『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:五章-03」
横浜基地は小高い台地の上に建っている。基地の入口までには延々と続く長い曲がりくねった坂道があり、道の両脇にはずらりと桜の木が植えられている。これは、元々の……つまり、帝国軍横浜基地時代の様相と酷似していて、当時を知る者は全員が口を揃えてまるであの時に戻ったようだと漏らしたという。
桜の木に限らず、横浜基地内には多くの植物が植樹されているが、梅雨を過ぎ、緑が最も鮮やかに強かに成長する七月に入っても、その枝先に緑をつけるものは少なかった。
観葉目的で植樹された木々はそうでもないのだが、先の桜然り、或いは……BETAと『G弾』によって壊滅した横浜の町然り。
ここには、およそ緑と呼べるものが皆無に等しかった。
事情を知る者は敢えてそれを口にせず、事情を知らぬ者も、その意味をそれなりに予測している。
即ち、――『G弾』。
横浜ハイヴ攻略においてその驚異的な破壊力を見せつけた二発の超兵器。米軍が開発した対BETA戦略における現在の最高峰。
本州島各地で、或いは世界各国でBETAに蹂躙された土地は多い。連中の通った跡は根こそぎ何もかもが失われる、というのはもはや常識だが、しかしそれらの土地に緑が戻っていないという事例は少ない。元々植物の植生しない土地柄というならともかく、ここまで見事に植生が回復しないというのは珍しい。
…………否。
珍しいというよりは、むしろ……。
未知なる超兵器の洗礼を受けた横浜。そこに建設された国連軍横浜基地。植樹された桜、木々、観葉植物……。
その育成に弊害を与えているもの。新たに緑が芽吹かない理由。
公にはされていない『G弾』の一つの効果。……いや、効果というにはあまりにおこがましい。
それは『G弾』を使用するならば必ず憑いて回る災厄のようなものだ。――重力異常。『G弾』を使用した土地に引き起こされるそれは、この横浜の地に半永久的に影響するといわれている。
横浜基地の植物の育成状況はその重力異常の影響度合いを計る目安であり貴重なデータとして国連の研究所へ報告される。そのデータを元に『G弾』の引き起こす重力異常の脅威を研究することで、国連は米軍に対して今後一切の『G弾』使用を禁止すべく動いているのだ。
そして、そこで暮らし、戦い、訓練に明け暮れる彼らもまた……『G弾』が人体に与える影響を研究するための生きたデータを提供している。――無論、本人達の知らぬまま。
そのことを知る者は少ない。……知っている者は、それを承知で尚、この基地に留まり任務をこなす。日々を生き、『G弾』の脅威を証明するために、帝都に程近いこの地を護るために、極東方面防衛の要となるために。未知の兵器が振り撒いた未知の重力異常に晒されながら、それでも……。
===
速瀬水月は基地入口の正門を護る衛兵に部隊章と外出許可証を見せ、敬礼を向けてくる伍長に答礼しながら颯爽と門を出る。向かう先はそう遠くない。延々と続く曲がりくねった坂道……その脇に植えられた葉のない桜の木々。その一本に歩み寄り、根元に置かれたコップに目をやる。
「ふふっ……相原中尉、こんなところでも飲んでるんですか? 飲み過ぎて、前みたいに暴れないでくださいよ~」
きっと、木野下少尉の仕業だろう。透明な硝子のコップは二つ置かれていて、片方は空に、残りにはなみなみと液体が注がれていた。数ヶ月前に一度だけ、彼女の部屋で口にした純正の日本酒。任官した際に父親から贈られたのだというそれは今では貴重品となった本物で、大層酔いが回ったことを思い出す。
「あの時は大尉にこっぴどく叱られて、あっはははっ、木野下少尉なんて土下座までしてましたっけ!」
その時を思い出したのだろう。水月はケタケタと笑う。まるで枯れ木のような桜の根元、……そこに誰かが居て、その人と思い出を語り合うように。
特殊任務部隊A-01――水月が所属する、横浜基地副司令直轄の特殊部隊。
常に激戦の渦中に身を置き、過酷に過ぎる任務に従事することの多いA-01部隊は、つい先日まで山口に居た。
甲20号目標から流れ出たBETAの大半は海底を進み佐賀県沿岸部に上陸する。対馬に展開する帝国軍艦隊や奪還した山口県に再建した帝国軍各基地の戦術機甲部隊らが結束し、それら進出してくるBETAの本州上陸を防ぐために日夜最高基準の警戒を敷き、防衛ラインを構築している。
数ヶ月に一度の頻度で侵攻してくるBETAに対し、彼らは幾度となく防衛戦を繰り返してきた。……数ヶ月に一度であるとはいえ、その損耗は莫迦にならない。戦闘を一度行えば必ずといっていいほど戦死者が出、戦術機を失い、武器・弾薬、ありとあらゆる物資を消費する。特に衛士は替えがきかず、最前線である下関基地には実に二個師団規模の部隊が集結しているにも関わらず、その損耗は尚増加し、各地方へ増援を要請しているという。
無論、過剰防衛というわけではない。
朝鮮半島と目と鼻の先である九州北部・山口西部。先の本州島侵攻において真っ先に壊滅したそれら……本州島の玄関口とも言えるその箇所を守護・防衛することは理にかなっているし、なにより、日本人に植えつけられたBETAの脅威を払拭するためには、そこは絶対に守りぬかねばならぬ境界線なのだ。
そして、その防衛作戦にA-01部隊は参加していた。
『明星作戦』において二中隊からその数を減らし、今や第9中隊一つを残すのみとなったA-01。伊隅みちる率いる第9中隊は元帝国軍横浜基地衛士訓練校出身の総勢十二名、内一名は戦域管制を行うCP将校で構成され、その苛烈なる戦績と部隊員が全員女性であることから、戦乙女の二つ名を以って呼称される。即ち、伊隅ヴァルキリーズ。
若き女性大尉が中隊長を務め、部隊全員の錬度も高い。堅実で確実な実力を有し、どんな過酷な任務にも臆することなく果敢に成果を上げるヴァルキリーズは国連軍に所属する。『明星作戦』では帝国軍と共同作戦を展開したりもしたが、通常であれば帝国軍と共に作戦行動を取ることはない。
ならば今回の山口派遣は一体何のためか。
帝国軍からの要請というわけではない。『明星作戦』以降、帝国は国連に全面的に援助を求めることをしなくなったためである。
無論、国連との繋がりを断った訳ではないが、窮地から脱した現状、国連軍の好意に甘えること、それに縋ることをよしとせず、先の教訓を生かした防衛体制を構築するためには必要な措置だった。
国連軍もそれを重々承知し、しかし世界情勢を見た限りでの甲21号ハイヴの脅威に備えるために、横浜に極東方面防衛の要となるべく一大基地を建設したわけである。
そして、この度の山口戦線。甲20号目標より溢れ出たBETAが海底より九州へ上陸、これまでと同様に福岡を北上し、関門海峡を越えて山口へと侵攻した。ある意味で、いつも通り。彼らの認識からすれば実にセオリー通りのBETA侵攻だったのだが、今回は少々事情が違った。
数が多いのである――。
BETAを前にして多いも少ないもないのだが……それでも、「多い」。戦略衛星で補足したBETAの総数はおよそ一万二千。横浜ハイヴ攻略の際に地上部隊が相手取ったBETAの総数に匹敵する物量である。下関基地に展開する戦術機甲師団は大いに泡を食った。甲20号目標、即ち光州ハイヴは、その分類上フェイズ4とされる。フェイズ4ハイヴの推測BETA総数はおよそ数万から十数万。実に幅広く曖昧に過ぎる数値だが、実際にその中に潜る以外に観測し総量を計る手段がない現状、それもやむを得ないのかもしれない。だが、それでも、二個師団の精鋭が整然と防衛ラインを構築しているとはいえ、一万二千の超物量を前に、「それで十分」などと言える保障もなく。
光州ハイヴよりそれら圧倒的物量のBETAの出現が観測されたとき、既にA-01は山口へ向けて出撃を開始していた。
先の通り、帝国軍からの要請ではなく、彼女達は彼女達の役割を果たすため、直属の上司である横浜基地副司令香月夕呼の命令により自ら戦場へ赴いたのである。
山口西部の防衛線を抜かれるわけにはいかない。ようやく取り戻した本州を再び失うわけにはいかない。……幸いにして、佐渡島に存在する甲21号目標は沈黙したままであり、それは新潟から波状に展開する帝国軍第12師団をはじめとする三重の防衛ラインにより固められている。故にA-01は北関東の情勢を気にすることなく、今現在の脅威に対抗すべく進撃した。 彼女達が山口の戦線に突入した時には既に前線は下関を越え、瀬戸内海沿いに小野田まで押されていた。流石これまでのBETA侵攻を防いできたことのある帝国軍は、それでも少なくない損害を出しながらによく奮闘していた。A-01とてそんな彼らに負けられぬ、或いはそんな彼らを死なせないために、率先してBETAの前に姿を晒し、陽動を引き受ける。
突然のA-01の乱入にも関わらず、帝国軍衛士はよく連携した。BETAの陽動を買って出る彼女らの動きを実に巧く利用し、ひたすらに前進を繰り返すBETA共を血祭りにあげる。――だが、それでも矢張りBETAはBETAでしかなく……その脅威は、殺しても殺しても一向に減らないその数にある。
実に四時間を超える長期戦。各基地に備蓄していた補給物資の三分の二を使いきり、戦死者は数百を数えた……。小破を含む戦術機の損害は実に1500体を超え、二個師団のおよそ七割におよんだ。
そして……無論、A-01とて無傷とはいかなかった。
かつての第6、第9中隊を併合しての十二名で編成された彼女達の部隊からは半数を超える七名が死亡し、その戦力は激減した。…………それほど過酷な戦場だったということだろう。だが、あまりにも多い。
戦死した七名の内、これが初陣だった衛士は四人。この二月に任官したばかりの、経験の無い少女達。初陣に出た衛士の平均生存時間は八分。「死の八分」と称されるそれを、しかし彼女達は辛くも乗り越えてみせた。…………ただ、経験が足りなかっただけだ。それを乗り越えて尚、平常心を保ち、周囲を、そして何より己を把握することが出来ずに。
一人、また一人と……緩やかにその数を減らしていったのだ。――たった一度の防衛戦で。
初陣を見事切り抜けた新米衛士はたったの一人。同期任官した仲間の全てを喪って……それでも彼女は、涙を流すことなく、戦場に散った戦友に微塵の迷いもない最敬礼を送っていた……。
それが、つい先日までの顛末である。
桜の木の下で、水月は静かに語り続けた。山口の地に散った相原。水月を突撃前衛として引き抜いてくれた小隊長。かつて孝之と共に戦場を駆けた女性。……今頃は孝之をからかって笑っているのだろうか。
「……決して無駄死にするな、かぁ……。相原中尉、貴女は…………」
水月はそれ以上口にすることをやめた。
同じB小隊だった水月の同期生。主脚に損傷を負い、補給のために一旦後退する部隊から離れ、単機で時間稼ぎをしようとした山崎。――相原は、それを認めなかった。そんなことは赦さない。それで死ぬことは絶対に赦さない。そう叫んで、相原はその彼女の下へ舞い戻った。
制止するみちるの声も聞かず……「もうあんなことはごめんだ」と、まるで泣いているように叫ぶ相原は…………結局、殺到するBETAの前に、山崎共々逝ってしまった。
それは無駄死にだったのか否か。
みちるは吠えて、嘆いた。――莫迦野郎、と。苦りきった表情で、感情を噛み殺して。ただ、一度だけそう言った。
その言葉の意味を。相原の行動の意味を。水月はまだ理解できていない。……ただ、相原は決して、無駄死にをしたのではないのだと信じていた。
結局のところ、それを無駄死にと断ずるのは本人の心だ。自分自身、唯一無二の、絶対に他人に覗くことのできないその心が、自分は無駄死になんかじゃないと意思高らかに咆哮するならば、それは、周囲の者がどう感じたところで、決して無駄死にではない。
だから、相原は……。
「水月、ここにいたんだ……」
「遙……」
黒を基調とした国連軍の士官服を着た遙が、水月のすぐ後ろに立っていた。柔らかに微笑む親友に、水月も微笑を返す。やってきた遙は水月と同じように桜の木の下に立ち、そこにあるコップに気づいた。
「あは、木野下少尉ったら。……相原中尉、今頃お酒飲んでるのかな」
「飲んでる飲んでる。山崎も野々宮もいるし……きっと小林も竜堂も藤井も武内も、み~んなで大宴会でも開いてるんじゃないの? なんてったって本物の吟醸があるわけだしさぁ」
「うん。そうだね。……孝之君も、一緒かな……」
遙の表情は柔らかく、落ち着いている。目許は赤くじんわりと腫れているが、そんな哀しみを微塵も感じさせない様子で……。それでも、その名を口にしたときだけは……どこか翳りの色を見せる。
水月は静かに笑う。遙の言葉に頷くように、じっと眼を閉じる。
今回の作戦で、本当に多くの仲間が逝った。訓練兵時代を共にした同期たち、自分達に半年遅れて任官した一期下の彼女達……。水月が入隊する以前からヴァルキリーズに居た古参は既にみちると木野下の二人だけ。未来溢れる有望な若き衛士は、その大半が散ってしまった。
それは哀しい。本当に哀しい。ついこの間まで共に訓練をし、共に作戦に参加し、戦ったのだ。
一人ひとりの名を、顔を、声を。覚えている。鮮明に思い出せる。――なのに、彼女達はもういない。
それは鳴海孝之という彼も同じ。
何も言わない水月に、遙はごめんと小さく舌を出した。謝ることなんてないと水月は首を振る。遙が言ったことは自分だって考えたことなのだ。――ならばきっと、あの莫迦もやってきた相原に苦笑しながら、差し出される酒を巧そうに煽っているに違いない。
「相原中尉、アイツのことお気に入りだったみたいだし? 絶対飲まされてるわ。断言する」
「あはは……。水月ったら」
小さく笑いあう。A-01への任官が決定したその日から……もうじき一年が経とうとしている。つまり、彼女達の想い人であった彼がこの世を去ってから……。
水月は思い出す。みちるの口から告げられた孝之の最期。……相原は、山崎の姿に孝之の背中を重ね見たのだろうか。
そして同時に、あの日、自身の肩を抱いてくれた少年を思い出す。
「…………ふふっ、」
「水月?」
泣いていいと言ってくれた。今度は自分が支える番だと言ってくれた。……あの、危なっかしい、目の離せない――まるで弟のように想っていた少年。
今現在この横浜基地で国連軍訓練兵として訓練を続ける彼を、思い出す。
どうしてだろうか。
改めて思い出すまでもなく、水月は彼を忘れたことなどなかった。何時如何なるときも水月の頭の片隅には彼が居て、挫けそうな時や……今回だって、その言葉が、その手の温もりが……支えてくれた。
ああ、どうしてだろう。
孝之のことは今でも好きだと、胸を張って言える。……なのに、心のどこかでは、常にあいつのことを考えている自分が居る。
まったくどうかしている。なのに、こうして思い出せば、じんわりと胸が温かくなる。
「……水月、ひょっとしなくても白銀君のこと考えてるでしょ?」
「んなっっ!!??」
うふふふふ、と。まるで天使のような微笑を浮かべる遙に、水月は思わず叫んでしまう。心の底から満面の笑みを浮かべる遙のその表情は、長年の付き合いから、彼女がとてもとても愉しんでいるのだと知らせてくれる。――主に、自分の親しい者が恥ずかしがる様を見て歓ぶときの顔だ。
妹の茜を可愛がる(?)時に見せることの多いエンジェルスマイルを、惜しげもなく水月に向けて。遙はちくちくと水月を弄くり出した。
「そうだよね。白銀君かっこいいし。水月も白銀君のこと大好きだし。なんとなく孝之君に似てるしね。あ、でも、それだと水月……茜とライバルになっちゃうのかな。う~ん、複雑。姉としては妹の幸せを願ってあげたいけど……でも水月は親友だし……。あ、でも、水月と白銀君ってすっごくお似合いだと思うな。だとしたら姉さん女房だねっ」
「だぁあああ~~っ!!? ストップストォオオップ!! ちょ、ちょっと遙?! あんた何言い出すのよっ!!」
うふふふふふふ……。神々しいまでの天使の微笑み。なのにちょっぴりダーク風味。水月は真っ赤になって、聞き捨てならない遙の言に異を唱える。あいつは弟! 恋愛対象なんかじゃないし、第一年下に惚れるなんてことが云々。しかしその水月の必死の抵抗も遙の前にはまるで通じず、
「わかってる。水月ってホントに照れ屋さんなんだから~」
「ぜんっぜんわかってなぁあ~~いっ!!」
「そうですか。速瀬少尉には年下の恋人が居るんですね。……しかもウチの訓練兵。涼宮少尉の妹さんと三角関係……と。ふふっ、その少年、一度見てみたいですね」
うふふスマイルでのらりくらりとかわす遙に喚き叫ぶ水月。その背後で、唐突に第三者の声がする。
「宗像っ?! あ、あんたいつの間に……」
「つい先ほど。……しかし、タイミングがよかった。まさか速瀬少尉の知られざる性癖を知ることが出来るとは……」
「ぶっ!! せ、性癖ってあんた……」
「いえいえ、私は全然気にしてません。恋愛に基準も制限もありませんよ。……まぁ、私の場合は気持ちよければなんでもいいんですが」
宗像美冴は不敵でニヒルな笑みを浮かべ、水月の険しい視線など何処吹く風といわんばかりに平然としている。たった一人だけ初陣を生き延びた才覚溢れる新任衛士。大人びた印象を受けるその風貌に似合いな、どこか謎めいた思考の持ち主である彼女を、水月は少々苦手としていた。
とにかくこの女は油断がならない。それが水月の美冴に対する認識である。別段嫌っているということはないが、それでもこちらをまるで玩具かなにかのように考えているのではないかと思わせる言動には……結構かなり随分と、思うところは……大いに在る。
「誰もあんたの性癖なんて聞いてないわよっ!? ていうかなに!? 気持ちよければ何でもって……!!」
「ふふ、試してみますか?」
「試さないわよっ!! 遙もなんか言ってやんなさい!」
「痛いのはやだなぁ……」
「そんな話してないでしょっ!!??」
んがぁ~っ、と水月は髪を掻き毟り、飄々とした美冴に腹を立てること自体が空しいことなのかもしれないと悟る。遙のアレは単なる悪ふざけだろう。……天然ゆえ、どこまで本気かわからないのが恐ろしいが。
しかし、改めて美冴を見る限り、矢張り彼女の目元も赤く腫れている。クールを気取る彼女のことだ。誰も居ない部屋でひっそりと泣きはらしたのだろう。
水月は、たったひとりで戦場に向かって最敬礼する美冴の背中を思い出していた。厳しく苦しい訓練を共に乗り越え、A-01に配属された仲間達の死。初めての戦場で唯一人生き残り、彼女は一体何を想っただろう。
「……宗像、私は基地に戻るわ。…………気が済むまで、ここに居てもいいわよ。大尉には私から伝えておくから」
その水月の言葉に、美冴は少しだけ目を見開いて……噛み締めるように朗らかに、笑った。
「いいんですよ。ここには挨拶に寄っただけですから。……でも、そうですね。だったら少し…………少しだけ、お言葉に甘えさせていただきます」
実に爽やかな笑顔だった。水月と遙はそれに頷いて、桜の木を後にする。
見上げれば夏の青い空。あと一月もすれば、また新しい新任衛士が配属されてくるだろう。
A-01部隊を編成する衛士を養成するためだけに設けられた横浜基地衛士訓練校。それはかつて帝国軍であった頃からなんら変わらない。ならばきっと、今回もさぞ優秀で才能溢れるヒヨッコ共がやってくることだろう。
……そして翌年には。
「あ、茜だ。あはは、神宮司軍曹に怒鳴られてる」
基地のゲートを抜け、格納庫へ向かおうとした水月は、遙のその声に足を止める。屋外訓練場で格闘訓練を行っている第207部隊の姿が、遠巻きながらに窺えた。
無論、遙が気づいたからといって茜たちが気づくはずもなく。
「……遙、茜に会いたい?」
「うん。そりゃあ、ね。……でも、任務だから、しょうがないかな」
いずれ彼らが任官したならば共にA-01の一員として任務に当たることになるだろう。――だが、今はまだ一訓練兵に過ぎないが故に。
「そ。肉親にも秘密、っていうのは、なんだか堅っ苦しいけどね」
水月の言葉に、遙は静かに笑った。それが、A-01という副司令直轄の特殊任務部隊の役回りだ。携わる任務の特殊性故に、彼女達はその存在を公にすることは許されていない。例え血の繋がった家族だろうと、恋人だろうと。自らが属するその部隊について口外することは一切出来ない。
堅苦しいと水月は言うが、彼女とて本心からそう言っているわけではない。ただ、目の前に居ながらに、自分がここにいることさえ伝えられないもどかしさが……少しだけ漏れてしまっただけのことだった。
「ふふふ。水月ってば、ホントは自分が白銀君に会いたいだけのクセに」
「遙ァア!!?」
そうして二人は、まるでじゃれ合うように基地内へと戻っていった。水月は格納庫へ。遙は司令室へ。衛士とCP将校という、それぞれの役割を果たすために。
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七月に入ってもまだ剣術の訓練が行われないことに、武は若干の不満と違和感を感じていた。
二年前を思い出す。帝国軍の訓練兵として過ごしていたあの頃は……確か六月頃には既に剣術の訓練が行われていたはずだった。教官は同じ神宮司まりも。彼女の一存で訓練メニューが定められていないというなら、これが帝国軍と国連軍の衛士育成プログラムの毛色の違い、という物なのかもしれなかった。
即ち、何に重点を置くのか。
衛士は戦術機を操縦する。戦術機を動かし、BETAと戦うために必要な技術を学び、身に付け、それを実行する。
戦術機とはいわば肉体の延長だ。自分の肉体で行えることで、戦術機で再現不能なものはないと言われるほど高度な性能を持っている。故に、訓練兵時代は軍人にとって必要な肉体・精神・知識を鍛えるのは勿論、将来戦術機に乗ってBETAと戦うことを前提とした諸々の訓練が存在する。
即ち、射撃に近接格闘訓練。一軍人として身に付けて当然の技能であるが、実際にBETAと対峙して戦う衛士にはそれらの技能は必要不可欠なものだ。
戦術機はBETAと戦う。――では、何を以ってBETAと争うのか。
独学で調べてみた限り、戦術機の兵装は大きく分けて二種類ある。突撃砲と呼ばれる遠距離戦闘兵器と、長刀や短刀と言った近接戦闘兵器である。
武は、その装備を知り、そして国連軍と帝国軍のそれぞれの特色を想像を交えながら比較し……辿り着いた結論が、先のものである。
つまり、それは国連軍という組織と帝国軍という組織の根底に流れる思想の違い、ということになるのだろう。
なるほど、確かに今現在武たちの訓練カリキュラムを見る限り、射撃を主とした構成で組まれているようだった。つまりそれが、後々戦術機に搭乗した際の、国連軍の基本戦法ということなのだろう。
迫り来るBETAに対して、距離という優位性を確保しつつ、一斉掃射、或いは精密射撃や遠距離狙撃によって得られる戦果を期待しての戦法。弾薬は消費するものの、衛士や戦術機が直接晒される危険を極力下げるスタイルだ。
ならば、帝国軍はどのような戦法に重きをおいているだろう。
言うまでもない。日本には武士の時代より積み重ねられてきた刀の歴史が在る。即ち、長刀を使用しての近接戦闘。残弾数に関係なく、目標を無効化できる長刀は長期戦などでは大いに重宝され、効果を発揮するという。他にもハイヴ突入を想定した戦術では長刀・短刀は非常に有効であるとか。武はその資料に目を通した際、そりゃそうだろうと納得した。
納得し、自らも剣を扱う身であるから尚更に、帝国軍の考えはよくわかる。
日本という国が辿ってきた歴史、文化的背景、刀に篭めた魂の鼓動……。刀を抜くという行為、刀を振るうという行為、そこに秘められた精神・肉体の真髄を鍛えぬく所業。
帝国を護り、政威大将軍を護り、民を護る帝国軍は正に、日本そのものを体現する集団である。だからこそ、刀を用いての近接格闘訓練に重点を置き……恐らくは、戦術機操縦訓練においても、それを重視するのではないだろうか。
「ま、別に毎日振り回してるわけだから、別に関係ねぇんだけどな」
「ほほぅ、そんなに射撃訓練は退屈か? なら白銀……貴様には特別メニューを与えてやろう」
どうしてかいつの間にか背後に立っていたまりもに、武は硬直する。別段、声に出していたわけではないのだが……考えに没頭しすぎて手元が疎かになっていたらしい。
「き、ききき、教官、その、これは、ですねっ」
「問答無用だ莫迦者ォォオ!! 白銀はこの場で腕立て二百回! その後は完全装備でグラウンド二十周だ!!」
「完全装備!? …………ぁあ、俺の莫迦! 畜生ぉおお!!」
武は手に持つ突撃銃を地面に置き、即座に腕立てを開始する。口では悪態をついたりもしたが、ハッキリ言ってこの件は自業自得なので素直に従う。周囲の者もそんな武に苦笑するだけで、特に何も言わない。……というよりむしろ、A分隊の少女達は訓練に模擬刀を使用しての近接格闘訓練が加わらないことに、武が不満を感じていたことを知っていた。
毎日毎日あれだけ長時間模擬刀を振り回しているのだから、今更訓練で改めて鍛えることもないだろうに、と、A分隊の少女達は少しだけ呆れもした。だが、剣道を修めた亮子から、自己鍛錬と一人ひとり実力も考え方も戦闘スタイルも異なる相手と訓練するのでは全く違うということを説明され、なるほど、もっともだと頷く。ならば自分が武の自主訓練の相手をしてやれればいいのだろうが……如何せん、彼女達は武の技量に匹敵しない。
武のあの独特な挙動、剣閃に振り回されるばかりで、およそ訓練にはならないだろう。そればかりか、武の邪魔になりかねない。
無論、名乗り出れば武は拒まないだろうし、邪魔などと思いはしないだろう。彼はそういう優しさを持つ人間である。
……だが、それでも。武の剣に込める真剣な想いを知っているが故に、彼女達は武の自主訓練に関わらないのだ。
「あーぁ、水月さんみたいにあたしも強ければなぁ……」
「あれれ、茜ちゃんがなんだか落ち込んでる」
「あはははっ! 茜は十分強いって。剣術だって亮子に頼んで見てもらってるんでしょ?」
「白銀に教えてもらえばいいのにさ。二人っきりで」
「ふ、ふふふ二人きりっ!? だ、大胆です……茜さん……」
思わずポツリと零せばこれである。小休止になったのを見計らって、A分隊のメンバーが茜の周囲にやってきた。ぞろぞろといつもの顔ぶれが揃い、各々好き勝手に言ってくれる。茜はジト目でそんな彼女達を睨むと、やがて諦めたように溜息をつき、既に百回を越えた武へ視線を向ける。
茜にしてみればとてつもないハイペースで腕立てを続ける彼は、体中に汗を浮かべて、それでも微塵もペースを落とすことなく着々とこなしていく。そんな彼の周囲にはいつの間にやらB分隊の少女達が集まっていて、特別メニューを受けた彼にあれやこれやと言葉を投げかけていた。
「まったく、訓練中に考え事なんて。あなた、少し気が緩んでるんじゃない?」
「……そうだな。榊の言うことも尤もだ。最近のそなたは少し訓練に身が入っておらぬのではないか?」
「え? そうかな。ボクはタケル、頑張ってたと思うけど」
「この暑さですからね~。白銀さんじゃなくても訓練に身が入らなくなるのかも……」
「未熟未熟……」
「お前らっ、……、ひとの横でっ、……、好き勝手っ、……、言ってんじゃぁ、ねぇえええ!」
バッ、と。腕をピンと伸ばし顔を上げる。玉のような汗を浮かべた武は上体を腕で支えたまま、言いたい放題言ってくれる少女達を睨みつける。
「こらぁ~っ! 白銀ぇ~っ、最後まで休むなァ!!」
「~~~~~~っ、はいぃい!!!」
叫ぶまりもの声。武はそれでも千鶴を筆頭としたギャラリー共に一言申し立てたかったが、結局まりもの怒りの視線に負けて腕立てを続行する。再開と同時、ぼそりと呟いた慧の根性なしという言葉には、後で憶えてろよと腹の中に収めておく。
そうして他のものが射撃訓練を続けている間中、武は炎天下のグラウンドを何時間も走り続けることとなった。まる。
陽が沈み、夕食から既に二時間。それは、武にとってのいつもの時間。丁度よく腹もこなれ、気温も下がっていることで実に過ごしやすい時間帯。
もっとも、夏に限っては気温云々のメリットはないのだが、それでも毎日繰り返し行ってきた日課でもあるために、別段苦とは思わない。
左手に持つ模擬刀を抜き放つ。鞘は地面に投げ置いて、月光を反射する刃を正眼に構える。
武は内心で、今日一日で溜まった鬱憤を晴らすつもりであった。自分の不注意……敢えて言えば怠慢の結果なので仕方ないが、だからこそそんな自分を情けないとも思う。
ならば、一日の中で最も集中力の高まるこの自主訓練を通じて、己を鍛え直せばいい。未熟者め。口の中で呟いて、ドン、と踏み込んだ右足に全体重を乗せる。――一閃。
ただそれだけで武の心は研ぎ澄まされる。否、剣を握り、鞘から引き抜いた時点で、既になんらかのスイッチは押されている。戦闘者としての思考は即座に肉体・精神を切り替え、最早武は剣を振るうひとつの機械といっても過言ではない。
だが、その挙動、剣閃、螺旋を描く独楽の剣舞。とても機械などには再現不能の美しくさえある壮烈な動き。
日々繰り返し、模索し、鍛え続けたことで一段と成長した彼のそれは、最早、最初の頃の原型を留めていない。即ち、基本の型。彼が幼い頃に習った唯一つのそれ。
しかしそれでも、武は基礎を疎かにしているつもりはない。基本の型が残っていないというだけで、そこに込められた意味は十二分に現在の動きの中に織り込まれている。ならばそれは基本を元に、武が独自に発展させた進化形。ひとつの完成形と言っても過言ではないのかもしれなかった。
「っ、ハァァ! ……ゼッ、ぁあああ!!」
漏れる呼気に乗せて、武の意志が敵を切り裂く。迸る叫びは徐々に大きくなり、架空の適性体にぶつける剣戟も鋭く苛烈になっていく。
だが、そこに以前のような危機感はない。かつて冥夜と千鶴が目撃した夜のような、何かにとり憑かれたような、そんな空恐ろしさは微塵もなく。ただ、純粋に多数の強敵と切り結んでいる。そのように窺えた。
一心不乱に剣を振り続ける武に、研ぎ澄まされた彼自身にそうと気づかせぬままに近寄る人影が在る。
縦横無尽に動き回る彼の剣閃に少しも怯むことなく、まるで予想のつかない彼の動きを、しかし全て読みつくしているような流麗さで、人影は武に接近する。
武は気づかない。――完全に気配を消していた。或いは、武が未熟なだけか。
そのどちらとも答えの出ぬまま、人影は遂に武の背後を取り――――弾けるように、武が旋回する。両手に握られた模擬刀が空気を圧迫するほどの強烈さで振りぬかれた! 背後に立たれた瞬間に気づいたのか……だが、それでも驚異的な反応速度で放たれた一撃は、半ば反射的なものだったがために手加減一切無しの、本気のそれだった。
武は実際に刀を使ってモノを斬ったことがないのでわからないが、しかし、模擬刀のそれでも、これほどの一撃が人体に直撃した際の破壊力は予測できる。当たった部位にもよるだろうが……腕の一本や二本、完全に破壊する自信はあった。
その一撃が、人影に迫る。コンマ数秒。そんな刹那の時。
だが、反射的に剣を振りぬいた武の耳に届いたのは肉を骨を砕く重厚な音ではなく、キィイイイン、という……実に澄んだ音色だった。
その、あまりにも想像とは異なる音色に、武はようやく正気を取り戻す。
唐突に背後を取られたことで、極限まで研ぎ澄まされていた意識が暴走した結果だったのだが……瞬時に落ち着いた彼が目にしたのは、豪奢な鞘から十センチほど抜かれた銀色の刃に止められた自身の模擬刀。
ゆっくりと視線をずらす。刀を握るのは白く細い指。華奢な印象を受けるが、しかし武はそれを鵜呑みにはしない。そして、身に纏う真紅の衣服。
それが帝国軍の軍服であると悟った瞬間、武は激しい動揺と驚愕に顔を上げる。――碧色の長い髪。不敵に笑う口は小さく艶やかで、切れ長の瞳は興味深そうに武を覗いている。
「あ、なた……はっ、」
「ふふ。なかなかいい反応をするな、貴様」
間違いない。というか、一度見たら忘れられない。真紅の帝国軍服、美しい相貌……冥夜の守護のために横浜基地に駐留する、帝国斯衛軍の女性衛士……ッ。
武はその事実にぱくぱくと口を開閉させるだけで何も言うことができない。イキナリに感じた気配に思わず反応してしまえば、そこに立っていたのは斯衛の彼女。しかも脊髄反射にも似た意識外の一撃だったにも関わらず、それは見事に防がれていて。――これが、斯衛の衛士か。思わず、呼吸さえ忘れてしまう。
月の光に照らされる女性はどこか圧倒的で、それでいて荘厳だった。微塵の隙も感じさせず、相対する武から全く目を逸らさない。
「っ、ぁ、」
「ん? どうした。珍妙な顔をしおって」
いや、それはあなたのせいでしょう。武は内心で呟くも、矢張り巧く言葉に出せない。完全に呑まれていたのだ。目の前の女性衛士に。武など足元にも及ばない本物の強者の風格に。
「ほら、シャキッとしろ! 貴様それでも日本男児か!?」
「は、はいっ!!?」
急に険しい表情になった女性が渇を入れる。武はびくりと身体を硬直させて……今の今まで剣を振りぬいたままだったことに気づく。慌てて模擬刀を降ろし、直立不動の姿勢で女性を見つめた。
身長はほぼ同じ。若干武の方が高いようだが、それでも平均的な女性と比べて、彼女は長身の部類に入るだろう。姿勢を正した武に満足げな表情を向けて、女性は自身も刀を鞘に納める。
「ふふ、驚かす気はなかったのだが。すまんな。つい、興味が湧いてしまったのだ」
「は?」
一転、緩やかな口調で話し出す女性に、武は困惑する。十分に驚いたとか相当なショックを受けたとか、なにが済まないというのかとか、興味って何でしょうとかそれはもう色々と。一見落ち着いたようで全然冷静になれていない武に、しかし女性は気づかない。
「先ほどの貴様の剣舞……中々に興味深かった。まさか私以外にアレを使う者がいるとは思わなかったのでな」
眼を閉じ、ふふ、と微笑む女性。武を置いてきぼりにしたまま、――しかし彼女は聞き捨てならないことを口にした。
「ッ!??? ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!? い、いいい、いま、なんて言ったんですかっっっ??!!」
「なんだ、突然大声を出して。いいか、武人たるもの常に平静を保ち……」
武人?! 武は大いに混乱する。さっきからなんだかこの女性と会話が成り立っていない気がする。前半は武が喋れなかっただけだが、今回に関しては割りとハッキリと伝わっているはずである。……にも関わらず、目の前の女性は武を修める者の気構えを説き、どうやら武にはそれが足りないなどと仰っている。
武はそんな女性に困惑しながらも頷き、首肯し、大声で返事しながら、再度、改めて質問する。
「そ、それであの、中尉殿……。先ほど仰ったことなんですけど……」
「なんだ?」
「その、俺が使ってた剣術…………中尉殿も、その……」
口にして、武はなんだかどう言っていいのかわからなくなる。だが、確かに言った。この真紅の衣裳を纏う女性衛士は間違いなく言ったのだ。
――私以外にアレを使う者が――
つまるところ、それは……。
「ああ、そうだ。アレは我が父が編み出した名もなき剣。言うなれば我が一族にのみ伝わる秘中の剣だが……ふふ、なるほど、貴様の言いたいことがわかったぞ」
ニヤリ。そう言って女性は口端を吊り上げた。
武は思わず……本能的に「しまった」と感じてしまう。あの表情、何処かで見たことのあるそれ。獲物を見つけたときの水月によく似た、不敵で無敵で逆らえないその笑み。
「貴様、アレを誰に習った?」
「は、子供の頃に……その、通りすがりのおっさんに……」
おっさん…………心なしか女性の口調が冷え冷えとしたものを孕む。まずい――武は自分が大いに失敗したことに気づく。
「まぁいい。では、そのものは貴様に基本の型しか教えなかったのではないか?」
「――えっ?! な、なんでわかるんですかっっ!!??」
気を取り直したらしい女性の次の言葉に、武は、今までも散々に驚いてきたが……それ以上に、愕然としてしまう。目の前に立つこの女性は一体何者なのか。まさかヒトの心が読めるわけではないだろう。……しかし、ならば何故、武の深層を見抜くのか。
「ふふ、そう驚くこともない。単にその“おっさん”が私の父だというだけのことだ」
「えええええええええええええええええええ!!!!!!!!?????」
殊更に「おっさん」を強調して言った女性の表情は悪戯気でそれでいて涼しげで、不敵な印象は変わらないままにしてやったりという達成感らしきものも窺えた。……の、だが。最早武は頭がパンク寸前だった。
女性の言っている意味が全くもってさっぱりわからない。父? 秘中の剣? なんだって? 誰の、父親? え、え?
「なっ、ななっ、んなぁああ?! そ、それじゃあ! ちゅ、中尉のお父上が俺の師匠であんないい加減に放り出して消えたあのおっさんだって言うんですかっ!? ていうか娘!!??」
混乱ここに極まり。
最早武は自分が何を言っているのかさえわからない。驚きすぎて滅茶苦茶に喚く武を、女性はしかめ面をして、唾を飛ばす彼を睨み据える。
「――っ、ひ!!?」
無言の超圧力。その怜悧な視線に貫かれただけで寿命が縮んだ。同時、沸騰していた脳ミソも落ち着きを取り戻す。
そうすると……不思議なことに、先ほどからの女性の態度や……幼い頃に出逢った剣の師匠のこと、独特に過ぎる自分の剣に抱いたこともあった疑問等、様々なことが腑に落ちる。
斯衛軍に在籍する一流の女性衛士。彼女の父は一代で独自の剣術を編み出し、名前さえつけなかったそれは彼女の一族にのみ伝えられた。一部の斯衛は世襲であると聞いたことが在る。ならばそれは、斯衛としての役割を果たすために編み出された剣術であり、彼女の一族の誇りであるのかもしれない。……それが何故、編み出した張本人から直々に武はその基本を教え込まれたのか。
新たに湧いた疑問を口にするよりも早く、女性がその回答を口にする。
「……父が言っていた。旅先で出逢った少年……希代の才能を秘めたそのものに、思わず我らが剣技を伝授したと」
「……っ、」
それが、自分のことなのだろうか。武には、わからない。……だが、あまりにも独特な自身の剣。そして、それを見て自分もそれを使うという女性を見れば……ならば、それが真相かと理解せざるを得ない。
斯衛の赤。それの意味するところを知らないわけではない。ならば当然、彼女の父――即ち武の剣の師匠も、同等、或いはそれ以上の地位にいたのではないかと予想できる。そんな立派な人物に目を掛けられていたのだと知ればなんだかこそばゆい気もするが、同時に、そんな人物がどうしてわざわざ柊町なんていうごく普通の町に訪れるのかと少々疑問に感じたりもする。
が、現にこうして武はその人物から基礎を教わり、彼の見込んだとおりであったかは定かでないが、毎日のように繰り返し、自分なりの進化を果たした。
ならば、その話を父から聞き及び、そして目の当たりにした彼女が武に興味を持ったとしても、それは不自然ではないだろう。
武はようやく、目の前の女性のことが少しだけ理解できた。
「ふ、どうやら貴様は父の見込んだとおりの才能を持ち合わせているらしいな。……そして、自分なりに創意工夫もしている……」
「……」
視線を鋭くして、女性は武を射抜くように見る。武は知らず、顎を引き、腹に力を入れ、両脚をしっかりと構えた。
「精神面に懸念が残るが……ふ、まぁいい。訓練兵にしてはなかなかいい目をしている。だが、迷いも在る。――強くなりたいか?」
「――ッ!」
女性の言葉に、武の心臓が跳ねる。どぐどぐと血流が巡り、こめかみを圧迫する。……強く。その言葉は、どうしてか武を酷く揺さぶった。
「貴様はまだまだ強くなれる。……貴様が望むのであれば、その剣、更に高みへ引き上げることも出来るだろう」
まるで脳ミソが濁った樹脂の中に沈められた気分。酷く蒙昧で、濃厚な感情がじわじわと溢れ出す。――もっと、強く。
「俺……、は、」
気づかぬ間に背後をとられた。無意識の一撃をあっさりと止められた。放たれる気迫は呼吸さえ忘れさせ、射抜く視線は心臓を凍らせる。――――もっと強く、なれるのか?
目の前の女性は真剣な表情だ。斯衛という超一流の衛士であり、日本の重鎮を守護する最強の一翼を担う彼女。その彼女が、ただの訓練兵に過ぎない自分に問う。
強く……なりたい。
当たり前だ。強くなりたい。力が欲しい。アイツを護れる力が欲しい。そのために衛士になると決めた。衛士になって、アイツを護ると誓った。
それなのにアイツはいなくなってしまって、どうしてそんなことになったのかわからなくて、なんで、俺だけ生きているのかわからなくなって…………生きているのだから生き続けろと励まされて、ならば少しでも強くなろうと足掻いてもがいて…………あれ?
「俺は、」
――どぐん。
「俺は、、」
――どぐ、ん。
「おれ、は、、、」
――ど、ぐ、ん。
脳が白熱する。感情が明滅する。意識が暗転する。――俺は、俺は、俺は、俺は。
それでも俺は、強くなりたい。
だって、強くならなきゃ――――――――
「強く、なりたいです……」
「そうか」
どこか満足げに、女性は口端を吊り上げる。こちらの言いたいことなど完全に見抜いているだろうに、女性は何も言わず、視線で促してくる。はは、なんだか子供みたいなところの在るひとだな。武は苦笑しつつも、しかし真剣な表情で。
「俺に、剣を教えてください」
「いいだろう。ならば早速今からにでも、貴様に我が一族の剣、叩き込んでくれる」
まるで果たし合うように。月詠真那と名乗った女性と武は――鏡に映ったように全く同じ、正眼の構えを取った。