『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:三章-04」
帝都絶対防衛線中央司令部――。帝都東京を守護する最終防衛の拠点である練馬仮設基地の一室、大会議室でもある広大なその部屋は現在二十二人の衛士が居並び、双方とも険しく厳しい表情で眼前の大型モニターを食い入るように見詰めている。
会議室をぐるりと取り囲むように半円状に並んだ衛士たちは全員が日本人でありながら、しかしその内訳は実に興味深い。
片や白を基調とした軍服に身を包む精悍な顔立ちの男女。全員が姿勢正しく、緊張感を湛えてこの場に臨んでいる。
片や黒を基調とした軍服に身を包む覇気に満ちた女たち。ひとりだけ混ざった青年がやけに目立つ。こちらは表情こそ真剣そのもであるが思い思いに立ち並んでいる。
共に日本という国を救うべく戦場に身を置く衛士。同じ国に生まれ、同じ国に育ち、同じ国を護るために戦っている。
……だが、その在り様は根本から異なっていた。
軍服が違うだけで、これほどの差が顕になっている。そう、彼らは帝国軍に属する一個中隊と国連軍のそれ。
同じ日本に居て所属する組織が全く異なる二十二人。
そんな彼らが、帝都防衛の最前線であるこの場所に集い、顔を合わせている事実。
帝国と国連という大きすぎる隔たりを難なく越えて、彼らがここに居るのには理由がある。
モニターの前には一人の女性。傍らに秘書官らしき国連軍の女性兵士を置き、不敵に笑う白衣の美麗。
名を、香月夕呼。
国際連合軍に所属する大佐であり、人類存亡の希望を賭けて戦う、天才と謳われる研究者だ。
その更に横には同じく国連軍大尉であり、特殊任務部隊A-01部隊第9中隊の中隊長を務める若き女性。
更に並び、こちらは帝国軍大尉であり、帝国本土防衛軍マッドドッグ中隊の中隊長、神宮司まりも。
眼前に並ぶ二十二人を前にして尚、圧倒的に過ぎるその気迫と存在感。彼女達はそれぞれが歴戦の勇士であり、スペシャリストだった。
「ふふん。皆いい面してるじゃない? さすが、まりもの部下、ってところかしらね」
白衣を着た夕呼が帝国軍衛士たちを眺める。全員が凛々しい顔をして、全身が気力に満ち溢れている。先ごろ撤退した米国のせいで国連に対する認識も変わっているだろうに、それをおくびにも出さず平然と振舞っているのには中々に感心する。
これもまりもの指導の賜物かと友人である彼女を見るが、当の本人はいたって堅苦しい面持ちで夕呼を見詰めていた。――余計なことはいいから、さっさと説明しなさい!
目は口ほどにものを言う。
向けられた視線から聞こえてくる催促にやれやれと嘆息し、夕呼は背後に控えるイリーナ・ピアティフに指示を出す。夕呼の秘書官である彼女だけが、この部屋で唯一の日本外国籍を持つ。鮮やかな金色のショートヘア。凛とした瞳が印象的な女性だ。
ピアティフは手元のラップトップのキーボードを叩き、その内容はモニターに映し出される。
全員がモニターに注目する。
これは作戦会議だった。
帝国と国連、二つの異なる軍組織が共同で行うBETA侵略反抗作戦。或いは本州島奪還作戦とでも言うべき一大作戦の概要がモニターに表示された。
そう。
彼らはそのためにここに居る。
来たるべきそのときに備え、己が役割を果たすために。
「じゃ、皆待ちかねているようだし、説明を始めるわ」
不敵な表情のまま、夕呼はモニターを示す。
――作戦名「明星」。
甲22号目標の攻略を始めとする本州島奪還作戦。
未だ謎に包まれているBETAの活動拠点。前線基地、ハイヴ。その攻略。――それは、人類未踏の領域であり悲願。
日本を護り、救い、そして対BETA戦における新たな一歩を刻むべく、その作戦は立案された。
帝国からの援助要請を受けた国連本部が各国と閣議決定し、そして実行を確約したのがつい先日。国連から部隊を派遣し、横浜を中心として勢力を拡大しているBETAを一掃。並びに、蹂躙された本州を取り戻し、国土の安泰を確固たるものとする。
世界各地で行われているBETA間引き作戦とはまた違う、これは人類初の本格的な掃討戦だった。
一方的暴威に対し、ただ防戦するしかなかった人類が、初めて、その脅威に真っ向から対峙するのである。――誰だって気が引き締まる。虐げられるだけだった日々が、この作戦をきっかけに逆転するのだ。
それを、夢見て。
否、それを実現させるために。
『明星作戦』は、その反撃の狼煙となる。
――作戦決行は八月。
まだ半年以上も先であるが、これには理由が存在する。
一つは、本州奪還のために必要な戦力を各国から募るために相応の期間が必要だということ。或いは、成功すれば歴史上初の快挙となる本作戦を絶対確実のものにすべく、念には念を入れた諸々の準備期間のため。
もう一つは…………夕呼は、その理由を述べはしなかった。
切り替わるモニターを前に、作戦の概要を説明する彼女は冷静そのもの。彼女は平然と嘘をついた。……いや、それは嘘をついたとは言わない。隠しただけだ。半年後の作戦決行。その理由は先の案件を含んだ下準備に必要な時間を確保するため。
それは正真正銘本当のことで、嘘などひとつもない。作戦実行に当たって、国連は慎重に事を運ぶつもりなのだ。そして、その間の帝都防衛を堅実にするために夕呼たちが居る。
夕呼が理由の一つを口にし、もう一つ隠された裏の理由を口にしなかったからといって、誰が彼女が虚偽を働いたといえるだろうか。
……誰も言えやしない。
夕呼は言わなかっただけだ。そしてそれは軍隊における絶対の法則によって守られている。――Need to Know――情報漏洩を防ぐための絶対原則。
故に、ここに集う彼らは知らされない。
知らぬまま、帝都の目と鼻の先で、ハイヴという魔の巣窟を相手に半年も戦線を維持或いは押し上げねばならないのだ。
やがて作戦の概要説明が終わる。
部隊は解散となり、衛士たちは各々、シミュレータールームへ走る。会議室には夕呼、ピアティフのほかに各中隊長が残され、これからのシミュレーター訓練について軽く打ち合わせが行われる。
帝国と国連。組織は違えど同じ衛士。とは言え、各人の技量に差はあるだろうし、互いに連携のひとつも取ったことがないのでは話にならない。これからの半年間、ともに帝都死守の要となる精鋭部隊として戦場を駆け回る仲間だ。その絆を深め、チームとして成立するために、それは必要なことだった。
「しかし、神宮司大尉の部下は恵まれています。大尉のような素晴らしい衛士が指揮を執るならば、その実力は十二分に発揮されるでしょう」
シミュレータールームへ向かう道中、A-01部隊第9中隊……通称ヴァルキリーズの中隊長である伊隅みちるが、やや興奮気味に話しかける。
「……もう、やめてよ伊隅。あなただって大尉なんだし、れっきとした中隊長なんだから……そんな風に思ってくれるのは有り難いけど、あまり崇拝されるのも困るわ」
みちるが向けてくる視線にやや苦笑しながら、まりもは肩を竦める。しかし、みちるはとんでもないと目を開き、こちらは完全に苦りきった笑みを浮かべた。
「神宮司大尉は、自分の目標です。――七年前から、それは変わりません。それに、自分は……大尉に昇進したとは言え……まだ三ヶ月も経っていません。間山大尉が戦死されて空いた席に押し上げられただけの、まだお飾りでしかない」
「伊隅……」
苦い表情のまま、みちるは前を見据える。その表情は真剣そのもので、内心に渦巻く苦悩は果てしないものだろう。
まりもは思い出していた。
三年前自分の下から巣立っていった、教え子たちの顔を。
その内の一人が、彼女、伊隅みちる。
彼女は既にない旧帝国軍横浜基地衛士訓練校の出身であり、三年前の夏に衛士として任官した。まりもが教官として教導し、鍛え上げた一人である。
任官の際、まりもは彼女達が何処に配属されるのか知らされなかった。
みちるたちの一期前、さらには最後の教え子となった者たちでさえ、その任官先はようとして知れないまま。
まりもが教官として横浜基地に招聘されたそのときに、自分が担当する訓練兵たちは将来日本にとってとても重要な任務に就くことが決定されているのだと聞かされたことがある。
即ち、自分はスペシャルを作り出すために教官として呼ばれたのだ。
そして、四年間を鍛え上げ持てる総てを叩き込んだ訓練兵たちは立派に任官し――教官にさえ配属先が知らされないほどに、重要な任務に就いているのだと誇らしくも思っていた。
まさか、その任官先が国連であり、しかも友人である香月夕呼の直轄部隊だという事実にはさすがに驚愕したが。
今回の『明星作戦』決行にあたり、夕呼に招聘されてからわかったことがいくつかある。
この作戦に限らず、国連と帝国は……或いは、香月夕呼という研究者と帝国は。とても深い繋がりを持っている。わざわざ帝国軍の衛士訓練校でスペシャリストを輩出し、その向かう先が国連、しかも全員が夕呼の直属という事実。何も無いわけがない。
先ほどまで会議室に居たA-01部隊第9中隊の全員がまりもの教え子なのだ。
とても偶然では在り得ない。そこには必然が転がっている。
そしてその必然を当然とばかりに操り、こうして現在の状況を作り出しているのが夕呼だ。
一研究員でありながら大佐という地位にあり、帝国と深い繋がりを持つ…………。昔からどこか得体の知れない一面を持ち合わせている夕呼だったが、ここにきて、それは異常に過ぎるようだとまりもは思う。
――だが、それでもいい。
夕呼に何らかの企みがあり、それが国連や帝国にとって重要で重大なナニカなのだとしても、まりもが安易に関わっていいものではないはずだ。大尉として、中隊を率いる者として、必要で知っていなければならない情報は既に得ている。それ以上の説明がなく、情報がないのなら、それがまりもにとっての全てだった。
だからこそ。
教え子であるみちるたちの部隊について詮索はしない。無論、共に戦う戦友として助け合うつもりはあるが、矢張り、それでも彼らは国連軍であり特殊任務を遂行するスペシャルチームなのだ。その存在は恐らく高度な機密レベルによって秘匿されているに違いない。今回、その作戦の性格上、たまたま……或いは単なる夕呼の気紛れかもしれないが……共に戦うということになっただけ。
在るべき場所が違うのである。
「――自分はまだ、中隊を預かる身としては未熟です。先達に比べると、どうしてもそれを痛感してしまうのです。私は……」
それは、部隊を預かるものとしてはあるまじき発言だった。
だが、それも無理はないのかもしれない。
みちるが大尉となった背景には、最早彼女より上の先達が皆戦死しているという事実がある。先のBETA日本上陸から京都陥落、果ては横浜壊滅に到るまでの激戦に次ぐ激戦。彼女らA-01部隊はそれこそ最前線を戦い抜き、そしてその数を喪っていった。
日本各地の衛士訓練校から集められた選りすぐりの衛士で結成されたA-01部隊。香月夕呼直属の特殊任務部隊として機能するその部隊は当初、連隊規模で構成されていたという。
度重なる過酷な任務、特にこの半年あまりの損耗は激しく、既に残すところ二中隊。第6中隊と、みちる率いる第9中隊のみとなっている。
数多くの尊敬すべき先達を喪い、その先達をして死に至らしめるほどの過酷な戦場を、果たして自分のような者が生き抜き、或いは部下達を生き残らせることが出来るのか。
内面に抱え込んでいた不安を、みちるはそうとは気づかぬままに漏らしている。
久しぶりに会ったかつての教官を前に、気が緩み……無意識の内に甘えていたのかもしれない。
「泣き言を垂れ流していれば、それで隊がまとまるのか? ならば優秀な部下を持ったな伊隅。お前はただ間山の代わりなのだと愚痴を言っていればいいんだから」
「――っ、な?! 大尉! それはっ……!」
突然のまりもの言葉に、みちるは愕然とした。あまりにも心を抉るその一言に思わず声を荒げてしまうが、しかし、まりもの言ったことは彼女の心の核心を突いていた。
隊を率いる者、中隊長という地位にある以上、泣き言を言うことは許されない。
自信があろうがなかろうが、その役割を与えられた以上、やるしかないのだ。そして、やるからにはその下につくもの、即ち部下の命全てを負う覚悟を持たなくてはならない。
感情を殺し、作戦遂行のために常に最優の選択をし続け、尚且つ部隊の損耗を抑え……最大限の成果を上げなければならない。
状況によっては部下を見捨てなければならないこともあり得るだろう。
みちるは……若き大尉は、正にそれを危惧していた。――恐れていた。
自分の采配如何によって、部下の命が常に左右されるという事実。目を覆いたくなるような重圧に抑圧されるような、無意識での迷い。
既に亡き先達にできなかったことが自分に出来るはずがないという諦観。
なるほど。ならば自分はまさに…………。
まりもの言うとおりだった。
自分は泣き言を口にして、自分の無能を棚に上げようとしている。
重圧に押し潰されている自分をかつての教官に晒すことで、彼女が指揮を執ってくれればいいと、そんな風に考えていたのかもしれない。
「……失言でした。申し訳ありません」
「謝るくらいなら口にするな。――伊隅、同じ中隊を預かる立場として言わせてもらえば、戦闘中に感情に左右されるのは愚かなことだ。いや、愚かどころでは済まされない。一瞬の判断の遅れ、迷い、躊躇い、それら全ては、部隊を預かる身には赦されない。感情を無くせとは言わないが、しかし、それに翻弄されて状況を見失ってはいけない」
今更言うことではないが、とまりもは口を閉ざす。
みちるはその言葉を反芻しながら、そこに込められた意味を噛み締める。
例えば、戦場で孤立した者がいるとする。たった一人、けれどその人物は隊にとって貴重な戦力であり優秀な部下であり、或いは部隊を纏める上でなくてはならないキーパーソンだったとしよう。
その人物が孤立した状況。間にはとてつもない数のBETAの大群。まず常識的に考えて退かねばこちらも厳しいという展開。
さて、ここで有能な指揮官とはどういう存在を指すのか。
――孤立した部下を救うため力の限りを振り絞って、部隊一丸となって救援を命ずる者。
――孤立した部下を切り捨て、全員を下がらせ一旦戦線からの離脱を命ずる者。
そんな状況となってしまった時点でその者は無能の烙印を押されているかもしれない、だが、ならばそれ以後、一体どうするのがより最優なのか。
想像すればいい。
孤立した部下を救うため圧倒的物量のBETAに吶喊。残っている弾薬・噴射燃料或いはこちらの戦闘能力如何によっては、それを実行するに足る状況というものも存在するかもしれない。だが、例え救出に向かえるだけの戦力が揃っていたとして、ならばそれが間に合うか否か。もしくはそれすらもなくただ感情のままに、部下を死なせたくないと突っ込んでいくのか。救出に向かったとして、では何人犠牲になる可能性があるのか。救出に向かうことで、友軍の動きにどう影響するのか。
ただ救えばいいというわけではない。「救う」、「救いたい」という意思の結果起こりうるあらゆる状況を考慮し、発生するリスクをたたき出し、実行するに足るメリットをも算出せねばならない。――瞬間に。
或いは。
孤立した部下を切り捨てることを決定し、退く。部隊の存続を最優先とし、最小限の損耗に目を瞑る。その人物を喪うことで隊にどの程度影響が出るのか。さらに、どう退くか。即座に転身、脇目も振らずに退くのか、或いはじりじりと戦線を後退させBETAの総量を僅かでも減らしながら下がるか。周囲に展開する友軍たちの動きはどうか。退くことによって戦場全体にどのような影響が出るのか。
ただ下がればいいというわけではない。「見捨てる」、「退く」という意思の結果起こりうるあらゆる状況を考慮し、発生するリスクをたたき出し、実行するに足るメリットをも算出せねばならない。――瞬間に。
リスクが上回ってはならない。それは絶対だ。
そして、その片方しか考慮しないことも、あってはならない。
救うという選択肢、見捨てるという選択肢。
その二つが掲げられたなら、双方で起こりうる状況を総合的に比較評価検討し、よりよい一を選び抜く。――瞬間に。躊躇なく。
それができる者を、有能な指揮官というのだ。
そしてそれを成すためには……容易く振れる感情などあってはならない。
無感情な人間に部隊を率いる資格はないが、しかし指揮官とは無情を迫られる立場である。
誰よりも冷静に冷酷に、さながら精密機械のように。多角的総合的に状況を把握し、最小限の損耗で最大限の成果を得るプロセスを弾き出す。
それができなければ、戦場で生き残ることなど出来ない。
判断の遅れは一人を殺す。
感情に迷えばまた一人を殺す。
実行を躊躇えばさらに一人を殺す。
指揮官とは、常にその極限を想定しなければならない。そして、それに対応する術を二重三重に持っていなければならない。
「能力のないものに、権限は与えられない」
「神宮司大尉…?」
呟いたまりもに、みちるは没頭していた意識を浮上させる。
「伊隅。あなたはいい指揮官になるわ」
「…………!」
まるで優しい姉のように微笑むまりもに。みちるは……胸が温かくなるのを感じていた。
ああ、彼女は、やはりあの時のままだ。
先を行く偉大なる先達の背中を追うように。みちるはまりもの教え子である自分を誇ろうと思った。
===
武は強くなった。
日を追うごとに、日々を重ねるごとに。独特の剣術は一日おきに鋭く、疾く、苛烈になっていき、そして遂に。
彼の剣術は誰の目にも明らかなほど強烈に成長した。
「っ……、す、ご……」
今まででも十分に対応しにくかった独特の螺旋軌道。しかしそれは、いくら鋭く疾く苛烈であろうともあるパターンを繰り返すだけの反復作業だった。
もっとも、パターンが読めてもそれに対応できなかったわけだが……しかし現在目の当たりにしているそれは、まるで別物。
昨日までの剣術は何処に行ったのかと目を疑いたくなる。いや、確かにその軌道は螺旋を描き、廻り続ける独楽のような静止を赦さない動きは変わらない。
だが、一歩一歩の踏み込み、そのタイミング、距離、次の一手、次の次の一手、そしてなにより、回転の中に巧みに編みこまれた稲妻のような直線軌道、止まらない前提を覆す急制動、反転等々。相手の動きを読み、追随し、追い詰め廻り込み翻弄するようなその挙動。
まるで別人。
一体彼の身に何が起こったというのか。たった一日で変幻した武の剣閃に、それを目撃した全員が驚愕し、息を呑んだ。
――武は、「強くなった」。
その事実。その認識。
昨日までの彼とは何かが決定的に異なっている。
その表情は晴れ晴れとして、新たな動きを組み入れ、想定する敵の挙動に合わせて自在に剣先を翻す。先へ、その先へ、まだ先へ、もっと先へ、先へ、先へ、先へ、先へ――ッ!
それは自身の限界への挑戦であり、己が修練を積んだ剣の可能性を追求する行為。
そこに翳りはなく。まして自壊するような危うさなど消えていて……。
少女達は、彼が吹っ切れたことを、知った。
「白銀……」
震えるように呟いたのは茜。
胸に手を当てて、剣を振る武の姿に打ち震えている。
その彼女を、晴子はじっと見詰めた。表情はどこか沈んでいて、眉尻は力なく垂れている。まるで胸が締め付けられているかのような仕草、感情のさざ波を、晴子は敏感に感じ取った。
周囲を見れば立ち直った武に喜びを隠せない仲間達。多恵は跳ぶようにはしゃぎ、薫と亮子は互いに見合わせた顔を綻ばせている。
晴子自身、どんなきっかけによるものかはさておき、武がかつてのように明るさを取り戻してくれたのは喜ばしく、嬉しい。
だが――そんな中、彼女達の誰よりもそれを喜び、それこそ多恵のようにはしゃいでもおかしくないはずの茜だけが、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。
そうだ。
それは昨日も見た。
茜のその表情は、様子は……昨日の朝、武を見つめていた時のもの。
気のせいだと思っていた。或いは……アレから一月が過ぎてもまだ翳りの消えない武を哀しく思ってのことだと。
だって茜は笑っていた。そんな僅かな引っ掛かりなどまるでなかったのだと言わんばかりに。訓練にも集中していたし、晴子たちとも笑顔で話していた。――武とは話していただろうか? ……少なくとも、自分は見ていないような気がする。しかしそれも、武を気遣ってのことではなかったのか。
だが、現実に。
茜は泣きそうな表情をしている。
昨日の朝、気のせいだと思ってしまったあの表情と全く同じ。
――笑っていればなんでもないのか。
――そうやって振舞わなければならないほどのなにかがあったのではないか。
――辛くて辛くて、だから無理矢理にでも笑わねばならないことがあるのだと……自分は身を以って知ったはずなのに!
気づかなかった。
気づけなかった。
白銀武の身を、心ばかりを案じて。
茜のことを見ていなかった。――なぜっ!?
晴子は自身を責めた。気づいてやれなかった自分は莫迦だと感じた。
武が恋人の死から立ち直ってくれることだけにかまけて、同じ想いを持つ仲間を、その心の機微を見失っていた。
「茜……」
呼びかけに、茜はびくりと反応した。反射的に晴子の方を向いた茜の表情は――――絶望に似た哀しみが色濃く影を落としていた。
「!?」
晴子は絶句する。そんな茜の顔を見たことはない。晴子の知っている茜は、感情豊かで明るくて、そのときの感情がすぐ表情に出てしまうようなわかり易い子で。照れ屋でどこか天邪鬼で意地っ張りな努力家で……人のために涙を流せる、優しい女の子だ。
誰よりも武のことを心配して、誰よりも武の近くにいて……誰よりも、武が立ち上がってくれることを望んでいた。
そのはずだ。
そのはず、なのに……では、目の前の少女は誰だというのだ?
誰でもない。
少女は涼宮茜。この、今にも泣きそうな哀しい表情をした彼女も、同じ茜なのだ。
一体何故? どうして、茜は……いつから、こんな風に傷ついていたのか。
――昨日からだ。
――昨日の、朝から……っ!
少なくとも一昨日の夜、茜と別れるまでは……いつもの彼女だった。晴子のよく知る茜だった。……そのはずだ。
ならば彼女になにかがあったのはその後ということになる。そしてそれは、とても自分達に悟られるわけにはいかないような、そんな、茜にとってとても重大な何か。一人で抱え込み、傷つき、こんな風に酷い顔をしてしまうくらい、哀しいこと。
武が関わっていることは明白だ。
昨日の朝は武を見て。そして今もまた、武を見詰めて……。
そして、武が吹っ切れて立ち直ったきっかけも昨日、だろう。
果たしてそのことと関係があるのかはわからない。だが、直感にも似た何かが晴子を衝き動かす。
そんな茜を、放っておくことなど出来ないっ!!
「茜、ちょっと」
「ぁ、はる、こ……」
有無を言わさず腕を取り、その場を離れる。剣舞を続ける武はもとより、その彼に夢中になっている少女達も気づかなかった。それを薄情とは思わない。……今は多分、その方がありがたい。
屋内訓練場を出て、雪の残る外へ。基地の外れにある枯れた林に程近いその場所で、ようやく晴子は立ち止まった。
引かれるままについてきた茜は俯いて、何も言わない。
見られた、気づかれた。そのことを、恥じているのかもしれない。――恥じるのは、私だ。
晴子はそんな茜をいたたまれなく思いながらも、声を掛ける。
――核心を突く。
「白銀君と、なにかあった?」
「――――ッッ??!!」
俯いていた顔を上げる。弾かれたようなその動作に、晴子はやはりと思わずに居られなかった。
それしか可能性がないとわかっていても、ならば何故茜は傷つき、武は吹っ切れたのだろう。それを並べて考えることが既に間違いなのかもしれなかったが……それは今はわからない。
茜から話を聞きたい。一体何があったのか。どうして、そんな風になってしまったのか。
……だが、晴子はそれ以上何も聞くことが出来なかった。
――茜は、立ったまま…………声もなく、泣いていた。
「っ、は、……ぁ、…………ぅ、く、は…………ぁ、ぁ」
真っ白な呼気が嗚咽とともに吐き出される。
茜は静かに、けれど見ている者の心を引き裂いてしまいそうなほどに……泣いていたのだ。
倒れるように傾いた体を咄嗟に支え、晴子は茜を抱き寄せる。キリキリと胸が軋む。こんなに泣いている茜はいつ以来だろうか。……横浜がBETAに墜とされ…………武が最愛の恋人を喪ったとき以来、か。
だが、そのときとも、違う。
あの時茜は、感情のままに泣きじゃくっていた。武が可哀想で泣いていた。恋人たちが互いを想い合う故に起きた悲劇に、涙を流していた。
ならば今回は? 今まさに声もなく泣いているのは?
それは、茜が自身のために流す涙だ。晴子は悟った。胸を締め付ける静か過ぎる慟哭に、それがただ己のための涙なのだと。
「茜…………」
かける言葉が見つからない。なんと言っていいかわからない。
暫く、ずっとそうして茜を抱き、支えていた晴子の耳に、やがてぽつりぽつりとか細い声が届く。
え、と。
聴こえてきたその言葉に、晴子は――どうしてか、込み上げてきた熱い感情に、涙を流していた。
――――はるこ、あたし…………しろがねが、すき……。
掠れるような、ひどく小さな声だった。
茜はそれ以上何も言わず、晴子もまた、聞くことはなかった。
二人は泣きながら、抱きしめあったまま……少しの間、そうしていた。
そして、やがて晴子が身を離す。優しく、力強く、茜の肩を支えて――彼女は言った。涙の粒を残したまま、けれど、彼女特有の晴れ晴れとした笑顔で。
「よかったね、茜っ!」
自分の気持ちに気づけて。
叶わないと知ってしまっても、それでも「好き」と言えて。
辛くて胸が締め付けられて、そんな気持ちを知ることが出来て。
「白銀君がスミカちゃんを忘れられないとわかっていても、抑えられない気持ち。茜の中にあったその気持ちに気づけて……よかったね」
眩しいものを見るように、晴子は笑う。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、茜は更に、今度は声を上げて、泣いた。
哀しいのか、嬉しいのか。なんだかわけがわからなくなるくらい心がぐちゃぐちゃになっていた。
晴子は笑う。よかったね、と笑う。気づけてよかった。気づいてよかった。自分が武を好きなのだという気持ち、それを知れてよかったと。
叶わない恋。実らない恋。なのに、それに気づけてよかったと。
まるで幼い子供をあやすように、晴子は繰り返し言い続けた。
それを恥じることはない。それを嘆くことはない。――大切なのは、そんなにも彼を想っているということ。
自分の心の中に、そんなにも大きく、武が在ったのだということ。
「晴子、ぉ…………」
「おめでとう、茜っ。あんたはようやく、自分の大切な心に気づいたんだよっ……」
ぶわりとあふれ出す涙をそのままに、茜は晴子に抱き縋った。
それは実らない恋に哀しんで流す涙ではなく。
その気持ち、想いは……なによりも尊く素晴らしいものだと教えてくれた友人への感謝。
例え想いを打ち明けたとしても、きっと武は茜を選ばないだろう。
実らないとわかっている恋。けれど、武を好きになった気持ちは……それは、とても素敵で大事で、大切で。
「あぁぁ、ぅぁああああっ」
「茜……よかったね。哀しいことなんてないじゃない。……好きでいいんだよ。白銀君のこと、好きでいいんだよ。好きなままで、ずっとずっと想っていていいんだ……」
――うん。
すすり泣く声の間に。
小さく頷いた、可愛らしい彼女の仕草を。
晴子は、とてもとても……とても、幸せな気持ちで見詰めていた。