『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:四章-04」
「さて、今日から貴様達は本格的に訓練を開始するわけだが……その前に隊を二つに分割する。多人数が集い行動する中、如何に統率を乱さず一つの目標に向かって進むか。そのためには隊を総括する人物、つまり貴様達で言えば分隊長だが……これが必要だということはわかるな」
まりもは教壇から席に着く十一名を見渡しながらに説明する。内容はいたって簡単。この中から誰か隊を纏める人物を選出する。ただし、現在彼らは十一名。一人の訓練兵が同じ訓練兵を、自分以外に十名も統率しなければならない。基本的に隊員――つまり訓練兵だが、彼らの精神的・肉体的なケアは教導官が行う。だが、教官とて常に彼らの状態を把握できているわけではないし、場合によっては同じ歳の同期生の方が向いていることもある。――なにより、いずれ衛士として任官し、戦場に身を置くことになればいずれ部下を持つことにもなろう。ならば、訓練兵の段階から少しでもその役割をこなすことで経験を積んだなら、これも立派な訓練の一つというわけだ。
武たちでいえばそれは茜の役割だった。訓練部隊は六名で編成され、彼女はこれまでの二年間を分隊長として務めた実績を持つ。
しかし今回横浜基地訓練校に入隊した彼らは十一名。如何に分隊長の経験を持とうとも、或いは初めてその任を与えられようとも……同時に十名の状態を把握することは難しいだろう。逆に、そのことが分隊長の負担となる可能性もある。
故に教導官であるまりもは部隊をA分隊、B分隊の二つに分け、それぞれに分隊長を一人選出することを説明した。
ちなみに、余談ではあるが、彼ら帝国軍横浜基地衛士訓練校第一回生十一名は第207衛士訓練部隊に所属している。武たちにしてみれば馴染み深いその名称だが、そこに入隊時にも感じたなんらかの思惑を感じずにはいられない。
……帝国軍に訓練兵として志願入隊したそのときから、まるでこうなることが決まっていたような……誰かの敷いたレールの上を走らされているような気がするのだった。――無論、そんなことを感じたところで口にすることも無く。
「では、各分隊のメンバーを発表する」
全員の顔に納得の二文字が浮かんだことを確認し、まりもは手元のクリップボードを見ながらA分隊のメンバーから読み上げた。
「まずA分隊。涼宮、柏木、築地、立石、月岡……以上五名。分隊長は涼宮」
「!?」
「えっ?」
驚いたのは武と茜。前者は当然最後に呼ばれるだろうと思っていたのが外れたことに。後者は、彼と離れるなどと思いもしていなかった故に。
晴子や多恵たちも声には出さずとも相当に驚いているらしい。驚愕と困惑の視線が武とまりもを行き来し、しかし教官の決定に異を唱えることも出来ず……まして、反論する理由すら思いつかなかったのだから、なんだかもやもやした気持ちを持て余したまま、残りのB分隊の発表へ移る。
「次にB分隊。榊、御剣、彩峰、珠瀬、鎧衣……白銀、以上六名。分隊長は榊」
「は、はいっ」
矢張りというか当たり前というか。A分隊で呼ばれなかった以上、武はその時点でB分隊ということが確定している。だが、本人も茜たちもなんだか奇妙な感覚に、お互い顔を見合わせては首を捻った。
そこに、207B分隊を任された千鶴が、おずおずと手を挙げる。まりもが許可し、千鶴は矢張り困惑した表情で武たちの思いを代弁した。
「あの、今回の部隊編成にあたって……なにか、選出の基準などはあったのでしょうか?」
「……なんだ、分隊の編成が気に入らないか?」
「い、いえっ! そういうわけでは……」
からかうようなまりもの言葉に千鶴は思わず縮みこむ。その千鶴の様子を無視して、まりもは武に視線を向けた。いきなり視線を合わされた武としては狼狽するほかなく、続けて発せられるだろうまりもの言葉に身を固くする。
「榊、貴様が言いたいのは、つまり白銀たち元帝国軍訓練校出身の者達はそのまま一纏めにしたほうがいいのではないかと、そういうことだな?」
「は……はい。彼女達は今までの二年間を共に過ごしてきたのだと聞きました。それに、……彼女達を見ていると既にチームとして確立されていて結束も固く、分隊単位で隊を分けるなら、そのほうが効率がよいと思います……」
少々怯みながらも、自分の考えを口にする千鶴。隣りに座る冥夜も同じように頷き、まりもの反応を窺っている。武は千鶴の意見に賛成だ。今まで同じ部隊でうまくやってきたのだし、――なにより、武が立ち直れたのは彼女達がいつも傍で支えてくれたからだ。その恩もあるし、それ故に思い入れが強い。ここで隊が分けられたからといってあっさりと切れてしまう関係ではないが、それでも、同じ時を過ごしたいという想いは在る。
「ならば逆に聞くが、貴様達は任官した後もそうやって仲良しグループで行動するつもりか?」
「「!?」」
まりもの瞳が細く鋭いものに変わる。任官した後……つまり、国連軍衛士として各部隊へ所属が決定した後。その時々の情勢にも依るかも知れないが、基本的に同期の訓練兵が全員揃って同じ部隊に配属されることは少ない。つまり、周り全てが知らぬ者、初対面の先任衛士たちの中に放り込まれるのである。そんな中、かつての同期のことばかりを思い或いは比較し、新しき仲間となった人々と距離を置き……チームとして行動できないのではまるで話にならない。
確かにチームとして、或いは深く通じ合った仲間として完成するには時間が掛かるだろうし、既にそれが築かれているのであればそのままで十分にお互いの力を発揮できるだろう。
だが、事実としてゼロからの関係を築き上げていかなければならない時がくるのだ。
自分のことを知らない、自分も彼らのことを知らない……そんな、ある意味当たり前の状況を如何に巧く乗り越え、いち早く仲間として溶け込むか。
これはそんな人間関係を模索するための訓練とも言える。――もっとも、まりもからしてみればこんなものは訓練でもなんでもなく、人と付き合う上で極々当然のことであり、彼らとてそれに気づいていないはずはないのだ。
「確かに白銀たちはこの二年間同じ部隊で訓練を行ってきた。私自身、約半年とはいえ面倒を見てきたんだからな。それはよく理解している。だが、そろそろ貴様達も次のステップに進むべきだろう。榊たちには悪いが、この部隊編成にはそういった意味もある」
次のステップ――。武はどきりとした。
自分の瞳を真っ直ぐに見詰めてくるまりもに、心の底が見透かされているような錯覚を覚えたためだ。
武自身、茜たちと離れることに抵抗がないわけではない。否、むしろ共にありたいと感じた。
それは先の通り、幼馴染の彼女を喪った自身を支えてくれ、手を差し伸べてくれたことが理由として大きい。……だが、まりもは「次のステップ」と言った。
ひょっとすると彼女は、北海道での一連の出来事を承知しているのではないだろうか。
その時の武を知り、茜たちを知っているのであれば、その言葉の意味するところも――理解できる。
つまり、武自身には精神的な強さを。
支えられ、差し伸べられた手を掴むことは決して悪いことではない。所詮人間独りでできることなど限界があるし、独りで抱え込むことに利点など一つもありはしない。
だが、いくらそれが自身にとってプラスの要素を持とうとも、それに縋り、或いは頼りきり……自己の精進をやめたとき、その人間は堕落する。支えられることに慣れ、引っ張られることに慣れてしまい、自ら動くことができなくなってしまう。……最悪、独りで居ることに耐えられなくなる不安定な精神状態になる危険性も孕むのだ。
無論、それらは相当に重度の状態であるが、周囲の人間に頼る癖がついてしまうとそれをなかなか乗り越えられないのも事実。
ならばここらで一度自身の状態をリセットし、もう一度自分の足で歩き始めるのもいいだろう。
まりもはそういうことを言っているのだと、武は解釈し、納得した。
また、茜たちにとっても、まりもの指摘する部分は的を射ている。
彼女たちの場合は武とは逆に、手を差し伸べること、支えとなることに慣れ過ぎてしまう可能性がある。
仲間を思い、大切にしたいという気持ち、それはいたって健全で、そして実に美しい感情だろう。苦しみ、喘いでいる仲間がいるなら自分がそれを支えて力になりたいという感情。人間として至極当然の感情からくるものだが、矢張りこれもそのことに慣れすぎると悪い面も出てくる。
つまり、仲間にかまけるあまり、自身が疎かになってしまう可能性。そして、深く接するあまりその人物の状態に引き摺られる可能性。
確かに仲間は大切だろう。それが特別親しいものならばな尚更だ。だが、その人を支えるためにはまず第一に自身の状態が万全とまではいかずとも、それなりに安定していて然るべきだ。そうでなくては力になどなれない。
それともう一つ、これは先の例と共通する面もあるが、手を差し伸べるあまり、その人物が自ら歩む道を刈り取ってしまう可能性。例え仲間のためとはいえ、その人物が自身に頼りきりとなってしまうのでは意味がない。
要するにバランスが大切なのだ。何事も行き過ぎはよくないというわけである。
そんなつもりはないと思っていても、しかし事実として……少なくとも茜にはいつまでも武の傍で支えとなってあげたいという感情があった。
まりもはそれを危惧しているのだと理解する。
「……質問はないようだな? ならば、今日より貴様達はそれぞれ207A分隊、同B分隊として訓練を行う。……今更だが、特に別々に訓練を行うこともないし、どちらか一方だけ特殊な訓練内容となることもない」
それはそうだと武は頷く。教官はまりも一人なのだし、部隊が二つに分かれたとはいえ別々に訓練していたのでは効率が悪い。
あくまでも分隊長の負担軽減、そして新メンバーでのチームとして成長すること……後は、付随効果として今までの関係を惰性で続けてしまわないようにという配慮。その結果である。
「では、今から十分後にグラウンドへ集合するように」
「敬礼!」
茜の号令で一斉に敬礼。答礼すると、まりもは颯爽と教室を後にした。
「…………」
訓練のために着替えなければならないが、武は何となくまりもが立っていた教壇を眺めた。
立ったままぼんやりしている彼に茜が、そして晴子たちが寄ってきて、
「どうしたの? 白銀」
「ぁ、ああ……いや、別に」
「別に、ってことはないよねぇ」
「うん……あ、ひょっとして茜ちゃんと離ればなれなのがショックなのかな?」
「た、たた多恵!?」 「ぶっ! んなわけねーだろっっ!」
腕を組み神妙な面持ちで唸る多恵に、顔を真っ赤にした茜の手が伸びる。しかしそれはあっさりとかわされたり回避されたりにゃんにゃんと避けられたりして一向に多恵を捕らえるに至らない。
同時に、思わず噴き出してしまった武は晴子と薫の餌食となっていた。
「あっははは、珍しいね、白銀君がそんな反応するなんて」
「あ~、知らなかったぜ。白銀は割りと寂しがりやだったんだな」
「ち、ちち違うぞ、断じて違うッッ! そ、そりゃちょっとは驚いたりしたけど、神宮司教官の言うことは尤もだろ」
からかう素振りを見せた晴子と薫、そして彼女達の背後にいた亮子も、武の言葉に苦笑する。――確かに。そう、心中で頷いているようだった。
「……別に、俺はお前らにべったり甘えてるつもりはないけどさ……やっぱり、どこかでそのことに対して安心していた部分も在るんじゃないかって、そう思った」
「うん」
「お前らにはホント感謝しても仕切れないんだけどさ。……ま、それはそれとして。一人前の衛士になったらバッチリお返しするってことでさっ」
「あはは、そうだね。私も内心痛いところを突かれた、って思うんだよね」
「……そうだな。流石に教官なんてやってないよ、こっちの状態なんて完全に把握してるんだろうし」
「そうですね。白銀くんもわたしたちも、より一層成長するためには、必要なことかもしれませんし……」
武の言葉に嬉しくも少し寂しく、けれど亮子の言うとおり、或いはまりもが言外に込めたとおり。彼らは、ここで一つ上の段階へ成長すべきなのだ。
武は彼女達から離れることで。
彼女達は武から離れることで。
別々に過ごすわけでも、お互いの立場を違えるわけでもなかったが……このことは、十分に「きっかけ」として効果を発揮する。
互いに先へ進み、より成長するために。なにより、新しい仲間達と共に進むために。
少年少女たちは互いに頷いて、笑顔を見せた。
そして、なんだか穏やかで暖かい空気が流れ、ゆったりとした雰囲気の中、
「んののののっっ!? 茜ちゃんがぶったぁあ!? いたいいたいっっ、ごめん、ごめんね茜ちゃん~~っ!!」
「今日という今日は赦さないわよ多恵ぇええ! いっつもいっつも、あんたは一言余計なのっっ!!」
実に、ぶち壊しだった。
「………………さて、いい加減着替えてグラウンドに行くか。――あ、お前らアレどうにかしろよ? 分隊長が就任直後に遅刻なんて、洒落にならん」
武の言葉に晴子の表情がハッとしたものに変わる。見れば既に教室にはB分隊の面子は居らず、そして武も足早に去ってしまった。
ならば今ここに残るはA分隊のみ。更に悪いことに後五分で集合時間。薫と顔を見合わせるまでもなく、彼女達は怒れる我らが分隊長を宥めすかすべく奮闘するのだった。
===
矢張りというべきか否か。
基礎体力向上のためのグラウンド十周を終えたその時点で既に、207A分隊と207B分隊には差が見られていた。
いや、同じB分隊の中でも武と他の少女達の間で、その差はもっと顕著なものとなって現れている。二年間の基礎体力作りができている茜たちA分隊並びに武は全く疲労を見せることなく。自身で鍛錬でも積んでいたのだろう冥夜、慧の二人は程よく息を弾ませている。膝を折るように息を整えるのが残る千鶴と美琴、壬姫の三人だった。
同年代の男女で比較した場合、統計的にも男子の方が体力・筋力共に優れてはいる。武と茜たちを比較してもその差は僅かにだが現れているため、彼と冥夜たちを比較するのは妥当ではないかもしれない。しかし、ならば茜たちA分隊と冥夜たちB分隊の女子を比較した際、こうして目に見えている差は、矢張り単純に鍛えようの差、ということになるだろう。
十五歳からの二年間。成長期でもあるその時期、にそれこそ毎日のように訓練に明け暮れていたのだ。同じ時を、例え自主的に鍛錬を積んでいたのだとしても、明確な目標に向かって、専門の教官の指導の下で訓練していた者と同列に並ぶのにはいささか至らない。むしろ、この時点で同等であるならば、それはあまりにも茜たちにとって衝撃だったに違いない。
故にA分隊の彼女達は内心で安堵するし、同時にそんな風に考えてしまった自分達を恥じ……反省したなら、より自身を磨くのみ。
同じく、B分隊の面々も二年間の差を痛感し、それを知った上で追いついて見せると意気込む。
お互いに強い意志を持つ少女達である。いい意味での刺激が、その表情の中には窺えた。
だが、武が驚くのはその少女達の気概ではない。――御剣冥夜、そして彩峰慧。
この二人。それなりに疲労しているようだが、十周を走り終えるそのときまで決して武から遅れることがなかった。別段、武が特に足が速いというわけでも、彼が自惚れているわけでもない。そこには、かつての訓練の日々で茜や薫といった体力的に恵まれている彼女達でさえ五メートル近い差を埋められないでいた事実がある。
それなのに、冥夜と慧はまだまだ余力を残したように見えながら、武と数秒も違わずにゴールしていた。
ハッキリ言って、脅威だ。
男のプライドなどではなく。純粋に、この二人はとてつもないものを秘めているのではないかと想像してしまう。
「よぅし! 休憩は終わりだ! 全員、再度グラウンド十周ッ。先ほどのタイムより遅れた者には追加五周だッ!!」
懐かしいなどと思わず感じてしまった武。この容赦の無さは、札幌にいた頃の教官……熊谷にはないものだった。彼はどちらかといえば大らかに、ゆっくりと、それでいて効果的な訓練を心掛けていたように思う。……別に、まりもの訓練がスパルタだというわけでは断じてない。
「よ、っと。んじゃ、さっくり走るとしますかッ」
「……ぬ、そなた、随分と余裕だな」
「…………余裕余裕」
一人ごちた武に冥夜と慧がそれぞれ反応する。ん、と武は彼女達に振り向く。先発はA分隊なので、彼女達が一周するまでの間、若干ではあるが間が空いた。
「別に余裕ってわけじゃないけどな」
「しかしそなた、全く息が乱れておらんではないか。……矢張り二年間という時間は大きいということか。私もまだまだ精進が足りぬ」
「おいおい。そんな大層なもんじゃねぇだろ。第一、訓練初日でいきなりグラウンド十周なんて、俺達全員揃ってへばってたんだぜ? それに比べりゃ、お前ら全員、断然俺たちよりすげーって」
神妙な顔をする冥夜に、武は本気で首を傾げながら言う。その言葉に千鶴が苦笑し、
「白銀の言いたいことはわかるけど、……それでも、現に私たちは貴方たちに及ばないのも事実でしょ」
「だからぁ、そんなのしょうがないだろ? というかだな、そのために訓練があるんだから、どっちが上だの下だの、及ぶ及ばないなんて話が出る時点でおかしいんだって。――ほれ、さっさと俺達も行くぞ」
目の前を茜を先頭に薫、晴子、多恵、亮子が走り過ぎる。最後尾の亮子に並ぶように武が列に合流し、あ、と慌てた様子で冥夜、千鶴が続き、先ほどと打って変わって急にマイペースになった慧、疲労を残した状態の美琴、壬姫と続く。
二回連続の持久走である。体力のない者にはいささか辛い。身体も小さく、見るからに体力に恵まれていない壬姫と美琴の両名を、武は四周目にして追い抜いた。そのとき、かつての亮子を思い出して――ああ、それでも矢張り自分達はこの二年間で成長しているのだと実感する。
二年間という時間は大きいと冥夜は言った。
確かにそのとおりだと武は頷く。帝国軍と国連軍の訓練期間の差でもある、実に七百日以上の日々。そこには絶対に埋まらない何かがあり、それが差として現れる。
だが、だからといってそれだけに着目して優劣を決めるのは些か早計だろうし、衛士としての差にはなり得ない。
第一、訓練はまだ始まったばかりなのである。その時点で二年というアドバンテージを持つ武たちに劣るのはある意味当然で仕方がないことでもある。だが、それを悔しいと思うなら、これから鍛えればいいのだ。十六、ないし十七歳という年齢は、成人となる前に爆発的に心身組織が成長する時期でもある。その期間を、優秀な教導官の下で限界まで鍛えぬいたなら……恐らく半年と掛からずに、彼女達は武たちに追いつくのではないだろうか。
それ以外にも、人には得手不得手がある。今行っているのは言ってしまえばマラソンだ。地を蹴って走るだけである。無論、その中には全身体力の強化や脚力増強といった目的があるわけだが、それを無視したならばただ走るだけである。
走ることが苦手でも、例えば射撃が巧かったり、或いは様々な知識を有していたりと、それぞれ得意分野があるだろう。
ならば、まずはそこを基点として自身を形成し、その上で自身の劣ると思われる点を鍛えていけばいい。
つらつらとそんな毒にも薬にもならないようなことを考えていると、不意に背後から規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
ちらりと振り返れば冥夜が先ほど以上に距離を詰め、正に武を抜き去ろうとしている。大した体力だと、真剣に武は感嘆した。
先ほども感じた脅威。冥夜に……スタート時点では確かに出遅れていたはずの慧も、殆ど密着した状態で走っている。武は、少しだけ彼女達の本気を見てみたいと思った。
まりものやり方から言って、この後まず間違いなく突撃装備での五キロ、ないし十キロ行軍があるだろう。若しくはひたすら走り続けるか。
それを知っている武だが、ほんの少しだけ、悪戯心にも似た興味が湧く。残り五周。その間に、彼女達二人の本気を引きずり出す……つまり、後先考えない全力疾走だ。
(問題は御剣たちが乗ってくるかだが……)
だが、その点は心配要らない。武は昨日の一件で冥夜という人物が実に好戦的であると理解している。……無論、それが全てではないのだろうが、武からしてみれば冗談交じりの手加減で燃え尽きて灰になってしまうほどに叩きのめされたのである。つまり、彼女は舐められることを嫌うということだ。
気がかりなのは慧だろうか。どこか不思議な雰囲気を持つ彼女。物静かで感情をあまり表に出さないよう見えるが……しかし、淡々としつつそれでいて冥夜と競り合っているあたりに実は負けず嫌いな印象を受ける。
ならば、やってみるかと武は頬を吊り上げた。ニッとした表情で首だけを振り向かせて、
「なぁ、御剣、彩峰」
「……ッ、なんだ?」 「?」
息を弾ませながら返事をする冥夜に、ん、と眉を寄せる慧。ほぼ横並びに走る彼女らに、武は続けて、
「実は俺はまだまだ余力を残してるんだが……それはお前達も同じだろ? ……なら、残り五周、本気で走ってみないか?」
「…ッ、なにを言い出すかと、思えば……ッ、そなた、訓練は遊びでは、ッ、ないぞ……」
「本気……余裕だね、白銀」
「おう。余裕だぜ。そして遊びじゃないことも承知してる。……単純にさ、興味あるんだよ。……お前ら、ここに来るまでも相当鍛えてただろ? 隠しても無駄だぜ。見りゃわかる。……だからさ、この二年間真面目に訓練やってた俺と、自主的なのか誰かの指導の下なのか鍛錬を積んでたお前らと……どの程度違いがあるのか知りたいんだ」
ザクザクと地を蹴り飛ばしながら、スピードを緩めることなく走る。その間に一周を終え、残りは四周。全く息を乱さずに走る武に、冥夜も慧も、彼が余力を残していることは嘘ではないと気づいている。
そして、それを踏まえたうえで先ほどの武の言葉の意味を噛み砕く。興味がある。衛士となるために軍隊に入隊し、鍛え上げた現在の武。同じく衛士となるために、しかしこちらは軍隊ではない場所で鍛えてきた冥夜、慧。
それを比べるものではないと断言していたのは他の誰でもなく武自身なのだが……それでも矢張り気になるものは気になるということか。
更に、その興味の根底には少なくとも自身が男子であることも絡んでいるのだろうと冥夜は推察する。ふふっ、と知らず笑みが零れる。――成程、わかり易い男だ。
「なんだよ。いきなり笑い出して」
「いや、すまぬ。……ッ、そうだな……そなたの実力とやらも、後のために見ておきたいものだ」
「勝ったらなにかあるの?」
冥夜の笑みに思わず口を尖らせる武だが、彼女はどうやら同意してくれたらしい。続く慧の言葉には、適当に答えておく。
「勝者は敗者の晩飯から好きなおかずを取れる、ってのはどうだ?」
「「…………」」
「そ、そこで黙るなよ……」
「白銀、セコイね」
――グサァァアッ!!
慧の言葉に、なにか得体の知れない衝撃が胸に突き刺さる。心底どうでも良さそうに言う慧に、思わず泣きそうになってしまう武だった。
「ええい、やかましいっ!! とにかく俺はお前らの本気を……ぉ?」
言葉の途中で、ビュン、と冥夜が武を追い抜く。そのスタイルは短距離走のそれであり、次の瞬間には慧が一陣の風となっていた。
ははは……なんだ、やる気じゃん。武は内心で呆気にとられながら、むくむくと湧き上がる意欲に、自身もギアを上げた。
「ぅっぉおおおおおおおおお!!」
抜かれ様に抜き返し、三人が横に並ぶ。突然背後からありえないスピードで走ってくる武たちに驚き、前方を走っていた亮子は思わず道を譲ってしまう。困惑する彼女を尻目に、続いて多恵と晴子を抜き、先頭を行く茜、薫の二人さえ追い抜いて…………千鶴を周回遅れに、そして美琴、壬姫を更に追い抜いて……それでも三人は止まらない。
はっきり言って莫迦丸出しである。
グラウンドに設けられたトラックは一周400メートル。それを四周、つまり1600メートルを全力疾走しようというのだ。普通に考えて二周もしないうちにへばるだろう。……が、武はこれまでの二年間でそんな普通を既に超えているために。そして冥夜に慧は……全くペースの衰えを見せない武に、次第に冷静さを失って完全に乗せられていた。
無茶無謀ともとれる果てしない全力疾走も終わり、武は盛大に叫びながらゴールした。
「っしゃああああああ!」
「くっ…………ハァ、ハァッ、ぁ、は……しろ、がね、そなた……ッ、ッぅ、」
「…………けっこう、…………キツイね…………」
全身から汗を噴き出したまま、武は勝利を噛み締める。純粋に勝てて嬉しいという気持ちと、矢張りこの二年間は無駄ではなかったという確信、そして――彼女達の秘められた能力と実力に、知らず、興奮が止まらない。
(すげぇっ、すげぇよ御剣、彩峰ッッ!)
武には尊敬すべき人たちが多く存在する。筆頭は紛れもなく水月であるが、同じ部隊の茜たち、教官であるまりもに熊谷……。だが、その彼女達のどれとも違う凄さを、この二人からは感じた。
衛士となるために国連軍へ志願し、それまでにも自身の力で肉体を、精神を鍛え抜いている……その事実、凄さ。
武は実感としてそれを知る。最後まで武に遅れることなく全力で走りきった彼女達を、よくわからない感情が「凄い」と讃えている。
その努力と意志は――間違いなく、尊敬に値する。
「ははっ、すげぇ、すげぇよお前らっっ!」
破顔する武に、冥夜は息を荒げながらも小さく笑い返し、慧はそっぽを向いて静かに微笑んでいた。
春の強い風が吹いて、熱のこもる身体を冷ましてくれる。呼吸を整えた武が、何気に足を震わせている慧に気づき、晴子直伝のマッサージでもしてやろうかと口を開いたとき、視界の隅にいた冥夜の表情が真っ青に染まるのに気づいた。
――あ、ヤバ。
その意味するところは一つ。そう、たった一つ。
武は忘れていた。浮かれて感動して完全に忘却していた。
二年前、これと似たようなことがあったことを。そして、彼女はそういうことを微笑ましく見守ってはくれないのだということを。
「随分と楽しそうだなぁ白銀……」
「は、はは……ははは、」
「あれだけ思い切り走れば、さぞ気持ちよかったんだろうな?」
「え、ええ…………それは、もう」
「後先考えずに全力疾走……それは若者特有の衝動のなせる業か?」
「そ、そうなんですよっ! これはもう、今しか出来ない汗と涙のッ、」
「莫迦者ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッ!!!!!」
「やっぱりいぃいいい!!」
その後、何故か武だけ特別メニューが組まれ…………夕食の時間になっても、その姿を見たものは居ないという。
===
「だからっ、なんで俺だけなんだよぉおおおっっっ!! つぅか腹減ったぁああああああああッッッッ!!」
「つべこべ言わずに走れ走れ走れ走れェエエエ!!」
既に陽が沈んだ宵闇のグラウンドに、悲痛な叫びを上げる少年と、鬼のような形相で吠える女性の姿があった。
言うまでもなく、居残り中の武と、慈悲のカケラもないまりもである。
訓練を終えてから既に二時間。延々走ったり装備を抱えて行軍したり走ったり筋トレしたり走ったり走ったり……。いかに鍛えられているとはいえ、それでも限界はある。
なけなしの根性とヤケクソな気概だけで走り続ける武を、それでもまりもは容赦ない視線で睨みつけている。
そんなまりもの横に、白いカチューシャをつけた橙色のショートヘアの少女がやってきて、
「白銀~~っ。白銀のご飯、おばちゃんに頼んで包んでもらってるから、心配しなくていいよ~っ」
「んなにぃいいっ?!! よくやった涼宮ッ! お前サイコーだ!!」
暗闇の向こうから、武の叫び声が聞こえてくる。その言葉にえへへと頬を緩めるのは茜。胸にはたくさんのおにぎりが詰まった容器と、合成宇治茶の入った水筒。さらにはよく冷やしたタオルまで準備して、居残りという名の罰が終わるのを待っているようだった。
「……涼宮、何をしている?」
「えっ?! あ、そ、その…………だ、駄目ですか?」
横目に睨んでくるまりもに、怯みながらも上目遣いで尋ねる茜。
まりもの特別メニューで心身を酷使していながらに、更に追加で二時間以上の訓練。まりもとてこれ以上武を苛めても何の効果も得られないことはわかっている。どうして武があんな莫迦な真似をしたのかについても理解しているのだが……冥夜と慧がなにか言いたそうにしていたのを敢えて黙らせてまで武のみ特別メニューを強いたのは、実のところ彼女の中で武がどれほど成長しているのか興味があったからだ。
……いや、単純に興味本位で訓練を滅茶苦茶にした武への仕置きと、それ以上に次々に下される訓練メニューをなんだかんだと言いながら着実にこなす武に、思わず興が乗ってしまったというのが本音だろうか。
そして、あまりにも中途半端な状態で教官の任を離れ……再びその教導を担当できる喜びが強く、まりもを衝き動かしていた。
約半年。たったそれだけの期間しか鍛えることの出来なかったヒヨッコが、自分の知らぬ間に随分成長したものだ、と。内心でクスクスと笑っていたりする。――無論、そんな感情を表情に出すことなどなく。
「……まぁいい。そろそろ切り上げようと思っていたところだ。…………しかし涼宮、随分と白銀に優しいじゃないか?」
「ぅぇっっ!!?? い、いやっ、それはそのっ……ぶ、分隊長としてっ隊員の様子を見るのは当然のっ……!?」
意地悪く口端を吊り上げるまりもに、面白いように慌てふためく茜。しかもその言い訳は苦しい。
「白銀はB分隊なんだがな。…………ふふふ、まぁいい。……しかし、一年会わない間に、貴様達も随分変わったものだ」
「……神宮司教官……」
微笑むような、寂しいような……、そんな微妙な表情を浮かべて武を見るまりもに、茜は少しだけ胸が痛くなるのを感じた。まりもの下を、横浜を離れて一年以上が過ぎた。その間まりもは常に前線に立ち、一人の衛士として数々の戦場を渡ってきたのだろう。
護ると言った横浜を護れず、……それでも諦めずに取り戻したこの地に再び教官として赴任して……。一体、その胸中にはどれほどの想いが溢れているのだろうか。
茜にはとても想像もつかない。
「済まないな。他意はないんだ。――ただ、…………いや、なんでもない」
ゆるゆると頭を振り、まりもは顔を上げる。眼前には食べ損ねた夕食の存命にはしゃぐように走る武の姿。いい加減、疲労が限界を突破してハイになっているらしかった。……その武にやれやれと苦笑し、――――ほんの一瞬だけ、前任教官の熊谷からのレポートに記されていた事項を思い出す。
――白銀武は斃すべき敵を欲している――
まりもは熊谷という人物を知らない。だが、彼の纏めた丁寧なレポートや、今こうして再会した武たちの成長を見れば、彼が優秀な人物なのだということはわかる。
故に、そこに記された言葉の意味を、まりもはまだ実感できずにいた。
一月のBETA横浜侵攻に端を発する武の狂態、或いは精神的に追い詰められ、感情に振り回され、懊悩する様。
それらから必死に立ち直ろうと、或いは立ち直らせようと足掻き、支え、手を差し伸べて。熊谷のレポートには丁寧に、忠実に、少年と少女達の成長が記されていた。
一見すると、武は既にかつての哀しみや苦しみを克服し、立ち直っているように見える。
……だからこそ、最後に記された熊谷のその言葉は……無視できないものだ。
白銀武は斃すべき敵を欲している。
まりもにはまだ、実感できない。だが、何の根拠もなしに、ヒトの内面を記しはしないだろう。……だからこそ、それは忘れてはならない、重要な事項なのだ。
いくら、目の前で、以前と変わらぬようで確実に成長しているように――そう、見えたのだとしても。
「白銀ェッ! 今日はここまでだっ、あがれ!!」
「えっ!? ……は、はははっ……ぉ、ゎっ、た……」
まりもの声にその場でぶっ倒れる武。慌てて走り寄るのは茜で、わーわー言いながら抱き起こしてタオルを当てたり水筒のお茶を飲ませたりと実に甲斐甲斐しい。
不意に思い出された熊谷のその言葉に、言葉に出来ない苦さを感じながら……まりもは、それでも。
「白銀……大切な人を喪った哀しみから立ち直ったあなたなら、きっと、最後まで生きていけるはずよ」
ぽつりと。
本当に小さく呟かれたその声を、まりも自身気づいてはいなかった。