『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:六章-01」
武の肉体はそれなりに鍛え抜かれている。前線に立つ衛士と比較しても遜色ない程度には、既に完成された肉体を持つ。まだまだ成長期であることを鑑みれば、今後の鍛錬次第で更に強靭なものとすることも可能だ。
無論、骨肉の成長に合わせて鍛錬の方法も随時見直す必要があるだろうが、既に昨年からの一年間で身長が大いに伸びている武は、自身の身体状況を把握する術を習得していたため特に問題はない。
――が、この二日あまりで彼の事情は激変している。
日々の訓練、そして訓練後の自主訓練。日々を重ねていく途上で少しずつ内容が濃く、厳しいものへと変遷するそれらは、真那と出逢い彼女に師事したことにより、これまでにないほどの激しい内容となった。
訓練はいい。教導官であるまりもの指導の下、国連軍の衛士育成プログラムに沿った内容で行われるからだ。
問題はその後である。
毎日繰り返していた自主訓練……鍛錬とも言っていいだろうそれは、現役斯衛軍衛士の背筋も凍る血反吐撒き散る阿鼻叫喚の鬼修行と化した。……ハッキリ言って、容赦ない。加減がない。とてもシンドイのである。あと痛い。
まだ二日。たったの二日、二晩打ち合っただけだ。
にも関わらず、武の肉体は限界を迎えていた。――指先一つ動かそうものなら腕が、立ち上がろうと膝を曲げようものなら脚が、上体を起こそうとするならば腹が、胸が、背中が。盛大に、凄絶に――絶叫する。
ぱくぱくと喘ぐように口を開閉しても、あまりの痛みに息が止まる。呼吸さえ困難なほどの苦痛。鈍痛。筋肉痛。これで骨や内臓に異常がないというのだから恐ろしい。
昨夜の記憶をまさぐる武。確か、意識がぶっ飛ぶ寸前に、「防御が全然なっていない」と叱られたような気がする。……ああ、ならばこの痛みはその代償か。それにしても酷い痛みだ。全身痣だらけ……そんなもので済んでいればいいが。
「ぐ、…………あ~~~~、がっ、ぁ」
昨日よりも酷い、ギチギチと軋む肉体を無理矢理に起こす。まるで油の切れた機械のようだ。筋肉と関節をつなぐ腱が断裂しているような痛み。ずっしりと重いのは垂れ下がるだけの腕。背筋を伸ばそうものなら盛大に背筋と腹筋が喚き散らした。
「これは……ちょっと、」
相当に酷い。かなりマズイ。
訓練に支障がでるどころではない。これでは、日常生活すらままならない。――なんてことだ。
筋力を向上させるためのトレーニングには、必ず酷使した筋肉を休ませるための休息期間が必要になる。いわゆる超回復というヤツだが……真那の訓練にはその概念はないようだった。否、この修行の目的は筋力トレーニングでなく、彼女と武が修める名もなき剣術を極めるためであるため、毎日極限まで鍛えぬくことこそ効率がよいのかもしれない……。
が、結果的に武は過度の筋肉痛と疲労に襲われている。
今までの彼の鍛えようが足りない、というわけでは決してない。単純に、真那が強すぎるだけのことだ。……或いは、彼女が指摘したように武の防御法が向上すればこのようなことにはならないのかもしれない。
「……そりゃ、そうか。喰らわないなら、痛みはないわけだし……」
真那の身体を思い浮かべる。あの細い肉体に武以上の筋肉があるなどとは思えない。むしろ筋肉量を比較するなら圧倒的に武が勝るだろう。
要はテクニックということか。武は己の未熟を反省しながら、気合を入れてベッドから立ち上がる。
「って、そういえば俺、二日連続で運ばれてるのかよ……ぁああ~、情けねぇええ!!」
頭をガシガシと掻きながら吠える。顔から火が出そうなくらい赤面しているのは、真那に自身の無様を晒したことを恥じるからだ。これが男性だったならこれほど恥とは思うまい。……だが、残念なことに真那は女性。しかも武が今までに出逢った誰よりも美麗で勇壮なのだ。男としてのほんの僅かなプライドが、それを恥と叫ぶのである。
やがて溜息と共にがっくりと項垂れる。もそもそと服を脱ぎ、訓練用の軍装に身を包む。相変わらず動くたびに全身から断末魔にも似た絶叫が聞こえてくるが、思い切り奥歯を噛んで耐える。これしきで根を上げて、なにが衛士か。……いや、まだ衛士になったわけではないのだが。武は苦笑して、顔を洗う。冷たい水は意識をハッキリとさせてくれて……ふと見た鏡に映ったその顔は……
「なっ、なんじゃこりゃああああっっ!!??」
額と両頬に書かれた黒い文字。水で落ちなかったことから恐らく油性と思われる――は、実に達筆で、
『いい気になるな』 『真那様に色目を使うな』 『雑魚はすっこんでろですわ』
と書かれていた。
「だっ、誰が……こんな…………うぉおおおおおおっ!! 許さぁぁぁぁあんん!!」
武はこめかみを痙攣させる。どこの誰か知らないが、いい度胸だ。むしろ生きて帰さん。どんな手を使ってでも必ず見つけ出し、地獄の如き責め苦を味わわせてやる……ッ!!?
思わず握り締めたタオルを引き裂きそうになる。いい感じに白熱した脳髄を、しかし深く息を吸い、鎮める。
落ち着け武。クールになれ。冷静になって犯人を特定しようじゃないか。
とは言うものの、こんなことをするヤツに、……正直心当たりはない。真那は勿論のこと、207部隊の皆もこんなことをするとは思えない。というかする意味がない。
第一、“真那様”という文句が気になる。なにか彼女に関わりの在る人物なのかもしれない。また、よくよく見れば達筆な字にもそれぞれ特徴があり……一文ごとに書いた人物が異なるようだった。つまり、三人。
真那に関わりの在る三人の誰か、ということになるだろうか。そして、その人物達は真那と武が夜遅くまで修行していることを快く思っていないらしい。……むしろ、あからさまに敵視しているような気がする。
「いい気になるな、って……別に俺はそんなつもりはないんだけどな……」
何気にグサリと刺さる言葉である。特に“雑魚はすっこんでろ”という部分。…………溜息しか出ない。
初日で既に、真那との立ち位置の違いは嫌というほど思い知らされている。どこの誰かは知らないが、こんな風に誹られる必要もなく、武自身が己の未熟を痛感している。
「くそっ……好き勝手言いやがって……」
だが、これを書いた人物達は、そんな未熟で弱い、“雑魚”に等しい武が、真那と修行していることがとても気に喰わないのだろう。ああ、そうか。
きっと、この三人も、真那をとても尊敬し……目標としているのだろう。ある意味で武と同じなのに、この二日間で武がそれ以上に特別扱いされていると感じたのかもしれない。故の嫉妬。
「ガキじゃあるまいし……まぁ、誰なのかは知らんが……」
ヤレヤレと嘆息して、石鹸を掴む。点呼まであと数分。武はかつてないほどに精神を集中し、一心不乱に顔を洗うのだった。
午前中は座学だったので、武は正直助かったと、安堵の息をつく。これで近接格闘訓練やマラソンなどやらされた日には、鬼軍曹殿の暖かい愛情が降り注ぐ羽目になるところだ。――ああ、午後からの訓練が恐ろしいなぁ。
どこか遠くを見つめる武を不思議に思いながら、隣席の茜が首を傾げる。壇上でテキストを読み上げるまりもはどうやら武のその腑抜けた様子に気づいていないようだが、それも時間の問題だろう。
「ちょっと、白銀。あんたなにボーっとしてるのよ」
小声でボソボソと。肘で軽く武の脇腹をつつく。まりもに気づかれないようにと配慮した茜だったが、今の武にとってその肘撃ちは致命傷に等しい。ほんの軽くつついただけのそれでさえ、ズタボロに痛めつけられた今の彼には酷い激痛を誘発した。
「ぅぐぅ!?」
「――ぇえっ!?」
「ん? なんだ白銀、涼宮。騒がしいぞっ」
テキストから顔を上げたまりもは盛大に眉を顰めるが、脇腹を押さえてプルプルと震えている武と、それを見て慌てる茜の様子に、ただ事ではない気配を感じ取る。
周囲の皆も同じように浮き足立ったが、そこはさすがに教官である。騒ぐ彼女達を一喝して黙らせると、素早く武へ近づき、大分落ち着きを取り戻していた彼に呼びかける。
「白銀、どうした? ……どこか痛めているのか?」
「ぁ、い、いえ! なんでもありませんっ! 大丈夫です!!」
まりもの問いに武は咄嗟に嘘をつく。庇うように置いていた手を脇腹から離し、背筋を正して真っ直ぐにまりもを見つめる。――その表情は、どこか強張っていた。なにかを必死で我慢しているような、そんな顔である。
無論そんな下手な嘘に騙されるまりもではなく。
「白銀……正直に話せ。どこか怪我をしているのではないのか?」
「はっ、全身どこにも怪我はありませんッ! ご心配ありがとうございます軍曹殿!!」
「……………………」
明らかに嘘である。ホントは全身打撲なんて生易しいものじゃない。打たれた部位は腫れ上がり、前日の青痣は紫に変色している。内出血だらけだ。
普段捲くっている長袖を今日に限ってキチンと手首まで伸ばしているのが更に怪しい。じっとりとしたまりもの視線に、武の背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
その睨み合いはたったの数秒だったが、武にはとてつもなく長く感じられた。やがて眼を閉じ溜息をついたまりもは、呆れたように武を見つめ、
「貴様がそう言うならそういうことにしておいてやる……が、今後も訓練に支障が出るようなら、そのときは……わかっているな?」
「はい!」
この意地っ張りが。
言外にそういわれたような気がする武は、内心でまりもに深く頭を下げる。己の都合で身体を痛めて、それで訓練に参加できない……或いは部隊の皆に迷惑をかけてしまうのではまるで話にならない。教官という立場に居るまりもは、本来ならば強制的にも武の状態を把握し、必要によっては休ませる等の処置をとらなければならないのだが……少年期に特有の意地を張りたい時期なのだろうと嘆息し、見逃してやることにしたのだ。
無論、これがより重度に、そして訓練中の事故に繋がるようなものならば放ってなどおかない。即座に然るべき処置を取る。それが、彼らの健全な肉体と魂を鍛え上げる教官としての役割だ。
が、それとは別に……こと武については色々と注意が必要だとも思っている。前任の熊谷の言葉を忘れたわけではない。
見たところ何がしか負傷しているようだが、重傷というわけでもなく、骨にも異常はなさそうだった。やせ我慢できる程度ならば、したいようにさせてやる。まりもは教壇に戻ると、テキストの続きを読み始めた。
そのまりもの態度に幾許か困惑を抱きながら……けれど207隊の少女達もまた、講義の内容に耳を傾ける。武が心配なのは確かだったが、それとこれとは矢張り同一視していいものではない故に。
勿論、休憩になった瞬間に怒涛の如く問い詰める腹積もりである。
誰一人の例外なくそう決めているというのも、彼女達のチームワークのなせる業なのかもしれなかった。
===
午後からの訓練のためにグラウンドへ移動する。相も変わらず激痛を訴える身体を叱咤しながら歩く武の後姿に、隠そうともしない不機嫌を押し出した茜が、
「白銀って、ほんっっと意地っ張りよね。そんなになるまで訓練続けるなんて……。ばっかじゃないの?」
「……」
ぷっくりと頬を膨らませて不満顔。そんな茜に振り向きもせず、武はだんまりを決め込む。昼食時に皆から散々莫迦だの阿呆だの意地っ張りだの言われ続けたのだ。いい加減、落ち込むのを通り越して苛立ちに変わりつつある。
そんな彼の心情を知りながらも、それでも不機嫌にならざるを得ない茜。想い人である武がそんなにボロボロになってまで真那との鍛錬を続ける理由を、武は口にしない。ただ、自分の剣の師匠が真那の父親であったことと、彼女も同じ剣術を使うことから師事しているとしか皆には答えていない。
真那の父が、そして真那自身が武に託した想いについて、彼は語らなかった。
おいそれと口にするような事柄でもないし……なにより、これは武自身が胸の内に秘め、忘れずに抱えていけばいい想いである。託された者はただ、黙ってそれを目指せばいい。武はそう思っている。
故に彼の本当の心は茜に伝わらない。彼女は武を理解しようと懸命に想像をめぐらせるが、多くを語ろうとしない武に……そしてなにより、真那という、現在の自分ではどう足掻いても太刀打ちできそうにない年上の女性の出現に激しく動揺している。
茜自身が憧れ、目標とする水月でさえ敵わないような、圧倒的存在。
戦士としては勿論、女性としても両手を挙げて白旗を振る以外にないような、そんな超絶に過ぎる相手。
恋する乙女としては、それはそれは気が気でないのである。
「まぁまぁ、茜。白銀君も色々思うところがあるってことでしょ? それくらいにしてあげなよ」
「晴子……」
親友の言葉に不貞腐れたように唇をとがらせる茜。茜の恋心を知り、武の心情もそれなりに理解しているつもりの晴子は、それ以上二人が険悪にならないようにと心を配る。普段、場を引っ掻き回すことに生き甲斐を感じている晴子だが、それ以上に部隊内の和を取り持つことも忘れない。実に素晴らしい部隊の潤滑油だった。
その晴子に同意するように、冥夜が腕を組んで神妙に言う。
「そうだな。白銀は己の剣を極めるために中尉に師事しているのだ。その想いは確かなもののようだし、それを我々第三者が止めようとしても、迷惑になりこそすれ、白銀のためにはならぬだろう。……だがな、白銀。そなたもわかっていよう? 涼宮だけではないぞ。柏木も、他の者も……無論、私も。皆そなたが心配なのだ。……昨日に引き続き、そのように傷だらけな姿を見れば、誰だって不安に思うだろう。そなたの決意を止めはせぬ。だが、そなたを案じる者がいるということだけは、忘れるでない」
「…………ああ。そうだな」
冥夜の言葉に、武は足を止め振り向く。すぐ後ろを歩いていた茜は、そんな彼にぶつかりそうになるが……向けられた表情はなんだか照れくさそうに苦笑していて……茜はどきりとして足を止める。
「悪ぃ涼宮。それから皆。……俺、ちょっと熱くなってたみたいだ。冥夜の言うとおりだぜ……すまん。……すまん、が。だけど、俺もこればかりは止めるつもりはないんだ」
ぽん、と。茜の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫で回す。されるがままの茜は、どこかぽぅっとした表情で頬を染める。
そんな彼女の様子に更に苦笑して、武は一旦眼を閉じ、そしてしっかりと開きながらに言った。
「俺は強くなる。この剣術を極めて、師匠の遺志を継ぐ。月詠中尉もそれを望んでくれた。俺は…………ようやく、ちゃんと前に進めるきっかけを見つけたんだ。だから……」
「しろ、がね……」
「白銀くん……」
どこか哀しげに、そして誇らしげに。その武の表情は、言葉は……A分隊の少女達の胸を打った。
ようやくと言った。
ちゃんと前に進めると言った。
それは紛れもなく、彼女――――白銀武にとって永劫に忘れることのない、愛する幼馴染――――を指している。
かつての危うさは見えない。
一年以上の歳月を経て、武は本当の意味で彼女の死を乗り越えたのかもしれない。或いは、受け入れることが出来たのか……。
じわりと、茜の瞳には涙が浮かんでいた。晴子も同じだ。多恵も、薫も、亮子も。
水月が、遙がいたならば同じように涙を浮かべただろう。或いは、喜びに笑顔を見せてくれるかもしれない。
かつての武を、そして乗り越えようと我武者羅に足掻き続けた彼を知っているからこその涙だった。…………ああ、ならば、こんなに暖かい涙はないだろう。少女達は皆、武の言葉に、彼の本心を感じていた。
彼女を忘れるのではなく、その想いを抱いていく――。
そのための強さを。
そのために強くなる。
ああ、ならば。どうしてそれを止められるだろう。嫉妬に駆られた自身が酷く恥ずかしい。茜は、そんな自分の未熟さに苦笑した。
「ははっ、そんな顔すんなよ。今回のことは、まぁ俺が悪かった」
「ううん。いいよ、もう。あたしだって、白銀のことよく考えなくて、ごめん」
微笑みあう武と茜。もう一度ぐりぐりと少女の頭を撫でて、武は歩き出す。そんな彼の態度に、照れているのだと悟った茜は、これみよがしに武の前面へと回り込み、恥ずかしさに頬を染める彼の顔を堪能しながら後ろ向きに歩くのだった。
その二人にそれぞれが微笑みを浮かべながら続く晴子たち。
なんだか和やかで温もりのある雰囲気の元帝国軍所属の彼らを……どこか困惑しながら、そして寂しげに見送るB分隊の少女達。
彼女達には、先ほどの武の言葉の意味するところがよく理解できないでいた。
そして、その後の茜たちの見せた反応も。
前に進めるようになったと武は言った。それは――どういう意味だろうか。
彼女達にとっての白銀武とは、常に自分に厳しく、そして向上心を忘れない非常に優秀な訓練兵だ。独特の剣技を修め、毎日研鑽を積むことで日々精進を怠らない。鍛えられた肉体は現役衛士と比べても劣ることなく、心身ともに鍛え抜かれた一目置く存在だ。
それだけでなく隊内のムードメイカーとしてもその存在は大きく、どこまで本気なのかわからない言動も多々あるが、それも日常と訓練との切り替えをきっちりと行っている証拠である。仲間を大切に想い、チームの和を誰よりも大事にしているようも感じる。
……そんな彼が、武が、なにをいうのだろう。
ようやく。
ちゃんと。
前に進めるように……。
では、以前の彼はそうでなかったというのだろうか。
自分達の知らない彼が、彼女達だけが知る彼が…………居るのだろうか。――否、存在するのだ。
自分達の知らない、帝国軍時代の彼。
いつだったか冗談交じりに話してくれた昔話。千鶴は、そして冥夜は思い出す。その日のことを。夜、何かに憑かれたように剣を振るっていた武の姿を。泣いていた茜の姿を。その、どこか空恐ろしい焦燥を。
思い出して、理解する。
ああ、自分達は何も知らない。武について、その武と共にいた彼女たちについて……まだ、何も。その深い位置に在る心、想い……決して表に出すことのない、哀しみを。
「……なんだか、置いてきぼりになっちゃったね」
ポツリと呟かれた美琴の言葉は、冥夜と千鶴の胸に小さな棘を残した。沈黙が場を満たす。普段飄々としている慧ですら、目の当たりにした武と茜たちの心の繋がりの深さに、自身の知らぬ彼らの過去に沈黙している。
五人の表情は皆、どこか重苦しく、悔しげだった。
「……別に、今知らないなら、これから知っていけばいい。白銀は仲間なんだし……私たちにだって、隠してることはあるしね」
「彩峰……そなた、」
噛み締めるように、慧は言った。最後は自嘲するように。けれど、そこには強い意志が込められていた。
その言葉に冥夜は驚きの相を見せるが……静かに頷いて、毅然と顔を上げる。
「そのとおりだ。我らは仲間なのだからな。あの者達が二年間かけて築き上げた絆に、現在の我らが立ち入る隙はないのかも知れぬ。……だが、それでも我らは仲間だ。知らぬのならば、知っていけばいい」
「御剣……」
「冥夜さん、慧さん……」
「そうですね……。白銀さんたちのこと、もっともっと知りたいですから」
うん。
頷きあって、少女達は晴れ晴れと顔を上げる。ほんの少しだけ気恥ずかしげに笑い合いながら、先へ行った彼らを追う。
グランドへ続く扉の前には、遅れてきた彼女達に「なにやってんだよ」と笑い掛ける武たちの姿。――ああ、本当に。本当に。
彼らと本当の意味で深く、分かり合いたいと思った。その想いを、分かち合いたいと、願う。
===
まりもの正面に横一列に整列し、敬礼。午後からの訓練にあたり、まりもの口から訓練内容の説明がある。厳しい表情のまりもに、それを聞く武たちもまた真剣な顔をする。
だが、そのどこか緊張に満ちた空気を、それはもう盛大にぶち壊す、のんびりとしたその声は……あろうことか、彼らにとっての鬼軍曹を呼び捨てにし、更に、お世辞にも軍隊とは思えないような言葉遣いをした。要するに、
「ま~りも~~っ、ちょっと邪魔するわよ~」
その、あまりにも抜けた口調と声に、武たちは盛大に困惑する。それはまりもも同じだったようだが……しかし、彼女の様子は彼らを軽く超越している。なんというか、その表情は引き攣っていて……何かを必死に耐えているようだった。
「香月博士……今は訓練中なのですが……」
「なによぅ。まだ始まってないじゃない。……ま、始まってたところで関係ないんだけど」
ひくひくと頬を引き攣らせるまりもの表情はハッキリ言って怖い。だが、そんな彼女の心情など知った風ではないという様子の白衣を纏った女性は、鬱陶しいとばかりにまりもの視線を払う。
どこか尊大で不遜とも思える態度。切れ長の鋭い目は、しかし愉悦に弧を描いていて……なるほど、彼女はまりもをからかっているのだと悟る。
悟ったところで、それはそれは凄まじく命知らずなことだとも思うのだが……。
「…………っ、それで、香月博士。一体なんの用でしょうか?」
「あら、随分とそっけないじゃない。わざわざ私が出向いたってのに」
「博士のお考えがわかりかねますが、至急ということでないようでしたら、また時間を改めて私からお伺いいたします」
一向に来訪の目的を言わない謎の女性に、いい加減まりもも我慢の限界らしい。……どうやら二人は知り合いらしいが、まりもの言葉遣いから察するに、相当地位が高いひとなのだろうか。武たちはまじまじと白衣の女性を見る。大層整った顔をした美人さんであった。
「――あ、」
千鶴が思わずと言った様子で声を上げる。同時、他の者も何かに気づいたらしく、一様に目を丸くする。
「副司令……ッ!!?」
思わずどころか大いに口にしたのは武である。驚きのあまり声が裏返り気味だったのはナイショだ。
ともあれ。
香月夕呼。当横浜基地の副司令を務める女性。こうして間近に見るのは初めてだったが、その顔は記憶に残っている。自分の所属する基地の司令・副司令の名前と顔は知っていて当然の部類に入る。無論、その他にも知っておいて当然の要職に就く人物は大勢居たが……副司令という要職中の要職である夕呼を目の当たりにして、訓練兵である彼らは大いに混乱した。
「け、敬礼ッッ!!?」
「――ッ!!」
狼狽する茜の号令に、直立不動で皆が敬礼する。緊張に身を硬くする少女達を睥睨して、しかし当の夕呼はとてつもなく嫌そうな……面倒くさそうな顔をする。
「ちょっとやめてよね~。私にそんなモノは不要よ。堅っ苦しいったらないわ。やめて頂戴」
「は、はぁ……」
ぴしゃりと言い放たれ、茜は困惑する。上官に対する礼儀であるはずなのだが……しかし副司令直々の言葉である。聞かないわけにもいかない……のだが。
どうしたものかと皆の視線がまりもに集中する。こうなることが内心でわかっていたまりもは盛大に溜息を吐きながら、しかし自身が模範を示すように、夕呼に再度質問する。
「香月博士。そろそろ訓練を開始したいのですが……何か御用がおありになったのでしょうか?」
「相変わらず堅いわね~まりも。そんなだから未だに独身なのよ」
「それとこれとは関係ないでしょうッ?! 大体あんただってまだ独身じゃない!!」
ニヤリと笑う夕呼に、思い切り食って掛かるまりも。すぐにハッとして教え子達を見るが、向けられた視線は困惑と驚愕……そして哀れみだった。
(そうか……教官、独身なんだな……)
(あんなに美人なのに……やっぱりあの性格が……)
(う~ん、凄いひとだとは思うんだけどね~)
口に出していないはずのそれらの言葉が、どうしてかまりもには聞こえたような気がする。ギロリと殺気を込めてひと睨み。不埒な妄言を抱いた何人かは視線を逸らして姿勢を正した。――バレバレである。
そんなまりもを呆気なく無視して、夕呼が武の前に立つ。ぎょっとして彼女の顔を見つめる武に、
「ふぅん。あんたが白銀武?」
「――っ、は、はい! 自分は白銀武訓練兵であります!!」
唐突に名を呼ばれ、武は全身を緊張させる。痛む身体のことなど今は忘れた。天と地ほどの階級差のある上官も上官の夕呼に、肉体に染み付いた軍人としての性が再び敬礼を取る。
「だ~から~、敬礼はいいって言ってるでしょ~?」
「はっ、はぁ……すいません。つい……」
心底うんざりした顔と口調で言われ、武は困る。そうは言うが、立場上それは仕方ないのではなかろうか。まして自分はただの訓練兵である。副司令に対して礼を尽くすのは当然だった……のだが、どうやらこの女性にそれは通用しないらしい。というか、どう見ても軍人には見えない立ち居振る舞い、言動に……彼女は軍というものを嫌っているような印象を受ける。
無論それは武が勝手に感じた印象なので、初対面の副司令殿の本心など知らない。
それよりも、問題は別にある。
副司令は武の名を呼んだ。わざわざ目の前にやってきて、だ。今も尚興味深そうに武の全身を眺めてはニヤリと唇を吊り上げている。――どうしてか、寒気がした。
ああ、この顔は何か企んでる貌だ。初対面であるのに、そうと知れる愉しげな笑み。そこに一体どんな思惑があるのかは皆目不明だが……武は知らぬ内に腹に力を込めていた。
「ふん、結構いい面してるじゃない。ただの訓練兵にしとくのは勿体無いわね」
「こ、香月博士!? 一体なにを……」
「まりも、ちょっとこいつ借りるわよ。ついてきなさい、白銀」
「「ハァっ?!」」
言うが早いか、さっさと背を向けて歩き出す夕呼。まりもも武も、そして他の者も。あまりに唐突でいきなりで、そして意味不明なその言葉に硬直する。
しかし……唖然としながらも、いち早く気を取り直したまりもが「行け」と促し、武はよくわからないながらも夕呼の後を追うのだった。
グラウンドから二人の姿が消える。困惑に沈黙する207部隊の少女達に、まりもは気を取り直したように声を掛ける。
「ほら、貴様達! 気合を入れろッ。午後からの訓練を開始するッ」
「「「は、はいっ!!」」」
突然の夕呼の乱入で大いに掻き乱されたが、まりもは既に思考を切り替えている。長い付き合いからくる慣れと諦めがそこにはあった。同時に、夕呼が武を呼び出す用件というものにまるで心当たりがなく……それだけが懸念される。
夕呼の、そしてこの横浜基地の、知られざる人類の希望を賭けた一大計画。その概要を掻い摘む程度には承知しているまりもだが……彼女の知りうる限り、“現時点で”それと武を結ぶ線はみつからない。
どこか漠然とした不安を覚えながら……まりもは訓練に集中した。
Need to Know 。知らされないのなら、それを知る必要はない。――それが、軍人というものだ。まりもは今は武のことを忘れることにした。
案内された執務室は、地下十九階にあった。横浜基地の設備が、地上よりも地下にその大半を置いているということは武も知っていたが、まさかこんな地中深くにまで基地施設があるとは思いもしなかった。
普段武たちが使用するエレベーターとは別の、ドアの横にID認証機が設置された専用のエレベーターを利用してここまで降りてきたのだが、筐体内のボタンは更にB27というものまであった。どれだけの規模の地下施設があるというのか。武には想像もつかない。
そしてそんな武の反応を愉しむように、夕呼は自分の椅子に深く腰掛ける。武はコンピュータ端末の置かれた事務机の正面に直立不動で立ち、夕呼の言葉を待つ。
ただついて来いと言われるがままにここまで来たが、どう考えても普通じゃない。副司令と一対一で話すことさえありえないというのに、それがその執務室……しかもここに来るまで一体どれだけのセキュリティを越えてきたというのか。それほど厳重に管理された、いわば機密の塊のようなこの部屋。横浜基地の片翼を担う副司令の思惑など、武には一切予測できない。
「なんで呼ばれたのか全然わからないって顔ね?」
「…………はい」
心情が顔に出るのは未熟な証拠と指摘され、武はやや顔をしかめる。そうは言っても、この状況で平静を保てというほうが無理だ。
そんな武の葛藤を知ってか知らずか、夕呼はおもむろに書類を取り出し、それを武に差し出した。反射的に受け取ってしまう武だが――その内容に、思わず目を疑う。
戦術機適性検査結果:判定「S」
一番上にそうアウトプットされた数枚の書類。その下には見慣れた男の顔写真が印刷されていて、以下、測定時の各種データが綴られていた。
二年前、帝国軍横浜基地に入隊してすぐに行われた簡易的な戦術機適性検査の結果だった。誰の、というものではない。紛れもなく武自身の結果だった。
しかし、武は思わず「なんだこれ」と呟かずにはいられない。
ああ、そうだ。記憶が確かなら、あの時まりもは、武の成績は歴代一位だといった。過去に例を見ない、戦術機に乗るために生まれたようなものだと。
しかし……しかしだ。戦術機適性「S」。「S」判定、だって? かつて読み漁った資料の中には判定は最も高いもので「A」ランク。以下「A-」、「B」、「B-」……と、最低で「E-」までの十段階評価のはずだ。それと、適性外の「F」。
武は思わず首を傾げる。何度見ても、どうやってもそこに記された「S」という字句は変わらず……しかもそれはわざわざ表示されている「A」を二重線で消して赤ペンで「S」と訂正されているのだ。あり得ない。
「そのあり得ない適性をもってるのが、白銀武なのよねぇ」
「!?」
まるで武の思考を読んだように夕呼は言う。相変わらずの愉しそうな表情。自身の知られざる評価を目の当たりにして狼狽する武を、大いにからかっているようだった。
「あの、これって……つまり、」
「歴代一位の適性、って……聞かなかった?」
つまりはそういうことだ。かつてない適性値。わざわざ手書き修正してまで新たにランクを設定せずにはいられないほど、武のたたき出した数値は異常だということだ。……そして、見るからに科学者然としているこの副司令殿は、そんな武に興味を抱いたのだろう。
「ふふん。そう怖い顔をする必要はないわ。簡易的な検査とはいえ、概ねその検査結果と実際にシミュレーターで行う検査との値の差は殆どない。つまり、過去の例を見る限り、あんたは恐らく史上初の“S”ランクの適性値を持った衛士になるってことよ」
「…………」
「私の言いたいことがわかるかしら? あんたは戦術機の操縦に関して、数値だけを見るならばかつてない才能を秘めている可能性が高い。こんな前例過去にないもの、いやがうえにも興味が湧くわ」
その目は、まるでモルモットか何かを見るものだと思った。顎に指を当てて不敵に笑う夕呼に、武は言葉がない。
「本当なら今すぐにでもシミュレーターでデータを採りたいところだけど……流石に総戦技演習も終えてないような訓練兵に使わせることもできなくてね。だからあんたにはそれ以外で採れるだけのデータ収集に付き合ってもらうわ。なるべく普段の訓練と重複しないように配慮はしてあげる。どう?」
どう、と聞かれた所で武に拒否権はない。「S」ランクの適性値を持つ衛士候補生。その肉体に秘められたナニカを知るために、夕呼は自分を何らかの実験台にしようとしているらしい。――なんてことだ。
武は思わずにはいられない。
この目の前の女科学者は、なにかとてつもない裏を抱えているのではないか。自分はそれに巻き込まれようとしているのではないだろうか。
言い知れぬ悪寒。そして戦慄。……だが、副司令の「命令」には逆らえない。拒むことなどできない。
夕呼は形式上武の確認を取ってはいるが……そんなもの、武が拒否できない以上単なる事実確認に過ぎない。夕呼にどのような思惑があろうとも、そしてそれを武がどう思おうとも、それは彼女が口にした時点で既に……決定されているのだ。
「ま、すぐにどうこうするってわけじゃないけど、度々呼び出すことになると思うわ。あんたのID情報は書き換え済み。私からの呼び出しがあれば即時ここに出頭すること。いいわね?」
「は!」
愉しげに、それでいてほんの少しだけ真剣に。夕呼の言葉に思わず敬礼してしまうが……案の定、彼女はとてもうざったそうな表情だった。
「いい加減、慣れなさいよね」
「ぜ、善処します……」
なんだかよくわからない女性だと、武は内心で呟く。ルールに縛られない自由人のようでいて、科学者としての一面も強く持ち合わせている……そんな解釈が、今の彼には精一杯だった。
「じゃ、今日のところは下がっていいわよ」
追いやるように手を払われて、武はよくわからないままに執務室を後にした。
ただ……これからの日々が更に過酷なものになるという予感だけがある。多分それは間違いなく。
溜息を吐いて前を向く。地下十九階。エレベーターから降りて突き当たりのこの部屋。ふと、すぐ隣りにあるドアに目が行く。執務室があるくらいだ、そこもなにか特別な施設なのだろう。大層な造りのドアに何気なく手を伸ばしてみれば――シュッと、スライドする。
「っ、あ!?」
素直に驚いた。なるほど、ID情報を書き換えたというのはこういうことか。武の持つIDのセキュリティはこのフロアを行き来するための権限を付与されたということだろうが、即ちそれは、そのIDで立ち入りできる場所には入ってもいいということでもある。
夕呼からはそれ以上のことは何も言われていないが、武は今までの経験から……特にかつての教官熊谷に言われたことを思い出しながら、そのように解釈する。
行けるのだから、行っていいのだ。副司令という立場にいる以上、夕呼もそれは承知の上だろう。
まして、同じB19フロアに在る施設とはいえ、武の侵入を許さない場所で在るならばIDにそのセキュリティを開く権限を与えないだろう。単純に夕呼の部屋と、その道程のセキュリティを通過できればいいのだから。……武は先ほど夕呼に味わわされたなんともいえない複雑な感情を落ち着かせるため、そして否定できない興味のため、開かれたそのドアから室内に踏み入れる。
「…………」
なんだかひどく頑丈な造りをした通路だった。照明は薄暗く、ゴウゴウとボイラー室のような音がする。妙に自分の足音が響くのを聞きながら、突き当たりにもう一つドアを見つけた。試しに手を触れてみれば、矢張りそのドアも開く。
踏み入れた一歩。先の通路と同じように薄暗い。雑然とコード類が敷設され、なんだか薄気味が悪い印象を受ける。入口付近でぼんやりと室内の様子を窺ったが――その視界に、青白い光を放つ筒のようなものが映る。
「なんだ……?」
部屋の中央。二メートル以上はありそうな筒状のなにか。それは硝子でできた長尺のカプセルのようで……ぼんやりと青白く光っている。敷設されたコードはどうやらその筒に繋がっているらしく…………その中に浮かぶそれを見て、思考が停止した。
「え…………」
なんだ。これ。
青白い光は、どうやらカプセル内に満たされた液体のようなものが発光しているようだった。こぽこぽと音を立てて、液体らしきものが循環している。
なんだ。これ。
そしてその発光する液体の中に、浮かんでいる一つのもの。丸っぽい塊……手の平大の大きさの塊から、なにか節ばった長いものが垂れている。
なんだ。これ。
「ひっ」
それは、脳ミソだった。脳に繋がった脊髄だった。――――え? なんだって…………!!??
「な、ぁ……なん、だ?」
冷や汗が吹き出る。心臓がどくどくと痛いほど鳴り響く。視覚を通して得た情報を、にわかには信じられない。否、それを理解したくないと身体が拒否反応を起こしている。
だが、目の前のカプセルに浮かぶそれは……間違いなく、標本や医学書にあるとおりの「脳」と「脊髄」で……。
武は知らず、口元を押さえていた。すっぱいものが込み上げてくる。辛うじてそれを飲み込むが、しかし武の精神は混乱していた。
一体なんだ、これは。
脳ミソ。ああ、何度見ても脳ミソだ。――誰の? 一体、何のために??
なんだかとてつもなく、見てはいけないもの……そういうものを見た気分だった。興味本位で足を向けたことを呪う。ここは、来てはいけない場所だった。
「――ッ、く」
武は踵を返す。シュッと音を立ててスライドするドアを抜け、自分の足音が響く通路を抜けて…………そこに夕呼が立っていた。
まるで武が出てくるのを待ち構えていたように。
「!!!!!!!!」
「あら、何してるのかしら? 白銀」
その口調は責めるようなものではなく……むしろ、
「で? どうだった?」
「……っ、なに、が、ですか……っ」
「見たんでしょ? アレ。どう思った?」
どうもこうも…………ッッ!!!!
思わずぶちまけそうになる武だが、何とか感情を抑えこむ。副司令を前にそんな無様は許されない。例え武がこの部屋に入り、先ほどの脳を目撃することが夕呼の望みだったのだとしても……今のこんな最低な気分を、ぶつけていいとは思えなかった。
IDにかこつけて立ち入ったのは自分。その中であんなものを見てしまって、最悪な気分になっているのは間違いなく自分のせいだ。
夕呼の思惑の内だったのだとしても、それでも、行動したのは武の意思だ。故に武は……胸の内で混乱と驚愕と言い知れぬ恐怖を覚えながらも、
「あれも……なにかの研究ですか? 自分も……あんな風になにかのサンプルにされるんですか……?」
僅かな震えを止められない。自分でも莫迦なことを言っているとは思うが……アレを見た後では、そして少なからず知れた夕呼の科学者としての一面から、武はそれは恐ろしい想像をしてしまう。
「はぁ? あっははははは! いいわねぇ。“S”ランク適性を持ったニンゲンの脳ミソなんて、滅多にお目にかかれないかも」
「~~~~~っ!?」
さぞかし武の様子が可笑しかったのだろう。夕呼はどこまで本気なのかわからない表情で笑う。そんな風に笑われることが少しだけ悔しく、恥ずかしかったが……武は夕呼に一礼して、駆けるようにエレベーターへ向かう。
「白銀、アレのことだけどね」
「――ッ、!?」
静かな声に、思わず足を止める。振り返らないのは、せめてもの抵抗だった。
「……そう怖がるもんじゃないわ。あんたのデータを採る時は、あの部屋で測定するんだから。男の癖にびびってんじゃないわよ~」
「んなっ!!?」
聞き捨てならない台詞を残して、夕呼は執務室へ戻っていく。
ああ、なんてことだ。武は目元を手で覆って立ち尽くす。
何がしかの研究サンプルとされる自分、そして、謎の脳ミソ。……特にあの脳に関しては軍という組織の暗部を見せ付けられたようで…………武は呻きながら頭を振る。
「くそっ――! それが、どうしたっっ!!」
何の意味もなく、しかも副司令という立場にある人物が、あんなものを置いておくはずがないだろう。自分にしてもそうだ。「S」ランク適性を持つ武を調べることでなにか戦場で戦う衛士にとってプラスとなることが見つかるかもしれないじゃないか。
どこか言い聞かせるように、武は精神を落ち着かせる。
真那が言っていた。精神面に懸念――なるほど、正に今の状態をみればそのとおりだ。武は大きく息を吸う。体内に渦巻く様々な感情を、呼気とともに吐き出して……訓練に戻るべく、エレベーターのボタンを押した。
B19フロアのセキュリティを鑑みれば、今日この場所で見聞きしたことは全て機密とみていいだろう。ならば、武のデータ採取についても極秘扱いとなるはずだ。まりもにも言ってはいけないのだろうかとぼんやりと考えながら……どうせ茜あたりが問い質してくるんだろうなぁと頭を抱える。
「ああくそ。どうやって誤魔化せばいいんだ??」
機密だから話せない。ただその一言を思いつけない武だった。