『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:三章-03」
「BETAのことを教えろ……って、お前な、座学だけじゃ不足か? ……図書館だってあるだろう。なんでまた俺に聞きに来るかな」
口の周りから顎にかけて立派過ぎる髭を蓄えた熊谷は、もさもさとその自慢の髭をさすりながら問い返す。訓練終了の後、わざわざ彼の自室にまでやってきて座学の続きを求めた武に少々の驚きを覚えると同時に、新兵にしては殊勝な心掛けだとも思う。
熊谷は武を椅子に座らせ、自身はベッドに腰掛ける。腕を組み、ふむとひとつ頷いて、
「……察するに、お前が聞きたいのは教本や資料に書いてあるようなことではない……ということかな?」
「はい。それらは既に片っ端から読んでます。…………でも、その、……俺が知りたいことは、何処にも書いてなくて」
訓練兵が座学で教わるBETAの情報は少ない。宇宙から飛来してきたBETAについて判明している事実があまりにも少ないこともその理由の一つだが……現在の衛士育成カリキュラムでは、正規の軍人として任官した後、つまり「衛士」となった後にその詳細を詰め込むことになっている。
それまでの座学では、例えばBETAは炭素生命であるがコミュニケーションが不可能なこと、数種類の系統からなること、人間と同じ程度の大きさのものから戦術機を軽く越える巨大なものまでいること……等々。言ってしまえば当たり障りのない、非常に曖昧な物だ。
無論、それらの情報だけでは抽象的なBETA像しか浮かばないかもしれないが、それらとて知らずともよい、と言えないのも確か。
時を経て、必要な時に必要な情報を開示する。その時になるまで開示されないということは、即ちそのときまで知らずともよい……という逆説でもあるのだが……。
熊谷は、向けられる武の視線から直感する。――この少年は、「敵」を知りたがっている。
「…………白銀、お前が知りたいのはBETAのなんだ?」
「まず一番に知りたいのは形態的特徴です。……座学でいうような抽象的なものでなく、それぞれの個体について、出来るだけ詳細に。無論、その固有名称に大きさ……あとは、戦闘時における挙動特性も併せて教えていただけると……」
迷いなく発せられたその内容に、熊谷は事実、驚嘆する。
彼はまだ教官という職について数年しか実績を持たないが、しかし、その間少なくとも入隊してまだ一年も経過しないうちから……それも自主的に、BETAを知ろうとする者は居なかった。個体の名称や大きさ。そんなものを知ってどうすると一蹴することも出来たが……武の瞳は真っ直ぐと熊谷を貫いていて、それも躊躇わせる。
「……戦闘挙動特性、ね。お前からそんな珍妙な言葉が出るとは思わなかったぞ」
「酷いですね。俺、これでも座学頑張ってるつもりなんですけど……」
熊谷はくっ、と笑う。武もつられるように苦笑した。
武がこの数週間、訓練に異常なまでの集中力を見せていることは教官である自分が一番知っているし理解している。元々苦手だったらしい座学も、独自に学習することでみるみる内に知識を修めている。
目に見えない場所で、誰に強制されるでもなく自ら率先してそれらを実践できることの凄さを、熊谷はわかっている。
なるほど、ならば武は優秀で、将来有望な衛士候補生ということになるだろう。
自身を極限まで鍛え抜き、飽くことなく知識を渇望・吸収できるなら、それは極めて有能な戦士が誕生するに違いない。
――だが。
熊谷は故にそれを危惧する。
白銀武という少年の、奥底に在る原動力。
心身を鍛え、知識を得ることに労力を厭わない。それは、ある意味当然の心掛けであり、ある意味では先のような優秀な衛士となるために必要不可欠な努力だろう。
熊谷は、白銀武のことをまだよくは知らない。元々、彼は優秀な訓練兵だったのかもしれない。それ故に更なる知識を求め、ここにこうしてやってきたのかもしれない。
だが、それはないだろうと熊谷は溜息をつく。
割と有名な話だ。……何しろ、目撃者は多い。
もうすぐ一月が経過しようとしているが、それでも、あの出来事は……多くの訓練兵の心に突き刺さった鋭利な棘だ。
白銀武は恋人を亡くしている――
目撃した訓練兵が見た限りでは、彼は、とても……見ていられないほどに狂乱し、絶叫し……繰り返し繰り返し、恋人の名を叫んでいたという。
十五歳の少年が。
故郷をBETAに襲われ……そこに残してきた恋人と死に別れたのだ。
まともな精神状態で居られるはずがない。
仮に発狂してしまったとしても、なんら違和感がないほどに。
だが、熊谷の目の前に座る少年は、そこから這い上がった。――否、這い上がろうと足掻き、もがいている。
同じ訓練部隊の仲間に支えられ。或いは、手を差し伸べた先任訓練兵によって。
自身の在るべき姿を見出し、そのために生きようと、前へ進もうと足掻いている。
ならば、今回のこの来訪は一体何を意味するか。
何の迷いもなくBETAの戦い方を教えろと言った彼は、何故にそれを求めるのか。
ヤツは、斃すべき敵を欲している――――。
「……熊谷教官」
長い。長すぎる沈黙に遂に武が口を挟む。
だが、その呼びかけにも、熊谷は応えない。彼は答えを出しあぐねていた。
ここでBETAについて講義することは……可能だ。熊谷自身、衛士として訓練を積み重ねた時代があり、実戦の経験もある。先のBETA日本上陸のような、大規模な戦闘には参加したことはないが、それでもBETAと相対し……生き残った実績を持つ。
だが、知っていて、教えられるからといって……現在、白銀武にそれを教授する必要があるのか。
否――教えてしまえば、一体この鋭すぎる視線を向ける少年はどうなってしまうのか。
今日までの訓練でわかっていることがある。
白銀武は、必死に恋人の死を振り払おうと足掻いている。いや、そこに纏わりつく哀しみから抜け出そうとしているのか。
気遣い、支えてくれる仲間のために、そして何より、自分のために。
その姿勢、在り方はとても思春期を迎えたばかりの少年とは思えぬほど強靭で……倍を生きてきた熊谷でさえ驚嘆するほどのものだ。
だからこそ、恐れる。
今日という日まで、泥沼から這いずり、足掻き、それでも真っ直ぐ前を向いて歩いてきた彼が――敵を求めている事実。
武は、ここにきて捻じ曲がっていこうとしているのではないか。
真っ直ぐだった道から外れて、どこか歪なその道を転がり落ちようとしているのではないか。
熊谷にはそう思えてならない。
「……教官、お願いします……俺に、BETAのことを教えてください……っ」
搾り出すような声は、熊谷の心を揺さぶる。
「Need to Know という言葉を知っているか、白銀」
「え……?」
「そのままの意味だ。必要ならば、知らされる。…………今、知らされないということは、お前がそれを知る必要がないということだ」
武の表情が強張る。驚愕に染まる視線。ぎしり、と奥歯を噛み鳴らす音が響く。膝の上に置かれた拳が、ぶるぶると震えていた。
だが、それでも武は熊谷から視線を逸らさない。挑むように、睨みつけるように……まるで貴様こそが俺の敵だと言わんばかりに……。
内心で熊谷は悲しく感じていた。
間違いなく、白銀武という少年は優秀な衛士となっただろう。真っ直ぐな心で、純粋な想いで、この国のため、世界のため……何よりも護りたい彼女のために。
だからこそ……哀れでならない。
本人の気づかぬ内にその心は捩れ、純粋だった思いは歪み、国のためでもなく、世界のためでもなく……何よりも、喪った彼女のために。
白銀武は崩壊する。
このまま独りで走らせては、彼はいずれそう遠くない未来に、砕け、折れるだろう。
そんなことにはさせない。そのために教官という自分があり、なによりも仲間が居る。
「白銀……お前の気持ちはわかるつもりだ。俺は、戦場でお前のようなヤツを何人か見たことがある……。そいつらは大きく分けると二種類居るんだ」
どこか遠くを見詰める熊谷に、しかし武は獰猛な視線を外さない。熊谷に口を挟む気はないようだったが、挟まれたところで、彼は話をやめるつもりはなかった。
「哀しみさえ想いに換えて、ずっとその想いを抱えたまま戦うヤツ。哀しみを怒りに換えて、ずっと復讐のために戦うヤツ……極端だけどな、大別するとそんなもんだった。勿論、これは俺の視点からみての判断だから、全ての衛士に当てはまるとは言わん。だが、少なくとも赤の他人の俺にさえそう思えてしまうほどの違いはあった。――白銀、お前はどっちだ?」
「?!」
そのときの武の表情は一体どういうものだったのか。
武から視界を外し、遠くを見詰める熊谷にそれはわからない。……だが、どうか……願わずにはいられない。
お前はまだ、これから生き続ける力を持っている。復讐に駆られずとも、哀しみの捌け口に怒りを求めずとも。
お前は、護るためにBETAと戦えるはずだ。
復讐のためではなく。
守護者として――。
「きょう、かん……」
「ま。今日のところはこれまでだな。白銀、どうしてもBETAについて知りたいというなら…………そうだな、もう少しまともな顔ができるようになったら、俺のところに来い。ひょっとすると、独り言が聞こえるかもしれないぞ」
熊谷は立ち上がり、部屋のドアを開ける。その意味を悟った武は、どこか茫洋としながらも熊谷の横を通り過ぎ、彼の部屋を出た。
「……白銀、ひとつだけいいか?」
「…………え?」
どこか生気を失ったような表情で、武は振り返る。酷なことを言ってしまったかと熊谷は苦笑するが、それでも彼は先を行く先任として、訓練兵という武たちを導く教官として。
「お前には仲間が居る。お前は一人じゃない。頼りにならんかも知れんが、俺だっているんだ。――――だから、あまり抱え込むなよ」
僅かに表情を歪めるだけで、武は応えない。
深く礼をして、少年は熊谷の部屋から去っていく。……その心を、激しく波立たせながら。
熊谷は思う。
まだ時間は在る。まだ――立ち直る時間はあるのだ、と。
自慢の顎鬚をこすりながら溜息をつく。しかし、その表情はどこか優しさに満ちていて、絶対に道を踏み外させたりはしないという意思が込められていた。
===
普段の彼女からしてみれば、それは若干早い目覚めだった。
起床ラッパの十分前。目覚ましが鳴る五分前。計ったように目覚め、しかも意識は非常にクリアだ。さて、どうしてだろうと首を傾げつつも、既に眠気は微塵もなく。ならばと目覚ましのスイッチを切り、訓練に備えて着替えることにした。
……起床ラッパまで九分。実に素早い手際である。もっとも、寝る時は下着だけのため上から服を着込むだけでいいのだ。故の素早さである。
ぐ、と大きく伸びをして更に意識を覚醒させる。顔を洗い、水分を補給。うむ、実に爽快な目覚め。しかもまだまだ時間に余裕が在る。
そのせいか、普段の彼女なら思いもしないことが唐突に頭に浮かんだ。
単なる思い付きであったが、しかしその内容は実に魅力的で、且つ、面白そうなものだった。――何が魅力的だというのか、それを彼女自身気づいていないが、しかし思いついてしまった時点で既に実行を決意しているので、その疑問は脳を掠めることさえしない。
ならば、それはとても魅力的なのだ。
彼女にとっては。
そして、幾許かの勇気をも必要とした。とくとくと高鳴る心臓を抑えて、しかしくすくすと忍び笑いながら、彼女は部屋を後にする。
向かう先はすぐそこ。
ドアノブに静かに手をかける。ノックはしない。
顔色を喜色に染めて、しかしどくどくと激しい鼓動を繰り返す心臓に頬を紅潮させながら。
キィ、とドアが開かれる。静かに静かに。夜明け前ということもあり、部屋は薄暗い。ベッドの上に丸まった毛布を確認して、彼女はくふくふと笑いながら部屋に侵入した。
――そう。侵入である。
彼女はそろそろとベッドに歩み寄り、どきどきとハートを昂ぶらせながら、そこに眠る人物の顔を覗き込んだ。
じっと。
薄暗いため、その表情はよくわからない。――けれど、まるで仔犬のように眠る姿に思わず見惚れていた。
す、と顔を近づける。もっとよく見たいという欲求が、彼女を衝き動した。
そして、そこでようやく本来の目的を思い出す。
いつもより早い目覚め、そのために思いついた魅力的で面白いこと。
彼女は、うんと頷いて。ベッドで眠る少年の身体を揺さぶった。
「し~ろがね~っ、起きろ~っ」
ゆさゆさ。満面に笑みを浮かべながら、その名を呼ぶ。ゆさゆさ。優しく揺さぶって、緩やかな目覚めをプレゼントするのだ。
「しろがね~、朝だよ~っ」
優しく呼びかけながら、暫く揺さぶっていると、ようやく反応が見られる。さぁ、起きて。そして、自分が目の前に居ることにびっくりして慌てて恥ずかしがって……。そんな彼を、見たいと思った。
同い年の異性に起こされることなんてそうないだろう。
見た目どおりの初心(うぶ)な少年は、それはそれは愉しい反応を見せてくれるに違いない。
彼女は期待に胸を躍らせた。そんな彼の反応を間近で見たいと思っていた。いや、もうすぐそれを見ることが出来るのだ。
誰も知らない、そんな彼を。
自分だけがこうして見ることが出来るのだ。――ああ、それはなんて愉しいのだろう、嬉しいのだろう。
だからこそ、彼女は気づかなかった。
無論、そのことを忘れていたわけではない。否、忘れられるはずがない。
十分に理解していたし、日ごろから自分に言い聞かせていたことでもあった。
では、一体何故気づけなかったのか。
それは偶然だからとしか言いようがない。
いつもより早く目覚めたことも、唐突に思いついてしまったことも、甘い誘惑に浮かれて……ここまで来てしまったことも。
ゆさゆさと。毛布にくるまる少年を揺する。そして、遂に彼は口を開いた。――目を覚ましたのだ。
そして、寝起きという無防備さゆえに、彼は「誰にも見せたことのない彼自身を晒した」。
「ん~……っ、純夏ぁ、あと五分……」
「――――ッ、?!」
心臓が凍りつくようだった。
昂ぶりは瞬時に覚め、胸を巡っていた甘い想いは消し飛んだ。
ああっ、自分は一体なにをしているのかっっ?!
「あ、ぁ、」
「ん……? ぇ、純、夏、――ッ!?」
少年が跳ねるように身を起こす。あまりにも素早いその挙動に、呆然と夢から覚めやらぬ彼女は反応すら出来ずに、
「純夏!」
腕をつかまれ、引き寄せられる。あんまりな力にベッドに倒れこんで……ずっしりとした筋肉に包まれた。
「す、すみ…か、純夏? まさか、莫迦な……これは夢か?! 純夏、純夏ァ……ッ」
「ぁ……ぁっ」
力いっぱいに抱きしめられる。力強いその腕に、鍛えられたその胸に。――なのに、哀しい。
泣きながら、ぎゅうと抱きしめて。
ああ、そうだ。彼はこれほどに愛している。……こんなにも、愛しているのだ。
彼女のことを。幼馴染の少女、護りたいと誓った、太陽のように笑う彼女を。
彼が彼女を喪ってから……もう一ヶ月が過ぎた。それなのに、……違う、それすらわかりきっていたことなのに。
白銀武は鑑純夏を愛している。
それは絶対に揺るがない。何があったとしても変わらない。
忘れることなんてない。絶対に、武は純夏を手放さない。
「純夏…純夏、夢でもいい……夢だっていいんだ…………っ、また、こうしてお前を抱くことが出来るならっ……ぁ、ぁああっ」
「…………」
ならば、自分は。
武が純夏に向ける想いに割って入ろうとした無粋な邪魔者。或いは、返り討ちにあって傷ついた愚かな女か。
ずきり。胸の横が啼いた。
抱きしめられる力が強ければ強いほど。向けられる想いが強ければ強いほど。
彼女の心は、ぽろぽろと涙を流すのだ。
「……白銀、いたいよ……」
「?!」
震える声を、絞り出すように。
けれど、それは武の耳に十分に届いていた。驚いたように身を放し、彼女の両肩を掴む。そして、そこに居たのは……ぼろぼろと大粒の涙を零し、ぐしゃぐしゃに表情を崩した――
「涼宮…………っ」
その彼の表情が、声が…………茜にはとてもとても、辛く、哀しい……っ。
「ぅ、ぇ、ぅぁ、あぁぁあん! ぅぁあああっ……んんん!」
肩を掴む腕を振り払う。驚愕に染まった武の顔をこれ以上見ていられず、そして、こんな自分をこれ以上見られたくなくて。
茜は武から逃れるように部屋を走り出る。足をもつれさせながら、呼吸を荒げながら、溢れ込み上げる涙をそのままに……みっともなく、泣きじゃくりながら……。
自身の部屋に駆け込んで、ベッドに飛びつくように縋った。
――惨めだ。
――なんて惨めなんだっ、あたしは!!
自分の迂闊さに腹が立つ。あまりの傲慢さに恥ずかしくなる。
そして、そう思ってしまう自分があまりに惨めで…………哀しい。
「ぅぁあああっ、ああああああ……っ」
顔を毛布に埋めて泣き叫ぶ。
最低だった。
滅茶苦茶に哀しかった。
一体自分は、武に何を期待していたのだろう?
自分が起こしに来たことに驚いて、照れて恥ずかしがって……そんなことを期待していた? ――莫迦なッ! 彼がそんな反応を見せるはずがない!!
幼馴染なんだ。朝起こしにきていたとしても何の不思議もない。むしろ、お互いに好き合っていたのだから、それは当然の日課だったのかもしれない。
なにが、自分しか知らない武だ。
そんなことを知って優越感に浸りたかったのか? ――だが、その結果見せられたのは自分さえ知らない彼の本当の姿だった。
その思い込みに腹が立つ。どうしてそんな風に考えてしまったのか。それが哀しい!
「ぅあぁあん、ぅぁああぁ」
幼い子供のように。
そしてようやく。
茜はどうして、こんなにも哀しくて惨めで寂しいと啼いてしまうのか。その奥底に眠る感情の名に気づく。
――ああ、そうか。
――あたしは、白銀が好きなんだ……。
実らせることの出来ない想いに気づき、涙する……茜の恋は、そうして始りを迎えたのだった。
===
その日は一日、朝からずっと……頭の中がおかしかった。
訓練の最中も、食事の最中も、皆と居る時も、独りで居る時も……ずっと、そのことが頭から離れない。
――泣いていた、涼宮の顔――。
薄暗い部屋の中で。
抱きしめた自身の腕の中で。
茜は泣いていた。
痛いと。そう呟いて泣いたのだ。
それは一体どういうことなのか。なぜ、どうして武の部屋に茜がいたのか。
……起こそうとしてくれたのだ。そんなことは既に気づいている。
それを武は……どこか眠ったままの頭で、「いつものように」彼女が起こしに来てくれたのだと錯覚して……。まるで、幸せな夢を見ているのではないかと。感情のままにその名を呼んだ。
自分でもどうかしていると思う。
そんなことが在るはずがないのに。
喪ってしまったその幻影を追い求めるほど、自分は追い詰められていたのだろうか。
……違う。
それでも、武は彼女を喪いきれずにいるだけだ。
「……ッ」
過ぎるのは、泣いていた茜の顔。
何度も何度も、鮮明に繰り返される。
あれは、あの顔は……哀しくて泣いていた顔だ。多分、そうだ。
わからないのはなぜ、茜がそんな風に泣いてしまったのかということ。
…………その理由は、「わからない」。多分、きっと、「気づいてはいけない」……。
「……ね、……ろがね、…………白銀ェエエ!!」
「おゎああああっ?!」
鼓膜が破れそうなほどの大音量。超至近距離からの怒号に意識が覚醒する!!
「……ぁ、ぁ?! え? 速瀬さん……っ?」
「ハヤセサン、じゃないわよ。何度呼んだと思ってんのよあんた。この私が呼んでるんだから、一度で返事するのは当然、嬉し涙流して何でございましょうか水月様ッ、とか這いつくばってみなさいよ」
「いや、すごい意味不明なんですけど」
いきなり現れて何を言い出すのか。しかし、随分と久しぶりな水月の傍若無人っぷりに、武は苦笑するほかない。
一ヶ月という時は、少なくとも武の周囲にある日常を取り戻させるには十分な日々だったらしい。――取り残されているのは、自分だけ。
武は小さく溜息をつく。……そんな風に思考するのはやめよう。水月は水月なりに、武のことを心配してくれているのだから。
証拠に、彼女の左手には模擬刀が握られている。
夕食の時間から既に数時間が過ぎている。それが、武の自主訓練の時間だった。いつもの時間。毎日の日課。あの日からより一層、のめりこむように続けていた独楽にも似た螺旋の剣。
その日々を、彼女――水月は共に過ごしてくれている。
頼んだわけではない。気づけば水月が共に居て、剣を合わせてくれるのだ。……毎日、飽きることもなく。
「はいはい。間抜け面してたあんたを心配してやったっていうのに、随分とまぁ可愛げのない」
「あれの何処が俺の心配してたんですか?」
どうしてだろうか。
水月と話していると気持ちが安らぐ。つい先ほどまで頭の中を巡り巡っていた茜のことが、すぅっと意識の奥に引いていく。
忘れた、というわけではない。だが、この時間……ここからは、それに気を煩わせている暇などない故に。
「……あら、随分いい顔するじゃない? やる気になったってとこかしら?」
「……はい。速瀬さんさえよければ。――よろしくお願いします」
模擬刀の鞘を投げ捨てる。対峙する水月もまた、鞘を地に置いた。
速瀬水月は総じて強い。
それは近接格闘や近接戦闘など、直接己の肉体を使用する肉弾戦から、射撃・狙撃といった兵器の扱いにも長じている。なによりも恐ろしく凄まじいのはその思考能力の高さと洞察力の鋭さ。相手の思考を読み、行動を予測し、観察することでその誤差をなくし……瞬時の判断でありながら常に的確、一瞬の隙も逃さず、或いは完全に力押しでこちらを捩じ伏せる。
とてつもない身体能力の高さと、豪胆なほどの判断力、それを決行する意志の強さ。
それが水月の強さだと武は思う。
こと剣術において、武のそれは水月を上回っている筈なのに、この一ヶ月、一度として水月に土をつけたことがない。
――強すぎるのだ。
三年という月日の差は、ここに歴然と現れ、立ち塞がっている。……まだ、この壁を越えられない。
お互いに剣を構え、睨み合う。――武は迷うことなく一歩を踏み込んだ。裂帛の気合と共に放たれる直線の一、下がることでかわした水月に続く螺旋軌道で追撃をかける。
回る、廻る――。
止むことのない独楽の剣閃。水月は的確にそれを受け、流し、或いは迎撃して……数十の打ち合いの後、首を刎ねられたのは武だった。
びたり、と止められる模擬刀の刃。空気を切り裂くほどの威力は完全に静止し、武の首の皮をちりちりと焦がすに留まった。
「…………」
勝てない。
これまでと同じ結末。前よりも速く、そして鋭く。武は己に言い聞かせ、事実その剣技は昨日のそれより上回っている。
それでも尚勝てぬというなら、それはあまりにも水月が強すぎるということなのだろうか。
歯噛みする武に、水月はあっけらかんと笑いながら言う。
「あっはははは~! な~に泣きそうな顔してんのよっ。あんたがあたしに勝てないなんて当たり前でしょぅ?! さすがにこんなひよっこに負けてあげるほど、あたしも優しくないのよねぇ」
まだまだ未熟、と。水月は軽快に笑う。武はバツが悪そうにそっぽを向き、自身が水月に勝れない理由を考え始めた。
剣の腕は間違いなくこちらが上。それなのに勝てないというのなら、それ以外の何かが水月に劣っているからに他ならない。
それは何か。
「あんたはまだまだ経験が足りないわ。あとは、鍛えようかしらねぇ? あ、それと」
武の内情を知ってから知らずが、水月がテキパキと武の問題点を指摘する。
「……あんたのその剣術、もうちょっと変幻自在とまではいかないけど、なんとかならないの?」
「え?」
「ま、ずっとずっと指導者もなく独りで続けてたからだろうけどさ……。もっとこう、状況に合わせて動きを変えるとか螺旋軌道の中に直線軌道を織り込むとか……そういう発展なしじゃ、いい加減見飽きたわよ?」
思わず言葉をなくす。――が、確かに水月の言うとおりだった。
毎日毎日繰り返してきた型。基本にして、全ての発展系の基となる一。
武は幼少の頃にそれを習い……そして、それしか教わることが出来なかった。
故にその先を知らず、繰り返すのはただそれだけ。身体に染みこんだ技能は忠実にそれを再現し、繰り返し……いつしか、武はその軌道しか行えなくなっていた。
水月ほどの洞察力がなくとも、数度相手をすればわかる。
武の動きは、それこそ一部の隙もないくらいに……「同じこと」を繰り返していた。
「もっと相手をよく見なさい。それと、周りのことも。ま、あんたのそのヘンテコな剣術は一度に多勢を相手取るためのもののようだから、ちゃんと周囲の状況を把握して、その状況そのものを利用して戦うってのも有効な手段ではあるわ」
ぴしり、と。
不敵な笑みを浮かべて、水月が剣を振る。武の独特な剣術を看破し、その問題点を指摘する。型に嵌ってしまっているなら、今からでもそれを崩せばいい。そう言って、水月は再び剣を構えた。
「ほらほら、時間は待ってくれないわよぅ? そうね、今日あんたがあたしから一本取れなかったら……」
「え? ちょっと、何する気ですかっ?!」
嫌な汗が浮かぶ。にたり、そんな擬音が聞こえそうなほどの、悪そうな表情。あんたはどこぞの餓鬼大将か。
「ふふ~ん。決めた。あんたは明日からあたしの下僕よっ!」
「絶対勝ちますっ!!!!」
乾坤一擲。ここで負ければ全てが終わる。
武はそれこそ何もかもを忘れ、己の動き、そして水月の動きに没頭した…………。
「……っ、は、はぁ、はぁ! ぐ……っは、ぁああああ! よっしゃああああ!」
打ち合うこと数時間。その日最後の試合にようやく勝利して、武はぶっ倒れながらも雄叫びを上げる。
「あっちゃぁ~……油断したわぁ。は、な~に嬉しそうはしゃいでんのよ」
そういう水月の表情も明るい。同じように疲れているはずなのに、水月はそんな素振りも見せず、転がりながらもはしゃぐ武を見て微笑んだ。
まったく世話の焼ける“弟”である。水月は湧き上がる嬉しさを悟られぬよう繕いながら、武に手を伸ばす。
満面の笑みを浮かべて、武はその手を握り返した。よ、という声と共に引き起こされ、立ち上がる。
そう。ようやくにして。
武は、水月の差し伸べた手を掴み、立ち上がったのだ――。
「…………ふふふっ」
「? なに、笑ってるんです?」
立ち上がり、筋肉をほぐす武に、水月はばしばしと肩を叩く。きょとんとする武だったが、それでも水月は込み上げる気持ちを抑えられなかった。
――ああ、ついに。遂に武は、自分の手を……差し伸べた手を……っ!
剣を振り、或いは訓練に打ち込んでいる間。武はそれから解放される。
……解放されたいわけではないと、武は言うだろう。或いは、忘れたいわけではない、と。
だから武は独りであろうとした。
自分独りでそれと立ち向かい、何とか折り合いをつけて今日まで来た。――内心でズタボロになりながら、それを他人に見せずに。
悪いことではないのかもしれない。けれど、いいことでもないと水月は確信している。だからこそ、自分は何度でも手を差し伸べた。自主訓練に付き合うという形で、幾度となく打ちのめすことで。自分独りで出来ることの限界を知り、周りに頼るということを思い出させようとした。
仲間に。或いは自分のように先を行くものに。
手は伸ばされている。後は、それに気づき、握り返すだけでいい。
そうすれば――驚くほど簡単に、今の自分がそうしたように。武は……立ち上がることが出来るのだ。
「あっははは! あははははははっ」
この瞬間、ようやくにして。
白銀武は本当の意味で「ふっきった」のかもしれない。
水月は、それが嬉しくて、何度も武の肩を、背中を……叩いて笑うのだった。