心が、一体どんなものであったのだとしても!
今、向けられている敵意と殺意が、本当に武の……水月への思いの全てなのだとしても!
それでもっ、ああ、それでもだっっ!!
速瀬水月にとって、白銀武は。彼という少年は――――、
まるで、血を分けた弟のような、そんな…………護りたいと思う、手を引いてやらなければと思う、そんな……!!
「しっかりしなさい白銀武ゥッッ!!!」
左手で胸倉を掴んだまま、右の拳で殴りつける。――ッガ!
武は左の頬を強かに打ち付けられ、衝撃に倒れそうになる。だが、尚も掴みあげている水月の左手がそれを許さない。
困惑と、完全に噴き出した衝動的な殺意の炎が、武の瞳に宿る。血の混じった唾液を吐き捨て、武は自身の右拳を容赦なく水月の腹へ見舞った――が、予測済みといわんばかりに水月の右拳がそれを受け止め、――胸倉を掴んでいた手が放され――武は宙を舞った。
ドサリ――!
脛まで埋まるほどの深い雪の中に、背中から叩きつけられる。ダメージは大したことはないが、しかし、立ち上がる暇もなく襲い来る水月の蹴りに、僅かに身体が浮くのを感じる。
「げっ、ぁ!!!!!」
ごろりと身体が裏返り、今度は仰向けに新雪へ埋もれる。武は最早半狂乱に近しい状態で、それでもなんとか両手をついて起き上がり――自分は一体どうしてこんな目に遭っているのかと薄ぼんやりと思考する。
「眼が醒めた? 白銀……」
「は、やせ……ごっ、ぁ、げほ……、さん? なん、で――――ぁ、ぁああっ! 俺はっっ!! っ、邪魔、しないでくださいよっっっ?!!」
殺意に染まった瞳は、敵意すら霞ませて……先ほどと同じ、虚ろに反射するだけのそれに戻っていた。
狂気に歪んだ表情は……痛ましいほどの哀しみに染められて。
「どいてください! 俺は、俺は迎えに行かなくちゃ……っっ!! 純夏が、待ってるはずなんだ……純夏がッッッ!!」
「鑑は居ない。北海道になんて来てない」
「?! ……じ、じゃあっ……ああ、そうだ、なら、帰らなくちゃ……!! そうだよっ! 純夏は俺を待ってるんだ!! 俺が横浜に帰るのを! 家に帰るのを……待ってるって、そう、書いてあったんだ!! 手紙に、純夏からの手紙に……俺を待ってるって、帰ってくるのを待ってるって!!!!」
再び頬に衝撃。今度は、平手打ちだった。打たれた顔をそのままに、しかし武は尚も叫ぶ。
「帰らなきゃ! はやく……早く帰ってやらないとっっ!! ああ、そうだ、急がなきゃ、はやくしないと……BETAがっ??!」
水月が、武の両頬を両手で包む。まっすぐと自分の方を向かせて、正面から武の瞳を見詰める。
「は、やせ……さん、どいてくだ、さ……BETAが、べーたが、はやくしないと、すみか、がっ……ぅぁ、ぁああっ」
「白銀……現実を見なさい」
「い、ぃやだっ……なにを、言って……放してくださいよ、どいてくださいよっっ!!」
「白銀ェ! いい加減にしなさい!! ――――あんたまだ生きてんでしょぉっ!!!!!!」
唇が触れそうになるほどの近しい距離で。
水月は吠えるように言った。
武の顔を正面から見詰めて、怒りを顕にした顔で……哀しみを顕にした声で……。
「ぅ、ぅぁあ、あああっああ! ああああああっっ!!!!」
虚ろだった武の瞳に、じわりと滲む透明な色。
暖かい温度を持ったそれは、冬の冷気を溶かすほどに熱く……頬を、伝い落ちる。
「あんた、まだ……生きてるのよ……? だったら、どんなに悲しくて辛くても……生きて生きて、精一杯生きて……、そして、鑑に逢いに逝きなさい」
「うっ、ぐ、ぁ、ああぁ」
「…………泣きなさい。好きなだけ、泣けばいいわ。――だって、あんたは生きているんだもの」
頬を包んでいた手を放し、武の身体を抱く。
「ああああああああああああああ!! ぅああああああああああああああああっっ!!」
武は全身の力が抜けたように水月へもたれかかり……抱きとめる水月に埋もれるように……声の限り泣いた。
子供のように、母親に縋りつくように。
喪われた彼女を想い。
喪われた護りたいものを想い。
――大好きだった。
――護りたかった。
――そのための力が欲しかった。
――純夏、
――俺は、それでも…………お前をこんなにも愛しているのに……っ!!
「あっ、あぁああっ!! 純夏、純夏、純夏ァ……ぅああああああっ! 純夏、純夏、純夏、純夏ぁああああ!!」
どん、どん、と。握り締めた拳を水月の身体に叩きつける。
悔しい、自分が赦せない、なぜ、どうして純夏が、俺はなんのために、BETA、どうしてっ、なんでっ、BETA、BETAァアア!!!
「くぅぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「…………白銀、今は、なにも考えなくていい。私が居るから。傍にいるから。……だから、今は泣きなさい」
抱く腕に、更に力をこめる。
水月の言葉が届いたのか、或いは身体を伝わる彼女の優しさを感じたのか……叩きつけていた拳はだらりと下げられ、武は……肩を震わせて泣き続ける。
哀しみに、己の無力さに打ちひしがれる少年を抱きしめ、水月はひとつ、自分の運命とも言うべきものの片鱗を感じていた。
北海道への転属、総戦技演習の延期――空白となった半年間はきっと、このために用意されていた。
白銀武を、救うために。
彼と同じ訓練部隊の少女達も、それぞれが武のことを想い、励まし、支えようとするだろう。
だが、それはまだ幼いともいえる彼女達には少々荷が重い……。辛いのは全員が同じ。感受性豊かな年頃の少女達は、どうしても生の感情に左右されてしまうだろう。
ならば、先任である自分が導けばいい。
武が、再び前を向いて進めるように。――少女達が、武に引き摺られることのないように。
手を差し伸べ、引っ張り上げ、支えていく。
この半年間は、そのための日々だ。
強く、心に誓う。――強く、武を抱きしめる。
「白銀……強くなりなさい」
「………………………………は、ぃ」
うん。
優しく頷いて。
ほんの少しだけ抱き返してきた武に、こそばゆいほどの嬉しさを感じていた――。
「……」
「薫、さん…」
基地の入口、分厚い硝子で作られた扉の前で、白雪を踏みしめながら、薫は自身の脚で姿勢よく立っていた。背後には、寄り添うように小柄な亮子。
薫は黙ってそれを見詰めている。
水月に抱かれ、泣き叫ぶ武。
「…………白銀」
呟いた言葉は小さく、けれど強い思いが込められていた。
昨夜の彼を思い出す。
あれほど錯乱し、狂乱し、叫び喚き泣いていた武。それを見、あんまりな哀しみに打ちひしがれた茜や晴子たち。
――同じように、崩れ落ちた自分。
それでも、いや、だからこそ。自分だけでも皆の支えにならなければと、そう決心したのがつい先ほど。
武の姿を求め、基地内を走り回ってようやく辿り着いたその場所には――水月に抱かれる武がいた。
その場景は、ひどく心揺るがせる。
自分では力になれないのかと、そんなことを考えてしまう。
否、そんなことはない。あるはずが、ない……そう、思いたい。
(茜は、ここに居なくてよかったかもしれないな……)
茫漠とそう思う。
……どうしてそう思ってしまったのか。或いは、考えてしまったのか。……この、胸の辺りがざわざわとする感覚はなんなのだろう。
薫は強く強く拳を握り締めた。
「亮子……」
「なんですか、薫さん……」
問い返す亮子も、同じ思いだろうか。少し震えるような声音に、――ああ、想いは同じなのだと、知る。
「あたしは、強くなる……白銀を支えてやれるくらいに……BETAなんて、一匹残らず全滅させてやるくらいに」
「はい……。わたしも、強くなります……っ、ぅ、」
亮子の言葉尻は嗚咽に濡れていた。薫も眼を閉じて……泣くのはこれが最後だと、頬を伝う涙をそのままに。
二人は、強く在ろうと、しっかりと立ち続けていた。
「落ち着いた? 茜ちゃん……」
「……ん、ありがと、多恵……」
武の部屋の前、手渡されたハンカチで涙を拭い、茜はいつも通りであろうと笑顔を繕う。
涙の跡が痛々しい。目は真っ赤に腫れ上がっていて、多恵は落ち込んだ表情のまま、それでも毅然とした態度を装う茜に合わせようと笑顔を見せる。
お互いに何処か無理のある笑みだったが、しかし、それでいいのだ。
今はまだ、哀しみに濡れる時間である。――そして、次第に立ち上がっていく時でもある。
自分は、十分泣いたのだ。
茜は、そして多恵は頷きあい……そして、晴子が戻ってきた。
ひとりになりたいからと、自室へ去っていった彼女だったが……茜たちに見せる表情は晴れ晴れとして、いつもどおりの彼女を見事に演じていた。
……それが演技だとわかるのも、矢張り晴子の目も、赤く充血していたからだ。
部屋で存分に泣き明かしたのだろうか。どこか吹っ切れた様子の晴子に、茜もまた、吹っ切れた表情で微笑む。
「白銀君、大丈夫かな?」
どこか唐突なその問いかけに、多恵は過敏に反応したが、しかし、
「大丈夫。だって、速瀬さんがついてくれてるんだよ」
逡巡も見せず答えた茜はそんなことを意にも介さないようだった。
「あはは、う~ん、確かにあの人なら心配ないだろうけど」
笑いあう二人はそれでも、どこか己に対する力不足を嘆いている節が窺えた。
水月にはできて、自分達にはできない――。その感情は……最も近しい言葉を用いるならば、嫉妬といえるかもしれない。
だが、だからといって水月に対して負の感情を抱くなどありえないし……何より、それで武が立ち直ることが出来るなら言うことはない。
……ただ、どこか心の隅の小さな場所で、それが自分であったならと想わずにはいられない。
「あっ、でも、それだとちょっと厳しいかなぁ~」
「厳しい? なにが??」
笑いながら、晴子がなにやら意味のわからないことを口走る。彼女なりに気持ちを切り替えようとしているのだろう。察した茜が先を促す。そんな二人を見て、多恵は――強いなぁ、と思わずにはいられなかった。
……いられなかった、のだが。
「いやぁ、白銀君、あれで結構胸の大きな人好きみたいだし」
「はぁ?!」
そう。柏木晴子とは、常からこういう発言をする少女である。……多恵は唖然として晴子を見詰めた。別に、感心して損したというわけでは、断じてない。
「速瀬さんに初めて逢ったとき、自分から積極的に胸にしがみついたりとか」
「「ぇええええ?!!!」」
思わず茜と声が重なる。
晴子の暴言にはいいかげん慣れていた茜たちではあったが、しかしその内容は驚愕に値する。
「あははは、まぁ、なんかそれは事実を改ざんしてるらしいけど」
「えぇえ?!」
面白いくらいに反応する茜を見て、多恵は思わず笑ってしまう。――可笑しかった。とても。目尻から涙が零れてしまうくらい。
「…………多恵?」
驚いたような表情で、茜が多恵を見る。きょとんとした顔の晴子が、ああ、と同じように微笑んだ。
「……晴子、多恵……」
「うんっ、うんっ……えへへ、可笑しいね、茜ちゃん……晴子ちゃん。そっかぁ、白銀くんはおっぱいおっきい方がいいんだぁ。……私ぺたんこだからなぁ、残念」
ぽろぽろと零れる涙をそのままに、けれど、とても嬉しそうに笑う多恵。
後半の発言に過敏に反応しそうになる茜だったが、……でも、自然と自身の頬も緩んでいくのを感じる。
そして、目元には暖かいそれが溢れていて。
先ほどまでの、どこか身を引き裂くような涙とは違う…………暖かで、優しくて、想いに溢れたそれが、ぽろぽろと。
「あははっ、多恵ってば、なに泣いてるのよっ」
「そうそう。胸なんて、これから大きくなるって」
「ふぇーん。二人だって泣いてるくせにぃ~っ。既に大きい晴子ちゃんが言っても説得力ないよ~っ!」
「……それもそうね。あんた、一体何センチあるのよ……」
「え? あははは。ナイショ。あ、今度白銀君には教えてあげようかな」
「ええええ!?? 駄目駄目駄目! 駄目だってばっ!!」
「あれあれ、茜ちゃんが必死になってる。な~んで~かな~っ?」
「ちょっ、多恵?! ……な、なな、なによ。なんでそんなにやけてるのよっ?!」
「別に~。ただ、茜ってなんでこんなにわかり易いのかなぁ、って」
「うんうん。そうだよね。でも、そんな茜ちゃんも可愛い」
いつの間にか、三人は互いに、心の底から笑いあい、じゃれ合うように触れ合った。
目尻に浮かんだ涙はもう零れることはなく。
彼女達もまた、自らの心を一歩前に進ませて。
それは、未来を刻むための一歩。
哀しみは、涙は、今……この場所に置いていく。
未来に涙はいらない。――ただ、想いだけがあればいい。
現実に打ちのめされた少年少女たちは…………それぞれが、お互いに助け合い、支えあいながら……少しずつ、前へ進み始める。